霊界物語 第三七巻 舎身活躍 子の巻
出口王仁三郎
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●テキスト中に現れる記号について
《》……ルビ
|……ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)天地|剖判《ぼうはん》の
[#]……入力者注
【】……傍点が振られている文字列
(例)【ヒ】は火なり
●シフトJISコードに無い文字は他の文字に置き換え、そのことをWebサイトに「相違点」として記した。
●底本
『霊界物語 第三七巻』愛善世界社
2001(平成13)年02月03日 第一刷発行
※現代では差別的表現と見なされる箇所もあるが修正はせずにすべて底本通りにした。
※図表などのレイアウトは完全に再現できるわけではないので適宜変更した。
※詳細な凡例は次のウェブサイト内に掲載してある。
http://www.onisavulo.jp/
※作成者…『王仁三郎ドット・ジェイピー』
2005年06月06日作成
2008年06月23日修正
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●目次
|序《じよ》
|総説《そうせつ》
第一篇 |安閑喜楽《あんかんきらく》
第一章 |富士山《ふじさん》〔一〇一三〕
第二章 |葱節《ねぶかぶし》〔一〇一四〕
第三章 |破軍星《はぐんせい》〔一〇一五〕
第四章 |素破抜《すつぱぬき》〔一〇一六〕
第五章 |松《まつ》の|下《した》〔一〇一七〕
第六章 |手料理《てれうり》〔一〇一八〕
第二篇 |青垣山内《あをがきやまうち》
第七章 |五万円《ごまんゑん》〔一〇一九〕
第八章 |梟《ふくろ》の|宵企《よひだくみ》〔一〇二〇〕
第九章 |牛《うし》の|糞《くそ》〔一〇二一〕
第一〇章 |矢田《やだ》の|滝《たき》〔一〇二二〕
第一一章 |松《まつ》の|嵐《あらし》〔一〇二三〕
第一二章 |邪神憑《じやしんかかり》〔一〇二四〕
第三篇 |阪丹珍聞《はんたんちんぶん》
第一三章 |煙《けむり》の|都《みやこ》〔一〇二五〕
第一四章 |夜《よる》の|山路《やまみち》〔一〇二六〕
第一五章 |盲目鳥《めくらどり》〔一〇二七〕
第一六章 |四郎狸《しらうだぬき》〔一〇二八〕
第一七章 |狐《きつね》の|尾《を》〔一〇二九〕
第一八章 |奥野操《おくのみさを》〔一〇三〇〕
第一九章 |逆襲《ぎやくしふ》〔一〇三一〕
第二〇章 |仁志東《にしひがし》〔一〇三二〕
第四篇 |山青水清《やまあをくみづきよし》
第二一章 |参綾《さんれう》〔一〇三三〕
第二二章 |大僧坊《だいそうばう》〔一〇三四〕
第二三章 |海老坂《ゑびさか》〔一〇三五〕
第二四章 |神助《しんじよ》〔一〇三六〕
第二五章 |妖魅来《えうみらい》〔一〇三七〕
|霊《たま》の|礎《いしずゑ》(九)
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|序《じよ》
|霊界物語《れいかいものがたり》も|凡百《ぼんぴやく》の|艱難《かんなん》を|排除《はいじよ》し、|漸《やうや》く|三十六巻《さんじふろくくわん》、|原稿用紙《げんかうようし》|百字詰《ひやくじづめ》|四万五千枚《よんまんごせんまい》、|着手《ちやくしゆ》|日数《につすう》|百八十日《ひやくはちじふにち》にて|完結《くわんけつ》を|告《つ》げました。|併《しか》し|乍《なが》ら|過去《くわこ》、|現代《げんだい》、|未来《みらい》に|於《お》ける|顕《けん》、|神《しん》、|幽《いう》|三界《さんがい》の|際限《さいげん》|無《な》き|物語《ものがたり》なれば、|到底《たうてい》|三輯《さんしふ》や|四輯《よんしふ》にてその|大要《たいえう》を|述《の》べ|尽《つく》す|事《こと》は|最《もつと》も|至難事《しなんじ》であります。|神命《しんめい》に|依《よ》れば、|四万五千枚《よんまんごせんまい》の|原稿《げんかう》|即《すなは》ち|四百五十万言《よんひやくごじふまんげん》の|三十六巻《さんじふろくくわん》を|一集《いつしふ》(|実《じつ》は|三輯《さんしふ》)としても、|優《いう》に|之《これ》を|四十八集《しじふはちしふ》|口述《こうじゆつ》せなくては、|徹底的《てつていてき》に|解《と》く|事《こと》は|出来《でき》ないとの|話《はなし》であります。さうすれば|三百六十字詰《さんびやくろくじふじづめ》|四百頁《よんひやくページ》を|一巻《いつくわん》として|一千七百二十八巻《いつせんななひやくにじふはちくわん》を|要《えう》し、|瑞月《ずゐげつ》が|記録破《レコードやぶ》りの|大速力《だいそくりよく》を|以《もつ》て、|一年《いちねん》に|三輯《さんしふ》づつ|口述《こうじゆつ》するも、|今後《こんご》|四十八年《しじふはちねん》を|要《えう》する|訳《わけ》になります。|実《じつ》に|某《ぼう》|新聞紙《しんぶんし》の|評《へう》する|如《ごと》く|阿房陀羅《あほだら》に|長《なが》い|物語《ものがたり》でありますから、|神界《しんかい》へ|御願《おねがひ》|致《いた》して|可成《なるべく》|十輯《じつしふ》|位《くらゐ》にし|百二十巻《ひやくにじつくわん》|位《ぐらゐ》にて|神示《しんじ》の|大要《たいえう》を|口述《こうじゆつ》して|見《み》たいと|思《おも》ひます。|就《つい》ては|瑞月《ずゐげつ》|王仁《おに》が|霊界《れいかい》に|仕《つか》へたる|経路《けいろ》をも|予《あらかじ》め|述《の》べて|置《お》く|必要《ひつえう》ありと|認《みと》め、|第四輯《だいよんしふ》『|舎身活躍《しやしんくわつやく》』の|初《はじめ》に|於《おい》て、『|霊主体従《れいしゆたいじゆう》』|第一巻《だいいつくわん》(|第一篇《だいいつぺん》)に|漏《も》れたる|穴太《あなを》に|於《お》ける|幽斎《いうさい》|修行《しうぎやう》の|状況《じやうきやう》や、|綾部《あやべ》に|来《きた》つて|出口《でぐち》|教祖《けうそ》に|面会《めんくわい》し|神業《しんげふ》に|奉仕《ほうし》したる|次第《しだい》をも、|略《ほぼ》|述《の》べて|読者《どくしや》の|参考《さんかう》に|供《きよう》する|事《こと》と|致《いた》しました。|又《また》この『|舎身活躍《しやしんくわつやく》』は『|海洋万里《かいやうばんり》』の|継続的《けいぞくてき》|物語《ものがたり》で、|神素盞嗚尊《かむすさのをのみこと》が|数多《あまた》の|神人《しんじん》を|教養《けうやう》し、|之《これ》を|宣伝使《せんでんし》として、|四方《よも》の|国々《くにぐに》|嶋々《しまじま》に|遣《つか》はし、|八岐大蛇《やまたをろち》や|邪神《じやしん》|悪狐《あくこ》の|霊魂《れいこん》を|言向和《ことむけやは》し、|終《つひ》に|出雲《いづも》の|日《ひ》の|側上《かはかみ》に|於《おい》て、|村雲《むらくも》の|剣《つるぎ》を|得《え》て|天照大御神《あまてらすおほみかみ》に|奉《たてまつ》り、|五六七《みろく》|神政《しんせい》の|基礎《きそ》を|築《きづ》き|固《かた》め、|天下万民《てんかばんみん》の|災害《さいがい》を|除《のぞ》き|救世《きうせい》の|大道《だいだう》を|樹立《じゆりつ》したまひし、|長大《ちやうだい》なる|物語《ものがたり》であります。アヽ|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》。
大正十一年十月十二日 於五六七殿
|総説《そうせつ》
|予言者《よげんしや》|郷里《きやうり》に|容《い》れられずとは|古来《こらい》の|諺《ことわざ》である。|瑞月王仁《ずゐげつおに》が|突然《とつぜん》|神界《しんかい》より|神務《しんむ》に|使役《しえき》さるるやうに|成《な》つてから、|親族《しんぞく》|知己《ちき》|朋友《ほういう》その|他《た》の|人々《ひとびと》より、あらゆる|悪罵《あくば》|嘲笑《てうせう》や|妨害《ばうがい》|等《とう》を|受《う》け|乍《なが》ら、|神命《しんめい》を|遵守《じゆんしゆ》して|今日《こんにち》まで|隠忍《いんにん》して|来《き》た|種々雑多《しゆじゆざつた》の|経緯《けいゐ》を|述《の》ぶれば、|到底《たうてい》|一万《いちまん》や|二万《にまん》の|原稿《げんかう》で|書《か》きつくせるものではない。|故《ゆゑ》に|瑞月《ずゐげつ》は|霊界物語《れいかいものがたり》『|舎身活躍《しやしんくわつやく》』の|口述《こうじゆつ》の|初《はじめ》に|当《あた》り、|最初《さいしよ》の|霊的《れいてき》|修行《しうぎやう》の|一端《いつたん》を|述《の》べて|本問題《ほんもんだい》の|神代《かみよ》の|物語《ものがたり》に|移《うつ》らうと|思《おも》ふ。|幸《さいは》ひ|時機《じき》の|到来《たうらい》せしものか、|今日《こんにち》となつては|自分《じぶん》の|郷里《きやうり》の|人々《ひとびと》は|神道家《しんたうか》、|仏教家《ぶつけうか》を|始《はじ》め、|無宗教者《むしうけうしや》と|雖《いへど》も|一人《ひとり》も|反対《はんたい》を|唱《とな》へたり|悪罵《あくば》|嘲笑《てうせう》する|者《もの》が|無《な》くなつて|来《き》た。|否《いな》|何人《なんびと》も|郷里《きやうり》の|人《ひと》は|瑞月《ずゐげつ》の|精神《せいしん》を|了解《れうかい》し、|却《かへつ》て|讃辞《さんじ》を|送《おく》るやうになつたのは|全《まつた》く|時《とき》の|力《ちから》である。|然《しか》るに|釈迦《しやか》にも|提婆《だいば》とか|謂《い》つて、|何時《いつ》の|世《よ》にも|反対者《はんたいしや》の|絶《た》えぬものである。|大正《たいしやう》の|初頭《しよとう》より|勃興《ぼつこう》し|初《はじ》めた|吾《わ》が|大本《おほもと》の|教《をしへ》に|対《たい》し、|学者《がくしや》、|宗教家《しうけうか》、|新聞《しんぶん》|記者《きしや》なぞが、|数年前《すうねんぜん》より|随分《ずゐぶん》|攻撃《こうげき》の|矢《や》を|放《はな》つて|吾人《ごじん》の|主張《しゆちやう》を|根底《こんてい》より|破砕《はさい》せむとせしは、|新宗教《しんしうけう》の|初期《しよき》に|於《おい》ては|免《まぬが》るべからざる|順路《じゆんろ》である。|諺《ことわざ》に|曰《い》ふ『|巨大《きよだい》なる|器《うつは》には|巨大《きよだい》なる|影《かげ》がさす』と。また|曰《いは》く『|敵《てき》|無《な》きものは|味方《みかた》も|無《な》し』と。|今日《こんにち》の|社会《しやくわい》よりの|攻撃《こうげき》は|実《じつ》に|止《や》むを|得《え》ざるものである。|否《いな》これが|宗教《しうけう》|発展上《はつてんじやう》の|径路《けいろ》かも|知《し》れない。|吾人《ごじん》は|今後《こんご》に|於《おい》ても、|益々《ますます》|大本《おほもと》に|対《たい》して|大々的《だいだいてき》|迫害《はくがい》の|手《て》が|加《くは》はることと|確信《かくしん》して|居《ゐ》る。|天《あま》の|瓊矛《ぬほこ》の|様《やう》に、|大本《おほもと》はイラエばイラウほど|太《ふと》くふくれて|固《かた》くなり、|且《か》つ|気分《きぶん》の|好《よ》くなるものである。|善悪《ぜんあく》|吉凶《きつきよう》|禍福《くわふく》は|同根《どうこん》である。|筆先《ふでさき》にも『|悪《わる》く|言《い》はれて|良《よ》くなる|仕組《しぐみ》じやぞよ』と、|実《じつ》に|至言《しげん》である。この|頃《ごろ》|綾部《あやべ》に|丹波新聞《たんばしんぶん》といふ|小《ちひ》さい|新聞《しんぶん》が|出来《でき》て、|霊界物語《れいかいものがたり》を|評《へう》して|曰《いは》く『|一丁《いつちやう》|程《ほど》|先《さき》から|見《み》えるやうな|原稿《げんかう》を|書《か》いて|居《ゐ》る』と。|実《じつ》に|良《よ》く|霊界物語《れいかいものがたり》の|真相《しんさう》を|究《きは》めたものである。|抑《そもそ》もこの|物語《ものがたり》は|人間《にんげん》の|頭脳《づなう》の|産物《さんぶつ》でない|以上《いじやう》は、|何処《どこ》かに|変《かは》つた|所《ところ》が|無《な》くてはならぬ|筈《はず》だ。|一丁《いつちやう》|程《ほど》|先《さき》から|見《み》えるやうな|大《おほ》きい|字《じ》の|原稿《げんかう》を|二万数千枚《にまんすうせんまい》|書《か》いたと|言《い》つて|居《ゐ》るのは、|神《かみ》の|霊光《れいくわう》が|原稿《げんかう》の|上《うへ》に|輝《かがや》いて|遠方《ゑんぱう》から|拝《をが》めたのであらう。|又《また》|大《おほ》きい|文字《もじ》に|見《み》えたのは|所謂《いはゆる》|著者《ちよしや》の|人物《じんぶつ》が|大《おほ》きいから|大《おほ》きく|見《み》えたのだらう。|否々《いやいや》ソウ|慢心《まんしん》しては|成《な》らぬ。|神様《かみさま》の|偉大《ゐだい》なる|神格《しんかく》が|現《あら》はれて、|筆記者《ひつきしや》の|写《うつ》した|細《ほそ》い|文字《もじ》が|丹波《たんば》|新聞《しんぶん》|記者《きしや》の|眼《め》にソウ|大《おほ》きく|見《み》えたのであらうと、|神直日《かむなほひ》|大直日《おほなほひ》に|見直《みなほ》し|聞直《ききなほ》し|宣《の》り|直《なほ》し、|善意《ぜんい》に|解釈《かいしやく》して|置《お》く|方《はう》が|結局《けつきよく》|大本《おほもと》の|教理《けうり》に|叶《かな》ふであらう。|実《じつ》に|天下一品《てんかいつぴん》の|讃辞《さんじ》を|与《あた》へて|呉《く》れた|大名文章《だいめいぶんしやう》だと|感謝《かんしや》しておく|次第《しだい》である。|呵々《かか》。
大正十一年十月十二日
第一篇 |安閑喜楽《あんかんきらく》
第一章 |富士山《ふじさん》〔一〇一三〕
◎|万葉集《まんえふしふ》|三《さん》の|巻《まき》 |山部赤人《やまべのあかひと》|望不尽山歌《ふじのやまをのぞむうた》に
|天地《あめつち》の|分《わか》れし|時《とき》ゆ|神佐備《かみさび》て、|高《たか》く|貴《たふと》き、|駿河《するが》なる|布士《ふじ》の|高嶺《たかね》を、|天原《あまのはら》、|振放《ふりさけ》|見《み》れば|度《わた》る|日《ひ》の、|蔭《かげ》も|隠《かく》ろひ、|照月《てるつき》の、|光《ひかり》も|見《み》えず、|白雲《しらくも》も|伊去《いゆき》はばかり、|時自久《ときじく》ぞ、|雪《ゆき》は|落《ふり》ける、|語《かたり》つぎ、|言継《いひつぎ》ゆかむ、|不尽《ふじ》の|高嶺《たかね》は。
◎|反歌《はんか》
|田児《たご》の|浦《うら》ゆ、|打出《うちい》で|見《み》れば|真白《ましろ》にぞ、
|不尽《ふじ》の|高嶺《たかね》に|雪《ゆき》は|零《ふり》ける。
◎|万葉集《まんえうしふ》、|隆弁《りうべん》の|歌《うた》に
めに|懸《か》けて、いくかに|成《なり》ぬ|東道《あづまぢ》や、
|三国《みくに》をさかふ、ふじの|芝山《しばやま》。
◎|夫木集《ふぼくしふ》、|光俊朝臣《みつとしあそん》の|歌《うた》に
こころ|高《たか》き、かふひするがの|中《なか》に|出《い》で、
|四方《よも》に|見《み》えたる|山《やま》は|布士《ふじ》の|根《ね》。
◎よみ|人《びと》|知《し》らず
|布士《ふじ》の|山《やま》|一《ひと》つある|物《もの》と|思《おも》ひしに
かひにも|有《あ》りてふ、|駿河《するが》にもありてふ
◎
|天雲《あまぐも》も|伊去《いゆき》はばかり|飛《と》ぶ|鳥《とり》も|翔《とび》も|上《のぼ》らず|燎火《もゆるひ》を|雪《ゆき》もて|減《けち》、|落雪《ふるゆき》を|火《ひ》もて|消《けち》つつ|言《い》ひも|得《え》ず、|名《な》も|知《し》らに|霊《あやし》くも|座神《いますかみ》かも。
◎|源光行《みなもとみつゆき》の|歌《うた》に
|富士《ふじ》の|嶺《ね》の|風《かぜ》に|漂《ただよ》ふ|白雲《しらくも》を
|天《あま》つ|少女《おとめ》の|袖《そで》かとぞ|見《み》る
◎|万葉《まんえふ》|十四《じふし》の|駿河歌《するがうた》に
|佐奴良久波多麻乃緒婆可里《さぬらくはたまのをばかり》、|古布良久波《こふらくは》
|布自能多可禰乃《ふじのたかねの》、|奈流佐波能其登《なるさはのごと》
◎
|麻可奈思美《まがなしみ》、|奴良久波思家良久佐《ぬらくはしげらく》、|奈良久波《こうらくは》
|伊豆能多可禰能《いづのたかねの》、|奈流佐波奈須与《なるさはなすよ》
◎|続古今集《ぞくこきんしふ》、|後鳥羽院《ごとばゐん》の|歌《うた》
けぶり|立《たつ》、|思《おも》ひも|下《した》や|氷《こほ》るらむ、
ふじの|鳴沢《なるさは》、|音《おと》むせぶ|也《なり》
◎|新拾遺集《しんしふゐしふ》、|慈円《じゑん》の|歌《うた》、
さみだるる、ふじのなる|沢《さは》、|水《みづ》|越《こえ》て
|音《おと》や|煙《けぶり》に|立《たち》まがふらむ
◎|同《どう》|権中納言公雅《ごんちうなごんこうが》の|歌《うた》
|飛螢《とぶほたる》|思《おも》ひはふじと|鳴沢《なるさは》に
うつる|影《かげ》こそ、もえばもゆらむ
◎|伊勢家集《いせかしふ》に
|人《ひと》しれず|思《おも》ひするがの|富士《ふじ》のねは
|我《わ》がごとやかく|絶《た》えず|燃《も》ゆらむ
◎
はては|身《み》の|富士《ふじ》の|山《やま》とも|成《な》りぬるか
|燃《も》ゆるなげきの|煙《けぶり》たえねば
◎|古今集《こきんしふ》に
|人知《ひとし》れず|思《おも》ひを|常《つね》にするがなる
|富士《ふじ》の|山《やま》こそわがみなりけれ
◎|同集《どうしふ》に
|君《きみ》と|云《い》へばみまれ|見《み》ずまれ|富士《ふじ》のねの
めづらしげなく|燃《も》ゆるわが|恋《こひ》
◎|同集《どうしふ》に
|富士《ふじ》のねのならぬ|思《おも》ひにもえばもえ
|神《かみ》だにけたぬむなし|煙《けぶり》を
◎|能宣集《のうせんしふ》に
|草《くさ》|深《ふか》みまだきつけたる|蚊遣火《かやりび》と
|見《み》ゆるは|不尽《ふじ》の|烟《けぶり》なりけり
◎|重之《しげゆき》の|集《しふ》に
|焼《や》く|人《ひと》も|有《あ》らじと|思《おも》ふ|富士《ふじ》の|山《やま》
|雪《ゆき》の|中《なか》より|烟《けぶり》こそたて
◎|拾遺集《しふゐしふ》に
|千早《ちはや》ぶる|神《かみ》も|思《おも》ひの|有《あ》ればこそ
|年《とし》|経《へ》てふじの|山《やま》も|燃《も》ゆらめ
◎|大和物語《やまとものがたり》に
ふじのねの|絶《た》えぬ|思《おも》ひも|有《あ》る|物《もの》を
くゆるはつらき|心《こころ》なりけり
◎
|誰《た》が|於《ため》に|靡《なび》き|果《は》ててか|富士《ふじ》の|根《ね》の
|煙《けぶり》の|末《すゑ》の|見《み》えず|成《な》るらむ
◎
|朽果《くちは》てし|名柄《ながら》の|橋《はし》を|造《つく》らばや
|富士《ふじ》の|煙《けむり》の|立《た》たずなりなば
◎|十六夜日記《いざよひにつき》に
|立別《たちわか》れ|富士《ふじ》の|煙《けむり》を|見《み》ても|尚《なほ》
|心《こころ》ぼそさのいかにそひけむ
◎|其返《そのかへ》し
かりそめに|立《た》ち|別《わか》れても|子《こ》を|思《おも》ふ
おもひを|富士《ふじ》の|烟《けぶり》とぞ|見《み》し
◎
|問《とひ》きつる|富士《ふじ》の|煙《けむり》は|空《そら》に|消《き》えて
|雲《くも》になごりの|面蔭《おもかげ》ぞ|立《た》つ
◎|西行《さいぎやう》の|歌《うた》
|風《かぜ》に|靡《なび》く|富士《ふじ》の|煙《けむり》の|空《そら》に|消《き》えて
|行《ゆ》く|方《へ》も|知《し》らぬ|我《わ》が|心《こころ》かな
◎|源頼朝卿《みなもとよりともきやう》の|歌《うた》
|道《みち》すがら|富士《ふじ》の|煙《けむり》もわかざりき
|晴《は》るるまもなき|空《そら》のけしきに
◎
|時《とき》|知《し》らぬ|富士《ふじ》の|煙《けむり》も|秋《あき》の|夜《よ》の
|月《つき》の|為《ため》にや|立《た》たずなりけむ
◎
|北《きた》になし|南《みなみ》になして|今日《けふ》いくか
|富士《ふじ》の|麓《ふもと》を|巡《めぐ》りきぬらむ
◎
みせばやな|語《かた》らば|更《さら》に|言《こと》のはも
|及《およ》ばぬふじの|高《たか》ね|成《な》りけり
◎
|富士《ふじ》のねの|烟《けぶり》の|末《すゑ》は|絶《た》えにしを
ふりける|雪《ゆき》や|消《き》えせざるらむ
◎
きさらぎや|今宵《こよひ》の|月《つき》の|影《かげ》ながら
|富士《ふじ》も|霞《かすみ》に|雲隠《くもかく》れして
◎|尋常小学《じんじやうせうがく》|国語読本《こくごとくほん》にも
ふじの|山《やま》
あたまを|雲《くも》の|上《うへ》に|出《だ》し
|四方《しはう》の|山《やま》を|見《み》おろして
かみなりさまを|下《した》にきく
ふじは|日本一《につぽんいち》の|山《やま》
|青空《あをぞら》|高《たか》くそびえたち
からだに|雪《ゆき》の|着物《きもの》|着《き》て
|霞《かすみ》のすそを|遠《とほ》くひく
ふじは|日本一《につぽんいち》の|山《やま》
|以上《いじやう》の|如《ごと》く|我《わが》|富士山《ふじさん》は|古来《こらい》|各種《かくしゆ》の|歌人《かじん》に|依《よ》つて|其《その》|崇高《すうかう》|雄大《ゆうだい》にして、|日本国土《にほんこくど》に|冠絶《くわんぜつ》し、|日本一《につぽんいち》の|名高山《めいかうざん》と|称《しよう》され、|天神地祇《てんしんちぎ》|八百万《やほよろづ》の|神《かみ》の|集《あつま》り|玉《たま》ふ|聖場《せいぢやう》となり、|特《とく》に|木花咲耶姫命《このはなさくやひめのみこと》の|御神霊《ごしんれい》と|崇敬《すうけい》されて|居《ゐ》る。|三国一《さんごくいち》の|富士《ふじ》の|山《やま》と|称《とな》へ、|日本《やまと》、|唐土《もろこし》、|天竺《てんぢく》の|三ケ国《さんかこく》に|於《お》ける|第一位《だいいちゐ》の|名山《めいざん》となつて|居《ゐ》た。|併《しか》し|乍《なが》ら|其《その》|富士山《ふじさん》と|云《い》ふは、|十数万年《じふすうまんねん》|以前《いぜん》の|富士山《ふじさん》とは|其《その》|高《たか》さに|於《おい》て、|又《また》|広《ひろ》さに|於《おい》ても、|非常《ひじやう》な|相違《さうゐ》がある。|現在《げんざい》の|富士山《ふじさん》は|皇典《くわうてん》に|所謂《いはゆる》|高千穂《たかちほ》の|峰《みね》が|僅《わづか》に|残《のこ》つてゐるのである。|昔《むかし》|天教山《てんけうざん》と|云《い》ひ、|又《また》|天橋山《てんけうざん》と|云《い》つた|頃《ころ》は、|西《にし》は|現代《げんだい》の|滋賀県《しがけん》、|福井県《ふくゐけん》に|長《なが》く|其《その》|裾《すそ》を|垂《た》れ、|北《きた》は|富山県《とやまけん》、|新潟県《にひがたけん》、|東《ひがし》は|栃木《とちぎ》、|茨城《いばらぎ》、|千葉《ちば》、|南《みなみ》は|神奈川《かながは》、|静岡《しづをか》、|愛知《あいち》、|三重《みへ》の|諸県《しよけん》より、ズツと|南方《なんぱう》|百四五十里《ひやくしごじふり》も|裾野《すその》が|曳《ひ》いて|居《ゐ》た。|大地震《だいぢしん》の|為《ため》に|南方《なんぱう》は|陥落《かんらく》し、|今《いま》や|太平洋《たいへいやう》の|一部《いちぶ》となつて|居《ゐ》る。
|此《この》|地点《ちてん》を|高天原《たかあまはら》と|称《しよう》され、|其《その》|土地《とち》に|住《す》める|神人《しんじん》を、|高天原《たかあまはら》|人種《じんしゆ》|又《また》は|天孫《てんそん》|民族《みんぞく》と|称《とな》へられた。|現在《げんざい》の|富士山《ふじさん》は|古来《こらい》の|富士《ふじ》|地帯《ちたい》の|八合目《はちがふめ》|以上《いじやう》が|残《のこ》つて|居《ゐ》るのである。|周囲《しうゐ》|殆《ほとん》ど|一千三百里《いつせんさんびやくり》の|富士《ふじ》|地帯《ちたい》は|青木ケ原《あをきがはら》と|総称《そうしよう》し、|世界《せかい》|最大《さいだい》の|高地《かうち》であつて、|五風十雨《ごふうじふう》の|順序《じゆんじよ》よく、|五穀《ごこく》|豊穣《ほうじやう》し、|果実《くわじつ》|稔《みの》り、|真《しん》に|世界《せかい》の|楽土《らくど》と|称《とな》へられて|居《ゐ》た。|其《その》|為《た》め、|生存競争《せいぞんきやうそう》の|弊害《へいがい》もなく、|神《かみ》の|選民《せんみん》として|天与《てんよ》の|恩恵《おんけい》を|楽《たのし》みつつあつたのである。
|近江《あふみ》の|琵琶湖《びはこ》は|富士《ふじ》|地帯《ちたい》の|陥落《かんらく》せし|時《とき》、|其《その》|亀裂《きれつ》より|生《しやう》じたものである。そして|古代《こだい》の|富士山《ふじさん》|地帯《ちたい》は|殆《ほとん》ど|三合目《さんがふめ》|四辺《あたり》に|現代《げんだい》の|富士《ふじ》の|頂上《ちやうじやう》の|如《ごと》き|高《たか》さを|保《たも》ち|雲《くも》が|取巻《とりま》いて|居《ゐ》た。|故《ゆゑ》に|天孫《てんそん》|民族《みんぞく》は|四合目《よんがふめ》|以上《いじやう》の|地帯《ちたい》に|安住《あんぢう》して|居《ゐ》た。|外《ほか》の|国々《くにぐに》より|見《み》れば、|殆《ほとん》ど|雲《くも》を|隔《へだ》てて|其《その》|上《うへ》に|住居《ぢうきよ》して|居《ゐ》たのである。|皇孫《くわうそん》|瓊々杵命《ににぎのみこと》が|天《あめ》の|八重雲《やへくも》を|伊都《いづ》の|千別《ちわき》に|千別《ちわき》て|葦原《あしはら》の|中津国《なかつくに》に|天降《あまくだ》り|玉《たま》ひきといふ|古言《こげん》は、|即《すなは》ち|此《この》|世界《せかい》|最高《さいかう》の|富士《ふじ》|地帯《ちたい》より、|低地《ていち》の|国々《くにぐに》へ|降《くだ》つて|来《こ》られた|事《こと》を|云《い》ふのである。|決《けつ》して|太陽《たいやう》の|世界《せかい》とか、|金星《きんせい》の|世界《せかい》から|御降《おくだ》りになつたのでない|事《こと》は|勿論《もちろん》である。
|顕国《うつしくに》の|御玉《みたま》|延長《えんちやう》して|金《きん》|銀《ぎん》|銅《どう》の|救《すくひ》の|橋《はし》の|架《か》けられし|時《とき》も、|最高《さいかう》の|金橋《きんけう》は|富士山上《ふじさんじやう》に|高《たか》さを|等《ひと》しうしてゐた。|又《また》ヒマラヤ|山《さん》は|今日《こんにち》では|世界《せかい》|最高《さいかう》の|山《やま》と|謂《い》はれてゐるが、|其《その》|時代《じだい》は|地教山《ちけうざん》と|言《い》ひ|又《また》|銀橋山《ぎんけうざん》とも|云《い》つて、|古代《こだい》の|富士《ふじ》の|高《たか》さに|比《くら》ぶれば、|二分《にぶん》の|一《いち》にも|及《およ》ばなかつたのである。|現代《げんだい》の|富士山《ふじさん》は|一万三千尺《いちまんさんぜんしやく》なれ|共《ども》、|古代《こだい》の|富士《ふじ》は|六万尺《ろくまんしやく》も|高《たか》さがあつたのである。|仏者《ぶつしや》の|所謂《いはゆる》|須弥仙山《しゆみせんざん》も|此《この》|天教山《てんけうざん》を|指《さ》したものである。
|現代《げんだい》の|清水湾《しみづわん》|及《および》|遠州灘《ゑんしうなだ》の|一部《いちぶ》の|如《ごと》きは、|富士山《ふじさん》の|八合目《はちがふめ》に|広《ひろ》く|展開《てんかい》せる|大湖水《だいこすゐ》であつて、|筑紫《つくし》の|湖《うみ》と|称《とな》へられてゐた。|又《また》|同《おな》じ|富士山《ふじさん》|地帯《ちたい》の|信州《しんしう》|諏訪《すは》の|湖《うみ》は|須佐《すさ》の|湖《うみ》と|云《い》つたのである。|筑紫《つくし》の|湖《うみ》には|金竜《きんりゆう》|数多《あまた》|棲息《せいそく》して、|大神《おほかみ》に|仕《つか》へ、|風雨雷電《ふううらいでん》を|守護《しゆご》してゐた。|又《また》|玉《たま》の|湖《うみ》には|白竜《はくりう》|数多《あまた》|棲息《せいそく》して、|葦原《あしはら》の|瑞穂国《みづほのくに》(|全世界《ぜんせかい》)の|気候《きこう》を|順調《じゆんてう》ならしむべく|守護《しゆご》してゐたのである。そして|素盞嗚尊《すさのをのみこと》の|神霊《しんれい》がこれを|保護《ほご》し|玉《たま》ひ、|富士《ふじ》|地帯《ちたい》の|二合目《にがふめ》あたりに|位地《ゐち》を|占《し》めてゐた。|太古《たいこ》の|大地震《だいぢしん》に|依《よ》つて、|此《この》|地帯《ちたい》は|中心点《ちうしんてん》|程《ほど》|多《おほ》く|陥没《かんぼつ》し、|周囲《しうゐ》は|比較的《ひかくてき》|陥没《かんぼつ》の|度《ど》が|少《すくな》かつた。|其《その》|為《ため》|現代《げんだい》の|如《ごと》く、|高千穂《たかちほ》の|峰《みね》たる|現《げん》|富士《ふじ》を|除《のぞ》く|外《ほか》、|海抜《かいばつ》の|程度《ていど》が|殆《ほとん》ど|平均《へいきん》を|保《たも》つ|事《こと》になつたのである。|現代《げんだい》の|山城《やましろ》、|丹波《たんば》などは、どちらかと|云《い》へば|地球《ちきう》の|傾斜《けいしや》の|影響《えいきやう》に|依《よ》つて|少《すこ》しく|上《あが》つた|位《くらゐ》である。
|丹波《たんば》は|元《もと》|田場《たば》と|書《か》き、|天照大御神《あまてらすおほみかみ》が|青人草《あをひとぐさ》の|食《く》いて|活《い》くべき|稲種《いなだね》を|作《つく》り|玉《たま》うた|所《ところ》である。|故《ゆゑ》に|五穀《ごこく》を|守《まも》ると|云《い》ふ|豊受姫神《とようけひめのかみ》は、|丹波国《たんばのくに》|丹波郡《たんばごほり》|丹波村《たんばむら》|比沼《ひぬ》の|真名井《まなゐ》に|鎮座《ちんざ》ましまし、|雄略天皇《ゆうりやくてんわう》の|御代《みよ》に|至《いた》りて、|伊勢国《いせのくに》|山田《やまだ》に|御遷宮《ごせんぐう》になつたのである。|御即位式《ごそくゐしき》の|時《とき》、|由紀田《ゆきでん》、|主基田《すきでん》をお|選《えら》みになるのも、|現今《げんこん》の|琵琶湖《びはこ》|以西《いせい》が|五穀《ごこく》を|作《つく》られた|神代《かみよ》の|因縁《いんねん》に|基《もとづ》くからである。|由紀《ゆき》といふ|言霊《ことたま》は|安国《やすくに》の|霊反《たまかへ》しであり、|主基《すき》といふ|言霊《ことたま》は|知《し》ろし|召《め》す|国《くに》の|霊反《たまかへ》しである。|之《これ》を|見《み》ても|丹波《たんば》の|国《くに》には|神代《かみよ》より|深《ふか》き|因縁《いんねん》のある|事《こと》が|分《わか》るのである。
|又《また》|小亜細亜《せうアジア》のアーメニヤ|及《およ》びコーカス|山《ざん》、エルサレム、メソポタミヤ|及《およ》びペルシヤ、|印度《いんど》の|一部《いちぶ》は、|富士《ふじ》|地帯《ちたい》の|如《ごと》く|高《たか》く|雲上《うんじやう》に|突出《とつしゆつ》してゐた。|印度《いんど》の|如《ごと》きも|天竺《てんぢく》と|称《とな》へられて、|其《その》|地方《ちはう》での|最高地点《さいかうちてん》であつたが、|富士山《ふじさん》の|陥没《かんぼつ》と|同時《どうじ》に、|此《この》|地《ち》も|亦《また》|今《いま》の|如《ごと》く|陥落《かんらく》したのである。アーメニヤといふ|事《こと》は|天《あめ》の|意味《いみ》|又《また》は|高天原《たかあまはら》の|意味《いみ》である。エルサレムといふ|神代《かみよ》の|意義《いぎ》はウズの|都《みやこ》、|天国《てんごく》|楽土《らくど》の|意味《いみ》がある。|茲《ここ》に|国祖《こくそ》|国治立尊《くにはるたちのみこと》は|始《はじ》めて|出現《しゆつげん》され、|大八洲彦命《おほやしまひこのみこと》の|敵軍《てきぐん》に|囲《かこ》まれ|玉《たま》ひし|時《とき》、|国治立尊《くにはるたちのみこと》が|蓮華台上《れんげだいじやう》より|神力《しんりき》を|発揮《はつき》して、|悪魔《あくま》の|拠《よ》れる|天保山《てんぱうざん》を|陥落《かんらく》せしむると|同時《どうじ》に|天教山《てんけうざん》を|現出《げんしゆつ》せしめ|玉《たま》うたことは、|霊界物語《れいかいものがたり》|第一巻《だいいつくわん》に|述《の》ぶる|通《とほ》りである。|又《また》エルサレムは|現今《げんこん》のエルサレムではない。アーメニヤの|南方《なんぱう》に|当《あ》たるヱルセルムであつた。そしてヨルダン|河《がは》も、|現今《げんこん》のヨルダン|河《がは》とは|違《ちが》つてゐることは|勿論《もちろん》である。|死海《しかい》の|位置《ゐち》もメソポタミヤの|東西《とうざい》を|挟《はさ》んで|流《なが》れ|落《お》つる|現今《げんこん》の|波斯湾《ペルシヤわん》がそれであつた。
|又《また》|現今《げんこん》の|地中海《ちちうかい》は|此《この》|物語《ものがたり》に|於《おい》て、|古代《こだい》の|名《な》を|用《もち》ゐ、|瀬戸《せと》の|海《うみ》と|称《とな》へられてゐる。|此《この》|瀬戸《せと》の|海《うみ》はアーメニヤの|附近《ふきん》|迄《まで》|展開《てんかい》してゐた。|併《しか》し|乍《なが》らこれも|震災《しんさい》の|為《ため》に|瀬戸《せと》の|海《うみ》の|東部《とうぶ》は|陸地《りくち》となつて|了《しま》つたのである。|故《ゆゑ》に|此《この》|物語《ものがたり》は|地球《ちきう》|最初《さいしよ》の|地理《ちり》に|依《よ》つて|口述《こうじゆつ》するものであるから、|今日《こんにち》の|地理学《ちりがく》の|上《うへ》から|見《み》れば、|非常《ひじやう》に|位置《ゐち》|又《また》は|名義《めいぎ》が|変《かは》つてゐることを|予《あらかじ》め|承知《しようち》して|読《よ》んで|貰《もら》ひたいのである。
『|舎身活躍《しやしんくわつやく》』の|最初《さいしよ》に|当《あた》りて、|此《この》|富士山《ふじさん》(|太古《たいこ》の|天教山《てんけうざん》)を|述《の》べたのは|瑞月《ずゐげつ》が|入道《にふだう》の|最初《さいしよ》、|富士《ふじ》の|天使《てんし》|松岡神《まつをかしん》に|霊魂《れいこん》を|導《みちび》かれ、|此《この》|太古《たいこ》の|状況《じやうきやう》を|見《み》せて|貰《もら》ひ、|其《その》|肉体《にくたい》は|高熊山《たかくまやま》の|岩窟《がんくつ》に|守《まも》られて|居《を》つた|因縁《いんねん》に|依《よ》つて、|物語《ものがたり》の|始《はじ》めに、|富士山《ふじさん》の|大略《たいりやく》を|口述《こうじゆつ》するのが|順序《じゆんじよ》だと|思《おも》ふからである。
『|舎身活躍《しやしんくわつやく》』は|瑞月《ずゐげつ》が|明治《めいぢ》|卅一年《さんじふいちねん》の|五月《ごぐわつ》、|再《ふたた》び|高熊山《たかくまやま》に|神勅《しんちよく》を|奉《ほう》じて|二週間《にしうかん》の|修業《しうげふ》を|試《こころ》み、|霊眼《れいがん》に|映《えい》じさせて|頂《いただ》きし|事《こと》や、|過《くわ》、|現《げん》、|未《み》の|現幽神《げんいうしん》の|三界《さんがい》を|探険《たんけん》して、|神々《かみがみ》の|御活動《ごくわつどう》を|目撃《もくげき》したる|大略《たいりやく》を|口述《こうじゆつ》する|考《かんが》へである。
あゝ|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》。
(大正一一・一〇・八 旧八・一八 松村真澄録)
第二章 |葱節《ねぶかぶし》〔一〇一四〕
|西《にし》は|半国《はんごく》|東《ひがし》は|愛宕《あたご》 |南《みなみ》|妙見《めうけん》|北《きた》|帝釈《たいしやく》の
|山《やま》の|屏風《びやうぶ》を|引《ひ》きまはし |中《なか》の|穴太《あなを》で|牛《うし》を|飼《か》ふ
|青垣山《あをがきやま》を|四方《しはう》に|回《めぐ》らした|山陰道《さんいんだう》の|喉首口《のどくびぐち》、|丹波《たんば》の|亀岡《かめをか》に|程《ほど》|近《ちか》き、|曽我部村《そがべむら》の|大字《おほあざ》|穴太《あなを》は|瑞月《ずゐげつ》|王仁《おに》が|生地《せいち》である。|賤ケ伏屋《しづがふせや》
に|産声《うぶごゑ》を|上《あ》げてより|殆《ほとん》ど|廿七年《にじふしちねん》|夢《ゆめ》の|如《ごと》くに|過《す》ぎ|去《さ》り、|廿八歳《にじふはつさい》を|迎《むか》へた|明治《めいぢ》|卅一年《さんじふいちねん》の|如月《きさらぎ》の|八日《やうか》、|半円《はんゑん》の|月《つき》は|皎々《かうかう》として|天空《てんくう》に|輝《かがや》き|渡《わた》り、|地上《ちじやう》には|馥郁《ふくいく》たる|梅花《ばいくわ》の|薫《かほ》り、|冷《つめた》き|風《かぜ》に|送《おく》られて|床《ゆか》しく、|人《ひと》の|心《こころ》も|華《はな》やかに|何《なん》となく|春《はる》を|迎《むか》へた|気分《きぶん》に|漂《ただよ》ふ。
|瑞月《ずゐげつ》は|其《その》|頃《ころ》|事業《じげふ》の|閑暇《かんか》に|浄瑠璃《じやうるり》を|唸《うな》る|事《こと》を|以《もつ》て|唯一《ゆゐいつ》の|楽《たのし》みとして|居《ゐ》た。|浪華《なには》の|地《ち》より|下《くだ》つて|来《き》た|吾妻太夫《あづまだいふ》といふ|盲目《めくら》の|男《をとこ》の|師匠《ししやう》に、|終日《しうじつ》の|業《げふ》を|済《す》ませ、|三味《さみ》は|無《な》けれども|叩《たた》きにて|節《ふし》を|仕込《しこ》まれて|居《ゐ》た。
|今宵《こよひ》は|浄瑠璃《じやうるり》の|稽古《けいこ》|友達《ともだち》の|七八人《しちはちにん》、|温習会《おんしふくわい》を|催《もよほ》すべく、|大石《おほいし》|某《ぼう》と|云《い》ふ|知己《ちき》の|家《いへ》で|女義太夫《をんなぎだいふ》を|雇《やと》ひ|来《きた》り、ベラベラ|三味線《さみせん》をひかせ|乍《なが》ら、|葱節《ねぶかぶし》を|得意気《とくいげ》になつて|呶鳴《どな》つて|居《ゐ》た。|下手《へた》の|横好《よこず》きとか|云《い》つて、|最初《さいしよ》の|露払《つゆばらひ》を|勤《つと》めたのは|瑞月《ずゐげつ》で、|鏡山又助館《かがみやままたすけやかた》の|段《だん》を、|汗《あせ》みどろになつて|語《かた》り|終《をは》り、|其《その》|外《ほか》|二三人《にさんにん》の|天狗連《てんぐれん》の、|竹筒《たけづつ》を|吹《ふ》いた|様《やう》な|奴拍子《どびやうし》のぬけた|声《こゑ》の|浄瑠璃《じやうるり》が|止《や》むと、|再《ふたた》び|三月《さんぐわつ》の|菱餅《ひしもち》を|二《ふた》つに|切《き》つた|様《やう》な|硬々《こわごわ》した|角立《かどだ》つたものを|着《き》せられ、|破《やぶ》れ|扇《あふぎ》をたたいて|唸《うな》つて|居《ゐ》る。|其《その》|時《とき》は|太閤記《たいかふき》の|十段目《じふだんめ》|光秀《みつひで》が『|夕顔棚《ゆふがほだな》の|此方《こなた》より|現《あら》はれ|出《い》でたる………』と|云《い》ふ|正念場《しやうねんば》であつた。|老若男女《らうにやくなんによ》は|小《ちひ》さき|百姓家《ひやくせうや》に|縁《えん》の|隅《すみ》から|庭《には》は|云《い》ふに|及《およ》ばず、|遅《おく》れて|来《き》たものは|門《かど》に|立《た》つて|聞《き》くと|云《い》ふ|大盛況《だいせいきやう》である。
|其《その》|時《とき》|宮相撲《みやずもう》をとつて|居《ゐ》た|若錦《わかにしき》と|云《い》ふ|男《をとこ》を|先頭《せんとう》に、|侠客《けふかく》の|小牛《こうし》、|留公《とめこう》、|与三公《よさこう》、|茂一《もいち》の|五人連《ごにんづ》れ、|矢庭《やには》に|演壇《えんだん》に|上《のぼ》り、|有無《うむ》を|云《い》はせず|瑞月《ずゐげつ》を|担《かつ》いで|附近《ふきん》の|桑畑《くはばたけ》の|中《なか》へ|連《つ》れ|行《ゆ》き、|打《う》つ、|蹴《け》る、|殴《なぐ》るの|大乱痴気《だいらんちき》|騒《さわ》ぎを|始《はじ》めた。
|浄瑠璃《じやうるり》|友達《ともだち》で|隣家《となり》の|嘘勝《うそかつ》と|云《い》ふデモ|侠客《けふかく》が|二三人《にさんにん》の|手下《てした》を|引《ひ》き|連《つ》れ、|二尺《にしやく》|許《ばか》りの|割木《わりき》を|各自《てんで》に|持《も》つて|五人《ごにん》の|仲《なか》に|飛《と》び|込《こ》み|格闘《かくとう》を|始《はじ》めた。|喧嘩《けんくわ》は|何時《いつ》の|間《ま》にか|一方《いつぱう》へ|転宅《てんたく》して|了《しま》ひ、バラバラバラと|喚《わめ》きつつ|東南《とうなん》の|方《はう》へ|逃《に》げて|行《ゆ》く。|嘘勝《うそかつ》の|一隊《いつたい》は|後《あと》を|追《お》つかける。
|其《その》|後《あと》へ|二三《にさん》の|友人《いうじん》がやつて|来《き》て、|瑞月《ずゐげつ》を|助《たす》けて|牧畜場《ぼくちくぢやう》の|精乳館《せいにうくわん》と|云《い》ふ|自分《じぶん》の|館《やかた》へ|連《つ》れて|帰《かへ》つて|呉《く》れた。ひどく|頭部《とうぶ》を|五《いつ》つ|六《む》つ|割木《わりき》で|殴《なぐ》られた|結果《けつくわ》、|何《なん》とはなしに|頭《あたま》が|重《おも》たくなり、うづき|出《だ》し、|耳《みみ》はジヤンジヤンと|早鐘《はやがね》をつく|様《やう》に|聞《きこ》えて|来《き》た。|時々《ときどき》|火事《くわじ》の|警鐘《けいしよう》ではないかと、|負傷《ふしやう》した|身体《からだ》を|擡《もた》げて|戸《と》を|開《ひら》き|外《そと》を|眺《なが》めた|事《こと》もあつた。
|精乳館《せいにうくわん》は|牛乳《ぎうにう》を|搾《しぼ》り|附近《ふきん》の|村落《そんらく》に|販売《はんばい》するのが|営業《えいげふ》であつた。|牛乳《ぎうにう》|配達人《はいだつにん》は|未明《みめい》からやつて|来《き》て|搾乳《さくにう》の|量《はか》り|渡《わた》しを|待《ま》つて|居《ゐ》る。|瑞月《ずゐげつ》は|頭《あたま》|痛《いた》み|目《め》|晦《くら》めき、|搾乳《さくにう》どころの|騒《さわ》ぎではない。|二十数頭《にじふすうとう》の|牧牛《ぼくぎう》は|空腹《くうふく》を|訴《うつた》へたり、|乳《ちち》の|張《は》り|切《き》る|為《た》め|悲《かな》し|相《さう》な|声《こゑ》を|出《だ》して|一斉《いつせい》に|呻《うな》り|出《だ》した。|其《その》|声《こゑ》が|頭《あたま》に|響《ひび》くと|一層《いつそう》|頭《かしら》が|割《わ》れる|様《やう》な|気分《きぶん》がする。それでも|神様《かみさま》を|祈《いの》らうとも|思《おも》はねば、|医者《いしや》を|呼《よ》び、|薬《くすり》を|付《つ》け|様《やう》とも|飲《の》まうとも|思《おも》はない。|只《ただ》|自分《じぶん》の|心裡《しんり》に|往復《わうふく》して|居《ゐ》るのは、|今迄《いままで》|大切《たいせつ》に|思《おも》ふて|居《ゐ》た|営業《えいげふ》はスツカリ|忘《わす》れて|了《しま》ひ、|若錦《わかにしき》|一派《いつぱ》の|奴《やつ》に|対《たい》し、|早《はや》く|本復《ほんぷく》して|仕返《しかへ》しの|大喧嘩《おほけんくわ》をやつてやらねばならぬと、そればかりを|一縷《いちる》の|望《のぞ》みの|綱《つな》として|居《ゐ》た。|門口《かどぐち》の|戸《と》も|裏口《うらぐち》の|戸《と》も|錠《ぢやう》が|卸《おろ》してある。それ|故《ゆゑ》|配達人《はいだつにん》は|這入《はい》る|事《こと》も|出来《でき》ぬ、|已《や》むを|得《え》ず|宮垣内《みやがいち》の|母《はは》の|宅《たく》へ|走《はし》り、
『|何故《なぜ》か|門口《かどぐち》が|締《しま》つて|居《を》る、|一寸《ちよつと》|来《き》て|下《くだ》さい』
と|云《い》つて|母《はは》を|呼《よ》びに|行《い》つた。|相手方《あひてがた》の|村上《むらかみ》|某《ぼう》が|軈《やが》てやつて|来《く》る|時分《じぶん》だから|自分《じぶん》の|昨夜《さくや》の|喧嘩《けんくわ》で|負傷《ふしやう》した|事《こと》を|見《み》られては|余《あんま》り|面白《おもしろ》くないと、|負惜《まけをし》みを|出《だ》して、|頭《あたま》を|手拭《てぬぐひ》で|縛《しば》り|目《め》をふさいだ|儘《まま》、|慣《な》れた|道《みち》とて、|自分《じぶん》の|嘗《かつ》て|借《か》つて|置《お》いた|喜楽亭《きらくてい》と|云《い》ふ|郷神社《ごうじんじや》の|前《まへ》の|矮屋《わいをく》に|隠《かく》れ|頭《あたま》から|夜具《やぐ》を|被《かぶ》つて|息《いき》をこらして|横《よこたは》つて|居《ゐ》た。
|暫《しば》らくすると、|門口《かどぐち》から|自分《じぶん》の|名《な》を|呼《よ》び|乍《なが》ら、|慌《あわただ》しく|母《はは》が|這入《はい》つて|来《こ》られた。|瑞月《ずゐげつ》は、
『こりや|大変《たいへん》だ、|昨夜《さくや》の|喧嘩《けんくわ》が|分《わか》つたのだらう、|額口《ひたひぐち》の|傷《きず》を|見《み》られない|様《やう》に……』
と|夜具《やぐ》をグツスリ|被《かぶ》り、|足《あし》の|膝《ひざ》から|先《さき》は|出《で》る|程《ほど》|縮《すく》んで、|寝《ね》たふりをして|居《ゐ》た。|遠慮会釈《ゑんりよゑしやく》もなく|母《はは》は|夜具《やぐ》をまくり|上《あ》げ、
『お|前《まへ》は|又《また》|喧嘩《けんくわ》をしたのだなア。|去年《きよねん》までは|親爺《おやぢ》サンが|居《を》られたので|誰《たれ》も|指一本《ゆびいつぽん》さえる|者《もの》も|無《な》かつたが、|俺《わし》が|後家《ごけ》になつたと|思《おも》ふて|侮《あなど》つて、|家《うち》の|伜《せがれ》を|斯《こ》んな|酷《ひど》い|目《め》に|会《あ》はしたのであらう。|去年《きよねん》の|冬《ふゆ》から|丁度《ちやうど》|之《これ》で|九回目《きうくわいめ》、|中途《ちうと》に|夫《をつと》に|別《わか》れる|程《ほど》|不幸《ふかう》の|者《もの》はない、|又《また》|親《おや》のない|子《こ》|程《ほど》|可愛相《かあいさう》なものは|無《な》い。|弟《おとうと》の|由松《よしまつ》は、|兄《あに》の|讐討《かたきうち》だとか|云《い》つて|若錦《わかにしき》の|処《ところ》へ|押掛《おしか》け、|反対《はんたい》に|頭《あたま》をこつかれて、|血《ち》を|出《だ》して|帰《かへ》つて|来《き》て|家《うち》に|唸《うな》つて|居《を》る。|兄《あに》は|又《また》|此《こ》の|通《とほ》り、|神《かみ》も|仏《ほとけ》も|此《こ》の|世《よ》にはないものか』
と|自分《じぶん》の|子《こ》が|悪《わる》いとは|思《おも》はず、|加害者《かがいしや》を|怨《うら》んで|居《を》られる。|之《これ》を|聞《き》くと|自分《じぶん》も|気《き》の|毒《どく》で|堪《たま》らなくなり、|傷《きず》の|痛《いた》みは|何処《どこ》へやら|逃《に》げ|去《さ》つて|了《しま》つた。
|実際《じつさい》の|事《こと》を|云《い》へば|自分《じぶん》は、|今迄《いままで》|父《ちち》がブラブラ|病《やまひ》で|二三年間《にさんねんかん》|苦《くる》しんで|居《ゐ》たので、それが|気《き》に|掛《かか》り、|云《い》ひ|度《た》い|事《こと》も|云《い》はず、|父《ちち》に|心配《しんぱい》をさせまいと|思《おも》ふて、|人《ひと》と|喧嘩《けんくわ》する|様《やう》な|事《こと》は|成《な》るべく|避《さ》ける|様《やう》にして|居《ゐ》たから、|村《むら》の|人々《ひとびと》にも|若《わか》い|連中《れんちう》にも、チツとも|憎《にく》まれた|事《こと》は|無《な》く、|却《かへつ》て|喜楽《きらく》さん|喜楽《きらく》さんと|云《い》つて|重宝《ちようほう》がられ、|可愛《かあい》がられて|居《ゐ》たのである。そうした|処《ところ》、|明治《めいぢ》|三十年《さんじふねん》の|夏《なつ》、|父《ちち》は|薬石《やくせき》|効《かう》なく|遂《つひ》に|帰幽《きいう》したので、|最早《もはや》|病身《びやうしん》の|父《ちち》に|心配《しんぱい》さす|事《こと》もなくなつた。|破《やぶ》れ|侠客《けふかく》が|田舎《いなか》で|威張《ゐば》り|散《ち》らし、|良民《りやうみん》を|苦《くる》しめるのを|見《み》る|度《たび》に、|聞《き》く|度《たび》に、|癪《しやく》に|触《さは》つて|堪《たま》らない。|頼《たの》まれもせぬのに、|喧嘩《けんくわ》の|中《なか》へ|飛《と》び|込《こ》んで|仲裁《ちうさい》をしたり、|終《しまひ》には|調子《てうし》に|乗《の》つて、|無頼漢《ぶらいかん》を|向《むか》ふへまはし|喧嘩《けんくわ》をするのを、|一廉《ひとかど》の|手柄《てがら》の|様《やう》に|思《おも》ふ|様《やう》になつた。|二三遍《にさんぺん》うまく|喧嘩《けんくわ》の|仲裁《ちうさい》をして|味《あぢ》を|占《し》め、
『|喧嘩《けんくわ》の|仲裁《ちうさい》には|喜楽《きらく》さんに|限《かぎ》る』
と|村《むら》の|者《もの》におだてられ、|益々《ますます》|得意《とくい》になつて、
『|誰《たれ》か|面白《おもしろ》い|喧嘩《けんくわ》をして|呉《く》れないか、|又《また》|一《ひと》つ|仲裁《ちうさい》して|名《な》を|売《う》つてやらう』
と|下《くだ》らぬ|野心《やしん》にかられて、チツと|高《たか》い|声《こゑ》で|話《はな》して|居《を》る|門《かど》を|通《とほ》つても、|聞《き》き|耳《みみ》|立《た》てる|様《やう》になつて|居《ゐ》たのである。
|其《その》|頃《ごろ》、|亀岡《かめをか》の|余部《あまるべ》と|云《い》ふ|処《ところ》に|干支吉《えとよし》と|云《い》ふ|侠客《けふかく》があり、|其《その》|兄弟分《きやうだいぶん》として|威張《ゐば》つて|居《ゐ》た|宿屋《やどや》の|息子《むすこ》の|勘吉《かんきち》と|云《い》ふ|男《をとこ》、|身体《からだ》も|大《おほ》きく|背《せ》も|高《たか》く、|力《ちから》も|強《つよ》く、|宮相撲《みやずもう》をとつて|遠近《ゑんきん》に|鳴《な》らして|居《ゐ》た。そして|其《その》|父親《てておや》は|三哲《さんてつ》と|云《い》つて、|附近《ふきん》で|名《な》の|売《う》れた|侠客《けふかく》であつた。|其《その》|息子《むすこ》の|勘吉《かんきち》が|又《また》もや|非常《ひじやう》に|売《う》り|出《だ》し、|村《むら》の|者《もの》は|大変《たいへん》に|困《こま》つて|居《ゐ》た。|第一《だいいち》|賭場《とば》を|開《ひら》いて|毎日《まいにち》|毎夜《まいや》【テラ】を|取《と》り、|乾児《こぶん》の|四五人《しごにん》も|養《やしな》ふて|居《を》つた。|自分《じぶん》の|弟《おとうと》も|勘吉《かんきち》の|賭場《とば》へ|毎日《まいにち》|毎夜《まいや》|出入《でいり》し、|自分《じぶん》の|時計《とけい》を|売《う》り|衣類《いるゐ》を|売《う》り、|終《しま》ひには|夜《よる》の|間《ま》に|数百円《すうひやくゑん》を|投《とう》じた|乳牛《ちちうし》をひき|出《だ》し、|亀岡《かめをか》あたりで|五六十円《ごろくじふゑん》に|投《な》げ|売《う》りして、それを|賭博《とばく》の|資《もと》とする。|自分《じぶん》が|意見《いけん》をすると、|勘吉《かんきち》|親分《おやぶん》を|傘《かさ》にきて|梃《てこ》にも|棒《ぼう》にもおへない。|村中《むらぢう》の|息子《むすこ》は|鼠《ねずみ》が|餅《もち》をひく|様《やう》に、|今日《けふ》も|一人《ひとり》、|明日《あす》も|二人《ふたり》と|云《い》ふ|調子《てうし》で、|勘吉《かんきち》の|賭場《とば》に|引込《ひきこ》まれ、|親達《おやたち》は|非常《ひじやう》に|嘆《なげ》いて|居《ゐ》る。けれども|勘吉《かんきち》の|耳《みみ》に|這入《はい》つては|如何《どん》な|事《こと》をしられるか|知《し》れぬと|思《おも》ひ、|各自《めいめい》に|小声《こごゑ》で|呟《つぶや》いて|居《ゐ》るのみであつた。
|之《これ》を|聞《き》いた|自分《じぶん》は|腹《はら》が|立《た》つて|堪《たま》らず、|火事場《くわじば》に|使《つか》ふ|鳶口《とびぐち》を|担《か》たげて、|河内屋《かはちや》の|勘吉《かんきち》が|賭場《とば》へ|只《ただ》|一人《ひとり》、|夜《よる》の|八時《はちじ》|頃《ごろ》|飛《と》び|込《こ》み、|車坐《くるまざ》になつて|丁半《ちやうはん》を|闘《たたか》はして|居《ゐ》た|弟《おとうと》の|帯《おび》に|鳶口《とびぐち》を|引《ひ》つかけ、|二三間《にさんげん》|引摺《ひきず》り|出《だ》した。そうすると|親分《おやぶん》の|勘吉《かんきち》が|巻舌《まきじた》になつて、
『|男《をとこ》を|売《う》つた|勘吉《かんきち》の|賭場《とば》へ|賭場《とば》|荒《あら》しに|来《き》よつたのか、|素人《しろうと》の|貴様《きさま》にこんな|事《こと》しられて|黙《だま》つて|居《を》つては|男《をとこ》が|立《た》たぬ。……オイ|与三公《よさこう》、|留公《とめこう》、|喜楽《きらく》をのばして|了《しま》へ』
と|号令《がうれい》をかけて|居《ゐ》る。|自分《じぶん》は|逃《に》ぐるが|奥《おく》の|手《て》と、|尻《しり》を|後《うしろ》へつき|出《だ》し|二《ふた》つ|三《み》つポンポンとたたいたきり、|一目散《いちもくさん》に|牧場《ぼくぢやう》に|逃《に》げて|帰《かへ》つて|来《き》た。そして|門《もん》の|閂《かんぬき》を|堅《かた》く|締《し》めて、|若《も》しも|戸《と》を|打破《うちやぶ》つて|這入《はい》るが|最後《さいご》、|打《う》ちのばしてやらうと、|椋《むく》の|棒《ぼう》を|持《も》つて|外《そと》の|足音《あしおと》を|考《かんが》へて|居《ゐ》た。
|其《その》|夜《よ》は|何《なん》の|事《こと》も|無《な》かつた。|勘吉《かんきち》も|口《くち》|程《ほど》にない|奴《やつ》だと|安心《あんしん》して|牧場《ぼくぢやう》に|眠《ねむ》つて|居《を》ると、|夜《よる》の|十時《じふじ》|頃《ごろ》、|二三《にさん》の|乾児《こぶん》を|連《つ》れて|門口《もんぐち》へやつて|来《き》た。そして、
『オイ|喜楽《きらく》、|一寸《ちよつと》|用《よう》があるから|外《そと》へ|出《で》て|呉《く》れ』
と|呶鳴《どな》つて|居《ゐ》る。|流石《さすが》に|先方《むかう》も、|迂闊《うかつ》に|這入《はい》つて|鳶口《とびぐち》でやられては|堪《たま》らぬと|思《おも》ふたか、|門口《もんぐち》に|立《た》つて|誘《か》ひ|出《だ》してゐる。|自分《じぶん》は|故意《わざ》とに|作《つく》り|鼾《いびき》をして|寝《ね》たふりをして|居《ゐ》た。そして|樫《かし》の|棒《ぼう》を|寝床《ねどこ》の|横《よこ》に|置《お》いてあつた。|暫《しば》らくすると|女《をんな》の|声《こゑ》で、
『あんたハン、|立派《りつぱ》な|侠客《けふかく》サンぢやおまへんか、たつた|一人《ひとり》の、あんな|弱々《よわよわ》しい|喜楽《きらく》サンに|喧嘩《けんくわ》に|来《く》るなんて、|男《をとこ》が|下《さが》りまつせ、さアあんたハン、|一杯《いつぱい》|桑酒屋《くはざけや》へ|飲《の》みに|行《ゆ》きまほ』
と|勘吉《かんきち》の|頬辺《ほほべた》をピシヤピシヤたたいて|居《ゐ》る|音《おと》が|聞《きこ》えて|来《き》た。|此《この》|女《をんな》は|中村《なかむら》の|多田亀《ただかめ》と|云《い》ふ|老侠客《らうけふかく》の|娘《むすめ》で、|多田《ただ》|琴《こと》と|云《い》ふ|女《をんな》である。|或《ある》|機会《きくわい》から|妙《めう》な|仲《なか》となつて|居《を》つた。|其《その》|琴《こと》が|中村《なかむら》から|遥々《はるばる》とやつて|来《き》て、|門口《かどぐち》で|河内屋《かはちや》に|出会《であ》ふたのである。|流石《さすが》の|侠客《けふかく》も、|横面《よこづら》をやさしい|声《こゑ》で|殴《なぐ》られてグニヤグニヤになり、|五六丁《ごろくちやう》|下《しも》の|吉川村《よしかはむら》の|桑酒屋《くはさけや》へ|酒《さけ》を|飲《の》みに|行《い》つて|了《しま》つた。
それから|自分《じぶん》は|多田《ただ》|琴《こと》の|父親《ちちおや》の|多田亀《ただかめ》に|就《つ》いて|侠客《けふかく》|学問《がくもん》を|研究《けんきう》し|始《はじ》めた。|多田《ただ》|亀《かめ》の|云《い》ふのには、
『|侠客《けふかく》になつて|名《な》を|挙《あ》げ|様《やう》と|思《おも》へば、|頭《あたま》を|割《わ》られたり、|腕《うで》の|一本《いつぽん》|位《くらゐ》とられなくては|本物《ほんもの》にならぬ。|此方《こつち》が|生命《いのち》を|捨《す》てる|気《き》になれば、|何百人《なんびやくにん》の|敵《てき》も|逃《に》げるものだ。|兎《と》に|角《かく》|気転《きてん》が|第一《だいいち》だ』
と|自分《じぶん》の|娘《むすめ》の|情夫《をとこ》と|知《し》り|乍《なが》ら、|碌《ろく》でもない|事《こと》を|一生懸命《いつしやうけんめい》に|教《をし》へて|呉《く》れた。さうして|多田《ただ》|亀《かめ》の|云《い》ふのには、
『|俺《おれ》の|乾児《こぶん》も|大分《だいぶ》|沢山《たくさん》あるのだが、|跡《あと》を|継《つ》がす|者《もの》がない。これからお|前《まへ》に|仕込《しこ》んでやるから、|此《この》|乾児《こぶん》を|捨《す》てるのは|惜《をし》いから、|若親分《わかおやぶん》になつたら|如何《どう》だ。お|米《よね》サン(|瑞月《ずゐげつ》の|母《はは》)に|相談《さうだん》して、お|前《まへ》サンを|此方《こつち》の|養子《やうし》に|貰《もら》ふ|積《つもり》だ。|此方《こちら》も|一人《ひとり》の|娘《むすめ》をお|前《まへ》サンの|自由《じいう》にさして、|黙《だま》つて|居《を》るのについては|考《かんが》へがあるのだ。よもや|一時《いちじ》の【テンゴ】に、|俺《おれ》の|一人娘《ひとりむすめ》をなぶり|者《もの》にしたのぢやあるまいなア』
と|退引《のつぴき》させぬ|釘《くぎ》をさされた。
|父《ちち》の|居《を》る|中《うち》から、|上田《うへだ》の|跡《あと》は|弟《おとうと》に|継《つ》がして|貰《もら》ひ|度《た》いと|云《い》つて|頼《たの》んで|居《を》つた。|両親《りやうしん》は|亀岡《かめをか》の|或《ある》|易者《えきしや》に|卦《け》を|立《た》てて|貰《もら》ひ、
『|此《この》|子《こ》は|総領《そうりやう》に|生《う》まれて|居《を》るけれども、|親《おや》の|屋敷《やしき》に|居《を》つては|若死《わかじに》をするから|養子《やうし》にやつたが|良《よ》い』
といつたとかで、|両親《りやうしん》は|已《すで》に|自分《じぶん》の|養子《やうし》に|行《ゆ》くのを|承認《しようにん》して|了《しま》つた。|然《しか》し|侠客《けふかく》の|養子《やうし》に|遣《や》らうとは|思《おも》うて|居《ゐ》なかつたのである。
|自分《じぶん》は|幼時《えうじ》から|貧家《ひんか》に|生《うま》れ、|弱者《じやくしや》に|対《たい》する|強者《きやうしや》の|横暴《わうばう》を|非常《ひじやう》に|不快《ふくわい》に|感《かん》じて|居《ゐ》た。|人間《にんげん》は|少《すこ》しく|頭《あたま》をあげて|金《かね》でも|貯《た》めれば、|如何《どん》な|馬鹿《ばか》でも|賢《かしこ》う|見《み》られ、|敬《うやま》はれるが、|少《すこ》しく|地平線下《ちへいせんか》に|落《お》ちると、|子供《こども》|迄《まで》が|寄《よ》つて|集《たか》つて|踏《ふ》みつけ|様《やう》とする。|事大思想《じだいしさう》の|盛《さか》んな|田舎《いなか》では|尚更《なほさら》はげしいのである。|何《なん》でも|一《ひと》つ|衆《しう》に|擢《ぬき》んでなければ|頭《あたま》があがらない、|生存《せいぞん》の|価値《かち》がないと、|幼時《えうじ》から|思《おも》ひつめて|居《ゐ》た。|学問《がくもん》が|無《な》ければ|官吏《くわんり》になる|事《こと》も|出来《でき》ず、|軍人《ぐんじん》に|成《な》り|度《た》うても|成《な》れず、|弱《よわ》い|者《もの》を|助《たす》け、|強《つよ》い|者《もの》を|凹《へこ》ます|侠客《けふかく》になつた|方《はう》が、|一番《いちばん》|名《な》が|挙《あ》がるだらうと|下《くだ》らぬ|事《こと》を|考《かんが》へ、|幡随院《ばんずゐゐん》|長兵衛《ちやうべゑ》の【ちよんがれ】を|聞《き》いて、|明治《めいぢ》の|幡随院《ばんずいゐん》|長兵衛《ちやうべゑ》は|俺《おれ》がなつてやらうかと|迄《まで》|思《おも》ふ|事《こと》が|屡々《しばしば》あつた。|其《その》|平素《へいそ》の|思《おも》ひと|強者《きやうしや》に|虐《しひた》げられた|無念《むねん》とが|一《ひと》つになつて、|社会《しやくわい》の|弱者《じやくしや》に|対《たい》する|同情心《どうじやうしん》が、|父《ちち》の|帰幽《きいう》と|共《とも》に|突発《とつぱつ》し、|生命《いのち》|懸《が》けの|侠客凹《けふかくへこ》ませを|企《くはだ》て、|猪口才《ちよこざい》な|奴《やつ》と|彼等《かれら》が|社会《しやくわい》から|睨《にら》まれて|居《ゐ》たから、|一年《いちねん》|経《た》たぬ|中《うち》に|九回《きうくわい》|迄《まで》も|酷《ひど》い|目《め》に|会《あ》はされたのである。|若《も》しも|神様《かみさま》の|御用《ごよう》をせなかつたらば、|自分《じぶん》は|三十四五《さんじふしご》|迄《まで》に|叩《たた》き|殺《ころ》されて|居《を》るかも|知《し》れないと|思《おも》ひ|浮《うか》べて、|神様《かみさま》の|御恩《ごおん》がシミジミと|有難《ありがた》くなつて|来《き》たのである。
|自分《じぶん》は|母《はは》の|言葉《ことば》の|如《ごと》く、|決《けつ》して|父《ちち》が|逝《な》くなつた|為《た》めに|侠客《けふかく》に|苦《くる》しめられたのではない、つまり|自分《じぶん》から|招《まね》いた|災《わざはい》である|事《こと》を|其《その》|時《とき》|已《すで》に|自覚《じかく》し|得《え》たのである。
(大正一一・一〇・八 旧八・一八 北村隆光録)
第三章 |破軍星《はぐんせい》〔一〇一五〕
|大阪《おほさか》から|田舎下《いなかくだ》しの|舞《まひ》の|師匠《ししやう》に、お|玉《たま》といふ|四十《しじふ》|位《くらゐ》の|年増《としま》があつた。|村《むら》の|若者《わかもの》は|端唄《はうた》や|舞《まひ》や|踊《をどり》を|毎晩《まいばん》|稽古《けいこ》に|往《い》つて|居《を》つた。|何時《いつ》の|間《ま》にかは|此《この》お|玉《たま》は|侠客《けふかく》の|勘吉《かんきち》の|内縁《ないえん》の|妻《つま》となつてゐた。そして|勘吉《かんきち》は|其《その》お|玉《たま》に|村《むら》の|若《わか》い|者《もの》をくつつけ、そこを|押《おさ》へては|物言《ものい》ひを|付《つ》け、|金銭《きんせん》を|絞《しぼ》り|取《と》つて|居《ゐ》たのである。|此《この》|女《をんな》は|少《すこ》し|浄瑠璃《じやうるり》も|知《し》つてゐて、|若者《わかもの》にチヨコチヨコ|札《ふだ》で|教《をし》へて|居《ゐ》た。
|次郎松《じろまつ》といふ|男《をとこ》、|五十《ごじふ》の|坂《さか》を|越《こ》えて|居《ゐ》|乍《なが》ら|鰥《やもめ》の|淋《さび》しさに、|若《わか》い|者《もの》の|舞《まひ》や|踊《をどり》や|浄瑠璃《じやうるり》の|稽古《けいこ》を|毎夜《まいよ》|欠《か》かさず|見聞《みきき》に|行《ゆ》き、|遂《つひ》にはお|玉《たま》と|勘吉《かんきち》の|美人局《つつもたせ》に|陥《おちい》り|寝込《ねこ》みを|押《おさ》へられ、|頭《あたま》や|背中《せなか》をしたたか|殴《なぐ》られ、|真青《まつさを》になつて|吾《わが》|家《や》に|逃《に》げ|帰《かへ》り、ブルブル|慄《ふる》へて|居《ゐ》た。そこへ|上田長吉《うへだちやうきち》といふ、|次郎松《じろまつ》の|近所《きんじよ》の|二十五歳《にじふごさい》の|男《をとこ》がやつて|来《き》て、いふやう、
『わしが|勘吉《かんきち》とお|玉《たま》との|中《なか》へ|這入《はい》つて|話《はなし》をうまくつけて|来《き》たから、|二百円《にひやくゑん》|出《だ》しなさい。そしたら、|勘吉《かんきち》も|怒《おこ》りはすまい』
と|言《い》つた。|次郎松《じろまつ》は|生《うま》れついての|吝嗇坊《けちんぼう》、|惜相《をしさう》に|工面《くめん》して、|清水《きよみづ》の|舞台《ぶたい》から|飛《と》んだやうな|心持《こころもち》で、|五十円《ごじふゑん》の|金《かね》を|拵《こしら》へ、|長吉《ちやうきち》の|手《て》に|渡《わた》した。|長吉《ちやうきち》はお|玉《たま》に|向《むか》つて、
『|次郎松《じろまつ》サンが|二十五円《にじふごゑん》|出《だ》して|呉《く》れたから、これで|勘弁《かんべん》しなさい。|此《この》|廿五円《にじふごゑん》はわしの|金《かね》ぢやが、お|前《まへ》に|上《あ》げる』
と|甘《うま》くチヨロまかして、|又《また》お|玉《たま》に|妙《めう》な|関係《くわんけい》をつけて|了《しま》つた。
|肝腎《かんじん》の|勘吉《かんきち》はそんなこととは|知《し》らず、|五六人《ごろくにん》の|乾児《こぶん》を|伴《つ》れ、|暗夜《あんや》に|次郎松《じろまつ》の|家《いへ》に|押掛《おしか》け|行《ゆ》き、|強談判《こはだんぱん》を|始《はじ》め|出《だ》した。|平素《へいそ》から|憂《うれ》ひ|喜《よろこ》びの|悪口《あくこう》|言《い》ひと、|村中《むらぢう》から|憎《にく》まれてゐた|次郎松《じろまつ》が、|今夜《こんや》は|河内屋《かはちや》にやられるのだ、よい|罰《ばち》だ、|面白《おもしろ》い、|見《み》て|来《こ》うか……と|次《つぎ》から|次《つぎ》へ|言《い》ひ|合《あ》はし、|門《かど》には|一杯《いつぱい》の|人《ひと》だかりになつてゐる。|次郎松《じろまつ》の|老母《らうぼ》は|裏口《うらぐち》から|飛《と》び|出《だ》し、|吾《わが》|家《や》に|来《きた》り、
『コレコレ|喜楽《きらく》サン、|大変《たいへん》なことが|起《おこ》つて|来《き》た。お|前《まへ》も|親類《しんるゐ》のことであり、|内《うち》の|松《まつ》が|今《いま》|二百両《にひやくりやう》の|金《かね》を|出《だ》さねば、|地獄川《ぢごくがは》へ|俵《たはら》につめて|放《はう》り|込《こ》まれるとこだから、|早《はや》う|来《き》て|勘吉《かんきち》に|談判《だんぱん》しておくれ……』
と|慄《ふる》ひ|慄《ふる》ひ|泣《な》いてゐる。|自分《じぶん》は『ヨシ|来《き》た!』……と|言《い》つたものの、|近所《きんじよ》にワアワアと|大勢《おほぜい》の|声《こゑ》が|聞《きこ》えてゐる、|勘吉《かんきち》の|呶鳴《どな》り|声《ごゑ》も|手《て》に|取《と》る|如《ごと》く|耳《みみ》にひびく。|幾分《いくぶん》か、コリヤ|険呑《けんのん》だ、ウツカリ|行《ゆ》く|訳《わけ》には|行《ゆ》こまい……と、|稍《やや》|卑怯心《ひけふしん》の|虫《むし》が|腹《はら》の|底《そこ》の|方《はう》で|囁《ささや》き|出《だ》した。そして|八十四歳《はちじふしさい》になつた|老祖母《らうそぼ》や|母《はは》が、|不安《ふあん》な|顔色《かほいろ》をして、|自分《じぶん》の|返事《へんじ》を|如何《どう》いふかと|待《ま》つてゐるやうである。
おこの|婆《ば》アサンは|吾《わが》|子《こ》の|一大事《いちだいじ》だと、|一生懸命《いつしやうけんめい》に、
『|喜楽《きらく》サン、|早《はや》う|来《き》ておくれ、|松《まつ》がやられて|了《しま》ふ……』
と|泣《な》き|立《た》てる。
『そんなら|行《ゆ》きませう』
と|自分《じぶん》は|立上《たちあが》らうとする。|老祖母《らうそぼ》は|行《ゆ》くなと|目《め》で|知《し》らす。おこの|婆《ば》アサンは、
『コレ|喜楽《きらく》サン、|親類《しんるゐ》で|居《を》つて、こんな|時《とき》に|助《たす》けに|来《き》てくれんのなら、お|前《まへ》の|所《ところ》へ|二十円《にじふゑん》|貸《か》した|金《かね》を|未《いま》|返《かへ》しておくれ。|河内屋《かはちや》にやる|足《た》しにせんならんから、そしてこんな|時《とき》に|来《き》てくれな、モウこれから|何《なに》を|頼《たの》まれても|聞《き》きませんぞえ』
と|少《すこ》しの|借金《しやくきん》を|恩《おん》にきせて|無理《むり》に|引出《ひきだ》さうとする。|自分《じぶん》は|一寸《ちよつと》むかついたが、……|併《しか》し|世間《せけん》の|者《もの》は、そんな|事情《じじやう》で|怒《おこ》つて|行《ゆ》かなんだとは|思《おも》はずに、|勘吉《かんきち》に|辟易《へきえき》して、とうとう|喜楽《きらく》も|能《よ》う|来《こ》なんだと|誹《そし》るであらう。|折角《せつかく》|侠客《けふかく》の|玉子《たまご》になりかけた|所《ところ》を、【なきがら】だと|言《い》はれては、|今《いま》までの|事《こと》が|水泡《すゐほう》に|帰《き》する、ナアニ|多田《ただ》|亀《かめ》の|教《をし》へた|通《とほ》り、|命《いのち》を|的《まと》にかけて|行《ゆ》きさへすれば|大丈夫《だいぢやうぶ》だ、|一《ひと》つ|度胸《どきよう》を|放《はう》り|出《だ》してやらう、|名《な》を|売《う》るのは|今《いま》ぢや……と|俄《にはか》に|強《つよ》くなつて、|老母《らうぼ》や|母《はは》の|不安《ふあん》な|顔色《かほいろ》を|見《み》ぬ|振《ふ》りして、|吾《わが》|家《や》を|飛《と》び|出《だ》し、|裏《うら》の|藪《やぶ》の|垣《かき》を|蜘蛛《くも》の|巣《す》に|引《ひ》つかかり|乍《なが》ら、|二《ふた》つもくぐりぬけて、|背戸口《せとぐち》から|次郎松《じろまつ》の|奥《おく》の|間《ま》へ|入《い》りこみ、|何《なに》くはぬ|顔《かほ》して、|奥《おく》からヌツと|火鉢《ひばち》の|側《そば》へ|現《あら》はれて、|井筒型《ゐづつがた》の|模様《もやう》のあるドテラをフワリと|羽織《はおり》り、|鷹揚《おうやう》に|坐《すわ》り|込《こ》んだ。そして|破軍星《はぐんせい》の|剣先《けんさき》を|敵《てき》に|向《む》けてやらう、|自分《じぶん》は|剣先《けんさき》の|柄《つか》に|座《ざ》を|占《し》めたれば、キツと|勝《か》つに|違《ちが》ひないと、|稍《やや》|迷信《めいしん》に|囚《とら》はれ|乍《なが》ら、
『オイ|河内屋《かはちや》、こんなヒヨロヒヨロ|爺《おやぢ》に、|屈強《くつきやう》|盛《ざか》りの|侠客《けふかく》が|五人《ごにん》も|六人《ろくにん》も|乾児《こぶん》を|伴《つ》れて、|押《おし》よせて|来《く》るとは|何《なん》の|事《こと》だ。|侠客《けふかく》の|侠《けふ》の|字《じ》は|何《なん》といふ|事《こと》か|知《し》つてゐるかい。|遊廓《いうくわく》へでも|行《い》つて|男《をとこ》を|売《う》るのが|侠客《けふかく》の|本分《ほんぶん》ぢやないか。こんな|小《ちい》つぽけな|田舎《いなか》で、ヘボ|爺《おやぢ》を|苦《くるし》めた|所《ところ》で、お|前《まへ》の|名《な》はあがる|所《どころ》か、|却《かへつ》てダダ|下《さ》がりだぞ』
と|頭《あたま》から|咬《か》みつけて|見《み》た。|河内屋《かはちや》は|何《なん》と|思《おも》ふたか、|物《もの》も|言《い》はず|門口《かどぐち》へ|出《で》て、|乾児《こぶん》の|五人《ごにん》を|中《なか》へ|入《い》れ、
『オイ|喜楽《きらく》を|叩《たた》きのばせ! |次郎松《じろまつ》を|引《ひき》ずり|出《だ》せ!』
と|号令《がうれい》をかけてゐる。おこの|婆《ば》アサンは|自分《じぶん》の|宅《うち》へ|来《き》たなり、|怖《こわ》がつて|震《ふる》うて|帰《かへ》つて|来《こ》ない。|次郎松《じろまつ》は|長火鉢《ながひばち》の|前《まへ》に|坐《すわ》つたまま、|真青《まつさを》な|顔《かほ》して、
『|破軍星《はぐんせい》はどつちを|向《む》いてる、なア|喜楽《きらく》サン……』
などと|調子《てうし》|外《はづ》れな|声《こゑ》で|尋《たづ》ねてゐる。|乾児《こぶん》の|中《なか》の|両腕《りやううで》と|聞《きこ》えたる、|留公《とめこう》、|与三公《よさこう》は|親分《おやぶん》にケシを|掛《か》けられ、|震《ふる》ひ|震《ふる》ひ、
『コレ|喜楽《きらく》サン、|一寸《ちよつと》|出《で》て|下《くだ》され。|次郎松《じろまつ》サン、|親分《おやぶん》があない|言《い》うてますから|出《で》て|下《くだ》さい』
などと|怖々《こわごわ》ニユツと|手《て》をつき|出《だ》して、|半分《はんぶん》ふるうてゐる。|河内屋《かはちや》は|犬《いぬ》の|遠吠《とほぼえ》に|似《に》ず、|門口《かどぐち》から|号令《がうれい》をきびしくかける|計《ばか》りである。|自分《じぶん》は|懐手《ふところで》をした|儘《まま》、ドスンとすわり、|揚《あ》げ|面《づら》をしてワザと|豪傑《がうけつ》らしく|空威張《からゐば》りをしてゐた。|併《しか》し|乍《なが》ら|脇《わき》の|下《した》や|腰《こし》のあたりは|秋《あき》の|夜寒《よさむ》にも|似《に》ず、|汗《あせ》がビツシヨリと|着物《きもの》をぬらしてゐた。|門口《かどぐち》には|村《むら》の|若《わか》い|者《もの》や|女《をんな》が|先《せん》ぐり|先《せん》ぐりやつて|来《き》て、ワイワイとぞめいてゐる。|不断《ふだん》から|憎《にく》まれてゐるので、|誰一人《たれひとり》|仲裁《ちうさい》に|入《はい》らうとする|者《もの》がない。
|暫《しばら》くすると|嘘勝《うそかつ》と|言《い》ふ|男《をとこ》が|弟《おとうと》の|長吉《ちやうきち》を|引張《ひつぱ》つて|来《き》た。|此《この》|男《をとこ》は|次郎松《じろまつ》から|常《つね》に|世話《せわ》になつて|居《ゐ》る|所《ところ》から、|近所《きんじよ》の|事《こと》でもあり、|且《か》つ|自分《じぶん》の|弟《おとうと》に|関《くわん》した|事《こと》でもあるので、|裏口《うらぐち》から|長吉《ちやうきち》を|伴《つ》れて|這入《はい》つて|来《き》たのである。|自分《じぶん》は|長吉《ちやうきち》に|向《むか》ひ、ワザと|大《おほ》きな|声《こゑ》で、
『|此《この》|間《あひだ》|松《まつ》サンからお|玉《たま》サンに|渡《わた》してくれといつて、ことづけた|五十円《ごじふゑん》の|金《かね》は|如何《どう》したのか?』
と|呶《ど》なりつけて|見《み》た。|長吉《ちやうきち》は|震《ふる》ひ|乍《なが》ら、
『|其《その》|五十円《ごじふゑん》は|確《たしか》にお|玉《たま》サンに|渡《わた》しました』
と|云《い》ふ。そこで|喜楽《きらく》は|皆《みな》に|聞《きこ》える|様《やう》に、
『お|玉《たま》といふ|女《をんな》は|聞《き》けば、|河内屋《かはちや》の|囲女《かこひをんな》ぢやないか。|侠客《けふかく》の|内縁《ないえん》にもせよ、|女房《にようばう》になる|女《をんな》が、|男《をとこ》から|金《かね》の|五十円《ごじふゑん》も|取《と》るとは|怪《け》しからん|奴《やつ》だ。これは|要《えう》するに|河内屋《かはちや》が|差図《さしづ》ではあるまい。こんな|女《をんな》を|持《も》つて|居《ゐ》ると、|侠客《けふかく》の|名《な》が|汚《けが》れるのみならず、|此《この》|村《むら》の|恥《はぢ》だ。|男達《をとこだて》を|以《もつ》て|任《にん》ずる|当時《たうじ》|売出《うりだ》しの|河内屋《かはちや》が、|女《をんな》を|玉《たま》に|使《つか》うて|金《かね》を|取《と》るといふ、|卑怯《ひけふ》なことは|決《けつ》してする|筈《はず》がない。|大方《おほかた》|貴様《きさま》がチヨロまかしたのだろ』
と|呶鳴《どな》つて|見《み》せた。|嘘勝《うそかつ》は|妙《めう》な|顔《かほ》をして、
『とも|角《かく》、|弟《おとうと》の|長吉《ちやうきち》が|悪《わる》いのだから、|此《この》|事《こと》は|私《わたし》に|任《まか》して|貰《もら》ひたい。|河内屋《かはちや》だつて、|男《をとこ》の|顔《かほ》に|泥《どろ》をぬられて|黙《だま》つておろまい。|侠客《けふかく》といふ|者《もの》は、|女《をんな》を|玉《たま》に|使《つか》つて|金《かね》を|取《と》るといふやうなことはしそうな|筈《はず》がない。こんな|事《こと》がカンテラの|親分《おやぶん》にでも|聞《きこ》えたら、それこそ|大変《たいへん》だぞ』
と|呶鳴《どな》りかけた。|河内屋《かはちや》はお|玉《たま》を|次郎松《じろまつ》が|犯《おか》し、|侠客《けふかく》の|顔《かほ》に|泥《どろ》を|塗《ぬ》つたから、|承知《しようち》しない、|二百円《にひやくゑん》の|金《かね》を|出《だ》さねば|地獄川《ぢごくがは》へ|放《はう》り|込《こ》むとねだつて|居《ゐ》たのが、|少《すこ》し|恥《はづか》しくなつたと|見《み》え、|門口《かどぐち》から|再《ふたた》び|上《あが》り|口《ぐち》の|火鉢《ひばち》の|前《まへ》|迄《まで》やつて|来《き》て、
|勘吉《かんきち》『|此《この》|勘吉《かんきち》は、|女《をんな》を|玉《たま》に|金《かね》をねだつたなどと|言《い》はれちや、|男《をとこ》が|立《た》ちません。|何《なに》かの|間違《まちがひ》だらう……コラ|与三公《よさこう》、|留公《とめこう》、|貴様《きさま》、そんな|馬鹿《ばか》なことを|次郎松《じろまつ》サンに|言《い》うたのか、|不都合《ふつがふ》な|奴《やつ》だ』
と|呶鳴《どな》りつけた。|与三公《よさこう》と|留公《とめこう》は……|親分《おやぶん》が|命令《めいれい》ぢやないか……と|言《い》ひたいけれど、|言《い》ふ|訳《わけ》にもいかぬといふやうな|顔付《かほつき》で、|頭《あたま》をガシガシかき|乍《なが》ら、
『へー、|別《べつ》にそんなこたア、|言《い》うた|覚《おぼ》えは|厶《ござ》いまへん』
と|巻舌《まきじた》が|何時《いつ》の|間《ま》にか、|田舎《いなか》の|詞《ことば》の|生地《きぢ》に|返《かへ》つて|了《しま》つてゐる。|河内屋《かはちや》は|顔色《かほいろ》を|和《やは》らげ、
『ヤア|喜楽《きらく》サン、|心配《しんぱい》かけて|済《す》みません。|災《わざはい》は|下《した》からと|言《い》ひまして、|子分《こぶん》の|奴《やつ》がこちらの|知《し》らんことを|吐《ぬか》すもんだから、こんな|騒動《さうだう》になつたのです。|併《しか》し|私《わたし》も|御存《ごぞん》じの|通《とほ》り、|今《いま》|売出《うりだ》しの|侠客《けふかく》だ。|素人《しろうと》の|喜楽《きらく》サンにコミ|割《わ》られたと|人《ひと》に|言《い》はれては、|男《をとこ》の|顔《かほ》が|立《た》ちませぬ。これは|一《ひと》つ|仲直《なかなほ》りをして、|綺麗《きれい》サツパリと|埒《らち》をつけませう』
と|砕《くだ》けてかかる。|喜楽《きらく》は、
『そう|事《こと》が|分《わか》れば|結構《けつこう》だ。そんなら|次郎松《じろまつ》から|十五円《じふごゑん》|出《だ》すから、|君《きみ》の|方《はう》から|十五円《じふごゑん》|出《だ》して、それで|一《ひと》つ|宴会《えんくわい》でも|開《ひら》いて|仲直《なかなほ》りをせうぢやないか』
と|問《と》うて|見《み》た。|河内屋《かはちや》はヤレ|肩《かた》の|荷《に》が|下《を》りたというやうな|体裁《ていさい》で、|抜《ぬ》いた|刀《かたな》の|納《をさ》めどこに|困《こま》つて|居《ゐ》たのを、ヤツと|幸《さいは》ひ|二《ふた》つ|返事《へんじ》で、
『|何分《なにぶん》|喜楽《きらく》サンに|任《まか》しませう。そんなら|明晩《みやうばん》、|亀岡《かめをか》の|呉服町《ごふくまち》の|正月屋《しやうぐわつや》で|仲直《なかなほ》りをすることにせう。|午後《ごご》|六時《ろくじ》から……』
と|言《い》つた。|次郎松《じろまつ》はヤツと|安心《あんしん》したものの|如《ごと》く、|二百円《にひやくゑん》が|十五円《じふごゑん》になつたので、これも|異議《いぎ》なく|出金《しゆつきん》することを|承諾《しようだく》した。そしてウソ|勝《かつ》は、|河内屋《かはちや》が|一所《いつしよ》に|明晩《みやうばん》|宴会《えんくわい》に|行《ゆ》かうかと|勧《すす》めるのを、|俄《にはか》に|明日《みやうにち》は|大阪《おほさか》の|親類《しんるゐ》へ|急用《きふよう》が|出来《でき》たから……と|云《い》つて|体《てい》よく|断《ことわ》つて|了《しま》つた。
これで|其《その》|晩《ばん》の|悶錯《もんさく》は|一寸《ちよつと》ケリがつき、|翌日《よくじつ》、|瑞月《ずゐげつ》と|次郎松《じろまつ》と|長吉《ちやうきち》との|三人《さんにん》は|亀岡《かめをか》|呉服町《ごふくまち》の|正月屋《しやうぐわつや》といふ|二階《にかい》|造《づく》りの|小《ちひ》さい|料理屋《れうりや》へ|行《ゆ》くこととなつた。
(大正一一・一〇・八 旧八・一八 松村真澄録)
第四章 |素破抜《すつぱぬき》〔一〇一六〕
『|広《ひろ》い|亀岡《かめをか》の|十三町《じふさんまち》に |後《あと》を|見返《みかへ》す|女郎《ぢよろ》はない』
