霊界物語 第三一巻 海洋万里 午の巻
出口王仁三郎
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●テキスト中に現れる記号について
《》……ルビ
|……ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)天地|剖判《ぼうはん》の
[#]……入力者注
【】……傍点が振られている文字列
(例)【ヒ】は火なり
●シフトJISコードに無い文字は他の文字に置き換え、そのことをWebサイトに「相違点」として記した。
●底本
『霊界物語 第三一巻』愛善世界社
1999(平成11)年08月22日 第一刷発行
※現代では差別的表現と見なされる箇所もあるが修正はせずにすべて底本通りにした。
※図表などのレイアウトは完全に再現できるわけではないので適宜変更した。
※詳細な凡例は次のウェブサイト内に掲載してある。
http://www.onisavulo.jp/
※作成者…『王仁三郎ドット・ジェイピー』
2004年07月31日作成
2008年06月23日修正
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●目次
|序歌《じよか》
|総説《そうせつ》
第一篇 |千状万態《せんじやうばんたい》
第一章 |主一無適《しゆいつむてき》〔八六七〕
第二章 |大地震《だいぢしん》〔八六八〕
第三章 |救世神《きうせいしん》〔八六九〕
第四章 |不知恋《しらずごひ》〔八七〇〕
第五章 |秋鹿《あきしか》の|叫《さけび》〔八七一〕
第六章 |女弟子《おんなでし》〔八七二〕
第二篇 |紅裙隊《こうくんたい》
第七章 |妻《つま》の|選挙《せんきよ》〔八七三〕
第八章 |人獣《にんじう》〔八七四〕
第九章 |誤神託《ごしんたく》〔八七五〕
第一〇章 |噂《うはさ》の|影《かげ》〔八七六〕
第一一章 |売言買辞《ばいげんばいじ》〔八七七〕
第一二章 |冷《つめた》い|親切《しんせつ》〔八七八〕
第一三章 |姉妹教《しまいけう》〔八七九〕
第三篇 |千里万行《せんりばんかう》
第一四章 |樹下《じゆか》の|宿《やど》〔八八〇〕
第一五章 |丸木橋《まるきばし》〔八八一〕
第一六章 |天狂坊《てんきやうばう》〔八八二〕
第一七章 |新《あたら》しき|女《をんな》〔八八三〕
第一八章 シーズンの|流《ながれ》〔八八四〕
第一九章 |怪原野《くわいげんや》〔八八五〕
第二〇章 |脱皮婆《だつぴばば》〔八八六〕
第二一章 |白毫《びやくがう》の|光《ひかり》〔八八七〕
第四篇 |言霊《ことたま》|将軍《しやうぐん》
第二二章 |神《かみ》の|試《ためし》〔八八八〕
第二三章 |化老爺《ばけおやぢ》〔八八九〕
第二四章 |魔違《まちがひ》〔八九〇〕
第二五章 |会合《くわいがふ》〔八九一〕
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|序歌《じよか》
|綾部《あやべ》の|聖地《せいち》を|後《あと》にして(綾部) |吾家《わがや》を【|伊豆《いづ》】の|温泉場《をんせんば》
|幽邃閑雅《いうすゐかんが》の|山家村《やまがむら》(山家) |狩野《かの》の|流《なが》れに|臨《のぞ》みたる
|湯ケ島《ゆがしま》|温泉《をんせん》|湯本館《ゆもとくわん》 |何《なに》に|利《き》く|加《か》【|和知《わし》】らね|共《ども》(和知)
|一度《いちど》は|来《き》たれと|信徒《まめひと》が |送《おく》る|玉章《たまづさ》|細《こま》【|胡麻《ごま》】と(胡麻)
|見《み》るも|嬉《うれ》しき|吾《わが》|思《おも》ひ |教主《けうしゆ》【|殿《でん》】をば【|田《た》】ち|出《い》でて(殿田)
|松村《まつむら》|真澄《まさずみ》、|佐賀《さが》|伊佐男《いさを》 【|園《その》】ほか|一《いち》【|部《ぶ》】の|伊豆《いづ》|信者《しんじや》(園部)
|杉山《すぎやま》|当一《たういち》|林《はやし》|弥生《やよひ》 【|八木《やき》】つく|様《やう》な|夏空《なつぞら》を(八木)
|静《しづ》かに|進《すす》む|汽車《きしや》の|上《うへ》 |寿《よはひ》も|長《なが》き【|亀岡《かめをか》】の(亀岡)
|瑞祥《ずいしやう》|祝《いは》ふこの|旅行《りよかう》 【|嵯峨《さが》】しあてたる|好避暑地《かうひしよち》(嵯峨)
|言葉《ことば》の【|花《はな》】や|教《のり》の【|園《その》】を(花園) 【|二《ふた》】|人《り》の|幹部《かんぶ》と|諸共《もろとも》に
|只一《ただひ》と【|条《すぢ》】に|勇《いさ》み|行《ゆ》く(二条)
○
【|丹波《たんば》】|綾部《あやべ》に|名《な》も|高《たか》き |出《で》【|口《ぐち》】の|神《かみ》の|御教《みをしへ》を(丹波口)
【|京都《きやうと》】、|大阪《おほさか》、|東京《とうきやう》の(京都) |三大《さんだい》|都市《とし》を|始《はじ》めとし
【|山科《やましな》】|里《さと》に|至《いた》るまで(山科) |皇《すめ》【|大《おほ》】|神《かみ》の|大道《おほみち》を
【|津《つ》】|多《た》へ|拡《ひろ》むる|神司《かむづかさ》(大津) |堅《かた》き|心《こころ》は【|石山《いしやま》】の(石山)
|月《つき》|照《て》り|渡《わた》る|如《ごと》く|也《なり》
○
|青人《あをひと》【|草《ぐさ》】を【|津《つ》】|々《つ》がなく(草津) 【|守《まも》】りたまへと|祈《いの》りつつ(守山)
【|山《さん》】【|野《や》】を【|州《す》】|々《す》みて【|篠《しの》】すすき(野州) |露野《つゆの》が【|原《はら》】も|乗《の》りこえて(篠原)
いつかは|日《ひ》の|出《で》の|神《かみ》の|代《よ》に 【|近江《あふみ》】の|国《くに》や【|八幡《はちまん》】|宮《ぐう》(近江八幡)
|厳《いづ》の|御前《みまへ》にぬかづきて |浦《うら》【|安土《やすくに》】の|心《うら》やすく(安土)
|守《まも》り|玉《たま》へと|太《ふと》【|能《の》】|里《り》【|登《と》】 |宣《の》る|言霊《ことたま》は|速《はや》【|川《かは》】の(能登川)
|水瀬《みなせ》の|音《おと》と|聞《きこ》ゆ|也《なり》
○
【|稲《いな》】|穂《ほ》は|栄《さか》【|枝《え》】て|黄金《わうごん》の(稲枝) |波《なみ》|漂《ただよ》はす【|河《かは》】の【|瀬《せ》】や(河瀬)
|国《くに》の|御祖《みをや》の|永遠《とことは》に |守《まも》り|玉《たま》へる|豊秋津《とよあきつ》
|根別《ねわけ》の|国《くに》の|八百《やほ》【|米《よね》】は |高天《たかあま》【|原《はら》】に|天照《あまて》らす(米原)
|皇大神《すめおほかみ》のみことのり |天《あめ》の|下《した》なる|人草《ひとぐさ》の
|食《く》ひて|生《い》くべきものなりと その|神勅《しんちよく》をひるも|夜《よ》も
|尊《たふと》み|眼《まなこ》も【|醒ケ井《さめがゐ》】の(醒ケ井) |神《かみ》の|恵《めぐ》みに【|近江《あふみ》】|路《ぢ》や
|御代《みよ》【|長《なが》】かれと|祝《いは》ふなる |亀《かめ》のよはひの|亀《かめ》【|岡《をか》】に(近江長岡)
|教《をしへ》の|庭《には》を|開《ひら》きつつ |打《う》つ【|柏《かしは》】|手《で》の|音《ね》も|清《きよ》く
|高天《たかあま》【|原《はら》】と|鳴《な》り|渡《わた》る(柏原) |神《かみ》と|鬼《おに》との【|関ケ原《せきがはら》】(関ケ原)
|恵《めぐみ》の|露《つゆ》も【|垂井《たるゐ》】|駅《えき》(垂井)
○
|世《よ》の【|大《おほ》】|本《もと》は|青《あを》【|垣《がき》】の(大垣) |山《やま》をば|四方《よも》に|廻《めぐ》らして
|神《かみ》の|鎮《しづ》まる|霊場《れいぢやう》と |数多《あまた》の|人々《ひとびと》|我一《われいち》に
|先《さき》を|争《あらそ》ひ|木曽川《きそがは》や(木曽川) |神《かみ》の|光《ひかり》に|仰《あふ》|岐阜《ぎふ》し(岐阜)
【|尾張《をはり》】に|近《ちか》き|暗《やみ》の|世《よ》を |救《すく》ひ|玉《たま》へと|真心《まごころ》を
【|一《ひと》】つに|固《かた》めて|本《ほん》【|宮《ぐう》】|山《やま》(尾張一ノ宮) |遠《とほ》き|山路《やまぢ》も【|稲《いな》】みなく
いと【|沢《さは》】|々《さは》に|寄《よ》り|来《きた》る(稲沢) |神《かみ》の|経綸《しぐみ》ぞ|畏《かしこ》けれ
○
|天《あめ》の|真奈井《まなゐ》の【|枇杷《びは》】の|湖《うみ》(枇杷島) |竹生《ちくぶ》の【|島《しま》】に|顕《あ》れませる
|神《かみ》の|猛《たけ》びを【|名古《なご》】めつつ(名古屋) 【|屋《や》】|間登御魂《まとみたま》の|神人《しんじん》が
【|熱《あつ》】き|心《こころ》を【|田《た》】|向《む》け|行《ゆ》く(熱田) |神徳《しんとく》【|大《ひろ》】くいや【|高《たか》】き(大高)
|皇《すめ》【|大《おほ》】|神《かみ》の|生《あ》れまして |清《きよ》き|神《しん》【|府《ぷ》】と|定《さだ》めてし(大府)
|世《よ》の|大元《おほもと》は|爰婆《ここば》【|刈《かり》】 |豊葦原《とよあしはら》の|中国《なかくに》【|谷《や》】(刈谷)
【|安《あん》】|全《ぜん》|地帯《ちたい》ぞ|金《きん》【|城《じやう》】と(安城) |尊《たふと》み|敬《うやま》ひ|許々太久《ここたく》の
【|岡《をか》】せし|罪《つみ》を|悔《く》い|乍《なが》ら |御霊《みたま》【|崎《さき》】はへ|坐《ま》しませと(岡崎)
|赤《あか》き|心《こころ》のまめ|人《ひと》が 【|幸《さち》】|願《ね》ぎ|奉《まつ》り【|田《た》】のむ|也《なり》(幸田)
○
【|蒲《がも》】の|乱《みだ》れの【|郡《ぐん》】|集《しふ》を(蒲郡) |皇大神《すめおほかみ》の【|御《ご》】|仁慈《じんじ》の
|清《きよ》き【|油《あぶら》】を|濺《そそ》がれて(御油) 【|豊《ゆたか》】に|渡《わた》る|神《かみ》の【|橋《はし》】(豊橋)
【|二川《ふたがは》】|三河《みかは》の|水《みづ》|清《きよ》く(二川) |小雲《こくも》の|川《かは》や|玉水《たまみづ》に
|身《み》そぎ|祓《はら》ひて|神徳《しんとく》を |信徒《まめひと》たちが【|鷲津《わしづ》】|神《かみ》(鷲津)
|旧《ふる》きを|捨《す》てず【|新《あたら》】しく |居所《きよしよ》を|定《さだ》むる|神《かみ》の【|町《まち》】(新居町)
|心《こころ》も|勇《いさ》みて【|弁天《べんてん》】の(弁天島) |女神《めがみ》の|前《まへ》に|真心《まごころ》を
つく【|島《しま》】つりし|音楽《おんがく》や 【|舞《ぶ》】|曲《きよく》も|清《きよ》くさはやかに(舞阪)
|御代《みよ》の【|阪《さか》】えむ|瑞祥《ずゐしやう》を 【|浜《はま》】の【|松《まつ》】|風《かぜ》|音《おと》もなく(浜松)
|世《よ》は|平《たひ》らけく【|天竜《てんりう》】の |勢《いきほひ》|強《つよ》く【|川《かは》】|登《のぼ》り(天竜川)
|心《こころ》の【|中《なか》】に|霊《れい》【|泉《せん》】の(中泉) |甘露《かんろ》は|尽《つ》きず|湧《わ》き|出《い》でて
|神代《かみよ》を|祝《いは》ふぞ|尊《たふと》けれ
○
【|袋井《ふくろゐ》】|首《くび》に【|掛川《かけがは》】の(袋井・掛川) |貧《まづ》しき|人《ひと》も|神《かみ》の|道《みち》
|悟《さと》りて|慾《よく》を【|堀《ほり》ノ|内《うち》】(堀ノ内) |誠《まこと》の|教《をしへ》を|守《まも》りなば
|富貴《ふうき》も|権威《けんゐ》も【|金谷《かなや》】せぬ(金谷) |神《かみ》の|御教《みのり》を|敷《しき》【|島《しま》】の(島田)
|大和心《やまとごころ》を【|田《た》】|鶴《づ》ぬれば |薫《かほ》り|目出度《めでた》き|白梅《しらうめ》の
|花《はな》【|藤《と》】|答《こた》【|枝《え》】よ|惟神《かむながら》(藤枝) |醜《しこ》の|仇草《あだくさ》【|焼《やき》】|鎌《かま》の(焼津)
|敏《と》がまや【|津《つ》】|留岐《るぎ》ぬき【|用《もち》】て(用宗) 【|宗《むね》】|打《う》ち|払《はら》ひ【|静《しづ》】|々《しづ》と
|風雨雷電《ふううらいでん》【|岡《をか》】しつつ(静岡) |誠《まこと》の|道《みち》【|江《え》】|一散《いつさん》に
【|尻《しり》】に|帆《ほ》かけて|進《すす》み|行《ゆ》く(江尻) あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸倍《さちはへ》ましませよ
○
|昔《むかし》の|元《もと》の|大神《おほかみ》が |現《あら》はれまして|太元《おほもと》の
|救《すく》ひの|道《みち》を【|興《おこ》】し【|津《つ》】|々《つ》(興津) 【|由比《ゆひ》】|所《しよ》の|深《ふか》き【|蒲生《がまふ》】の|原《はら》(由比・蒲原)
|開《ひら》きて|根本《こんぽん》|霊場《れいぢやう》を 【|岩《いは》】|秀《ほ》の|如《ごと》く|弥固《いやかた》く
【|淵《ふち》】なす|深《ふか》き|経綸《けいりん》を(岩淵) 【|富士《ふじ》】の|御山《みやま》のいや|高《たか》く(|富士《ふじ》)
|立《た》てて|天地《てんち》の|神人《しんじん》が |生言霊《いくことたま》の|鳴《な》り|渡《わた》る
|五十《いす》【|鈴《ず》】の【|川《かは》】の|川水《かはみづ》に(鈴川) 【|原《はら》】ひ|清《きよ》めて|朝露《あさつゆ》の(原)
|干《ひ》【|沼《ぬま》】の|池《いけ》に|照《て》る【|津《つ》】|岐《き》の(沼津) |影《かげ》も|涼《すず》しく|神《かみ》の|世《よ》を
|開《ひら》き|玉《たま》ふぞ|尊《たふと》けれ
○
|三月《さんぐわつ》|三日《みつか》の|桃《もも》の|花《はな》 |五月《ごぐわつ》|五日《いつか》の【|桃《もも》】|実《のみ》に
|比《ひ》すべき|霊界物語《れいかいものがたり》 |故《こ》【|郷《きやう》】の|土産《みやげ》と|瑞月《ずゐげつ》が(桃郷)
|心《こころ》も|清《きよ》く|住《すみ》の【|江《え》ノ】 【|浦《うら》】|安国《やすくに》の|神宝《しんぽう》と(江ノ浦)
|語《かた》る|出《で》【|口野《ぐちの》】|神《かみ》の|教《のり》(口野) 【|天皇山《てんのうざん》】に|祭《まつ》りたる(天皇山)
|皇大神《すめおほかみ》の|御守《みまも》りを |嬉《うれ》しみ|尊《たふと》み|神勅《しんちよく》を
【|北条《ほうでう》】【|南条《なんでう》】|畏《かしこ》みて(北条・南条) 【|田《ゐ》】|舎男《なかをとこ》や【|京《きやう》】わらべ(田京)
|遠《とほ》き|耳《みみ》にも|入《い》り|易《やす》く |解《と》き|明《あ》かしたる|神《かみ》の|書《ふみ》
|迎《むか》への|人《ひと》の|親切《しんせつ》も |酒《さけ》の|泉《いづみ》の【|吉田《よしだ》】|郷《がう》(吉田)
|車《くるま》を|止《と》めて|杉原家《すぎはらけ》 |殊更《ことさら》|厚《あつ》き|待遇《たいぐう》に
|三伏《さんぷく》の|暑《しよ》を|打忘《うちわす》れ |心《こころ》も|深《ふか》き|真清水《ましみづ》の
|湯槽《ゆぶね》に|浸《ひた》り|汗水《あせみづ》を |流《なが》して|西瓜《すゐくわ》の|腹《はら》つづみ
|誠《まこと》の|信徒《しんと》も【|大仁《おほひと》】や(大仁) 【|瓜生野《うりふの》】の|里《さと》も|打過《うちす》ぎて(瓜生野)
|堅《たて》と【|横《よこ》】との|五十鈴川《いすずがは》(横瀬) |言霊車《ことたまぐるま》【|瀬《せ》】を|速《はや》み
|国常《くにとこ》【|立野《たちの》】【|大《おほ》】|神《かみ》が(立野・大平) 【|平《へい》】|和《わ》の|御世《みよ》を【|松ケ瀬《まつがせ》】や(松ケ瀬)
【|青羽《あをば》】の【|根《ね》】|配《くば》りいや|広《ひろ》く(青羽根) |茂《しげ》る|稲田《いなだ》の|富貴草《ふうきさう》
【|出口《でぐち》】の|王仁《おに》の|一行《いつかう》は(出口) |早《はや》くも|伊豆《いづ》に【|月ケ瀬《つきがせ》】や(月ケ瀬)
|天津御空《あまつみそら》の|神《かみ》【|門野《のとの》】 |開《ひら》け|行《ゆ》くてふ|玉《たま》の【|原《はら》】(門野原)
|天《あめ》の|八重雲《やへくも》|掻《か》き|分《わ》けて |救《すく》ひの|神《かみ》も【|嵯峨沢《さがさは》】の(嵯峨沢)
|今日《けふ》の|旅行《りよかう》ぞ|楽《たの》しけれ |木々《きぎ》に|囀《さへづ》る|蝉《せみ》の|声《こゑ》
【|市《いち》】なす【|山《やま》】の|片《かた》ほとり(市山) |東《とう》【|西《ざい》】|南北《なんぼく》|風《かぜ》|清《きよ》く(西平)
【|平《へい》】|和《わ》の|里《さと》と【|湯ケ島《ゆがしま》】の(湯ケ島) |狩野《かの》の|流《なが》れに|浴《あ》み|乍《なが》ら
|漸《やうや》く【|安藤《あんどう》】の|宅《たく》につき(安藤) |心《こころ》よりなるもてなしに
|歓《よろこ》び|勇《いさ》み|湯浴《ゆあみ》して またもや|例《れい》の|物語《ものがたり》
|口述如来《こうじゆつによらい》の【|瑞月《ずゐげつ》】が |安全《あんぜん》|椅子《いす》によりかかり
|浄写菩薩《じやうしやぼさつ》の|松村《まつむら》|氏《し》 |腕《うで》に|撚《より》かけスラスラと
『|海洋万里《かいやうばんり》』|午《うま》の|巻《まき》 いよいよ|爰《ここ》に|述《の》べ|写《うつ》す
あゝ|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》
『海洋|万里《ばんり》』|卯《う》の|巻《まき》|四日間《よつかかん》、|同《どう》|辰《たつ》の|巻《まき》|三日《みつか》、|同《どう》|巳《み》の|巻《まき》|三日《みつか》、|前後《ぜんご》|合《あは》せて|十日間《とをかかん》。|述《の》べつ|写《うつ》しつ、|暑《あつ》さに|堪《た》えし|休養日《きうやうび》を|幸《さいは》ひ、|筆《ふで》のすさびのいと|永々《ながなが》と|記《しる》しおく。
大正十一年八月十七日 於湯ケ島温泉 口述著者
|総説《そうせつ》
|本巻《ほんくわん》は|秘露《ひる》の|国《くに》アラシカ|山麓《さんろく》のウラル|教《けう》の|宣伝使《せんでんし》の|娘《むすめ》エリナの|家《いへ》に、|国依別《くによりわけ》の|宣伝使《せんでんし》が|四五日間《しごにちかん》|滞在《たいざい》の|上《うへ》、|楓別命《かへでわけのみこと》のヒルの|神館《かむやかた》に|進《すす》む|途上《とじやう》、|大地震《だいぢしん》に|出会《であ》ひ、|紅井姫《くれなゐひめ》の|危難《きなん》を|救《すく》ひたる|事《こと》より、ウラル|教《けう》の|日暮《ひぐら》シ|山《やま》の|岩窟《がんくつ》に|於《おい》て、ブール|一派《いつぱ》を|帰順《きじゆん》せしめ、エスの|危難《きなん》を|救《すく》ひ、それより|紅井姫《くれなゐひめ》、エリナをエスに|一任《いちにん》しおき、|安彦《やすひこ》、|宗彦《むねひこ》の|二人《ふたり》を|伴《ともな》ひ、ブラジル|峠《たうげ》の|谷間《たにま》を|越《こ》え、シーズン|川《がは》に|於《おい》て、|秋山別《あきやまわけ》、モリスの|二人《ふたり》の|生命《いのち》を|救《すく》ひ、|屏風山脈《びやうぶさんみやく》の|最高地《さいかうち》、|帽子ケ岳《ぼうしがだけ》に|登《のぼ》り、|言依別《ことよりわけ》に|邂逅《かいこう》し、|茲《ここ》に|両雄《りやうゆう》は|協心戮力《けふしんりくりよく》、アマゾン|川《がは》|及《およ》び|時雨ノ森《しぐれのもり》の|邪神《じやしん》を|言向《ことむ》け|和《やは》せ、|鷹依姫《たかよりひめ》の|一行《いつかう》を|始《はじ》め|高姫《たかひめ》|一行《いつかう》を|救《すく》ふ|策源地《さくげんち》と|定《さだ》めたる|所《ところ》まで|口述《こうじゆつ》せる、|珍《めづら》しき|古代《こだい》の|物語《ものがたり》であります。
大正十一年八月二十日(旧六月二十八日)
於湯ケ島温泉
第一篇 |千状万態《せんじやうばんたい》
第一章 |主一無適《しゆいつむてき》〔八六七〕
|千早振《ちはやぶる》|遠《とほ》き|神代《かみよ》の|昔《むかし》より |珍《うづ》の|都《みやこ》のエルサレムに
|天津御神《あまつみかみ》の|神言《みこと》もて |国治立大神《くにはるたちのおほかみ》は
|普《あまね》く|世人《よびと》を|救《すく》はむと |野立彦《のだちのひこ》と|現《あら》はれまし
|豊国姫《とよくにひめ》の|神御霊《かむみたま》は |野立姫《のだちのひめ》と|現《あら》はれて
|天《あめ》と|地《つち》とを|兼《か》ね|玉《たま》ひ |百《もも》の|神人《かみびと》|草木《くさき》まで
|安《やす》きに|救《すく》ひ|助《たす》くべく |心《こころ》を|千々《ちぢ》に|配《くば》りまし
|埴安彦《はにやすひこ》や|埴安姫《はにやすひめ》の |貴《うづ》の|命《みこと》と|現《あら》はれて
|黄金山下《わうごんさんか》に|三五《あななひ》の |神《かみ》の|教《をしへ》を|樹《た》て|玉《たま》ひ
|救《すく》ひの|道《みち》を|宣《の》り|玉《たま》ふ |此《この》|御教《みをしへ》を|朝夕《あさゆふ》に
|守《まも》り|玉《たま》へる|天教山《てんけうざん》の |木《こ》の|花姫《はなひめ》を|始《はじ》めとし
|日《ひ》の|出神《でのかみ》の|珍御子《うづみこ》が |神素盞嗚大神《かむすさのをのおほかみ》の
|瑞《みづ》の|御霊《みたま》の|神業《かむわざ》を |輔《たす》け|玉《たま》ひて|世《よ》に|広《ひろ》く
|開《ひら》き|玉《たま》ふぞ|尊《たふと》けれ |豊葦原《とよあしはら》の|瑞穂国《みづほくに》
|根別《ねわけ》の|国《くに》と|名《な》に|負《お》ひし |自転倒島《おのころじま》の|中心地《ちうしんち》
|綾《あや》の|高天《たかま》の|霊場《れいぢやう》に |国治立大神《くにはるたちのおほかみ》は
|暫《しば》し|隠《かく》れて|四尾山《よつをやま》 |国武彦《くにたけひこ》と|名《な》を|替《か》へて
|五六七《みろく》の|御世《みよ》を|来《きた》さむと |桶伏山《をけふせやま》の|片《かた》ほとり
|厳《いづ》と|瑞《みづ》との|神御霊《かむみたま》 |玉照彦《たまてるひこ》や|玉照姫《たまてるひめ》を
|錦《にしき》の|宮《みや》の|神司《かむづかさ》と |定《さだ》め|玉《たま》ひて|三五《あななひ》の
|教《をしへ》の|庭《には》を|開《ひら》かせつ |言依別《ことよりわけ》の|瑞御霊《みづみたま》を
|錦《にしき》の|宮《みや》の|教主《けうしゆ》とし |西《にし》の|神都《しんと》はエルサレム
|東《ひがし》の|神都《しんと》は|桶伏《をけふせ》の |霊山会場《れいざんゑぢやう》の|神《かみ》の|山《やま》
|太《ふと》く|建《た》てたる|神柱《かむばしら》 |緯《よこ》の|御霊《みたま》と|聞《きこ》えたる
|言依別命《ことよりわけのみこと》をば |道《みち》の|教主《けうしゆ》と|任《ま》け|玉《たま》ひ
|神《かみ》の|司《つかさ》を|養《やしな》ひて |自凝島《おのころじま》を|初《はじめ》とし
|国《くに》の|八十国《やそくに》|八十島《やそしま》を |皇大神《すめおほかみ》の|御恵《みめぐ》みの
|光《ひか》りに|照《て》らし|露《つゆ》あたへ |曇《くも》り|切《き》つたる|現世《うつしよ》を
|寂光浄土《じやくくわうじやうど》の|天国《てんごく》に |造《つく》り|成《な》さむと|千万《ちよろづ》に
いそしみ|玉《たま》ふ|有難《ありがた》さ |教司《をしへつかさ》の|其《その》|一人《ひとり》
|中《なか》にも|清《きよ》き|神司《かむづかさ》 |国依別《くによりわけ》の|宣伝使《せんでんし》は
|教主《けうしゆ》の|後《あと》に|従《したが》ひて |自凝島《おのころじま》を|出立《しゆつたつ》し
|神《かみ》のまにまに|和田《わだ》の|原《はら》 |荒浪《あらなみ》|分《わ》けてやうやうに
|海《うみ》に|浮《うか》べる|高砂《たかさご》の テルの|港《みなと》に|上陸《じやうりく》し
|夜《よ》を|日《ひ》に|継《つ》いで|三倉山《みくらやま》の |国魂神《くにたまがみ》を|祀《まつ》りたる
|祠《ほこら》に|二人《ふたり》は|参拝《さんぱい》し |飢《うゑ》に|迫《せま》りし|国人《くにびと》を
|救《すく》ひ|助《たす》けて|人々《ひとびと》に |救《すく》ひの|神《かみ》と|崇《あが》められ
|教主《けうしゆ》|言依別命《ことよりわけのみこと》は |袂《たもと》を|分《わか》ちウヅの|国《くに》
|末子《すゑこ》の|姫《ひめ》の|現《あ》れませる |都《みやこ》をさして|出《い》でて|行《ゆ》く。
|後《あと》に|残《のこ》りし|国依別《くによりわけ》は |軽生重死《けいせいぢうし》のウラル|教《けう》が
|無道《ぶだう》|極《きは》まる|迷信《めいしん》を |打破《だは》し|尽《つく》して|潔《いさぎよ》く
|此《この》|場《ば》を|立《た》ちてヒルの|国《くに》 |桜《さくら》の|花《はな》もチルの|里《さと》
|夜《よる》の|荒《あら》シの|森蔭《もりかげ》に |辿《たど》りて|息《いき》を|休《やす》め|居《ゐ》る
|時《とき》しもあれやウラル|教《けう》 |乱《みだ》れ|散《ち》りたる|信徒《まめひと》を
|集《あつ》めて|再《ふたた》び|出《い》で|来《きた》り |国依別《くによりわけ》を|十重二十重《とへはたへ》に
|囲《かこ》みて|生命《いのち》を|奪《うば》ひ|取《と》り |三五教《あななひけう》を|根底《こんてい》より
|殲滅《せんめつ》せむと|襲《おそ》ひ|来《く》る |醜《しこ》の|魔神《まがみ》を|悉《ことごと》く
|珍《うづ》の|神術《みわざ》に|蹴散《くゑち》らし |皇大神《すめおほかみ》の|御前《おんまへ》に
|感謝《かんしや》し|奉《まつ》る|折《をり》もあれ キジとマチとの|二人《ふたり》の|男《をとこ》
|国依別《くによりわけ》の|神徳《しんとく》を |慕《した》ひて|茲《ここ》に|走《は》せ|来《きた》り
|師弟《してい》の|約《やく》を|結《むす》びつつ |日暮《ひぐら》シ|河《がは》の|土堤《どて》の|辺《へ》に
|進《すす》む|折《をり》しもウラル|教《けう》の アナン、ユーズの|両人《りやうにん》は
|数多《あまた》の|部下《ぶか》を|引率《いんそつ》し |剣《つるぎ》や|竹槍《たけやり》を|携《たづさ》へて
ヒルの|都《みやこ》に|三五《あななひ》の |教《をしへ》を|伝《つた》ふ|神司《かむづかさ》
|楓別命《かえでわけのみこと》の|霊場《れいぢやう》を |夜陰《やいん》に|紛《まぎ》れて|蹂躙《じうりん》し
|打破《うちやぶ》らむと|進《すす》み|来《く》る |此《この》|一隊《いつたい》に|出会《しゆつくわい》し
キジとマチとの|両人《りやうにん》は |国依別《くによりわけ》の|司《つかさ》より
|鎮魂帰神《ちんこんきしん》|言霊《ことたま》の |幽玄微妙《いうげんびめう》の|神力《しんりき》を
|完美《うまら》に|委曲《つばら》に|授《さづ》けられ |勇《いさ》み|進《すす》むで|河《かは》の|辺《べ》を
|進《すす》みて|来《きた》る|魔軍《まいくさ》に |向《むか》つて|言霊《ことたま》|打出《うちだ》せば
|不意《ふい》を|打《う》たれて|敵軍《てきぐん》は |雲《くも》を|霞《かすみ》と|逃《に》げて|行《ゆ》く
|茲《ここ》に|三人《みたり》は|夜《よ》の|道《みち》を スタスタ|進《すす》みアラシカの
|険《けは》しき|峠《たうげ》を|攣登《よぢのぼ》り |東北《とうほく》|指《さ》して|降《くだ》り|行《ゆ》く
|道《みち》の|片方《かたへ》の|古社《ふるやしろ》 |楠《くす》の|古木《こぼく》の|天《てん》を|摩《ま》し
|聳《そそ》り|立《た》ちたる|木下蔭《こしたかげ》 |額《ぬか》づき|拝《をが》む|人影《ひとかげ》を
|認《みと》めて|近《ちか》づき|伺《うかが》へば ウラルの|道《みち》の|神司《かむづかさ》
エスの|娘《むすめ》と|聞《き》きしより キジは|言葉《ことば》も|柔《やはら》かく
|親切《しんせつ》こめて|問《と》ひ|糺《ただ》し |茲《ここ》に|様子《やうす》を|詳《まつぶ》さに
|明《あきら》め|尽《つく》し|両人《りやうにん》は |国依別《くによりわけ》に|相別《あひわか》れ
|日暮《ひぐら》シ|山《やま》の|岩窟《がんくつ》に |囚《とら》はれ|苦《くる》しむエスの|身《み》を
|一日《ひとひ》も|早《はや》く|助《たす》けむと |勇《いさ》み|進《すす》むで|出《い》でて|行《ゆ》く
|国依別《くによりわけ》の|神司《かむづかさ》 エスの|娘《むすめ》に|従《したが》ひて
アラシカ|山《やま》の|麓《ふもと》なる エスが|館《やかた》に|立《た》ち|向《むか》ひ
|暫《しばら》くここに|逗留《とうりう》し |神《かみ》の|教《をしへ》を|宣《の》べ|伝《つた》へ
ヒルの|都《みやこ》に|立寄《たちよ》りて |楓別《かえでのわけ》に|面会《めんくわい》し
キジ、マチ|二人《ふたり》を|助《たす》けむと |日暮《ひぐら》シ|山《やま》の|岩窟《がんくつ》に
|進《すす》みてブールの|神司《かむづかさ》 |言向《ことむ》け|和《やは》し|驍名《げうめい》を
|高砂島《たかさごじま》は|云《い》ふも|更《さら》 |豊葦原《とよあしはら》の|国中《くになか》に
|轟《とどろ》かしたる|物語《ものがたり》 |狩野《かの》の|渓流《けいりう》|眺《なが》めつつ
|初秋《しよしう》の|風《かぜ》を|浴《あ》び|乍《なが》ら |安楽《あんらく》|椅子《いす》に|横《よこた》はり
|敷島《しきしま》|煙草《たばこ》をくゆらしつ |浄写菩薩《じやうしやぼさつ》と|立向《たちむか》ひ
いよいよ|霊界物語《れいかいものがたり》 |三十一《みそまりひとつ》の|巻《まき》|始《はじ》め
|言霊車《ことたまぐるま》|転《ころ》ばしぬ あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ。
|国依別《くによりわけ》はエリナに|導《みちび》かれ、エスの|家《いへ》に|漸《やうや》く|着《つ》きぬ。エリナの|母《はは》は|思《おも》ひの|外《ほか》の|重病《ぢうびやう》にて、|殆《ほとん》ど|人事不省《じんじふせい》の|体《てい》なり。|国依別《くによりわけ》は|取《と》る|物《もの》も|取敢《とりあへ》ず、|草鞋《わらぢ》をとくとく|座敷《ざしき》に|駆上《かけあが》り、|直《ただち》に|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》し、|天《あま》の|数歌《かずうた》を|称《とな》へあげ、|鎮魂《ちんこん》を|施《ほどこ》し、いろいろ|雑多《ざつた》と|丹精《たんせい》をこらして、|病気《びやうき》|回復《くわいふく》の|途《みち》を|謀《はか》りける。されど|如何《いか》にせしか、|病人《びやうにん》は|少《すこ》しも|快方《くわいはう》に|向《むか》はずして、|日《ひ》に|日《ひ》に|衰弱《すゐじやく》|甚《はなは》だしく、|最早《もはや》|絶望《ぜつばう》の|域《ゐき》に|進《すす》みたり。エリナは|一生懸命《いつしやうけんめい》に|水垢離《みづごうり》を|取《と》り……、
『|三五教《あななひけう》の|大神《おほかみ》|国治立命《くにはるたちのみこと》|様《さま》、|常世神王様《とこよしんわうさま》、|何卒々々《なにとぞなにとぞ》|父《ちち》の|危難《きなん》を|遁《のが》れさせ|玉《たま》へ、|母《はは》の|難病《なんびやう》を|今《いま》|一度《いちど》|救《すく》はせ|玉《たま》ひて、|夫婦《ふうふ》|親子《おやこ》が|仮令《たとへ》|一日《いちにち》なり|共《とも》、|嬉《うれ》しく|楽《たの》しく、|互《たがひ》に|顔《かほ》を|見合《みあは》せ、|恵《めぐみ》の|露《つゆ》にうるほひまする|様《やう》……』
と、|我《わ》れを|忘《わす》れて|祈願《きぐわん》を|凝《こ》らし|居《ゐ》る。されどエリナの|心中《しんちう》は|未《いま》だ|主一無適《しゆいつむてき》の|精神《せいしん》には|成《な》り|得《え》ず|迷《まよ》ひあり。|其《その》|理由《りいう》は、|国治立命《くにはるたちのみこと》は|果《はた》して|善神《ぜんしん》なりや? |但《ただし》は|常世神王《とこよしんのう》の|方《はう》が|善神《ぜんしん》なるや? |国治立神《くにはるたちのかみ》を|念《ねん》じなば、|常世神王《とこよしんのう》の|神怒《しんど》に|触《ふ》れて、|益々《ますます》|母《はは》の|病《やまひ》は|重《おも》り、|父《ちち》の|大危難《だいきなん》は|愈《いよいよ》|深《ふか》くなり|行《ゆ》くには|非《あら》ざるかとの|疑念《ぎねん》が、|頭脳《あたま》の|中《なか》に|往来《わうらい》しゐたるが|故《ゆゑ》なり。
|国依別《くによりわけ》はエリナの|心《こころ》の|中《うち》を|推知《すゐち》し、|四五日《しごにち》|茲《ここ》に|逗留《とうりう》して、いろいろ|雑多《ざつた》と|善悪不二《ぜんあくふじ》、|顕幽一本《けんいういつぽん》の|真理《しんり》を|説《と》き|諭《さと》したれども、|父母《ふぼ》の|災厄《さいやく》に|周章狼狽《しうしやうらうばい》したる|若《わか》き|娘《むすめ》の|事《こと》とて、|千言万語《せんげんばんご》を|尽《つく》しての|国依別《くによりわけ》の|教示《けうじ》も、|容易《ようい》に|頭《あたま》に|入《い》らず、|唯《ただ》|一日《いちにち》も|早《はや》く|父《ちち》の|危難《きなん》を|救《すく》はれ、|母《はは》の|重病《ぢうびやう》の|癒《い》やされむことにのみ|余念《よねん》なく、|一心不乱《いつしんふらん》になり|乍《なが》ら、|信仰上《しんかうじやう》の|点《てん》に|於《おい》て|非常《ひじやう》に|迷《まよ》ひ|苦《くる》しみ|居《ゐ》たり。それ|故《ゆゑ》に|神徳《しんとく》|充実《じゆうじつ》したる|国依別命《くによりわけのみこと》の|鎮魂《ちんこん》も、|言霊《ことたま》も|功験《こうけん》を|現《あら》はすには|至《いた》らざりける。
|凡《すべ》て|信仰《しんかう》は|迷《まよ》ひを|去《さ》り、|雑念《ざつねん》を|払《はら》ひ、|理智《りち》に|走《はし》らず、|只《ただ》|何事《なにごと》も|神意《しんい》に|任《まか》せ|奉《たてまつ》り、|主一無適《しゆいつむてき》の|心《こころ》にならなくては、|如何《いか》な|尊《たふと》き|神人《しんじん》の|祈念《きねん》と|雖《いへど》も、|如何《いか》に|権威《けんゐ》ある|言霊《ことたま》と|雖《いへど》も、|容易《ようい》に|其《その》|効《かう》の|顕《あら》はれざるは|当然《たうぜん》なり。|要《えう》するにエリナの|信仰《しんかう》は|二心《ふたごころ》にして、|悪《わる》く|言《い》はば|内股膏薬的《うちまたかうやくてき》|信仰《しんかう》に|堕《だ》し|居《ゐ》たり。|幼少《えうせう》の|頃《ころ》より|宇宙間《うちうかん》に|於《おい》て|常世神王《とこよしんのう》に|優《まさ》る|尊《たふと》き|神《かみ》はなく、|又《また》|常世神王《とこよしんのう》に|勝《まさ》るべき|権威《けんゐ》はなし、|万一《まんいち》|常世神王《とこよしんのう》の|忌憚《きたん》に|触《ふ》れむか、|現界《げんかい》は|云《い》ふも|更《さら》、|霊界《れいかい》に|於《おい》ても|無限《むげん》の|苦《くる》しみを|受《う》け、|且《か》つ|厳罰《げんばつ》に|処《しよ》せらるべしとの|信仰《しんかう》を|深《ふか》く|心《こころ》の|底《そこ》より|植《う》ゑ|付《つ》けられ|居《ゐ》たるが|故《ゆゑ》に、|誠《まこと》の|神《かみ》の|教《をしへ》を|喜《よろこ》びて|聴聞《ちやうもん》し|乍《なが》らも、|不安《ふあん》の|雲《くも》に|包《つつ》まれ、|煩悶《はんもん》|苦悩《くなう》を|続《つづ》け|居《ゐ》たるなりける。
|国依別《くによりわけ》は|容易《ようい》にエリナの|信仰《しんかう》の|動《うご》かざるを|悟《さと》り、|且《か》つ|彼《かれ》の|母《はは》の|病気《びやうき》は|到底《たうてい》|救《すく》はれざることを|悟《さと》りて、いよいよ|此処《ここ》を|立去《たちさ》り、ヒルの|都《みやこ》に|向《むか》う|決心《けつしん》なしたりける。
|国依別《くによりわけ》はエリナに|向《むか》ひ、
『エリナさま、|永《なが》らく|御世話《おせわ》になりましたが、|貴女《あなた》の|御信仰《ごしんかう》は|何《ど》うしても|徹底《てつてい》|致《いた》しませぬ。それも|無理《むり》のなき|事《こと》でせう。|就《つ》いてはお|母《か》アさまの|御病気《ごびやうき》も|最早《もはや》|絶望《ぜつばう》ですから、|其《その》お|積《つも》りで|居《ゐ》て|下《くだ》さい。|又《また》エスさまを|救《すく》ひ|出《だ》さむとして、|日暮《ひぐら》シ|山《やま》の|霊場《れいぢやう》に|向《むか》つたキジ|公《こう》、マチ|公《こう》の|両人《りやうにん》が|未《いま》だ|帰《かへ》つて|来《こ》ないのも、|何《なに》か|神界《しんかい》に|於《おい》て|深《ふか》き|思召《おぼしめ》しのある|事《こと》でせう。|父《ちち》を|救《すく》ひ、|母《はは》を|救《すく》はむとのあなたの|真心《まごころ》は|実《じつ》に|感服《かんぷく》の|至《いた》りですが、|斯《か》かる|場合《ばあひ》には、あなたの|日頃《ひごろ》|信《しん》ずる|常世神王様《とこよしんわうさま》に、|主一無適《しゆいつむてき》の|真心《まごころ》を|捧《ささ》げて|御願《おねが》ひなさる|方《はう》が|却《かへつ》て|御神力《ごしんりき》が|現《あら》はれるでせう。|三五教《あななひけう》の|主神《しゆしん》|国治立命《くにはるたちのみこと》|様《さま》は、あらゆる|万民《ばんみん》の|苦《くるし》みを|助《たす》け|下《くだ》さる|有難《ありがた》き|神様《かみさま》なれど、あなたの|信念力《しんねんりよく》が|二《ふた》つに|割《わ》れて|居《を》りますから、|神様《かみさま》も|救《すく》ひの|御手《みて》を|伸《の》べさせ|玉《たま》ふ|事《こと》が|出来《でき》ませぬ。|斯《こ》う|申《もう》せば、|国治立神《くにはるたちのかみ》は|余程《よほど》|気《き》の|狭《せま》い|偏狭《へんけふ》な|神様《かみさま》だと|思《おも》はれるでせうが、|決《けつ》して|左様《さやう》な|不公平《ふこうへい》な|神様《かみさま》ではありませぬ。|只《ただ》あなたが|神様《かみさま》は|元《もと》は|一株《ひとかぶ》だから、|常世神王様《とこよしんのうさま》を|念《ねん》じても、|国治立《くにはるたち》の|神様《かみさま》は|決《けつ》して|御怒《おいか》りなく、|又《また》|国治立命《くにはるたちのみこと》を|何程《いくら》|一心《いつしん》に|念《ねん》じたとて、|常世神王様《とこよしんわうさま》が|御立腹《ごりつぷく》|遊《あそ》ばすものでないと|云《い》ふ|事《こと》が|御分《おわか》りにならなくては、|信仰《しんかう》は|駄目《だめ》です。|神様《かみさま》の|方《はう》では|左様《さやう》な|小《ちい》さい|障壁《しやうへき》や|区画《くくわく》はありませぬが、|貴女《あなた》の|心《こころ》の|中《なか》に|区画《くくわく》をつけたり|深《ふか》き|溝渠《こうきよ》を|穿《うが》つたり、いろいろと|煩悶《はんもん》の|雲《くも》が|包《つつ》んでゐるから、|何程《なにほど》|神様《かみさま》が|御神徳《ごしんとく》を|与《あた》へやうと|思召《おぼしめ》しても、お|前《まへ》さまの|方《はう》に|感《かん》じないのだから|仕方《しかた》がありませぬ。それ|故《ゆゑ》あなたの|最《もつと》も|信《しん》ずる、|常世神王様《とこよしんわうさま》に|御祈願《ごきぐわん》をなさつた|方《はう》が、|却《かへつ》て|御安心《ごあんしん》でせう。|私《わたくし》は|是《これ》から|御暇《おいとま》を|致《いた》します。ここ|暫《しばら》くの|間《あいだ》は、ヒルの|都《みやこ》の|楓別命《かえでわけのみこと》の|神館《かむやかた》に|逗留《とうりう》の|考《かんが》へで|厶《ござ》いますから、|御用《ごよう》があつたら、|国依別《くによりわけ》と|云《い》つてお|訪《たづ》ね|下《くだ》さいませ。|何時《いつ》でもお|目《め》にかかります。|又《また》|幸《さいは》ひにエスさま|始《はじ》めキジ、マチの|両人《りやうにん》が|帰《かへ》つて|来《こ》られたら、|国依別《くによりわけ》はヒルの|都《みやこ》に|逗留《とうりう》して|居《を》るからと、|伝言《でんごん》を|願《ねが》ひます。|左様《さやう》ならばエリナさま、|御病人様《ごびやうにんさま》を|大切《たいせつ》になさいませ』
と|立出《たちい》でむとするを、エリナは|周章《あわて》て|引《ひき》とめ、
『モシモシ|宣伝使《せんでんし》|様《さま》、どうぞさう|仰有《おつしや》らずに、|暫《しばら》く|御逗留《ごとうりう》|遊《あそ》ばして|下《くだ》さいませ。これから|心《こころ》を|入《い》れ|替《か》へて、あなた|様《さま》の|仰《あふ》せに|従《したが》ひ、|信仰《しんかう》を|致《いた》しますから……』
『|心《こころ》の|底《そこ》から|発根《ほつこん》と|分《わか》つての|信仰《しんかう》でなければ|到底《たうてい》|駄目《だめ》です。|神様《かみさま》は|仁慈《じんじ》|無限《むげん》の|御方《おかた》|故《ゆゑ》、|別《べつ》に|頼《たの》まず|共《とも》、|助《たす》けてやりたいと|思召《おぼしめ》し、|種々《いろいろ》と|力《ちから》を|御尽《おつく》し|遊《あそ》ばして|厶《ござ》るのですが、あなたの|心《こころ》の|中《なか》の|執着《しふちやく》と|云《い》ふ|曲鬼《まがおに》が|神徳《しんとく》を|遮《さへぎ》つて|居《を》るのです。|其《その》|曲鬼《まがおに》をあなた|自《みづか》ら|追出《おひだ》さねば|到底《たうてい》|駄目《だめ》ですよ。|国依別《くによりわけ》が|別《わか》れに|臨《のぞ》むで、|御注意《ごちうい》|申上《まをしあ》げておきます。|左様《さやう》ならば……』
と|後《あと》に|心《こころ》を|残《のこ》しつつ、|国依別《くによりわけ》は|此《この》|家《や》を|立出《たちい》でヒルの|都《みやこ》を|指《さ》して|進《すす》み|行《ゆ》く。
(大正一一・八・一八 旧六・二六 松村真澄録)
第二章 |大地震《だいぢしん》〔八六八〕
|国依別《くによりわけ》の|立去《たちさ》つた|後《あと》のエリナは、|掌中《しやうちう》の|玉《たま》を|何者《なにもの》にか|奪《うば》はれたるが|如《ごと》き|心地《ここち》し|乍《なが》ら、|門《かど》に|立出《たちい》でて、|宣伝使《せんでんし》の|姿《すがた》の|広《ひろ》き|原野《げんや》に|見《み》えなくなる|迄《まで》|打見《うちみ》まもり、
『アヽ|御親切《ごしんせつ》な|御方《おかた》であつたナ。どうぞモウ|暫《しばら》く|居《ゐ》て|下《くだ》さればよかつたのに……|俄《にはか》に|御機嫌《ごきげん》を|損《そこ》ねたと|見《み》えて、とうとう|帰《かへ》つて|了《しま》はれた。|最早《もはや》|此《この》|上《うへ》は|三五《あななひ》の|神様《かみさま》に|見放《みはな》されたに|違《ちがひ》ない。ヤツパリ|昔《むかし》から|信仰《しんかう》して|来《き》た|常世神王様《とこよしんわうさま》を、|一心不乱《いつしんふらん》に|信仰《しんかう》|致《いた》しませう。お|父《とう》さまが|日暮《ひぐら》シ|山《やま》の|牢獄《らうごく》に|囚《とら》はれて、あるにあられぬ|責苦《せめく》に|会《あ》ひ、お|苦《くる》しみ|遊《あそ》ばすのも、|其《その》|元《もと》を|尋《たづ》ぬれば、ウラル|教《けう》の|神司《かむづかさ》であり|乍《なが》ら、ブールの|教主様《けうしゆさま》が|常《つね》に|異端《いたん》とし、|外道《げだう》としてお|嫌《きら》ひ|遊《あそ》ばす|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》を|吾家《わがや》に|泊《と》めたり、|又《また》ウラル|教《けう》の|信者《しんじや》に|対《たい》し、|異端《いたん》|外道《げだう》の|教《をしへ》を|御勧《おすす》め|遊《あそ》ばした|天罰《てんばつ》が|酬《むく》うたのであらう。|何程《なにほど》|誠《まこと》の|教《をしへ》でも、|常世神王様《とこよしんわうさま》に|仕《つか》へて|居《ゐ》る|以上《いじやう》は、|二心《ふたごころ》を|出《だ》して|他《た》の|神様《かみさま》を|信仰《しんかう》すれば、|神罰《しんばつ》が|当《あた》るのは|当然《たうぜん》だ。アヽ|是《これ》から|心《こころ》を|改《あらた》めて、|常世神王様《とこよしんわうさま》に|対《たい》し、|心《こころ》の|底《そこ》よりお|詫《わ》びを|致《いた》し、|主一無適《しゆいつむてき》の|信仰《しんかう》を|捧《ささ》げませう。……あゝ|常世神王様《とこよしんわうさま》、|吾々《われわれ》|教子《をしへご》の|重々《ぢうぢう》の|罪《つみ》、|何卒《なにとぞ》|御赦《おゆる》し|下《くだ》さいませ』
と|言《い》ひ|乍《なが》ら、|家《いへ》に|入《い》り、|母親《ははおや》の|枕許《まくらもと》に|進《すす》み|寄《よ》り|見《み》れば、|母親《ははおや》は|少《すこ》しく|頭《あたま》を|擡《もた》げ、ニコニコと|笑《わら》ひ|初《はじ》めた。
『アヽお|母《か》アさま! |大変《たいへん》に|御気分《ごきぶん》がよささうに|御座《ござ》いますなア。こんな|嬉《うれ》しい|事《こと》は|御座《ござ》いませぬ』
『お|前《まへ》は|余《あま》り|両親《りやうしん》を|大切《たいせつ》に|思《おも》ふ|真心《まごころ》より、|遂《つひ》にウラル|教《けう》の|有難《ありがた》い|事《こと》を|忘《わす》れ|又《また》お|父《とう》さまの|様《やう》に|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》を|吾家《わがや》に|連《つ》れ|帰《かへ》り、|外道《げだう》の|神様《かみさま》を|信仰《しんかう》なさるものだから、|私《わたし》も|又《また》もやブールの|大将《たいしやう》に|睨《にら》まれ、お|前《まへ》と|私《わし》とが、|再《ふたた》びお|父《と》うさまの|様《やう》に、|水牢《みづろう》の|責苦《せめく》に|会《あ》はねばならぬかと、それが|心配《しんぱい》になつて、|病気《びやうき》はだんだん|重《おも》る|計《ばか》り、|心《こころ》の|中《なか》で……|常世神王様《とこよしんわうさま》、どうぞ|一時《いちじ》も|早《はや》く|宣伝使《せんでんし》が|帰《かへ》つて|呉《く》れます|様《やう》……と、|祈願《きぐわん》をこらして|居《を》りました。おかげに|依《よ》つて|外道《げだう》の|宣伝使《せんでんし》、|吾家《わがや》を|立出《たちい》で、|姿《すがた》を|見《み》せなくなつたので、ヤツと|安心《あんしん》し、|俄《にはか》に|気分《きぶん》も|良《よ》くなつて|来《き》たのよ。モウ|是《これ》からどんな|事《こと》があつても、|外道《げだう》の|宣伝使《せんでんし》を|吾家《わがや》へ|連《つ》れて|帰《かへ》ることはなりませぬぞや。お|前《まへ》は|親《おや》を|助《たす》けようと|思《おも》うて|焦《あせ》り、|却《かへつ》て、|外道《げだう》に|迷《まよ》ひ、|親《おや》を|苦《くる》しめる|様《やう》な|事《こと》になるから、どうしても|斯《こ》うしても|常世神王様《とこよしんわうさま》の|教《をしへ》を|疎外《そぐわい》し、|外道《げだう》に|迷《まよ》はぬ|様《やう》に|心得《こころえ》て|下《くだ》されや。おかげは|忽《たちま》ち|此《この》|通《とほ》りだから、|神様《かみさま》が|種々《いろいろ》として、|吾々《われわれ》|親子《おやこ》の|信仰《しんかう》の|厚薄《こうはく》を|御試《おため》し|遊《あそ》ばすのだから、チツとも|油断《ゆだん》はなりませぬぞえ』
『ハイ、|現当利益《げんたうりやく》と|言《い》ひ、お|母《か》アさまのお|言葉《ことば》といひ、|只今《ただいま》|限《かぎ》りスツパリと|心《こころ》を|改《あらた》め、|決《けつ》して|外《ほか》の|道《みち》へは|迷《まよ》ひませぬから、|御安心《ごあんしん》|下《くだ》さいませ』
『あゝそれを|聞《き》いて|母《はは》も|安心《あんしん》しました。サア|早《はや》く|常世神王様《とこよしんわうさま》に|御礼《おれい》を|申上《まをしあ》げてお|呉《く》れ!』
『ハイ、|只今《ただいま》|直《すぐ》に|感謝《かんしや》の|詞《ことば》を|捧《ささ》げませう』
と|直《ただ》ちに、|庭先《にはさき》を|流《なが》るる|細谷川《ほそたにがは》に|身《み》を|清《きよ》め、|衣類《いるゐ》を|着替《きか》へ、|恭《うやうや》しく|感謝《かんしや》|祈願《きぐわん》の|祝詞《のりと》を|奏上《そうじやう》し|居《ゐ》る。
かかる|所《ところ》へ|日暮《ひぐら》シ|山《やま》のブールの|使《つかい》として、アナンは|四五人《しごにん》の|部下《ぶか》を|引《ひき》つれ、|此《この》|家《や》に|荒々《あらあら》しく|入来《いりきた》り、いとも|声高《こわだか》にエリナに|向《むか》ひ、
『オイ、エリナとやら、|貴様《きさま》は|又《また》しても、|三五教《あななひけう》の|神司《かむづかさ》を|吾家《わがや》に|引入《ひきい》れ、|朝夕《あさゆふ》……|親《おや》の|病気《びやうき》を|直《なほ》さうとか、|父《ちち》の|危難《きなん》を|遁《のが》れさせ|玉《たま》へとか|云《い》つて、|祈《いの》らして|居《を》つたではないか? |近所《きんじよ》の|者《もの》の|注進《ちうしん》によつて、|何《なに》も|彼《か》もスツカリと|教主《けうしゆ》の|耳《みみ》に|這入《はい》つてゐるぞ! それにも|拘《かか》はらず、|三五教《あななひけう》の|乱暴者《らんばうもの》キジ、マチの|両人《りやうにん》を|差向《さしむ》け、|聖場《せいぢやう》を|蹂躙《じうりん》せむと|致《いた》した|図太《づぶと》き|代物《しろもの》……サア|教主《けうしゆ》の|命令《めいれい》だ、|尋常《じんじやう》に|手《て》を|廻《まは》せ。|日暮《ひぐら》シ|山《やま》の|館《やかた》に|連《つ》れ|帰《かへ》り、|其《その》|方《はう》もエスの|様《やう》に|水牢《みづろう》に|投込《なげこ》み、|戒《いまし》めてやらねばならぬ』
と|鼻息《はないき》|荒《あら》く|呶鳴《どな》りつける。|母親《ははおや》はアナンの|声《こゑ》を|聞《き》いて|又《また》もや|心《こころ》を|痛《いた》め、|猛烈《まうれつ》なる|癪気《しやくき》を|起《おこ》し、|其《その》|場《ば》に『ウン』と|倒《たふ》れて|人事不詳《じんじふしよう》の|体《てい》なり。エリナは|身《み》も|世《よ》もあられぬ|心地《ここち》し|乍《なが》ら、こわごわ|手《て》を|仕《つか》へ、
『これはこれはアナンの|大将様《たいしやうさま》、|能《よ》くこそ|御入来《ごじゆらい》|下《くだ》さいました。|御存《ごぞん》じの|通《とほ》り、|父《ちち》は|館《やかた》に|囚《とら》はれ、|跡《あと》に|残《のこ》つた|一人《ひとり》の|母《はは》は|此《この》|通《とほ》りの|大病《たいびやう》、|今《いま》|私《わたし》が|引《ひ》つ|立《た》てられて|参《まゐ》りますれば、あとに|誰《たれ》が|母《はは》の|世話《せわ》を|致《いた》す|者《もの》が|御座《ござ》いませう。|是非《ぜひ》|行《ゆ》かねばならぬ|者《もの》なれば|潔《いさぎよ》く|参《まゐ》りますが、どうぞ|此《この》|母《はは》の|病気《びやうき》が|直《なほ》りますまで、|御猶予《ごいうよ》を|願《ねが》ひます』
アナンは|烈《はげ》しく|首《くび》を|左右《さいう》に|振《ふ》り、
『あゝイヤイヤ、|其《その》|事《こと》|許《ばか》りは|罷《まか》り|成《な》らぬ。|一時《いつとき》も|早《はや》く|汝《なんぢ》を|召捕《めしとり》|来《きた》れよとの|厳命《げんめい》、|到底《たうてい》|吾々《われわれ》の|独断《どくだん》にて|其《その》|方《はう》に|猶予《いうよ》を|与《あた》へる|事《こと》は|出来《でき》ない。|何《なん》と|云《い》つても|引捉《ひつとら》へて|帰《かへ》らねば、|此《この》|方《はう》の|役目《やくめ》が|済《す》まぬ。そうして|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》は|何時《いつ》|此処《ここ》を|立《た》つたか?』
『|只今《ただいま》|御立《おた》ちになりました』
『さうだらう。|最前《さいぜん》|歌《うた》を|歌《うた》つて|行《い》きよつたのが、|神力《しんりき》|無双《むそう》の|国依別《くによりわけ》だらう。|彼奴《あいつ》が|居《ゐ》やがると、チツと|此方《こつち》も|都合《つがふ》が|好《よ》くないのだ。|二三日前《にさんにちまへ》から、|此《この》|家《いへ》を|遠巻《とほまき》きに|巻《ま》いてゐたのだ。サアもう|斯《か》うなる|上《うへ》は、|泣《な》いても|悔《くや》むでもおつつかぬ。キリキリと|手《て》をまはさぬか』
エリナは|自棄気味《やけぎみ》になり、|容《かたち》を|改《あらた》め、|悪胴《わるどう》を|据《す》ゑ、
『コレ、アナンさま! お|前《まへ》さまも|余程《よほど》|良《よ》い|腰抜《こしぬけ》だなア。|日暮《ひぐら》シ|河《がは》では|脆《もろ》くも|一人《ひとり》の|宣伝使《せんでんし》に|追《お》ひまくられ、|又《また》たつた|一人《ひとり》の|国依別《くによりわけ》が|恐《おそ》ろしうて、|二晩《ふたばん》も|三晩《みばん》も、|此《この》|暑《あつ》い、|蚊《か》の|喰《く》うのに、|頼《たの》みもせぬ|私《わたし》の|家《うち》の|夜警《やけい》をして|下《くだ》され、|渋茶《しぶちや》の|一杯《いつぱい》も|進《しん》ぜるのが|道《みち》かは|知《し》りませぬが、|餓鬼《がき》にやる|茶《ちや》があつても、お|前《まへ》さま|等《ら》に|呑《の》ます|茶《ちや》はありませぬワ。そこに|谷川《たにがは》の|水《みづ》が|流《なが》れてゐるから、それなつと|呑《の》むで、モウ|一《ひと》きり|御講演《ごかうえん》を|願《ねが》ひます。ラツパ|節《ぶし》でも|法螺貝節《ほらがいぶし》でも|構《かま》ひませぬワ。お|母《か》アさまの|冥途《めいど》の|土産《みやげ》に、|一《ひと》つ|力一杯《ちからいつぱい》|吹《ふ》き|立《たて》て|下《くだ》さい』
アナンはクワツと|怒《いか》り、|巨眼《きよがん》を|見開《みひら》き、
『コリヤ|女《をんな》! |譬《たと》へがたなき|汝《なんぢ》の|雑言無礼《ざふごんぶれい》、|最早《もはや》|聞捨《ききすて》はならぬぞ』
『お|父《と》うさまはお|前達《まへたち》|悪人《あくにん》の|為《ため》に|囚《とら》へられ、お|母《か》アさまは|此《この》|通《とほ》りの|重病《ぢうびやう》、たつた|今《いま》の|先《さき》、|余程《よほど》|快方《くわいはう》にお|向《むか》ひ|遊《あそ》ばし、ヤツと|安心《あんしん》する|間《ま》もなく、お|前《まへ》がここへふみ|込《こ》んで|大声《おほごゑ》を|出《だ》し、お|母《か》アさまを|最早《もはや》|取返《とりかへ》しのならぬ|様《やう》な|重態《ぢうたい》におとして|了《しま》ひよつた|以上《いじやう》は、お|母《か》アさまの|御寿命《ごじゆめう》も|今日《けふ》|一日《いちにち》が|保《たも》ちかねる。さうならば|此《この》エリナは|最早《もはや》|自棄《やけ》くそだ。たかが|男《をとこ》の|五匹《ごひき》や|十匹《じつぴき》、|何《なに》が|恐《おそ》ろしい……|国依別《くによりわけ》の|宣伝使《せんでんし》より|神変《しんぺん》|不思議《ふしぎ》の|神力《しんりき》を|授《さづ》かり、|最早《もはや》|立派《りつぱ》な|三五教《あななひけう》の|女《をんな》|宣伝使《せんでんし》だ。|指《ゆび》|一本《いつぽん》でも|触《さ》へるなら、|見事《みごと》|触《さ》へて|見《み》よ』
と|呶鳴《どな》り|立《た》て、|睨《にら》み|付《つ》けたる。|其《その》|権幕《けんまく》に|流石《さすが》|剛情《がうじやう》|我慢《がまん》のアナンも|辟易《へきえき》し、エリナの|顔《かほ》を|見《み》つめて|稍《やや》|不安《ふあん》の|念《ねん》に|沈《しづ》みゐる。|母親《ははおや》は『キヤツ』と|一声《ひとこゑ》|悲鳴《ひめい》をあげた|儘《まま》、|縡切《ことぎ》れにける。エリナは|驚《おどろ》いて、
『お|母《か》アさま!モ|一度《いちど》|物《もの》を|言《い》うて|下《くだ》さいませ……エリナで|御座《ござ》います』
と|死骸《しがい》に|取付《とりつ》き、あたり|構《かま》はず|泣《な》き|叫《さけ》ぶ。アナンは|今《いま》こそと、|手早《てばや》く|捕繩《とりなは》を|取出《とりだ》し、エリナの|首《くび》にひつかけようとする|一刹那《いつせつな》、|俄《にはか》に|轟々《ぐわうぐわう》ガタガタと|凄《すさま》じき|物音《ものおと》|聞《きこ》え|来《き》たりければ、アナンを|始《はじ》め|一同《いちどう》は|驚《おどろ》き|戸外《こぐわい》に|駆出《かけだ》す|刹那《せつな》|強烈《きやうれつ》なる|大地震《おほぢしん》|起《おこ》り、アナンを|始《はじ》め|一同《いちどう》は|生命《いのち》カラガラ、|転《こ》けつまろびつ、|常世神王《とこよしんのう》の|祠《ほこら》の|前《まへ》を|指《さ》して、|四這《よつばい》となり|逃《に》げて|行《ゆ》く。
|地震《ぢしん》は|益々《ますます》|烈《はげ》しさの|度《ど》を|加《くは》へ|来《き》たる。エリナは|母親《ははおや》の|死体《したい》を|抱《かか》へて|外《そと》へ|飛出《とびだ》さうとする|途端《とたん》、|家《いへ》はメキメキメキと|音《おと》を|立《た》て、バサリと|打《う》ち|倒《たふ》れける。エリナは|止《や》むを|得《え》ず、|身《み》を|以《もつ》て|逃《のが》れたるが、|忽《たちま》ち|火《ひ》を|失《うしな》ひ、エリナの|家《いへ》は|火煙《くわえん》|濛々《もうもう》として|立上《たちのぼ》り、|母親《ははおや》の|死体《したい》は|惟神的《かむながらてき》に|火葬《くわさう》に|附《ふ》せられ|了《おは》りぬ。|上下動《じやうげどう》の|激震《げきしん》は|刻々《こくこく》に|烈《はげ》しく、エリナは|松《まつ》の|木《き》の|株《かぶ》にシカと|抱付《だきつ》き、|目《め》を|塞《ふさ》ぎ、|地震《ぢしん》の|歇《や》むのを|待《ま》ち|乍《なが》ら、|一心不乱《いつしんふらん》に『|国治立大神《くにはるたちのおほかみ》|守《まも》り|玉《たま》へ|幸《さち》はひ|玉《たま》へ……』と|祈念《きねん》をこらしける。……|漸《やうや》くにして|地震《ぢしん》は|止《と》まり、エリナはホツと|一息《ひといき》し|乍《なが》ら、ここに|居《を》つては|又《また》|何時《いつ》|捕手《とりて》の|襲《おそ》ひ|来《く》るやも|計《はか》られずと、|俄《にはか》に|国依別《くによりわけ》の|宣伝使《せんでんし》が|恋《こひ》しくなり、ヒルの|都《みやこ》を|指《さ》して|一目散《いちもくさん》に|走《はし》り|行《ゆ》く。
ヒルの|都《みやこ》を|遠《とほ》く|見下《みお》ろせば、|大激震《だいげきしん》の|為《ため》|火災《くわさい》|起《おこ》り、|火《ひ》は|天《てん》に|冲《ちう》し、|空《そら》の|雲《くも》|迄《まで》|真赤《まつか》に|染《そ》まり、|所謂《いはゆる》|雲焼《くもやけ》|志《し》|居《ゐ》たりける。
(大正一一・八・一八 旧六・二六 松村真澄録)
第三章 |救世神《きうせいしん》〔八六九〕
|天気《てんき》|晴朗《せいらう》にして |蒼空《さうくう》|一点《いつてん》の|雲翳《うんえい》もなく
|士農工商《しのうこうしやう》は|各《おのおの》|其《その》|業《げふ》を|楽《たのし》み |常世《とこよ》の|春《はる》を|祝《いは》ひつつ
|或《あるひ》は|娶《めと》り|或《あるひ》は|舞《ま》ひ|歌《うた》ひ |山河《さんか》は|清《きよ》くさやけく
|樹木《じゆもく》は|天然《てんねん》の|舞踏《ぶたふ》をなし |渓流《けいりう》は|自然《しぜん》の|音楽《おんがく》を|奏《そう》し
|鳥《とり》は|梢《こづゑ》に|唄《うた》ひ|蝶《てふ》は|野《の》に|舞《ま》ひ |花《はな》に|戯《たはむ》れ、|嬉々《きき》として|遊《あそ》べる
|平安《へいあん》|無事《ぶじ》の|天地《てんち》の|現象《げんしやう》 さながら|神代《かみよ》の|如《ごと》くなり
|瞬《またた》く|間《うち》に|一天《いつてん》|俄《にはか》に|掻《か》き|曇《くも》り |満天《まんてん》|墨《すみ》を|流《なが》せし|如《ごと》く
|洋々《やうやう》として|紺碧《こんぺき》の |空《そら》を|翔《かけ》る|諸鳥《もろとり》は
|忽《たちま》ち|地上《ちじやう》に|向《むか》つて |矢《や》を|射《い》る|如《ごと》く|落《お》ち|来《きた》り
|大地《だいち》|忽《たちま》ち|震動《しんどう》し |天国《てんごく》|浄土《じやうど》は|忽《たちま》ちに
|地獄《ぢごく》|餓鬼道《がきだう》|畜生道《ちくしやうだう》 |修羅《しゆら》の|巷《ちまた》と|一変《いつぺん》し
|時々刻々《じじこくこく》に|大地《だいち》の|震動《しんどう》 |猛烈《まうれつ》を|加《くは》へ|来《きた》る|而已《のみ》
|山岳《さんがく》は|崩《くづ》れ、|原野《げんや》は|裂《さ》け |民家《みんか》は|倒《たふ》れ|橋梁《けうりやう》|忽《たちま》ち|墜落《つゐらく》し
|彼方《あなた》|此方《こなた》に|炎々《えんえん》と |天《てん》をこがして|燃《も》えあがる
|空前絶後《くうぜんぜつご》の|大火災《だいくわさい》 |身《み》の|毛《け》もよだつ|凄《すさま》じさ
|神《かみ》の|恵《めぐみ》の|天国《てんごく》も |天《あめ》の|下《した》なる|神人《かみびと》が
|佞《ねぢ》け|曲《まが》れる|魂《たましひ》や |醜《しこ》の|言霊《ことたま》|重《かさ》なりて
|妖邪《ようじや》の|空気《くうき》|鬱積《うつせき》し |天地《てんち》|主宰《しゆさい》の|大神《おほかみ》の
|大御心《おほみこころ》を|曇《くも》らせて |忽《たちま》ち|起《おこ》る|天変地妖《てんぺんちよう》
|慎《つつし》むべきは|世《よ》の|人《ひと》の |耳《みみ》に|鼻《はな》、|口《くち》、|村肝《むらきも》の
|心《こころ》の|持様《もちやう》|一《ひと》つなり あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|此《こ》れの|惨状《さんじやう》|見《み》るにつけ |高砂島《たかさごじま》の|国人《くにびと》は
|神《かみ》の|尊《たふと》き|御心《みこころ》を |完美《うまら》に|委曲《つばら》に|体得《たいとく》し
いよいよ|茲《ここ》に|天地《あめつち》の |神《かみ》の|権威《けんゐ》に|畏服《ゐふく》して
|心《こころ》を|直《なほ》し|行《おこな》ひを |改《あらた》め|神《かみ》に|仕《つか》へたる
|尊《たふと》き|昔《むかし》の|物語《ものがたり》 |神《かみ》のまにまに|述《の》べ|立《た》つる
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |神《かみ》の|御霊《みたま》の|幸《さち》はひて
|遠《とほ》き|神代《かみよ》に|住《す》まひたる |高砂島《たかさごじま》の|人々《ひとびと》は
|云《い》ふも|更《さら》なり|天《あめ》の|下《した》 |四方《よも》の|御国《みくに》に|大空《おほぞら》の
きらめく|星《ほし》の|数《かず》の|如《ごと》 |生《うま》れ|会《あ》ひたる|人々《ひとびと》は
|昔《むかし》の|事《こと》と|思《おも》ふまじ |心《こころ》を|清《きよ》め|身《み》を|清《きよ》め
|転迷開悟《てんめいかいご》の|栞《しをり》にと |心《こころ》に|刻《きざ》みて|惟神《かむながら》
|神《かみ》の|御子《おんこ》と|生《うま》れたる |我《わが》|天職《てんしよく》を|尽《つく》せかし。
そもそも|神《かみ》は|万物《ばんぶつ》に |普遍《ふへん》し|玉《たま》ふ|神霊《しんれい》ぞ
|人《ひと》は|天地《てんち》の|御水火《みいき》より |生《うま》れ|出《い》でたる|神《かみ》の|御子《みこ》
