霊界物語 第三四巻 海洋万里 酉の巻
出口王仁三郎
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●テキスト中に現れる記号について
《》……ルビ
|……ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)天地|剖判《ぼうはん》の
[#]……入力者注
【】……傍点が振られている文字列
(例)【ヒ】は火なり
●シフトJISコードに無い文字は他の文字に置き換え、そのことをWebサイトに「相違点」として記した。
●底本
『霊界物語 第三四巻』愛善世界社
2000(平成12)年04月02日 第一刷発行
※現代では差別的表現と見なされる箇所もあるが修正はせずにすべて底本通りにした。
※図表などのレイアウトは完全に再現できるわけではないので適宜変更した。
※詳細な凡例は次のウェブサイト内に掲載してある。
http://www.onisavulo.jp/
※作成者…『王仁三郎ドット・ジェイピー』
2005年12月23日作成
2008年06月23日修正
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●目次
|序文《じよぶん》
|総説《そうせつ》
第一篇 |筑紫《つくし》の|不知火《しらぬひ》
第一章 |筑紫上陸《つくしじやうりく》〔九四二〕
第二章 |孫甦《まごこう》〔九四三〕
第三章 |障文句《さはりもんく》〔九四四〕
第四章 |歌垣《うたがき》〔九五四〕
第五章 |対歌《たいか》〔九四六〕
第六章 |蜂《はち》の|巣《す》〔九四七〕
第七章 |無花果《いちじゆく》〔九四八〕
第八章 |暴風雨《ばうふうう》〔九四九〕
第二篇 |有情無情《うじやうむじやう》
第九章 |玉《たま》の|黒点《こくてん》〔九五〇〕
第一〇章 |空縁《からえん》〔九五一〕
第一一章 |富士咲《ふじさく》〔九五二〕
第一二章 |漆山《うるしやま》〔九五三〕
第一三章 |行進歌《かうしんか》〔九五四〕
第一四章 |落胆《らくたん》〔九五五〕
第一五章 |手長猿《てながざる》〔九五六〕
第一六章 |楽天主義《らくてんしゆぎ》〔九五七〕
第三篇 |峠《たうげ》の|達引《たてひき》
第一七章 |向日峠《むかふたうげ》〔九五八〕
第一八章 |三人塚《さんにんづか》〔九五九〕
第一九章 |生命《いのち》の|親《おや》〔九六〇〕
第二〇章 |玉卜《たまうらなひ》〔九六一〕
第二一章 |神護《しんご》〔九六二〕
第二二章 |蛙《かはづ》の|口《くち》〔九六三〕
第二三章 |動静《どうせい》〔九六四〕
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|序文《じよぶん》
|八月《はちぐわつ》|廿九日《にじふくにち》、|伊豆国《いづのくに》|湯ケ島温泉《ゆがしまおんせん》にて|第三十三巻《だいさんじふさんくわん》の|口述《こうじゆつ》を|終《をは》りてより、|口述者《こうじゆつしや》の|誕生祝《たんじやういはひ》の|神劇《しんげき》の|監督《かんとく》を|初《はじ》め、|家屋《かをく》の|建替《たてかへ》や|建直《たてなほ》しの|相談《さうだん》|等《とう》に|色々《いろいろ》|手間取《てまど》りしため、|本巻《ほんくわん》の|口述《こうじゆつ》も|思《おも》ふ|様《やう》に|行《ゆ》かず、|漸《やうや》く|本月《ほんげつ》|七日《なぬか》|亀岡《かめをか》|瑞祥閣《ずゐしやうかく》に|出張《しゆつちやう》し、|四五日《しごにち》|休養《きうやう》の|上《うへ》、|弥《いよいよ》|十二日《じふににち》より|十四日《じふよつか》まで|三日間《みつかかん》にて|神助《しんじよ》の|下《もと》に|編成《へんせい》を|告《つ》げました。|筆録者《ひつろくしや》は|松村《まつむら》|真澄《まさずみ》、|北村《きたむら》|隆光《たかてる》、|加藤《かとう》|明子《はるこ》の|三人《さんにん》、|残暑《ざんしよ》を|忍《しの》び|乍《なが》ら|四人《よにん》は|机《つくゑ》に|相対《あひたい》して、|筑紫《つくし》の|島《しま》|即《すなは》ち|亜弗利加国《アフリカこく》へ|三五教《あななひけう》の|黒姫《くろひめ》が|三人《さんにん》の|従者《じゆうしや》と|共《とも》に|渡《わた》り、|奇妙《きめう》な|運命《うんめい》を|辿《たど》るといふ|霊界《れいかい》の|因縁《いんねん》|物語《ものがたり》を|大略《たいりやく》|識《しる》した|面白《おもしろ》きものであります。
大正十一年九月十四日(午後五時)
|総説《そうせつ》
|本巻《ほんくわん》は|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》|黒姫《くろひめ》と|云《い》ふ|勇健《ゆうけん》なる|婦人《ふじん》が|孫公《まごこう》、|房公《ふさこう》、|芳公《よしこう》の|三人《さんにん》の|従者《じゆうしや》を|引連《ひきつ》れ、|淤能碁呂島《おのころじま》の|聖地《せいち》を|立出《たちい》で、|日本海《にほんかい》から|太平洋《たいへいやう》に|出《い》で、|一年《いちねん》|有余《いうよ》の|日子《につし》を|費《つひ》やして|亜弗利加《アフリカ》の|建日《たけひ》の|港《みなと》に|安着《あんちやく》し、それより|小島別《こじまわけ》の|旧蹟《きうせき》なる|岩窟《がんくつ》に|立寄《たちよ》り、|高山峠《たかやまたうげ》を|越《こ》え、|建日《たけひ》の|館《やかた》に|立寄《たちよ》りて|新教主《しんけうしゆ》に|面会《めんくわい》し、|次《つぎ》に|向日峠《むかふたうげ》の|麓《ふもと》の|森林《しんりん》に|於《おい》て、|三人《さんにん》の|男女《だんぢよ》の|生命《いのち》を|救《すく》ひ、|火《ひ》の|国《くに》の|神館《かむやかた》に|進《すす》み|行《ゆ》く|面白《おもしろ》き|趣味《しゆみ》|深《ふか》き|修養的《しうやうてき》|物語《ものがたり》であります。|文中《ぶんちう》、|楽天主義《らくてんしゆぎ》の|真髄《しんずゐ》が|極《きは》めて|簡明《かんめい》に|説《と》いてあります。|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》。
大正十一年九月十四日 於瑞祥閣
第一篇 |筑紫《つくし》の|不知火《しらぬひ》
第一章 |筑紫上陸《つくしじやうりく》〔九四二〕
|黄金《こがね》の|玉《たま》の|所在《ありか》をば  |捜《さが》して|四方《よも》を|彷徨《さまよ》ひし
|三五教《あななひけう》の|黒姫《くろひめ》は  |玉《たま》に|対《たい》する|執着《しふちやく》を
|漸《やうや》く|払《はら》ひ|自転倒《おのころ》の  |神《かみ》の|御国《みくに》の|中心地《ちうしんち》
|綾《あや》の|聖地《せいち》に|立帰《たちかへ》り  |暫《しばら》く|吾《わが》|家《や》に|潜《ひそ》みつつ
|麻邇《まに》の|宝珠《ほつしゆ》の|間違《まちが》ひに  |二世《にせ》を|契《ちぎ》りし|吾《わが》|夫《つま》の
|高山彦《たかやまひこ》と|衝突《しようとつ》し  |離縁《りえん》|騒《さわ》ぎが|持上《もちあ》がり
|高山彦《たかやまひこ》は|聖地《せいち》より  |筑紫《つくし》の|島《しま》へ|行《ゆ》かむとて
|執念深《しふねんぶか》く|付《つ》きまとふ  |妻《つま》|黒姫《くろひめ》を|振棄《ふりす》てて
ドロンと|姿《すがた》を|隠《かく》しける  |恋《こひ》しき|夫《つま》に|捨《す》てられし
|黒姫《くろひめ》|今《いま》は|矢《や》も|楯《たて》も  |堪《たま》らぬ|様《やう》になり|果《は》てて
|玉《たま》の|捜索《そうさく》|第二《だいに》とし  |夫《つま》の|所在《ありか》を|探《さぐ》らむと
|皺苦茶《しわくちや》だらけの|中婆《ちうばば》が  |心猿意馬《しんゑんいば》に|煽《あふ》られて
|万里《ばんり》の|波濤《はたう》を|打渡《うちわた》り  |心《こころ》を|尽《つく》し|身《み》を|尽《つく》し
|命《いのち》の|限《かぎ》り|筑紫潟《つくしがた》  |行方《ゆくへ》は|確《たしか》に|不知火《しらぬひ》の
|海《うみ》の|底《そこ》|迄《まで》|探《さぐ》らむと  |孫《まご》、|房《ふさ》、|芳《よし》の|三人《さんにん》を
|伴《とも》に|従《したが》へ|由良《ゆら》の|海《うみ》  |真帆《まほ》を|孕《はら》みて|漕《こ》ぎ|出《いだ》す
|日本海《につぽんかい》をかけ|離《はな》れ  |太平洋《たいへいやう》を|横切《よこぎ》りて
|竜宮島《りうぐうじま》の|沖《おき》を|越《こ》え  |印度《インド》の|洋《うみ》を|右《みぎ》に|見《み》て
|筑紫《つくし》の|島《しま》の|東岸《とうがん》に  |漸《やうや》く|渡《わた》り|着《つ》きにけり。
|此処《ここ》は|建日《たけひ》の|港《みなと》と|言《い》ひ、|其《その》|昔《むかし》|日《ひ》の|出神《でのかみ》、|面那芸司《つらなぎのかみ》、|祝姫司《はふりひめのかみ》の|宣伝使《せんでんし》が|上陸《じやうりく》された|由緒《ゆいしよ》|深《ふか》き|港《みなと》なりけり。
|黒姫《くろひめ》は|三人《さんにん》の|従者《じゆうしや》と|共《とも》に|麻邇《まに》の|玉《たま》の|所在《ありか》や、|黄金《こがね》の|玉《たま》の|所在《ありか》を|捜索《そうさく》すると|云《い》ふは、|只《ただ》|単《たん》に|表面《へうめん》の|理由《りいう》であつて、|其《その》|実《じつ》|玉《たま》に|対《たい》しては、|既《すで》に|執着心《しふちやくしん》を|殆《ほとん》ど|脱却《だつきやく》してゐたのである。|只《ただ》|高山彦《たかやまひこ》に|衆人《しうじん》|環視《くわんし》の|前《まへ》にて|夫婦《ふうふ》の|縁《えん》を|切《き》られ、|其《その》|恥《はぢ》を|雪《すす》がむとする|一念《いちねん》と、|高山彦《たかやまひこ》に|対《たい》する|未練《みれん》とが|一《ひと》つになりて、|心猿意馬《しんゑんいば》は|忽《たちま》ち|頭《かしら》を|擡《もた》げ、|此《この》|老躯《らうく》を|駆《か》つて、|結構《けつこう》な|聖地《せいち》を|後《あと》に、|再《ふたた》び|斯《か》かる|野蛮国《やばんこく》へ|連《つ》れられて|来《こ》られたのである。|黒姫《くろひめ》は|高山彦《たかやまひこ》が|仮令《たとへ》|大蛇《をろち》に|還元《くわんげん》しようが、|鬼《おに》にならうが、|又《また》は|石《いし》の|唐櫃《からひつ》に|隠《かく》れて|居《を》らうが、|女《をんな》の|意地《いぢ》、どうしても|一度《いちど》|面会《めんくわい》して、|心《こころ》に|堆《うづだか》く|積《つも》れる|鬱憤《うつぷん》の|塵《ちり》を|晴《は》らし、|都合《つがふ》|好《よ》くば、|再《ふたた》び|旧交《きうかう》を|温《あたた》め、|夫婦《ふうふ》となり、|手《て》に|手《て》を|取《と》つて|聖地《せいち》に|帰《かへ》り、|高姫《たかひめ》|其《その》|他《た》の|面々《めんめん》に、|自分《じぶん》の|意地《いぢ》は|此《この》|通《とほ》りと|見《み》せてやらねば、|今《いま》|迄《まで》|尽《つく》して|来《き》た|尽力《じんりよく》が|無《む》になる。|自分《じぶん》の|面目玉《めんぼくだま》は|丸潰《まるつぶ》れである……と|妙《めう》な|所《ところ》へ|脱線《だつせん》して、|恋《こひ》と|云《い》ふ|悪魔《あくま》に|取《とり》ひしがれ、|殆《ほとん》ど|半狂乱《はんきやうらん》の|如《ごと》く、|目《め》は|釣上《つりあが》り、|頬《ほほ》は|痩《やせ》こけ、|顔色《がんしよく》|青《あを》ざめ、|実《じつ》に|物凄《ものすご》い|面相《めんさう》になつて|居《ゐ》た。
|孫《まご》、|房《ふさ》、|芳《よし》の|三人《さんにん》は、|黒姫《くろひめ》に|色々《いろいろ》と|甘言《かんげん》を|以《もつ》て|操《あやつ》られ、ここ|迄《まで》|従《つ》いては|来《き》たものの|別《べつ》に|宣伝《せんでん》の|目的《もくてき》もなければ|何《なん》の|楽《たのし》みもない、|只《ただ》|一日《ひとひ》も|早《はや》く|高山彦《たかやまひこ》の|所在《ありか》を|探《たづ》ねて、|黒姫《くろひめ》と|共《とも》に|自転倒島《おのころじま》へ|帰《かへ》りたいのが|胸一杯《むねいつぱい》であつた。|黒姫《くろひめ》も|亦《また》|宣伝使《せんでんし》の|身《み》であり|乍《なが》ら|高山彦《たかやまひこ》の|捜索《そうさく》に|心魂《しんこん》を|奪《うば》はれ、|只《ただ》|一日《ひとひ》も|早《はや》く|夫《つま》に|会《あ》はせ|給《たま》へと、|朝夕《あさゆふ》|祈願《きぐわん》するのみで、|道《みち》を|宣伝《せんでん》すると|云《い》ふ|其《その》|使命《しめい》は|殆《ほとん》ど|忘却《ばうきやく》して|居《ゐ》た。|老婆《らうば》の|恋《こひ》に|狂《くる》うた|位《くらゐ》|始末《しまつ》に|了《を》へぬものはない。|黒姫《くろひめ》が|此《この》|建日《たけひ》の|港《みなと》に|着《つ》く|迄《まで》には|幾度《いくど》となくあちらの|島《しま》へ|寄《よ》り、|此方《こちら》の|島《しま》へ|寄《よ》り、|厳《きび》しい|捜索《そうさく》をやつて|居《ゐ》た|為《ため》、|余程《よほど》|日子《につし》を|費《つひ》やしてゐる。|殆《ほとん》ど|一年《いちねん》|許《ばか》り|掛《かか》つた。
さうして|船《ふね》は|二三回《にさんくわい》|難破《なんぱ》し、|便宜《べんぎ》の|方法《はうはふ》にて|舟《ふね》を|買《か》つたり、|拾《ひろ》つたりし|乍《なが》ら、|漸《やうや》くここへ|辿《たど》り|着《つ》いたのである。|其《その》|間《あひだ》には|随分《ずゐぶん》|背中《せなか》に|腹《はら》の|替《か》へられないやうな|憂目《うきめ》に|遭《あ》ひ|天則違反的《てんそくゐはんてき》|行動《かうどう》をも|続《つづ》け、|島《しま》に|繋《つな》ぎありし、|何人《なにびと》かの|舟《ふね》をソツと|失敬《しつけい》して、|乗《の》つて|来《き》た|事《こと》もあるのであつた。
|三人《さんにん》の|従者《じゆうしや》は|黒姫《くろひめ》に|随従《ずゐじゆう》して|却《かへつ》て|宣伝使《せんでんし》として|数多《あまた》の|黒姫《くろひめ》の|矛盾《むじゆん》を|目撃《もくげき》してゐるので、|聖地《せいち》を|出《で》た|時《とき》の|黒姫《くろひめ》に|対《たい》する|信用《しんよう》と、|今《いま》の|黒姫《くろひめ》に|対《たい》する|態度《たいど》とは、ガラツと|変《かは》つてゐる。|黒姫《くろひめ》は|要《えう》するに|口《くち》|計《ばか》りの|人間《にんげん》で、|行《おこな》ひの|伴《ともな》はざる|執念深《しふねんぶか》き|悪垂《あくた》れ|婆《ばば》アと|云《い》ふ|観念《かんねん》が、|三人《さんにん》の|胸《むね》に|期《き》せずして|兆《きざ》してゐる。それ|故《ゆゑ》|日《ひ》を|逐《お》うて|黒姫《くろひめ》を|軽蔑《けいべつ》し、|今《いま》は|容易《ようい》に|黒姫《くろひめ》の|命令《めいれい》に|服《ふく》しない|様《やう》になつて|居《ゐ》る。のみならず|却《かへつ》て|事《こと》に|触《ふ》れ|物《もの》に|接《せつ》し、からかつて|見《み》ては、|黒姫《くろひめ》が|喜怒哀楽《きどあいらく》、|愛悪慾《あいおよく》の|面部《めんぶ》の|色《いろ》に|現《あら》はるるを|見《み》て、せめてもの|旅《たび》の|慰《なぐさ》みとしてゐた|位《くらゐ》である。|併《しか》し|乍《なが》ら|乗《の》り|掛《か》けた|舟《ふね》、|途中《とちう》に|引返《ひきかへ》す|訳《わけ》にも|行《ゆ》かず、|幾分《いくぶん》か|神様《かみさま》の|教《をしへ》が|三人《さんにん》|共《とも》|腹《はら》に|浸《し》み|渡《わた》つてゐるお|蔭《かげ》で、|太平洋《たいへいやう》の|真《ま》ん|中《なか》へ|出《で》た|時分《じぶん》から、|三人《さんにん》はヒソビソと|囁《ささや》き|合《あ》ひ、|一層《いつそう》の|事《こと》|黒姫《くろひめ》を|海《うみ》の|中《なか》へ|放《ほう》り|込《こ》んで、|素知《そし》らぬ|顔《かほ》で|自転倒島《おのころじま》へ|帰《かへ》らうかと|迄《まで》、|孫公《まごこう》が|発起《ほつき》で|相談《さうだん》した|事《こと》もあつた。されどそんな|無茶《むちや》な|事《こと》をすれば、|忽《たちま》ち|天則違反《てんそくゐはん》の|大罪《だいざい》を|重《かさ》ね、|如何《いか》なる|厳罰《げんばつ》に|神界《しんかい》から|処《しよ》せらるるやも|計《はか》り|難《がた》しと、|直日《なほひ》の|魂《たま》の|閃《ひらめ》きに|見直《みなほ》し|宣《の》り|直《なほ》し、|厭々《いやいや》|乍《なが》ら、|万里《ばんり》の|波濤《はたう》を|艱難辛苦《かんなんしんく》してここ|迄《まで》|従《つ》いて|来《き》たのである。
|黒姫《くろひめ》|一行《いつかう》は|舟《ふね》を|乗《の》りすて、|建日《たけひ》の|港《みなと》に|上陸《じやうりく》し、|激潭飛沫《げきたんひまつ》の|渓流《けいりう》を|遡《さかのぼ》り、|四方《よも》の|風景《ふうけい》を|眺《なが》め|乍《なが》ら、|草《くさ》を|分《わ》けて|細《ほそ》き|谷道《たにみち》を|登《のぼ》つて|行《ゆ》く。|比較的《ひかくてき》|人通《ひとどほ》りが|多《おほ》いと|見《み》えて、|羊腸《やうちやう》の|小径《こみち》が|九十九折《つくもをり》に|白《しろ》く|光《ひか》つて|居《ゐ》る。
|孫公《まごこう》『|黒姫《くろひめ》さまのお|蔭《かげ》で、|思《おも》はぬ|絶景《ぜつけい》を|見《み》せて|貰《もら》ひました。|際限《さいげん》もなき|海原《うなばら》を|日《ひ》に|照《て》りつけられ、|汐風《しほかぜ》に|晒《さ》らされ、|雨《あめ》に|当《あ》てられ、|丸《まる》で|渋紙《しぶがみ》さまの|様《やう》になつて|了《しま》つた。|黒姫《くろひめ》さまは|元《もと》から|烏《からす》の|様《やう》な|御方《おかた》だから、|余《あま》り|目立《めだ》たぬが、|俺達《おれたち》は|自転倒島《おのころじま》へ|帰《かへ》つて、|宅《うち》のお|安《やす》に|此《この》|面《つら》を|見《み》せようものなら、どれ|丈《だけ》|悔《くや》むであらう。それを|思《おも》へば|残念《ざんねん》で|堪《たま》らぬワイ。|是《これ》と|云《い》ふも、|元《もと》を|糺《ただ》せば|黒姫《くろひめ》さまが、|余《あま》りハズバンドに|魂《たま》を|抜《ぬ》かれて|居《を》るものだから、こんな|結果《けつくわ》になつて|了《しま》つたのだ……なア|芳公《よしこう》、|房公《ふさこう》、お|前《まへ》の|顔《かほ》も|随分《ずゐぶん》|黒《くろ》くなつたよ。|貴様《きさま》とこのお|滝《たき》やお|鉄《てつ》が、さぞ|悔《くや》む|事《こと》だらう。|今《いま》から|思《おも》ひやられて、|可哀相《かはいさう》なワイ』
|芳公《よしこう》『ナアニ、|俺《おれ》ン|所《とこ》のお|滝《たき》も|房公《ふさこう》ンと|此《この》お|鉄《てつ》も、|元《もと》より|覚悟《かくご》して|居《ゐ》る|筈《はず》だ。お|滝《たき》の|奴《やつ》、|俺《おれ》の|出《で》る|時《とき》に、|名残《なごり》|惜《をし》さうに、|俺《おれ》の|背中《せなか》をポンと|叩《たた》きやがつて……コレコレこちの|人《ひと》、お|前《まへ》さまは|黒姫《くろひめ》さまのお|伴《とも》に|行《ゆ》くのだから、|顔《かほ》の|色《いろ》|迄《まで》|黒姫《くろひめ》さまの|感化《かんくわ》を|受《う》けて|来《こ》なあきませぬぞえ。|心《こころ》の|中《なか》|迄《まで》|黒《くろ》うなつて|来《き》なさいと|吐《ほざ》きやがつた。けれど|俺《おれ》は|心《こころ》の|中《なか》|丈《だけ》は|真平御免《まつぴらごめん》だ。アハヽヽヽ』
|孫公《まごこう》『|心《こころ》の|中《なか》|迄《まで》|貴様《きさま》の|嬶《かか》が、|黒姫《くろひめ》さまのやうに|黒《くろ》くなつて|来《こ》いと|云《い》うたのは|一《ひと》つの|謎《なぞ》だよ。|貴様《きさま》は|何時《いつ》も|箸《はし》まめな|奴《やつ》だから、|朝《あさ》から|晩《ばん》|迄《まで》お|滝《たき》と|二人《ふたり》が、|犬《いぬ》も|喰《く》はぬ|悋気《りんき》|喧嘩《げんくわ》|計《ばか》りやつて、|生疵《なまきず》の|絶間《たえま》なし、|近所合壁《きんじよがつぺき》に|迷惑《めいわく》をかけた|代物《しろもの》だ。それだから|黒姫《くろひめ》さまが|高山彦《たかやまひこ》を|慕《した》ふ|様《やう》に、|此《この》お|滝《たき》に|一心《いつしん》になれ、さうしてお|滝《たき》の|為《ため》には|仮令《たとへ》|千里《せんり》|万里《ばんり》の|山坂《やまさか》を|越《こ》えても、|敢《あへ》て|厭《いと》はぬと|云《い》ふ|熱心《ねつしん》な|情《なさけ》の|深《ふか》い|男《をとこ》になつて|来《き》なさい、|黒姫《くろひめ》さまの|貞節《ていせつ》を|学《まな》んで、それを|妾《わたし》にソツクリ|其《その》|儘《まま》|行《おこな》うて|呉《く》れ……と|云《い》ふ|虫《むし》の|好《よ》い|謎《なぞ》だ。|貴様《きさま》の|嬶《かか》アも|中々《なかなか》|行手《やりて》だ。|余程《よほど》|貴様《きさま》とは|智慧《ちゑ》が|優《すぐ》れて|居《ゐ》るワイ。アハヽヽヽ』
|芳公《よしこう》『|俺《おれ》やモウそんな|事《こと》を|聞《き》くと、|女房《にようばう》が|恋《こひ》しうなつて|来《き》た。|翼《つばさ》でもあれば、|此《この》|儘《まま》|翔《た》つて|帰《かへ》りたいのだがなア』
|孫公《まごこう》『|何《なん》と|云《い》つても|斯《こ》うなりや、モウ|仕方《しかた》がない。|黒姫《くろひめ》|泥棒《どろばう》の|乾児《こぶん》になつたやうなものだから、|毒《どく》を|喰《く》はば|皿《さら》まで|舐《ねぶ》れだ。|兎《と》も|角《かく》|高山彦《たかやまひこ》のハズバンドに|出会《で》あうて、ヤイノヤイノの|乱痴気《らんちき》|騒《さわ》ぎを|一幕《ひとまく》か|二幕《ふたまく》|見《み》せて|貰《もら》ひ、|其《その》|後《あと》には|吾々《われわれ》が|居中調停《きよちうてうてい》の|労《らう》を|執《と》り、|夫婦《ふうふ》が|機会《きくわい》|均等《きんとう》|主義《しゆぎ》を|発揮《はつき》して、|目出《めで》たく|自転倒島《おのころじま》へ|凱旋《がいせん》|遊《あそ》ばす|迄《まで》は、|離《はな》れる|事《こと》は|出来《でき》ない|因縁《いんねん》がまつはつてゐるのだ。|今《いま》ヤツと|建日《たけひ》の|港《みなと》へ|着《つ》いた|許《ばか》りだ。|今頃《いまごろ》に|望郷《ばうきやう》の|念《ねん》に|駆《か》られては|駄目《だめ》だぞ。|自転倒島《おのころじま》の|人間《にんげん》は|何時《いつ》も|望郷心《ばうきやうしん》が|強《つよ》いから|大事業《だいじげふ》は|到底《たうてい》|成功《せいこう》|出来《でき》ないのだ。|斯《こ》うなつた|以上《いじやう》は、|嬶《かか》の|一人《ひとり》や|二人《ふたり》|何《ど》うでも|好《よ》いぢやないか。|都合《つがふ》が|好《よ》ければ|此《この》|筑紫島《つくしじま》に|永住《ゑいぢう》して|大事業《だいじげふ》を|起《おこ》し、|一生《いつしやう》|自転倒島《おのころじま》へは|帰《かへ》らないと|云《い》ふ|決心《けつしん》が|肝腎《かんじん》だ』
|芳公《よしこう》『お|前《まへ》は|女房《にようばう》のお|安《やす》を、|始《はじ》めから|嫌《きら》つて|居《ゐ》るのだから、|自転倒島《おのころじま》に|未練《みれん》はなからう。|俺《おれ》はあれ|丈《だけ》|親切《しんせつ》な、|惚切《ほれき》つた|女房《にようばう》が、|膝坊主《ひざばうず》を|抱《だ》いて|俺《おれ》の|帰《かへ》るのを、|今《いま》か|今《いま》かと|神様《かみさま》に|願《ぐわん》かけて|待《ま》つてるのだから、そんな|無情《むじやう》な|事《こと》は|出来《でき》ない。|一日《いちにち》も|早《はや》く|帰《かへ》つて、|女房《にようばう》の|喜《よろこ》ぶ|顔《かほ》を|見《み》るのが|俺《おれ》の|唯一《ゆゐいつ》の|楽《たのし》みだ。|世《よ》の|中《なか》に|夫婦《ふうふ》|位《くらゐ》|大切《たいせつ》なものはない。|何程《なにほど》こんな|所《ところ》で|成功《せいこう》をしたと|云《い》つても、|女房子《にようばうこ》と|一生《いつしやう》あはれぬやうな|所《ところ》で、|何《なに》が|面白《おもしろ》い』
|孫公《まごこう》『アハヽヽヽ、|毎日《まいにち》|日日《ひにち》あれ|丈《だけ》|憎《にく》|相《さう》に|云《い》うて|喧嘩《けんくわ》をし|乍《なが》ら、|矢張《やつぱり》あんなやん|茶嬶《ちやかか》が|恋《こひ》しいのか。|恋《こひ》といふものは|分《わか》らぬものだなア』
|房公《ふさこう》『ソリヤ|其《その》|筈《はず》だ。|黒姫《くろひめ》さまでさへも、|云《い》うと|済《す》まぬが、|夕日《ゆふひ》の|影干《かげぼ》しのやうな|無恰好《ぶかつかう》な|禿頭《はげあたま》の|爺《おやぢ》を、こんな|所《ところ》|迄《まで》はるばる|尋《たづ》ねて|来《き》やつしやるのだもの、|夫《をつと》が|女房《にようばう》を|慕《した》ふのは|当然《あたりまへ》だ。|俺《おれ》ン|所《とこ》のお|鉄《てつ》でもそれはそれは|親切《しんせつ》なものだよ。|孫公《まごこう》ン|所《とこ》のお|安《やす》は、|余《あま》り|親切《しんせつ》にないのは、つまり|孫公《まごこう》が|悪《わる》いのだ。|女《をんな》と|云《い》ふものは、|男《をとこ》の|方《はう》から|親切《しんせつ》に|真心《まごころ》を|以《もつ》て|可愛《かあい》がつてやれば、どうでもなるものだ。|貴様《きさま》の|様《やう》に、|女房《にようばう》を|家《いへ》の|道具《だうぐ》だとか、|器械《きかい》だとか、|産児機《さんじき》だとか|云《い》つて、|虐待《ぎやくたい》するやうな|事《こと》では、|目《め》つかちの|女房《にようばう》だつて、|夫《をつと》を|親身《しんみ》になつて|思《おも》つては|呉《く》れないよ。チツと|黒姫《くろひめ》さまに|倣《なら》つて、お|前《まへ》も|女房《にようばう》を|大切《たいせつ》にしたら|如何《どう》だい。こんな|遠方《ゑんぱう》|迄《まで》|来《き》た|土産《みやげ》として、|女房《にようばう》に|対《たい》する|親切《しんせつ》を|益々《ますます》|濃厚《のうこう》に|持《も》ち|直《なほ》して|帰《かへ》るが、|何《なに》よりの|女房《にようばう》への|土産《みやげ》だよ……なア|黒姫《くろひめ》さま……』
と|舌《した》をニユツと|出《だ》し、|頤《あご》をつき|出《だ》して、|稍《やや》|嘲弄的《てうろうてき》に|目《め》を|注《そそ》ぐ。|黒姫《くろひめ》は|始《はじ》めて|口《くち》を|開《ひら》き、
|黒姫《くろひめ》『お|前《まへ》さま|達《たち》|三人《さんにん》は|自転倒島《おのころじま》を|出《で》た|時《とき》は、|随分《ずゐぶん》|誠実《せいじつ》な|熱心《ねつしん》な|信者《しんじや》であつた。それが|如何《どう》したものか、|一日々々《いちにちいちにち》と|誠《まこと》がうすらぎ、|遂《つひ》には|妾《わたし》に|迄《まで》、|軽侮《けいぶ》の|目《め》を|以《もつ》て|見《み》るやうになつたぢやないか。|何《なん》の|為《ため》にお|前《まへ》さまは|遥々《はるばる》と|修業《しうげふ》に|出《で》て|来《き》たのだい。これから|先《さき》は|建日別命《たけひわけのみこと》が|昔《むかし》|脂《あぶら》を|取《と》られた|筑紫峠《つくしたうげ》の|谷間《たにあひ》の|岩窟《がんくつ》があるから、|今《いま》の|中《うち》に|心《こころ》を|直《なほ》しておかぬと、|昔《むかし》の|小島別《こじまわけ》のやうに|脂《あぶら》をとられて、ヘトヘトになりますぞえ。|今《いま》の|間《うち》に|改心《かいしん》をしなされ』
|孫公《まごこう》『アハヽヽヽ|黒姫《くろひめ》さま、|改心《かいしん》する|人《ひと》は|吾々《われわれ》|三人《さんにん》|計《ばか》りですか? まだ|外《ほか》に|一人《ひとり》、|第一《だいいち》に|改心《かいしん》をせなくてはならぬ|婆《ばば》んつがある|事《こと》をお|忘《わす》れになりましたか?』
|黒姫《くろひめ》『|改心《かいしん》し|切《き》つた|者《もの》が、|何《ど》うして|改心《かいしん》する|余地《よち》がありませうか。お|前《まへ》さまは|此《この》|黒姫《くろひめ》の|行《おこな》ひを|見《み》なさつたら、|大抵《たいてい》|分《わか》るだらう』
|孫公《まごこう》『|惟神《かむながら》だ、|天《てん》の|与《あた》へだ……と|云《い》つて、|人《ひと》の|舟《ふね》を|黙《だま》つてチヨロまかし、それに|乗《の》つて|来《く》るのが|誠《まこと》ですか。あんな|事《こと》が、|改心《かいしん》し|切《き》つた|人《ひと》の|行《おこな》ひとすれば、|吾々《われわれ》よりも|泥棒《どろばう》の|方《はう》が|余程《よほど》|改心《かいしん》しとるぢやありませぬか』
|黒姫《くろひめ》『エヽ、ツベコベと|小理屈《こりくつ》を|言《い》ひなさんな。|途中《とちう》に|船《ふね》が|破《やぶ》れて、|進退《しんたい》これ|谷《きは》まつた|時《とき》に、|主《ぬし》のない|船《ふね》がそこへ|流《なが》れて|来《き》たのは、|所謂《いはゆる》|天《てん》の|与《あた》へだよ。|諺《ことわざ》にも|天《てん》の|与《あた》ふるを|取《と》らざれば、|災《わざはひ》|却《かへつ》て|身《み》に|及《およ》ぶと|云《い》ふ|事《こと》があるぢやないか。|神《かみ》は|人間《にんげん》になくてならぬものを|与《あた》へ|給《たま》ふと|云《い》ふ|聖者《せいじや》の|教《をしへ》がある。|船《ふね》|一艘《いつそう》が|大切《たいせつ》か、|吾々《われわれ》|四人《よにん》の|生命《いのち》が|大切《たいせつ》か、|能《よ》く|事《こと》の|軽重大小《けいちようだいせう》を|考《かんが》へて|御覧《ごらん》なさい。|機《き》に|臨《のぞ》み|変《へん》に|応《おう》ずるは、|即《すなは》ち|惟神《かむながら》の|大道《だいだう》だよ。こんな|事《こと》が|分《わか》らぬ|様《やう》な|事《こと》で、|能《よ》うお|前《まへ》さまも、|三五教《あななひけう》の|信者《しんじや》ぢや、|宣伝使《せんでんし》の|卵《たまご》ぢやと|云《い》つて、こんな|所《ところ》|迄《まで》|従《つ》いて|来《き》ましたな、オツホヽヽヽ』
|孫公《まごこう》『|呆《あき》れて|物《もの》が|言《い》へませぬワイ。|併《しか》し|乍《なが》ら、お|前《まへ》さまが|夫《をつと》の|為《ため》には|大切《たいせつ》な|神務《しんむ》も|忘《わす》れ、|宣伝《せんでん》を|次《つぎ》にし、あれ|程《ほど》|気違《きちがひ》のやうになつて|居《を》つた|黄金《こがね》の|玉《たま》の|事《こと》をケロリと|忘《わす》れて、|大勢《おほぜい》の|前《まへ》で|肱鉄砲《ひぢでつぱう》をかましてくれた|高山彦《たかやまひこ》さまを|慕《した》ふ|其《その》|貞節《ていせつ》には|実《じつ》に|感心《かんしん》だ。|大《おほい》に|学《まな》ぶべき|点《てん》が【オホアリ】|大根《だいこん》だ。アハヽヽヽ、オホヽヽヽ、ウツフヽヽヽ、エヘヽヽヽ、イヒヽヽヽ』
|黒姫《くろひめ》『コレ|孫公《まごこう》、お|前《まへ》は|此《この》|年老《としより》を|嘲弄《てうろう》するのかい』
|孫公《まごこう》『|岩屋《いはや》の|神《かみ》さまがソロソロ|孫公《まごこう》さまに|憑《うつ》つて、|言霊《ことたま》を|始《はじ》めかけたのだよ。ウフヽヽヽ』
と|笑《わら》ひこける。|途端《とたん》に|路傍《みちばた》の|尖《とが》つた|石《いし》に|腰《こし》を|打《うち》つけ『アイタタ』と|云《い》つたきり、|真青《まつさを》な|色《いろ》になり、|顔《かほ》をしかめ、|目《め》を|塞《ふさ》いで、|人事不省《じんじふせい》になつて|了《しま》つた。
(大正一一・九・一二 旧七・二一 松村真澄録)
第二章 |孫甦《まごこう》〔九四三〕
|孫公《まごこう》は、|笑《わら》ひ|転《こ》けた|途端《とたん》に|腰骨《こしぼね》を|岩角《いはかど》に|強《したた》か|打《う》ち『ウン』と|云《い》つたきり|人事不省《じんじふせい》になつて|了《しま》つた。|房公《ふさこう》、|芳公《よしこう》の|両人《りやうにん》は|周章狼狽《あわてふため》き、|谷水《たにみづ》を|汲《く》み|来《きた》つて|顔《かほ》にぶつかけたり、|口《くち》を|無理《むり》にあけて|水《みづ》を|飲《の》ませなどして|種々《いろいろ》と|介抱《かいほう》を|余念《よねん》なく|続《つづ》けて|居《ゐ》る。されど|孫公《まごこう》は、だんだん|身体《からだ》が|冷却《れいきやく》する|計《ばか》り、|呼《よ》べど|叫《さけ》べど|何《なん》の|応答《こたへ》も|無《な》くなつて|了《しま》つた。|黒姫《くろひめ》は|冷然《れいぜん》として|孫公《まごこう》の|倒《たふ》れた|体《からだ》を|斜眼《ながしめ》に|見《み》て|居《ゐ》る。
|房公《ふさこう》『これ|黒姫《くろひめ》さま、|孫公《まごこう》がこんな|目《め》に|遇《あ》つて|居《ゐ》るのです。なぜ|神様《かみさま》に|願《ねが》つて|下《くだ》さらぬのか。|早《はや》く|数歌《かずうた》を|歌《うた》ひ|上《あ》げて|魂返《たまがへ》しをして|下《くだ》さい。|愚図々々《ぐづぐづ》して|居《ゐ》ると、|此方《こちら》の|者《もの》にはなりませぬぞや』
|黒姫《くろひめ》はニヤリと|笑《わら》ひ、
『|神様《かみさま》の|戒《いまし》めは、|恐《おそ》ろしいものですな。|皆様《みなさま》|是《これ》を|見《み》て|改心《かいしん》なさい。|長上《ちやうじやう》を|敬《うやま》へと|云《い》ふ……お|前《まへ》は|天《てん》の|御規則《ごきそく》を|何《なん》と|心得《こころえ》て|御座《ござ》る。|太平洋《たいへいやう》を|渡《わた》る|時《とき》から、|此《この》|孫公《まごこう》は|黒姫《くろひめ》の|云《い》ふ|事《こと》を|一《ひと》つ|一《ひと》つ|口答《くちごた》へを|致《いた》し、|長上《ちやうじやう》を|侮辱《ぶじよく》した|天則違反《てんそくゐはん》の|罪《つみ》が|自然《しぜん》に|報《むく》うて|来《き》たのだから、|何程《なにほど》|頼《たの》んだとて|祈《いの》つたとて、もはや|駄目《だめ》だよ。……これ|房公《ふさこう》、|芳公《よしこう》、お|前《まへ》も|随分《ずゐぶん》|孫公《まごこう》のやうに|此《この》|黒姫《くろひめ》に|口答《くちごた》へをしたり、|又《また》|悪口《わるくち》を|云《い》つたであらう。|第二《だいに》の|候補者《こうほしや》はどちらになるか|知《し》らぬでなア、オホヽヽヽ……エヽ|気味《きみ》のよい|事《こと》だ。こんな|事《こと》が|無《な》ければ|阿呆《あはう》らしくて|神様《かみさま》の|信仰《しんかう》は|出来《でき》はしない。|神《かみ》が|表《おもて》に|現《あら》はれて、|善《ぜん》と|悪《あく》とを|立《た》て|別《わ》けると|云《い》ふ|三五教《あななひけう》の|宣伝歌《せんでんか》は、|決《けつ》して|嘘《うそ》ぢやありますまいがな。|神《かみ》は|善《ぜん》を|賞《しやう》し|悪《あく》を|亡《ほろ》ぼしたまふと|云《い》ふ|事《こと》は、いつも|此《この》|黒姫《くろひめ》の|口《くち》が|酢《す》つぱくなるまで|教《をし》へてあるぢやないか。それだから|神様《かみさま》は|怖《こわ》いと|云《い》ふのだ。あゝ|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》』
|房公《ふさこう》『それでも|黒姫《くろひめ》さま、あまり|冷酷《れいこく》ぢやありませぬか。|神様《かみさま》は|神様《かみさま》として、|若《も》し|此《この》|孫公《まごこう》が|高山彦《たかやまひこ》さまであつたら、|黒姫《くろひめ》さま、お|前《まへ》さまはそんなに|平気《へいき》な|顔《かほ》がして|居《を》られますか』
|黒姫《くろひめ》『|高山彦《たかやまひこ》さまに|限《かぎ》つて、こんな|分《わか》らぬ|天則違反《てんそくゐはん》の|行《おこな》ひはなさりませぬ|哩《わい》。|滅多《めつた》に|気遣《きづか》ひないから|御心配《ごしんぱい》|下《くだ》さいますな、ウフヽヽヽ』
|芳公《よしこう》『オイ|房公《ふさこう》、|黒姫《くろひめ》には|曲津神《まがつかみ》が|憑依《ひようい》したと|見《み》える。さうでなくては|肝腎《かんじん》の|弟子《でし》が|縡切《ことぎ》れて|居《ゐ》るのに、|如何《いか》に|無情《むじやう》|冷酷《れいこく》な|人間《にんげん》でもこんな|態度《たいど》を|装《よそほ》ふ|訳《わけ》には|行《ゆ》くまい。これから|両人《りやうにん》が|両方《りやうはう》から|鎮魂責《ちんこんぜめ》にして、|黒姫《くろひめ》の|悪霊《あくれい》を|放《ほ》り|出《だ》さうぢやないか』
|房公《ふさこう》『|俺《おれ》は|孫公《まごこう》の|介抱《かいほう》をする。まだ|少《すこ》し|温《ぬく》みがあるから|蘇生《いきかへ》るかも|知《し》れない。お|前《まへ》は|黒姫《くろひめ》の|曲津《まがつ》|退治《たいぢ》にかかつて|呉《く》れ』
と|云《い》ひながら、|房公《ふさこう》は|孫公《まごこう》の|倒《たふ》れた|体《からだ》に|向《むか》つて|一生懸命《いつしやうけんめい》に|鎮魂《ちんこん》をなし、|天《あま》の|数歌《かずうた》を|謡《うた》ひ|出《だ》した。|芳公《よしこう》は|両手《りやうて》を|組《く》み|黒姫《くろひめ》に|向《むか》つて『ウンウン』と|霊《れい》を|送《おく》つて|居《ゐ》る。
|黒姫《くろひめ》『オホヽヽヽ、|敵《てき》は|本能寺《ほんのうじ》にあり、|吾《わが》|敵《かたき》は|吾《わが》|心《こころ》に|潜《ひそ》むと|云《い》つて、|此《この》|黒姫《くろひめ》が|悪《あく》に|見《み》えるのは|所謂《いはゆる》お|前《まへ》の|心《こころ》に|悪魔《あくま》が|棲《す》んで|居《ゐ》るのだよ。そんな|馬鹿《ばか》な|芸当《げいたう》をするよりも|早《はや》く|神様《かみさま》にお|詫《わび》をしなさい。|此《この》|黒姫《くろひめ》の|腹立《はらだち》の|直《なほ》らぬかぎりは、|房公《ふさこう》だつてお|前《まへ》だつて|孫公《まごこう》の|通《とほ》りだよ。さてもさても|憐《あは》れなものだなア。|心《こころ》から|発根《ほつこん》の|改心《かいしん》でないと、|何程《なにほど》|神様《かみさま》を|祈《いの》つたとてあきませぬぞえ。これから|何事《なにごと》も|神《かみ》|第一《だいいち》、|黒姫《くろひめ》|第二《だいに》とするのだよ』
|芳公《よしこう》『|高山彦《たかやまひこ》さまと|元《もと》の|通《とほ》り|御夫婦《ごふうふ》になられた|時《とき》はどうなります。|高山彦《たかやまひこ》|第三《だいさん》ですか、|或《あるひ》は|第二《だいに》ですか、それを|聞《き》かして|置《お》いて|頂《いただ》かむと|都合《つがふ》が|悪《わる》いですからなア』
|黒姫《くろひめ》『|今《いま》からそんな|事《こと》を|云《い》ふ|時《とき》ぢやありませぬ。|孫公《まごこう》があの|通《とほ》り|冷《つめ》たくなつて|居《を》るのに、お|前《まへ》は|何《なん》とも|無《な》いのかい』
|芳公《よしこう》『さうですなア、|黒姫《くろひめ》さまが|高山彦《たかやまひこ》さまを|思《おも》ふ|位《くらゐ》なものでせうかい。|高山彦《たかやまひこ》さまが|第二《だいに》ですか、|第三《だいさん》ですか、|但《ただし》は|機会《きくわい》|均等《きんとう》|主義《しゆぎ》ですか』
|黒姫《くろひめ》はニヤリと|笑《わら》ひ、
『|極《きま》つた|事《こと》よ。|私《わたし》のハズバンドだもの、オホヽヽヽ』
と|顔《かほ》を|隠《かく》す。|五十《ごじふ》の|坂《さか》を|越《こ》えた|皺苦茶婆《しわくちやばば》も、ハズバンドの|事《こと》を|云《い》はれると|少《すこ》しく|恥《はづ》かしくなつたと|見《み》える。
|今《いま》|迄《まで》|打倒《うちたふ》れて|居《ゐ》た|孫公《まごこう》は、|房公《ふさこう》の|看病《かんびやう》が|利《き》いたのか、|但《ただし》は|御神力《ごしんりき》で|息《いき》を|吹《ふ》き|返《かへ》したのか、|俄《にはか》に|雷《らい》のやうな|唸《うな》り|声《ごゑ》を|立《た》て|出《だ》した。|黒姫《くろひめ》は|真蒼《まつさを》な|顔《かほ》になつて|其《その》|場《ば》にしやがんで|了《しま》ふ。|房公《ふさこう》、|芳公《よしこう》の|両人《りやうにん》は|且《か》つ|驚《おどろ》き|且《か》つ|喜《よろこ》び、|雑草《ざつさう》の|茂《しげ》る|道端《みちばた》を|右《みぎ》に|左《ひだり》に|周章《うろた》へ|廻《まは》る。|孫公《まごこう》は|益々《ますます》|唸《うな》り|出《だ》した。さうしてツト|自《みづか》ら|起《お》き|上《あが》り、|道端《みちばた》の|青草《あをくさ》の|上《うへ》に|胡坐《あぐら》をかき|真赤《まつか》な|顔《かほ》をしながら、への|字《じ》に|結《むす》んだ|口《くち》を|片《かた》つ|方《ぱう》から|少《すこ》しづつ|通草《あけび》がはじけかかつたやうに|上下《じやうげ》の|唇《くちびる》を|開《ひら》き|初《はじ》め、|白《しろ》い|歯《は》を|一枚《いちまい》|二枚《にまい》|三枚《さんまい》と|露《あら》はし|初《はじ》めた。|三人《さんにん》は|目《め》も|放《はな》たず|驚異《きやうい》の|念《ねん》にかられて|孫公《まごこう》の|口辺《くちばた》ばかりを|見詰《みつ》めて|居《ゐ》ると、|孫公《まごこう》の|口《くち》は|三十二枚《さんじふにまい》の|歯《は》|迄《まで》|露出《ろしゆつ》して|了《しま》つて、|暫《しばら》くすると|蟇蛙《ひきがへる》が|蚊《か》を|吸《す》ふ|調子《てうし》で、|上下《じやうげ》の|唇《くちびる》をパクパクと|動《うご》かした|機《はづ》みに|上下《じやうげ》の|歯《は》がカツンカツンと|打《うち》あふ|音《おと》が|聞《きこ》えて|来《き》た。|黒姫《くろひめ》はツト|傍《かたはら》に|寄《よ》つて、
『コレ|孫公《まごこう》、|喜《よろこ》びなさい、|黒姫《くろひめ》の|鎮魂《ちんこん》のお|蔭《かげ》で、|死《し》んで|居《ゐ》たお|前《まへ》が|甦《よみがへ》つたのだよ。これからは|黒姫《くろひめ》に|対《たい》しては、|今《いま》|迄《まで》のやうな|傲慢《がうまん》の|態度《たいど》をあらためなさいや』
|房公《ふさこう》『これ|黒姫《くろひめ》さま、|鎮魂《ちんこん》したのは|私《わたし》ですよ。お|前《まへ》さまは|孫公《まごこう》が|死《し》ぬのは|天罰《てんばつ》だ、|神《かみ》が|表《おもて》に|現《あら》はれて|善《ぜん》と|悪《あく》とを|立別《たてわ》けなさつたのだと、さんざん|理屈《りくつ》を|云《い》つたぢやありませぬか』
|黒姫《くろひめ》『お|前《まへ》が|鎮魂《ちんこん》しても、|此《この》|黒姫《くろひめ》の|神力《しんりき》がお|前《まへ》に|憑《うつ》つたのだから、|孫公《まごこう》が|神徳《しんとく》を|頂《いただ》いたのだよ。きつと|此《この》|黒姫《くろひめ》が|神力《しんりき》によつて|甦《よみがへ》らせるだけの|確信《かくしん》を|持《も》つて|居《ゐ》たから、|泰然自若《たいぜんじじやく》として|冷静《れいせい》に|構《かま》へて|居《ゐ》たのだ。|覚《おぼ》え|無《な》くして|宣伝使《せんでんし》が|勤《つと》まりますか、|何事《なにごと》も|知《し》らず|識《し》らずに|神様《かみさま》にさされて|居《ゐ》るのだ。|房公《ふさこう》、お|前《まへ》の|鎮魂《ちんこん》で|直《なほ》つたと|思《おも》つたら|了見《りやうけん》が|違《ちが》ひますぞえ。|皆《みな》|黒姫《くろひめ》の|余徳《よとく》だから、|皆《みな》|慢心《まんしん》をしたり、|黒姫《くろひめ》より|私《わたし》は|偉《えら》い、|鎮魂《ちんこん》がよく|利《き》くなどと|思《おも》ふ|事《こと》はなりませぬぞえ』
|房公《ふさこう》『まるで|高姫《たかひめ》のやうな|事《こと》を|云《い》ふ|婆《ば》アさまだなア。|高姫《たかひめ》と|云《い》ふ|奴《やつ》は|人《ひと》に|命《いのち》を|助《たす》けて|貰《もら》つて|置《お》き|乍《なが》ら、いつも|日《ひ》の|出神《でのかみ》|様《さま》がお|前《まへ》を|使《つか》うて|助《たす》けさしてやつたのだ、お|礼《れい》を|申《まを》しなさい……なんて、|瀬戸《せと》の|海《うみ》の|難船《なんせん》の|時《とき》にも|救《すく》うて|呉《く》れた|玉能姫《たまのひめ》にお|礼《れい》を|云《い》はせたと|云《い》ふ|筆法《ひつぱふ》だな。|矢張《やつぱ》り|高姫《たかひめ》|仕込《じこみ》だけあつて、|負惜《まけをし》みの|強《つよ》い|事《こと》は|天下一品《てんかいつぴん》だ、アハヽヽヽ。|年《とし》が|寄《よ》つて|雄鳥《をんどり》に|離《はな》れると|矢張《やつぱ》り|根性《こんじやう》が|拗《ねぢ》けると|見《み》える。|高姫《たかひめ》だつて|適当《てきたう》なハズバンドさへあれば、あんなに|拗《ねぢ》けるのぢや|無《な》からうに、|人間《にんげん》と|云《い》ふ|者《もの》は、どうしても|異性《いせい》が|付《つ》いて|居《ゐ》ないと|妙《めう》な|心《こころ》になるものだ。|黒姫《くろひめ》さまを|改心《かいしん》させるには、どうしても|高山彦《たかやまひこ》さまの|顔《かほ》を|見《み》せてあげなければなりますまい。|俺《おれ》だつてお|鉄《てつ》の|顔《かほ》を|見《み》る|迄《まで》は、どうしたつて|心《こころ》がをさまらぬからなア、アハヽヽヽ』
|黒姫《くろひめ》『あまり|口《くち》が|過《す》ぎると|又《また》|孫公《まごこう》のやうな|目《め》に|遇《あ》ひますぞや』
|芳公《よしこう》『|孫公《まごこう》のやうな|目《め》に|遇《あ》つたつて|構《かま》はぬぢやないか。お|前《まへ》さま|達《たち》がヤツサモツサ|騒《さわ》いで|居《ゐ》る|間《うち》に|平気《へいき》の|平左《へいざ》で|幽冥界《いうめいかい》の|探険《たんけん》をなし、|平気《へいき》の|平左《へいざ》で|甦《よみがへ》つたぢやないか。|俺《おれ》だつてあんな|死《し》にやうなら|何度《なんど》もして|見《み》たいわ』
|黒姫《くろひめ》『|罰《ばち》が|当《あた》りますぞや。|好《よ》い|加減《かげん》に|心《こころ》を|直《なほ》しなさい。|改心《かいしん》が|一等《いつとう》だと|神様《かみさま》が|仰有《おつしや》りますぞえ』
|芳公《よしこう》『|改心《かいしん》しきつたものが|改心《かいしん》せよと|云《い》つたつて、|改心《かいしん》の|余地《よち》が|無《な》いぢやないか、オホヽヽヽ』
|黒姫《くろひめ》『これ|芳公《よしこう》、お|前《まへ》は|又《また》|私《わたし》の|真似《まね》をして|嘲弄《からか》ふのだな』
|芳公《よしこう》『あまり|好《よ》う|流行《はや》る|豆腐屋《とうふや》で、|豆腐《とうふ》が|切《き》れたから|仕方《しかた》なしにカラ|買《か》ふのだよ。オホヽヽヽ』
|孫公《まごこう》は|両手《りやうて》を|組《く》みそろそろ|喋《しやべ》り|出《だ》した。
|孫公《まごこう》『アヽヽヽヽ』
|黒姫《くろひめ》『これこれ|孫公《まごこう》、|筑紫《つくし》の|岩窟《がんくつ》は|此処《ここ》ぢや|御座《ござ》りませぬぞえ。|小島別《こじまわけ》の|昔《むかし》を|思《おも》ひ|出《だ》し、そんな……アヽヽヽヽなぞと|云《い》うと、|悪《あく》の|性来《しやうらい》が|現《あら》はれてアフンとする|事《こと》が|出来《でき》ますぞえ、ちつと|確《しつか》りなさらぬかえ』
|孫公《まごこう》『アハヽヽヽヽ、オホヽヽヽヽ、ウフヽヽヽヽ、エヘヽヽヽヽ、イヒヽヽヽヽ』
|黒姫《くろひめ》『|又《また》しても、|曲津《まがつ》がつきよつたかな。どれどれ|此《この》|黒姫《くろひめ》が|神力《しんりき》によつて|退散《たいさん》さして|見《み》ませう』
と|云《い》ひつつ|青草《あをくさ》の|上《うへ》に|端坐《たんざ》し、|両手《りやうて》を|組《く》み|皺枯《しわが》れた|声《こゑ》で|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》し|始《はじ》めた。|孫公《まごこう》は|大口《おほぐち》を|開《あ》いて|歌《うた》ひ|出《だ》した。
『【ア】ハヽヽハツハ|阿呆《【あ】はう》らしい  |頭《【あ】たま》の|光《ひか》つたハズバンド
|高山彦《たかやまひこ》の|後《【あ】と》|追《お》うて  |烏《からす》のやうな|黒姫《くろひめ》が
|綾《【あ】や》の|聖地《せいち》を|後《あと》にして  |荒浪《【あ】らなみ》|猛《たけ》る|海原《うなばら》を
|荒肝《【あ】らぎも》|放《はう》り|出《だ》し|三人《さんにん》の  |伴《とも》を|引《ひ》き|連《つ》れ【あ】ら|悲《かな》し
|仮令《たとへ》|悪魔《【あ】くま》と|云《い》はれやうが  |遇《【あ】》ひたい|見《み》たいハズバンド
|亜弗利加国《【ア】フリカこく》の|果《はて》までも  |所在《【あ】りか》を|探《さが》して|尋《たづ》ねあて
【あ】りし|昔《むかし》の|物語《ものがたり》  【ア】ラサホイサを|云《い》ひ|出《いだ》し
|飽迄《【あ】くまで》|初心《しよしん》を|貫徹《くわんてつ》し  |愛別離苦《【あ】いべつりく》の|悲《かな》しみを
|相身《【あ】ひみ》|互《たがひ》に|語《かた》らふて  |愛想《【あ】いさう》|尽《づか》しを|云《い》うて|見《み》たり
|悋気《りんき》|喧嘩《げんくわ》をして|見《み》よと  |悪魔《【あ】くま》の|霊《れい》に【あ】やつられ
|泡《【あ】わ》を|吹《ふ》くとは|知《し》らずして  やつて|来《き》たのは|憐《【あ】はれ》なり
【あ】ゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  【あ】かん|恋路《こひぢ》に|迷《まよ》ふより
|諦《【あ】きら》めなされよ|黒姫《くろひめ》さま  |亜細亜《【ア】ジア》|亜弗利加《【ア】フリカ》|欧羅巴《ヨーロツパ》
|亜米利加国《【ア】メリカこく》の|果《はて》|迄《まで》も  |後《【あ】と》を|慕《した》うて|見《み》たところ
|所在《【あ】りか》の|知《し》れぬハズバンド  【あ】かん|目的《もくてき》|立《た》てるより
|足《【あ】し》の|爪先《つまさき》|明《【あ】》かるいうちに  【あ】きらめなさつて|逸早《いちはや》く
|蜻蛉《【あ】きつ》の|島《しま》に|帰《かへ》れかし  |阿呆々々《【あ】はうあはう》と|烏《からす》|迄《まで》
【あ】すこの|杉《すぎ》で|鳴《な》いて|居《ゐ》る  |相見《【あ】ひみ》ての|後《のち》の|心《こころ》に|比《くら》ぶれば
|遇《【あ】》はぬ|昔《むかし》がましだつた  【あ】ゝあゝこんな|事《こと》なれば
|綺麗《きれい》|薩張《さつぱ》り|諦《【あ】きら》めて  |綾《【あ】や》の|聖地《せいち》におとなしく
|朝《【あ】さ》な|夕《ゆふ》なに|神《かみ》の|前《まへ》  |仕《つか》へて|居《を》つたがよかつたに
【あ】ゝあゝ|何《なん》と|詮方《せんかた》も  |泣《な》く|泣《な》く|帰《かへ》る|呆《【あ】き》れ|顔《がほ》
【あ】こがれ|慕《した》ふハズバンド  |頭《【あ】たま》の|長《なが》い|福禄寿《げほう》さま
|蜻蛉《【あ】きつ》の|島《しま》に|御座《ござ》るぞや  |蟹《かに》のやうなる|泡《【あ】わ》|吹《ふ》いて
【あ】らぬ|夫《をつと》を|探《さが》すより  |早《はや》く|諦《【あ】きら》め|帰《い》ぬがよい
【ア】ハヽヽハツハ アハヽヽハー  |呆《【あ】き》れはてたる|次第《しだい》なり
【あ】ゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |御霊《みたま》|幸倍《さちはへ》ましませよ』
|黒姫《くろひめ》はツト|傍《そば》により、
『いづれの|神様《かみさま》のお|憑《かか》りか|知《し》りませぬが、|今《いま》|承《うけたま》はれば|高山彦《たかやまひこ》は|蜻蛉島《あきつしま》に|居《ゐ》る、|此《この》|亜弗利加《アフリカ》には|居《ゐ》ないと|仰有《おつしや》いましたが、それは|本当《ほんたう》で|御座《ござ》いますか。|孫公《まごこう》に|憑《かか》つた|神様《かみさま》、どうぞ|黒姫《くろひめ》の|一身上《いつしんじやう》にかかつた|大問題《だいもんだい》で|御座《ござ》いますから、|好《よ》い|加減《かげん》の|事《こと》を|云《い》はずと【ハツキリ】と|云《い》つて|下《くだ》さい。|聞《き》いて|居《を》ればアヽヽヽアと【アア】|尽《づく》しで|仰有《おつしや》つたが、そんな|事《こと》|云《い》うて|此《この》|黒姫《くろひめ》をちよろまかし、アフンとさせむとする|悪《わる》い|企《たく》みぢやあるまいかな。|飽《あ》きも|飽《あ》かれもせぬ|高山彦《たかやまひこ》さまの|行方《ゆくへ》、どうぞ|明《あきら》かに|知《し》らして|下《くだ》さい』
|孫公《まごこう》『【イ】ヒヽヽヒツヒ イヒヽヽヽ  【い】つ|迄《まで》|尋《たづ》ねて|見《み》たとこが
|命《【い】のち》に|替《か》へたハズバンド  |居所《【ゐ】どころ》|分《わか》る|筈《はず》はない
|色々《【い】ろいろ》|雑多《ざつた》とイチヤついた  |往《【い】》とし|昔《むかし》を|思《おも》ひ|出《だ》し
|色《【い】ろ》に|迷《まよ》ふた|黒姫《くろひめ》さま  【い】かに|心配《しんぱい》|遊《あそ》ばして
|色《【い】ろ》|迄《まで》|青《あを》うなつて|来《き》た  |異国《【い】こく》の|果《は》てを|探《さが》しても
|居《【ゐ】》ない|男《をとこ》は|居《ゐ》はせぬぞ  |意外《【い】ぐわい》も|意外《いぐわい》も|大意外《おほいぐわい》
|命《【い】のち》に|替《か》へた|高山彦《たかやまひこ》さまは  |伊勢屋《【い】せや》の|娘《むすめ》の|虎《とら》さまと
|意茶《【い】ちや》つき|廻《まは》つて|酒《さけ》を|呑《の》み  |意気《【い】き》|揚々《やうやう》と|今《いま》|頃《ごろ》は
|石《【い】し》の|肴《さかな》を|前《まへ》に|据《す》ゑ  |固《かた》い|約束《やくそく》|岩《【い】は》の|判《はん》
|石《【い】し》に|証文《しようもん》|書《か》き|並《なら》べ  【い】よいよ|真《まこと》の|夫婦《ふうふ》ぞと
|朝《あさ》から|晩《ばん》|迄《まで》|楽《たのし》んで  |意茶《【い】ちや》つき|暮《くら》す|面白《おもしろ》さ
|伊勢《【い】せ》の|鮑《あはび》の|片思《かたおも》ひ  |何程《なにほど》お|前《まへ》が|探《さが》すとも
|高山彦《たかやまひこ》は|黒姫《くろひめ》に  |唯《ただ》の|一度《【い】ちど》も|遇《あ》うてはくれぬ
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |叶《かな》はぬならば|逸早《【い】ちはや》く
|綾《あや》の|聖地《せいち》に|立《た》ち|帰《かへ》り  |意茶《【い】ちや》つき|暮《く》らす|両人《りやうにん》の
|生首《【い】きくび》ぬいてやらしやんせ  ウフヽヽフツフ ウフヽヽヽ』
|黒姫《くろひめ》『これ|孫公《まごこう》、|私《わたし》を|馬鹿《ばか》にするのかい。|本当《ほんたう》の|事《こと》を|云《い》うて|下《くだ》さい。これ|程《ほど》|黒姫《くろひめ》が|一生懸命《いつしやうけんめい》になつて|尋《たづ》ねて|居《ゐ》るのに、ウフヽヽヽとは|何《なん》の|事《こと》だい。|大方《おほかた》お|前《まへ》は|此《こ》の|二人《ふたり》の|代物《しろもの》と|腹《はら》を|合《あは》せ、|死真似《しにまね》をしたのであらう。ほんにほんに|油断《ゆだん》のならぬ|代物《しろもの》だなア』
(大正一一・九・一二 旧七・二一 加藤明子録)
第三章 |障文句《さはりもんく》〔九四四〕
|孫公《まごこう》は、|委細《ゐさい》|構《かま》はず|神懸《かむがかり》となつたまま|謡《うた》ひ|続《つづ》ける。
『【ウ】フヽヽフーフ ウフヽヽヽ  |艮金神《【う】しとらこんじん》|現《あら》はれて
|有象無象《【う】ざうむざう》を|立別《たてわ》ける  【う】つつを|抜《ぬ》かした|黒姫《くろひめ》が
|浮世《【う】きよ》|気分《きぶん》を|放《ほ》り|出《だ》して  【ウ】ロウロ|此処《ここ》|迄《まで》やつて|来《き》た
【う】るさい|男《をとこ》の|後《あと》|追《お》うて  【う】んざりする|様《やう》な|惚気方《のろけかた》
|浮世《【う】きよ》の|常《つね》とは|言《い》ひ|乍《なが》ら  |憂身《【う】きみ》をやつす|恋《こひ》の|闇《やみ》
【ウ】ラナイ|教《けう》の|看板《かんばん》を  |打《【う】》つて|一時《いちじ》はメキメキと
|羽振《はぶり》を|利《き》かした|黒姫《くろひめ》も  |高山彦《たかやまひこ》のハズバンド
【う】つかり|貰《もら》うた|其《その》|為《ため》に  |憂世《うきよ》の|味《あぢ》を|覚《おぼ》え|出《だ》し
|心《こころ》の|空《そら》も|迂路々々《【う】ろうろ》と  |行方《ゆくへ》|定《さだ》めぬ|旅《たび》の|空《そら》
|動《【う】ご》きのとれぬ|目《め》に|会《あ》うて  |珍《【う】づ》の|聖地《せいち》を|立《た》ち|離《はな》れ
|渦巻《【う】づまき》わたる|海原《【う】なばら》を  |越《こ》えて|此処《ここ》|迄《まで》【ウ】ヨウヨと
|迂路《【う】ろ》つき|来《きた》る|憐《あは》れさよ  |狼狽者《【う】ろたへもの》の|宣伝使《せんでんし》
|黒姫《くろひめ》さまの|甘口《あまくち》に  【う】まく|乗《の》せられ|吾々《われわれ》は
|牛《【う】し》に|曳《ひ》かれて|善光寺《ぜんくわうじ》  |詣《まゐ》る|婆《ばば》アの|後《あと》につき
|移《【う】つ》つて|来《き》たのは|亜弗利加《アフリカ》の  |憂世《【う】きよ》|離《はな》れた|筑紫島《つくしじま》
|瓜《【う】り》の|様《やう》なる|細長《ほそなが》い  |寿老頭《げほうあたま》の|老爺《おやぢ》をば
|憂身《【う】きみ》を|窶《やつ》して|追《お》うて|来《く》る  |煩《【う】る》さい|女《をんな》が|唯《ただ》|一人《ひとり》
|蛆虫《【う】じむし》|見《み》た|様《やう》な|魂《たましひ》で  |迂路々々《【う】ろうろ》やつて|来《こ》られては
|如何《いか》に|女《をんな》に|熱心《ねつしん》な  |高山《たかやま》ぢやとて|煩《【う】る》さかろ
|煩《【う】る》さの|娑婆《しやば》に|存《なが》らへて  |憂目《【う】きめ》を|見《み》るより|逸早《いちはや》く
|改心《かいしん》した|方《はう》が|宜《よ》からうぞ  |碾臼《ひき【う】す》みた|様《やう》な|尻《しり》をして
【ウ】ロウロしたとて|仕方《しかた》ない  あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|煩《【う】る》さい|事《こと》ではないかいな  こんな|処《ところ》にマゴマゴと
|致《いた》して|御座《ござ》る|暇《ひま》あれば  |一時《いちじ》も|早《はや》く|火《ひ》の|国《くに》へ
|足《あし》を|早《はや》めて|行《ゆ》きなさい  |顔《かほ》は|違《ちが》ふか|知《し》らねども
|高山彦《たかやまひこ》が|御座《ござ》るぞや  その|又《また》|高山彦《たかやまひこ》さまは
|神素盞嗚大神《かむすさのをのおほかみ》の  |八人乙女《やたりをとめ》の|其《その》|一人《ひとり》
|愛子《あいこ》の|姫《ひめ》と|云《い》ふ|方《かた》が  |朝《あさ》な|夕《ゆふ》なに|侍《かし》づいて
|家事《かじ》|万端《ばんたん》は|言《い》ふも|更《さら》  |痒《かゆ》い|処《ところ》に|手《て》の|届《とど》く
|水《みづ》も|洩《も》らさぬ|勤《つと》め|振《ぶ》り  |高山彦《たかやまひこ》の|神《かみ》さまは
|笑壺《ゑつぼ》に|入《い》つて|脂下《やにさが》り  えらい|機嫌《きげん》で|御座《ござ》るぞや
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |黒姫《くろひめ》さまにあんな|処《とこ》
|一目《ひとめ》|見《み》せたら|如何《どう》だらう  |忽《たちま》ち|二《ふた》つの|目《め》を|釣《つ》つて
|鼻《はな》をムケムケ|口《くち》|歪《ゆが》め  |恨《うら》みの|炎《ほのほ》は|忽《たちま》ちに
|天《てん》の|雲《くも》|迄《まで》|焦《こが》すだらう  |高山彦《たかやまひこ》は|偉《えら》い|奴《やつ》
|五十《ごじふ》の|尻《けつ》を|結《むす》んだる  |悪垂《あくた》れ|婆《ばば》と|事《こと》|変《かは》り
|雪《ゆき》を|欺《あざむ》く|白《しろ》い|顔《かほ》  ボツテリ|肥《こえ》た|膚《はだへ》の|色《いろ》
|何処《どこ》に|言分《いひぶん》ない|娘《むすめ》  |女房《にようばう》にもつて|朝夕《あさゆふ》に
|愛子々々《あいこあいこ》と|愛《め》で|給《たま》ふ  |他所《よそ》の|見《み》る|目《め》も|羨《けな》りよな
|誠《まこと》に|立派《りつぱ》な|夫婦《ふうふ》ぞや  エヘヽヽヘツヘ ヘヽヽヽヽ』
|黒姫《くろひめ》『コレコレ|孫公《まごこう》、お|前《まへ》それは|本当《ほんたう》かい。あの|高山《たかやま》さまが|愛子姫《あいこひめ》と|云《い》ふ、|天《あま》の|岩戸《いはと》を|閉《し》めた|素盞嗚尊《すさのをのみこと》の|娘《あま》ツちよを|女房《にようばう》に|持《も》つて、|火《ひ》の|国《くに》に|御座《ござ》らつしやるとは|合点《がてん》の|行《ゆ》かぬ|話《はなし》だ。|高山《たかやま》さまに|限《かぎ》つてそんな|筈《はず》はないのだが、|何卒《どうぞ》|本当《ほんたう》の|事《こと》を|云《い》つてくれ。|如何《いか》に|気楽《きらく》な|黒姫《くろひめ》でもこんな|事《こと》を|聞《き》くと、|如何《どう》しても|聞《き》き|逃《のが》しが|出来《でき》ませぬ。さあ|何卒《どうぞ》|早《はや》く|虚実《きよじつ》を|明《あきら》かに|答《こた》へて|下《くだ》さい』
|房公《ふさこう》『|黒姫《くろひめ》さま、|孫公《まごこう》があんな|事《こと》|言《い》つて|揶揄《からか》つて|居《ゐ》るのですよ。|本当《ほんたう》にしちやいけませぬぜ。……ナア|芳公《よしこう》、どうも|怪《あや》しいぢやないか』
|芳公《よしこう》『いや、|俺《おれ》は|決《けつ》して|怪《あや》しいとは|思《おも》はぬ、よう|考《かんが》へて|見《み》よ。|最前《さいぜん》からの|様子《やうす》、|如何《どう》しても|人間《にんげん》の|悪戯《いたづら》とは|思《おも》へぬぢやないか。|屹度《きつと》|神様《かみさま》のお|告《つげ》に|間違《まちが》ひは|無《な》からうぞ』
|房公《ふさこう》『それでも|言《い》ふことが|矛盾《ほことん》して|居《ゐ》るぢやないか。|高山彦《たかやまひこ》は|綾《あや》の|聖地《せいち》に|伊勢屋《いせや》の|娘《むすめ》と|暮《く》らして|居《ゐ》ると|云《い》ふかと|思《おも》へば、|火《ひ》の|国《くに》に|今《いま》は|愛子姫《あいこひめ》と|脂下《やにさが》つて|居《ゐ》ると|云《い》ふなり、|何《なに》が|何《なん》だかチツとも|訳《わけ》が|分《わか》らぬぢやないか』
|芳公《よしこう》『それもさうだなア。|大方《おほかた》|枉津《まがつ》が|憑《うつ》つたのだらう。……おい|孫公《まごこう》、シツカリせぬかい。|貴様《きさま》は|目《め》を|廻《まは》しやがつて|矢張《やは》り|気《き》が|遠《とほ》くなつたと|見《み》え、そんな|矛盾《ほことん》の|事《こと》を|吐《ほざ》くのだらう。チツとしつかりしてくれないか。|俺達《おれたち》もこんな|処《ところ》で|発狂《はつきやう》されては|心細《こころぼそ》いからなア』
|黒姫《くろひめ》『いかにも|房公《ふさこう》の|言《い》ふ|通《とほ》り、|孫公《まごこう》の|言《い》ふ|事《こと》は|前後《あとさき》がチツとも|揃《そろ》はない、|枉津《まがつ》と|云《い》ふものは、|賢《かしこ》い|様《やう》でも|馬鹿《ばか》な|者《もの》だなア。|高山《たかやま》さまが|自転倒島《おのころじま》に|居《を》ると|云《い》ふかと|思《おも》へば、|火《ひ》の|国《くに》に|居《を》ると|云《い》ふなり、|何《なに》が|何《なん》だか|訳《わけ》の|分《わか》つたものぢやありませぬわい…|人《ひと》を|力《ちから》にするな、|師匠《ししやう》を|杖《つゑ》につくな……と|云《い》ふ|教《をしへ》がある。こんな|男《をとこ》の|神懸《かむがかり》に|誑《たぶら》かされて|居《を》つては、|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》もさつぱり|駄目《だめ》だ。さあさあ|房公《ふさこう》、|芳公《よしこう》、こんな|男《をとこ》は|此処《ここ》に|放棄《うつちや》つておいて|筑紫《つくし》の|巌窟《がんくつ》|迄《まで》|行《ゆ》きませう。そこ|迄《まで》|行《ゆ》けば|屹度《きつと》|巌窟《がんくつ》の|神様《かみさま》が|正確《せいかく》な|事《こと》を|聞《き》かして|下《くだ》さるに|相違《さうゐ》ありませぬ。さあ|行《ゆ》きませう』
|房公《ふさこう》『|巌窟《がんくつ》の|神様《かみさま》に|昔《むかし》の|小島別《こじまわけ》の|様《やう》に|五大韻《ごだいゐん》の|言霊攻《ことたまぜめ》に|会《あ》はされては|堪《たま》りませぬぜ。|随分《ずゐぶん》|疵《きず》|持《も》つ|足《あし》の|吾々《われわれ》だからそんな|危険区域《きけんくゐき》の|地方《ちはう》へは|寄《よ》りつかない|方《はう》が|悧巧《りかう》ですよ』
|黒姫《くろひめ》『|又《また》お|前《まへ》は|気《き》の|弱《よわ》い|退嬰主義《たいえいしゆぎ》を|採《と》るのか。|三五教《あななひけう》は|進展主義《しんてんしゆぎ》ですよ。|決《けつ》して|退却《たいきやく》はなりませぬ。|小島別《こじまわけ》の|神《かみ》さまだつて、|終《しまひ》には|建日別命《たけひわけのみこと》と|云《い》ふ|立派《りつぱ》な|神《かみ》になつたぢやないか。|屹度《きつと》|悪《わる》い|後《あと》は|善《よ》いにきまつてるから、さあ|早《はや》く|行《ゆ》きませう』
|芳公《よしこう》『|黒姫《くろひめ》さま、|孫公《まごこう》はお|連《つ》れになりませぬか』
|黒姫《くろひめ》『|来《きた》るものは|拒《こば》まず、|去《さ》る|者《もの》は|追《お》はず、|孫公《まごこう》の|自由意志《じいういし》に|任《まか》せませうかい』