と|俗謡《ぞくえう》に|唄《うた》はれて|居《ゐ》る|亀岡《かめをか》の|町《まち》には、|芸者《げいしや》|仲居《なかゐ》に|至《いた》る|迄《まで》、|皆《みな》|京都《きやうと》の|田舎下《いなかくだ》し、パチ|者《もの》の|仕入《しい》れ|者《もの》ばかりで、|三味線《さみせん》を|引《ひ》くと|云《い》つたら、たすきの|紐《ひも》でもくくりつけて、|座敷中《ざしきぢう》|引《ひき》まはす|位《くらゐ》が|関《せき》の|山《やま》の|不見転《みずてん》ばかりである。|股《また》で|挟《はさ》んで|金《かね》をとる|釘抜女《くぎぬきをんな》がザツと|三打《さんダース》|計《ばか》り、あちらこちらの|料亭《れうてい》にうろついて|居《を》つた。|勘公《かんこう》のお|宿坊《しゆくばう》にして|居《ゐ》る|呉服町《ごふくまち》の|正月屋《しやうぐわつや》には、|鄙《ひな》には|稀《まれ》な|渋皮《しぶかは》の|剥《む》けた、|一寸《ちよつと》|小意気《こいき》な、|三味《さみ》を|能《よ》う|引《ひ》かぬデモ|芸者《げいしや》が|二三人《にさんにん》|抱《かか》へてあつた。|何《いづ》れも|春《はる》を|売《う》るのが|目的《もくてき》である。|其《その》|中《なか》に|年《とし》は|二十《はたち》|位《くらゐ》で、お|愛《あい》といふ|女《をんな》が|始終《しじう》|河内屋《かはちや》に|馴染《なじみ》を|重《かさ》ねて、|機嫌《きげん》|克《よ》く|年期《ねんき》を|務《つと》めたら、|夫婦《ふうふ》にならうとまで、|約束《やくそく》をして|居《ゐ》たのである。
|勘公《かんこう》は|五人《ごにん》の|乾児《こぶん》を|総揚《そうあ》げして、|意気《いき》|揚々《やうやう》として、|正月屋《しやうぐわつや》に|乗込《のりこ》み、|裏《うら》の|六畳《ろくでふ》|二間《ふたま》の|古腐《ふるくさ》つた|座敷《ざしき》に、|真黒《まつくろ》けに|垢《あか》で|光《ひか》つた|柱《はしら》を|背中《せなか》に、|自慢話《じまんばなし》に|耽《ふけ》つてゐる。そこへお|愛《あい》が|茶《ちや》を|酌《く》んで|来《き》て、
お|愛《あい》『|哥兄《にい》サン イヤ|親方《おやかた》サン、あの|次郎松《じろまつ》|事件《じけん》は|如何《どう》なりました。【きまま】とか|喜楽《きらく》とか|云《い》ふ|奴《やつ》、|割《わり》とは|度《ど》し|太《ぶと》い|奴《やつ》だと|此《この》|間《あひだ》も|言《い》はれましたが、|何《なん》とか|巧《うま》く|片《かた》はつきましたかえ』
|勘吉《かんきち》『サア|俺《おれ》の|威勢《ゐせい》に|恐《おそ》れて、|流石《さすが》の|喜楽《きらく》も、とうとう|泣《な》きを|入《い》れよつて、|今日《けふ》はあやまりに|来《く》るんだ。|今晩《こんばん》の|七時《しちじ》|頃《ごろ》には|喜楽《きらく》、|次郎松《じろまつ》、|長吉《ちやうきち》の|三人《さんにん》がここへ|謝罪《あやまり》に|来《く》る|筈《はず》だ』
お|愛《あい》『そりや|心地《ここち》よい|事《こと》ですなア。|一遍《いつぺん》|喜楽《きらく》が|親方《おやかた》にあやまる|所《ところ》を|見《み》せて|欲《ほ》しいもんですな』
|勘吉《かんきち》『アハヽヽヽ、|侠客《けふかく》は|侠客《けふかく》としてそれ|相当《さうたう》の|礼式《れいしき》があるのだ。|女《をんな》なぞの|見《み》に|来《く》る|所《ところ》ぢやない。どうぞ|二階《にかい》に|席《せき》を|拵《こしら》へて、|誰《たれ》も|来《こ》ない|様《やう》にしておいてくれ。|其《その》|式《しき》さへ|済《す》めば|手《て》を|叩《たた》いてやるから、|其《その》|時《とき》にあがつて|来《き》て|酌《しやく》をするんだ』
お|愛《あい》『|一番《いちばん》に|喜《き》【まま】サンとか|喜楽《きらく》サンとかに、お|酒《さけ》を|注《つ》ぐんですか』
とそんな|事《こと》は|云《い》うたか|云《い》はぬか、|喜楽《きらく》は|丁度《ちやうど》|其《その》|時分《じぶん》に|穴太《あなを》を|出立《しゆつたつ》しかけてゐる|位《くらゐ》だから、|何程《なにほど》エライ|天耳通《てんじつう》でも、|聞取《ききと》ることは|出来《でき》なかつた。
|午後《ごご》|七時《しちじ》|頃《ごろ》、|一寸《ちよつと》|腰《こし》の|具合《ぐあひ》の|悪《わる》いヨボヨボした|次郎松《じろまつ》サンと、|小男《こをとこ》の|長吉《ちやうきち》とを|伴《つ》れて、|正月屋《しやうぐわつや》の|門口《かどぐち》を|潜《くぐ》つた。|例《れい》のお|愛《あい》は|顔《かほ》に|冷笑《れいせう》を|泛《うか》べて、|此方《こちら》が|御免《ごめん》なさいと|言《い》へば、|厭相《いやさう》に『へー』と|答《こた》へて|背中《せなか》を|向《む》けた。|喜楽《きらく》は……|此《この》スベタ|奴《め》、|大事《だいじ》のお|客《きやく》さまを|捉《とら》へて|馬鹿《ばか》にしやがる、そんなことで|商売《しやうばい》が|繁昌《はんじやう》するか……と|云《い》ひたくなつた。されど|何《なん》とはなしに|一方《いつぱう》は|無頼漢《ぶらいかん》を|相手《あひて》のこととて、|稍《やや》|不安《ふあん》の|雲《くも》が|心《こころ》に|往復《わうふく》してゐたので、ワザと|笑顔《ゑがほ》を|作《つく》り、
|喜楽《きらく》『|河内屋《かはちや》サンは|来《き》て|居《を》られますか?』
と|問《と》ひかけた、お|愛《あい》は、
お|愛《あい》『へー|親分《おやぶん》ですか。|昼《ひる》|頃《ごろ》から|乾児《こぶん》をつれて|遊《あそ》びに|来《き》てゐられます。お|前《まへ》サンは|喜楽《きらく》サンですか。とうとう|河内屋《かはちや》ハンに|負《ま》けなはつたのですやろ』
と|冷《ひや》やかに|笑《わら》ふ。|其《その》|態度《たいど》に|又《また》むかついた。
|喜楽《きらく》『オイ|長吉《ちやうきち》、|次郎松《じろまつ》サン、こんな|所《ところ》に|立《た》つて|居《を》つても|仕方《しかた》がないぢやないか。|女中《ぢよちう》サンに|案内《あんない》して|貰《もら》つて|奥《おく》へ|通《とほ》らうかい』
と|稍《やや》|甲張《かんば》つた|声《こゑ》で|呶鳴《どな》り|立《た》てた。|庭《には》の|上《うへ》に|八畳《はちじやう》ばかり|二階《にかい》|座敷《ざしき》がある。そこの|段階子《だんばしご》をトントンと|下《お》りて|来《き》たのは|与三公《よさこう》であつた。
|与三《よさ》『あゝ|喜楽《きらく》サン、|早《はや》く|上《あが》つて|下《くだ》さい。|親方《おやかた》が|待《ま》つて|居《ゐ》ます。|約束《やくそく》の|時間《じかん》が|遅《おく》れたと|云《い》うて、|大変《たいへん》に|御立腹《ごりつぷく》ですよ。サアサア|早《はや》く』
と|先《さき》に|立《た》つて|段階子《だんばしご》をあがる。|三人《さんにん》も|後《あと》に|跟《つ》いて|二階《にかい》へ|上《あが》つて|見《み》た。チヤンと|足《あし》のない|膳《ぜん》に、|五《いつ》つ|六《む》つの|菓子碗《くわしわん》や|皿《さら》が|並《なら》べられ、|盃洗《はいせん》までがランプの|影《かげ》を|映《うつ》して、|三人《さんにん》ののぼつた|響《ひびき》に、ランプの|月《つき》を|盃洗《はいせん》の|海《うみ》がゆらつかしてゐる。
|勘公《かんこう》『|喜楽《きらく》サン、|遠方《ゑんぱう》|御苦労《ごくらう》でした。ズイ|分《ぶん》お|前《まへ》サンも|世話好《せわずき》ですなア。|余《あま》り|人《ひと》の|事《こと》を|構《かま》うもんぢやありませんぜ。|今《いま》の|人間《にんげん》は|叶《かな》はぬ|時《とき》は|神仏《しんぶつ》のやうに|言《い》うて|頼《たの》み、チンコハイコするものだが、やがて|難《なん》が|去《さ》ると、|素知《そし》らぬ|顔《かほ》をするもんだ。|人《ひと》の|世話《せわ》もよい|加減《かげん》になさるが|宜《よろ》しかろ』
と|何《なん》だか|意味《いみ》ありげな|事《こと》を|云《い》ふ。
|喜楽《きらく》『|河内屋《かはちや》サン、これも|止《や》むを|得《え》ずだ。|乗《の》りかけた|舟《ふね》で、|後《あと》へ|引返《ひきかへ》す|訳《わけ》にも|行《ゆ》かず、|親類《しんるゐ》のことでもあり、|君《きみ》の|商売《しやうばい》の|邪魔《じやま》をしては|済《す》まんのだけれど、|今度《こんど》の|事件《じけん》ばかりは|例外《れいぐわい》だと|思《おも》つて|貰《もら》はねばならん』
|勘公《かんこう》『さうでせう、|何分《なにぶん》|次郎松《じろまつ》サンに|金《かね》を|借《か》つたり、いろいろと|世話《せわ》になつてゐられるさうだから、こちらも|推量《すゐりやう》はしてゐるのだ。かう|見《み》えても|河内屋《かはちや》は|血《ち》もあれば|涙《なみだ》もある|男《をとこ》ですよ。チツとは|可愛《かあい》がつてやつて|下《くだ》せえ』
と|半分《はんぶん》ばかり|侠客《けふかく》|言葉《ことば》を|使《つか》うてゐる。|元《もと》が|土百姓《どびやくしやう》あがりの|侠客《けふかく》だから、|箱根《はこね》|越《こ》えずの|江戸《えど》つ|児《こ》を|使《つか》はうとするので、|其《その》|言霊《ことたま》にどこともなく|拍子抜《ひやうしぬ》けがして、|余《あま》り|怖《こは》|相《さう》にもなく|又《また》|権威《けんゐ》もない。|何《なん》だかダラけた|様《やう》な|心持《こころもち》がする。
|勘公《かんこう》『|次郎《じろ》ヨモさんイヤ|松《まつ》さん、ズイ|分《ぶん》お|玉《たま》が|可愛《かあい》がつて|頂《いただ》いた|相《さう》です。|此《この》|後《ご》もお|見捨《みすて》なく|御世話《おせわ》をしてやつて|下《くだ》さい、|私《わたくし》も|男《をとこ》|一匹《いつぴき》だ。|一旦《いつたん》|男《をとこ》に|汚《けが》された|女《をんな》を|再《ふたた》び|連《つ》れようとは|思《おも》ひませぬから、アハヽヽヽ』
とワザと|豪傑《がうけつ》|笑《わら》ひをして|肩《かた》をゆすつてゐる。
|次郎松《じろまつ》『イヤもう|年《とし》を|老《と》つて、|思《おも》はぬホテテンゴを|致《いた》しまして、|皆《みな》サンに|御心配《ごしんぱい》をかけ|年甲斐《としがひ》もないことで|御座《ござ》いますワイ。ハーイ』
|勘公《かんこう》『オイ|長吉《ちやうきち》、|貴様《きさま》もお|玉《たま》に|少々《せうせう》おかげを|蒙《かうむ》つたといふ|事《こと》だが、|有態《ありてい》に|白状《はくじやう》せい! |返答《へんたふ》によつては|此方《こちら》にも|考《かんが》へがあるぞ』
と|長吉《ちやうきち》に|対《たい》してはガラリと|態度《たいど》をかへ、|強圧的《きやうあつてき》に|嚇《おど》しつけた。
|長吉《ちやうきち》『ハイ、あの|次郎松《じろまつ》サンが|何《なん》で、ヘエそしてヤツパリ|松《まつ》サンがお|玉《たま》サンの|何《なん》です』
とモヂモヂし|乍《なが》ら、ソロソロ|震《ふる》ひ|出《だ》した。
|勘公《かんこう》『コラ|長吉《ちやうきち》、|貴様《きさま》|故《ゆゑ》にこんなザマの|悪《わる》い|事件《じけん》が|起《おこ》つたのだ。|此《この》|責任《せきにん》は|残《のこ》らず|貴様《きさま》にあるのだ。|何《なん》だウソ|勝《かつ》の|哥兄《あに》を|持《も》つたと|思《おも》うて、ウソ|勝《かつ》の|親分《おやぶん》はイロハ|孝太郎《かうたらう》だと|云《い》つて|威張《ゐば》つてゐやがるが、|俺《おれ》は|貴様《きさま》も|知《し》つてる|通《とほ》り、|島原《しまばら》のカンテラ|親分《おやぶん》の|兄弟分《きやうだいぶん》だ。|事《こと》と|品《しな》によつたら、|貴様《きさま》の|為《ため》に|親分《おやぶん》|同士《どうし》の|一悶錯《ひともんさく》が|起《おこ》らうも|知《し》れぬぞ』
|長吉《ちやうきち》『オヽオウ|河内屋《かはちや》、そんなこと|云《い》うたて、シシ|知《し》らぬワイ。さう|喧《やかま》し|言《い》はずに、|今日《けふ》は|仲直《なかなほ》りに|来《き》たんだから、ゆつくりと|酒《さけ》でも|呑《の》んで|別《わか》れよぢやないか』
|勘公《かんこう》『コリヤ|侠客《けふかく》の|儀式《ぎしき》を|知《し》つてるか、|俺《おれ》の|盃《さかづき》を|頂《いただ》かうと|思《おも》うたら、それ|丈《だけ》の|方法《はうはふ》を|知《し》らなくては|今日《けふ》の|役《やく》は|勤《つと》まらぬぞ。モシも|仕損《しそん》じをしよつたら、それこそ|承知《しようち》せぬから、さう|思《おも》へ』
と|喜楽《きらく》、|次郎松《じろまつ》に|対《たい》する|不平《ふへい》を、|弱《よわ》い|男《をとこ》の|長吉《ちやうきち》|一人《ひとり》に|集中《しふちう》してゐる|其《その》|可笑《をか》しさ。
|喜楽《きらく》『|君《きみ》、|僕《ぼく》は|素人《しろうと》だ。|君《きみ》は|押《お》しも|押《お》されもせぬ|立派《りつぱ》な|侠客《けふかく》サンだ。|侠客《けふかく》|同士《どうし》ならば、どんな|六《むつ》かしい|儀式《ぎしき》もあらうかも|知《し》れぬが、|俺達《おれたち》は|素人《しろうと》だから、|前《まへ》|以《もつ》て|断《ことわ》つておく。|侠客《けふかく》の|作法《さはふ》に|叶《かな》はないと|云《い》つて、|因縁《いんねん》をつけるのなら、もう|盃《さかづき》は|貰《もら》はぬワ』
|次郎松《じろまつ》『|私《わし》も|喜楽《きらく》サンのいふ|通《とほ》り|六《むつ》かしいことは|知《し》らぬのだから、こちらの|流儀《りうぎ》にして|貰《もら》ひたい、なア|河内屋《かはちや》サン』
|勘公《かんこう》『あゝさういへばさうだ、そんなら|随意《ずゐい》に、|仲直《なかなほ》りの|酒《さけ》を|汲《く》みかはすことにしませう。オイ|与三《よさ》、|先《ま》づ|第一《だいいち》に|喜楽《きらく》サンに|注《つ》いで、それから|俺《おれ》に|注《つ》ぐのだ、|俺《おれ》の|盃《さかづき》を|松《まつ》サンに|注《さ》すのだ、それから|後《あと》は|勝手《かつて》に|注《つ》いで|呑《の》んだがよい』
|与三《よさ》『へー』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら、|燗徳利《かんどくり》の|握《にぎ》れぬやうなあつい|奴《やつ》から、|朝顔《あさがほ》の|花《はな》の|形《かたち》したうす|平《ひら》たい|盃《さかづき》にドブドブドブと|注《つ》ぐ。|喜楽《きらく》は|一口《ひとくち》にグイと|呑《の》んで、
|喜楽《きらく》『|失敬《しつけい》!』
といひ|乍《なが》ら|勘公《かんこう》に|渡《わた》した。|勘公《かんこう》は|巻舌《まきじた》まぜりのドス|声《ごゑ》で、
|勘公《かんこう》『ハーイ|宜《よろ》しい』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら|受取《うけと》り、|与三公《よさこう》に|注《つ》がせた。|与三公《よさこう》が|注《つ》がうとするやつを|無理《むり》に|盃《さかづき》を|上《うへ》の|方《はう》へ|上《あ》げて|一滴《いつてき》も|入《い》れさせず、|呑《の》んだふりをして……ヘン|貴様《きさま》の|盃《さかづき》を|表面《へうめん》は|兎《と》も|角《かく》、|実際《じつさい》|誰《たれ》が|呑《の》むものか……といふやうな|面付《つらつき》をしてゐる。|河内屋《かはちや》は|盃《さかづき》を|次郎松《じろまつ》の|前《まへ》に|猿臂《ゑんぴ》を|伸《の》ばしてグツと|差出《さしだ》し、
|勘公《かんこう》『サア|色男《いろをとこ》の|松《まつ》サン、ワツちの|盃《さかづき》はお|気《き》に|入《い》りますまいが、|今日《けふ》は|仲直《なかなほ》りの|式《しき》だから、ドツサリと|受《う》けて|下《くだ》さい。イヤ|十分《じふぶん》|打《うち》とけて|酔《よ》うて|貰《もら》はねば、|仲直《なかなほ》りの|精神《せいしん》が|貫徹《くわんてつ》しません』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら、|与三《よさ》の|徳利《とくり》をグイと|引《ひき》たくり、ドブドブドブと|松《まつ》サンの|持《も》つてゐる|盃《さかづき》へ|注《つ》いだ。|松《まつ》サンは、
|次郎松《じろまつ》『エヽモウ|結構《けつこう》|結構《けつこう》、ちります ちります、こぼれます』
と|言《い》つてゐるのを|構《かま》はず、|燗徳利《かんどくり》をグイと|向《むか》うへつきつけ、|膝《ひざ》の|上《うへ》に|一杯《いつぱい》の|酒《さけ》をダブダブとこぼして|了《しま》つた。
|次郎松《じろまつ》『あゝ|勿体《もつたい》ない、|此《この》|結構《けつこう》な|酒《さけ》を』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら、|膝《ひざ》の|上《うへ》や|畳《たたみ》の|上《うへ》にこぼれた|酒《さけ》を|平手《ひらで》にすはしてはチウーチウーと|吸《す》うてゐる。
|勘公《かんこう》『コレ|松《まつ》サン、わつちの|盃《さかづき》が|気《き》に|入《い》らぬのか、|皆《みな》【づち】あけて|了《しま》うとは、|余《あま》り|馬鹿《ばか》にした|仕打《しうち》ぢやねいか』
と|無理難題《むりなんだい》を|吹《ふ》つかけて、|引《ひ》つかからうとしてゐる。
|喜楽《きらく》『オイ|君《きみ》、そんな|冗談《ぜうだん》を|言《い》ふもんだないよ。|君《きみ》の|親切《しんせつ》があふれて|出《で》たのだから、|松《まつ》サンも|感謝《かんしや》してゐるんだろ。|僕《ぼく》も|感謝《かんしや》してゐる。|何分《なにぶん》|燗酒《かんしゆ》だからな、アハヽヽヽ』
と|笑《わら》ひに|紛《まぎ》らす。|主客《しゆきやく》|双方《さうはう》|九人《くにん》は|表面《へうめん》|仲直《なかなほ》りといひ|乍《なが》ら、|非常《ひじやう》に|深《ふか》い|溝渠《こうきよ》を|中《なか》において、|危《あぶな》い|丸木橋《まるきばし》を|渡《わた》る|様《やう》な|心持《こころもち》で、|仲直《なかなほ》りの|盃《さかづき》を|汲《く》みかはしてゐた。ソロソロ|勘公《かんこう》は|当《あ》てこすりだらけの|都々逸《どどいつ》を|唄《うた》ひ|出《だ》した。
|其《その》|間《ま》に|長吉《ちやうきち》は|少《すこ》しく|酒《さけ》がまはり、|階段《かいだん》を|無断《むだん》で|下《くだ》つて|了《しま》つた。
|下座敷《したざしき》には|勘公《かんこう》の|思《おも》ひ|者《もの》お|愛《あい》を|始《はじ》め、|二人《ふたり》の|不見転芸者《みずてんげいしや》が|長火鉢《ながひばち》を|囲《かこ》んで|河内屋話《かはちやばなし》に|耽《ふけ》つてゐた。|長吉《ちやうきち》はヒヨロヒヨロし|乍《なが》ら|三人《さんにん》の|前《まへ》にドツカと|坐《すわ》つた。
お|愛《あい》『コレ|長吉《ちやうきち》ヤン、とうとう|喜楽安閑坊《きらくあんかんばう》も|始《はじ》めは|偉《えら》い|男《をとこ》だつたが、|尻尾《しつぽ》を|出《だ》しよつたぢやおへんか。そんなことなら、|体《てい》よく|始《はじ》めからあやまつておくといいのに、|何程《なにほど》|力《ちから》があると|云《い》つても、|河内屋《かはちや》の|旦那《だんな》にかけたら、|到底《たうてい》|駄目《だめ》なことはきまつて|居《ゐ》るのに、|本当《ほんたう》に|喜楽《きらく》といふ|男《をとこ》は|安閑坊《あんかんばう》だなア』
|長吉《ちやうきち》『|何《なに》、|尾《を》をまいたんでも|何《なん》でもない。|此《この》|前《まへ》にも|河内屋《かはちや》と|下河原《しもかはら》で|喧嘩《けんくわ》をした|時《とき》に、|河内屋《かはちや》の|方《はう》は|子分《こぶん》や|野次馬《やじうま》で|三十人《さんじふにん》ばかりで、|一人《ひとり》の|喜楽《きらく》を|取《とり》まいたが、それでも|喜楽《きらく》は|五六人《ごろくにん》なぐりたふして|甘《うま》く|逃《に》げよつた|位《くらゐ》だから、|今度《こんど》だつて|負《まけ》たんぢやない。マアマア|五分々々《ごぶごぶ》にしとかうかい』
お|愛《あい》『|何《なん》と|卑怯《ひけふ》な|喜楽《きらく》サンだなア。|何十人《なんじふにん》|相手《あひて》にしても、|叶《かな》はんやうになつたら|逃《に》げるのなら、あたいだつて、そんな|易《やす》い|喧嘩《けんくわ》は|出来《でき》ますワ。|次郎松《じろまつ》に、|何《なん》でも|喜楽《きらく》サンは|金《かね》を|貰《もら》つたとか、|借《か》つたとか|云《い》ふことだから、それであれ|丈《だけ》、|義理《ぎり》にでも|骨《ほね》を|折《お》らんならんのだと、|与三《よさ》ハンが|云《い》うてゐましたよ。|事情《じじやう》を|聞《き》けば、|喜楽《きらく》ハンも|本当《ほんたう》に|可哀相《かはいさう》なとこがあるなア』
|長吉《ちやうきち》『ナアニそんな|事《こと》あるものか。|河内屋《かはちや》|奴《め》が|五人《ごにん》の|乾児《こぶん》を|伴《つ》れて、あんな|痳病《りんびやう》やみの|次郎松《じろまつ》サンとこへ|押《おし》よせて|来《き》たもんだから、|今《いま》まで|何回《なんくわい》も|喜楽《きらく》サンが|掛合《かけあ》つて|居《を》つたのだけれど、|今度《こんど》はたまりかねて|応援《おうゑん》に|往《い》つたのだ。|河内屋《かはちや》も|抜《ぬ》いた|刀《かたな》が|鞘《さや》に|納《をさ》まりかねて|困《こま》つて|居《を》つた|所《ところ》、わしの|兄《あに》の|勝《かつ》ちやんが|仲裁《ちうさい》に|這入《はい》つて、ソレから|又《また》|喜楽《きらく》が|談判《だんぱん》をして、|次郎松《じろまつ》から|十五円《じふごゑん》、|河内屋《かはちや》から|十五円《じふごゑん》、|勝負《かちまけ》なしに、|仲直《なかなほ》りといふ|相談《さうだん》が|出来《でき》たのだ。|一方《いつぱう》は|侠客《けふかく》の|親分《おやぶん》、|一方《いつぱう》は|安閑坊《あんかんばう》の|喜楽《きらく》、そんな|者《もの》と|喧嘩《けんくわ》をして、|五分々々《ごぶごぶ》の|別《わか》れと|云《い》ふのだから、つまり|河内屋《かはちや》が|負《まけ》なのだ。そこを|喜楽《きらく》が|折角《せつかく》|売《う》り|出《だ》した|河内屋《かはちや》の|顔《かほ》を|潰《つぶ》しては|可哀相《かあいさう》だと|思《おも》うて、ズツと|譲歩《じやうほ》して|五分々々《ごぶごぶ》と|云《い》ふ|所《ところ》で|体《てい》|能《よ》うキリをつけたのだよ。|今夜《こんや》の|御馳走《ごちそう》は|三十円《さんじふゑん》の|御馳走《ごちそう》だのに、なぜ|又《また》これ|程《ほど》|高《たか》いのだ。|吉川《よしかは》の|桑酒屋《くはざけや》へ|行《い》つて|五円《ごゑん》|出《だ》しや、これ|位《くらゐ》の|御馳走《ごちそう》はしてくれるが、お|前《まへ》とこもチト|勉強《べんきやう》せぬと、|商売《しやうばい》が|流行《はや》らぬやうになるかも|知《し》れぬぞ』
お|愛《あい》『ソラ|又《また》|本当《ほんたう》ですか?』
|長吉《ちやうきち》『|俺《おれ》はウソ|勝《かつ》の|弟《おとうと》だけれど、|生《うま》れてから|嘘《うそ》と|坊主《ばうず》の|頭《あたま》とはいうたことがないのぢや』
お|愛《あい》は|顔色《かほいろ》を|変《か》へて|二階《にかい》へトントンとあがり、
お|愛《あい》『モシ|河内屋《かはちや》の|旦那《だんな》|一寸《ちよつと》……』
と|目配《めくば》せした。|河内屋《かはちや》は『ウン』と|云《い》ひ|乍《なが》ら、お|愛《あい》のあとについて|階段《かいだん》を|降《を》り、|十分間《じつぷんかん》|計《ばか》り|姿《すがた》を|隠《かく》した。|長吉《ちやうきち》は|酔眼《すゐがん》|朦朧《もうろう》として|階段《かいだん》を|四《よ》つ|這《ばひ》になつて|二階《にかい》へ|上《あが》つて|来《き》た。そこへ|勘公《かんこう》が|顔色《かほいろ》を|変《か》へて|上《のぼ》り|来《きた》り、
|勘公《かんこう》『コリヤ|長吉《ちやうきち》、|今度《こんど》の|事件《じけん》は|貴様《きさま》が|起《おこ》したやうなものだ。|俺《おれ》たちや、|喜楽《きらく》サンや、|松《まつ》サンがまだここに|坐《すわ》つてゐるのに、|貴様《きさま》|勝手《かつて》に|席《せき》を|外《はづ》すといふ|事《こと》があるものか。|仲直《なかなほ》りの|儀式《ぎしき》を|破《やぶ》り、|侠客《けふかく》の|顔《かほ》へ|泥《どろ》をぬりやがつた。オイ|与三《よさ》、|徳《とく》、|長吉《ちやうきち》を|引括《ひきくく》つて、|井戸端《ゐどばた》へつれて|行《ゆ》き、ドタマから|水《みづ》を|百杯《ひやつぱい》ほどかけてやれ!』
と|口汚《くちぎたな》なく|罵《ののし》り|乍《なが》ら、|酔《よ》ひつぶれてる|長吉《ちやうきち》の|頭《あたま》や|腰《こし》を|荒男《あらをとこ》が|力《ちから》に|任《まか》して、|踏《ふ》んだり|蹴《け》つたりし|始《はじ》めた。
|喜楽《きらく》『オイ|河内屋《かはちや》、|仲直《なかなほ》りの|盃《さかづき》がすんだ|以上《いじやう》は、|長吉《ちやうきち》がどこへ|行《ゆ》かうと|構《かま》はぬぢやないか。|長吉《ちやうきち》に|悪《わる》い|事《こと》があるのなら、|後《あと》で|何《なん》なつとしたがよかろ。|明日《あす》の|朝《あさ》までは|俺《おれ》は|長吉《ちやうきち》の|親兄弟《おやきやうだい》から、|身柄《みがら》を|預《あづか》つてきたのだから、|指一本《ゆびいつぽん》|触《さ》へさすこたア|出来《でき》ぬのだ』
|勘公《かんこう》『|許《ゆる》し|難《がた》い|奴《やつ》だけど、|喜楽《きらく》サンや|次郎松《じろまつ》サンに|免《めん》じて、|今晩《こんばん》は|許《ゆる》しておく。|明日《あす》|夜《よ》があけたら、|俺《おれ》の|宅《たく》までキツと|出《で》て|来《こ》い』
|長吉《ちやうきち》『|済《す》まなんだ、どうぞ|勘忍《かんにん》してくれ。わしや|別《べつ》にお|前《まへ》の|悪《わる》い|事《こと》を|言《い》うたのぢやない。|下《した》の|女中《ぢよちう》が|今晩《こんばん》の|御馳走《ごちそう》は|五円《ごゑん》がポチで|十円《じふゑん》の|御馳走《ごちそう》だと|云《い》うたから、そんな|筈《はず》がない、|三十円《さんじふゑん》だと|言《い》うたのぢやから、|気《き》を|悪《わる》うせんとこらへてくれ』
|勘公《かんこう》『|喧《やかま》しいワイ、|仲直《なかなほ》りが|済《す》んでからゴテゴテ|吐《ぬか》すと、|又《また》|一《ひと》つ|物言《ものい》ひがつくぞ。サア|早《はや》く|貴様《きさま》|帰《かへ》れ……|喜楽《きらく》サン、|松《まつ》サン、どうぞゆつくり|機嫌《きげん》を|直《なほ》して|夜《よ》が|明《あ》ける|迄《まで》|呑《の》んで|下《くだ》さい。これから|女《をんな》を|上《あ》げますから、|前席《ぜんせき》が|十円《じふゑん》、|二次会《にじくわい》が|二十円《にじふゑん》といふ|段取《だんどり》にしてあるのだのに、|訳《わけ》もきかずに|長吉《ちやうきち》がそんな|事《こと》|言《い》ひやがつて、|本当《ほんたう》に|仕方《しかた》のない|奴《やつ》だ……オイお|愛《あい》、|貴様《きさま》もよいかげんに|喋《しやべ》つておけ、これから|第二次会《だいにじくわい》の|注文《ちうもん》をする|所《ところ》だ。|仕様《しやう》もない|事《こと》いふもんだから、|喜楽《きらく》サンにも|痛《いた》くない|腹《はら》を|探《さぐ》られ、|男《をとこ》の|面目玉《めんぼくだま》をつぶしよつた』
と|言《い》ひ|乍《なが》ら、|最愛《さいあい》のお|愛《あい》の|横面《よこづら》をピシヤピシヤとなぐりつけた。お|愛《あい》は『キヤツ』と|悲鳴《ひめい》をあげて|段階子《だんばしご》をころげおち、|庭《には》に|白《しろ》い|尻《しり》をあらはしたまま|平太《へた》つてゐる。|二人《ふたり》の|女中《ぢよちう》はあわてて|抱《だ》き|起《おこ》し、|裏《うら》の|別建《べつたて》の|家《いへ》へ|連《つ》れていつたやうである。
|喜楽《きらく》『|君《きみ》、|僕《ぼく》は|明日《あす》|早《はや》く|行《ゆ》かねばならぬ|所《ところ》があるから、|二次会《にじくわい》に|列《れつ》したいのだが、これで|失礼《しつれい》する。どうぞ|君《きみ》たち、|僕《ぼく》の|代《かは》りに|二人前《ににんまへ》|飲《の》んで|十分《じふぶん》|騒《さわ》いでくれ。|松《まつ》サンも|長吉《ちやうきち》も|連《つ》れて|帰《かへ》るから……』
|勘公《かんこう》『|御用《ごよう》があらば|仕方《しかた》がない。そんならあと|二十円《にじふゑん》がとこ、|君《きみ》の|代《かは》りに|散財《さんざい》をする。オイ|与三《よさ》、|徳《とく》、|兼《かね》、|下《した》へおりて|注文《ちうもん》して|来《こ》い』
|勘公《かんこう》の|意中《いちう》を|知《し》らぬ|三人《さんにん》はあわてて|下《した》に|飛《と》びおり、|此《この》|家《いへ》の|主婦《しゆふ》をつかまへて|第二次会《だいにじくわい》の|注文《ちうもん》をして|居《ゐ》る。|喜楽《きらく》|外《ほか》|二人《ふたり》は|此処《ここ》を|立出《たちい》で、|穴太《あなを》さして|夜《よる》の|道《みち》を|帰《かへ》つて|行《ゆ》く。|何時《なんどき》|勘公《かんこう》の|手下《てした》の|奴《やつ》が|先《さき》まはりをして、どんな|事《こと》をするか|知《し》れないと|云《い》ふ|気《き》が|起《おこ》り、|急《いそ》いで|帰《かへ》らうとすれ|共《ども》、|痳病《りんびやう》やみのヒヨロヒヨロ|男《をとこ》が|酒《さけ》に|酔《よ》ひ、|又《また》|長吉《ちやうきち》がヘベレケに|酔《よ》うてゐるので、|同《おな》じ|所《ところ》|許《ばか》り|蟹《かに》の|様《やう》に|歩《ある》いて|居《を》つて、|根《ね》つから|道《みち》がはか|取《ど》らず、|十時《じふじ》|頃《ごろ》に|正月屋《しやうぐわつや》を|立出《たちい》で、わづか|十二三町《じふにさんちやう》の|松《まつ》の|下《した》まで|二時間《にじかん》|計《ばか》り|費《つひ》やして|了《しま》つた。
(大正一一・一〇・八 旧八・一八 松村真澄録)
第五章 |松《まつ》の|下《した》〔一〇一七〕
|九月《くぐわつ》|廿五日《にじふごにち》の|月《つき》は|東《ひがし》の|山《やま》の|端《は》を|掠《かす》めて|昇《のぼ》つて|居《ゐ》る。されど|満天《まんてん》|雲《くも》に|包《つつ》まれて|居《ゐ》る|事《こと》とて、|只《ただ》|東《ひがし》の|山《やま》の|端《は》が|薄明《うすあ》かくなつて、|丁度《ちやうど》|月《つき》の|出《で》る|時刻《じこく》だから、|彼《あ》れが|月《つき》の|光《ひかり》だらうと|頷《うなづ》かれる|位《くらゐ》であつた。|若《も》し|宵《よひ》の|口《くち》に|東《ひがし》が|薄明《うすあ》かるいならば、|決《けつ》して|月《つき》と|思《おも》ふ|事《こと》は|出来《でき》ない|位《くらゐ》なものであつた。|星《ほし》の|影《かげ》もなく|咫尺暗澹《しせきあんたん》として、|六尺幅《ろくしやくはば》の|道《みち》を|泥酔者《よいどれ》|二人《ふたり》の|千鳥《ちどり》を|伴《ともな》ひ、|松《まつ》と|桜《さくら》との|古木《こぼく》が|抱合《だきあ》ふて|立《た》つて|居《ゐ》る『|松《まつ》の|下《した》』と|云《い》ふ、|淋《さび》しい|処《ところ》にやつて|来《き》た。
そこには|豚小屋《ぶたごや》の|様《やう》な|一軒屋《いつけんや》があつて、|嘘勝《うそかつ》の|親戚《しんせき》なる|嘘鶴《うそつる》といふのが、|四五人《しごにん》|暮《ぐら》しで|住《す》んで|居《ゐ》た。|現今《げんこん》では|道路《だうろ》が|拡張《くわくちやう》されて、|家《いへ》のあつた|処《ところ》は|坦々《たんたん》たる|街道《かいだう》になつて|居《ゐ》る。|嘘勝《うそかつ》は|河内屋《かはちや》の|挙動《きよどう》に|不審《ふしん》を|起《おこ》し、いろいろと|探索《たんさく》をして|見《み》た|結果《けつくわ》、|河内屋《かはちや》の|一類《いちるゐ》が、|此《この》|嘘鶴《うそつる》の|家《いへ》の|半丁《はんちやう》|程《ほど》|東《ひがし》の、|樹木《じゆもく》|茂《しげ》れる|暗《くら》い|場所《ばしよ》で、|三人《さんにん》を|叩《たた》きのめさうと|企《たく》んで|居《を》る|事《こと》を|悟《さと》り、|密《ひそ》かに|山《やま》へ|登《のぼ》り、|手頃《てごろ》の|石《いし》や|割木《ばいた》を|積《つ》んで|待《ま》つて|居《ゐ》た。それとも|知《し》らず|河内屋《かはちや》の|一行《いつかう》|六人《ろくにん》は、|道傍《みちばた》の|森林《しんりん》に|先廻《さきまは》りして、|喜楽《きらく》|一行《いつかう》の|帰《かへ》つて|来《く》るのを|道《みち》に|要撃《えうげき》せむと、|待《ま》ち|構《かま》へて|居《ゐ》たのである。
かかる|計略《けいりやく》のありとは、|神《かみ》ならぬ|身《み》の|知《し》る|由《よし》もなき|三人《さんにん》は、|暗《やみ》の|路《みち》|前後《ぜんご》に|心《こころ》を|配《くば》り|乍《なが》ら、ヒヨロリヒヨロリトボトボと、|三間山《さんげんやま》の|麓《ふもと》にさしかかる。|忽《たちま》ち|現《あら》はれた|四五《しご》の|黒《くろ》い|影《かげ》、|矢庭《やには》に|次郎松《じろまつ》の|頭《あたま》を、|棒千切《ぼうちぎ》れを|持《も》つてカーンと|音《おと》がする|程《ほど》|殴《なぐ》りつけた。|次郎松《じろまつ》は|驚《おどろ》いて|高岸《たかぎし》から|滑《すべ》りおち、|稲葉《いなば》の|茂《しげ》みへ|身《み》をかくし、|睾丸《きんたま》を|泥田《どろた》に|浸《ひた》して|震《ふる》ふて|居《ゐ》る。|長吉《ちやうきち》は『アイタタタ』と|倒《たふ》れた。|喜楽《きらく》は|直《すぐ》に|山《やま》を|目蒐《めが》けて|二三間《にさんげん》ばかり|駆登《かけのぼ》る。|四五《しご》の|黒《くろ》い|影《かげ》は|長吉《ちやうきち》に|群《むら》がり|集《あつ》まつて、|踏《ふ》んだり|蹴《け》つたり、やつてる|最中《さいちう》に、|山《やま》の|十間《じつけん》ばかり|上《うへ》から|割木《わりき》の|雨《あめ》、|栗石《くりいし》の|礫《つぶて》の|霰《あられ》が|降《ふ》つて|来《く》る。|此《この》|黒《くろ》い|影《かげ》は|勿論《もちろん》|勘公《かんこう》の|一隊《いつたい》である。|流石《さすが》の|勘公《かんこう》も|石《いし》にうたれ、|割木《わりき》にあてられ、|這《は》う|這《ば》うの|体《てい》にて|一目散《いちもくさん》に|闇《やみ》の|路《みち》を|駆《か》け|出《だ》した。
|長吉《ちやうきち》は|悲《かな》しさうな|声《こゑ》で、
|長吉《ちやうきち》『オーイオーイ、|喜楽《きらく》サン、|次郎松《じろまつ》サン……』
と|叫《さけ》んで|居《ゐ》る。|喜楽《きらく》は|其《その》|声《こゑ》を|聞《き》いて、
|喜楽《きらく》『|長吉《ちやうきち》はやられたと|思《おも》ふたが、あんな|声《こゑ》が|出《で》る|以上《いじやう》はまだ|生《い》きて|居《ゐ》るのか』
と|稍《やや》|安心《あんしん》して|山《やま》を|下《お》りかけた。|暗《くら》がりから、
『アハヽヽヽ』
と|笑《わら》ふ|男《をとこ》の|声《こゑ》、|訝《いぶ》かり|乍《なが》ら|近寄《ちかよ》つて|見《み》れば、|長吉《ちやうきち》の|兄《あに》の|嘘勝《うそかつ》であつた。|喜楽《きらく》は、
|喜楽《きらく》『オイ、|其《その》|声《こゑ》は|嘘勝《うそかつ》ぢやないか』
と|聞《き》いて|見《み》ると、
|嘘勝《うそかつ》『サウぢや、|嘘勝《うそかつ》ぢや、アハヽヽヽ』
と|又《また》もや|笑《わら》つて|居《ゐ》る。
|此《この》|男《をとこ》は|嘘《うそ》が|上手《じやうづ》で、|人《ひと》から|嘘勝《うそかつ》と|仇名《あだな》をつけられ、それが|遂《つひ》には|通用語《つうようご》になつて|了《しま》ひ、|嘘勝《うそかつ》と|云《い》はれるのを|却《かへつ》て|名誉《めいよ》に|思《おも》つて|居《ゐ》る|位《くらゐ》な|男《をとこ》である。|其《その》|叔父《をぢ》も|亦《また》ウソ|鶴《つる》といつて、|嘘《うそ》をいふのを|得意《とくい》がつて|自慢《じまん》してる|男《をとこ》である。|何事《なにごと》を|掛合《かけあ》ふのにも、|自分《じぶん》から|嘘《うそ》つきと|云《い》ふ|事《こと》を|承認《しようにん》し、|人《ひと》も|亦《また》|認《みと》めて|居《ゐ》ると|思《おも》つてか、|一《ひと》つ|話《はなし》をする|度《たび》に『|今度《こんど》は|嘘《うそ》ぢや|無《な》いぞ』と|前置《まへおき》をする|癖《くせ》がある。それでも|八九分《はちくぶ》は|嘘《うそ》だから|堪《たま》らない。|松《まつ》の|下《した》に|住《す》んで|居《を》る|嘘鶴《うそつる》と|云《い》ふ|奴《やつ》、|五斗俵《ごとうたはら》に|籾《もみ》の|殻《から》を|充実《じゆうじつ》し、それを|叮嚀《ていねい》に|締《し》めて、|何時《いつ》も|狭《せま》い|家《いへ》の|庭《には》に|二十俵《にじつぺう》も|積《つ》んで『|米《こめ》が|十石《じつこく》、|此《この》|通《とほ》りあるんだが、もちと|値《ね》が|出《で》ぬので|売《う》れぬのだ。|之《これ》を|抵当《ていたう》にチツと|金《かね》を|貸《かし》て|呉《く》れぬか』と|云《い》つて|金《かね》の|融通《ゆうづう》を|妙《めう》にする|男《をとこ》であつた。|人《ひと》が|一寸《ちよつと》|俵《たはら》に|触《さは》らうとすると『オイコラ、|之《これ》に|触《さは》つてはならぬぞ、|触《さは》り|三百円《さんびやくえん》の|罰金《ばつきん》だ』といひ、|鼠《ねずみ》が|喰《く》ふといつて|柊《ひひらぎ》を|一面《いちめん》に|刺《さ》して|居《ゐ》る|狡《ずる》い|男《をとこ》である。|其《その》|血統《けつとう》を|受《う》けた|勝公《かつこう》も|長吉《ちやうきち》も、|相当《さうたう》に|嘘《うそ》は|上手《じやうづ》であつた。|然《しか》し|乍《なが》ら|不思議《ふしぎ》な|事《こと》には、|比較的《ひかくてき》に|村人《むらびと》の|信用《しんよう》を|受《う》けて|居《ゐ》る、|天下《てんか》|御免《ごめん》の|嘘《うそ》つき|男《をとこ》である。
|却説《さて》、|長吉《ちやうきち》は|嘘勝《うそかつ》の|出現《しゆつげん》に|力《ちから》を|得《え》、|暗《くら》がりに|裾《すそ》をパタパタと|払《はら》ひ|乍《なが》ら、
|長吉《ちやうきち》『|喜楽《きらく》サン、|如何《どう》も|俺《おれ》は|慾《よく》にも|徳《とく》にも|代《か》へられぬワ』
と|三才児《みつご》の|様《やう》な|言葉《ことば》で|嘆声《たんせい》を|洩《も》らし、|頻《しき》りに|袂《たもと》や|裾《すそ》を|泥《どろ》がついたと|思《おも》うて、【かいば】たきして|居《ゐ》る。|長吉《ちやうきち》の|疵《きず》は|別《べつ》に|血《ち》も|出《い》でず、|団瘤《たんこぶ》が|三《み》ツ|四《よ》ツ|出来《でき》た|位《くらゐ》ですんだ。|次郎松《じろまつ》は|三人《さんにん》の|囁《ささや》き|声《ごゑ》を|聞《き》いて、やつと|安心《あんしん》したと|見《み》え、|水田《みづた》の|稲《いね》の|中《なか》から|白《しろ》い|頬冠《ほほかむり》をパツと|現《あら》はし、
|次郎松《じろまつ》『ホーイ ホーイ』
と|力《ちから》の|無《な》い|声《こゑ》で|呼《よ》んで|居《ゐ》る。
|喜楽《きらく》『|次郎松《じろまつ》サン、|嘘勝《うそかつ》が|出《で》て|助《たす》けて|呉《く》れたのだから、|安心《あんしん》しなさい。|河内屋《かはちや》の|一隊《いつたい》は、とうに|逃《に》げて|了《しま》ひよつた。|早《はや》く|上《あが》つておいで……』
と|叫《さけ》んで|居《ゐ》る。|次郎松《じろまつ》は|田《た》の|中《なか》から、
|次郎松《じろまつ》『モウ、|事《こと》ア|無《な》からうかな』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら、ズクズクの|身体《からだ》で|高岸《たかぎし》を|這《は》ふて、|街路《がいろ》まで|登《のぼ》つて|来《き》た。
|何時《いつ》の|間《ま》にか|東半天《とうはんてん》は|青雲《あをくも》の|生地《きぢ》をむき|出《だ》し、|下弦《かげん》の|月《つき》は|細《ほそ》い|光《ひかり》を|地上《ちじやう》に|投《な》げた。|嘘勝《うそかつ》は|本街通《ほんかいだう》を|左《ひだり》にとり、|河内屋《かはちや》の|様子《やうす》を|探《さぐ》るべく|帰《かへ》り|行《ゆ》く。|三人《さんにん》は|道《みち》を|右《みぎ》にとり、|細《ほそ》い|野道《のみち》を|渡《わた》つて|松原《まつばら》に|出《で》て、|暗《くら》い|藪小路《やぶこうぢ》を|潜《くぐ》つて、|淋《さび》しい|妖怪《えうくわい》の|出《で》ると|云《い》はれて|居《ゐ》る|坊主池《ばうずいけ》の|辺《あた》りに|辿《たど》りつき、|又《また》もや|野道《のみち》を|渡《わた》つて|漸《やうや》く|家路《いへぢ》に|帰《かへ》つた。
|斯《か》う|云《い》ふ|事《こと》が|何回《なんくわい》も|重《かさ》なり、|河内屋《かはちや》や|若錦《わかにしき》の|身内《みうち》から|敵視《てきし》されて、|八九回《はちくくわい》も|大喧嘩《おほげんくわ》が|始《はじ》まり、|何時《いつ》も|喜楽《きらく》は|袋叩《ふくろだた》きにやられ|勝《がち》であつた。|何時《いつ》も|叩《たた》かれもつて、|心《こころ》に|思《おも》ひ|浮《う》かんだのは|斯《か》うである。
『|何《なん》だか|自分《じぶん》は、|社会《しやくわい》に|対《たい》して|大《だい》なる|使命《しめい》を|持《も》つて|居《ゐ》る|様《やう》な|気《き》がする。|万一《まんいち》|人《ひと》に|怪我《けが》でもさせて|法律《はふりつ》|問題《もんだい》でも|惹起《じやくき》したならば、|将来《しやうらい》のためにそれが|障害《しやうがい》になりはせないか?』
と|云《い》ふのが|第一《だいいち》に|念頭《ねんとう》に|浮《う》かんで|来《き》た。|其《その》|次《つぎ》には、
『|人《ひと》に|傷《きず》つけたならば、|屹度《きつと》|夜分《やぶん》には|寝《ね》られまい。|自分《じぶん》は|何時《いつ》も|真裸《まつぱだか》になつて、|石《いし》だらけの|道《みち》で|相撲《すもう》をとるが、|力一杯《ちからいつぱい》|張《は》りきつた|時《とき》は、|如何《どん》な|処《ところ》へ|真裸《まつぱだか》で|打《う》ち|投《な》げられても|少《すこ》しも|傷《きず》もせぬ、|痛《いた》みもせぬ、|之《これ》を|思《おも》へば、|全身《ぜんしん》に|力《ちから》を|込《こ》めてさへ|居《を》れば、|何程《なにほど》|叩《たた》かれても|痛《いた》みも|感《かん》じまい』
との|念《ねん》が|起《おこ》り、|指《ゆび》の|先《さき》から|頭《あたま》の|先《さき》|迄《まで》|力《ちから》を|入《い》れて、|身体《からだ》を|硬《かた》くして|敵《てき》の|叩《たた》くに|任《まか》して|居《ゐ》た。……もう|叶《かな》はぬ、|謝《あや》まろか……と|思《おも》つてる|間際《まぎは》になると、|何時《いつ》も|誰《たれ》かが|出《で》て|来《き》て、|敵《てき》を|追《お》ひ|散《ち》らし、|或《あるひ》は|仲裁《ちうさい》に|入《い》つて、|危難《きなん》を|妙《めう》に|助《たす》けて|呉《く》れた。それで、
『|人間《にんげん》と|云《い》ふものは、|凡《すべ》て|運命《うんめい》に|左右《さいう》されるものだ。|運《うん》が|悪《わる》ければ|畳《たたみ》の|上《うへ》でも|死《し》ぬ。|運《うん》がよければ、|砲煙弾雨《はうえんだんう》の|中《なか》でも|決《けつ》して|死《し》ぬものでは|無《な》い』
と|云《い》ふ|一種《いつしゆ》の|信念《しんねん》が|起《おこ》つて|居《ゐ》た。それ|故《ゆゑ》|人《ひと》に|頼《たの》まれたり、|頼《たの》まれなくても|喧嘩《けんくわ》の|仲裁《ちうさい》がし|度《た》くなつたり、|或《ある》|時《とき》は、
『|思《おも》ふ|存分《ぞんぶん》|大喧嘩《おほげんくわ》をやつて……|偉《えら》い|奴《やつ》だ! |強《つよ》い|奴《やつ》だ! と|云《い》はれ|度《た》い。そうして|強《つよ》い|名《な》を|売《う》つて、|仮令《たとへ》|丹波《たんば》|一国《いつこく》の|侠客《けふかく》にでもよいからなつて|見《み》たい』
と|云《い》ふ|精神《せいしん》が|日《ひ》に|日《ひ》に|募《つの》つて|来《き》た。|其《その》|為《た》めに|二月《にぐわつ》|八日《やうか》の|晩《ばん》にも、|若錦《わかにしき》|一派《いつぱ》の|襲来《しふらい》を|受《う》くる|様《やう》な|事《こと》を|自《みづか》ら|招来《せうらい》したのである。
○
|若錦《わかにしき》|一派《いつぱ》に|打擲《ちやうちやく》され、|頭《あたま》を|痛《いた》めて|喜楽亭《きらくてい》に|潜《ひそ》んで|居《ゐ》る|処《ところ》へ、|母《はは》がやつて|来《き》て|非常《ひじやう》に|悔《くや》まれる。|暫《しば》らくすると|八十五才《はちじふごさい》になつた|祖母《そぼ》が、|杖《つゑ》もつかずに|出《で》て|来《こ》られた。|少《すこ》し|耳《みみ》は|遠《とほ》かつたが、|悪《わる》い|事《こと》は|何《なん》でもよく|聞《きこ》ゆる|人《ひと》であつた。|何時《いつ》も|祖母《そぼ》は|勝手聾《かつてつんぼ》をして|居《を》られるのかと|疑《うたが》ふたが、|実《じつ》は、|本当《ほんたう》に|聞《きこ》えないのであつた。|聞《きこ》えぬかと|思《おも》ふて、【ド】|聾《つんぼ》とか|何《なん》とか|一言《ひとくち》でも|悪口《あくこう》を|云《い》はうものなら、|本守護神《ほんしゆごじん》が|知《し》つて|居《ゐ》るのか、|但《ただし》は|神様《かみさま》の|罰《ばつ》なのか、|直《すぐ》に|分《わ》かるのは|不思議《ふしぎ》であつた。|気丈《きぢやう》の|祖母《そぼ》は|此《この》|場《ば》の|様子《やうす》を|見《み》てとり、|諄々《じゆんじゆん》として|喜楽《きらく》に|向《むか》つて|意見《いけん》を|始《はじ》められた。|祖母《そぼ》の|名《な》は『うの|子《こ》』といつた。
|祖母《そぼ》『お|前《まへ》は|最早《もはや》|三十《さんじふ》に|近《ちか》い|身分《みぶん》だ、|物《もの》の|道理《だうり》の|分《わか》らぬ|様《やう》な|年頃《としごろ》でもあるまい。|侠客《けふかく》だとか|人助《ひとだす》けだとか|下《くだ》らぬ|事《こと》を|言《い》つて、|偶《たま》に|人《ひと》を|助《たす》け、|助《たす》けたよりも|十倍《じふばい》も|二十倍《にじふばい》も|人《ひと》に|恨《うら》まれて、|自分《じぶん》の|身《み》に|災難《さいなん》の|罹《かか》る|様《やう》な|人助《ひとだす》けは、チツと|考《かんが》へて|貰《もら》はねばなるまい。|無頼漢《ならずもの》の|賭博者《ばくちうち》を|相手《あひて》に|喧嘩《けんくわ》をするとは、|不心得《ふこころえ》にも|物好《ものず》きにも|程《ほど》がある。お|前《まへ》は|何時《いつ》も|悪人《あくにん》を|挫《くじ》いて|弱《よわ》い|善人《ぜんにん》を|助《たす》けるのが、|男《をとこ》の|魂《たましひ》ぢやと|云《い》ふて|居《ゐ》るが、|六面八臂《ろくめんはつぴ》の|魔神《まがみ》なれば|知《し》らぬ|事《こと》、そんな|病身《びやうしん》な【やにこい】|身体《からだ》で|居《ゐ》|乍《なが》ら、|相撲取《すもうとり》や|侠客《けふかく》と|喧嘩《けんくわ》するとは|余《あま》り|分《わか》らぬぢやないか。|今年《ことし》|八十五《はちじふご》になる|年寄《としより》や、|夫《をつと》に|別《わか》れて|間《ま》もない|一人《ひとり》の|母《はは》や、|東西《とうざい》も|弁《わきま》へ|知《し》らぬ|様《やう》な、|頑是《ぐわんぜ》なしの|小《ちひ》さい|妹《いもうと》がある|事《こと》を|忘《わす》れてはなるまい。|此《この》|世《よ》に|神《かみ》さまは|無《な》いとか、|哲学《てつがく》とか|云《い》つて|空理窟《からりくつ》ばかり|云《い》つて、|勿体《もつたい》ない、|神々様《かみがみさま》を|無《な》い|物《もの》にして、|御無礼《ごぶれい》をした|報《むく》いが|今《いま》|来《き》たのであらう。|能《よ》う|気《き》を|落《お》ちつけて|考《かんが》へて|呉《く》れ。|昨晩《さくばん》の|事《こと》は|全《まつた》く|神様《かみさま》の|御慈悲《おじひ》の|鞭《むち》をお|前《まへ》に|下《くだ》して、|高《たか》い|鼻《はな》を|折《お》つて|下《くだ》さつたのだ。|必《かなら》ず|必《かなら》ず、|若錦《わかにしき》や|其《その》|外《ほか》の|人《ひと》を|恨《うら》めてはなりませぬぞ。|一生《いつしやう》の|御恩人《ごおんじん》ぢやと|思《おも》ふて、|神様《かみさま》にも|御礼《おれい》を|申《まを》しなさい。お|前《まへ》の|実父《じつぷ》は|幽界《あのよ》から、|其《その》|行状《ぎやうじやう》の|悪《わる》いのを|見《み》て、|行《ゆ》く|処《ところ》へも|能《よ》う|行《ゆ》かず、|魂《たましひ》は|宙《ちう》に|迷《まよ》ふて|居《ゐ》るであらう|程《ほど》に、|之《これ》から|心《こころ》を|入《い》れ|変《か》へて、|誠《まこと》の|人間《にんげん》になつて|呉《く》れ、|侠客《けふかく》の|様《やう》な|者《もの》になつて、それが|何《なん》の|手柄《てがら》になるか』
と|涙片手《なみだかたて》に|慈愛《じあい》の|釘《くぎ》をうたれて、|流石《さすが》の|喜楽《きらく》も|胸《むね》が|張《は》り|裂《さ》ける|様《やう》に|思《おも》ふた。|森厳《しんげん》なる|神庁《しんちやう》に|引《ひ》き|出《だ》されて、|大神《おほかみ》の|審判《しんぱん》を|受《う》ける|様《やう》な|心持《こころもち》がして、|負傷《ふしやう》の|苦痛《くつう》も|打忘《うちわす》れ、|涙《なみだ》に|暮《く》れて、|両親《りやうしん》の|前《まへ》に|手《て》を|合《あは》せ、
『|改心《かいしん》します、|心配《しんぱい》かけて|済《す》みませぬ』
と|心《こころ》の|中《なか》で|詫《わび》をして|居《ゐ》た。
|老母《らうぼ》や|母《はは》は|吾《わが》|家《や》を|指《さ》して|帰《かへ》り|行《ゆ》く。あとに|喜楽《きらく》は|只《ただ》|一人《ひとり》|悔悟《くわいご》の|涙《なみだ》に|暮《く》れて、|思《おも》はず|両手《りやうて》を|合《あは》せ、|子供《こども》の|時《とき》から|神様《かみさま》を|信仰《しんかう》して|居《ゐ》|乍《なが》ら、|茲《ここ》|二三年《にさんねん》|神《かみ》の|道《みち》を|忘《わす》れ、|哲学《てつがく》にかぶれ、|無神論《むしんろん》に|堕《だ》して|居《ゐ》た|事《こと》を|悔《くや》ゆると|共《とも》に、|立《た》つても|居《ゐ》ても|居《を》られない|様《やう》な|気分《きぶん》になつて|来《き》た。
|夜《よ》は|森々《しんしん》と|更《ふ》け|渡《わた》る。|水《みづ》さへ|眠《ねむ》る|丑満《うしみつ》の|刻限《こくげん》、|森羅万象《しんらばんしやう》|寂《せき》として|声《こゑ》なき|春《はる》の|夜《よ》、|喜楽《きらく》の|胸裡《きようり》の|騒々《さうざう》しさ、|警鐘《けいしよう》|乱打《らんだ》の|声《こゑ》は|上下左右《じやうげさいう》より|響《ひび》き|来《きた》り、|吾《わが》|身《み》を|責《せめ》むる|如《ごと》くに|感《かん》じられた。
『あゝ|今《いま》が|善悪正邪《ぜんあくせいじや》の|分水嶺上《ぶんすいれいじやう》に|立《た》つて|居《ゐ》るのだ。|左道《さだう》を|行《ゆ》かうか、|右道《うだう》を|行《ゆ》かうか』
と|深《ふか》き|思《おも》ひに|沈《しづ》む。|折《をり》しも|忽然《こつぜん》として、|一塊《いつくわい》の|光明《くわうみやう》が|身辺《しんぺん》を|射照《いて》らす|如《ごと》く|思《おも》はれて|来《き》た。|天授《てんじゆ》の|霊魂中《れいこんちう》に|閑遊《かんいう》する|直日《なほひ》の|御霊《みたま》が|眠《ねむ》りより|醒《さ》めたのであらう。|深夜《しんや》つらつら|思《おも》ふ。
『あゝ|吾《われ》は|誤解《ごかい》して|居《ゐ》た。|父《ちち》ばかりが|大切《たいせつ》の|親《おや》ではない、|母《はは》も|亦《また》|大切《たいせつ》な|親《おや》であつた。そして|祖母《そぼ》は|又《また》|親《おや》の|親《おや》である。|天地《てんち》|広《ひろ》しと|雖《いへど》も|親《おや》は|一人《ひとり》よりない。|斯《か》かる|分《わか》りきつた|道理《だうり》を、|今迄《いままで》|体主霊従心《からごころ》の|狭霧《さぎり》に|包《つつ》まれて、|勿体《もつたい》なくも|母《はは》や|祖母《そぼ》を|軽《かる》んじて|居《ゐ》たのは、|思《おも》はざる|失敗《しつぱい》であつた。|父《ちち》が|亡《な》くなつた|以上《いじやう》は、もう|如何《どん》な|荒《あら》い|事《こと》をしても、|心配《しんぱい》する|親《おや》はないと、|仁侠《にんけふ》|気取《きど》りで|屡《しばしば》|危難《きなん》の|場所《ばしよ》に|出入《しゆつにふ》し、|親《おや》の|嘆《なげ》きを|今迄《いままで》|気《き》づかなんだのは|何《なん》たる|馬鹿者《ばかもの》ぞ、|何《なん》たる|不孝者《ふかうもの》ぞ!アヽ|諺《ことわざ》にも……いらはぬ|蜂《はち》は|刺《さ》さぬ……と|云《い》ふ|事《こと》がある。なまじひに|無頼漢《ならずもの》|位《くらゐ》を|相手《あひて》に|挑《いど》み|争《あらそ》ひ、|且《か》つ|挫《くじ》かうとしたのは、|余《あま》り|立派《りつぱ》な|行《おこな》ひではなかつた。|勘公《かんこう》が|次郎松《じろまつ》に|二百円《にひやくゑん》の|金《かね》を|出《だ》ささうとしたのも|之《これ》は|決《けつ》して|人間業《にんげんわざ》ではない。|次郎松《じろまつ》はとられねばならぬ|因縁《いんねん》があつたのだ。|蛇《へび》が|折角《せつかく》、|艱難辛苦《かんなんしんく》して|漸《やうや》くに|蛙《かへる》を|口《くち》にし、|一日《いちにち》の|餌《ゑ》にありついて|甘《うま》く|呑《の》まうとして|居《ゐ》る|際《さい》に、|人《ひと》あり、|其《その》|蛇《へび》を|打《う》ちたたき、|弱《よわ》い|方《はう》の|蛙《かへる》を|助《たす》けてやつたなら、|其《その》|蛙《かへる》は|大変《たいへん》に|喜《よろこ》ぶであらうが、|肝腎《かんじん》の|餌食《ゑじき》をとり|逃《にげ》した|蛇《へび》は|屹度《きつと》|其《その》|人《ひと》を|恨《うら》むであらう。|掛《か》け|構《かま》へもない|人《ひと》の|商売《しやうばい》を|構《かま》ひ|立《だ》てしたと|怒《いか》るのは、|人間《にんげん》も|同《おな》じである』
と|云《い》ふ|様《やう》に|考《かんが》へて|来《き》た。|本居宣長《もとをりのりなが》の|歌《うた》にも、
|世《よ》の|中《なか》は|善事《よごと》|曲事《まがごと》|行《ゆ》きかはる
|中《なか》よぞ|千《ち》ぢの|事《こと》はなりづる
|何事《なにごと》も|世《よ》の|中《なか》は|正邪《せいじや》|混交《こんかう》|陰陽《いんやう》|交代《かうたい》して|成立《せいりつ》するものである。|別《べつ》に|人《ひと》の|商売《しやうばい》まで|妨《さまた》げなくとも、|自分《じぶん》は|自分《じぶん》の|本分《ほんぶん》を|尽《つく》し、|言行心《げんかうしん》|一致《いつち》の|模範《もはん》を|天下《てんか》に|示《しめ》せば|宜《よ》いのだ。|自分《じぶん》に|迷《まよ》ひがあり|罪《つみ》があり|乍《なが》ら、|人《ひと》の|善悪《ぜんあく》を|審《さば》く|権利《けんり》は|何処《どこ》にあらうか……
と|思《おも》へば|思《おも》ふ|程《ほど》、|自分《じぶん》が|今迄《いままで》やつて|来《き》た|事《こと》が|恥《はづ》かしく、|且《かつ》|恐《おそ》ろしき|様《やう》な|気《き》になつて|来《き》た。
……|母《はは》は|吾《わが》|子《こ》の|愛《あい》に|溺《おぼ》れて|喜楽《きらく》が|悪《わる》いとはチツとも|思《おも》はず、|只《ただ》|父《ちち》が|亡《な》くなつたから、|人々《ひとびと》が|侮《あなど》つて、|自分《じぶん》の|子《こ》をいぢめるとのみ|思《おも》はれて|居《ゐ》る|様《やう》だが、|父《ちち》が|亡《な》くなつたのは|喜楽《きらく》ばかりぢやない、|広《ひろ》い|世《よ》の|中《なか》には|幾千万人《いくせんまんにん》あるか|知《し》れぬ|程《ほど》だ。|父《ちち》が|亡《な》くなつた|為《た》めに|世間《せけん》の|同情《どうじやう》をよせた|人《ひと》こそあれ、たとへ|自分《じぶん》の|様《やう》に、|一部《いちぶ》の|侠客《けふかく》|社会《しやくわい》からにせよ|憎《にく》まれたものは|少《すくな》い、|釣《つ》り|鐘《かね》も|撞《つ》く|人《ひと》が|無《な》ければ|決《けつ》して|鳴《な》らない、|太鼓《たいこ》も|打《う》つ|人《ひと》がなければ|決《けつ》して|音《おと》はせぬ、|之《これ》を|思《おも》へば|祖母《そぼ》の|今朝《けさ》の|教訓《けうくん》は、|真《しん》に|神《かみ》のお|諭《さと》しである。|自分《じぶん》の|心《こころ》から|親兄弟《おやきやうだい》に|迄《まで》|迷惑《めいわく》をかけたか……
と|思《おも》へば、|懺悔《ざんげ》の|剣《つるぎ》に|刺《さ》し|貫《つらぬ》かれて|五臓六腑《ござうろつぷ》を|抉《えぐ》らるる|様《やう》な|苦《くる》しさを|感《かん》じて|来《き》た。|悔悟《くわいご》の|念《ねん》は|一時《いちじ》に|起《おこ》り|来《きた》り、|遂《つひ》には|感覚《かんかく》までも|失《うしな》ひ、ボンヤリとして|吾《われ》と|吾《わが》|身《み》が|分《わか》らない|様《やう》な|気分《きぶん》になつて|来《き》た。
|此《この》|時《とき》|芙蓉山《ふようざん》に|鎮《しづ》まり|玉《たま》ふ|木花咲耶姫命《このはなさくやひめのみこと》の|命《めい》として、|天使《てんし》|松岡《まつをか》の|神《かみ》|現《あら》はれ|来《きた》り、|喜楽《きらく》|即《すなは》ち|今《いま》の|瑞月《ずゐげつ》|王仁《おに》を、|高熊山《たかくまやま》の|霊山《れいざん》に|導《みちび》き|修行《しうぎやう》を|命《めい》ぜられた|事《こと》は、|第一巻《だいいつくわん》に|述《の》べた|通《とほ》りであるから、|此処《ここ》には|省略《しやうりやく》して|置《お》きます。
(大正一一・一〇・八 旧八・一八 北村隆光録)
第六章 |手料理《てれうり》〔一〇一八〕
|喜楽《きらく》の|姿《すがた》が、|郷神社《ごうじんじや》|前《まへ》の|喜楽亭《きらくてい》から|二月《にぐわつ》|九日《ここのか》の|夜《よる》より|見《み》えなくなつたので、|母《はは》や|兄弟《きやうだい》は……|大方《おほかた》|女《をんな》の|所《ところ》へでも|憂《う》さ|晴《は》らしに|遊《あそ》びに|行《い》つたのか、|但《ただし》は|亀岡《かめをか》あたりへ|散財《さんざい》に|往《い》つたのだらう……|位《くらゐ》に|思《おも》つて|気《き》にも|留《と》めなかつた。|二日《ふつか》|立《た》つても|三日《みつか》|立《た》つても|帰《かへ》つて|来《こ》ないので、ソロソロ|例《れい》の|次郎松《じろまつ》、|其《その》|西隣《にしどなり》のお|政《まさ》|後家《ごけ》を|始《はじ》め、|株内《かぶうち》|近所《きんじよ》の|大騒《おほさわ》ぎとなつて|来《き》た。
|長吉《ちやうきち》と|云《い》ふ|男《をとこ》が、|亀岡《かめをか》の|五軒町《ごけんまち》の|神籬教院《ひもろぎけうゐん》|中井《なかゐ》|伝教《でんけう》といふ|稲荷下《いなりさげ》の|所《ところ》へ|参拝《さんぱい》して、|稲荷《いなり》|大明神《だいみやうじん》の|託宣《たくせん》を|請《こ》ふと、|伝教《でんけう》|先生《せんせい》は|白衣《びやくい》|白袴《しろばかま》に|烏帽子《ゑぼし》を|着《ちやく》し、|恭《うやうや》しく|天津祝詞《あまつのりと》や|六根清浄《ろくこんしやうじやう》の|祓《はらひ》、|心経《しんきやう》などを|神仏《しんぶつ》|混交的《こんかうてき》に|称《とな》へ|上《あ》げ、|少時《しばらく》すると|忽《たちま》ち|神霊《しんれい》|降臨《かうりん》あり、
『|水辺《すゐへん》に|気《き》をつけよ、|早《はや》く|捜《さが》さないと|生命《いのち》が|危《あやふ》い、|此《この》|男《をとこ》は|発狂《はつきやう》の|気味《きみ》があるぞよ』
との|御託宣《ごたくせん》を|得《え》て、あわてて|帰《かへ》り|来《きた》り、|池《いけ》や|井戸《ゐど》や|川《かは》などを|探《さが》し|廻《まは》れども、|少《すこ》しの|手係《てがか》りもなかつた。
お|政《まさ》|後家《ごけ》サンが|株内《かぶうち》のこととて|気《き》を|揉《も》み、|宮前村《みやざきむら》の|宮川妙霊教会所《みやかはめうれいけうくわいしよ》へ|参《まゐ》つて|神宣《しんせん》を|請《こ》うた|所《ところ》、|西田《にしだ》|清記《せいき》といふ|教導職《けうだうしよく》の|神宣《しんせん》に|依《よ》れば、
『|言《い》ひ|交《か》はした|婦人《ふじん》と|東《ひがし》の|方《はう》へ|向《む》けて|遠《とほ》く|駆落《かけおち》してる。|併《しか》し|一週間《いつしうかん》の|内《うち》には|葉書《はがき》が|出《で》て|来《く》るから|安心《あんしん》せよ』
との|滑稽《こつけい》な|神宣《しんせん》もあつたさうだ。お|政《まさ》|後家《ごけ》サンは、|又《また》もや|篠村新田《しのむらしんでん》の|弘法大師《こうぱうだいし》を|祀《まつ》つて|居《ゐ》る|立江《たつえ》のお|地蔵《ぢざう》さまと|称《しよう》する|婆《ば》アさまに|占《うらな》つて|貰《もら》うた|所《ところ》、
『|此《この》|男《をとこ》は|神《かみ》かくしに|会《あ》うたのだ。|悪《わる》い|天狗《てんぐ》に|魅《つま》まれたのだから、|生命《いのち》に|別状《べつじやう》はないが、|法外《はふはづ》れの|大馬鹿者《おほばかもの》か、|気違《きちがひ》になつて、キツと|一週間《いつしうかん》の|後《のち》には|帰《かへ》つて|来《く》るから|安心《あんしん》せよ』
との|託宣《たくせん》であつたと|云《い》ふことだ。
|次郎松《じろまつ》サンは|亀岡《かめをか》の|易者《えきしや》の|所《ところ》へ|行《い》つて、|判断《はんだん》をして|貰《もら》つた|所《ところ》、
『|牧畜場《ぼくちくぢやう》の|売上金《うりあげきん》を|一百円《いつぴやくゑん》|計《ばか》り|持《も》つて|出《で》て|居《を》るが、|此奴《こいつ》は|外国《ぐわいこく》へ|行《ゆ》く|積《つも》りだ。|思《おも》はぬ|野心《やしん》を|起《お》こして、|朝鮮《てうせん》から|満洲《まんしう》に|渡《わた》り、|馬賊《ばぞく》の|群《むれ》に|加《くは》はる|積《つも》りだから、|一時《いちじ》も|早《はや》く|保護願《ほごねがひ》をして、|外国《ぐわいこく》へ|渡《わた》らないやうにせよ』
との|途方《とはう》もない|判断《はんだん》であつたと|云《い》ふことだ。
|人々《ひとびと》の|噂《うはさ》は……|節季前《せつきまへ》だから、|支払《しはらひ》に|困《こま》つて|夜《よ》ぬけをしたのだろ。|余《あま》り|金使《かねづか》ひが|荒過《あらす》ぎたから……などと|云《い》つて|居《を》る|者《もの》もあり……○○の|女《をんな》と|駆落《かけおち》をしたのだ。イヤ|天狗《てんぐ》につままれたのだ、|発狂《はつきやう》したのだ、|狐狸《こり》にだまされて|山奥《やまおく》へつれて|行《ゆ》かれたのだ。|河内屋《かはちや》の|勘吉《かんきち》や|若錦《わかにしき》がこわさに|親《おや》を|振捨《ふりす》てて、どつかへ|逃《に》げたのだ、|余程《よつぽど》|不孝《ふかう》な|奴《やつ》だ、|大馬鹿者《おほばかもの》だ、|分《わか》らぬ|奴《やつ》だ、|腰抜《こしぬけ》だ……とまちまちに|評議《へうぎ》の|花《はな》が|咲《さ》いてゐたといふ|事《こと》だ。
|喜楽《きらく》の|机《つくゑ》の|上《うへ》に|残《のこ》してあつた|一通《いつつう》の|巻紙《まきがみ》には、|左《さ》の|如《ごと》き|歌《うた》が|記《しる》されてあつた。
『|我《われ》は|空《そら》|行《ゆ》く|鳥《とり》なれや
|我《われ》は|空《そら》|行《ゆ》く|鳥《とり》なれや
|遥《はるか》に|高《たか》き|雲《くも》に|乗《の》り
|下界《げかい》の|人《ひと》が|種々《くさぐさ》の
|喜怒哀楽《きどあいらく》に|囚《とら》はれて
|身振《みぶり》|足《あし》ぶりするさまを
われを|忘《わす》れて|眺《なが》むなり
げに|面白《おもしろ》の|人《ひと》の|世《よ》や
されども|余《あま》り|興《きよう》に|乗《の》り
|地上《ちじやう》に|落《お》つることもがな
|御神《みかみ》よ|我《わ》れと|共《とも》にあれ』
と|毛筆《まうひつ》で|認《したた》めてある。|何《ど》の|意味《いみ》だか|誰《たれ》も|知《し》る|者《もの》はなかつた。
|七日目《なぬかめ》の|如月《きさらぎ》|十五日《じふごにち》|正午前《しやうごまへ》、|宮垣内《みやがいち》の|伏屋《ふせや》へ|問題《もんだい》の|男《をとこ》|喜楽《きらく》は|帰《かへ》つて|来《き》た。|家族《かぞく》の|歓喜《くわんき》は|云《い》ふも|更《さら》なり、|株内《かぶうち》|近所《きんじよ》の|人々《ひとびと》が、|帰《かへ》つたと|聞《き》いて|追々《おひおひ》つめかけて|来《く》る。|死《し》んだ|者《もの》が|冥途《めいど》から|帰《かへ》つて|来《き》た|様《やう》に|珍《めづら》しがつて、
『コレ|喜楽《きらく》サン、お|前《まへ》はどこへ|行《い》つて|来《き》たのだ、どこで|何《なに》をして|居《を》つたのだ、お|前《まへ》の|不在中《ふざいちゆう》の|心配《しんぱい》は|大抵《たいてい》のことでなかつた』
とウルさい|程《ほど》|質問《しつもん》の|矢《や》を|放《はな》つて|来《く》る。|一々《いちいち》|応答《おうたふ》してる|日《ひ》には|際限《さいげん》がない。|自分《じぶん》も|何《なん》だか|恥《はづ》かしくなつて|来《き》たので、
『|神《かみ》さまにつれられて、|一寸《ちよつと》|修業《しうげふ》に|往《い》つて|来《き》ました。|何《なん》でも|神界《しんかい》に|大望《たいまう》があるさうなので……』
と|云《い》つたきり、あとは|無言《むごん》でゐると、|例《れい》の|次郎松《じろまつ》サンは|口《くち》をとがらして|揚面《あげつら》をしながら、
『ヘン、|人《ひと》を|馬鹿《ばか》にするない。|皆《みな》サン、|眉毛《まゆげ》に|唾《つば》でもつけて|居《を》らぬと、|堺峠《さかひたうげ》のお|紋狐《もんぎつね》につままれますぞ。|田芋《たいも》か|山《やま》の|芋《いも》か、|蒟蒻《こんにやく》か|瓢箪《へうたん》か|知《し》らぬが、|余程《よつぽど》|安閑坊《あんかんばう》……ぢやない|安本丹《あんぽんたん》だ。そんなこと|云《い》つてゴマかさうと|思《おも》うても、|此《この》|松《まつ》サンの|黒《くろ》い|目《め》で|一目《ひとめ》|睨《にら》んだら、イツカナ イツカナ|外《はづ》れはせぬぞ、アハヽヽヽ、なまけ|息子《むすこ》の|俄狂言《にはかきやうげん》もモウ|駄目《だめ》だぞよ。こんな|奴《やつ》に|相手《あひて》になつて|居《を》るとしまひのはてにや|尻《しり》の|毛《け》までぬかれて|了《しま》ふ。|険呑《けんのん》だ|険呑《けんのん》だ、|皆《みな》サン|気《き》を|付《つ》けなさい』
と|面《つら》を|膨《ふく》らし、|半《なかば》|破《やぶ》れた|畳《たたみ》を|蹴《け》つて|足《あし》をひつかけ|乍《なが》ら、スタスタと|帰《かへ》つて|行《ゆ》く。
それから|代《かは》る|代《がは》る|四五人《しごにん》の|親切屋《しんせつや》が、|何《なん》とかカンとか|云《い》つて|忠告《ちうこく》や|意見《いけん》をしてくれる。|自分《じぶん》は|神勅《しんちよく》を|重《おも》んじ、|無言《むごん》で|聞《き》いてゐる|許《ばか》りであつた。|又《また》|何程《なにほど》|弁解《べんかい》してみた|所《ところ》で、|神《かみ》さまの|御用《ごよう》で|行《い》つたなどと|説《と》いても|駄目《だめ》だからである。|俄《にはか》に|腹《はら》の|虫《むし》が|空虚《くうきよ》を|訴《うつた》へる。|自《みづか》ら|膳《ぜん》を|取出《とりだ》し、|冷《つめた》い|麦飯《むぎめし》を|二杯《にはい》|許《ばか》り|矢庭《やには》にかき|込《こ》んでみた。|実《じつ》に|山海《さんかい》の|珍味《ちんみ》にまさる|心持《こころもち》がした。
|堤防《ていばう》の|決潰《けつくわい》したが|如《ごと》き|勢《いきほひ》で|睡気《ねむけ》が|襲《おそ》うて|来《き》た……ねむたい|時《とき》には|馬《うま》に|五十駄《ごじふだ》の|金《かね》もいや……といふ|俗謡《ぞくえう》の|文句《もんく》の|通《とほ》り、|一切万事《いつさいばんじ》の|執着《しふちやく》にはなれ、|其《その》まま|暗《くら》い|部屋《へや》の|破畳《やぶれだたみ》の|真中《まんなか》にゴロリと|横《よこ》たはつた|儘《まま》、|後《あと》は|暫《しばら》く|白河夜舟《しらかはよふね》で|再《ふたた》び|天国《てんごく》をさまようてゐた。|其《その》|間《あひだ》の|楽《たの》しさは、|後《あと》にも|先《さき》にもなき|有様《ありさま》であつた。
|十六日《じふろくにち》の|午後《ごご》|二時《にじ》|頃《ごろ》になつて、|漸《やうや》く|目《め》がさめて|来《き》た。|枕許《まくらもと》には|依然《いぜん》として|四五人《しごにん》の|男女《だんぢよ》が|見舞《みまひ》に|来《き》て、いろいろの|噂《うはさ》をし|乍《なが》ら、|介抱《かいほう》してゐた。|目《め》がさめて|見《み》ると|随分《ずゐぶん》きまりが|悪《わる》い。|忽《たちま》ち|産土《うぶすな》の|小幡神社《をばたじんじや》へ|無我夢中《むがむちう》になつて|参詣《さんけい》し、|其《その》|足《あし》で|山伝《やまづた》ひに、|父《ちち》の|墳墓《ふんぼ》へ|小松《こまつ》を|根曳《ねび》きして|供《そな》へに|行《い》つた。
|後《あと》から|見《み》えがくれについて|来《き》たのは、|南隣《みなみとなり》の|八田《はちた》|繁吉《しげきち》といふ|三十男《さんじふをとこ》であつた。|日《ひ》のズツポリ|西山《せいざん》に|沈《しづ》んだ|頃《ころ》、|重《おも》い|足《あし》を|引《ひき》ずつて|不安《ふあん》の|顔色《かほいろ》をし|乍《なが》ら|伏家《ふせや》に|帰《かへ》つて|来《き》た。|次郎松《じろまつ》サンやお|政《まさ》|後家《ごけ》がウルさい|程《ほど》つめかけて、いろいろと|聞糺《ききただ》さうとする、|自分《じぶん》は|首《くび》を|左右《さいう》にふつて、|何《なん》にも|答《こた》へなかつた。
|翌《よく》|十七日《じふしちにち》の|早朝《さうてう》から、|自分《じぶん》の|体《からだ》は|益々《ますます》|変《へん》になつて|来《き》た。|催眠術《さいみんじゆつ》でもかけられた|様《やう》に、|四肢《しこ》より|強直《きやうちよく》を|始《はじ》め、|次《つ》いで|口《くち》も|舌《した》もコワばつて|動《うご》かなくなつた。|最早《もはや》|一言《ひとこと》も|口《くち》を|利《き》くことも、|一寸《ちよつと》の|身動《みうご》きをすることも|出来《でき》ぬ、|生《い》きた|死骸《しがい》の|様《やう》になつて|了《しま》つた。|併《しか》し|乍《なが》ら|耳《みみ》|丈《だけ》は|人々《ひとびと》の|話声《はなしごゑ》がよく|聞《きこ》えて|居《ゐ》る。|懐中時計《くわいちうどけい》の|針《はり》の|音《おと》までが|聞《きこ》える|位《くらゐ》、|耳《みみ》|丈《だけ》|鋭敏《えいびん》になつて|居《ゐ》た。|家族《かぞく》や|株内《かぶうち》の|者《もの》がよつてたかつて、いろいろと|撫《な》でたりさすつたり、【やいと】を|灸《す》えたりしてゐる。
『|今日《けふ》で|三日《みつか》ぶり、|鱶《ふか》の|様《やう》によう|寝《ね》た|者《もの》だ、よほどくたぶれたと|見《み》える。|自然《しぜん》に|目《め》のさめる|迄《まで》|寝《ね》さしておくがよからう……』
と|一座《いちざ》の|相談《さうだん》がまとまつたのが|自分《じぶん》の|耳《みみ》にはハツキリと|分《わか》つてゐた。|四日《よつか》たつてもビクとも|体《からだ》が|動《うご》かぬ、|眠《ねむり》からさめぬ。|家族《かぞく》や|株内《かぶうち》の|人々《ひとびと》は、|忽《たちま》ち|不審《ふしん》の|雲《くも》に|包《つつ》まれて、|俄《にはか》に|慌出《あわてだ》した。……『モウ|駄目《だめ》だ、お|参《まゐ》りだ、|用意《ようい》せなくてはならぬ……』
と|松《まつ》サンの|言《い》つた|詞《ことば》が|瞬《またた》く|間《ま》に|拡《ひろ》がつて、|見舞客《みまひきやく》の|山《やま》を|築《きづ》いた。|誰《たれ》が|頼《たの》んで|来《き》た|者《もの》か、お|医者《いしや》さまの|声《こゑ》が|聞《きこ》えて|来《き》た。|自分《じぶん》は|医者《いしや》が|来《き》よつたなと|思《おも》うてゐると、|柿花《かきはな》の|名医《めいい》で|吉岡《よしをか》|某《ぼう》といふ|先生《せんせい》、|叮嚀《ていねい》に|脈《みやく》をとる、|熱《ねつ》を|計《はか》る、|打診《だしん》、|聴診《ちやうしん》、|望診《ばうしん》、|問診《もんしん》、|触診《しよくしん》と、|非常《ひじやう》の|丹精《たんせい》をこらし、
『|実《じつ》に|大変《たいへん》な|痙攣《けいれん》です。|此《この》|強直《きやうちよく》|状態《じやうたい》が|此《この》|儘《まま》で|今晩《こんばん》の|十二時《じふにじ》|頃《ごろ》まで|持続《ぢぞく》すれば、|最早《もはや》|駄目《だめ》です。|体温《たいおん》は|存《ぞん》して|居《を》りますから|死《し》んだのではない、つまり|仮死《かし》|状態《じやうたい》とでも|云《い》ふのでせう。|兎《と》に|角《かく》|不思議《ふしぎ》な|病気《びやうき》です』
と|頻《しき》りに|首《くび》を|振《ふつ》てゐる|様子《やうす》であつた。|自分《じぶん》は|病気《びやうき》でも|何《なん》でもありません、|神界《しんかい》の|修業《しうげふ》ですと|云《い》つて、ガワとはね|起《お》き、|皆《みな》の|分《わか》らずやを|驚《おどろ》かしてやらうと|思《おも》うて、|全身《ぜんしん》の|根力《こんりき》をこめてきばつて|見《み》たが、ヤツパリ|体《からだ》はビクとも|動《うご》かない、|口《くち》もきくことが|出来《でき》なかつた。お|医者《いしや》さんの|靴《くつ》の|足音《あしおと》が|次第々々《しだいしだい》に|自分《じぶん》の|耳《みみ》に|遠《とほ》く|響《ひび》いて|来《き》た。これで|医者《いしや》の|帰《かへ》つたのだと|感《かん》じられた。
|転輪王明誠教会所《てんりんわうみやうせいけうくわいしよ》の|斎藤《さいとう》といふ|先生《せんせい》が、|二人《ふたり》の|弟子《でし》と|共《とも》に、|誰《たれ》が|頼《たの》んだ|者《もの》か|祈祷《きたう》の|為《ため》にやつて|来《き》た。|天津祝詞《あまつのりと》も|神言《かみごと》も|上《あ》げず、|直《ただち》に|拍子木《へうしぎ》をカチカチと|打《う》ち、
『|悪《あし》きを|払《はら》うて|助《たす》け|玉《たま》へ|転輪王《てんりんわう》の|命《みこと》、|一列《いちれつ》すまして|甘露台《かんろだい》、|一寸《ちよいと》はなし、|神《かみ》のいふこと|聞《き》いてくれ、|悪《あし》きの|事《こと》は|云《い》はぬでな、|此《この》|世《よ》の|地《ち》と|天《てん》とを|形取《かたど》りて|夫婦《ふうふ》を|拵《こしら》へ|来《きた》るでな、これが|此《この》|世《よ》の|始《はじ》めだし』
と|唄《うた》ひ|乍《なが》ら、|大《だい》の|男《をとこ》が|三人《さんにん》、|日《ひ》の|丸《まる》の|扇《あふぎ》を|開《ひら》いて|拍子木《へうしぎ》をカチカチ|叩《たた》き|囃《はや》し|立《た》てる。|祈《いの》つてゐるのか、|踊《をど》つてゐるのか、チツとも|見当《けんたう》がつかない。|随分《ずゐぶん》|騒《さわ》がしい|宗教《しうけう》だなア……と|思《おも》つて|居《ゐ》た。|斎藤《さいとう》|先生《せんせい》は|諄々《じゆんじゆん》として、|十柱《とはしら》の|神《かみ》さまの|身《み》の|内《うち》|話《ばなし》を|説《と》いた|末《すゑ》、
『|此《この》|病人《びやうにん》サンは|全《まつた》く|天《てん》の|理《り》が|吹《ふ》いたのだから、|一心《いつしん》に|天《てん》|十柱《とはしら》の|神《かみ》さまを|御願《おねが》ひなされ』
と|親切《しんせつ》にくり|返《かへ》しくり|返《かへ》し|説《と》きさとし|乍《なが》ら、
『|又《また》|明日《みやうにち》|伺《うかが》ひます』
と|言葉《ことば》を|残《のこ》して|帰《かへ》り|行《ゆ》く。|家内《かない》や|株内《かぶうち》の|者《もの》が|感謝《かんしや》して|居《ゐ》る|声《こゑ》が|聞《きこ》えて|居《ゐ》た。
|法華経《ほつけきやう》|信者《しんじや》のお|睦《むつ》|婆《ば》アサンが|親切《しんせつ》に|尋《たづ》ねに|来《き》た。そして『お|題目《だいもく》が|有難《ありがた》いから』と|云《い》つて|喧《やかま》しう『|南無妙法蓮華経《なむめうはふれんげきやう》』を|幾十回《いくじつくわい》となく|珠数《じゆず》を|揉《もみ》|乍《なが》ら、|繰返《くりかへ》し|称《とな》へてゐる。そして|頭《あたま》、|顔《かほ》、|手足《てあし》のきらひなく、|珠数《じゆず》で|打《う》つ、こする、|撫《な》でる、しまひの|果《はて》には、お|睦《むつ》|婆《ば》アサン、|妙《めう》なことを|言《い》ひ|出《だ》した。
『コレ、お|狐《きつね》さまか|黒《くろ》さまか|知《し》らぬが、お|前《まへ》さま|一体《いつたい》|何《なに》が|不足《ふそく》で、ここの|喜楽《きらく》に|憑《つ》きなさつたのだえ。お|不足《ふそく》があるならば|遠慮《ゑんりよ》なしに、トツトと|仰有《おつしや》れ。|小豆飯《あづきめし》か|揚豆腐《あげとうふ》か、|鼠《ねずみ》の|油揚《あぶらあげ》が|欲《ほ》しいのか、|何《な》ンなつと|注文《ちうもん》|次第《しだい》|拵《こしら》へて|上《あ》げませうから、それを|喰《く》つて、|一時《いちじ》も|早《はや》う|肉体《にくたい》を|残《のこ》して|山《やま》へ|帰《かへ》つて|下《くだ》さい。|渋《しぶ》とうなさると、お|題目《だいもく》で|責《せめ》ますぞや』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら、|無茶苦茶《むちやくちや》に|珠数《じゆず》で|脇《わき》の|下《した》の|肋骨《あばらぼね》をガリガリ|言《い》はせ|乍《なが》ら、コスリつけるのであつた。|自分《じぶん》は|心《こころ》の|中《なか》で……|馬鹿者《ばかもの》が|寄《よ》つてたかつて、|人《ひと》を|馬鹿《ばか》にしやがる……と|憤慨《ふんがい》してゐた。
|二十三日《にじふさんにち》の|早朝《さうてう》、|京都《きやうと》の|誓願寺《せいぐわんじ》の|祈願僧《きぐわんそう》が|尋《たづ》ねて|来《き》た。|溺《おぼ》るる|者《もの》はわらしべ|一本《いつぽん》にもたよらうとする|諺《ことわざ》の|如《ごと》く、|何《なん》でもかでも|助《たす》けてやらうと|云《い》ふ|者《もの》さへあらば、|無暗《むやみ》|矢鱈《やたら》に|引張《ひつぱり》|込《こ》んで|来《く》る。|此《この》|祈祷僧《きたうそう》は|皺枯《しわが》れた|声《こゑ》で『|南無妙法蓮華経《なむめうはふれんげきやう》』と|幾回《いくくわい》もくり|返《かへ》し|次《つぎ》に|心経《しんきやう》を|二三回《にさんくわい》|許《ばか》り|唱《とな》へ|乍《なが》ら、|一人《ひとり》で|拍子木《へうしぎ》を|叩《たた》く、|太鼓《たいこ》をうつ、まだ|其《その》|間《あひだ》に|鐘《かね》を|叩《たた》く、|汗《あせ》みどろになつて|勤行《ごんぎやう》する、|其《その》|熱心《ねつしん》さ|実《じつ》に|感謝《かんしや》に|価《あたひ》すると|思《おも》うた。|併《しか》し|自分《じぶん》の|耳《みみ》がつんぼになり|相《さう》であつた。これ|程《ほど》|喧《やかま》しう|騒《さわ》がねば|聞《きこ》えぬとは、|余程《よほど》|耳《みみ》の|遠《とほ》い|仏《ほとけ》さまだなア……と|心《こころ》の|中《なか》で|可笑《おか》しくて|堪《たま》らなかつた。
|拍子木《へうしぎ》|打《う》ち|太鼓《たいこ》|鐘《かね》|叩《たた》き|経《きやう》を|読《よ》む
|法華坊主《ほつけばうず》の|芸《げい》の|多《おほ》さよ
|此《この》|坊《ばう》サン|次第々々《しだいしだい》に|声《こゑ》がかすれ|出《だ》し、|御幣《ごへい》を|手《て》に|持《も》ち、|又《また》もや「|高天原《たかあまはら》」に「|六根清浄《ろくこんしやうじやう》」の|祓《はらひ》を|上《あ》げる。|俄《にはか》に|彼《かれ》の|身体《しんたい》はドスーンドスーンと|上下《じやうか》に|震動《しんどう》し、|稲荷下《いなりさ》げのやうな|事《こと》を|始《はじ》め|出《だ》した。そして|狭《せま》い|部屋中《へやぢう》をグルリグルリところげまはり『ウンウン』と|言《い》ひ|乍《なが》ら|座《ざ》に|直《なほ》り|大声《おほごゑ》を|張《は》り|上《あ》げて、
『われこそは|妙見山《めうけんやま》の|新滝《しんたき》に|守護《しゆご》いたす、|正一位《しやういちゐ》|天狐《てんこ》|恒富稲荷大明神《つねとみいなりだいみやうじん》なり、|伺《うかが》ひの|筋《すぢ》あらば|近《ちか》うよつて|願《ねが》へツ』
