霊界物語 第三五巻 海洋万里 戌の巻
出口王仁三郎
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●テキスト中に現れる記号について
《》……ルビ
|……ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)天地|剖判《ぼうはん》の
[#]……入力者注
【】……傍点が振られている文字列
(例)【ヒ】は火なり
●シフトJISコードに無い文字は他の文字に置き換え、そのことをWebサイトに「相違点」として記した。
●底本
『霊界物語 第三五巻』愛善世界社
2000(平成12)年08月11日 第一刷発行
※現代では差別的表現と見なされる箇所もあるが修正はせずにすべて底本通りにした。
※図表などのレイアウトは完全に再現できるわけではないので適宜変更した。
※詳細な凡例は次のウェブサイト内に掲載してある。
http://www.onisavulo.jp/
※作成者…『王仁三郎ドット・ジェイピー』
2005年12月23日作成
2008年06月23日修正
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●目次
|序文《じよぶん》
|総説歌《そうせつか》
第一篇 |向日山嵐《むかふやまあらし》
第一章 |言《こと》の|架橋《かけはし》〔九六五〕
第二章 |出陣《しゆつじん》〔九六六〕
第三章 |進隊詩《しんたいし》〔九六七〕
第四章 |村《むら》の|入口《いりぐち》〔九六八〕
第五章 |案外《あんぐわい》〔九六九〕
第六章 |歌《うた》の|徳《とく》〔九七〇〕
第七章 |乱舞《らんぶ》〔九七一〕
第八章 |心《こころ》の|綱《つな》〔九七二〕
第九章 |分担《ぶんたん》〔九七三〕
第二篇 ナイルの|水源《すゐげん》
第一〇章 |夢《ゆめ》の|誡《いましめ》〔九七四〕
第一一章 |野宿《のじゆく》〔九七五〕
第一二章 |自称《じしよう》|神司《かむづかさ》〔九七六〕
第一三章 |山颪《やまおろし》〔九七七〕
第一四章 |空気焔《からきえん》〔九七八〕
第一五章 |救《すくひ》の|玉《たま》〔九七九〕
第一六章 |浮島《うきしま》の|花《はな》〔九八〇〕
第三篇 |火《ひ》の|国都《くにみやこ》
第一七章 |霧《きり》の|海《うみ》〔九八一〕
第一八章 |山下《やまくだ》り〔九八二〕
第一九章 |狐《きつね》の|出産《しゆつさん》〔九八三〕
第二〇章 |疑心暗狐《ぎしんあんこ》〔九八四〕
第二一章 |暗闘《あんとう》〔九八五〕
第二二章 |当違《あてちがひ》〔九八六〕
第二三章 |清交《せいこう》〔九八七〕
第二四章 |歓喜《くわんき》の|涙《なみだ》〔九八八〕
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|序文《じよぶん》
|本巻《ほんくわん》には、|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》|黒姫《くろひめ》が|山河《さんか》を|跋渉《ばつせふ》し、|屋方村《やかたむら》の|男達《をとこだて》|大蛇《をろち》の|三公《さんこう》の|乾児《こぶん》の|徳公《とくこう》と、|虎公《とらこう》|実《じつ》は|虎若彦《とらわかひこ》の|部下《ぶか》の|久公《きうこう》を|引連《ひきつ》れ、|火《ひ》の|国《くに》の|境《さかひ》に|屹立《きつりつ》せる|荒井峠《あらゐたうげ》を|越《こ》え、|火《ひ》の|国《くに》の|都《みやこ》へ|立向《たちむか》ふ|途中《とちう》に|於《おい》て|白狐《びやくこ》の|出産《しゆつさん》を|介抱《かいほう》し|乍《なが》ら、|火《ひ》の|都《みやこ》へ|漸《やうや》くにして|到着《たうちやく》し、|爰《ここ》に|迷夢《めいむ》も|醒《さ》め、|実《じつ》の|吾《わが》|児《こ》を|発見《はつけん》し|歓《よろこ》び|勇《いさ》んで|自転倒島《おのころじま》へ|立帰《たちかへ》り、|錦《にしき》の|宮《みや》に|奉仕《ほうし》し、|夫婦《ふうふ》|仲《なか》よく|神業《しんげふ》に|奉仕《ほうし》すると|云《い》ふ|筋書《すぢがき》を|口述《こうじゆつ》したものであります。
|又《また》ナイル|河《がは》の|水源地《すゐげんち》スツポンの|湖《みづうみ》に|虎若彦《とらわかひこ》、|三公《さんこう》、|孫公別《まごこうわけ》、お|愛《あい》の|一行《いつかう》が|魔神《まがみ》の|征服《せいふく》に|向《むか》ひ、|危急《ききふ》の|場合《ばあひ》に|際《さい》し、|玉治別《たまはるわけ》の|宣伝使《せんでんし》が|暗《やみ》の|中《なか》より|応援《おうゑん》の|言霊《ことたま》を|放《はな》ち、|首尾《しゆび》よく|目的《もくてき》を|達《たつ》したる|面白《おもしろ》き|物語《ものがたり》であります。
|大正《たいしやう》|十一年《じふいちねん》|九月《くぐわつ》|十五日《じふごにち》より|十七日《じふしちにち》|迄《まで》|三日間《みつかかん》の|口述《こうじゆつ》に|成《な》れるものにして、|筆録者《ひつろくしや》は|例《れい》の|松村《まつむら》、|加藤《かとう》、|北村《きたむら》の|三氏《さんし》に|依《よ》つて|編纂《へんさん》せられました。
大正十一年九月十七日午後六時五分
|総説歌《そうせつか》
|天地《てんち》の|神《かみ》の|御水火《みいき》より  |現《あら》はれ|出《い》でし|人草《ひとぐさ》は
|至粋《しすゐ》|至醇《しじゆん》の|神《かみ》の|御子《みこ》  |如何《いか》でか|曲《まが》のあるべきぞ
|名位寿富《めいゐじゆふう》の|正欲《せいよく》に  |心《こころ》を|砕《くだ》く|処《ところ》より
|執着心《しふちやくしん》てふ|魔《ま》が|憑《かか》り  |種々《いろいろ》|雑多《ざつた》と|焦慮《あせ》りつつ
|体主霊従《たいしゆれいじう》に|落《お》つれども  |一朝《いつてう》|神《かみ》の|光《ひかり》|得《え》て
|省《かへり》みすれば|元《もと》の|神《かみ》  |神《かみ》に|代《かは》りて|天地《あめつち》の
|大経綸《だいけいりん》に|奉仕《ほうし》する  |厳《いづ》の|力《ちから》の|太柱《ふとはしら》
|万《よろづ》の|物《もの》の|霊長《れいちやう》ぞ  |三五教《あななひけう》の|黒姫《くろひめ》も
|一度《いちど》は|夫《をつと》に|魂《たま》|抜《ぬ》かれ  |海山《うみやま》|越《こ》えてはるばると
|迷《まよ》ひに|迷《まよ》ひ|居《ゐ》たりしが  |心《こころ》に|悔悟《くわいご》の|花《はな》|開《ひら》き
|本《もと》つ|御魂《みたま》に|復《かへ》りてゆ  |神《かみ》の|恵《めぐみ》の|幸《さちは》ひて
|恋《こひ》しき|吾《わが》|児《こ》に|邂逅《かいこう》なし  |歓《よろこ》び|勇《いさ》み|捨《す》てた|児《こ》の
|玉治別《たまはるわけ》と|諸共《もろとも》に  |自転倒島《おのころじま》へ|立帰《たちかへ》り
|夫《をつと》の|君《きみ》に|廻《めぐ》り|合《あ》ひ  |麻邇《まに》の|宝珠《ほつしゆ》の|神業《しんげふ》に
|仕《つか》へて|名《な》をば|万世《よろづよ》に  |輝《かがや》かしたる|物語《ものがたり》
|聞《き》くも|目出度《めでた》き|次第《しだい》なり  あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御魂《みたま》|幸《さちは》ひましませよ。
大正十一年九月十七日午後六時十五分
第一篇 |向日山嵐《むかふやまあらし》
第一章 |言《こと》の|架橋《かけはし》〔九六五〕
|広大無辺《くわうだいむへん》の|大宇宙《だいうちう》  |数《かず》ある|中《なか》に|霊力《れいりよく》の
|秀《すぐ》れて|尊《たふと》き|我《わが》|宇宙《うちう》  |上《うへ》には|日月《じつげつ》|永久《とこしへ》に
|水火《すゐくわ》の|光《ひかり》を|放《はな》ちつつ  |下界《げかい》の|地球《ちきう》を|照臨《せうりん》し
|森羅万象《しんらばんしやう》|悉《ことごと》く  |無限絶対《むげんぜつたい》|無始無終《むしむしう》の
|霊力体《れいりよくたい》の|三元《さんげん》を  |備《そな》へてめぐる|神《かみ》の|業《わざ》
|太陽《たいやう》|大地《だいち》|太陰《たいいん》の  |無限《むげん》の|生命《いのち》は|御倉板挙《みくらだな》
|神《かみ》の|御言《みこと》の|恵《めぐみ》なり  |抑《そもそ》も|大地《だいち》の|根源《こんげん》は
|国常立大御神《くにとこたちのおほみかみ》  |豊国主大神《とよくにぬしのおほかみ》の
|経《たて》と|緯《よこ》との|水火《いき》をもて  |生成化育《せいせいくわいく》の|神業《しんげふ》を
|開《ひら》き|玉《たま》ひしものなるぞ  |無限絶対《むげんぜつたい》|無始無終《むしむしう》
|至尊《しそん》|至貴《しき》なる|大元霊《だいげんれい》  |天《あめ》にまします|御中主《みなかぬし》
|皇大神《すめおほかみ》の|霊徳《れいとく》は  すべての|物《もの》に|遍満《へんまん》し
|高皇産霊《たかみむすび》の|神《かみ》をして  |霊系祖神《れいけいそしん》となし|玉《たま》ひ
|神皇産霊《かむみむすび》の|神《かみ》をして  |体系祖神《たいけいそしん》となし|玉《たま》ふ
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |霊力体《れいりよくたい》の|三元《さんげん》は
|幾億万《いくおくまん》の|年《とし》を|経《へ》て  いよいよ|宇宙《うちう》を|完成《くわんせい》し
|我等《われら》が|宇宙《うちう》の|主宰神《しゆさいじん》  |天《てん》にありては|大日婁売《おほひるめ》
|天照《あまてら》します|大神《おほかみ》と  |称《たた》へまつるぞ|尊《たふと》けれ
|国常立大神《くにとこたちのおほかみ》は  |地上《ちじやう》の|主宰《しゆさい》と|現《あ》れまして
|金勝要大御神《きんかつかねのおほみかみ》  |神素盞嗚大神《かむすさのをのおほかみ》と
|大地《だいち》の|霊力体《れいりよくたい》となり  |地上《ちじやう》に|於《お》ける|万類《ばんるゐ》を
|昼《ひる》と|夜《よる》との|区別《くべつ》なく  |恵《めぐみ》の|露《つゆ》をうるほはし
|守《まも》らせ|玉《たま》ふ|葦原《あしはら》の  |神《かみ》の|御国《みくに》ぞ|尊《たふと》けれ
かかる|尊《たふと》き|皇神《すめかみ》の  |力《ちから》に|造《つく》り|守《まも》ります
|大海原《おほうなばら》の|神国《しんこく》に  |生《せい》を|享《う》けたる|人草《ひとぐさ》は
|広大無辺《くわうだいむへん》の|御神徳《ごしんとく》  |朝《あさ》な|夕《ゆふ》なに|謹《つつし》みて
|仰《あふ》ぎまつらであるべきや  |神《かみ》は|我等《われら》の|霊《たま》の|祖《おや》
|体《からだ》の|祖《おや》と|現《あ》れませば  |我等《われら》が|五尺《ごしやく》の|肉体《にくたい》も
|皆《みな》|大神《おほかみ》の|借《か》り|物《もの》ぞ  |皇大神《すめおほかみ》の|永久《とこしへ》に
|守《まも》り|玉《たま》ひて|天地《あめつち》の  |大経綸《だいけいりん》を|遂《と》げ|玉《たま》ふ
|神《かみ》の|機関《きくわん》と|生《うま》れたる  |尊《たふと》き|清《きよ》きものならば
|至粋《しすゐ》|至純《しじゆん》の|精魂《せいこん》に  |朝《あさ》な|夕《ゆふ》なに|磨《みが》き|上《あ》げ
|人《ひと》と|生《うま》れし|天職《てんしよく》を  |尽《つく》しまつれよ|同胞《はらから》よ
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |今《いま》より|三十五万年《さんじふごまんねん》
|遠《とほ》き|神代《かみよ》に|溯《さかのぼ》り  |国治立大神《くにはるたちのおほかみ》が
|天《あめ》が|下《した》なる|神人《かみびと》の  |身魂《みたま》を|治《をさ》めて|美《うる》はしき
|神代《かみよ》を|造《つく》り|固《かた》めむと  |根底《ねそこ》の|国《くに》に|忍《しの》びまし
いろいろ|雑多《ざつた》と|身《み》を|変《へん》じ  |百《もも》の|神達《かみたち》|現《あら》はして
|三五教《あななひけう》を|立《た》て|玉《たま》ひ  |教《をしへ》を|四方《よも》に|伝《つた》へます
|尊《たふと》き|清《きよ》き|三五《あななひ》の  |神《かみ》の|館《やかた》をエルサレム
|自転倒島《おのころじま》の|貴《うづ》の|宮《みや》  |西《にし》と|東《ひがし》に|霊《たま》くばり
|神《かみ》の|心《こころ》の|其《その》|儘《まま》を  |四方《よも》に|伝《つた》ふる|宣伝使《せんでんし》
|任《ま》けさせ|玉《たま》ふ|有難《ありがた》さ  |神《かみ》の|司《つかさ》も|数多《かずおほ》く
|坐《ま》します|中《なか》に|三五《あななひ》の  |道《みち》に|仕《つか》ふる|宣伝使《せんでんし》
|信心《しんじん》|堅固《けんご》の|黒姫《くろひめ》が  |神《かみ》の|御言《みこと》を|畏《かしこ》みて
|四方《よも》の|人草《ひとぐさ》|救《すく》はむと  |老《お》いたる|身《み》をも|顧《かへり》みず
|島《しま》の|八十島《やそしま》|八十《やそ》の|国《くに》  |筑紫《つくし》の|島《しま》の|果《はて》までも
|教《をしへ》を|伝《つた》へて|進《すす》み|行《ゆ》く  |勇健無比《ゆうけんむひ》の|神人《しんじん》の
|不惜身命《ふじやくしんめい》の|物語《ものがたり》  |心《こころ》を|筑紫《つくし》の|不知火《しらぬひ》の
|世人《よびと》を|救《すく》ひ|助《たす》けむと  |高山彦《たかやまひこ》の|後《あと》を|追《お》ひ
|自転倒島《おのころじま》を|立出《たちい》でて  |孫公《まごこう》、|芳公《よしこう》、|房公《ふさこう》の
|三人《みたり》の|信徒《しんと》と|諸共《もろとも》に  |波《なみ》に|漂《ただよ》ふアフリカの
|建日《たけひ》の|港《みなと》に|安着《あんちやく》し  |嶮《けは》しき|坂《さか》を|踏《ふ》み|越《こ》えて
|火《ひ》の|国都《くにみやこ》に|立向《たちむか》ひ  |高山彦《たかやまひこ》の|所在《ありか》をば
|索《もと》めて|来《きた》る|黒姫《くろひめ》が  |執着心《しふちやくしん》のどこやらに
まだ|晴《は》れやらず|気《き》を|焦《いら》ち  いろいろ|雑多《ざつた》と|村肝《むらきも》の
|心《こころ》を|尽《つく》す|物語《ものがたり》  |今日《けふ》は|九月《くぐわつ》の|十五日《じふごにち》
|三五《さんご》の|巻《まき》の|開《ひら》け|口《ぐち》  |瑞祥閣《ずゐしやうかく》の|奥《おく》の|間《ま》で
|安楽椅子《あんらくいす》によりかかり  |片手《かたて》に|団扇《うちは》を|持《も》ち|乍《なが》ら
|膝《ひざ》を|叩《たた》いて|諄々《じゆんじゆん》と  |繰出《くりだ》す|神代《かみよ》の|物語《ものがたり》
|筆《ふで》|執《と》る|人《ひと》は|松村《まつむら》|氏《し》  |真澄《ますみ》の|空《そら》に|天津日《あまつひ》の
|晃々《くわうくわう》|輝《かがや》く|午前《ごぜん》|九時《くじ》  |誌《しる》し|行《ゆ》くこそ|楽《たの》しけれ
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |御霊《みたま》|幸《さち》はひましまして
|神《かみ》のまにまに|説《と》き|出《い》づる  わが|言《こと》の|葉《は》を|永久《とこしへ》に
|世人《よびと》に|伝《つた》へて|惟神《かむながら》  |神《かみ》の|賜《たま》ひし|生身魂《いくみたま》
|照《て》らさせ|玉《たま》へ|天津神《あまつかみ》  |国津神《くにつかみ》|達《たち》|八百万《やほよろづ》
|産土神《うぶすながみ》の|御前《おんまへ》に  |慎《つつし》み|敬《ゐやま》ひ|願《ね》ぎまつる
|謹《つつし》み|畏《かしこ》み|願《ね》ぎまつる。
|現在《げんざい》の|地理学上《ちりがくじやう》のアフリカの|大陸《たいりく》は、|太古《たいこ》の|神代《かみよ》に|於《おい》ては、|筑紫《つくし》の|島《しま》と|云《い》つた。さうして|此《この》|島《しま》は|身《み》|一《ひと》つにして|面《おも》|四《よ》つあり。|火《ひ》の|国《くに》、|豊《とよ》の|国《くに》、|筑紫《つくし》の|国《くに》、|熊襲《くまそ》の|国《くに》と|大山脈《だいさんみやく》を|以《もつ》て|区劃《くくわく》されてゐる。さうして|島《しま》の|過半《くわはん》は|大沙漠《だいさばく》を|以《もつ》て|形作《かたちづく》られてゐる。
|現代《げんだい》の|日本国《にほんこく》の|西海道《せいかいだう》|九州《きうしう》も|亦《また》|総称《そうしよう》して|筑紫《つくし》の|島《しま》と|云《い》ふ。|国祖《こくそ》|国常立之尊《くにとこたちのみこと》が|大地《だいち》を|修理固成《しうりこせい》し|玉《たま》ひし|時《とき》アフリカ|国《こく》の|胞衣《えな》として|造《つく》り|玉《たま》ひし|浮島《うきじま》である。|又《また》|琉球《りうきう》を|竜宮《りうぐう》といふのも、オーストラリアの|竜宮島《りうぐうじま》の|胞衣《えな》として|造《つく》られた。されど|大神《おほかみ》は|少《すこ》しく|思《おも》ふ|所《ところ》ましまして、これを|葦舟《あしふね》に|流《なが》し|捨《す》て|玉《たま》ひ、|新《あらた》に|一身四面《いつしんしめん》の|現在《げんざい》|日本国《にほんこく》なる|四国《しこく》の|島《しま》を|胞衣《えな》として|作《つく》らせ|玉《たま》うた。|故《ゆゑ》に|四国《しこく》は|神界《しんかい》にては|竜宮《りうぐう》の|一《ひと》つ|島《じま》とも|称《とな》へられてゐるのである。|丹後《たんご》の|沖《おき》に|浮《うか》べる|冠島《をしま》も|亦《また》|竜宮島《りうぐうじま》と、|神界《しんかい》にては|称《とな》へられるのである。
|昔《むかし》の|聖地《せいち》エルサレムの|附近《ふきん》、|現代《げんだい》の|地中海《ちちうかい》が、|大洪水《だいこうずゐ》|以前《いぜん》にはモウ|少《すこ》しく|東方《とうはう》に|展開《てんかい》してゐた。さうしてシオン|山《ざん》といふ|霊山《れいざん》を|以《もつ》て|地中海《ちちうかい》を|両分《りやうぶん》し、|東《ひがし》を|竜宮海《りうぐうかい》といつたのである。|今日《こんにち》の|地理学上《ちりがくじやう》の|地名《ちめい》より|見《み》れば、|余程《よほど》|位置《ゐち》が|変《かは》つてゐる。|神代《かみよ》に|於《お》けるエルサレムは|小亜細亜《せうアジア》の|土耳古《トルコ》の|東方《とうはう》にあり、アーメニヤと|南北《なんぼく》|相対《あひたい》してゐた。
|又《また》ヨルダン|河《がは》はメソポタミヤの|西南《せいなん》を|流《なが》れ、|今日《こんにち》の|地理学上《ちりがくじやう》からはユウフラテス|河《がは》と|云《い》ふのがそれであつた。|新約《しんやく》|聖書《せいしよ》に|表《あら》はれたるヨルダン|河《がは》とは|別物《べつもの》である。さうしてヨルダン|河《がは》の|注《そそ》ぐ|死海《しかい》も|亦《また》|別物《べつもの》たることは|云《い》ふ|迄《まで》もない。|今日《こんにち》の|地理学上《ちりがくじやう》の|波斯湾《ペルシヤわん》が|古代《こだい》の|死海《しかい》であつた。|併《しか》し|乍《なが》ら|世界《せかい》の|大洪水《だいこうずゐ》、|大震災《だいしんさい》に|依《よ》つて、|海《うみ》が|山《やま》となり、|山《やま》が|海《うみ》となり、|或《あるひ》は|湖水《こすゐ》の|一部《いちぶ》が|決潰《けつくわい》して|入江《いりえ》となつた|所《ところ》も|沢山《たくさん》あるから、|神代《かみよ》の|物語《ものがたり》は|今日《こんにち》の|地図《ちづ》より|見《み》れば、|多少《たせう》|変《かは》つた|点《てん》があるのは|止《や》むを|得《え》ぬのである。
さて|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》|黒姫《くろひめ》が|現代《げんだい》のアフリカ、|筑紫《つくし》の|島《しま》の|一部《いちぶ》、|熊襲《くまそ》の|国《くに》の|建日《たけひ》の|港《みなと》へ|上陸《じやうりく》し、それより|建日別命《たけひわけのみこと》の|旧蹟地《きうせきち》を|探《たづ》ね、|筑紫ケ岳《つくしがだけ》を|三人《さんにん》の|供人《ともびと》と|共《とも》に|踏越《ふみこ》えて、|火《ひ》の|国《くに》の|都《みやこ》を|指《さ》して|進《すす》み|行《ゆ》く|物語《ものがたり》は、|前巻《ぜんくわん》に|於《おい》て|大略《たいりやく》|述《の》べておいた|通《とほ》りである。いよいよこれより|黒姫《くろひめ》が|火《ひ》の|国都《くにみやこ》に|立向《たちむか》ひ、|高山彦《たかやまひこ》の|宣伝使《せんでんし》と|名乗《なのり》る|高国別命《たかくにわけのみこと》、|神名《しんめい》は|活津彦根命《いくつひこねのみこと》を|自分《じぶん》の|夫《をつと》|高山彦《たかやまひこ》と|思《おも》ひ|詰《つ》め、|夫《をつと》の|所在《ありか》を|探《さぐ》らむと|進《すす》み|行《ゆ》く|波瀾重畳《はらんちようでふ》としたる|面白《おもしろ》き|昔語《むかしがたり》である。さうして|自分《じぶん》の|若《わか》き|時《とき》に|或《ある》|事情《じじやう》の|為《ため》に|捨児《すてご》をした|男《をとこ》の|子《こ》が、|成人《せいじん》して|立派《りつぱ》な|宣伝使《せんでんし》となり、|同《おな》じ|道《みち》に|仕《つか》へて|居《ゐ》るのをも|母子《おやこ》|共《とも》に|気付《きづ》かなかつたのが、|或《ある》|機会《きくわい》に|親子《おやこ》の|間柄《あひだがら》たる|事《こと》が|知《し》れ|渡《わた》り、|喜《よろこ》び|勇《いさ》んで|自転倒島《おのころじま》の|聖地《せいち》へ|帰《かへ》り、|麻邇《まに》の|宝珠《ほつしゆ》の|神業《しんげふ》に|奉仕《ほうし》する|芽出度《めでた》き|事実《じじつ》を|口述《こうじゆつ》するのが|本巻《ほんくわん》の|主眼《しゆがん》である。|第三十三巻《だいさんじふさんくわん》を|参照《さんせう》すれば、|此《この》|間《かん》の|消息《せうそく》が|分《わか》るであらう。あゝ|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》。
(大正一一・九・一五 旧七・二四 松村真澄録)
第二章 |出陣《しゆつじん》〔九六六〕
|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》  |黒姫司《くろひめつかさ》はしとしとと
|建日《たけひ》の|館《やかた》を|立《た》ち|出《い》でて  |岩石《がんせき》|起伏《きふく》の|急坂《きふはん》を
|火《ひ》の|国《くに》|街道《かいだう》さして|行《ゆ》く  |神《かみ》の|経綸《しぐみ》か|偶然《ぐうぜん》か
|知《し》らず|識《し》らずに|踏《ふ》み|迷《まよ》ひ  |左《ひだり》へ|行《ゆ》くべき|谷道《たにみち》を
いつの|間《ま》にかは|右《みぎ》に|取《と》り  |向日峠《むかふたうげ》の|山麓《さんろく》に
いと|淋《さび》し|気《げ》にさしかかる  |深谷川《ふかたにがは》の|丸木橋《まるきばし》
|半《なかば》|朽《く》ちたる|其《その》|上《うへ》を  |薄氷《はくひよう》を|踏《ふ》む|心地《ここち》して
|神《かみ》の|恵《めぐみ》に|助《たす》けられ  |向《むか》ふへ|渡《わた》りすたすたと
|樟樹《しやうじゆ》の|空《そら》を|封《ふう》じたる  |細谷道《ほそたにみち》を|辿《たど》る|折《をり》
|面《おも》|窶《やつ》れたるいたいけの  |娘《むすめ》のお|梅《うめ》に|出会《しゆつくわい》し
|事情《じじやう》を|聞《き》けば|武野村《たけのむら》  |義侠《ぎけふ》をもつて|聞《きこ》えたる
|白波男《しらなみをとこ》の|虎公《とらこう》が  |妹《いもと》と|聞《き》いて|立《た》ち|留《ど》まり
お|梅《うめ》を|労《いたは》り|何故《なにゆゑ》に  |汝《そなた》は|少女《おとめ》の|身《み》をもつて
|此《この》|山道《やまみち》を|辿《たど》るやと  |聞《き》くよりお|梅《うめ》は|涙《なみだ》ぐみ
|私《わたし》の|義姉《あね》のお|愛《あい》さま  |大蛇《をろち》の|三公《さんこう》と|云《い》ふ|奴《やつ》が
|兄《あに》の|命《みこと》の|不在宅《るすたく》に  |数多《あまた》の|乾児《こぶん》を|引《ひき》つれて
|現《あら》はれ|来《きた》り|義姉上《あねうへ》を  |高手《たかて》や|小手《こて》に|縛《いまし》めて
|向日峠《むかふたうげ》の|山麓《さんろく》の  |樟《くす》の|木蔭《こかげ》に|連《つ》れ|来《きた》り
|義姉妹《おとどい》|二人《ふたり》は|三公《さんこう》の  |手下《てした》の|奴《やつ》にさいなまれ
|遂《つひ》には|義姉《あね》の|息《いき》|絶《た》えて  |土中《どちう》に|深《ふか》く|埋《うづ》められ
|二人《ふたり》の|男《をとこ》と|諸共《もろとも》に  あへない|最後《さいご》を|遂《と》げしぞと
|聞《き》くより|黒姫《くろひめ》|仰天《ぎやうてん》し  お|梅《うめ》を|背《せな》に|負《お》ひながら
|樟《くす》の|根下《ねもと》に|駆《か》けよつて  |力《ちから》|限《かぎ》りに|墓《はか》の|石《いし》
|取《と》りのぞかむと|思《おも》へども  |女《をんな》の|非力《ひりき》|如何《いかん》とも
|救《すく》はむよしも|泣《な》く|許《ばか》り  |途方《とはう》に|暮《く》るる|折《をり》もあれ
|三尺《さんじやく》ばかりの|小童児《せうどうじ》  |八柱《やはしら》|此処《ここ》に|現《あら》はれて
さしもに|重《おも》き|岩石《がんせき》を  |毬《まり》の|如《ごと》くにひつ|掴《つか》み
|彼方《あなた》|此方《こなた》に|投《な》げ|散《ち》らし  |其《その》|儘《まま》|姿《すがた》をかくしける
|黒姫《くろひめ》【ハツ】と|驚《おどろ》いて  |八人《やたり》の|童児《どうじ》に|打《う》ち|向《むか》ひ
|感謝《かんしや》する|間《ま》も|泣《な》く|計《ばか》り  |童児《どうじ》の|姿《すがた》は|白雲《しらくも》と
なつて|其《その》|場《ば》に|消《き》えにける  |黒姫《くろひめ》|汗《あせ》を|流《なが》しつつ
|力《ちから》|限《かぎ》りに|土《つち》を|掘《ほ》り  |三人《みたり》の|男女《だんぢよ》を|抱上《だきあ》げて
|芝生《しばふ》の|上《うへ》に|横臥《わうぐわ》させ  |固《かた》く|縛《しば》りしいましめの
|繩《なは》|解《と》き|放《はな》ち|一《ひ》|二《ふ》|三《みい》と  |天《あま》の|数歌《かずうた》のりつれば
お|愛《あい》は|息《いき》を|吹《ふ》きかへし  |感謝《かんしや》の|涙《なみだ》に|暮《く》れにける
|黒姫《くろひめ》お|愛《あい》に|目《め》も|呉《く》れず  |二人《ふたり》の|男《をとこ》を|熟視《じゆくし》して
|高山彦《たかやまひこ》には|非《あら》ずやと  |眺《なが》むる|折《をり》しも|孫公《まごこう》の
|姿《すがた》に|驚《おどろ》き|胸《むね》を|撫《な》で  ほんにお|前《まへ》は|孫公《まごこう》か
|嬉《うれ》しい|事《こと》だと|云《い》ひながら  お|梅《うめ》が|谷《たに》におり|立《た》ちて
|掬《すく》ひ|来《きた》れる|水筒《すゐとう》の  |水《みづ》を|含《ふく》ませ|労《いたは》りつ
|兼公《かねこう》|迄《まで》をも|救《すく》ひ|上《あ》げ  |此処《ここ》に|五人《ごにん》は|皇神《すめかみ》の
|尊《たふと》き|恵《めぐみ》を|感謝《かんしや》して  |此《この》|場《ば》を|後《あと》に|谷道《たにみち》の
|草《くさ》|踏《ふ》みわけてかへり|来《く》る  |時《とき》しもあれや|虎公《とらこう》は
|新《しん》、|久《きう》、|八《はち》の|三人《さんにん》を  |伴《ともな》ひ|此処《ここ》に|来《き》かかつて
|互《たがひ》の|無事《ぶじ》を|祝《しゆく》しつつ  |屋方《やかた》の|村《むら》の|三公《さんこう》が
|家路《いへぢ》をさして|進《すす》み|行《ゆ》く  あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸倍《さちはへ》ましませよ。
お|愛《あい》は|途々《みちみち》|謡《うた》ひ|初《はじ》めた。|其《その》|歌《うた》。
『|熊襲《くまそ》の|国《くに》にかくれなき  |大曲津見《おほまがつみ》と|聞《きこ》えたる
|八岐大蛇《やまたをろち》の|分霊《わけみたま》  |憑《うつ》りて|醜《しこ》のわざをなす
|大蛇《をろち》の|三公《さんこう》が|夕間暮《ゆふまぐれ》  |数多《あまた》の|乾児《こぶん》を|引《ひ》きつれて
|夫《つま》の|命《みこと》の|不在宅《るすたく》へ  どやどや|進《すす》み|入《い》り|来《きた》り
|妾《わらは》が|隙《すき》を|窺《うかが》ひつ  |首《くび》に|細繩《ほそなは》|引《ひ》きかけて
グイと|後《うしろ》へ|引《ひ》き|倒《たふ》し  |有無《うむ》を|云《い》はせず|三公《さんこう》が
|乾児《こぶん》の|奴等《やつら》は|蟻《あり》のごと  |群《むら》がり|来《きた》つて|吾《わが》|身《み》をば
|縦横無尽《じうわうむじん》に|引《ひ》き|縛《しば》り  |口《くち》には|箝《は》ます|猿轡《さるぐつわ》
|妾《わらは》は|無念《むねん》の|息《いき》を|詰《つ》め  |涙《なみだ》かくして|傍《かたはら》を
ふと|眺《なが》むればこは|如何《いか》に  |妹《いもと》のお|梅《うめ》も|猿轡《さるぐつわ》
|口《くち》に|箝《は》められ|慄《ふる》ひ|居《ゐ》る  ハツと|驚《おどろ》き|顔《かほ》と|顔《かほ》
|見合《みあは》すばかり|音《おと》なしの  |口《くち》さへ|利《き》けぬ|苦《くる》しさに
|三五教《あななひけう》の|大神《おほかみ》の  |尊《たふと》き|救《すく》ひを|祈《いの》りつつ
|大蛇《をろち》の|三公《さんこう》がなすままに  |身《み》を|任《まか》せたる|腑甲斐《ふがひ》なさ
|大蛇《をろち》の|三公《さんこう》|初《はじ》めとし  |兼公《かねこう》|与三公《よさこう》|両人《りやうにん》の
|兄弟分《きやうだいぶん》の|両腕《りやううで》は  |妾《わらは》|二人《ふたり》をひつかたげ
|西《にし》へ|西《にし》へと|向日山《むかふやま》  |峠《たうげ》の|麓《ふもと》の|森林《しんりん》に
|担《かつ》ぎ|来《きた》りて|三公《さんこう》が  |夫《をつと》ある|身《み》の|妾等《わらはら》に
|非道《ひだう》|極《きは》まる|横恋慕《よこれんぼ》  |嚇《おど》しつ|賺《すか》しつ|詰《つ》めかくる
|其《その》|言《こと》の|葉《は》の|嫌《いや》らしく  |汚《けが》らはしさに|腹《はら》を|立《た》て
|命《いのち》かまはぬ|捨《す》て|台詞《ぜりふ》  |手痛《ていた》き|言霊《ことたま》|打《う》ち|出《だ》せば
|兼公《かねこう》|与三公《よさこう》|両人《りやうにん》は  |交《かは》る|交《がは》るに|傍《そば》により
|煩《うるさ》き|事《こと》を|云《い》ひかける  アヽ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|神《かみ》に|任《まか》せし|此《この》|体《からだ》  |夫《をつと》ある|身《み》の|如何《いか》にして
|力《ちから》に|怖《おそ》れて|三公《さんこう》が  いかで|望《のぞ》みを|許《ゆる》さむや
|口《くち》を|極《きは》めて|罵《ののし》れば  |三公《さんこう》|忽《たちま》ち|腹《はら》を|立《た》て
|妾《わらは》が|前《まへ》に|詰《つ》め|寄《よ》つて  |黒《くろ》い|顔《かほ》にて|覗《のぞ》き|込《こ》む
|嫌《いや》な|臭《にほ》ひのする|男《をとこ》  |逆《むか》づくやうに|思《おも》はれて
|胸《むね》も|塞《ふさ》がるばかりなり  |大蛇《をろち》の|乾児《こぶん》はむらむらと
|妾《わらは》に|向《むか》つて|攻《せ》めて|来《く》る  |此《この》|時《とき》|兼公《かねこう》の|返《かへ》り|忠《ちう》
|太《ふと》い|度胸《どきよう》のお|愛《あい》どの  こんな|姐貴《あねき》を|親方《おやかた》に
|持《も》つた|乾児《こぶん》は|幸《さいはひ》だ  |面白《おもしろ》からうと|云《い》ひ|乍《なが》ら
|秋波《しうは》を|送《おく》る|可笑《をか》しさよ  |大蛇《をろち》は|胸《むね》に|据《す》ゑ|兼《か》ねて
|与三公《よさこう》に|向《むか》つて|縛《しば》れよと  【めくばせ】すれば|兼公《かねこう》の
|不意《ふい》を|狙《ねら》つて|綱《つな》をかけ  |首《くび》|引《ひ》き|締《し》めて|走《はし》り|出《だ》す
|遉《さすが》の|兼公《かねこう》も|弱《よわ》り|果《は》て  |高手《たかて》や|小手《こて》に|縛《しば》られて
|泣《な》き|声《ごゑ》|上《あ》ぐるをかしさよ  |大空《おほぞら》つたふ|日《ひ》の|影《かげ》は
|地平線下《ちへいせんか》にかくれまし  |夕暮《ゆふぐれ》|告《つ》ぐる|鳥《とり》の|声《こゑ》
|時々刻々《じじこくこく》と|寂寥《せきれう》の  |気分《きぶん》|漂《ただよ》ふ|折《をり》からに
|間近《まぢか》く|聞《きこ》ゆる|宣伝歌《せんでんか》  |三五教《あななひけう》の|孫公《まごこう》が
|忽《たちま》ち|此処《ここ》に|現《あら》はれて  |吾《われ》は|尊《たふと》き|宣伝使《せんでんし》
|火《ひ》の|国都《くにみやこ》に|名《な》も|高《たか》き  |高山彦《たかやまひこ》と|空威張《からゐば》り
|一同《いちどう》の|者《もの》の|荒肝《あらぎも》を  |挫《ひし》ぎやらむと|思《おも》ひつつ
|早速《さそく》の|頓智《とんち》も|水《みづ》の|泡《あわ》  |二《ふた》つの|眼《まなこ》に|目潰《めつぶ》しの
|砂《すな》なげ|込《こ》まれ|憐《あは》れにも  |孫公《まごこう》は|其処《そこ》に|踞《しやが》みける
|時《とき》を|移《うつ》さず|与三公《よさこう》は  |孫公《まごこう》の|首《くび》に|綱《つな》をかけ
|肩《かた》にひつかけ|二三間《にさんげん》  |力《ちから》|限《かぎ》りに|引《ひ》きずれば
|何条《なんでう》もつて|耐《たま》るべき  |信仰《しんかう》|強《つよ》き|孫公《まごこう》も
|瞬《またた》く|間《うち》に|身体《しんたい》を  |雁字搦《がんじがら》みに|縛《しば》られて
|苦《くる》しみもだゆる|憐《あは》れさよ  |大蛇《をろち》の|三公《さんこう》は|冷《ひや》やかに
|三人《みたり》を|眺《なが》めて|嘲笑《あざわら》ひ  |乾児《こぶん》の|奴《やつ》に|下知《げち》なして
|忽《たちま》ち|大地《だいち》に|穴《あな》を|掘《ほ》り  |男女《だんぢよ》|三人《みたり》を|荒繩《あらなは》に
|縛《しば》りたるまま|放《はう》り|込《こ》んで  |見《み》るも|無残《むざん》な|生埋《いきう》めの
|悪逆無道《あくぎやくぶだう》を|敢《あへ》てなし  |土《つち》をかぶせて|墓《はか》となし
|重《おも》き|石《いし》をば|運《はこ》び|来《き》て  |吾等《われら》が|上《うへ》に|積《つ》み|重《かさ》ね
|凱歌《がいか》を|揚《あ》げて|帰《かへ》り|行《ゆ》く  あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|神《かみ》の|守《まも》りの|深《ふか》くして  |妹《いもと》のお|梅《うめ》は|恙《つつが》なく
|九死一生《きうしいつしやう》の|難関《なんくわん》を  |苦《く》もなく|越《こ》えて|木下暗《こしたやみ》
|姿《すがた》をかくす|賢《かしこ》さよ  |妾三人《わらはみたり》は|荒鉄《あらがね》の
|冷《つめ》たき|土《つち》に|埋《うづ》められ  |身動《みうご》きならぬ|苦《くる》しさに
|前途《ぜんと》を|案《あん》じ|煩《わづら》ひて  |天地《てんち》を|祈《いの》り|吾《わが》|夫《つま》の
|御無事《ごぶじ》を|祈《いの》る|折柄《をりから》に  |黒姫司《くろひめつかさ》が|現《あら》はれて
|妹《いもと》お|梅《うめ》と|諸共《もろとも》に  |力《ちから》を|合《あは》せて|三人《さんにん》を
|苦《く》もなく|救《すく》ひたまひたる  |其《その》|御恵《みめぐみ》の|有難《ありがた》さ
|感謝《かんしや》の|涙《なみだ》|泣《な》く|泣《な》くも  |黒姫司《くろひめつかさ》に|従《したが》ひて
|妹《いもと》のお|梅《うめ》に|手《て》を|曳《ひ》かれ  |草《くさ》|生《お》ひ|茂《しげ》る|木下道《こしたみち》
|帰《かへ》り|来《きた》れる|折《をり》もあれ  |吾《わが》|背《せ》の|君《きみ》の|虎《とら》さまが
|玉公《たまこう》さまを|初《はじ》めとし  |新《しん》、|久《きう》、|八《はち》の|乾児《こぶん》|連《つ》れ
|来《きた》りたまひし|嬉《うれ》しさよ  あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|神《かみ》の|恵《めぐみ》の|幸《さち》はひて  |此処《ここ》に|一行《いつかう》|九人連《くにんづ》れ
|屋方《やかた》の|村《むら》に|立《た》ち|向《むか》ひ  |大蛇《をろち》の|三公《さんこう》|訪《おとづ》れて
|三五教《あななひけう》の|神《かみ》の|教《のり》  |善悪正邪《ぜんあくせいじや》の|大道《だいだう》を
|誡《いまし》めさとし|村肝《むらきも》の  かれが|心《こころ》に|潜《ひそ》むなる
|曲《まが》の|御魂《みたま》を|言向《ことむ》けて  |神《かみ》の|大道《おほぢ》に|尽《つく》すべき
|清《きよ》きみたまとなさしめむ  |朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも
|月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも  |仮令《たとへ》|大地《だいち》は|沈《しづ》むとも
|誠《まこと》の|力《ちから》は|世《よ》を|救《すく》ふ  |誠《まこと》|一《ひと》つの|言霊《ことたま》の
|剣《つるぎ》に|刃向《はむか》ふ|敵《てき》はなし  |黒姫司《くろひめつかさ》に|従《したが》ひて
|夫《つま》の|命《みこと》と|諸共《もろとも》に  |言霊戦《ことたません》を|開《ひら》くべく
|岩石《がんせき》|起伏《きふく》の|谷道《たにみち》を  |進《すす》み|行《ゆ》くこそ|楽《たの》しけれ
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |御霊《みたま》|幸倍《さちはへ》ましませよ』
と|謡《うた》ひ|乍《なが》ら|一行《いつかう》の|先《さき》に|立《た》ち、|猿田彦気取《さるだひこきど》りになつて|進《すす》み|行《ゆ》くお|愛《あい》の|姿《すがた》の|雄々《をを》しさ。|黒姫《くろひめ》を|初《はじ》め|虎公《とらこう》、|孫公《まごこう》、お|梅《うめ》は|何《なん》となく|心《こころ》|勇《いさ》みて|進《すす》み|行《ゆ》く。
(大正一一・九・一五 旧七・二四 加藤明子録)
第三章 |進隊詩《しんたいし》〔九六七〕
|虎公《とらこう》は|谷道《たにみち》を|辿《たど》り|乍《なが》ら|足拍子《あしびやうし》をとり、チヨコチヨコ|走《ばし》りのまま|謡《うた》ひ|出《だ》したり。
『「ウントコドツコイ」|夜《よ》が|明《あ》けた  |向日《むかふ》の|森《もり》が|晴《は》れて|来《き》た
|虎《とら》|狼《おほかみ》や|獅子《しし》|熊《くま》の  |猛《たけ》びの|声《こゑ》も|鎮《しづ》まりて
|彼方《あちら》|此方《こちら》に|鳥《とり》が|啼《な》く  |東《あづま》の|空《そら》は|茜《あかね》さし
|豊坂昇《とよさかのぼ》る|日《ひ》の|神《かみ》は  |山道《やまみち》|辿《たど》る|吾々《われわれ》の
|一行《いつかう》の|身《み》をば|照《てら》します  「ウントコドツコイ」|足許《あしもと》に
|何《いづ》れも|気《き》をつけなされませ  |黒姫《くろひめ》さまは|老年《としより》だ
|別《べつ》してお|足《あし》が|重《おも》からう  |高《たか》い|石《いし》|奴《め》がゴロゴロと
|此《この》|坂道《さかみち》に|転《ころ》げてる  ウツカリして|居《を》りや|石車《いしぐるま》
ガラガラガラリと|乗《の》り|辷《すべ》り  |思《おも》はぬ|怪我《けが》をせにやならぬ
|神《かみ》を|力《ちから》に|三五《あななひ》の  |誠《まこと》の|道《みち》を|杖《つゑ》として
|波布《はぶ》や|蜈蚣《むかで》の|毒虫《どくむし》が  |右往左往《うわうさわう》に|這《は》ひまはる
|草道《くさみち》|分《わ》けて|進《すす》み|行《ゆ》く  あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|尊《たふと》き|神《かみ》の|御守《みまも》りに  |吾等《われら》|一行《いつかう》|九人連《くにんづ》れ
|恙《つつが》もなしに|屋方村《やかたむら》  |大蛇《をろち》の|三公《さんこう》が|構《かま》へたる
|館《やかた》に|無事《ぶじ》に|着《つ》かしめよ  |吾《わが》|家《や》の|留守《るす》に|三公《さんこう》が
|数多《あまた》の|乾児《こぶん》を|引率《ひきつ》れて  |押寄《おしよ》せ|来《きた》り|女房《にようばう》や
|妹《いもと》のお|梅《うめ》を|虐《しひた》げて  |深山《みやま》の|奥《おく》の|森林《しんりん》に
|連《つ》れ|行《ゆ》き|無体《むたい》の|掛合《かけあひ》を  やつて|居《ゐ》るとは|知《し》らずして
「ウントコドツコイ ドツコイシヨ」  |建日《たけひ》の|館《やかた》にいでませし
|黒姫《くろひめ》さまの|後《あと》|追《お》うて  |嶮《けは》しき|坂道《さかみち》|攀《よ》ぢ|登《のぼ》り
|建国別《たけくにわけ》の|神様《かみさま》が  |祝《いはひ》の|席《せき》に|招《せう》ぜられ
|生命《いのち》の|水《みづ》の|甘酒《うまざけ》を  「ドツコイ」|飽《あ》くまで|振舞《ふるま》はれ
|酔《よひ》がまはつてユラユラと  |新《しん》、|久《きう》、|八《はち》を|引《ひ》きつれて
|坂道《さかみち》|下《くだ》り|火《ひ》の|国《くに》の  |深谷街道《ふかたにかいだう》に|来《き》て|見《み》れば
|大蛇《をろち》の|乾児《こぶん》の|六公《ろくこう》が  |数多《あまた》の|乾児《こぶん》を|引《ひ》きつれて
|棍棒《こんぼう》や|刀《かたな》を|携《たづさ》へつ  |捩鉢巻《ねぢはちまき》をリンと|締《し》め
|裾《すそ》をからげて「ドツコイシヨ」  |仰々《ぎやうぎやう》しくも|待《ま》つてゐる
|流石《さすが》の|虎公《とらこう》も|面喰《めんくら》ひ  |心《こころ》に|神《かみ》を|祈《いの》りつつ
|悪胴《わるどう》|据《す》ゑて|呶鳴《どな》り|声《ごゑ》  あり|合《あ》ふ|木片《きぎれ》を|拾《ひろ》ひあげ
|群《むら》がる|敵《てき》の|中心《ちうしん》を  |目蒐《めが》けて「ドツコイ」|突《つ》き|入《い》れば
「ヤツトコドツコイ」|危《あぶな》いぞ  |初《はじ》めの|勢《いきほひ》|何処《どこ》へやら
|猫《ねこ》に|追《お》はれた「ドツコイシヨ」  |鼠《ねずみ》の|如《ごと》く「ウントコシヨ」
|縮《ちぢ》み|上《あが》つて|六公《ろくこう》が  |一目散《いちもくさん》に|逃《に》げ|出《だ》せば
|手下《てした》の|奴《やつ》は「ヤツトコシヨ」  |度《ど》を|失《うしな》うて|散乱《さんらん》し
「ウントコドツコイ」|蜘蛛《くも》の|子《こ》を  |散《ち》らすが|如《ごと》く|逃《に》げ|失《う》せぬ
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |神《かみ》の|恵《めぐみ》の|深《ふか》くして
|危《あやふ》き|処《ところ》を|助《たす》けられ  |後《あと》|振《ふ》り|返《かへ》り|玉公《たまこう》や
|新《しん》、|久《きう》、|八《はち》の|名《な》を|呼《よ》べば  |木蔭《こかげ》に|潜《ひそ》みし|四人連《よにんづ》れ
|蜘蛛《くも》の|巣《す》だらけの|顔《かほ》をして  |足《あし》もワナワナ|怖《こは》さうに
|現《あら》はれ|来《きた》るぞ|可笑《をか》しけれ  |何《なに》は|兎《と》もあれ|一時《いつとき》も
|早《はや》く|吾《わが》|家《や》へ|立《た》ち|帰《かへ》り  お|愛《あい》の|安否《あんぴ》を|探《さぐ》らむと
|韋駄天走《ゐだてんばし》りに|駆《か》け|出《だ》せば  |勢《いきほひ》|余《あま》つて「ウントコシヨ」
|向日峠《むかふたうげ》の|山道《やまみち》に  |思《おも》はず|知《し》らず|突進《とつしん》し
|引返《ひきかへ》さむかと|思《おも》へども  あゝ|待《ま》て|暫《しば》し|三五《あななひ》の
|神《かみ》の|教《をしへ》にや|退却《たいきやく》の  「ウントコドツコイ」|二字無《にじな》しと
|教《をし》へられたる|言《こと》の|葉《は》を  |思《おも》ひ|浮《うか》べて|進行《しんかう》し
|見《み》るも|危《あやふ》き|丸木橋《まるきばし》  |飛鳥《ひてう》の|如《ごと》く|飛《と》び|越《こ》えて
|坂道《さかみち》|登《のぼ》る|折柄《をりから》に  |思《おも》ひも|掛《か》けぬ|黒姫《くろひめ》が
お|愛《あい》やお|梅《うめ》を|労《いたは》りて  |孫公《まごこう》、|兼公《かねこう》|諸共《もろとも》に
|此《この》|場《ば》に|来《きた》る|不思議《ふしぎ》さよ  あゝ|虎《とら》さまか|黒姫《くろひめ》か
お|愛《あい》かお|梅《うめ》か|孫《まご》さまか  |大蛇《をろち》の|乾児《こぶん》の|兼公《かねこう》か
|虎公《とらこう》の|身内《みうち》の|新公《しんこう》か  さては|久公《きうこう》か|八公《はちこう》か
|不思議《ふしぎ》な|処《ところ》で|会《あ》うたもの  これも|矢張《やつぱり》|神様《かみさま》の
|水《みづ》も|洩《も》らさぬ|御仕組《おんしぐみ》  こんな|目出度《めでた》い|事《こと》はない
|云《い》ひつつ|一同《いちどう》|道《みち》の|辺《べ》に  |両手《りやうて》を|合《あは》せて|天地《あめつち》の
|神《かみ》の|御名《みな》をば|称《とな》へつつ  |感謝《かんしや》|祈願《きぐわん》の|太祝詞《ふとのりと》
|唱《とな》ふる|声《こゑ》は|中天《ちうてん》に  |清《きよ》く|響《ひび》きて|夜《よ》が|明《あ》けた
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |神《かみ》の|御蔭《みかげ》を|被《かうむ》りて
|三人男女《みたりなんによ》が|黒姫《くろひめ》に  |危《あやふ》き|処《ところ》を|助《たす》けられ
|無事《ぶじ》に|帰《かへ》つた|嬉《うれ》しさに  |虎公《とらこう》さまも|雀躍《こをどり》し
|尊《たふと》き|清《きよ》き|三五《あななひ》の  |神《かみ》の|光《ひかり》を|伏《ふ》し|拝《をが》む
|時《とき》しもあれや|樹々《きぎ》の|空《そら》  |吾物顔《わがものがほ》に|諸鳥《もろどり》の
|常世《とこよ》の|春《はる》を|歌《うた》ふ|声《こゑ》  |直日々々《なほひなほひ》と|聞《きこ》え|来《く》る
|吾等《われら》は|神《かみ》に|救《すく》はれて  |此《この》|神徳《しんとく》を|取《と》りもぎに
してはならぬと「ドツコイシヨ」  |心《こころ》を|定《さだ》めて「ウントコシヨ」
|大蛇《をろち》の|館《やかた》に|立《た》ち|向《むか》ひ  |尊《たふと》き|神《かみ》の|御光《みひかり》を
|三公《さんこう》の|頭《かしら》に|照《てら》さむと  |一行《いつかう》|九人《くにん》|潔《いさぎよ》く
|露道《つゆみち》|分《わ》けて|進《すす》み|行《ゆ》く  |神《かみ》が|表《おもて》に|現《あら》はれて
|善《ぜん》と|悪《あく》とを|立《た》て|別《わ》ける  |此《この》|世《よ》を|造《つく》りし|神直日《かむなほひ》
|心《こころ》も|広《ひろ》き|大直日《おほなほひ》  |只《ただ》|何事《なにごと》も|人《ひと》の|世《よ》は
|直日《なほひ》に|見直《みなほ》し|聞直《ききなほ》し  |世《よ》の|過《あやま》ちは|宣《の》り|直《なほ》す
|三五教《あななひけう》の|神《かみ》の|道《みち》  |歩《あゆ》む|吾等《われら》は|逸早《いちはや》く
「ウントコドツコイ ドツコイシヨ」  |大蛇《をろち》の|霊《みたま》と|聞《きこ》えたる
|三公《さんこう》|初《はじ》め|与三公《よさこう》や  |其《その》|他《た》の|人々《ひとびと》|悉《ことごと》く
|誠《まこと》の|道《みち》を|説《と》き|聞《き》かし  |高天原《たかあまはら》の|神国《かみくに》の
「ウントコドツコイ」|住人《ぢゆうにん》と  |救《すく》うてやらねばなるまいと
|生《うま》れついての|侠客《をとこだて》  |心《こころ》の|駒《こま》の|勇《いさ》むまに
|鞭《むち》うち|進《すす》む|膝栗毛《ひざくりげ》  |進《すす》む|吾《われ》こそ|勇《いさ》ましき
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ』
と|謡《うた》ひ|乍《なが》ら|進《すす》み|行《ゆ》く。
|黒姫《くろひめ》は|道々《みちみち》|謡《うた》ひ|出《だ》す、その|歌《うた》。
『|綾《あや》の|聖地《せいち》を|後《あと》にして  |老《おい》の|年波《としなみ》|押《お》し|寄《よ》する
|大海原《おほうなばら》を|打《う》ち|渡《わた》り  |波太平《なみたいへい》の|洋《うみ》を|越《こ》え
|大小《だいせう》|無数《むすう》の|島蔭《しまかげ》を  |右《みぎ》や|左《ひだり》と|潜《くぐ》りつつ
|孫《まご》、|房《ふさ》、|芳《よし》の|三人《さんにん》に  |棚《たな》なし|船《ぶね》を|操《あやつ》らせ
|漸《やうや》く|筑紫《つくし》の|神《かみ》の|島《しま》  |熊襲《くまそ》の|国《くに》に|名《な》も|高《たか》き
|建日《たけひ》の|港《みなと》に|安着《あんちやく》し  |高山峠《たかやまたうげ》を|踏《ふ》み|越《こ》えて
|岩石《がんせき》|起伏《きふく》の|坂道《さかみち》を  |足《あし》を|痛《いた》めて|進《すす》み|来《く》る
|時《とき》しもあれや|虎公《とらこう》が  |建日《たけひ》の|宮《みや》の|神司《かむづかさ》
|建国別《たけくにわけ》は|捨児《すてご》ぞと  |宣《の》る|言霊《ことたま》に|耳《みみ》すませ
|高山彦《たかやまひこ》のハズバンド  |探《たづ》ぬる|途中《とちう》を|廻《まは》り|道《みち》
|建日《たけひ》の|館《やかた》に|行《い》て|見《み》れば  |頼《たの》みの|綱《つな》も|断《き》れ|果《は》てて
|何《なん》と|詮術《せんすべ》なくばかり  |館《やかた》の|夫婦《ふうふ》に|慇懃《いんぎん》に
|表門《おもてもん》|迄《まで》|見送《みおく》られ  |取《と》つて|返《かへ》した|坂《さか》の|道《みち》
|火《ひ》の|国《くに》|街道《かいだう》の|山口《やまぐち》で  |数《かず》|限《かぎ》りなき|手長猿《てながざる》
|猿《ましら》の|奴《やつ》に|揶揄《からか》はれ  |早速《さそく》の|神智《しんち》を|絞《しぼ》り|出《だ》し
|漸《やうや》く|猿《さる》をば|追《お》ひ|散《ち》らし  |火《ひ》の|国都《くにみやこ》へ|急《いそ》がむと
|進《すす》む|折《をり》しも|惟神《かむながら》  |神《かみ》の|仕組《しぐみ》に|操《あやつ》られ
|迷《まよ》ひ|込《こ》んだる|丸木橋《まるきばし》  |神《かみ》の|化身《けしん》に|導《みちび》かれ
|向日峠《むかふたうげ》の|山麓《さんろく》に  |来《きた》る|折《をり》しも|乙女子《をとめご》が
|足《あし》もヒヨロヒヨロ|進《すす》み|来《く》る  |俄《にはか》に|憐《あは》れを|催《もよほ》して
|背《せな》|撫《な》で|擦《さす》り|労《いたは》りつ  |様子《やうす》|如何《いか》にと|尋《たづ》ぬれば
お|愛《あい》の|方《かた》の|御遭難《ごさうなん》  |高山彦《たかやまひこ》も|諸共《もろとも》に
|土中《どちう》に|深《ふか》く|埋《うづ》められ  |果《は》てさせ|給《たま》ふと|聞《き》くよりも
|心《こころ》は|忽《たちま》ち|顛倒《てんたう》し  |胸《むね》に|早鐘《はやがね》|鳴《な》り|渡《わた》り
|矢《や》さへ|楯《たて》さへ|堪《たま》らなく  |心《こころ》いらちて|乙女子《をとめご》を
|背《せな》に|負《お》ひつつ|樟樹《くすのき》の  |森《もり》に|漸《やうや》く|辿《たど》り|着《つ》き
|三人《みたり》の|男女《なんによ》を|救《すく》ひ|上《あ》げ  |此処迄《ここまで》|進《すす》み|来《きた》りたる
|黒姫司《くろひめつかさ》の|嬉《うれ》しさよ  |天ケ下《あめがした》なる|人草《ひとぐさ》は
|互《たがひ》に|睦《むつ》び|親《した》しみて  |助《たす》け|導《みちび》き|神《かみ》の|為《た》め
|御国《みくに》の|為《た》めに|真心《まごころ》を  |尽《つく》さにやならぬ|神《かみ》の|宮《みや》
お|愛《あい》の|方《かた》や|虎《とら》さまの  |二人《ふたり》の|無事《ぶじ》な|顔《かほ》を|見《み》て
|心《こころ》も|勇《いさ》み|身《み》も|勇《いさ》み  |大蛇《をろち》の|霊《みたま》の|三公《さんこう》を
|神《かみ》の|教《をしへ》の|言霊《ことたま》に  |言向《ことむ》け|和《やは》す|此《この》|首途《かどで》
|実《げ》にも|尊《たふと》き|限《かぎ》りなり  あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さち》はひましまして  |吾等《われら》|一行《いつかう》|九人連《くにんづ》れ
|協心尽力《けふしんじんりよく》|相結《あひむす》び  |枉《まが》の|砦《とりで》に|進撃《しんげき》し
|仁慈無限《じんじむげん》の|大神《おほかみ》の  |尊《たふと》き|御稜威《みいづ》を|現《あら》はさむ
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ』
と|謡《うた》ひ|乍《なが》ら|心《こころ》イソイソとして|進《すす》み|行《ゆ》く。
(大正一一・九・一五 旧七・二四 北村隆光録)
第四章 |村《むら》の|入口《いりぐち》〔九六八〕
|向日峠《むかふたうげ》の|山麓《さんろく》に|差《さ》しかかつたる|孫公《まごこう》は|騒《さわ》がしき|人声《ひとごゑ》を|聞《き》きつけ、|宣伝歌《せんでんか》を|歌《うた》ひ|乍《なが》らツカツカと|立寄《たちよ》り、|夕《ゆふ》まぐれに|三公《さんこう》の|手下《てした》|共《ども》に|謀《はか》られて|手足《てあし》を|縛《しば》られ、|土中《どちう》に|埋没《まいぼつ》され|九死一生《きうしいつしやう》の|所《ところ》を|黒姫《くろひめ》に|救《すく》はれて、|今《いま》や|虎公《とらこう》|一行《いつかう》と|共《とも》に|火《ひ》の|国都《くにみやこ》へ|至《いた》る|途中《とちう》を|繰合《くりあは》せ、|屋方村《やかたむら》の|三公《さんこう》を|言向和《ことむけやは》さむと|進《すす》み|行《ゆ》く|途々《みちみち》、|足拍子《あしびやうし》を|取《と》り|乍《なが》ら|歌《うた》をうたつて|嶮《けは》しき|坂道《さかみち》を|下《くだ》り|行《ゆ》く。
『|黒姫司《くろひめつかさ》に|伴《ともな》はれ  |自転倒島《おのころじま》を|後《あと》にして
|筑紫《つくし》の|島《しま》に|来《き》て|見《み》れば  |思《おも》ひもよらぬ|広《ひろ》い|国《くに》
|山河《やまかは》|清《きよ》く|野《の》は|青《あを》く  バナナ|無花果《いちじゆく》|其《その》|外《ほか》の
|味《あぢ》よき|木《こ》の|実《み》は|遠近《をちこち》の  |木々《きぎ》の|梢《こずゑ》に|実《みの》りゐる
あゝ|天国《てんごく》か|極楽《ごくらく》か  |但《ただし》は|神《かみ》の|公園《こうゑん》か
|実《げ》にも|楽《たの》しき|御国《みくに》なり  |筑紫ケ岳《つくしがだけ》の|中腹《ちうふく》で
|腰《こし》をぬかした|其《その》|時《とき》に  |黒姫司《くろひめつかさ》は|冷笑《れいせう》し
|房公《ふさこう》、|芳公《よしこう》|促《うなが》して  |私《わたし》を|見《み》すてて|登《のぼ》り|行《ゆ》く
ホンに|思《おも》へば|腹《はら》が|立《た》つ  |情《なさけ》を|知《し》らぬ|鬼婆《おにばば》と
|今《いま》の|今《いま》|迄《まで》|胸《むね》に|持《も》ち  |黒姫司《くろひめつかさ》を「ドツコイシヨ」
|心《こころ》の|中《なか》で「ウントコシヨ」  |皆《みな》さま|気《き》をつけなさいませ
|蜈蚣《むかで》の|大《おほ》きな|奴《やつ》が|出《で》た  |足《あし》を|刺《さ》されちや|堪《たま》らない
|心《こころ》に|恨《うら》んで|居《を》りました  |黒姫司《くろひめつかさ》の|一行《いつかう》は
|何《いづ》れへ|逃《に》げて|行《い》つたやら  |行方《ゆくへ》も|知《し》らぬ|一人旅《ひとりたび》
|鳥《とり》や|獣《けもの》のなき|声《ごゑ》を  |心《こころ》の|友《とも》と|頼《たの》みつつ
|岩《いは》が|根木《ねき》の|根《ね》ふみさくみ  |重《おも》たい|足《あし》を|引《ひき》ずつて
|火《ひ》の|国都《くにみやこ》を|目当《めあて》とし  |進《すす》んで|来《きた》る|折《をり》もあれ
|道《みち》ふみ|迷《まよ》ひし|向日山《むかふやま》  |峠《たうげ》の|麓《ふもと》の|森林《しんりん》に
いと|騒《さわ》がしき|人《ひと》の|声《こゑ》  こは|何事《なにごと》の|起《おこ》りしと
「ウントコドツコイ ドツコイシヨ」  |叢《くさむら》|分《わ》けて|細道《ほそみち》を
|探《さぐ》り|探《さぐ》りて|行《い》て|見《み》れば  |数多《あまた》の|男《をとこ》が|寄《よ》り|合《あ》うて
|三人《みたり》の|男女《なんによ》を|縛《しば》り|上《あ》げ  |何《なん》ぢやかんぢやと|挑《いど》み|合《あ》ふ
|此奴《こいつ》あテツキリ|悪者《わるもの》の  |深《ふか》き|企《たく》みに|乗《の》せられて
どこかのシヤンが|捉《とら》へられ  |手籠《てご》めに|会《あ》はむとする|所《ところ》
これが|見《み》すてておかれうか  |三五教《あななひけう》の|神《かみ》の|道《みち》
|人《ひと》の|難儀《なんぎ》を|目《ま》のあたり  |眺《なが》めて|後《あと》へは|引《ひ》かれない
|持《も》つて|生《うま》れた|義侠心《ぎけふしん》  |黒姫司《くろひめつかさ》のした|様《やう》な
|薄情《はくじやう》なことは|出来《でき》ないと  |一《ひと》つ|肝《きも》をば|放《ほ》り|出《だ》して
|木蔭《こかげ》に|身《み》をば|忍《しの》ばせつ  |火《ひ》の|国都《くにみやこ》に|名《な》も|高《たか》き
|高山彦《たかやまひこ》と|呼《よ》ばはれば  |大蛇《をろち》の|三公《さんこう》|始《はじ》めとし
|乾児《こぶん》の|奴等《やつら》はあざ|笑《わら》ひ  |面《おもて》を|上《あ》げよとぬかす|故《ゆゑ》
|彼奴等《あいつら》の|深《ふか》い|企《たく》みをば  |神《かみ》ならぬ|身《み》の|知《し》る|由《よし》も
なければ|忽《たちま》ち|空《そら》|仰《あふ》ぎ  この|木《き》の|上《うへ》に|何者《なにもの》が
ひそんで|居《を》るかと|見《み》る|間《うち》に  |忽《たちま》ち|降《ふ》り|来《く》る|砂礫《すなつぶて》
「ウントコドツコイ」|目潰《めつぶ》しの  |其《その》|計略《けいりやく》に|乗《の》せられて
|眼《まなこ》は|眩《くら》み|忽《たちま》ちに  |大地《だいち》に|踞《しやが》む|折《をり》もあれ
|悪者《わるもの》|共《ども》は|後《うしろ》より  |首《くび》に|綱《つな》をば|引《ひ》つかけて
|後《うしろ》に|倒《たふ》し|手《て》も|足《あし》も  |所《ところ》|構《かま》はず|縛《しば》り|上《あ》げ
|忽《たちま》ち|大地《だいち》に|穴《あな》を|掘《ほ》り  |無残《むざん》や|吾等《われら》|三人《さんにん》は
|深《ふか》く|土中《どちう》に「ウントコシヨ」  |命《いのち》カラガラ|埋《う》められた