|芳公《よしこう》『これ|孫公《まごこう》、|俺達《おれたち》と|一緒《いつしよ》に|黒姫《くろひめ》さまの|後《あと》について|行《ゆ》かうぢやないか。|何時迄《いつまで》もこんな|処《ところ》でア、オ、ウと|言霊《ことたま》もどきをやつて|居《を》つても、てんから|脱線《だつせん》だらけだから、|流石《さすが》の|黒姫《くろひめ》さまも|愛想《あいさう》づかしをなさつた|位《くらゐ》だから、|誰《たれ》も|聴手《ききて》があるまい。さア|俺《おれ》と|一緒《いつしよ》に|行《ゆ》かう』
と|言《い》ひ|乍《なが》ら|孫公《まごこう》の|左右《さいう》の|手《て》をグツと|握《にぎ》り|引《ひ》き|立《た》たさうとする。|孫公《まごこう》は|地《ち》から|生《は》えた|岩《いは》の|様《やう》に|何程《なにほど》ゆすつても|引《ひ》いてもビクとも|動《うご》かず、|只《ただ》|一言《ひとこと》、
『|俺《おれ》の|自由《じいう》|意思《いし》に|任《まか》すのだよ』
と|言《い》つたきり|目《め》を|閉《と》ぢ|無言《むごん》の|儘《まま》|坐《すわ》つて|居《ゐ》る。|黒姫《くろひめ》は|委細《ゐさい》|構《かま》はず|言霊《ことたま》の|濁《にご》つた|宣伝歌《せんでんか》を|謡《うた》ひ|乍《なが》ら、|風当《かぜあた》りのよき|谷道《たにみち》をスタスタと|登《のぼ》り|行《ゆ》く。|房《ふさ》、|芳《よし》の|二人《ふたり》は|孫公《まごこう》に|心《こころ》を|惹《ひ》かれ|乍《なが》ら、|後《あと》|振《ふ》り|返《かへ》り|振《ふ》り|返《かへ》り|嫌《いや》さうに|黒姫《くろひめ》の|後《あと》に|跟《つ》いて|行《ゆ》く。
|黒姫《くろひめ》は|漸《やうや》くにして|其《その》|日《ひ》の|黄昏《たそがれ》、|筑紫《つくし》の|巌窟《がんくつ》|建日別《たけひわけ》の|旧蹟地《きうせきち》に|辿《たど》り|着《つ》いた。
|黒姫《くろひめ》『さあ、|此処《ここ》は|有名《いうめい》な|小島別命《こじまわけのみこと》が、|月照彦《つきてるひこ》の|神様《かみさま》の|神霊《しんれい》から|脂《あぶら》をとられ|出世《しゆつせ》した|目出度《めでた》い|処《ところ》だ。|皆々《みなみな》、|一同《いちどう》に|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》しませう』
|房公《ふさこう》『|先《ま》づ|第一《だいいち》に|高山彦《たかやまひこ》|様《さま》の|御安泰《ごあんたい》を|祈《いの》り、|第二《だいに》に|黒姫《くろひめ》|様《さま》の|御改心《ごかいしん》を|祈《いの》り、|第三《だいさん》に|孫公《まごこう》さまの|御出世《ごしゆつせ》を|祈《いの》る|事《こと》にしませうか』
|黒姫《くろひめ》『えゝ|又《また》しても|又《また》しても、|高山《たかやま》さま|高山《たかやま》さまと|云《い》つて|下《くだ》さるな。|高山《たかやま》さまは|妾《わたし》の|夫《をつと》ですよ。お|前等《まへら》に|名《な》を|呼《よ》ばれると、あまり|心持《こころもち》がよくありませぬからな』
|芳公《よしこう》『|第二《だいに》の|亭主《ていしゆ》だから|名《な》を|言《い》はれても|減《へ》る|様《やう》な|気《き》がなさいますナ』
|黒姫《くろひめ》『|今日《けふ》|限《かぎ》り|高山彦《たかやまひこ》さまの|事《こと》は|言《い》つちやなりませぬぞや。それよりも|第一《だいいち》に|神様《かみさま》の|事《こと》を|云《い》ひなさい。|心得《こころえ》が|悪《わる》いと|又《また》|此処《ここ》で|孫公《まごこう》の|様《やう》な|目《め》にあうて、|脛腰《すねこし》が|立《た》たず|口《くち》ばかり|達者《たつしや》な|化物《ばけもの》になつて|了《しま》ひますよ。|黒姫《くろひめ》に|敵《てき》たうた|者《もの》は|誰《たれ》も|彼《かれ》も|皆《みな》あの|通《とほ》りだ。さあさあ|皆々《みなみな》、|祝詞《のりと》を|済《す》まして|今晩《こんばん》はおとなしく|此処《ここ》で|寝《やす》みなさい。|私《わたし》はこれから|神様《かみさま》にお|伺《うかが》ひをせなくてはならない。お|前《まへ》さま|達《たち》が|起《お》きて|居《を》ると|悪《あく》の|霊《れい》が|混線《こんせん》してはつきりした|神勅《しんちよく》が|受《う》けられませぬからな』
|房公《ふさこう》『|黒姫《くろひめ》さま、|貴女《あなた》は|宣伝使《せんでんし》にも|似合《にあ》はず、|実《じつ》に|冷酷《れいこく》なお|方《かた》ですな。|太平洋《たいへいやう》を|渡《わた》る|時《とき》は、|吾々《われわれ》|三人《さんにん》の|者《もの》が|居《を》らなくてはならない|者《もの》だから、|何《なん》と|言《い》はれてもおとなしく|俺達《おれたち》の|機嫌《きげん》をとつて|御座《ござ》つたが、|此《この》|島《しま》に|着《つ》くや|否《いな》や、|高山彦《たかやまひこ》さまが|御座《ござ》ると|思《おも》つて|俄《にはか》に|権幕《けんまく》がひどくなり、|吾々《われわれ》を|邪魔者《じやまもの》|扱《あつか》ひにされる|様子《やうす》が|見《み》えて|来《き》たぢやありませぬか』
|芳公《よしこう》『|恋《こひ》に|焦《こ》がれた|五月水《さつきみづ》、|秋田《あきた》になればふられ|水《みづ》……だ。|秋風《あきかぜ》が|吹《ふ》いてからは|冷《つめた》い|水《みづ》は|必要《ひつえう》がないとみえるわい。|年老《としより》の|冷水《ひやみづ》とか|云《い》つて、そろそろ|此《この》|婆《ば》アさまも|冷水《ひやみづ》になりかけたのだよ。それだから|人間《にんげん》をあてにしても|駄目《だめ》だと|云《い》ふのだよ。こんな|婆《ば》アさまの|後《あと》について|来《く》るよりも、|矢張《やは》り|孫公《まごこう》の|側《そば》で|看病《かんびやう》して|居《を》つた|方《はう》が|宜《よ》かつたなア。さあ|今頃《いまごろ》は|孫公《まごこう》は……|房《ふさ》、|芳《よし》の|両人《りやうにん》は|友達甲斐《ともだちがひ》のない|奴《やつ》だ、|俺《おれ》の|危難《きなん》を|見捨《みす》てて|万里《ばんり》の|異郷《いきやう》に……と|云《い》つて|嘸《さぞ》|怨《うら》んで|居《を》るであらう。あゝ|本当《ほんたう》に|友人《いうじん》の|信義《しんぎ》を|忘《わす》れて|居《を》つた。これと|云《い》ふのも|黒姫《くろひめ》と|云《い》ふ|黒《くろ》い|雲《くも》が|包《つつ》んで|居《を》つたからだ。さアこれから|孫公《まごこう》を|迎《むか》へに|行《ゆ》かうぢやないか』
|房公《ふさこう》『|迎《むか》へに|行《ゆ》かうと|云《い》つた|所《ところ》で、|此《この》|通《とほ》り|四辺《あたり》が|真暗《まつくら》になつては|危《あぶ》なうて|歩《ある》く|事《こと》が|出来《でき》ぬぢやないか。まアゆつくりと|気《き》をおちつけて、|明日《あす》の|朝《あさ》|迄《まで》|此処《ここ》で|夜《よ》を|明《あ》かし、|改《あらた》めて|足許《あしもと》が|分《わか》つてから|慰問使《ゐもんし》となつて|行《ゆ》かうぢやないか』
|芳公《よしこう》『|此処《ここ》でドツサリと|慰問袋《ゐもんぶくろ》の|用意《ようい》をして|置《お》かうぢやないか、アハヽヽヽ』
|黒姫《くろひめ》『コレコレ|両人《りやうにん》、|闇《くら》がりに|何《なに》をグヅグヅと、|云《い》つて|居《ゐ》るのだい。|早《はや》く|寝《やす》みなさらぬか』
|房公《ふさこう》『|何分《なにぶん》、|黄金《こがね》の|玉《たま》と|麻邇《まに》の|宝珠《ほつしゆ》が|私《わたくし》の|天眼通《てんがんつう》にチラつき、|高山彦《たかやまひこ》さまが|愛子姫《あいこひめ》さまと|抱擁接吻《はうようキツス》して|御座《ござ》る|状態《じやうたい》が、パノラマ|式《しき》に|眼底《がんてい》に|映《うつ》るものだから|気《き》が|揉《も》めて|寝《ね》られませぬワイ。これを|思《おも》ふと|修羅《しゆら》が|燃《も》えて|折角《せつかく》|染《そ》めた|頭髪《かみ》までが|褪《は》げる|様《やう》な|気分《きぶん》になりますがな……オツトドツコイ|何時《いつ》の|間《ま》にか|黒姫《くろひめ》さまの|霊《れい》が|半分《はんぶん》ばかり|憑《うつ》つたとみえる、オホヽヽヽ』
|芳公《よしこう》『コレ|高山彦《たかやまひこ》さま、お|前《まへ》さまも|余《あんま》りぢや|御座《ござ》んせぬかい。|竜宮《りうぐう》の|一《ひと》つ|島《じま》までも|手《て》に|手《て》を|把《と》つて|玉探《たまさが》しに|行《ゆ》き、クロンバー、クロンバーと|云《い》つて|可愛《かあい》がつて|下《くだ》さつたが、|男心《をとこごころ》と|秋《あき》の|空《そら》、|変《かは》れば|変《かは》る|世《よ》の|中《なか》ぢや。|六十《ろくじふ》の|尻《しり》を|作《つく》つて、|未《ま》だ|三十《さんじふ》にも|足《た》らぬ|愛子姫《あいこひめ》とやらを|女房《にようばう》に|持《も》つとは、|量見《りやうけん》がチト|違《ちが》ひはしませぬかい。お|半長右衛門《はんちやううゑもん》よりも|年《とし》が|違《ちが》つてる|女房《にようばう》を|持《も》つて、それが|何《なに》|名誉《めいよ》で|御座《ござ》んすか。エー|口惜《くちをし》い、|残念《ざんねん》な、(サハリ)|折角《せつかく》|長《なが》の|海山《うみやま》を|越《こ》え、お|前《まへ》に|会《あ》ひ|度《た》い|会《あ》ひ|度《た》いと、|苦労《くらう》|艱難《かんなん》しながらも、|此処迄《ここまで》|探《たづ》ねて|来《き》た|妾《わたし》、|鶫《つむぎ》の|尾《を》を|切《き》つた|様《やう》に、|思《おも》ひきるとは、それや|聞《きこ》えませぬ|高山彦《たかやまひこ》さまオツチンオツチン……』
|房公《ふさこう》は|作《つく》り|声《ごゑ》をして、
『アイヤ|黒姫《くろひめ》、そなたの|心《こころ》は|察《さつ》すれども、|雀《すずめ》|百《ひやく》まで|雌鳥《めんどり》を|忘《わす》れぬとやら、|棺桶《くわんをけ》に|片足《かたあし》|突込《つつこ》んだ|白髪頭《しらがあたま》の|皺苦茶婆《しわくちやばば》よりも、|今《いま》を|盛《さか》りと|咲《さ》き|匂《にほ》ふ、|水《みづ》も|滴《したた》る|様《やう》な|愛子姫《あいこひめ》の|香《かを》りに、サツパリ|此《この》|高山彦《たかやまひこ》も|精神《せいしん》|顛倒《てんたふ》し、|麝香《じやかう》の|香《か》に|比《ひ》して|糞嗅《ふんしう》の|臭《にほひ》に|似《に》た|糞婆《くそばば》と、|如何《どう》して|一緒《いつしよ》になる|事《こと》が|出来《でき》やうかい。|思《おも》はぬ|望《のぞ》みを|起《おこ》すより、|思《おも》ひきつて|国許《くにもと》に|帰《かへ》つたが|宜《よ》からうぞや。|武士《ぶし》の|言葉《ことば》に|二言《にごん》はない。その|手《て》を|放《はな》しや……と|衝《つ》つ|立《た》ち|上《あが》り|一間《ひとま》にこそは|入《い》りにけり。チヤチヤ チヤンチヤンチヤンぢや』
|芳公《よしこう》『そりや|聞《きこ》えませぬ|高山彦《たかやまひこ》サン、お|言葉《ことば》|無理《むり》とは|思《おも》へども、|初《はじ》めて|会《あ》うた|其《その》|日《ひ》から、|寿老《げほう》の|様《やう》な|長頭《ながあたま》、|南瓜《かぼちや》の|様《やう》によく|光《ひか》る、|若《わか》い|時《とき》から|皺《しわ》だらけ、|睾玉《きんたま》に|目鼻《めはな》をつけた|様《やう》な|其《その》お|顔立《かほだ》ち、こんな|男《をとこ》と|添《そ》うたなら、|何時《いつ》|迄《まで》もお|顔《かほ》の|色《いろ》は|変《かは》るまいと、そればつかりを|楽《たの》しみに、ウラナイ|教《けう》の|教理《けうり》に|背《そむ》き、お|前《まへ》を|夫《をつと》に|持《も》つたのは、よもや|忘《わす》れては|居《ゐ》やしやんすまい。|思《おも》へば|思《おも》へば|残念《ざんねん》ぢや|口惜《くちをし》いわいな……と|取《と》りすがつて、|涙《なみだ》さき|立《だ》つ|口説《くど》き|言《ごと》、オホヽヽヽ』
|黒姫《くろひめ》『コレコレ|両人《りやうにん》、|又《また》しても|又《また》しても|妾《わたし》を|揶揄《からか》ふのかい。あまり|馬鹿《ばか》にしなさるな。|女《をんな》|一人《ひとり》と|侮《あなど》つて|無礼《ぶれい》な|事《こと》ばかり|仰有《おつしや》るが、|今《いま》に|高山彦《たかやまひこ》さまに|出会《であ》つたら、お|前等《まへら》の|無礼《ぶれい》を|残《のこ》らず|申上《まをしあ》げるから、|其《その》|時《とき》には|何程《なにほど》|謝《あやま》つても|量見《りやうけん》はしませぬぞや。チツと|嗜《たしな》みなされ』
|房公《ふさこう》『|何《なん》だか|知《し》らぬが、|高山彦《たかやまひこ》や|黒姫《くろひめ》さまの|霊《れい》が|両人《りやうにん》の|身体《からだ》に|憑依《ひようい》して、あんな|事《こと》|言《い》ふのだもの、|仕方《しかた》がありませぬわ』
|黒姫《くろひめ》『|大方《おほかた》、|孫公《まごこう》の|霊《れい》が|憑《つ》いたのだらう。どれ|是《これ》から|妾《わたし》が|闇《くら》がりだけど|鎮魂《ちんこん》してあげませう』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら|双手《もろて》を|組《く》み|天《あま》の|数歌《かずうた》を|一生懸命《いつしやうけんめい》に|謡《うた》ひあげ、
|黒姫《くろひめ》『|国治立大神《くにはるたちのおほかみ》|様《さま》、|豊国姫大神《とよくにひめのおほかみ》|様《さま》、|日《ひ》の|出神《でのかみ》|様《さま》、|竜宮乙姫《りうぐうのおとひめ》|様《さま》、|木花咲耶姫大神《このはなさくやひめのおほかみ》|様《さま》、|何卒《なにとぞ》|一時《いちじ》も|早《はや》く|高山彦《たかやまひこ》に|会《あ》はして|下《くだ》さい。|次《つぎ》には|此《この》|両人《ふたり》に|憑《つ》いて|居《ゐ》る|悪霊《あくれい》を|速《すみやか》に|退却《たいきやく》させて|下《くだ》さいませ。|憐《あは》れな|者《もの》で|御座《ござ》いますから……』
|此《この》|時《とき》|闇《くら》がりにガサリガサリと|何者《なにもの》かの|足音《あしおと》が|聞《きこ》え、|傍《かたはら》の|岩窟《がんくつ》の|中《なか》へ|這入《はい》る|様《やう》な|気配《けはい》がした。
(大正一一・九・一二 旧七・二一 北村隆光録)
第四章 |歌垣《うたがき》〔九五四〕
|三人《さんにん》は|暗《やみ》の|中《なか》に|端坐《たんざ》し、|寝《ね》つきもならず、|夜《よ》の|明《あ》けるのをもどかしげに|待《ま》つてゐる。|忽《たちま》ち|傍《かたはら》の|岩窟《がんくつ》より『ウーウー』と|唸《うな》り|声《ごゑ》が|始《はじ》まつた。|夜《よ》は|既《すで》に|丑満《うしみつ》の|刻《こく》である。|森羅万象《しんらばんしやう》|寂《せき》として|声《こゑ》なく、|蚯蚓《みみず》の|鳴声《なきごゑ》さへ|聞《きこ》える|静《しづ》かさであつた。そこへ|岩窟《がんくつ》の|中《なか》からウーウーと|唸《うな》り|声《ごゑ》が|聞《きこ》えて|来《き》たのだから、|一層《いつそう》|三人《さんにん》の|耳《みみ》には|厳《きび》しく|感応《こた》へるのであつた。|岩窟《がんくつ》の|中《なか》より|何者《なにもの》の|声《こゑ》とも|知《し》れず、
『エヽヽえぐたらしい|婆《ばば》アだの。|折角《せつかく》ここ|迄《まで》|連《つ》れて|来《き》た|力《ちから》になつた|孫公《まごこう》を|途中《とちう》に|見《み》すてて、|自由《じいう》|行動《かうどう》を|執《と》るとは、|実《じつ》にえぐい|悪魔《あくま》のやうな|精神《せいしん》だ。|此《この》|世《よ》の|閻魔《えんま》が|現《あら》はれて、|汝《なんぢ》が|襟首《えりくび》|取《と》つ|掴《つか》み、|千仭《せんじん》の|谷間《たにま》へ|放《はう》り|込《こ》んでやらうか。
オヽヽ|鬼《おに》か|大蛇《をろち》か|曲神《まがかみ》か。|譬方《たとへがた》なき|人非人《にんぴにん》、|恋《こひ》の|暗路《やみぢ》に|踏《ふ》み|迷《まよ》ひ、はるばる|年《とし》を|老《と》つてから、|亜弗利加三界《アフリカさんがい》|迄《まで》、|犬《いぬ》が|乞食《こじき》の|後《あと》を|嗅《かぎ》つけたやうにやつて|来《く》るとは、さてもさても|見下《みさ》げ|果《は》てたる|婆《ばば》アぢやなア。
カヽヽ|烏《からす》の|様《やう》な|黒《くろ》い|顔《かほ》を|致《いた》して、|何程《なにほど》|秋波《しうは》を|送《おく》つても、|高山彦《たかやまひこ》は|見向《みむ》きも|致《いた》そまいぞや。かけがへのない|大事《だいじ》の|男《をとこ》だと、|其《その》|方《はう》は|思《おも》うて|居《ゐ》るだらうが、|高山彦《たかやまひこ》は|天空海濶《てんくうかいくわつ》、|汝《なんぢ》が|如《ごと》き|婆《ばば》アには|一瞥《いちべつ》もくれず、|到《いた》る|処《ところ》に|青山《せいざん》あり、|行先《ゆくさき》や|吾《わが》|家《や》で、|世界《せかい》の|女《をんな》は|残《のこ》らず|吾《わが》|妻《つま》と、|極端《きよくたん》に|慈善《じぜん》|主義《しゆぎ》を|発揮《はつき》し|居《ゐ》る、|気《き》の|多《おほ》い|男《をとこ》の|愛《あい》を、|独占《どくせん》しようと|思《おも》つても|駄目《だめ》だよ。|早《はや》く、カヽヽ|改心《かいしん》|致《いた》して|帰《かへ》つたがよからうぞ。
キヽヽ|気味《きみ》の|悪《わる》い|此《この》|谷間《たにあひ》で、|夜《よ》を|明《あ》かし、|月照彦神《つきてるひこのかみ》に|散々《さんざん》|脂《あぶら》を|絞《しぼ》られて|苦《くる》しむよりも、|一時《いつとき》も|早《はや》く|自転倒島《おのころじま》へ|立帰《たちかへ》れ。|神《かみ》は|嘘《うそ》は|申《まを》さぬぞよ』
|黒姫《くろひめ》は|首《くび》を|傾《かたむ》け|乍《なが》ら……どことはなしに、|最前《さいぜん》の|孫公《まごこう》の|声《こゑ》に|能《よ》く|似《に》てゐるなア……と|半信半疑《はんしんはんぎ》の|念《ねん》に|駆《か》られてゐる。
|黒姫《くろひめ》『コレコレ、|何者《なにもの》の|悪戯《いたづら》か|知《し》らぬが、|此《この》|暗《くら》い|夜《よ》さに、そんなせうもない|言霊《ことたま》は|止《や》めて|貰《もら》ひませうかい。アタ|面白《おもしろ》くない、|悪神《あくがみ》さま|迄《まで》が、|高山彦《たかやまひこ》|々々々《たかやまひこ》と|云《い》つて、|此《この》|黒姫《くろひめ》をからかふのだな。|随分《ずゐぶん》|柄《がら》の|悪《わる》い|厄雑神《やくざがみ》だなア』
|房公《ふさこう》『モシ|黒姫《くろひめ》さま、お|前《まへ》さまはそれだから|可《い》かぬと|云《い》ふのだ。|神様《かみさま》に|口答《くちごた》へをするといふ|事《こと》がありますか』
|黒姫《くろひめ》『|黙《だま》つてゐなさい、|子供《こども》の|口出《くちだ》しする|所《ところ》ぢやありませぬ。|黒姫《くろひめ》には|勿体《もつたい》なくも、|竜宮《りうぐう》の|乙姫《おとひめ》|様《さま》が、|御守護《ごしゆご》|遊《あそ》ばして|御座《ござ》るのだから、|天地《てんち》の|間《あひだ》に|恐《おそ》るべき|者《もの》は、|国治立命《くにはるたちのみこと》|様《さま》|只《ただ》|一方《ひとかた》|計《ばか》りだ。|其《その》|他《た》の|神々《かみがみ》は|皆《みな》|枝神《えだがみ》さまだ。|其《その》|国治立命《くにはるたちのみこと》|様《さま》の|片腕《かたうで》になつて|御働《おはたら》き|遊《あそ》ばす|竜宮《りうぐう》の|乙姫《おとひめ》|様《さま》の……ヘン|生宮《いきみや》で|御座《ござ》りますぞ。|何《なん》ぼ|暗《くら》いと|云《い》つても、|余《あま》り|見違《みちがひ》をして|貰《もら》ひますまいかい……なア|竜宮《りうぐう》の|乙姫《おとひめ》|様《さま》』
|房公《ふさこう》『ヘーン、|永《なが》らく|竜宮《りうぐう》の|乙姫《おとひめ》さまを|聞《き》きませなんだが、|一体《いつたい》どこへ|行《い》つて|御座《ござ》つたのですか』
|黒姫《くろひめ》『|竜宮《りうぐう》の|乙姫《おとひめ》|様《さま》の|肉体《にくたい》は|即《すなは》ち|黒姫《くろひめ》だ。|黒姫《くろひめ》の|霊《みたま》は|即《すなは》ち|竜宮《りうぐう》の|乙姫《おとひめ》|様《さま》だ。それが|分《わか》らぬやうな|事《こと》で、|三五教《あななひけう》の|信者《しんじや》と|言《い》へますか』
|芳公《よしこう》『|私《わし》は|又《また》、|竜宮《りうぐう》の|乙姫《おとひめ》|様《さま》はモツト|立派《りつぱ》な|御方《おかた》で、|其《その》|御神力《ごしんりき》の|億万分《おくまんぶん》の|一《いち》|程《ほど》|黒姫《くろひめ》|様《さま》に|霊《れい》が|憑《うつ》つてゐるのだと|思《おも》うてゐるのだが、|黒姫《くろひめ》|様《さま》の|霊《みたま》が|全部《ぜんぶ》|竜宮《りうぐう》の|乙姫《おとひめ》と|聞《き》いては、|最早《もはや》|乙姫《おとひめ》|様《さま》を|尊敬《そんけい》する|気《き》がなくなつて|了《しま》つた。|何《なん》だ|阿呆《あはう》らしい、こんな|事《こと》なら、はるばる|可愛《かあい》い|女房子《にようばうこ》を|棄《す》ててここ|迄《まで》|従《つ》いて|来《く》るのだなかつたになア。|孫公《まごこう》はあんな|目《め》にあはされて、くたばるし、|黒姫《くろひめ》さまの|箔《はく》はサツパリ|剥《は》げるし、|岩窟《がんくつ》の|中《なか》からは|怪体《けつたい》な|声《こゑ》がするし、|夜《よ》は|追々《おひおひ》と|更《ふ》けて|来《く》る。あゝ|是《これ》|程《ほど》ガツカリした|事《こと》があらうか、……なア|房公《ふさこう》、|夜《よ》が|明《あ》けたら、お|前《まへ》と|二人《ふたり》|孫公《まごこう》の|坐《すわ》つてる|所《ところ》へ|往《い》つて|助《たす》け|起《おこ》し、|三人《さんにん》は|元《もと》の|聖地《せいち》へ|帰《かへ》らうぢやないか。|本当《ほんたう》に|馬鹿《ばか》らしい|目《め》にあうたものだ』
|黒姫《くろひめ》『コレコレ|両人《りやうにん》、お|前《まへ》は|此《この》|黒姫《くろひめ》をまだ|諒解《れうかい》してゐないのだなア。|千変万化《せんぺんばんくわ》、|変幻出没《へんげんしゆつぼつ》|極《きは》まりなき|竜宮《りうぐう》の|乙姫《おとひめ》|様《さま》の|御神力《ごしんりき》を|御存《ごぞん》じないのだなア。|抑《そもそ》も|竜宮《りうぐう》の|乙姫《おとひめ》|様《さま》は|一朝《いつてう》|時《とき》を|得《う》れば、|天地《てんち》の|間《あひだ》に|蟠《わだかま》り、|風雨雷電《ふううらいでん》を|起《おこ》し、|地震《ぢしん》をゆらし、|大国治立尊《おほくにはるたちのみこと》の|御神業《ごしんげふ》の|片腕《かたうで》に|御立《おた》ち|遊《あそ》ばすのだ。|今日《こんにち》は|乙姫《おとひめ》|殿《どの》の|蟄伏《ちつぷく》|時代《じだい》だ。|時《とき》|到《いた》らざれば、|蠑〓《いもり》、|蚯蚓《みみず》と|身《み》を|潜《ひそ》めて、|所在《あらゆる》|天下《てんか》の|辛酸《しんさん》を|嘗《な》め、|救世済民《きうせいさいみん》の|神業《しんげふ》に|奉仕《ほうし》してゐるのだよ』
|芳公《よしこう》『ヘーン、|高山彦《たかやまひこ》のハズバンドをはるばる|捜《さが》しに|廻《まは》るのが、それが|救世済民《きうせいさいみん》の|御神業《ごしんげふ》と|申《まを》すのですか。|何《なん》と|妙《めう》な|救世済民《きうせいさいみん》もあつたものですなア』
|黒姫《くろひめ》『エヽ|喧《やかま》しい。ホヤホヤ|信者《しんじや》の|身《み》を|以《もつ》て、|宣伝使《せんでんし》の|心中《しんちう》が|分《わか》つて|堪《たま》るものか。|高山彦《たかやまひこ》|様《さま》は|因縁《いんねん》の|身魂《みたま》、|此《この》|身魂《みたま》と|夫婦《ふうふ》|揃《そろ》はねば、|経《たて》と|緯《よこ》との|仕組《しぐみ》は|成就《じやうじゆ》しませぬぞや。それだから、|黒姫《くろひめ》がはるばると|高山彦《たかやまひこ》|様《さま》を|探《たづ》ねて|来《き》たのだよ。|男旱《をとこひでり》もない|世《よ》の|中《なか》に、|高山彦《たかやまひこ》さまの|様《やう》な|老人《としより》を、|恋《こひ》や|色《いろ》で、どうして|斯《こ》んな|所《ところ》|迄《まで》|探《たづ》ねて|来《く》る|者《もの》がありませうか。|何程《なにほど》|色《いろ》の|黒《くろ》い|黒姫《くろひめ》だとて、ヤツパリ|女《をんな》は|女《をんな》だ。|捨《す》てる|神《かみ》もあれば|拾《ひろ》ふ|神《かみ》もあるのだから、|男《をとこ》が|欲《ほ》しければ、|高山《たかやま》さまだなくつても、|沢山《たくさん》にありますぞや。|人民《じんみん》と|云《い》ふ|者《もの》は|直《すぐ》そんな|所《ところ》へ|心《こころ》を|廻《まは》すから|困《こま》つて|了《しま》ふ。チツとお|前《まへ》も|凡夫心《ぼんぷこころ》を|捨《す》てなされ。|大神様《おほかみさま》が|笑《わら》つてゐらつしやいますよ。
|君《きみ》ならで|誰《たれ》をか|知《し》らぬ|吾《わが》|心《こころ》
|高山彦《たかやまひこ》の|夫《つま》ぞ|志《し》たはし……オツホヽヽヽ』
|房公《ふさこう》『ヘーン、どないでも|理屈《りくつ》はつくものですなア。イヤもう|貴女《あなた》の|能弁《のうべん》にはサツパリ|寒珍《かんちん》|仕《つかまつ》りました。イヒヽヽヽ』
|岩窟《がんくつ》の|中《なか》より、
『イヽヽ【い】や|広《ひろ》き|筑紫《つくし》の|島《しま》を|捜《さが》す|共《とも》
|高山彦《たかやまひこ》の|影《かげ》だにもなし。
【う】ろうろとそこら|辺《あた》りをうろついて
しまひの|果《はて》に|糞《ばば》|掴《つか》 むなり。
【あ】こがれてここ|迄《まで》|来《きた》る|黒姫《くろひめ》も
アフンと|致《いた》して|泡《あわ》を|吹《ふ》くなり。
|遠国《【ゑ】んごく》を|股《また》にかけたる|黒姫《くろひめ》も
|詮方《せんかた》なさに|涙《なみだ》こぼしつ。
【オ】ースタリヤ|竜宮島《りうぐうじま》に|渡《わた》り|来《き》て
|玉《たま》も|取《と》らずに|帰《かへ》る|憐《あは》れさ。
【か】しましき|高姫司《たかひめつかさ》に|従《したが》ひて
|竹生《ちくぶ》の|島《しま》に|玉《たま》をさがしつ。
|【来】《き》て|見《み》れば|真《ま》つ|暗《くら》やみの|岩《いは》の|前《まへ》
|怪《あや》しき|声《ごゑ》の|聞《きこ》え|来《く》る|哉《かな》。
|暗《【く】ら》がりに|何《なに》か|知《し》らぬが|物《もの》を|云《い》ふ
|狐狸《きつねたぬき》と|迷《まよ》ふ|黒姫《くろひめ》。
|【怪】《け》しからぬ|悪《わる》い|心《こころ》を|発揮《はつき》して
|孫公《まごこう》さまを|見殺《みごろ》しにする。
|今夜《【こ】んや》こそ|一《ひと》つ|脂《あぶら》を|取《と》つてやろ
|二《ふた》つの|眼《まなこ》|白黒姫《しろくろひめ》の|顔《かほ》。
【さ】てもさても|迷《まよ》ひ|切《き》つたる|黒姫《くろひめ》の
|恋《こひ》の|暗《やみ》をば|如何《いか》に|晴《は》らさむ。
|白波《【し】らなみ》を|押分《おしわ》け|来《きた》る|四人連《よにんづ》れ
|黒姫司《くろひめつかさ》の|口車《くちぐるま》にて。
【ス】タスタと|此《こ》れの|谷間《たにま》を|登《のぼ》り|来《く》る
|黒姫《くろひめ》の|面《つら》|青《あを》く|見《み》えけり。
|瀬《【せ】》を|早《はや》み|岩《いは》にせかるる|谷川《たにがは》の
|別《わか》れて|末《すゑ》にあはれぬとぞ|思《おも》ふ。
|空《【そ】ら》を|行《ゆ》く|雲《くも》を|眺《なが》めて|思《おも》ふかな
|高山彦《たかやまひこ》の|峰《みね》はいかにと。
|立替《【た】てかへ》ぢや|立直《たてなほ》しぢやと|其処《そこ》ら|中《ぢう》
|立《た》つて|騒《さわ》いだ|黒姫《くろひめ》の|尻《しり》。
|千早振《【ち】はやふる》|神代《かみよ》も|聞《き》かず|黒姫《くろひめ》の
|黒《くろ》き|心《こころ》は|顔《かほ》に|出《で》にけり。
|月照《【つ】きてる》の|神《かみ》の|命《みこと》の|鎮《しづ》まりし
|此《この》|岩穴《いはあな》の|恐《おそ》ろしきかな。
|【手】《て》に|合《あ》はぬ|黒姫《くろひめ》なれど|岩窟《がんくつ》の
|神《かみ》の|足《あし》には|踏《ふ》まれてぞ|行《ゆ》く。
【ト】コトンの|改心《かいしん》|出来《でき》るそれ|迄《まで》は
|高山彦《たかやまひこ》は|姿《すがた》|見《み》せまい。
|何事《【な】にごと》もおのれの|我《が》では|行《ゆ》かぬもの
|高姫司《たかひめつかさ》の|改心《かいしん》を|見《み》よ。
|西東《【に】しひがし》|北《きた》や|南《みなみ》と|駆《かけ》まはり
|玉《たま》を|捜《さが》した|心《こころ》|愚《おろ》かさ。
|烏羽玉《【ぬ】ばたま》の|暗《やみ》より|暗《くら》き|黒姫《くろひめ》が
|心《こころ》の|空《そら》を|照《てら》せたきもの。
【ね】んごろに|月照彦《つきてるひこ》が|説《と》きさとす
|道《みち》を|畏《かしこ》み|守《まも》れ|三人《みたり》|等《ら》。
【の】ど|元《もと》を|過《す》ぎて|熱《あつ》さを|忘《わす》るてふ
|黒姫司《くろひめつかさ》の|心《こころ》|果敢《はか》なさ。
|春《【は】る》すぎて|夏《なつ》すぎ|秋《あき》の|夕間《ゆふま》ぐれ
|衣《ころも》の|袖《そで》に|露《つゆ》ぞこぼるる。
|久方《【ひ】さかた》の|高天原《たかあまはら》を|立出《たちい》でて
つくしの|島《しま》に|何《なに》をさまよふ。
【フ】サの|国《くに》|北山村《きたやまむら》の|館《やかた》をば
|後《あと》に|眺《なが》めて|黒姫《くろひめ》の|空《そら》。
|黒姫《くろひめ》が|心《こころ》の|倉《くら》を|打《うち》あけて
|見《み》れば|大蛇《をろち》がうごなはりゐる。
|怪《け》しからぬ|変性女子《へんじやうによし》の|行《おこな》ひを
|何《なに》も|知《し》らずに|吐《ほざ》く|黒姫《くろひめ》。
|屁理屈《【へ】りくつ》を|朝《あさ》な|夕《ゆふ》なにまくし|立《た》て
|人《ひと》に|嫌《きら》はれ|国《くに》を|立《た》ち|去《さ》る。
|惚々《【ほ】れぼれ》と|高山彦《たかやまひこ》に|目尻《めじり》|下《さ》げ
|涎《よだれ》をくつた|昔《むかし》|恋《こひ》しき。
【ま】すかがみ|見《み》むと|思《おも》へば|黒姫《くろひめ》の
|心《こころ》の|塵《ちり》を|吹《ふ》き|払《はら》へかし。
|【身】《み》はここに|心《こころ》は|高山彦《たかやまひこ》の|前《まへ》へ
|朝《あさ》な|夕《ゆふ》なに|神《かみ》を|忘《わす》れて。
【む】つかしき|其《その》|面付《つらつき》は|何《なん》の|事《こと》
|高山彦《たかやまひこ》に|嫌《きら》はれぬよに。
|【目】《め》をあけて|己《おの》が|姿《すがた》を|省《かへり》みよ
|高山《たかやま》だとて|愛想《あいさう》つかさむ。
【も】ろもろの|心《こころ》の|罪《つみ》を|吐《は》き|出《だ》して
|神《かみ》の|御前《みまへ》に|宣《の》り|直《なほ》しせよ』
|黒姫《くろひめ》は|稍《やや》|景色《けしき》ばみ|乍《なが》ら、|声《こゑ》する|方《かた》に|向《むか》つて、
『【や】やこしい|暗《やみ》の|中《なか》から|声《こゑ》|出《だ》して
|口《くち》|騒《さわ》がしく|何《なに》|吐《ほざ》くらむ。
【い】ろいろと|人《ひと》の|欠点《あら》をば|並《なら》べ|立《た》て
それで|気《き》のすむ|奴《やつ》は|曲神《まがかみ》。
うかうかと|聞《き》いてはならぬ|房公《ふさこう》よ
|芳公《よしこう》|腹《はら》の|据《す》ゑ|所《どころ》ぞや。
|幽霊《【ゆ】うれい》のやうに|取《と》りとめないことを
|岩《いは》に|隠《かく》れて|吐《ほざ》く|曲神《まがかみ》。
【え】ら|相《さう》に|月照彦《つきてるひこ》の|真似《まね》をして
|囀《さへづ》る|奴《やつ》は|孫公《まごこう》なるらむ。
|【世】《よ》の|中《なか》に|恐《おそ》ろしい|者《もの》はない|程《ほど》に
おどしの|利《き》かぬ|黒姫《くろひめ》を|知《し》れ。
|来年《【ら】いねん》のこと|言《い》や|鬼《おに》が|笑《わら》へ|共《ども》
|吾《わが》|行《ゆ》く|末《すゑ》を|見《み》て|居《ゐ》るがよい。
|理屈《【り】くつ》|計《ばか》り|吐《ほざ》く|舌《した》こそ|達者《たつしや》でも
|身《み》の|行《おこな》ひのそはぬ|孫公《まごこう》。
|累卵《【る】ゐらん》の|危《あやふ》き|身《み》とは|知《し》らずして
|黒姫《くろひめ》さまを|嬲《なぶ》る|身知《みし》らず。
|恋慕《【れ】んぼ》した|高山彦《たかやまひこ》のこと|計《ばか》り
|意地《いぢ》くね|悪《わる》い|孫公《まごこう》が|言《い》ふ。
【ろ】くでない|其《その》|託宣《たくせん》はやめてくれ
|耳《みみ》がいとなる|腹《はら》が|立《た》つぞよ』
|岩窟《がんくつ》の|中《なか》より、|一層《いつそう》|大《おほ》きな|声《こゑ》で、
『【わ】からない|奴《やつ》は|黒姫《くろひめ》|計《ばか》りなり
|暗《やみ》に|迷《まよ》ふも|無理《むり》であるまい。
【ゐ】つまでも|恋《こひ》の|虜《とりこ》となり|果《は》てて
|此処迄《ここまで》|来《き》たか|可哀相《かはいさう》な|婆《ばば》。
【う】つつにも|夢《ゆめ》にも|高山々々《たかやまたかやま》と
|吐《ほざ》く|言葉《ことば》を|聞《き》くぞうたてき。
【ゑ】ん|切《き》つた|男《をとこ》の|尻《しり》を|追《お》ひまはし
アフンとやせむアフリカの|野《の》で。
【を】に|大蛇《をろち》|狼《おほかみ》さやぐアフリカの
|荒野《あらの》さまよふ|恋《こひ》の|虜《とりこ》が。
ウツフヽヽ、イツヒヽヽ
|是《こ》れからは|月照彦《つきてるひこ》も|宿《やど》を|替《か》へ
|火《ひ》の|都《みやこ》へと|進《すす》みゆかなむ。
|黒姫《くろひめ》よ|胸《むね》に|手《て》をあて|思案《しあん》せよ
|高山彦《たかやまひこ》は|独身《ひとり》でないぞよ。
|房公《ふさこう》よ|早《はや》く|心《こころ》を|改《あらた》めて
|黒姫《くろひめ》さまを|思《おも》ひ|切《き》るべし。
|芳公《よしこう》よよしや|天地《てんち》は|沈《しづ》む|共《とも》
|黒姫司《くろひめつかさ》に|従《つ》いちやならぬぞ。
|孫公《まごこう》はモウ|今頃《いまごろ》は|火《ひ》の|国《くに》の
|高山彦《たかやまひこ》の|側《そば》にゐるだろ。
|高山彦《たかやまひこ》|神《かみ》の|命《みこと》は|黒姫《くろひめ》の
|様《やう》な|女房《にようばう》は|好《す》かれまいぞや。
|淡雪《あはゆき》の|若《わか》やる|胸《むね》をそだたきて
|玉手《たまで》さしまきいねます|高山彦《たかやまひこ》。
|黒姫《くろひめ》がこんな|所《ところ》を|眺《なが》めたら
さぞや|目玉《めだま》を|白黒《しろくろ》にせむ。
まなじりをつけ|上《あ》げ|口《くち》を|尖《とが》らして
|鼻息《はないき》あらく|熱《ねつ》を|吹《ふ》くらむ。
いざさらば|月照彦《つきてるひこ》もこれよりは
|黒姫司《くろひめつかさ》をみすててぞゆく。
|小島別《こじまわけ》|教司《をしへつかさ》の|其《その》|昔《むかし》
あらはれましし|岩窟《いはや》|恋《こひ》しき。
|古《いにしへ》の|建日《たけひ》の|別《わけ》の|御跡《おんあと》を
|後《あと》にみすてて|行《ゆ》くぞ|悲《かな》しき。
|孫公《まごこう》はさぞ|今頃《いまごろ》は|面白《おもしろ》く
|可笑《をか》しき|歌《うた》をうたひ|居《を》るらむ。
アハヽヽヽ、オホヽヽヽ、と|笑《わら》ひこけ
エヘヽヽ、イヒヽ、|今《いま》ここを|去《さ》る。
|暗《やみ》の|夜《よ》に|鳴《な》かぬ|烏《からす》の|声《こゑ》きけば
あはれぬ|先《さき》の|高山彦《たかやまひこ》ぞ|恋《こひ》しき。
|黒姫《くろひめ》がいかに|心《こころ》を|焦《こが》す|共《とも》
|高根《たかね》の|花《はな》よ|手折《たを》られもせず。
|今頃《いまごろ》は|高山彦《たかやまひこ》は|聖地《せいち》にて
|伊勢屋《いせや》の|娘《むすめ》と|酒《さけ》を|呑《の》むらむ。
|如意宝珠《によいほつしゆ》|紫玉《むらさきだま》は|云《い》ふも|更《さら》
|黄金《こがね》の|玉《たま》は|愛想《あいさう》つかして。
|黒姫《くろひめ》に|肱鉄砲《ひぢでつぱう》をくはしつつ
|自転倒島《おのころじま》にかくれましけり』
と|云《い》つた|限《き》り、|足音《あしおと》を|忍《しの》ばせ、|何処《どこ》ともなく|行《い》きて|了《しま》ひけり。
|黒姫《くろひめ》『コレ|房《ふさ》、|芳《よし》の|両人《りやうにん》、|今《いま》の|歌《うた》を|聞《き》きましたか、|怪《け》しからぬ|事《こと》を|云《い》ふぢやないかい』
|芳公《よしこう》『|何《なん》だか|知《し》りませぬが、|実《じつ》に|感心《かんしん》な|歌《うた》でしたよ、あの|神《かみ》さまの|云《い》つた|通《とほ》りですもの。|余程《よほど》|黒姫《くろひめ》さまも、|神界《しんかい》|迄《まで》ローマンスが|話《はなし》の|種《たね》になつてるとみえますな、アツハヽヽヽ』
|黒姫《くろひめ》『オホヽヽヽ』
(大正一一・九・一二 旧七・二一 松村真澄録)
第五章 |対歌《たいか》〔九四六〕
|房公《ふさこう》は|今《いま》の|歌《うた》に|引出《ひきだ》され|自分《じぶん》も|歌心《うたごころ》になつたと|見《み》え、|黒白《あやめ》も|分《わ》かぬ|闇《やみ》の|中《なか》から|腰折《こしを》れを|謡《うた》ひ|出《だ》したり。
『|房公《ふさこう》がいざこれよりは|歌《うた》をよむ
|黒姫《くろひめ》さまよ|確《しつか》りと|聞《き》け。
|野《の》も|山《やま》も|青《あを》く|茂《しげ》れる|筑紫野《つくしの》に
|黒《くろ》い|女《をんな》が|一人《ひとり》|立《た》つなり。
|如意宝珠《によいほつしゆ》|玉《たま》の|所在《ありか》を|探《たづ》ねたる
|高姫司《たかひめつかさ》は|今《いま》やいづくぞ。
|黄金《わうごん》の|玉《たま》の|所在《ありか》を|探《たづ》ねたる
|黒姫《くろひめ》さまは|今《いま》は|男《をとこ》|探《たづ》ねつ。
|高山《たかやま》の|彦《ひこ》の|夫《をつと》にはじかれて
|恥《はぢ》も|知《し》らずに|探《さが》し|来《く》るかな。
|黒姫《くろひめ》を|竜宮《りうぐう》さまの|乙姫《おとひめ》と
|思《おも》うて|来《き》たが|馬鹿《ばか》らしきかな。
|吾《わが》|妻《つま》のお|鉄《てつ》は|嘸《さぞ》や|今頃《いまごろ》は
|空《そら》を|眺《なが》めて|待《ま》ち|佗《わび》るらむ。
|吾《わが》|妻《つま》よお|鉄《てつ》よしばし|待《ま》つてくれ
|愛《あい》の|土産《みやげ》を|持《も》ちかへるまで。
|黒姫《くろひめ》が|夫《をつと》を|思《おも》ふ|真心《まごころ》を
|汝《なれ》に|移《うつ》して|喜《よろこ》ばせて|見《み》む。
|房公《ふさこう》も|遥々《はるばる》|海《うみ》を|渡《わた》り|来《き》て
|妻《つま》のみ|恋《こひ》しくなりにけるかな。
こんな|事《こと》|計《ばか》り|云《い》ふのぢやなけれども
|黒姫《くろひめ》の|御魂《みたま》|憑《うつ》りしためぞ。
|神様《かみさま》の|道《みち》を|忘《わす》れて|妻《つま》ばかり
|思《おも》ふ|心《こころ》の|愚《おろか》しきかな。
|村肝《むらきも》の|心《こころ》を|妻《つま》に|筑紫潟《つくしがた》
|深《ふか》き|心《こころ》を|不知火《しらぬひ》の|汝《なれ》。
|如何《いか》にせむ|海洋万里《かいやうばんり》の|波《なみ》の|上《うへ》
|翼《つばさ》なき|身《み》のもどかしきかな。
|黒姫《くろひめ》の|甘《あま》き|言葉《ことば》に|乗《の》せられて
|知《し》らぬ|他国《たこく》で|苦労《くらう》するかな。
|今頃《いまごろ》は|四尾《よつを》の|山《やま》も|紅葉《もみぢ》して
|錦《にしき》の|宮《みや》は|栄《さか》えますらむ。
|言依別《ことよりわけ》|神《かみ》の|命《みこと》の|御姿《おんすがた》
|目《め》に|見《み》る|如《ごと》く|思《おも》はるるかな。
|杢助《もくすけ》の|神《かみ》の|司《つかさ》の|御姿《みすがた》を
|思《おも》ひ|出《だ》しても|心《こころ》|勇《いさ》みぬ。
|黒姫《くろひめ》のけげんな|顔《かほ》を|見《み》るたびに
|浮世《うきよ》は|厭《いや》になりにけるかな。
|来《き》て|見《み》れば|真暗《まつくら》がりの|岩《いは》の|前《まへ》
|怪《あや》しき|神《かみ》の|声《こゑ》ぞ|聞《きこ》ゆる。
|黒姫《くろひめ》が|負《ま》けず|劣《おと》らず|腰折《こしを》れの
|歌《うた》よみし|時《とき》ぞをかしかりけり。
|芳公《よしこう》よ|貴様《きさま》も|一《ひと》つ|歌《うた》を|詠《よ》め
|歌《うた》は|心《こころ》の|闇《やみ》を|晴《は》らすぞ。
|闇々《やみやみ》と|闇《やみ》の|帳《とばり》に|包《つつ》まれて
|黒姫《くろひめ》さまの|黒顔《くろがほ》も|見《み》えず。
アハヽヽヽ、オホヽヽホツホ、ウフヽヽヽ、
エヘヽヽ、イヒヽ|笑《わら》ひ|置《お》くなり』
|芳公《よしこう》は|負《ま》けぬ|気《き》になつてまた|駄句《だく》り|出《だ》したり。
『|芳公《よしこう》が|宣《の》る|言霊《ことたま》をよつく|聞《き》け
|玉《たま》をころばす|様《やう》な|音色《ねいろ》を。
|一条《ひとすぢ》や|二条繩《ふたすぢなは》でゆかぬ|奴《やつ》
|三筋《みすぢ》の|糸《いと》で|縛《しば》る|黒姫《くろひめ》。
|孫公《まごこう》は|今《いま》はどうして|居《ゐ》るだらう
|心《こころ》にかかる|闇《やみ》の|世《よ》の|中《なか》。
|是《これ》|程《ほど》の|無情《むじやう》な|女《をんな》と|知《し》らずして
ついて|来《き》たのを|悔《くや》しくぞ|思《おも》ふ。
|惟神《かむながら》|神《かみ》の|教《をしへ》に|離《はな》れたる
|黒姫《くろひめ》こそは|曲神《まがかみ》ならむ。
|曲神《まがかみ》の|醜《しこ》の|猛《たけ》びを|恐《おそ》れつつ
|間近《まぢか》の|曲《まが》を|知《し》らざりし|吾《われ》。
|三五《あななひ》の|誠《まこと》の|道《みち》を|教《をし》へ|行《ゆ》く
|神《かみ》の|司《つかさ》が|船《ふね》を|盗《ぬす》みつ。
|此《この》|船《ふね》は|老朽《おいく》ちたれど|高山彦《たかやまひこ》の
|神《かみ》の|命《みこと》を|乗《の》するなるらむ。
|闇《くら》がりの|臭《くさ》い|谷間《たにま》に|包《つつ》まれて
|息《いき》はづまして|暮《く》らす|苦《くる》しさ。
|是《これ》よりは|黒姫《くろひめ》さまに|暇《ひま》くれて
|房公《ふさこう》と|共《とも》に|国《くに》へ|帰《かへ》らむ。
|房公《ふさこう》よ|思《おも》ひ|切《き》るのは|今《いま》なるぞ
|乙姫《おとひめ》さまの|現《あら》はれぬうち。
|竜宮《りうぐう》の|乙姫《おとひめ》さまの|生宮《いきみや》と
はしやがれては|堪《たま》らざらまし。
さア|早《はや》く|黒姫《くろひめ》さまに|立別《たちわか》れ
|立《た》ち|去《さ》り|行《ゆ》かむ|火《ひ》の|神国《かみくに》へ。
|逸早《いちはや》くこれの|谷間《たにま》を|立《た》ち|出《い》でて
|高山彦《たかやまひこ》の|注進《ちうしん》やせむ。
|注進《ちうしん》を|聞《き》いて|高山《たかやま》|驚《おどろ》いて
|姿《すがた》かくせば|嘸《さぞ》|面白《おもしろ》からむ。
さうならば|黒姫《くろひめ》|如何《いか》に|騒《さわ》ぐとも
|後《あと》の|祭《まつり》の|詮術《せんすべ》もなし。
アハヽヽヽ、オホヽヽヽツホ、ウフヽヽヽ
エヽイヽ|加減《かげん》に|止《や》めて|置《お》くなり』
|黒姫《くろひめ》は|闇《やみ》の|中《なか》より|声《こゑ》を|張《は》り|上《あ》げて、
『|房芳《ふさよし》の|二人《ふたり》の|奴等《やつら》よつく|聞《き》け
|竜宮様《りうぐうさま》の|神《かみ》の|教《をしへ》を。
|痩犬《やせいぬ》のやうな|面《つら》してつべこべと
|囀《さへづ》る|姿《すがた》|臍《へそ》をよるなり。
|何事《なにごと》も|知《し》らざる|癖《くせ》に|黒姫《くろひめ》の
|小言《こごと》|云《い》うとは|怪《け》しからぬ|奴《やつ》。
|黒姫《くろひめ》は|誠《まこと》の|神《かみ》の|生宮《いきみや》ぞ
|思《おも》ひ|違《ちが》ひをするな|房芳《ふさよし》。
|房芳《ふさよし》よ【よし】や|天地《てんち》はかへるとも
|高山彦《たかやまひこ》は|黒姫《くろひめ》の|夫《つま》。
|高山《たかやま》の|吾《わが》|背《せ》の|命《みこと》に|出遇《であ》ひなば
|汝《なれ》が|無礼《ぶれい》を|告《つ》げて|聞《き》かせむ。
|独身《ひとりみ》の|黒姫《くろひめ》なりと|侮《あなど》つて
|後《あと》で|後悔《こうくわい》するな|両人《りやうにん》。
|後悔《こうくわい》は|先《さき》に|立《た》たぬと|云《い》ふことを
よくわきまへて|口《くち》を|慎《つつし》め。
|口《くち》|計《ばか》り|千年先《せんねんさき》に|生《うま》れ|来《き》て
|吐《ほざ》く|曲神《まがみ》の|愚《おろか》しきかな。
これ|位《くらゐ》|分《わか》らぬ|奴《やつ》が|世《よ》にあろか
|黒姫《くろひめ》さへも|愛想《あいさう》つかしぬ。
|如何《いか》|程《ほど》に|侮辱《ぶじよく》されてもおとなしく
|忍《しの》ぶは|神《かみ》の|道《みち》|知《し》ればこそ。
|神《かみ》の|道《みち》|捨《す》てた|事《こと》なら|黒姫《くろひめ》は
|赦《ゆる》しちや|置《お》かぬ|房芳《ふさよし》の|奴《やつ》。
|房芳《ふさよし》よ|早《はや》く|心《こころ》を|立《た》て|直《なほ》し
|誠《まこと》の|道《みち》に|歩《あゆ》みかへせよ。
|黒姫《くろひめ》の|言葉《ことば》がお|気《き》に|入《い》らぬなら
お|前《まへ》の|勝手《かつて》にするがよからう。
|待《ま》て|暫《しば》し|今《いま》|両人《りやうにん》に|逃《に》げられちや
|此《この》|黒姫《くろひめ》も|一寸《ちよつと》|迷惑《めいわく》』
|房公《ふさこう》『さうか|否《いな》|一寸《ちよつと》|迷惑《めいわく》なさるかな
|火《ひ》の|都《みやこ》では|大《だい》の|迷惑《めいわく》。
|高山《たかやま》と|黒姫司《くろひめつかさ》の|争《あらそ》ひを
|今《いま》|見《み》るやうに|思《おも》はれにけり。
|黒姫《くろひめ》が|死《し》ぬの|走《はし》るの|暇《ひま》くれと
|悋気《りんき》の|声《こゑ》を|聞《き》くぞうたてき。
うたうたと|闇《やみ》の|帳《とばり》に|包《つつ》まれて
|明《あか》りの|立《た》たぬ|歌《うた》を|詠《よ》むかな。
|疑《うたが》ひの|雲霧《くもきり》|晴《は》れて|黒姫《くろひめ》の
|心《こころ》の|空《そら》の|光《ひか》る|時《とき》まつ。
|松《まつ》が|枝《え》に|鶴《つる》の|巣籠《すごも》る|悦《よろこ》びを
|愛子《あいこ》の|姫《ひめ》が|先《さき》にせしめつ。
サア|締《し》めたもつと|締《し》めたと|両人《りやうにん》が
|四畳半《よでふはん》にてしめりなきする。
|此《この》|処《ところ》|黒姫《くろひめ》さまが|見付《みつ》けたら
|嘸《さぞ》しめじめと|湿《しめ》るだらうに。
|遥々《はるばる》と|探《たづ》ねて|来《き》たのに|夫《つま》の|家《いへ》は
|入《はい》つちやならぬと|戸《と》をしめの|家《うち》。
|面白《おもしろ》いあゝをかしいと|手《て》を|拍《う》つて
|笑《わら》ふ|時《とき》こそ|待《ま》たれけるかな。
アハヽヽヽウフヽヽヽヽヽオホヽヽヽ
|縁起《えんぎ》でもない|云《い》ひ|草《ぐさ》ぞ|聞《き》く』
|芳公《よしこう》は|又《また》もや|闇《くら》がりから|謡《うた》ひ|出《だ》したり。
『ほのぼのと|夜《よ》は|明《あ》け|近《ちか》くなりにけり
|早立《はやた》ち|往《ゆ》かむ|火《ひ》の|国《くに》|都《みやこ》へ。
やがて|又《また》|烏《からす》や|雀《すずめ》が|鳴《な》くだらう
|烏《からす》ばかりか|泣《な》く|人《ひと》がある。
まごまごと|此処《ここ》にかうしちや|居《を》られない
|孫公《まごこう》さまは|先《さき》にいただらう。
|孫公《まごこう》の|後《あと》おつかけて|進《すす》む|身《み》は
|黒姫《くろひめ》さまが|邪魔《じやま》になるなり。
|顔《かほ》ばかり|黒姫《くろひめ》さまと|思《おも》うたに
|心《こころ》|黒《くろ》しと|知《し》らず|居《ゐ》たりし。
|何事《なにごと》も【よし】と|呑《の》み|込《こ》む|男達《をとこだて》
【よし】や|此《この》|身《み》は|朽果《くちは》つるとも。
|頼《たの》まれた|事《こと》は|後《あと》へは|引《ひ》かぬ|俺《おれ》
されど|手《て》をひく|黒姫《くろひめ》|計《ばか》りは。
|手《て》を|引《ひ》くといつてもこれの|山坂《やまさか》を
|手《て》を|曳《ひ》くのではない|黒姫《くろひめ》|婆《ば》さまよ。
|手《て》を|曳《ひ》いて|登《のぼ》り|度《た》いとは|思《おも》へども
|生憎《あひにく》お|滝《たき》が|居《を》らぬ|悲《かな》しさ。
お|滝殿《たきどの》|嘸《さぞ》|今頃《いまごろ》は|膝坊主《ひざばうず》
かかへて|此方《こなた》を|眺《なが》め|居《を》るらむ』
|房公《ふさこう》は|又《また》もや|歌《うた》ひ|出《だ》したり。
『のろけないこりや|芳公《よしこう》よあんまりだ
|俺《おれ》もお|鉄《てつ》が|国《くに》に|居《を》るぞよ。
|色白《いろじろ》いお|鉄《てつ》のやうな|妻《つま》なれば
のろけても【よし】ほめるのも|芳《よし》。
さりながらお|滝《たき》のやうな|蜥蜴面《とかげづら》
ちと|心得《こころえ》よ|見《み》つともないぞよ』
|芳公《よしこう》『|何《なに》|吐《ぬか》す|蜥蜴面《とかげつら》とは|誰《たれ》に|云《い》うた
|鼬面《いたちづら》した|嬶《かか》を|持《も》ちつつ。
|柿《かき》の|木《き》に|雨蛙《あまかへる》|奴《め》が|登《のぼ》るよな
でかいお|鉄《てつ》を|夢《ゆめ》に|楽《たの》しめ。
|鉄《てつ》のよな|黒《くろ》い|顔《かほ》した|女房《にようばう》を
【|房《ふさ》いく】なとは|思《おも》はぬか|惚《ほ》れた|弱《よわ》みで』
|黒姫《くろひめ》『|矢釜《やかま》しい|雲雀《ひばり》のやうな|二人《ふたり》|共《ども》
もう|夜《よ》が|明《あ》けた|手水《てうづ》つかへよ。
さア|早《はや》く|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》し
|朝餉《あさげ》すまして|出立《しゆつたつ》をせよ。
|無花果《いちじゆく》の|木《こ》の|実《み》はここにあるけれど
|雲雀《ひばり》に|食《く》はす|無花果《いちじゆく》はなし。
|惟神《かむながら》|神《かみ》の|御霊《みたま》の|幸《さち》はひて
|此《この》|無花果《いちじゆく》は|生命《いのち》|助《たす》ける。
|麦《むぎ》の|穂《ほ》があれば|雲雀《ひばり》もよからうが
|実《げ》に|気《き》の|毒《どく》な|次第《しだい》なりけり。
|兵糧《ひやうらう》さへ|沢山《たくさん》あれば|山坂《やまさか》を
|越《こ》えるも|安《やす》し|神《かみ》の|御恵《みめぐみ》。
|御恵《みめぐみ》に|外《はづ》れた|二人《ふたり》のいぢらしさ
|空腹《ひもじ》かるらむ|房《ふさ》|芳《よし》|憐《あは》れ。
|憐《あは》れをば|知《し》らぬ|吾《われ》にはあらねども
|余《あま》りの|事《こと》に|呆《あき》れ|果《は》てけり。
|高山《たかやま》の|吾《わが》|背《せ》の|君《きみ》が|待《ま》つと|聞《き》く
|火《ひ》の|国《くに》|都《みやこ》へ|急《いそ》ぐ|楽《たの》しさ。
|黒姫《くろひめ》は|兵糧《ひやうらう》もたんと|持《も》つて|居《ゐ》る
|一宿《いちじく》|二宿《にじく》|三宿《さんじく》のため』
|房公《ふさこう》『これや|婆《ば》さま|一《ひと》つ|俺《おれ》にも|分配《ぶんぱい》せ
|余《あま》り|冥加《みやうが》が|悪《わる》からうぞや。
|桃太郎《ももたらう》が|鬼ケ島《おにがしま》へと|往《ゆ》く|時《とき》も
|団子《だんご》|半《はん》ぶんやつた|事《こと》|思《おも》へ』
|黒姫《くろひめ》『|犬《いぬ》なれば|半分《はんぶん》|位《くらゐ》やろも|知《し》れぬ
|欲《ほ》しくばワンワン|鳴《な》くがよからう』
|芳公《よしこう》『ワンワンと|犬《いぬ》の|鳴《な》き|真似《まね》するよりも
|雉《きじ》の|真似《まね》してケンケンと|云《い》ふ』
|黒姫《くろひめ》『ケンケンと|吐《ほざ》く|雉《きじ》にはやりはせぬ
|猿《ましら》のやうにキヤツキヤツと|鳴《な》け』
|房公《ふさこう》『|馬鹿《ばか》にすな|婆《ばば》の|癖《くせ》して|桃太郎《ももたらう》の
|気取《きど》りで|居《ゐ》るとは|片腹痛《かたはらいた》い』
|黒姫《くろひめ》『|片腹《かたはら》が|痛《いた》いと|云《い》ふのは|嘘《うそ》だらう
|両腹《りやうはら》す【いた】、|喰《く》【いた】からうに。
|痛々《いたいた》しその|面付《つらつき》を|見《み》るにつけ
|無花果《いちじゆく》の|皮《かは》でもやり|度《たく》ぞある』
|芳公《よしこう》『|食物《しよくもつ》は|神《かみ》の|与《あた》へと|聞《き》くからは
|其《その》|無花果《いちじゆく》は|俺《おれ》の|物《もの》だよ。
|黒姫《くろひめ》が|独占《どくせん》しようとはそりや|無理《むり》だ
|天則違反《てんそくゐはん》の|罪《つみ》に|問《と》ふぞよ』
|黒姫《くろひめ》『|先取権《せんしゆけん》この|黒姫《くろひめ》にあるものを
|掠奪《りやくだつ》するならして|見《み》るも|芳《よし》。
|掠奪《りやくだつ》の|罪《つみ》を|重《かさ》ねて|天国《てんごく》の
きつき|戒《いまし》め|喰《くら》ふ|憐《あは》れさ』
|房公《ふさこう》『|喰《くら》ふのが|憐《あは》れさと|云《い》つた|黒姫《くろひめ》が
|持《も》つた|無花果《いちじゆく》|喰《くら》ふ|嬉《うれ》しさ』
|黒姫《くろひめ》『|房《ふさ》、|芳《よし》の|二《ふた》つの|雲雀《ひばり》に|暇《ひま》とられ
|早《はや》|日《ひ》の|神《かみ》は|昇《のぼ》りましけり。
カアカアと|鳴《な》いた|烏《からす》に|与《あた》へよか
|雲雀《ひばり》に|喰《く》はすを|惜《を》しく|思《おも》へば。
さり|乍《なが》ら|此《この》|雲雀《ひばり》とて|天地《あめつち》の
みたまと|思《おも》へば|捨《す》てて|置《お》かれず。
さアやらう|一《ひと》つ|喰《くら》へと|投《な》げ|出《だ》して
|社会《しやくわい》|奉仕《ほうし》の|善業《ぜんげふ》つまむ』
|房公《ふさこう》『|有難《ありがた》う|黒姫《くろひめ》さまの|奮発《ふんぱつ》で
いちじく|二《に》じく|三《さん》じくを|喰《く》ふ』
|芳公《よしこう》『|味《あぢ》のよい|無花果《いちじゆく》だけは|黒姫《くろひめ》が
|喰《くら》うた|後《あと》のかすをくれけり。
かすでさへ|是《これ》|程《ほど》|甘《うま》い|無花果《いちじゆく》は
|上等物《じやうとうもの》はいかに|甘《うま》からう』
|黒姫《くろひめ》『オホヽヽヽ』
|房《ふさ》、|芳《よし》|一度《いちど》に、
『アハヽヽヽ』
|三人《さんにん》は|無花果《いちじゆく》に|機嫌《きげん》をなほし、|筑紫ケ岳《つくしがだけ》を|宣伝歌《せんでんか》を|謡《うた》ひながら|登《のぼ》り|行《ゆ》く。
(大正一一・九・一二 旧七・二一 加藤明子録)
第六章 |蜂《はち》の|巣《す》〔九四七〕
|高山彦《たかやまひこ》の|後《あと》を|追《お》ひ  |遥々《はるばる》|来《きた》りし|黒姫《くろひめ》は
|房公《ふさこう》、|芳公《よしこう》を|伴《ともな》ひて  |筑紫ケ岳《つくしがだけ》を|登《のぼ》り|行《ゆ》く
|細《ほそ》き|谷道《たにみち》|右左《みぎひだり》  |水成岩《すゐせいがん》の|此処《ここ》|彼処《かしこ》
|頭《あたま》を|抬《もた》げて|居《ゐ》る|中《なか》を  |足《あし》に|力《ちから》を|入《い》れ|乍《なが》ら
エイヤエイヤと|声《こゑ》|揃《そろ》へ  |一歩々々《ひとあしひとあし》|登《のぼ》り|行《ゆ》く
ウンウンウンと|呻《うめ》きつつ  |芳公《よしこう》は|歌《うた》を|謡《うた》ひ|出《だ》す。
|芳公《よしこう》『あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |御霊《みたま》|幸《さち》はひましまして
|此《この》|急坂《きふはん》をやすやすと  |登《のぼ》らせ|給《たま》へ|純世姫《すみよひめ》
ウントコドツコイ|息苦《いきぐる》し  ハアハアハアハア スウスウスウ
すべて|山坂《やまさか》|登《のぼ》るときや  |向《むか》ふを|眺《なが》めちやいかないぞ
|一歩々々《ひとあしひとあし》|俯向《うつむ》いて  |梯子《はしご》を|登《のぼ》る|心地《ここち》して
|進《すす》めば|何時《いつ》しか|絶頂《ぜつちやう》に  ウントコドツコイ|着《つ》くだらう
とは|云《い》ふもののきつい|坂《さか》  お|嬶《かあ》の○に|上《のぼ》るとは
チツとは|骨《ほね》がある|様《やう》だ  |足《あし》はモカモカして|来《き》だす
ハアハアドツコイ、ウントコナ  |腰《こし》の|辺《あた》りがドツコイシヨ
|如何《どう》やらハアハア|変梃《へんてこ》に  フウスウフウスウ、ドツコイシヨ
なつて|来《き》たでは|無《な》いかいな  |高山彦《たかやまひこ》へ|登《のぼ》るのは
|余程《よつぽど》|骨《ほね》が|折《を》れるわい  ハアハアこれこれハアハア、ドツコイシヨ
|黒姫《くろひめ》さまよ|聞《き》きなされ  |高山彦《たかやまひこ》と|云《い》ふ|峠《たうげ》
|中々《なかなか》|登《のぼ》り|難《にく》いぞや  にくいといつてもお|前《まへ》さまは
ハアハアフウフウ|可愛《かあ》いかろ  |可愛《かあい》い|男《をとこ》にドツコイシヨ
ハアハアフウフウあふのだもの  お|前《まへ》は|前途《ぜんと》に|楽《たの》しみが
ウントコドツコイぶら|下《さが》る  |私《わたし》は|汗《あせ》がぶら|下《さが》る
こんな|峠《たうげ》と|知《し》つたなら  ウントコドツコイ|初《はじ》めから
|私《わたし》は|来《く》るのぢやなかつたに  |胸突坂《むねつきざか》の|嶮《けは》しさよ
|水成岩《すゐせいがん》や|火成岩《くわせいがん》  |片麻岩《へんまがん》かは|知《し》らねども
|本当《ほんたう》に|堅《かた》い|石道《いしみち》だ  |皆《みな》さまドツコイ|気《き》をつけよ
ウツカリ|滑《すべ》つて|向脛《むかふずね》を  ウントコドツコイ|擦《す》り|剥《む》いちや
|自転倒島《おのころじま》にドツコイシヨ  |残《のこ》して|置《お》いた|女房子《にようばうこ》に
あはせる|顔《かほ》が|無《な》い|程《ほど》に  |房公《ふさこう》さまも|気《き》をつけよ
ウントコドツコイ、ハアハアフウ  |芳公《よしこう》さまも|気《き》をつける
|黒姫《くろひめ》さまはドツコイシヨ  |高山峠《たかやまたうげ》を|登《のぼ》るのだ
|仮令《たとへ》|向脛《むこずね》ドツコイシヨ  |剥《む》いたところで|得心《とくしん》だ
|現在《げんざい》|夫《をつと》の|名《な》の|様《やう》な  |筑紫ケ岳《つくしがだけ》のドツコイシヨ
|高山峠《たかやまたうげ》をフウフウフウ  |這《は》うて|居《を》るのぢや|無《な》いかいな
|何程《なにほど》|恋《こひ》しいドツコイシヨ  |高山彦《たかやまひこ》でも|此《この》|様《やう》な
きつい|険《さか》しい|心《こころ》では  |黒姫《くろひめ》さまも|困《こま》るだらう
ウントコドツコイ|気《き》をつけよ  そこには|尖《とが》つた|石《いし》がある
|筑紫《つくし》の|国《くに》|迄《まで》やつて|来《き》て  ドツコイ|怪我《けが》しちや|堪《たま》らない
|朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも  |月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも
|仮令《たとへ》|大地《だいち》は|沈《しづ》むとも  |此《この》|坂《さか》|越《こ》えねばならぬのか
|黒姫《くろひめ》さまのドツコイシヨ  ハアハアフウフウ フウスウスウ
|恋《こひ》の|犠牲《ぎせい》に|使《つか》はれて  |踏《ふ》みも|習《なら》はぬ|山坂《やまさか》を
|登《のぼ》り|行《ゆ》く|身《み》の|馬鹿《ばか》らしさ  ホンに|思《おも》へば|前《さき》の|世《よ》で
ウントコドツコイ|汗《あせ》が|出《で》る  |如何《いか》なる|事《こと》の|罪《つみ》せしか
|因果《いんぐわ》は|廻《めぐ》る|小車《をぐるま》の  |小車《をぐるま》ならぬ|石車《いしぐるま》
|沢山《たくさん》|転《ころ》がつてドツコイシヨ  |其処《そこ》ら|四辺《あたり》に|待《ま》つて|居《ゐ》る
ウントコドツコイ|暑《あつ》い|事《こと》ぢや  |汗《あせ》と|脂《あぶら》を|絞《しぼ》り|出《だ》し
|蝉《せみ》にはミンミン|囀《さへづ》られ  |頭《あたま》はガンガン|照《てら》されて
ウントコドツコイ あゝ|偉《えら》い  こんなつまらぬ|事《こと》は|無《な》い
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |叶《かな》はぬ|時《とき》の|神頼《かみだの》み
|国魂神《くにたまがみ》の|純世姫《すみよひめ》  |月照彦《つきてるひこ》の|神様《かみさま》よ
|何卒《どうぞ》|助《たす》けて|下《くだ》さンせ  |弱音《よわね》を|吹《ふ》くぢや|無《な》けれども
こんだけ|辛《え》らうては|堪《たま》らない  どこぞ|此処《ここ》らの|木蔭《こかげ》をば
|求《もと》めて|一服《いつぷく》しようぢやないか  ウントコドツコイ|黒姫《くろひめ》さま
も|一《ひと》つ|無花果《いちじゆく》|出《だ》しとくれ  |喉《のど》がひつつきさうになつて|来《き》た
ハアハアフウフウ フウスウスウ  こンな|苦労《くらう》をするのんも
|元《もと》を|訊《ただ》せばドツコイシヨ  みんなお|前《まへ》の|為《た》めぢやぞえ
|皺苦茶婆《しわくちやば》さまのドツコイシヨ  |分際《ぶんざい》|忘《わす》れて|高山《たかやま》の
|峠《たうげ》に|登《のぼ》らうとする|故《ゆゑ》に  |俺《おれ》|迄《まで》|迷惑《めいわく》するのんだ
ウントコドツコイ|俺《おれ》のみか  |家《うち》のお|嬶《かか》も|困《こま》つてる
|皇大神《すめおほかみ》の|御《おん》|為《た》めに  |御用《ごよう》に|立《た》つならドツコイシヨ
どんな|苦労《くらう》も|厭《いと》やせぬ  |思《おも》へば|思《おも》へば|馬鹿《ばか》らしい
|千里《せんり》|二千里《にせんり》|三千里《さんぜんり》  |荒波《あらなみ》|越《こ》えてドツコイシヨ
|筑紫《つくし》の|島《しま》まで|導《みちび》かれ  ハアハアフウフウ あゝ|暑《あつ》い
|汗《あせ》が|滲《にじ》んで|目《め》が|見《み》えぬ  つまらぬ|事《こと》になつて|来《き》た
ウントコドツコイ|黒姫《くろひめ》さま  |一寸《ちよつと》|一服《いつぷく》しようぢやないか
|何程《なにほど》あせつて|見《み》た|処《とこ》が  |二日《ふつか》や|三日《みつか》や|十日《とをか》では
|火《ひ》の|国都《くにみやこ》へ|行《ゆ》かれない  |叔母《をば》が|死《し》んでも|食休《じきやす》み
ドツコイシヨードツコイシヨー  |暑中《しよちう》|休暇《きうか》の|流行《はや》る|世《よ》に
|休《やすみ》なしとは|胴慾《どうよく》ぢや  |私《わし》もどうやら|屁古垂《へこた》れた
|何卒《どうぞ》|一服《いつぷく》さして|呉《く》れ  それそれ|向《むか》ふの|木《き》の|枝《えだ》に
|甘《うま》さうな|果実《このみ》がなつて|居《ゐ》る  あれ|見《み》てからは|堪《たま》らない
もう|一歩《ひとあし》も|行《ゆ》けませぬ  あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ  オツト|危《あぶ》ない|石車《いしぐるま》
スツテの|事《こと》で|向脛《むかふづね》を  |傷《そこな》ひやぶる|処《とこ》だつた
これも|矢張《やつぱ》り|神様《かみさま》の  |深《ふか》き|尊《たふと》き|御守護《おんまもり》
|此処《ここ》で|休《やす》んで|行《ゆ》きませう  |御足《おみあ》の|達者《たつしや》な|御方等《おかたら》は
|何卒《どうぞ》お|先《さき》へ|行《い》つてくれ  |欲《よく》にも|得《え》にも|代《か》へられぬ
|生命《いのち》あつての|物種《ものだね》だ  |行《い》きつきバツタリ|焼糞《やけくそ》だ
ハアハアフウフウ フウスウスウ  |如何《どう》やら|呼吸《いき》がきれかけた
|汗《あせ》も|膏《あぶら》も|乾《かわ》き|果《は》て  もう|一滴《いつてき》も|出《で》ない|様《やう》に
カンピンタンになりかけた  ウントコドツコイ|休《やす》まうか』
|云《い》ひつつドスンと|腰《こし》|下《おろ》し  |青葉《あをば》の|上《うへ》に|横《よこ》たはる
|黒姫《くろひめ》、|房公《ふさこう》|両人《りやうにん》は  |渡《わた》りに|舟《ふね》と|喜《よろこ》んで
|木蔭《こかげ》に|立寄《たちよ》り|息《いき》|休《やす》め  |流《なが》るる|汗《あせ》を|拭《ぬぐ》ひける。
|三人《さんにん》は|汗《あせ》を|拭《ぬぐ》ひ|乍《なが》ら、|油蝉《あぶらぜみ》の|鳴《な》く|木蔭《こかげ》に|息《いき》を|休《やす》めて|居《ゐ》る。|巨大《きよだい》な|青蜂《あをばち》|等《など》が|盛《さかん》に|襲撃《しふげき》する。フツと|空《そら》を|見上《みあ》ぐれば|大《おほ》きな|蜂《はち》の|巣《す》がぶら|下《さが》つて|居《ゐ》る。|三人《さんにん》は『コリヤ|大変《たいへん》!』と|俄《にはか》に|立《た》ち|上《あが》り|坂道《さかみち》さして|逃《に》げ|出《いだ》す。|青蜂《あをばち》の|群《むれ》は|敵《てき》の|襲来《しふらい》と|見誤《みあやま》つたと|見《み》え、|両方《りやうはう》の|羽翼《うよく》に|極力《きよくりよく》|馬力《ばりき》を|掛《か》け、ブーンと|唸《うな》りを|立《た》てて|三人《さんにん》の|頭《あたま》を|目蒐《めが》けて|襲撃《しふげき》する。|三人《さんにん》は|幸《さいは》ひ|笠《かさ》を|被《かぶ》つて|居《ゐ》たので|蜂《はち》の|剣《けん》を|免《まぬが》れ、|生命《いのち》|辛々《からがら》|二三丁《にさんちやう》|許《ばか》り|思《おも》はず|知《し》らず|坂道《さかみち》を|駆登《かけのぼ》つて|了《しま》つた。|其処《そこ》には|高《たか》い|山《やま》にも|似《に》ず|美《うつく》しい|清水《せいすゐ》がチヨロチヨロと|流《なが》れて|居《ゐ》る。