|尊《たふと》き|神《かみ》の|肉《にく》の|宮《みや》 |皇大神《すめおほかみ》の|神力《しんりき》を
|発揮《はつき》し|玉《たま》ひて|天地《あめつち》を |開《ひら》かせ|給《たま》ふ|司宰者《しさいしや》と
|生《うま》れ|来《きた》りし|人《ひと》の|身《み》の |其《その》|天職《てんしよく》を|自覚《じかく》して
|誠《まこと》の|神《かみ》に|服《ふく》せよや |旭《あさひ》は|照《て》る|共《とも》|曇《くも》る|共《とも》
|月《つき》は|盈《み》つ|共《とも》|虧《か》くる|共《とも》 |仮令《たとへ》|大地《だいち》は|震《ふる》ふ|共《とも》
|山《やま》|裂《さ》け|海《うみ》は|涸《かは》く|共《とも》 |此《この》|世《よ》を|造《つく》り|玉《たま》ひたる
|神《かみ》の|御前《みまへ》に|真心《まごころ》を |尽《つく》しまつりて|人《ひと》たるの
|努《つと》めを|尽《つく》せ|惟神《かむながら》 |神《かみ》は|汝《なんぢ》と|共《とも》にあり
|此《この》|世《よ》を|造《つく》りし|神直日《かむなほひ》 |心《こころ》も|広《ひろ》き|大直日《おほなほひ》
|汚《けが》れ|果《は》てたる|人《ひと》の|身《み》も |罪《つみ》を|見直《みなほ》し|聞直《ききなほ》し
|宣《の》り|直《なほ》します|天津神《あまつかみ》 |国津神《くにつかみ》|等《たち》|八百万《やほよろづ》
|国魂神《くにたまがみ》を|始《はじ》めとし |吾等《われら》を|親《した》しく|守《まも》ります
|産土神《うぶすながみ》を|敬《うやま》ひて |此《この》|美《うる》はしき|天地《あめつち》に
|暴風《ばうふう》|洪水《こうずゐ》|大火《たいくわ》なく |饑饉《ききん》|戦争《せんそう》|病気《びやうき》なく
|四海同胞《しかいどうはう》の|御神慮《ごしんりよ》を |朝《あさ》な|夕《ゆふ》なに|省《かへり》みて
|神《かみ》の|依《よ》さしの|天職《てんしよく》に |尽《つく》させ|玉《たま》へと|祈《いの》れかし
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ。
ヒルの|都《みやこ》の|楓別命《かえでわけのみこと》の|妹《いもうと》に|紅井姫《くれなゐひめ》と|云《い》ふ|容色《ようしよく》|並《なら》びなき、|今年《ことし》|十九《じふく》の|春《はる》を|迎《むか》へた|美人《びじん》ありけり。|日暮《ひぐら》シ|河《がは》の|水《さち》は|大《おほい》に|減少《げんせう》し、|数多《あまた》の|溌溂《はつらつ》たる|鮮魚《せんぎよ》は|何《いづ》れも|下流《かりう》のヒルの|都《みやこ》|附近《ふきん》に、|大部分《だいぶぶん》|集《あつ》まり|来《きた》り、|鵜飼《うがひ》の|遊《あそ》びは|昼夜《ちうや》の|区別《くべつ》なく、|盛《さかん》に|行《おこな》はれける。|紅井姫《くれなゐひめ》の|侍女《じぢよ》として|仕《つか》へまつれる、アリー、サールの|二女《にぢよ》は|館《やかた》の|内事《ないじ》を|司《つかさど》るモリスと|共《とも》に、|一度《いちど》|此《この》|鵜飼《うがひ》の|遊《あそ》びを|試《こころ》みたく|希望《きばう》しゐたりしが、|何《なん》と|云《い》つても|勤《つと》めの|身《み》の|上《うへ》、|自由《じいう》にならぬ|悲《かな》しさに、|折《を》りある|毎《ごと》に|紅井姫《くれなゐひめ》の|前《まへ》に|出《い》で、|日暮《ひぐら》シ|河《がは》の|鵜飼《うがひ》の|最《もつと》も|壮快《さうくわい》なる|事《こと》を|話《はな》し|居《ゐ》たりける。|紅井姫《くれなゐひめ》は|侍女《じぢよ》の|面白《おもしろ》さうな|話《はなし》に|稍《やや》|心《こころ》を|傾《かたむ》け、|自《みづか》ら|兄《あに》の|楓別命《かえでわけのみこと》に|向《むか》つて|一日《いちにち》の|清遊《せいいう》を|許《ゆる》されむ|事《こと》を|請《こ》ひければ、|楓別命《かえでわけのみこと》は|何時《いつ》も|深窓《しんそう》にのみ|在《あ》りて、|外出《ぐわいしゆつ》せざる|紅井姫《くれなゐひめ》のたまたまの|希望《きばう》なれば、|否《いな》むに|由《よし》なく、|快《こころよ》く|之《これ》を|許《ゆる》し、|内事《ないじ》の|司《つかさ》モリスを|始《はじ》め、アリー、サールの|侍女《じぢよ》を|従《したが》へ、|其《その》|他《た》|四五《しご》の|従者《じゆうしや》と|共《とも》に、|城外《じやうぐわい》を|流《なが》るる|日暮《ひぐら》シ|河《がは》に|鵜飼《うがひ》の|遊《あそ》びを|許《ゆる》したりける。
|茲《ここ》に|紅井姫《くれなゐひめ》は|天《てん》にも|昇《のぼ》る|心地《ここち》して、モリス|以下《いか》を|従《したが》へ、|鵜飼《うがひ》の|遊《あそ》びを|終《をは》り、|数多《あまた》の|鮮魚《せんぎよ》を|生捕《いけど》り、|勝誇《かちほこ》つたる|面色《おももち》にて|城下《じやうか》に|帰《かへ》り|来《きた》る|折《をり》しもあれや、|俄《にはか》に|天地《てんち》|震動《しんどう》し、|大地《だいち》は|上下左右《じやうげさいう》に|動揺《どうえう》し|始《はじ》め、|家屋《かをく》はベタベタと|将棋倒《しやうぎだふ》しになり、|紅井姫《くれなゐひめ》の|一行《いつかう》も|亦《また》|市内《しない》の|家屋《かをく》に|圧《あつ》せられ、|煙《けむり》に|包《つつ》まれ|見《み》へずなりける。
|火災《くわさい》は|各所《かくしよ》に|起《おこ》り、|忽《たちま》ちヒルの|都《みやこ》は|阿鼻叫喚《あびけうくわん》の|巷《ちまた》と|化《くわ》しぬ。|斯《か》かる|所《ところ》へ|宣伝歌《せんでんか》を|歌《うた》ひ|乍《なが》ら|悠々《いういう》として|進《すす》み|来《きた》る|一人《ひとり》の|宣伝使《せんでんし》は、|国依別《くによりわけ》の|宣伝使《せんでんし》なりける。
|両側《りやうがは》の|家屋《かをく》は|街路《がいろ》に|無惨《むざん》にも|滅茶々々《めつちやめつちや》に|倒《たふ》れ、|火《さち》は|追々《おひおひ》に|前後《ぜんご》|左右《さいう》より|燃《も》え|来《きた》る|其《その》|物凄《ものすご》さ。|忽《たちま》ち|煙《けぶり》に|包《つつ》まれて、|咫尺《しせき》も|弁《べん》ぜざるに|至《いた》れり。|間近《まじか》の|足許《あしもと》に|聞《きこ》ゆる|女《をんな》の|悲鳴《ひめい》、|国依別《くによりわけ》の|宣伝使《せんでんし》は、|其《その》|声《こゑ》を|目当《めあ》てに|探《さぐ》り|寄《よ》り、|押《おさ》へられたる|柱《はしら》を|剛力《がうりき》に|任《まか》せて|取《と》り|除《のぞ》き、|何人《なにびと》かは|知《し》らね|共《ども》、|矢庭《やには》に|背《せ》に|負《お》ひ、
『|天津神《あまつかみ》、|国津神《くにつかみ》、|国魂《くにたま》の|神《かみ》、|産土《うぶすな》の|神《かみ》、|一時《いちじ》も|早《はや》く|此《この》|惨状《さんじやう》を|助《たす》け|玉《たま》へ……』
と|祈《いの》りつつ|宣伝歌《せんでんか》をうたひ、|煙《けぶり》の|中《なか》をかきわけて、ヒルの|都《みやこ》の|中央《ちうおう》に|下津岩根《したついはね》の|岩石《がんせき》の|布《し》き|並《なら》べたる|自然《しぜん》の|要害地《えうがいち》、|楓別命《かえでわけのみこと》の|神館《かむやかた》に|思《おも》はず|知《し》らず|走《は》せ|着《つ》きぬ。
|国依別《くによりわけ》はヤツと|胸《むね》を|撫《な》で|卸《おろ》し、|女《をんな》を|背《せ》より|其《その》|場《ば》におろし、ホツト|息《いき》をつぎにける。|女《をんな》は|細《ほそ》き|声《こゑ》にて、
『|何処《どこ》の|方《かた》かは|存《ぞん》じませぬが、|危《あやふ》き|所《ところ》を|御助《おたす》け|下《くだ》さいまして、|有難《ありがた》う|御座《ござ》います。|全《まつた》くあなた|様《さま》は|妾《わらは》の|命《いのち》をお|助《たす》け|下《くだ》さいました|誠《まこと》の|生神様《いきがみさま》で|御座《ござ》いませう』
と|感謝《かんしや》の|涙《なみだ》を|絞《しぼ》り、|手《て》を|合《あは》せ|伏《ふ》し|拝《をが》む。|国依別《くによりわけ》は|言葉《ことば》|静《しづ》かに、
『|私《わたし》は|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》で|御座《ござ》います。これの|神館《かむやかた》にまします|楓別命《かえでわけのみこと》|様《さま》に|一度《いちど》お|目《め》に|掛《かか》りたく、|遥々《はるばる》|尋《たづ》ねて|参《まゐ》る|途中《とちう》に|於《おい》て、|今《いま》の|大震害《だいしんがい》、|思《おも》はずあなたを|御助《おたす》けしたのも、|全《まつた》く|神様《かみさま》の|御引合《おひきあは》せで|御座《ござ》いませう。|御礼《おれい》をいはれては|却《かへつ》て|迷惑《めいわく》に|存《ぞん》じます』
『|妾《わらは》は|楓別命《かえでわけのみこと》の|妹《いもうと》|紅井姫《くれなゐひめ》と|申《まを》す|者《もの》、|日暮《ひぐら》シ|河《がは》の|鵜飼《うがひ》|遊《あそ》びの|帰《かへ》るさ、|思《おも》ひもかけぬ|大地震《だいぢしん》の|厄《やく》に|遭《あ》ひ、|命《いのち》|危《あやふ》き|所《ところ》、あなたに|助《たす》けられた|者《もの》で|御座《ござ》います。サアサア|早《はや》く|御通《おとほ》り|下《くだ》さいませ。|兄《あに》もさぞ|喜《よろこ》ぶ|事《こと》で|御座《ござ》いませう』
『あゝ|左様《さやう》で|御座《ござ》いましたか。|不思議《ふしぎ》な|御縁《ごえん》で|御座《ござ》いますなア。|併《しか》し|乍《なが》ら……アレ|御覧《ごらん》なさいませ。|四方《よも》の|山々《やまやま》は|盛《さかん》に|噴火《ふんくわ》を|始《はじ》め、|黒雲《こくうん》|天《てん》を|封《ふう》じ、|地《ち》は|裂《さ》け、|各所《かくしよ》より|濁水《だくすい》を|吐《は》き|出《だ》し、|早《はや》くも|低地《ていち》は|大洪水《だいこうずゐ》となり、|人々《ひとびと》の|泣《な》き|叫《さけ》ぶ|声《こゑ》は、|刻々《こくこく》に|高《たか》まりて|参《まゐ》りました。|私《わたくし》は|是《これ》より|球《きう》の|玉《たま》の|神力《しんりき》を|以《もつ》て、|此《この》|天変地妖《てんぺんちえう》を|鎮《しづ》め、|万民《ばんみん》を|助《たす》けねばなりませぬ。|貴女《あなた》はどうか|早《はや》くお|館《やかた》へ|御這入《おはい》り|下《くだ》さいませ。|後程《のちほど》|参《まゐ》りますから……』
『|左様《さやう》ならばお|先《さき》へ|失礼《しつれい》|致《いた》します。キツと|御待《おま》ち|申《まを》して|居《を》りますから、|必《かなら》ずお|這入《はい》り|下《くだ》さいませや』
と|云《い》ひすてて、|館《やかた》の|内《うち》へ|慌《あはた》だしく|駆入《かけい》りにける。|国依別《くによりわけ》は|一心《いつしん》に、
『|国《くに》の|大御祖《おほみおや》|国治立命《くにはるたちのみこと》、|豊国姫命《とよくにひめのみこと》、|国魂《くにたま》の|神《かみ》、|一時《いちじ》も|早《はや》く|此《この》|地異天変《ちいてんぺん》を|鎮《しづ》め、|青人草《あをひとぐさ》は|申《まを》すも|更《さら》なり、|一切《いつさい》の|生物《せいぶつ》を|御救《おすく》ひ|下《くだ》さりませ……』
と|念《ねん》じ、|全身《ぜんしん》の|霊力《れいりよく》を|籠《こ》め、|天《あま》の|数歌《かずうた》を|声《こゑ》|高々《たかだか》と|宣《の》りあげ、『ウーウー』とウの|言霊《ことたま》を|発射《はつしや》すれば、|不思議《ふしぎ》や|大地《だいち》の|震動《しんどう》|忽《たちま》ち|休止《きうし》し、|諸山《しよざん》の|噴火《ふんくわ》は|従《したが》つて|止《とどま》り、|噴出《ふんしゆつ》する|洪水《こうずゐ》はピタリと|止《と》まつて、|見《み》る|見《み》る|内《うち》に|減水《げんすい》し|始《はじ》めたり。|言霊《ことたま》の|伊吹《いぶき》の|力《ちから》|著《いちじる》しく、|満天《まんてん》を|包《つつ》みし|黒雲《くろくも》は|拭《ぬぐ》ふが|如《ごと》く|晴《は》れ|渡《わた》り、|歓喜《くわんき》の|太陽《たいやう》は|煌々《くわうくわう》として|中天《ちうてん》に|輝《かがや》き、|下界《げかい》の|惨状《さんじやう》を|憐《あは》れげに|照《てら》し|玉《たま》うた。
|楓別命《かえでわけのみこと》は|高殿《たかどの》に|上《あが》り、|此《この》|惨状《さんじやう》を|救《すく》はむと、|一心不乱《いつしんふらん》に|紅井姫《くれなゐひめ》の|身《み》の|上《うへ》の|事《こと》などは、スツカリ|念頭《ねんとう》より|忘却《ばうきやく》して、|只々《ただただ》|天下《てんか》|万民《ばんみん》の|為《ため》に|祈願《きぐわん》をこらしつつありき。
|斯《か》かる|所《ところ》へ|国依別《くによりわけ》の|宣伝使《せんでんし》|現《あら》はれ|来《きた》りて、|天津祝詞《あまつのりと》や|生言霊《いくことたま》を|円満《ゑんまん》|清朗《せいらう》に|宣《の》り|上《あ》げければ、|一切《いつさい》の|地異天変《ちいてんぺん》は|言霊《ことたま》の|神力《しんりき》に|依《よ》りて、|再《ふたた》び|安静《あんせい》に|帰《き》し、|天日《てんじつ》の|光《ひか》りを|仰《あふ》ぐに|至《いた》り、|万民《ばんみん》|歓喜《くわんき》の|声《こゑ》、|天地《てんち》に|充《み》ち|渡《わた》りける。アヽ|惟神《かむながら》、|惟神《かむながら》、|生言霊《いくことたま》の|神力《しんりき》、|実《げ》に|尊《たふと》さの|限《かぎ》りと|云《い》ふべし。
|紅井姫《くれなゐひめ》の|報告《はうこく》に|依《よ》り、|楓別命《かえでわけのみこと》は|驚喜《きやうき》し|乍《なが》ら、|慌《あはた》だしく|国依別《くによりわけ》が|立《た》てる|前《まへ》に|来《きた》りて、|其《その》|神力《しんりき》を|感賞《かんしやう》し、|且《か》つ、
『|紅井姫《くれなゐひめ》の|命《いのち》|迄《まで》|救《すく》ひ|玉《たま》ひし|事《こと》の|有難《ありがた》さよ、|御礼《おれい》は|言辞《ことば》に|尽《つく》し|難《がた》し……』
と|感涙《かんるい》に|咽《むせ》び|乍《なが》ら、|国依別《くによりわけ》を|伴《ともな》ひて、|奥殿《おくでん》|指《さ》して|進《すす》み|行《ゆ》く。
|先《ま》づ|第一《だいいち》に|国依別《くによりわけ》の|言葉《ことば》を|容《い》れ、|非常時《ひじやうじ》の|為《ため》とて、|蓄《たくは》へおきたる|五穀《ごこく》の|倉《くら》を|開《ひら》き、|楓別命《かえでわけのみこと》、|国依別《くによりわけ》、|紅井姫《くれなゐひめ》を|始《はじ》めとし、|秋山別《あきやまわけ》、|科山別《しなやまわけ》は|駿馬《しゆんめ》に|跨《またが》り、|城下《じやうか》を|隈《くま》なく|駆《か》け|巡《めぐ》り、|大音声《だいおんじやう》にて、
『|市中《しちう》の|人々《ひとびと》よ、|一刻《いつこく》も|早《はや》くヒルの|城《しろ》の|神館《かむやかた》に|集《よ》り|来《きた》れ。|汝等《なんぢら》|一同《いちどう》を|助《たす》け|遣《つか》はさむ!』
と|市中《しちう》|隈《くま》なく、|泥濘《でいねい》の|道《みち》を|駆《か》け|巡《めぐ》りけるにぞ、|柱《はしら》に|圧《あつ》せられて|半死半生《はんしはんしやう》となりし|者《もの》、|水《みづ》に|溺《おぼ》れて、|早《はや》くも|死亡《しぼう》せし|者《もの》、|火《ひ》に|焼《や》かれたる|者《もの》など、|其《その》|惨状《さんじやう》|目《め》も|当《あて》られぬ|計《ばか》りなりけり。
|楓別命《かえでわけのみこと》は|秋山別《あきやまわけ》、|科山別《しなやまわけ》に|命《めい》じ、|俄《にはか》に|館内《くわんない》の|男女《だんぢよ》をして|炊《た》き|出《だ》しをなさしめ、|日夜《にちや》|救済《きうさい》に|努《つと》め、|負傷者《ふせうしや》は|鎮魂《ちんこん》を|以《もつ》て|之《これ》を|治《なを》しやり、|普《あまね》く|数多《あまた》の|人々《ひとびと》に|仁恵《じんけい》を|施《ほどこ》し、|国依別《くによりわけ》の|神力《しんりき》と|楓別命《かえでわけのみこと》の|仁愛《じんあい》の|真心《まごころ》は|洽《あまね》く|国内《こくない》に|喧伝《けんでん》さるるに|至《いた》れり。|是《これ》より|国依別《くによりわけ》は|楓別命《かえでわけのみこと》の|勧《すす》むる|儘《まま》に、|暫《しばら》く|神館《かむやかた》に|足《あし》を|止《とど》め、|数多《あまた》の|国人《くにびと》に|神教《しんけう》を|新《あらた》に|伝《つた》へけるが、|今迄《いままで》ウラル|教《けう》やバラモン|教《けう》を|信《しん》じ|居《ゐ》たる|人々《ひとびと》も、|此《この》|度《たび》の|地異天変《ちいてんぺん》に|依《よ》つて、|三五教《あななひけう》に|救《すく》はれたるを|心《こころ》の|底《そこ》より|打喜《うちよろこ》び、|国内《こくない》|挙《こぞ》つて|三五《あななひ》の|誠《まこと》の|信徒《しんと》となりにける。
(大正一一・八・一八 旧六・二六 松村真澄録)
(昭和九・一二・一六 王仁校正)
第四章 |不知恋《しらずごひ》〔八七〇〕
|国依別《くによりわけ》は|楓別命《かえでわけのみこと》の|懇望《こんもう》に|依《よ》つて、|暫時《ざんじ》|此処《ここ》に|止《とど》まることとなりぬ。|併《しか》し|乍《なが》ら|日暮《ひぐら》シ|山《やま》の|岩窟《がんくつ》に|遣《つか》はしたるキジ、マチ|両人《りやうにん》を|始《はじ》め、エスの|消息《せうそく》を|案《あん》じ|煩《わづら》ひ、|如何《いか》にもして|此《この》|館《やかた》を|立出《たちい》で、|一刻《いつこく》も|早《はや》く|彼《かれ》の|消息《せうそく》を|探《さぐ》り、|救《すく》ひ|出《いだ》さむと|焦慮《せうりよ》すれども、|数多《あまた》の|人々《ひとびと》は|神《かみ》の|如《ごと》くに|尊敬《そんけい》して|集《あつ》まり|来《きた》り、|此《この》|度《たび》の|大地震《だいぢしん》に|依《よ》りて、|負傷《ふしやう》をなしたる|人々《ひとびと》を、|或《あるひ》は|輿《こし》に|舁《かつ》ぎ、|或《あるひ》は|戸板《といた》に|乗《の》せ、|救《すく》ひを|求《もと》めに|来《く》る|者《もの》、|日々《にちにち》|幾百人《いくひやくにん》ともなくありければ、|国依別《くによりわけ》も|此《この》|惨状《さんじやう》を|見棄《みす》てて|立去《たちさ》る|訳《わけ》にも|行《ゆ》かず、|悩《なや》める|人々《ひとびと》に|向《むか》つて|鎮魂《ちんこん》を|修《しう》し、|之《これ》を|救《すく》ひつつ、|思《おも》はず|知《し》らず|時日《じじつ》を|過《す》ご|志《し》たりける。
|扨《さ》て|又《また》、|九死一生《きうしいつしやう》の|難関《なんくわん》を|助《たす》けられたる|紅井姫《くれなゐひめ》は、これより|国依別《くによりわけ》に|対《たい》して、|一種《いつしゆ》|異様《いやう》の|愛慕《あいぼ》の|念慮《ねんりよ》、|刻々《こくこく》に|雲《くも》の|如《ごと》くに|起《おこ》り|来《きた》り、|最早《もはや》|情火《じやうくわ》にもやされて|胸《むね》は|苦《くる》しく、ハートは|鼓《つづみ》の|波《なみ》を|打《う》ち、|熱《あつ》き|息《いき》をハアハアと|吐《は》き|乍《なが》ら、まだ|初恋《はつこひ》の|口《くち》に|云《い》ひ|出《だ》しかねて、|肩《かた》で|息《いき》をなし、|遂《つひ》には|思《おも》ひに|迫《せま》つて、|身《み》は|痩衰《やせおとろ》へ、|色《いろ》|青《あを》ざめ、|病床《びやうしやう》に|呻吟《しんぎん》するに|至《いた》りける。
|楓別命《かえでわけのみこと》は|紅井姫《くれなゐひめ》の|病気《びやうき》を|眺《なが》めて、|大《おほい》に|憂慮《いうりよ》し、|如何《いか》にもして|快癒《くわいゆ》せしめむかと、|朝《あさ》な|夕《ゆふ》な|神前《しんぜん》に|祈願《きぐわん》をこらし|居《ゐ》たり。アリー、サールの|侍女《じじよ》も、|一刻《いつこく》も|紅井姫《くれなゐひめ》の|傍《そば》を|離《はな》れず、|昼夜《ちうや》|心《こころ》をこめて|看護《かんご》に|尽《つく》すと|雖《いへど》も、|姫《ひめ》の|病《やまひ》は、|日《ひ》に|重《おも》り|行《ゆ》くのみにして|施《ほど》こす|手《て》だては|無《な》かりける。
|国依別《くによりわけ》は|姫《ひめ》の|重病《ぢうびやう》と|聞《き》き、|鎮魂《ちんこん》を|以《もつ》て|病《やまひ》を|救《すく》ひやらむと、ワザワザ|病床《びやうしやう》に|姫《ひめ》を|訪《おとな》ひけるに、|姫《ひめ》は|国依別《くによりわけ》の|訪問《はうもん》と|聞《き》きて、|重《おも》き|頭《あたま》を|擡《もた》げ、|顔《かほ》を|赤《あか》らめ|乍《なが》ら、|少《すこ》しく|俯伏目《うつぶしめ》になり、|盗《ぬす》むが|如《ごと》く、|国依別《くによりわけ》の|顔《かほ》を|眺《なが》め、|微笑《びせう》をもらし、|愉快《ゆくわい》げに、|両手《りやうて》を|合《あは》せて|感謝《かんしや》の|意《い》を|表《へう》しけり。
|国依別《くによりわけ》は|紅井姫《くれなゐひめ》の|枕頭《ちんとう》に|端座《たんざ》し、|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》し、|天《あま》の|数歌《かずうた》を|謡《うた》ひ|上《あ》げ、|姫《ひめ》に|向《むか》つて|慰安《ゐあん》の|言葉《ことば》を|与《あた》へ|乍《なが》ら、しづしづと|此《この》|場《ば》を|立出《たちい》で、|与《あた》へられたる|吾《わが》|居間《ゐま》に|帰《かへ》りて、|再《ふたた》び|神《かみ》に|祈願《きぐわん》をこらし|居《ゐ》るこそ|殊勝《しゆしよう》なれ。
|楓別命《かえでわけのみこと》に|仕《つか》へて|信任《しんにん》|最《もつと》も|厚《あつ》く、|数多《あまた》の|信者《しんじや》の|人望《じんばう》を|集《あつ》めたる|秋山別《あきやまわけ》は、|紅井姫《くれなゐひめ》の|色香《いろか》|妙《たへ》なるに|心《こころ》を|寄《よ》せ、|日《ひ》に|日《ひ》に|募《つの》る|恋慕《れんぼ》の|心《こころ》に|胸《むね》をこがし、|機会《きくわい》ある|毎《ごと》に、|姫《ひめ》の|歓心《くわんしん》を|買《か》はむと、|心《こころ》を|配《くば》りつつありき。
|又《また》|内事《ないじ》の|司《つかさ》たるモリスは|紅井姫《くれなゐひめ》に|接見《せつけん》の|機会《きくわい》|多《おほ》きに|連《つ》れて、いつしか|姫《ひめ》の|美容《びよう》に|心《こころ》を|蕩《と》ろかし、|将来《しやうらい》|紅井姫《くれなゐひめ》の|愛《あい》を|一身《いつしん》に|集中《しふちう》する|者《もの》は、|吾《わ》れならむと、|深《ふか》くも|心中《しんちう》に|期待《きたい》し|居《ゐ》たり。|故《ゆゑ》に、|此《この》|度《たび》の|姫《ひめ》の|重病《ぢうびやう》につき|真心《まごころ》の|限《かぎ》りを|尽《つく》し、|其《その》|歓心《くわんしん》を|買《か》はむものと、モリスは|内事《ないじ》の|勤《つと》めをおろそかにし、|暇《ひま》ある|毎《ごと》に、|病気《びやうき》|見舞《みまひ》や|看護《かんご》を|口実《こうじつ》に、|姫《ひめ》の|寝室《しんしつ》を|訪《と》ふを|以《もつ》て、|唯一《ゆゐいつ》の|神策《しんさく》として|居《ゐ》たり。
|一方《いつぱう》|秋山別《あきやまわけ》も|同《おな》じ|思《おも》ひの|恋慕《れんぼ》の|情火《じやうか》|消《け》し|難《がた》く、|見《み》すぼらしく|痩衰《やせおとろ》へたる|紅井姫《くれなゐひめ》の|寝室《しんしつ》を、|朝夕《あさゆふ》|何時《いつ》となく|尋《たづ》ね|来《きた》りて、|真心《まごころ》のあらむ|限《かぎ》りを|尽《つく》し、|姫《ひめ》が|全快《ぜんくわい》の|後《のち》は|一日《いちにち》も|早《はや》く、|合衾《がふきん》の|式《しき》を|挙《あ》げむものと、|心中《しんちう》|深《ふか》く|期待《きたい》しつつありける。
|然《しか》るに|国依別《くによりわけ》の|此《この》|館《やかた》に|来《きた》りしより、|紅井姫《くれなゐひめ》が|秋山別《あきやまわけ》に|対《たい》し、|又《また》モリスに|対《たい》する|態度《たいど》は、どこともなく|冷《ひや》やかになりしが|如《ごと》く|思《おも》はるるより、|二人《ふたり》は|煩悶《はんもん》の|淵《ふち》に|沈《しづ》み、|如何《いか》にもして|姫《ひめ》の|信用《しんよう》を|恢復《くわいふく》せむかと、|心《こころ》の|中《うち》の|曲者《くせもの》に|駆使《くし》されて、|巧言令色《こうげんれいしよく》|追従《ついしやう》の|限《かぎ》りを|尽《つく》すこそ|可笑《をか》しけれ。
|紅井姫《くれなゐひめ》は|最初《さいしよ》より、|秋山別《あきやまわけ》、モリスに|対《たい》し、|只《ただ》|普通《ふつう》の|教《をしへ》の|道《みち》の|役人《やくにん》、|又《また》は|内事《ないじ》の|用《よう》を|勤《つと》むる|取締《とりしまり》として、|優《やさ》しく|交際《かうさい》してゐたるのみにして、|別《べつ》に|此《この》|二人《ふたり》に|対《たい》し、|夢《ゆめ》にも|恋愛《れんあい》の|心《こころ》は|持《も》たざりける。されど|二人《ふたり》の|男《をとこ》は、|紅井姫《くれなゐひめ》の|優《やさ》しき|言葉《ことば》を|聞《き》く|度《たび》に、|吾《わ》れを|愛《あい》するものと|思《おも》ひひがめ、|三国一《さんごくいち》の|花婿《はなむこ》は|秋山別《あきやまわけ》を|措《を》いて、|他《た》に|適当《てきたう》の|候補者《こうほしや》はなしと、|自《みづか》ら|自惚鏡《うぬぼれかがみ》に|打向《うちむか》ひ、|鼻《はな》を|蠢《うごめ》かし、|当《あ》てなき|事《こと》を|頼《たの》みとして|日《ひ》を|暮《くら》しつつありき。|亦《ま》た|内事司《ないじつかさ》のモリスも|同様《どうやう》に、|将来《しやうらい》の|紅井姫《くれなゐひめ》の|夫《をつと》はモリスならめと、|自《みづか》ら|心《こころ》に|定《き》めて、|吉日良辰《きつじつりやうしん》の|一日《ひとひ》も|早《はや》く|来《きた》らむ|事《こと》を|期待《きたい》しつつあり|志《し》なり。
|秋山別《あきやまわけ》は|此《この》|頃《ごろ》モリスの|姫《ひめ》に|対《たい》する|態度《たいど》の|何《なん》となく|怪《あや》しげなるに、|心《こころ》を|痛《いた》め、|法界悋気《ほふかいりんき》の|角《つの》を|生《は》やしかけゐたるが、モリスも|又《また》|秋山別《あきやまわけ》の|姫《ひめ》に|対《たい》する|態度《たいど》の|目立《めだ》ちて|親切《しんせつ》なるに|心《こころ》を|苛《いら》ち、|恋《こひ》の|仇敵《かたき》として、|油断《ゆだん》なく|秋山別《あきやまわけ》の|行動《かうどう》を|監視《かんし》しつつありき。|而《しか》して|秋山別《あきやまわけ》は|侍女《じぢよ》のアリーを|取入《とりい》れ、|薬籠中《やくろうちう》の|者《もの》となし、モリスは|侍女《じぢよ》のサールを|取入《とりい》れ、|吾《わが》|薬籠中《やくろうちう》のものとなし、|互《たがひ》に|其《その》|輸贏《しゆえい》を|争《あらそ》ひつつ、|秘《ひそ》かに|愛《あい》の|競争《きやうそう》を|続《つづ》けゐたるぞ|面白《おもしろ》き。
|斯《か》かる|所《ところ》へ、|天下《てんか》の|神人《しんじん》|活神《いきがみ》と|尊敬《そんけい》せられたる|国依別命《くによりわけのみこと》、|紅井姫《くれなゐひめ》の|九死一生《きうしいつしやう》の|危難《きなん》を|救《すく》ひてより、|姫《ひめ》の|信任《しんにん》|日《ひ》を|逐《お》うて|厚《あつ》くなりければ、|二人《ふたり》の|心中《しんちう》は|常《つね》に|悶々《もんもん》の|情《じやう》に|堪《た》へかね、|国依別《くによりわけ》の|欠点《けつてん》を|探《さぐ》り|出《だ》し、|楓別命《かえでわけのみこと》の|教主《けうしゆ》を|始《はじ》め、|紅井姫《くれなゐひめ》の|前《まへ》に|曝露《ばくろ》して、|其《その》|信任《しんにん》を|傷《きず》つけ|破《やぶ》らむと、|二《ふた》つ|巴《どもゑ》の|両人《りやうにん》は|恋《こひ》の|炎《ほのふ》を|燃《も》やしつつ、|卍巴《まんじどもゑ》の|如《ごと》く|相互《さうご》に|暗々裡《あんあんり》に|弾劾《だんがい》|運動《うんどう》の|準備《じゆんび》に|着手《ちやくしゆ》しつつありき。されど|国依別《くによりわけ》は|素《もと》より|女《をんな》に|対《たい》し、|少《すこ》しも|執着心《しふちやくしん》なく、|又《また》|紅井姫《くれなゐひめ》に|対《たい》しても、|怪《あや》しき|心《こころ》は|毫末《がうまつ》も|持《も》ち|居《を》らず、それ|故《ゆゑ》に|国依別《くによりわけ》は、|何《なん》の|憚《はばか》る|所《ところ》もなく、|只《ただ》|姫《ひめ》の|大病《たいびやう》を|救《すく》はむ|為《ため》に|心《こころ》の|底《そこ》より|案《あん》じ|過《す》ごして、|神《かみ》に|祈《いの》り、|屡《しばしば》|病《やまひ》の|経過《けいくわ》を|探《さぐ》るべく、|姫《ひめ》の|寝室《しんしつ》を、|昼《ひる》となく|夜《よる》となく|訪《おとづ》れたるなり。
されど|国依別《くによりわけ》の|此《この》|行動《かうどう》は、|恋《こひ》に|囚《とら》はれたる|痩犬《やせいぬ》の|秋山別《あきやまわけ》、モリスの|目《め》には、|非常《ひじやう》なる|苦痛《くつう》を|感《かん》じ、|遂《つひ》には|仇敵《きうてき》の|如《ごと》く|見做《みな》すに|至《いた》りたりける。
|折柄《をりから》|玄関《げんくわん》に|訪《おとづ》るる|一人《ひとり》の|女《をんな》あり。モリスは|忽《たちま》ち|吾《わが》|居間《ゐま》に|招《まね》いて、|其《その》|来意《らいい》を|尋《たづ》ぬれば、|女《をんな》はやや|愧《はじ》らひながら|言《ことば》|志《し》とやかに、
『|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》|国依別《くによりわけ》|様《さま》は、|御館《おやかた》に|御出《おい》でで|御座《ござ》いますか? アラシカ|峠《たうげ》の|麓《ふもと》からエリナと|云《い》ふ|女《をんな》が|訪《たづ》ねて|参《まゐ》りましたと、|若《も》しお|出《いで》ならばお|伝《つた》へを|願《ねが》ひます』
モリス|心《こころ》の|内《うち》にて、
『ハヽー、|此奴《こいつ》は|国依別《くによりわけ》のレコだなア。|良《い》い|所《ところ》へ|来《き》て|呉《く》れた。モウ|斯《こ》う|秘密《ひみつ》が|分《わか》つた|以上《いじやう》は、|何程《なにほど》|紅井姫《くれなゐひめ》|様《さま》が|国依別《くによりわけ》に|御熱心《ごねつしん》でも、|女《をんな》があると|聞《き》けば、|千年《せんねん》の|恋《こひ》も|一度《いちど》に|醒《さ》めるだらう。|一《ひと》つ|甘《うま》く|調子《てうし》に|乗《の》せて、|腹《はら》の|底《そこ》を|探《さぐ》つてやらう……』
と|決心《けつしん》し|愛想《あいさう》よく、
『それはそれは|能《よ》う|訪《たづ》ねて|来《き》て|下《くだ》さいました。|大変《たいへん》な|大地震《おほぢしん》で|御座《ござ》いましたが、|御宅《おたく》は|大《たい》した|事《こと》は|御座《ござ》いませぬかな』
『ハイ|有難《ありがた》う|御座《ござ》います。あの|大地震《おほぢしん》で|小《ちひ》さい|乍《なが》ら|住家《すみか》は|倒《たふ》され|焼《や》かれ、|一人《ひとり》の|母《はは》は|地震《ぢしん》と|火事《くわじ》の|為《ため》に|無《な》くなつて|了《しま》ひました。|実《じつ》に|不運《ふうん》な|女《をんな》で|御座《ござ》います』
と|早《はや》|涙《なみだ》|含《ぐ》む。
『それは|気《き》の|毒《どく》な|事《こと》でしたなア。|御察《おさつ》し|申《まを》しますよ。|併《しか》し|乍《なが》ら、|老人《としより》と|云《い》ふ|者《もの》は|何《いづ》れ|先《さき》へ|死《し》ぬものです。|一番《いちばん》|芽出《めで》たい|事《こと》と|言《い》へば、ぢい|死《し》に、|婆《ばば》|死《し》に、|爺《おやぢ》|死《し》に、|嬶《かかあ》|死《し》に、|子《こ》|死《し》に|孫《まご》|死《しに》と|申《まを》しまして、こんな|芽出《めで》たい|事《こと》はないのですよ。|先《さき》に|死《し》ぬべき|者《もの》が|先《さき》に|死《し》ぬのは|当然《たうぜん》、|老人《らうじん》が|後《あと》に|残《のこ》り、|若《わか》い|者《もの》が|先《さき》に|死《し》にて|御覧《ごらん》なさい。|年《とし》が|老《よ》つて|脛腰《すねこし》が|立《た》たぬやうになり、|尿糞《ししばば》のたれ|流《なが》しと|云《い》ふやうな|惨酷《ざんこく》な|目《め》に|会《あ》うても、|若《わか》い|者《もの》が|先《さき》に|亡《な》くなつて|了《しま》へば、|誰《た》も|親身《しんみ》になつて|世話《せわ》して|呉《く》れる|者《もの》もありますまい。それにお|前《まへ》さまは、|国依別《くによりわけ》さまと|二人《ふたり》|若夫婦《わかふうふ》が|残《のこ》つたのだから、|斯《こ》んな|目出《めで》たい|事《こと》は|有《あ》りませぬよ。|人《ひと》はすべて|思《おも》ひようですからな。|親《おや》の|代《かは》りにドシドシとお|正月《しやうぐわつ》の|餅搗《もちつき》をして、|子餅《こもち》を|沢山《たくさん》に、|天《てん》の|星《ほし》の|数《かず》|程《ほど》|拵《こしら》へなさい。それが|一番《いちばん》|神様《かみさま》へ|対《たい》しても|御奉公《ごほうこう》だ、アハヽヽヽ』
『|私《わたし》は|決《けつ》して|国依別《くによりわけ》|様《さま》の|女房《にようばう》でも|何《なん》でも|御座《ござ》いませぬ。|只《ただ》|私《わたし》の|母《はは》が|急病《きふびやう》で|困《こま》つて|居《を》りますので、|常世神王《とこよしんわう》の|御社《おやしろ》へ|参拝《さんぱい》して|居《を》りますと、そこへ|国依別《くによりわけ》の|宣伝使《せんでんし》が|二人《ふたり》の|家来《けらい》を|連《つ》れて|現《あら》はれ、|御親切《ごしんせつ》に|私《わたし》の|宅《たく》へ|来《き》て……お|前《まへ》の|母《はは》の|病気《びやうき》|平癒《へいゆ》の|祈願《きぐわん》をしてやらう……と|仰有《おつしや》つたので、|五六日《ごろくにち》|泊《とま》つて|頂《いただ》いた|丈《だけ》のもので|御座《ござ》います』
『さうして|二人《ふたり》の|家来《けらい》は|如何《どう》なつたのです?』
『|二人《ふたり》の|御家来《ごけらい》は|私《わたし》の|父《ちち》の|或《ある》|処《ところ》に|囚《とら》へられてゐるのを|助《たす》けると|云《い》つて|出《で》て|行《ゆ》かれました|限《き》り、|今《いま》に|何《なん》の|便《たよ》りも|御座《ござ》いませぬ。|大変《たいへん》に|案《あん》じて|居《を》りまする』
『ハヽー、さうすると、|二人《ふたり》の|家来《けらい》をどつかへまいておいて、|国依別《くによりわけ》さまが、|人《ひと》も|通《とほ》らぬ|山道《やまみち》を、|国《くに》さまとエリナさまと|手《て》を|引《ひ》いて|通《とほ》らうかいな、|二人《ふたり》の|仲《なか》はよいけれど、|二人《ふたり》の|奴《やつ》が|邪魔《じやま》になり、|用《よう》を|拵《こしら》へ、まいてやつた……と|云《い》ふ|様《やう》な……そこは|要領《えうりやう》|宜《よろ》しくやつたのでせう。|私《わたし》は|斯《こ》う|見《み》えても、そンな|事《こと》に|粋《すゐ》の|利《き》かぬ|男《をとこ》ぢやありませぬ。どんな|御取持《おとりもち》でも|致《いた》しますから、ハツキリと|貴女《あなた》の|御嬉《おうれ》しい|芝居《しばゐ》の|顛末《てんまつ》を|話《はな》して|下《くだ》さいな。|其《その》|都合《つがふ》に|依《よ》つて|国依別《くによりわけ》さまへ|御取次《おとりつぎ》を|致《いた》しますから……』
『|決《けつ》して|左様《さやう》な|関係《くわんけい》は|御座《ござ》いませぬが、あの|宣伝使《せんでんし》|様《さま》の|仰有《おつしや》つた|御言葉《おことば》を|思《おも》ひ|出《だ》し、|御神徳《ごしんとく》を|慕《した》つて|遥々《はるばる》|此処《ここ》まで|参《まゐ》りましたので|御座《ござ》ります』
『ハヽヽヽヽ、|一口《ひとくち》|仰有《おつしや》つた|御言葉《おことば》を|思《おも》ひ|出《だ》して|慕《した》うて|来《き》たと|云《い》はれましたなア。|蜜《みつ》のような|甘《あま》い|言葉《ことば》でしたらう……コレ、エリナ、|私《わたし》は|是《こ》れからヒルの|都《みやこ》へ|往《い》て|来《く》る|程《ほど》に、お|前《まへ》と|私《わし》と|斯《こ》うなつた|上《うへ》は、|旭《あさひ》は|照《て》る|共《とも》、|曇《くも》る|共《とも》、|月《つき》は|盈《み》つ|共《とも》|虧《か》くる|共《とも》、|仮令《たとへ》|大地《だいち》は|沈《しづ》むとも、お|前《まへ》の|事《こと》は|忘《わす》れやせぬ、|二世《にせ》も|三世《さんせ》も|先《さき》の|世《よ》かけて、|切《き》つても|切《き》れぬ|誠《まこと》の|夫婦《ふうふ》、|仮令《たとへ》|身《み》は|東西《とうざい》に|別《わか》れて|居《を》つても、|魂《みたま》は|尊《たふと》いお|前《まへ》の|側《そば》……ヘン、なンて|甘《あま》つたるい|事《こと》を|言《い》つたのでせう。お|羨《うらや》ましう|御座《ござ》いますワイ。あなたも|中々《なかなか》おとなしさうな|顔《かほ》して、|随分《ずゐぶん》やりますな。|陰裏《かげうら》の|豆《まめ》でも|時節《じせつ》が|来《く》ると|花《はな》が|咲《さ》き|初《はじ》めますからなア、アハヽヽヽ』
『さう、ぢらさずと|御頼《おたの》みですから、|早《はや》く|取次《とりつ》いで|下《くだ》さいませ』
『|取次《とりつ》がぬ|事《こと》はないが、|併《しか》しお|前《まへ》さまに|取《と》つては、|此《この》|間《あひだ》の|地震《ぢしん》よりも、|大火事《おほくわじ》よりもビツクリなさる|事《こと》が|出来《でき》て|居《を》りますよ。|命《いのち》|迄《まで》はめこんだ|国依別《くによりわけ》さまには、|此《この》お|館《やかた》の|名高《なだか》い|紅井姫《くれなゐひめ》さまが、ゾツコン|惚込《ほれこ》ンで|恋病《こひやまひ》を|煩《わづら》ひ、|国依別《くによりわけ》さまに|朝晩《あさばん》|目尻《めじり》を|下《さ》げて|涎《よだれ》をくり、それはそれは|見《み》られた|態《ざま》ぢやありませぬよ。そして、|姫様《ひめさま》も|姫様《ひめさま》ぢや、……お|前《まへ》さまのやうな、|一寸《ちよつと》|立派《りつぱ》な|奥《おく》さまがあるにも|拘《かか》はらず、|人《ひと》の|男《をとこ》に|惚《ほれ》て、|恋病《こひやまひ》を|煩《わづら》ふなンて、|本当《ほんたう》に|怪《け》しからぬぢやありませぬか。……コレ、エリナさま、お|前《まへ》さまも|一人前《いちにんまへ》の|女《をんな》ぢやないか。のめのめと|大事《だいじ》の|夫《をつと》を|世間《せけん》|見《み》ずのお|嬢《ぢやう》さまに|占領《せんりやう》せられて、|如何《どう》して|女子《をなご》の|意地《いぢ》が|立《た》ちますか。サア|私《わたし》が|案内《あんない》して|上《あ》げるから、|姫《ひめ》さまのお|部屋《へや》に|立入《たちい》り、|国依別《くによりわけ》さまの|胸倉《むなぐら》をグツと|取《と》り|思《おも》ふ|存分《ぞんぶん》|不足《ふそく》を|言《い》ひなさい。|若《も》しも|外《ほか》の|奴《やつ》が|寄《よ》つて|来《き》て、|乱暴者《らんばうもの》だとか|何《な》ンとか|云《い》つて|取押《とりおさ》へようとしよつたら、|内事《ないじ》の|司《つかさ》をして|居《を》る|私《わたし》がグツと|抑《おさ》へて、|何事《なにごと》も|言《い》はさぬよつて、|一《ひと》つ|大騒《おほさわ》ぎをやりなさい。さうすれば|如何《いか》に|惚《ほれ》たお|姫《ひめ》さまでも|愛想《あいさう》をつかし、|国依別《くによりわけ》さまを|思《おも》ひ|切《き》つて|返《かへ》して|呉《く》れるに|違《ちがひ》ない。|是《これ》が|六韜三略《りくたうさんりやく》の|兵法《へいはふ》だ。サア|何《なに》よりも|決心《けつしん》が|第一《だいいち》だ。|直接《ちよくせつ》|行動《かうどう》に|限《かぎ》りますぞえ。……|何《なん》ぢやお|前《まへ》さま、|肝腎《かんじん》の|夫《をつと》を|取《と》られ|乍《なが》ら、|気楽相《きらくさう》な|顔《かほ》して|笑《わら》うてゐると|云《い》ふ|事《こと》があるものかい。さういふ|薄野呂《うすのろ》だから、|大事《だいじ》の|男《をとこ》を|取《と》られて|了《しま》うのだよ。|犬《いぬ》でもケシをかけねば|猪《しし》に|飛《と》びつかぬものだ。まだ|私《わたし》のケシ|掛《か》けようが|足《た》らぬのかいな』
『ホヽヽヽヽ、あなたの|仰有《おつしや》る|事《こと》は|大変《たいへん》に|混線《こんせん》|致《いた》して|居《を》りますよ』
『|何分《なにぶん》|自転車《じてんしや》や|自動車《じどうしや》の|交通《かうつう》|頻繁《ひんぱん》の|為《ため》、|電話線《でんわせん》に|響《ひび》くと|見《み》えて、|少々《せうせう》|混線《こんせん》して|居《を》りますワイ。|併《しか》し|混線《こんせん》と|云《い》つたら、|国依別《くによりわけ》さまの|事《こと》だ。お|前《まへ》に|対《たい》してもまだ|幾分《いくぶん》|未練《みれん》はあらうし、お|姫《ひめ》さまに|対《たい》しては|命《いのち》を|投出《なげだ》しても|苦《くる》しうもないと|云《い》ふ|惚《のろ》け|方《かた》、そこへ|向《む》けて、|秋山別《あきやまわけ》と|云《い》ふ|恋《こひ》の|強敵《きやうてき》が|現《あら》はれて|居《ゐ》る。まだ|外《そと》に|二人《ふたり》……|競争者《きやうさうしや》がある。|随分《ずゐぶん》|混線《こんせん》したものだ。|其《その》|混線《こんせん》|序《ついで》に、お|前《まへ》さまが|口《くち》から|火《ひ》を|吹《ふ》き、|角《つの》を|生《は》やし、|鬼《おに》か|蛇《じや》になつて、お|姫様《ひめさま》の|部屋《へや》へ|飛《と》び|込《こ》みさへすれば、|私《わたし》の|望《のぞ》みもオツトドツコイ、お|前《まへ》の|望《のぞ》みも|成功《せいこう》すると|云《い》ふものだ、サア|早《はや》く|決心《けつしん》の|次第《しだい》を|聞《き》かして|下《くだ》さい』
『そんな|事《こと》|仰有《おつしや》らずに、どうぞ|会《あ》はして|下《くだ》さいなア』
『|会《あ》はして|上《あ》げたいは|山々《やまやま》なれど、|自分《じぶん》の|男《をとこ》を|人《ひと》に|取《と》られて、|平気《へいき》で|居《を》るやうな|腰抜《こしぬけ》には|能《よ》う|会《あ》はしませぬワイ。どうぞ|帰《かへ》つて|下《くだ》さい、|左様《さやう》なら……』
と|一間《ひとま》に|隠《かく》れようとする。エリナはコリヤ|一通《ひととほ》りでは|取次《とりつ》いで|呉《く》れぬと|心《こころ》に|思《おも》うたか、|俄《にはか》に|声《こゑ》を|変《か》へ、
『エー|残念《ざんねん》やな、|残念《ざんねん》やな、|残念《ざんねん》やな、|残念《ざんねん》やな、|大事《だいじ》の|大事《だいじ》の|可愛《かあい》い|男《をとこ》を、|人《ひと》にムザムザ|盗《ぬす》まれて、|私《わたし》も|女《をんな》の|意地《いぢ》、コレが|黙《だま》つて|居《を》られうか。これから|奥《おく》へふみ|込《こ》ンで、|国依別《くによりわけ》さまのたぶさをつかみ|引《ひき》ずり|廻《まは》し、|恨《うら》みの|数々《かずかず》|述《の》べ|立《た》てて、|姫《ひめ》さまにもキツイ|御礼《おれい》を|申《まを》さなおかぬ』
と|地団駄《ぢだんだ》をふみ|出《だ》した。モリスはシテやつたりと|引返《ひきかへ》し、
『ヤア|天晴《あつぱ》れ|天晴《あつぱ》れ、あなたの|武者振《むしやぶ》り|誠《まこと》に|勇《いさ》ましう|御座《ござ》る。サア|是《これ》よりモリスが|先陣《せんぢん》を|仕《つかまつ》る。|天晴《あつぱ》れ、|紅井山《くれなゐやま》の|戦闘《せんとう》に|功名《こうみやう》|手柄《てがら》を|現《あら》はし、|国依別《くによりわけ》を|奪《うば》ひ|返《かへ》し、|一時《いちじ》も|早《はや》く|凱歌《がいか》をあげて、ヒルの|館《やかた》を|立出《たちい》でなされ。|然《しか》らば|御伴《おとも》|仕《つかまつ》りませう』
と|大手《おほで》を|振《ふ》り|乍《なが》ら、
『サア|古今無双《ここんむさう》の|女豪傑《をんながうけつ》エリナさま、モリスが|後《あと》に|従《したが》つて|十分《じふぶん》|決心《けつしん》を|定《さだ》め、|鉢巻《はちまき》の|用意《ようい》をして、ドシドシと|足音《あしおと》|高《たか》くお|進《すす》みあれ』
と|先《さき》に|立《た》つて、|姫《ひめ》が|病室《びやうしつ》へと|進《すす》み|行《ゆ》く。
(大正一一・八・一八 旧六・二六 松村真澄録)
(昭和九・一二・一七 王仁校正)
第五章 |秋鹿《あきしか》の|叫《さけび》〔八七一〕
|紅井姫《くれなゐひめ》は|命《いのち》にも|代《か》へて|恋《こ》ひ|慕《した》つて|居《ゐ》た|初恋《はつこひ》の|国依別《くによりわけ》に|介抱《かいほう》され、|其《その》|嬉《うれ》しさに|病気《びやうき》は|段々《だんだん》と|軽《かる》くなり、|殆《ほとん》ど|全快《ぜんくわい》に|近付《ちかづ》いた。|紅井姫《くれなゐひめ》はまだ|十九才《じふくさい》の|花盛《はなざか》り、|国依別《くによりわけ》は|早《はや》くも|四十《しじふ》の|坂《さか》を|三《みつ》つ|四《よ》つ|越《こ》してゐた。されど|球《きう》の|玉《たま》の|神徳《しんとく》にてらされて、|元気《げんき》|益々《ますます》|加《くは》はり、|血色《けつしよく》よく、|一見《いつけん》して|三十《さんじふ》|前後《ぜんご》の|若者《わかもの》とより|見《み》えなかつた。|紅井姫《くれなゐひめ》は|侍女《じぢよ》を|遠《とほ》ざけ|只一人《ただひとり》、|心《こころ》|淋《さび》しげに|一絃琴《いちげんきん》を|弾《だん》じ、|心《こころ》の|丈《たけ》を|歌《うた》ひ|居《ゐ》る。
『|天《あめ》と|地《つち》との|水火《いき》をもて |生《うま》れ|出《い》でたる|人《ひと》の|身《み》は
|如何《いか》でか|神《かみ》の|御恵《おんめぐ》み |蒙《かうむ》らずしてあるべきや
|秋野《あきの》にすだく|虫《むし》の|音《ね》も |木々《きぎ》に|囀《さへづ》る|百鳥《ももとり》の
|長閑《のどか》な|声《こゑ》もをし|並《な》べて |恋《こひ》を|語《かた》らぬものぞなき
|恋路《こひぢ》に|迷《まよ》はぬ|者《もの》あらむ |心《こころ》の|底《そこ》の|奥山《おくやま》に
|清《きよ》く|照《て》りはふ|紅井《くれなゐ》の |紅葉《もみぢ》の|色《いろ》に|憧《あこ》がれて
|妻《つま》|恋《こ》ふ|鹿《しか》もある|世《よ》の|中《なか》に |国依別《くによりわけ》の|神《かみ》さまは
どうして|斯《か》くも|情《つれ》ないぞ |此方《こちら》が|思《おも》へば|先方《さき》の|方《ほ》で
|思《おも》ひ|返《かへ》さぬ|恋《こひ》の|暗《やみ》 |迷《まよ》ふ|吾《われ》らの|苦《くる》しみを
|折《を》りある|毎《ごと》に|打明《うちあ》けて |語《かた》らむものと|思《おも》へ|共《ども》
|女心《をんなごころ》の|恥《はづ》かしく |汝《なれ》が|御身《おんみ》を|思《おも》ふとは
|思《おも》ふ|人《ひと》には|思《おも》はれじと |思《おも》ふは|誰《たれ》を|思《おも》ふなるらむ
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |結《むす》びの|神《かみ》の|幸《さち》はひに
|紅井姫《くれなゐひめ》が|真心《まごころ》を |国依別《くによりわけ》の|御前《おんまへ》に
|夢《ゆめ》になり|共《とも》|知《し》らせたい |目《め》ひき|袖《そで》ひきいろいろと
|遠《とほ》くまはして|知《し》らせ|共《ども》 |野山《のやま》の|諸木《もろき》か|川《かは》の|石《いし》か
|巌《いはほ》の|如《ごと》く|頑《ぐわん》として |歯節《はぶし》も|立《た》たぬ|国依別《くによりわけ》の
|犯《をか》しがたなき|其《その》|心《こころ》 |益々《ますます》|募《つの》るは|恋《こひ》の|意地《いぢ》
|汝《な》が|身《み》の|為《ため》には|吾《わが》|命《いのち》 |仮令《たとへ》|野《の》の|末《すゑ》|山《やま》の|奥《おく》
|屍《かばね》を|曝《さら》す|世《よ》あり|共《とも》 などか|厭《いと》はむ|一《ひと》ことの
|汝《なれ》が|命《みこと》の|御口《みくち》より |優《やさ》しき|言葉《ことば》の|花《はな》の|色《いろ》
うつさせ|玉《たま》へ|紅井姫《くれなゐひめ》が このいじらしき|真心《まごころ》を
|知《し》らぬ|顔《かほ》なる|恨《うら》めしさ それに|引替《ひきか》へ|朝夕《あさゆふ》に
|執念深《しふねんぶか》くも|附《つ》け|狙《ねら》ふ |厭《いや》な|男《をとこ》の|秋山別《あきやまわけ》や
|内事司《ないじつかさ》のモリスまで |言葉《ことば》|巧《たくみ》に|言《い》ひ|寄《よ》りて
|秋波《しうは》を|送《おく》る|厭《いや》らしさ |恋《こひ》しき|人《ひと》は|知《し》らぬ|顔《かほ》
|生命《いのち》かけての|紅井《くれなゐ》の |吾《わが》|言霊《ことたま》も|木耳《きくらげ》の
|少《すこ》しも|響《ひび》かぬつれなさよ |金勝要大神《きんかつかねのおほかみ》の
|御霊《みたま》|幸《さち》はひましまして |添《そ》ひたく|思《おも》ふ|国依別《くによりわけ》の
|縁《えにし》を|結《むす》ばせ|玉《たま》へかし うるさき|二人《ふたり》の|恋心《こひごころ》
|一日《ひとひ》も|早《はや》く|皇神《すめかみ》の |尊《たふと》き|御稜威《みいづ》を|現《あら》はして
|思《おも》ひ|切《き》らせて|玉《たま》へかし あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|男《をとこ》と|生《うま》れ|女子《をみなご》と |生《うま》れ|来《きた》るも|神《かみ》の|世《よ》の
|深《ふか》きえにしのあるものぞ |今《いま》に|妻《つま》なき|国依別《くによりわけ》の
|神《かみ》の|司《つかさ》よ|紅井姫《くれなゐひめ》が |清《きよ》き|心《こころ》の|初恋《はつごひ》を
|叶《かな》へて|汝《なれ》と|吾《あ》と|二人《ふたり》 |国魂神《くにたまがみ》の|御前《おんまへ》に
|手《て》に|手《て》を|取《と》つて|潔《いさぎよ》く |鴛鴦《をし》の|契《ちぎり》の|礼《れい》|参《まゐ》り
|一日《ひとひ》も|早《はや》く|片時《かたとき》も |思《おも》ひを|叶《かな》へ|玉《たま》へかし
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ』
と|歌《うた》ひ|終《をは》り、|一絃琴《いちげんきん》を|横《よこ》に|置《お》き、|木茄子《きなすび》の|皮《かは》を|剥《む》き、|一口《ひとくち》|喉《のど》をうるほし|乍《なが》ら、|又《また》もや|恋《こひ》に|悩《なや》みつつ、|双手《もろで》を|組《く》みて|溜息《ためいき》をつき|居《ゐ》たり。|斯《かか》る|所《ところ》へ、|国依別《くによりわけ》は|数多《あまた》の|人々《ひとびと》に|鎮魂《ちんこん》を|施《ほどこ》し、|稍《やや》|手《て》すきになつたのを|幸《さいは》ひ、|紅井姫《くれなゐひめ》の|居間《ゐま》に|休息《きうそく》がてら|入《い》り|来《きた》り、
『|紅井姫《くれなゐひめ》|様《さま》、|確《たしか》に|一絃琴《いちげんきん》の|音《おと》が|聞《きこ》えて|居《を》りましたが、|随分《ずいぶん》お|上手《じやうづ》で|御座《ござ》いますなア。どうぞ|私《わたくし》にも|聞《き》かして|下《くだ》さいませぬか?』
|此《この》|言葉《ことば》に|紅井姫《くれなゐひめ》は、|最前《さいぜん》の|歌《うた》を|聞《き》かれたのではあるまいかと|胸《むね》を|轟《とどろ》かせ、|忽《たちま》ち|面部《かほ》をパツと|紅《くれなゐ》の|色《いろ》に|染乍《そめなが》ら、
『ハイ|妾《わらは》の|手慰《てすさ》びを|残《のこ》らずお|聞《き》きになりましたか?』
と|恥《はづ》かしげに|俯《うつ》むく。|国依別《くによりわけ》は|何《なに》げなう、|無雑作《むざふさ》に、
『イヽエ|承《うけたま》はりませぬ。|少《すこ》しく|手《て》すきになりましたので、|御機嫌《ごきげん》を|伺《うかが》はふと|思《おも》つて、|長廊下《ながらうか》を|参《まゐ》りますと、あなたの|御居間《おゐま》に|琴《こと》の|音《ね》が|聞《きこ》えて|居《ゐ》ますので、どうぞ|一《ひと》つ|聞《き》かして|頂《いただ》きたいと|思《おも》ひ、そこ|迄《まで》|参《まゐ》りますと、|早《はや》くもお|琴《こと》の|音《ね》は|止《と》まりました。|残念《ざんねん》な|事《こと》を|致《いた》しましたよ。モ|一息《ひといき》|早《はや》く|伺《うかが》へば、|妙音《めうおん》|菩薩《ぼさつ》の|音楽《おんがく》が|聞《き》かれる|所《ところ》で|御座《ござ》いましたに』
|紅井姫《くれなゐひめ》は、
『ホヽヽヽヽ』
と|袖《そで》に|顔《かほ》を|当《あ》て、|恥《はづ》かしげに|笑《わら》ふ。
『|姫《ひめ》さま、|永《なが》らく|御厄介《ごやくかい》に|預《あづか》りましたが、|明日《みやうにち》は、お|暇《ひま》を|頂戴《ちやうだい》して|帰《かへ》らうと|存《ぞん》じます。|就《つい》ては|明朝《みやうてう》|早《はや》くなりますから、あなたの|御休眠中《おやすみちう》にお|目《め》をさましてもなりませぬから、|是《これ》きりで|暫《しばら》くお|目《め》にかからないとも|分《わか》りませぬ。ここで|明日《あす》の|御別《おわか》れの|御挨拶《ごあいさつ》を|致《いた》しておかうと|存《ぞん》じます』
|紅井姫《くれなゐひめ》は|俄《にはか》に|顔色《かほいろ》を|変《か》へ、
『エヽ|何《なん》と|仰《あふ》せられます。|明日《あす》|御帰《おかへ》りとは、そりや|又《また》|余《あま》りぢや|御座《ござ》りませぬか。|妾《わらは》がこれ|丈《だけ》……』
『|永《なが》らく|御親切《ごしんせつ》に|預《あづか》りましたが、|是《これ》から、ハルの|国《くに》を|渡《わた》りウヅの|国《くに》へ|参《まゐ》り、|言依別命《ことよりわけのみこと》|様《さま》に|会《あ》はなくてはなりませぬ。それ|迄《まで》に|二三人《にさんにん》の|男《をとこ》を|助《たす》けねばならぬ|事《こと》が|御座《ござ》いますので、|非常《ひじやう》に|心《こころ》が|急《いそ》ぎますから、|是非々々《ぜひぜひ》|明日《みやうにち》は|出立《しゆつたつ》を|致《いた》さねばなりませぬ。|永《なが》らく|懇意《こんい》に|預《あづか》りましたが、|生者必滅《せいじやひつめつ》|会者定離《ゑしやぢやうり》、|会《あ》ふは|別《わか》れの|始《はじ》めとやら、どうぞ|是迄《これまで》の|御縁《ごえん》と|思召《おぼしめ》して|下《くだ》さいませ、|貴女《あなた》の|御健全《ごけんぜん》な|様《やう》に|日《ひ》に|日《ひ》に|御祈《おいの》りを|致《いた》しますから、|御病気《ごびやうき》の|事《こと》なぞ、|必《かなら》ず|御心配《ごしんぱい》なさらない|様《やう》に|頼《たの》みます』
|紅井姫《くれなゐひめ》は『エヽ』と|云《い》つた|限《き》り、|其《その》|場《ば》に|驚《おどろ》いて|倒《たふ》れむとし、|忽《たちま》ち|目《め》は|眩《くら》み、|耳《みみ》は|早鐘《はやがね》をつき|心臓《しんざう》の|鼓動《こどう》|烈《はげ》しく、|不安《ふあん》の|状態《じやうたい》|現《あら》はれ|来《き》たる。|国依別《くによりわけ》は……ハテ|困《こま》つた|事《こと》が|出来《でき》たわい……と|稍《やや》|心配《しんぱい》して|居《ゐ》る。|紅井姫《くれなゐひめ》は|怺《こら》へ|切《き》れなくなつたと|見《み》え『ウン……』と|一声《ひとこゑ》|其《その》|場《ば》に|悶絶《もんぜつ》して|了《しま》つた。|国依別《くによりわけ》は|驚《おどろ》いて、|直《ただち》に、|姫《ひめ》の|手《て》を|取《と》り、|指先《ゆびさき》より|息《いき》を|吹《ふ》きこみ、いろいろと|介抱《かいほう》の|結果《けつくわ》、|漸《やうや》く|姫《ひめ》は|正気《しやうき》づきぬ。
『お|姫様《ひめさま》、お|気《き》が|付《つ》きましたか。マア|結構《けつこう》で|御座《ござ》いました。|私《わたくし》も|大変《たいへん》に|心配《しんぱい》|致《いた》しましたよ。|何事《なにごと》の|御心配《ごしんぱい》がお|有《あ》りなさるか|知《し》りませぬが、|世《よ》の|中《なか》は|如何《どう》しても、|人間《にんげん》の|思《おも》ふ|様《やう》には|行《ゆ》くものではありませぬ。|何事《なにごと》も|神様《かみさま》の|御心《みこころ》の|儘《まま》によりならないものです。|例《たと》へば|夫婦《ふうふ》の|道《みち》だつて、|添《そ》ひたひ|添《そ》ひたひと|思《おも》うてゐる|女《をんな》があつても、|神《かみ》の|御許《おゆる》しがなければ|添《そ》う|事《こと》は|出来《でき》ず、|嫌《きら》いでならない|女房《にようばう》を|持《も》つて、|一生《いつしやう》を|不愉快《ふゆくわい》に|暮《くら》す|者《もの》もあり、|又《また》|好《す》きな|者《もの》|同志《どうし》が|夫婦《ふうふ》になり、|一時《いちじ》は|非常《ひじやう》に|楽《たの》しく|暮《くら》して|居《ゐ》た|者《もの》が|中途《ちうと》に|邪魔《じやま》が|這入《はい》り、|障害《しやうがい》が|出来《でき》などして、|破鏡《はきやう》の|歎《なげ》きを|味《あぢ》はふ|者《もの》も|御座《ござ》います。それだから|人間《にんげん》は|到底《たうてい》|自分《じぶん》の|思《おも》ふ|様《やう》にならないものだと|思《おも》つて|居《を》れば、|何事《なにごと》も|諦《あきら》めが|付《つ》くもので|御座《ござ》います』
|紅井姫《くれなゐひめ》は|恨《うら》めしげに|国依別《くによりわけ》の|顔《かほ》を|見《み》つめ、|何《なに》か|云《い》はむとして|口籠《くちごも》るものの|如《ごと》く、|上下《うへした》の|唇《くちびる》をビリビリと|震《ふる》はせゐる。
|国依別《くによりわけ》は|紅井姫《くれなゐひめ》の|背《せ》を|撫《な》でさすり、いろいろと|慰《なぐさ》めゐる|折《をり》しも、|俄《にはか》に|足音《あしおと》|高《たか》く、|隔《へだ》ての|襖《ふすま》を|静《しづか》に|荒《あら》く|引《ひき》あけて、ヌツと|首《くび》を|出《だ》した|秋山別《あきやまわけ》は、
『ヤアお|楽《たのし》みの|所《ところ》へ、|行儀《ぎやうぎ》も|知《し》らぬ|不作法者《ぶさはふもの》がやつて|参《まゐ》りまして、|何《なん》とも|早《はや》|面目《めんぼく》|次第《しだい》も|御座《ござ》いませぬ。|併《しか》し|乍《なが》ら|国依別《くによりわけ》さま、お|前《まへ》さまは|誰《たれ》に|断《ことわ》つて|姫様《ひめさま》の|御居間《おゐま》へお|越《こ》しになつたのですか。|御病気《ごべうき》なれば|兎《と》も|角《かく》も、|此《この》|頃《ごろ》は|最早《もはや》|全快《ぜんくわい》|遊《あそ》ばし、お|前《まへ》さまの|御祈念《ごきねん》を|御願《おねがひ》する|必要《ひつえう》もなくなつた|今日《こんにち》、|何《なん》の|為《ため》、|姫様《ひめさま》|一人《ひとり》の|居間《ゐま》へ|御出《おい》でになり、|其《その》|上《うへ》お|手《て》を|握《にぎ》り、|背《せな》を|撫《な》で、|何《なん》と|云《い》ふ|不作法《ぶさはふ》な|事《こと》をなさいますか。|不義《ふぎ》は|御家《おいへ》の|御禁制《ごはつと》、サアサア、|此《この》|秋山別《あきやまわけ》が|現場《げんぢやう》を|見着《みつ》けた|上《うへ》は、|如何《いか》に|御弁解《ごべんかい》をなさらうとも、|承知《しようち》|仕《つかまつ》らぬ。|今日《こんにち》|限《かぎ》り|此《この》|館《やかた》をトツトと|退去《たいきよ》なされ。ヒルの|館《やかた》の|総取締《そうとりしまり》|秋山別《あきやまわけ》が、|職名《しよくめい》に|依《よ》つて|申付《まをしつ》けまするぞ』
『これは|心得《こころえ》ぬあなたの|御言葉《おことば》。|国依別《くによりわけ》があなたの|目《め》からは|不義者《ふぎもの》と|見《み》えますかナ』
『|見《み》えるも|見《み》えぬもない、|現《げん》に|今《いま》|姫様《ひめさま》の|御体《おからだ》に|手《て》をさへたぢやないか』
『コレ|秋山別《あきやまわけ》、|人様《ひとさま》に|向《むか》つて、さうズケズケと|御無礼《ごぶれい》な|事《こと》を|申《まを》す|者《もの》でない。|妾《わらは》が|今《いま》|急病《きふべう》を|発《はつ》し、|苦《くるし》みて|居《ゐ》た|所《ところ》を|通《とほ》りかかつて|苦悶《くもん》の|声《こゑ》を|聞《き》き、|助《たす》けに|来《き》て|下《くだ》さつたのだよ。どうぞお|前《まへ》も|疑《うたがひ》を|晴《は》らして|御礼《おれい》を|云《い》うて|下《くだ》さい』
『|何《なん》とお|姫様《ひめさま》、あなたも|此《この》|頃《ごろ》は|随分《ずいぶん》|旅《たび》の|方《かた》になられましたねえ。|国依別《くによりわけ》さまのお|仕込《しこみ》で、イヤもう|秋山別《あきやまわけ》もあなたの|言霊《ことたま》には、ヘヽ|閉口《へいこう》|致《いた》しますワイ』
『コレ|秋山別《あきやまわけ》、お|前《まへ》は|妾《わらは》を|足袋《たび》の|型《かた》と|今《いま》|言《い》つたが、そりや|又《また》|如何《どう》いふ|訳《わけ》だい。|知《し》らしてお|呉《く》れ』
『|中々《なかなか》|此《この》|頃《ごろ》はお|姫様《ひめさま》もお|口《くち》が|上手《じやうづ》にお|成《な》り|遊《あそ》ばし、|御弁解《ごべんかい》が|甘《うま》くて|足袋《たび》の|型《かた》で|中々《なかなか》|手《て》に|合《あ》はぬと|言《い》つたのですよ。アハヽヽヽ』
『|秋山別《あきやまわけ》さま、|必《かなら》ず|御心配《ごしんぱい》|下《くだ》さいますな。|国依別《くによりわけ》もいよいよ|明日《あす》より|出立《しゆつたつ》|致《いた》しますから、|何分《なにぶん》|姫様《ひめさま》もお|弱《よわ》い|体《からだ》、どうぞ|気《き》を|付《つ》けて|上《あ》げて|下《くだ》さいませ』
『|仰《あふ》せ|迄《まで》もなく、|昼夜《ちうや》の|区別《くべつ》なく、|姫様《ひめさま》の|御体《おからだ》を|大切《たいせつ》に|保護《ほご》を|致《いた》す|此《この》|秋山別《あきやまわけ》、|御注意《ごちうい》は|御無用《ごむよう》で|御座《ござ》います』
と|憎々《にくにく》しげに|言《い》ふ。
『いよいよ|明日《あす》は|国依別《くによりわけ》|様《さま》、お|立《た》ちで|御座《ござ》いますか。|余《あんま》り|意地《いぢ》くねの|悪《わる》い|秋山別《あきやまわけ》が、いつもあなたの|御心《みこころ》を|損《そこ》ねまして、|実《じつ》にお|気《き》の|毒《どく》で|申訳《まをしわけ》が|御座《ござ》いませぬ。|是《これ》もヤツパリ|妾《わらは》の|罪《つみ》で|御座《ござ》いますから、どうぞ|秋山別《あきやまわけ》が|悪《わる》いとは|思召《おぼしめ》さず、|妾《わらは》をお|叱《しか》り|下《くだ》さいませ』