これ|程《ほど》|深《ふか》い|山奥《やまおく》に  |埋《うづ》められてはモウ|駄目《だめ》だ
|無念《むねん》|乍《なが》らも|今《いま》|此処《ここ》で  「ウントコドツコイ」|玉《たま》の|緒《を》の
|命《いのち》の|消《き》ゆることなるか  あゝ|是非《ぜひ》もなし|是非《ぜひ》もなし
|前生《ぜんしやう》の|罪《つみ》が|酬《むく》い|来《き》て  |海洋万里《かいやうばんり》の|此《この》|国《くに》で
この|様《やう》な|破目《はめ》に|落《お》ちるのか  |国《くに》に|残《のこ》せし|女房《にようばう》の
お|安《やす》は|嘸《さぞ》や|悔《くや》むだろ  なぞと|心《こころ》を|痛《いた》めつつ
|一夜《ひとよ》を|明《あ》かす|其《その》|間《うち》に  |体《からだ》が|軽《かる》くなつて|来《き》た
あゝ|訝《いぶ》かしや|訝《いぶ》かしや  |如何《いか》なる|神《かみ》の|現《あら》はれて
|吾等《われら》を|救《すく》はせ|玉《たま》ふかと  |思《おも》ふ|間《ま》もなく「ウントコシヨ」
|冷《つめ》たくなつた|口《くち》の|中《なか》  |冷《つめ》たい|雨《あめ》は|顔《かほ》に|降《ふ》り
|驚《おどろ》き|心《こころ》を|取直《とりなほ》し  あたりキヨロキヨロ|見《み》まはせば
|思《おも》ひ|掛《がけ》なき|黒姫《くろひめ》が  |顔《かほ》を|覗《のぞ》いて|呆《あき》れ|声《ごゑ》
ヤアヤアお|前《まへ》は|孫公《まごこう》か  マアマアよかつた よかつたと
|七六《しちむ》つかしき|顔《かほ》の|色《いろ》  |牡丹《ぼたん》の|様《やう》に|栄《さか》えつつ
やさしき|詞《ことば》を「ドツコイシヨ」  「ウントコドツコイ」|黒姫《くろひめ》が
かけて|呉《く》れたが「ドツコイシヨ」  こりや|又《また》|如何《どう》した「ウントコシヨ」
|涼《すず》しい|風《かぜ》の|吹《ふ》き|廻《まは》し  あれ|程《ほど》えぐい|婆《ば》アさまが
|俺《おれ》を|助《たす》けてくれるとは  |前代未聞《ぜんだいみもん》の|大珍事《だいちんじ》
|合点《がてん》のゆかぬ|次第《しだい》だと  ここまで|思《おも》うてやつて|来《き》た
「ウントコドツコイ」|危《あぶな》いぞ  そこには|蝮《まむし》が「ウントコシヨ」
|飛《と》びつきさうにしてゐるぞ  |足下《あしもと》|用心《ようじん》するがよい
|黒姫《くろひめ》さまのハズバンド  |高山彦《たかやまひこ》が|悪者《わるもの》に
|土中《どちう》に|深《ふか》く|埋《うづ》められ  |今《いま》や|命《いのち》の|瀬戸際《せとぎは》と
|聞《き》いて|胸《むね》をば|轟《とどろ》かし  お|梅《うめ》さまをば|背《せな》に|負《お》ひ
はるばる|助《たす》けに「ドツコイシヨ」  お|出《い》でなすつたと|云《い》ふ|事《こと》だ
これを|思《おも》へば|黒姫《くろひめ》は  |元《もと》より|俺《おれ》を「ウントコシヨ」
|助《たす》けてやらうと|思《おも》うての  |心《こころ》つくしの|業《わざ》でない
サツパリ|様子《やうす》は|不知火《しらぬひ》の  |波《なみ》のまにまに|流《なが》れ|来《き》て
|俺《おれ》を|助《たす》けて「ウントコシヨ」  くれたに|違《ちがひ》はない|程《ほど》に
これを|思《おも》へば|黒姫《くろひめ》さま  お|前《まへ》の|真《まこと》の|心根《こころね》は
「ウントコドツコイ」おれの|身《み》を  |助《たす》ける|積《つも》りぢやなかつたが
|三五教《あななひけう》の|神《かみ》さまに  |知《し》らず|識《し》らずに|使《つか》はれて
「ウントコドツコイ」|孫公《まごこう》を  お|助《たす》けさして|頂《いただ》いた
|神《かみ》の|仕組《しぐみ》に|違《ちが》ひない  お|前《まへ》もこれから|喜《よろこ》んで
|結構《けつこう》な|御神徳《おかげ》を|沢山《たくさん》に  |頂《いただ》きましたと|神《かみ》の|前《まへ》
|御礼《おれい》を|申《まを》さにやなるまいぞ  お|前《まへ》の|罪《つみ》も|孫公《まごこう》を
|助《たす》けた|御神徳《おかげ》で|軽《かる》うなり  |高山彦《たかやまひこ》の|御亭主《ごていしゆ》に
いつかは|会《あ》はれる|事《こと》だらう  かう|云《い》ふ|具合《ぐあひ》に「ウントコシヨ」
|夕《ゆふ》べの|事件《じけん》を|解剖《かいばう》して  |一々《いちいち》|解釈《かいしやく》|下《くだ》す|時《とき》や
お|前《まへ》の|為《ため》には|孫《まご》さまは  ホンに|尊《たふと》い|救主《すくひぬし》
|一度《いちど》|御礼《おれい》を|云《い》うたとて  メツタに|損《そん》はいくまいぞ
こんな|御神徳《おかげ》を|頂《いただ》いて  |孫公《まごこう》さまに|反対《あべこべ》に
お|礼《れい》を|云《い》はしちやすまないぞ  こんな|事《こと》をば|云《い》うたなら
|高姫《たかひめ》もどきと|云《い》ふだろが  |決《けつ》してさうではない|程《ほど》に
|孫公《まごこう》|守《まも》る|神《かみ》さまが  お|前《まへ》の|身魂《みたま》を|一寸《ちよつと》|借《か》り
|御用《ごよう》に|立《た》てて「ウントコシヨ」  |俺《おれ》を|助《たす》けて|下《くだ》さつた
|決《けつ》して|竜宮《りうぐう》の|乙姫《をとひめ》の  うつつた|肉《にく》の|生宮《いきみや》が
お|愛《あい》の|方《かた》や|孫公《まごこう》や  |兼公《かねこう》さまを|助《たす》けたと
|慢心《まんしん》しては|可《い》かないぞ  「ウントコドツコイ ドツコイシヨ」
|益々《ますます》|坂《さか》がキツなつた  |何程《なにほど》|坂《さか》を|下《くだ》るとも
「ウントコドツコイ」|下《くだ》らない  サカ|理屈《りくつ》をば|云《い》ふ|奴《やつ》と
|必《かなら》ず|思《おも》うて|下《くだ》さるな  これもやつぱり|黒姫《くろひめ》の
|常平常《つねへいぜい》のお|仕込《しこ》みで  こんな|屁理屈《へりくつ》|言《い》ふやうに
「ウントコドツコイ ドツコイシヨ」  なつて|了《しま》うたか|知《し》らないが
|必《かなら》ず|気悪《きわる》う「ドツコイシヨ」  |思《おも》はぬ|様《やう》にしてお|呉《く》れ
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ』
と|謡《うた》ひつつ、|一行《いつかう》の|臍《へそ》をよらせ|乍《なが》ら、|滑稽《こつけい》|混《まじ》りに|黒姫《くろひめ》にからかひ、|坂路《さかみち》を|上《のぼ》りつ|下《くだ》りつ|進《すす》み|行《ゆ》く。
|兼公《かねこう》は|覚束《おぼつか》なき|口調《くてう》にて|又《また》もや|歌《うた》ひ|出《だ》す。
『あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |神《かみ》の|使《つかひ》の|黒姫《くろひめ》が
|向日峠《むかふたうげ》の|山麓《さんろく》に  さまよひ|来《きた》つて|吾々《われわれ》の
|危難《きなん》を|救《すく》うて|下《くだ》さつた  おれは|元《もと》から|悪《わる》い|奴《やつ》
|大蛇《をろち》の|乾児《こぶん》に|取入《とりい》つて  いろいろ|雑多《ざつた》と|画策《くわくさく》し
|参謀次長《さんぼうじちやう》の|地位《ちゐ》|迄《まで》も  |上《のぼ》つて|居《を》つた|代物《しろもの》だ
|人情《にんじやう》|知《し》らぬ|三公《さんこう》が  |虎公《とらこう》さまの|不在《るす》の|家《や》に
|数多《あまた》の|乾児《こぶん》をさし|向《む》けて  お|愛《あい》の|方《かた》を|縛《しば》り|上《あ》げ
かついで|来《きた》る|楠《くすのき》の  |人《ひと》の|通《かよ》はぬ|木下《こした》かげ
|巌《いはほ》の|上《うへ》に|座《ざ》を|占《し》めて  おいらを|使《つか》つて「ドツコイシヨ」
そこには|木株《きかぶ》がころげてる  |皆《みな》さま|気《き》をつけなされませ
|無理難題《むりなんだい》を|吹《ふ》きかけて  うまくやらうとした|所《ところ》
|天道《てんだう》さまは「ドツコイシヨ」  |悪《あく》には|決《けつ》して|助《たす》けない
さすが|三公《さんこう》も|弱《よわ》りはて  お|愛《あい》の|方《かた》に|逆様《さかさま》に
|言《い》ひ|込《こ》められて|劫《がふ》|煮《に》やし  |男女《だんぢよ》|三人《みたり》を|無残《むざん》にも
|土中《どちう》に|深《ふか》く|埋《う》めよつた  |何程《なにほど》|度胸《どきよう》の「ウントコシヨ」
|人《ひと》にすぐれた|兼公《かねこう》も  |手足《てあし》を|縛《しば》られ|穴《あな》を|掘《ほ》り
|埋《うづ》められては|堪《たま》らない  |寂滅為楽《じやくめつゐらく》と|思《おも》ひきや
|天地《てんち》の|神《かみ》の|御恵《みめぐみ》に  |再《ふたた》び|此《この》|世《よ》の「ドツコイシヨ」
あかりを|見《み》せて|下《くだ》さつた  これもヤツパリ|黒姫《くろひめ》が
お|越《こ》しになつた|其《その》|御神徳《おかげ》  |私《わたくし》は|感謝《かんしや》を|致《いた》します
「ウントコドツコイ ドツコイシヨ」  |虎公《とらこう》さまやお|愛《あい》さま
さぞやお|前《まへ》は「ドツコイシヨ」  |随分《ずゐぶん》|得意《とくい》で|御座《ござ》いませう
|死《し》んだと|思《おも》うたハズバンド  |行方《ゆくへ》の|知《し》れぬ|女房《にようばう》に
|思《おも》はず|知《し》らず|廻《めぐ》り|会《あ》ひ  |無事《ぶじ》であつたか|嬉《うれ》しいと
|口《くち》には|云《い》はねど|顔《かほ》の|色《いろ》  チラリとおれは|見《み》ておいた
ホンに|目出度《めでた》いことだなア  サアサア|是《これ》から「ドツコイシヨ」
|屋方《やかた》の|村《むら》に|乗込《のりこ》んで  |大蛇《をろち》の|三公《さんこう》が|素首《そつくび》を
|引《ひ》き|抜《ぬ》きやらむと|思《おも》へども  「ウントコドツコイ」まて|暫《しば》し
|神《かみ》の|教《をしへ》を|聞《き》くからは  そんな|無理《むり》をばやつたなら
|根底《ねそこ》の|国《くに》に|落《おと》されて  |無限《むげん》の|苦《く》をばなめなけりや
「ウントコドツコイ」ならうまい  さはさり|乍《なが》ら|余《あんま》りの
|三公《さんこう》の|仕打《しうち》に|劫《がふ》が|沸《わ》き  |何程《なにほど》|思《おも》ひ|直《なほ》しても
|小癪《こしやく》にさはつてしようがない  あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さち》はひましまして  |私《わたし》が|今《いま》まで|尽《つく》したる
|悪虐無道《あくぎやくぶだう》の|罪科《つみとが》を  |何卒《なにとぞ》|許《ゆる》して|下《くだ》さんせ
|私《わたし》も|大蛇《をろち》の|三公《さんこう》を  |憎《にく》い|奴《やつ》ぢやと|思《おも》へども
|仁慈無限《じんじむげん》の|神《かみ》さまの  |大御心《おほみこころ》に|神習《かむなら》ひ
|今度《こんど》は|許《ゆる》してやりませう  |国魂神《くにたまがみ》の|純世姫《すみよひめ》
|其《その》|外《ほか》|百《もも》の|神達《かみたち》よ  |私《わたし》が|三公《さんこう》|許《ゆる》すよに
|如何《いか》なる|深《ふか》き|罪科《つみとが》も  どうぞ|赦《ゆる》して|下《くだ》さんせ
|心《こころ》を|清《きよ》め|身《み》を|浄《きよ》め  |皇大神《すめおほかみ》の|御前《おんまへ》に
|真心《まごころ》こめて|兼公《かねこう》が  |慎《つつし》み|敬《ゐやま》ひ|願《ね》ぎまつる
|謹《つつし》み|敬《ゐやま》ひ|願《ね》ぎまつる』
と|謡《うた》ひ|乍《なが》ら|進《すす》み|行《ゆ》く。|進《すす》んで|来《く》るのは|早《はや》いもの、|早《はや》くも|屋方《やかた》の|村《むら》の|入口《いりぐち》に|差《さし》かかる。|大蛇《をろち》の|三公《さんこう》が|館《やかた》は、コンモリとした|樫《かし》の|森《もり》の|中《なか》に、|僅《わづか》に|其《その》|棟《むね》を|現《あら》はしてゐる。
(大正一一・九・一五 旧七・二四 松村真澄録)
第五章 |案外《あんぐわい》〔九六九〕
|黒姫《くろひめ》の|一行《いつかう》|九人《くにん》は、|漸《やうや》くにして|大蛇《をろち》の|三公《さんこう》が|表門《おもてもん》に|立《た》ち|現《あらは》れた。|門番《もんばん》をして|居《ゐ》た|二三人《にさんにん》の|若《わか》い|奴《やつ》、|森《もり》の|中《なか》に|埋《う》めて|置《お》いた|三人《さんにん》の|男女《だんぢよ》を|初《はじ》め、|名《な》を|聞《き》いても|恐《おそ》れて|居《ゐ》た|虎公《とらこう》が、|乾児《こぶん》を|引《ひ》きつれ|宣伝使《せんでんし》までも|伴《ともな》うてやつて|来《き》たのに|肝《きも》を|潰《つぶ》し、|蒼白《まつさを》な|顔《かほ》をして【ポカン】と|眺《なが》めて|居《ゐ》る。
|兼公《かねこう》は|妙《めう》な|手《て》つきをして|故意《わざ》とに|細《ほそ》い|声《こゑ》を|出《だ》し、
『ホーイホーイ、|源公《げんこう》の|奴《やつ》、|兼公《かねこう》さまが|帰《かへ》つて|来《き》たぞよ。お|愛《あい》さまも|生還《いきかへ》り、|墓《はか》から|現《あら》はれて、お|前等《まへたち》の|素首《そつくび》を|貰《もら》ひに|来《き》たから|用意《ようい》をして|呉《く》れ。|余《あま》り|怨《うら》めしいので|肉体《にくたい》は|死《し》んだけれど|霊魂《みたま》が|生還《いきかへ》り、|言葉《ことば》のお|礼《れい》に|来《き》たのだから、|三公《さんこう》の|親分《おやぶん》を|初《はじ》め|与三公《よさこう》、|徳公《とくこう》、|高《たか》、|勘《かん》の|兄弟分《きやうだいぶん》にも|早《はや》く|知《し》らして|下《した》せえよ。ヒユードロドロドロ……』
と|未《ま》だ|七《なな》つ|下《さが》りの|太陽《たいやう》がカンカンとして|居《ゐ》るのに、|亡者《まうじや》の|真似《まね》をして|門《もん》の|前《まへ》で|二三遍《にさんぺん》|両《りやう》の|手《て》をシユウと|前《まへ》に|出《だ》し、|右《みぎ》に|左《ひだり》に|二三間《にさんげん》|計《ばか》り|進退《しんたい》しながら|顰《しか》めた|顔《かほ》をして|見《み》せる。
|源公《げんこう》|外《ほか》|二人《ふたり》の|乾児《こぶん》は|驚《おどろ》いて、|与三公《よさこう》、|徳公《とくこう》|等《ら》が|酒《さけ》に|酔《よ》ひ|喰《くら》うて|管《くだ》を|捲《ま》いて|居《ゐ》る|座敷《ざしき》に|慌《あわただ》しく|注進《ちゆうしん》する。|兼公《かねこう》は|勝手《かつて》|知《し》つたる|館《やかた》の|内《うち》、|一同《いちどう》を|導《みちび》いて|遠慮会釈《ゑんりよゑしやく》もなく|酒宴《しゆえん》の|場《ば》に|乗込《のりこ》み|来《きた》る。
|与三公《よさこう》、|徳公《とくこう》は|弱腰《よわごし》を|抜《ぬ》かし|狼狽《うろた》へ|廻《まは》る|可笑《をか》しさ、|吹《ふ》き|出《だ》すばかり|思《おも》はるるをジツと|耐《こら》へ、|兼公《かねこう》は|尚《なほ》も|作《つく》り|声《ごゑ》、
『ホーイホーイ|与三《よさ》の|野郎《やらう》。|兄弟分《きやうだいぶん》の|交誼《よしみ》を|忘《わす》れ、|俺《おれ》の|首《くび》へ|不意《ふい》に|繩《なは》を|引《ひ》つかけ、|手足《てあし》を|縛《しば》り、ようまあ|無残《むざん》にも|生埋《いきう》めにしよつたな。これ|見《み》よ、|此《この》|通《とほ》り|首《くび》が|長《なが》うなつたぞよー』
と|云《い》ひながら|無理《むり》に|首《くび》を|伸《の》ばして|見《み》せ、|眼《め》をクリクリさせ、|舌《した》を|思《おも》ひ|限《き》り|突《つ》き|出《だ》し、|両《りやう》の|手《て》を|怪《あや》しく|前《まへ》の|方《はう》へぶらさげ、ビリビリ|慄《ふる》はせながら、
『ヒユードロドロドロ……』
|与三公《よさこう》は|腰《こし》のぬけた|儘《まま》|両手《りやうて》を|合《あは》せ、
『ヤア|兄貴《あにき》|許《ゆる》して|呉《く》れ。|決《けつ》して|俺《おれ》が|殺《ころ》したのぢやない。|親分《おやぶん》の|云《い》ひつけだ。|俺《おれ》は|親分《おやぶん》にお|前《まへ》の|知《し》つて|居《ゐ》る|通《とほ》り、|助《たす》けてやつて|呉《く》れと|頼《たの》んだのだが、|如何《どう》しても|聞《き》いて|呉《く》れぬものだから、|止《や》むを|得《え》ず|可憐《かはい》さうな|事《こと》をしたのだ。|何卒《どうぞ》|堪忍《かんにん》して|呉《く》れ。その|代《かは》りきつとお|前《まへ》の|冥福《めいふく》を|祈《いの》つてやる』
と|蒼白《まつさを》の|顔《かほ》をし、|両手《りやうて》を|合《あは》せて|慄《ふる》つて|居《ゐ》る|可笑《をか》しさ。|虎公《とらこう》は|吹《ふ》き|出《だ》し、
『アハヽヽヽ、オイ|与三《よさ》、|徳《とく》の|両人《りやうにん》、|些《ち》と|確《しつか》りせぬか。|幽霊《いうれい》でも|何《なん》でもないのだ。|正真正銘《しやうしんしやうめい》のピチピチした|男《をとこ》の|中《なか》の|男《をとこ》|一匹《いつぴき》、|武野村《たけのむら》の|虎《とら》だ。|随分《ずゐぶん》|御親切《ごしんせつ》にお|愛《あい》をしてやつて|呉《く》れて、|余《あま》り|有難《ありがた》いからお|礼《れい》に|来《き》たのだよ。|妹《いもうと》のお|梅《うめ》まで|御親切《ごしんせつ》に|預《あづか》つてほんとに【かつちけねえ】。まあ|悠《ゆつく》りと|気《き》を|落《お》ちつけて、|虎公《とらこう》の|仰《おつ》しやる|事《こと》を|聞《き》かつしやい』
『これはこれは、|武野村《たけのむら》の|親分《おやぶん》で|御座《ござ》いましたか。|何卒《どうぞ》|今《いま》までの|不都合《ふつがふ》は|水《みづ》に|流《なが》し、|命《いのち》だけは|助《たす》けて|下《した》せえませ』
『オイ、|与三《よさ》に|徳《とく》の|両人《りやうにん》、|手前《てまへ》は|睾丸《きんたま》をどうしたのか|一遍《いつぺん》|見《み》せて|貰《もら》ひてえものだ』
『ハイハイ、お|見《み》せ|申《まを》すは|易《やす》い|事《こと》でげすが、|余《あんま》りの|吃驚《びつくり》で|何処《どこ》かへ|転宅《てんたく》してしまひました。……|睾丸《きんたま》の|奴《やつ》、|気《き》が|利《き》いて|居《ゐ》らあ。|虎公《とらこう》さまに|引張《ひつぱ》られては、|同《おな》じ|年《とし》に|生《うま》れた|親《おや》までが|苦《くる》しむと|思《おも》つて、|体《てい》|好《よ》く|姿《すがた》をかくしよつた。|貴様《きさま》と|云《い》ふ|奴《やつ》は|余程《よほど》|気《き》の|利《き》いた|奴《やつ》だ。|若《わか》い|時《とき》から|皺《しわ》だらけの|面《つら》しよつて|気《き》の|喰《く》はぬ|奴《やつ》だと|思《おも》つて|居《ゐ》たが、こんな|時《とき》には|都合《つがふ》がよい。|何時《いつ》もしんなまくらな、ブラブラとしやがつて|力《ちから》も|出《だ》しやがらぬが、まさかの|時《とき》には|間《ま》に|合《あ》ふと|見《み》えるわい。|金剛不壊《こんがうふゑ》の|宝珠《ほつしゆ》|迄《まで》|何処《どこ》かへいつた。どつかへ|持《も》つて|逃《に》げよつたのかなア』
お|愛《あい》『ホヽヽヽヽ』
お|梅《うめ》『アー|可笑《をか》しい、|徳《とく》のをぢさま、|見《み》つともない。そんな|処《ところ》|早《はや》う|匿《かく》してお|呉《く》れ』
『ヘイ、|匿《かく》すれば、かくれるものと|知《し》りながら、|出《で》るに|出《で》られぬ|狸《たぬき》の|睾丸《きんたま》、アハヽヽヽ』
『どうだ、|与三《よさ》に|徳《とく》、|些《ち》つと|安心《あんしん》したか』
『|些《ち》つと|許《ばか》り|安心《あんしん》したやうです。|親分《おやぶん》、|誠《まこと》に|済《す》まねえが、さつぱり|弱腰《よわごし》が|抜《ぬ》けて|仕舞《しま》つたのだから、|一《ひと》つ|腰《こし》を|揉《も》んで|下《した》せえな』
『エイ|厄介《やくかい》な|奴《やつ》だなア』
と|云《い》ひながら|後《うしろ》へ|廻《まは》り、|腰《こし》をグツと|抱《かか》へウンと|気合《きあひ》をかけると、
『アイタヽヽ、アヽ、これでどうやら|元《もと》の|鞘《さや》に|納《をさ》まつたらしい。|遉《さすが》は|親分《おやぶん》だ、|有難《ありがた》う|御座《ござ》いやす』
『もしもし|親方《おやかた》、|徳公《とくこう》もどうか|一《ひと》つ|願《ねが》ひます。|如何《どう》にも|斯《か》うにもなりませぬわ』
『エヽ|幽霊《いうれい》を|按摩《あんま》と|間違《まちが》へやがつたな』
『|滅相《めつさう》な、|幽霊《いうれい》に|礼《れい》|云《い》ふなんて、そんな|御心配《ごしんぱい》はいりませぬ。きつと|礼《れい》|云《い》ふ|積《つも》りで|御座《ござ》いますから……アヽ|知《し》らぬ|間《ま》にちやんと|腰《こし》が|直《なほ》つて|居《ゐ》やがらア。もう|斯《か》うなつちや|幽霊《いうれい》のやり|場《ば》がなくなつて|仕舞《しま》つた、アハヽヽヽ』
|斯《か》かる|処《ところ》へ|大蛇《をろち》の|三公《さんこう》は、|衣紋《えもん》を|整《ととの》へ|恭《うやうや》しく|四五人《しごにん》の|乾児《こぶん》に|酒肴《しゆかう》を|運《はこ》ばせ、|白扇《はくせん》をすぼめたまま|右《みぎ》の|手《て》を|膝《ひざ》のあたりに|斜《ななめ》に|置《お》き、|静々《しづしづ》と|入《い》り|来《きた》り、|一同《いちどう》の|前《まへ》に|行儀《ぎやうぎ》よく【きちん】と|坐《すわ》り、
『これはこれは|皆様《みなさま》、よくこそ|入《い》らせられました。|三公《さんこう》|誠《まこと》に|恐悦《きようえつ》|至極《しごく》に|存《ぞん》じます。|貴方様《あなたさま》|御一行《ごいつかう》のお|姿《すがた》が|門前《もんぜん》にチラリと|見《み》えますや|否《いな》や、この|三公《さんこう》の|体《からだ》より|小《ちひ》さき|蛇《へび》|二三匹《にさんびき》|這《は》ひ|出《だ》しました。ハテ|不思議《ふしぎ》やと|眺《なが》めている|中《うち》、その|小蛇《こへび》は|表門《おもてもん》さして|一生懸命《いつしやうけんめい》|逃《に》げだす。|不思議《ふしぎ》の|事《こと》だと|後《あと》を|追《お》つかけ|眺《なが》むれば、|忽《たちま》ち|変《かは》る|三匹《さんびき》の|大蛇《をろち》、|鎌首《かまくび》を|立《た》て|向日峠《むかふたうげ》の|方面《はうめん》さして|一目散《いちもくさん》にかけ|去《さ》りました。|昨日《きのふ》はお|愛《あい》|様《さま》お|梅《うめ》|様《さま》|其《その》|他《た》の|方々《かたがた》に|対《たい》し、くだらぬ|遺恨《ゐこん》より|御無礼《ごぶれい》の|事《こと》を|致《いた》しましたが|決《けつ》してこの|三公《さんこう》が|左様《さやう》の|悪事《あくじ》を|働《はたら》いたのではありませぬ。|私《わたくし》に|憑依《ひようい》して|居《ゐ》た|大蛇《をろち》の|奴《やつ》、|吾《わ》が|肉体《にくたい》を|使《つか》ひ、あのやうな|悪逆無道《あくぎやくむだう》を|致《いた》したので|御座《ござ》いますから、|何卒《なにとぞ》|三五教《あななひけう》の|信者《しんじや》たる|貴方様《あなたさま》、|今《いま》|迄《まで》の|此《こ》の|肉体《にくたい》の|罪《つみ》を|許《ゆる》して|下《くだ》さいませ。|屹度《きつと》お|許《ゆる》し|下《くだ》さるに|間違《まちが》ひないと|確信《かくしん》|致《いた》してお|目通《めどほ》り|致《いた》しました。サア|何卒《なにとぞ》|一献《いつこん》|召《め》し|上《あが》り|下《くだ》さいませ』
『これはこれは|痛《いた》み|入《い》つたる|御挨拶《ごあいさつ》、|仰《あふ》せの|通《とほ》りで|御座《ござ》らう。|虎公《とらこう》は|大蛇《をろち》を|憎《にく》んで|三公《さんこう》を|憎《にく》まず、マアマア|御安心《ごあんしん》なさいませ』
『|皆様《みなさま》ようこそお|越《こ》し|下《くだ》さいました。サア|何卒《どうぞ》、|汚穢《むさくる》しい|所《ところ》では|御座《ござ》いますが、|御緩《ごゆる》りとお|寛《くつろ》ぎ|下《くだ》さいまして、|三公《さんこう》が|寸志《すんし》の|御酒《ごしゆ》をお|上《あが》り|下《くだ》さるやうにお|願《ねが》ひ|致《いた》します』
『ハイ|有難《ありがた》う。サアサアお|愛《あい》さま。お|梅《うめ》さま、|孫公《まごこう》、|何《なに》をまごまごして|居《を》るのだ。サア|早《はや》く|上《あが》りなさい。|虎公《とらこう》さまの|乾児《こぶん》|共《ども》、お|前《まへ》も|一緒《いつしよ》に|上《あが》るんだよ……ヘイ|御免《ごめん》|下《くだ》さいませ』
と|云《い》ひながら|黒姫《くろひめ》はズツと|奥《おく》に|通《とほ》る。|虎公《とらこう》|外《ほか》|一同《いちどう》も|黒姫《くろひめ》の|後《あと》に|従《したが》ひ、|奥《おく》の|間《ま》に|蹄鉄形《ていてつがた》に【ずらり】と|座《ざ》を|占《し》めた。
|大蛇《をろち》の|三公《さんこう》は|黒姫《くろひめ》|以下《いか》|一同《いちどう》に|心《こころ》の|底《そこ》より|障壁《しやうへき》を|除《と》つて、|誠意《せいい》を|籠《こ》め|酒肴《しゆかう》を|勧《すす》める。|黒姫《くろひめ》の|一行《いつかう》も|三五教《あななひけう》の|教《をしへ》を|遵奉《じゆんぽう》して|居《ゐ》るお|蔭《かげ》で、|今《いま》|迄《まで》の|恨《うら》みを|流《なが》れ|河《がは》で|尻《しり》を|洗《あら》つたやうに【ケロリ】と|忘《わす》れて|仕舞《しま》ひ、|和気靄々《わきあいあい》として|盃《さかづき》を|酌《く》み|交《かは》し、|他愛《たあい》もなく|吾《わが》|家《や》に|帰《かへ》つたやうな|気分《きぶん》になつて、|或《あるひ》は|歌《うた》ひ|或《あるひ》は|舞《ま》ひ、|三公《さんこう》の|数百人《すうひやくにん》の|乾児《こぶん》も|座敷《ざしき》の|外《そと》の|庭《には》に|蓆《むしろ》を|敷《し》き、|再《ふたた》び|酒《さけ》の|飲《の》み|直《なほ》しをやり、|三公館《さんこうやかた》は|全《まつた》くのお|祭《まつ》り|騒《さわ》ぎと|一変《いつぺん》して|了《しま》つた。
|三公《さんこう》は|珍客《ちんきやく》の|待遇《もてなし》に|全力《ぜんりよく》を|尽《つく》し、|打《う》ち|解《と》けて|色々《いろいろ》と|痒《かゆ》い|所《ところ》へ|手《て》の|届《とど》くやうな|接待《あしらひ》|振《ぶ》りをやつて|居《ゐ》る。|三公《さんこう》の|歌《うた》、
『|熊襲《くまそ》の|国《くに》に|隠《かく》れなき  |醜《しこ》の|曲津《まがつ》の|容器《いれもの》と
もてはやされた|無頼漢《ならずもの》  |大蛇《をろち》の|三公《さんこう》と|名《な》を|呼《よ》ばれ
|調子《てうし》に|乗《の》つてドシドシと  |体主霊従《たいしゆれいじう》のありたけを
|尽《つく》して|来《き》たのが|恥《はづ》かしい  |八岐《やまた》の|大蛇《をろち》の|分霊《わけみたま》
|醜《しこ》の|魔神《まがみ》に|憑依《ひようい》され  |神《かみ》の|大道《おほぢ》は|云《い》ふも|更《さら》
|人《ひと》の|踏《ふ》むべき|道《みち》さへも  |取《と》り|違《ちが》へたる|曲津神《まがつかみ》
|執着心《しふちやくしん》に|囚《とら》へられ  お|愛《あい》の|方《かた》に|懸想《けさう》して
|朝《あさ》な|夕《ゆふ》なに|村肝《むらきも》の  |心《こころ》を|悩《なや》ませ|居《ゐ》たりしが
|思《おも》ひは|募《つの》る|恋《こひ》の|暗《やみ》  |黒白《あやめ》も|分《わ》かずなり|果《は》てて
|虎公《とらこう》さまの|留守宅《るすたく》を  |狙《ねら》ひすまして|押《お》し|囲《かこ》み
お|愛《あい》の|方《かた》やお|梅《うめ》さま  |繊弱《かよわ》き|女《をんな》を|引《ひ》つ|捕《とら》へ
|人跡《じんせき》|絶《た》えし|向日山《むかふやま》  |林《はやし》の|中《なか》に|連《つ》れ|行《ゆ》きて
|人《ひと》のなすべき|業《わざ》でない  |悪虐無道《あくぎやくむだう》を|敢行《かんかう》し
|勝鬨《かちどき》あげて|吾《わが》|家《いへ》に  |帰《かへ》りて|見《み》れば|村肝《むらきも》の
|心《こころ》の|鬼《おに》に|責《せ》められて  |夜《よ》も|碌々《ろくろく》に|寝《やす》まれず
その|苦《くる》しさに|三五《あななひ》の  |皇大神《すめおほかみ》の|御前《おんまへ》に
|体《からだ》を|清《きよ》め|口《くち》|嗽《すす》ぎ  |自《おの》が|犯《おか》せし|罪科《つみとが》を
|詫《わび》ぶる|折《をり》しも|神殿《しんでん》に  |現《あら》はれ|給《たま》ひし|神姿《かみすがた》
|木花姫《このはなひめ》の|御化身《おんけしん》  |言葉《ことば》|静《しづか》に|宣《の》らすやう
お|愛《あい》お|梅《うめ》を|初《はじ》めとし  |二人《ふたり》の|男《をとこ》は|三五《あななひ》の
|神《かみ》の|司《つかさ》の|黒姫《くろひめ》に  |救《すく》ひ|出《だ》されて|明日《あす》の|日《ひ》は
|必《かなら》ず|此処《ここ》に|来《きた》るべし  |汝《なんぢ》は|今《いま》より|身《み》を|清《きよ》め
|心《こころ》の|駒《こま》を|立《た》て|直《なほ》し  |誠《まこと》|一《ひと》つの|三五《あななひ》の
|道《みち》にかへりて|今《いま》|迄《まで》の  |悪《あ》しき|行《おこな》ひ|立《た》て|直《なほ》し
|世人《よびと》の|鑑《かがみ》となれよかし  |虎公《とらこう》お|愛《あい》を|初《はじ》めとし
|黒姫司《くろひめつかさ》や|孫公《まごこう》を  |御身《おんみ》|其《その》|外《ほか》|一同《いちどう》が
|恭《うやうや》しくも|出《い》で|迎《むか》へ  |互《たがひ》に|胸《むね》を|打《う》ちあけて
|神《かみ》に|供《そな》へた|大神酒《おほみき》に  |心《こころ》の|垢《あか》を|洗《あら》ひ|去《さ》り
|互《たがひ》に|手《て》に|手《て》を|引《ひ》き|合《あ》うて  |世人《よびと》のために|尽《つく》せよと
|宣《の》らせたまひし|御言葉《おんことば》  |夢《ゆめ》か|現《うつつ》か|夢《ゆめ》ならず
|現《うつつ》にあらぬ|大神勅《おほみのり》  |悪虐無道《あくぎやくむだう》の|三公《さんこう》も
|胸《むね》の|雲霧《くもきり》|吹《ふ》き|散《ち》りて  |今《いま》は|尊《たふと》き|神《かみ》の|御子《みこ》
|清《きよ》き|身魂《みたま》となりにけり  あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸倍《さちは》ひましまして  |黒姫司《くろひめつかさ》は|云《い》ふも|更《さら》
|虎公《とらこう》さまやお|愛《あい》さま  |其《その》|他《た》|一同《いちどう》の|信徒《まめひと》と
|皇大神《すめおほかみ》の|御道《おんみち》に  |進《すす》みて|行《ゆ》かむ|吾《わ》が|心《こころ》
|完全《うまら》に|委曲《つばら》に|聞《きこ》し|召《め》せ  |国魂神《くにたまがみ》の|純世姫《すみよひめ》
|月照彦《つきてるひこ》の|神様《かみさま》に  |誠心《まごころ》|籠《こ》めて|三公《さんこう》が
|慎《つつし》み|誓《ちか》ひ|奉《たてまつ》る  あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸倍《さちは》ひましませよ』
と|歌《うた》ひ|終《をは》り、|一同《いちどう》に|恭《うやうや》しく|一礼《いちれい》して|下座《しもざ》につき|敬意《けいい》を|表《へう》せり。
(大正一一・九・一五 旧七・二四 加藤明子録)
第六章 |歌《うた》の|徳《とく》〔九七〇〕
|黒姫《くろひめ》は|元気《げんき》よく|歌《うた》をうたつて、|双方《さうはう》の|和解《わかい》を|祝《しゆく》す。その|歌《うた》、
『|三千世界《さんぜんせかい》の|梅《うめ》の|花《はな》  |一度《いちど》に|開《ひら》く|時《とき》は|今《いま》
|天教山《てんけうざん》や|地教山《ちけうざん》  |黄金山《わうごんざん》にあれませる
|三五教《あななひけう》の|大神《おほかみ》の  |尊《たふと》き|教《をしへ》は|四方《よも》の|国《くに》
|隈《くま》なく|光《ひか》り|輝《かがや》きて  |心《こころ》を|筑紫《つくし》の|熊襲国《くまそくに》
|山《やま》の|奥《おく》まで|鳴《な》り|渡《わた》る  |実《げ》にも|尊《たふと》き|神《かみ》の|道《みち》
|虎公《とらこう》さまを|初《はじ》めとし  |大蛇《をろち》の|三公《さんこう》と|聞《きこ》えたる
|竜虎《りうこ》の|如《ごと》き|両人《りやうにん》が  |心《こころ》の|底《そこ》より|打《う》ち|解《と》けて
|尊《たふと》き|神《かみ》の|御教《みをしへ》に  |服《まつろ》ひ|給《たま》ひし|畏《かしこ》さよ
|天ケ下《あめがした》なる|人草《ひとぐさ》は  |高《たか》き|低《ひく》きの|隔《へだ》てなく
|老若男女《らうにやくなんによ》の|嫌《きら》ひなく  |国治立大神《くにはるたちのおほかみ》や
|豊国主大御神《とよくにぬしのおほみかみ》  |造《つく》り|給《たま》ひし|御子《みこ》なれば
|互《たがひ》に|睦《むつ》び|親《した》しみて  |神《かみ》の|造《つく》りし|神《かみ》の|世《よ》に
|生《い》き|存《なが》らへて|御恵《みめぐみ》の  |露《つゆ》に|潤《うるほ》ひ|喜《よろこ》びの
|花《はな》を|開《ひら》かせ|実《み》を|結《むす》び  |千代万代《ちよよろづよ》の|末《すゑ》までも
|同《おな》じ|心《こころ》に|睦《むつ》び|合《あ》ひ  |栄《さか》え|行《ゆ》くこそ|人《ひと》の|身《み》の
|此《この》|世《よ》に|生《うま》れし|務《つとめ》なり  |虎公《とらこう》さまは|最愛《さいあい》の
お|愛《あい》の|方《かた》や|妹《いもうと》の  お|梅《うめ》を|無残《むざん》に|三公《さんこう》の
|指図《さしづ》の|許《もと》に|虐《さいな》まれ  |無念《むねん》の|涙《なみだ》を|抑《おさ》へつつ
|神《かみ》の|心《こころ》を|省《かへり》みて  |凡《すべ》ての|仇《あだ》を|神直日《かむなほひ》
|心《こころ》も|広《ひろ》き|大直日《おほなほひ》  |見直《みなほ》し|給《たま》ひし|尊《たふと》さよ
|神《かみ》は|吾等《われら》を|守《まも》ります  |人《ひと》は|神《かみ》の|子《こ》|神《かみ》の|宮《みや》
|神《かみ》と|神《かみ》とは|善《ぜん》と|善《ぜん》  |善《ぜん》に|刃向《はむか》ふ|仇《あだ》はない
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |御霊《みたま》|幸《さち》はひましまして
|今日《けふ》の|生日《いくひ》の|喜悦《よろこび》を  |千代《ちよ》も|八千代《やちよ》も|変《かは》らずに
|続《つづ》かせ|給《たま》へ|天津神《あまつかみ》  |国津神《くにつかみ》|等《たち》|百《もも》の|神《かみ》
|国魂神《くにたまがみ》の|御前《おんまへ》に  |三五教《あななひけう》の|黒姫《くろひめ》が
|謹《つつし》み|敬《ゐやま》ひ|喜《よろこ》んで  |感謝《かんしや》の|詞《ことば》|奉《たてまつ》る
いざこれからは|皆《みな》の|人《ひと》  |心《こころ》の|隔《へだ》てを|取《と》り|払《はら》ひ
|親《おや》と|子《こ》の|如《ごと》|親《した》しみて  |心《こころ》の|玉《たま》を|磨《みが》きつつ
|神《かみ》の|大道《おほぢ》に|服《まつろ》へや  |朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも
|月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも  |仮令《たとへ》|大地《だいち》は|沈《しづ》むとも
|誠《まこと》の|力《ちから》は|世《よ》を|救《すく》ふ  |誠《まこと》は|此《この》|世《よ》の|宝《たから》ぞや
|金剛不壊《こんがうふゑ》の|如意宝珠《によいほつしゆ》  |麻邇《まに》の|宝珠《ほつしゆ》は|麗《うるは》しく
|如何《いか》に|尊《たふと》くあるとても  |誠《まこと》の|魂《たま》には|如《し》かざらめ
|魂《たま》を|磨《みが》けよ|諸人《もろびと》よ  |魂《たま》の|功績《いさを》を|永久《とこしへ》に
|崇《あが》むる|身《み》こそ|楽《たの》しけれ  あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御魂《みたま》|幸《さち》はへましませよ』
|徳公《とくこう》はツと|立《た》ちてうたひ|出《だ》した。
『あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |神《かみ》の|恵《めぐ》みを|蒙《かうむ》りて
|徳公《とくこう》が|此処《ここ》に|言霊《ことたま》の  お|歌《うた》をうたひ|奉《たてまつ》る
|大蛇《をろち》の|三公《さんこう》と|云《い》ふ|人《ひと》は  |本当《ほんたう》に|腹《はら》の|悪《わる》い|人《ひと》
|今《いま》の|御歌《おうた》で|伺《うかが》へば  |夜前《やぜん》の|中《うち》に|木花《このはな》の
|姫《ひめ》の|命《みこと》の|御化身《ごけしん》に  |天地《てんち》の|道理《だうり》を|聞《き》かされて
|心《こころ》の|雲《くも》を|吹《ふ》き|払《はら》ひ  |正《ただ》しき|身魂《みたま》となりながら
|今《いま》の|今《いま》まで|知《し》らず|顔《がほ》  |徳公《とくこう》さまを|急《せ》き|立《た》てて
|向日峠《むかふたうげ》の|山麓《さんろく》に  |埋《うづ》めて|置《お》いたお|愛《あい》さま
|一日《ひとひ》も|早《はや》く|助《たす》け|出《だ》し  |何処《どこ》かの|山《やま》へ|連《つ》れ|行《ゆ》きて
うまくお|前《まへ》が|抱込《だきこ》んで  |竹《たけ》の|柱《はしら》に|萱《かや》の|屋根《やね》
|手鍋《てなべ》さげても|構《かま》はぬと  お|愛《あい》の|方《かた》が|吐《ぬか》すまで
うまくやつつけ|呉《く》れよやと  |誠《まこと》しやかに|急《せ》きたてて
お|酒《さけ》に|酔《よ》うた|徳《とく》さまを  |無性《むしやう》|矢鱈《やたら》に|急《せ》きたてる
|誠《まこと》に|腹《はら》の|悪《わる》い|人《ひと》  |外《ほか》の|事《こと》とは|事《こと》|変《かは》り
|冗談《じようだん》|云《い》ふにも|程《ほど》がある  |呆《あき》れて|物《もの》が|言《い》はれない
|本当《ほんたう》に|馬鹿《ばか》にされました  |斯《こ》んな|事《こと》だと|知《し》つたなら
|心配《しんぱい》するのぢや|無《な》かつたに  |思《おも》へば|思《おも》へば|馬鹿《ばか》らしい
|与三公《よさこう》の|奴《やつ》まで|騙《だま》されて  |本当《ほんたう》になつて|徳公《とくこう》よ
|早《はや》く|行《ゆ》かなきや|親方《おやかた》が  |大《おほ》きな|目《め》の|玉《たま》むき|出《だ》すと
|脅《おど》し|文句《もんく》を|並《なら》べたて  |章魚禿頭《たこはげあたま》に|湯気《ゆげ》|立《た》てて
|勧《すす》めくさつたこと|思《おも》や  |夢《ゆめ》か|現《うつつ》か|幻《まぼろし》か
|分《わか》らぬ|様《やう》になつて|来《き》た  |今日《けふ》も|思《おも》はぬ|酒《さけ》の|席《せき》
|天下《てんか》は|極《きは》めて|太平《たいへい》だ  |兼公《かねこう》の|奴《やつ》がヒヨロヒヨロと
|此処《ここ》へ|帰《かへ》つて|来《き》た|時《とき》は  |亡者《まうじや》が|俺等《おれら》の|首《くび》とりに
やつて|来《き》たかと|肝《きも》|潰《つぶ》し  |腰《こし》を|抜《ぬ》かした|苦《くる》しさよ
さはさりながら|一同《いちどう》の  |顔《かほ》をばよくよく|眺《なが》むれば
|何《いづ》れも|愉快《ゆくわい》の|顔《かほ》の|色《いろ》  |此奴《こいつ》ア|大事《だいじ》アあるまいと
|高《たか》を|括《くく》つて|虎公《とらこう》に  |腰《こし》をば|揉《も》んで|下《くだ》さいと
|抜《ぬ》けても|居《ゐ》ないわが|腰《こし》を  |瀬踏《せぶ》みの|為《た》めに|突《つ》き|出《だ》せば
|怨《うら》みを|忘《わす》れた|虎公《とらこう》は  |困《こま》つた|奴《やつ》ぢやと|言《い》ひながら
|私《わたし》の|後《うしろ》にツと|廻《まは》り  |擦《さす》つてくれた|御親切《ごしんせつ》
この|徳公《とくこう》もこれを|見《み》て  |轟《とどろ》く|胸《むね》を|撫《な》で|下《おろ》し
ヤツと|安心《あんしん》したわいな  あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|神《かみ》の|御神酒《おみき》を|沢山《たくさん》に  |皆《みな》さま|飲《の》んで|下《くだ》さんせ
|私《わたし》が|飲《の》ますぢやない|程《ほど》に  |大蛇《をろち》の|親分《おやぶん》|三公《さんこう》が
|秘蔵《ひざう》して|居《ゐ》た|甘《うま》い|酒《さけ》  |地獄《ぢごく》の|上《うへ》を|飛《と》ぶ|様《やう》な
|肝《きも》|放《ほ》り|出《だ》して|惜気《をしげ》なく  |社会《しやくわい》の|為《た》めに|投《な》げ|出《だ》した
|由緒《ゆゐしよ》の|深《ふか》き|酒《さけ》ぢやぞえ  |決《けつ》して|遠慮《ゑんりよ》はいりませぬ
ズブ|六《ろく》さまに|酔《よ》ひ|潰《つぶ》れ  |舌《した》も|廻《まは》らず|目《め》も|見《み》えず
|足《あし》さへ|立《た》たぬ|処《ところ》まで  |遠慮会釈《ゑんりよゑしやく》はない|程《ほど》に
ガブガブ|飲《の》んで|下《くだ》さんせ  |親分《おやぶん》さまの|酒《さけ》ぢやもの
|私《わたし》の|懐中《ふところ》|痛《いた》まない  ほんに|結構《けつこう》な|結構《けつこう》な
|目出度《めでた》い|事《こと》が|出来《でき》てきた  「ドツコイドツコイ ドツコイシヨ」
|酒《さけ》は|酒屋《さかや》に よい|茶《ちや》は|茶屋《ちやや》に  |別嬪《べつぴん》さまは|此処《ここ》に|居《を》る
お|愛《あい》の|方《かた》やお|梅《うめ》さま  |何卒《どうぞ》|今《いま》から|打《う》ち|解《と》けて
|私《わたし》に|一杯《いつぱい》|甘酒《うまざけ》を  |何卒《どうぞ》|酌《しやく》して|下《くだ》さんせ
|黒姫《くろひめ》さまはチと|許《ばか》り  お|年《とし》は|召《め》して|御座《ござ》るけど
|矢張《やつぱり》|女《をんな》に|違《ちが》ひない  |男《をとこ》の|手《て》から|貰《もら》ふより
|女《をんな》の|方《はう》が|味《あぢ》がよい  さあさあ|皆《みな》さま|踊《をど》りませう
|飲《の》んだり|食《く》つたり|跳《は》ね|廻《まは》り  |謡《うた》うて|一夜《いちや》を|明《あ》かさうか
|八岐大蛇《やまたをろち》の|霊《みたま》まで  |三公《さんこう》さまの|体内《たいない》を
|雲《くも》を|霞《かすみ》と|脱《ぬ》け|出《だ》して  |今《いま》は|尊《たふと》き|神《かみ》の|宮《みや》
|御神酒《おみき》あがらぬ|神《かみ》はない  |三公親分《さんこうおやぶん》|御守護神《ごしゆごじん》
|嘸《さぞ》や|嘸々《さぞさぞ》|御満足《ごまんぞく》  お|愛《あい》の|方《かた》も|虎公《とらこう》も
|御一同様《ごいちどうさま》も|御満足《ごまんぞく》  |序《ついで》に|私《わたし》も|御満足《ごまんぞく》
|千客万来《せんきやくばんらい》いつまでも  |昼夜《ちうや》|分《わか》たず|酒《さけ》に|酔《よ》ひ
|面白《おもしろ》|可笑《をか》しう|暮《くら》したい  |之《これ》が|一生《いつしやう》の|徳《とく》さまだ
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |燗《かん》でも|冷《ひや》でも|構《かま》はない
|早《はや》く|一杯《いつぱい》ついで|呉《く》れ  |序《ついで》にも|一《ひと》つついでくれ
|本当《ほんたう》に|甘《うま》い|酒《さけ》だなア  こんな|良《よ》い|酒《さけ》|持《も》ちながら
|大蛇《をろち》の|霊《みたま》に|憑依《ひようい》され  |俺等《おれら》に|隠《かく》して|三公《さんこう》さま
|飲《の》んで|居《ゐ》たのに|違《ちが》ひない  |昨日《きのふ》|出《だ》したる|甘酒《うまざけ》は
|腐《くさ》つた|様《やう》な|酒《さけ》だつた  もうこれからは|親分《おやぶん》よ
お|前《まへ》も|改心《かいしん》したからは  お|前《まへ》は|悪《わる》い|酒《さけ》を|飲《の》み
|乾児《こぶん》の|奴《やつ》にや|良《よ》い|酒《さけ》を  ドツサリ|飲《の》ましてやらさんせ
|悪虐無道《あくぎやくむだう》の|三公《さんこう》が  |神《かみ》の|光《ひかり》に|照《てら》されて
|改心《かいしん》したと|云《い》ふ|証《しるし》  |思《おも》ひ|違《ちが》ひのない|様《やう》に
|此《この》|徳公《とくこう》の|言《い》ふ|事《こと》を  うまく|呑《の》み|込《こ》んで|下《くだ》さんせ
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |燗《かん》した|酒《さけ》は|尚《なほ》|甘《うま》い』
と|口《くち》から|出任《でまか》せに|謡《うた》ひ|乍《なが》ら|舞《ま》ひ|狂《くる》ふ。
(大正一一・九・一五 旧七・二四 北村隆光録)
第七章 |乱舞《らんぶ》〔九七一〕
|八公《はちこう》は|徳公《とくこう》の|歌《うた》にそそられて、|覚束《おぼつか》なくも|謡《うた》ひ|初《はじ》めたり。
『|武野《たけの》の|村《むら》の|玉公《たまこう》が  |親《おや》の|代《だい》から|伝《つた》へたる
|水晶玉《すいしやうだま》が|如何《どう》してか  |俄《にはか》に|黒《くろ》く|曇《くも》り|出《だ》し
|心《こころ》をひそめて|伺《うかが》へば  |筑紫《つくし》の|島《しま》に|黒姫《くろひめ》が
|泥《どろ》をば|吐《は》きに|来《き》よつたに  てつきり|違《ちが》ひはないものと
|大当《おほあて》|外《はづ》れの|判断《はんだん》に  |親方《おやかた》さまを|頼《たの》み|込《こ》み
|無花果《いちじゆく》|取《と》るは|表向《おもてむ》き  |高山峠《たかやまたうげ》を|登《のぼ》り|来《く》る
|黒姫司《くろひめつかさ》を|捉《つか》まへて  |改心《かいしん》ささねばならないと
|新《しん》、|久《きう》、|八《はち》の|三人《さんにん》も  |親分《おやぶん》さまの|言《い》ひ|付《つけ》で
|嶮《けは》しき|山《やま》をよぢ|登《のぼ》り  |峠《たうげ》の|絶頂《ぜつちやう》に|車座《くるまざ》と
なつて|白黒石卜《しろくろいしうら》を  |初《はじ》める|時《とき》しも|黒姫《くろひめ》が
てつきり|此処《ここ》にやつて|来《き》た  いきり|切《き》つたる|吾々《われわれ》は
|黒姫司《くろひめつかさ》を|見《み》るよりも  |俄《にはか》に|心機一転《しんきいつてん》し
どことはなしに|具《そな》はりし  |其《その》|神徳《しんとく》に|敬服《けいふく》し
|建日《たけひ》の|館《やかた》の|神司《かむつかさ》  |建国別《たけくにわけ》の|許《もと》にゆき
|親子《おやこ》の|対面《たいめん》させむとて  |山坂《やまさか》|越《こ》えて|進《すす》み|行《ゆ》く
さはさりながら|黒姫《くろひめ》や  こちらの|目算《もくさん》|相外《あひはづ》れ
|親《おや》でもなければ|子《こ》でもない  |肉体上《にくたいじやう》から|言《い》うたなら
あかの|他人《たにん》と|知《し》れた|故《ゆゑ》  |是非《ぜひ》なく|此処《ここ》を|立《た》ち|出《い》でて
|九十九曲《つくもまが》りの|坂路《さかみち》を  |親分《おやぶん》さまの|後《あと》につき
|火《ひ》の|国《くに》|街道《かいだう》の|山口《やまぐち》に  |下《くだ》りて|見《み》れば|六公《ろくこう》が
|数多《あまた》の|乾児《こぶん》を|引《ひ》きつれて  |喧嘩《けんくわ》|装束《しやうぞく》いかめしく
|捩鉢巻《ねぢはちまき》で|待《ま》つてゐた  さすがに|偉《えら》い|虎公《とらこう》は
|皆《みな》の|奴《やつ》をば|追《お》つ|払《ぱら》ひ  お|愛《あい》の|方《かた》の|遭難《さうなん》を
|助《たす》けてやらねばならないと  |一目散《いちもくさん》に|走《はし》り|行《ゆ》く
|深谷川《ふかたにがは》の|丸木橋《まるきばし》  |渡《わた》つた|所《ところ》で|黒姫《くろひめ》や
|案《あん》じて|居《を》つたお|愛《あい》さま  お|梅《うめ》さまにも|出会《でつくわ》して
やつと|安心《あんしん》する|間《ま》なく  |屋方《やかた》の|村《むら》の|三公《さんこう》を
|三五教《あななひけう》の|大道《おほみち》に  |救《すく》ひやらむと|勇《いさ》み|立《た》ち
|向日峠《むかふたうげ》の|坂路《さかみち》を  「ウントコドツコイ ドツコイ」と
|拍子《ひやうし》を|取《と》りつつ|下《くだ》り|来《く》る  いつの|間《ま》にやら「ドツコイシヨ」
|水晶《すゐしやう》の|玉《たま》がなくなつた  いやいや さうではない|程《ほど》に
|水晶玉《すいしやうだま》を|持《も》つた|主《ぬし》  |玉公《たまこう》の|奴《やつ》が|雲《くも》がくれ
|分《わか》らぬ|奴《やつ》は|放《ほ》つとけと  |大地《だいち》をドンドン|響《ひび》かせつ
|波布《はぶ》や|蜈蚣《むかで》の|横《よこ》たはる  |恐《おそ》ろし|道《みち》をふみ|越《こ》えて
|屋方《やかた》の|村《むら》に|来《き》て|見《み》れば  |思《おも》ひがけなき|三公《さんこう》の
|鬼《おに》は|忽《たちま》ち|神《かみ》となり  |大蛇《をろち》は|逃《に》げて|神《かみ》の|宮《みや》
|尊《たふと》き|人《ひと》となつてゐた  あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|神《かみ》の|恵《めぐみ》は|目《ま》のあたり  |若《も》しも|大蛇《をろち》の|三公《さんこう》が
|昨日《きのふ》の|心《こころ》で|居《を》つたなら  さぞ|今頃《いまごろ》は|親方《おやかた》と
ヤツサモツサの|腕《うで》|比《くら》べ  |剣光《けんくわう》|閃《ひらめ》き|雷《いかづち》の
|鳴《な》り|轟《とどろ》きて|血煙《ちけむり》の  |雨《あめ》が|降《ふ》つたに|違《ちが》ひない
グヅグヅしてゐりや|俺《おれ》までが  |笠《かさ》の|台《だい》までむしられて
いやな|冥途《めいど》へ|死出《しで》の|旅《たび》  |三途《さんづ》の|川《かは》の|渡場《わたしば》で
|婆《ば》さまに|叱《しか》られ|居《を》るだらう  |同《おな》じ|婆《ば》さまと|言《い》ひながら
|三五教《あななひけう》の|神司《かむづかさ》  |黒姫司《くろひめつかさ》の|御前《おんまへ》で
|結構《けつこう》な|結構《けつこう》な|酒《さけ》を|呑《の》み  |一同《いちどう》|揃《そろ》うて|睦《むつ》まじう
|喧嘩《けんくわ》|和合《わがふ》の|大酒宴《だいしゆえん》  こんな|目出度《めでた》い|事《こと》あろか
|案《あん》に|相違《さうゐ》の|今日《けふ》の|首尾《しゆび》  |私《わたし》は|嬉《うれ》して|飛《と》び|上《あが》り
|手《て》が|舞《ま》ふ|足《あし》が|踊《をど》り|出《だ》す  |何《なん》とはなしにブカブカと
|体《からだ》|一面《いちめん》|浮《う》いて|来《き》た  |浮《う》く|奴《やつ》ア|瓢箪《へうたん》のみぢやない
|八公《はちこう》の|体《からだ》も|今《いま》ういた  サアういたり ういたり|酒《さけ》のんで
うき|世《よ》を|渡《わた》れ|皆《みな》さまよ  うきに|沈《しづ》んで|暮《くら》すのは
|其奴《そいつ》は|悪魔《あくま》の|仕業《しわざ》ぞや  |夢《ゆめ》のうき|世《よ》といふからは
|人《ひと》はうくのに|限《かぎ》るぞや  |火《ひ》の|国川《くにかは》の|筏《いかだ》さへ
|朝《あさ》から|晩《ばん》|迄《まで》ういてゐる  【ヨサミ】の|池《いけ》のかいつぶり
をしどりさへも|夫婦連《めをとづれ》  |仲《なか》よう|暮《くら》してういてゐる
うけよ、うけうけ|皆《みな》の|奴《やつ》  |大海原《おほうなばら》の|舟《ふね》のよに
「ウントコドツコイ」|人《ひと》の|世《よ》は  うき|世《よ》|三分《さんぶ》といふぢやないか
|朝《あさ》から|晩《ばん》まで|修羅《しゆら》もやし  |何《なん》の|彼《か》んのと うき|苦労《くらう》
する|馬鹿者《ばかもの》の|気《き》が|知《し》れぬ  |酒《さけ》さへ|飲《の》めばいつもかも
|心《こころ》がういて|掛取《かけとり》の  |矢《や》の|催促《さいそく》も|梅《うめ》の|花《はな》
|鶯《うぐひす》とまつて|鳴《な》くやうな  |程《ほど》よい|声《こゑ》に|聞《きこ》え|来《く》る
|人《ひと》は|心《こころ》が|第一《だいいち》だ  |心《こころ》|一《ひと》つの|持様《もちやう》で
ういて|暮《くら》すも|一生《いつしやう》なら  |沈《しづ》んで|暮《くら》すも|一生《いつしやう》だ
「ウントコドツコイ」|浮沈《うきしづ》み  |七度《ななたび》あるのが|人間《にんげん》と
どこの|奴《やつ》だか|知《し》らないが  |吐《ほざ》いた|奴《やつ》は|馬鹿者《ばかもの》だ
|七度《ななたび》|八度《やたび》|九度《ここのたび》  |百度《ももたび》|千度《ちたび》|万度《よろづたび》
ういて|暮《くら》すがうき|世《よ》ぞや  |石《いし》や|瓦《かはら》ぢやあるまいし
|神《かみ》の|御霊《みたま》を|授《さづ》かりし  |人《ひと》の|身《み》としてやすやすと
|沈《しづ》んで|暮《くら》して|堪《たま》らうか  あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|冷《ひや》の|酒《さけ》より|燗《かん》がよい  「かんかんカラケツかあん かあん」
「カンカラベラ|棒《ぼう》ドツコイシヨー」  |坊主《ばうず》|鉢巻《はちまき》リンと|締《し》め
|威張《ゐば》つて|見《み》たとて|支柱《もたえ》がない  さはさりながら|酒《さけ》のめば
|如何《どう》しても|一度《いちど》はヅブ|六《ろく》に  なつた|揚句《あげく》は|茹蛸《ゆでだこ》だ
|顔《かほ》も|手足《てあし》も|真赤《まつか》いけ  |骨《ほね》はやはらぎグニヤグニヤと
|蒟蒻《こんにやく》|見《み》たよになつて|了《しま》ふ  |体《からだ》も|心《こころ》もやはらいで
|初《はじ》めて|天下《てんか》は|泰平《たいへい》だ  |俺《おれ》の|内《うち》でも|嬶天下《かかてんか》
|酒《さけ》さへ|呑《の》ましておいたなら  |暫《しばら》く|泰平《たいへい》|無事《ぶじ》の|夢《ゆめ》
|貪《むさぼ》る|事《こと》が|出来《でき》るぞや  |無料《ただ》の|酒《さけ》ならかまやせぬ
|皆《みな》さまドツサリよばれませう  |未熟者《みじゆくもの》|奴《め》と|思《おも》はずに
|冷酒《ひやざけ》ならぬカン|直日《なほひ》  |御馳走《ごちそう》の|数《かず》も|大直日《おほなほひ》
|何卒《どうぞ》|見直《みなほ》し|聞直《ききなほ》し  |無礼《ぶれい》を|許《ゆる》して|下《くだ》さんせ
|世《よ》の|諺《ことわざ》にいふ|通《とほ》り  |主人《しゆじん》の|好《すき》を|悉《ことごと》く
|出《で》て|来《く》る|客《きやく》にふれまふと  うまい|理屈《りくつ》をつけながら
|頂《いただ》く|御神酒《おみき》の|味《あぢ》のよさ  |長《なが》い|山坂《やまさか》|飛《と》んで|来《き》て
|心《こころ》がホツとしたとこへ  |思《おも》ひもよらぬ|御馳走《ごちそう》に
|舌《した》の|鼓《つづみ》をうちならし  お|腹《なか》は|忽《たちま》ち|布袋《ほてい》さま
|七福神《しちふくじん》の|楽遊《らくあそ》び  |弁財天《べんざいてん》のお|愛《あい》さま
|大黒《だいこく》みたよな|顔《かほ》をした  |三五教《あななひけう》の|黒姫《くろひめ》さま
|与三公《よさこう》どんの|寿老面《げほうづら》  |頭《あたま》ビシヤモン|福禄寿《ふくろくじゆ》
|七《しち》お|多福《たふく》の|寄《よ》り|合《あ》うて  |面白《おもしろ》|可笑《をか》しう|酒《さけ》を|呑《の》む
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ』
と|口《くち》から|出任《でまか》せに|歌《うた》ひ|踊《をど》り|狂《くる》ふ。
|高公《たかこう》は|又《また》もや|歌《うた》ひ|出《だ》す。
『|八公《はちこう》よ|八公《はちこう》よよつく|聞《き》け  |俺《おれ》はお|前《まへ》の|知《し》る|通《とほ》り
|武野《たけの》の|村《むら》の|杢平《もくべい》が  |伜《せがれ》と|生《うま》れたならず|者《もの》
|爺《おやぢ》の|宝《たから》をぬすみ|出《だ》し  |朝《あさ》から|晩《ばん》まで|酒《さけ》くらひ
|人《ひと》の|意見《いけん》もうはの|空《そら》  |父《ちち》と|母《はは》とに|追《お》ひ|出《だ》され
よるべ|渚《なぎさ》の|捨小舟《すてをぶね》  |取《と》りつく|島《しま》もなき|儘《まま》に
|火《ひ》の|国峠《くにたうげ》をブラブラと  |涙《なみだ》ながらに|通《とほ》る|折《をり》
|驍名《げうめい》|轟《とどろ》く|男達《をとこだて》  |大蛇《をろち》の|親分《おやぶん》|三公《さんこう》に
ヤツと|拾《ひろ》はれ|息《いき》をつぎ  |朝《あさ》な|夕《ゆふ》なに|草履《ざうり》|取《と》り
|雪隠《せんち》の|掃除《さうぢ》も|精《せい》|出《だ》して  |勤《つと》めて|居《を》つたら|親分《おやぶん》が
|貴様《きさま》はわりとはえらい|奴《やつ》  |兄弟分《きやうだいぶん》にしてやろと
|異数《いすう》の|抜擢《ばつてき》|有難《ありがた》く  |羽振《はぶり》を|利《き》かす|身《み》となつて
|肩《かた》で|風《かぜ》|切《き》り|遠近《をちこち》と  |勝負《しようぶ》に|歩《ある》いた|面白《おもしろ》さ
さうだと|云《い》つて|俺《おれ》は|今《いま》  |改心《かいしん》したとは|言《い》ふものの
|朱《しゆ》に|交《まじ》はれば|赤《あか》くなる  |元《もと》から|悪《わる》い|親分《おやぶん》の
|手下《てした》になつて|何《なん》として  |誠《まこと》の|心《こころ》になるものか
よくない|事《こと》を|朝夕《あさゆふ》に  よい|気《き》になつてやつてゐた
さうした|処《ところ》|此《この》|度《たび》の  |向日峠《むかふたうげ》の|大騒動《おほさうどう》
|死《し》んだと|思《おも》うたお|愛《あい》さま  |兼公《かねこう》|迄《まで》がやつて|来《き》て
ヒユードロドロとおびやかし  |俺《おれ》の|荒肝《あらぎも》|取《と》りよつた
|酒《さけ》でも|呑《の》んでゐなんだら  なに|猪口才《ちよこざい》な|幽霊《いうれい》|奴《め》と
|握《にぎ》り|拳《こぶし》を|固《かた》めつつ  |兼公《かねこう》の|奴《やつ》を|初《はじ》めとし
|残《のこ》らず|亡者《まうじや》を|打《う》ちすゑて  |打《う》ちこらすべき|所《とこ》だつた
|酒《さけ》に|酔《よ》うたる|其《その》|為《ため》に  |足腰《あしこし》|立《た》たぬ|悲《かな》しさに
|恨《うら》みを|呑《の》んで|見《み》てゐたら  |正真正銘《しやうしんしやうめい》の|真人間《まにんげん》
|亡者《まうじや》と|云《い》つたは|嘘《うそ》の|皮《かは》  |之《これ》を|思《おも》へば|高公《たかこう》が
お|酒《さけ》に|酔《よ》うてゐた|為《ため》に  |大騒動《おほさうどう》も|始《はじ》まらず
|無事《ぶじ》に|解決《かいけつ》|相告《あひつ》げた  |之《これ》を|思《おも》へば|酒《さけ》|呑《の》んで
|腰《こし》をぬかすも|惟神《かむながら》  |何《なに》が|仕組《しぐみ》になるぢややら
|分《わか》つた|事《こと》ではない|程《ほど》に  |皆《みな》さまドツサリ|酒《さけ》|呑《の》んで