との|御託宣《ごたくせん》であつた。|一座《いちざ》の|者《もの》は|低頭平身《ていとうへいしん》、|息《いき》をこらして|畏《かしこ》まつてゐる。|次郎松《じろまつ》サンは|容《かたち》を|改《あらた》め|両手《りやうて》をついて、
『|有難《ありがた》き|恒富大明神《つねとみだいみやうじん》さまに|御伺《おうかが》ひ|致《いた》しますが、|一体《いつたい》これは|何者《なにもの》の|仕業《しわざ》で|御座《ござ》いますか、どうぞ|御知《おし》らせを|願《ねが》ひます』
|恒富《つねとみ》『これは|今《いま》より|三十年前《さんじふねんぜん》、|此《この》|家《や》の|株内《かぶうち》に|与三郎《よさぶろう》といふ|男《をとこ》があつたであらう。|其《その》|男《をとこ》に|狸《たぬき》が|憑《つ》いた。|此《この》|家《や》の|者《もの》、|其《その》|外《ほか》|近所《きんじよ》の|者《もの》が|当家《たうけ》によつて|来《き》て、|其《その》|与三郎《よさぶろう》に|牡丹餅《ぼたもち》が|出来《でき》たから|食《く》てくれと|言《い》つて、ここへ|引《ひき》よせた。|与三《よさ》は|牡丹餅《ぼたもち》をよんでやらうとは|有難《ありがた》い……といひ|乍《なが》ら|手《て》をニユツとつき|出《だ》した。|近所《きんじよ》のお|睦婆《むつば》アが、|与三《よさ》には|古狸《ふるだぬき》がついて|居《を》るから、|此奴《こいつ》を|追出《おひだ》した|後《あと》でなくては|牡丹餅《ぼたもち》はやらぬと、|与三《よさ》に|見《み》せつけておき|乍《なが》ら、|狸《たぬき》|退治《たいぢ》だと|云《い》つて、|青松葉《あをまつば》に|唐芥子《たうがらし》をまぜて、|鼻《はな》からくすべ、|与三《よさ》の|肉体《にくたい》まで|亡《な》くして|了《しま》つた。|其《その》|恨《うらみ》をはらすが|為《ため》に、|与三《よさ》の|怨霊《をんりやう》が、|自分《じぶん》についてゐた|狸《たぬき》をお|先《さき》に|使《つか》つて、ここの|息子《むすこ》をたぶらかし、|腹《はら》の|中《なか》に|巣《す》をくんで|悩《なや》めて|居《を》るのだ。|併《しか》し|乍《なが》ら|此《この》|恒富大明神《つねとみだいみやうじん》の|神力《しんりき》に|依《よ》つて、|怨敵《をんてき》|忽《たちま》ち|退散《たいさん》さす|程《ほど》に|有難《ありがた》く|思《おも》つて|信心《しんじん》|致《いた》せ。|一時《ひととき》の|後《のち》には|与三《よさ》の|死霊《しりやう》も|古狸《ふるだぬき》もサツパリ|降服《かうふく》するぞよ。ウンウン』
と|言《い》つて|正気《しやうき》に|返《かへ》つて|了《しま》つた|様子《やうす》である。これを|聞《き》いて|居《を》つた|自分《じぶん》の|可笑《おか》しさ。|一座《いちざ》は|此《この》|託宣《たくせん》を|命《いのち》の|綱《つな》と|信《しん》じ、|有難涙《ありがたなみだ》にかきくれて、|鼻《はな》を|啜《すす》る|声《こゑ》さへ|聞《きこ》えて|居《を》る。|併《しか》し|乍《なが》ら、|一時間《いちじかん》たつても、|半日《はんにち》|経《た》つても、|死霊《しりやう》も|退散《たいさん》せねば、|古狸《ふるだぬき》も|去《い》なぬと|見《み》えて、|喜楽《きらく》の|体《からだ》は|依然《いぜん》として|強直《きやうちよく》|状態《じやうたい》を|続《つづ》けてゐる。|祈祷《きたう》|坊主《ばうず》は|尻《しり》こそばゆくなつたと|見《み》え、|雪隠《せつちん》へ|行《ゆ》くやうな|顔《かほ》して、|何時《いつ》の|間《ま》にか、|礼物《れいもつ》を|貰《もら》つた|儘《まま》|姿《すがた》をかくしたやうな|按配《あんばい》であつた。|黄昏時《たそがれどき》になつて、|又《また》|例《れい》の|次郎松《じろまつ》がやつて|来《き》た。
『あゝヤツパリあの|糞坊主《くそばうず》も、|尾《を》のない|狸《たぬき》だつた。とうとう|尻尾《しつぽ》をみられぬ|先《さき》に|逃《に》げよつたなア。|偉相《えらさう》に|吐《ぬか》して|居《を》つた|坊主《ばうず》の|御祈祷《ごきたう》も、|恒富《つねとみ》|稲荷《いなり》の|御託宣《ごたくせん》も、|当《あて》にならぬ|嘘八百《うそはつぴやく》をコキ|並《なら》べよつた。それよりも|手料理《てれうり》に|限《かぎ》る。|第一《だいいち》|此奴《こいつ》が|墓《はか》へ|参《まゐ》りよつたのがウサンぢや。キツとドブ|狸《だぬき》がついてゐるにきまつて|居《ゐ》る、|昔《むかし》の|与三《よさ》に|憑《つ》いて|居《を》つた|奴《やつ》だろ。|青松葉《あをまつば》|位《くらゐ》でくすべた|所《ところ》で、|此奴《こいつ》は|余程《よほど》|劫《がふ》を|経《へ》て、|毛《け》が|四《よ》つ|股《また》になつてる|奴《やつ》ぢやから、|中々《なかなか》|往生《わうじやう》は|致《いた》すまい。|七味《しちみ》や|唐辛《たうがらし》や|山椒《さんせう》をまぜて、|青松葉《あをまつば》でくすべたら|往生《わうじやう》するだろ。|本人《ほんにん》の|喜楽《きらく》は|二三日前《にさんにちまへ》に|死《し》んで|了《しま》うてゐるのだ。|只《ただ》|狸《たぬき》の|息《いき》で|体《からだ》がぬくい|丈《だけ》だ。……オイコラ|狸《たぬき》サン、モウ|駄目《だめ》だぞ、|覚悟《かくご》はよいか、いいかげんに|去《い》にさらせ』
といひ|乍《なが》ら、|失敬《しつけい》|千万《せんばん》な|足《あし》をあげて、|自分《じぶん》の|頭《あたま》を|蹴《け》つたり、|鼻《はな》を|捻《ね》ぢたりしてゐる。|青松葉《あをまつば》や|唐辛《たうがらし》の|用意《ようい》が|出来《でき》たと|見《み》え、|次郎松《じろまつ》は|得意《とくい》になつて、
『オイ【たぬ】サン、これから|七味《しちみ》や|唐辛《たうがらし》|山椒粒《さんせうつぶ》に|松葉《まつば》くすべの|御馳走《ごちそう》だ。サ、ドツトと|遠慮《ゑんりよ》なしに|上《あが》つてくれ』
と|迷信家《めいしんか》が|寄《よ》つて|殺人《さつじん》の|準備《じゆんび》|行為《かうゐ》をやつて|居《ゐ》る。|耳《みみ》のよく|聞《きこ》える|自分《じぶん》は、モウ|斯《か》うなつては|何所《なにどころ》でない、|全身《ぜんしん》の|力《ちから》をこめて|起上《おきあが》らうとしたが、ビクともしない、|口《くち》も|利《き》かない。|次郎松《じろまつ》はふちの|欠《か》けた|火鉢《ひばち》に|火《ひ》をおこし、|唐辛《たうがらし》と|青松葉《あをまつば》をくべて、|団扇《うちわ》で|鼻《はな》の|先《さき》へ|扇《あを》ぎこまうとしてる|一刹那《いちせつな》、|母《はは》が、
『|松《まつ》サン……|一寸《ちよつと》』
と|何《なに》か|頭《あたま》の|先《さき》で|歎《なげ》いてゐられる。そして|母《はは》の|目《め》からおちた|涙《なみだ》が、|自分《じぶん》の|顔《かほ》をうるほはした|其《その》|一刹那《いちせつな》、どこともなく、|上《うへ》の|方《はう》から|一筋《ひとすぢ》の|金色《こんじき》の|綱《つな》が|下《さが》つて|来《き》た。それを|手早《てばや》く|握《にぎ》りしめたと|思《おも》ふ|途端《とたん》に、|不思議《ふしぎ》にも|自分《じぶん》の|体《からだ》は|自由自在《じいうじざい》に|活動《くわつどう》することが|出来《でき》るやうになつた。|一同《いちどう》は|歓喜《くわんき》の|涙《なみだ》にうたれてゐる。|自分《じぶん》も|復活《ふくくわつ》したやうな|喜《よろこ》びに|充《み》たされて|居《ゐ》た。
(大正一一・一〇・八 旧八・一八 松村真澄録)
第二篇 |青垣山内《あをがきやまうち》
第七章 |五万円《ごまんゑん》〔一〇一九〕
|友人《ゆうじん》|斎藤《さいとう》|宇一《ういち》の|奥座敷《おくざしき》を|借《か》つて、|愈《いよいよ》|幽斎《いうさい》の|修業《しうげふ》に|着手《ちやくしゆ》する|事《こと》となつた。|修業者《しうげふしや》は|宇一《ういち》の|叔母《をば》に|当《あた》る|静子《しづこ》、|及《および》|妹《いもうと》に|当《あた》る|高子《たかこ》(|十三歳《じふさんさい》)、|多田《ただ》|琴《こと》、|岩森《いはもり》|徳子《とくこ》、|上田《うへだ》|幸吉《かうきち》|其《その》|外《ほか》|二三人《にさんにん》の|者《もの》を|以《もつ》て、|朝夕《あさゆふ》|軒《のき》を|流《なが》るる|小川《をがは》に|水浴《すいよく》をなし、|午前《ごぜん》に|四十分間《よんじつぷんかん》づつ|三回《さんくわい》、|午後《ごご》にも|亦《また》|三回《さんくわい》、|夜《よる》|二回《にくわい》|都合《つがふ》|八回《はちくわい》で、|一日《いちにち》に|三百二十分間《さんびやくにじつぷんかん》、|厳格《げんかく》に|修業《しうげふ》した。そして|瑞月《ずゐげつ》は|小幡川《をばたがは》で|拾《ひろ》つた|仮天然笛《かりてんねんぶえ》で、|羽織袴《はおりはかま》を|着《ちやく》し、|極《きは》めて|厳粛《げんしゆく》に|審神者《さには》の|役《やく》を|修《しう》するのであつた。
|初《はじ》めての|審神者《さには》の|事《こと》でチツとも|様子《やうす》は|分《わか》らぬ。|第一番《だいいちばん》に|多田《ただ》|琴《こと》が|神主《かむぬし》の|座《ざ》に|着《つ》くや|否《いな》や、|組《く》んだ|手《て》を|前後左右《ぜんごさいう》に|振《ふり》まはし、|二十貫《にじふくわん》もあらうといふ|女《をんな》が、|古《ふる》い|家《いへ》の|床《とこ》が|落《お》ちる|程《ほど》|飛《とび》あがり|出《だ》した。|戸《と》も|障子《しやうじ》も|襖《ふすま》もガタガタになつて|了《しま》つた。|一週間《いつしうかん》|程《ほど》の|後《のち》には、|余《あま》りドンドン|飛上《とびあが》つた|為《ため》か、|床《ゆか》が|二三寸《にさんずん》|下《さ》がり、|障子《しやうじ》も|襖《ふすま》もバタバタと|独《ひと》りこけるやうになつて|了《しま》つた。|宇一《ういち》は|此《この》|時《とき》まだ|二十二三歳《にじふにさんさい》、|両親《りやうしん》から|苦情《くじやう》が|起《おこ》り、|修業所《しうげふしよ》をどこかへ|移転《いてん》してくれとの|命令《めいれい》を|下《くだ》された。
さうかうする|内《うち》、|多田《ただ》|琴《こと》が|口《くち》を|切《き》り|始《はじ》めた。
『シヽヽ|白滝《しらたき》|白滝《しらたき》|白滝《しらたき》』
といひかけた。|審神者《さには》は|始《はじ》めての|口切《くちき》りで、|肝《きも》をとられ、|驚《おどろ》きと|一《ひと》つは|始《はじ》めて|口《くち》の|切《き》れた|喜《よろこ》びとで、|愈《いよいよ》|幽斎《いうさい》|修業《しうげふ》も|前途《ぜんと》|有望《いうばう》だと、|知《し》らず|知《し》らずに|天狗《てんぐ》になつて|了《しま》つた。|多田《ただ》の|神主《かむぬし》は|日一日《ひいちにち》と|発動《はつどう》が|烈《はげ》しくなり、|詞《ことば》も|円滑《ゑんくわつ》に|使《つか》ふやうになつて|来《き》た。|其《その》|時《とき》の|審神者《さには》としては|大《おほ》きな|声《こゑ》を|出《だ》し、よく|発動《はつどう》し、|荒《あら》く|飛上《とびあ》がる|程《ほど》|偉《えら》い|神《かみ》が|来《き》たのだと|信《しん》じ、|本当《ほんたう》のしとやかな|神感者《しんかんしや》を|見《み》ても、もどかしい|様《やう》な|気《き》になつて|了《しま》つた。
|多田《ただ》|琴《こと》に|続《つづ》いて|又《また》|斎藤《さいとう》|静子《しづこ》の|面相《めんさう》が|俄《にはか》に|猛悪《まうあく》になり、|組《く》んだ|手《て》を|無性矢鱈《むしやうやたら》に|震動《しんどう》させ、これ|又《また》ドンドンと|荒《あ》れ|狂《くる》ひ|出《だ》した。|一人《ひとり》は|大女《おほをんな》、|一人《ひとり》は|三十《さんじふ》になつても|貰《もら》ひ|手《て》のないといふ、|四尺《よんしやく》|足《た》らずのチンコさんである。それが|一時《いつとき》に|負《まけ》ず|劣《おと》らずドンドンドンと|飛上《とびあ》がり|出《だ》した。|静子《しづこ》の|姉《あね》を|始《はじ》め、|養子《やうし》に|来《き》た|元市《もといち》といふのは、|宇一《ういち》の|両親《りやうしん》であつたのが、|静子《しづこ》が|神憑《かむがかり》になつたので、|俄《にはか》に|乗気《のりき》になり、|修業場《しうげふぢやう》を|移転《いてん》することを|取消《とりけ》して|貰《もら》ひたいと|申込《まをしこ》んだ。
|多田《ただ》の|神主《かむぬし》はソロソロ|大口《おほぐち》をあけ、|目《め》の|白玉《しらたま》に|巴形《ともゑがた》の|赤《あか》い|模様《もやう》が|出来《でき》て、
『|静御前《しづかごぜん》と|義経《よしつね》|弁慶《べんけい》、|加藤清正《かとうきよまさ》どちらが|偉《えら》い、|此《この》|方《はう》は|和田《わだ》|義盛《よしもり》の|妻《つま》|巴御前《ともえごぜん》であるぞよ、|其《その》|証拠《しようこ》には|此《この》|方《はう》の|目《め》の|玉《たま》を|見《み》よツ』
と|目《め》を|指《さ》し|示《しめ》す。|初心《しよしん》の|審神者《さには》は|其《その》|目《め》の|玉《たま》をよくよく|見《み》れば、まがふ|方《かた》なき|一《ひと》つ|巴《ともえ》が、|両眼《りやうがん》に|真紅《しんく》の|色《いろ》を|染出《そめだ》して|居《ゐ》る。……ヤツパリ|巴御前《ともえごぜん》ぢやあるまいかなア……と|思案《しあん》してゐると、|神主《かむぬし》は|審神者《さには》の|頬《ほほ》べたをピシヤピシヤと|殴《なぐ》り、
『|馬鹿審神者《ばかさには》の|盲審神者《めくらさには》、|此《この》|方《はう》の|正体《しやうたい》が|分《わか》らぬか。|此《この》|方《はう》は|勿体《もつたい》なくも、|官幣大社《くわんぺいたいしや》|稲荷《いなり》|大明神《だいみやうじん》の|眷族《けんぞく》|三《さん》の|滝《たき》に|守護《しゆご》|致《いた》す、|白滝《しらたき》|大明神《だいみやうじん》であるぞよ。サアこれからは|此《この》|白滝《しらたき》が|審神者《さには》をしてやらう。|其《その》|方《はう》は|神主《かむぬし》の|座《ざ》にすわれ』
と|呶鳴《どな》りつけた。|静子《しづこ》は|又《また》|発動《はつどう》して、
『おれは|妙見山《めうけんさん》に|守護《しゆご》いたす、|天一天狐《てんいちてんこ》|恒富大明神《つねとみだいみやうじん》だ。|見違《みちが》ひ|致《いた》すと、|今日《けふ》|限《かぎ》り|審神者《さには》は|許《ゆる》さぬぞ。ウンウン、バタバタ ドスン ドスン』
と|小《ちひ》さい|婆《ばば》アが|飛上《とびあ》がる。|今《いま》から|思《おも》へば|抱腹絶倒《はうふくぜつたう》の|至《いた》りだが、|其《その》|時《とき》の|審神者《さには》にとつては|一生懸命《いつしやうけんめい》であつた。|笑《わら》ふ|余地《よち》も|怒《いか》る|間《ま》も、|調《しら》べる|隙《すき》もない。|只《ただ》|始《はじ》めて|会《あ》うた|発動《はつどう》|状態《じやうたい》、|神《かみ》の|託宣《たくせん》、|愈《いよいよ》|人間《にんげん》にも|修業《しうげふ》さへすれば、|老若男女《らうにやくなんによ》の|区別《くべつ》なく、|神通《じんつう》が|得《え》られるものだ、といふ|確信《かくしん》はたしかについたが、|其《その》|外《ほか》の|事《こと》は|一切《いつさい》|耳《みみ》にも|這入《はい》らず、|思《おも》ふ|事《こと》もなかつた。|只《ただ》|一心不乱《いつしんふらん》に|三週間《さんしうかん》の|修業《しうげふ》を|続《つづ》けて|居《ゐ》た。
|一週間《いつしうかん》|程《ほど》たつた|時《とき》、|修業者《しうげふしや》は|一斉《いつせい》に|口《くち》を|切《き》り、|少女《せうぢよ》の|口《くち》から、
『チヽヽヽヽ、ツヽヽヽヽ』
と|口《くち》を|尖《とが》らし、|組《く》んだ|手《て》をヒヨイヒヨイと|動《うご》かし|乍《なが》ら、|喋《しやべ》り|始《はじ》めた。|修業場《しうげふば》は|一切《いつさい》|他人《たにん》の|近《ちか》よることを|禁《きん》じてゐたが、|余《あま》り|大《おほ》きな|発動《はつどう》の|響《ひびき》と|神主《かむぬし》の|声《こゑ》とに、|近所《きんじよ》の|者《もの》が|聞《き》きつけ、|次《つぎ》から|次《つぎ》へと|喧伝《けんでん》して、|昼《ひる》も|夜《よる》も|家《いへ》のぐるりは|人《ひと》の|山《やま》になつて|了《しま》つた。
|多田《ただ》|琴《こと》は……|白滝《しらたき》|大明神《だいみやうじん》の|命令《めいれい》だ……と|云《い》つて、|修業者《しうげふしや》を|残《のこ》らず|引連《ひきつ》れ、|白衣《びやくい》に|緋《ひ》の|袴《はかま》をうがち、|一里《いちり》|余《あま》りの|道《みち》を|白昼《はくちう》|大手《おほて》をふつて、
『|家来《けらい》ツ、|伴《とも》して|来《こ》い』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら、|何《なん》だか|訳《わけ》の|分《わか》らぬ|歌《うた》をうたひ、|足拍子《あしべうし》を|取《と》り、|外《ほか》の|修業者《しうげふしや》は|其《その》|歌《うた》に|合《あ》はして、|石《いし》や|瓦《かはら》を|叩《たた》き|乍《なが》ら、テンツテンツ ツンツクツンなど|言《い》ひ|乍《なが》ら、|中村《なかむら》の|多田《ただ》|亀《かめ》の|家《いへ》へ|行《い》つて|了《しま》つた。|審神者《さには》は……コリヤ|大変《たいへん》だ、|一《ひと》つ|鎮《しづ》めねばなららぬ……と|後追《あとお》つかけようとすれ|共《ども》、|如何《どう》したものか、|自分《じぶん》の|体《からだ》は|数百貫《すうひやくくわん》の|石《いし》で|押《おさ》へられたやうに|重《おも》たくなつて、チツとも|動《うご》く|事《こと》が|出来《でき》ない。|止《や》むを|得《え》ず、|宇一《ういち》は|審神者《さには》|代理《だいり》となりて|側《そば》にすわり、|自分《じぶん》は|惟神的《かむながらてき》に|手《て》を|組《く》まされ、|瞑目《めいもく》してゐると、|腹《はら》の|中《なか》から|丸《まる》いかたまりが|二《ふた》つ|三《み》つグルグルグルと|喉元《のどもと》へつめ|上《あ》げ、|何《なん》とも|言《い》はれぬ|苦《くるし》さであつた。|三四十分間《さんしじつぷんかん》|息《いき》が|切《き》れるやうな|目《め》に|会《あ》はされた|揚句《あげく》、
『|此《この》|方《はう》は|此《この》|肉体《にくたい》を|高熊山《たかくまやま》へ|導《みちび》き、|其《その》|霊魂《れいこん》を|富士山《ふじさん》へ|伴《つ》れて|行《い》つた|松岡天使《まつをかてんし》である。サアこれから|本当《ほんたう》の|審神者《さには》をさしてやらう。|天下《てんか》の|万民《ばんみん》を|助《たす》ける|神《かみ》の|使《つかひ》は、|余程《よほど》の|修業《しうげふ》を|致《いた》さねば|駄目《だめ》だ。さアこれから|此《この》|方《はう》の|申《まを》す|事《こと》をチツとも|叛《そむ》くでないぞよ』
と|自分《じぶん》の|口《くち》から|言《い》ひ|出《だ》した。|宇一《ういち》は|這《は》ひつくばひ|乍《なが》ら、
|宇一《ういち》『|恐《おそ》れ|乍《なが》ら|松岡《まつをか》|様《さま》に|申上《まをしあ》げます。|私《わたし》は|皆《みな》と|一緒《いつしよ》に|修業《しうげふ》を|致《いた》して|居《を》りますが、まだ|一遍《いつぺん》も|手《て》も|震《ふる》うた|事《こと》もなし、|皆《みな》の|様《やう》に|神様《かみさま》がうつつて|物《もの》を|言《い》うて|下《くだ》さりませぬが、|如何《どう》いふ|訳《わけ》で|御座《ござ》いますか。|神《かみ》さまさへ|憑《うつ》つて|下《くだ》さるのなら、どんな|修業《しうげふ》でも|致《いた》しますから、どうぞ|教《をし》へて|下《くだ》さいませ』
と|頼《たの》んで|居《を》る。そうすると|又《また》|神主《かむぬし》の|口《くち》から、
|松岡《まつをか》『|其《その》|方《かた》は|大体《だいたい》|精神《せいしん》のよくない|男《をとこ》だから、|神《かみ》が|憑《うつ》る|事《こと》が|出来《でき》ぬのだ。|三年《さんねん》や|五年《ごねん》|修業《しうげふ》したとて、|其《その》|方《はう》は|駄目《だめ》だから、|一層《いつそう》のこと、|審神者《さには》になつた|方《はう》がよからうぞ』
|宇一《ういち》『|神主《かむぬし》にもなれない|者《もの》が|如何《どう》して|審神者《さには》が|出来《でき》ませうか』
|松岡《まつをか》『|神《かみ》がせいと|云《い》つたら、キツと|出来《でき》る。|神《かみ》が|其《その》|方《はう》の|肉体《にくたい》を|使《つか》つてするのだから、チツとも|心配《しんぱい》は|要《い》らぬ』
|宇一《ういち》『|左様《さやう》ならば|御用《ごよう》を|致《いた》します。|不束《ふつつか》な|審神者《さには》で|御座《ござ》いますから、どうぞ|宜《よろ》しう|御願《おねが》ひ|致《いた》します』
|松岡《まつをか》『ヨシ、|此《この》|神主《かむぬし》の|肉体《にくたい》は|其《その》|方《はう》の|監督《かんとく》に|任《まか》すから、よく|気《き》をつけたがよからうぞ。|何時《いつ》|夜分《やぶん》に|飛出《とびだ》すか|知《し》れぬから、|気《き》をつけて|居《ゐ》るがよい』
|宇一《ういち》『ハイ、|有難《ありがた》う|御座《ござ》います。|此《この》|度《たび》の|一同《いちどう》の|者《もの》の|修業《しうげふ》が|済《す》みましたら、|其《その》|先《さき》は|如何《どう》|致《いた》しませうか』
|松岡《まつをか》『|神《かみ》が|五万円《ごまんゑん》|程《ほど》|金《かね》をやるから、|此《この》|穴太《あなを》の|或《ある》|地点《ちてん》を|買収《ばいしう》し、|大神苑《だいしんゑん》を|作《つく》り、|神殿《しんでん》を|拵《こしら》へ、|神道《しんだう》の|本部《ほんぶ》を|建《た》てて、|布教《ふけう》をするのだ。|何事《なにごと》も|一々《いちいち》|神《かみ》の|命令《めいれい》を|遵奉《じゆんぽう》せなくては|駄目《だめ》だから、そう|心得《こころえ》たが|宜《よ》からう』
|宇一《ういち》は|斎藤《さいとう》|源次《げんじ》といふ|人《ひと》の|東隣《ひがしとなり》の|紋屋《もんや》の|息子《むすこ》である。|其《その》|父親《てておや》が|相場《さうば》に|祖先《そせん》|伝来《でんらい》の|財産《ざいさん》を|殆《ほとん》どなくして|了《しま》ひ、|今《いま》や|其《その》|邸宅《ていたく》までが|危《あぶ》なく|浮《う》いてゐたのである。|何時《なんどき》|家《いへ》も|屋敷《やしき》もどこへ|飛《と》んでゆくか、|流《なが》れるか|知《し》れぬやうな|危険《きけん》|状態《じやうたい》になつてゐた。|今《いま》|此《この》|松岡《まつをか》|天使《てんし》の|五万円《ごまんゑん》を|与《あた》へるといふことを|聞《き》いて、|喉《のど》を|鳴《な》らし、|元市《もといち》が|其《その》|場《ば》に|飛《と》んで|来《き》て、|叮嚀《ていねい》に|両手《りやうて》をつき、
|元市《もといち》『|松岡《まつをか》さま、どうも|有難《ありがた》う|御座《ござ》います。これでいよいよ|御神徳《ごしんとく》が|有《あ》りました。どんな|事《こと》でも|神《かみ》さまの|御用《ごよう》を|聞《き》きますから、|早《はや》く|五万円《ごまんゑん》の|金《かね》を|下《くだ》さいませ。|何《いづ》れ|天《てん》から|降《ふ》らして|下《くだ》さる|訳《わけ》にも|行《ゆ》きますまい。|相場《さうば》に|依《よ》つてでも|五万円《ごまんゑん》|儲《まう》けさして|下《くだ》さるのでせうなア』
|松岡《まつをか》『|相場《さうば》の|事《こと》なれば|此《この》|方《はう》は|余程《よほど》|不得手《ふえて》だ。|坂井《さかゐ》|伝三郎《でんざぶらう》といふ|百年前《ひやくねんまへ》に|相場師《さうばし》が|大阪《おほさか》に|居《を》つた。|其《そ》の|男《をとこ》は|八十五万円《はちじふごまんゑん》の|財産《ざいさん》を|残《のこ》らず|相場《さうば》で|負《まけ》て|了《しま》ひ、|僅《わづか》に|残《のこ》つた|財産《ざいさん》を、|堺《さかひ》の|住吉《すみよし》|明神《みやうじん》に|献上《けんじやう》|致《いた》し、|其《そ》の|神徳《しんとく》に|依《よ》つて、|今《いま》は|住吉《すみよし》の|大眷族《だいけんぞく》|大霜《おほしも》といふ|天狗《てんぐ》となつて、|相場《さうば》の|守護《しゆご》を|致《いた》して|居《を》るから、|其《その》|神《かみ》が|今《いま》|此《この》|肉体《にくたい》にうつる|様《やう》に|守護《しゆご》してやらう。それに|聞《き》いたがよからうぞ。|松岡《まつをか》はこれで|引取《ひきと》る。ウンウンウン』
|元市《もといち》『マアマアマア|一寸《ちよつと》|待《ま》つて|下《くだ》さいませ、モウ|一言《ひとこと》|御尋《おたづ》ね|致《いた》したう|御座《ござ》います』
といふのも|一切《いつさい》|頓着《とんちやく》なしに、|審神者《さには》の|肉体《にくたい》を|三四尺《さんししやく》|宙《ちう》に|巻上《まきあ》げ、ドスンと|元《もと》の|座《ざ》に|尻《しり》を|卸《おろ》し、パチツと|目《め》をあけて、|元《もと》の|喜楽《きらく》になつて|了《しま》つた。
これより|元市《もといち》|夫婦《ふうふ》は|態度《たいど》|一変《いつぺん》し、|今《いま》まで『|喜楽《きらく》|々々《きらく》』と|呼《よ》びつけにしてゐたのが、|現金《げんきん》にも『|上田《うへだ》|大先生様《おほせんせいさま》』とあがめ|出《だ》して|喋《しやべ》つた。|宇一《ういち》も|親《した》しき|友人《いうじん》の|事《こと》とて『オイ|喜楽《きらく》』などと|云《い》うてゐたが、|俄《にはか》に|爺《おやぢ》に|倣《なら》つて、『|大先生《だいせんせい》』と|言《い》ひ|出《だ》した。|何《なん》とはなしにテレ|臭《くさ》いやうな|気《き》がしてならない。
『どうぞ|今《いま》までのやうに|喜楽《きらく》と|云《い》うてくれ』
と|何程《なにほど》|頼《たの》んでも、|親子《おやこ》|共《とも》に|首《くび》を|左右《さいう》にふり、
『イエイエ|滅相《めつさう》もない、こんな|立派《りつぱ》な|相場《さうば》の|神《かみ》さまが|御憑《おうつ》り|遊《あそ》ばす|御肉体《ごにくたい》を|粗末《そまつ》にしては、|神《かみ》さまに|対《たい》し|申訳《まをしわけ》がありませぬ。どうぞ|大先生《おほせんせい》と|言《い》はして|下《くだ》さい』
と|金《かね》の|慾《よく》に|迷《まよ》はされて、|一生懸命《いつしやうけんめい》に|厭《いや》らしい|程《ほど》|大事《だいじ》にし|出《だ》した。
|元市《もといち》『モシ|大先生《おほせんせい》、|最前《さいぜん》|神《かみ》さまが|仰《おつ》しやつたやうに、|伜《せがれ》の|宇一《ういち》が|審神者《さには》を|致《いた》しますから、|大霜《おほしも》さまの|神懸《かむがか》りを|一《ひと》つ|願《ねが》うて|下《くだ》さいな』
と|頼《たの》み|込《こ》む。|喜楽《きらく》は|仕方《しかた》がないので、|東側《ひがしがは》の|溝《みぞ》に|身《み》をひたし、|体《からだ》を|清《きよ》め、|再《ふたた》び|白衣《びやくい》に|紫《むらさき》の|袴《はかま》を|着《ちやく》し、|奥《おく》の|間《ま》に|静坐《せいざ》し、|手《て》を|組《く》んだ。|又《また》もや|身体《しんたい》|震動《しんどう》して、
|大霜《おほしも》『われこそは|官幣大社《くわんぺいたいしや》|住吉《すみよし》|神社《じんじや》の|一《いち》の|眷族《けんぞく》、|大霜《おほしも》|天狗《てんぐ》であるぞよ。|相場《さうば》の|事《こと》なら|何《なん》でも|聞《き》かしてやらう』
と|大声《おほごゑ》で|怒鳴《どな》り|立《た》てた。|元市《もといち》は|飛付《とびつ》くやうにして、|頭《あたま》を|畳《たたみ》にすりつけ|乍《なが》ら、|膝《ひざ》|近《ちか》くまですり|寄《よ》り、
|元市《もといち》『ハイ、|有難《ありがた》う|御座《ござ》います。|併《しか》し|乍《なが》ら|此《この》|通《とほ》り|門《もん》|一杯《いつぱい》|人《ひと》が|聞《き》いて|居《を》りますから、どうぞ|低《ひく》い|声《こゑ》で|仰《おつ》しやつて|下《くだ》さいませ。|私《わたくし》も|折入《をりい》つて|御願《おねがひ》が|御座《ござ》いますから……』
|大霜《おほしも》|小《ちひ》さい|声《こゑ》で、
|大霜《おほしも》『ヨシ|分《わか》つた、|何《な》ンなつと|聞《き》いてやらう。|大方《おほかた》|五万円《ごまんゑん》の|金《かね》を|相場《さうば》に|勝《か》たしてくれいと|申《まを》すのだらう』
|元市《もといち》『ハイ、|御察《おさつ》しの|通《とほ》り|五万円《ごまんゑん》の|金《かね》の|必要《ひつえう》が|起《おこ》りました。|何《なん》とマアあなた|様《さま》は、|私《わたくし》の|心《こころ》を|御存《ごぞん》じで|御座《ござ》います。|疑《うたがひ》もなき|天狗様《てんぐさま》、これから|家内中《かないぢう》が|打揃《うちそろ》うて、|村《むら》の|奴《やつ》が|何《なん》と|申《まを》さう|共《とも》|信仰《しんかう》を|致《いた》しますから、どうぞ|米《こめ》の|上《あが》り|下《さ》がりをハツキリ|知《し》らして|下《くだ》さりませ』
|大霜《おほしも》『ヨシ、|俺《おれ》は|生前《せいぜん》に|於《おい》て|坂井《さかゐ》|伝三郎《でんざぶらう》といふ|堂島《だうじま》の|相場師《さうばし》であつた。|相場《さうば》の|為《ため》に|財産《ざいさん》をなくした|位《くらゐ》だから、|神界《しんかい》に|於《おい》ても|相場《さうば》に|詳《くは》しいので、|其《その》|方面《はうめん》の|守護《しゆご》を|致《いた》して|居《ゐ》る|神《かみ》だ。つまり|言《い》はば|専門家《せんもんか》だ、|此《この》|方《はう》の|負《まけ》た|丈《だけ》の|金《かね》は|其《その》|方《はう》に|勝《か》たしてやつても、|別《べつ》に|社会《しやくわい》の|科《とが》にもなるまい。|五万円《ごまんゑん》などとそんな|吝嗇臭《けちくさ》い|事《こと》|申《まを》すな。|八十万円《はちじふまんゑん》|勝《か》たしてやらう、どうぢや|嬉《うれ》しいか?』
|元市《もといち》『ハイ、|嬉《うれ》しう|御座《ござ》います』
|大霜《おほしも》『|其《その》|八十万円《はちじふまんゑん》の|金《かね》を|手《て》に|入《い》れたら|如何《どう》する|積《つも》りだ』
|元市《もといち》『ハイ、|申《まを》す|迄《まで》もなく、|曽我部村《そがべむら》を|全部《ぜんぶ》|買収《ばいしう》し、|五万円《ごまんゑん》がとこ|林《はやし》を|買《か》うて、|其処《そこ》を|天狗《てんぐ》さまの|公園《こうゑん》となし、|残《のこ》り|七十五万円《しちじふごまんゑん》はマア|一寸《ちよつと》|考《かんが》へさして|頂《いただ》きませう』
|大霜《おほしも》『|七十五万円《しちじふごまんゑん》の|財産家《ざいさんか》となつて|羽振《はぶり》を|利《き》かす|考《かんが》へだらう。|其《その》|方《はう》は|其《その》|金《かね》が|手《て》に|入《い》つたならば、|立派《りつぱ》な|家《いへ》を|建築《けんちく》し、|妾《めかけ》をおいて、|栄耀《えいえう》|栄華《えいぐわ》に|暮《くら》さうといふ、|今《いま》から|考《かんが》へを|持《も》つて|居《を》らうがなア。|余《あま》り|贅沢《ぜいたく》になると|酒色《しゆしよく》に|耽《ふけ》つて|衛生上《ゑいせいじやう》|面白《おもしろ》くない、|身体《しんたい》|衰弱《すゐじやく》して|短命《たんめい》になる。|又《また》|女房《にようばう》のあるのに|妾《めかけ》などを|置《お》けば、|家内《かない》が|常《つね》にもめる|道理《だうり》だ。|一層《いつそう》の|事《こと》、|今《いま》の|貧乏《びんばふ》の|方《はう》が|却《かへつ》て|幸福《かうふく》かも|知《し》れないぞ。そうなると、|却《かへつ》て|神《かみ》の|恵《めぐみ》が|仇《あだ》となるから、|五万円《ごまんゑん》|丈《だけ》にして|置《お》かうか』
|元市《もといち》『メヽ|滅相《めつさう》な、|神《かみ》さまの|言《ことば》に|二言《にごん》はないと|聞《き》いて|居《を》ります。あなたこそ|神《かみ》さまとなれば、お|金《かね》の|必要《ひつえう》は|御座《ござ》りますまいが、|肉体《にくたい》のある|以上《いじやう》は|金《かね》は|必要《ひつえう》です。|七十五万円《しちじふごまんゑん》の|内《うち》、|十万円《じふまんゑん》|丈《だけ》は|私《わたくし》が|頂戴《ちやうだい》|致《いた》しまして、|後《あと》の|六十五万円《ろくじふごまんゑん》は|駅逓局《えきていきよく》へ|預《あづ》けたり、|慈善《じぜん》|事業《じげふ》に|寄附《きふ》したり、|社会《しやくわい》の|為《ため》に|使《つか》ひます』
|大霜《おほしも》『それも|結構《けつこう》だが、|神《かみ》さまのお|道《みち》の|為《ため》に|使《つか》はうといふ|気《き》はないか』
|元市《もといち》『ハイ、|神《かみ》さまの|方《はう》は|五万円《ごまんゑん》|御約束《おやくそく》の|通《とほ》り、チヤンときまつて|居《を》ります』
|大霜《おほしも》『アハヽヽヽ、そんならそうでも|宜《よ》からうが、|相場《さうば》をする|基本金《きほんきん》は|如何《どう》して|拵《こしら》へるか』
|元市《もといち》『ハイ|御存《ごぞん》じの|通《とほ》り、スツカリ|貧乏《びんばふ》を|致《いた》しまして、|最早《もはや》|一円《いちゑん》の|金《かね》も|貸《か》してくれる|者《もの》もありませぬので、|此《この》|資本《もとで》を|神《かみ》さまの|御厄介《ごやくかい》に|預《あづか》つて|貸《か》して|頂《いただ》きたいもので|御座《ござ》います』
|大霜《おほしも》『ヨシ、そんなら|小判《こばん》の|埋蔵所《まいざうしよ》を|知《し》つて|居《を》るから、それを|其《その》|方《はう》に|明示《めいじ》してやらう。|誰《たれ》にも|言《い》つてはならぬぞ。|乍併《しかしながら》|此《この》|金《かね》は|山奥《やまおく》に|埋《うづ》めてあるから、|其《その》|方《はう》が|行《ゆ》かいでも、|此《この》|神主《かむぬし》の|肉体《にくたい》を|使《つか》うて|掘《ほ》りにやらすから、|二三日《にさんにち》|待《ま》つて|居《ゐ》るが|宜《よ》からう』
|元市《もといち》『ハイ|有難《ありがた》う、いくら|隠《かく》してあるか|知《し》りませぬが、|一人《ひとり》では|途中《とちう》が|危《あぶ》なう|御座《ござ》います。もし|賊《ぞく》にでも|出会《であ》うたら|大変《たいへん》ですから、どうぞ|私《わたし》|一人《ひとり》|丈《だけ》はお|供《とも》にやつて|下《くだ》さいな』
|大霜《おほしも》『ならぬ ならぬ、|其《その》|金《かね》は|一寸《ちよつと》|百万円《ひやくまんゑん》ばかり|小判《こばん》で|隠《かく》してあるが、|其《その》|方《はう》に|其《その》|所在《ありか》を|知《し》らすと、|又《また》|悪《わる》い|精神《せいしん》を|出《いだ》し、|体主霊従《たいしゆれいじう》におちてはならないに|依《よ》つて、|先《ま》ず|一万円《いちまんゑん》|計《ばか》り|資本《しほん》に、|此《この》|肉体《にくたい》に|掘《ほ》らしてくる。キツと|従《つ》いて|来《く》る|事《こと》はならぬぞ』
|元市《もといち》『そんなら|伜《せがれ》の|宇一《ういち》をお|供《とも》をさしますから、それ|丈《だけ》|許《ゆる》して|下《くだ》さい』
|大霜《おほしも》『イヤそれも|成《な》らぬ。|此《この》|神主《かむぬし》の|肉体《にくたい》を|神《かみ》が|勝手《かつて》に|使《つか》うて|掘《ほ》り|出《だ》して|来《く》る。|其《その》|方《はう》の|改心《かいしん》|次第《しだい》に|依《よ》つて|渡《わた》してやる』
|元市《もといち》『ハイ|承知《しようち》いたしました。|御安心《ごあんしん》|下《くだ》さいませ。メツタに|慢心《まんしん》する|気遣《きづか》ひは|御座《ござ》いませぬ。ズントズント|心《こころ》の|底《そこ》から|改心《かいしん》を|致《いた》して|居《を》ります』
|喜楽《きらく》は|自分《じぶん》の|腹《はら》の|中《なか》から|言《い》ふ|事《こと》を|一々《いちいち》|残《のこ》らず|傍聴《ばうちやう》し、|又《また》|元市《もといち》の|言《ことば》も|聞《き》いて|可笑《おか》しくてたまらず……ナアにそんな|金《かね》があるものか……と|心《こころ》の|中《なか》で|思《おも》つて|仕方《しかた》がなかつた。
|大霜《おほしも》『|神《かみ》は|最早《もはや》|引取《ひきと》るぞよ。|此《この》|肉体《にくたい》を|大先生《だいせんせい》と|崇《あが》めて|大切《たいせつ》に|致《いた》せよ。ドスス、ウン』
と|飛《と》び|上《あ》がり、|憑霊《ひようれい》は|忽《たちま》ち|肉体《にくたい》を|離《はな》れて|了《しま》つた。
|元市《もといち》『あゝ|大先生《だいせんせい》、|御苦労《ごくらう》はんで|御座《ござ》いました。どうぞ|体《からだ》を|大切《たいせつ》にして|下《くだ》さいや。|大変《たいへん》な|結構《けつこう》な|御神徳《おかげ》を|頂《いただ》きました』
|喜楽《きらく》『|私《わたくし》も|聞《き》いてゐましたが、あんな|甘《うま》い|事《こと》|大霜《おほしも》サンが|言《い》はれたけれど、|嘘《うそ》ぢやなからうかと、|心配《しんぱい》でなりませぬワ』
|元市《もといち》は|首《くび》を|左右《さいう》に|振《ふ》り、
|元市《もといち》『|大先生《だいせんせい》、そんな|勿体《もつたい》ないことを|言《い》ふもんぢやありませぬ。|天狗《てんぐ》サンは|一割《いちわり》|正直《しやうぢき》な|御方《おかた》ですから、|嘘《うそ》を|仰《おつ》しやる|気遣《きづかひ》は|御座《ござ》いませぬ。アー|之《こ》れで|私《わし》の|運《うん》も|開《ひら》きかけた』
とニコニコしてゐる。
|其《その》|日《ひ》は|何《なん》となく|吾《わが》|家《や》へ|帰《かへ》りたくなつたので、|久《ひさ》し|振《ぶ》りに|自宅《じたく》へ|帰《かへ》ることとなつた。
(大正一一・一〇・九 旧八・一九 松村真澄録)
第八章 |梟《ふくろ》の|宵企《よひだくみ》〔一〇二〇〕
|久《ひさ》し|振《ぶ》りで|自宅《じたく》へ|帰《かへ》り、|心《こころ》もユツタリと|宵《よひ》の|口《くち》から|眠《ねむ》つて|居《ゐ》た。|俄《にはか》に『オイオイ』と|自分《じぶん》の|体《からだ》を|揺《ゆ》り|起《おこ》すものがある。|吃驚《びつくり》して|目《め》を|醒《さ》まして|見《み》れば|誰《たれ》も|居《ゐ》ない。|只《ただ》|老母《らうぼ》や|母《はは》や|妹《いもうと》が、|未《ま》だ|宵《よひ》の|口《くち》とて|眠《ねむ》りもせず、|行灯《あんど》の|側《そば》で|小説本《せうせつぼん》を|見《み》たり、|絵《ゑ》を|広《ひろ》げて|見《み》たりして|居《ゐ》るのみであつた。|俄《にはか》に|自分《じぶん》の|体《からだ》は|器械《きかい》の|如《ごと》く|自動的《じどうてき》に|立《た》ち|上《あが》り、|自然《しぜん》に|歩《あゆ》み|出《だ》した。|霊《れい》に|憑依《ひようい》された|肉体《にくたい》は|自分《じぶん》の|意思《いし》では|如何《いかん》ともする|事《こと》は|出来《でき》ぬ。
|体《からだ》の|動《うご》くままに|任《まか》して|居《ゐ》ると、|何時《いつ》の|間《ま》にか|産土《うぶすな》の|社《やしろ》の|傍《そば》の|殿山《とのやま》と|云《い》ふ、|小《ちひ》さい|丘《をか》の|山《やま》に|導《みちび》かれて|居《ゐ》る。|臍《へそ》の|下《した》あたりから、|円《まる》い|塊《かたまり》がゴロゴロと|音《おと》をさして、|喉《のど》の|近辺《きんぺん》まで|舞《ま》ひ|上《あが》つて|来《き》たと|思《おも》ふ|刹那《せつな》、
『|大霜天狗《おほしもてんぐ》……』
と|呶鳴《どな》り|立《た》てた。|自分《じぶん》は、
|喜楽《きらく》『モシ|大霜《おほしも》さま、|懸《かか》つて|下《くだ》さるのは|結構《けつこう》で|厶《ござ》いますが、さう|苦《くる》しめられては|堪《たま》りませぬ。もつと|楽《らく》に|懸《かか》つて|下《くだ》さいませ』
|大霜《おほしも》『|楽《らく》に|懸《かか》つてやり|度《た》いのは|神《かみ》も|同《おな》じ|事《こと》だ。|神《かみ》だつて|苦《くる》しいのだ。|其《その》|方《はう》はまだ|疑心《うたがひごころ》がとれぬから、それで|苦《くる》しまねばならぬ。|早《はや》く|改心《かいしん》を|致《いた》して、|神様《かみさま》の|御用《ごよう》にたたねばなるまいぞ。|高熊山《たかくまやま》の|修業《しうげふ》の|事《こと》は|覚《おぼ》えて|居《を》るか』
|喜楽《きらく》『あんまり|苦《くる》しうて、|今《いま》の|処《ところ》では|全然《すつくり》|忘《わす》れて|了《しま》ひました。|何《なん》だか|頭《あたま》がボーツとして、|分《わか》らぬ|様《やう》になつて|来《き》ました。|又《また》ボツボツと|思《おも》ひ|出《だ》すだらうと|思《おも》ふて|居《ゐ》ます』
|大霜《おほしも》『これから|元市《もといち》に|申《まを》した|金《かね》の|所在《ありか》を、|其《その》|方《はう》に|知《し》らすによつて、|鶴嘴《つるばし》や|鋤鏈《じよれん》を|用意《ようい》し、|畚《ふご》を|一荷《いつか》もつて|奥山《おくやま》に|行《ゆ》け。そこになつたら|又《また》|此《この》|方《はう》が|知《し》らしてやるから……』
|喜楽《きらく》『|奥山《おくやま》の|様《やう》な|処《ところ》へ|一人《ひとり》|行《ゆ》くのは|困《こま》ります。|宇一《ういち》でも|連《つ》れて|行《ゆ》きませうか』
|大霜《おほしも》『|馬鹿《ばか》をいふな。あんな|欲《よく》どしい|奴《やつ》を|連《つ》れて|行《ゆ》かうものなら、|神様《かみさま》の|御用《ごよう》どころか、みんな|自分《じぶん》の|所有《もの》にして|了《しま》ふ。|其《その》|方《はう》|一人《ひとり》、|神《かみ》がついて|居《を》るから|早《はや》く|帰《かへ》つて|用意《ようい》をせい。お|前《まへ》もやつぱり|金《かね》は|要《い》るだらう』
|喜楽《きらく》『|私《わたし》はもう|神様《かみさま》のお|道《みち》へ|這入《はい》つたのですから、|金《かね》の|欲望《よくばう》はありませぬ。|金《かね》の|事《こと》|聞《き》いてもゾツと|致《いた》します』
|大霜《おほしも》『|馬鹿《ばか》|云《い》ふな。|此《この》|時節《じせつ》に|金《かね》がなくて|神《かみ》の|道《みち》が|拡《ひろ》まるか。|家《いへ》|一《ひと》つ|建《た》てるにも|金《かね》が|要《い》るぢやないか、|布教《ふけう》に|歩《ある》いても|旅費《りよひ》が|要《い》る。|又《また》|肉体《にくたい》も|食《く》はねばならず、|着物《きもの》も|着《き》なくてはならぬぢやないか。|金《かね》に|離《はな》れて|如何《どう》して|神《かみ》のお|道《みち》が|拡《ひろ》まるか』
|喜楽《きらく》『それもさうです。|然《しか》し|重《おも》たいものを|沢山《たくさん》に|持《も》つて|帰《かへ》ると|云《い》ふ|事《こと》は、|暗《くら》がりの|山道《やまみち》、|困《こま》るぢやありませぬか』
|大霜《おほしも》『|俺《おれ》が|天狗《てんぐ》の|正体《しやうたい》を|現《あら》はして、|重《おも》たければ|俺《おれ》が|担《かつ》いで|帰《かへ》つてやる』
と|自分《じぶん》の|口《くち》から|云《い》つたり、|答《こた》へたり、|自問自答《じもんじたふ》をする|事《こと》|稍《やや》|暫《しば》らくであつた。
|斯《か》う|聞《き》くと、|矢張《やはり》|金《かね》が|無《な》ければならぬ|様《やう》な|心持《こころもち》になり、|宇一《ういち》の|来《こ》ぬ|中《うち》に|掘出《ほりだ》して|来《こ》うと|思《おも》ひ、|土《つち》|運《はこ》びの|小《ちひ》さい|畚《ふご》を|携《たづさ》へ、|椋《むく》の|杖《つゑ》、|鶴嘴《つるばし》に|鋤鏈《じよれん》、|畚《ふご》に|小判《こばん》|一杯《いつぱい》|担《にな》うて|帰《かへ》る|様《やう》な|心持《こころもち》で、|宮垣内《みやがいち》の|伏屋《ふせや》をソツと|抜《ぬ》け|出《だ》し、|前条《まへんでう》から|愛宕山麓《あたごさんろく》、|姥《うば》の|懐《ふところ》、|虎池《とらいけ》、|新池《しんいけ》、|芝ケ原《しばがはら》、|砂止《すなどめ》と|段々《だんだん》|進《すす》んで、|高熊山《たかくまやま》の|修業場《しうげふば》を|右手《めて》に|眺《なが》め、|猪熊峠《いのくまたうげ》をドンドン|登《のぼ》り、|危険《きけん》|極《きは》まる|打《う》チ|越《こし》と|云《い》ふ|坂《さか》を|上《のぼ》り、|算盤岩《そろばんいは》を|渡《わた》り、|再《ふたた》び|馬《うま》の|背《せ》の|険《けん》を|経《へ》て、|奥山《おくやま》の|玉子ケ原《たまこがはら》と|云《い》ふ|谷間《たにま》へ|進《すす》んで|行《い》つた。
そつと|空畚《からふご》を|卸《おろ》し、|山《やま》に|腰掛《こしか》け|息《いき》を|休《やす》め、|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》し|始《はじ》めた。|何《なん》だか|知《し》らぬが|其辺《そこら》ぢうが|真黒気《まつくろけ》になつて|来《き》た。|谷《たに》の|下《した》の|方《はう》から|灰色《はひいろ》の|雲《くも》の|様《やう》なものが、チクチクと|此方《こつち》へ|向《むか》ふて|押寄《おしよ》せて|来《く》る|様《やう》な|気分《きぶん》がして、|何時《いつ》の|間《ま》にか|手《て》も|足《あし》も|震《ふる》ふて|居《ゐ》る。|何《なん》とも|云《い》へぬ|淋《さび》しい|様《やう》な|情《なさけ》ない|様《やう》な|気分《きぶん》になり、|仮令《たとへ》|一億円《いちおくゑん》の|金《かね》があつても|掘《ほ》り|度《た》くもなし、|欲《ほ》しくもない。それよりも|早《はや》く、|自分《じぶん》の|宅《たく》に|帰《かへ》り|度《た》いと|云《い》ふ|弱《よわ》い|気分《きぶん》が|襲《おそ》ふて|来《き》た。|幸《さいは》ひに|東《ひがし》の|空《そら》から、|春《はる》の|朧月《おぼろづき》が|痩《やせ》た|顔《かほ》して|昇《のぼ》つて|来《き》た。|心《こころ》の|勢《せい》か、|其辺《そこら》あたりに|何《なん》とも|云《い》へぬ|淋《さび》しい、|人《ひと》とも|虫《むし》とも|獣《けだもの》とも|見当《けんたう》のつかぬ|様《やう》な、|悲《かな》しい|嫌《いや》らしい|声《こゑ》が|聞《きこ》えて|来《く》る。|臍《へそ》の|下《した》から|又《また》もや|三《みつ》つの|塊《かたまり》がグレグレグレと|動《うご》き|出《だ》し、|咽喉元《のどもと》へ|舞《ま》ひ|上《あが》る。|又《また》|神懸《かむがか》りだなと|思《おも》ふて|居《ゐ》ると、
『|俺《おれ》は|大霜《おほしも》だ、サア|此《この》|下《した》に|小判《こばん》がいけてある。|此処《ここ》を|掘《ほ》れ、|鶴嘴《とんが》を|持《も》て!』
と|呶鳴《どな》り|出《だ》した。|喜楽《きらく》は|命《めい》のまにまに|鶴嘴《つるばし》の|柄《え》を|握《にぎ》ると、|両《りやう》の|手《て》は|鶴嘴《つるばし》の|柄《え》に|食《く》ひついた|様《やう》に|離《はな》れず、|器械的《きかいてき》に|鶴嘴《つるばし》は、カチンカチンと|動《うご》き|出《だ》した。|何程《なにほど》|体《からだ》がえらいから|一休《ひとやす》みしようと|思《おも》ふても、|鶴嘴《つるばし》の|柄《え》が|手《て》に|着《つ》いて|離《はな》れず、|勝手《かつて》に|鶴嘴《つるばし》は|堅《かた》い|土《つち》をコツンコツンとこつき|出《だ》す。|殆《ほとん》ど|二時間《にじかん》ばかり|土《つち》をこついては|鋤鏈《じよれん》でかき|分《わ》けさせられ、|又《また》|鶴嘴《つるばし》で|土《つち》をつつきては|鋤鏈《じよれん》で|掻《か》き|分《わ》け、|又《また》|鶴嘴《つるばし》で|土《つち》を|掘《ほ》り|二尺《にしやく》ばかりの|深《ふか》さに|四尺《よんしやく》|四方《しはう》|程《ほど》|掘《ほ》らされて|了《しま》ふた。|腹《はら》の|中《なか》から、
|大霜《おほしも》『|大分《だいぶん》お|前《まへ》も|草臥《くたぶ》れただらう。|神《かみ》も|余程《よほど》|疲《つか》れたから|一寸《ちよつと》|一服《いつぷく》|致《いた》す』
と|云《い》ふと|共《とも》に、|引着《ひつつ》いて|居《ゐ》た|鋤鏈《じよれん》は|手《て》から|離《はな》れた。|殆《ほとん》ど|十分間《じつぷんかん》ばかり|腰《こし》を|打《う》ちかけ|掘《ほ》つた|穴《あな》を|眺《なが》め、
『こんな|処《ところ》|何時迄《いつまで》|掘《ほ》つた|処《ところ》で|何《なに》が|出《で》てくるもんか』
と|心《こころ》に|思《おも》はれて|仕方《しかた》がなかつた。|腹《はら》の|中《なか》から、
|大霜《おほしも》『オイ、|喜楽《きらく》、|貴様《きさま》はまだ|疑《うたが》ふて|居《を》るな。|此処《ここ》に|金《かね》が|無《な》いと|思《おも》ふか、|神《かみ》があると|申《まを》したら|確《たしか》にある。もう|一息《ひといき》の|辛抱《しんばう》だ。さうならば|貴様《きさま》の|疑《うたがひ》もとけるだらう。|金光燦然《きんくわうさんぜん》として|目《め》も|眩《まばゆ》きばかりの、|大判《おほばん》|小判《こばん》が|無尽蔵《むじんざう》に|現《あら》はれて|来《く》るぞ。|貴様《きさま》はまだ|銀貨《ぎんくわ》や|銅貨《どうくわ》は|見《み》て|居《ゐ》るが、|金《きん》は|見《み》た|事《こと》はあるまい。ビツクリ|致《いた》さぬ|様《やう》に、|先《さき》に|気《き》をつけておく。シツカリ|腹帯《はらおび》をしめてかかるんだぞ。|嫌《いや》さうにすると|神《かみ》が|懲戒《みせしめ》を|致《いた》すぞよ。|又《また》|喉《のど》をつめようか』
|喜楽《きらく》『いやとも|何《なん》とも|云《い》つてるのぢやありませぬ。|神様《かみさま》の|云《い》ふ|通《とほ》りしとるぢやありませぬか』
|大霜《おほしも》『|随分《ずいぶん》|楽《たの》しみぢやらうなア。|何程《なにほど》|貴様《きさま》は|金《かね》は|要《い》らぬと【ヘラズ】|口《ぐち》を|叩《たた》いても、|其《その》|金《きん》が|隠《かく》してあると|思《おも》へば、やつぱり|心《こころ》がいそいそするだらう。|此《この》|金《かね》がありさへすれば、|此《この》|世《よ》の|中《なか》に|苦労《くらう》も|要《い》らず|結構《けつこう》に|渡《わた》られるのだ。|貴様《きさま》は|余程《よほど》|果報者《くわほうもの》だ。サア|早《はや》く|鶴嘴《つるばし》を|持《も》て!』
と|云《い》ふかと|見《み》れば、|自分《じぶん》の|体《からだ》は|器械的《きかいてき》にポイと|立《た》ち|上《あが》り、|矢庭《やには》に|鶴嘴《つるばし》を|握《にぎ》り、カチンカチンと|大地《だいち》をつつき|出《だ》した。|掘《ほ》つても|掘《ほ》つても|天然《てんねん》の|岩《いは》ばかり|二尺《にしやく》ほど|下《した》に|並《なら》んでゐる。|又《また》|一時間《いちじかん》|程《ほど》|掘《ほ》らされたが、|今度《こんど》は|一寸《ちよつと》も|掘《ほ》れない。|鶴嘴《つるばし》の|先《さき》は|坊主《ばうず》になつて|了《しま》ひ、|一寸《ちよつと》も|利《き》かなくなつて|了《しま》つた。
|喜楽《きらく》『こんな|岩《いは》ばかり、|何時迄《いつまで》こついて|居《を》つても|駄目《だめ》でせう。|誰《たれ》かが|埋《い》けたのなら|岩蓋《いはぶた》が|出《で》なければならぬ。|此奴《こいつ》ア|天然《てんねん》の|岩《いは》に|違《ちが》ひありませぬ。チツと|処《ところ》が|間違《まちが》ふて|居《を》るのぢやありませぬか、もう|欲《よく》にも|徳《とく》にも|此《この》|上《うへ》|働《はたら》く|事《こと》は|出来《でき》ませぬわ』
|大霜《おほしも》『アハヽヽヽ、|腰抜《こしぬ》けだな。そんな|弱《よわ》い|事《こと》で|如何《どう》して|神様《かみさま》の|御用《ごよう》が|出来《でき》るか。|地球《ちきう》の|中心《ちうしん》|迄《まで》|打《ぶ》ち|抜《ぬ》く|丈《だけ》の|決心《けつしん》がなければ、|三間《さんげん》や|五間《ごけん》|掘《ほ》つては|小判《こばん》の|処《ところ》へは|届《とど》かぬぞ』
|喜楽《きらく》『|天狗《てんぐ》サン、お|前《まへ》サン|俺《わし》を|騙《だま》したのだなア。あんまり|殺生《せつしやう》ぢやありませぬか。|金《かね》を|欲《ほ》しがつて|居《ゐ》る|元市《もといち》には|掘《ほ》らさずに、|金《かね》なんか|要《い》らぬと|云《い》つて|居《ゐ》る|私《わたし》を、|此《こ》んな|処《ところ》へ|連《つ》れて|来《き》て|騙《だま》すとはあんまりです。サアもう|私《わたし》の|肉体《にくたい》には|置《お》きませぬ。|早《はや》く|出《で》て|下《くだ》さい』
|大霜《おほしも》『|何程《なにほど》|出《で》えと|云《い》つても、お|前《まへ》の|生命《いのち》のある|限《かぎ》り|出《で》る|事《こと》はならぬわい。|本当《ほんたう》は|嘘《うそ》だ、お|前《まへ》の|心《こころ》をためしたのだ。こんな|処《ところ》へ|金《かね》があつて|堪《たま》るかい。アハヽヽヽ』
|喜楽《きらく》『こりや、ど|狸《たぬき》! |人《ひと》の|体《からだ》へ|這入《はい》りやがつて、|馬鹿《ばか》に【さらす】も|程《ほど》がある。もう|何《なん》と|云《い》ふても|俺《おれ》の|体《からだ》にはおいてやらぬぞ』
|大霜《おほしも》『|貴様《きさま》はまだ|金《かね》が|欲《ほ》しいのか』
|喜楽《きらく》『|俺《おれ》は|一寸《ちよつと》も|欲《ほ》しくないわい。|天狗《てんぐ》の|奴《やつ》が|欲《ほ》しいものだから|俺《おれ》を|使《つか》ひやがつて、あてが|外《はづ》れたのだらう。あんまり|馬鹿《ばか》にすな、サア|去《い》にくされ』
と|腹《はら》から|胸《むね》を|握《にぎ》り|拳《こぶし》で|力一杯《ちからいつぱい》|叩《たた》いて|見《み》た。それきり|腹《はら》の|中《なか》の|塊《かたまり》も|舞《ま》ひ|上《あが》つて|来《こ》ず、|仏《ぶつ》が|法《ほふ》とも|云《い》はなくなつた。|斯《か》うなると|俄《にはか》に|淋《さび》しくなつて|堪《たま》らない。|折角《せつかく》|此処迄《ここまで》|来《き》て、|空畚《からふご》を|担《かつ》いで|帰《かへ》るのも|態《ざま》が|悪《わる》いと、|月夜《つきよ》の|事《こと》で|露《つゆ》をおびて|光《ひか》つて|居《ゐ》る|紫躑躅《むらさきつつじ》や|赤躑躅《あかつつじ》を、ポキポキ|折《お》つて|一荷《いつか》の|花《はな》の|荷《に》を|拵《こしら》へ、そこへ|鶴嘴《つるばし》や|鋤鏈《じよれん》を|隠《かく》し、|朧月夜《おぼろづきよ》を【ぼやい】たり、びくついたりし|乍《なが》ら、|漸《やうや》くにして|砂止《すなどめ》|迄《まで》|帰《かへ》つて|来《き》た。
|其処《そこ》にはハツキリ|分《わか》らぬが|二《ふた》つの|黒《くろ》い|影《かげ》が|腰《こし》をかけて、|煙管煙草《きせるたばこ》をスパスパやつて|居《ゐ》る。|喜楽《きらく》は|心《こころ》の|裡《うち》で、
『ハテナ、|今頃《いまごろ》にあんな|処《ところ》に|男《をとこ》が|煙草《たばこ》を|吸《す》ふて|居《ゐ》やがる。ヒヨツとしたら|泥坊《どろばう》かも|知《し》れぬぞ。もし|泥坊《どろばう》だつたら、|折角《せつかく》|掘《ほ》り|出《だ》した|小判《こばん》を|皆《みな》|盗《と》られて|了《しま》ひ、|生命《いのち》まで|奪《と》られて|了《しま》ふかも|知《し》れぬ。マア、|金《かね》が|無《な》うてよかつた。もし|泥坊《どろばう》が|何《なに》か|渡《わた》せと|云《い》つたら、|此《この》|花《はな》をつき|出《だ》してやつたら|吃驚《びつくり》するだらう』
と|思《おも》ひ|乍《なが》ら、|怕々《こはごは》|一筋道《ひとすぢみち》を|黒《くろ》い|影《かげ》の|処《ところ》|迄《まで》やつて|来《く》ると、
『ヤア、|大先生《だいせんせい》、お|目出度《めでた》う! |之《これ》から|私《わたし》が|担《かつ》いであげます。|実《じつ》の|所《ところ》は|大霜《おほしも》さまがきつう|止《と》められましたから、お|供《とも》はしませんでしたが、|一生懸命《いつしやうけんめい》|掘《ほ》つて|厶《ござ》つた|時《とき》、|一丁《いつちやう》|程《ほど》|側《わき》から|見張《みは》りをして|居《を》りました。|大分《だいぶ》|沢山《たくさん》|掘《ほ》れましたやらうなア。サア|私《わたし》が|之《これ》から|担《かつ》いであげませう。|何分《なにぶん》|黄金《わうごん》といふものは|嵩《かさ》の|割合《わりあひ》に|重《おも》いもんだから……』
と|欣々《いそいそ》として|噪《はしや》いでゐる。
|喜楽《きらく》『いいえ、そんなに|重《おも》いものぢやありませぬ。|空畚《からふご》と|同《おな》じですから、|此《この》|儘《まま》|私《わたし》が|担《かつ》いで|参《まゐ》ります。|薩張《さつぱ》り|駄目《だめ》でした』
|元市《もといち》『|駄目《だめ》でしたやらう。それはその|筈《はず》ぢや。|此処《ここ》はマア|駄目《だめ》にして、|此《この》|儘《まま》|私《わたし》の|家《うち》へ|帰《かへ》つたら|如何《どう》ですか』
|喜楽《きらく》『|元市《もといち》サン、みんな|空畚《からふご》で|躑躅《つつじ》の|花《はな》ばつかりです』
|元市《もといち》『|上《うは》かはは|躑躅《つつじ》でも|宜《よ》いぢやないか、どれ|私《わたし》が|担《かつ》ぎます』
と|無理《むり》に|棒《ぼう》をひつたくつて|肩《かた》に|担《かつ》ぎ、
|元市《もといち》『あゝ|割《わり》とは|軽《かる》い、これでも|一万円《いちまんゑん》|位《ぐらゐ》はあるだらう。|空畚《からふご》にしては|大変《たいへん》|重《おも》いから……』
|喜楽《きらく》『|重《おも》いのは|鶴嘴《つるばし》の|目方《めかた》ぢや』
|元市《もといち》『マア|結構《けつこう》|々々《けつこう》、|仮令《たとへ》|少々《せうせう》でも|資本《もとで》さへあればよい。サア|之《これ》から|八十万円《はちじふまんゑん》|儲《まう》けて、|天狗《てんぐ》さまの|公園《こうゑん》にかからう』
と|欣々《いそいそ》として|吾《わが》|家《や》へ|帰《かへ》つて|行《ゆ》く。
それから|後《あと》は|元市《もといち》|親子《おやこ》の|信用《しんよう》を|失《うしな》ひ、|遂《つひ》には|修行場《しうぎやうば》まで|断《ことわ》られて|了《しま》つた。|不得已《やむをえず》、|自分《じぶん》は|自宅《じたく》へ|帰《かへ》つて|自修《じしう》する|事《こと》となつた。|多田《ただ》|琴《こと》は|中村《なかむら》へ|帰《かへ》つて|奥山川《おくやまがは》の|水《みづ》に|浸《ひた》り|御禊《みそぎ》し|乍《なが》ら、|盛《さかん》に|鎮魂《ちんこん》や|帰神《きしん》の|修業《しうげふ》を|四五人《しごにん》と|共《とも》にやつて|居《ゐ》た。
(大正一一・一〇・九 旧八・一九 北村隆光録)
第九章 |牛《うし》の|糞《くそ》〔一〇二一〕
|斎藤《さいとう》|元市《もといち》|氏《し》は|大霜天狗《おほしもてんぐ》の|託宣《たくせん》のがらりと|外《はづ》れたのに|愛想《あいさう》をつかし、|修業場《しうげふば》を|貸《か》すことを|謝絶《しやぜつ》し、それきり|自分《じぶん》の|方《はう》へは|見向《みむ》きもせなくなつたのみならず、『|大先生《だいせんせい》』と、|暫《しばら》く|崇《あが》めてゐた|喜楽《きらく》に『|泥狸《どぶだぬき》、ド|狸《たぬき》、|野天狗《のてんぐ》、ド|気違《きちがひ》』と|罵《ののし》り|始《はじ》めた。そして|自分《じぶん》の|妻《つま》の|妹《いもうと》のチンコの|静子《しづこ》を、|中村《なかむら》の|修業場《しうげふば》から|引張《ひつぱり》|帰《かへ》り、|園部《そのべ》の|下司《げし》|熊吉《くまきち》といふ|博奕打《ばくちうち》の|稲荷下《いなりさ》げをする|男《をとこ》の|女房《にようばう》にやつて|了《しま》つた。|十三歳《じふさんさい》の|高子《たかこ》の|方《はう》は|神懸《かむがか》りが|面白《おもしろ》いので、|中村《なかむら》の|多田《ただ》|亀《かめ》の|内《うち》で|修業《しうげふ》をして|居《ゐ》た。|宇一《ういち》は|爺《おやぢ》の|目《め》を|忍《しの》んで、そろそろ|喜楽《きらく》の|宅《たく》へ|出入《でい》りを|始《はじ》めた。そして|神《かみ》の|道《みち》を|覚束《おぼつか》なげに|研究《けんきう》してゐた。
|奥山《おくやま》で|失敗《しつぱい》して|帰《かへ》つてから、|五日目《いつかめ》の|夜《よ》さであつた。|又《また》もや|大霜《おほしも》|天狗《てんぐ》サンが、|五日間《いつかかん》の|沈黙《ちんもく》を|破《やぶ》つて、|腹《はら》の|中《なか》からグルグルと|舞《ま》ひ|上《のぼ》り、|喉元《のどもと》へ|来《き》て|呶《ど》なり|始《はじ》めた。|喜楽《きらく》はヤア|又《また》かと、|迷惑《めいわく》してゐると、|雷《かみなり》のやうな|大《おほ》きな|声《こゑ》で、
|大霜《おほしも》『|此《この》|方《はう》は|住吉《すみよし》の|眷族《けんぞく》|大霜《おほしも》であるぞよ。|男山《をとこやま》の|眷族《けんぞく》|小松林《こまつばやし》の|命令《めいれい》に|依《よ》つて、|再《ふたた》びここに|現《あら》はれ、|其《その》|方《はう》に|申渡《まをしわた》すことがあるから、シツカリ|聞《き》くがよいぞ。|宇一《ういち》は|暫《しばら》く|席《せき》を|遠《とほ》ざけたがよからう』
|宇一《ういち》は|審神者《さには》|気取《きど》りになり、
|宇一《ういち》『コレ|大霜《おほしも》|天狗《てんぐ》サン、|余《あま》り|人《ひと》を|馬鹿《ばか》にしなさるな。|奥山《おくやま》に|金《かね》が|埋《い》けてあるなんて、|能《よ》うそんな|出放題《ではうだい》が|言《い》へましたなア、モウこれからお|前《まへ》の|云《い》ふことは|一言《ひとこと》も|聞《き》きませぬで……オイ|喜楽《きらく》、チとシツカリせぬと|可《い》かんぜ。お|前《まへ》の|口《くち》から|言《い》ふのぢやないか、|余程《よほど》|気《き》を|附《つ》けぬと|気違《きちがひ》になつて|了《しま》うぞ。……オイ|大霜《おほしも》、これでも|神《かみ》の|申《まを》すことに|二言《にごん》がないといふか。|八十万円《はちじふまんゑん》なんて|駄法螺《だぼら》を|吹《ふ》きやがつて、|俺《おれ》たち|親子《おやこ》を|馬鹿《ばか》にしやがつたな』
|大霜《おほしも》『|八十万円《はちじふまんゑん》でも|八百万円《はつぴやくまんゑん》でも|其《その》|方《はう》の|心次第《こころしだい》で|与《あた》へてやる。まだ|改心《かいしん》が|出来《でき》ぬから、|誠《まこと》のことが|言《い》うてやれぬのだ。|金《かね》の|欲《よく》が|離《はな》れたら|幾《いく》らでも|金《かね》を|与《あた》へてやる』
|宇一《ういち》『|金《かね》の|必要《ひつえう》があるから|欲《ほ》しくなるのです。|誰《たれ》だつて|必要《ひつえう》のない|物《もの》は|欲《ほ》しいことはありませぬ、|欲《ほ》しくない|金《かね》なら|要《い》りませぬワイ。|石瓦《いしかはら》も|同然《どうぜん》だから、|金《かね》を|欲《ほ》しがらぬ|奴《やつ》には|金《かね》をやらう、|欲《ほ》しがる|奴《やつ》にはやらぬといふ|意地《いぢ》の|悪《わる》い|神《かみ》がどこにあるか、チツと|考《かんが》へなさい。|審神者《さには》が|気《き》をつけます』
|大霜《おほしも》『そんならこれから|神《かみ》も|改心《かいしん》して、|欲《ほ》しがる|奴《やつ》にチツと|計《ばか》り|与《あた》へてやらう』
|宇一《ういち》『ハイ、|私《わたし》は|別《べつ》に|必要《ひつえう》は|厶《ござ》いませぬが、|内《うち》の|爺《おやぢ》は|先祖《せんぞ》からの|財産《ざいさん》を|相場《さうば》でスツクリ|無《な》くして|了《しま》つたものですから、|親類《しんるゐ》からはいろいろ|攻撃《こうげき》せられ、あの|養子《やうし》は【ようし】ぢやない、【わるうし】だと|人《ひと》に|言《い》はれるのが|残念《ざんねん》ぢやと|悔《く》やんで|居《を》ります。|余《あま》り|欲《よく》な|事《こと》は|申《まを》しませぬから、|元《もと》の|身上《しんじやう》になる|所《ところ》|迄《まで》|金《かね》を|与《あた》へてやつて|下《くだ》さい。そしたら|爺《おやぢ》も|喜《よろこ》んで|信仰《しんかう》いたします。|此《この》|頃《ごろ》は|大霜《おほしも》サンが|喜楽《きらく》にうつつて|騙《だま》しやがつたと|云《い》つて|怒《おこ》つてゐます。それ|故《ゆゑ》|私《わたし》も|爺《おやぢ》に|内証《ないしよう》で、|斯《か》うして|神《かみ》さまの|御用《ごよう》をさして|貰《もら》はうと|勉強《べんきやう》して|居《ゐ》るので|厶《ござ》います』
|大霜《おほしも》『お|前《まへ》は|親《おや》に|似合《にあ》はぬ|殊勝《しゆしよう》な|奴《やつ》だ、それ|丈《だけ》の|心掛《こころがけ》があらば|結構《けつこう》だ。そんならこれから|金《かね》の|所在《ありか》を|本当《ほんたう》に|知《し》らしてやる、|決《けつ》して|疑《うたが》ふではないぞ。|先《さき》に|騙《だま》されたから|今度《こんど》も|嘘《うそ》だらうと、そんな|疑《うたがひ》を|起《おこ》さうものなら、|又《また》もや|金銀《きんぎん》の|入《はい》つた|財布《さいふ》が|牛糞《うしくそ》に|化《ば》けるか|知《し》れぬぞ、よいか!』
|宇一《ういち》『|決《けつ》して|神《かみ》さまのお|言《ことば》を|始《はじ》めから|疑《うたが》うて|居《ゐ》るのぢや|厶《ござ》いませぬが、|此《この》|間《あひだ》の|様《やう》に|神様《かみさま》から|間違《まちが》はされると、|又《また》しても|騙《だま》されるのぢやないかと、|自然《しぜん》に|心《こころ》がひがみまして、|一寸《ちよつと》|計《ばか》り|疑《うたがひ》が|起《おこ》つて|参《まゐ》ります』
|大霜《おほしも》『それが|大体《だいたい》|悪《わる》いのだ。|綺麗《きれい》サツパリと|改心《かいしん》をいたして、|此《この》|方《はう》の|申《まを》すことを|一《いち》から|十《じふ》|迄《まで》|信《しん》ずるのだぞ』
|宇一《ういち》『ハイ、|一点《いつてん》|疑《うたがひ》をさし|挟《はさ》みませぬから、お|告《つ》げを|願《ねが》ひます』
|大霜《おほしも》『そんなら|言《い》つてやらう、|一万両《いちまんりやう》でよいか』
|宇一《ういち》『ハイ、|当分《たうぶん》|一万両《いちまんりやう》あれば、さぞ|爺《おやぢ》が|喜《よろこ》ぶこつて|厶《ござ》りませう』
|大霜《おほしも》『|其《その》|一万両《いちまんりやう》を|如何《どう》する|積《つも》りだ。|天狗《てんぐ》の|公園《こうゑん》を|先《さき》にするか、|自分《じぶん》の|目的《もくてき》の|相場《さうば》の|方《はう》にかかるか、|其《その》|先決《せんけつ》|問題《もんだい》からきめておかねば|言《い》うてやる|事《こと》は|出来《でき》ぬワイ』
|宇一《ういち》『ハイ、そこは|神《かみ》さまにお|任《まか》せ|致《いた》します。|御命令《ごめいれい》|通《どほ》りになりますから……』
|大霜《おほしも》『そんなら|言《い》つてやらう、よつく|聞《き》け! |葦野山峠《あしのやまたうげ》を|二町《にちやう》|許《ばか》り|西《にし》へ|下《お》りかけた|所《ところ》の|道端《みちばた》の|叢《くさむら》に、|十万円《じふまんゑん》|這入《はい》つた|大《おほ》きな|色《いろ》の|黒《くろ》い|財布《さいふ》がおちてゐる。それは|鴻《こう》の|池《いけ》の|番頭《ばんとう》が|京都《きやうと》の|銀行《ぎんかう》から|取出《とりだ》して、|大阪《おほさか》へ|帰《かへ》る|途中《とちう》|泥坊《どろばう》の|用心《ようじん》にと、ワザと|途《みち》を|転《てん》じて|葦野山峠《あしのやまたうげ》を|越《こ》えた|所《ところ》、|泥坊《どろばう》の|奴《やつ》、チヤンと|先廻《さきまは》りを|致《いた》し、|葦野山峠《あしのやまたうげ》に|待《ま》つてゐた。それとも|知《し》らず|番頭《ばんとう》は、|百円札《ひやくゑんさつ》で|一千枚《いつせんまい》|都合《つがふ》|十万円《じふまんゑん》|持《も》つて、|葦野山峠《あしのやまたうげ》をスタスタと|登《のぼ》り、|夜《よる》の|十二時《じふにじ》|頃《ごろ》|通《とほ》つた|所《ところ》を、|泥棒《どろばう》が|物《もの》をも|云《い》はず、|後《あと》からグーイと|引《ひ》つたくり、|持《も》つて|逃《に》げ|様《やう》と|致《いた》すのを、|此《この》|大天狗《だいてんぐ》が|大喝《だいかつ》|一声《いつせい》……|曲者《くせもの》!……と|樹《き》の|上《うへ》から|呶鳴《どな》りつけた|所《ところ》、|泥棒《どろばう》は|一生懸命《いつしやうけんめい》に|逃《に》げ|出《だ》す、|番頭《ばんとう》は|生命《いのち》カラガラ|能勢《のせ》の|方面《はうめん》へ|逃《に》げて|行《ゆ》く。アヽ|大切《たいせつ》な|主人《しゆじん》の|金《かね》を|泥棒《どろばう》に|取《と》られて、|如何《どう》|申訳《まをしわけ》があらう、|一層《いつそう》|池《いけ》へ|身《み》を|投《な》げて|申訳《まをしわけ》をせうと、|今《いま》|大《おほ》きな|池《いけ》のふちにウロウロしてゐる|所《ところ》だ。それをどうぞして|助《たす》けてやらうと、|此《この》|方《はう》の|眷族《けんぞく》を|間配《まくば》つて|守護《しゆご》|致《いた》して|居《を》るから、|先《ま》づ|今晩《こんばん》は|大丈夫《だいぢやうぶ》だが、|何《いづ》れ|彼奴《あいつ》は|金《かね》が|出《で》ない|以上《いじやう》は|死《し》ぬに|違《ちが》ひない、それ|故《ゆゑ》|其《その》|方《はう》が|其《その》|金《かね》を|拾《ひろ》ひ、|其《その》|筋《すぢ》へ|届《とど》けたなら|規則《きそく》として|一割《いちわり》は|貰《もら》へるのだ、|一割《いちわり》でも|一万円《いちまんゑん》になる、サア|早《はや》く|行《ゆ》け!』
|宇一《ういち》『それは|何時《いつ》|賊《ぞく》が|出《で》ましたので|厶《ござ》いますか?』
|大霜《おほしも》『|今晩《こんばん》の|十二時《じふにじ》|頃《ごろ》に|出《で》たのだ』
|宇一《ういち》『|一寸《ちよつと》|待《ま》つて|下《くだ》さい、まだ|午後《ごご》|五時《ごじ》で|御座《ござ》います。|日《ひ》も|暮《く》れて|居《を》らぬのに、|今晩《こんばん》の|十二時《じふにじ》に|賊《ぞく》が|出《で》たとは、そら|昨夜《さくや》の|間違《まちが》ひと|違《ちが》ひますか?』
|大霜《おほしも》『ナニ|今晩《こんばん》に|間違《まちがひ》ない、|神《かみ》は|過去《くわこ》、|現在《げんざい》、|未来《みらい》|一《ひと》つに|見《み》え|透《す》くのだ。|先《さき》に|出《で》て|来《く》る|事《こと》を|知《し》らぬ|様《やう》では|神《かみ》とは|申《まを》さぬぞよ。サア|早《はや》く|行《ゆ》け、グヅグヅして|居《ゐ》ると|番頭《ばんとう》の|寿命《じゆめう》がなくなるばかりか、|十万円《じふまんゑん》の|金《かね》を|又《また》|外《ほか》の|奴《やつ》に|拾《ひろ》はれて|了《しま》へば、メツタに|出《で》て|来《く》る|例《ため》しがない』
|宇一《ういち》『|葦野山峠《あしのやまたうげ》は|僅《わづか》に|一里《いちり》|計《ばか》りの|所《ところ》です。|今《いま》から|行《ゆ》きましたら|六時《ろくじ》には|着《つ》きます。|六時間《ろくじかん》も|待《ま》つて|居《ゐ》るのですか?』
|大霜《おほしも》『オウそうぢや、お|前《まへ》は|肉体《にくたい》を|持《も》つた|現界《げんかい》の|人間《にんげん》だ、|神界《しんかい》と|同《おな》じ|調子《てうし》には|行《ゆ》かぬワイ、そんなら|十二時《じふにじ》に|賊《ぞく》が|出《で》て|金《かね》を|取《と》るのだから、|余《あま》り|早過《はやす》ぎてもいかず、|遅過《おそす》ぎてもいかぬから、|此処《ここ》を|十一時半《じふいちじはん》に|立《た》つて|行《ゆ》け、そうすれば|丁度《ちやうど》|都合《つがふ》がよからう』
|宇一《ういち》『|最前《さいぜん》|申《まを》した|様《やう》に|決《けつ》して|疑《うたがひ》は|致《いた》しませぬけれど、もし|間違《まちが》つたら|如何《どう》して|下《くだ》さいますか?』
|大霜《おほしも》『|間違《まちが》うと|思《おも》ふなら|行《ゆ》かぬがよかろ、|後《あと》で|不足《ふそく》を|聞《き》くのは|面倒《めんだう》だから、|一層《いつそ》の|事《こと》|喜楽《きらく》|一人《ひとり》|行《ゆ》くがよい、|一万円《いちまんゑん》の|謝金《しやきん》は|其《その》|方《はう》の|自由《じいう》に|使《つか》うたが|宜《よ》からうぞ』
|宇一《ういち》『もし|大霜《おほしも》さま、|此《この》|間《あひだ》の|様《やう》に|喜楽《きらく》|丈《だけ》が|行《ゆ》きますと、|不結果《ふけつくわ》に|了《をは》るかも|知《し》れませぬ。|私《わたし》も|一緒《いつしよ》に|連《つ》らつて|行《い》つたら|如何《どう》ですか?』
|大霜《おほしも》『それも|宜《よ》からう。それまでに|水《みづ》を|三百三十三杯《さんびやくさんじふさんばい》|頭《あたま》からかぶり|神言《かみごと》を|五十遍《ごじつぺん》|上《あ》げよ。そうすればこれから|丁度《ちやうど》|十一時半《じふいちじはん》|迄《まで》|時間《じかん》がかかる、それから|行《い》つたがよからう。|神《かみ》は|之《これ》から|引取《ひきと》るぞよ』
ドスンと|飛上《とびあが》り、|畳《たたみ》を|響《ひび》かせ|鎮《しづ》まつて|了《しま》つた。|宇一《ういち》は|釣瓶《つるべ》に|三百三十三杯《さんびやくさんじふさんばい》の|水《みづ》をカブるのは|苦痛《くつう》で|堪《たま》らず、|小《ちひ》さい|杓《しやく》で、|一杯《いつぱい》の|水《みづ》を|三《さん》しづく|程《ほど》|酌《く》んで『|一《ひと》つ|二《ふた》つ|三《みつ》つ……』と|云《い》つて|三百三十三杯《さんびやくさんじふさんばい》かぶる|真似《まね》をしてゐた。|祝詞《のりと》も|神言《かみごと》では|長《なが》いと|云《い》つて、|天津祝詞《あまつのりと》に|代《か》へて|貰《もら》ひ、|漸《やうや》くにして|五十遍《ごじつぺん》|早口《はやぐち》に|唱《とな》へて|了《しま》ひ、
|宇一《ういち》『サア|喜楽《きらく》、ソロソロ|行《ゆ》かうぢやないか。まだ|九時《くじ》|過《す》ぎだが、|道々《みちみち》|修行《しうぎやう》したりなんかしもつて|行《ゆ》けば、|丁度《ちやうど》よい|時間《じかん》になるよ。|遅《おそ》いより|早《はや》いがましだからな』
|喜楽《きらく》『モウおかうかい、おれは|何《なん》だか|本当《ほんたう》のやうに|思《おも》はぬワ。|又《また》|此《この》|間《あひだ》の|様《やう》な|目《め》に|会《あ》はされると|馬鹿《ばか》らしいからな』
|宇一《ういち》『|羹物《あつもの》にこりて|膾《なます》を|吹《ふ》くとはお|前《まへ》の|事《こと》だ、そう|神《かみ》さまだつて|何遍《なんべん》も|人《ひと》を|弄《もてあそ》びになさる|筈《はず》がない、|疑《うたが》ふのが|一番《いちばん》|悪《わる》い、|何《なん》でも|唯々諾々《いいだくだく》として|是《これ》|命《めい》|維《こ》れ|従《したが》ふと|云《い》ふのが、|信仰《しんかう》の|道《みち》だ。そんな|事《こと》|云《い》はずに|行《ゆ》かうぢやないか』
|喜楽《きらく》『|余《あま》り|人《ひと》に|分《わか》らぬよにしてをつてくれ。もし|失策《しくじ》つたら|又《また》|次郎松《じろまつ》サンに|村中《むらぢう》|触《ふ》れ|歩《ある》かれると|困《こま》るからなア』
|宇一《ういち》は『ヨシヨシ』と|諾《き》き|乍《なが》ら、|早《はや》くも|吾《わが》|茅家《あばらや》を|立出《たちい》でる。|喜楽《きらく》も|従《つ》いて、|田圃路《たんぼみち》を|辿《たど》り|天川村《てんがはむら》を|右《みぎ》に|見《み》て、|出山《いでやま》を|越《こ》え、|上佐伯《かみさへき》の|御霊神社《ごりやうじんじや》の|森《もり》に|辿《たど》りつき、|森《もり》の|杉《すぎ》の|木《き》の|株《かぶ》に|腰《こし》を|打掛《うちか》て、|夜《よる》のボヤボヤした|春風《はるかぜ》を|身《み》に|浴《あ》び|乍《なが》ら、|眠《ねむ》たいのを|無理《むり》に|辛抱《しんばう》して、|時刻《じこく》の|到《いた》るのを|待《ま》つてゐた。
|愈《いよいよ》|十一時《じふいちじ》を|社務所《しやむしよ》の|時計《とけい》が|打出《うちだ》した。
『アヽモウ|十一時《じふいちじ》だ、|早《はや》く|行《ゆ》かう』
と|宇一《ういち》は|先《さき》に|立《た》つ。|喜楽《きらく》は|後《あと》からスタスタと|険《けは》しき|葦野山峠《あしのやまたうげ》を、|七八丁《しちはつちやう》|計《ばか》り|登《のぼ》つて|行《ゆ》く。|峠《たうげ》の|茶屋《ちやや》に|山田屋《やまだや》と|云《い》ふのがあつた。まだ|時刻《じこく》が|早《はや》いので、|一寸《ちよつと》|一服《いつぷく》して|行《ゆ》かうと、|戸《と》の|隙《すき》から|中《なか》を|覗《のぞ》くと、|此《この》|五六軒《ごろくけん》よりかない|村《むら》の|若《わか》い|者《もの》が、まだ|遊《あそ》んでゐる。……コリヤ|却《かへつ》て|都合《つがふ》が|悪《わる》い……と|云《い》ひ|乍《なが》ら、|峠《たうげ》の|右側《みぎがは》の|松林《まつばやし》に|進《すす》み|入《い》り、|暫《しばら》く|時刻《じこく》の|到《いた》るを|待《ま》つてゐる|間《あひだ》に、|二人《ふたり》|共《とも》グツスリ|寝込《ねこ》んで|了《しま》つた。
フツと|先《さき》に|目《め》が|開《あ》いたのは|宇一《ういち》であつた。
|宇一《ういち》『オイ|喜楽《きらく》、|早《はや》う|起《お》きぬか、|今《いま》|一寸《ちよつと》|道《みち》の|方《はう》を|覗《のぞ》いて|居《を》りたら、|神《かみ》さまの|云《い》ふたやうに、|一人《ひとり》の|黒《くろ》い|男《をとこ》が、|財布《さいふ》の|様《やう》な|者《もの》を|担《かた》げて|通《とほ》りよつたぞ。|又《また》|其《その》|後《あと》へ|二人《ふたり》の|男《をとこ》が|一町《いつちやう》ほど|離《はな》れて|行《ゆ》きよつた。ヤツパリ|神様《かみさま》の|仰《おつ》しやる|事《こと》は|違《ちが》はぬワ。|丁度《ちやうど》|今《いま》|財布《さいふ》をボツタクられてる|所《ところ》だ。|余《あま》り|早《はや》く|行《ゆ》くと|俺達《おれたち》が|泥棒《どろばう》と|間違《まちが》へられて|天狗《てんぐ》さまに|叱《しか》られては|大変《たいへん》だから、ゆつくりして|行《ゆ》かうだないか』
と|小《ちひ》さい|声《こゑ》で|囁《ささや》く。|喜楽《きらく》の|心《こころ》の|中《うち》は、|八分《はちぶ》まで|信《しん》ぜられない、|如何《どう》してもウソの|様《やう》な|気《き》がする。けれ|共《ども》|二分《にぶ》|許《ばか》り|何《なん》とはなしに|希望《きばう》の|糸《いと》につながれてるやうな|気《き》がした。
そこで|両人《りやうにん》は|林《はやし》の|中《なか》から|街道《かいだう》へ|下《お》り、|峠《たうげ》を|二町《にちやう》ばかり|降《くだ》つて|見《み》ると、|一寸《ちよつと》|曲《まが》り|途《みち》がある。ここに|間違《まちが》ひないとよく|目《め》を|光《ひか》らして|見《み》れば、|財布《さいふ》の|様《やう》なものが|黒《くろ》く|落《お》ちてゐる。|二人《ふたり》は|一《ひ》イ|二《ふ》ウ|三《み》ツで|其《そ》の|黒《くろ》い|物《もの》に|手《て》をかけると、|財布《さいふ》と|思《おも》ふたのは|牛《うし》の|糞《くそ》の|段塚《だんづか》であつた。