『これはしたり、お|姫《ひめ》さま、これ|程《ほど》|親切《しんせつ》に、|身命《しんめい》を|賭《と》して|貴女様《あなたさま》の|事《こと》|計《ばか》り|思《おも》つて|居《ゐ》る|秋山別《あきやまわけ》を、|意地苦根《いぢくね》|悪《わる》い|男《をとこ》とは、チと|聞《きこ》えぬぢやありませぬか。|大方《おほかた》|国依別《くによりわけ》さまに|入《い》れ|智慧《ぢゑ》をして|貰《もら》ひなさつたのでせう』
『|其様《そん》な|御無礼《ごぶれい》な|事《こと》を|云《い》つてはなりませぬ。|何《なん》と|云《い》つても、|妾《わらは》は|国依別《くによりわけ》さまが|命《いのち》がけの|好《す》きなお|方《かた》、お|前《まへ》はゲヂよりも|嫌《きら》ひだよ。|総取締《そうとりしまり》の|役《やく》であり|乍《なが》ら、お|道《みち》の|方《はう》はそつち|除《の》けにして、|妾《わらは》の|側《そば》|計《ばか》り、|間《ま》がな|隙《すき》がな、|厭《いや》らしい|目附《めつき》をしてお|出《い》でだから、|妾《わらは》も|穴《あな》でもあれば、お|前《まへ》が|来《く》る|度《たび》に、|這入《はい》りたい|様《やう》な|心持《こころもち》がして、|病気《びやうき》が|段々《だんだん》|重《おも》くなる|計《ばか》りだよ。それで|兄《にい》さまに|一伍一什《いちぶしじふ》を|申上《まをしあ》げたら、|今《いま》に|秋山別《あきやまわけ》を|放《はう》り|出《だ》して、|外《ほか》の|者《もの》と|入《い》れ|替《か》へするから、|暫《しばら》く|辛抱《しんばう》せよと|仰有《おつしや》つたよ。モウ|斯《こ》うなつては|仕方《しかた》がないから、|包《つつ》まず|隠《かく》さず、|露骨《ろこつ》に|言《い》つて|上《あ》げるからお|前《まへ》も|良《よ》い|加減《かげん》に|諦《あきら》めたが|良《よ》からう。|女《をんな》の|部屋《へや》へ|男《をとこ》の|来《く》るものではない。サア|早《はや》く|彼方《あちら》へお|行《ゆ》き、|御用《ごよう》が|支《つかへ》て|居《ゐ》るぢやないか』
『チヨツ、エヽ|仕方《しかた》がない、|何程《なにほど》|親切《しんせつ》を|尽《つく》しても、|私《わたくし》の|心《こころ》は|汲《く》み|取《と》つて|紅井姫《くれなゐひめ》かなア。ナニ|此処《ここ》を|追出《おひだ》されるのなら、モウ|破《やぶ》れかぶれだ、|恋《こひ》の|叶《かな》はぬ|意趣《いしゆ》|返《がへ》しに、|一《ひと》つ|国依別《くによりわけ》のドタマをかちわつて、|恨《うらみ》を|晴《は》らしてやらう』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら、|傍《かたはら》の|火鉢《ひばち》を|取《と》るより|早《はや》く、|国依別《くによりわけ》|目《め》がけて|打《うち》つける。|国依別《くによりわけ》はヒラリと|体《たい》をかはし、
『アハヽヽヽ、|危《あぶ》ない|危《あぶ》ない、|秋山別《あきやまわけ》さま、|姫《ひめ》さまのお|言葉《ことば》を|真《ま》に|受《う》けては|可《い》けないよ。|口《くち》で|悪《わる》|言《い》うて|心《こころ》でほめて、|蔭《かげ》の|惚気《のろけ》がきかしたい……と|云《い》ふ|筆法《ひつばふ》だから、|安心《あんしん》なされませ。|何《なん》と|云《い》つても|国依別《くによりわけ》は|明早朝《みやうさうてう》ここをお|暇《いとま》せなくてはならないのだからなア』
|秋山別《あきやまわけ》は|嬉《うれ》しさうに、
『|国依別《くによりわけ》|様《さま》、|失礼《しつれい》を|致《いた》しました。|是《これ》も|一時《いちじ》の|狂言《きやうげん》で|御座《ござ》いますから、|必《かなら》ず|悪《わる》く|取《と》つて|下《くだ》さいますな。どうぞウーンとやられちや|大変《たいへん》ですから、お|腹《はら》が|立《た》ちませうが、どうぞそこは|神直日《かむなほひ》|大直日《おほなほひ》に|見直《みなほ》し|聞直《ききなほ》し、|宣《の》り|直《なほ》して|下《くだ》さいませ』
『|左様《さやう》な|事《こと》で|腹《はら》の|立《た》つ|様《やう》な|国依別《くによりわけ》では|御座《ござ》いませぬ』
『どうしても、あなたは|可憐《かれん》な|私《わたし》を|捨《す》て、|明日《あす》お|立《た》ちで|御座《ござ》いますか?』
『ハイ、|折角《せつかく》お|馴染《なじみ》になつて、|実《じつ》に|残《のこ》り|多《おほ》う|御座《ござ》いますが、|神界《しんかい》の|御用《ごよう》が|急《いそ》ぎますから、|今晩《こんばん》は|楓別命《かへでわけのみこと》|様《さま》にトツクリと|事情《じじやう》を|申上《まをしあ》げ、お|暇《ひま》を|頂戴《ちやうだい》|致《いた》す|考《かんが》へで|御座《ござ》います』
|紅井姫《くれなゐひめ》は『アツ』と|叫《さけ》んで|又《また》もや|其《その》|場《ば》に|打倒《うちたふ》れ、|前後《ぜんご》|不覚《ふかく》に|陥《おちい》りにける。
(大正一一・八・一八 旧六・二六 松村真澄録)
第六章 |女弟子《おんなでし》〔八七二〕
|此《この》|乱痴気《らんちき》|騒《さわ》ぎの|最中《さいちう》に、|意気《いき》|揚々《やうやう》としてモリスは|国依別《くによりわけ》の|居間《ゐま》を|尋《たづ》ね、|姿《すがた》の|見《み》えざるに、|的切《てつき》り|此奴《こいつ》は|紅井姫《くれなゐひめ》の|居間《ゐま》に|侵入《しんにふ》し、|脂《やに》|下《さが》つてゐるに|相違《さうゐ》ないと、エリナを|伴《ともな》ひ、|足音《あしおと》|高《たか》く、|現《あら》はれ|来《きた》り、ガラリと|襖《ふすま》を|引《ひき》あけて、
『|国依別《くによりわけ》|様《さま》、お|前様《まへさま》の|女房《にようばう》がはるばる|尋《たづ》ねてお|出《いで》になりましたよ。サアどうぞトツクリとお|楽《たの》しみなさりませ』
『ヤア、エリナ|殿《どの》か、あなたのお|母《か》アさまは|何《ど》うなりましたか。|日々《にちにち》|御案《おあん》じ|申《まを》して|居《を》りました』
『ハイ|有難《ありがた》う|御座《ござ》います。とうとう|母《はは》はあの|大地震《だいぢしん》に|亡《な》くなつて|仕舞《しまひ》ました。|今《いま》は、|父《ちち》は|御存《ごぞん》じの|通《とほ》り、|日暮《ひぐら》シ|山《やま》に|囚《とら》はれ、たよる|所《ところ》もなき|女《をんな》の|一人身《ひとりみ》、あなた|様《さま》のお|後《あと》を|慕《した》ひ、お|世話《せわ》に|預《あづか》りたいと|存《ぞん》じまして、|茲《ここ》まで|尋《たづ》ねて|参《まゐ》りました。どうぞ|先日《せんじつ》の|御無礼《ごぶれい》をお|叱《しか》りなく、|憐《あは》れな|妾《わたくし》、|何卒《どうぞ》お|助《たす》け|下《くだ》さいませ』
モリスはもどかしげに、
『コレコレ、エリナさま、そんな|他人《たにん》|行儀《ぎやうぎ》の|事《こと》を|云《い》ふに|及《およ》ばぬぢやありませぬか。お|前《まへ》さま……ソレ|私《わたし》の|前《まへ》で|雄健《をたけ》びしたように、ここで|一《ひと》つ|売《う》り|出《だ》さぬかいな。ヤツパリ|可愛《かあい》い|夫《をつと》の|顔《かほ》を|見《み》るとグニヤグニヤになつて|了《しま》ふから|仕方《しかた》がないワ。|女《をんな》と|云《い》ふ|者《もの》は|男《をとこ》にかけたら|弱《よわ》い|者《もの》だなア、アハヽヽヽ』
|秋山別《あきやまわけ》は|言《ことば》も|荒《あら》らかに、
『|姫様《ひめさま》の|御病気《ごべうき》、|今《いま》|此《この》|通《とほ》り|御昏倒《ごこんたう》|遊《あそ》ばして|御座《ござ》る|所《ところ》だ。|何《なに》を|気楽《きらく》な|事《こと》を|言《い》つてゐるのだい』
『ヤア|姫様《ひめさま》が|御病気《ごべうき》だなア。コリヤ|大変《たいへん》だ。ドレドレ、モリスが|介抱《かいほう》をして|進《しん》ぜよう。|癪気《しやくき》を|起《おこ》して|御座《ござ》るのだらう。こんな|所《ところ》へ|国依別《くによりわけ》さまの|奥《おく》さまがやつて|来《き》たものだから、|益々《ますます》|大変《たいへん》だ。|併《しか》し|乍《なが》ら|姫様《ひめさま》も|結句《けつく》|諦《あきら》めがついてよからう。サア|一《ひと》つお|腹《なか》を|取《と》つてあげませう……|癪《しやく》に|嬉《うれ》しい|男《をとこ》の|力《ちから》、|身《み》が|粉《こな》になるまで|抱《だ》いて|欲《ほ》しい……とか|何《なん》とかヘヽヽ|言《い》ふ|事《こと》がある。|国依別《くによりわけ》さまだと|都合《つがふ》が|好《よ》いのだが、|生憎《あひにく》|奥《おく》さまの|御臨検《ごりんけん》だからさうもならず……|国依別《くによりわけ》さま、さぞお|心《こころ》の|揉《も》める|事《こと》でせうなア』
とニヤリと|笑《わら》ひ|乍《なが》ら、
『コレコレお|姫様《ひめさま》、|内事司《ないじつかさ》のモリスで|御座《ござ》いますよ。サア|気《き》をしつかりなさいませ』
『エヽ|汚《けが》らはしい!』
と|今迄《いままで》|性念《しやうねん》を|失《うしな》つて|居《ゐ》たと|思《おも》つた|大病人《たいべうにん》に、|力一杯《ちからいつぱい》|横腹《よこばら》あたりを、|肱鉄砲《ひぢでつぱう》で|打《う》たれ、|肋《あばら》の|三枚目《さんまいめ》をしたたかやられて『アツ』と|其《その》|場《ば》に|目《め》を|剥《む》いて|倒《たふ》れて|了《しま》つた。|国依別《くによりわけ》は|驚《おどろ》いて、
『コレコレお|姫様《ひめさま》、そりや|余《あま》り|乱暴《らんばう》ぢやありませぬか?』
『|国依別《くによりわけ》さま、あなたは|妾《わらは》を|騙《だま》しましたねえ。|独身《どくしん》ぢやと|仰有《おつしや》つたが、|現《げん》に|立派《りつぱ》な|奥様《おくさま》が|訪《たづ》ねて|御座《ござ》つたぢやありませぬか。エヽ|残念《ざんねん》ぢや|口惜《くちを》しい』
と|歯切《はぎり》をかむで|狂《くる》ひまはる。|秋山別《あきやまわけ》は|紅井姫《くれなゐひめ》の|体《からだ》をグツと|抱《かか》へ、
『モシモシ|姫様《ひめさま》、さう|荒立《あらた》ちなさつてはお|体《からだ》に|障《さは》ります。どうぞ|気《き》をお|鎮《しづ》めなさいませ。|世《よ》の|中《なか》は|広《ひろ》いものです。|男《をとこ》の|数《かず》も|決《けつ》して|一人《ひとり》や|二人《ふたり》ぢや|御座《ござ》いませぬ。そンな|気《き》の|狭《せま》い|事《こと》を|仰有《おつしや》るに|及《およ》びませぬ。あなたに|適当《てきたう》な|男《をとこ》が|此《この》お|館《やかた》にも|一人《ひとり》や|半分《はんぶん》は|居《ゐ》ますから、|御世話《おせわ》を|致《いた》します。どうぞお|鎮《しづ》まり|下《くだ》さいませ』
『エヽお|前《まへ》は|秋山別《あきやまわけ》か、|又《また》しても|又《また》しても|好《す》かぬたらしい、|震《ふる》ひが|来《く》る、|退《の》いてお|呉《く》れ!』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら、かよわき|手《て》に|拳骨《げんこつ》を|固《かた》め、|力一杯《ちからいつぱい》|鼻《はな》つ|柱《ぱしら》を|擲《なぐ》りつける。|秋山別《あきやまわけ》は|不意《ふい》に|鼻《はな》つ|柱《ぱしら》を|打《う》たれ、|目《め》から|火《ひ》を|出《だ》し|乍《なが》ら、ヨロヨロヨロとよろめき、モリスの|頭《あたま》の|上《うへ》にドスンと|倒《たふ》れた|機《はづ》みに|尻《しり》を|下《おろ》せば、モリスは|夢中《むちう》になつて、|秋山別《あきやまわけ》の|睾丸《きんたま》を|力一杯《ちからいつぱい》|握《にぎ》りしめ、
『コリヤ|国依別《くによりわけ》、|貴様《きさま》は|女房《にようばう》のある|身《み》を|持《も》ち|乍《なが》ら、|神様《かみさま》の|御規則《ごきそく》に|背《そむ》き、|箱入娘《はこいりむすめ》の|姫様《ひめさま》を|誑《たぶ》らかしチヨロまかして、|風紀《ふうき》を|紊《みだ》す|大罪人《だいざいにん》、サア|此《この》|玉《たま》さへ|抜《ぬ》けば、|発情《はつじやう》は|致《いた》すまい。モリスが、|睾丸割去術《きんたまかつきよじゆつ》でも|施《ほどこ》して|去勢《きよせい》してやらうか』
と|一生懸命《いつしやうけんめい》に|固《かた》く|握《にぎ》りつめる。|秋山別《あきやまわけ》は|真青《まつさを》になつて『ウーン』と|云《い》つたきり、ふん|伸《の》びて|了《しま》つた。
エリナ|姫《ひめ》は|気《き》をいらち、
『モシ|国依別《くによりわけ》さま、どうかしてやつて|下《くだ》さらぬと、|息《いき》が|止《と》まりは|致《いた》しませぬか』
|国依別《くによりわけ》は、
『さうですなア』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら、モリスの|手《て》を|指《ゆび》|一本《いつぽん》|一本《いつぽん》|力《ちから》を|入《い》れて|放《はな》させた。|秋山別《あきやまわけ》は|漸《やうや》くに|気《き》が|付《つ》き、|呆《とぼ》け|面《づら》してポカンと|口《くち》をあけて|紅井姫《くれなゐひめ》の|顔《かほ》を|恨《うら》めしげに|眺《なが》めて|居《ゐ》る。
『あのマア|厭《いや》な|男《をとこ》、|妾《わたし》の|顔《かほ》に|何《なん》ぞ|付《つ》いて|居《を》りますか?』
『ハイ、|何《なん》だか|知《し》りませぬが、|男《をとこ》の|顔《かほ》がひつついてますワイ。それもクの|字《じ》が|一番《いちばん》ハツキリ|現《あら》はれ、つぎにアの|字《じ》が|現《あら》はれて|居《を》りますが、クの|字《じ》は|段々《だんだん》と|色《いろ》が|黒《くろ》くなり、アの|字《じ》が|赤《あか》く|花《はな》の|様《やう》に|現《あら》はれかけました。あのクの|字《じ》の|黒《くろ》い|事《こと》わいの』
『|又《また》しても|厭《いや》な|事《こと》を|云《い》ふ|男《をとこ》だナ。サア|早《はや》うあちらへお|行《ゆ》き!|汚《けが》らはしい、アリーは|居《を》らぬか、サールは|何処《いづこ》ぞ、|早《はや》く|箒《はうき》を|持《も》つて|来《き》てお|呉《く》れ』
|次《つぎ》の|間《ま》に|息《いき》をこらして|控《ひか》えてゐた|二人《ふたり》の|侍女《じぢよ》は、|箒《はうき》と|塵取《ちりとり》を|持《も》つて|現《あら》はれ、|跪《ひざまづ》いて|姫《ひめ》の|手《て》に|渡《わた》せば、|姫《ひめ》は|手早《てばや》く|其《その》|箒《はうき》を|取《と》り、|第一《だいいち》に|秋山別《あきやまわけ》に|向《むか》ひ、
『エヽ|煩雑《うるさ》い|男《をとこ》|奴《め》』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら|狂人《きちがひ》の|如《ごと》く|髪《かみ》ふり|乱《みだ》し、|目《め》を|釣《つ》りあげ|所《ところ》|構《かま》はず|打据《うちす》ゑたり。モリスは、
『コレコレ|姫様《ひめさま》、そンな|乱暴《らんばう》をなさつては|可《い》けませぬ』
と|立《たち》あがるを、|姫《ひめ》は、
『ナニ|此《この》|睾丸《きんたま》|掴《つか》み』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら、|又《また》|叩《たた》きつける。|二人《ふたり》は|流石《さすが》に|手向《てむか》ひもならず、コソコソとして|吾《わが》|居間《ゐま》に|引下《ひきさが》り|行《ゆ》く。
『お|前《まへ》さまは|国依別《くによりわけ》さまの|御家内《ごかない》でせう。|紅井《くれなゐ》が|永《なが》らく|御厄介《ごやくかい》になりまして、さぞお|待兼《まちかね》でしたらう。サア|大事《だいじ》の|婿《むこ》さまを|伴《つ》れて、|勝手《かつて》にお|帰《かへ》りなさいませ』
『これはしたり|姫様《ひめさま》、そりや|大変《たいへん》な|考《かんが》へ|違《ちが》ひ、|此《この》|方《かた》はアラシカ|山《やま》の|山麓《さんろく》に|御座《ござ》るウラル|教《けう》の|宣伝使《せんでんし》エスと|云《い》ふ|方《かた》の|娘《むすめ》さまで|御座《ござ》いますよ。フトした|事《こと》から|途中《とちう》にお|目《め》にかかり、|二三日《にさんにち》|御世話《おせわ》になりましたもの、|独身《どくしん》|主義《しゆぎ》の|国依別《くによりわけ》に、|女房《にようばう》があつて|堪《たま》りますか』
『あなたは|世界《せかい》を|股《また》にかけて|御歩《おある》き|遊《あそ》ばす|宣伝使《せんでんし》|様《さま》、うち|見《み》る|島《しま》の|先々《さきざき》、|掻《か》き|見《み》る|磯《いそ》の|先《さき》おちず、|若草《わかぐさ》の|妻《つま》を|至《いた》る|所《ところ》にお|持《も》ち|遊《あそ》ばし、|神生《かみう》み、|御子生《みこう》みを|遊《あそ》ばす|丈《だけ》あつて、|随分《ずいぶん》|巧《たくみ》に|言霊《ことたま》をお|使《つか》ひ|遊《あそ》ばします。|妾《わらは》も|最早《もはや》|観念《かんねん》|致《いた》しました。|妾《わらは》の|恋《こひ》は|真剣《しんけん》で|御座《ござ》ります。つまり|九寸五分式《くすんごぶしき》の|猛烈《まうれつ》な|恋《こひ》なれば、|最早《もはや》あなたに|見放《みはな》された|上《うへ》は、|此《この》|世《よ》に|生《い》きて|何《なに》の|楽《たのし》みも|御座《ござ》いませぬ。|恋《こひ》の|病《やまひ》に|悩《なや》み|一生《いつしやう》|苦《くるし》むよりも、|一層《いつそう》|此《この》|場《ば》であなたのお|目《め》の|前《まへ》で|自害《じがい》して|相果《あひは》てまする。|愚《おろか》な|女《をんな》と|一口《ひとくち》にお|笑《わら》ひ|下《くだ》さいますれば、それを|冥途《めいど》の|土産《みやげ》に|嬉《うれ》しう|帰幽《きいう》|致《いた》します』
と|隠《かく》し|持《も》つたる|短刀《たんたう》を|閃《ひらめ》かし、ガハと|喉《のど》につき|立《た》てむとするにぞ、|国依別《くによりわけ》は|打《う》ち|驚《おどろ》き、|直《ただち》に|飛《と》びつき、|姫《ひめ》の|手《て》を|打叩《うちたた》きし|其《その》|途端《とたん》に|短刀《たんたう》はバラリと|前《まへ》におちぬ。|国依別《くによりわけ》は|手早《てばや》く|短刀《たんたう》を|拾《ひろ》ひあげ、|熱涙《ねつるゐ》を|流《なが》し|乍《なが》ら、
『あゝ|困《こま》つた|事《こと》が|出来《でき》て|来《き》たものだワイ。これと|云《い》ふのも、|若《わか》い|時《とき》に|女泣《をんなな》かせや、|御家倒《ごけだを》し、|家潰《いへつぶ》しを|数限《かずかぎ》りなくやつて|来《き》た|其《その》|酬《むく》ゐだらう……モシモシお|姫様《ひめさま》、|私《わたし》は|今《いま》こそ|斯《こ》ンな|殊勝《しゆしよう》らしい|顔《かほ》をして|宣伝使《せんでんし》になつて|居《を》りますが、|私《わたし》の|素性《すじやう》を|洗《あら》つたら|如何《いか》な|姫様《ひめさま》でも|愛想《あいさう》をつかされるでせう。|随分《ずいぶん》と|女《をんな》を|泣《な》かして|来《き》た|代物《しろもの》ですよ。こンな|男《をとこ》に|心中立《しんぢうだて》をしたつて|直《すぐ》に|放《ほ》かされ、|蛸《たこ》の|揚壺《あげつぼ》を|喰《く》はされますよ。どうぞこンな|男《をとこ》の|事《こと》は|思《おも》ひ|切《き》つて|下《くだ》さいませ』
『|自分《じぶん》の|事《こと》を|自分《じぶん》で|悪《わる》く|仰有《おつしや》る、|其《その》|正直《しやうぢき》なお|心《こころ》が|妾《わらは》には|震《ふる》ひつく|程《ほど》|好《すき》で|御座《ござ》います。|果《はた》して|此《この》エリナ|様《さま》があなたの|女房《にようばう》でないのならば、|是非《ぜひ》|茲《ここ》に|御逗留《ごとうりう》|遊《あそ》ばして、|妾《わらは》に|神様《かみさま》の|教《をしへ》を|聞《き》かして|下《くだ》さいませ。お|気《き》に|入《い》らぬ|者《もの》を|無理《むり》に|女房《にようばう》にして|下《くだ》さいとは|申《まを》しませぬ。お|側《そば》においてさへ|頂《いただ》けば、それで|満足《まんぞく》|致《いた》しますから……』
『それは|困《こま》りましたねい。どうしても|私《わたし》は|急《きふ》にここを|立《た》たねばなりませぬから、|姫様《ひめさま》のお|側《そば》において|頂《いただ》く|事《こと》は|到底《たうてい》|出来《でき》ませぬ。どうぞ|思《おも》ひ|切《き》つて|下《くだ》さいませ』
『そんなら、あなたのお|弟子《でし》として、どンな|所《ところ》でも|厭《いと》ひませぬからお|伴《つ》れ|下《くだ》さいませ。お|願《ねがひ》で|御座《ござ》います』
『どうぞこのエリナもお|弟子《でし》として、あなたのお|出《い》で|遊《あそ》ばす|所《ところ》へお|伴《つ》れ|下《くだ》さいませ。|其《その》|代《かは》りに|洗濯《せんだく》や|針仕事《はりしごと》は|十分《じふぶん》|致《いた》しまして、|御神徳《ごしんとく》が|授《さづ》かつたら|宣伝《せんでん》も|致《いた》します』
『あゝ|仕方《しかた》がありませぬ。それならお|二人共《ふたりとも》、|一所《いつしよ》に|参《まゐ》りませう。|併《しか》し|乍《なが》ら|紅井姫《くれなゐひめ》|様《さま》、|貴女《あなた》は|楓別命《かへでわけのみこと》|様《さま》のお|許《ゆる》しを|受《う》けなくてはなりますまい。お|許《ゆる》しさへあれば、|何時《いつ》でもお|伴《とも》を|致《いた》しませう』
|紅井姫《くれなゐひめ》は、『ハイ|有難《ありがた》う|御座《ござ》います』と|機嫌顔《きげんがほ》。
|是《これ》より|国依別《くによりわけ》は|楓別命《かえでわけのみこと》に|暇《いとま》を|告《つ》げ、|二人《ふたり》の|女《をんな》を|伴《ともな》ひ、|神館《かむやかた》を|後《あと》に|日暮《ひぐら》シ|山《やま》の|岩窟《がんくつ》に|向《むか》ひ、エス、キジ、マチの|三人《さんにん》の|生命《いのち》を|救《すく》ふべく|夜《よ》の|明《あ》けぬ|中《うち》より|準備《したく》|為《な》し、|日暮《ひぐら》シ|山《やま》|指《さ》して|男女《だんぢよ》|三人《さんにん》|進《すす》み|行《ゆ》く。
(大正一一・八・一八 旧六・二六 松村真澄録)
第二篇 |紅裙隊《こうくんたい》
第七章 |妻《つま》の|選挙《せんきよ》〔八七三〕
ヒルの|館《やかた》にゆくりなく |現《あら》はれ|来《きた》りて|諸人《もろびと》を
|救《すく》ひ|助《たす》けし|国依別《くによりわけ》は |楓別《かへでのわけの》の|懇篤《こんとく》なる
|特別《とくべつ》|待遇《たいぐう》に|思《おも》はずも あらぬ|月日《つきひ》を|送《おく》りつつ
|醜《しこ》の|魔風《まかぜ》に|襲《おそ》はれて |紅井姫《くれなゐひめ》の|執拗《しつえう》なる
|恋《こひ》の|情《なさけ》の|手《て》に|囚《とら》へられ |進退《しんたい》ここに|谷《きは》まりて
|苦《くるし》み|悶《もだ》ゆる|折柄《をりから》に アラシカ|山《やま》の|麓《ふもと》なる
エリナの|尋《たづ》ね|来《きた》りしゆ ヤツサモツサの|騒動《さうだう》も
|漸《やうや》く|幕《まく》を|切上《きりあ》げて |紅井姫《くれなゐひめ》やエリナをば
|教《をしへ》の|道《みち》の|弟子《でし》となし |館《やかた》の|主《あるじ》に|慇懃《いんぎん》に
|暇《いとま》を|告《つ》げて|宣伝歌《せんでんか》 |歌《うた》ひて|此処《ここ》を|立出《たちい》づる
|一男二女《いちなんにぢよ》の|一行《いつかう》は ヒルの|都《みやこ》の|人々《ひとびと》に
|行手《ゆくて》を|塞《ふさ》がれ|一々《いちいち》に |病《や》めるを|癒《い》やし|助《たす》けつつ
|知《し》らず|知《し》らずに|日《ひ》を|重《かさ》ね ヒルの|都《みやこ》を|後《あと》にして
アラシカ|峠《たうげ》の|山麓《さんろく》に |心《こころ》|欣々《いそいそ》|着《つ》きにける。
『サア|姫様《ひめさま》、あなたは|始《はじ》めての|御旅行《ごりよかう》と|云《い》ひ、|是《これ》から|先《さき》は|大変《たいへん》な|急坂《きふはん》で|御座《ござ》いますから、ボツボツとお|登《のぼ》り|下《くだ》さいませ。|国依別《くによりわけ》もお|附合《つきあひ》にゆるゆる|登《のぼ》りませう。|男《をとこ》の|足《あし》が|先《さき》へ|行《ゆ》くと、|知《し》らず|知《し》らずに|早《はや》くなるものですから、ここは|最《もつと》も|足《あし》の|弱《よわ》い|貴女《あなた》が|先《さき》へお|登《のぼ》り|下《くだ》さいませ』
『|足弱《あしよわ》を|御連《おつ》れ|下《くだ》さいまして、さぞ|御迷惑《ごめいわく》で|御座《ござ》いませう。あなたの|御言葉《おことば》に|甘《あま》え、|駄々《だだ》を|捏《こ》ねる|女《をんな》と|御《お》さげすみで|御座《ござ》いませうが、|私《わたし》も|斯《こ》うなつた|以上《いじやう》は、|決《けつ》して|妙《めう》な|考《かんが》へは|起《おこ》しませぬから、|御安心《ごあんしん》|下《くだ》さいませ』
『|此《この》|坂《さか》をズツと|登《のぼ》りつめると、|樟《くす》の|大木《たいぼく》の|森《もり》があつて、そこには|常世神王《とこよしんわう》の|古《ふる》ぼけた|祠《ほこら》が|建《た》つてゐます。どうかそこ|迄《まで》|登《のぼ》つて|休息《きうそく》をする|事《こと》に|致《いた》しませう』
エリナは|言葉《ことば》やさしく、
『|姫様《ひめさま》、|随分《ずいぶん》|険《けは》しい|坂道《さかみち》で|御座《ござ》いますが、|私《わたし》は|何時《いつ》もここを|通《とほ》り|慣《な》れて|居《を》りますから、|左程《さほど》|苦痛《くつう》には|存《ぞん》じませぬ。|坂《さか》でさぞ|御困《おこま》りでせう。|後《あと》からお|腰《こし》を|押《お》してあげますから、|後《うしろ》へもたれる|様《やう》にして|御登《おのぼ》りなされませ』
『ハイ、|御親切《ごしんせつ》に|有難《ありがた》う|御座《ござ》います。|今《いま》の|処《ところ》ではどうなり|登《のぼ》れ|相《さう》に|御座《ござ》いますから、|到底《たうてい》|叶《かな》はない|様《やう》になりましたら、どうぞ|御世話《おせわ》をお|願《ねが》ひ|申《まを》します』
エリナは|気軽相《きがるさう》に、
『ハイ、|何時《いつ》でも|押《お》して|上《あ》げます。キツと|御心配《ごしんぱい》なさいますなや』
と|路々《みちみち》いたはり|乍《なが》ら|登《のぼ》り|行《ゆ》く。
|話《はなし》|変《かは》つて、|常世神王《とこよしんわう》の|祠《ほこら》の|建《た》つた|樟《くす》の|大木《たいぼく》の|根《ね》に、ヒソヒソ|話《ばなし》に|耽《ふけ》つてゐる|二人《ふたり》の|男《をとこ》あり。
『オイ、モリス、|馬鹿《ばか》にしよつたぢやないか。|今《いま》となればお|前《まへ》も|俺《おれ》も、|同病《どうびやう》|相憐《あひあは》れむ|連中《れんちう》だから、|別《べつ》に|内訌《ないこう》の|起《おこ》る|筈《はず》もなし、|暗中飛躍《あんちうひやく》を|試《こころ》みる|必要《ひつえう》もなくなつたのだから、どうかして|無念《むねん》|晴《ば》らしに、|二人《ふたり》の|奴《やつ》を|此方《こつち》の|者《もの》にしてやらうぢやないか。アタ|阿呆《あほ》らしい、|国依別《くによりわけ》の|奴《やつ》が|来《き》よつた|計《ばか》りで、|俺達《おれたち》|二人《ふたり》は|免《めん》の|字《じ》を|頂戴《ちやうだい》し、|今《いま》は|殆《ほとん》ど|野良犬《のらいぬ》の|境遇《きやうぐう》だ。|犬《いぬ》も|歩《ある》けば|棒《ぼう》に|当《あた》るといふ|事《こと》がある。|一《ひと》つ|雪隠《せつちん》の|火事《くわじ》ぢやないが|焼糞《やけくそ》で、ウラル|教《けう》の|本山《ほんざん》へでも、|甘《うま》く|這入《はい》り|込《こ》み|使《つか》つて|貰《もら》はふぢやないか』
『さうだ、|貴様《きさま》も|恋《こひ》の|仇敵《かたき》の|国依別《くによりわけ》に|肝腎《かんじん》の|目的物《もくてきぶつ》をぼつたくられ、|国依別《くによりわけ》の|奴《やつ》、|二人《ふたり》の|女《をんな》を|両手《りやうて》に|花《はな》と|云《い》ふやうな|調子《てうし》で、|大《おほ》きな|面《つら》をして|連《つ》れ|出《いだ》しよつた|時《とき》のムカついた|事《こと》、|是《これ》が|何《ど》うして|睾丸《きんたま》をさげとる|男子《だんし》として、|看過《かんくわ》する|事《こと》が|出来《でき》ようかい。|彼奴等《きやつら》|三人《さんにん》は|道々《みちみち》|宣伝《せんでん》し|乍《なが》らやつて|来《く》るのだから、|何《いづ》れ|暇《ひま》が|要《い》るに|違《ちがひ》ない。|併《しか》し|此処《ここ》へやつて|来《き》よつた|位《くらゐ》なら、|此《この》|谷底《たにそこ》へ|国依別《くによりわけ》を|矢庭《やには》につき|落《おと》し、|二人《ふたり》の|女《をんな》を|自由自在《じいうじざい》に|此《この》|方《はう》の|要求《えうきう》に|応《おう》じさせ、|天下《てんか》の|色男《いろをとこ》は|此《この》|通《とほ》りだと|云《い》つて、あンな|絶世《ぜつせい》のナイスやシヤンと|手《て》を|引《ひ》いて、|天下《てんか》の|大道《だいだう》を|濶歩《くわつぽ》したら、どうだ。さうなりとせなくては、|腹《なか》の|虫《むし》が|得心《とくしん》せぬぢやないか。|併《しか》し|後《あと》の|喧嘩《けんくわ》を|先《さき》にせいと|云《い》ふ|事《こと》がある、|甘《うま》く|目的《もくてき》を|達《たつ》した|上《うへ》で、|自分《じぶん》の|女房《にようばう》に|選定《せんてい》する|段《だん》になつてから、|選挙《せんきよ》|競争《きやうそう》でも|起《おこ》ると|大変《たいへん》だから、|今《いま》の|中《うち》に|予選《よせん》でもやつて|置《お》かうぢやないか』
『|予選《よせん》なンか|俺《おれ》は【ヨセン】わい、|俺《おれ》は|紅井姫《くれなゐひめ》を|女房《にようばう》にする|特権《とくけん》が|先天的《せんてんてき》に|具備《ぐび》してるのだ。|貴様《きさま》はエリナを|女房《にようばう》にすれば|良《い》いよ。|彼奴《あいつ》だつて|満更《まんざら》|捨《す》てたものぢやないからなア。チツとばかし|日《ひ》に|焼《や》けとると|云《い》ふが、|欠点《けつてん》|位《くらゐ》なものだ。|中々《なかなか》スタイルには|甲乙《かふおつ》はないからのう、モリス』
『そんならお|前《まへ》がエリナのレコになつたら|良《い》いぢやないか。|俺《おれ》はどこ|迄《まで》も|初心《しよしん》を|貫徹《くわんてつ》せなくてはならないのだ。|紅井姫《くれなゐひめ》を|女房《にようばう》にせうと|思《おも》つて、どれ|丈《だけ》|今迄《いままで》|骨《ほね》を|折《を》つたか|知《し》れやしない。|永《なが》らくの|苦心《くしん》を|水泡《すゐほう》に|帰《かへ》するのは、|男子《だんし》として|忍《しの》ぶ|可《べか》らざる|恥辱《ちじよく》だからなア、|秋公《あきこう》』
『|俺《おれ》だつて|貴様《きさま》|以上《いじやう》に|骨《ほね》を|折《お》つたのだよ。そんなお|添物《そへもの》のエリナを|鼻塞《はなふさ》ぎか|何《な》ンぞの|様《やう》に|差向《さしむ》けられてたまるものかい。|貴様《きさま》のスタイルにエリナの|方《はう》が|能《よ》く|合《あ》つてゐるワ。|烏《からす》の|夫《をつと》に|孔雀《くじやく》の|女房《にようばう》とは、チツと|無理《むり》だよ。|孔雀《くじやく》は|孔雀《くじやく》|同志《どうし》|夫婦《ふうふ》になり、|烏《からす》は|烏《からす》|同志《どうし》|夫婦《ふうふ》になれば、それこそ|家庭円満《かていゑんまん》|福徳成就《ふくとくじやうじゆ》|疑《うたが》ひなしだ。|孔雀《くじやく》の|俺《おれ》は|孔雀《くじやく》の|女房《にようばう》を|持《も》つて、|孔雀《くじやく》(|不惜《ふじやく》)|身命的《しんめいてき》|神界《しんかい》の|為《ため》|活動《くわつどう》をするなり、お|前《まへ》はモリスだから、|森《もり》に|巣《す》を|作《つく》るのは|烏《からす》にきまつてゐる。|烏《からす》の|女房《にようばう》を|持《も》つて、オイオイ カカア|嬶村屋《かかむらや》、|腰《こし》もめ|肩《かた》|打《う》て、カアカアと|気楽相《きらくさう》に|簡易《かんい》|生活《せいくわつ》をやるのも|一寸《ちよつと》|乙《おつ》だぜ。
|楽《たのし》さは|夕顔棚《ゆふがほだな》の|下涼《したすず》み
とか|云《い》つて、|平民《へいみん》|生活《せいくわつ》が|最《もつと》も|理想的《りさうてき》だ。|提灯《ちやうちん》に|釣鐘《つりがね》、|釣合《つりあ》はぬやうな|女房《にようばう》を|持《も》つたつて、|苦《くる》しい|計《ばつか》りだよ。|第一《だいいち》|教育《けういく》の|程度《ていど》と|云《い》ひ、|智識《ちしき》と|云《い》ひ、|家柄《いへがら》と|云《い》ひ、|雲泥《うんでい》の|懸隔《けんかく》ある|女房《にようばう》を|持《も》たうとするのが|第一《だいいち》|謬《あやま》つた|了見《れうけん》だ。さうでなくても、|男女《だんぢよ》|同権《どうけん》だとか、|女権《ぢよけん》|拡張《くわくちやう》だとか、|新《あたら》しい|女《をんな》の|騒《さわ》ぐ|世《よ》の|中《なか》だから、|釣合《つりあ》うた|女《をんな》を|持《も》つが|貴様《きさま》の|将来《しやうらい》の|為《ため》だよ。|俺《おれ》は|親密《しんみつ》な|友人《いうじん》として、|貴様《きさま》の|将来《しやうらい》の|為《ため》に、|熱涙《ねつるい》を|呑《の》むで|忠告《ちうこく》するのだよ、モリ|公《こう》』
『ヘン、|甘《うま》い|事《こと》|仰有《おつしや》りますワイ。|其《その》|手《て》は|桑名《くはな》の|焼蛤《やきはまぐり》だ。|蛤《はまぐり》からでも|蜃気楼《しんきろう》が|立上《たちあが》りますよ。お|前《まへ》こそ|蜃気楼的《しんきろうてき》|空想《くうさう》を|画《えが》いて、あンな|高尚《かうしやう》な|御姫《おひめ》さまを|自分《じぶん》の|女房《にようばう》にせうなンて、|余《あま》り|懸隔《けんかく》が|取《と》れなさ|過《す》ぎるぢやないか。チツとお|前《まへ》のサツクと|相談《さうだん》して|見《み》い』
『コリヤ|俺《おれ》を|何《なん》と|心得《こころえ》てゐる。|俺《おれ》は|秋山別《あきやまわけ》と|云《い》つて|天孫《てんそん》|人種《じんしゆ》だぞ。|貴様《きさま》は|土人《どじん》ぢやないか。チツと|身分《みぶん》を|考《かんが》へて|見《み》い』
『|人種《じんしゆ》|無差別論《むさべつろん》の|高潮《かうてう》した|今日《こんにち》、|時代《じだい》|遅《おく》れな|事《こと》を|言《い》ふない。そンなことで、|世界《せかい》|同胞《どうはう》|主義《しゆぎ》が|何時迄《いつまで》も|成就《じやうじゆ》すると|思《おも》ふか。|是《これ》だけ|社会《しやくわい》は|人種《じんしゆ》|無差別論《むさべつろん》の|盛《さかん》なのを|貴様《きさま》は|知《し》らぬのか。どこ|迄《まで》も|昔《むかし》の|家閥《かばつ》を|振《ふ》りまはし、|貴族面《きぞくづら》をしやがつて|威張《ゐば》つたつて、|昔《むかし》なら|通用《つうよう》するか|知《し》らぬが、|文明開化《ぶんめいかいくわ》の|今日《こんにち》は、そンな|古《ふる》い|頭《あたま》は|買手《かひて》がないぞ。|文化《ぶんくわ》|生活《せいくわつ》と|云《い》ふ|事《こと》を|貴様《きさま》は|何《なん》と|心得《こころえ》とるかい、|秋公《あきこう》』
『ヘン、|文化《ぶんくわ》|生活《せいくわつ》が|聞《き》いて|呆《あき》れるワイ。|今《いま》の|奴《やつ》の|吐《ぬか》す|文化《ぶんくわ》|生活《せいくわつ》と|云《い》ふのは、|人《ひと》の|女房《にようばう》と|手《て》を|取《と》り、キツスをして|妙《めう》なダンスをやつたり、|仕舞《しまひ》の|果《はて》にや|役者《やくしや》の|部屋《へや》へ|女房《にようばう》がへたり|込《こ》ンだり、お|転婆《てんば》|主義《しゆぎ》を|発揮《はつき》したり、|爺《おやぢ》はおやぢで|良《よ》い|気《き》になり、うちの|女王《ぢよわう》さまは|余程《よほど》|新《あたら》しいと|云《い》つて|喜《よろこ》ンでる|風俗《ふうぞく》|壊乱《くわいらん》|生活《せいくわつ》を|云《い》ふのだらう。そンな|事《こと》で|如何《どう》して|社会《しやくわい》の|秩序《ちつじよ》が|保《たも》たれるか。モリス、|貴様《きさま》の|思想《しさう》は|余程《よほど》|怪《あや》しいものだなア』
『そんなこたア、|如何《どう》でもよいワ。サアサア、|女房《にようばう》の|選挙《せんきよ》だ。|早《はや》くやらうぢやないか。|貴重《きちよう》な|一票《いつぺう》を|何卒《なにとぞ》|入《い》れて|下《くだ》さいと|云《い》つて、|戸別《こべつ》|訪問《はうもん》をする|訳《わけ》にも|行《ゆ》かず、|被選挙人《ひせんきよにん》が|二人《ふたり》|選挙人《せんきよにん》が|二人《ふたり》だから、|自由《じいう》|選挙《せんきよ》にしたらどうだ』
『そンなら|俺《おれ》は|紅井姫《くれなゐひめ》を|秋山別《あきやまわけ》の|妻《つま》に|選挙《せんきよ》する』
『|俺《おれ》は|紅井姫《くれなゐひめ》をモリスの|奥《おく》さまに|選挙《せんきよ》する、|又《また》|俺《おれ》の|副守護神《ふくしゆごじん》も|同様《どうやう》、モリスの|妻《つま》に|紅井姫《くれなゐひめ》を|選挙《せんきよ》する、モウ|一票《いつぺう》は|本守護神《ほんしゆごじん》も|同様《どうやう》だ。サア|三票《さんぺう》と|一票《いつぺう》だ。お|気《き》の|毒《どく》|乍《なが》ら、|当選《たうせん》の|栄《えい》を|得《え》まして|有難《ありがた》う|御座《ござ》います。あなたは|運動《うんどう》が|足《た》らないから、とうとう|次点者《じてんしや》になりましたねい。どうで|秋山別《あきやまわけ》だから、|先方《せんぱう》が【アキ】が|来《き》ました、イ【ヤマ】ア、【|別《わか》】れて|下《くだ》さい|秋山別《あきやまわけ》さま……なンとか|云《い》つて、|秋波《しうは》を|送《おく》つて|紅井姫《くれなゐひめ》だ。アハヽヽヽ』
|秋山別《あきやまわけ》は|腹《はら》を|立《た》て『ナアニ』と|言《い》ひ|乍《なが》ら、モリスの|横《よこ》つ|面《つら》を|鬼《おに》の|蕨《わらび》をふり|上《あ》げて、|首《くび》も|飛《と》べよと|計《ばか》り|擲《なぐ》りつくれば、モリスは、
『ナアに|喧嘩《けんくわ》か、|喧嘩《けんくわ》なら|俺《おれ》も|負《まけ》はせぬぞ』
と|鉄拳《てつけん》をふつて|飛《と》びかかり、|遂《つひ》には|組《く》ンづ|組《く》まれつ、|一生懸命《いつしやうけんめい》|格闘《かくとう》を|始《はじ》め、|夕暮《ゆふぐれ》れの|帳《とばり》のさがる|迄《まで》|力一杯《ちからいつぱい》|血《ち》みどろになつて|掴《つか》み|合《あ》ひ|居《ゐ》る。その|所《ところ》へ|悠々《いういう》として|一男二女《いちなんにぢよ》は|登《のぼ》り|来《き》たり、
『アヽ、|此処《ここ》が|印象《いんしやう》の|深《ふか》い|常世神王《とこよしんわう》の|祀《まつ》られた|楠《くす》の|森《もり》の|祠《ほこら》だ。|大分《だいぶ》に|皆《みな》さま|足《あし》も|疲労《くたびれ》たでせう。|一《ひと》つ|立寄《たちよ》つて|休息《きうそく》せうぢやありませぬか。|都合《つがふ》に|依《よ》れば、|此《この》|森《もり》で|一夜《いちや》を|明《あ》かし、|新《あたら》しい|日輪様《にちりんさま》の|光《ひか》りを|浴《あ》びて|日暮《ひぐら》シ|山《やま》に|立向《たちむか》ふことに|致《いた》しませうよ』
と|言《い》ひ|乍《なが》ら|国依別《くによりわけ》は|先《さき》に|立《た》つて、|森蔭《もりかげ》に|進《すす》む。|二人《ふたり》の|女《をんな》も、|同《おな》じく|森蔭《もりかげ》に|静《しづ》かに|身《み》を|横《よこた》へて、|疲労《くたびれ》た|足《あし》をさすつてゐる。|何《なん》だか|暗《くら》がりでシツカリとは|分《わか》らぬが、|二《ふた》つの|黒《くろ》い|影《かげ》が『フーフー』と|息《いき》を|喘《はず》ませ、|上《うへ》になり|下《した》になり|転《ころ》げて|居《ゐ》る。|国依別《くによりわけ》は、
『ハテ|不思議《ふしぎ》な|者《もの》が|居《ゐ》るワイ。|山犬《やまいぬ》の|子《こ》でも【ざれ】よつて|居《を》るのではあるまいか』
と|足音《あしおと》を|忍《しの》ばせ、|側近《そばちか》く|寄《よ》つて|暗《やみ》にすかし|見《み》れば、どうやら|二人《ふたり》の|男《をとこ》が|喧嘩《けんくわ》をして|居《ゐ》るらしい。|国依別《くによりわけ》は……|此奴《こいつ》|一《ひと》つおどかして、|此《この》|喧嘩《けんくわ》を|止《や》めさしてやらう……と|心《こころ》の|中《なか》でうち|諾《うな》づき、|俄《にはか》に|作《つく》り|声《ごゑ》、|落雷《らくらい》の|様《やう》な|大声《おほごゑ》で、
『|此《この》|方《はう》は、|常世神王《とこよしんわう》の|祠《ほこら》に|守護《しゆご》|致《いた》す|大天狗《だいてんぐ》であるぞよ! |汝《なんぢ》|不届《ふとど》き|千万《せんばん》にも|此《この》|霊場《れいぢやう》に|来《きた》り、|喧嘩《けんくわ》を|致《いた》すとは|怪《け》しからぬ|奴《やつ》……|待《ま》て、|今《いま》|此《この》|大天狗《だいてんぐ》が|其方等《そのはうら》|二人共《ふたりとも》、|股《また》から|引裂《ひきさ》いて、|楠木《くすのき》の|枝《えだ》にかけ、|烏《からす》にこつかしてやらうぞ!』
と|呶《ど》なりつくれば、|二人《ふたり》は|思《おも》はぬ|天狗《てんぐ》と|聞《き》いてパツと|左右《さいう》に|離《はな》れ、|大地《だいち》に|傷《きず》だらけの|手《て》を|仕《つか》へ、|血《ち》だらけの|顔《かほ》を|俯《うつ》むけ|乍《なが》ら、
『ハイ、|私《わたくし》は|秋山別《あきやまわけ》と|申《まを》す|者《もの》で|御座《ござ》いますが、|一方《いつぱう》の|男《をとこ》はモリスと|申《まを》す|悪戯者《いたづらもの》で|御座《ござ》います。|女房《にようばう》の|選挙《せんきよ》に|付《つ》きまして、|激烈《げきれつ》なる|運動《うんどう》を|開始《かいし》|致《いた》しまして、|遂《つひ》には|血《ち》を|見《み》る|所《ところ》まで|参《まゐ》りました。|今後《こんご》は|心得《こころえ》ますから、どうぞ|股《また》から|引裂《ひきさ》くの|丈《だけ》は|御勘弁《ごかんべん》を|願《ねが》ひます』
『|大天狗様《だいてんぐさま》、どうか、|秋山別《あきやまわけ》を|能《よ》く|御戒《おいまし》め|下《くだ》さいまして、|紅井姫《くれなゐひめ》を|思《おも》ひ|切《き》り、|此《この》モリスの|女房《にようばう》に|首尾《しゆび》よく|渡《わた》します|様《やう》にして|下《くだ》さいませ、これが|一生《いつしやう》の|御願《おねがひ》で|御座《ござ》います。それが|叶《かな》はぬ|様《やう》な|事《こと》なれば|仮令《たとへ》|引裂《ひきさ》かれても|構《かま》ひませぬ。|此《この》|世《よ》に|生《いき》てる|甲斐《かひ》が|御座《ござ》いませぬ。|秋山別《あきやまわけ》にはエリナを|女房《にようばう》にしてやつて|下《くだ》さいますれば、|三《み》つ|口《ぐち》に|新粉《しんこ》、|四《よ》つ|口《ぐち》に|羊羹《やうかん》で、|本当《ほんたう》に|都合《つがふ》の|良《よ》い|縁《えん》で|御座《ござ》います』
『どうぞ、|私《わたくし》に|紅井姫《くれなゐひめ》を|御授《おさづ》け|下《くだ》さいませ。モリスはエリナで|結構《けつこう》で|御座《ござ》います。さうして|下《くだ》さいますれば、|天下《てんか》は|太平《たいへい》、|無事《ぶじ》|長久《ちやうきう》|疑《うたがひ》なしで|御座《ござ》います』
|国依別《くによりわけ》は|可笑《をか》しさを|怺《こら》へて、
『|其《その》|方《はう》の|申《まを》す|紅井姫《くれなゐひめ》、エリナの|両人《りやうにん》はどこに|居《を》るか』
|秋山別《あきやまわけ》は|声《こゑ》を|震《ふる》はせ|乍《なが》ら、
『ハイ、|三五教《あななひけう》の|馬鹿《ばか》|宣伝使《せんでんし》の|女殺《をんなごろ》しの|後家倒《ごけだを》し、|家破《いへやぶ》りの|国依別《くによりわけ》と|云《い》ふ、それはそれは|酢《す》でも|蒟蒻《こんにやく》でもいかぬ|悪《わる》い|奴《やつ》で|御座《ござ》いますが、|其奴《そいつ》が|二人《ふたり》の|女《をんな》を、アタ|慾《よく》どしい、ひつさらへて、ヒルの|都《みやこ》の|神館《かむやかた》を|出立《しゆつたつ》いたし、|天下《てんか》の|色男《いろをとこ》はこンなものだい、|両手《りやうて》に|花《はな》とは|此《この》|事《こと》だ、|二人《ににん》の|妻《つま》に|手《て》を|引《ひ》かれ|黄金《こがね》の|橋《はし》を|渡《わた》るとは、|俺《おれ》の|事《こと》だと|言《い》はぬ|計《ばか》りに、そこらうろつき|乍《なが》ら、やがてここへ|登《のぼ》つて|来《く》るでせう。どうぞ|天狗《てんぐ》さま、|国依別《くによりわけ》をグツとさらへて|楠《くすのき》の|上《うへ》へ|連《つ》れて|上《あが》り、|股《また》から|引裂《ひきさ》いてやつて|下《くだ》されませ、これが|一生《いつしやう》の|御願《おねが》ひで|御座《ござ》います』
『|其《その》|紅井姫《くれなゐひめ》と|云《い》ふのは、|其《その》|方《はう》に|対《たい》して|恋慕《れんぼ》の|心《こころ》を|持《も》つて|居《ゐ》る|女《をんな》であるか』
『ハイ、|何分《なにぶん》おボコ|娘《むすめ》の|事《こと》とて、ハツキリとは|申《まを》しませぬが、|大抵《たいてい》|意思《いし》を|忖度《そんたく》する|事《こと》は|出来《でき》ます。キツと|私《わたくし》に|恋着《れんちやく》して|居《ゐ》るに|相違《さうゐ》ありませぬ、|一寸《ちよつと》|触《さわ》つてもピンとはねたり、|三番叟《さんばさう》の|様《やう》に、あゝイヤイヤイヤと|肱《ひぢ》を|振《ふ》りますが、|私《わたくし》も|若《わか》い|時《とき》に|覚《おぼ》えが|御座《ござ》います。|好《すき》な|人《ひと》に|袖《そで》でも|引《ひ》つぱられると、|恥《はづ》かしくなつて、|一旦《いつたん》は|厭《いや》|相《さう》に|見《み》せて|撥《はね》まはし、|後《あと》からあゝあンな|事《こと》をせなかつたら|良《よ》かつたに……と|惜《をし》がつたことも|御座《ござ》いますれば、|秋山別《あきやまわけ》には|十分《じふぶん》に|脈《みやく》は|御座《ござ》います』
『モシ|天狗様《てんぐさま》、|秋山別《あきやまわけ》の|言《い》ふ|事《こと》は、アリヤ|違《ちが》ひます。|自分《じぶん》|一人《ひとり》きめてゐるので|御座《ござ》いますから|堪《たま》りませぬワ。|鮑《あはび》の|貝《かひ》の|片思《かたおも》ひ、|長持《ながもち》の|蓋《ふた》で|此方《こちら》があいても|向方《むかふ》が|根《ね》つからあきませぬワイ。|併《しか》しエリナなれば、どうにか|斯《こ》うにか、|天狗様《てんぐさま》が|御紹介《ごせうかい》|下《くだ》さいましたなれば、|女房《にようばう》に|厭々《いやいや》なるでせう。どうぞ|神聖《しんせい》な|一票《いつぺう》を、|天狗様《てんぐさま》、|此《この》モリスにお|与《あた》へ|下《くだ》さいませ』
『さうして|国依別《くによりわけ》を|亡《な》き|者《もの》に|致《いた》して|呉《く》れいと|申《まを》すのか』
『ハイ、|天則《てんそく》|違反《ゐはん》の|男《をとこ》で|御座《ござ》います。|鶏《にはとり》か|何《なに》かの|様《やう》に|三羽番《さんばつが》ひで|天下《てんか》をうろつきますると、|第一《だいいち》|神様《かみさま》の|教《をしへ》の|名《な》を|汚《けが》します。|教《をしへ》の|為《ため》にも、|秩序《ちつじよ》|維持《ゐぢ》の|上《うへ》にも、|最《もつと》も|必要《ひつえう》な|事《こと》だとモリスは|信《しん》じます』
『それなら、|此《この》|天狗《てんぐ》が|許《ゆる》して|遣《つか》はすによつて、|早《はや》く|此《この》|坂《さか》を|下《くだ》つて|行《ゆ》け。|一足《ひとあし》でも|先《さき》に|掴《つか》まへた|者《もの》の|女房《にようばう》にしてやらう。|大天狗《だいてんぐ》が|是《これ》から|守護《しゆご》を|致《いた》して、|掴《つか》まへた|者《もの》の|女房《にようばう》に|喜《よろこ》びてなるやうに|守《まも》つてやらうぞ。|今《いま》|三人連《さんにんづ》れにて|此《この》|坂《さか》の|三合目《さんがふめ》あたり|迄《まで》|登《のぼ》つて|来《き》て|居《ゐ》る|程《ほど》に、サア|早《はや》く|行《ゆ》け、|早《はや》い|者《もの》|勝《が》ちだ。マラソン|競争《きやうそう》を|致《いた》して|決勝点《けつしようてん》を|取《と》つた|者《もの》に|紅井姫《くれなゐひめ》を【くれない】|事《こと》ないくれてやる。|次点者《じてんしや》にはエリナ|姫《ひめ》を|与《あた》へてやる、|一《いち》|二《に》|三《さん》、ソラ|行《ゆ》け……』
『ハイ|有難《ありがた》う』
と|二人《ふたり》は|真暗《まつくら》がりの|中《なか》を、|石《いし》ころをころがした|様《やう》にガラガラと|音《おと》をさせて|坂道《さかみち》を|韋駄天《ゐだてん》|走《ばし》りに|降《くだ》り|行《ゆ》く。
『アハヽヽヽ|何《なん》と|面白《おもしろ》い|余興《よきよう》を、|神様《かみさま》から|見《み》せて|頂《いただ》いたものだ。……モシ|御二人《おふたり》さま、どうでしたなア』
|紅井姫《くれなゐひめ》はおづおづし|乍《なが》ら、
『ハイどうも|恐《おそ》ろしうて、|胸騒《むなさわ》ぎが|致《いた》しましたワ。マアマア|天狗様《てんぐさま》が|現《あら》はれて、|甘《うま》く|追《お》ひ|帰《かへ》して|下《くだ》さいまして、こんな|有難《ありがた》い|事《こと》は|御座《ござ》いませぬ、|国依別《くによりわけ》さま、あなたはどうおなりやしたかと|思《おも》うて|心配《しんぱい》でしたワ。どうも|御座《ござ》りませぬでしたか』
『ホヽヽヽヽ、|姫様《ひめさま》、アリヤ|天狗《てんぐ》ぢや|御座《ござ》いませぬよ。|国依別《くによりわけ》さまがあンな|声《こゑ》をお|使《つか》ひになつて、|甘《うま》く|二人《ふたり》をまかれたのですよ。|私《わたくし》は|余《あま》り|可笑《おか》しうて|臍《へそ》がお|茶《ちや》を|沸《わ》かしかけましたワ』
|紅井姫《くれなゐひめ》|不思議相《ふしぎさう》な|声《こゑ》で、
『あゝさう、して|又《また》エリナさま、お|腹《なか》に|土瓶《どびん》でも|乗《の》せてゐらしたの……』
『アハヽヽヽ、|流石《さすが》はヤツパリ|深窓《しんそう》に|育《そだ》つたお|姫《ひめ》さまだワイ。|紅井姫《くれなゐひめ》|様《さま》、|皆《みな》うそですよ、|余《あま》り|可笑《おか》しいから、|一《ひと》つ|大天狗《だいてんぐ》の|声色《こわいろ》を|使《つか》つておどし、まいてやつたのですよ、アハヽヽヽ』
『どうもあなたはお|人《ひと》が|悪《わる》いですな。そんな|嘘《うそ》を|言《い》つても|神様《かみさま》の|御咎《おとが》めは|御座《ござ》いませぬか』
『|人《ひと》は|見《み》かけによらぬ|者《もの》、|今迄《いままで》|正直《しやうぢき》な|国依別《くによりわけ》と|思《おも》つてゐられた|貴女《あなた》は、さぞお|驚《おどろ》きになつたでせう。|酢《す》でも|蒟蒻《こんにやく》でも、|挺《てこ》でも|棒《ぼう》でも|喰《く》へぬ、スレツカラシの|国依別《くによりわけ》ですからなア、アハヽヽヽ』
『あなた、|蒟蒻《こんにやく》やお|酢《す》、デコ|芋《いも》、|棒芋《ぼういも》などは|御嫌《おきら》ひで|御座《ござ》いますか。|私《わたし》は|蒟蒻《こんにやく》にお|芋《いも》は|大《だい》の|好物《かうぶつ》で|御座《ござ》います』
『アハヽヽヽ、どこまでも|可愛《かあい》らしい|御姫《おひめ》さまだなア』
『ホヽヽヽヽ、お|優《やさ》しいお|方《かた》、|私《わたし》も|姫《ひめ》さまの|様《やう》な|産《うぶ》な|心《こころ》になつて|見《み》とう|御座《ござ》いますワ』
『もしも|二人《ふたり》の|奴《やつ》が|後戻《あともど》りをして|来《く》ると、|又《また》|天狗《てんぐ》が|一骨《ひとほね》|折《を》らねばならぬし、うるさいですから、ここを|立去《たちさ》つて、モ|少《すこ》し|往《い》つた|所《ところ》で、|適当《てきたう》な|場所《ばしよ》を|考《かんが》へて|休息《きうそく》することに|致《いた》しませう。エリナさま、|姫様《ひめさま》に|気《き》をつけて、|足許《あしもと》の|辷《すべ》らない|様《やう》に|手《て》を|曳《ひ》いて|上《あ》げて|下《くだ》さいナ』
『サアお|姫《ひめ》さま|参《まゐ》りませう』
と|三人《さんにん》は|雲《くも》の|綻《ほころ》びより、|所々《ところどころ》に|星《ほし》の|見《み》えてゐる|暗《やみ》の|空《そら》をスタスタと|頂上《ちやうじやう》|目《め》がけて|登《のぼ》り|行《ゆ》く。|流石《さすが》の|高山《かうざん》、|夜嵐《よあらし》ザワザワとあたりの|木《き》の|枝《えだ》をゆすり、|何《なん》とはなしに、そこら|中《ぢう》が|物凄《ものすご》く|感《かん》じられける。
(大正一一・八・一八 旧六・二六 松村真澄録)
(昭和九・一二・一七 王仁校正)
第八章 |人獣《にんじう》〔八七四〕
|国依別《くによりわけ》の|宣伝使《せんでんし》は |紅裙隊《こうくんたい》を|引率《いんそつ》し
ヒルの|城下《じやうか》を|立出《たちい》でて |数多《あまた》の|人《ひと》の|病《いたづき》を
|鎮魂《ちんこん》|言霊《ことたま》の|神術《かむわざ》に |救《すく》ひ|助《たす》けつ|漸《やうや》くに
ヒルの|城下《じやうか》を|後《あと》にして アラシカ|峠《たうげ》に|差《さし》かかり
|足並《あしなみ》|弱《よわ》き|紅井姫《くれなゐひめ》 エリナの|二人《ふたり》を|伴《ともな》ひつ
|黄昏時《たそがれどき》に|鬱蒼《うつさう》と |樟《くす》の|大木《おほき》の|茂《しげ》りたる
|神王《しんわう》の|森《もり》に|立寄《たちよ》りて |夜露《よつゆ》を|凌《しの》ぎ|一夜《ひとよ》さを
|明《あ》かさむものと|三人《さんにん》が |樟《くす》の|根元《ねもと》に|腰《こし》をかけ
|息《いき》を|休《やす》むる|折柄《をりから》に |暗《やみ》の|中《なか》よりフウフウと
|怪《あや》しの|声《こゑ》は|響《ひび》き|来《く》る |暗《やみ》の|帳《とばり》は|深《ふか》くして
|確《たしか》にそれと|分《わか》らなく |山犬《やまいぬ》どもの【ざれ】|合《あ》ひか
|但《ただし》は|獅子《しし》の【いが】み|合《あ》ひ |何《なに》か|知《し》らねど|近《ちか》よりて
|調《しら》べて|見《み》むと|星影《ほしかげ》に すかして|見《み》れば|此《こ》は|如何《いか》に
|思《おも》ひも|寄《よ》らぬ|荒男《あらをとこ》 |揉《も》みつもまれつ|搦《から》み|合《あ》ひ
|命《いのち》カラガラ|挑《いど》み|合《あ》ふ |国依別《くによりわけ》は|諾《うな》づいて
|吾《わ》れは|御山《おやま》の|大天狗《だいてんぐ》 |神王《しんわう》の|森《もり》の|守護神《しゆごじん》ぞ
|不届《ふとどき》き|至極《しごく》な|聖場《せいぢやう》に |来《きた》りて|喧嘩《けんくわ》をなぜ|致《いた》す
|何《いづ》れの|奴《やつ》か|知《し》らね|共《ども》 |首筋《くびすぢ》つかむで|樟《くす》の|枝《え》に
|股《また》|引裂《ひきさ》いてかけてやろ |覚悟《かくご》|致《いた》せと|呼《よ》ばはれば
|二人《ふたり》の|男《をとこ》は|驚《おどろ》いて パツと|二《ふた》つに|立別《たちわか》れ
|両手《りやうて》を|土《つち》につき|乍《なが》ら ヒルの|館《やかた》に|仕《つか》へたる
|秋山別《あきやまわけ》と|申《まを》す|者《もの》 |私《わたし》はモリスと|申《まを》します
|女房《にようばう》の|選挙《せんきよ》につきまして |競走《きやうそう》|次第《しだい》に|激烈《げきれつ》と
なつた|揚句《あげく》が|此《この》|通《とほ》り |誠《まこと》に|済《す》まぬ|事《こと》でした
|是《こ》れ|是《こ》れモウシ|天狗《てんぐ》さま |紅井姫《くれなゐひめ》を|私《わたくし》の
|女房《にようばう》に|与《あた》へて|下《くだ》さンせ モリスの|女房《にようばう》にやエリナ|姫《ひめ》
これを|与《あた》へて|下《くだ》さらば |天下《てんか》は|忽《たちま》ち|太平《たいへい》に
|家庭《かてい》の|円満《ゑんまん》|目《ま》のあたり |何卒《どうぞ》|宜《よろ》しう|願《ねが》ひます
|語《かた》ればモリスは|首《くび》をふり イエイエもうし|天狗《てんぐ》さま
こンな|男《をとこ》に|紅井姫《くれなゐひめ》の やうな|美人《びじん》は|惚《ほれ》ませぬ
どうぞ|私《わたし》に|下《くだ》さンせ |彼《かれ》にはエリナで|十分《じふぶん》だ
|宜《よろ》しく|御《お》さばき|頼《たの》みますと |一心不乱《いつしんふらん》に|手《て》を|合《あは》せ
|頼《たの》み|入《い》るこそ|可笑《おか》しけれ |吹《ふ》き|出《だ》す|計《ばか》りの|可笑《おか》しさを
ヂツと|怺《こら》へて|国依別《くによりわけ》は |又《また》もや|天狗《てんぐ》の|作《つく》り|声《ごゑ》
アラシカ|峠《たうげ》を|登《のぼ》り|来《く》る |二人《ふたり》の|女《をんな》を|競走《きやうそう》して
|勝《か》つた|者《もの》には|呉《く》れてやらう |決勝点《けつしようてん》に|先着《せんちやく》の
|勇士《ゆうし》に|紅井姫《くれなゐひめ》をやる |敗《ま》けた|奴《やつ》にはエリナ|姫《ひめ》
|与《あた》へてやるから|辛抱《しんぼ》せよ |国依別《くによりわけ》の|神司《かむづかさ》は
|俺《おれ》が|守護《しゆご》して|望《のぞ》みの|通《とほ》り |谷《たに》の|底《そこ》へと|放《ほ》つてやらう
|一《ひ》|二《ふ》|三《みつ》つ|早行《はやゆ》けと |其《その》|掛声《かけごゑ》に|両人《りやうにん》は
|先《さき》を|争《あらそ》ひバラバラと こけつ|転《まろ》びつ|降《くだ》り|行《ゆ》く
|後《あと》に|国依別《くによりわけ》は|高笑《たかわら》ひ アハヽヽヽアハヽヽヽ
エリナ|紅井《くれなゐ》お|姫《ひめ》さま |今宵《こよひ》は|実《じつ》に|面白《おもしろ》い
|余興《よきよう》を|見《み》せて|貰《もら》つたと |笑《わら》へば|姫《ひめ》は|驚《おどろ》いて
|妾《わたし》は|胸《むね》がドキドキと |怖《こわ》い|思《おも》ひをしましたよ
あなた|如何《どう》して|御座《ござ》つたか |本当《ほんたう》に|怖《こわ》い|天狗《てんぐ》さま
|先《ま》づ|先《ま》づ|無事《ぶじ》で|目出《めで》たいと |未通娘《おぼこむすめ》の|愛《あい》らしさ
|国依別《くによりわけ》は|両人《りやうにん》を |伴《ともな》ひ|此処《ここ》を|立出《たちい》でて
アラシカ|山《やま》の|山頂《さんちやう》に |漸《やうや》く|登《のぼ》り|傍《かたはら》の
|森林《しんりん》さして|忍《しの》び|入《い》り ここに|一夜《いちや》を|明《あ》かしつつ
|旭《あさひ》の|光《ひかり》を|浴《あ》び|乍《なが》ら アラシカ|峠《たうげ》の|急坂《きふはん》を
|西南《せいなん》|指《さ》して|降《くだ》り|行《ゆ》く あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ。
|国依別《くによりわけ》は|漸《やうや》くにして|日《ひ》の|暮《く》るる|頃《ころ》、|二人《ふたり》の|足《あし》|弱《よわ》き|女《をんな》を|労《いた》はり|乍《なが》ら、|日暮《ひぐら》シ|河《がは》の|丸木橋《まるきばし》の|畔《ほとり》|迄《まで》|辿《たど》り|着《つ》いた。|大地震《おほぢしん》の|為《ため》に|橋《はし》はスツカリ|墜落《つゐらく》して|了《しま》ひ、|日暮《ひぐら》シ|河《がは》は|滔々《とうとう》として|濁水《だくすい》が|流《なが》れて|居《ゐ》る。|止《や》むを|得《え》ず、|橋《はし》の|袂《たもと》の|萱草《かやぐさ》の|中《なか》に|三人《さんにん》は|一夜《いちや》を|明《あ》かす|事《こと》となり、|安々《やすやす》|夢路《ゆめぢ》を|辿《たど》り|居《ゐ》る。
|夜中頃《よなかごろ》と|覚《おぼ》しき|頃《ころ》、|二人《ふたり》の|女《をんな》はふと|目《め》をさまし、ガサガサとそよぐ|萱《かや》の|葉音《はおと》に|戦《をのの》き、|目《め》を|据《す》ゑて|窺《うかが》ひ|見《み》れば、|二人《ふたり》の|荒男《あらをとこ》あたりをウロウロ|迂路《うろ》つき|乍《なが》ら、
『オイ、モリス、あの|天狗《てんぐ》、とうとう|俺等《おれら》を|馬鹿《ばか》にしよつたぢやないか。あの|時《とき》に|天狗《てんぐ》に|魅《つま》まれさへしなかつたら、|今頃《いまごろ》には|甘《うま》く|追《お》ひついて、|此方《こつち》の|者《もの》にして|居《ゐ》る|所《ところ》だつたのに、なア|本当《ほんたう》に|馬鹿《ばか》を|見《み》たぢやないか』
『それでもあの|時《とき》に|天狗《てんぐ》が|現《あら》はれなかつたならば、|俺《おれ》かお|前《まへ》か、どちらか|命《いのち》がなくなつてゐるのだぞ。マアおかげで|二人共《ふたりとも》|命《いのち》|丈《だけ》は|助《たす》かり、|安全《あんぜん》に|此処迄《ここまで》|捜索《そうさく》に|来《こ》られたのだが、こう|暗《くら》くなつては|最早《もはや》|進《すす》む|事《こと》も|出来《でき》ないワ。|大方《おほかた》|国依別《くによりわけ》|外《ほか》|二人《ふたり》の|女《をんな》は、|余《あま》り|遠《とほ》くは|行《い》つて|居《を》ろまい。|日暮《ひぐら》シ|山《やま》の|岩窟《がんくつ》へは、|何程《なにほど》コンパスに|撚《より》をかけても、|足弱《あしよわ》の|二人《ふたり》の|女《をんな》が|従《つ》いてをるのだから、|到底《たうてい》|到着《たうちやく》して|居《ゐ》る|気遣《きづかひ》はないワ。やがて|一時《ひととき》|計《ばか》りしたら|月《つき》が|出《で》るから、|一足《ひとあし》でも|先《さき》へ|進《すす》まうぢやないか。キツと|此《この》|川堤《かはづつみ》を|行《ゆ》きよつたに|違《ちが》ひないぞ』
『さうだらうかなア。|併《しか》し|足《あし》を|痛《いた》めて、|此《この》|辺《へん》にすつこみて|居《ゐ》やせまいかな。|何《なん》だか|人《ひと》|臭《くさ》いやうな|気《き》がするぢやないかい、モリ|公《こう》』
『そりやお|前《まへ》の|神経《しんけい》|作用《さよう》だよ。|決《けつ》してこンな|所《ところ》に|居《を》るものかい』
『アノ|国依別《くによりわけ》と|云《い》ふ|奴《やつ》、どこ|迄《まで》も|癪《しやく》に|障《さは》る|代物《しろもの》だから、|何《なん》とかこらしめてやりたいと|思《おも》うのだが、|直《すぐ》に|鎮魂《ちんこん》とか、|言霊《ことたま》とか|云《いひ》よつて、|非常《ひじやう》な|力《ちから》を|出《だ》しよるから、|一通《ひととほ》りでは|駄目《だめ》だぞ。|今度《こんど》は|甘《うま》く|尾《を》をふつて|降参《かうさん》の|体《てい》を|装《よそほ》ひ、|誠《まこと》にすまぬ|事《こと》を|致《いた》しました。|今後《こんご》はスツパリ|改心《かいしん》|致《いた》しまして|姫様《ひめさま》|始《はじ》め|皆《みな》さまにお|詫《わび》に|出《で》ましたと、|下《した》から|低《ひく》う|出《で》て|油断《ゆだん》をさせ、|小股《こまた》を|掬《すく》うて、ドサンと|引《ひつ》くりかへし、|其《その》|上《うへ》から|土足《どそく》でギユツ ギユツとふみチヤクリ、|腸《はらわた》を|破《やぶ》つて|了《しま》うのだ。|其《その》|後《あと》は|此方《こつち》の|者《もの》だ。|何《なん》と|秋山別《あきやまわけ》は|妙案《めうあん》を|出《だ》すだらう』