|芳公《よしこう》『ハアハアハアフウフウフウ……あゝ|有難《ありがた》い。こんな|結構《けつこう》な|清水《しみづ》が|此処《ここ》に|湧《わ》いて|居《ゐ》るとは|心《こころ》づかなかつた。|丸《まる》で|夢《ゆめ》に|牡丹餅《ぼたもち》を|貰《もら》つた|様《やう》なものだ』
と|云《い》ひながら|清水《しみづ》を|両手《りやうて》に|掬《むす》んで|甘《うま》さうに|何杯《なんばい》も|何杯《なんばい》も|飲《の》み|乾《ほ》す。|房公《ふさこう》も|次《つ》いで|水《みづ》を|飲《の》む。
|房公《ふさこう》『あゝ|有難《ありがた》い、|助《たす》け|舟《ぶね》に|遭《あ》うた|様《やう》だ。|瑞《みづ》の|御霊《みたま》の|純世姫《すみよひめ》|様《さま》、|生命《いのち》の|清水《しみづ》を|与《あた》へて|頂《いただ》きました。|之《これ》で|瑞《みづ》の|御霊《みたま》の|御恩《ごおん》も|適切《てきせつ》に|分《わか》らして|頂《いただ》きました。あゝ|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》』
|芳公《よしこう》『|黒姫《くろひめ》さま、|貴女《あなた》も|一杯《いつぱい》お|飲《あが》りなさつては|如何《どう》ですか、|随分《ずゐぶん》|喉《のど》が|乾《かわ》いたでせう』
|黒姫《くろひめ》は|苦《にが》りきつた|顔《かほ》をし|乍《なが》ら、
|黒姫《くろひめ》『お|前《まへ》は|本末《ほんまつ》|自他《じた》|公私《こうし》の|区別《くべつ》を|知《し》つて|居《ゐ》ますか。|天地《てんち》|転倒《てんたう》したお|前《まへ》の|行《おこな》ひ、そんな|水《みづ》は|仮令《たとへ》|渇《かつ》しても|飲《の》みませぬワイ』
|芳公《よしこう》『これは|又《また》|妙《めう》な|事《こと》を|承《うけたま》はります。|何《なに》がそれ|程《ほど》お|気《き》に|入《い》らないのですか』
|黒姫《くろひめ》『|長幼《ちやうえう》|序《じよ》あり、と|云《い》ふ|事《こと》を|忘《わす》れましたか。|何故《なぜ》|長者《ちやうじや》たる|黒姫《くろひめ》に|先《さき》に|水《みづ》を|勧《すす》めて|其《その》|後《あと》を|飲《の》みなさらぬ。|若《わか》い|者《もの》が|先《さき》へ|飲《の》んで|其《その》|後《あと》を|飲《の》めとはチツと|御無礼《ごぶれい》ではありませぬか』
|房公《ふさこう》『なアんとむつかしい|婆《ばば》んつだ|喃《のう》。|後《あと》から|飲《の》んでも|前《さき》から|飲《の》んでも|水《みづ》の|味《あぢ》に|変《かは》りはあるまい。こんな|処《とこ》まで|杓子定規《しやくしぢやうぎ》をふりまはされて|堪《たま》つたものぢやない。|黒姫《くろひめ》さま、お|前《まへ》さまは|部下《ぶか》を|可愛《かあい》がると|云《い》ふ|至仁至愛《みろく》の|心《こころ》に|背《そむ》いて|居《ゐ》ますな。そんな|事《こと》を|仰《あふ》せられると|俺達《おれたち》の|方《はう》にも|随分《ずゐぶん》|言《い》ひ|分《ぶん》がありますよ。|昔《むかし》シオン|山《ざん》に|戦《たたか》ひのあつた|時《とき》、|言霊別命《ことたまわけのみこと》の|部下《ぶか》に|国治別《くにはるわけ》と|云《い》ふ|大将《たいしやう》があつた。|其《その》|時《とき》|数多《あまた》の|部下《ぶか》が|敵軍《てきぐん》の|為《た》めに|重傷《ぢうしやう》を|負《お》ひ|喉《のど》が|乾《かわ》いて|困《こま》つて|居《を》つた。|国治別《くにはるわけ》の|大将《たいしやう》も|同《おな》じく|重傷《ぢうしやう》を|負《お》ひ|水《みづ》を|飲《の》みたがつて|居《ゐ》たが、|手近《てぢか》に|水《みづ》が|無《な》いので|部下《ぶか》の|臣卒《しんそつ》がやつとの|事《こと》で|谷川《たにがは》に|下《くだ》り、|帽子《ばうし》に|水《みづ》を|盛《も》つて|国治別《くにはるわけ》の|前《まへ》へ|持《も》つて|来《き》た。|其《その》|時《とき》に|沢山《たくさん》の|部下《ぶか》の|臣卒《しんそつ》は|其《その》|水《みづ》を|眺《なが》めて|羨《うらや》ましさうな|顔色《かほいろ》をして|居《ゐ》た。|国治別神《くにはるわけのかみ》はそれを|見《み》て|自分《じぶん》の|飲《の》み|度《た》い|水《みづ》も|飲《の》まず、|部下《ぶか》の|臣卒《しんそつ》に|飲《の》ましてやれといつて|其《その》|場《ば》に|討死《うちじに》をなされたと|云《い》ふ|事《こと》だ。|人《ひと》の|頭《かしら》にならうと|思《おも》へば|其《その》|位《くらゐ》な|慈愛《じあい》の|心《こころ》が|無《な》くては|部下《ぶか》は|育《そだ》ちませぬよ。お|前《まへ》さまは|永《なが》らく|法螺《ほら》を|吹《ふ》いて|宣伝《せんでん》をして|居《ゐ》るが、|真味《しんみ》の|部下《ぶか》が|一人《ひとり》も|出来《でき》ぬので|不思議《ふしぎ》と|思《おも》つて|居《ゐ》たが、|矢張《やつぱり》|精神上《せいしんじやう》の|大欠陥《だいけつかん》がある。そんな|利己主義《われよし》で|宣伝《せんでん》が|出来《でき》ますか。|神《かみ》は|愛《あい》だとか、|人《ひと》を|救《すく》ふのが|神《かみ》だとか、|何程《なにほど》|立派《りつぱ》に|口先《くちさき》で|喋《しやべ》り|立《た》てても|事実《じじつ》が|伴《ともな》はねば|駄目《だめ》ですよ。お|前《まへ》さまは|有言不実行《いうげんふじつかう》だからそれで|吾々《われわれ》も|嫌《いや》になつて|了《しま》ふのだ。|水臭《みづくさ》いと|云《い》ふのはお|前《まへ》さまの|事《こと》だ。|水《みづ》の|一杯《いつぱい》|位《くらゐ》でゴテゴテ|云《い》ふのだから|堪《たま》らないわ』
|芳公《よしこう》『オイ|房公《ふさこう》、もうそんな|水臭《みづくさ》い|話《はなし》は【よし】にせい。|下《くだ》らぬ|水掛《みづかけ》|喧嘩《げんくわ》になつちや|瑞《みづ》の|御霊様《みたまさま》に|対《たい》して|申訳《まをしわけ》がないからな。【みず】|知《し》らずの|仲《なか》ぢやあるまいし、もうこんな|争《あらそ》ひは|綺麗《きれい》|薩張《さつぱり》と|水《みづ》に|流《なが》さうぢやないか』
|黒姫《くろひめ》『|能《よ》うまあツベコベと|揚足《あげあし》をとる|男《をとこ》だなあ。|妾《わし》が|不用意《ふようい》の|間《ま》に|口《くち》が|辷《すべ》つたと|云《い》つて、それ|程《ほど》|短兵急《たんぺいきふ》に|攻《せ》めると|云《い》ふのはチツとお|前《まへ》さまも|量見《りやうけん》があまり|良《よ》くはありますまい。|人《ひと》に|叱言《こごと》を|言《い》ふのなら|先《ま》づ|自分《じぶん》の|身《み》を|省《かへり》み、|行《おこな》ひを|考《かんが》へてからなさいませや』
と|白《しろ》い|歯《は》を|出《だ》し|頤《あご》を|前《まへ》にニユウと|出《だ》し、|二《ふた》ツ|三《みつ》ツしやくつてみせた。
|房公《ふさこう》『あゝ、まだこれから|此《この》|急坂《きふはん》を|随分《ずゐぶん》【てく】らねばなるまいから、|喧嘩《けんくわ》は|此処等《ここら》できり|上《あ》げておかうかい。さア|御一同《ごいちどう》|発足《はつそく》|致《いた》しませう』
(大正一一・九・一二 旧七・二一 北村隆光録)
(昭和一〇・六・一〇 王仁校正)
第七章 |無花果《いちじゆく》〔九四八〕
|房公《ふさこう》は|坂《さか》を|登《のぼ》りつつ|又《また》|歌《うた》ひ|出《だ》したり。
『|思《おも》へば|昔《むかし》|其《その》|昔《むかし》  |日《ひ》の|出神《でのかみ》や|祝姫《はふりひめ》
|面那芸彦《つらなぎひこ》の|通《とほ》りたる  |筑紫ケ岳《つくしがだけ》の|山路《やまみち》を
|黒姫《くろひめ》さまの|御蔭《おんかげ》で  スタスタ|登《のぼ》る|床《ゆか》しさよ
|房公《ふさこう》さまはドツコイシヨ  |日《ひ》の|出神《でのかみ》と|云《い》ふ|格《かく》だ
|芳公《よしこう》さまはドツコイシヨ  |面那芸彦《つらなぎひこ》と|云《い》ふ|役《やく》だ
|黒姫《くろひめ》さまの|御為《おんため》に  こんな|山坂《やまさか》|登《のぼ》らされ
ホンに|誠《まこと》に|面《つら》の|皮《かは》  |晒《さら》した|様《やう》なものだらう
|黒姫《くろひめ》さまは|祝姫《はふりひめ》  |神《かみ》の|命《みこと》の|宣伝使《せんでんし》と
|思《おも》うて|見《み》てもドツコイシヨ  |皺苦茶婆《しわくちやばば》アぢやはづまない
|祝《はふり》の|姫《ひめ》のドツコイシヨ  やうな|御若《おわか》い|女《をんな》なら
|少々《せうせう》|小言《こごと》を|言《い》はれても  |余《あま》り|苦《くる》しうはなけれ|共《ども》
|何《なん》ぢや|知《し》らぬが|腹《はら》が|立《た》つ  |黒姫《くろひめ》さまのウントコシヨ
|方《はう》から|吹来《ふきく》る|風《かぜ》もいや  いやいや|乍《なが》ら|従《つ》いて|来《き》た
ハアハアフウフウフウスウスウ  おれは|何《なん》たる|因果《いんぐわ》だろ
こんな|山坂《やまさか》|登《のぼ》るとこ  うちのお|鉄《てつ》が|見《み》たならば
ウントコドツコイ|悔《くや》むだろ  さぞや|歎《なげ》くであろ|程《ほど》に
|天道《てんだう》さまもドツコイシヨ  |聞《きこ》えませぬと|取《と》りついて
ウントコドツコイ|泣《な》くだらう  |思《おも》へば|思《おも》へばいぢらしい
お|鉄《てつ》のことが|苦《く》になつて  |足《あし》も|碌々《ろくろく》|進《すす》みやせぬ
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |神《かみ》の|御霊《みたま》の|幸《さち》はひて
お|鉄《てつ》の|体《からだ》も|恙《つつが》なく  |子供《こども》も|丈夫《ぢやうぶ》でスクスクと
|生立《おいた》ちまして|房公《ふさこう》が  |無事《ぶじ》に|凱旋《がいせん》するまでは
どうぞ|守《まも》つて|下《くだ》さんせ  ハアハアスウスウ|汗《あせ》が|出《で》る
|最前《さいぜん》|飲《の》んだ|清水《しみず》|奴《め》が  |頭《あたま》の|上《うへ》まで|上《のぼ》りつめ
|薬鑵頭《やかんあたま》がもり|出《だ》した  |汗《あせ》が|流《なが》れて|目《め》が|痛《いた》い
ドツコイドツコイ|膝坊主《ひざばうず》が  キヨクキヨク|笑《わら》うて|来《き》よつたぞ
|何《なに》が|可笑《をか》して|笑《わら》ふのだ  |黒姫《くろひめ》さまが|一心《いつしん》に
|高山峠《たかやまたうげ》を|登《のぼ》るのが  ドツコイ|可笑《をか》して|笑《わら》ふのか
|足《あし》の|裏《うら》にはドツコイシヨ  |痛《いた》いと|思《おも》うたらウントコシヨ
|大《おほ》きな|豆《まめ》が|出来《でき》たよだ  |何程《なにほど》マメながよいとても
|足《あし》の|豆《まめ》では|真平《まつぴら》だ  |黒姫《くろひめ》さまに|豆狸《まめだぬき》
|守護《しゆご》|致《いた》してこんな|事《こと》  |俺《おれ》にさしたぢやあるまいか
こらこら|芳公《よしこう》シツカリせ  お|前《まへ》の|足《あし》は|如何《どう》なつた
どしても|俺《おれ》は|歩《ある》けない  |向《むか》ふに|一《ひと》つの|楽《たのし》みが
|黒姫《くろひめ》さまのドツコイシヨ  |心《こころ》の|様《やう》にあるなれば
|痛《いた》い|足《あし》でも|引摺《ひきず》つて  |進《すす》み|行《ゆ》く|甲斐《かひ》あるけれど
|何《なん》の|当途《あてど》もなき|涙《なみだ》  |汗《あせ》と|脂《あぶら》を|絞《しぼ》られて
これがどうして|堪《たま》らうか  ウントコドツコイドツコイシヨ
そこに|尖《とが》つた|石《いし》がある  |気《き》を|付《つ》けなされよ|黒姫《くろひめ》さま
もしや|怪我《けが》でもしたなれば  |高山《たかやま》さまにドツコイシヨ
|会《あ》はすお|顔《かほ》があるまいぞ  |怪我《けが》ない|中《うち》に|気《き》をつけて
ソロソロ|登《のぼ》つて|行《ゆ》かしやんせ  さはさり|乍《なが》ら|孫公《まごこう》は
どこにどうして|居《ゐ》るだろか  |猿《さる》の|小便《せうべん》【き】にかかる
かかる|処《ところ》へ|悠々《いういう》と  |現《あら》はれ|来《きた》る|五人連《ごにんづれ》
|三人《みたり》の|姿《すがた》を|一目《ひとめ》|見《み》て  コリヤ|堪《たま》らぬと|逃《に》げ|出《いだ》す
|怪《あや》しと|跡《あと》を|眺《なが》むれば  |光《ひか》つた|物《もの》が|落《お》ちてゐる
|矢庭《やには》に|中《なか》をあけて|見《み》りや  |黒姫《くろひめ》さまが|朝夕《あさゆふ》に
|尋《たづ》ね|廻《まは》つたドツコイシヨ  |黄金《こがね》の|玉《たま》が|入《い》れてある
それ|計《ばつか》りか|沢山《たくさん》の  お|金《かね》がチヤラチヤラなつてゐる
|名《な》さへ|分《わか》らぬ|甘《うま》さうな  |果物《くだもの》|迄《まで》も|丁寧《ていねい》に
ドツコイドツコイ|三人《さんにん》の  お|方《かた》おあがりなされよと
|言《い》はぬ|許《ばか》りの|顔《かほ》してる  |見《み》るより|三人《みたり》は|喜《よろこ》んで
|先《さき》を|争《あらそ》ひ|鷲掴《わしづか》み  グツと|呑《の》み|込《こ》む|其《その》|甘《うま》さ
あゝあゝヤツパリ|夢《ゆめ》だつた  |歩《ある》き|乍《なが》らにこんな|夢《ゆめ》
|見《み》たるおかげでドツコイシヨ  |喉《のど》から|唾《つばき》がわいて|来《き》た
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |夢《ゆめ》でもよいから|今一度《いまいちど》
ドツコイドツコイこんな|目《め》に  あはして|下《くだ》され|頼《たの》みます
|夢《ゆめ》に|夢見《ゆめみ》る|心地《ここち》して  |行方《ゆくへ》も|知《し》れぬハズバンド
|火《ひ》の|国都《くにみやこ》に|御座《ござ》るかと  |喉《のど》を|鳴《な》らして|黒姫《くろひめ》が
やつてゐたとこドツコイシヨ  |目算《もくさん》ガラリと|相外《あひはづ》れ
|同名異人《どうめいいじん》の|人《ひと》ならば  それこそ|夢《ゆめ》がさめるだろ
|今《いま》|見《み》た|夢《ゆめ》は|黒姫《くろひめ》の  |前途《ぜんと》の|箴《しん》をなしつるか
コリヤ|斯《か》うしては|居《を》られまい  |黒姫《くろひめ》さまえ|如何《どう》なさる
|夜食《やしよく》に|外《はづ》れた|梟《ふくろふ》の  やうな|六《むつ》かしい|顔《かほ》をして
ケンケン|当《あた》つて|下《くだ》さるな  |歩《ある》き|乍《なが》らに|見《み》た|夢《ゆめ》が
どうやらお|前《まへ》の|前途《ぜんと》をば  |知《し》らして|呉《く》れた|物《もの》らしい
ホンに|怪体《けたい》な|夢《ゆめ》ぢやなア  あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|夢《ゆめ》の|浮世《うきよ》と|言《い》ひ|乍《なが》ら  こんな|夢《ゆめ》をば|見《み》せずして
お|慈悲《じひ》に|一度《いちど》|黒姫《くろひめ》を  |高山彦《たかやまひこ》にドツコイシヨ
|会《あ》はしてやつて|下《くだ》さんせ  これが|私《わたし》の|御願《おねがひ》ぢや
|芳公《よしこう》とても|其《その》|通《とほ》り  |黒姫《くろひめ》さまを|敵《てき》のよに
|決《けつ》して|思《おも》うちや|居《を》らうまい  |惜《をし》そな|惜《をし》そな|顔《かほ》をして
|喰《くら》ひ|残《のこ》した|無花果《いちじゆく》を  |下《くだ》さるやうな|御親切《ごしんせつ》
|決《けつ》して|忘《わす》れちや|居《を》らうまい  |此《この》|房公《ふさこう》も|黒姫《くろひめ》に
|先立《さきだ》ち|水《みづ》を|飲《の》んだとて  |小言《こごと》を|言《い》はれた|事《こと》|丈《だけ》は
|水《みづ》に|流《なが》したと|言《い》ひ|乍《なが》ら  ヤツパリ|覚《おぼ》えて|居《を》りまする
ウントコドツコイ|水臭《みづくさ》い  |黒姫《くろひめ》さまの|御心底《ごしんてい》
あつく|感謝《かんしや》し|奉《たてまつ》る  ウントコドツコイドツコイシヨ
ハアハアハアハアフウスウスウ  |本当《ほんたう》に|嶮《けは》しい|坂《さか》だなア
|天津御空《あまつみそら》に|雲《くも》の|峰《みね》  うすく|黄色《きいろ》に|光《ひか》つてる
|土中《どちう》の|熱《あつ》さに|蚯蚓《みみず》|奴《め》が  ピンピンはね|出《だ》し|日《ひ》に|焼《や》かれ
カンピン|丹《たん》になつてゐる  |命《いのち》|知《し》らずの|蚯蚓虫《みみずむし》
ウントコドツコイドツコイシヨ  |命知《いのちし》らずのウントコシヨ
|蚯蚓《みみず》|計《ばか》りぢやない|程《ほど》に  ここにも|一人《ひとり》や|二人《ふたり》ある
|又《また》もや|腹《はら》が|空《へ》つて|来《き》た  どこぞここらに|果物《くだもの》が
なつては|居《ゐ》ぬかと|木々《きぎ》の|枝《えだ》  ためつすかしつ|眺《なが》むれど
|喰《く》へそな|物《もの》は|見当《みあ》たらぬ  |困《こま》つたことが|出来《でき》て|来《き》た
|肝腎要《かんじんかなめ》な|腹《はら》が|空《へ》り  どうして|道中《だうちう》がなるものか
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |御霊《みたま》|幸《さち》はひましまして
|吾等《われら》|三人《みたり》の|一行《いつかう》に  おいしい|果物《くだもの》|下《くだ》さんせ
|命《いのち》カラガラ|願《ねが》ひます  ハアハアフウフウ、あゝえらい
|二《ふた》つの|眼《まなこ》に|汗《あせ》にじみ  そこらが|見《み》えなくなつて|来《き》た
|慾《よく》にも|得《とく》にもかへられぬ  ここで|一服《いつぷく》|致《いた》しませう
|芳公《よしこう》お|前《まへ》も|休《やす》まうか  |黒姫《くろひめ》さまとは|事違《ことちが》ひ
|前途《ぜんと》に|楽《たのし》みない|二人《ふたり》  |如何《どう》して|此《この》|上《うへ》きばれうか』
|言《い》ひつつコロリと|横《よこ》になる  あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ。
|房公《ふさこう》は|道《みち》の|傍《かたはら》にゴロンと|横《よこ》たはり|乍《なが》ら、|空《そら》|行《ゆ》く|雲《くも》を|眺《なが》め、|恨《うら》めし|相《さう》な|顔《かほ》をして|黒姫《くろひめ》を|熟視《じゆくし》してゐる。|芳公《よしこう》も|亦《また》その|傍《そば》に|横《よこ》たはり、|足《あし》をピンピンさせ|乍《なが》ら|空《そら》|行《ゆ》く|雲《くも》を|愉快《ゆくわい》げに|見《み》つめて|何事《なにごと》か|小声《こごゑ》で|囁《ささや》き|出《だ》した。
|黒姫《くろひめ》『|皆々《みなみな》さま、モウ|少《すこ》し|往《い》つてから|休《やす》んだら|如何《どう》だなア。ツイ|今《いま》|清水《しみづ》のそばで|休《やす》んで|来《き》た|所《ところ》ぢやないか。こんなことしてゐると、|山《やま》の|中《なか》で|日《ひ》が|暮《く》れて|了《しま》ひますよ』
|房公《ふさこう》『ヘン、|今《いま》に|限《かぎ》つて、|皆々《みなみな》さま……と|御丁寧《ごていねい》にお|出《い》でなすつたな。|其《その》|手《て》は|喰《く》へませぬワイ。|吾々《われわれ》は|最早《もはや》|機関《きくわん》の|油《あぶら》が|切《き》れて|了《しま》つたのだから、|此《この》|上《うへ》は|運転《うんてん》|不可能《ふかのう》だ。お|前《まへ》さまは|心猿意馬《しんゑんいば》といふ|心《こころ》の|猿駒《さるこま》が|火《ひ》の|国《くに》の|都《みやこ》に|望《のぞ》みをかけてゐるのだから、|気《き》が|急《せ》くだらう。|夫《それ》|程《ほど》|吾々《われわれ》|両人《りやうにん》がまどろしくあるならば、どうぞお|先《さき》へ、|一足《ひとあし》|行《い》つて|下《くだ》さい。|命《いのち》あつての|物種《ものだね》だ。お|前《まへ》さまの|恋《こひ》の|犠牲《ぎせい》に|貴重《きちよう》な|命《いのち》まで|棒《ぼう》に|振《ふ》つては、|一向《いつかう》|計算《けいさん》が|持《も》てないから、まあ|此処《ここ》で|一《ひと》つゆるりと|休養《きうやう》を|致《いた》しますワ。ヘー|誠《まこと》に|御都合《ごつがふ》が|御悪《おわる》う|御座《ござ》いませうが、|成行《なりゆき》だと|諦《あきら》めて、|御勘弁《ごかんべん》|下《くだ》さいませ。|何《なに》を|云《い》つても、|竜宮《りうぐう》の|乙姫《おとひめ》|様《さま》の|御肉体《おにくたい》だから、|大《たい》したものだ。|私《わたし》の|様《やう》な|足弱《あしよわ》は、|到底《たうてい》|貴女《あなた》と|同様《どうやう》には|行《ゆ》きませぬワイ。|斯《か》うして|大地《だいち》に|背中《せなか》を|密着《みつちやく》させて|見《み》ると、|何《なん》ともなしに|気分《きぶん》が|宜《よろ》しい。……|世《よ》の|中《なか》に|寝《ね》る|程《ほど》|楽《らく》はなきものを、|起《お》きて|働《はたら》く|馬鹿《ばか》のたわけ……とか|申《まを》しましてなア、|命《いのち》|知《し》らずの|向《むか》う|見《み》ずに|働《はたら》く|様《やう》な|馬鹿《ばか》は、マアマア|一人《ひとり》|位《くらゐ》なものでせうかい、アツハヽヽヽ、ウツフヽヽヽ』
|黒姫《くろひめ》『コレコレ|両人《りやうにん》、|丁寧《ていねい》に|云《い》へば、|丁寧《ていねい》に|言《い》うと|云《い》つて|不足《ふそく》をいふなり、どうしたらお|前《まへ》さま、お|気《き》に|入《い》るのだい。ホンにホンに|度《ど》しがたき|代物《しろもの》だなア』
|芳公《よしこう》『シロ|物《もの》でもクロ|物《もの》でも、|到底《たうてい》つづきませぬ。|第一《だいいち》、|胃《ゐ》の|腑《ふ》の|格納庫《かくなふこ》が|空虚《くうきよ》になつて|了《しま》つたのだから、|施《ほどこ》すべき|手段《しゆだん》がありませぬ。お|前《まへ》さまの|懐《ふところ》に|持《も》つている|其《その》|無花果《いちじゆく》を、せめて|半《はん》ジユクでも|良《い》いから|恵《めぐ》んで|下《くだ》さると、チツと|許《ばか》り|機関《きくわん》が|運転《うんてん》するのだがなア』
|黒姫《くろひめ》『エヽ|弱《よわ》い|男《をとこ》だなア。そんなら、|之《これ》を|一《ひと》つあげるから、|半分《はんぶん》づつに|割《わ》つて、|格納《かくなふ》しなさい。そうすりや、チツと|許《ばか》り|馬力《ばりき》が|出《で》るだらう』
|房公《ふさこう》『ハイ、どうせ|婆《ば》アさまから|貰《もら》ふのだから、バ|力《りき》が|出《で》るは|当然《あたりまへ》だ。|併《しか》し|乍《なが》ら|無花果《いちじゆく》を|半《はん》ジユク|頂《いただ》いては、|腹《はら》が|下《くだ》る|虞《おそれ》があるから、せめて|二三《にさん》ジユク|下《くだ》さいな』
|黒姫《くろひめ》『エヽつけ|上《あが》りのした|男《をとこ》だなア。そんなら|仕方《しかた》がない、|秘蔵《ひざう》の|無花果《いちじゆく》だけれど、お|前《まへ》にあげませう。|此《この》|峠《たうげ》を|越《こ》す|迄《まで》は|果物《くだもの》がないと|云《い》ふ|事《こと》だから、|此《この》|重《おも》たいのに【むし】つて|来《き》たのだ。お|前達《まへたち》は|注意《ちゆうい》が|足《た》らんから、こんな|目《め》に|会《あ》ふのだよ。それだから|神様《かみさま》が|食物《たべもの》を|粗末《そまつ》に|致《いた》すな、|何《なん》でもまつべておけ……と|仰有《おつしや》るのだ。こんな|時《とき》になつて|弱音《よわね》を|吹《ふ》き、|困《こま》らない|様《やう》に|大慈《だいじ》|大悲《だいひ》の|神様《かみさま》が、|何時《いつ》も|御注意《ごちうい》を|遊《あそ》ばすのだから、これからは|気《き》をつけたが|宜《よろ》しいぞや』
|房公《ふさこう》『イチジユク|御尤《ごもつと》もで|御座《ござ》います。|貴方《あなた》の|御詞《おことば》を|是《これ》からは、|一《いち》【イチジユク】|考《かう》|致《いた》しましてこんな|破目《はめ》に|陥《おちい》らないやうに|心得《こころえ》ます』
|黒姫《くろひめ》は|二人《ふたり》の|前《まへ》に|懐《ふところ》から|出《だ》しては、|一《ひと》つづつポイポイと|投《な》げてやる。|二人《ふたり》は|手早《てばや》く|手《て》に|受《う》け|乍《なが》ら、
『|一《いち》ジユク|二《に》ジユク……オツと|三《さん》ジユク、オツと|四《し》ジユク……』
と|言《い》ひつつ|数《かぞ》へ|乍《なが》ら|受取《うけと》る。
|黒姫《くろひめ》『ホンに|行儀《ぎやうぎ》の|悪《わる》い|男《をとこ》だなア、|丸《まる》きり|四《よ》つ|足《あし》の|容器《いれもの》みた|様《やう》だ。せめて|物食《ものく》ふ|時《とき》は|起《お》き|直《なほ》り、チンとして|頂《いただ》きなさい』
|房公《ふさこう》『ハイ、|恐《おそ》れ|入《い》りました、|御注意《ごちゆうい》|有難《ありがた》う。……サア|芳公《よしこう》、|黒姫《くろひめ》|様《さま》の|御恵《おめぐ》みを|頂戴《ちやうだい》しようぢやないか』
|芳公《よしこう》『|黒姫《くろひめ》さまのおかげで、|一《いち》ジユク、|否《いな》|一命《いちめい》が|助《たす》かりました』
|黒姫《くろひめ》『|黒姫《くろひめ》の|尊《たふと》いことが|分《わか》つただらう』
|芳公《よしこう》『|流石《さすが》は|黒姫《くろひめ》さまですワイ。お|年《とし》を|取《と》られた|効《かう》で、|何《なに》から|何《なに》まで|能《よ》うお|気《き》がつきますなア、オホヽヽヽ』
と|肩《かた》を|上《あ》げ|下《さ》げし|乍《なが》ら、|飛《と》びつくやうにして、|矢庭《やには》に|口《くち》の|中《なか》へ|捩込《ねぢこ》んで|了《しま》つた。|黒姫《くろひめ》は|此《この》|姿《すがた》を|見《み》て|吹《ふ》き|出《だ》し、
|黒姫《くろひめ》『ホヽヽヽヽ』
と|笑《わら》ひ|乍《なが》ら|腹《はら》を|抱《かか》へる。
(大正一一・九・一二 旧七・二一 松村真澄録)
第八章 |暴風雨《ばうふうう》〔九四九〕
|房公《ふさこう》、|芳公《よしこう》の|二人《ふたり》は、どうしたものか、|尻《しり》が|大地《だいち》に|吸《す》ひついたやうになつて、ビクとも|動《うご》けなくなつて|了《しま》つた。|黒姫《くろひめ》は『|早《はや》く|早《はや》く』と|急《せ》き|立《た》てる。されど|二人《ふたり》の|身体《からだ》はビクとも|実際《じつさい》|動《うご》かなくなつてゐるのだ。|黒姫《くろひめ》はそんなこととは|少《すこ》しも|気《き》がつかず、|余《あま》りのジレツたさに|声《こゑ》を|尖《とが》らし、
|黒姫《くろひめ》『コレコレ|両人《りやうにん》、お|前《まへ》はこんな|所《ところ》へ|来《き》て、|此《この》|黒姫《くろひめ》を|困《こま》らす|所存《しよぞん》だな。あれ|程《ほど》|事《こと》をわけて|言《い》ふのに、|何故《なぜ》|立《た》たないのかい』
|房公《ふさこう》『|黒姫《くろひめ》さーま、|何《なん》と|仰有《おつしや》つて|下《くだ》さつても、|如何《どう》したものか、チツとも|足《あし》が|立《た》ちませぬワ、……なア|芳公《よしこう》、お|前《まへ》はどうだ。チツと|動《うご》けさうかなア』
|芳公《よしこう》『おれも|如何《どう》したものか、チーツとも|動《うご》けないよ。|地《ち》の|底《そこ》から|鼈《すつぽん》でも|居《を》つて|吸《す》ひつけるやうに、どうもがいたとて、|動《うご》きがとれぬのだよ。あゝ|困《こま》つたことが|出来《でき》た。……モシモシ|黒姫《くろひめ》さま、|一《ひと》つ|鎮魂《ちんこん》をして|下《くだ》さいな』
|黒姫《くろひめ》『ヘン、|今《いま》|迄《まで》あれ|丈《だけ》|能《よ》く|喋《しやべ》り、あれ|丈《だけ》|無花果《いちじゆく》を|食《く》つておき|乍《なが》ら、そんな|元気《げんき》な|顔《かほ》をして|居《を》つて、|足《あし》が|立《た》たぬの、|腰《こし》が|動《うご》かぬのと、|能《よ》う|云《い》へたものだ。|動《うご》けな|動《うご》けぬで、|私《わたし》は|先《さき》に|失礼《しつれい》|致《いた》します』
とピンと|身体《からだ》をふり、|不足《ふそく》そうな|顔《かほ》をし|乍《なが》ら、エチエチと|登《のぼ》つて|行《ゆ》く。|瞬《またた》く|中《うち》に|黒姫《くろひめ》の|姿《すがた》は|木《き》の|茂《しげ》みに|隠《かく》れて|了《しま》つた。
|芳公《よしこう》『オイ|黒姫《くろひめ》も|余程《よつぽど》|水臭《みづくさ》い|奴《やつ》だないか……|落《おち》ぶれて|袖《そで》に|涙《なみだ》のかかる|時《とき》、|人《ひと》の|心《こころ》の|奥《おく》ぞ|知《し》らるる……と|云《い》ふ|古歌《こか》があつたねえ、|黒姫《くろひめ》に|依《よ》つて、|此《この》|歌《うた》の|意《い》を|実地《じつち》に|味《あぢ》はふことが|出来《でき》たぢやないか』
|房公《ふさこう》『オウさうだ……|腰《こし》ぬけて|涙《なみだ》に|曇《くも》る|山《やま》の|路《みち》 |黒姫《くろひめ》さまの|心《こころ》|知《し》らるる……
|黒姫《くろひめ》が|何時《いつ》もベラベラ|口先《くちさき》で チヨロマカしたる|尾《を》は|見《み》えにけり……
だ。アハヽヽヽ』
|芳公《よしこう》『|此《この》|様《やう》に|脛腰《すねこし》|立《た》たぬ|身《み》を|以《もつ》て |人《ひと》の|事《こと》|共《ども》|誹《そし》る|所《どころ》か……
どうしても|脛腰《すねこし》|立《た》たぬ|其《その》|時《とき》は |野垂死《のたれじに》より|外《ほか》はあるまい……』
|房公《ふさこう》『オイ、|芳《よし》、そんな|気《き》の|弱《よわ》いことを|言《い》ふものぢやないよ。|神様《かみさま》が|何《なに》かの|御都合《ごつがふ》で、|吾々《われわれ》に|少時《しばらく》|休養《きうやう》を|与《あた》へて|下《くだ》さつたのかも|知《し》れないよ。|大方《おほかた》|此《この》|向《むか》うあたりに、|大《おほ》きな|大蛇《をろち》が|居《を》つて、|俺《おれ》たち|一行《いつかう》を|呑《の》まうと|待《ま》ち|構《かま》へてをるのを、|大慈《だいじ》|大悲《だいひ》の|神様《かみさま》が|助《たす》ける|為《ため》に、ワザとに|足《あし》が|立《た》たないやうにして|下《くだ》さつたのか|知《し》れぬ。|何事《なにごと》も|善意《ぜんい》に|解釈《かいしやく》し、|神直日《かむなほひ》|大直日《おほなほひ》に|見直《みなほ》し|聞直《ききなほ》し、|何事《なにごと》が|出《で》て|来《き》ても、|神様《かみさま》の|恵《めぐみ》を|感謝《かんしや》し、|災《わざはひ》に|会《あ》うても|神《かみ》を|忘《わす》れず、|喜《よろこ》びに|会《あ》うても|神《かみ》を|忘《わす》れぬ|様《やう》に、|誠《まこと》|一《ひと》つを|立《た》てぬきさへすれば、|神様《かみさま》が|助《たす》けて|下《くだ》さるに|違《ちが》ひない、サア|是《これ》から|神言《かみごと》を|奏上《そうじやう》し、|病気《びやうき》|平癒《へいゆ》の|祈願《きぐわん》をしようぢやないか』
|芳公《よしこう》『それもさうだ。|併《しか》し|黒姫《くろひめ》さまが、|一人《ひとり》|先《さき》へ|行《い》つたやうだが、|其《その》|大蛇《をろち》に|呑《の》まれるやうなことはあるまいかな。|俺《おれ》はそれが|心配《しんぱい》でならないワ。|何程《なにほど》|憎《にく》いことをいふ|婆《ば》アさまでも、ヤツパリ|可哀相《かはいさう》なからな』
|房公《ふさこう》『それが|人間《にんげん》の|真心《まごころ》だよ。|俺《おれ》だつて、あゝ|喧《やかま》しく、|黒姫《くろひめ》さまを|捉《つかま》へてからかつてはゐるものの、はるばると|夫《をつと》の|後《あと》を|尋《たづ》ねて、こんな|所《ところ》までやつて|来《く》る|女《をんな》と|云《い》ふものは、|滅多《めつた》にあるものぢやない。|実《じつ》に|女房《にようばう》としては|尊《たふと》い|志《こころざし》だ。|俺《おれ》はモウ|黒姫《くろひめ》のあの|心《こころ》に、|実《じつ》の|所《ところ》は|感服《かんぷく》してゐるのだ。どうぞ|途中《とちう》に|災《わざはひ》のない|様《やう》、|怪我《けが》のない|様《やう》に|先《ま》づ|第一《だいいち》に|御祈願《ごきぐわん》し、|其《その》|次《つぎ》に|自分《じぶん》たちの|病気《びやうき》の|平癒《へいゆ》を|御祈《おいの》りすることにしようかい』
|芳公《よしこう》『ヤツパリお|前《まへ》もさう|思《おも》ふか、それは|有難《ありがた》い、どうしても|人間《にんげん》の|性《せい》は|善《ぜん》だな』
|房公《ふさこう》『そこが|人間《にんげん》の|万物《ばんぶつ》に|霊長《れいちやう》たる|所以《ゆゑん》だ。|神心《かみごころ》だ。サア|斯《か》うして|腰《こし》は|立《た》たないが、|其《その》|外《ほか》は|何《なん》ともないのだから、まだしも|神様《かみさま》の|御恵《おめぐみ》だ。|先《ま》づ|感謝《かんしや》の|詞《ことば》を|捧《ささ》げて、|次《つぎ》に|祈願《きぐわん》することにしよう』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら、|二人《ふたり》は|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》し|了《をは》り、|静《しづ》かに|祈願《きぐわん》をこらし|始《はじ》めた。
|房公《ふさこう》『あゝ|天地《あめつち》を|造《つく》り|固《かた》め、|万物《ばんぶつ》を|愛育《あいいく》し|玉《たま》うたる、|宇宙《うちう》の|大元霊《だいげんれい》たる|大国治立大尊《おほくにはるたちのおほみこと》|様《さま》を|始《はじ》め|奉《まつ》り、|天津神《あまつかみ》、|国津神《くにつかみ》、|八百万神々様《やほよろづのかみがみさま》、|私《わたくし》はあなた|方《がた》の|尊《たふと》き|御威光《ごゐくわう》と、|深《ふか》きあつき|御恵《みめぐみ》に|依《よ》りまして、|此《この》|尊《たふと》い|地《ち》の|上《うへ》に|生《うま》れさして|頂《いただ》き、|何《なに》|不自由《ふじゆう》なく、|尊《たふと》き|日《ひ》を|送《おく》らして|頂《いただ》きました。そうして|知《し》らず|識《し》らずに|重々《ぢうぢう》の|罪科《つみとが》を|重《かさ》ね、|人間《にんげん》としての|天職《てんしよく》を|全《まつた》う|致《いた》さず、|不都合《ふつがふ》なる|吾々《われわれ》をも|御咎《おとが》め|玉《たま》はず、いたはり|助《たす》けて|此《この》|世《よ》を|安《やす》く|楽《たの》しく|送《おく》らせ|玉《たま》ふ、|広《ひろ》きあつき|御恩寵《ごおんちやう》を|有難《ありがた》く|感謝《かんしや》|致《いた》します。……|此《この》|度《たび》|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》、|黒姫《くろひめ》|様《さま》の|御伴《おとも》を|致《いた》しまして、|万里《ばんり》の|海洋《かいやう》を|渡《わた》り、|恙《つつが》なく|此《この》|筑紫《つくし》の|島《しま》に|渡《わた》らして|頂《いただ》き、|此処迄《ここまで》|無事《ぶじ》に|神様《かみさま》の|懐《ふところ》に|抱《いだ》かれて|登《のぼ》つて|参《まゐ》りました。|乍併《しかしながら》、|如何《いか》なる|神様《かみさま》の|御摂理《ごせつり》にや、|吾々《われわれ》|両人《りやうにん》は|此《この》|木蔭《こかげ》に|息《いき》を|休《やす》めますると|共《とも》に、|不思議《ふしぎ》にも|腰《こし》が|立《た》たなくなつて|了《しま》ひました。これと|云《い》ふのも、|全《まつた》く|吾々《われわれ》の|重々《ぢうぢう》の|罪《つみ》が|酬《むく》うて|来《き》たので|御座《ござ》いませう。|神様《かみさま》の|広大無辺《くわうだいむへん》の|大御心《おほみこころ》を、|吾々《われわれ》として|計《はか》り|知《し》ることは|到底《たうてい》|出来《でき》ませぬが、|乍併《しかしながら》、|神様《かみさま》は|吾々《われわれ》|人間《にんげん》をどこ|迄《まで》も|愛《あい》し|玉《たま》ふ|尊《たふと》き|父母《ちちはは》で|御座《ござ》いまする|以上《いじやう》、|何《なに》か|吾々《われわれ》に|対《たい》して|手篤《てあつ》き|御保護《ごほご》の|為《ため》に|斯《かく》の|如《ごと》く|吾《わ》が|身《み》をお|縛《しば》り|下《くだ》さつたことと|有難《ありがた》く|感謝《かんしや》|致《いた》します。つきましては|黒姫《くろひめ》|様《さま》は|一足先《ひとあしさき》に|御立腹《ごりつぷく》|遊《あそ》ばして、|此《この》|坂路《さかみち》を|登《のぼ》られました。|何卒《どうぞ》|途中《とちう》に|於《おい》て、|悩《なや》み|災《わざはひ》の|起《おこ》りませず、どうぞ|恙《つつが》なく|火《ひ》の|国《くに》の|都《みやこ》へお|着《つ》きになりますやう、|特別《とくべつ》の|御恩寵《ごおんちやう》を|与《あた》へ|玉《たま》はむことを|懇願《こんぐわん》|致《いた》します。|又《また》|吾々《われわれ》|両人《りやうにん》は|如何《いか》なる|深《ふか》き|罪科《つみとが》が|御座《ござ》いませうとも、|大慈《だいじ》|大悲《だいひ》の|大御心《おほみこころ》に|見直《みなほ》し|聞直《ききなほ》し、|宣《の》り|直《なほ》し|下《くだ》さいまして、|何卒《なにとぞ》|一時《いちじ》も|早《はや》く、|此《この》|身体《からだ》に|自由《じいう》を|御与《おあた》へ|下《くだ》さいますやう、|慎《つつし》み|敬《うやま》ひ|祈《いの》り|上《あ》げ|奉《たてまつ》りまする、あゝ|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》』
と|合掌《がつしやう》し、|感謝《かんしや》の|涙《なみだ》をハラハラと|流《なが》してゐる。|何程《なにほど》|祈《いの》つても、|如何《どう》したものか、|二人《ふたり》の|身体《からだ》はビクともせない。
|日《ひ》は|追々《おひおひ》と|西山《せいざん》に|傾《かたむ》き、|一天《いつてん》|俄《にはか》に|黒雲《くろくも》|起《おこ》り、|礫《つぶて》のやうな|雨《あめ》パラパラとマバラに|降《ふ》り|来《きた》る。|雷鳴《らいめい》か|暴風雨《ばうふうう》か|将《は》た|地震《ぢしん》の|勃発《ぼつぱつ》か、|何《なん》とも|云《い》へぬ|凄惨《せいさん》の|気《き》が|四面《しめん》を|包《つつ》むのであつた。
|二人《ふたり》は|撓《たゆ》まず|屈《くつ》せず、|一生懸命《いつしやうけんめい》に……|三五教《あななひけう》を|守《まも》り|玉《たま》ふ|皇大神《すめおほかみ》、|吾等《われら》|両人《りやうにん》を|始《はじ》め、|黒姫《くろひめ》の|身辺《しんぺん》を|守《まも》らせ|玉《たま》へ……と|主一無適《しゆいつむてき》に|祈願《きぐわん》をこらしてゐる。|山《やま》の|老木《おいき》も|打倒《うちたふ》れむ|許《ばか》りの|強風《きやうふう》、|忽《たちま》ち|吹《ふ》き|来《きた》り、|巨石《きよせき》を|木《こ》の|葉《は》の|如《ごと》く|四方《しはう》に|飛《と》ばせ、|木《き》を|倒《たふ》し、|枝《えだ》を|裂《さ》き|其《その》|物音《ものおと》の|凄《すさま》じさ、|何《なん》に|譬《たと》へむものも|泣《な》く|計《ばか》りなりき。
|此《この》|時《とき》|何処《いづこ》よりともなく|風《かぜ》のまにまに、|宣伝歌《せんでんか》が|聞《きこ》え|来《き》たりぬ。
|玉治別《たまはるわけ》『|神《かみ》が|表《おもて》に|現《あら》はれて  |善《ぜん》と|悪《あく》とを|立別《たてわ》ける
|此《この》|世《よ》を|造《つく》りし|神直日《かむなほひ》  |心《こころ》も|広《ひろ》き|大直日《おほなほひ》
|只《ただ》|何事《なにごと》も|人《ひと》の|世《よ》は  |直日《なほひ》に|見直《みなほ》せ|聞直《ききなほ》せ
|身《み》の|過《あやま》ちは|宣《の》り|直《なほ》せ  |三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》
|吾《われ》は|玉治別司《たまはるわけのかみ》  |三五教《あななひけう》の|黒姫《くろひめ》が
|筑紫《つくし》の|島《しま》に|渡《わた》りたる  |高山彦《たかやまひこ》を|探《たづ》ねむと
|棚《たな》なし|舟《ぶね》に|身《み》を|任《まか》せ  |渡《わた》り|来《き》ますと|聞《き》きしより
|斎苑《いそ》の|館《やかた》を|立出《たちい》でて  メソポタミヤを|打《うち》わたり
ヨルダン|河《かは》に|棹《さを》さして  フサの|海《うみ》をば|横断《わうだん》し
いよいよ|此処《ここ》に|来《き》て|見《み》れば  |思《おも》ひもよらぬ|山嵐《やまあらし》
げに|凄《すさま》じき|光景《くわうけい》ぞ  さはさり|乍《なが》ら|吾々《われわれ》は
|誠《まこと》の|道《みち》の|宣伝使《せんでんし》  |如何《いか》なる|事《こと》も|恐《おそ》れむや
|朝日《あさひ》は|照《て》る|共《とも》|曇《くも》る|共《とも》  |月《つき》は|盈《み》つ|共《とも》|虧《か》くる|共《とも》
|仮令《たとへ》|大地《だいち》は|沈《しづ》む|共《とも》  |岩石《がんせき》|雨《あめ》をふらす|共《とも》
|筑紫ケ岳《つくしがだけ》はさくる|共《とも》  |神《かみ》に|任《まか》せし|此《この》|身体《からだ》
|玉治別《たまはるわけ》の|真心《まごころ》に  |如何《いか》なる|風《かぜ》もおし|鎮《しづ》め
|天ケ下《あめがした》なる|人草《ひとぐさ》の  |百《もも》の|災《わざはひ》|吹《ふ》き|払《はら》ひ
|助《たす》けてゆかむ|吾《わが》|心《こころ》  あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|神《かみ》の|御霊《みたま》の|幸《さち》はひて  |国霊神《くにたまがみ》と|現《あ》れませる
|純世《すみよ》の|姫《ひめ》の|神柱《かむばしら》  |吾《わ》れに|力《ちから》を|添《そ》へ|玉《たま》へ
|吾《わ》れは|是《これ》より|火《ひ》の|国《くに》の  |都《みやこ》に|出《い》でて|黒姫《くろひめ》が
|暗路《やみぢ》に|迷《まよ》ふ|恋雲《こひぐも》を  |伊吹払《いぶきはらひ》に|払《はら》ひのけ
|誠《まこと》の|魂《たま》を|光《ひか》らせて  |自転倒島《おのころじま》の|中心地《ちうしんち》
|四尾《よつを》の|山《やま》の|山麓《さんろく》に  |大宮柱《おほみやばしら》|太知《ふとし》りて
|鎮《しづ》まりませる|神《かみ》の|前《まへ》  |導《みちび》き|帰《かへ》り|助《たす》けなむ
|神《かみ》の|御霊《みたま》の|幸《さち》ありて  |此《この》|山嵐《やまあらし》|速《すみやか》に
|鎮《しづ》め|玉《たま》へば|玉治別《たまはるわけ》の  |教司《をしへつかさ》は|逸早《いちはや》く
|三五教《あななひけう》の|黒姫《くろひめ》に  |出会《であ》ひて|神《かみ》の|御詞《みことば》を
|一日《ひとひ》も|早《はや》く|伝《つた》へなむ  あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ』
と|歌《うた》ふ|声《こゑ》、|二人《ふたり》の|耳《みみ》に|響《ひび》き|来《き》たりぬ。
|房公《ふさこう》『オイ|芳公《よしこう》、あの|宣伝歌《せんでんか》を|聞《き》いたか、どうやら|玉治別《たまはるわけ》の|宣伝使《せんでんし》が|間近《まぢか》く|見《み》えたらしいぞ、|神様《かみさま》は|有難《ありがた》いものだなア。|黒姫《くろひめ》|様《さま》にすてられた|吾々《われわれ》|両人《りやうにん》は、|脛腰《すねこし》|立《た》たず、|苦《くるし》み|悶《もだ》えている|矢先《やさき》、レコード|破《やぶ》りの|暴風雨《ばうふうう》に|出会《でつくわ》し、|神様《かみさま》の|御守《おまも》りは|信《しん》じ|乍《なが》らも、|戦々兢々《せんせんきようきよう》として、|如何《どう》なることか、|今《いま》も|吾《わ》が|身《み》を|案《あん》じて|居《ゐ》たが、|神様《かみさま》の|御恵《みめぐみ》といふものは|実《じつ》に|尊《たふと》いものだ。|神徳《しんとく》|高《たか》き|玉治別命《たまはるわけのみこと》|様《さま》にこんな|所《ところ》でお|目《め》にかからうとは、|神《かみ》ならぬ|身《み》の|知《し》らなかつた。あゝ|有難《ありがた》い……|神様《かみさま》、|早速《さつそく》|御神徳《ごしんとく》を|吾々《われわれ》|両人《りやうにん》の|目《め》の|前《まへ》に|下《くだ》し|賜《たま》はりました。|何《なん》とも|御礼《おれい》の|詞《ことば》が|御座《ござ》いませぬ』
と|涙《なみだ》と|共《とも》に|感謝《かんしや》する。|芳公《よしこう》も【はな】を|啜《すす》りしやくり|泣《な》きし|乍《なが》ら、|両手《りやうて》を|合《あは》せ|感謝《かんしや》の|意《い》を|表《へう》してゐる。|宣伝歌《せんでんか》の|声《こゑ》がピタリと|止《と》まつたと|思《おも》へば、|今《いま》|迄《まで》|山岳《さんがく》も|吹《ふ》き|散《ち》れよと|許《ばか》り|荒《あ》れ|狂《くる》うて|居《ゐ》た|暴風雨《ばうふうう》も、|拭《ぬぐ》ふが|如《ごと》く|払拭《ふつしき》され、|空《そら》には|雲《くも》の|綻《ほころ》びより|青雲《せいうん》の|肌《はだ》をチラチラと|現《あら》はすやうになつて|来《き》た。|雲《くも》の|帳《とばり》をあけて、|天津日《あまつひ》は|漸《やうや》く|二人《ふたり》の|頭上《づじやう》を|斜《ななめ》に|照《て》らし|始《はじ》めた。
|芳公《よしこう》『|神様《かみさま》、|有難《ありがた》う|御座《ござ》います。|重《かさ》ね|重《がさ》ねの|御恵《おんめぐ》み、どうぞ|今《いま》の|宣伝歌《せんでんか》の|主《ぬし》に|一目《ひとめ》|会《あ》はして|下《くだ》さいませ、|御願《おねが》ひで|御座《ござ》います』
と|両手《りやうて》を|合《あは》せ、|又《また》もや|祈願《きぐわん》に|耽《ふけ》つてゐる。|不思議《ふしぎ》や|二人《ふたり》の|腰《こし》は|知《し》らぬ|間《ま》に、|自由《じいう》が|利《き》くやうになつてゐた。
|房公《ふさこう》『あゝ|有難《ありがた》い、|足《あし》が|立《た》つた、|腰《こし》が|直《なほ》つた。オイ|芳公《よしこう》、お|前《まへ》は|如何《どう》だ。チと|立《た》つて|見《み》よ、|俺《おれ》は|此《この》|通《とほ》りだ』
と|四股《しこ》ふみならし、|嬉《うれ》しげに|踊《をど》り|狂《くる》ふ。|芳公《よしこう》も|案《あん》じ|案《あん》じソウと|腰《こし》を|上《あ》げてみた。
|芳公《よしこう》『ヤア|俺《おれ》もいつの|間《ま》にか、|神様《かみさま》に|直《なほ》して|貰《もら》つた、あゝ|有難《ありがた》し|勿体《もつたい》なし、……サア|房公《ふさこう》、|是《これ》からあの|宣伝歌《せんでんか》の|声《こゑ》のした|方《かた》を|捜《さが》してみようぢやないか』
|房公《ふさこう》『どうも|不思議《ふしぎ》だなア。つい|間近《まぢか》に|聞《きこ》えた|宣伝歌《せんでんか》の|声《こゑ》、|斯《か》うして|登《のぼ》つて|来《き》た|坂路《さかみち》を|遠《とほ》く|見《み》はらしてみても、|人《ひと》らしい|影《かげ》は|見《み》えない。|乍併《しかしながら》あの|声《こゑ》は|此《この》|坂《さか》の|下《した》から|聞《きこ》えて|来《き》た|様《やう》だ。|不思議《ふしぎ》なことがあるものだなア。|確《たしか》に|吾《わ》れは|玉治別司《たまはるわけのかみ》と|歌《うた》はれた|様《やう》に|聞《きこ》えたがなア』
|芳公《よしこう》『|確《たしか》に|俺《おれ》もさう|聞《き》いた。ヒヨツとしたら、あの|宣伝使《せんでんし》が|最前《さいぜん》の|蜂《はち》の|巣《す》の|下《した》で、|休息《きうそく》され、あの|猛烈《まうれつ》な|青蜂《あをばち》に|目《め》でもさされて、|苦《くるし》んで|御座《ござ》るのだあろまいかな』
|房公《ふさこう》『ヨモヤそんなヘマなことはなさる|気遣《きづか》ひもあるまい、|又《また》あれ|丈《だけ》|神力《しんりき》のある|宣伝使《せんでんし》のことだから、|蜂《はち》の|布《ひれ》も|大蛇《をろち》のヒレも|持《も》つて|御座《ござ》るに|違《ちがひ》ない。そんな|取越苦労《とりこしくらう》はせなくてもよからうぞよ』
|芳公《よしこう》『そうだらうかなア。そんなら、これからボツボツ|此《この》|坂《さか》を|登《のぼ》ることとしよう。|黒姫《くろひめ》|様《さま》も|最前《さいぜん》の|暴風雨《ばうふうう》で、|嘸《さぞ》お|困《こま》りだらうから、|一《ひと》つ|追《お》つついて|御慰問《ごゐもん》を|申上《まをしあ》げねばなろまいぞ。|玉治別《たまはるわけ》の|宣伝使《せんでんし》も、|或《あるひ》は|此《この》|坂《さか》の|上《うへ》に|御座《ござ》るのかも|分《わか》らない。|風《かぜ》の|吹《ふ》きまはしやら、|木谺《こだま》の|反響《はんきやう》で、|下《した》の|方《はう》から|声《こゑ》がしたやうに|聞《きこ》えたのだらうも|知《し》れぬ。サア|行《ゆ》かう』
と|言《い》ひ|乍《なが》ら、|両人《りやうにん》は|金剛杖《こんがうづゑ》を|力《ちから》に|急坂《きふはん》を|又《また》もや|登《のぼ》り|行《ゆ》く。|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》。
(大正一一・九・一二 旧七・二一 松村真澄録)
第二篇 |有情無情《うじやうむじやう》
第九章 |玉《たま》の|黒点《こくてん》〔九五〇〕
|筑紫ケ岳《つくしがだけ》の|山脈《さんみやく》の|中心《ちうしん》、|高山峠《たかやまたうげ》の|頂上《ちやうじやう》に|四五人《しごにん》の|男《をとこ》、|車座《くるまざ》になつて|何事《なにごと》か|囁《ささや》き|乍《なが》ら、|白黒《しろくろ》の|石《いし》を|砂《すな》の|上《うへ》に|並《なら》べ、|烏鷺《うろ》を|争《あらそ》うてゐる。
|甲《かふ》『どうも|斯《か》うも|此《この》|黒《くろ》がしぶとうて、|邪魔《じやま》んなつて|仕方《しかた》がない。|此奴《こいつ》|一《ひと》つ|殺《ころ》して|了《しま》ふと|後《あと》は|大勝利《だいしようり》になるんだがなア』
|乙《おつ》『|馬鹿《ばか》|言《い》へ、|此《この》|世《よ》の|中《なか》は|苦労《くらう》(|黒《くろ》)が|肝腎《かんじん》だ。|苦労《くらう》なしに|物事《ものごと》が|成就《じやうじゆ》すると|思《おも》ふか』
|甲《かふ》『すべての|汚濁《をだく》や|曇《くも》りや、|塵《ちり》|芥《あくた》を|除《のぞ》き|去《さ》つた|純白《じゆんぱく》の|此《この》|石《いし》は、|丸《まる》で|神様《かみさま》の|御霊《みたま》の|様《やう》なものだ。|能《よ》く|見《み》よ、|中《なか》|迄《まで》|水晶《すゐしやう》の|様《やう》に|透《す》き|通《とほ》つてゐるぢやないか。|俺《おれ》の|爺《おやぢ》は|昔《むかし》|日《ひ》の|出神《でのかみ》|様《さま》が|火《ひ》の|国《くに》へ|御出《おい》でになつた|時《とき》、|御案内《ごあんない》|申《まを》した|御礼《おれい》として、|水晶玉《すいしやうだま》を|下《くだ》さつたが、|今《いま》に|俺《おれ》ん|所《とこ》の|家宝《かほう》として、|大切《たいせつ》に|保存《ほぞん》してあるが、|其《その》|水晶玉《すいしやうだま》の|前《まへ》に|行《い》つて、|何《なん》でも|御尋《おたづ》ねすると、|宇宙《うちう》の|森羅万象《しんらばんしやう》がスツカリ|映《うつ》るのだ。それに|此《この》|頃《ごろ》は|如何《どう》したものか、|二三日前《にさんにちまへ》から|水晶玉《すいしやうだま》の|一部《いちぶ》に|黒点《こくてん》が|出来《でき》よつて、|非常《ひじやう》に|見《み》つともなくなり、|九分九厘《くぶくりん》と|云《い》ふ|所《ところ》|迄《まで》は|何事《なにごと》も|判然《はんぜん》と|分《わか》らして|貰《もら》へるが、|其《その》|一厘《いちりん》の|黒点《こくてん》の|為《ため》に|遺憾《ゐかん》|乍《なが》ら、|十分《じふぶん》の|判断《はんだん》がつかなくなつて|了《しま》つたのだ。それだから|黒《くろ》は|面白《おもしろ》くない、|殺《ころ》して|了《しま》へと|云《い》ふのだよ。|黒《くろ》い|奴《やつ》に|碌《ろく》なものがあるかい、|三五教《あななひけう》の|黒姫《くろひめ》とかいふ|真黒《まつくろ》けの|婆《ばば》アが、|何《なん》でも|此《この》|筑紫島《つくしじま》へ|渡《わた》つて|来《き》よつたに|違《ちがひ》ないのだ。さうでなければ、|国玉《くにたま》とも|譬《たと》ふべき|水晶玉《すいしやうだま》に|黒点《こくてん》が|現《あら》はれる|筈《はず》がない。それで|今《いま》|此処《ここ》でお|前達《まへたち》と|白黒《しろくろ》の|勝負《しようぶ》を|闘《たたか》はしたのも、|一《ひと》つは|水晶玉《すいしやうだま》が|如何《どう》なるか、|黒姫《くろひめ》が|果《はた》して|此《この》|国《くに》の|邪魔《じやま》をするか……と|云《い》ふ|事《こと》を|卜《うら》なつたのだ。どうしても|此《この》|黒《くろ》い|石《いし》が|邪魔《じやま》になつて|仕方《しかた》がないワイ』
|丙《へい》『|此《この》|黒《くろ》い|石《いし》を|殺《ころ》すと|云《い》つたつて、|元《もと》から|鉱物《くわうぶつ》だ。|動植物《どうしよくぶつ》と|違《ちが》つて、|生命《いのち》をとる|訳《わけ》にも|行《ゆ》かず、|斬《き》り|倒《たふ》して|枯《か》らす|訳《わけ》にも|行《ゆ》かぬぢやないか』
|甲《かふ》『それよりも、|建野ケ原《たけのがはら》の|神館《かむやかた》の|建能姫《たけのひめ》さまは、|此《この》|頃《ごろ》|立派《りつぱ》な|婿様《むこさま》が|出来《でけ》たぢやないか。|何《なん》でも|建国別《たけくにわけ》と|云《い》ふ|立派《りつぱ》な|宣伝使《せんでんし》だと|聞《き》いたがなア』
|丙《へい》『|建能姫《たけのひめ》さまは|建日《たけひ》の|岩窟《がんくつ》に|館《やかた》を|構《かま》へて|御座《ござ》つた|建日別命《たけひわけのみこと》の|一人娘《ひとりむすめ》で、|永《なが》らく|神様《かみさま》の|道《みち》を|宣伝《せんでん》してゐられたが、|余《あま》り|男《をとこ》が|沢山《たくさん》に|参拝《さんぱい》して|酒《さけ》に|酔《よ》うた|揚句《あげく》、|其《その》|美貌《びばう》に|現《うつつ》をぬかし、|何《なん》だかだと|言《い》ひ|寄《よ》つて、|蒼蝿《うるさ》くて|堪《た》まらないから、|独身《どくしん》|主義《しゆぎ》を|執《と》つて|居《を》られた|建能姫《たけのひめ》さまも、|到頭《たうとう》|決心《けつしん》なさつて、|建野ケ原《たけのがはら》へ|宿替《やどが》へをなされたのだよ』
|乙《おつ》『|貴様《きさま》も|建能姫《たけのひめ》に|肱鉄《ひぢてつ》を|喰《く》はされた|一人《ひとり》だらう……|否《いや》|一人《ひとり》でなくて|猥褻《わいせつ》|行為《かうゐ》|犯人《はんにん》だらう、アハヽヽヽ』
|丙《へい》『|馬鹿《ばか》を|言《い》ふない。|建能姫《たけのひめ》さまは|体中《からだぢう》から|何《なん》とも|云《い》へぬ|水晶玉《すいしやうだま》の|様《やう》な|光《ひかり》が|絶《た》えず|放射《はうしや》してゐるのだから、|到底《たうてい》|吾々《われわれ》|凡夫《ぼんぶ》がお|側《そば》へでも|寄《よ》りつかうものなら、|夫《そ》れこそ|目《め》が|潰《つぶ》れて|了《しま》ふワ。|何《なん》でも|色《いろ》の|黒《くろ》い、|鼻《はな》の|曲《まが》がつた|男《をとこ》が、|水晶玉《すいしやうだま》を|懐《ふところ》に|入《い》れて|行《ゆ》きよつてなア、|建能姫《たけのひめ》さまに|面会《めんくわい》し……これは|吾《わが》|家《や》に|伝《つた》はる|重宝《ぢうほう》で|御座《ござ》います、これを|貴女《あなた》に|献上《けんじやう》|致《いた》します……としたり|顔《がほ》に|差出《さしだ》した|所《ところ》、|建能姫《たけのひめ》|様《さま》は|厭《いや》|相《さう》な|顔付《かほつき》し|乍《なが》ら、ソツと|手《て》に|受取《うけと》り、クルクルと|転《ころ》がして|見《み》て……ハハー|此《この》|水晶玉《すいしやうだま》には|恋慕《れんぼ》と|云《い》ふ|執着心《しふちやくしん》の|黒点《こくてん》が|現《あら》はれてゐるから、|折角《せつかく》|乍《なが》ら|御返《おかへ》し|申《まを》します……と|無下《むげ》につき|返《かへ》された|馬鹿者《ばかもの》があると|云《い》ふ|事《こと》だ。それで|其《その》|男《をとこ》は|玉《たま》の|黒点《こくてん》が|気《き》になつて|堪《たま》らず、|何《ど》うぞして|此《この》|黒点《こくてん》が|除《と》れたならば、|建能姫《たけのひめ》|様《さま》に|献《たてまつ》り、|歓心《くわんしん》を|買《か》うて、ソツと|婿《むこ》にならうと|云《い》ふ|野心《やしん》があるのだ。|其《その》|野心《やしん》が|除《と》れぬ|間《あひだ》は、|何程《なにほど》|日《ひ》の|出神《でのかみ》から|頂《いただ》いた|水晶玉《すいしやうだま》でも|其《その》|黒点《こくてん》は|除《と》れはせないよ』
と|言《い》ひ|乍《なが》ら、|稍《やや》|冷笑《れいせう》|気味《ぎみ》に|甲《かふ》の|顔《かほ》をグツと|見上《みあ》げる。|甲《かふ》は|電気《でんき》にでも|打《う》たれた|様《やう》に|胸《むね》を|轟《とどろ》かせ|乍《なが》ら、|顔《かほ》を|赤《あか》らめて|沈黙《ちんもく》に|入《い》る。
|丁《てい》『それで|玉公《たまこう》が、|黒姫《くろひめ》がどうの|斯《か》うのと|言《い》つて|居《ゐ》やがるのだな。|白石《しろいし》が|負《ま》けて|黒石《くろいし》が|勝《か》つた|時《とき》、|掌中《しやうちう》の|玉《たま》を|取《と》られた|様《やう》な|顔色《がんしよく》をしよつたと|思《おも》うたら、そんな|深遠《しんゑん》な|計略《けいりやく》があつたのか、アハヽヽヽ、……|忍《しの》ぶれど|色《いろ》に|出《で》にけり|吾《わが》|恋《こひ》は、|物《もの》や|思《おも》うと|人《ひと》の|問《と》ふ|迄《まで》……とか|云《い》ふ|百人一首《ひやくにんいつしゆ》の|歌《うた》そつくりだな』
|乙《おつ》『オイ|玉公《たまこう》、そんな|曇《くも》りのある|水晶玉《すいしやうだま》は、|貴様《きさま》ん|所《とこ》の|不吉《ふきつ》だから、いい|加減《かげん》に|川《かは》へでも|投《な》げ|込《こ》んで|了《しま》つたら|如何《どう》だ。|災《わざはひ》の|来《きた》る|前《まへ》にはキツト|宝《たから》の|表《おもて》に|黒《くろ》い|影《かげ》がさすと|云《い》ふ|事《こと》だ。|人間《にんげん》の|面体《めんてい》だつて、|凶事《きようじ》の|来《きた》る|前《まへ》は、どこともなしに、|黒《くろ》ずんだ|斑点《はんてん》が|現《あら》はれるのだからなア』
|甲《かふ》は|力《ちから》|無《な》げに、
|玉公《たまこう》『|捨《す》てよといつた|所《ところ》で、|爺《おやぢ》の|言《い》ひ|付《つ》け、どんな|事《こと》があつても、|此《この》|玉《たま》は|吾《わが》|家《や》を|出《だ》す|事《こと》は|出来《でき》ぬ。それ|共《とも》|尊《たふと》き|神様《かみさま》が|現《あら》はれなさつたならば|献上《けんじやう》して|良《よ》いが、|決《けつ》して|人《ひと》に|売《う》つたり|譲《ゆづ》つたり、|捨《す》てちやならぬと、|死《し》んだ|爺《おやぢ》の|遺言《ゆゐごん》だから、|俺《おれ》の|自由《じいう》にはならないのだ。|建能姫《たけのひめ》|様《さま》が|御受取《おうけと》り|下《くだ》さらねば、もう|仕方《しかた》がない、|此《この》|玉《たま》の|黒点《こくてん》が|除《と》れる|迄《まで》、|御祈願《ごきぐわん》をこらして|身《み》を|慎《つつし》むより、|俺《おれ》には|方法《はうはふ》がないのだ。|併《しか》し|俺《おれ》の|考《かんが》ヘでは、|如何《どう》しても|此《この》|筑紫島《つくしじま》へ|黒姫《くろひめ》がやつて|来《き》たに|違《ちがひ》ない、|本当《ほんたう》に|困《こま》つた|奴《やつ》が|来《き》たものだ。|日《ひ》の|出神《でのかみ》|様《さま》のやうな|方《かた》がお|出《い》でになれば、|此《この》|玉《たま》は|益々《ますます》|光《ひか》り|輝《かがや》くのだが、|黒点《こくてん》が|次第《しだい》|々々《しだい》に|拡《ひろ》がつて、|此《この》|頃《ごろ》では|半透明《はんとうめい》に|曇《くも》つて|了《しま》つた。あの|玉《たま》の|黒点《こくてん》から|考《かんが》へて|見《み》ると、どうしても|黒姫《くろひめ》と|云《い》ふ|奴《やつ》、|今日《けふ》|此《この》|頃《ごろ》は|此《この》|峠《たうげ》のあたりへ|近付《ちかづ》いて|来《く》る|象徴《かたち》が|見《み》える。それで|実《じつ》の|所《ところ》はお|前達《まへたち》を|無花果《いちじゆく》|取《と》りにかこつけて、ここ|迄《まで》|誘《さそ》うて|来《き》たのだ。|其《その》|序《ついで》に、|白黒石《しろくろいし》の|勝負《しようぶ》をやつて|見《み》たのだ。こりや|如何《どう》しても|黒《くろ》が|障《さは》つてゐる。|黒姫《くろひめ》を……|否《いや》|黒石《くろいし》を|叩《たた》き|割《わ》つて|了《しま》はねば、|此《この》|国《くに》はサツパリ|駄目《だめ》だよ。|水晶玉《すいしやうだま》の|筑紫《つくし》の|島《しま》がサツパリ|泥水《どろみづ》になつちや|堪《たま》らない。|国魂《くにたま》の|神様《かみさま》は|此《この》|世《よ》を|水晶《すゐしやう》に|御澄《おすま》し|遊《あそ》ばす|純世姫命《すみよひめのみこと》だ。|俺《おれ》ん|所《とこ》の|秘蔵《ひざう》の|水晶玉《すいしやうだま》は、|言《い》はば|純世姫《すみよひめ》|様《さま》の|国玉《くにたま》だ。どうかして|黒《くろ》と|名《な》のつく|物《もの》は|亡《ほろ》ぼして|了《しま》はなくちや、|国家《こくか》の|一大事《いちだいじ》だよ』
|丁《てい》『そんな|小《ちつ》ぽけな|水晶玉《すいしやうだま》に、|広大無辺《くわうだいむへん》のアフリカの|国魂神様《くにたまがみさま》が|憑《うつ》つて|御座《ござ》るとは、チと|理屈《りくつ》が|合《あは》ぬぢやないか』
|玉公《たまこう》『|馬鹿《ばか》|云《い》ふな。|伸縮《しんしゆく》|自在《じざい》の|活動《くわつどう》を|遊《あそ》ばすのが、|所謂《いはゆる》|神様《かみさま》の|御高徳《ごかうとく》だ。|至大無外《しだいむぐわい》、|至小無内《しせうむない》、|無遠近《むゑんきん》、|無広狭《むくわうけふ》、|無明暗《むめいあん》、|過去《くわこ》、|現在《げんざい》、|未来《みらい》を|只《ただ》|一塊《いつくわい》の|水晶玉《すいしやうだま》に|集《あつ》めて、|俺達《おれたち》が|掌《てのひら》で|玉《たま》を|転《ころ》がす|様《やう》に、|自由自在《じいうじざい》になさるのが|神様《かみさま》だ。|其《その》|神様《かみさま》の|御霊《みたま》があの|様《やう》に|曇《くも》りかけたのだから、|吾々《われわれ》|筑紫島《つくしじま》の|人間《にんげん》はウカウカしては|居《を》られないのだ。お|前達《まへたち》は|直《すぐ》に|建能姫《たけのひめ》|様《さま》に|俺《おれ》が|恋慕《れんぼ》をして|居《を》る|様《やう》に、|妙《めう》な|所《ところ》へ|凡夫心《ぼんぷごころ》を|発揮《はつき》しよるが、そんな|陽気《やうき》な|事《こと》ぢやない。|今《いま》に|地異天変《ちいてんぺん》が|何時《いつ》|突発《とつぱつ》するか|分《わか》つたものぢやないぞ。|最前《さいぜん》の|暴風雨《ばうふうう》だつて、|茲《ここ》|二十年《にじふねん》や|三十年《さんじふねん》、|聞《き》いた|事《こと》がない|荒《あ》れ|方《かた》ぢやないか。|大《おほ》きな|岩《いは》が|木《こ》の|葉《は》の|如《ごと》くドンドンと|降《ふ》つて|来《く》る、|大木《たいぼく》は|根《ね》から|倒《たふ》れる、|木《き》の|枝《えだ》は|裂《さ》ける、|無花果《いちじゆく》の|様《やう》な|雨《あめ》が|降《ふ》る。よく|考《かんが》へて|見《み》よ。こりや|決《けつ》して|只《ただ》|事《こと》ぢやないぞ』
|斯《か》く|話《はな》す|所《ところ》へ、|蓑笠《みのかさ》|草鞋《わらぢ》|脚絆《きやはん》に|金剛杖《こんがうづゑ》の|軽《かる》き|扮装《いでたち》にて、コツンコツンと、|坂路《さかみち》を|叩《たた》き|乍《なが》ら|登《のぼ》つて|来《く》る|一人《ひとり》の|中婆《ちうばば》アがあつた。|此《こ》れは|言《い》はずと|知《し》れた|三五教《あななひけう》の|黒姫《くろひめ》である。
|黒姫《くろひめ》は|漸《やうや》く|頂上《ちやうじやう》に|登《のぼ》り|詰《つ》め、ヤツと|一安心《ひとあんしん》したものの|如《ごと》く、|左《ひだり》の|手《て》に|金剛杖《こんがうづゑ》を|固《かた》く|握《にぎ》り|体《からだ》をグツト|支《ささ》へ、|右《みぎ》の|手《て》の|拳《こぶし》を|固《かた》めて、|腰《こし》を|三《み》つ|四《よ》つ|打《う》ち|叩《たた》き、
『アーア』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら、グツと|背伸《せの》びをした|途端《とたん》に、|五人《ごにん》の|男《をとこ》が|車座《くるまざ》になつて、|何《なに》か|囁《ささや》いてゐるのに|目《め》がつき、|黒姫《くろひめ》は、
『モシモシそこに|御座《ござ》るお|若《わか》い|御方《おかた》、|一寸《ちよつと》|物《もの》をお|尋《たづ》ね|致《いた》しますが、|火《ひ》の|国《くに》には|高山彦《たかやまひこ》といふ|尊《たふと》い|宣伝使《せんでんし》が|御見《おみ》えになつてをると|云《い》ふことを、お|聞《き》きぢや|御座《ござ》いませぬか』