|二人《ふたり》は|余《あま》り|馬鹿《ばか》らしいので、|互《たがひ》に|何《なん》とも|云《い》はず、まだ|外《ほか》に|落《お》ちてるに|違《ちが》ひないと、|汚《けが》れた|手《て》をそこらの|草《くさ》にこすりつけ|拭《ふ》き|取《と》り|乍《なが》らガザリガザリと|草《くさ》の|中《なか》を|捜《さが》して|見《み》た。ここは|常《つね》から|牛車《ぎうしや》の|一服《いつぷく》する|場所《ばしよ》で、|路傍《みちばた》の|草原《くさはら》に|牛《うし》をつなぐ|為《ため》、どこにもかしこにも|牛糞《うしくそ》だらけである。……コラ|此処《ここ》ではあるまい……と|又《また》|一町《いつちやう》|許《ばか》り|降《くだ》り、そこら|中《ぢう》|捜《さが》してみたが、|何一《なにひと》つおちてゐない。|念入《ねんい》りに|葦野峠《あしのたうげ》の|西坂《にしさか》|五六丁《ごろくちやう》の|間《あひだ》を|捜《さが》してる|間《あひだ》に、|夜《よ》はガラリと|明《あ》けて|了《しま》つた。|宇一《ういち》は|失望落胆《しつばうらくたん》の|余《あま》り、
|宇一《ういち》『オイ|喜楽《きらく》、|貴様《きさま》の|神懸《かむがか》りはサツパリ|駄目《だめ》だ。|今度《こんど》は|糞《くそ》を|掴《つか》ましやがつただないか、クソ|忌々《いまいま》しい、もうこんな|事《こと》は|誰《たれ》にもいふなよ。お|前《まへ》は|口《くち》が|軽《かる》いから|困《こま》る。そして|今日《けふ》|限《かぎ》り|神懸《かむがか》りは|止《や》めようぢやないか』
|喜楽《きらく》『グヅグヅして|居《ゐ》ると|金《かね》の|財布《さいふ》が|牛糞《うしぐそ》になると|神《かみ》さまが|言《い》ふたぢやないか。モウ|仕方《しかた》がない、これも|修業《しうげふ》ぢやと|思《おも》うて|諦《あきら》めようかい』
|宇一《ういち》『サア|早《はや》く|帰《い》なう、|誰《たれ》に|出会《であ》うか|知《し》れやしない。|余《あま》り|見《み》つともよくないから……』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら、|力《ちから》なげに|両人《りやうにん》は|穴太《あなを》へ|帰《かへ》つて|来《き》た。
|斯《かく》の|如《ごと》くして|神《かみ》さまは|天狗《てんぐ》を|使《つか》ひ、|自分等《じぶんら》の|執着《しふちやく》を|根底《こんてい》より|払拭《ふつしき》し|去《さ》り、|真《しん》の|神柱《かむばしら》としてやらうと|思召《おぼしめ》し、いろいろと|工夫《くふう》をおこらし|下《くだ》さつたのだと、|二十年《にじふねん》|程《ほど》|経《た》つて|気《き》がついた。それ|迄《まで》は|時々《ときどき》|思《おも》ひ|出《だ》して、|馬鹿《ばか》らしくつて|堪《たま》らなかつたのである。あゝ|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》。
(大正一一・一〇・九 旧八・一九 松村真澄録)
第一〇章 |矢田《やだ》の|滝《たき》〔一〇二二〕
|葦野山峠《あしのやまたうげ》の|西坂《にしざか》でマンマと|牛糞《うしくそ》をつかまされ、|阿呆《あはう》らしくて|堪《たま》らず、|稍《やや》|自暴自棄的《じばうじきてき》になつて、|二三日《にさんにち》の|間《あひだ》|朝寝《あさね》をする、|宵寝《よひね》もする、|天津祝詞《あまつのりと》の|奏上《そうじやう》や、|鎮魂帰神《ちんこんきしん》の|修業《しうげふ》は|中止《ちうし》してゐた。そうすると|三日目《みつかめ》の|晩《ばん》、|又《また》もや|臍下丹田《さいかたんでん》から|例《れい》のグルグルが|喉元《のどもと》へ|舞《ま》ひ|上《あが》り、
『アーアーアー』
と|大《おほ》きな|声《こゑ》を|連発《れんぱつ》し、|暫《しばら》くすると、
『|阿呆《あはう》|阿呆《あはう》|阿呆《あはう》!』
と|呶鳴《どな》りつける。|喜楽《きらく》は|思《おも》うた……|本当《ほんたう》に|天狗《てんぐ》の|云《い》ふ|通《とほ》り、|阿呆《あはう》も|阿呆《あはう》、|図《づ》なしの|阿呆《あはう》だ。|併《しか》し|乍《なが》ら|誰《たれ》にも|云《い》はずに|今《いま》まで|隠《かく》してゐるのだから、|大霜《おほしも》|天狗《てんぐ》|無頓着《むとんちやく》にあんな|声《こゑ》で、|葦野山峠《あしのやまたうげ》の|失敗《しつぱい》|事件《じけん》を|喋《しやべ》りでもせうものなら、それこそ|親兄弟《おやきやうだい》、|近所《きんじよ》|株内《かぶうち》の|奴《やつ》に|馬鹿《ばか》にしられ、|神《かみ》さまの|祭壇《さいだん》も|取除《とりのぞ》かれて|了《しま》うに|違《ちが》ひない、どうぞ|大《おほ》きな|声《こゑ》を|出《だ》してくれねばよいがなア……と|心《こころ》の|中《なか》に|念《ねん》じてゐた。
|大霜《おほしも》『コレ|肉体《にくたい》、スツパ|抜《ぬ》かうか、チツと|貴様《きさま》も|困《こま》るだろ。どうせうかな』
とからかひ|始《はじ》める。
|喜楽《きらく》『どうなつと|勝手《かつて》にしなさい。|元《もと》の|土百姓《どびやくせう》や|牧畜《ぼくちく》|業者《げふしや》になつて|了《しま》ひます。|却《かへつ》て|素破《すつぱ》ぬいた|方《はう》が|諦《あきら》めがついて|宜《よろ》しい』
|大霜《おほしも》『そう|落胆《らくたん》するものぢやない。まだお|前《まへ》は|十分《じふぶん》に|身魂《みたま》が|研《みが》けて|居《ゐ》ないから、モウ|一度《いちど》|神《かみ》が|連《つ》れて|行《ゆ》くから、|水行《すいげう》をするのだ。|小幡川原《をばたがはら》の|水《みづ》は|体《からだ》にしみ|込《こ》んで|垢《あか》がとれぬから|駄目《だめ》だ。|今度《こんど》|此《この》|方《はう》がよい|所《ところ》へ|連《つ》れて|行《い》つてやるから、|其《その》|用意《ようい》をせい。|草鞋《わらぢ》や|脚絆《きやはん》をチヤンと|拵《こしら》へて、|今晩《こんばん》の|十二時《じふにじ》に|此処《ここ》を|立《た》つ|事《こと》にするのだ』
|喜楽《きらく》『|又《また》ウソを|言《い》ふのぢやありませぬか?』
|大霜《おほしも》『|嘘《うそ》も|糞《くそ》もあつたものかい。モウ|斯《か》うなつた|以上《いじやう》は|何事《なにごと》があらうと|神《かみ》に|任《まか》し、|糞度胸《くそどきよう》を|据《す》ゑてかからねば|何事《なにごと》も|成功《せいこう》しないぞ。あの|位《くらゐ》の|事《こと》でフン|慨《がい》しとるやうな|事《こと》ぢや|駄目《だめ》だ』
|喜楽《きらく》『モシモシ|天狗《てんぐ》さま、お|前《まへ》さまは|大霜《おほしも》だと|云《い》つて|居《を》られるが、|違《ちが》ひませう。どうも|云《い》ひぶりが|松岡《まつをか》さまらしい』
|大霜《おほしも》『|松岡《まつをか》でも|大霜《おほしも》でも|構《かま》はぬぢやないか、お|前《まへ》の|魂《たましひ》さへ|研《みが》けたらいいのぢや。|本当《ほんたう》の|守護神《しゆごじん》が|分《わか》らぬやうなこつては|神柱《かむばしら》も|駄目《だめ》だ。|本当《ほんたう》は|俺《おれ》を|誰《たれ》だと|思《おも》うてるか』
|喜楽《きらく》『|松岡《まつをか》さまにきまつてゐますワイ』
|松岡《まつをか》『よう|当《あ》てた、|本当《ほんたう》は|松岡《まつをか》だ。|奥山《おくやま》へ|金掘《かねほ》りにやつたのも、|牛《うし》の|糞《くそ》を|掴《つか》ましてやつたのも|皆《みな》|此《この》|松岡《まつをか》だよ、アハヽヽヽ、ウフヽヽヽ』
|喜楽《きらく》『|馬鹿《ばか》にしなさるな』
|松岡《まつをか》『|馬鹿《ばか》の|卒業生《そつげふせい》を|馬鹿《ばか》にせうと|思《おも》つても、する|余地《よち》がないぢやないか、エヘヽヽヽ。これからサア|身魂《みたま》の|洗濯《せんたく》に|連《つ》れて|行《ゆ》かう。|草鞋《わらぢ》や|脚絆《きやはん》がなければ|下駄《げた》ばきでいいワ、サア|行《ゆ》かう』
と|腹《はら》の|中《なか》からどなると|共《とも》に、|喜楽《きらく》の|体《からだ》は|器械的《きかいてき》に|立上《たちあ》がり、|庭《には》の|駒下駄《こまげた》をはいたまま、|夜《よる》の|十二時《じふにじ》|頃《ごろ》に|自宅《じたく》を|立出《たちい》で、|小幡川《をばたがは》を|渡《わた》り、スタスタと|穴太《あなを》を|東《ひがし》に|離《はな》れ、|重利《しげとし》の|車清《くるませ》の|側《そば》の|橋《はし》を|越《こ》え、|藪《やぶ》をぬけ、|一町《いつちやう》|許《ばか》り|進《すす》むと、|自分《じぶん》の|足《あし》は|土中《どちう》から|生《は》えた|様《やう》にピタリと|止《と》まつて|了《しま》つた。そこには|田園《でんえん》に|施《ほどこ》す|肥料《ひれう》をたくはへる|糞壺《くそつぼ》があつて、|異様《いやう》の|臭気《しうき》が|鼻《はな》をついてゐる。|腹《はら》の|中《なか》から|塊《かたまり》がクルクルと|又《また》もや|喉元《のどもと》へつきつけ、
|松岡《まつをか》『オイ|肉体《にくたい》、|真裸《まつぱだか》になつて|此《この》|糞壺《くそつぼ》へ|這入《はい》り、|身魂《みたま》の|洗濯《せんたく》を|致《いた》せ!』
と|呶鳴《どな》り|出《だ》した。|体《からだ》は|自然《しぜん》に|糞壺《くそつぼ》の|方《はう》へ|進《すす》んで|行《ゆ》く。|鼻《はな》が|曲《まが》るほど|臭《くさ》うてたまらぬ。
|喜楽《きらく》『コレ|松岡《まつをか》さま、こんな|所《ところ》へ|這入《はい》つたら|尚《なほ》|汚《けが》れるぢやありませぬか。|綺麗《きれい》な|水《みづ》で|洗濯《せんたく》してやらうと|言《い》ひ|乍《なが》ら、|糞壺《くそつぼ》へ|這入《はい》れとはチツと|間違《まちが》ひぢや|厶《ござ》いませぬか』
|松岡《まつをか》『|錆《さび》た|刀《かたな》を|砥《と》ぐ|時《とき》も、|生灰《きばい》をつけたり、|泥《どろ》をつけたりする|様《やう》に、お|前《まへ》のやうな|製糞器《せいふんき》は|糞《くそ》で|研《みが》いてやるのが|一番《いちばん》だ。|糞《くそ》より|汚《きたな》い|身魂《みたま》を|持《も》つてゐ|乍《なが》ら、|糞《くそ》が|汚《きたな》いとは|何《なに》を|吐《ぬか》すのだ』
と|大声《おほごゑ》に|呶鳴《どな》り|立《た》てた。|喜楽《きらく》はビツクリして、
|喜楽《きらく》『ハイ、そんなら|裸《はだか》になつて|這入《はい》ります。どうぞ|大《おほ》きな|声《こゑ》を|出《だ》さぬやうにして|下《くだ》さい』
と|帯《おび》を|解《と》かうとする。
|松岡《まつをか》『オイ|待《ま》て|待《ま》て、それさへ|分《わか》ればモウよい。お|前《まへ》の|体《からだ》は|機関《きくわん》だ、|生宮《いきみや》だ。そんな|所《ところ》へ|這入《はい》つて|貰《もら》ふと|俺《おれ》も|一寸《ちよつと》|困《こま》るのだ、アハヽヽヽ』
|喜楽《きらく》『|私《わたし》は|元《もと》からの|土《ど》ン|百姓《びやくせう》で、|糞《くそ》|位《くらゐ》は|何《なん》とも|思《おも》つて|居《を》りませぬ。|糞《くそ》がなければ|五穀《ごこく》|野菜《やさい》が|育《そだ》ちませぬから、|一遍《いつぺん》|這入《はい》つて|見《み》ませうか』
|松岡《まつをか》『|這入《はい》るなら|勝手《かつて》に|這入《はい》れ。|其《その》|代《かは》り|此《この》|松岡《まつをか》は|只今《ただいま》|限《かぎ》り|守護《しゆご》|致《いた》さぬからそう|思《おも》へ。あとはもぬけのから、|狸《たぬき》の|容物《いれもの》にでもなるがよからう』
|斯《か》う|言《い》はれると|何《なん》となしに|未練《みれん》が|湧《わ》いて|来《く》る。|松岡神《まつをかしん》が|人《ひと》の|体《からだ》へ|這入《はい》つて、ウソ|計《ばか》り|言《い》ひ|何遍《なんべん》も|失敗《しつぱい》をさせよる|仕方《しかた》のない|奴《やつ》、こんな|邪神《じやしん》は|一時《いつとき》も|早《はや》く|退散《たいさん》させたいと|思《おも》ふ|事《こと》は|度々《たびたび》であつたが、サテ|之《こ》れ|限《かぎ》り|立退《たちの》くと|云《い》はれると、|何《なん》だか|惜《をし》い|様《やう》な|気《き》がして|来《く》るのが|不思議《ふしぎ》である。
|喜楽《きらく》『そんなら、あなたの|仰《おほせ》に|従《したが》ひます。サア|是《これ》から|美《うつく》しい|水《みづ》の|所《ところ》へ|連《つ》れて|行《い》つて|下《くだ》さい』
|松岡《まつをか》『コレから|一里《いちり》|許《ばか》り|東《ひがし》へ|行《ゆ》くと、|矢田《やだ》の|滝《たき》というて|東《ひがし》|向《む》きに|落《お》ちてゐる、|形《かたち》|計《ばか》りの|滝《たき》がある。そこで|水行《すゐぎやう》をするのだ、サア|行《ゆ》ケ!』
と|号令《ごうれい》し|乍《なが》ら、|喜楽《きらく》の|肉体《にくたい》を|自由自在《じいうじざい》に|操《あやつ》つて、|足早《あしばや》に|硫黄谷《いわうだに》を|越《こ》え、|大池《おほいけ》の|畔《ほとり》を|伝《つた》うて、|亀岡《かめをか》の|産土《うぶすな》|矢田神社《やだじんじや》の|奥《おく》の|谷《たに》に|導《みちび》き|水行《すゐぎやう》を|命《めい》じた。そして|一週間《いつしうかん》の|間《あひだ》|毎夜《まいよ》|此《この》|滝《たき》に|通《かよ》ふ|事《こと》を|肉体《にくたい》に|厳命《げんめい》した。|喜楽《きらく》はそれより|毎夜《まいよ》|々々《まいよ》|淋《さび》しい|山道《やまみち》や|池《いけ》の|畔《ほとり》や|墓場《はかば》を|越《こ》え|矢田《やだ》の|滝《たき》へ|通《かよ》ふ|事《こと》となつた。
|矢田《やだ》の|滝《たき》へ|通《かよ》ひ|始《はじ》めてから|七日目《なぬかめ》、|今晩《こんばん》が|行《ぎやう》の|上《あが》りと|云《い》ふ|時《とき》になつて、なんとなく|心《こころ》の|底《そこ》に|恐怖心《きようふしん》が|湧《わ》いて|来《き》た。|奥《おく》の|間《ま》にかけてあつた|大身鎗《おほみやり》をひつさげ、|十二時《じふにじ》|頃《ごろ》|自宅《じたく》を|立《た》つて、|穴太《あなを》の|村外《むらはづ》れまで|進《すす》んで|来《く》ると、|自分《じぶん》の|持《も》つて|居《ゐ》る|鎗《やり》が|心《こころ》の|勢《せい》か|勝手《かつて》に|動《うご》き|出《だ》し、リンリンと|唸《うな》り|声《ごゑ》がして|来《く》る。|鎗《やり》の|穂先《ほさき》は|夜《よる》でハツキリは|見《み》えぬが、|自然《しぜん》に|曲《まが》り|鎌首《かまくび》を|立《た》ててゐる|様《やう》な|気《き》がしてならぬ。|黒《くろ》い|古《ふる》ぼけた|鎗《やり》を|握《にぎ》つた|積《つも》りでゐたのがいつの|間《ま》にか|太《ふと》い|蛇《へび》を|握《にぎ》つてる|様《やう》な|気《き》がして|来《き》たので、|麦畑《むぎばたけ》の|中《なか》へ|矢庭《やには》に|放《はう》り|込《こ》み、|車清《くるませ》の|方《はう》へ|向《むか》つて|進《すす》みかけた。|此《この》|鎗《やり》を|棄《す》ててから|余程《よほど》|恐怖心《きようふしん》が|薄《うす》らいで|来《き》た。
|追々《おひおひ》|進《すす》んで|硫黄谷《いわうだに》の|大池《おほいけ》の|側《そば》へ|来《き》て|見《み》ると、|周囲《まはり》|一里《いちり》もあると|云《い》はれてゐる|山間《さんかん》の|大池《おほいけ》の|中《なか》に|二三丈《にさんぢやう》|計《ばか》りあらうと|思《おも》はる|背《せ》の|高《たか》い、それに|恰好《かつかう》した|太《ふと》さの、|赤《あか》い|丸顔《まるがほ》の|男《をとこ》が|深《ふか》い|池水《いけみづ》に|腰《こし》あたりまでつけて、バサリバサリと|自分《じぶん》の|方《はう》を|向《む》いて|歩《あゆ》んで|来《く》る|様《やう》に|見《み》える。|髪《かみ》の|毛《け》は|縮《ちぢ》み|上《あが》る、|胸《むね》は|動悸《どうき》が|高《たか》くなる。|一心不乱《いつしんふらん》に『|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》』を|称《とな》へ|乍《なが》ら|池端《いけばた》を|東《ひがし》へ|東《ひがし》へと|走《はし》りゆく。|此《この》|怪物《くわいぶつ》はどうなつたか、|後《あと》は|分《わか》らなかつた。|前方《ぜんぱう》に|当《あた》つて|青《あを》い|火《ひ》が、いつも|灯《とも》つてゐない|所《ところ》に|見《み》える。|進《すす》みもならず|退《しりぞ》きもならず|暫《しばら》く|途中《とちう》に|立《た》つて|思案《しあん》をしてゐると|体《からだ》がオゾオゾと|慄《ふる》ひ|出《だ》す、|益々《ますます》|怖《こは》くなつて|来《く》る、|四方《しはう》|八方《はつぱう》から|厭《いや》らしい|化物《ばけもの》に|襲撃《しふげき》されるやうな|気《き》がしてならない。あゝこんな|時《とき》に|松岡《まつをか》さんが|憑《うつ》つてくれるといいのにと|思《おも》ひ、
『|松岡《まつをか》|天狗《てんぐ》さま、|松岡《まつをか》さま』
と|大《おほ》きな|声《こゑ》で|叫《さけ》んでみた。|自分《じぶん》|乍《なが》ら|声《こゑ》は|大《おほ》きうても、|其《そ》の|声《こゑ》に|波《なみ》が|打《う》ち、ふるひが|籠《こも》つてゐた。かうなると|自分《じぶん》の|声《こゑ》まで|厭《いや》らしくなつて|来《く》る。|怖《こは》いと|思《おも》ひかけたら、|如何《どう》にも|斯《か》うにも|仕方《しかた》のないものである。……マア|此処《ここ》で|暫《しばら》く|静坐《せいざ》して|公平《こうへい》な|判断《はんだん》をつけねばなるまい……と|道《みち》の|傍《かたはら》の|芝生《しばふ》の|上《うへ》に|腰《こし》を|下《おろ》し、|姿勢《しせい》を|正《ただ》しうして|両手《りやうて》を|組《く》んで|見《み》た。されど|自分《じぶん》の|体《からだ》も|腰《こし》も|手《て》も|足《あし》も、|骨《ほね》なしの|蛸《たこ》のやうになつて、グラグラして|一寸《ちよつと》も|安定《あんてい》を|保《たも》つ|事《こと》が|出来《でき》なかつた。たつた|一声《ひとこゑ》|腹《はら》の|中《なか》から、
『|突進《とつしん》!』
といふ|声《こゑ》が|聞《きこ》えて|来《き》た。|其《その》|声《こゑ》を|聞《き》くと|共《とも》に、|俄《にはか》に|糞落着《くそおちつ》きに|落着《おちつ》く|事《こと》が|出来《でき》た。そして|心《こころ》の|中《なか》で……エー|之《こ》れが|霊学《れいがく》の|修業《しうげふ》だ、|何《いづ》れ|霊界《れいかい》の|事《こと》を|研究《けんきう》するのだから、|現界《げんかい》と|同《おな》じやうな|事《こと》では|研究《けんきう》の|価値《かち》がない、これが|却《かへつ》て|神《かみ》さまの|御守護《ごしゆご》かも|知《し》れぬ、|今日《けふ》は|一週間目《いつしうかんめ》の|修業《しうげふ》の|上《あが》りだ、|高熊山《たかくまやま》の|修業中《しうげふちう》にいろいろと|霊界《れいかい》の|事《こと》を|見《み》せて|貰《もら》ひ、|教《をし》へても|貰《もら》うて|居《ゐ》る。|随分《ずゐぶん》|其《その》|時《とき》も|厭《いや》らしい|事《こと》や|恐《おそ》ろしい|事《こと》があつた、これ|位《くらゐ》な|事《こと》は|霊界《れいかい》|探険《たんけん》|当時《たうじ》の|事《こと》を|思《おも》へば、ホンの|門口《かどぐち》だ……と|直日《なほひ》に|省《かへり》み|漸《やうや》く|腰《こし》を|上《あ》げて、|青《あを》い|火《ひ》の|方《はう》へ|進《すす》んで|行《い》つた。|怖々《こはごは》|火《ひ》の|側《そば》へ|寄《よ》つて|見《み》れば|青《あを》く|塗《ぬ》つた|硝子《がらす》の|行灯《あんどん》に|火《ひ》が|点《とも》してある。|途《みち》のわきがすぐ|墓《はか》になつてゐて|今日《けふ》|埋《い》けたばかりの|新墓《しんばか》に|白《しろ》い|墓標《ぼへう》が|立《た》つてゐる。|気《き》をおちつけて|見《み》れば、|亀岡《かめをか》の|稲荷下《いなりさ》げをして|居《を》つた|婆《ばば》アで、|御嶽教《みたけけう》の|教導職《けうだうしよく》を|勤《つと》めて|居《ゐ》た|六十婆《ろくじふばば》アが|死《し》んだので、|此処《ここ》に|葬《はうむ》つたのだと|云《い》ふ|事《こと》が|白《しろ》い|墓標《ぼへう》の|文字《もんじ》で|明《あきら》かになつた。ヤツと|安心《あんしん》して|漸《やうや》く|矢田《やだ》|神社《じんじや》の|境内《けいだい》にさしかかり、|社前《しやぜん》の|水《みづ》で|体《からだ》を|清《きよ》め、|御社《おやしろ》の|前《まへ》で|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》し、|瞑目《めいもく》|静坐《せいざ》などして|夜《よ》の|明《あ》けるのを|待《ま》つてゐた。|最早《もはや》これから|奥《おく》へ|夜中《よなか》に|行《ゆ》く|丈《だけ》の|勇気《ゆうき》が|臆病風《おくびやうかぜ》に|誘《さそ》はれて|無《な》くなつてゐたからである。
|夜《よ》はホノボノと|明《あ》けて|来《き》た。そこらの|様子《やうす》が|何《なん》となく|昼《ひる》らしくなつたので|俄《にはか》に|元気《げんき》を|出《だ》し、|細谷川《ほそたにがは》を|伝《つた》うて、|一週間《いつしうかん》|歩《ある》き|馴《な》れた|谷路《たにみち》を|登《のぼ》つて|行《ゆ》く。|併《しか》し|実際《じつさい》は|夜《よ》が|明《あ》けてゐるのではなかつたと|見《み》え、|再《ふたた》びそこらが|薄暗《うすぐら》くなつて|来《き》た。|空《そら》を|包《つつ》んでゐた|雲《くも》がうすらぎ、|東《ひがし》の|空《そら》から|月《つき》が|昇《のぼ》つたのが|薄雲《うすぐも》を|通《とほ》して|光《ひか》つたからであつた。|二三町《にさんちやう》|許《ばか》り|行《い》つた|所《ところ》に、|五十五六《ごじふごろく》の|骨《ほね》と|皮《かは》とになつた、|痩《やせ》た|可《か》なり|背《せ》の|高《たか》い|婆《ばば》アが、|一方《いつぱう》の|手《て》を|前《まへ》に|出《だ》したり|後《うしろ》へ|引《ひ》いたり、|切《しき》りに|樵夫《きこり》が|前挽《まへびき》をひくやうな|事《こと》をやつてゐる。……ハテ|怪体《けたい》な|奴《やつ》が|出《で》やがつた。|夜《よ》が|明《あ》けたと|思《おも》へば|暗《くら》くなつて|来《く》る。そこへ|川《かは》に|臨《のぞ》んで|婆《ばば》アが|妙《めう》な|手《て》つきをして|体《からだ》を|揺《ゆす》つて|居《ゐ》る。|此奴《こいつ》ア、ヒヨツとしたら|稲荷山《いなりやま》の|峰《みね》つづきだから、|奴狐《どぎつね》がだましてゐるのかも|知《し》れぬ。|心《こころ》よわくては|駄目《だめ》だ……と|俄《にはか》に|空元気《からげんき》を|出《だ》し、|婆《ばば》アの|近《ちか》くによつて、|一生懸命《いつしやうけんめい》の|声《こゑ》で、
『コラツ!』
と|呶鳴《どな》つて|見《み》た。|婆《ばば》アは|此《この》|声《こゑ》に|驚《おどろ》いて、|折角《せつかく》|発動《はつどう》してゐた|手《て》をピタリと|止《や》め、|腰《こし》を|屈《かが》めて、
|婆《ばば》『ハーイ、どなたか|知《し》りませぬが、|何《なに》か|御無礼《ごぶれい》な|事《こと》を|致《いた》しましたかな。|妾《わたし》は|樽幸《たるかう》の|稲荷《いなり》さまに|信心《しんじん》して|居《を》りまして、|御台《おだい》さまから|神《かみ》うつりの|伝授《でんじゆ》を|受《う》け、|今日《けふ》で|三年《さんねん》|許《ばか》り|毎晩《まいばん》|此処《ここ》へ|修業《しうげふ》に|来《き》て|居《を》ります。おかげで|右《みぎ》の|手《て》|丈《だけ》|此《この》|通《とほ》り|御手《おて》うつりが|出来出《できだ》しました。モウ|三年《さんねん》すれば|又《また》|左《ひだり》の|手《て》に|御手《おて》うつりがあり、それから|胴《どう》うつり、|頭《あたま》にうつり、|御口《おくち》が|切《き》れるのが、マアマアザツと|之《これ》から|十年《じふねん》の|修業《しうげふ》で|御座《ござ》います。お|前《まへ》さまは|此《この》|頃《ごろ》|評判《ひやうばん》の|高《たか》い、|穴太《あなを》の|天狗《てんぐ》さまぢや|御座《ござ》いませぬか』
|喜楽《きらく》『お|婆《ばば》サン、そんな|年寄《としよ》りがこれから|十年《じふねん》も|修行《しうぎやう》して|居《を》つたら、|口《くち》の|切《き》れるのと|死《し》ぬのと|一時《いつとき》になるぢやないか。モツと|早《はや》う|口《くち》の|切《き》れるやうにして|上《あ》げようか。|私《わたし》が|修業《しうげふ》さしたら、|一週間《いつしうかん》にはキツと|口《くち》を|切《き》つて|上《あ》げる』
|婆《ばば》『ハヽヽヽヽさうかが|易《やす》く|神様《かみさま》が|憑《うつ》つたり、|口《くち》が|切《き》れるやうな|事《こと》なら、|此《この》|婆《ばば》もこんな|永《なが》い|修行《しうぎやう》は|致《いた》しませぬワイナ。|早《はや》う|口《くち》の|切《き》れるやうな|神《かみ》は|碌《ろく》なものぢやありませぬ。どうで|狐《きつね》か|狸《たぬき》でせう』
と|自分《じぶん》が|豆狸《まめだぬき》にうつられて|居《ゐ》|乍《なが》ら、|狐狸《こり》をくさしてゐる|其《その》|可笑《をか》しさ。|肥持《こえも》ちが|糞《くそ》の|臭《にほひ》を|知《し》らぬのと|同《おな》じやうなものだなアと|思《おも》ひ|乍《なが》ら、|此《この》|場《ば》を|立去《たちさ》らうとすると、|婆《ば》アサンは|又《また》|右《みぎ》の|手《て》を|樵夫《きこり》が|木《き》をひくやうに|動《うご》かせ|乍《なが》ら、|腰《こし》をキヨクン キヨクンと|揺《ゆ》り|動《うご》かし、|動《うご》かぬ|方《はう》の|手《て》をニユツと|前《まへ》に|出《だ》し、
|婆《ばば》『コレもし、|穴太《あなを》の|天狗《てんぐ》さま、どうで|御世話《おせわ》になりますが、|一遍《いつぺん》|樽幸《たるかう》の|稲荷《いなり》さまに|伺《うかが》うた|上《うへ》|頼《たの》みますワ。|此《この》|間《あひだ》|西町《にしまち》の|御台《おだい》さまが、|樽幸《たるかう》の|稲荷《いなり》さまの|弟子《でし》で|居《ゐ》|乍《なが》ら、|余部《あまるべ》の|稲荷《いなり》さまの|方《はう》へ|肩替《かたがへ》しやはつたら、|其《その》|罰《ばち》で|死《し》なはりました。|昨日《きのふ》|葬式《さうしき》がありました。|神《かみ》さまの|御機嫌《ごきげん》を|損《そん》ずると|恐《おそ》ろしいから、とつくり|樽幸《たるかう》の|稲荷《いなり》さまに|伺《うかが》うた|上《うへ》|御世話《おせわ》になりますワ』
|喜楽《きらく》『|樽幸《たるかう》の|稲荷《いなり》さまはキツと|反対《はんたい》するにきまつてゐる。|此方《こちら》は|天狗《てんぐ》さま、そちらは|黒《くろ》サンだからなア』
|婆《ばば》『コレコレ、|何《なん》といふ|勿体《もつたい》ない|事《こと》を|仰有《おつしや》る。あの|神《かみ》さまは|正一位《しやういちゐ》|天狐《てんこ》|御剣大明神《みつるぎだいみやうじん》さまだ。|一《いち》の|峰《みね》に|御守護《ごしゆご》|遊《あそ》ばすお|山《やま》|一《いち》の|御守護神《ごしゆごじん》さま。|勿体《もつたい》ない、|黒《くろ》サンぢやなどと、|狸《たぬき》にして|了《しま》うとは、|罰《ばち》が|当《あた》りますぞえ。そんな|御方《おかた》に|御世話《おせわ》にならうものなら、どんな|事《こと》が|起《おこ》るか|知《し》れませぬ。モウ|是《これ》ぎりお|前《まへ》さまも|妾《わたし》の|事《こと》を|忘《わす》れて|下《くだ》さい、|妾《わたし》も|忘《わす》れます。|妙《めう》な|因縁《いんねん》の|綱《つな》がからまると|互《たがひ》に|迷惑《めいわく》しますからなア。|六根清浄《ろくこんせいじやう》|六根清浄《ろくこんせいじやう》|南無妙法蓮華経《なむめうはふれんげきやう》……』
と|一生懸命《いつしやうけんめい》に|唱《とな》へ|始《はじ》めた。|喜楽《きらく》はここを|見捨《みす》てて|二町《にちやう》|許《ばか》り|上手《かみて》の|東向《ひがしむ》きの|滝《たき》へ|行《い》つて|見《み》ると、いつも|余《あま》り|太《ふと》くない|滝《たき》が|一丈《いちぢやう》|程《ほど》|落《お》ちて|居《ゐ》るのに、|今日《けふ》は|又《また》|如何《どう》したものか、|五六間《ごろくけん》こつちから|滝《たき》を|見《み》ると、|真白《まつしろ》けの|者《もの》が|立《た》つてゐる。|朧月夜《おぼろづきよ》にすかし|乍《なが》ら、|滝壺《たきつぼ》の|前《まへ》まで|近《ちか》よつて|見《み》ると、|二十五六《にじふごろく》の|女《をんな》が|白衣《びやくい》をつけて|髪《かみ》をふり|乱《みだ》し、|滝《たき》にかかつてゐる。|喜楽《きらく》は|神憑《かむがか》りと|見《み》て|取《と》り、
|喜楽《きらく》『|何神《なにがみ》さまで|御座《ござ》いますか、お|名《な》を|聞《き》かして|下《くだ》さい』
とやつて|見《み》た。|滝《たき》にかかつた|白衣《びやくい》の|女《をんな》は|両手《りやうて》を|組《く》んだまま、|頭上《づじやう》|高《たか》く|差《さ》し|上《あ》げ、|背伸《せの》びをし、|少《すこ》しく|反《そ》り|返《かへ》つて、
『|力松大明神《りきまつだいみやうじん》……』
と|甲声《かんごゑ》で|呶鳴《どな》つた。
|喜楽《きらく》『|力松大明神《りきまつだいみやうじん》とは|何処《どこ》の|守護神《しゆごじん》ですか?』
|女《をんな》『|稲荷山《いなりやま》、|奥村大明神《おくむらだいみやうじん》の|御眷族《ごけんぞく》、|力松大明神《りきまつだいみやうじん》だ。|此《この》|方《はう》を|信仰《しんかう》|致《いた》せば|病気《びやうき》|災難《さいなん》|一切《いつさい》をのがらしてやるぞよ。|其《その》|方《はう》は|穴太《あなを》の|天狗《てんぐ》であらう。|今日《けふ》で|一週間《いつしうかん》の|修行《しうぎやう》の|上《あが》りと|聞《き》いた|故《ゆゑ》、|此《この》|肉体《にくたい》の|外志《げし》ハルを、|此《この》|方《はう》が|誘《さそ》ひ|出《だ》し、|其《その》|方《はう》に|面会《めんくわい》させる|為《ため》に|待《ま》つて|居《を》つたのだ。|随分《ずゐぶん》|途中《とちう》で|怖《こは》かつただらうのう』
|喜楽《きらく》『|分《わか》りました、どうぞ|御引取《おひきとり》を|願《ねが》ひます』
|女《をんな》『|引取《ひきと》れと|申《まを》さいでも、|此《この》|力松大明神《りきまつだいみやうじん》はそちの|心《こころ》をよく|知《し》つとるから|引取《ひきと》るぞよ。ウンウン……』
と|云《い》つたぎり、|亀岡《かめをか》|旅籠町《はたごちやう》の|外志《げし》ハルと|云《い》ふ|神憑《かむがか》りは|正気《しやうき》に|帰《かへ》つて|了《しま》うた。
さうかうする|間《あひだ》に|夜《よ》はカラリと|明《あ》け|渡《わた》つた。|二人《ふたり》はいろいろと|神様《かみさま》の|話《はなし》をし|乍《なが》ら|外志《げし》ハルの|頼《たの》みに|依《よ》つて、|旅籠町《はたごちやう》に|廻《まは》り、|夫《をつと》の|筆吉《ふできち》といふに|面会《めんくわい》して、|互《たがひ》に|道《みち》の|為《ため》に|助《たす》け|合《あ》ふ|事《こと》を|約《やく》し、|穴太《あなを》へ|帰《かへ》つて|来《き》た。
(大正一一・一〇・九 旧八・一九 松村真澄録)
第一一章 |松《まつ》の|嵐《あらし》〔一〇二三〕
|一週間《いつしうかん》の|矢田《やだ》の|滝《たき》の|行《ぎやう》を|終《をは》つてから、|宮垣内《みやがいち》の|自宅《じたく》に|於《おい》て、|喜楽《きらく》は|愈々《いよいよ》|神業《しんげふ》に|奉仕《ほうし》する|事《こと》となつた。|盲目《めくら》や|聾唖《つんぼ》、リウマチ、|其《その》|他《ほか》いろいろの|病人《びやうにん》がやつて|来《き》て|鎮魂《ちんこん》を|頼《たの》む、|神占《しんせん》を|乞《こ》ふ、|何《いづ》れも|御神徳《ごしんとく》が|弥顕《いやちこ》だと|云《い》ふ|評判《へうばん》が|忽《たちま》ち|遠近《ゑんきん》に|轟《とどろ》いて、|穴太《あなを》の|天狗《てんぐ》さまとか|金神《こんじん》さま、|稲荷《いなり》さまなどといつて、|朝《あさ》から|晩《ばん》まで|参詣人《さんけいにん》の|山《やま》を|築《きづ》き、|食事《しよくじ》する|間《ま》もない|位《くらゐ》、|多忙《たばう》を|極《きは》めて|居《ゐ》た。
|例《れい》の|次郎松《じろまつ》サンがやつて|来《き》て、|祭壇《さいだん》の|前《まへ》に|尻《しり》を|捲《まく》つてドツカと|坐《すわ》り、|大勢《おほぜい》の|参拝者《さんぱいしや》の|中《なか》をも|顧《かへり》みず、|真赤《まつか》な|顔《かほ》して|喜楽《きらく》を|睨《にら》みつけ、
|次郎松《じろまつ》『コリヤ|極道《ごくだう》|息子《むすこ》、|貴様《きさま》は|又《また》しても|山子商売《やまこしやうばい》をやる|積《つも》りだな。ヨシ、|今《いま》に|化《ば》けの|皮《かは》をヒン|剥《む》いて、|大勢《おほぜい》の|前《まへ》で|赤恥《あかはぢ》かかして|見《み》せてやらう。それが|貴様《きさま》の|将来《しやうらい》のためにもなり、|上田家《うへだけ》の|為《た》めにもなるのだ。|株内《かぶうち》や|近所《きんじよ》へよい|程《ほど》|心配《しんぱい》をかけさらせやがつて、|其《その》|上《うへ》まだ|狐《きつね》|使《つか》ひの|真似《まね》をするとは|何《なん》の|事《こと》だ。|何故《なぜ》|折角《せつかく》ここ|迄《まで》|築《きづ》きあげた、|見込《みこみ》のある|牧畜《ぼくちく》や|乳屋《ちちや》を|勉強《べんきやう》せぬか。|神《かみ》さまだの、|占《うらなひ》だの、|訳《わけ》の|分《わか》らぬ|出鱈目《でたらめ》を|吐《ぬか》しやがつて、|世間《せけん》の|人《ひと》を|誤魔《ごま》かし、|甘《うま》い|事《こと》を|仕様《しやう》たつて|駄目《だめ》だぞ、|尾《を》の|無《な》いド|狐《ぎつね》とは|貴様《きさま》の|事《こと》だ。|貴様《きさま》が|本当《ほんたう》に|神様《かみさま》に|面会《めんくわい》が|出来《でき》、|又《また》|神様《かみさま》の|教《をしへ》が|伺《うかが》へるのなら、|今《いま》|俺《おれ》が|一《ひと》つ|検査《けんさ》をしてやらう。|万《まん》が|一《いち》にも|当《あた》つたが|最後《さいご》、|俺《おれ》の|財産《ざいさん》|四百円《よんひやくゑん》の|地価《ちか》を|残《のこ》らず|貴様《きさま》にやる』
と|口汚《くちぎたな》く|罵《ののし》り|乍《なが》ら、|湯呑《ゆの》みの|中《なか》へ|何《なに》か|小《ちひ》さい|物《もの》を|入《い》れて、|其《その》|口《くち》を|厚紙《あつがみ》で|貼《は》り|糊《のり》をコテコテとつけ、|音《おと》をせぬ|様《やう》に|懐《ふところ》から|出《だ》して|前《まへ》にソツと|置《お》き、
|次郎松《じろまつ》『サア|先生《せんせい》、イヤ|極道《ごくだう》|息子《むすこ》、|指一本《ゆびいつぽん》でも|触《さえ》る|事《こと》はならぬ。|此《この》|儘《まま》|此《この》|湯呑《ゆの》みの|中《なか》に、どんな|物《もの》がどれ|丈《だ》け|這入《はい》つてをるかと|云《い》ふ|事《こと》を、|貂眼通《てんがんつう》とか|鼬通《いたちつう》とか|云《い》ふ|先生《せんせい》、|見事《みごと》あてて|見《み》よ。これが|当《あた》つたら、それこそ|天《てん》が|地《ち》になり|地《ち》が|天《てん》になる。お|月《つき》さまに|向《むか》つて|放《はな》す|弓《ゆみ》の|矢《や》は|中《あた》つても、こればつかりは|滅多《めつた》にあたる|気遣《きづか》ひはない。|如何《どう》ですな、|先生《せんせい》!』
と|軽侮《けいぶ》の|念《ねん》を|飽迄《あくまで》|顔面《がんめん》に|現《あらは》し、|喜楽《きらく》の|顔《かほ》を|頤《あご》をしやくつて|睨《ね》めつける。
|喜楽《きらく》『|俺《わし》は|神様《かみさま》の|誠《まこと》の|教《をしへ》を|伝《つた》へたり、|人《ひと》の|悩《なや》みを|助《たす》けたりするのが|役《やく》だ。|手品師《てじなし》の|様《やう》に、そんな|物《もの》をあてると|云《い》ふ|様《やう》な|事《こと》は|御免《ごめん》|蒙《かうむ》り|度《た》い。|神《かみ》さまに|教《をし》へて|貰《もら》ふた|事《こと》はないから|知《し》りませぬ』
|次郎松《じろまつ》はシタリ|顔《がほ》で、|一寸《ちよつと》|舌《した》を|出《だ》し|頤《あご》を|二《ふた》つ|三《み》つしやくつて、
|次郎松《じろまつ》『|態《ざま》ア|見《み》やがれド|狸《たぬき》|奴《め》、|到頭《たうとう》|赤《あか》い|尻尾《しつぽ》を|出《だ》しやがつた。エー、おけおけ、|此《この》|時節《じせつ》にそんな|馬鹿《ばか》の|真似《まね》さらすと、|此《この》|松《まつ》サンがフンのばして|了《しま》ふぞ。オイ|狸《たぬき》|先生《せんせい》、|腹《はら》が|立《た》つのか、|何《なん》だ、|其《その》むつかしい|顔《かほ》は……|残念《ざんねん》なか、|口惜《くや》しいか、|早《はや》く|改心《かいしん》せい、ド|狸野郎《たぬきやろう》|奴《め》』
と|益々《ますます》|傍若無人《ばうじやくぶじん》の|悪言暴語《あくげんばうご》を|連発《れんぱつ》する。|喜楽《きらく》はあまり|次郎松《じろまつ》の|言葉《ことば》が|煩《うる》さくなつて|来《き》たので、|一層《いつそう》の|事《こと》、|彼《かれ》の|疑心《ぎしん》を|晴《は》らしてやらうと|思《おも》ひ、
|喜楽《きらく》『|松《まつ》サン、あんまりお|前《まへ》が|疑《うたが》ふから、|今日《けふ》|一遍《いつぺん》だけ|云《い》ふてやるが……|一銭《いつせん》|銅貨《どうくわ》を|十五枚《じふごまい》|入《い》れてあるだらう』
|側《そば》に|聞《き》いて|居《を》つた|数多《あまた》の|参詣者《さんけいしや》は、|各自《めいめい》に|此《この》|実地《じつち》を|見《み》て|感嘆《かんたん》して|居《ゐ》る。|次郎松《じろまつ》は|妙《めう》な|顔《かほ》し|乍《なが》ら、|御叮嚀《ごていねい》に|喜楽《きらく》の|顔《かほ》を|又《また》もや|覗《のぞ》き|込《こ》み、|自分《じぶん》の|右《みぎ》の|手《て》で|自分《じぶん》の|膝頭《ひざがしら》を|二《ふた》つ|三《み》つ|叩《たた》き、|首《くび》を|一寸《ちよつと》|傾《かたむ》けて、
|次郎松《じろまつ》『ハア……|案《あん》の|定《ぢやう》、|狐《きつね》|使《つか》ひだ。やつぱり|箱根山《はこねやま》の|道了権現《だうれうごんげん》のつかはしの|飯綱《いづな》をつかつてるのだな。|一体《いつたい》そんな|管狐《くだぎつね》を|何処《どこ》で|買《か》つて|来《き》たのだ。|何匹《なんびき》ほど|居《を》るのか。そんなものでも|一匹《いつぴき》が|一円《いちゑん》もとるか、|一寸《ちよつと》|俺《おれ》にも|見《み》せて|呉《く》れ、ホンの|一寸《ちよつと》でよい、|大切《だいじ》なお|前《まへ》の|商売《しやうばい》|道具《だうぐ》を|長《なが》う|見《み》せてくれとは|云《い》はぬ』
と|訳《わけ》の|分《わか》らぬ|質問《しつもん》を|連発《れんぱつ》する。|迷信家《めいしんか》ほど|困《こま》つたものはない。
|喜楽《きらく》『|神懸《かむがか》りの|霊術《れいじゆつ》によつて、|透視《とうし》|作用《さよう》が|利《き》くのだ』
と|少《すこ》しばかり|霊魂学《れいこんがく》の|説明《せつめい》を|簡単《かんたん》に|述《の》べたてて|見《み》た。されど|元来《ぐわんらい》の|無学者《むがくしや》だけに、|何《なに》をいつても|馬耳東風《ばじとうふう》、|耳《みみ》に|入《い》りさうな|事《こと》はない。|又《また》もや|次郎松《じろまつ》は|口《くち》を|尖《とが》らして、
|次郎松《じろまつ》『|透視《とうし》だか|水篩《すゐのう》だか、そんな|事《こと》ア|知《し》らぬが、そこらに|小《ちひ》さい|管狐《くだぎつね》を|放《はう》り|出《だ》さぬ|様《やう》にして|呉《く》れよ。ヒヨツと|取《と》り|憑《つ》かれでもしたら|大変《たいへん》だ。|皆《みな》さま|用心《ようじん》しなさい。|此奴《こいつ》ア|飯綱《いづな》|使《つか》ひだから、うつかりしてると|憑《つ》けられますよ。|病人《びやうにん》が|来《く》ると、|管狐《くだぎつね》を|一寸《ちよつと》|除《の》かして、|病気《びやうき》を|癒《なほ》し、|又《また》|暫《しばら》くすると|管狐《くだぎつね》をつけて|病人《びやうにん》にして、|何度《なんど》も|礼《れい》をとると|云《い》ふ|虫《むし》の|良《よ》い|商売《しやうばい》を|始《はじ》めかけよつたのだ。|何《なに》しろ|近寄《ちかよ》らぬが|何《なに》よりだ。|別《べつ》に|穴太《あなを》の|村《むら》に|喜楽《きらく》が|居《を》つて|神《かみ》を|祀《まつ》らうが|祀《まつ》らうまいが、|矢張《やつぱり》お|日《ひ》さまは|東《ひがし》から|出《で》て|御座《ござ》る。|暗《くら》がりになるためしもなし、|喜楽《きらく》が|神《かみ》さまを|始《はじ》めてから、お|日《ひ》さまが、|光《ひか》りが|強《つよ》くなつた|訳《わけ》ぢやなし、お|月《つき》さまが|毎晩《まいばん》|出《で》る|訳《わけ》でもないし、|斯《こ》んな|者《もの》に|騙《だま》されるより|早《はや》う|皆《みな》さまお|帰《かへ》りなさい。こんな|奴《やつ》に|眉毛《まゆげ》をよまれ|尻毛《しりげ》をぬかれて|堪《たま》りますか。|俺《おれ》はきつてもきれぬ|親類《しんるゐ》だから、|第一《だいいち》|上田家《うへだけ》のため、|又《また》|此《この》|極道《ごくだう》の|為《た》め、お|前《まへ》サン|達《たち》の|為《た》め|気《き》をつける』
と|口《くち》を|極《きは》めて|反対《はんたい》の|気焔《きえん》をあげる。|然《しか》し|参詣者《さんけいしや》は|一人《ひとり》も|消《き》えぬ。|依然《いぜん》として|鎮魂《ちんこん》を|乞《こ》ひ、|伺《うかが》ひを|願《ねが》つて|喜《よろこ》んで|帰《かへ》つて|行《ゆ》く。|次郎松《じろまつ》サンは|翌日《よくじつ》の|朝《あさ》|早《はや》くから|穴太《あなを》の|村中《むらぢう》|一軒《いつけん》も|残《のこ》らず、
|次郎松《じろまつ》『|家《うち》の|本家《ほんけ》の|喜楽《きらく》と|云《い》ふ|奴《やつ》は、|此《この》|頃《ごろ》|飯綱《いづな》を|買《か》うて|来《き》て|妙《めう》な|事《こと》をして|居《ゐ》よるから、|相手《あひて》になつてくれるな』
と|賃金《ちんぎん》|不要《いらず》の|広告屋《くわうこくや》を|勤《つと》めて|居《を》る。|次郎松《じろまつ》は|神《かみ》の|教《をしへ》を|忌《い》み|嫌《きら》ふ|悪魔《あくま》の|霊《れい》に|憑依《ひようい》されて|知《し》らず|識《し》らずに|邪神《じやしん》の|走狗《そうく》となつて|了《しま》つたのである。
|其《その》|翌日《よくじつ》|大勢《おほぜい》の|参拝者《さんぱいしや》を|相手《あひて》に、|鎮魂《ちんこん》をしたり|神話《しんわ》を|始《はじ》めて|居《ゐ》ると、|侠客《けふかく》|俣野《またの》の|乾児《こぶん》と|自称《じしよう》する|背《せ》の|低《ひく》い|牛公《うしこう》がやつて|来《き》た。|足《あし》に|繃帯《はうたい》をして|居《ゐ》る。
|牛公《うしこう》『オイ、|喜楽《きらく》サン、|随分《ずゐぶん》お|前《まへ》の|商売《しやうばい》もよう|繁昌《はんじやう》するね。|俺《おれ》は|夜前《やぜん》|一寸《ちよつと》|足《あし》に|怪我《けが》をしたのだ。|何卒《どうぞ》お|前《まへ》の|鎮魂《ちんこん》とかで|足《あし》の|痛《いた》みを|止《と》めて|貰《もら》ひ|度《た》いものだ』
と|横柄《わうへい》に|手《て》を|拱《こまね》き、|座敷《ざしき》の|真中《まんなか》にドスンと|坐《すわ》つて|揶揄《からか》ひ|始《はじ》めた。|元《もと》より|怪我《けが》などはして|居《ゐ》ないのだ。みな|嘘《うそ》の|皮《かは》、|万々一《まんまんいち》|喜楽《きらく》が、
『さうか、それは|気《き》の|毒《どく》だ』
と|云《い》つて|直《すぐ》に|祈願《きぐわん》でもしやうものなら、
『|天眼通《てんがんつう》の|先生《せんせい》が|之《これ》が|分《わか》らぬか、|怪我《けが》も|何《なに》もして|居《ゐ》ない、|嘘《うそ》だぞ』
と|云《い》つて|大勢《おほぜい》の|中《なか》で|笑《わら》つたり、ねだつたり、|困《こま》らしたりしようとの|悪《わる》い|企《たく》みで|来《き》て|居《を》るのである。|若《も》し|喜楽《きらく》が、
『お|前《まへ》は|疵《きず》も|何《なに》もして|居《ゐ》ない。そんな|事《こと》をして|俺《おれ》をためしに|来《き》て|居《を》るのだ』
と|云《い》へば、|自分《じぶん》の|指《ゆび》の|下《した》に|隠《かく》した|小刀《こがたな》で|繃帯《はうたい》を|解《と》き|乍《なが》ら|一寸《ちよつと》|足《あし》を|切《き》つて|血《ち》を|出《だ》し、
『これや、これ|丈《だ》け|血《ち》が|出《で》て|居《を》るのに|怪我《けが》して|居《ゐ》ないとは|何《なん》の|事《こと》だ。ド|山子《やまこ》|奴《め》!』
と|呶鳴《どな》り|立《た》てあやまらして、|酒銭《さかて》の|一円《いちゑん》も|取《と》つてやらうとの|算段《さんだん》をして|居《を》るのだと|見《み》てとつた|喜楽《きらく》は、|牛公《うしこう》の|言葉《ことば》を|耳《みみ》にもかけず|放擲《うつちや》つて、|素知《そし》らぬ|顔《かほ》で|数多《あまた》の|参詣者《さんけいしや》に|鎮魂《ちんこん》を|施《ほどこ》して|居《ゐ》た。
|牛公《うしこう》は|喜楽《きらく》の|態度《たいど》が|余程《よほど》|癪《しやく》に|触《さは》つたと|見《み》え、|狂《くる》ひ|獅子《じし》の|様《やう》に|暴《あば》れ|出《だ》した。|忽《たちま》ち|先祖代々《せんぞだいだい》から|家《いへ》の|宝《たから》としてる、|虫喰《むしくひ》だらけの|真黒気《まつくろけ》の|障子《しやうじ》の|桁《さん》を|滅茶苦茶《めちやくちや》に|叩《たた》き|破《やぶ》る、|戸《と》を|蹴破《けやぶ》る、|火鉢《ひばち》を|蹴《け》り|倒《たふ》すと|云《い》ふ|大乱暴《だいらんばう》をなし|乍《なが》ら、|再《ふたた》び|座敷《ざしき》の|真中《まんなか》にドスンと|胡坐《あぐら》をかき、
|牛公《うしこう》『こりや|安閑坊《あんかんばう》の|喜楽《きらく》! これでも|罰《ばち》をようあてぬか、|腰抜《こしぬ》け|神《がみ》の|鼻垂《はなた》れ|神《がみ》ぢやな。そんな【やくざ】|神《がみ》を|祀《まつ》つてる|貴様《きさま》は、|日本一《につぽんいち》の|馬鹿野郎《ばかやらう》だ。|今《いま》|此《この》|牛《うし》さまが|神床《かむどこ》に|小便《せうべん》をしてやるから、|神力《しんりき》あり|正念《しやうねん》がある|神《かみ》なら、|立所《たちどころ》に|罰《ばつ》をあてるだらう。そんな|事《こと》して|能《よ》う|罰《ばち》をあてん|様《やう》な|腰抜神《こしぬけがみ》なら、|神《かみ》でも|何《なん》でもない、|溝狸《どぶだぬき》|位《くらゐ》なものだ。|蚯蚓《みみづ》に|小便《せうべん》かけてさへ○○が|腫《は》れるぞ、|此奴《こいつ》ア|狸《たぬき》だから|正念《しやうねん》があるなら、|俺《おれ》の○○を|腫《はれ》らして|見《み》い!』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら|犬《いぬ》の|様《やう》に|片足《かたあし》をピンと|上《あ》げて、|無作法《ぶさはふ》にもジヨウジヨウとやりかけた。|数多《あまた》の|参詣者《さんけいしや》は|吃驚《びつくり》して、|残《のこ》らず|外《そと》に|逃《に》げ|出《だ》して|了《しま》つた。|喜楽《きらく》は|神界《しんかい》|修業《しうげふ》の|時《とき》から、|三五教《あななひけう》の|無抵抗主義《むていかうしゆぎ》を|聞《き》いて|居《ゐ》たから、|素知《そし》らぬ|顔《かほ》して|彼《かれ》がなす|儘《まま》|放任《はうにん》して|居《ゐ》た。|牛公《うしこう》は|益々《ますます》|図《づ》にのつて、|終《つ》ひには|黒《くろ》い|尻《しり》をひきまくり、|喜楽《きらく》の|鼻《はな》の|前《まへ》でプンと|一発《いつぱつ》|嗅《かが》し『アハヽヽヽ』と|笑《わら》ひ|乍《なが》らサツサと|帰《かへ》つて|行《い》つた。
それと|擦《す》れ|違《ちが》ひに、|弟《おとうと》が|野良《のら》から|鍬《くは》を|担《かた》げて|慌《あはた》だしく|馳来《はせきた》り、|牛公《うしこう》の|乱暴《らんばう》した|事《こと》を|聞《き》き|口惜《くやし》がり、|地団太《ぢだんだ》を|踏《ふ》み|乍《なが》ら、
|由松《よしまつ》『エーツ、|此《この》|神《かみ》さまは|力《ちから》の|無《な》い|神《かみ》だ。|毎日々々《まいにちまいにち》|物《もの》を|供《そな》へてやるのに|何《なん》の|罰《ばち》でも|能《よ》うあてぬのか。ウーンと【フン】のばして|了《しま》へばよいのに、そうすれや|牛公《うしこう》だつて、|次郎松《じろまつ》だつて|能《よ》う|侮《あなど》らぬのだが、|此処《ここ》に|祀《まつ》つてあるは|気《き》の|利《き》かぬ|寝呆《ねぼ》け|神《かみ》だから、あんな|奴《やつ》に|馬鹿《ばか》にしられるのだ』
と|歯《は》をかみしめて|吃《ども》り|乍《なが》ら|怒《おこ》つて|居《ゐ》る。|喜楽《きらく》は|静《しづか》に|弟《おとうと》に|向《むか》つて、
|喜楽《きらく》『オイ、|由松《よしまつ》、そんな|分《わか》らぬ|事《こと》を|云《い》ふな。よう|考《かんが》へて|見《み》い、|彼奴《あいつ》ア|畜生《ちくしやう》だ。|名《な》からして|牛《うし》ぢやないか。|猫《ねこ》や|鼠《ねずみ》は|尊《たふと》い|御神前《ごしんぜん》の|中《なか》でも、|糞《くそ》や|小便《せうべん》を|平気《へいき》で|垂《た》れて|居《を》る、|烏《からす》や|雀《すずめ》は|神様《かみさま》の|棟《むね》へ|上《あが》つて|糞《くそ》|小便《せうべん》を|垂《た》れかける、それでもチツとも|神罰《しんばつ》があたらぬのぢやないか。|元来《がんらい》|畜生《ちくしやう》だから、|神様《かみさま》のおとがめがないのだ。|人間《にんげん》も|人間《にんげん》の|資格《しかく》を|失《うしな》ふたら|畜生《ちくしやう》|同様《どうやう》だ。|畜生《ちくしやう》に|神罰《しんばつ》があたるものかい』
と|云《い》はせも|果《は》てず|由松《よしまつ》は、
|由松《よしまつ》『ナニ、|馬鹿《ばか》たれるか』
と|云《い》ふより|早《はや》く、|祭壇《さいだん》の|下《した》へ|頭《あたま》をつつ|込《こ》み|其《その》まま|直立《ちよくりつ》した。|祭壇《さいだん》も|神具《しんぐ》もお|供物《そなへもの》|一式《いつしき》ガタガタと|転落《てんらく》し、|御神酒《おみき》からお|供水《こうずゐ》、|洗米《せんまい》、|其《その》|他《た》いろいろの|供物《そなへもの》が|座敷《ざしき》|一杯《いつぱい》になつて|了《しま》つた。|神様《かみさま》の|御《お》【みと】|迄《まで》|畳《たたみ》の|上《うへ》にひつくり|返《かへ》つて|居《ゐ》る。|由松《よしまつ》は|拾《ひろ》うては|戸外《こぐわい》へ|投《な》げつける、|参詣者《さんけいしや》はビツクリして|顔色《がんしよく》を|変《か》へチリチリバラバラに|逃《に》げ|出《だ》す。|由松《よしまつ》は|猶《なほ》も|猛《たけ》り|狂《くる》ひ、
|由松《よしまつ》『オイ|哥兄《あにき》、こんなやくざ|神《がみ》を|祭《まつ》つて|拝《をが》んでも|屁《へ》の|役《やく》にもたたぬぢやないか、もう|今日《けふ》|限《かぎ》りこんなつまらぬ|事《こと》はやめてくれ。こんな|餓鬼《がき》を|祀《まつ》つただけに|家内中《かないぢう》が|心配《しんぱい》したり、|村中《むらぢう》に|笑《わら》はれたり、|戸障子《としやうじ》を|破《やぶ》られたり、|此《この》|神《かみ》は|上田家《うへだけ》の|敵《かたき》だ。|敵《かたき》を|祀《まつ》ると|云《い》ふ|事《こと》が|何処《どこ》にあるものか』
と|分《わか》らぬ|事《こと》を|愚痴《ぐち》つて|怒《おこ》つて|居《を》る。
|喜楽《きらく》は|由松《よしまつ》の|放《ほ》かした【おみと】を|拾《ひろ》ひ|塩《しほ》で|清《きよ》め、|再《ふたた》び|祀《まつ》り|直《なほ》し|神様《かみさま》にお|詫《わび》をして、|漸《やうや》く|其《その》|日《ひ》は|暮《く》れて|了《しま》つた。
|其《その》|日《ひ》の|夜中頃《よなかごろ》、|由松《よしまつ》の|枕許《まくらもと》に|男女《なんによ》|五柱《いつはしら》の|神様《かみさま》が|現《あら》はれ|玉《たま》ふて、|頻《しき》りに|由松《よしまつ》に|御立腹《ごりつぷく》|遊《あそ》ばした|様《やう》なお|顔《かほ》が|歴々《ありあり》と|見《み》え、|恐《おそ》ろしくて|一目《ひとめ》もよう|寝《ね》ず、|夢中《むちう》になつて|寝《ね》たままあやまつて|居《ゐ》る。せまい|家《いへ》の|事《こと》とて|横《よこ》に|聞《き》いて|居《ゐ》る|喜楽《きらく》の|可笑《おか》しさ。|由松《よしまつ》もこれで|少《すこ》しは|気《き》がつくだらうと|思《おも》つて|居《を》ると、|翌朝《よくてう》|早《はや》くから|御神前《ごしんぜん》をお|掃除《さうぢ》したり、お|供物《そなへもの》をしたり、|祝詞《のりと》を|奏《あ》げるやら、|暫《しばら》くの|間《あひだ》は|打《う》つて|変《か》はつて|敬神《けいしん》の|行為《かうゐ》を|励《はげ》んで|居《ゐ》た。|然《しか》し|十日《とをか》ほどすると、|又《また》もや|神様《かみさま》の|悪口《あくこう》を|次郎松《じろまつ》と|一所《いつしよ》になつて|始《はじ》めかけた。
(大正一一・一〇・九 旧八・一九 北村隆光録)
第一二章 |邪神憑《じやしんかかり》〔一〇二四〕
|喜楽《きらく》は|矢田《やだ》の|滝《たき》に|修行《しうぎやう》に|行《い》つた|序《ついで》、|朝《あさ》|早《はや》くから|亀岡《かめをか》の|伯母《をば》の|内《うち》を|一寸《ちよつと》|訪問《はうもん》してみた。|伯母《をば》は|大《だい》の|稲荷《いなり》|信者《しんじや》であり、|又《また》|其《その》|頃《ころ》|一寸《ちよつと》|天理教《てんりけう》にもかぶれてゐた。|喜楽《きらく》が|神懸《かむがか》りになつたといふことを|聞《き》いて、|一度《いちど》|参《まゐ》つて|見《み》たく|思《おも》ふてゐた|際《さい》である。|斎藤《さいとう》|宇一《ういち》を|伴《ともな》うて、|其《その》|日《ひ》|伯母《をば》を|訪《たづ》ねて|見《み》ると、|何時《いつ》も『|喜楽坊《きらくばう》|喜楽坊《きらくばう》』と|呼《よ》びずてにし、『お|前《まへ》はチンコだ、|甲斐性《かひしやう》なしだ。|内《うち》の|伜《せがれ》は|体格《たいかく》も|丈夫《ぢやうぶ》だし、|余程《よほど》|賢《かしこ》い』などと、クソカスにこきおろすのが|例《れい》であつた。それに|今度《こんど》は|打《う》つて|変《かは》つて、|門口《もんぐち》へ|這入《はい》るなり、|伯母《をば》が|飛《と》んで|来《き》て、
|伯母《をば》『モシモシ|御台様《おだいさま》、|能《よ》う|来《き》て|下《くだ》さいました、どうぞ|座敷《ざしき》へ|御通《おとほ》り|下《くだ》さいまして、|御《ご》ゆるりとなさいませ、|何《なん》なつと|御註文《ごちうもん》|次第《しだい》|御馳走《ごちそう》を|拵《こしら》へて|上《あ》げます。お|揚《あ》げが|宜《よろ》しいか、|小豆飯《あづきめし》をたきませうか、|瓢箪《へうたん》さまの|御台《おだい》さまが|御座《ござ》ると|甘鯛《ぐじ》の|一塩《ひとしほ》が|好《す》きだと|云《い》ふて、|生《なま》なり|食《く》つて|下《くだ》さる、|種油《たねあぶら》も|食《く》つて|下《くだ》さる、|神《かみ》さまによると、|石油《せきゆ》でも|五合《ごがふ》|位《くらゐ》おあがりになる、あなたは|何《なに》がお|好《す》きで|御座《ござ》いますか、|何《なん》なりと|御註文《ごちゆうもん》なさりませ、|神《かみ》さまに|気《き》よう|食《く》て|頂《いただ》くほど|気持《きもち》のよいことはありませぬ』
とサツパリ|稲荷下《いなりさ》げに|人《ひと》をして|了《しま》うてゐる。|喜楽《きらく》は|首《くび》を|左右《さいう》に|振《ふ》り、
|喜楽《きらく》『|伯母《をば》サン、|私《わたし》に|神《かみ》さまがうつつてもそんな|卑《いや》しい|物《もの》は|御《お》あがりにはなりませぬ、|富士《ふじ》の|山《やま》の|天狗《てんぐ》さまが|憑《うつ》つて|御座《ござ》るのだから……』
|伯母《をば》『|天狗《てんぐ》さまなら|猶《なほ》のこと、|御《お》あがりなさらんならん、いつも|御台《おだい》さまに|鞍馬山《くらまやま》の|魔王《まわう》さまがお|憑《うつ》りになり、|何《なん》でもかんでも|御《お》あがりになり|終《しま》ひにや|瓢箪《へうたん》さままで|御憑《おうつ》りになつて、よい|声《こゑ》で|歌《うた》ひ|踊《をど》らはると、|何《なん》とも|云《い》へぬ|気持《きもち》のよいものだ、さうすると、|御前《おまへ》の|神《かみ》さまは|死《し》んだ|神《かみ》さまだな、|物《もの》を|食《く》はぬから……』
|何時《いつ》も|狸《たぬき》|寄《よ》せ、|狐《きつね》|寄《よ》せをやつて|居《ゐ》る|伯母《をば》は、|神懸《かむがか》りは|何《なん》でもかんでも|喰《た》べるものと|思《おも》ふて|居《ゐ》るらしい。|亀岡《かめをか》|附近《ふきん》では|何時《いつ》も|迷信家《めいしんか》が|寄《よ》つて、|稲荷下《いなりさ》げの|御台《おだい》さまを|招《まね》いて|来《き》て|寒施行《かんせげやう》といふことをする。|其《その》|時《とき》|御台《おだい》になる|女《をんな》は|神仏《しんぶつ》|混淆《こんかう》の|御経《おきやう》をとなへ、|御幣《ごへい》を|振《ふ》つて……おれはどこの|稲荷《いなり》だ……とか、|魔王《まわう》だとか、|五郎助《ごろすけ》だとか、|太郎八《たろはち》だとか、|狸《たぬき》までがやつて|来《き》て、|一生懸命《いつしやうけんめい》に|一人《ひとり》の|口《くち》へ|入《い》れて|了《しま》ふ。|小豆飯《あづきめし》の|三升《さんぜう》|位《くらゐ》|一遍《いつぺん》にケロリと|平《たひら》げ、|油揚《あぶらげ》の|五十枚《ごじふまい》|位《くらゐ》|苦《く》もなく|食《く》つて|了《しま》ひ|生節《なまぶし》の|十本《じつぽん》、|蒲鉾《かまぼこ》の|二十枚《にじふまい》、|種油《たねあぶら》|一升《いつしよう》、|醤油《しやうゆ》|五合《ごがふ》|御飯《ごはん》にお|酒《さけ》と|殆《ほとん》ど|想像《さうざう》もつかぬ|程《ほど》|平《たひら》げて|了《しま》ひ、そしてよい|声《こゑ》を|出《だ》して、|身軽《みがる》に|舞《ま》うたり|踊《をど》つたりする。いよいよ|神《かみ》よせが|済《す》むと、|元《もと》の|肉体《にくたい》に|返《かへ》る。すると|其《その》|稲荷下《いなりさ》げは|大抵《たいてい》|女《をんな》が|多《おほ》いが、
『あゝ|大変《たいへん》|腹《はら》がへりました。|御膳《ごぜん》をよばれませうか』
と|自分《じぶん》から|催促《さいそく》して、|一人前《いちにんまへ》|以上《いじやう》を|食《く》つて|了《しま》ふ。かういふ|神憑《かむがか》りでないと|亀岡《かめをか》|地方《ちはう》では|持《も》てはやされぬのである。|伯母《をば》はこの|伝《でん》をいつも|見《み》て|居《ゐ》るから、|自分《じぶん》に|懸《かか》る|神《かみ》さまは|何《なに》も|食《く》はないと|云《い》つたら、
|伯母《をば》『ソラお|前《まへ》の|神経《しんけい》だ。ヤツパリ|神《かみ》さまぢやない』
などと|云《い》つて、|又《また》|態度《たいど》が|一変《いつぺん》し、
|伯母《をば》『コレ|喜三《きさ》、よい|加減《かげん》に|目《め》をさまして、|早《はや》う|帰《かへ》つて|元《もと》の|乳屋《ちちや》をしたり、|百姓《ひやくせう》をしなさい。お|前《まへ》がさうヒヨロヒヨロしてるとお|米《よね》がどん|丈《だけ》|心配《しんぱい》するか|知《し》れぬ。|私《わし》がこれから|旅籠町《はたごちやう》の|天理王《てんりわう》さまへ|連《つ》れて|往《い》つて|御祈祷《ごきたう》して|貰《もら》つて|上《あ》げよか』
と|親切《しんせつ》|相《さう》に|言《い》うてくれる。|宇一《ういち》はポカンとして|二人《ふたり》の|問答《もんだう》を|聞《き》いてゐたが|何《なん》と|思《おも》つたか、|黙《だま》つてポイと|此家《ここ》を|出《で》て|了《しま》つた。|喜楽《きらく》も|宇一《ういち》の|出《で》たのを|幸《さいは》ひ、|伯母《をば》の|内《うち》を|甘《うま》く|逃《に》げ|出《だ》し、|穴太《あなを》へ|帰《かへ》る|途中《とちう》、|荒塚村《あらつかむら》の|前《まへ》で|宇一《ういち》に|追《お》ひつき、それから|其《その》|足《あし》で|寺村《てらむら》の|重吉《ぢうきち》といふ|稲荷下《いなりさ》げの|所《ところ》へ|調《しら》べがてら|行《ゆ》くこととなつた。
|漸《やうや》くにして|寺村《てらむら》の|小谷《こたに》|重吉《ぢうきち》の|家《うち》に|着《つ》いた。|並河《なみかは》|馬吉《うまきち》といふ|男《をとこ》が|世話係《せわがかり》の|元締《もとじめ》をして|居《ゐ》る。|宇一《ういち》は|馬公《うまこう》と|懇意《こんい》の|仲《なか》であつた。それは|親類《しんるゐ》|関係《くわんけい》からである。|馬吉《うまきち》は|宇一《ういち》の|姿《すがた》を|見《み》るなり、
|馬吉《うまきち》『ヤア|宇一《ういち》サンか、|能《よ》う|来《き》て|下《くだ》さつた。|今《いま》|穴太《あなを》へ|相談《さうだん》に|行《ゆ》かうと|思《おも》うて|居《を》つた|所《ところ》だ。|昨夜《ゆうべ》から|神憑《かむがか》りが|烈《はげ》しうて、どうにも|斯《か》うにも|仕様《しやう》がない、|穴太《あなを》の|先生《せんせい》にしづめて|貰《もら》はうかと|思《おも》つてゐた|所《ところ》だ。どうやろなア、|来《き》て|下《くだ》さるだらうか』
と|尋《たづ》ねて|居《ゐ》る。|宇一《ういち》は、
|宇一《ういち》『|此《この》|人《ひと》が|喜楽《きらく》サンだ、|頼《たの》んでみたがよからう』
|馬吉《うまきち》『それは|願《ねが》うてもないこと、イヤ|失礼《しつれい》しました。あなたが|喜楽《きらく》サンで|御座《ござ》いましたか、|何分《なにぶん》|宜《よろ》しう|御願申《おねがひまを》します、サア|何卒《どうぞ》|奥《おく》へ|御通《おとほ》り|下《くだ》さい』
|瓦葺《かはらぶき》の|田舎《いなか》では|可《か》なり|大《おほ》きな|家《いへ》であつた。|馬吉《うまきち》の|案内《あんない》につれて|二人《ふたり》は|奥《おく》へ|通《とほ》ると、|次《つぎ》の|間《ま》に|何《なん》とも|知《し》れぬ|妙《めう》な|唸《うな》り|声《ごゑ》が|聞《きこ》えてゐる。|馬吉《うまきち》は|一寸《ちよつと》|其《その》|声《こゑ》する|方《はう》を|指《さ》し、
|馬吉《うまきち》『モシ|喜楽《きらく》の|先生《せんせい》|様《さま》、あの|通《とほ》り|二三日前《にさんにちまへ》から|唸《うな》り|通《とほ》しで|御座《ござ》います。|今迄《いままで》|二三十人《にさんじふにん》|病人《びやうにん》を|助《たす》けましたので、|皆《みな》の|者《もの》がエライ|神《かみ》さまだと|云《い》うて|信心《しんじん》してゐましたが|一寸《ちよつと》|調子《てうし》に|乗《の》つたと|見《み》えて、|逆上《ぎやくじやう》したのか、|取止《とりと》めのない|訳《わけ》の|分《わか》らぬことを、あの|通《とほ》りベラベラ|囀《さへづ》つて|居《を》ります。どうかして|直《なほ》す|法《はふ》は|御座《ござ》いますまいかな』
と|心配《しんぱい》らしく|尋《たづ》ねてゐる。|喜楽《きらく》は|俯《うつむ》いて|手《て》をくみ|思案《しあん》にくれてゐる。
|宇一《ういち》『|二三日前《にさんにちまへ》からうなり|出《だ》したか、ソラ|大方《おほかた》|大天狗《だいてんぐ》の|口《くち》の|切《き》れかも|知《し》れんぞ、ズイ|分《ぶん》|俺《おれ》ンとこで|三週間《さんしうかん》|修行《しうぎやう》した|時《とき》にも、|家《いへ》がゴーゴー|鳴《な》る、ゆすれる、ソレはソレは|大変《たいへん》なことがあつた。|家《うち》の|爺《おやぢ》が|怒《おこ》つて、|喜楽《きらく》サンに|修行場《しうぎやうば》をどつかへ|持《も》つて|行《い》てくれと|呶鳴《どな》つた|位《くらゐ》の|大騒動《おほさうどう》だつた。|其《その》|時《とき》は|俺《おれ》もズイ|分《ぶん》|肝《きも》を|潰《つぶ》したが、モウ|神憑《かむがか》りに|経験《けいけん》がついたので、あの|位《くらゐ》の|唸《うな》り|声《ごゑ》は|何《なん》でもないワ。|喜楽《きらく》サンでなくても|俺《おれ》が|一《ひと》つ|這入《はい》つてしづめて|来《き》てやらうか、ナア|喜楽《きらく》サン、|如何《どう》せうかな』
|喜楽《きらく》『マアやつて|見《み》い、|万一《まんいち》|可《い》けなかつたら、|俺《おれ》が|出《で》るとせう』
|宇一《ういち》『ヨシ|来《き》た、|喜楽《きらく》サン、ここに|待《ま》つてゐてくれ……オイ|馬《うま》サン、お|前《まへ》も|一所《いつしよ》に|行《い》てくれ、おれが|一《ひと》つ|審神者《さには》をして|天狗《てんぐ》の|口《くち》をきるか、もし|悪神《わるがみ》であつたら|霊縛《れいばく》をかけてやらう』
と|確信《かくしん》あるものの|如《ごと》く|意気《いき》|揚々《やうやう》として、|一寸《ちよつと》した|廊下《らうか》をわたり、|二間建《ふたまだて》の|離《はな》れ|座敷《ざしき》の、|唸《うな》り|声《ごゑ》のする|方《はう》を|指《さ》して|進《すす》んで|行《ゆ》く。
|暫《しばら》くすると|大変《たいへん》な|甲声《かんごゑ》の|太《ふと》いやつが|聞《きこ》えて|来《き》た……ハテな|野天狗《のてんぐ》が|現《あら》はれて|口《くち》を|切《き》つてるのだなア……と|思《おも》ひ|乍《なが》ら、|自分《じぶん》で|茶《ちや》を|汲《く》み、|二人《ふたり》の|帰《かへ》つて|来《く》るのを|待《ま》つてゐたが、|何時《いつ》までたつても|帰《かへ》つて|来《こ》ない。『ウンウン』と|唸《うな》る|声《こゑ》は|段々《だんだん》と|烈《はげ》しくなる。|此《この》|家《いへ》の|者《もの》はビツクリして、|同《おな》じ|村《むら》の|親類《しんるゐ》へ|皆《みんな》|逃《に》げて|行《い》つて|不在《ふざい》である。
|日《ひ》の|暮《くれ》に|間近《まぢか》く、|座敷《ざしき》の|隅《すみ》はソロソロうす|暗《ぐら》くなつて|来《き》た。|細《ほそ》い|廊下《らうか》を|渡《わた》つて|声《こゑ》のする|居間《ゐま》へ|行《い》つて|見《み》ると、|二人《ふたり》|共《とも》あべこべに|霊縛《れいばく》にかかり、ふンのびて|了《しま》ひ、|其《その》|上《うへ》に|小谷《こたに》|重吉《ぢうきち》が|神憑《かむがか》りになつたまま|目《め》を|丸《まる》く|光《ひか》らせ、|妙見《めうけん》サンが|波切丸《なみきりまる》の|宝剣《ほうけん》を|振《ふ》り|上《あ》げたやうな|恰好《かつかう》で、|力瘤《ちからこぶ》だらけの|腕《うで》を、|赤裸《まつぱだか》になつて、|頭上《づじやう》に|片仮名《かたかな》のフの|字《じ》|型《がた》にし、|左《ひだり》の|手《て》を|握《にぎ》つて|馬吉《うまきち》の|頭《あたま》をグイグイ|押《おさ》へつけ|乍《なが》ら、
|重吉《ぢうきち》『コリヤ|悪人《あくにん》|共《ども》、|改心《かいしん》|致《いた》すかどうぢや、きさまは|俺《おれ》ン|所《ところ》の|女房《にようばう》と|何々《なになに》して|居《ゐ》るだらう。|白状《はくじやう》せい、コリヤ|宇一《ういち》、|貴様《きさま》も|余《あま》り|性《しやう》がよくないぞ、|鞍馬山《くらまやま》の|大僧正《だいそうぜう》が|其《その》|悪事《あくじ》をスツクリ|調《しら》べ|上《あ》げて|制敗《せいばい》をしてやるのだ、サア|如何《どう》ぢや』
と|云《い》つては|頭《あたま》をコツンとなぐる。|二人《ふたり》は|強直《きやうちよく》|状態《じやうたい》となり、|首《くび》|計《ばか》りふつて|声《こゑ》をも|能《よ》う|出《だ》さず|苦《くるし》んでゐた。|小谷《こたに》|重吉《ぢうきち》の|神憑《かむがか》りは|喜楽《きらく》の|姿《すがた》を|見《み》るより、|二人《ふたり》の|上《うへ》からツツと|下《お》りて|叮嚀《ていねい》にキチンとすわり、
|重吉《ぢうきち》『これはこれは|大先生《だいせんせい》さま、|能《よ》う|来《き》て|下《くだ》さいました。|私《わたし》は|一体《いつたい》|神憑《かむがか》りですやろか、|但《ただし》は|気《き》が|違《ちが》うて|居《ゐ》るのですやろか、|自分《じぶん》がてに|合点《がてん》が|行《ゆ》きませぬ。どうぞ|一《ひと》つ|査《しら》べて|下《くだ》さいな、オホヽヽヽ』
と|厭《いや》らしう|笑《わら》ふ。|如何《どう》しても|普通《ふつう》とは|見《み》えぬ。そこで『ウーム!』と|一《ひと》つ|鎮魂《ちんこん》をやつて|見《み》ると、|重吉《ぢうきち》は|何《なん》の|感応《かんのう》もなく|依然《いぜん》として|坐《すわ》つて|居《ゐ》る。|霊《れい》が|二人《ふたり》にかかつたと|見《み》え、|俄《にはか》に|二人《ふたり》は|強直《きやうちよく》|状態《じやうたい》から|免《まぬ》がれ、ムクムクと|立上《たちあ》がり、|重吉《ぢうきち》の|左右《さいう》に|責寄《せめよ》つて、|宇一《ういち》は|左《ひだり》の|手《て》を、|馬吉《うまきち》は|右《みぎ》の|手《て》をグツと|後《うしろ》へまはし、|手早《てばや》く|手拭《てぬぐひ》で|括《くく》らうとする。
|喜楽《きらく》『オイそんな|乱暴《らんばう》なことしちや|可《い》かぬ、|待《ま》て|待《ま》て、コリヤ|神憑《かむがかり》だから、|本人《ほんにん》が|悪《わる》いのぢやない、そして|俺《おれ》がここへ|来《き》た|以上《いじやう》は、キツとあばれささぬから、|其《その》|手《て》を|放《はな》してやれ』
|馬吉《うまきち》『|今日《けふ》|迄《まで》こんな|事《こと》はなかつたのです、|只《ただ》|大《おほ》きい|声《こゑ》で|怖《こわ》い|面《つら》して|呶《ど》なる|一方《いつぱう》でしたが、|今《いま》の|先《さき》から|様子《やうす》がガラツと|変《かは》り、|私《わたし》が|此《この》|男《をとこ》の|女房《にようばう》を|何々《なになに》したとか|云《い》つて、|覚《おぼ》えもないことをぬかし|頭《あたま》をコツきよるのです。こんな|神憑《かむがかり》があつてたまるものか、|常平常《つねへいぜい》から|此奴《こいつ》ア|悋気《りんき》|深《ぶか》い|奴《やつ》だから、|私《わたくし》が|此処《ここ》へ|遊《あそ》びに|来《く》るのを、|何《なに》か|妙《めう》な|目的《もくてき》があつて|来《き》て|居《ゐ》るのだと|思《おも》うて|居《を》つたに|違《ちが》ひない。それが|一《ひと》つになつて|気《き》が|狂《くる》ひ、|情《なさけ》ないことをぬかすのだらうから、|一《ひと》つ|頭《あたま》から|血《ち》を|出《だ》し、|水《みづ》でもかけてやらねば|直《なほ》りますまいで、なア|宇一《ういち》|君《くん》、お|前《まへ》|如何《どう》|思《おも》ふか』
|宇一《ういち》『|俺《おれ》は|全《まつた》くの|気違《きちがひ》とは|能《よ》う|思《おも》はぬワ、ドエライ|野天狗《のてんぐ》が|憑《つ》きやがつて|重吉《ぢうきち》の|肉体《にくたい》の|精神《せいしん》とゴツチヤ|交《ま》ぜになつて、こんな|事《こと》を|吐《ぬか》すのだと|思《おも》ふ。|一《ひと》つ|喜楽《きらく》サンに|鎮魂《ちんこん》して|貰《もら》うたら|分《わか》るだらう、|俺《おれ》もこんな|審神者《さには》をしたことは|今日《けふ》が|始《はじ》めてだ、こんな|奴《やつ》に|相手《あひて》になつて|居《を》らうものならそれこそ|命《いのち》がけだ、|最前《さいぜん》も|俺《おれ》の|喉笛《のどぶえ》に|喰《くら》ひつかうとしたので、|横面《よこづら》をはり|倒《たふ》してやつたら、|俄《にはか》に|口《くち》を|切《き》り|出《だ》しあんな|事《こと》|吐《ぬか》すんだよ』
|重吉《ぢうきち》は|又《また》もや|立《た》ち|上《あが》り、|両腕《りやううで》をプリンプリン|振《ふ》り|乍《なが》ら、
|重吉《ぢうきち》『|此《この》|方《はう》は|鞍馬山《くらまやま》の|魔王《まわう》|大僧正《だいそうぜう》だ、これから|鞍馬山《くらまやま》へ|天《てん》の|雲《くも》へ|乗《の》つて、|行《い》つて|来《く》る、|其《その》|方《はう》はそれ|迄《まで》ここに|待《ま》つて|居《を》れ、|今度《こんど》おれが|帰《かへ》つたら、|大変《たいへん》な|神力《しんりき》を|受《う》けて|帰《かへ》り、どいつも|此奴《こいつ》もゴテゴテ|吐《ぬ》かす|奴《やつ》を|片《かた》つ|端《ぱし》からふン|伸《の》ばし、|股《また》から|引《ひき》さき|戒《いまし》めてやる|程《ほど》に、ウツフーン』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら、ドシンドシンと|一足《ひとあし》|々々《ひとあし》|足《あし》に|力《ちから》を|入《い》れ|外《そと》へ|出《で》ようとする。|喜楽《きらく》は|両手《りやうて》を|組《く》んで、『ウーン』と|一声《ひとこゑ》|霊《れい》を|送《おく》つた。|重吉《ぢうきち》は|其《その》|場《ば》に|大《だい》の|字《じ》になつて|倒《たふ》れて|了《しま》うた。
|馬吉《うまきち》『コレ|喜楽《きらく》サン、そんな|無茶《むちや》なことして|如何《どう》なりますか、|手《て》も|足《あし》も|冷《つめ》たうなつたぢやありませぬか、|若《も》し|後《あと》へ|戻《もど》らぬやうなことがあつたら|吾々《われわれ》は|大変《たいへん》ですがな、どうして|下《くだ》さる』
と|気色《けしき》をかへて、|鼻息《はないき》をはずませ、|腕《うで》をニユツとつき|出《だ》して|迫《せま》つて|来《く》る。
|喜楽《きらく》『ナアニ|心配《しんぱい》いりませぬよ。|今《いま》|戻《もど》してやりますよ』
と|言《い》ひ|乍《なが》ら、|二拍手《にはくしゆ》して|天《あま》の|数歌《かずうた》を|二回《にくわい》まで|唱《とな》へ|上《あ》げた。|重吉《ぢうきち》は、
『アハヽヽヽ』
と|笑《わら》ひ|乍《なが》ら、|身体《しんたい》|元《もと》の|如《ごと》く|軟《やはらか》くなつて|起《おき》あがり、
|重吉《ぢうきち》『アー|喜楽《きらく》サン、ホンに|偉《えら》い|御神力《ごしんりき》ぢや、モウ|是《これ》ならお|前《まへ》さまも|大丈夫《だいぢやうぶ》だ、サア|法貴谷《ほふきだに》へ|修行《しうぎやう》に|行《ゆ》きませう、|喜楽《きらく》サン|従《つ》いて|来《き》て|下《くだ》さい、お|前《まへ》さまに|真言《しんごん》|秘密《ひみつ》の|法《はふ》を|教《をし》へて|上《あ》げるから、|此《この》|魔王《まわう》|大僧正《だいそうぜう》が|直接《ちよくせつ》に、|神変不可思議《しんぺんふかしぎ》の|魔術《まじゆつ》を|授《さづ》けますぞや。アーン』
|喜楽《きらく》『おかげで|私《わたし》はいろいろの|神術《かむわざ》を|高熊山《たかくまやま》で|教《おそ》はりましたから、モウ|結構《けつこう》で|御座《ござ》います、どうぞ|結構《けつこう》な|法《はふ》があるのならば、|馬《うま》サンや、|宇一《ういち》サンに|授《さづ》けて|上《あ》げて|下《くだ》さい』
とからかひ|気分《きぶん》に|云《い》ふ。|重吉《ぢうきち》は|肩《かた》を|怒《いか》らし|乍《なが》ら、|言《ことば》も|芝居《しばゐ》|口調《くてう》になつて、
|重吉《ぢうきち》『コレなる|両人《りやうにん》は、|生《うま》れつきの|精神《せいしん》が|悪《わる》いに|依《よ》つて、|神《かみ》が|見《み》せしめの|為《ため》、ふン|伸《の》ばしてやつたのだ。かやうな|者《もの》に|魔訶不思議《まかふしぎ》の|法《はふ》を|授《さづ》けやうものなら、どんなことを|致《いた》すか|分《わか》りませぬワイ、ウツフヽヽヽ』
と|立《た》ちはだかつて、|得意面《とくいづら》をさらしてゐる。|半分《はんぶん》は|肉体《にくたい》、|半分《はんぶん》は|野天狗《のてんぐ》の|神憑《かむがかり》といふ|状態《じやうたい》であつた。|馬吉《うまきち》は|握拳《にぎりこぶし》をかためて|重吉《ぢうきち》の|横面《よこづら》をピシヤピシヤとなぐりつけ、
|馬吉《うまきち》『コリヤ|小谷《こたに》|重吉《ぢうきち》、きさまは|偽気違《にせきちがひ》の|偽神《にせかむ》がかりだ、|常平常《つねへいぜい》から|俺《おれ》を|誤解《ごかい》してゐやがるからそんな|事《こと》をぬかしやがるんだ。|俺《おれ》は|貴様《きさま》の|云《い》ふやうな|悪人《あくにん》ぢやないぞ、どうぢや|貴様《きさま》が|去年《きよねん》、○○の|嬶《かか》を○○した|時《とき》に、|泣《な》いて|俺《おれ》に|仲裁《ちうさい》を|頼《たの》みに|来《き》よつたぢやないか、|其《その》|御恩《ごおん》を|忘《わす》れたのか|馬鹿野郎《ばかやろう》|奴《め》!』
と|面《つら》ふくらして|真向《まむき》になつて|怒《おこ》つてゐる。
|宇一《ういち》『オイ|馬公《うまこう》、こんな|半気違《はんきちがひ》をつかまへて|怒《おこ》つたつて|仕方《しかた》がないぢやないか』
|馬吉《うまきち》『おれも|親類《しんるゐ》なり、|友達《ともだち》だと|思《おも》うて、|家内《かない》でさへも|能《よ》う|居《を》らぬ|重公《ぢうこう》の|世話《せわ》をしてやつて|居《ゐ》るのに、|喜楽《きらく》サンの|前《まへ》で、|有《あ》りもせぬことを|吐《ぬか》しやがると、|業腹《がふはら》がにえてたまらぬのだ』
|重公《ぢうこう》は|其《その》|間《ま》に|尻《しり》をまくり、
|重吉《ぢうきち》『コラ|馬公《うまこう》、けつでもくらへ!』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら、|真黒《まつくろ》けの|尻《しり》を|出《だ》し、|二《ふた》つ|三《み》つ|叩《たた》いて|裏口《うらぐち》から、どこともなし|飛出《とびだ》して|了《しま》うた。|日《ひ》はズツポリとくれて、|何処《どこ》へ|行《い》つたか、チツとも|見分《みわ》けがつかなくなつて|了《しま》うた。|後《あと》にて|聞《き》けば|法貴谷《ほうきだに》の|石凝《いしこり》とか|云《い》ふ|天狗《てんぐ》が|住《す》んでゐる|岩山《いはやま》へ|逃《に》げ|込《こ》んでゐることが|四五日《しごにち》してから|分《わか》つたのである。
|喜楽《きらく》は|只《ただ》|一人《ひとり》|穴太《あなを》の|自宅《じたく》に|帰《かへ》り、|日夜《にちや》の|参詣者《さんけいしや》に|対《たい》して|鎮魂《ちんこん》を|施《ほどこ》し|神占《しんせん》を|取次《とりつ》いでゐた。
(大正一一・一〇・九 旧八・一九 松村真澄録)
第三篇 |阪丹珍聞《はんたんちんぶん》
第一三章 |煙《けむり》の|都《みやこ》〔一〇二五〕
|松岡天使《まつをかてんし》の|命令《めいれい》によつて、|喜楽《きらく》は|只《ただ》|一人《ひとり》|初《はじ》めて|大阪《おほさか》の|布教《ふけう》を|試《こころ》みむと|早朝《さうてう》|吾《わが》|家《や》を|立《た》ち|出《い》で、|天然笛《てんねんぶえ》と|鎮魂《ちんこん》の|玉《たま》に|皮製《かはせい》の|鞄《かばん》を|一《ひと》つ|肩《かた》にひつかけ、|生首峠《なまくびたうげ》を|渡《わた》り|茨木街道《いばらぎかいだう》に|出《い》で、それより|汽車《きしや》に|乗《の》つて|大阪《おほさか》の|地《ち》に|着《つ》いた。
|大阪《おほさか》は|煙《けむり》の|都《みやこ》とかねて|聞《き》いて|居《ゐ》た。|初《はじ》めて|大都会《だいとくわい》を|見《み》た|田舎者《いなかもの》の|目《め》には、|井中《ゐどなか》の|蛙《かへる》が|大海《たいかい》に|放《はう》り|出《だ》された|様《やう》に|面喰《めんくら》つて|了《しま》ひ、|何処《どこ》を|如何《どう》|行《い》つたら|宜《い》いか|分《わか》らなくなつて|了《しま》つた。|幾百《いくひやく》とも|知《し》れぬ|煙突《えんとつ》から|立《た》ち|上《のぼ》る|濛々《もうもう》たる|黒煙《こくえん》は、|中空《ちうくう》に|竜《たつ》の|躍《をど》るが|如《ごと》く、|馬車《ばしや》|人車《じんしや》の|行《ゆ》き|交《かは》ふ|音《おと》は|轟々《ぐわうぐわう》として、|雷《かみなり》を|聞《き》くかとばかり|疑《うたが》はれ、|魂消《たまげ》きつて|梅田《うめだ》の|駅《えき》から|当途《あてど》もなしに|南《みなみ》へ|南《みなみ》へと|進《すす》んで|行《い》つた。|漸《やうや》く|中《なか》の|島《しま》の|公園《こうゑん》に|辿《たど》りつき、|豊太閤《ほうたいかふ》を|祀《まつ》つた|豊国神社《ほうこくじんじや》や、|木村重成《きむらしげなり》の|誠忠碑《せいちうひ》の|大《おほ》きな|花崗石《みかげいし》が、|真中《まんなか》から|斜《はすかひ》に|罅《ひび》き|割《わ》れて|居《ゐ》るの|等《など》を|拝礼《はいれい》し|乍《なが》ら、|多田《ただ》|亀《かめ》の|元《もと》の|妻《つま》たりしお|国《くに》と|云《い》ふ|女《をんな》の|宅《たく》を|頼《たよ》らうと、|其処《そこ》らあたりをうろつき|廻《まは》つた。|此《この》お|国《くに》サンの|家《うち》には、|多田《ただ》|琴《こと》が|娘《むすめ》の|事《こと》とて、|布教《ふけう》がてら|先《さき》へ|行《い》つて|居《ゐ》るので、|両人《りやうにん》|息《いき》を|合《あは》せ|此《この》|地《ち》で|大宣伝《だいせんでん》を|試《こころ》みようと|思《おも》ふたからである。