|腰《こし》をぬかすが|宜《よろ》しかろ  |酒《さけ》|呑《の》む|時《とき》には|酒《さけ》を|呑《の》み
|働《はたら》く|時《とき》には|働《はたら》いて  |苦楽《くらく》を|共《とも》にするがよい
|苦中楽《くちうらく》あり|楽中《らくちう》に  |苦《く》ありと|云《い》ふのは|此《この》|事《こと》だ
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |燗酒《かんざけ》の|方《はう》が|味《あぢ》がよい
モウシモウシ|黒姫《くろひめ》さま  |何卒《どうぞ》|一献《いつこん》|召《め》しあがれ
|私《わたし》がお|酌《しやく》を|致《いた》します  そんな|六《むつ》かし|顔《かほ》をして
|睨《にら》んで|御座《ござ》ると|閻魔《えんま》さま  |冥途《めいど》の|国《くに》からやつて|来《き》て
ドツサリ|科料《くわれう》を|取《と》りますぞ  あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ』
と|嬉《うれ》しさ|余《あま》つて、|脱線《だつせん》だらけの|酒《さけ》の|讃美歌《さんびか》を|謡《うた》ひ、ウラル|教《けう》|式《しき》になつて|了《しま》つた。されども|互《たがひ》に|心《こころ》|打《う》ちとけた|目出度《めでた》き|酒宴《しゆえん》であるから、|黒姫《くろひめ》も|別《べつ》に|咎《とが》めず、|虎公《とらこう》、|三公《さんこう》も、お|愛《あい》の|方《かた》も、|今日《けふ》ばかりは|治外法権《ちぐわいはふけん》だと、|臍《ほぞ》をかためて|乾児《こぶん》|共《ども》の|自由《じいう》の|乱舞《らんぶ》に|任《まか》してゐる。
(大正一一・九・一五 旧七・二四 松村真澄録)
第八章 |心《こころ》の|綱《つな》〔九七二〕
|一《ひと》しきり|酒宴《しゆえん》はすんだ。|大蛇《をろち》の|三公《さんこう》は|虎公《とらこう》、お|愛《あい》、お|梅《うめ》、|孫公《まごこう》、|黒姫《くろひめ》、|兼公《かねこう》を|美《うる》はしき|吾《わが》|居間《ゐま》に|誘《いざな》ひ、|四方山《よもやま》の|話《はなし》をし|乍《なが》ら、|打《う》ちくつろいで|二次会《にじくわい》を|行《や》つてゐる。|数多《あまた》の|乾児《こぶん》もそれぞれ|思《おも》ひ|思《おも》ひに|田圃《たんぼ》に|出《い》で、|相撲《すまう》をとつたり、|寝《ね》ころんだり、|下《くだ》らぬ|話《はなし》をして|上機嫌《じやうきげん》である。あちら|此方《こちら》に|大勢《おほぜい》の|乾児《こぶん》のこととて、|小競合《こぜりあひ》は|始《はじ》まつたが、|何分《なにぶん》にも|今日《けふ》は|目出度《めでた》いと|云《い》ふので、|互《たがひ》に|慎《つつし》み|合《あ》ひ、|大《たい》した|喧嘩《けんくわ》もなく、|極《きは》めて|無事《ぶじ》である。
|六公《ろくこう》、|徳公《とくこう》、|高公《たかこう》|及《およ》び|虎公《とらこう》の|乾児《こぶん》なる|新《しん》、|久《きう》、|八《はち》の|六人《ろくにん》は|酒《さけ》に|酔《よ》ひつぶれ、|其《その》|場《ば》にドツカと|坐《すわ》つた|儘《まま》、|打解《うちと》けていろいろの|話《はなし》に|耽《ふけ》つてゐる。
『オイ|新公《しんこう》、|貴様《きさま》んとこの|姐貴《あねき》は|随分《ずゐぶん》|素敵《すてき》な|代物《しろもの》ぢやねえか。どこともなしに|一寸《ちよつと》あの|優《やさ》しい|目《め》で|睨《にら》まれると、|体《からだ》が|吸《す》ひつけられる|様《やう》な|気《き》がするぢやねえか。それで|俺《おれ》が|酒《さけ》に|酔《よ》うたのを|幸《さいは》ひ……お|愛《あい》さま、|一寸《ちよつと》|一杯《いつぱい》ついで|下《くだ》せえ……とやつた|所《ところ》|流石《さすが》は|偉《えら》いワイ……ハイ……と|云《い》つて、あの|優《やさ》しい|目元《めもと》で、|徳公《とくこう》の|顔《かほ》を|恋《こひ》しさうに|眺《なが》めながら、|気《き》よく|注《つ》いで|下《くだ》さつた。オイどうだ。|貴様《きさま》たちア、|気《き》が|利《き》かねえから、|千載一遇《せんざいいちぐう》の|好機《かうき》を|逸《いつ》したぢやねえか、|先《さき》んずれば|人《ひと》を|制《せい》すと|云《い》つてナ、|甘《うま》くやつただらう』
『たつた|一遍《いつぺん》|位《ぐらゐ》|酒《さけ》を|義理《ぎり》で|注《つ》いで|貰《もら》つたつて、さう|法螺《ほら》を|吹《ふ》くものぢやねえワ。|俺《おれ》たちア、|何時《いつ》も|親分《おやぶん》の|留守《るす》になると、お|愛《あい》さまが、スーツと|色目《いろめ》を|使《つか》つて…コレコレ|新公《しんこう》や、|今日《けふ》は|親分《おやぶん》が|不在《るす》だから、マアゆつくり|酒《さけ》でも|呑《の》んで、……お|愛《あい》が|注《つ》いで|上《あ》げます……とか|何《なん》とか|云《い》つて、あの|白《しろ》い|細《ほそ》い|手《て》で|燗徳利《かんどつくり》を|握《にぎ》り……サア|新公《しんこう》さま、|盃《さかづき》をお|出《だ》しよ……と|仰有《おつしや》るのだ。そこでこの|新公《しんこう》が、|鬼《おに》の|来《こ》ぬ|間《ま》の|洗濯《せんたく》だと|一寸《ちよつと》|肝玉《きもつたま》をオツ|放《ぽ》り|出《だ》し、|盃《さかづき》をスーツと|前《まへ》に|出《だ》す、お|愛《あい》さまがあの|柔《やはら》かい|手《て》で|燗徳利《かんどくり》を|取《と》り、|左《ひだり》のお|手々《てて》を|徳利《とくり》の|底《そこ》へ|当《あ》てスーツと|腰《こし》を|伸《の》ばして、|立膝《たてひざ》のまま、ドブドブドブオツトヽヽヽこぼれますこぼれます……と|云《い》ふ|調子《てうし》だ……と、いいのだけれど、それは|何時《いつ》やらの|俺《おれ》の|見《み》た|夢《ゆめ》だつた。|乍併《しかしながら》、|毎日《まいにち》|日日《ひにち》あの|綺麗《きれい》な|顔《かほ》を|見《み》て|居《ゐ》ると、|何時《いつ》とはなしに|夢《ゆめ》に|見《み》る|様《やう》になるのだからなア。つまり|要《えう》するに、|即《すなは》ち、|夢《ゆめ》の|中《なか》の|新公《しんこう》の|女房《にようばう》だからなア、|大《たい》したものだらう、オツホン』
『オイ|徳公《とくこう》、こんな|奴《やつ》の|云《い》ふ|事《こと》、|本当《ほんたう》にしちやならねえぞ。|親分《おやぶん》の|居《を》られる|時《とき》には|小《ちひ》さくなつて、|何《なん》でもかんでもお|愛《あい》さまのいふ|事《こと》を|聞《き》きよるものだから、お|愛《あい》さまも|余《あま》り|小言《こごと》を|仰有《おつしや》らぬが、|虎公《とらこう》の|親分《おやぶん》さまが|不在《るす》になると、ソロソロサボリ|出《だ》しよるものだから、お|愛《あい》さまが|柳眉《りうび》を|逆立《さかだ》て、|長《なが》い|煙管《きせる》をヒヨイと|持《も》ち……コレコレ|新公《しんこう》や、お|前《まへ》といふ|人《ひと》は|何《なん》とした|訳《わけ》の|分《わか》らぬ|男《をとこ》だえ。|虎《とら》さまの|前《まへ》では|平《ひら》た|蜘蛛《ぐも》の|様《やう》になつてるくせに、お|不在《るす》になると|戸棚《とだな》の|鼠《ねずみ》があばれるやうに、|一寸《ちよつと》も|妾《わたし》の|言《い》ふ|事《こと》を|聞《き》かぬぢやないか。|腰抜男《こしぬけをとこ》といふのはお|前《まへ》のことだよ。|一寸《ちよつと》ここへお|出《い》で、さうしてお|手《て》を|出《だ》し……と|云《い》はれ|依《よ》つて、|新公《しんこう》の|奴《やつ》、|生《うま》れついての|天保銭《てんぽうせん》だからなア……ヘエ|何《なん》ぞ|頂戴《ちやうだい》|致《いた》しますのか……ナンて|吐《ぬか》しよつてな、コハゴハ|手《て》をニユーツと、お|愛《あい》さまの|前《まへ》へ|出《だ》しよると、お|愛《あい》さまが……お|前《まへ》|一寸《ちよつと》|目《め》をつぶつて|御覧《ごらん》……とやられくさるのだ。|阿呆《あはう》が|足《た》らいで、|新公《しんこう》の|奴《やつ》|目《め》を|塞《ふさ》ぎよると、お|愛《あい》さまは|左《ひだり》の|手《て》に|灰《はひ》をつまみ、|右《みぎ》の|手《て》に|火《ひ》の|燠《おき》を|火箸《ひばし》につまんで、|掌《てのひら》に|火《ひ》をのせ、それと|同時《どうじ》に、|舌《した》に|灰《はひ》をのせられよつて……アツヽヽ、プープープーと|言《い》ひながら|裏《うら》の|小川《をがは》へ|走《はし》つて|行《ゆ》く……と|云《い》ふ|馬鹿者《ばかもの》だからなア。|到底《たうてい》お|話《はなし》にならない|代物《しろもの》だよ』
『コリヤ|久公《きうこう》、ソラ|何《なに》を|言《い》ふのだ、|貴様《きさま》のことぢやないか。|何時《いつ》もお|愛《あい》さまに|灸《きう》をすゑられよつて、キユーキユー|言《い》うてゐよるから、|何時《いつ》の|間《ま》にか|久公《きうこう》といふあだ|名《な》がついた|位《くらゐ》だのに、|知《し》らぬかと|思《おも》つて、そんなウソツ|八《ぱち》をこきよると、|承知《しようち》しねえぞ』
『ヘン、お|人《ひと》がズツと|違《ちが》ふのだから、|何《なん》と|云《い》つても|天道《てんだう》さまが|見《み》て|御座《ござ》るのだ。グヅグヅ|吐《ぬか》すと|久々《きうきう》|言《い》ふよな|目《め》にあはしたろか。コラ|新公《しんこう》、【シン】|気《き》|臭《くさ》い|新公《しんこう》だと、いつもお|愛《あい》さまにボヤかれてるくせに……』
と|言《い》ひ|乍《なが》ら、|新公《しんこう》の|横面《よこづら》をピシヤツと|擲《なぐ》る。
『コリヤ|喧嘩《けんくわ》か、|喧嘩《けんくわ》なら|飯《めし》より|好《す》きだ。イヤ|酒《さけ》の|次《つぎ》にや|喧嘩《けんくわ》が|好《す》きな|新公《しんこう》だぞ。サア|来《こ》い』
と|拳骨《げんこつ》を|固《かた》める。|六公《ろくこう》は|慌《あわ》てて、
『コラコラ|内裏《うちうら》から、|内乱《ないらん》を|起《おこ》しちや|詮《つま》らぬぢやないか、マア|待《ま》て|待《ま》て』
『|内乱《ないらん》が|起《おこ》つたつて|仕方《しかた》がねえワ。どうぞ|放《ほ》つといてくれ、|新公《しんこう》には|新公《しんこう》としての|新案《しんあん》がある。|【新久】思想《しんきうしさう》の|衝突《しようとつ》だから、|【六】公《ろくこう》が|何程《なにほど》|仲裁《ちうさい》しても、|【六】《ろく》な|解決《かいけつ》アつきやしめえ、|【六】《ろく》に|内容《ないよう》も|査《しら》べずして|仲裁《ちうさい》したつて|駄目《だめ》だぞ』
『|今日《けふ》は|目出度《めでた》い|日《ひ》だから、|親分《おやぶん》に|免《めん》じて|喧嘩《けんくわ》|丈《だけ》は|止《や》めてくれ。|若《わ》けえ|奴《やつ》に|聞《き》かれても|外聞《ぐわいぶん》がわりいからなア。|時《とき》に|新公《しんこう》、お|愛《あい》さまはありや|普通《ふつう》の|女《をんな》ではないやうだが、|一体《いつたい》どこからお|出《い》でになつたのだ。あの|方《かた》は|親《おや》が|分《わか》らぬと|云《い》ふぢやないか』
『それの|分《わか》つて|居《ゐ》る|者《もの》は、|此《この》|広《ひろ》い|熊襲《くまそ》の|国《くに》に、|言《い》ふと|済《す》まぬが、|親分《おやぶん》と|此《この》|新公《しんこう》|計《ばか》りだよ』
『|一《ひと》つこの|徳公《とくこう》にソツとお|愛《あい》さまの|素性《すじやう》を|明《あ》かしては|呉《く》れめえかなア』
『それを|聞《き》いて|何《なに》にするのだ。もしも|本当《ほんたう》のことを|聞《き》かうものなら、アフンと|致《いた》して|開《あ》いた|口《くち》がすぼまらぬやうになつて|了《しま》ふぞ。|腰《こし》をぬかすかも|分《わか》らぬから、|鯡《にしん》でも|用意《ようい》しておくがよいワ』
『|馬鹿《ばか》にするない、|猫《ねこ》ぢやあるめえし、|鯡《にしん》の|用意《ようい》せえとは、|何《なに》を|吐《ぬか》すのだ』
『|鯡《にしん》(|日進《につしん》)|月歩《げつぽ》の|世《よ》の|中《なか》だ、|【新久】思想《しんきうしさう》の|衝突《しようとつ》する|現代《げんだい》だから、|世《よ》の|中《なか》は|何時《いつ》もガヤガヤ|騒《さわ》がしいのは|当然《たうぜん》だ。|此《この》|新公《しんこう》と|徳公《とくこう》と|寄《よ》つて、|【新徳】《しんとく》を|発揮《はつき》し、|乱麻《らんま》の|如《ごと》き|乱《みだ》れ|果《は》てたる|世《よ》の|中《なか》を、|一《ひと》つ|改造《かいざう》して|見《み》たら|如何《どう》だらうなア』
『|其奴《そいつ》ア|面白《おもしろ》い。|乍併《しかしながら》|其《その》|問題《もんだい》は|委員《ゐゐん》|付託《ふたく》としておいて、お|愛《あい》さまの|素性《すじやう》を|早《はや》くきかしてくれねえか。|決《けつ》してビツクリやしねえから……』
『そんなら|一《ひと》つ、|今日《けふ》は|大張込《おほはりこ》みに|張込《はりこ》んで、|神秘《しんぴ》の|扉《とびら》を|開《ひら》いてやるから、|最敬礼《さいけいれい》の|上《うへ》、|新公《しんこう》の|言《い》ふことを|謹聴《きんちやう》せい……|抑《そもそ》も|虎公《とらこう》|親分《おやぶん》の|最愛《さいあい》の|妻《つま》、お|愛《あい》の|方《かた》の|素性《すじやう》と|言《い》つぱ、|畏《おそれおほ》くも|天教山《てんけうざん》より|天使《てんし》として、|火《ひ》の|神国《かみくに》に|降《くだ》らせ|玉《たま》ひし|八島別《やしまわけ》の|神《かみ》、|後《のち》には|建日向別《たけひむかわけ》の|神《かみ》と|申上《まをしあ》げた|神司《かむつかさ》の|御秘蔵《ごひざう》の|御娘子様《おむすめごさま》だぞ』
『ヤア、ソラ|又《また》|本当《ほんたう》かい。どうしてそんな|尊《たふと》い|身分《みぶん》で|居《ゐ》|乍《なが》ら、|侠客《けふかく》|風情《ふぜい》の|虎公《とらこう》の|女房《にようばう》になつたのだらうか、チツと|合点《がてん》がいかぬぢやねえか。なア、|高公《たかこう》、|六公《ろくこう》、まるで|天地《てんち》が|覆《かへ》るやうな|話《はなし》だなア、さうすると、|俺《おれ》だつてあまり|馬鹿《ばか》にやならぬワイ。どんな|尊《たふと》い|方《かた》の|娘《むすめ》と|結婚《けつこん》するかも|知《し》れやしねえからなア』
『モウそれ|丈《だけ》でよいのか』
『ヤアよい|所《どころ》か、モツトモツト|聞《き》かしてもれへてえのだ。それから|如何《どう》したのだ。サア|其《その》|次《つぎ》をきかしてくれ。|何《なん》だか|気《き》がせいてならねえからなア』
『|八島別《やしまわけ》の|神様《かみさま》は|敷妙姫《しきたへひめ》|様《さま》といふ|奥《おく》さまがあつて、|其《その》|仲《なか》にお|生《うま》れ|遊《あそ》ばしたのが|愛子姫《あいこひめ》さま、|其《その》|妹《いもうと》に|依子姫《よりこひめ》|様《さま》といふ|綺麗《きれい》なお|嬢《ぢやう》さまがあつたのだ。さうした|所《ところ》、|御両親様《ごりやうしんさま》が|豊《とよ》の|国《くに》の|豊日別《とよひわけ》|様《さま》の|御子息《ごしそく》|豊照彦《とよてるひこ》|様《さま》を|養子《やうし》に|貰《もら》つて、|後《あと》をつがさうと|遊《あそ》ばした|所《ところ》、|愛子姫《あいこひめ》さまは、|貴族《きぞく》|生活《せいくわつ》が|生《うま》れつきの|大《だい》のお|嫌《きら》ひで、|平民《へいみん》|主義《しゆぎ》の|御方《おかた》だから、|立派《りつぱ》な|豊照彦《とよてるひこ》|様《さま》の|御養子《ごやうし》をお|嫌《きら》ひ|遊《あそ》ばし、ソツと|夜陰《やいん》に|紛《まぎ》れて|館《やかた》を|飛《と》び|出《だ》し、|黄金《わうごん》の|腕輪《うでわ》や、ダイヤモンドの|首飾《くびかざり》をかけたまんま、|夜道《よみち》を|辿《たど》らつしやる|其《その》|時《とき》しも、|忽《たちま》ち|森《もり》の|木《こ》かげより|現《あら》はれ|出《い》でたる|二三人《にさんにん》の|男《をとこ》、|矢庭《やには》に|姫《ひめ》の|前《まへ》に|立塞《たちふさ》がり、|手《て》を|取《と》り|足《あし》を|取《と》り、|草原《くさはら》の|路傍《みちばた》に|打倒《うちたふ》し、|乱暴《らんばう》|狼籍《らうぜき》に|及《およ》ばうとしてゐた|所《ところ》、|俺《おれ》|所《とこ》の|親分《おやぶん》|虎公《とらこう》さまが、|此《この》|新公《しんこう》を|伴《つ》れて、|一杯《いつぱい》|機嫌《きげん》でヒヨロリヒヨロリと|千鳥足《ちどりあし》、|木遣《きや》りを|唄《うた》つて|向方《むかふ》の|方《かた》よりやつて|来《き》た。|三人《さんにん》の|悪《わる》い|奴《やつ》アよつて|集《たか》つて|姫《ひめ》を|押《おさ》へ、キヤアキヤア|云《い》はしてゐやがる。そこへ|親分《おやぶん》と|俺《おれ》とが|飛《と》んで|出《で》て、|大喝一声《だいかついつせい》……|悪者《わるもの》|共《ども》|暫《しばら》く|待《ま》てえ……と|雷《らい》の|如《ごと》き|大音声《だいおんじやう》に|呼《よ》ばはれば|三人《さんにん》の|奴《やつ》は、|其《その》|声《こゑ》に|打驚《うちおどろ》き|雲《くも》を|霞《かすみ》と|逃《に》げ|散《ち》つたり……|卑怯《ひけふ》|未練《みれん》の|奴《やつこ》|共《ども》、|逃《に》げる|奴《やつ》には|目《め》は|付《つ》けず……と|姫《ひめ》の|方《はう》を|月影《つきかげ》にすかし|眺《なが》むれば|雪《ゆき》を|欺《あざむ》く|天下無双《てんかむさう》のナイス、ダイヤモンドは|月《つき》に|照《て》らされ、|頭《あたま》|一面《いちめん》に|星《ほし》の|如《ごと》くにきらめいて|居《ゐ》る。|指《ゆび》にもダイヤモンド、|足《あし》にも|腕《うで》にも|黄金《わうごん》の|輪《わ》が|嵌《はま》つてゐる。コリヤ|普通《ふつう》の|家《うち》の|嬢《ぢやう》さまであるめえと、|親分《おやぶん》さまが|合点《がてん》し……もしもしどこのお|女中《ぢよちう》か|知《し》りませぬが、|大胆《だいたん》にも|物騒《ぶつそう》な|夜《よる》の|一人旅《ひとりたび》、|危《あぶ》ねえ|事《こと》で|御座《ござ》えましたネー……と|云《い》ひながら|姫《ひめ》の|手《て》を|取《と》り|静《しづか》に|抱《だ》き|起《おこ》し、|塵打払《ちりうちはら》つて|労《いたは》つた|所《ところ》、|姫《ひめ》さまは|漸《やうや》くに|顔《かほ》をあげ……どこの|何方《どなた》か|存《ぞん》じませぬが、|九死一生《きうしいつしやう》の|場合《ばあひ》、よく|助《たす》けて|下《くだ》さいました、|途中《とちう》のこととて|御礼《おれい》の|仕様《しやう》も|御座《ござ》いませぬから、どうぞこれを|受取《うけと》つて|下《くだ》さい……と、|頭《あたま》に|光《ひか》るダイヤモンドを|一《ひと》つも|残《のこ》らず|取外《とりはづ》し、|足《あし》の|輪《わ》から|腕輪《うでわ》まで|一《ひと》つに|集《あつ》めて|親分《おやぶん》に|渡《わた》さうとする。|親分《おやぶん》の|虎公《とらこう》は|喜《よろこ》んで|飛付《とびつ》くかと|思《おも》つてゐたら、|猫《ねこ》に|小判《こばん》を|見《み》せたよな|調子《てうし》で……コレコレお|女中《ぢよちう》、そんな|物《もの》を|貰《もら》ひてえ|為《ため》に|助《たす》けたのだごぜえやせぬ、どうぞ|納《をさ》めて|下《くだ》せい……と|仰有《おつしや》つた|所《ところ》、そのお|姫《ひめ》さまは……どうぞ|受取《うけと》つて|下《くだ》さいませ、あなたは|命《いのち》の|親《おや》で|御座《ござ》います、|私《わたし》は|建日向別命《たけひむかわけのみこと》の|総領《そうりやう》|娘《むすめ》、|貴族《きぞく》|生活《せいくわつ》が|厭《いや》になり、|鄙《ひな》に|下《くだ》つてどこかに|水仕奉公《みづしぼうこう》でもしたいから|脱《ぬ》けて|来《き》ましたのだ、こんな|物《もの》は|最早《もはや》|必要《ひつえう》は|御座《ござ》いませぬ、さうして|一旦《いつたん》お|前様《まへさま》にあげようと|思《おも》つた|妾《わらは》の|心《こころ》、|如何《どう》しても|翻《ひるがへ》すことは|出来《でき》ませぬから、|何卒《どうぞ》お|慈悲《じひ》に|受取《うけと》つて|下《くだ》さい……と|手《て》を|合《あは》して|頼《たの》まれる。|親分《おやぶん》は……わしも|武野村《たけのむら》の|侠客《けふかく》だ、|一旦《いつたん》|要《い》らぬと|云《い》つたら、|如何《どう》しても|受取《うけと》らねえ……と|頑張《ぐわんば》り|出《だ》す。|如何《どう》しても|埒《らち》が|明《あ》かねえので、|此《この》|新公《しんこう》が|中《なか》にわつて|入《い》り、とうとう|親分《おやぶん》に|得心《とくしん》させた。さうすると|親分《おやぶん》が……そんならお|姫《ひめ》さま、|折角《せつかく》のお|志《こころざし》、|有難《ありがた》う|頂戴《ちやうだい》|致《いた》します……と|受取《うけと》り……もし|姫《ひめ》さま、|私《わたし》が|頂戴《ちやうだい》した|以上《いじやう》は、|如何《どう》しても|構《かま》ひませぬかと|親分《おやぶん》が|云《い》つたのだ。さうすると|姫《ひめ》さまが……あなたに|渡《わた》した|以上《いじやう》はあなたの|品物《しなもの》、|如何《どう》なつと|御勝手《ごかつて》に|遊《あそ》ばしませ……とお|出《い》でなすつた。|親分《おやぶん》は……それなら|私《わたし》の|勝手《かつて》に|致《いた》します……と|言《い》ふより|早《はや》く|傍《かたはら》を|流《なが》れる|深《ふか》い|谷川《たにがは》へ、|惜気《をしげ》もなく|投込《なげこ》んで|了《しま》つた。そこで|其《その》|姫《ひめ》さまが|親分《おやぶん》の|気前《きまへ》に|惚込《ほれこ》み、|懸想《けさう》をしてゐらつしやつたのだ。|乍併《しかしながら》|女心《をんなごころ》の|恥《はづ》かしいと|見《み》えてそんなことはケブライにも|出《だ》さず、|武野《たけの》の|村《むら》の|七兵衛《しちべゑ》の|内《うち》に|水仕奉公《みづしぼうこう》に、|素性《すじやう》を|隠《かく》して|住込《すみこ》み|二年《にねん》|許《ばか》りゐられたのだ。サアさうすると|誰《たれ》|云《い》ふとなく|別嬪《べつぴん》だ|別嬪《べつぴん》だといふ|評判《ひやうばん》が|立《た》ち、|大蛇《をろち》の|三公《さんこう》がやつて|来《き》て……お|愛《あい》と|名乗《なのり》るお|姫《ひめ》さまを|執念深《しふねんぶか》く|口説《くど》き|立《た》てに|来《く》ると|云《い》ふ|騒《さわ》ぎだ。それが|到頭《たうとう》|三年前《さんねんまへ》に|姫様《ひめさま》の|方《はう》から|内《うち》の|親分《おやぶん》に|申込《まをしこ》んで|結婚《けつこん》の|式《しき》を|挙《あ》げられたと|云《い》ふ|始末《しまつ》だ。|随分《ずゐぶん》|内《うち》の|親分《おやぶん》もえれえものだらう。|其《その》|親分《おやぶん》の|一《いち》の|乾児《こぶん》だから、|此《この》|新公《しんこう》だつて、|決《けつ》して|馬鹿《ばか》にはならないぞ。お|愛《あい》さまと|初《はじめ》から、さう|云《い》ふ|関係《くわんけい》があるのだから、|不在中《るすちう》に|酒《さけ》の|一杯《いつぱい》|位《ぐらゐ》ついで|貰《もら》つたつて、|別《べつ》に|不思議《ふしぎ》はあるめえがなア』
ともつれた|舌《した》で|物語《ものがた》つてゐる。|六公《ろくこう》、|高公《たかこう》の|両人《りやうにん》は|此《この》|話《はなし》を|聞《き》いて、|腕《うで》を|組《く》み、|首《くび》を|傾《かたむ》け|吐息《といき》をもらして|居《ゐ》る。
『ホンに|偉《えら》い|者《もの》だなア。|度胸《どきよう》が|据《す》わつて|居《ゐ》ると|思《おも》へば、ヤツパリ|蚯蚓切《みみづき》りや|蛙《かはづ》とばしの|腹《はら》から|出《で》たのぢやねえからなア、|人間《にんげん》と|云《い》ふ|者《もの》は|争《あらそ》はれぬものだ……|昔《むかし》からの|胤《たね》の|吟味《ぎんみ》を|致《いた》すは|今度《こんど》のことぞよ。|種《たね》さへよければどんな|立派《りつぱ》な|花《はな》でも|咲《さ》くぞよ……と|云《い》ふ|三五教《あななひけう》には|教《をしへ》があるといふことだが、|本当《ほんたう》に|種《たね》といふものは|争《あらそ》はれぬものだなア……オイ|六公《ろくこう》、|高公《たかこう》、|貴様《きさま》|何時《いつ》やら、|俺《おれ》に|話《はな》して|居《を》つた|失敗話《しつぱいばなし》によく|似《に》てるぢやねえか、あの|時《とき》の|馬鹿者《ばかもの》は|貴様《きさま》の|連中《れんちう》だらう。|此《この》|話《はなし》を|聞《き》くや|否《いな》や、サツパリふさぎ|込《こ》んで|了《しま》ひよつたぢやねえか。そのしよげ|方《かた》は|何《なん》だい、|忽《たちま》ち|様子《やうす》に|現《あら》はれて|居《ゐ》るぞよ、|本当《ほんたう》に|困《こま》つた|代物《しろもの》だなア』
『|夜分《やぶん》のことでチツとも|分《わか》らなかつたが、|其《その》|時《とき》のナイスがヤツパリお|愛《あい》さまらしいワイ。|大《おほ》きな|声《こゑ》を|出《だ》しよつた|奴《やつ》は、|虎公《とらこう》だつたのだなア。|世間《せけん》は|広《ひろ》いやうなものの|狭《せま》いものだなア。|之《これ》を|思《おも》ふと|悪《わる》い|事《こと》はチツとも|出来《でき》やしねえワ』
『アハヽヽヽ、とうとう|蛙《かはづ》は|口《くち》から、|白状《はくじやう》しよつた。おれも|此処《ここ》へ|来《き》た|時《とき》に、どうも|貴様《きさま》のスタイルが|朧《おぼろ》げながら、あの|時《とき》の|馬鹿者《ばかもの》によく|似《に》てると|思《おも》つてゐたのだ。|天罰《てんばつ》と|云《い》ふものは|恐《おそ》ろしいものだなア』
『|本当《ほんたう》にさうだ。おれもいよいよ|改心《かいしん》するワ。こんな|話《はなし》を|聞《き》くと、|折角《せつかく》|酔《よ》うた|酒《さけ》|迄《まで》さめて|了《しま》ひさうだ。アヽアヽ|新公《しんこう》の|親分《おやぶん》は|本当《ほんたう》に|仕合《しあは》せな|男《をとこ》だ。そして|内《うち》の|親分《おやぶん》は|不仕合《ふしあは》はせな|男《をとこ》だ。|俺《おれ》までヤツパリ|不仕合《ふしあは》せだ。アンアンアン|悲《かな》しわいやい』
|八公《やつこう》『ウツフヽヽヽ』
『アツハヽヽヽ、オイ|俺《おれ》|所《とこ》の|親分《おやぶん》を|一通《ひととほ》りの|人間《にんげん》だと|思《おも》つてゐるかい』
『|【徳】《とく》とは|分《わか》らぬが|此奴《こいつ》も|只《ただ》の|狸《たぬき》ぢやあるめえ。どこぞの|落胤《おとしだね》ぢやなからうかなア』
『|落胤《おとしだね》|所《どころ》かい、|昔《むかし》|火《ひ》の|国《くに》に|御座《ござ》つた|虎転別《とらてんわけ》さま、|後《のち》に|豊《とよ》の|国《くに》へ|行《い》つて|豊日別命《とよひわけのみこと》とお|成《な》り|遊《あそ》ばした|結構《けつこう》な|神様《かみさま》の|総領息子《そうりやうむすこ》だ。それで|虎公《とらこう》と|云《い》ふのだ。|其《そ》の|虎公《とらこう》さまが|一寸《ちよつと》|渋皮《しぶかは》の|剥《む》けた|下女《げぢよ》に|手《て》をかけ、|手《て》に|手《て》を|取《と》つて、|道行《みちゆき》ときめこみ、|熊襲《くまそ》の|国《くに》へさまようて|御座《ござ》つた|其《その》|時《とき》、|其《その》|女《をんな》は|腹《はら》がふくれてをつた。それが|大《おほ》きな|山坂《やまさか》を|越《こ》えて|来《き》たものだから、とうとう|病気《びやうき》になり、|難産《なんざん》をして|親子《おやこ》|共《とも》になくなつて|了《しま》つたのだ。|此《この》|新公《しんこう》だとて、ヤツパリ|元《もと》は|豊日別《とよひわけ》|様《さま》の|御家来《ごけらい》だ。|若旦那様《わかだんなさま》の|虎若様《とらわかさま》が|駆落《かけおち》|遊《あそ》ばす|時《とき》に、お|供《とも》をして|従《つ》いて|来《き》たのだから、|何《なん》と|云《い》つても|此《この》|新公《しんこう》が|親分《おやぶん》さまの|一《いち》の|眷族《けんぞく》だ。|何《なに》ほど|久公《きうこう》や|八公《やつこう》が【しやち】になつたつておれにや|叶《かな》はねえからな、アツハヽヽヽ』
と|肩《かた》をゆすつて|笑《わら》ふ。|徳公《とくこう》は「フーン」と|云《い》つた|限《き》り、|感《かん》に|打《う》たれてゐる。|折《をり》しも|遠音《とほね》に|響《ひび》く|鐘《かね》の|音《ね》、ゴーンゴーンと|静《しづ》かに|聞《きこ》え|来《きた》る。
|徳公《とくこう》『ヤアもう|子《ね》の|刻《こく》だ。|皆《みな》さまこれから|休《やす》みませう』
(大正一一・九・一五 旧七・二四 松村真澄録)
第九章 |分担《ぶんたん》〔九七三〕
|吼《ほ》え|猛《たけ》る|虎《とら》|狼《おほかみ》や|獅子《しし》|大蛇《をろち》  |熊襲《くまそ》の|国《くに》の|高原《かうげん》に
|館《やかた》を|構《かま》へて|遠近《をちこち》に  |暴威《ばうゐ》を|揮《ふる》ひし|男達《をとこだて》
その|名《な》も|大蛇《をろち》の|三公《さんこう》が  |離座敷《はなれざしき》に|夜《よ》もすがら
|酒《さけ》|汲《く》みかはし|四方山《よもやま》の  |話《はなし》に|耽《ふけ》る|人《ひと》の|影《かげ》
|障子《しやうじ》に|映《うつ》る|五《いつ》つ|六《む》つ  |夜《よ》は|深々《しんしん》と|更《ふ》け|渡《わた》り
|荒野《あらの》を|渡《わた》る|夜嵐《よあらし》の  |声《こゑ》も|何時《いつ》しか|静《しづ》まりて
|幽《かす》かに|聞《きこ》ゆる|谷川《たにがは》の  |巌《いはほ》を|咬《か》むで|迸《ほとばし》る
|水《みづ》の|音《おと》のみ|鳴《な》り|渡《わた》る。
|酒《さけ》の|機嫌《きげん》で|何《なん》となく|神経《しんけい》|興奮《こうふん》して|寝《ね》つかれぬままに、ブラリブラリと|境内《けいだい》を|逍遥《せうえう》してゐた|新《しん》、|久《きう》、|徳《とく》の|三人《さんにん》、|障子《しやうじ》に|映《うつ》る|人影《ひとかげ》を|眺《なが》め、|巻舌《まきじた》になつて|呶鳴《どな》つてゐる。
『オイ|新公《しんこう》、あの|障子《しやうじ》の|影《かげ》を|見《み》い! |貴様《きさま》が|親方《おやかた》の|不在《るす》になると、チヨイチヨイと|酒《さけ》を|汲《く》んで|貰《もら》ふと|吐《ぬか》しよつたナイスの|影法師《かげぼうし》がシヤントコセイのウントコセと|映《うつ》つとるぢやねえか、|本当《ほんたう》に|偉《えら》い|奴《やつ》だなア。お|愛《あい》の|姐貴《あねき》も|只《ただ》の|狐《きつね》ぢやないと|思《おも》うて|居《を》つたが、|八島別《やしまわけ》とか|何《なん》とかの|娘《むすめ》だと|言《い》ひよつたなア。|昔《むかし》|常世《とこよ》の|会議《くわいぎ》で|八島《やしま》とかいふ|狐《きつね》が|出《で》よつて、|常世姫命《とこよひめのみこと》をアフンと|言《い》はしよつた|其奴《そいつ》の|系統《ひつぽう》かも|知《し》れないぞ』
『コリヤ|徳《とく》、そんな|大《おほ》きい|声《こゑ》で|吐《ぬか》すと、|三公《さんこう》に|聞《きこ》えるぢやねえか。|貴様《きさま》が|口外《こうぐわい》せぬと|吐《ぬか》したから、この|新公《しんこう》が|親切《しんせつ》に|神秘《しんぴ》の|鍵《かぎ》を|開《ひら》いて|聞《き》かしてやつたぢやねえか、これ|程《ほど》|夜《よ》が|更《ふ》けて、そこらあたりがシーンとして|居《を》るのだから、|小《ちひ》さい|囁《ささや》き|声《ごゑ》でも|聞《きこ》えるのだから、|小《ちひ》さい|声《こゑ》で|云《い》はぬかい。お|愛《あい》さまに|聞《きこ》えたら|大変《たいへん》だぞ』
『|貴様《きさま》の|其《その》|声《こゑ》の|方《はう》が|余程《よつぽど》|大《おほ》きいぢやねえか。オイ|新公《しんこう》、あのお|梅《うめ》と|云《い》ふ|奴《やつ》ア、|親分《おやぶん》の|妹《いもうと》だといふ|事《こと》だが、|妹《いもうと》|迄《まで》|伴《つ》れて|駆落《かけおち》しよつたのか。|本当《ほんたう》に|念《ねん》の|入《い》つた|奴《やつ》だなア』
『|妹《いもうと》といへばマアマア|妹《いもうと》だ。|実《じつ》のとかア、|彼奴《あいつ》も|拾《ひろ》ひ|子《ご》だよ。うちの|虎公《とらこう》が|表向《おもてむき》|妹《いもうと》だと|云《い》つてるのだが、|其《その》|実《じつ》ア、フサの|国《くに》に|生《うま》れた|女《をんな》で、|姉《あね》にはお|松《まつ》といふ|立派《りつぱ》なナイスがあるのだ』
『そのお|松《まつ》を|如何《どう》して|知《し》つとるのだ』
『きまつた|事《こと》だ。|松《まつ》|竹《たけ》|梅《うめ》と|云《い》ふ|事《こと》があるぢやねえか。お|梅《うめ》の|姉《あね》はお|竹《たけ》、お|竹《たけ》の|姉《あね》はお|松《まつ》だ。|黄泉比良坂《よもつひらさか》の|桃《もも》の|実《み》になつた|松《まつ》|竹《たけ》|梅《うめ》の|宣伝使《せんでんし》の|生《うま》れ|変《かは》りだからなア。|本当《ほんたう》に|素敵《すてき》なものだ。オイ|徳公《とくこう》、|俺《おれ》が|一《ひと》つ|貴様《きさま》の|改悪《かいあく》|記念《きねん》にお|梅《うめ》さまを|女房《にようばう》に|周旋《しうせん》してやらうか』
『あんな|若《わけ》え|代物《しろもの》と|如何《どう》して|夫婦《ふうふ》になれるものけえ。|世間体《せけんてい》が|見《み》つともねえワ』
『|貴様《きさま》ア、|世間体《せけんてい》を|憚《はばか》る|良心《りやうしん》があるのなら、なぜこんな|無頼漢《ぶらいかん》の|三公《さんこう》の|乾児《こぶん》になつたのだい。それの|方《はう》が|余程《よつぽど》|世間体《せけんてい》が|悪《わる》いぞ。|俺《おれ》のとこの|親方《おやかた》はドンドンながら、ポンポンながら、|豊《とよ》の|国《くに》の|豊日別命《とよひわけのみこと》さまの|御総領《ごそうりやう》で、|虎若彦命《とらわかひこのみこと》|様《さま》だ。|若《わか》い|時《とき》に|無分別《むふんべつ》な|恋《こひ》におちて、|熊襲《くまそ》の|国《くに》へお|出《い》で|遊《あそ》ばしたのだが、|何《なん》と|云《い》つても|種《たね》が|種《たね》だから|偉《えら》いものだ。|大蛇《をろち》の|三公《さんこう》なんて|云《い》ふ|奴《やつ》あ、どこの|牛骨《ぎうこつ》だか|馬骨《ばこつ》だか|素性《すじやう》の|分《わか》らねえゲス|下郎《げろう》だから、|人情《にんじやう》も|知《し》らねば、|誠《まこと》の|道理《だうり》も|悟《さと》らず、|卑怯《ひけふ》|未練《みれん》な、|親分《おやぶん》の|不在宅《るすたく》へ|押《おし》かけて、お|愛《あい》の|方《かた》を|無理往生《むりわうじやう》させようとしよつたのだよ。そんな|奴《やつ》の|提灯持《ちやうちんもち》をしてる|奴《やつ》に、|碌《ろく》な|奴《やつ》があるかい、なア|久公《きうこう》』
『オイオイそんな|声《こゑ》を|出《だ》すと、|親分《おやぶん》に|聞《きこ》えるぢやねえか。|聞《きこ》えたら|又《また》|事《こと》が|面倒《めんだう》だぞ』
『(|浄瑠璃《じやうるり》)そりや|聞《きこ》えませぬ、|久公《きうこう》さま……だい、お|詞《ことば》|無理《むり》とは……チンチン……ぢや、|思《おも》はねどオヽヽヽ|俺《おれ》は|余《あんま》り|気《き》にかかる、|折角《せつかく》|結構《けつこう》な|親方《おやかた》を、|持《も》つて|喜《よろこ》ぶひまもなう、|追《お》ひ|出《だ》されては、|此《この》|新公《しんこう》、どこに|如何《どう》して|暮《くら》さうやら、|案《あん》じすごしてヒヤヒヤと、|轟《とどろ》く|胸《むね》を|押《おさ》へつ……け……|悔《くや》み|歎《なげ》きし|其《その》|顔付《かほつき》……』
『オイオイ|障子《しやうじ》が|開《あ》いたぞ。|親分《おやぶん》が|今《いま》お|目玉《めだま》だ。|逃《に》げろ|逃《に》げろ』
『(|浄瑠璃《じやうるり》)ヤレ|其《その》|障子《しやうじ》|開《あ》けまいぞ、|此《この》|蚊帳《かや》の|内《うち》は|黒姫婆《くろひめばば》が|城廓《じやうくわく》、|其《その》|腐《くさ》つた|魂《たましひ》で、|此《この》|城《しろ》|一重《ひとへ》|破《やぶ》らるるなら、サヽヽ|破《やぶ》つて|見《み》……よ……と|百筋千筋《ももすぢちすぢ》の|理《り》をこめて、|引《ひ》つかついだる|蚊帳《かや》の|内《うち》、|泣《な》くねより|外《ほか》|応答《いらへ》なし……と|云《い》ふ|様《やう》な|愁歎場《しうたんば》だ』
|障子《しやうじ》をあけた|男《をとこ》の|影《かげ》、
『オイ|久公《きうこう》、|何《なに》を|云《い》つてゐるか』
|三人《さんにん》は|一度《いちど》に|両手《りやうて》で|頭《あたま》を|抱《かか》へ、
『ヘーー』
と|云《い》つた|限《き》り|踞《しやが》んで|了《しま》つた。
『ハハー、|人間《にんげん》かと|思《おも》へば、|四《よ》つ|足《あし》だつたな』
『イエイエ|違《ちが》ひます|違《ちが》ひます。|【新】酒《しんざけ》と|【久】酒《きうざけ》と|【徳】利《とくり》に|入《い》れて|持《も》つて|来《き》やした、|【三公】《さんこう》……オツトドツコイ|三人《さんにん》で|御座《ござ》います。【トラ】まアよい|味《あぢ》の|酒《さけ》で|御座《ござ》いますから、|味《あぢ》はお【ウメ】さんで、|中々《なかなか》|素敵《すてき》な|物《もの》でげす。|夜夜中《よるよなか》にこんな|所《ところ》|迄《まで》|来《き》て、|【孫公】々々《まごこうまごこう》して|居《ゐ》るものだから、|月《つき》も|星《ほし》もないこれ|程《ほど》|曇《くも》つた|【黒姫】《くろひめ》の|晩《ばん》に、【ヲロチ】い|目《め》に|会《あ》うて|困《こま》つて|居《ゐ》る|三公《さんこう》でげす。|親方《おやかた》|如何《どう》でげせう、|第三次会《だいさんじくわい》をお|開《ひら》きなさつたら……モウ|夜《よ》の|明《あ》けるに|間《ま》もあるめえから、|綺麗《きれい》なナイスをお|【愛】手《あいて》として|一杯《いつぱい》やるも|乙《おつ》でげせう。アーア、とうとう|酒《さけ》に|一夜酔《いちやよひ》をして|了《しま》つて、|舌《した》も|碌《ろく》にまはりやしねえわ』
|虎公《とらこう》『オイ|三人《さんにん》の|奴《やつ》、|最前《さいぜん》から|聞《き》いて|居《を》れば、|貴様等《きさまら》は|怪《け》しからぬ|事《こと》を|囀《さへづ》つて|居《を》つたではねえか』
『ヘエ、|虎公《とらこう》の|親分《おやぶん》さま|済《す》みませぬ。|新公《しんこう》が|自慢顔《じまんがほ》をして、|親方《おやかた》さまの|素性《すじやう》を|明《あ》かしよつたものだから、|耳《みみ》が|痛《いた》くて|仕方《しかた》がねえのを|辛抱《しんばう》して|聞《き》いて|居《を》つたのですよ。さうして|宅《たく》の|親分《おやぶん》をボロ|糞《くそ》にこきおろしよるものだから、ムカつくのムカつかぬのつて、|最前《さいぜん》から|三四度《さんしど》も|八百屋店《やほやみせ》を|出《だ》しましたのだ。アーア、こんな|所《ところ》に|居《を》つちや|剣呑《けんのん》だ。|親方《おやかた》、|今日《けふ》はそんな|事《こと》を|言《い》つて、|私《わたし》を|冷《ひや》つかし、|冷酒《ひやざけ》で|苦《くる》しめるよりも、|燗酒《かんざけ》に|見直《みなほ》し|聞直《ききなほ》して|下《くだ》さいませ。オイ|皆《みな》の|奴《やつ》、あつちへ|行《ゆ》かうかい』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら、|三人《さんにん》は|暗《やみ》に|紛《まぎ》れて、|田圃《たんぼ》の|中《なか》へ|酔醒《よひさ》ましに|行《い》つて|了《しま》つた。
あとには|例《れい》の|虎公《とらこう》、|黒姫《くろひめ》、|孫公《まごこう》、|兼公《かねこう》、お|愛《あい》、お|梅《うめ》に、|主人側《しゆじんがは》の|三公《さんこう》|七人《しちにん》が|机《つくゑ》を|中《なか》において、ヒソヒソ|話《ばなし》を|続《つづ》けて|居《ゐ》る。|宵《よひ》から|尊《たふと》き|神様《かみさま》の|御経綸談《ごけいりんだん》に|魂《たま》をぬかれ、|夜《よ》の|更《ふ》けるも|知《し》らず、|又《また》|余《あま》りの|愉快《ゆくわい》さに|睡気《ねむけ》もささず、|小声《こごゑ》にいろいろの|経歴話《けいれきばなし》を|交《ま》ぜて、|入信《にふしん》の|経路《けいろ》などを|物語《ものがた》つてゐる。|黒姫《くろひめ》が、
『|今《いま》|窓外《まどそと》にて|三人《さんにん》の|話《はなし》を|聞《き》けば、お|愛《あい》さまや|虎公《とらこう》さま、お|梅《うめ》さまの|身《み》の|上《うへ》|話《ばなし》、|実際《じつさい》あの|通《とほ》りで|御座《ござ》いますか』
『|若《わけ》え|奴《やつ》が|酒《さけ》に|酔《よ》つて|云《い》ふのですから、|当《あて》になつたものぢや|御座《ござ》いませぬ』
『|酒《さけ》の|酔《よひ》|本性《ほんしやう》|違《たが》はず……と|云《い》ひますから、|満更《まんざら》、|影《かげ》も|形《かたち》もない|事《こと》では|御座《ござ》いますまい。|酒《さけ》に|酔《よ》うた|時《とき》は|比較的《ひかくてき》|正直《しやうぢき》なものですからなア|虎公《とらこう》さま』
『|合《あ》うたとこもあれば、|合《あ》はない|所《ところ》もあり、|兎《と》も|角《かく》|聞《き》きはづれを|云《い》つてるのですから、|困《こま》つたものですワイ』
『お|梅《うめ》さまはお|松《まつ》さまの|妹《いもうと》だとか|云《い》つてゐましたなア。そのお|松《まつ》さまは|今《いま》どこに|居《を》られますか。お|差支《さしつかへ》なくば|仰有《おつしや》つて|下《くだ》さいませ』
『ハイ|私《わたくし》には|姉《あね》が|御座《ござ》いました。|中《なか》の|姉《ねえ》さまのお|竹《たけ》さまはコーカス|山《ざん》へ|行《い》つたきり|行方不明《ゆくへふめい》となり、|上《うへ》の|姉《ねえ》さまのお|松《まつ》さまはフサの|国《くに》から|海《うみ》を|渡《わた》つてどこか|遠《とほ》い|国《くに》へ|行《ゆ》かれたとか|言《い》ふ|話《はなし》で|御座《ござ》います。|何分《なにぶん》|私《わたくし》の|小《ちひ》さい|時《とき》に|別《わか》れたのですから|詳《くは》しい|事《こと》は|存《ぞん》じませぬ』
『あなたの|御両親《ごりやうしん》は|何《なん》と|云《い》ひますかな』
『|私《わたし》の|父母《ちちはは》は|人《ひと》の|噂《うはさ》に|承《うけたま》はりますれば、バラモン|教《けう》の|鬼雲彦《おにくもひこ》とやら|云《い》ふ|大将《たいしやう》に|連《つ》れ|帰《かへ》られ、|生命《いのち》を|取《と》られたとか|云《い》ふことを|承《うけたま》はりました。|私《わたくし》は|或《ある》|悪者《わるもの》の|為《ため》に|拐《かど》はかされ、|筑紫ケ岳《つくしがだけ》の|頂上《ちやうじやう》へ|来《きた》る|折《をり》しも、|兄《にい》さまがお|出《い》でになり、|悪者《わるもの》を|追《お》ひ|散《ち》らし、|私《わたし》を|助《たす》けて|連《つ》れ|帰《かへ》り、|今《いま》|迄《まで》|世話《せわ》して|下《くだ》さいました。|兄《にい》さまの|計《はか》らひで、|親子《おやこ》|兄弟《きやうだい》のない|子《こ》だと|言《い》つたら|世間《せけん》の|人《ひと》が|軽蔑《けいべつ》するから、お|前《まへ》は|俺《おれ》の|国許《くにもと》から|訪《たづ》ねて|来《き》た|妹《いもうと》だと|言《い》つてをるがよい、|俺《おれ》もお|前《まへ》を|真《まこと》の|妹《いもうと》だと|思《おも》うて|可愛《かあい》がつてやると|仰有《おつしや》つて|下《くだ》さいました』
と|涙《なみだ》を|流《なが》し|泣《な》き|入《い》る。|虎公《とらこう》もお|愛《あい》も|黒姫《くろひめ》も|手《て》を|組《く》み|首《かうべ》を|垂《た》れ、|太《ふと》き|息《いき》をついて|居《ゐ》る。
『お|梅《うめ》さまの|事《こと》は|三公《さんこう》|今《いま》|始《はじ》めて|承《うけたま》はりました。ヤア|虎公《とらこう》さま、あなたは|本当《ほんたう》に|親切《しんせつ》な|方《かた》ですなア。ヤもう|感心《かんしん》|致《いた》しました』
とこれも|亦《また》|涙含《なみだぐ》む。
『ヤア|是《これ》で|孫公《まごこう》も|三人《さんにん》の|秘密《ひみつ》が|全部《ぜんぶ》|分《わか》りました。|就《つ》いては|三公《さんこう》の|親分《おやぶん》、お|前《まへ》さまは|何《なん》と|云《い》ふ|人《ひと》の|子《こ》だい、|序《ついで》に|言《い》つて|下《くだ》さつたら|如何《どう》です。モウ|斯《か》うなれば|親身《しんみ》の|兄弟《きやうだい》も|同様《どうやう》だから、|何《なん》の|分《わ》け|隔《へだ》ても|要《い》りますまい』
『|私《わたし》の|父《ちち》はエヂプトの|町《まち》に|住《す》んで|居《を》りまして、|春公《はるこう》と|申《まを》し、|母《はは》はお|常《つね》といひました。|或時《あるとき》、|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》となつたのを|幸《さいは》ひ、|初陣《うひぢん》の|功名《こうみやう》をして|神様《かみさま》に|御目《おめ》にかけたいとか|云《い》つて、|私《わたし》を|家《いへ》に|残《のこ》し、|白瀬川《しらせがは》の|水上《みなかみ》、スツポンの|湖《みづうみ》に|棲《す》む|大蛇《をろち》を|言向和《ことむけやは》すとか|云《い》つて、|夫婦《ふうふ》が|参《まゐ》りました。さうした|所《ところ》が、|私《わたし》の|両親《りやうしん》はまだ|神力《しんりき》が|足《た》らなかつたと|見《み》えまして、|湖《みづうみ》の|大蛇《をろち》に|苦《く》もなく|呑《の》まれて|了《しま》つたので|御座《ござ》います。|私《わたし》はただ|一人《ひとり》|下男《げなん》と|留守《るす》をして|居《を》りましたが、|此《この》|事《こと》を|風《かぜ》の|便《たよ》りに|聞《き》き、|矢《や》も|楯《たて》もたまらず、|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》で|埃及《エヂプト》の|酋長《しうちやう》なる|夏山彦《なつやまひこ》|様《さま》の|御館《おやかた》へ、|父《ちち》が|入魂《じつこん》にして|頂《いただ》いて|居《を》つたのを|幸《さひは》ひ|馳《は》せ|参《さん》じ、|神勅《しんちよく》を|伺《うかが》つて|貰《もら》つた|所《ところ》「お|前《まへ》の|両親《りやうしん》は|今《いま》|迄《まで》|余《あま》り|沢山《たくさん》に|財産《ざいさん》を|拵《こしら》へ、|難儀《なんぎ》な|者《もの》を|助《たす》ける|助《たす》けると|云《い》つた|計《ばか》りで、|米《こめ》|一掴《ひとつか》み|与《あた》へた|事《こと》もなし、|大勢《おほぜい》の|者《もの》の|執着心《しふちやくしん》が|重《かさ》なつて|大蛇《をろち》となり、お|前《まへ》の|両親《りやうしん》を|亡《ほろ》ぼして|了《しま》つたのだから、モウ|駄目《だめ》だ。せめては|両親《りやうしん》の|冥福《めいふく》を|祈《いの》り、|再《ふたた》び|此《この》|世《よ》へ|立派《りつぱ》な|人間《にんげん》として|生《うま》れて|来《く》るやうに|祈《いの》つてやれ」……と|仰有《おつしや》いました。|併《しか》し|乍《なが》ら|両親《りやうしん》はどこかへ|生《うま》れ|変《かは》るにした|所《ところ》で、|私《わたし》としては|最早《もはや》|親《おや》を|取《と》られたのだから、|安閑《あんかん》としては|居《を》られない、スツポンの|湖《みづうみ》の|大蛇《をろち》を|片《かた》つ|端《ぱし》から|切《き》り|屠《ほふ》り、|親《おや》の|仇《かたき》を|討《う》つてやらむと、|夏山彦《なつやまひこ》|御夫婦《ごふうふ》が|親切《しんせつ》におとめ|下《くだ》さるのも|聞《き》かず、|夜《よる》に|紛《まぎ》れて|吾《わが》|家《や》を|飛出《とびだ》し、|湖《みづうみ》の|畔《ほとり》に|来《き》て|見《み》れば、|際限《さいげん》もなき|広《ひろ》い|湖《みづうみ》、|此奴《こいつ》ア|到底《たうてい》|一人《ひとり》や|二人《ふたり》の|力《ちから》では|可《い》かないと|断念《だんねん》し、それから|遥々《はるばる》と|熊襲《くまそ》の|国《くに》の|屋方村《やかたむら》、|樫《かし》の|森《もり》の|木《こ》かげに|庵《いほり》を|結《むす》び、|侠客《けふかく》となつて|数多《あまた》の|乾児《こぶん》を|養《やしな》ひ、サア|是《これ》で|大丈夫《だいぢやうぶ》と|云《い》ふやうになつた|所《ところ》で、|一挙《いつきよ》にして|大蛇《をろち》を|殲滅《せんめつ》せむと、|心《こころ》の|底《そこ》より|悪《あく》ではないが、|悪《あく》を|装《よそほ》うて|悪人原《あくにんばら》をかりあつめ、|大蛇《をろち》|退治《たいぢ》の|用意《ようい》をして|居《を》つたのです。|三五教《あななひけう》の|様《やう》な|無抵抗主義《むていかうしゆぎ》の|教《をしへ》を|奉《ほう》ずる|信者《しんじや》が|幾《いく》らあつても、|到底《たうてい》|大蛇《をろち》|征伐《せいばつ》の|様《やう》な|殺生《せつしやう》な|事《こと》は|致《いた》しますまいから、|類《るゐ》を|以《もつ》て|集《あつ》まるとか|云《い》つて、|悪《わる》い|者《もの》の|所《ところ》へは|悪《わる》い|者《もの》が|集《あつ》まります。|其《その》|悪《わる》い|奴《やつ》を|沢山《たくさん》|集《あつ》めて|悪《わる》い|大蛇《をろち》を|平《たひら》げるのは|所謂《いはゆる》|毒《どく》を|以《もつ》て|毒《どく》を|制《せい》すると|云《い》ふ|筆法《ひつぱふ》ですから、|今日《けふ》|迄《まで》|其《その》|覚悟《かくご》を|持《も》つてゐたので|御座《ござ》います。さうしてお|愛様《あいさま》に|対《たい》し|失礼《しつれい》な|事《こと》を|致《いた》しましたのも、|実《じつ》の|所《ところ》は|恋慕《れんぼ》に|事寄《ことよ》せ、お|愛《あい》|様《さま》を|私《わたし》の|手許《てもと》に|引寄《ひきよ》せ、|建日向別命《たけひむかわけのみこと》|様《さま》の|霊系《れいけい》であるから、まさかの|時《とき》の|用意《ようい》にと|思《おも》つて、いろいろ|雑多《ざつた》と|拙劣《へた》な|計劃《けいくわく》をめぐらしてゐたので|御座《ござ》います。|実《じつ》に|幼稚《えうち》な|考《かんが》へで、|只今《ただいま》となつては|恥《はづか》しう|御座《ござ》います』
と|物語《ものがた》りつつ、|涙《なみだ》を|雨《あめ》の|如《ごと》くに|流《なが》し|乍《なが》ら、|悄然《せうぜん》として|俯《うつ》むく。
『ヤアそれで|虎公《とらこう》もスツカリと|様子《やうす》が|分《わか》つた。いよいよ|四人《よにん》の|種明《たねあ》かしも|無事《ぶじ》に|終了《しうれう》してお|目出度《めでた》い、|其《その》|話《はなし》を|聞《き》く|以上《いじやう》は、ジツとしちやゐられない。サア|是《これ》から|三公《さんこう》さま、|吾々《われわれ》と|共《とも》にスツポンの|湖《みづうみ》に|向《むか》つて|言霊戦《ことたません》を|開《ひら》きに|参《まゐ》りませう。|併《しか》し|乍《なが》ら、|三五《あななひ》の|教《をしへ》は|喜《よろこ》ばれて|仇《かたき》を|討《う》つといふ|教《をしへ》だから、|大蛇《をろち》の|命《いのち》を|取《と》りに|行《い》くのではない、|大蛇《をろち》の|霊《みたま》を、|天津祝詞《あまつのりと》の|生言霊《いくことたま》に|依《よ》つて|解脱《げだつ》させ、|天国《てんごく》に|救《すく》ひ|上《あ》げ、|今後《こんご》は|決《けつ》して|国民《こくみん》に|災《わざはひ》をなさないやうにするのだ。|一旦《いつたん》|殺《ころ》された|御両親《ごりやうしん》は|気《き》の|毒《どく》だが、|是《これ》も|自分《じぶん》から|作《つく》つた|罪《つみ》が|酬《むく》うて|大蛇《をろち》に|呑《の》まれたのだから、|吾々《われわれ》|人間《にんげん》として|如何《いかん》ともする|事《こと》は|出来《でき》ない。|又《また》|三公《さんこう》さまだとて、|大蛇《をろち》を|親《おや》の|仇《かたき》だと|恨《うら》む|訳《わけ》には|参《まゐ》りますまい。|要《えう》するに|春公《はるこう》、お|常《つね》|御両人《ごりやうにん》の|自《みづか》ら|造《つく》つた|悪魔《あくま》が、|自《みづか》らを|攻《せ》めたのだから、|言《い》はば|自業自得《じごうじとく》、|何事《なにごと》も|神様《かみさま》の|御裁断《ごさいだん》に|任《まか》すより|仕方《しかた》がない。サア|皆《みな》さま、|言霊戦《ことたません》に|参《まゐ》らうぢやありませぬか』
『ソリヤ|結構《けつこう》ですなア。|此《この》|三公《さんこう》の|野郎《やらう》も|時《とき》を|移《うつ》さず|乾児《こぶん》を|引《ひき》つれて|参《まゐ》る|事《こと》に|致《いた》しませう』
『イエイエ|乾児《こぶん》なんか|伴《つ》れて|行《ゆ》く|必要《ひつえう》はありませぬよ。|吾々《われわれ》には|八百万《やほよろづ》の|神《かみ》さまが|守護《しゆご》して|下《くだ》さるから、|人数《にんず》は|余《あま》り|要《い》りませぬ、|三人《さんにん》|居《を》れば|大丈夫《だいぢやうぶ》です』
『|左様《さやう》なれば|虎公《とらこう》さま、お|愛《あい》さま、|三公《さんこう》さま、あなたに|御苦労《ごくらう》になりませう。|黒姫《くろひめ》はこれから|孫公《まごこう》を|伴《つ》れて|火《ひ》の|国都《くにみやこ》へ|参《まゐ》りませう』
『あゝそれは|御苦労《ごくらう》で|御座《ござ》います。|左様《さやう》なれば|機嫌《きげん》よく|御越《おこ》しなさいませ。|誰《たれ》か|乾児《こぶん》を|一二人《いちににん》、|御案内《ごあんない》に|立《た》てませうか』
『ハイ|有難《ありがた》う|御座《ござ》います。どなたでも|宜《よろ》しいから、|道《みち》の|勝手《かつて》を|御存《ごぞん》じの|方《かた》を、お|一人《ひとり》お|貸《か》し|下《くだ》さらば|有難《ありがた》う|御座《ござ》います』
『そんなら、|徳《とく》をお|供《とも》に|立《た》たせますから、|宜《よろ》しう|願《ねが》ひます。|元来《ぐわんらい》が|気《き》の|利《き》かない|男《をとこ》ですから、|却《かへつ》て|足手纏《あしてまと》ひになるかも|知《し》れませぬが……』
『ハイ|御親切《ごしんせつ》に|有難《ありがた》う|御座《ござ》います。そんなら|徳《とく》さまに|御苦労《ごくらう》になりませう』
『|黒姫《くろひめ》さま、|女房《にようばう》の|命《いのち》を|助《たす》けて|下《くだ》さつたお|前《まへ》さまを、|一人《ひとり》やる|訳《わけ》にも|行《ゆ》きませぬから、|久公《きうこう》を|一人《ひとり》|御案内《ごあんない》に|立《た》てませう。さうすれば|三人《さんにん》の|道伴《みちづ》れ、|大丈夫《だいぢやうぶ》ですから』
『ハイ|有難《ありがた》う|御座《ござ》います。どこへ|行《い》つても|神様《かみさま》と|道伴《みちづ》れ、|一人《ひとり》で|結構《けつこう》で|御座《ござ》いますが、|向《むか》ふへ|参《まゐ》つた|所《ところ》で、|掛合《かけあひ》が|一人《ひとり》では|都合《つがふ》が|悪《わる》う|御座《ござ》いますから、そんならお|二人《ふたり》にお|世話《せわ》になりませう。|其《その》|代《かは》りに|孫公《まごこう》をあなた|方《がた》のお|伴《とも》をさせませう……コレ|孫公《まごこう》さま、お|二人《ふたり》の|親分《おやぶん》によく|仕《つか》へ、|大蛇《をろち》を|言向和《ことむけやは》せた|上《うへ》、|火《ひ》の|国都《くにみやこ》へ|訪《たづ》ねて|来《き》て|下《くだ》さい』
『ハイ|願《ねが》うてもなき|事《こと》、|有難《ありがた》う|御座《ござ》います。そんなら|行《い》つて|参《まゐ》ります。|随分《ずゐぶん》|御無事《ごぶじ》でお|出《い》で|下《くだ》さいます|様《やう》|御祈《おいの》り|致《いた》します』
|茲《ここ》にお|梅《うめ》は|虎公《とらこう》の|命《めい》に|依《よ》つて、|新《しん》、|八《はち》の|二人《ふたり》と|共《とも》に|武野村《たけのむら》の|不在宅《るすたく》へ|帰《かへ》る|事《こと》となりぬ。|虎公《とらこう》、お|愛《あい》、|三公《さんこう》、|孫公《まごこう》の|四人《よにん》は、いよいよ|時《とき》を|移《うつ》さず|屋方《やかた》の|村《むら》を|立出《たちい》で、スツポンの|湖《みづうみ》の|大蛇《をろち》を|言向和《ことむけやは》すべく、|意気《いき》|揚々《やうやう》として|旅装束《たびしやうぞく》を|整《ととの》へ|進《すす》み|行《ゆ》く。
|兼公《かねこう》、|与三公《よさこう》、|高公《たかこう》の|三人《さんにん》は|数多《あまた》の|乾児《こぶん》と|共《とも》にあとに|留《とど》まりて|不在役《るすやく》を|勤《つと》めさせらる。
(大正一一・九・一六 旧七・二五 松村真澄録)
第二篇 ナイルの|水源《すゐげん》
第一〇章 |夢《ゆめ》の|誡《いましめ》〔九七四〕
|屋方《やかた》の|村《むら》の|三公《さんこう》と  |綽名《あだな》をとつた|男達《をとこだて》
|蚊竜《かうりう》|天《てん》に|登《のぼ》るよな  |其《その》|勢《いきほひ》の|荒男《あらをとこ》
|武野《たけの》の|村《むら》の|男達《をとこだて》  |誉《ほまれ》を|四方《よも》に|虎公《とらこう》が
お|愛《あい》の|方《かた》と|諸共《もろとも》に  |孫公《まごこう》|伴《ともな》ひ|鼈《すつぽん》の
|湖水《こすゐ》に|潜《ひそ》む|曲神《まがかみ》を  |神《かみ》の|教《をしへ》の|言霊《ことたま》に
|言向和《ことむけやは》し|世《よ》の|人《ひと》の  |百《もも》の|禍《わざはひ》|除《のぞ》かむと
|侠客《けふかく》|気性《きしやう》の|両人《りやうにん》が  |足《あし》もいそいそ|山道《やまみち》を
|右《みぎ》に|左《ひだり》に|辿《たど》りつつ  カンカン|照《て》り|込《こ》む|夏《なつ》の|陽《ひ》を
|頭《かしら》にうけて|進《すす》み|行《ゆ》く  あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さちは》ひましませよ。
|一行《いつかう》|四人《よにん》は|漸《やうや》く|白山峠《しらやまたうげ》の|山麓《さんろく》にさしかかつた。|登《のぼ》りが|三里《さんり》、|下《くだ》りが|三里《さんり》と|云《い》ふ|可《か》なり|大《おほ》きい|峠《たうげ》である。|早《はや》くも|夏《なつ》の|陽《ひ》は|西天《せいてん》に|没《ぼつ》し、|生暑《なまあつ》い|風《かぜ》が|一行《いつかう》の|顔《かほ》を|撫《な》でて|四辺《あたり》の|木々《きぎ》の|梢《こずゑ》を|揺《ゆす》りながら、おとなしく|通《とほ》つて|行《ゆ》く。
|孫公《まごこう》『|随分《ずゐぶん》コンパスが|疲労《ひらう》したやうです。|幸《さいはひ》に|日《ひ》が|暮《く》れたのですから、|此《この》|辺《へん》で|一《ひと》つ|一宿《いつしゆく》を|願《ねが》つて|行《ゆ》く|事《こと》に|致《いた》しませうか』
|虎公《とらこう》『どうでこんな|急坂《きふはん》だから|夜《よる》の|途《みち》は|危《あぶ》ない。|此《この》|坂下《さかした》で|今夜《こんや》は|野宿《のじゆく》をする|事《こと》にしようぢやないか、なア|三公《さんこう》……』
|三公《さんこう》は「|好《よ》からう」と|唯《ただ》|一言《いちごん》、|嬉《うれ》しさうに|諾《うなづ》いて|居《ゐ》る。|四人《よにん》は|木《こ》の|葉《は》を|沢山《たくさん》にむしつて|敷《し》き、|俄作《にはかづく》りの|青葉《あをば》の|畳《たたみ》の|上《うへ》に、|長途《ちやうと》の|疲《つか》れと|他愛《たあい》もなく|寝込《ねこ》んで|仕舞《しま》つた。