|乙《おつ》『|何処《どこ》の|婆《ばば》アか|知《し》らぬが、|此《この》|山路《やまみち》を|大胆至極《だいたんしごく》にも|一人旅《ひとりたび》とは|如何《どう》したものだ。|高山彦《たかやまひこ》|様《さま》の|身《み》の|上《うへ》を|尋《たづ》ねて、お|前《まへ》は|何《なん》とする|考《かんが》へだ』
|丙《へい》『オイ|虎公《とらこう》、|余《あま》りぞんざいな|物《もの》|言《い》ひをしちやならぬよ。|高山彦《たかやまひこ》|様《さま》のお|母《か》アさまかも|知《し》れないからなア』
|虎公《とらこう》『モシモシ|貴女《あなた》は|御子息《ごしそく》の|所在《ありか》を|尋《たづ》ねて、はるばる|此処迄《ここまで》、|御出《おい》でになつたのですか』
|黒姫《くろひめ》『イエイエ|私《わたくし》は|高山彦《たかやまひこ》の|妻《つま》で|御座《ござ》います。|夫《をつと》の|後《あと》を|慕《した》うて|此処迄《ここまで》|参《まゐ》りました。|高山彦《たかやまひこ》さまは|御無事《ごぶじ》でゐらつしやいますかな』
|虎公《とらこう》『|御無事《ごぶじ》も|御無事《ごぶじ》、|夫《それ》は|夫《それ》は|大変《たいへん》な|勢《いきほ》ひだ。|乍併《しかしながら》、お|前《まへ》さまが|高山彦《たかやまひこ》|様《さま》の|女房《にようばう》とはチツと|合点《がてん》のゆかぬ|話《はなし》だ。|愛子姫《あいこひめ》|様《さま》といふ|立派《りつぱ》な|奥様《おくさま》が|御座《ござ》るのに、お|前《まへ》の|様《やう》な|腰《こし》の|曲《まが》りかけた|婆《ば》アさまを|女房《にようばう》にお|持《も》ちなさるとは、チツと|可笑《をか》しいぢやないか、ソリヤ|大方《おほかた》|人違《ひとちがひ》だらう。|俺《おら》|又《また》そんな|年老《としよ》りが|男《をとこ》の|後《あと》を|慕《した》うて|来《く》ると|云《い》ふ|事《こと》は、|昔《むかし》から|聞《き》いた|事《こと》がない、|息子《むすこ》の|間違《まちがひ》ぢやないかな』
|黒姫《くろひめ》『|私《わたし》も|息子《むすこ》があつたのだけれど、|若《わか》い|時《とき》に|世間《せけん》の|外聞《ぐわいぶん》が|悪《わる》いと|云《い》つて、|四辻《よつつじ》に|捨《す》て、|人《ひと》に|拾《ひろ》はしたのだ。|其《その》|天罰《てんばつ》で|夫《をつと》には|別《わか》れる、|吾《わが》|子《こ》の|行方《ゆくへ》は|知《し》れず、|年《とし》は|追々《おひおひ》|寄《よ》つてくる、|自分《じぶん》の|子《こ》はなし、|力《ちから》とするのは|神様《かみさま》と|高山彦《たかやまひこ》の|夫《をつと》|計《ばか》りだ。|其《その》|高山彦《たかやまひこ》さまに|若《わか》い|女房《にようばう》があるとは、|嘘《うそ》ぢや|御座《ござ》いますまいかなア』
|虎公《とらこう》『|決《けつ》して|嘘《うそ》は|言《い》ひませぬ。|一言《ひとこと》でも|嘘《うそ》を|言《い》はふものなら、|国魂神様《くにたまがみさま》の|罰《ばち》が|当《あた》つて、|忽《たちま》ち|口《くち》が|歪《ゆが》んで|了《しま》ひます。|此《この》|熊襲《くまそ》の|国《くに》の|人間《にんげん》に|口《くち》が|歪《ゆが》んだ|奴《やつ》の|多《おほ》いのは、|皆《みな》|嘘《うそ》を|言《い》つて|神罰《しんばつ》を|受《う》けた|奴《やつ》|計《ばか》りですよ、なア|新公《しんこう》』
|新公《しんこう》『オウそうともそうとも、|恐《おそ》ろしいて、|嘘《うそ》のウの|字《じ》も|言《い》はれたものぢやない』
|黒姫《くろひめ》『あゝそうですかなア。|折角《せつかく》|此処迄《ここまで》|長《なが》の|海山《うみやま》|越《こ》え、やつて|来《き》た|黒姫《くろひめ》の|心《こころ》も|知《し》らずに、|高山《たかやま》さまとした|事《こと》が、|若《わか》い|女《をんな》を|女房《にようばう》に|有《も》つとは、|余《あま》り|没義道《もぎだう》だ。チツとは|私《わたし》の|心《こころ》も|推量《すゐりやう》してくれても|能《よ》かりさうなものだのに。あゝ|如何《どう》しようかな。|進《すす》みもならず|退《しりぞ》きもならず、|困《こま》つたことになつて|来《き》たワイ』
と|涙《なみだ》をハラハラと|流《なが》し、|立《た》つた|儘《まま》、|歎《なげ》きに|沈《しづ》んで|居《ゐ》る。
|玉公《たまこう》『コレコレお|婆《ば》アさま、お|前《まへ》さまは|今《いま》、|黒姫《くろひめ》だと|言《い》ひましたねえ』
|黒姫《くろひめ》『ハイ、|火《ひ》の|国《くに》の|都《みやこ》にまします|高山彦《たかやまひこ》の|宣伝使《せんでんし》の|真《まこと》の|女房《にようばう》で|御座《ござ》います』
|玉公《たまこう》『ハテ|困《こま》つた|事《こと》が|出来《でき》て|来《き》た。|私《わたし》は|此《この》|黒姫《くろひめ》を|亡《ほろ》ぼしてやらねば、|此《この》|国《くに》が|泥海《どろうみ》になつて|了《しま》ふと、|水晶玉《すいしやうだま》の|知《し》らせに|依《よ》つて|此処迄《ここまで》やつて|来《き》て|待《ま》つてゐたのだが、|御神徳《ごしんとく》|高《たか》き|高山彦《たかやまひこ》|様《さま》の|奥《おく》さまとあれば、|如何《どう》することも|出来《でき》ない。|高山彦《たかやまひこ》|様《さま》は|筑紫《つくし》の|島《しま》の|生神様《いきがみさま》、|親様《おやさま》と、|国民《こくみん》|全体《ぜんたい》が|尊敬《そんけい》して|居《ゐ》る|立派《りつぱ》な|御方《おかた》、|其《その》|奥様《おくさま》を|虐《しひた》げる|訳《わけ》には|行《ゆ》かない。さうすると|黒姫《くろひめ》さま、|貴女《あなた》は|高山彦《たかやまひこ》|様《さま》の|本当《ほんたう》の|奥様《おくさま》に|間違《まちがひ》ありませぬか』
|黒姫《くろひめ》『|決《けつ》して|間違《まちがひ》はありませぬ、|愛子姫《あいこひめ》と|云《い》ふのは、つまり|高山彦《たかやまひこ》さまのお|妾《めかけ》でせう。|一夫一婦《いつぷいつぷ》の|掟《をきて》の|厳《きび》しい|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》が、|二人《ふたり》も|本妻《ほんさい》を|持《も》つ|道理《だうり》は|有《あ》りますまい』
|玉公《たまこう》『ハテ|合点《がてん》のゆかぬ|事《こと》だ。あれ|丈《だけ》|立派《りつぱ》な|高山彦《たかやまひこ》|様《さま》が、|妾《めかけ》を|御持《おも》ちなさるとは、|何《なん》たる|矛盾《むじゆん》であらう。|何程《なにほど》|恋《こひ》は|思案《しあん》の|外《ほか》といつても、コリヤ|又《また》|余《あま》りの|脱線振《だつせんぶり》だ。……モシモシ|黒姫《くろひめ》さま、|貴女《あなた》は|一旦《いつたん》|離縁《りえん》されたのぢやありませぬか。|斯《こ》う|云《い》うと|失礼《しつれい》だが、あんな|立派《りつぱ》な|宣伝使《せんでんし》が、お|前《まへ》さまの|様《やう》な|黒《くろ》い|御方《おかた》と|夫婦《ふうふ》にならつしやるのは、|丁度《ちやうど》|月《つき》と|鼈《すつぽん》、|鷺《さぎ》と|烏《からす》が|結婚《けつこん》した|様《やう》なものだから、お|前《まへ》さま|自転倒島《おのころじま》とやらで、|三行半《みくだりはん》を|貰《もら》はしやつたのぢやありませぬか。さうでないと、|如何《どう》しても|高山彦《たかやまひこ》さまの|神格《しんかく》に|照《て》らし、|合点《がてん》の|行《ゆ》かぬ|節《ふし》が|沢山《たくさん》あるのだ』
|虎公《とらこう》『モシ|黒姫《くろひめ》さま、|最前《さいぜん》お|前《まへ》さまは|一人《ひとり》の|子《こ》を|捨《す》てたと|仰有《おつしや》つたが、|其《その》|子《こ》は|今《いま》|生《いき》て|居《を》つたら|幾《いく》つ|位《くらゐ》になつてゐられますかな』
|黒姫《くろひめ》『ハイ、|今《いま》から|三十五年前《さんじふごねんぜん》の|事《こと》、|今《いま》|居《を》つたならば|三十五歳《さんじふごさい》の|血気《けつき》|盛《ざか》りの|立派《りつぱ》な|男《をとこ》になつて|居《ゐ》るだろう。|若《わか》い|時《とき》は|親《おや》の|許《ゆる》さぬ|男《をとこ》の|子《こ》を|拵《こしら》へて、|世間《せけん》に|外聞《ぐわいぶん》が|悪《わる》いと|思《おも》ひ、|無残《むざん》にも|四辻《よつつじ》へ|捨《す》てたのだが、|今《いま》になつて|考《かんがへ》えて|見《み》れば|実《じつ》に|残念《ざんねん》なことを|致《いた》しました』
と|今更《いまさら》の|如《ごと》く|涙《なみだ》をハラハラと|流《なが》し|憂《うれ》ひに|沈《しづ》む。
|虎公《とらこう》『|建野ケ原《たけのがはら》の|神館《かむやかた》の|建能姫《たけのひめ》|様《さま》の|御養子《ごやうし》に|見《み》えたのは、|今年《こんねん》|卅五歳《さんじふごさい》、|建国別《たけくにわけ》といふ|立派《りつぱ》な|宣伝使《せんでんし》だ。|其《その》お|方《かた》も|話《はなし》に|依《よ》れば、|赤児《あかご》の|時《とき》に|捨児《すてご》をしられ、|今《いま》に|両親《りやうしん》の|行方《ゆくへ》が|知《し》れぬので、|三五教《あななひけう》の|神様《かみさま》を|信《しん》じ、|一日《ひとひ》も|早《はや》く|誠《まこと》の|父母《ふぼ》に|会《あ》はして|下《くだ》さいといつて、|一心不乱《いつしんふらん》に|信仰《しんかう》を|遊《あそ》ばし、|遂《つひ》には|尊《たふと》い|宣伝使《せんでんし》にお|成《な》りなさつたといふ|事《こと》です。|今《いま》から|丁度《ちやうど》|一年前《いちねんまへ》だつた。|火《ひ》の|国《くに》の|館《やかた》の|高山彦《たかやまひこ》|様《さま》が|御媒酌《ごばいしやく》で|建能姫《たけのひめ》|様《さま》の|御養子婿《ごやうしむこ》になられ、|夫婦《ふうふ》|睦《むつ》まじく、|御神徳《ごしんとく》は|日《ひ》に|夜《よ》に|高《たか》く、それはそれは|大変《たいへん》な|勢《いきほひ》で|御座《ござ》いますよ。よもやお|前《まへ》さまの|捨《す》てた|御子《おこ》さまではあろまいかなア』
|黒姫《くろひめ》『|何《なに》、|建国別《たけくにわけ》の|宣伝使《せんでんし》が|捨児《すてご》だつたとなア。さうして|其《その》お|年《とし》が|卅五歳《さんじふごさい》、ハテ|合点《がてん》のゆかぬ|事《こと》だなア』
(大正一一・九・一三 旧七・二二 松村真澄録)
第一〇章 |空縁《からえん》〔九五一〕
|建野ケ原《たけのがはら》の|神館《かむやかた》は、|風景《ふうけい》よき|小丘《せうきう》の|上《うへ》に|小薩張《こざつぱり》として|新《あたら》しく|建《た》てられて|居《ゐ》る。|千年《ちとせ》の|老樹《らうじゆ》、|鬱蒼《うつさう》として|境内《けいだい》を|包《つつ》み、|実《じつ》に|神々《かうがう》しき|地点《ちてん》である。|前《まへ》は|激潭飛沫《げきたんひまつ》を|飛《と》ばす|深谷川《ふかたにがは》が|横《よこ》ぎつて|居《ゐ》る。|朝《あさ》から|晩《ばん》|迄《まで》|信徒《しんと》の|参集《さんしふ》する|者《もの》|踵《きびす》を|接《せつ》し、|神《かみ》の|神徳《しんとく》は|四方《よも》に|輝《かがや》き|渡《わた》つて|居《ゐ》た。
|館《やかた》の|奥《おく》の|間《ま》には|建国別《たけくにわけ》の|宣伝使《せんでんし》|脇息《けふそく》に|凭《もた》れ|乍《なが》ら|深《ふか》き|吐息《といき》をついて|居《ゐ》る。|襖《ふすま》をそつと|引《ひ》き|開《あ》け、|湯《ゆ》を|盆《ぼん》にもつて|淑《しと》やかに|入《はい》つて|来《き》た|絶世《ぜつせい》の|美人《びじん》は|建能姫《たけのひめ》であつた。
|建能姫《たけのひめ》『|吾《わが》|夫様《つまさま》、お|早《はや》う|御座《ござ》います。お|湯《ゆ》が|沸《わ》きました、どうぞ|一《ひと》つ|召《め》し|上《あ》り|下《くだ》さいませ』
と|差出《さしいだ》す。|建能姫《たけのひめ》の|声《こゑ》にも|気《き》がつかぬと|見《み》え、|目《め》を|塞《ふさ》ぎ|黙念《もくねん》として|何《なに》か|冥想《めいさう》に|耽《ふけ》つて|居《ゐ》る。|建能姫《たけのひめ》は|少《すこ》しく|声《こゑ》を|高《たか》め、
|建能姫《たけのひめ》『モシモシ|吾《わが》|夫様《つまさま》、お|湯《ゆ》が|沸《わ》きました、|召《め》し|上《あ》り|下《くだ》さいませ』
|此《この》|声《こゑ》に【ハツ】と|気《き》が|付《つ》いたやうな|面持《おももち》にて、
|建国別《たけくにわけ》『ヤア|其方《そなた》は|建能姫《たけのひめ》、お|湯《ゆ》が|沸《わ》きましたかな、|有難《ありがた》う|頂戴《ちやうだい》|致《いた》しませう』
|建能姫《たけのひめ》『|吾《わが》|夫様《つまさま》、|貴方《あなた》は|妾《わらは》の|家《うち》にお|越《こ》し|下《くだ》さいましてから、|恰度《ちやうど》|今日《けふ》で|満《まん》|一年《いちねん》になります。|然《しか》るに|唯《ただ》の|一度《いちど》も|妾《わらは》に|対《たい》し|御機嫌《ごきげん》のよいお|顔《かほ》を|見《み》せて|下《くだ》さつた|事《こと》は|御座《ござ》いませぬ。|妾《わらは》も|初《はじめ》の|間《うち》は|不束《ふつつか》なもの|故《ゆゑ》お|気《き》に|召《め》さぬかと|存《ぞん》じ|色々《いろいろ》と|気《き》を|揉《も》みましたが、|貴方様《あなたさま》はいつも|妾《わらは》を|可愛《かあい》がつて|下《くだ》さいますので|合点《がてん》が|行《ゆ》かず、|何《なに》か|深《ふか》い|秘密《ひみつ》がお|有《あ》りなさるのであらうと、|常々《つねづね》に|済《す》まぬ|事《こと》ながら|御様子《ごやうす》を|伺《うかが》つて|居《を》りました。|然《しか》る|処《ところ》|或夜《あるよ》のお|寝言《ねごと》に……|父上《ちちうへ》|母上《ははうへ》に|一目《ひとめ》|遇《あ》ひ|度《た》い……と|仰有《おつしや》つた|事《こと》が|妾《わらは》の|耳《みみ》に|今《いま》に|残《のこ》つて|居《を》ります。|何卒《どうぞ》|女房《にようばう》の|妾《わらは》に|何《なん》の|遠慮《ゑんりよ》もいりませぬから、【ハツキリ】と|仰有《おつしや》つて|下《くだ》さいませ』
と|恐《おそ》る|恐《おそ》る|問《と》ひかけたるに、|建国別《たけくにわけ》は、
『|女房《にようばう》の|其方《そなた》に|隠《かく》して|居《を》つて|誠《まこと》に|済《す》まなかつた。|水臭《みづくさ》い|夫《をつと》と|恨《うら》んで|下《くだ》さいますな。|貴女《あなた》は|由緒《ゆいしよ》ある|建日別命《たけひわけのみこと》|様《さま》の|御息女《おむすめご》、|此《この》|建国別《たけくにわけ》は|父母《ふぼ》|両親《りやうしん》の|所在《ありか》も|分《わか》らず、|況《ま》して|素性《すじやう》は|如何《いか》なるものか|些《ちつ》とも|見当《けんたう》が|取《と》れませぬ。|今《いま》は|建日別命《たけひわけのみこと》|様《さま》の|後《あと》をつぎ、|建国別《たけくにわけ》と|云《い》ふ|立派《りつぱ》な|名《な》を|頂《いただ》き、|尊《たふと》き|神様《かみさま》にお|仕《つか》へをして|居《を》りますが、|私《わたくし》の|幼時《えうじ》は|金太郎《きんたろう》と|云《い》つて|姓《せい》も|知《し》れず、|人《ひと》に|拾《ひろ》はれ|他人《たにん》の|情《なさけ》によつて、|漸《やうや》く|三十五《さんじふご》の|今日《けふ》|迄《まで》|成人《せいじん》して|来《き》ました。|私《わたくし》の|父母《ちちはは》はもう|今頃《いまごろ》は|此《この》|世《よ》に|生《いき》て|居《を》られるか、|或《あるひ》は|彼《あの》|世《よ》の|人《ひと》になつて|居《を》られるか、|何《なん》だか|知《し》らぬが、|両親《りやうしん》に|遇《あ》ひ|度《た》い|遇《あ》ひ|度《た》いと|云《い》ふ|執着心《しふちやくしん》がムクムクと|腹《はら》の|底《そこ》より|起《おこ》つて|来《き》て、いつも|知《し》らず|識《し》らず|顔《かほ》がふくれ、|不機嫌《ふきげん》な|顔《かほ》をお|前《まへ》に|見《み》せました。|何卒《どうぞ》|気《き》を|悪《わる》くして|下《くだ》さるな』
|建能姫《たけのひめ》『|勿体《もつたい》ない|何《なに》を|仰《あふ》せられます。|今日《けふ》は|夫《あなた》の|吾《わが》|家《や》に|入《い》らせられてより|満《まん》|一年《いちねん》の|吉日《きちにち》、|何卒《どうぞ》|機嫌《きげん》をお|直《なほ》し|下《くだ》さつて、|夫婦《ふうふ》|揃《そろ》うて|神様《かみさま》にお|礼《れい》を|申上《まをしあ》げ、|心祝《こころいは》ひに|皆《みな》の|役員《やくゐん》|信者《しんじや》に|御神酒《おみき》でも|饗応《ふれまひ》|申《まう》しませうか。|神様《かみさま》のお|蔭《かげ》で|貴方《あなた》も|御両親《ごりやうしん》にキツトお|遇《あ》ひなさる|事《こと》が|何《いづ》れは|御座《ござ》いませう。|何卒《どうぞ》その|様《やう》に|落胆《らくたん》せずに、|潔《いさぎよ》く|暮《くら》して|下《くだ》さいませ』
|建国別《たけくにわけ》『ハイ|有難《ありがた》う、そんなら|今日《けふ》は|機嫌《きげん》よう|神様《かみさま》にお|礼《れい》を|致《いた》しませう。さうして|役員《やくゐん》|信者《しんじや》に|御神酒《おみき》を|頂《いただ》かしませう』
|建能姫《たけのひめ》は|嬉《うれ》し|気《げ》に、いそいそとして|酒宴《しゆえん》の|用意《ようい》を|役員《やくゐん》の|建彦《たけひこ》に|命《めい》ずべく|此《この》|場《ば》を|下《さが》つて|仕舞《しま》つた。
|後《あと》に|建国別《たけくにわけ》は|双手《もろて》を|組《く》み、|両親《りやうしん》の|身《み》の|上《うへ》|及《およ》び|建能姫《たけのひめ》の|親切《しんせつ》なる|言葉《ことば》に|感謝《かんしや》の|涙《なみだ》|止《と》め|難《がた》く、|教服《けうふく》の|袖《そで》に|時《とき》ならぬ|夕立《ゆふだち》の|雨《あめ》を|降《ふ》らして|居《ゐ》る。|建能姫《たけのひめ》は|襖《ふすま》を|静《しづか》に|開《ひら》き|丁寧《ていねい》に|両手《りやうて》をつき、|言葉《ことば》|静《しづか》に、
|建能姫《たけのひめ》『|吾《わが》|夫様《つまさま》、|建彦《たけひこ》に|今日《けふ》の|祝宴《しゆくえん》は|一切《いつさい》|命《めい》じて|置《お》きました。サア、|妾《わらは》と|二人《ふたり》これから|神前《しんぜん》へお|礼《れい》に|上《あが》りませう』
|建国別《たけくにわけ》は|建能姫《たけのひめ》のやさしき|言葉《ことば》に|満足《まんぞく》の|面《おもて》を|照《てら》しながら|神殿《しんでん》|深《ふか》く|進《すす》み|入《い》り、|感謝《かんしや》|祈願《きぐわん》の|祝詞《のりと》を|奏上《そうじやう》するのであつた。|玉《たま》を|転《ころば》す|如《ごと》き|建能姫《たけのひめ》の|声《こゑ》、|音吐朗々《おんとらうらう》たる|建国別《たけくにわけ》の|祝詞《のりと》の|声《こゑ》と|琴瑟《きんしつ》|相《あひ》|調和《てうわ》して、|得《え》も|云《い》はれぬ|風韻《ふうゐん》が|境内《けいだい》に|隈《くま》なく|響《ひび》き|渡《わた》り、|神々《かうがう》しき|光景《くわうけい》が|溢《あふ》れてゐる。
|建彦《たけひこ》|以下《いか》の|幹部《かんぶ》|役員《やくゐん》を|初《はじ》め、|数多《あまた》の|老若男女《らうにやくなんによ》は|早朝《さうてう》より|詰《つ》めかけ、|今日《けふ》の|祝宴《しゆくえん》に|列《れつ》すべく|和気靄々《わきあいあい》として、|境内《けいだい》の|各所《かくしよ》に|三々五々《さんさんごご》|群《むれ》をなし、|建国別《たけくにわけ》|夫婦《ふうふ》の|高徳《かうとく》を|口々《くちぐち》に|讃歎《さんたん》して|居《ゐ》る。|上下一致《しやうかいつち》|相和楽《あひわらく》して|恰《あたか》も|天国《てんごく》|浄土《じやうど》の|趣《おもむき》が|館《やかた》の|内外《ないぐわい》に|十二分《じふにぶん》に|溢《あふ》れて|居《ゐ》る。かかる|処《ところ》へ|表門《おもてもん》を|叩《たた》いて|入《い》り|来《く》る|男女《だんぢよ》|二人《ふたり》の|道者《だうしや》があつた。
|女《をんな》『モシモシ、|一寸《ちよつと》|此《この》|門《もん》を|開《あ》けて|下《くだ》さいませぬか。|妾《わたし》は|自転倒島《おのころじま》より|参《まゐ》りました|黒姫《くろひめ》と|申《まを》す|者《もの》で|御座《ござ》います。|火《ひ》の|国《くに》の|高山彦《たかやまひこ》の|宣伝使《せんでんし》が|女房《にようばう》だと|仰有《おつしや》つて|下《くだ》されば、|建国別《たけくにわけ》|様《さま》はキツとお|会《あ》ひ|下《くだ》さるでせうから……』
|門番《もんばん》の|幾公《いくこう》は|高山彦《たかやまひこ》の|女房《にようばう》と|云《い》ふ|声《こゑ》に|驚《おどろ》き|慌《あわ》てて|表門《おもてもん》をサツと|開《ひら》いた。|数多《あまた》の|参詣者《さんけいしや》の|出入《でいり》する|門《もん》は|横《よこ》の|方《はう》にある。|此《この》|門《もん》は|唯《ただ》|建国別《たけくにわけ》|個人《こじん》としての|住宅《ぢうたく》の|門《もん》であつた。|黒姫《くろひめ》は、
『|御苦労《ごくらう》さま』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら|此《この》|門内《もんない》に|慌《あはただ》しく|進《すす》み|入《い》る。|幾公《いくこう》は|一人《ひとり》の|男《をとこ》の|顔《かほ》を|見《み》て、
|幾公《いくこう》『アヽお|前《まへ》は|玉《たま》さまぢやないか。どうして|又《また》このお|方《かた》の|御案内《ごあんない》をして|来《き》たのだ』
|玉公《たまこう》『チツと|合点《がつてん》の|行《ゆ》かぬ|事《こと》があるのだ。ひよつとしたら|建国別《たけくにわけ》|様《さま》の|此《この》|方《かた》はお|母《か》アさまかも|知《し》れないよ。|夫《それ》で|兎《と》も|角《かく》も|御案内《ごあんない》|申《まを》したのだ』
と、|耳《みみ》の|辺《はた》に|口《くち》を|寄《よ》せ|他聞《たぶん》を|憚《はばか》るやうな|面持《おももち》にて|囁《ささや》いて|居《ゐ》る。
|幾公《いくこう》『それや|大変《たいへん》だ。|今日《けふ》は|建国別《たけくにわけ》|様《さま》の|起《おこ》し|遊《あそ》ばしてから|満《まん》|一年《いちねん》の|祝宴《しゆくえん》が|開《ひら》かれてゐる|処《ところ》だ。こんな|芽出度《めでた》い|場所《ばしよ》へお|母《かあ》さまがお|越《こし》になるとは|益々《ますます》もつて|芽出度《めでた》い|事《こと》だ。オイ|玉公《たまこう》お|前《まへ》|何卒《どうぞ》|暫《しばら》く|俺《おれ》に|代《かは》つて|門番《もんばん》をして|居《ゐ》て|呉《く》れ。|俺《おれ》はこれから|建国別《たけくにわけ》|様《さま》にこの|吉報《きつぱう》を|注進《ちうしん》して|来《く》るから……』
と|云《い》ひ|捨《す》て|黒姫《くろひめ》に|追《お》ひつき|行《ゆ》く。
|幾公《いくこう》『モシモシ|建国別《たけくにわけ》のお|母《かあ》さま、ボツボツ|来《き》て|下《くだ》さい。|私《わたくし》が|先《さき》に|御主人《ごしゆじん》に|御注進《ごちうしん》|申上《まをしあ》げ、お|迎《むか》へに|参《まゐ》ります。|何卒《どうぞ》この|中門《なかもん》の|傍《そば》に|御苦労《ごくらう》|乍《なが》ら|暫《しばら》く|立《た》つて|待《ま》つて|居《ゐ》て|下《くだ》さいませ』
と|早《はや》くも|慌者《あわてもの》の|幾公《いくこう》は、|建国別《たけくにわけ》の|母親《ははおや》と|固《かた》く|信《しん》じて|仕舞《しま》ひ、|不遠慮《ぶゑんりよ》に|奥《おく》の|間《ま》さして|慌《あは》ただしくかけ|込《こ》んだ。
|奥《おく》の|一間《ひとま》には|建国別《たけくにわけ》|夫婦《ふうふ》、|向《むか》ひ|合《あ》ひとなつて|祝《いはひ》の|酒《さけ》を|汲《く》み|交《か》はして|居《ゐ》る。
|建能姫《たけのひめ》『|吾《わが》|夫様《つまさま》、|今日《けふ》|位《くらゐ》|気《き》の|何《なん》となく|嬉《うれ》しい|時《とき》は|御座《ござ》いませぬなア。それについても|貴方《あなた》の|御両親様《ごりやうしんさま》が|此《この》|席《せき》にお|出《いで》になり、|親子《おやこ》|夫婦《ふうふ》が|斯《か》うして|睦《むつま》じう|直会《なほらひ》のお|神酒《みき》を|頂《いただ》くのならば、|何程《なにほど》|嬉《うれ》しい|事《こと》で|御座《ござ》いませう』
|建国別《たけくにわけ》『あゝさうですなア。|併《しか》し|私《わたくし》は|今《いま》|神前《しんぜん》に|御祈願《ごきぐわん》の|最中《さいちう》、フツと|妙《めう》な|考《かんが》へが|起《おこ》りました。|私《わたくし》の|両親《りやうしん》はキツト|此《この》|世《よ》に|生《い》きて|居《ゐ》て|神様《かみさま》の|為《ため》に|立派《りつぱ》な|宣伝使《せんでんし》となり、|活動《くわつどう》して|居《を》られるやうな|感《かん》が|致《いた》しました。そうして|今日《けふ》は|何《なん》となしに|両親《りやうしん》に|会《あ》ふ|手蔓《てづる》が|出来《でき》るやうな|気分《きぶん》が|浮《う》いて|来《き》て、|酒《さけ》の|味《あぢ》も|一層《いつそう》よくなりました』
|建能姫《たけのひめ》『|夫《それ》は|夫《それ》は|何《なに》よりも|嬉《うれ》しい|事《こと》で|御座《ござ》います。キツト|神様《かみさま》のお|引《ひ》き|合《あは》せで|誠《まこと》さへ|積《つ》んで|居《を》れば、|御両親様《ごりやうしんさま》に|御対面《ごたいめん》が|出来《でき》ませう。|妾《わらは》も|一昨年《いつさくねん》|両親《りやうしん》に|別《わか》れ|力《ちから》と|頼《たの》むは|唯《ただ》|吾《わが》|背《せ》の|命《みこと》ばかり、そこへ|御両親様《ごりやうしんさま》がお|見《み》えにならうものなら、どれ|程《ほど》|嬉《うれ》しい|事《こと》で|御座《ござ》いませう。|妾《わらは》はキツト|生《うみ》の|父母《ちちはは》と|思《おも》ひ、|力《ちから》|限《かぎ》り|孝養《かうやう》を|尽《つく》しますから|何卒《どうぞ》|御安心《ごあんしん》|下《くだ》さいませ』
と|涙《なみだ》ぐむ。|建国別《たけくにわけ》は、
『ハイ|有難《ありがた》う』
と|云《い》つたきり|感謝《かんしや》の|涙《なみだ》に|咽《むせ》び、|無言《むごん》の|儘《まま》|俯向《うつむ》いて|居《ゐ》る。
その|処《ところ》へ|足音《あしおと》|高《たか》く|慌《あは》ただしく|入《い》り|来《きた》るは|門番《もんばん》の|幾公《いくこう》であつた。ガラリと|襖《ふすま》を|無造作《むざうさ》に|引《ひ》きあけ、|片膝《かたひざ》を|立《た》てたまま|手《て》をついて、ハアハアと|息《いき》をはづませ、
|幾公《いくこう》『もしもし|御主人様《ごしゆじんさま》、|大変《たいへん》な|事《こと》が|出来《でき》ました。|天《てん》が|地《ち》となり、|地《ち》が|天《てん》になるやうな|突発《とつぱつ》|事件《じけん》で|御座《ござ》いますよ』
|建国別《たけくにわけ》は|稍《やや》|気色《けしき》ばみ、|忽《たちま》ち|立膝《たてひざ》となり、
|建国別《たけくにわけ》『お|前《まへ》は|門番《もんばん》の|幾公《いくこう》、|大変事《だいへんじ》が|突発《とつぱつ》したとは|何事《なにごと》だ。|早《はや》く|云《い》つて|呉《く》れないか』
|幾公《いくこう》『ハイ、|大変《たいへん》も|大変《たいへん》|地異天変《ちいてんぺん》、|手《て》の|舞《ま》ひ|足《あし》の|踏《ふ》む|所《ところ》を|知《し》らずと|云《い》ふ|喜《よろこ》びが|降《ふ》つて|来《き》ました。お|目出度《めでた》う|御座《ござ》います。|御夫婦様《ごふうふさま》お|喜《よろこ》びなさいませ。あゝ|嬉《うれ》しい|嬉《うれ》しい|目出度《めでた》い|目出度《めでた》いおめでたい』
と|手《て》を|拍《う》つて|立《た》ち|上《あが》り、【キリ】キリと|舞《ま》うて|見《み》せた。|夫婦《ふうふ》は|合点《がてん》ゆかず、ヂツと|幾公《いくこう》の|乱舞《らんぶ》を|見詰《みつ》めて|居《ゐ》る。
|幾公《いくこう》『これはこれは|御主人様《ごしゆじんさま》、|余《あま》り|嬉《うれ》しうて|肝腎《かんじん》の|申上《まをしあ》げる|事《こと》を|忘《わす》れました。|目出度《めでた》い|時《とき》には|目出度事《めでたごと》が|重《かさ》なるものですなア、|貴方《あなた》のお|母《かあ》さまが、|建国別《たけくにわけ》の|館《やかた》は|此処《ここ》か、|一度《いちど》|会《あ》ひたいと|仰有《おつしや》つて、|今《いま》、|村《むら》の|玉公《たまこう》の|案内《あんない》でお|見《み》えになりました。|中門《なかもん》の|口《くち》に|待《ま》つて|居《を》られますから、|何卒《どうぞ》|御夫婦様《ごふうふさま》|機嫌《きげん》よくお|出迎《でむか》へ|下《くだ》さいませ。|嘸《さぞ》お|母《かあ》さまもお|喜《よろこ》びで|御座《ござ》いませう』
|建国別《たけくにわけ》は、
『ハテナア』
と|云《い》つたきり|双手《もろて》を|組《く》み|又《また》もや|思案《しあん》に|沈《しづ》む。|幾公《いくこう》は|焦慮《もどかし》さうに、
|幾公《いくこう》『これはしたり|御主人様《ごしゆじんさま》、ハテナも|何《なに》もあつたものですか。|愚図々々《ぐづぐづ》して|居《を》られますと、お|母《かあ》さまが|怒《おこ》つて|帰《かへ》られたら、それこそつまりませぬ。|喜《よろこ》びも|一緒《いつしよ》に|帰《かへ》つて|仕舞《しま》ひます。|何卒《どうぞ》|早《はや》くお|出迎《でむか》ひなさつて|下《くだ》さいませ。|中門《なかもん》の|口《くち》に|立《た》つて|居《を》られますから……』
|建能姫《たけのひめ》『|御主人様《ごしゆじんさま》、|兎《と》も|角《かく》も|貴方《あなた》は|此処《ここ》に|居《ゐ》て|下《くだ》さいませ。|妾《わらは》が|実否《じつぴ》を|検《しら》べて|参《まゐ》ります』
|建国別《たけくにわけ》『|御苦労《ごくらう》だが|貴方《あなた》|往《い》つて|来《き》て|下《くだ》さい、|仮令《たとへ》|真偽《しんぎ》は|分《わか》らなくとも|御丁寧《ごていねい》に|奥《おく》へお|通《とほ》し|申《まを》しゆつくりと|話《はなし》を|承《うけたま》はりませう。|可成《なるべく》|人《ひと》の|耳《みみ》に|入《い》らないやうにして|下《くだ》さい』
|建能姫《たけのひめ》『ハイ|承知《しようち》|致《いた》しました。それなら|妾《わらは》がお|迎《むか》ひに|参《まゐ》ります……これ|幾公《いくこう》や、お|前《まへ》|此《この》|事《こと》は|真偽《しんぎ》の|分《わか》る|迄《まで》|誰人《だれ》にも|云《い》つてはなりませぬよ』
|幾公《いくこう》は|頭《あたま》を|掻《か》きながら、
|幾公《いくこう》『ハイ|併《しか》し|乍《なが》ら、あまり|嬉《うれ》しいので|四五人《しごにん》の|連中《れんちう》に|喋《しやべ》つて|了《しま》ひました。もう|今頃《いまごろ》は|建彦《たけひこ》の|幹部《かんぶ》にも|耳《みみ》に|入《い》り、やがてお|祝《いはひ》にテクテク|詰《つ》めかけるでせう。|今更《いまさら》|口留《くちどめ》する|訳《わけ》にもゆきませず、どうしませうかなア』
|建能姫《たけのひめ》『|何《なん》とまア|気《き》の|早《はや》い|男《をとこ》だなア、|万一《まんいち》|人違《ひとちが》ひで、|真実《ほんと》のお|母《かあ》さまで|無《な》かつた|時《とき》はお|前《まへ》どうなさる|積《つも》りかえ』
|幾公《いくこう》『|真実《ほんと》でも|嘘《うそ》でもお|母《かあ》さまはお|母《かあ》さまですよ。|此《この》|幾公《いくこう》だつてお|母《かあ》さまが|無《な》いのだもの、|烏《からす》がカアカア|云《い》ふ|声《こゑ》を|聞《き》いても|懐《なつ》かしくなるのだから、|嘘《うそ》でも|真実《ほんと》でも|構《かま》ひませぬ。お|母《かあ》さまと|聞《き》いてこれがどうしてヂツとして|居《を》れませうか』
|建国別《たけくにわけ》『ハヽヽ|困《こま》つた|男《をとこ》だなア。これ|幾公《いくこう》、お|湯《ゆ》を|一《ひと》つ|汲《く》んでおくれ』
|幾公《いくこう》『お|湯《ゆ》を|汲《く》んでお|母《かあ》さまに|上《あ》げるのですか。|余《あま》り|門口《かどぐち》では|失礼《しつれい》ぢやありませぬか。|折角《せつかく》|探《たづ》ねてお|出《いで》になつたお|母《かあ》さまに、|乞食《こじき》か|何《なん》ぞのやうに|門口《かどぐち》でお|湯《ゆ》を|上《あ》げるなんて|些《ちつ》と|失礼《しつれい》ぢや|御座《ござ》いませぬか』
|建国別《たけくにわけ》『|分《わか》らぬ|男《をとこ》だなア。お|湯《ゆ》を|私《わたし》に|汲《く》んでくれと|云《い》ふのだよ』
|幾公《いくこう》『|一寸《ちよつと》お|待《ま》ちなさいませ。|親《おや》より|先《さき》へお|湯《ゆ》を|頂《いただ》くと|云《い》ふ、そんな|不道理《ふだうり》な|事《こと》がありますか。|今《いま》までは|御両親《ごりやうしん》の|行方《ゆくへ》が|分《わか》らないものだから、|此《この》|家《うち》の|大将《たいしやう》で|貴方《あなた》が|一番《いちばん》|先《さき》にお|湯《ゆ》なり|御飯《ごはん》なりお|食《あが》り|遊《あそ》ばしたのだが、もう|今日《けふ》となつては|長上《めうへ》をさし|置《お》いて|貴方《あなた》が|先《さき》へお|茶《ちや》を|飲《の》むと|云《い》ふ|道理《だうり》はありますまい。そんな|事《こと》で|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》が|勤《つと》まりますか』
|建国別《たけくにわけ》『ヤア、|長々《ながなが》とお|前《まへ》のお|説教《せつけう》で|私《わたし》も|感心《かんしん》した。そんならお|湯《ゆ》を|頂《いただ》く|事《こと》だけは|暫《しばら》く|見合《みあは》して|置《お》かう』
|幾公《いくこう》『|遉《さすが》は|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》|建国別命《たけくにわけのみこと》|様《さま》、|物《もの》の|道理《だうり》がよく|分《わか》ります|哩《わい》。さうだから|此《この》|幾公《いくこう》も|貴方《あなた》の|抱擁力《ほうようりよく》の|偉大《ゐだい》なるに|平素《へいそ》から|感服《かんぷく》して、|門番《もんばん》を|甘《あま》んじて|勤《つと》めて|居《ゐ》るのです。これから|御免《ごめん》|蒙《かうむ》りまして、お|母《かあ》さまをお|迎《むか》ひに|参《まゐ》つて|来《き》ます……サア|建能姫《たけのひめ》|様《さま》、|早《はや》くお|出《い》でなさいませ。お|母様《ははさま》が|門《もん》の|外《そと》で|痺《しびれ》を|切《き》らして|待《ま》つて|被居《いらつしや》いますよ』
|建能姫《たけのひめ》『|左様《さやう》ならば|吾《わが》|夫様《つまさま》、|一寸《ちよつと》お|迎《むか》へに|行《い》つて|来《き》ます。|幾公《いくこう》、あまり|喋《しやべ》らないやうにして|下《くだ》さいや』
|幾公《いくこう》『ハイハイ|委細《ゐさい》|承知《しようち》|致《いた》しました。サア|参《まゐ》りませう』
と|建能姫《たけのひめ》をつき|出《だ》すやうに|捉《うなが》しながら|中門《なかもん》のそば|迄《まで》やつて|来《き》た。|幾公《いくこう》は|中門《なかもん》を|無造作《むざうさ》にパツと|開《ひら》き、
|幾公《いくこう》『お|母《かあ》さま、|長《なが》らくお|待《ま》たせ|致《いた》しました。サア|何卒《どうぞ》お|入《はい》り|下《くだ》さいませ。これは|建能姫《たけのひめ》と|云《い》ふ|女房《にようばう》で|御座《ござ》います。|何卒《どうぞ》|実《じつ》の|吾《わが》|子《こ》のやうに|可愛《かあい》がつてやつて|下《くだ》さいませ。|建能姫《たけのひめ》も|一寸《ちよつと》|聞《き》いて|居《ゐ》ましたら、|建国別《たけくにわけ》|様《さま》の|御両親《ごりやうしん》が|見《み》えたら、|生《うみ》の|父母《ちちはは》のやうに|思《おも》うて|孝養《かうやう》を|尽《つ》くすと|云《い》うてくれました。|何卒《どうぞ》|気兼《きがね》は|入《い》らぬから|吾《わが》|子《こ》の|家《うち》へ|帰《かへ》つたと|思《おも》うて、|気楽《きらく》にお|入《はい》り|下《くだ》さいませ』
|建能姫《たけのひめ》『これこれ|幾公《いくこう》、お|前《まへ》それは|何《なに》を|云《い》ふのですか』
|幾公《いくこう》『ハイ、|私《わたし》は|御主人《ごしゆじん》の|代《かは》りに|参《まゐ》つたのですから、|一寸《ちよつと》|代弁《だいべん》を|致《いた》しました。これ|建能姫《たけのひめ》|殿《どの》、|早《はや》くお|母《かあ》さまに|御挨拶《ごあいさつ》をしやいのう』
|建能姫《たけのひめ》『ホヽヽヽヽ、|仕方《しかた》のない|男《をとこ》だなア……もしもし|旅《たび》のお|方《かた》|様《さま》、よう|此《この》|破家《あばらや》をお|訪《たづ》ね|下《くだ》さいました。|内密《ないみつ》にお|伺《うかが》ひしたい|事《こと》が|御座《ござ》いますから、|何卒《どうぞ》お|入《はい》り|下《くだ》さいませ』
|黒姫《くろひめ》『ハイ|有難《ありがた》う|御座《ござ》います。|私《わたくし》も|筑紫ケ岳《つくしがだけ》の|高山峠《たかやまたうげ》の|頂《いただ》きで、|一寸《ちよつと》|此方《こちら》の|御主人《ごしゆじん》の|事《こと》を|承《うけたま》はり、|些《すこ》し|許《ばか》り|心《こころ》に|当《あた》る|事《こと》が|御座《ござ》いまして、|火《ひ》の|国《くに》の|都《みやこ》に|参《まゐ》ります|途中《とちう》、|此《この》|村《むら》の|玉公《たまこう》と|云《い》ふお|方《かた》に|案内《あんない》されてお|邪魔《じやま》を|致《いた》しました。|左様《さやう》なら|遠慮《ゑんりよ》なう|通《とほ》らして|頂《いただ》きませう』
と|建能姫《たけのひめ》に|従《したが》つて|奥《おく》に|姿《すがた》をかくす。
|幾公《いくこう》『まア|何《なん》と|上流《じやうりう》|社会《しやくわい》の|挨拶《あいさつ》と|云《い》ふものは|七面倒《しちめんだう》|臭《くさ》いものだなア。|俺《おれ》だつたら|出遇《であ》ひ|頭《がしら》に……ヤアお|前《まへ》は、ヤア、|貴方《あなた》は|吾《わが》|夫《つま》|建国別《たけくにわけ》さまのお|母《かあ》さまであつたか、ヤアお|前《まへ》は|嫁御《よめご》であつたか、|思《おも》はぬ|所《ところ》で|遇《あ》ひました。お|母《かあ》さま、|嫁女《よめぢよ》などと|手《て》つ|取《と》り|早《ばや》く|名乗《なの》つて|了《しま》ふのだがなア。まだこれから|奥《おく》へいつて|徳利《とくり》に|詰《つ》めた|味噌《みそ》を|剔《ほじく》りだすやうな|辛気臭《しんきくさ》い|掛合《かけあひ》が|初《はじ》まるのであらう、|繁文縟礼《はんぶんじよくれい》を|忌《い》み|簡明《かんめい》を|尊《たふと》ぶ|世《よ》の|中《なか》に、サテモサテモ|上流《じやうりう》の|家庭《かてい》と|云《い》ふものはどこ|迄《まで》も|旧套《きうたう》を|脱《だつ》し|得《え》ないものと|見《み》える|哩《わい》』
(大正一一・九・一三 旧七・二二 加藤明子録)
第一一章 |富士咲《ふじさく》〔九五二〕
|一方《いつぱう》は|巍峨《ぎが》たる|高山《かうざん》を|控《ひか》へ、|前《まへ》には|清流《せいりう》|奔《ほとばし》る|幽谷《いうこく》|流《なが》れ、|一方《いつぱう》は|大原野《だいげんや》を|見晴《みは》らす|絶勝《ぜつしよう》の|地点《ちてん》に|建《た》てられた|建日館《たけひやかた》の|別殿《べつでん》に、|主客《しゆかく》|三人《さんにん》|鼎坐《ていざ》してヒソビソと|話《はなし》に|耽《ふけ》つて|居《ゐ》る。
|建国別《たけくにわけ》『|御老体《ごらうたい》の|身《み》を|以《もつ》て、よくもお|訪《たづ》ね|下《くだ》さいました。|貴女《あなた》も|矢張《やつぱ》り|御子息《ごしそく》の|行方《ゆくへ》を|探《たづ》ねてお|廻《まは》りになつてゐると|云《い》ふ|事《こと》ですが、|何卒《どうぞ》|其《その》|事情《じじやう》をお|差支《さしつかへ》なくば|簡単《かんたん》に|御明《おあ》かし|下《くだ》さいませぬか』
|黒姫《くろひめ》『ハイ、|妾《わたし》は|三五教《あななひけう》の|黒姫《くろひめ》と|申《まを》す|者《もの》で|御座《ござ》います。|只今《ただいま》は|自転倒島《おのころじま》の|錦《にしき》の|宮《みや》に|仕《つか》へて|居《を》りまする|宣伝使《せんでんし》で|御座《ござ》いますが、|或《あ》る|事情《じじやう》の|為《ため》に|此《この》|筑紫《つくし》の|島《しま》に|遥々《はるばる》と|三人《さんにん》の|伴《とも》を|連《つ》れ、|夫《をつと》の|所在《ありか》を|探《さが》さむ|為《ため》に|参《まゐ》つたもので|御座《ござ》います。さうした|処《ところ》、|高山峠《たかやまたうげ》の|頂上《ちやうじやう》で|五人《ごにん》の|若《わか》い|男《をとこ》が、いろいろと|話《はなし》をして|居《を》るのを|承《うけたま》はれば、|建日《たけひ》の|館《やかた》の|建国別《たけくにわけ》の|宣伝使《せんでんし》は|本年《ほんねん》|三十五才《さんじふごさい》、さうして|両親《りやうしん》の|行方《ゆくへ》が|分《わか》らず|非常《ひじやう》にお|探《さが》しになつてると|云《い》ふ|事《こと》を|聞《き》きましたので、|妾《わたし》も|何《なん》とはなしに|心《こころ》|動《うご》き、|妾《わたし》の|捨《す》てた|子《こ》も|本年《ほんねん》|三十五才《さんじふごさい》、よもや|其《その》|伜《せがれ》ではあるまいかと|存《ぞん》じまして、|御取込《おとりこみ》の|中《なか》をも|顧《かへり》みず|御邪魔《おじやま》を|致《いた》しました』
|建国別《たけくにわけ》『|貴女《あなた》の|夫《をつと》と|申《まを》すのは|何《なん》と|云《い》ふお|名《な》で|御座《ござ》いますか』
|黒姫《くろひめ》『ハイ、|高山彦《たかやまひこ》と|申《まを》します。|此《この》|頃《ごろ》|火《ひ》の|国《くに》の|都《みやこ》に|於《おい》て、|三五教《あななひけう》の|宣伝《せんでん》をやつて|御座《ござ》ると|云《い》ふ|事《こと》を|承《うけたま》はりまして、|其処《そこ》へ|探《たづ》ねに|行《ゆ》く|道《みち》すがらで|御座《ござ》います。さうした|処《ところ》、|五人《ごにん》の|男《をとこ》の|話《はなし》によつて、|吾《わが》|子《こ》の|事《こと》を|想《おも》い|出《だ》し、よもや|貴方《あなた》が、|若《わか》い|時《とき》に|捨《す》てた|子《こ》ではないかと|思《おも》ひ、|失礼《しつれい》をも|顧《かへり》みずお|尋《たづ》ねした|次第《しだい》です』
|建国別《たけくにわけ》『え、|何《なん》と|仰《あふせ》られますか。|高山彦《たかやまひこ》|様《さま》が|貴女《あなた》の|御主人《ごしゆじん》とは、|合点《がてん》のゆかぬ|事《こと》を|承《うけたま》はります。|高山彦《たかやまひこ》|様《さま》は|実《じつ》は|私《わたくし》の|御師匠様《おししやうさま》で|御座《ござ》いますが、|神素盞嗚尊《かむすさのをのみこと》の|御長女《おんちやうじよ》|愛子姫《あいこひめ》|様《さま》をお|娶《めと》り|遊《あそ》ばし、|今《いま》では|夫婦《ふうふ》|睦《むつ》まじく|御神業《ごしんげふ》に|奉仕《ほうし》され、|神徳《しんとく》|四方《よも》に|輝《かがや》き|渡《わた》り、|飛《た》つ|鳥《とり》も|落《おと》す|勢《いきほひ》で|御座《ござ》います。|如何《どう》して|又《また》|高山彦《たかやまひこ》|様《さま》が|貴女《あなた》と|云《い》ふ|正妻《せいさい》があるのに、|奥《おく》さまを|持《も》たれたのでせうか。|高山彦《たかやまひこ》|様《さま》は|左様《さやう》な|天則違反的《てんそくゐはんてき》な|行為《おこなひ》をなさる|様《やう》なお|方《かた》では|御座《ござ》いませぬが、|何《なに》かの|間違《まちがひ》では|御座《ござ》いませぬか』
|黒姫《くろひめ》『|自転倒島《おのころじま》の|聖地《せいち》に|於《おい》て、|一寸《ちよつと》の|事《こと》から|夫婦《ふうふ》|喧嘩《げんくわ》を|致《いた》しまして、|夫《そ》れを|機会《きくわい》に|夫《をつと》の|高山彦《たかやまひこ》は|妾《わたし》を|振捨《ふりす》て、|筑紫《つくし》の|島《しま》とかへ|行《ゆ》くと|云《い》つて|出《で》たきり、|今《いま》に|何《なん》の|便《たよ》りも|御座《ござ》いませぬ。|此《この》|島《しま》に|駆《か》け|着《つ》いて|人々《ひとびと》の|噂《うはさ》をきけば、|貴方《あなた》の|仰《あふ》せの|通《とほ》り、|若《わか》い|女房《にようばう》を|持《も》つて|暮《くら》して|居《を》られるとの|事《こと》、|到底《たうてい》|妾《わたし》のやうな|婆《ばば》アが|参《まゐ》りましても|取《とり》あつて|下《くだ》さいますまい。|然《しか》し|折角《せつかく》|此処迄《ここまで》|参《まゐ》つたのですから、|一目《ひとめ》なりと|会《あ》ひ、|言《い》ひ|度《た》い|事《こと》も|言《い》ひ、|先方《せんぱう》の|出様《でやう》によつては|妾《わたし》も|神《かみ》の|道《みち》の|宣伝使《せんでんし》、あとに|何《なに》も|残《のこ》らぬ|様《やう》に|離縁《りえん》をして|貰《もら》ふ|考《かんが》へで|御座《ござ》います。|乍併《しかしながら》|途中《とちう》に|於《おい》て|貴方《あなた》の|噂《うはさ》を|聞《き》き、|若《も》しや|吾《わが》|子《こ》ではあるまいかと|思《おも》ふにつけ、|気《き》の|多《おほ》い|夫《をつと》よりも|自分《じぶん》の|腹《はら》を|痛《いた》めた|伜《せがれ》に|出会《であ》ひ、|老後《らうご》をお|世話《せわ》になり|度《た》いものだと|思《おも》ひ、|失礼《しつれい》を|顧《かへり》みず|御伺《おうかが》ひを|致《いた》しました。|然《しか》し|違《ちが》ひますれば|御許《おゆる》し|下《くだ》さいませ』
|建国別《たけくにわけ》『|其《その》|御子息《ごしそく》には|何《なに》か|目印《めじるし》でも|御座《ござ》いますか』
|黒姫《くろひめ》『はい、|赤児《あかご》の|時《とき》で|確《しつか》り|分《わか》りませぬが、|確《たしか》に|背中《せなか》の|真中《まんなか》に|白《しろ》い|痣《あざ》があり、それが|富士《ふじ》の|山《やま》の|形《かたち》に|似《に》て|居《を》りますので、これは|大方《おほかた》|富士《ふじ》の|山《やま》の|木花咲耶姫《このはなさくやひめ》|様《さま》の|御生《おうま》れ|替《が》はりかもしれませぬと|存《ぞん》じまして、|富士咲《ふじさく》と|云《い》ふ|名《な》をつけ……この|子供《こども》は|一寸《ちよつと》|様子《やうす》あつて|此処《ここ》に|捨《す》てておきますから、|何卒《どうぞ》|何《いづ》れの|方《かた》なりとも|慈愛《じあい》|深《ふか》きお|方《かた》の|手《て》にかかり|育《そだ》てて|下《くだ》さいます|様《やう》に……と|言《い》つて|少《すこ》しのお|金子《かね》を|添《そ》へ|名《な》を|書《か》いて|捨《す》てました。それつきり|伜《せがれ》は|如何《どう》なつた|事《こと》やら、|若《わか》い|時《とき》は|伜《せがれ》の|事《こと》も|何《なに》かに|紛《まぎ》れて|忘《わす》れて|居《ゐ》ましたが、|斯《こ》う|年老《としよ》るとそこらが|淋《さび》しくなり、|捨《す》てた|子《こ》は|如何《どう》なつたかと|明《あ》けても|暮《く》れても|忘《わす》れた|事《こと》は|御座《ござ》いませぬ。|然《しか》し|失礼《しつれい》|乍《なが》ら|貴方《あなた》はさういふ|印《しるし》は|御座《ござ》いませぬか』
|建国別《たけくにわけ》『|私《わたくし》も|赤児《あかご》の|時《とき》に|両親《りやうしん》に|捨《す》てられた|者《もの》で|御座《ござ》いますが、|自分《じぶん》の|背中《せなか》は|自分《じぶん》で|見《み》ませぬから|何《なん》とも|存《ぞん》じませぬ』
|建能姫《たけのひめ》『|妾《わたし》が|何時《いつ》もお|背《せな》を|流《なが》しますが、|本当《ほんたう》に|美《うつく》しいお|身体《からだ》で、|黒子《ほくろ》|一《ひと》つ|無《な》く|灸《やいと》の|痕《かた》|一《ひと》つありませぬ。|況《ま》して|痣《あざ》|等《など》は|何処《どこ》にも|御座《ござ》いませぬ』
|黒姫《くろひめ》『あゝさうですかな。さうすると|矢張《やつぱ》り|妾《わたし》の|尋《たづ》ねる|富士咲《ふじさく》では|御座《ござ》いますまい』
|建国別《たけくにわけ》『|何《なに》か|其《その》|時《とき》の|印《しるし》に、|物品《ぶつぴん》でもお|添《そ》へになつた|事《こと》はありませぬか』
|黒姫《くろひめ》『|別《べつ》に|何《なに》も|添《そ》へた|事《こと》は|御座《ござ》いませぬ。|守袋《まもりぶくろ》に|木花咲耶姫《このはなさくやひめ》の|御神号《ごしんがう》を|入《い》れ、|富士咲《ふじさく》と|云《い》ふ|子供《こども》の|名前《なまへ》を|入《い》れたばかりで|御座《ござ》います』
|建国別《たけくにわけ》『さうすると|私《わたくし》は|貴女《あなた》の|伜《せがれ》では|御座《ござ》いますまい。|私《わたくし》が|捨《す》てられた|時《とき》には、|一《ひと》つの|守刀《まもりがたな》が|添《そ》へてあり、|其《その》|守刀《まもりがたな》に|真珠《しんじゆ》を|以《もつ》て|十《じふ》の|字《じ》がハツキリと|記《しる》して|御座《ござ》いました。その|守刀《まもりがたな》は|今《いま》に|所持《しよぢ》して|居《を》ります。さうして|刀《かたな》の|根尻《ねじり》に「|東《ひがし》」といふ|字《じ》と「|高《たか》」といふ|字《じ》が|幽《かす》かに|現《あら》はれて|居《を》ります。|之《これ》を|証拠《しようこ》に|両親《りやうしん》を|探《たづ》ねむと、|十五六才《じふごろくさい》の|頃《ころ》よりそこら|中《ぢう》を|駆《か》け|巡《めぐ》り、フサの|国《くに》から|自転倒島《おのころじま》へ|渡《わた》り、|遂《つひ》には|此《この》|筑紫島《つくしじま》へ|参《まゐ》りまして、|高山彦《たかやまひこ》|様《さま》の|弟子《でし》となり|宣伝使《せんでんし》に|仕立《したて》|上《あ》げられ、|昨年《さくねん》の|今日《こんにち》|此《この》|館《やかた》の|養子《やうし》となつたもので|御座《ござ》います』
|黒姫《くろひめ》は|手《て》を|組《く》み|暫《しばら》く|思案《しあん》に|暮《く》れて|居《ゐ》る。
|建国別《たけくにわけ》『|何《なに》か|貴女《あなた》にお|心当《こころあた》りは|御座《ござ》いますまいかな』
|黒姫《くろひめ》『ハイ、|真珠《しんじゆ》で|十《じふ》の|字《じ》を|記《しる》した|守刀《まもりがたな》、それに|東《ひがし》に|高《たか》の|印《しるし》、ハテ|合点《がてん》のゆかぬ|事《こと》があるもだなア』
|建国別《たけくにわけ》は|畳《たた》みかけた|様《やう》に、
『|貴方《あなた》は|世界《せかい》を|宣伝《せんでん》してお|歩《ある》きになつたさうですから、|何《なに》か|心当《こころあた》りは|御座《ござ》いませぬか。|仮令《たとへ》|間違《まちがひ》でも|構《かま》ひませぬから、|少《すこ》しでも|掛《かか》りがあれば|仰有《おつしや》つて|下《くだ》さいませ。|今日《こんにち》は|如何《どう》しても|吾《わが》|両親《りやうしん》に|由縁《ゆかり》ある|人《ひと》が|見《み》える|様《やう》な|気《き》がしてならなかつたのです。そこへ|貴女《あなた》がお|越《こ》しと|聞《き》き、ヒヨツとしたら|吾《わが》|恋《こひ》しき|母上《ははうへ》ではないかと|喜《よろこ》んで|居《ゐ》ましたが、|実《じつ》に|残念《ざんねん》な|事《こと》で|御座《ござ》います。|乍併《しかしながら》これも|何《なに》かの|御縁《ごえん》で|御座《ござ》いませう。|若《わか》い|夫婦《ふうふ》の|気楽《きらく》な|家庭《かてい》ですから|何卒《どうぞ》|御遠慮《ごゑんりよ》なく|何時《いつ》|迄《まで》も|御逗留《ごとうりう》して|下《くだ》さいませ。|何《なん》だか|因縁《いんねん》ある|方《かた》の|様《やう》な|気《き》がしてなりませぬから……』
|黒姫《くろひめ》『ハイ、|有難《ありがた》う|御座《ござ》います。|乍併《しかしながら》|如何《どう》しても|一度《いちど》は|高山彦《たかやまひこ》|様《さま》にお|目《め》にかからなくてはなりませぬから、|又《また》|御縁《ごえん》がありますれば|御世話《おせわ》になりませう。|乍併《しかしながら》|少《すこ》しばかり|何《なん》だか|心当《こころあた》りがある|様《やう》な|気《き》も|致《いた》しますが、|今《いま》|俄《にはか》に|思《おも》ひ|出《だ》せませぬから、ユツクリと|考《かんが》へ|直《なほ》して|御返事《おへんじ》を|致《いた》しませう』
|黒姫《くろひめ》は|或《ある》|機会《きくわい》に|高姫《たかひめ》の|昔《むかし》の|述懐談《じゆつくわいだん》を|聞《き》いて|居《ゐ》た。
その|言葉《ことば》の|端《はし》に、
……|自分《じぶん》も|若《わか》い|時《とき》、|親《おや》の|許《ゆる》さぬ|男《をとこ》を|持《も》ち|子《こ》を|孕《はら》んでそれを|捨児《すてご》にした……といふ|様《やう》な|事《こと》を|聞《き》いた|様《やう》に|思《おも》ふ。|高姫《たかひめ》さまは|今《いま》|迄《まで》|十《じふ》の|字《じ》の|印《しるし》をつけて|御座《ござ》つたさうだが、|三五教《あななひけう》へ|這入《はい》つてから|十曜《とえう》の|神紋《しんもん》に|変《か》へられた。よもや|高姫《たかひめ》|様《さま》の|子《こ》ではあるまいか、いやいや、うつかりした|事《こと》を|口走《くちばし》つて|迷惑《めいわく》を|掛《か》けてはならない、|高姫《たかひめ》さまは|今《いま》は|何処《どこ》に|御座《ござ》るやら、|根《ねつ》から|消息《せうそく》は|分《わか》らない。うつかりした|事《こと》を|云《い》つて、|行方《ゆくへ》|分《わか》らぬ|人《ひと》を|探《たづ》ね、|建国別《たけくにわけ》|様《さま》が|苦労《くらう》をなさつて、|折角《せつかく》|会《あ》うた|処《ところ》で|今《いま》の|様《やう》に|間違《まちが》つて|居《ゐ》る|様《やう》な|事《こと》では|相済《あひす》まぬ、|知《し》らぬと|云《い》つた|方《はう》がお|互《たがひ》の|為《ため》に|安全《あんぜん》だらう……
と|心《こころ》に|打諾《うちうなづ》き|黒姫《くろひめ》は|言葉《ことば》を|改《あらた》めて、
|黒姫《くろひめ》『どうも|心懸《こころがか》りが|御座《ござ》いませぬ。|乍併《しかしながら》|貴方様《あなたさま》の|御物語《おものがたり》を|聞《き》きました|上《うへ》は|十分《じふぶん》|気《き》をつけて|考《かんが》へておきませう。|若《も》し|貴方《あなた》の|御両親《ごりやうしん》に|相違《さうゐ》ないと|云《い》ふ|方《かた》に|会《あ》ひましたら、|直様《すぐさま》にお|知《し》らせ|致《いた》しませう』
|建国別《たけくにわけ》『はい、|有難《ありがた》う|御座《ござ》います。|何卒《どうぞ》|宜《よろ》しく|御願《おねがひ》|致《いた》します』
|建能姫《たけのひめ》『|何分《なにぶん》|御存《ごぞん》じの|通《とほ》り、|不運《ふうん》な|夫《をつと》で|御座《ござ》いますから、|何卒《どうぞ》|黒姫《くろひめ》|様《さま》、|御心当《おこころあた》りがつきましたらお|知《し》らせ|下《くだ》さいませ。|御願《おねがひ》|申上《まをしあ》げます』
|黒姫《くろひめ》は|身《み》につまされて|返《かへ》す|言葉《ことば》も|無《な》くさし|俯向《うつむ》いて|居《ゐ》る。さうして|心《こころ》の|裡《うち》に|思《おも》ふ|様《やう》、
『あゝ|親子《おやこ》の|情《じやう》と|云《い》ふものは|何処《どこ》の|国《くに》に|行《い》つても|同《おな》じ|事《こと》だなア。|建国別《たけくにわけ》|様《さま》が|両親《りやうしん》に|憧憬《あこが》れて、|朝夕《あさゆふ》|心《こころ》を|配《くば》り|遊《あそ》ばす|様《やう》に、|吾《わが》|子《こ》も|亦《また》|此《この》|世《よ》に|生《い》きて|居《を》るならば、|定《さだ》めし|両親《りやうしん》を|慕《した》うて|居《ゐ》るであらう。|両親《りやうしん》のない|子《こ》は|其処《そこ》に|倒《こ》けて|居《を》つても、|起《おこ》してくれる|者《もの》がないと|云《い》ふ|事《こと》だ。あゝ|思《おも》へば|思《おも》へば|若気《わかげ》の|至《いた》りとは|云《い》ひ|乍《なが》ら|罪《つみ》な|事《こと》をしたものだ。こんな|罪《つみ》の|深《ふか》い|身《み》を|以《もつ》て、|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》となり、|黄金《こがね》の|玉《たま》の|御用《ごよう》をしようなどとは|実《じつ》に|思《おも》ひ|違《ちが》ひであつた。|神様《かみさま》から|玉《たま》を|隠《かく》されたのも|無理《むり》はない』
と|口《くち》には|出《だ》さねど|心《こころ》の|中《うち》に|懺悔《ざんげ》の|波《なみ》を|漂《ただよ》はして|居《ゐ》た。
かかる|処《ところ》へ|建彦《たけひこ》は|数多《あまた》の|幹部《かんぶ》を|引連《ひきつ》れドヤドヤと|此《この》|場《ば》に|現《あら》はれ|来《きた》り、|丁寧《ていねい》に|両手《りやうて》をつき、
|建彦《たけひこ》『|大先生《だいせんせい》|御夫婦様《ごふうふさま》、|今日《こんにち》は|御目出度《おめでた》う|御座《ござ》います。|何《なに》からお|喜《よろこ》び|申《まを》して|宜《よろ》しいやら、|吾々《われわれ》|初《はじ》め|館《やかた》の|者共《ものども》は|実《じつ》に|抃舞雀躍《べんぶじやくやく》の|態《てい》で|御座《ござ》います。|今日《けふ》は|日頃《ひごろ》お|慕《した》ひ|遊《あそ》ばす|御母上《おんははうへ》がお|見《み》えになりましたさうで、こんな|喜《よろこ》ばしい|事《こと》は|御座《ござ》いませぬ。|一同《いちどう》に|代《かは》はつてお|祝《いは》ひ|申上《まをしあ》げます』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら、|今度《こんど》は|黒姫《くろひめ》の|方《はう》に|頭《あたま》を|転《てん》じ、|丁寧《ていねい》に|再拝《さいはい》し、
|建彦《たけひこ》『|貴女様《あなたさま》は|大先生《だいせんせい》の|生《う》みの|御母上《おんははうへ》でありましたか。|能《よ》うまあ|御入来《おいで》|下《くだ》さいました。|私等《わたくしら》|一同《いちどう》は|大先生《だいせんせい》の|御恩顧《ごおんこ》に|日夜《にちや》|預《あづか》つてる|者《もの》で|御座《ござ》います。|何卒《どうぞ》|御見捨《おみす》てなく|末長《すゑなが》く|可愛《かあい》がつて|下《くだ》さいませ』
|建国別《たけくにわけ》『これ|建彦《たけひこ》、|俺《わし》の|母上《ははうへ》が|見《み》えたのではない。|黒姫《くろひめ》|様《さま》と|云《い》ふ|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》がお|見《み》えになつたのだよ』
|建彦《たけひこ》『え、|何《なん》と|仰有《おつしや》います。お|隠《かく》しになつてはいけませぬ。|確《たしか》にお|母上《ははうへ》と|云《い》ふ|事《こと》を|一同《いちどう》|承知《しようち》して|居《を》ります。もはや|隠《かく》れもなき|館内《くわんない》|一同《いちどう》の|者《もの》の|喜《よろこ》びで|御座《ござ》いますから、そんな|意地《いぢ》の|悪《わる》い|事《こと》を|仰有《おつしや》らずに、|明《あきら》かに|仰有《おつしや》つて|下《くだ》さいませな』
|建国別《たけくにわけ》『そんな|事《こと》を|誰《たれ》に|聞《き》きましたか』
|建彦《たけひこ》『はい、|門番《もんばん》の|幾公《いくこう》が|確《たしか》に|相違《さうゐ》ない、|貴方《あなた》のお|話《はなし》を|聞《き》いたと|云《い》つて、|駄賃《だちん》とらずの|郵便《ゆうびん》|配達《はいたつ》をやりましたので、やがて|此《この》|村《むら》からもお|祝《いは》ひに|来《く》るでせう』
|建国別《たけくにわけ》『これ|建彦《たけひこ》、そりや|大変《たいへん》だ。|全《まつた》く|間違《まちが》ひだつたと|云《い》つて|取消《とりけ》して|下《くだ》さい。|村人《むらびと》に|沢山《たくさん》お|祝《いはひ》に|来《こ》られては|迷惑《めいわく》だからなア』
|建彦《たけひこ》『もはや|公然《こうぜん》|発表《はつぺう》を|致《いた》しまして、|続々《ぞくぞく》とお|祝《いはひ》に|見《み》えますから、|此《この》|際《さい》|取消《とりけ》しなんか|出来《でき》ませぬ。|神様《かみさま》の|館《やかた》から|間違《まちが》つた|事《こと》を|触《ふ》れ|廻《まは》つたと|云《い》はれては、それこそ|信用《しんよう》に|関《かか》はります。そんな|事《こと》|仰《あふ》せられずに、|間違《まちが》つて|居《を》つてもいいから|御母《おかあ》さまにして|置《お》いて|下《くだ》さい。|何《いづ》れ|誰《たれ》かのお|母《かあ》さまでせうから……』
|建国別《たけくにわけ》『|困《こま》つた|奴《やつ》だなア。|幾公《いくこう》を|一寸《ちよつと》|呼《よ》んでくれ』
|幾公《いくこう》は|大勢《おほぜい》の|中《なか》から|屁垂《へた》つて|居《を》つた|頭《あたま》をヌツと|上《あ》げ、
|幾公《いくこう》『はい、|幾《いく》は|此処《ここ》に|居《を》ります。|幾久敷《いくひさし》う|御目出度《おめでた》う|御座《ござ》います。もし|間違《まちが》ひましたら|幾重《いくへ》にも|御免《おゆる》し|下《くだ》さいませ。|行方《【いく】へ》も|知《し》れぬ|吾《わが》|子《こ》の|後《あと》を|探《たづ》ねて|御入来《おいで》|遊《あそ》ばしたお|母《かあ》さま、|何卒《どうぞ》|大切《たいせつ》にして|上《あ》げて|下《くだ》さいませ。|何程《なにほど》お|隠《かく》し|遊《あそ》ばされても、|貴方《あなた》の|御様子《ごやうす》から|考《かんが》へて|見《み》ますれば、|御親子《ごしんし》の|間柄《あひだがら》に|相違《さうゐ》|御座《ござ》いませぬ』
|建国別《たけくにわけ》『ハテ|困《こま》つた|事《こと》が|出来《でき》たわい。……|黒姫《くろひめ》|様《さま》、|如何《どう》|致《いた》しませうかな』
|黒姫《くろひめ》『|妾《わたし》の|様《やう》な|者《もの》が|突然《とつぜん》|参《まゐ》りましてお|館《やかた》に|御迷惑《ごめいわく》をかけ、|何《なん》とも|済《す》まぬ|事《こと》で|御座《ござ》います……もしもし|幾公《いくこう》さまとやら、|妾《わたし》は|黒姫《くろひめ》と|申《まを》す|者《もの》で|御座《ござ》います。よくよく|調《しら》べて|見《み》ますれば、|妾《わたし》の|息子《むすこ》ではなかつたので、|実《じつ》の|処《ところ》|互《たがひ》に|顔《かほ》を|見合《みあは》してガツカリして|居《ゐ》た|処《ところ》ですよ。|何卒《どうぞ》お|館《やかた》の|迷惑《めいわく》にならぬやう、|直様《すぐさま》お|取消《とりけし》を|願《ねが》ひます』
|幾公《いくこう》『|何《なん》とまあ|親子《おやこ》|心《こころ》を|協《あは》して|堅《かた》く|締結《ていけつ》したものだなア。|何《なん》と|仰有《おつしや》つても|以心伝心《いしんでんしん》、|教外別伝《けうげべつでん》、|不立文字《ふりうもんじ》だ。|御両人《ごりやうにん》の|歓《よろこ》びの|色《いろ》が|相互《おたがひ》の|顔《かほ》にホノ|見《み》えて|居《を》りますぞえ。こんな|目出度《めでた》い|時《とき》に、そんな|悪戯《いたづら》をして|吾々《われわれ》をじらすものぢやありませぬ。………コレコレ|建彦《たけひこ》さま、|何《なん》と|仰有《おつしや》つても|御親子《ごしんし》だ。|唇歯輔車《しんしほしや》の|間柄《あひだがら》だ。きつても|絶《き》れぬ|親子《おやこ》の|仲《なか》、|堪《こら》へきれない|歓《よろこ》びの|色《いろ》が、|先生《せんせい》|御夫婦《ごふうふ》の|顔《かほ》に、|現《あら》はれて|居《ゐ》るぢやありませぬか』
|建国別《たけくにわけ》『|本当《ほんたう》に|困《こま》つた|事《こと》が|出来《でき》たわい、なア|建能姫《たけのひめ》、|如何《どう》|致《いた》しませうか、|黒姫《くろひめ》さま、|妙《めう》な|事《こと》になつて|来《き》たぢやありませぬか』
|黒姫《くろひめ》『|本当《ほんたう》に|間違《まちが》へば|間違《まちが》ふものですな。これだから|世間《せけん》の|噂《うはさ》と|云《い》ふものは【あて】にならないと|云《い》ふのですよ。……|幽霊《いうれい》の|正体《しやうたい》|見《み》たり|枯尾花《かれをばな》……と|云《い》つて、|道聴途説《だうちやうとせつ》と|云《い》ふものは【あて】にはなりませぬ。|一犬《いつけん》|虚《きよ》に|吠《ほ》へて|万犬《ばんけん》|実《じつ》を|伝《つた》ふとやら、|実《じつ》に|人《ひと》の|噂《うはさ》と|云《い》ふものは|恐《おそ》ろしいものです。|人《ひと》の|口《くち》に|戸《と》を|閉《たて》られないとは|此処《ここ》のことですな』
|幾公《いくこう》『|何処迄《どこまで》も|白々《しらじら》しい、さうじらすものぢやありませぬ。あつさりとして|下《くだ》さいな。|建彦《たけひこ》さま、|早《はや》く|早《はや》くお|祝《いはひ》の|用意《ようい》だよ。ここの|先生《せんせい》は|意地《いぢ》が|悪《わる》いからな。あんな|事《こと》|云《い》つて|吾々《われわれ》をアフンととさす|悪《わる》い|洒落《しやれ》だよ』
|斯《か》かる|処《ところ》へ|小間使《こまづかひ》のお|種《たね》が|慌《あわただ》しく|走《はし》り|来《きた》り、