|水《みづ》の|都《みやこ》の|大阪市《おほさかし》、|中空《ちうくう》は|煙《けぶり》に|包《つつ》まれ|地《ち》は|河《かは》で|囲《かこ》まれて|居《ゐ》る。|同《おな》じ|様《やう》な|橋《はし》が|幾《いく》つともなく|架《か》かつて|居《ゐ》る。|大阪《おほさか》には|殆《ほとん》ど|千《せん》ばかりの|橋梁《けうりやう》が|市内《しない》に|架《かか》つてるさうだが、|橋《はし》と|名《な》のつくのは|僅《わづか》に|二《ふた》つ|三《み》つで|其《その》|外《ほか》は|皆《みな》|橋《ばし》である。|天満橋《てんまばし》、|天神橋《てんじんばし》、|浪速橋《なにはばし》と|云《い》ふ|様《やう》に|橋《はし》ばかりの|大都会《だいとくわい》を、|軒別《けんべつ》に……お|国《くに》の|家《うち》は|此処《ここ》か……と|尋《たづ》ね|廻《まは》る|間抜《まぬ》けさ|加減《かげん》、|国《くに》を|出《で》る|時《とき》に|多田《ただ》|亀《かめ》にお|国《くに》サンの|住所《ぢうしよ》を|詳《くは》しく|聞《き》く|事《こと》を|忘《わす》れて|来《き》たのだ。|田舎《いなか》|育《そだ》ちの|喜楽《きらく》は、|名《な》さへ|云《い》へば|小《ちひ》さい|田舎《いなか》の|様《やう》に|直《すぐ》|判《わか》ると|思《おも》ふて|居《ゐ》たから、|住所《ぢうしよ》を|詳《くは》しく|問《と》ふておかなかつたのである。|何程《なにほど》|広《ひろ》い|大阪《おほさか》でも、|交番所《かうばんしよ》で|尋《たづ》ねたらお|国《くに》サンの|処《ところ》ぐらゐは|直《すぐ》に|判《わか》ると|早合点《はやがつてん》して|居《ゐ》た。それが|大阪《おほさか》へ|初《はじ》めて|来《き》て|見《み》ればチツとも|見当《けんたう》がつかない。|交番所《かうばんしよ》へ|行《い》つて|尋《たづ》ねて|見《み》ても|巡査《じゆんさ》に|笑《わら》はれるばかり、|住所《ぢうしよ》と|苗字《めうじ》の|知《し》れぬ|只《ただ》お|国《くに》サンだけでは|到底《たうてい》|駄目《だめ》だつた。|不図《ふと》、|自宅《じたく》の|隣家《りんか》に|住《す》む|穴太《あなを》の|斎藤《さいとう》|佐一《さいち》と|云《い》ふ|人《ひと》が|天満橋《てんまばし》の|詰《つ》め|近《ちか》く|空心町《くうしんまち》と|云《い》ふ|処《ところ》に|餅屋《もちや》をしてると|云《い》ふ|事《こと》を|予《かね》て|聞《き》いて|居《ゐ》た。これを|思《おも》ひ|出《だ》して|尋《たづ》ねようと|考《かんが》へ|込《こ》んだ。これは|地理《ちり》をよく|知《し》つた|車屋《くるまや》に|案内《あんない》さすが|一番《いちばん》だと|考《かんが》へ、|折柄《をりから》|空俥《からぐるま》をひいて|橋《はし》の|詰《つ》めにやつて|来《く》る|俥夫《しやふ》に|向《むか》つて、
|喜楽《きらく》『|空心町《くうしんまち》の|斎藤《さいとう》|佐一《さいち》と|云《い》ふ|餅屋《もちや》へやつて|呉《く》れ』
と|頼《たの》んで|見《み》た。|車夫《しやふ》は、
|車夫《しやふ》『|空心町《くうしんまち》は|余程《よほど》|道程《みちのり》がありますから|廿五銭《にじふごせん》|下《くだ》さい』
といふ。|自分《じぶん》は|直《すぐ》に|廿五銭《にじふごせん》を|俥屋《くるまや》に|渡《わた》した。さうして|長《なが》い|天満橋《てんまばし》の|上《うへ》を|南《みなみ》へ|渡《わた》り、それから|又《また》|大《おほ》きな|橋《はし》を|一《ひと》つ|渡《わた》つて|又《また》もとの|橋《はし》の|近所《きんじよ》へ|連《つ》れて|来《こ》られた。|其《その》|橋詰《はしづめ》の|少《すこ》し|凹《へこ》んだ|狭《せま》い|間口《まぐち》の|家《いへ》の|前《まへ》に|卸《おろ》して|呉《く》れた。よくよく|見《み》れば『|実盛餅《さねもりもち》』と|書《か》いてある。あゝ|此処《ここ》だなと|頷《うなづ》き|乍《なが》ら、
|喜楽《きらく》『|御免《ごめん》』
といつて|中《なか》へ|這入《はい》つた。|随分《ずゐぶん》|狭《せま》い|家《いへ》であつた。|初《はじ》めに|俥《くるま》に|乗《の》つた|処《ところ》へ|畢竟《つまり》おろされて|居《ゐ》たのである。|後《あと》で|考《かんが》へて|見《み》れば、|天神橋《てんじんばし》を|南《みなみ》へ|渡《わた》り|又《また》|天満橋《てんまばし》を|北《きた》へ|渡《わた》り、|町中《まちぢう》を|廻《まは》つて|元《もと》の|処《ところ》へ|下《おろ》されたのであつた。|田舎者《ゐなかもん》の|事《こと》とて、|二十八才《にじふはつさい》の|青年《せいねん》も|人力車《じんりきしや》に|乗《の》つたのは、|恥《はづ》かし|乍《なが》らこれが|初《はじ》めてであつた。|実盛餅《さねもりもち》の|主人《しゆじん》は、|自分《じぶん》の|顔《かほ》を|見《み》て、
|主人《しゆじん》『あゝ|喜楽《きらく》サンだすか、|能《よ》うおいでやす。あんたは|此《この》|頃《ごろ》|噂《うはさ》に|聞《き》けば|偉《えら》う|信神《しんじん》が|出来《でき》ますさうな、そりや|結構《けつこう》です。マアゆつくり|一服《いつぷく》して|下《くだ》さい』
と|云《い》ふ。
|喜楽《きらく》『ハイ、|有難《ありがた》う』
と|腰《こし》を|掛《か》け、|扇《あふぎ》をパチパチと|云《い》はして|俯向《うつむ》いて|居《ゐ》ると、|主人《しゆじん》の|佐市《さいち》サンはお|繁《しげ》と|云《い》ふ|嫁《よめ》サンに|実盛餅《さねもりもち》を|皿《さら》に|盛《も》らせて、
|主人《しゆじん》『サアお|上《あが》り』
と|親切《しんせつ》に|茶《ちや》を|汲《く》んで|出《だ》して|呉《く》れた。お|繁《しげ》サンも|亦《また》、
お|繁《しげ》『|喜楽《きらく》サン、マア|珍《めづら》しい、|能《よ》う|来《き》なさつた。|折角《せつかく》だから|家《うち》で|泊《とま》つて|貰《もら》ひ|度《た》いが、|此《この》|通《とほ》り|表《おもて》が|二畳敷《にでふじき》、|奥《おく》が|四畳半《よでふはん》で|寝《ね》る|処《ところ》がないので、|泊《とま》つて|貰《もら》ふ|訳《わけ》にもゆきませぬ。|妾《わたし》が|宿屋《やどや》を|案内《あんない》するから|其処《そこ》で|泊《とま》りなさい。|旅費《りよひ》は|持《も》つて|来《き》なさつたか』
と|尋《たづ》ねる。|喜楽《きらく》は、
|喜楽《きらく》『|実《じつ》は|五十円《ごじふゑん》の|旅費《りよひ》を|算段《さんだん》して|持《も》つて|来《き》ました。まだ、|四十九円《よんじふくゑん》|五十銭《ごじつせん》|残《のこ》つて|居《ゐ》る』
と|答《こた》へると、|佐市《さいち》サンは、
|佐市《さいち》『そんな|大金《たいきん》を|持《も》つて|居《ゐ》ると、|掏摸《ちぼ》が|田舎者《ゐなかもん》だと|思《おも》ふて|盗《と》るか|知《し》れぬから、シツカリと|内懐《うちふところ》へ|入《い》れて|片一方《かたいつぱう》の|手《て》で|握《にぎ》りもつて|歩《ある》きなさい』
と|注意《ちうい》し|乍《なが》ら、|川傍《かはばた》の|三階建《さんがいだて》の|宿屋《やどや》へ|案内《あんない》して|呉《く》れた。|荷物《にもつ》といつたら|鞄《かばん》|一《ひと》つよりない。|外《そと》へ|鞄《かばん》を|提《さ》げて、|行《ゆ》き|当《あた》り|次第《しだい》|布教《ふけう》に|出《で》ようと|宿屋《やどや》を|出掛《でかけ》ると、|其処《そこ》の|番頭《ばんとう》が|喜楽《きらく》の|襟髪《えりがみ》をグツと|握《にぎ》り、
|番頭《ばんとう》『こりや|何処《どこ》へ|逃《に》げて|行《ゆ》く、|田舎者《いなかもの》|奴《め》が!』
とえらい|権幕《けんまく》で|呶鳴《どな》りつける。|喜楽《きらく》は|吃驚《びつくり》して、
|喜楽《きらく》『ヘイ、|私《わたし》は|何処《どこ》か|其処《そこ》らへ|神様《かみさま》の|道《みち》を|拓《ひら》きに|行《ゆ》かうと|思《おも》ひます。|夜《よる》になつたら|帰《かへ》つて|来《き》ますから、|何卒《どうぞ》やらして|下《くだ》さい。|毎日《まいにち》|日日《ひにち》こんな|処《ところ》へ|来《き》て、|宿賃《やどちん》を|払《はら》つて|遊《あそ》んで|居《を》つては|詰《つま》りませぬから……』
と|云《い》ふと、|番頭《ばんとう》は|少《すこ》し|顔《かほ》を|和《やは》らげて、
|番頭《ばんとう》『そんなら|其《その》|鞄《かばん》を|置《お》いて|行《ゆ》かつしやい、お|金《かね》は|何程《なんぼ》|持《も》つてる』
と|云《い》ふ。
|喜楽《きらく》『ここに|四十円《しじふゑん》あまり|持《も》つて|居《ゐ》ます』
と|答《こた》へると|番頭《ばんとう》は、
|番頭《ばんとう》『|其《その》|金《かね》を|預《あづ》けて|行《ゆ》きなさい。|確《たしか》に|預《あづか》るから……お|前《まへ》サンの|様《やう》な|都会《とくわい》に|慣《な》れない|人《ひと》は、|何時《いつ》|掏摸《ちぼ》に|盗《と》られるか|知《し》れぬから、もしも|盗《と》られたら|此方《こちら》の|宿賃《やどちん》まで|貰《もら》へぬ|様《やう》になつて|了《しま》ふ。さうなれば|互《たがひ》の|迷惑《めいわく》だ』
と|少《すこ》し|言葉《ことば》を|和《やは》らげて|云《い》ふ。そこで|喜楽《きらく》は|四十円《よんじふゑん》を|此処《ここ》の|番頭《ばんとう》へ|預《あづ》けておき、|残《のこ》りの|端金《はしたがね》を|懐《ふところ》に|入《い》れて|其処等《そこら》あたりをウロつきまはり、|色々《いろいろ》の|教会《けうくわい》を|訪問《はうもん》し、|稲荷下《いなりさ》げを|調《しら》べたり|何《なに》かして|二週間《にしうかん》ばかり|何《なん》の|効果《かうくわ》も|無《な》く|過《す》ごして|了《しま》つた。さうして|多田《ただ》|琴《こと》の|母親《ははおや》の|家《いへ》は|如何《どう》しても|判《わか》らなかつた。|夜分《やぶん》になると|宿屋《やどや》へ|帰《かへ》つて|鎮魂《ちんこん》をしたり、|自問自答《じもんじたふ》して|神勅《しんちよく》を|伺《うかが》ふたけれど、チツとも|松岡《まつをか》サンも|大霜《おほしも》サンもスカタンばかり|教《をし》へて|本当《ほんたう》の|事《こと》を|言《い》つて|呉《く》れなかつた。
|二週間《にしうかん》|経《た》つと|宿屋《やどや》の|番当《ばんとう》が、
|番頭《ばんとう》『お|客《きやく》サン、|勘定《かんぢやう》を|願《ねがひ》ます』
と|云《い》つて|勘定書《つけ》を|持《も》つて|来《く》る。よくよく|見《み》れば|一日《いちにち》の|泊《とま》りが|二円《にゑん》|八十銭《はちじつせん》で|二週間《にしうかん》で|三十九円《さんじふくゑん》|二十銭《にじつせん》と|書《か》いてある。|一度《いちど》|田舎《いなか》の|宿《やど》で|泊《とま》つた|時《とき》|二十五銭《にじふごせん》であつた。|何程《なにほど》|大阪《おほさか》が|高《たか》いと|云《い》つても|一日《いちにち》|五十銭《ごじつせん》|出《だ》せば|大丈夫《だいぢやうぶ》だ……と|思《おも》ふて|居《ゐ》た|田舎者《いなかもの》の|喜楽《きらく》は、|生命《いのち》の|綱《つな》と|頼《たの》んで|居《ゐ》た|旅費《りよひ》の|大部分《だいぶぶん》が、|思《おも》ひ|掛《が》けなき|宿料《やどれう》に|皆《みな》とられた|事《こと》に|肝《きも》を|潰《つぶ》し、|直《ただち》に|預《あづ》けた|金《かね》の|中《なか》から|八十銭《はちじつせん》|返《かへ》して|貰《もら》ひ、それを|茶代《ちやだい》として|渡《わた》したので、|畢竟《つまり》|四十円《よんじふゑん》の|金《かね》は|二週間《にしうかん》|前《まへ》に|番頭《ばんとう》に|渡《わた》した|時《とき》|見《み》たきり、それが|長《なが》のお|別《わか》れとなつて|了《しま》つた。|実際《じつさい》を|云《い》へば|此《この》|五十円《ごじふゑん》は、|牧畜業《ぼくちくげふ》の|方《はう》では|三人《さんにん》の|組合《くみあひ》で|金《かね》を|如何《どう》することも|出来《でき》ないので、|自分《じぶん》の|家《いへ》と|屋敷《やしき》を|抵当《ていたう》に|入《い》れて|借《か》つてきた|金《かね》である。そこら|迂路々々《うろうろ》と|芝居《しばゐ》を|見《み》たり|落語《らくご》を|聞《き》いたり、|見世物《みせもの》や|車賃《くるまちん》などで|七八円《しちはちゑん》の|金《かね》はなくなつて|居《ゐ》た。もはや|懐《ふところ》には|一円《いちゑん》あまり|外《ほか》、なかつたのである。
|此《この》|宿屋《やどや》は|玉屋《たまや》と|書《か》いてあつた。|河端《かはばた》の|極《ご》く|新《あたら》しい|白木造《しらきづく》りの|家《いへ》であつた。|此《この》|玉屋《たまや》を|立《た》ち|出《い》で|北区《きたく》の|天満天神《てんまてんじん》さまの|鳥居《とりゐ》を|潜《くぐ》つて、|大阪《おほさか》へ|別《わか》れを|告《つ》ぐるべく|参拝《さんぱい》をした。|神苑内《しんゑんない》には|丹頂《たんちやう》の|鶴《つる》が|金網《かなあみ》を|張《は》つて|四五羽《しごは》|飼《か》つてあつた。さうして|六十《ろくじふ》ばかりの|爺《おやぢ》が|鰌《どぢやう》を|売《う》つて|居《ゐ》る。|爺《おやぢ》は|参拝者《さんぱいしや》をつかまへては、
|爺《おやぢ》『|皆《みな》サン、お|鶴《つる》サンに|鰌《どぢやう》を|献上《けんじやう》なさいませ。|一盛《ひともり》が|一銭《いつせん》です』
と|呶鳴《どな》つて|居《ゐ》る。|見《み》れば|小《ちひ》さい|饂飩《うどん》の|様《やう》な|鰌《どぢやう》が、|二匹《にひき》|浅《あさ》い|竹筒《たけづつ》に|水《みづ》と|一所《いつしよ》に|盛《も》り|並《なら》べてある。|一銭《いつせん》|出《だ》しては|鰌《どぢやう》を|買《か》ひ、|鶴《つる》の|立《た》つて|居《ゐ》る|浅《あさ》い|水溜《みづたま》りへ|投《な》げてやると、|長《なが》い|嘴《くちばし》をつつこんで|直《すぐ》にとつて|食《く》ふ。|鶴《つる》は|目出度《めでた》い|鳥《とり》ぢやと|聞《き》いて|居《ゐ》る。|絵《ゑ》に|書《か》いた|鶴《つる》は|沢山《たくさん》|見《み》たが、|生《いき》たのは|初《はじ》めてなので、|好奇心《かうきしん》に|駆《か》られて|一銭《いつせん》|銅貨《どうくわ》と|交換《かうくわん》しては、|並《なら》べてある|鰌《どぢやう》の|竹鉢《たけばち》を|残《のこ》らず|鶴《つる》に|与《あた》へて|了《しま》つた。さうすると|一方《いつぱう》の|方《はう》に|白《しろ》い|毛《け》の|駿馬《しゆんめ》が、|足摺《あしずり》|荒《あら》くして|板《いた》の|間《ま》をトントントンと|叩《たた》いて|居《ゐ》る。|一寸《ちよつと》|見《み》れば|其処《そこ》にも|土器《かわらけ》に|大豆《だいづ》の|煮《ゆ》でたのが|七《なな》|八《や》ツ|皿《さら》に|盛《も》つて、
『|一皿《ひとさら》|一銭《いつせん》お|馬《うま》さんにおあげなさいませ』
と|書《か》いてある。|鶴《つる》に|五杯《ごはい》の|鰌《どぢやう》をスツカリ|与《あた》へて|五銭《ごせん》はり|込《こ》んでやつたのだから、|此《この》|馬《うま》にもやらずには|居《を》られぬと、|五七《ごしち》|三十五粒《さんじふごつぶ》の|煮豆《ゆでまめ》を、|白銅《はくどう》|一枚《いちまい》はりこんで|馬《うま》に|振《ふ》れ|舞《ま》ひ|興《きよう》に|入《い》つて|居《ゐ》る。その|時《とき》|後《うしろ》の|方《はう》から、
『|先生《せんせい》|々々《せんせい》』
と|呼《よ》ぶ|声《こゑ》が|聞《きこ》える。|誰《たれ》の|事《こと》かと|思《おも》ふて|後《うしろ》を|振《ふ》り|向《む》くと、|白髪《はくはつ》の|老人《らうじん》が|周易《しうえき》の|看板《かんばん》を|机《つくゑ》にブラ|下《さ》げ、|赤毛布《あかげつと》をかけて|椅子《いす》に|腰《こし》をかけ、|此方《こちら》を|向《む》いて|手招《てまね》きして|居《ゐ》る。|見《み》れば|易者《えきしや》が|五六人《ごろくにん》も|境内《けいだい》の|此処《ここ》|彼処《かしこ》に|易断《えきだん》の|店《みせ》を|張《は》つて|居《ゐ》た。|其《その》|老人《らうじん》は|小林《こばやし》|易断所《えきだんじよ》としてあつたから、|大方《おほかた》|小林《こばやし》と|云《い》ふ|男《をとこ》であつただらう。その|老爺《おやぢ》がいふには、
|易者《えきしや》『|先生《せんせい》、お|前《まへ》さまは|丹波《たんば》のお|方《かた》でせう。|今《いま》|大阪《おほさか》へ|出《で》て|来《き》て|神様《かみさま》の|教《をしへ》を|宣伝《せんでん》するのは、|未《ま》だ|時機《じき》が|早《はや》い。|一時《いちじ》も|早《はや》う|丹波《たんば》の|国《くに》へ|帰《かへ》りなさい。さうして|十年《じふねん》ばかり|修業《しうげふ》を|積《つ》んだ|上《うへ》、|大阪《おほさか》へ|布教《ふけう》に|来《こ》られたならば|屹度《きつと》|成功《せいこう》します。|今《いま》は|大切《たいせつ》な|時《とき》だ、|軽挙《けいきよ》|盲動《まうどう》をしてはなりませぬぞ』
と|頼《たの》みもせぬのに|熱心《ねつしん》に|云《い》つて|呉《く》れる。|喜楽《きらく》は、
|喜楽《きらく》『|不思議《ふしぎ》な|事《こと》を|云《い》ふ|易者《えきしや》だな、|如何《どう》して|丹波《たんば》の|人間《にんげん》と|云《い》ふ|事《こと》が|判《わか》つたのか|知《し》らぬ』
と|思《おも》ひ|乍《なが》ら|今度《こんど》|此方《こちら》から|易者《えきしや》に|向《むか》つて、
|喜楽《きらく》『|先生《せんせい》、|貴方《あなた》は|神《かみ》さまの|様《やう》な|人《ひと》ですな、|一体《いつたい》|何処《どこ》の|国《くに》でお|生《うま》れになつたのですか』
と|問《と》ひかけると|老易者《らうえきしや》は、
|易者《えきしや》『|俺《わし》は|若《わか》い|時《とき》から|長《なが》らくの|間《あひだ》、|富士講《ふじかう》と|云《い》つて|浅間様《せんげんさま》の|教会《けうくわい》に|這入《はい》り、|富士《ふじ》の|山《やま》で|修業《しうげふ》をして|居《を》つたものだ。さうした|処《ところ》、|富士講《ふじかう》の|丸山《まるやま》|教会《けうくわい》は、|教祖《けうそ》の|六郎兵衛《ろくろうべゑ》サンが|神罰《しんばつ》を|蒙《かうむ》つて|悶死《もんし》されてから、|其《その》|教会《けうくわい》は|滅茶々々《めちやめちや》に|壊《こわ》れて|了《しま》ひ|今《いま》は|情《なさけ》けないこんな|易者《えきしや》になつて|大阪《おほさか》で|渡世《とせい》をしてるのだ。|実《じつ》は|私《わたし》は|小林《こばやし》|勇《いさむ》と|云《い》ふ|者《もの》である。|然《しか》し|乍《なが》ら、これは|一寸《ちよつと》|仮《かり》の|名《な》だ、|本当《ほんたう》の|名《な》は|再《ふたた》びお|前《まへ》に|会《あ》ふて|打明《うちあ》かす|時《とき》が|来《く》るであらう。|先《ま》づ|達者《たつしや》にして|修業《しうげふ》を|成《な》さるが|宜《よろ》しい。これからお|前《まへ》サンの|丹波《たんば》に|帰《かへ》つてから|十年間《じふねんかん》の|艱難辛苦《かんなんしんく》といふものは、|今《いま》から|思《おも》ふても|真《ほん》に|可哀相《かあいさう》な|気《き》がする。|然《しか》し|乍《なが》らこれも|神様《かみさま》のため、|世《よ》の|中《なか》の|為《た》めだから|辛抱《しんばう》しなさい』
と|云《い》ふ|声《こゑ》さへも|涙《なみだ》に|曇《くも》つて|居《ゐ》る。|喜楽《きらく》は|思《おも》はず|俯伏《ふふく》し、|一言《ひとこと》も|発《はつ》し|得《え》ず|落涙《らくるい》に|咽《むせ》んで|居《ゐ》た。|暫《しばら》くして|頭《あたま》をあげて|見《み》れば、|今《いま》|小林《こばやし》|勇《いさむ》と|云《い》つた|老易者《らうえきしや》の|影《かげ》は|何処《どこ》へ|行《い》つたか|跡方《あとかた》もなく|消《き》えて|居《を》つた。かかる|不思議《ふしぎ》に|出会《であ》ふた|喜楽《きらく》は|手《て》を|組《く》み|首《くび》を|傾《かたむ》けて|暫《しば》し|茫然《ばうぜん》と|佇《たたず》んで|居《ゐ》た。
『アヽ|今《いま》のは|神様《かみさま》の|化身《けしん》ではなかつたかなア』
|忘《わす》れもせない|二月《にぐわつ》の|九日《ここのか》の|夜《よ》、|芙蓉仙人《ふようせんにん》|松岡《まつをか》|天使《てんし》に|高熊山《たかくまやま》に|誘《さそ》はれて|受《う》けた|教訓《けうくん》、|今更《いまさら》の|如《ごと》く|胸《むね》に|浮《う》かんで|来《き》た。
|其《その》|時《とき》の|松岡《まつをか》|天使《てんし》の|教訓《けうくん》は|大略《たいりやく》|左《さ》の|通《とほ》りであつた。
『|澆季末法《げうきまつぽう》に|傾《かたむ》いた|邪神《じやしん》の|荒《すさ》ぶ|今《いま》の|時《とき》に|当《あた》つて、お|前《まへ》は|至粋《しすゐ》|至純《しじゆん》なる|惟神《かむながら》の|大道《だいだう》を|研究《けんきう》し、|身魂《みたま》を|清《きよ》め、|立派《りつぱ》な|宣伝使《せんでんし》となつて|世界《せかい》に|向《むか》ひ、|神道《しんだう》の|喇叭《らつぱ》を|吹《ふ》き|立《た》て、|世界《せかい》を|覚醒《かくせい》せなくてはならぬぞよ。|今《いま》に|於《おい》て|惟神《かむながら》の|大道《だいだう》を|宣伝《せんでん》し、|世界《せかい》の|目《め》を|醒《さ》ますものが|無《な》ければ、|今日《こんにち》の|社会《しやくわい》を|維持《ゐぢ》する|事《こと》は|出来《でき》ない。|惹《ひ》いては|世界《せかい》の|破滅《はめつ》を|招来《せうらい》する|事《こと》は|鏡《かがみ》にかけて|見《み》る|様《やう》だ。お|前《まへ》はこれから|神《かみ》の|僕《しもべ》となつて、|暗黒《あんこく》|世界《せかい》の|光《ひかり》となり、|冷酷《れいこく》な|社会《しやくわい》の|温味《ぬくみ》となり、|腐《くさ》りきつた|身魂《みたま》を|救《すく》ひ|清《きよ》める|塩《しほ》となり、|身魂《みたま》の|病《やまひ》を|癒《なほ》す|薬《くすり》ともなり、|四魂《しこん》を|研《みが》き|五情《ごじやう》を|鍛《きた》へ、|誠《まこと》の|大和魂《やまとだましひ》となつて、|天地《てんち》の|花《はな》と|謳《うた》はれ|果実《くわじつ》と|喜《よろこ》ばれ、|世《よ》の|為《た》め|道《みち》の|為《た》めに|尽《つく》して|呉《く》れねばならぬ。|真《しん》の|勇《ゆう》、|真《しん》の|親《しん》、|真《しん》の|愛《あい》、|真《しん》の|智慧《ちゑ》を|輝《かがや》かし|此《この》|大任《たいにん》を|完成《くわんせい》せむとするは、|仲々《なかなか》|容易《ようい》な|事業《じげふ》ではない。|今後《こんご》|十年《じふねん》の|間《あひだ》は|其《その》|方《はう》は|研究《けんきう》の|時期《じき》である。|其《その》|間《あひだ》に|起《おこ》る|所《ところ》の|艱難辛苦《かんなんしんく》は|非常《ひじやう》なものだ。|之《これ》を|忍耐《にんたい》せなくては|汝《なんぢ》の|使命《しめい》を|果《はた》す|事《こと》は|出来《でき》ないぞ。|屡《しばしば》|神《かみ》の|試《ためし》にも|遭《あ》ひ、|邪神《じやしん》の|群《むれ》に|包囲《はうゐ》され|苦《くる》しむ|事《こと》もあるであらう。|前途《ぜんと》に|当《あた》つて|深《ふか》い|谷《たに》もあり、|剣《つるぎ》の|山《やま》や、|血《ち》の|池《いけ》|地獄《ぢごく》や、|蛇《へび》の|室《むろ》、|蜂《はち》の|室《むろ》、|暴風《ばうふう》|怒濤《どたう》に|苦《くる》しみ、|一命《いちめい》の|危《あやふ》い|事《こと》も|屡《しばしば》あるであらう。|手足《てあし》の|爪《つめ》|迄《まで》|抜《ぬ》かれて、|神退《かむやら》ひに|退《やら》はれる|事《こと》も|覚悟《かくご》して|居《を》らねばならぬ。さり|乍《なが》ら|少《すこ》しも|恐《おそ》るるには|及《およ》ばぬ。|神様《かみさま》を|力《ちから》に|誠《まこと》を|杖《つゑ》に|猛進《まうしん》せよ。|如何《いか》なる|災害《さいがい》に|遭《あ》ふとも|決《けつ》して|退却《たいきやく》してはならぬ。|何事《なにごと》も|皆《みな》|神《かみ》の|御経綸《ごけいりん》だと|思《おも》へ。|一時《いちじ》の|失敗《しつぱい》や|艱難《かんなん》に|出会《であ》ふた|為《た》めに、|神《かみ》の|道《みち》に|遠《とほ》ざかり|心《こころ》を|変《へん》じてはならぬ。|五六七《みろく》の|神《かみ》の|御心《みこころ》を、|生命《いのち》の|続《つづ》く|限《かぎ》り|遵奉《じゆんぽう》し、|且《かつ》|世界《せかい》へ|拡充《くわくじゆう》せよ。|神々《かみがみ》は|汝《なんぢ》の|身《み》を|照《て》らし、|汝《なんぢ》の|身辺《しんぺん》に|附《つ》き|添《そ》ふて、|此《この》|使命《しめい》を|果《はた》すべく|守《まも》り|玉《たま》ふであらう。|特《とく》に|十年間《じふねんかん》は|最《もつと》も|必要《ひつえう》な|修業《しうげふ》|時代《じだい》だ』
との|厳《きび》しき|神示《しんじ》は|深《ふか》く|脳裡《なうり》に|刻《きざ》まれてあつた。|其処《そこ》へ|今《いま》|又《また》|小林《こばやし》|勇《いさむ》と|云《い》ふ|不思議《ふしぎ》な|老易者《らうえきしや》より|同《おな》じ|様《やう》な|教訓《けうくん》を|受《う》けたのは|実《じつ》に|不思議《ふしぎ》であつた。
これより|社前《しやぜん》に|額《ぬか》づき、|拍手《はくしゆ》|再拝《さいはい》し|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》し、|社内《しやない》を|退《しりぞ》き|懐《ふところ》|淋《さび》しきまま、|天満橋詰《てんまばしづめ》の|空心町《くうしんまち》の|実盛餌《さねもりもち》を|目当《めあて》に|尋《たづ》ねて|行《ゆ》く|事《こと》とした。
(大正一一・一〇・一〇 旧八・二〇 北村隆光録)
第一四章 |夜《よる》の|山路《やまみち》〔一〇二六〕
|喜楽《きらく》は|懐《ふところ》|淋《さび》しく、|何《なん》となしに|力落《ちからお》ちがして|愈《いよいよ》|帰国《きこく》の|途《と》に|就《つ》かむとした。|一度《いちど》|空心町《くうしんまち》の|斎藤《さいとう》の|家《いへ》に|暇乞《いとまご》ひに|立寄《たちよ》つて|見《み》ようと|思《おも》ひ、|再《ふたた》び|訪《おとづ》れると、|佐市《さいち》|夫婦《ふうふ》を|始《はじ》め、|四年《よねん》|以前《いぜん》に|一寸《ちよつと》|悶錯《もんさく》を|起《おこ》して|別《わか》れた|娘《むすめ》が|折《をり》よく|来《き》て|居《ゐ》た。お|繁《しげ》|婆《ば》アさんは|粋《すゐ》を|利《き》かして、|狭《せま》い|内《うち》だけれど|今晩《こんばん》は|泊《とま》つて|帰《かへ》れと|云《い》ふ。そこへ|十六七《じふろくしち》の|富野《とみの》といふ|妹《いもうと》が|居《ゐ》るので、|僅《わづか》|四畳半《よでふはん》の|間《ま》で、|五人《ごにん》が|雑魚寝《ざこね》することとなつた。|姉娘《あねむすめ》のお|秋《あき》といふのが|夜《よる》の|十時《じふじ》|頃《ごろ》に、ガラガラと|車《くるま》でやつて|来《き》て、|何《なん》だかブツブツ|小言《こごと》を|云《い》ひ|乍《なが》ら、【おいの】といふ|女《をんな》を|合乗《あひの》りで|連《つ》れて|帰《かへ》つて|了《しま》つた。|油揚《あぶらあげ》を|鳶《とび》にさらはれたやうな|気分《きぶん》で、|喜楽《きらく》は|舌打《したう》ちし|乍《なが》ら|眠《ねむり》に|就《つ》いた。|併《しか》し|乍《なが》ら|此《この》|時《とき》の|喜楽《きらく》は|一切《いつさい》の|情慾《じやうよく》に|離《はな》れ、|只《ただ》|信仰《しんかう》|一点張《いつてんばり》に|酔《よ》つ|払《ぱら》つて|居《ゐ》た|時《とき》だから、|昔《むかし》の|女《をんな》に|出会《であ》ひ|一間《ひとま》に|寝《ね》た|所《ところ》で、|別《べつ》に|旧交《きうかう》を|温《あたたか》めようとも|何《なん》ともそんな|考《かんが》へは|持《も》つて|居《ゐ》なかつた。|乍併《しかしながら》|何《なん》となくなつかしいやうな|気《き》がして、|其《その》|女《をんな》と|同《おな》じ|家《いへ》に|一宿《いつしゆく》することを|嬉《うれ》しく|思《おも》うて|居《ゐ》たのである。
|夜《よ》は|容赦《ようしや》なく|更《ふ》け|渡《わた》る。|四人《よにん》は|何時《いつ》の|間《ま》にか|安々《やすやす》と|眠《ねむ》りについて|了《しま》つた。
○
|永《なが》き|春日《はるび》も|稍《やや》|西《にし》に|傾《かたむ》いて、|淀《よど》の|川水《かはみづ》に|金鱗《きんりん》の|光《ひかり》を|流《なが》す、|水瀬《みなせ》も|深《ふか》き|浪速潟《なにはがた》、|水《みづ》の|都《みやこ》の|天神橋《てんじんばし》の|上《うへ》に|立《た》つて、|首《くび》を|傾《かたむ》け|思案《しあん》にくれてゐた。|巽《たつみ》の|方《はう》を|見《み》れば、|山岳《さんがく》の|如《ごと》く|巍々《ぎぎ》として|築《きづ》き|上《あ》げられた、|宏壮《くわうさう》|雄大《ゆうだい》なる|大阪城《おほさかじやう》が|水《みづ》に|映《うつ》つて、|薨《いらか》がキラキラと|西日《にしび》に|輝《かがや》いてゐる。|喜楽《きらく》は|之《これ》を|見《み》て|感《かん》に|打《う》たれ、|独言《ひとりごと》を|云《い》つてゐた。
『あゝ|人間《にんげん》の|運命《うんめい》といふものは|不思議《ふしぎ》なものだ。|二百八間《にひやくはちけん》の|矢矧《やはぎ》の|長橋《ながばし》に|菰《こも》を|纏《まと》うた|腕白《わんぱく》|小僧《こぞう》の|藤吉郎《とうきちろう》も、|忍耐《にんたい》|勉励《べんれい》の|功《こう》|空《むな》しからず、|登竜《とうりう》の|大志《たいし》を|達成《たつせい》し|威徳《ゐとく》|赫々《かくかく》として、|旭日《きよくじつ》|東海《とうかい》の|波《なみ》をけり、|躍《をど》り|出《い》でたるが|如《ごと》く、|遂《つひ》に|六十余州《ろくじふよしう》の|天下《てんか》を|掌握《しやうあく》し、|三韓《さんかん》を|切《き》り|従《したが》へ、|大明王《たいみんわう》を|驚《おどろ》かせ、|万古不朽《ばんこふきう》の|偉業《ゐげふ》を|後世《こうせい》に|伝《つた》へた。|話《はなし》に|聞《き》くも|実《じつ》に|心持《こころもち》よき|英雄《えいゆう》である。|豊太閤《ほうたいかふ》だとてヤツパリ|人間《にんげん》の|生《う》んだ|子《こ》だ。|彼《かれ》も|亦《また》|同《おな》じ|百姓《ひやくせう》から|生《うま》れた|人間《にんげん》だ。|豊太閤《ほうたいかふ》の|幼時《えうじ》の|境遇《きやうぐう》は、|又《また》|喜楽《きらく》の|当時《たうじ》に|酷似《こくじ》してゐる。|矢矧《やはぎ》の|橋《はし》ならぬ|天神橋《てんじんばし》の|袂《たもと》、|自分《じぶん》も|此処《ここ》で|一《ひと》つ|何《なに》か|思案《しあん》をせなくてはなるまい。|折角《せつかく》|無理《むり》|算段《さんだん》をして|持《も》つて|来《き》た|旅費《りよひ》はいつの|間《ま》にか、|煙《けむり》の|都《みやこ》の|煙《けぶり》と|消《き》えて|了《しま》ひ、|何一《なにひと》つ|持《も》つて|帰《かへ》るべき|土産《みやげ》もない。|精神《せいしん》|一到《いつたう》|何事《なにごと》か|成《な》らざむや、|吾《わ》れも|太閤《たいかふ》の|成功《せいこう》|位《くらゐ》に|甘《あま》んじては|居《を》れまい。|神《かみ》を|力《ちから》に|誠《まこと》を|杖《つゑ》に、|五六七《みろく》|神政《しんせい》の|基礎《きそ》を|固《かた》めねばならぬ』
と|往来《わうらい》しげき|橋《はし》の|上《うへ》にて、|吾《わ》れを|忘《わす》れて|雄健《をたけ》びなしつつ、|空想《くうさう》にからるる|一刹那《いちせつな》、ドンと|突当《つきあた》つた|十二三歳《じふにさんさい》の|子供《こども》があつた。|喜楽《きらく》は|驚《おどろ》いて|其《その》|子供《こども》の|顔《かほ》を|見《み》つめてゐる。あとより|息《いき》せき|切《き》つてかけ|来《きた》る|三十《さんじふ》|前後《ぜんご》の|番頭風《ばんとうふう》の|大男《おほをとこ》|有無《うむ》をいはせず|子供《こども》を|引掴《ひつつか》み、|打《う》つやら、|蹴《け》るやら、|乱暴狼藉《らんばうろうぜき》を|恣《ほしいまま》にしてゐる。|子供《こども》は|悲鳴《ひめい》をあげて、|泣《な》き|叫《さけ》ぶのを、|物見《ものみ》|高《だか》い|大阪人《おほさかじん》の|常《つね》として、|忽《たちま》ち|橋《はし》の|上《うへ》は|三人《さんにん》、|五人《ごにん》、|十人《じふにん》と|立止《たちど》まり、|往来止《わうらいど》めの|姿《すがた》と|変《かは》つて|了《しま》つた。|番頭風《ばんとうふう》の|男《をとこ》は|尚《なほ》も|続《つづ》いて|手首《てくび》を|無理《むり》に|固《かた》く|執《と》り、|腕《うで》もぬけむ|計《ばか》りに|引張《ひつぱ》り|乍《なが》ら、
|男《をとこ》『|一寸《ちよつと》|警察《けいさつ》|迄《まで》|出《で》て|来《こ》い!』
と|引《ひ》きずつて|行《ゆ》かうとする。|喜楽《きらく》は|見《み》るに|見《み》かねて、
|喜楽《きらく》『モシモシ|暫《しばら》く|待《ま》つてやつて|下《くだ》さい。どんな|悪《わる》いことをしたか|知《し》りませぬが……』
と|言《い》はせも|果《は》てず、|男《をとこ》は|言《ことば》も|荒々《あらあら》しく、
|男《をとこ》『お|前《まへ》は|田舎下《いなかくだ》りの|旅人《たびびと》、|構《かま》うてくれな。|此奴《こいつ》ア【チボ】の|玉子《たまご》だ。|今《いま》|店先《みせさき》にあつた|実母散《じつぼさん》を|一服《いつぷく》かつさらへ、|逃《に》げ|出《だ》してうせたヅ|太《ぶと》き|小僧《こぞう》だ。|今後《こんご》の|戒《いまし》めに|橋詰《はしづめ》の|巡査《じゆんさ》に|引渡《ひきわた》すのだ』
と|鼻息《はないき》あらく、エライ|権幕《けんまく》で|睨《にら》みつける。|子供《こども》は|薬《くすり》の|包《つつみ》をそこへなげ|出《だ》し、|両手《りやうて》をつき、|涙《なみだ》|乍《なが》らに|泣《な》きわびるいぢらしさ。|喜楽《きらく》は|此《この》|子供《こども》もウブからのチボではあるまいと|思《おも》ひ、|大《だい》の|男《をとこ》に|向《むか》つて|言葉《ことば》を|叮嚀《ていねい》に、|子供《こども》に|代《かは》つてあやまり、|子供《こども》の|言《い》ふことを|聞訊《ききただ》してみれば、
|子供《こども》『|私《わたくし》の|母《はは》は|永《なが》らく|子宮病《しきうびやう》とかに|罹《かか》つて|苦《くるし》み|最早《もはや》|生命《いのち》も|危《あやふ》うなつて|居《を》ります。|貧乏《びんばふ》の|為《ため》に|薬《くすり》を|買《か》ふことも|出来《でき》ず、お|医者《いしや》さまに|診《み》て|貰《もら》ふことも|出来《でき》ないので、|居《ゐ》|乍《なが》らお|母《か》アサンの|死《し》ぬのを|見《み》るに|忍《しの》びず、|日々《ひび》エライ|心配《しんぱい》をして|居《を》りましたが、|隣《となり》の|人《ひと》の|話《はなし》によると、|女《をんな》の|病《やまひ》には|実母散《じつぼさん》を|呑《の》んだら、キツと|全快《ぜんくわい》すると|聞《き》いて、|俄《にはか》に|其《その》|薬《くすり》が|欲《ほ》しくなり|母《はは》を|大事《だいじ》と|思《おも》ふ|一念《いちねん》から、|後前《あとさき》の|弁《わきま》へもなく|薬屋《くすりや》の|店先《みせさき》にあつた|実母散《じつぼさん》を|一服《いつぷく》|持《も》つて|逃《に》げて|来《き》ました』
と|語《かた》り|了《をは》つて、ワツと|計《ばか》り|其《その》|場《ば》に|泣《な》き|倒《たふ》れた。|孝行《かうかう》|息子《むすこ》の|心《こころ》にほだされて、|喜楽《きらく》も|思《おも》はず|知《し》らず|貰《もら》ひ|泣《な》きをし|乍《なが》ら、|懐《ふところ》を|探《さぐ》つて|五十銭《ごじつせん》を|取出《とりだ》し、
|喜楽《きらく》『|此《この》|薬《くすり》を|私《わたくし》に|売《う》つて|下《くだ》さい、そして|子供《こども》の|罪《つみ》を|許《ゆる》してやつて|下《くだ》さい』
といへば、|大《だい》の|男《をとこ》は|面《つら》をふくらせ|乍《なが》ら、
|男《をとこ》『|此奴《こいつ》は|許《ゆる》し|難《がた》い|奴《やつ》だが、|今日《けふ》はお|前《まへ》に|免《めん》じて|忘《わす》れてやるから|今後《こんご》はキツと|慎《つつし》め!』
と|口汚《くちぎたな》く|罵《ののし》り、|一服《いつぷく》|十銭《じつせん》の|薬《くすり》に|五十銭《ごじつせん》を|引《ひ》つたくるやうにして|受取《うけと》り、ツリをも|払《はら》はず|肩《かた》を|怒《いか》らして|帰《かへ》つて|行《ゆ》く|其《その》|無情《むじやう》さ。|血《ち》も|涙《なみだ》も|通《かよ》はぬ|男《をとこ》かなと、|怒《いか》りの|色《いろ》を|現《あら》はして、|帰《かへ》り|行《ゆ》く|男《をとこ》の|姿《すがた》を|歯《は》ぎしりし|乍《なが》ら|見送《みおく》つて|居《ゐ》た。
|草枕《くさまくら》|旅《たび》にし|出《い》でて|悟《さと》りけり
|空《そら》|恐《おそ》ろしき|人《ひと》の|心《こころ》を
|大阪《おほさか》と|云《い》へば|日本《にほん》|三大《さんだい》|都会《とくわい》の|一《ひと》つ、|商業《しやうげふ》|発達《はつたつ》の|大地《だいち》で|七福神《しちふくじん》のみの|楽天地《らくてんち》と|思《おも》うて|居《を》つたのに、|今《いま》|目《ま》のあたり|貧児《ひんじ》の|境遇《きやうぐう》を|見聞《みきき》して、どこへ|行《い》つても、ヤツパリ|秋《あき》には|秋《あき》が|来《く》る、|冬《ふゆ》はヤツパリ|冬《ふゆ》だ、|暗黒界《あんこくかい》は|鄙《ひな》も|都《みやこ》も|同《おな》じものだと|溜息《ためいき》つくつく、『アヽアヽ』と|歎《なげ》いた|声《こゑ》が、|側《そば》に|寝《ね》てゐるおしげ|婆《ば》アサンの|耳《みみ》に|入《い》り、
『コレコレ|喜楽《きらく》サン、|何《なに》|寝言《ねごと》をいつてるのだ』
とゆすり|起《おこ》されて|気《き》がついてみれば、|狭《せま》い|餅屋《もちや》の|四畳半《よでふはん》に|眠《ねむ》つてゐた。|今《いま》の|橋《はし》の|上《うへ》の|夢《ゆめ》の|中《なか》の|出来事《できごと》は|神《かみ》さまの|御心《みこころ》によりて、|喜楽《きらく》の|心《こころ》を|鞭撻《べんたつ》し、|郷里《くに》に|一人《ひとり》の|母《はは》や、|老祖母《らうそぼ》のあることを|思《おも》ひ|出《いだ》さしめ、|早《はや》く|帰国《きこく》させむとの|計《はか》らひなりしことが|後日《ごじつ》に|至《いた》つて|感《かん》じられた。
|易者《えきしや》の|言葉《ことば》に|励《はげ》まされ |丹波《たんば》の|国《くに》へ|帰《かへ》らむと
|心《こころ》の|駒《こま》に|鞭《むち》うつて |車《くるま》も|呼《よ》ばずトボトボと
|梅田《うめだ》の|駅《えき》につきにけり |仕度《したく》なさむと|懐中《くわいちう》を
|探《さぐ》りてみれば|情《なさけ》ない |残《のこ》りの|金《かね》は|二銭半《にせんはん》
|汽車《きしや》はあれ|共《ども》|乗《の》るすべも |何《なん》と|線路《せんろ》の|真中《まんなか》を
|一直線《いつちよくせん》に|膝栗毛《ひざくりげ》 |腹《はら》も|吹田《すゐた》のうまやぢの
|茶店《ちやみせ》にひさぐ|蒸《む》し|芋《いも》は |栗《くり》より|甘《うま》い|十三里《じふさんり》の
|道程《みちのり》|一歩《いつぽ》|又《また》|一歩《いつぽ》 |茨木町《いばらぎまち》を|北《きた》に|取《と》り
|丹波《たんば》をさして|帰《かへ》り|行《ゆ》く |頃《ころ》しも|四月《しぐわつ》|十五夜《じふごや》の
|月《つき》は|東《ひがし》の|山《やま》の|端《は》に |丸《まる》き|面《おもて》をあらはして
ニコニコ|笑《ゑ》ませ|玉《たま》へ|共《ども》 |夕《ゆふ》べの|空《そら》の|何《なん》となく
|心《こころ》|淋《さび》しき|一人旅《ひとりたび》 |東《ひがし》も|西《にし》も|南北《なんぽく》も
|知人《しるひと》もなくなく|山路《やまみち》を |空《そら》の|月《つき》かげ|力《ちから》とし
|一度《いちど》|通《とほ》りしおろ|覚《おぼ》えの |山《やま》と|山《やま》との|谷路《たにみち》を
どこやら|不安《ふあん》の|心地《ここち》して |岐路《きろ》ある|所《ところ》に|停立《ていりつ》し
|首《くび》をかたぐる|時《とき》も|時《とき》 |忽《たちま》ち|前《まへ》に|現《あら》はれし
|怪《あや》しき|白衣《びやくい》の|旅人《たびびと》は |四五間《しごけん》|先《さき》へ|立《た》つて|行《ゆ》く
|喜楽《きらく》が|進《すす》めば|彼《かれ》|進《すす》み |立止《たちとど》まれば|又《また》|止《と》まり
モウシモウシと|声《こゑ》をかけ |呼《よ》べど|答《こた》へぬ|白《しろ》い|影《かげ》
|或《あるひ》は|現《あら》はれ|又《また》は|消《き》え |変幻《へんげん》|出没《しゆつぼつ》|不思議《ふしぎ》なり
|二股道《ふたまたみち》に|現《あら》はれて |又《また》もや|案内《あない》をする|如《ごと》し
|怪《あや》しみ|乍《なが》らも|力《ちから》|得《え》て |足《あし》を|運《はこ》べど|空腹《くうふく》と
|疲《つか》れの|為《ため》に|進《すす》みかね |眠《ねむ》けの|鬼《おに》におそはれて
|街路《がいろ》に|転倒《てんたふ》し|乍《なが》らも |眠《ねむ》たさ|怺《こら》へて|帰《かへ》り|行《ゆ》く
|西別院《にしべつゐん》の|村外《むらはづ》れ |下《くだ》り|坂《さか》にとさしかかる
|水《みづ》さへ|音《おと》なき|丑《うし》の|刻《こく》 |道《みち》の|片方《かたへ》の|細谷川《ほそたにがは》を
|隔《へだ》てて|狭《せま》き|墳墓《ふんぼ》あり |六地蔵《ろくぢざう》さまを|祀《まつ》りたる
|小《ちひ》さき|屋根《やね》が|見《み》えてゐる ここにて|雨露《うろ》を|凌《しの》がむと
|厭《いや》らし|墓《はか》と|知《し》り|乍《なが》ら |天《てん》の|与《あた》へと|喜《よろこ》びて
|六体《ろくたい》|並《なら》んだ|石地蔵《いしぢざう》の しりへに|身《み》をば|横《よこ》たへて
|手枕《てまくら》したままグウグウと |華胥《くわしよ》の|国《くに》へ|上《のぼ》りゆく
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |御霊《みたま》|幸《さち》はへましませよ。
あたり|寂然《せきぜん》として|静《しづ》まり|返《かへ》る|時《とき》しもあれ、|夢《ゆめ》か|現《うつつ》か|幻《まぼろし》か、|吾《わが》|枕頭《ちんとう》に|近《ちか》く|聞《きこ》ゆる|女《をんな》の|忍《しの》び|泣《な》く|声《こゑ》、|幽《かす》かに|耳《みみ》に|入《い》ると|共《とも》にフと|目《め》をさませば、|喜楽《きらく》は|六地蔵《ろくぢざう》の|後《うしろ》に|横《よこ》たはつてゐることに|気《き》が|付《つ》いた。
|喜楽《きらく》の|頬《ほほ》に、|冷《つめ》たい|水《みづ》のしぶきがかかる。キツと|目《め》をあけて|見《み》れば|六地蔵《ろくぢざう》の|前《まへ》に|余《あま》り|背《せ》の|高《たか》くない、|横太《よこぶと》い|怪《あや》しい|一人《ひとり》の|女《をんな》が、|赤《あか》ん|坊《ばう》を|背《せ》に|負《お》ひ|乍《なが》ら、|土瓶《どびん》のやうな|物《もの》を|片手《かたて》に|提《ひつさ》げ、|石地蔵《いしぢざう》の|頭《あたま》から、『|南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》』といひ|乍《なが》ら、|冷《つめ》たい|水《みづ》をかけて、|何事《なにごと》か|切《しき》りに、|石地蔵《いしぢざう》に|訴《うつた》へてゐるやうである、|喜楽《きらく》は|轟《とどろ》く|心臓《しんざう》の|鼓動《こどう》を|強《しひ》て|鎮圧《ちんあつ》し、|息《いき》を|殺《ころ》して|伺《うかが》ひ|居《を》れば、|怪《あや》しき|女《をんな》の|影《かげ》は|一歩々々《いつぽいつぽ》とゆるぐが|如《ごと》く、しづしづとして|新《あたら》しい|墓《はか》の|前《まへ》に|到《いた》り、マツチをすり|蝋燭《らふそく》を|点《てん》じ、|合掌《がつしやう》し|乍《なが》ら|泣《な》き|声《ごゑ》になつて、|伏《ふ》し|屈《かが》んでゐる。|石地蔵《いしぢざう》の|立《た》つてゐる|隙間《すきま》から、|此《この》|様子《やうす》を|覗《のぞ》きみた|喜楽《きらく》は|俄《にはか》に|恐怖心《きようふしん》にかられ、|頭《あたま》の|毛《け》はちぢみ、|体《からだ》はふるひ|出《だ》し、|寸時《すんじ》もここに|居《ゐ》たたまらず、|厭《いや》らしさに|此《この》|場《ば》を|逃《に》げ|出《だ》さうかと|思《おも》つたが、|腹《はら》の|底《そこ》から|小《ちひ》さい|声《こゑ》で、『|待《ま》て』と|云《い》ふやうに|聞《きこ》えて|来《き》た。|此《この》|声《こゑ》に|自分《じぶん》は|再《ふたた》び|胴《どう》をすえ、|直日《なほひ》に|省《かへり》りみることを|得《え》た。……|喜楽《きらく》は|顕幽《けんいう》|両界《りやうかい》の|救済者《きうさいしや》たらむとする|霊学《れいがく》の|修業者《しうげふしや》である、|今《いま》|幸《さいは》ひにして|斯《かく》の|如《ごと》き|怪霊《くわいれい》に|出会《しゆつくわい》し、|研究《けんきう》の|好材料《かうざいれう》を|得《え》たのは|全《まつた》く|神《かみ》さまの|御心《みこころ》であらう。よく|考《かんが》へて|見《み》れば|天《あめ》が|下《した》に|素《もと》より|妖怪変化《えうくわいへんげ》のあるべき|筈《はず》がない、|何《いづ》れも|皆《みな》|心《こころ》の|迷《まよ》ひから|怖《こわ》くない|者《もの》が|怖《こわ》くなつたりするのである。|何《なん》でもない|者《もの》を|妖怪変化《えうくわいへんげ》だと|思《おも》つて、|昏迷誑惑《こんめいけうわく》|其《その》|度《ど》を|失《うしな》はむとしたのは、|何《なん》たる|卑怯《ひけふ》であらう。|長途《ちやうと》の|旅《たび》にて|心身《しんしん》|疲労《ひらう》の|結果《けつくわ》、こんな|妄想《もうさう》に|陥《おちい》つたのではあるまいか……と、キツと|心胆《しんたん》を|据《す》え、|目《め》を|見《み》はれば|妖怪《えうくわい》でも|幽霊《いうれい》でもなく、|田舎《いなか》|婦人《ふじん》が|何事《なにごと》か|急《きふ》の|出来事《できごと》の|為《ため》に、|此《この》|真夜中《まよなか》に|亡《な》き|夫《をつと》の|墓《はか》に|参《まゐ》つたのであるらしく、|稍《やや》|久《ひさ》しく|祈《いの》つた|後《のち》、『|南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》』と|力《ちから》なげに|口《くち》ずさみ|乍《なが》ら、ヨボヨボと|元来《もとき》し|細谷川《ほそたにがは》を|渡《わた》つて、|其《その》|姿《すがた》は|木立《こだち》に|紛《まぎ》れて|見《み》えなくなつて|了《しま》つた。
|女《をんな》の|姿《すがた》の|消《き》えしより、|喜楽《きらく》も|亦《また》|俄《にはか》に|恐《おそ》ろしくなつて|来《き》た。|永居《ながゐ》はならじとソロソロ|立上《たちあが》り、|頬《ほほ》かぶりをなし、|尻《しり》をひつからげ、コワゴワ|渓流《けいりう》を|渡《わた》り、|山路《やまみち》に|出《い》でたる|一刹那《いちせつな》、
『|怖《こわ》いツ!』
といふ|子供《こども》の|叫《さけ》び|声《ごゑ》が、つい|足許《あしもと》に|聞《きこ》えて|来《き》た。|喜楽《きらく》は|此《この》|声《こゑ》に|二度《にど》ビツクリし|乍《なが》ら、
『|何《なん》にも|怖《こわ》いことはない、|俺《おれ》は|人間《にんげん》だ!』
と|呼《よ》ばはりつつ|後《あと》ふり|向《む》きもせず、|一目散《いちもくさん》に|足《あし》の|痛《いた》みも|忘《わす》れて、|法貴谷《ほふきだに》の|方《はう》へと|走《は》せ|帰《かへ》るのであつた。
(大正一一・一〇・一〇 旧八・二〇 松村真澄録)
第一五章 |盲目鳥《めくらどり》〔一〇二七〕
|五月雨《さみだれ》の|空《そら》|低《ひく》うして、|四辺《しへん》の|山《やま》は|雲《くも》に|包《つつ》まれ、|杜鵑《ほととぎす》の|鳴《な》く|声《こゑ》|遠近《をちこち》に|聞《きこ》える、|穴太《あなを》|宮内垣《みやがいち》の|賤《いや》が|伏家《ふせや》も、|今《いま》は|犬《いぬ》の|手《て》も|人《ひと》の|手《て》と|称《しよう》する|田植《たうゑ》の|最中《さいちう》、|片時《かたとき》を|争《あらそ》ふ|農家《のうか》の|激戦場裡《げきせんぢやうり》で、|遠近《ゑんきん》の|人々《ひとびと》は|植付《うえつけ》、|麦刈《むぎかり》などに|忙殺《ぼうさつ》されて、|教《をしへ》の|門《もん》を|潜《くぐ》る|人々《ひとびと》の|足《あし》も|杜絶《とだ》えた|折柄《をりから》、|身《み》なり|賤《いや》しい|一人《ひとり》の|婦人《ふじん》、|両眼《りやうがん》のあたりを|白《しろ》き|布《ぬの》にて|繃帯《はうたい》し|乍《なが》ら、|杖《つゑ》を|力《ちから》に、
『|先生《せんせい》はお|在宅《うち》ですか?』
と|尋《たづ》ねて|来《き》た。|婆《ば》アサンが|案内《あんない》とみえて、|一人《ひとり》|付《つ》いて|居《ゐ》る。|此《この》|頃《ごろ》は|参拝者《さんぱいしや》がないので、|神殿《しんでん》に|於《おい》て|心《こころ》ゆく|迄《まで》、|幽斎《いうさい》の|修行《しうぎやう》にひたつて|居《ゐ》た|喜楽《きらく》は、|此《この》|声《こゑ》を|聞《き》いて、
『マアマア』
と|狭《せま》い|座敷《ざしき》へ|通《とほ》し、|来意《らいい》を|問《と》へば、|眼病《がんびやう》を|治《なを》して|欲《ほ》しいので、はるばる|参拝《さんぱい》したとの|事《こと》であつた。どことなく|何時《いつ》かは|見《み》たことのある|様《やう》な|女《をんな》と、|訝《いぶ》かり|乍《なが》ら|住所《ぢうしよ》|姓名《せいめい》や、|来歴《らいれき》を|問《と》うて|見《み》た。|女《をんな》は|恥《はづ》かしげに|顔《かほ》を|赤《あか》らめ、|稍《やや》|俯《うつ》むき|気味《ぎみ》になつて|語《かた》る。
『|私《わたし》は|西別院村《にしべつゐんむら》の|小末《こすゑ》と|申《まを》す|者《もの》で|御座《ござ》います。|見《み》るかげもなき|貧乏人《びんばふにん》で、|屋根《やね》はもり、|壁《かべ》はおち、|明日《あす》の|糧《かて》を|貯《たくは》ふるの|余裕《よゆう》もなき|貧《まづ》しい|暮《くら》しの|中《なか》に、|私《わたし》の|夫《をつと》は|長《なが》の|病《やまひ》になやまされ、|私《わたし》は|産婦《さんぷ》の|重《おも》き|身《み》の|上《うへ》、|働《はたら》きすることさへも|叶《かな》はねば、|朝夕《あさゆふ》の|糊口《ここう》に|差支《さしつか》へ、|銭《ぜに》となるべき|物《もの》は|売《う》り|払《はら》ひ、|質《しち》におき|尽《つ》くして、|今《いま》は|最早《もはや》|何《なに》もなき|極貧《ごくひん》の|身《み》の|上《うへ》、|医薬《いやく》の|手《て》だてさへなく、|夫《をつと》は|無残《むざん》にも|死《し》を|待《ま》つより|仕方《しかた》のない|身《み》の|上《うへ》となりました。|草根木皮《さうこんぼくひ》を|食《く》ひ、|一時《いちじ》の|命《いのち》をつないで|居《を》りましたが、|何《なん》の|因果《いんぐわ》か、|夫婦《ふうふ》の|体《からだ》は|水腫《みづば》れを|起《おこ》し、|夫《をつと》は|遂《つひ》に|幽界《あのよ》の|人《ひと》となつて|了《しま》ひました。|取《と》りのこされた|私《わたし》は、まだ|出産後《しゆつさんご》|僅《わづか》に|一週日《いつしうにち》、|血《ち》の|若《わか》い|身《み》で、|赤児《あかご》をかかへて、|形《かたち》|許《ばか》りの|弔《とむら》ひをすませ、さむしい|日《ひ》をおくる|内《うち》にも、|村《むら》の|人達《ひとたち》の|無情《むじやう》さ、|米屋《こめや》は|米代《こめだい》を|払《はら》へとせめてくる、|醤油屋《しやうゆや》は|醤油代《しやうゆだい》を|渡《わた》せときびしい|催促《さいそく》に、|如何《どう》することも|出来《でき》ませず、|一層《いつそう》の|事《こと》|私《わたし》も|夫《をつと》の|後《あと》を|逐《お》ふて|此《この》|世《よ》の|暇乞《いとまご》ひをせうかと|思案《しあん》に|沈《しづ》み|乍《なが》ら、|五《いつ》つになつた|先妻《せんさい》の|子《こ》や、|一人《ひとり》の|赤子《あかご》の|愛《あい》にひかれて、|死《し》ぬことも|出来《でき》ず、|心《こころ》|弱《よわ》いは|女《をんな》の|常《つね》とて、|何《ど》の|考《かんが》へもなきまま、|大阪《おほさか》に|嫁入《よめい》つて|居《を》る|姉《あね》を|便《たよ》つて|一時《いちじ》の|急場《きふば》をのがれやうと、|去《さ》る|日《ひ》の|夜中頃《よなかごろ》、|赤子《あかご》を|背《せ》に|五《いつ》つの|子《こ》の|手《て》を|曳《ひ》いて、|吾《わが》|家《や》を|後《あと》に|山路《やまみち》を|辿《たど》り、|出《で》て|行《ゆ》きました、|其《その》|途中《とちう》、|亡夫《ぼうふ》を|葬《ほうむ》つた|墓《はか》が|御座《ござ》いますので、|暇乞《いとまごひ》の|為《ため》に|立寄《たちよ》り|水《みづ》を|供《そな》へ、|幸《さいは》ひ|傍《かたはら》に|人影《ひとかげ》もなければ、|心《こころ》の|行《ゆ》く|丈《だけ》|愚痴《ぐち》の|繰言《くりごと》をくり|返《かへ》し、|心《こころ》を|残《のこ》して|墓場《はかば》を|立去《たちさ》る、|時《とき》しも|夫《をつと》の|墓《はか》の|畔《ほとり》から|現《あら》はれ|出《い》でたる|怪《あや》しき|物《もの》かげに、|思《おも》はず|知《し》らず|母子《おやこ》は|声《こゑ》を|揃《そろ》へて|泣《な》き|叫《さけ》びました。|不思議《ふしぎ》にも|其《その》|怪《あや》しの|人影《ひとかげ》は、|夫《をつと》の|亡霊《ばうれい》であつたか、|何《なん》だか|分《わか》らぬことを|大声《おほごゑ》に|叫《さけ》び|乍《なが》ら、|吾《わが》|家《や》の|方《はう》へ|走《は》せ|行《ゆ》きました。そこで|私《わたし》の|思《おも》ひますには、|墳土《はかつち》まだ|乾《かわ》かず、|五十日《ごじふにち》もすまぬのに|夫《をつと》の|墓《はか》の|土地《とち》を|離《はな》れむとしたのは|誠《まこと》にすまぬことであつた。|夫《をつと》の|霊《れい》は|私等《わたしら》の|大阪《おほさか》へ|行《ゆ》くのを|嫌《きら》うて|居《ゐ》るのであらうと|心《こころ》を|取直《とりなほ》し、|力《ちから》なげに|再《ふたたび》|吾《わが》|家《や》へ|帰《かへ》つて|来《き》ました。|其《その》|時《とき》の|驚《おどろ》きが|災禍《わざわい》となり、|遂《つひ》に|斯《かく》の|如《ごと》く|両眼《りやうがん》を|失《うしな》ひ、|其《その》|上《うへ》|昼夜《ちうや》|疼痛《とうつう》に|苦《くる》しむこと|限《かぎ》りなく、|一人《ひとり》の|赤子《あかご》も|亦《また》|十日《とをか》|以前《いぜん》に、|乳《ちち》のとぼしい|勢《せい》か|身体《からだ》が|痩衰《やせおとろ》へて、|亡《な》き|人《ひと》の|数《かず》に|入《い》りました。|先妻《せんさい》の|子《こ》は|私《わたし》が|盲《めくら》になつたので|親類《しんるゐ》が|預《あづか》つてくれました。|私《わたし》は|最早《もはや》|夫《をつと》や|子《こ》に|別《わか》れ、|此《この》|世《よ》に|生《い》きて|何《なん》の|望《のぞ》みもありませぬから、せめては|夫《をつと》や|吾《わが》|子《こ》の|霊《れい》を|弔《とむら》うて、|善根《ぜんこん》を|尽《つ》くすより|途《みち》は|御座《ござ》りませぬが、|何《なに》をいうても|盲目《めくら》の|不自由《ふじゆう》な|身《み》の|上《うへ》、どうぞお|助《たす》け|下《くだ》さいませ』
と|涙《なみだ》を|流《なが》して|泣《な》き|叫《さけ》ぶ。|此《この》|物語《ものがたり》の|始終《しじう》を|聞《き》いた|喜楽《きらく》の|心《こころ》は、|一節《ひとぶし》|一節《ひとぶし》|胸《むね》に|釘鎹《くぎかすがひ》を|打《う》たるる|如《ごと》くであつた。あゝ|心《こころ》に|当《あた》るは|過《す》ぎにし|春《はる》の|月《つき》の|夜半《よは》の|出来事《できごと》、|大阪《おほさか》より|帰《かへ》りの|途次《とじ》、|眠《ねむ》けにたへずして、とある|墓場《はかば》に|石枕《いはまくら》、|計《はか》らず|会《くわい》せし|妖怪変化《えうくわいへんげ》と|疑《うたが》うた|影《かげ》は、|正《まさ》しく|此《この》|婦人《ふじん》であつたか、|逐一《ちくいち》|事情《じじやう》をきくにつけ、|気《き》の|毒《どく》にも|此《この》|女《をんな》が|眼病《がんびやう》にかかつた|原因《げんいん》は、|自分《じぶん》が|突然《とつぜん》|墓《はか》から|逃出《にげだ》した|其《その》|姿《すがた》を|見《み》て、|亡《な》き|夫《をつと》の|幽霊《いうれい》と|誤解《ごかい》し、|驚愕《きやうがく》の|余《あま》り、|若血《わかち》の|身《み》の|上《うへ》とて|逆上《ぎやくじやう》して|目《め》にあがつて、こんな|不具者《ふぐしや》となつたのであるか、|吁《ああ》|気《き》の|毒《どく》だ。|何《なん》とかして|生命《いのち》に|代《か》へても|此《この》|眼病《がんびやう》を|直《なほ》してやらなくては、|神《かみ》さまに|対《たい》して|済《す》まない。|又《また》|自分《じぶん》の|責任《せきにん》がすまぬと、|直《ただち》に|荒菰《あらごも》を|大地《だいち》に|布《し》き、|井戸端《ゐどばた》に|端坐《たんざ》して、|頭《あたま》からザブザブと|水《みづ》ごりを|取《と》り、|拍手《はくしゆ》|再拝《さいはい》|祈願《きぐわん》の|祝詞《のりと》を|奏上《そうじやう》し、|一心不乱《いつしんふらん》に|勤行《ごんぎやう》した。|其《その》|至誠《しせい》に|畏《かしこ》くも|神明《しんめい》|感《かん》じさせ|玉《たま》ひけむ、|今《いま》まで|苦痛《くつう》に|悩《なや》みし|両眼《りやうがん》の|痛《いた》みは|忘《わす》れた|様《やう》に|鎮静《ちんせい》し、あたりをじつと|見《み》まはし|乍《なが》ら、|思《おも》ひがけなき|此《この》|世《よ》の|光明《くわうみやう》に|飛《と》び|立《た》つ|許《ばか》り|打喜《うちよろこ》び、
『|先生《せんせい》お|蔭《かげ》で|目《め》があきました。アヽ|勿体《もつたい》ない|辱《かたじけ》ない!』
と|伏《ふ》し|拝《をが》む。|此《この》|場《ば》の|奇瑞《きずゐ》に|祈願者《きぐわんしや》の|喜楽《きらく》も|打驚《うちおどろ》き、|即時《そくじ》の|霊験《れいけん》と、|又《また》|不思議《ふしぎ》の|邂逅《かいこう》に、|神界《しんかい》の|深甚微妙《しんじんびめう》なる|御経綸《ごけいりん》に|敬服《けいふく》したのである。
|此《この》|女《をんな》は|石田《いしだ》|小末《こすゑ》といふ。これより|幽斎《いうさい》を|日夜《にちや》に|修業《しうげふ》し、|神術《かむわざ》|大《おほ》いに|発達《はつたつ》し、|遂《つひ》に|小松林《こまつばやし》、|松岡《まつをか》などの|高等《かうとう》|眷族《けんぞく》の|神霊《しんれい》|懸《かか》らせ|玉《たま》ひて、いろいろ|幽界《いうかい》の|有様《ありさま》を|表示《へうじ》し、|其《その》|後《ご》|百余日《ひやくよにち》の|後《のち》|再《ふたた》び|大阪《おほさか》の|姉《あね》の|家《うち》に|行《ゆ》かむと、|喜楽《きらく》に|別《わか》れを|告《つ》げて|出《で》て|行《い》つた|儘《まま》である。
|大本《おほもと》の|神《かみ》の|教《をしへ》を|伝《つた》へむと
|山路《やまぢ》|遥《はるか》に|越《こ》ゆる|津《つ》の|国《くに》。
|浪速江《なにはえ》のよしも|悪《あし》きも|神術《かむわざ》と
|知《し》らずに|下《くだ》る|淀《よど》の|流《なが》れを。
|千早《ちはや》ぶる|神《かみ》の|教《をしへ》を|畏《かしこ》みて
|駒《こま》|立《た》て|直《なほ》し|元《もと》の|丹波《たんば》へ。
|足曳《あしびき》の|山路《やまぢ》を|夜半《よは》に|辿《たど》る|身《み》は
|御空《みそら》の|月《つき》ぞ|力《ちから》なりけり。
ゆくりなく|巡《めぐ》り|会《あ》ひたる|嬉《うれ》しさに
|誠《まこと》の|神《かみ》の|恵《めぐみ》|悟《さと》りぬ。
|惟神《かむながら》|神《かみ》の|御霊《みたま》の|幸《さち》はひて
|此《この》|物語《ものがたり》|世《よ》にてらしませ。
(大正一一・一〇・一〇 旧八・二〇 松村真澄録)
第一六章 |四郎狸《しらうだぬき》〔一〇二八〕
|稲《いね》の|植付《うゑつ》けも|出来上《できあ》がり、|麦《むぎ》【かち】をしようと|庭《には》|一面《いちめん》に|麦《むぎ》を|拡《ひろ》げて|日光《につくわう》に|乾《かわ》かして|居《ゐ》た。|其《その》|日《ひ》の|十一時《じふいちじ》|頃《ごろ》|三人《さんにん》の|男《をとこ》が、
『|喜楽《きらく》サンは|在宅《うち》ですか』
と|尋《たづ》ねて|来《き》た。|此《この》|頃《ごろ》は|麦《むぎ》【かち】と|田植《たうゑ》とで|余《あま》り|参詣者《さんけいしや》も|無《な》いので、|麦《むぎ》【かち】を|手伝《てつだ》ふ|積《つも》りで|農夫《のうふ》の|姿《すがた》となつて、|朝《あさ》|早《はや》くから|麦《むぎ》を|田圃《たんぼ》から|運《はこ》んだり|拡《ひろ》げたりして|居《ゐ》たのである。|其処《そこ》へやつて|来《き》た|三人《さんにん》の|男《をとこ》は、|旭村《あさひむら》の|印地《いぢ》と|云《い》ふ|処《ところ》の|岩田《いはた》|弥太郎《やたらう》、|射場《いば》|久助《きうすけ》、|入江《いりえ》|幸太郎《かうたらう》であつた。
|其《その》|用《よう》|向《む》きは|岩田《いはた》|弥太郎《やたらう》の|妻《つま》のお|藤《ふぢ》と|云《い》ふのが、|二三ケ月《にさんかげつ》|前《まへ》から|霊感者《れいかんしや》となり、|一日《いちにち》に|飯《めし》を|五六升《ごろくしよう》も|炊《た》いてケロリと|平《たひら》げ、|酒《さけ》の|三升《さんじやう》も|欠《か》かさずに|飲《の》み、|養蚕《やうさん》を|手伝《てつだひ》ひ|乍《なが》ら、|折角《せつかく》|大《おほ》きうなつた|蚕《かひこ》の|虫《むし》を、|片端《かたはし》から|抓《つま》んで|喰《た》べると|云《い》ふ|厄介《やくかい》な|者《もの》である。|然《しか》し|乍《なが》ら、
『|此《この》|方《はう》は|白木大明神《しらきだいみやうじん》だ』
と|云《い》つて、|妙《めう》な|目《め》を|剥《む》いて|色々《いろいろ》な|指図《さしづ》をする。|種々《しゆじゆ》の|病人《びやうにん》が|此《この》お|藤《ふぢ》の|祈祷《きたう》や|指図《さしづ》した|薬《くすり》によつて|誰《たれ》も|彼《かれ》も|全快《ぜんくわい》するので、それが|評判《へうばん》となつて|朝《あさ》から|晩《ばん》まで|小《ちひ》さい|家《いへ》の|中《なか》に、|参詣人《さんけいにん》がつまつて|居《ゐ》たのである。|其《その》|隣村《となりむら》に|黒髪大明神《くろかみだいみやうじん》と|云《い》ふ、|稲荷《いなり》を|祀《まつ》つた|教会《けうくわい》があつて、|其《その》お|台《だい》サンと|云《い》ふのが|五十《ごじふ》|計《ばか》りの|婆《ば》アサンであつた。|其《その》|婆《ば》アサンが、|岩田《いはた》|藤《ふぢ》が|山子《やまこ》を|始《はじ》めて|人《ひと》を|誑《たぶ》らかすとか|云《い》つて|交番《かうばん》へ|届《とど》けたので、|巡査《じゆんさ》がやつて|来《き》て、
『|許可《きよか》なしに|貴様《きさま》の|内《うち》へ|人《ひと》を|寄《よ》せたり|薬《くすり》の|指図《さしづ》をしたりする|事《こと》はならぬ』
と|八釜《やかま》しく|云《い》つて|来《く》る。されども|岩田《いはた》|藤《ふぢ》は|霊感者《れいかんしや》の|事《こと》とて、|誰《たれ》が|何《なん》といつても|聞《き》き|入《い》れず、ドシドシと|託宣《たくせん》をしたり|祈祷《きたう》をしたり、|薬《くすり》の|指図《さしづ》をやつて|居《ゐ》る。さうして|相変《あひかは》らず|毎日《まいにち》|大酒《おほざけ》を|飲《の》み、|大飯《おほめし》を|食《くら》ひ、|折角《せつかく》|巣《す》につきかけた|蚕《かひこ》の|虫《むし》まで|片端《かたつぱし》から|掴《つか》んで|喰《く》ふので、|三人《さんにん》の|男《をとこ》が|何《なん》とかして|鎮《しづ》めて|貰《もら》ひ|度《た》いと|相談《さうだん》の|結果《けつくわ》、|田植《たうゑ》が|済《す》んだ|其《その》|休日《きうじつ》を|利用《りよう》して|喜楽《きらく》を|頼《たの》みに|来《き》たのであつた。
|喜楽《きらく》は|直《ただち》に|神主《かむぬし》の|小末《こすゑ》に|命《めい》じて、|印地《いぢ》の|岩田《いはた》お|藤《ふぢ》の|家《いへ》や|容姿《ようし》を|透視《とうし》せしめた。|其《その》|結果《けつくわ》|其《その》|家《いへ》の|瓦葺《かはらぶき》である|事《こと》、|畳数《たたみかず》が|何枚《なんまい》ある|事《こと》、|蚕《かひこ》の|棚《たな》が|何枚《なんまい》|並《なら》んで|居《ゐ》る|事《こと》、お|藤《ふぢ》の|顔《かほ》に|痘痕《あばた》のある|事《こと》、|家《いへ》の|少《すこ》し|横《よこ》に|氏神《うぢがみ》の|社《やしろ》がある|事《こと》、|裏《うら》の|方《はう》には|五六間《ごろくけん》|幅《はば》の|水《みづ》の|無《な》い|川《かは》があつて|其《その》|両方《りやうはう》の|堤《つつみ》に|竹藪《たけやぶ》のある|事《こと》|等《など》をスツカリ|透視《とうし》して|了《しま》ひ、|三人《さんにん》に|其《その》|由《よし》を|告《つ》げると、|三人《さんにん》は|互《たがひ》に|顔《かほ》を|見合《みあ》はせ、
『|如何《いか》にも|其《その》|通《とほ》りで|御座《ござ》います。|神様《かみさま》は|実《じつ》に|尊《たふと》いもので|御座《ござ》いますなア』
と|感嘆《かんたん》して|居《ゐ》た。そこで|喜楽《きらく》は|三人《さんにん》の|頼《たの》みを|容《い》れ、|神主《かむぬし》の|小末《こすゑ》を|従《したが》へ|五人連《ごにんづ》れで、|昼飯《ひるめし》を|済《す》ませ|炎天《えんてん》の|夏《なつ》の|日《ひ》を|浴《あ》び|乍《なが》ら、|吉田《よしだ》、|小林《をばやし》、|小川《をがは》、|川関《かはせき》、|八木《やぎ》の|大橋《おほはし》を|越《こ》え、|其《その》|日《ひ》の|三時《さんじ》|頃《ごろ》|漸《やうや》くにして|岩田《いはた》|藤《ふぢ》の|宅《たく》に|着《つ》いたのである。
|行《い》つて|見《み》れば|数十人《すうじふにん》の|参詣人《さんけいにん》が|座敷《ざしき》に|坐《すわ》つて|居《ゐ》た。|岩田《いはた》|藤《ふぢ》は|門口《かどぐち》に|出《い》で|迎《むか》へ|夫《をつと》の|弥太郎《やたらう》に|向《むか》ひ|小声《こごゑ》で、
『|弥太《やた》やん、|喜楽《きらく》サンは|居《ゐ》やはりましたか』
と|尋《たづ》ねて|居《ゐ》る。|弥太郎《やたらう》は|喜楽《きらく》から、
『|留守《るす》だつたと|云《い》へ、さうして|神憑《かむがか》りが|俺《おれ》を|喜楽《きらく》だと|云《い》ふ|事《こと》を|知《し》つてるか|如何《どう》かを|調《しら》べる|必要《ひつえう》があるから|途中《とちう》で|小林《をばやし》の|人《ひと》が|拝《をが》んで|貰《もら》ひに|来《こ》られたのだと|云《い》ふが|宜《よ》い』
と|教《をし》へられて|居《ゐ》たから、|弥太郎《やたらう》は|故意《わざ》と|恍《とぼ》けて、
|弥太《やた》『|折角《せつかく》|行《い》つて|来《き》たけれど、|喜楽《きらく》の|先生《せんせい》は|留守《るす》だつた。エー、|仕方《しかた》がない』
と|力《ちから》なげに|首《くび》を|頷垂《うなだ》れて|見《み》せた。お|藤《ふぢ》は|喜楽《きらく》の|八《はち》の|字《じ》|髭《ひげ》を|見《み》て|巡査《じゆんさ》と|思《おも》ふたか、|小声《こごゑ》で、
お|藤《ふぢ》『|弥太《やた》ヤン、あの|人《ひと》は|巡査《じゆんさ》ぢやないかい』
と|心配《しんぱい》さうに|尋《たづ》ねて|居《ゐ》る。|弥太郎《やたらう》は、
|弥太郎《やたらう》『いや、あのお|方《かた》は|小林《をばやし》の|井筒屋《ゐづつや》に|泊《とま》つて|御座《ござ》る|段通屋《だんつうや》サンで、|俺《わし》がお|前《まへ》の|神憑《かむがか》りの|話《はなし》をしたら|大変《たいへん》|賛成《さんせい》して、|俺《おれ》も|一《ひと》つ|商売上《しやうばいじやう》の|事《こと》や|身体《からだ》の|病気《びやうき》の|事《こと》を|伺《うかが》つて|貰《もら》ひ|度《た》いと|云《い》つて|跟《つ》いて|御座《ござ》つたのだ。さうしてあの|独眼《めかんち》の|太《ふと》い|女《をなご》サンは|井筒屋《ゐづつや》の|女中《をなごし》サンだ』
と|甘《うま》く|胡魔化《ごまくわ》して|居《ゐ》る。お|藤《ふぢ》は|別《べつ》に|疑《うたが》ひもせず、
お|藤《ふぢ》『アーさうかい。そんなら|之《これ》から|神様《かみさま》にお|願《ねが》ひします』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら、|御神殿《ごしんでん》に|向《むか》つて|拍手《はくしゆ》し、|片言交《かたことまじ》りに|神言《かみごと》を|奏上《そうじやう》し|始《はじ》めた。|神言《かみごと》の|半分《はんぶん》あまり|進《すす》んだ|頃《ころ》から|俄《にはか》に|声《こゑ》がかすり|出《だ》し、『ガアガア』と|鶩《あひる》の|様《やう》な|言霊《ことたま》の|調子《てうし》になつて|来《き》た。|喜楽《きらく》は、
|喜楽《きらく》『|何《なん》と|言霊《ことたま》の|濁《にご》つた|女《をんな》だ。|大方《おほかた》|狸《たぬき》が|憑《つ》いて|居《ゐ》るのだらう』
と|思《おも》ひ|乍《なが》ら、|大勢《おほぜい》の|中《なか》へ|紛《まぎ》れて|小末《こすゑ》に|彼《かれ》の|守護神《しゆごじん》を|透視《とうし》させ|乍《なが》ら、|素知《そし》らぬ|顔《かほ》して|控《ひか》へて|居《ゐ》た。|祝詞《のりと》が|終《をは》るとお|藤《ふぢ》は『キリキリキリ』と|大《おほ》きな|歯《は》ぎしりをし、|団栗《どんぐり》の|様《やう》な|目《め》を|剥《む》いて、|時々《ときどき》|舌《した》をチヨロチヨロ|出《だ》し|乍《なが》ら、クレリと|神壇《しんだん》を|後《うしろ》にし、|参詣人《さんけいにん》の|方《はう》へ|向《む》き|直《なほ》つた。|誰《たれ》が|見《み》ても|人間《にんげん》の|顔《かほ》とは|見《み》えない、|狸《たぬき》|其《そ》の|儘《まま》の|面相《めんさう》になつて|居《ゐ》る。お|藤《ふぢ》は|自分《じぶん》の|姿《すがた》を|見《み》て|俄《にはか》に|態度《たいど》を|改《あらた》め、|両手《りやうて》をついて、
お|藤《ふぢ》『これはこれは|喜楽《きらく》|先生《せんせい》で|御座《ござ》いましたか、|私《わたくし》は|稲荷山《いなりやま》の|一《いち》の|峰《みね》に|守護《しゆご》|致《いた》す|白木大明神《しらきだいみやうじん》で|御座《ござ》います。|今日《けふ》は|麦《むぎ》【かち】をなさるお|考《かんが》へで|御忙《おいそが》しうして|御座《ござ》る|中《なか》へ、|弥太郎《やたらう》|外《ほか》|両人《りやうにん》がお|邪魔《じやま》を|致《いた》しまして|偉《えら》い|御馳走《ごちそう》に|預《あづ》かりました。|能《よ》うまあお|越《こ》し|下《くだ》さいました。|私《わたくし》は|弥太郎《やたらう》の|後《あと》について|貴方《あなた》のお|宅《たく》|迄《まで》|参《まゐ》りました。それ|故《ゆゑ》|小林《をばやし》の|井筒屋《ゐづつや》で|御休息《ごきうそく》の|時《とき》、|私《わたし》を|審神《さには》する|為《た》めに|弥太郎《やたらう》にいろいろ|仰有《おつしや》つた|事《こと》も、チヤンと|聞《き》いて|居《を》ります。|何卒《どうぞ》|私《わたし》に|神名《かみな》を|下《くだ》さいまして、|神界《しんかい》の|御用《ごよう》が|出来《でき》ます|様《やう》に、|大神様《おほかみさま》にお|取次《とりつぎ》をお|願《ねが》ひします』
とキリキリキリと|又《また》もや|猛烈《まうれつ》な|歯《は》ぎしりをする。|数十人《すうじふにん》の|参詣者《さんけいしや》はお|藤《ふぢ》と|喜楽《きらく》に|視線《しせん》を|集中《しふちう》し、|息《いき》をこらして|見詰《みつめ》て|居《ゐ》た。|小末《こすゑ》は、
『ウン!』
と|一声《いつせい》|飛《と》び|上《あ》がると|共《とも》に、|忽《たちま》ち|帰神《きしん》|状態《じやうたい》になつて|了《しま》ひ、
|小末《こすゑ》『|其《その》|方《はう》は|稲荷山《いなりやま》の|眷族《けんぞく》|白木明神《しらきみやうじん》と|申《まを》して|居《ゐ》るが、|真赤《まつか》な|詐《いつは》りであらうがな』
お|藤《ふぢ》『いえいえ|決《けつ》して|嘘《うそ》は|申《まを》さぬ。|稲荷山《いなりやま》の|白木明神《しらきみやうじん》に|間違《まちが》ひは|御座《ござ》りませぬ。とつくりと|調《しら》べて|下《くだ》されよ』
と|切口上《きりこうじやう》になつて|力《りき》んで|居《ゐ》る。
|小末《こすゑ》『|詐《いつは》りを|申《まを》すな。|其《その》|方《はう》は|能勢妙見《のせのめうけん》の|新滝《しんたき》に|守護《しゆご》|致《いた》す、|四郎右衛門《しらううゑもん》と|申《まを》す|狸《たぬき》であらうがな』
と|目星《めぼし》を|指《さ》されてお|藤《ふぢ》の|憑霊《ひようれい》は|閉口《へいこう》し、
お|藤《ふぢ》『ハイ、もう|斯《か》うなる|上《うへ》は|仕方《しかた》が|御座《ござ》いませぬ。|何卒《どうぞ》|私《わたし》に|何《なん》とか|名《な》を|下《くだ》さいまして、|人助《ひとだす》けをさせて|下《くだ》さいませ。|何《なに》も|彼《か》も|白状《はくじやう》|致《いた》しますが、|実《じつ》は|私《わたし》は|丹波《たんば》の|国《くに》|多紀《たき》の|郡《ぐん》○○|村《むら》○○|教会《けうくわい》に|守護《しゆご》|致《いた》す、|四十八匹《しじふはちひき》の|狸《たぬき》の|親分《おやぶん》で|御座《ござ》いましたが、|喜楽《きらく》|先生《せんせい》の|前《まへ》ではチツと|申《まを》し|上《あ》げかねる|事《こと》なれども、|斯《か》うなれば|仕方《しかた》がありませぬ。|何《なに》も|彼《か》も|白状《はくじやう》|致《いた》します。|私《わたし》は|御存《ごぞん》じの|通《とほ》り|四郎右衛門《しろううゑもん》と|申《まを》す|狸《たぬき》で|御座《ござ》いますが、|大勢《おほぜい》の|人間《にんげん》に|憑《うつ》つて|色々《いろいろ》の|病《やまひ》を|起《おこ》させ、|医者《いしや》の|薬《くすり》を|服《の》ませて|試験《しけん》を|致《いた》しました。それ|故《ゆゑ》|此《この》|病気《びやうき》には|此《この》|薬《くすり》が|利《き》くと|云《い》ふ|事《こと》をよく|知《し》つて|居《ゐ》ます。|霊界《れいかい》の|医者《いしや》にならうと|思《おも》つて、|沢山《たくさん》の|人《ひと》の|身体《からだ》を|稽古《けいこ》に|使《つか》ひ、|人間《にんげん》の|生命《いのち》を|二人《ふたり》まで|過《あやま》つてとつて|了《しま》ひました。|其《その》|罪《つみ》によつて○○|教会《けうくわい》の|守護神《しゆごじん》の|役《やく》を|剥奪《はくだつ》され、|只今《ただいま》は|悲《かな》しき|浪人《らうにん》の|身《み》の|上《うへ》、|誰《たれ》かよき|台《だい》があれば|憑《うつ》つて|人《ひと》を|助《たす》け、|自分《じぶん》の|罪《つみ》を|亡《ほろ》ぼし|神界《しんかい》へお|詫《わ》びを|致《いた》さうと、|良《よ》い|神懸《かむがか》りの|台《だい》を|考《かんが》へて|探《さぐ》して|居《ゐ》る|中《うち》、|此《この》お|藤《ふぢ》の|肉体《にくたい》が|石炭山《せきたんやま》へ|石割《いしわ》りに|行《い》つて|酒《さけ》に|食《くら》ひ|酔《よ》ひ、|山《やま》にぶつ|倒《たふ》れて|居《ゐ》た|其《その》|隙《すき》を|狙《ねら》ひすまして、とりつきました。|此《この》|肉体《にくたい》を|使《つか》ふて|一《ひと》つ|思惑《おもわく》を|立《た》てようと|思《おも》ひますから、|何卒《どうぞ》|私《わたし》に|名《な》をお|与《あた》へ|下《くだ》され。|又《また》お|藤《ふぢ》の|肉体《にくたい》にも、それ|相当《さうたう》の|役目《やくめ》を|仰付《おほせつ》けて|下《くだ》されまする|様《やう》にお|願《ねが》ひ|致《いた》します』
と|四郎右衛門狸《しろううゑもんだぬき》は|自分《じぶん》の|懺悔話《ざんげばなし》を|諄々《じゆんじゆん》と|述《の》べ|立《た》て、|顔《かほ》|一面《いちめん》に|涙《なみだ》を|漲《みなぎ》らし|両手《りやうて》をついて|頼《たの》み|込《こ》む。|何《なん》とはなしに|喜楽《きらく》も|可哀相《かあいさう》な|気《き》がして|来《き》た。
|喜楽《きらく》『お|前《まへ》サンは|今《いま》|二人《ふたり》の|人《ひと》を|過《あやま》つて|殺《ころ》したと|云《い》つたが、それは|何《なん》と|云《い》ふ|人《ひと》だ。|差支《さしつかへ》がなければ|聞《き》かして|貰《もら》ひ|度《た》いものだ』
|四郎狸《しろうだぬき》『ハイ、|仕方《しかた》がありません、|何《なに》も|彼《か》も|白状《はくじやう》しますが、○○|教会《けうくわい》の|教導職《けうだうしよく》お|鶴《つる》サンと|云《い》ふ|女教師《ぢよけうし》の|腹《はら》に|這入《はい》り、|種々《いろいろ》と|病気《びやうき》の|試験中《しけんちう》|到頭《たうとう》お|鶴《つる》サンは|死《し》んで|了《しま》ひました。それから|外《ほか》に、も|一人《ひとり》、これは|小《ちひ》さい|子供《こども》で|御座《ござ》いました。|先生様《せんせいさま》のお|身《み》の|上《うへ》に|関係《くわんけい》のない|事《こと》ですから、|此《この》|人《ひと》の|名《な》だけは|御免《ごめん》を|蒙《かうむ》りませう』
|喜楽《きらく》『○○|教会《けうくわい》のお|鶴《つる》サンは|俺《わし》の|従妹《いとこ》であつて|叔父《をぢ》の|女房《にようばう》だ。それをお|前《まへ》は|知《し》つて|居《ゐ》るのだらうなア』
|四郎狸《しろうだぬき》『ハイ、それだから|貴方《あなた》に|神界《しんかい》にお|詫《わび》をして|頂《いただ》き、|罪《つみ》を|許《ゆる》されて|天晴《あつぱ》れ|元《もと》の|神《かみ》の|座《ざ》へ|復《かへ》らして|貰《もら》ひ|度《た》いので、|態々《わざわざ》|弥太郎《やたらう》や|久助《きうすけ》サン、|幸太郎《かうたろう》サンを|先生《せんせい》のお|宅《たく》に|頼《たの》みにやつたので|御座《ござ》います。|改心《かいしん》の|証《しるし》に|今《いま》|此処《ここ》で|証拠《しようこ》を|見《み》せます』