|孫公《まごこう》は|三人《さんにん》の|雷《らい》の|如《ごと》き|鼾《いびき》が|耳《みみ》に|入《い》り、どうしても|寝《ね》られないので、|四五間《しごけん》|許《ばか》り|隔《へだ》てた|草《くさ》の|中《なか》に|胡坐《あぐら》をかき、|空《そら》を|仰《あふ》いでオリオン|星座《せいざ》を|見《み》つめ、|何事《なにごと》か|口《くち》の|中《なか》にて|祈願《きぐわん》して|居《ゐ》る。
|其処《そこ》へザワザワと|茅《かや》を|揺《ゆす》つて|現《あら》はれて|来《き》た|一《ひと》つの|白《しろ》い|影《かげ》がある。|孫公《まごこう》は|此《この》|影《かげ》を【まんぢり】ともせず|怪《あや》しき|者《もの》の|出現《しゆつげん》かなと|見詰《みつ》めて|居《ゐ》た。|怪《あや》しの|影《かげ》は|孫公《まごこう》の|前《まへ》に|恐《おそ》る|恐《おそ》る|現《あら》はれ|来《きた》り、|優《やさ》しき|女《をんな》の|声《こゑ》にて、
『もしもし|旅《たび》のお|方《かた》|様《さま》、お|願《ねが》ひが|御座《ござ》います』
『ヤアお|前《まへ》は|女《をんな》ではないか。こんな|草《くさ》の|原《はら》に|唯《ただ》|一人《ひとり》やつて|来《く》るとは|肝玉《きもだま》の|太《ふと》い|者《もの》だなア。|俺《おれ》に|頼《たの》み|度《た》いと|云《い》ふのはどんな|事《こと》か、|云《い》つてみさつしやい。|事《こと》によればお|前《まへ》の|力《ちから》にならない|事《こと》もないから……』
『ハイ|有難《ありがた》う|御座《ござ》います。|詳《くはし》い|事《こと》は|後《あと》で|申上《まをしあ》げます。|何卒《どうぞ》|私《わたくし》に|跟《つ》いて|来《き》て|下《くだ》さいませ』
『|近《ちか》い|所《ところ》ならいいが、|余《あま》り|遠《とほ》くは|御免《ごめん》|蒙《かうむ》り|度《た》いものだ。ソレ、あすこに|俺達《おれたち》の|道連《みちづれ》が|三人《さんにん》|寝《ね》て|居《を》るのだから、どうしても|離《はな》れる|事《こと》は|出来《でき》ない、|俺《おれ》は|此処《ここ》で|三人《さんにん》の|夜警《やけい》をやつて|居《ゐ》るのだからなア』
『さうするとお|前《まへ》さまは、あの|三人《さんにん》の|方《かた》の|奴《やつこ》さまですか。|何《なん》と|気《き》の|利《き》かねエ|方《かた》ですなア。|何程《なにほど》|大《おほ》きくても|牛《うし》の|尻《しり》にはなるな、|小《ちひ》さくても|鶏《にはとり》の|頭《かしら》になれと|云《い》ふぢや|御座《ござ》いませぬか、それにお|前《まへ》さまはそんな|大《おほ》きな|図体《づうたい》をして、あんな|侠客《けふかく》や、ハイカラ|女《をんな》のお|尻《しり》に|従《つ》いて|行《ゆ》くとは|本当《ほんたう》に|甲斐性《かひしやう》のない|方《かた》ですねエ』
『こりや|女《をんな》、|馬鹿《ばか》にするない。|俺《おれ》や|決《けつ》してあの|三人《さんにん》の|奴《やつこ》ぢやないぞ。|押《お》しも|押《お》されもしない|男《をとこ》の|中《なか》の|男《をとこ》|一匹《いつぴき》、|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》の|孫公《まごこう》と|云《い》つたら|俺《おれ》の|事《こと》だ。あんまり|見違《みちが》ひをして|貰《もら》ふまいかい。|又《また》お|前《まへ》も、こんな|俺《おれ》を|腑甲斐《ふがひ》ない|男《をとこ》と|見込《みこ》んで|頼《たの》むとは|何《なん》の|事《こと》だ。|余程《よほど》|腑甲斐《ふがひ》ない|女《をんな》だなア』
『ホヽヽヽヽ、|知《し》らぬかと|思《おも》うて、|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》だなぞと、ようそんな|嘘《うそ》が|云《い》へたものだわ。|黒姫《くろひめ》と|云《い》ふ|宣伝使《せんでんし》のお|供《とも》をして|来《き》た|自転倒島《おのころじま》の|孫公《まごこう》ぢやないか。まだ|宣伝使《せんでんし》になるは|早《はや》い、|資格《しかく》が|具備《ぐび》して|居《ゐ》ないから、そんな|法螺《ほら》を|吹《ふ》かぬやうにして|下《くだ》さい。この|熊襲《くまそ》の|国《くに》は|悪人《あくにん》もあるが、|併《しか》しどんな|悪人《あくにん》だつて|嘘《うそ》だけは|云《い》ひませぬよ。|自転倒島《おのころじま》の|人間《にんげん》は、|嘘《うそ》が|上手《じやうづ》だから、|夫《それ》で|他《よそ》の|国《くに》の|人間《にんげん》が|剣呑《けんのん》な|人種《じんしゆ》だと|云《い》つて、|到《いた》る|所《ところ》|排日《はいにち》|思想《しさう》を|嗾《そそ》りたてるのだよ、チト|心得《こころえ》なさい』
『これは|又《また》づけづけと|怯《お》めず|臆《おく》せず|他《ひと》の|悪口《わるくち》を|云《い》ふ|女《をんな》だ。ちつと|言霊《ことたま》を|慎《つつし》まないか。|俺《おれ》が|宣伝使《せんでんし》だと|云《い》つたのをお|前《まへ》は|嘘《うそ》ぢやと|云《い》ふが、|決《けつ》して|嘘《うそ》ぢやないよ。|未来《みらい》の|宣伝使《せんでんし》だ、|神《かみ》の|目《め》から|見《み》れば|現在《げんざい》も|未来《みらい》も|一《ひと》つだよ』
『ホヽヽヽヽ、|本当《ほんたう》に|偉《えら》い|未来《みらい》の|宣伝使《せんでんし》|様《さま》だこと、|高山峠《たかやまたうげ》の|中腹《ちうふく》では|腰《こし》を|抜《ぬ》かし、|連《つ》れの|男女《だんぢよ》にほつときぼりを|喰《く》はされ、|涙《なみだ》ながらに|見《み》つともない、トボトボと|淋《さび》しさうな|顔《かほ》をして、|向日峠《むかふたうげ》の|山麓《さんろく》に|迷《まよ》ひ|込《こ》み、|大《だい》それた|嘘《うそ》を|云《い》ひ、|今《いま》ここへ|来《き》て|居《を》る|三公《さんこう》の|乾児《こぶん》にとつちめられ|雁字搦《がんじがら》みにせられ、|生《い》きながら|穴《あな》に|葬《はうむ》られた|腰抜男《こしぬけをとこ》ですからなア。イヤもう|其《その》|御神徳《ごしんとく》の|強《つよ》いのには|感心《かんしん》しましたよホヽヽヽヽ。|私《わたし》も|女《をんな》と|生《うま》れた|以上《いじやう》は、お|前《まへ》のやうな|腰抜男《こしぬけをとこ》とどうかして|一度《いちど》|夫婦《ふうふ》になつて|見《み》たくも|何《なん》ともありませぬよ。あた|汚《けが》らはしい、|嫌《いや》な|臭《にほひ》のする|男《をとこ》だねエ、オヽ|臭《くさ》やのう、これこれ|孫公《まごこう》どの、|一間《ひとま》|許《ばか》り|間隔《かんかく》を|保《たも》つて|来《き》て|下《くだ》さい。|余《あま》り|近《ちか》よると|臭《くさ》い|匂《にほ》ひがするから……』
『|勝手《かつて》にしやがれ。|誰《たれ》が|貴様《きさま》のやうな|化女《ばけをんな》の|尻《しり》について|行《ゆ》く|馬鹿男《ばかをとこ》があるものか。|馬鹿《ばか》にするな、|孫公《まごこう》の|腕《うで》には|骨《ほね》があるぞ』
『ホヽヽヽヽ、|骨《ほね》があるといなア。|八丁笠《ばつちやうがさ》のやうな|骨《ほね》をして、|余《あま》り|大《おほ》きな|口《くち》を|叩《たた》くものぢや|御座《ござ》いませぬぞエ。|些《ちつ》と|修業《しうげふ》をなさらないと、|鼈《すつぽん》の|池《いけ》の|大蛇《をろち》|退治《たいぢ》は|駄目《だめ》ですよ。お|前《まへ》が|大蛇《をろち》に|呑《の》まれに|往《い》くかと|思《おも》へば、|不憫《ふびん》で|耐《たま》らないから|気《き》をつけてあげるのだ。|一度《いちど》あつた|事《こと》はきつと|三度《さんど》あるものだ。|一度《いちど》は|高山峠《たかやまたうげ》の|岩《いは》に|腰《こし》を|打《う》ち|気絶《きぜつ》して|命《いのち》|危《あやふ》く、|二度目《にどめ》は|三公《さんこう》の|乾児《みうち》の|者《もの》に|生埋《いきうづ》めにしられた。|災難《さいなん》のよくつきまとふ|男《をとこ》だから、|三度目《さんどめ》|蛇《じや》の|子《こ》と|云《い》つて、|今度《こんど》こそ|大蛇《だいじや》の|腹《はら》へ|呑《の》まれに|行《ゆ》くのだから、|思《おも》へば|思《おも》へば|気《き》の|毒《どく》なものだなア。あのまア|孫公《まごこう》の|狼狽《うろた》へ|加減《かげん》、|矢張《やは》り|孫公《まごこう》だと|見《み》えてよう|魔胡《まご》つく|男《をとこ》だ。|真心《まごころ》が|足《た》らぬと|何遍《なんべん》でも|命《いのち》を|取《と》られるやうなお|誡《いまし》めに|遇《あ》ひまするぞえホヽヽヽ。あれまア|時々刻々《じじこくこく》に|孫公《まごこう》の|顔《かほ》が|青《あを》くなつて|来《き》た。まるで|八寒地獄《はちかんぢごく》にウヨウヨして|居《ゐ》る|亡者《まうじや》のやうだワ』
『ヤイ|女《をんな》、|六尺《ろくしやく》の|男《をとこ》をつかまへて|嬲者《なぶりもの》にしようと|思《おも》つても、|此《この》|孫公《まごこう》は|些《ちつ》と|種《たね》が|違《ちが》ふのだ。|貴様《きさま》の|様《やう》な|妖怪変化《えうくわいへんげ》に|誑《たぶら》かされるやうな|兄《あに》イぢやないから、もうよい|加減《かげん》に|諦《あきら》めてすつこんだら|何《ど》うだ。|夜分《やぶん》の|女《をんな》と|云《い》ふものはあんまり|気分《きぶん》のよいものぢやない。|用《よう》があるなら|夜《よ》が|明《あ》けてから|出《で》て|来《こ》い。|何《なん》なりと|聞《き》いてやるわ』
『|私《わたし》は|夜鷹《よたか》だから|夜《よる》|出《で》るのが|商売《しやうばい》だよ』
『|気《き》の|利《き》かねえ|夜鷹《よたか》だなア。|都《みやこ》の|中央《ちうあう》の|細《ほそ》い|路次《ろじ》に|出《で》るのが|貴様《きさま》の|商売《しやうばい》だ。それに|人家《じんか》もなければ|商売《しやうばい》も|尠《すくな》いこんな|荒野ケ原《あらのがはら》へ、|仮令《たとへ》|百晩《ひやくばん》|千晩《せんばん》|立《た》つた|所《ところ》で|旨《うま》い|鳥《とり》はかかりやせないぞ。こんな|所《ところ》で|鼻《はな》の|下《した》の|長《なが》い|男《をとこ》をちよろまかさうとするのは、|恰度《ちやうど》|山《やま》へ|魚《さかな》を|捕《と》りに|行《ゆ》き、|海《うみ》の|底《そこ》へ|猪《しし》をとりに|行《ゆ》くやうな|話《はなし》だ。お|前《まへ》は|余程《よつぽど》どうかして|居《ゐ》るねエ。|癲狂院《てんきやうゐん》|代物《しろもの》ぢやあるまいかなア』
『|癲狂院《てんきやうゐん》でも、|天教山《てんけうざん》でも|放《ほつ》といて|下《くだ》さい。それよりもお|前《まへ》の|足許《あしもと》に|気《き》を|付《つ》けなくては|駄目《だめ》ですよ。|明日《あす》はお|前《まへ》の|冥日《めいにち》だから……』
『エヽ|縁起《えんぎ》の|悪《わる》い|事《こと》を|云《い》うて|呉《く》れない。|亡者《まうじや》か|何《なん》ぞのやうに、|冥日《めいにち》があつて|耐《た》まらうか』
『ホヽヽヽヽ、お|前《まへ》それでも|生《いき》て|居《ゐ》ると|思《おも》ふのかい。お|前《まへ》の|魂《たましひ》はとつくの|昔《むかし》に|死《し》んで|了《しま》ひ、|胴体《どうがら》|計《ばか》り|残《のこ》つて|居《を》るのだよ。|云《い》はば|娑婆《しやば》|亡者《まうじや》だ。|冥日《めいにち》があるのはあたりまへだよ』
『エヽ|気分《きぶん》の|悪《わる》い|夜《よ》さだなア。オイ|女《をんな》、|俺《おれ》やもう|此処《ここ》から|御免《ごめん》|蒙《かうむ》るわ、お|前《まへ》|勝手《かつて》にどこへでも|行《い》つたらよい。|余《あま》り|俺《おれ》の|悪口《わるくち》|計《ばか》りつきよつて|業腹《ごふはら》だから|止《や》めて|置《お》かうかい』
『サア|行《い》けるのなら|何処《どこ》なと|勝手《かつて》に|行《い》つて|御覧《ごらん》、お|前《まへ》の|知《し》らぬ|間《ま》にちやんと|体《からだ》に|綱《つな》をつけて|縛《しば》つてあるから|一《ひと》つ|歩《ある》いて|見《み》なさい』
『|何《なに》|歩《ある》かいでか、アイタヽヽこりや|本当《ほんたう》に|縛《しば》りよつたな。|些《ち》つとも|動《うご》きやしないわ、|下《くだ》らぬ|悪戯《いたづら》をする|女《をんな》だなア。サツパリ|雁字搦《がんじがら》みに|知《し》らぬ|間《あひだ》に|縛《しば》つて|仕舞《しま》ひよつた、こんな|無茶《むちや》な|女《をんな》に|出遇《であ》つたのは|今日《けふ》が|初《はじ》めてだ』
『ホヽヽヽヽ、お|前《まへ》|計《ばか》りか|今《いま》の|人間《にんげん》に、|一人《ひとり》として|女《をんな》に|縛《しば》られて|居《ゐ》ない|人間《にんげん》がありますか。|何奴《どいつ》も|此奴《こいつ》も、|執着《しふちやく》だとか|恋《こひ》だとか|云《い》ふ|怪《あや》しい|代物《しろもの》に、|蜘蛛《くも》に|蝉《せみ》がかかつたやうに|捲《ま》きつけられて、|雁字《がんじ》り|捲《ま》きにされて|居《ゐ》る|人間《にんげん》|計《ばか》りがウヨウヨとして|居《ゐ》る|娑婆《しやば》ぢやないか』
『さうすると|女《をんな》に|縛《しば》られたものは|俺《おれ》|計《ばか》りぢやないなア。お|前《まへ》はさうすると|些《ちつ》と|計《ばか》り|俺《おれ》にラブして|居《ゐ》やがるのだな。|好《す》いた|同志《どうし》は|毎日《まいにち》|日日《ひにち》、|擲《なぐ》つたり、|噛《かぶ》りついたり、|抓《つめ》つたりするのを|此《この》|上《うへ》なき|愉快《ゆくわい》のやうに|感《かん》ずるものだが、|俺《おれ》もお|前《まへ》から|雁字搦《がんじがら》みに|縛《しば》られて|些《ちつ》とはむかついたが、よく|気《き》を|落付《おちつ》けて|神直日《かむなほひ》に|見直《みなほ》し|善意《ぜんい》に|解《かい》して|見《み》れば、|余《あま》り|腹《はら》も|立《た》てられまい。|却《かへ》つて|有《あ》り|難《がた》いやうになつて|来《き》たワイ』
『エヽまア|好《す》かんたらしい|男《をとこ》だこと。お|前《まへ》と|云《い》ふ|男《をとこ》は、お|愛《あい》の|方《かた》の|寝顔《ねがほ》をちよいと|覗《のぞ》き|込《こ》んで|恋《こひ》の|執着《しふちやく》をたつた|今《いま》|起《おこ》しただらう。|其《その》|執着心《しふちやくしん》が、|此《この》|私《わたし》を|生《う》んだのだよ。つまり|云《い》へば|孫公《まごこう》の|反映《はんえい》だ。|何《なん》と|云《い》つても|内裏《うちうら》だから|腹《はら》を|立《た》てないやうにして|下《くだ》さいネ|孫公《まごこう》』
『|益々《ますます》|訳《わけ》が|分《わか》らなくなつて|来《き》た。|此奴《こいつ》は|本当《ほんたう》に|化物《ばけもの》だなア』
『そりやさうとも、|化物《ばけもの》に|違《ちが》ひありませぬワ。|化物《ばけもの》の|腹《はら》から|生《うま》れた|私《わたし》だもの。|烏《からす》は|烏《からす》を|生《う》み|獅子《しし》は|獅子《しし》を|生《う》むのは|当然《あたりまへ》ですよ』
かかる|所《ところ》へ|闇《やみ》を|通《とほ》して|幽《かすか》に|宣伝歌《せんでんか》の|声《こゑ》が|聞《きこ》え|来《きた》る。
『|神《かみ》が|表《おもて》に|現《あら》はれて  |恋《こひ》になやみし|執着《しふちやく》の
|心《こころ》の|雲霧《くもきり》|吹《ふ》き|払《はら》ふ  |我《われ》は|玉治別司《たまはるわけつかさ》
|湖《うみ》の|魔神《まがみ》を|三五《あななひ》の  |神《かみ》の|教《をしへ》に|言向《ことむ》けて
|世《よ》の|禍《わざはひ》を|悉《ことごと》く  |払《はら》はむとして|出《い》でて|行《ゆ》く
|三五教《あななひけう》の|孫公《まごこう》は  |心《こころ》の|中《なか》の|曲者《くせもの》に
とり|挫《ひし》がれて|今《いま》|正《まさ》に  |闇路《やみぢ》に|迷《まよ》ふ|憐《あは》れさよ
|心《こころ》の|中《なか》に|恐《おそ》ろしい  |大蛇《をろち》を|宿《やど》す|身《み》をもつて
どうして|魔神《まがみ》を|速《すみや》かに  |服《まつろ》へ|和《やは》す|道《みち》あろか
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |憐《あは》れな|孫公《まごこう》よ|孫公《まごこう》よ
|一日《ひとひ》も|早《はや》く|真心《まごころ》に  |立《た》ち|帰《かへ》りつつ|三五《あななひ》の
|誠《まこと》の|教《をしへ》を|諾《うべな》ひて  |夢《ゆめ》をば|醒《さま》せ|目《め》を|醒《さま》せ
|唯今《ただいま》|其処《そこ》に|現《あら》はれし  |怪《あや》しの|女《をんな》は|何者《なにもの》ぞ
|汝《なれ》が|心《こころ》に|潜《ひそ》みたる  |横恋慕《よこれんぼ》と|名《な》のついた
|八十《やそ》の|曲津《まがつ》の|化身《けしん》ぞや  |一日《ひとひ》も|早《はや》く|宣《の》り|直《なほ》せ
|汝《なれ》が|姿《すがた》も|見直《みなほ》して  |虎公《とらこう》|三公《さんこう》|両侠《りやうけふ》の
|清《きよ》き|御魂《みたま》に|神習《かむなら》ひ  お|愛《あい》の|方《かた》を|思《おも》ひ|切《き》り
|心《こころ》にさやる|白山《しらやま》の  |峠《たうげ》を|早《はや》く|踏《ふ》みしめて
|誠《まこと》|一《ひと》つに|進《すす》み|行《ゆ》け  |朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも
|月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも  |仮令《たとへ》|大地《だいち》は|沈《しづ》むとも
|大蛇《をろち》の|曲《まが》は|荒《すさ》ぶとも  |三五教《あななひけう》の|神《かみ》の|道《みち》
|誠《まこと》|一《ひと》つは|世《よ》を|救《すく》ふ  あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|神《かみ》の|御言《みこと》を|諾《うべな》ひて  |玉治別《たまはるわけ》の|神司《かむづかさ》
|神《かみ》に|代《かは》つて|説《と》き|諭《さと》す  |進《すす》めよ|進《すす》めいざ|進《すす》め
|誠《まこと》の|道《みち》に|逸早《いちはや》く  |進《すす》めや|進《すす》め|湖《うみ》の|傍《そば》
|大蛇《をろち》の|御魂《みたま》の|亡《ほろ》ぶまで  |心《こころ》の|曲津《まがつ》の|失《う》する|迄《まで》
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ』
と|聞《きこ》ゆるかと|見《み》れば、|以前《いぜん》の|女《をんな》の|影《かげ》はいつの|間《ま》にか|煙《けむり》の|如《ごと》く|消《き》えて|仕舞《しま》ひ、|夜嵐《よあらし》|冷《ひや》やかに|孫公《まごこう》の|顔《かほ》を|撫《な》でて|通《とほ》る。ふと|気《き》がつけば|孫公《まごこう》は|三人《さんにん》の|寝《ね》て|居《ゐ》る|四五間《しごけん》|許《ばか》りの|傍《かたはら》の|芝生《しばふ》に|横《よこ》たはつて|居《ゐ》た。
『アヽ|何《なん》だ|夢《ゆめ》だつたか、しようもない。|併《しか》しながら|夢《ゆめ》だとて|油断《ゆだん》は|出来《でき》ない。|神様《かみさま》が|玉治別《たまはるわけ》の|名《な》をかりて|御注意《ごちうい》して|下《くだ》さつたのだらう。|俺《おれ》もこれで|大分《だいぶん》に|悟《さと》る|事《こと》を|得《え》た。あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》|御霊《みたま》|幸倍《さちはひ》ましませよ』
と|云《い》ひながら、|拍手《かしはで》を|打《う》ち、|声《こゑ》|高《たか》らかに|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》する。
(大正一一・九・一六 旧七・二五 加藤明子録)
第一一章 |野宿《のじゆく》〔九七五〕
|孫公《まごこう》が|一生懸命《いつしやうけんめい》になつて|夜中《やちう》に|祝詞《のりと》をあぐる|声《こゑ》に、|目《め》を|覚《さ》まされて|起《お》き|上《あが》つたお|愛《あい》は、|孫公《まごこう》の|此《この》|姿《すがた》を|見《み》て|怪《あや》しみ、ツカツカと|側《そば》に|寄《よ》つて|来《き》た。|其《その》|時《とき》は|已《すで》に|祝詞《のりと》を|終《をは》つてヤツと|一息《ひといき》をついた|時《とき》である。
『|孫公《まごこう》さま、もう|何時《なんどき》で|御座《ござ》いませうかな。まだ|夜明《よあけ》には|間《ま》がある|様《やう》ですが、えらい|早《はや》く|目《め》が|覚《さ》めたと|見《み》えますなア』
|孫公《まごこう》は|星月夜《ほしづくよ》にお|愛《あい》の|姿《すがた》を|眺《なが》めて|驚愕《びつくり》し、|両手《りやうて》を|打振《うちふ》り|打振《うちふ》りながら、
『もしもしお|愛《あい》さま、|其処《そこ》にジツとして|居《ゐ》て|下《くだ》さい。お|前《まへ》さまに|来《こ》られると|恋《こひ》の|糸《いと》に|縛《しば》られて、|身体《からだ》がビクともせない|様《やう》になつて|了《しま》ひます。もう|何卒《どうぞ》|々々《どうぞ》|彼処《あそこ》で|結構《けつこう》で|御座《ござ》います。|何《なん》なりと|御用《ごよう》を|云《い》つて|下《くだ》さい。|近寄《ちかよ》つて|来《き》ても|私《わたし》はスツパリ|改心《かいしん》しましたから、|何程《なにほど》|可愛《かあい》いお|愛《あい》さまが|秋波《しうは》を|送《おく》つて|下《くだ》さつても、|孫公《まごこう》の|鉄石心《てつせきしん》はお|生憎様《あいにくさま》、|梃子《てこ》でも|棒《ぼう》でも|動《うご》きませぬぞや。|女《をんな》と|云《い》ふものは|魔《ま》だからな。|世界中《せかいぢう》の|男《をとこ》を|雁字《がんじ》り|捲《ま》きにして|身動《みうご》きもならない|様《やう》にする|奴《やつ》だからなア。あゝ|若《も》し|若《も》しお|愛《あい》さま、さう|此方《こつち》へ|近寄《ちかよ》つて|貰《もら》つちや|堪《たま》りませぬわ、|何《なん》だかいけ|好《す》かない|臭《にほひ》がしますから……』
と|今《いま》|見《み》た|夢《ゆめ》の|受売《うけうり》を|一生懸命《いつしやうけんめい》にやつてゐる。
『ホヽヽヽヽ、あのまア、|孫公《まごこう》さまの|恐《こは》さうな|様子《やうす》、お|前《まへ》さまも|男《をとこ》ぢやありませぬか、チツとシツカリなさいませ』
『|最前《さいぜん》の|夢《ゆめ》の|見直《みなほ》しかいな。|同《おな》じ|様《やう》な|事《こと》を|言《い》ひよるワイ』
『これ|孫公《まごこう》さま、|夢《ゆめ》でも|見《み》なさつたのか。ほんに|気楽《きらく》な|方《かた》ですな』
『|気楽《きらく》どころか、チツとも|寝《ね》られないのですよ。お|前《まへ》さまが|出《で》て|来《き》ては|私《わたし》を|罵《ののし》つたり|引括《ひつくく》つたりするものだから、|如何《どう》しても|寝《ね》られやしない。|宜《い》い|加減《かげん》|悪戯《いたづら》をせずに|寝《やす》んで|下《くだ》さいな。|今晩《こんばん》の|中《うち》にチツと|身体《からだ》を|休《やす》めておかないと、|明日《あす》の|言霊戦《ことたません》に|元気《げんき》が|抜《ぬ》けちやなりませぬからな』
『|何《なん》とまア|訳《わけ》の|分《わか》らぬ|寝言《ねごと》を|云《い》ふ|人《ひと》だ|事《こと》、チツとシツカリなさいませ』
と|言《い》ひ|乍《なが》らお|愛《あい》は|頬辺《ほつぺた》を|一寸《ちよつと》|抓《つめ》つた。
『アイタヽ|痛《いた》いなア。アヽ|併《しか》しながら|温《あたた》かい|柔《やはら》かい|白《しろ》い|細《ほそ》い|手《て》で|抓《つめ》られるのも、|何処《どこ》ともなしに|愉快《ゆくわい》なものだ。モシモシお|愛《あい》さま、|一寸《ちよつと》も|遠慮《ゑんりよ》は|入《い》りませぬ。|顔《かほ》なつと|尻《しり》なつと|腕《うで》なつとお|前《まへ》さまに|任《まか》しますから、|何卒《どうぞ》|自由《じいう》にして|下《くだ》さい』
『ホヽヽヽこれ|孫公《まごこう》さま、|虎公《とらこう》さまが|居《を》られますよ。あんまりの|事《こと》は|云《い》はないで|下《くだ》さい』
『アーア|又《また》|怪《あや》しくなつて|来《き》た。|如何《どう》やら|俺《おれ》の|腹《はら》の|中《なか》から|再《ふたた》び|最前《さいぜん》の|化女《ばけをんな》が|生《うま》れさうになつて|来《き》たわい……あゝ|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》。|何卒《どうぞ》|天地《てんち》の|大神様《おほかみさま》、|此《この》|孫公《まごこう》が|恋《こひ》の|執着心《しふちやくしん》を|科戸《しなど》の|風《かぜ》の|天《あめ》の|八重雲《やへくも》を|吹《ふ》き|払《はら》ふ|如《ごと》く|伊吹《いぶ》き|払《はら》ひに|払《はら》ひ|除《の》けて|下《くだ》さいませ、|偏《ひとへ》にお|願《ねが》ひ|致《いた》します』
|虎公《とらこう》は|此《この》|話《はなし》にフツと|目《め》を|覚《さ》まし、
『お|愛《あい》お|前《まへ》|其処《そこ》に|何《なに》して|居《ゐ》るのだ。|早《はや》く|寝《ね》ないと|明日《あす》は|大活動《だいくわつどう》をせなくちやならないぞ』
『|孫公《まごこう》さまが|下《くだ》らぬ|事《こと》を|云《い》つて|騒《さわ》いで|居《ゐ》るものですから|如何《どう》しても|寝《ね》られないのですよ』
『|孫公《まごこう》さま、|早《はや》くお|寝《やす》みなさらぬか』
と|虎公《とらこう》がきめつける。
『|何《なん》だか|知《し》りませぬが、お|愛《あい》さまが|夢《ゆめ》か|現《うつつ》か|分《わか》らないが|二度《にど》|迄《まで》も|私《わたし》の|側《そば》にやつて|来《き》て、|引張《ひつぱ》つたり|抓《つめ》つたり|意茶《いちや》つくものだから、チツとも|寝《ね》られないのですよ。チツと|虎公《とらこう》さま、|女房《にようばう》に|説諭《せつゆ》をして|置《お》いて|貰《もら》はぬと、|色男《いろをとこ》の|孫公《まごこう》も|本当《ほんたう》に|迷惑《めいわく》|致《いた》しますわい』
『アハヽヽヽ|気楽《きらく》な|男《をとこ》だなア。……これお|愛《あい》、|孫公《まごこう》さまをよく|寝入《ねい》る|様《やう》に、お|前《まへ》の|乳《ちち》でも|飲《の》まして「|寝《ね》んね」でも|歌《うた》つて|寝《ね》ましてやつて|呉《く》れ。|俺達《おれたち》やモ|一寝入《ひとねい》りしたいからな』
『オホヽヽヽ|虎公《とらこう》さま、そんな|事《こと》|云《い》つて|下《くだ》さると|困《こま》りますわ。|孫公《まごこう》さまの|前《まへ》で……』
『オツと|占《し》めた、|御亭主《ごおやぢ》の|許可《きよか》が|下《さが》つたのだからもう|大丈夫《だいぢやうぶ》だ。これこれお|愛《あい》さま、|遠慮《ゑんりよ》は|要《い》らぬ、|苦《くる》しうない、|近《ちか》うおぢや』
『オホヽヽヽ、|又《また》|女《をんな》の|臭《くさ》い|香《にほひ》がすると|御迷惑《ごめいわく》だから|遠慮《ゑんりよ》しておきませうか、なあ、|妾《わたし》は|男《をとこ》の|側《そば》へ|寄《よ》ると|鼻《はな》を|捩《ね》ぢたり、|目玉《めだま》をくり|抜《ぬ》いたり、|乳《ちち》を|噛《か》み|切《き》つたり、|抓《つめ》りたいのが|病《やまひ》ですから……それでも|御承知《ごしようち》ですならお|傍《そば》へ|寄《よ》せて|頂《いただ》きませう』
『|虎公《とらこう》さまは|随分《ずゐぶん》|辛抱《しんばう》のいい|男《をとこ》だと|見《み》えるなア。こんな|剣呑《けんのん》な|女《をんな》を|如何《どう》してまア|平気《へいき》に|一緒《いつしよ》に|寝《ね》て|居《ゐ》るのだらう。|矢張《やつぱり》|意茶《いちや》つかれるのが|気分《きぶん》が|好《い》いのかなア』
『|虎公《とらこう》さまなら|一度《いちど》だつて|抓《つめ》るの、|齧《かじ》りつくの、そんな|乱暴《らんばう》な|事《こと》はしませぬよ。|肩《かた》から|足《あし》の|先《さき》まで|撫《な》でて|可愛《かあい》がつて|寝《ね》かして|上《あ》げるのですからね』
『そんなら|私《わたし》もさう|願《ねが》ひたいものだなア』
『エヽ|好《す》かんたらしい。|天《あま》ン|若《じやく》だから|抓《つめ》つたり|噛《か》んだり、|可愛《かあい》がつてやると|云《い》ふのですよ。オホヽヽヽ』
『はい|有難《ありがた》う。それで|何《なに》もかも|私《わたし》の|胸《むね》が|開《ひら》けました。|実《じつ》の|処《ところ》はお|前《まへ》さまが|私《わたし》の|顔《かほ》を|一寸《ちよつと》|覗《のぞ》き|込《こ》んで、|意味《いみ》ありげな|笑《わら》ひ|様《やう》をなさつたと|思《おも》ひ、|此奴《こいつ》ア|俺《おれ》にチヨイ|惚《ぼれ》だなアと|早合点《はやがてん》し、それを|根《ね》にしてお|前《まへ》さまを|密《ひそ》かに|恋《こひ》する|様《やう》になつたのだ。|併《しか》し|今《いま》の|言葉《ことば》によればお|前《まへ》さまは|此《この》|孫公《まごこう》に|対《たい》し、|吾不関焉《われかんせずえん》の|御心底《ごしんてい》だと|云《い》ふ|事《こと》が|今《いま》|初《はじ》めて|分《わか》りました。|是《これ》で|私《わたし》もスツカリ|諦《あきら》めます。|何卒《どうぞ》|安心《あんしん》して|下《くだ》さいませ。|此《この》|上《うへ》は|決《けつ》して|穢《けがらは》しい|量見《りやうけん》は|出《だ》しませぬから……』
『|吾不関焉《われかんせずえん》|位《ぐらゐ》ですか。|本当《ほんたう》の|事《こと》を|云《い》へば|孫公《まごこう》さまは|鈍《どん》な|男《をとこ》だ、|虫《むし》の|好《す》かぬ|男《をとこ》だと|思《おも》つて|居《ゐ》るのですよ。お|前《まへ》さまの|方《はう》から|吹《ふ》いて|来《く》る|風《かぜ》でさへも|胸《むね》が|悪《わる》いのだもの、|本当《ほんたう》にいけ|好《す》かない|野郎《やらう》だと|心《こころ》の|底《そこ》から|思《おも》つて|居《ゐ》ますのよ』
『ハイ、|有難《ありがた》う。ようそこ|迄《まで》|嫌《きら》つて|下《くだ》さいました。それで|私《わたし》も|真人間《まにんげん》になつて|助《たす》かります。アヽ|神様《かみさま》、|有難《ありがた》う|御座《ござ》います』
と|愛想《あいさう》|尽《づ》かしを|云《い》はれて、|孫公《まごこう》は|心《こころ》の|底《そこ》から|打《う》ち|喜《よろこ》び、|拍手《かしはで》をうつて|大神《おほかみ》に|感謝《かんしや》の|詞《ことば》を|捧《ささ》げて|居《ゐ》る。
|三公《さんこう》は|又《また》もや|目《め》を|覚《さ》まし、
『|皆《みな》さま、えらうお|話《はなし》が|機《はづ》んでる|様《やう》ですが、もう|夜明《よあ》けに|間《ま》もありますまいな』
|孫公《まごこう》『|烏羽玉《うばたま》の|暗夜《やみよ》はここに|晴《は》れ|渡《わた》り
|心《こころ》の|空《そら》に|照《て》る|月《つき》の|影《かげ》。
|来《き》て|見《み》れば|白山峠《しらやまたうげ》の|登《のぼ》り|口《ぐち》
|登《のぼ》りつめたる|恋《こひ》の|曲者《くせもの》。
|曲者《くせもの》は|今《いま》や|何処《いづこ》へ|去《さ》りにけむ
|心《こころ》の|空《そら》に|懸《かか》る|雲《くも》なし。
|草原《くさはら》を|分《わ》けて|怪《あや》しの|物影《ものかげ》は
|吾《われ》を|目当《めあて》に|攻《せ》め|寄《よ》せにける。
その|影《かげ》は|何者《なにもの》ならむわが|胸《むね》に
|潜《ひそ》み|居《ゐ》たりし|恋《こひ》の|曲者《くせもの》。
|何時迄《いつまで》も|胸《むね》の|悪魔《あくま》の|去《さ》らざれば
|吾《われ》は|根底《ねそこ》の|国《くに》に|落《お》つべき。
|皇神《すめかみ》の|深《ふか》き|恵《めぐ》みに|包《つつ》まれて
|草野《くさの》にやすく|夜《よ》を|眠《ねむ》りたり。
|惟神《かむながら》|神《かみ》のまにまに|進《すす》み|行《ゆ》く
|大蛇《をろち》|退治《たいぢ》の|身《み》こそ|尊《たふと》き』
|虎公《とらこう》『|小夜《さよ》|更《ふ》けて|砧《きぬた》の|声《こゑ》もとどまりぬ
|早《はや》く|寝《い》ねませ|孫公司《まごこうつかさ》よ』
|孫公《まごこう》『|沸《わ》き|返《かへ》る|恋《こひ》の|焔《ほのほ》に|包《つつ》まれて
|心《こころ》|苦《くる》しく|眠《ねむ》られざりける』
お|愛《あい》『ほのぼのと|東《あづま》の|空《そら》も|白山《しらやま》の
|麓《ふもと》に|明《あ》かす|神《かみ》の|道芝《みちしば》』
|三公《さんこう》『|騒《さわ》がしき|声《こゑ》|聞《き》きつけて|起《お》き|上《あが》り
|四辺《あたり》を|見《み》れば|恋《こひ》の|曲者《くせもの》』
|孫公《まごこう》『まごまごと|恋路《こひぢ》の|暗《やみ》をさまよひて
|一目《ひとめ》も|寝《ね》ずに|泣《な》き|暮《くら》しける。
|泣《な》き|暮《くら》す|恋《こひ》の|虜《とりこ》は|吾《われ》ならじ
|今《いま》は|昔《むかし》の|三公《さんこう》|親分《おやぶん》よ』
|三公《さんこう》『|晴《は》れ|渡《わた》る|大空《おほぞら》の|如《ごと》きわが|胸《むね》に
|恋《こひ》の|黒雲《くろくも》かかるべしやは』
お|愛《あい》『|人《ひと》はいざ|知《し》らず|妾《わらは》は|何処迄《どこまで》も
|恋《こひ》と|道《みち》とを|立《た》て|別《わ》け|行《ゆ》かむ』
|虎公《とらこう》『|迷《まよ》ひ|行《ゆ》く|恋《こひ》の|坂道《さかみち》|漸《やうや》くに
|踏《ふ》み|越《こ》えましし|三公《さんこう》の|君《きみ》』
|孫公《まごこう》『まごまごと|白山峠《しらやまたうげ》の|山麓《さんろく》に
まごつき|恋《こひ》の|夢《ゆめ》を|見《み》しかな。
|夢《ゆめ》に|見《み》て|恋《こひ》しきものを|現身《うつそみ》の
|君《きみ》に|添《そ》ひなば|如何《いか》に|楽《たの》しき。
まて|暫《しば》し|心猿意馬《しんゑんいば》は|又《また》|狂《くる》ふ
|心《こころ》の|手綱《たづな》かたく|結《むす》ばむ。
|惟神《かむながら》|神《かみ》の|教《をしへ》の|道《みち》をふみ
|恋《こひ》の|曲者《くせもの》|斬《き》りて|屠《ほふ》らむ。
|迷《まよ》ひけり|覚《さ》めけり|又《また》も|迷《まよ》ひけり
|夢《ゆめ》に|夢見《ゆめみ》る|浮世《うきよ》なりせば』
|夜《よ》は|漸《やうや》くに|白《しら》み|初《はじ》めた。|四人《よにん》はムツクと|起《お》き|谷川《たにがは》に|手水《てうづ》を|使《つか》ひ|身《み》を|清《きよ》め、|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》し、|携《たづさ》へ|来《きた》りし|弁当《べんたう》を|食《くら》ひ、|赤禿《あかはげ》だらけの|白山峠《しらやまたうげ》を|登《のぼ》り|行《ゆ》く。|孫公《まごこう》は|道々《みちみち》|足拍子《あしびやうし》を|取《と》つて|歌《うた》ひ|出《だ》す。
『「ウントコドツコイ」きつい|坂《さか》  |今《いま》|行《ゆ》く|坂《さか》は|恋《こひ》の|坂《さか》
|善《ぜん》か|悪《あく》かは|白山《しらやま》の  |峠《たうげ》を|渡《わた》るわが|恋路《こひぢ》
|知《し》らず|識《し》らずに|村肝《むらきも》の  |心《こころ》の|曲者《くせもの》|跳梁《てうりやう》し
お|愛《あい》の|方《かた》に|目《め》をくれて  「ウントコドツコイ」きつい|坂《さか》
|及《およ》ばぬ|事《こと》のみ|思《おも》ひつめ  |心《こころ》を|苦《くる》しめ|居《ゐ》たりしが
「ウントコドツコイ ハアハアハア」  |油断《ゆだん》をすれば|危《あぶ》ないぞ
|危《あぶ》ない|危《あぶ》ない|恋《こひ》の|闇《やみ》  |寝《ね》られぬままに|起《お》き|上《あが》り
|彼方《あちら》|此方《こちら》と「ドツコイシヨ」  |夜霧《よぎり》の|中《なか》を|逍遥《さまよ》うて
|恋《こひ》の|焔《ほのほ》を|消《け》すうちに  ザアザアザアと|音《おと》たてて
「ウントコドツコイ」|又《また》|滑《すべ》る  |怪《あや》しの|女《をんな》が|只《ただ》|一人《ひとり》
|薄《すすき》の|中《なか》から|手《て》を|伸《の》ばし  「ウントコドツコイ」|嫌《いや》らしい
|妙《めう》な|声《こゑ》をばふりしぼり  モシモシこれこれ|旅《たび》の|人《ひと》
「ドツコイドツコイ」|私《わたくし》は  お|前《まへ》に|願《ねが》ひがありまする
|何卒《どうぞ》|此方《こちら》へ|来《き》てお|呉《く》れ  お|頼《たの》み|申《まを》すと|云《い》ふ|故《ゆゑ》に
|寝《ね》られぬままに「ドツコイシヨ」  |孫公司《まごこうつかさ》が|跟《つ》いて|行《ゆ》く
やさしい|女《をんな》の|顔《かほ》に|似《に》ず  |口《くち》を|極《きは》めて|荒男《あらをとこ》
|神《かみ》の|司《つかさ》を|捉《つか》まへて  |口《くち》を|極《きは》めて|嘲弄《てうろう》する
こりや|怪《け》しからぬ|女《をんな》|奴《め》と  |眼《まなこ》を|据《す》ゑて「ウントコシヨ」
|睨《にら》めば|女《をんな》は|打笑《うちわら》ひ  |女《をんな》に「ドツコイ」|魂《たま》|抜《ぬ》かれ
|荒野《あらの》を|逍遥《さまよ》ふ「ドツコイシヨ」  |腰抜男《こしぬけをとこ》のお|前《まへ》さま
お|愛《あい》の|方《かた》を|恋《こひ》しいと  |迷《まよ》ふ|心《こころ》の|執着《しふちやく》が
|妾《わたし》の|身体《からだ》を|生《う》みました  ほんに|困《こま》つた|男《をとこ》だと
|散々《さんざん》|小言《こごと》を|並《なら》べ|立《た》て  |孫公《まごこう》|凹《へこ》ます|折柄《をりから》に
|何処《どこ》ともなしに|宣伝歌《せんでんか》  |闇《やみ》を|通《とほ》して|響《ひび》き|来《く》る
「ハアハアハアハア」えらい|坂《さか》  「|如何《いか》にも|息《いき》が|絶《き》れさうな」
|玉治別《たまはるわけ》と|名乗《なの》りつつ  |孫公司《まごこうつかさ》を|誡《いまし》めの
|手痛《ていた》い|意見《いけん》の|宣伝歌《せんでんか》  こりや|堪《たま》らぬと|首《くび》おさへ
|眼《まなこ》を|閉《と》ぢて|居《ゐ》る|間《うち》に  |以前《いぜん》の|女《をんな》は|何処《どこ》へやら
|煙《けむり》となつて「ドツコイシヨ」  |姿《すがた》を|隠《かく》した|訝《いぶか》しさ
|折《をり》から|吹《ふ》き|来《く》る|夜嵐《よあらし》に  |面《おもて》を|撫《な》でられ|気《き》がつけば
|執着心《しふちやくしん》の|恋《こひ》の|犬《いぬ》  |主人《しゆじん》の|寝《ね》たのを|幸《さいは》ひに
|跋扈跳梁《ばつこてうりやう》して|居《を》つた  あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|思《おも》へば|思《おも》へば|馬鹿《ばか》らしい  |別《べつ》に|恋《こひ》しと「ドツコイシヨ」
|俺《おれ》は|思《おも》うたぢや|無《な》けれども  |心《こころ》に|潜《ひそ》む|曲者《くせもの》が
|此《この》|肉体《にくたい》を|左右《さいう》して  「ウントコドツコイ ヤツトコシヨ」
あんな|心《こころ》にしたのだらう  あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|神《かみ》の|尊《たふと》き|御光《みひかり》に  |心《こころ》の|闇《やみ》も|晴《は》れ|渡《わた》り
|夜《よ》も|白々《しらじら》と|白山《しらやま》の  |峠《たうげ》を|越《こ》えてスツポンの
|湖《うみ》に|潜《ひそ》める|曲津見《まがつみ》の  |大蛇《をろち》を|言向《ことむ》け|和《やは》さむと
|進《すす》み|行《ゆ》くこそ|楽《たの》しけれ  あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|神《かみ》の|助《たす》けを|蒙《かうむ》りて  |吾等《われら》|一行《いつかう》|四人《よにん》づれ
|協心戮力《けふしんりくりよく》「ドツコイシヨ」  |臍《ほぞ》を|固《かた》めて|曲神《まがかみ》の
|醜《しこ》の|砦《とりで》に|立《た》ち|向《むか》ひ  |善言美詞《ぜんげんびし》の|言霊《ことたま》に
|大蛇《をろち》の|霊《れい》を|解脱《げだつ》させ  |天国《てんごく》|浄土《じやうど》に|救《すく》ひつつ
|皇大神《すめおほかみ》の|御教《みをしへ》を  |禽獣虫魚《きんじうちうぎよ》に|至《いた》るまで
|開《ひら》き|行《ゆ》くこそ|雄々《をを》しけれ  あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御魂《みたま》|幸《さちは》へましませよ』
と|歌《うた》ひ|乍《なが》ら、|四人《よにん》は|漸《やうや》くにして|白山峠《しらやまたうげ》の|絶頂《ぜつちやう》に|辿《たど》りつけり。
(大正一一・九・一六 旧七・二五 北村隆光録)
第一二章 |自称《じしよう》|神司《かむづかさ》〔九七六〕
|白山峠《しらやまたうげ》の|山頂《さんちやう》に|漸《やうや》くにして|辿《たど》りついた|四人《よにん》の|男女《だんぢよ》は、|峰《みね》の|嵐《あらし》に|吹《ふ》かれつつ|汗《あせ》を|拭《ぬぐ》ひ|四方《よも》の|山野《さんや》を|心地《ここち》よげに|観望《くわんばう》しながら|小憩《せうけい》を|試《こころ》みてゐる。
|遥《はる》かの|東北《とうほく》に|当《あた》つて、|白《しろ》く|光《ひか》つたものが|見《み》えてゐる。それは|春公《はるこう》、お|常《つね》が|大蛇《をろち》に|呑《の》まれた|思《おも》ひ|出《で》|深《ふか》きスツポンの|湖《みづうみ》の|一部《いちぶ》である。|三公《さんこう》はその|湖《みづうみ》がフツと|目《め》につき|慨歎《がいたん》|措《お》かざるものの|如《ごと》く、
『|皆《みな》さま、ズツと|向《むか》ふの|方《はう》に|幽《かす》かに|白《しろ》く|光《ひか》つてる|所《ところ》がありませう。あれが|私《わたし》に|取《と》つては、|寝《ね》ても|起《お》きても|忘《わす》れ|難《がた》き、|両親《りやうしん》の|古戦場《こせんじやう》で|御座《ござ》います……』
と|言《い》つた|限《き》り、|差俯《さしうつ》むいて|落涙《らくるゐ》する。
|孫公《まごこう》『なアんだ、あんな|小《ち》つぽけな|湖《みづうみ》か。|仮令《たとへ》|一杯《いつぱい》になつてゐた|所《ところ》で|知《し》れたものだ。|今度《こんど》は|神様《かみさま》と|一緒《いつしよ》だから|大丈夫《だいぢやうぶ》だ。メツタに|呑《の》まれるやうなこたアありますまい』
|三公《さんこう》『イエイエ、|今《いま》|見《み》る|様《やう》な|小《ちひ》さい|湖水《こすゐ》ぢやありませぬ。|山《やま》に|包《つつ》まれて|僅《わづか》に|其《その》|一部《いちぶ》が|見《み》えてゐる|計《ばか》りです。|目《め》も|届《とど》かぬ|許《ばかり》の|大湖水《だいこすゐ》ですよ。|何《なん》と|云《い》つても、ナイル|河《がは》の|水源地《すゐげんち》ですから、|大変《たいへん》なものです。|皆《みな》さま、|是《これ》からシツカリ|腹帯《はらおび》をしめて|行《ゆ》きませう』
|孫公《まごこう》『かう|云《い》ふ|時《とき》に|本当《ほんたう》の|宣伝使《せんでんし》が|一人《ひとり》あると、|大変《たいへん》|都合《つがふ》が|好《よ》いのだけれどなア』
|虎公《とらこう》『|孫公《まごこう》さま、|宣伝使《せんでんし》ぢやなかつたのか』
『|宣伝使《せんでんし》のお|供《とも》ですから|根《ね》つから|気《き》が|利《き》きませぬワイ。|併《しか》しながら|其《その》|様《やう》な|名前《なまへ》がなくても|心《こころ》に|誠《まこと》さへあれば、|大蛇《をろち》は|十分《じふぶん》|言向和《ことむけやは》す|事《こと》が|出来《でき》ませう。|名《な》は|実《じつ》の|賓《ひん》だから、|宣伝使《せんでんし》の|雅号《ががう》のみでは、|決《けつ》して|仕事《しごと》は|出来《でき》ませぬよ。|先《ま》づ|心細《こころぼそ》ければ、あなた|方《がた》|三人《さんにん》が|此《この》|孫公《まごこう》を|何《なん》とかして|宣伝使《せんでんし》に|選挙《せんきよ》して|下《くだ》さい。さうすれば|名実《めいじつ》|相叶《あひかな》ふ|所《ところ》の|大活動《だいくわつどう》をやりますから……』
|虎公《とらこう》『|名《な》は|実《じつ》の|主《ぬし》だから、|如何《どう》しても|名《な》がなくては|行《ゆ》くまい。|無名《むめい》の|戦《いくさ》になつて|了《しま》つちやつまらないからなア』
|孫公《まごこう》『|有難《ありがた》い、サア|普通《ふつう》|選挙《せんきよ》だ。|誰《たれ》も|彼《かれ》も|選挙権《せんきよけん》があるのだから、|早《はや》く|投票《とうへう》をして|下《くだ》さい。|併《しか》しながら|無記名《むきめい》|投票《とうへう》ですから、|其《その》|御考《おかんが》へで|願《ねが》ひます』
|虎公《とらこう》『|生憎《あひにく》|用紙《ようし》もなければ、|投票函《とうへうばこ》もありませぬが、|如何《どう》したら|宜《よろ》しからう』
|孫公《まごこう》『|先《ま》づ|選挙区《せんきよく》を|第一区《だいいつく》、|第二区《だいにく》、|第三区《だいさんく》と|分《わ》け、|私《わたし》が|候補者《こうほしや》に|立《た》ちますから、どうぞ|口頭《こうとう》でも|宜《よろ》しい、|早《はや》く|選挙《せんきよ》の|開始《かいし》を|願《ねが》ひます』
|虎公《とらこう》『|一票《いつぺう》に|幾《いく》ら|出《だ》しますか。|百円《ひやくゑん》|位《ぐらゐ》は|安《やす》いものでせう。|今《いま》|一寸《ちよつと》|衆議院《しうぎゐん》に|出《で》ようと|思《おも》へば、|少《すくな》くて|五万円《ごまんゑん》、|多《おほ》くて|十万円《じふまんゑん》は|要《い》りますからなア』
|孫公《まごこう》『|代物《だいもつ》は|見《み》ての|御帰《おかへ》り、|選挙《せんきよ》して|見《み》て|値打《ねうち》がないと|見《み》たら、|御取消《おとりけし》になつても|差支《さしつかへ》ありませぬ。そんなら|一層《いつそう》の|事《こと》|投票《とうへう》なしに|口《くち》で|言《い》つて|下《くだ》さいな。|簡単《かんたん》で|物事《ものごと》が|埒《らち》よう|運《はこ》びますから……』
|虎公《とらこう》『|投票《とうへう》を|省《はぶ》くなんて、【トヘウ】もない|事《こと》を|仰有《おつしや》いますなア。そんなら|虎公《とらこう》が|宣伝使《せんでんし》の|立候補《りつこうほ》の|宣言《せんげん》|致《いた》しますから、どうぞ|皆《みな》さま、|貴重《きちよう》の|一票《いつぺう》をお|恵《めぐ》み|下《くだ》さいませ。|候補者《こうほしや》|一人《ひとり》では|競争者《きやうさうしや》がなくて、|選挙《せんきよ》もサツパリ|張合《はりあひ》がない。|皆《みな》さま|何卒《どうぞ》|私《わたし》に|選挙《せんきよ》を|願《ねが》ひます。|一票《いつぺう》は|私《わたし》の|縁故《えんこ》たるお|愛《あい》さまに|願《ねが》ひませう。さうすればあと|一票《いつぺう》、|三《さん》|対《たい》|一《いち》によつて、|大勝利《だいしようり》ですから……』
|孫公《まごこう》『|困《こま》つたなア、|三公《さんこう》が|投票《とうへう》して|呉《く》れた|所《ところ》で、どちらも|同点数《どうてんすう》だ。|若《も》しさうなつた|時《とき》にはどうするのですか』
|虎公《とらこう》『|年長者《ねんちやうしや》を|当選者《たうせんしや》ときめませうかい』
|孫公《まごこう》『さうすると、|虎公《とらこう》さまは|幾《いく》つですか』
|虎公《とらこう》『あなたよりも|二三年《にさんねん》|古《ふる》いやうです』
|孫公《まごこう》『|困《こま》つたなア、さうすると|戦《たたか》はずして|敗北《はいぼく》かなア。エヽ|残念《ざんねん》な、|又《また》|次期《じき》の|総選挙《そうせんきよ》か|解散《かいさん》があつた|時《とき》に|華々《はなばな》しく|名乗《なの》つて|出《で》る|事《こと》にしよう。|今度《こんど》は|断念《だんねん》|致《いた》しませう。さうすると|虎公《とらこう》さまの|一人《ひとり》|舞台《ぶたい》だ、|仮令《たとへ》|三公《さんこう》さまが|棄権《きけん》しようが、|私《わたし》が|棄権《きけん》しようが、|当選《たうせん》|疑《うたがひ》なしといふものだ』
|三公《さんこう》『コレ|孫公《まごこう》さま、|飽《あ》くまでも|選挙場裡《せんきよぢやうり》に|立《た》つて|戦《たたか》ひなさい。|三五教《あななひけう》には|退却《たいきやく》の|二字《にじ》はないぢやありませぬか。|及《およ》ばずながら|私《わたし》があなたを|選挙《せんきよ》します。さうすれば|大多数《だいたすう》を|以《もつ》て|当選《たうせん》|疑《うたがひ》なしです。|一人《ひとり》でも|三公《さんこう》だから|三票《さんぺう》は|大丈夫《だいぢやうぶ》ですよ、アハヽヽヽ』
|虎公《とらこう》『|全部《ぜんぶ》|取消《とりけし》だ。|孫公《まごこう》さま、|臨時《りんじ》|宣伝使《せんでんし》となつて|吾々《われわれ》を|導《みちび》いて|下《くだ》さい。|私《わたし》は|辞退《じたい》しておきますから……』
|孫公《まごこう》『ヤア|有難《ありがた》い、そんなら|只今《ただいま》より|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》|孫公別命《まごこうわけのみこと》だからそのお|心組《つもり》で|願《ねが》ひます。|宣伝使《せんでんし》になつた|祝《いは》ひに、|一《ひと》つ|此《この》|山上《さんじやう》で|言霊戦《ことたません》をやりませう。|政見《せいけん》|発表《はつぺう》の|代《かは》りに|戦見《せんけん》|発表《はつぺう》|宣伝歌《せんでんか》をやりますから|謹聴《きんちやう》を|願《ねが》ひます………。
|神《かみ》が|表《おもて》に|現《あら》はれて  |賢者《けんしや》と|愚者《ぐしや》を|立別《たてわ》ける
|人《ひと》は|見《み》かけによらぬもの  |黒姫司《くろひめつかさ》にケンケンと
|朝《あさ》な|夕《ゆふ》なにボヤかれて  |馬鹿《ばか》な|男《をとこ》と|言《い》はれたる
|孫公司《まごこうつかさ》も|何時《いつ》|迄《まで》も  まごまごしてはゐられない
|心《こころ》の|奥《おく》のドン|底《ぞこ》に  |人《ひと》にみえない|智慧《ちゑ》がある
|智慧《ちゑ》の|光《ひかり》はいつまでも  |隠《かく》れて|消《き》ゆるものでない
|袋《ふくろ》の|中《なか》に|鋭利《えいり》なる  |錐《きり》ある|時《とき》は|【鋭脱】《えいだつ》し
|其《その》|鋒鋩《ほうばう》は|現《あら》はれる  |何《なん》にも|白山峠《しらやまたうげ》かと
|思《おも》うて|来《き》たのにこれは|又《また》  どうした|風《かぜ》の|吹《ふ》き|廻《まは》し
|月《つき》にスツポン|湖《みづうみ》の  |大蛇《をろち》の|奴《やつ》が|現《あら》はれて
|三公《さんこう》の|親《おや》を|食《く》たおかげ  |自転倒島《おのころじま》から|従《つ》いて|来《き》た
|孫公司《まごこうつかさ》は|選《えら》まれて  |思《おも》ひもよらぬ|宣伝使《せんでんし》
こんな|嬉《うれ》しい|事《こと》はない  |三公《さんこう》さまや|虎《とら》さまよ
お|前《まへ》は|神《かみ》か|竜神《りうじん》か  |木《こ》の|花姫《はなひめ》か|知《し》らねども
|余程《よつぽど》|身魂《みたま》の|光《ひか》る|奴《やつ》  |三五教《あななひけう》の|黒姫《くろひめ》が
|看破《かんぱ》し|得《え》ざりし|孫公《まごこう》の  |此《この》|神力《しんりき》を|認識《にんしき》し
|全会《ぜんくわい》|一致《いつち》の|勢《いきほ》ひで  |選挙《せんきよ》したのは|偉《えら》い|奴《やつ》
お|前《まへ》の|様《やう》な|選挙人《せんきよにん》  |世界《せかい》に|沢山《たくさん》あるなれば
|体主霊従《たいしゆれいじう》の|悪政《あくせい》は  |全《まつた》く|根絶《こんぜつ》するだらう
|聖人《せいじん》|賢人《けんじん》|哲人《てつじん》は  |野《の》に|埋《うづ》もれて|何時《いつ》|迄《まで》も
|頭《あたま》あがらぬ|今《いま》の|世《よ》に  こりや|又《また》|如何《どう》した|幸《さいは》ひか
|孫公別《まごこうわけ》の|宣伝使《せんでんし》  |神力《しんりき》|示《しめ》すはこれからだ
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |神《かみ》は|吾等《われら》と|倶《とも》にあり
|吾等《われら》は|神《かみ》の|子《こ》|神《かみ》の|宮《みや》  |三公《さんこう》さまが|両親《りやうしん》の
|命《いのち》を|取《と》つて|鼈《すつぽん》の  |湖《うみ》にひそめる|大蛇《をろち》|奴《め》を
|広大無辺《くわうだいむへん》の|神力《しんりき》の  |備《そな》はりきつた|宣伝使《せんでんし》
|孫公別《まごこうわけ》が|現《あら》はれて  |三公《さんこう》|虎公《とらこう》お|愛《あい》をば
|御供《おとも》の|神《かみ》と|定《さだ》めつつ  |進《すす》み|行《ゆ》くこそ|勇《いさ》ましき
|朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも  |月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも
|仮令《たとへ》|大地《だいち》は|沈《しづ》むとも  |辞職《じしよく》の|出来《でき》ない|宣伝使《せんでんし》
|握《にぎ》つた|上《うへ》は|放《はな》さない  |其《その》|執着《しふちやく》はスツポンが
かぶりついたる|如《ごと》くにて  |如何《どう》しても|斯《か》うしても|放《はな》しやせぬ
|三千世界《さんぜんせかい》の|梅《うめ》の|花《はな》  |一度《いちど》に|開《ひら》く|常磐木《ときはぎ》の
|松《まつ》の|神代《かみよ》がめぐり|来《き》て  |世《よ》におちぶれた|孫公《まごこう》も
|雲井《くもゐ》にぬき|出《で》た|白山《しらやま》の  |此《この》|絶頂《ぜつちやう》で|勇《いさ》ましく
|神《かみ》の|使《つかひ》の|宣伝使《せんでんし》  |任命《にんめい》されたる|上《うへ》からは
|仮令《たとへ》|野《の》の|末《すゑ》|山《やま》の|奥《おく》  |虎《とら》|狼《おほかみ》や|獅子《しし》|熊《くま》の
|狂《くる》へる|野辺《のべ》も|厭《いと》ひなく  |心《こころ》を|尽《つく》し|身《み》を|尽《つく》し
|筑紫《つくし》の|島《しま》は|云《い》ふも|更《さら》  |常世《とこよ》の|国《くに》や|高砂《たかさご》の
|島《しま》の|奥《おく》まで|乗込《のりこ》むで  |尊《たふと》き|神《かみ》の|御光《みひかり》を
|輝《かがや》き|渡《わた》すは|目《ま》のあたり  あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ』
|何処《どこ》ともなく|中空《ちうくう》より|宣伝歌《せんでんか》の|声《こゑ》が|聞《きこ》え|来《きた》る。|四人《よにん》は|不審《ふしん》の|眉《まゆ》をひそめながら、|耳《みみ》をすまして|聞《き》いてゐる。
『|神《かみ》が|表《おもて》に|現《あら》はれて  |善《ぜん》と|悪《あく》とを|立別《たてわ》ける
|善《ぜん》に|見《み》えても|悪霊《あくみたま》  |悪《あく》に|見《み》えても|善《ぜん》の|魂《たま》
|心《こころ》は|捩《ね》ぢけ|智慧《ちゑ》|曇《くも》り  |一寸先《いつすんさき》の|分《わか》らない
|凡夫《ぼんぶ》の|身魂《みたま》が|寄《よ》り|合《あ》うて  |神《かみ》の|尊《たふと》き|宣伝使《せんでんし》
|選挙《せんきよ》するとは|何事《なにごと》ぞ  |神《かみ》の|心《こころ》と|空蝉《うつせみ》の
|人《ひと》の|心《こころ》は|裏表《うらおもて》  |如何《いか》に|選挙《せんきよ》に|当選《たうせん》し
|月桂冠《げつけいくわん》を|得《え》たとても  |神《かみ》が|許《ゆる》さにや|真実《しんじつ》の
|誠《まこと》の|力《ちから》は|出《で》よまいぞ  あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|神《かみ》の|心《こころ》も|白山《しらやま》の  |此《この》|絶頂《ぜつちやう》でいろいろと
|心《こころ》を|砕《くだ》き|胸《むね》|痛《いた》め  |湖水《こすゐ》にひそむ|曲神《まがかみ》の
|其《その》|猛勢《まうせい》に|戦《をのの》いて  |無道《むだう》の|選挙《せんきよ》をしたとても
|微塵《みじん》も|効力《かうりよく》ない|程《ほど》に  |何《いづ》れも|心《こころ》を|取直《とりなほ》し
|早《はや》く|誠《まこと》に|立《たち》かへれ  |屋方《やかた》の|村《むら》の|親分《おやぶん》と
|羽振《はぶ》り|利《き》かした|三公《さんこう》も  |武野《たけの》の|村《むら》の|虎公《とらこう》も
|貴族《きぞく》|生《うま》れのお|愛《あい》まで  |神《かみ》の|教《をしへ》に|酔《よ》つぱらひ
|今《いま》は|全《まつた》く|山上《さんじやう》に  |身魂《みたま》は|堕落《だらく》して|了《しま》うた
|此《この》|為体《ていたらく》でありながら  |大蛇《をろち》の|潜《ひそ》むスツポンの
|湖《うみ》に|向《むか》つて|言霊《ことたま》の  |戦《たたか》ひせむとは|身知《みし》らずだ
|命《いのち》|知《し》らずの|侠客《けふかく》も  |今《いま》は|命《いのち》が|惜《を》しうなつて
そんな|弱音《よわね》を|吹《ふ》くのだろ  |弱音《よわね》ばかりか|臆病風《おくびやうかぜ》
|此《この》|山頂《さんちやう》に|吹《ふ》いてゐる  |朝《あさ》から|晩《ばん》まで|偉《えら》さうに
|肩肱《かたひぢ》いからし|大手《おほで》ふり  |法螺《ほら》|吹《ふ》き|廻《まは》つた|男達《をとこだて》
|何《なに》を|血迷《ちまよ》ひ|黒姫《くろひめ》の  |愛想《あいさう》を|尽《つ》かした|孫公《まごこう》に
|卑怯《ひけふ》|未練《みれん》に|頼《たの》むぞや  |少《すこ》しは|胸《むね》に|手《て》を|当《あ》てて
|考《かんが》へ|直《なほ》してみるがよい  |吾《われ》は|玉治別司《たまはるわけつかさ》
|神《かみ》に|代《かは》つて|一同《いちどう》に  |誠心《まことごころ》で|気《き》を|付《つ》ける
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ』
と|言《い》つたきり、|其《その》|声《こゑ》はピタリと|止《と》まる。
|四人《よにん》は|声《こゑ》の|出所《でどころ》を|求《もと》めて、|彼方《あちら》|此方《こちら》と|谷底《たにそこ》を|覗《のぞ》き|込《こ》んで|見《み》たが、そこらに|人《ひと》らしき|者《もの》の|影《かげ》も|見《み》えなかつた。ここに|一行《いつかう》|四人《よにん》は|白山峠《しらやまたうげ》の|急坂《きふはん》を|東北《とうほく》|指《さ》して|下《くだ》り|行《ゆ》く。
(大正一一・九・一六 旧七・二五 松村真澄録)
第一三章 |山颪《やまおろし》〔九七七〕
|白山峠《しらやまたうげ》の|絶頂《ぜつちやう》で  |普通《ふつう》|選挙《せんきよ》の|其《その》|結果《けつくわ》
|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》  |孫公別《まごこうわけ》と|名《な》のりつつ