お|種《たね》『|御主人様《ごしゆじんさま》に|申上《まをしあ》げます。|只今《ただいま》|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》|黒姫《くろひめ》|様《さま》のお|伴《とも》だとか|云《い》つて|二人《ふたり》の|若《わか》い|男《をとこ》が|御入来《おいで》になりました。|如何《どう》|致《いた》しませうか』
|建国別《たけくにわけ》『|一時《いちじ》も|早《はや》く|此処《ここ》へ|御通《おとほ》し|申《まを》せ!』
お|種《たね》は『はい』と|答《こた》へて|引《ひ》き|下《さが》る。
(大正一一・九・一三 旧七・二二 北村隆光録)
第一二章 |漆山《うるしやま》〔九五三〕
|高山峠《たかやまたうげ》の|中腹《ちうふく》に  おき|去《さ》られたる|房《ふさ》、|芳《よし》は
|足《あし》の|立《た》つたを|幸《さいは》ひに  |黒姫司《くろひめつかさ》の|後《あと》を|追《お》ひ
|火《ひ》の|国都《くにみやこ》へ|進《すす》まむと  |漸《やうや》く|絶頂《ぜつちやう》にいざりつく
|壁立《かべた》つ|坂《さか》を|下《くだ》りつつ  |房公《ふさこう》|芳公《よしこう》|両人《りやうにん》は
|足《あし》の|拍子《へうし》を|取《と》り|乍《なが》ら  |岩《いは》の|根《ね》|木《き》の|根《ね》ふさくみ
|房公《ふさこう》『ウントコドツコイ|芳公《よしこう》さま  |気《き》をつけなされよ|危《あぶ》ないぞ
|壁《かべ》を|立《た》てたよな|坂路《さかみち》だ  |石《いし》の|車《くるま》がゴロゴロと
|人待顔《ひとまちがほ》にころげてる  |油断《ゆだん》は|出来《でき》ない|坂《さか》の|路《みち》
オツトドツコイ|足《あし》|辷《すべ》る  アイタヽヽタツタ|躓《つまづ》いた
|足《あし》の|頭《あたま》がうづき|出《だ》す  |芳公《よしこう》|気《き》をつけシツカリせい
この|又《また》きつい|坂路《さかみち》を  |黒姫《くろひめ》さまはドツコイシヨ
どうして|降《くだ》つて|往《い》ただろか  ホンに|危《あぶ》ない|坂路《さかみち》だ
それについても|孫公《まごこう》は  どこに【マゴ】マゴしてるだろ
|心《こころ》に|掛《かか》る|旅《たび》の|空《そら》  |一天《いつてん》|俄《にはか》にかき|曇《くも》り
レコード|破《やぶ》りの|暴風雨《ばうふうう》  |岩石《がんせき》|飛《と》ばし|木《き》を|倒《たふ》し
げに|凄《すさま》じき|光景《くわうけい》に  |縮《ちぢ》み|上《あ》がつて|黒姫《くろひめ》が
ドツコイドツコイドツコイシヨ  そこらに|転《ころ》げていやせぬか
ウントコドツコイガラガラガラ  それ|見《み》よ|芳公《よしこう》こけたぢやないか
|足《あし》の|爪先《つまさき》ドツコイシヨ  |一足々々《ひとあしひとあし》|気《き》をつけて
|尖《とが》つた|石《いし》をよけ|乍《なが》ら  キヨクキヨク|笑《わら》ふ|膝坊主《ひざばうず》
シツカリ|灸《やいと》をすゑ|乍《なが》ら  |此《この》|峻坂《しゆんぱん》を|下《くだ》らねば
|火《ひ》の|国都《くにみやこ》にや|行《ゆ》かれない  さぞ|今頃《いまごろ》は|黒姫《くろひめ》さま
|高山彦《たかやまひこ》の|襟首《えりがみ》を  グツと|掴《つか》んでドツコイシヨ
ヤイノヤイノの|真最中《まつさいちう》  |愛子《あいこ》の|姫《ひめ》の|新妻《にひづま》も
さぞや|心《こころ》が|揉《も》めるだろ  |人《ひと》の|事《こと》とは|言《い》ひ|乍《なが》ら
|俺《おれ》は|心配《しんぱい》ドツコイシヨ  |心《こころ》に|掛《かか》つて|堪《たま》らない
|高山彦《たかやまひこ》が|若《わか》やいで  |綺麗《きれい》な|女房《にようばう》をドツコイシヨ
|貰《もら》うて|喜《よろこ》ぶ|最中《さいちう》へ  お|色《いろ》の|黒《くろ》い|皺《しわ》だらけ
|皺苦茶婆《しわくちやば》さまがやつて|来《き》て  |私《わたし》が|本当《ほんたう》の|女房《にようばう》と
シラを|切《き》られちやドツコイシヨ  |本当《ほんたう》に|迷惑《めいわく》なさるだろ
さはさり|乍《なが》ら|最前《さいぜん》の  |三五教《あななひけう》の|宣伝歌《せんでんか》
|玉治別《たまはるわけ》のドツコイシヨー  |歌《うた》うた|声《こゑ》は|影《かげ》もなく
|雲《くも》を|霞《かすみ》と|消《き》え|失《う》せた  |此《この》|急坂《きふはん》を|如何《どう》してか
|玉治別《たまはるわけ》の|神司《かむつかさ》  |如何《どう》して|其様《そのよ》にドツコイシヨ
|早《はや》く|降《くだ》つて|行《い》たのだろ  |山《やま》の|天狗《てんぐ》がドツコイシヨ
|運上《うんじやう》|取《と》りに|来《く》るだらう  アイタタ ドツコイ|又《また》|転《こ》けた
|会《あ》ひ|度《た》い|見《み》たいと|黒姫《くろひめ》が  |恋路《こひぢ》の|暗《やみ》に|包《つつ》まれて
|鳥《とり》も|通《かよ》はぬ|山坂《やまさか》を  |登《のぼ》りつ|下《くだ》りつドツコイシヨ
|夫《をつと》の|後《あと》を|慕《した》ひ|行《ゆ》く  |其《その》|猛烈《まうれつ》な|惚《ほ》れ|加減《かげん》
|呆《あき》れて|物《もの》が|云《い》はれない  ドツコイ ドツコイ ドツコイシヨ
オツと|向《むか》ふに|人《ひと》の|影《かげ》  |彼奴《あいつ》は|如何《どう》やら|怪《あや》しいぞ
|是《これ》から|腹帯《はらおび》しめ|直《なほ》し  |天狗《てんぐ》の|孫《まご》だと|詐《いつ》はつて
|彼奴《あいつ》が|若《も》しもドツコイシヨ  |泥棒《どろばう》かせぎであつたなら
|頭《あたま》のテツペから|怒《ど》なりつけ  |一《ひと》つ|荒肝《あらぎも》|取《と》つてやろ
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |御霊《みたま》|幸《さち》はひましまして
|高山峠《たかやまたうげ》の|急坂《きふはん》を  |苦《く》なく|事《こと》なく|速《すみやか》に
|下《くだ》らせ|玉《たま》へ|純世姫《すみよひめ》  |国魂神《くにたまがみ》の|御前《おんまへ》に
|慎《つつし》み|敬《うやま》ひ|願《ね》ぎまつる  オツトドツコイ|又《また》|辷《すべ》る
|何《なん》で|是《これ》|程《ほど》|石《いし》コロが  |沢山《たくさん》ころげて|居《ゐ》るのだろ
|文明開花《ぶんめいかいくわ》の|今日《こんにち》は  どこのどこ|迄《まで》|道《みち》をあけ
|如何《いか》なる|嶮《けは》しき|山路《やまみち》も  |三寸《さんずん》|四寸《しすん》の|勾配《こうばい》で
|自動車《じどうしや》|人車《じんしや》の|通《とほ》る|様《やう》に  |開鑿《かいさく》されてあるものを
コリヤ|又《また》エライ|野蛮国《やばんこく》  アイタタ アイタタ|躓《つまづ》いた
|草鞋《わらぢ》の|先《さき》が|切《き》れよつた  |何程《なにほど》|痛《いた》い|石路《いしみち》も
|跣足《はだし》で|行《ゆ》かねばならないか  |困《こま》つた|事《こと》が|出来《でき》て|来《き》た
こんな|事《こと》だと|知《し》つたなら  |草鞋《わらぢ》の|用意《ようい》をドツコイシヨ
ドツコイドツコイドツコイシヨ  して|来《き》て|居《を》つたらよかつたに
|黒姫《くろひめ》さまはドツコイシヨ  |年寄《としよ》り|丈《だけ》に|気《き》が|付《つ》いて
|無花果《いちじゆく》|迄《まで》も|用意《ようい》して  |吾々《われわれ》|二人《ふたり》の|饑渇《きかつ》をば
ヤツと|救《すく》うて|下《くだ》さつた  |黒姫《くろひめ》さまが|負《お》うてゐる
|草鞋《わらぢ》が|一足《いつそく》|貸《か》して|欲《ほ》しい  さうぢやと|云《い》つて|黒姫《くろひめ》の
|所在《ありか》はどこだか|分《わか》らない  ホンに|困《こま》つたドツコイシヨ
|破目《はめ》になつたぢやないかいな  |黒姫《くろひめ》さまがドツコイシヨ
いつも|乍《なが》らに|言《い》うただろ  お|前《まへ》は|若《わか》い|者《もの》だから
|向意気《むこいき》|計《ばか》りが|強《つよ》すぎて  |前《まへ》と|後《うしろ》に|気《き》がつかぬ
|旅《たび》をする|時《とき》や|如何《どう》しても  |草鞋《わらぢ》の|用意《ようい》が|第一《だいいち》だ
|馬鹿口《ばかぐち》|叩《たた》く|其《その》ひまに  |草鞋《わらぢ》を|作《つく》つておくがよい
|途中《とちう》で|困《こま》る|事《こと》あると  |口角《こうかく》|泡《あわ》を|飛《と》ばしつつ
|教《をし》へてくれた|言《こと》の|葉《は》が  |今《いま》|目《ま》のあたり|現《あら》はれて
|後悔《こうくわい》すれ|共《ども》|仕様《しやう》がない  あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|神《かみ》の|御霊《みたま》の|幸《さち》はひて  |房公《ふさこう》の|足《あし》は|少時《しばし》の|間《ま》
|獅子《しし》|狼《おほかみ》の|足《あし》となり  |跣足《はだし》で|行《ゆ》かして|下《くだ》さんせ
そうして|此《この》|坂《さか》|下《くだ》つたら  |又《また》もや|元《もと》の|人《ひと》の|足《あし》
|造《つく》り|直《なほ》して|下《くだ》されや  |房公《ふさこう》|御願《おねがひ》|申《まを》します
ウントコドツコイ ドツコイシヨ  |緩勾配《くわんこうばい》の|坂道《さかみち》に
ヒソヒソささやく|人《ひと》の|影《かげ》  |彼奴《あいつ》はテツキリ|山賊《さんぞく》だ
いよいよ|是《これ》から|大天狗《だいてんぐ》  |孫《まご》だと|名乗《なの》つておどさうか
|一筋繩《ひとすぢなは》ではゆくまいぞ  ウントコドツコイドツコイシヨ』
と|唄《うた》ひ|乍《なが》ら|下《くだ》つて|来《く》る。|緩勾配《くわんこうばい》の|坂路《さかみち》に|腰《こし》うちかけて|雑談《ざつだん》に|耽《ふけ》つてゐる|四人《よにん》の|男《をとこ》、|二人《ふたり》の|姿《すがた》を|見《み》て、
|甲《かふ》『オイ|旅《たび》の|衆《しう》、|一寸《ちよつと》|一服《いつぷく》しなさい。|随分《ずゐぶん》|最前《さいぜん》の|暴風雨《ばうふうう》で、|谷路《たにみち》が|荒《あ》れて、エライ|石《いし》コロ|路《みち》になつたので、|随分《ずゐぶん》|草臥《くたび》れただろ。ヤアお|前《まへ》は|跣足《はだし》だなア、|其奴《そいつ》ア|堪《たま》るまい、|如何《どう》だ、|足《あし》に|合《あ》ふか|知《し》らぬが、|俺《おれ》の|草鞋《わらぢ》を|一足《いつそく》|進《しん》ぜるから、|之《これ》を|履《は》きなさい。こんな|石《いし》の|尖《とが》つた|急坂《きふはん》を、|麓《ふもと》まで|下《くだ》る|迄《まで》にや、コンパスが|破損《はそん》して|了《しま》ふからなア』
|房公《ふさこう》『ハイ|有難《ありがた》う|御座《ござ》います。ヨウ|御親切《ごしんせつ》に|仰有《おつしや》つて|下《くだ》さいました。あゝそんなら|幾《いく》ら|出《だ》しましたら|頂《いただ》けますかなア』
|甲《かふ》『|俺《おれ》は|草鞋売《わらぢうり》ではないぞ、|余《あま》り|軽蔑《けいべつ》してくれない。|之《これ》でも|武野村《たけのむら》の|虎公《とらこう》と|云《い》つて、チツとは|名《な》を|売《う》つた|男《をとこ》だ。お|前《まへ》の|難儀《なんぎ》を|見《み》るにつけ、|気《き》の|毒《どく》なと|思《おも》つたから、|与《や》らうと|云《い》ふのだ』
|房公《ふさこう》『それでも|見《み》ず|知《し》らずの|方《かた》に、|無料《ただ》で|頂《いただ》きましては、|如何《どう》も|心《こころ》が|済《す》みませぬ。どうぞ|御遠慮《ごゑんりよ》なく|代価《だいか》を|御取《おと》り|下《くだ》さいませ』
|虎公《とらこう》『|他人《たにん》らしい|水臭《みづくさ》い|事《こと》を|言《い》ふな。|俺《おれ》は|三五教《あななひけう》の|信者《しんじや》だが、|神《かみ》さまの|教《をしへ》には|天《あめ》が|下《した》には|他人《たにん》と|云《い》ふ|事《こと》なきものぞ、|誰《たれ》も|彼《かれ》も、|生《い》きとし|生《い》ける|者《もの》は、|人間《にんげん》はおろか、|禽獣虫魚草木《きんじうちうぎよさうもく》に|至《いた》る|迄《まで》、|尊《たふと》き|神《かみ》さまの|御子《みこ》だ、さうして|宇宙《うちう》|一切《いつさい》は|残《のこ》らず|兄弟姉妹《けいていしまい》だと|仰有《おつしや》つたぞ。それだから|俺《おれ》はお|前《まへ》を|本当《ほんたう》の|兄弟《きやうだい》だと|思《おも》ふてゐるのだから、|遠慮《ゑんりよ》せずに|履《は》いてくれ』
|房公《ふさこう》『ハイ|有難《ありがた》う|御座《ござ》います。|神様《かみさま》の|教《をしへ》は|偉《えら》いものだなア。こんな|野蛮国《やばんこく》|迄《まで》|感化力《かんくわりよく》が|延《の》びてると|思《おも》へば、|宣伝使《せんでんし》も|馬鹿《ばか》にはならぬワイ。|黒姫《くろひめ》さまだつて、|俺達《おれたち》は|沢山《たくさん》|相《さう》に|何《なん》につけ、かにつけ、からかつて|来《き》たが、|本当《ほんたう》に|勿体《もつたい》ない|事《こと》をしたものだ。|一時《いちじ》も|早《はや》く|黒姫《くろひめ》さまにお|目《め》にかかつてお|詫《わび》をしようぢやないか、なア|芳公《よしこう》』
|芳公《よしこう》は|虎公《とらこう》に|向《むか》ひ|丁寧《ていねい》に|会釈《ゑしやく》をし|乍《なが》ら、
『|見《み》ず|知《し》らずの|吾々《われわれ》に|対《たい》し、|御親切《ごしんせつ》に|恵《めぐ》んで|下《くだ》さいまして|有難《ありがた》う|御座《ござ》います。|此《この》|御恩《ごおん》は|決《けつ》して|忘《わす》れませぬ。|此《この》|房公《ふさこう》も|草鞋《わらぢ》を|切《き》つて|困《こま》つて|居《を》つた|所《ところ》、あなたの|御恵《みめぐみ》に|預《あづか》り、|実《じつ》に|生《い》き|返《かへ》つたやうな、|私《わたし》|迄《まで》が|思《おも》ひを|致《いた》します』
と|虎公《とらこう》の|親切《しんせつ》にほだされて、|涙《なみだ》ぐみつつ|礼《れい》を|云《い》ふ。
|虎公《とらこう》『エヽそんな|涙《なみだ》つぽい|事《こと》を|言《い》うてくれな、|兄弟《きやうだい》|同志《どうし》ぢやないか。|俺《おれ》が|此《この》|草鞋《わらぢ》をはいて|行《ゆ》けと|云《い》つたら、お|前《まへ》の|方《はう》から……ヨシ|来《き》た、はいてやろ、|貴様《きさま》も|中々《なかなか》|気《き》の|利《き》いた|奴《やつ》だ、それでこそ|俺《おれ》の|兄弟分《きやうだいぶん》だ、|今日《けふ》から|俺《おれ》がお|伴《とも》をさしてやるから|跟《つ》いて|来《こ》い。|火《ひ》の|国《こく》へ|往《い》つたら|酒《さけ》の|一杯《いつぱい》も|奢《おご》つてやる……と|斯《こ》う|元気《げんき》よう|云《い》つてくれ。|男《をとこ》のくせにメソメソと、|有難《ありがた》いの|勿体《もつたい》ないのと|言《い》うてくれると|小癪《こしやく》に|障《さは》つて|仕方《しかた》がないワ』
|房公《ふさこう》『オイ|虎《とら》の|野郎《やらう》、|貴様《きさま》は|猛獣《まうじう》の|様《やう》な|名《な》だが、|割《わり》とは|気《き》の|弱《よわ》い|奴《やつ》だ。|俺《おれ》が|天狗《てんぐ》の|孫《まご》だと|思《おも》つて、お|追従《つゐせう》に|一足《いつそく》よりない|草鞋《わらぢ》を|放《はう》り|出《だ》しよつたのだなア。|貴様《きさま》の|草鞋《わらぢ》も|大方《おほかた》|破《やぶ》れてるぢやないか。|俺《おれ》が|此《この》|草鞋《わらぢ》をはいてやつたら|貴様《きさま》|如何《どう》する|積《つも》りだ。|訳《わけ》の|分《わか》らぬ|馬鹿者《ばかもの》だなア』
|虎公《とらこう》『オツトお|出《い》でたな、|天狗《てんぐ》の|孫《まご》どん……|草鞋《わらぢ》の|一足《いつそく》|位《くらゐ》|無《な》くなつたつて、|足《あし》の|片《かた》つ|方《ぱう》|位《くらゐ》|千切《ちぎ》れたつて、こたへるやうな|哥兄《にい》さまだと|思《おも》つて|居《ゐ》るのか。|天狗《てんぐ》の|孫《まご》でさへ|草鞋《わらぢ》が|切《き》れて|吠面《ほえづら》かはきやがつた|位《くらゐ》だのに、|此《この》|虎公《とらこう》は|真跣足《まつぱだし》で|此《この》|坂《さか》を|下《くだ》るのだから、|天狗《てんぐ》の|孫《まご》よりも|余程《よほど》|偉《えら》いのだよ』
|房公《ふさこう》『アツハヽヽヽ|此奴《こいつ》ア|面白《おもしろ》い、|是《これ》から|俺《おれ》の|家来《けらい》にしてやらう。チツと|其《その》|代《かは》りに|辛《つら》いぞ』
|虎公《とらこう》『|何《なに》が|辛《つら》い、|俺達《おれたち》は|神様《かみさま》の|生宮《いきみや》だ。|此《この》|世《よ》に|辛《つら》い|事《こと》も、|怖《こわ》い|事《こと》も|知《し》らぬと|云《い》ふ|金剛不壊《こんがうふえ》の|如意宝珠《によいほつしゆ》|見《み》た|様《やう》な|肉体《にくたい》だからなア』
|芳公《よしこう》『オイ|虎《とら》、|貴様《きさま》に|一《ひと》つ|問《と》ひたい|事《こと》があるが|白状《はくじやう》するか|如何《どう》だ』
|虎公《とらこう》『|白状《はくじやう》せいとは|何《なん》の|事《こと》だ。|丸《まる》で|俺《おれ》を|科人《とがにん》|扱《あつかひ》にして|居《ゐ》やがるのだなア』
|芳公《よしこう》『きまつた|事《こと》よ、|世界《せかい》の|人間《にんげん》は|何奴《どいつ》も|此奴《こいつ》も|祖神《おやがみ》さまの|目《め》から|見《み》れば|科人《とがにん》|計《ばか》りだ。|碌《ろく》な|奴《やつ》ア|一匹《いつぴき》だつて|居《ゐ》るものぢやない。|皆《みな》|四《よ》つ|足《あし》の|容器《いれもの》|計《ばか》りぢやからなア。|貴様《きさま》のやうに|折角《せつかく》|人間《にんげん》に|生《うま》れ|乍《なが》ら、|四《よ》つ|足《あし》の|様《やう》な|名《な》をつけやがつてトラ|何《なん》の|事《こと》だい』
|虎公《とらこう》『アハヽヽヽ|馬鹿《ばか》にしやがるワイ。ヨシ|気《き》に|入《い》つた。|貴様《きさま》こそ|俺《おれ》の|特別《とくべつ》の|兄弟分《きやうだいぶん》だ。|大方《おほかた》|貴様《きさま》は|婆《ばば》の|後《あと》を|追《お》ひかけて|来《き》たウルサイ|代物《しろもの》だらう』
|芳公《よしこう》『さうだ、|其《その》|婆《ばば》の|所在《ありか》を|知《し》つてゐるなら、|包《つつ》まずかくさず、|一々《いちいち》|芳公《よしこう》の|前《まへ》で|白状《はくじやう》|致《いた》せと|云《い》ふのだ。|知《し》らぬの|何《なん》のと、|薄情《はくじやう》な|事《こと》|吐《ぬか》すと、|鬼《おに》の|蕨《わらび》が|貴様《きさま》の|横《よこ》つ|面《つら》へ|御見舞《おみまひ》|申《まを》すぞ』
|虎公《とらこう》『アハヽヽヽ|一寸《ちよつと》|此奴《こやつ》、|味《あぢ》をやりよるワイ。|貴様《きさま》|一体《いつたい》どこの|馬《うま》の|骨《ほね》だ』
|芳公《よしこう》『|俺《おれ》かい、|俺《おれ》は|自転倒島《おのころじま》の|芳公《よしこう》と|云《い》つたら|誰《たれ》も|知《し》る|者《もの》は|知《し》る、|知《し》らぬ|者《もの》は|一寸《ちよつと》も|知《し》らぬ、|天下無双《てんかむさう》の|豪傑《がうけつ》だよ。|摩利支天《まりしてん》さまにさへ|相撲《すまう》とつて|負《ま》けたことのない|哥兄《にい》さまだからなア』
|虎公《とらこう》『|貴様《きさま》、|摩利支天《まりしてん》とどこで|相撲《すもう》とつたのだ。|何程《なにほど》|法螺《ほら》|吹《ふ》いても、|其奴《そいつ》ア|通用《つうよう》しないぞ、|摩利支天《まりしてん》に|負《ま》けぬと|云《い》ふ|奴《やつ》が|三千世界《さんぜんせかい》にあるものか。そんなウソいふと、|貴様《きさま》、|死《し》んだら|目《め》がつぶれ、|物《もの》も|言《い》へぬやうになり、|体《からだ》が|動《うご》けなくなつて|了《しま》ふぞ』
|芳公《よしこう》『|俺《おれ》は|摩利支天《まりしてん》の|木像《もくざう》と|相撲《すもう》とつたのだ。|一《ひと》つ|突《つ》いてやつたら、|一遍《いつぺん》に|仰向《あふむ》けにこけるのだけれど、|腕《うで》が|折《を》れたり|指《ゆび》が|取《と》れたりすると|面倒《めんだう》だからなア。それで|怺《こら》へてやつたのだ』
|虎公《とらこう》『アハヽヽヽ|大方《おほかた》そんな|事《こと》だと|思《おも》ふて|居《を》つたよ。|併《しか》し|芳公《よしこう》、|貴様《きさま》も|小相撲《こずもう》の|一《ひと》つも|取《と》れさうな|体《からだ》をしてゐるが、|相撲《すもう》とつたことがあるのか』
|芳公《よしこう》『あらいでかい、|相撲道《すもうだう》の|名人《めいじん》だ。|自転倒島《おのころじま》の|横綱《よこづな》|芳野川《よしのがは》と|云《い》つたら|俺《おれ》のことだ。|貴様《きさま》の|耳《みみ》は|余程《よほど》|遅手耳《おくてみみ》だなア』
|房公《ふさこう》『オイ|虎公《とらこう》、|此《この》|芳公《よしこう》はなア、|随分《ずゐぶん》|口《くち》は|達者《たつしや》だが、|相撲《すもう》にかけたら、|随分《ずゐぶん》|惨《みじ》めなものだよ。|芳野川《よしのがは》なんて、ソラ|隣《となり》に|住《す》んで|居《を》つた|相撲取《すもうとり》のことだ。|此奴《こいつ》ア|鍋蓋《なべぶた》と|云《い》ふ|力士《りきし》だ。|取《と》つたが|最後《さいご》、すぐに|仰向《あふむ》くといふ|代物《しろもの》だからなア』
|虎公《とらこう》『オウ|一《ひと》つ|鍋蓋《なべぶた》、|此《この》|虎ケ岳《とらがだけ》と|一勝負《ひとしようぶ》、|此処《ここ》でやらうぢやないか』
|芳公《よしこう》『オウ|面白《おもしろ》からう。やらぬ|事《こと》はないが、|斯《こ》んな|石原《いしはら》では|面白《おもしろ》くねえ、|少《すこ》し|平地《へいち》へ|行《い》つて、|更《あらた》めて|取《と》る|事《こと》にしようかい。|俺《おれ》は|今日《けふ》から|漆山《うるしやま》と|改名《かいめい》するから、|俺《おれ》に|触《さは》つたらすぐに|負《ま》けるから、|其《その》|覚悟《かくご》で|居《を》つたがよいワイ』
|虎公《とらこう》『うるさい|漆山《うるしやま》だなア』
|房公《ふさこう》『オイ|虎ケ岳《とらがだけ》、こんな|漆山《うるしやま》と|相撲《すもう》なんか|取《と》るものぢやない。|貴様《きさま》の|沽券《こけん》が|下《さ》がるよ。|此奴《こいつ》ア、|相撲《すもう》|取《と》つて、ついぞ|勝《か》つたことのない|奴《やつ》だからなア』
|芳公《よしこう》『|喧《やかま》しう|言《い》ふない。|俺《おれ》ん|所《ところ》のお|滝《たき》が|何時《いつ》もなア……|角力《すまう》にや|負《ま》けても|怪我《けが》さへなけりや、|晩《ばん》にや|私《わたし》が|負《ま》けて|上《あ》げよ……と|吐《ぬか》しやがるのだから、|何《なん》と|云《い》つても|色男《いろをとこ》だ。|貴様《きさま》なぞの|燕雀《えんじやく》の|容喙《ようかい》すべき|所《ところ》ぢやない。|弱《よわ》い|奴《やつ》ア|弱《よわ》い|奴《やつ》らしくスツ|込《こ》んでをれ』
|房公《ふさこう》『オイ|鍋蓋《なべぶた》、|貴様《きさま》は|聖地《せいち》で|宮相撲《みやずもう》のあつた|時《とき》|如何《どう》だつた。|鬼ケ岳《おにがだけ》と|貴様《きさま》と|取《と》つた|時《とき》、たしか|二番《にばん》|勝負《しようぶ》だつたなア』
|虎公《とらこう》『ソラ|面白《おもしろ》い、|其《その》|時《とき》の|勝負《しようぶ》を|聞《き》かしてくれ、どうだつた、キツと|負《ま》けただらう』
|房公《ふさこう》『|其《その》|時《とき》は|此《この》|鍋蓋《なべぶた》|奴《め》……』
と|言《い》はうとする。あわてて|口《くち》に|手《て》を|当《あ》て、
|芳公《よしこう》『コリヤ|天機《てんき》|洩《も》らす|可《べか》らずだ。|言《い》はいでも|分《わか》つてるワイ。|互角《ごかく》の|勝負《しようぶ》だつたよ』
|虎公《とらこう》『さうすると|一番《いちばん》|宛《づつ》|勝《か》つたのだな』
|芳公《よしこう》『|初《はじめ》の|勝負《しようぶ》には|都合《つがふ》が|悪《わる》うて、|此《この》|鍋蓋《なべぶた》が|鬼ケ岳《おにがだけ》に|負《ま》けたのだ。|次《つぎ》の|勝負《しようぶ》には、|向《むか》うが|勝《か》つたのだ。つまり|先《さき》に|俺《おれ》が|負《ま》けて、|此度《こんど》は|先方《むかふ》が|勝《か》つたのだよ』
|虎公《とらこう》『アハヽヽヽ|大方《おほかた》そんな|事《こと》だと|思《おも》つて|居《を》つた』
|房公《ふさこう》『|余《あま》り|相撲《すもう》の|話《はなし》で、|黒姫《くろひめ》の|所在《ありか》を|白状《はくじやう》さすのを|忘《わす》れて|居《を》つた。サア|切《き》り|切《き》りチヤツと|申上《まをしあ》げぬか』
|虎公《とらこう》『|喧《やかま》し|言《い》ふない。|俺《おれ》の|行《ゆ》く|所《ところ》へ|従《つ》いて|来《き》さへすれば|分《わか》るのだ。|何事《なにごと》も|三五教《あななひけう》は|不言実行《ふげんじつかう》だからなア。|詞《ことば》|多《おほ》ければ|品《しな》|少《すくな》し……と|云《い》ふことがある、|黙《だま》つて|従《つ》いて|来《こ》い』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら、|虎公《とらこう》|外《ほか》|三人《さんにん》は|二人《ふたり》の|先《さき》に|立《た》ち、|急坂《きふはん》を|下《くだ》り、|稍《やや》|緩勾配《くわんこうばい》の|曲《まが》り|道《みち》になつた|所《ところ》より|坂路《さかみち》を|左《ひだり》に|越《こ》え、|小《ちひ》さい|山《やま》の|尾《を》を|二《ふた》つ|三《み》つ|廻《まは》つて|建日《たけひ》の|館《やかた》へ|指《さ》して|進《すす》み|行《ゆ》くのであつた。
(大正一一・九・一三 旧七・二二 松村真澄録)
第一三章 |行進歌《かうしんか》〔九五四〕
|房公《ふさこう》、|芳公《よしこう》の|二人《ふたり》は|虎公《とらこう》|外《ほか》|三人《さんにん》を|伴《ともな》ひ、|建日《たけひ》の|館《やかた》をさして、|道々《みちみち》|無駄口《むだぐち》を|叩《たた》きながら|進《すす》み|行《ゆ》く。
|房公《ふさこう》は|声《こゑ》を|張《は》り|上《あ》げて|謡《うた》ひ|出《だ》したり。
『|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》  |真黒々《まつくろくろ》の|黒姫《くろひめ》が
|夫《をつと》の|所在《ありか》を|探《たづ》ねむと  |孫《まご》、|房《ふさ》、|芳《よし》の|三人《さんにん》を
|自転倒島《おのころじま》から|連《つ》れて|来《き》て  |建日《たけひ》の|別《わけ》の|旧蹟地《きうせきち》
|岩窟《いはや》のすこし|手前《てまへ》にて  |孫公《まごこう》さまが|躓《つまづ》いた
|房《ふさ》、|芳《よし》|二人《ふたり》は|仰天《ぎようてん》し  |水《みづ》よ|気付《きつけ》と|狼狽《うろた》へて
|介抱《かいほう》するにもかかはらず  |黒姫《くろひめ》さまは|何故《なにゆゑ》か
ニヤリニヤリと|笑《わら》つてる  |冷酷《れいこく》|非道《ひだう》の|鬼婆《おにばば》と
|心《こころ》の|中《うち》にて|憤慨《ふんがい》し  オツトドツコイ|危《あぶ》ないぞ
そこには|尖《とが》つた|石《いし》がある  どいつも|此奴《こいつ》も|気《き》を|付《つ》けよ
|孫公《まごこう》のやうに|躓《つまづ》いて  |怪我《けが》を|致《いた》しちや|堪《たま》らない
オツトドツコイ|脇道《わきみち》へ  |俺《おれ》の|歌《うた》|奴《め》が|脱線《だつせん》し
|分《わか》らぬやうになつて|来《き》た  |黒姫《くろひめ》さまは|何故《なにゆゑ》か
|悪垂口《あくたれぐち》を|叩《たた》きつつ  |痛《いた》さに|苦《くる》しむ|孫公《まごこう》を
|見向《みむ》きもやらず|捨《す》てて|往《ゆ》く  |吾等《われら》|二人《ふたり》は|是非《ぜひ》もなく
|黒姫《くろひめ》さまに|随《したが》うて  |岩窟《いはや》の|前《まへ》に|往《い》て|見《み》れば
|闇《やみ》の|帳《とばり》は|忽《たちま》ちに  |引《ひ》き|下《おろ》されて|目《め》も|鼻《はな》も
|口《くち》の|所在《ありか》も|分《わか》らない  |茲《ここ》に|一行《いつかう》|三人《さんにん》は
|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》し  |憩《いこ》ふ|折《をり》しも|岩窟《がんくつ》の
|中《なか》より|響《ひび》くドウラ|声《ごゑ》  ハテ|何者《なにもの》の|出現《しゆつげん》と
|心《こころ》を|配《くば》る|折《をり》もあれ  |岩窟《いはや》の|中《なか》より|黒姫《くろひめ》を
|悪垂婆《あくたればば》アと|呶鳴《どな》り|出《だ》す  |黒姫《くろひめ》さまは|腹《はら》をたて
|何《なん》だかんだと|争《いさか》ひつ  |腰折《こしをれ》だらけの|歌《うた》をよみ
やつとその|場《ば》のごみ|濁《にご》し  |命《いのち》からがらドツコイシヨ
|夜明《よあ》けを|待《ま》つて|逃《に》げ|出《だ》せば  |胸《むな》つき|坂《ざか》の|右左《みぎひだり》
|草《くさ》ぼうぼうと|生《は》え|茂《しげ》る  |細谷道《ほそたにみち》をハアハアと
|息《いき》をはづませ|来《く》る|中《うち》に  |喉《のど》をかわかせ|両人《りやうにん》が
|苦《くる》しむ|折《をり》しも|傍《かたはら》に  |滾々《こんこん》として|湧《わ》き|出《い》づる
|甘《うま》き|清水《しみづ》に|喉《のど》|湿《しめ》し  |黒姫《くろひめ》|様《さま》にいろいろと
|小言《こごと》|八百《はつぴやく》|並《なら》べられ  |湧《わ》いた|水《みづ》より|劫《がふ》わかし
|横《よこ》にごろりと|長《なが》くなる  どうしたものか|両人《りやうにん》の
|尻《しり》は|大地《だいち》に|吸《す》ひついて  ビクともしない|苦《くる》しさに
|黒姫《くろひめ》さまに|誤解《ごかい》され  |放《ほつ》ときぼりを|喰《く》はされた
|吾等《われら》|二人《ふたり》の|腑甲斐《ふがひ》なさ  |黒姫《くろひめ》さまは|吾々《われわれ》を
|後《あと》に|見捨《みす》てて|登《のぼ》り|行《ゆ》く  |二人《ふたり》は|後《あと》を|見送《みおく》つて
|悪垂婆《あくたればば》アの|黒姫《くろひめ》と  |呟《つぶや》く|折《をり》しも|忽《たちま》ちに
レコード|破《やぶ》りの|暴風雨《ばうふうう》  |巨石《きよせき》を|飛《と》ばし|木《き》を|倒《たふ》し
|礫《つぶて》のやうな|雨《あめ》が|降《ふ》る  こりや|堪《たま》らぬと|一心《いつしん》に
|天地《てんち》の|神《かみ》を|祈《いの》る|折《をり》  |忽《たちま》ち|聞《きこ》ゆる|宣伝歌《せんでんか》
|玉治別《たまはるわけ》の|玉《たま》の|声《こゑ》  |聞《きこ》ゆる|間《ま》もなく|荒《あ》れ|狂《くる》ふ
|風雨《ふうう》は|忽《たちま》ち|鎮静《ちんせい》し  |平和《へいわ》の|雲《くも》は|中天《ちうてん》に
|揺《ゆら》ぎ|初《そ》めたる|嬉《うれ》しさよ  それより|吾等《われら》は|黒姫《くろひめ》の
|後《あと》を|追《お》ひかけ|来《きた》る|折《をり》  |高山峠《たかやまたうげ》の|下《くだ》り|坂《ざか》
|岩石《がんせき》|崎嶇《きく》たる|峻坂《しゆんばん》に  ふと|出遇《でくわ》した|四人連《よにんづ》れ
|此奴《こいつ》はテツキリ|泥棒《どろばう》と  |早合点《はやがつてん》の|両人《りやうにん》は
|天狗《てんぐ》の|孫《まご》と|偽《いつは》つて  |威《おど》してやらむと|思《おも》ふ|間《うち》
|思《おも》ひもかけぬ|虎公《とらこう》が  |草鞋《わらぢ》をやらうと|吐《ぬか》す|故《ゆゑ》
いやいやながら|受《う》け|取《と》つて  お|気《き》に|召《め》さねどドツコイシヨ
|此処《ここ》|迄《まで》はいて|来《き》てやつた  |芳公《よしこう》の|痩相撲《やせずもう》|漆山《うるしやま》
|鬼ケ嶽《おにがだけ》との|相撲話《すもうばなし》  |面白《おもしろ》をかしく|喋《しやべ》り|立《た》て
|茲《ここ》に|六人《むたり》は|兄弟《きやうだい》の  |気取《きど》りとなつて|火《ひ》の|国《くに》の
|建日《たけひ》の|館《やかた》に|出《い》でて|往《ゆ》く  |嘸《さぞ》|今頃《いまごろ》は|黒姫《くろひめ》は
|建国別《たけくにわけ》に|面会《めんくわい》し  お|前《まへ》は|吾《わが》|子《こ》か|母《かあ》さまか
|逢《あ》ひたかつた|見《み》たかつた  |尊《たふと》き|神《かみ》の|引《ひ》き|合《あは》せ
こんな|嬉《うれ》しい|事《こと》あろか  |何《なに》は|兎《と》もあれ|第一《だいいち》に
|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》し  |感謝《かんしや》|祈願《きぐわん》を|申上《まをしあ》げ
|館《やかた》の|上下《うへした》|打揃《うちそろ》ひ  ドツサリ|祝《いは》ひを|致《いた》さうと
|嘸《さぞ》|今頃《いまごろ》は|神館《かむやかた》  |上《うへ》を|下《した》へと|騒《さわ》がしく
|喜《よろこ》び|勇《いさ》む|事《こと》だらう  あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さち》はひましまして  |黒姫《くろひめ》さまも|今《いま》|迄《まで》の
|我情我慢《がじやうがまん》を|改《あらた》めて  |誠《まこと》の|神《かみ》の|司《つかさ》とし
|三五教《あななひけう》の|御光《みひかり》を  |照《て》らす|真人《まびと》となさしめよ』
と|謡《うた》ひ|乍《なが》ら、|房公《ふさこう》は|虎公《とらこう》の|後《あと》に|随《つ》いて|往《ゆ》く。|虎公《とらこう》は|此《この》|歌《うた》に|引出《ひきだ》されてか|又《また》もや|謡《うた》ひ|出《だ》したり。
『|武野《たけの》の|村《むら》の|玉公《たまこう》が  どうしたものか|此《この》|頃《ごろ》は
|家《うち》の|秘蔵《ひざう》の|水晶玉《すいしやうだま》  |黒点《こくてん》|出来《でき》たと|気《き》を|焦《いら》ち
こいつア|全《まつた》く|黒姫《くろひめ》と  |云《い》ふ|曲神《まがかみ》が|此《この》|島《しま》に
やつてうせたに|違《ちが》ひない  |今《いま》から|急《いそ》ぎ|山頂《さんちやう》に
|登《のぼ》つて|待《ま》てば|黒姫《くろひめ》が  |登《のぼ》つて|来《く》るに|違《ちが》ひない
オイ|虎公《とらこう》よ|俺《おれ》のため  |嶮《けは》しい|坂《さか》ではあるけれど
どうぞ|送《おく》つて|呉《く》れないか  お|前《まへ》を|男《をとこ》と|見込《みこ》んでの
|俺《おれ》の|頼《たの》みぢやと|吐《ぬか》す|故《ゆゑ》  |忙《いそが》し|中《なか》を|繰合《くりあは》し
|乾児《こぶん》の|奴《やつ》を|引《ひ》き|連《つ》れて  |高山峠《たかやまたうげ》の|絶頂《ぜつちやう》で
|三五教《あななひけう》の|黒姫《くろひめ》が  |登《のぼ》り|来《きた》るをドツコイシヨ
|今《いま》や|遅《おそ》しと|待《ま》つ|間《うち》に  |玉公《たまこう》さまの|発起《ほつき》にて
|白《しろ》と|黒《くろ》との|石《いし》|集《あつ》め  |勝負《しようぶ》を|初《はじ》むる|折柄《をりから》に
|待《ま》つ|間《ま》|程《ほど》なく|黒姫《くろひめ》が  |草鞋脚絆《わらぢきやはん》に|身《み》を|固《かた》め
|金剛杖《こんがうづゑ》に|蓑笠《みのかさ》の  |軽《かる》き|扮装《いでたち》スウスウと
|息《いき》をはづまし|登《のぼ》り|来《く》る  |此奴《こいつ》アてつきり|黒姫《くろひめ》に
|相違《さうゐ》あるまいドツコイシヨ  |皆々《みなみな》|気《き》をつけ|危《あぶ》ないぞ
|一《ひと》つ|辷《すべ》れば|谷底《たにそこ》ぢや  |黒姫《くろひめ》さまの|物語《ものがた》り
|耳《みみ》を|澄《す》まして|聞《き》く|中《うち》に  |火《ひ》の|国都《くにみやこ》にかくれなき
|高山彦《たかやまひこ》の|女房《にようばう》と  |聞《き》いて|五人《ごにん》は|吃驚《びつくり》し
|合点《がてん》の|往《ゆ》かぬ|事《こと》だなア  うつかり|手出《てだ》しは|出来《でき》ないと
|初《はじ》めの|勢《いきほ》ひどこへやら  |勇《いさ》みきつたる|虎公《とらこう》も
|忽《たちま》ち|猫《ねこ》と|早変《はやがは》り  こらまア|何《なん》と|云《い》ふ|事《こと》だ
|合点《がてん》のゆかぬ|節《ふし》がある  それにモ|一《ひと》つ|不思議《ふしぎ》なは
|黒姫《くろひめ》さまの|若《わか》い|時《とき》  |捨子《すてこ》をしたのが|武野村《たけのむら》
|神《かみ》の|館《やかた》のドツコイシヨ  |建国別《たけくにわけ》ではあるまいか
|一《ひと》つ|訪《たづ》ねて|見《み》ようかと  |心《こころ》ありげに|云《い》ふ|故《ゆゑ》に
|玉公《たまこう》さまは|呑《の》み|込《こ》んで  |案内《あない》の|役《やく》と|早替《はやがは》り
|悪魔《あくま》と|思《おも》うた|黒姫《くろひめ》の  |唯一《ゆいつ》の|力《ちから》となり|果《は》てて
|神《かみ》の|館《やかた》へ|導《みちび》いた  |黒姫《くろひめ》さまが|云《い》ふ|事《こと》にや
|房《ふさ》、|芳《よし》|二人《ふたり》の|伴《とも》の|奴《やつ》  |後《あと》から|来《く》るに|違《ちが》ひない
|虎公《とらこう》さまよお|前達《まへたち》  |此処《ここ》に|待《ま》ち|受《う》け|両人《りやうにん》を
|否応《いやおう》|云《い》はさず|捕《とら》まへて  |建日《たけひ》の|館《やかた》へ|連《つ》れて|来《こ》い
キツと|頼《たの》み|置《お》くぞよと  |黒《くろ》い|顔《かほ》して|云《い》ふた|故《ゆゑ》
ウンと|呑《の》み|込《こ》み|男達《をとこだて》  |虎公《とらこう》さまもドツコイシヨ
|一度《ひとたび》|人《ひと》に|頼《たの》まれて  |後《あと》へは|引《ひ》けぬ|此《この》|気質《きしつ》
|房公《ふさこう》、|芳公《よしこう》|両人《りやうにん》の  |力《ちから》の|弱《よわ》い|蛆虫《うじむし》を
|今《いま》か|今《いま》かと|待《ま》つ|間《うち》に  |房公《ふさこう》さまが|真跣足《まつぱだし》
|血潮《ちしほ》を|足《あし》から|流《なが》しつつ  |天狗《てんぐ》の|孫《まご》だと|空威張《からいば》り
|坂道《さかみち》|下《くだ》るをかしさよ  そこで|虎公《とらこう》が|声《こゑ》をかけ
|尋《たづ》ねて|見《み》れば|黒姫《くろひめ》の  お|後《あと》を|慕《した》うて|来《き》た|二人《ふたり》
|社会《しやくわい》|奉仕《ほうし》の|積《つも》りにて  |草鞋《わらぢ》|一足《いつそく》|放《ほ》り|出《だ》して
|是《これ》を|穿《は》けよと|云《い》つたらば  |二人《ふたり》の|奴《やつ》は|喜《よろこ》んで
|女子《をなご》の|腐《くさ》つた|奴《やつ》のよに  べそべそ|涙《なみだ》を|流《なが》しつつ
ハイハイ|頂戴《ちやうだい》|致《いた》します  どこの|誰人《どなた》か|知《し》らねども
|見知《みし》らぬ|他人《たにん》の|此《この》|私《わたし》  |価《あたひ》も|無《な》しに|頂《いただ》くは
|私《わたし》の|心《こころ》が|済《す》みませぬ  |価《あたひ》を|取《と》つて|下《くだ》されと
|遉《さすが》|律義《りちぎ》の|申分《まをしぶん》  こいつア|矢張《やつぱり》|麻柱《あななひ》の
|道《みち》を|奉《ほう》ずる|信徒《まめひと》と  |思《おも》うた|故《ゆゑ》に|虎公《とらこう》は
|元気《げんき》をつけてやつたれば  |忽《たちま》ち|変《かは》る|空威張《からいばり》
|肩肱《かたひぢ》|怒《いか》らす|面白《おもしろ》さ  |芳公《よしこう》さまが|図《づ》に|乗《の》つて
|俺《おれ》でも|元《もと》は|芳野川《よしのがは》  |自転倒島《おのころじま》にて|名《な》をあげた
|負《まけ》た|事《こと》なき|相撲取《すもうとり》  |鬼ケ嶽《おにがたけ》とドツコイシヨ
|二番《にばん》|勝負《しようぶ》をした|時《とき》に  |先《さき》には|俺《おれ》が|負《まけ》たれど
|後《あと》は|先方《むこう》が|勝《か》ちよつた  |何《なん》の|彼《かん》のと|負惜《まけをし》み
ドツコイドツコイドツコイシヨ  |減《へ》らず|口《ぐち》をば|叩《たた》きつつ
|終《しまひ》の|果《はて》にや|房公《ふさこう》に  |薩張《さつぱり》|実状《じつじやう》あばかれて
|芳野川《よしのがは》とはドツコイシヨ  |隣《となり》に|住《す》んだ|相撲取《すもうとり》
|褌持《ふんどしもち》のドツコイシヨ  |握《にぎ》り|飯《めし》をば|喰《くら》ふやつ
|取《と》つたら|仰《あふ》むく|鍋蓋《なべぶた》と  |名乗《なの》りを|上《あ》げた|痩相撲《やせずもう》
|触《さは》ればまけるウントコシヨ  |漆山《うるしやま》だと|打《う》ち|名《な》のり
|其《その》|場《ば》のごみを|濁《にご》しつつ  |此処《ここ》|迄《まで》やつと|従《つ》いて|来《き》た
|芳公《よしこう》さまの|罪《つみ》のなさ  あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸倍《さちはへ》|坐《ま》しまして  |建国別《たけくにわけ》の|宣伝使《せんでんし》
|黒姫《くろひめ》さまの|生《う》みの|子《こ》で  どうぞあつて|欲《ほ》しいもの
ドツコイドツコイさうなれば  |黒姫《くろひめ》さまも|落《お》ち|付《つ》いて
|爺《おやぢ》の|後《あと》を|探《たづ》ねまい  |吾等《われら》が|信《しん》ずる|宣伝使《せんでんし》
|高山彦《たかやまひこ》の|御前《おんまへ》で  |何《なん》だかんだと|痴話《ちわ》|喧嘩《げんくわ》
ごてごて|云《い》はれちや|堪《たま》らない  |俺《おれ》ばつかりか|愛子姫《あいこひめ》
|其《その》|他数多《あまた》の|人々《ひとびと》も  |定《さだ》めし|迷惑《めいわく》するだらう
|朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも  |月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも
|仮令《たとへ》|大地《だいち》は|沈《しづ》むとも  |黒姫《くろひめ》さまが|三五《あななひ》の
|真《まこと》の|道《みち》に|猛進《まうしん》し  |恋《こひ》の|妄執《もうしふ》|相晴《あひは》らし
|建国別《たけくにわけ》の|館《やかた》にて  |母子《おやこ》|夫婦《ふうふ》の|睦《むつ》み|合《あ》ひ
いやとこしへに|神《かみ》の|道《みち》  |四方《よも》に|照《て》らして|呉《く》れるやう
|純世《すみよ》の|姫《ひめ》の|御前《おんまへ》に  |武野《たけの》の|村《むら》の|男達《をとこだて》
|虎公《とらこう》さまが|真心《まごころ》を  こめてぞ|祈《いの》り|奉《たてまつ》る
|嗚呼《ああ》|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |御霊《みたま》|幸倍《さちはへ》ましませよ』
と|歌《うた》ひ|終《をは》るや、|芳公《よしこう》は|又《また》|虎公《とらこう》の|歌《うた》に|引《ひ》かされて|坂道《さかみち》を|歩《あゆ》みながら|駄句《だく》り|初《はじ》めたり。
『あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |神《かみ》が|表《おもて》に|現《あら》はれて
|善《ぜん》と|悪《あく》とを|立《た》て|別《わ》ける  |此《この》|世《よ》を|造《つく》りし|神直日《かむなほひ》
|心《こころ》も|広《ひろ》き|大直日《おほなほひ》  |直日《なほひ》のみたま|幸《さち》はひて
|黒姫《くろひめ》さまが|探《たづ》ね|来《く》る  |高山彦《たかやまひこ》との|関係《くわんけい》を
|事《こと》なく|納《をさ》めたまへかし  ウントコドツコイ|危《あぶ》ないぞ
どいつも|此奴《こいつ》も|気《き》をつけよ  そこには|深《ふか》い|谷《たに》がある
|黒姫《くろひめ》さまが|又《また》しても  |高山《たかやま》さまに|口答《くちごた》へ
|金切声《かなきりごゑ》を|絞《しぼ》り|上《あ》げ  |呶鳴《どな》り|散《ち》らされドツコイシヨ
|荒《あ》れ|狂《くる》はれては|堪《たま》らない  |第一《だいいち》|神《かみ》の|名《な》を|汚《けが》し
|三五教《あななひけう》の|面汚《つらよご》し  |高山彦《たかやまひこ》の|面目《めんもく》は
|茶《ちや》ツ|茶《ちや》|無茶苦《むちやく》になるだらう  |俺《おれ》はそいつが|気《き》にかかる
|何《なん》とかドツコイ|穏《おだや》かに  |納《をさ》めて|見《み》たいと|朝夕《あさゆふ》に
|神《かみ》に|念《ねん》じて|居《を》る|哩《わい》の  さはさりながら|此《この》|度《たび》は
|都合《つがふ》のよい|事《こと》|出来《でき》てきた  |三十五年《さんじふごねん》の|其《その》|昔《むかし》
|赤襟姿《あかえりすがた》の|黒姫《くろひめ》が  |粋《すゐ》な|男《をとこ》とドツコイシヨ
|人目《ひとめ》を|忍《しの》んでこしらへた  ドツコイ ドツコイ ドツコイシヨ
|赤子《あかご》を|無残《むざん》に|四《よ》つ|辻《つじ》に  |捨《す》てた|思案《しあん》の|後戻《あともど》り
やうやう|此《この》|頃《ごろ》|気《き》がついて  |血道《ちみち》をあげてほれきつた
|高山《たかやま》さまよりドツコイシヨ  |吾《わが》|子《こ》の|方《はう》が|可愛《かあい》なり
|火《ひ》の|国《くに》|行《ゆき》を|後《あと》にして  |建日《たけひ》の|館《やかた》に|往《い》たさうな
|是《これ》も|尊《たふと》き|神様《かみさま》の  |仁慈無限《じんじむげん》の|引《ひ》き|合《あは》せ
ほんに|目出度《めでた》いお|目出度《めでた》い  さはさり|乍《なが》らひよつとして
|建国別《たけくにわけ》の|宣伝使《せんでんし》  |黒姫《くろひめ》さまの|子《こ》でなうて
ドツコイシヨウドツコイシヨウ  |人《ひと》の|捨子《すてこ》であつた|時《とき》
どうして|心《こころ》が|納《をさ》まろか  それ|計《ばつか》りが|気《き》にかかる
ウントコドツコイドツコイシヨ  |国魂神《くにたまがみ》の|純世姫《すみよひめ》
|金勝要《きんかつかね》の|大神《おほかみ》の  |御守護《ごしゆご》を|願《ねが》ひ|奉《たてまつ》る
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |御霊《みたま》|幸倍《さちはへ》ましませよ』
と|謡《うた》ひながら|建日《たけひ》の|館《やかた》をさして|進《すす》み|行《ゆ》く。
(大正一一・九・一三 旧七・二二 加藤明子録)
第一四章 |落胆《らくたん》〔九五五〕
|此処《ここ》は|建国別《たけくにわけ》の|神館《かむやかた》の|表門前《おもてもんまへ》、|玉公《たまこう》は|門番《もんばん》の|幾公《いくこう》に|臨時代理《りんじだいり》を|頼《たの》まれ、ツクネンとして|門扉《もんぴ》を|閉《と》ぢ、|借《か》つて|来《き》た|狆《ちん》の|様《やう》におとなしく、|門番部屋《もんばんべや》の|縁側《えんがは》に|腰《こし》をかけ、|両手《りやうて》を|膝《ひざ》の|上《うへ》にチンと|置《お》いて、コクリコクリと|居眠《ゐねむ》つて|居《ゐ》る。
|門《もん》の|外《そと》から|虎公《とらこう》の|声《こゑ》、
|虎公《とらこう》『|頼《たの》まう|頼《たの》まう』
|此《この》|声《こゑ》に|玉公《たまこう》は|目《め》を|醒《さ》まし、
|玉公《たまこう》『|誰《たれ》だい、|大《おほ》きな|声《こゑ》で|呶鳴《どな》る|奴《やつ》ア。|此処《ここ》は|建国別《たけくにわけ》|様《さま》の|神館《かむやかた》の|表門《おもてもん》だぞ。チツと|謹慎《きんしん》の|意《い》を|表《へう》せぬかい。|何処《どこ》の|誰《たれ》だか|知《し》らぬが|戸《と》をドンドンと|叩《たた》きやがつて、ド|拍子《べうし》の|抜《ぬ》けた|声《こゑ》を|出《だ》しやがるのだ』
と|呶鳴《どな》り|返《かへ》した。
|虎公《とらこう》『オイ、|幾《いく》の|門番《もんばん》、|誰《たれ》でも|無《な》い、|虎公《とらこう》だ。|摩利支天《まりしてん》でも|突《つ》き|倒《こか》すと|云《い》ふ|漆山《うるしやま》と|云《い》ふ|大相撲取《おほずもうとり》を|連《つ》れて|来《き》たのだ。|愚図々々《ぐづぐづ》|吐《ぬか》して|門《もん》を|開《あ》けぬと|云《い》ふと、|漆山《うるしやま》の|拳骨《げんこつ》で|叩《たた》き|割《わ》つて|這入《はい》つてやらうか』
|玉公《たまこう》『|其《その》|声《こゑ》は|侠客《けふかく》の|虎公《とらこう》だないか。チツと|静《しづか》にせぬかい。|漆山《うるしやま》なんて、そんな|嫌《いや》らしい|名《な》の|相撲取《すもうとり》を|何《なん》の|為《た》めに|連《つ》れて|来《き》たのだ。|此《この》お|館《やかた》は|少《すこ》し|大変《たいへん》なお|目出度《めでた》い|事《こと》が|起《おこ》つて、ヤツサモツサの|最中《さいちう》だ。|暫《しばら》く|其処辺《そこら》に|控《ひか》へて|居《を》れ。|御主人《ごしゆじん》の|方《はう》からお|許《ゆる》しが|下《さが》つたら|貴様《きさま》の|方《はう》が|開《あ》けなくても|此方《こちら》から|開《あ》けてやらア』
|虎公《とらこう》『さう|言《い》ふ|声《こゑ》は|玉公《たまこう》ぢや|無《な》いか』
|玉公《たまこう》『|俺《おれ》は|幾公《いくこう》の|門番《もんばん》に|頼《たの》まれたので、|臨時《りんじ》|門番《もんばん》を|勤《つと》めて|居《ゐ》るのだ。|此《この》|門《もん》を|開閉《かいへい》するのは|玉公《たまこう》の|権限《けんげん》にあるのだから、まア|暫《しばら》く|其処《そこ》に|立《た》つて|待《ま》つて|居《を》らうよ』
|虎公《とらこう》『|黒姫《くろひめ》さまのお|伴《とも》の|奴《やつ》を、たつた|二匹《にひき》|連《つ》れて|来《き》たのだから、|待《ま》つと|云《い》ふ|訳《わけ》にはゆかぬわい』
|房公《ふさこう》『オイ|虎公《とらこう》、|二匹《にひき》とはチツとひどいぢやないか。あまり|馬鹿《ばか》にすない』
|虎公《とらこう》『|何《なに》|馬鹿《ばか》にするものか。|男《をとこ》の|中《なか》の|男《をとこ》|一匹《いつぴき》と|云《い》ふ|奴《やつ》が、|両人《りやうにん》|来《き》て|居《ゐ》るじやないか。それだから|二匹《にひき》と|云《い》つたのだよ』
|房公《ふさこう》『アハヽヽヽうまい|事《こと》|宣《の》り|直《なほ》しやがつたな。ヨシこれから|俺達《おれたち》を|一匹《いつぴき》|二匹《にひき》と|呼《よ》んでくれ。|本当《ほんたう》に|光栄《くわうえい》だ。|由縁《いはれ》を|聞《き》けば|何《なん》となく|有難《ありがた》いわ。|然《しか》し|乍《なが》ら|執拗《しつかう》|言《い》ふと|腹《はら》が|立《た》つと|云《い》ふ|事《こと》があらう。あまり|沢山《たくさん》|一匹《いつぴき》|二匹《にひき》と|言《い》うてくれなよ。|時所位《じしよゐ》に|応《おう》じて|云《い》うてくれよ』
|玉公《たまこう》は|門内《もんない》より|此《この》|話《はなし》を|聞《き》きはつり、
|玉公《たまこう》『オイ|虎公《とらこう》、|虎《とら》が|一匹《いつぴき》|来《き》て|居《ゐ》る|事《こと》は|分《わか》つて|居《を》るが、|其《その》|外《ほか》に|猫《ねこ》でも|連《つ》れて|来《き》たのか』
|虎公《とらこう》『|八釜《やかま》しう|云《い》ふない。|早《はや》く|開《あ》けぬか』
|玉公《たまこう》『エー、|仕方《しかた》の|無《な》い|奴《やつ》だなア。そんならドツと|張《は》り|込《こ》んで、|今日《けふ》|丈《だけ》は|治外法権《ちぐわいはふけん》だ。|開《あ》けてやらう』
と|言《い》ひ|乍《なが》らサツと|白木《しらき》の|門《もん》を|左右《さいう》に|開《ひら》いた。
|玉公《たまこう》『ヤア|虎公《とらこう》ばかりかと|思《おも》へば、|猫《ねこ》も|牛《うし》も|鼠《ねずみ》も|来《き》て|居《を》るのだな。そして|其処《そこ》に|居《ゐ》る|奴《やつ》は|一体《いつたい》|何《なん》だい、|怪体《けたい》な|面《つら》をした|奴《やつ》だなア。アハヽヽヽ|丁度《ちやうど》|六匹《ろつぴき》だなア』
|虎公《とらこう》『さうだ|六匹《ろつぴき》だ。|早《はや》く|奥《おく》へ|案内《あんない》|致《いた》せ。|虎転別《とらてんわけ》|様《さま》の|御入《おい》りだ』
|玉公《たまこう》『|何《なに》を|吐《ぬか》しやがるのだい。|虎《とら》、|転《てん》と|別《わけ》が|分《わか》らぬわい。|大方《おほかた》|鼬貂別《いたちてんわけ》|位《くらゐ》のものだらう。アハヽヽヽ』
と、|腹《はら》を|抱《かか》へ|腰《こし》を|揺《ゆす》つて|見《み》せる。
|虎公《とらこう》『そのスタイルは|何《なん》だ。みつともないぞ』
|塀《へい》を|隔《へだ》てた|次《つぎ》の|屋敷《やしき》|所謂《いはゆる》|上館《かみやかた》の|広庭《ひろには》には、|数多《あまた》の|老若男女《らうにやくなんによ》のワイワイと|悦《よろこ》び|騒《さわ》ぎ|踊《をど》り|狂《くる》ふ|声《こゑ》が|聞《きこ》えて|来《く》る。
|虎公《とらこう》『オイ|玉公《たまこう》、あの|声《こゑ》は|一体《いつたい》|何《なん》だ』
|玉公《たまこう》『あれかい、ありや|貴様《きさま》、|俺《おれ》が|送《おく》つて|来《き》た|黒姫《くろひめ》さまと|親子《おやこ》の|対面《たいめん》が|出来《でき》たので、あゝワイワイ|騒《さわ》いで|居《を》るのだ。|貴様《きさま》らは|皆《みな》の|奴《やつ》が|酒《さけ》を|喰《くら》つて|踊《をど》つて|居《を》るのを|神妙《しんめう》に|聞《き》いて|居《ゐ》るのだよ。|万一《まんいち》|彼奴等《あいつら》が|喧嘩《けんくわ》でもオツ|初《ぱじ》めよつたら、|喧嘩《けんくわ》の|仲裁《ちうさい》をするのだ。|此《この》|頃《ごろ》はあまり|喧嘩《けんくわ》が|無《な》いので、|侠客《けふかく》として|張合《はりあひ》が|脱《ぬ》けただらう。|屹度《きつと》|喧嘩《けんくわ》があの|調子《てうし》では|突発《とつぱつ》するだらうから、|貴様《きさま》の|売出《うりだ》す|時機《じき》が|来《き》たのだ』
|虎公《とらこう》『そいつは|面白《おもしろ》い。|早《はや》く|喧嘩《けんくわ》がオツ|初《ぱじ》まらぬかいなア』
|房公《ふさこう》『モシモシ|門番《もんばん》さま、|本当《ほんたう》に|親子《おやこ》の|対面《たいめん》が|出来《でき》たのですか』
|玉公《たまこう》『サア、シツカリした|事《こと》は|分《わか》らないが、あの|嬉《うれ》し|相《さう》な|声《こゑ》から|聞《き》くと|屹度《きつと》|目出度《めでた》いに|違《ちが》ひない。テツキリ|最前《さいぜん》|来《き》た|黒姫《くろひめ》と|云《い》ふ|婆《ばあ》さまは、|此処《ここ》の|大将《たいしやう》のお|母《かあ》さまらしいわい』
|房公《ふさこう》『ヤアそりや|有難《ありがた》い。これで|俺《おれ》も|肩《かた》の|荷《に》が|下《お》りたやうだ。ナア|芳公《よしこう》、|嬉《うれ》しいぢやないか』
|芳公《よしこう》『|俺《おれ》は|何《なん》だか|知《し》らぬが、あんまり|嬉《うれ》しうないわ。も|一《ひと》つ|何処《どこ》やらに|物足《ものた》らぬ|心持《こころもち》がしてならない。そう|御註文《ごちゆうもん》|通《どほ》りうまく|行《い》つたか|知《し》らぬがなア』
|房公《ふさこう》『あゝそれでもあの|通《とほ》り|嬉《うれ》しさうに|大勢《おほぜい》が|騒《さわ》いで|居《を》るぢやないか』
|芳公《よしこう》『さあ、それもさうだなア』
|虎公《とらこう》『|今日《けふ》は|建国別《たけくにわけ》|様《さま》が|此《この》お|館《やかた》へ|御養子《ごやうし》にお|入来《いで》|遊《あそ》ばした|満一周年《まんいつしうねん》のお|祝《いはひ》だから、それで|皆《みな》の|奴《やつ》が|祝酒《いはひざけ》に|喰《くら》ひ|酔《よ》うて|騒《さわ》いで|居《ゐ》るのだらうよ。そこへ|黒姫《くろひめ》さまが|其《その》|大将《たいしやう》の|母親《ははおや》だつたら、それこそ|大《たい》したものだ、|地異天変《ちいてんぺん》の|大騒動《おほさうどう》だ。|否《いや》|大祝《おほいはひ》だ。ナア|玉公《たまこう》、お|前《まへ》は|如何《どう》|思《おも》ふか』
|虎公《とらこう》は|隔《へだ》ての|塀《へい》の|小《ちひ》さき|武者窓《むしやまど》から|背伸《せの》びをし|乍《なが》ら、|上館《かみやかた》の|庭前《ていぜん》の|酒宴《しゆえん》の|席《せき》を|一寸《ちよつと》|眺《なが》め、
|虎公《とらこう》『エー|何奴《どいつ》も|此奴《こいつ》も|行儀《げうぎ》の|悪《わる》い|奴《やつ》ばつかりだ。|真裸《まつぱだか》になつて|酒《さけ》に|酔《よ》うて|無礼講《ぶれいかう》を|遺憾《ゐかん》なくやつて|居《ゐ》やがる。|俺《おれ》も|俄《にはか》に|何《なん》だか|酒《さけ》を|飲《の》みたくなつて|来《き》た。|此処《ここ》の|奴《やつ》は|気《き》の|利《き》かぬ|奴《やつ》ばつかりだな。|虎公《とらこう》が|来《き》て|御座《ござ》るのに|徳利《とくり》|一《ひと》つ|下《さ》げて|来《く》る|奴《やつ》は|無《な》いと|見《み》えるわい。ウン、|此処《ここ》に|無花果《いちじゆく》が|沢山《たくさん》になつて|居《ゐ》る。|之《これ》を【むし】つて|宴会《えんくわい》の|席《せき》に|放《ほ》かしてやらう。|随分《ずゐぶん》|面白《おもしろ》うなるだらう』
と|独言《ひとりごと》|云《い》ひ|乍《なが》ら、|三四十《さんしじふ》|許《ばか》り【むし】つては|高塀《たかへい》|越《ご》しに|投《な》げつける。|数多《あまた》の|泥酔者《よひどれ》は|垣《かき》の|外《そと》から、|虎公《とらこう》が|斯《こ》んな|悪戯《いたづら》をして|居《ゐ》るとは|夢《ゆめ》にも|知《し》らずに、
|甲《かふ》『ヤイコラ、|馬鹿《ばか》にするない。|俺《おれ》の|頭《あたま》に|無花果《いちじゆく》をカツつけやがつたのは|貴様《きさま》だらう』
|乙《おつ》『|何《なに》を|吐《ぬか》しやがるのだ。|最前《さいぜん》から|俺《おれ》が|黙《だま》つて|居《を》れば|俺《おれ》の|脳天《なうてん》へブツつけやがつて|俺《おれ》があてたなんて、|能《よ》うそんな|事《こと》が|言《い》へたものだ。|何《なん》と|言《い》つても|貴様《きさま》は|俺《おれ》に|喧嘩《けんくわ》を|買《か》ふ|積《つも》りだなア。よし|斯《こ》う|見《み》えても|俺《おれ》は|虎公《とらこう》の|一《いち》の|乾児《こぶん》だぞ。|熊公《くまこう》の|腕《うで》を|見《み》せてやらうか』
と|言《い》ひ|乍《なが》ら、|徳利《とくり》を|振《ふ》り|上《あ》げて|縦横無尽《じうわうむじん》に|振《ふ》り|廻《まは》す|其《その》|権幕《けんまく》に、|一同《いちどう》の|老若男女《らうにやくなんによ》は『キヤツキヤツ』と|悲鳴《ひめい》をあげて|前後左右《ぜんごさいう》に|逃《に》げ|廻《まは》る。|熊公《くまこう》は|酒《さけ》の|勢《いきほひ》に|乗《じやう》じて|手当《てあた》り|次第《しだい》、|鉢《はち》を|投《な》げる、|徳利《とくり》を|振《ふ》り|廻《まは》す、ガチヤンガチヤン ドタンバタンの|乱痴気《らんちき》|騒《さわ》ぎが|塀《へい》の|外《そと》|迄《まで》|手《て》にとる|如《ごと》く|聞《きこ》えて|来《き》た。|虎公《とらこう》は|自分《じぶん》の|乾児《こぶん》の|熊公《くまこう》が|乱暴《らんばう》と|見《み》てとり、|矢庭《やには》に|高塀《たかへい》に|両手《りやうて》を|掛《か》け、モンドリ|打《う》つて|園内《えんない》に|飛《と》び|込《こ》み、
|虎公《とらこう》『こりやこりや、|待《ま》て、|熊公《くまこう》の|奴《やつ》、|何《なに》|乱暴《らんばう》をするか』
|熊公《くまこう》はヘベレケに|酔《よ》うて、|目《め》も|碌《ろく》に|見《み》えなくなつて|居《ゐ》た。
|熊公《くまこう》『ナヽヽヽ|何《なん》だ。|俺《おれ》を|誰《たれ》だと|思《おも》つて|居《ゐ》るのだ。|武野《たけの》の|村《むら》に|隠《かく》れなき|大侠客《だいけふかく》、|虎公《とらこう》さまを|親分《おやぶん》に|持《も》つ|熊公《くまこう》だぞ。|愚図々々《ぐづぐづ》|吐《ぬか》すと|何方《どいつ》も|此奴《こいつ》も|生首《なまくび》|引《ひ》き|抜《ぬ》いてやらうかい。ヘン、|馬鹿野郎《ばかやらう》|奴《め》、|何《なに》を|熊《くま》さまのする|事《こと》に|横鎗《よこやり》を|入《い》れやがるのだ。|糞面白《くそおもしろ》くも|無《ね》えや。ゲヽヽヽヽガラガラガラ ウワツプツプツプツ』
|虎公《とらこう》は|矢庭《やには》に|熊公《くまこう》の|横面《よこづら》を、|首《くび》も|飛《と》べよとばかり|平手《ひらて》でピシヤツと|殴《なぐ》りつけた。|熊公《くまこう》は|不意《ふい》を|喰《くら》つてヒヨロヒヨロと|五歩六歩《いつあしむあし》|後《あと》に|下《さが》つてドスンと|仰向《あふむ》けに|倒《たふ》れて|了《しま》つた。
|虎公《とらこう》『オイ|熊《くま》、しつかりせぬかい。|斯《こ》んな|目出度《めでた》い|席上《せきじやう》で|何《なに》|乱暴《らんばう》するのだい』
|熊公《くまこう》『こりやアこりやア|親方《おやかた》で|御座《ござ》いましたか、|誠《まこと》に|済《す》みませぬ。こない|暴《あば》れるのぢや|無《な》かつたけれど、|八公《はちこう》の|奴《やつ》、|失礼《しつれい》な、|熊《くま》さまの|頭《あたま》へ|無花果《いちじゆく》をカツつけやがつたものだから……|俺《おれ》の|頭《あたま》は|虎公《とらこう》の|息《いき》がかかつた|頭《あたま》だ。|貴様《きさま》のやうな|奴《やつ》に|殴《なぐ》られて|黙《だま》つて|居《を》つては|親分《おやぶん》の|面汚《つらよご》しだから、|腹《はら》が|立《た》つて|立《た》つて|腸《はらわた》がニヽヽヽ|煮《に》え|繰返《くりかへ》つて、|思《おも》はず|知《し》らず|酪酊《めいてい》して|斯《こ》んな|乱暴《らんばう》をやりました。なア|親方《おやかた》、|右《みぎ》の|様《やう》な|次第《しだい》でげえすから|何卒《どうぞ》|燗酒《かんざけ》に|見直《みなほ》して|下《くだ》さい。ゲープーあゝえらいえらいひどい|事《こと》、|酒《さけ》に|悪酔《わるよ》ひして|了《しま》つた。|何《なに》しろ|安価《やす》い|酒《さけ》を|飲《の》ましやがるものだから、|薩張《さつぱり》|腸《はらわた》も|何《なに》も|台無《だいな》しにして|了《しま》つた』
|虎公《とらこう》『|皆《みな》さま、|何卒《どうぞ》|元《もと》のお|席《せき》にお|着《つ》き|下《くだ》さいませ。|熊公《くまこう》の|奴《やつ》、|酒《さけ》に|喰《くら》ひ|酔《よ》ひ|乱暴《らんばう》|致《いた》しまして|誠《まこと》に|済《す》みませぬ。|私《わたし》が|代《かは》はつてお|詫《わび》|致《いた》します』
|此《この》|声《こゑ》に|一同《いちどう》はヤツと|安心《あんしん》したものの|如《ごと》く|元《もと》の|座《ざ》に|着《つ》いた。|虎公《とらこう》は|熊公《くまこう》を|引抱《ひつかか》へ、|上館《かみやかた》の|表門《おもてもん》から|迂回《うくわい》して|門口《もんぐち》へ|連《つ》れて|来《き》た。|此《この》|時《とき》|婢女《はしため》のお|種《たね》と|云《い》ふ|女《をんな》、|門口《かどぐち》の|騒《さわ》がしさに|不審《ふしん》を|起《おこ》し、|慌《あわただ》しく|襷《たすき》の|儘《まま》|馳来《はせきた》り、
お|種《たね》『まアまアこれは|虎公《とらこう》さまで|御座《ござ》いますか。|能《よ》う|来《き》て|下《くだ》さいました。|何卒《どうぞ》まア、お|這入《はい》り|下《くだ》さいまし』
|虎公《とらこう》『いえいえ、|御主人《ごしゆじん》のお|許《ゆる》しある|迄《まで》は|此処《ここ》に|控《ひか》へて|居《を》りませう。|然《しか》し|此処《ここ》に|黒姫《くろひめ》さまと|言《い》ふ|方《かた》が|見《み》えて|居《ゐ》る|筈《はず》だ。|其《その》|黒姫《くろひめ》さまのお|伴《とも》の|芳公《よしこう》、|房公《ふさこう》と|云《い》ふ|二人《ふたり》の|者《もの》が|門口《かどぐち》に|待《ま》つて|居《ゐ》ると|云《い》ふ|事《こと》を、|一寸《ちよつと》|奥《おく》へ|知《し》らして|下《くだ》さい』
お|種《たね》『|武野村《たけのむら》の|親分《おやぶん》|虎公《とらこう》さま、|確《たしか》に|申《まを》し|上《あ》げます。|何卒《どうぞ》|待《ま》つて|居《ゐ》て|下《くだ》さい』
と|足軽《あしがる》に|中門《なかもん》の|中《なか》へ|姿《すがた》を|隠《かく》して|仕舞《しま》つた。
|暫《しばら》くすると|黒姫《くろひめ》は|建国別《たけくにわけ》、|建能姫《たけのひめ》、|建彦《たけひこ》、|幾公《いくこう》に|送《おく》られ、|中門《なかもん》をサツと|開《ひら》いて|此《この》|場《ば》に|徐々《しづしづ》とやつて|来《き》た。
|虎公《とらこう》『ヤアこれはこれは|建国別《たけくにわけ》|様《さま》、|建能姫《たけのひめ》|様《さま》、|黒姫《くろひめ》|様《さま》を【いかい】お|世話《せわ》で|御座《ござ》いましたらう。|如何《どう》で|御座《ござ》いましたな、|御因縁《ごいんねん》の|解決《かいけつ》がつきましたか』
|建国別《たけくにわけ》『ア、|貴方《あなた》は|虎公《とらこう》の|親分《おやぶん》さま、|能《よ》う|来《き》て|下《くだ》さいました。さア|何卒《どうぞ》|奥《おく》へお|這入《はい》り|下《くだ》さいませ。|此処《ここ》は|門《もん》の|前《まへ》、|今日《けふ》は|幸《さいは》ひ|私《わたくし》が|此処《ここ》に|参《まゐ》つた|一周年《いつしうねん》の|祝《いはひ》、|何卒《どうぞ》|皆《みな》さま、|何《なに》もありませぬがお|酒《さけ》なつと|飲《あが》つて|下《くだ》さいませ』