と|云《い》ふより|早《はや》く、コンコンと|二回《にくわい》ばかり|大《おほ》きな|咳《せき》をした。|其《その》|機《はづみ》に|真白毛《まつしろけ》の|毛玉《けだま》が|飛《と》んで|出《で》た。よくよく|見《み》れば|其《その》|毛玉《けだま》は|自由自在《じいうじざい》に|動《うご》いて|居《ゐ》る。|風《かぜ》が|当《あた》つて|動《うご》くのではなからうかと|思《おも》ひ、|直《すぐ》に|硝子蓋《がらすぶた》のしてある|箱《はこ》の|中《なか》へ|入《い》れて|見《み》たが、|毛玉《けだま》は|矢張《やは》り|左右《さいう》へ|自由自在《じいうじざい》に|動《うご》いて|居《ゐ》る。|大勢《おほぜい》の|者《もの》が|寄《よ》つて|集《たか》つて|毛玉《けだま》を|不思議《ふしぎ》|相《さう》に|眺《なが》めて|居《ゐ》る。|四郎右衛門狸《しろううゑもんだぬき》は|口《くち》を|尖《とが》らし、
|四郎狸《しろうだぬき》『|早《はや》く|白粉《おしろい》を|其《その》|毛玉《けだま》にふりかけて|下《くだ》され。|弱《よわ》ります』
と|嘆願《たんぐわん》してる。お|藤《ふぢ》の|使《つか》ふ|白粉《おしろい》を|弥太郎《やたらう》が|探《さが》し|出《だ》して、|白《しろ》い|毛玉《けだま》にブツかけてやつた。|毛玉《けだま》は|硝子箱《がらすばこ》の|中心《ちうしん》に|坐《ざ》を|占《し》め、|幾万《いくまん》とも|知《し》れぬ|細《ほそ》い|毛《け》を|前後左右《ぜんごさいう》に|動《うご》かして|居《ゐ》た。
|其《その》|夜《よ》は|射場《いば》|久助《きうすけ》の|家《いへ》に|泊《と》めて|貰《もら》ひ、|岩田《いはた》|藤《ふぢ》に|修斎《しうさい》を|与《あた》へ、|二人《ふたり》|連《つ》れ|立《だ》つて|穴太《あなを》へ|帰《かへ》つて|見《み》ると、|四五人《しごにん》の|修業者《しうげふしや》を|巡査《じゆんさ》がやつて|来《き》て|交番所《かうばんしよ》へ|引張《ひつぱ》つて|去《い》のうとしてる|処《ところ》であつた。さうして|御嶽教《みたけけう》の|太元教会《たいげんけうくわい》の|杉山《すぎやま》|某《ぼう》と|云《い》ふ|男《をとこ》が|其処《そこ》に|立《た》つて|居《ゐ》る。|喜楽《きらく》は|巡査《じゆんさ》と|杉山《すぎやま》に|向《むか》つて|種々《いろいろ》と|霊学上《れいがくじやう》の|議論《ぎろん》を|闘《たたか》はし、|漸《やうや》く|巡査《じゆんさ》は|納得《なつとく》して|無事《ぶじ》に|帰《かへ》つて|行《い》つた。
|此《この》|杉山《すぎやま》と|云《い》ふ|男《をとこ》は|元《もと》は|金岐《かなげ》の|隠亡《おんばう》であつて、|村《むら》の|戸長《こちやう》を|勤《つと》めて|居《ゐ》た|男《をとこ》であつたが、|明治《めいぢ》|十六年《じふろくねん》の|旱魃《かんばつ》で、|御嶽教《みたけけう》の|山下《さんか》と|云《い》ふ|行者《ぎやうじや》が、|亀岡《かめをか》の|余部《あまるべ》へやつて|来《き》て|雨乞《あまごひ》をして、|雨《あめ》を|降《ふ》らすと|二週間《にしうかん》の|断食《だんじき》を|河原《かはら》の|中《なか》でやつた。けれども|雨《あめ》はあまり|足《た》りになる|程《ほど》|降《ふ》らなかつたが、|二週間《にしうかん》の|上《あが》りにバラバラと|降《ふ》つてきたのは|事実《じじつ》である。|其《その》|時《とき》に、|余部《あまるべ》の|或《ある》|家《いへ》の|女房《にようばう》で、|高島《たかしま》おふみと|云《い》ふ|若《わか》い|女《をんな》が、|山下《やました》|某《ぼう》の|神徳《しんとく》に|感《かん》じ、|毎晩《まいばん》|川《かは》へ|行《い》つて|水行《すゐぎやう》をやつて|居《ゐ》ると|何時《いつ》の|間《ま》にやら|体《からだ》が|震《ふる》ひ|出《だ》し、
『|此《この》|方《はう》は|稲荷大明神《いなりだいみやうじん》だ!』
と|喋《しやべ》り|出《だ》した。それから|余部《あまるべ》のお|稲荷《いなり》サンと|云《い》つて、|四方《しはう》|八方《はつぱう》から|参詣《さんけい》する|者《もの》が|出来《でき》て|来《き》た。|其《その》|時《とき》に|参拝《さんぱい》したのが|杉山《すぎやま》|藤五郎《とうごらう》と|云《い》ふ|男《をとこ》であつた。|此《この》|男《をとこ》は|相当《さうたう》に|学問《がくもん》もあり|財産《ざいさん》もあり、|人格《じんかく》もあまり|悪《わる》くない。|何時《いつ》も|高島《たかしま》ふみの|教会《けうくわい》へ|通《かよ》ふて|受付《うけつけ》|等《など》をやつて|居《ゐ》たが、|知《し》らぬ|間《ま》に|妙《めう》な|仲《なか》となつたのを、ふみの|夫《をつと》が|嗅《かぎ》つけ、
『ド|狐《ぎつね》もつて|出《で》て|行《ゆ》きさらせ』
と|一言《いちごん》の|許《もと》に|放《はう》り|出《だ》され、|二人《ふたり》はそれより|天下《てんか》|晴《は》れての|夫婦《ふうふ》|気取《きど》りで、|同《おな》じ|余部《あまるべ》の|町《まち》へ|宏大《くわうだい》な|家《いへ》を|借《か》り、そこへ|稲荷《いなり》サンを|祀《まつ》つて|附近《ふきん》の|信者《しんじや》を|集《あつ》めて|居《ゐ》た。|然《しか》るに|今度《こんど》|喜楽《きらく》が、あまり|遠《とほ》からぬ|穴太《あなを》で|伺《うかが》ひや|祈祷《きたう》をやり|出《だ》したので、|此《この》|教会《けうくわい》へうつつを|抜《ぬ》かして|通《かよ》ふて|居《ゐ》た|信者《しんじや》が|残《のこ》らず|穴太《あなを》へ|集《あつ》まるので、|何《なん》とかして|叩《たた》き|潰《つぶ》してやらうと|考《かんが》へ、|駐在所《ちうざいしよ》の|巡査《じゆんさ》を|説《と》きつけてやつて|来《き》たものである。
|喜楽《きらく》も|三四年《さんよねん》|以前《いぜん》から|父《ちち》が|病気《びやうき》なので、|祈祷《きたう》して|貰《もら》つたり|伺《うかが》つて|貰《もら》ふ|為《た》めに|高島《たかしま》ふみの|教会《けうくわい》へチヨコチヨコ|通《かよ》ひ、|杉山《すぎやま》とは|余程《よほど》|懇意《こんい》になつて|居《ゐ》たのである。けれども|杉山《すぎやま》は|高島《たかしま》ふみに|唆《そそのか》されて、|穴太《あなを》の|喜楽《きらく》を|何処《どこ》かへやつてやらうと|企《たく》んで|来《き》たのであつた。|余部《あまるべ》の|太元教会《たいげんけうくわい》には|服部《はつとり》|某《ぼう》と|云《い》ふ|男《をとこ》が|受付《うけつけ》をして|居《ゐ》た。|明治《めいぢ》|二十九年《にじふくねん》の|春《はる》の|事《こと》であつた。|春季《しゆんき》|大祭《たいさい》が|行《おこな》はれると|云《い》ふので|早《はや》うから|参拝《さんぱい》して|見《み》ると、|服部《はつとり》|某《ぼう》が|只《ただ》|一人《ひとり》、|玄関口《げんくわんぐち》に|酒《さけ》をチヨビリチヨビリ|飲《の》み|乍《なが》ら|控《ひか》へて|居《ゐ》た。|一見《いつけん》して|五十七八《ごじふしちはち》か|六十二三《ろくじふにさん》|位《くらゐ》に|見《み》える|爺《ぢい》サンである。|喜楽《きらく》は、
|喜楽《きらく》『|服部《はつとり》サン、お|早《はや》う。|今日《けふ》はお|祭《まつ》りぢやさうで|参拝《さんぱい》しました』
と|云《い》ふと、|服部《はつとり》は|目《め》をちらつかせ|乍《なが》ら、
|服部《はつとり》『あゝ|喜楽《きらく》サンか、ま|一杯《いつぱい》やりなさい。|此処《ここ》の|祭《まつり》は|午後《ごご》|一時《いちじ》と|云《い》ふのだが、|皆《みな》|遠《とほ》い|所《ところ》から|参《まゐ》るので|如何《どう》しても|四時《よじ》|頃《ごろ》にならぬと|始《はじ》まらぬ。|杉山《すぎやま》サンも|高島《たかしま》おふみサンも|朝《あさ》|早《はや》うから|世話方《せわかた》の|家《うち》へ|奔走《ほんそう》に|行《い》つたので|留守《るす》だが、|稲荷《いなり》サンも|宜《よ》い|加減《かげん》なものだぜ。……|喜楽《きらく》サン、お|前《まへ》サンも|宜《よ》い|加減《かげん》に|目《め》を|醒《さ》ましたら|如何《どう》だ。|尻《しり》に|狐《きつね》の|尻尾《しつぽ》を|結《むす》びつけて|羽織《はおり》の|裏《うら》からチヨイチヨイ|出《だ》し、|本当《ほんたう》の|稲荷《いなり》サンが|憑《うつ》つて|来《こ》られた|様《やう》に|誤魔化《ごまくわ》すので、|本気《ほんき》に|拝《をが》む|気《き》になりはせないわ。|阿呆《あはう》らしい、|朝《あさ》から|晩《ばん》まで|椀給《わんきふ》でこき|使《つか》はれて|堪《たま》つたものぢやない。お|神酒《みき》だといつて|一升《いつしよう》|買《か》ふて|置《お》きやがつたから、お|神酒徳利《みきどつくり》に|水《みづ》を|入《い》れて、|酒《さけ》は|此《この》|通《とほ》り|俺《わし》が|飲《の》んで|居《ゐ》るのだ』
と|何《なに》から|何《なに》まで|秘密《ひみつ》を|素破抜《すつぱぬ》いて|居《を》る。|喜楽《きらく》は、
……マサカそんな|事《こと》はあるまい。|服部《はつとり》|奴《め》が|不平《ふへい》のあまりこんな|中傷《ちうしやう》|讒誣《ざんぶ》をするのだらう……と|思《おも》ひ|乍《なが》ら、|弁当《べんたう》を|出《だ》して|食《く》ひ|祭典《さいてん》の|時《とき》の|至《いた》るのを|待《ま》つて|居《ゐ》た。
(大正一一・一〇・一〇 旧八・二〇 北村隆光録)
第一七章 |狐《きつね》の|尾《を》〔一〇二九〕
|暫《しばら》くあつて|御台《おだい》サンと|称《しよう》する|高島《たかしま》ふみ|子《こ》は、|総務格《そうむかく》|兼《けん》|良人《をつと》なる|杉山《すぎやま》|氏《し》と|共《とも》に|帰《かへ》つて|来《き》た。|服部《はつとり》と|云《い》ふ|爺《おやぢ》は|驚《おどろ》いて、|俄《にはか》に|徳利《とくり》を|股《また》にかくす。|杉山《すぎやま》は|喜楽《きらく》の|姿《すがた》を|見《み》て、|嬉《うれ》し|相《さう》に|笑《わら》ひ、|笑顔《ゑがほ》を|作《つく》り、
|杉山《すぎやま》『あゝ|喜楽《きらく》サン、|能《よ》う|来《き》て|下《くだ》さいました。|今日《けふ》はあなたに|一席《いつせき》の|講演《かうえん》を|願《ねが》はねばなりませぬ。|御存《ごぞん》じの|通《とほ》り|信者《しんじや》が|沢山《たくさん》|殖《ふ》えまして、|何時《いつ》までもこんな|不便《ふべん》な|家《いへ》を|借《か》つて|居《ゐ》る|訳《わけ》にも|行《ゆ》きませぬ。どつかに|新築《しんちく》をしたいと|思《おも》ひますがそれに|就《つ》いては|一寸《ちよつと》|三千円《さんぜんゑん》|許《ばか》り|必要《ひつえう》なので、|今《いま》|寄附帳《きふちやう》を|拵《こしら》へて、|各自《かくじ》に|手分《てわ》けをなし、|世話方《せわかた》が|寄附金《きふきん》|募集《ぼしふ》に|歩《ある》かうと|相談《さうだん》の|纏《まと》まつた|所《ところ》で|御座《ござ》います。|就《つ》いては|私《わたし》が|教会《けうくわい》|建築《けんちく》の|話《はなし》をするのも|何《なん》だか|面白《おもしろ》くありませぬから、|一《ひと》つあなたが|私《わたし》に|代《かは》つて|演壇《えんだん》に|立《た》つて|下《くだ》さいますまいかなア』
と|云《い》ふ。|喜楽《きらく》は|其《その》|時《とき》はまだ|二十六歳《にじふろくさい》、|父《ちち》の|病気《びやうき》が|治《なを》して|欲《ほ》しさに|信仰《しんかう》をして|居《を》つたのだから、|神様《かみさま》の|事《こと》なら|何《なん》でもいとはぬと|云《い》ふ|気《き》になつて|居《ゐ》た。そこで|直《ただち》に|承諾《しようだく》の|旨《むね》を|告《つ》げ、|教会《けうくわい》の|仕様書《しやうがき》や|設計《せつけい》などを|見《み》せて|貰《もら》ひ、|祭典《さいてん》がすめば|一場《いちぢやう》の|演説《えんぜつ》を|試《こころ》みようと|心《こころ》ひそかに|腹案《ふくあん》を|作《つく》つてゐた。|高島《たかしま》ふみ|子《こ》、|杉山《すぎやま》の|両人《りやうにん》は|非常《ひじやう》に|喜《よろこ》び、|丁重《ていちよう》な|料理《れうり》を|取《とり》よせて、|奥《おく》の|間《ま》で|饗応《きやうおう》してくれた。|服部《はつとり》は|真赤《まつか》な|顔《かほ》をし、フーフーと|苦《くる》しさうな|息《いき》をし|乍《なが》ら、|高島《たかしま》の|前《まへ》にやつて|来《き》て、
|服部《はつとり》『|今《いま》|世話方衆《せわかたしう》が|見《み》えました。やがて|信者《しんじや》も|追々《おひおひ》|集《あつ》まりませうから、|世話方《せわかた》に|夫《そ》れまで|酒《さけ》を|呑《の》んで|貰《もら》ひませうか』
|高島《たかしま》は|小声《こごゑ》で、
|高島《たかしま》『|世話方《せわかた》なんと|云《い》つた|所《ところ》で、いつも|出《で》て|来《き》て|酒《さけ》をのむ|許《ばか》りで|何《なん》にもなりやしない』
と|云《い》つたのを、|服部《はつとり》は|聞《き》きかじつて、|巻舌《まきじた》になり|乍《なが》ら、
|服部《はつとり》『ナヽ|何《なに》がイヽ|稲荷《いなり》のお|台《だい》サン、キヽ|狐《きつね》サン、|役《やく》に|立《た》たぬのだ。|朝《あさ》から|晩《ばん》までおめし|給銀《きふぎん》でこき|使《つか》はれて|居《を》るのだから、たまたま|一升《いつしよう》|位《くらゐ》|酒《さけ》を|飲《の》んだつて、ゴテゴテ|言《い》ひなさるな』
|高島《たかしま》『コレ|服部《はつとり》サン、ソリヤ|何《なに》を|言《い》つてゐなさるのだ。|早《はや》う|御世話方《おせわかた》にお|酒《さけ》でも|出《だ》して|叮嚀《ていねい》にあしらうて|下《くだ》さい』
|服部《はつとり》『|今日《けふ》は|神様《かみさま》の|一年《いちねん》に|一度《いちど》の|春季《しゆんき》|大祭《たいさい》だから、|私《わたし》が|神《かみ》さまの|御神酒《おみき》を|頂《いただ》いた|位《くらゐ》で、ゴテゴテ|言《い》ひはしませぬだらうな。|実《じつ》の|所《ところ》は|学校《がくかう》の|小使《こづかひ》に|使《つか》うてやらうと|云《い》ふ|人《ひと》があるのだけれど、お|前《まへ》サンが|怒《おこ》つて、|狐《きつね》でも|使《つか》ふて【あたん】でもすると|困《こま》るから、そんな|事《こと》アおけと|友達《ともだち》が|言《い》ふてくれるので、|辛抱《しんばう》して|居《を》るのだが、|今日《けふ》はモウ|喜楽《きらく》サンが|来《き》て|居《を》るのだから、|狐《きつね》の|尾《を》|丈《だけ》はやめなさいや』
と|言《い》ひ|乍《なが》ら、ヒヨロリ ヒヨロリと|玄関口《げんくわんぐち》の|方《はう》へ|走《はし》つて|行《ゆ》く。
いよいよ|午後《ごご》の|三時過《さんじすぎ》になると、ボツボツと|参詣人《さんけいにん》が|集《あつま》つて|来《き》て、|牡丹餅《ぼたもち》や|菓子《くわし》、|米《こめ》、|包《つつ》み|物《もの》、|小豆《あづき》、|豆《まめ》など|沢山《たくさん》に|供《そな》へられ、いよいよ|午後《ごご》|四時《よじ》を|期《き》して|祝詞《のりと》が|始《はじ》まり、|神殿《しんでん》の|前《まへ》で|護摩《ごま》をたき|始《はじ》めた。|五寸《ごすん》|許《ばか》りに|切《き》つて|割《わ》つた|木切《きぎ》れに、|一々《いちいち》|姓名《せいめい》や|年齢《ねんれい》を|書《か》き|記《しる》し、それを|高《たか》くつんで、|大《おほ》きな|鍋《なべ》の|中《なか》で、|火《ひ》をつけてもやす、|其《その》|上《うへ》には|幣《へい》が|切《き》つてぶら|下《さが》つてゐる。|杉山《すぎやま》を|始《はじ》め|服部《はつとり》|其《その》|他《た》|沢山《たくさん》の|世話方《せわかた》は、お|鍋《なべ》で|作《つく》つた|火鉢《ひばち》のぐるりから、|祝詞《のりと》を|一生懸命《いつしやうけんめい》に|称《とな》へる。|火《ひ》はポーポーと|音《おと》を|立《た》ててもえる。アワヤ|上《うへ》に|吊《つ》つた|御幣《ごへい》に|火《ひ》が|燃《も》えつかうとすると、|水《みづ》の|垂《た》るやうな|榊《さかき》をポツとくべて|火《ひ》を|防《ふせ》ぐ、|又《また》|燃上《もえあが》らうとすると|榊《さかき》の|葉《は》をくべる、それでも|火《ひ》はだんだんと|烈《はげ》しくなつてくる。|高島《たかしま》ふみ|子《こ》は|例《れい》の|神憑《かむがか》りになり、|羽織《はおり》のあひからチヨロチヨロと|赤《あか》い|色《いろ》の|狐《きつね》の|尻尾《しつぽ》を|見《み》せながら、|御幣《ごへい》をふつて、|烈《はげ》しく|燃《も》え|上《あ》がる|火《ひ》の|中《なか》へ|突《つ》き|出《だ》し、|上《うへ》から|吊《つ》つた|御幣《ごへい》に|延焼《えんせう》せむとするのを|防《ふせ》ぎつつ、|其《その》|幣《へい》を|又《また》もや|信者《しんじや》の|頭《あたま》の|上《うへ》に|左右左《さいうさ》とふる。すみからすみまで、|百四五十人《ひやくしごじふにん》の|頭《あたま》の|上《うへ》を|一《ひと》つ|一《ひと》つ|御幣《ごへい》でしばいてまはる、|護摩《ごま》の|火《ひ》はだんだん|高《たか》くなり、アワヤ|吊《つ》り|下《さげ》たフサフサとした|御幣《ごへい》に|燃《も》え|移《うつ》らうとする|危険《きけん》に|迫《せま》ると、|四五人《しごにん》の|世話方《せわかた》が|一割《いちわり》|大《おほ》きな|声《こゑ》で、シヤクル|様《やう》に|祝詞《のりと》を|上《あ》げる、それを|合図《あひづ》に|高島《たかしま》ふみ|子《こ》は|榊《さかき》の|青葉《あをば》に|括《くく》りつけた|御幣《ごへい》を、あわてて|火《ひ》と|吊幣《つりへい》との|間《あひだ》にグツとつき|出《だ》し|延焼《えんせう》を|防《ふせ》ぐ|其《その》|巧妙《かうめう》さ。|喜楽《きらく》は|高島《たかしま》ふみ|子《こ》の|尻《しり》からチヨロチヨロ|見《み》えて|居《ゐ》る|狐《きつね》の|尻尾《しつぽ》をグツと|握《にぎ》ると、ふみ|子《こ》は|驚《おどろ》いて『シユーシユー』と|云《い》ひ|乍《なが》ら|芋虫《いもむし》を|弄《いろ》ふた|様《やう》な|体裁《ていさい》でプリンと|尻《しり》を|一方《いつぱう》へふり、|御幣《ごへい》をプイプイと|振《ふ》り|廻《まは》し|又《また》|向《むか》ふの|方《はう》へ|払《はら》ひもつて|行《ゆ》く。|斯《かく》の|如《ごと》くして|祭典《さいてん》は|無事《ぶじ》に|終了《しうれう》を|告《つ》げた。|服部《はつとり》|爺《ぢい》サンの|言《い》つた|狐《きつね》の|尾《を》も|万更《まんざら》ウソでない|事《こと》を|悟《さと》つた。|可笑《おか》しいやら|馬鹿《ばか》らしいやら、|俄《にはか》に|信仰《しんかう》がさめて|了《しま》ひ、それから|三十一年《さんじふいちねん》の|二月《にぐわつ》、|廿八歳《にじふはつさい》になるまで、|神様《かみさま》に|手《て》を|合《あは》すのがいやになり、|極端《きよくたん》な|無神論者《むしんろんじや》になつて|了《しま》つたのである。
|祭典《さいてん》は|無事《ぶじ》に|済《す》んだ。|杉山《すぎやま》|某《ぼう》から|御馳走《ごちそう》|迄《まで》|拵《こしら》へて|頼《たの》まれた|演説《えんぜつ》も|此《この》|尻尾《しつぽ》を|見《み》てから|何《なん》となく|気乗《きのり》がせず、|折角《せつかく》|拵《こしら》へておいた|腹案《ふくあん》もどつかへ|消《き》えて|了《しま》ひ、|申《まを》し|訳《わけ》|的《てき》に|十分間《じつぷんかん》|程《ほど》|取《とり》とめもない、|支離滅裂《しりめつれつ》な|演説《えんぜつ》をやつてのけた。それでも|不思議《ふしぎ》な|事《こと》には、|杉山《すぎやま》を|始《はじ》め|世話方《せわかた》|信者《しんじや》は|手《て》を|叩《たた》いて、|非常《ひじやう》に|感服《かんぷく》してゐる|様子《やうす》であつた。|何《なに》も|訳《わけ》の|分《わか》らぬ|婆嬶《ばばかか》の|迷信連《めいしんれん》に|向《むか》つて、|自分《じぶん》でさへも|訳《わけ》の|分《わか》らぬ|事《こと》を|云《い》つたのに、|余《あま》り|反対《はんたい》も|受《う》けず、|却《かへつ》て|拍手《はくしゆ》を|以《もつ》て|迎《むか》へられたのは|合点《がつてん》のいかぬ|事《こと》であつた。|訳《わけ》の|分《わか》らぬ|人間《にんげん》に|対《たい》しては、ヤツパリ|分《わか》らぬ|事《こと》を|云《い》ふて|聞《き》かすのが、よく|耳《みみ》に|這入《はい》るものだなアと、|自《みづか》ら|感心《かんしん》せざるを|得《え》なかつた。
|祭典《さいてん》は|無事《ぶじ》に|済《す》み、お|台《だい》サンのおふみサンの|言《い》ひ|付《つ》けで|馬路村《うまぢむら》の|或《あ》る|中川《なかがは》と|云《い》ふ|信者《しんじや》から、|子《こ》が|無事《ぶじ》に|生《うま》れたお|礼《れい》だと|云《い》つて、|御供《おそな》へした|沢山《たくさん》の|牡丹餅《ぼたもち》を|百四五十人《ひやくしごじふにん》の|信者《しんじや》に|二《ふた》つづつ|配《くば》つて|廻《まは》つた。そしておふみサンの|言草《いひぐさ》が|面白《おもしろ》い。
『|皆《みな》サン|中川《なかがは》サンの|奥《おく》サンは、|御妊娠《ごにんしん》をなさつてから、|十二ケ月《じふにかげつ》になるのに、|子《こ》が|出《で》ませぬので、|此《この》|大神様《おほかみさま》にお|参《まゐ》りになり、お|伺《うかが》ひ|遊《あそ》ばした|所《ところ》、|此《この》|人《ひと》は|懐妊《みもち》になつてから、|牛《うし》の|綱《つな》を|跨《また》げたから、|其《その》|罰《ばち》で|牛《うし》の|子《こ》が|宿《やど》つたので、|十二ケ月《じふにかげつ》も|腹《はら》に|居《を》らはつたのです。|神様《かみさま》の|御言葉《おことば》では、|此《この》|儘《まま》|放《はな》つといたら|牛《うし》の|子《こ》が|生《うま》れるに|依《よ》つて、|信仰《しんかう》をせよと|仰有《おつしや》りました。それから|中川《なかがは》サン|御夫婦《ごふうふ》は|二里《にり》もある|所《ところ》を|代《かは》る|代《がは》る|御参拝《ごさんぱい》になつて、とうとう|立派《りつぱ》な|人間《にんげん》の|男《をとこ》の|子《こ》がお|生《うま》れになつたので、|今日《けふ》はお|祭《まつり》を|幸《さいは》ひに、|牡丹餅《ぼたもち》をお|供《そな》へになつたので|御座《ござ》います。|皆《みな》サンあやかつて|下《くだ》さいませ。|神様《かみさま》は|信心《しんじん》さへ|強《つよ》うすればどんな|事《こと》でも|聞《き》いて|下《くだ》はります。どうぞ|皆《みな》サンも|疑《うたが》はずに|信心《しんじん》をして|下《くだ》さりませ、キツと|広大《くわうだい》な|御利益《ごりやく》が|頂《いただ》けますぞえ』
としたり|顔《がほ》に|教服《けうふく》をつけたまま、|上座《かみざ》に|立《た》つて|喋《しやべ》り|立《た》て、|次《つぎ》の|間《ま》に|這入《はい》つた。|大勢《おほぜい》の|信者《しんじや》は|手《て》に|頂《いただ》いて、|一口《ひとくち》かぶつては|妙《めう》な|顔《かほ》をし|乍《なが》ら|懐《ふところ》から|紙《かみ》を|出《だ》して|包《つつ》み|袂《たもと》に|入《い》れる。|誰《たれ》もかれも|厭相《いやさう》な|顔《かほ》をしてゐる。|自分《じぶん》も|二《ふた》つ|貰《もら》うたが、|妙《めう》な|香《にほひ》だと|思《おも》うて|割《わ》つて|見《み》ると|牛糞《うしくそ》が|包《つつ》んであつた。
|大勢《おほぜい》の|中《なか》から、
『オイお|台《だい》サン、コリヤ|牛糞《うしくそ》が|交《ま》ぜつとりますぜ』
と|叫《さけ》ぶ|者《もの》がある。さうするとあちらからも|此方《こちら》からも、
『あゝ|臭《くさ》かつた、エーエー』
と|紙《かみ》を|使《つか》ふものも|出来《でき》て|来《き》た。|高島《たかしま》ふみ|子《こ》サンは|驚《おどろ》いて、|上装束《うはせうぞく》をぬぎ、|狐《きつね》の|尾《を》を|細帯《ほそおび》で|括《くく》つたまま、|取《と》るのを|忘《わす》れて、|此《この》|場《ば》へ|走《はし》り|来《きた》り、
|高島《たかしま》『|皆《みな》サン|勿体《もつたい》ない|事《こと》を|仰有《おつしや》るな。そんな|物《もの》を|神様《かみさま》にお|供《そな》へしそうな|事《こと》がありませぬ』
と|云《い》ふや|否《いな》や、|中川《なかがは》と|云《い》ふ|男《をとこ》、|三十二三歳《さんじふにさんさい》の|少《すこ》し|色《いろ》の|黒《くろ》い、|細長《ほそなが》い|顔《かほ》をして、|神壇《しんだん》の|前《まへ》に|立《た》ち、
|中川《なかがは》『|私《わたくし》は|馬路村《うまぢむら》の|中川《なかがは》|某《ぼう》と|云《い》ふ|者《もの》です。|私《わたくし》の|家内《かない》が|妊娠《にんしん》をしてから|月《つき》が|満《み》ちても|出産《しゆつさん》せぬので、ここへ|伺《うかが》ひに|来《き》た|所《ところ》、ここの|奴狐《どぎつね》がぬかすには、|牛《うし》の|綱《つな》をまたげたから、|牛《うし》の|子《こ》が|宿《やど》つて|居《ゐ》るのだ、|信心《しんじん》さへすれば|人間《にんげん》の|子《こ》に|生《うま》れさしてやると、バカな|事《こと》をぬかしやがる、|人間《にんげん》さまを|馬鹿《ばか》にしやがるも|程《ほど》があると|思《おも》うて|居《を》つたが、それでも|出来《でき》て|見《み》ねば|分《わか》らぬと|思《おも》ひ、|女房《にようばう》の|代《かは》りに|毎日《まいにち》|参《まゐ》つて|居《を》りました。そした|所《ところ》、|女子《ぢよし》が|出来《でき》るとぬかしたに|拘《かかは》らず、|立派《りつぱ》な|男《をとこ》の|子《こ》が|生《うま》れました。そんな|事《こと》の|腹《はら》の|中《なか》の|事《こと》まで|分《わか》る|様《やう》な|稲荷《いなり》なら、|牡丹餅《ぼたもち》の|中《なか》へ|牛糞《うしくそ》を|入《い》れて|供《そな》へたらキツト|知《し》つてるだらう、モシ|知《し》らぬやうな|事《こと》なら|山子婆《やまこばば》の|溝狸《どぶだぬき》だと|思《おも》うてをつたら、|案《あん》の|条《でう》、|牛糞《うしくそ》を|神様《かみさま》の|前《まへ》に|供《そな》へて|拝《をが》んでをる|可笑《おか》しさ。|私《わたし》は|皆《みな》さまに|食《くつ》て|下《くだ》さいと|云《い》ふて|牡丹餅《ぼたもち》を|持《も》つて|来《き》たのだないから、|皆《みな》さま|怒《おこ》つて|下《くだ》さるな。ここの|婆《ばば》アが|悪《わる》いのだ、アハヽヽ|稲荷下《いなりさげ》の|山子《やまこ》バヽ、|尻《しり》でもくらへ、これから|俺《おれ》がそこら|中《ぢう》、|此《この》|次第《しだい》をふれ|歩《ある》いてやる』
と|言《い》ひ|乍《なが》ら、|一目散《いちもくさん》に|飛出《とびだ》し|帰《かへ》つて|行《い》つた。これより|旭日昇天《きよくじつしようてん》の|勢《いきほ》ひであつた、|此《この》|教会《けうくわい》も|次第々々《しだいしだい》にさびれて、|遂《つひ》には|維持《ゐぢ》が|出来《でき》なくなり、|京町《きやうまち》の|天神《てんじん》さまの|境内《けいだい》へ|移転《いてん》して、|僅《わづ》かに|命脈《めいみやく》を|保《たも》つて、|明治《めいぢ》|四十五年《しじふごねん》|頃《ごろ》まで|継続《けいぞく》して|居《ゐ》たのであつた。
(大正一一・一〇・一〇 旧八・二〇 松村真澄録)
第一八章 |奥野操《おくのみさを》〔一〇三〇〕
|一旦《いつたん》|斎藤《さいとう》|宇一《ういち》の|座敷《ざしき》から、|退却《たいきやく》を|命《めい》ぜられた|修業場《しうげふば》は、|又《また》もや|爺《おやぢ》の|機嫌《きげん》が|直《なほ》つて、|再《ふたたび》|修行場《しうぎやうば》に、|二間《ふたま》|続《つづ》きの|奥座敷《おくざしき》を|給与《きふよ》された。|其《その》|時《とき》は|多田《ただ》|琴《こと》、|石田《いしだ》|小末《こすゑ》、|上田《うへだ》|幸吉《かうきち》などが|最《もつと》も|面白《おもしろ》き|神懸《かむがか》りであり、いろいろの|珍《めづら》しき|神術《かむわざ》をして|見《み》せた。|多田《ただ》|琴《こと》が|両手《りやうて》を|組《く》み|審神者《さには》となり、|石田《いしだ》|小末《こすゑ》が|神主《かむぬし》となり、
『サア|地震《ぢしん》だ』
といへば、|俄《にはか》に|家《いへ》がガタガタとふるひ|出《だ》し、ゴーゴーと|唸《うな》り|声《ごゑ》が|聞《きこ》えて|来《く》る。けれ|共《ども》|地震《ぢしん》は|此《この》|家《いへ》|限《かぎ》りで、|門口《かどぐち》を|出《で》ると|最早《もはや》|何《なん》の|事《こと》もなかつた、|大勢《おほぜい》の|者《もの》は|其《その》|不可思議《ふかしぎ》な|神力《しんりき》に|肝《きも》を|潰《つぶ》し、|舌《した》を|巻《ま》いてゐた。|多田《ただ》|琴《こと》が、
|多田《ただ》『われは|巴御前《ともゑごぜん》だ、オイ|家来《けらい》の|者《もの》、|皆《みな》サンにお|茶《ちや》を|注《つ》げ』
と|命《めい》ずると、|戸棚《とだな》からガチヤガチヤと|音《おと》がして|茶碗《ちやわん》が|人《ひと》の|数《かず》|丈《だけ》|宙《ちう》をたつて、|二人《ふたり》の|前《まへ》に|出《で》て|来《く》る。|多田《ただ》は、
|多田《ただ》『|皆《みな》サンの|前《まへ》へ、|一《ひと》つづつ|配《くば》れ』
と|厳命《げんめい》すると、|何《なに》も|居《を》らぬのに、|茶碗《ちやわん》が|畳《たたみ》の|上《うへ》|五六寸《ごろくすん》の|所《ところ》を|通《とほ》つて、|各自《かくじ》の|膝《ひざ》の|前《まへ》にチヤンと|据《す》はる、|据《す》はつた|時《とき》どれもこれも|茶碗《ちやわん》が|二三遍《にさんべん》キリキリと|舞《ま》うてゐるのが|不思議《ふしぎ》である。
|多田《ただ》『サアお|茶《ちや》をつげ』
と|多田《ただ》|琴《こと》が|命令《めいれい》すると、|石田《いしだ》|小末《こすゑ》は|手《て》で|土瓶《どびん》を|持《も》つて、|茶《ちや》を|注《つ》ぐ|真似《まね》をする。さうすると、|火鉢《ひばち》にかかつてゐた|土瓶《どびん》が|勝手《かつて》に、|宙《ちう》をブラブラやつて|来《き》て、|誰《たれ》かが|持《も》つて|茶《ちや》を|注《つ》ぐ|様《やう》に、|八分《はちぶ》|許《ばか》り、|各《かく》|次《つ》ぎ|次《つ》ぎに|注《そそ》いでまはる。|始《はじ》めの|中《うち》は|喜楽《きらく》の|霊学《れいがく》は|偉《えら》い|者《もの》だとほめて|居《ゐ》たが、ソロソロ|魔法使《まはふつかい》、|飯綱使《いづなつかい》と|口《くち》を|極《きは》めて|罵《ののし》り|出《だ》した。それにも|構《かま》はず|霊《れい》をかけて|火鉢《ひばち》を|動《うご》かしたり、|机《つくゑ》を|二三尺《にさんじやく》|許《ばか》りも|宙《ちう》に|上《あ》げたり、|土瓶《どびん》を|廻《まは》らしたりして、|日夜《にちや》|研究《けんきう》に|没頭《ぼつとう》してゐた。|此《この》|時《とき》|位《くらゐ》|面白《おもしろ》くて|得意《とくい》な|事《こと》はなかつた。|多田《ただ》|琴《こと》に|憑《うつ》つた|巴御前《ともえごぜん》と|自称《じしよう》する|霊《れい》は|喜楽《きらく》に|向《むか》つて|曰《い》ふ。
|多田《ただ》『|此《この》|通《とほ》り|色々《いろいろ》の|霊術《れいじゆつ》を、|神《かみ》が|守護《しゆご》|致《いた》してさしてやるのだから、これから|一座《いちざ》を|組《く》んで、|京《きやう》|大阪《おほさか》へ|飛出《とびだ》し、|奇術師《きじゆつし》となつて、ドツサリ|金《かね》を|儲《まう》け、それを|資本《しほん》として|大《おほ》きな|神殿《しんでん》を|造《つく》り|本部《ほんぶ》を|建《た》てようだないか』
と|勧《すす》めるのであつた。|喜楽《きらく》は|神様《かみさま》の|道《みち》に、そんな|馬鹿《ばか》な|事《こと》をしては|却《かへつ》て|神《かみ》の|道《みち》を|汚《けが》すだらうと|思《おも》つて、|躊躇《ちうちよ》して|居《ゐ》ると、|石田《いしだ》|小末《こすゑ》の|憑霊《ひようれい》が|又《また》もや|発動《はつどう》して、
|小末《こすゑ》『サア|是《これ》から|宙《ちう》を|歩《ある》いて|見《み》せる、|何《な》ンでもかンでも|御望《おのぞ》み|次第《しだい》ぢや、こんな|結構《けつこう》な|神術《かむわざ》があるのに、|丹波《たんば》の|山奥《やまおく》に|隠《かく》しておくのは|勿体《もつたい》ない、|京《きやう》|大阪《おほさか》へ|出《で》て、|天晴《あつぱ》れ|神術《かむわざ》をして|見《み》せたら、それこそ|一遍《いつぺん》に|神様《かみさま》の|御神徳《ごしんとく》が|分《わか》つて、お|道《みち》が|開《ひら》けるだらう。サア|早《はや》く|決心《けつしん》なされ』
と|多田《ただ》と|小末《こすゑ》の|二人《ふたり》の|神懸《かむがかり》が|両方《りやうはう》からつめかける。|山子《やまこ》|好《ず》きの|元市《もといち》|親子《おやこ》は|喉《のど》をならして|喜《よろこ》び、
『サアこれが|神様《かみさま》の|御神徳《ごしんとく》だ。|天眼通《てんがんつう》から|天耳通《てんじつう》、|天言通《てんげんつう》、それにこんな|神術《かむわざ》、これを|見《み》せたら、いかな|理屈《りくつ》の|強《つよ》い|男《をとこ》でも、|往生《わうじやう》せずには|居《を》られまい。|金儲《かねまう》けをしもつて、|神様《かみさま》のお|道《みち》が|広《ひろ》まるのだ、エヘヽヽヽ、こんな|結構《けつこう》な|事《こと》が|世《よ》にあらうか』
と|乗気《のりき》になつて|居《ゐ》る。|岩森《いはもり》とく、|斎藤《さいとう》|高子《たかこ》までが|色々《いろいろ》の|不思議《ふしぎ》な|神術《かむわざ》を|習得《しふとく》して|同意《どうい》し|出《だ》した。|喜楽《きらく》の|心《こころ》では、……そんな|所《ところ》へ|出《で》て、|芸《げい》をして|見《み》せるのは、|何《なん》だか|恥《はづか》しくて|堪《たま》らない、|乍併《しかしながら》それで|神様《かみさま》の|道《みち》が|開《ひら》けるのならば、|強《あなが》ち|止《と》める|訳《わけ》にも|行《ゆ》くまい。|何事《なにごと》も|神懸《かむがかり》に|任《まか》して、|思《おも》ひ|切《き》つて|京《きやう》|大阪《おほさか》へ|一興行《ひとこうぎやう》やりに|行《ゆ》かうか……と|決心《けつしん》し、|産土神社《うぶすなじんじや》へ|参《まゐ》つて、|伺《うかが》つてみた。さうすると|又《また》もや|自分《じぶん》の|腹《はら》から|塊《かたまり》が|二《ふた》つ|三《みつ》つゴロゴロと|喉《のど》のあたりまで|舞《ま》ひ|上《あが》り、
『バカ バカ バカツ』
と|呶鳴《どな》りつけた。|喜楽《きらく》は|止《や》めるのが|馬鹿《ばか》か、|興行《こうぎやう》に|出《で》るのが|馬鹿《ばか》か、どちらで|御座《ござ》ります………と|問《と》ひ|返《かへ》して|見《み》ると、|又《また》|腹《はら》の|中《なか》から、
『|其《その》|判断《はんだん》がつかぬ|奴《やつ》は|尚《なほ》|馬鹿《ばか》だ』
と|呶鳴《どな》られた。|喜楽《きらく》は、
『そんなら|多数決《たすうけつ》に|依《よ》つて、|神懸《かむがかり》や|元市《もといち》サンの|云《い》ふ|通《とほ》りに|致《いた》します』
と|言《い》つてみれば、|又《また》もや|腹《はら》の|中《なか》から、
『やるならやれ、|兇党界《きよたうかい》に|落《おと》してやるぞよ』
と|呶鳴《どな》りつけられ、とうとう|霊学《れいがく》|興行《こうぎやう》は|思《おも》ひ|切《き》る|事《こと》にして|了《しま》つた。
|例《れい》の|如《ごと》く|修業場《しうげふば》で|幽斎《いうさい》を|始《はじ》めて|居《ゐ》ると、|多田《ただ》|琴《こと》の|容貌《ようばう》が|俄《にはか》に|獰悪《どうあく》となつて|来《き》た。そしてはじけわれるやうな|声《こゑ》で、
『アラ アラ アラ』
と|呶鳴《どな》り|出《だ》し、|撃剣家《げきけんか》が|竹刀《しない》をふり|上《あ》げて|立合《たちあ》ふ|様《やう》な|素振《そぶ》りをして|居《ゐ》る。|審神者《さには》の|喜楽《きらく》は、
『|鎮《しづ》まれ!』
と|一言《ひとこと》|言霊《ことたま》を|発射《はつしや》した。|多田《ただ》は|其《その》|一言《いちごん》に|元《もと》の|座《ざ》に|行儀《ぎやうぎ》よく|坐《すわ》り、|組《く》んだ|手《て》を|離《はな》して、|昔《むかし》の|武士《ぶし》が、|腰《こし》の|刀《かたな》を|抜《ぬ》く|様《やう》な|素振《そぶり》をなし、
『|之《これ》を|見《み》よ』
と|審神者《さには》の|前《まへ》に|手《て》をつき|出《だ》す、|審神者《さには》は|目《め》をつぶつた|儘《まま》、|之《これ》を|見《み》れば|短刀《たんたう》の|根元《ねもと》に、|白紙《しらかみ》が|巻《ま》いてあるのをつき|出《だ》してるやうに|見《み》える。そして|此《この》|短刀《たんたう》を|持《も》つた|男《をとこ》は、|年《とし》は|四十《しじふ》|前後《ぜんご》の|稍《やや》|赤《あか》みがかつた|細《ほそ》だちの|品《ひん》のよい|男《をとこ》である。|多田《ただ》は|口《くち》を|切《き》つて|云《い》ふ、
|多田《ただ》『|某《それがし》は|園部《そのべ》の|藩主《はんしゆ》|小出公《こいでこう》の|指南番《しなんばん》|奥野《おくの》|操《みさを》といふ|者《もの》で|厶《ござ》つたが、|同役《どうやく》のそねみに|依《よ》つて、|讒言《ざんげん》をせられ、|園部《そのべ》を|追《お》ひ|出《だ》され、|亀山《かめやま》に|参《まゐ》り、|松平公《まつだひらこう》の|指南番《しなんばん》となり、|勤《つと》めてゐた|所《ところ》、|十八歳《じふはちさい》の|殿様《とのさま》の|妹娘《いもうとむすめ》に|惚《ほ》れられて、|遂《つひ》に|同役《どうやく》より|又《また》もや|讒言《ざんげん》をせられ、|無念《むねん》の|涙《なみだ》を|呑《の》んで、|丁度《ちやうど》|八十年《はちじふねん》|以前《いぜん》の|今晩《こんばん》、|切腹《せつぷく》を|致《いた》して|相果《あひは》てた|武士《ぶし》で|厶《ござ》る。|此《この》|短刀《たんたう》を|見《み》られよ、|血汐《ちしほ》が|附《つ》いてをらうがなア』
と|呶鳴《どな》り|立《た》てた。
|喜楽《きらく》『ここは|神様《かみさま》のお|憑《うつ》り|遊《あそ》ばす|為《ため》の|修行場《しうぎやうば》であれば、|人霊《じんれい》などの|来《く》るべき|所《ところ》ではない。|早《はや》く|立去《たちさ》つたがよからう』
ときめつけた。|憑霊《ひようれい》は|首《くび》を|左右《さいう》に|振《ふ》り、
『|苟《いやし》くも|天下《てんか》の|豪傑《がうけつ》、|武道《ぶだう》の|指南番《しなんばん》に|向《むか》つて、|無礼千万《ぶれいせんばん》な|其《その》|言《い》ひ|条《でう》|了見《れうけん》|致《いた》さぬぞ』
と|言《い》ひ|乍《なが》ら、ツと|立上《たちあが》り、
『ヤア ヤア』
と|声《こゑ》をかけ、|喜楽《きらく》の|頭《あたま》の|上《うへ》を|前後左右《ぜんごさいう》に|飛《と》び|廻《まは》り、|時々《ときどき》|頭《あたま》を|蹴《け》つて、|騒《さわ》ぎまはり、|何程《なにほど》|鎮魂《ちんこん》をしても、|荒《あら》くなる|計《ばか》りで、|少《すこ》しも|鎮《しづ》まらない。|喜楽《きらく》も|殆《ほとん》ど|持《も》てあまし、|此《この》|場《ば》をぬけ|出《だ》し、|再《ふたたび》|産土《うぶすな》の|社《やしろ》へかけつけて、|祈願《きぐわん》をこらして|居《ゐ》た。そこへ|石田《いしだ》|小末《こすゑ》が|走《はし》つて|来《き》て、
|小末《こすゑ》『モシ|先生《せんせい》、|鎮《しづ》まりました。|操《みさを》と|云《い》ふ|武士《ぶし》が|先生《せんせい》に|一《ひと》つ|御頼《おたの》みがあるから、|早《はや》く|帰《かへ》つて|欲《ほ》しいと|頼《たの》んで|居《を》ります。どうぞ|帰《かへ》つて|下《くだ》さいませ』
と|叮嚀《ていねい》に|頭《あたま》を|下《さ》げて|頼《たの》んで|居《ゐ》る。|喜楽《きらく》は、
|喜楽《きらく》『ヤアもう|鎮《しづ》まつたか、そりや|有難《ありがた》い、|産土様《うぶすなさま》の|御蔭《おかげ》だ』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら、|社前《しやぜん》に|感謝《かんしや》し、|直《ただち》に|元市《もといち》の|宅《たく》へ|帰《かへ》つて|行《ゆ》く。
|帰《かへ》つて|見《み》れば|多田《ただ》|琴《こと》は|厳然《げんぜん》として|坐《すわ》りこみ、
|多田《ただ》『アイヤ|上田氏《うへだうぢ》、|某《それがし》は|最前《さいぜん》|申《まを》せし|如《ごと》く、|亀山公《かめやまこう》の|指南番《しなんばん》|奥野《おくの》|操《みさを》と|申《まを》す|者《もの》で|厶《ござ》る。|女房《にようばう》もなければ|子《こ》もなし、|又《また》|身内《みうち》もなき|故《ゆゑ》に|後《あと》|弔《とむら》ひくれるものもなく、|宙《ちう》に|迷《まよ》うて|居《を》りまする。|就《つ》いては|自分《じぶん》の|家《うち》に|出入《でいり》を|致《いた》して|居《を》つた|家来《けらい》の|子孫《しそん》が|内丸町《うちまるちやう》に|紙屑屋《かみくづや》を|致《いた》して|居《を》る。これは|西尾《にしを》と|申《まを》す|者《もの》なれば、よく|査《しら》べて|下《くだ》され、|戒名《かいみやう》は|何々《なになに》と|記《しる》し|西尾《にしを》の|宅《たく》と|西町《にしまち》の|某寺《ぼうじ》に|祀《まつ》つてある。|先《ま》づ|第一《だいいち》に|虚実《きよじつ》を|調《しら》べた|上《うへ》、|此《この》|方《はう》の|霊《みたま》を|御祀《おまつ》り|下《くだ》さらば、|某《それがし》は|神《かみ》の|座《ざ》に|直《なほ》り、|其《その》|方《はう》が|神業《しんげふ》を|保護《ほご》いたし、|日本国中《にほんこくぢう》は|申《まを》すに|及《およ》ばず、|世界《せかい》の|隅々《すみずみ》に|致《いた》るまで|十年《じふねん》ならずして|名《な》を|轟《とどろ》かして|見《み》せるで|厶《ござ》らう。|猶《なほ》も|疑《うたが》はしくば、|亀岡《かめをか》|古世裏《こせうら》の|墓地《ぼち》へ|往《い》つて|調《しら》べて|下《くだ》され。|入口《いりぐち》から|右《みぎ》に|当《あた》つて|三《みつ》つ|目《め》の|石塔《せきたふ》が、|拙者《せつしや》の|石塔《せきたふ》で|厶《ござ》る。|性念《しやうねん》のある|印《しるし》には、|上田氏《うへだし》が|石塔《せきたふ》の|前《まへ》に|立《た》たれたならば|自然《しぜん》に|動《うご》くに|依《よ》つて、それを|証拠《しようこ》に|御祀《おまつ》り|下《くだ》され。|武士《ぶし》が|百姓《ひやくしやう》の|伜《せがれ》に|頭《あたま》を|下《さ》げてお|願《ねがひ》|申《まを》す』
と|威丈高《ゐたけだか》になつて|構《かま》へてゐる。これより|喜楽《きらく》は|宇一《ういち》|其《その》|他《た》|二三《にさん》の|修業者《しうげふしや》を|引《ひき》つれ|西町《にしまち》の|某寺《ぼうじ》を|調《しら》べ、|紙屑屋《かみくづや》の|西尾《にしを》の|宅《たく》へ|行《い》つて|聞《き》いて|見《み》たが、|操《みさを》と|云《い》ふ|名《な》はハツキリ|分《わか》らぬが、|某々院殿《ぼうぼうゐんでん》|某々《ぼうぼう》|居士《こじ》と|云《い》ふ|事《こと》|丈《だけ》は|的中《てきちう》して|居《ゐ》た。|全《まつた》く|操《みさを》の|霊《れい》に|間違《まちがひ》ないと、|勇《いさ》んで|古世裏《こせうら》の|墓地《ぼち》へ|往《い》つて|見《み》た。|所《ところ》が|墓地《ぼち》|全体《ぜんたい》の|様子《やうす》が|亡霊《ばうれい》のいつた|通《とほ》り|寸分《すんぶん》の|間違《まちがひ》もなく、|右《みぎ》の|三《みつ》つ|目《め》の|石碑《せきひ》には|苔《こけ》がたまつて、ハツキリとは|分《わか》らぬが、どうも|似《に》た|字《じ》が|現《あら》はれてゐる。|石塔《せきたふ》がモウ|動《うご》くかモウ|動《うご》くかと|待《ま》つ|事《こと》|殆《ほとん》ど|一時間《いちじかん》|許《ばか》り、されど|依然《いぜん》としてビクとも|動《うご》かない。ハテ|不思議《ふしぎ》と、|不思議《ふしぎ》でもない|事《こと》を、|不思議《ふしぎ》がつて|瞑目《めいもく》し、|霊眼《れいがん》で|調《しら》べて|見《み》ると、|石塔《せきたふ》の|裏《うら》に|大《おほ》きな|古狸《ふるたぬき》が|目《め》をむいてゐるのが|目《め》についた。
『おのれド|狸《たぬき》|奴《め》が、|人《ひと》を|馬鹿《ばか》にしやがつた、これから|帰《かへ》つて|多田《ただ》|琴《こと》の|審神《さには》を|厳重《げんぢう》にしてやらう』
と|思《おも》ひ|乍《なが》ら、スタスタと|穴太《あなを》の|修業場《しうげふば》へ|帰《かへ》つて|来《き》た。|其《その》|時《とき》|既《すで》に|日《ひ》は|暮《く》れて|居《ゐ》た、|修業場《しうげふば》には|薄暗《うすぐら》いランプが|一《ひと》つ、|点《とも》つて|其《その》|向《むか》ふに|多田《ただ》|琴《こと》と|石田《いしだ》が|四角張《しかくば》つて、|厳然《げんぜん》と|控《ひかへ》えて|居《ゐ》る。|自分等《じぶんら》の|姿《すがた》を|見《み》るより、
『ヤア|上田《うへだ》|殿《どの》、|大儀《たいぎ》|々々《たいぎ》よくこそお|調《しら》べ|下《くだ》さつた。|此《この》|方《はう》の|申《まを》す|事《こと》に|間違《まちがひ》は|厶《ござ》らうまいがなア、|早《はや》く|某《それがし》の|霊《れい》をお|祀《まつ》り|下《くだ》され。ヤア|元市《もといち》どの、|其《その》|外《ほか》の|面々《めんめん》、いかい|御苦労《ごくらう》で|厶《ござ》つた、アツハヽヽヽ』
と|豪傑《がうけつ》|笑《わら》ひをなし、|肩《かた》を|二人《ふたり》|一時《いつとき》に|揺《ゆ》すつてゐる。
|喜楽《きらく》『コリヤ|多田《ただ》に|憑《うつ》つてゐる|古狸《ふるたぬき》|奴《め》、|小末《こすゑ》にうつつてる|狸《たぬき》の|子分《こぶん》|奴《め》、|此《この》|審神者《さには》を|馬鹿《ばか》にしやがつたな、サアもう|了見《れうけん》ならぬ。これから|霊縛《れいばく》をかけて|縛《いまし》めてやるから|覚悟《かくご》を|致《いた》せ』
|多田《ただ》の|憑神《ひようしん》は|一層《いつそう》|大《おほ》きく|肩《かた》をゆすりて|大口《おほぐち》をあけ、
『アハヽヽヽ、イヒヽヽヽ』
と|笑《わら》ひ|乍《なが》ら|横《よこ》にゴロンとこけて|了《しま》つた。|喜楽《きらく》は|両手《りやうて》を|組《く》み、|一生懸命《いつしやうけんめい》にウンウンと|霊縛《れいばく》をかけた。|石田《いしだ》はウンの|声《こゑ》と|共《とも》にゴロリと|倒《たふ》れた。それと|引替《ひきか》へに|多田《ただ》の|肉体《にくたい》はムクリと|起《お》き|上《あが》り、ドンドンドンと|餅《もち》つく|様《やう》に|二十貫《にじふくわん》の|体《からだ》を|二尺《にしやく》|許《ばか》り|上《あ》げ|下《さ》げして、|座敷中《ざしきちう》を|飛《と》び|廻《まは》る。|喜楽《きらく》は|一生懸命《いつしやうけんめい》になつて、
|喜楽《きらく》『どうぞお|静《しづ》まりを|願《ねが》ひます』
と|頭《あたま》を|下《さ》げて|優《やさ》しく|出《で》た。|憑神《ひようしん》は|大口《おほぐち》あけて、
『アハヽヽヽおれは|小松林様《こまつばやしさま》に|頼《たの》まれて、|貴様達《きさまたち》に|審神者《さには》の|修業《しうげふ》をさせてやつたのだ。|実《じつ》の|所《ところ》は|松岡《まつをか》だ。|能《よ》うだまされたのう、|石塔《せきたふ》の|裏《うら》で|狸《たぬき》を|見《み》た|時《とき》は、|随分《ずゐぶん》|妙《めう》な|顔《かほ》だつたのう。ホツホヽヽヽ、アハヽヽヽ』
と|又《また》|腹《はら》を|抱《かか》へて|笑《わら》ひこける。
|俄《にはか》に|室内《しつない》が|死人《しにん》|臭《くさ》くなつて|来《き》た。……あゝ|臭《くさ》い|臭《くさ》いと|各自《かくじ》に|鼻《はな》をつまんでゐると、どこともなしに|坊主《ばうず》のお|経《きやう》が|聞《きこ》えて|来《く》るかと|思《おも》へば|厭《いや》らしい|声《こゑ》で|巡礼歌《じゆんれいうた》が|聞《きこ》える、チンドン、ジヤブリンと|云《い》ふ|葬礼《さうれん》の|行列《ぎやうれつ》が|耳《みみ》に|入《い》る。|此奴《こいつ》ア|怪《あや》しいと|手《て》を|組《く》み|目《め》を|塞《ふさ》ぎ、|霊眼《れいがん》をてらせば、|幾十《いくじふ》とも|知《し》れぬ|亡者《もうじや》が|各自《てんで》に|笠《かさ》と|杖《つゑ》を|手《て》に|持《も》ち、|乞食《こじき》|坊主《ばうず》の|後《あと》について、|障子《しやうじ》の|細《ほそ》い|穴《あな》からくぐつて|這入《はい》つて|来《く》るのが|目《め》についた。そして|一番先《いちばんさき》に|出《で》て|来《く》る|亡者《もうじや》の|顔《かほ》が、|隣《となり》のお|紋《もん》と|云《い》ふ|娘《むすめ》の|顔《かほ》にソツクリである。|喜楽《きらく》は|思《おも》はず|知《し》らず、
|喜楽《きらく》『ヤアお|紋《もん》サン』
と|叫《さけ》んだ。されど|何《なん》の|答《こたへ》もなしに|座敷《ざしき》へドカドカと|亡者《もうじや》が|重《かさ》なり|来《きた》り、|遂《つひ》には|何百《なんびやく》とも|知《し》れず|重《かさ》なり|合《あ》うて、こちらを|向《む》いて|睨《にら》んでゐる。|斎藤《さいとう》|高子《たかこ》、|岩森《いはもり》|徳子《とくこ》の|二人《ふたり》の|神憑《かむがかり》はコワイコワイと|叫《さけ》び|乍《なが》ら、|喜楽《きらく》の|体《からだ》に|喰《くら》ひついて|震《ふる》ひ|泣《な》いてゐる。
|何《なん》とも|知《し》れぬ|不快《ふくわい》の|臭《にほひ》が|室内《しつない》に|充《み》ち、ランプの|光《ひかり》は|自然《しぜん》に|細《ほそ》つてそこら|中《ぢう》が|薄暗《うすぐら》くなつて|来《き》た。それから|蝋燭《らふそく》を|四五本《しごほん》も|灯《とも》してみたが、どれもこれも|火《ひ》が|小《ちひ》さくなつて|消《き》えて|了《しま》ふ。|仕方《しかた》がないから、|東側《ひがしがは》の|細溝《ほそみぞ》の|清水《せいすい》で|体《からだ》を|清《きよ》め、|胴《どう》を|据《す》えて、|天津祝詞《あまつのりと》を|一生懸命《いつしやうけんめい》に|奏上《そうじやう》しかけた。|怪《あや》しき|亡者《もうじや》の|影《かげ》は|一人《ひとり》|減《へ》り|二人《ふたり》|減《へ》り、とうとう|又《また》|元《もと》の|障子《しやうじ》の|細《ほそ》い|破《やぶ》れ|穴《あな》から|逃《に》げ|去《さ》つて|了《しま》つた。かかる|所《ところ》へお|紋《もん》の|母親《ははおや》お|初《はつ》といふ|婆《ば》アサンが、|慌《あは》ただしくやつて|来《き》て、
お|初《はつ》『モシモシ|喜楽《きらく》サン、|最前《さいぜん》から|俄《にはか》にお|紋《もん》が|病気《びやうき》になつて|囈言《うはごと》|許《ばか》りいつてゐます、そして|喜楽《きらく》サンどうぞこらへて|下《くだ》さいと、|幾度《いくど》となく|繰返《くりかへ》して|居《を》りますから、どうぞ、どんな|悪《わる》い|事《こと》をしたか|知《し》らぬが、まだ|年《とし》の|行《ゆ》かぬ|子供《こども》の|事《こと》だから、カニーしてやつて|下《くだ》され。|大変《たいへん》な|熱《ねつ》で、|臭《くさ》うて|側《そば》へもよりつけませぬ』
と|言《い》ひ|乍《なが》ら、|泣《な》いて|居《ゐ》る。|喜楽《きらく》はこれを|聞《き》くより|隣《となり》のお|紋《もん》サンの|家《うち》に|行《ゆ》き|見《み》れば、お|初《はつ》|婆《ば》アサンの|云《い》つた|通《とほ》り、|熱臭《ねつくさ》く|不快《ふくわい》な|臭《にほひ》が|漂《ただよ》ひ|娘《むすめ》はウンウンと|唸《うな》つて|居《ゐ》る。|丁度《ちやうど》|元市《もといち》の|修業場《しうげふば》で|嗅《か》いだ|臭《にほひ》とソツクリであつた。そこで|又《また》もや|天津祝詞《あまつのりと》を|声《こゑ》|高《たか》らかに|奏上《そうじやう》し、|鎮魂《ちんこん》を|施《ほどこ》せば、お|紋《もん》サンは|夢中《むちう》になつて、
『のきます のきます』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら、|寝所《ねどこ》から|立上《たちあが》り、|二足《ふたあし》|三足《みあし》|門口《かどぐち》の|方《はう》へ|歩《ある》き|出《だ》し、バタリと|其《その》|場《ば》に|倒《たふ》れて|了《しま》つた。それと|同時《どうじ》に|病気《びやうき》はスツカリ|治《なほ》つて|了《しま》つたのである。
|此《この》|事《こと》があつてから、|次郎松《じろまつ》は、いよいよ|喜楽《きらく》は|飯綱使《いづなつかひ》だと|口《くち》を|極《きは》めて|罵《ののし》り、|曽我部《そがべ》の|村中《むらぢう》を、|御苦労《ごくらう》にも|仕事《しごと》を|休《やす》んでまでふれて|歩《ある》いた|奇篤《きとく》な|人間《にんげん》である。あゝ|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》。
(大正一一・一〇・一〇 旧八・二〇 松村真澄録)
第一九章 |逆襲《ぎやくしふ》〔一〇三一〕
|不図《ふと》|配達《はいたつ》して|来《き》た|日出新聞《ひのでしんぶん》の|広告欄《くわうこくらん》を|見《み》ると、|壮士《さうし》|俳優《はいいう》|募集《ぼしふ》と|云《い》ふ|立派《りつぱ》な|広告《くわうこく》が|出《で》て|居《ゐ》た。|自分《じぶん》は|一生懸命《いつしやうけんめい》に|其《その》|広告《くわうこく》を|見詰《みつ》めて|居《を》ると、|多田《ただ》|琴《こと》がポンと|飛《と》び|上《あが》り|神懸《かむがか》りになつて、
|多田《ただ》『|俺《わし》は|男山《をとこやま》の|眷族《けんぞく》|小松林命《こまつばやしのみこと》であるぞ。|今《いま》|其《その》|広告《くわうこく》にある|通《とほ》り、|神界《しんかい》の|仕組《しぐみ》で|正義団《せいぎだん》と|云《い》ふ|壮士《さうし》|芝居《しばゐ》の|団体《だんたい》が|募集《ぼしふ》されて|居《ゐ》るのだ。お|前《まへ》はこれから、|今迄《いままで》|苦労《くらう》して|覚《おぼ》えた|霊術《れいじゆつ》を|応用《おうよう》して|芝居《しばゐ》の|役者《やくしや》になれ。|神《かみ》が|守護《しゆご》して|如何《どん》な|不思議《ふしぎ》な|事《こと》でもさしてやるから、|川上《かはかみ》|音次郎《おとじらう》|以上《いじやう》の|名優《めいいう》にしてやらう。|如何《どう》ぢや、|神《かみ》の|申《まを》す|事《こと》を|承諾《しようだく》するか、|但《ただし》は|否《いや》と|申《まを》すか、|直《すぐ》に|返答《へんたふ》をして|呉《く》れ』
とニコニコ|笑《わら》ひ|乍《なが》ら|強制的《きやうせいてき》に|問《と》ひかける。|喜楽《きらく》は|此《この》|広告《くわうこく》を|見《み》て、
『|俺《おれ》も|一度《いちど》|壮士《さうし》|役者《やくしや》になつて|見《み》たいものだ』
と|思《おも》ひつめて|居《ゐ》た|際《さい》であるから、|一《いち》も|二《に》もなく|喜《よろこ》んで、
|喜楽《きらく》『ハイ、|神様《かみさま》さへお|許《ゆる》し|下《くだ》されば|壮士《さうし》|役者《やくしや》になります』
と|速座《そくざ》に|答《こた》へた。さうすると|小松林《こまつばやし》と|名乗《なのり》る|憑霊《ひようれい》は、|嬉《うれ》しさうな|顔《かほ》して|言葉《ことば》まで|柔《やさ》しく、
『|流石《さすが》はよく|先《さき》の|見《み》える、|先《さき》の|分《わか》つた|審神者《さには》だ。サア|愚図々々《ぐづぐづ》してると|応募者《おうぼしや》がつまれば|駄目《だめ》だから、|今夜《こんや》|直様《すぐさま》|立《た》つて|行《ゆ》け。さうして|金《かね》を|十五六円《じふごろくゑん》ばかり|積《つも》りをして|行《ゆ》け』
と|云《い》ひ|渡《わた》す。
ありもせぬ|金《かね》を|寄《よ》せ|集《あつ》めてヤツと|十五円《じふごゑん》|拵《こしら》へ、|保津《ほづ》の|浜《はま》から、|舟《ふね》に|乗《の》つて|谷間《たにあひ》を|下《くだ》り|嵯峨《さが》に|着《つ》き、それから|竹屋町《たけやちやう》|富小路《とみこうぢ》の|宿屋《やどや》に|尋《たづ》ねて|行《い》つた。|正義団長《せいぎだんちやう》と|称《しよう》する|男《をとこ》、|名《な》は|忘《わす》れたが|直様《すぐさま》|二階《にかい》へ|案内《あんない》して|呉《く》れ、|入会料《にふくわいれう》として|十円《じふゑん》を|請求《せいきう》する。|直様《すぐさま》|十円《じふゑん》を|放《はう》り|出《だ》し|種々《いろいろ》と|手続《てつづ》きを|済《す》まして、それから|安《やす》い|宿《やど》を|探《さが》し、|日々《にちにち》|柔術《じうじゆつ》の|型《かた》を|稽古《けいこ》したり、|科白《せりふ》を|覚《おぼ》えたり、|十二三人《じふにさんにん》の|男《をとこ》がやつて|居《ゐ》た。|愚図々々《ぐづぐづ》して|居《を》ると|五円《ごゑん》の|金《かね》が|無《な》くなつて|了《しま》ふ。さうして|臀部《でんぶ》に|大《おほ》きな|瘍《ちやう》が|出来《でき》てビクとも|出来《でき》ず、うづいて|堪《たま》らない。
『こんな|事《こと》では|芝居《しばゐ》どころの|騒《さわ》ぎぢやない。|何《なん》とかして|吾《わが》|家《や》へ|帰《かへ》りたいものだが|歩《ある》いて|去《い》ぬ|事《こと》は|出来《でき》ず、|俥賃《くるまちん》はなし、|一層《いつそう》の|事《こと》、|枳殻邸《きこくてい》の|附近《ふきん》に|弟《おとうと》の|政一《まさいち》が|子《こ》に|行《い》つて|居《を》るから、|其処迄《そこまで》|俥《くるま》で|運《はこ》んで|貰《もら》ひ|世話《せわ》にならうかなア』
と|考《かんが》へ|込《こ》んで|居《を》ると|腹《はら》の|中《なか》から|又《また》もや|玉《たま》ごろが|喉元《のどもと》へつめ|上《あが》つて|来《き》た。さうして、
『アハヽヽヽ』
と|可笑《おか》しさうに|笑《わら》ひ|出《だ》す。
『|足《あし》の|腫物《はれもの》が|痛《いた》くて|何《なに》どこでもないのに、|可笑《おか》しさうに|腹《はら》の|中《なか》から|笑《わら》ふ|奴《やつ》は|何《なに》|枉津《まがつ》ぢやい』
と|呶鳴《どな》つて|見《み》た。|腹《はら》の|中《なか》からさも|可笑《おか》しさうに|小気味良《こぎみよ》さ|相《さう》の|声《こゑ》で、
『イヒヽヽヽ』
と|連続的《れんぞくてき》に|十分間《じつぷんかん》|程《ほど》|笑《わら》ひつづける。さうして、
『|俺《おれ》は|松岡《まつをか》ぢや、|貴様《きさま》が|新聞《しんぶん》の|広告《くわうこく》を|見《み》て、|役者《やくしや》になり|度《た》|相《さう》にして|居《を》るから、|一寸《ちよつと》|改心《かいしん》の|為《ため》に|嬲《なぶ》つて|見《み》たのだ。|本当《ほんたう》に|日本一《につぽんいち》の|大馬鹿《おほばか》だのう、オホヽヽヽ』
と|笑《わら》ひ|出《だ》す。|進退《しんたい》|維谷《これきは》まつた|喜楽《きらく》は|如何《どう》する|事《こと》も|出来《でき》ず、|宿賃《やどちん》を|三日分《みつかぶん》|三円《さんゑん》|六十銭《ろくじつせん》|払《はら》ひ、|丹波《たんば》へ|帰《かへ》らうとして|宿《やど》の|門口《かどぐち》を|立《た》つて|出《で》た。|知《し》らぬ|間《ま》に|臀部《でんぶ》の|大《おほ》きな|腫物《はれもの》は|嘘《うそ》をついた|様《やう》に|治《なほ》つて|居《ゐ》た。それきり|壮士《さうし》|俳優《はいいう》になつて|見度《みた》いと|云《い》ふ|心《こころ》は、スツカリ|消《き》え|失《う》せ、|一心不乱《いつしんふらん》に|神界《しんかい》の|御用《ごよう》に|尽《つく》すと|云《い》ふ|心《こころ》になつたのである。
|同《おな》じ|穴太《あなを》の|斎藤《さいとう》|某《ぼう》と|云《い》ふ|紋屋《もんや》の|息子《むすこ》が、|肺病《はいびやう》で|苦《くる》しみ|医薬《いやく》の|効《かう》もなく|困《こま》つて|居《を》るから、|其処《そこ》へ|助《たす》けに|行《い》つたら|如何《どう》だ……と お【いよ】と|云《い》ふ|婆《ばあ》サンが|出《で》て|来《き》て、|頻《しき》りに|勧《すす》めるので、|喜楽《きらく》も、
『|彼処《あそこ》の|息子《むすこ》の|計《けい》サンの|病《やまひ》を|癒《なほ》してやつたら、チツと|村《むら》の|者《もの》も|気《き》がつくだらう。|信仰《しんかう》をするだらう』
と|思《おも》ふたので、|朝《あさ》|早《はや》くから|其《その》|家《うち》に|羽織袴《はおりはかま》で|訪問《はうもん》して、
|喜楽《きらく》『|計《けい》サンの|病気《びやうき》|平癒《へいゆ》をさしてやりませうか』
と|掛合《かけあ》ふて|見《み》た。|此処《ここ》の|奥《おく》サンはお|悦《えつ》と|云《い》ひ、|随分《ずゐぶん》|口《くち》の|八釜《やかま》しい|女《をんな》で、|村《むら》の|人《ひと》から|雲雀《ひばり》のお|悦《えつ》サンと|仇名《あだな》をとつて|居《ゐ》た。お|悦《えつ》サンは|喜楽《きらく》の|姿《すがた》を|見《み》て|目《め》を|円《まる》うし、
お|悦《えつ》『これこれ、|飯綱使《いづなつか》ひの|喜三《きさ》ヤン、|何《なん》ぞ|用《よう》かい、|大方《おほかた》お|前《まへ》は、|家《うち》の|計《けい》の|病気《びやうき》を|拝《をが》んでやらうと|云《い》つて|来《き》たのだらう。アヽいや いや いや、|神《かみ》さまの【か】の|字《じ》を|聞《き》いても|腹《はら》が|立《た》つ、|家《うち》の|親類《しんるゐ》は|天理《てんり》サンに|呆《ほう》けて|家《いへ》も|倉《くら》もサツパリとられて|了《しま》つた。|近《ちか》はんは|稲荷下《いなりさ》げに|呆《ほう》けて|相場《さうば》して、|家《いへ》も|屋敷《やしき》も|田地《でんち》|迄《まで》|売《う》つて|了《しま》つた。|此《この》|時節《じせつ》に|神々《かみかみ》|吐《ぬか》す|奴《やつ》に|碌《ろく》な|者《もの》はない。お|前《まへ》サンも|人《ひと》の|処《とこ》を|一杯《いつぱい》かけようと|思《おも》ふて|来《き》たのんだらう。サア|何卒《どうぞ》|帰《かへ》つて|下《くだ》さい。|然《しか》し|喜楽《きらく》サン、|俺《わし》が|斯《こ》う|云《い》ふとお|前《まへ》は|腹《はら》を|立《た》てて、【あたん】に|飯綱《いひづな》をつけて|帰《かへ》るかも|知《し》れぬが、|憑《つ》けるなら|憑《つ》けなされ。|俺《わし》ん|所《ところ》は|黒住《くろずみ》さまを|祀《まつ》つてあるから、|飯綱《いひづな》|位《くらゐ》に|仇《あだ》はしられませぬから|大丈夫《だいぢやうぶ》ぢや。|黒住《くろずみ》さまは|天照皇大神宮《てんせうくわうだいじんぐう》さまぢや、|天狗《てんぐ》サンや|四足《よつあし》とは【てん】からお|顔《かほ》の|段《だん》が|違《ちが》ひますぞえ。サア|早《はや》う|去《い》んで|下《くだ》され。|其処等《そこら》がウサウサして|来《き》た。|又《また》|計《けい》の|病気《びやうき》が|重《おも》うなると|困《こま》るから……サア|去《い》んでと|云《い》ふたら|去《い》んでおくれ。エー|尻太《しぶと》い|人《ひと》ぢやなア、|蛙切《かわづき》りの|子《こ》は|蛙切《かわづき》りさへして|居《を》れば|宜《よ》いのに、どてらい|山子《やまこ》を|起《おこ》して|金《かね》も|無《な》い|癖《くせ》に、|人《ひと》の|金《かね》で|乳屋《ちちや》をしたり、|其《その》|乳屋《ちちや》が|又《また》|面白《おもしろ》くない|様《やう》になつたので、そろそろ|商売替《しやうばいが》へをして|飯綱使《いひづなづか》ひをするなんて、お|前《まへ》にも|似合《にあ》はぬ|事《こと》をするぢやないか。|昨日《きのふ》も|次郎松《じろまつ》サンが|出《で》て|来《き》て|何《なに》も|彼《か》も|云《い》ふてをりましたぞえ。|薩張《さつぱ》り|化《ば》けの|皮《かは》が|剥《む》けて|居《を》るぢやないか。|亀岡《かめをか》の|紙屑屋《かみくづや》へは|如何《どう》でしたな』
と|口《くち》を|極《きは》めて|罵詈嘲弄《ばりてうろう》する。|喜楽《きらく》はむかついて|堪《たま》らぬけれど、
『|此処《ここ》が|一《ひと》つ|辛抱《しんばう》だ。こんな|八釜《やかま》しい|女《をんな》の|誤解《ごかい》をといておかねば|将来《しやうらい》の|為《た》め|面白《おもしろ》くない』
と|思《おも》ふたので、|色々《いろいろ》|雑多《ざつた》と|神様《かみさま》の|道《みち》を|説《と》いて|聞《き》かせたが、てんで|耳《みみ》をふさいで|聞《き》かうとせぬ。お|悦《えつ》サンは|半泣声《はんなきごゑ》を|出《だ》して、
お|悦《えつ》『エーエー|煩《うる》さい。|何程《なにほど》|落語家《はなしか》の|喜楽《きらく》サンが|甘《うま》い|事《こと》|云《い》つても、|論《ろん》より|証拠《しようこ》、|現在《げんざい》|身内《みうち》の|次郎松《じろまつ》サンが|証拠人《しようこにん》だから……エー|穢《けがら》はしい、|早《はや》く|去《い》んで|下《くだ》さい。これお|留《とめ》、|塩《しほ》もつておいで……』
と|下女《げぢよ》の|名《な》|迄《まで》|呼《よ》びたてて|人《ひと》を|塩《しほ》でもかけてぶつ|帰《かへ》さうとして|居《ゐ》る。|仕方《しかた》が|無《な》いのでトボトボと|吾《わが》|家《や》を|指《さ》して|帰《かへ》つて|来《き》た。
|小幡橋《をばたばし》の|袂《たもと》まで|帰《かへ》つて|来《く》ると、|次郎松《じろまつ》サンが|真青《まつさを》な|顔《かほ》して|出《で》て|来《く》るのに|出会《であ》つた。|次郎松《じろまつ》は【つい】にない|優《やさ》しい|顔《かほ》をして、
『もしもし|上田《うへだ》|先生《せんせい》、|一寸《ちよつと》|頼《たの》まれて|下《くだ》され。|二三日前《にさんにちまへ》から|家《うち》の|阿栗《おぐ》(|一人娘《ひとりむすめ》の|名《な》)に|狐《きつね》が|憑《つ》いて|囈言《うさごと》を|云《い》ふたり、|雪隠《せつちん》へ|行《い》つて|尻《しり》から|出《で》るものを|手《て》に|掬《すく》ひ、コロコロ|団子《だんご》を|拵《こしら》へて|仏壇《ぶつだん》に|供《そな》へたり、|妙《めう》な|手付《てつき》で|躍《をど》つたり、|跳《は》ねたりした|挙句《あげく》は、|布団《ふとん》をグツスリ|被《かぶ》つて|寝通《ねとほ》しぢや。モウこれからお|前《まへ》には|敵対《てきた》はぬから|何卒《どうぞ》|堪忍《かんにん》して|呉《く》れ。あんまり|俺《おれ》が|反対《はんたい》するのでお|前《まへ》が|怒《おこ》つて、それ……あの……|何々《なになに》を|憑《つ》けたのぢやらう。もうこれから|屹度《きつと》お|前《まへ》の|云《い》ふ|通《とほ》りにするから、|何々《なになに》を|連《つ》れて|行《い》つて|下《くだ》され。ナア|喜楽《きらく》|先生《せんせい》、|何卒《どうぞ》|頼《たの》みますわ』
と|橋《はし》の|上《うへ》で|大《おほ》きな|声《こゑ》で|云《い》ふ。|人《ひと》に|聞《きこ》えては|態《ざま》が|悪《わる》いと|思《おも》ふては、キヨロキヨロ|其処等《そこら》を|見廻《みまは》して|居《を》ると、|松《まつ》サンは|頓着《とんちやく》なしに|娘《むすめ》の|病気《びやうき》の|事《こと》を|喋《しやべ》り|立《た》てる。|仕方《しかた》が|無《な》いので|喜楽《きらく》は、
|喜楽《きらく》『|兎《と》も|角《かく》|行《い》つて|見《み》ませう』
と|先《さき》に|立《た》つて|次郎松《じろまつ》の|家《うち》へ|行《い》つた。おこの|婆《ばあ》サンは|喜楽《きらく》の|顔《かほ》を|見《み》て、いきなり、
おこの『これ|喜楽《きらく》サン、お|腹《はら》が|立《た》つたぢやらうが|何卒《どうぞ》|怺《こら》へてお|呉《く》れ。|昨夜《ゆうべ》から|阿栗《おぐ》が|喜楽《きらく》サン|喜楽《きらく》サンと|八釜《やかま》しう|云《い》ふて|仕様《しやう》がない。あまり|宅《うち》の|松《まつ》が|神《かみ》さまの|悪口《わるくち》を|云《い》ふもんだから、お|前《まへ》が|怒《おこ》つて|一寸《ちよつと》……したのだらう。|何《なん》と|云《い》ふても|隠居《いんきよ》|母家《おもや》の|間柄《あひだがら》、|宅《うち》の|難儀《なんぎ》はお|前《まへ》の|処《ところ》の|難儀《なんぎ》だ、|又《また》お|前《まへ》の|処《ところ》の|難儀《なんぎ》は|矢張《やつぱり》|俺《おれ》の|宅《うち》の|難儀《なんぎ》だ。|悪《わる》い|事《こと》せずに、|早《はや》う|飯綱《いひづな》を|連《つ》れて|去《い》んでくれ。|年寄《としより》の|頼《たの》みぢやから……たつた|一人《ひとり》の|孫《まご》があんな|態《ざま》になつてるのを|見《み》て|居《を》る|俺《わし》の|心《こころ》はいぢらしいわいなア、アンアンアン』
と|泣《な》き|出《だ》す。|喜楽《きらく》はムツとして、
|喜楽《きらく》『これ、おこのサン、そんな|無茶《むちや》な|事《こと》|云《い》ひなさんな、|殺生《せつしやう》ぢやないか。|誰《たれ》がそんな|物《もの》を|使《つか》ふものか、|自分《じぶん》の|宅《うち》に|置《お》いた|奉公人《ほうこうにん》でさへも|仲々《なかなか》|言《い》ふ|事《こと》を|聞《き》かぬぢやないか。|仮令《たとへ》そんな|狐《きつね》があるにした|処《ところ》で|人間《にんげん》の|云《い》ふ|事《こと》を|聞《き》きさうな|筈《はず》がない。あんまり|見違《みちが》ひをしておくれな、わしは|腹《はら》が|立《た》つ。|村中《むらぢう》の|者《もの》に|飯綱使《いひづなづか》ひぢやと|悪《わる》く|云《い》はれるのも、|皆《みな》|松《まつ》サンが|仕様《しやう》もない|事《こと》を|触《ふ》れて|歩《ある》くから|俺《おれ》が|迷惑《めいわく》をしてるのぢや。|結構《けつこう》な|神《かみ》さまの|名《な》まで|悪《わる》くして|堪《たま》らぬぢやないか』
おこの『その|腹立《はらだ》ちは|尤《もつと》もぢやが、|外《ほか》ぢやないから|何卒《どうぞ》|機嫌《きげん》を|直《なほ》して|阿栗《おぐ》の|病気《びやうき》を|助《たす》けてやつてくれ。これ|松《まつ》、お|前《まへ》もチツと|喜楽《きらく》サンに|頼《たの》まぬかいな』
|奥《おく》の|間《ま》で|阿栗《おぐ》と|云《い》ふ|娘《むすめ》は、ケラケラケラと|他愛《たわ》いもなく|狐《きつね》が|憑《つ》いて|笑《わら》ふて|居《ゐ》る。|助《たす》けてやつても|悪《わる》く|云《い》はれる、|助《たす》けてやらねば|尚《なほ》|悪《わる》く|云《い》はれる、こんな|男《をとこ》にかかつたら|如何《どう》する|事《こと》も|出来《でき》ぬ。エー|仕方《しかた》がないと|病人《びやうにん》の|前《まへ》へ|端坐《たんざ》して|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》し、|神言《かみごと》を|静《しづか》に|唱《とな》へて|一《ひと》|二《ふた》|三《み》|四《よ》……と|天《あま》の|数歌《かずうた》を|四五回《しごくわい》|繰返《くりかへ》した。|病人《びやうにん》はムクムクムクと|立《た》ち|上《あ》がり、|矢庭《やには》に|跣足《はだし》のまま|庭《には》に|下《お》り、|門口《かどぐち》の|戸《と》に|頭《あたま》を|打《う》つて『キヤツ』と|云《い》つたまま|仰向《あふむ》けに|倒《たふ》れた。|此《この》|時《とき》|高畑《たかはた》の|狐《きつね》が|退《の》いたのである。それから|娘《むすめ》の|病気《びやうき》はスツカリ|癒《なほ》つて|了《しま》つた。|松《まつ》サンは|口《くち》を|尖《とが》らして、
|次郎松《じろまつ》『これ、|喜楽《きらく》サン、お|前《まへ》は|何《なん》と|云《い》ふ|悪戯《いたづら》をする|男《をとこ》だ。|人《ひと》の|処《とこ》の|娘《むすめ》へ|狐《きつね》を|憑《つ》けて|長《なが》い|事《こと》|苦《くる》しめ、|知《し》らぬかと|思《おも》ふて|居《を》つたが、|宅《うち》の|母者人《ははじやひと》や、|此《この》|松《まつ》サンの|黒《くろ》い|目《め》でサツパリ|看破《みやぶ》られ、しやう|事《こと》なしに|憑《つ》けた|狐《きつね》をおひ|出《だ》したのだらう。|今度《こんど》はこれで|怺《こら》へてやるが、|一人娘《ひとりむすめ》を|又《また》こんな|目《め》に|遭《あ》はすと|警察《けいさつ》へつき|出《だ》して|了《しま》ふぞ。サア|飯綱使《いひづなづか》ひ、|早《はや》う|去《い》ね、|何程《なんぼ》|仇《あたん》をしようと|思《おも》ふても、|宅《うち》には|金比羅《こんぴら》さまのお|札《ふだ》が|此《この》|通《とほ》り|沢山《たくさん》にあるから、これから|金比羅《こんぴら》さまを|祈《いの》つてお|前《まへ》の|魔術《まじゆつ》が|利《き》かぬ|様《やう》にしてやる。お|前《まへ》も、もういい|加減《かげん》に|改心《かいしん》をして|元《もと》の|乳屋《ちちや》になり、|年寄《としより》やお|米《よね》はんに|安心《あんしん》をさしたら|如何《どう》ぢや。お|前《まへ》|処《とこ》が|難儀《なんぎ》をすると|矢張《やつぱり》|黙《だま》つて|見捨《みす》てておく|訳《わけ》には|行《ゆ》かぬから、|親切《しんせつ》に|気《き》をつけるのだから|悪《わる》う|思《おも》ふ|事《こと》はならぬぞ』
と|娘《むすめ》を|助《たす》けて|貰《もら》うてお|礼《れい》を|云《い》ふ|処《どころ》か、アベコベに|不足《ふそく》のタラダラを|並《なら》べ|罵詈《ばり》を|逞《たくま》しうし、お|為《た》めごかしの|御意見《ごいけん》を|諄々《じゆんじゆん》と|聞《き》かして|呉《く》れた。|松《まつ》サンは|其《その》|翌日《あくるひ》から|益々《ますます》|猛烈《まうれつ》に|反対《はんたい》をしだし、
|次郎松《じろまつ》『|宅《うち》の|娘《むすめ》に|喜楽《きらく》がド|狐《ぎつね》を|憑《つ》けて|苦《くる》しめよつた。|到頭《たうとう》|化《ば》けが|現《あら》はれて|俺《おれ》に|責《せ》め|付《つ》けられ、|仕様事《しやうこと》なしに|骨折《ほねお》つて|憑《つ》けた|狐《きつね》をおひ|出《だ》して|連《つ》れて|去《い》によつた。|俺《おれ》は|親類《しんるゐ》で|居《を》つて|云《い》ふのだから|嘘《うそ》ぢやない。みな|用心《ようじん》しなされや』
と|其処等中《そこらぢう》を|触《ふ》れ|歩《ある》いた。|喜楽《きらく》こそ|宜《よ》い|面《つら》の|皮《かは》である。
(大正一一・一〇・一〇 旧八・二〇 北村隆光録)
第二〇章 |仁志東《にしひがし》〔一〇三二〕
|話《はなし》は|少《すこ》し|元《もと》へ|帰《かへ》る。|明治《めいぢ》|卅一年《さんじふいちねん》の|四月《しぐわつ》|三日《みつか》|神武天皇祭《じんむてんわうさい》の|日《ひ》、|喜楽《きらく》は|早朝《さうてう》より|神殿《しんでん》を|清《きよ》め|修業者《しうげふしや》と|共《とも》に|祭典《さいてん》を|行《おこな》つて|居《ゐ》た。そこへ|瓢然《へうぜん》として|尋《たづ》ねて|来《き》た|五十《ごじふ》|余《あま》りの|男《をとこ》がある。|男《をとこ》は|無造作《むざうさ》に|閾《しきゐ》をまたげてヌツと|這入《はい》り、
|男《をとこ》『|私《わたし》は|紀州《きしう》の|者《もの》で|三矢《みつや》|喜右衛門《きうゑもん》と|申《まを》します。|稲荷講《いなりかう》の|福井県《ふくゐけん》|本部長《ほんぶちやう》で、|静岡県《しづをかけん》|阿部郡《あべぐん》|富士見村《ふじみむら》|月見里《やまなし》|稲荷《いなり》|神社《じんじや》|附属《ふぞく》、|稲荷講社《いなりかうしや》|総本部《そうほんぶ》の|配札係《はいさつがかり》で|御座《ござ》います。|紀州《きしう》を|巡回《じゆんくわい》の|折柄《をりから》、ここの|噂《うはさ》を|承《うけたまは》り、すぐさま|総本部《そうほんぶ》へのぼり|長沢《ながさは》|総理《そうり》|様《さま》に|伺《うかが》うた|所《ところ》、|因縁《いんねん》のある|人間《にんげん》ぢやに|依《よ》つて、|兎《と》も|角《かく》|調《しら》べて|来《こ》いと|言《い》はれました。|過去《くわこ》|現在《げんざい》|未来《みらい》|一目《ひとめ》に|見《み》え|透《す》く|霊学《れいがく》の|大先生《だいせんせい》|長沢《ながさは》|様《さま》の|御言葉《おことば》だから、|喜《よろこ》んでお|受《う》けなされ、|決《けつ》して|私《わたし》は|一通《ひととほ》りの|御札《おふだ》くばりではありませぬぞ』
とまだ|喜楽《きらく》が|一口《ひとくち》も|何《なん》ともいはぬ|先《さき》から、|虎《とら》の|威《ゐ》をかる|狐《きつね》の|様《やう》に|威《ゐ》ばり|散《ち》らしてゐる。|喜楽《きらく》は|稲荷講社《いなりかうしや》と|云《い》ふ|名称《めいしよう》に|就《つ》いては|聊《いささ》か|迷惑《めいわく》のやうな|気《き》がした。なぜならば|口丹波辺《くちたんばへん》は|稲荷講社《いなりかうしや》といへば|直《すぐ》に|稲荷《いなり》おろしを|聯想《れんさう》し、|狐狸《きつねたぬき》を|祀《まつ》るものと|誤解《ごかい》されるからである。|併《しか》し|乍《なが》ら|過去《くわこ》|現在《げんざい》|未来《みらい》を|透察《とうさつ》する|霊学《れいがく》の|大家《たいか》が|長沢《ながさは》|先生《せんせい》だと|言《い》ふことを|聞《き》いては、|此《この》|三矢《みつや》を|只《ただ》でいなすことは|出来《でき》ない|様《やう》になつて|来《き》た。
|二月《にぐわつ》|以来《いらい》|高熊山《たかくまやま》の|修行《しうぎやう》から|帰《かへ》つたあとは、|霊感《れいかん》|問題《もんだい》に|没頭《ぼつとう》し、|明《あ》けても|暮《く》れても、|霊学《れいがく》の|解決《かいけつ》に|精神《せいしん》を|集中《しふちう》して|居《ゐ》たからである。そして|親戚《しんせき》や|兄弟《きやうだい》、|村《むら》の|者《もの》までが、|山子《やまこ》だ、|飯綱使《いづなつかひ》だ、|狐《きつね》だ、|狸《たぬき》だ、|野天狗《のてんぐ》だ、|半気違《はんきちがひ》だと|口々《くちぐち》に|嘲笑《てうせう》|悪罵《あくば》を|逞《たくま》しうするので、|何《なん》とかして|此《この》|明《あか》りを|立《た》て、|人々《ひとびと》の|目《め》をさまさねばならぬと、|心配《しんぱい》して|居《ゐ》た|所《ところ》へ|三矢《みつや》|氏《し》が|来《き》たのだから、|一道《いちだう》の|光明《くわうみやう》を|認《みと》めたやうな|気《き》になつて、|勇《いさ》み|喜《よろこ》び、|直《ただち》に|三矢《みつや》を|吾《わが》|家《や》に|止《とど》め、いろいろと|霊学上《れいがくじやう》の|問題《もんだい》を|提出《ていしゆつ》して|聞《き》いて|見《み》たが、|只《ただ》|配札《はいさつ》のみの|男《をとこ》と|見《み》えて、|霊学上《れいがくじやう》の|話《はなし》は|脱線《だつせん》だらけで、|何《なに》を|聞《き》いても|一《ひと》つも|得《う》る|所《ところ》がなかつた。それから|旅費《りよひ》を|工面《くめん》して、|三矢《みつや》の|案内《あんない》で|愈《いよいよ》|同月《どうげつ》の|十三日《じふさんにち》、|穴太《あなを》を|立《た》つて|京都《きやうと》まで|徒歩《とほ》し、|生《うま》れてから|始《はじ》めての|三等《さんとう》|汽車《きしや》に|乗《の》つて、|無事《ぶじ》|静岡《しづをか》の|長沢《ながさは》|先生《せんせい》の|宅《たく》に|着《つ》くことを|得《え》た。