|意気《いき》|揚々《やうやう》と|勇《いさ》み|立《た》ち  |肩肱《かたひぢ》|怒《いか》らし|宣伝歌《せんでんか》
|歌《うた》うて|勇《いさ》む|折柄《をりから》に  いづこともなく|神《かみ》の|声《こゑ》
われは|玉治別司《たまはるわけつかさ》  |一寸先《いつすんさき》の|見《み》えもせぬ
|凡夫《ぼんぶ》の|身《み》にて|宣伝使《せんでんし》  |選挙《せんきよ》するとは|何事《なにごと》ぞ
|早《はや》く|心《こころ》を|直《なほ》せよと  |云《い》はれて|孫公《まごこう》は|悄気《せうげ》かへり
|肩《かた》をすぼめてすたすたと  |白山峠《しらやまたうげ》の|峻坂《しゆんばん》を
|東北《とうほく》さして|下《くだ》りつつ  |足《あし》の|拍子《ひやうし》を|取《と》りながら
「ウントコドツコイ ドツコイシヨ」  |倒《こ》けなよ|倒《こ》けなよ|気《き》を|付《つ》けよ
|言《こと》あげしながら|下《くだ》り|行《ゆ》く。
|孫公別《まごこうわけ》は|足許《あしもと》|覚束《おぼつか》なく|爪先《つまさき》に|力《ちから》を|入《い》れながら、|坂道《さかみち》を|下《くだ》りつつ|歌《うた》ひ|出《だ》したり。
『|白山峠《しらやまたうげ》の|絶頂《ぜつちやう》で  「ウントコドツコイ |危《あぶ》ないぞ」
|言霊戦《ことたません》に|出陣《しゆつぢん》の  |其《その》|統帥《とうすい》を|得《え》むものと
|虎《とら》、|三《さん》、お|愛《あい》の|三人《さんにん》が  |鳩首謀議《きうしゆぼうぎ》の|其《その》|結果《けつくわ》
「ウントコドツコイ」|又《また》|辷《すべ》る  |俺《おれ》をば|尊《たふと》い|宣伝使《せんでんし》
|神《かみ》の|使《つかひ》にして|呉《く》れた  |世《よ》の|諺《ことわざ》にも|云《い》ふぢやないか
「ウントコドツコイ」|名《な》は|実《じつ》の  |賓《ひん》ではなうて|実《じつ》の|主《しゆ》と
|瑞《みづ》の|御霊《みたま》の|言《こと》の|葉《は》を  |一同《いちどう》|遵奉《じゆんぽう》|仕《つかまつ》り
|互《たがひ》に|心《こころ》を|合《あは》せあひ  |選《えら》むだ|処《ところ》を「ウントコシヨ」
「ドツコイ」|頭《あたま》の|天辺《てんぺ》から  |玉治別《たまはるわけ》だと|云《い》ひながら
|雷《らい》のやうなる|声《こゑ》をして  「ドツコイ」|叱《しか》りつけられた
こりや|又《また》|如何《どう》した|事《こと》だらう  |大蛇《をろち》の|奴《やつ》めが|化《ば》けて|来《き》て
|俺等《おれら》が|肝《きも》を|挫《くじ》かうと  あんな|狂言《きやうげん》したのだらう
|虎《とら》、|三《さん》、お|愛《あい》の|三人《さんにん》よ  |必《かなら》ず|心配《しんぱい》するでない
|曲津《まがつ》の|神《かみ》にだまされて  |如何《どう》して|御用《ごよう》が|勤《つと》まろか
|悪《あく》の|御霊《みたま》と|云《い》ふものは  |隅《すみ》から|隅《すみ》まで|気《き》を|配《くば》り
|水《みづ》も|漏《も》らさぬ|仕組《しぐみ》して  |手具脛《てぐすね》|引《ひ》いて|待《ま》つて|居《ゐ》る
|其処《そこ》の|処《ところ》を|考《かんが》へて  「ウントコドツコイ」|軽々《かるがる》に
|進《すす》んで|行《い》つちやならないぞ  |互《たがひ》に|足許《あしもと》|気《き》をつけて
|大蛇《をろち》の|吐《ほざ》いた|口車《くちぐるま》  |石《いし》の|車《くるま》に|乗《の》らぬよに
|注意《ちゆうい》をせなくちやなるまいぞ  さはさり|乍《なが》ら|俺《おれ》も|亦《また》
|何《なん》だか|気分《きぶん》が|悪《わる》なつて  「ウントコドツコイ」|張合《はりあひ》が
サツパリコンとなくなつた  「ドツコイドツコイ」|待《ま》て|暫《しば》し
これも|矢張《やつぱり》|神様《かみさま》が  |俺等《おれら》の|心《こころ》をためす|為《た》め
あゝ|云《い》ふ|手段《しゆだん》を|取《と》られたか  |凡夫《ぼんぶ》の|身《み》では|何《なん》ぢややら
|薩張《さつぱ》り|様子《やうす》が|分《わか》らない  |唯《ただ》|何事《なにごと》も|人《ひと》の|世《よ》は
|神《かみ》の|心《こころ》に|任《まか》すのだ  |任《まか》せきつたる|暁《あかつき》は
|如何《いか》なる|事《こと》かならざらむ  |大蛇《をろち》は|如何《いか》に|猛《たけ》くとも
|三五教《あななひけう》を|守《まも》ります  |仁慈無限《じんじむげん》の|皇神《すめかみ》の
|威力《ゐりよく》に|敵《てき》する|者《もの》はない  |私《わたし》は|確信《かくしん》ある|程《ほど》に
|皆《みな》さま|心《こころ》をシヤンと|持《も》て  「ドツコイシヨー ドツコイシヨー」
|思《おも》うたよりもきつい|坂《さか》  「ガラガラガラガラ アイタツタ」
あんまり|喋《しやべ》つた|天罰《てんばつ》で  「ドツコイドツコイ ドツコイシヨ」
すつてんころりと|転倒《てんたふ》し  |強《したた》か|背骨《せぼね》を|打《う》つたぞよ
こいつは|耐《たま》らぬ「ドツコイシヨ」  さはさり|乍《なが》ら「ウントコセ」
|今《いま》から|俺《おれ》が|屁古《へこ》たれて  どうして|成就《じやうじゆ》するものか
|常住不断《じやうぢうふだん》に|信仰《しんかう》した  |其《その》|神力《しんりき》の「ウントコシヨ」
|現《あら》はれ|出《い》づる|今《いま》や|時《とき》  |神《かみ》が|表《おもて》に|現《あら》はれて
|善悪正邪《ぜんあくせいじや》を|立《た》て|別《わ》ける  |其《その》|御言葉《おことば》が|実《じつ》ならば
|決《けつ》して|心配《しんぱい》「ドツコイシヨ」  |皆《みな》さま|喜《よろこ》べ|要《い》らないぞ
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |国魂神《くにたまがみ》の|純世姫《すみよひめ》
|月照彦《つきてるひこ》の|御前《おんまへ》に  |三五教《あななひけう》の|孫公《まごこう》が
|孫公別《まごこうわけ》と|現《あら》はれて  「ウントコドツコイ」|選《えら》まれて
|今《いま》は|尊《たふと》き|宣伝使《せんでんし》  |心《こころ》を|平《たひら》に|安《やす》らかに
|諾《うべな》ひたまひて|鼈《すつぽん》の  |湖水《こすゐ》の|大蛇《をろち》を|悉《ことごと》く
|言向《ことむ》け|和《やは》す|神力《しんりき》を  |授《さづ》けたまへよ|惟神《かむながら》
|神《かみ》の|御前《みまへ》に|誠心《まごころ》を  |捧《ささ》げて|祈《いの》り|奉《たてまつ》る
「ウントコドツコイ ドツコイシヨ」  レコード|破《やぶ》りの|風《かぜ》が|吹《ふ》く
「ウントコドツコイ」|散《ち》らされな  ウカウカしとると|笠《かさ》が|飛《と》ぶ
|笠《かさ》ばつかりか|体《からだ》まで  |木《こ》の|葉《は》のやうに|散《ち》りさうだ
「ウントコドツコイ」|力瘤《ちからこぶ》  |体《からだ》に|一面《いちめん》「ウントコシヨ」
|神徳《しんとく》ばかりを|充実《じうじつ》し  この|難関《なんくわん》をやすやすと
|貫通《くわんつう》さして|下《くだ》さんせ  |偏《ひとへ》に|願《ねが》ひ|奉《たてまつ》る
|畏《かしこ》み|畏《かしこ》み|願《ね》ぎまつる』
と|歌《うた》ひながら、|風《かぜ》に|吹《ふ》かれつつ|急坂《きふはん》を|下《くだ》り|行《ゆ》く。
お|愛《あい》の|方《かた》は|声《こゑ》も|静《しづ》かに|歌《うた》ひ|出《だ》す。
『|熊襲《くまそ》の|国《くに》に|名《な》も|高《たか》き  |白山峠《しらやまたうげ》の|峰《みね》よりも
|誉《ほまれ》の|高《たか》き|三五《あななひ》の  |道《みち》に|仕《つか》ふる|宣伝使《せんでんし》
|黒姫《くろひめ》さまの|供《とも》となり  |現《あら》はれ|来《き》ます|孫公《まごこう》が
|皇大神《すめおほかみ》の|御心《みこころ》も  |悟《さと》らせたまはず|山《やま》の|上《うへ》
|上《のぼ》りつめたる|慢心《まんしん》の  |雲《くも》に|包《つつ》まれ|自分《じぶん》より
|名《な》さへめでたき|宣伝使《せんでんし》  |孫公別《まごこうわけ》と|名乗《なの》りつつ
|意気《いき》|揚々《やうやう》と|勇《いさ》み|立《た》ち  |喜《よろこ》び|給《たま》ふ|折柄《をりから》に
|天津御空《あまつみそら》に|神《かみ》の|声《こゑ》  |忽《たちま》ち|聞《きこ》ゆる|恐《おそ》ろしさ
|名利《めいり》の|欲《よく》にかられたる  |孫公《まごこう》さまは|気《き》が|付《つ》かず
|宣伝使《せんでんし》をば|笠《かさ》にきて  |白山峠《しらやまたうげ》を|下《くだ》り|行《ゆ》く
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |三五教《あななひけう》の|孫公《まごこう》よ
どうぞ|心《こころ》を|取《と》り|直《なほ》し  |執着心《しふちやくしん》を|払拭《ふつしき》し
|矢張《やつぱり》|元《もと》の|孫公《まごこう》で  |大蛇《をろち》|退治《たいぢ》に|行《ゆ》くがよい
|恋路《こひぢ》の|欲《よく》に|離《はな》れたる  お|前《まへ》は|又《また》もや|宣伝《せんでん》の
|司《つかさ》の|名誉《めいよ》に|憧《あこが》れて  |天地《てんち》の|神《かみ》の|許《ゆる》さない
|雅号《ががう》をたてに|進《すす》み|行《ゆ》く  |其《その》|心根《こころね》ぞいぢらしき
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  お|前《まへ》の|心《こころ》が|一時《いつとき》も
|早《はや》く|誠《まこと》にかへるよに  お|愛《あい》が|祈《いの》る|胸《むね》の|中《うち》
|些《ち》つとは|推量《すゐりやう》してお|呉《く》れ  もうしもうし|皆《みな》さまよ
お|足《あし》に|気《き》をつけなされませ  |此処《ここ》には|蜈蚣《むかで》が|沢山《たんと》|居《を》る
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |神《かみ》の|許《ゆる》さぬ|宣伝使《せんでんし》
|大蛇《をろち》の|退治《たいぢ》が|何《なん》として  |旨《うま》く|出来《でき》るで|御座《ござ》いませう
|私《わたし》は|案《あん》じて|耐《たま》らない  |左様《さやう》な|野心《やしん》を|起《おこ》すより
|今《いま》の|間《あひだ》に|改《あらた》めて  |元《もと》の|心《こころ》に|立《た》ち|帰《かへ》り
|天津御空《あまつみそら》に|跼《せぐく》まり  |大地《だいち》に|蹐《ぬきあし》なしながら
|謙遜《へりくだ》りつつ|三五《あななひ》の  |道《みち》を|歩《あゆ》むで|下《くだ》さんせ
これぞお|愛《あい》が|孫公《まごこう》に  |対《たい》する|誠《まこと》の|親切《しんせつ》よ
|悪《わる》うは|思《おも》うて|下《くだ》さるな  あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さち》はひましまして  |吾等《われら》|四人《よにん》の|一行《いつかう》が
|神《かみ》の|御前《みまへ》に|功績《いさをし》を  |太《ふと》しく|立《た》てて|故郷《ふるさと》に
|一日《ひとひ》も|早《はや》く|帰《かへ》るべく  |守《まも》らせたまへよ|天津神《あまつかみ》
|国津神《くにつかみ》|達《たち》|百《もも》の|神《かみ》  |国魂神《くにたまがみ》の|御前《おんまへ》に
|誠心《まごころ》|籠《こ》めて|願《ね》ぎまつる』
と|歌《うた》ひつつ|静《しづか》に|下《くだ》り|行《ゆ》く。
|三公《さんこう》は|坂《さか》を|下《くだ》りつつ|歌《うた》ひ|出《だ》す。
『「ヤツトコドツコイウントコシヨ」  |向《むか》ふに|見《み》える|湖水《みづうみ》は
|父《ちち》と|母《はは》とが|其《その》|昔《むかし》  |八岐《やまた》の|大蛇《をろち》の|片割《かたわれ》と
|人《ひと》の|怖《おそ》るる|曲神《まがかみ》に  |命《いのち》を|取《と》られた「ドツコイシヨ」
|思《おも》ひ|出《で》|深《ふか》き|仇《あだ》の|湖水《うみ》  |三五教《あななひけう》の|御教《みをしへ》を
|聞《き》いて|心《こころ》を|取《と》り|直《なほ》し  |心《こころ》|平《たひら》に|安《やす》らかに
|敵《てき》を|言向《ことむ》け|和《やは》さむと  |一《いつ》たん|心《こころ》に|決《き》めたれど
どうしてこれが「ウントコシヨ」  |恨《うらみ》を|晴《は》らさで|置《お》かれうか
|熊襲《くまそ》の|国《くに》に|名《な》を|売《う》つた  |屋方《やかた》の|村《むら》の|三公《さんこう》が
|顔《かほ》にも|係《かか》はる|一大事《いちだいじ》  |親《おや》の|敵《かたき》を|前《まへ》に|見《み》て
|無抵抗主義《むていかうしゆぎ》の|御教《みをしへ》が  どうして|実行《じつかう》|出来《でき》ようか
|思《おも》へば|思《おも》へば|腹《はら》が|立《た》つ  |年《ねん》が|年中《ねんぢう》|大蛇《をろち》|奴《め》を
|亡《ほろ》ぼしくれむと|思《おも》ひ|詰《つ》め  |大蛇々々《をろちをろち》と|口癖《くちぐせ》に
「ウントコドツコイ」|云《い》ひ|通《とほ》し  |世界《せかい》の|奴《やつ》らが「ドツコイシヨ」
|大蛇《をろち》の|三公《さんこう》と|呼《よ》び|出《だ》した  |皆《みな》さま|足許《あしもと》|用心《ようじん》だ
|蜈蚣《むかで》や|蠑〓《ゐもり》がのそのそと  |其辺《そこら》あたりを|這《は》うて|来《く》る
|孫公《まごこう》さまの|宣伝使《せんでんし》  |何程《なにほど》|道力《しんりき》あるとても
|何《なん》だか|影《かげ》が|薄《うす》いよだ  こんな|事《こと》なら|黒姫《くろひめ》を
|無理《むり》に|頼《たの》んで「ドツコイシヨ」  |来《き》て|貰《もら》つたらよかつたに
|後《あと》で|気《き》の|付《つ》く「ドツコイシヨ」  |癲癇病者《てんかんやみ》の|馬鹿《ばか》|思案《しあん》
|後《あと》の|祭《まつり》ぢや|仕方《しかた》ない  もうこれからは|俺達《おれたち》は
|天地《てんち》の|神《かみ》を|一心《いつしん》に  |祈《いの》りて|神《かみ》の|御守《おんまも》り
「ウントコドツコイ」|守《まも》られて  |亡《ほろ》ぼすよりも|道《みち》はない
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |純世姫《すみよのひめ》の|御前《おんまへ》に
|心《こころ》を|籠《こ》めて|願《ね》ぎまつる  |朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも
|月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも  |湖水《こすゐ》の|大蛇《をろち》は|猛《たけ》ぶとも
|地震《ぢしん》|雷《かみなり》|火《ひ》の|雨《あめ》が  |一度《いちど》に|襲《おそ》ひ|来《きた》るとも
|誠《まこと》|一《ひと》つの|言霊《ことたま》の  |御息《みいき》に|大蛇《をろち》を|言向《ことむ》けて
|凱旋《がいせん》せなくちや「ドツコイシヨ」  |数多《あまた》の|乾児《こぶん》に|三公《さんこう》の
|男《をとこ》が|立《た》たない「ドツコイシヨ」  |今《いま》|迄《まで》|作《つく》つた|罪悪《ざいあく》の
|報《むく》いは|忽《たちま》ち|顕《あら》はれて  |黒姫《くろひめ》さまには|見離《みはな》され
|力《ちから》の|足《た》らぬ|孫公《まごこう》の  「ウントコドツコイ」|手《て》に|余《あま》る
|勁敵《けいてき》|前《まへ》に|控《ひか》へつつ  |進《すす》み|行《ゆ》く|身《み》ぞ|悲《かな》しけれ
|此《この》|世《よ》を|造《つく》りし|神直日《かむなほひ》  |心《こころ》も|広《ひろ》き|大直日《おほなほひ》
|今《いま》|迄《まで》|尽《つ》くせし|身《み》の|咎《とが》を  |直日《なほひ》に|見直《みなほ》し|聞直《ききなほ》し
「ウントコドツコイ」|宣《の》り|直《なほ》し  |許《ゆる》させたまへや|天津神《あまつかみ》
|国津神《くにつかみ》|達《たち》|国魂《くにたま》の  |御前《みまへ》に|願《ねが》ひ|奉《たてまつ》る
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ』
と|歌《うた》ひながら|下《くだ》り|行《ゆ》く。
|虎公《とらこう》は|又《また》もや|歌《うた》ひ|出《だ》す。
『「ウントコドツコイ ドツコイシヨ」  |此《この》|山道《やまみち》は|些《ち》と|酷《ひど》い
うつかりしとると|谷底《たにそこ》へ  |転《ころ》むで|頭《あたま》を|割《わ》る|程《ほど》に
「ウントコドツコイ」|気《き》をつけよ  「アイタタタツタ」|躓《つまづ》いた
|彼方《かなた》|此方《こなた》に「ドツコイシヨ」  |高《たか》い|石《いし》|奴《め》がゴロゴロと
|遠慮《ゑんりよ》もなしに|転《ころ》げてる  こんな|手合《てあひ》に|出遇《であ》つたら
|武野《たけの》の|村《むら》の|侠客《けふかく》も  |到底《たうてい》|頭《あたま》が|上《あが》らない
|獅子《しし》|狼《おほかみ》や|虎《とら》|熊《くま》や  |鬼《おに》や|大蛇《をろち》も|恐《おそ》れない
|此《この》|虎公《とらこう》も「ドツコイシヨ」  |此《この》|坂道《さかみち》にや|耐《たま》らない
|何時《なんどき》|辷《すべ》つて「ウントコシヨ」  |真逆様《まつさかさま》に|顛倒《てんとふ》し
|頭《あたま》を|割《わ》るか|分《わか》らない  |孫公《まごこう》さまに|神徳《しんとく》が
|十分《じふぶん》に|具《そな》はり|居《ゐ》るならば  こんな|心配《しんぱい》ないけれど
|俄作《にはかづく》りの|宣伝使《せんでんし》  「ウントコドツコイ」|鼻糞《はなくそ》で
|的張《まとは》つたやうな|心持《こころもち》  ま|一《ひと》つ|安心《あんしん》|出来《でき》|難《にく》い
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |師匠《ししやう》を|杖《つゑ》につくでない
|人《ひと》をば|力《ちから》に|致《いた》さずに  |誠《まこと》の|神《かみ》を|力《ちから》とし
「ウントコドツコイ」|行《ゆ》くならば  どんな|守護《まもり》もしてやると
|大神様《おほかみさま》の|神勅《みことのり》  |俺《おれ》はこれから「ドツコイシヨ」
|孫公《まごこう》さまの|宣伝使《せんでんし》  |力《ちから》になさず|村肝《むらきも》の
|心《こころ》の|誠《まこと》を|発揮《はつき》して  |威猛《ゐたけ》り|狂《くる》ふ|曲神《まがかみ》の
|陣屋《ぢんや》に|忽《たちま》ち|突進《とつしん》し  |勝鬨《かちどき》あげて|世《よ》の|人《ひと》の
「ウントコドツコイ」|禍《わざはひ》を  |根本的《こんぽんてき》に|除却《ぢよきやく》して
|武野《たけの》の|村《むら》の|侠客《けふかく》と  |云《い》はれた|誉《ほまれ》を|弥高《いやたか》に
|筑紫《つくし》の|島《しま》に|輝《かがや》かし  |三五教《あななひけう》の|道《みち》のため
|尽《つく》さにやおかぬわが|願《ねが》ひ  |完美《うまら》に|委曲《つばら》に|聞《きこ》し|召《め》し
|守《まも》らせ|給《たま》へ|天津神《あまつかみ》  |国津神《くにつかみ》|達《たち》|八百万《やほよろづ》
|産土神《うぶすながみ》の|御前《おんまへ》に  |畏《かしこ》み|畏《かしこ》み|願《ね》ぎまつる
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ』
と|歌《うた》ひながら、|漸《やうや》くにして|下《くだ》り|三里《さんり》の|山坂《やまさか》も、|其《その》|日《ひ》の|真昼《まひる》|頃《ごろ》|麓《ふもと》に|下《くだ》りつきにけり。
(大正一一・九・一六 旧七・二五 加藤明子録)
第一四章 |空気焔《からきえん》〔九七八〕
|一行《いつかう》|四人《よにん》は|漸《やうや》くにしてスツポンの|湖水《こすゐ》の|南岸《なんがん》に|辿《たど》り|着《つ》いた。|此《この》|時《とき》|已《すで》に|夜《よ》はズツプリと|暮《く》れ|果《は》て、|鬼哭愁々《きこくしうしう》として|寂寥《せきれう》|身《み》に|迫《せま》り|来《きた》る。|肝腎《かんじん》の|自称《じしよう》|宣伝使《せんでんし》|孫公別《まごこうわけ》は、|地震《ぢしん》の|孫《まご》よろしく|歯《は》の|根《ね》をガチガチ|云《い》はせ|乍《なが》ら、|蒼白《まつさを》の|顔《かほ》してスクミ|上《あが》つてゐる。|岩石《がんせき》も|吹《ふ》き|散《ち》らすばかりの|疾風《しつぷう》|頻《しき》りに|吹《ふ》き|来《きた》り、|其《その》|物凄《ものすご》き|事《こと》|例《たと》ふるに|物《もの》なく、|孫公別《まごこうわけ》は|樹《き》の|根《ね》に|確《しか》と|抱《だ》きついて、|其《その》|身《み》の|吹《ふ》き|散《ち》るのを|辛《から》うじて|防《ふせ》いで|居《ゐ》る。|三人《さんにん》も|黄楊《つげ》の|木《き》の|根元《ねもと》にペタリと|平太《へた》つて|風《かぜ》の|過《す》ぐるを|待《ま》つのみ。
|湖水《こすゐ》は|俄《にはか》に|沸《わ》き|返《かへ》る|様《やう》な|音《おと》を|立《た》て、ブクブクブクと|泡立《あわだ》ち|始《はじ》めた。|暗夜《あんや》なれども|湖面《こめん》の|泡立《あわだ》つ|色《いろ》は|明瞭《めいれう》に|見《み》えて|居《ゐ》る。|暫《しば》らくすると|大入道《おほにふだう》の|立《た》つた|様《やう》に|波《なみ》の|柱《はしら》が|彼方《あちら》|此方《こちら》にムクムクと|突出《つきだ》し、|砕《くだ》けては|湖面《こめん》に|落《お》つる|其《その》|物音《ものおと》、|実《じつ》に|凄《すさま》じく|身《み》の|毛《け》も|竦《よだ》つ|許《ばか》りなり。|湖中《こちう》の|彼方此方《あちらこちら》より、|青《あを》|赤《あか》|白《しろ》|黄《き》|等《など》の|火《ひ》の|玉《たま》|数《かず》|限《かぎ》りもなく|現《あら》はれ|来《きた》り、|長《なが》い|尾《を》を|中空《ちうくう》に|引摺《ひきず》りブーンブーンと|呻《うな》りをたて、|四方《しはう》|八方《はつぱう》に|向《むか》つて|突進《とつしん》し|来《きた》る。|見《み》ればお|玉杓子《たまじやくし》の|様《やう》な|姿《すがた》で、|玉《たま》の|処《ところ》に|色々《いろいろ》といやらしき|凄《すご》い|顔《かほ》がついて|居《ゐ》る。|此《この》|怪物《くわいぶつ》は|四人《よにん》の|側《そば》に|集《あつま》り|来《きた》り、|頭上《づじやう》を|前後左右《ぜんごさいう》に|飛《と》び|廻《まは》れども、|如何《どう》したものか|身辺《しんぺん》には|寄《よ》りついて|来《こ》ない。|僅《わづ》か|一二間《いちにけん》|迄《まで》やつて|来《く》るのが|精々《せいぜい》である。
お|愛《あい》『|今晩《こんばん》は|妙《めう》な|夜《よさ》で|御座《ござ》いますな。|大蛇《をろち》の|神《かみ》さま、|色々《いろいろ》と|玉《たま》を|現《あら》はし、|吾々《われわれ》|一行《いつかう》の|歓迎会《くわんげいくわい》を|開《ひら》いて|御座《ござ》らつしやるのでせう。ほんに|気《き》の|利《き》いた|神《かみ》さまですこと、オホヽヽヽ。|火《ひ》の|玉《たま》さまのお|蔭《かげ》でレコード|破《やぶ》りの|風《かぜ》もスツカリ|止《と》まつて|了《しま》ひました。あの|物凄《ものすご》かりしブクブクも|水柱《みづばしら》の|大入道《おほにふだう》も、|何処《どこ》かへ|沈没《ちんぼつ》して|了《しま》つたと|見《み》えます。これも|全《まつた》く|孫公別《まごこうわけ》の|宣伝使《せんでんし》|様《さま》の|御神徳《ごしんとく》で|御座《ござ》いませう。ねー|虎公《とらこう》さま、|三公《さんこう》さま、|宣伝使《せんでんし》の|御神徳《ごしんとく》と|云《い》ふものは|随分《ずゐぶん》えらいもので|御座《ござ》いますなア』
|虎公《とらこう》『|大蛇《をろち》の|奴《やつ》、|今《いま》|三番叟《さんばそう》を|始《はじ》めよつた|処《ところ》だ。|之《これ》からが|見物《みもの》だよ。こんな|事《こと》はホンの|一部分《いちぶぶん》だ。|之《これ》からが|孫公別《まごこうわけ》|宣伝使《せんでんし》のお|骨《ほね》の|折《を》れる|処《ところ》だ。もし|宣伝使《せんでんし》|様《さま》、|如何《いかが》で|御座《ござ》いますか。|何時迄《いつまで》も|木《き》の|株《かぶ》に|抱《だ》きついて|居《を》つても|木《き》はものを|言《い》ひませぬぞ』
|孫公別《まごこうわけ》は|歯《は》をガチガチ|云《い》はせ|乍《なが》ら、
『いやモウモウモウ タヽヽ|大変《たいへん》な|事《こと》が|始《はじ》まりました。|本当《ほんたう》に|愉快《ゆくわい》な……|事《こと》で……|御座《ござ》いませぬわい。どうも|早《はや》|神力《しんりき》の|持《も》ち|合《あは》せが……ないものだから、|斯《こ》んな|場合《ばあひ》には|一寸《ちよつと》|面喰《めんくら》ふ|様《やう》な……|男《をとこ》では…ありませぬ』
|虎公《とらこう》『ハヽヽヽヽ|孫公別《まごこうわけ》|様《さま》さへ|此処《ここ》に|控《ひか》へて|御座《ござ》れば|大磐石《だいばんじやく》だ。なあ|三公《さんこう》さま、|貴方《あなた》も|安心《あんしん》でせう。|先《ま》づ|宣伝使《せんでんし》に|宣伝歌《せんでんか》を|歌《うた》つて|頂《いただ》き、|大蛇《をろち》の|奴《やつ》を|言向和《ことむけやは》して|頂《いただ》きませうか』
|三公《さんこう》『|三公《さんこう》(|参考《さんかう》)の|為《た》めに|一寸《ちよつと》|宣伝歌《せんでんか》を|試《こころ》みて|頂《いただ》きませうか。もしもし|孫公別《まごこうわけ》|様《さま》、|何卒《どうぞ》|一《ひと》つ|願《ねが》ひやす』
『これだから【もの】の|頭《かしら》になると|責任《せきにん》が|加《くは》はつて|困《こま》るのだ。|平和《へいわ》の|時《とき》は|大変《たいへん》|結構《けつこう》な|様《やう》だが、こんな|時《とき》に|筒先《つつさき》に|向《む》けられるのは|随分《ずゐぶん》|辛《つら》いな……オツト|待《ま》てよ、|大将《たいしやう》は|帷幄《ゐあく》の|中《うち》に|画策《くわくさく》を|廻《めぐ》らすのがお|役《やく》だ。|玉除《たまよ》けになるのは|雑兵《ざふひやう》のする|事《こと》だ。|兎《と》も|角《かく》|後《あと》は|宣伝使《せんでんし》が|引受《ひきう》けるから、|三公《さんこう》さま、|一《ひと》つ|初陣《うひぢん》をやつて|下《くだ》さい。あの|通《とほ》り|火《ひ》の|玉《たま》が|刻々《こくこく》に|殖《ふ》えて|来《く》る。|愚図々々《ぐづぐづ》して|居《を》れば、|敵《てき》に|先鞭《せんべん》をつけられる|虞《おそ》れがあるから、|一《ひと》つ|若《わか》い|意気《いき》に|先発隊《せんぱつたい》を|勤《つと》めて|下《くだ》さい。|孫公《まごこう》|御大《おんたい》の|命令《めいれい》だ』
『|是非々々《ぜひぜひ》|先生《せんせい》に|願《ねが》はなくちや、|此《この》|戦闘《せんとう》は|駄目《だめ》です。|戦《たたか》はずして|敵《てき》を|呑《の》むと|云《い》ふ|気概《きがい》のある、|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》が|神力《しんりき》の|試《ため》し|時《どき》だ。さあさあ|意茶《いちや》つかさずにやつて|下《くだ》さい……|虎公《とらこう》さま、お|愛《あい》さま、さう|願《ねが》つたら|如何《どう》でせうかな』
『|無論《むろん》の|事《こと》です。|先頭《せんとう》に|立《た》つて|働《はたら》くから|宣伝使《せんでんし》と|云《い》ふのだ。|何卒《どうぞ》|孫公別《まごこうわけ》|様《さま》、お|願《ねが》ひ|申《まを》します』
『|宣伝使《せんでんし》|様《さま》、|女神《めがみ》から|宜《よろ》しうお|願《ねが》ひ|致《いた》します。|一《ひと》つ|御神力《ごしんりき》を|現《あら》はして|下《くだ》さいませ』
『|【先】頭《せんとう》に【|出《で》ん】から|宣伝使《せんでんし》と|云《い》ふのだけれどなア。えー|詮方《せんかた》ない。そんなら|一《ひと》つ|千変万化《せんぺんばんくわ》の|言霊《ことたま》の|妙用《めうよう》を|尽《つく》して、あの|火《ひ》の|玉《たま》を|一《ひと》つも|残《のこ》らず|水底《すゐてい》に|蟄伏《ちつぷく》させて|見《み》せませう』
と、|痩我慢《やせがまん》を|出《だ》し、|震《ふる》ひ|声《ごゑ》になり|宣伝歌《せんでんか》を|歌《うた》ひ|始《はじ》むる。
『|神《かみ》が|表《おもて》に|現《あら》はれて  |千変万化《せんぺんばんくわ》の|言霊《ことたま》で
|湖水《こすゐ》の|大蛇《をろち》を|言向《ことむ》ける  |湖水《こすゐ》に|浮《うか》んだ|火《ひ》の|玉《たま》よ
お|前《まへ》はそれ|程《ほど》|三五《あななひ》の  |神《かみ》の|教《をしへ》が|怖《こは》いのか
|一間先《いつけんさき》|迄《まで》やつて|来《き》て  |怖《こは》|相《さう》に|怖《こは》|相《さう》に|尾《を》を|下《さ》げて
チツとも|寄《よ》つて|来《こ》ぬぢやないか  |矢張《やつぱ》りお|前《まへ》も|智慧《ちゑ》がある
|神徳《しんとく》|高《たか》き|宣伝使《せんでんし》  |孫公別《まごこうわけ》の|御前《おんまへ》と
|恐《おそ》れみ|謹《つつし》み|萎縮《ゐしゆく》して  |怖々《おぢおぢ》してるに|違《ちが》ひない
|善《ぜん》と|悪《あく》とを|立別《たてわ》ける  |此《この》|世《よ》を|造《つく》りし|大神《おほかみ》の
|任《よさ》し|給《たま》ひし|神司《かむづかさ》  |善《ぜん》の|身魂《みたま》を|救《すく》ひあげ
|悪《あく》の|身魂《みたま》を|言向《ことむ》けて  |五六七《みろく》の|神《かみ》の|御世《みよ》となし
|神《かみ》も|仏事《ぶつじ》も|人間《にんげん》も  |鳥《とり》|獣《けだもの》も|虫族《むしけら》も
|草木《くさき》の|末《すゑ》に|至《いた》るまで  |神《かみ》の|恵《めぐみ》を|均霑《きんてん》し
|天ケ下《あめがした》なる|万物《ばんぶつ》は  |大小高下《だいせうかうげ》の|隔《へだ》てなく
|機会《きくわい》|均等《きんとう》|主義《しゆぎ》をとり  |残《のこ》らず|桝掛《ますか》け|引《ひ》き|均《なら》し
|世《よ》を|立直《たてなほ》す|神《かみ》の|道《みち》  |須弥仙山《しゆみせんざん》に|腰《こし》を|掛《か》け
|艮金神《うしとらこんじん》|鬼門神《きもんがみ》  |守《まも》り|玉《たま》へる|世《よ》の|中《なか》ぢや
|湖水《こすゐ》に|棲《す》める|大蛇《をろち》ども  |今《いま》から|心《こころ》を|立直《たてなほ》し
|三五教《あななひけう》にて|名《な》も|高《たか》き  |神徳《しんとく》|満《み》つる|宣伝使《せんでんし》
|孫公別《まごこうわけ》の|言霊《ことたま》を  |耳《みみ》をすまして|聞《き》きとれよ
|天ケ下《あめがした》には|善悪《ぜんあく》の  |区別《くべつ》も|無《な》ければ|敵味方《てきみかた》
|等《など》の|差別《けぢめ》はない|程《ほど》に  |迷《まよ》ひの|雲霧《くもきり》|吹《ふ》き|払《はら》ひ
|火玉《ひだま》を|鎮《しづ》めておとなしく  |尊《たふと》き|神《かみ》の|御教《みをしへ》を
|慎《つつし》み|畏《かしこ》み|聞《き》くがよい  あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|吾《われ》は|玉治別《たまはるわけ》の|神《かみ》  「オツトドツコイ」こりや|違《ちが》ふ
|黒姫《くろひめ》さまの|一《いち》の|弟子《でし》  |何程《なにほど》|強《つよ》い|悪魔《あくま》でも
|仮令《たとへ》|八岐《やまた》の|大蛇《をろち》でも  ビクとも|致《いた》さぬヒーローよ
|見事《みごと》|甲斐性《かひしやう》があるならば  |一《ひと》つ|力《ちから》を|出《だ》して|見《み》よ
|孫公別《まごこうわけ》の|吹《ふ》き|捨《す》つる  |伊吹《いぶき》の|狭霧《さぎり》に|悉《ことごと》く
|木端微塵《こつぱみぢん》に|踏《ふ》み|砕《くだ》き  |亡《ほろ》ぼし|絶《た》やすは|目《ま》のあたり
|之《これ》が|合点《がつてん》いたならば  |心《こころ》の|底《そこ》から|改《あらた》めて
|孫公別《まごこうわけ》の|御前《おんまへ》に  お|詫《わび》をするが|第一《だいいち》だ
これ|程《ほど》|事《こと》を|細《こま》やかに  |分《わ》けて|諭《さと》してやる|事《こと》を
|聞《き》かねば|聞《き》かぬで|構《かま》はない  |俺《おれ》にも|覚悟《かくご》がある|程《ほど》に
|早《はや》く|返答《へんたふ》を|聞《き》かせよや  |孫公別《まごこうわけ》の|宣伝使《せんでんし》
|国治立大神《くにはるたちのおほかみ》や  |金勝要大御神《きんかつかねのおほみかみ》
|神素盞嗚大神《かむすさのをのおほかみ》の  |三柱神《みはしらがみ》を|代表《だいへう》し
|湖水《こすゐ》の|底《そこ》に|潜《ひそ》み|居《ゐ》る  |大蛇《をろち》の|魔神《まがみ》に|宣《の》り|伝《つた》ふ
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ』
と|始《はじ》めは|恐《こは》|相《さう》に|震《ふる》ひ|声《ごゑ》に|歌《うた》つて|居《ゐ》たが、|終《しま》ひにはド|拍子《びやうし》の|抜《ぬ》けた|大声《おほごゑ》を|張《は》り|上《あ》げ|歌《うた》ひ|出《だ》す。|孫公《まごこう》の|歌《うた》|終《をは》るや|否《いな》や、|獅子《しし》|狼《おほかみ》の|幾万匹《いくまんびき》、|一度《いちど》に|呻《うな》る|様《やう》な|怪《あや》しき|声《こゑ》|四方《しはう》|八方《はつぱう》より|聞《きこ》え|来《きた》り、|青《あを》|赤《あか》|黄《き》|等《など》の|火《ひ》は|彼方《あちら》|此方《こちら》にペロペロと|燃《も》えては|消《き》え、|燃《も》えては|消《き》え、|又《また》もや|烈風《れつぷう》|吹《ふ》き|出《だ》し|大地《だいち》は|震動《しんどう》し、|如何《いかん》ともする|術《すべ》なければ、|孫公《まごこう》は|再《ふたた》び|元《もと》の|樫《かし》の|樹《き》の|根株《ねかぶ》に|確《しか》と|喰《くら》ひつき|身《み》を|震《ふる》はし|蹲《しやが》み|居《ゐ》る。
|三公《さんこう》は|黄楊《つげ》の|木《き》の|幹《みき》を|片手《かたて》で|握《にぎ》り、|烈風《れつぷう》の|中《なか》に|立《た》ち|身体《からだ》の|中心《ちうしん》をとりながら|湖面《こめん》に|向《むか》つて|言霊《ことたま》を|宣《の》り|始《はじ》めたり。
『|八岐《やまた》の|大蛇《をろち》の|片割《かたわ》れと  |現《あら》はれ|湖底《こてい》に|忍《しの》び|居《ゐ》る
|大蛇《をろち》の|魔神《まがみ》よよつく|聞《き》け  |抑《そもそ》も|大蛇《をろち》の|三公《さんこう》とは
|吾《わが》|事《こと》なるぞスツポンの  |湖水《こすゐ》を|棲処《すみか》と|致《いた》す|奴《やつ》
|只《ただ》|一匹《いつぴき》も|残《のこ》らずに  |俺《おれ》の|側《そば》までやつて|来《こ》い
|吾《わが》|両親《りやうしん》の|敵討《かたきう》ち  |生命《いのち》を|取《と》つて|呉《く》れむぞと
|心《こころ》も|勇《いさ》み|来《き》て|見《み》れば  |子供《こども》|嚇《おど》しの|火《ひ》の|玉《たま》や
|泡立《あわだ》つ|波《なみ》や|水柱《みづばしら》  |呂律《ろれつ》も|合《あ》はぬ|呻《うな》り|声《ごゑ》
レコード|破《やぶ》りの|強風《きやうふう》に  |地《ち》まで|揺《ゆす》つて|嚇《おど》さうと
|何程《なにほど》|企《たく》んで|見《み》た|処《とこ》が  そのやり|方《かた》は|古《ふる》いぞや
そんな|嚇《おど》しにビクついて  |人気《ひとげ》の|荒《あら》い|熊襲国《くまそくに》の
|大親分《おほおやぶん》となれようか  |猪食《ししく》た|犬《いぬ》の|腕試《うでだめ》し
もう|斯《か》うなつて|来《き》た|上《うへ》は  |後《あと》へは|引《ひ》かぬ|俺《おれ》の|意地《いぢ》
さあ|来《こ》い|来《きた》れ|早来《はやきた》れ  |惜《を》しき|生命《いのち》の|取《と》り|合《あ》ひを
|此処《ここ》にて|一《ひと》つやらうかい  |後《あと》には|尊《たふと》い|宣伝使《せんでんし》
|力《ちから》の|余《あま》りに|強《つよ》くない  |孫公別《まごこうわけ》も|慄《ふる》ひつつ
|二人《ふたり》の|喧嘩《けんくわ》を|見《み》て|御座《ござ》る  |武野《たけの》の|村《むら》の|侠客《をとこだて》
|虎公《とらこう》さまを|初《はじ》めとし  |弁才天《べんざいてん》も|恥《はぢ》らふて
|逃《に》げ|出《だ》す|様《やう》なお|愛《あい》さま  スツカリ|道具《だうぐ》が|揃《そろ》うて|居《ゐ》る
|何《なに》を|愚図々々《ぐづぐづ》して|居《ゐ》るか  |早《はや》く|来《きた》つて|勝負《しようぶ》せよ
|生命《いのち》を|捨《す》てた|三公《さんこう》は  |最早《もはや》|此《この》|世《よ》に|恐《おそ》るべき
|物《もの》は|一《ひと》つもない|程《ほど》に  |親《おや》の|敵《かたき》ぢや|早《はや》|来《きた》れ
いざ|尋常《じんじやう》に|勝負《しようぶ》しよう  それが|嫌《いや》なら|吾《わが》|前《まへ》に
|頭《あたま》を|下《さ》げて|尾《を》をふつて  |四《よつ》つに|這《は》うて|謝《あやま》れよ
|貴様《きさま》の|頭《あたま》を|三《み》つ|四《よつ》つ  |此《この》|岩石《がんせき》で|打《う》ちたたき
|吾《わが》|両親《りやうしん》の|無念《むねん》をば  |晴《は》らして|助《たす》けてやる|程《ほど》に
|早《はや》く|来《きた》れよ|曲津神《まがつかみ》  |三公《さんこう》|親分《おやぶん》が|待《ま》つて|居《ゐ》る
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ』
と|歌《うた》ひ|終《をは》るや|湖面《こめん》は|益々《ますます》|波《なみ》|高《たか》く|荒《あ》れ|狂《くる》ひ、|火《ひ》の|玉《たま》は|刻々《こくこく》に|殖《ふ》え|来《きた》り、ブンブンと|呻《うな》りを|立《た》て、|四人《よにん》の|殆《ほとん》ど|身体《からだ》のとどく|処《ところ》|迄《まで》、|数《かず》|限《かぎ》りもなくお|玉杓子《たまじやくし》の|火《ひ》の|玉《たま》|攻《せ》めかけ|来《きた》る|其《その》|嫌《いや》らしさ、|実《じつ》に|物凄《ものすご》き|光景《くわうけい》なりけり。
(大正一一・九・一六 旧七・二五 北村隆光録)
第一五章 |救《すくひ》の|玉《たま》〔九七九〕
お|愛《あい》は|立上《たちあが》り、|宣伝歌《せんでんか》を|歌《うた》う。
『|豊葦原《とよあしはら》の|瑞穂国《みづほくに》  |国《くに》の|八十国《やそくに》|八十島《やそしま》は
|国治立《くにはるたち》の|御体《おんからだ》  |神素盞嗚《かむすさのを》の|御霊力《ごれいりよく》
|金勝要大神《きんかつかねのおほかみ》の  |御霊《みたま》の|守《まも》らす|国《くに》なれば
|此《この》|三柱《みはしら》の|大神《おほかみ》の  |御許《みゆる》しなくば|何神《なにがみ》も
|此《この》|世《よ》に|住《す》むべき|権利《けんり》なし  |三五教《あななひけう》の|神司《かむづかさ》
|孫公別《まごこうわけ》に|従《したが》ひて  |吾等《われら》は|此処《ここ》に|曲神《まがかみ》の
|曲言向《まがことむ》けて|神国《かみくに》を  |清《きよ》く|涼《すず》しく|澄《す》まさむと
|現《あら》はれ|出《い》でし|四人連《よにんづれ》  |湖底《こてい》に|潜《ひそ》む|曲神《まがかみ》よ
|如何《いか》に|勢《いきほひ》|猛《たけ》くとも  |此《この》|三柱《みはしら》の|皇神《すめかみ》の
|許《ゆる》しなくして|地《ち》の|上《うへ》に  |如何《いか》でか|安《やす》く|住《す》み|得《う》べき
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |神《かみ》の|御霊《みたま》を|蒙《かうむ》りて
|一日《ひとひ》も|早《はや》く|片時《かたとき》も  とく|速《すみや》けく|三五《あななひ》の
|誠《まこと》の|道《みち》の|御教《みをしへ》に  |服《まつろ》ひまつれ|醜大蛇《しこをろち》
それにつき|添《そ》ふ|諸々《もろもろ》の  |百《もも》の|霊《みたま》に|宣《の》り|伝《つた》ふ
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ』
と|簡単《かんたん》に|言霊《ことたま》を|打出《うちだ》したるに|今《いま》|迄《まで》の|烈風《れつぷう》は|其《その》|勢《いきほひ》を|減《げん》じ、|猛獣《まうじう》の|唸《うな》り|声《ごゑ》は|漸《やうや》く|低《ひく》く|遠《とほ》く|去《さ》り|行《ゆ》き、|湖面《こめん》に|浮《うか》びし|諸々《もろもろ》の|怪物《くわいぶつ》は、|時々刻々《じじこくこく》に|姿《すがた》を|減《げん》じたれども|容易《ようい》に|全滅《ぜんめつ》するには|到《いた》らざりければ、|茲《ここ》に|虎公《とらこう》は|捩鉢巻《ねぢはちまき》をしながら、|厳《いづ》の|雄健《をたけ》びふみたけびつつ、|大音声《だいおんじやう》を|張上《はりあ》げて、|詞《ことば》|涼《すず》しく|言霊《ことたま》を|発射《はつしや》したり。
『|三千世界《さんぜんせかい》の|梅《うめ》の|花《はな》  |一度《いちど》に|開《ひら》く|時《とき》は|今《いま》
|大蛇《をろち》の|神《かみ》よよつく|聞《き》け  【きさま】は|余程《よつぽど》|太《ふと》い|奴《やつ》
|太《ふと》いばかりか|長《なが》い|奴《やつ》  エヂプト|都《みやこ》に|名《な》も|高《たか》き
|春公《はるこう》お|常《つね》の|両人《りやうにん》を  |勿体《もつたい》なくも|呑《の》み|喰《くら》ひ
|平気《へいき》の|平左《へいざ》で|此《この》|湖《うみ》に  |住居《ぢうきよ》するとは|何《なん》のこと
|天地《てんち》の|神《かみ》を|畏《おそ》れぬか  |此処《ここ》に|現《あら》はれ|来《きた》りたる
|三公《さんこう》さまは|春公《はるこう》や  お|常《つね》の|方《かた》の|生《う》み|給《たま》ふ
|珍《うづ》の|尊《たふと》き|御子《みこ》なるぞ  |汝《なんぢ》|心《こころ》のあるならば
|早《はや》く|姿《すがた》を|現《あら》はして  |吾《わが》|目《め》の|前《まへ》に|出《い》で|来《きた》り
|三公《さんこう》さまに|打向《うちむか》ひ  |前非《ぜんぴ》を|悔《く》いて|詫《わび》をせよ
|武野《たけの》の|村《むら》の|男達《をとこだて》  |虎公《とらこう》さまとはおれの|事《こと》
|虎《とら》|狼《おほかみ》や|獅子《しし》|熊《くま》も  おれの|名《な》を|聞《き》きや|驚《おどろ》いて
|小《ちひ》さくなつて|逃《に》げて|行《ゆ》く  お|前《まへ》も|同《おな》じ|畜生《ちくしやう》の
|醜《みにく》き|体《からだ》を|持《も》つ|上《うへ》は  |俺《おれ》に|恥《はぢ》らひ|底深《そこふか》く
|姿《すがた》|隠《かく》してゐるのだろ  そんな|気兼《きがね》は|要《い》らぬ|故《ゆゑ》
|早《はや》く|此《この》|場《ば》に|現《あら》はれて  |善悪正邪《ぜんあくせいじや》の|大道《だいだう》を
|悟《さと》りて|天津神国《あまつかみくに》の  |栄《さか》えを|永久《とは》に|楽《たの》しめよ
|朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも  |月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも
|大蛇《をろち》はいかに|猛《たけ》るとも  |三五教《あななひけう》の|大道《おほみち》に
|仕《つか》へまつれる|吾々《われわれ》は  いかで|初心《しよしん》を|変《へん》ずべき
|誠《まこと》|一《ひと》つの|言霊《ことたま》を  |直日《なほひ》の|銃《つつ》につめ|込《こ》みて
|忽《たちま》ち|打出《うちだ》す|宣伝歌《せんでんか》  |天《てん》は|轟《とどろ》き|地《ち》はゆるぎ
|大海原《おほうなばら》は|浪《なみ》たけり  |山《やま》は|忽《たちま》ち|裂《さ》けてゆく
|此《この》|神力《しんりき》の|活動《くわつどう》を  |見《み》ない|間《あひだ》に|一刻《いつこく》も
|早《はや》く|心《こころ》を|改《あらた》めて  |善《ぜん》の|大道《おほぢ》に|帰《かへ》るべく
|誓《ちか》ひを|立《た》てよ|大蛇神《をろちがみ》  |三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》
|黒姫司《くろひめつかさ》に|従《したが》ひて  |熊襲《くまそ》の|国《くに》へ|渡《わた》り|来《き》し
|孫公別《まごこうわけ》を|始《はじ》めとし  |三公《さんこう》、お|愛《あい》や|虎公《とらこう》の
|四魂《しこん》の|身魂《みたま》が|今《いま》|此処《ここ》に  |現《あら》はれ|来《きた》り|言霊《ことたま》の
|大戦《おほたたか》ひを|宣示《せんじ》する  あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|神《かみ》の|心《こころ》を|諾《うべな》ひて  かかる|小《ちひ》さき|湖《うみ》を|捨《す》て
|広《ひろ》き|尊《たふと》き|限《かぎ》りなき  |天津御空《あまつみそら》の|神国《かみくに》へ
|心《こころ》も|広《ひろ》く|昇《のぼ》り|行《ゆ》け  あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ』
と|歌《うた》ひ|了《をは》る。されど|如何《どう》したものか、|湖面《こめん》の|怪《くわい》はいろいろと|形《かたち》を|変《へん》じ、|蛸入道《たこにふだう》や|曲鬼《まがおに》、|四《よ》つ|目《め》|小僧《こぞう》など|数《かず》|限《かぎ》りなく|浮《うか》び|来《きた》り、お|玉杓子《たまじやくし》の|形《かたち》せし|火玉《ひだま》は|幾百千《いくひやくせん》ともなく|唸《うな》りを|立《た》てて|土手《どて》の|如《ごと》く|集《あつ》まり|来《きた》り、|四人《よにん》の|男女《だんぢよ》を|十重二十重《とへはたへ》に|取巻《とりま》きぬ。|四人《よにん》は|青臭《あをくさ》い|何《なん》ともいへぬ|臭気《しうき》に|鼻《はな》をつかれ、|胸《むね》|塞《ふさ》がり、|腹《はら》|痛《いた》み、|眼《まなこ》くらみて、|今《いま》や|如何《いかん》ともする|事《こと》|能《あた》はざる|迄《まで》|弱《よわ》り|切《き》つてゐる。
|何時《いつ》の|間《ま》にやら|夜《よ》はカラリと|明《あ》けて、|湖面《こめん》より|現《あら》はれ|来《きた》りし|怪物《くわいぶつ》は|一《ひと》つ|減《へ》り|二《ふた》つ|減《へ》り、|太陽《たいやう》の|光線《くわうせん》が|地上《ちじやう》を|照《てら》す|時《とき》には、|怪物《くわいぶつ》の|姿《すがた》は|残《のこ》らず|消《き》え|失《う》せて、|湖面《こめん》は|只《ただ》|紺碧《こんぺき》の|波《なみ》が|悠々《いういう》と|漂《ただよ》ひゐるのみ。
|四人《よにん》は|池《いけ》の|岸辺《かたへ》に|端坐《たんざ》し、|昨夜《さくや》の|怪《くわい》を|話《はな》し|合《あ》ひながら、|湖水《こすゐ》の|水《みづ》に|手《て》を|洗《あら》ひ|身《み》を|清《きよ》め、|次《つ》いで|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》し|終《をは》る|時《とき》しも、|木《き》の|茂《しげ》みを|分《わ》けて|此《この》|場《ば》に|現《あら》はれ|来《きた》る|一人《ひとり》の|宣伝使《せんでんし》あり。よくよく|見《み》れば|玉治別命《たまはるわけのみこと》なり。|孫公《まごこう》は|飛立《とびた》つばかり|打喜《うちよろこ》び、
『コレハコレハ|玉治別《たまはるわけ》さま、|幾回《いくくわい》となくお|声《こゑ》は|聞《き》かして|頂《いただ》きましたが、お|目《め》にかかるは|今《いま》が|始《はじ》めて、ようマア|来《き》て|下《くだ》さいました……モシモシ|三人《さんにん》の|方《かた》、これが|驍名《げうめい》|高《たか》き|三五教《あななひけう》の|玉治別《たまはるわけ》の|宣伝使《せんでんし》で|御座《ござ》います』
お|愛《あい》、|三公《さんこう》は|嬉《うれ》し|涙《なみだ》にくれながら、|玉治別《たまはるわけ》に|向《むか》つて|跪《ひざまづ》き|敬意《けいい》を|表《へう》してゐる。
『|私《わたし》は|玉治別《たまはるわけ》です。|皆《みな》さま、|随分《ずゐぶん》|能《よ》く|言霊《ことたま》がころびましたなア。|大蛇《をろち》の|神《かみ》、|随分《ずゐぶん》いろいろと|面白《おもしろ》い|芸当《げいたう》を|見《み》せてくれたでせう』
『|私《わたし》は|虎公《とらこう》でごわす。あなたは|夜前《やぜん》の|光景《くわうけい》を|御存《ごぞん》じで|御座《ござ》いましたか』
『ハイ|白山峠《しらやまたうげ》を|一目散《いちもくさん》に|駆《か》け|下《くだ》り、|先《さき》へ|廻《まは》つて|此《この》|森林《しんりん》に|身《み》を|潜《ひそ》め、あなた|方《がた》の|言霊戦《ことたません》を|面白《おもしろ》く|観覧《くわんらん》して|居《を》りました。|大変《たいへん》|危《あぶ》ない|所《ところ》|迄《まで》|行《ゆ》きましたなア』
『モウ|少《すこ》しの|事《こと》で|火《ひ》の|玉《たま》の|鬼《おに》にくつつかれる|所《ところ》でしたが、|不思議《ふしぎ》にも|三尺《さんじやく》ばかり|近寄《ちかよ》つて、それよりはよう|寄《よ》りつかなかつたのです。あれだけの|勢《いきほひ》で|如何《どう》してマア、もう|二三尺《にさんじやく》といふ|所《ところ》が|寄《よ》りつけないのでせうか』
『あなたの|霊衣《れいい》の|外《そと》|迄《まで》|寄《よ》つて|来《き》たのですよ。|霊衣《れいい》の|威徳《ゐとく》に|恐《おそ》れて、|夫《そ》れ|以上《いじやう》は|近寄《ちかよ》れなかつたのです。さうして|大蛇《をろち》の|奴《やつ》、まだまだエライ|企《たく》みをして|居《を》つた|様《やう》ですが、|私《わたし》は|此《この》|木蔭《こかげ》より|湖面《こめん》に|向《むか》つて|鎮魂《ちんこん》をして|居《を》りました。それが|為《ため》に|猛烈《まうれつ》なる|大蛇《をろち》の|幕下《ばくか》、|此《この》|山林《さんりん》に|横行《わうかう》する|虎《とら》、|獅子《しし》、|熊《くま》、|狼《おほかみ》なぞの|猛獣《まうじう》も、|害《がい》を|加《くは》ふるに|由《よし》なく、|何《いづ》れも|遠《とほ》く|逃《に》げ|去《さ》つて|了《しま》つたのです。さうして|孫公《まごこう》さまは|孫公別《まごこうわけ》とか|云《い》ふ|立派《りつぱ》な|宣伝使《せんでんし》になられたさうですなア』
『ハイ、イヤモウ|一寸《ちよつと》|臨時《りんじ》に|頼《たの》まれましてやつて|見《み》ました。|併《しか》し|乍《なが》ら|余《あま》り|甘《うま》く|行《ゆ》きませぬので|宣伝使《せんでんし》といふものは|辛《つら》いものだとホトホト|感心《かんしん》|致《いた》しました。|玉治別《たまはるわけ》|様《さま》がお|越《こ》しになつたのを|幸《さいは》ひ、|私《わたし》は|只今《ただいま》より|孫公別《まごこうわけ》の|宣伝使《せんでんし》を|返上《へんじやう》|致《いた》します。どうぞお|受取《うけと》り|下《くだ》さいませ。イヤもう|中々《なかなか》|骨《ほね》の|折《を》れた|事《こと》で|御座《ござ》いました』
『アハヽヽヽ、|誰《たれ》に|宣伝使《せんでんし》を|命《めい》ぜられたのですか。|黒姫《くろひめ》|様《さま》からでも|仮《か》りにお|貰《もら》ひになつたのですか』
『イエどうしてどうして、ここは|共和国《きようわこく》で|御座《ござ》いますから、|国民《こくみん》|一致《いつち》|選挙《せんきよ》の|結果《けつくわ》、|推《お》されて|宣伝使《せんでんし》になつたので|御座《ござ》います。イヤまことにモウうすい|目《め》に|会《あ》ひました』
『サア|皆《みな》さま、|此処《ここ》に|居《を》つても|仕方《しかた》がありませぬ。|此《この》|湖水《こすゐ》には|大《おほ》きな|浮島《うきしま》が|三《み》つ|四《よ》つありますから、そこ|迄《まで》|行《い》つて|休息《きうそく》を|致《いた》し、|今宵《こよひ》は|其《その》|島《しま》に|渡《わた》り、|一《ひと》つ|言霊戦《ことたません》をひらき|根本的《こんぽんてき》に|大蛇《をろち》の|神《かみ》を|言向和《ことむけやは》せませう。|皆様《みなさま》サア|参《まゐ》りませう』
と|先《さき》にたつて|湖畔《こはん》を|辿《たど》るを、|四人《よにん》はハツと|胸《むね》|撫《な》でおろし、|元気《げんき》|頓《とみ》に|加《くは》はり、|後《あと》を|慕《した》うて|従《したが》ひ|行《ゆ》く。
(大正一一・九・一六 旧七・二五 松村真澄録)
第一六章 |浮島《うきしま》の|花《はな》〔九八〇〕
|東西《とうざい》|二十里《にじふり》、|南北《なんぽく》|三十里《さんじふり》に|亘《わた》る|此《この》|湖水《こすゐ》の|中《なか》に|三個《さんこ》の|浮島《うきしま》ありて、|時々刻々《じじこくこく》に|其《その》|位置《ゐち》を|変《へん》じ、|浮草《うきぐさ》の|如《ごと》く|漂《ただよ》へる|奇妙《きめう》なる|島《しま》なり。|玉治別《たまはるわけ》は|此《この》|島《しま》を|近《ちか》く|引寄《ひきよ》せむと、|金扇《きんせん》を|開《ひら》き、|打煽《うちあふ》ぎながら|差招《さしまね》く。
『|浮島《うきしま》にゐませる|神《かみ》よ|心《こころ》あらば
|寄《よ》り|来《きた》りませわれはあふがむ。
|水《みづ》の|面《おも》に|軽《かる》く|浮《うか》べる|此《この》|島《しま》は
|如何《いか》なる|神《かみ》のすみかなるらむ。
|島影《しまかげ》にかくれひそめる|曲神《まがかみ》を
|神《かみ》の|御稜威《みいづ》に|救《すく》ひ|照《て》らさむ。
|現《うつ》し|世《よ》も|亦《また》|幽世《かくりよ》も|神《かみ》の|世《よ》も
|皇大神《すめおほかみ》のしらす|御国《みくに》ぞ。
|国治立《くにはるたち》|神《かみ》の|命《みこと》の|伊吹《いぶき》より
|現《あら》はれますかあはれ|此《この》|島《しま》。
|玉《たま》の|緒《を》の|命《いのち》の|限《かぎ》り|玉治別《たまはるわけ》は
|汝《な》を|救《すく》ふべくここに|来《きた》れり。
|玉治別《たまはるわけ》|神《かみ》の|命《みこと》は|素盞嗚《すさのを》の
|神《かみ》の|伊吹《いぶき》を|受《う》けつぎて|来《き》し。
|惟神《かむながら》|神《かみ》の|誓《ちか》ひの|深《ふか》ければ
|如何《いか》なる|曲《まが》も|救《すく》ひ|玉《たま》はむ。
|鬼《おに》|大蛇《をろち》|虎《とら》|狼《おほかみ》や|獅子《しし》|熊《くま》も
|神《かみ》の|水火《いき》より|生《うま》れたる|御子《みこ》。
われは|今《いま》|神《かみ》の|御言《みこと》を|蒙《かかぶ》りて
|汝《なれ》|救《すく》はむとここに|来《きた》れり。
|三五《あななひ》の|神《かみ》の|教《をしへ》は|世《よ》を|救《すく》ふ
|誠《まこと》|一《ひと》つの|玉治別《たまはるわけ》なり。
わが|魂《たま》は|如意《によい》の|宝珠《ほつしゆ》と|輝《かがや》きて
うみの|底《そこ》|迄《まで》|照《て》らし|行《ゆ》くなり。
|湖底《うなそこ》に|潜《ひそ》み|隠《かく》るる|醜神《しこがみ》も
|浮《う》かして|救《すく》ふ|神《かみ》の|正道《まさみち》。
|浮《う》き|沈《しづ》み|交々《こもごも》|来《きた》る|人《ひと》の|世《よ》も
|神《かみ》に|任《まか》せば|永久《とは》に|栄《さか》えむ。
スツポンの|湖《うみ》の|底《そこ》ひは|深《ふか》くとも
|神《かみ》の|恵《めぐみ》の|深《ふか》きに|若《し》かず。
いざさらば|玉治別《たまはるわけ》が|言霊《ことたま》の
|厳《いづ》の|伊吹《いぶき》を|開《ひら》き|見《み》むかな。
|開《ひら》け|行《ゆ》く|御代《みよ》に|扇《あふぎ》の|末《すゑ》|広《ひろ》く
|栄《さか》え|栄《さか》えよ|湖《うみ》の|底《そこ》まで。
|三五《あななひ》の|神《かみ》の|教《をしへ》の|孫公《まごこう》が
|神《かみ》の|司《つかさ》と|詐《いつは》りしはや。
|詐《いつは》りのなき|世《よ》なりせば|斯《か》くばかり
|神《かみ》は|心《こころ》を|痛《いた》めざらまし。
あゝ|神《かみ》よ|普《あまね》く|世人《よびと》を|救《すく》へかし
|湖《うみ》の|底《そこ》なる|大蛇《をろち》の|末《すゑ》まで。
|鬼《おに》|大蛇《をろち》|醜《しこ》の|猛《たけ》びの|強《つよ》くとも
|玉治別《たまはるわけ》の|魂《たま》に|照《て》らさむ。
|曲神《まがかみ》も|皇大神《すめおほかみ》の|御霊《みたま》なり
|夢《ゆめ》おろそかに|扱《あつか》ふべしやは。
|来《き》て|見《み》れば|此処《ここ》に|四人《よにん》の|神《かみ》の|子《こ》が
|力《ちから》|限《かぎ》りに|言霊《ことたま》|宣《の》り|居《を》り。
|言霊《ことたま》の|曇《くも》りはいよよ|深《ふか》くして
|湖《うみ》の|底《そこ》まで|通《とほ》らざりける。
|八千尋《やちひろ》の|底《そこ》に|潜《ひそ》める|曲津神《まがつみ》も
|天津日影《あまつひかげ》は|仰《あふ》ぎ|見《み》るらむ。
|松《まつ》の|島《しま》|竹《たけ》の|島《しま》より|梅《うめ》の|島《しま》
|三《み》つの|御霊《みたま》の|姿《すがた》なりけり。
|素盞嗚《すさのを》の|神《かみ》の|伊吹《いぶき》の|清《きよ》ければ
わが|言霊《ことたま》も|澄《す》みて|鳴《な》り|鳴《な》る。
なりなりてなり|余《あま》りたる|天教山《てんけうざん》の
|神《かみ》の|御稜威《みいづ》ぞ|尊《たふと》かりけれ。
|木《こ》の|花《はな》の|咲耶姫神《さくやのひめがみ》|現《あら》はれて
|曲《まが》に|悩《なや》める|人《ひと》を|救《すく》はす。
|何事《なにごと》も|神《かみ》の|心《こころ》に|任《まか》しなば
|世《よ》に|恐《おそ》るべき【もの】はあらまし。
|千早《ちはや》|振《ふ》る|古《ふる》き|神代《かみよ》の|昔《むかし》より
|神《かみ》の|心《こころ》は|変《かは》らざりけり。
|火《ひ》と|水《みづ》は|古《ふる》き|神代《かみよ》の|昔《むかし》より
|色《いろ》も|変《かは》らず|味《あぢ》も|変《かは》らず』
|玉治別《たまはるわけ》はかく|詠《うた》ふ|折《をり》しも、|湖面《こめん》に|浮《うか》べる|美《うる》はしき|一《ひと》つの|島《しま》、|言霊《ことたま》の|威力《ゐりよく》に|感《かん》じてや|悠々《いういう》として|湖畔《こはん》|近《ちか》く|寄《よ》り|来《きた》る。|近寄《ちかよ》り|見《み》れば、|意外《いぐわい》なる|広《ひろ》き|浮島《うきしま》なり。|玉治別《たまはるわけ》は|先頭《せんとう》に|立《た》ち、|此《この》|浮島《うきしま》に|渡《わた》らむとする|時《とき》、いづくよりともなく|声《こゑ》ありて、
『|待《ま》て|暫《しば》し|玉治別《たまはるわけ》の|神司《かむづかさ》
|此《この》|浮島《うきしま》は|曲《まが》の|変化《すがた》ぞ。
|美《うる》はしき|松《まつ》|生《お》ふ|島《しま》と|見《み》せかけて
|悩《なや》まさむとする|曲《まが》の|醜業《しこわざ》。
|村肝《むらきも》の|心《こころ》を|配《くば》れ|五柱《いつはしら》