|虎公《とらこう》『ハイ|有難《ありがた》う|御座《ござ》います。|乍併《しかしながら》|此処《ここ》に|黒姫《くろひめ》|様《さま》のお|伴《とも》をして|参《まゐ》つた|房《ふさ》、|芳《よし》の|両人《りやうにん》が|見《み》えて|居《を》ります。そして|黒姫《くろひめ》|様《さま》は|貴方《あなた》の|御縁類《ごえんるゐ》の|方《かた》ではありませぬでしたかな』
|建国別《たけくにわけ》『はい、|全《まつた》く|違《ちが》ひました』
|虎公《とらこう》『それはそれは|残念《ざんねん》な|事《こと》で|御座《ござ》います。オイ|房公《ふさこう》、|芳公《よしこう》、|薩張《さつぱり》|駄目《だめ》だ、|観念《かんねん》せい。もう|斯《こ》うなりや|仕方《しかた》がないわ。|矢張《やつぱり》|火《ひ》の|国都《くにみやこ》|迄《まで》お|伴《とも》して|高山彦《たかやまひこ》、|黒姫《くろひめ》の|戦争《せんそう》を|観戦《くわんせん》するより|道《みち》はないわ』
|房公《ふさこう》『|私《わたし》は|黒姫《くろひめ》の|従者《じゆうしや》|房公《ふさこう》、|芳公《よしこう》と|申《まを》す|者《もの》で|御座《ござ》います。|黒姫《くろひめ》|様《さま》が|永《なが》らくお|邪魔《じやま》しましてお|忙《いそが》しい|中《なか》を|誠《まこと》に|済《す》みませぬ』
|建国別《たけくにわけ》『いえいえ|如何《どう》|致《いた》しまして……|黒姫《くろひめ》|様《さま》が|御親切《ごしんせつ》に|御訪問《ごはうもん》|下《くだ》さいまして|吾々《われわれ》|夫婦《ふうふ》の|者《もの》は|感涙《かんるゐ》に|咽《むせ》んで|居《を》ります。|何卒《どうぞ》そんな|事《こと》|言《い》はずに|奥《おく》へお|這入《はい》り|下《くだ》さつて、お|酒《さけ》でも|一《ひと》つお|飲《あが》りなさつて|下《くだ》さいませ』
|虎公《とらこう》『オイ|房公《ふさこう》、|芳公《よしこう》あの|通《とほ》り|親切《しんせつ》に|仰有《おつしや》るのだから、|折角《せつかく》のお|志《こころざし》だ、|無《む》にするのも|済《す》まないから|一杯《いつぱい》よばれて|来《こ》ようぢやないか』
|房公《ふさこう》『さうだ。|一杯《いつぱい》|頂戴《ちやうだい》したいものだね……なア|芳公《よしこう》、|貴様《きさま》もあまり|下戸《げこ》でもあるまい、|一《ひと》つ|御馳走《ごちそう》にならうか』
|建能姫《たけのひめ》『|何卒《どうぞ》|皆《みな》さま|揃《そろ》うて|奥《おく》へお|這入《はい》り|下《くだ》さいませ。|差上《さしあ》げる|物《もの》とては|別《べつ》に|何《なに》も|御座《ござ》いませぬが、お|酒《さけ》が|沢山《たくさん》に|用意《ようい》してありますから、|早《はや》く|此方《こちら》へお|這入《はい》り|下《くだ》さいませ。サア|吾《わが》|夫様《つまさま》、|奥《おく》へ|参《まゐ》りませう。|黒姫《くろひめ》|様《さま》も|余《あま》りお|急《いそ》ぎでなくば、お|伴《とも》の|方《かた》と|一緒《いつしよ》に|奥《おく》の|方《はう》へ|引返《ひきかへ》して|下《くだ》さつたら|如何《どう》でせうか』
|黒姫《くろひめ》『ハイ、|御親切《ごしんせつ》は|有難《ありがた》う|御座《ござ》いますが、|妾《わたし》は|何《なん》となく|心《こころ》が|急《せ》きますから|是《これ》で|御免《ごめん》を|蒙《かうむ》ります。|御縁《ごえん》が|御座《ござ》いますれば|又《また》お|目《め》にかかりませう』
|建国別《たけくにわけ》『|何卒《どうぞ》、|先生《せんせい》にお|会《あ》ひになりましたら、|吾々《われわれ》|夫婦《ふうふ》の|者《もの》が|宜《よろ》しく|申《まを》して|居《を》つたとお|伝《つた》へ|下《くだ》さいませ。|実《じつ》の|処《ところ》を|言《い》へば、|吾々《われわれ》|夫婦《ふうふ》は|貴女《あなた》を|火《ひ》の|国《くに》|迄《まで》お|送《おく》り|申上《まをしあ》げるのが|本意《ほんい》ですが、|御存《ごぞん》じの|通《とほ》り|今日《けふ》は|斯様《かやう》の|次第《しだい》ですから|失礼《しつれい》を|致《いた》します。せめて|二三日《にさんにち》|御逗留《ごとうりう》|下《くだ》さいますれば、|吾々《われわれ》|夫婦《ふうふ》の|者《もの》が|御送《おおく》り|申上《まをしあ》げるのですが、|余《あま》り|貴女《あなた》がお|急《せ》き|遊《あそ》ばすから|致方《いたしかた》ありませぬ。|御無礼《ごぶれい》の|段《だん》|何卒《なにとぞ》|御許《おゆる》し|下《くだ》さいませ』
|黒姫《くろひめ》『ハイ|有難《ありがた》う。|永々《ながなが》|御世話《おせわ》になりました。|房公《ふさこう》、|芳公《よしこう》、|二人《ふたり》はゆつくりお|酒《さけ》なつと|頂戴《ちやうだい》して|何処《どこ》なつと|行《ゆ》きなさい』
と|稍《やや》|捨鉢気味《すてばちぎみ》になつて|夫婦《ふうふ》に|目礼《もくれい》し、サツサと|足早《あしばや》に|門前《もんぜん》の|小径《こみち》を|帰《かへ》り|行《ゆ》く。|玉公《たまこう》|外《ほか》|三人《さんにん》は|館《やかた》の|番頭役《ばんとうやく》たる|建彦《たけひこ》や|幾公《いくこう》に|勧《すす》められ、|奥《おく》の|間《ま》|指《さ》して|進《すす》んで|行《ゆ》く。
|後《あと》に|残《のこ》つた|房公《ふさこう》、|芳公《よしこう》の|両人《りやうにん》|互《たがひ》に|顔《かほ》を|見合《みあは》せ|舌《した》を|噛《か》み|稍《やや》|首《くび》を|傾《かたむ》けて|呆《あき》れ|顔《がほ》……。
|房公《ふさこう》『オイ|芳公《よしこう》、|如何《どう》しよう。|酒《さけ》も|呑《の》み|度《た》いが、|黒姫《くろひめ》さまのあの|気色《けしき》では、|目算《もくさん》が|外《はづ》れ、|落胆《らくたん》の|余《あま》り|谷川《たにがは》へ|身《み》を|投《な》げて|死《し》ぬ|様《やう》な|勢《いきほひ》だつたよ。|愚図々々《ぐづぐづ》しては|居《を》られない。サア|之《これ》から|後《あと》を|追駆《おつかけ》て|黒姫《くろひめ》さまの|身《み》の|過《あやま》ちの|無《な》い|様《やう》に|行《ゆ》かうぢや|無《な》いか』
|芳公《よしこう》『おい、さうだ。お|前《まへ》の|言《い》ふ|通《とほ》り|愚図々々《ぐづぐづ》しては|居《を》られない。サア|行《ゆ》かう』
と|両人《りやうにん》は|捩鉢巻《ねぢはちまき》をグツと|締《し》め、|尻端折《しりはしを》つて|元《もと》|来《き》た|道《みち》をトントンと|地響《ぢひび》きさせ|乍《なが》ら、|黒姫《くろひめ》の|後《あと》を|探《たづ》ねて|走《はし》り|行《ゆ》く。
(大正一一・九・一三 旧七・二二 北村隆光録)
第一五章 |手長猿《てながざる》〔九五六〕
|建日《たけひ》の|館《やかた》を|訪《たづ》ねたる  |三五教《あななひけう》の|黒姫《くろひめ》は
|建国別《たけくにわけ》を|真実《ほんたう》の  |生《う》みの|吾《わが》|子《こ》と|思《おも》ひつめ
はるばる|訪《たづ》ねて|来《き》たものを  |案《あん》に|相違《さうゐ》の|悲《かな》しさに
|早々《さうさう》|館《やかた》を|立出《たちい》でて  |二人《ふたり》の|従者《じゆうしや》を|見捨《みす》てつつ
|髪《かみ》ふり|紊《みだ》し|吹《ふ》く|風《かぜ》に  |逆《さか》らひ|乍《なが》ら|坂路《さかみち》を
|足《あし》に|任《まか》せて|降《くだ》り|行《ゆ》く  たよりも|力《ちから》も|抜《ぬ》け|果《は》てし
|此《この》|黒姫《くろひめ》の|心根《こころね》は  |聞《き》くも|無残《むざん》の|次第《しだい》なり
|万里《ばんり》の|波濤《はたう》を|乗越《のりこ》えて  こがれ|慕《した》うたハズバンド
|高山彦《たかやまひこ》は|火《ひ》の|国《くに》の  |神《かみ》の|館《やかた》にましまして
|花《はな》を|欺《あざむ》く|愛子姫《あいこひめ》  |二度目《にどめ》の|女房《にようばう》に|持《も》ち|給《たま》ひ
|睦《むつ》まじさうに|日《ひ》を|送《おく》り  |栄《さか》え|玉《たま》ふと|聞《き》くよりも
|黒姫《くろひめ》|心《こころ》も|何《なん》となく  |面白《おもしろ》からずなり|果《は》てて
|行《ゆ》く|足並《あしなみ》もトボトボと  |力《ちから》なげにぞ|見《み》えにける。
『あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |御霊《みたま》|幸《さち》はひましまして
|火《ひ》の|国都《くにみやこ》にましませる  |高山彦《たかやまひこ》に|巡《めぐ》り|会《あ》ひ
|愛子《あいこ》の|姫《ひめ》と|睦《むつ》まじく  |心《こころ》の|底《そこ》より|打《うち》あけて
|互《たがひ》に|手《て》を|取《と》り|三五《あななひ》の  |神《かみ》の|教《をしへ》を|広《ひろ》めさせ
|救《すく》はせ|玉《たま》へ|惟神《かむながら》  |純世《すみよ》の|姫《ひめ》の|御前《おんまへ》に
|願《ねが》ひまつる』と|宣《の》り|乍《なが》ら  |岩石《がんせき》|崎嶇《きく》たる|峻坂《しゆんぱん》を
トントントンと|降《くだ》り|行《ゆ》く  あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ。
|黒姫《くろひめ》の|駆出《かけだ》した|姿《すがた》を|見失《みうしな》はじと、|房公《ふさこう》、|芳公《よしこう》の|両人《りやうにん》は、|九十九曲《つくもまが》りの|山路《やまみち》を|伝《つた》ひ|乍《なが》ら、|足拍子《あしびやうし》を|取《と》つて|唄《うた》ひ|行《ゆ》く。
|芳公《よしこう》『ウントコドツコイドツコイシヨ  |天《てん》が|地《ち》となりウントコシヨ
|地《ち》が|天《てん》となるウントコシヨ  |奇妙《きめう》な|事《こと》が|出来《でき》て|来《き》た
|高山彦《たかやまひこ》の|老爺《おぢい》さまが  |年《とし》の|三十《さんじふ》も|違《ちが》ふよな
|若《わか》い|女房《にようばう》を|貰《もら》ふやら  |五十《ごじふ》の|尻《しり》を|作《つく》つたる
|皺苦茶婆《しわくちやば》さまの|黒姫《くろひめ》が  |万里《ばんり》の|波《なみ》を|乗越《のりこ》えて
ウントコドツコイ|暑《あつ》いのに  |汗《あせ》をタラタラ|流《なが》しつつ
|薄情爺《はくじやうおやぢ》の|後《あと》をつけ  |心《こころ》の|丈《たけ》を|口説《くど》かむと
ウントコドツコイやつて|来《く》る  コリヤ|又《また》|何《なん》としたことだ
|愛子《あいこ》の|姫《ひめ》もウントコシヨ  |愛子《あいこ》の|姫《ひめ》ではないかいな
ウントコドツコイ|棺桶《くわんをけ》に  |片足《かたあし》ドツコイつつ|込《こ》んだ
|此《この》|世《よ》に|用《よう》のない|爺《おやぢ》  |薬鑵頭《やかんあたま》の|寿老面《げほうづら》
|入日《いりひ》の|影《かげ》かドツコイシヨ  |物干棹《ものほしざを》かと|云《い》ふやうな
|鰌《どぢやう》の|様《やう》な|化物《ばけもの》に  |秋波《しうは》を|送《おく》つて|吾《わが》|夫《つま》と
かしづき|仕《つか》へる|不思議《ふしぎ》さよ  |男《をとこ》が|不自由《ふじゆう》な|世《よ》の|中《なか》と
どうして|思《おも》うたか|知《し》らないが  あんな|爺《おやぢ》と|添《そ》ふならば
モツト|立派《りつぱ》な|人《ひと》がある  |此《この》|芳公《よしこう》はウントコシヨ
|如何《いか》に|汚《きた》ない|男《をとこ》でも  |年《とし》は|若《わか》いしドツコイシヨ
そこらあたりに|艶《つや》がある  |同《おな》じ|男《をとこ》を|持《も》つなれば
|木乃伊《みいら》の|様《やう》に|干《ひ》すぼつた  |骨《ほね》と|皮《かは》とのがり|坊子《ばうし》を
|持《も》たいでも|良《よ》かりそなものぢやのに  |私《わたし》は|呆《あき》れてウントコシヨ
|口《くち》が|利《き》けなくなつて|来《き》た  ウントコドツコイ|危《あぶ》ないぞ
それそれそこに|石《いし》がある  |草鞋《わらぢ》を|切《き》つては|堪《たま》らない
ま|一人《ひとり》|虎公《とらこう》が|居《を》つたなら  |草鞋《わらぢ》を|出《だ》して|呉《く》れようが
|生憎《あひにく》|虎公《とらこう》は|酒《さけ》の|席《せき》  あゝ|是《これ》からは|黒姫《くろひめ》が
|火《ひ》の|国都《くにみやこ》へドツコイシヨ  |乗込《のりこ》んだなら|大変《たいへん》だ
|決《けつ》して|無事《ぶじ》にはウントコシヨ  |治《をさ》まるまいぞ、のう|房公《ふさこう》
|俺《おれ》は|案《あん》じて|仕様《しやう》がない  サアサア|早《はや》う|行《ゆ》かうかい
|女心《をんなごころ》の|一筋《ひとすぢ》に  |悔《くや》し|残念《ざんねん》つきつめて
|短気《たんき》を|出《だ》して|谷底《たにぞこ》へ  |身投《みな》げをドツコイしられたら
|聖地《せいち》へ|帰《かへ》つて|言訳《いひわけ》が  どうして|是《これ》が|立《た》つものか
|黒姫《くろひめ》さまも|黒姫《くろひめ》ぢや  おい|等《ら》|二人《ふたり》を|振棄《ふりす》てて
|走《はし》つて|行《ゆ》くとは|何事《なにごと》ぞ  |孫公《まごこう》の|奴《やつ》はドツコイシヨ
どこへ|隠《かく》れて|居《を》るだろか  |此奴《こいつ》の|事《こと》も|気《き》にかかる
あちら|此方《こちら》に|気《き》を|取《と》られ  |頭《あたま》の|揉《も》めた|事《こと》ぢやワイ
ウントコドツコイ|危《あぶ》ないぞ  それそれそこにも|石車《いしぐるま》
|爪先《つまさき》|用心《ようじん》して|来《こ》いよ  |若《も》しも|辷《すべ》つて|怪我《けが》したら
お|嬶《かか》のお|鉄《てつ》にドツコイシヨ  どしても|言訳《いひわけ》|立《た》たないぞ
|自転倒島《おのころじま》を|出《で》る|時《とき》に  |俺《おれ》のお|嬶《かか》のお|滝《たき》|奴《め》が
もうしもうしこちの|人《ひと》  お|前《まへ》|一人《ひとり》のウントコシヨ
|決《けつ》して|体《からだ》ぢやない|程《ほど》に  お|前《まへ》の|体《からだ》は|私《わし》の|物《もの》
|私《わたし》の|体《からだ》はウントコシヨ  ヤツパリお|前《まへ》の|物《もの》ぢやぞえ
|自分《じぶん》|一人《ひとり》と|慢心《まんしん》し  |私《わたし》を|忘《わす》れて|怪我《けが》したら
|私《わたし》は|恨《うら》んで|化《ば》けて|出《で》る  |仮令《たとへ》|死《し》んでもドツコイシヨ
|高天原《たかあまはら》へは|行《ゆ》かれぬと  |抜《ぬ》かした|時《とき》の|其《その》|顔《かほ》が
|今《いま》|目《め》の|前《まへ》にブラついて  お|嬶《かか》が|恋《こひ》しうなつて|来《き》た
|貴様《きさま》のお|嬶《かか》も|其《その》|通《とほ》り  どこの|何処《いづこ》へ|行《い》つたとて
|人情《にんじやう》|許《ばか》りは|変《かは》らない  どうぞ|用心《ようじん》して|呉《く》れよ
お|鉄《てつ》に|代《かは》はつて|気《き》をつける  あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ』
と|両手《りやうて》を|動《うご》かせ、|足《あし》を|千鳥《ちどり》に|踏《ふ》み|乍《なが》ら、|一足々々《ひとあしひとあし》|拍子《ひやうし》を|取《と》つて|此《この》|急坂《きふはん》を|降《くだ》り|行《ゆ》く。
|黒姫《くろひめ》は|漸《やうや》くにして|高山川《たかやまがは》の|畔《ほとり》に|着《つ》いた。ここには|恰好《かつかう》な|天然《てんねん》の|腰掛岩《こしかけいは》が|人待顔《ひとまちがほ》に|並《なら》んゐる。|暫《しば》し|息《いき》を|休《やす》め、こし|方《かた》|行末《ゆくすゑ》の|事《こと》を|思《おも》ひ|煩《わづら》ひ、|落涙《らくるい》に|及《およ》んでゐる。
そこには|樫《かし》の|大木《たいぼく》が|天《てん》を|封《ふう》じて|一二本《いちにほん》|立《た》つてゐる。|黒姫《くろひめ》は|目《め》を|塞《ふさ》ぎ、|思案《しあん》に|暮《く》れてゐると、|樫《かし》の|木《き》の|枝《えだ》に|数十匹《すうじつひき》の|手長猿《てながざる》が|此《この》|姿《すがた》を|見《み》て、|枝《えだ》から|一匹《いつぴき》の|猿《さる》が|吊《つ》りおりる。|次《つぎ》から|互《たがひ》に|次《つぎ》へと|手《て》をつなぎ、|七八匹《しちはつぴき》の|奴《やつ》が|鎖《とざ》の|様《やう》になつて、|蜘蛛《くも》が|空《そら》からおりた|様《やう》に『チウチウ』と|黒姫《くろひめ》の|頭《あたま》の|上《うへ》に|降《お》り|来《きた》り、|黒姫《くろひめ》の|笠《かさ》をグイと|引《ひ》つたくり、ツルツルと|次第《しだい》|々々《しだい》に|木《き》の|上《うへ》へ|持《も》つてあがつて|了《しま》つた。|黒姫《くろひめ》は|宣伝使《せんでんし》のレツテルとも|云《い》ふべき|大切《たいせつ》な|冠《かむ》り|物《もの》を|奪《と》られ、|樹上《じゆじやう》の|手長猿《てながざる》の|群《むれ》を|眺《なが》めて、|目《め》を|怒《いか》らし、|残念《ざんねん》|相《さう》に|睨《にら》んでゐる。|猿《さる》は|凱歌《がいか》を|奏《そう》した|様《やう》な|心持《こころもち》になつて『キヤツキヤツ』と|黒姫《くろひめ》を|冷笑的《れいせうてき》にからかつてゐるやうな|気分《きぶん》がする。|黒姫《くろひめ》は|縁起《えんぎ》の|悪《わる》い、|冠《かむ》り|物《もの》を|四《よ》つ|手《で》にしてやられて、|無念《むねん》さやる|方《かた》なく、あり|合《あ》ふ|石《いし》をひろつて、|樹上《じゆじやう》の|猿《さる》の|群《むれ》に|向《むか》つて|投《な》げつけた。|猿《さる》は『キーキーキヤアキヤア』と|声《こゑ》をはりあげ、|同類《どうるゐ》を|四方《しはう》|八方《はつぱう》から|呼《よ》び|集《あつ》める。またたく|間《うち》に【ぐみ】のなつた|程《ほど》、|樫《かし》の|木《き》の|上《うへ》に|猿《さる》が|集《あつ》まつて|来《き》た。さうして|樹上《じゆじやう》から|小便《せうべん》の|雨《あめ》を|降《ふ》らす、|糞《くそ》を|垂《た》れる、|樫《かし》の|実《み》をむしつては、|黒姫《くろひめ》|目《め》がけて|投《な》げつける。|黒姫《くろひめ》は|樫《かし》の|実《じつ》と|小便《せうべん》の|両攻《りやうぜ》めに|会《あ》うて、|身動《みうご》きもならず、|怨《うら》めしげに|立《た》つてゐた。|一足《ひとあし》でも|黒姫《くろひめ》が|動《うご》かうものなら、|忽《たちま》ち|猿《さる》の|群《むれ》は|寄《よ》つて|集《たか》つて、かきむしり、|如何《どん》な|事《こと》をするか|分《わか》らぬ|形勢《けいせい》となつて|来《き》た。
|猿《さる》と|云《い》ふ|奴《やつ》は、|弱身《よわみ》を|見《み》せたが|最後《さいご》、どこ|迄《まで》も|調子《てうし》に|乗《の》つて|追跡《つゐせき》し、|乱暴《らんばう》を|働《はたら》くのである。|黒姫《くろひめ》は|其《その》|呼吸《こきふ》を|幾分《いくぶん》か|悟《さと》つたと|見《み》えて、|痩我慢《やせがまん》にも|地《ち》から|生《は》えた|木《き》の|様《やう》に|身動《みうご》きもせず、|猿《さる》の|群《むれ》と|睨《にら》めつくらをやつて|居《ゐ》た。|時々刻々《じじこくこく》に|猿《さる》の|群《むれ》は|集《あつ》まり|来《きた》る。|又《また》しても、|頭《あたま》の|上《うへ》へ|猿《さる》の|腕《かいな》がおりて|来《き》て、|今度《こんど》は|髪《かみ》の|毛《け》をグツと|手《て》に|巻《ま》き、|引上《ひきあ》げようとする。|黒姫《くろひめ》も|堪《たま》らなくなつて、『|一《ひと》|二《ふた》|三《み》|四《よ》|五《いつ》|六《むゆ》|七《なな》|八《や》|九《ここの》|十《たり》|百《もも》|千《ち》|万《よろづ》!』と|手《て》を|組《く》んで|鎮魂《ちんこん》の|姿勢《しせい》を|取《と》る。|手長猿《てながざる》の|群《むれ》は|之《これ》を|見《み》て、|各自《かくじ》に|手《て》を|組《く》み『キヤツキヤツ』と|言《い》ひ|乍《なが》ら|黒姫《くろひめ》を|一匹《いつぴき》も|残《のこ》らず|睨《にら》みつける。|黒姫《くろひめ》は|股《また》を|拡《ひろ》げて、トンと|飛《と》び|上《あが》り|大地《だいち》に|大《だい》の|字《じ》になつて|見《み》せた。|手長猿《てながざる》の|奴《やつ》、|又《また》|之《これ》に|倣《なら》つて、|木《き》の|上《うへ》をも|省《かへり》みず、|一斉《いつせい》に|飛《と》び|上《あが》り|大《だい》の|字《じ》になつた|途端《とたん》に、ステンドーと|大地《だいち》へ|雪崩《なだれ》を|打《う》つて|転倒《てんたふ》し、『キヤツキヤツ』と|悲鳴《ひめい》をあげ、はうばうの|体《てい》で|逃《に》げて|行《ゆ》く、|其《その》|可笑《をか》しさ。|黒姫《くろひめ》はやつと|安心《あんしん》の|胸《むね》を|撫《な》でおろし、|手拭《てぬぐひ》を|懐《ふところ》から|取出《とりいだ》し、|汗《あせ》を|拭《ふ》いた。
|猿《さる》の|親玉《おやだま》ともいふべき|五六匹《ごろつぴき》の|大《おほ》きな|奴《やつ》、|樫《かし》の|木《き》の|上《うへ》から、|逃《に》げもせず|黒姫《くろひめ》の|様子《やうす》を|眺《なが》めてゐたが、|黒姫《くろひめ》が|汗《あせ》を|拭《ふ》いたのを|見《み》て、|同《おな》じく|両《りやう》の|手《て》で、|懐《ふところ》から|手拭《てぬぐひ》を|出《だ》す|真似《まね》をし|乍《なが》ら、|顔《かほ》をツルリと|撫《な》でた。|樹上《じゆじやう》の|大猿《おほざる》は|又《また》もや|樫《かし》の|実《み》を【むし】つては|黒姫《くろひめ》|目《め》がけて、|雨霰《あめあられ》と|投《な》げつけ|出《だ》した。|黒姫《くろひめ》は|両手《りやうて》を|拡《ひろ》げ、|一方《いつぱう》の|足《あし》をピンと|上《あ》げ、|左《ひだり》の|足《あし》でトントントンと|地搗《ぢつ》きをして|見《み》せた。|樹上《じゆじやう》の|大猿《おほざる》は|一斉《いつせい》に|両手《りやうて》を|拡《ひろ》げ、|一方《いつぱう》の|足《あし》をピンと|上《あ》げて、|木《き》の|上《うへ》でトントントンと|地搗《ぢつき》の|真似《まね》をした|途端《とたん》にドスドスドスンと|一匹《いつぴき》も|残《のこ》らず|地上《ちじやう》に|墜落《つゐらく》し『キヤツキヤツ』と|悲鳴《ひめい》をあげ、|転《こ》けつ|転《まろ》びつ、|何処《いづこ》ともなく|姿《すがた》を|隠《かく》して|了《しま》つた。|折柄《をりから》サツと|吹《ふ》き|来《きた》る|可《か》なり|荒《あら》い|風《かぜ》に|黒姫《くろひめ》の|被《かぶ》つてゐた|笠《かさ》は|音《おと》もなく、|秋《あき》の|初《はじめ》の|桐《きり》の|葉《は》の|落《お》ちるが|如《ごと》く、フワリフワリと|黒姫《くろひめ》の|前《まへ》に|落《お》ちて|来《き》た。
|黒姫《くろひめ》は|再生《さいせい》の|思《おも》ひをなし、|直《ただち》に|地上《ちじやう》にうづくまり、|拍手《かしはで》を|打《う》ち、|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》し|始《はじ》めた。|乍併《しかしながら》、|祝詞《のりと》の|声《こゑ》はどこともなく、|力《ちから》なく|震《ふる》ひを|帯《お》びてゐた。
かかる|所《ところ》へ|房公《ふさこう》、|芳公《よしこう》の|両人《りやうにん》はドンドンと|地響《ぢひび》きさせ|乍《なが》ら、|息《いき》をはづませ、|此《この》|場《ば》に|追《お》ひ|付《つ》き|来《きた》り、
|房公《ふさこう》『ハーハーハー、ア、|息《いき》が|苦《くる》しいワイ。マアマア|黒姫《くろひめ》さま、よう|此処《ここ》に|居《ゐ》て|下《くだ》さつた。どれ|丈《だけ》|心配《しんぱい》したことか|分《わか》りませぬよ』
|芳公《よしこう》『|黒姫《くろひめ》さま、おつむりの|髪《かみ》が|大変《たいへん》に|乱《みだ》れてゐるぢやありませぬか』
|黒姫《くろひめ》『よい|所《ところ》へ|来《き》て|下《くだ》さつた。|今《いま》の|今《いま》|迄《まで》、|手長猿《てながざる》の|奴《やつ》、|何百《なんびやく》とも|知《し》れずやつて|来《き》よつて、|此《この》|通《とほ》り|髪《かみ》の|毛《け》|迄《まで》、ワヤにして|了《しま》うたのだ。|乍併《しかしながら》|神様《かみさま》のお|蔭《かげ》で、|一匹《いつぴき》も|残《のこ》らず|退散《たいさん》したから、マア|安心《あんしん》して|下《くだ》さい。お|前《まへ》さま、エロウ|早《はや》かつたぢやないか、お|酒《さけ》を|頂《いただ》く|間《ま》がありましたかなア』
|房公《ふさこう》『|滅相《めつさう》な、そんなこと|所《どころ》ですか、|黒姫《くろひめ》さまが|血相《けつさう》|変《か》へてお|帰《かへ》りになつたものだから、|気《き》が|気《き》でなく、もしもの|事《こと》があつてはならないと、|吾々《われわれ》|両人《りやうにん》が|宙《ちう》を|飛《と》んで|此処《ここ》まで|駆《かけ》つて|来《き》たのです』
|黒姫《くろひめ》『アヽそれは|済《す》まないことでしたなア。さうして|虎公《とらこう》さまや、|玉公《たまこう》は|如何《どう》して|御座《ござ》るかなア』
|芳公《よしこう》『|今頃《いまごろ》は|甘《うま》い|酒《さけ》に|酔《よひ》つぶれて、|管《くだ》でも|巻《ま》いてをりませうかい。|斯《か》うなると|親方《おやかた》のない|者《もの》は|気楽《きらく》ですワイ』
|黒姫《くろひめ》『そんな|気兼《きがね》ねは|入《い》らないのだから、ゆつくりと|御酒《おさけ》でも|頂《いただ》いて|来《き》なさるとよかつたに、それはそれは|惜《をし》い|酒外《さかはづ》れをなされましたワイ』
|房公《ふさこう》『ハイ、おかげ|様《さま》で、|酒外《さかはづ》れを|致《いた》しまして|有難《ありがた》う|御座《ござ》います。|併《しか》し|黒姫《くろひめ》さま、お|前《まへ》さまも、サツパリ、|目的《もくてき》が|逆外《さかはづ》れになりましたなア。|大将《たいしやう》がサカ|外《はづ》れに|会《あ》うてゐるのに、|伴《とも》の|吾々《われわれ》が|外《はづ》れないと|云《い》ふ|訳《わけ》はありませぬからなア、アツハヽヽヽ、|本当《ほんたう》に|誠《まこと》に、|御互様《おたがひさま》に|御気《おき》の|毒《どく》の|至《いた》りで|御座《ござ》いますワイ、ホツホヽヽヽ』
とおチヨボ|口《ぐち》をし|乍《なが》ら、|肩《かた》をゆすつてチヨクツて|見《み》せた。|黒姫《くろひめ》は、
『エヽ|又《また》そんな|洒落《しやれ》をなさるのか、エヽ|辛気臭《しんきくさ》い|代物《しろもの》だなア』
と|口汚《くちぎたな》く|罵《ののし》り|乍《なが》ら、|矢庭《やには》に|笠《かさ》を|引《ひ》つかぶり、|金剛杖《こんがうづゑ》をつき、|足《あし》を|早《はや》めて、|二人《ふたり》に|構《かま》はずスタスタと|駆出《かけだ》した。|房公《ふさこう》は|大声《おほごゑ》を|張《は》り|上《あ》げて、
|房公《ふさこう》『モシモシ|黒姫《くろひめ》さま、|一寸《ちよつと》|待《ま》つて|下《くだ》さいな、さうしたものぢやありませぬぞや』
|黒姫《くろひめ》『エヽお|前達《まへたち》は|若《わか》いから、|足《あし》が|達者《たつしや》だ、ゆつくり|休《やす》んでお|出《い》で、|此《この》|黒姫《くろひめ》は|年《とし》が|老《よ》つて、|足《あし》が|重《おも》いから、ボツボツ|先《さき》へ|行《ゆ》きます。|後《あと》から|追《お》ひ|付《つ》いておくれよ』
|芳公《よしこう》『モシモシ|黒姫《くろひめ》さま、|我《が》を|出《だ》して|一人旅《ひとりたび》をなさると、|又《また》|猿《さる》の|奴《やつ》が|襲撃《しふげき》しますぞや。|暫《しばら》く|待《ま》つて|下《くだ》さいな、|私《わたし》はお|前《まへ》さまの|身《み》の|上《うへ》を|案《あん》じて|忠告《ちうこく》するのだよ』
|黒姫《くろひめ》は|耳《みみ》にもかけず、|後《あと》ふり|向《む》きもせず、|尻《しり》をプリンプリン|振《ふ》り|乍《なが》ら、|杖《つゑ》を|力《ちから》に|雨《あめ》に|洗《あら》ひさらされた|石《いし》だらけの|坂路《さかみち》を、コツリコツリと|杖《つゑ》に|音《おと》させつつ、|火《ひ》の|国《くに》の|都《みやこ》を|指《さ》して|急《いそ》ぎ|行《ゆ》く。
(大正一一・九・一三 旧七・二二 松村真澄録)
第一六章 |楽天主義《らくてんしゆぎ》〔九五七〕
|黒姫《くろひめ》の|慌《あわただ》しく|駆出《かけだ》した|後《あと》の|二人《ふたり》は、|黒姫《くろひめ》の|坐《すわ》つてゐた|天然《てんねん》の|岩椅子《いはいす》に|腰《こし》を|打掛《うちかけ》|乍《なが》ら、|一服《いつぷく》|休《やす》みの|雑談《ざつだん》に|耽《ふけ》つてゐる。
|房公《ふさこう》『|人間《にんげん》と|云《い》ふ|者《もの》は|考《かんが》へて|見《み》れば|約《つま》らぬ|者《もの》ぢやないか。|此《この》|世《よ》へ|生《うま》れて|来《き》て|何一《なにひと》つ|是《これ》といふ|功名《こうみやう》も|残《のこ》らず、|一日々々《いちにちいちにち》とウツカリしてる|間《ま》に|墓場《はかば》へ|近寄《ちかよ》つて|行《ゆ》くのだ。|俺《おれ》だとて、|今《いま》は|此《この》|様《やう》に|頭《あたま》の|頂辺《てつぺん》が|禿《は》げて|来《き》て|見《み》すぼらしくなつたが、|若《わか》い|時《とき》は|随分《ずゐぶん》|〓《も》てたものだよ。つい|一二年前《いちにねんぜん》の|事《こと》のやうに|思《おも》うてゐるが、|指折《ゆびを》り|数《かぞ》へて|見《み》れば、|早《はや》|二十年《にじふねん》も|経《た》つてゐる。|本当《ほんたう》に|夢《ゆめ》のやうだ。|此《この》|短《みじか》いやうな|永《なが》い|月日《つきひ》に|何《なに》をやつて|来《き》たかと|思《おも》へば、|此《こ》れと|云《い》ふ|目星《めぼし》い|仕事《しごと》は|一《ひと》つも|残《のこ》つてゐない。|食《く》つては|垂《た》れ|食《く》つては|垂《た》れ、|寝《ね》たり|起《お》きたり、|女《をんな》が|美《うつく》しいの|汚《きたな》いの、|若《わか》いの|年老《としよ》りぢやのと、|言《い》つて|暮《くら》したのも、|本当《ほんたう》に|夢《ゆめ》の|間《ま》だつた。|俺《おれ》の|顔《かほ》に|皺《しわ》のよつたのと、|嬶《かかあ》の|髪《かみ》の|毛《け》に|艶《つや》がなくなつたのと、|餓鬼《がき》が|一人《ひとり》|殖《ふ》えたのが、|此《この》|世《よ》へ|生《うま》れて|来《き》た|俺《おれ》の|半生《はんせい》の|事業《じげふ》だと|思《おも》へば、|本当《ほんたう》に|悲《かな》しくなつて|来《き》た。|神様《かみさま》の|御造《おつく》り|遊《あそ》ばした|此《この》|寂光浄土《じやくくわうじやうど》に|生《うま》れて|来《き》ながら、|時々刻々《じじこくこく》に|老《おい》ぼれて|行《ゆ》くと|思《おも》へば、|人生《じんせい》も|本当《ほんたう》に|果敢《はか》なくなつて|来《き》たよ。|黒姫《くろひめ》さまだつて、さうぢやないか、お|道《みち》の|為《ため》だとか、|世《よ》の|為《ため》だとか|云《い》つて、|一生懸命《いつしやうけんめい》に|世界《せかい》を|股《また》にかけて|苦労《くらう》をやつて|御座《ござ》るが、|年《とし》が|老《よ》つてから|世話《せわ》にならうと|云《い》ふ|子供《こども》は|一人《ひとり》もなし、|若《わか》い|時《とき》に|沢山《たくさん》に|思《おも》うて、|子供《こども》は|何時《いつ》でも、|男《をとこ》と|女《をんな》とさへ|居《を》れば|出来《でき》るやうに|思《おも》ひ、|捨《す》てた|子《こ》は|生《い》きて|居《ゐ》るか|死《し》んで|居《ゐ》るか|分《わか》りもせず、|仮令《たとへ》|此《この》|世《よ》に|生《いき》て|居《を》つた|所《ところ》で、|生《う》みの|親《おや》より|育《そだ》ての|親《おや》とか|云《い》つて、|余《あま》り|大《おほ》きな|顔《かほ》して、|子《こ》の|世話《せわ》になる|訳《わけ》にも|行《ゆ》くまいし、|本当《ほんたう》に|黒姫《くろひめ》さまの|事《こと》を|思《おも》うても|可哀相《かあいさう》になつて|来《き》た。なア|芳公《よしこう》、お|前《まへ》と|俺《おれ》はまだしも、|女房《にようばう》や|子供《こども》があるのだから、|黒姫《くろひめ》さまの|事《こと》を|思《おも》へば、|結構《けつこう》な|神様《かみさま》の|御恵《みめぐ》みに|預《あづか》つて|居《ゐ》るのだよ』
|芳公《よしこう》『さうだなア、それを|思《おも》へば、|俺達《おれたち》も|余《あま》り|不足《ふそく》は|云《い》へぬワイ。|乍併《しかしながら》|人間《にんげん》は|老少不定《らうせうふぢやう》だから、かうして|筑紫《つくし》の|島《しま》へ|渡《わた》つてる|不在《るす》の|間《ま》に、|女房《にようばう》が|病気《びやうき》になつて|死《し》んでゐるやら、|吾《わが》|子《こ》が|死《な》くなつて|居《ゐ》るやら|分《わか》つたものぢやない。|本当《ほんたう》に|苦《くるし》みの|世《よ》の|中《なか》ぢや、|家鴨《あひる》の|様《やう》に|玉子《たまご》を|生《う》みつ|放《ぱな》しにして、|外《ほか》の|鳥《とり》に|育《そだ》てさした|様《やう》な|黒姫《くろひめ》さまでも、ヤツパリ|老《おい》の|年波《としなみ》で|此《この》|世《よ》の|中《なか》が|何《なん》となく|淋《さび》しくなつたと|見《み》え、|高山彦《たかやまひこ》さまよりも|捨《す》てた|子《こ》の|方《はう》が|恋《こひ》しうなつた|様《やう》だから、|本当《ほんたう》に|人生《じんせい》と|云《い》ふものは、|思《おも》へば|思《おも》へば|淋《さび》しいものだ。あゝ|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》』
|房公《ふさこう》『オイもう|斯《こ》んな|事《こと》は|打切《うちき》りにしようかい。|何《なん》だか|神様《かみさま》に|対《たい》して、|不平《ふへい》を|云《い》つてゐる|様《やう》に|聞《きこ》えて|恐《おそ》れ|多《おほ》い。|何事《なにごと》も|人間《にんげん》の|考《かんが》へで|此《この》|世《よ》は|行《ゆ》くものぢやない。|何《ど》うならうと|斯《こ》うならうと、|神様《かみさま》のなさる|儘《まま》だ』
|芳公《よしこう》『|時《とき》に|房公《ふさこう》、|俺《おれ》は|一《ひと》つ|合点《がつてん》のゆかぬ|事《こと》があるのだ。どう|考《かんが》へても|腑《ふ》に|落《お》ちぬがなア』
|房公《ふさこう》『|俺《おれ》も|一《ひと》つあるのだ。お|前《まへ》の|合点《がつてん》がゆかぬと|云《い》ふのは、|昨日《きのふ》の|宣伝歌《せんでんか》の|主《ぬし》だらう』
|芳公《よしこう》『オウさうだ。|確《たしか》に|玉治別命《たまはるわけのみこと》|様《さま》のお|声《こゑ》だつた。それに|声《こゑ》は|聞《き》いたが、|時鳥《ほととぎす》の|様《やう》に、|皆目《かいもく》|御姿《おすがた》が|見《み》えないとは、|是《これ》も|不思議《ふしぎ》の|一《ひと》つだ』
|房公《ふさこう》『|天地《てんち》の|間《あひだ》は|凡《すべ》て|不思議《ふしぎ》ばかりで|包《つつ》まれてゐるのだからなア……「|怪《あや》しきをあらじと|云《い》ふは|世《よ》の|中《なか》の、|怪《あや》しき|知《し》らぬ|痴《し》れ|心《ごころ》かも」……「|怪《あや》しきは|是《これ》の|天地《あめつち》うべなうべな、|神代《かみよ》は|殊《こと》に|怪《あや》しきものを」……とか|云《い》つて、|今《いま》から|三十万年《さんじふまんねん》|未来《みらい》の|十九世紀《じふくせいき》と|云《い》ふ|世《よ》の|中《なか》に|生《うま》れた|本居宣長《もとをりのりなが》と|云《い》ふ|国学者《こくがくしや》が|云《い》ふ|様《やう》に、|本当《ほんたう》に|此《この》|世《よ》の|中《なか》は|怪《あや》しいものだ……「|知《し》ると|云《い》ふは|誰《たれ》のしれ|者《もの》|天地《あめつち》の、|怪《あや》しき|御業《みわざ》|神《かみ》ならずして」……と|云《い》ふことがある。|到底《たうてい》|吾々《われわれ》|凡夫《ぼんぶ》の|身《み》として|天地《あめつち》の|神秘《しんぴ》を|探《さぐ》る|事《こと》は|出来《でき》るものでない。あゝモウ|可《い》い|加減《かげん》に|出立《しゆつたつ》しようか、|若《も》しも|途中《とちう》に|於《おい》て、|黒姫《くろひめ》さまが|悪者《わるもの》の|手《て》にでも|係《かか》つてゐられちや|大変《たいへん》だ。|俺達《おれたち》もお|伴《とも》に|来《き》た|甲斐《かひ》がない。サア|行《ゆ》こう』
|斯《か》く|話《はな》す|時《とき》しも、|三尺《さんじやく》|許《ばか》りの|童子《どうじ》|七八人《しちはちにん》|手《て》を|繋《つな》ぎ|乍《なが》ら|忽然《こつぜん》として|五六間《ごろくけん》|傍《かたはら》の|谷路《たにみち》に|現《あら》はれ、|声《こゑ》を|揃《そろ》へて、
|童子《どうじ》『|夫《そ》れ|出《で》たヤレ|出《で》た! |鬼《おに》が|出《で》た!
|筑紫ケ岳《つくしがだけ》から|現《あら》はれた
|鬼《おに》ではあるまい|黒姫《くろひめ》だ
|黒姫《くろひめ》さまぢやない|程《ほど》に
|虎《とら》|狼《おほかみ》か|鬼《おに》|大蛇《をろち》
|醜《しこ》の|曲津《まがつ》が|憑《うつ》つたる
|房公《ふさこう》、|芳公《よしこう》の|二人連《ふたりづ》れ
|天然椅子《てんねんいす》に|腰《こし》かけて
|何《なん》ぢや|彼《か》んぢやと|神様《かみさま》の
|噂《うはさ》|計《ばか》りして|御座《ござ》る
ホンに|可笑《をか》しい|鬼《おに》ぢやなア
ドツコイドツコイドツコイシヨ!』
と|言《い》ひ|乍《なが》ら、スツと|二人《ふたり》の|前《まへ》を|通《とほ》り、|影《かげ》もなく|煙《けぶり》の|如《や》うに|消《き》えて|了《しま》つた。
|房公《ふさこう》『オイ|益々《ますます》|怪《あや》しうなつて|来《き》たぢやないか。あんな|小《ちつ》ぽけな|人間《にんげん》が|七八人《しちはちにん》も|手《て》をつないで、|忽然《こつぜん》と|現《あら》はれ、|俺《おれ》たちを|鬼《おに》だとか、|曲津《まがつ》だと|云《い》ひよつたぢやないか。ありや|一体《いつたい》|何《なん》だらうなア』
|芳公《よしこう》『|何《なん》でもない、|神様《かみさま》にきまつてゐるワイ。|俺《おれ》たちの|心《こころ》に|未《ま》だ|悪魔《あくま》が|潜《ひそ》んでゐるから、|天教山《てんけうざん》の|木花咲耶姫《このはなさくやひめ》|様《さま》が|童子《どうじ》と|顕現《けんげん》して|御注意《ごちうい》|下《くだ》さつたのだらうよ』
|房公《ふさこう》『そうかも|知《し》れないなア。ヤアもう|結構《けつこう》な|天地《てんち》の|間《あひだ》に|生《せい》を|享《う》け|乍《なが》ら、|最前《さいぜん》の|様《やう》な|悲観的《ひくわんてき》の|詞《ことば》を|洩《も》らしちや|済《す》まない。|神様《かみさま》の|教《をしへ》は|楽天主義《らくてんしゆぎ》だ。|悲観《ひくわん》する|心《こころ》になるのは、ヤツパリ|心《こころ》の|中《なか》に|鬼《おに》が|巣《す》くうてゐるのだ。オイ|一《ひと》つここで|宣伝歌《せんでんか》でも|唄《うた》つて、|悲観《ひくわん》の|雲《くも》を|晴《は》らさうぢやないか』
|芳公《よしこう》『|先《ま》づお|前《まへ》から|唄《うた》つてくれ、|悲観論者《ひくわんろんしや》の|発頭人《ほつとうにん》だからなア』
|房公《ふさこう》『|神《かみ》が|表《おもて》に|現《あら》はれて  |善《ぜん》と|悪《あく》とを|立別《たてわ》ける
|人《ひと》の|身《み》として|天地《あめつち》の  どうして|真理《しんり》が|分《わか》らうか
|此《この》|世《よ》を|造《つく》りし|神直日《かむなほひ》  |心《こころ》も|広《ひろ》き|大直日《おほなほひ》
|皆《みな》|神様《かみさま》の|胸《むね》の|裡《うち》  おいらの|知《し》つた|事《こと》でない
|只《ただ》|何事《なにごと》も|人《ひと》の|世《よ》は  |直日《なほひ》に|見直《みなほ》せ|聞直《ききなほ》せ
|身《み》の|過《あやま》ちは|宣《の》り|直《なほ》せ  |悲観《ひくわん》は|転《てん》じて|忽《たちま》ちに
|楽天主義《らくてんしゆぎ》に|早替《はやがは》り  |娑婆即寂光浄土《しやばそくじやくくわうじやうど》の
|真理《しんり》を|悟《さと》つた|今《いま》の|吾《わ》れ  あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|神《かみ》の|尊《たふと》き|懐《ふところ》に  |朝《あさ》な|夕《ゆふ》なに|抱《いだ》かれて
|不足《ふそく》を|言《い》つて|済《す》むものか  |悲観《ひくわん》の|鬼《おに》が|巣《す》を|組《く》んで
|心《こころ》の|空《そら》をかき|紊《みだ》し  |根底《ねそこ》の|国《くに》へやりかけた
げに|恐《おそ》ろしい|世《よ》の|中《なか》だ  いやいや|決《けつ》してそうでない
げに|恐《おそ》ろしい|吾《わ》が|心《こころ》  |心《こころ》の|鬼《おに》が|身《み》を|責《せ》める
|神《かみ》も|仏《ほとけ》も|胸《むね》の|内《うち》  |鬼《おに》も|大蛇《をろち》も|吾《わが》|胸《むね》に
|潜《ひそ》んで|居《ゐ》るのを|知《し》らなんだ  |今《いま》|現《あら》はれた|神様《かみさま》は
|吾等《われら》の|迷《まよ》ひを|晴《は》らさむと  |天教山《てんけうざん》より|現《あら》はれて
|生命《いのち》と|安息《やすき》と|歓喜《よろこび》を  |与《あた》へ|玉《たま》ひしものならむ
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |神《かみ》の|心《こころ》に|身《み》を|任《まか》せ
|只《ただ》|何事《なにごと》も|慎《つつし》んで  |神《かみ》の|御《おん》|為《ため》|世《よ》の|為《ため》に
|力《ちから》|限《かぎ》りのベストをば  |尽《つく》して|行《ゆ》くより|途《みち》はない
|国治立《くにはるたち》の|神様《かみさま》よ  |豊国姫《とよくにひめ》の|神様《かみさま》よ
|其《その》|外《ほか》|百《もも》の|神々《かみがみ》の  あつき|恵《めぐみ》に|抱《いだ》かれて
|此《この》|世《よ》に|生《うま》れ|来《きた》りしを  |何《なん》とも|思《おも》はず|徒《いたづら》に
|悲観《ひくわん》しました|吾《わが》|罪《つみ》を  |幾重《いくへ》におわび|致《いた》します
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ』
と|唄《うた》ひ|乍《なが》ら、|二人《ふたり》はいそいそとして|黒姫《くろひめ》の|後《あと》を|追《お》つて|行《ゆ》く。
(大正一一・九・一三 旧七・二二 松村真澄録)
第三篇 |峠《たうげ》の|達引《たてひき》
第一七章 |向日峠《むかふたうげ》〔九五八〕
|向日峠《むかふたうげ》の|山麓《さんろく》、|樟樹《しやうじゆ》|鬱蒼《うつさう》として|空《そら》を|封《ふう》じた|森《もり》の|下《した》に|数十人《すうじふにん》の|荒男《あらをとこ》、|二人《ふたり》の|女《をんな》を|荒繩《あらなは》にて|縛《しば》り|上《あ》げ、|何事《なにごと》か|声高《こはだか》に|罵《ののし》つてゐる。|其《その》|中《なか》の|大将《たいしやう》と|覚《おぼ》しき|男《をとこ》は|大蛇《をろち》の|三公《さんこう》と|云《い》つて、|此《この》|界隈《かいわい》での|無頼漢《ならずもの》である。さうして|兼公《かねこう》、|与三公《よさこう》の|二人《ふたり》は|三公《さんこう》の|股肱《ここう》と|頼《たの》む|手下《てした》の|悪者《わるもの》である。|三公《さんこう》は|森《もり》の|下《した》の|巨大《きよだい》なる|岩《いは》の|上《うへ》に|跨《またが》つて|冷《ひや》やかに|二人《ふたり》の|女《をんな》を|見《み》おろしてゐる。
|兼公《かねこう》『オイ|女《をんな》、モウ|斯《こ》うなつては、|何程《なにほど》|藻掻《もが》いても|叶《かな》ふまい。サア|茲《ここ》でウンと|首《くび》を|縦《たて》に|振《ふ》るか。すつた|揉《も》んだと|何時《いつ》|迄《まで》も|屁理屈《へりくつ》を|吐《ぬか》しや、モウ|了見《れうけん》はならぬ。|此《この》|兼公《かねこう》が|親分《おやぶん》に|成《な》り|代《かは》り、|叩《たた》き|殺《ころ》して|了《しま》ふが、それでも|良《い》いか』
|女《をんな》『えゝ|汚《けが》らはしい、|仮令《たとへ》|三公《さんこう》に|叩《たた》き|殺《ころ》されても、|女《をんな》の|操《みさを》は|何処迄《どこまで》も|外《はづ》しませぬ。|一層《いつそう》のこと、|早《はや》く|一思《ひとおも》ひに|殺《ころ》しなさいよ』
|与三《よさ》『コレコレお|愛《あい》さま、よく|考《かんが》へて|見《み》なさい。|命《いのち》あつての|物種《ものだね》だ。そんな|事《こと》|言《い》はずに、ウンと|色好《いろよ》い|返事《へんじ》をしなさつた|方《はう》が、お|前《まへ》の|将来《しやうらい》の|為《ため》だ。|火《ひ》の|国《くに》に|驍名《げうめい》|隠《かく》れなき|大蛇《をろち》の|三公《さんこう》さまと|云《い》つたら、|名《な》を|聞《き》いても|獅子《しし》|狼《おほかみ》|虎《とら》までが、|尾《を》を|巻《ま》いて|細《ほそ》くなつて|逃《に》げると|云《い》ふ|威勢《ゐせい》の|高《たか》い、|白浪男《しらなみをとこ》だ。|何程《なにほど》お|前《まへ》さまが、|虎公《とらこう》さまに|操立《みさをだ》てをした|所《ところ》で、あんな|気《き》の|弱《よわ》い|三五教《あななひけう》にトチ|呆《はう》けて|居《ゐ》る|様《やう》な|腰抜男《こしぬけをとこ》が|何《なに》になるものか。チツと|胸《むね》に|手《て》を|当《あて》て、|利害得失《りがいとくしつ》を|考《かんが》へて|見《み》なさい。|三公《さんこう》の|奥《おく》さまになれば、それこそ|立派《りつぱ》な|者《もの》だ。|俺達《おれたち》も|姉貴々々《あねきあねき》と|敬《うやま》つて、どんなことでも|御用《ごよう》を|聞《き》きます。ここが|思案《しあん》の|決《き》め|所《どころ》だ。お|前《まへ》は|今《いま》|逆上《ぎやくじやう》して|居《を》るから、|是非《ぜひ》|善悪《ぜんあく》の|判断《はんだん》が|付《つ》こまいが、|能《よ》く|胸《むね》に|手《て》を|当《あ》てて|考《かんが》へなさい』
お|愛《あい》『イエイエ|何《なん》と|言《い》つて|下《くだ》さつても、|一旦《いつたん》|虎公《とらこう》さまと|約束《やくそく》を|結《むす》んだ|以上《いじやう》は、そんな|事《こと》が|如何《どう》して|出来《でき》ませうか。|仮令《たとへ》|殺《ころ》されても|操《みさを》を|破《やぶ》つたと|云《い》はれては、|先祖《せんぞ》の|名折《なを》れ、|子孫《しそん》|代々《だいだい》に|至《いた》るまで、|恥《はぢ》を|晒《さら》さねばなりませぬ。|世間《せけん》の|人《ひと》には|不貞《ふてい》くされ|女《をんな》だと|罵《ののし》られ、|恥《はぢ》をかかねばなりませぬ。|最早《もはや》|今日《こんにち》となつては、|私《わたくし》の|決心《けつしん》は|如何《いか》なる|権威《けんゐ》も|金力《きんりよく》も|動《うご》かすことは|出来《でき》ませぬ。どうぞそんな|事《こと》を|云《い》はずに、|私《わたし》を|殺《ころ》して|下《くだ》さい』
|与三《よさ》『ハテさて|悪《わる》い|御了見《ごれうけん》だ。お|前《まへ》の|大切《たいせつ》に|思《おも》ふ|虎公《とらこう》は、|建日《たけひ》の|村《むら》の|玉公《たまこう》とやらに|連《つ》れられて、|無花果《いちじゆく》を|取《と》りに|行《ゆ》くとか、|水晶玉《すいしやうだま》が|曇《くも》つて|黒姫《くろひめ》が|如何《どう》だとか、|訳《わけ》の|分《わか》らぬことを|吐《ほ》ざきやがつて、|高山峠《たかやまたうげ》の|絶頂《ぜつちやう》へ|行《ゆ》きよつた。それを|嗅《か》ぎつけ、|三公《さんこう》|親分《おやぶん》の|手下《てした》が|五六十人《ごろくじふにん》、|後《あと》|追《お》つかけて、|虎公《とらこう》の|生命《いのち》を|取《と》ると|云《い》つて|往《い》つたのだから、モウ|今頃《いまごろ》は|気《き》の|毒《どく》|乍《なが》ら、|冥途《めいど》の|旅《たび》をしてゐる|時分《じぶん》だ。|何程《なにほど》お|愛《あい》さま、〇〇が|肝腎《かんじん》だと|云《い》つても、|生命《いのち》のない|男《をとこ》を|夫《をつと》に|持《も》つた|所《ところ》が、|仕方《しかた》がねえぢやないか。|人《ひと》は|諦《あきら》めが|大切《たいせつ》だ。|男《をとこ》は|決《けつ》して|虎公《とらこう》|計《ばか》りぢやない。お|前《まへ》の|身《み》の|出世《しゆつせ》になることだから、|私《わたし》が|斯《こ》うして|忠告《ちうこく》をするのだ』
お|愛《あい》『エヽ|何《なん》と、|三公《さんこう》の|乾児《こぶん》|共《ども》があの|虎公《とらこう》さまを|殺《ころ》しに|行《い》つたとは、ソラ|本当《ほんたう》で|御座《ござ》いますか。エヽ|残念《ざんねん》や、|口惜《くちをし》い、|仮令《たとへ》|女《をんな》の|細腕《ほそうで》なりとて、|仇《かたき》をうたいでおくものか、コレ|三公《さんこう》、|女《をんな》の|一念《いちねん》|思《おも》ひ|知《し》つたがよからう』
と|身《み》を|藻《も》がけ|共《ども》、がんじがらみに|縛《しば》られた|其《その》|体《からだ》、|何《ど》うすることも|出来《でき》ないのに、|無念《むねん》の|歯《は》を|喰《く》ひしばり、|恨《うら》み|涙《なみだ》をタラタラと|落《おと》し|乍《なが》ら、|三公《さんこう》の|顔《かほ》を|睨《ね》めつけてゐる。
|三公《さんこう》は|冷《ひや》やかに|笑《わら》ひ|乍《なが》ら、
|三公《さんこう》『アハヽヽヽ、テもいぢらしいものだなア、オイお|愛《あい》、よつく|聞《き》け。|貴様《きさま》は|何時《いつ》ぞやの|夕《ゆふ》べ、|俺《おれ》が|貴様《きさま》に|出会《であ》つて、|此《この》|方《はう》の|女房《にようばう》になる|気《き》はないかと|云《い》つた|時《とき》、|何《なん》と|云《い》ひよつた……|不束《ふつつ》かな|此《この》|私《わたし》、それ|程《ほど》までに|思《おも》うて|下《くだ》さいますか、|女冥加《をんなみやうが》につきまする。|乍併《しかしながら》、|私《わたし》には|両親《りやうしん》が|御座《ござ》いますから、トツクリと|相談《さうだん》を|致《いた》しまして|御返辞《ごへんじ》をする|迄《まで》|待《ま》つて|下《くだ》さい……と|吐《ぬか》したぢやないか。|其《その》とき|厭応《いやおう》|言《い》はさず|手《て》ごめにするのは、いと|易《やす》い|事《こと》だつたが、お|前《まへ》の|人格《じんかく》を|重《おも》んじて、|俺《おれ》も|一旦《いつたん》|言《い》ひ|出《だ》した|男《をとこ》の|顔《かほ》を|下《さ》げるとは|知《し》り|乍《なが》ら、|辛抱《しんばう》して|待《ま》つてゐたのだ。さうした|所《ところ》が、|一年《いちねん》|経《た》つても|二年《にねん》|経《た》つても|何《なん》とか|彼《か》とか|云《い》つて、|此《この》|方《はう》をチヨロまかし、|到頭《たうとう》|虎公《とらこう》の|野郎《やらう》が|所《とこ》へ|嫁入《よめいり》をしやがつた。|憎《につく》き|代物《しろもの》だ。モウ|斯《こ》うならば|俺《おれ》も|男《をとこ》だ。|貴様《きさま》が|虎公《とらこう》の|奴《やつ》へ|行《い》つてから、|最早《もはや》|三年《さんねん》にもなるだらう。|俺《おれ》が|貴様《きさま》に|懸想《けさう》してから、|今年《ことし》で|早《はや》|五年《ごねん》、|未《ま》だ|独身《どくしん》|生活《せいくわつ》をしてをるのも、|何《なん》の|為《ため》だと|思《おも》ふ。チツとは|俺《おれ》の|心《こころ》も|推量《すゐりやう》したら|如何《どう》だ、|片意地《かたいぢ》|張《は》る|計《ばか》りが|女《をんな》の|能《のう》ではあるまいぞ』
お|愛《あい》『エー、アタ|厭《いや》らしい。|大蛇《をろち》の|如《や》うな|無頼漢《ならずもの》の|三公《さんこう》に、|誰《たれ》が、|女《をんな》が|相手《あひて》になる|者《もの》がありますか。|至《いた》る|所《ところ》でゲヂゲヂのやうに|嫌《きら》はれ、|女房《にようばう》になる|者《もの》がないので、|止《や》むを|得《え》ず|独身《どくしん》|生活《せいくわつ》をしてゐる|癖《くせ》に、ようマアそんな|事《こと》が、|白々《しらじら》しい、|言《い》はれたものだ。|仮令《たとへ》|此《この》|身《み》は|殺《ころ》されて、|此《この》|肉体《にくたい》を|烏《からす》にコツかしても、|三公《さんこう》の|様《やう》な|嫌《きら》ひな|男《をとこ》に、|指一本《ゆびいつぽん》|触《さ》へさしてなるものか。いい|加減《かげん》に|諦《あきら》めて、|舌《した》でも|咬《か》んで|死《し》んだが|宜《よ》からう。エヽお|前《まへ》の|方《はう》から|出《で》て|来《く》る|風《かぜ》|迄《まで》、|気分《きぶん》の|悪《わる》い|香《にほひ》がする』
と|捨鉢気味《すてばちぎみ》の|生命《いのち》|知《し》らずに、|思《おも》ひ|切《き》つて|喋《しやべ》り|立《た》てる。|三公《さんこう》は|怒髪天《どはつてん》をつき、|岩《いは》を|下《お》り|来《きた》り、お|愛《あい》の|前《まへ》に|立《た》ちはだかり、|蠑螺《さざえ》の|様《やう》な|拳骨《げんこつ》をグツと|固《かた》めて|目《め》の|前《まへ》に|突出《つきだ》し、|三《み》つ|四《よ》つクルリクルリと|上下《うへした》に|廻転《くわいてん》させ|乍《なが》ら、
|三公《さんこう》『オイお|愛《あい》、|是《これ》は|何《なん》だと|思《おも》つてゐるか、|中《なか》まで|骨《ほね》だぞ。|鉄《てつ》よりも|固《かた》い|此《この》|鬼《おに》の|蕨《わらび》が|貴様《きさま》の|脳天《なうてん》へ、|一《ひと》つ|御見舞《おみまひ》|申《まを》すが|最後《さいご》、|脆《もろ》くも|寂滅為楽《じやくめつゐらく》、|死出《しで》の|旅《たび》だ。いい|加減《かげん》に|覚悟《かくご》を|定《き》めて、|好《よ》い|返辞《へんじ》をしたら|如何《どう》だ。|俺《おれ》だとて|万更《まんざら》|木石《ぼくせき》でもない、|暖《あたたか》い|血《ち》もあれば|涙《なみだ》もある。そちらの|出《で》やうに|依《よ》つちや、|何《なん》とも|知《し》れない|親切《しんせつ》な|男《をとこ》だ。そんな|我《が》を|出《だ》さずに、|暫《しばら》く|試《こころ》みに|俺《おれ》の|言《い》ひ|状《じやう》について|見《み》よ。|忽《たちま》ち|貴様《きさま》は|相好《さうがう》を|崩《くづ》し、……|世《よ》の|諺《ことわざ》にも|曰《い》ふ|通《とほ》り、|人《ひと》は|見《み》かけによらぬものだ、あれ|程《ほど》|恐《おそ》ろしい|嫌《きら》いな|男《をとこ》と|思《おも》ひ|込《こ》んでゐた|此《こ》の|三公《さんこう》は|何《なん》とした|親切《しんせつ》な|男《をとこ》だらう、|虎公《とらこう》に|比《くら》ぶれば、どこともなしに|男振《をとこぶり》も|好《よ》いなり、|親切《しんせつ》も|深《ふか》い、|気甲斐性《きがひしやう》もある。こんな|立派《りつぱ》な|男《をとこ》を|何故《なにゆゑ》あの|様《やう》に、|痩馬《やせうま》が|荷《に》を|覆《かへ》す|様《やう》に、|嫌《きら》うたのだらう|三公《さんこう》さま|誠《まこと》に|済《す》みませなんだ、どうぞ|末永《すえなが》う、|幾久《いくひさ》しく|可愛《かあい》がつて|下《くだ》さい……と|云《い》つて、|嬉《うれ》し|涙《なみだ》にかきくれ、|俺《おれ》が|一足《ひとあし》|外《そと》へ|出《で》るのも、|気《き》に|病《や》んで|放《はな》さない|様《やう》になつて|来《く》るのは、|火《ひ》を|睹《み》る|様《やう》な|明《あきら》かな|事実《じじつ》だ。なアお|愛《あい》、ここは|一《ひと》つ|胸《むね》に|手《て》を|当《あ》てて|考《かんが》へて|見《み》たら|如何《どう》だ』
とソロソロ|怖《こは》い|顔《かほ》を、|何時《いつ》の|間《ま》にやら|柔《やはら》げて|了《しま》つてゐる。
お|愛《あい》『ホツホヽヽ|何《なん》とマア|腰抜男《こしぬけをとこ》だらう。|団栗眼《どんぐりめ》を|柳《やなぎ》の|葉《は》のやうに|細《ほそ》くして、|涎《よだれ》まで|垂《た》らして、|見《み》つともない、そんな|屁古垂男《へこたれをとこ》に|猫《ねこ》だつて、|鼬《いたち》だつて、|心中立《しんぢうだて》をする|者《もの》があつて|堪《たま》りませうか。サア|早《はや》う|殺《ころ》して|下《くだ》さい。|冥途《めいど》に|御座《ござ》る|虎公《とらこう》と、|手《て》に|手《て》を|取《と》つて|死出《しで》の|山路《やまみち》|三途《さんづ》の|川《かは》、お|前《まへ》のデレ|加減《かげん》を|嘲《あざけ》り|乍《なが》ら、|極楽《ごくらく》|参《まゐ》りをする|程《ほど》に、サア|早《はや》く|殺《ころ》しやいのう』
|三公《さんこう》『ハテさて|能《よ》くも|惚《のろ》けたものだなア。|虎公《とらこう》の|様《やう》なしみつたれ|男《をとこ》の、どこが|気《き》に|容《い》つたのか、|合点《がつてん》のゆかぬ|事《こと》もあればあるものだなア』
お|愛《あい》『ホツホヽヽ|何《なん》とマア|偉《えら》い|惚《のろ》け|方《かた》だこと、|何程《なんぼ》お|前《まへ》が|惚《のろ》けしやんしても、|合縁奇縁《あひえんきえん》、|私《わたし》は|如何《どう》しても|虫《むし》が|好《す》きませぬわいな。|乍併《しかしながら》|此《この》|広《ひろ》い|世《よ》の|中《なか》、|蓼喰《たでく》ふ|虫《むし》も|好《す》き|好《ず》きとやら、|苦《にが》い|煙草《たばこ》にも|喜《よろこ》んで|喰《く》ひつく|虫《むし》があるのだから、お|前《まへ》も|嫌《きら》はれた|女《をんな》に、|何時《いつ》|迄《まで》も|未練《みれん》たらしい、|秋波《しうは》を|送《おく》るよりも、|沢山《たくさん》の|乾児《こぶん》を|持《も》つて|御座《ござ》るのだから、|目《め》つかちなつと、|跛《ちんば》なつと、|鼻曲《はなまが》りなつと|探《さが》し|出《だ》して、|女房《にようばう》に|持《も》たしやんせ、オホヽヽヽ、お|気《き》の|毒《どく》|様《さま》……』
|三公《さんこう》『コリヤお|愛《あい》、|黙《だま》つて|聞《き》いて|居《を》れば、|余《あま》りの|過言《くわごん》でないか。|貴様《きさま》は|善言美詞《ぜんげんびし》の|言霊《ことたま》を|使《つか》へと|教《をし》ふる、|無抵抗主義《むていかうしゆぎ》の|三五教《あななひけう》の|信者《しんじや》ぢやないか。そんな|暴言《ばうげん》を|吐《は》いても、|天則違反《てんそくゐはん》にはならないのか』
お|愛《あい》『ヘン|天則違反《てんそくゐはん》が|聞《き》いて|呆《あき》れますワイ。|大蛇《をろち》の|三公《さんこう》と|云《い》ふ|蛆虫《うじむし》こそ、|天則違反《てんそくゐはん》の|張本人《ちやうほんにん》だ。あゝあ、|気味《きみ》が|悪《わる》い、どうぞ、そつちへよつて|下《くだ》さい。|吐《あ》げさうになつて|来《き》ました』
|兼公《かねこう》『コリヤ|女《あま》ツちよ、|柔《やはら》かく|出《で》ればつけ|上《あ》がり、|何《なん》と|云《い》ふ|劫託《がふたく》を|吐《ほ》ざくのだ。それ|程《ほど》|殺《ころ》して|欲《ほつ》しければ、|殺《ころ》してやらぬことはない。|乍併《しかしながら》、かやうなナイスを|無残々々《むざむざ》|殺《ころ》すのも|勿体《もつたい》ねえ。ここは|一《ひと》つ|思案《しあん》を|仕直《しなほ》して、|犠牲《ぎせい》になる|積《つも》りでウンと|云《い》つたら|如何《どう》だ。|冥途《めいど》へ|行《い》つて|虎公《とらこう》に|会《あ》ふなんて、そんな|雲《くも》を|掴《つか》む|様《やう》な|望《のぞ》みを|起《おこ》すな』
お|愛《あい》『コレ|兼《かね》、お|前《まへ》の|出《で》る|幕《まく》ぢやない、スツ|込《こ》んで|居《ゐ》なさい。すつ|込《こ》んでゐるのが|気《き》に|入《い》らねば、|目《め》なと|噛《か》んで|死《し》んだが|宜《よ》からう。お|前達《まへたち》が|此《この》|世《よ》に|居《を》るものだから、|米《こめ》が|高《たか》うなる|計《ばか》りだ』
|兼公《かねこう》『あゝあ、サツパリ|駄目《だめ》だ。|乍併《しかしながら》、こんなシヤンに、|仮令《たとへ》|悪口《あつこう》でも|詞《ことば》をかけて|貰《もら》うたと|思《おも》へば、|俺《おれ》も|光栄《くわうえい》だ、アハヽヽヽ』
お|愛《あい》『オホヽヽヽお|前《まへ》はヤツパリ|私《わたし》の|生命《いのち》を|取《と》るのが|惜《を》しいと|見《み》える。|甲斐性《かひしやう》のない|男《をとこ》だなア。|何程《なにほど》おどしても|慊《すか》しても、|痩《やせ》てもこけても、|侠客《けふかく》の|妻《つま》、こんな|事《こと》で|屁古《へこ》たれて、|如何《どう》して|夫《をつと》の|顔《かほ》が|立《た》つものか。これでも|内《うち》へ|帰《かへ》れば、|沢山《たくさん》の|乾児《こぶん》に、かしづかれ、|姉貴々々《あねきあねき》と|敬《うやま》はれる|姐御《ねえ》さまだ。お|前《まへ》の|様《やう》な|痩犬《やせいぬ》に|吠《ほ》えつかれて、ビクつくやうな|事《こと》で、|侠客《けふかく》の|女房《にようばう》にはなれませぬぞや、オホヽヽヽ。あの|兼公《かねこう》の|青《あを》い|顔《かほ》わいのう』
|兼公《かねこう》『|何《なん》と|剛情《がうじやう》な|姐貴《あねき》だなア。これ|丈《だけ》|身動《みうご》きもならぬ|様《やう》に|縛《いまし》められ、|活殺《くわつさつ》|自在《じざい》の|権《けん》を|握《にぎ》られた|敵《てき》の|前《まへ》で、これ|丈《だけ》の|劫託《がふたく》を|並《なら》べるとは、|太《ふて》え|度胸《どきよう》だ。|姐貴《あねき》、|俺《おれ》も|感心《かんしん》した。|虎公《とらこう》が|惚《ほ》れたのも|無理《むり》ではあるまい。|俺《おれ》も|今日《けふ》から|姐貴《あねき》の|乾児《こぶん》になるワ』
|与三《よさ》『オイ|兼公《かねこう》、ソリヤ|貴様《きさま》、|何《なに》を|云《い》ふのだ。|親分《おやぶん》の|前《まへ》ぢやないか。そんなこと|吐《ぬか》すと、|貴様《きさま》も|一緒《いつしよ》に|殺《たた》んでやらうか』
|兼公《かねこう》『ヘン、|何《なに》を|吐《ぬか》すのだい、|早《はや》く|殺《たた》んで|欲《ほ》しいワイ。こんな|美《うつく》しいシヤンと|一緒《いつしよ》に|心中《しんぢう》するのなら、|大光栄《だいくわうえい》だ。|早《はや》う|俺達《おれたち》を|叩《たた》き|殺《ころ》して|了《しま》へ、|其《その》|代《かは》りに|一《ひと》つ|頼《たの》んでおくことがある。|同《おな》じ|穴《あな》に|向《むか》ひ|合《あは》せにして|埋《い》けてくれ。それ|丈《だけ》が|俺《おれ》の|頼《たの》みだ』
お|愛《あい》『ホツホヽヽ、|好《す》かんたらしい。|誰《たれ》がお|前等《まへら》と|一緒《いつしよ》に|埋《い》けられて|堪《たま》りますかい。|冥途《めいど》へ|往《い》つて|迄《まで》、つきまとはれては、|夫《をつと》の|虎公《とらこう》にどんなに|怒《おこ》られるか|知《し》れませぬわいな。お|前《まへ》は|勝手《かつて》に|殺《ころ》されなされ。|私《わたし》にチツとも|関係《くわんけい》はありませぬから……』
|兼公《かねこう》『エヽ|口《くち》の|悪《わる》い|女《をんな》だなア。|人《ひと》には|添《そ》うて|見《み》い、|馬《うま》には|乗《の》つて|見《み》いだ。|今《いま》お|前《まへ》が|此《この》|兼公《かねこう》をゲヂゲヂの|様《やう》に|嫌《きら》つてゐるが、|冥途《めいど》へ|行《い》つて|死出《しで》の|道伴《みちづ》れをするやうになつてから|思《おも》ひ|当《あた》るだらう。|人《ひと》は|見《み》かけによらぬものだ、こんな|男《をとこ》と|冥途《めいど》の|旅《たび》をするのなら、|仮令《たとへ》|地獄《ぢごく》の|釜《かま》のドン|底《ぞこ》まで……と|云《い》つて、くつついて|離《はな》れない|様《やう》になりますぞや』
お|愛《あい》『オツホヽヽ、|三公《さんこう》の|受売《うけうり》をしても、|流行《はや》りませぬぞや。エヽ|汚《けが》らはしい、|其方《そつち》へ|行《い》つて|下《くだ》さい。|気持《きもち》ちの|悪《わる》い|匂《にほひ》のする|男《をとこ》だなア』
|三公《さんこう》『オイ|与三《よさ》、モウ|斯《こ》うなつちや|仕方《しかた》がない。お|愛《あい》も|一人《ひとり》で|冥途《めいど》の|旅《たび》は|淋《さび》しからうから、|妹《いもうと》のお|梅《うめ》も|一緒《いつしよ》にバラしてやれ。|序《ついで》に|兼公《かねこう》の|裏返《うらがへ》り|者《もの》も、|以後《いご》の|見《み》せしめに|血祭《ちまつ》りにして|了《しま》へ。そうなくちや|三公《さんこう》の|顔《かほ》が|立《た》たねえ。|可哀相《かはいさう》なものだが、こうなつちや、|引《ひ》くに|引《ひ》かれぬ|場合《ばあひ》だ、アヽ|惜《をし》い|者《もの》だなア』
|与三公《よさこう》は|矢庭《やには》に|懐《ふところ》から|細紐《ほそひも》を|取出《とりだ》し、|兼公《かねこう》の|背後《はいご》より|首《くび》に|引《ひ》つかけ、|二三間《にさんげん》|引摺《ひきず》つた。|兼公《かねこう》は|顋《あご》をかけられたまま、|手足《てあし》をもがきつつ|苦《くるし》んでゐる。|寄《よ》つてかかつて|大勢《おほぜい》の|乾児《こぶん》は、|兼公《かねこう》の|体《からだ》をがんじ|搦《がら》みに|巻《ま》いて|了《しま》つた。