|長沢《ながさは》|先生《せんせい》は|其《その》|時《とき》まだ|四十歳《しじつさい》の|元気《げんき》|盛《ざか》りであつた。いろいろと|霊学上《れいがくじやう》の|話《はなし》や、|本田《ほんだ》|親徳《ちかあつ》|翁《をう》の|来歴《らいれき》|等《とう》を|三四時間《さんよじかん》も|引続《ひきつづ》けに|話《はな》される。|喜楽《きらく》が|一口《ひとくち》|言《い》はうと|思《おも》うても、チツとも|隙《すき》がない。|此方《こちら》の|用向《ようむき》も|聞《き》かずに|四時間《よじかん》|斗《ばか》り|喋《しやべ》り|立《た》て、ツツと|立《た》つて|雪隠《せつちん》へ|行《ゆ》き、|又《また》|元《もと》の|所《ところ》へ|坐《すわ》り、|三方白《さんぱうじろ》の|大《おほ》きな|目《め》を|剥《む》き|出《だ》し、|少《すこ》し|目《め》が|近《ちか》いので|背《せ》を|曲《ま》げ、こちらを|覗《のぞ》く|様《やう》にして、|又《また》もや|自分《じぶん》の|話《はなし》を|続《つづ》けられる。|机《つくゑ》の|下《した》は|二三ケ月間《にさんかげつかん》の|新聞紙《しんぶんし》が|無雑作《むざふさ》に|散《ち》らけてある。|沢山《たくさん》の|来信《らいしん》も|封《ふう》を|切《き》つたのや|切《き》らぬのが、|新聞紙《しんぶんし》とゴツチヤになつて|広《ひろ》い|机《つくゑ》のグルリに|散乱《さんらん》してゐる。|長沢《ながさは》|先生《せんせい》は|障子《しやうじ》の|破《やぶ》れ|紙《がみ》の|端《はし》をチヨツと|引《ひき》むしつて、ツンと|鼻《はな》をかみ、ダラダラと|流《なが》れやうとする|鼻汁《はなじる》を|又《また》ポンと|紙《かみ》を|折《お》り、|遂《つひ》にはツーと|余《あま》つて|鼻汁《はな》が|膝《ひざ》の|上《うへ》に|落《お》ちやうとするのを、|今度《こんど》はあわてて|新聞紙《しんぶんし》の|端《はし》を|千切《ちぎ》り、それに|鼻汁紙《はながみ》を|包《つつ》んで、|無雑作《むざふさ》に|机《つくゑ》の|下《した》に|投《な》げ|込《こ》み|乍《なが》ら、|平気《へいき》な|顔《かほ》で|又《また》|五時間《ごじかん》|斗《ばか》り|喋《しやべ》りつづけられた。|長途《ちやうと》の|汽車《きしや》の|旅《たび》で|体《からだ》は|草臥《くたびれ》てゐる。|一寸《ちよつと》どこかで|足《あし》を|伸《の》ばしたいと|思《おも》ふても|先生《せんせい》が|動《うご》かないので|如何《どう》することも|出来《でき》ず、とうとう|其《その》|日《ひ》は|自分《じぶん》の|住所《ぢうしよ》|姓名《せいめい》を|僅《わづか》に|告《つ》げた|丈《だけ》で、|長沢《ながさは》|先生《せんせい》の|話《はなし》|斗《ばか》りで|終《をは》つて|了《しま》つた。
|先生《せんせい》の|母堂《ぼだう》に|豊子《とよこ》といふ|方《かた》があつて、|余程《よほど》|霊感《れいかん》を|得《え》てゐられた。|豊子《とよこ》さまは|喜楽《きらく》に|向《むか》ひ、
|豊子《とよこ》『お|前《まへ》さまは|丹波《たんば》から|来《こ》られたさうだが、|本田《ほんだ》さまが|十年前《じふねんまへ》に|仰有《おつしや》つたのには、|是《これ》から|十年《じふねん》|程《ほど》|先《さき》になつたら、|丹波《たんば》からコレコレの|男《をとこ》が|来《く》るだらう、|神《かみ》の|道《みち》は|丹波《たんば》から|開《ひら》けると|仰有《おつしや》つたから、キツとお|前《まへ》さまのことだらう、これも|時節《じせつ》が|来《き》たのだ。|就《つい》ては、|本田《ほんだ》さまから|預《あづか》つて|置《お》いた|鎮魂《ちんこん》の|玉《たま》や|天然笛《てんねんぶえ》があるから、|之《これ》を|上《あ》げませう。これを|以《もつ》てドシドシと|布教《ふけう》をしなされ』
と|二《ふた》つの|神器《しんき》を|箪笥《たんす》の|引出《ひきだ》しから|出《だ》して|喜楽《きらく》に|与《あた》へ、|且《かつ》|神伝《しんでん》|秘書《ひしよ》の|巻物《まきもの》まで|渡《わた》してくれられた。|翌朝《よくてう》|早《はや》うから|之《これ》を|開《ひら》いて|見《み》ると、|実《じつ》に|何《なん》とも|云《い》へぬ|嬉《うれ》しい|感《かん》じがした。|自分《じぶん》の|今迄《いままで》の|霊学上《れいがくじやう》に|関《くわん》する|疑問《ぎもん》も、|又《また》|一切《いつさい》の|煩悶《はんもん》も|拭《ぬぐ》ふが|如《ごと》く|払拭《ふつしき》されて|了《しま》つた。
|午前《ごぜん》|九時《くじ》|頃《ごろ》から、|長沢《ながさは》|先生《せんせい》は|再《ふたた》び|自分《じぶん》を|招《まね》かれた。|早速《さつそく》に|先生《せんせい》の|前《まへ》に|出《い》で、|今度《こんど》は|自分《じぶん》の|方《はう》から|喋《しやべ》り|立《た》て、|先生《せんせい》に|一言《ひとこと》も|云《い》はすまいと|覚悟《かくご》をきめて|出合《であ》ふなり、|自分《じぶん》の|神懸《かむがか》りになつた|一伍一什《いちぶしじふ》を|息《いき》もつかずに|三時間《さんじかん》|斗《ばか》り|述《の》べ|立《た》てた。|先生《せんせい》は|只《ただ》『ハイハイ』と|時々《ときどき》|返事《へんじ》をして、|喜楽《きらく》の|三時間《さんじかん》の|長物語《ながものがたり》を|神妙《しんめう》に|聞《き》いて|呉《く》れられた。|其《その》|結果《けつくわ》|一度《いちど》|審神者《さには》をして|見《み》ようと|云《い》ふことになり、|喜楽《きらく》は|神主《かむぬし》の|席《せき》にすわり、|先生《せんせい》は|審神者《さには》となつて|幽斎式《いうさいしき》が|始《はじ》まつた。|其《その》|結果《けつくわ》|疑《うたが》ふ|方《かた》なき|小松林命《こまつばやしのみこと》の|御神懸《ごしんけん》といふことが|明《あきら》かになり、|鎮魂帰神《ちんこんきしん》の|二科高等得業《にくわかうとうとくげふ》を|証《しよう》すといふ|免状《めんじやう》|迄《まで》|渡《わた》して|貰《もら》つた。|喜楽《きらく》は|今迄《いままで》|数多《あまた》の|人々《ひとびと》に|発狂者《はつきやうしや》だ、|山子《やまこ》だ、|狐《きつね》つきだとけなされ、|誰一人《たれひとり》|見《み》わけてくれる|者《もの》がなかつた|所《ところ》を、|斯《かく》の|如《ごと》く|審神《さには》の|結果《けつくわ》、|高等神懸《かうとうかむがかり》と|断定《だんてい》を|下《くだ》されたのであるから、|此《この》|先生《せんせい》こそ|世界《せかい》にない、|喜楽《きらく》に|対《たい》しては|大《だい》なる|力《ちから》となるべき|方《かた》だと|打喜《うちよろこ》び、|直《ただ》ちに|請《こ》ふて|入門《にふもん》することとなつたのである。|要《えう》するに|長沢《ながさは》|先生《せんせい》の|門人《もんじん》になつたのは|霊学《れいがく》を|研究《けんきう》するといふよりは、|自分《じぶん》の|霊感《れいかん》を|認《みと》めて|貰《もら》つたのが|嬉《うれ》しかつたので|入門《にふもん》したのであつた。
|夫《そ》れより|先生《せんせい》に|従《したが》ひ、|三保《みほ》の|松原《まつばら》に|渡《わた》り、|三保神社《みほじんしや》に|参拝《さんぱい》して、|羽衣《はごろも》の|松《まつ》を|見《み》たり、|又《また》は|天人《てんにん》の|羽衣《はごろも》の|破《やぶ》れ|端《はし》だと|称《しよう》する、|古代《こだい》の|織物《おりもの》が|硝子瓶《がらすびん》の|中《なか》に|納《をさ》められてあるのを|拝観《はいくわん》したりし|乍《なが》ら、|一週間《いつしうかん》|許《ばか》り|世話《せわ》になつて、|二十二日《にじふににち》の|夜《よる》|漸《やうや》く|穴太《あなを》の|自宅《じたく》に|帰《かへ》る|事《こと》を|得《え》た。|三矢《みつや》|喜右衛門《きうゑもん》も|再《ふたたび》|穴太《あなを》へ|従《つ》いて|帰《かへ》り、|園部《そのべ》の|下司《げし》|熊吉《くまきち》|方《かた》に|往復《わうふく》して、とうとう|斎藤《さいとう》|静子《しづこ》と|熊吉《くまきち》との|縁談《えんだん》の|媒人《なかうど》までなし、|今迄《いままで》の|態度《たいど》を|一変《いつぺん》して、|下司熊《げしくま》をおだて|上《あ》げ、いろいろと|喜楽《きらく》に|対《たい》し、|反抗《はんかう》|運動《うんどう》を|試《こころ》みる|事《こと》となつた。
|下司熊《げしくま》は、|斎藤《さいとう》|静子《しづこ》の|余《あま》りよくない|神憑《かむがかり》を|女房《にようばう》に|持《も》ち、|自分《じぶん》も|神憑《かむがかり》となつて、|相場占《さうばうらなひ》を|始《はじ》め|出《だ》した。|下司《げし》の|腹心《ふくしん》の|者《もの》に|藤田《ふぢた》|泰平《たいへい》といふ|男《をとこ》があつた。|此《この》|男《をとこ》は|人《ひと》の|反物《たんもの》を|預《あづか》り、|着物《きもの》や|羽織《はおり》を|仕立《した》て、|賃銭《ちんせん》を|貰《もら》つて|生計《せいけい》を|立《た》てて|居《ゐ》た|男《をとこ》である。|下司熊《げしくま》の|頼《たの》みによつて、|方々《はうばう》から|預《あづか》つたいろいろの|反物《たんもの》を|質《しち》に|入《い》れ、|金《かね》を|借《か》り、それを|下司熊《げしくま》に|使《つか》はれて|了《しま》ひ、|依頼主《いらいぬし》から|火急《くわきふ》な|催足《さいそく》をされて、|非常《ひじやう》に|煩悶《はんもん》をしてゐた。グヅグヅして|居《ゐ》ると|刑事《けいじ》|問題《もんだい》が|起《おこ》り|相《さう》なので、|泰平《たいへい》|自《みづか》ら|穴太《あなを》へ|行《や》つて|来《き》て、|下司熊《げしくま》の|為《ため》に|自分《じぶん》は|退引《のつぴき》ならぬ|破目《はめ》に|陥《おちい》つた|事《こと》を|歎《なげ》きつつ|物語《ものがた》り、|如何《どう》かして|助《たす》けて|貰《もら》ふ|訳《わけ》には|行《ゆ》かうまいかと|云《い》つて|泣《な》いて|居《ゐ》る。|喜楽《きらく》も|最早《もはや》|如何《どう》する|事《こと》も|出来《でき》ない。|併《しか》し|乍《なが》ら|何《なん》とかして|助《たす》けてやりやうはないかと、|頭《あたま》を|悩《なや》ましてゐた。そこへ|斎藤《さいとう》|宇一《ういち》が|自分《じぶん》の|叔母《をば》の|婿《むこ》となつた|下司熊《げしくま》と|共《とも》に|出《で》て|来《き》て、|何《なん》とかして|藤田《ふぢた》を|助《たす》ける|工夫《くふう》はなからうか、|藤田《ふぢた》|許《ばか》りか|下司《げし》までが、|此《この》|儘《まま》にしておいたら、|取返《とりかへ》しのつかぬやうな|事《こと》になつて|了《しま》ふ。お|前《まへ》の|家《いへ》や|屋敷《やしき》を|抵当《ていたう》に|入《い》れて、|金《かね》でも|借《か》つてくれまいかと|斎藤《さいとう》が|云《い》ふ。|併《しか》し|乍《なが》ら|喜楽《きらく》の|家屋敷《いへやしき》は|既《すで》に|抵当《ていたう》に|入《はい》り、|五十円《ごじふゑん》|借《か》つた|金《かね》も、とうの|昔《むかし》になくなつて|居《ゐ》た。ふと|思《おも》ひ|出《だ》したのは|奥条《おくでう》といふ|所《ところ》に|預《あづ》けておいた|乳牛《にうぎう》がある。|其《その》|牛《うし》は|喜楽《きらく》の|自由《じいう》の|物《もの》で、|精乳館《せいにうくわん》の|物《もの》ではなかつたのを|幸《さいは》ひ、それを|売《う》つて|下司《げし》や|藤田《ふぢた》の|急場《きふば》を|助《たす》けてやらうかと|思《おも》ひ、|喜楽《きらく》が|九十円《くじふゑん》で|買《か》うた|牛《うし》が|奥条《おくでう》に|預《あづ》けてある、それをどつかへ|売《う》つてくれたら、|其《その》|金《かね》を|間《ま》に|合《あ》はしてやらうと、|云《い》ふた|言葉《ことば》に|下司《げし》は|手《て》を|拍《う》つて|踊《をど》りあがり、
|下司《げし》『そんなら|済《す》まぬが、どうぞ|暫《しばら》く|私《わたし》に|貸《か》して|下《くだ》さい。|此《この》|牛《うし》は|自分《じぶん》が|入営《にふえい》してゐた|時《とき》の|友達《ともだち》で、|矢賀《やが》といふ|所《ところ》に|伯楽《ばくろ》をして|居《ゐ》る|者《もの》があるから、そこへ|連《つ》れて|行《い》て|買《か》うて|貰《もら》はう』
といふ。そこで|話《はなし》が|纏《まと》まつて、|藤田《ふぢた》|泰平《たいへい》は|園部《そのべ》へ|帰《かへ》る。|喜楽《きらく》と|宇一《ういち》と|下司熊《げしくま》の|三人《さんにん》は、|奥条《おくでう》の|牛《うし》の|預《あづ》け|先《さき》から|引出《ひきだ》して|来《き》て、|八木《やぎ》の|川向《かはむか》うの|矢賀《やが》といふ|所《ところ》へ|引張《ひつぱ》つて|行《い》つた。
|其《その》|日《ひ》は|此《この》|地方《ちはう》の|氏神《うぢがみ》の|祭礼《さいれい》で、あちらこちらに|大《おほ》きな|幟《のぼり》が|立《た》つてゐる。|漸《やうや》くにして|九十円《くじふゑん》の|牛《うし》を|十五円《じふごゑん》に|買《か》ひ|取《と》られ、|日《ひ》が|暮《く》れてからソロソロ|八木《やぎ》へ|廻《まは》つて|帰《かへ》らうとした。|十五円《じふごゑん》の|金《かね》は|下司《げし》が|預《あづか》つたきり、|懐《ふところ》へ|入《い》れて|了《しま》つた。そして|十円《じふゑん》さへあれば|下司《げし》の|問題《もんだい》も|一切《いつさい》|片付《かたづ》くのである。|五円《ごゑん》|丈《だけ》は|喜楽《きらく》に|渡《わた》すといふ|約束《やくそく》であつたが、|下司《げし》はふれまわれた|酒《さけ》にヘベレケに|酔《よ》うて、|何《なん》と|云《い》つても、|妙《めう》な|事《こと》|計《ばか》り|言《い》つて|受入《うけい》れぬのみか、|日清《につしん》|戦争《せんそう》で|戦死《せんし》した|戦友《せんいう》の|石碑《せきひ》が|立《た》つてる|前《まへ》へ|行《い》つて|手《て》を|合《あは》せ、
『|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》、オイ|貴様《きさま》もおれと|一緒《いつしよ》に|戦争《せんそう》に|往《い》つたのだが、とうとう|先《さき》へ|死《し》によつたのう、|本当《ほんたう》に|貴様《きさま》は|可哀相《かあいさう》なものだ。こんな|部落《ぶらく》へ|生《うま》れて|来《き》て、いろいろと|言《い》はれ、|其《その》|上《うへ》|鉄砲玉《てつぱうだま》に|当《あた》つて|死《し》んで|了《しま》ひ、|本当《ほんたう》に|可哀相《かあいさう》だ。おりや|君《きみ》に|同情《どうじやう》するよ。ナアに、|俺《おれ》だつて、|同《おな》じ|人間《にんげん》だ。そんなこた|遠慮《ゑんりよ》に|及《およ》ばぬ』
と|沢山《たくさん》の|部落民《ぶらくみん》がそこに|居《を》るのも|構《かま》はず|喋《しやべ》り|立《た》てる。|忽《たちま》ち|十四五人《じふしごにん》の|男《をとこ》が|現《あら》はれて、
『ナアに|失礼《しつれい》な|事《こと》をぬかす、やつてやれ』
と|言《い》ひ|乍《なが》ら、|下司熊《げしくま》の|手足《てあし》を|取《と》り、ヨイサヨイサと|祭《まつり》の|酒《さけ》に|酔《よ》うた|奴《やつ》|斗《ばか》りが、|矢賀橋《やがばし》の|側《そば》までかいて|行《ゆ》き、メツタ|矢鱈《やたら》に|頭《あたま》をなぐる、|打《う》つ|蹴《け》る、|非常《ひじやう》な|大騒《おほさわ》ぎとなつた。|宇一《ういち》は|部落民《ぶらくみん》の|方《はう》へ|分《わ》け|入《い》つて、いろいろと|下司《げし》の|為《ため》にあやまつてやつてゐた。|喜楽《きらく》は|懐中《くわいちゆう》の|天然笛《てんねんぶえ》を|取出《とりだ》して、|一生懸命《いつしやうけんめい》にヒユーヒユーと|吹《ふ》き|立《た》てた。|何《なん》と|思《おも》ふたか、|一人《ひとり》も|残《のこ》らず|暴漢《ばうかん》は|逃《に》げて|行《ゆ》く。
そこへ|巡回《じゆんくわい》の|巡査《じゆんさ》がやつて|来《き》て、|下司熊《げしくま》を|労《いた》はり|八木《やぎ》まで|送《おく》り|届《とど》けてくれた。|喜楽《きらく》も|宇一《ういち》も|巡査《じゆんさ》の|後《あと》に|従《つ》いて|八木《やぎ》の|橋詰《はしづめ》まで|帰《かへ》つて|来《き》た。|来《き》て|見《み》れば|橋《はし》の|西側《にしがは》に|劇場《げきぢやう》があつて、|芝居《しばゐ》が|始《はじ》まつてゐる。|勧進元《くわんじんもと》は|下司熊《げしくま》の|父親《てておや》の|下司市《げしいち》といふ|可《か》なり|名《な》の|売《う》れた|顔役《かほやく》である。|下司熊《げしくま》は|喜楽《きらく》や|宇一《ういち》を|楽屋《がくや》の|中《なか》まで|引張《ひつぱつ》て|行《ゆ》き|裸《はだか》になつて|見《み》せて、
|下司《げし》『あゝ|喜楽《きらく》サン、|折角《せつかく》に|世話《せわ》になつた|牛《うし》の|金《かね》が|最前《さいぜん》の|喧嘩《けんくわ》でおとしたとみえて、これ|此《この》|通《とほ》り|一文《いちもん》も|無《な》い』
としらばくれてゐる。|後《あと》から|事情《じじやう》を|探《さぐ》つて|見《み》れば、|実際《じつさい》は|五十円《ごじふゑん》に|牛《うし》を|売《う》り、ワザとに|八百長喧嘩《やほちやうげんくわ》を|仕組《しく》み、|一文《いちもん》も|残《のこ》らず|引《ひ》つたくつてやるといふ|計略《けいりやく》に|乗《の》せられたのであつた。|又《また》|藤田《ふぢた》の|来《き》たのも、|下司《げし》や|宇一《ういち》との|計略《けいりやく》に|依《よ》つて|喜楽《きらく》の|牛《うし》を|売《う》らし|其《その》|金《かね》をせしめようといふ|計略《けいりやく》であつた|事《こと》が|判明《はんめい》したのである。それが|分《わか》つたので|喜楽《きらく》は|神懸《かむがかり》になり、|腹《はら》の|中《なか》の|憑霊《ひようれい》に|向《むか》つて、
|喜楽《きらく》『なぜ|喜楽《きらく》の|肉体《にくたい》がこんな|目《め》に|会《あ》うてるのに|知《し》らさなんだか、|言《い》はいでもよいこと|許《ばか》り|喋《しやべ》る|癖《くせ》に、なぜかう|云《い》ふ|時《とき》に|知《し》らしてくれぬのだ。モウこれからお|前《まへ》らの|言《い》ふことは|聞《き》かぬ。サア|私《わたし》の|体《からだ》からトツトと|帰《かへ》つてくれ』
と|腹立紛《はらたちまぎ》れに|呶鳴《どな》り|立《た》てた。さうすると|暫《しばら》く|静《しづ》まつて|居《を》つた|玉《たま》ゴロが、|又《また》もや|喉元《のどもと》へこみ|上《あ》げて|来《き》て、|小《ちひ》さい|声《こゑ》で、
『アツハヽヽヽ、|馬鹿《ばか》だのう』
といつたぎり、|何《なん》と|云《い》つても、キウともスウとも|答《こた》へてくれぬ。とうとう|泣《な》き|寝入《ねい》りになつて|了《しま》うた。
|下司熊《げしくま》は|其《その》|後《のち》|須知《すち》の|岩清水《いはしみづ》といふ|所《ところ》で、|村《むら》の|神官《しんくわん》と|諜《しめ》し|合《あは》せ、|観音《くわんのん》の|木像《もくざう》を|土《つち》の|中《なか》へ|深《ふか》く|埋《い》けておいて、「サテ|自分《じぶん》は|神《かみ》さまのお|告《つげ》に|依《よ》り|岩清水《いはしみづ》の|或《ある》|地点《ちてん》に|観音《くわんのん》さまが|埋《うづ》まつて|御座《ござ》ることを|聞《き》きましたが、|一《いつ》ぺん|調《しら》べさして|頂《いただ》きたい」と|区長《くちやう》の|宅《たく》へ|頼《たの》みに|行《い》つた。それから|区長《くちやう》の|許《ゆる》しを|受《う》けて、|宮《みや》の|神主《かむぬし》と|共《とも》に|掘《ほ》り|出《だ》しに|行《い》つた|所《ところ》、|観音《くわんのん》の|木像《もくざう》が|出《で》たので、それを|御神体《ごしんたい》とし、|船越《ふなこし》|某《ぼう》の|家《うち》で|祭壇《さいだん》を|作《つく》り、|所在《あらゆる》|神仏《しんぶつ》の|木像《もくざう》を|古道具屋《ふるだうぐや》の|店《みせ》のやうに|祀《まつ》りこみ、|二三十本《にさんじつぽん》の|幟《のぼり》をあちら|此方《こちら》に|立《た》て、お|大師《だいし》さまの|御夢想《ごむさう》の|湯《ゆ》だと|云《い》つて、|湯《ゆ》をわかし、|患者《くわんじや》を|入浴《にふよく》せしめなどして、|沢山《たくさん》の|愚夫愚婦《ぐふぐふ》を|集《あつ》めて|居《ゐ》た。そして|観音《くわんのん》の|木像《もくざう》が|神《かみ》さまのお|告《つ》げで|現《あら》はれたといふので|大変《たいへん》な|人気《にんき》となり、|一時《いちじ》は|非常《ひじやう》に|繁昌《はんじやう》してゐたが|遂《つひ》に|警察《けいさつ》から|科料《くわれう》を|取《と》られ、|拘留《こうりう》に|処《しよ》せられ、それより|段々《だんだん》|信者《しんじや》が|来《こ》なくなつて|了《しま》ひ、やむを|得《え》ず、|岩清水《いはしみづ》を|立《た》つて、|再《ふたた》び|園部《そのべ》へ|舞《ま》ひもどり、|神《かみ》さま|商売《しやうばい》もテンと|流行《はや》らなくなつたので、|再《ふたた》び|博徒《ばくと》の|群《むれ》に|入《い》り、とうとう|睾丸炎《かうぐわんえん》を|起《おこ》して|夭死《えうし》して|了《しま》つた。|泰平《たいへい》も|亦《また》|二三年《にさんねん》を|経《へ》て|急病《きふびやう》でなくなつて|了《しま》つた。|牛《うし》を|下司《げし》に|取《と》られたといふので、|又々《またまた》|由松《よしまつ》が|怒《おこ》り|出《だ》し、
|由松《よしまつ》『|此《この》|神《かみ》は|盲神《めくらがみ》だから、|兄貴《あにき》の|馬鹿《ばか》がだまされて|居《ゐ》るのを、|黙《だま》つて|見《み》てやがつた、|腰抜神《こしぬけがみ》だ。モウ|俺《おれ》の|内《うち》にはおいてやらぬ』
といつて|再《ふたたび》|斎壇《さいだん》を|引《ひ》つくり|返《かへ》し、|暴《あば》れまはるので、|喜楽《きらく》も|安閑《あんかん》として|居《ゐ》る|訳《わけ》にも|行《ゆ》かず、|此《この》|上《うへ》|如何《どう》したらよからうか、|一《ひと》つ|神《かみ》さまに|伺《うかが》つて|見《み》ようと、|産土《うぶすな》の|社《やしろ》に|参拝《さんぱい》して|神勅《しんちよく》を|受《う》けた。|其《その》|時《とき》|小松林命《こまつばやしのみこと》|喜楽《きらく》に|神懸《かむがか》りして、
『|一日《いちにち》も|早《はや》く|西北《せいほく》の|方《はう》をさして|行《ゆ》け、|神界《しんかい》の|仕組《しぐみ》がしてある。お|前《まへ》の|来《く》るのを|待《ま》つてゐる|人《ひと》がある。|何事《なにごと》にも|頓着《とんちやく》なく|速《すみやか》にここを|立《た》つて|園部《そのべ》の|方《はう》へ|向《むか》つて|行《ゆ》け!』
と|大《おほ》きな|声《こゑ》できめつけられた。それより|喜楽《きらく》は|故郷《こきやう》を|離《はな》れる|事《こと》を|決意《けつい》したのである。
(大正一一・一〇・一一 旧八・二一 松村真澄録)
第四篇 |山青水清《やまあをくみづきよし》
第二一章 |参綾《さんれう》〔一〇三三〕
|旧《きう》|六月《ろくぐわつ》の|暑《あつ》い|最中《さいちう》であつた。|老祖母《らうそぼ》や|修業者《しうげふしや》に|無理《むり》に|別《わか》れを|告《つ》げて、|只《ただ》|一人《ひとり》|穴太《あなを》を|離《はな》れ|北《きた》へ|北《きた》へと|進《すす》み|行《ゆ》く。|道程《みちのり》|殆《ほとん》ど|二里《にり》ばかり|来《き》た|処《ところ》に、|南桑田《みなみくはだ》、|船井郡《ふなゐぐん》の|境界《きやうかい》の|標《へう》が|立《た》つて|居《ゐ》る。|其処《そこ》には|大井川《おほゐがは》の|清流《せいりう》をひいた、|有名《いうめい》なる|虎天関《とらてんいね》と|云《い》ふのがある。|虎天関《とらてんいね》の|傍《かたはら》に|枝振《えだぶ》りよき|並木《なみき》を|眺《なが》めて|小《ちひ》さき|茶店《ちやみせ》が|建《た》つて|居《ゐ》た。|喜楽《きらく》は|何気《なにげ》なく|其《その》|茶店《ちやみせ》に|立寄《たちよ》つて|休息《きうそく》をして|居《ゐ》た。
|三十《さんじふ》あまりのボツテリと|肥《ひ》えた|妻君《さいくん》が|現《あら》はれて|渋茶《しぶちや》を|汲《く》んで|呉《く》れた。さうして|喜楽《きらく》の|異様《いやう》な|姿《すがた》を|眺《なが》めて、
|女《をんな》『|貴方《あなた》は|神様《かみさま》の|御用《ごよう》をなさる|方《かた》ぢや|御座《ござ》いませぬか』
と|云《い》ふ。|喜楽《きらく》は|即座《そくざ》に、
|喜楽《きらく》『|私《わたし》は|神様《かみさま》の|審神《さには》をする|者《もの》で|御座《ござ》います。|随分《ずゐぶん》|其処《そこ》ら|中《ぢう》の|教会《けうくわい》を|調《しら》べて|見《み》ましたが、|狐《きつね》や|狸《たぬき》のお|台《だい》サンばつかりでした。アハヽヽヽ』
と|手《て》もなく|笑《わら》つて|居《ゐ》る。|此《この》|女《をんな》は|畳《たた》みかけた|様《やう》に、
|女《をんな》『モシ|先生《せんせい》、|私《わたし》が|一《ひと》つ|頼《たの》み|度《た》い|事《こと》があります。|私《わたし》の|母《はは》は|今《いま》|綾部《あやべ》に|居《を》りますが、|元《もと》は|金光様《こんくわうさま》を|信神《しんじん》して|居《ゐ》ましたが、|俄《にはか》に|艮《うしとら》の|金神《こんじん》さまがお|憑《うつ》りなさつて|沢山《たくさん》の|人《ひと》が|御神徳《おかげ》を|頂《いただ》き、|金光《きんくわう》|教会《けうくわい》の|先生《せんせい》が|世話《せわ》をして|居《を》られますが、|母《はは》に|憑《うつ》つた|神様《かみさま》の|仰有《おつしや》るには、|私《わたし》の|身上《みじやう》を|分《わ》けて|呉《く》れる|者《もの》は|東《ひがし》から|出《で》て|来《く》る。|其《その》|御方《おかた》さへ|見《み》えたならば|出口《でぐち》|直《なほ》の|身上《みじやう》は|判《わか》つてくると|仰有《おつしや》いましたので、|私等《わたしら》|夫婦《ふうふ》は|態《わざ》と|此《この》|道端《みちばた》に|茶店《ちやみせ》を|開《ひら》いて|往来《ゆきき》の|人《ひと》さまに|休《やす》んで|貰《もら》ひ、|母《はは》の|言《い》つたお|方《かた》を|探《さが》して|居《を》りました。|大方《おほかた》|貴方《あなた》の|事《こと》かと|思《おも》はれてなりませぬ。|何卒《どうぞ》|一度《いちど》|母《はは》の|身上《みじやう》を|調《しら》べてやつて|下《くだ》さらぬか。これが|母《はは》の|神様《かみさま》がお|書《かき》になつたお|筆先《ふでさき》で|御座《ござ》います』
と|出《だ》して|来《き》たのが、バラバラの|一枚書《いちまいが》きの|筆先《ふでさき》であつた。
|喜楽《きらく》は|此《この》|筆先《ふでさき》を|見《み》て、|高熊山《たかくまやま》の|修業《しうげふ》の|中《うち》に|於《おい》て|霊眼《れいがん》にて|見聞《けんぶん》したる|事《こと》の|或《ある》|部分《ぶぶん》に|符合《ふがふ》せるに|驚《おどろ》き、|婦人《ふじん》の|依頼《いらい》を|受《う》けて|近々《きんきん》に|上綾《じやうれう》する|事《こと》を|約《やく》し、|園部《そのべ》の|広田屋《ひろたや》と|云《い》ふ|旅館《りよくわん》に|落着《おちつ》き、あちらこちらと|知己《ちき》を|訪問《はうもん》して|霊学《れいがく》の|宣伝《せんでん》に|従事《じゆうじ》しつつあつた。
|旧《きう》|八月《はちぐわつ》|二十三日《にじふさんにち》、|初《はじ》めて|綾部《あやべ》|裏町《うらまち》の|教祖《けうそ》の|宅《たく》を|訪問《はうもん》し、|二三日《にさんにち》|滞在《たいざい》して|居《ゐ》た。|然《しか》るに|金光教《こんくわうけう》の|教会《けうくわい》の|受持《うけもち》|教師《けうし》なる|足立《あだち》|正信《まさのぶ》を|始《はじ》め、|世話係《せわがかり》の|中村《なかむら》|竹造《たけざう》、|村上《むらかみ》|清次郎《せいじらう》、|西村《にしむら》|文右衛門《ぶんうゑもん》|等《ら》に、|極力《きよくりよく》|反対《はんたい》|運動《うんどう》をされ、|時機《じき》|未《いま》だ|至《いた》らずとして|教祖《けうそ》に|暇《いとま》を|告《つ》げ、|綾部《あやべ》の|地《ち》を|去《さ》つて|園部村《そのべむら》の|字《あざ》|黒田《くろだ》、|西田《にしだ》|卯之助《うのすけ》の|座敷《ざしき》を|借《か》つて|神《かみ》の|道《みち》を|宣伝《せんでん》しつつあつた。|種々《しゆじゆ》の|神憑《かむがか》りに|関《くわん》する|面白《おもしろ》き|話《はなし》は|此《この》|地方《ちはう》に|於《おい》ても|沢山《たくさん》|目撃《もくげき》したり|遭遇《さうぐう》したる|事《こと》あれども、|岐路《わきみち》に|入《い》る|虞《おそれ》ある|故《ゆゑ》|此処《ここ》には|省略《しやうりやく》して|置《お》く。|園部《そのべ》の|上本町《かみほんまち》に|奥村《おくむら》|徳次郎《とくじらう》と|云《い》ふ|熱心《ねつしん》な|信者《しんじや》があつた。あまり|沢山《たくさん》な|信者《しんじや》が|喜楽《きらく》を|訪《たづ》ねて|来《く》るので、|園部町《そのべまち》の|有志《いうし》は|信仰《しんかう》は|兎《と》も|角《かく》|土地《とち》|繁栄《はんゑい》の|一策《いつさく》として|園部《そのべ》の|公園内《こうえんない》に|立派《りつぱ》なる|布教所《ふけうしよ》を|建設《けんせつ》し、|喜楽《きらく》を、|此処《ここ》に|永住《えいぢう》せしめむと、|土地《とち》の|有志《いうし》が|東西《とうざい》に|奔走《ほんそう》し、|話《はなし》も|大方《おほかた》|纏《まと》まつて|居《を》る|所《ところ》へ、|綾部《あやべ》から|出口《でぐち》|教祖《けうそ》のお|使《つかひ》として、|四方《しかた》|平蔵《へいざう》|氏《し》が|遥々《はるばる》|訪《たづ》ねて|来《き》た。
|其《その》|時《とき》|喜楽《きらく》は|園部川《そのべがは》の|大橋《おほはし》の|下流《かりう》で|漁遊《すなどりあそ》びをして|居《ゐ》た。|其処《そこ》へ|平蔵《へいざう》|氏《し》がやつて|来《き》て、|河《かは》の|堤《つつみ》から、
|平蔵《へいざう》『モシモシ、|上田《うへだ》さまは|此《この》|辺《へん》に|居《を》られませぬか、|只今《ただいま》|黒田《くろだ》のお|宅《たく》へ|参《まゐ》りましたら、|園部《そのべ》の|河原《かはら》へ|魚取《うをと》りに|行《ゆ》かれたとの|話《はなし》|故《ゆゑ》、|此《この》|川縁《かはふち》を|伝《つた》うて|此処迄《ここまで》|来《き》ました』
と|云《い》つて|居《ゐ》る。|喜楽《きらく》は|川《かは》の|中《なか》から、
|喜楽《きらく》『ハイ、|上田《うへだ》は|私《わたし》です。|貴方《あなた》は|先頃《さきごろ》|手紙《てがみ》を|呉《く》れた|綾部《あやべ》の|四方《しかた》サンですか。|綾部《あやべ》はもう|懲々《こりこり》しましたから|行《ゆ》くのは|止《や》めますわ。|今《いま》|面白《おもしろ》い|最中《さいちう》だから、モチツと|魚《うを》をとつて|帰《かへ》りますから、|日《ひ》の|暮《くれ》に|来《き》て|下《くだ》さい』
と|云《い》へば|四方《しかた》|氏《し》は|堤《つつみ》の|上《うへ》から、
|平蔵《へいざう》『そんなら|仕方《しかた》がありませぬ。|私《わたし》は|園部《そのべ》の|扇屋《あふぎや》で|今晩《こんばん》|泊《とま》りますから、|又《また》お|訪《たづ》ね|致《いた》します』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら、|四方《しかた》|氏《し》は|大橋《おほはし》を|渡《わた》つて|扇屋《あふぎや》をさして|行《い》つて|了《しま》つた。|喜楽《きらく》は|漁《すなどり》を|終《をは》り、|黒田《くろだ》の|宅《たく》へ|帰《かへ》り|着物《きもの》を|着換《きか》へ、|園部《そのべ》の|扇屋《あふぎや》に|四方《しかた》|氏《し》を|訪《たづ》ねて|見《み》た。さうして|今度《こんど》は|足立《あだち》、|中村《なかむら》|其《その》|他《た》の|役員《やくゐん》には|極《ごく》|内々《ないない》で、|教祖《けうそ》と|自分《じぶん》とが|相談《さうだん》の|上《うへ》、|喜楽《きらく》を|迎《むか》へに|来《き》た|事《こと》が|分《わか》つた。|斯《こ》うなると|自分《じぶん》も|敵《てき》の|中《なか》へ|飛込《とびこ》む|様《やう》なものである。|余程《よほど》の|覚悟《かくご》をせなくてはならぬと|思《おも》ひ|乍《なが》ら、|早速《さつそく》|綾部《あやべ》へ|行《ゆ》く|事《こと》を|承諾《しようだく》し、|往復《わうふく》|八里《はちり》の|夜《よる》の|道《みち》を|穴太《あなを》へ|帰《かへ》り、|老祖母《らうそぼ》や|母《はは》に|愈《いよいよ》|綾部《あやべ》に|行《ゆ》く|事《こと》を|云《い》ひ、|産土《うぶすな》の|大神《おほかみ》に|祈願《きぐわん》をこらし、|夜《よ》の|明《あ》くる|前《まへ》|漸《やうや》く|園部《そのべ》の|扇屋《あふぎや》へ|帰《かへ》つて|来《き》た。されど|四方《しかた》|氏《し》は|喜楽《きらく》が|穴太《あなを》へ|帰《かへ》つて|来《き》た|事《こと》はチツとも|分《わか》らなかつた。
それより|四方《しかた》|氏《し》と|共《とも》に|黒田《くろだ》の|宅《たく》へ|帰《かへ》り、|種々《しゆじゆ》と|支度《したく》をなし、|五時《ごじ》|頃《ごろ》から|黒田《くろだ》を|立《た》ち|出《い》で、|漸《やうや》くにして|檜山《ひのきやま》|迄《まで》|着《つ》いた。|日《ひ》はズツポリと|暮《く》れて|来《き》た。|少《すこ》し|目《め》の|悪《わる》い|四方《しかた》|氏《し》は|最早《もはや》|歩《ある》く|事《こと》が|出来《でき》なくなつて|来《き》た。|止《や》むを|得《え》ず|樽屋《たるや》と|云《い》ふ|宿屋《やどや》へ|投宿《とうしゆく》した。|忽《たちま》ち|大雨《おほあめ》|降《ふ》り|来《きた》り、|雷鳴《らいめい》さへも|轟《とどろ》いて|実《じつ》に|物凄《ものすご》き|天地《てんち》となつて|来《き》た。|樽屋《たるや》の|裏《うら》の|離座敷《はなれざしき》を|与《あた》へられ、|喜楽《きらく》と|四方《しかた》|氏《し》は|四方山《よもやま》の|話《はなし》に|耽《ふけ》り|乍《なが》ら、|夜《よる》の|一時《いちじ》|頃《ごろ》になつて|漸《やうや》く|寝《しん》に|就《つ》いた。|朝《あさ》の|四時《よじ》|頃《ごろ》に|四方《しかた》|氏《し》は|目《め》を|覚《さ》まし|早《はや》くも|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》して|居《ゐ》た。|喜楽《きらく》は|其《その》|声《こゑ》に|目《め》を|覚《さ》まし、|慌《あわて》て|起《お》き|出《い》で|見《み》れば、|相変《あひかは》らず|車軸《しやぢく》を|流《なが》す|様《やう》な|大雨《おほあめ》である。|四方《しかた》|氏《し》は、
|四方《しかた》『|先生《せんせい》、お|目覚《めざ》めですか。|早《はや》うから|八釜《やかま》しく|申《まを》しましてお|目《め》を|覚《さ》まして|済《す》みませぬ。|昨夜《さくや》は|何《なん》とはなしに|気《き》が|欣々《いそいそ》しまして|一睡《いつすゐ》も|出来《でき》ませなんだ。|神様《かみさま》が|大変《たいへん》にお|勇《いさ》みだと|見《み》えます。|併《しか》し|乍《なが》ら|昨夜《さくや》から|引《ひ》き|続《つづ》いて|偉《えら》い|大雨《おほあめ》です。これでも|止《や》みませうかな』
と|心配《しんぱい》|相《さう》に|尋《たづ》ねる。|喜楽《きらく》は|一寸《ちよつと》|目《め》を|塞《ふさ》ぎ|伺《うかが》つて|見《み》て、
|喜楽《きらく》『|九時《くじ》になればカラリと|晴《は》れます。それまで、マアゆつくり|話《はなし》を|承《うけたまは》りませう。|貴方《あなた》は|綾部《あやべ》から|来《き》たといはれましたが、お|宅《うち》は|大変《たいへん》な|山家《やまが》の|様《やう》に|思《おも》ひますが|違《ちが》ひますか。|家《いへ》の|裏《うら》に|綺麗《きれい》な|水《みづ》が|湧《わ》いた|溜池《ためいけ》があり、|前《まへ》は|一尺《いつしやく》ばかりまはつた|枝振《えだぶ》りの|面白《おもしろ》き|松《まつ》の|樹《き》がある。さうして|少《すこ》し|右前《みぎまへ》の|方《はう》の|街道《かいだう》に|沿《そ》うて|小屋《こや》の|様《やう》なものがあり、|其処《そこ》に|菓子《くわし》なんかの|店《みせ》が|出《だ》してあり、|六十《ろくじふ》|位《くらゐ》のお|婆《ば》アサンが|見《み》えますが|違《ちが》ひますか』
と|尋《たづ》ねて|見《み》た。|四方《しかた》|氏《し》は|吃驚《びつくり》して、
|四方《しかた》『ハイ、|其《その》|通《とほ》りです。そんな|事《こと》までよく|見《み》えますか。あんたは、さうすると|稲荷《いなり》でも|使《つか》ふて|居《を》られるのですか』
と|不思議《ふしぎ》|相《さう》に|顔《かほ》を|覗《のぞ》く。|喜楽《きらく》は|首《くび》を|振《ふ》り、
|喜楽《きらく》『イエイエ、そんな|事《こと》はありませぬ。|霊学《れいがく》の|一部《いちぶ》、|天眼通《てんがんつう》で|見《み》たのです。|誰《たれ》でも|真心《まごころ》にさへなれば、|天眼通《てんがんつう》|位《くらゐ》は|直《すぐ》に|判《わか》る|様《やう》になりますよ』
|四方《しかた》『アヽそれで|安心《あんしん》しました。|私《わたし》は|金光教《こんくわうけう》の|古《ふる》い|信者《しんじや》で|御座《ござ》いましたが、こんな|処《ところ》から|五里《ごり》も|六里《ろくり》もある|処《ところ》が|見《み》える|様《やう》なものは、|狐《きつね》か|狸《たぬき》だと|金光教《こんくわうけう》の|先生《せんせい》が|云《い》ひました。モシ|先生《せんせい》が|綾部《あやべ》へ|行《い》つて、そんな|事《こと》でもなさらうものならサツパリ|狐使《きつねつか》ひだと|云《い》つて、ボツ|帰《かへ》されて|了《しま》ひますから、|綾部《あやべ》へ|御《お》いでになつたら、|其《その》|魔法《まはふ》だけは|暫《しばら》くやらぬ|様《やう》にして|下《くだ》さい。|疑《うたがひ》を|受《う》けては|貴方《あなた》の|御迷惑《ごめいわく》ですからなア』
|喜楽《きらく》『そんな|分《わか》らぬ|奴《やつ》ばかり|居《を》る|所《ところ》なら、もう|私《わたし》は|御免《ごめん》|蒙《かうむ》つてこれから|帰《かへ》りますワ』
|四方《しかた》『そんな|短気《たんき》を|出《だ》さずに|兎《と》も|角《かく》|教祖様《けうそさま》の|御内命《ごないめい》で|来《き》たのですから、|一度《いちど》|綾部《あやべ》を|見《み》ると|思《おも》ふて|来《き》て|下《くだ》さい。|此《この》|頃《ごろ》は|和知川《わちがは》の|鮎《あゆ》が|沢山《たくさん》にとれますから、|鮎《あゆ》|食《く》ひに|行《ゆ》くと|思《おも》うて、マアマア|兎《と》も|角《かく》|一遍《いつぺん》|来《き》て|下《くだ》さい。|私《わたし》も|今《いま》|此処《ここ》で|先生《せんせい》に|帰《かへ》られては|教祖様《けうそさま》に|対《たい》し|申訳《まをしわけ》が|御座《ござ》いませぬ』
|喜楽《きらく》『|第一《だいいち》|貴方《あなた》に|霊学《れいがく》を|諒解《りやうかい》して|貰《もら》ふておかなくてはなりませぬから、|狐《きつね》を|使《つか》ふか、|使《つか》はぬかと|云《い》ふ|事《こと》を|一遍《いつぺん》|此処《ここ》で|実地《じつち》を|見《み》せませう。さうして|貴方《あなた》に|承知《しようち》が|行《い》つたら|行《ゆ》く|事《こと》にしませう。そんな|処《ところ》まで|鮎《あゆ》|食《く》ひに|行《ゆ》かなくても|園部《そのべ》で|沢山《たくさん》ですから……』
|四方《しかた》『|私《わたし》の|様《やう》な|素人《しろうと》にでも、そんな|天眼通《てんがんつう》が|行《おこな》へますだらうか』
|喜楽《きらく》『マア|其処《そこ》に|坐《すわ》つて|目《め》を|塞《ふさ》ぎ、|両手《りやうて》を|組《く》んで|見《み》なさい』
|四方《しかた》『そんなら|頼《たの》みます』
と|四方《しかた》|氏《し》は|素直《すなほ》に|座敷《ざしき》の|真中《まんなか》に|正座《せいざ》し、|手《て》を|組《く》み|目《め》を|塞《ふさ》いだ。|喜楽《きらく》は、
|喜楽《きらく》『サアこれから|四方《しかた》サン、|天眼通《てんがんつう》を|授《さづ》けます。|今《いま》|私《わたし》が……ソレ|見《み》い……と|云《い》つたが|最後《さいご》、|何《なに》かの|姿《すがた》が|映《うつ》りますから、それを|話《はな》して|御覧《ごらん》……』
|四方《しかた》『ハイ……』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら、|一生懸命《いつしやうけんめい》に|目《め》を|塞《ふさ》ぎ|早《はや》くも|霊感者《れいかんしや》になつて、|少《すこ》し|鼻息《はないき》を|荒《あら》くし|体《からだ》をピリピリと|慄《ふる》はせて|居《ゐ》る。|喜楽《きらく》は、
『それ|見《み》い!』
と|大喝《だいかつ》|一声《いつせい》した。
|四方《しかた》『ハイ、|見《み》えました。|小《ちひ》さい|古《ふる》き|藁葺《わらぶき》の|家《いへ》が|一軒《いつけん》、|前横《まへよこ》の|方《はう》に|又《また》|一《ひと》つ|汚《きたな》い|家《いへ》があつて、|其処《そこ》に|美《うつく》しい|水《みづ》の|湧《わ》いた|池《いけ》があります。さうして|裏《うら》の|方《はう》には|榧《かや》の|木《き》や、|椋《むく》の|大木《たいぼく》が|見《み》えます。|細《ほそ》い|綺麗《きれい》な|河《かは》が|道《みち》の|下《した》を|流《なが》れて|居《ゐ》ます』
|喜楽《きらく》『アヽそれで|愈《いよいよ》|天眼通《てんがんつう》が|開《ひら》けました。それは|私《わたし》の|生《うま》れた|家《うち》ですよ。もう|宜《よろ》しい』
と|云《い》へば、|四方《しかた》|氏《し》は|組《く》んだ|手《て》を|離《はな》し|目《め》を|開《ひら》き、
|四方《しかた》『|何《なん》とマア、|結構《けつこう》な|神様《かみさま》ですな。イヤもう|感心《かんしん》|致《いた》しました。|流石《さすが》|教祖様《けうそさま》も|偉《えら》いわい。|多勢《おほぜい》の|役員《やくゐん》や|信者《しんじや》に|隠《かく》れてお|迎《むか》へして|来《こ》いと|仰有《おつしや》つた|丈《だ》けの|価値《ねうち》があります。こんな|事《こと》が|分《わか》れば、|三千世界《さんぜんせかい》|一度《いちど》に|見《み》え|透《す》くと|仰有《おつしや》る|神様《かみさま》の|御用《ごよう》が|充分《じゆうぶん》に|勤《つと》まりませう』
と|無性《むしやう》|矢鱈《やたら》に|喜《よろこ》んで|居《を》る。それから|病気《びやうき》の|伺《うかが》ひや|天眼通《てんがんつう》の|試験《しけん》を|色々《いろいろ》として、|四方《しかた》|氏《し》に|先《ま》づ|霊学《れいがく》の|尊《たふと》い|事《こと》を|悟《さと》つて|貰《もら》ひ、|朝飯《あさめし》を|食《く》ひ|愈《いよいよ》これから|出立《しゆつたつ》しようとする|時《とき》、さしもの|大雨《おほあめ》もピタリと|止《と》まり、ガンガンと|日本晴《にほんば》れの|空《そら》に|太陽《たいやう》が|照《て》り|輝《かがや》き|出《だ》した。|四方《しかた》|氏《し》は、
|四方《しかた》『ヤア、|仰有《おつしや》つた|通《とほ》り|九時《くじ》になつたらカラリと|霽《は》れました。ほんに|霊学《れいがく》と|云《い》ふものは|結構《けつこう》なものですな。これから|綾部《あやべ》へ|帰《かへ》りましたら、|金光教《こんくわうけう》の|先生《せんせい》や|役員《やくゐん》どもが|愚図々々《ぐづぐづ》|云《い》ふと|面倒《めんだう》で|御座《ござ》いますから、ソツと|裏町《うらまち》の|教祖《けうそ》さまの|宅《たく》へ|参《まゐ》りませう』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら|六里《ろくり》の|山坂《やまさか》を|越《こ》えて|其《その》|日《ひ》の|午後《ごご》|四時《よじ》|頃《ごろ》、|漸《やうや》くにして|裏町《うらまち》の|教祖《けうそ》の|宅《たく》へ|安着《あんちやく》した。
|誰《たれ》が|喋《しやべ》つたのか|早《はや》くも|信者《しんじや》の|四方《しかた》|与平《よへい》、|黒田《くろだ》|清子《きよこ》、|四方《しかた》すみ|子《こ》、|塩見《しほみ》じゆん|子《こ》を|始《はじ》め|七八人《しちはちにん》の|信者《しんじや》が|集《あつ》まつて|来《き》て、
『|平蔵《へいざう》サン、|結構《けつこう》な|御神徳《おかげ》を|頂《いただ》きなさつた。よい|先生《せんせい》を|迎《むか》へて|来《き》て|下《くだ》さいました』
などと|喜《よろこ》び|勇《いさ》み、|金光教《こんくわうけう》の|旧信者《きうしんじや》へ|通知《つうち》に|各自《めいめい》|廻《まは》つて|了《しま》つた。|此《この》|勢《いきほひ》に|足立《あだち》|正信《まさのぶ》|氏《し》は|吃驚《びつくり》して|中村《なかむら》|竹造《たけざう》を|裏町《うらまち》へ|遣《つか》はし、|色々《いろいろ》と|水《みづ》をさし|妨害《ばうがい》を|加《くは》へた。されど|出口《でぐち》|教祖《けうそ》を|始《はじ》め、|四方《よも》|平蔵《へいざう》|氏《し》の|勢《いきほひ》があんまり|猛烈《まうれつ》なので、|到頭《たうとう》|中村《なかむら》|竹造《たけざう》も|我《が》を|折《を》り|教祖《けうそ》の|命《めい》に|服従《ふくじゆう》して|了《しま》つた。
|四方《しかた》|源之助《げんのすけ》、|西岡《にしをか》|弥吉《やきち》、|西村《にしむら》|文右衛門《ぶんうゑもん》、|村上《むらかみ》|清次郎《せいじらう》、|西村《にしむら》|庄太郎《しやうたらう》、|四方《しかた》|伊左衛門《いざゑもん》|等《など》と|云《い》ふ|世話係《せわがかり》は|裏町《うらまち》の|宅《たく》へ|集《あつ》まり|来《き》たり、|平蔵《へいざう》|氏《し》と|教祖《けうそ》の|説明《せつめい》によつて|非常《ひじやう》に|共鳴《きようめい》し、|艮金神様《うしとらのこんじんさま》の|金《きん》の|字《じ》をとり、|日《ひ》の|大神様《おほかみさま》、|月《つき》の|大神様《おほかみさま》の|月日《つきひ》を|合《あは》せて|金明会《きんめいくわい》と|云《い》ふ|団体《だんたい》を|組織《そしき》し、|信者《しんじや》は|日《ひ》に|夜《よ》に|遠近《ゑんきん》より|集《あつ》まり|来《きた》り、|裏町《うらまち》の|狭《せま》い|倉《くら》の|中《なか》では|身動《みうご》きもならぬやうになつたので、|本町《ほんまち》の|中村《なかむら》|竹造《たけざう》の|本宅《ほんたく》へ|金明会《きんめいくわい》を|移《うつ》して|了《しま》つた。|四方《しかた》|氏《し》は|得意《とくい》の|天眼通《てんがんつう》を|振《ふ》りまはし|神占《しんせん》をしたり、|病気《びやうき》|平癒《へいゆ》を|祈《いの》つたりして|非常《ひじやう》な|人気《にんき》である。|只《ただ》の|一回《いつくわい》|位《くらゐ》、|霊学《れいがく》を|教《をし》へて|貰《もら》ふて、|四方《しかた》|平蔵《へいざう》サンはあれ|丈《だ》け|御神徳《おかげ》を|貰《もら》ふたのだから、|修行《しうぎやう》さへしたら|誰《たれ》でも|神徳《しんとく》が|頂《いただ》けるだらうと、|幽斎《いうさい》|修行《しうぎやう》の|希望者《きばうしや》が|瞬《またた》く|内《うち》に|二十人《にじふにん》あまりも|出来《でき》て|来《き》た。|喜楽《きらく》は|向側《むかうがは》の|西村《にしむら》|庄兵衛《しやうべゑ》と|云《い》ふ|信者《しんじや》の|裏《うら》の|離家《はなれや》を|借《か》つて|其処《そこ》に|寝泊《ねとま》りをしたり、|世話方《せわかた》に|色々《いろいろ》と|神《かみ》の|話《はなし》を|聞《き》かして|居《ゐ》た。|金光《こんくわう》|教会《けうくわい》の|足立《あだち》|正信《まさのぶ》|氏《し》は|最早《もはや》|策《さく》の|施《ほどこ》すべき|所《ところ》なく、|村上《むらかみ》|清次郎《せいじろう》、|中村《なかむら》|竹造《たけざう》、|四方《しかた》すみ、|塩見《しほみ》じゆん、|黒田《くろだ》|清《きよ》などの|宅《たく》を|訪問《はうもん》して、いろいろの|反対《はんたい》|運動《うんどう》を|試《こころ》みたけれども、|到底《たうてい》|効《かう》を|奏《そう》する|事《こと》が|出来《でき》なくなつて|来《き》た。
|教祖《けうそ》は|足立《あだち》|氏《し》の|境遇《きやうぐう》を|気《き》の|毒《どく》に|思《おも》ひ、|小遣銭《こづかいせん》や|米《こめ》|等《など》を|贈《おく》つて|金光教《こんくわうけう》を|脱退《だつたい》し、|教祖《けうそ》の|教《をしへ》に|従《したが》へと|信者《しんじや》を|交《かは》る|交《がは》る|遣《つか》はして|勧《すす》められた。けれども|足立《あだち》|氏《し》は|頑固《ぐわんこ》として|応《おう》ぜず、|陰《いん》に|陽《やう》に|反対《はんたい》の|気勢《きせい》を|挙《あ》げ、
|足立《あだち》『|上田《うへだ》と|云《い》ふ|狐使《きつねつか》ひをこんな|処《ところ》へ|引張《ひつぱ》つて|来《き》て、|山子《やまこ》を|始《はじ》め|出《だ》したから|騙《だま》されない|様《やう》にせよ』
と|中村《なかむら》|竹造《たけざう》や|村上《むらかみ》|房之助《ふさのすけ》|等《など》を|遠近《ゑんきん》の|信者《しんじや》の|宅《たく》に|遣《つか》はし、|色々《いろいろ》と|非難《ひなん》|攻撃《こうげき》を|始《はじ》めた。|中村《なかむら》は|自分《じぶん》の|家《うち》を|金明会《きんめいくわい》へ|貸《か》しておき|乍《なが》ら、|足立《あだち》の|命令《めいれい》に|従《したが》つて|反対《はんたい》|運動《うんどう》を|昼夜《ちうや》の|区別《くべつ》なくやつて|居《ゐ》た。|併《しか》し|乍《なが》ら|時《とき》の|勢《いきほひ》には|抗《かう》すべくもあらず、|一人《ひとり》も|信者《しんじや》が|行《ゆ》かなくなり、|手《て》も|足《あし》もまはらぬ|破目《はめ》に|足立《あだち》|氏《し》は|陥《おちい》つて|了《しま》つた。そこで|止《や》むを|得《え》ず|足立《あだち》|氏《し》は|我《が》を|折《お》つて、
|足立《あだち》『|何卒《どうぞ》|改心《かいしん》するから|金明会《きんめいくわい》へ|使《つか》つて|下《くだ》さい』
と|頼《たの》みに|来《き》た。|金明会《きんめいくわい》の|役員連《やくゐんれん》は|速《すみやか》に|協議会《けふぎくわい》を|開《ひら》いた|結果《けつくわ》、
『|足立《あだち》|正信《まさのぶ》|氏《し》は|信者《しんじや》の|受《う》けも|悪《わる》し、○○や○○と|醜関係《しうくわんけい》をつけ、|神《かみ》の|名《な》を|汚《けが》して|居《を》るから、|此《この》|際《さい》|絶対《ぜつたい》に|金明会《きんめいくわい》へ|這入《はい》る|事《こと》は|謝絶《しやぜつ》するがよい』
と|云《い》ふ|事《こと》に|協議《けふぎ》が|纏《まと》まつて|了《しま》つた。|足立《あだち》|氏《し》が|尾《を》を|振《ふ》つて|来《き》たのは、|心《こころ》の|裡《うち》から|金明会《きんめいくわい》へ|心従《しんじゆう》して|居《ゐ》るのではない。|老母《らうぼ》や|子供《こども》が|忽《たちま》ち|糊口《ここう》に|窮《きう》する|処《ところ》から、|一時《いちじ》の|窮策《きうさく》として|表面《へうめん》|心従《しんじう》したと|見《み》せかけ|時機《じき》を|見《み》て|金明会《きんめいくわい》を|転覆《てんぷく》させ、|喜楽《きらく》|先生《せんせい》を|放《ほ》り|出《だ》す|計略《けいりやく》なる|事《こと》は、|今迄《いままで》の|足立《あだち》|氏《し》の|行動《かうどう》に|徴《ちよう》して|明白《めいはく》だから、|今度《こんど》の|好《よ》い|機会《きくわい》を|幸《さいは》ひに|一切《いつさい》の|関係《くわんけい》を|絶《た》つ|方《はう》が|上分別《じやうふんべつ》だと、|今《いま》まで|同氏《どうし》の|熱心《ねつしん》な|教養《けうやう》をうけたものさへ、|極力《きよくりよく》|排斥《はいせき》を|主張《しゆちやう》する|様《やう》になつて|来《き》た。|喜楽《きらく》は|足立《あだち》|氏《し》の|境遇《きやうぐう》を|憐《あは》れみ、|且《かつ》|又《また》|今迄《いままで》|金光教《こんくわうけう》を|信《しん》じて|居《ゐ》た|役員《やくゐん》や|信者《しんじや》の|人情《にんじやう》の|浮薄《ふはく》|冷酷《れいこく》なるに|呆《あき》れ|果《は》て、
『|今日《けふ》は|人《ひと》の|身《み》の|上《うへ》、|明日《あす》は|吾《わ》が|身《み》の|上《うへ》と|云《い》ふ|事《こと》がある。こんな|薄情《はくじやう》な|人間《にんげん》の|処《ところ》へ|居《を》つては|到底《たうてい》|駄目《だめ》だ。|自分《じぶん》さへ|此処《ここ》を|立《た》ち|去《さ》つたならば|足立《あだち》|氏《し》|親子《おやこ》の|困難《こんなん》は|除《のぞ》かれるだらう。|世人《よびと》の|困難《こんなん》を|救《すく》ふべき|神《かみ》の|取次《とりつぎ》が|人《ひと》を|困《こま》らせてはならない』
と|思《おも》つたから、|四方《しかた》|氏《し》を|始《はじ》め|重《おも》なる|役員《やくゐん》に|向《むか》ひ、
|上田《うへだ》『|私《わたし》が|此処《ここ》へ|来《き》たために、|足立《あだち》|氏《し》|親子《おやこ》が|困難《こんなん》を|来《きた》すべき|結果《けつくわ》を|生《しやう》じたのだから、|私《わたし》は|同氏《どうし》に|対《たい》して|済《す》まないから|今日《けふ》から|帰《かへ》ります。|何卒《どうぞ》|足立《あだち》|氏《し》と|仲良《なかよ》うして|神様《かみさま》の|御用《ごよう》をして|下《くだ》さい』
と|申《まを》し|込《こ》んだ。そこで|数多《あまた》の|役員《やくゐん》は|大《おほい》に|狼狽《らうばい》し、|鳩首《きうしゆ》|謀議《ぼうぎ》の|結果《けつくわ》、
『|足立《あだち》|氏《し》の|処置《しよち》に|就《つ》いては|上田《うへだ》|先生《せんせい》に|一任《いちにん》しますから、|是非《ぜひ》とも|教祖様《けうそさま》の|側《そば》に|居《ゐ》て、|大本《おほもと》の|宣伝《せんでん》に|力《ちから》を|尽《つく》して|下《くだ》され』
と|異口同音《いくどうおん》に|頼《たの》み|込《こ》む。
そこで|喜楽《きらく》は|足立《あだち》|氏《し》を|金明会《きんめいくわい》の|副会長《ふくくわいちやう》に|任《にん》じ、|金明会《きんめいくわい》の|名《な》の|許《もと》に|仲良《なかよ》く|神務《しんむ》に|奉仕《ほうし》する|事《こと》となつた。|出口《でぐち》|教祖《けうそ》も|足立《あだち》|氏《し》の|身《み》の|上《うへ》につき|心《こころ》|密《ひそ》かに|非常《ひじやう》な|心痛《しんつう》をして|居《を》られたが、|喜楽《きらく》の|同情《どうじやう》ある|処置《しよち》に|対《たい》し、|非常《ひじやう》に|安心《あんしん》をしたと|云《い》つて|感謝《かんしや》せられた。|足立《あだち》|氏《し》は|大変《たいへん》に|喜《よろこ》び、|役員《やくゐん》|信者《しんじや》も|喜楽《きらく》の|赤誠《せきせい》に|感《かん》じ、|直《ただち》に|今迄《いままで》の|態度《たいど》を|改《あらた》め、|教祖《けうそ》に|次《つ》いで|喜楽《きらく》を|師匠《ししやう》と|尊敬《そんけい》し|出《だ》した。|一時《いちじ》は|大争乱《だいそうらん》が|勃発《ぼつぱつ》しさうの|模様《もやう》のあつた|金光教《こんくわうけう》|対《たい》|金明会《きんめいくわい》も、|茲《ここ》に|円満《ゑんまん》な|解決《かいけつ》が|出来《でき》て、|双方《さうはう》とも|心持《こころもち》|克《よ》く|勇《いさ》んで|和合《わがふ》の|裡《うち》に|神様《かみさま》の|御用《ごよう》に|尽《つく》す|事《こと》を|得《え》たのである。
(大正一一・一〇・一二 旧八・二二 北村隆光録)
第二二章 |大僧坊《だいそうばう》〔一〇三四〕
|喜楽《きらく》の|入綾《にふれう》に|先立《さきだ》ち|茲《ここ》に|一《ひと》つの|珍話《ちんわ》がある。|明治《めいぢ》|三十一年《さんじふいちねん》の|八月《はちぐわつ》、|八木《やぎ》の|福島《ふくしま》|氏《し》に|二三回《にさんくわい》|頼《たの》まれて、|園部《そのべ》|黒田《くろだ》の|会合所《くわいがふしよ》から、はるばると|山坂《やまさか》を|越《こ》え、|参綾《さんれう》して|教祖《けうそ》に|面会《めんくわい》し、|四方《しかた》すみ|子《こ》、|黒田《くろだ》きよ|子《こ》、|四方《しかた》|与平《よへい》|氏《し》などの|大賛成《だいさんせい》を|得《え》、|出口教祖《でぐちけうそ》と|共《とも》に、|艮《うしとら》の|金神様《こんじんさま》のお|道《みち》を|広《ひろ》めようとした|時《とき》、|足立氏《あだちし》や|中村氏《なかむらし》の|猛烈《まうれつ》なる|反対《はんたい》に|遭《あ》ひ、|教祖《けうそ》より……|時機《じき》|尚《なほ》|早《はや》し、|何《いづ》れ|神様《かみさま》の|御仕組《おしぐみ》だから、|時節《じせつ》を|待《ま》つて|御世話《おせわ》になりますから、|一先《ひとま》づ|帰《かへ》つて|下《くだ》さい……と|云《い》はれて、|是非《ぜひ》なく|園部《そのべ》|黒田《くろだ》の|会合所《くわいがふしよ》へ|帰《かへ》り、それよりあちら|此方《こちら》と|宣伝《せんでん》に|従事《じうじ》して|居《ゐ》た。
|黒田《くろだ》を|発《た》つて|北桑田《きたくはだ》の|方面《はうめん》へ|布教《ふけう》を|試《こころ》みようと|思《おも》ひ、|五箇庄村《ごかしやうむら》の|四谷《よつや》の|少《すこ》し|手前《てまへ》の、|二十軒《にじつけん》ばかりの|村《むら》に|差《さし》かかつた。|日《ひ》もソロソロ|黄昏時《たそがれどき》、どこかに|適当《てきたう》の|宿《やど》を|求《もと》めようかと|懐中《くわいちゆう》を|探《さぐ》つて|見《み》れば、|懐《ふところ》にはたつた|二十銭《にじつせん》しかない。……ママよ、|困《こま》つたら|野宿《のじゆく》をしてやらう……と|腹《はら》をきめて|疲《つか》れた|足《あし》を|引《ひき》ずつて|行《ゆ》くと、|山《やま》から|粗朶《そだ》をかついで|帰《かへ》りて|来《く》る|二三人《にさんにん》の|村人《むらびと》と|途伴《みちづ》れになつた。ゆくゆく|下《くだ》らぬ|話《はなし》をしてゐる|内《うち》にも、|話《はなし》は|自然《しぜん》|病人《びやうにん》のことや|憑者《つきもの》のことに|移《うつ》つて|行《い》つた。さうすると|其《その》|中《なか》の|一人《ひとり》が、
『あなたは|憑者《つきもの》をおとす|御方《おかた》ですか、|随分《ずゐぶん》|誓願寺《せいぐわんじ》の|祈祷《きたう》|坊主《ばうず》や|稲荷下《いなりさ》げが|来《き》ますけれど、|中々《なかなか》おちぬものです。|此《この》|村《むら》にも|不思議《ふしぎ》な|憑者《つきもの》で|困《こま》つて|居《ゐ》る|者《もの》があります』
と|朴訥《ぼくとつ》な|村人《むらびと》は、|行手《ゆくて》に|見《み》える|道《みち》の|左側《ひだりがは》の|可成《かな》り|大《おほ》きな|一棟《ひとむね》の|家《いへ》を|指《さ》し|乍《なが》ら、
『あすこの|爺《おやぢ》は|小林《こばやし》|貞蔵《ていざう》といひますが、どういふ|訳《わけ》か、|十五六年前《じふごろくねんぜん》から、|腹《はら》の|中《なか》から|大《おほ》きな|声《こゑ》が|出《で》る|病気《びやうき》で、|本人《ほんにん》の|知《し》らぬことをズンズンと|喋《しやべ》り|立《た》てます。|貞蔵《ていざう》サンは|何《なん》とかして|声《こゑ》の|出《で》ない|様《やう》にと|骨《ほね》を|折《お》るのだが、|何《ど》うしても|止《とま》らぬのが|不思議《ふしぎ》ですよ。|最初《さいしよ》の|間《あひだ》は|自分《じぶん》から|大変《たいへん》に|警戒《けいかい》をしてゐましたが|腹《はら》の|中《なか》の|憑者《つきもの》は……おれは|立派《りつぱ》な|神《かみ》さまだ……と|名《な》のるのを、いつのまにやら|信《しん》じて|了《しま》ひ、|其《その》|声《こゑ》の|指《さ》し|図《づ》|通《どほ》りに|相場《さうば》をしましたが|失敗《しつぱい》の|基《もと》で、|田舎《いなか》では|可《か》なりの|財産《ざいさん》を|大方《おほかた》なくして|了《しま》ひました。|只今《ただいま》では|駄菓子《だぐわし》の|小売《こうり》をしたり、ボロ|材木屋《ざいもくや》をして|暮《くら》してゐますが、|腹《はら》の|声《こゑ》はまだ|止《や》まず、いろいろ|雑多《ざつた》とつまらぬことを|喋《しやべ》るので、|貞蔵《ていざう》サンもこれには|持《も》て|余《あま》してゐます』
と|何気《なにげ》なく|喋《しやべ》り|立《た》てる。|喜楽《きらく》は|心《こころ》の|中《うち》で、……|今夜《こんや》のおれの|御宿坊《ごしゆくばう》はここだなア……と|自分《じぶん》ぎめにきめて|了《しま》ひ、|何《なに》|食《く》はぬ|顔《かほ》して|其《その》|家《いへ》の|店先《みせさき》へ|行《い》つて|見《み》ると、|一文菓子《いちもんぐわし》が|少《すこ》し|計《ばか》り|並《なら》べてあり、|店先《みせさき》には|五十《ごじふ》|計《ばか》りの|額口《ひたひぐち》のバカに|光《ひか》つた、|鼻《はな》の|高《たか》い|丸顔爺《まるがほおやぢ》が、|厭《いや》らしい|笑《ゑみ》を|湛《たた》へてすわつてゐた。|喜楽《きらく》は、
|喜楽《きらく》『|一寸《ちよつと》|休《やす》ませて|下《くだ》さい』
と|縁側《えんがは》に|腰《こし》を|卸《おろ》して、ムシヤムシヤと|駄菓子《だぐわし》をつまんで|食《く》ひ|出《だ》した。|五銭《ごせん》|十銭《じつせん》|十五銭《じふごせん》と|菓子《くわし》を|平《たひら》げ、|貧弱《ひんじやく》な|菓子箱《くわしばこ》はモウそれでおしまひになつて|了《しま》つた。|爺《おやぢ》は|呆《あき》れて|喜楽《きらく》の|顔《かほ》を|見《み》つめて|居《ゐ》た。|喜楽《きらく》は、
|喜楽《きらく》『お|菓子《くわし》はこれで|品切《しなぎ》れですか、せめてモウ|一円《いちゑん》|計《ばか》り|食《く》ひたいものだ』
といつた。|爺《おやぢ》はますます|呆《あき》れ、|丸《まる》い|目《め》を|剥《む》き|出《だ》し、
|爺《おやぢ》『お|前《まへ》サン、|何《なん》とマアお|菓子《くわし》の|好《す》きな|方《かた》ですな。|何《ど》うしてそないに|沢山《たくさん》あがられますか、お|腹《なか》が|悪《わる》うなりますで……』
と|注意顔《ちういがほ》に|云《い》ふ。
|喜楽《きらく》『わしが|食《た》べるのぢやない、わしは|元来《ぐわんらい》|菓子《くわし》は|嫌《いや》だが、|皆《みな》|私《わたし》に|憑《つ》いてゐる|副守護神《ふくしゆごじん》が|食《た》べるのぢや。サアお|金《かね》を|取《と》つて|下《くだ》さい!』
と|後生《ごしやう》|大事《だいじ》に|持《も》つて|居《ゐ》た|身上《しんじやう》ありぎりの|二十銭《にじつせん》|銀貨《ぎんくわ》をポンと|放《ほ》り|出《だ》した。
『ヘー』
と|爺《おやぢ》は|益《ますま》す|目玉《めだま》をまん|丸《まる》うして、
|爺《おやぢ》『あんたにもヤツパリ|憑者《つきもの》がゐますか、ふしぎな|事《こと》もあるものぢやなア。|私《わたし》もドテライ|憑者《つきもの》が|居《を》つて、|困《こま》りますのぢや』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら、|自分《じぶん》の|身《み》の|上《うへ》を|打《うち》あけて、|果《は》ては、
|爺《おやぢ》『どうぞ|此《この》|憑者《つきもの》を|退《の》かして|頂《いただ》く|訳《わけ》には|行《ゆ》きますまいか』
と|憑霊《つきもの》|退散《たいさん》の|相談《さうだん》を|持《も》ちかけて|来《き》た。|喜楽《きらく》はヤツと|安心《あんしん》して|爺《ぢい》の|勧《すす》むる|儘《まま》に、|家《いへ》に|上《あが》りこんで、|夕飯《ゆふはん》を|頂《いただ》き、そしてソロソロ|鎮魂帰神《ちんこんきしん》の|法《はふ》を|実施《じつし》する|段取《だんどり》となつた。
|喜楽《きらく》は|審神者《さには》となり|爺《おやぢ》は|神主《かむぬし》となり、|主客《しゆきやく》|相対坐《あひたいざ》して|奥座敷《おくざしき》にすわり、|懐《ふところ》から|神笛《しんてき》を|出《だ》して、ヒユーヒユーヒユーと|吹《ふ》き|立《た》て、|天《あま》の|数歌《かずうた》を|二回《にくわい》|唱《とな》へ|上《あ》げ、『ウン!』と|力《ちから》をこめるや|否《いな》や、|元来《ぐわんらい》ういてゐた|霊《れい》の|事《こと》だから、ワケもなく|大発動《だいはつどう》を|始《はじ》めた。|其《その》|発動《はつどう》|状態《じやうたい》が|頗《すこぶ》る|奇抜《きばつ》なもので、|青《あを》い|鼻汁《はな》が|盛《さかん》に|出《で》る。ズルズルズル ポトポトと|際限《さいげん》なく|膝《ひざ》の|上《うへ》に|落《お》ちる。|爺《おぢい》サンはしきりにそれを|気《き》にして、|組《く》んで|居《ゐ》た|手《て》を|放《はな》して、|懐《ふところ》から|紙《かみ》を|出《だ》して、チヨイ チヨイと|拭《ふ》きにかかる、|又《また》|手《て》を|組《く》む、ズルズルと|鼻汁《はなじる》が|出《で》る、|爺《おぢい》は|手《て》をはなして、
|爺《おやぢ》『|一寸《ちよつと》|先生《せんせい》|失礼《しつれい》』
といひ|乍《なが》ら、|懐《ふところ》から|紙《かみ》を|出《だ》してツンとかむ、そして|又《また》|手《て》を|組《く》む、|鼻汁《はな》がツルツルと|出《で》る、|又《また》|手《て》を|放《はな》し、|懐《ふところ》の|紙《かみ》を|出《だ》してハナを|拭《ぬぐ》く。そして|大《おほ》きな|声《こゑ》で、
『ヴエー』
と|唸《うな》り、うなつた|拍子《へうし》に、|口《くち》が|細《ほそ》く|長《なが》くへの|字《じ》になる。|五六回《ごろくくわい》もこんな|事《こと》を|繰返《くりかへ》すのを、|黙《だま》つて|見《み》て|居《ゐ》たが、|霹靂一声《へきれきいつせい》、
『コラツ!』
と|喜楽《きらく》は|大喝《たいかつ》してみた。|爺《おやぢ》は|此《この》|声《こゑ》に|驚《おどろ》いて、|一尺《いつしやく》|許《ばか》り|手《て》を|組《く》んだ|儘《まま》|飛上《とびあが》つた。
|喜楽《きらく》『モウ|鼻汁《はな》をふく|事《こと》は|相《あひ》|成《な》らぬ。|何神《なにがみ》か|名《な》を|名乗《なの》れ!』
と|問《と》ひ|詰《つ》めた。|爺《ぢい》サンの|鼻汁《はな》は|依然《いぜん》として、|遠慮会釈《ゑんりよゑしやく》もなくツルツルと|流《なが》れおつる。|拭《ふ》く|事《こと》を|禁《きん》ぜられたので、|鼻汁《はな》が|連絡《れんらく》して|了《しま》ひ、|鼻《はな》の|穴《あな》から|膝《ひざ》まで、つららのやうに|垂《た》れさがる。|喜楽《きらく》は|委細《ゐさい》かまはず、たたみかけて、
|喜楽《きらく》『|早《はや》く|名《な》を|言《い》へ、|早《はや》く|早《はや》く』
とせき|立《た》つれば、|爺《おやぢ》の|憑霊《ひようれい》は|肘《ひぢ》をはり、|口《くち》をへの|字《じ》に|結《むす》び、しかつめらしく、
|爺《おやぢ》『オーオ、|俺《おれ》は、|俺《おれ》は……のう』
と|腹《はら》の|底《そこ》から|途方《とはう》|途轍《とてつ》もない|高《たか》い|声《こゑ》が|湧《わ》いて|来《く》る。そして|又《また》、
|爺《おやぢ》『おれはおーれはのう、おれはのう』
と|連続的《れんぞくてき》に『|俺《おれ》は』を|続《つづ》けてゐる。
|喜楽《きらく》『なんぢや|辛気《しんき》くさい、|其《その》|先《さき》を|言《い》へ』
|爺《おやぢ》『|俺《おれ》はのう、ウツフン、アツハヽヽヽ』
|喜楽《きらく》『|早《はや》く|名乗《なの》らぬか、|同《おな》じ|事《こと》|許《ばか》り、|何《なん》べんも|何《なん》べんも、くり|返《かへ》しよつて、|辛気《しんき》くさいワイ』
|爺《おやぢ》『オヽヽ|俺《おれ》はのう、|俺《おれ》はのう、クヽヽヽ|鞍馬山《くらまやま》のダヽヽヽヽヽ|大僧坊《だいそうばう》だワイ』
と|芝居《しばゐ》がかりの|大音声《だいおんぜう》、
|喜楽《きらく》『フヽン、|何《なに》を|吐《ぬか》すのだ。|鞍馬山《くらまやま》には|大僧正《だいそうじやう》なら|居《ゐ》るが、|大僧坊《だいそうばう》などと|言《い》ふ|天狗《てんぐ》がゐるものか、|有《あり》のままに|白状《はくじやう》せい。|果《はた》して|鞍馬山《くらまやま》の|天狗《てんぐ》なれば、|鞍馬山《くらまやま》の|地理《ちり》|位《ぐらゐ》は|知《し》つてゐるだろ。|鞍馬山《くらまやま》は|何《なん》といふ|国《くに》の|山《やま》だ』
|爺《おやぢ》『アツハヽヽヽア、バカバカバカ、|馬鹿者《ばかもの》|奴《め》! |鞍馬山《くらまやま》の|所在《ありか》が|知《し》れぬ|様《やう》な|事《こと》で、|審神者《さには》を|致《いた》すなぞとは|片腹痛《かたはらいた》いワイ。|知《し》らな、|云《い》つて|聞《き》かさうか、|山城《やましろ》の|国《くに》の|乙訓郡《おとくにぐん》であるぞよ』
|喜楽《きらく》『|鞍馬山《くらまやま》は|乙訓郡《おとくにぐん》ではないぞ。|自分《じぶん》の|居《ゐ》る|所《ところ》さへ|分《わか》らぬ|様《やう》な|者《もの》が、|鞍馬山《くらまやま》の|大僧坊《だいそうばう》とは|駄法螺《だぼら》を|吹《ふ》くにも|程《ほど》がある。|其《その》|方《はう》は|擬《まが》ふ|方《かた》なき|野天狗《のてんぐ》であらうがなア』
|爺《おやぢ》『|見破《みやぶ》られたか、|残念《ざんねん》やな、クヽヽ|口惜《くちをし》やなア』
と|鼻汁《はな》|天狗《てんぐ》は|飽《あ》くまで|芝居《しばゐ》|気取《きど》りで、|切《き》り|口上《こうじやう》で|呶鳴《どな》つてゐる。
|喜楽《きらく》『|畏《おそ》れ|入《い》つたか、|貴様《きさま》はヤツパリ|野天狗《のてんぐ》であらうがなア』
|爺《おやぢ》『オヽオウ、|俺《おれ》は|俺《おれ》は、ヤツパリ|野天狗《のてんぐ》であつたワエ』
|言《い》ひも|終《をは》らず、|爺《おやぢ》の|体《からだ》は|宙《ちう》に|浮《う》かんで、|静坐《せいざ》せる|審神者《さには》の|頭《あたま》の|上《うへ》を、|前後左右《ぜんごさいう》|縦横《じうわう》|自在《じざい》にかけり|出《だ》した。そして|隙《すき》をねらつて、|目玉《めだま》のあたりを|足《あし》げにせうとの|魂胆《こんたん》、|実《じつ》に|険呑《けんのん》|至極《しごく》であつた。|乍併《しかしながら》これしきの|事《こと》にビクツク|様《やう》では|審神者《さには》の|役《やく》はつとまらないと、|咄嗟《とつさ》に|組《く》んだ|手《て》をといて|右《みぎ》の|人差指《ひとさしゆび》に|霊《れい》をかけ、|爺《おやぢ》の|体《からだ》に|向《む》けて、|喜楽《きらく》は|指先《ゆびさき》を|右《みぎ》に|一回転《いつくわいてん》した。それに|従《したが》つてクルリと|爺《おやぢ》の|体《からだ》は|宙《ちう》に|浮《う》かんだまま、|鼻汁《はな》|迄《まで》が|円《ゑん》を|描《ゑが》いて、|右《みぎ》に|一回転《いつくわいてん》する。|続《つづ》いて|指《ゆび》を|左《ひだり》にまはせば、|爺《おやぢ》の|体《からだ》はそれにつれて|左《ひだり》に|一回転《いつくわいてん》する。|指《ゆび》をクルクルクルと|間断《かんだん》なくまはせば、|爺《おやぢ》の|体《からだ》もクルクルクルとまるで|風車《かざぐるま》|其《その》ままであつた。|此《この》|荒料理《あられうり》には|流石《さすが》の|野天狗《のてんぐ》も|往生《わうじやう》したと|見《み》え、|全身《ぜんしん》|綿《わた》の|如《ごと》く|疲《つか》れ|切《き》つてヘトヘトになり、とうとう|畳《たたみ》に|平太《へた》ばつて|了《しま》つた。そして|切《しき》りに|首《くび》をふり|乍《なが》ら、|顔《かほ》を|畳《たたみ》にひつつけた|儘《まま》、
|爺《おやぢ》『|一切《いつさい》|白状《はくじやう》|致《いた》します、|御免《ごめん》|下《くだ》さいませ。モウ|斯《か》うなれば|隠《かく》しても|駄目《だめ》だから……』
と|以前《いぜん》の|権幕《けんまく》はどこへやら、|猫《ねこ》に|追《お》はれた|鼠《ねずみ》のやうにちぢこまつた。|喜楽《きらく》の|質問《しつもん》につれ|逐一《ちくいち》|自白《じはく》したが、それはザツと|左《さ》の|通《とほ》りであつた。
『|此《この》|爺《おやぢ》の|叔父《をぢ》に|一人《ひとり》の|財産家《ざいさんか》があつた。それを|此《この》|爺《おやぢ》が|十四五年前《じふしごねんぜん》、|悪辣《あくらつ》なる|手段《しゆだん》でたらしこみ、|財産《ざいさん》|全部《ぜんぶ》を|横領《わうりやう》して|了《しま》つた。|叔父《をぢ》は|憤怒《ふんど》と|煩悶《はんもん》の|余《あま》り、|精神《せいしん》に|虚隙《すき》が|出来《でき》、|其《その》|結果《けつくわ》|野天狗《のてんぐ》につかれ、とうとう|山奥《やまおく》にいつて|首《くび》を|縊《くく》つて|往生《わうじやう》して|了《しま》つた。|死骸《しがい》は|永《なが》らく|見《み》つからず、|二三年《にさんねん》してから|白骨《はくこつ》となつて、|山《やま》の|奥《おく》にころがつてゐた。|余《あま》りの|悔《くや》しさ|残念《ざんねん》さに、|叔父《をぢ》の|亡霊《ばうれい》は|此《この》|爺《おやぢ》が|酒《さけ》にくらひ|酔《よ》うて、|道傍《みちばた》に|倒《たふ》れてる|隙《すき》を|考《かんが》へ、|野天狗《のてんぐ》と|一所《いつしよ》に|憑依《ひようい》し、そして|鞍馬山《くらまやま》の|大僧坊《だいそうばう》と|偽《いつは》り、|米《こめ》が|非常《ひじやう》に|下《さ》がるから|早《はや》く|相場《さうば》をして|売《うり》にかかれ、|大変《たいへん》な|金《かね》を|儲《まう》けさしてやると|云《い》ふので、|売方《うりかた》になると|米《こめ》が|段々《だんだん》と|上《あ》がつて|来《く》る。|今度《こんど》は|又《また》|米《こめ》があがるから|買方《かひかた》になれと|云《い》ふので、|其《その》|通《とほ》りやつて|見《み》ると、|大変《たいへん》な|大下《おほさ》がりを|喰《くら》ひ、|何回《なんくわい》となくたばかられて、|大損害《だいそんがい》を|重《かさ》ね、|折角《せつかく》|叔父《をぢ》から|手《て》に|入《い》れた|山林《さんりん》|田畠《でんばた》も|残《のこ》らず|売《う》りとばして|了《しま》ひ、|駄菓子屋《だぐわしや》とヘボ|材木屋《ざいもくや》とまで|零落《れいらく》させて|了《しま》つたのである、|尚《なほ》|最後《さいご》には|何《なん》とかして|命《いのち》まで|取《と》る|積《つもり》で|居《を》つた|所《ところ》、|今日《けふ》|計《はか》らずも、|霊術《れいじゆつ》|非凡《ひぼん》な|審神者《さには》に|看破《かんぱ》されたので|厶《ござ》います』
と|大体《だいたい》の|自白《じはく》をした。そして|鼻汁《はな》が|盛《さか》んに|出《で》るのはつまり|首《くび》をくくつた|時《とき》、|鼻汁《はな》を|垂《た》れた|其《その》|亡霊《ばうれい》の|所為《しよゐ》である。|白骨《はくこつ》の|主《ぬし》を|手《て》あつく|葬《はうむ》る|事《こと》を|爺《おやぢ》が|約束《やくそく》したので、|亡霊《ばうれい》はヤツとのことで、|爺《おやぢ》の|体《からだ》から|退散《たいさん》した。|乍併《しかしながら》|退散《たいさん》したといふのは|表向《おもてむき》で、ヤツパリ|此《この》|爺《おやぢ》の|体《からだ》に|潜《ひそ》み、|時々《ときどき》|妙《めう》な|事《こと》をやらすのである。|此《この》|爺《おやぢ》さんは|明治《めいぢ》|四十五年《しじふごねん》|頃《ごろ》|大本《おほもと》へ|訪《たづ》ねて|来《き》たことがある。|今《いま》は|家《いへ》も|何《なに》もかも|売《う》つて|了《しま》ひ、|大阪《おほさか》|方面《はうめん》へ|出稼《でかせ》ぎに|行《い》つたといふことである。
(大正一一・一〇・一二 旧八・二二 松村真澄録)
第二三章 |海老坂《ゑびさか》〔一〇三五〕
|小林《こばやし》|貞蔵《ていざう》|氏《し》の|宅《たく》で|四五日《しごにち》|計《ばか》り|滞在《たいざい》してゐる|間《あひだ》に、|村中《むらぢう》の|老若男女《らうにやくなんによ》が|集《あつ》まり、|鎮魂《ちんこん》を|受《う》けたり、|神懸《かむがかり》の|修行《しうぎやう》をしたりして、|神徳《しんとく》の|広大《くわうだい》なるに|感謝《かんしや》し、|全部《ぜんぶ》|信者《しんじや》となつて|了《しま》つた。|小林《こばやし》|氏《し》はせめて|一月《ひとつき》|計《ばか》り|自分《じぶん》の|宅《たく》に|居《を》つて|貰《もら》ひ|度《た》いと|頼《たの》むのも|聞《き》かずに|此《この》|家《や》を|立出《たちい》で、|信者《しんじや》から|二三円《にさんゑん》|計《ばか》りの|礼《れい》を|貰《もら》ひ、それを|以《もつ》て|北桑田《きたくはだ》へ|渡《わた》らむと、|日《ひ》の|暮《くれ》|前《まへ》から|神《かみ》の|命《めい》のまにまに|海老坂峠《えびさかたうげ》まで|差《さし》かかつた。|日《ひ》はズツポリと|暮《く》れ、|其《その》|上《うへ》に|坂路《さかみち》のこととて、|最早《もはや》|一歩《いつぽ》も|進《すす》む|事《こと》が|出来《でき》なくなつた。|此《この》|坂路《さかみち》の|中途《ちうと》に|古寺《ふるでら》が|建《た》つてゐる。そして|古《ふる》い|堂《だう》に|地蔵《ぢざう》が|祀《まつ》つてあつた。|止《や》むを|得《え》ず|喜楽《きらく》は|此《この》|堂《だう》へ|這入《はい》つて|一夜《いちや》を|明《あ》かさうと、|仏壇《ぶつだん》の|前《まへ》でゴロリと|横《よこ》たはり|其《その》|儘《まま》|眠《ねむり》に|就《つ》いた。
|夜中《よなか》|時分《じぶん》に|妙《めう》な|物音《ものおと》がしたので、フト|目《め》を|醒《さ》まして|見《み》れば、|黒《くろ》い|提灯《ちやうちん》をさげた|大坊主《おほばうず》が|堂《だう》の|入口《いりぐち》に|立《た》ち、|大《おほ》きな|声《こゑ》で|心経《しんきやう》を|唱《とな》へてゐる。|喜楽《きらく》は|驚《おどろ》いて|起上《おきあが》ると、|坊主《ばうず》は|大《おほ》きな|声《こゑ》で、
|坊主《ばうず》『|断《ことわ》りもなく|此《この》|堂《だう》に|寝《ね》てゐる|奴《やつ》は|何者《なにもの》だ。|怪《け》しからぬ、サア|早《はや》く|出《で》て|行《い》け!』
と|呶鳴《どな》りつける。|喜楽《きらく》は|起《おき》あがり、|一寸《ちよつと》|頭《あたま》を|下《さ》げて、
|喜楽《きらく》『お|和尚《せう》サン、|誠《まこと》に|済《す》まぬ|事《こと》を|致《いた》しましたが、|私《わたし》は|霊学《れいがく》の|修行者《しうぎやうしや》で、|神道《しんだう》を|開《ひら》きに|歩《ある》いて|居《を》る|者《もの》で|御座《ござ》りますが、|思《おも》ひの|外《ほか》|道《みち》が|遠《とほ》かつたので、|途中《とちう》に|日《ひ》が|暮《く》れ、|一寸《ちよつと》|失礼《しつれい》さして|貰《もら》ひました。どうぞ|今晩《こんばん》|丈《だけ》|此処《ここ》で|泊《と》めて|下《くだ》さいな』
|坊主《ばうず》『|神道《しんだう》の|行者《ぎやうじや》が|仏《ぶつ》の|堂《だう》で|泊《と》まるといふ|事《こと》があるものか。お|前《まへ》サンはイカサマ|神道家《しんだうか》だ。|売僧《マイス》|坊主《ばうず》だなア』
と|自分《じぶん》の|坊主《ばうず》たる|事《こと》を|忘《わす》れて、|声《こゑ》に|角《かど》を|立《た》てて|呶鳴《どな》つてゐる。
|喜楽《きらく》『|神《かみ》さまも|仏《ほとけ》さまも|元《もと》は|一株《ひとかぶ》だから、そんな|区別《くべつ》を|立《た》てずに|今晩《こんばん》|丈《だけ》|泊《と》めて|下《くだ》さい』
|坊主《ばうず》『ウンさうか、|神《かみ》も|仏《ほとけ》も|一株《ひとかぶ》だといふのか。|中々《なかなか》お|前《まへ》は|能《よ》う|分《わか》つたことを|言《い》ふ。そんなら|今晩《こんばん》は|泊《と》まつて|下《くだ》さい。|併《しか》しここでは|仕方《しかた》がないから|庫裏《くり》の|方《はう》へ|来《き》て|下《くだ》さい。|何《なん》だか|地蔵堂《ぢざうだう》が|気《き》に|掛《かか》つて|寝《ね》られぬので、|一寸《ちよつと》|見《み》に|来《き》たのだ。お|茶《ちや》なつと|進《すす》ぜよう』
と|打《う》つて|変《かは》つた|砕《くだ》け|方《かた》に|喜楽《きらく》はヤツと|胸《むね》をなで|卸《おろ》し、|大坊主《おほばうず》に|導《みちび》かれて、|庫裏《くり》の|方《はう》へついて|行《い》つた。