|曲《まが》の|集《つど》へるこれの|湖《みづうみ》。
|素盞嗚《すさのを》の|神《かみ》の|尊《みこと》の|生御霊《いくみたま》
われは|言依別《ことよりわけ》の|神《かみ》ぞや。
|言依別《ことよりわけ》|神《かみ》の|命《みこと》が|現《あら》はれて
|玉治別《たまはるわけ》に|力《ちから》を|添《そ》へむ。
|烏羽玉《うばたま》の|闇夜《やみよ》をてらす|日出別《ひのでわけ》
|神《かみ》の|命《みこと》も|今《いま》ここにあり。
|木《こ》の|花姫《はなひめ》|神《かみ》の|命《みこと》の|生御霊《いくみたま》
|蚊取《かとり》の|別《わけ》もかくれ|来《き》にけり。
|惟神《かむながら》|神《かみ》の|御霊《みたま》の|幸《さち》|深《ふか》く
|湖底《うなそこ》までも|照《て》らし|行《ゆ》くなり』
と、|何処《どこ》ともなく|中空《ちうくう》より|聞《きこ》え|来《きた》る。
|玉治別《たまはるわけ》はハツと|頭《かうべ》を|下《さ》げ、|拍手《はくしゆ》|再拝《さいはい》、|神恩《しんおん》を|感謝《かんしや》し、|寄《よ》り|来《きた》る|松島《まつしま》に|向《むか》つて、|声《こゑ》も|涼《すず》しく|生言霊《いくことたま》をうちかけたり。
『|神素盞嗚大御神《かむすさのをのおほみかみ》  |木《こ》の|花咲耶姫神《はなさくやひめのかみ》
|其《その》|生霊《いくたま》と|現《あ》れませる  |蚊取《かとり》の|別《わけ》の|宣伝使《せんでんし》
|瑞《みづ》の|身魂《みたま》の|生御霊《いくみたま》  |言依別《ことよりわけ》の|神司《かむづかさ》
|日出別《ひのでのわけ》の|神人《しんじん》が  |吾等《われら》|一行《いつかう》の|言霊《ことたま》の
|戦《いくさ》を|守《まも》り|助《たす》けむと  |天空《てんくう》|高《たか》く|翔《かけ》らせて
|下《くだ》り|玉《たま》ひし|尊《たふと》さよ  あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|神《かみ》の|守《まも》りは|目《ま》のあたり  |玉治別《たまはるわけ》は|勇《いさ》み|立《た》ち
|吾《わが》|言霊《ことたま》のつづく|丈《だけ》  |誠《まこと》|一《ひと》つを|楯《たて》となし
|仁慈無限《じんじむげん》の|大神《おほかみ》の  |深《ふか》き|心《こころ》を|四方《よも》の|国《くに》
|青人草《あをひとぐさ》は|云《い》ふも|更《さら》  これの|湖水《こすゐ》にひそみたる
|大蛇《をろち》の|末《すゑ》に|至《いた》る|迄《まで》  |救《すく》ひ|助《たす》けでおくべきか
|今《いま》|浮島《うきしま》と|現《あら》はれし  |醜《しこ》の|大蛇《をろち》よよつく|聞《き》け
|神《かみ》の|道《みち》には|塵《ちり》|程《ほど》も  |詐《いつは》り|汚《けが》れなきものぞ
|清《きよ》けき|島《しま》と|見《み》せかけて  |吾等《われら》を|誑《たば》かり|悩《なや》めむと
|謀《はか》りに|謀《はか》る|邪曲《よこしま》の  |汝《なれ》の|心《こころ》ぞ|憐《あは》れなり
あゝ|松島《まつしま》と|現《あら》はれし  |醜《しこ》の|霊《みたま》よ|今《いま》よりは
|神《かみ》にうけたる|魂《たましひ》を  |教《をしへ》に|清《きよ》き|湖《みづうみ》に
|洗《あら》ひ|清《きよ》めて|天地《あめつち》の  |神《かみ》のよさしの|瑞御霊《みづみたま》
|元《もと》の|姿《すがた》に|立《た》ち|帰《かへ》れ  いかなる|清《きよ》き|霊《みたま》でも
|曇《くも》れば|石《いし》に|若《し》かざらむ  |玉治別《たまはるわけ》が|真心《まごころ》を
こめて|汝《なんぢ》を|諭《さと》すなり  あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|神《かみ》の|大道《おほぢ》に|早帰《はやかへ》れ  |神《かみ》に|帰《かへ》りし|霊《たま》ならば
|祈《いの》らずとても|皇神《すめかみ》は  |汝《なんぢ》が|罪《つみ》を|赦《ゆる》しまし
|生命《いのち》と|栄光《さかえ》と|歓喜《よろこび》に  |充《み》ち|足《た》らひたる|神国《かみくに》に
|安《やす》く|救《すく》はせ|玉《たま》ふべし  |玉治別《たまはるわけ》の|宣伝使《せんでんし》
|言霊《ことたま》ここに|宣《の》り|了《をは》る  あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ』
と|歌《うた》ひ|了《をは》るや|否《いな》や、|今《いま》|迄《まで》|目《め》の|前《まへ》に|現《あら》はれたる|松島《まつしま》は、グレンと|顛覆《てんぷく》した|途端《とたん》に、|白《しろ》と|赤《あか》とのダンダラ|筋《すぢ》の|鱗《うろこ》を|湖面《こめん》にさらし、|見《み》る|間《ま》に|荒波《あらなみ》を|立《た》て、|湖中《こちう》|深《ふか》く|沈《しづ》みける。|其《その》|光景《くわうけい》は|実《じつ》に|凄《すさま》じきものにてありき。
|又《また》もや|一《ひと》つの|島《しま》、|悠々《いういう》として|此方《こなた》に|浮《うか》び|来《きた》る。よくよく|見《み》れば、|島《しま》|一面《いちめん》に|黒《くろ》き|細《ほそ》き|竹《たけ》が|密生《みつせい》してゐる。|其《その》|竹《たけ》の|間《あひだ》より|花《はな》を|欺《あざむ》く|妙齢《めうれい》の|美人《びじん》、|三柱《みはしら》|現《あら》はれ、|優《やさ》しき|手《て》をさし|伸《の》べて、|早《はや》く|来《きた》れと、|口《くち》には|言《い》はねど、|其《その》|形容《けいよう》に|現《あら》はし、|手招《てまね》き|頻《しき》りなり。|玉治別《たまはるわけ》は|以前《いぜん》の|松島《まつしま》に|懲《こ》りて、|容易《ようい》に|動《うご》かず、|両手《りやうて》を|組《く》み、|此《この》|島《しま》に|向《むか》つて|鎮魂《ちんこん》を|修《しう》しければ、|島《しま》は|追々《おひおひ》|湖畔《こはん》に|近《ちか》より|来《きた》り、|以前《いぜん》の|女神《めがみ》は|竹藪《たけやぶ》をぬけ|出《い》で、|浮島《うきしま》の|水打際《みづうちぎは》に|立《た》ちて、ニコヤカに|玉治別《たまはるわけ》|一行《いつかう》の|姿《すがた》を|見《み》つめゐたり。
|玉治別《たまはるわけ》『|竹島《たけしま》に|乗《の》りて|寄《よ》り|来《く》る|神人《かみびと》の
|姿《すがた》を|見《み》れば|心《こころ》|栄《さか》えぬ。
さりながら|如何《いか》で|心《こころ》を|許《ゆる》さむや
われ|松島《まつしま》の|怪《あや》しきを|見《み》て。
|怪《あや》しきはこれの|竹島《たけしま》いかにして
|三人乙女《みたりをとめ》の|現《あら》はれにけむ。
|素盞嗚神《すさのをのかみ》の|尊《みこと》の|生《う》みましし
|三《み》つの|御霊《みたま》に|似《に》ましけるかも。
|小波《さざなみ》の|中《なか》に|漂《ただよ》ふ|竹《たけ》の|島《しま》
|三人乙女《みたりをとめ》の|影《かげ》|美《うる》はしも』
お|愛《あい》は|又《また》|詠《うた》ふ。
『|有難《ありがた》やあら|尊《たふと》やと|伏《ふ》し|拝《をが》む
|神《かみ》の|姿《すがた》の|美《うる》はしき|哉《かな》。
|素盞嗚《すさのをの》|神《かみ》の|尊《みこと》の|分御霊《わけみたま》
|今《いま》わが|前《まへ》に|現《あ》れましにけむ。
|惟神《かむながら》|神《かみ》の|大道《おほぢ》を|踏《ふ》みしめて
|瑞《みづ》の|御霊《みたま》の|道《みち》を|守《まも》らむ。
|三《み》つ|御霊《みたま》、|五《い》つの|御霊《みたま》と|相並《あひなら》び
|守《まも》らせ|玉《たま》ふ|筑紫《つくし》の|神国《かみくに》。
|天教山《てんけうざん》|尾《を》の|上《へ》を|降《くだ》りし|八島別《やしまわけ》
|神《かみ》の|命《みこと》のわれは|娘《むすめ》ぞ』
と|歌《うた》ひ|終《をは》り、|三人《さんにん》の|女神《めがみ》に|向《むか》つて|伏《ふ》し|拝《をが》む。|女神《めがみ》の|一人《ひとり》は|声《こゑ》も|淑《しと》やかに、
『|真心《まごころ》をつくしの|島《しま》の|此《この》|湖《うみ》に
|世人《よびと》|救《すく》ふと|来《きた》ります|君《きみ》。
|八島別《やしまわけ》|神《かみ》の|命《みこと》の|御裔《みすゑ》ぞと
|聞《き》くわれこそは|嬉《うれ》しかりけり。
われこそは|神世《かみよ》を|松《まつ》の|姫命《ひめみこと》
|汝《なれ》が|心《こころ》の|栄《さか》えまちつつ。
|栄《さか》えゆく|神《かみ》の|御国《みくに》に|末永《すえなが》く
いや|栄《さか》えませ|愛子《あいこ》の|君《きみ》よ』
お|愛《あい》『|有難《ありがた》し|瑞《みづ》の|御霊《みたま》の|現《あら》はれて
わが|身《み》の|曇《くも》り|晴《は》らし|玉《たま》へる。
|虎若彦《とらわかひこ》|夫《つま》の|命《みこと》をわが|為《ため》に
|弥《いや》|永久《とこしへ》に|守《まも》り|給《たま》はれ』
|次《つぎ》なる|女神《めがみ》|又《また》|詠《うた》ふ。
『|愛子姫《あいこひめ》|汝《なれ》が|命《みこと》は|建日向《たけひむか》
|別《わけ》の|命《みこと》の|珍《うづ》の|御子《みこ》かも。
|八島別《やしまわけ》|神《かみ》の|命《みこと》は|天教《てんけう》の
|山《やま》に|登《のぼ》りて|栄《さか》えましけり。
|敷妙《しきたへ》の|神《かみ》の|命《みこと》の|汝《な》が|母《はは》は
|今《いま》ヒマラヤの|山《やま》にましける。
ヒマラヤの|山《やま》より|高《たか》き|親《おや》の|恩《おん》
ゆめゆめ|忘《わす》れ|玉《たま》ふまじきぞ』
お|愛《あい》、これに|応《こた》ふ。
『|敷島《しきしま》の|大和心《やまとごころ》のあらむ|限《かぎ》りは
|神《かみ》の|大道《おほぢ》に|進《すす》みて|行《ゆ》かむ。
|父母《ちちはは》の|神《かみ》の|命《みこと》の|御心《みこころ》に
|反《そむ》きし|事《こと》の|歎《なげ》かはしきかも。
|惟神《かむながら》|神《かみ》のまにまに|進《すす》み|行《ゆ》く
わが|宿世《すぐせ》こそ|不思議《ふしぎ》なりけり。
|久方《ひさかた》の|雲井《くもゐ》の|空《そら》を|立《た》ち|出《い》でて
|武野《たけの》の|鄙《ひな》にわれは|暮《くら》しつ』
|三人《さんにん》の|女神《めがみ》|又《また》|詠《うた》ふ。
『|三五《あななひ》の|神《かみ》の|教《をしへ》の|孫公司《まごこうつかさ》よ
|大蛇《をろち》の|曲《まが》は|消《き》えうせにける。
いざさらば|心《こころ》の|大蛇《をろち》を|言向《ことむ》けて
|誠《まこと》の|道《みち》に|進《すす》ませ|給《たま》へ。
|惟神《かむながら》|神《かみ》の|屋方《やかた》の|三公《さんこう》よ
|汝《な》が|父母《ちちはは》は|神国《かみくに》にあり。
|世《よ》の|中《なか》に|神《かみ》の|御目《みめ》より|眺《なが》むれば
|仇《あだ》も|味方《みかた》もなきぞ|尊《たふと》き。
|此《この》|湖《うみ》に|汝《なれ》が|仇《かたき》のひそむとは
よくも|心《こころ》の|迷《まよ》ひしものよ。
|村肝《むらきも》の|心《こころ》の|雲《くも》を|吹《ふ》き|払《はら》ひ
|照《て》らせたきもの|月《つき》の|教《をしへ》を。
|玉治別《たまはるわけ》|貴《うづ》の|命《みこと》の|神司《かむづかさ》
とく|行《ゆ》きませよ|火《ひ》の|国都《くにみやこ》へ。
|火《ひ》の|国《くに》の|都《みやこ》の|空《そら》に|黒雲《くろくも》の
かかるは|忌々《ゆゆ》しとく|進《すす》みませ。
いざさらば|三人乙女《みたりをとめ》は|立《た》ち|去《さ》らむ
|五人《ごにん》の|人《ひと》よすこやかに|坐《ま》せよ』
といふかと|見《み》れば、|島《しま》|諸共《もろとも》に|何処《いづこ》へ|行《ゆ》きけむ、|跡形《あとかた》もなく、あとには|紺碧《こんぺき》の|湖面《こめん》に、|波《なみ》|穏《おだや》やかにうねりゐるのみ。
|是《これ》より|玉治別《たまはるわけ》|一行《いつかう》は|此《この》|湖《みづうみ》の|曲津神《まがつかみ》を|帰順《きじゆん》せしむべく、|皇大神《すめおほかみ》に|請《こ》ひのみまつり、|一日一夜《いちにちいちや》|祈願《きぐわん》をこらせば、|忽《たちま》ち|湖水《こすゐ》は|二《ふた》つに|分《わか》れ、|美《うる》はしき|女神《めがみ》の|姿《すがた》となりて|五人《ごにん》に|無言《むごん》の|儘《まま》、|恭《うやうや》しく|拝礼《はいれい》し|終《をは》り、|直《ただ》ちに|雲《くも》を|起《おこ》し、|悠々《いういう》として|天上《てんじやう》|高《たか》く|昇《のぼ》り|行《ゆ》けり。これは|此《この》|湖《みづうみ》にひそみし|巨大《きよだい》なる|三頭《さんとう》の|大蛇《をろち》、|神《かみ》の|霊徳《れいとく》に|依《よ》つて|三寒《さんかん》|三熱《さんねつ》の|苦《く》をのがれ、|忽《たちま》ち|美《うる》はしき|女神《めがみ》の|姿《すがた》と|化《くわ》して、|天国《てんごく》に|救《すく》はれたるなりき。
ここに|玉治別《たまはるわけ》は|一行《いつかう》と|共《とも》に、|再《ふたた》び|白山峠《しらやまたうげ》を|越《こ》え、|熊襲《くまそ》の|国《くに》の|三公《さんこう》が|館《やかた》に|立寄《たちよ》り、|一夜《ひとよ》を|明《あ》かし、|急《いそ》いで|火《ひ》の|神国《かみくに》さして|進《すす》み|行《ゆ》く。|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》。
(大正一一・九・一六 旧七・二五 松村真澄録)
第三篇 |火《ひ》の|国都《くにみやこ》
第一七章 |霧《きり》の|海《うみ》〔九八一〕
|青葉《あをば》は|薫《かを》り、|霞《かすみ》は|迷《まよ》ふ|荒井ケ岳《あらゐがだけ》の|絶頂《ぜつちやう》に|腰《こし》|打《うち》かけて、|四方《しはう》を|見《み》はらし、|雑談《ざつだん》に|耽《ふけ》つてゐる|三人《さんにん》の|男女《だんぢよ》がある。|余《あま》り|風《かぜ》はなけれども|何《なん》となく|朝《あさ》の|空気《くうき》は|涼《すず》しい。|彼方《あちら》|此方《こちら》に|煙《けむり》ともつかず、|霧《きり》ともつかぬ|靄《もや》が|大地《だいち》|一面《いちめん》に|閉《と》ぢ|込《こ》め、|其《その》|中《なか》より|浮《う》き|出《で》た|様《やう》にコバルト|色《いろ》の|山岳《さんがく》が|現《あら》はれてゐる。
『モシモシ|黒姫《くろひめ》|様《さま》、|何《なん》といい|絶景《ぜつけい》でせうか、|日中《につちう》は|随分《ずゐぶん》|苦《くる》しいですが、|斯《か》う|朝霧《あさきり》に|包《つつ》まれて、|涼《すず》しい|空気《くうき》に|当《あた》り、|四方《しはう》を|見下《みくだ》す|気分《きぶん》は、まるで|地上《ちじやう》の|一切《いつさい》を|掌握《しやうあく》した|王者《わうじや》の|様《やう》な|雄大《ゆうだい》なる|気分《きぶん》が|漂《ただよ》うて|来《く》るぢやありませぬか』
『|実《じつ》に|雄大《ゆうだい》な|景色《けしき》ですなア。|火《ひ》の|国《くに》の|都《みやこ》はどの|辺《へん》に|当《あた》りますか』
『これからズツと|西《にし》に、うす|黒《ぐろ》く|浮《う》き|出《で》た|様《やう》な|山《やま》がありませう。それが|火《ひ》の|国《くに》の|都《みやこ》の|西《にし》に|聳《そび》えてゐる|花見ケ岳《はなみがだけ》と|云《い》つて|火《ひ》の|国《くに》|第一《だいいち》の|名山《めいざん》で|御座《ござ》いますよ。あの|東《ひがし》に|見《み》えるのが|火《ひ》の|国ケ岳《くにがだけ》、|其《その》|少《すこ》し|北《きた》へよつてゐる|絶頂《ぜつちやう》の|少《すこ》し|浮《う》いて|見《み》えるのが|向日山《むかふやま》、それからズツと|北《きた》にうすく|霧《きり》の|中《なか》から|覗《のぞ》いてゐるのが|白山峠《しらやまたうげ》です。|其《その》|外《ほか》の|山々《やまやま》は|全部《ぜんぶ》|霧《きり》の|海《うみ》に|沈没《ちんぼつ》して|居《を》りますから|見《み》られませぬ。|此《この》|霧《きり》がサラリと|晴《は》れようものなら、それこそ|天下《てんか》の|壮観《さうくわん》です。|花頂山《くわちやうざん》、|天狗ケ岳《てんぐがだけ》、|越《こし》の|山《やま》、|春山峠《はるやまたうげ》、|志賀《しが》の|山《やま》などと、|随分《ずゐぶん》|立派《りつぱ》な|青山《せいざん》が|点々《てんてん》してゐます。|其《その》|間《あひだ》を|縫《ぬ》うてゐる|火《ひ》の|国川《くにがは》は、|天《あめ》の|棚機姫《たなばたひめ》が|布《ぬの》を|晒《さら》したやうに|蜿々《えんえん》として|火《ひ》の|国《くに》の|原野《げんや》を|流《なが》れ、えも|言《い》はれぬ|光景《くわうけい》です。さうして|西南《せいなん》に|当《あた》つて|竜《たつ》の|湖《うみ》といふ|随分《ずゐぶん》|大《おほ》きな|湖水《こすゐ》がありますが、それも|生憎《あひにく》|霞《かすみ》の|為《ため》に|包《つつ》まれてゐます。それから|火《ひ》の|国都《くにみやこ》の|名物《めいぶつ》、|五重《ごぢゆう》の|塔《たふ》が|霧《きり》のない|時《とき》は、うつすらと|目《め》に|映《うつ》ります。それを|見《み》る|度《たび》に、|何《なん》ともいへぬ|気分《きぶん》になつて、|眠《ねむ》たくなりますよ』
『|徳公《とくこう》さま、|随分《ずゐぶん》あなたは|地理《ちり》に|詳《くは》しい|方《かた》ですなア。さう|云《い》ふお|方《かた》に|案内《あんない》をして|貰《もら》へば|大丈夫《だいぢやうぶ》ですなア』
『|乍併《しかしながら》|此《この》|荒井峠《あらゐたうげ》は|其《その》|実《じつ》、|御代ケ岳《みよがだけ》といふのですが、いつも|山賊《さんぞく》が|出《で》て|荒《あら》つぽい|事《こと》をするので、|誰《たれ》いふとなく|荒井峠《あらゐたうげ》と|綽名《あだな》がついたのです。|一名《いちめい》は|生首峠《なまくびたうげ》とも|云《い》つて、|此《この》|峠《たうげ》には|生首《なまくび》の|絶《た》えた|事《こと》のないといふ|危険区域《きけんくゐき》です。|此《この》|徳公《とくこう》は|地理《ちり》には|精通《せいつう》し|且《かつ》|豪胆者《がうたんもの》だといふことを、|三公《さんこう》の|親分《おやぶん》が|知《し》つてゐますから、|抜擢《ばつてき》して|御案内《ごあんない》に|立《た》てと、|命《めい》じたのですから、|何事《なにごと》があらうとも、|徳公《とくこう》のゐる|限《かぎ》り|大丈夫《だいぢやうぶ》ですから|御安心《ごあんしん》なさいませ。|仮令《たとへ》|泥棒《どろばう》の|千匹《せんびき》|万匹《まんびき》、|束《たば》になつて|押《お》し|寄《よ》せ|来《きた》るとも、|敵一倍《てきいちばい》の|力《ちから》を|発揮《はつき》し、|縦横無尽《じうわうむじん》に|斬《き》り|立《た》て|薙《な》ぎ|立《た》て|追《お》ひ|散《ち》らし、|敵《てき》を|千里《せんり》に|郤《しりぞ》けて、|御身《おんみ》の|御安泰《ごあんたい》を|守《まも》ります』
『オホヽヽヽ、|随分《ずゐぶん》|口《くち》の|勇者《ゆうしや》ですなア』
『ソラさうですとも、|言霊《ことたま》の|幸《さち》はひ|助《たす》け|生《い》くる|神《かみ》の|国《くに》ですもの、|勇《いさ》めば|勇《いさ》む|事《こと》が|出来《でき》てくる、|悔《くや》めば|悔《くや》むことが|出来《でき》てくるのは|天地《てんち》の|真理《しんり》、|言霊学上《ことたまがくじやう》の|本義《ほんぎ》ですから、|力一杯《ちからいつぱい》|強《つよ》いことをいつて、|荒井ケ岳《あらゐがだけ》の|曲神《まがかみ》を|慴伏《せふふく》させる|徳公《とくこう》が|一厘《いちりん》の|仕組《しぐみ》、|実《げ》に|勇《いさ》ましき|次第《しだい》なりけりと|言《い》ふ|所《ところ》ですわい、アハヽヽヽ』
『オホヽヽヽ、|元気《げんき》な|徳公《とくこう》さまだこと』
『オイ|徳《とく》、モウ|夜《よ》が|明《あ》けてゐるぞ。|何《なに》|寝言《ねごと》を|云《い》つてゐるのだ。|一《ひと》つ|手水《てうづ》でも|使《つか》つて|来《こ》い』
『オイ|久公《きうこう》、|貴様《きさま》こそ|寝言《ねごと》を|云《い》つてるのだらう。さうでなくちやそんな|馬鹿《ばか》な|事《こと》が|云《い》へるかい。よく|考《かんが》へて|見《み》よ。こんな|高山《かうざん》の|絶頂《ぜつちやう》に、|手水《てうづ》を|使《つか》へといつた|所《ところ》で|水《みづ》があるかい。それだから|貴様《きさま》は|寝言《ねごと》を|云《い》つてると|云《い》ふのだ』
『|形体《けいたい》ある|水《みづ》で|使《つか》へと|云《い》ふのぢやないよ。|無形《むけい》の|清水《しみづ》で|手水《てうづ》を|使《つか》へと|云《い》つたのだ。|言霊《ことたま》の|幸《さち》はひ|助《たす》け|生《い》くる|国《くに》だから、|俺《おれ》がかう|云《い》つたが|最後《さいご》、|此《この》|山頂《さんちやう》から|俄《にはか》に|清水《しみづ》が|滾々《こんこん》として|湧《わ》き|出《だ》すかも|知《し》れないのだ。|余《あま》り|茶々《ちやちや》を|入《い》れて|呉《く》れない』
『|茶々《ちやちや》を|入《い》れと|云《い》つたつて、わかす|水《みづ》もないぢやないかい』
『|俺《おれ》が|一《ひと》つ|魔法瓶《まはふびん》から|茶々《ちやちや》を|出《だ》して|呑《の》ましてやらうか、それツ!』
といひ|乍《なが》ら、|前《まへ》をまくつて、|徳公《とくこう》の|方《はう》に|向《むか》つて|竜頭水《りうとうすい》の|如《ごと》く|塩水《えんすゐ》を|噴出《ふんしゆつ》する。
『エヽ|汚《きた》ねえ|事《こと》をすな。|此《この》|親分《おやぶん》にして|此《この》|乾分《こぶん》あり。いつも|下《くだ》らぬ|事《こと》ばかり|見聞《けんぶん》してゐよるものだから、そんな|無作法《ぶさはふ》な|事《こと》を|平気《へいき》でするのだ。|山《やま》には|山《やま》の|神《かみ》さまがあるぞ。すべて|山《やま》の|頂《いただ》きは|人間《にんげん》に|例《たと》へたら|頭《あたま》も|同様《どうやう》だ。|頭《あたま》に|小便《せうべん》をひりかけるとはチツと|無道《むだう》ぢやないか』
『|俺《おれ》のは|小便《せうべん》ぢやない、バリと|云《い》ふのだ。|余《あま》り|貴様《きさま》がイ【バリ】よるから、|一《ひと》つ【バリ】|水《すゐ》をさして|温《ぬく》めてやらうと|思《おも》つたのだ。|余《あま》りメートルが|上《あが》りすぎて|居《を》るからなア。【バリ】の|洗礼《せんれい》を|施《ほどこ》して|貴様《きさま》の|心《こころ》を、サツパリ|荒井峠《あらゐたうげ》だ、ウツフヽヽヽ』
『|黒姫《くろひめ》さま、|常《つね》の|習《なら》ひが|他所《よそ》で|出《で》るとか|云《い》ひまして、|日常《ふだん》の|教育《けういく》が|不用意《ふようい》の|間《ま》に|現《あら》はれるものですなア。|本当《ほんたう》に|仕方《しかた》のない|奴《やつ》です。|虎公《とらこう》|親分《おやぶん》も|斯《こ》んな|代物《しろもの》を|飼《か》つて|居《ゐ》るのは|随分《ずゐぶん》|大抵《たいてい》ぢやありますめえ』
『コラ|黙《だま》つて|居《を》れば、|口《くち》に|番所《ばんしよ》がないと|思《おも》つて、|非常《ひじやう》に【バリ】|嘲弄《てうろう》を|恣《ほしいまま》にしよる。モウ|承知《しようち》せないぞ』
『|貴様《きさま》は|貴様《きさま》の|方《はう》から【バリ】かけたぢやねえか。|俺《おれ》が【バリ】するのは|当然《あたりまへ》だ。これでも|三公《さんこう》の|身内《みうち》に|於《おい》ては、|徳公《とくこう》と|云《い》つて【バリ】バリ|者《もの》だから、グヅグヅ|吐《ぬか》すと|笠《かさ》の|台《だい》が|洋行《やうかう》するやうな|目《め》に|会《あ》はしてやらうか』
『|煩雑《はんざつ》な|議論《ぎろん》をして|居《ゐ》るよりも、|手取早《てつとりばや》く|自由《じいう》|行動《かうどう》だ。サア|来《こ》い|勝負《しようぶ》!』
『ハツハヽヽヽ【キウ】キウ|取《と》つつめられ、【キウ】|策《さく》を|案出《あんしゆつ》して、【キウ】に|威張《ゐば》り|出《だ》しよつたなア、マアちつと|冷静《れいせい》にものを|考《かんが》へて|見《み》よ。|親分《おやぶん》|同志《どうし》は|和解《わかい》してゐるぢやねえか。【ワカ】い|者《もの》|同志《どうし》が|斯《こ》んな|所《ところ》で|喧嘩《けんくわ》しちや|済《す》まねえぞ、|此処《ここ》に|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》が|見《み》て|御座《ござ》る。|無抵抗主義《むていかうしゆぎ》を|貴様《きさま》は|何《なん》と|思《おも》つてゐるかい』
『モシモシお|二人《ふたり》さま、どうぞ|争《いさか》ひはやめて|下《くだ》さい。|見《み》つともないぢやありませぬか』
『|徳別【久】行列車《とくべつきうかうれつしや》が|黒姫《くろひめ》オツトドツコイ、コリヤ|失敬《しつけい》、|黒煙《くろけむり》を|吐《は》いて、|火《ひ》の|国《くに》の|大原野《だいげんや》を|疾走《しつそう》する|所《ところ》ですからなア、アハヽヽヽ』
『|久々如律令《きうきうによりつれい》、とうかみゑみため、|払《はら》ひ|玉《たま》へ|清《きよ》め|玉《たま》へ、|南無《なむ》|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》、|一時《いちじ》も|早《はや》く|【徳久】列車《とくきうれつしや》が|勝利《しようり》の|都《みやこ》へ|安着《あんちやく》|致《いた》しまする|様《やう》、|帰命頂礼《きみやうちやうらい》、|願望成就《ぐわんまうじやうじゆ》、|無上霊宝《むじやうれいほう》、|珍妙如来《ちんめうによらい》、|守《まも》り|玉《たま》へ|幸《さち》はひ|玉《たま》へ、ウツフヽヽヽ』
|斯《か》かる|所《ところ》へ|四五人《しごにん》の|男《をとこ》、|一人《ひとり》のかよわき|女《をんな》を|伴《ともな》ひ|急坂《きふはん》を|登《のぼ》り|来《きた》る。
『いよいよ|泥公《どろこう》の|御出現《ごしゆつげん》だ。
|此《この》|山《やま》|働《はたら》く|泥棒《どろばう》が  |長《なが》い|大刀《だんびら》|振《ふ》りまはし
オイオイ|貴様《きさま》は|旅《たび》の|奴《やつ》  お|金《かね》をスツカリおれの|前《まへ》
|出《だ》すか|出《だ》さぬかコリヤどうぢや  |出《だ》さぬと|云《い》つたら|此《この》|通《とほ》り
おどせば|久公《きうこう》は|泣《な》き|出《いだ》し  |金《かね》を|出《だ》せなら|出《だ》しもする
|供《とも》をせいなら|供《とも》もする  |命《いのち》ばかりはお|助《たす》けと
|云《い》うても|帰《かへ》らぬ|久公《きうこう》を  |憐《あは》れや|泥棒《どろばう》がバツサリと
|斬《き》つてすてたる|恐《おそ》ろしさ  あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|叶《かな》はぬならば|久公《きうこう》よ  |一時《いちじ》も|早《はや》く|逃《に》げ|出《だ》せよ
|三十六計《さんじふろくけい》の|奥《おく》の|手《て》は  |逃《に》げるにしくはない|程《ほど》に
かけがひのない|其《その》|命《いのち》  もしもバツサリやられたら
|貴様《きさま》の|内《うち》のおなべ|奴《め》が  |吠面《ほえづら》かわいて|喧《やかま》しう
|近所《きんじよ》に|迷惑《めいわく》かけるだろ  アハヽヽヽ、アハヽヽヽ』
『コリヤ|徳《とく》、|何《なに》を|吐《ほざ》きよるのだ。|泥棒《どろばう》が|怖《こは》くつて|侠客《けふかく》が|出来《でき》るかい。おれを|誰《たれ》だと|思《おも》つてゐるのかい。|蟒《うはばみ》の|久公《きうこう》と|云《い》つたら|俺《おれ》のことだぞ。|昔《むかし》は|白山峠《しらやまたうげ》に|岩屋戸《いはやど》を|構《かま》へ、|七十五人《しちじふごにん》の|乾児《こぶん》を|引《ひ》きつれ、|往来《わうらい》の|人間《にんげん》を|真裸《まつぱだか》にし、|経験《けいけん》をつんだ|悪逆無道《あくぎやくむだう》の|蟒《うはばみ》の|久公《きうこう》の|成《な》れの|果《は》てだ……と|云《い》ふのは|俺《おれ》ではない。|其《その》|久公《きうこう》の|名《な》をあやかつた|新久公《しんきうこう》だから、チツとは|泥的《どろてき》の|匂《にほ》ひ|位《ぐらゐ》は|保留《ほりう》してるつもりだから、|余《あま》りバカにして|貰《もら》ふまいかい』
|五人《ごにん》の|男《をとこ》は|久公《きうこう》の|法螺《ほら》を|聞《き》いて、|本当《ほんたう》の|泥棒《どろばう》の|出現《しゆつげん》と|思《おも》ひ、|顔色《かほいろ》をサツと|変《か》へてゐる。|一人《ひとり》の|女《をんな》は|度《ど》を|失《うしな》ひ、
『あゝ|如何《どう》しませう、|泥棒《どろばう》が|出《で》ました。|兄《にい》さま|助《たす》けて|下《くだ》さいな』
|男《をとこ》『|人間《にんげん》は|覚悟《かくご》が|第一《だいいち》だ。|荒井峠《あらゐたうげ》に|山賊《さんぞく》が|出《で》るから、モウ|少《すこ》し|遅《おそ》く、|夜《よ》が|明《あ》けてから|登《のぼ》らうと|云《い》つたのに、|貴様《きさま》が|喧《やかま》しく|急《せ》き|立《た》てて|夜中立《よなかだち》をして|来《き》たものだから、こんな|怖《こは》い|目《め》に|会《あ》ふのだ。これも|自業自得《じごうじとく》とあきらめて|真裸《まつぱだか》となり、|命《いのち》|丈《だけ》|助《たす》けて|貰《もら》ふやうにするのが|第一《だいいち》の|上分別《じやうふんべつ》だ。オイ|皆《みな》|裸《はだか》になれ、|泥公《どろこう》の|方《はう》から|請求《せいきう》されない|間《うち》に|綺麗《きれい》サツパリとおつ|放《ぽ》りだす|方《はう》が|得策《とくさく》だ。|人《ひと》の|性《せい》は|善《ぜん》だから、|下着《したぎ》の|一枚《いちまい》|位《ぐらゐ》は|返《かへ》してくれるかも|知《し》れぬからのう』
と|小声《こごゑ》に|一同《いちどう》に|向《むか》つて|囁《ささや》いてゐる。|久公《きうこう》は|此《この》|囁《ささや》き|声《ごゑ》はチツとも|耳《みみ》に|入《はい》らなかつた。|余《あま》りの|驚《おどろ》きに|耳《みみ》が|鳴《な》つてゐたからである。
|男《をとこ》『|私《わたし》は|火《ひ》の|国《くに》の|者《もの》で|御座《ござ》いますが、|俄《にはか》に|急用《きふよう》が|出来《でき》まして、|男女《だんぢよ》|六人連《ろくにんづ》れ、|此《この》|坂《さか》を|越《こ》えて|参《まゐ》りました。どうぞ|荒《あら》いことをせないやうに|頼《たの》みます。|其《その》|代《かは》りスツカリ|着物《きもの》を|脱《ぬ》いで|渡《わた》しますから……』
『お|前《まへ》は|人《ひと》の|着物《きもの》を|脱《ぬ》がすのが|商売《しやうばい》だから|無理《むり》もないが、どうぞ|今日《けふ》は|日曜《にちえう》にしてくれ、|頼《たの》みぢや。|三五教《あななひけう》の|黒姫《くろひめ》さまのお|供《とも》をして|火《ひ》の|国《くに》へ|行《ゆ》くのだから、ここで|真裸《まつぱだか》にせられちやア、|本当《ほんたう》に|迷惑《めいわく》だからなア。|一枚《いちまい》だつて|渡《わた》すこたア|出来《でき》ないから、どうぞ|諦《あきら》めて|下《くだ》さい。これでも|男《をとこ》|一匹《いつぴき》の|侠客《けふかく》だから、|裸一貫《はだかいつくわん》の|大男《おほをとこ》だから……』
|男《をとこ》も|亦《また》|驚《おどろ》きの|為《ため》に|耳《みみ》もろくに|聞《きこ》えなくなつてゐた。
『エヽ|何《なん》と|仰有《おつしや》います。|一枚《いちまい》も|渡《わた》さぬと|仰有《おつしや》るのですか。せめて|下着《したぎ》なつと|下《くだ》さいな、|裸一貫《はだかいつくわん》とか|二貫《にくわん》とか|仰有《おつしや》いましたが、|裸《はだか》になつちや|道中《だうちう》が|出来《でき》ませぬ、|又《また》こんな|孱弱《かよわ》い|女《をんな》も|居《を》るのですから、そこはお|慈悲《じひ》で|見《み》のがして|下《くだ》さいませ』
|外《ほか》|五人《ごにん》の|男女《だんぢよ》は|目《め》をふさぎ、|耳《みみ》をつめ|坂路《さかみち》にふるひふるひ|踞《しやが》んでゐる。
『アハヽヽヽ、|臆病者《おくびやうもの》|同士《どうし》の|寄合《よりあひ》ぢやなア………コレコレ|旅《たび》の|御方《おかた》、|吾々《われわれ》は|決《けつ》して|泥棒《どろばう》ぢやありませぬよ。|大蛇《をろち》の|三公《さんこう》の|乾児《こぶん》で、|弱《よわ》きをくじき、|強《つよ》きを|助《たす》けると|云《い》ふ|都合《つがふ》の|好《よ》い|侠客《けふかく》だから、マアマア|安心《あんしん》なさい。|命《いのち》を|取《と》つても|着物《きもの》|迄《まで》|取《と》らうとは|云《い》はねえから|安心《あんしん》しなせえ。|今《いま》の|人間《にんげん》は|体《からだ》よりも|着物《きもの》を|大切《たいせつ》がるから|大切《たいせつ》な|着物《きもの》の|方《はう》を|助《たす》けて|上《あ》げやせう、アハヽヽヽ』
『コレコレ|徳公《とくこう》、|久公《きうこう》、|冗談《じようだん》もいい|加減《かげん》にしておきなさい。|旅《たび》のお|方《かた》が|本当《ほんたう》の|泥棒《どろばう》だと|思《おも》つて、あの|通《とほ》り|慄《ふる》うてゐられるぢやありませぬか。そんな|肚《はら》の|悪《わる》いことを|云《い》ふものぢやありませぬよ』
『いかにも|御尤《ごもつと》も|千万《せんばん》、|恐《おそ》れ|入谷《いりや》の|鬼子母神《きしぼじん》、|呆《あき》れ|蛙《かはづ》の|面《つら》に|水《みづ》、つらつら|思《おも》んみれば、|見《み》ず|知《し》らずの|旅人《たびびと》を|捉《つかま》へ、いらざる|嚇《おど》し|文句《もんく》を|並《なら》べたて、|誠《まこと》に|以《もつ》て|不都合千万《ふつがふせんばん》、|平《ひら》に|御容赦《ごようしや》|願《ねがひ》|上《あ》げ|奉《たてまつ》りまする……コレコレ|旅《たび》のお|方《かた》、|吾々《われわれ》は|決《けつ》して|泥棒《どろばう》ぢやありませぬ。|三五教《あななひけう》の|信者《しんじや》だから|安心《あんしん》して|下《くだ》さい。|実《じつ》は|此方《こちら》の|方《はう》から、お|前《まへ》さま|達《たち》を|泥棒《どろばう》の|群《むれ》だと|早合点《はやがつてん》して、|雨蛙《あまがへる》の|胸元《むなもと》のやうに、ペコペコとハートに|波《なみ》を|打《う》たせてゐた|余《あま》り|強《つよ》くない|代物《しろもの》ですよ。|疑心暗鬼《ぎしんあんき》を|生《しやう》ずとかや、|互《たがひ》に|心《こころ》の|縺《もつ》れから、せいでもよい|心配《しんぱい》をしたり、させたり、【らつち】もねえことで|御座《ござ》んした』
|旅《たび》の|男《をとこ》は|漸《やうや》くにして|胸《むね》|撫《な》でおろし、
『あゝそれで|落着《おちつ》きました……オイお|前達《まへたち》、モウ|心配《しんぱい》するには|及《およ》ばぬ、|気《き》を|確《たしか》に|持《も》て。こんな|弱《よわ》い|事《こと》で|荒井峠《あらゐたうげ》が|越《こ》されると|思《おも》ふか。|仮令《たとへ》|泥棒《どろばう》の|千匹《せんびき》|万匹《まんびき》|押寄《おしよ》せ|来《きた》るとも、|此《この》|鉄公《てつこう》が|鉄拳《てつけん》を|揮《ふる》つて、|泥棒《どろばう》の|群《むれ》に|縦横無尽《じうわうむじん》に|飛込《とびこ》んだが|最後《さいご》、さしも|暴悪無道《ばうあくむだう》の|泥棒《どろばう》の|群《むれ》も|風《かぜ》に|木《こ》の|葉《は》の|散《ち》る|如《ごと》く|先《さき》を|争《あらそ》ひ、ムラムラパツと|逃《に》げ|散《ち》つたり。|逃《に》げる|奴《やつ》には|目《め》はかけず、|寄《よ》せくる|奴《やつ》は|片《かた》つぱしからブンなぐり、|素首《そつくび》ひきぬき、|股《また》をさき|手《て》をむしり、|子供《こども》の|人形箱《にんぎやうばこ》のやうに|致《いた》してくれむは|案《あん》の|内《うち》、ヤア|面白《おもしろ》し|面白《おもしろ》し。|実《げ》に|名《な》にし|負《お》ふ|荒井ケ岳《あらゐがだけ》の|勇将《ゆうしやう》と、|名《な》を|万世《ばんせい》に|轟《とどろ》かす、|比《たぐ》ひ|稀《まれ》なる|豪傑《がうけつ》なり………と|云《い》ふ|様《やう》なものだ。マアマア|木《こ》ツぱ|共《ども》、|否《いな》|臆病者《おくびやうもの》|共《ども》、|此《この》|鉄公《てつこう》さまに|従《したが》ひ|来《きた》れ、オツホーン』
『アハヽヽヽ|又《また》|久公《きうこう》の|二代目《にだいめ》が|出来《でき》ましたなア』
『|久公《きうこう》の|副守護神《ふくしゆごじん》が|憑依《ひようい》したのですよ、アハヽヽヽ』
|旅《たび》の|男《をとこ》は|五人《ごにん》の|男女《だんぢよ》を|差《さ》し|招《まね》き、|法螺《ほら》を|吹《ふ》き、|空威張《からいば》りし|乍《なが》ら、ヤツパリどこかに|薄気味《うすぎみ》が|悪《わる》いと|見《み》え、|下《くだ》り|坂《ざか》になつたを|幸《さいは》ひ、|転《こ》けつまろびつ、|立板《たていた》に|砂利《じやり》をブチまけたやうに、バラバラと|命《いのち》カラガラ|逃《に》げて|行《ゆ》く。
(大正一一・九・一七 旧七・二六 松村真澄録)
第一八章 |山下《やまくだ》り〔九八二〕
|黒姫《くろひめ》は|四方《よも》の|風景《ふうけい》を|眺《なが》めながら、
『|見渡《みわた》せば|四方《よも》は|霞《かす》みて|霧《きり》の|海《うみ》よ
|吾《わが》|背《せ》の|君《きみ》は|何処《いづこ》に|坐《ま》すらむ。
|霧《きり》の|海《うみ》|波《なみ》|静《しづ》かなり|火《ひ》の|国《くに》に
コバルト|色《いろ》の|山《やま》は|浮《うか》びつ。
|村肝《むらきも》の|心《こころ》を|荒井ケ岳《あらゐがだけ》に|来《き》て
|四方《よも》を|見晴《みは》らす|今日《けふ》ぞ|楽《たの》しき。
|眺《なが》むれば|火《ひ》の|国山《くにやま》や|向日山《むかふやま》
|花見ケ岳《はなみがだけ》の|姿《すがた》のさやけさ。
|麗《うるは》しき|霧《きり》の|漂《ただよ》ふ|火《ひ》の|国《くに》の
|国原《くにばら》|清《きよ》く|塵《ちり》も|留《とど》めず。
|野《の》も|山《やま》も|霧《きり》に|霞《かすみ》て|隠《かく》れゆく
わが|背《せ》の|君《きみ》を【まぎ】て|行《ゆ》くかも。
|山々《やまやま》は|霧《きり》に|沈《しづ》みて|見《み》えざれど
|高山彦《たかやまひこ》の|頭《かしら》|見《み》えつつ。
|徳公《とくこう》と|久公《きうこう》|二人《ふたり》を|伴《ともな》ひて
|実《げ》に|面白《おもしろ》き|旅《たび》をなすかな。
|旅人《たびびと》を|泥棒《どろばう》なりと|見違《みちが》へて
|徳《とく》|久《きう》|二人《ふたり》は|胸《むね》をどらせり。
|旅人《たびびと》は|徳《とく》と|久《きう》との|姿《すがた》|見《み》て
|泥棒《どろばう》と|誤《あやま》り|戦《をのの》きにける。
|今《いま》|暫《しば》し|心《こころ》の|駒《こま》に|鞭《むち》うちて
|進《すす》みて|行《ゆ》かむ|火《ひ》の|国都《くにみやこ》へ。
|惟神《かむながら》|神《かみ》の|教《をしへ》に|従《したが》ひて
|筑紫《つくし》の|島《しま》を|廻《めぐ》るは|楽《たの》しき。
|神国《かみくに》に|生《うま》れ|出《い》でたる|吾《われ》なれば
|夜昼《よるひる》|神《かみ》の|道《みち》を|進《すす》まむ。
|天津日《あまつひ》の|影《かげ》も|霞《かすみ》に|包《つつ》まれて
|風《かぜ》|静《しづ》かなる|荒井ケ岳《あらゐがだけ》の|尾《を》』
|徳公《とくこう》は|尻馬《しりうま》に|乗《の》つて|詠《うた》ふ。
『|黒姫《くろひめ》に|従《したが》ひ|来《く》れば|山風《やまかぜ》も
|荒井ケ岳《あらゐがだけ》に|泥棒《どろばう》|出《い》でたり。
|泥棒《どろばう》と|取《と》り|違《ちが》へたる|久公《きうこう》が
|肝玉《きもだま》|取《と》られ|腰《こし》|抜《ぬ》かしたり。
|腰抜《こしぬ》けの|弱《よわ》い|男《をとこ》と|道連《みちづれ》に
なつた|迷惑《めいわく》|徳公《とくこう》の|損《そん》だ。
|急坂《きふはん》を|泡《あわ》|吹《ふ》きながら【キウ】キウと
|久公《きうこう》の|奴《やつ》が|登《のぼ》り|行《ゆ》くかも。
|惟神《かむながら》|神《かみ》が|表《おもて》に|現《あら》はれて
|火《ひ》の|神国《かみくに》を|霧海《きりうみ》にする。
|山々《やまやま》は|霞《かすみ》の|帯《おび》をひきしめて
わが|行《ゆ》く|姿《すがた》を|待《ま》ちつつぞ|居《ゐ》る。
|慢心《まんしん》の|山《やま》の|頂上《ちやうじやう》に|登《のぼ》りつめて
|困《こま》りきつたる|久公《きうこう》あはれ』
|久公《きうこう》は|負《ま》けぬ|気《き》になつて|又《また》|詠《うた》ふ。
『【トク】|頭病《とうびやう》|見《み》たよな|禿《は》げた|山《やま》の|上《へ》に
|徳公《とくこう》の|野郎《やらう》が|慄《ふる》ひ|居《を》るなり。
|口《くち》ばかり|十年《じふねん》|先《さき》に|生《うま》れたる
|男《をとこ》が|屁理屈《へりくつ》【トク】トクとして|言《い》ふ。
【トク】|心《しん》のゆくまで|脂《あぶら》とつてやろか
|不道【徳】《ふだうとく》なる|徳公《とくこう》のために。
|野《の》も|山《やま》も|霞《かすみ》や|霧《きり》に|包《つつ》まれて
|春《はる》と|秋《あき》との|中《なか》に|逍遥《さまよ》ふ。
|春《はる》か|非《あら》ず|秋《あき》かと|見《み》れば|秋《あき》ならず
|力《ちから》も|夏《なつ》の|朝《あさ》ぼらけかな。
|朝霞《あさがすみ》|棚曳《たなび》きそめて|山々《やまやま》は
|浮《う》きしが|如《ごと》く|見《み》えにけるかも。
あの|様《やう》な|大《おほ》きな|山《やま》を|浮《う》かす|奴《やつ》は
|霧《きり》か|霞《かすみ》か|白雲《しらくも》の|空《そら》。
|浮《う》いて|居《ゐ》るやうに|見《み》えても|花見山《はなみやま》
|根《ね》は|火《ひ》の|国《くに》の|霧《きり》にかくれつ。
この|山《やま》は|荒井ケ岳《あらゐがだけ》と|唱《とな》ふれど
|静《しづ》かな|風《かぜ》が|吹《ふ》き|渡《わた》るなり。
|虎公《とらこう》のわが|親分《おやぶん》は|今《いま》いづこ
|頼《たよ》りも|白山峠《しらやまたうげ》|越《こ》ゆらむ。
|親分《おやぶん》がお|愛《あい》の|方《かた》と|諸共《もろとも》に
|胸突《むなつ》き|坂《ざか》に|肝《きも》|【虎】《とら》れ|居《ゐ》まさむ。
|三公《さんこう》の|親分《おやぶん》よりも|虎公《とらこう》は
|勝《まさ》りて|足《あし》のまめな|強者《つはもの》。
|今頃《いまごろ》は|三公《さんこう》|親分《おやぶん》が|屁古垂《へこた》れて
|徳《とく》よ|徳《とく》よと|弱音《よわね》|吹《ふ》くらむ。
おい|徳《とく》よ|早《はや》く|此《この》|場《ば》を|立《た》ち|去《さ》つて
|弱《よわ》い|親方《おやかた》たづね|行《ゆ》くべし。
かうなれば|黒姫司《くろひめつかさ》の|御供《おんとも》は
|久公《きうこう》|一人《ひとり》で|事足《ことた》りぬべし。
|心《こころ》から|嫌《いや》な|徳公《とくこう》と|山登《やまのぼ》り
|一《いち》しほ|汗《あせ》が|深《ふか》く|出《で》るなり。
|屋方《やかた》の|村《むら》の|三公《さんこう》が  |乾児《こぶん》の|端《はし》に|加《くは》へられ
|朝《あさ》から|晩《ばん》|迄《まで》|門《かど》を|掃《は》き  |褌《ふんどし》までも|洗《あら》はされ
|下女《げぢよ》のお|鍋《なべ》に|肱鉄《ひぢてつ》を  |朝《あさ》な|夕《ゆふ》なに|喰《くら》はされ
|性《しやう》こりもなくつけ|狙《ねら》ふ  |腰抜男《こしぬけをとこ》が|現《あら》はれて
|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》  |黒姫司《くろひめつかさ》の|御案内《ごあんない》
するとは|実《じつ》に|案外《あんぐわい》ぢや  |荒井峠《あらゐたうげ》へやつて|来《き》て
|俺《おれ》は|立派《りつぱ》な|地理学者《ちりがくしや》  なんぢやかんぢやと|法螺《ほら》を|吹《ふ》く
|二百十日《にひやくとをか》の|風《かぜ》のよに  |吹《ふ》き|散《ち》らすのはよけれども
|其処《そこ》らあたりで|金《かね》を|借《か》り  |未《いま》だに|尻《しり》をふかぬ|奴《やつ》
|深《ふか》い|罪科《つみとが》を|重《かさ》ねつつ  |身《み》の|程《ほど》|知《し》らずの|徳公《とくこう》が
|高《たか》い|山坂《やまさか》|登《のぼ》るとは  |是《これ》こそ|天地《てんち》|転倒《てんたう》だ
|鼻《はな》ばつかりを|高《たか》くして  あんまり|法螺《ほら》を|吹《ふ》く|故《ゆゑ》に
|仲間《なかま》の|奴《やつ》に|嫌《きら》はれて  |黒姫司《くろひめつかさ》の|案内《あんない》と
|体《てい》よき|辞令《じれい》に|放《ほ》り|出《だ》され  |此処迄《ここまで》|出《で》て|来《き》た|馬鹿男《ばかをとこ》
ほんに|思《おも》へば|気《き》の|毒《どく》な  |何《なん》とか|助《たす》けてやりたいと
|心《こころ》を|千々《ちぢ》に|砕《くだ》けども  |腐《くさ》りきつたる|魂《たましひ》を
|助《たす》けるよしも|夏《なつ》の|空《そら》  |青葉《あをば》の|影《かげ》に|身《み》を|潜《ひそ》め
|姿《すがた》かくしてなき|渡《わた》る  |山杜鵑《やまほととぎす》は|外《ほか》でない
|今《いま》|目《め》の|前《まへ》に|泣《な》いて|居《ゐ》る  こんな|男《をとこ》と|道連《みちづ》れに
なつた|俺《おれ》こそ|因果者《いんぐわもの》  |黒姫司《くろひめつかさ》も|嘸《さぞ》やさぞ
|困《こま》つた|奴《やつ》の|道連《みちづ》れと  |愛想《あいさう》を|尽《つ》かして|腹中《ふくちう》を
|揉《も》んで|厶《ござ》るに|違《ちが》ひない  こんな|男《をとこ》に|狙《ねら》はれちや
|黒姫司《くろひめつかさ》もやり|切《き》れぬ  どこぞそこらに|掃溜《はきだめ》が
|目《め》につくならば|逸早《いちはや》く  |惜《を》し|気《げ》もなしにドシドシと
|捨《す》てて|行《ゆ》かうと|思《おも》へども  |山《やま》は|霞《かすみ》に|包《つつ》まれて
|何処《いづこ》も|同《おな》じ|霧《きり》の|海《うみ》  |捨《す》て|場《ば》さへなき|困《こま》り|者《もの》
|厄介《やくかい》|至極《しごく》の|至《いた》りなり  「オツトドツコイ」|言霊《ことたま》の
|善言美詞《ぜんげんびし》の|御教《みをしへ》を  |忘《わす》れて|居《を》つたか|待《ま》て|暫《しば》し
|黒姫《くろひめ》|様《さま》よ|徳公《とくこう》よ  |今《いま》|云《い》うたのは|俺《おれ》ぢやない
お|前《まへ》の|肉体《にくたい》|守護《しゆごう》する  |副守《ふくしゆ》の|奴《やつ》が|憑依《ひようい》して
|無礼《ぶれい》の|言霊《ことたま》|囀《さへづ》つた  それに【てつきり】|違《ちが》ひない
|腹《はら》を|立《た》てなよ|神直日《かむなほひ》  |心《こころ》も|広《ひろ》き|大直日《おほなほひ》
あつさり|見直《みなほ》せ|聞《き》き|直《なほ》せ  |人《ひと》は|神《かみ》の|子《こ》|神《かみ》の|宮《みや》
|神《かみ》に|敵《てき》する|仇《あだ》はない  あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ  |朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも
|月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも  |火《ひ》の|国都《くにみやこ》は|十重二十重《とへはたへ》
|霧《きり》に|包《つつ》まれ|沈《しづ》むとも  |否《いや》でも|応《おう》でも|吾々《われわれ》は
|黒姫司《くろひめつかさ》のお|供《とも》して  |送《おく》つて|行《ゆ》かねばならないぞ
|親分《おやぶん》さまに|頼《たの》まれた  |義理《ぎり》を|思《おも》へば|今《いま》|此処《ここ》で
へつ|込《こ》む|訳《わけ》にはゆかないわ  も|一《ひと》つ|腕《うで》に|撚《よ》りをかけ
|足《あし》に|油《あぶら》を|濺《そそ》ぎつつ  |山野《やまの》を|渡《わた》る|膝栗毛《ひざくりげ》
|心《こころ》の|駒《こま》に|鞭《むち》うつて  お|前《まへ》と|俺《おれ》とは|睦《むつ》まじう
|手《て》を|引《ひ》き|合《あ》うて|行《ゆ》かうかい  あゝ|面白《おもしろ》い|面白《おもしろ》い
|東《ひがし》の|空《そら》が|晴《は》れて|来《き》た  |今《いま》|吹《ふ》く|風《かぜ》は|東風《ひがしかぜ》
わが|言霊《ことたま》は|火《ひ》の|国《くに》の  |都《みやこ》に|清《きよ》く|響《ひび》くだらう
|高山司《たかやまつかさ》も|今頃《いまごろ》は  |神徳《しんとく》|無双《むさう》の|久公《きうこう》が
|宣《の》る|言霊《ことたま》に|耳《みみ》|澄《す》ませ  |生神《いきがみ》さまが|出《で》て|来《く》ると
|酒《さけ》や|肴《さかな》を|用意《ようい》して  |待《ま》つて|厶《ござ》るに|違《ちが》ひない
これも|矢張《やつぱり》|黒姫《くろひめ》の  |神《かみ》の|司《つかさ》のお|蔭《かげ》ぞや
サアサア|行《ゆ》かうサア|行《ゆ》かう  |余《あま》りの|長《なが》い|休息《きうそく》で
|尻《しり》に|白根《しろね》が|下《お》りさうだ  いづれ|行《ゆ》かねばならぬ|道《みち》
|進《すす》めや|進《すす》めいざ|進《すす》め  |徳公《とくこう》の|野郎《やらう》は|先《さき》に|行《ゆ》け
|黒姫司《くろひめつかさ》は|殿《しんがり》だ  |久公《きうこう》|吾《われ》は|中《なか》に|立《た》ち
|中取《なかと》り|臣《おみ》の|役《やく》となり  さしもに|嶮《けは》しき|坂道《さかみち》を
|苦《く》もなく|下《くだ》り|行《ゆ》かうかい  あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ』
と|歌《うた》ひながら|立《た》ち|上《あが》る。|黒姫《くろひめ》は|徳公《とくこう》を|先《さき》に|立《た》て、|壁《かべ》を|立《た》てたやうな|急坂《きふはん》を|一足《ひとあし》|々々《ひとあし》|指《ゆび》に|力《ちから》を|籠《こ》めて|下《くだ》り|行《ゆ》く。
|徳公《とくこう》は|一足《ひとあし》|々々《ひとあし》|力《ちから》を|入《い》れながら、さしも|名題《なだい》の|急坂《きふはん》|荒井峠《あらゐたうげ》の|西坂《にしざか》を|歌《うた》ひ|乍《なが》ら|下《くだ》りゆく。
『|青葉《あをば》を|渡《わた》る|夏《なつ》の|風《かぜ》  |霧《きり》か|霞《かすみ》か|知《し》らねども
|一間先《いつけんさき》は|分《わか》らない  だんだんおち|込《こ》む|霧《きり》の|海《うみ》
「ウントコドツコイ」|黒姫《くろひめ》さま  |足許《あしもと》|用心《ようじん》なさいませ
|外《ほか》の|峠《たうげ》と|事変《ことかは》り  |火《ひ》の|国《くに》|一《いち》の|急坂《きふはん》で
|一方《いつぱう》は|断崖《だんがい》|絶壁《ぜつぺき》だ  |一方《いつぱう》は|深《ふか》い|谷《たに》の|底《そこ》
もし|踏《ふ》み|外《はづ》した|其《その》|時《とき》は  かけがへのなきこの|命《いのち》
さつぱり【ジヤミ】にして|仕舞《しま》ふ  |久公《きうこう》の|奴《やつ》も|気《き》をつけて
|一歩々々《ひとあしひとあし》|爪先《つまさき》に  |心《こころ》を|配《くば》つて|下《お》りて|来《こ》い
もしも|途中《とちう》で|一人《ひとり》でも  |大怪我《おほけが》したら「ドツコイシヨ」
「ウントコドツコイ」|親方《おやかた》に  |何《ど》うして|云《い》ひ|訳《わけ》|立《た》つものか
|黒姫司《くろひめつかさ》のお|供《とも》して  このよな|深《ふか》き|坂道《さかみち》で
|命《いのち》を|捨《す》てては|引《ひ》き|合《あは》ぬ  おいおい|此処《ここ》が|一《いち》の|関《せき》
|両手《りやうて》で|岩《いは》をつかまへて  |目《め》を|塞《ふさ》ぎつつ|足《あし》|探《さぐ》り
そつと|伝《つた》うて|下《お》りて|来《こ》い  あゝあゝきつい|難所《なんしよ》だな
|斯《こ》んな|所《ところ》を|何《なん》として  |先《さき》の|女《をんな》が|易々《やすやす》と
|登《のぼ》つて|来《き》たのか「ドツコイシヨ」  |不思議《ふしぎ》になつて|堪《たま》らない
|黒姫司《くろひめつかさ》は|老年《としより》だ  |心《こころ》を|鎮《しづ》めてそろそろと
|足《あし》に|力《ちから》を|入《い》れながら  |左《ひだり》の|手《て》にて|杖《つゑ》を|持《も》ち
|右手《みぎて》に|岩ケ根《いはがね》|掴《つか》みつつ  |静《しづか》にお|下《くだ》りなさいませ
アヽアヽ|危《あぶ》ないもう|些《すこ》し  |下《くだ》つて|行《ゆ》けば|緩《ゆる》やかな
|安全《あんぜん》|無事《ぶじ》の|道《みち》がある  |其処《そこ》へ|行《ゆ》く|迄《まで》「ドツコイシヨ」
どうしても|心《こころ》はゆるされぬ  もしも|不調法《ぶてうはふ》した|時《とき》は
|火《ひ》の|国都《くにみやこ》にあれませる  |高山彦《たかやまひこ》の|神《かみ》さまに
|合《あは》せる|顔《かほ》がない|程《ほど》に  あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さち》はひましまして  |此《この》|急坂《きふはん》を|恙《つつが》なく
|無事《ぶじ》に|下《くだ》らせたまへかし  |神《かみ》は|吾等《われら》と|倶《とも》にあり
|吾等《われら》は|神《かみ》の|子《こ》|神《かみ》の|宮《みや》  とは|云《い》ふものの「ドツコイシヨ」
|矢張《やつぱり》|人《ひと》の|身《み》をもつて  |神《かみ》さま|気取《きど》りにやなれないぞ
|心《こころ》を|配《くば》り|気《き》をつけて  |此《この》|難関《なんくわん》を|辷《すべ》り|越《こ》え
|一日《ひとひ》も|早《はや》く|火《ひ》の|国《くに》の  |花《はな》の|都《みやこ》へ「ウントコシヨ」
|行《ゆ》かねばならない「ドツコイシヨ」  |黒姫《くろひめ》さまは|何《なん》として
それ|程《ほど》|黙《だま》つて|御座《ござ》るのか  |些《ちつ》とは|何《なん》とか「ドツコイシヨ」
|歌《うた》なと|歌《うた》うて|下《くだ》さんせ  |私《わたし》ばかりが|噪《はし》やいで
|声《こゑ》を|涸《か》らして|居《ゐ》た|所《とこ》が  オツト|危《あぶ》ない|石《いし》がある
|根《ね》つから「ドツコイ」はづまない  |其処《そこ》には|鏡《かがみ》の|岩《いは》がある
|皆《みな》さま|気《き》をつけなさらぬと  |鏡《かがみ》の|岩《いは》は|滑《なめ》らかだ
|是《これ》から|向《むか》ふへ|一二町《いちにちやう》  |鏡《かがみ》のやうに「ドツコイシヨ」
|光《ひか》つて|辷《すべ》る|坂《さか》の|道《みち》  |此処《ここ》が|第二《だいに》の|難関《なんくわん》だ
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |叶《かな》はぬか|知《し》らぬが|久公《きうこう》が
|屁古垂《へこた》れよつて「ドツコイシヨ」  さつぱり|唖《おし》になりよつた
|何程《なにほど》|無言《むごん》の|業《げふ》ぢやとて  それだけ|湿《しめ》つちや「ドツコイシヨ」
|女《をんな》に|劣《おと》つた|腰抜《こしぬ》けと  |云《い》はれた|処《ところ》で「ウントコシヨ」
|云《い》ひ|訳《わけ》する|道《みち》あらうまい  ほんに|困《こま》つた|弱虫《よわむし》の
|困《こま》つた|腰抜男《こしぬけをとこ》だな  「オツトコドツコイ」|待《ま》て|暫《しば》し
|善言美詞《ぜんげんびし》の「ヤツトコシヨ」  |言霊車《ことたまぐるま》が|脱線《だつせん》し
|済《す》まない|事《こと》を|云《い》ひました  あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|神《かみ》の|心《こころ》に|見直《みなほ》して  |久公《きうこう》|怒《おこ》つて|下《くだ》さるな
お|前《まへ》が|売出《うりだ》す|言霊《ことたま》を  |俺《おれ》が|買《か》うたるばつかりだ
|売《う》つた|喧嘩《けんくわ》をどうしても  |買《か》はねばならぬ|男達《をとこだて》
「ウントコドツコイ ドツコイシヨ」  |妙《めう》な|所《ところ》へ|力瘤《ちからこぶ》
|入《い》れる|男《をとこ》と|思《おも》はずに  |何卒《なにとぞ》|見直《みなほ》し|聞直《ききなほ》し
「ガラガラガラガラ アイタタツタ」  とうとう|腰《こし》の|骨《ほね》|打《う》つた
「アイタタタツタ」|神様《かみさま》の  |罰《ばち》が|当《あた》つたぢやあるまいか
|口《くち》は「ドツコイ」|禍《わざはひ》の  |門《もん》ぢやと|聞《き》いて|居《を》つたれど
まさかにこんな「ウントコシヨ」  |事《こと》になるとは|夢《ゆめ》にだに
|思《おも》はなかつた「ドツコイシヨ」  も|些《すこ》し|下《くだ》れば「ドツコイシヨ」
|緩勾配《くわんこうばい》の|道《みち》がある  |其処《そこ》でゆつくり|憩《やす》まうか
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ』
(大正一一・九・一七 旧七・二六 加藤明子録)
第一九章 |狐《きつね》の|出産《しゆつさん》〔九八三〕
|三人《さんにん》は|稍《やや》|緩勾配《くわんこうばい》の|坂道《さかみち》にかかり、|甦《い》き|返《かへ》つた|様《やう》な|気分《きぶん》になつて、|宣伝歌《せんでんか》を|歌《うた》ひ|乍《なが》ら|進《すす》み|行《ゆ》く。|道《みち》の|傍《かたはら》に|滾々《こんこん》として|清水《しみづ》が|湧《わ》き|出《で》て|居《ゐ》る。|天《てん》の|与《あた》へと|三人《さんにん》は|飛《と》びつく|様《やう》にして|交《かは》る|交《がは》る|手《て》に|掬《すく》ひつつ|喉《のど》を|霑《うるほ》す。
|徳公《とくこう》『|旅人《たびびと》の|生命《いのち》|養《やしな》ふ|清水《しみづ》かな。
|滾々《こんこん》と|水《みづ》の|御霊《みたま》の|湧《わ》き|出《い》でにけり。
あゝうまいうまいと|掬《むす》ぶ|清水《しみづ》|哉《かな》。
|汗《あせ》までが|姿《すがた》を|隠《かく》す|清水《しみづ》かな。
|喉笛《のどぶゑ》の|調子《てうし》を|直《なほ》す|清水《しみづ》かな。
|岩清水《いはしみづ》|尊《たふと》き|神《かみ》の|恵《めぐ》みなり。
|有難《ありがた》し|尊《たふと》し|何《なに》も|岩清水《いはしみづ》』
|久公《きうこう》『おい、|徳《とく》、|随分《ずゐぶん》|水々《みづみづ》とよく|囀《さへづ》るぢやないか。それほど|貴様《きさま》|水《みづ》が|有難《ありがた》いか。|此《この》|坂《さか》を|降《くだ》つて|少《すこ》しく|左《ひだり》へとれば|竜《たつ》の|湖《みづうみ》があるから、そこへ|飛《と》び|込《こ》むで|死《し》ぬ|迄《まで》|飲《の》むといいわ、|一杯《いつぱい》|々々《いつぱい》|手《て》に|掬《すく》うて|飲《の》んで|居《ゐ》るより|埒《らち》が|好《い》いからな。|俺《おれ》も|一《ひと》つ|此《この》|清水《しみづ》で|駄句《だく》つてみようか』
|徳公《とくこう》『|風流《ふうりう》を|知《し》らぬ|貴様《きさま》に|如何《どう》して|俳句《はいく》が|出来《でき》るものかい』
|久公《きうこう》『|何《なに》、|俺《おれ》の|名句《めいく》をよく|聞《き》け!