|今年《ことし》|十五才《じふごさい》になつた、お|愛《あい》の|義妹《いもうと》のお|梅《うめ》は|最前《さいぜん》から|目《め》を|塞《ふさ》ぎ、|素知《そし》らぬ|顔《かほ》をして、|大勢《おほぜい》の|目《め》を|盗《ぬす》み|乍《なが》ら、|自分《じぶん》の|綱《つな》をスツカリほどき、|依然《いぜん》として|縛《しば》られた|様《やう》な|風《ふう》を|装《よそほ》うてゐた。|三公《さんこう》|始《はじ》め|一同《いちどう》の|奴《やつ》は、お|愛《あい》の|方《はう》に|気《き》を|取《と》られて、お|梅《うめ》が|何時《いつ》とはなしに|斯《こ》んなことをしてゐるのに|気《き》がつかなかつたのである。
|日《ひ》は|漸《やうや》く|暮《く》れかけた。|三公《さんこう》は|以前《いぜん》の|岩《いは》の|上《うへ》に|腰《こし》|打《うち》かけ、|三人《さんにん》を|冷《ひや》やかに|見下《みくだ》し|乍《なが》ら、
|三公《さんこう》『ソラ|討《う》て、やつつけろ!』
と|下知《げち》してゐる。|与三公《よさこう》|始《はじ》め|大勢《おほぜい》の|乾児《こぶん》は|三人《さんにん》を|目《め》がけてバタバタと|駆《かけ》より、|打《う》つ、|蹴《け》る、|擲《なぐ》る、|忽《たちま》ち|修羅場《しゆらぢやう》が|現出《げんしゆつ》した。|斯《か》かる|処《ところ》へ|森《もり》の|谺《こだま》を|響《ひび》かして、|宣伝歌《せんでんか》が|聞《きこ》えて|来《き》た。
(大正一一・九・一四 旧七・二三 松村真澄録)
第一八章 |三人塚《さんにんづか》〔九五九〕
|孫公《まごこう》『|神《かみ》が|表《おもて》に|現《あら》はれて  |善《ぜん》と|悪《あく》とを|立《た》て|別《わ》ける
|醜女《しこめ》|探女《さぐめ》や|鬼《おに》|大蛇《をろち》  |虎《とら》|狼《おほかみ》の|吠《ほ》え|猛《たけ》り
|勢《いきほひ》|猛《たけ》く|攻《せ》めくとも  などか|恐《おそ》れむ|敷島《しきしま》の
|誠《まこと》の|道《みち》の|神司《かむつかさ》  |弱《よわ》きを|助《たす》け|強《つよ》きをば
|言向《ことむ》け|和《やは》す|神業《かむわざ》に  |仕《つか》ふる|身《み》こそ|楽《たの》しけれ
|此《この》|世《よ》を|造《つく》りし|神直日《かむなほひ》  |心《こころ》も|広《ひろ》き|大直日《おほなほひ》
|唯《ただ》|何事《なにごと》も|人《ひと》の|世《よ》は  |直日《なほひ》に|見直《みなほ》し|聞直《ききなほ》し
|宣《の》り|直《なほ》し|行《ゆ》く|其《その》|時《とき》は  |天《あめ》が|下《した》なるもろもろは
|残《のこ》らず|吾《われ》の|味方《みかた》のみ  |仇《あだ》も|曲津《まがつ》も|忽《たちま》ちに
|旭《あさひ》に|露《つゆ》と|消《き》えて|行《ゆ》く  |三千世界《さんぜんせかい》の|梅《うめ》の|花《はな》
|一度《いちど》に|開《ひら》く|神《かみ》の|道《みち》  |此《この》|世《よ》を|救《すく》ふ|生神《いきがみ》は
|国治立大神《くにはるたちのおほかみ》や  |神素盞嗚大御神《かむすさのをのおほみかみ》
|筑紫《つくし》の|島《しま》を|守《まも》ります  |国魂神《くにたまがみ》の|純世姫《すみよひめ》
|神《かみ》の|御稜威《みいづ》の|現《あら》はれて  |常世《とこよ》の|泥《どろ》もすみ|渡《わた》る
|朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも  |月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも
|曲津《まがつ》は|如何《いか》に|猛《たけ》るとも  |誠《まこと》の|力《ちから》は|世《よ》を|救《すく》ふ
|黒姫《くろひめ》さまの|一行《いつかう》は  |今《いま》はいづこにさまよふか
|聞《き》かま|欲《ほ》しやと|来《き》て|見《み》れば  |片方《かたへ》の|森《もり》に|人《ひと》の|声《こゑ》
|唯事《ただごと》ならぬ|気配《けはい》なり  あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸倍《さちはへ》ましまして  |此《この》|世《よ》の|中《なか》の|人々《ひとびと》は
|互《たがひ》に|誠《まこと》を|尽《つく》しあひ  |愛《あい》し|愛《あい》され|末長《すゑなが》く
|神《かみ》の|作《つく》りし|神《かみ》の|世《よ》に  |常世《とこよ》の|春《はる》を|楽《たの》しみて
|栄《さか》えと|光《ひかり》と|喜《よろこ》びの  |雨《あめ》に|浴《よく》させたまへかし
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ』
かく|宣伝歌《せんでんか》を|謡《うた》ひながら、|怪《あや》しき|人声《ひとごゑ》を|聞《き》きつけて、|唯事《ただごと》ならじと|駆《か》けて|来《き》たのは|孫公《まごこう》であつた。|孫公《まごこう》は、|大蛇《をろち》の|三公《さんこう》の|手下《てした》|共《ども》|数十人《すうじふにん》|集《あつ》まつて|二人《ふたり》の|男女《だんぢよ》を|縛《しば》り|上《あ》げ、|打《う》つ、|蹴《け》る、|擲《なぐ》るの|大惨状《だいさんじやう》を|見《み》るより|早《はや》く、|夕暮《ゆふぐれ》を|幸《さいは》ひ|木蔭《こかげ》に|佇《たたず》んで|大音声《だいおんじやう》、
|孫公《まごこう》『ヤアヤア、|此《この》|方《はう》は|火《ひ》の|国都《くにみやこ》の|高山彦命《たかやまひこのみこと》であるぞ。|此《この》|森林《しんりん》に|若《わか》き|女《をんな》を|連《つ》れ|来《きた》り、|乱暴《らんばう》を|致《いた》す|曲者《くせもの》、|今《いま》|高山彦《たかやまひこ》が|神力《しんりき》によつて|打《う》ち|亡《ほろ》ぼし|呉《く》れむ。どうだ、|改心《かいしん》|致《いた》してそれなる|男女《だんぢよ》を|助《たす》け、|此《この》|場《ば》を|立《た》ち|去《さ》らばよし、|聞《き》かぬに|於《おい》ては、|神変《しんぺん》|不思議《ふしぎ》の|神力《しんりき》によつて、|其《その》|方《はう》|共《ども》|一人《ひとり》も|残《のこ》さず|冥途《めいど》の|旅立《たびだ》ちをなさしめむ。どうだ|返答《へんたふ》を|聞《き》かせ!』
|此《この》|時《とき》|樟《くす》の|樹上《じゆじやう》より、|五六人《ごろくにん》の|声《こゑ》、
『ヤイ|何処《どこ》の|奴《やつ》かは|知《し》らね|共《ども》、|高山彦《たかやまひこ》とは|真赤《まつか》な|偽《いつは》りだらう。|面《つら》を|上《あ》げい!』
と|呶鳴《どな》りつけた。|此《この》|声《こゑ》と|共《とも》に|孫公《まごこう》はフト|樹上《じゆじやう》を|見上《みあ》げる|一刹那《いちせつな》、|孫公《まごこう》の|両眼《りやうがん》めがけて|木《き》の|上《うへ》より|砂《すな》を|掴《つか》んで|投《な》げつけた。|孫公《まごこう》は|両眼《りやうがん》に|砂《すな》をかけられ『アツ』と|一声《ひとこえ》|其《その》|場《ば》に|踞《しやが》み|目《め》を|擦《こす》つて|居《ゐ》る。|其《その》|隙《すき》をねらつて、|与三公《よさこう》は|矢庭《やには》に|首《くび》に|繩《なは》を|引《ひ》きかけ、|二三間《にさんげん》ばかり|引《ひき》ずり|出《だ》した。|孫公《まごこう》は|余《あま》りの|不意打《ふいう》ちに|肝《きも》をつぶし|手足《てあし》を|藻掻《もが》いてゐる。そこへ|数多《あまた》の|手下《てした》はバラバラと|寄《よ》り|集《たか》り、|孫公《まごこう》を|高手小手《たかてこて》に|縛《いまし》めて|仕舞《しま》つた。
|日《ひ》は|漸《やうや》く|地平線下《ちへいせんか》に|没《ぼつ》し|四辺《あたり》は|烏羽玉《うばたま》の|闇《やみ》に|包《つつ》まれて|仕舞《しま》つた。お|梅《うめ》は|闇《やみ》に|紛《まぎ》れて|辛《から》うじて|此《この》|場《ば》を|逃《に》げ|出《だ》し、いづくともなく|姿《すがた》を|隠《かく》して|仕舞《しま》つた。
|三公《さんこう》『アハヽヽヽ、いらざる|邪魔立《じやまだて》を|致《いた》して|此《この》|醜態《ざま》は|何《なん》の|事《こと》だ。|火《ひ》の|国都《くにみやこ》の|高山彦《たかやまひこ》とはそれや|何《なに》を|吐《ぬか》す。|此《この》|方《はう》を|何《なん》と|心得《こころえ》て|居《ゐ》るか。|大蛇《をろち》の|三公《さんこう》と|云《い》つたら|火《ひ》の|国《くに》に|鳴《な》り|渡《わた》る|侠客《けふかく》の|大親分《おほおやぶん》だ。いらぬ|構《かま》ひ|立《だて》を|致《いた》し、|飛《と》んで|火《ひ》に|入《い》る|夏《なつ》の|虫《むし》、|実《じつ》に|憐《あは》れな|者《もの》だなア……オイ|与三公《よさこう》、|此奴《こいつ》をたたんで|仕舞《しま》へ!』
|与三《よさ》『ハイ、|斯《か》うやつて|縛《いまし》めて|置《お》けば|逃《に》げる|気遣《きづか》ひはありませぬから、マア|悠《ゆつ》くりと|嬲殺《なぶりごろ》しにしてやりませうかい。それよりも|第一《だいいち》お|愛《あい》の|奴《やつ》、もう|一談判《ひとだんぱん》して、|親分《おやぶん》の|言《い》ひ|条《でう》につくやうにしてはどうですか』
|三公《さんこう》『こんな|事《こと》は|俺《おれ》から|直接《ちよくせつ》に|云《い》ふのも|些《ちつ》と|気《き》が|利《き》かねえから、|能弁《のうべん》のお|前《まへ》に|任《まか》す。|旨《うま》くやつて|呉《く》れ。|其《その》|代《かは》り|褒美《ほうび》は|幾何《いくら》でも|遣《つか》はすから……』
|与三《よさ》『ヘイ|承知《しようち》|致《いた》しました。|何《なん》と|云《い》うても【ウン】と|云《い》はせて|見《み》ます。|併《しか》しかう|暗《くら》くてなつては|顔《かほ》も|碌《ろく》に|見《み》えませぬから……オイ|勘州《かんしう》、|灯火《ひ》をつけい……|親分《おやぶん》|安心《あんしん》して|下《くだ》さいませ』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら、お|愛《あい》の|傍《そば》へ|探《さぐ》り|探《さぐ》り|近寄《ちかよ》つた。|勘州《かんしう》は|森《もり》の|枯木《かれき》を|集《あつ》め、|火《ひ》を|切《き》り|出《だ》して【パツ】とつけた。|四辺《あたり》は|忽《たちま》ち|昼《ひる》の|如《ごと》くなつて|来《き》た。|沢山《たくさん》の|乾児《こぶん》が|枯枝《かれえだ》や|木《こ》の|葉《は》を|掻《か》き|集《あつ》めて|山《やま》のやうに|積《つ》んだ。|火《ひ》は|益々《ますます》|燃《も》え|上《あが》り、|四辺《あたり》は|昼《ひる》の|如《ごと》くなつて|仕舞《しま》つた。
|与三《よさ》『これこれお|愛《あい》さま、どうだな。もう|思案《しあん》が|付《つ》きましたかなア。よもやこれだけ|威勢《ゐせい》の|強《つよ》い|三公《さんこう》さまを|夫《をつと》にもつのを|嫌《いや》とは|云《い》ひますまいねえ』
お|愛《あい》『エヽ|汚《けが》らはしい|又《また》しても|又《また》してもそんな|事《こと》を|云《い》うてお|呉《く》れるな。|誰《たれ》が|此《この》|様《やう》な|悪人《あくにん》に|靡《なび》くものがありますかい。|些《ちつ》と|三公《さんこう》の|面《つら》と|御相談《ごさうだん》なさいませ。|仮令《たとへ》|乾児《こぶん》は|尠《すくな》うても、|武野村《たけのむら》の|侠客《けふかく》|虎公《とらこう》さまと|云《い》つたら、|界隈《かいわい》に|名《な》の|響《ひび》いた、|善《ぜん》を|勧《すす》め|悪《あく》を|誡《いまし》め、|弱《よわ》きを|助《たす》け|強《つよ》きを|挫《くじ》く|侠客《けふかく》だ。|此《この》お|愛《あい》は|痩《やせ》てもこけても|虎公《とらこう》さまの|女房《にようばう》だ……|否《い》やと|云《い》ふのにお|前《まへ》は|諄《くど》い、|一度《いちど》いやなら|何時《いつ》もいや……と|云《い》ふ|都々逸《どどいつ》の|文句《もんく》ぢやないが|腸《はらわた》まで|染《し》み|込《こ》んだこの|嫌《きら》いが、どうして|洗《あら》ひさらはるものか。そんな|事《こと》いつ|迄《まで》も|掛《か》け|合《あ》つて|居《ゐ》るよりも|早《はや》く|殺《ころ》しなさい。|牛糞《うしぐそ》に|火《ひ》のついたやうに、【クスクス】と|埒《らち》の|明《あ》かぬ|野郎《やらう》だなア』
|与三《よさ》『オイお|愛《あい》の|姐貴《あねき》、ほんとに|太《ふと》い|度胸《どきよう》だなア。|俺《おれ》もすつかり|感服《かんぷく》して|仕舞《しま》つた。こんな|姐貴《あねき》を|親分《おやぶん》にもつた|乾児《こぶん》|共《ども》は|幸福《しあはせ》な|事《こと》だらう。|俺《おれ》も|同《おな》じ|事《こと》ならこんな|親分《おやぶん》が|持《も》ちてえワ』
|三公《さんこう》『これやこれや|与三《よさ》、それや|何《なに》を|云《い》ふのだ』
|与三《よさ》『ヘイ、うつかりと|心《こころ》を|空《むな》しうして|居《ゐ》たものだから、|兼公《かねこう》の|生霊《いきりやう》|奴《め》、|与三公《よさこう》の|肉体《にくたい》へ|入《はい》りやがつて、こんな|事《こと》を|吐《ぬか》しやがるのです。イヤもう|困《こま》つた|野郎《やらう》でげすわい』
|三公《さんこう》『|是《これ》から|些《ちつ》と|気《き》をつけないと、|悪魔《あくま》に|憑依《ひようい》されて|忽《たちま》ち|兼公《かねこう》のやうに|心機一転《しんきいつてん》し、こんな|目《め》に|遇《あ》はなければならないぞ』
|与三《よさ》『ハイ|承知《しようち》|致《いた》しました。|今後《こんご》はキツと|注意《ちゆうい》を|致《いた》します。|時《とき》に|親分《おやぶん》、|此処《ここ》へ|来《き》よつた|高山彦《たかやまひこ》と|云《い》ふ|餓鬼《がき》ア|一体《いつてい》どこの|奴《やつ》でせう』
|三公《さんこう》『どこの|奴《やつ》でも|構《かま》やしねえ。|叩《たた》き|伸《の》ばして|埋《う》めて|仕舞《しま》へばいいのだ。|兼公《かねこう》も|序《ついで》に|埋《う》めてやれ』
|与三《よさ》『モシ|親分《おやぶん》、|兼公《かねこう》|丈《だけ》や|許《ゆる》してやつて|下《くだ》さいな。|彼奴《あいつ》も|中々《なかなか》|親分《おやぶん》の|為《ため》には|蔭《かげ》になり|日向《ひなた》になり、|力《ちから》を|尽《つく》した|奴《やつ》ですからなア。|親分《おやぶん》がこれだけ|顔《かほ》が|売《う》れたのも、|兼公《かねこう》の|斡旋《あつせん》|預《あづか》つて|大《おほい》に|力《ちから》ありと|云《い》つても|宜《よろ》しい』
|兼公《かねこう》は|此《この》|問答《もんだふ》を|聞《き》き、|手足《てあし》を|縛《しば》られた|儘《まま》|声《こゑ》をかけ、
『モシ|親分《おやぶん》、|此《この》|繩《なは》を|解《と》いて|下《くだ》さい。|最前《さいぜん》は|大変《たいへん》にお|腹《はら》を|立《た》てさせましたが、あれや|俺《わつち》が|云《い》つたのぢやない、|虎公《とらこう》の|生霊《いきりやう》|奴《め》がフイと|憑《うつ》りやがつて、|俺《わつち》の|口《くち》を|借《か》り、あんな|事《こと》|云《い》つたのですよ。|俺《わつち》は|真実《ほんと》に|迷惑《めいわく》でげす』
|与三《よさ》『|兼公《かねこう》、|気《き》がついたか。アヽ|結構《けつこう》|々々《けつこう》。|確《しつか》りせないと|又《また》、|虎公《とらこう》の|霊《れい》に|憑《つ》かれるぞ。なア|親分《おやぶん》さま、|兼公《かねこう》の|繩《なは》を|解《と》いてやりませうか』
|三公《さんこう》『マア|待《ま》て|待《ま》て、さう|慌《あわて》るにや|及《およ》ばない。それよりも、|早《はや》くお|愛《あい》に|結局《けつきよく》の|話《はなし》を|極《き》めさせて|呉《く》れ、それが|第一《だいいち》の|目的《もくてき》だから……』
|兼公《かねこう》『オイ|与三公《よさこう》、|貴様《きさま》|一人《ひとり》ぢや|覚束《おぼつか》ないぞ。|俺《おれ》も|加勢《かせい》をしてやるから、|早《はや》く|此《この》|繩《なは》を|解《と》けい』
|三公《さんこう》『オイ|与三《よさ》、|俺《おれ》の|命令《めいれい》が|下《くだ》る|迄《まで》|決《けつ》して|解《と》いちやならぬぞ。|此奴《こいつ》はどうしても|二心《ふたごころ》だから、|些《ち》つとも|油断《ゆだん》は|出来《でき》やしねえ』
|与三《よさ》『オイ|兼公《かねこう》、|貴様《きさま》の|聞《き》く|通《とほ》りだ、|親分《おやぶん》の|云《い》ふ|通《とほ》りだ、|俺《おれ》も|此《この》|通《とほ》りだ。|仕方《しかた》がねえや、まア|暫《しばら》く|其処《そこ》に|辛抱《しんばう》するがよい』
|三公《さんこう》『オイ|与三公《よさこう》、お|梅《うめ》の|阿魔《あま》ツちよが|居《を》らぬぢやねえか。|彼奴《あいつ》に|逃《に》げられちや|大変《たいへん》だぞ』
|与三《よさ》『ヤア|如何《いか》にもお|梅《うめ》の|奴《やつ》、いつの|間《ま》に|風《かぜ》を|喰《くら》つて|逃《に》げよつたのかな。|何《なん》と|機敏《すばしこ》いやつだなア。|彼奴《あいつ》が|此《この》|事《こと》を|虎公《とらこう》にでも|報告《はうこく》しようものなら|夫《それ》こそ|大変《たいへん》だ。オイ|乾児《こぶん》の|奴等《やつら》、|早《はや》くお|梅《うめ》の|後《あと》を|追《お》つかけて|探《さが》して|来《こ》い』
|勘公《かんこう》『|鼻《はな》を|摘《つま》まれても|分《わか》らねえやうな、|真《しん》の|闇《やみ》に|探《さが》しに|往《い》つたつて|分《わか》りませうか。|此処《ここ》には|灯《ひ》があるから|足許《あしもと》が|見《み》えるが、|一町《いつちやう》|先《さき》は|真闇《まつくら》がりだ。|明朝《あす》の|事《こと》にしたらどうでげせうな』
|与三《よさ》『それもさうだ。|仕方《しかた》がねえなア。もし|親分《おやぶん》さま、|明朝《あす》|悠《ゆつ》くり|探《さが》す|事《こと》にしませうか。|虎公《とらこう》の|野郎《やらう》も、|六《ろく》があれだけの|手下《てした》を|連《つ》れて|行《い》つたのだから、もう|今頃《いまごろ》は|寂滅為楽《じやくめつゐらく》になつて|居《ゐ》るのは|鏡《かがみ》にかけて|見《み》るやうなものでげせう。|虎公《とらこう》なんぞに|気遣《きづかひ》はいりますまい』
|三公《さんこう》『いやいや、|彼奴《あいつ》も|中々《なかなか》の|強者《しれもの》だ。さう|闇々《やみやみ》と|斃《くた》ばりもしよまい。|余《あま》り|楽観《らくくわん》は|出来《でき》まいぞ。|併《しか》し|乍《なが》ら|此《この》|暗夜《やみよ》では|仕方《しかた》が|無《な》い。まアまア|明朝《あす》の|事《こと》にしたがよからう』
お|愛《あい》『コラ|三公《さんこう》、|与三公《よさこう》、|何《なに》を|愚図々々《ぐづぐづ》して|居《ゐ》るのだ。|早《はや》く|此《この》お|愛《あい》を|片付《かたづ》けないか。|辛気臭《しんきくさ》いワイ。|其《その》|代《かは》りに|今《いま》|其処《そこ》へ|見《み》えた|高山彦《たかやまひこ》さまとやらを|助《たす》けてやつて|呉《く》れ。|些《ち》つとも|関係《くわんけい》ない|人《ひと》だから|気《き》の|毒《どく》で|堪《たま》らねえから……』
|与三《よさ》『エイ、お|愛《あい》さま、|他人《ひと》の|事《こと》ども|云《い》ふ|所《どころ》ぢやあるまいぞ。お|汝《まへ》さま|生死《せいし》の|境《さかひ》に|立《た》つて|居《ゐ》て、そんな|気楽《きらく》の|事《こと》を|云《い》つて|居《を》れるものかい』
お|愛《あい》『ホヽヽヽヽこれ|与三《よさ》|何《なに》を|呆《はう》けた|事《こと》を|云《い》ふのだい。|生死一如《せいしいちによ》だ|此《この》|肉体《にくたい》は|仮令《たとへ》|虎《とら》|狼《おほかみ》の|餌食《ゑじき》にならうとも、|肝腎要《かんじんかなめ》のお|愛《あい》さまの|御魂《みたま》は、|万劫末代《まんがふまつだい》|生通《いきどほ》しだ。|早《はや》く|殺《ころ》しなさい。その|代《かは》り|幽冥界《いうめいかい》へ|行《い》つたら|数多《あまた》の|亡者《まうじや》を|手下《てした》に|使《つか》ひ|餓鬼《がき》も|人数《にんず》の|中《うち》、|沢山《たくさん》の|乾児《こぶん》を|引《ひ》き|連《つ》れてお|前《まへ》さまの|生首《なまくび》を|貰《もら》ひに|来《く》るから、それを|楽《たの》しみに|早《はや》くお|愛《あい》をやつつけて|仕舞《しま》ひなさい』
|与三《よさ》『もし|親分《おやぶん》、どうにもかうにも|取《と》りつく|島《しま》がありませぬわ。|命《いのち》を|捨《す》ててかかつとる|女《をんな》に|何程《なにほど》|脅喝《おどし》|文句《もんく》を|並《なら》べても|豆腐《とうふ》に|鎹《かすがひ》|糠《ぬか》に|釘《くぎ》だ。どうしませうかなア』
|三公《さんこう》『|可愛《かあい》さうなものだが|仕方《しかた》がない。|思《おも》ひ|切《き》つて|殺《やつ》つけて|仕舞《しま》へ』
お|愛《あい》『これ|三公《さんこう》、|置《お》いて|下《くだ》さい。|可愛《かあい》さうなものだなんて、|何《なん》とした|弱音《よわね》を|吹《ふ》くのだい。|此《この》お|愛《あい》はお|前《まへ》のやうな|悪垂男《あくたれをとこ》に、|可愛《かあい》さうだなんてそんな|汚《けが》らはしい|事《こと》を|云《い》はれると、|小癪《こしやく》に|触《さは》つてならないのだよ。|虎公《とらこう》さまがいつもいつも|可愛《かあい》い|女《をんな》だと、|連発的《れんぱつてき》に|云《い》つて|下《くだ》さるのだから、ヘン、そんな|馬鹿口《ばかぐち》はやめて|下《くだ》さい。それよりも|侠客《けふかく》で|立《た》つてゆかうと|思《おも》へば、もつと|気《き》を|強《つよ》く|持《も》たねえと|駄目《だめ》だよ。|悪《あく》なら|悪《あく》で|徹底的《てつていてき》に|悪《あく》をやつたが|好《よ》い。|改心《かいしん》をして|善《ぜん》に|立《た》ち|帰《かへ》るのなら|善一筋《ぜんひとすぢ》を|行《おこな》ひなさい。それが|男《をとこ》たるものの|本分《ほんぶん》だ。|気骨《きこつ》もなければ|度胸《どきよう》もない|空威張《からゐば》りの|贋侠客《にせけふかく》が、こんな|大《だい》それた|謀反《むほん》を|起《おこ》すとはちつと|柄《がら》に|合《あ》ふめえよ』
|三公《さんこう》『|云《い》はして|置《お》けばどこ|迄《まで》も|図《づ》に|乗《の》る|悪垂女《あくたれおんな》|奴《め》!』
と|云《い》ひながら、|拳骨《げんこつ》を|固《かた》めて|滅多《めつた》|矢鱈《やたら》に|打《う》ち|据《す》ゑる。お|愛《あい》は|打《う》たれたまま|痛《いた》いとも|痒《かゆ》いとも|云《い》はず|黙言《だま》つて|縡切《ことぎ》れて|仕舞《しま》つた。
|与三《よさ》『もし|親分《おやぶん》、とうとう|斃《くたば》つて|仕舞《しま》ひましたよ。|惜《を》しい|事《こと》をしたものですな』
|三公《さんこう》『|何《なに》|惜《を》しくても|仕方《しかた》がない。|他人《たにん》の|花《はな》と|眺《なが》めるよりも、|三公嵐《さんこうあらし》が|吹《ふ》いて|無残《むざん》に|散《ち》らした|方《はう》が、|未練《みれん》が|残《のこ》らなくていいわ。オイ|愚図々々《ぐづぐづ》して|居《ゐ》ると|何《なに》が|飛《と》び|出《だ》すか|知《し》れやしないぞ。|序《ついで》に|今《いま》|来《き》た|奴《やつ》も|兼公《かねこう》も、|息《いき》の|根《ね》を|止《と》めて|穴《あな》でも|掘《ほ》つて|埋《い》けて|仕舞《しま》へ』
|与三公《よさこう》はお|愛《あい》の|体《からだ》を|撫《な》でて|見《み》て、
|与三《よさ》『ヤアまだ|温《ぬくみ》がある。|何《なん》と|好《よ》い|肌《はだ》だな。まるで|搗《つ》きたての|餅《もち》のやうだ。|虎公《とらこう》が|惚《ほ》れやがつたのも|無理《むり》はない。|親分《おやぶん》|一寸《ちよつと》|来《き》て|見《み》なさい。|此《この》|世《よ》の|名残《なごり》にお|愛《あい》の|肌《はだ》を|一《ひと》つ|撫《な》でて|見《み》たらどうですか。|余《あま》り|悪《わる》い|気持《きもち》もしませぬぞ』
|三公《さんこう》『|馬鹿《ばか》|云《い》ふな|早《はや》く|兼《かね》と|旅《たび》の|奴《やつ》とを|埋《い》けて|仕舞《しま》へ。オイ|皆《みな》の|乾児《こぶん》|共《ども》|此処《ここ》に|穴《あな》を|掘《ほ》れ』
と|下知《げち》する。|勘州《かんしう》を|始《はじ》め|数多《あまた》の|乾児《こぶん》|共《ども》は、|携《たづさ》へて|来《き》た|色々《いろいろ》の|得物《えもの》をもつて|土《つち》を|掘《ほ》り|三人《さんにん》の|縛《しば》つた|体《からだ》を|穴《あな》の|中《なか》へ|放《はう》り|込《こ》み、|上《うへ》から|土《つち》をきせ、|寄《よ》つて|集《たか》つて|足《あし》でどんどんと|地固《ぢがた》めをし、|其《その》|上《うへ》に|沢山《たくさん》の|石《いし》を|拾《ひろ》つて|来《き》て|積《つ》み|重《かさ》ねて|仕舞《しま》つた。
|三公《さんこう》『アハヽヽヽとうとう|三人《さんにん》とも|果敢《はか》ない|事《こと》になつて|仕舞《しま》つた。オイ|皆《みな》の|奴《やつ》、|水《みづ》でも|手向《たむ》けてやれ。|水《みづ》が|無《な》ければ|貴様《きさま》の|燗徳利《かんとつくり》から|小便《せうべん》でも|出《だ》して|手向《たむ》けるのだな。アハヽヽヽ』
と|豪傑《がうけつ》|笑《わら》ひをして|見《み》せる。|数多《あまた》の|乾児《こぶん》は|各自《めいめい》に|裾《すそ》を|引《ひ》きまくり、|寄《よ》つて|集《たか》つて|小便《せうべん》を|垂《た》れかける。
|三公《さんこう》『これでまアお|愛《あい》も|成仏《じやうぶつ》するだらう。オイお|愛《あい》、|貴様《きさま》も|残念《ざんねん》だらうが、かうなるも|前世《ぜんせ》からの|因縁《いんねん》だと|諦《あきらめ》てくれい。|冥途《めいど》へ|往《い》つて|虎公《とらこう》に|遇《あ》つたら……|大蛇《をろち》の|三公《さんこう》は|御壮健《ごさうけん》で|燥《はしや》いで|御座《ござ》る……と|伝言《でんごん》をしてくれえ。|一人旅《ひとりたび》は|気《き》の|毒《どく》だと|思《おも》つて、|俺《おれ》の|乾児《こぶん》の|兼公《かねこう》と|風来《ふうらい》の|旅人《たびびと》をお|前《まへ》の|途連《みちづ》れにつけてやる。これがせめてもの|俺《おれ》がお|前《まへ》に|対《たい》する|好意《かうい》だ。きつと|冥途《めいど》に|往《い》つて|三公《さんこう》を|恨《うら》んではならないぞ。|南無《なむ》お|愛《あい》|頓生菩提《とんしやうぼだい》、モウかうなつては|誰《たれ》だつて|何《なん》の|法蓮華経《ほふれんげきやう》だ。オイ|与三公《よさこう》、|帰《け》えらうぢやないか』
と|先《さき》に|立《た》ち、|闇《やみ》に|紛《まぎ》れて|乾児《こぶん》を|引《ひ》き|連《つ》れ、|心地《ここち》よげに|此《この》|場《ば》を|立《た》ち|去《さ》つて|仕舞《しま》つた。
|最前《さいぜん》から|闇《やみ》に|隠《かく》れて|慄《ふる》ひ|慄《ふる》ひ|此《この》|様子《やうす》を|見《み》て|居《ゐ》たお|梅《うめ》は、|四辺《あたり》に|人《ひと》なきを|見済《みす》まし、|怖々《こわごわ》|此《この》|場《ば》に|近《ちか》よつて|来《き》た。まだ|薪《たきぎ》は|燃《も》えて|居《ゐ》る。その|為《た》め|三人《さんにん》を|埋《うづ》めた|塚《つか》はハツキリと|分《わか》る。お|梅《うめ》は|一生懸命《いつしやうけんめい》に|石《いし》を|掻《か》き|分《わ》けて|救《すく》ひ|出《だ》さうとすれども、|荒男《あらをとこ》が|四五人《しごにん》もよつて|担《かつ》いで|来《き》た|重《おも》い|石《いし》、|押《お》せどもつけども【ビク】とも|動《うご》かばこそ、|遂《つひ》には|力《ちから》|尽《つ》き|脆《もろ》くも|其《その》|場《ば》に|泣《な》き|倒《たふ》れて|仕舞《しま》つた。
(大正一一・九・一四 旧七・二三 加藤明子録)
第一九章 |生命《いのち》の|親《おや》〔九六〇〕
|黒姫《くろひめ》は|石塊《いしころ》だらけの|谷道《たにみち》を|火《ひ》の|国都《くにみやこ》へと|急《いそ》ぎつつ|進《すす》み|行《ゆ》く。|途中《とちう》の|深谷川《ふかたにがは》に|危《あやふ》い|一本《いつぽん》の|丸木橋《まるきばし》が|架《か》つて|居《ゐ》る。|黒姫《くろひめ》は|石橋《いしばし》でも|叩《たた》いて|見《み》て|渡《わた》ると|云《い》ふ|注意深《ちういぶか》い|人間《にんげん》になつて|居《ゐ》た。|建日《たけひ》の|館《やかた》の|建国別《たけくにわけ》の|宣伝使《せんでんし》を、|軽率《けいそつ》にも|吾《わが》|子《こ》では|無《な》いかと|訪問《はうもん》して|失敗《しつぱい》したのに|懲《こ》りたからである。|黒姫《くろひめ》は|一本橋《いつぽんばし》の|裏《うら》を|窺《のぞ》き|込《こ》むと、|幾年《いくねん》かの|風雨《ふうう》に|晒《さら》された|一本橋《いつぽんばし》は、|橋《はし》の|詰《つめ》の|方《はう》が|七八分《しちはちぶ》ばかり|朽《く》ちて|居《ゐ》る。これや|如何《どう》したら|宜《よ》からうかと、|橋詰《はしづめ》に|佇《たたず》んで|吐息《といき》を|洩《も》らして|居《ゐ》る。|折《をり》しも|忽然《こつぜん》として|現《あら》はれた|三尺《さんじやく》ばかりの|一人《ひとり》の|童子《どうじ》|黒姫《くろひめ》の|顔《かほ》を|見上《みあ》げてニヤリと|笑《わら》ひ、
『|吾《わが》|恋《こひ》は|深谷川《ふかたにがは》の|丸木橋《まるきばし》
|渡《わた》るにこはし|渡《わた》らねば
|思《おも》ふ|方《かた》には|会《あ》はれない』
と|謡《うた》つたきりポツと|白煙《はくえん》と|共《とも》に|消《き》えて|了《しま》つた。|黒姫《くろひめ》は|此《この》|奇怪《きくわい》な|現象《げんしやう》にうたれて|不安《ふあん》の|雲《くも》に|包《つつ》まれ|乍《なが》ら、『|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》』と|一生懸命《いつしやうけんめい》に|祈願《きぐわん》を|籠《こ》めて|居《ゐ》る。
|此処《ここ》は|向日峠《むかふたうげ》の|手前《てまへ》であつた。|火《ひ》の|国《くに》の|都《みやこ》へ|行《ゆ》くのには、|火《ひ》の|国崎《くにざき》を|通《とほ》るのが|順路《じゆんろ》である。されど|黒姫《くろひめ》は|左《ひだり》に|広《ひろ》き|火《ひ》の|国《くに》|街道《かいだう》のある|事《こと》に|気《き》づかず、|思《おも》はず|右《みぎ》へ|右《みぎ》へとやつて|来《き》て、|此《この》|山道《やまみち》に|迷《まよ》ひ|込《こ》んで|来《き》たのであつた。|此《この》|時《とき》|又《また》もや|忽然《こつぜん》として|七八人《しちはちにん》の|小《ちひ》さき|童子《どうじ》、|橋《はし》の|袂《たもと》に|現《あら》はれ|互《たがひ》に|手《て》をつなぎ|乍《なが》ら、
|童子《どうじ》『それ|出《で》た、やれ|出《で》た、|現《あら》はれた
|向日峠《むかふたうげ》の|山麓《さんろく》の、|楠《くす》の|木蔭《こかげ》に|鬼《おに》が|出《で》た
|鬼《おに》かと|思《おも》へば|恐《おそ》ろしい
|大蛇《をろち》の|三公《さんこう》が|現《あら》はれて
お|愛《あい》の|方《かた》を|縛《しば》りつけ
|高山彦《たかやまひこ》と|言《い》ふ|男《をとこ》
|兼公《かねこう》|迄《まで》もフン|縛《じば》り
|穴《あな》を|穿《うが》つて|埋《い》けよつた
|大《おほ》きな|岩《いは》が|乗《の》つてある』
と|言《い》つたきり、|又《また》もやプスと|童子《どうじ》の|姿《すがた》は|消《き》え、|後《あと》には|白煙《しろけぶり》が|幽《かす》かに|揺《ゆら》いで|居《ゐ》る。|黒姫《くろひめ》は|両手《りやうて》を|組《く》み|頭《かうべ》を|傾《かたむ》け、
|黒姫《くろひめ》『はてな、|合点《がつてん》のゆかぬ|事《こと》だな。|今《いま》|現《あら》はれた|童子《どうじ》は|魔《ま》か|神《かみ》か、|何《なに》かは|知《し》らぬが、|何《なん》とはなしに|気《き》がかりな|事《こと》を|云《い》つた|様《やう》だ。|高山彦《たかやまひこ》と|云《い》ふ|男《をとこ》がフン|縛《じば》られて|埋《う》められたとか、お|愛《あい》の|方《かた》が|埋《うづ》められたとか|言《い》つた|様《やう》だ。|若《も》しや|恋《こひ》しい|夫《をつと》の|高山彦《たかやまひこ》|様《さま》の|事《こと》ではあるまいか。お|愛《あい》の|方《かた》と|云《い》つたのは、|大方《おほかた》|愛子姫《あいこひめ》の|事《こと》だらう。|向日峠《むかふたうげ》の|山麓《さんろく》と|云《い》へば、まだ|之《これ》から|何程《なにほど》の|里程《りてい》があるか|知《し》らぬが、|何《なに》は|兎《と》もあれ、ヂツとしては|居《を》れなくなつた。あゝ|如何《どう》したら|宜《よ》からうかな。……|妾《わたし》|位《くらゐ》|因果《いんぐわ》の|者《もの》が|世《よ》にあらうか。|勿体《もつたい》ない、|若気《わかげ》の|至《いた》りで、|折角《せつかく》|神様《かみさま》から|貰《もら》うた|男《をとこ》の|児《こ》を|捨《す》てた|天罰《てんばつ》が|酬《むく》うて|来《き》て、する|事《こと》|為《な》す|事《こと》、|何《なに》もかも|此《この》|様《やう》に|〓《いすか》の|嘴《はし》|程《ほど》|喰《く》ひ|違《ちが》ふのであらう。|思《おも》へば|思《おも》へば|罪《つみ》の|深《ふか》い|此《この》|身《み》ぢやなあ』
と|独言《ひとりご》ちつつ|力《ちから》なげに|落涙《らくるい》と|共《とも》に|垂頂《うなだ》れて|居《ゐ》る。|此《こ》の|時《とき》|何処《どこ》ともなく|宣伝歌《せんでんか》が|聞《きこ》え|来《き》たる。
『|朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも  |月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも
|仮令《たとへ》|大地《だいち》は|沈《しづ》むとも  |如何《いか》なる|災難《さいなん》|来《きた》るとも
|神《かみ》に|任《まか》した|宣伝使《せんでんし》  |誠《まこと》|一《ひと》つを|立《た》て|貫《ぬ》けよ
|神《かみ》は|汝《なんぢ》と|倶《とも》にあり  |汝《なんぢ》の|誠《まこと》|現《あら》はれて
|汝《なんぢ》を|救《すく》ふ|神《かみ》の|道《みち》  |此《この》|世《よ》を|救《すく》ふ|生神《いきがみ》は
|天教《てんけう》のお|山《やま》のみでない  |至《いた》る|所《ところ》に|神《かみ》|坐《ゐ》ます
|神《かみ》の|恵《めぐ》みを|諾《うべな》ひて  |飽迄《あくまで》|行《ゆ》けよ|三五《あななひ》の
|黒姫司《くろひめつかさ》の|宣伝使《せんでんし》  |深谷川《ふかたにがは》の|丸木橋《まるきばし》
|如何《いか》に|危《あやふ》く|見《み》えつれど  |汝《なんぢ》の|心《こころ》に|信仰《あななひ》の
|誠《まこと》の|花《はな》の|咲《さ》くならば  |易《やす》く|渡《わた》らむ|神《かみ》の|橋《はし》
|進《すす》めよ|進《すす》め|早《はや》|渡《わた》れ  |吾《われ》は|玉治別司《たまはるわけのかみ》
|汝《なんぢ》の|身魂《みたま》につき|添《そ》ひて  |汝《なれ》が|行末《ゆくすゑ》を|守《まも》りつつ
|此処迄《ここまで》|進《すす》み|来《きた》りけり  あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ』
と|云《い》つたきり、|宣伝歌《せんでんか》の|声《こゑ》はピタリと|止《と》まつて|了《しま》つた。|黒姫《くろひめ》は|此《この》|宣伝歌《せんでんか》の|近《ちか》く|聞《きこ》えたのに|力《ちから》を|得《え》、|玉治別《たまはるわけ》が|此《この》|近《ちか》くに|来《き》て|居《ゐ》る|事《こと》を|心強《こころづよ》く|思《おも》ひ、|萎《しほ》れきつたる|心《こころ》を|取直《とりなほ》し|心待《こころま》ちに|待《ま》つて|居《ゐ》る。されども|玉治別《たまはるわけ》の|姿《すがた》どころか、|獣《けもの》|一匹《いつぴき》|姿《すがた》を|見《み》せぬ。|黒姫《くろひめ》は|思《おも》ひきつて|此《この》|丸木橋《まるきばし》をチヨコチヨコ|渡《わた》りに、|向《むか》ふに|渡《わた》り|胸《むね》を|撫《な》で|下《おろ》し|乍《なが》ら、
|黒姫《くろひめ》『あゝ|危《あやふ》い|事《こと》だつた。ようまア|斯《こ》んな|朽果《くちは》てた|橋《はし》が|無事《ぶじ》に|渡《わた》れた|事《こと》だ。|之《これ》と|云《い》ふも|矢張《やつぱり》|神様《かみさま》の|御恵《みめぐ》みだ、まだ|天道様《てんだうさま》も|黒姫《くろひめ》を|捨《す》て|玉《たま》はざる|証《しるし》であらう。あゝ|有難《ありがた》い|有難《ありがた》い|勿体《もつたい》なや』
と|両手《りやうて》を|合《あは》せ、|涙《なみだ》と|共《とも》に|感謝《かんしや》|祈願《きぐわん》の|祝詞《のりと》を|奏上《そうじやう》して|居《ゐ》る。
そこに|力《ちから》なげにチヨロチヨロと|現《あら》はれ|来《き》た|十四五才《じふしごさい》の|女《をんな》がある。|見《み》れば|目《め》を|腫《は》らし、|色《いろ》|青《あを》ざめ、|髪《かみ》|振乱《ふりみだ》し、|着物《きもの》の|裾《すそ》には|土《つち》が|一《いつ》ぱい|着《つ》いて|居《ゐ》る。|黒姫《くろひめ》は|此《この》|少女《せうぢよ》を|見《み》るより|言葉《ことば》を|掛《か》け、
|黒姫《くろひめ》『これこれお|前《まへ》は|小《ちひ》さい|女《をんな》の|身分《みぶん》として、|斯《こ》んな|恐《おそ》ろしい|山道《やまみち》へ|何《なに》しに|来《き》たのだい。|見《み》れば|目《め》が|腫《は》れて|居《ゐ》る。|髪《かみ》も|乱《みだ》れ、|顔《かほ》の|色《いろ》は|青《あを》くなり、|着物《きもの》の|裾《すそ》には|赤《あか》い|土《つち》が|一《いつ》ぱい|着《つ》いて|居《を》るぢやないか。|之《これ》には|何《なに》か|様子《やうす》のある|事《こと》であらう。|差支《さしつかへ》なくば|此《この》をばさまに|云《い》つて|下《くだ》さい。|妾《わたし》は|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》だ。|妾《わたし》の|力《ちから》の|及《およ》ぶ|丈《だ》けはお|前《まへ》の|助《たす》けになりませう』
と|親切《しんせつ》に|労《いた》はり|問《と》へば、|少女《せうぢよ》は|腰《こし》を|屈《かが》め|慇懃《いんぎん》に|礼《れい》を|述《の》べ|乍《なが》ら、
|少女《せうぢよ》『をば|様《さま》、|有難《ありがた》う|御座《ござ》います。|何卒《どうぞ》|助《たす》けて|下《くだ》さいませ。|妾《わたし》はお|梅《うめ》と|申《まを》す|女《をんな》で|御座《ござ》います。お|愛《あい》と|云《い》ふ|姉《ねえ》さまが、|悪者《わるもの》の|為《た》めに|捕《とら》へられ、|殺《ころ》されて|土《つち》の|中《なか》に|埋《う》められて|了《しま》ひました。さうして|二人《ふたり》の|男《をとこ》の|方《かた》と|一所《いつしよ》に…』
と|此処迄《ここまで》|言《い》つてワツとばかり|声《こゑ》を|放《はな》つて|泣《な》きくづれる。|少女《せうぢよ》は|今《いま》|迄《まで》|張《は》りきつて|居《ゐ》た|精神《せいしん》が、|黒姫《くろひめ》の|情《なさけ》ある|言葉《ことば》に|絆《ほだ》されヤツと|安心《あんしん》した|途端《とたん》に|気《き》が|弛《ゆる》んで、|力《ちから》|無《な》げに|倒《たふ》れたのである。|黒姫《くろひめ》は|深谷川《ふかたにがは》へ|辛《から》うじて|下《くだ》り|水筒《すゐとう》に|水《みづ》を|盛《も》り|来《きた》り、|少女《せうぢよ》の|口《くち》に|含《ふく》ませ|面部《めんぶ》に|吹《ふ》きかけなどして|甲斐々々《かひがひ》しく|介抱《かいほう》をして|居《ゐ》る。|黒姫《くろひめ》が|熱心《ねつしん》なる|介抱《かいほう》の|効《かう》|空《むな》しからず、|少女《せうぢよ》は|息《いき》を|吹《ふ》き|返《かへ》し、|苦《くる》しげに|胸《むね》を|撫《な》で|乍《なが》ら、
お|梅《うめ》『あゝ|恐《こは》い|恐《こは》い、をばさま、|何卒《どうぞ》|助《たす》けて|下《くだ》さいまし。お|願《ねが》ひで|御座《ござ》います』
|黒姫《くろひめ》『お|前《まへ》、|最前《さいぜん》の|言葉《ことば》に|姉《ねえ》さまのお|愛《あい》さまとやらが|悪者《わるもの》に|殺《ころ》され、|土中《どちう》に|埋《うづ》められたと|云《い》ひましたな』
お|梅《うめ》『はい、|高手小手《たかてこて》に|縛《いまし》めて、|森《もり》の|下《した》の|土中《どちう》に|埋《うづ》めて|了《しま》ひました。さうして|高山彦《たかやまひこ》と|言《い》ふお|方《かた》と、|兼公《かねこう》と|云《い》ふ|無頼漢《ならずもの》と|一所《いつしよ》に、|深《ふか》い|穴《あな》へ|埋《う》められ、|大《おほ》きな|石《いし》を|其《その》|上《うへ》に|幾《いく》つも|幾《いく》つも|乗《の》せて|帰《かへ》つて|了《しま》ひました』
|黒姫《くろひめ》は|高山彦《たかやまひこ》と|聞《き》くより、|顔《かほ》を|蒼白《まつさを》にし|口《くち》を|尖《とが》らせ、
|黒姫《くろひめ》『エ、|何《なん》と|云《い》ひなさる。|高山彦《たかやまひこ》と|云《い》ふ|人《ひと》が|如何《どう》なつたと|云《い》ふのだい』
お|梅《うめ》『ハイ、|姉《ねえ》さまのお|愛《あい》さまと|妾《わたし》が|縛《しば》られて、|大蛇《をろち》の|三公《さんこう》と|云《い》ふ|悪者《わるもの》に|嘖《さいな》まれて|居《ゐ》る|所《ところ》へ|三五教《あななひけう》の|宣伝歌《せんでんか》を|謡《うた》ひ、|助《たす》けに|来《き》て|下《くだ》さいましたお|方《かた》で|御座《ござ》います。|其《その》|方《かた》に|目潰《めつぶし》をかけて|引倒《ひつこ》かし、|荒繩《あらなは》で|縛《しば》り、|姉《ねえ》さまと|一所《いつしよ》に|埋《う》めて|了《しま》ひました。ウワーツ…………』
と|又《また》|泣《な》き|伏《ふ》す。|黒姫《くろひめ》はあわてふためき|乍《なが》ら、
|黒姫《くろひめ》『これこれお|梅《うめ》さま、シツカリして|下《くだ》され。|高山彦《たかやまひこ》さまは|何処《どこ》に|埋《う》めてあるか。さあ|早《はや》く|行《い》つて|助《たす》けねばなるまい。お|愛《あい》さまと|云《い》ふのは|火《ひ》の|国都《くにみやこ》の|愛子姫《あいこひめ》ではありませぬか。さあ|行《ゆ》きませう』
と|促《うなが》せば|少女《せうぢよ》は、
『ハイ、あまり|恐《こは》かつたので|気《き》が|遠《とほ》くなり、をばさまの|仰《おつ》しやる|事《こと》がハツキリ|分《わか》りませぬが、|案内《あんない》しますから、|何卒《どうぞ》|助《たす》けてやつて|下《くだ》さいませ』
|黒姫《くろひめ》『あゝさうだらうとも、|無理《むり》もない。|可憐《かはい》さうに、|怖《こは》いのも|尤《もつと》もだ。それにしてもようまアお|前《まへ》は|免《まぬが》れて|来《こ》られたものだ。サア|一時《いつとき》も|愚図々々《ぐづぐづ》しては|居《を》られませぬ。|息《いき》が|絶《き》れては|取返《とりかへ》しがつきませぬからな』
お|梅《うめ》『をばさま、|妾《わたし》が|案内《あんない》|致《いた》します。|何卒《どうぞ》|跟《つ》いて|来《き》て|下《くだ》さい』
と|先《さき》に|立《た》つ。されどお|梅《うめ》は|夜前《やぜん》の|騒動《さうだう》に|気《き》を|脱《ぬ》かれ、|其《その》|上《うへ》|積《つ》み|重《かさ》ねられた|石《いし》を|取除《とりの》け|様《やう》として|力一杯《ちからいつぱい》|気張《きば》つた|結果《けつくわ》、|身体《からだ》は|非常《ひじやう》に|疲《つか》れて|了《しま》ひ、|足許《あしもと》さへもヒヨロヒヨロである。それ|故《ゆゑ》|思《おも》はしく|足《あし》も|運《はこ》ばず、|余《あま》りのもどかしさに|黒姫《くろひめ》は|気《き》が|急《せ》いて|堪《たま》らず、
|黒姫《くろひめ》『お|梅《うめ》さまとやら、|此《この》をばが|負《お》うてやりませう。お|前《まへ》は|妾《わたし》の|背中《せなか》から|案内《あんない》して|下《くだ》さい。|一刻《いつこく》も|猶予《いうよ》はなりませぬから……』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら、お|梅《うめ》をグツと|背《せ》に|負《お》ひ、|杖《つゑ》を|力《ちから》に|雑草《ざつさう》|生《お》ひ|茂《しげ》る|山道《やまみち》を、|我《われ》を|忘《わす》れて|進《すす》み|行《ゆ》く。|殆《ほとん》ど|十丁《じつちやう》ばかりも|来《き》たと|思《おも》ふ|時《とき》、お|梅《うめ》は|背中《せなか》より|細《ほそ》い|声《こゑ》にて、
『をばさま、あそこの|楠《くすのき》の|根元《ねもと》に、|沢山《たくさん》な|石《いし》が|積《つ》んで|御座《ござ》いませう。あそこに|姉《ねえ》さまや、|二人《ふたり》の|方《かた》が|埋《う》められて|居《を》られます。ワーンワーン』
と|又《また》もや|泣《な》き|出《だ》す。|黒姫《くろひめ》は|泣《な》き|叫《さけ》ぶお|梅《うめ》を|労《いた》はり|乍《なが》ら、|慌《あはただ》しく|塚《つか》の|前《まへ》に|馳寄《はせよ》り、|背中《せなか》よりお|梅《うめ》を|下《おろ》し、|一生懸命《いつしやうけんめい》の|金剛力《こんがうりき》を|出《だ》して、|口《くち》に|神号《しんがう》を|称《とな》へ|乍《なが》ら|巨大《きよだい》な|石《いし》に|手《て》をかけ、|押《お》せども|突《つ》けどもビクとも|動《うご》かぬのに|落胆《らくたん》し、|涙《なみだ》をタラタラと|流《なが》し|乍《なが》ら、|一生懸命《いつしやうけんめい》に|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》し|初《はじ》めた。
|此《この》|時《とき》|丸木橋《まるきばし》の|袂《たもと》に|現《あら》はれた|三尺《さんじやく》ばかりの|八人《はちにん》の|童子《どうじ》、|何処《どこ》ともなく|出《い》で|来《きた》り、|巨大《きよだい》なる|石《いし》を|毬《まり》を|投《な》げる|様《やう》に|軽《かる》さうにポイポイと|取《と》り|除《の》け、|四五間《しごけん》|先《さき》へ|投《な》げつけて|了《しま》つた。さうして|又《また》もや|白煙《しろけぶり》となつて|童子《どうじ》の|姿《すがた》は|見《み》えなくなつた。|黒姫《くろひめ》は|感謝《かんしや》の|涙《なみだ》に|咽《むせ》びつつ|一生懸命《いつしやうけんめい》に|土《つち》を|掻《か》き|分《わ》け|汗《あせ》みどろになつて|掘《ほ》りだした。|見《み》れば|三人《さんにん》の|男女《だんぢよ》が|一緒《いつしよ》に|枕《まくら》を|並《なら》べて|埋《う》められて|居《ゐ》る。|黒姫《くろひめ》は|心《こころ》の|裡《うち》にて|神助《しんじよ》を|祈《いの》り|乍《なが》ら、|三人《さんにん》の|身体《からだ》を|掘《ほ》り|上《あ》げ|青草《あをくさ》の|上《うへ》に|寝《ね》かせ、|手早《てばや》く|縛《いましめ》の|繩《なは》を|一々《いちいち》|解《と》き、|天《あま》の|数歌《かずうた》を|歌《うた》ひ|上《あ》げ、|三人《さんにん》の|蘇生《そせい》を|祈《いの》つた。
お|梅《うめ》は|其《そ》の|間《ま》に|黒姫《くろひめ》の|水筒《すゐとう》を|取《と》り|谷水《たにみづ》を|汲《く》み|来《きた》り、|三人《さんにん》の|口《くち》に|含《ふく》ませた。お|愛《あい》は『ウン』と|一声《ひとこえ》|叫《さけ》ぶと|共《とも》にムツクリと|起《お》き|上《あが》り、お|梅《うめ》の|姿《すがた》を|見《み》て|嬉《うれ》し|気《げ》に、
『ア、お|前《まへ》は|妹《いもうと》のお|梅《うめ》であつたか。ようまあ|無事《ぶじ》で|居《ゐ》て|下《くだ》さつた』
と|飛《と》びつく|様《やう》にする。お|梅《うめ》は|嬉《うれ》しげに、
『|姉《ねえ》さま、|嬉《うれ》しいわ、|三五教《あななひけう》の【をば】さまが|助《たす》けて|下《くだ》さつたのですよ。お|礼《れい》を|申《まを》しなさい』
|黒姫《くろひめ》は|二人《ふたり》の|男《をとこ》の|顔《かほ》を|見較《みくら》べ、|高山彦《たかやまひこ》には|非《あら》ざるかと|一生懸命《いつしやうけんめい》に|調《しら》べて|居《ゐ》たが、
『ヤア、|之《これ》は|孫公《まごこう》ぢやつた。まア|如何《どう》したら|良《よ》からう』
と|身体《からだ》に|手《て》を|触《ふ》れて|見《み》た。まだ|何処《どこ》ともなしに|温味《ぬくみ》がある。|黒姫《くろひめ》はお|愛《あい》の|感謝《かんしや》の|言葉《ことば》を|耳《みみ》にもかけずに、|二人《ふたり》の|男《をとこ》に|一生懸命《いつしやうけんめい》に|鎮魂《ちんこん》をなし、|天《あま》の|数歌《かずうた》を|謡《うた》ひ|上《あ》げて|居《を》る。|二人《ふたり》は|漸《やうや》く『ウーン』と|呻《うめ》いて|起《お》き|上《あが》り|四辺《あたり》をキヨロキヨロ|見廻《みまは》して|居《ゐ》る。
|孫公《まごこう》『やあ、|黒姫《くろひめ》さまか。ようまあ|助《たす》けて|下《くだ》さいました』
と|云《い》つたきり|涙《なみだ》をタラタラと|流《なが》し、|大地《だいち》に|頭《かしら》を|下《さ》げて|感謝《かんしや》して|居《ゐ》る。|兼公《かねこう》は|四辺《あたり》をキヨロキヨロ|見廻《みまは》し、
『ヤア、お|愛《あい》|様《さま》、|誠《まこと》に|危《あぶな》い|事《こと》で|御座《ござ》いました』
お|愛《あい》『|兼公《かねこう》、|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》|様《さま》が、|妾達《わたしたち》|一同《いちどう》の|生命《いのち》を|助《たす》けて|下《くだ》さつたのですよ。お|礼《れい》を|申《まを》しなさい』
|兼公《かねこう》『|之《これ》は|之《これ》は、|誰方《どなた》か|存《ぞん》じませぬが、|能《よ》くもまあ|生命《いのち》を|拾《ひろ》つて|下《くだ》さいました。|悪者《わるもの》の|為《た》めにこんな|処《ところ》に、|生埋《いきう》めにされて|居《を》りました。モ|少《すこ》し|貴女《あなた》のお|出《い》でが|遅《おそ》かつたら、|生命《いのち》は|助《たす》かりませぬでした。|私《わたし》は|矢方《やかた》の|村《むら》の|兼公《かねこう》と|申《まを》して、あまり|良《よ》くない|人物《じんぶつ》で|御座《ござ》います。|斯《こ》うなつたのも|全《まつた》く|天罰《てんばつ》で|御座《ござ》いませう。|何卒《どうぞ》|神様《かみさま》にお|詫《わび》をして|下《くだ》さいませ』
|黒姫《くろひめ》『まあ、|何《なに》よりも|結構《けつこう》で|御座《ござ》いました。|妾《わたし》も|結構《けつこう》なお|神徳《かげ》を|頂《いただ》きまして、|斯《こ》んな|気持《きもち》の|良《よ》い|事《こと》は|御座《ござ》いませぬ。さうお|礼《れい》を|云《い》つて|貰《もら》ひましては、|妾《わたし》の|折角《せつかく》の|善行《ぜんかう》が|煙《けぶり》となつて|消《き》えて|了《しま》ひます。|何事《なにごと》も|皆《みな》|神様《かみさま》が|助《たす》けて|下《くだ》さつたのです。|大《おほ》きな|岩石《がんせき》で|圧《おさ》へつけてあつた|此《この》|塚《つか》は|婆《ばば》アの|力《ちから》に|及《およ》ばず、|苦《くる》しみ|悶《もだ》えて|居《ゐ》る|矢先《やさき》、|木花咲耶姫《このはなさくやひめ》|様《さま》の|御化身《ごけしん》が|現《あら》はれて、|岩《いは》を|取除《とりの》けて|下《くだ》さいました。|其《その》お|蔭《かげ》で|皆《みな》さまをお|助《たす》けする|事《こと》が|出来《でき》ましたのですから、|何卒《どうぞ》|神様《かみさま》にお|礼《れい》を|申上《まをしあ》げて|下《くだ》さい』
|孫公《まごこう》|初《はじ》めお|愛《あい》、|兼公《かねこう》、お|梅《うめ》の|四人《よにん》は|黒姫《くろひめ》の|後《うしろ》に|端坐《たんざ》し、|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》し|救命謝恩《きうめいしやおん》の|祝詞《のりと》を|終《をは》つて|一行《いつかう》|五人《ごにん》はもと|来《き》し|道《みち》へ|引返《ひきかへ》し、|向日峠《むかふたうげ》の|山道《やまみち》|指《さ》して|辿《たど》り|行《ゆ》く。
あゝ|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》。
(大正一一・九・一四 旧七・二三 北村隆光録)
第二〇章 |玉卜《たまうらなひ》〔九六一〕
|建日《たけひ》の|館《やかた》の|奥《おく》の|間《ま》には|主《あるじ》の|建国別《たけくにわけ》、|妻《つま》の|建能姫《たけのひめ》は|差向《さしむか》ひとなつて、ヒソビソと|話《はなし》に|耽《ふけ》つてゐる。
|建能姫《たけのひめ》『|御主人様《ごしゆじんさま》、|今日《けふ》は|意外《いぐわい》なお|客《きやく》さまでごさいましたが、あの|黒姫《くろひめ》|様《さま》といふお|方《かた》も|随分《ずゐぶん》|御苦労《ごくらう》を|遊《あそ》ばした|様《やう》で|御座《ござ》いますなア。どこともなしに|面《おも》やつれをなさつてゐらられた|所《ところ》を|見《み》れば、|余程《よほど》|息子《むすこ》さまの|事《こと》に|就《つい》て、お|気《き》をもませられたと|見《み》えまするなア』
|建国別《たけくにわけ》『さうですなア、|併《しか》し|乍《なが》ら|親《おや》と|云《い》ふものは|有難《ありがた》いものです。|私《わたくし》が|若《も》しや|自分《じぶん》の|子《こ》ではあるまいかとワザワザ|寄《よ》つて|下《くだ》さつた|其《その》お|志《こころざし》は、|本当《ほんたう》に|清《きよ》い|美《うつく》しい|慈愛《じあい》が|籠《こも》つて|居《を》ります。|私《わたくし》も|両親《りやうしん》が|此《この》|世《よ》に|達者《たつしや》でゐられたならば、あの|黒姫《くろひめ》|様《さま》の|様《やう》な|慈愛《じあい》の|心《こころ》を|以《もつ》て、|捜《さが》してゐらつしやるでせう。|此《こ》れを|思《おも》へば|神様《かみさま》や|親《おや》の|恩《おん》が|有難《ありがた》くて|涙《なみだ》がこぼれます。あゝ|私《わたくし》の|両親《りやうしん》はどこに|如何《どう》して|御座《ござ》るやら、|私《わたくし》も|両親《りやうしん》に|会《あ》ひたい|計《ばか》りで、|神様《かみさま》を|信《しん》じ、|今日《こんにち》は|此《この》|様《やう》な|結構《けつこう》な|宣伝使《せんでんし》に|仕上《しあ》げて|頂《いただ》きました。もしも|私《わたくし》に|歴乎《れつき》とした|両親《りやうしん》があり、|幼少《えうせう》から|親《おや》の|膝元《ひざもと》に|育《そだ》てられて|居《を》つたならば、|安逸《あんいつ》に|流《なが》れて、|到底《たうてい》|結構《けつこう》な|神様《かみさま》の|道《みち》を|開《ひら》く|事《こと》は|出来《でき》ますまい。|之《これ》を|思《おも》へば|両親《りやうしん》の|行方《ゆくへ》が|知《し》れぬのも、|却《かへつ》て|私《わたくし》の|身《み》の|幸福《かうふく》、|神様《かみさま》の|深《ふか》き|広《ひろ》き|思召《おぼしめし》で|御座《ござ》いませう』
|建能姫《たけのひめ》『さうで|御座《ござ》いませう。|神様《かみさま》は|遠近《ゑんきん》|広狭《くわうけふ》|大小《だいせう》|明暗《めいあん》の|区別《くべつ》なく、|御見《おみ》すかし|遊《あそ》ばしてゐられますから、|御両親《ごりやうしん》の|所在《ありか》もキツと|御分《おわか》りになつて|居《ゐ》るに|違《ちが》ひ|御座《ござ》いませぬ。され|共《ども》|何時《いつ》の|神懸《かむがか》りにも、|両親《りやうしん》の|所在《ありか》をいくら|尋《たづ》ねても、|口《くち》をつぐんで、|一言半句《いちげんはんく》の|宣示《せんじ》もして|下《くだ》さらぬのは、|要《えう》するに|吾々《われわれ》|夫婦《ふうふ》を|憐《あはれ》み|玉《たま》ひ、|立派《りつぱ》な|神司《かむつかさ》に|仕立《した》て|上《あ》げてやらうとの、|情《なさけ》の|鞭《むち》で|御座《ござ》いませう。|神様《かみさま》の|御目《おめ》より|御覧《ごらん》になつて、モウあれは|大丈夫《だいぢやうぶ》だ、|誠《まこと》が|貫徹《くわんてつ》したと|思召《おぼしめ》したらキツと|所在《ありか》を|知《し》らして|下《くだ》さいませう。|又《また》|何《なに》かの|都合《つがふ》で、|御両親様《ごりやうしんさま》を|居《ゐ》|乍《なが》ら、ここへ|引《ひき》よせて|下《くだ》さるかも|知《し》れませぬ。どうぞ|取越苦労《とりこしくらう》をせない|様《やう》にして|下《くだ》さいませ』
|建国別《たけくにわけ》『さうですなア。モウ|両親《りやうしん》の|事《こと》は|今日《けふ》|限《かぎ》り|思《おも》ひますまい。|何程《なにほど》|気《き》をいらつても、|人間《にんげん》として|如何《どう》する|事《こと》も|出来《でき》ませぬから、それよりも|神様《かみさま》の|為《ため》、|世人《よびと》の|為《ため》に|宣伝使《せんでんし》たるの|最善《さいぜん》の|努力《どりよく》を|尽《つく》すのが|何《なに》よりで|御座《ござ》いませう』
|建能姫《たけのひめ》『あゝよく|言《い》つて|下《くだ》さいました。|何事《なにごと》も|今後《こんご》は|大神様《おほかみさま》の|御心《みこころ》に|任《まか》し、|妾《わらは》がこんな|事《こと》|申《まを》してはすみませぬが、|御両親様《ごりやうしんさま》の|事《こと》は、|神様《かみさま》がよき|様《やう》にお|守《まも》り|下《くだ》さるでせうから|思《おも》ひ|切《き》つて|下《くだ》さいませ。|決《けつ》して|妾《わらは》があなたの|御両親《ごりやうしん》を|袖《そで》に|思《おも》つて|申《まを》すのでは|御座《ござ》いませぬ。あなたの|幸福《かうふく》の|為《ため》、|御両親《ごりやうしん》の|為《ため》に|申上《まをしあ》げるので|御座《ござ》いますから……』
|建国別《たけくにわけ》『|私《わたくし》が|何時《いつ》も|両親《りやうしん》の|事《こと》を|思《おも》うてむつかしい|顔《かほ》をしてゐましたのを、|貴女《あなた》は|余程《よほど》|不快《ふくわい》に|思《おも》へたでせうなア』
|建能姫《たけのひめ》『ハイ、|別《べつ》に|不快《ふくわい》には|思《おも》ひませぬが、|御主人様《ごしゆじんさま》の|御憂苦《ごいうく》の|色《いろ》が|何時《いつ》とはなしに|御顔《おかほ》に|表《あら》はれますので、|御体《おからだ》に|障《さは》りはせないかと、|夫《そ》れ|計《ばか》り|心配《しんぱい》を|致《いた》しました。どうぞ|只今《ただいま》|限《かぎ》り、|麗《うるは》しいお|顔《かほ》を|見《み》せて|下《くだ》さいませや』
|建国別《たけくにわけ》『|本当《ほんたう》に|心配《しんぱい》をかけて|済《す》みませなんだ。|今日《けふ》|限《かぎ》り|神様《かみさま》に|任《まか》して、|両親《りやうしん》の|事《こと》は|心配《しんぱい》|致《いた》しますまい。|今後《こんご》は|只《ただ》|一言《ひとこと》たりとも、|悔《くや》み|言《ごと》は|申《まを》しませぬから|安心《あんしん》して|下《くだ》さい。|言《い》ひ|納《をさ》めに|一口《ひとくち》あなたに|話《はな》したいのは、あの|黒姫《くろひめ》さまの|詞尻《ことばじり》、|何《なん》とはなしに|縁由《ゆかり》ありげに|感《かん》じましたが、|貴女《あなた》は|如何《いかが》|御考《おかんが》へですか』
|建能姫《たけのひめ》『ハイ|妾《わらは》も|黒姫《くろひめ》|様《さま》は|何《なに》か|心《こころ》に|当《あた》る|事《こと》がお|有《あ》りなさる|様《やう》に|存《ぞん》じました。|併《しか》し|乍《なが》ら|黒姫《くろひめ》|様《さま》は|妾《わらは》とは|違《ちが》ひ、お|年《とし》を|老《と》つてゐられますから、|世《よ》の|中《なか》の|酸《す》いも|甘《あま》いもよく|御存《ごぞん》じの|筈《はず》、それ|故《ゆゑ》|今《いま》|心当《こころあた》りがあると|言《い》つては、|折角《せつかく》の|修業《しうげふ》が|破《やぶ》れはせぬかと、|深《ふか》い|思召《おぼしめし》を|以《もつ》て|仰有《おつしや》つて|下《くだ》さらなかつたのでせう。|併《しか》し|吾々《われわれ》|夫婦《ふうふ》の|真心《まごころ》が|通《とほ》りさへすれば、|黒姫《くろひめ》|様《さま》も|知《し》らして|下《くだ》さるでせう。モウ|一《ひと》つ|念《ねん》を|押《お》してお|尋《たづ》ねしたいのは|山々《やまやま》で|御座《ござ》いましたが、|何《なに》を|云《い》つても|神様《かみさま》に|仕《つか》へる|身《み》の|上《うへ》のあなた|様《さま》、|神様《かみさま》の|道《みち》を|次《つぎ》にして、|吾《わが》|身《み》|勝手《かつて》な|両親《りやうしん》の|事《こと》|計《ばか》りを|熱心《ねつしん》に|尋《たづ》ねると|思《おも》はれては、|第一《だいいち》|主人《しゆじん》の|名折《なを》れ……と|存《ぞん》じまして、|控《ひか》へて|居《を》りました。どうやら|此《この》|世《よ》に|御座《ござ》るのに|間違《まちがひ》はない|様《やう》に|存《ぞん》じます』
|建国別《たけくにわけ》『あゝ|貴女《あなた》もそう|感《かん》じられましたか、|私《わたくし》もそうだらうと|存《ぞん》じて|居《を》ります。|何《なん》だか|黒姫《くろひめ》|様《さま》にお|目《め》にかかつてから、|心強《こころづよ》くなつて|来《き》ました。|確《たし》かな|手掛《てがか》りが|出来《でき》たやうな|心持《こころもち》が|致《いた》します。|併《しか》し|建能姫《たけのひめ》|殿《どの》、これ|限《かぎ》り、モウ|両親《りやうしん》の|事《こと》は|惟神《かむながら》に|任《まか》して、|申《まを》しますまい』
|建能姫《たけのひめ》『|有難《ありがた》う|御座《ござ》います、|妾《わらは》も|安心《あんしん》|致《いた》しました』
|斯《か》かる|所《ところ》へ|虎公《とらこう》、|玉公《たまこう》の|両人《りやうにん》は|三人《さんにん》の|乾児《こぶん》と|共《とも》に、|恐《おそ》る|恐《おそ》る|現《あら》はれ|来《きた》り、|襖《ふすま》の|外《そと》より、
|虎公《とらこう》『|御主人様《ごしゆじんさま》、|大先生様《だいせんせいさま》、|突然《とつぜん》|参《まゐ》りまして、|偉《えら》い|御馳走《ごちそう》に|預《あづか》りました。これでお|暇《いとま》を|致《いた》します。|又《また》|更《あらた》めて|御礼《おれい》に|参《まゐ》りますから、|御夫婦《ごふうふ》|共《とも》|御壮健《ごさうけん》に|御暮《おくら》し|下《くだ》さいませ』
と|云《い》ふのは|虎公《とらこう》の|声《こゑ》であつた。
|建能姫《たけのひめ》は|襖《ふすま》を|静《しづ》かに|開《ひら》き、
|建能姫《たけのひめ》『これはこれは|武野《たけの》の|村《むら》の|親分《おやぶん》さま、サアどうぞ|御遠慮《ごゑんりよ》なしに|此方《こちら》へ|御通《おとほ》り|下《くだ》さいませ』
|虎公《とらこう》『イヤどうも|偉《えら》い|御馳走《ごちそう》になりました、|余《あま》り|酩酊《めいてい》を|致《いた》して|居《を》りますので、|失礼《しつれい》で|御座《ござ》いますから、|此処《ここ》で|御免《ごめん》を|蒙《かうむ》りませう』
|建国別《たけくにわけ》『|虎公《とらこう》さま、どうぞゆつくりして|下《くだ》さい。|今日《けふ》は|私《わたくし》の|祝日《しゆくじつ》で|御座《ござ》いますから、|十分《じふぶん》に|酔《よ》うて|頂《いただ》かねばなりませぬ。|余《あま》りお|早《はや》いぢや|御座《ござ》いませぬか。どうぞ|今晩《こんばん》はゆつくりとお|泊《とま》り|下《くだ》さいまして、|面白《おもしろ》い|話《はなし》でも|聞《き》かせて|下《くだ》さいませ』
|虎公《とらこう》『ハイ、|御親切《ごしんせつ》は|有難《ありがた》う|御座《ござ》いますが、|今《いま》ここに|参《まゐ》つて|居《を》りまする|玉公《たまこう》の|所持《しよぢ》|致《いた》して|居《を》る、|日《ひ》の|出神《でのかみ》|様《さま》から|賜《たま》はつたと|云《い》ふ|水晶玉《すいしやうだま》に|変異《へんい》が|現《あら》はれまして、どうも|気《き》がかりでなりませぬ。|玉《たま》に|映《うつ》つた|曇《くも》りより|判断《はんだん》して|見《み》ますれば、|私《わたくし》の|不在宅《るすたく》に、|何《なん》だか|変《かは》つた|事《こと》が|出来《でき》たやうで|御座《ござ》いますから、|私《わたくし》も|何《なん》だか|気《き》がイライラしてなりませぬから、|今日《けふ》はこれでお|暇《いとま》を|致《いた》します』
|建国別《たけくにわけ》『それは|御心配《ごしんぱい》で|御座《ござ》いませう。コレ|玉公《たまこう》、|大《たい》した|事《こと》は|御座《ござ》いませぬかなア』
|玉公《たまこう》『ハイ、|私《わたくし》の|経験《けいけん》に|依《よ》れば、|親分《おやぶん》の|宅《うち》に|大変《たいへん》な|事《こと》が|起《おこ》つてゐる|様《やう》に|感《かん》じます。|併《しか》し|乍《なが》ら|結局《けつきよく》は|何《なん》ともないと|云《い》ふ|象《かたち》が|表《あら》はれて|居《を》りますが、グヅグヅして|居《を》つては、|事件《じけん》が|益々《ますます》|大《おほ》きく、むつかしくなる|虞《おそれ》が|御座《ござ》いますから、|是《これ》で|御暇《おいとま》を|致《いた》します』