|此《この》|寺《てら》は|此《この》|坊主《ばうず》|一人《ひとり》より|外《ほか》に|誰《たれ》も|人《ひと》らしい|者《もの》は|住《す》んで|居《ゐ》なかつた。ソロソロと|身《み》の|上《うへ》|話《ばなし》を|互《たがひ》に|始《はじ》めて|見《み》ると、|不思議《ふしぎ》にも|此《この》|坊主《ばうず》は|喜楽《きらく》の|伯母《をば》の|嫁入《よめい》つて|居《ゐ》た、|南桑田郡《みなみくはたぐん》|千代川村《ちよかはむら》|字《あざ》|今津《いまづ》の|人見《ひとみ》|弥吉《やきち》といふ|伯父《をぢ》の|兄《あに》の|子《こ》であつた。|子供《こども》の|時《とき》には|四五回《しごくわい》も|遊《あそ》んだことのある|人見《ひとみ》|与三郎《よさぶろう》といふ|男《をとこ》で、|放蕩《はうたう》の|結果《けつくわ》|親《おや》の|財産《ざいさん》を|残《のこ》らずなくして|了《しま》ひ、それから|園部《そのべ》|監獄《かんごく》の|看守《かんしゆ》となり、|巡査《じゆんさ》も|勤《つと》め、これも|又《また》|酒《さけ》の|為《ため》に|免職《めんしよく》さされ、それから|易者《えきしや》を|習《なら》ひ、|真言《しんごん》|秘密《ひみつ》の|法《はふ》を|覚《おぼ》え、|無住《むぢう》の|寺《てら》を|幸《さいは》ひ、|留守《るす》|坊主《ばうず》に|雇《やと》はれてゐた|事《こと》が|分《わか》つた。|此《この》|奇遇《きぐう》に|両人《りやうにん》は|打《うち》とけて、いろいろの|事《こと》を|語《かた》り|合《あ》ひ、ここに|四五日《しごにち》|逗留《とうりう》して、|人見《ひとみ》に|鎮魂帰神《ちんこんきしん》の|霊術《れいじゆつ》を|教《をし》へてやり、|後日《ごじつ》の|再会《さいくわい》を|約《やく》して|海老坂峠《えびさかたうげ》を|北《きた》へ|渡《わた》り、|安懸《あかげ》といふ|田舎《いなか》の|村《むら》|迄《まで》|辿《たど》り|着《つ》いた。
さうすると|俄《にはか》に|警鐘《けいしよう》が|響《ひび》く、|太鼓《たいこ》が|鳴《な》つて|来《く》る。|村人《むらびと》は『|野添《のぞへ》に|火事《くわじ》がある!』と|云《い》つて、|一生懸命《いつしやうけんめい》に|鳶口《とびぐち》や|竜頭水《りうとうすゐ》、|水桶《みづをけ》などを|持《も》つて|駆出《かけだ》す。|喜楽《きらく》も|村人《むらびと》の|後《あと》から|走《はし》つて|野添《のぞへ》といふ|小村《こむら》まで|従《つ》いて|往《い》つた。|併《しか》し|乍《なが》ら|何処《どこ》にも|煙《けぶり》は|立《た》つてゐず、|火事《くわじ》らしきものも|無《な》かつた。されど|野添《のぞへ》の|寺《てら》の|鐘《かね》や|太鼓《たいこ》が|頻《しき》りに|鳴《な》つてゐる。|向《むか》うから|走《はし》つて|来《き》た|人《ひと》の|話《はなし》によると、|深《ふか》い|井戸《ゐど》を|掘《ほ》つてゐた|所《ところ》、|俄《にはか》にウラが|来《き》て、|井戸掘《ゐどほり》|人足《にんそく》が|埋《う》まつて|了《しま》つたから、|掘《ほ》り|出《だ》す|為《ため》に、|近在《きんざい》の|人《ひと》を|集《あつ》める|為《ため》の|警鐘《けいしよう》|太鼓《たいこ》であつた|事《こと》が|分《わか》つた。
|行《い》つて|見《み》れば|百人《ひやくにん》|計《ばか》りの|人《ひと》が|井戸《ゐど》の|端《はた》へ|寄《よ》つて、|鶴嘴《つるばし》や|鍬《くわ》で|井戸《ゐど》から|四五間《しごけん》わきの|方《はう》から|掘《ほ》りかけてゐる。グヅグヅしてゐると、|埋《うま》つた|土砂《どしや》と|水《みづ》の|為《ため》に|息《いき》が|切《き》れて|了《しま》ふ|虞《おそれ》がある。|喜楽《きらく》は|忽《たちま》ち|大地《だいち》に|瞑目《めいもく》|静坐《せいざ》して|神勅《しんちよく》を|受《う》けた。さうすると|腹《はら》の|中《なか》から、
『|小松林《こまつばやし》だ』
といふ|声《こゑ》が|出《で》て|来《き》て、
『|種油《たねあぶら》を|五六升《ごろくしよう》、|井戸《ゐど》の|中《なか》へまくか、|油《あぶら》がなければ|酢《す》を|一斗《いつと》|計《ばか》り|撒《ま》け』
といふ|神勅《しんちよく》が|下《くだ》る。そこで|其《その》|由《よし》を|村人《むらびと》に|告《つ》げてやると、|忽《たちま》ち|酢屋《すや》から|五升樽《ごしやうだる》を|二《ふた》つ|計《ばか》り|持《も》つて|来《き》て、|井戸《ゐど》の|中《なか》へダブダブと|投込《なげこ》んだ。そして|大勢《おほぜい》がよつて|集《たか》つて|二時間《にじかん》|計《ばか》りかかつて、|埋《うも》つた|人足《にんそく》を|引上《ひきあ》げて|見《み》た。|幸《さいは》ひに|息《いき》は|絶《た》えて|居《ゐ》なかつた。|其《その》|男《をとこ》は|口中《くちなか》|某《ぼう》といふ|男《をとこ》であつた。|其《その》|男《をとこ》の|話《はなし》によると、
|口中《くちなか》『|俄《にはか》にウラが|来《き》て|土砂《どしや》に|埋《う》められた|時《とき》、|幸《さいは》ひ|横《よこ》の|方《はう》から|出《で》てゐた|大《おほ》きな|石《いし》の|下《した》に|体《からだ》をのがれ、|腰《こし》から|下《した》は|水《みづ》にひたり、|体中《からだぢう》|土砂《どしや》につめられたけれ|共《ども》、|突出《つきで》た|石《いし》のおかげで|首《くび》|丈《だけ》は|自由《じいう》に|動《うご》く|事《こと》が|出来《でき》た。|追々《おひおひ》|息《いき》は|苦《くる》しくなつて、|最早《もはや》|生命《いのち》が|終《をは》るかと|思《おも》つて|居《ゐ》ると、|俄《にはか》に|酢《す》の|匂《にほ》ひがして|来《き》て、|息《いき》が|楽《らく》になりました。|其《その》|時《とき》にどこともなしに|小松林《こまつばやし》が……|今《いま》お|前《まへ》の|生命《いのち》を|助《たす》けてやらう……といふ|声《こゑ》が|聞《きこ》えました』
と|嬉《うれ》し|泣《な》きし|乍《なが》ら|物語《ものがた》つてゐる。|大勢《おほぜい》の|人々《ひとびと》は|喜楽《きらく》に|向《むか》つて、|非常《ひじやう》に|感謝《かんしや》をし、|二三日《にさんにち》|逗留《とうりう》してくれといふので、|口中《くちなか》の|家《いへ》に|泊《とま》つて、|霊学《れいがく》の|話《はなし》をしてゐた。|併《しか》し|此《この》|村《むら》は|大部分《だいぶぶん》|船岡《ふなをか》の|妙霊教会所《めうれいけうくわいじよ》の|信者《しんじや》であつた。そして|其《その》|教会《けうくわい》の|会長《くわいちやう》といふのが、|喜楽《きらく》の|伯父《をぢ》に|当《あた》る|佐野《さの》|清六《せいろく》といふ|教導職《けうだうしよく》であつた|為《ため》、|宗教上《しうけうじやう》の|関係《くわんけい》から|村人《むらびと》の|止《と》めるのも|聞《き》かず、|園部《そのべ》の|会合所《くわいがふしよ》へ|帰《かへ》つて|来《き》た。
それより|此《この》|附近《ふきん》の|人々《ひとびと》は|船岡《ふなをか》の|妙霊教会《めうれいけうくわい》へ|参拝《さんぱい》の|途次《とじ》、|黒田《くろだ》の|会合所《くわいがふしよ》へ|参拝《さんぱい》して|帰《かへ》る|者《もの》も|沢山《たくさん》にあつた。|又《また》|小林《こばやし》|貞蔵《ていざう》|氏《し》も|沢山《たくさん》な|信者《しんじや》を|伴《つ》れて、|黒田《くろだ》の|会合所《くわいがふしよ》へ|幾度《いくど》となく|参《まゐ》つて|来《き》た。
|因《ちなみ》に|海老坂《えびさか》の|地蔵堂《ぢざうだう》の|留守《るす》|坊主《ばうず》であつた|人見《ひとみ》|与三郎《よさぶろう》は、|何《なん》とかいふ|法名《はふめう》を|持《も》つてゐたが|忘《わす》れて|了《しま》つた。|大正《たいしやう》|六年《ろくねん》|頃《ごろ》|大本《おほもと》へやつて|来《き》て、|門掃《かどは》きや|其《その》|他《た》|種々《いろいろ》の|事《こと》を|手伝《てつだひ》ふてゐたが、|再《ふたた》び|村人《むらびと》の|請《こ》ひに|依《よ》つて、|元《もと》の|地蔵堂《ぢざうだう》へ|帰《かへ》つて|了《しま》つた。
|船井郡《ふなゐぐん》|紀井《きゐ》の|庄村《しやうむら》|木崎《きざき》の、|森田《もりた》|民《たみ》といふ|五十余《ごじふあま》りの|婆《ば》アサンに|稲荷《いなり》サンがのり|憑《うつ》り、|沢山《たくさん》な|信者《しんじや》が|参拝《さんぱい》するのを|聞《き》き、|明治《めいぢ》|三十二年《さんじふにねん》の|五月《ごぐわつ》の|末《すゑ》、|喜楽《きらく》は|羽織袴《はおりはかま》をつけず、|普通《ふつう》の|百姓《ひやくしやう》のやうな|風《ふう》をして、|一《いつ》ペンどんな|神憑《かむがかり》だか|調《しら》べて|見《み》ようと|思《おも》ひ、|信者《しんじや》に|紛《まぎ》れて|行《い》つて|見《み》た。
|産土《うぶすな》の|大宮神社《おほみやじんじや》の|一町《いつちやう》|計《ばか》り|上《うへ》の|方《はう》にクヅ|屋葺《やぶき》の|小《ちひ》さい|家《いへ》があつて、|其《その》|横《よこ》に|六畳敷《ろくでふじき》|計《ばか》りの|新《あたら》しい|紅殻染《べにがらぞめ》の|家《いへ》が|立《た》つてゐた。|其《その》|前《まへ》に|小《ちひ》さい|祠《ほこら》が|赤《あか》く|塗《ぬ》つて|建《た》ててある。そして|焼物《やきもの》の|狐《きつね》が|四《よつ》つ|計《ばか》り|祀《まつ》つてあり、|小《ちひ》さき|鈴《すず》をつつて、|赤《あか》や|白《しろ》や|黄色《きいろ》の|鐘《かね》の|緒《を》が|一尺《いつしやく》|五寸《ごすん》|計《ばか》り|垂《た》れ|下《さ》がり、それに|何歳《なんさい》の|男《をとこ》とか|女《をんな》とか|書《か》いて|五筋六筋《いつすぢむすぢ》づつ|下《さ》がつてゐる。|数十人《すうじふにん》の|老若男女《らうにやくなんによ》の|参詣者《さんけいしや》を|背後《うしろ》にして、|其《その》|婆《ば》アサンは|祠《ほこら》の|前《まへ》にしやがみ、|鈴《すず》をからからとふつては、
|婆《ばば》『あゝ|左様《さやう》か、へー、さ|様《やう》ですか、オホヽヽヽヽ』
などと|独《ひと》り|言《ごと》をいうてゐるかと|思《おも》へば、|又《また》、
『|只今《ただいま》|何村《なにむら》の|何某《なにぼう》といふ|何才《なんさい》の|男《をとこ》が、|病気《びやうき》で|困《こま》つて|居《を》りますが、これは|如何《どう》したら|直《なほ》りますか?』
と|云《い》つては|手《て》を|拍《う》ち、
『あゝ|左様《さやう》か、|分《わか》りました』
と|云《い》ひ、|又《また》|次《つぎ》の|伺《うかが》ひをしては、
『あゝ|左様《さやう》か、そんなら|大《おほ》バコを|煎《せん》じて|呑《の》ませばよいのですな。ヘー|黒豆《くろまめ》と|柳《やなぎ》の|葉《は》とまぜてどすか、ハイそない|言《い》うてやります』
と|云《い》うてる。|一《ひと》わたり|伺《うかが》ひがすむと、|記憶《きおく》のよい|婆《ば》アサンと|見《み》えて、|一々《いちいち》|病気《びやうき》の|様子《やうす》から|薬《くすり》のさしづをやつてゐる。|不思議《ふしぎ》なことには、|此《この》|婆《ば》アサンの|指図《さしづ》に|依《よ》つて|大体《だいたい》の|病気《びやうき》は|治《なほ》つたといふことである。そこで|一《ひと》つ|可笑《おか》しい|事《こと》は、|一人《ひとり》の|婆《ば》アサンが|心配《しんぱい》|相《さう》な|顔《かほ》して|伺《うかが》つて|居《ゐ》た。|其《その》|次第《しだい》は、
|女《をんな》『|何遍《なんべん》|嫁《よめ》を|貰《もら》うてもすぐに|帰《かへ》つて|了《しま》ふので、|両親《りやうしん》も|心配《しんぱい》を|致《いた》して|居《を》りますが、|嫁《よめ》が|育《そだ》たぬのは|何《なん》ぞ|先祖《せんぞ》の|祟《たた》りでもあるのか、|但《ただし》は|家相《かさう》でも|悪《わる》いのですか、|一遍《いつぺん》|伺《うかが》うて|下《くだ》さい』
といふ。|沢山《たくさん》の|信者《しんじや》は|一人《ひとり》も|残《のこ》らず|帰《かへ》つて|了《しま》つた|後《あと》には、お|民《たみ》といふ|婆《ば》アサンと、|今《いま》|尋《たづ》ねてゐる|五十《ごじふ》|計《ばか》りの|女《をんな》と|喜楽《きらく》と|三人《さんにん》であつた。
お|民《たみ》は|早速《さつそく》|例《れい》の|祠《ほこら》の|前《まへ》で|伺《うかが》ひを|立《た》て、
お|民《たみ》『|義経大明神《よしつねだいみやうじん》さま、|桂大明神《かつらだいみやうじん》さま、|玉房大明神《たまふさだいみやうじん》さま、|玉芳大明神《たまよしだいみやうじん》さま』
と|連呼《れんこ》し|乍《なが》ら、|以前《いぜん》の|女《をんな》の|願《ねがひ》を|伺《うかが》つてゐる。そして|時々《ときどき》『ホヽヽヽヽ』とこけるやうにして|笑《わら》ふ。|暫《しばら》くするとお|民《たみ》サン|此方《こちら》へやつて|来《き》て|云《い》ふには、
お|民《たみ》『お|前《まへ》さんとこの|息子《むすこ》はコレで|嫁《よめ》さんを|五人《ごにん》|貰《もら》うたでせう。|皆《みな》|帰《かへ》つたのは|肝腎《かんじん》のお|道具《だうぐ》が|蓑《みの》○になつてるから、それで|皆《みな》|帰《かへ》つて|了《しま》はれるのですから、|此奴《こいつ》ア|一寸《ちよつと》|六《む》つかしいものです。|毛抜《けぬき》で|抜《ぬ》いた|所《ところ》で|又《また》|生《は》えますサカえなア』
|女《をんな》『|何《なん》とかお|稲荷《いなり》サンのおかげで|治《なほ》して|頂《いただ》く|訳《わけ》には|行《ゆ》きませぬか』
と|心配《しんぱい》|相《さう》にお|民《たみ》の|顔《かほ》を|覗《のぞ》き|込《こ》む。お|民《たみ》サンは|首《くび》を|傾《かたむ》け、
お|民《たみ》『マア|信心《しんじん》して|見《み》なさい。|信心《しんじん》さへ|通《とほ》つたら、|神《かみ》さまの|事《こと》ですから、|何《なん》とかして|下《くだ》さりませう。サアもう|帰《かへ》つて|下《くだ》され。|私《わたし》はこれから|一《ひと》つ|行《ぎやう》をせなならぬのです。|神《かみ》さまが|大変《たいへん》お|急《せ》きですから……』
といつて|体《てい》よく|帰《かへ》して|了《しま》つた。そしてお|民《たみ》|婆《ば》アサンは|喜楽《きらく》に|向《むか》ひ、
お|民《たみ》『|先生《せんせい》、あなたは|黒田《くろだ》の|御方《おかた》ですやろ。|信者《しんじや》に|化《ば》けて|私《わたし》を|調《しら》べに|来《こ》なさつたなア。|神《かみ》さまが|先生《せんせい》に|頼《たの》んで、|教導職《けうだうしよく》を|受《う》けるやうに|手続《てつづ》きをして|貰《もら》へと|言《い》うてゐやはります。どうぞお|世話《せわ》をして|下《くだ》さいな』
|喜楽《きらく》『お|前《まへ》サンは|普通《ふつう》の|御台《おだい》サンと|違《ちが》うて|仲々《なかなか》|能《よ》う|分《わか》る|人《ひと》だ。そして|焼物《やきもの》の|稲荷《いなり》サンに|向《むか》つていろいろと|話《はな》しをして|御座《ござ》つたが、あんな|焼物《やきもの》の|稲荷《いなり》サンが|物言《ものい》ひますか』
と|尋《たづ》ねて|見《み》ると、お|民《たみ》サンは、|言下《げんか》に、
お|民《たみ》『へーへー|言《い》ははります|共《とも》、|今《いま》あの|帰《い》んだお|方《かた》の|息子《むすこ》はんの|事《こと》を|伺《うかが》ひましたが、|妙《めう》でしたよ。|私《わたし》がジツとして|焼物《やきもの》の|稲荷《いなり》サンを|見《み》つめて|居《ゐ》ると、|稲荷《いなり》サンの|股《また》から、|突然《とつぜん》にポコンと○○が|現《あら》はれ、|先《さき》まで|毛《け》が|一杯《いつぱい》|生《は》えて|居《を》りましたので、|私《わたし》が|稲荷《いなり》サンに|向《むか》つて、……|此《この》|男《をとこ》は|蓑《みの》○だから、それで|嫁《よめ》さまが|居《を》りつかぬのどすか、と|尋《たづ》ねましたら、オヽさうだと|言《い》はれました。オホヽヽヽ』
と|笑《わら》うて|居《ゐ》る。そして、
お|民《たみ》『|先生《せんせい》も|一《いつ》ぺんあの|稲荷《いなり》サンの|前《まへ》で|問《と》うて|見《み》なさい』
とすすめるので、|稲荷《いなり》の|前《まへ》にしやがんで、いろいろ|問答《もんだふ》をしてみたけれど、|何《なん》ともかんとも|一口《ひとくち》も|答《こた》へなかつた。それからお|民《たみ》サンの|霊感者《れいかんしや》になつた|来歴《らいれき》を|尋《たづ》ねて|見《み》ると、|左《さ》の|通《とほ》り|面白《おもしろ》い|経歴《けいれき》を|物語《ものがた》つた。
お|民《たみ》『|私《わたし》と|内《うち》の|太吉《たきち》サンと|二人《ふたり》が|薩摩芋《さつまいも》や|桑《くは》を|作《つく》つてゐますと、|毎年《まいねん》|毎年《まいねん》|薩摩芋《さつまいも》を|掘《ほ》つて|食《く》ふ|奴《やつ》がある。|雪隠《せんち》のおとしわらを|引張《ひつぱ》り|出《だ》し、|肝腎《かんじん》の|肥《こえ》にする|糞《くそ》まで|食《く》つて|了《しま》うので、|大方《おほかた》|裏《うら》の|山《やま》に|棲《す》んでる|奴狐《どぎつね》|奴《め》が|芋《いも》や|糞《くそ》を|食《くら》ふのに|違《ちが》ひないから、|一《ひと》つくすべて|捕《と》つてやらうと|相談《さうだん》をきめて、|太吉《たきち》サンと|私《わたし》と|伜《せがれ》の|留吉《とめきち》と|三人《さんにん》が、|一方《いつぱう》の|穴《あな》を|松葉《まつば》でくすべ、|一方《いつぱう》から|掘《ほ》つて|居《ゐ》た|所《ところ》、|夫婦《ふうふ》の|狐《きつね》が|子《こ》|二匹《にひき》うんで|居《を》りました。おのれ|糞《くそ》ぐらひ|狐《きつね》めが……と、いきなり|親子《おやこ》|三人《さんにん》が|備中鍬《びつちうくは》を|振《ふ》り|上《あ》げて、|其《その》|狐《きつね》を|四匹《しひき》とも|叩《たた》き|殺《ころ》し、|皮《かは》は|下木崎《しもきざき》の|新平《しんぺい》サンに|売《う》り、|肉《にく》の|甘《うま》い|所《ところ》は|食《く》つて|了《しま》ひました。さうすると|三日目《みつかめ》から|私《わたし》の|体中《からだぢう》が、|水腫《みづぶく》れになり、|苦《くる》しうて|苦《くる》しうて|堪《たま》らず、お|櫃《ひつ》を|開《あ》けると|狐《きつね》の|顔《かほ》が|中《なか》に|居《ゐ》る、|雪隠《せんち》へ|行《い》つても|狐《きつね》が|居《ゐ》る。|終《しま》ひには|何《なに》も|彼《か》も|残《のこ》らずそこらが|狐《きつね》の|顔《かほ》になり、|恐《こわ》い|顔《かほ》してねめつけますので、|私《わたし》が|狐《きつね》に|向《むか》つて……コレお|前《まへ》|妾《わたし》が|大事《だいじ》にして|作《つく》つた|芋《いも》を|毎年《まいねん》|取《と》つて|食《く》ひ、|肥料《こやし》にせうと|思《おも》うた|糞《くそ》まで|食《く》たくせに、|何《なに》が|恨《うら》めしうてアタンをするのだと|云《い》ひますと、|狐《きつね》の|親子《おやこ》|四匹《しひき》が、そこへ|出《で》て|来《き》て|云《い》ふには、|芋《いも》を|食《く》たのも、|糞《くそ》を|食《く》たのも|皆《みな》|木崎《きざき》の|丸《まる》といふ|犬《いぬ》の|所作《しよさ》だ。それに|私達《わたしたち》|親子《おやこ》の|命《いのち》を|取《と》り、|皮《かは》を|売《う》り、|肉《にく》まで|食《くら》うとは|余《あま》りだから、お|前等《まへら》|親子《おやこ》|三人《さんにん》の|命《いのち》を|取《と》り、|弟《おとうと》の|髯定《ひげさだ》の|命《いのち》も|取《と》らねば|承知《しようち》せぬと|云《い》ふて|怖《こわ》い|顔《かほ》して|睨《にら》めつけました。そこで|私《わたし》が|狐《きつね》に|向《むか》つて……ソラ|誠《まこと》にすまなんだ。お|前《まへ》もモウ|斯《か》うなつては|仕方《しかた》がない|因縁《いんねん》ぢやと|諦《あきら》めて|下《くだ》さい。|私等《わたしら》の|命《いのち》を|取《と》つた|所《ところ》で、お|前《まへ》の|命《いのち》が|助《たす》かる|訳《わけ》もなし、|何《ど》うぢやここは|一《ひと》つ|相談《さうだん》だが、コレからお|前《まへ》を|神《かみ》サンに|祀《まつ》つて|上《あ》げるからどうぞ|勘忍《かんにん》して|呉《く》れと|頼《たの》んで|見《み》た|所《ところ》、|中々《なかなか》|淡白《あつさり》した|狐《きつね》で……さうぢや、お|前《まへ》のいふ|通《とほ》り、|命《いのち》を|取《と》つて|見《み》た|所《ところ》で|仕方《しかた》がない、わしを|祭《まつ》つて|呉《く》れるのなら|勘忍《こらへ》てやろ、|其《その》|代《かは》りに|人《ひと》を|助《たす》けて、|病気《びやうき》を|治《しろ》したり、いろいろの|事《こと》を|知《し》らしてやるから、お|前《まへ》は|私《わたし》の|容《い》れ|物《もの》になつて、モウ|今日《けふ》|限《かぎ》り|仕事《しごと》なんかすることはならぬぞ。|其《その》|御礼《おれい》に|毎日《まいにち》|七銭《しちせん》づつのお|金《かね》をやらう……と|云《い》ひました。そして|四匹《しひき》の|狐《きつね》に|義経大明神《よしつねだいみやうじん》、|桂大明神《かつらだいみやうじん》、|玉房大明神《たまふさだいみやうじん》、|玉芳大明神《たまよしだいみやうじん》と|名《な》をつけて|祭《まつ》つて|呉《く》れと|云《い》ひましたので、|此《この》|赤《あか》い|祠《ほこら》を|建《た》てて|祭《まつ》つて|居《を》ります。さうすると|沢山《たくさん》の|人《ひと》が|参《まゐ》つて|来《き》て、|一文《いちもん》|供《そな》へていぬる|人《ひと》や|五厘《ごりん》|包《つつ》んで|呉《く》れる|人《ひと》や、|中《なか》には|二十銭《にじつせん》もはり|込《こ》んで|供《そな》へてくれる|人《ひと》もありますが、|妙《めう》なもんで、|一月《ひとつき》ためて|置《お》くとヤツパリ|二円《にゑん》|十銭《じつせん》で、|一日《いちにち》に|七銭《しちせん》の|割《わり》になつて|居《ゐ》ます。|七銭《しちせん》さへあれば|一寸《ちよつと》|米《こめ》が|七合《しちがふ》|計《ばか》り|買《か》へますから、|私《わたし》|丈《だけ》|食《く》ふには|不自由《ふじゆう》は|御座《ござ》いませぬ』
と|真面目《まじめ》くさつて|話《はなし》してゐる。|喜楽《きらく》は、
|喜楽《きらく》『|何《なん》と|妙《めう》な|狐《きつね》サンぢやなア。それ|丈《だけ》|何《なに》もかもよく|分《わか》るのなら、|私《わたし》の|事《こと》も|一《ひと》つ|伺《うかが》つて|貰《もら》へまいかなア』
ときりだすと、お|民《たみ》サンは|言下《げんか》に、
お|民《たみ》『あんたは|今《いま》|園部《そのべ》の|人《ひと》が|沢山《たくさん》|寄《よ》つて、|公園《こうゑん》の|中《なか》で|教会《けうくわい》を|建《た》て、あんたを|先生《せんせい》になつて|貰《もら》はうと|云《い》うて|騒《さわ》いでゐる。そして|先生《せんせい》もならうかなアと|思《おも》うて|御座《ござ》るやうだが、あんたの|納《をさ》まる|所《ところ》は|之《これ》から|七里《しちり》ほど|西北《せいほく》に、チヤンときまつて|居《ゐ》ます。モ|一月《ひとつき》|程《ほど》したら|迎《むか》へに|来《く》る|人《ひと》があります。あんたの|嫁《よめ》サンもチヤンときまつてますで、お|澄《すみ》サンといふ|名《な》ですワ』
と|事《こと》もなげに|言《い》ふ。|喜楽《きらく》は|昨年《さくねん》の|秋《あき》、|綾部《あやべ》へ|行《い》つた|時《とき》、|教祖《けうそ》にお|竜《りよう》サンといふ|娘《むすめ》のあることは|聞《き》いてゐたが、お|澄《すみ》と|云《い》ふ|娘《むすめ》のある|事《こと》は|知《し》らなかつた。そこで|大方《おほかた》|四方《しかた》すみ|子《こ》の|事《こと》ではあるまいかとも|思《おも》うてみた。|併《しか》し|綾部《あやべ》へは|殆《ほとん》ど|十里《じふり》ある。|七里《しちり》と|云《い》ふのは|可笑《おか》しい。|大方《おほかた》|和知《わち》の|方面《はうめん》に|自分《じぶん》の|行《ゆ》く|所《ところ》がきまつて|居《ゐ》るのかなアとも|考《かんが》へても|見《み》た。それからお|民《たみ》に|別《わか》れて|黒田《くろだ》の|会合所《くわいがふしよ》へ|帰《かへ》つてみると、|綾部《あやべ》より|四方《しかた》|平蔵《へいざう》として|封書《ふうしよ》が|来《き》てゐる。|開《ひら》いて|見《み》れば、
『|田《た》の|植付《うゑつ》けが|済《す》み|次第《しだい》、|出口教祖《でぐちけうそ》さまの|御命令《ごめいれい》で、|御相談《ごさうだん》に|参《まゐ》りますから、どうぞ|何処《どこ》へも|行《ゆ》かずに|待《ま》つてゐて|下《くだ》さい……』
といふ|意味《いみ》が|認《したた》めてあつた。……|又《また》|綾部《あやべ》の|連中《れんちう》から|呼《よ》びに|来《く》るのかなア、モウ|去年《きよねん》の|様《やう》な|事《こと》なら|行《ゆ》かぬがましだ……と、|気《き》にもとめず、|又《また》お|民《たみ》の|神占《しんせん》をも|半信半疑《はんしんはんぎ》で、|手紙《てがみ》の|事《こと》などもスツカリ|忘《わす》れてゐた。
|所《ところ》へ|園部川《そのべがは》で|漁《りよう》の|為《ため》|瓶付《びんづけ》をしてゐたら、|四方《しかた》|氏《し》が|訪《たづ》ねて|来《き》たので、いよいよ|綾部《あやべ》へ|行《ゆ》く|事《こと》となり、|今度《こんど》は|落付《おちつ》いて|教祖《けうそ》と|共《とも》に|金明会《きんめいくわい》を|開《ひら》き、|御用《ごよう》をする|事《こと》となつた。
(大正一一・一〇・一二 旧八・二二 松村真澄録)
第二四章 |神助《しんじよ》〔一〇三六〕
|金光教会《こんくわうけうくわい》の|八木《やぎ》の|支部長《しぶちやう》をして|居《ゐ》る|土田《つちだ》|雄弘《かつひろ》と|云《い》ふ|人《ひと》は、|金光教《こんくわうけう》の|足立《あだち》|正信《まさのぶ》|氏《し》が|金明会《きんめいくわい》へ|降服《かうふく》したと|聞《き》き、|周章狼狽《しうしやうらうばい》して|上級《じやうきふ》|教会所《けうくわいしよ》なる|杉田《すぎた》|政次郎《まさじろう》|氏《し》と|協議《けふぎ》した|上《うへ》、|金光教《こんくわうけう》の|大《だい》の|熱心者《ねつしんじや》なる|八木《やぎ》の|福島《ふくしま》|寅之助《とらのすけ》|氏《し》を|従《したが》へ|綾部《あやべ》へ|駆付《かけつ》け、|直《ただち》に|足立《あだち》|正信《まさのぶ》|氏《し》と|面会《めんくわい》し、
『|金光教《こんくわうけう》の|本部《ほんぶ》から|応援《おうゑん》を|乞《こ》ひ|自分《じぶん》も|極力《きよくりよく》|応援《おうゑん》の|労《らう》をとる|考《かんが》へだから、|金明会《きんめいくわい》の|下《くだ》らぬ|所《ところ》を|脱会《だつくわい》し、|何程《なにほど》|辛《つら》くても|暫《しば》らくだから|孤軍《こぐん》|奮闘《ふんとう》をつづけられよ。|訳《わけ》の|分《わか》らぬ|霊学《れいがく》|等《など》に|降服《かうふく》するのは、|金光《こんくわう》|教師《けうし》の|本領《ほんりやう》ではない。|折角《せつかく》|今迄《いままで》|金光教《こんくわうけう》で|苦労《くらう》をし|乍《なが》ら、|脆《もろ》くも|敵《てき》に|甲《かぶと》を|脱《ぬ》ぐとは|不甲斐《ふがひ》ない』
と|熱涙《ねつるゐ》を|流《なが》して|足立《あだち》|氏《し》を|激励《げきれい》した。|乍併《しかしながら》|足立《あだち》|氏《し》は|已《すで》に|金光《こんくわう》|教会《けうくわい》の|部下《ぶか》に|対《たい》する|酷薄《こくはく》|無情《むじやう》なるに|呆《あき》れ|果《は》て、|出口教祖《でぐちけうそ》や|喜楽《きらく》の|温情《をんじやう》に|漸《やうや》く|感激《かんげき》して|居《ゐ》たる|際《さい》なれば、|熱心《ねつしん》なる|友人《いうじん》の|忠告《ちうこく》も|只《ただ》|一言《いちごん》の|下《もと》に|撥《は》ねつけ、|且《かつ》|大本《おほもと》の|教義《けうぎ》の|深遠《しんゑん》|霊妙《れいめう》なる|事《こと》を|口《くち》を|極《きは》めて|説《と》き、|遂《つひ》に|土田《つちだ》|雄弘《かつひろ》|氏《し》も|金明会《きんめいくわい》の|布教師《ふけうし》になつて|了《しま》つた。
そこで|喜楽《きらく》は|足立《あだち》、|土田《つちだ》、|福島《ふくしま》|氏《し》|等《ら》と|神殿《しんでん》の|次《つぎ》の|間《ま》で|神様《かみさま》の|話《はなし》や|幽斎《いうさい》の|方法《はうはふ》などを|説明《せつめい》して|居《ゐ》ると|十数年間《じふすうねんかん》|胃腸病《ゐちやうびやう》に|悩《なや》んで|居《ゐ》た|人《ひと》が、|大原《おほはら》から|駕《かご》で|二三《にさん》の|親類《しんるゐ》に|連《つ》れられ|病気《びやうき》|平癒《へいゆ》の|祈願《きぐわん》に|来《き》たので、|喜楽《きらく》は|一寸《ちよつと》|神様《かみさま》に|御祈願《ごきぐわん》をなし、
|喜楽《きらく》『|悪神《あくがみ》|立去《たちさ》れ!』
と|只《ただ》|一言《ひとこと》|言霊《ことたま》を|発射《はつしや》すれば、|不思議《ふしぎ》にも|多年《たねん》の|病《やまひ》は|其《その》|場《ば》にて|恢復《くわいふく》し、|喜《よろこ》び|勇《いさ》んで|帰途《きと》は|自《みづか》ら|歩行《ほかう》し、|鼻唄《はなうた》|等《など》を|唄《うた》つて|帰《かへ》る|様《やう》になつた。|又《また》|台頭《だいとう》と|云《い》ふ|処《ところ》から、|片山《かたやま》|卯之助《うのすけ》と|云《い》ふ|十五歳《じふごさい》の|男《をとこ》が|足《あし》の|立《た》たぬ|病《やまひ》となり、|之《これ》も|亦《また》|駕《かご》に|乗《の》つて|来《き》たが、|足立《あだち》、|土田《つちだ》、|福島《ふくしま》|氏《し》の|前《まへ》で|直《すぐ》に|足《あし》が|立《た》つて|了《しま》つた。
|此《この》|現場《げんば》を|目撃《もくげき》した|三人《さんにん》は|非常《ひじやう》に|霊術《れいじゆつ》の|効顕《かうけん》に|驚嘆《きやうたん》して|居《ゐ》た。|忽《たちま》ち|福島《ふくしま》|寅之助《とらのすけ》は|発動《はつどう》を|始《はじ》め、
『ウンウン』
と|呻《うな》り|出《だ》し、|次《つい》で|土田《つちだ》|雄弘《かつひろ》も|霊感者《れいかんしや》となり、|天眼通《てんがんつう》の|一端《いつたん》を|修得《しうとく》するに|到《いた》つたのである。|足立《あだち》|正信《まさのぶ》|氏《し》は|今迄《いままで》|幽冥界《いうめいかい》の|実状《じつじやう》を|知《し》らなかつた|金光教《こんくわうけう》の|布教師《ふけうし》なりしを|以《もつ》て、|神懸《かむがか》り|状態《じやうたい》を|見《み》るのは|生《うま》れてから|始《はじ》めてなりし|為《た》め、|非常《ひじやう》に|奇妙《きめう》の|思《おも》ひをし、|之《これ》は|屹度《きつと》|妖神《えうしん》の|所業《しわざ》か、|又《また》は|喜楽《きらく》は|魔法使《まはふつかひ》ではないかと、そろそろと|疑《うたが》ひかけたが、|現《げん》に|友人《いうじん》の|土田《つちだ》が|霊感《れいかん》の|神助《しんじよ》を|得《え》てから、
『|今迄《いままで》の|金光《こんくわう》|教会《けうくわい》などはとるに|足《た》らぬものである。|人間《にんげん》が|寄《よ》つて|集《たか》つて|拵《こしら》へた|編輯教《へんしふけう》だから|誠《まこと》の|神《かみ》の|教《をしへ》ぢやない』
と|唱《とな》へ|出《だ》し、|今度《こんど》は|反対《はんたい》に|足立《あだち》|氏《し》を|説服《せつぷく》し、
『|大本《おほもと》の|教理《けうり》は|誠《まこと》の|神《かみ》の|御心《みこころ》に|出《い》でたるものなり』
と|強《つよ》く|主張《しゆちやう》した。されど|足立《あだち》|氏《し》は|依然《いぜん》として|正邪《せいじや》|真偽《しんぎ》の|審判《しんぱん》に|苦《くる》しんで|居《ゐ》た|様《やう》に|見《み》えて|居《ゐ》た。
|教祖様《けうそさま》や|役員《やくゐん》|等《など》の|懇望《こんまう》によつて、|喜楽《きらく》は|茲《ここ》に|幽斎《いうさい》の|修行者《しうぎやうしや》を|養成《やうせい》する|事《こと》となり、|本町《ほんまち》の|中村《なかむら》|竹造《たけざう》|氏《し》の|宅《たく》にて、|数日間《すうじつかん》|布教《ふけう》の|傍《かたはら》|幽斎《いうさい》の|修行《しうぎやう》を|執行《しつかう》し、|求道者《きうだうしや》もおひおひ|増加《ぞうか》し、|本町《ほんまち》の|中村《なかむら》|氏《し》|宅《たく》も|狭《せま》くなり、|本宮《ほんぐう》の|東四《ひがしよ》つ|辻《つじ》、|元《もと》|金光教《こんくわうけう》の|広前《ひろまへ》に|修行場《しうぎやうば》を|移《うつ》した。|福島《ふくしま》|寅之助《とらのすけ》の|神憑《かむがか》りは|随分《ずゐぶん》|乱暴《らんばう》なもので、|邪神界《じやしんかい》の|先導者《せんだうしや》とも|云《い》ふべき|霊《れい》であつて、|大変《たいへん》に|審神者《さには》や|役員《やくゐん》を|手古摺《てこず》らした。|東隣《ひがしどなり》には|其《その》|時分《じぶん》には|綾部《あやべ》の|警察署《けいさつしよ》があり、|日々《ひび》|撃剣《げきけん》の|稽古《けいこ》で|幽斎《いうさい》の|邪魔《じやま》になり、|且《かつ》|又《また》|沢山《たくさん》の|参拝者《さんぱいしや》のために|思《おも》ふやうに|修行《しうぎやう》が|出来《でき》ず、そこで|神界《しんかい》へ|伺《うかが》つた|上《うへ》、|猿田彦神《さるたひこがみ》の|御神勅《ごしんちよく》で|山家村《やまがむら》の|鷹栖《たかのす》へ|修行場《しうぎやうば》を|移転《いてん》する|事《こと》となつた。|其《その》|時《とき》の|歌《うた》に、
|大稜威《おほみいづ》|高千穂山《たかちほやま》の|鷹栖《たかのす》へ
|導《みちび》く|神《かみ》は|猿田彦神《さるたひこがみ》
|直《ただち》に|鷹栖《たかのす》の|四方《しかた》|平蔵《へいざう》|氏《し》の|宅《うち》へ|修行場《しうぎやうば》を|移《うつ》し、|二三日《にさんにち》の|後《あと》|再《ふたた》び|同地《どうち》の|信者《しんじや》|四方《しかた》|祐助《いうすけ》|氏《し》|方《かた》へ|移転《いてん》した。
|修行者《しうぎやうしや》は|何《いづ》れも|役員《やくゐん》|信者《しんじや》の|弟子《でし》のみにて、|福島《ふくしま》|寅之助《とらのすけ》、|四方《しかた》|平蔵《へいざう》、|四方《しかた》|祐助《いうすけ》、|四方《しかた》|熊蔵《くまざう》、|同《どう》|春蔵《はるざう》、|同《どう》|甚之丞《じんのじよう》、|同《どう》すみ|子《こ》、|大槻《おほつき》とう、|塩見《しほみ》せい|子《こ》、|中村《なかむら》|菊子《きくこ》、|田中《たなか》つや|子《こ》、|四方《しかた》|久子《ひさこ》、|野崎《のざき》|篤三郎《とくさぶらう》、|西村《にしむら》まき|子《こ》、|西村《にしむら》こまつ、|村上《むらかみ》|房之助《ふさのすけ》、|黒田《くろだ》きよ|子《こ》、|上仲《うへなか》|義太郎《ぎたらう》、|四方《しかた》|安蔵《やすざう》、|四方《しかた》|藤太郎《とうたらう》、|中村《なかむら》|竹造《たけざう》|等《など》の|二十《にじふ》|有余人《いうよにん》の|修行者《しうぎやうしや》が|集《あつ》まつて|朝《あさ》から|晩《ばん》までドンドンと|幽斎《いうさい》の|修行《しうぎやう》にかかつて|居《ゐ》た。|二十《にじふ》|有余人《いうよにん》が|一時《いちじ》に|発動《はつどう》するので|床《ゆか》の|根太《ねだ》が|歪《ゆが》み|出《だ》し、|祐助《いうすけ》|氏《し》の|息子《むすこ》の|勇一《ゆういち》|氏《し》が|非常《ひじやう》に|困《こま》つて、|秘《ひそ》かに|綾部《あやべ》の|警察署《けいさつしよ》へ、
『|喜楽《きらく》や|足立《あだち》が、しやうもない|事《こと》を|教《をし》へて|困《こま》るから|追払《おひはら》つて|下《くだ》さい』
と|願《ねが》ふて|出《で》た。|戸主《こしゆ》の|権利《けんり》を|以《もつ》て|謝絶《しやぜつ》すれば|宜《よ》いものを、|自分《じぶん》の|卑怯《ひけふ》さから、|斯《か》かる|手段《しゆだん》を|採《と》つたのである。|喜楽《きらく》は|小松林《こまつばやし》の|神様《かみさま》によつてこれを|前知《ぜんち》したので、|即夜《そくや》|上谷《うへだに》の|四方《しかた》|伊左衛門《いざゑもん》|氏《し》|方《かた》へ|修行者《しうぎやうしや》をつれて|移転《いてん》し、|前方《ぜんぱう》の|谷間《たにあひ》に|不動尊《ふどうそん》を|祀《まつ》つた|可《か》なり|大《おほ》きな|瀑布《ばくふ》のあるを|幸《さいは》ひ、|上谷《うへだに》を|修行場《しうぎやうば》と|定《さだ》めて|幽斎《いうさい》に|熱中《ねつちゆう》した。さうした|処《ところ》|案《あん》の|定《ぢやう》、|警官《けいくわん》が|追払《おひはら》ひに|来《き》た。けれども|神道《しんだう》の|為《た》め|赤誠《せきせい》をこらして|修業《しうげふ》にかかつてる|熱心者《ねつしんじや》のみなれば、|少《すこ》しも|怯《ひる》まず|頓着《とんちやく》せずドシドシと|修業《しうげふ》を|続行《ぞくかう》して|居《ゐ》た。|猿田彦《さるたひこ》の|神《かみ》は|又《また》もや|神懸《かむがか》りとなつて、
|神懸《かむがか》り|雲《くも》の|上谷《うへだに》|輝《かがや》きて
|動《うご》かぬ|君《きみ》の|御代《みよ》を|照《て》らさむ
と|云《い》ふ|歌《うた》を|与《あた》へられた。まだまだ|其《その》|時《とき》に|与《あた》へられた|神歌《しんか》は|数百首《すうひやくしゆ》に|上《のぼ》つて|居《ゐ》たが、|今《いま》はハツキリ|記憶《きおく》して|居《ゐ》ないのである。
|扨《さて》|幽斎《いうさい》|修行《しうぎやう》の|結果《けつくわ》は|極《きはめ》て|良好《りやうかう》であつて、|数多《あまた》の|修行者《しうぎやうしや》の|中《なか》に|二三《にさん》の|変則的《へんそくてき》|不成功者《ふせいこうしや》を|出《だ》しただけで、|其《その》|他《た》は|残《のこ》らず|神人《しんじん》|感合《かんがふ》の|境《きやう》に|到達《たうたつ》し、|中《なか》には|筆紙《ひつし》を|用《もち》ひて|世界《せかい》|動乱《どうらん》の|予言《よげん》をなす|者《もの》あり、|北清《ほくしん》|事変《じへん》の|神諭《しんゆ》を|言《い》ふ|者《もの》あり、|日露《にちろ》|戦争《せんそう》の|予言《よげん》をしたり|世界《せかい》|戦争《せんそう》を|予告《よこく》したりする|神《かみ》が|憑《うつ》つて|来《き》た。|天眼通《てんがんつう》、|天耳通《てんじつう》、|宿命通《しゆくめいつう》、|感通《かんつう》|等《など》の|神術《かむわざ》に|上達《じやうたつ》する|者《もの》も|出来《でき》て|来《き》た。|大《おほい》に|神道《しんだう》の|尊厳《そんげん》|無比《むひ》を|自覚《じかく》した|信者《しんじや》も|尠《すくな》からずあつた。|中《なか》に|最《もつと》も|不可思議《ふかしぎ》なるは|西村《にしむら》まき|子《こ》と|云《い》ふ|十八才《じふはつさい》の|女《をんな》、|俗《ぞく》にいふ|白痴《はくち》であつたが|彼《かれ》は|神懸《かむがか》りとなるや|平素《へいそ》の|言動《げんどう》は|一変《いつぺん》し、かの|神世《かみよ》に|於《お》ける|大気津姫《おほげつひめ》の|如《ごと》く、|自分《じぶん》の|耳《みみ》から|粟《あは》を|幾粒《いくつぶ》となく|出《だ》し、|鼻《はな》よりは|小豆《あづき》を|出《だ》し、|秀処《ほと》よりは|麦種《むぎたね》|抔《など》を|出《だ》したる|奇蹟《きせき》があつた。これを|見《み》ても|我国《わがくに》の|神典《しんてん》が|非凡《ひぼん》の|真理《しんり》を|伝《つた》へたるものなる|事《こと》を|悟《さと》り|得《え》らるるのである。
|幽斎《いうさい》の|修行《しうぎやう》もおひおひ|発達《はつたつ》したので、|留守中《るすちう》を|四方《しかた》|藤太郎《とうたらう》に|預《あづ》けおき、|四方《しかた》|平蔵《へいざう》|氏《し》と|共《とも》に|静岡県《しづをかけん》|富士見村《ふじみむら》の|長沢《ながさは》|雄楯《かつたて》|先生《せんせい》の|奉仕《ほうし》して|居《を》られる|月見里神社《やまなしじんじや》へ|参拝《さんぱい》する|事《こと》となつた。|道《みち》すがら|大神《おほかみ》の|御神徳《ごしんとく》の|広大無辺《くわうだいむへん》なるを|説《と》きつつ、|須知山峠《すちやまたうげ》を|越《こ》え、|大原《おほはら》、|枯木峠《かれきたうげ》を|踏《ふ》み|越《こ》え|十津川《とつがは》の|山村《やまむら》にさしかかつた|時《とき》、|四方《しかた》|氏《し》は|俄《にはか》に|発動《はつどう》|気味《ぎみ》となり、|身体《しんたい》|震動《しんどう》|甚《はなはだ》しく、|止《や》むを|得《え》ず|枯木峠《かれきたうげ》の|頂上《ちやうじやう》へ|休息《きうそく》して、|喜楽《きらく》は|立《た》つたまま|四方《しかた》に|鎮魂《ちんこん》を|施《ほどこ》して|見《み》た。|四方《しかた》には|松岡《まつをか》|神使《しんし》が|臨時《りんじ》|憑依《ひようい》し、|天眼通《てんがんつう》が|層一層《そういつそう》|明《あきら》かになつて|来《き》た。
|喜楽《きらく》は|前《まへ》に|述《の》べた|通《とほ》り|長沢《ながさは》|雄楯《かつたて》|翁《をう》の|霊学《れいがく》の|門人《もんじん》となつて|居《ゐ》たので、|一度《いちど》|報告《はうこく》|旁《かたがた》|鈿女命《うづめのみこと》を|祀《まつ》つた|月見里《やまなし》|神社《じんじや》へ|参拝《さんぱい》したのである。|漸《やうや》くにして|無事《ぶじ》に|富士見村《ふじみむら》の|下清水《しもしみづ》、|長沢《ながさは》|先生《せんせい》の|館《やかた》に|到着《たうちやく》した。さうして|四方《しかた》|平蔵《へいざう》|氏《し》は、|神懸《かみがか》りと|俗間《ぞくかん》に|行《おこな》はれて|居《ゐ》る|稲荷下《いなりさ》げとは|其《その》|品位《ひんゐ》に|於《おい》て|又《また》|方法《はうはふ》に|於《おい》て|雲泥《うんでい》の|差《さ》のある|事《こと》を|一々《いちいち》|例証《れいしよう》を|挙《あ》げて|説明《せつめい》せられ、|漸《やうや》く|霊学《れいがく》の|趣旨《しゆし》を|悟《さと》る|様《やう》になり|二昼夜《にちうや》|滞在《たいざい》の|上《うへ》、|惜《をし》き|別《わか》れを|告《つ》げ|帰綾《きれう》の|途《と》についた。
|下清水《しもしみづ》より|江尻《えじり》|迄《まで》|二十丁《にじつちやう》ばかりの|道《みち》を|歩《ある》いて、|午前《ごぜん》|一時《いちじ》の|急行《きふかう》|列車《れつしや》へ|乗《の》り|込《こ》まうとする|時《とき》、|僅《わづか》|二分《にふん》の|短《みじか》き|停車《ていしや》、|殊《こと》に|列車《れつしや》はボギー|式《しき》で、|田舎《いなか》の|汽車《きしや》の|様《やう》に|入口《いりぐち》が|沢山《たくさん》にない|処《ところ》へ、|四方《しかた》|氏《し》は|生憎《あひにく》|目《め》が|悪《わる》い、|夜分《やぶん》は|殆《ほとん》ど|灯《ひ》があつても|見《み》えぬ|位《くらゐ》だ。それに|沢山《たくさん》の|荷物《にもつ》を|肩《かた》にひつかけて|居《ゐ》る。|喜楽《きらく》も|手《て》|一杯《いつぱい》の|荷物《にもつ》を|下《さ》げて|手早《てばや》く|乗車《じやうしや》し、|四方《しかた》|氏《し》は|如何《どう》かと|昇降台《しやうかうだい》を|見《み》れば、|今《いま》|片手《かたて》をかけたばかりに|汽車《きしや》は|動《うご》き|出《だ》して|居《ゐ》る。|駅員《えきゐん》は|力一杯《ちからいつぱい》の|声《こゑ》を|出《だ》して『|危《あぶ》ない|危《あぶ》ない』と|連呼《れんこ》して|居《ゐ》る。
|四方《しかた》|氏《し》は|其《その》|間《ま》に|七八間《しちはちけん》も|引《ひ》きずられて|居《ゐ》た。|喜楽《きらく》は|金剛力《こんがうりき》を|出《だ》して|荷物《にもつ》|諸共《もろとも》|昇降台《しやうかうだい》|迄《まで》ひきあげた。|此《この》|時《とき》の|事《こと》を|思《おも》ふと|今《いま》でもゾツとする|様《やう》だ。|全《まつた》く|神《かみ》の|加護《かご》によつて|危《あやふ》き|怪我《けが》を|救《すく》はれたのだと|心《こころ》の|裡《うち》にて|感謝《かんしや》し|乍《なが》ら、|翌日《よくじつ》の|午後《ごご》|一時《いちじ》|頃《ごろ》|京都駅《きやうとえき》に|安着《あんちやく》し、|二人《ふたり》は|東本願寺《ひがしほんぐわんじ》|前《まへ》のある|飲食店《いんしよくてん》に|這入《はい》つて|昼飯《ひるめし》をすませ、それより|七条通《しちでうどほ》りを|西行《せいかう》して|西七条《にししちでう》に|至《いた》り、|此処《ここ》から|乗合《のりあひ》|馬車《ばしや》の|亀岡行《かめをかゆき》の|切符《きつぷ》を|買《か》ひ|発車《はつしや》の|時刻《じこく》を|待《ま》つてゐた。|四方《しかた》|氏《し》は|本願寺《ほんぐわんじ》|前《まへ》の|茶店《ちやみせ》で|買《か》ふて|食《く》つた|蛸《たこ》の|中毒《ちうどく》で|俄《にはか》に|苦《くる》しみ|出《だ》し、|嘔《は》いたり、|下痢《くだし》たり、|十数回《じふすうくわい》に|及《およ》んだ。|顔色《がんしよく》は|真蒼《まつさを》となり、|其《その》|場《ば》に|倒《たふ》れて|殆《ほとん》ど|死人《しにん》の|様《やう》になつてゐる。|馬車屋《ばしやや》の|主人《しゆじん》は|驚《おどろ》いて、
『お|客《きやく》サン、あんたは|虎列剌病《これらびやう》です。サア|一刻《いつこく》も|早《はや》く|此《この》|場《ば》を|退却《たいきやく》して|下《くだ》され。|警察《けいさつ》へ|知《し》れたら|何《なに》も|彼《か》も|焼《や》かれて|了《しま》ひ、|営業《えいげふ》が|出来《でき》なくなつて|了《しま》ひます。そんな|事《こと》にでもなれば|家《うち》は|大騒動《だいさうどう》だ。サア|早《はや》く|帰《かへ》つて|下《くだ》さい』
と|一旦《いつたん》|受取《うけと》つた|金《かね》を|返《かへ》し|切符《きつぷ》を|取上《とりあ》げて|了《しま》つた。|喜楽《きらく》は|教祖《けうそ》より|授《さづ》かつて|来《き》たお|肌守《はだまもり》を|懐中《くわいちゆう》より|取《と》り|出《だ》し、|四方《しかた》|氏《し》の|肩《かた》にかけてやり、|又《また》|教祖様《けうそさま》から|頂《いただ》いたおひねり|二体《にたい》を|口《くち》に|含《ふく》ませ|鎮魂《ちんこん》を|施《ほどこ》した。|御神徳《ごしんとく》は|忽《たちま》ち|現《あら》はれ、|四方《しかた》|氏《し》は|初《はじ》めて|言語《げんご》も|明白《めいはく》になり、|元気《げんき》も|稍《やや》|恢復《くわいふく》して|来《き》た。|喜楽《きらく》は|四方《しかた》|氏《し》の|手《て》をひき|門《かど》へ|出《い》で、|折柄《をりから》|空車《からぐるま》をひいて|来《き》た|二人《ふたり》の|車夫《しやふ》を|認《みと》め、|天《てん》の|与《あた》へと|直《ただち》に|之《これ》に|乗《の》り、|何喰《なにく》はぬ|顔《かほ》にて|一里半《いちりはん》ばかり|走《はし》らせ、|桂《かつら》の|大橋《おほはし》にさしかかると、|四方《しかた》|氏《し》は|全《まつた》く|旧《もと》の|如《ごと》くに|元気《げんき》づき、|車《くるま》の|上《うへ》から|潔《いさぎよ》い|声《こゑ》で|四方山《よもやま》の|話《はな》しをしたり、|歌《うた》などを|唄《うた》ひ|出《だ》した。それから|大枝阪《おほえさか》、|王子《わうじ》、|篠村《しのむら》と|疾走《しつそう》しつつ|篠村《しのむら》|八幡堂《はちまんだう》の|少《すこ》し|手前《てまへ》|迄《まで》|帰《かへ》つて|来《く》ると、|四方《しかた》|氏《し》の|乗《の》つた|腕車《わんしや》は|忽《たちま》ち|鉄《てつ》の|輪《わ》がガラリと|外《はづ》れ、グナグナと|砕《くだ》けて|了《しま》ひ、|四方《しかた》|氏《し》は|街路《がいろ》に|真逆様《まつさかさま》に|放《はう》り|出《だ》されて|了《しま》つたが、|幸《さいは》ひに|擦傷《かすりきず》|一《ひと》つせず|無事《ぶじ》であつた。
|四方《しかた》|氏《し》は|余程《よほど》|運《うん》の|強《つよ》い|人《ひと》と|見《み》え、|一日《いちにち》の|間《ま》に|三度《さんど》まで|汽車《きしや》、|馬車《ばしや》、|人力車《じんりきしや》の|危難《きなん》に|救《すく》はれるといふ|事《こと》は、|実《じつ》に|不思議《ふしぎ》である。これも|神様《かみさま》の|御神徳《ごしんとく》と|考《かんが》へるより|外《ほか》に|判断《はんだん》はつかぬ。|人間《にんげん》には|一生《いつしやう》の|中《うち》には|必《かなら》ず|一度《いちど》や|二度《にど》は|幸運《かううん》が|向《むか》ふて|来《く》る。それと|同様《どうやう》に|又《また》|一度《いちど》や|二度《にど》は|大難《だいなん》が|来《く》るものである。|四方《しかた》|氏《し》の|信仰《しんかう》の|力《ちから》と|大神様《おほかみさま》のお|蔭《かげ》で、|斯《かか》る|危《あぶ》ない|所《ところ》を|九分九厘《くぶくりん》で|助《たす》けられたのは、|全《まつた》く|神様《かみさま》に|一心《いつしん》に|仕《つか》へて|居《ゐ》たお|蔭《かげ》である。
(大正一一・一〇・一二 旧八・二二 北村隆光録)
第二五章 |妖魅来《えうみらい》〔一〇三七〕
|篠村《しのむら》から|徒歩《とほ》となつて、|帰途《きと》を|幸《さいは》ひ|八木《やぎ》の|福島《ふくしま》|寅之助《とらのすけ》|方《かた》へ|立寄《たちよ》つて|見《み》た。|所《ところ》が|主人《しゆじん》の|寅之助《とらのすけ》|氏《し》は|綾部《あやべ》へ|修業《しうげふ》に|行《い》つた|不在中《ふざいちゆう》で、|妻君《さいくん》の|久子《ひさこ》サンと|子供《こども》が|居《を》つたので、|四方《しかた》|氏《し》から|綾部《あやべ》の|様子《やうす》や|福島《ふくしま》|氏《し》の|神憑《かむがか》りの|次第《しだい》まで|逐一《ちくいち》|話《はな》して|聞《き》かした。されど|久子《ひさこ》は|金光教《こんくわうけう》の|信者《しんじや》である|所《ところ》から、|霊学《れいがく》の|話《はなし》などは|半信半疑《はんしんはんぎ》で、|何《なに》を|云《い》ふても|鼻《はな》の|先《さき》であしらひ、|腑《ふ》におちぬやうな|按配《あんばい》で|面白《おもしろ》くない。|二人《ふたり》はソコソコにして、|此《この》|家《や》を|立出《たちい》で|八木《やぎ》の|大橋《おほはし》を|渡《わた》つて、|刑部《をさべ》といふ|所《ところ》に|土田《つちだ》|雄弘《かつひろ》|氏《し》の|寓居《ぐうきよ》を|訪《たづ》ね、|神《かみ》の|道《みち》の|御話《おはなし》など|互《たがひ》に|語《かた》らふ|所《ところ》へ、|京都《きやうと》から|一本《いつぽん》の|急電《きふでん》が|届《とど》いた。|土田《つちだ》|氏《し》は|何事《なにごと》ならむと|早速《さつそく》|開《ひら》いて|見《み》れば、|京都《きやうと》に|居《を》る|従弟《いとこ》の|南部《なんぶ》|孫三郎《まごさぶらう》といふ|人《ひと》が、|病気《びやうき》|危篤《きとく》であるからすぐ|来《き》てくれといふ|電信《でんしん》であつた。|土田《つちだ》|氏《し》は|余《あま》り|豊《ゆたか》な|生活《せいくわつ》でないから|京都《きやうと》へ|行《ゆ》く|旅費《りよひ》もない。|大《おほい》に|困《こま》つて|喜楽《きらく》に|向《むか》ひ|言《い》ふよう、
|土田《つちだ》『|只今《ただいま》の|電報《でんぱう》は|私《わたし》の|従弟《いとこ》の|南部《なんぶ》といふ|者《もの》が、|今《いま》まで|金光《こんくわう》|教会《けうくわい》の|布教師《ふけうし》をつとめて|居《をり》ましたが、|身《み》の|修《をさ》まらぬ|人物《じんぶつ》で、|今迄《いままで》|京都《きやうと》から|尾州《びしう》、|遠州《ゑんしう》、|駿州《すんしう》あたり|迄《まで》|十三ケ所《じふさんかしよ》も|金光《こんくわう》|教会所《けうくわいしよ》を|開《ひら》いては、|婦女《ふぢよ》に|関係《くわんけい》をつけては|失敗《しつぱい》し、|又《また》|土地《とち》をかへては|教会《けうくわい》を|開《ひら》き、|同《おな》じく|婦人《ふじん》に|関係《くわんけい》しては|追出《おひだ》され、|遂《つひ》には|金光《こんくわう》|教会《けうくわい》の|杉田《すぎた》|政次郎《まさじらう》|氏《し》から|破門《はもん》されて、|今《いま》の|所《ところ》では|妹《いもうと》の|家《うち》に|厄介《やくかい》になつて|居《を》りますが、|二三年前《にさんねんぜん》より|肺結核《はいけつかく》にかかりブラブラ|致《いた》して|居《を》りました。とうとう|神罰《しんばつ》が|当《あた》つたのでせうから、|到底《たうてい》|全快《ぜんくわい》は|覚束《おぼつか》なからうと|信《しん》じて|居《を》りますけれど、なる|事《こと》なら|今一度《いまいちど》|神様《かみさま》の|御助《おたす》けに|預《あづか》りたいものです。|先生《せんせい》の|御祈念《ごきねん》で、ま|一度《いちど》|助《たす》けてやつて|下《くだ》さる|事《こと》は|出来《でき》ますまいか』
と|心配相《しんぱいさう》に|頼《たの》み|込《こ》む。|喜楽《きらく》は|気《き》の|毒《どく》がり、|直《ただち》に|神界《しんかい》に|伺《うかが》うて|見《み》た。|其《その》|神占《しんせん》によると、|今後《こんご》|一週間目《いつしうかんめ》の|日《ひ》が|此《この》|病人《びやうにん》に|取《と》つて|大峠《おほたうげ》である、|九分九厘《くぶくりん》までは|到底《たうてい》|助《たす》かるまい……と|云《い》つた。そこで|土田《つちだ》|氏《し》は……
|土田《つちだ》『モシ|南部《なんぶ》の|命《いのち》をお|救《すく》ひ|下《くだ》さるなれば、|私《わたし》から|彼《かれ》を|説《と》いてあなたの|弟子《でし》と|致《いた》し、お|道《みち》の|為《ため》に|誓《ちか》つて|尽力《じんりよく》をさせませう』
と|云《い》ふ。|喜楽《きらく》は|笑《わら》ひ|乍《なが》ら、
|喜楽《きらく》『|又《また》|金光《こんくわう》|教会《けうくわい》の|布教師《ふけうし》|時代《じだい》の|行方《やりかた》をくり|返《かへ》されますと|困《こま》りますなア。|併《しか》しここ|三年《さんねん》の|間《あひだ》、|神様《かみさま》に|願《ねが》つて|命《いのち》を|伸《の》ばして|貰《もら》ふやうに|致《いた》します。|神様《かみさま》は|三年間《さんねんかん》の|行状《ぎやうじやう》を|見届《みとど》けた|上《うへ》で、|又々《またまた》|寿命《じゆみやう》をのばして|下《くだ》さりませう。|此《この》|事《こと》を|手紙《てがみ》に|書《か》いて|南部《なんぶ》サンへ|知《し》らしておやりなさい。さうすれば|京都《きやうと》へ|旅費《りよひ》を|使《つか》うて|行《ゆ》く|必要《ひつえう》はありませぬ』
|土田《つちだ》|氏《し》は|喜《よろこ》んでこまごまと|手紙《てがみ》を|書《か》き|京都《きやうと》|行《ゆ》きも|見合《みあは》した。|果《はた》して|南部《なんぶ》|氏《し》は|七日目《なぬかめ》に|一旦《いつたん》|息《いき》が|絶《た》え、|暫《しばら》くして|再《ふたた》び|息《いき》を|吹《ふ》き|返《かへ》し、それから|日《ひ》に|日《ひ》に|快方《くわいはう》に|向《むか》つた。|土田《つちだ》|氏《し》は|南部《なんぶ》|全快《ぜんくわい》の|砌《みぎり》に|京都《きやうと》へ|行《い》つて|会見《くわいけん》した|際《さい》、
|土田《つちだ》『|貴兄《きけい》の|今度《こんど》の|大病《たいびやう》が|全快《ぜんくわい》したのは、|全《まつた》く|綾部《あやべ》に|現《あら》はれた|艮《うしとら》の|金神《こんじん》さまの|御神徳《ごしんとく》と、|上田《うへだ》といふ|人《ひと》の|熱誠《ねつせい》なる|御祈念《ごきねん》の|賜物《たまもの》である』
と|云《い》つて|喜楽《きらく》に|約束《やくそく》したこと|及《および》|綾部《あやべ》に|於《お》ける|神懸《かむがかり》|修行《しうぎやう》の|実験談《じつけんだん》などを|詳細《しやうさい》に|話《はな》して|聞《き》かせた。されど|南部《なんぶ》は、
|南部《なんぶ》『|必《かならず》しも|綾部《あやべ》の|艮《うしとら》の|金神様《こんじんさま》の|御神徳《ごしんとく》ではない。|平素《へいそ》|信《しん》ずる|天地金《てんちかね》の|神《かみ》さまと、|金光《こんくわう》|教祖《けうそ》の|御守護《ごしゆご》にて、|吾《わが》|大病《たいびやう》を|綾部《あやべ》の|神《かみ》や|上田《うへだ》といふ|男《をとこ》を|使役《しえき》してお|助《たす》け|下《くだ》さつたのである。|故《ゆゑ》に|此《この》|御恩《ごおん》の|九分九厘《くぶくりん》はヤツパリ|金光《こんくわう》さまにある』
と|云《い》つて、|直《ただち》に|京都《きやうと》の|島原《しまばら》の|金光《こんくわう》|教会《けうくわい》へ|御礼《おれい》|参《まゐ》りをなし、|綾部《あやべ》の|方《はう》へは|手《て》もロクに|合《あ》はさなんだのである。
それから|後《のち》は『|今《いま》まで|金光教《こんくわうけう》の|布教師《ふけうし》を|拝命《はいめい》し|乍《なが》らいろいろの|醜行《しうかう》を|敢《あへ》てし、|神様《かみさま》の|御怒《おいか》りにふれて|一命《いちめい》すでに|危《あや》ふき|所《ところ》を、お|慈悲《じひ》|深《ふか》き|天地金《てんちかね》の|神《かみ》や|金光《こんくわう》|教祖《けうそ》の|御威徳《ごゐとく》でおかげを|被《かうむ》つた』とて、|朝晩《あさばん》、|母親《ははおや》や|妹《いもうと》や|自分《じぶん》が|代《かは》る|代《がは》る|島原《しまばら》の|教会所《けうくわいしよ》へ|参拝《さんぱい》して|居《を》つた。そした|所《ところ》が、|一二ケ月《いちにかげつ》たつと|今度《こんど》は|又《また》|腹《はら》が|烈《はげ》しくいたみ|出《だ》し、|日《ひ》を|追《お》うて|重体《ぢうたい》に|陥《おちい》り、|日参《につさん》|所《どころ》か|室内《しつない》の|運動《うんどう》も|出来《でき》なくなつて|了《しま》つた。それから|母《はは》や|妹《いもうと》が|一生懸命《いつしやうけんめい》に|金光《こんくわう》|教会《けうくわい》へお|百度《ひやくど》をふんでみたが|少《すこ》しも|霊験《れいけん》が|現《あら》はれぬ。|大学《だいがく》|病院《びやうゐん》へかつぎこんで|診察《しんさつ》して|貰《もら》うと、|非常《ひじやう》に|重《おも》い|盲腸炎《まうちやうえん》だから、|切開《せつかい》|手術《しゆじゆつ》を|施《ほどこ》さねばならぬが、|病人《びやうにん》の|体《からだ》の|衰弱《すゐじやく》が|甚《はなはだ》しいから、|生命《せいめい》は|受合《うけあ》へぬとの|医者《いしや》の|言《げん》であつた。そこで|已《や》むを|得《え》ず|施術《しじゆつ》して|貰《もら》ふのを|見合《みあは》せ、|吾《わが》|家《や》へつれ|帰《かへ》り、|成行《なりゆき》に|任《まか》せて、|死期《しき》の|至《いた》るを|待《ま》つ|外《ほか》|手段《しゆだん》がなかつたのである。
|益々《ますます》|重態《ぢうたい》に|陥《おちい》り、|如何《いかん》ともすることも|出来《でき》なくなり|命旦夕《めいたんせき》に|迫《せま》つた。|又《また》もや|従弟《いとこ》なる|土田《つちだ》|氏《し》へ……|病気《びやうき》|危篤《きとく》すぐ|来《きた》れ……の|電報《でんぱう》をうつた。|土田《つちだ》|氏《し》は|例《れい》の|刑部《おさべ》の|寓居《ぐうきよ》にありて、|之《これ》を|披見《ひけん》し「|綾部《あやべ》に|向《むか》つて|手《て》を|合《あは》せ」の|返電《へんでん》を|打《う》つておいて|上京《じやうきやう》せなかつた。|京都《きやうと》の|南部《なんぶ》|氏《し》の|母《はは》と|妹《いもうと》とは|其《その》|電報《でんぱう》を|見《み》て、|叶《かな》はぬ|時《とき》の|神頼《かみだの》み、|命《いのち》さへ|助《たす》けて|下《くだ》さらば|何神様《なにがみさま》でもよい……と|綾部《あやべ》の|方《はう》に|向《むか》つて「|艮《うしとら》の|金神様《こんじんさま》、|今迄《いままで》の|取違《とりちがひ》と|御無礼《ごぶれい》の|段《だん》を|御赦《おゆる》し|下《くだ》さいませ。|孫三郎《まごさぶらう》の|一命《いちめい》を|今一度《いまいちど》お|助《たす》け|下《くだ》さらば、|彼《かれ》の|体《からだ》も|精神《せいしん》も|差上《さしあ》げまして、|艮《うしとら》の|金神《こんじん》さまの|御用《ごよう》をさして|頂《いただ》きます」
と|一心不乱《いつしんふらん》に|祈願《きぐわん》をこめた。ふしぎや|忽《たちま》ち|感応《かんのう》あつて、|南部《なんぶ》|氏《し》の|病床《びやうしやう》に|一寸《いつすん》|許《ばか》りもあらうと|思《おも》ふ|大《おほ》きな|虻《あぶ》が、|寒中《かんちう》にも|抱《かか》はらずブンと|音《おと》を|立《た》ててどこからともなく|飛来《とびきた》り、|病人《びやうにん》の|頭《あたま》の|上《うへ》を|三回《さんくわい》|舞《ま》ひ|了《をは》るや、|南部《なんぶ》|氏《し》の|腹部《ふくぶ》は|岩《いは》でも|砕《くだ》けるやうな|音《おと》がして、|二三升《にさんぜう》|許《ばか》りも|汚《きたな》いものが|肛門《こうもん》から|排出《はいしゆつ》すると|共《とも》に、それより|腹部《ふくぶ》の|激痛《げきつう》も|止《と》まり、|日《ひ》を|追《お》うて|快方《くわいはう》に|向《むか》つた。|此《こ》れが|南部《なんぶ》|氏《し》が|金光教《こんくわうけう》を|断念《だんねん》して|綾部《あやべ》の|大本《おほもと》へ|入信《にふしん》した|動機《どうき》であつた。
それから|二人《ふたり》は|綾部《あやべ》へ|帰《かへ》つて|見《み》ると、|上谷《うへだに》の|修行場《しうぎやうば》に|邪神《じやしん》が|襲来《しふらい》して、|福島《ふくしま》|寅之助《とらのすけ》、|村上《むらかみ》|房之助《ふさのすけ》、|野崎《のざき》|篤三郎《とくさぶらう》|其《その》|外《ほか》|一二名《いちにめい》の|神主《かむぬし》は|大乱脈《だいらんみやく》となり、あらぬ|事《こと》|許《ばか》り|口走《くちばし》つて|騒《さわ》ぎまはつて|居《ゐ》た。|村上《むらかみ》は|近郷《きんがう》|近在《きんざい》を|昼夜《ちうや》の|区別《くべつ》なくかけまはり、いろいろの|事《こと》をふれまはつて、|大本《おほもと》の|名《な》を|悪《わる》くせむと|一生懸命《いつしやうけんめい》に|妖魅《えうみ》がついて|狂《くる》ひまはつて|居《ゐ》る。|福島《ふくしま》|寅之助《とらのすけ》は|上谷《うへだに》の|村中《むらぢう》に|響《ひび》きわたるやうな|大音声《だいおんじやう》で、
|福島《ふくしま》『|丑《うし》の|年《とし》に|生《うま》れた|寅之助《とらのすけ》は、|福島《ふくしま》|只《ただ》|一人《ひとり》であるぞよ。それぢやによつて|此《この》|方《はう》が|誠《まこと》の|艮《うしとら》の|大金神《だいこんじん》であるぞよ。|上田《うへだ》は|未《ひつじ》の|年《とし》の|生《うま》れ、|出口《でぐち》|直《なほ》は|申《さる》の|年《とし》|生《うま》れであるぞよ。|漸《やうや》く|二人《ふたり》|合《あ》はして|坤《ひつじさる》の|金神《こんじん》ぢやぞよ。|二《ふた》つ|一《ひと》つぢやぞよ。とても|此《この》|福島《ふくしま》|寅之助《とらのすけ》には|叶《かな》はぬぞよ。サア|皆《みな》の|者《もの》|共《ども》、これから|今《いま》までの|取違《とりちがひ》をスツパリ|改心《かいしん》|致《いた》して、|此《この》|方《はう》にお|詫《わび》|致《いた》せば|今《いま》までの|罪《つみ》を|許《ゆる》してやるぞよ。|出口《でぐち》と|上田《うへだ》は|裏鬼門《うらきもん》の|金神《こんじん》ぢや、|誠《まこと》の|丑寅《うしとら》の|金神《こんじん》は|出口《でぐち》|直《なほ》ではなかりたぞよ。これが|分《わか》らぬ|奴《やつ》はきびしきいましめ|致《いた》して、|谷底《たにそこ》へ|放《ほ》るぞよ。これからは|福島《ふくしま》|寅之助《とらのすけ》を|神《かみ》が|使《つか》うて、|三千世界《さんぜんせかい》の|立替立直《たてかへたてなほ》しを|致《いた》して、|神《かみ》も|仏事《ぶつじ》も|人民《じんみん》も|餓鬼《がき》|虫《むし》けらに|至《いた》る|迄《まで》|勇《いさ》んでくらさすぞよ。これが|違《ちが》うたら|神《かみ》は|此《この》|世《よ》にをらぬぞよ。|大《だい》の|字《じ》|逆様《さかさま》になりて|居《を》るぞよ。|今《いま》に|天地《てんち》がでんぐり|覆《かへ》るぞよ。|用意《ようい》をなされよ。|今《いま》に|足許《あしもと》から|鳥《とり》が|立《た》つぞよ。|艮《うしとら》の|金神《こんじん》は|今《いま》まで|悪神《あくがみ》|祟《たた》り|神《がみ》とけなされたが|誠《まこと》に|結構《けつこう》な|神《かみ》でありたぞよ。|神《かみ》が|表《おもて》に|現《あら》はれて|善《ぜん》と|悪《あく》とを|立分《たてわ》けて|世界《せかい》の|人民《じんみん》を|改心《かいしん》さして|松《まつ》の|神世《かみよ》にいたすぞよ。|神《かみ》は|決《けつ》してウソは|申《まを》さぬぞよ。|疑《うたが》へば|神《かみ》の|気障《きざは》りになるぞよ。|之《これ》から|上田《うへだ》が|帰《かへ》つても|相手《あひて》になる|事《こと》はならぬぞよ。|誠《まこと》の|艮金神《うしとらのこんじん》が|気《き》をつけるぞよ』
などと|赤裸《まつぱだか》となり|妖魅《えうみ》がうつつて、|教祖《けうそ》の|筆先《ふでさき》の|真似《まね》|計《ばか》りを、のべつ|幕《まく》なしに|呶鳴《どな》りちらして|始末《しまつ》に|了《を》へない。|喜楽《きらく》は|直《ただち》に|神界《しんかい》に|祈願《きぐわん》をこめ|鎮魂《ちんこん》を|修《しう》した。|其《その》|為《ため》|一旦《いつたん》|邪神《じやしん》の|暴動《ばうどう》が|鎮定《ちんてい》したが、|又《また》|外《ほか》の|神懸《かむがかり》にも|沢山《たくさん》の|妖魅《えうみ》の|同類《どうるゐ》がうつつて|福島《ふくしま》の|神《かみ》に|加勢《かせい》をする。|遂《つひ》には|神懸《がむがかり》|一同《いちどう》が|口《くち》を|揃《そろ》へて、
『|皆《みな》の|者《もの》よ。シツカリ|致《いた》さぬと、|上田《うへだ》の|曲津《まがつ》にごまかされて、ヒドイ|目《め》にあはされるぞよ。|誠《まこと》の|艮《うしとら》の|金神《こんじん》は|福島《ふくしま》|大先生《だいせんせい》に|違《ちが》ひはないぞよ』
と|叫《さけ》ぶのを|聞《き》いた|福島《ふくしま》は、|再《ふたた》び|邪神《じやしん》におそはれて、|黒《くろ》い|濃《こ》い|眉毛《まゆげ》を|上《あ》げたり|下《さ》げたり、|目《め》を|剥《む》いたり、|腕《うで》をふり|上《あ》げたり、|飛《と》んだりはねたり、|尻《しり》をまくつてはねまはつたり、|畳《たたみ》は|穴《あな》があき|床《ゆか》はおつる、ドンドンドンと|響《ひび》きわれるやうな|音《おと》をさして、|非常《ひじやう》に|大騒《おほさわ》ぎを|再演《さいえん》し|出《だ》したので、|田舎人《いなかびと》が|珍《めづら》しがつて、|四方《しはう》|八方《はつぱう》から|毎日々々《まいにちまいにち》|弁当持《べんたうもち》で|見物《けんぶつ》に|来《く》る。|喜楽《きらく》は|一生懸命《いつしやうけんめい》に|鎮圧《ちんあつ》に|力《ちから》を|尽《つく》しても、|二十《にじふ》|有余人《いうよにん》の|神憑《かむがかり》の|大部分《だいぶぶん》に、|不在《ふざい》の|間《ま》に|妖魅《えうみ》が|憑《うつ》つたのであるから、|中々《なかなか》|容易《ようい》にしづまらない、こちらを|押《おさ》へばあちらが|上《あが》る、|丁度《ちやうど》|城《しろ》の|馬場《ばんば》で|合羽屋《かつぱや》が|合羽《かつぱ》を|干《ほ》してゐた|所《ところ》へ|俄《にはか》に|天狗風《てんぐかぜ》が|吹《ふ》き|合羽《かつぱ》が|舞《ま》ひ|上《あが》り、|一度《いちど》に|押《おさ》へることが|出来《でき》なくなつて、|爺《おやじ》があわてて|堀《ほり》へはまつたやうな|具合《ぐあひ》になつて|来《き》た。そして|日一日《ひいちにち》と|狂態《きやうたい》が|烈《はげ》しくなつて|来《く》る。つひには|修行者《しうぎやうしや》の|親兄弟《おやきやうだい》が|怒《おこ》つて|来《き》て、
『|吾《わが》|家《や》の|大事《だいじ》な|伜《せがれ》を|気違《きちがひ》にしたから|承知《しようち》せない、|吾《わが》|妹《いもうと》を|狐《きつね》つきにしよつた……おれの|子《こ》を|巫子《みこ》に|仕立《したて》よとしよつた……|狸《たぬき》をつけたのだろ、|其《その》|筋《すぢ》に|告訴《こくそ》してやる』
などと|一斉《いつせい》にせめかくる。|四方《しかた》|藤太郎《とうたらう》は|其《その》|中《なか》でも|稍《やや》|常識《じやうしき》を|持《も》つてゐたから、|陰《いん》に|陽《やう》に|気《き》を|配《くば》り、|忠実《ちうじつ》に|審神者《さには》の|手伝《てつだ》ひをしてくれたので、|喜楽《きらく》も|非常《ひじやう》に|力《ちから》を|得《え》、|千難万苦《せんなんばんく》を|排《はい》して|一斉《いつせい》の|反抗《はんかう》も|妨害《ばうがい》も|頓着《とんちやく》なく、あく|迄《まで》|審神者《さには》の|職権《しよくけん》をふりまはして|漸《やうや》く|邪神《じやしん》を|帰順《きじゆん》せしむることを|得《え》た。
|一方《いつぱう》では|金光《こんくわう》|教師《けうし》たりし|足立《あだち》|正信《まさのぶ》|氏《し》|等《ら》は|心機一転《しんきいつてん》して、|金明会《きんめいくわい》を|破滅《はめつ》せしむるは|此《この》|好機《かうき》を|措《お》いて|他《た》にある|可《べか》らずとなし、|数多《あまた》の|信徒《しんと》をひそかに、|以前《いぜん》の|田中《たなか》|新之助《しんのすけ》といふ|信者《しんじや》の|内《うち》に|集《あつ》めて、|鎮魂帰神《ちんこんきしん》の|霊術《れいじゆつ》の|不成績《ふせいせき》なることを|強調《きやうちよう》し、|且《か》つ|喜楽《きらく》を|放逐《はうちく》すべく|密議《みつぎ》をこらしてゐた。|折角《せつかく》|固《かた》まりかけてゐた|金明会《きんめいくわい》の|信徒《しんと》は|五里霧中《ごりむちゆう》に|彷徨《はうくわう》し、|去就《きよしう》に|迷《まよ》ひ、|四分五裂《しぶんごれつ》の|状態《じやうたい》になつて|来《き》た。えたり|賢《かしこ》しと、|中村《なかむら》|竹造《たけざう》、|四方《しかた》|春三《はるざう》の|野心家《やしんか》|等《ら》が、|諸方《しよはう》へかけまはつて|喜楽《きらく》の|神懸《かむがかり》は|有害《いうがい》にして|無益《むえき》だとか、|狐使《きつねつかひ》だとか、|魔法師《まはふし》だとか|力限《ちからかぎ》り|根限《こんかぎ》り|下《くだ》らぬことをふれ|歩《ある》く。|遂《つひ》には|教祖《けうそ》のことまで|悪口《あくこう》するやうになつて|来《き》た。|其《その》|時《とき》の|有様《ありさま》は|全《まつた》く|万妖《ばんえう》|悉《ことごと》く|起《おこ》るてふ|古事記《こじき》の|天《あま》の|岩戸《いはと》がくれ|式《しき》であつた。
|幸《さいはひ》にして|四方《しかた》|平蔵《へいざう》、|同《どう》|藤太郎《とうたらう》|等《ら》の|熱心《ねつしん》と|誠実《せいじつ》なる|調停《てうてい》で、|一時《いちじ》は|喜楽《きらく》に|対《たい》する|猛烈《まうれつ》な|反抗《はんかう》も|稍《やや》|小康《せうかう》を|得《う》ることとなつた。そしてイの|一番《いちばん》に|叛旗《はんき》をかかげたのは|福島《ふくしま》|寅之助《とらのすけ》|氏《し》であつた。|元来《ぐわんらい》|福島《ふくしま》は|正直《しやうぢき》の|評判《へうばん》をとつてゐる、|人間《にんげん》としては|申分《まをしぶん》のない|心掛《こころがけ》のよい|人《ひと》である。|妖魅《えうみ》といふ|奴《やつ》は|中々《なかなか》|食《く》へぬ|奴《やつ》で、|世界《せかい》から…|彼《かれ》は|悪人《あくにん》ぢや、|不正直《ふしやうぢき》だと|見《み》なされてゐるやうな|人間《にんげん》にはメツタに|憑《うつ》るものでない。たとへ|憑《うつ》つて|見《み》た|所《ところ》で|其《その》|人物《じんぶつ》に|信用《しんよう》がなければ、|世人《せじん》が|信用《しんよう》せないことを|知《し》つてゐるからである。そこで|悪魔《あくま》は|必《かなら》ず|善良《ぜんりやう》なる|人間《にんげん》を|選《えら》んで|憑《うつ》りたがるものであるから、|神懸《がむがかり》の|修行《しうぎやう》する|者《もの》は|余程《よほど》|胆力《たんりよく》のある|智慧《ちゑ》の|働《はたら》く|人《ひと》でないと、とんだ|失敗《しつぱい》を|招《まね》くものである。|良《よ》き|実《じつ》を|結《むす》ぶ|木《き》には|害虫《がいちう》がわき|易《やす》いものである。|菊《きく》|一本《いつぽん》にても、|大《おほ》きい|美《うつく》しい|花《はな》の|咲《さ》くものには|虫《むし》が|却《かへつ》てよけいにわくやうなもので、|正直《しやうぢき》だから|善人《ぜんにん》だから、|悪神《あくがみ》がつく|筈《はず》がないと|思《おも》ふのは、|大変《たいへん》な|考《かんが》へ|違《ちがひ》である。あゝ|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》。
(大正一一・一〇・一二 旧八・二二 松村真澄録)
(昭和一〇・六・一〇 王仁校正)
|霊《たま》の|礎《いしずゑ》(九)
|現実《げんじつ》|世界《せかい》を|後《あと》にして |天上《てんじやう》|世界《せかい》に|往《ゆ》き|見《み》れば
|地上《ちじやう》の|世界《せかい》と|同様《どうやう》に |東西南北《とうざいなんぼく》の|方位《ほうゐ》あり
|而《しか》して|諸《もも》の|天人《てんにん》は |各《おのおの》|住所《ぢうしよ》に|異同《いどう》あり
|愛《あい》の|善徳《ぜんとく》|具《そな》へたる |天人《てんにん》|住《す》めるは|東西位《とうざいゐ》
|而《しか》して|東方《とうはう》は|明瞭《めいれう》に |之《これ》をば|感《かん》じ|西方《せいはう》は
おぼろに|之《これ》を|感《かん》ず|也《なり》 |愛《あい》の|徳《とく》より|証覚《しようかく》を
|具《そな》へて|住《す》むは|南北位《なんぼくゐ》 |而《しか》して|南方《なんぱう》は|明瞭《めいれう》に
|証覚光《しようかくくわう》を|具《そな》へたる |天人《てんにん》|許《ばか》り|之《これ》に|住《す》み
|又《また》|北方《ほつぱう》はおぼろげに |証覚光《しようかくくわう》を|具《そな》へたる
|天人《てんにん》のみぞ|之《これ》に|住《す》む |主神《すしん》のいます|霊国《れいごく》に
|在《あ》る|天人《てんにん》と|天国《てんごく》に |在《あ》る|天人《てんにん》と|皆《みな》|共《とも》に
これの|順序《じゆんじよ》を|守《まも》れども |主《す》の|霊国《れいごく》は|愛《あい》の|徳《とく》
この|徳《とく》に|依《よ》り|真光《しんくわう》に |従《したが》ふものと|相異《さうい》あり
|天《てん》の|御国《みくに》に|於《お》ける|愛《あい》は |主神《すしん》に|対《たい》する|愛《あい》にして
|之《これ》より|来《きた》る|真光《しんくわう》は |即《すなは》ち|無上《むじやう》の|証覚《しようかく》ぞ
|霊国《れいごく》|所在《しよざい》の|真愛《しんあい》は |公共《こうきよう》に|対《たい》する|愛《あい》にして
|之《これ》をば|仁愛《みろく》と|称《とな》ふなり |仁愛《みろく》の|真《しん》の|光明《くわうみやう》は
|神《かみ》に|基《もとづ》く|智慧《ちゑ》ぞかし これの|智慧《ちゑ》をば|信《しん》と|云《い》ふ
○
|主神《すしん》の|統轄《とうかつ》|為《な》し|給《たま》ふ |高天原《たかあまはら》の|天界《てんかい》は
|全《まつた》く|二《ふた》つに|分《わか》れあり |主神《すしん》の|坐《ま》します|天界《てんかい》を
|称《しよう》して|霊《れい》の|国《くに》と|謂《い》ひ |天人《てんにん》|達《たち》の|住居《ぢうきよ》せる
|世界《せかい》は|即《すなは》ち|天国《てんごく》ぞ |霊《れい》の|御国《みくに》と|天国《てんごく》を
|構成《こうせい》したる|諸々《もろもろ》の |天《てん》の|世界《せかい》の|方向《はうかう》は
|決《けつ》して|同《おな》じきものならず そも|天国《てんごく》の|天人《てんにん》は
|主神《すしん》を|太陽《たいやう》と|打仰《うちあふ》ぎ |霊《れい》の|御国《みくに》に|住《す》むものは
|主神《すしん》を|月《つき》と|打仰《うちあふ》ぐ |而《しか》して|主神《すしん》の|顕現《けんげん》し
たまふ|処《ところ》は|東《ひがし》なり |真神《しんしん》|即《すなは》ち|主《す》の|神《かみ》は
|天国《てんごく》にては|太陽《たいやう》と |顕《あら》はれ|給《たま》ひ|霊国《れいごく》に
|在《あ》りては|月《つき》と|顕《あ》れたまふ |斯《か》くも|二種《にしゆ》の|御姿《みすがた》に
|顕《あら》はれ|玉《たま》ふは|何故《なにゆゑ》ぞ |愛《あい》と|信《しん》とを|摂受《せつじゆ》する
|度合《どあひ》の|異《ことな》る|為《ため》ぞかし |愛《あい》の|善徳《ぜんとく》は|火《ひ》に|応《おう》じ
|信《しん》は|光明《くわうみやう》に|相応《あひおう》ず |是《これ》|霊国《れいごく》と|天国《てんごく》の
|二《ふた》つに|分《わか》るる|所以《ゆゑん》なり
○
|高天原《たかあまはら》の|天界《てんかい》に |住《す》む|天人《てんにん》の|眼《まなこ》より
|見《み》る|太陽《たいやう》は|天界《てんかい》の |太陽《たいやう》に|比《ひ》して|最暗《いとくら》し
|又《また》|太陰《たいいん》も|同様《どうやう》に |天界《てんかい》の|月《つき》に|比《くら》ぶれば
|最《もつと》も|暗《くら》く|見《み》ゆるなり |其《その》|理《り》|如何《いかん》と|云《い》ふならば
|地上《ちじやう》に|於《お》ける|太陽《たいやう》の |火熱《くわねつ》は|自愛《じあい》に|相応《さうおう》し
その|光明《くわうみやう》は|自愛《じあい》より |招《まね》ける|虚偽《きよぎ》に|相応《さうおう》す
そもそも|自愛《じあい》は|主《す》の|神《かみ》の |愛《あい》と|全《まつた》く|相反《あひはん》し
|自愛《じあい》よりするその|虚偽《きよぎ》は |主神《すしん》の|有《いう》する|神真《しんしん》と
|正反対《せいはんたい》となればなり かくして|主神《すしん》の|具《そな》へたる
|神愛《しんあい》|神真《しんしん》そのものに |逆《さか》らふものは|天人《てんにん》の
|眼《まなこ》に|暗《くら》く|映《うつ》るなり |高天原《たかあまはら》の|天国《てんごく》に
ある|天人《てんにん》は|主《す》の|神《かみ》を |太陽《たいやう》の|如《ごと》く|打仰《うちあふ》ぎ
|霊国《れいごく》|在住《ざいぢゆう》の|天人《てんにん》は |月《つき》の|如《ごと》くに|仰《あふ》ぐなり
○
|地獄《ぢごく》の|世界《せかい》に|在《あ》るものは |自己《じこ》と|世界《せかい》をのみ|愛《あい》し
|神《かみ》に|逆《さか》らふその|為《ため》に |暗黒《あんこく》|溟濛《めいもう》の|裡《うち》に|居《を》り
|全《まつた》く|神《かみ》に|相背《あひそむ》き |主神《すしん》を|後方《しりへ》に|捨《す》てておく
これ|等《ら》を|鬼霊《きれい》|精霊《せいれい》と |称《とな》へて|地獄《ぢごく》の|鬼《おに》となす
アヽ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |神《かみ》の|世界《せかい》の|奇《くし》びなる。
大正十一年十二月
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霊界物語 第三七巻 舎身活躍 子の巻
終り