|岩清水《いはしみづ》|徳公《とくこう》の|餓鬼《がき》の|生命《いのち》かな。
|餓鬼《がき》|達《たち》が|集《あつ》まり|来《きた》る|清水《しみづ》かな』
|徳公《とくこう》『アハヽヽヽ、もつと|云《い》はないか。もうそれで|種切《たねぎれ》だなア』
|久公《きうこう》『|滾々《こんこん》と|湧《わ》き|出《だ》す|命《いのち》や|岩清水《いはしみづ》。
|云《い》ふよりも|云《い》はぬがましと|口《くち》を|詰《つ》め。
|柚《ゆう》よりも|味《あぢ》の|良《よ》くない|清水《しみづ》かな。
|湧《わ》き|返《かへ》る|胸板《むないた》|冷《ひや》す|清水《しみづ》かな。
|岩清水《いはしみづ》|徳公《とくこう》の|腹《はら》に|虫《むし》がわき』
|徳公《とくこう》『|馬鹿《ばか》にするない。|水臭《みづくさ》い|事《こと》ばかり|柚《ゆう》ぢやないか』
|久公《きうこう》『きまつた|事《こと》よ。|水《みづ》の|御霊《みたま》の|教《をしへ》を|伝《つた》ふる|宣伝使《せんでんし》のお|供《とも》だもの』
|黒姫《くろひめ》『|掬《すく》ふ|手《て》に|恵《めぐみ》の|露《つゆ》や|岩清水《いはしみづ》。
|滾々《こんこん》と|尽《つ》きぬ|生命《いのち》の|清水《しみづ》かな。
|何時《いつ》までも|涸《か》るる|事《こと》なし|岩清水《いはしみづ》。
|高山《たかやま》の|胸《むね》より|湧《わ》きし|清水《しみづ》かな。
|高山《たかやま》を|通《とほ》れば|楽《たの》し|岩清水《いはしみづ》。
|此《この》|水《みづ》や|神《かみ》の|恵《めぐみ》の|生命水《いのちみづ》。
|岩清水《いはしみづ》|三五《さんご》の|月《つき》の|光《ひか》りあり。
|徳《とく》|久《きう》が|水掛論《みづかけろん》の|比沼真奈井《ひぬまなゐ》。
|高山《たかやま》の|清水《しみづ》や|殊《こと》に|味《あぢ》の|良《よ》き。
|岩清水《いはしみづ》|吾《わが》|背《せ》の|君《きみ》に|飲《の》ませたし。
|湧《わ》き|出《い》づる|清水《しみづ》も|神《かみ》の|恵《めぐみ》かな。
|水々《みづみづ》し|若《わか》い|男《をとこ》の|水喧嘩《みづげんくわ》。
|水《みづ》にさへ|根《ね》もなき|喧嘩《けんくわ》の|花《はな》が|咲《さ》き。
|水晶《すゐしやう》の|霊《みたま》の|雫《しづく》か|岩清水《いはしみづ》。
|真清水《ましみづ》や|生命《いのち》の|親《おや》と|伏《ふ》し|拝《をが》み。
|水《みづ》|入《い》らぬ|二人《ふたり》の|仲《なか》に|水喧嘩《みづげんくわ》。
|水臭《みづくさ》い|心《こころ》を|嫌《きら》ふ|瑞御霊《みづみたま》。
|此《この》|水《みづ》や|末《すゑ》には|広《ひろ》き|海《うみ》に|入《い》り。
|高山《たかやま》の|水《みづ》の|甘《うま》さは|誰《たれ》も|知《し》らず。
|黒姫《くろひめ》の|心《こころ》を|洗《あら》ふ|清水《しみづ》かな。
|坂道《さかみち》の|疲《つか》れ|養《やしな》ふ|清水《しみづ》かな。
|又《また》|汗《あせ》の|種《たね》ともならむ|岩清水《いはしみづ》。
|真清水《ましみづ》を|掬《むす》ぶ|手先《てさき》や|霧《きり》の|立《た》ち』
|斯《か》く|三人《さんにん》は|道《みち》の|傍《かたはら》に|腰《こし》うち|下《おろ》し|駄句《だく》りつつある|処《ところ》へ、|慌《あわただ》しくやつて|来《き》た|一人《ひとり》の|男《をとこ》がある。|男《をとこ》は|腰《こし》を|屈《かが》め|乍《なが》ら、
『もしもし|旅《たび》の|御方《おかた》|様《さま》、|一《ひと》つお|願《ねがひ》が|御座《ござ》います。|何卒《どうぞ》|聞《き》いては|下《くだ》さいますまいか』
『|何事《なにごと》か|存《ぞん》じませぬが、|妾達《わたしたち》の|力《ちから》に|叶《かな》ふ|事《こと》ならば|承《うけたま》はりませう』
|男《をとこ》『|早速《さつそく》の|御承知《ごしようち》|有難《ありがた》う|御座《ござ》います。|私《わたし》は|火《ひ》の|国《くに》の|者《もの》で|常助《つねすけ》と|申《まを》す|百姓男《ひやくしやうをとこ》で|御座《ござ》いますが|熊襲《くまそ》の|国《くに》の|建日《たけひ》の|館《やかた》へ|参拝《さんぱい》せむと、|女房《にようばう》のお|常《つね》を|伴《ともな》ひ|此《この》|坂《さか》をエチエチと|登《のぼ》つて|参《まゐ》りました|処《ところ》、まだ|七月《ななつき》よりならない|女房《にようばう》が|俄《にはか》に|陣痛《しきり》が|来《く》ると|申《まを》しだし、|路傍《みちばた》の|木蔭《こかげ》に|腹《はら》を|痛《いた》めて|七転八倒《しちてんばつたう》|苦悶《くもん》をつづけて|居《を》ります。|何卒《どうぞ》|宣伝使《せんでんし》|様《さま》の|御神力《ごしんりき》によつて|安産《あんざん》をさせてやつて|下《くだ》さいませ』
『それは|御心配《ごしんぱい》で|御座《ござ》いませう。|及《およ》ばぬ|乍《なが》ら|御世話《おせわ》をさして|頂《いただ》きます……これこれ|二人《ふたり》の|若《わか》い|衆《しう》、|水筒《すゐとう》に|水《みづ》を|一杯《いつぱい》|盛《も》つて|下《くだ》さい。お|産《さん》の|時《とき》に|使《つか》はねばなりませぬから……』
『ハイ、|徳《とく》と|承知《しようち》|致《いた》しました。スウヰートハートの|結果《けつくわ》|赤坊《あかんぼ》を|腹《はら》に|仕入《しこ》んで、|到頭《たうとう》|水筒《すゐとう》の|御世話《おせわ》に|預《あづか》ると|云《い》ふ|妙《めう》な|因縁《いんねん》ですなア。|私《わたし》も|未《ま》だ|嬶《かか》アを|貰《もら》つてから|間《ま》がないので、|出産《しゆつさん》の|状況《じやうきやう》を|目撃《もくげき》した|事《こと》がない。こりやまア、|都合《つがふ》の|好《よ》い|事《こと》だ。|一《ひと》つ|見物《けんぶつ》さして|貰《もら》ひませうかい。なあ|久公《きうこう》、|何《なん》と|云《い》つても|人間《にんげん》が|一匹《いつぴき》|小《ちひ》さい○○から|飛《と》び|出《だ》すのだから、|随分《ずゐぶん》|六《むつ》かしい|芸当《げいたう》だらう。|屹度《きつと》|見《み》る|丈《だ》けの|価値《かち》はあるよ』
|久公《きうこう》は|黙《もく》して|答《こた》へず。
『これ|徳公《とくこう》さま、|出産《しゆつさん》と|云《い》ふものは|大切《たいせつ》なものだから、|静《しづ》かにせないと|産婦《さんぷ》が|逆上《ぎやくじやう》すると|大変《たいへん》だから、|暫《しばら》く|沈黙《ちんもく》して|居《ゐ》て|下《くだ》さいや』
『|委細《ゐさい》|承知《しようち》|致《いた》しました。これ|常助《つねすけ》どん、お|前《まへ》の|奥《おく》さまは|何処《どこ》で|呻《うな》つて|居《ゐ》るのだ。|早《はや》く|案内《あんない》しなさい。|万一《まんいち》、|赤坊《あかんぼ》が|出《で》にくがつて|居《を》つたら、|俺《おれ》が|後《うしろ》に|廻《まは》つて|力一杯《ちからいつぱい》|腰《こし》なり、|尻《しり》なりを|徳《とく》とブン|殴《なぐ》つて|叩《たた》きだしてやるから|安心《あんしん》しなさい』
『そんな|無茶《むちや》をしたつて|子《こ》は|生《うま》れるものぢや|御座《ござ》いませぬ。|却《かへつ》て|産婦《さんぷ》が|気《き》をとり|失《うしな》ひ|難産《なんざん》を|致《いた》しますから、|何卒《どうぞ》|手荒《てあら》い|事《こと》はせぬ|様《やう》に|頼《たの》みます』
『|常《つね》さま、|安心《あんしん》なさいませ。|此《この》|黒姫《くろひめ》が|何《なに》もかも|呑《の》み|込《こ》んでゐますから|大丈夫《だいぢやうぶ》です。さあ|早《はや》く|参《まゐ》りませう』
『ハイ、|有難《ありがた》う、|御案内《ごあんない》|致《いた》します。|斯《か》うお|越《こ》し|下《くだ》さいませ』
と|路傍《みちばた》の|草道《くさみち》を|二三十間《にさんじつけん》ばかり|踏《ふ》み|分《わ》け|進《すす》み|行《ゆ》く。|黒姫《くろひめ》も|一歩々々《ひとあしひとあし》|気《き》をつけ|乍《なが》ら|雑草《ざつさう》の|中《なか》を|探《さぐ》りつつ|常助《つねすけ》に|従《したが》ひ|行《ゆ》く。
『|何《なん》とマアえらい|叢《くさむら》ぢやないか。こんな|処《ところ》でお|産《さん》をする|奴《やつ》ア|碌《ろく》な|奴《やつ》ぢやあるまい。|河原乞食《かはらこじき》か、|山乞食《やまこじき》ぢやなくちや|宿《やど》なし|坊《ばう》か、|一体《いつたい》|合点《がてん》のゆかぬ|代物《しろもの》ぢやないか』
『これ、|徳公《とくこう》さま、お|黙《だま》りなさい。|産婦《さんぷ》に|障《さは》りますよ』
『ハイ、|承知《しようち》|致《いた》しました、|出産《しゆつさん》が|済《す》むまで|徳山砲台《とくやまはうだい》も|沈黙《ちんもく》|致《いた》します』
『ホヽヽヽヽ』
『この|樹《き》の|根《ね》に|女房《にようばう》が|居《を》ります。|何卒《どうぞ》|宜《よろ》しうお|願《ねが》ひ|致《いた》します』
『ほんにほんに|綺麗《きれい》な|女房《にようばう》だな。これお|常《つね》さまとやら、|妾《わたし》は|三五教《あななひけう》の|黒姫《くろひめ》と|云《い》ふ|宣伝使《せんでんし》だ。これから|神様《かみさま》に|願《ねが》つて、|安《やす》く|身二《みふた》つにして|上《あ》げますから|御安心《ごあんしん》なさいませ』
『もしもし|黒姫《くろひめ》さま、そんな|乱暴《らんばう》な|事《こと》をしちやいけませんぞ。|二《ふた》つにして|上《あ》げるなんてそんな|無茶《むちや》な|事《こと》がありますか……|殺《ころ》す|勿《なか》れ……と|云《い》ふ|律法《りつぱう》をお|前様《まへさま》は|蹂躙《じうりん》する|積《つも》りですか』
『ホヽヽヽヽ、|訳《わけ》の|分《わか》らぬ|男《をとこ》だこと、|二《ふた》つにして|上《あ》げると|云《い》ふのは、|親切《しんせつ》にとりあげて|親《おや》と|子《こ》と|分《わ》けて|上《あ》げると|云《い》ふ|事《こと》だ。つまり|子《こ》を|生《うま》れさす|事《こと》だよ』
『やアそれで|安心《あんしん》した。|何卒《どうぞ》|早《はや》く|二《ふた》つなつと|三《み》つなつとしてやつて|下《くだ》さい』
『ヒヨツとしたら|五《いつ》つになるかも|知《し》れませぬから、|吃驚《びつくり》せぬ|様《やう》にして|下《くだ》さい。……これこれお|常《つね》さま、|大分《だいぶん》|息苦《いきぐる》しさうだ。|今《いま》|楽《らく》にして|上《あ》げますから、チツとばかり|辛抱《しんばう》しなさいや』
『ハイ|御親切《ごしんせつ》に|有難《ありがた》う|御座《ござ》います、とんだ|厄介《やくかい》をかけまして|申訳《まをしわけ》が|御座《ござ》いませぬ』
|黒姫《くろひめ》は、
『そんな|心配《しんぱい》なされますな』
と|云《い》ひ|乍《なが》らお|常《つね》の|前《まへ》に|端坐《たんざ》し、|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》し、|天《あま》の|数歌《かずうた》を|謳《うた》ひ|上《あ》げ、|一生懸命《いつしやうけんめい》に|祈願《きぐわん》を|凝《こ》らしてゐる。
お|常《つね》は「ウン」とばかり|苦悶《くもん》の|声《こゑ》と|共《とも》に「ホギヤー」と|一声《ひとこゑ》、|飛《と》びだしたのはクリクリとした|男《をとこ》の|児《こ》……。
『ヤアお|目出度《めでた》いお|目出度《めでた》い……これこれ|常助《つねすけ》さま、|徳《とく》さま、|久《ひさ》さま、|早《はや》く|用意《ようい》をなされ、お|水《みづ》の……|私《わたし》はまだ|手《て》がぬけませぬから……さアお|常《つね》さま、も|一気張《ひときば》りだよ』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら、|又《また》もや|天《あま》の|数歌《かずうた》を|謳《うた》ひ|上《あ》げると、「ホギアー」と|一声《ひとこゑ》、|飛《と》んで|出《で》た|赤坊《あかんぼ》は|女《をんな》である。「ウン」と|一声《ひとこゑ》、|又《また》もや|男《をとこ》の|赤坊《あかんぼ》が|飛《と》び|出《だ》す。
『さアも|一気張《ひときば》りだ』
とお|常《つね》の|腰《こし》をグツと|抱《かか》へ「ウーン」と|息《いき》を|掛《か》ける、「ホギヤー」|又《また》|飛出《とびだ》したのは|女《をんな》の|赤坊《あかんぼ》である。
『さア|常助《つねすけ》さま、お|常《つね》さま、|御安心《ごあんしん》なさいませや。|腹帯《はらおび》を|締《し》めて|上《あ》げませう。|産前《さんぜん》よりも|産後《さんご》が|大切《たいせつ》ですから|後《あと》を|気《き》をつけなさいよ』
『はい|有難《ありがた》う|御座《ござ》います。お|蔭《かげ》で|安産《あんざん》さして|頂《いただ》きました。|此《この》|御恩《ごおん》は|決《けつ》して|忘《わす》れませぬ』
『|何《なん》だ、|家《うち》の|隣《となり》のお|磯《いそ》が|双子《ふたご》を|生《う》みよつて|珍《めづ》らしいと|云《い》つて|村中《むらぢう》の|評判《ひやうばん》だつたが、|此奴《こいつ》ア|又《また》|豪気《がうき》だ。|赤坊《あかんぼ》の|夫婦《ふうふ》が|飛《と》び|出《だ》したぢやないか……なあ|久公《きうこう》、なんでもこりや|前《さき》の|世《よ》で|如何《どう》しても……お|前《まへ》と|添《そ》はれねば|手《て》に|手《て》を|取《と》つて|死出三途《しでさんづ》、|蓮《はす》の|台《うてな》で|一蓮托生《いちれんたくしやう》、|南無妙法蓮陀仏《なむめうほふれんだぶつ》……と|洒落《しやれ》て|淵川《ふちがは》へ|身《み》を|投《な》げた|心中者《しんぢうもの》の|生《うま》れ|変《かは》りだらうよ。|何《なん》とまア|仲《なか》のいい|者《もの》だな。|死《し》ぬ|時《とき》も|一緒《いつしよ》に|死《し》に、|生《うま》れる|時《とき》にも|一緒《いつしよ》に|生《うま》れて|来《く》るのだから、ホントに|巧妙《かうめう》な|奴《やつ》もあつたものだ。アハヽヽヽ……|俺《おれ》も|嬶《かか》アの|死《し》ぬ|時《とき》や|一緒《いつしよ》に|死《し》んでやつて、|又《また》|此《この》|赤坊《あかんぼ》の|様《やう》に、|同《おな》じ|母親《ははおや》の|腹《はら》に|生《うま》れて|来《き》てやらう。こりや、うまい|事《こと》を|考《かんが》へた。オホヽヽヽ』
『これこれ|八釜《やかま》しい。|下《くだ》らぬ|事《こと》を|云《い》ふぢやありませぬよ、|後《あと》の|身体《からだ》に|障《さは》つたら|如何《どう》しますか』
『それだと|云《い》つて、|犬《いぬ》か|猫《ねこ》か|狐《きつね》か|狸《たぬき》の|様《やう》に、|人間《にんげん》が|一遍《いつぺん》に|四人《よにん》も|赤坊《あかんぼ》を|生《う》むのだもの、これが|黙《だま》つて|居《を》られるものか。|生《うま》れてから|初《はじ》めて|見《み》たのだから、|珍《めづら》しくつて|面白《おもしろ》くつて|仕方《しかた》がありませぬワイ。
|四《よ》つ|足《あし》の|身魂《みたま》か|何《なに》か|知《し》らねども
|一度《いちど》に|四《よ》つの|子《こ》を|生《う》みにけり。
|常助《つねすけ》とお|常《つね》さまとのそのなかに
|狐《きつね》のやうな|子《こ》は|生《うま》れけり。
お|常《つね》さん|腹帯《はらおび》シツカリ|締《し》めなされ
|後《あと》の|肥立《ひだ》ちが|肝腎《かんじん》だから。
|肝腎《かんじん》の|常助《つねすけ》さまはウロウロと
|呆気面《はうけづら》して|何《なに》を|周章《あわて》る。
|常《つね》さまよ|子《こ》は|三界《さんがい》の|首枷《くびかせ》ぢや
うかうかせずに|働《はたら》け|是《これ》から。
|今《いま》までは|二人《ふたり》|暮《ぐら》しの|常《つね》さまも
これからチツと|荷《に》が|重《おも》うなる』
『これこれ|徳《とく》さま、|又《また》|八釜《やかま》しい、チツと|黙《だま》つて|居《ゐ》て|下《くだ》さい』
『|黒姫《くろひめ》が|何程《なにほど》|黙《だま》れと|云《い》つたとて
こんな|事《こと》|見《み》て|黙《だま》つて|居《を》らりよか。
|千早《ちはや》|振《ふ》る|神代《かみよ》もきかず|四人《よつたり》の
|子《こ》が|一時《いちどき》に|生《うま》れ|出《で》るとは。
|狐《きつね》ならば|知《し》らず|人間《にんげん》の|身体《からだ》より
|四《よ》つ|足《あし》ドツコイ|四《よ》つ|身《み》|飛《と》び|出《で》る。
あゝ|惟神《かむながら》|如何《いか》なる|神《かみ》の|悪戯《いたづら》か
|古今独歩《ここんどくぽ》の|今日《けふ》の|誕生《たんじやう》。
|珍無類《ちんむるゐ》|例《ため》しもあらぬお|常《つね》さまが
|一度《いちど》に|四人《よにん》フウフ(|夫婦《ふうふ》)と|生《う》む』
『さあ、|常助《つねすけ》さま、お|常《つね》さま、もう|大丈夫《だいぢやうぶ》です。|御安心《ごあんしん》なさいませ』
『とんでもない|御世話《おせわ》になりました。|決《けつ》して|此《この》|御恩《ごおん》は|忘《わす》れませぬ』
『|随分《ずゐぶん》|身体《からだ》を|大切《たいせつ》になさいませ。|冷《つめ》たい|水《みづ》を|飲《の》んだり|無理《むり》をせぬ|様《やう》に、|七十五日《しちじふごにち》の|間《あひだ》は|御保養《ごほやう》あらむ|事《こと》を、こんこんと|懇望《こんまう》して|置《お》きます』
『ハイ|有難《ありがた》う|御座《ござ》います。|左様《さやう》なればこれでお|別《わか》れ|致《いた》します』
と|云《い》ふより|早《はや》く、|常助《つねすけ》、お|常《つね》は|真白《まつしろ》けの|大狐《おほぎつね》となり、|真白《まつしろ》の|尾《を》を|垂《た》れて|四匹《しひき》の|子供《こども》を|連《つ》れ、ノソリノソリと|森林《しんりん》|深《ふか》く|姿《すがた》を|隠《かく》したり。
『アハヽヽヽヽ、|何《なん》だ。|初《はじ》めからチツと|怪《あや》しいと|思《おも》つて|居《ゐ》たが、|狐《きつね》の|産婆《とりあげばあ》さまを|黒姫《くろひめ》さまが|為《な》さつたのだな。|何《なん》と|偉《えら》いものだ。|一遍《いつぺん》に|四人《よにん》も|子《こ》を|産《う》むのが|変《へん》だと|思《おも》つて|居《を》つた。|如何《どう》やらまだ|狐《きつね》に|騙《だま》されて|居《ゐ》る|様《やう》な|気《き》がするぞ……おい|久公《きうこう》、|俺《おれ》の|頬《ほほ》を|抓《つめ》つて|見《み》て|呉《く》れ、|黒姫《くろひめ》さま|迄《まで》がソロソロ|狐《きつね》の|親分《おやぶん》の|様《やう》に|見《み》え|出《だ》して|来《き》たワイ』
『ホヽヽヽヽ、|神様《かみさま》のお|道《みち》には|別《わ》け|隔《へだ》てはありませぬ。|人民《じんみん》は|申《まを》すに|及《およ》ばす、|鳥《とり》|獣《けだもの》|虫族《むしけら》に|至《いた》る|迄《まで》|助《たす》けて|行《ゆ》くのが、|三五教《あななひけう》の|御教《みをしへ》だからなア』
『|黒姫《くろひめ》さまお|前《まへ》さまも|呆《あき》れたでせう。|初《はじ》めは|矢張《やはり》|人間《にんげん》だと|思《おも》うて|居《ゐ》たのでせう』
『そんな|事《こと》の|分《わか》らぬ|妾《わたし》ですかい。|初《はじ》めから|常助《つねすけ》だとか、お|常《つね》だとか|云《い》つて|居《を》つたぢやありませぬか。あゝして|人間《にんげん》に|化《ば》けて|居《を》つたけれども、|太《ふと》い|尻尾《しつぽ》が|股《また》の|間《あひだ》から|一寸《ちよつと》|見《み》えて|居《ゐ》たのだ。お|前《まへ》はそれが|気《き》がつかなかつたのだな』
『|初《はじ》めから|狐《きつね》だと|思《おも》つたら、【アタ】|嫌《いや》らしい、|誰《たれ》が|相手《あひて》になるものか。|力一杯《ちからいつぱい》ブン|殴《なぐ》つてやるのだつた。なあ|久公《きうこう》、さつぱりコンと|訳《わけ》が|分《わか》らぬ|様《やう》になつて|来《き》たぢやないか』
『いや、もうあんまりの|事《こと》で|久《きう》には|何《なん》とも|云《い》ふ|事《こと》が|出来《でき》ないわ』
『さア、も|一息《ひといき》だ。そろそろ|参《まゐ》りませうか』
と|黒姫《くろひめ》|先《さき》に|立《た》つ。|徳公《とくこう》は、
『ハイ、|参《まゐ》りませう。もう|此《この》|先《さき》に|出産《しゆつさん》して|居《を》つても、|狐《きつね》の|取上《とりあ》げだけは|断《ことわ》つて|下《くだ》さい』
『|狐《きつね》ばかりか、|虎《とら》でも|狼《おほかみ》でも|獅子《しし》でも、|熊《くま》でも|大蛇《をろち》でも|鬼《おに》でも|構《かま》はぬ、|頼《たの》まれたら|産婆《とりあげばあ》をしてやりますよ。それが|神様《かみさま》の|道《みち》に|仕《つか》ふるものの|尽《つく》すべき|道《みち》だからなア』
|徳公《とくこう》『|何《なん》と、|恐《おそ》ろしい|宣伝使《せんでんし》だなア。|徳《とく》と|考《かんが》へねばなるまい、さア|行《ゆ》かう』
と|先《さき》に|立《た》ち、|荒井峠《あらゐたうげ》を|西《にし》へ|西《にし》へと|下《くだ》り|行《ゆ》く。
(大正一一・九・一七 旧七・二六 北村隆光録)
第二〇章 |疑心暗狐《ぎしんあんこ》〔九八四〕
『|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》  |黒姫《くろひめ》さまに|従《したが》ひて
|荒井ケ岳《あらゐがだけ》を|下《くだ》り|行《ゆ》く  「ウントコドツコイ ドツコイシヨ」
|転《こ》けつ|輾《まろ》びつ|両人《りやうにん》が  |辺《あた》りに|心《こころ》を|配《くば》りつつ
|五合目《ごがふめ》あたりに|来《き》て|見《み》れば  |天《てん》の|与《あた》へか|岩清水《いはしみづ》
|人待顔《ひとまちがほ》に|湧《わ》いてゐる  コリヤ|堪《たま》らぬと|飛付《とびつ》いて
|一口《ひとくち》|喉《のど》をうるほせば  |今《いま》|迄《まで》|暴威《ばうゐ》を|揮《ふる》ひたる
|汗《あせ》の|曲津《まがつ》はどこへやら  |縮《ちぢ》み|上《あが》つて「ドツコイシヨ」
|寂滅為楽《じやくめつゐらく》となりよつた  |黒姫《くろひめ》さまが|句《く》を|作《つく》る
|俺《おれ》も|久公《きうこう》も「ドツコイシヨ」  |黒姫《くろひめ》さまの|驥尾《きび》に|付《ふ》し
|天下《てんか》の|名句《めいく》をひねりだす  |諄々《じゆんじゆん》として「ウントコシヨ」
|尽《つ》きざる|姿《すがた》は「ドツコイシヨ」  |泉《いづみ》の|涌《わ》く|如《ごと》|面白《おもしろ》く
|甦《よみがへ》りたる|心地《ここち》して  |息《いき》を|休《やす》むる|折柄《をりから》に
|常助《つねすけ》さまと|云《い》ふ|男《をとこ》  |慌《あわただ》しくもやつて|来《き》て
|黒姫《くろひめ》さまに|手《て》をつかへ  |途中《とちう》に|女房《にようばう》が「ドツコイシヨ」
|又々《またまた》|坂《さか》がキツウなつた  |背中《せなか》を|用心《ようじん》するがよい
お|常《つね》の|産気《さんけ》がつきました  |此《この》|山中《やまなか》の「ウントコシヨ」
|人《ひと》も|通《とほ》らぬ|路傍《みちばた》で  どうにも|斯《か》うにも|仕様《しやう》がない
|御苦労《ごくらう》|乍《なが》ら「ドツコイシヨ」  |取上《とりあ》げ|婆《ば》さまになつてくれと
|誠《まこと》しやかに|頼《たの》む|故《ゆゑ》  ウンと|呑《の》み|込《こ》み|黒姫《くろひめ》|様《さま》が
いと|親切《しんせつ》に|承諾《しようだく》し  |夏草《なつくさ》|茂《しげ》る|木下《こした》かげ
ガサガサ|進《すす》んで|行《ゆ》く|間《うち》に  |大木《おほき》の|蔭《かげ》に「ウントコシヨ」
|一人《ひとり》の|女《をんな》が|坐《すわ》つてる  |黒姫《くろひめ》さまは|親切《しんせつ》に
|魔性《ましやう》の|女《をんな》に「ドツコイシヨ」  |知《し》るや|知《し》らずや|忽《たちま》ちに
|襷《たすき》|十字《じふじ》にあやなして  「ウントコドツコイ ウントコセイ」
|力《ちから》をきはめて|腰《こし》|抱《いだ》き  |介抱《かいほう》すれば|忽《たちま》ちに
キヤツと|飛《と》び|出《だ》す|狐《きつね》の|子《こ》  |又《また》もや|女《をんな》の|子狐《こぎつね》が
|出《で》るかと|思《おも》へば|又《また》|一《ひと》つ  |男狐《をとこぎつね》が|飛《と》んで|出《で》た
|又《また》もや|一《ひと》つの|狐《きつね》の|子《こ》  よくよく|見《み》れば|牝《めす》だつた
|狐《きつね》が|生《う》んだ|二夫婦《ふたふうふ》  |親《おや》を|合《あは》して|三夫婦《みふうふ》が
|太《ふと》い|尻尾《しつぽ》をプリプリと  |右《みぎ》や|左《ひだり》にふりながら
|黒姫《くろひめ》さまに|礼《れい》|言《い》うて  |後《あと》|振返《ふりかへ》り|振返《ふりかへ》り
|叢《くさむら》|分《わ》けてガサガサと  |姿《すがた》かくした|面白《おもしろ》さ
|尻尾《しつぽ》|計《ばか》りか「ウントコシヨ」  |頭《あたま》の|毛《け》まで|皆《みな》|白《しろ》い
|雪《ゆき》を|欺《あざむ》く|白狐《びやくこ》さま  |必《かなら》ず|御恩《ごおん》|忘《わす》れぬと
|黒姫《くろひめ》さまに|云《い》ひよつた  |思《おも》へば|思《おも》へば「ドツコイシヨ」
|狐《きつね》の|取上《とりあ》げする|産婆《さんば》  |虎《とら》|狼《おほかみ》や|獅子《しし》|熊《くま》や
|大蛇《をろち》の|端《はし》に|至《いた》る|迄《まで》  |助《たす》けてやるのが|神《かみ》の|道《みち》
|取《と》り|上《あ》げますといひなすつた  「ウントコドツコイ ドツコイシヨ」
ホンに|感心《かんしん》|々々《かんしん》と  |股《また》を|拡《ひろ》げて|坂路《さかみち》を
|下《くだ》りながらも|何《なん》となく  |黒姫《くろひめ》さまのスタイルが
|厭《いや》らしうなつて「ドツコイシヨ」  |気分《きぶん》が|悪《わる》くなりました
「ウントコドツコイ ドツコイシヨ」  どうせ|碌《ろく》な「ドツコイシヨ」
|婆《ば》さまぢやないと|思《おも》てゐた  |自転倒島《おのころじま》に|年古《としふる》く
|住居《ぢうきよ》を|致《いた》して|世《よ》を|紊《みだ》す  |金毛九尾《きんまうきうび》ぢやあるまいか
「ウントコドツコイ」|竜宮《りうぐう》の  |乙姫《おとひめ》さまの|生宮《いきみや》と
|話《はなし》の|端《はし》に|聞《き》いた|故《ゆゑ》  |此奴《こいつ》あウツカリ|出来《でき》ないぞ
グヅグヅしてゐちや|頭《あたま》から  「ヤツトコシヨー ヤツトコシヨー」
「それそれそこに|石《いし》がある」  |呑《の》まれて|了《しま》ふと|思《おも》うた|故《ゆゑ》
|猫《ねこ》を|被《かぶ》つてハイハイと  「ウントコドツコイ」|痩馬《やせうま》を
|牽《ひ》いて|坂路《さかみち》|登《のぼ》るよに  いとおとなしう|従《したが》うて
|此処《ここ》まで|従《つ》いて「ドツコイシヨ」  やつて|来《き》たのは|徳公《とくこう》だ
|狐《きつね》の|嫁入《よめい》「ドツコイシヨ」  すると|云《い》ふ|事《こと》|聞《き》いたれど
|其《その》|時《とき》や|日和《ひより》で|雨《あめ》が|降《ふ》る  |天道《てんだう》さまがガンガンと
お|照《て》らし|遊《あそ》ばす|真昼中《まひるなか》  |魔性《ましやう》の|狐《きつね》が|現《あら》はれて
あつかましくも|人《ひと》の|前《まへ》  |尻尾《しつぽ》をかくしてやつて|来《き》て
|取上《とりあ》げてくれとは|何《なん》の|事《こと》  「ウントコドツコイ」|此《この》|方《かた》が
|人間様《にんげんさま》であつたなら  |四《よ》つ|足《あし》|体《からだ》の|畜生《ちくしやう》が
|如何《どう》して|恐《おそ》れて|近《ちか》よらう  |黒姫《くろひめ》さまは「ドツコイシヨ」
てつきり|狐《きつね》の|親玉《おやだま》か  |銀毛八尾《ぎんまうはつぴ》の「ドツコイシヨ」
|古《ふる》い|狐《きつね》の|御化身《ごけしん》か  |眉毛《まゆげ》に|唾《つば》つけ|眺《なが》むれど
|根《ね》つから|尻尾《しつぽ》が|見《み》えよらぬ  |余程《よつぽど》|劫《がふ》|経《へ》た|奴《やつ》だらうか
「ウントコドツコイ ヤツトコシヨ」  コレコレモウシ|黒《くろ》さまえ
|私《わたし》はお|前《まへ》を「ウントコシヨ」  |此処迄《ここまで》|送《おく》つた|返礼《へんれい》に
「ウントコドツコイ ドツコイシヨ」  |足許《あしもと》|危《あぶ》なうなつて|来《き》た
|私《わたし》は|決《けつ》してだまさぬと  |一言《いちごん》|誓《ちか》うて|下《くだ》さんせ
|狐《きつね》を|馬《うま》に|乗《の》せたよな  |怪《あや》しい|気分《きぶん》になりました
オイオイ|久公《きうこう》|如何《どう》|思《おも》ふ  ホンに|怪体《けたい》な「ウントコシヨ」
|訳《わけ》の|分《わか》らぬ|事《こと》ぢやなア  |荒井峠《あらゐたうげ》と|思《おも》てたら
|人跡《じんせき》|絶《た》えし|山奥《やまおく》の  |虎《とら》|狼《おほかみ》の|吼《ほ》えたける
|深山《みやま》の|奥《おく》かも|知《し》れないぞ  どしてもこしても|腑《ふ》におちぬ
コンコンさまの|御出産《ごしゆつさん》  |取上《とりあ》げ|婆々《ばば》アの|黒《くろ》さまに
|常助《つねすけ》お|常《つね》と|化《ば》けた|奴《やつ》  |親分《おやぶん》|子分《こぶん》の|関係《くわんけい》で
あんな|事《こと》をば「ドツコイシヨ」  |平気《へいき》な|顔《かほ》で|白昼《はくちう》に
やつたであらうか|恐《おそ》ろしい  |荒井《あらゐ》の|峠《たうげ》はいつとても
|不思議《ふしぎ》な|所《とこ》とは|聞《き》きつれど  |前代未聞《ぜんだいみもん》の|此《この》|怪事《くわいじ》
|此《この》|謎《なぞ》とくのは|六《む》つかしい  あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さち》はひましまして  |国魂神《くにたまがみ》の|純世姫《すみよひめ》
|表《おもて》に|現《あら》はれましまして  |黒姫《くろひめ》さまは|善神《ぜんしん》か
|但《ただし》は|悪魔《あくま》かハツキリと  どうぞ|立別《たてわ》け|下《くだ》さんせ
|此《この》|世《よ》を|造《つく》りし|神直日《かむなほひ》  |心《こころ》も|広《ひろ》き|大直日《おほなほひ》
|只《ただ》|何事《なにごと》も|神様《かみさま》に  |任《まか》して|御願《おねがひ》|致《いた》します
|誠《まこと》の|神《かみ》か|曲神《まがかみ》か  |但《ただし》は|狐《きつね》の|親分《おやぶん》か
|合点《がてん》のいかない|黒姫《くろひめ》を  |正体《しやうたい》|現《あら》はし|両人《りやうにん》が
|心《こころ》を|安《やす》めて|下《くだ》さんせ  |縦《たて》からみても「ドツコイシヨ」
|横《よこ》から|見《み》ても|黒姫《くろひめ》は  |矢張《やつぱり》|人《ひと》のスタイルだ
|之《これ》が|狐《きつね》であつたなら  |余程《よつぽど》|上手《じやうづ》に|化《ば》けたもの
ホンに|分《わか》らぬ|今日《けふ》の|旅《たび》  あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|久公《きうこう》シツカリして|居《を》れよ  それそれ そこに|石《いし》がある
|黒姫《くろひめ》さまを|先《さき》に|立《た》て  お|前《まへ》と|俺《おれ》と|両人《りやうにん》は
あとから|従《つ》いて「ドツコイシヨ」  |尻《しり》のあたりを|査《しら》べつつ
|審神《さには》し|乍《なが》ら|下《くだ》らうか  モウシモウシ|黒姫《くろひめ》さま
どうぞお|先《さき》へ「ドツコイシヨ」  あなたはお|出《い》で|下《くだ》さんせ
|後《うしろ》に|目玉《めだま》のない|私《わたし》  どんな|悪戯《いたづら》されよかと
|心《こころ》にかかつてなりませぬ  |疑心暗鬼《ぎしんあんき》か|知《し》らねども
お|前《まへ》の|様《やう》な|化者《ばけもの》と  |一緒《いつしよ》に|行《ゆ》くのは|真平《まつぴら》だ
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ』
と|歌《うた》ひ|乍《なが》ら、|黒姫《くろひめ》|一行《いつかう》は|一歩々々《ひとあしひとあし》|力《ちから》を|入《い》れて|下《くだ》り|行《ゆ》く。|黒姫《くろひめ》は|歌《うた》ひ|出《だ》した。
『|国治立大神《くにはるたちのおほかみ》や  |豊国姫大御神《とよくにひめのおほみかみ》
|神素盞嗚大神《かむすさのをのおほかみ》が  |開《ひら》き|玉《たま》ひし|三五《あななひ》の
|教《をしへ》を|伝《つた》ふる|宣伝使《せんでんし》  |尊《たふと》き|神《かみ》の|生宮《いきみや》と
|神《かみ》の|任《よ》さしの|黒姫《くろひめ》を  |何《なん》ぢや かんぢやと|罵《ののし》つて
|誠《まこと》を|知《し》らぬ|困《こま》り|者《もの》  |仮令《たとへ》|狐《きつね》や|狸《たぬき》でも
|残《のこ》らず|神《かみ》の|造《つく》らしし  |尊《たふと》き|身魂《みたま》である|程《ほど》に
|曇《くも》り|切《き》つたる|世《よ》の|中《なか》の  |人間《にんげん》よりも|畜生《ちくしやう》の
|狐《きつね》や|狸《たぬき》の|魂《たましひ》が  |神《かみ》の|御目《みめ》より|眺《なが》むれば
|遥《はるか》に|優《まさ》つて|居《ゐ》る|程《ほど》に  |天地《てんち》の|道理《だうり》も|白雲《しらくも》の
|包《つつ》む|山路《やまぢ》をふみこえて  |迷《まよ》ひに|迷《まよ》ふ|二人連《ふたりづ》れ
|少《すこ》しく|心《こころ》をおちつけて  |此《この》|黒姫《くろひめ》が|言霊《ことたま》を
|味《あぢ》はひ|聞《き》くがよからうぞ  |三千世界《さんぜんせかい》の|梅《うめ》の|花《はな》
|一度《いちど》に|開《ひら》く|五六七《みろく》の|世《よ》  |松《まつ》の|神代《かみよ》も|近《ちか》づいて
|四方《よも》の|山々《やまやま》|花《はな》|開《ひら》き  |小鳥《ことり》は|謡《うた》ひ|海河《うみかは》は
|清《きよ》くさやけくすみ|渡《わた》る  |尊《たふと》き|御世《みよ》の|開《ひら》け|口《ぐち》
さうなる|上《うへ》は|人間《にんげん》は  |云《い》ふも|更《さら》なり|鳥《とり》|獣《けもの》
|這《は》ふ|虫《むし》|迄《まで》も|悉《ことごと》く  |神《かみ》の|恵《めぐみ》の|御露《おんつゆ》を
|与《あた》へて|尊《たふと》き|天国《てんごく》の  |姿《すがた》をうつす|宣伝使《せんでんし》
|海《うみ》の|内外《うちと》に|使《つか》はして  |神《かみ》の|御旨《みむね》を|隈《くま》もなく
|開《ひら》かせ|玉《たま》ふ|三五《あななひ》の  |深《ふか》き|仕組《しぐみ》を|知《し》らないか
|狐狸《きつねたぬき》と|言《い》はれても  |此《この》|黒姫《くろひめ》は|構《かま》はない
さはさり|乍《なが》ら|徳公《とくこう》よ  チツトは|慎《つつし》みなされませ
|此《この》|神国《かみくに》は|言霊《ことたま》の  |幸《さち》はひ|助《たす》け|生《い》くる|国《くに》
|畏《おそ》れ|多《おほ》くも|三五《あななひ》の  |神《かみ》の|司《つかさ》を|見違《みちが》へて
|銀毛八尾《ぎんまうはちび》の|狐《きつね》とは  |誤解《ごかい》するにも|程《ほど》がある
お|前《まへ》の|心《こころ》にかかりたる  |其《その》|黒幕《くろまく》を|逸早《いちはや》く
|外《はづ》して|私《わたし》の|顔《かほ》を|見《み》よ  |何《なに》ほど|黒《くろ》い|黒姫《くろひめ》も
|普通《ふつう》の|人《ひと》ではない|程《ほど》に  |竜宮海《りうぐうかい》の|底《そこ》|深《ふか》く
|鎮《しづ》まりいます|乙姫《おとひめ》の  |神《かみ》の|命《みこと》の|生宮《いきみや》ぞ
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |御霊《みたま》|幸《さち》はひましまして
|徳《とく》、|久《きう》|二人《ふたり》の|魂《たましひ》に  |光《ひかり》を|与《あた》へ|村肝《むらきも》の
|心《こころ》の|暗《やみ》を|晴《は》らしませ  |三五教《あななひけう》の|黒姫《くろひめ》が
|国魂神《くにたまがみ》の|御前《おんまへ》に  |慎《つつし》み|敬《ゐやま》ひ|願《ね》ぎまつる
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ』
と|歌《うた》ひつつ、|坂路《さかみち》を|急《いそ》ぎ|降《くだ》り|行《ゆ》く。
(大正一一・九・一七 旧七・二六 松村真澄録)
第二一章 |暗闘《あんとう》〔九八五〕
|房公《ふさこう》|芳公《よしこう》|両人《りやうにん》は  |建日《たけひ》の|館《やかた》を|立《た》ち|出《い》でて
|黒姫《くろひめ》さまの|後《あと》を|追《お》ひ  |嶮《けは》しき|山坂《やまさか》トントンと
|捩鉢巻《ねぢはちまき》に|尻《しり》からげ  |薬鑵頭《やくわんあたま》に|湯気《ゆげ》を|立《た》て
|後《あと》|追《お》ひかけて|来《き》て|見《み》れば  |火《ひ》の|国峠《くにたうげ》の|登《のぼ》り|口《ぐち》
|黒姫《くろひめ》さまのお|姿《すがた》は  |雲《くも》か|霞《かすみ》か|魔《ま》か|神《かみ》か
ドロンと|消《き》えて|影《かげ》もなし  「ウントコドツコイ」このやうな
はげしい|坂《さか》をば「ウントコシヨ」  |黒姫《くろひめ》さまの|老年《としより》が
どうして|登《のぼ》つて|行《い》つたろか  |影《かげ》も|形《かたち》も|見《み》えないと
|二人《ふたり》は|足《あし》を|早《はや》めつつ  |老樹《らうじゆ》|茂《しげ》れる|坂道《さかみち》を
「エンヤラヤー エンヤラヤ」  ハーハースースー|云《い》ひながら
|足《あし》をヅルヅル|辷《すべ》らせつ  |板《いた》を|立《た》てたる「ドツコイシヨ」
やうな|嶮《けは》しき|坂道《さかみち》を  |兎《うさぎ》の|如《ごと》く|這《は》うて|行《ゆ》く
|当《たう》の|主人《あるじ》の|黒姫《くろひめ》は  |道《みち》|踏《ふ》み|迷《まよ》ひ|丸木橋《まるきばし》
|向《むか》ふへ|渡《わた》つて|森中《もりなか》に  お|愛《あい》|其《その》|他《た》の|男《をとこ》をば
|助《たす》けて|居《ゐ》るとは|知《し》らずして  |進《すす》み|行《ゆ》くこそ|憐《あは》れなり。
|二人《ふたり》は|日《ひ》のヅツプリ|暮《く》れた|頃《ごろ》、|漸《やうや》くにして|火《ひ》の|国峠《くにたうげ》の|絶頂《ぜつちやう》に|辿《たど》りつく。そこには|枝《えだ》ぶりの|面白《おもしろ》い|山桃《やまもも》の|木《き》が|七八本《しちはちほん》、|無遠慮《ぶゑんりよ》に|空《そら》を|蔽《とざ》して|立《た》つて|居《ゐ》る。
『オイ|芳公《よしこう》、これだけ|俺達《おれたち》は|一生懸命《いつしやうけんめい》に|走《はし》つて|来《き》たけれど、|黒姫《くろひめ》さまに|追《おつ》つかないのだ、|大方《おほかた》|道《みち》が|違《ちが》つたのぢやあるまいかなア』
『さうだなア、どうも|怪《あや》しいものだ。|何《なん》でも|坂《さか》の|上《のぼ》り|口《ぐち》に|右《みぎ》へ|行《ゆ》く|細《ほそ》い|道《みち》があつたが、|大方《おほかた》|其方《そつち》へでも|迷《まよ》ひ|込《こ》んで|行《ゆ》かれたのぢやあるまいか。どう|考《かんが》へてもそれより|外《ほか》に|道《みち》がないぢやないか。まア|兎《と》も|角《かく》も|今晩《こんばん》は|此《この》|木《き》の|下《した》でお|宿《やど》を|借《か》ることとしよう。|又《また》|人《ひと》でも|通《とほ》つたら|尋《たづ》ねようとままだから|夜《よる》の|途《みち》を|急《いそ》いだ|処《ところ》で|仕方《しかた》がない。|俺《おれ》も|大分《だいぶん》に|疲《つか》れて|来《き》たからのう』
『そんなら|仕方《しかた》がない。|芳公《よしこう》|一泊《いつぱく》して|行《ゆ》かうかい』
と、|両人《りやうにん》は|蓑《みの》をしき【グレン】と|横《よこ》になる。
そこへ|西《にし》の|方《はう》から、コチンコチンと|杖《つゑ》の|先《さき》で|道《みち》の|小石《こいし》を|叩《たた》きながら、|登《のぼ》つて|来《き》た|一人《ひとり》の|白髪《はくはつ》の|老人《らうじん》あり。|老人《らうじん》は|二人《ふたり》の|休《やす》む|傍《そば》に|立《た》ち|寄《よ》り、|杖《つゑ》の|先《さき》にて|二人《ふたり》の|額《ひたひ》あたりを|交《かは》る|交《がは》るグイグイと|突《つ》いてゐる。|二人《ふたり》は「アイタヽ」と|言《い》ひながら、ガバツと|跳《は》ね|起《お》き、|薄暗《うすくら》がりにすかし|見《み》て、
『ダダ|誰《たれ》だい、|俺《おれ》の|頭《あたま》を|杖《つゑ》でこづきよつた|奴《やつ》は、ふざけた|事《こと》をしよると|承知《しようち》しないぞ』
『アハヽヽヽ、|余《あま》り|暗《くら》いものだから……|何《なん》だか|鼾《いびき》がするので|近寄《ちかよ》つて|見《み》れば、|暗《くら》がりに|光《ひか》つたものが|一《ひと》つ、|其《その》|横《よこ》に|黒《くろ》いものが|又《また》|一《ひと》つ|倒《たふ》れて|居《ゐ》るので、こりや|又《また》|狸《たぬき》の|睾丸《きんたま》ではあるまいかと|思《おも》つて、|杖《つゑ》の|先《さき》で|一寸《ちよつと》いぢつて|見《み》たのだよ。|何《なに》を|云《い》うても|暗《くら》がりと|云《い》ひ、|老人《らうじん》で|目《め》が|疎《うと》いのだから、|頭《あたま》の|一《ひと》つやそこら|割《わ》れたつて|辛抱《しんばう》して|下《くだ》さい。|何程《なにほど》|腹《はら》が|立《た》つても|老人《としより》は|大切《だいじ》にせねばならぬ|規則《きそく》だからのう……』
『|何処《どこ》の|老人《らうじん》か|知《し》らぬが、|知《し》らぬとやつた|事《こと》は|仕方《しかた》がないとしても、|唯《ただ》|一言《ひとこと》の|断《ことわ》りも|言《い》はず、|反対《あべこべ》に|老人尊敬論《らうじんそんけいろん》を|捲《まく》し|立《た》てよつて|太《ふと》い|奴《やつ》だ。|大方《おほかた》お|前《まへ》は|化州《ばけしう》だらう。さア、|正体《しやうたい》を|現《あら》はせ!』
『オホヽヽヽ、どうせ|化州《ばけしう》に|違《ちが》ひないが、|俺《おれ》でさへも|肝《きも》を|潰《つぶ》すやうな|闇《やみ》の|中《なか》に、よう|光《ひか》る|薬鑵頭《やくわんあたま》があつたものだから、【ヒネ】た|狸《たぬき》の|睾丸《きんたま》ではあるまいかと、|一寸《ちよつと》|泥《どろ》のついた|杖《つゑ》の|先《さき》でいぢつて|見《み》たのだから、|了見《りやうけん》さつしやい。|知《し》らぬ|神《かみ》に|祟《たた》りなしと|云《い》ふから、さう|老人《らうじん》に|毒《どく》つくものぢやありませぬぞや』
『もしお|爺《ぢい》さま、|知《し》らずにした|事《こと》は|仕方《しかた》がありませぬ。こちらも|両人《ふたり》の|者《もの》が、この|木《き》の|下《した》に|逗留《とうりう》して|居《ゐ》ると|云《い》ふ|広告《くわうこく》を|出《だ》して|置《お》かないものだから、|間違《まちが》へられても|何《なん》とも|云《い》ふ|事《こと》は|出来《でき》ませぬ。|併《しか》しながら|黒姫《くろひめ》と|云《い》ふ|五十《ごじふ》|許《ばか》りのお|婆《ばあ》さまに、お|出会《であ》ひでは|御座《ござ》いませなんだか』
『|何《なん》だか|黒《くろ》いものにチヨコチヨコ|出遇《であ》うたが、|向《むか》ふが|黙《だま》つて|通《とほ》りよつたものだから、どれが|黒姫《くろひめ》だか|黒狐《くろぎつね》だか、|熊《くま》だか|烏《からす》だか|区別《くべつ》が|付《つ》きませぬわい』
『お|爺《ぢい》さま、この|暗《くら》いのにお|前《まへ》は|一《いつ》たい|何処《どこ》へ|行《ゆ》く|積《つも》りだえ』
『|俺《わし》は|仕方《しかた》がない|極道《ごくだう》|息子《むすこ》が|二人《ふたり》あつて|此《この》|坂《さか》を|今《いま》|登《のぼ》つて|来《く》る|筈《はず》だから|迎《むか》へに|来《き》たのだよ』
『ヘエ、そのまた|二人《ふたり》の|息子《むすこ》とはどんな|人《ひと》ですか』
『さうだなア、|一人《ひとり》は|暗《やみ》の|晩《ばん》でも|薬鑵《やくわん》のやうに|頭《あたま》が|光《ひか》つて、|一寸《ちよつと》|腰《こし》が|曲《まが》り|背《せ》の|低《ひく》い|男《をとこ》だ。そして|一人《ひとり》は|少《すこ》し|図体《づうたい》の|大《おほ》きい|三十男《さんじふをとこ》だが、そいつは|又《また》|癖《くせ》が|悪《わる》くて|弱《よわ》い|相撲取《すまうと》り、|負《ま》けて|負《ま》けて|負《ま》け|通《とほ》し、|人《ひと》から|鍋蓋《なべぶた》と|迄《まで》|名《な》を|取《と》つた|困《こま》つた|伜《せがれ》だよ。|黒姫《くろひめ》と|云《い》ふ|宣伝使《せんでんし》のお|供《とも》に|来《き》ながら、アタいやらしい|振舞酒《ふるまひざけ》に|酔《よ》うて|肝腎《かんじん》の|主人《しゆじん》を|見失《みうしな》ひ、こんな|所《ところ》へやつて|来《き》て、|安閑《あんかん》と|寝《ね》て|居《ゐ》ると|云《い》ふ、|話《はなし》にも|杭《くひ》にもかからぬ……|極道《ごくだう》|息子《むすこ》だよ』
と|雷《らい》のやうな|声《こゑ》で|呶鳴《どな》り|立《た》てられ、|二人《ふたり》はこの|声《こゑ》に|驚《おどろ》いて|飛《と》び|上《あが》り、|暗《やみ》の|中《なか》を|三四間《さんしけん》|無暗《むやみ》|矢鱈《やたら》に|駆《かけ》まはり、|房公《ふさこう》と|芳公《よしこう》は|急速力《きふそくりよく》をもつて|正面《しやうめん》|衝突《しようとつ》をなし、|二《ふた》つ|眼《め》からピカピカと|火《ひ》を|出《だ》し、
『アイタヽヽヽ』
と|目《め》を|押《おさ》へて|互《たがひ》に|踞《しやが》んで|仕舞《しま》ふ。
『アハヽヽヽヽ、|房野丸《ふさのまる》と|芳野丸《よしのまる》とが|衝突《しようとつ》を|致《いた》しましたなア。|大《たい》した|破産《はさん》はなかつたかなア。|機関庫《きくわんこ》が|爆発《ばくはつ》したと|見《み》えてずゐぶん|偉《えら》い|光《ひかり》だつたよ、ワハヽヽヽ』
『コリヤ|化爺《ばけおやぢ》、|人《ひと》の|難儀《なんぎ》を|見《み》て|面白《おもしろ》さうに|笑《わら》ふと|云《い》ふやうな、|不道徳《ふだうとく》な|不人情《ふにんじやう》な|奴《やつ》がどこにあるか、まるで|鬼《おに》のやうな|糞爺《くそおやぢ》だなア』
『お|前《まへ》の|云《い》ふ|通《とほ》り、|俺《おれ》は|見《み》る|影《かげ》もない|糞爺《くそぢい》だ。|目糞《めくそ》に|歯糞《はくそ》、|耳糞《みみくそ》に|鼻糞《はなくそ》、お|前《まへ》のやうに|尻糞《しりくそ》はつけて|居《ゐ》ないが、|随分《ずゐぶん》|汚《きたな》い|糞爺《くそぢい》だよ』
『オイ|糞爺《くそぢい》、|俺《おれ》が|尻糞《しりくそ》をつけて|居《ゐ》るなんて、|失敬《しつけい》な|事《こと》を|云《い》ふない。この|暗《くら》がりで|目《め》が|見《み》え|難《にく》いと|吐《ぬか》した|癖《くせ》に、|尻糞《しりくそ》|迄《まで》どうして|分《わか》るのだ。|糞《くそ》があきれて|雪隠《せんち》が|踊《をど》るわい』
『|何《なん》とまア|糞《くそ》やかましい|男《をとこ》だなア。|俺《おれ》は|火《ひ》の|国《くに》の|聖《ひじり》と|云《い》つて、どんな|事《こと》でも【しり】てしりて【しり】ぬいて|居《ゐ》る|牛《うし》の|尻《しり》だよ。お|前《まへ》の|尻《しり》の|毛《け》が|何本《なんぼん》あると|云《い》ふ|所《ところ》まで|知《し》りて|居《ゐ》るのだからのう……』
『こりや|化爺《ばけぢい》、そんなら|俺《おれ》の|尻《しり》の|毛《け》が|何本《なんぼん》あるか|当《あ》てて|見《み》い!』
『オホヽヽヽ、かう|見《み》た|処《ところ》が|唯《ただ》の|一本《いつぽん》も|無《な》いぢやないか。お|滝《たき》の|素片多女《すべたをんな》に|惚《のろ》けよつて、|尻《しり》の|毛《け》を|一本《いつぽん》もない|所《ところ》|迄《まで》|抜《ぬ》かれたと|見《み》えるわい。まるきり|牛蒡《ごばう》の|切口《きりくち》か|椢炭《よりすみ》の|切口《きりくち》のやうな|黒《くろ》い|尻《しり》だのう』
『|何《なに》を|吐《ぬか》して【けつ】かるのだい。もうよい|加減《かげん》にすつ|込《こ》まぬか、|尻《しり》の|穴《あな》|奴《め》が!』
『すつ|込《こ》めと|云《い》つたつて、|十年《じふねん》|許《ばか》り|苦《くる》しんで|居《ゐ》る|脱肛《だつこう》だから、|容易《ようい》にすつ|込《こ》みはせないぞや。これと|云《い》ふのも|房公《ふさこう》|芳公《よしこう》と|云《い》ふ|極道《ごくだう》|息子《むすこ》があるために、それが|苦《く》になつてこんな|病気《びやうき》が|起《おこ》つたのだよ。|親不孝《おやふかう》な|息子《むすこ》もあつたものだ。こんな|奴《やつ》は|今《いま》に|天罰《てんばつ》が|当《あた》つて|火《ひ》の|国峠《くにたうげ》の|大蛇《をろち》に|呑《の》まれて|仕舞《しま》ふと、|娑婆《しやば》ふさぎの|厄介者《やつかいもの》がなくなつてよいのだがなア。|神《かみ》が|表《おもて》に|現《あら》はれて、|善《ぜん》と|悪《あく》とを|立《た》てかへる|世《よ》の|中《なか》だから、どうせ|二人《ふたり》の|極道《ごくだう》|息子《むすこ》の|寿命《じゆみやう》も|長《なが》い|事《こと》はあるまい。あゝ|可愛《かあい》さうなやうな|気味《きみ》のよい|事《こと》だわい、オホヽヽヽ』
と|遠慮会釈《ゑんりよゑしやく》もなく、|暗《くら》がりに【ボツ】と|姿《すがた》を|現《あら》はして|嘲笑《あざわら》ふ。|房公《ふさこう》は|最前《さいぜん》の|正面《しやうめん》|衝突《しようとつ》で|鼻血《はなぢ》を|出《だ》し|痛《いた》さにものをも|得《え》|云《い》はず、|地《ち》にかぶり|付《つ》いて|泣《な》いて|居《ゐ》る。|老爺《ぢいや》は|皺《しわ》がれた|声《こゑ》で|歌《うた》ひ|出《だ》した。
『|黒姫《くろひめ》|婆《ば》さまの|供《とも》をして  |心《こころ》も|暗《くら》い|両人《りやうにん》が
|暗《くら》い|峠《たうげ》を|登《のぼ》り|来《く》る  |後前《あとさき》|見《み》ずの|暗雲《やみくも》で
|心《こころ》の|舵《かぢ》を|取《と》り|外《はづ》し  |顔《かほ》と|顔《かほ》とが|衝突《しようとつ》し
|薬鑵頭《やくわんあたま》が|鼻《はな》|打《う》つて  |赤《あか》い|鼻血《はなぢ》をタラタラと
|流《なが》して|踞《しやが》むいぢらしさ  |黒姫司《くろひめつかさ》にそそられて
|遥々《はるばる》つらつて|来《き》た|友《とも》の  |難儀《なんぎ》を|見捨《みす》ててスタスタと
|高山峠《たかやまたうげ》を|一散《いつさん》に  |登《のぼ》つて|出《で》て|来《く》る|不人情《ふにんじやう》
|人《ひと》の|皮《かは》|着《き》た|代物《しろもの》の  |平気《へいき》で|出来《でき》る|業《わざ》ぢやない
|貴様《きさま》|二人《ふたり》の|心《こころ》には  |黒姫《くろひめ》よりもまだ|悪《わる》い
|黒《くろ》い|顔《かほ》した|鬼《おに》が|居《ゐ》る  |其《その》|鬼《おに》|共《ども》を|追《お》ひ|出《だ》して
|生《うま》れ|赤児《あかご》になりかはり  |尻《けつ》の|掃除《さうぢ》をよつくして
|尊《たふと》き|神《かみ》の|御使《みつかひ》と  |早《はや》くなれなれ いつ|迄《まで》も
|黒姫《くろひめ》|如《ごと》きの|供《とも》をして  |男《をとこ》が|立《た》つと|思《おも》てるか
|前代未聞《ぜんだいみもん》の|馬鹿者《ばかもの》だ  |我《われ》は|国治立神《くにはるたちのかみ》
お|前《まへ》の|御魂《みたま》を|磨《みが》き|上《あ》げ  |誠《まこと》の|神《かみ》の|生宮《いきみや》と
|造《つく》り|直《なほ》して|神界《しんかい》の  |御用《ごよう》をさせてやり|度《た》いと
|此処《ここ》に|姿《すがた》を|現《あら》はして  お|前等《まへら》|二人《ふたり》の|眼《め》を|醒《さ》まし
|無限《むげん》の|力《ちから》をそれぞれに  |配《くば》り|与《あた》ふる|神《かむ》ながら
|神《かみ》の|御息《みいき》に|生《うま》れたる  |汝《なんぢ》はこれから|謹《つつし》みて
|誠《まこと》|一《ひと》つを|立《た》て|通《とほ》し  |一日《ひとひ》も|早《はや》く|火《ひ》の|国《くに》の
|花《はな》の|都《みやこ》へ|立《た》ち|向《むか》ひ  |黒姫司《くろひめつかさ》が|迷《まよ》ひ|居《ゐ》る
|恋《こひ》の|闇《やみ》をば|晴《は》らせかし  |神《かみ》の|大道《おほぢ》を|踏《ふ》みながら
|夫《をつと》のために|魂《たましひ》を  |抜《ぬ》かれて|来《きた》る|黒姫《くろひめ》の
|其《その》|愚《おろか》さは|限《かぎ》りなし  |迷《まよ》ひきつたる|黒姫《くろひめ》の
|後《あと》に|従《したが》ひ|遥々《はるばる》と  ここ|迄《まで》|来《きた》る|二人連《ふたりづ》れ
|猶更《なほさら》|馬鹿《ばか》な|代物《しろもの》だ  |国治立大神《くにはるたちのおほかみ》と
|云《い》うたは|真赤《まつか》な|詐《いつは》りで  |我《われ》は|月照彦神《つきてるひこのかみ》
|早《はや》く|御魂《みたま》を|立《た》て|直《なほ》し  |清明無垢《せいめいむく》の|身《み》となつて
|厳《いづ》の|御魂《みたま》や|瑞御魂《みづみたま》  |開《ひら》き|給《たま》ひし|三五《あななひ》の
|教《をしへ》の|柱《はしら》となれよかし  |神《かみ》は|汝《なんぢ》の|身《み》を|守《まも》り
|魂《たま》を|守《まも》つて|何時《いつ》|迄《まで》も  |太《ふと》しき|功《いさを》を|立《た》てさせむ
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |御霊《みたま》|幸《さち》はへましませよ』
と|歌《うた》ひ|終《をは》るや、|怪《あや》しき|老人《らうじん》の|姿《すがた》は|煙《けむり》となつて|消《き》え|失《う》せ、|後《あと》には|尾上《をのへ》を|渡《わた》る|松風《まつかぜ》の|音《おと》、ザワザワザワと|聞《きこ》え|来《きた》る。
『オイ|房公《ふさこう》、どうだ、|鼻柱《はなばしら》は|些《すこ》しよくなつたかなア。あんまり|常《つね》から|鼻《はな》が|高《たか》いものだから、|今《いま》|現《あら》はれた|神様《かみさま》が|鼻《はな》を|捩《ね》ぢ|折《を》つて|改心《かいしん》させてやらうとなさつたのだよ。|何時《いつ》とても|貴様《きさま》は|高慢《かうまん》が|強《つよ》うて|鼻《はな》を|高《たか》うするから、こんな|目《め》に|遇《あ》うたのだ。|途中《とちう》の|鼻高《はなだか》と|云《い》ふのはお|前《まへ》の|事《こと》だよ』
『|何《なん》でもいいわ。|俺《おれ》はもう|恐《おそ》ろしくつて|何《なん》どころぢやない。|大方《おほかた》あれは、|此《この》|山《やま》の|大天狗《だいてんぐ》に|間違《まちが》ひなからうぞ。|何《なん》でも|彼《か》でも|俺達《おれたち》の|事《こと》を|皆《みな》|知《し》つてござつたぢやないか』
『|天狗《てんぐ》の|話《はなし》はもう|止《や》めて|呉《く》れ。|天狗《てんぐ》と|聞《き》くと、|何《なん》だか|首筋《くびすぢ》がゾクゾクして|来《く》るからなア。あゝ|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》』
『こんな|処《ところ》に|長居《ながゐ》は|恐《おそ》れだ。さア|行《ゆ》かう。|黒姫《くろひめ》さまが|火《ひ》の|国《くに》で|待《ま》つて|居《ゐ》られるだらうからなア』
『|行《ゆ》かうと|云《い》つた|処《ところ》で|是《これ》だけ|峻《きつ》い|坂道《さかみち》、|其《その》|上《うへ》|闇《やみ》と|来《き》て|居《ゐ》るのだから、どうする|事《こと》も|出来《でき》はせないぞ。まア|此処《ここ》で|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》し、|神様《かみさま》を|祈《いの》つて|夜《よ》を|明《あ》かすこととしようかい』
(大正一一・九・一七 旧七・二六 加藤明子録)
第二二章 |当違《あてちがひ》〔九八六〕
|火《ひ》の|国都《くにみやこ》の|高山彦《たかやまひこ》の|門前《もんぜん》に|現《あら》はれた|二人《ふたり》の|男《をとこ》、こは|云《い》はずと|知《し》れた|房公《ふさこう》、|芳公《よしこう》の|両人《りやうにん》であつた。
『もしもし|門番様《もんばんさま》、|何卒《どうぞ》|通《とほ》して|下《くだ》さいませ』
|門番《もんばん》の|軽公《かるこう》は|門内《もんない》より、
『|村肝《むらきも》の|心《こころ》の|岩戸《いはと》の|締《しま》りたる
|曲津《まがつ》の|通《とほ》る|門口《もんぐち》でなし。
|心《こころ》より|神《かみ》の|大道《おほぢ》を|明《あき》らめよ
|天ケ下《あめがした》には|妨《さまた》げもなし。
|此《この》|門《もん》は|心《こころ》|正《ただ》しき|人々《ひとびと》の
|大手《おほて》|拡《ひろ》げて|通《とほ》る|門口《もんぐち》。
わが|胸《むね》の|門《もん》を|開《ひら》けば|忽《たちま》ちに
これの|鉄門《かなど》は|自《おのづか》ら|開《あ》く』
|房公《ふさこう》は|外《そと》より、
『|洒落《しやれ》た|事《こと》|言《い》ふ|門番《もんばん》が|守《まも》り|居《を》る
|困《こま》つた【もん】に|突《つ》き|当《あた》りける』
|芳公《よしこう》は|又《また》|歌《うた》ふ。
『【よし】|吾《われ》を|卑《いや》しきものと|見《み》るとても