|建国別《たけくにわけ》『そう|仰有《おつしや》れば|是非《ぜひ》は|御座《ござ》いませぬ。お|留守宅《るすたく》に|何事《なにごと》も|無《な》い|様《やう》に、|是《これ》から|吾々《われわれ》|夫婦《ふうふ》が、|神前《しんぜん》に|御祈願《ごきぐわん》を|致《いた》しておきますから、|安心《あんしん》して|御帰《おかへ》り|下《くだ》さいませ』
|虎公《とらこう》『ハイ|有難《ありがた》う|御座《ござ》います』
と|涙《なみだ》を|流《なが》し|乍《なが》ら、|再拝《さいはい》して|一同《いちどう》も|共《とも》に|此《この》|場《ば》を|立去《たちさ》り、イソイソと|出《い》でて|行《ゆ》く。
|虎公《とらこう》の|一行《いつかう》は|表門《おもてもん》|迄《まで》やつて|来《き》た。|門番《もんばん》の|幾公《いくこう》は|祝酒《いはひざけ》に|酔《よ》ひつぶれ、まはらぬ|舌《した》にて、
|幾公《いくこう》『オイ|虎公《とらこう》の|親分《おやぶん》、チツと|早《はや》いぢやないか。モツとゆつくり|俺《おいら》と|一杯《いつぱい》やらうぢやないか。|何程《なにほど》|急《いそ》いだとて、|日《ひ》の|暮《く》れる|時《とき》にやヤツパリ|暮《く》れるのだからなア』
|虎公《とらこう》『ウン|有難《ありがた》う。|併《しか》し|今日《けふ》は|何《なん》とはなしに、|胸騒《むなさわ》ぎがしてならぬから、|一先《ひとま》づ|帰《かへ》る|事《こと》にする、|又《また》|更《あらた》めて|遊《あそ》びに|来《く》るワ。|貴様《きさま》も|御主人様《ごしゆじんさま》に、|一日《いちにち》のお|暇《ひま》を|頂《いただ》いて|遊《あそ》びに|来《こ》い、|酒《さけ》は|幾《いく》らでも|用意《ようい》がしてあるからな』
|幾公《いくこう》『イクともイクとも、イク|度《たび》となくイクぞよ。モウお|前《まへ》の|様《やう》な|酒《さけ》|喰《くら》ひは|懲《こ》り|懲《こ》りだ……などとイク|地《ぢ》のない|事《こと》を|云《い》はぬ|様《やう》に|頼《たの》むぞよ』
|虎公《とらこう》『アハヽヽヽヽ|痩《や》せてもこけても、|武野村《たけのむら》の|虎公《とらこう》だ。|貴様《きさま》が|幾《いく》ら|酒《さけ》を|飲《の》んだつて、そんな|事《こと》に|尾《を》を|巻《ま》くやうな、|吝《けち》くせえ|兄貴《あにき》ぢやねえワ』
|幾公《いくこう》『それでも|今《いま》|親分《おやぶん》、|胸騒《むなさわ》ぎがすると|云《い》つたぢやないか。|余《あま》りガブガブと|酒《さけ》を|飲《の》まれると、|胸《むね》さわぎするからなア。|俺《おいら》も|何《なん》だかハートに|動悸《どうき》が|打《う》ちやがつて、|胸騒《むなさわ》ぎがして|仕様《しやう》がないワ』
|虎公《とらこう》『アハヽヽヽそりや|貴様《きさま》は|意地汚《いぢきたな》く、|無理《むり》に|酒《さけ》を|喰《くら》ふから、|動悸《どうき》がうつのだ。いゝ|加減《かげん》に|心得《こころえ》て、|酒《さけ》を|呑《の》むのはよいが、|酒《さけ》に|呑《の》まれぬ|様《やう》にしたがよからうぞ』
|幾公《いくこう》『ヤツパリ|吝《けち》くさい|事《こと》を|言《い》ふ|親分《おやぶん》だなア。オイ|親分《おやぶん》|一寸《ちよつと》|待《ま》て、ここに|一升徳利《いつしようどくり》が|盗《ぬす》んで|来《き》てあるワ。|是《これ》でもグツと|一口《ひとくち》|呑《の》んで|帰《かへ》つて|呉《く》れ』
|虎公《とらこう》『ヤア|其奴《そいつ》ア|有難《ありがた》い、この|儘《まま》|預《あづか》つて|行《ゆ》く』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら、|幾公《いくこう》の|手《て》より|一升徳利《いつしようどくり》を|引《ひ》つたくり、
|虎公《とらこう》『|玉公《たまこう》、|来《きた》れ!』
と|尻端折《しりはしを》つて、|門前《もんぜん》の|小径《こみち》を|一生懸命《いつしやうけんめい》|駆出《かけだ》した。
|虎公《とらこう》は|走《はし》り|乍《なが》ら|足拍子《あしびやうし》を|取《と》つて|唄《うた》ひ|出《だ》した。
|虎公《とらこう》『ウントコドツコイドツコイシヨ  |建国別《たけくにわけ》の|御館《おやかた》で
|一周年《いつしうねん》の|祝宴《しゆくえん》に  ドツサリよばれてウントコシヨ
ドツコイドツコイづぶ|六《ろく》に  |酔《よ》うて|了《しま》つた|虎公《とらこう》が
|其《その》|足並《あしなみ》は|千鳥足《ちどりあし》  そこらの|道《みち》が|二筋《ふたすぢ》も
|三筋《みすぢ》も|四筋《よすぢ》も|見《み》えて|来《き》た  |玉公《たまこう》の|顔《かほ》まで|色々《いろいろ》と
|細《ほそ》くなつたりドツコイシヨ  |丸《まる》くなつたり|三《みつ》つ|四《よ》つ
|同《おんな》じ|顔《かほ》が|並《なら》び|出《だ》す  どうしてこんなウントコシヨ
|怪体《けたい》な|事《こと》になつただろ  |玉公《たまこう》が|持《も》つてる|水晶《すゐしやう》の
|玉《たま》の|卜筮《うらなひ》|伺《うかが》へば  |何《なん》だか|知《し》らぬが|俺《おれ》の|宅《うち》
|変《かは》つた|事《こと》が|出来《でき》てゐる  ドツコイドツコイ|皆《みな》の|奴《やつ》
|足元《あしもと》|用心《ようじん》するがよい  |大方《おほかた》|宅《うち》のお|愛《あい》|奴《め》が
|俺《おれ》が|出《で》たのをドツコイシヨ  |女《をんな》の|小《ちい》さい|心《こころ》から
|外《ほか》に|女子《をなご》があるやうに  |思《おも》ひひがめて|九寸五分《くすんごぶ》
スラリと|抜《ぬ》いて|喉元《のどもと》へ  あてて|居《ゐ》るのぢやあるまいか
|何《なん》とはなしに|気《き》にかかる  ウントコドツコイ|危《あぶ》ないぞ
こらこら|玉公《たまこう》シツカリせい  そこら|辺《あた》りが|石車《いしぐるま》
|宅《うち》のお|嬶《かか》は|生《うま》れつき  |世間《せけん》の|女《をんな》と|事変《ことか》はり
よつ|程《ぽど》|気丈《きぢやう》な|奴《やつ》だから  めつたな|事《こと》はあるまいと
|心《こころ》は|許《ゆる》して|居《ゐ》るものの  |天地《てんち》の|事《こと》は|何《なに》もかも
|鏡《かがみ》の|様《やう》によく|映《うつ》る  |水晶玉《すいしやうだま》の|暗点《あんてん》が
ウントコドツコイ|気《き》になつて  |胸《むね》の|警鐘《けいしよう》なりひびく
|此奴《こいつ》ア ヤツパリ|尋常事《ただごと》で  ウントコドツコイあるまいぞ
|一時《いちじ》も|早《はや》く|吾《わが》|家《いへ》に  |飛鳥《ひてう》の|如《ごと》くかけ|帰《かへ》り
|実否《じつぴ》を|探《さぐ》らにやならうまい  ウントコドツコイ|又《また》|辷《すべ》る
ホンに|危《あぶ》ない|坂路《さかみち》だ  |俺《おれ》に|翼《つばさ》があつたなら
|宙空《ちうくう》|翔《かけ》つて|一走《ひとはし》り  |家《うち》の|様子《やうす》は|忽《たちま》ちに
|手《て》に|取《と》る|如《ごと》く|知《し》れるだろ  なぜに|烏《からす》にドツコイシヨ
|俺《おれ》は|生《うま》れて|来《こ》なんだか  |今《いま》となつては|大空《おほぞら》を
|自由自在《じいうじざい》に|翔《かけ》り|行《ゆ》く  |烏《からす》の|奴《やつ》が|羨《うらや》ましい
ウントコドツコイ|又《また》|辷《すべ》る  |皆《みな》の|奴《やつ》|共《ども》|気《き》をつけよ
オイオイ|玉公《たまこう》|水晶《すゐしやう》の  |其《その》|宝玉《ほうぎよく》を|大切《たいせつ》に
ギユツと|握《にぎ》つておとすなよ  お|前《まへ》の|家《うち》の|宝物《たからもの》
ウントコドツコイ ドツコイシヨ  |神《かみ》が|表《おもて》に|現《あら》はれて
|善《ぜん》と|悪《あく》とを|立別《たてわ》ける  |虎公《とらこう》|吾《わが》|家《や》に|現《あら》はれて
|善《ぜん》か|悪《あく》かを|考《かんが》へて  ウントコドツコイ|其《その》|上《うへ》で
|何《なん》とか|思案《しあん》をせにやならぬ  お|愛《あい》の|奴《やつ》は|今頃《いまごろ》は
|俺《おれ》の|帰《かへ》るを|欠伸《あくび》して  |待《ま》つて|居《ゐ》るかも|分《わか》らない
|何《なに》が|何《なん》だかウントコシヨ  サツパリ|訳《わけ》が|分《わか》らない
お|愛《あい》の|奴《やつ》が|悋気《りんき》して  |刃物三眛《はものざんまい》ウントコシヨ
やつて|居《ゐ》るのぢやあるまいか  イヤイヤ ヤツパリさうぢやない
|大蛇《をろち》の|三公《さんこう》がやつて|来《き》て  |俺《おい》らの|不在《るす》をつけ|込《こ》んで
|無体《むたい》の|恋慕《れんぼ》をウントコシヨ  |遂行《すゐかう》せむとつめ|寄《よ》つて
お|愛《あい》を|困《こま》らせ|居《ゐ》るのだろ  そんな|事《こと》でもあつたなら
お|愛《あい》の|奴《やつ》はウントコシヨ  |負《まけ》ぬ|気《き》|強《つよ》い|女《をんな》|故《ゆゑ》
|中々《なかなか》ウンとは|申《まを》すまい  |揚句《あげく》の|果《はて》は|双方《さうはう》から
|切《き》りつ はつりつウントコシヨ  |血《ち》の|雨《あめ》|降《ふ》らすに|違《ちがひ》ない
|之《これ》を|思《おも》へば|一時《いつとき》も  |早《はや》く|吾《わが》|家《や》へ|帰《かへ》りたい
|今日《けふ》に|限《かぎ》つて|此《この》|道《みち》は  ウントコドツコイ|是《これ》|程《ほど》に
|際限《さいげん》もなく|延《の》びよつて  いつもの|道《みち》より|遠《とほ》くなる
やうな|心地《ここち》がしてならぬ  ホンに|気《き》のせく|事《こと》ぢやワイ
ウントコドツコイ ドツコイシヨ  |三五教《あななひけう》の|神様《かみさま》よ
|私《わたし》の|不在《るす》の|家《いへ》の|内《うち》  どうぞ|何事《なにごと》もない|様《やう》に
お|守《まも》りなさつて|下《くだ》さんせ  |仮令《たとへ》|三公《さんこう》が|来《きた》る|共《とも》
お|愛《あい》の|体《からだ》にドツコイシヨ  |指一本《ゆびいつぽん》も|触《さ》へぬよに
どうぞ|守《まも》つて|下《くだ》さんせ  |武野《たけの》の|村《むら》の|男達《をとこだて》
|虎公《とらこう》サンと|名《な》を|売《う》つた  |男《をとこ》の|顔《かほ》に|泥《どろ》が|付《つ》く
これが|第一《だいいち》ウントコシヨ  |私《わたし》は|辛《つら》うてたまらない
|男《をとこ》と|男《をとこ》の|意地《いぢ》づくで  |命《いのち》の|取合《とりあひ》するとても
|決《けつ》して|厭《いと》ひはいたさない  |男《をとこ》の|顔《かほ》に|泥《どろ》ぬられ
ウントコシヨウ ウントコシヨウ  |万劫末代《まんがふまつだい》|拭《ぬぐ》はれぬ
|恥《はぢ》をのこすがわしやつらい  あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ』
と|足拍子《あしびやうし》を|取《と》り|乍《なが》ら、|急坂《きふはん》を|上《のぼ》り|下《くだ》つ、|玉公《たまこう》|外《ほか》|三人《さんにん》の|乾児《こぶん》と|共《とも》に、|息《いき》をはづませ|帰《かへ》り|行《ゆ》く。
(大正一一・九・一四 旧七・二三 松村真澄録)
第二一章 |神護《しんご》〔九六二〕
|虎公《とらこう》は、|玉公《たまこう》、|新公《しんこう》、|久公《きうこう》、|八公《はちこう》の|一行《いつかう》と|共《とも》に|火《ひ》の|国《くに》|街道《かいだう》に|漸《やうや》く|立《た》ち|現《あら》はれた。|此処《ここ》は|樫《かし》の|木《き》の|大木《たいぼく》が|太陽《たいやう》の|光線《くわうせん》を|包《つつ》んで|遮《さへぎ》つて|居《ゐ》る、|天然椅子《てんねんいす》の|岩《いは》のある|場所《ばしよ》で、|黒姫《くろひめ》が|手長猿《てながざる》に|悩《なや》まされた|処《ところ》であつた。|大蛇《をろち》の|三公《さんこう》の|乾児《こぶん》|六公《ろくこう》は|数十人《すうじふにん》の|手下《てした》を|引《ひ》き|連《つ》れ、|樫《かし》の|木《き》の|下《もと》に|虎公《とらこう》の|行方《ゆくへ》を|求《もと》めつつ|待《ま》つて|居《ゐ》た。
|虎公《とらこう》は|道々《みちみち》|歌《うた》を|謡《うた》ひながら|何気《なにげ》なくここ|迄《まで》|来《き》て|見《み》れば、|喧嘩《けんくわ》|装束《しやうぞく》で|身《み》をかためた|六公《ろくこう》の|一行《いつかう》、|棍棒《こんぼう》|匕首《あひくち》を|携《たづさ》へながら|谷道《たにみち》に|立《た》ち|塞《ふさ》がり、
|六公《ろくこう》『オイ、|虎《とら》の|野郎《やらう》、|昨日《きのふ》から|貴様《きさま》の|所在《ありか》を|探《さが》して|居《ゐ》たのだ。|高山峠《たかやまたうげ》の|絶頂《ぜつちやう》に|往《い》きよつたと|確《たしか》に|知《し》つた|故《ゆゑ》、|後《あと》|追《お》ひかけて|往《い》つてみれば|貴様《きさま》は|早《はや》くも|風《かぜ》を|喰《くら》つて、|卑怯《ひけふ》|未練《みれん》にも|姿《すがた》を|隠《かく》しやがつた。|俺《おれ》は|帰《かへ》つて|親分《おやぶん》に|申訳《まをしわけ》が|無《な》いから、|大方《おほかた》|貴様《きさま》が|建日《たけひ》の|館《やかた》へ|往《い》きよつたのだと|思《おも》つて|此《この》|山口《やまぐち》に|待《ま》つて|居《ゐ》たのだ。サアこうなつては|最早《もはや》|叶《かな》ふまい。ここで|綺麗《きれい》|薩張《さつぱり》と、お|愛《あい》の|縁《えん》を|切《き》り、|親分《おやぶん》さまの|女房《にようばう》に|奉《たてまつ》る、と|約束《やくそく》を|致《いた》せばよし、|四《し》の|五《ご》の|吐《ぬか》して|聞《き》かないと、|胴《どう》と|首《くび》とを|二《ふた》つにしてやるがどうだ。|性念《しやうねん》を|据《す》ゑて|確《しつか》り|返答《へんたふ》をせい。|何程《なにほど》|貴様《きさま》が|焦《あせ》つたところで、お|愛《あい》は|最早《もはや》|親分《おやぶん》の|手《て》に|入《はい》つて|居《を》るのだから|駄目《だめ》だぞ。それより|柔《おとな》しく|三公《さんこう》の|乾児《こぶん》になつたらどうだ。|命《いのち》を|取《と》られるが|好《い》いか、|乾児《こぶん》になるのが|好《い》いか、|二《ふた》つに|一《ひと》つの|返答《へんたふ》をしろ』
|虎公《とらこう》『|烏《からす》のおどしのやうな|態《ざま》をしやがつて、|身《み》の|程《ほど》|知《し》らずの|蠅虫《はへむし》め。|何《なに》|劫託《がふたく》を|吐《こ》きやがるのだ。|貴様《きさま》こそ|首《くび》と|胴《どう》とを|二《ふた》つにしてやらア、|覚悟《かくご》せい』
|玉公《たまこう》『これこれ|虎公《とらこう》さま、|大事《だいじ》の|前《まへ》の|小事《せうじ》だから、|今《いま》|怒《おこ》つてはいけませぬ。これ|見《み》なさい。だんだん|水晶玉《すいしやうだま》が|曇《くも》つて|来《き》ました』
|虎公《とらこう》『ヤアもう|斯《こ》うなつては|破《やぶ》れかぶれだ。|男《をとこ》の|意地《いぢ》でどこ|迄《まで》もやれるだけやつて|見《み》にや|虫《むし》が|納《をさ》まらねえや。|玉公《たまこう》、|貴様《きさま》は|俺《おれ》が|今《いま》|暴《あば》れ|放題《はうだい》|暴《あば》れて|見《み》るから|足手纏《あしてまと》ひになつては|俺《おれ》の|活動《くわつどう》の|邪魔《じやま》になる。オイ、|新公《しんこう》、|久公《きうこう》、|八公《やつこう》も|共《とも》にどつかへ|逃《に》げて|了《しま》へ』
と|云《い》ひながら、|虎公《とらこう》は|其処《そこ》に|落《お》ちてあつた|一間《いつけん》|許《ばか》りの|節《ふし》だらけの、|雨《あめ》に|曝《さら》された|木片《きぎれ》を|拾《ひろ》ふより|早《はや》く、|四五十人《しごじふにん》の|群《むれ》に|向《むか》つて|振《ふ》り|廻《まは》しつつ|暴《あば》れ|込《こ》んだ。|六公《ろくこう》は|此《この》|元気《げんき》に|肝《きも》を|潰《つぶ》し|散々《ちりぢり》ばらばらとなつて|逃《に》げ|失《う》せて|仕舞《しま》つた。
|虎公《とらこう》『アハヽヽヽ、|何《なん》と|弱《よわ》い|奴《やつ》|計《ばか》り|寄《よ》つたものだなあ。|大蛇《をろち》の|三公《さんこう》もこれだけ|穀潰《ごくつぶ》しを|抱《かか》へて|居《ゐ》ては|大抵《たいてい》ぢやあるまい。オイ|玉公《たまこう》、|新《しん》、|久《きう》、|八《はち》、もう|大丈夫《だいぢやうぶ》だ、|出《で》て|来《こ》い』
この|声《こゑ》に|四人《よにん》は|顔一面《かほいちめん》|蜘蛛《くも》の|巣《す》だらけになつて、|真青《まつさを》の|顔《かほ》をしながら|足《あし》もわなわな|虎公《とらこう》の|傍《そば》に|寄《よ》つて|来《き》た。
|新公《しんこう》『|何《なん》と|虎公《とらこう》さま、|偉《えら》い|馬力《ばりき》が|出《で》たものだなあ』
|虎公《とらこう》『|今日《けふ》に|限《かぎ》つて|何故《なぜ》あれ|程《ほど》|肝玉《きもだま》が|据《す》わり、|力《ちから》が|出《で》たのだらう。|自分《じぶん》ながらに|合点《がてん》がゆかないのだ』
|玉公《たまこう》『|俺《おれ》が|木《き》の|茂《しげ》みへ|隠《かく》れて|見《み》て|居《ゐ》たら、お|前《まへ》と|同《おな》じ|姿《すがた》をした|荒武者《あらむしや》が|七八十人《しちはちじふにん》どこからともなく|現《あら》はれて、|大《おほ》きな|材木《ざいもく》を|振《ふ》り|廻《まは》したものだから、|六《ろく》の|野郎《やらう》を|初《はじ》め、どいつもこいつもあの|通《とほ》り|悲惨《みじめ》な|態《ざま》で|逃《に》げよつたのだ。|本当《ほんたう》に|合点《がてん》のゆかぬ|不思議《ふしぎ》の|事《こと》だつた』
|虎公《とらこう》はこれを|聞《き》いて|涙《なみだ》を|流《なが》し|大地《だいち》に|端坐《たんざ》し、|拍手《かしはで》を|打《う》ち|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》し|終《をは》り、
|虎公《とらこう》『|神素盞嗚大神《かむすさのをのおほかみ》|様《さま》、よくもお|助《たす》け|下《くだ》さいました、|有難《ありがた》う|御座《ござ》います。|就《つ》きましては|此《この》|様子《やうす》では、お|愛《あい》の|身《み》の|上《あが》|案《あん》じられてなりませぬから、どうぞも|一度《いちど》、|私《わたし》をお|助《たす》け|下《くだ》さいましたやうに、お|愛《あい》の|身《み》の|上《うへ》をお|助《たす》け|下《くだ》さいませ。お|願《ねが》ひ|申《まを》します』
と|感謝《かんしや》の|涙《なみだ》ハラハラと、|大地《だいち》に|頭《あたま》を|下《さ》げて|祈《いの》つて|居《ゐ》る。
|虎公《とらこう》は、|玉公《たまこう》|其《その》|他《た》の|乾児《こぶん》と|共《とも》に|又《また》もや|坂道《さかみち》を|足拍子《あしびやうし》を|取《と》り、|謡《うた》ひながら|吾《わが》|家《や》の|方《はう》をさして|走《はし》り|出《だ》した。
『あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |神《かみ》が|表《おもて》に|現《あら》はれて
|善《ぜん》と|悪《あく》とを|立別《たてわ》ける  |朝《あさ》な|夕《ゆふ》なに|大神《おほかみ》の
|御前《みまへ》に|額《ぬか》づき|村肝《むらきも》の  |心《こころ》を|尽《つく》し|身《み》を|尽《つく》し
|仕《つか》へまつりし|甲斐《かひ》ありて  |大蛇《をろち》の|三公《さんこう》が|乾児《こぶん》なる
|六公《ろくこう》の|手下《てした》にウントコシヨ  |取《と》り|囲《かこ》まれし|其《その》|時《とき》に
|仁慈無限《じんじむげん》の|瑞御霊《みづみたま》  |神素盞嗚大神《かむすさのをのおほかみ》が
|厳《いづ》のみたまをわけたまひ  |数多《あまた》の|神《かみ》を|現《あら》はして
たつた|一人《ひとり》の|虎公《とらこう》に  |加勢《かせい》をさして|下《くだ》さつた
|実《げ》に|有《あ》り|難《がた》き|神《かみ》の|恩《おん》  |三五教《あななひけう》は|世《よ》を|救《すく》ふ
|誠《まこと》|一《ひと》つの|神《かみ》の|道《みち》  |今更《いまさら》のごとドツコイシヨ
|尊《たふと》くなつて|参《まゐ》りました  かく|神徳《しんとく》の|現《あら》はれた
ウントコドツコイ|其《その》|上《うへ》は  |仮令《たとへ》|大蛇《をろち》の|三公《さんこう》が
|虎公《とらこう》さまの|留守宅《るすたく》へ  |数多《あまた》の|手下《てした》を|引《ひ》きつれて
|如何《いか》に|厳《きび》しく|攻《せ》むるとも  |決《けつ》して|恐《おそ》るる|事《こと》はない
|利《き》かぬ|気者《きもの》の|女房《にようばう》が  |嘸《さぞ》|今頃《いまごろ》は|素盞嗚《すさのを》の
|神《かみ》の|命《みこと》の|神徳《しんとく》で  |寄《よ》せ|来《く》る|敵《てき》を|悉《ことごと》く
|嵐《あらし》に|花《はな》の|散《ち》る|如《ごと》く  ウントコドツコイ|追《お》ひ|散《ち》らし
|勝鬨《かちどき》あげて|虎公《とらこう》が  ウントコドツコイ|機嫌《きげん》よく
|帰《かへ》つて|来《く》るのを|待《ま》つために  お|酒《さけ》の|燗《かん》をばドツコイシヨ
|用意《ようい》|致《いた》してウントコシヨ  |待《ま》つて|居《ゐ》るのに|違《ちが》ひない
|朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも  |月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも
|仮令《たとへ》|大地《だいち》は|沈《しづ》むとも  |誠《まこと》|一《ひと》つの|三五《あななひ》の
|神《かみ》の|教《をしへ》に|身《み》を|任《まか》せ  |朝《あさ》な|夕《ゆふ》なに|真心《まごころ》を
|尽《つく》して|此《この》|世《よ》を|渡《わた》るなら  |勢《いきほひ》|猛《たけ》き|獅子《しし》|熊《くま》も
|虎《とら》|狼《おほかみ》も|何《なん》のその  |況《ま》してや|大蛇《をろち》の|三公《さんこう》や
|手下《てした》の|弱《よわ》い|面々《めんめん》が  |仮令《たとへ》|幾百《いくひやく》|来《きた》るとも
|片《かた》つ|端《ぱし》から|蹶《け》り|散《ち》らし  |改心《かいしん》させるは|目《ま》のあたり
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |御霊《みたま》|幸《さち》はひましまして
|三五教《あななひけう》の|御道《おんみち》を  |此《この》|世《よ》の|悪魔《あくま》と|謡《うた》はれし
|大蛇《をろち》の|三公《さんこう》|初《はじ》めとし  |其《その》|外《ほか》|手下《てした》の|者共《ものども》の
|心《こころ》を|照《て》らして|惟神《かむながら》  |誠《まこと》の|道《みち》に|救《すく》ひませ
|一重《ひとへ》に|願《ねが》ひ|奉《たてまつ》る  ウントコドツコイ ドツコイシヨ
それにつけても|黒姫《くろひめ》や  |房《ふさ》|芳《よし》|二人《ふたり》は|今頃《いまごろ》は
|無事《ぶじ》に|都《みやこ》へドツコイシヨ  |着《つ》いたであらうかウントコセ
|俄《にはか》にそれが|気《き》にかかる  あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|国魂神《くにたまがみ》の|純世姫《すみよひめ》  |月照彦《つきてるひこ》の|神様《かみさま》よ
どうぞ|三人《みたり》が|行末《ゆくすゑ》を  |安《やす》く|守《まも》らせたまへかし
ウントコドツコイ|虎公《とらこう》は  |是《これ》から|吾《わが》|家《や》へ|立《た》ち|帰《かへ》り
|家《うち》の|騒動《さうだう》を|片《かた》づけて  |火《ひ》の|国都《くにみやこ》へ|立《た》ち|向《むか》ひ
|黒姫《くろひめ》さまの|後《あと》|追《お》うて  |尊《たふと》き|神《かみ》の|御教《みをしへ》を
|聞《き》かして|貰《もら》はうドツコイシヨ  それが|何《なに》より|楽《たの》しみだ
ウントコドツコイ ドツコイシヨ  こいつはしまつた|何時《いつ》の|間《ま》に
|道《みち》|取《と》り|違《ちが》ひドツコイシヨ  |向日峠《むかふたうげ》の|谷道《たにみち》に
|思《おも》はず|知《し》らず|迷《まよ》ひ|込《こ》んだ  これやマアどうした|事《こと》だらう
|其処《そこ》は|危《あぶな》い|丸木橋《まるきばし》  |渡《わた》るにや|怖《こわ》し|渡《わた》らねば
どしても|吾《わが》|家《や》にや|帰《かへ》れない  ここから|後《あと》へ|引《ひ》き|返《かへ》し
|元来《もとき》し|道《みち》を|取《と》るならば  |吾《わが》|家《や》へ|帰《かへ》るは|易《やす》けれど
そんな|事《こと》をばして|居《ゐ》たら  |時間《じかん》が|遅《おく》れて|仕様《しやう》がない
|向日峠《むかふたうげ》を|踏《ふ》み|越《こ》えて  |吾《わが》|家《や》をさして|帰《かへ》る|方《ほ》が
|半時《はんとき》ばかり|早《はや》からう  あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
これも|何《なに》かのお|仕組《しぐみ》で  |此処《ここ》へ|迷《まよ》うて|来《き》たのだらう
|唯《ただ》|何事《なにごと》も|人《ひと》の|世《よ》は  |直日《なほひ》に|見直《みなほ》し|聞《き》き|直《なほ》し
|身《み》の|過《あやま》ちは|宣《の》り|直《なほ》せ  |三五教《あななひけう》の|御教《おんをしへ》
|今更《いまさら》|思《おも》ひ|知《し》られける  |広大《くわうだい》|無限《むげん》の|神様《かみさま》の
|深《ふか》き|智慧《ちゑ》には|叶《かな》はない  |心《こころ》|拗《ねぢ》けた|吾々《われわれ》が
どうして|尊《たふと》い|天地《あめつち》の  |神《かみ》の|心《こころ》が|分《わか》らうか
|神《かみ》のまにまに|任《まか》すより  |外《そと》に|行《ゆ》くべき|道《みち》はない
|何程《なにほど》|危《あやふ》き|橋《はし》ぢやとて  ウントコドツコイ|躊躇《ちうちよ》する
|暇《いとま》がどうしてあるものか  |地獄《ぢごく》の|釜《かま》のドツコイシヨ
|一足《いつそく》|飛《と》びをするやうな  |荒肝《あらぎも》|放《ほ》り|出《だ》しウントコシヨ
|渡《わた》つて|見《み》ようか|玉公《たまこう》よ  |新《しん》、|久《きう》、|八《はち》の|三人《さんにん》よ
この|虎公《とらこう》に|続《つづ》けよや  |一《ひい》|二《ふう》|三《み》つ』と|言《い》ひながら
|矢《や》を|射《い》る|如《ごと》く|丸木橋《まるきばし》  |両手《りやうて》を|拡《ひろ》げ|身《み》を|軽《かる》め
|一目散《いちもくさん》に|渡《わた》り|行《ゆ》く  かかる|所《ところ》へ|向《むか》ふより
|黒姫司《くろひめつかさ》を|初《はじ》めとし  |妻《つま》のお|愛《あい》やお|梅《うめ》|迄《まで》
|二人《ふたり》の|男《をとこ》に|送《おく》られて  |森《もり》の|茂《しげ》みを|押《お》しわけて
|現《あら》はれ|来《きた》る|訝《いぶ》かしさ  あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さち》はへましませよ。
(大正一一・九・一四 旧七・二三 加藤明子録)
第二二章 |蛙《かはづ》の|口《くち》〔九六三〕
|矢方《やかた》の|村《むら》の|大蛇《をろち》の|三公《さんこう》が|館《やかた》には、|何《なん》となく|物騒《ものさわ》がしき|声《こゑ》が|聞《きこ》えて|居《ゐ》る。|夜前《やぜん》の|一件《いつけん》に|就《つい》て、|三公《さんこう》は|兄弟分《きやうだいぶん》や|乾児《こぶん》に|対《たい》し|慰労会《ゐらうくわい》を|催《もよほ》して|居《ゐ》たのであつた。|数多《あまた》の|乾児《こぶん》は|久《ひさ》し|振《ぶ》りにうまい|酒《さけ》に|酔《よ》うて、|口々《くちぐち》に|四辺《あたり》|構《かま》はず|喋《しやべ》り|出《だ》した。
|甲《かふ》『オイ、|皆《みな》の|奴《やつ》、|何《なん》と|甘《うめ》え|酒《さけ》で|無《ね》えか。|俺《おれ》ア|今日《けふ》で|丁度《ちやうど》|二ケ月《にかげつ》ばかり|斯《こ》んな|甘《うめ》え|酒《さけ》を|飲《の》んだ|事《こと》はないわ。|時々《ときどき》|斯《こ》んな|事《こと》があれば|宜《え》えけどな』
|乙《おつ》『こりや、|徳《とく》、|貴様《きさま》はこんな|水臭《みづくさ》い|酒《さけ》を|甘《うめ》えと|吐《ぬか》しやがつたが、|余程《よほど》|下司口《げすぐち》だな。こんな|酒《さけ》を|飲《の》む|位《ぐらゐ》なら|泥水《どろみづ》でも|飲《の》んだ|方《はう》が、|何程《なにほど》|気持《きもち》がいいか|分《わか》りやしないよ』
|徳《とく》は|泣声《なきごゑ》になつて、
|徳公《とくこう》『こりや、|高公《たかこう》、|貴様《きさま》は|何《なん》と|云《い》ふ|勿体《もつたい》|無《ね》え|事《こと》を|言《い》ふのだ。それ|程《ほど》|悪《わる》い|酒《さけ》なら|何故《なぜ》ガブガブと|飲《の》んだのだい』
|高公《たかこう》『あまり|此処《ここ》の|親分《おやぶん》が|無茶《むちや》な|事《こと》をしやがるので|癪《しやく》に|触《さは》つて|仕方《しかた》がないから、|焼糞《やけくそ》になつて|一杯《いつぱい》|飲《の》んでやつたのだ。|酒《さけ》なつと|飲《の》まねばお|愛《あい》の|幽霊《いうれい》が|何時《いつ》|出《で》て|来《く》るか|分《わか》つたものぢやないわ、|小気味《こぎみ》が|悪《わる》い。それだから|味《あぢ》なくもない|嫌《きら》ひ……でも|無《な》い|酒《さけ》を|辛抱《しんばふ》して|飲《の》んでやるのだ』
|徳公《とくこう》『|勿体《もつたい》ない|事《こと》を|言《い》ふな。こんな|結構《けつこう》な|酒《さけ》があるものか。|貴様《きさま》|今《いま》|幽霊《いうれい》が|出《で》ると|吐《ぬか》しやがつたが、|生《いき》た|人間《にんげん》は|幽霊《いうれい》になつて|堪《たま》るかい』
|高公《たかこう》『それだといつて、お|愛《あい》を|現在《げんざい》|殺《ころ》したぢやないか。さうして|二人《ふたり》の|男《をとこ》をフン|縛《じば》つて|生埋《いきうめ》にしたぢやないか。どんな|強《つよ》い|男《をとこ》だつて|土中《どちう》に|埋《う》められ、あんな|重《おも》たい|石《いし》を|載《の》せられちや|往生《わうじやう》せずには|居《を》られないわ。|屹度《きつと》|今夜《こんや》あたり|貴様《きさま》の|素首《そつくび》を|引《ひ》つこ|抜《ぬ》きに|来《く》るから|用心《ようじん》せいよ』
|徳公《とくこう》『|馬鹿《ばか》|云《い》ふな。そこには|底《そこ》があり|蓋《ふた》もあるのだ。お|愛《あい》の|奴《やつ》ア|決《けつ》して|死《し》んでは|居《ゐ》やせぬ。|彼奴《あいつ》ずるいから|死真似《しにまね》をして|居《ゐ》やがつたのだ。|親分《おやぶん》が【ちやん】と|其《その》|呼吸《こきふ》を|計《はか》つて|死《し》んだにして|了《しま》つたのだ。|外《ほか》の|二人《ふたり》の|奴《やつ》だつて|其《その》|通《とほ》り|疵《きず》|一《ひと》つした|奴《やつ》はない、|兼公《かねこう》の|野郎《やらう》でも|只《ただ》|縛《しば》りあげた|丈《だけ》の|事《こと》だ。|彼奴等《あいつら》|三人《さんにん》を|一所《いつしよ》にまつべて|置《お》いたのは|互《たがひ》の|温味《ぬくみ》を|保《たも》たす|為《た》めだ。そして|頭《あたま》の|処《ところ》に|細《ほそ》い|穴《あな》をあけ、|息《いき》の|通《かよ》ふ|様《やう》にしてあるのだよ。そこは|与三公哥兄《よさこうあにい》が|呑《の》み|込《こ》んで、|如才《じよさい》なくしてあるのだよ。お|前《まへ》は|端《はし》くれの|人足《にんそく》だからそこ|迄《まで》は|分《わか》るめえ』
|高公《たかこう》『それでも、あれ|丈《だ》け|重《おも》たい|石《いし》を|沢山《たくさん》|載《の》せられちや、|身体《からだ》も|何《なに》も|潰《め》げて|了《しま》ふぢやないか』
|徳公《とくこう》『|貴様《きさま》は|馬鹿《ばか》だな。あれ|丈《だ》け|親分《おやぶん》が|恋慕《れんぼ》して|居《ゐ》るお|愛《あい》を、さうムザムザと|殺《ころ》しさうな|筈《はず》があるかい。|之《これ》には|深《ふか》い|計略《けいりやく》があるのだ。あの|沢山《たくさん》に|積《つ》んだ|岩《いは》の|下《した》には、|三人《さんにん》は|決《けつ》して|埋《いか》つてあるのぢやない。うまく|其《その》|上《うへ》が|外《はづ》してあるのだ』
|高公《たかこう》『|何《なん》で|又《また》そんな|妙《めう》な|事《こと》をしたのだい』
|徳公《とくこう》『|馬鹿《ばか》だなア、|貴様等《きさまら》には|親分《おやぶん》の|神謀鬼策《しんぼうきさく》は|分《わか》るものぢやない。|秘密《ひみつ》を|守《まも》るなら|云《い》つて|聞《き》かせてやらう。|如何《どう》だ|他言《たごん》はせぬか』
|高公《たかこう》『|決《けつ》して|決《けつ》して|誰《たれ》にも|云《い》はないから、|俺《おれ》に|其《その》|訳《わけ》を|聞《き》かして|呉《く》れえ』
|徳公《とくこう》『やあ|何奴《どいつ》も|此奴《こいつ》も|酒《さけ》に|喰《くら》ひ|酔《よ》うて|寝《ふせ》りよつたな。|与三公《よさこう》の|哥兄《あにい》|迄《まで》ズブ|六《ろく》に|酔《よ》うて|居《を》らあ。そんなら|云《い》つてやらう。|抑《そもそ》も|其《その》|理由《りいう》は|斯《こ》うだ。|此《この》|徳公《とくこう》はな、|遠国《ゑんごく》から|来《き》たものだからまだ|虎公《とらこう》やお|愛《あい》に|顔《かほ》を|見《み》られて|居《を》らないのだ。それを|幸《さいはひ》に|親分《おやぶん》から|頼《たの》まれたのだ。|之《これ》から|旅人《たびびと》の|装束《しやうぞく》をして|道《みち》に|迷《まよ》うた|様《やう》な|顔《かほ》をし、|昨夕《ゆうべ》の|喧嘩場《けんくわば》へやつて|行《い》つて|土《つち》をクワイクワイと|掘上《ほりあ》げ、|三人《さんにん》の|奴《やつ》を|引張《ひつぱ》り|出《だ》し|先《ま》ず|一番《いちばん》にお|愛《あい》の|縛《いましめ》を|解《と》き|親切《しんせつ》さうに|水《みづ》でも|飲《の》まし、|懐中《ふところ》から|薬《くすり》でも|出《だ》して|与《あた》へてやり……|何処《どこ》のお|方《かた》か|知《し》りませぬが|危《あやふ》い|事《こと》で|御座《ござ》いました、ネ、わつちや|旅《たび》の|者《もの》でげえすが、|夜前《やぜん》|此《この》|辺《あたり》に|大喧嘩《おほげんくわ》があつたと|聞《き》き、|一寸《ちよつと》|道寄《みちよ》りをして|探《さが》して|見《み》た|処《ところ》、|御存《ごぞん》じの|通《とほ》り|此処《ここ》に|此《この》|様《やう》な|大《おほ》きな|石《いし》が|積《つ》んである。|見《み》れば|土《つち》は|新《あたら》しい、|何《ど》うやら|昨夜《さくや》の|喧嘩《けんくわ》で|何人《なにびと》かが|殺《ころ》され、|埋《い》けられて|居《ゐ》るのであらう。あゝ|気《き》の|毒《どく》な、|何《なん》とかして|助《たす》けてやらうと|思《おも》ひやして、|之《これ》|御覧《ごらん》なされ、|此《この》|通《とほ》り|大《おほ》きな|石《いし》を|此処《ここ》に|積《つ》み|上《あ》げ|土《つち》を|掻《か》き|分《わ》けて|見《み》れば、|貴方《あなた》|等《がた》|三人《さんにん》の|御遭難《ごさうなん》、|此奴《こいつ》ア|一《ひと》つ|助《たす》けねばなるまいと、|秘蔵《ひざう》の|薬《くすり》を|与《あた》へ|水《みづ》を|飲《の》ませた|処《ところ》が、お|前《まへ》は|此《この》|通《とほ》り|生《い》き|還《かへ》つて、|何《なん》と|斯《こ》んな|嬉《うれ》しい|事《こと》は|御座《ござ》いませぬ……と|一《ひと》つかち|込《こ》むのだ。さうするとお|愛《あい》の|奴《やつ》、|優《やさ》しい|目《め》をしやがつて……|妾《わたし》は|虎公《とらこう》と|云《い》ふ|男《をとこ》の|女房《にようばう》で|御座《ござ》いますが、|大蛇《をろち》の|三公《さんこう》と|云《い》ふ|大親分《おほおやぶん》の|為《た》めに|斯《こ》んな|目《め》に|会《あ》はされ、|土《つち》の|中《なか》に|埋《う》められて|死《し》んで|了《しま》ふ|処《ところ》で|御座《ござ》いましたが、お|前《まへ》のお|蔭《かげ》で|可惜《あたら》|生命《いのち》を|助《たす》かり|斯《こ》んな|嬉《うれ》しい|事《こと》は|御座《ござ》いませぬ、|生命《いのち》の|親《おや》の|旅人様《たびびとさま》、|何卒《どうぞ》|妾《わたし》を|何時《いつ》|迄《まで》も|可愛《かあい》がつて|下《くだ》さいませ、|虎公《とらこう》が|何程《なにほど》|偉《えら》いと|云《い》つても、|女房《にようばう》がこれ|丈《だ》け|偉《えら》い|目《め》に|合《あ》うて|居《ゐ》るのに、|夢《ゆめ》にも|御存《ごぞん》じないとはあまり|情《つれ》ない|男《をとこ》だ。|何卒《どうぞ》|旅《たび》の|御方《おかた》、|妾《わたし》の|力《ちから》になつて|下《くだ》さい…ヘン…なんて|吐《ぬか》しやがるのだ。さアそうなれば|占《し》めたものだよ。そこで|俺《おれ》が……これこれお|女中《ぢよちう》、お|礼《れい》は|却《かへつ》て|痛《いた》み|入《い》る。|世《よ》の|中《なか》は|相見互《あひみたがひ》だ……とかますのだ。さうするとお|愛《あい》の|奴《やつ》は|俺《おれ》の|男前《をとこまへ》と|気前《きまへ》に【ぞつこん】|惚込《ほれこ》みやがつて、|俺《おれ》が|右《みぎ》へ|向《む》けと|云《い》へばハイと|言《い》つて|右《みぎ》を|向《む》き、|左《ひだり》へ|向《む》けと|云《い》へばハイと|云《い》つて|左《ひだり》へ|向《む》くなり、|死《し》ねと|云《い》へばハイと|云《い》つて|死《し》ぬし、|肩《かた》を|打《う》てと|云《い》へば|肩《かた》を|打《う》つし、|随分《ずゐぶん》もてたものだよ。オホヽヽヽ』
|高公《たかこう》『オイ|徳《とく》、|涎《よだれ》が|落《お》ちるぞ。|見《み》つとも|無《な》い。|捕《とら》ぬ|狸《たぬき》の|皮算用《かはざんよう》しても|駄目《だめ》だぞ』
|徳公《とくこう》『|何《なに》、|大丈夫《だいぢやうぶ》だ。チヤーンと|確信《かくしん》があるのだから|滅多《めつた》に|外《はづ》れつこは|無《な》いわ』
|高公《たかこう》『さうして|其《その》お|愛《あい》を|手《て》に|入《いれ》て|貴様《きさま》の|者《もの》にするのか。|大親分《おほおやぶん》に|返上《へんじやう》するのだらうな』
|徳公《とくこう》『そこは、うまく|徳公《とくこう》の|弁舌《べんぜつ》でチヨロまかし、|或《ある》|山奥《やまおく》へ|手《て》に|手《て》を|取《と》つて|忍《しの》び|入《い》り、|一寸《ちよつと》した|小屋《こや》を|結《むす》んで……お|前《まへ》と|妾《わたし》と|添《そ》ふならば、|竹《たけ》の|柱《はしら》に|萱《かや》の|屋根《やね》、|虎《とら》|狼《おほかみ》の|棲処《すみか》でも|決《けつ》して|厭《いと》ひはせぬ|程《ほど》に、コレ|徳《とく》さま、|何卒《どうぞ》|妾《わたし》を|何《いづ》れの|山奥《やまおく》なりと|連《つ》れて|往《い》つて|下《くだ》さい。|虎公《とらこう》や|大蛇《をろち》の|三公《さんこう》にでも|見付《みつ》けられたら|大変《たいへん》だから……と|向方《むかう》から|急《せ》きたてられるのだ。そこで|態《わざ》と|此《この》|徳公《とくこう》は|落《お》ちつき|払《はら》ひ……これお|愛《あい》、|天下無双《てんかむさう》の|英雄《えいゆう》|豪傑《がうけつ》、|此《この》|徳公《とくこう》が|居《ゐ》る|間《あひだ》は|虎公《とらこう》の|千匹《せんびき》や|万匹《まんびき》、|又《また》|大蛇《をろち》の|三公《さんこう》がどんなに|不足相《ふそくさう》に|云《い》つて|来《き》ても|大丈夫《だいぢやうぶ》だ……と|太《ふと》う|出《で》てやるのだ。さうするとお|愛《あい》の|奴《やつ》……|否々《いやいや》|何程《なにほど》お|前《まへ》が|強《つよ》うても、|欺《だま》すに|手《て》なしと|云《い》ふ|事《こと》が|御座《ござ》んす。さあ|一時《いちじ》も|早《はや》く|妾《わたし》を|奥山《おくやま》へ|連《つ》れていつて|下《くだ》さい……とお|出《い》で|遊《あそ》ばすにチヤンと|定《きま》つてるのだ。そこで|此《この》|徳公《とくこう》が……エー|仕方《しかた》がない、|女子《ぢよし》と|小人《せうにん》は|養《やしな》ひ|難《がた》しだ、|然《しか》しお|前《まへ》がそれ|程《ほど》|怖《こわ》がるのなら|俺《おれ》が|一《ひと》つ|山奥《やまおく》|迄《まで》|送《おく》つてやらう。|然《しか》し|決《けつ》して|夫婦《ふうふ》にならう|等《など》との|野心《やしん》を|起《おこ》しちや|可《い》けないぞ……と|高尚《かうしやう》に|出《で》るのだ。さうするとお|愛《あい》の|奴《やつ》、|益々《ますます》|感心《かんしん》しやがつて、|終《しま》ひの|果《は》てにや|本気《ほんき》になつて|惚《ほ》れて|来《き》やがるのだ。その|時《とき》|甘《あま》い|顔《かほ》しちや|可《い》けない。ピンと|一《ひと》つ|肱鉄砲《ひぢでつぱう》を|喰《か》ますのだ。……|思《おも》ひきつて……さうするとお|愛《あい》の|奴《やつ》|益々《ますます》|恋慕心《れんぼしん》が|募《つの》つて|来《く》る。|弾《はじ》かれた|女《をんな》には|益々《ますます》|男《をとこ》が|熱心《ねつしん》になる|様《やう》に、|女《をんな》の|意地《いぢ》を|立《た》てておかねばならないと|妙《めう》な|処《ところ》に|力《ちから》を|入《い》れて、|俺《おれ》を|手込《てご》みにしようとするのだ。そこで|俺《おれ》はツンと|澄《す》ました|顔《かほ》して……これこれ|女《をんな》の|身《み》としてあられもない|事《こと》をなさいますな。みつともない……と|喰《くら》はすのだ。お|愛《あい》の|奴《やつ》|益々《ますます》カツカとなり…(サワリ)ほんにまあ|女《をんな》の|心《こころ》と|男《をとこ》とは、|夫《それ》ほど|迄《まで》に|違《ちが》ふものかいな。|生命《いのち》の|親《おや》と|思《おも》ひつめ、ホンに|気《き》の|利《き》いた|男《をとこ》ぢやと、|思《おも》ひ|初《そ》めたが|病《や》みつきで、|恋《こひ》の|虜《とりこ》となりました。もう|斯《こ》うなる|上《うへ》は|徳公《とくこう》さま、|焚《た》いて|喰《く》はうと|煎《い》つて|炙《あぶ》つて|喰《く》はうとも、|貴方《あなた》のお|好《す》きに|紫壇竿《しだんざを》、|一筋繩《ひとすぢなは》で|行《ゆ》かぬ|此《この》|女《をんな》、|何卒《どうぞ》|三筋《みすぢ》の|糸《いと》で|引《ひ》き|殺《ころ》して|下《くだ》しやんせ、|拝《をが》むわいなと|手《て》を|合《あは》し、|口説《くど》き|嘆《なげ》けば|徳公《とくこう》も、|轟《とどろ》く|胸《むね》をジツと|抑《おさ》へ、お|前《まへ》の|心《こころ》は|察《さつ》すれども、|此《この》|徳公《とくこう》にも|国許《くにもと》には|可愛《かあい》い|女房《にようばう》がある。|如何《どう》して|二度目《にどめ》の|妻《つま》が|持《も》たれようか。そこ|放《はな》しや……プリンと|背中《せなか》を|向《む》けるのだ。さうするとお|愛《あい》の|奴《やつ》……そんならもう|仕方《しかた》がない、|妾《わたし》は|之《これ》で|死《し》にます……と|九寸五分《くすんごぶ》をスラリと|引《ひ》き|抜《ぬ》き、アハヤ|喉《のんど》につき|立《た》てむとする。|徳公《とくこう》|慌《あはただ》しく|引《ひ》き|止《と》め……やれ|待《ま》てお|愛《あい》、お|前《まへ》の|心底《しんてい》|見届《みとど》けた。|此《この》|世《よ》は|愚《おろ》か|七生《しちしやう》|迄《まで》も|誠《まこと》の|夫婦《ふうふ》……と|喰《くは》すと|宜《よ》いのだが、|其処《そこ》はそれ、|大蛇《をろち》の|三公《さんこう》と|云《い》ふ|大親分《おほおやぶん》が|後《あと》に|控《ひか》へて|居《ゐ》るのだから、お|愛《あい》を|山奥《やまおく》の|一《ひと》つ|家《や》に|連《つ》れ|行《ゆ》き……これお|愛《あい》どの、|一寸《ちよつと》|此《この》|徳公《とくこう》は|買物《かひもの》にいつて|来《く》るから、|淋《さび》しからうが|留守《るす》をして|下《くだ》さい。|直《すぐ》に|帰《かへ》つて|来《く》るから……と|喰《か》まして|置《お》いてフイと|其処《そこ》を|外《はづ》すのだ。さうすると|大蛇《をろち》の|親分《おやぶん》が、|与三公《よさこう》、|勘公《かんこう》|等《ら》の|面々《めんめん》を|引《ひ》き|連《つ》れ、|其《その》|小屋《こや》を|十重二十重《とへはたへ》に|取《と》り|巻《ま》かせ|置《お》き、|自分《じぶん》が|否応《いやおう》|云《い》はさず|責《せ》め|立《た》てるのだ。|何程《なにほど》|嫌《いや》がつた|女《をんな》でも、|一辺《いつぺん》ウンと|云《い》はすれば、もう|此方《こつち》の|者《もの》だ。チヤンと|斯《こ》んな|段取《だんどり》が|出来《でき》て|居《ゐ》るのだから|驚《おどろ》いたものだらう。|俺《おれ》の|責任《せきにん》も|重《ぢう》|且《かつ》|大《だい》なりと|云《い》ふべしだ』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら、|一升徳利《いつしようどくり》の|口《くち》から|又《また》もや|喇叭《らつぱ》|飲《の》みを|初《はじ》める。|与三公《よさこう》は|此《この》|場《ば》に|行歩蹣跚《かうほまんさん》として|現《あら》はれ|来《きた》り、
|与三《よさ》『やあ|何奴《どいつ》も|此奴《こいつ》も|意地汚《いぢきたな》く|酒《さけ》に|酔《よ》ひ|潰《つぶ》れて|寝《ね》て|居《ゐ》やがるな。|何《なん》だ、そこら|中《ぢう》に|八百屋《はほや》を|開店《かいてん》しやがつて|臭《くさ》くて|居《を》られたものぢやない。ヤアお|前《まへ》は|徳公《とくこう》じやないか』
|徳公《とくこう》『へい、|徳利《とつくり》で|御座《ござ》います。【トク】とお|改《あらた》め|下《くだ》さいませ。|徳公《とくこう》の|徳利飲《とつくりの》みでげえすから|何卒《どうぞ》【トク】|心《しん》の|行《ゆ》くとこ|迄《まで》|飲《の》まして|下《くだ》さい。お|愛《あい》に|又《また》【トク】りと|納《なつ》【トク】をさせねばなりませぬ。【トク】|命《めい》|全権公使《ぜんけんこうし》だから【トク】に|大目《おほめ》に|見《み》て|下《くだ》さいませ』
|与三《よさ》『そんな|事《こと》で【トク】|別《べつ》の|使命《しめい》が|勤《つと》まると|思《おも》ふか。もう|時刻《じこく》だ。【トク】トク|行《ゆ》かねばなるまいぞ。|貴様《きさま》は|酒癖《さけくせ》が|悪《わる》いから【トク】りと|心中《しんぢう》するかも|知《し》れやしない。【トク】りと|考《かんが》へて|見《み》よ』
|徳公《とくこう》『|八釜《やかま》しう|云《い》ふない。|俺《おれ》だけは【トク】|別《べつ》|待遇《たいぐう》をやつて|呉《く》れ。|斯《こ》んな|役《やく》に|行《ゆ》くのは|俺《おい》ら|一寸《ちよつと》|気《き》が|進《すす》まないのではないけれどな、|本当《ほんたう》の|事《こと》を|言《い》へば|哥兄《あにい》、お|前《まへ》が【トク】|派《は》される|処《ところ》だつたが、|生憎《あいにく》【トク】(|禿《とく》)|頭病《とうびやう》の|様《やう》な|頭《あたま》をして|居《ゐ》るから、お|愛《あい》の|奴《やつ》によく|顔《かほ》を|知《し》られて|居《を》るなり、|又《また》|其《その》|様《やう》な|土瓶章魚禿《どびんたこはげ》ではお|愛《あい》だつて|釣《つ》れはしないし、|如何《どう》しても|此《この》|徳公《とくこう》ぢやなくちや|勤《つと》まらないのだから、【トク】|別《べつ》|大切《たいせつ》にするのだよ』
|与三《よさ》『エヽ|俺《おれ》の|頭《あたま》の|批評《ひへう》までしやがつて|仕方《しかた》の|無《ね》え|奴《やつ》だ。|貴様《きさま》は|如何《どう》やら|秘密《ひみつ》を|此《この》|高公《たかこう》に|打《うち》あけた|様《やう》だ。よもやそんな|事《こと》あ|致《いた》しちや|居《を》るまいなア』
|徳公《とくこう》『|高《たか》が|知《し》れた|高公《たかこう》|位《くらゐ》に|言《い》つた|処《ところ》で、ナニそれが|邪魔《じやま》になりますけエ。|高《たか》を|括《くく》つて|云《い》つたのだからそう|声高《こはだか》にケンケン|云《い》つて|下《くだ》さるな。|相互《たがひ》に|迷惑《めいわく》だからエヽガラガラガラ、エ、|酒《さけ》の|奴《やつ》、あと|戻《もど》りをしやがる。|怪《け》しからぬ|奴《やつ》だ、ウンウンウン』
|与三《よさ》『いい|加減《かげん》に|準備《こしらへ》をして|行《ゆ》かないと|遅《おそ》くなるぞ』
|徳公《とくこう》『|八釜《やかま》しう|云《い》ふない。|死《し》んだつて|何《なん》だい。お|愛《あい》が|俺《おれ》の|女房《にようばう》になると|云《い》ふではなし、|折角《せつかく》|骨《ほね》を|折《を》つて|成功《せいこう》さした|処《ところ》が|鹿猪《ろくちよ》つきて|猟狗《れふく》|煮《に》らると|云《い》ふ|様《やう》な|目《め》に|会《あ》ふかも|知《し》れないからな。まあ|酒《さけ》の|飲《の》まれる|時《とき》に|飲《の》んだ|方《はう》が|余程《よほど》|利口《りこう》だなア。|自分《じぶん》の|思《おも》ふ|様《やう》にするのが|人間《にんげん》と|生《うま》れた|身《み》の|一生《いつしやう》の|徳利《とくり》だ。オツハツヽヽヽ』
|斯《か》く|管《くだ》を|巻《ま》く|処《ところ》へ|門前《もんぜん》|俄《にはか》に|騒《さわ》がしき|人《ひと》の|足音《あしおと》……|其処《そこ》へ|勘公《かんこう》がやつて|来《き》て、
|勘公《かんこう》『オイ|皆《みな》の|奴《やつ》、|宜《よ》い|加減《かげん》に|起《お》きぬか。|今《いま》|六公《ろくこう》が|帰《かへ》つて|来《き》たから|席《せき》をあけねばなるまい』
|此《この》|声《こゑ》に|一同《いちどう》はムクムクと|頭《あたま》を|上《あ》げ、ヒヨロヒヨロし|乍《なが》ら|裏《うら》の|田圃《たんぼ》へ|駆出《かけだ》し、|風《かぜ》に|酒《さけ》の|酔《ゑい》を|醒《さ》まして|居《ゐ》る。
(大正一一・九・一四 旧七・二三 北村隆光録)
第二三章 |動静《どうせい》〔九六四〕
|六公《ろくこう》の|一部隊《いちぶたい》が|帰《かへ》つて|来《き》たと|聞《き》いて、|大蛇《をろち》の|三公《さんこう》は、|六公《ろくこう》を|秘《ひそ》かに|吾《わが》|居間《ゐま》に|通《とほ》した。そこには|与三公《よさこう》、|勘公《かんこう》の|両人《りやうにん》が|両脇《りようわき》に|控《ひか》へてゐる。
|三公《さんこう》『オイ|六《ろく》、|甘《うま》く|往《い》つたらうなア』
六は頭を|一寸《ちよつと》かき、首を三つ四つ|振《ふ》り|乍《なが》ら、
『へー、|夫《そ》れは|夫《そ》れは|何《なん》で|御座《ござ》います。|筑紫ケ岳《つくしがだけ》の|高山峠《たかやまたうげ》の|頂上《ちやうじやう》に|参《まゐ》りました|所《ところ》、|五人《ごにん》の|奴《やつ》は、|忽《たちま》ち|雲《くも》を|霞《かすみ》と|逃《に》げ|散《ち》つて、|行方《ゆくへ》|知《し》らずとなりにけり……と|云《い》ふ|為体《ていたらく》でごぜえやした。|誠《まこと》に|以《もつ》て|大勝利《だいしようり》を|得《え》ましてごぜえやすから、どうぞ|御安心《ごあんしん》|下《くだ》さいませ』
|三公《さんこう》『|随分《ずゐぶん》|骨《ほね》が|折《を》れただらうな』
|六公《ろくこう》『イーエ、どうしてどうして、|滅相《めつさう》も|御座《ござ》いませぬ。|大親分《おほおやぶん》の|御威勢《ごゐせい》と|云《い》ふものは、|大《たい》したもので|御座《ござ》いますワ。|吾々《われわれ》|一同《いちどう》が|高山峠《たかやまたうげ》へ|行《い》つてみると、|虎公《とらこう》の|奴《やつ》、|吾々《われわれ》の|匂《にほ》ひを|嗅《か》いで、|雲《くも》を|霞《かすみ》と|逃《に》げ|去《さ》り、|猫《ねこ》の|子《こ》|一匹《いつぴき》|居《を》らぬやうになつて|了《しま》ひました』
|与三《よさ》『オイ|六公《ろくこう》、|虎公《とらこう》は|逃《に》げたのぢやあるまい。|居《を》らなかつたのぢやないか』
|六公《ろくこう》『そらさうだ。|逃《に》げたから|居《を》らないのだ。|居《を》らないから、|逃《に》げたと|云《い》ふのだ』
|与三《よさ》『|貴様《きさま》、|今《いま》|迄《まで》|何《なに》をして|居《ゐ》たのだ』
|六公《ろくこう》『|俺《おれ》は、|大親分《おほおやぶん》の|命令《めいれい》に|依《よ》つて、|虎公《とらこう》|一統《いつとう》の|所在《ありか》を|探《たづ》ねむと、|夜《よ》を|日《ひ》に|継《つ》いで、|筑紫ケ岳《つくしがだけ》に|向《むか》つて、|汗《あせ》をタラタラ|流《なが》し|乍《なが》ら、|崎嶇《きく》たる|山路《やまぢ》を、ウントコドツコイ、ヤツトコマカセと|登《のぼ》つて|見《み》れば、レコード|破《やぶ》りの|大暴風雨《だいばうふうう》、|岩石《がんせき》は|中天《ちうてん》に|舞《ま》ひ|上《あが》り、|凄《すさま》じい|音《おと》をして、ドサン、バタンと|所《ところ》|構《かま》はず|降《ふ》つて|来《く》る、|大木《たいぼく》は|惜気《をしげ》もなく、|根元《ねもと》から|吹倒《ふきたふ》される、|木《き》の|股《また》は|裂《さ》ける、|礫《つぶて》の|雨《あめ》は|降《ふ》る、|夫《そ》れは|夫《そ》れは|開闢《かいびやく》|以来《いらい》の|大騒動《おほさうどう》だつた。|其《その》|中《なか》を|泰然自若《たいぜんじじやく》として|行進《かうしん》を|続《つづ》けたのは、|此《この》|六公《ろくこう》の|一行《いつかう》だ。|六公《ろくこう》も|偉《えら》いが、|親分《おやぶん》の|威勢《ゐせい》も|大《たい》したものだよ。|生《うま》れてからあの|位《くらゐ》|壮快《さうくわい》な|目《め》に|会《あ》つた|事《こと》はねえワ。|虎公《とらこう》の|野郎《やらう》、|此《この》|烈風《れつぷう》に|吹《ふ》かれて、どつかの|谷底《たにぞこ》へ、ズデンドーと|落込《おちこ》んでくたばりやがつたに|違《ちが》ひないと、|千尾千谷《ちをちたに》|隈《くま》なく|捜《さが》し|求《もと》むれど、|狼《おほかみ》に|食《く》はれて|了《しま》つたか、|虎《とら》にいかれたか、|影《かげ》も|形《かたち》もなくなりにけり。ハテ|不思議《ふしぎ》と、|山頂《さんちやう》に|佇《たたず》み、|双手《もろて》を|組《く》み、|思案《しあん》をして|見《み》れど、|根《ね》つから、|良《よ》い|思案《しあん》も|浮《うか》んで|来《こ》ず、|止《や》むを|得《え》ずオーイオーイと|味方《みかた》を|呼《よ》び|集《あつ》め、|一旦《いつたん》|高山峠《たかやまたうげ》の|絶頂《ぜつちやう》で|人員《じんゐん》|調査《てうさ》を、|一《いち》|二《に》|三《さん》……とやつた|上《うへ》、|石塊《いしころ》だらけの|峻坂《しゆんぱん》を、エンヤラヤアと|駆降《かけくだ》り、|樫《かし》の|木《き》の|森蔭《もりかげ》に|一同《いちどう》|集《あつ》まり、|大方《おほかた》|虎公《とらこう》の|奴《やつ》、|三五教《あななひけう》の|信者《しんじや》だから、|建日《たけひ》の|館《やかた》へ|行《ゆ》きよつたに|違《ちがひ》なからう、これにより|一隊《いつたい》を|引《ひき》つれ、|華々《はなばな》しく|館《やかた》にかけ|向《むか》ひ、|一戦《いつせん》を|試《こころ》み、|一泡《ひとあわ》ふかしてくれむかと|許《ばか》り|思《おも》つたが、イヤ|待《ま》て|暫《しば》し、|軽々《かるがる》しく|進《すす》んでは、|却《かへつ》て|戦《たたか》ひ|利《り》あらずと、あせる|胸《むね》をグツと|押《おさ》へ、|手具脛曳《てぐすねひ》いて|待《ま》つ|所《ところ》へ、|虎公《とらこう》の|奴《やつ》、|神《かみ》ならぬ|身《み》の|知《し》る|由《よし》もなく、ヌツクリと|此《この》|場《ば》に|現《あら》はれ|来《きた》りけり……だ』
|三公《さんこう》『それから|如何《どう》したと|云《い》ふのだ。|早《はや》く|後《あと》を|云《い》はねえか』
|六公《ろくこう》『|言《い》はぬが|花《はな》と|云《い》ふ|事《こと》が|御座《ござ》いますから、モウここらで|打切《うちき》りにさして|頂《いただ》きませうか、|六公《ろくこう》が|六《ろく》でもない|事《こと》をしよつたと|云《い》つて、|御立腹《ごりつぷく》なせえましては、|双方《さうはう》の|気《き》が|悪《わる》うなりますから、|何《いづ》れ|六《ろく》のやつた|事《こと》に|六《ろく》な|事《こと》は|御座《ござ》いませぬワイ』
|三公《さんこう》『オイ|六《ろく》、シツカリせぬか。|貴様《きさま》の|云《い》ふ|事《こと》は|支離滅裂《しりめつれつ》、|前後《ぜんご》|矛盾《むじゆん》、|何《なに》が|何《なん》だか|訳《わけ》が|分《わか》らぬだないか』
|六公《ろくこう》『ヘヽすべて|物事《ものごと》は|分《わか》らぬ|所《ところ》に|価値《かち》が|御座《ござ》いますので……』
|三公《さんこう》『ナニ、|分《わか》らぬ|所《ところ》で、|勝《かち》を|得《え》たと|云《い》ふのか。|虎公《とらこう》は|如何《どう》なつたのだ』
|六公《ろくこう》『トラ|一寸《ちよつと》|分《わか》りかねますなア。|何《いづ》れ|何《なん》とかなつて|居《ゐ》るでせう。そこ|迄《まで》|詳《くは》しう|査《しら》べる|余裕《よゆう》がなかつたので……|無念《むねん》|乍《なが》らも、|残党《ざんたう》を|引集《ひきあつ》め、やみやみ|立帰《たちかへ》つて|候《さふらふ》……と|云《い》ふ|様《やう》な|事《こと》でごぜえす』
|三公《さんこう》は|面《つら》をふくらし、
|三公《さんこう》『エヽ|何奴《どいつ》も|此奴《こいつ》も|碌《ろく》な|奴《やつ》アないワイ。オイ|与三公《よさこう》、|勘公《かんこう》、|六《ろく》をトツクリ|査《しら》べて、|委細《ゐさい》を|俺《おれ》に|報告《はうこく》してくれ。|俺《おれ》はこれから、|徳《とく》に|一寸《ちよつと》|用《よう》があるから……』
と|云《い》ひすて、|此《この》|場《ば》を|立《た》つて|今《いま》|酒宴《しゆえん》の|開《ひら》かれてゐた|広《ひろ》い|座敷《ざしき》へ|進《すす》み|行《い》つた。
|徳《とく》、|高《たか》の|二人《ふたり》は|差向《さしむか》ひになつて、|相変《あひかは》らず|管《くだ》を|巻《ま》き|乍《なが》ら、|何事《なにごと》か|囁《ささや》いて|居《ゐ》る。|三公《さんこう》は|声《こゑ》をかけ、
|三公《さんこう》『オイ|徳《とく》、お|前《まへ》に|言《い》うておいた|仕事《しごと》に|早《はや》く|往《い》つて|呉《く》れないと、|遅《おく》れちや|駄目《だめ》だぞ』
|徳公《とくこう》『ヘエ、|行《ゆ》く|事《こと》は|行《ゆ》きますが、どうも|根《ね》つから|葉《は》つから、はづみませぬワイ。|今日《けふ》は|余《あま》りお|酒《さけ》がまはりましたので、|体《からだ》が|自由《じいう》になりませぬから、|明日《あす》に|延《の》ばして|下《した》せえなア』
|三公《さんこう》『|明日《あす》に|延《の》ばせる|位《くらゐ》なら、|貴様《きさま》に|言《い》ひ|付《つ》けるか。サア|早《はや》く|用意《ようい》をせよ』
|徳公《とくこう》『|用意《ようい》をせよと|仰有《おつしや》つても、|是《これ》|丈《だけ》【ヨーイ】が|廻《まは》つたら、|此《この》|上《うへ》、【ヨーイ】の|仕方《しかた》もありますめえ。あんなシヤンに|対《たい》して、|私《わたし》の|此《この》レツテルでは、|如何《どう》も|成功《せいこう》|覚束《おぼつか》なしと|観察《くわんさつ》|致《いた》しましたから、|実《じつ》ア、|胴《どう》を|据《す》ゑて|思《おも》ひ|切《き》り|酒《さけ》をあふつた|所《ところ》でげす』
|三公《さんこう》『お|前《まへ》は|此《この》|用《よう》を|果《はた》す|迄《まで》、|酒《さけ》を|呑《の》まぬと|言《い》つたぢやないか。|肝腎要《かんじんかなめ》の|時《とき》になつて、さうヘベレケに|酔《よ》うて|如何《どう》なるものか、サア|早《はや》く|立《た》てい』
|徳公《とくこう》『|親方《おやかた》、|何《なん》と|云《い》つて|下《くだ》さつても、|腰《こし》が|立《た》ちませぬワ、|腰《こし》が……それよりも|直接《ちよくせつ》に|親方《おやかた》が|行《ゆ》かれた|方《はう》が、|手取早《てつとりばや》う|話《はなし》がつくかも|知《し》れませぬで。|二人《ふたり》の|奴《やつ》は|元《もと》の|通《とほ》り|埋《うづ》めておき、お|愛《あい》のシヤン|丈《だけ》を、|山奥《やまおく》へかつぎ|込《こ》み、そこは|甘《うま》く、あなたの|御器量《ごきりやう》で|要領《えうりやう》を|得《え》なさい。それが|何《なに》より|早道《はやみち》だ。|三五教《あななひけう》の|言《い》ひ|草《ぐさ》だないが、|人《ひと》を|杖《つゑ》につくな|子分《こぶん》をたよりにするなと|云《い》ふ|事《こと》がごぜえますからな、ゲーゲブプーエー、あゝ|苦《くる》しい、|斯《か》う|苦《くる》して|如何《どう》して|道中《だうちう》がなるものか。|動中静《どうちうせい》あり|静中動《せいちうどう》ありだ。【ドウセイ】お|前《まへ》さまの|物《もの》になるのだもの、|私《わたし》が【ドウチウ】|訳《わけ》にも|行《ゆ》かないのだから、|親方《おやかた》【ドウ】ドウセイセイ|行《や》つて|来《き》て|下《くだ》さいな。|私《わたし》も【セイ】|一杯《いつぱい》【ドウ】を|据《す》ゑて、|酒《さけ》でも|飲《の》んで、|親分《おやぶん》の【セイ】|功《こう》を|祈《いの》つてゐませうかい』
|三公《さんこう》『【ドウ】も|仕方《しかた》のねえ|奴《やつ》だなア』
|徳公《とくこう》『|本当《ほんたう》に【ドウ】も|仕方《しかた》のねえ|奴《やつ》だ。|他人《ひと》の|女房《にようばう》に|横恋慕《よこれんぼ》をするなんて、|人《ひと》の|風上《かざかみ》に|立《た》つ|親分《おやぶん》にも|似合《にあ》はねえ|卑怯《ひけふ》|未練《みれん》な|行方《やりかた》だねえか、エーゲブ、ウーーー』
|三公《さんこう》は|癇高《かんだか》な|声《こゑ》を|出《だ》して、
|三公《さんこう》『|与三公《よさこう》|勘公《かんこう》』
と|呼《よ》んだ。|此《この》|声《こゑ》に|与三《よさ》、|勘《かん》の|両人《りやうにん》は、|行歩蹣跚《かうほまんさん》として|此《この》|場《ば》に|現《あら》はれ|来《きた》り、
|与三《よさ》『|親分《おやぶん》、|何《なん》ぞ|御用《ごよう》でげすかなア』
|三公《さんこう》『|徳公《とくこう》を|一《ひと》つ|裏《うら》の|谷川《たにがは》へ|連《つ》れて|行《い》つて、|水《みづ》を|呑《の》ませ、|酔《ゑい》をさまさして、|早《はや》く|今《いま》の|所《ところ》へ|行《ゆ》く|様《やう》にしてくれないか』
|与三《よさ》『そりや|与三《よさ》さうな|事《こと》です、オイ|徳《とく》、|立《た》たぬか。|貴様《きさま》ア、|肝腎《かんじん》の|時《とき》になつて、|何《なん》の|事《こと》だ。そんな|事《こと》で|親方勤《おやかたづと》めが|出来《でき》ると|思《おも》ふか』
|徳公《とくこう》『【トク】と|思案《しあん》をして|見《み》た|所《ところ》、|何《なに》を|言《い》うても|人里《ひとざと》はなれた、あの|森林《しんりん》だ。モシもお|愛《あい》の|奴《やつ》、|息《いき》でも|止《と》まつて|居《を》らうものなら、ヒユードロドロだ。|夫《そ》れを|思《おも》へば|怖《こわ》くも…|何《なん》ともないが、|何時《いつ》の|間《ま》にか|酒腰《さけごし》がぬけやがつて、|如何《どう》しても|動《うご》けないのだよ。|哥兄《あにき》、|頼《たの》みだが、|今日《けふ》は|俺《おれ》の|代理《だいり》を|命《めい》ずるから、トツトと|行《い》つてくれねえか。|本当《ほんたう》に|親方《おやかた》もあこ|迄《まで》|仕組《しぐ》んだ|大芝居《おほしばゐ》だから、|此《この》|儘《まま》オジヤンになつては|残念《ざんねん》だらうし、|俺達《おれたち》も|甘《うま》い|酒《さけ》を|親方《おやかた》からおごらした|手前《てまへ》、|気《き》の|毒《どく》でならねえからなア』
|与三《よさ》『|俺《おれ》や|駄目《だめ》だ。そんなら|仕方《しかた》がねえから、オイ|勘州《かんしう》|貴様《きさま》、|徳《とく》の|代《かは》りに|行《い》つたら|如何《どう》だい』
|勘公《かんこう》『おれやモウ|御免《ごめん》だ。|今日《けふ》は|親《おや》の|命日《めいにち》だからなア』
|斯《か》かる|所《ところ》へ|二三《にさん》の|乾児《こぶん》|共《ども》|慌《あわただ》しく|駆《か》け|込《こ》み|来《きた》り、
『ヤア|与三《よさ》の|哥兄《あにき》、タヽヽ|大変《たいへん》だ|大変《たいへん》だ。お|愛《あい》の|幽霊《いうれい》と|虎公《とらこう》の|幽霊《いうれい》が、|沢山《たくさん》の|亡者《まうじや》を|連《つ》れて|押寄《おしよ》せて|来《き》よつたぞ。サア|用意《ようい》だ|用意《ようい》だ』
|与三《よさ》、|勘《かん》の|両人《りやうにん》は『アツ』と|云《い》つた|儘《まま》、|腰《こし》を|抜《ぬ》かしてその|場《ば》に|倒《たふ》れて|了《しま》つた。
|館《やかた》の|外《そと》には|唸《うな》りを|立《た》てて|夏《なつ》の|風《かぜ》がゴーゴーと|吹《ふ》き|渡《わた》つてゆく。|油蝉《あぶらぜみ》の|声《こゑ》は|館《やかた》の|庭先《にはさき》の|木《き》の|上《うへ》から、|耳《みみ》が|痛《いた》い|程《ほど》ゼミゼミ、ミンミンミンと|聞《きこ》えて|来《く》る。
(大正一一・九・一四 旧七・二三 松村真澄録)
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霊界物語 第三四巻 海洋万里 酉の巻
終り