『|妙案々々《めうあんめうあん》キツとウラル|教《けう》から、|軍師《ぐんし》として|招聘《せうへい》しに|来《く》るだらうよ。|併《しか》し|乍《なが》ら|此処《ここ》で|一《ひと》つ|選挙《せんきよ》のしなをしをやらないと、|又《また》しても|紛擾《ふんぜう》の|種《たね》を|蒔《ま》く|様《やう》な|事《こと》では|互《たがひ》の|不利益《ふりえき》だからなア』
『モウ、モリス、|選挙《せんきよ》は|止《や》めにせうかい。|成功《せいこう》せない|中《うち》から|定《き》めておいた|所《ところ》が|仕方《しかた》がないぢやないか。それより|願望《ぐわんもう》|成就《じやうじゆ》の|上《うへ》、ヂヤンケン|坊《ぼう》なつと、|籤引《くぢびき》なつと、|或《あるひ》は|御神籤《おみくぢ》なつと、どんな|方法《はうはふ》でもあるから、|其《その》|上《うへ》の|事《こと》にせうかい。|今《いま》きまつて|了《しま》ふと、|当選者《たうせんしや》の|方《はう》は|活動《くわつどう》する|楽《たのし》みがあるが、|負《まけ》た|方《はう》は|張合《はりあひ》が|無《な》うて|命《いのち》がけの|活動《くわつどう》は|出来《でき》ぬからのウ』
|紅井姫《くれなゐひめ》は|二人《ふたり》の|話《はなし》を|聞《き》いて|慄《ふる》ひ|上《あが》り、エリナの|体《からだ》に|喰《くら》ひついて|息《いき》をこらし|居《ゐ》る。
エリナは|俄《にはか》に|作《つく》り|声《ごゑ》をし|乍《なが》ら、|萱《かや》の|繁《しげ》みに|身《み》を|隠《かく》し、
『ホツホヽヽヽ』
と|力《ちから》のない|厭《いや》らしい|声《こゑ》で|笑《わら》ひ|出《だ》した。|紅井姫《くれなゐひめ》はビツクリして、
『モシモシ|姉《ね》えさま、|勘忍《かんにん》して|下《くだ》さいな』
と|泣《な》き|声《ごゑ》になる。
『|姫《ひめ》さま、|御心配《ごしんぱい》なさいますなや。エリナが|一寸《ちよつと》|化者《ばけもの》の|真似《まね》して、|彼奴等《あいつら》|二人《ふたり》を|追《お》ひちらしてやるのですから』
『それでも、あなた、そンな|声《こゑ》をお|出《だ》しになると、|妾《わたし》|怖《こわ》うて|堪《たま》りませぬワ。|貴女《あなた》が|化者《ばけもの》の|様《やう》に|思《おも》はれてなりませぬもの』
『|心配《しんぱい》しなさるな。|怖《こわ》いこたありませぬよ。|向方《むかう》を|怖《こわ》がらしてやりさへすれば|良《よ》いのです。これからエリナは、チツと|厭《いや》らしい|事《こと》を|云《い》ひますから|其《その》|積《つも》りで|居《ゐ》て|下《くだ》さい。キツと|怖《こわ》い|事《こと》はありませぬからなア』
『それでもこンな|怖《こわ》い|野原《のはら》に|寝《ね》てゐますのに、まだそンな|声《こゑ》を|聞《き》かされては、|髪《かみ》の|毛《け》が|縮《ちぢ》むやうな|気《き》がして、|怖《こわ》くて|堪《たま》りませぬワ』
『それ|程《ほど》|怖《こわ》ければ、エリナも|止《や》めておきませうかなア』
『どうぞ|御頼《おたの》みですから、|厭《いや》らしい|声《こゑ》は|出《だ》さぬやうにして|下《くだ》さい』
と|慄《ふる》うてゐる。|秋山別《あきやまわけ》は|小声《こごゑ》になつて、
『オイ、モリス、|何《なん》だか|妙《めう》な|声《こゑ》がしたぢやないか。|気分《きぶん》の|悪《わる》い|晩《ばん》だなア。こンな|所《ところ》に|鶯《うぐひす》の|鳴《な》く|筈《はず》もなし、ホヽヽヽほンまに|俺《おれ》は|気分《きぶん》がカブラカブラして、|足《あし》が|大根々々《だいこんだいこん》したよ。どうやら|肝《きも》つ|玉《たま》が|洋行《やうかう》しさうだ、|本当《ほんたう》に|気味《きみ》の|悪《わる》い|夜《よ》さだなア』
『ナアニ|心配《しんぱい》すな、アリヤ|鳩《はと》の|爺《ぢ》イだよ。|野鳩《のばと》がこの|辺《へん》に|寝《ね》てゐるのだが、|年《とし》がよつて|歯《は》が|抜《ぬ》けたと|見《み》え、あンな|声《こゑ》を|出《だ》しよるのだよ』
|国依別《くによりわけ》は|最前《さいぜん》から|目《め》をさまし、|双方《さうはう》の|様子《やうす》を|聞《き》きゐたり。
『ハテ|面白《おもしろ》い、|此奴《こいつ》|一《ひと》つおどかして、|帰《い》なしてやらねば、|未通《おぼこ》|育《そだ》ちの|姫《ひめ》さまが、|又《また》|怖《こわ》がつて|仕方《しかた》がない』
と|小声《こごゑ》に|囁《ささや》き|乍《なが》ら、|芒《すすき》の|株《かぶ》を|力一杯《ちからいつぱい》、ガサガサガサと|揺《ゆす》つて|見《み》せた。|秋山別《あきやまわけ》は|肝《きも》をつぶしドスンと|腰《こし》を|下《おろ》し、
『ギヤハヽヽ、|抜《ぬ》けた|抜《ぬ》けたア、|一寸《ちよつと》|来《き》て|呉《く》れやい』
『|何《なに》が|抜《ぬ》けたのだ』
『|腰《こし》だ|腰《こし》だ、どうしても|歩《ある》けないワ。|何《なん》だか|怪体《けたい》な|者《もの》が|居《ゐ》よるぢやないか。|昨夕《ゆうべ》の|天狗《てんぐ》なら|一寸《ちよつと》も|怖《こわ》い|事《こと》ないが、あンな|厭《いや》らしい|声《こゑ》を|出《だ》しよると|厭《いや》らしくて|仕方《しかた》がないワ、モリ|公《こう》、お|前《まへ》も|怖《こわ》からふ』
モリスは|何《なん》となく|心《こころ》|淋《さび》しくなり|来《き》たり、|併《しか》し|無理《むり》に|空元気《からげんき》をつけて、|震《ふる》ひ|声《ごゑ》を|出《だ》し、
『オイ、アヽヽ|秋山別《あきやまわけ》、ナヽヽ|何《なに》がそれ|程《ほど》|怖《こわ》いのだ。|天下無双《てんかむさう》のヒーロー|豪傑《がうけつ》、ヂヤンヂヤヘールのモリスさまが、ゴヽ|御座《ござ》るぞよ。バヽ|化者《ばけもの》|位《くらゐ》、|仮令《たとへ》|千匹《せんびき》や|万匹《まんびき》|出《で》て|来《き》た|所《ところ》で、チツとも|怖《こわ》くない|事《こと》はないワイ、チヽヽチツとしつかりせぬかい』
『ギヤツハヽヽヽ、ギユフヽヽヽ、ギヨツホヽヽヽ』
と|国依別《くによりわけ》の|怪声《くわいせい》。
『モリス、それ|又《また》|出《で》よつたぞ。|益々《ますます》|怪体《けたい》な|声《こゑ》を|出《だ》すぢやないか』
『さうだ、ギヤフアハヽヽなンて|人《ひと》をギヤフンとさす|化者《ばけもの》の|計略《けいりやく》だらう……ヤイ|化者《ばけもの》、ギヨホヽヽヽて|何《なん》ぢやい、|其《その》|位《くらゐ》な|事《こと》で|此《この》|方《はう》はギヨツとはせぬぞよ。ギユフヽヽヽなンてそら|何《なん》ぢや。ギユーと|云《い》はさうと|思《おも》つたつて、そンな|事《こと》がこたへる|様《やう》な|俺《おれ》と|思《おも》ふか。バヽ|馬鹿《ばか》らしい。|今日《けふ》は|日《ひ》が|悪《わる》いから、|又《また》|明日《あす》に|出直《でなほ》せよ』
|紅井姫《くれなゐひめ》|小声《こごゑ》で、
『なア|姉《ね》えさま、どうしましよう。あンな|事《こと》|姉《ねえ》さまが|仰有《おつしや》るものだから、|本《ほん》まの……|本《ほん》まものが|出《で》たぢやありませぬか、|妾《わたし》|怖《こわ》いわ』
エリナ|小声《こごゑ》で、
『|姫《ひめ》さま、|心配《しんぱい》なさいますな。ありや|国依別《くによりわけ》さまがあんな|事《こと》を|言《い》つてるのですよ。|化者《ばけもの》でも|何《なん》でもありませぬから』
『|姉《ねえ》さま、どうぞ|御頼《おたの》みですから、|国依別《くによりわけ》さまに、あンな|事《こと》|言《い》はないやうに|止《と》めて|下《くだ》さいなア』
『マア|良《よ》いぢやありませぬか。|妾《わたし》が|斯《か》うしつかりと|抱《かか》へて|上《あ》げますから、さう|震《ふる》はずに、|気《き》をしつかりなさいませ』
|国依別《くによりわけ》|萱《かや》をガサガサと|揺《ゆす》り|乍《なが》ら、|怪《あや》しい|作《つく》り|声《ごゑ》をして、
『ホーホーホホホー、アホ アホ アホ アホ アホ、【ア】ヽヽホヽヽ【キ】ヽヽホヽヽ【ヤ】ホヽヽ【マ】ホヽヽ【ワ】ホヽヽ【ケ】ホヽヽホホホイケキヨ、【モ】ーホ、【リ】ーホ、【ス】ーホ、ホホホーホーケキヨ、ケツキヨ ケツキヨ ケツキヨ、ニヤーン、モウ モウ、ワン ワン ウー、ヒン ヒン ヒン』
『オイ、モリス、いよいよ|怪《け》しからぬ|事《こと》になつて|来《き》たぞ。|鳥《とり》だと|思《おも》へば|猫《ねこ》の|声《こゑ》を|出《だ》しよる、|猫《ねこ》かと|思《おも》へば|牛《うし》|犬《いぬ》|狼《おほかみ》|虎《とら》に|馬《うま》、オイどうぞ|頼《たの》みだ、|俺《おれ》を|負《お》うて|逃《に》げてくれぬかい。|腰《こし》が|立《た》たぬワイ……』
『オヽヽ|俺《おれ》だつて、|腰《こし》が|怪《あや》しくなつて|来《き》たワイ。|足《あし》だつて|細《こま》かう|動《うご》き|出《だ》すなり、お|前《まへ》|所《どころ》か、|俺《おれ》の|身《み》が|持《も》てぬのだイ』
『なんぼ|利己《りこ》|主義《しゆぎ》が|発達《はつたつ》した|世《よ》の|中《なか》だとて、チツとは|秋山別《あきやまわけ》にも|同情《どうじやう》して|呉《く》れたら|如何《どう》だ』
『|俺《おれ》だつてシンパシーの|涙《なみだ》に|暮《く》れては|居《ゐ》るが、|斯《か》うなつては|如何《いかん》ともする|事《こと》が|出来《でき》ないぢやないか。|心臓寺《しんぞうでら》の|和尚《おしやう》|奴《め》が|無茶苦茶《むちやくちや》に|早鐘《はやがね》をつきよつて、|何所《なにどこ》ぢやないワイ。|俺《おれ》やモウ|人《ひと》の|事《こと》|所《どころ》ぢやない、|四這《よつばい》になつて|逃《に》げ|出《だ》すワイ』
とワナワナする|足《あし》を、|犬《いぬ》の|様《やう》に|四這《よつばい》となり、ガサガサと|元来《もとき》し|道《みち》へ|這《は》ひ|出《だ》した。|秋山別《あきやまわけ》も|余《あま》りの|怖《こわ》さに、|腰《こし》の|痛《いた》いのを|打《う》ち|忘《わす》れ、|無理無体《むりむたい》にモリスの|後《あと》に|従《つ》いて、|無暗矢鱈《むやみやたら》に|這《は》ひ|出《だ》し|逃《に》げ|出《だ》す。
『アハヽヽヽ、オイ|秋山別《あきやまわけ》、モリスの|両人《りやうにん》さま、アラシカ|峠《たうげ》の|大天狗《だいてんぐ》|又《また》の|御名《みな》は|国依別命《くによりわけのみこと》、|紅井姫《くれなゐひめ》|様《さま》のお|伴《とも》をしてエリナさまと|三人《さんにん》、|此処《ここ》に|休息《きうそく》して|居《ゐ》るから、チツと|来《き》たら|如何《どう》だ。よい|取持《とりもち》をしてやらうかなア』
|両人《りやうにん》は|益々《ますます》|驚《おどろ》き、
『ヤアバヽ|化者《ばけもの》|奴《め》、|国依別《くによりわけ》の|声色《こわいろ》を|使《つか》ひよつた。コラ|大変《たいへん》だ』
と|無性矢鱈《むしやうやたら》にガサ ガサ ガサ ガサと|四這《よつばい》になつて、|力《ちから》|限《かぎ》りに|逃《に》げ|出《だ》して|行《ゆ》く。
(大正一一・八・一八 旧六・二六 松村真澄録)
(昭和九・一二・一七 王仁校正)
第九章 |誤神託《ごしんたく》〔八七五〕
|秋山別《あきやまわけ》、モリスの|両人《りやうにん》は、|日暮《ひぐら》シ|河《がは》の|南岸《なんがん》の|萱野原《かやのはら》に|休息《きうそく》する|折《をり》|忽《たちま》ち|暗《くら》がりより|怪《あや》しき|声《こゑ》の|聞《きこ》え|来《きた》りしに|怖気《おぢけ》|付《づ》き、|四這《よつばい》となつて|其処《そこ》を|逃《に》げ|出《だ》し、|二三丁《にさんちやう》|計《ばか》り|引返《ひつかや》[#ママ]し、やうやうここに|胸《むね》を|撫《な》でおろし、それより|再《ふたた》びアラシカ|山《やま》を|駆登《かけのぼ》り、|神王《しんわう》の|森《もり》に|到着《たうちやく》し、|神勅《しんちよく》を|受《うけ》て、|紅井姫《くれなゐひめ》の|行方《ゆくへ》を|伺《うかが》ふ|事《こと》となしぬ。|秋山別《あきやまわけ》は、|神主《かむぬし》となり、モリスは|審神者《さには》となつて、|翌日《あくるひ》の|真夜中頃《まよなかごろ》に|神占《しんせん》を|奉伺《ほうし》する|事《こと》とはなりぬ。
|古《ふる》ぼけた|祠《ほこら》の|床《ゆか》の|上《うへ》に|三四尺《さんししやく》|間隔《かんかく》を|置《お》いて、|神主《かむぬし》、|審神者《さには》は|向《むか》ひ|合《あ》ひ、モリスは|双手《もろで》を|組《く》み、|不整調《ふせいてう》な|音調《おんてう》もて|天《あま》の|数歌《かずうた》を|歌《うた》ひ|上《あ》ぐる。
『|人《ひと》、|二人《ふたり》、|見《み》つけて、|四《よ》るでも|昼《ひる》でも、|五《い》ちやつきまはし、|六《む》りやりに|押《お》さへつけて、|七《な》んでもかでも|八《や》り|倒《たふ》し、|九《こ》ころに|思《おも》ふ|丈《だけ》|十《と》く|心《しん》する|迄《まで》、|百千万遍《ひやくせんまんべん》でも、|思惑《おもわく》を|立《た》てさせ|玉《たま》はねば、|常世神王《とこよしんわう》の|森《もり》は|離《はな》れませぬぞや』
『コラ、モリス、|何《なに》を|吐《ぬか》すのだ。そんな|事《こと》で|霊《れい》がかかるかい。|馬鹿《ばか》らしくつて、きばつて|居《を》れぬぢやないかい。モ|一遍《いつぺん》やり|直《なほ》せ』
『|専売特許《せんばいとくきよ》の|新規《しんき》|発明《はつめい》だ。|特許《とくきよ》|意匠《いしやう》|登録《とうろく》の|手続《てつづ》き|中《ちう》だから、マア|黙《だま》つて|聞《き》いて|居《を》らう。|何《なん》でも|新《あたら》しい|事《こと》が|流行《りうかう》する|時節《じせつ》だから、|開闢《かいびやく》の|初《はじめ》から|襲用《しふよう》して|来《き》た|一《ひと》|二《ふた》|三《み》|四《よ》……も|余《あま》り|苔《こけ》が|生《は》えて|面白《おもしろ》くないからなア。|神様《かみさま》も|今迄《いままで》の|数歌《かずうた》はモウ|聞《き》き|飽《あ》いてゐらつしやるから、チツと|珍《めづ》らしい|事《こと》を|申《まを》し|上《あ》げて、|此方《こちら》を|向《む》かすと|云《い》ふ|俺《おれ》の|一厘《いちりん》の|秘密《ひみつ》だ』
『お|前《まへ》|神主《かむぬし》になれ、|秋山別《あきやまわけ》が|審神者《さには》をしてやらう。お|前《まへ》の|審神者《さには》では|根《ね》つから|気乗《きの》りがせぬワイ。|審神者《さには》さへよければ、どンな|立派《りつぱ》な|神《かみ》でも|憑《うつ》り|玉《たま》ふのだからなア。|併《しか》し|何《なん》ぼモリスだつて、モリ|住居《すまゐ》の|烏《からす》の|神懸《かむがか》りは|御免《ごめん》だから、|臍下丹田《さいかたんでん》に|心《こころ》を|納《をさ》めて、|無我《むが》の|境遇《きやうぐう》に|入《い》らねば|駄目《だめ》だよ。|先《ま》づ|第一《だいいち》に|一切《いつさい》の|夢想《むさう》を|除去《ぢよきよ》する|事《こと》。|身体《しんたい》|衣服《いふく》を|清潔《せいけつ》にする|事《こと》。|併《しか》し|旅行中《りよかうちう》だから|衣服《いふく》を|清潔《せいけつ》にする|事《こと》|丈《だけ》は|免除《めんぢよ》しておかう。|山《やま》の|上《うへ》で|水行《すいぎやう》する|所《ところ》がないから、|身体《しんたい》の|清潔《せいけつ》も|已《や》むを|得《え》ずとして、|是《これ》も|免除《めんぢよ》する。|次《つぎ》に|感覚《かんかく》を|蕩尽《たうじん》し、|意念《いねん》を|断滅《だんめつ》する|事《こと》、|大死《たいし》|一番《いちばん》の|境《きやう》に|入《い》る|事《こと》。|姿勢《しせい》を|正《ただ》しうして|瞑目静座《めいもくせいざ》する|事《こと》。|次《つぎ》に|審神者《さには》が|何《なに》を|尋《たづ》ねるか……|何《なん》ぞと|云《い》ふ|様《やう》な|疑惑《ぎわく》を|持《も》たぬ|事《こと》。|取越苦労《とりこしくらう》を|致《いた》さぬ|事《こと》。|過越《すぎこし》|苦労《くらう》を|致《いた》さぬ|事《こと》。|刹那心《せつなしん》を|楽《たのし》むこと。それから|最《もつと》も|大切《たいせつ》な|心得《こころえ》は、|紅井姫《くれなゐひめ》に|対《たい》して|少《すこ》しも|執着《しふちやく》のなき|事《こと》。これ|丈《だけ》の|心得《こころえ》がなければ、|正《ただ》しい|神《かみ》が|憑《うつ》つて|来《き》て、|正《ただ》しい|判断《はんだん》を|与《あた》へてくれぬから、|其《その》|積《つ》もりで|心身《しんしん》を|澄清《ちようせい》にし、|感触《かんしよく》の|為《ため》に|乱《みだ》れざる|事《こと》を|慎《つつし》むべし……マアこンなものだ』
『|大変《たいへん》に|六《む》つかしい|事《こと》を|言《い》うのだね。モツと|平《ひら》たく|云《い》うて|呉《く》れないか』
『|俺《おれ》だつて|平《ひら》たく|言《い》ふこた|出来《でき》ぬワイ。|現在《げんざい》どンな|意味《いみ》だと|云《い》ふ|事《こと》は、|俺《おれ》も|分《わか》らぬのだからな。|楓別命《かえでわけのみこと》さまが|何時《いつ》も|仰有《おつしや》る|事《こと》を|無意識《むいしき》に|腹《はら》へ|詰《つ》め|込《こ》みた|丈《だけ》だ。|併《しか》し|分《わか》らぬのが|有難《ありがた》いのだよ。お|経《きやう》だつてさうぢやないか。|唱《とな》へてる|坊主《ぼうづ》でさへもテンデ|何《なん》の|事《こと》か|分《わか》らず、|聞《き》いてる|連中《れんぢう》にも|分《わか》らぬとこに|有難味《ありがたみ》があるのだからのウ。
|分《わか》つて|見《み》ての|後《のち》の|心《こころ》に|比《くら》ぶれば、|分《わか》らぬ|昔《むかし》ぞ|有難《ありがた》かりけり
と|云《い》ふ|様《やう》なものだな。サア|早《はや》く|瞑目《めいもく》|静座《せいざ》せぬかい』
『サア、どンなエライ|神《かみ》さまが、お|憑《うつ》りになるか|知《し》れぬぞ。ビツクリするなよ』
『|何《なん》だ|其《その》スタイルは、|無茶苦茶《むちやくちや》に|肱《ひぢ》を|張《は》りよつて、|馬鹿《ばか》に|威張《ゐば》つとるぢやないか。|丸《まる》で|鉛《なまり》の|天神《てんじん》さま|見《み》たいに、|見《み》つともないぞ。モウちつと|肩《かた》を|下《さげ》て、|品《ひん》のよい|地蔵肩《ぢざうかた》にせぬかい』
モリスは|無性矢鱈《むしやうやたら》に|手《て》を|振《ふ》り、|首《くび》を|揺《ゆす》り、|口《くち》をパクパクさせ|乍《なが》ら、|歯糞《はくそ》だらけの|不整律《ふせいりつ》な|田螺《たにし》の|様《やう》な|歯《は》を|剥《む》き|出《だ》し、
『ウーウーウー』
ドスンドスンドスンと|床《ゆか》をふるはせ|乍《なが》ら|飛《と》びあがり|出《だ》した。|秋山別《あきやまわけ》は、|随分《ずいぶん》|烈《はげ》しい|神懸《かむがか》りだナアと|小声《こごゑ》に|言《い》ひ|乍《なが》ら、ポンポンと|二拍手《にはくしゆ》し、|恭《うやうや》しく|頭《かしら》を|下《さ》げ、
『|何《いづ》れの|神様《かみさま》で|御座《ござ》いますか? |何卒《なにとぞ》|御名《みな》を|告《つ》げさせ|玉《たま》へ。|及《およ》ばず|乍《なが》ら|秋山別《あきやまわけ》、|審神者《さには》を|仕《つかまつ》りまする』
『【ア】ハー アハー アハー、【|阿《あ》】|呆《はう》らしいワイ。【ア】キもせぬ|恋路《こひぢ》に【あ】くせくと|致《いた》して、そこら【あ】たりを|歩《【あ】る》き|廻《まは》り、|憐《【あ】は》れな|面《つら》を|致《いた》して、|姫《ひめ》に【|会《あ》】ひたい【|会《あ》】ひたいと|憧憬《【あ】こがれ》|歩《【あ】る》く、|安本丹《【あ】んぽんたん》、|悪人《【あ】くにん》の|癖《くせ》に|女《をんな》に|対《たい》しては、|随分《ずいぶん》|涙《なみだ》|脆《もろ》い|奴《やつ》ぢやのう。|此《この》|方《はう》は|神王《しんわう》の|森《もり》に、|年古《としふる》く|守護《しゆご》|致《いた》す|悪魔大王《【あ】くまだいわう》と|申《まを》す|大天狗《だいてんぐ》であるぞよ』
『アヽヽ|余《【あ】ま》りぢや|御座《ござ》いませぬか。【ア】タ|悪性《あくしやう》な|人《ひと》の|欠点《【あ】ら》|計《ばか》り|並《なら》べ|立《た》てて、【あ】られもない|事《こと》を|仰有《おつしや》ります。|余《【あ】んま》りのこつて、|秋山別《【あ】きやまわけ》も|呆《【あ】き》れてものが|言《い》はれませぬワイ、【ア】フンとして【|開《あ》】いた|口《くち》が|早速《さつそく》には|塞《ふさ》がりませぬ。|悪魔大王様《【あ】くまだいわうさま》、モウちつと|色《いろ》よい|御託宣《ごたくせん》をして|下《くだ》さつたら|如何《どう》です』
『【イ】ヒヽヽヽ|色《【い】ろ》よい|返事《へんじ》をせいと|申《まを》すが、|此《この》|大天狗《だいてんぐ》は|男《をとこ》であるぞよ。|其《その》|方《はう》の|色《【い】ろ》よい|返事《へんじ》がして|欲《ほ》しいのは、|紅井姫《くれなゐひめ》の|口《くち》からであらう。【い】ろいろと|工夫《くふう》を|致《いた》し、|手《て》を|廻《まは》し、|足《あし》を|働《はたら》かせ、|幾年《【い】くねん》|掛《かか》つても|意思《【い】し》|互《たがひ》に|疏通《そつう》するまで|行《ゆ》くのだ、さうすれば|色《【い】ろ》よい|返事《へんじ》が|来《く》るかも|知《し》れぬぞよ。【い】らつでないぞよ。|勢《【い】きほひ》に|任《まか》して|早《はや》く|盛物《もりもの》に|手《て》をかけようと|致《【い】た》すと、サツパリ【|可《い》】かぬぞよ。|何事《なにごと》もイヽ|因縁《【い】んねん》づくぢや。|力一杯《ちか【い】つぱい》|意茶《【い】ちや》つく|様《やう》になるのは、|一二年《【い】ちにねん》|先《さき》かも|知《し》れぬぞよ。|一日《【い】ちにち》も|早《はや》く|添《そ》ひたくば、【イ】モリの|黒焼《くろやき》を|拵《こしら》へてふりかけたが、|一番《【い】ちばん》|著《【い】ちじる》しい|偉効《【ゐ】かう》があるぞよ。【|要《い》】らぬことに|何時《【い】つ》までも|心配《しんぱい》を|致《いた》すでないぞよ。【い】けすかない|面《つら》をして、|余《あま》り|威張《【ゐ】ば》るものだから、|厭《【い】や》がられて|了《しま》ふのだ。|俺《おれ》の|意見《【い】けん》に|異議《【い】ぎ》があれば、どこ|迄《まで》でも|尋《たづ》ねたがよいぞよ。|委細《【ゐ】さい》の|様子《やうす》を|一伍一什《【い】ちぶしじふ》、|説《と》き|諭《さと》してやるぞよ』
『【イ】ヽヽ|意茶《【い】ちや》つかさずに、モツと|一《【い】つ》さくにとつとと【|言《い》】つて|下《くだ》さいませ。|心《こころ》が、【い】らいらして、|意思《【い】し》が|固《かた》まりませぬ。|石《【い】し》よりも|固《かた》い|私《わたくし》の|決心《けつしん》、【い】つかないつかな、|何時《【い】つ》になつても|動《うご》く|様《やう》なチヨロ|臭《くさ》い|恋《こひ》では|御座《ござ》いませぬ。|意地《【い】ぢ》づくでも|目的《もくてき》を|立《た》てねば|置《お》かぬので|御座《ござ》いますが、|一体《【い】つたい》|此《この》|恋《こひ》は|何時《【い】つ》になつたら|成就《じやうじゆ》するもので|御座《ござ》いませうかな。|一年《【い】ちねん》も|二年《にねん》も|待《ま》てと|仰有《おつしや》つても、|到底《たうてい》さう|永《なが》くは|待《ま》てませぬワ』
『【ウ】フヽヽヽ【う】るさがられて、|肱鉄《ひぢてつ》を|乱射《らんしや》され|乍《なが》ら、まだ|目《め》が|醒《さ》めぬか。【う】ろたへ|者奴《め》、|紅井姫《くれなゐひめ》もお|前《まへ》の|迂濶《【う】くわつ》な|智慧《ちゑ》には【ウ】ンザリしてゐるぞよ。|何程《なにほど》|其《その》|方《はう》が|秋波《しうは》を|送《おく》つても、【|膿《う》】んだ|鼻《はな》が|潰《つぶ》れたとも、|言《い》つて|来《く》る|気遣《きづか》ひはあるまい。【う】ぶの|心《こころ》になつて|神《かみ》の|誠《まこと》の|教《をしへ》を|悟《さと》り、|普《あまね》く|人《ひと》を|愛《あい》し、|牛《【う】し》の|様《やう》に|俯《【う】つ》むいて|働《はたら》きさへすれば、|美《【う】つく》しい|女《をんな》が【う】るさい|程《ほど》、【ウ】ザウザと|其《その》|方《はう》の|側《そば》へ|集《あつ》まつて|来《く》るぞよ。|先《ま》づ|第一《だいいち》|運《【う】ん》の|循《めぐ》つて|来《く》る|迄《まで》、|誠《まこと》を|尽《つく》して|待《ま》つて|居《を》るが|良《よ》からう』
『【ウ】ヽヽ【う】つかり|聞《き》いて|居《を》らうものなら、|此《この》|天狗《てんぐ》|何《なに》を|吐《ぬか》すか|分《わか》つたものぢやないワ。モウ|御引取《おひきと》り|下《くだ》さい……』
ポンポンと|手《て》を|拍《う》つ。
『【エ】ツヘヽヽヽ、まだまだ|言《い》はねばならぬ|事《こと》がある。|縁《【え】ん》と|月日《つきひ》は|待《ま》つがよいと|云《い》ふ|事《こと》があらうがなア。|併《しか》し|乍《なが》ら|其《その》|方《はう》と|紅井姫《くれなゐひめ》との|縁《【え】ん》は|余《あま》り|遠方《【ゑ】んぱう》|過《す》ぎて、|届《とど》き|兼《か》ねるから、|其《その》|方《はう》から|遠慮《【ゑ】んりよ》を|致《いた》したが|得《とく》だらう。【|絵《ゑ》】にもかけない|様《やう》な|美人《びじん》を、|鳥羽絵《とば【ゑ】》の|如《や》うな|面《つら》をした|其《その》|方《はう》が、|女房《にようばう》に|選《【え】ら》ぶとは、チツと|提灯《ちやうちん》に|釣鐘《つりがね》だ。|閻魔《【え】んま》の|帳面《ちやうめん》を|拝借《はいしやく》して|調《しら》べて|見《み》い、|紅井姫《くれなゐひめ》はモリスの|妻《つま》なりと、ハツキリと|附《つ》け|止《と》めてあるぞよ』
『エヽ|此奴《こいつ》ア|偽神懸《にせかむがか》りをやつてやがるのだな。|感覚《かんかく》を|蕩尽《たうじん》し、|意念《いねん》を|断滅《だんめつ》した|神懸《かむがか》りがモリスの|都合《つがふ》の|好《よ》い|事《こと》を|吐《ぬか》すと|云《い》ふのが|怪《あや》しい……オイ、モリス、もう|駄目《だめ》だ。サツパリ|化《ば》けが|現《あら》はれたぞ。|秋山別《あきやまわけ》の|審神者《さには》を|瞞《だま》さうと|思《おも》つても、|此《この》|方《はう》の|天眼通《てんがんつう》を|欺《あざむ》く|事《こと》は|出来《でき》まい。|頭到《とうたう》|狐《きつね》の|尻尾《しつぽ》を|出《だ》しよつたぢやないか』
『【オ】ツホヽヽヽ、【|尾《を》】を|出《だ》したと|申《まを》すが、|其《その》|方《はう》に【|尾《を》】が|見《み》えるか、|見《み》えるなら|一《ひと》つ|掴《つか》まへて|見《み》よ。|横道者《【わ】うだうもの》|奴《め》、|大天狗《だいてんぐ》を|掴《つか》まへて|狐《きつね》などとは|能《よ》くも|大《【お】ほ》きな|口《くち》で|申《まを》したなア』
『【オ】ヽヽ【お】きやがれ。|脅《【お】ど》し|文句《もんく》|計《ばか》り|並《なら》べて、|往生《【わ】うじやう》さそうと|思《【お】も》つて、そンな|事《こと》に【|尾《を》】を|巻《ま》いて、ヘーヘー|言《い》ふ|様《やう》な|俺《【お】れ》ぢやないワイ』
『【カ】ツカツヽヽヽ|烏《【か】らす》の|婿《むこ》に|孔雀《くじやく》の|嫁《よめ》とは、チツと|釣合《つりあは》ぬぢやないか。|能《よ》く|考《【か】んが》へて|見《み》い』
『【カ】ヽ|構《かま》うない、|俺《おれ》の|嬶《【か】か》の|事《こと》まで|干渉《【か】んせふ》する|権利《けんり》がどこにあるか』
『【キ】ツヽヽヽ|貴様《【き】さま》、それでも|嬶《かかあ》の|事《こと》に|就《つ》いて|神勅《しんちよく》を|伺《うかが》ふと|申《まを》し、モリスを|神主《かむぬし》として|尋《たづ》ねて|居《ゐ》るのではないか。チツと【き】まり|悪《わる》うなり、|気味《【き】み》が|良《よ》くない|事《こと》を|吐《ぬか》す【|気《き》】にくはぬ、|気障《【き】ざ》な|大天狗《だいてんぐ》だと|思《おも》つて|居《を》るであらうのウ。
【ク】ヽヽ|黒《【く】ろ》い|面《つら》をして、|雪《ゆき》の|如《や》うな|姫《ひめ》に|恋《こひ》だの|鮒《ふな》だのと、|何《なに》を|洒落《しやれ》るのだ』
『ハテ、どうしても|此奴《こいつ》ア|怪《あや》しいぞ。オーイ、モリス、いい|加減《かげん》に|止《や》めたら|如何《どう》だい。そンな|偽神懸《にせかむがか》りをやつたつて、|駄目《だめ》だぞ』
『【ケ】ツ ケツ ケツ【|怪《け》】つ|体《たい》の|悪《わる》い、とうとう|尻尾《しつぽ》を|掴《つか》みよつたな、ヤツパリ|俺《おれ》はモリス|大明神《だいみやうじん》だ。|烏《からす》|一匹《いつぴき》の|霊《れい》も|蜥蜴《とかげ》の|霊《れい》も、|実《じつ》は|懸《かか》つてゐないのだよ。|何《なん》と|云《い》つても|俺《おれ》の|霊《れい》が|皆《みな》|紅井姫《くれなゐひめ》にかかつてるものだから、サツパリ|脱殻《ぬけがら》だ。|受《う》ける|霊《れい》がないものだから、|大天狗《だいてんぐ》も|懸《かか》る|事《こと》が|出来《でき》ぬぞよ。アツハヽヽヽ』
『コツコヽ【|斯《こ》】んな|事《こと》を|言《い》つて|居《を》つても、|何時《いつ》までも|果《は》てぬから、|是《【こ】れ》から|口占《くちうら》を|行《や》つて、|吾々《われわれ》の|進退《しんたい》をきめる|事《こと》にせうかい、のう、モリ|公《こう》』
『モリスも|同感《どうかん》だ、サヽヽ|早速《【さ】つそく》|口占《くちうら》で|決定《きめ》て|了《しま》はう。シヽヽ|確《【し】つか》りと|腹帯《はらおび》を|締《【し】》めて|掛《かか》らぬと、|又《また》|国依別《くによりわけ》にスヽヽ【す】つぱ|抜《ぬけ》を|喰《く》はされて|了《しま》ふぞ。|国依別《くによりわけ》の|奴《やつ》|甘《うま》い|事《こと》をしよつて、セヽヽ|雪隠《【せ】ついん》で|饅頭《まんぢう》|食《く》たよな|面《つら》をしてゐやがるのが|癪《しやく》に|障《さは》つて|堪《たま》らぬぢやないか?』
『ソヽヽ【そ】らさうぢや。|互《たがひ》にしつかりせぬと、タヽヽ|忽《【た】ちま》ち……|忽《【た】ちま》ちぢや。チヽヽ|血道《【ち】みち》を|分《わ》けて、ツヽヽ|附《【つ】》き|纒《まと》うた、テヽヽ、|天女《【て】んによ》の|様《やう》な|御姫《おひめ》さまを、トヽヽ|取《【と】》られて|了《しま》うて、ナヽヽ、|情《【な】さけ》ないぢなないか。ニヽヽ|二人《【に】にん》|共《とも》|能《よ》い|面《つら》|曝《さらし》て、|月夜《つきよ》に|釜《かま》を、ヌヽヽ|抜《【ぬ】》かれて|了《しま》ひ、ネヽヽ|根《【ね】》つから|葉《は》つから、|糞面白《くそおもしろ》くもない。|斯《こ》んな|目《め》に|会《あ》うて、ノヽヽ|呑気《【の】んき》な|顔《かほ》しても|居《を》られぬワイ。ハヽヽ|早《【は】や》う|何《なん》とか|良《よ》い|智慧《ちゑ》をめぐらし、ヒヽヽ|秘密《【ひ】みつ》の|奥《おく》を|探《さぐ》り、|妙《めう》を|尽《つく》し、|一時《ひととき》も|早《はや》くフヽヽ|夫婦《【ふ】うふ》になつて、ヘヽヽ|平和《【へ】いわ》な|家庭《かてい》を|作《つく》り、|姫《ひめ》をホヽヽホームの|女王《ぢよわう》と|仰《あふ》ぎ|奉《たてまつ》り、マヽヽ【ま】めやかに、ミヽヽ|身《【み】》を|粉《こ》にして、|一言《ひとこと》も|背《そむ》かず、|女王《ぢよわう》さまのムヽヽ|無理《【む】り》を|無理《【む】り》と|思《おも》はずに|喜《よろこ》ンで|参《まゐ》り、メヽヽ|滅多《【め】つた》に|怒《おこ》らぬ|様《やう》にせなくては、|折角《せつかく》モヽヽ|貰《【も】ら》うた|奥《おく》さまもサツパリ|駄目《だめ》になつて|了《しま》うかも|知《し》れないぞ』
モリスは|又《また》|喋《しやべ》り|出《だ》した。
『ヤヽヽ|喧《【や】かま》しワイ、イヽヽいろいろとらつちもないことを、ユヽヽ|言《【ゆ】》やがつて、エヽヽ|縁起《【え】んぎ》の|悪《わる》い、ヨヽヽ【ヨ】タリスクを、ラヽヽ|乱発《【ら】んぱつ》し、リヽヽ|理窟《【り】くつ》にも|合《あは》ぬ|事《こと》を、ルヽヽ|縷々《【る】る》|数万言《すうまんげん》を|並《なら》べ|立《た》て、レヽヽ|廉恥心《【れ】んちしん》を|一寸《ちよつと》|弁《わきま》へぬか、ロヽヽ|碌《【ろ】く》でなし|奴《め》、ワヽヽ|笑《【わ】ら》はしやがる、ヰヽヽ|何時迄《【い】つまで》も|女《をんな》の|尻《しり》を、ウヽヽ|迂路々々《【う】ろうろ》と、うろつき|廻《まは》り、エヽヽ【エ】ツパツパを|喰《く》はされても、オヽヽ【お】|前《まへ》はまだ|目《め》が|醒《さ》めぬのか、ガヽヽ|餓鬼《【が】き》ぢやなア、|我利我利亡者《【が】りがりまうじや》の、ギヽヽ|義理《【ぎ】り》|知《し》らず|奴《め》、グヽヽ|愚《【ぐ】》にもつかぬ|事《こと》を、|何時迄《いつまで》もグヅグヅと、ゲヽヽ【げ】ん|糞《くそ》の|悪《わる》い、【ゴ】ヽヽ|御託《【が】ふたく》を|並《なら》べ、ザヽヽ【ザ】マが|悪《わる》いぞ。ジヽヽ【ジ】つと|胸《むね》に|手《て》を|当《あ》てて|考《かんが》へて|見《み》い、|貴様《きさま》の|様《やう》なズヽヽ【づ】|法螺《ぼら》に|誰《たれ》がエリナだつて、ゼヽヽ|膳《【ぜ】ん》を|据《す》ゑるものかい、ゾヽヽ【ぞ】ぞ|髪《かみ》が|立《た》つと|云《い》うて|逃《に》げ|出《だ》すぞよ』
|秋山別《あきやまわけ》も|又《また》|負《まけ》ぬ|気《き》になり、
『ダヽヽ|黙《【だ】ま》れ、|矢釜《やかま》しいワイ。ヂヽヽ【ぢ】つとして|聞《き》いて|居《を》れば、ヅヽヽ|図々《【づ】うづう》しくも|止《と》め|度《ど》もなく|喋《しや》べり|立《た》てよつて、モウ|俺《おれ》もウンザリした。|勝手《かつて》に|喋《しやべ》つておけ、デヽヽ【で】んでん|虫《むし》でさへも|家《いへ》を|持《も》つてるのに、|宿無《やどな》し|坊《ばう》|奴《め》が、ドヽヽ【ど】こまでも|毒《【ど】く》つきよつて、バヽヽ|馬鹿《【ば】か》にするも|程《ほど》があるワイ。|此《この》|上《うへ》|何《なん》なつと|吐《ほざ》いて|見《み》よ、ビヽヽ|貧乏《【び】んばふ》|揺《ゆる》ぎもならぬよに|霊《れい》をかけて|封《ふう》じてやろか。ブヽヽ|無細工《【ぶ】さいく》な|鯱面《しやちつら》をし|依《よ》つて、ベヽヽ【べ】らべらと|色男《いろをとこ》|気取《きどり》で、|何《なに》を|吐《ほざ》くのだい、ボヽヽ【ぼ】けの|粕《かす》|奴《め》が』
モリスは|又《また》|喋《しやべ》り|出《だ》す。
『パヽピヽプヽペヽポヽと|庇《へ》をこいた|様《やう》な|庇理窟《へりくつ》をやめて、|是《これ》から|二人《ふたり》の|女《をんな》を|力一杯《ちからいつぱい》アイウエオだ。さうすれば|向方《むかう》だつて|結局《しまひ》にはお|前《まへ》さま|私《わたし》に|向《むか》つてナニヌネノなさると|言《い》はれまい。|終《しま》ひの|果《はた》にやサシスセソだ。|彼奴《あいつ》の|事《こと》|思《おも》うと、|何時《いつ》も|何《なん》だか|知《し》らぬが、タチツテトだ。|暗《くら》がりに○○の○○へハヒフヘホして|肱鉄《ひぢてつ》をかまされ、|恥《はぢ》をカキクケコやるよりも、あのナイスをワヰウヱヲにして|了《しま》うのだなア。サア|神懸《かむがか》りや|口卜《くちうら》で|伺《うかが》つて|居《を》つても|根《ね》つからマミムメモな|事《こと》を|知《し》らして|呉《く》れないから、|実地《じつち》が|一番《いちばん》|早道《はやみち》だ。キツと|日暮《ひぐら》シ|山《やま》の|岩窟《がんくつ》の|中《なか》で|陥穽《おとしあな》に|放《ほ》り|込《こ》まれ、|誰《たれ》か|強《つよ》い|人《ひと》が|出《で》て|来《き》て|私《わたし》を|早《はや》く|助《たす》けて|紅井姫《くれなゐひめ》かなア……と|青息吐息《あをいきといき》をついてるかも|知《し》れないよ。サア|天狗《てんぐ》の|託宣《たくせん》ぢやないが、マラソン|競争《きやうそう》で|決勝点《けつしようてん》を|得《え》た|者《もの》が|紅井姫《くれなゐひめ》のハズバンドだ。スヰートハートし|切《き》つたナイスを|無下《むげ》に|見殺《みごろ》しにするのも、|男《をとこ》の|顔《かほ》が|立《た》たない。|都合《つがふ》よく|陥《はま》つて|居《を》れば|良《よ》いがなア、|秋公《あきこう》』
『さうすれば|此《この》|秋山別《あきやまわけ》が、|紅井姫《くれなゐひめ》さまをグツと|抱上《だきあ》げ……これはこれはどなたかと|思《おも》へば、ヒルの|館《やかた》の|楓別命《かへでわけのみこと》|様《さま》の|御妹《おんいもうと》の|紅井《くれなゐ》の|君《きみ》で|御座《ござ》いましたか、|誠《まこと》に|危《あやふ》いとこで|御座《ござ》いましたが、マアマア|結構《けつこう》で|御座《ござ》います。|是《これ》と|云《い》ふのも|神様《かみさま》の|御《お》かげ、|第一《だいいち》|秋山別《あきやまわけ》の|舎身的《しやしんてき》|活動《くわつどう》の|結果《けつくわ》で|御座《ござ》いますワイ……と|円滑《ゑんくわつ》に|高飛車《たかびしや》に|言霊車《ことたまぐるま》を|運転《うんてん》さす、さうすると|姫様《ひめさま》が|玉《たま》の|涙《なみだ》を|泛《うか》べ|給《たま》ひ……|誰《たれ》かと|思《おも》へばお|前《まへ》は|秋山別《あきやまわけ》であつたか、これ|程《ほど》|世《よ》の|中《なか》に|沢山《たくさん》の|人《ひと》があつても、|妾《わたし》に|命《いのち》がけの|同情《どうじやう》をして|呉《く》れる|者《もの》はお|前《まへ》より|無《な》い、あゝ|済《す》まなかつた。そンな|親切《しんせつ》な|男《をとこ》と|知《し》らずして、|今《いま》まで|飯《めし》の|上《うへ》の|蠅《はへ》を|追《お》うやうに【すげ】なうしたのは、|済《す》まなかつた。|秋山別《あきやまわけ》、|相変《あひかは》はらず|可愛《かあい》がつて|頂戴《ちやうだい》ね……なんて|反対《はんたい》に|紅井姫《くれなゐひめ》さまの|方《はう》からラバーすると|云《い》ふ|段取《だんど》りだ。イヒヽヽヽウフヽヽヽエヘヽヽヽオホヽヽヽおゝ|面白《おもしろ》い|面白《おもしろ》いイヤお|芽出《めで》たい。|割《わり》なき|仲《なか》となつて|御互《おたがひ》に|面白《おもしろ》く|可笑《おか》しく|此《この》|世《よ》を|送《おく》るのだなア。|泣《な》いて|暮《くら》すも|一生《いつしやう》なら、|笑《わら》つて|暮《くら》すも|一生《いつしやう》だ。アハヽヽヽ、モリ|公《こう》、どうだい』
『|勝手《かつて》に|何《なん》なつと|言《い》つて、|糠喜《ぬかよろこ》びをして|居《ゐ》るが|好《よ》いワ。サア|一時《いつとき》も|早《はや》く|決勝点《けつしようてん》に|達《たつ》した|者《もの》がハズバンドだ。|誰《たれ》が|何《なん》と|云《い》つても、|大天狗《だいてんぐ》の|御許《おゆる》しだから、……オイ、グヅグヅしてると、|丸木橋《まるきばし》のあたりで|日《ひ》でも|暮《く》れようものなら、|例《れい》のホヽヽヽヽだよ。サア|行《ゆ》かう』
と|尻《しり》ひつからげ、|神王《しんわう》の|森《もり》を|後《あと》に、|二人《ふたり》は|一生懸命《いつしやうけんめい》に、|又《また》もや|日暮《ひぐら》シ|山《やま》の|岩窟《がんくつ》さして|進《すす》み|行《ゆ》く。
(大正一一・八・一九 旧六・二七 松村真澄録)
第一〇章 |噂《うはさ》の|影《かげ》〔八七六〕
|日暮《ひぐら》シ|山《やま》の|山麓《さんろく》に |教《をしへ》の|館《やかた》を|開《ひら》きつつ
|朝《あさ》な|夕《ゆふ》なにサボリ|居《ゐ》る |日暮《ひぐら》シ|山《やま》のウラル|教《けう》
アナン、ユーズを|始《はじ》めとし ブール|教主《けうしゆ》の|目《め》を|忍《しの》び
|葡萄酒《ぶだうしゆ》の|倉《くら》を|押開《おしあ》けて |盗《ぬす》み|出《だ》したる|豊醇《ほうじゆん》の
|甘《うま》しき|酒《さけ》に|舌《した》|縺《もつ》れ |二人《ふたり》は|膝《ひざ》を|附《つ》き|合《あは》せ
ヒソヒソ|話《ばなし》に|耽《ふけ》りゐる。
ユーズは|酔《よひ》の|廻《まは》つた|口《くち》から、
『オイ、アナン、アラシカ|山《やま》の|山麓《さんろく》エリナの|宅《うち》へ|往《い》つた|時《とき》は|随分《ずゐぶん》|面白《おもしろ》かつただらうなア。あの|時《とき》にあゝ|云《い》ふ|地震《ぢしん》さへ|無《な》ければ、|貴様《きさま》は|甘《うま》くやつて|居《ゐ》たのだらうにのウ、|惜《を》しい|事《こと》をしたものではないか』
『そりや|随分《ずいぶん》|面白《おもしろ》かつたよ。|併《しか》し|乍《なが》ら|流石《さすが》はエスの|娘《むすめ》|丈《だけ》あつて、|随分《ずいぶん》|売《う》り|出《だ》しよつた|時《とき》にや、|流石《さすが》のアナンも|一寸《ちよつと》は|驚《おどろ》かざるを|得《え》なかつたよ。|併《しか》し|此《この》|頃《ごろ》の|大将《たいしやう》の|御機嫌《ごきげん》と|云《い》つたら、サツパリなつてゐないぢやないか。|何《なん》とかして|機嫌《きげん》を|取《と》る|妙案《めうあん》はなからうかねい。|何《なに》を|云《い》つても|此《この》|間《あひだ》の|様《やう》にヒルの|都攻《みやこぜ》めに|失敗《しつぱい》し、|大将《たいしやう》が|焦《こが》れて|居《を》つた、|紅井姫《くれなゐひめ》を|生捕《いけど》つて|帰《かへ》つて|御目《おめ》にかけないものだから、|御機嫌《ごきげん》が|悪《わる》いのだよ』
『|馬鹿《ばか》|言《い》へ、|教主《けうしゆ》に|限《かぎ》つて、そんな|陽気《やうき》な|心《こころ》がないのはこのユーズも|知《し》つてゐるよ。あれ|丈《だけ》|一心《いつしん》に|神様《かみさま》の|事《こと》|計《ばか》りして|御座《ござ》るのだもの、……お|前《まへ》はチト|考《かんが》へ|違《ちが》ひをしてゐるナ』
『そこが|思案《しあん》の|外《ほか》と|云《い》ふものだ。お|前《まへ》も|余程《よほど》お|目出《めで》たいねい。|実《じつ》の|所《ところ》ヒルの|都攻《みやこぜ》めに、|此《この》|方《はう》アナンを|御遣《おつか》はしなさつたのは、アナンをして|肝腎要《かんじんかなめ》の|目的《もくてき》は|紅井姫《くれなゐひめ》を|生捕《いけどり》にして|帰《かへ》れ……と|云《い》ふのが|眼目《がんもく》だからなア』
『|教主《けうしゆ》が|又《また》|如何《どう》してヒルの|館《やかた》の|紅井姫《くれなゐひめ》を|知《し》つてゐるのだ、それが|分《わか》らぬぢやないか。|紅井姫《くれなゐひめ》は|所謂《いはゆる》|箱入娘《はこいりむすめ》で、|城外《じやうぐわい》へ|一歩《いつぽ》も|踏《ふ》み|出《だ》した|事《こと》がないと|云《い》ふのぢやないか』
『そこが|其処《そこ》だで……|遠《とほ》い|様《やう》でも|近《ちか》いは|男《をとこ》と|女《をんな》とか|言《い》つてなア。いつの|間《ま》にかチヤンと|鋭敏《えいびん》な|教主《けうしゆ》の|目《め》には、|遠《とほ》うの|昔《むかし》に|止《と》まつてゐるのだ。お|前達《まへたち》は|幹部《かんぶ》になつてから、まだ|時日《じじつ》が|経《た》たないから、|本当《ほんたう》の|事《こと》は|知《し》らないが|五六年前《ごろくねんぜん》の|事《こと》だつた。ヒルの|都《みやこ》の|下手《しもて》から|船《ふね》に|乗《の》つて、|帆《ほ》を|順風《じゆんぷう》に|孕《はら》ませ、ブールの|教主《けうしゆ》が|此方《こちら》へ|御帰《おかへ》りの|途中《とちう》、|上《かみ》からスツと|流《なが》して|来《き》た|遊山船《いうさんぶね》の|中《なか》に、|十四五《じふしご》の|何《なん》とも|知《し》れぬ、|天女《てんによ》の|様《やう》な|娘《むすめ》が|乗《の》つてゐるぢやないか。|其《その》|時《とき》にブールの|教主《けうしゆ》は|其《その》|女《をんな》に|見《み》とれて|船端《ふなばた》を|踏《ふ》み|外《はづ》し|川中《かはなか》に|陥《おちい》り、|大変《たいへん》|危《あぶ》ない|事《こと》があつたのだ。このアナンは|其《その》|時《とき》お|側《そば》に|居《を》つたから、|能《よ》く|知《し》つてゐるのだ。|教主《けうしゆ》は|俺達《おれたち》に|川《かは》の|中《なか》から|救《すく》ひ|上《あ》げられ、|御苦労《ごくらう》だとも|何《なん》とも|言《い》はずに……あの|綺麗《きれい》な|娘《むすめ》は、|一体《いつたい》|何処《どこ》の|者《もの》だ……と|意味《いみ》ありげに|御尋《おたづ》ねになつた|其《その》|時《とき》に、|俺《おれ》は|教主《けうしゆ》に|向《むか》つて……あの|女《をんな》はヒルの|都《みやこ》の|神館《かむやかた》|紅葉彦命《もみぢひこのみこと》の|娘《むすめ》で|御座《ござ》います……と|云《い》つた|所《ところ》、|直《ただち》にグンニヤリとうな|垂《だ》れ、それは|実《じつ》に|失望落胆《しつばうらくたん》の|体《てい》だつたよ。|其《その》|後《ご》と|云《い》ふものは、|如何《どう》したものか、|何程《なにほど》よい|縁《えん》があつても、|教主《けうしゆ》は|皆《みな》|撥《は》ねつけて|了《しま》ひ、|元気《げんき》|盛《ざか》りの|身《み》を|以《もつ》て、|今《いま》に|独身《どくしん》|生活《せいくわつ》を|続《つづ》けて|御座《ござ》るのも、そこには|一《ひと》つの|思惑《おもわく》があつての|事《こと》だよ。|何《なん》とかしてあの|女《をんな》を|引張《ひつぱり》|込《こ》み、|教主《けうしゆ》の|奥《おく》さまにしたいものだ。さうすれば|何時《いつ》もニコニコで|御機嫌《ごきげん》が|能《よ》いのだけれど、|此《この》|頃《ごろ》の|様《やう》な|六《む》つかしい|顔《かほ》を|見《み》せられると、|俺達《おれたち》も|本当《ほんたう》に|堪《たま》らないワ』
『ユーズは|今《いま》が|初耳《はつみみ》だよ。そんな|事《こと》で|御機嫌《ごきげん》が|直《なほ》るのなれば、|何《なん》とか|一《ひと》つ|献身的《けんしんてき》|活動《くわつどう》を|続《つづ》けて、|成功《せいこう》させたいものだなア。そンな|秘密《ひみつ》を|知《し》つて|居《を》つて、|何故《なぜ》|今迄《いままで》|智謀《ちぼう》|絶倫《ぜつりん》のユーズに|知《し》らさなかつたのだい。どないでもユーズの|利《き》くユーズさまだから、|遠《とほ》うの|昔《むかし》に、|俺《おれ》が|知《し》つて|居《を》れば、|成功《せいこう》して|居《ゐ》るのだがなア』
『ユーズ、お|前《まへ》は|酒《さけ》に|酔《よ》うた|時《とき》|許《ばか》り、|無茶苦茶《むちやくちや》に|強《つよ》いが、|酔《ゑい》が|醒《さ》めると、サツパリ|大水《おほみづ》が|引《ひ》いた|跡《あと》の|様《やう》に、|臆病《おくびやう》になり、シヨビンとして|縮《ちぢ》こまつて|居《ゐ》るのだから、|当《あて》にならないよ』
『ナアニ、そんな|事《こと》に|掛《かけ》たら、|得手《えて》に|帆《ほ》のユーズだよ。キツと|成功《せいこう》させて|見《み》せる』
『それならお|前《まへ》、|是《これ》からヒルの|都《みやこ》へ|乗込《のりこ》むで、|何《なん》とか|計略《けいりやく》を|以《もつ》て|引張《ひつぱり》|出《だ》して|来《き》たら|如何《どう》だい』
『このユーズの|俺《おれ》にはナ、|一切《いつさい》|万事《ばんじ》|吾《わが》|方寸《はうすん》にありだ。|今日《けふ》は|前祝《まへいはひ》として、|十分《じふぶん》にブール|酒《ざけ》を|頂戴《ちやうだい》し、いよいよ|明日《あす》から|活動《くわつどう》の|幕《まく》を|切《き》つておろすから、|甘《うま》く|往《い》つたら|拍手《はくしゆ》|喝采《かつさい》を|願《ねが》ひまーすだ。アツハヽヽヽ|面白《おもしろ》い|面白《おもしろ》い』
『|併《しか》しユーズ、お|前《まへ》、|暫《しばら》くヒルの|都行《みやこゆき》は|見合《みあは》して、ここに|居《を》つて|呉《く》れねばならない|事《こと》がある』
『ユーズに|見合《みあは》せとは、そりや|又《また》|如何《どう》|云《い》ふ|訳《わけ》だい』
『お|前《まへ》も|知《し》つてゐる|通《とほ》り、|国依別《くによりわけ》の|宣伝使《せんでんし》が|使《つか》はしたキジ、マチの|両人《りやうにん》、あゝして|何時迄《いつまで》も|陥穽《おとしあな》へほり|込《こ》み、|毎日《まいにち》|腐《くさ》つた|梨《なし》や|蜜柑《みかん》の|二《ふた》つや|三《みつ》つ|放《はう》り|込《こ》みて、|生命《いのち》をつながせ、|虐待《ぎやくたい》して|帰《かへ》してやらぬものだから、|国依別《くによりわけ》も|今頃《いまごろ》は|日暮《ひぐら》シ|山《やま》へ|遣《つか》はした|両人《りやうにん》は|今《いま》に|帰《かへ》つて|来《こ》ない、どうして|居《ゐ》るのだらう。まさかあれ|丈《だけ》の|熱心《ねつしん》だから、よもやウラル|教《けう》に|逆転《ぎやくてん》してゐるのでもあるまい、|大方《おほかた》|陥穽《おとしあな》へでも|落《おと》されて|苦《くるし》みて|居《ゐ》るに|違《ちがひ》ない。|一《ひと》つ|実地《じつち》|探険《たんけん》と|出掛《でかけ》ようか……などと|云《い》つて、のしのしとやつて|来《き》ようものなら、それこそ|此《この》|間《あひだ》の|地震《ぢしん》ぢやないが、|此《この》|霊場《れいぢやう》は|地異天変《ちいてんぺん》の|大惨事《だいさんじ》が|突発《とつぱつ》するのだ。アナンはそれが|第一《だいいち》|気《き》に|掛《かか》つてならないのだ。|何《なん》とか|国依別《くによりわけ》がやつて|来《き》よつたら、|今迄《いままで》とは|態度《たいど》を|一変《いつぺん》し、|最善《さいぜん》の|方法《はうはふ》を|講《かう》じて|見《み》ねばなるまいぞ』
『さうだなア、|今度《こんど》はユーズを|利《き》かし、|此方《こちら》から|極下《ごくした》に|出《で》て、|御客《おきやく》さま|扱《あつかひ》にし、|国依別《くによりわけ》を|心《こころ》の|底《そこ》から|得心《とくしん》させ、さうして|都合《つがふ》|好《よ》くば、ウラル|教《けう》の|副教主《ふくけうしゆ》に|推薦《すいせん》してやつたら、|何程《なにほど》|頑固《ぐわんこ》な|彼奴《あいつ》だつて、|今日《こんにち》の|普通《ふつう》|宣伝使《せんでんし》の|境遇《きやうぐう》から|比《くら》べて|見《み》れば、|其《その》|地位《ちゐ》|名望《めいばう》に|於《おい》て|雲泥《うんでい》の|相違《さうゐ》だから、|喜《よろこ》び|応《おう》ずるに|違《ちが》ひないワ。ウラル|教《けう》も|此《この》|頃《ごろ》の|様《やう》に|秋風《あきかぜ》が|吹《ふ》いて、|日《ひ》に|日《ひ》に|寂寥《せきれう》の|空気《くうき》に|包《つつ》まれて|居《ゐ》る|際《さい》だから、|敵《てき》を|以《もつ》て|敵《てき》を|制《せい》する|筆法《ひつぱふ》で、あゝ|云《い》ふ|立派《りつぱ》な|男《をとこ》を、|此方《こつち》の|味方《みかた》に|取《と》り|込《こ》みたならば、ウラル|教《けう》も|再《ふたた》び|勢力《せいりよく》を|盛返《もりかへ》し、|昔《むかし》の|様《やう》に|立派《りつぱ》な|教団《けうだん》になるであらうと|思《おも》ふが、お|前《まへ》は|如何《どう》|考《かんが》へるか』
『それもさうだ。|併《しか》し|乍《なが》ら、ユーズの|言《い》ふ|通《とほ》りにさう|甘《うま》く|着々《ちやくちやく》と|此《この》|事業《じげふ》が|進行《しんかう》するだらうかなア』
『|決《けつ》してアナンどの、|御心配《ごしんぱい》|御無用《ごむよう》だよ』
と|話《はな》してゐる|時《とき》しも、|門番《もんばん》のハル、ナイルの|両人《りやうにん》|慌《あはた》だしく|駆《か》け|来《きた》り、ハルが、
『|申上《まをしあ》げます。|只今《ただいま》|国依別《くによりわけ》が|岩戸《いはと》の|口《くち》|迄《まで》|参《まゐ》りまして、それはそれは|美《うつく》しい|紅井姫《くれなゐひめ》とかエリナとか|云《い》つて、|二人《ふたり》の|素的《すてき》な|女《をんな》を|伴《ともな》ひ、|早《はや》く|幹部《かんぶ》の|誰《たれ》かに|会《あ》はして|呉《く》れよと|云《い》つて、|何《なん》と|云《い》つても|帰《かへ》りませぬ。|如何《いかが》|取計《とりはか》らつたら|宜《よろ》しう|御座《ござ》いませうかなア』
アナンはハツと|驚《おどろ》き|乍《なが》ら、|稍《やや》|声《こゑ》を|震《ふる》はせて、
『ナヽ|何《なん》と|申《まを》す。クヽ|国依別《くによりわけ》が|来《き》たと|申《まを》すか』
『|紅井姫《くれなゐひめ》、エリナの|両人《りやうにん》がお|見《み》えになつたと|云《い》ふのか。そりや|人違《ひとちがひ》ではあろまいな。チツトばかり、ユーズも|心配《しんぱい》だからのウ』
『エヽ|決《けつ》して|決《けつ》してハルの|言葉《ことば》に|間違《まちがひ》は|御座《ござ》いませぬ。|三倉山《みくらやま》の|谷間《たにあひ》で|見《み》た|宣伝使《せんでんし》です。そして|一人《ひとり》はエリナに|間違《まちがひ》|御座《ござ》いませぬ。|紅井姫《くれなゐひめ》と|云《い》ふ|方《かた》は|是迄《これまで》に|会《あ》つた|事《こと》がないから、|真偽《しんぎ》は|分《わか》りませぬが、|随分《ずいぶん》|綺麗《きれい》な|女《をんな》です。|此《この》|岩館《いはやかた》でも|一目《ひとめ》|睨《にら》みたら、ガチヤガチヤと|砕《くだ》いて|了《しま》ひさうな|目付《めつき》をして|居《を》りますよ。……ナア、ナイル、|随分《ずゐぶん》|別嬪《べつぴん》だつたなア』
『|御両人様《ごりやうにんさま》、|決《けつ》してナイルの|眼《め》では|間違《まちがひ》はなからうと|思《おも》ひます。|何《なん》とか|返事《へんじ》をせなくてはなりませぬが、|如何《どう》|致《いた》しませう』
との|尋《たづ》ねにアナンは、
『|一寸《ちよつと》|待《ま》て、|考《かんが》へがあるから』
と|俯《うつ》むき、ユーズと|共《とも》に|腕《うで》を|組《く》み、|考《かんが》へ|込《こ》むでゐる。|其《その》|間《ま》にハル、ナイルの|両人《りやうにん》は|逸早《いちはや》く|此《この》|場《ば》を|立去《たちさ》り、|表口《おもてぐち》に|現《あら》はれ|来《きた》り、|国依別《くによりわけ》に|向《むか》ひ、|両人《りやうにん》|口《くち》を|揃《そろ》へて、
『オイ、|一寸《ちよつと》|待《ま》て、|此方《こつち》にも|考《かんが》へがあるから……とアナン、ユーズの|御大将《おんたいしやう》が|仰《あふ》せになりましたぞ』
『なに、|一寸《ちよつと》|待《ま》て、こつちに|考《かんが》へがあるから……とは|怪《け》しからぬ。よし|其方《そつち》がさうなら|此方《こちら》にも|考《かんが》へがある……サア|姫様《ひめさま》、エリナさま、|私《わたし》に|従《つ》いてお|出《い》でなさいませ』
と|窟内《くつない》に|踏《ふ》み|込《こ》まうとする。ハル、ナイルの|両人《りやうにん》は|大手《おほて》を|拡《ひろ》げて、
『マアマア|待《ま》つて|下《くだ》さいませ。タヽ|大変《たいへん》で|御座《ござ》います。|一寸《ちよつと》|待《ま》て、|此方《こつち》にも|考《かんが》へがある……と|二人《ふたり》の|大将《たいしやう》が|仰有《おつしや》つたのだから、さう|勝手《かつて》に|押入《おしい》つて|貰《もら》ひますと、あとで|私《わたし》が|如何《どん》な|目《め》に|会《あ》はされるかも|分《わか》りませぬ。|一寸《ちよつと》|奥《おく》から|返事《へんじ》がある|迄《まで》、|暫《しばら》く|其処《そこ》に|休《やす》みてゐて|下《くだ》さいませ』
『あゝ|仕方《しかた》がない、|国依別《くによりわけ》|暫《しばら》く|茲《ここ》に|休息《きうそく》がてら|待《ま》つて|遣《つか》はす、|早《はや》く|返答《へんたふ》を|致《いた》す|様《やう》に、|奥《おく》へマ|一度《いちど》|伺《うかが》つて|来《こ》い』
ハル|小声《こごゑ》で、
『|始《はじ》めて|来《き》よつて、|偉相《えらさう》に、|俺達《おれたち》を|奴扱《やつこあつかひ》にしよるワイ。えゝ|怪体《けたい》の|悪《わる》い……』
と|呟《つぶや》き|乍《なが》ら、|再《ふたた》びアナン、ユーズの|居間《ゐま》へ|走《はし》り|入《い》つた。
|二人《ふたり》は|互《たがひ》に|腕《うで》を|組《く》み、|差俯《さしうつ》むいて|途方《とはう》に|暮《く》れ|乍《なが》ら、|一寸《ちよつと》|顔《かほ》をあげて|見《み》ると、|最前《さいぜん》|使《つかい》に|来《き》た|両人《りやうにん》は|何時《いつ》の|間《ま》にか|其処《そこ》に|居《ゐ》ないので、アナンは|顔色《かほいろ》を|変《か》へて、
『あゝ|二人《ふたり》の|奴《やつ》、どこへ|行《ゆ》きよつたのかなア。まだ|返事《へんじ》を|聞《き》かない|中《うち》から|飛出《とびだ》したのではあるまいか。|災《わざはい》は|下《しも》からと|云《い》つて、せうもない|事《こと》を|言《い》ひよると、|後《あと》が|面倒《めんだう》になつて|纒《まと》まりがつかなくなる。|折角《せつかく》の|神謀鬼策《しんぼうきさく》が|駄目《だめ》になつた|例《ため》しもある|慣《なら》ひだ。えゝ|困《こま》つた|奴《やつ》だナア』
と|両人《りやうにん》は|顔《かほ》|見合《みあは》して|呟《つぶや》いて|居《ゐ》る。|其処《そこ》へ|慌《あはた》だしくハル、ナイルの|両人《りやうにん》|走《はし》り|来《きた》り、
『|申上《まをしあ》げます。|大変《たいへん》に|剛情《がうじやう》な|奴《やつ》で、|無理《むり》に|押入《おしい》らうと|致《いた》しますので、あなたの|御言葉《おことば》の|通《とほ》り……オイ|一寸《ちよつと》|待《ま》て、|此方《こつち》にも|一《ひと》つ|考《かんが》へがあるから……とかましてやりましたら、|国依別《くによりわけ》の|奴《やつ》……ナニ|猪口才《ちよこざい》な、そちらに|考《かんが》へがあれば|此方《こちら》にも|考《かんが》へがある……とエラさうな|事《こと》を|言《い》つてましたぜ。|御用心《ごようじん》なさらぬと、あンな|強《つよ》い|奴《やつ》が|現《あら》はれた|以上《いじやう》は|大変《たいへん》ですぞ』
『オイ、ハル、ナイルの|両人《りやうにん》、|誰《たれ》がそンな|事《こと》を|国依別《くによりわけ》に|申《もう》せと|云《い》つたか、いつ|又《また》|此《この》|方《はう》が|左様《さやう》な|言葉《ことば》を|出《だ》したか』
『モシ、アナン|様《さま》、モウ|御忘《おわす》れになりましたか。あなた|確《たしか》に……ここにナイルも|聞《き》いて|居《を》りましたが、|一寸《ちよつと》|待《ま》て、|此方《こつち》にも|思案《かんがへ》があるからと|云《い》つたぢやありませぬか。|今更《いまさら》|言《い》はぬと|仰有《おつしや》つても、そンな|無理《むり》は|何程《なにほど》|上役《うはやく》でも|通《とほ》りませぬぞや』
『それは|其《その》|方《はう》に|対《たい》して、|一寸《ちよつと》|待《ま》て……と|云《い》つたのだ』
『さうでせう、|私《わたし》に|仰有《おつしや》つたから、|即《すなは》ち|私《わたし》があなたの|代理《だいり》となつて、|国依別《くによりわけ》に|一言《ひとこと》の|間違《まちがひ》もない|様《やう》に|伝《つた》へたのです。それが|何処《どこ》が|悪《わる》う|御座《ござ》いますか』
『あゝ|困《こま》つた|奴《やつ》だなア。モウ|斯《か》うなつちや|仕方《しかた》がない。……アンナさま、|肝玉《きもだま》を|放《はう》り|出《だ》して、あなたとユーズの|二人《ふたり》が|国依別《くによりわけ》の|前《まへ》に|十分《じふぶん》に|慇懃《いんぎん》な|詞《ことば》を|使《つか》つて、|言向和《ことむけやは》し、|怒《おこ》らさない|様《やう》にして、|甘《うま》く|行《ゆ》けばウラル|教《けう》の|副教主《ふくけうしゆ》に|祭《まつ》り|上《あ》げ、|紅井姫《くれなゐひめ》は|教主《けうしゆ》の|奥方《おくがた》となし、エリナは|私《わたし》の|奥方《おくがた》と|決定《きめ》ておいて、|腹帯《はらおび》を|締《し》めて|一《ひと》つ|円滑《ゑんくわつ》に|舌剣《ぜつけん》を|揮《ふる》ふて|見《み》ようぢやありませぬか。|一枚《いちまい》の|舌《した》の|使《つか》ひやうに|依《よ》つて、|平和《へいわ》の|女神《めがみ》ともなり、|戦争《せんそう》の|魔神《まがみ》ともなるのだから、|十分《じふぶん》に|巧妙《かうめう》な|辞令《じれい》を|用《もち》ゐ、|三五教《あななひけう》ぢやないが|善言美詞《ぜんげんびし》の|言霊《ことたま》を|以《もつ》て、|敵《てき》を|悦服《えつぷく》させると|云《い》ふ|手段《しゆだん》に|出《で》ようぢやありませぬか』
『それは|至極《しごく》|妙案《めうあん》でせう。|併《しか》しそれに|先立《さきだ》ち、ブールの|教主《けうしゆ》に|申上《まをしあ》げておかなくてはなりますまい。あなた|御苦労《ごくらう》だが、|其《その》|任《にん》に|当《あた》つて|下《くだ》さい。|私《わたし》は|是《これ》から|表口《おもてぐち》に|往《い》て|国依別《くによりわけ》に|都合《つがふ》をよく|胡麻《ごま》をすつて|来《き》ますから……』
と|俄《にはか》に|吾《わ》れ、|俺《おれ》の|辞《ことば》を|改《あらた》め、|美《うつく》しい|言葉《ことば》を|使《つか》ひ|乍《なが》ら、ユーズは|教主《けうしゆ》の|居間《ゐま》へ、アナンは|入口《いりぐち》へと|持場《もちば》を|定《さだ》めて|進《すす》み|行《ゆ》く。
ハル、ナイルの|二人《ふたり》はアナンの|前《まへ》に|立《た》ち、
『サアサア|一寸先《いつすんさき》は|如何《どう》なる|事《こと》やら、|暗《やみ》か|月夜《つきよ》か|鼈《すつぽん》か、|困《こま》つた|事《こと》が|出来《でき》て|来《き》た』
と|呟《つぶや》き|乍《なが》ら、|入口《いりぐち》|指《さ》して|駆《か》け|出《だ》しにける。
(大正一一・八・一九 旧六・二七 松村真澄録)
(昭和九・一二・一七 王仁校正)
第一一章 |売言買辞《ばいげんばいじ》〔八七七〕
アナンはハル、ナイルの|両人《りやうにん》を|先《さき》に|立《た》て、|岩窟《がんくつ》の|入口《いりぐち》に|悠然《いうぜん》として|腰打《こしうち》|掛《か》けて|待《ま》つて|居《ゐ》る|国依別《くによりわけ》|外《ほか》|二人《ふたり》の|前《まへ》に|来《きた》り、|忽《たちま》ち|地《ぢ》ベタに|手《て》をつき|乍《なが》ら、
『これはこれは、|国依別《くによりわけ》の|宣伝使《せんでんし》|様《さま》、|能《よ》くこそ|斯様《かやう》な|所迄《ところまで》|御入来《ごじゆらい》|下《くだ》さいまして、|岩窟内《がんくつない》|一同《いちどう》|恐悦《きようえつ》|至極《しごく》に|存《ぞん》じ|奉《たてまつ》ります。|就《つ》いては|今迄《いままで》|御無礼《ごぶれい》の|御咎《おとが》めも|厶《ござ》りませうなれど、|三五教《あななひけう》の|御教《みをしへ》|通《どほ》り、|只《ただ》|何事《なにごと》も|神直日《かむなほひ》|大直日《おほなほひ》に|見直《みなほ》し|聞直《ききなほ》し、|吾々《われわれ》の|身《み》の|過《あやま》ちは|宣《の》り|直《なほ》し|下《くだ》さいまして、|仁慈《じんじ》|無限《むげん》の|大御心《おほみこころ》を|発揮《はつき》し|下《くだ》さいまして、|何事《なにごと》もあなた|様《さま》の|大御心《おほみこころ》によりて|寛大《くわんだい》なる|御処置《ごしよち》を|取《と》られむ|事《こと》を|神《かみ》かけて|念《ねん》じ|奉《たてまつ》ります。あゝ|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》』