【かる】く|開《ひら》けよ|神《かみ》の|鉄門《かなど》を。
【よし】もなき|事《こと》に|暇《いとま》を|潰《つぶ》すより
|心《こころ》の|門《もん》を|開《ひら》き|通《とほ》せよ。
|吾《われ》こそは|自転倒島《おのころじま》の|神《かみ》の|子《こ》よ
|神《かみ》の|通《かよ》はぬ|門口《もんぐち》なき|筈《はず》。
|皇神《すめかみ》の|任《よさ》しの|儘《まま》に|渡《わた》り|来《く》る
|疎略《おろそか》にすな|神様《かみさま》の|御子《みこ》を』
|軽公《かるこう》は|門内《もんない》より、
『|【軽々】《かるがる》しくどうして|鉄門《かなど》が|開《ひら》かりよか
|曲《まが》の|猛《たけ》びの|強《つよ》き|世《よ》なれば。
|曲神《まがかみ》が|誠《まこと》の|神《かみ》となりすまし
|人《ひと》を|誑《たば》かる|闇《やみ》の|世《よ》なれば』
|門《もん》の|外《そと》より|房公《ふさこう》の|声《こゑ》、
『|躊躇《ためら》ふな|吾《われ》は|頭《あたま》てらす|大御神《おほみかみ》
|栄《さか》えの|門《もん》を|開《ひら》く|神《かみ》なり』
|軽公《かるこう》|門内《もんない》より、
『いざさらば|頭《あたま》てらします|大御神《おほみかみ》
|進《すす》ませ|給《たま》へこれの|鉄門《かなど》を』
と|詠《うた》ひ|乍《なが》ら、|閂《かんぬき》をガタリと|外《はづ》し、|門《もん》を|左右《さいう》にパツと|開《ひら》けば、|房公《ふさこう》、|芳公《よしこう》は|軽《かる》く|目礼《もくれい》し、|足《あし》も|軽《かる》げに|奥《おく》へ|奥《おく》へと|進《すす》み|入《い》る。
|玄関《げんくわん》の|受付《うけつけ》には、|五十恰好《ごじふかつかう》の、|顔《かほ》の|少《すこ》し|細長《ほそなが》い|男《をとこ》が|控《ひか》へて|居《ゐ》る。
|房公《ふさこう》『|私《わたし》は|三五教《あななひけう》の|黒姫《くろひめ》のお|供《とも》をして|此処迄《ここまで》|参《まゐ》つた|房公《ふさこう》と|申《まを》すもので|御座《ござ》いますが、|黒姫《くろひめ》さまは|此方《こちら》へお|世話《せわ》になつて|居《を》られますかな』
『|三五教《あななひけう》の|黒姫《くろひめ》|様《さま》と|云《い》へば、|随分《ずゐぶん》|黄金《わうごん》の|玉《たま》で|名《な》の|知《し》れた|宣伝使《せんでんし》だが、|未《ま》だ|此方《こちら》へはお|見《み》えになつて|居《を》りませぬよ』
『|当館《たうやかた》の|主人《しゆじん》は、|矢張《やはり》|高山彦《たかやまひこ》と|申《まを》すお|方《かた》で|御座《ござ》いますか』
『|左様《さやう》で|御座《ござ》います。|御主人《ごしゆじん》は|高山彦《たかやまひこ》、|奥様《おくさま》は|愛子姫《あいこひめ》と|申《まを》す|立派《りつぱ》な|神司《かむつかさ》で|御座《ござ》います』
『|高山彦《たかやまひこ》|様《さま》は|御在宅《ございたく》ですか。|一寸《ちよつと》お|伺《うかが》ひ|致《いた》し|度《た》う|御座《ござ》いますが……』
と|意味《いみ》ありげに|云《い》ふ。
『|私《わたし》は|受付《うけつけ》の|玉公《たまこう》と|申《まを》しますが、|何《なん》でも|高山彦《たかやまひこ》の|御主人《ごしゆじん》は、|今朝《けさ》|早々《さうさう》|何処《どこ》かへ|修行《しうげふ》にお|越《こ》しになつたと|聞《き》いて|居《を》ります。|乍併《しかしながら》|受付《うけつけ》の|吾々《われわれ》は|詳《くは》しい|事《こと》は|存《ぞん》じませぬ』
『|何卒《どうぞ》すみませぬが、|高山彦《たかやまひこ》|様《さま》がお|留守《るす》ならば、|一寸《ちよつと》|奥様《おくさま》に|会《あ》はして|下《くだ》さる|訳《わけ》にはいけますまいか。いづれ|後《あと》から|高山彦《たかやまひこ》|様《さま》の|前《まへ》の|奥《おく》さまが|見《み》えますから、それ|以前《いぜん》に|一寸《ちよつと》お|目《め》に|掛《かか》つて|御伺《おうかが》ひして|置《お》けば、|前《まへ》|以《もつ》て|円満《ゑんまん》|解決《かいけつ》の|曙光《しよくわう》を|認《みと》め|得《う》るものと|存《ぞん》じますから、|何《なん》とか|一《ひと》つ|取《と》りもつて|下《くだ》さいな』
『|滅相《めつさう》もない。|主人《しゆじん》の|御不在中《ごふざいちゆう》に|奥様《おくさま》が|男《をとこ》の|方《かた》に|御対面《ごたいめん》は|遊《あそ》ばしませぬ。|残念《ざんねん》ながら|何卒《どうぞ》|諦《あきら》めて|下《くだ》さいませ。さうして|御主人様《ごしゆじんさま》の|前《まへ》の|奥様《おくさま》とは、|何《なん》と|云《い》ふお|方《かた》で|御座《ござ》いますか』
|房公《ふさこう》は|少《すこ》しく|胸《むね》を|張《は》り、|切《き》り|口上《こうじやう》にて、
『|勿体《もつたい》なくも|三五教《あななひけう》の|大宣伝使《だいせんでんし》|黒姫《くろひめ》|様《さま》で|御座《ござ》る。|吾々《われわれ》は|其《その》|黒姫《くろひめ》|様《さま》の|股肱《ここう》の|臣《しん》で|御座《ござ》るから|鄭重《ていちよう》にお|待遇《もてなし》なさるが|宜《よ》からう。|如何《いか》に|愛子姫《あいこひめ》|様《さま》だとて|此《この》|事《こと》をお|聞《き》きになれば、お|会《あ》ひにならぬと|云《い》ふ|訳《わけ》には|参《まゐ》りますまい』
と|肩肱《かたひぢ》|怒《いか》らし|禿頭《はげあたま》に|湯気《ゆげ》を|立《た》て、|章魚《たこ》が|裃《かみしも》|着《き》た|様《やう》な|恰好《かつかう》で、|肩《かた》を|四角《しかく》に|固《かた》くなつて|居《ゐ》る。
『ハヽヽヽヽ、そりや|大変《たいへん》な|大間違《おほまちが》ひぢやありませぬか。|御主人《ごしゆじん》の|高山彦《たかやまひこ》|様《さま》はまだお|年《とし》がお|若《わか》い|屈強盛《くつきやうざか》りです。さうして|愛子姫《あいこひめ》|様《さま》をお|迎《むか》へ|遊《あそ》ばしたのが、|女《をんな》をお|持《も》ちになつた|最初《さいしよ》だと|云《い》ふ|事《こと》ですから、そんな|年《とし》をとつたお|婆《ば》アさまを|女房《にようばう》に|持《も》つて|居《を》られる|筈《はず》はありませぬ。|何《なに》かのお|間違《まちが》ひでせう』
『アハヽヽヽ、|何《なん》とまア|上《うへ》から|下《した》までよう|腹《はら》を|合《あは》したものだなア。|万里《ばんり》の|波濤《はたう》を|越《こ》えて、|遥々《はるばる》と|夫《をつと》の|後《あと》を|慕《した》ひ|探《たづ》ねて|御座《ござ》つた|貞淑《ていしゆく》な|黒姫《くろひめ》さまを|袖《そで》にして、|若《わか》い|女《をんな》を|女房《にようばう》に|持《も》ち、|面白《おもしろ》|可笑《をか》しく|此《この》|世《よ》を|渡《わた》らうとは|狡《ずる》い|量見《りやうけん》だ。|高山彦《たかやまひこ》さまも|余程《よほど》|堕落《だらく》をしたものだなア。|六十《ろくじふ》の|尻《しり》を|作《つく》り|乍《なが》らチツと|心得《こころえ》たら|好《よ》ささうなものだ。|若《わか》い|奥《おく》さまを|貰《もら》つて|若返《わかがへ》り|屈強盛《くつきやうざか》りの|壮年《さうねん》の|様《やう》になつたのかなア。|人間《にんげん》と|云《い》ふものは|心《こころ》の|持《も》ち|様《やう》が|肝腎《かんじん》だ。|然《しか》し|黒姫《くろひめ》さまは|何処《どこ》に|迷《まよ》うて|御座《ござ》るだらうか。もしもこんな|処《ところ》へ|御入来《おいで》になつたらそれこそ|大変《たいへん》だがなア』
|此《この》|時《とき》|一間《ひとま》を|隔《へだ》てて|聞《きこ》え|来《きた》る|一絃琴《いちげんきん》の|声《こゑ》、|歌《うた》の|主人《あるじ》は|此《この》|家《や》の|女主人《をんなしゆじん》|愛子姫《あいこひめ》である。
『|千早《ちはや》|振《ふ》る|遠《とほ》き|神世《かみよ》の|昔《むかし》より  |国治立大神《くにはるたちのおほかみ》は
|天地《あめつち》|四方《よも》の|神人《しんじん》を  いと|平《たひ》らけく|安《やす》らけく
|常世《とこよ》の|春《はる》に|救《すく》はむと  |心《こころ》を|千々《ちぢ》に|配《くば》らせつ
|夜《よる》と|昼《ひる》との|別《わか》ちなく  |遠《とほ》き|近《ちか》きの|隔《へだ》てなく
|高《たか》き|卑《いや》しき|押《おし》なべて  |恵《めぐみ》の|露《つゆ》をたれ|給《たま》ひ
|三五教《あななひけう》の|御教《みをしへ》を  |島《しま》の|八十島《やそしま》|八十《やそ》の|国《くに》
|諸越山《もろこしやま》の|奥《おく》までも  |開《ひら》かせ|給《たま》ふ|有難《ありがた》さ
|吾《わが》|背《せ》の|君《きみ》は|天照《あまてらす》  |皇大神《すめおほかみ》の|御任《みまか》せる
|五百津《いほつ》|美須麻琉《みすまる》|々々々々《みすまる》の  |玉《たま》の|威徳《ゐとく》に|現《あ》れまして
|活津彦根《いくつひこね》の|神《かみ》となり  |神素盞嗚大神《かむすさのをのおほかみ》の
|御子《みこ》と|仕《つか》へて|天ケ下《あめがした》  |四方《よも》の|国々《くにぐに》|隈《くま》もなく
|厳《いづ》の|教《をしへ》を|宣《の》べ|給《たま》ふ  |高国別《たかくにわけ》の|宣伝使《せんでんし》
|天教山《てんけうざん》より|降《くだ》ります  |八島《やしま》の|別《わけ》や|敷妙姫《しきたへひめ》の
|神《かみ》の|命《みこと》の|後《あと》|襲《おそ》ひ  |高山彦《たかやまひこ》と|名《な》を|変《か》へて
|此《この》|世《よ》を|忍《しの》び|給《たま》ひつつ  |五六七《みろく》の|御代《みよ》を|待《ま》ち|給《たま》ふ
|神《かみ》の|御裔《みすゑ》ぞ|尊《たふと》けれ  |妾《わらは》も|同《おな》じ|瑞御霊《みづみたま》
|神素盞嗚大神《かむすさのをのおほかみ》の  |生《うま》せ|給《たま》へる|珍《うづ》の|御子《みこ》
|愛子《あいこ》の|姫《ひめ》と|名乗《なの》りつつ  |父大神《ちちおほかみ》の|御言《みこと》もて
メソポタミヤの|顕恩郷《けんおんきやう》に  バラモン|教《けう》の|館《やかた》をば
|建《た》てて|教《をしへ》を|開《ひら》くなる  |鬼雲彦《おにくもひこ》の|曲神《まがかみ》が
|御許《みもと》に|永《なが》く|隠《かく》れつつ  |心《こころ》|用《もち》ふる|折柄《をりから》に
|太玉彦《ふとたまひこ》の|宣伝使《せんでんし》  |現《あら》はれ|来《きた》りて|太玉《ふとたま》の
|御稜威《みいづ》を|現《あら》はし|給《たま》ひしゆ  |鬼雲彦《おにくもひこ》は|驚《おどろ》きて
|雲《くも》を|霞《かすみ》と|逃《に》げ|去《さ》りぬ  |妾《わらは》|姉妹《おとどい》|八人《はちにん》は
|顕恩郷《けんおんきやう》を|立《た》ち|出《い》でて  おのもおのもに|身《み》を|窶《やつ》し
|三五教《あななひけう》の|御教《みをしへ》を  |四方《よも》に|伝《つた》ふる|折柄《をりから》に
|魔神《まがみ》の|為《た》めに|妹《いもうと》は  なやまされつつ|波《なみ》の|上《うへ》
|遠《とほ》く|流《なが》れる|千万《ちよろづ》の  |艱《なや》みを|凌《しの》ぎ|大神《おほかみ》の
|大道《おほぢ》を|伝《つた》へ|進《すす》み|行《ゆ》く  あゝ|健気《けなげ》なる|姉妹《おとどい》よ
|今《いま》や|何処《いづく》の|野《の》に|山《やま》に  いとしき|妹《いも》は|逍遥《さまよ》ふか
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |神《かみ》の|御霊《みたま》の|幸《さち》はひて
|一日《ひとひ》も|早《はや》く|姉妹《おとどい》が  |無事《ぶじ》なる|顔《かほ》を|寄《よ》り|合《あは》せ
|楽《たの》しむ|時《とき》を|松《まつ》の|世《よ》を  |五六七《みろく》の|神《かみ》の|御前《おんまへ》に
|偏《ひとへ》に|願《ねが》ひ|奉《たてまつ》る  |吾《わが》|背《せ》の|君《きみ》は|皇神《すめかみ》の
|大御詔《おほみことのり》を|蒙《かかぶ》りて  |桂《かつら》の|滝《たき》に|出《い》でましぬ
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |皇大神《すめおほかみ》の|御恵《みめぐみ》に
|吾《わが》|背《せ》の|君《きみ》が|百日日《ももかひ》の  |禊身《みそぎ》をやすく|済《す》ませかし
|愛子《あいこ》の|姫《ひめ》は|謹《つつし》みて  |清《きよ》き|玉琴《たまこと》かき|鳴《な》らし
すがすがしくも|願《ね》ぎ|奉《まつ》る  あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ』
と|歌《うた》ふ|声《こゑ》、|二人《ふたり》の|耳《みみ》に|透《す》き|通《とほ》る|様《やう》に|聞《きこ》え|来《きた》る。
『もしもし|玉公《たまこう》さま、|今《いま》のお|声《こゑ》は|愛子姫《あいこひめ》|様《さま》ぢや|御座《ござ》いませぬか。あのお|歌《うた》の|様子《やうす》では、|吾々《われわれ》の|御先生《ごせんせい》|黒姫《くろひめ》|様《さま》の|御探《おたづ》ね|遊《あそ》ばす、|高山彦《たかやまひこ》さまではない|様《やう》な|気《き》が|致《いた》しました。|一体《いつたい》|此方《こちら》の|御主人《ごしゆじん》は|何処《どこ》から|御入来《おいで》になりましたか』
『|此《この》|神館《かむやかた》は|二三年前《にさんねんぜん》まで、|天教山《てんけうざん》より|降《くだ》りましたる|天使《てんし》|八島別命《やしまわけのみこと》|様《さま》|御夫婦《ごふうふ》がお|守《まも》りになつて|居《を》りましたが、|天教山《てんけうざん》より|日《ひ》の|出別神《でわけのかみ》|様《さま》お|越《こ》し|遊《あそ》ばし、|木花姫命《このはなひめのみこと》|様《さま》の|御用《ごよう》が|忙《いそが》しいから、|元《もと》の|如《ごと》く|天教山《てんけうざん》に|帰《かへ》つて|呉《く》れよとの|御神勅《ごしんちよく》で、|日《ひ》の|出別神《でわけのかみ》|様《さま》と|共《とも》に、|此《この》|都《みやこ》をお|立《た》ち|退《の》き|遊《あそ》ばされ、|其《その》|後《あと》へ|神素盞嗚大神《かむすさのをのおほかみ》|様《さま》が|天照大御神《あまてらすおほみかみ》|様《さま》の|厳《いづ》の|御霊《みたま》と|生《あ》れませる|活津彦根命《いくつひこねのみこと》|様《さま》を、お|連《つ》れ|遊《あそ》ばして|御入来《おいで》になり、|素盞嗚尊《すさのをのみこと》|様《さま》の|総領《そうりやう》|息女《むすめ》の|愛子姫《あいこひめ》|様《さま》を|妻《つま》となし、お|帰《かへ》り|遊《あそ》ばしたので|御座《ござ》います。|他《ほか》の|宣伝使《せんでんし》とは|事変《ことか》はり、|随分《ずゐぶん》|御神徳《ごしんとく》の|高《たか》い|神司《かむづかさ》で、|畢竟《つまり》|生神様《いきがみさま》で|御座《ござ》いますよ』
『ハテナア、|何《なに》が|何《なん》だかサツパリ|訳《わけ》が|分《わか》らなくなつて|来《き》ました。オイ|芳公《よしこう》、コリヤ|一《ひと》つ|考《かんが》へねばなるまいぞ』
『まるで|火《ひ》の|国峠《くにたうげ》の|天狗《てんぐ》に|魅《つま》まれた|様《やう》な|話《はなし》だなア。こりや|斯《か》うしては|居《を》られない、|黒姫《くろひめ》さまの|所在《ありか》を|探《さが》した|上《うへ》で|何《なん》とか|思案《しあん》をせにやなるまい……|玉公《たまこう》さま、|有難《ありがた》う|御座《ござ》いました。|又《また》お|邪魔《じやま》を|致《いた》します。|奥様《おくさま》にも|宜《よろ》しく……』
と|云《い》ひ|捨《す》て|慌《あわただ》しく|蓑笠《みのかさ》をつけ|金剛杖《こんがうづゑ》をつき|乍《なが》ら|表門《おもてもん》|指《さ》して|出《い》でて|行《ゆ》く。
(大正一一・九・一七 旧七・二六 北村隆光録)
第二三章 |清交《せいこう》〔九八七〕
|火《ひ》の|国館《くにやかた》の|門前《もんぜん》|近《ちか》く、|宣伝歌《せんでんか》を|歌《うた》ひ|乍《なが》ら|入《い》り|来《きた》る|一人《ひとり》の|宣伝使《せんでんし》は|玉治別命《たまはるわけのみこと》なり。
『|神《かみ》が|表《おもて》に|現《あら》はれて  |善神邪神《ぜんしんじやしん》を|立別《たてわ》ける
|恋《こひ》に|迷《まよ》うた|黒姫《くろひめ》が  |自転倒島《おのころじま》の|聖場《せいぢやう》に
|朝《あさ》な|夕《ゆふ》なにまめやかに  |仕《つか》へつとむるハズバンド
|高山彦《たかやまひこ》の|神司《かむづかさ》  |筑紫《つくし》の|島《しま》に|渡《わた》りしと
|心《こころ》|一《ひと》つに|思《おも》ひつめ  |百《もも》の|悩《なや》みに|堪《た》へ|乍《なが》ら
|三五教《あななひけう》の|宣伝《せんでん》を  |兼《か》ねつつ|来《きた》る|浪《なみ》の|上《うへ》
|筑紫ケ岳《つくしがだけ》をふみ|越《こ》えて  |岩《いは》の|根《ね》|木《き》の|根《ね》よけ|乍《なが》ら
|人跡《じんせき》|稀《まれ》なる|谷《たに》の|路《みち》  |向日峠《むかふたうげ》や|屋方村《やかたむら》
|後《あと》に|眺《なが》めて|荒井岳《あらゐだけ》  |二人《ふたり》の|御供《おとも》を|伴《ともな》ひて
|火《ひ》の|国《くに》|一《いち》の|急坂《きふはん》を  |登《のぼ》りつ|下《くだ》りつ|進《すす》み|来《く》る
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |黒姫司《くろひめつかさ》が|今《いま》ここに
|現《あら》はれ|来《きた》ることあらば  さぞや|驚《おどろ》き|給《たま》ふべし
|吾《わが》|背《せ》の|君《きみ》と|只管《ひたすら》に  |思《おも》ひし|高山彦神《たかやまひこがみ》は
|真《まこと》の|夫《をつと》に|非《あら》ずして  |思《おも》ひもよらぬ|人《ひと》の|夫《つま》
|天照《あまてら》します|大神《おほかみ》の  |御手《みて》の|手巻《たまき》にまかせたる
|五百津《いほつ》|美須麻琉《みすまる》|々々々々《みすまる》の  |玉《たま》の|精気《せいき》にあれましし
|活津彦根《いくつひこね》の|神司《かむづかさ》  |高国別《たかくにわけ》と|聞《き》くならば
さすがに|気丈《きぢやう》の|黒姫《くろひめ》も  さぞや|驚《おどろ》き|玉《たま》ふらむ
|思《おも》へば|思《おも》へばいぢらしい  |一日《ひとひ》も|早《はや》く|片時《かたとき》も
|黒姫《くろひめ》さまの|迷《まよ》ひをば  |晴《は》らし|助《たす》けて|自転倒《おのころ》の
|神《かみ》の|集《あつ》まる|珍《うづ》の|島《しま》  |綾《あや》の|高天《たかま》につれ|帰《かへ》り
|高山彦《たかやまひこ》と|諸共《もろとも》に  |睦《むつ》び|親《した》しみ|皇神《すめかみ》の
|誠《まこと》の|道《みち》に|仕《つか》へまし  |麻邇《まに》の|宝珠《ほつしゆ》の|神業《しんげふ》に
|清《きよ》くも|仕《つか》へさせ|玉《たま》へ  あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|神素盞嗚大神《かむすさのをのおほかみ》の  |御言《みこと》を|畏《かしこ》みフサの|国《くに》
ウブスナ|山《やま》の|山頂《さんちやう》に  |大宮柱太《おほみやばしらふと》しりて
そそり|立《た》ちたる|斎苑館《いそやかた》  |聖地《せいち》を|後《あと》にはるばると
エデンの|河《かは》を|船《ふね》に|乗《の》り  フサの|海原《うなばら》|横断《わうだん》し
|筑紫《つくし》の|島《しま》の|熊襲国《くまそくに》  |建日《たけひ》の|港《みなと》に|上陸《じやうりく》し
|黒姫《くろひめ》さまを|助《たす》けむと  ここ|迄《まで》|進《すす》み|来《きた》りけり
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ』
と|歌《うた》ひ|乍《なが》ら、|門前《もんぜん》|近《ちか》く|現《あら》はれける。
|門番《もんばん》の|軽公《かるこう》は|此《この》|宣伝歌《せんでんか》に|勇《いさ》み|立《た》ち、|威儀《ゐぎ》を|正《ただ》して|門《もん》を|開《ひら》き、
『|玉治別神《たまはるわけかみ》の|命《みこと》の|出《い》でましと
|知《し》るより|心《こころ》|勇《いさ》みけるかも。
|高山彦《たかやまひこ》の|神《かみ》の|命《みこと》の|後《あと》|追《お》うて
|黒姫司《くろひめつかさ》|出《い》でますと|聞《き》く。
|黒姫《くろひめ》の|御供《みとも》の|人《ひと》が|今《いま》|二人《ふたり》
|力《ちから》なくなく|帰《かへ》りましけり。
|高国別《たかくにわけ》|神《かみ》の|命《みこと》の|神司《かむづかさ》
|桂《かつら》の|滝《たき》に|出《い》でましにけり。
|玉治別《たまはるわけ》|神《かみ》の|命《みこと》よ|速《すみや》かに
|鉄門《かなど》をくぐり|奥《おく》に|入《い》りませ。
|惟神《かむながら》|神《かみ》の|恵《めぐみ》の|深《ふか》くして
|今日《けふ》は|尊《たふと》き|神《かみ》に|会《あ》ふ|哉《かな》。
|有難《ありがた》や|玉治別《たまはるわけ》の|出《い》でましに
|御空《みそら》も|清《きよ》く|晴《は》れ|渡《わた》りけり。
|大空《おほぞら》の|星《ほし》にも|擬《まが》ふ|玉治別《たまはるわけ》の
|神《かみ》の|身魂《みたま》の|美《うるは》しき|哉《かな》』
と|口《くち》を|極《きは》めて|讃美《さんび》し、|歓迎《くわんげい》してゐる。
『|美《うるは》しき|火《ひ》の|国都《くにみやこ》の|鉄門《かなど》|守《も》る
|軽《かる》の|君《きみ》こそ|雄々《をを》しき|男《を》の|子《こ》よ。
われこそは|玉治別《たまはるわけ》の|神司《かむづかさ》
|館《やかた》の|君《きみ》に|会《あ》はまくぞ|思《おも》ふ。
|高国別《たかくにわけ》|神《かみ》の|命《みこと》は|雄々《をを》しくも
|桂《かつら》の|滝《たき》に|出《い》でますと|聞《き》く。
さり|乍《なが》ら|愛子《あいこ》の|姫《ひめ》はおはすらむ
われは|代《かは》りて|言問《ことと》ひたくぞ|思《おも》ふ』
|門番《もんばん》の|軽公《かるこう》は、
『|神館《かむやかた》|主《あるじ》の|君《きみ》はいまさねど
|愛子《あいこ》の|姫《ひめ》に|会《あ》はせまつらむ。
|玉治別《たまはるわけ》|神《かみ》の|命《みこと》よわれは|今《いま》
|君《きみ》の|御為《みため》に|導《みちび》きまつらむ』
|玉治別《たまはるわけ》は、
『|今《いま》こそは|人《ひと》の|情《なさけ》の|知《し》られけり
|鉄門《かなど》を|守《まも》る|人《ひと》の|言葉《ことば》に。
|黒姫《くろひめ》はやがては|此処《ここ》に|来《き》ますらむ
|易《やす》く|通《とほ》せよ|鉄門《かなど》|守《も》る|人《ひと》』
『|黒姫《くろひめ》を|易《やす》く|通《とほ》さむ|術《すべ》なけど
|君《きみ》のことばに|詮術《せんすべ》もなし。
|君《きみ》ならで|誰《たれ》に|開《ひら》かむ|此《この》|鉄門《かなど》
|主《あるじ》の|君《きみ》の|許《ゆる》しなくして』
|玉治別《たまはるわけ》は、
『いざさらば|珍《うづ》の|館《やかた》へ|進《すす》み|申《まを》さむ
|心《こころ》も|足《あし》も|軽公《かるこう》の|恵《めぐみ》に』
かく|応答《おうたふ》し|乍《なが》ら、いつの|間《ま》にか|玄関口《げんくわんぐち》につけり。|軽公《かるこう》は|受付《うけつけ》の|玉公《たまこう》に|向《むか》ひ|歌《うた》を|詠《よ》む。
『|玉公《たまこう》よ|今《いま》より|表《おもて》の|鉄門《かなど》|守《も》れ
わはこれより|受付《うけつけ》とならむ』
『いざさらば|表《おもて》に|立《た》ちていかめしく
みことのままに|鉄門《かなど》|守《まも》らむ』
と、つツと|立《た》つて|元《もと》の|門番《もんばん》をなすべく|表《おもて》に|出《で》て|行《ゆ》く。
この|軽公《かるこう》は、|津軽命《つがるのみこと》といふ|館《やかた》の|主《あるじ》の|股肱《ここう》と|頼《たの》む|宣伝使《せんでんし》である。|津軽命《つがるのみこと》は|玉治別命《たまはるわけのみこと》に|向《むか》ひ|又《また》|詠《うた》ふ。
『いざ|早《はや》く|奥《おく》の|一間《ひとま》に|通《とほ》りませ
|愛子《あいこ》の|姫《ひめ》は|汝《なれ》を|待《ま》ちます』
『|神館《かむやかた》|主《あるじ》の|神《かみ》はまさねども
いろとの|君《きみ》にものや|申《まを》さむ』
と、|津軽命《つがるのみこと》に|導《みちび》かれ、|奥《おく》の|間《ま》さして|進《すす》み|入《い》る。|愛子姫《あいこひめ》は|玉治別命《たまはるわけのみこと》の|入来《にふらい》と|聞《き》き、あわただしく|衣紋《えもん》をつくろひ|髪《かみ》をなで|上《あ》げ、しづしづとして|此方《こなた》に|向《むか》つて|歩《あゆ》み|来《きた》る。|長《なが》き|廊下《らうか》に|差《さし》かかる|折《をり》、|玉治別《たまはるわけ》にパツタリ|出会《であ》ひ、
『|世《よ》の|人《ひと》を|導《みちび》き|救《すく》ふ|愛子姫《あいこひめ》
|汝《なれ》|迎《むか》へむと|此処《ここ》に|来《きた》れり。
|汝《な》が|命《みこと》これの|館《やかた》に|来《き》ますぞと
きくより|日々《にちにち》に|待《ま》ちあぐみたるよ。
うるはしき|玉治別《たまはるわけ》の|神司《かむづかさ》
|高《たか》き|御名《みな》こそ|世《よ》に|響《ひび》きけり。
あゝ|清《きよ》き|神《かみ》の|姿《すがた》を|目《ま》のあたり
|拝《をろが》み|仰《あふ》ぐ|今日《けふ》ぞ|嬉《うれ》しき』
|玉治別《たまはるわけ》はこれに|答《こた》へて、
『|名《な》は|高《たか》き|火《ひ》の|国都《くにみやこ》の|神司《かむづかさ》
|汝《なれ》はいろとにおはすか|天晴《あは》れ。
|素盞嗚《すさのを》の|神《かみ》の|尊《みこと》の|愛娘《まなむすめ》
|姫《ひめ》の|命《みこと》を|慕《した》ひ|来《き》にけり。
うるはしき|其《その》|御心《みこころ》の|現《あら》はれて
|御姿《みすがた》さへも|輝《かがや》き|玉《たま》へる。
|照《て》りわたる|天津御空《あまつみそら》の|月《つき》の|如《ごと》
|清《きよ》き|御姿《みすがた》|今《いま》|拝《をが》むかな』
と|詠《うた》ひ|乍《なが》ら、|愛子姫《あいこひめ》、|津軽命《つがるのみこと》に|前後《ぜんご》を|守《まも》られ、|一間《ひとま》の|内《うち》に|悠々《いういう》として|進《すす》み|入《い》る。|奥《おく》の|一間《ひとま》に|三人《さんにん》は|鼎座《ていざ》して、|互《たがひ》に|打《うち》とけ|嬉《うれ》しげに|語《かた》り|合《あ》ふ。
『|玉治別《たまはるわけ》の|宣伝使《せんでんし》|様《さま》、ようマアはるばると|訪《たづ》ねて|来《き》て|下《くだ》さいました。|夫《をつと》|高国別《たかくにわけ》は|折悪《をりあ》しく、|今朝《こんてう》|桂《かつら》の|滝《たき》へ|御禊《みそぎ》の|為《ため》に、|百日《ひやくにち》の|心願《しんぐわん》をこめて|参《まゐ》りました|不在中《ふざいちゆう》で、|誠《まこと》に|不都合《ふつがふ》なれども、ゆるゆる|御休息《ごきうそく》の|上《うへ》、|国々《くにぐに》の|御珍《おめづ》らしいお|話《はなし》を|聞《き》かせて|下《くだ》さいませ』
『ハイ|有難《ありがた》う|御座《ござ》います』
と、|愛子姫《あいこひめ》が|妹《いもうと》の|所在《ありか》を|一々《いちいち》|物語《ものがた》り、|且《かつ》|又《また》|其《その》|活動振《くわつどうぶり》を|詳細《しやうさい》に|伝《つた》へけるに、|愛子姫《あいこひめ》はえも|云《い》はれぬ|愉快《ゆくわい》なる|面色《おももち》にて、
『|玉治別《たまはるわけ》さま、|随分《ずゐぶん》あなたも|御苦労《ごくらう》なさいましたなア。|神様《かみさま》の|為《ため》|世人《よびと》の|為《ため》、どうぞ|御壮健《ごさうけん》にて|御神務《ごしんむ》にお|仕《つか》へ|下《くだ》さいますやう|祈《いの》ります』
『ハイ|有難《ありがた》う|御座《ござ》います。|私《わたくし》も|不運《ふうん》な|身《み》の|上《うへ》、|父母《ふぼ》に|捨《す》てられ、ホンの|独身者《どくしんもの》で|御座《ござ》いますが、|三五教《あななひけう》に|帰順《きじゆん》いたしましてより、|国依別《くによりわけ》さまの|妹《いもうと》を|女房《にようばう》に|貰《もら》ひうけ、|今《いま》は|夫婦《ふうふ》が|力《ちから》を|協《あは》せて、|神様《かみさま》の|御用《ごよう》を|一心《いつしん》に|致《いた》して|居《を》ります。イヤもう|苦労《くらう》といつても、|神《かみ》さまと|道伴《みちづ》れの|苦労《くらう》で|御座《ござ》いますから、|何処《どこ》の|国《くに》へ|参《まゐ》りましても、|真《まこと》に|愉快《ゆくわい》でたまりませぬ』
『あゝ|左様《さやう》で|御座《ござ》いますか。|妾《わらは》も|何《なん》とかして|妹《いもうと》の|様《やう》に|世界《せかい》|各国《かくこく》を|巡教《じゆんけう》いたしたく|存《ぞん》じまするが、|何《なに》を|云《い》つても|夫《をつと》ある|身《み》の|上《うへ》、|思《おも》ふやうには|参《まゐ》りませぬ。|身魂《みたま》の|因縁《いんねん》|相応《さうおう》の|御用《ごよう》より|出来《でき》ないものと|見《み》えますなア』
『いかにも|左様《さやう》で|御座《ござ》いませう。|時《とき》に|三五教《あななひけう》の|黒姫《くろひめ》さまは、|高山彦《たかやまひこ》といふ|御主人《ごしゆじん》が|御座《ござ》いますが、|綾《あや》の|聖地《せいち》に|於《おい》て、|下《くだ》らぬことから|喧嘩《けんくわ》をなされまして、|高山彦《たかやまひこ》さまは、|筑紫《つくし》の|島《しま》へ|行《ゆ》くと|云《い》ひ|切《き》つた|儘《まま》、|何処《どこ》かへお|隠《かく》れになりました。そこで|黒姫《くろひめ》さまが、|高山彦《たかやまひこ》さまは|屹度《きつと》|筑紫島《つくしじま》に|御座《ござ》ることと|思召《おぼしめ》され、はるばると|海山《うみやま》|越《こ》えて|此《この》|国《くに》へ|来《き》てゐられます。|高国別《たかくにわけ》さまの|又《また》の|御名《みな》が|高山彦《たかやまひこ》さまと|申《まを》すので、|黒姫《くろひめ》さまは|吾《わが》|夫《をつと》とのみ|思《おも》ひつめ、やがて|此処《ここ》へお|越《こ》しになるでせうから、どうぞお|願《ねが》ひで|御座《ござ》います。|奥《おく》へ|御通《おとほ》し|下《くだ》さいまして、|一応《いちおう》|話《はなし》をきいて|上《あ》げて|下《くだ》さいませ。|玉治別《たまはるわけ》が|御願《おねが》ひで|御座《ござ》います』
『それは|又《また》|妙《めう》な|事《こと》で|厶《ござ》いますなア。|黒姫《くろひめ》さまの|御主人《ごしゆじん》の|御名《みな》もヤツパリ|高山彦《たかやまひこ》さまで|厶《ござ》いましたかなア。|其《その》|高山彦《たかやまひこ》さまの|御所在《おありか》はお|分《わか》りになつて|居《を》りますか』
『|高山彦《たかやまひこ》さまはアフリカへ|御渡《おわた》りかと|思《おも》ひきや、|依然《いぜん》として|聖地《せいち》に|現《あら》はれ、|神《かみ》さまに|朝夕《あさゆふ》お|仕《つか》へをして|居《ゐ》られます。|私《わたし》はそれを|見《み》るにつけ、|黒姫《くろひめ》さまの|御心根《おこころね》が|可哀相《かあいさう》になり、|神素盞嗚大神《かむすさのをのおほかみ》さまのまします|斎苑《いそ》の|館《やかた》へ|一旦《いつたん》|参《まゐ》りまして、|更《あらた》めてここへ|渡《わた》り、|黒姫《くろひめ》さまに|巡《めぐ》り|会《あ》つて、|知《し》らして|上《あ》げたいと|思《おも》ひ、|宣伝《せんでん》を|兼《か》ねお|迎《むか》へ|旁《かたがた》|参《まゐ》りましたので|御座《ござ》います』
『それはマア|御親切《ごしんせつ》な|事《こと》で|御座《ござ》います。|黒姫《くろひめ》さまがあなたの|御心底《ごしんてい》をお|聞《き》きになられたら、さぞお|喜《よろこ》びになることでせう』
『ハイ|有難《ありがた》う、|私《わたくし》の|伺《うかが》ひでは、このお|館《やかた》にて|余《あま》り|遠《とほ》からぬ|内《うち》、|黒姫《くろひめ》さまに|御面会《ごめんくわい》が|出来《でき》るやうに|存《ぞん》じます』
『|妾《わらは》も|左様《さやう》に|心得《こころえ》ます。どうぞ|早《はや》くお|越《こ》し|下《くだ》さると|宜《よろ》しいがなア』
かく|話《はな》す|折《をり》しも、|門番《もんばん》の|玉公《たまこう》はあわただしく|入《い》り|来《きた》り、
『|三五教《あななひけう》の|黒姫《くろひめ》と|云《い》ふ|婆《ば》アさまが、|五人《ごにん》の|荒男《あらをとこ》を|連《つ》れて、|表門《おもてもん》へ|現《あら》はれ、|此《この》|門《もん》を|開《あ》け……と|言《い》つて|居《を》りまする。|如何《いかが》|致《いた》しませうかなア』
|津軽命《つがるのみこと》は|言下《げんか》に、
『|玉公《たまこう》|御苦労《ごくらう》だが、|早《はや》く|表門《おもてもん》をひらき、|黒姫《くろひめ》さま|一行《いつかう》を|此処《ここ》へ|御案内《ごあんない》|申《まを》せ』
|玉公《たまこう》は|不審《ふしん》な|面持《おもも》ちにて、
『へー、あんな|悪《わる》い|奴《やつ》を|沢山《たくさん》|伴《つ》れた|婆《ばば》アでも、|通《とほ》して|宜《よろ》しいか。|高山彦《たかやまひこ》さまの|女房《にようばう》だなんぞと|言《い》つてゐましたよ。モシもあんな|婆《ば》アさまを|引《ひ》つぱり|込《こ》まうものなら|大変《たいへん》ですよ。|第一《だいいち》|愛子姫《あいこひめ》さまが|御迷惑《ごめいわく》を|遊《あそ》ばすでせう』
『|構《かま》はないから、|早《はや》くお|迎《むか》へ|申《まを》して|来《こ》い』
『ハイ』
と|答《こた》へて|門番《もんばん》は|表《おもて》をさして|走《はし》り|行《ゆ》く。
(大正一一・九・一七 旧七・二六 松村真澄録)
第二四章 |歓喜《くわんき》の|涙《なみだ》〔九八八〕
|愛子姫《あいこひめ》は|黒姫《くろひめ》の|訪問《はうもん》と|聞《き》き、|稍《やや》|危《あやぶ》み|乍《なが》ら、|玄関口《げんくわんぐち》に|津軽命《つがるのみこと》と|共《とも》に|出《い》で|迎《むか》へる。|玉治別《たまはるわけ》は|後《あと》に|只《ただ》|一人《ひとり》|腕《うで》を|組《く》み、|何《なに》か|思案《しあん》にくれてゐる。|黒姫《くろひめ》は|玄関口《げんくわんぐち》に|立《た》ち、
『|高山彦《たかやまひこ》|夫《つま》の|命《みこと》の|後《あと》|追《お》うて
|黒姫司《くろひめつかさ》ここにきたれり。
|高山彦《たかやまひこ》|夫《つま》の|命《みこと》は|如何《いか》にして
われを|出迎《でむか》へ|遊《あそ》ばさざるや』
|愛子姫《あいこひめ》『あらたふと|黒姫司《くろひめつかさ》はるばると
|出《い》でます|事《こと》の|心《こころ》|嬉《うれ》しき。
いざ|早《はや》く|館《やかた》の|奥《おく》へ|上《のぼ》りませ
|汝《なれ》|来《き》ますとてわれは|待《ま》ちける。
|玉治別《たまはるわけ》|神《かみ》の|命《みこと》も|出《い》でまして
|汝《なれ》が|入来《じゆらい》を|待《ま》たせ|玉《たま》へり』
『いざさらばお|構《かま》ひなくば|奥《おく》の|間《ま》へ
|進《すす》みて|夫《つま》に|言問《ことと》ひ|申《まを》さむ。
|高山彦《たかやまひこ》|夫《つま》の|命《みこと》の|情《つれ》なさよ
|吾《われ》を|見《み》すててかかる|国《くに》まで。
|年老《としお》いし|身《み》も|顧《かへり》みず|若草《わかぐさ》の
|妻《つま》|持《も》たすとは|何《なん》の|心《こころ》ぞ。
うらめしき|汝《なれ》が|命《みこと》の|姿《すがた》かな
|吾《わが》|背《せ》の|君《きみ》のいろと|思《おも》へば』
『|黒姫《くろひめ》の|神《かみ》の|司《つかさ》よ|聞《きこ》しめせ
|吾《わが》|背《せ》の|君《きみ》は|高国別《たかくにわけ》の|神《かみ》。
|高山彦《たかやまひこ》|神《かみ》の|命《みこと》と|名乗《なの》らせど
|活津彦根《いくつひこね》の|神《かみ》にましける。
|兎《と》も|角《かく》も|奥《おく》に|入《い》りませ|三五《あななひ》の
|神《かみ》の|司《つかさ》の|黒姫《くろひめ》の|君《きみ》』
『さやうならこれより|奥《おく》へ|駆込《かけこ》みて
|否応《いやおう》いはさず|調《しら》べ|見《み》むかな。
|詐《いつは》りの|多《おほ》き|此《この》|世《よ》と|知《し》らずして
さまよひ|来《きた》りし|心《こころ》|悲《かな》しも』
『|疑《うたが》ひの|雲《くも》|明《あきら》かに|晴《は》らせませ
|吾《わが》|背《せ》の|君《きみ》の|絵像《ゑざう》|見《み》まして』
『さてもさても|合点《がてん》のゆかぬ|汝《なれ》が|詞《ことば》
|荒井ケ岳《あらゐがだけ》の|狐《きつね》にあらぬか』
|津軽命《つがるのみこと》『これはしたり|口《くち》が|悪《わる》いも|程《ほど》がある
|黒姫《くろひめ》さまよ|何《なに》を|証拠《しようこ》に』
|黒姫《くろひめ》『|自転倒島《おのころじま》を|後《あと》にして  |姿《すがた》|隠《かく》した|高山彦《たかやまひこ》の
|神《かみ》の|命《みこと》の|吾《わが》|夫《つま》は  |筑紫《つくし》の|島《しま》に|渡《わた》るとて
|聖地《せいち》を|見《み》すてて|出《い》でしより  |妾《わたし》は|後《あと》を|慕《した》ひつつ
|遠《とほ》き|海路《うなぢ》を|打《うち》わたり  |嶮《けは》しき|山《やま》をふみ|越《こ》えて
|雨《あめ》にさらされ|荒風《あらかぜ》に  |髪《かみ》|梳《くしけづ》りトボトボと
|三人《みたり》の|供《とも》を|従《したが》へて  |此処迄《ここまで》|進《すす》み|来《きた》りけり
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |誠《まこと》の|神《かみ》のましまさば
|愛子《あいこ》の|姫《ひめ》がすげもなく  わが|背《せ》の|命《みこと》を|奥《おく》|深《ふか》く
|包《つつ》みかくして|白《しら》ばくれ  たばかる|醜《しこ》の|枉業《まがわざ》を
あらはせ|玉《たま》へ|惟神《かむながら》  |皇大神《すめおほかみ》の|御前《おんまへ》に
|三五教《あななひけう》の|神司《かむづかさ》  |黒姫《くろひめ》|謹《つつし》み|願《ね》ぎまつる』
|愛子姫《あいこひめ》『|天地《てんち》の|神《かみ》も|御照覧《ごせうらん》  いかに|心《こころ》の|汚《けが》れたる
|愛子《あいこ》の|姫《ひめ》も|徒《いたづら》に  |人《ひと》の|男《をとこ》をそそのかし
|宿《やど》の|夫《つま》とぞなすべきか  |黒姫《くろひめ》さまの|背《せ》の|君《きみ》は
|高山彦《たかやまひこ》と|聞《き》くからは  |同名異人《どうめいいじん》のわが|夫《つま》を
|誠《まこと》の|夫《つま》と|思《おも》ひつめ  |迷《まよ》ひ|玉《たま》ひしものならむ
|黒姫司《くろひめつかさ》きこしめせ  |妾《わらは》も|神《かみ》の|大道《おほみち》を
|守《まも》る|身《み》なれば|如何《いか》にして  |詐《いつは》り|言《ごと》を|用《もち》ふべき
|早《はや》くも|奥《おく》へ|進《すす》みませ  |汝《なれ》が|命《みこと》の|疑《うたが》ひも
|旭《あさひ》に|露《つゆ》と|消《き》え|失《う》せむ  あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ』
と|歌《うた》ひ|終《をは》り、|悄然《せうぜん》として|涙含《なみだぐ》む。|愛子姫《あいこひめ》は|黒姫《くろひめ》のキツイ|詞《ことば》に、きつく|侮辱《ぶじよく》された|様《やう》な|感《かん》じがして、|女心《をんなごころ》の|悲《かな》しくなり|来《きた》れるなりき。
|黒姫《くろひめ》『|高山彦《たかやまひこ》さまが|桂《かつら》の|滝《たき》とやらへ|修業《しうげふ》に|行《ゆ》かれたから、|不在《ふざい》だと|言《い》はれたさうだが、そんな|仇《あだ》とい|事《こと》で、|此《この》|黒姫《くろひめ》はあとへ|引《ひ》く|様《やう》な|女《をんな》ぢや|御座《ござ》いませぬ。|女《をんな》の|一心《いつしん》|岩《いは》でもつきぬく、|何処《どこ》までも|調《しら》べ|上《あ》げねば|承知《しようち》を|致《いた》しませぬぞや。|大方《おほかた》|奥《おく》にかくれて|御座《ござ》るのだらう。|稲荷《いなり》か|何《なに》かの|託宣《たくせん》で、|此《この》|黒姫《くろひめ》が|此処《ここ》へ|来《く》るといふ|事《こと》を|前知《ぜんち》し、|大方《おほかた》|皆《みな》の|者《もの》が|腹《はら》をあはし、|門番《もんばん》|迄《まで》に|言《い》ひ|含《ふく》め|隠《かく》して|御座《ござ》るのだらう。|何《なん》と|云《い》つても|隠《かく》すより|現《あら》はるるはなしといつて、|終《しま》ひには|尻尾《しつぽ》が|見《み》えますぞや。ヘエ|御免《ごめん》なさいませ、コレコレ|番頭《ばんとう》どの、|奥《おく》へ|案内《あんない》して|下《くだ》さい。|夫《をつと》の|所在《ありか》が|分《わか》るまではビクとも|動《うご》かぬ|此《この》|黒姫《くろひめ》、マア|暫《しばら》く|御厄介《ごやくかい》になりませうかい、オツホヽヽヽ』
|愛子姫《あいこひめ》は|先《さき》に|立《た》ち|奥《おく》の|間《ま》に|導《みちび》く。|此処《ここ》には|玉治別《たまはるわけ》が|腕《うで》を|組《く》んで、|何事《なにごと》か|思案《しあん》にくれゐたり。
『コレコレお|愛《あい》さま、お|前《まへ》も|余程《よほど》のすれつからしと|見《み》えて、|千軍万馬《せんぐんばんば》の|劫《がふ》を|経《へ》た|此《この》|老人《としより》をうまくチヨロまかしますなア……ヤアそこには|一人《ひとり》|何《なん》だか|見覚《みおぼ》えのあるやうな|男《をとこ》が|坐《すわ》つて|居《ゐ》る。コリヤまア|何《なん》の|事《こと》ぢやいなア。|大方《おほかた》こんな|事《こと》だと|思《おも》うて|居《を》つた。|矢張《やつぱり》|高山彦《たかやまひこ》さまは桂の|滝《たき》へ|行《ゆ》かれたのだらう。|其《その》|不在《るす》の|間《ま》にこんな|男《をとこ》を|伴《つ》れ|込《こ》んで、イヤもうお|話《はなし》になりませぬワイ、オツホヽヽヽ』
『モシモシ|黒姫《くろひめ》さま、|夫《をつと》ある|妾《わたし》に|対《たい》して|殺生《せつしやう》な|事《こと》を|云《い》つて|下《くだ》さるな。|外聞《ぐわいぶん》が|悪《わる》う|御座《ござ》います』
『|外分《ぐわいぶん》の|悪《わる》い|事《こと》を|誰《たれ》がしたのですか。|高山彦《たかやまひこ》の|夫《をつと》に|代《かは》り、|間男《まをとこ》の|成敗《せいばい》は|私《わたし》がする。サアお|愛《あい》どの、|気《き》の|毒《どく》|乍《なが》ら、トツトと|出《で》て|下《くだ》さい。アーア|高山《たかやま》さまが|不在《るす》になるとサツパリ【ワヤ】だ。|一辺《いつぺん》|悪魔《あくま》の|大清潔法《だいせいけつはふ》を|行《や》らないと、|神《かみ》さまだつて|此《この》|館《やかた》へは|鎮《しづ》まつて|下《くだ》さらないわ……コレお|愛《あい》、|何《なに》をグヅグヅして|泣《な》いてるのだ。|泣《な》かねばならぬやうな|事《こと》をなぜなさつたのかい、オツホヽヽヽ、さてもさても|気《き》の|毒《どく》なものだなア。|私《わたし》も|同情《どうじやう》の|涙《なみだ》がこぼれませぬわいナ。ウツフヽヽヽ、あのマア|悲《かな》しさうなないぢやくりわいのう』
|玉治別《たまはるわけ》はフツと|顔《かほ》をあげ、
『ヤアあなたは|黒姫《くろひめ》さま、|最前《さいぜん》から|待《ま》つて|居《を》りました。サア|此方《こちら》へ|御越《おこ》し|下《くだ》さいませ』
『|何《なん》だ、お|前《まへ》は|玉《たま》ぢやないかい、|門《かど》にも|玉《たま》が|居《を》れば|中《なか》にも|玉《たま》が|居《を》る。お|前《まへ》がお|愛《あい》の|情夫《いろをとこ》だなア。|何《なん》と|抜目《ぬけめ》のない|人間《にんげん》だこと。|高山《たかやま》さまの|尻《しり》を|追《お》うてこんな|所《ところ》|迄《まで》やつて|来《き》て、チヨコチヨコとお|愛《あい》に|可愛《かあい》がつて|貰《もら》つてゐるのだろ、オホヽヽヽ。|若《わか》い|時《とき》は|誰《たれ》もある|慣《なら》ひだ。|本当《ほんたう》に|敏腕家《びんわんか》だ。ドシドシと|体主霊従主義《たいしゆれいじうしゆぎ》を|発揮《はつき》しなさるがよからう。|若《わか》い|時《とき》は|二度《にど》ないからなア。|併《しか》し|乍《なが》らよう|考《かんが》へて|御覧《ごらん》、お|前《まへ》も|三十《さんじふ》の|坂《さか》を|越《こ》えてるぢやないか。|十九《つづ》や|二十《はたち》の|身《み》ではなし、チツとは|心得《こころえ》たがよからうぞえ。|併《しか》しお|前《まへ》の|恋愛《れんあい》を|私《わたし》が|彼《かれ》これ|云《い》ふのぢやない。サア|早《はや》く|今《いま》の|間《うち》にお|愛《あい》を|伴《つ》れて|駆落《かけおち》をして|下《くだ》さい。|高山《たかやま》さまがお|帰《かへ》りになると、|大騒動《おほさうどう》だから、チヤツと|早《はや》う|出《で》なさい。お|前《まへ》が|可哀相《かはいさう》だから、|親切《しんせつ》に|言《い》ふのだよ』
『アーア、|情《なさけ》ない|事《こと》になつて|来《き》た。|黒姫《くろひめ》さま、|私《わたし》はたつた|今《いま》の|先《さき》、このお|館《やかた》へ|参《まゐ》つたのですよ。|実《じつ》は|高山彦《たかやまひこ》さまが、|筑紫《つくし》の|島《しま》へ|渡《わた》ると|捨台詞《すてぜりふ》を|使《つか》つて、あなたにお|別《わか》れになりました。|私《わたし》もさうだと|思《おも》つて|居《を》つた|所《ところ》、|豈計《あにはか》らむや、|高山彦《たかやまひこ》さまは|伊勢屋《いせや》の|奥座敷《おくざしき》にかくれて|暫《しばら》く|御座《ござ》つたさうですが、|黒姫《くろひめ》さまがいよいよ|自転倒島《おのころじま》を|立《た》たれた|時分《じぶん》から、ヌツと|顔《かほ》を|出《だ》し、|毎日《まいにち》|日日《ひにち》|錦《にしき》の|宮《みや》へ|御出勤《ごしゆつきん》になつて|居《ゐ》られますよ。そこで|言依別命《ことよりわけのみこと》|様《さま》が|聖地《せいち》を|立《た》たれる|時《とき》……|黒姫《くろひめ》さまが|可哀相《かはいさう》だから、お|前《まへ》|御苦労《ごくらう》だが|宣伝《せんでん》|旁《かたがた》|筑紫《つくし》の|島《しま》へ|行《い》つて、|黒姫《くろひめ》さまをお|迎《むか》へ|申《まを》して|来《こ》い、さうして|夫婦《ふうふ》|和合《わがふ》して|御神業《ごしんげふ》にお|仕《つか》へなさるやう|取計《とりはか》らへ……との|御命令《ごめいれい》で、はるばる|貴女《あなた》の|後《あと》を|慕《した》うて|此処《ここ》まで|参《まゐ》つたの|御座《ござ》います。|愛子姫《あいこひめ》|様《さま》と|云々《うんぬん》などと|云《い》ふやうな|事《こと》は|夢《ゆめ》にも|御座《ござ》いませぬから、どうぞ|諒解《りやうかい》して|下《くだ》さいませ』
と|真心《まごころ》|面《おもて》に|表《あら》はれ、|慨歎《がいたん》やる|方《かた》なき|其《その》|顔色《かほいろ》を|見《み》て|取《と》つた|黒姫《くろひめ》は|稍《やや》|心《こころ》やはらぎ、
『|何《なに》、|高山彦《たかやまひこ》さまが|聖地《せいち》に|御座《ござ》るとは、そりや|本当《ほんたう》かい?』
『|何《なに》|嘘《うそ》を|申《まを》しませう。|万里《ばんり》の|波濤《はたう》を|渡《わた》つて、こんな|所《ところ》まで|嘘《うそ》を|云《い》ひに|来《く》る|者《もの》が|御座《ござ》いませうか。|黒姫《くろひめ》さま、よく|御覧《ごらん》なさいませ。|此《この》|絵像《ゑざう》は|当家《たうけ》の|御主人《ごしゆじん》の|生姿《いきすがた》で|御座《ござ》いますから、|能《よ》く|御見並《おみなら》べなさいませ。|本年《ほんねん》|三十五才《さんじふごさい》の|屈強盛《くつきやうざか》りの|活津彦根神《いくつひこねのかみ》|様《さま》が|高国別《たかくにわけ》と|御名乗《おなの》り|遊《あそ》ばし、|表向《おもてむき》は|高山彦《たかやまひこ》と|呼《よ》ばれて|御座《ござ》るのですから、あなたの|御主人《ごしゆじん》とは|全《まつた》く|同名異人《どうめいいじん》ですよ』
|黒姫《くろひめ》は|其《その》|絵像《ゑざう》をジツクリと|眺《なが》め、
『いかにも|違《ちが》つてゐる。……ヤア|愛子姫《あいこひめ》|様《さま》、えらい|御無礼《ごぶれい》な|事《こと》を|申上《まをしあ》げました。どうぞはしたない|女《をんな》と|思召《おぼしめ》さず、|神直日《かむなほひ》に|見直《なほ》し|聞直《ききなほ》して|下《くだ》さいませ』
『ハイ|有難《ありがた》う、|御諒解《ごりやうかい》さへゆきましたら、こんな|嬉《うれ》しい|事《こと》は|御座《ござ》いませぬ。どうぞ|御緩《ごゆる》りと|御泊《おとま》り|遊《あそ》ばして、|神様《かみさま》の|御話《おはなし》を|聞《き》かして|下《くだ》さいませ』
『|愛子姫《あいこひめ》|様《さま》、|黒姫《くろひめ》|様《さま》は|別《べつ》に|悪《わる》い|心《こころ》で|仰有《おつしや》つたのぢや|御座《ござ》いませぬ。|余《あま》り|一心《いつしん》に|当家《たうけ》の|御主人《ごしゆじん》を|自分《じぶん》の|夫《をつと》と|思《おも》ひつめ、はるばるお|出《い》でになつたものですから、|逆上《ぎやくじやう》|遊《あそ》ばすのも|無理《むり》は|御座《ござ》いませぬから、どうぞ|悪《わる》く|思《おも》はないやうにして|下《くだ》さいませ』
『ハイ|有難《ありがた》う|御座《ござ》います』
と|云《い》つた|限《き》り、|疑《うたがひ》のはれた|嬉《うれ》しさに|愛子姫《あいこひめ》が|歔《すす》り|泣《な》きの|声《こゑ》さへ|聞《きこ》ゆる。
『アヽ|私《わたし》|位《ぐらゐ》|因果《いんぐわ》な|者《もの》が|世《よ》にあらうか。|遥々《はるばる》|夫《をつと》の|後《あと》を|慕《した》うて|来《き》て|見《み》れば、|人違《ひとちが》ひ、|捨《す》てた|吾《わが》|子《こ》ではあるまいかと、はるばる|建日《たけひ》の|館《やかた》へ|行《い》つて|見《み》れば、|之《これ》も|亦《また》|人違《ひとちが》ひ、どうしてこれ|程《ほど》する|事《こと》なす|事《こと》が|食《く》ひ|違《ちが》ふのだらうか。|之《これ》もヤツパリ|前生《ぜんしやう》の|罪《つみ》、|否々《いやいや》|神様《かみさま》から|賜《たま》はつた|伜《せがれ》を、|若気《わかげ》の|勢《いきほひ》で|捨《す》てた|天罰《てんばつ》が|酬《むく》うて|来《き》たのだらう……アヽ|神《かみ》さま、どうぞ|許《ゆる》して|下《くだ》さいませ。さうして|夫《をつと》の|所在《ありか》の|分《わか》りました|以上《いじやう》は|厚《あつ》かましく|御座《ござ》いますが、どうぞ|伜《せがれ》の|所在《ありか》を|知《し》らして|下《くだ》さいませ。|一度《いちど》|伜《せがれ》に|会《あ》はなくては|死《し》ぬ|事《こと》も|出来《でき》ませぬ。あゝ|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》』
と|神前《しんぜん》に|向《むか》ひ|手《て》を|合《あは》せ、|涙《なみだ》|乍《なが》らに|祈願《きぐわん》する。|玉治別《たまはるわけ》は|首《くび》を|傾《かたむ》け|乍《なが》ら、
『モシ|黒姫《くろひめ》さま、|今《いま》|始《はじ》めて|承《うけたま》はりましたが、|貴女《あなた》にはお|子《こ》さまがあつたのですか。そして|其《その》|子《こ》はいつお|捨《す》てになりましたか。|実《じつ》は|私《わたし》も|捨子《すてこ》で|御座《ござ》いますが、|未《いま》だに|両親《りやうしん》が|分《わか》りませぬので、|日夜《にちや》|神《かみ》さまに|祈《いの》り、|一目《ひとめ》なりとも|両親《りやうしん》に|会《あ》ひたいと、|今《いま》も|今《いま》とて|憂《うれ》ひに|沈《しづ》んで|居《を》つた|所《ところ》で|御座《ござ》います』
『|何《なに》、|玉治別《たまはるわけ》さま、お|前《まへ》も|捨子《すてご》ですか、そりや|初耳《はつみみ》だ。|丁度《ちやうど》|私《わたし》の|子《こ》が|今《いま》|生《い》きて|居《を》つたならば|三十五歳《さんじふごさい》になつてる|筈《はず》だ。お|前《まへ》の|年《とし》は|幾《いく》つだつたかなア』
『ハイ、|当年《たうねん》|三十五歳《さんじふごさい》になりました』
『|何《なに》|三十五歳《さんじふごさい》! そりや|又《また》|不思議《ふしぎ》な|事《こと》もあるものだ。|併《しか》し|私《わたし》の|捨《す》てた|子《こ》には、|背中《せなか》の|正中《まんなか》に|富士《ふじ》の|山《やま》の|形《かたち》が、|白《しろ》い|痣《あざ》で|出《で》て|居《を》つた|筈《はず》だ。これは|全《まつた》く|木花咲耶姫《このはなさくやひめ》さまの|因縁《いんねん》のある|子供《こども》だからといつて|富士咲《ふじさく》といふ|名《な》をつけておいたのだが、|余《あま》り|世間《せけん》が|喧《やか》ましいので、|守《まも》り|袋《ぶくろ》に|富士咲《ふじさく》と|名《な》を|書《か》きしるし|四辻《よつつじ》にすてました。|思《おも》へば|思《おも》へば|可哀相《かはいさう》なことをしました』
と|泣《な》き|沈《しづ》む。
『|何《なん》と|仰有《おつしや》います。|其《その》|捨子《すてご》は|富士咲《ふじさく》と|申《まを》しましたか、そして|背中《せなか》に|富士《ふじ》の|山《やま》の|形《かたち》の|白《しろ》い|痣《あざ》があるとは|合点《がてん》のゆかぬ|御言葉《おことば》、|一寸《ちよつと》|失礼《しつれい》ですが、|黒姫《くろひめ》さま、|私《わたくし》の|背中《せなか》を|見《み》て|下《くだ》さいませぬか。|私《わたくし》の|小《ちひ》さい|時《とき》は|富士咲《ふじさく》と|申《まを》しました。そして|人《ひと》の|話《はなし》によると、|何《なん》だか|山《やま》のやうな|痣《あざ》が|出来《でき》て|居《を》るさうです』
『それは|又《また》|耳《みみ》よりの|話《はなし》だ。|一寸《ちよつと》|見《み》せて|御覧《ごらん》!』
「ハイ」と|答《こた》へて|玉治別《たまはるわけ》は|肌《はだ》をぬぎ|背《せな》をつき|出《だ》す、|黒姫《くろひめ》は|念入《ねんい》りにすかして|見《み》て、
『ヤアてつきり|富士《ふじ》の|山《やま》の|痣《あざ》、そしてお|前《まへ》の|幼名《えうめい》が|富士咲《ふじさく》と|聞《き》く|上《うへ》は、|全《まつた》く|私《わたし》の|伜《せがれ》だつたか。アヽ|知《し》らなんだ|知《し》らなんだ、|神《かみ》さま、|有難《ありがた》う|御座《ござ》います。|因縁者《いんねんもの》の|寄合《よりあひ》で|珍《めづ》らしい|事《こと》が|出来《でき》るぞよと|大神《おほかみ》さまが|仰有《おつしや》つたが、いかにも|因縁者《いんねんもの》の|寄合《よりあひ》だなア』
と|嬉《うれ》し|涙《なみだ》にかきくれる。
『そんなら|貴女《あなた》|私《わたくし》の|母上《ははうへ》で|御座《ござ》いましたか。|存《ぞん》ぜぬ|事《こと》とて、|何時《いつ》とても|御無礼《ごぶれい》を|致《いた》しました。どうぞお|母《かあ》さま|御赦《おゆる》し|下《くだ》さいませ。あゝ|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》』
と|両手《りやうて》を|合《あは》せ、|嬉《うれ》し|涙《なみだ》にかきくれる。
これより|黒姫《くろひめ》は|愛子姫《あいこひめ》に|厚《あつ》く|礼《れい》を|述《の》べ、|無礼《ぶれい》を|謝《しや》し|且《か》つ|徳公《とくこう》、|久公《きうこう》にも|其《その》|労《らう》を|謝《しや》し|別《わか》れを|告《つ》げ、いそいそとして|玉治別《たまはるわけ》、|孫公《まごこう》、|房公《ふさこう》、|芳公《よしこう》と|共《とも》に|再《ふたた》び|建日《たけひ》の|港《みなと》より|船《ふね》を|漕《こ》ぎ|出《だ》し、|由良《ゆら》の|港《みなと》の|秋山彦《あきやまひこ》が|館《やかた》に|立寄《たちよ》り、|麻邇宝珠《まにほつしゆ》の|神業《しんげふ》に|参加《さんか》し、|目出度《めでた》く|聖地《せいち》に|帰《かへ》る|事《こと》となりたるは、|三十三巻《さんじふさんくわん》の|物語《ものがたり》に|明《あきら》かな|所《ところ》であります。|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》。
かく|述《の》べ|終《をは》られた|時《とき》しも|正《まさ》に|午後《ごご》|六時《ろくじ》、|表《おもて》に|出《で》て|天空《てんくう》を|見《み》れば、ドンヨリと|曇《くも》つた|大空《おほぞら》を|南北《なんぽく》に|区劃《くくわく》した|青雲《あをぐも》|巾《はば》|二三間《にさんげん》と|見《み》ゆるもの、|東《ひがし》の|山《やま》の|端《は》より|西《にし》の|空《そら》|遠《とほ》く、|輪廓《りんくわく》|正《ただ》しく|帯《おび》の|如《ごと》く|銀河《ぎんが》の|如《ごと》く|横《よこ》たはりつつありました。
(大正一一・九・一七 旧七・二六 松村真澄録)
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霊界物語 第三五巻 海洋万里 戌の巻
終り