と|国依別《くによりわけ》を|無暗矢鱈《むやみやたら》に|拝《をが》み|倒《たふ》し、|一口《ひとくち》も|不足《ふそく》を|言《い》はせない|様《やう》に、|大手《おほて》|搦手《からめて》より|鉄条網《てつでうまう》を|張《は》つて|了《しま》つたのは、|実《じつ》に|狡猾《かうくわつ》|至極《しごく》の|曲者《くせもの》である。
『これはこれはアナンさまとやら、|何時《いつ》ぞやらは|丸木橋《まるきばし》の|畔《ほとり》に|於《おい》て、|花々《はなばな》しく|御奮闘《ごふんとう》|遊《あそ》ばされ、|実《じつ》にあなたの|神謀鬼策《しんぼうきさく》には|国依別《くによりわけ》|感嘆《かんたん》の|舌《した》を|巻《ま》いて|厶《ござ》る。|兵法《へいはふ》の|奥《おく》の|手《て》は|三十六計《さんじふろくけい》の|中《うち》、|逃《に》ぐるを|以《もつ》て|第一《だいいち》とすとかや、|世《よ》の|中《なか》は|勝《か》たう|勝《か》たうと|思《おも》ふに|依《よ》つて|治《おさ》まらない、あなた|方《がた》の|様《やう》に、|少数《せうすう》の|敵《てき》に|勝《かち》を|譲《ゆづ》り、|恥《はづ》かしげもなく|算《さん》を|乱《みだ》して|御遁走《ごとんさう》|遊《あそ》ばす|其《その》|御勇気《ごゆうき》には、|吾々《われわれ》も|倣《なら》はなくてはなりませぬ。|負《まけ》て|勝《かち》|取《と》るとやら、ネツトプライスの|掛値《かけね》なしの|店《みせ》よりも、ドツサリと|負値《おひね》を|吹《ふ》き|立《た》て、|客《きやく》に|対《たい》しドツサリ|負《まけ》てやる|店《みせ》の|方《はう》が|能《よ》く|繁昌《はんじやう》|致《いた》しますから、|定《さだ》めてウラル|教《けう》もよくお|負《まけ》|遊《あそ》ばしたのでせう。それ|故《ゆゑ》|得意《とくい》は|億客兆来《おくきやくてうらい》の|御繁昌《ごはんじやう》で|厶《ござ》いませう。イヤもう|国依別《くによりわけ》、|側《そば》へも|寄《よ》れませぬ。どうぞ|相変《あひかは》はらず|御店《おみせ》の|繁昌《はんじやう》する|様《やう》に、|今度《こんど》もキレーサツパリと|御負《おまけ》|下《くだ》さいませ。あなたの|方《はう》に|於《おい》て、|算盤《そろばん》が|合《あ》はないから|負《まけ》ないと|仰有《おつしや》れば|仕方《しかた》がありませぬ。|私《わたし》は|漆彦命《うるしひこのみこと》となつて|負《ま》かしてあげませう。チツとはうるし、|否《いや》うるさくても、そこが|何事《なにごと》も|神直日《かむなほひ》|大直日《おほなほひ》に|見直《みなほ》し|聞直《ききなほ》し|宣《の》り|直《なほ》すので|厶《ござ》いますからなア、ハヽヽヽヽ』
『ハイハイ、まだ|御取引《おとりひき》の|御用命《ごようめい》を|蒙《かうむ》らぬ|中《うち》から、|負《まけ》て|負《まけ》てとこ|切《ぎ》り|御便利《ごべんり》を|計《はか》つて|居《を》りまするから、|何卒《なにとぞ》|永当々々《えいたうえいたう》|御贔屓《ごひいき》の|程《ほど》を|御願《おねが》ひ|申《まを》します』
『|時《とき》に|吾々《われわれ》の|参《まゐ》りましたのは、|一《ひと》つ|売《う》つて|貰《もら》ひたい|品物《しなもの》が|厶《ござ》いまして、ワザワザ|当《たう》|商店《しやうてん》へ|罷《まか》り|越《こ》した、|新得意《しんとくい》で|厶《ござ》います。どうぞ|安《やす》く|負《まけ》て|御譲《おゆづ》り|下《くだ》さいませぬか』
『|御註文《ごちうもん》の|品物《しなもの》とは|一体《いつたい》|何物《なにもの》で|御座《ござ》いますか。|動物《どうぶつ》か、|植物《しよくぶつ》か、|器具《きぐ》か|或《あるひ》は|魚類《ぎよるゐ》か、|貝類《かひるゐ》か、|何《なん》なつと|御註文《ごちゆうもん》|次第《しだい》、|有《あり》さへすれば|只《ただ》でも|進《しん》ぜませう。|併《しか》し|乍《なが》ら|無《な》いものは|御免《ごめん》を|蒙《かうむ》つておかねばなりませぬ』
『|吾々《われわれ》の|買《か》ひ|求《もと》めに|来《き》た|者《もの》は|動物《どうぶつ》や|植物《しよくぶつ》ではありませぬ。|摺出《すりだ》しと、キギスと|住家《すみか》とで|御座《ござ》いますよ』
『へー、これは|又《また》|妙《めう》な|御註文《ごちゆうもん》ですな。キギスなどは|此《この》|館《やかた》には|居《を》りませぬ。|摺火《すりび》もなければ|売《う》る|様《やう》な|家《いへ》も|生憎《あいにく》|仕入《しい》れて|居《をり》ませぬので、どうぞ|外《よそ》さまを|御尋《おたづ》ねなさつて|下《くだ》さいませ。へー|毎度《まいど》|有難《ありがた》う、|御贔屓《ごひいき》に|預《あづか》りまして……』
『|毎度《まいど》|御贔屓《ごひいき》と|云《い》ふが、|今日《けふ》|始《はじ》めて|註文《ちうもん》に|来《き》たのぢやないか』
アナンは|切《しき》りに|腰《こし》を|屈《かが》め、|揉手《もみで》をし|乍《なが》ら、
『へー、これは|商《あきな》ひの|習慣《しふくわん》で|御座《ござ》いまして、|始《はじ》めての|御客《おきやく》さまでも、|毎度《まいど》|御《ご》ひいきに……と|云《い》ふ|事《こと》になつて|居《を》りまする。どうぞマア|奥《おく》へお|這入《はい》り|下《くだ》さいまして、|京《きやう》の|御茶漬《おちやづ》けでもドツサリ|食《あが》つて|下《くだ》さつて、|御帰《おかへ》り|下《くだ》さいませ』
『|最前《さいぜん》の|吾々《われわれ》が|註文《ちうもん》|致《いた》した、キギスと|云《い》ふのは、|三五教《あななひけう》のキジ|公《こう》の|事《こと》だ。|又《また》|摺出《すりだ》しと|云《い》ふたのはマチ|公《こう》の|事《こと》だよ。|住家《すみか》と|云《い》ふたのはエスと|云《い》ふ|事《こと》だ。|何時《いつ》までも|穴倉《あなぐら》の|中《なか》へ|仕舞《しま》ひ|込《こ》みておいても、|余《あま》り|利益《りえき》にもなりますまい。|新規《しんき》|流行《りうかう》の|此《この》|時節《じせつ》、|寝息物《ねいきもの》になれば|売《う》れ|行《ゆ》きが|悪《わる》くなるから、|買手《かひて》のある|中《うち》にお|売《う》りになる|方《はう》がお|店《みせ》のお|得《とく》だと|考《かんが》へますがなア』
『コレ|計《ばつか》りは|親方《おやかた》の|意見《いけん》を|聞《き》かねば、|番頭《ばんとう》の|自由《じいう》にはなりませぬから、|一寸《ちよつと》|待《ま》つてゐて|下《くだ》さい。マア|奥《おく》に|旦那様《だんなさま》がお|茶《ちや》でも|立《た》ててお|待受《まちうけ》で|御座《ござ》いますから、どうぞ|何《なん》なら|御這入《おはい》りになつては|如何《いかが》で|御座《ござ》います。たつて|厭《いや》なお|方《かた》に|這入《はい》つて|貰《もら》ひたい|事《こと》も|御座《ござ》いませぬ……では|御座《ござ》いませぬが』
『|何《なに》は|兎《と》もあれ、|奥《おく》へふみ|込《こ》み、ブールの|大将《たいしやう》に|直接《ちよくせつ》|面談《めんだん》を|遂《と》げ、|三人《さんにん》の|男《をとこ》を|受取《うけと》つて|帰《かへ》りませう。……サア|姫様《ひめさま》、エリナさま、|私《わたくし》に|従《つ》いて|御出《おい》でなさりませ』
と|無理《むり》に|行《ゆ》かうとするを、アナンは|大手《おほで》を|拡《ひろ》げて、
『モシモシそれは|余《あま》り|理不尽《りふじん》と|申《まを》すもの、|暫《しばら》くお|待《ま》ち|下《くだ》されば、|教主《けうしゆ》の|御許《おゆる》しが|出《で》ますから、それ|迄《まで》|余《あま》り|永《なが》くとは|申《まを》しませぬ。|暫《しばら》くお|待《まち》を|願《ねが》ひます』
|国依別《くによりわけ》は、
『イヤ、|少《すこ》しも|猶予《いうよ》はならぬ。|邪魔《じやま》めさるな』
と|進《すす》み|入《い》るを、|又《また》もやアナンは|大手《おほで》を|拡《ひろ》げて、『|待《ま》つた|待《ま》つた』と|後退《あとしざ》りし|乍《なが》ら、|行手《ゆくて》に|塞《ふさ》がり、|過《あやま》つてキジ、マチの|落込《おちこ》める|落《おと》し|穴《あな》へ|真逆様《まつさかさま》に|自分《じぶん》も|落《お》ち|込《こ》みにける。
『ヤア|自分《じぶん》の|作《つく》つた|陥穽《おとしあな》へ|自分《じぶん》がはまるとは、|実《じつ》に|天罰《てんばつ》と|云《い》ふものは|恐《おそ》ろしいものだナ。|併《しか》しチツとも|油断《ゆだん》は|出来《でき》ない。……|紅井姫《くれなゐひめ》|様《さま》、エリナ|様《さま》、|国依別《くによりわけ》の|歩《ある》いた|足跡《あしあと》より|外《ほか》を|歩《ある》いちや|可《い》けませぬよ。|大変《たいへん》な|危険《きけん》|区域《くゐき》ですから……』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら、|陥穽《おとしあな》を|上《うへ》から|覗《のぞ》き|込《こ》めば、|穴《あな》の|底《そこ》にキジ、マチの|両人《りやうにん》が|今《いま》おち|込《こ》みしアナンを|引捉《ひつとら》へ、
『サア、アナン、|貴様《きさま》も|此処《ここ》へ|落込《おちこ》みし|以上《いじやう》は、|最早《もはや》|叶《かな》ふまい。|一時《いつとき》も|早《はや》く|俺達《おれたち》を|救《すく》ひ|上《あ》げる|様《やう》に、|大将《たいしやう》に|歎願《たんぐわん》|致《いた》せばよし、グヅグヅ|致《いた》すと、|生首《なまくび》を|引抜《ひきぬ》いて|了《しま》うぞ。モウ|大丈夫《だいぢやうぶ》だ、|上《うへ》から|何《なに》を|落《お》としよつても、|貴様《きさま》の|体《たい》で|受《う》ければ|好《よ》いなり、|良《よ》いものが|降《ふ》つて|来《き》たものだ。|万一《まんいち》|腹《はら》が|減《へ》れば|貴様《きさま》の|肉《にく》を|食《く》つてやるなり、|何《なん》と|云《い》つてもモウ|此方《こちら》のものだ。アツハヽヽヽ』
と|笑《わら》ひ|乍《なが》ら、|空《そら》を|仰《あふ》ぐ|途端《とたん》にふと|目《め》に|付《つ》いたのは|国依別《くによりわけ》の|宣伝使《せんでんし》であつた。キジ|公《こう》は|思《おも》はず、
『ヤア|宣伝使《せんでんし》|様《さま》、|能《よ》う|来《き》て|下《くだ》さいましたナア』
『|今日《けふ》か|今日《けふ》かとマチ|公《こう》はマチかね|山《やま》の|時鳥《ほととぎす》、マチに|待《ま》つたる|今日《けふ》の|吉日《きちじつ》、アナ|有難《ありがた》やアナ|尊《たふと》や、アナ|嬉《うれ》しやなア。|穴《あな》の|中《なか》へアナンが|又《また》|降《ふ》つて|来《き》ました。モシ|宣伝使《せんでんし》|様《さま》、あなたさへ|御越《おこ》し|下《くだ》さらば|最早《もはや》|千人力《せんにんりき》です。どうか、|梯子《はしご》をかけて|下《くだ》さいませ。|梯子《はしご》が|無《な》ければ、|太《ふと》い|綱《つな》を|吊《つ》りおろして|下《くだ》さらば、それに|縋《すが》つて|上《のぼ》ります』
『|永《なが》らくの|御隠居《ごいんきよ》、さぞ|精神《せいしん》|修養《しうやう》が|出来《でき》たでせう。|実《じつ》に|国依別《くによりわけ》はお|羨《うらや》ましう|存《ぞん》じますワイ』
『|何事《なにごと》も|善意《ぜんい》に|解釈《かいしやく》すれば、|陥穽《おとしあな》だつて、|別《べつ》に|苦《くる》しいとは|思《おも》ひませぬ。|本当《ほんたう》に|神様《かみさま》の|御蔭《おかげ》で、キジ|公《こう》も|結構《けつこう》な|魂研《たまみが》きをさして|頂《いただ》きました』
『それ|程《ほど》|結構《けつこう》ならば、モウ|暫《しばら》く|御両人《ごりやうにん》|共《とも》、そこで|徹底的《てつていてき》の|修業《しうげふ》を|遊《あそ》ばしては|如何《いかが》ですか』
『イヤもう|是《こ》れで|一寸《ちよつと》|一服《いつぷく》さして|貰《もら》ひまして、|又《また》|更《あらた》めて|荒行《あらげう》にかかりますから、どうぞ|一刻《いつこく》も|早《はや》く|吊《つ》り|上《あ》げて|下《くだ》さいませ。|併《しか》し、|此《この》アナン|殿《どの》は|今《いま》|這入《はい》つたばかしですから、|上《あ》げては|気《き》の|毒《どく》です。せめて|四五年《しごねん》も、|実地《じつち》|修行《しうげう》の|出来《でき》る|迄《まで》、|此《この》|井戸《ゐど》の|底《そこ》で|断食《だんじき》|修業《しうげふ》をさしてやりませう。……なア、アナン、それが|結構《けつこう》だらう、|吾身《わがみ》を|抓《つめ》つて|人《ひと》の|痛《いた》さを|知《し》れ……と|云《い》ふ|事《こと》がある、|吾々《われわれ》も|永《なが》らく|結構《けつこう》な|深《ふか》い、|冷《つめ》たい|陥穽《おとしあな》の|御世話《おせわ》に|預《あづか》つて、|此《この》|御恩《ごおん》は|忘《わす》れられませぬワイ。|己《おのれ》の|欲《ほつ》する|所《ところ》は|之《これ》を|人《ひと》に|施《ほどこ》せ、|欲《ほつ》せざる|所《ところ》は|人《ひと》に|施《ほどこ》す|勿《なか》れ……と|云《い》つて、|吾々《われわれ》は|大変《たいへん》に|此《この》|陥穽《おとしあな》の|底《そこ》が|気《き》に|入《い》つたから、アナンさまにも|御神徳《おかげ》の|丸取《まるど》りをせずに、|分配《ぶんぱい》してあげませうかい』
『|誠《まこと》に|済《す》まぬ|事《こと》を|致《いた》しました。どうぞ|今迄《いままで》の|事《こと》は|一条《いちでう》の|夢《ゆめ》とお|忘《わす》れ|下《くだ》さいまして、|此《この》アナンをあなたと|一所《いつしよ》に|引上《ひきあ》げて|貰《もら》ふやうに|国依別《くによりわけ》さまに、お|願《ねが》ひ|下《くだ》さいな』
『ヤアそれは|願《ねが》つてあげませう。|併《しか》し|何時《いつ》|上《あ》げて|下《くだ》さるかはキジ|公《こう》が|保証《ほしよう》する|事《こと》は|出来《でき》ませぬよ。|人間《にんげん》は|刹那心《せつなしん》が|大切《たいせつ》だ。マアゆつくりと|気《き》を|落着《おちつ》けて|居《を》られたがよからう。|泰然自若《たいぜんじじやく》として|山岳《さんがく》の|動《うご》かざるが|如《ごと》し|底《てい》の|大度量《だいどりやう》がなくては、ウラル|教《けう》の|幹部《かんぶ》は|勤《つと》まりますまい、アハヽヽヽ』
|斯《か》く|云《い》ふ|中《うち》、|国依別《くによりわけ》は|繩梯子《なはばしご》を|捜《さが》し|出《だ》し、パラリと|吊《つ》り|下《お》ろせば、|一番《いちばん》にキジ|公《こう》は、|猿《ましら》の|如《ごと》く|繩梯子《なはばしご》を|伝《つた》ひあがる。|次《つい》で、マチ|公《こう》が|上《あ》がつて|来《き》た。|今度《こんど》はアナンが|一生懸命《いつしやうけんめい》に|繩梯子《なはばしご》に|手《て》をかけ、|二段《にだん》|三段《さんだん》|上《あ》がつた|所《ところ》を、キジ|公《こう》|繩梯子《なはばしご》の|結《むす》び|手《て》をプツツと|切《き》つた。アナンは|再《ふたた》び|井戸《ゐど》の|底《そこ》にドスンと|音《おと》を|立《た》てて|尻餅《しりもち》をつき、
『|助《たす》けて|呉《く》れい、|助《たす》けて|呉《く》れい』
と|叫《さけ》んで|居《ゐ》る。キジ|公《こう》は|上《うへ》から、
『|助《たす》けてやらぬ|事《こと》はないが、それには|一《ひと》つ|註文《ちうもん》がある。|其《その》|註文《ちうもん》に|応《おう》ずるかどうだ』
『ハイハイ、|何事《なにごと》も|御註文《ごちゆうもん》に|応《おう》じます。|最前《さいぜん》も|国依別《くによりわけ》|様《さま》に|無類飛切《むるゐとびき》り、めちやめちやの|投売《なげうり》を|致《いた》しますと、|約束《やくそく》しておきました。ドツと|負《まけ》ておきますから、|精々《せいぜい》|御註文《ごちうもん》を|願《ねが》ひます。|其《その》|代《かは》り、|私《わたし》を|井戸《ゐど》から|上《あ》げて|下《くだ》さるでせうなア』
『|負《まけ》る|品物《しなもの》を|上《あ》げるといふ|事《こと》があるかい。|就《つ》いては|註文《ちうもん》の|次第《しだい》は、エスの|所在《ありか》はどこだ。それをキツパリと|白状《はくじやう》するのだ。さうせなくてはキジ|公《こう》も|助《たす》けてやる|事《こと》は|出来《でき》ぬワイ』
『エスさまですか、そりや|私《わたし》では|分《わか》りませぬ。ブールの|大将《たいしやう》に|聞《き》いて|下《くだ》さい。|大将《たいしやう》が|秘密《ひみつ》にして|居《を》りますから、|吾々《われわれ》の|窺知《きち》を|許《ゆる》しませぬ』
|国依別《くによりわけ》は|言《ことば》も|急《いそ》がしげに、
『キジさま、マチさま、サア|是《こ》れから|気《き》をつけもつて|奥《おく》へ|参《まゐ》らう。……アナンさま、|暫《しばら》くそこで|修業《しうげふ》をなさいませ。キツと|救《すく》ひ|上《あ》げますから、|併《しか》し|乍《なが》らエスの|所在《ありか》が|分《わか》り|次第《しだい》|助《たす》けますから、それ|迄《まで》そこで|御辛抱《ごしんぼう》をなさいませや。|何《なに》か|御入用《ごいりよう》の|物《もの》が|厶《ござ》いますれば、|何《なん》なりと|遠慮《ゑんりよ》なく|仰有《おつしや》つて|下《くだ》さいませ。|石《いし》の|団子《だんご》でも、|砂《すな》の|握《にぎ》り|飯《めし》でも、|蛔蟲虫《くわいちうむし》の|素麺《そうめん》でも、|御註文《ごちうもん》|次第《しだい》、|勉強《べんきやう》して|御安《おやす》く|差上《さしあ》げますワ、アハヽヽヽ』
と|笑《わら》ひ|乍《なが》ら、|教主《けうしゆ》の|居間《ゐま》を|指《さ》して、|三男《さんなん》|二女《にぢよ》の|一行《いつかう》は|足許《あしもと》に|気《き》をつけ|乍《なが》ら、|進《すす》み|行《ゆ》く。
(大正一一・八・一九 旧六・二七 松村真澄録)
(昭和九・一二・一七 於七尾市 王仁校正)
第一二章 |冷《つめた》い|親切《しんせつ》〔八七八〕
ユーズは|国依別《くによりわけ》、|外《ほか》|二女《にぢよ》の|茲《ここ》に|現《あら》はれしと|聞《き》き、|驚《おどろ》いてアナンを|入口《いりぐち》の|方《はう》に|向《むか》はしめ、|何《なん》とか|彼《か》とか|言《い》つて、|其《その》|間《あひだ》にブール|教主《けうしゆ》を|納得《なつとく》させ、エスを|水牢《みづらう》より|救《すく》ひ|出《だ》し、|何《なに》|喰《く》はぬ|顔《かほ》をして、|甘《うま》く|国依別《くによりわけ》の|歓心《くわんしん》を|買《か》ひ、|鋭鋒《えいほう》をさけむと|苦慮《くりよ》し|乍《なが》ら、ブールの|居間《ゐま》に|慌《あは》ただしくかけ|入《い》り、
『モシ、|教主様《けうしゆさま》、タヽ|大変《たいへん》な|事《こと》が|突発《とつぱつ》|致《いた》しました』
『|大変《たいへん》とは|何事《なにごと》だ』
『ヘエ|一寸《ちよつと》|申上《まをしあ》げて|能《よ》いやら、|上《あ》げぬがよいやら、|私《わたし》には|見当《けんたう》が|付《つ》きませぬが、|兎《と》も|角《かく》も|申上《まをしあ》げて|見《み》ませうかな。|大変《たいへん》にあなたが|御喜《およろこ》びの|話《はなし》と、お|驚《おどろ》きの|話《はなし》とが、ごつちや|苦茶《くちや》になつて|居《を》りますので、|実《じつ》はどうも、お|目出《めで》たいやら、お|気《き》の|毒《どく》やらで、|実《じつ》は|申上《まをしあげ》かねてゐます』
『|構《かま》はないから|早《はや》く|言《い》つて|呉《く》れ』
『あなたの|数年前《すうねんぜん》から|御執心《ごしふしん》|遊《あそ》ばすヒルの|都《みやこ》の|紅井姫《くれなゐひめ》|様《さま》が、ブール|様《さま》に|直接《ちよくせつ》お|目《め》にかかつて、お|願《ねがひ》|申《まを》したい|事《こと》が|御座《ござ》いまして、ワザワザ|御伺《おうかが》ひ|致《いた》しました……と|仰有《おつしや》つたかどうか、|其《その》|点《てん》|迄《まで》はハツキリと|存《ぞん》じませぬが、マアマア|美人《びじん》と|云《い》ふものは|人気《にんき》のよいもので|御座《ござ》いますワイ』
『ナニ、ヒルの|館《やかた》の|紅井姫《くれなゐひめ》が|訪《たづ》ねて|来《き》たとは、そりや|本当《ほんたう》か』
『|本当《ほんたう》も|本当《ほんたう》、|一文生中《いちもんきなか》の|掛値《かけね》も|御座《ござ》いませぬワイ。|付《つ》いては|喜《よろこ》びあれば|悲《かな》しみあり……とか|申《まを》しまして、あなたがお|聞《き》きになつたならば、さぞやさぞや、ブールブールと|慄《ふる》ひ|上《あが》つて、|顔《かほ》の|色《いろ》まで|青《あを》くなり、|家《いへ》の|隅《すみ》くたに、|人《ひと》に|顔《かほ》をも|能《よ》う|見《み》せず、|縮《ちぢ》み|上《あが》りて|居《を》らねばならぬぞよと、|三五教《あななひけう》の|御神諭《ごしんゆ》の|様《やう》な|事《こと》になるかも|知《し》れませぬ。それだから|第一《だいいち》に|国依別《くによりわけ》の|遣《つか》はしたキジ、マチの|両人《りやうにん》を|救《すく》ひ|出《だ》し、|彼奴《あいつ》にドツサリ|酒《さけ》でも|呑《の》まして|口塞《くちふさ》ぎをし、|又《また》エリナの|父《ちち》のエスをば、|今《いま》の|中《うち》に|牢獄《らうごく》から|引張《ひつぱり》|出《だ》し、|此奴《こいつ》も|十分《じふぶん》|大切《たいせつ》にして|御馳走《ごちそう》|責《ぜ》めに|会《あ》はし、|何《なに》も|言《い》はない|様《やう》にするのが|上分別《じやうふんべつ》だと|考《かんが》へますが、どう|取計《とりはか》らひませうかなア』
『そりや|大変《たいへん》だ。|表口《おもてぐち》はアナンが、さうして|暇取《ひまど》らせて|居《ゐ》る|間《あひだ》に、|早《はや》くこちらは|準備《じゆんび》をせなくてはならぬ。お|前《まへ》|御苦労《ごくらう》だが、エスを|早《はや》く|引《ひ》つ|張《ぱり》|出《だ》して|来《き》て|呉《く》れ』
『これはこれは|誠《まこと》に|以《もつ》て、|吾々《われわれ》|如《ごと》き【はした】|者《もの》の|進言《しんげん》をお|聞《きき》|届《とど》け|下《くだ》さいまして、|御仁慈《ごじんじ》|深《ふか》き|教主殿《けうしゆどの》の|御心《みこころ》、イヤもう|吾々《われわれ》が|助《たす》けて|貰《もら》つたように|有難《ありがた》く|存《ぞん》じまする。エスも|本当《ほんたう》に|気《き》の|毒《どく》なものですワイ。ウラル|教《けう》の|宣伝使《せんでんし》であり|乍《なが》ら、|三五教《あななひけう》の|神司《かむつかさ》を|泊《と》めたとか|云《い》つて、|世間《せけん》|狭《せま》い|事《こと》を|主張《しゆちやう》し、|無理難題《むりなんだい》をかけて、あの|様《やう》な|所《ところ》へ|放《はう》り|込《こ》みおくと|云《い》ふ|無慈悲《むじひ》な|事《こと》で、|如何《どう》して|御道《おみち》が|拡《ひろ》まりませうか、|神様《かみさま》の|大御心《おほみこころ》に|叶《かな》ひませうか、オツト|待《ま》てよ、エスを|放《はう》り|込《こ》みた|張本人《ちやうほんにん》は|矢張《やつぱり》ユーズだつた。ヤア|是《これ》は|取消《とりけ》します。|教主《けうしゆ》さま、もし|国依別《くによりわけ》が|誰《たれ》がエスを|放《はう》り|込《こ》みたかと|尋《たづ》ねたらあなたは|此《この》ブールだと、|部下《ぶか》の|責任《せきにん》を|引受《ひきう》けて|言《い》つて|下《くだ》さいや、|頼《たの》みますから』
『|何《なに》をグヅグヅ|云《い》つてゐるのだ。|間髪《かんはつ》を|入《い》れざる|此《この》|場合《ばあひ》、|早《はや》く|行《ゆ》かないか。ユーズの|利《き》かぬ|奴《やつ》だなア』
『|教主様《けうしゆさま》のユーズが|利《き》かないから、それで|先《さき》へ|御相談《ごさうだん》をして|居《ゐ》るのぢやありませぬか。|折角《せつかく》|引《ひ》つ|張《ぱり》|出《だ》して|来《き》て、|私《わたし》が|一人《ひとり》|悪者《わるもの》にせられちや、やり|切《き》れませぬからなア』
『どうでもよい、|俺《おれ》が|引受《ひきう》けてやるから、|早《はや》く|出《だ》して|来《こ》い』
『ハイ|畏《かしこ》まりました。ウントコドツコイ、シテコイナ』
と|尻《しり》ひつからげ|牢獄《らうごく》|指《さ》して、タツタツタツと|暗《くら》がり|道《みち》を|走《はし》り|行《ゆ》き、|漸《やうや》く|水牢《みづろう》の|外面《そとも》に|走《はし》り|寄《よ》り、
『コレコレエス|様《さま》、さぞさぞ|御難儀《ごなんぎ》で|御座《ござ》りましただらう。|何分《なにぶん》ここの|大将《たいしやう》がブールブール|言《い》うて|怒《おこ》り|散《ち》らし、|此《この》ユーズが|融通《ゆうづう》を|利《き》かして、|幾度《いくど》も|救《すく》ひ|出《だ》してあげたいと|思《おも》ひ、|骨《ほね》を|折《を》りましたけれど、|何《なん》と|云《い》つてもお|前《まへ》さまは、|一生涯《いつしやうがい》|出《だ》す|事《こと》は|出来《でき》ぬと|頑張《ぐわんば》つて|居《を》りましたよ。|本当《ほんたう》にひどいものですなア。|併《しか》し|乍《なが》ら|昼《ひる》も|夜《よる》も|私《わたし》が、|教主《けうしゆ》の|側《そば》に|附添《つきそ》うて|千言万語《せんげんばんご》を|尽《つく》し、|漸《やうや》くあなたを|救《すく》ひ|出《だ》す|段取《だんどり》りになりました。サア|早《はや》く|出《で》て|下《くだ》さい』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら、|錠《ぢやう》をガタリと|外《はづ》した。エスは|暗《くら》い|牢《ろう》の|中《なか》から、
『|何《なん》と|言《い》つても、|吾々《われわれ》は|此処《ここ》を|結構《けつこう》な|御宮殿《おみと》だと|考《かんが》へ、|天然《てんねん》に|湧《わ》き|出《で》る|岩《いは》の|水《みづ》を|掬《すく》つて|呑《の》み、|始《はじ》めは|少《すこ》し|暗《くら》かつたが、|目《め》が|馴《なれ》て|来《き》て、そこらが|少《すこ》し|明《あ》かるくなつた。|滾々《こんこん》として|流《なが》れ|出《い》づる|清泉《せいせん》を|眺《なが》め、|瑞《みづ》の|御霊《みたま》の|大神様《おほかみさま》の|御恵《みめぐ》みは|此《この》|通《とほ》りと、|私《わたくし》は|結構《けつこう》な|修業《しうげふ》をさして|貰《もら》つた。|誰《たれ》が|何《なん》と|云《い》つてもここを|出《で》る|事《こと》は|出来《でき》ぬ。|酒《さけ》が|呑《の》みたいと|思《おも》へば|此《この》|清水《せいすゐ》は|酒《さけ》と|変《かは》り、|葡萄酒《ぶだうしゆ》と|変《かは》り、|厚《あつ》き|神《かみ》の|御恵《みめぐみ》を|結構《けつこう》に|身《み》に|浴《あ》びて|居《ゐ》るのだから、そンな|殺生《せつしやう》な|事《こと》を|云《い》はず、そこを|締《し》めておいて|下《くだ》さい。|何《なん》と|云《い》つても、|吾々《われわれ》はここを|出《で》る|事《こと》は|不賛成《ふさんせい》ですワイ』
『コリヤ|又《また》|妙《めう》な|事《こと》を|仰有《おつしや》りますなア。こンなせせつこましい|所《ところ》へ|閉《と》ぢ|込《こ》められて、|苦《くるし》ンでゐるよりも、|広《ひろ》い|世界《せかい》へ|飛《と》び|出《だ》して、|自由自在《じいうじざい》に、ちつと|外《そと》を|眺《なが》めて|見《み》たらどうですか。|天《てん》は|青《あを》くすみ|渡《わた》り、|山川《やまかは》は|清《きよ》くさやけく、|田《た》の|面《おも》には|黄金《こがね》の|波《なみ》が|打《う》ち、|鳥《とり》は|歌《うた》ひ|蝶《てふ》は|舞《ま》ひ、|果物《くだもの》は|稔《みの》り、|花《はな》は|咲《さ》き、こンな|所《ところ》に|蟄居《ちつきよ》してるのとは|比較《ひかく》になりませぬよ。サア|早《はや》く|出《で》て|貰《もら》はぬと、|此《この》|館《やかた》に|詰《つま》らぬ|事《こと》が|出来《でき》るのだ。サア|頼《たの》みだから、どうぞ|出《で》て|下《くだ》さいな、サア|早《はや》う|早《はや》う』
『|吾々《われわれ》は|誰《たれ》が|何《なん》と|云《い》つても、|此処《ここ》を|出《で》る|事《こと》は|出来《でき》ない。お|前《まへ》たちは|狭《せま》い|牢獄《らうごく》だと|思《おも》つてゐるだらうが、|神《かみ》の|恵《めぐみ》を|受《う》けた|俺達《おれたち》の|目《め》から|見《み》れば、|此《この》|狭《せま》い|一室《いつしつ》も|宇宙大《うちうだい》に|見《み》えるのだから、|仕方《しかた》がないワ。|小鳥《ことり》を|籠《かご》に|永《なが》らく|飼《か》うておき、|戸《と》をあけて|広《ひろ》い|世界《せかい》へ|放《ほ》り|出《だ》してやつても、|其《その》|鳥《とり》は|又《また》|元《もと》の|籠《かご》が|恋《こひ》しうて|帰《かへ》つて|来《く》るものだ。おれも|斯《こ》うなつては|挺子《てこ》でも|棒《ぼう》でも|動《うご》きませぬぞや。|汚《けが》らはしい|事《こと》を|言《い》はずに|早《はや》く|立去《たちさ》るが|良《よ》い』
ユーズ|心《こころ》の|中《なか》にて、|普通《ふつう》では|此奴《こいつ》は|動《うご》きよらぬと|考《かんが》へ……エリナが|此処《ここ》へ|来《き》て|腹痛《ふくつう》を|起《おこ》してゐると|云《い》へば、|何程《なにほど》|頑固《ぐわんこ》なエスでも、|吾子《わがこ》を|見《み》たさに、|出《で》ると|云《い》ふだらう、オウそれがよい……と|心《こころ》にうなづき|乍《なが》ら、
『|実《じつ》の|所《ところ》はお|前《まへ》さまの|独娘《ひとりむすめ》、エリナさまが、ここへお|迎《むか》へにお|出《い》で|遊《あそ》ばし、|今《いま》ブールさまの|御居間《おゐま》で|腹痛《ふくつう》を|起《おこ》し、お|父《と》うさまに|会《あ》ひたい|会《あ》ひたいと|仰有《おつしや》るのだから、お|前《まへ》さまも|子《こ》の|可愛《かあい》い|味《あぢ》は|知《し》つてるだらう。
|白銀《しろがね》も|黄金《こがね》も|玉《たま》も|何《なに》かせむ |子《こ》にます|宝《たから》|世《よ》にあらめやも
と|云《い》ふ|歌《うた》があるでせう。|其《その》|大切《たいせつ》な|子《こ》が|来《き》てゐるのぢや。サアサア|早《はや》く|出《で》て、エリナさまに|目出《めで》たく|対面《たいめん》してあげて|下《くだ》さいナ。|親《おや》が|子《こ》に|対《たい》する|愛情《あいじやう》は、|到底《たうてい》|門外漢《もんぐわいかん》の|伺《うかが》ひ|知《し》る|所《ところ》ではないさうだ。
|早乙女《さおとめ》や|子《こ》の|泣《な》く|方《はう》にうゑて|行《ゆ》き
|拾《ひろ》はるる|親《おや》は|蔭《かげ》から|手《て》を|合《あは》せ
と|云《い》つて、|子《こ》|位《くらゐ》|可愛《かあい》いものはないぢやないか、なあエスさま』
『アハヽヽヽ、|国依別《くによりわけ》の|宣伝使《せんでんし》が|御出《おいで》になり、ヒルの|館《やかた》の|紅井姫《くれなゐひめ》|様《さま》と、|吾《あが》|娘《むすめ》のエリナの|三人《さんにん》がやつて|来《き》て、キジ|公《こう》、マチ|公《こう》|両人《りやうにん》を|救《すく》ひ|上《あ》げ、|今《いま》ブールの|居間《ゐま》に|乗込《のりこ》まうとする|最中《さいちう》であらうがナ。ブールの|大将《たいしやう》|橡麺棒《とちめんぼう》を|喰《く》つて、|甘《うま》く|其《その》|場《ば》をつくらはうと|思《おも》ひ、|今更《いまさら》|俺《おれ》を|大事相《だいじさう》にして|見《み》せたつて|駄目《だめ》だよ』
『ヤア、|何時《いつ》の|間《ま》にそれ|丈《だけ》|何《なに》も|彼《か》も|能《よ》く|分《わか》る|様《やう》になつたのかな。|大方《おほかた》|金毛九尾《きんまうきうび》でも|憑《つ》きよつたのだな。どうも|怪《あや》しい。こンな|所《ところ》に|居《を》つて|何《なに》も|彼《か》も|皆《みな》|知《し》つて|居《ゐ》るぢやないか』
『|俺《おれ》をどなたと|心得《こころえ》て|居《ゐ》るか。|永《なが》らく|此《この》|泉《いづみ》の|湧《わ》き|出《い》づる|牢獄内《らうごくない》に|於《おい》て|御霊《みたま》を|清《きよ》め、|大悟《たいご》|徹底《てつてい》した|御蔭《おかげ》で|勿体《もつたい》なくも|木《こ》の|花姫《はなひめ》|様《さま》の|御分霊《ごぶんれい》を|戴《いただ》き、|何《なに》もかも|世界中《せかいぢう》の|事《こと》が|見《み》えすく|様《やう》になつたのだ。|俺《おれ》の|女房《にようばう》もあの|地震《ぢしん》で|亡《な》くなつたであらうがな。あの|様《やう》な|分《わか》らぬ|奴《やつ》が|残《のこ》つて|居《を》ると、|大切《たいせつ》な|神業《しんげふ》の|邪魔《じやま》を|致《いた》すに|依《よ》つて、|神界《しんかい》から|御引上《おひきあげ》になつたのだ。|決《けつ》して|俺《おれ》は|女房《にようばう》|位《くらゐ》には|目《め》をくれてをらぬ。|又《また》|何程《なにほど》|吾子《わがこ》が|可愛《かあい》いと|云《い》つても、|神様《かみさま》には|変《か》へられないから、もしもエリナが|親《おや》に|会《あ》ひたいと|思《おも》ふならば、ここ|迄《まで》|面会《めんくわい》に|来《き》たがよからう。|何《なん》と|云《い》つても、|出《で》ぬと|申《まを》したら、|金輪際《こんりんざい》、|五六七《みろく》の|世《よ》|迄《まで》も|此処《ここ》を|出《で》ないのだから、|早《はや》くブールに|向《むか》つて、さう|云《い》つておくがよからうぞ。あゝ|折角《せつかく》|気分《きぶん》よく|眠《ねむ》つてゐた|所《ところ》を|醒《さ》まされて、|気《き》が|利《き》かない。マアゆつくりと|此処《ここ》で|一寝入《ひとねい》りして、|岩屋《いはや》の|中《なか》の|活劇《くわつげき》を|透視《とうし》する|事《こと》にせうかい』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら、ゴロンと|横《よこ》になり、|早《はや》くも|板《いた》を|背中《せなか》に|負《お》うて、|蒲鉾《かまぼこ》の|様《やう》に、グウグウと|鼾《いびき》を|掻《か》き、|寝入《ねい》らむとする。|落《おち》つき|払《はら》つたエスの|態度《たいど》に、ユーズは|呆《あき》れ|果《は》て、すごすごとブールの|居間《ゐま》に|帰《かへ》り|行《ゆ》く。
|国依別《くによりわけ》は|二男《になん》|二女《にぢよ》を|伴《ともな》ひブールの|居間《ゐま》に|通《とほ》れば、ブールは|俄《にはか》に|態度《たいど》を|変《か》へ、|庭《には》に|下《お》り、|揉手《もみで》し|乍《なが》ら、
『これはこれは、|国依別《くによりわけ》|様《さま》|其《その》|外《ほか》|御一同様《ごいちどうさま》、よくマア|斯様《かやう》な|所《ところ》へ|御来訪《ごらいはう》|下《くだ》さいました。|先達《せんだつ》ては|三倉山《みくらやま》の|谷川《たにがは》に|於《おい》て、|失礼《しつれい》を|致《いた》しました。|実《じつ》にあの|時《とき》のあなたの|理義《りぎ》|明白《めいはく》なる|御言葉《おことば》には|感《かん》じ|入《い》りまして、|私《ひそ》かに|御高徳《ごかうとく》を|慕《した》つて|居《を》りましたが、|何分《なにぶん》にも|沢山《たくさん》の|部下《ぶか》の|手前《てまへ》、|其《その》|場《ば》であなた|様《さま》の|御弟子《おでし》になる|訳《わけ》にも|行《ゆ》かず、|今日迄《こんにちまで》どうぞしてあの|宣伝使《せんでんし》にお|目《め》にかかり、|立派《りつぱ》な|御教《みをしへ》を|聞《き》かして|頂《いただ》きたいと、|朝《あさ》な|夕《ゆふ》なに|念《ねん》じて|居《を》りました。|其《その》|功《こう》|空《むな》しからず、|今日《けふ》は|又《また》|何《なん》たる|吉日《きちじつ》でせう。あなた|様《さま》のみならず、|皆様《みなさま》も|賑々《にぎにぎ》しく|御来訪《ごらいはう》|下《くだ》さいまして、|何《なん》と|御礼《おれい》|申《まを》してよいやら|御礼《おれい》の|言《ことば》も|分《わか》りませぬ。ヤア|御遠慮《ごゑんりよ》なくズツと|御入《おはい》り|下《くだ》さいませ、|今《いま》に|御酒《おさけ》の|用意《ようい》も|出来《でき》ませうから』
『|仮令《たとへ》|心《こころ》は|反対《はんたい》でも、さう|御叮嚀《ごていねい》な|言霊《ことたま》を|使《つか》つて|貰《もら》ふのは|気分《きぶん》の|良《よ》いものですよ。|左様《さやう》ならば、|遠慮《ゑんりよ》なく|国依別《くによりわけ》も、|御免《ごめん》を|蒙《かうむ》りませう……サア|皆《みな》さま、|私《わたし》と|一所《いつしよ》におあがりなさいませ』
『サアどなた|様《さま》も、むさくるしい|所《ところ》で|御座《ござ》いますが、ブールの|私《わたし》が|居間《ゐま》です。|御遠慮《ごゑんりよ》なく、ズツと|奥《おく》へお|進《すす》み|下《くだ》さいませ』
『ハイ|有難《ありがた》う』
と|五人《ごにん》はブールの|居間《ゐま》に|半月形《はんげつがた》に|坐《すわ》り|込《こ》んだ。ブールは|恐《おそ》る|恐《おそ》る|手《て》をつき、|国依別《くによりわけ》の|発言《はつげん》を|待《ま》つて|居《ゐ》る。
『どうも|永《なが》らく、キジ、マチの|両人《りやうにん》が、|深《ふか》い|冷《つめ》たい|御同情《ごどうじやう》に|預《あづか》りまして、おかげで|生命《いのち》|丈《だけ》は|取《と》りとめました。|是《これ》と|云《い》ふのも|全《まつた》く|尊《たふと》き|神《かみ》さまの|御守《みまも》り、|又《また》あなた|様《さま》の|残酷《ざんこく》なる|同情《どうじやう》に|依《よ》つて、おかげで|両人《りやうにん》は|魂《たま》を|研《みが》き、|立派《りつぱ》な|人間《にんげん》に|仕上《しあが》りました。|更《あらた》めて|国依別《くによりわけ》、|御礼《おれい》を|申《まを》します』
『ハイ、|誠《まこと》に|行届《ゆきとど》かぬ|事《こと》で|御座《ござ》いました。|何分《なにぶん》|災《わざはい》は|下《しも》からと|云《い》つて、|私《わたくし》ブールの|知《し》らない|事《こと》を、|下《した》の|奴等《やつら》が|勝手《かつて》に|致《いた》すもので|御座《ござ》いますから、エヽ、キジ、マチ|両人《りやうにん》さまにも、どんな|御扱《おあつか》ひをして|居《を》つたか、|私《わたし》はちつとも|存《ぞん》じませぬ。|定《さだ》めて|御不自由《ごふじゆう》で|御座《ござ》いましたらう。これも|前生《ぜんせい》の|因縁《いんねん》だと|諦《あきら》めて、どうぞ|御立腹《ごりつぷく》の|点《てん》は|見直《みなほ》し|聞直《ききなほ》し、お|許《ゆる》しあらむ|事《こと》を|御願《おねが》い|致《いた》します』
キジはニコニコし|乍《なが》ら、
『モシ、ブールさまどうも|有難《ありがた》う|御座《ござ》いました……とは|申《まを》されませぬ。|併《しか》し|修業《しうげふ》を|致《いた》しまして、|魂《たま》を|研《みが》いたのは|私《わたくし》の|信仰《しんかう》の|力《ちから》で|御座《ござ》いますから、あなたの|感知《かんち》さるる|所《ところ》ではありませぬから、お|礼《れい》は|申《まを》しませぬワ。なア、マチ|公《こう》さうだらう』
『さうともさうとも、|余《あま》り|人《ひと》を|虐待《ぎやくたい》しておくと、|後《あと》が|何々《なになに》ぢやからなア。|一本《いつぽん》のマチくづがあれば、|大都会《だいとくわい》でも、|三千世界《さんぜんせかい》でも|焼《や》きつくせるのだから、|此《この》マチ|公《こう》だつて|馬鹿《ばか》にはなりませぬワイ。|罷《まか》り【マチ】がへば、どこやらの|人《ひと》が、ブールブールと|蒟蒻《こんにやく》のお|化《ばけ》のやうに|震《ふる》ひ|上《あが》る|様《やう》な|悲惨事《ひさんじ》が|突発《とつぱつ》するかも|知《し》れませぬワイ。|用心《ようじん》なさいませや。【マチ】も|湿《しめ》つて|居《ゐ》る|間《あひだ》は|至極《しごく》|安全《あんぜん》ですが、|湿《しめ》つぽい|陥穽《おとしあな》から|這《は》ひあがつて|来《き》てこう|燥《はしや》ぎ|出《だ》すと、|随分《ずいぶん》|険呑《けんのん》ですよ。アハヽヽヽ』
『|御立腹《ごりつぷく》は|御尤《ごもつと》もで|御座《ござ》いますが、どうぞ|神直日《かむなほひ》|大直日《おほなほひ》に|見直《みなほ》し、|聞直《ききなほ》して|下《くだ》さいませ。ブールが|御詫《おわび》|致《いた》します』
『アハヽヽヽ、コリヤ|嘘《うそ》だ、【マチ】がひだ。|吾々《われわれ》は|三千世界《さんぜんせかい》に|敵《てき》もなければ|味方《みかた》も|持《も》たない。|只《ただ》|神様《かみさま》を|親《おや》とし、|世界《せかい》|万物《ばんぶつ》を|兄弟《けうだい》と|思《おも》つてゐるのだから、|決《けつ》して|祖神様《おやがみさま》の|御心配《ごしんぱい》をなさる|様《やう》な|兄弟喧嘩《けうだいげんくわ》は|致《いた》しませぬから、ブールさま|御安心《ごあんしん》|下《くだ》さいませ。ここに|雛《ひな》さまの|様《やう》にして|並《なら》ンで|御座《ござ》るナイスは、ヒルの|神館《かむやかた》の|有名《いうめい》な|紅井姫《くれなゐひめ》|様《さま》で|御座《ござ》いますよ。そしてモ|一人《ひとり》はお|前《まへ》さまが|水牢《みづろう》に|入《い》れて|苦《くるし》めて|居《ゐ》るエスさまの|娘《むすめ》エリナさまですよ』
と|言尻《ことばぢり》に|力《ちから》をこめ、|大声《おほごゑ》に|思《おも》はず|呶鳴《どな》つて、|目《め》を|剥《む》き|睨《にら》みつける。ブールは|驚《おどろ》いてブルブルと|身《み》を|震《ふる》はし、
『ハイ、|左様《さやう》で|御座《ござ》いますか、|能《よ》うマア|来《き》て|下《くだ》さいました。お|父《とう》さまも|世間《せけん》からは|如何《どう》|云《い》つて|居《ゐ》るか|知《し》りませぬが、|十分《じふぶん》|大切《たいせつ》にして|居《を》つて|貰《もら》うて|居《を》りますから、|今《いま》に|茲《ここ》へお|出《い》でになりませう。どうぞ|御安心《ごあんしん》|下《くだ》さいませ』
『さうでせう、キジの|私《わたし》さへも|陥穽《おとしあな》に|落《おと》し、エス|様《さま》を|真黒《まつくろ》けの|水牢《みづろう》の|中《なか》へ|大切《たいせつ》に|漬《つ》けておくのだから、|呆《あき》れますワイ。|吾々《われわれ》も|同《おな》じく、|陥穽《おとしあな》の|底《そこ》で、|大切《たいせつ》に|梨《なし》の|腐《くさ》つたのや、|林檎《りんご》の|虫喰《むしく》ひを、あひさに|当《あ》てがはれ、|随分《ずいぶん》|大切《たいせつ》にして|頂《いただ》きました。なアエリナさま、ブールさまに|能《よ》くお|礼《れい》を|申上《まをしあ》げなさいや。|丸《まる》で|鬼《おに》の|様《やう》な|蛇《じや》の|様《やう》な|残虐《ざんぎやく》なブールさま……ではない……|事《こと》はない|事《こと》はない|事《こと》はないのですから、そこはそれ、|御礼《おれい》にもいろいろ|種類《しゆるゐ》がありますからなア』
|斯《か》く|話《はな》す|折《をり》しもユーズは|真青《まつさを》な|顔《かほ》をし|乍《なが》ら、のそりのそりと|此《この》|場《ば》に|帰《かへ》り|来《き》たりける。
(大正一一・八・一九 旧六・二七 松村真澄録)
(昭和九・一二・一八 王仁校正)
第一三章 |姉妹教《しまいけう》〔八七九〕
ブールは|国依別《くによりわけ》|一行《いつかう》と|共《とも》に|奥《おく》の|間《ま》に|端坐《たんざ》しキジ、マチ、エリナ、などより|耳《みみ》の|痛《いた》い|様《やう》なくすぐつたい|様《やう》な|御礼《おれい》の|詞《ことば》を|受《う》け|乍《なが》ら、どうぞ|早《はや》くユーズがエスを|此処《ここ》へ|連《つ》れて|来《き》て|甘《うま》くやつてくれないかなア……と|心待《こころま》ちに|待《ま》つて|居《ゐ》た。
そこへユーズが|拍子《へうし》|抜《ぬ》けのした|顔《かほ》をさげてやつて|来《き》たので、ブールは|早《はや》くも|其《その》|顔色《かほいろ》を|眺《なが》め、エスがもしや|牢死《ろうし》でもしてゐたのではなからうか、|万々一《まんまんいち》そンな|事《こと》があろうものなら、|如何《どう》して|此《この》|場《ば》を|甘《うま》く|切《き》り|抜《ぬ》けようか、|数百人《すうひやくにん》の|部下《ぶか》はあつても、|何《いづ》れも|国依別《くによりわけ》に|対《たい》しては、|無勢力《むせいりよく》の|腰抜《こしぬけ》|計《ばか》りだ。|進退《しんたい》これ|谷《きは》まつた……と|心《こころ》の|中《うち》に|独《ひと》り|打案《うちあん》じ|乍《なが》ら、ブールは|余所余所《よそよそ》しく、
『オイ、ユーズ、エス|様《さま》は|御機嫌《ごきげん》ようゐらせられたかなア』
『|何時《いつ》の|間《ま》にやら|御歴々方《ごれきれきがた》の|御入来《ごじゆらい》、ヤアこれはこれは|国依別《くによりわけ》|様《さま》、よくマア|此《この》|茅屋《あばらや》へゐらせられました。|何分《なにぶん》|親指《おやゆび》がなつてゐないものですから、|甘《うま》く|滑車《くわつしや》が|運転《うんてん》|致《いた》しませぬ。|吾々《われわれ》も|殆《ほとん》ど|機関《きくわん》の|油《あぶら》が|切《き》れて、|声《こゑ》を|上《あ》げむ|計《ばか》りになつて|居《ゐ》ます……あなたは|素敵《すてき》|滅法界《めつぽふかい》なナイスさま、どこからお|越《こ》しになりましたか。|天《あま》の|河原《かはら》に|玉《たま》の|御舟《みふね》を|泛《うか》べ、|月《つき》の|鏡《かがみ》を|懐中《ふところ》に|入《い》れ、|黄金《こがね》の|棹《さを》をさして、お|下《くだ》り|遊《あそ》ばした|棚機姫《たなばたひめ》|様《さま》か、|但《ただし》は|天教山《てんけうざん》の|木《こ》の|花咲耶姫《はなさくやひめ》さまの|御降臨《ごかうりん》か、|松代姫《まつよひめ》|様《さま》の|御再来《ごさいらい》か、|何《なん》とも|云《い》へぬ|立派《りつぱ》なお|方《かた》で|御座《ござ》いますなア』
と|追従《ついしやう》たらだら|述《の》べ|立《た》てる。
『|左様《さやう》の|事《こと》を|尋《たづ》ねて|居《を》るのでない。エス|様《さま》は|御機嫌《ごきげん》うるはしくゐらせられたか……と|云《い》ふのだ』
『ハイ、|教主様《けうしゆさま》のあなたが|発頭人《ほつとうにん》で|水牢《みづろう》へ|打込《うちこ》み|遊《あそ》ばした、あのエスさまの|事《こと》ですかい。|斯《か》う|申《まを》したと|云《い》つて、|千座《ちくら》の|置戸《おきど》を|負《お》ふのは、|人《ひと》に|将《しやう》たる|者《もの》の|当然《たうぜん》|負《お》ふべき|職掌《しよくしやう》ですから、どうぞ|悪《わる》く|取《と》らない|様《やう》にして|下《くだ》さいませ。|吾々《われわれ》|一統《いつとう》はそンな|残酷《ざんこく》なことをするものでないと|御意見《ごいけん》|申上《まをしあ》げましたのに、あなた|様《さま》は|首《くび》を|左右《さいう》に|傲然《ごうぜん》とお|振《ふ》り|遊《あそ》ばし、ジヤイロコンパスの|様《やう》に|目玉《めだま》を|急速度《きふそくど》を|以《もつ》て|回転《くわいてん》させ、チツともお|聞《き》き|遊《あそ》ばさぬものだから、とうとうあの|様《やう》な|大惨事《だいさんじ》が|突発《とつぱつ》したので|御座《ござ》いますよ。あなたの|仰有《おつしや》る|通《とほ》り、|吾々《われわれ》が|正直《しやうぢき》に|守《まも》つて|居《を》るものならば、エスさまは|遠《とほ》の|昔《むかし》、|幽界《あのよ》の|人《ひと》になつてゐられるのですが、|見《み》えつ|隠《かく》れつ、|此《この》ユーズが|甘《うま》い|物《もの》を|持運《もちはこ》び……オツト、ドツコイ|教主《けうしゆ》さま、そンな|六《む》つかしい|顔《かほ》をしちやなりませぬぞ。すべて|部下《ぶか》の|罪悪《ざいあく》を|一身《いつしん》に|引受《ひきう》け、|一言《ひとこと》も|呟《つぶや》かないのが|将《しやう》たる|者《もの》の|襟度《きんど》で|御座《ござ》いますよ。マア|兎《と》も|角《かく》、|後《あと》は|云《い》はいでもお|察《さつ》しを|願《ねが》へば、|国依別《くによりわけ》さま、エリナさま、|大体《だいたい》|判断《はんだん》はつくで|御座《ござ》いませう』
『ブール|様《さま》、|随分《ずいぶん》エスさまは|苛酷的《かこくてき》な|御同情《ごどうじやう》を|蒙《かうむ》られたと|見《み》えますねい』
『さう|言《い》つて|貰《もら》ひますと、|何《なん》とも|御返事《ごへんじ》の|仕方《しかた》が|御座《ござ》いませぬが、|実《じつ》の|所《ところ》はユーズが……』
『モシモシ|教主《けうしゆ》さま、さう|脱線《だつせん》しちやいけませぬよ。それでは|教主《けうしゆ》たる|価値《かち》はサツパリ|零《ゼロ》ですよ。モウ|斯《こ》うなる|上《うへ》は|旗色《はたいろ》の|好《よ》い|方《はう》へ|従《つ》くのが|利益《りえき》だ。|仮令《たとへ》ブールさまに|何々《なになに》せられても、|構《かま》ひませぬワイ。|国依別《くによりわけ》|様《さま》に|何々《なになに》してドツとお|気《き》に|入《い》り、|結構《けつこう》な|宣伝使《せんでんし》にして|貰《もら》つて、|都合《つがふ》|好《よ》くば、エー○○を○○に|貰《もら》ふやうになるかも|知《し》れない。それだから、|見《み》えつ|隠《かく》れつ、お|父《と》うさまのエスさまを|大切《たいせつ》にして|来《き》たのだ。なア、エリナさま、|斯《か》う|見《み》えても、|表《おもて》は|表《おもて》、|裏《うら》には|真《しん》に|美《うる》はしい|慈愛《じあい》の|涙《なみだ》を|湛《たた》へて|居《ゐ》る|苦労人《くらうにん》で|御座《ござ》いますよ』
エリナは『ヘエン、|左様《さやう》ですかいナ』と|空《そら》にうそぶく。
『|何《なに》を|云《い》つてゐるのだ。エス|様《さま》を|早《はや》く|迎《むか》へて|来《こ》ぬか』
『ハイ、|何《なん》と|云《い》つても、|流石《さすが》はエスさまさまですよ。ヤツパリ|私《わたくし》の|睨《にら》ンだ|通《とほ》り、|偉《えら》いですな、|見上《みあ》げたものですよ。|私《わたくし》が|何程《なにほど》|申上《まをしあ》げてもビクとも|動《うご》かうともなさいませぬワイ。|丸《まる》で|死《し》ンだ|馬《うま》の|様《やう》ですワ』
エリナはサツと|顔色《かほいろ》を|変《か》へ、
『エー、お|父《と》うさまが|亡《な》くなつたのですか』
『イエイエどうしてどうして、|海老《えび》の|様《やう》にピンピンシヤンシヤン|撥《は》ねまはつてゐられます。|実《じつ》の|所《ところ》を|何《なに》もかもブチあけて|申上《まをしあ》げますが、|今日迄《こんにちまで》|大変《たいへん》にブールさまの|命令《めいれい》に|依《よ》つて|虐待《ぎやくたい》をして|居《を》りましたが、あなた|方《がた》がお|出《い》でになつたと|云《い》ふので、レコの|大将《たいしやう》、ブールブールと|地震《ぢしん》の|孫《まご》の|様《やう》にふるひ|出《だ》し、|大《おほい》に|蒟蒻《こんにやく》(|困惑《こんわく》)|致《いた》しまして、|俄《にはか》|思《おも》ひ|付《つき》の|一芝居《ひとしばい》、エスさまを、あなた|方《がた》よりも|一足先《ひとあしさき》ここへ|出《で》て|来《き》て|貰《もら》ひ、|酒《さけ》でもドツサリ|呑《の》まして|篏口令《かんこうれい》を|布《し》き、ヤツと|此《この》|場《ば》の|芥《ごみ》を|濁《にご》さうと|遊《あそ》ばしたのですが、お|前《まへ》さまの|来《き》やうが|余《あま》り|早《はや》かつたものだから、すべての|計画《けいくわく》が|喰《く》ひちがひ、たうとう|画餅《ぐわへい》になつて|了《しま》つたのです。|子供《こども》か|何《なん》ぞの|様《やう》に、|酒《さけ》|位《くらゐ》|呑《の》まして|機嫌《きげん》をとり、|今迄《いままで》の|虐待《ぎやくたい》|振《ぶり》を|隠《かく》さうと|思《おも》つても、|駄目《だめ》なことはきまつてをるのに、あわてた|時《とき》と|言《い》ふものはそれ|位《くらゐ》の|知慧《ちゑ》より|出《で》ませなンだワイ。|本当《ほんたう》に|余《あんま》り|教主様《けうしゆさま》の|知慧《ちゑ》が|薄《うす》つぺらなのには、|部下《ぶか》|一同《いちどう》こンにやく|否《いな》|困惑《こんわく》の|体《てい》で|御座《ござ》います。|決《けつ》して|決《けつ》して|此《この》ユーズが|悪《わる》いのぢや|御座《ござ》いませぬ。|一番《いちばん》|先《さき》にエスを|入《い》れようと|発起《ほつき》したのはユーズぢや|御座《ござ》いませぬから、|其《その》お|積《つも》りで|願《ねが》ひますよ。そしてエスさまは|何《なに》もかもチヤンと|御存《ごぞん》じで、あなたのここにお|出《い》でになつた|事《こと》も【とうし】だとか、すいのうだとかで、よく|御承知《ごしようち》で|御座《ござ》いましたよ。こンな|結構《けつこう》な|御《お》みとの|中《なか》において|貰《もら》うて、|誰《たれ》が|出《で》るものか、|千年《せんねん》|万年《まんねん》|経《た》つたとて、いつかな|動《うご》きは|致《いた》さぬと、それはそれはエライ|頑張《ぐわんば》り|様《やう》で|御座《ござ》いす。|察《さつ》する|所《ところ》|教主《けうしゆ》のブールさまが、エスさまのお|側《そば》へ|自《みづか》らお|出《い》でになり、|頭《あたま》を|下《さげ》てお|詫《わび》をなさらねば|到底《たうてい》お|出《で》ましになる|気遣《きづか》ひはありませぬワ』
『ブールさま|何《ど》うでせう。|国依別《くによりわけ》が|直接《ちよくせつ》エスさまの|居《ゐ》られる|所《ところ》へ|参《まゐ》りましたら……さうでなければ、|年寄《としより》の|片意地《かたいぢ》、|中々《なかなか》|動《うご》きますまいで……』
『あンな|所《ところ》を|見《み》られましては、|誠《まこと》に|済《す》みませぬ。|是《これ》から|私《わたし》が|参《まゐ》つてお|連《つ》れ|申《まを》して|来《き》ますから、どうぞ|此処《ここ》に|暫《しばら》く|待《ま》つてゐて|下《くだ》さいませ。……サア、ユーズお|前《まへ》も|出《で》て|来《こ》い、|又《また》せうもない|事《こと》を|喋《しやべ》ると|可《い》けないから……』
『さうでせう。|私《わたくし》がここに|居《を》りますのは、|定《さだ》めて|御都合《ごつがふ》が|悪《わる》い|事《こと》ぢやと、|前以《まへもつ》て|承知《しようち》|致《いた》して|居《を》りますワ』
『サア|皆《みな》さま、|行《ゆ》きませう。ユーズさま、|案内《あんない》して|下《くだ》さい、エリナさま、これから|恋《こひ》しいお|父《と》うさまに|会《あ》はして|上《あ》げませう。|御喜《およろこ》びなさいや』
『ハイ、|有難《ありがた》う|御座《ござ》います。|何分《なにぶん》|宜《よろ》しく|御願《おねがひ》|申《まを》します』
|茲《ここ》にユーズを|先頭《せんとう》に、ブールを|始《はじ》め、|国依別《くによりわけ》の|一行《いつかう》は|地底《ちてい》の|薄暗《うすぐら》き|水牢《みづろう》の|傍《かたはら》に|探《さぐ》り|探《さぐ》り|立寄《たちよ》り、
『|私《わたくし》は|三五教《あななひけう》の|国依別《くによりわけ》と|申《まを》す|者《もの》で|御座《ござ》います。あなたはウラル|教《けう》の|宣伝使《せんでんし》であり|乍《なが》ら、よくもマア|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》を|御世話《おせわ》して|下《くだ》さいました。|其《その》|為《ため》あなたは|斯様《かやう》な|所《ところ》へ|押込《おしこ》められ、さぞさぞ|御難儀《ごなんぎ》な|事《こと》で|御座《ござ》いましたでせう』
エスは|涙《なみだ》を|流《なが》し|乍《なが》ら、
『ハイ、|有難《ありがた》う|御座《ござ》います。よう|来《き》て|下《くだ》さいました。|実《じつ》は|昨日《きのふ》|迄《まで》、|非常《ひじやう》な、そこに|居《を》りまするユーズの|奴《やつ》、|虐待《ぎやくたい》を|加《くは》へましたが、|俄《にはか》に|態度《たいど》が|一変《いつぺん》し、|最前《さいぜん》も|最前《さいぜん》とて、|追従《つゐしやう》たらだら、|私《わたし》を|引出《ひきだ》し、|今迄《いままで》の|悪逆無道《あくぎやくぶだう》の|帳消《ちやうけ》しの|材料《ざいれう》にせうと|云《い》ふ|様《やう》な、ズルイ|事《こと》を|考《かんが》へて|来《き》た|事《こと》が|分《わか》りましたので、ワザと|頑張《ぐわんば》つて、|千年《せんねん》|万年《まんねん》もこんな|結構《けつこう》な|御《お》みとは|出《で》ないと|意地《いぢ》|張《ば》つてやりました。さうした|所《ところ》が、それを|真《ま》に|受《う》けて|心配《しんぱい》を|致《いた》し、|頼《たの》むの|頼《たの》まないのつて、|実《じつ》に|気《き》の|毒《どく》なやうでした。|誰《たれ》だつて、|斯様《かやう》な|所《ところ》に|半時《はんとき》の|間《ま》も|居《を》りたいものが|御座《ござ》いませうか、|御推量《ごすゐりやう》|下《くだ》さいませ』
と|云《い》ふ|声《こゑ》さへも、|涙《なみだ》に|湿《しめ》つて|聞《きこ》えて|居《を》る。エリナは|之《これ》を|聞《き》くよりワツと|計《ばか》りに|其《その》|場《ば》に|泣《な》き|伏《ふ》した。ユーズは|周章《あわて》て|抱《だ》き|起《おこ》し、
『もしもしエリナ|様《さま》、シツカリなさいませ。|此《この》|親切《しんせつ》なユーズが|御介抱《ごかいほう》|致《いた》しますれば、モウ|大丈夫《だいぢやうぶ》で|御座《ござ》います』
『エー|父《ちち》の|仇敵《かたき》、|物《もの》|言《い》ふも|汚《けが》らはしい、|私《わたし》の|体《からだ》に|触《さわ》つてお|呉《く》れな』
と|言《い》ひ|乍《なが》らドンと|突《つ》き|放《はな》した。|途端《とたん》に|牢《ろう》の|入口《いりくち》が|折《をり》よく|開《あ》いてあつた|為《ため》、|忽《たちま》ち|牢《ろう》の|中《なか》の|水溜《みづたま》りへ|真逆様《まつさかさま》にドブンと|落込《おちこ》ンで|了《しま》つた。
エスは|其《その》|隙《すき》に|早《はや》くも|牢内《ろうない》を|駆出《かけだ》し、|外《そと》から|入口《いりくち》の|戸《と》をピシヤリと|締《し》め、|錠《ぢやう》を|卸《おろ》して|了《しま》つた。ユーズは|水溜《みづたま》りより|這《は》ひ|上《あが》り、
『モシモシ|開《あ》けて|下《くだ》さい、|私《わたくし》で|御座《ござ》います』
『お|前《まへ》だから、|放《ほ》り|込《こ》ンだのだよ。サア|今迄《いままで》エス|様《さま》をいろいろと|讒言《ざんげん》|致《いた》して|罪《つみ》におとした|其《その》|方《はう》の|事《こと》だから、|今日《けふ》から|罪《つみ》|亡《ほろ》ぼしにエス|様《さま》の|代《かは》りに|水牢《みづろう》|住《ずま》ひを|致《いた》すのだ。|天罰《てんばつ》と|云《い》ふものは|恐《おそ》ろしいものだ。|現在《げんざい》エスさまの|娘《むすめ》エリナさまに|押込《おしこ》まれたぢやないか。|是《これ》も|決《けつ》してブールがしたのぢやない。お|前《まへ》の|罪《つみ》が|重《かさ》なつて、お|前《まへ》を|水牢《みづろう》へ|投込《なげこ》ンだのだよ』
『それは|余《あま》り|胴慾《どうよく》ぢや|厶《ござ》いませぬか。|一寸《ちよつと》|外《そと》に|忘《わす》れた|物《もの》も|御座《ござ》いますなり、アナンに|会《あ》うて|言《い》ひたい|事《こと》も|沢山《たくさん》ありますから、|這入《はい》れなら|這入《はい》りますから、|一遍《いつぺん》|丈《だけ》|出《だ》して|下《くだ》さいな』
『ならぬならぬ、|自分《じぶん》の|悪事《あくじ》を|残《のこ》らず、|教主《けうしゆ》は|千座《ちくら》の|置戸《おきど》を|負《お》ふべきものだなぞと|申《まを》して、|国依別《くによりわけ》|様《さま》|一統《いつとう》の|前《まへ》でブールの|讒言《ざんげん》を|致《いた》したであらう。その|様《やう》な|大悪人《だいあくにん》を|外《そと》へ|放養《はうやう》するのは、モールバンドを|野《の》に|放《はな》つたやうなものだからのウ』
『お|前《まへ》さま、チツと|其処《そこ》で|修行《しうげふ》をなさいませ。|何程《なにほど》|弁解《べんかい》したつて|駄目《だめ》ですよ。|此《この》エスがお|前《まへ》さまの|部下《ぶか》に、|門《もん》の|入口《いりくち》で|捉《とら》まへられ、|教主様《けうしゆさま》の|前《まへ》に|引出《ひきだ》された|時《とき》、|教主《けうしゆ》は|何《なん》と|仰有《おつしや》つたか、|覚《おぼ》えて|居《ゐ》るであらう。あの|時《とき》の|御言葉《おことば》に……ユーズ、お|前《まへ》はエスをさう|悪《わる》く|言《い》ふけれど、チツとは|考《かんが》へてやらねばなろまい。|世《よ》の|中《なか》は|相身《あひみ》|互《たがひ》だから、|仮令《たとへ》|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》の|宿《やど》をしたと|云《い》つて、そンな|小《ちひ》さい|事《こと》を|云《い》ふものでない、|許《ゆる》してやつたがよかろと|仰有《おつしや》つた|時《とき》には、|俺《おれ》も|有難《ありがた》|涙《なみだ》が|澪《こぼ》れたのだ。それに|貴様《きさま》が|駄々《だだ》をこねて、|教主《けうしゆ》からして、そンな|規則《きそく》をお|破《やぶ》りになるのならば、|此《この》ユーズは|数多《あまた》の|信徒《しんと》を|一人《ひとり》も|残《のこ》らず|引率《いんそつ》して、バラモン|教《けう》に|入信《にふしん》し、|此《この》|館《やかた》を|転覆《てんぷく》させて|了《しま》ひますと|云《い》つて、|脅迫《けふはく》し、|遂《つひ》に|已《や》むを|得《え》ず、|教主《けうしゆ》も|俺《おれ》をこンな|所《ところ》へ|放《ほ》り|込《こ》む|事《こと》を|黙許《もくきよ》されたのだ。さうだからお|前《まへ》が|悪《あく》の|張本人《ちやうほんにん》だ。お|前《まへ》さへ|斯《こ》うして|何時迄《いつまで》も|茲《ここ》に|蟄居《ちつきよ》して|居《を》れば、|三五教《あななひけう》とウラル|教《けう》は|心《こころ》の|底《そこ》から|解《と》け|合《あ》うて、|互《たがひ》に|長《ちやう》を|採《と》り、|短《たん》を|補《おぎな》ひ、|姉妹教《しまいけう》となつて、|仲《なか》よく|神業《しんげふ》に|参加《さんか》する|事《こと》が|出来《でき》るのだ。サア|皆《みな》さま、|何時迄《いつまで》も|斯《こ》ンな|所《ところ》に|居《を》つても|仕方《しかた》がありませぬ。どつかへ|参《まゐ》りませうか』
ブールは、
『どうぞ|私《わたくし》の|居間《ゐま》|迄《まで》|御越《おこ》し|下《くだ》さいませ。|御案内《ごあんない》|致《いた》しませう』
と|先《さき》に|立《た》つて、|吾《わが》|居間《ゐま》へ|帰《かへ》り|行《ゆ》く。|後《あと》にユーズは|声《こゑ》をあげ、
『オーイ オーイ、|助《たす》けて|呉《く》れ |助《たす》けて|呉《く》れ』
と|呼《よ》ばはつて|居《ゐ》る。|一同《いちどう》は|委細《ゐさい》|構《かま》はず、ブールの|居間《ゐま》に|帰《かへ》り|来《きた》つて、|葡萄酒《ぶだうしゆ》を|与《あた》へられ、|甘《うま》さうに、|四方山《よもやま》の|話《はなし》に|耽《ふけ》り|乍《なが》ら、|飲《の》ンでゐる。|少時《しば》らくあつて、|教主《けうしゆ》は|奥《おく》の|間《ま》よりいかめしき|祭服《さいふく》を|着《ちやく》し|来《きた》り、
『サア|御一同様《ごいちどうさま》、|私《わたし》は|是《これ》より|神殿《しんでん》へ|参《まゐ》ります。どうぞあなた|方《がた》も|御参《おまゐ》り|下《くだ》さいませ』
|国依別《くによりわけ》|以下《いか》は|打《うち》うなづき|乍《なが》ら|神殿《しんでん》に|進《すす》み、ブール|導師《だうし》の|下《もと》に|神言《かみごと》を|奏上《そうじやう》し、|終《をは》つて|再《ふたた》び|奥《おく》の|間《ま》に|引返《ひつかへ》し、ブールは|心《こころ》の|底《そこ》より|改心《かいしん》の|意《い》を|表《へう》し、|国依別《くによりわけ》の|裁決《さいけつ》に|依《よ》つて、エスを|教主《けうしゆ》となし、エリナは|内事《ないじ》|一切《いつさい》の|司《つかさ》に|任《にん》じ、|紅井姫《くれなゐひめ》は|暫《しばら》く|賓客《ひんきやく》として、|日暮《ひぐら》シ|山《やま》の|花《はな》と|謳《うた》はれ、|遂《つひ》に|三五教《あななひけう》を|樹《た》て、ブールの|妻《つま》となり、ヒルの|神館《かむやかた》と|相提携《あひていけい》して、ヒル、カル|両国《りやうごく》に|亘《わた》り、|大勢力《だいせいりよく》を|拡充《くわくじゆう》し、|万民《ばんみん》を|救《すく》ひ|助《たす》け|芳名《はうめい》を|轟《とどろ》かしける。
ユーズは|百日《ひやくにち》の|間《あひだ》の|苦行《くげう》をさされた|上《うへ》、|許《ゆる》されて、|再《ふたた》び|神《かみ》に|仕《つか》へ、アナンも|亦《また》|陥穽《おとしあな》の|底《そこ》より|救《すく》ひ|出《だ》され、|悔《く》い|改《あらた》めて|神《かみ》の|道《みち》に|清《きよ》く|仕《つか》へ、|一生《いつしやう》を|安《やす》く|送《おく》る|事《こと》とはなりぬ。
|茲《ここ》に|国依別《くによりわけ》は|四五日《しごにち》|逗留《とうりう》の|上《うへ》、キジ、マチの|両人《りやうにん》を|従《したが》へ、|日暮《ひぐら》シ|山《やま》に|別《わか》れを|告《つ》げ、|山野河沼《さんやかせう》を|渡《わた》り、ブラジル|峠《たうげ》を|指《さ》して、|宣伝歌《せんでんか》を|歌《うた》ひ|乍《なが》ら|進《すす》み|行《ゆ》く。あゝ|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》。
(大正一一・八・一九 旧六・二七 松村真澄録)
(昭和九・一二・一八 王仁校正)
第三篇 |千里万行《せんりばんかう》
第一四章 |樹下《じゆか》の|宿《やど》〔八八〇〕
|波《なみ》に|浮《うか》べる|高砂《たかさご》の ヒルとハルとの|国依別《くによりわけ》が
|険《けは》しき|山《やま》をよぢ|登《のぼ》り |安彦《やすひこ》、|宗介《むねすけ》|両人《りやうにん》を
|従《したが》ひ|登《のぼ》るブラジルの |細《ほそ》き|谷間《たにま》を|打渡《うちわた》り
|夜《よ》を|日《ひ》についではるばると ハルの|原野《げんや》を|打渉《うちわた》り
アマゾン|河《がは》の|森林《しんりん》に |思《おも》はず|知《し》らず|迷《まよ》ひ|込《こ》み
|鷹依姫《たかよりひめ》の|一行《いつかう》や |高姫《たかひめ》|一行《いつかう》に|巡《めぐ》り|会《あ》ひ
モールバンドの|怪獣《くわいじう》を |言向《ことむ》け|和《やは》し|万民《ばんみん》の
さも|恐《おそ》ろしき|災禍《わざはい》を |除《のぞ》き|清《きよ》めし|物語《ものがたり》
いよいよ|茲《ここ》に|述《の》べ|立《た》つる。
|国依別《くによりわけ》はキジに|安彦《やすひこ》といふ|名《な》を|与《あた》へ、マチに|宗介《むねすけ》と|云《い》ふ|名《な》を|与《あた》へ、|道々《みちみち》|三五《あななひ》の|教《をしへ》を|説《と》き|諭《さと》し|乍《なが》ら、|其《その》|昔《むかし》|淤縢山津見司《おどやまづみのかみ》が、|木《こ》の|花咲耶姫《はなさくやひめ》の|化身《けしん》なる|蚊々虎《かがとら》と|通過《つうくわ》したる、ブラジル|峠《たうげ》の|山頂《さんちやう》に|息《いき》を|休《やす》め、それより|大原野《だいげんや》に|出《い》づる|事《こと》となつた。
|国依別《くによりわけ》|一行《いつかう》はブラジル|峠《たうげ》の|山麓《さんろく》にて|日《ひ》を|暮《く》らし、|大木《たいぼく》の|根元《ねもと》に|夜露《よつゆ》を|凌《しの》ぎ|一夜《いちや》を|明《あ》かす|事《こと》となりぬ。
|国依別《くによりわけ》、|安彦《やすひこ》は|他愛《たあい》もなく|旅《たび》の|疲《つか》れに、よく|眠《ねむ》つて|居《ゐ》る。|宗介《むねすけ》は|何《なん》となく、|胸騒《むなさわ》ぎがして、マンジリとも|得《え》せず、|二人《ふたり》の|間《あひだ》に|挟《はさ》まつて、|横《よこ》たはつて|居《ゐ》た。|忽《たちま》ち|聞《きこ》ゆる|猛獣《まうじう》の|声《こゑ》、|心《しん》|飛《と》び|魂《こん》|消《き》ゆる|計《ばか》り、|其《その》|厭《いや》らしさに|宗介《むねすけ》は、|戦慄《せんりつ》|堪《た》へ|切《き》れず、|安彦《やすひこ》の|体《からだ》にしつかり|喰《くら》ひ|付《つ》き、|夜《よ》の|明《あ》くるを|一刻《いつこく》も|早《はや》かれと|祈《いの》つて|居《ゐ》た。
|夜明《よあけ》に|間近《まぢか》くなつたと|見《み》え、|猛獣《まうじう》の|叫《さけ》び|声《ごゑ》は|何時《いつ》とはなしに|消《き》えて|了《しま》つた。|折柄《をりから》|二人《ふたり》の|男《をとこ》、|大木《たいぼく》の|株《かぶ》に|腰《こし》をかけ、ヒソビソ|話《ばなし》に|耽《ふけ》つてゐる。|同《おな》じ|一本《いつぽん》の|大木《たいぼく》と|雖《いへど》も、|五十丈《ごじふぢやう》|許《ばか》りも|周《まは》つた|幹《みき》、|一方《いつぱう》の|方《はう》には|三人《さんにん》が|他愛《たあい》なく|横《よこ》たはつて|居《ゐ》るのも、|一方《いつぱう》に|腰打《こしうち》かけてる|二人《ふたり》の|目《め》には|止《と》まらうやうもなかつた。
どこともなくヒソビソ|話《ばなし》が|耳《みみ》に|這入《はい》つて|来《く》るので|宗介《むねすけ》は、ソツと|空《そら》をすかし|乍《なが》ら、|声《こゑ》する|方《はう》に|近寄《ちかよ》つて|耳《みみ》を|立《た》てて、|一言《ひとこと》も|洩《も》らさじと|聞《き》いて|居《ゐ》る。
『オイ|秋《あき》……ここまで|捜《さが》しに|来《き》たのだが、モウ|駄目《だめ》だぞ。|日暮《ひぐら》シ|山《やま》では、ハル、ナイルの|両人《りやうにん》に|追《お》ひまくられ、|様子《やうす》を|聞《き》けば|国依別《くによりわけ》は|今朝《けさ》|程《ほど》|立《た》つたと|言《い》ひよつたので、|何人《なんにん》|連《づ》れかと|聞《き》いて|見《み》れば、|指《ゆび》を|三本《さんぼん》|出《だ》して|居《ゐ》やがつた。|的切《てつき》り、ク|印《じるし》とエ|印《じるし》を|連《つ》れてノホホンで、|宣伝《せんでん》を【だし】に|天下《てんか》を|漫遊《まんいう》すると|云《い》ふ|考《かんが》へだ。|俺《おれ》も|男《をとこ》の|意地《いぢ》で、|仮令《たとへ》|命《いのち》がなくなつても、|彼奴《あいつ》の|後《あと》をつけ|狙《ねら》ひ、|国依別《くによりわけ》の|隙《すき》を|窺《うかが》ひ、|谷底《たにそこ》へでも|突《つ》き|落《おと》し、|二人《ふたり》のナイスを|此方《こちら》のものにせぬことには、|阿呆《あほ》らしうて、|世間《せけん》へ|顔出《かほだ》しも|出来《でき》ぬぢやないか。|最早《もはや》|行方《ゆくへ》が|分《わか》らぬと|云《い》つて|此《この》|儘《まま》|泣《な》き|寝入《ねい》る|訳《わけ》にも|行《ゆ》かず、|何《なん》とか|工夫《くふう》はあるまいかなア、|秋《あき》さま』
『モリ|公《こう》、お|前《まへ》も|中々《なかなか》|執着心《しふちやくしん》が|深《ふか》いねい。こんな|所迄《ところまで》スタスタと|尻《しり》を|付《つ》けて|来《く》るのだから、こンな|連中《れんぢう》に|狙《ねら》はれた|女《をんな》こそ、|蛇《へび》に|魅入《みい》られた|蟇《がま》のやうなものだよ。|本当《ほんたう》に|思《おも》へば|思《おも》ふ|程《ほど》、|二人《ふたり》の|女《をんな》が|可哀相《かあいさう》になつて|来《き》た。|俺《おれ》もここまで|心猿意馬《しんゑんいば》の|狂《くる》ひに|引《ひ》かされて、|来《きた》るは|来《き》たものの、|何時《いつ》の|間《ま》にか、|心《こころ》の|猿《さる》も|思《おも》ひの|馬《うま》も、どつかへ、|愛想《あいさう》をつかして、|絶望《ぜつばう》を|叫《さけ》び、|帰《かへ》つて|了《しま》つたやうな|気分《きぶん》になつて|来《き》た。モウ|仕方《しかた》がない、|是《これ》から|後《あと》へ|引返《ひきかへ》さうぢやないか』
『|勝手《かつて》にせい、|俺《おれ》は|何処迄《どこまで》もやり|遂《と》げるのだ。|男《をとこ》がのめのめとどの|面《つら》さげて、|国許《くにもと》へ|帰《かへ》る|事《こと》が|出来《でき》ようかい』
『|併《しか》し|何程《なにほど》|二人《ふたり》の|女《をんな》に|懸想《けさう》して|居《を》つても、|国依別《くによりわけ》の|居《ゐ》る|以上《いじやう》は|駄目《だめ》ぢやないか。|彼奴《あいつ》を|如何《どう》かして……』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら|小声《こごゑ》で|何《なに》か|耳《みみ》のはたで|稍《やや》|暫《しば》し|囁《ささや》いて|居《ゐ》る。|宗介《むねすけ》は|何《ど》うしても|其《その》|声《こゑ》が|余《あま》り|低《ひく》いので|聞《きこ》えなかつた。
『……|此処《ここ》を|一里《いちり》|計《ばか》り|先《さき》へ|行《ゆ》くと、|丸木橋《まるきばし》がある。|相当《さうたう》に|深《ふか》い|谷川《たにがは》で、そこへ|落《お》ちようものなら、どんな|太《ふと》い|男《をとこ》でも|五体《ごたい》がメチヤメチヤになつて|了《しま》ふと|云《い》ふ|事《こと》だから、|今《いま》の|中《うち》に|先《さき》へ|廻《まは》つて、|其《その》|橋《はし》のつつぱりを|取《と》り、|国依別《くによりわけ》が|一足《ひとあし》|跨《また》げるや|否《いな》や、バサツと|落《お》ちる|様《やう》に|工夫《くふう》をせうぢやないか。|藤蔓《ふぢつる》か|何《なん》かで、|橋《はし》の|一方《いつぱう》を|括《くく》つておき、|国依別《くによりわけ》が|跨《また》げるや|否《いな》や、|谷底《たにそこ》へ|隠《かく》れて|居《を》つて、|其《その》|綱《つな》を|引《ひ》くのだ。さうすると、ズヽヽヽズドン、ウン、キヤア……とそれつきり、|憐《あは》れなりける|次第《しだい》なりけりだ。さうせうぢやないか』
『それ|程《ほど》|骨《ほね》を|折《お》つたつて、|国依別《くによりわけ》の|通《とほ》つた|後《あと》だつたら、|骨折損《ほねをりぞん》の|草臥儲《くたびれまう》けになつて|了《しま》うぢやないか』
『ナアニ、|大丈夫《だいぢやうぶ》だよ。|半日《はんにち》|位《くらゐ》|先《さき》に|出《で》たと|云《い》つても、|向《むか》うは|足弱女《あしよわをんな》を|連《つ》れてるんだし、|此方《こちら》は|健脚家《けんきやくか》|計《ばか》りのお|揃《そろひ》だから、キツと|俺《おれ》の|方《はう》が|先《さき》へ|勝《か》つにきまつてる。|彼奴《あいつ》はまだ|二三里《にさんり》|位《くらゐ》|後《あと》に|女《をんな》と|意茶《いちや》ついて|居《ゐ》よるに|違《ちが》ひない。サア|早《はや》く|行《ゆ》かぬと、|追《お》ひつかれると|大変《たいへん》だぞ。|作業《さげふ》が|済《す》まぬ|中《うち》に|来《き》よつたら|何《なん》にもならぬからなア。もしも|女《をんな》が|渡《わた》りよつたら、|黙《だま》つて|渡《わた》してやるのだ。|国依別《くによりわけ》が|足《あし》を|二歩《ふたあし》|三歩《みあし》かけよつたが|最後《さいご》|一《ひ》イ|二《ふ》ウ|三《み》ツで|引張《ひつぱ》るのだ。|何《なん》と|秋《あき》さま、|妙案《めうあん》だらう』
『|一人《ひとり》の|女《をんな》が|先《さき》に|立《た》ち、|国依別《くによりわけ》が|中《なか》に|立《た》ち、|又《また》|一人《ひとり》の|女《をんな》が|後《あと》にあり、|一時《いちじ》に|単縦陣《たんじうぢん》を|作《つく》つて|渡《わた》りよつたら、|何《ど》うするのだ。それこそ|虻《あぶ》|蜂《はち》|取《と》らずの|草臥《くたびれ》もうけになつて|了《しま》うぢやないか』
『そこは|又《また》は|其《その》|時《とき》の|風《かぜ》が|吹《ふ》くぢやないか。|仮令《たとへ》|落込《おちこ》ンだ|所《ところ》で、チツと|位《くらゐ》|怪我《けが》をしても、|三人《さんにん》が|三人《さんにん》|乍《なが》ら|死《し》ぬ|気《き》づかひはないワ。そこで|国依別《くによりわけ》は|目《め》をまかす、そ|知《し》らぬ|顔《かほ》して|放《ほ》つとけばそれで|仕舞《しまひ》だ。|二人《ふたり》の|女《をんな》には|水《みづ》を|呑《の》ませ、|介抱《かいほう》し……コレコレ|旅《たび》の|御女中《おぢよちう》……とか|何《なん》とか|云《い》つて|助《たす》けてやる。さうすれば|紅井姫《くれなゐひめ》が、|俺達《おれたち》に|命《いのち》の|親様《おやさま》と|云《い》つて、|秋波《しうは》を|送《おく》つて【クレナイ】|事《こと》もあるまいぞ。|現《げん》に|国依別《くによりわけ》がラバーされたのも|大地震《だいぢしん》の|時《とき》に|助《たす》けてやつたのが|原因《げんいん》ぢやからのウ』
『それもさうだなア。サア|早《はや》く|往《い》つて|準備《じゆんび》に|取《と》りかからうかい。グヅグヅして|居《を》ると|六菖十菊《ろくしやうじつきく》、|後《あと》の|祭《まつ》りで、|何《なん》にもならないワ。オ|一《いち》、|二《に》、|三《さん》!』
と、|細《ほそ》き|谷路《たにみち》を、|怪《あや》しげにすかし|乍《なが》ら、進ンで|行《ゆ》く。
|宗介《むねすけ》は|二人《ふたり》の|往《い》つた|後《あと》で、
『|何《なん》だか|俺《おれ》は|今夜《こんや》に|限《かぎ》つて|寝《ね》られないと|思《おも》へば、|秋山別《あきやまわけ》、モリスの|両人《りやうにん》、あンな|悪《わる》い|事《こと》を|企《たく》ンでゐやがるのだなア。それも|天罰《てんばつ》に|俺達《おれたち》に|聞《きこ》えるやうにすつかり|喋《しやべ》つて|行《ゆ》きよつた。|神様《かみさま》が|彼等《かれら》|両人《りやうにん》がこンな|計画《けいくわく》をして|居《ゐ》るからと、|俺《おれ》に|霊《れい》をかけ、ねかさなかつたのだナ。|何《なん》と|神様《かみさま》の|恵《めぐみ》はどこからどこ|迄《まで》も|行届《ゆきとど》いたものだ。|誰《たれ》も|知《し》るまいと|思《おも》つて、|悪《わる》い|事《こと》を|企《たく》むと、|何事《なにごと》も|此《この》|通《とほ》りだ。|天《てん》|知《し》る|地《ち》|知《し》る|吾《わ》れも|知《し》る、|宗介《むねすけ》|迄《まで》が|知《し》ると|云《い》ふのだから、|怖《こわ》いものだなア。ドレドレ|此《この》|秘密《ひみつ》を|聞《き》き|取《と》つて|手柄話《てがらばなし》を|国依別《くによりわけ》|様《さま》に|報告《はうこく》せうかなア……イヤイヤ|待《ま》て|待《ま》てさう|早《はや》く|云《い》ふと|値打《ねうち》がない。|橋《はし》の|詰《つめ》まで|行《い》つた|所《ところ》で、|国依別《くによりわけ》さまが|足《あし》をかけようとなさつたら……モシ|御待《おま》ちなさい、|私《わたくし》の|天眼通《てんがんつう》で|見《み》れば、|此《この》|橋《はし》は|浮橋《うきはし》ですから|険呑《けんのん》です。|秋《あき》、モリの|二人《ふたり》が|綱《つな》を|引張《ひつぱ》つて|居《を》りますから……と|抱止《だきと》めるのだ。さうすると|国依別《くによりわけ》さまも|喜《よろこ》びて、|宗介《むねすけ》と|替《か》へて|下《くだ》さつた|名《な》を|又《また》、|昔《むかし》の|名《な》の|宗彦《むねひこ》さまと|替《か》へて|下《くだ》さるかも|知《し》れぬ。おゝさうだ|言《い》はぬが|花《はな》だ』
と|調子《てうし》に|乗《の》つて、|何時《いつ》の|間《ま》にやら、|高《たか》い|声《こゑ》で|囀《さへづ》つて|居《ゐ》る。|安彦《やすひこ》は|目《め》をさまして、
『オイ|宗介《むねすけ》、|貴様《きさま》は|甘《うま》い|事《こと》を|考《かんが》へて|居《ゐ》よるなア』
|宗介《むねすけ》|小声《こごゑ》になつて、
『オイ、お|前《まへ》|聞《き》いたのか。|大将《たいしやう》に|内証《ないしよう》だから|其《その》|積《つも》りで|居《を》つて|呉《く》れよ』
|安彦《やすひこ》|殊更《ことさら》|大《おほ》きな|声《こゑ》で、
『|一本橋《いつぽんばし》をどうしたと|云《い》ふのだい』
『|喧《やかま》しう|言《い》はずに|休《やす》まぬか。|秋《あき》、モリの|両人《りやうにん》が、|今頃《いまごろ》にや|丸木橋《まるきばし》をおとす|作業中《さげふちう》だ。|面白《おもしろ》いぢやないか』
『|宣伝使《せんでんし》|様《さま》、あなた|御存《ごぞん》じですか』
『|初《はじめ》からスツカリ|聞《き》いて|居《ゐ》る。|宗彦《むねひこ》と|云《い》ふ|名《な》に|替《か》へてやらうか』
『イヤもう|有難《ありがた》う|御座《ござ》います。どうぞ|宜《よろ》しうお|頼《たの》み|申《まを》します』
『そんなら、|一段《いちだん》|位《くらゐ》を|上《あ》げて、|只今《ただいま》から|宗彦《むねひこ》と|名《な》を|与《あた》へる』
『アヽ|何《なん》とも|御礼《おれい》の|申様《まをしやう》が|御座《ござ》いませぬ……オイ|安彦《やすひこ》どうだい、|只今《ただいま》から、お|前《まへ》も|俺《おれ》も|同役《どうやく》だ。|余《あま》り|偉相《えらさう》に|弟《おとうと》|扱《あつか》ひには|出来《でき》ないぞ』
『|俺《おれ》は|彦《ひこ》を|貰《もら》つてから|三日《みつか》になる。|貴様《きさま》は|今《いま》|貰《もら》つた|所《ところ》ぢやないか。|双児《ふたご》が|生《うま》れても|兄弟《けうだい》の|区別《くべつ》がつくのだ。|現《げん》に|三日《みつか》も|違《ちが》ひがあるのだから、ヤツパリ|弟《おとうと》だよ』
『エヽ|仕方《しかた》がないなア。ぢやドツと|譲歩《じやうほ》して|表面《へうめん》だけ|弟《おとうと》になつておかうかい。|其《その》|代《かは》り|兄《あに》は|兄《あに》|丈《だけ》の|甲斐性《かひしやう》がなくてはならず、|弟《おとうと》を|可愛《かあい》がつて|大切《たいせつ》にせねばならぬ|責任《せきにん》がある。|弟《おとうと》が|弱《よわ》つて|居《を》れば、|手《て》を|引《ひ》いてやつて|労《いた》はり|又《また》|負《お》うてやらなきや、|兄貴《あにき》の|値打《ねうち》がないからなア』
『コラコラ|喧《やかま》しう|云《い》はずに|休《やす》まぬか。まだ|夜明《よあけ》にチツと|間《ま》もある。ゆつくり|茲《ここ》で|休《やす》ンで、|夜《よ》が|明《あ》けてからボツボツ|行《ゆ》くのだ。|何《いづ》れ|彼奴《あいつ》ら|両人《りやうにん》は|谷底《たにそこ》の|木《き》の|茂《しげ》みに|隠《かく》れて|居《ゐ》るに|違《ちが》ひないから、お|前等《まへら》|両人《りやうにん》は|女《をんな》の|声色《こはいろ》を|使《つか》つて|行《ゆ》くのだよ。さうして|三人《さんにん》|共《とも》|甘《うま》く、|渡《わた》つて|了《しま》うのだよ』
『|二人《ふたり》の|女《をんな》に|三人《さんにん》が|声色《こはいろ》とは、チツと|変《へん》ぢや|御座《ござ》りませぬか』
『そこは|二人《ふたり》になるのだ。|国依別《くによりわけ》が|紅井姫《くれなゐひめ》の|声色《こはいろ》を|使《つか》ひ、|安彦《やすひこ》は|弟《おとうと》の|宗彦《むねひこ》を|背中《せなか》に|負《お》ひ、さうしてエリナの|声色《こはいろ》になつて、|渡《わた》りさへすれば|大丈夫《だいぢやうぶ》だ。|渡《わた》つて|了《しま》つてから、|各自《めいめい》に|男《をとこ》の|声《こゑ》で|大笑《おほわら》ひをし、ビツクリさしてやるのだ』
『|国依別《くによりわけ》さま、あなたは|真面目《まじめ》な|宣伝使《せんでんし》に|似《に》ず、|随分《ずいぶん》|悪戯《いたづら》が|御好《おすき》ですなア。こんな|男《をとこ》を、|私《わたし》だつて|背中《せなか》に|負《お》うて|一本橋《いつぽんばし》が|渡《わた》られませうかなア』
『あの|様《やう》な|悪《わる》い|事《こと》を|企《たく》む|奴《やつ》には、|此方《こちら》も|一《ひと》つからかつてやる|位《くらゐ》は|良《よ》いぢやないか。まさか|違《ちが》へば|生命《いのち》を|取《と》られる|所《ところ》ぢやから……そしてお|前《まへ》は|宗彦《むねひこ》を|背中《せなか》へ|括《くく》りつけ、もしも|誤《あやま》つて|落《お》ちた|所《ところ》で、|国依別《くによりわけ》に|於《おい》ては、|痛《いた》い|事《こと》もなければ|痒《かゆ》い|事《こと》もないのだ、アハヽヽヽヽ』
|安彦《やすひこ》|首《くび》を|傾《かたむ》け、|国依別《くによりわけ》の|顔《かほ》を|見詰《みつ》め|乍《なが》ら、
『ヘーン、|何《なん》とマア|水臭《みづくさ》い|御方《おかた》ですなア』
『|何《いづ》れ、|谷川《たにかは》を|渡《わた》り|谷水《たにみづ》の|中《なか》へおちるのだもの。ちつたア、|水臭《みづくさ》からうかい。|谷底《たにそこ》には|水《みづ》の|御霊《みたま》が|待《ま》つて|居《を》つて、はまつた|所《ところ》で、|手《て》を|受《う》けて|助《たす》けて|下《くだ》さるから|大丈夫《だいぢやうぶ》だよ。そんな|取越苦労《とりこしくらう》はするものぢやないよ。あゝ|待《ま》ち|遠《どほ》しい|事《こと》だ。|宣伝使《せんでんし》|様《さま》モウそろそろ|出《で》かけたら|如何《どう》でせう』
『|今《いま》|二人《ふたり》が|行《い》つたばかしぢやないか。あの|深《ふか》い|谷川《たにがは》の|橋杭《はしくひ》を|取《と》つたり、|蔓《つる》をつけて|引《ひ》つ|張《ぱ》る|用意《ようい》するのは、|一時《ひととき》や|二時《ふたとき》の|猶予《いうよ》で|出来《でき》るものぢやない。|茲《ここ》でゆつくりしてアフンとさしてやる|方《はう》が|面白《おもしろ》いぢやないか。|別《べつ》に|半日《はんにち》|位《くらゐ》|遅《おく》れたつて、|遅刻《ちこく》の|罰金《ばつきん》を|取《と》られるのでもなし、マア|先《さき》を|楽《たのし》ンで、ゆつくり|休《やす》ンで|行《ゆ》かう』
と|言《い》ひ|乍《なが》ら、|大木《たいぼく》の|根《ね》を|枕《まくら》に|寝《ね》て|了《しま》つた。
『|何《なん》と|宣伝使《せんでんし》と|云《い》ふものは|大胆《だいたん》な|者《もの》ぢやないか、ナア|宗彦《むねひこ》。|現在《げんざい》|敵《かたき》が|落橋《らくけう》|準備《じゆんび》をやつてゐるのに、|平気《へいき》であの|通《とほ》り、|横《よこ》になるが|早《はや》いか|高鼾《たかいびき》をかいて|寝《ね》て|了《しま》はれた。|俺達《おれたち》はまだ|執着心《しふちやくしん》が|離《はな》れぬので、|命《いのち》が|惜《を》しくて、|敵《てき》が|前《まへ》に|殺人《さつじん》|準備《じゆんび》をやつて|居《ゐ》ると|思《おも》へば、どこともなしに|心気《しんき》|興奮《こうふん》して|寝《ね》られないがなア』
『|国依別《くによりわけ》さまと|安物《やすもの》の|安彦《やすひこ》と|比《くら》べやうとするから、そンな|疑問《ぎもん》が|起《おこ》るのだよ。|活神《いきがみ》さまと|製糞器《せいふんき》とは|同《おな》じ|様《やう》にはいかぬワイ』
『|俺《おれ》が|製糞器《せいふんき》なら、お|前《まへ》も|製糞器《せいふんき》ぢやないか』
『お|前《まへ》は|製糞器《せいふんき》だよ、この|宗彦《むねひこ》は|糞造器《ふんざうき》だ。|同《おな》じ|意味《いみ》の|様《やう》だが、そこに|一寸《ちよつと》|違《ちが》う|訳《わけ》があるのだ。アハヽヽヽ』
と|笑《わら》ひ|乍《なが》ら、|大木《たいぼく》の|周囲《まわり》をクルクルと|繞《めぐ》りつつ|夜明《よあけ》を|待《ま》つ|事《こと》にした。|漸《やうや》くにして、|東《ひがし》は|白《しら》み|出《だ》し、|百鳥《ももとり》の|声《こゑ》、あたりの|森林《しんりん》より、かしましく|聞《きこ》え|来《き》たる。|青葉《あをば》を|渡《わた》る|旦《あした》の|風《かぜ》は、|得《え》も|言《い》はれぬ|涼味《りやうみ》を|惜《を》しげもなく、|三人《さんにん》に|向《むか》つて|吹《ふ》きつける。いよいよ|一行《いつかう》|三人《さんにん》は|足仕度《あしじたく》をなし、|谷《たに》の|細路《ほそみち》を|伝《つた》ひ、|丸木橋《まるきばし》に|向《むか》ひ|進《すす》み|行《ゆ》く|事《こと》とはなりにける。
(大正一一・八・一九 旧六・二七 松村真澄録)
第一五章 |丸木橋《まるきばし》〔八八一〕
|三人《さんにん》は|勢《いきほひ》|込《こ》ンで、|秋《あき》、モリ|二人《ふたり》の|計略《けいりやく》の|裏《うら》をかいてやらむと、ホクホクし|乍《なが》ら|進《すす》ンで|行《ゆ》く。|此方《こちら》の|山裾《やますそ》から|向方《むかう》の|山裾《やますそ》に|渡《わた》る|相当《さうたう》に|深《ふか》い|谷川《たにがは》に、|長《なが》さ|四間《よんけん》|位《くらゐ》な|丸木橋《まるきばし》が|架《か》かつてゐる。
『サア|戦場《せんじやう》に|近寄《ちかよ》つた。|両人共《りやうにんとも》に、ここで|女《をんな》の|声《こゑ》を|出《だ》して|宣伝歌《せんでんか》を|高《たか》らかに|歌《うた》うのだぞ』
『|女《をんな》の|声《こゑ》を|出《だ》さうと|思《おも》へば、|自然《しぜん》|低《ひく》く|細《ほそ》くなるなり、|向方《むかう》の|奴《やつ》に|聞《きこ》える|様《やう》にせうと|思《おも》へば|地声《ぢごゑ》が|出《で》るなり、|安彦《やすひこ》も|困《こま》つたものですワ』
『ナニ、|神様《かみさま》の|守護《しゆご》で、キツと|鶯《うぐひす》の|谷渡《たにわた》りの|様《やう》な|声《こゑ》が|出《で》て|来《く》るよ。そこが|言霊《ことたま》の|妙用《めうよう》だ。……サア|行《ゆ》かう、|腹《はら》の|底《そこ》から|出《だ》さず、|乳《ちち》のあたりから|声《こゑ》を|出《だ》すのだ』
と|細《ほそ》き|涼《すず》しき|松虫《まつむし》のやうな|作《つく》り|声《ごゑ》で、|一本橋《いつぽんばし》の|袂《たもと》に|差《さし》かかり、
『|神《かみ》が|表《おもて》に|現《あら》はれて |善《ぜん》と|悪《あく》とを|立分《たてわ》ける
|此《この》|世《よ》を|造《つく》りし|神直日《かむなほひ》 |心《こころ》も|広《ひろ》き|大直日《おほなほひ》
|只《ただ》|何事《なにごと》も|人《ひと》の|世《よ》は |直日《なほひ》に|見直《みなほ》せ|聞直《ききなほ》せ
|身《み》の|過《あやま》ちは|宣《の》り|直《なほ》せ |恋《こひ》しと|思《おも》ふ|国《くに》さまは
どこにどうして|御座《ござ》るやら お|前等《まへら》|二人《ふたり》は|俺《おれ》よりも
|一足先《ひとあしさき》へと|言《い》はしやつた さぞ|今頃《いまごろ》はどこやらの
ナイスに|袂《たもと》を|引《ひ》つぱられ |放《はな》してお|呉《く》れと|国《くに》さまは
|紅井姫《くれなゐひめ》やエリナ|姫《ひめ》 |天女《てんによ》の|様《やう》な|妻《つま》がある
お|門《かど》が|広《ひろ》い|早放《はやはな》せ なぞと|困《こま》つて|御座《ござ》るだらう
|私《わたし》の|恋《こひ》は|奥山《おくやま》の |細谷川《ほそたにがは》の|丸木橋《まるきばし》
|渡《わた》るはこわし|渡《わた》らねば |心《こころ》の|底《そこ》から|惚切《ほれき》つた
|秋山別《あきやまわけ》に|会《あ》はれない |秋山《あきやま》さまも|情《なさけ》ない
|惚《ほれ》た|弱味《よわみ》で|厭《いや》さうに ピンとはねたら|真《ま》にうけて
|怒《おこ》つて|御座《ござ》るか|自烈《じれつ》たい |私《わたし》の|誠《まこと》の|心根《こころね》は
|国依別《くによりわけ》の|四十男《しじふをとこ》 |親《おや》と|子《こ》|程《ほど》|違《ちが》ふのに
どうしてそれが|惚《ほれ》られよ |惚《ほれ》たと|云《い》ふは|表向《おもてむ》き
|又《また》モリさまも|気《き》が|利《き》かぬ |仮令《たとへ》|田舎《ゐなか》の|娘《むすめ》でも
エリナと|云《い》つたら|界隈《かいわい》で |指《ゆび》をさされた|此《この》ナイス
|男心《をとこごころ》と|秋《あき》の|空《そら》 |私《わたし》の|腹《はら》が|知《し》らしたい
|秋山《あきやま》さまも|余《あんま》りぢや モリスさままで|私《わたし》をば
|情《つれ》ない|女《をなご》と|誤解《ごかい》して |怒《おこ》つて|御座《ござ》るか|情《なさけ》ない
|天津神《あまつかみ》|様《さま》|八百万《やほよろづ》 |国津神《くにつかみ》|様《さま》|八百万《やほよろづ》
|仮令《たとへ》|野山《のやま》の|果《はて》までも |秋山《あきやま》さまやモリスさま
|後《あと》を|慕《した》うて|尋《たづ》ね|行《ゆ》き |嫌《いや》と|言《い》はれよが|如何《どう》せうが
|思《おも》ひ|込《こ》みたる|此《この》|恋路《こひぢ》 |石《いし》の|唐柩《からと》にかくるとも
|捜《さが》し|出《だ》さねばおくものか あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|神《かみ》の|御霊《みたま》の|幸《さち》はひて |秋山《あきやま》さまやモリスさま
|尊《たふと》き|御顔《おかほ》を|伏《ふ》し|拝《をが》み |手《て》を|引合《ひきあ》うて|行《い》けるなら
|此《この》|橋《はし》|無事《ぶじ》にやすやすと |向方《むかう》へ|渡《わた》して|下《くだ》されや
|私《わたし》が|恋《こひ》を|仕遂《しと》げるか |仕《し》とげられぬか|此《この》|橋《はし》が
|私《わたし》に|取《と》つての|辻占《つじうら》ぢや もしも|渡《わた》れぬ|其《その》|時《とき》は
|秋山《あきやま》さまに|添《そ》はれない モリスさまにも|会《あ》はれない
|女《をんな》の|心《こころ》と|云《い》ふものは |好《す》きで|叶《かな》はぬ|男《をとこ》をば
|厭《いや》ぢや|厭《いや》ぢやとはねつける これが|私《わたし》の|弱点《じやくてん》ぢや
|一《いつ》そ|肝玉《きもだま》|放《ほ》り|出《だ》して |秋山《あきやま》さまが|言《い》ひよつた
|時《とき》に|頭《あたま》を|縦《たて》に|振《ふ》り ウンと|云《い》ふときやよかつたに
どうやら|男《をとこ》の|居《を》りさうな |香《にほひ》がプンとして|来《き》たぞ
ホンに|危《あぶ》ない|丸木橋《まるきばし》 エリナ|用心《ようじん》なさりませ』
|安彦《やすひこ》は|又《また》|唄《うた》ふ。
『いえいえ|私《わたし》は|大丈夫《だいぢやうぶ》 |姫《ひめ》さまあなたは|足弱《あしよわ》ぢや
どうぞ|気《き》を|付《つ》けなされませ もしも|誤《あやま》り|谷川《たにがは》に
|落《お》ちて|生命《いのち》を|棄《す》てたなら |秋山《あきやま》さまに|申訳《まをしわけ》
どうしてどうして|立《た》ちませう あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ』
|秋《あき》、モリの|二人《ふたり》は|丸木橋《まるきばし》に|太《ふと》い|藤《ふぢ》づるを|括《くく》りつけ、|国依別《くによりわけ》の|声《こゑ》を|合図《あひづ》に『|一《ひ》イ|二《ふ》ウ|三《み》イ』で|引張《ひつぱ》りおとさうと、|手具脛《てぐすね》ひいて|待《ま》つてゐる。|橋《はし》の|袂《たもと》に|立《た》ち|止《と》まつて|女《をんな》の|歌《うた》が|聞《きこ》えてゐる。よくよく|歌《うた》の|文句《もんく》を|考《かんが》へて|見《み》れば、|思《おも》ひがけなきかぐはしい|歌《うた》である。
『ヤツパリ|女《をんな》はこンなものかいな、モリス。モ|一《ひと》つ|押強《おしつよ》く|行《い》けば|成功《せいこう》したのだけれど、|余《あんま》りスヰートハートした|弱味《よわみ》に、ヨウ|思《おも》ひ|切《き》りやらなかつたのが|此方《こちら》の|不調法《ぶてうほう》だ。|流石《さすが》は|俺《おれ》が|思《おも》ひ|込《こ》む|丈《だけ》あつて、|優《やさ》しい|姫様《ひめさま》だワイ。|始《はじ》めて|美《うる》はしい|御心中《ごしんちう》を|承《うけたま》はり、これで|死《し》ンでも|得心《とくしん》だ。あの|歌《うた》の|文句《もんく》で|考《かんが》へて|見《み》ると、|国依別《くによりわけ》の|奴《やつ》、どつかで|又《また》|道草《みちくさ》を|食《く》ひよつて、スベタ|女《をんな》にチヤホヤされて、|涎《よだれ》をくつて、|脂下《やにさ》がつて|居《ゐ》よるのだらう。|見切《みき》りのよい、|前《さき》の|見《み》えるお|姫《ひめ》さまは、たうとう|国依別《くによりわけ》に|愛想《あいさう》をつかし、|俺達《おれたち》|二人《ふたり》が|先《さき》に|行《い》つたと|云《い》ふ|事《こと》を、|誰《たれ》かに|聞《き》いて、はるばるとやつて|御座《ござ》つたのだな。|併《しか》しあンな|事《こと》を|云《い》つて、|国依別《くによりわけ》が|交《まじ》つて|居《ゐ》るかも|知《し》れぬ。|何分《なにぶん》|斯《こ》う|樹木《じゆもく》が|茂《しげ》つて|居《を》つては、|声《こゑ》は|聞《きこ》えても|姿《すがた》は|見《み》えぬのだから、|都合《つがふ》の|好《よ》い|事《こと》がある|代《かは》りには、|又《また》|都合《つがふ》の|悪《わる》い|事《こと》があるワイ。のうモリ|公《こう》』
と|小《ちい》さい|声《こゑ》でブツブツ|囀《さへづ》つて|居《ゐ》る。
|国依別《くによりわけ》は|女《をんな》の|声《こゑ》にて、
|国依《くにより》『エリナさま、|私《わたし》、|此《この》|一本橋《いつぽんばし》、どうして|渡《わた》りませうかね。|足《あし》が|慄《ふる》ひますワ』
|安彦《やすひこ》『|嬢《ぢやう》さま、|御心配《ごしんぱい》なさいますな。エリナがついてをります。|此《この》|丸木橋《まるきばし》さへ|御渡《おわた》りになれば、|姫様《ひめさま》の|心《こころ》の|底《そこ》から|御慕《おした》ひ|遊《あそ》ばす、|秋山《あきやま》さまにキツと|会《あ》はれますよ。|私《わたし》だつて|一目《ひとめ》|見《み》そめたモリスさまに|会《あ》うて、|心《こころ》の|丈《たけ》を|申上《まをしあ》げねば、どうして|此《この》|儘《まま》|帰《かへ》れませう。あの|好《よ》い|男《をとこ》グヅグヅして|居《ゐ》て、|外《ほか》の|女《をんな》に|取《と》られて|了《しま》つちや|大変《たいへん》ですからねイ』
|国依《くにより》『さうねい、さうなら、そつと|渡《わた》りませうか。|何《なん》だかグキグキして|怖《こわ》い|橋《はし》だワ』
|安彦《やすひこ》『|御心配《ごしんぱい》なさいますな。|国依別《くによりわけ》のやうな|悪人《あくにん》が|通《とほ》つたら、|神様《かみさま》が|綱《つな》を|引《ひつ》ぱつておとし|遊《あそ》ばすかも|知《し》れませぬが、|女《をんな》が|可愛《かあい》い|男《をとこ》の|後《あと》を|追《お》うて|行《ゆ》くのですもの、|丸木橋《まるきばし》だつて、|落《おち》さうな|事《こと》はありませぬワ。|秋山別《あきやまわけ》さま、モリスさまの|一心《いつしん》でも、|落《おと》さぬやうに|守《まも》つて|下《くだ》さいますこと|分《わか》つて|居《ゐ》ますワ』
|国依《くにより》『|此《この》|橋《はし》|渡《わた》ると|秋山《あきやま》さまに|会《あ》へるの……、|私《わたし》|嬉《うれ》しいワ』
|安彦《やすひこ》『それは|其《その》|筈《はず》で|御座《ござ》います。|私《わたし》だつて、あの|色《いろ》の|黒《くろ》いモリスさまにさへも|是丈《これだけ》こがれて|居《ゐ》るのですもの。|秋山《あきやま》さまのやうな|立派《りつぱ》な|男《をとこ》に|御惚《おほれ》|遊《あそ》ばしますのは|無理《むり》も|御座《ござ》いませぬワ。ホヽヽヽヽ』
|国依《くにより》『ホヽヽヽヽおゝ|恥《はづ》かしい、モシ、エリナさま、|是《これ》きりで|云《い》はないやうにして|下《くだ》さいや。サア|早《はや》う|参《まゐ》りませう』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら、|国依別《くによりわけ》|一行《いつかう》は|恙《つつが》なく|橋《はし》を|渡《わた》り、|谷路《たにみち》の|木《き》の|茂《しげ》みにかくれて|膝栗毛《ひざくりげ》に|鞭《むち》をうち、|四五丁《しごちやう》|計《ばか》り|駆《か》け|出《だ》したり。
『アハヽヽヽ、ズイ|分《ぶん》|甘《うま》く|行《い》つたねい。ヤツパリ|吾々《われわれ》を|女《をんな》だと|思《おも》つて|居《ゐ》るらしいよ、|一《ひと》つ|此《この》|木《き》の|皮《かは》を|削《けづ》つて、|何《なん》とか|印《しるし》をしておかうかいナア、|両人《りやうにん》』
|安彦《やすひこ》は、『ハイ、|宜《よろ》しう|御座《ござ》います』と|短刀《たんたう》を|取出《とりいだ》し、|若《わか》き|欅《けやき》の|皮《かは》を|少《すこ》しく|削《けづ》り、あたりに|実《みの》つて|居《ゐ》る|烏羽玉《うばたま》の|実《み》を|手《て》に|取《と》り、|其《その》|汁《しる》にて、
|紅井姫《くれなゐひめ》、エリナの|両人《りやうにん》ここを|通《とほ》りました。|万一《まんいち》、|秋山別《あきやまわけ》さま、モリスさま、|妾《わたし》よりお|後《あと》で|御座《ござ》いましたら、どうぞ|追《お》つかけて|来《き》て|下《くだ》さいませ。さうして|橋《はし》を|国依別《くによりわけ》の|来《こ》ない|様《やう》に|落《おと》して|来《き》て|下《くだ》さいますれば、|尚々《なほなほ》|安心《あんしん》です。……|御両人様《ごりやうにんさま》……かよわき|女《をんな》より
と|書《か》きしるした。
『アハー|此奴《こいつ》ア|面白《おもしろ》い、|国依別《くによりわけ》が|先繰《せんぐ》り|先繰《せんぐ》り|剥《む》き|木《ぎ》をして、|至《いた》る|所《ところ》に|印《しるし》を|入《い》れ、どこ|迄《まで》もお|伴《とも》をさしてやらうかな。さうすれば|何時《いつ》の|間《ま》にかは|改心《かいしん》するだらう。アハヽヽヽ』
|秋《あき》、モリの|二人《ふたり》はあわてて|谷底《たにそこ》より|橋《はし》の|向《むか》ふ|側《がは》にかけ|上《のぼ》り、
『オイ、モリス、|確《たしか》に|紅井姫《くれなゐひめ》にエリナの|声《こゑ》だつたが、|併《しか》しスウスウと|渡《わた》つて|了《しま》ひ、|何《なん》とはなしに|変哲《へんてつ》がないぢやないか。|時鳥《ほととぎす》お|声《こゑ》は|聞《き》けど|姿《すがた》は|見《み》えぬ、|秋《あき》モリの|金神《こんじん》|蔭《かげ》から|守《まも》りてをりたぞよ。|此《この》|事《こと》|分《わか》りて|来《き》たら、いかな|紅井姫《くれなゐひめ》も、エリナもアフンと|致《いた》して|改心《かいしん》を|遊《あそ》ばすぞよ……そないしてまで|守《まも》つて|下《くだ》さつたか、ここは|世界《せかい》の|大橋《おおはし》、|此処《ここ》を|渡《わた》らねば|誠《まこと》の|男《をとこ》には|会《あ》へぬぞよ。|西《にし》と|東《ひがし》とに|立《たて》わけて、|神《かみ》が|守護《しゆご》がしてあるぞよ、|神《かみ》は|嘘《うそ》を|申《まを》さぬぞよと、|三五教《あななひけう》のお|筆先《ふでさき》もどきに、キツとお|姫《ひめ》さまが|秋《あき》モリの|金神《こんじん》の|御神徳《ごしんとく》を|讃歎《さんたん》し、|御喜《およろこ》び|遊《あそ》ばすにきまつてるワ、|今《いま》|聞《きこ》えた、あの|声《こゑ》、さう|遠《とほ》くは、|女《をんな》の|足《あし》で、|行《い》つては|居《を》られまい。サア|早《はや》く|膝栗毛《ひざくりげ》に|鞭《むち》をうつて|進《すす》まうぢやないか。|谷間《たにあひ》の|一筋道《ひとすぢみち》、メツタに|間違《まちが》う|気遣《きづか》ひはあるまいて、
|君《きみ》はまだ|遠《とほ》くは|行《ゆ》かじ|吾《わが》|袖《そで》の |袂《たもと》の|涙《なみだ》かわき|果《は》てねば
とか|云《い》ふ|歌《うた》があるぢやないか。キツと|遠《とほ》くに|行《ゆ》くまい。サア|駆足々々《かけあしかけあし》』
オツチニオツチニと|四股《しこ》ふみ|乍《なが》ら、|僅《わづか》に|足《あし》を|入《い》るる|計《ばか》り、|細《ほそ》くついた|谷道《たにみち》を|登《のぼ》り|行《ゆ》く。|三尺《さんしやく》|計《ばか》り|廻《まは》つた、|欅《けやき》の|若木《わかぎ》の|皮《かは》を|剥《む》いて、|何《なん》だかしるしてある。|能《よ》く|見《み》れば、|案《あん》に|違《たが》はず、|紅井姫《くれなゐひめ》、エリナの|二人《ふたり》がここを|通《とほ》り、……どうぞお|二人共《ふたりとも》、まだ|後《あと》ならば、|此《この》|印《しるし》を|見《み》てついて|来《き》てくれ……と|云《い》ふ|意味《いみ》の|文面《ぶんめん》を|見《み》て、|二人《ふたり》は|躍《をど》りあがり、
『ヤア、|有難《ありがた》い|有難《ありがた》い、|是《こ》れだから、どこ|迄《まで》もやり|通《とほ》さねば、|恋《こひ》の|難関《なんくわん》は|越《こ》えられぬと|云《い》ふのだ。サア、グヅグヅしては|居《を》られまい、|早《はや》く|行《ゆ》かうぢやないか。モウ|一《ひと》きばりだ。さうすればキツと|追《お》ひ|付《つ》けるにきまつてるワ』
と|又《また》もや|駆出《かけだ》す|其《その》|可笑《おか》しさ。
|国依別《くによりわけ》|一行《いつかう》は|二人《ふたり》の|必《かなら》ず|後《あと》を|追《お》つかけ|来《く》るに|相違《さうゐ》なしとコンパスに|油《あぶら》をさし、|喉《のど》の|汽笛《きてき》に|水《みづ》をドツサリ|注入《ちうにふ》し|巴奈馬《パナマ》|運河《うんが》を|無事《ぶじ》|通過《つうくわ》させ|乍《なが》ら、|一生懸命《いつしやうけんめい》に|駆出《かけいだ》し、コンモリとした|山桃《やまもも》の|大木《たいぼく》を|見《み》つけ、|猿《ましら》の|如《ごと》く|三人《さんにん》は|駆《かけ》あがり、|樹上《じゆじやう》に|胡坐《あぐら》をかき|山桃《やまもも》の|水《みづ》の|垂《た》る|様《やう》なのを、【むし】り|取《と》つて|食《く》つて|居《を》る。|枝葉《しよう》|密生《みつせい》し、どうしても|下《した》から、|見《み》ることは|出来《でき》なかつた。
|秋《あき》、モリの|二人《ふたり》は|喉《のど》をかわかせ、
『オイ、モリス、|是《こ》れ|丈《だけ》|急速力《きふそくりよく》でやつて|来《き》たのに、|追《お》つつかれない|筈《はず》はないぢやないか。|俺《おれ》やモウ|喉《のど》の|汽笛《きてき》が|鳴《な》り|出《だ》した。|此《この》|上《うへ》|一尺《いつしやく》だつて|歩《ある》けやしない。|幸《さいは》ひそこに|山桃《やまもも》の|甘《うま》さうな|奴《やつ》がなつてるぢやないか。ここで|一《ひと》つ|山桃《やまもも》でも|取《と》つて|喉《のど》をうるほして|行《ゆ》かうかい』
『さうだなア、|秋山別《あきやまわけ》、|随分《ずいぶん》|甘《うま》さうだ。マアゆつくり|一服《いつぷく》して|往《ゆ》くことにせう。|姫《ひめ》さまだつて|足《あし》を|痛《いた》め、|傍《かたはら》の|森《もり》の|中《なか》で|休《やす》みて|御座《ござ》つたのを|知《し》らずに|此処《ここ》まで|来《き》たのかも|知《し》れないよ。さうでなくては、|俺達《おれたち》が|息《いき》が|切《き》れる|程《ほど》|始終苦節《四十九ノツト》の|大速力《だいそくりよく》|大急行《だいきふかう》でやつて|来《き》たのに、|追《お》つつかぬ|筈《はず》がない。マアゆつくりと|此処《ここ》で|待《ま》つことにせうかい。キツと|其《その》|間《あひだ》にはお|出《いで》|遊《あそ》ばすに|定《き》まつてゐるワ。|確《たしか》に|女《をんな》の|手《て》であの|通《とほ》り|書《か》いてあつたなり、|橋《はし》をお|渡《わた》り|遊《あそ》ばす|時《とき》のあの|声《こゑ》つたら、|今《いま》|思《おも》ひ|出《だ》しても|涎《よだれ》が|落《お》つるやうだ。あゝ|本当《ほんたう》に|可愛《かあい》いお|姫様《ひめさま》だなア。|兎《と》も|角《かく》ここへお|通《とほ》りになる|迄《まで》、|此《この》|木《き》の|下《した》で|休《やす》むことにせう。|登《のぼ》つて|見《み》たら、ズイ|分《ぶん》|甘《うま》いのがあるだらうけれど、|木登《きのぼ》りする|奴《やつ》と、|飛行機《ひかうき》に|乗《の》る|奴《やつ》と|広《ひろ》い|街道《かいだう》を|軒下《のきした》|歩《ある》いて|看板《かんばん》で|頭《あたま》|打《う》つ|奴《やつ》|程《ほど》|馬鹿《ばか》はないと|云《い》ふから、マア|木登《きのぼ》りは|止《や》めにして、|低《ひく》く|垂《た》れ|下《さが》つた|甘《うま》さうな|山桃《やまもも》をとつて|辛抱《しんばう》せうかい』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら、|低《ひく》き|枝《えだ》の|半熟《はんじゆく》の|山桃《やまもも》を【むし】り、ムシヤムシヤと|喉《のど》をしめし、|腹《はら》をふくらせ、|今《いま》か|今《いま》かと|首《くび》を|長《なが》うして|待《ま》つて|居《ゐ》る。
|三人《さんにん》は|樹上《じゆじやう》にて|互《たがひ》に|顔《かほ》を|見合《みあは》せ、|口《くち》を|押《おさ》へ、|物《もの》を|言《い》ふなとの|合図《あひづ》をし|乍《なが》ら、|二人《ふたり》の|立《た》ち|去《さ》るのを、もどかしげに|待《ま》ち|居《ゐ》たりける。
(大正一一・八・一九 旧六・二七 松村真澄録)
(昭和九・一二・一八 王仁校正)
第一六章 |天狂坊《てんきやうばう》〔八八二〕
|国依別《くによりわけ》|一行《いつかう》は|山桃《やまもも》の|木《き》の|頂点《ちやうてん》に|三《み》つ|巴《どもへ》となつて|息《いき》をころし、|早《はや》く|樹下《じゆか》の|二人《ふたり》の|此処《ここ》を|立去《たちさ》れかしと、|心中《しんちう》|私《ひそ》かに|祈《いの》つて|居《ゐ》る。|三人《さんにん》が|樹上《じゆじやう》に|隠《かく》れてゐるとは、|神《かみ》ならぬ|身《み》の|知《し》る|由《よし》もなく|秋《あき》、モリ|二人《ふたり》は、|木《き》の|根株《ねかぶ》に|腰《こし》を|打《うち》かけ、
『オイ、モリス、|何《なん》と|不思議《ふしぎ》な|事《こと》があればあるものぢやないか。|現《げん》に|丸木橋《まるきばし》を|歌《うた》を|歌《うた》つたり、|話《はなし》|合《あ》つて|通《とほ》つたのも|確実《かくじつ》だ。|又《また》|欅《けやき》の|木《き》に|書《かき》おきがしてあつたのも、|又《また》|夢《ゆめ》でもなければ、|幻《まぼろし》でもない。さうすれば|何《ど》うしても|此《この》|道《みち》を|来《こ》なくてはならぬ|筈《はず》だ。|何程《なにほど》|足《あし》が|早《はや》いと|云《い》つても、|女《をんな》の|足《あし》でさう|早《はや》く|行《ゆ》ける|道理《だうり》もなし、|大方《おほかた》|天狗《てんぐ》にでも|抓《つま》まれたのではなからうかな』
『ナアニ|秋山別《あきやまわけ》、そンな|気遣《きづか》ひがあるものかい。キツと|此処《ここ》へ|出《で》て|来《く》るに|違《ちが》ひないワ。それにしても、|小気味《こきみ》のよい|事《こと》ぢやないか。|国依別《くによりわけ》が|後追《あとお》つかけて|来《く》るとうるさいから、|秋《あき》さま、モリさま、あの|一本橋《いつぽんばし》を|落《おと》して|下《くだ》さい……なんて、|小《こ》ましやくれた|事《こと》を|書《か》いてあつたぢやないか。|俺《おれ》やモウあの|一言《ひとこと》でサツパリ|得心《とくしん》して|了《しま》つたよ。|併《しか》し|乍《なが》ら|大分《だいぶん》に|諦《あきら》めかけて|居《を》つた|俺《おれ》の|恋《こひ》は、|再燃《さいねん》して|炎々《えんえん》|天《てん》を|焦《こが》し、|咫尺暗澹《しせきあんたん》、|疾風迅雷《しつぷうじんらい》|目《め》を|蔽《おほ》はれ、|耳《みみ》を|聾《ろふ》せられ、|精神《せいしん》|恍惚《くわうこつ》として、|魔風《まかぜ》|恋風《こひかぜ》に|包《つつ》まれて|了《しま》つたようだ。それにしてもあの|橋《はし》|位《くらゐ》|落《おと》した|所《ところ》で、|国依別《くによりわけ》の|奴《やつ》、|二人《ふたり》の|後《あと》を|嗅《か》ぎつけてやつて|来《く》るに|相違《さうゐ》ないワ。|一層《いつそう》の|事《こと》、|国依別《くによりわけ》が|茲《ここ》へ|来《く》るのを|待《ま》ち|受《う》けて|脅《おど》かしてボツ|返《かへ》してやらうか。それに|付《つ》いては|幸《さいは》ひ、|此《この》|山桃《やまもも》の|木《き》だ。|此《この》|上《うへ》へあがつて|天狗《てんぐ》の|声色《こわいろ》を|使《つか》ひ、|呶鳴《どな》りつけてやつたら、|流石《さすが》の|国依別《くによりわけ》も|思《おも》ひ|切《き》つて、|引返《ひつかへ》すに|違《ちがひ》ない。なンと|妙案《めうあん》だらう。サアやがて|来《く》る|時分《じぶん》だ。|登《のぼ》らう|登《のぼ》らう』
と|木《き》の|幹《みき》に|手《て》をかけ、|一間《いつけん》|計《ばか》り|登《のぼ》りかけた。
|国依別《くによりわけ》はコリヤ|面白《おもしろ》くない。|俺《おれ》の|方《はう》から|一《ひと》つ|天狗《てんぐ》になつてやらうと、|心《こころ》の|中《うち》に|決心《けつしん》し、|破《わ》れ|鐘《がね》のやうな|声《こゑ》を|張上《はりあ》げて、
『ウー』
と|唸《うな》り|出《だ》し、
『|此《この》|方《はう》はブラジル|山《やま》の|大天狗《だいてんぐ》、|天狂坊《てんきやうばう》であるぞよ。|数万年来《すうまんねんらい》|山桃《やまもも》の|木《き》を|住家《すみか》と|致《いた》し|居《ゐ》るにも|拘《かか》はらず、|汚《けが》れ|果《は》てたる|人間《にんげん》の|身《み》を|以《もつ》て、|此《この》|木《き》に|登《のぼ》れるなれば、|登《のぼ》つて|見《み》よ。|股《また》から|引裂《ひきさ》いて|了《しま》うぞよ。ウー』
|二人《ふたり》は|俄《にはか》に|顔《かほ》を|真青《まつさを》にし、
『ヤア|此《この》|天狗《てんぐ》は|神王《しんわう》の|森《もり》の|天狗《てんぐ》とは|余程《よほど》|実《み》のある|奴《やつ》だ。グヅグヅして|居《ゐ》るとどンな|目《め》に|合《あ》ふか|知《し》れぬぞ。オイ、モリ|公《こう》、お|詫《わび》をせうぢやないか』
モリスは|慄《ふる》ひ|乍《なが》ら、
『モシモシ|天狗様《てんぐさま》、|秋公《あきこう》が|登《のぼ》らうと|云《い》つたので|御座《ござ》います。|私《わたくし》は|決《けつ》してそンな|失礼《しつれい》な|事《こと》は|致《いた》す|考《かんが》へは|御座《ござ》いませぬ。どうぞ|許《ゆる》して|下《くだ》さいませ』
『|其《その》|方《はう》は|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》|国依別《くによりわけ》が、|一本橋《いつぽんばし》を|渡《わた》る|隙《すき》を|考《かんが》へ、|橋《はし》を|落《おと》さうと|致《いた》した|大悪人《だいあくにん》、|容赦《ようしや》はならぬぞ』
『ハイハイ、|誠《まこと》に|済《す》まぬ|事《こと》を|致《いた》しましたが、これもヤツパリ|秋公《あきこう》の|恋《こひ》の|懸橋《かけはし》をおとした|国依別《くによりわけ》で|御座《ござ》いますから、|仕方《しかた》がなしに|落《おと》さうと|致《いた》しました。|併《しか》しそれが|為《ため》|国依別《くによりわけ》が|怪我《けが》をしたのでも、|死《し》ンだのでもありませぬ。どうぞ|神直日《かむなほひ》|大直日《おほなほひ》に|見直《みなほ》し|聞直《ききなほ》して|下《くだ》さりますよう|御願《おねがひ》|致《いた》します』
『|其《その》|方《はう》は|二人《ふたり》の|女《をんな》の|行方《ゆくへ》を|知《し》つて|居《ゐ》るか』
『ハイ、|確《たしか》にあの|丸木橋《まるきばし》を|渡《わた》り、こちらへ|来《き》た|筈《はず》で|御座《ござ》いますが、どこに|沈没《ちんぼつ》|致《いた》しましたか、|未《いま》だに|行方不明《ゆくへふめい》にて|捜索《そうさく》の|最中《さいちう》で|御座《ござ》います。どうぞ|御慈悲《おじひ》を|以《もつ》て|彼《かれ》が|所在《ありか》を|御知《おし》らせ|下《くだ》さいますれば、|誠《まこと》に|以《もつ》て|有難《ありがた》き|仕合《しあは》せと|存《ぞん》じ|奉《たてまつ》ります』
『|汝《なんぢ》が|尋《たづ》ぬる|二人《ふたり》の|女《をんな》と|申《まを》すのは、|紅井姫《くれなゐひめ》、エリナの|事《こと》であらう』
『ハイ|御存《ごぞん》じの|通《とほ》り、|其《その》|女《をんな》で|御座《ござ》います。|今《いま》はどの|辺《へん》に|居《を》りますか、どうぞ|附《つ》け|上《あが》りました|事《こと》で|御座《ござ》いますが、|一寸《ちよつと》お|知《し》らせ|下《くだ》さいますれば|大変《たいへん》に|都合《つがふ》が|宜《よ》ろしう|御座《ござ》ります』
『|其《その》|女《をんな》は|日暮《ひぐら》シ|山《やま》の|山麓《さんろく》、ウラル|教《けう》の|館《やかた》に、|両人《りやうにん》|共《とも》|機嫌《きげん》よく|暮《くら》して|居《を》るぞよ。|何《なに》を|踏迷《ふみまよ》うて|斯様《かやう》な|所《ところ》へ|出《で》て|来《き》たのか。|大盲《おほめくら》|奴《め》』
『オイ、ヤツパリ|日暮《ひぐら》シ|山《やま》の|岩窟《がんくつ》かも|知《し》れぬぞ。|今《いま》|天狗《てんぐ》さまが、あゝ|仰有《おつしや》ると、|俺《おれ》も|矢張《やつぱり》そンな|心持《こころもち》がして|来《き》だしたよ』
|秋《あき》、|小声《こごゑ》で、
『|馬鹿《ばか》|云《い》ふない、あの|通《とほ》り|立派《りつぱ》に|女《をんな》の|手《て》で|書残《かきのこ》しもしてあるなり、|現《げん》に|一本橋《いつぽんばし》を|渡《わた》る|時《とき》の|声《こゑ》を|聞《き》いたぢやないか。|此《この》|天狗《てんぐ》さま、|何《なに》を|云《い》ふか|分《わか》りやしないぞ。|野天狗《のてんぐ》と|云《い》ふ|者《もの》は|嘘《うそ》|計《ばか》りいふものだから、ウツカリ|信用《しんよう》は|出来《でき》ないぞ』
『|此《この》|方《はう》の|申《まを》す|事《こと》をまだ|疑《うたが》うて|居《ゐ》るか。それ|程《ほど》|疑《うたが》ふのなら、|許《ゆる》してやるから、トツトと|此《この》|木《き》の|上《うへ》へあがつて|来《こ》い、|天狗《てんぐ》の|正体《しやうたい》をあらはし、アフンとさしてやらうぞ』
『メヽヽ|滅相《めつさう》な、|決《けつ》してウヽヽ|疑《うたがひ》は|致《いた》しませぬ。|天狗《てんぐ》さまに|間違《まちがひ》|厶《ござ》いませぬ』
『|其《その》|方《はう》が|神王《しんわう》の|森《もり》に|於《おい》て|出会《であ》うた|天狗《てんぐ》とは|種類《しゆるゐ》が|違《ちが》うぞよ。|天狗《てんぐ》と|云《い》ふ|者《もの》は|千変万化《せんぺんばんくわ》の|働《はたら》きを|致《いた》すものだ。|又《また》|其《その》|国々《くにぐに》の、【|国《くに》】|魂《たま》に【|依《より》】て【|別《わけ》】られてあるから、チツとは|調子《てうし》も|違《ちが》うぞよ。|余《あま》り|口答《くちごたへ》へを|致《いた》すと、|一《ひと》つ|目《め》の|剥《む》ける|様《やう》な|目《め》に|会《あ》はしてやらうか。【キジ】キジも|鳴《な》かねば【|安彦《やすひこ》】とうたれはせうまいぞ。【マチ】マチに|其《その》|方《はう》の|心《こころ》がなつて、|統一《とういつ》|致《いた》さず【|宗《むね》】が【|彦々《ひこひこ》】、|宗彦《むねひこ》と|動《うご》いて|居《ゐ》るから、チツと|気《き》を|落《おち》つけて|考《かんが》へたがよからう。|此《この》|山桃《やまもも》の【モリス】に|立寄《たちよ》り、|口《くち》を【|秋《あき》】、【|山《やま》】をアフンと|致《いた》して|眺《なが》め、【|別《わけ》】の|分《わか》らぬ|面付《かほつき》で、|何程《なにほど》|女《をんな》の|後《あと》を|捜《さが》したとて、|分《わか》りさうな|事《こと》はないぞよ。サア|早《はや》く|迷《まよ》ひの|夢《ゆめ》を|醒《さ》まし、|一時《いちじ》も|早《はや》くヒルの|国《くに》へ|帰《かへ》り、|楓別命《かえでわけのみこと》にお|詫《わび》を|致《いた》して、|帰参《きさん》を|許《ゆる》して|貰《もら》ひ、|神妙《しんめう》に|神界《しんかい》の|御用《ごよう》を|致《いた》すがよからうぞ。ウー』
|斯《か》かる|所《ところ》へ|見目《みめ》|形《かたち》|美《うる》はしき|二人《ふたり》の|女《をんな》、スタスタと|谷《たに》を|伝《つた》ひ|来《きた》り、|森蔭《もりかげ》に|立寄《たちよ》り、
『|誰《たれ》かと|思《おも》へばお|前《まへ》さまは、|秋山別《あきやまわけ》さまであつたか。あゝどれ|丈《だけ》|捜《さが》した|事《こと》だか|分《わか》りやしないワ。マアよう|無事《ぶじ》で|居《ゐ》て|下《くだ》さいました。お|懐《なつ》かしう|存《ぞん》じます。|妾《わらは》はヒルの|館《やかた》で|別《わか》れてより、|今頃《いまごろ》はどうして|御座《ござ》るかと、|寝《ね》ても|醒《さ》めても|心配《しんぱい》|致《いた》して|居《を》りました。|私《わたくし》は|秋山別《あきやまわけ》さま、あなたの|御嫌《おきら》ひ|遊《あそ》ばす|可憐《かれん》の|女《をんな》|紅井姫《くれなゐひめ》と|云《い》ふ|者《もの》です。アンアンアン』
と|目《め》に|袖《そで》をあて、|泣《な》き|伏《ふ》して|見《み》せる。
『|誰《たれ》かと|思《おも》へばモリスさま、|私《わたくし》はエリナで|御座《ござ》ります。|一度《いちど》|会《あ》うた|其《その》|日《ひ》から、お|前《まへ》と|私《わたし》は|生別《いきわか》れ、|何《なん》の|便《たよ》りも|内証《ないしよう》の、|話《はなし》せうにも|言《こと》づけせうにも、|人目《ひとめ》の|関《せき》に|隔《へだ》てられ、|会《あ》ひたい|見《み》たいと|明《あけ》くれに、こがれ|慕《した》つて|居《を》りました。お|前《まへ》に|会《あ》うてさまざまの、|恨《うら》みも|言《い》はう、|心《こころ》の|丈《たけ》も|聞《き》いて|貰《もら》はうと、|思《おも》ひつめては、|又《また》もや|起《おこ》る|持病《ぢびやう》の|癪《しやく》、アイタタアイタタ|会《あ》ひたかつたわいなア。モリスさま、お|前《まへ》と|私《わたし》と|暮《くら》すなら、|仮令《たとへ》アマゾン|河《がは》の|畔《ほとり》でも、ブラジル|山《やま》の|谷《たに》あひでも、|厭《いと》ひはせぬ、どうぞ|私《わたし》を|憐《あは》れの|女《をんな》と、|可愛《かあい》がつて|下《くだ》さりませ。コレのうモシ、モリスさま』
『ヤアよう|来《き》て|下《くだ》さつた。モリスとても|御身《おんみ》を|思《おも》ふ|心《こころ》に|変《かは》りのあるべきぞ。|雨《あめ》のあした、|風《かぜ》の|夕《ゆふ》べ、そなたは|何処《いづこ》の|果《は》てにさまよふかと、|思《おも》ひつめたるモリスの|厚《あつ》き|心《こころ》、|必《かなら》ず|恨《うら》ンでばし、|下《くだ》さるなや』
と|芝居《しばゐ》|気取《きど》りになつて、やつてゐる。|秋山別《あきやまわけ》も|負《まけ》ず|劣《おと》らず、
『これはしたり|御姫様《おひめさま》、チトお|慎《つつし》みなされませ。|不義《ふぎ》は|御家《おいへ》の|御法度《ごはつと》、|何程《なにほど》|惚《ほ》れた|男《をとこ》ぢやとて、はるばるブラジル|山《やま》の|谷底《たにそこ》まで、|尋《たづ》ね|来《く》るとは、チと|無分別《むふんべつ》では|御座《ござ》らぬか。|某《それがし》とても|木石《ぼくせき》ならぬ|青春《せいしゆん》の|血《ち》に|燃《も》ゆる|男《をとこ》の|身《み》、|無下《むげ》に|返《かへ》したくはなけね|共《ども》、|姫様《ひめさま》の|行末《ゆくすゑ》を|思《おも》へばこそ、|情《つれ》ない|事《こと》を……|申《まを》しませぬ。
ホンに|可愛《かあい》い|姫《ひめ》ごぜの、はるばる|茲《ここ》に|尋《たづ》ね|来《き》て、|夫《をつと》の|後《あと》を|附《つ》け|狙《ねら》ひ、|来《く》る|心根《こころね》がいとしいわいのオンオンオンオン、コレを|思《おも》へば|前《さき》の|世《よ》に、|如何《いか》なる|事《こと》の|罪《つみ》せしか、|千里《せんり》|万里《ばんり》の|山坂《やまさか》|越《こ》え、|一丈《いちぢやう》|二尺《にしやく》の|褌《まはし》を|締《し》めた、|此《この》|荒男《あらをとこ》の|身《み》も|恥《はぢ》ず、|姫《ひめ》の|行方《ゆくへ》を|尋《たづ》ねむと、さまよひ|巡《めぐ》りて|今《いま》|茲《ここ》に、お|前《まへ》に|会《あ》うた|嬉《うれ》しさは、コレが|忘《わす》れてなるものか、|金勝要大神《きんかつかねのおほかみ》|様《さま》の|御情《おなさけ》|深《ぶか》い|縁結《えんむす》び、あゝ|有難《ありがた》や|勿体《もつたい》なやと、|大地《だいち》にカツパとひれ|伏《ふ》し|手《て》を|合《あは》し、|男《をとこ》|泣《な》きにぞ|泣《な》きゐたる』
『ホヽヽヽヽ』
『ヒヽヽヽヽ』
『コレコレエリナ|殿《どの》、ヒヽヽとは|何事《なにごと》で|御座《ござ》るか、モツと|品《ひん》よくお|笑《わら》ひなさらぬか、|見《み》つともなう|御座《ござ》るぞや』
『ホヽヽヽヽ|呆《はう》けしやますなや』
『|呆《はう》けたればこそ、|女《をんな》|一人《ひとり》の|後《あと》|逐《お》うて|恥《はぢ》も|外聞《ぐわいぶん》も|打忘《うちわす》れ、|茲《ここ》まで|苦労《くらう》を|致《いた》して|居《ゐ》るのでないか、コレ、エリナ|姫《ひめ》、|野暮《やぼ》な|事《こと》を|言《い》やるなや』
|国依別《くによりわけ》は|樹上《じゆじやう》にて、こばり|切《き》れず、|思《おも》はず、|口《くち》の|紐《ひも》を|千切《ちぎ》つて、
『ワツハヽヽヽ』
と|笑《わら》ひ|出《だ》せば、|安彦《やすひこ》、|宗彦《むねひこ》も|同《おな》じく、|笑《わら》ひ|出《だ》す。
|秋山別《あきやまわけ》は、
『ヘン|野天狗《のてんぐ》さま、|是《これ》でも|日暮《ひぐら》シ|山《やま》の|岩窟《がんくつ》に|居《を》りますかい、|済《す》みませぬなア。|色男《いろをとこ》と|云《い》ふものはマア、ザツとこンな|者《もの》ですワイ。お|前《まへ》さまもチツとやけるでせう。|気《き》の|毒《どく》|乍《なが》ら|天狗《てんぐ》と|云《い》へば|偉《えら》いようだが、ヤツパリ|畜生《ちくしやう》の|中《うち》だ。|早《はや》く|千年《せんねん》の|修業《しうげふ》を|了《を》へて、|人間《にんげん》に|生《うま》れて|来《き》さんせ。こんなローマンスを|実地《じつち》にやらうとママだよ。なア、モリス、|何《な》んぼ|天狗《てんぐ》は|女《をんな》は|嫌《きら》ひだと|申《まを》しても、|閻魔《えんま》さまでも|女《をんな》の|白《しろ》い|手《て》で|肩《かた》をもンで|貰《もら》うて|嬉《うれ》しさうにして|居《ゐ》るぢやないか。|天《あま》の|岩戸《いはと》の|始《はじ》めより、|女《をんな》ならでは|夜《よ》の|明《あ》けぬ|国《くに》だ。エツヘヽヽヽ、ちツと|野天狗《のてんぐ》さま、けなりい|事《こと》は|御座《ござ》いませぬか。お|前《まへ》さまの|目《め》の|前《まへ》でこンなお|安《やす》うない|所《ところ》をお|目《め》にブラ|下《さ》げて、お|気《き》の|毒《どく》ですが、これも|因縁《いんねん》づくぢやと|諦《あきら》めさンせ。サア|紅井姫《くれなゐひめ》ここへおぢや』
『エリナ|殿《どの》サアお|出《い》でなさいませ。モリスが|案内《あんない》|仕《つかまつ》りませう』
『アイ』『アイ』
と|優《やさ》しき|声《こゑ》を|出《だ》し、|二人《ふたり》の|男《をとこ》に|手《て》を|引《ひ》かれ、ドシドシと|東南《とうなん》を|指《さ》して|従《つ》いて|行《ゆ》く。
『サア、もう|好加減《いいかげん》におりようぢやないか、|随分《ずいぶん》|迷惑《めいわく》したねー。|今夜《こんや》|木《き》の|下《した》で|寝《ね》でも|仕《し》よつた|位《くらゐ》なら、|下《を》りるにも|下《を》りられず、|大変《たいへん》に|困《こま》る|所《ところ》だつた。|結構《けつこう》な|御手伝《おてつだ》ひが|現《あら》はれて、|先《ま》づ|俺達《おれたち》も|安心《あんしん》だ』
『どうして|又《また》|紅井姫《くれなゐひめ》さまやエリナさまが、こンな|所迄《ところまで》|従《つ》いて|来《き》て、あれ|丈《だけ》あなたにホの|字《じ》とレの|字《じ》だつたのに、|俄《にはか》に|心機一転《しんきいつてん》|遊《あそ》ばしたと|見《み》え、あンな|男《をとこ》と|意茶《いちや》ついて、|手《て》を|曳《ひ》いて|行《ゆ》くなンて、|合点《がつてん》が|行《ゆ》かぬぢやありませぬか。それだから|女《をんな》は|化者《ばけもの》だ、|油断《ゆだん》がならぬと|人《ひと》が|云《い》ふのですな』
『|本当《ほんたう》に|化者《ばけもの》だよ。うつかり|鼻《はな》の|下《した》を|長《なが》うして|涎《よだれ》をくつてると、|眉毛《まゆげ》をよまれ、|尻《しり》の|毛《け》|迄《まで》ぬかれてアフンとするのは、ウスノロ|男《をとこ》の|常習《じやうしふ》だよ』
『|何《なん》とマア|変《かは》れば|変《かは》るものですなア。この|宗彦《むねひこ》も|今度《こんど》|計《ばか》りは|呆《あき》れて|了《しま》ひましたよ。モウ|女《をんな》はゾツとしました。|女《をんな》が|是《これ》からは|何程《なにほど》|甘《うま》い|事《こと》を|云《い》つたとて、うつかり|乗《の》れませぬ|哩《わい》』
『そンな|心配《しんぱい》すない。お|前等《まへら》に|甘《うま》い|事《こと》を|言《い》つてくれる|女《をんな》があるものかい。|俺《おれ》だつて、|仮令《たとへ》うそでも|良《よ》いから、|一口《ひとくち》|位《くらゐ》|惚《ほ》れたやうな|事《こと》を|言《い》つて|貰《もら》ひたいと|思《おも》うのだが、なかなか|言《い》つてくれぬなア。まだ|彼奴《あいつ》ア、|瞞《だま》されてゐるか|何《ど》うか|知《し》らぬけれど、|俺《おれ》から|見《み》ると|余程《よつぽど》|女《をんな》にもてると|見《み》えるワイ。エヽ|怪体《けたい》の|悪《わる》い、|本当《ほんたう》にのろけを|聞《き》かしよつて、|彼奴《あいつ》の|往《い》つた|後《あと》を|通《とほ》るのも|厭《いや》になつて|了《しま》つたワイ』
『アハヽヽヽ|矢張《やつぱり》|悋《や》けると|見《み》えるなア。|勝手《かつて》に|男《をとこ》と|女《をんな》とが|勝手《かつて》な|事《こと》をして|居《ゐ》るのだ。|別《べつ》に|法界《はうかい》|悋気《りんき》をする|必要《ひつえう》もないぢやないか。そンな|事《こと》ではまだ|神様《かみさま》の|御用《ごよう》をつとめる|所《ところ》へは|往《ゆ》かないぞ』
『おかみさまの|御用《ごよう》なつとさして|頂《いただ》けば|結構《けつこう》だが、|私《わたし》の|様《やう》な|者《もの》は|到底《たうてい》|駄目《だめ》ですワイ。|女《をんな》に|嫌《きら》はれるやうな|事《こと》で、|何《ど》うして|神《かみ》さまに|好《す》かれる|道理《だうり》が|御座《ござ》いませう』
『アハヽヽヽ、ありや|女《をんな》ぢやない|化者《ばけもの》だよ』
『|七人《しちにん》の|子《こ》はなす|共《とも》、|女《をんな》に|心《こころ》|許《ゆる》すなとか|云《い》ひますなア。|本当《ほんたう》に|女《をんな》と|云《い》ふ|者《もの》は|一寸《ちよつと》|髪《かみ》を|結《ゆ》ひ、|白粉《おしろい》をつけ、|口紅《くちべに》でもすると、|鬼《おに》の|様《やう》な|洒面《しやつら》が|俄《にはか》に|天女《てんによ》の|様《やう》に|見《み》えるのだから、|堪《たま》りませぬワイ』
『あれは|本当《ほんたう》の|女《をんな》ぢやないよ』
『さうでせうなア、|男《をとこ》でさへも|人三化七《にんさんばけしち》と|云《い》ひますから、|何《いづ》れ|四足《よつあし》の|容物《いれもの》でせう。お|姫《ひめ》さまもあこ|迄《まで》|堕落《だらく》しちや、モウ|駄目《だめ》ですな。|何程《なにほど》|新《あたら》しい|女《をんな》が|流行《りうかう》すると|云《い》つても|余《あま》り|極端《きよくたん》ぢやありませぬか。|丸《まる》で|狐《きつね》が|化《ば》けとる|様《やう》なスタイルをしよつて、|吾々《われわれ》の|前《まへ》であのザマは|一体《いつたい》|何《なん》だい』
『どこ|迄《まで》も|分《わか》らぬ|男《をとこ》だなア。あの|御方《おかた》は|旭明神《あさひみやうじん》、|月日明神《つきひみやうじん》と|云《い》ふ|御二方《おふたかた》だよ。|吾々《われわれ》の|迷惑《めいわく》をお|助《たす》け|下《くだ》さつた|結構《けつこう》な|白狐《びやつこ》さまだよ』
『あゝそれで|安彦《やすひこ》も|分《わか》りました。|何《なん》だか|尻《しり》に|白《しろ》い|尾《を》のやうなものがブラ|下《さ》がつてゐましたワ。|是《これ》からあの|二人《ふたり》は|何《ど》うなるでせうかなア』
『どうせアフンとするのだらう。サア|行《ゆ》かう』
と|国依別《くによりわけ》の|詞《ことば》に|二人《ふたり》は|足《あし》を|早《はや》め、|谷路《たにみち》を|東南《とうなん》さして|進《すす》み|行《ゆ》く。
(大正一一・八・一九 旧六・二七 松村真澄録)
第一七章 |新《あたら》しき|女《をんな》〔八八三〕
|恋《こひ》の|暗路《やみぢ》にふみ|迷《まよ》ひ ブラジル|山《やま》の|谷底《たにそこ》|迄《まで》
|情慾《じやうよく》の|鬼《おに》に|魅《み》せられて モリス、|秋山別《あきやまわけ》の|両人《りやうにん》は
|百津常磐木《ゆつかつらぎ》の|山桃《やまもも》の |大木《たいぼく》の|株《かぶ》に|憩《いこ》ひつつ
|悲《かな》しき|恋《こひ》の|叫《さけ》び|声《ごゑ》 |山《やま》は|裂《さ》け|海《うみ》はあせなむ|世《よ》ありとも
いかで|忘《わす》れむ|紅井姫《くれなゐひめ》 エリナの|後《あと》をどこ|迄《まで》も
|捜《さが》さにやおかぬと|雄健《をたけ》びし |俄《にはか》に|化《ばけ》た|木《き》の|上《うへ》の
|天狗《てんぐ》|相手《あひて》に|大問答《だいもんだう》 |烏鷺《うろ》|闘《たたか》はす|最中《さいちう》に
|夢《ゆめ》にも|忘《わす》れぬ|恋人《こひびと》が |不思議《ふしぎ》や|爰《ここ》に|現《あら》はれて
|恨《うらみ》の|数々《かずかず》|並《なら》べ|立《た》て お|前《まへ》は|情《つれ》ない|男《をとこ》ぞや
かよわき|女《をんな》の|身《み》を|以《もつ》て |虎《とら》|狼《おほかみ》や|獅子《しし》|熊《くま》の
|伊猛《いたけ》り|叫《さけ》ぶ|山野原《やまのはら》 |慕《した》うて|尋《たづ》ね|来《き》た|者《もの》を
|今迄《いままで》|何処《どこ》にうろうろと |主《ぬし》なき|花《はな》を|手折《たお》りつつ
|妾《わらは》|二人《ふたり》を|振《ふ》り|棄《す》てて こンな|所迄《とこまで》|来《く》ると|云《い》ふ
|情《つれ》ない|事《こと》がありませうか |男心《をとこごころ》と|秋山別《あきやまわけ》の
|空恐《そらおそ》ろしい|早変《はやがは》り やいのやいのと|取《と》りついて
|若《わか》い|男女《だんぢよ》の|囁《ささや》きも |二人《ふたり》は|遂《つひ》に|解《わ》け|合《あ》うて
お|前《まへ》の|優《やさ》しい|心根《こころね》を モチいと|早《はや》く|知《し》つたなら
こンな|苦労《くらう》はせまいもの |恋《こひ》に|上下《じやうげ》の|隔《へだ》てない
さあさあお|出《い》でと|手《て》を|執《と》つて |怪《あや》しき|女《をんな》と|白雲《しらくも》の
|山《やま》かき|分《わ》けて|進《すす》み|行《ゆ》く |恋《こひ》の|擒《とりこ》となり|果《は》てし
|二人《ふたり》の|男《をとこ》の|身《み》の|上《うへ》ぞ |憐《あはれ》なりける|次第《しだい》なり
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |神《かみ》の|御幸《みさち》を|蒙《かうむ》りて
|体主霊従《たいしゆれいじゆう》の|情動《じやうだう》に |経験《けいけん》|深《ふか》き|瑞月《ずゐげつ》や(|瑞月《ずゐげつ》)
|浄写菩薩《じやうしやぼさつ》の|両人《りやうにん》が |狩野《かの》の|流《なが》れの【|波《なみ》】|高《たか》く(波子)
|杉《すぎ》の【|林《はやし》】を|村肝《むらきも》の |心《こころ》【|静《しづ》】かに|眺《なが》めつつ(林静)
|安楽《あんらく》|椅子《いす》に|横《よこ》たはり |遠慮《ゑんりよ》|会釈《ゑしやく》も|荒川《あらかは》の
|飛沫《ひばつ》の|音《おと》もサワサワと あたりの|人《ひと》を|敷島《しきしま》の
|淡《あは》き|煙《けぶり》に|巻乍《まきなが》ら |国依別《くによりわけ》の|一行《いつかう》が
|四人《よにん》の|男女《だんぢよ》のローマンス いと|永々《ながなが》と|述《の》べたつる
|此《この》|物語《ものがたり》|新《あたら》しき |歴史《れきし》の|様《やう》に|聞《きこ》ゆれど
|百年《ひやくねん》|千年《せんねん》|五千年《ごせんねん》 |万年筆《まんねんひつ》の|其《その》|昔《むかし》
|昔《むかし》の|昔《むかし》の|其《その》|昔《むかし》 |殆《ほとん》ど|三十万年《さんじふまんねん》の
|古《ふる》き|神代《かみよ》の|事《こと》ぞかし |二人《ふたり》に|憑《つ》いた|副守護神《ふくしゆごじん》が
|肉体《にくたい》かつて|経験《けいけん》を |喋《しやべ》つて|書《か》くと|思《おも》ふたら
|非常《ひじやう》に|大《おほ》きな|間違《まちがひ》ぢや あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|神《かみ》の|心《こころ》に|見直《みなほ》して すべてを|善意《ぜんい》に|解釈《かいしやく》し
|此《この》|物語《ものがたり》|聞《き》いてたべ |夢《ゆめ》か|現《うつつ》か|誠《まこと》か|嘘《うそ》か
|判断《はんだん》つかぬも|無理《むり》はない |今《いま》の|世人《よびと》の|心《こころ》では
|神代《かみよ》の|人《ひと》は|押《お》し|並《な》べて |皆《みな》|正直《しやうぢき》な|堅造《かたざう》で
|情慾《じやうよく》などに|心《こころ》をば |奪《うば》はれ|苦《くる》しむ|人《ひと》なしと
|誤解《ごかい》してゐる|眼《まなこ》より |此《この》|物語《ものがたり》|読《よ》むならば
|合点《がてん》の|行《ゆ》かぬ|事《こと》であろ |過去《くわこ》と|現在《げんざい》|未来《みらい》|迄《まで》
|一貫《いつくわん》したる|神界《しんかい》の |真理《しんり》に|変《かは》りはなきものぞ
|暫《しばら》くうぶの|心《こころ》もて |只《ただ》|一片《いつぺん》の|神《かみ》の|代《よ》の
|恋物語《こひものがたり》とけなさずに |心《こころ》をひそめて|読《よ》むならば
|苦集滅道《くしふめつだう》の|真諦《しんたい》を |確《たし》かに|悟《さと》り|村肝《むらきも》の
|心《こころ》の|暗《やみ》の|明《あか》りとも |塩《しほ》ともなりて|諸々《もろもろ》の
|罪《つみ》や|穢《けが》れを|清《きよ》め|得《う》る |清涼剤《せいりやうざい》と|信《しん》じつつ
あらあら|茲《ここ》に|述《の》べておく あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ。
|恋《こひ》の|擒《とりこ》となつた|両人《りやうにん》は、|怪《あや》しき|女《をんな》に|伴《ともな》はれ、|茨《いばら》を|分《わ》け、|萱草《かやくさ》の|間《あひだ》を|潜《くぐ》り、|蜈蚣《むかで》、|大蜥蜴《おほとかげ》の|群《むれ》に|驚《をどろ》かされ、|蜂《はち》には|刺《さ》され、|虻《あぶ》には|咬《か》まれ、|蚋《ぶと》には|悩《なや》まされ、|酷熱《こくねつ》の|太陽《たいやう》に|曝《さら》され|乍《なが》ら、|果《は》てしも|知《し》らぬ|大山脈《だいさんみやく》の|麓《ふもと》を|東南《とうなん》|指《さ》して、|当途《あてど》もなく|進《すす》み|行《ゆ》く。
アマゾン|河《がは》の|支流《しりう》なる、|可《か》なり|広《ひろ》き|深《ふか》き、シーズン|河《がは》と|云《い》ふ|河堤《かはづつみ》に、|四人《よにん》の|男女《だんぢよ》は、|漸《やうや》くにして|辿《たど》り|着《つ》きぬ。
『|秋山別《あきやまわけ》さま、あなたは|妾《わらは》を|何処迄《どこまで》つれて|往《い》つて|下《くだ》さいますの』
『あなたこそ、|私《わたし》を|何処迄《どこまで》|伴《つ》れて|行《い》つて|下《くだ》さるのですか。|迷《まよ》ひ|迷《まよ》うた|恋《こひ》の|暗路《やみぢ》、|行手《ゆくて》が|知《し》れる|様《やう》なことなれば、|決《けつ》して|恋《こひ》とは|申《まを》しませぬワ。|姫様《ひめさま》が|後《うしろ》を|向《む》いては、|手招《てまね》きし、|早《はや》く|来《こ》い|来《こ》いと、|恋《こひ》の|手招《てまね》き|遊《あそ》ばしたのを|楽《たのし》みに、|何《なん》の|事《こと》はなく、|見失《みうしな》つては|大変《たいへん》と、|敏心《とごころ》の|勇《いさ》み|心《ごころ》を|振起《ふりおこ》し、|生命《いのち》を|的《まと》に|従《つ》いて|来《き》ました』
『あなたが|妾《わたし》を|妻《つま》にしてやらうとの|御熱心《ごねつしん》には|妾《わらは》も|感謝《かんしや》に|堪《た》へませぬが、|男《をとこ》として|否《いな》|人間《にんげん》として、|災《わざはひ》|多《おほ》き|現世《うつしよ》に、|独立《どくりつ》|独歩《どくぽ》|相当《さうたう》の|生活《せいくわつ》を|営《いとな》まむとするならば|自分《じぶん》の|行《ゆ》くべき|所《ところ》、|又《また》|進《すす》むべき|方針《はうしん》がつかなくてはならぬぢやありませぬか。|只《ただ》|女《をんな》の|美貌《びぼう》に|恋着《れんちやく》して、|自分《じぶん》の|身《み》を|忘《わす》れ、|恋《こひ》の|荒野《あらの》に|彷徨《さまよ》ひ、|一寸先《いつすんさき》の|目当《めあて》も|付《つ》かぬ|様《やう》な|男子《だんし》は|妾《わたし》は|厭《いや》ですよ。|女《をんな》としては|男《をとこ》らしい|男《をとこ》、|気《き》の|利《き》いた|前途《さき》の|見《み》える|人《ひと》ならば、どンなヒヨツトコでも、|跛足《びつこ》でも|目《め》つかちでも、|鼻曲《はなまが》りでも、|菊目面《あばたづら》でも|構《かま》ひませぬ。|甲斐性《かひしやう》のある|男《をとこ》を、|女《をんな》は|好《すき》ます。|女《をんな》は|男《をとこ》に|一生《いつしやう》|其《その》|身《み》を|任《まか》す|者《もの》ですから、|女《をんな》の|禍福《くわふく》は|夫《をつと》の|強弱《きやうじやく》、|正邪《せいじや》|勝劣《しようれつ》、|賢愚《けんぐ》|等《とう》にあります。|折角《せつかく》ここまで、お|前《まへ》を|伴《つ》れて|来《き》て、|試《ため》して|見《み》たが、|何《なん》とマア、お|前《まへ》さまは、|交尾期《さかり》の|来《き》た、|犬猫《いぬねこ》の|様《やう》なものだワ。エヽ|汚《けが》らはしい、|何卒《どうぞ》|只今《ただいま》|限《かぎ》り、こンな|見《み》つともない|腰抜《こしぬけ》|身魂《みたま》を、|妾《わたし》の|前《まへ》に|曝《さら》して|下《くだ》さるな。エヽ|好《す》かンたらしい|腰抜男《こしぬけをとこ》だなア』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら、|秋山別《あきやまわけ》の|頭《あたま》を、|白《しろ》い|細《ほそ》い|手《て》にてピシヤピシヤと|打叩《うちたた》けば、|秋山別《あきやまわけ》は、
『イヤ|何《なん》とお|前《まへ》にそれ|丈《だけ》の|考《かんが》へがあるとは、|今《いま》の|今迄《いままで》|知《し》らなかつたよ。|深窓《しんそう》に|育《そだ》つたお|嬢《ぢやう》さまだから、|何一《なにひと》つ|知《し》りはしよまい、|是《これ》から|此《この》|秋山別《あきやまわけ》が、いろいろと|世間学《せけんがく》を|仕込《しこ》ンで、|立派《りつぱ》な|賢母《けんぼ》|良妻《りやうさい》に|作《つく》り|上《あ》げ、|円満《ゑんまん》なホームを|作《つく》り、|世界《せかい》の|花《はな》と|謳《うた》はれて、|幾久《いくひさ》しく、|末永《すえなが》う、|偕老同穴《かいらうどうけつ》の|契《ちぎり》を|結《むす》ばうと|思《おも》つて|居《ゐ》たのだ。イヤもう|今《いま》の|言葉《ことば》を|聞《き》いて、ズーンと|感心《かんしん》した。|実《じつ》の|所《ところ》は|是《こ》れから、|大方針《だいはうしん》を|立《た》てて、|夫婦《ふうふ》の|水火《いき》を|合《あは》せ、|神《かみ》の|生宮《いきみや》として、|大神業《だいしんげう》に|奉仕《ほうし》すると|云《い》ふ|大抱負《だいはうふ》を|持《も》つて|居《ゐ》る|秋山別《あきやまわけ》だから、|姫《ひめ》さま、|必《かなら》ず|必《かなら》ず|取越苦労《とりこしくらう》はして|下《くだ》さるな。|何《なに》も|彼《か》も、|此《この》|秋山別《あきやまわけ》が|方寸《はうすん》に|止《とど》めてあるから……』
|紅井姫《くれなゐひめ》はツンとして、
『|男《をとこ》と|云《い》ふ|者《もの》は|凡《すべ》て|一生《いつしやう》の|方針《はうしん》を|立《た》てて、|是《これ》なれば|妻子《さいし》を|大丈夫《だいぢやうぶ》に|養《やしな》つて|行《ゆ》く|事《こと》が|出来《でき》ると|云《い》ふ|様《やう》になつてから、|女房《にようばう》を|持《も》つべきものぢやありませぬか。それに|何《なん》ぞや、|是《これ》から|方針《はうしん》をきめると|云《い》ふ|様《やう》な|薄野呂男《うすのろをとこ》に、|何程《なにほど》|女《をんな》が|沢山《たくさん》ある|世《よ》の|中《なか》でも、|一人《ひとり》だつて|相手《あひて》になる|者《もの》が|御座《ござ》いますかい。いい|加減《かげん》に|馬鹿《ばか》を|尽《つく》しておきなさいよ。|妾《わたし》は|只今《ただいま》|限《かぎ》り|御免《ごめん》を|蒙《かうむ》りませう。|其《その》|代《かは》りお|前《まへ》さまが|一人前《いちにんまへ》の|立派《りつぱ》な|男《をとこ》にお|成《な》りになつた|暁《あかつき》は、|何程《なんぼ》お|前《まへ》が|妾《わらは》を|嫌《きら》つても、|今度《こんど》は|私《わたし》の|方《はう》から|放《はな》しませぬから、そこまで|御出世《ごしゆつせ》をして|下《くだ》さい。|今《いま》から|女《をんな》に|心《こころ》を|取《と》られる|様《やう》な|腰抜野郎《こしぬけやらう》だつたら、|駄目《だめ》ですよ。|第一《だいいち》あなたの|身《み》が|立《た》たず|妾《わたし》も|約《つま》りませぬから、どうぞ|悪《わる》く|思《おも》はずに|諦《あきら》めて|下《くだ》さい』
『コレコレ|姫《ひめ》さま、|一応《いちおう》|其《その》お|言葉《ことば》は|無理《むり》とは|思《おも》ひませぬが、そりや|又《また》|余《あんま》り|薄情《はくじやう》ぢやありませぬか。|貴女《あなた》を|慕《した》うてこンな|山奥《やまおく》|迄《まで》ついて|来《き》た|男《をとこ》を、|今更《いまさら》、|一度《いちど》の|枕《まくら》も|交《かは》さず、|愛想《あいさう》づかしとは、|余《あま》りで|御座《ござ》います。|斯《こ》うなつた|以上《いじやう》は、|私《わたし》も|男《をとこ》の|意地《いぢ》、|生命《いのち》にかけても、やり|遂《と》げねば|置《お》きませぬ。サア|姫《ひめ》さま、|私《わたし》の|恋《こひ》は|命懸《いのちが》けだ。|返答《へんたふ》なさいませ。|御返答《ごへんたふ》|次第《しだい》に|依《よ》つては、|此《この》|儘《まま》ではおきませぬぞ』
『ホヽヽヽヽ、あのマア|腰抜男《こしぬけをとこ》わいのう。|多寡《たくわ》の|知《し》れた|女《をんな》|一人《ひとり》を|捉《とら》まへて、|脅《おど》し|文句《もんく》を|並《なら》べしやます、|其《その》|卑怯《ひけふ》さ。|何程《なにほど》|脅喝《けふかつ》なされても、そンな|事《こと》にビリつく|様《やう》な|女《をんな》では|御座《ござ》いませぬわいなア。ヘンお|前《まへ》さまの|様《やう》な|未練男《みれんをとこ》に|添《そ》う|位《くらゐ》なら、|一層《いつそう》|此《この》シーズン|河《がは》へ|身《み》を|投《な》げて|死《し》ンだが|得策《まし》で|御座《ござ》ンすぞえ』
『|死《し》ぬ|死《し》ぬ|云《い》ふ|奴《やつ》に|死《し》ンだ|例《ため》しなしだ。そンな|事《こと》を|云《い》つて、|姫《ひめ》さまは|反対《はんたい》に|此《この》|秋山別《あきやまわけ》を|脅喝《けふかつ》するのですなア。|油断《ゆだん》のならぬは|女《をんな》だ。|何時《いつ》の|間《ま》にこンなお|転婆《てんば》にお|成《な》りなさつたのかなア』
『ホヽヽヽヽ、|婦人《ふじん》|開放《かいはう》に|目覚《めざ》めた|新《あたら》しい|女《をんな》ですよ。|是《これ》でも|女子《ぢよし》|大学《だいがく》の|優等《いうとう》|卒業生《そつげふせい》ですから、|男《をとこ》の|五人《ごにん》や|十人《じふにん》、|喰《く》はへてふる|位《くらゐ》は|朝飯前《あさめしまへ》の|仕事《しごと》、|今迄《いままで》|深窓《しんそう》に|育《そだ》つた|未通娘《おぼこむすめ》の|紅井姫《くれなゐひめ》だと|思《おも》つてゐたのが、お|前《まへ》さまの|不覚《ふかく》だ。オイ|君《きみ》、チトしつかりせないと、|婦人《ふじん》|同盟会《どうめいくわい》を|組織《そしき》し、|男子《だんし》|放逐論《はうちくろん》を|主唱《しゆしやう》し、|女尊男卑《ぢよそんだんぴ》の|社会《しやくわい》にして|了《しま》ひますよ。オツと、|君《きみ》も|僕《しもべ》のハズバンドに|成《な》りたいと|思《おも》ふなら、それ|丈《だけ》の|資格《しかく》を|具備《ぐび》して|来《き》なくては|駄目《だめ》だよ。|僕《ぼく》はもう、|是《これ》から|帰《かへ》るから、|君《きみ》はここでゆつくりと|思案《しあん》し|玉《たま》へ』
『|何《なん》とマア、|呆《あき》れたお|嬢《ぢやう》さまだなア。|黙《だま》つて|聞《き》いて|居《を》れば、|君《きみ》だの|僕《ぼく》だのと、|女《をんな》の|癖《くせ》に|何《なん》と|云《い》ふ|事《こと》を|仰有《おつしや》るのだ。|併《しか》し|乍《なが》ら、さう|活溌《くわつぱつ》な|女《をんな》と|聞《き》けば、なほなほ|恋《こひ》しくなる。お|嬢《ぢやう》さま、イヤイヤ|君《きみ》、……|君《きみ》といつた|方《はう》がお|気《き》に|入《い》るだらう……|君《きみ》と|僕《ぼく》と|二人《ふたり》|相《あひ》|提携《ていけい》して、|天下《てんか》の|経綸《けいりん》を|堂々《だうだう》と|遂行《すゐかう》したら|如何《どう》だね。|随分《ずいぶん》|面白《おもしろ》からうよ』
『エー|好《す》かンたらしい|男《をとこ》だこと、お|前《まへ》さまの|方《はう》から|吹《ふ》いて|来《く》る|風《かぜ》も|厭《いや》になつた。こンな|時代《じだい》|遅《おく》れの|男《をとこ》とは|思《おも》はなかつたに、|選《よ》りに|選《よ》つて、|古《ふる》めかしい|頭脳《あたま》の|黴《かび》の|生《は》えた|骨董品《こつとうひん》、|斯《こ》んな|品物《しなもの》をウツカリ|買《か》ひ|込《こ》まうものなら、それこそ|一生《いつしやう》|僕《ぼく》の|浮《うか》ぶ|瀬《せ》がなくなる。オウさうだ|一層《いつそう》の|事《こと》、|此《この》シーズン|河《がは》へ|身《み》を|投《な》げて|寂滅為楽《じやくめつゐらく》となり、|浮《う》き|上《あが》つて|川瀬《かはせ》を|流《なが》れたら、それこそ|浮《うか》む|瀬《せ》があると|云《い》ふものだ。オイ|君《きみ》、|僕《ぼく》は|是《これ》からザンブと|計《ばか》り、|投身《とうしん》するから、|君《きみ》は|娑婆《しやば》に|残《のこ》つて、|十分《じふぶん》の|馬鹿《ばか》を|尽《つく》し、|決《けつ》して|僕《ぼく》の|後《あと》を|尋《たづ》ねて|来《き》ちやならないよ。アリヨース』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら、|身《み》を|躍《をど》らしてザンブと|計《ばか》り、シーズン|河《がは》の|激流《げきりう》に|飛《と》び|込《こ》み、パツと|立《た》つ|水煙《みづけぶり》と|共《とも》に|後白波《あとしらなみ》と|消《き》えにける。
|秋山別《あきやまわけ》は|水面《すゐめん》を|眺《なが》め、アフンとして、|暫《しば》し|思案《しあん》に|暮《く》れ|居《ゐ》たりしが、
『あゝどうしたら|良《よ》からうかな。こンな|事《こと》ならヤツパリ、エリナの|方《はう》を|情婦《いろ》に|持《も》つのだつたに、モリスの|奴《やつ》|甘《うま》い|事《こと》をしよつたナ。|何時《いつ》の|間《ま》にやら、|俺達《おれたち》の|目《め》を|掠《かす》め、エリナを|伴《つ》れて、どこかへ|伏艇《ふくてい》しよつたと|見《み》えるワイ。|潜航《せんかう》|水雷艇《すゐらいてい》をどこへ|伴《つ》れて|行《ゆ》きよつたかなア。|一《ひと》つ|俺《おれ》もエリナ|丸《まる》に|乗《の》り|替《か》へねば、|敵艦《てきかん》に|向《むか》つて|夜襲《やしふ》することが|出来《でき》まい。アーア、|掌中《しやうちう》の|玉《たま》を|取《と》られたとは|此《この》|事《こと》だ。|紅井姫《くれなゐひめ》も|可哀相《かあいさう》に、|余《あま》り|暑《あつ》い|所《ところ》を|無理《むり》に|歩《ある》かしたものだから、|陽気《やうき》のせいで|精神《せいしん》|逆上《ぎやくじやう》し、そこへ|数十万年《すふじふまんねん》|未来《みらい》のハイカラ|女《をんな》の|悪霊《あくれい》が|憑依《ひようい》し、|君《きみ》だの、|僕《ぼく》だのと、|取《とり》とめもない|事《こと》を|云《い》ひ、しまひの|果《はて》にや、シーズン|河《がは》の|投身《とうしん》とお|出《で》かけなすつた。どうも|気《き》の|毒《どく》なものだ。あゝ|併《しか》し|俺《おれ》も|斯《こ》うして、|一人《ひとり》こンな|所《ところ》に|溺死《できし》よけの|石地蔵《いしぢざう》の|様《やう》に|川《かは》を|眺《なが》めて|立《た》つてゐてもつまらないワ』
と|呟《つぶや》いてゐる。そこへエリナの|手《て》を|引《ひ》いて、モリスはさも|嬉《うれ》し|相《さう》にニコニコと|辿《たど》り|来《きた》り、
『ヤア|秋《あき》さま、お|前《まへ》はここに|居《を》つたのか。|紅井姫《くれなゐひめ》さまにお|前《まへ》はモウ|秋《あき》さまだと|云《い》つて、エツパツパを|喰《く》はされたのだなア、アハヽヽヽ』
『ホヽヽヽヽ』
『エヽ|喧《やかま》しワイ、|余《あま》りハイカラ|女《をんな》で、|到底《たうてい》|家庭《かてい》の|主婦《しゆふ》として|不適任《ふてきにん》だと|思《おも》つたから、|俺《おれ》の|方《はう》から|秋山風《あきやまかぜ》を|吹《ふ》かして、どうぞ|是《これ》からお|前《まへ》の|様《やう》な|女《をんな》は、|俺《おれ》に|顔《かほ》を|合《あは》して|紅井姫《くれなゐひめ》だと|云《い》つて、エツパツパとやつたら、|紅井姫《くれなゐひめ》が|云《い》ふのには……|君《きみ》それ|程《ほど》|僕《ぼく》が|不信用《ふしんよう》なら、|僕《ぼく》も|君《きみ》に|対《たい》し、|強《た》つて|添《そ》うてくれとは|云《い》はないよ、アリヨースと|云《い》つてあつたら|生命《いのち》を|水《みづ》の|中《なか》にザンブと|計《ばか》り、シーズン|河《がは》だ、さすがの|俺《おれ》でもチツとは|憐《あは》れを|催《もよほ》し、|同情《どうじやう》の|涙《なみだ》にシーズンで|居《を》るのだよ、あゝゝゝとは|云《い》ふものの、|如何《どう》したら|姫《ひめ》が|帰《かへ》つて|来《く》るだらうかな、|思《おも》へば|思《おも》へばいぢらしいワイの、オンオンオン』
『|君《きみ》は|何《なに》かい、|紅井氏《くれなゐし》をどうしたと|云《い》ふのだい。|僕《ぼく》に|詳細《しやうさい》なる|顛末《てんまつ》を|差支《さしつかへ》なくば|知《し》らして|呉《く》れないか。|僕《ぼく》|大《おほ》いに|期《き》する|所《ところ》があるのだからね』
『ヤア|此奴《こいつ》も|又《また》|伝染《でんせん》しよつたなア。オイ、モリス、|用心《ようじん》せいよ。|又《また》ドンブリコと|計画《けいくわく》に|取掛《とりかか》られるかも|知《し》れないぞ。こンな|所《ところ》で、|舟《ふね》の|一艘《いつそう》や|二艘《にそう》|沈《しづ》めたつて、|閉塞隊《へいそくたい》の|御用《ごよう》も|勤《つと》まるものでなし、|丸《まる》で|淵《ふち》へ|塩《しほ》をほり|込《こ》むやうな|不利益《ふりえき》だから、シツカリエリナ|君《くん》を|捉《とら》まへてゐ|玉《たま》へ。|僕《ぼく》は|経験上《けいけんじやう》、|君《きみ》に|注意《ちうい》を|与《あた》へておくよ』
『あゝ、モリスも|薩張《さつぱ》り|合点《がてん》の|行《ゆ》かぬ|事《こと》になつて|来《き》たワイ』
と|拍手《はくしゆ》し|終《をは》つて『|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》』を|三唱《さんしやう》し、|何事《なにごと》か|切《しき》りに|暗祈黙祷《あんきもくたう》を|久《ひさ》しうして|居《ゐ》る。
(大正一一・八・二〇 旧六・二八 松村真澄録)
(昭和九・一二・一九 王仁校正)
第一八章 シーズンの|流《ながれ》〔八八四〕
エリナはモリスの|暗祈黙祷《あんきもくたう》せる|姿《すがた》を|嘲笑的《てうせうてき》に|流《なが》し|目《め》に|見《み》やりつつ、|秋山別《あきやまわけ》に|向《むか》ひ、
『オイ|秋山君《あきやまくん》、|君《きみ》は|紅井君《くれなゐくん》を|如何《どう》したのだイ。まさか|君《きみ》の|云《い》ふ|様《やう》に、シーズン|河《がは》へ|投身《とうしん》する|様《やう》な|馬鹿《ばか》な|女《をんな》でもあるまいがねー。もし|僕《ぼく》だつたら、|君《きみ》の|様《やう》な|蜥蜴君《とかげくん》には|命《いのち》をすてる|様《やう》なこたア、|馬鹿《ばか》らしくて|出来《でき》ないね、|又《また》|君《きみ》も|君《きみ》ぢやないか、あれ|程《ほど》スヰートハートしてゐた|紅井君《くれなゐくん》が|水中《すゐちう》に|陥没《かんぼつ》したのだから、|此《この》|際《さい》|対岸《たいがん》の|火災視《くわさいし》して|居《ゐ》る|訳《わけ》にも|行《ゆ》かぬぢやないか。|男子《だんし》と|云《い》ふ|者《もの》は|随分《ずいぶん》|無情《むじやう》|冷酷《れいこく》なものだね、それだから|吾々《われわれ》|目《め》ざめた|婦人達《ふじんたち》は、|婦人《ふじん》|開放論《かいはうろん》を|唱《とな》へたり、|女権《ぢよけん》|拡張《くわくちやう》を|高唱《かうしやう》したり、|婦主夫従《ふしゆふうじゆう》の|法律《はふりつ》を|制定《せいてい》せむと|躍起《やくき》|運動《うんどう》をやらなくちやならないやうになつて|来《き》たのだ。|君《きみ》も|真《しん》に|紅井君《くれなゐくん》に|同情《どうじやう》をよせてゐるのならば、なぜ|身《み》を|挺《てい》して|水中《すゐちう》に|飛込《とびこ》み|救《すく》ひ|上《あ》げないのかイ。|此《この》|渓流《ながれ》を|眺《なが》めて|恐《おそ》ろしくなつたのだなア。|実《じつ》に|卑怯《ひけふ》な|男《をとこ》だね。こンな|男《をとこ》に|狙《ねら》はれた|紅井君《くれなゐくん》も|迷惑《めいわく》だ。|僕《ぼく》だつて、こンな|男子《だんし》と|一日《いちにち》でも|添《そ》はねばならぬと|思《おも》や、|紅井君《くれなゐくん》ぢやないが、|僕《ぼく》も|一層《いつそう》の|事《こと》|淵川《ふちがは》へ|身《み》を|投《な》げて|死《し》の|神《かみ》の|手《て》にキツスをしたくなつて|来《く》るよ。|君《きみ》も|余程《よほど》デレ|助《すけ》の|割《わり》には、|物《もの》の|分《わか》らぬ|人物《じんぶつ》だね』
『ヤア|又《また》|妙《めう》な|事《こと》を|口走《くちばし》り|出《だ》したぞ。|何《なん》でも|此《この》|辺《へん》には|悪霊《あくれい》が|沢山《たくさん》|居《ゐ》ると|云《い》ふ|事《こと》だから、|可愛相《かあいさう》に、|憑依《ひようい》されたのだなア。オイオイ モリス|君《くん》、|君《きみ》もちつと|心配《しんぱい》してやつたらどうだイ。|何程《なにほど》|拝《をが》ンで|居《を》つたつて、|此《この》|発動《はつどう》は|容易《ようい》に|停電《ていでん》する|気遣《きづか》ひはないよ。|君《きみ》と|僕《ぼく》と|相提携《あひていけい》してエリナ|君《くん》を|説服《せつぷく》し、|元《もと》のエリナの|精神《せいしん》に|立直《たてなほ》してやらうぢやないか』
『オイ、|秋山別《あきやまわけ》、お|前《まへ》もヤツパリ|感染《かんせん》して|居《ゐ》るようだぞ。エリナさまと|同《おな》じ|様《やう》に|君《きみ》だの|僕《ぼく》だのと、そンな|言《ことば》を|使《つか》うない。|今迄《いままで》の|様《やう》に|俺《おれ》とか、わしとか、お|前《まへ》とか、|貴様《きさま》とか|云《い》つたら|如何《どう》だい。そンな|言《ことば》を|使《つか》ふと、|俄《にはか》に|何《なん》だか|二十世紀《にじつせいき》とか|云《い》ふ|世《よ》の|中《なか》が|思《おも》ひ|出《だ》されて|来《く》るワ』
『あゝさうだつたなア。ウツカリして|居《を》つて|類焼《るゐせう》の|厄《やく》に|会《あ》う|所《ところ》だつた。|幸《さいは》ひお|前《まへ》の|蒸気《じやうき》ポンプがあつた|為《ため》に|延焼《えんせう》の|害《がい》を|免《まぬが》れてマア|結構《けつこう》だ。|併《しか》しエリナさまの|此《この》|発動《はつどう》は|困《こま》つたものだね』
『|皆《みな》さま、|御心配《ごしんぱい》して|下《くだ》さいますな。|妾《わたし》はおかげに|依《よ》つて、|精神《せいしん》|快活《くわいくわつ》になりましたよ。|如何《どう》して|今《いま》の|様《やう》なハイカラな|御転婆《おてんば》になつたのでせうか。わたし、お|二人《ふたり》さまのお|顔《かほ》を|見《み》るのも|恥《はづ》かしうなつて|来《き》ましたワ。ホヽヽヽヽ』
と|赤《あか》い|顔《かほ》をし|乍《なが》ら、|袖《そで》にてかくす|其《その》|殊勝《しゆしよう》さ、|何《なん》とも|云《い》へぬ|趣《おもむき》がある。|二人《ふたり》は|恍惚《くわうこつ》として、エリナ|姫《ひめ》を|眺《なが》め|居《ゐ》る。
モリスは|秋山別《あきやまわけ》に|向《むか》ひ、|一寸《ちよつと》|腰《こし》を|屈《かが》め、いと|叮嚀《ていねい》な|言葉《ことば》で、
『|秋山《あきやま》さま、|今日《けふ》は|存《ぞん》じも|寄《よ》らぬ|事《こと》が|出来《でき》まして、さぞさぞ|御愁歎《ごしうたん》で|御座《ござ》いませう、|御察《おさつ》し|申上《まをしあ》げます。|折角《せつかく》|茲《ここ》まで|漕《こ》ぎつけて、いよいよ|夫婦《ふうふ》|結婚《けつこん》の|式《しき》をあげようと|云《い》ふ|間際《まきは》になり、|紅井姫《くれなゐひめ》さまは|無情《むじやう》の|風《かぜ》に|誘《さそ》はれて|遠《とほ》い|国《くに》へ|御旅立《おたびだち》、さぞ|御淋《おさび》しう|御座《ござ》いませう。|身《み》につまされて|同情《どうじやう》の|涙《なみだ》に|堪《た》へませぬ』
『ハイ|有難《ありがた》う|存《ぞん》じます。|紅井《くれなゐ》の|花《はな》も|半開《はんかい》にして|散《ち》りました。|無情《むじやう》の|嵐《あらし》に|吹《ふ》かれて、|手《て》もなく|打《うち》おとされ、|実《じつ》に|残念《ざんねん》で|御座《ござ》います』
と|鼻《はな》をすする。
『モシ|秋山《あきやま》さま、あなた|紅井姫《くれなゐひめ》|様《さま》を|本当《ほんたう》に|女房《にようばう》にする|御考《おかんが》へでしたか』
『ハイ|寝《ね》ても|醒《さ》めても|吾《わが》|目《め》にちらつき、|一刻《いつこく》も|忘《わす》れた|事《こと》のない|紅井姫《くれなゐひめ》さま、|実《じつ》に|残念《ざんねん》な|事《こと》を|致《いた》しました。ヒルの|都《みやこ》の|楓別《かへでわけ》さまが|此《この》|事《こと》をお|聞《き》き|遊《あそ》ばしたら、|嘸《さぞ》お|歎《なげ》き|遊《あそ》ばす|事《こと》で|御座《ござ》いませう』
『あの|方《かた》を|本当《ほんたう》の|紅井姫《くれなゐひめ》|様《さま》と|秋山《あきやま》さまは|思《おも》つてゐらつしやいますのですか。あの|方《かた》は|旭《あさひ》……|否々《いないな》|旭《あさひ》の|直刺《たださ》す、|夕日《ゆふひ》の|日《ひ》|照《て》らすヒルの|国《くに》の|紅井姫《くれなゐひめ》によく|似《に》た|御方《おかた》で|御座《ござ》いますが、|妾《わたし》の|考《かんが》へでは|少《すこ》しくお|背《せ》が|高《たか》い|様《やう》な|気《き》が|致《いた》しまして、どうも|合点《がてん》が|参《まゐ》りませぬワ』
『ハイ|何分《なにぶん》|十九《じふく》の|花盛《はなざか》り、|背《せ》の|伸《の》びる|最中《さいちう》ですからなア。|若《わか》い|女《をんな》と|云《い》ふ|者《もの》は、|三日《みつか》|見《み》ぬ|間《ま》に|桜《さくら》|哉《かな》で、|見違《みちが》へるように|変《かは》るもので|御座《ござ》います。|私《わたし》は|決《けつ》して|外《ほか》の|方《かた》とは|思《おも》ひませぬワ』
『そんならエリナの|私《わたし》はどう|見《み》えますか』
『|秋山《あきやま》の|目《め》にはどうも|見《み》えませぬな。|別《べつ》に|変《かは》つた|所《ところ》もない|様《やう》です』
『|折角《せつかく》|此処《ここ》まで|御伴《おとも》|願《ねが》ひましたが、これで|妾《わらは》はお|暇《いとま》|致《いた》します。お|二人共《ふたりとも》、|御機嫌《ごきげん》よく|御修業《ごしうげふ》|遊《あそ》ばし、|天晴《あつぱ》れ|立派《りつぱ》な|男《をとこ》となつて、ヒルの|国《くに》へ|帰《かへ》り、|元《もと》の|如《ごと》く|神界《しんかい》の|御用《ごよう》を|勤《つと》めて|下《くだ》さいませ、|左様《さやう》ならば……』
と|足早《あしばや》に|立《た》つて|行《ゆ》かうとするのを、モリスは|周章《あわ》てて、
『モシモシ、エリナさま、|一寸《ちよつと》|待《ま》つて|下《くだ》さい。|私《わたし》が|此処迄《ここまで》はるばるやつて|来《き》たのは、|何《なん》の|為《ため》か、|貴女《あなた》|御存《ごぞん》じでせうなア』
『ハイよく|存《ぞん》じて|居《を》ります。あなた|方《がた》|御二人様《おふたりさま》は|恋《こひ》の|虜《とりこ》となつて、|紅井姫《くれなゐひめ》|様《さま》を|女房《にようばう》にせうと、|昼《ひる》も|夜《よる》も|争《あらそ》ひ、|修羅《しうら》をもやして|御座《ござ》つたのぢや|御座《ござ》いませぬか。|私《わたし》はホンのあなたの|目《め》から|副産物《ふくさんぶつ》|位《くらゐ》に|見做《みな》されて|居《を》つた【はした】|女《をんな》で|御座《ござ》いますよ。あなた|方《がた》も|当《たう》の|目的物《もくてきぶつ》たる|紅井姫《くれなゐひめ》|様《さま》が、|斯《こ》うお|成《な》り|遊《あそ》ばした|以上《いじやう》は、|最早《もはや》|女《をんな》に|対《たい》する|執着心《しふちやくしん》も|離《はな》れたでせう。|妾《わらは》はあなた|方《がた》に|対《たい》して|何《なん》の|関係《くわんけい》もない|者《もの》で|御座《ござ》いますから、お|先《さき》へ、すまぬ|事《こと》|乍《なが》ら、|御免《ごめん》を|蒙《かうむ》りませう。|男《をとこ》の|方《かた》と|伴《つ》らつて|歩《ある》いて|居《ゐ》ると、|又《また》|世間《せけん》が|何《なん》とかかとか|噂《うはさ》を|立《た》て、うるさくて|堪《たま》りませぬから、|浮名《うきな》を|立《た》てられ|濡《ぬ》れ|衣《ぎぬ》を|着《き》せられない|中《うち》に、|茲《ここ》を|妾《わらは》が|立去《たちさ》つた|方《はう》が、|双方《さうはう》の|利益《りえき》で|御座《ござ》いませう』
『エヽ|一寸《ちよつと》|待《ま》つて|下《くだ》さい。|秋山別《あきやまわけ》も|茲《ここ》まで|斯《こ》うして|参《まゐ》りましたのも、あなた|方《がた》のお|後《あと》を|慕《した》ひ、|夫婦《ふうふ》の|約束《やくそく》を|結《むす》び、|円満《ゑんまん》なる|家庭《かてい》を|作《つく》り、|神業《しんげふ》を|勤《つと》めようと|思《おも》つて、|参《まゐ》つたので|厶《ござ》いますから、ここで|御別《おわか》れするのは、|実《じつ》に|本意《ほい》なう|厶《ござ》います。サア、エリナさま|是《これ》からあなたは|秋山別《あきやまわけ》の|宿《やど》の|妻《つま》、|余《あま》り|悪《わる》うも|厶《ござ》いますまいなア』
『ホヽヽヽヽ、おいて|下《くだ》さいませ。あなたは|紅井姫《くれなゐひめ》|様《さま》に|一生懸命《いつしやうけんめい》におなり|遊《あそ》ばし、|死《し》ねば|諸共《もろとも》|死出《しで》の|山《やま》、|三途《さんづ》の|川《かは》も|手《て》を|引《ひ》いてなぞと、|仰有《おつしや》つて、|姫様《ひめさま》をお|口説《くど》き|遊《あそ》ばした|事《こと》が|御座《ござ》いませう。それ|丈《だけ》|思《おも》ひ|込《こ》ンだ|姫様《ひめさま》が|現在《げんざい》、|此《この》|谷川《たにがは》に|身《み》を|投《な》げてお|死《な》くなり|遊《あそ》ばしたのを、|救《すく》ひ|上《あ》げるといふ|親切《しんせつ》も|無《な》ければ、|遺骸《なきがら》を|捜《さが》し|出《だ》して|叮嚀《ていねい》に|葬《ほうむ》ると|云《い》ふ|誠《まこと》もなく、|今《いま》お|死《な》くなりになつた|計《ばか》りの|最中《さいちう》に、|私《わたし》に|向《むか》つて|何《なん》と|云《い》ふ|事《こと》を|仰有《おつしや》るのですか。それだから|男《をとこ》と|云《い》ふ|奴《やつ》は|仕方《しかた》のないものだ……と|云《い》つて|女《をんな》の|方《はう》から|注意人物視《ちういじんぶつし》されるのですよ。ヘン|阿呆《あほ》らしい、|当座《たうざ》の|花《はな》にしておいて、|妾《わたし》を|玩弄物《おもちや》になさらうと、|御考《おかんが》へになつても、そンな|馬鹿《ばか》な|女《をんな》は|広《ひろ》い|世界《せかい》に|半人《はんにん》だつてありさうな|事《こと》は|御座《ござ》いませぬよ。そンな|馬鹿《ばか》な|事《こと》は|言《い》はずにおきなさいませ。|紅井姫《くれなゐひめ》|様《さま》に|対《たい》してもお|気《き》の|毒《どく》ですワ』
『|決《けつ》して|決《けつ》して、|左様《さやう》な|水臭《みづくさ》い|心《こころ》では|御座《ござ》いませぬが、|何程《なにほど》|悔《くや》みたとて、|焦《あせ》つたとても、|一旦《いつたん》|死《し》ンだ|人《ひと》は|帰《かへ》つて|来《く》る|道理《だうり》も|御座《ござ》いませぬ。|私《わたし》が|涙《なみだ》をこぼして|泣《な》かうものなら、それこそ|紅井姫《くれなゐひめ》の|魂《たましひ》は|宙宇《ちうう》に|迷《まよ》うて、|行《ゆ》くべき|所《ところ》へも|能《よ》う|行《ゆ》かず、|苦労《くらう》をなさるのが|気《き》の|毒《どく》で|御座《ござ》います。それ|故《ゆゑ》|私《わたし》がフツツリと|思《おも》ひ|切《き》つて|上《あ》げた|方《はう》が、|姫様《ひめさま》の|執着《しふちやく》が|残《のこ》らないで、|早《はや》く|成仏《じやうぶつ》|遊《あそ》ばす|事《こと》だらうと|思《おも》ひ|余《あま》つての|親切《しんせつ》、|腹《なか》の|中《なか》で|涙《なみだ》を|流《なが》して|表面《うはべ》は|斯《こ》う|綺麗《きれい》に|賑《にぎ》やかさうに|言《い》つて|居《を》るのですよ。どうぞ|恋《こひ》しい|女《をんな》に|別《わか》れた|私《わたし》の|心《こころ》、|推量《すいりやう》なさつて|下《くだ》さい』
と|涙《なみだ》をふき、
『これ|程《ほど》|心底《しんてい》の|深《ふか》い|男《をとこ》を|夫《をつと》に|持《も》つ|女房《にようばう》はさぞさぞ|幸福《かうふく》でせう。エリナさま|私《わたし》の|心《こころ》が|分《わか》りましたら、|一滴《いつてき》|同情《どうじやう》の|涙《なみだ》を|注《そそ》いで|下《くだ》さい。そして|私《わたし》の|此《この》|悲《かな》しみを|慰《なぐさ》める|為《ため》に、|二世《にせ》も|三世《さんせ》も|変《かは》らぬ|夫婦《ふうふ》ぢやと、|一口《ひとくち》|仰有《おつしや》つて|下《くだ》さいませ。さうすれば|私《わたし》は|申《まを》すに|及《およ》ばず、|紅井姫《くれなゐひめ》|様《さま》が|何程《なにほど》お|喜《よろこ》びなさるか|知《し》れませぬ。エヽ|悲《かな》しくなつて|来《き》た。あゝどうせうぞいなア』
とワザと|泣《な》いて|見《み》せる。
エリナは|冷《ひや》やかに|笑《わら》ひ|乍《なが》ら、
『それだから|腰抜男《こしぬけをとこ》は|困《こま》るのですよ。|女《をんな》|一人《ひとり》|位《くらゐ》に|其《その》|態《ざま》は|何《なん》ですか。|本当《ほんたう》に|厭《いや》になつて|了《しま》つた。モリスさま、お|前《まへ》さまも、こンな|腰抜男《こしぬけをとこ》と|何時迄《いつまで》も|一所《いつしよ》に|歩《ある》いてゐると|馬鹿《ばか》にせられますよ。いい|加減《かげん》に|思《おも》ひ|切《き》つて|大活動《だいくわつどう》をなされませ。|何《なん》ですか|紅井姫《くれなゐひめ》|様《さま》に|現《うつつ》を|抜《ぬ》かし、|二人《ふたり》の|男《をとこ》が|恋《こひ》を|争《あらそ》ひ、|終局《しまひ》の|果《はて》には、|秋山別《あきやまわけ》に|甘《うま》く|丸《まる》めこまれ、エヽそンなら|一人《ひとり》の|女《をんな》に|二人《ふたり》の|男《をとこ》、|体《からだ》を|割《わ》つて|分《わ》ける|訳《わけ》にも|行《ゆ》かないから、|当座《たうざ》の|鼻塞《はなふさ》ぎに、エリナ【でも】|女房《にようばう》にせうか、そして|暫《しばら》く|辛抱《しんばう》をするのだ、などと|虫《むし》のよい|考《かんが》へを|以《もつ》て、|能《よ》うマアはるばると、|阿呆《あほ》らしうもない、こンな|所迄《とこまで》お|出《い》でになりましたなア。|何程《なにほど》エリナが|馬鹿《ばか》な|女《をんな》だつて、そンな|間《ま》に|合《あ》ひに|使《つか》はれてなりますか。|余《あま》り|馬鹿《ばか》にして|下《くだ》さるなや。エリナだつて|矢張《やつぱり》|性念《しやうねん》もありますよ。|紅井姫《くれなゐひめ》|様《さま》とどれ|丈《だけ》、どこが|違《ちが》つて|居《を》りますか。|只《ただ》|人間《にんげん》のきめた|貴族《きぞく》とか|平民《へいみん》とかの|階級《かいきふ》に|高下《かうげ》がある|丈《だけ》ぢやありませぬか。いい|加減《かげん》に|目《め》を|醒《さ》まして、こンな|馬鹿《ばか》な|事《こと》はおよしなさいませ。まだ|女《をんな》に|対《たい》して|云々《うんぬん》する|丈《だけ》の、あなたの|体《からだ》に|資格《しかく》が|付《つ》いてゐませぬよ。エリナが|別《わか》れに|臨《のぞ》ンで、お|前《まへ》さま|達《たち》の|前途《ぜんと》の|為《ため》に|訓戒《くんかい》しておきますワ』
モリスはあはてて、
『モシモシあなた|俄《には》かに|御心変《おこころがは》はりがしたのですか。そンな|筈《はず》ぢやなかつたになア』
『モリスさまの|勝手《かつて》に|御定《おき》めになつた|夢《ゆめ》の|中《なか》のエリナは|女房《にようばう》だつたさうですねエ』
『イエ、どうしてどうして|夢《ゆめ》|所《どころ》か|一生懸命《いつしやうけんめい》ですよ。さう|悪《わる》く|取《と》つて|貰《もら》つちや|困《こま》ります。どうぞ|私《わたし》の|女房《にようばう》になつて|下《くだ》さいな』
『|男《をとこ》の|方《はう》から|女房《にようばう》になつて|下《くだ》さいな……などと|頼《たの》む|様《やう》な|腰抜男《こしぬけをとこ》は、|頭《あたま》から|嫌《きら》ひですわいな』
『コレコレ エリナ|殿《どの》、|其《その》|方《はう》は|吾々《われわれ》の|眼鏡《めがね》にかなつた|女《をんな》だから、|秋山別《あきやまわけ》が|抜擢《ばつてき》して、|吾《わが》|宿《やど》の|妻《つま》にして|遣《つか》はす。|一旦《いつたん》|女房《にようばう》と|致《いた》した|以上《いじやう》は、|少々《せうせう》の|瑕瑾《かきん》や|失敗《しつぱい》|位《くらゐ》は、|神直日《かむなほひ》|大直日《おほなほひ》に|見直《みなほ》し|聞直《ききなほ》し|宣《の》り|直《なほ》す|位《くらゐ》の|雅量《がりやう》を|持《も》つて|居《ゐ》る|此《この》|秋山別《あきやまわけ》、|実《じつ》にエリナ|姫《ひめ》|殿《どの》も|仕合《しあは》せで|御座《ござ》らうなア』
『えゝおきなさいよ。ヒヨツトコ|男《をとこ》の|腰抜野郎《こしぬけやらう》|計《ばか》りが、|二人《ふたり》も|斯《こ》ンな|処《ところ》に|迷《まよ》ひ|込《こ》ンで|来《き》て、アタ|態《ざま》の|悪《わる》い、いい|加減《かげん》に|恥《はぢ》を|知《し》りなさい、|馬鹿《ばか》だなア。|君《きみ》もモチと|気《き》の|利《き》いた|男《をとこ》だと|思《おも》つてゐたのに、|余《あま》りの|腰抜野郎《こしぬけやらう》で、|僕《ぼく》も|愛想《あいさう》がつきた。|川《かは》の|中《なか》へなと、|身《み》を|投《な》げて|死《し》ンだ|方《はう》が、|社会《しやくわい》の|為《ため》だらうよ』
|秋山別《あきやまわけ》、モリス|両人《りやうにん》はムツと|腹《はら》を|立《た》て、
『|言《い》はしておけば、|際限《さいげん》もなく、|裸一貫《はだかいつくわん》の|丈夫《ますらを》に|向《むか》つて、|罵詈《ばり》|雑言《ざふごん》、モウ|此《この》|上《うへ》は|了見《れうけん》|致《いた》さぬ。|二人《ふたり》の|男《をとこ》に|一人《ひとり》の|女《をんな》だ。サア|覚悟《かくご》せよ』
と|鉄拳《てつけん》を|固《かた》めて|左右《さいう》より|打《う》つてかかるを、エリナは|右《みぎ》にすかし、|左《ひだり》に|避《さ》け、|遂《つひ》には|秋山別《あきやまわけ》の|首筋《くびすぢ》を|掴《つか》むでシーズン|河《がは》の|激流《げきりう》へザンブと|計《ばか》り|投《な》げ|込《こ》みにけり。
『|何《なに》、|猪口才《ちよこざい》な』
とモリスは|力限《ちからかぎ》りに|打《う》つてかかるを、エリナは、『エヽ|面倒《めんだう》なり』と|又《また》もや|首筋《くびすぢ》を|引掴《ひつつか》み、|激流《げきりう》|目《め》がけて、ザンブと|計《ばか》り|投《な》げ|込《こ》み、|煙《けぶり》となつて、|自分《じぶん》も|其《その》|場《ば》に|消《き》え|失《う》せにけり。
|二人《ふたり》は|激流《げきりう》に|呑《の》まれ、|其《その》|姿《すがた》さへ|見《み》えず|只《ただ》|激流《げきりう》の|音《おと》のみ|聞《きこ》へける。
(大正一一・八・二〇 旧六・二八 松村真澄録)
(昭和九・一二・一九 於富山市 王仁校正)
第一九章 |怪原野《くわいげんや》〔八八五〕
|限《かぎ》りも|知《し》らぬ|枯草《かれくさ》や |芒《すすき》の|尾花《をばな》のちらちらと
|風《かぜ》に|吹《ふ》かれて|差《さ》し|招《まね》く |大野ケ原《おほのがはら》を|只《ただ》|二人《ふたり》
|行方《ゆくへ》|定《さだ》めぬ|旅《たび》の|空《そら》 |虎《とら》|狼《おほかみ》や|獅子《しし》|熊《くま》の
さも|厭《いや》らしき|叫《さけ》び|声《ごゑ》は |身《み》を|裂《さ》く|計《ばか》りに|思《おも》はれて
|心《こころ》も|空《そら》にビクビクと |物《もの》をも|言《い》はず|進《すす》み|行《ゆ》く。
|道《みち》に|当《あた》りし|岩石《がんせき》は あたりを|照《て》らす|鏡岩《かがみいは》
|見《み》れば|二人《ふたり》の|肉体《にくたい》は |三角霊帽《さんかくれいぼう》を|被《かぶ》りつつ
|色《いろ》|青《あを》ざめて|映《うつ》り|居《ゐ》る |二人《ふたり》は|顔《かほ》を|見合《みあは》して
『|秋山別《あきやまわけ》よこらどうぢや |川《かは》に|陥《おちい》り|水《みづ》を|呑《の》み
|苦《くる》しみ|悶《もだ》へた|事《こと》|迄《まで》は |覚《おぼ》えて|居《を》るが|是《これ》は|又《また》
|不思議《ふしぎ》な|事《こと》に|成《な》つたものだ |此処《ここ》の|地名《ちめい》は|何《な》ンと|云《い》ふか
|鏡《かがみ》の|岩《いは》は|此《この》|通《とほ》り |行手《ゆくて》にさやり|並《なら》びゐる
|合点《がてん》が|行《ゆ》かぬ』と|首《くび》かたげ |吐息《といき》もらせば|秋山別《あきやまわけ》は
『こりや|可怪《をか》しいぞ|可怪《をか》しいぞ |吾等《われら》|二人《ふたり》は|何時《いつ》の|間《ま》か
|魔神《まがみ》の|死《し》の|手《て》に|捉《とら》はれて |冥途《めいど》の|旅《たび》をトボトボと
|始《はじ》めて|居《を》るのぢやあるまいか |合点《がてん》の|行《ゆ》かぬ|今日《けふ》の|空《そら》
|月日《つきひ》の|影《かげ》は|更《さら》になし |一《ひと》つの|星《ほし》さへ|目《め》に|見《み》えぬ
|地底《ちそこ》の|国《くに》の|地獄道《ぢごくみち》 |女《をんな》に|心《こころ》|曳《ひ》かされて
|落《お》ちて|来《き》たのか|情《なさけ》|無《な》や あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|神《かみ》の|教《をしへ》を|宣《の》べ|伝《つた》ふ |道《みち》の|司《つかさ》であり|乍《なが》ら
|尊《たふと》き|掟《おきて》を|打忘《うちわす》れ |心猿意馬《しんゑんいば》の|狂《くる》ふまに
|恋《こひ》の|魔神《まがみ》に|取《とり》つかれ |亡《ほろ》びの|淵《ふち》に|陥落《かんらく》し
ここ|迄《まで》|来《きた》る|恥《はづ》かしさ |今《いま》より|心《こころ》を|取直《とりなほ》し
|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》し |魂《たま》を|清《きよ》めて|天地《あめつち》の
|神《かみ》の|御前《みまへ》に|返《かへ》り|言《ごと》 |申《まを》さにやならない|吾々《われわれ》が
|深《ふか》き|罪《つみ》をば|惟神《かむながら》 |神《かみ》の|御霊《みたま》に|宣《の》り|直《なほ》し
|聞直《ききなほ》しませ|黄泉津神《よもつかみ》 モリス|秋山別《あきやまわけ》|二人《ふたり》
|慎《つつし》み|敬《うやま》ひ|願《ね》ぎ|奉《まつ》る |旭日《あさひ》はてる|共《とも》|曇《くも》る|共《とも》
|月《つき》はみつ|共《とも》|虧《か》くるとも |仮令《たとへ》|大地《だいち》は|沈《しづ》む|共《とも》
|三五教《あななひけう》の|神《かみ》の|教《のり》 モウ|是《こ》れからは|是《こ》れからは
|如何《いか》なる|事《こと》があらうとも |踏《ふ》み|外《はづ》してはなりませぬ
|是《これ》から|心得《こころえ》ます|故《ゆゑ》に ま|一度《いちど》|元《もと》の|現界《げんかい》へ
どうぞ|帰《かへ》して|下《くだ》されよ それも|叶《かな》はぬ|事《こと》ならば
マ|一度《いちど》|慕《した》うたあの|女《をんな》 |紅井姫《くれなゐひめ》やエリナ|姫《ひめ》
|一目《ひとめ》|会《あ》はして|下《くだ》さませ |会《あ》うてサツパリ|今迄《いままで》の
|無礼《ぶれい》の|罪《つみ》を|詫《わび》あげて |許《ゆる》し|受《う》けねば|如何《どう》しても
|心《こころ》が|咎《とが》めて|仕様《しやう》がない ここは|地獄《ぢごく》の|八丁目《はつちやうめ》
|善悪邪正《ぜんあくじやせい》を|立分《たてわ》ける |真澄《ますみ》の|鏡《かがみ》に|照《て》らされて
|私《わたし》の|汚《きたな》い|胸《むね》の|中《うち》 |愛想《あいさう》がつきて|参《まゐ》りました
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 ヒルの|都《みやこ》を|後《あと》にして
|情《なさけ》|容赦《ようしや》もアラシカの |峠《たうげ》を|渡《わた》りはるばると
|国依別《くによりわけ》の|宣伝使《せんでんし》を |恋《こひ》の|仇敵《かたき》と|狙《ねら》ひつつ
|進《すす》み|来《きた》りし|愚《おろか》さよ |思《おも》へば|思《おも》へば|罪《つみ》|深《ふか》き
|谷《たに》に|架《か》けたる|丸木橋《まるきばし》 そつと|柱《はしら》を|取《と》りはづし
|藤《ふぢ》の|蔓《つる》をば|結《むす》び|付《つ》け |木《こ》の|葉《は》の|茂《しげ》みに|身《み》を|隠《かく》し
|恋《こひ》の|仇敵《かたき》が|此《この》|橋《はし》を |渡《わた》ると|見《み》たら|両人《りやうにん》が
|息《いき》を|合《あは》して|引落《ひきおと》し |冥途《めいど》の|旅《たび》をさしてやろと
|企《たく》むだ|事《こと》も|水《みづ》の|泡《あわ》 |思《おも》うた|女《をんな》をやすやすと
|向方《むかふ》に|渡《わた》らせ|勇《いさ》み|立《た》ち |後《あと》を|尋《たづ》ねて|追《お》ひかくる
どうしたものか|両人《りやうにん》の |恋《こひ》しき|女《をんな》の|影《かげ》|見《み》えず
|四方《よも》に|心《こころ》を|配《くば》りつつ |眼《まなこ》|光《ひか》らせ|山桃《やまもも》の
|大木《おほき》の|木蔭《こかげ》に|立寄《たちよ》れば |忽《たちま》ち|空《そら》に|唸《うな》り|声《ごゑ》
ブラジル|山《やま》の|大天狗《だいてんぐ》 |天狂坊《てんきやうばう》が|現《あら》はれて
|吾等《われら》|二人《ふたり》を|相手《あひて》にし からかひ|始《はじ》めた|厭《いや》らしさ
|身《み》の|毛《け》もよだつ|折柄《をりから》に |夢寐《むび》にも|忘《わす》れぬ|紅井姫《くれなゐひめ》の
やさしき|女《をんな》やエリナの|姿《すがた》 いよいよ|茲《ここ》に|現《あら》はれて
|心《こころ》の|丈《たけ》を|語《かた》り|合《あ》ひ |野暮《やぼ》な|天狗《てんぐ》と|罵《ののし》りつ
|草野《くさの》を|分《わ》けてシーズンの |河《かは》の|畔《ほとり》に|来《き》て|見《み》れば
|姫《ひめ》の|心《こころ》は|一転《いつてん》し |口《くち》を|極《きは》めて|嘲弄《てうろう》し
|愛想《あいさう》づかしの|数々《かずかず》も |余《あま》り|憎《にく》しと|思《おも》はずに
|女《をんな》の|心《こころ》を|慰《なぐさ》めつ |此《この》|猛烈《まうれつ》な|恋路《こひぢ》をば
とげねばおかぬと|焦《あせ》る|中《うち》 |紅井姫《くれなゐひめ》は|腹《はら》を|立《た》て
シーズン|河《がは》の|激流《げきりう》に |身《み》を|躍《をど》らして|飛込《とびこ》めば
|姿《すがた》は|消《き》えて|白浪《しらなみ》の |会《あ》はぬ|昔《むかし》となりにけり
モリスはエリナの|手《て》を|引《ひ》いて |茲《ここ》に|現《あら》はれ|出《い》で|来《きた》る
|二人《ふたり》の|男《をとこ》は|執拗《しつえう》に エリナに|向《むか》つていろいろと
|口説《くど》きたつれど|忽《たちま》ちに はぢき|返《かへ》した|肱鉄砲《ひぢでつぱう》
もろくも|打《う》たれてシーズンの |河《かは》にザンブと|投《な》げられて
|苦《くる》しみ|悶《もだ》え|玉《たま》の|緒《を》の |命《いのち》|消《き》えしと|思《おも》ひきや
|吾身《わがみ》はここに|元《もと》の|如《ごと》 |霊衣《れいい》に|包《つつ》まれ|来《きた》り|居《を》る
げにも|不思議《ふしぎ》な|次第《しだい》なり |仮令《たとへ》|地獄《ぢごく》と|云《い》ひ|乍《なが》ら
|一人《ひとり》や|二人《ふたり》の|人影《ひとかげ》は どつかに|有《あ》りそなものである
|実《じつ》に|淋《さび》しい|此《この》|旅路《たびぢ》 |夢《ゆめ》なら|夢《ゆめ》ではや|醒《さ》めよ
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |御霊《みたま》|幸《さち》はひましませ』と
|歌《うた》ひてここを|立《た》つて|行《ゆ》く |鏡《かがみ》の|岩《いは》は|忽《たちま》ちに
|猛火《まうくわ》となりて|燃《も》え|上《あが》り |二人《ふたり》の|間近《まぢか》にごうごうと
|烈《はげ》しき|音《おと》を|立《た》て|乍《なが》ら |紅蓮《ぐれん》の|舌《した》を|振《ふり》まはし
|焼尽《やきつく》さむと|追《お》ひ|来《きた》る |怖《こわ》さに|二人《ふたり》は|全身《ぜんしん》の
|足《あし》に|力《ちから》をこめ|乍《なが》ら |後《あと》をも|見《み》ずにスタスタと
|当途《あてど》もなしに|逃《に》げて|行《ゆ》く |冥途《めいど》の|旅《たび》ぞ|寂《さび》しけれ。
|秋山別《あきやまわけ》、モリスの|両人《りやうにん》は|何時《いつ》の|間《ま》にかあたりの|光景《くわうけい》、|現界《げんかい》に|比《くら》べて|最《もつと》も|変《かは》りたる|寂寥《せきれう》の|原野《げんや》を、|猛火《まうくわ》の|舌《した》に|追《お》はれ|乍《なが》ら、|力限《ちからかぎ》りに|逃《に》げ|出《だ》し、とある|川辺《かはべ》に|着《つ》きにける。
(大正一一・八・二〇 旧六・二八 松村真澄録)
第二〇章 |脱皮婆《だつぴばば》〔八八六〕
|二人《ふたり》は|漸《やうや》く|広《ひろ》き|河《かは》の|辺《ふち》に|辿《たど》り|着《つ》いた。|見《み》れば|非常《ひじやう》な|広《ひろ》い|河《かは》で|而《しか》も|急流《きふりう》である。|橋《はし》もなければ|容易《ようい》に|渡《わた》る|事《こと》は|出来《でき》ない。|後《あと》へ|引返《ひきかへ》さむとすれば、|岩石《がんせき》の|炎《ほのほ》は|盛《さかん》に|燃《も》えひろがり、|道《みち》を|塞《ふさ》ぎ、グヅグヅしてゐると、|煙《けぶり》に|包《つつ》まれさうな|勢《いきほひ》である。『アヽ|如何《いか》にせむ』と|川端《かはばた》に|二人《ふたり》は|地団駄《ぢだんだ》をふみ、|遂《つひ》には|泣声《なきごゑ》を|出《だ》して|藻掻《もが》き|出《だ》した。どこともなしに|厭《いや》らしき|声《こゑ》が|聞《きこ》えて|来《く》る。フツと|見《み》れば、|渋紙《しぶかみ》の|様《やう》な|肌《はだ》をした|赤裸《まつぱだか》の|人間《にんげん》が|肋骨《あばらぼね》を|一枚々々《いちまいいちまい》|表《あら》はしたガリガリ|亡者《もうじや》である。|一目《ひとめ》|見《み》てもゾツとする|様《やう》な、|厭《いや》な|姿《すがた》であつた。|此《この》|亡者《もうじや》は|赤裸《まつぱだか》ではあるが、|男《をとこ》とも|女《をんな》とも|少《すこ》しも|見分《みわけ》けがつかなかつた。|只《ただ》|骸骨《がいこつ》の|上《うへ》に|渋紙《しぶかみ》の|様《やう》な|色《いろ》した|薄《うす》ツペらな|皮《かは》が、|義理《ぎり》か|役《やく》かの|様《やう》に|包《つつ》むでゐるのみである。
|秋山別《あきやまわけ》は|心《こころ》の|中《うち》に|思《おも》ふ|様《やう》……どうせ、こンな|訳《わけ》の|分《わか》らぬ|所《ところ》へ|来《き》たのだから、ロクな|奴《やつ》は|出《で》て|来《く》る|筈《はず》はない。|余《あま》り|気《き》を|弱《よわ》く|持《も》つて|居《ゐ》たならば、|先繰《せんぐ》り|先繰《せんぐ》りいろいろな|奴《やつ》が|出《で》て|来《き》て、|何《なに》をするか|分《わか》らない、|強《つよ》くなくては……と|俄《にはか》に|決心《けつしん》の|臍《ほぞ》を|固《かた》め、|声《こゑ》も|高《たか》らかに、
『オイ|我利坊子《がりばうし》、|貴様《きさま》は|現世《げんせ》の|奴《やつ》か|幽界《いうかい》の|奴《やつ》か、|返答《へんたふ》をせい。|現世《げんせ》には|貴様《きさま》の|様《やう》な|奴《やつ》はメツタに|見《み》た|事《こと》はないが、|大方《おほかた》|娑婆《しやば》に|居《を》つて|吾《わ》れよしの|有《あ》り|丈《たけ》を|尽《つく》した|我利我利《がりがり》|亡者《もうじや》の|連中《れんぢう》が、|慾《よく》の|川《かは》へ|落込《おちこ》み|濁流《だくりう》を|呑《の》ンで、こンな|態《ざま》になつたのだらう。|一《ひと》つ|旅《たび》の|慰《なぐさ》みに|貴様《きさま》の|来歴《らいれき》を|聞《き》かしてくれないか』
『|俺《おれ》は|剛欲《がうよく》ハルの|国《くに》、|身勝手郡《みかつてぐん》、|吾《わ》れよし|村《むら》の|慾皮剥右衛門《よくかははぎうゑもん》と|云《い》ふ|男《をとこ》だよ。|一人《ひとり》の|男《をとこ》は|同国《どうこく》|同郡《どうぐん》|同村《どうそん》の|金借踏倒《かねかりふみたふ》しといふ|亡者《もうじや》だよ。|今《いま》|冥途《めいど》へ|来《き》てから、|名《な》を|替《か》へて、|骨皮痩右衛門《ほねかはやせうゑもん》、|墓原《はかはら》の|骨左衛門《こつざゑもん》となつたのだ。お|前《まへ》はアノ|自称《じしよう》|色男《いろをとこ》の|秋山別《あきやまわけ》、モリスの|両人《りやうにん》に|違《ちが》いあるまいがな』
『|貴様《きさま》どうして|俺《おれ》の|素性《すじやう》を|知《し》つてゐるのだ』
『きまつた|事《こと》よ。|余《あま》り|貴様《きさま》が|此《この》|川上《かはかみ》で|立派《りつぱ》なナイスの|様《やう》な|化者《ばけもの》を|捉《つか》まへて、|現《うつつ》を|抜《ぬ》かしてゐるから、|俺《おれ》も|金《かね》と|色《いろ》とにかけては、|現界《げんかい》に|居《を》つた|時《とき》から、|天下無双《てんかむさう》の|豪傑《がうけつ》だつたが、|俺《おれ》の|目《め》の|前《まへ》で、|余《あま》り|巫山戯《ふざけ》たことをしよるものだから、チツと|計《ばか》り|癪《しやく》にさはり、ナイスが|川《かは》の|中《なか》へとつて|放《ほ》つたのを|幸《さいは》ひ、|河童《がたらう》となつて、|貴様《きさま》の|睾丸《きんたま》を|引《ひき》ちぎり、|冥途《めいど》の|旅《たび》をさしてやつたのだ。アツハヽヽヽ』
『オイ、モリス、|此奴《こいつ》が|俺達《おれたち》の|命《いのち》を|取《と》つた|餓鬼《がき》だと|見《み》えるワイ。サウもう|斯《こ》う|白状《はくじやう》|致《いた》した|以上《いじやう》は、|了見《れうけん》ならぬ。バツチヨ|笠《かさ》のやうな、|骨《ほね》と|皮《かは》との|体《からだ》をしよつて、|洒落《しやれ》たことを|致《いた》す|亡者《もうじや》だナア。これから|両人《りやうにん》が|踏《ふ》みにじつて|呉《く》れるから|覚悟《かくご》を|致《いた》せ』
『アツハヽヽヽ、|女《をんな》に|捨《すて》られ、|命《いのち》|迄《まで》|棄《す》てた|腰抜《こしぬけ》|亡者《もうじや》の|分際《ぶんざい》として、|何《なに》を|吐《ぬか》すのだイ。コリヤ|此《この》|慾皮《よくかは》は|貴様《きさま》の|見《み》る|通《とほ》り、|壁下地《かべしたぢ》が|表《あら》はれて、【ニク】もない|可愛《かあい》い|男《をとこ》だが、|併《しか》し|俺《おれ》の|体《からだ》は|満身《まんしん》|骨《ほね》を|以《もつ》て|固《かた》めてあるのだぞ。|亡者《もうじや》なぶりの|骨《ほね》なぶり、|見事《みごと》|相手《あひて》になるなら、なつて|見《み》よ』
モリス|始《はじ》めて|口《くち》を|開《ひら》き、
『コリヤ、|我利々々《がりがり》|亡者《もうじや》、|慾皮剥右衛門《よくかははぎうゑもん》とやら、|俺《おれ》を|何《なん》と|心得《こころえ》てゐるか』
『|何《なん》とも|心得《こころえ》て|居《を》らぬワイ。|失恋狂《しつれんきやう》の|川《かは》はまり、|土左衛門《どざゑもん》の|成《な》れの|果《は》て、|恋《こひ》の|焔《ほのほ》におひかけられて、|其《その》|情熱《じやうねつ》を|消《け》すべく、|此《この》|川辺《かはべ》|迄《まで》|逃《に》げて|来《き》よつたモリスぢやない、|亡者《まうじや》だらう。|亡者々々《もじやもじや》|致《いた》して|居《ゐ》ると、|此《この》|慾川《よくかは》はモウ|容赦《ようしや》はならぬぞ。|女《をんな》の|手《て》を|引張《ひつぱ》つて、|都《みやこ》|見物《けんぶつ》の|亡者引《もさひき》の|様《やう》に、|見《み》つともない|何《なん》の|態《ざま》だイ。チツとは|恥《はぢ》を|知《し》つたが|良《よ》からうぞ』
『|何《なに》を|吐《ぬか》しよるのだイ。|貴様《きさま》は|慾《よく》の|皮《かは》を|剥《は》いで、|現界《げんかい》に|居《を》つた|時《とき》は、|人鬼《ひとおに》と|云《い》はれて|来《き》た|代物《しろもの》ぢやないか。|其《その》|天罰《てんばつ》が|廻《めぐ》つて|来《き》て、|河鹿《かじか》か|何《なん》ぞの|様《やう》に、|川住居《かはずまゐ》をしよつて、ガアガア|吐《ぬか》すと、|本当《ほんたう》の|蛙《かわづ》になつて|了《しま》うぞ。|蛙《かわず》の|行列《ぎやうれつ》|向《むか》う|見《み》ずと|云《い》ふ|事《こと》があるぢやないか。|蒸《む》せ|損《ぞこな》ひの|饅頭《まんぢう》の|様《やう》に、【かは】|許《ばか》りにへばりつきよつて、|現界《げんかい》でも|喰《く》へぬ|奴《やつ》だつたが、ヤツパリ|茲《ここ》へ|来《き》ても|骨《ほね》だらけで、|味《あぢ》もシヤシヤリもない|喰《く》へぬ|代物《しろもの》だなア。|併《しか》し|乍《なが》ら|貴様《きさま》も|何時迄《いつまで》もこンな|所《ところ》に|居《を》つても|仕方《しかた》がないぢやないか。モリスさまに|従《つ》いて|来《こ》ないか。|結構《けつこう》な|結構《けつこう》な|針《はり》の|山《やま》か、|血《ち》の|池《いけ》か、|茨《いばら》の|林《はやし》へ|連《つ》れて|行《い》つて、|蜥蜴《とかげ》の|丸焼《まるやき》でも|振《ふ》れ|舞《ま》うてやるからのウ』
『そんならこの|金借《かねかり》も|伴《つ》れて|行《い》つてくれないか。|只《ただ》で|貰《もら》う|事《こと》なら|蜥蜴《とかげ》だつて、|蛙《かへる》だつて|構《かま》うものか、|又《ま》|只《ただ》で|案内《あんない》してくれるのなら、|仮令《たとへ》|針《はり》の|山《やま》でも|血《ち》の|池《いけ》|地獄《ぢごく》でも|構《かま》やせぬワイ。|兎《と》も|角《かく》|俺《おれ》は|貰《もら》ふ|事《こと》が|好《す》きな|性分《しやうぶん》だい。|出《だ》す|事《こと》なら|舌《した》を|出《だ》すのも|手《て》を|出《だ》すのも|嫌《きら》ひな|亡者《もうじや》さまだよ。サア|早《はや》く|行《い》かう』
『こりや|嘘《うそ》だ、|貴様《きさま》の|様《やう》な|者《もの》を|道伴《みちづ》れにして|如何《どう》なるものかい。|紅井姫《くれなゐひめ》がシーズン|河《がは》へ|飛込《とびこ》ンで、|冥途《めいど》の|道《みち》に|待《ま》つてゐるのだから、|其《その》|様《やう》な|者《もの》を|連《つ》れて|行《ゆ》かうものなら、それこそモリスの|男前《をとこまへ》が|下《さ》がつて|了《しま》うワイ』
『|貴様《きさま》は|冥途《めいど》へ|来《き》て|迄《まで》|二枚舌《にまいじた》を|使《つか》うのだな。|徹底的《てつていてき》な|大悪人《だいあくにん》だ。ヨシ|今《いま》|金借《かねかり》さまが|其《その》|二枚舌《にまいじた》を|抜《ぬ》いてやらう』
と|云《い》ふより|早《はや》く、|川縁《かはべり》の|手頃《てごろ》の|石《いし》をクレツとめくると、|其《その》|下《した》から、|沢山《たくさん》の|釘抜《くぎぬき》がガチヤガチヤする|程《ほど》|現《あら》はれて|来《き》た。|金借《かねかり》|亡者《もうじや》は、|矢庭《やには》に|之《これ》を|手《て》に|取《と》り、モリスに|向《むか》つて|襲《おそ》ひ|来《きた》る|猛烈《まうれつ》な|勢《いきほひ》に、|流石《さすが》のモリスも|堪《たま》りかね、|忽《たちま》ちザンブと|激流《げきりう》に|飛込《とびこ》み、
『|秋山別《あきやまわけ》|早《はや》く|来《きた》れ』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら、|抜手《ぬきで》を|切《き》つて、|流《なが》れ|渡《わた》りに|向《むか》う|岸《ぎし》へヤツと|取《と》りつき、|着物《きもの》を|脱《ぬ》ぎ|棄《す》て、|力一杯《ちからいつぱい》|圧搾《あつさく》し|始《はじ》めた。|秋山別《あきやまわけ》も|辛《から》うじて|泳《およ》ぎ|着《つ》き、|之《こ》れ|亦《また》|衣類《いるゐ》を|絞《しぼ》り、|二人《ふたり》は|川向《かはむか》うの|二人《ふたり》の|亡者《もうじや》に、|腮《あご》をつき|出《だ》し|拳骨《げんこつ》を|固《かた》めて|空《くう》をなぐり、|十分《じふぶん》に|嘲弄《てうろう》し|乍《なが》ら、|一生懸命《いつしやうけんめい》に|何者《なにもの》にか|引《ひ》かるる|様《やう》な|心地《ここち》して、|北《きた》へ|北《きた》へと|走《はし》り|行《ゆ》く。
|何《なん》とも|譬《たと》へ|様《やう》のない|不快《ふくわい》な|血腥《ちなまぐさ》い|風《かぜ》が|吹《ふ》いて|来《く》る。|油《あぶら》で|煮《に》られる|様《やう》な|熱《あつ》さを|感《かん》じて|来《き》た。|二人《ふたり》はヘタヘタになつて、どつか|木《き》の|蔭《かげ》があれば、|休《やす》まうと、|目《め》をキヨロつかせ、そこらあたりを|眺《なが》めて|居《ゐ》ると、|何《なん》とも|形容《けいよう》の|出来《でき》ない|一本《いつぽん》の|木《き》が|枯葉《かれは》を|淋《さび》しげに|宿《やど》して|立《た》つて|居《を》る。せめては|此《この》|木蔭《こかげ》にと|立寄《たちよ》つて|見《み》れば、|厭《いや》らしい|種々《いろいろ》の|毛虫《けむし》がウジヤつてゐる。|二人《ふたり》は|肝《きも》を|潰《つぶ》し|乍《なが》ら、|又《また》もや|焼《や》きつく|様《やう》な|大地《だいち》の|上《うへ》を|歩《あゆ》み|出《だ》した。|少《すこ》しく|前方《ぜんぱう》に|萱《かや》を|以《もつ》て|葺《ふ》いた|小《ちい》さい|家《いへ》が、|珍《めづら》しくも|只《ただ》|一軒《いつけん》|建《た》つて|居《ゐ》る。これ|幸《さいは》ひと|立寄《たちよ》つてソツと|草《くさ》で|編《あ》ンだ|戸《と》の|隙間《すきま》から、|中《なか》を|覗《のぞ》くと、|爺《ぢい》とも|婆《ばば》とも|見当《けんたう》のつかぬ|老人《らうじん》が|唯一人《ただひとり》、|水涕《みづばな》をズーズーと|垂《た》らし|乍《なが》ら、|切《しき》りに|草鞋《わらぢ》を|作《つく》つてゐる。|秋山別《あきやまわけ》は|外《そと》から、
『モシモシお|爺《ぢ》イさまかお|婆《ば》アさまか、どちらかは|知《し》りませぬが、|吾々《われわれ》は|旅人《たびびと》で|御座《ござ》います。|余《あま》り|暑《あつ》いので、|最早《もはや》やり|切《き》れなくなりました。どうぞあなたの|涼《すず》しい|御宅《おうち》で、|暫《しばら》く|休《やす》まして|下《くだ》さいな』
|小屋《ごや》の|中《なか》より|皺枯《しわが》れた|声《こゑ》で、
『ここは|焦熱《せうねつ》|地獄《ぢごく》の|八丁目《はつちやうめ》だ。|能《よ》うマア|踏《ふ》み|迷《まよ》うて|御座《ござ》つた。|閻魔大王《えんまだいわう》|様《さま》から、お|前達《まへたち》|二人《ふたり》が|茲《ここ》へ|来《く》るから、|茲《ここ》に|待伏《まちぶ》せして|居《を》れと|御命令《ごめいれい》を|受《う》けて、|二三日前《にさんにちまへ》から|待《ま》つてゐたのだよ。|好《よ》い|所《ところ》へ|来《き》て|呉《く》れた。サアゆつくりと|這入《はい》つて|休息《きうそく》さつしやい。やがて|赤鬼《あかおに》や|黒鬼《くろおに》が|火《ひ》の|車《くるま》を|持《も》つて、お|前達《まへたち》|二人《ふたり》を|迎《むか》へに|来《く》るから、マア|楽《たのし》みて|待《ま》つてゐるがよからう。|一度《いちど》は|火《ひ》の|車《くるま》に|乗《の》つて|見《み》るのも|面白《おもしろ》からうぞや』
『モシモシそりやちつと|困《こま》るぢやありませぬか。|如何《どう》して|吾々《われわれ》がそンな|火《ひ》の|車《くるま》に|乗《の》らねばならぬ|様《やう》な|悪《わる》い|事《こと》を|致《いた》しましたか。そりや|大方《おほかた》|人違《ひとちが》ひぢや|御座《ござ》いますまいかなア』
『|儂《わし》は|焼野ケ原《やけのがはら》の|脱皮婆《だつぴばば》アと|云《い》ふ|者《もの》だ。|三途《さんづ》の|川《かは》には|脱衣婆《だついばば》と|云《い》ふ|者《もの》が|居《を》つて|着物《きもの》を|脱《ぬ》がすが、そこを|通《とほ》る|奴《やつ》は|罪《つみ》の|軽《かる》い|連中《れんぢう》だよ。この|焦熱《せうねつ》|地獄《ぢごく》の|旅行《りよかう》する|奴《やつ》は|最《もつと》も|悪《わる》い|罪人《つみびと》が|出《で》て|来《く》る|所《ところ》だ。それだから、お|前《まへ》の|肉《にく》の|皮《かは》をスツカリ|剥《は》ぎ|取《と》つて、|剥製《はくせい》にして|黄泉《よみぢ》の|都《みやこ》の|博物館《はくぶつくわん》に|陳列《ちんれつ》し、|皮《かは》を|剥《む》いだ|後《あと》の|肉体《にくたい》は|火《ひ》の|車《くるま》に|乗《の》せて、|閻魔《えんま》の|庁《ちやう》へ|送《おく》り、|鬼《おに》|共《ども》が|喜《よろこ》びて、|塩焼《しほやき》にして|食《く》て|了《しま》うのだから、|心配《しんぱい》することはない。|今《いま》となつて|心配《しんぱい》した|所《ところ》で|駄目《だめ》だよ。チヤンときまり|切《き》つた|運命《うんめい》だから……』
『お|婆《ば》アさま、そりや|本当《ほんたう》ですかい。チツとモリスには|合点《がてん》が|往《ゆ》きませぬがなア』
『|合点《がてん》が|往《ゆ》かぬ|筈《はず》だよ。|合点《がてん》の|往《ゆ》かぬ|事《こと》|計《ばか》りやつて|来《き》たのだから、|無理《むり》はなけね|共《ども》、もういい|加減《かげん》に|因縁《いんねん》づくぢやと|合点《がてん》をせなきやならなくなつて|来《き》たよ。お|前《まへ》を|迎《むか》へに|来《く》る|火《ひ》の|車《くるま》は|自惚車《うぬぼれぐるま》といふ|妙《めう》な|脱線《だつせん》し|転覆《てんぷく》する|車《くるま》で|危《あぶ》ないものだが、|紅井《くれなゐ》の|様《やう》な|赤《あか》い|顔《かほ》をして、|目《め》を|剥《む》いた|女《をんな》の|鬼《おに》が|一人《ひとり》、|又《また》|少《すこ》し|年増《としま》のエリナと|云《い》ふ|女鬼《めおに》が|一人《ひとり》、|火《ひ》の|車《くるま》を|二《ふた》つ|持《も》つて、お|前《まへ》を|迎《むか》へに|来《く》る|段取《だんどり》がチヤンと|出来《でき》てゐるのだから、|今《いま》の|間《うち》なりと|気楽《きらく》に|歌《うた》でも|唄《うた》つておかつしやい。|火《ひ》の|車《くるま》が|来《き》たが|最後《さいご》、お|前《まへ》の|体《からだ》は|不動《ふどう》さまのように、|恋《こひ》の|情火《じやうくわ》が|燃《も》え|立《た》つて、|熱《あつ》い|目《め》に|会《あ》はねばならぬのだからな。あゝ|思《おも》へば|思《おも》へば|不愍《ふびん》なものだワイ。
|火《ひ》の|車《くるま》|別《べつ》に|地獄《ぢごく》にやなけれ|共《ども》
|己《おの》が|作《つく》つて|己《おの》が|乗《の》り|行《ゆ》く
とか|云《い》つて、お|前《まへ》が|作《つく》つた|完全《くわんぜん》|無欠《むけつ》な|火《ひ》の|車《くるま》だから、|誰《たれ》に|遠慮《ゑんりよ》も|要《い》らぬ。ドンドンと|乗《の》つて|行《ゆ》かつしやれや。|何事《なにごと》も|世《よ》の|中《なか》は|自業自得《じごうじとく》だ。|善因善果《ぜんいんぜんぐわ》、|悪因悪果《あくいんあくくわ》、|蒔《ま》かぬ|種《たね》は|生《は》えぬとやら、|自分《じぶん》が|蒔《ま》いた|種《たね》が|成長《せいちやう》して、|花《はな》が|咲《さ》き|実《み》がのり、|又《また》|自分《じぶん》が|収穫《しうくわく》をせなくちやならぬ|天地《てんち》|自然《しぜん》の|法則《はふそく》だからなア』
『エー、|秋山別《あきやまわけ》は|別《べつ》に|女《をんな》に|対《たい》し、|恋慕《れんぼ》は|致《いた》しましたが、まだ|生《うま》れてから、|女《をんな》|一人《ひとり》|犯《をか》したことは|御座《ござ》りませぬ。|何《なに》が|為《ため》にそれ|程《ほど》|重《おも》い|罪《つみ》を|科《くわ》せられるのでせうか。|是《こ》れ|位《くらゐ》な|微罪《びざい》を、さう|喧《や》かましく|詮議《せんぎ》|立《た》てをし、|処罰《しよばつ》をして|居《を》つたならば、|地獄《ぢごく》の|牢屋《らうや》もやり|切《き》れますまい』
『|軽《かる》い|罪《つみ》は|皆《みな》|見《み》のがして、|三途《さんづ》の|川《かは》で|衣《ころも》を|脱《ぬ》がし、それから|生《うま》れ|赤子《あかご》の|赤裸《まつぱだか》にして、|霊《みたま》の|故郷《こきやう》へ|帰《かへ》してやるのだが、お|前《まへ》の|様《やう》な|罪人《ざいにん》は|何《ど》うしても|帰《かへ》す|事《こと》が|出来《でき》ないよ。|又《また》|何程《なにほど》|立派《りつぱ》な|審判《さには》の|鬼《おに》だとて、|中《なか》には|盲《めくら》もあるから、お|前《まへ》の|罪《つみ》は|俺《おれ》が|聞《き》いても、ホンの|軽《かる》い|様《やう》に|思《おも》ふが、|火《ひ》の|車《くるま》に|乗《の》せられて、|焦熱《せうねつ》|地獄《ぢごく》へ|落《おと》してやらうと|判決《はんけつ》されたのだから、|此《この》|婆《ばば》アの|力《ちから》ぢや|如何《どう》する|事《こと》も|出来《でき》ない。|閻魔《えんま》さまだつて|直接《ちよくせつ》に|調《しら》べるのぢやないから、|疎漏《そろう》もあるだらうし、|無実《むじつ》の|罪《つみ》で|来《き》て|居《を》る|憐《あは》れな|人間《にんげん》もチヨイチヨイあるやうだ。|何程《なにほど》|冥途《めいど》の|規則《きそく》が|立派《りつぱ》に|出来上《できあが》つて|居《を》つても、それを|運用《うんよう》する|審判《さには》の|鬼《おに》が|盲《めくら》だつたら|駄目《だめ》だからな。マア|諦《あきら》めるより|仕方《しかた》があるまいぞよ。|上《うへ》の|大将《たいしやう》からして、|盲《めくら》の|幽霊《いうれい》|計《ばか》りだから|困《こま》つたものだよ。|此《この》|婆《ばば》アもお|前《まへ》には|満腔《まんくう》の|同情《どうじやう》を|表《へう》してゐるけれど、|上《うへ》から|押《おさ》へられるのだから、どうする|事《こと》も|出来《でき》やしない。お|前《まへ》の|言訳《いひわけ》を|一《ひと》つでもせうものなら、それこそ|大変《たいへん》だ。|下《した》の|役《やく》の|癖《くせ》に|上役《うはやく》の|裁《さば》いた|事《こと》を、|何《なに》ゴテゴテ|言《い》ふかと|云《い》つて、|一遍《いつぺん》に|免職《めんしよく》さされて|了《しま》うのだ。さうすればお|前《まへ》が|今《いま》|渡《わた》つて|来《き》た|慾《よく》の|川《かは》に|居《を》つた|我利々々《がりがり》|亡者《もうじや》の|様《やう》に|骨《ほね》と|皮《かは》とになつて|了《しま》はねばならぬ。アーア|暗《くら》がりの|世《よ》の|中《なか》と|云《い》ふものは|情《なさけ》ないものだわい』
と|婆《ば》アさまは|鼻《はな》をすすり、そろそろと|泣《な》き|出《だ》した。
|斯《か》かる|所《ところ》へガラガラガラとけたたましき|音《おと》を|立《た》て、いかめしき|面《つら》した|赤鬼《あかおに》、|青鬼《あをおに》、|金平糖《こんぺいたう》を|長《なが》うした|様《やう》な|金棒《かなぼう》を|携《たづさ》へ、|二台《にだい》の|火《ひ》の|車《くるま》を|引《ひき》つれて、|此《この》|場《ば》に|向《むか》つて|勢《いきほひ》よく|駆《か》けつけ|来《きた》る。|二人《ふたり》は『アツ』と|驚《おどろ》き|其《その》|場《ば》に|倒《たふ》れ|伏《ふ》しける。
(大正一一・八・二〇 旧六・二八 松村真澄録)
第二一章 |白毫《びやくがう》の|光《ひかり》〔八八七〕
|二台《にだい》の|火《ひ》の|車《くるま》は|婆《ばば》アの|小屋《ごや》の|前《まへ》で|停車《ていしや》し、|中《なか》より|青《あを》|赤《あか》の|運転手《うんてんしゆ》、|技手《ぎしゆ》、|鶏冠《とさか》の|様《やう》な、キザのある|腮《あご》をしやくり|乍《なが》ら、|金銀色《きんぎんしよく》の|角《つの》をニヨツと|表《あら》はし、|車《くるま》より|下《お》りて、ツカツカと|二人《ふたり》の|前《まへ》に|立塞《たちふさ》がり、
『|其《その》|方《はう》は|秋山別《あきやまわけ》、モリスの|両人《りやうにん》であらう。サア|冥府《めいふ》よりの|迎《むか》へだ。グヅグヅして|居《ゐ》ると|時間《じかん》が|切《き》れる。|早《はや》く|此《この》|火《ひ》の|車《くるま》に|乗《の》れ』
と|巨眼《きよがん》をひらき|睨《にら》めつけ|呶鳴《どな》り|立《た》てる。|秋山別《あきやまわけ》は|焼糞《やけくそ》になり、
『オウ、|俺《おれ》も|男《をとこ》だ。|火《ひ》の|車《くるま》が|何恐《なにおそ》ろしいか。|俺達《おれたち》は|娑婆《しやば》に|於《おい》て、|日々《にちにち》|会計《くわいけい》|不如意《ふによい》の|為《ため》に|家《いへ》には|火《ひ》が|降《ふ》り、|尻《しり》には|火《ひ》がつき、|火《ひ》の|車《くるま》を|日々《にちにち》|運転《うんてん》して|来《き》た|火宅《くわたく》の|勇者《ゆうしや》だ。|乗《の》るのは|少《すこ》しも|厭《いと》はぬが、|併《しか》しマアよく|聞《き》け。|貴様《きさま》の|面《つら》は|何《なん》だい。|海辺《うみべ》の|銅葺《あかがねぶき》の|屋根《やね》の|様《やう》な|洒《しや》つ|面《つら》をしよつて、|斯様《かやう》な|赤《あか》い|車《くるま》に|乗《の》り、|何《なに》をオドオドとして|青《あを》ざめてゐるのだ。チツとしつかり|致《いた》さぬか。コリヤ|一匹《いつぴき》の|奴《やつ》、|貴様《きさま》の|面《つら》は|何《なん》ぢや。|仏像《ぶつざう》の|前《まへ》に|罷《まか》り|出《い》でて、|婆《ばば》、|嬶《かか》の|目糞《めくそ》、|鼻汁《はなしる》をぬりつけられ、|鼻《はな》つ|柱《ぱしら》も|何《なに》もすりむかれてゐやがる|賓頭盧《びんづる》の|様《やう》な|真赤《まつか》な|面《つら》をして|何《なん》の|事《こと》だい。|昼日中《ひるひなか》|酒《さけ》を|喰《くら》つて|酔《よ》つ|払《ぱら》つて|居《ゐ》るのだらう。そンな|事《こと》でお|役目《やくめ》が|勤《つと》まるか。|俺《おれ》の|顔《かほ》を|見《み》て、ビリビリ|震《ふる》ひ、|真青《まつさを》な|顔《かほ》する|奴《やつ》や、|弁慶《べんけい》の|様《やう》に|酒《さけ》に|喰《くら》ひ|酔《よ》うて|真赤《まつか》になつて|居《ゐ》る|様《やう》な|運転手《うんてんしゆ》や|車掌《しやしやう》の|乗《の》つて|居《ゐ》る|火《ひ》の|車《くるま》には、|危険《きけん》で|乗《の》れたものぢやない。マア|出直《でなほ》して|来《こ》い。|明日《あす》ゆつくりと|乗《の》つてやるワ』
モリスはおどおどし|乍《なが》ら、
『オイ、|秋公《あきこう》、そンな|非道《ひど》い|事《こと》を|言《い》うない。モウ|斯《こ》うなつては|仕方《しかた》がない。|神妙《しんめう》にしてゐるのが|得《とく》だよ。……モシモシ|青《あを》さま、|赤《あか》さま、|秋山別《あきやまわけ》の|只今《ただいま》の|御無礼《ごぶれい》は|何卒《どうぞ》|許《ゆる》してやつて|下《くだ》さいませ』
『そりや|許《ゆる》さぬ|事《こと》はないが、ここは|地獄《ぢごく》の|八丁目《はつちやうめ》だ。お|前達《まへたち》が|娑婆《しやば》に|居《を》る|時《とき》から|言《い》つて|来《き》ただらう。それ、|地獄《ぢごく》の|沙汰《さた》も○○○と|云《い》ふ|事《こと》を……』
『ハヽヽヽヽ、|矢張《やつぱり》|金《かね》|次第《しだい》と|吐《ぬか》すのかな。それもさうだらう。この|秋様《あきさま》も|娑婆《しやば》に|居《を》つた|時《とき》|汽車《きしや》に|乗《の》るのに、|普通《ふつう》の|人間《にんげん》より|二倍《にばい》がけ|出《だ》すと、それは|都合《つがふ》の|好《よ》い|二等室《にとうしつ》に|乗《の》せてくれよつた。|三倍《さんばい》がけ|出《だ》すと、|一層《いつそう》|具合《ぐあひ》のよい|一等室《いつとうしつ》へ|白切符《しろきつぷ》を|持《も》つて|乗《の》せよつた。|切符《きつぷ》でさへも、|青《あを》、|赤《あか》、|白《しろ》と|三段《さんだん》に|区別《くべつ》がついて|居《を》る。お|前《まへ》の|顔《かほ》は|青切符《あをきつぷ》だな。ヨシヨシお|前《まへ》は|赤切符《あかきつぷ》か、さうすると、|赤切符《あかきつぷ》の|方《はう》からきめてかからぬと、|青《あを》さまに|呉《く》れてやる|標準《へうじゆん》がつかないワ。|此《この》|火《ひ》の|車《くるま》は|一哩《いちマイル》|幾程《いくら》だイ』
『|火《ひ》の|車《くるま》の|運賃《うんちん》は|請求《せいきう》せない。|是《これ》は|冥府《めいふ》から|差廻《さしまは》された|特別《とくべつ》|上等《じやうとう》の|火《ひ》の|車《くるま》だよ。さうして|俺達《おれたち》は|相当《さうたう》の|手当《てあて》を|頂《いただ》いて|居《を》るのだが、そこはそれ、|最前《さいぜん》|云《い》ふた|通《とほ》りだ』
『ヨシ、|分《わか》つた。そンな|事《こと》の|粋《すゐ》の|利《き》かぬ|秋様《あきさま》ぢやないワイ。ここでは|何《なん》と|言《い》ふか|知《し》らぬが、|娑婆《しやば》では|袖下《そでした》と|云《い》ふ|物《もの》だらう。お|前《まへ》の|様《やう》な|洋服《やうふく》では|袖《そで》もなし、どこへ|入《い》れたら|宜《い》いのだ。|見当《けんたう》がつかぬぢやないか』
『|袖《そで》がなくても、ポケツトが|洋服《やうふく》の|随所《ずいしよ》に|拵《こしら》へてあるワイ。|其《その》ポケツトの|重《おも》い、|軽《かる》いに|依《よ》つて、|焦熱《せうねつ》|地獄《ぢごく》のドン|底《そこ》へ|連《つ》れて|行《ゆ》くか、|但《ただし》はモツトモツト|楽《らく》な|神界《しんかい》の|入口《いりくち》へ|送《おく》つてやるか、ソリヤ|分《わか》らぬ。|○《まる》|次第《しだい》だからな』
『それならモリ|公《こう》のと|俺《おれ》のと|一緒《いつしよ》にやるから、|二人《ふたり》|共《とも》|同《おな》じ|所《ところ》へ|助《たす》けるのだぞ。|就《つ》いてはお|前達《まへたち》、|二台《にだい》の|火《ひ》の|車《くるま》に|四人《【し】にん》だから、|百両《ひやくりやう》づつやつても|四百両《しひやくりやう》。|此《この》|婆《ば》アさまに|篏口料《かんこうれう》を|渡《わた》しておかねばなるまい。さうすると|五百両《ごひやくりやう》、|一寸《ちよつと》|懐中《ふところ》が|揉《も》めるのだが、エヽ|仕方《しかた》がない。|思《おも》ひ|切《き》つてエヽ|二人《ふたり》で|五百両《ごひやくりやう》、よく|〓《あらた》めて|受取《うけと》つたがよからう』
『コリヤコリヤ|其《その》|方《はう》は|怪《け》しからぬ|事《こと》を|致《いた》す|奴《やつ》だ。|賄賂《わいろ》を|以《もつ》て|此《この》|方《はう》を|買収《ばいしう》せうと|致《いた》す|不届《ふとどき》きな|奴《やつ》。|之《これ》を|受取《うけと》るのは|易《やす》いけれ|共《ども》、|俺《おれ》も|又《また》|収賄《しうわい》の|罪《つみ》に|問《と》はれ、|貴様《きさま》は|又《また》|贈賄罪《ぞうわいざい》として|益々《ますます》|罪《つみ》が|重《おも》くなるから、|以後《いご》は|心得《こころえ》たがよからう。|但《ただし》|今日《けふ》に|限《かぎ》り|忘《わす》れておく|程《ほど》に……』
『|以後《いご》は|謹《つつし》めと|仰有《おつしや》らなくても、|最早《もはや》|之丈《これだけ》|出《だ》して|了《しま》へば、|無一物《むいつぶつ》で|御座《ござ》る。そンならすつかり|忘《わす》れて|了《しま》ふが、|互《たがひ》に|結構《けつこう》|尻《ケツ》の|穴《アナ》だ』
『ヨシヨシ|忘《わす》れて|遣《つか》はす。サア|早《はや》く|乗《の》れ。|少《すこ》しは|熱《あつ》いぞ。|其《その》|代《かは》り|窓《まど》を|明《あ》け|放《はな》しておいてやらう』
|秋《あき》、モリの|二人《ふたり》は|脱皮婆《だつぴばば》アに|向《むか》ひ、
『お|婆《ば》アさま、|大《おほ》きに|御世話《おせわ》になりました。お|蔭《かげ》で|天国《てんごく》へ|旅行《りよかう》|致《いた》します。|左様《さやう》なら……』
と|五人《ごにん》に|百両《ひやくりやう》づつを|投渡《なげわた》し、|二台《にだい》の|火《ひ》の|車《くるま》に|分乗《ぶんじやう》し、ブウブウブウと|音《おと》を|立《た》て、|臭《くさ》い|屁《へ》を|放《ひ》り|乍《なが》ら、|砂煙《すなけぶり》を|濠々《もうもう》と|立《た》たせ、|一目散《いちもくさん》に|北《きた》へ|北《きた》へと|駆《か》けり|行《ゆ》く。
|火《ひ》の|車《くるま》は|何時《いつ》の|間《ま》にか|驀地《まつしぐら》に|逸走《いつそう》し、|鉄《かね》の|壁《かべ》を|以《もつ》て|高《たか》く|囲《かこ》まれたる|赤《あか》き|焦熱《しやうねつ》|地獄《ぢごく》の|門《もん》の|前《まへ》に|横付《よこづ》けとなつた。
『サア、|此処《ここ》が|焦熱《せうねつ》|地獄《ぢごく》だ。オイ|赤《あか》、|白《しろ》、|黒《くろ》|共《ども》、|早《はや》く|此奴等《こいつら》|二人《ふたり》を|引摺《ひきず》り|落《おと》し、|門内《もんない》へ|投込《なげこ》め。|俺《おれ》の|命令《めいれい》だ』
『モシモシ|青《あを》さま、ソリヤ|約束《やくそく》が|違《ちが》うぢやありませぬか。|地獄《ぢごく》の|沙汰《さた》も|金《かね》|次第《しだい》と|云《い》ふ|事《こと》をお|忘《わす》れになりましたか』
『|定《き》まつた|事《こと》だよ。|其《その》|方《はう》がどうぞ|只今《ただいま》|限《かぎ》り|忘《わす》れてくれと|云《い》つたぢやないか。|何《なに》もかも|忘《わす》れた|此《この》|方《はう》、|規則《きそく》|通《どほ》り|打込《うちこ》めば|宜《い》いのだよ』
『ソリヤ|違《ちが》ひませう。そンな|事《こと》を|仰有《おつしや》ると、|閻魔《えんま》さまに|会《あ》つた|時《とき》、|一伍一什《いちぶしじふ》を|申上《まをしあ》げますぞや。さうすればお|前《まへ》さまも|忽《たちま》ち、|首《くび》が|飛《と》ンで、|吾々《われわれ》と|同様《どうやう》に|焦熱《せうねつ》|地獄《ぢごく》へ|落《おと》されますよ』
『ハヽヽヽヽヽ、|馬鹿正直《ばかしやうぢき》な|奴《やつ》だなア。|鬼《おに》には|鬼《おに》の|閥《ばつ》があるから、|外《ほか》から|指一本《ゆびいつぽん》|触《さ》へる|事《こと》が|出来《でき》るものかい。|野暮《やぼ》な|事《こと》を|申《まを》すな。|山猟師《やまれふし》は|熊《くま》、|鹿《しか》を|獲《と》り、|海漁師《うみれうし》は|魚《うを》を|取《と》り、|猫《ねこ》は|鼠《ねずみ》を|捕《と》り、|猿《さる》は|蚤《のみ》を|取《と》り、|吾々《われわれ》は|亡者《もうじや》を|取《と》るのが|商売《しやうばい》だ。|仮令《たとへ》|善《よ》からうが|悪《あし》からうが、そンな|事《こと》に|頓着《とんちやく》はない。|何《なん》でもかでも、|一人《ひとり》でも|余計《よけい》|引張《ひつぱり》|込《こ》みて|来《く》れば、|俺達《おれたち》の|収入《しうにふ》が|良《よ》くなるのだから、|愚痴《ぐち》つぽい|事《こと》を|言《い》はずに、いい|加減《かげん》に|諦《あきら》めたが|宜《よ》からうぞ。|閻魔《えんま》さまに|言《い》ふなら|言《い》うてみよ、|吾々《われわれ》と|同《おな》じ|穴《あな》の|狐《きつね》だ。キツト|貴様達《きさまたち》がお|目玉《めだま》を|貰《もら》ふにきまつてゐるワ』
『|何《なん》とマア|善《ぜん》を|褒《ほ》め|悪《あく》を|懲《こら》す、|神聖《しんせい》な|所《ところ》だとモリスも|思《おも》つて|居《ゐ》たのに、|丸《まる》でこんな|事《こと》なら、|世《よ》の|中《なか》は|暗《くら》がりだ。|天地晦冥《てんちくわいめい》|暗澹《あんたん》として|咫尺《しせき》を|弁《べん》ぜず、|天《あま》の|岩戸《いはと》|隠《がく》れの|世《よ》の|中《なか》だないか』
『きまつた|事《こと》だよ。それだから|此処《ここ》を|冥府《めいふ》と|云《い》ふのだ。せうもない|三五教《あななひけう》なぞと、そこらを|明《あ》かくし、|誠《まこと》とか|云《い》つて、|古《ふる》い|道徳《だうとく》を|振《ふり》まはし、|俺達《おれたち》|役人《やくにん》……|厄鬼《やくおに》|共《ども》の|領分《りやうぶん》を|侵害《しんがい》|致《いた》すから、|何《なん》でも|一寸《ちよつと》かかりがあつたら、|引張《ひつぱり》|込《こ》まうと、|手具脛《てぐすね》|引《ひ》いて|待《ま》つてゐた|所《ところ》だ。よくもマア|引掛《ひつかか》つて|来《き》よつた。|馬鹿者《ばかもの》だなア。サア|早《はや》くキリキリと|立《た》てい』
と|青《あを》|赤《あか》|白《しろ》の|鬼《おに》|共《ども》は|二人《ふたり》を|引捉《ひつとら》へ、|無理《むり》に|鉄門《てつもん》の|中《なか》へ|押込《おしこ》まうとしてゐる。|押込《おしこ》まれては|一大事《いちだいじ》と、|一生懸命《いつしやうけんめい》になつて『|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》』を|奏上《そうじやう》する|折《をり》しも、|忽《たちま》ち|前方《ぜんぱう》より|一団《いちだん》の|火光《くわくわう》あたりを|照《て》らし、|矢《や》を|射《い》る|如《ごと》く、|此《この》|場《ば》に|現《あら》はれて|大音響《だいおんきやう》と|共《とも》に|爆発《ばくはつ》した。|火《ひ》の|車《くるま》も|四《よ》つの|鬼《おに》|共《ども》もどこへ|消《き》え|失《う》せたか、|影《かげ》も|形《かたち》もなくなつて|了《しま》つた。|忽然《こつぜん》として|現《あら》はれた|眉間《みけん》の|白毫《びやくがう》よりダイヤモンドの|如《ごと》き|光輝《くわうき》を|発《はつ》する|神人《しんじん》|一人《ひとり》、|二人《ふたり》の|脇立《わきだち》を|連《つ》れ、|二人《ふたり》が|前《まへ》に|近寄《ちかよ》り、|頭《あたま》を|撫《な》で、|背《せ》を|撫《な》で、|水《みづ》を|与《あた》へ、
『ヤアお|前《まへ》は|秋山別《あきやまわけ》か、お|前《まへ》はモリスか、まだここへ|来《く》るのは|早《はや》い。|現界《げんかい》に|於《おい》て|働《はたら》かねばならぬ|寿命《じゆめう》が|残《のこ》つてゐるぞ。しつかり|致《いた》せ』
と|拳《こぶし》を|固《かた》めて、|背中《せなか》を|二《ふた》つ|三《みつ》つウンと|云《い》ふ|程《ほど》|打据《うちす》ゑられ、|二人《ふたり》はハツと|驚《おどろ》き、|正気《しやうき》に|復《ふく》し、そこらキヨロキヨロ|見《み》まはせば、|豈計《あにはか》らむや、シーズン|河《がは》の|河辺《かはべ》りに、|三人《さんにん》の|男《をとこ》に|救《すく》ひ|上《あ》げられ|介抱《かいほう》されてゐた。|此《この》|三人《さんにん》は|国依別命《くによりわけのみこと》、|安彦《やすひこ》、|宗彦《むねひこ》の|一行《いつかう》である。
|秋山別《あきやまわけ》は|驚《おどろ》いて、
『ヤアこれはこれは|国依別《くによりわけ》の|宣伝使《せんでんし》|様《さま》、|私《わたくし》のような|悪人《あくにん》を|能《よ》くマアお|見捨《みすて》もなく|御救《おすく》ひ|下《くだ》さいました。|実《じつ》に|有難《ありがた》う|御座《ござ》います。モウ|少《すこ》しの|事《こと》で|焦熱《せうねつ》|地獄《ぢごく》へ|落《おと》される|所《ところ》で|御座《ござ》いました』
『|誠《まこと》に|以《もつ》て|御無礼《ごぶれい》|計《ばか》り|致《いた》しました。モリスの|様《やう》な|悪人《あくにん》を|能《よ》くマア|助《たす》けて|下《くだ》さいました』
『|決《けつ》して|御礼《おれい》を|仰有《おつしや》るには|及《およ》びませぬ。|大神様《おほかみさま》が|私《わたくし》に|此《この》|御用《ごよう》を|仰《あふ》せつけられたので|御座《ござ》います。どうぞ|大神様《おほかみさま》へ|厚《あつ》く|御礼《おれい》を|申上《まをしあ》げて|下《くだ》さいませ』
|二人《ふたり》は『ハイ|有難《ありがた》う』と|河原《かはら》に|行儀《げうぎ》よく|端坐《たんざ》し、|拍手《はくしゆ》を|打《う》ち、|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》し、|神恩《しんおん》を|感謝《かんしや》する。
|是《これ》より|秋山別《あきやまわけ》、モリスの|二人《ふたり》は|心《こころ》の|底《そこ》より|悔《く》ゐ|改《あらた》め、|且《か》つ|国依別《くによりわけ》を|神《かみ》の|如《ごと》くに|敬《うやま》ひ、|更《あらた》めて|弟子《でし》となり、ハルの|国《くに》の|大原野《だいげんや》を|渉《わた》り|或《あるひ》は|高山《かうざん》を|踏《ふ》み|越《こ》え、アマゾン|河《がは》の|両岸《りやうがん》にある|大森林《だいしんりん》の|魔神《まがみ》を|征服《せいふく》すべく、|宣伝歌《せんでんか》を|唄《うた》ひ|乍《なが》ら、|意気《いき》|揚々《やうやう》として|進《すす》み|行《ゆ》く。あゝ|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》。
(大正一一・八・二〇 旧六・二八 松村真澄録)
第四篇 |言霊《ことたま》|将軍《しやうぐん》
第二二章 |神《かみ》の|試《ためし》〔八八八〕
|国依別《くによりわけ》の|一行《いつかう》は シーズン|河《がは》を|打渡《うちわた》り
|荒野《あらの》を|駆《か》けり|山《やま》を|越《こ》え |夜《よ》を|日《ひ》についでアマゾンの
|上流《じやうりう》さして|進《すす》み|行《ゆ》く。
|忽《たちま》ち|前方《ぜんぱう》に|屏風《びやうぶ》の|如《ごと》き、|余《あま》り|高《たか》からず、|低《ひく》からざる|延長《えんちやう》|数百里《すうひやくり》に|渡《わた》る|山脈《さんみやく》の|横《よこ》たはるを|見《み》る。|此《この》|山《やま》は|屏風ケ岳《べうぶがだけ》と|云《い》ひ、|海抜《かいばつ》|二万五千尺《にまんごせんしやく》、|山頂《さんちやう》の|横巾《よこはば》は|五十里《ごじふり》に|及《およ》ぶ。|此《この》|山脈上《さんみやくじやう》より|東南《とうなん》を|広《ひろ》く|観望《くわんばう》すれば、アマゾン|河《がは》は|銀河《ぎんが》の|如《ごと》くに|流《なが》れ、|鬱蒼《うつさう》たる|森林《しんりん》は|雲《くも》の|如《ごと》く、|目《め》に|入《い》る|景勝《けいしよう》の|地点《ちてん》なりける。
|国依別《くによりわけ》は|此《この》|山《やま》に|登《のぼ》るに|就《つ》いて、|左右《さいう》に|分《わか》れ|絶頂《ぜつちやう》に|達《たつ》したる|上《うへ》、|作戦《さくせん》|計画《けいくわく》を|定《さだ》むる|事《こと》とし、|秋山別《あきやまわけ》、モリスを|南《みなみ》より|登《のぼ》らしめ、|自分《じぶん》は|北《きた》の|谷《たに》から|安彦《やすひこ》、|宗彦《むねひこ》と|共《とも》に|宣伝歌《せんでんか》を|唄《うた》ひ、|屏風山脈《べうぶさんみやく》の|中央《ちうおう》に|帽子《ばうし》の|如《ごと》く|突出《とつしゆつ》せる|峰《みね》を|出会所《であひしよ》と|定《さだ》めて|登《のぼ》ることとせり。|此《この》|山上《さんじやう》に|達《たつ》するには|如何《どう》しても、|徒歩《とほ》にて、|四五日《しごにち》を|要《えう》する|丈《だけ》の|距離《きより》がある。
|秋山別《あきやまわけ》、モリスの|両人《りやうにん》は|南《みなみ》の|谷《たに》より、|宣伝歌《せんでんか》を|唄《うた》ひ|乍《なが》ら、|標的《へうてき》の|帽子山《ぼうしやま》を|目《め》がけて|進《すす》み|行《ゆ》く。|日《ひ》は|漸《やうや》くにして|山《やま》に|隠《かく》れ、|暗黒《あんこく》の|幕《まく》は|次第々々《しだいしだい》に|濃厚《のうこう》に|二人《ふたり》の|身辺《しんぺん》を|包《つつ》み|来《き》たるにぞ、|二人《ふたり》は|止《や》むを|得《え》ず、|坂道《さかみち》の|傍《かたはら》に|草《くさ》を|布《し》き、|横臥《わうぐわ》し、|夜《よ》を|明《あ》かさむとするや、|俄《にはか》に|猛烈《まうれつ》なる|山颪《やまおろし》|吹《ふ》き|来《きた》り、|二人《ふたり》の|体《からだ》は|殆《ほとん》ど|中天《ちうてん》に|飛《と》ばさるる|如《ごと》き|勢《いきほひ》となりぬ。|二人《ふたり》は『|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》』を|一生懸命《いつしやうけんめい》に|称《とな》へたれども、|七十米《しちじふメートル》の|猛烈《まうれつ》なる|風力《ふうりよく》は|容易《ようい》に|止《や》まず、|終《つひ》に|秋山別《あきやまわけ》は|風《かぜ》に|吹《ふ》き|飛《と》ばされて、|暗夜《あんや》の|空《そら》を|何処《どこ》ともなく、|散《ち》り|失《う》せにける。
モリスは|幸《さいは》ひ|岩《いは》の|根《ね》に|喰《く》ひつきて|此《この》|難《なん》を|免《まぬが》れける。|漸《やうや》くにして|風《かぜ》は|歇《や》み、|夜明《よあ》けとなりて|四辺《あたり》を|見《み》れば、|秋山別《あきやまわけ》の|姿《すがた》|無《な》し。……|大方《おほかた》|夜前《やぜん》の|烈風《れつぷう》に|吹《ふ》き|散《ち》らされて、どつかの|谷底《たにそこ》にでも|落《お》ちて|居《ゐ》るのだらう、あの|風《かぜ》は|追風《おひかぜ》であつたからよもや|西北《せいほく》の|方《はう》へ|散《ち》つて|居《ゐ》る|筈《はず》はない、キツと|東南《とうなん》へ|散《ち》つたであらう、さうすれば|是《これ》から|宣伝歌《せんでんか》を|高《たか》らかに|唄《うた》ひ|進《すす》み|行《ゆ》かば、|秋山別《あきやまわけ》が|吾《わが》|声《こゑ》を|聞《き》きつけて|来《く》るだらう……などと|心《こころ》の|中《なか》に|思《おも》ひ|乍《なが》ら、|宣伝歌《せんでんか》を|唄《うた》ひ|唄《うた》ひ|山《やま》と|山《やま》とに|囲《かこ》まれた|谷道《たにみち》をトボトボと|登《のぼ》り|行《ゆ》く。
|俄《にはか》に|聞《きこ》ゆる|女《をんな》の|叫《さけ》び|声《ごゑ》、|何事《なにごと》ならむと|足《あし》を|早《はや》め、|声《こゑ》する|方《かた》に|近《ちか》より|見《み》れば、|妙齢《めうれい》の|女《をんな》、|手足《てあし》を|縛《しば》られ、|髪《かみ》ふり|乱《みだ》し、そこに|倒《たふ》れ|居《ゐ》たり。モリスは|驚《おどろ》きて、|手早《てばや》く|手足《てあし》の|縛《いましめ》を|解《と》き、|言葉《ことば》|静《しづ》かに、
『モシモシ、どこの|御女中《おぢよちう》かは|存《ぞん》じませぬが、|何者《なにもの》に|斯様《かやう》な|残酷《ざんこく》な|目《め》に|会《あ》はされたのですか。|是《これ》には|何《なに》か|深《ふか》い|様子《やうす》のある|事《こと》で|御座《ござ》いませう』
『ハイ、|有難《ありがた》う|御座《ござ》います。|妾《わたし》はシーズン|河《がは》を|渡《わた》り、|此方《こちら》へ|参《まゐ》ります|折《を》り、|四五人《しごにん》の|荒《あら》くれ|男《をとこ》に|捉《とら》へられ、ドンドンドンドンと|手足《てあし》を|括《くく》られた|儘《まま》、ここまで|担《かつ》がれて、|夢《ゆめ》の|如《ごと》く|連《つ》れて|来《こ》られました。さうして|今《いま》の|先《さき》、|妾《わたし》に|向《むか》ひ|五人《ごにん》の|男《をとこ》が|交《かは》る|交《がは》る|無理難題《むりなんだい》を|吹《ふ》きかけまするので、|妾《わたし》は|余《あま》りの|悲《かな》しさ、|何事《なにごと》にも|応《おう》じませなかつた。さうした|所《ところ》、|五人《ごにん》の|荒男《あらをとこ》は|腹《はら》を|立《た》て、|鋭利《えいり》な|剣《けん》を|引抜《ひきぬ》き、|一度《いちど》により|集《あつ》まつて、|妾《わたし》を|嬲殺《なぶりごろ》しにしてくれむと|申《まを》し、|今《いま》や|彼等《かれら》に|嬲殺《なぶりごろ》しにされようとする|刹那《せつな》、|有難《ありがた》き|宣伝歌《せんでんか》の|声《こゑ》が|聞《きこ》えて|来《き》ましたので、|曲者《くせもの》は|其《その》|声《こゑ》に|辟易《へきえき》して|一人《ひとり》も|残《のこ》らず、|雲《くも》を|霞《かすみ》と|逃《に》げ|散《ち》つた|所《ところ》で|御座《ござ》います。あなたは|何《いづ》れの|方《かた》かは|存《ぞん》じませぬが、かよわき|女《をんな》の|一人旅《ひとりたび》、|行《ゆ》きもならず、|帰《かへ》りもならず、|実《じつ》に|険呑《けんのん》で|御座《ござ》います。|誠《まこと》に|御邪魔《おじやま》で|御座《ござ》いませうが、|何卒《どうぞ》|御伴《おとも》をさして|下《くだ》さいませぬか』
『それは|大変《たいへん》に|危《あぶな》い|事《こと》で|御座《ござ》いました。|併《しか》し|乍《なが》ら|私《わたし》は|神様《かみさま》の|御用《ごよう》に|依《よ》つて、アマゾン|河《がは》の|上流《じやうりう》|迄《まで》|参《まゐ》らねばならぬ|者《もの》、|女《をんな》の|方《かた》と|道伴《みちづ》れになることは、|到底《たうてい》|出来《でき》ませぬから、|是《これ》|計《ばか》りは|平《ひら》に|御断《おことわ》り|申《まを》します』
と|女《をんな》の|顔《かほ》を|覗《のぞ》き|込《こ》めば、|不思議《ふしぎ》や|紅井姫《くれなゐひめ》にてありける。
『オー、|貴女《あなた》は|紅井姫《くれなゐひめ》|様《さま》ぢや|御座《ござ》いませぬか? どうしてマアこンな|所《ところ》に|連《つ》れられて|御出《おい》でなさいましたのかなア。サアどうぞ|一時《いちじ》も|早《はや》く|立去《たちさ》り、|元来《もとき》し|路《みち》へ|御引返《おひきかへ》し|下《くだ》さりませ。かような|所《ところ》に|長坐《ながゐ》をして|居《を》れば、|又候《またぞろ》|悪者《わるもの》が|引返《ひきかへ》して|来《き》て、|如何《いか》なる|事《こと》を|仕出《しで》かすか|分《わか》りませぬ』
『お|情《なさけ》ないモリスさまの|其《その》|御言葉《おことば》、|妾《わたし》はあなたの|内事司《ないじつかさ》として、ヒルの|館《やかた》にお|仕《つか》へ|遊《あそ》ばす|砌《みぎり》より、|朝夕《あさゆふ》お|顔《かほ》を|拝《はい》し、|何時《いつ》とはなしに|恋路《こひぢ》に|心《こころ》を|曇《くも》らせ、|日《ひ》に|日《ひ》に|身体《からだ》は|痩《やせ》おとろへて、|重《おも》き|病《やまひ》の|身《み》となりました。そこへ、|秋山別《あきやまわけ》の|嫌《いや》な|男《をとこ》、|朝《あさ》な|夕《ゆふ》な、|妾《わたし》に|寄《よ》り|添《そ》ひ、いろいろと|妙《めう》な|事《こと》を|言《い》ひかけ、|大変《たいへん》な|迷惑《めいわく》を|致《いた》して|居《を》りました。|余《あま》りあなたを|思《おも》ふ|恋《こひ》の|弱味《よわみ》で、|恥《はづ》かしくて、|心《こころ》にもなき|情《つれ》ない|事《こと》を|申《まを》しましたが、|決《けつ》して|妾《わたし》の|心《こころ》はさうでは|御座《ござ》りませぬ。どうぞモリスさま、|今日《けふ》はあなたと|妾《わたし》と|只《ただ》|二人《ふたり》、こンな|機会《きくわい》は|又《また》と|御座《ござ》りますまい。|今《いま》でこそ|妾《わたし》の|腹《はら》の|底《そこ》を|打明《うちあ》けますから、どうぞ|二世《にせ》も|三世《さんせ》も|先《さき》の|世《よ》かけて|可愛《かあい》がつて|下《くだ》さいませ』
と|涙《なみだ》を|流《なが》し、|真実《しんじつ》を|面《おもて》に|表《あら》はして、かきくどく|其《その》しほらしさ。モリスは|心《こころ》の|中《なか》にて|非常《ひじやう》に|煩悶《はんもん》したるが|思《おも》ひ|切《き》つて、
『これはこれは|姫様《ひめさま》、あなた|様《さま》は|怪《け》しからぬ|事《こと》を|仰《あふ》せられます。|如何《どう》して|兄上様《あにうへさま》の|御許《おゆる》しもなく、|左様《さやう》なみだらな|事《こと》が|勝手《かつて》に|出来《でき》ませうか。|此《この》|儀《ぎ》|計《ばか》りは|平《ひら》に|御許《おゆる》し|下《くだ》さりませ』
『ホヽヽヽヽ、これモリスさま、よう、そンなことを、|今《いま》になつてようマア|仰有《おつしや》いますな。|妾《わたし》はあなたの|心《こころ》の|底《そこ》の|底《そこ》|迄《まで》よく|窺《うかが》つて|居《を》りますよ。そンなテレ|隠《かく》しは|仰有《おつしや》らずに、|一時《いつとき》も|早《はや》くウンと|云《い》つて|下《くだ》さい。|妾《わたし》も|気《き》が|気《いき》でなりませぬワ』
『|実《じつ》は|御察《おさつ》しの|通《とほ》り、|寝《ね》ても|醒《さ》めても、|道《みち》ならぬ|事《こと》とは|知《し》り|乍《なが》ら、|姫様《ひめさま》の|美《うる》はしき|姿《すがた》を|一目《ひとめ》|拝《をが》むで……あゝ|可愛《かあい》い|女《をんな》だ……と|思《おも》ひ|込《こ》ンだが|病《や》み|付《つ》きで、|恋《こひ》の|病《やまひ》におち、それからと|云《い》ふものは、|何《なに》を|食《く》つても|味《あぢ》はなく、|身《み》は|次第《しだい》に|痩衰《やせおとろ》へ、|煩悶《はんもん》|苦悩《くなう》をつづけて|居《を》りましたが、|或事《あること》より|神様《かみさま》のお|戒《いまし》めを|受《う》けて|翻然《ほんぜん》として|悟《さと》り、|今《いま》では、|是迄《これまで》のモリスとは|違《ちが》ひますから、|此《この》|事《こと》|計《ばか》りは|御許《おゆる》し|下《くだ》さいませ。モリス、|手《て》をついて|御願《おねが》ひ|致《いた》します』
『あのマア、モリスさまの|白々《しらじら》しい|御言葉《おことば》、|仮令《たとへ》|天地《てんち》が|覆《かへ》る|共《とも》、|一旦《いつたん》|痩《やせ》る|所《とこ》|迄《まで》|思《おも》ひつめた|女《をんな》、どうしてさう|綺麗《きれい》サツパリと|思《おも》ひ|切《き》られる|道理《だうり》が|御座《ござ》いませう。|余《あま》りぢらして|下《くだ》さりますな。|恋《こひ》は|神聖《しんせい》と|云《い》ひまして、あなたと|妾《わたし》が|夫婦《ふうふ》になつた|所《ところ》で、|夫《それ》がナニ|罪《つみ》になりませう。サア|早《はや》く|御返事《ごへんじ》をして|下《くだ》さい。|又《また》|実際《じつさい》に|嫌《いや》なら、|嫌《いや》とキツパリ|言《い》つて|下《くだ》さい。|妾《わたし》も|一《ひと》つの|覚悟《かくご》が|御座《ござ》います』
と|云《い》ふより|早《はや》く、|懐剣《くわいけん》を|取出《とりだ》し、|引抜《ひきぬ》いて、|早《はや》くも|喉《のど》にあてむとするを、モリスはあはてて|其《その》|手《て》を|押《おさ》へ、|涙《なみだ》|乍《なが》らに、
『モシモシお|姫様《ひめさま》、あなたのそこ|迄《まで》|思《おも》ふて|下《くだ》さる|御心《おこころ》は|実《じつ》に|勿体《もつたい》なく|有難《ありがた》う|存《ぞん》じます。|其《その》|御志《おこころざし》は|仮令《たとへ》|死《し》ンでも|忘《わす》れは|致《いた》しませぬ。|併《しか》し|乍《なが》ら|今日《こんにち》の|私《わたし》は、|最早《もはや》|神《かみ》の|光《ひか》りに|照《てら》されて、|国依別《くによりわけ》|様《さま》の|弟子《でし》となり、アマゾン|河《がは》の|森林《しんりん》に|言霊戦《ことたません》に|参《まゐ》る|途中《とちう》で|御座《ござ》いますれば、|何卒《どうぞ》ここの|所《ところ》を|聞分《ききわ》けて、|思《おも》ひとまつて|下《くだ》さりませ』
と|声《こゑ》を|震《ふる》はせ、|泣《な》き|声《ごゑ》になつて|諫《いさ》むるにぞ、|紅井姫《くれなゐひめ》は|首《くび》をふり、
『イエイエ、|何《なん》と|仰有《おつしや》つても、|女《をんな》の|一念《いちねん》|晴《は》らさねば|置《お》きませぬ。そンなら|帰《かへ》つてから|夫婦《ふうふ》になつてやらうと、ここで|一事《ひとこと》|云《い》つて|下《くだ》さい。それが|出来《でき》ぬと|云《い》ふことが|御座《ござ》いますか』
『|折角《せつかく》|乍《なが》ら、|其《その》|事《こと》|計《ばか》りはどうぞ|思《おも》ひとまつて|下《くだ》さいませ。モリス|改《あらた》めてお|断《こと》わりを|申《まを》します』
『あゝ|是非《ぜひ》に|及《およ》ばぬ。そンならモリス|殿《どの》、|妾《わたし》は|冥途《めいど》へ|参《まゐ》ります』
と|又《また》もや|懐剣《くわいけん》を|引《ひき》ぬき|首《くび》に|当《あ》てがはむとするを、モリスはあわてて|其《その》|手《て》を|押《おさ》へ、
『|又《また》しても|又《また》しても、|御合点《おがてん》の|悪《わる》い|御姫様《おひめさま》、モリスの|様《やう》なヒヨツトコの|愚鈍者《ぐどんもの》の|分《わか》らずやが、|如何《どう》して|尊《たふと》い|姫君様《ひめぎみさま》の|恋男《こひをとこ》になることが|出来《でき》ませう。あなたの|御志《おこころざし》は|身《み》に|代《か》へて|有難《ありがた》う|御座《ござ》いますが、どうぞこれ|丈《だけ》は|許《ゆる》して|下《くだ》さいませ。モウ|私《わたし》は|女《をんな》に|会《あ》ふことは|断念《だんねん》して|居《を》りますから、|折角《せつかく》の|決心《けつしん》を|何卒《どうぞ》ゆるめて|下《くだ》さいますな。モリスのお|願《ねがひ》で|御座《ござ》います』
と|手《て》を|合《あは》せ|頼《たの》み|入《い》る。
|紅井姫《くれなゐひめ》、|厳然《げんぜん》として|立上《たちあが》り、|言葉《ことば》をあらためて、
『|我《わ》れこそは|大江山《たいこうざん》に|守護《しゆご》をいたす、|鬼武彦《おにたけひこ》が|幕下《ばくか》|旭日明神《あさひみやうじん》と|申《まを》す|者《もの》、|汝《なんぢ》の|心底《しんてい》は|最早《もはや》|疑《うたが》ふの|余地《よち》なし。いざ|是《これ》よりアマゾン|河《がは》に|向《むか》ひ、|天晴《あつぱ》れ、|言霊戦《ことたません》に|功名《こうみやう》|手柄《てがら》を|現《あらは》せよ。|我《われ》も|汝《なんぢ》に|力《ちから》を|添《そ》へ、|守《まも》り|与《あた》ふれば、|如何《いか》なる|事《こと》あるとも、|決《けつ》して|恐《おそ》るることなく、|撓《たゆ》まず、|屈《くつ》せず、|国依別《くによりわけ》の|命《めい》に|従《したが》つて、|神界《しんかい》の|為《ため》に|活動《くわつどう》せよ。モリス|殿《どの》さらば……』
と|言葉《ことば》|終《をは》るや、|忽《たちま》ち|立《た》ち|昇《のぼ》る|白煙《はくえん》あたりを|包《つつ》み、|紅井姫《くれなゐひめ》と|思《おも》ひし|美女《びぢよ》の|姿《すがた》は|此《この》|場《ば》より|霞《かすみ》の|如《ごと》く|消《き》え|失《う》せにけり。
(大正一一・八・二〇 旧六・二八 松村真澄録)
第二三章 |化老爺《ばけおやぢ》〔八八九〕
|秋山別《あきやまわけ》は|烈風《れつぷう》に|吹《ふ》き|散《ち》らされ、|力《ちから》と|頼《たの》みしモリスには|別《わか》れ、|止《や》むを|得《え》ず|只一人《ただひとり》、|屏風山脈《びやうぶさんみやく》の|帽子ケ岳《ぼうしがだけ》を|目当《めあ》てに|登《のぼ》りつつ、|又《また》もや|日《ひ》を|暮《く》らして、|老木《らうぼく》|茂《しげ》る|木蔭《こかげ》に|立寄《たちよ》り、|身《み》を|横《よこ》たへて|茲《ここ》に|夜《よ》の|明《あ》くるを|待《ま》つ|事《こと》とせり。
|満天《まんてん》の|星光《せいくわう》は|燦然《さんぜん》として|金色《こんじき》の|光《ひかり》を|放《はな》ち、|紺碧《こんぺき》の|空《そら》は、|何《なん》となく|爽快《さうくわい》を|覚《おぼ》え、|天《てん》を|仰《あふ》いで|神徳《しんとく》を|讃美《さんび》しつつありし|折《をり》、|俄《にはか》に|山岳《さんがく》も|崩《くづ》るる|計《ばか》りの|大音響《だいおんきやう》|聞《きこ》え|来《きた》り、|一天《いつてん》|忽《たちま》ち|曇《くも》りて、|大粒《おほつぶ》の|雨《あめ》バラバラと|降《ふ》り|出《い》でぬ。
|秋山別《あきやまわけ》は|止《や》むを|得《え》ず、|老木《らうぼく》の|蔭《かげ》に|立寄《たちよ》り|雨《あめ》を|避《さ》けむとする|折《をり》しも、|忽然《こつぜん》として|現《あら》はれたる|白髪《はくはつ》|異様《いやう》の|大怪物《だいくわいぶつ》、|鏡《かがみ》の|如《ごと》き|巨眼《きよがん》を|剥《む》き|出《いだ》し、|鼻《はな》|高《たか》く、|口《くち》|大《おほ》きく、|銅《あかがね》の|如《ごと》き|面相《めんさう》にて、|秋山別《あきやまわけ》を|睨《ね》めつけにける。|秋山別《あきやまわけ》は|轟《とどろ》く|胸《むね》を|押《おさ》へ、|臍下丹田《さいかたんでん》に|神《しん》を|納《をさ》め、|怪物《くわいぶつ》の|顔《かほ》を|瞬《またた》きもせず|睨《ね》めつけゐたり。|怪物《くわいぶつ》も|又《また》、ビクともせず、|地上《ちじやう》より|生《は》えたる|樹木《じゆもく》の|如《ごと》く|突立《つつた》つて、|赤《あか》、|青《あを》、|白《しろ》、|黒《くろ》、|黄《き》、|紫《むらさき》と|幾度《いくど》も|顔色《かほいろ》を|変《へん》じ、|爪《つめ》の|長《なが》き|毛《け》だらけの|巨腕《きよわん》をヌツと|前《まへ》につき|出《だ》し、|今《いま》や|秋山別《あきやまわけ》を、|一掴《ひとつか》みにひン|握《にぎ》り、|投《な》げ|捨《す》てむとするの|勢《いきほひ》を|示《しめ》しけるにぞ、|秋山別《あきやまわけ》は|心《こころ》の|中《うち》にて……|国治立大神《くにはるたちのおほかみ》、|豊国姫大神《とよくにひめのおほかみ》、|国大立大神《くにひろたちのおほかみ》、|日《ひ》の|出神《でのかみ》、|木《こ》の|花姫神《はなひめのかみ》、|金勝要大神《きんかつかねのおほかみ》、|守《まも》り|玉《たま》へ|幸《さち》はひ|玉《たま》へ……と|祈願《きぐわん》をこらし|居《ゐ》たりしが、|怪物《くわいぶつ》は|大口《おほぐち》をあけて、|雷《らい》の|如《ごと》き|巨声《きよせい》にて|笑《わら》ひ|出《だ》しぬ。
『アツハヽヽヽ、|秋山別《あきやまわけ》の|宣伝使《せんでんし》、|能《よ》つく|聞《き》け! |吾《われ》こそはアマゾン|河《がは》の|森林《しんりん》に|永住《えいぢう》|致《いた》す|八岐大蛇《やまたをろち》の|化身《けしん》であるぞ。
イヽヽー|如何《いか》に|汝《なんぢ》、|勇猛《ゆうもう》なりとて|吾等《われら》が|一族《いちぞく》に|向《むか》つて|言霊線《ことたません》を|発射《はつしや》し、|吾等《われら》が|永年《ながねん》の|棲処《すみか》を|荒《あら》さむと|致《いた》す|憎《につく》き|奴原《やつばら》、
ウヽヽーうつかり|森林《しんりん》に|向《むか》うものならば、|某《それがし》が|神変《しんぺん》|不思議《ふしぎ》の|術《わざ》を|以《もつ》て、|汝《なんぢ》が|身体《からだ》を|寸断《すんだん》し|呉《く》れむ。|万一《まんいち》|汝《なんぢ》|改心《かいしん》をなし、|是《これ》より|引返《ひきかへ》すに|於《おい》ては、|汝《なんぢ》が|罪《つみ》を|許《ゆる》し、|生命《いのち》を|助《たす》け|遣《つか》はすべし。|返答《へんたふ》は|如何《いか》に』
と|呶鳴《どな》り|立《た》てけるを、|秋山別《あきやまわけ》は|不退転《ふたいてん》の|信念《しんねん》を|固《かた》め、
『エヽヽー|面倒《めんだう》な、|某《それがし》は|国治立大神《くにはるたちのおほかみ》の|教《をしへ》の|御子《みこ》、|三五教《あななひけう》の|神司《かむづかさ》、|汝《なんぢ》が|如《ごと》き|曲神《まがかみ》の|言《げん》を|用《もち》ゐて、のめのめ|引返《ひきかへ》す|様《やう》な|腰抜《こしぬけ》|武士《ぶし》ではないぞ。
オヽヽー|恐《おそ》ろしき|其《その》|面構《つらがま》へを|致《いた》し、|活神《いきがみ》の|宣伝使《せんでんし》を|脅《おど》しつけようと|致《いた》しても|到底《たうてい》|駄目《だめ》だ。|早《はや》く|姿《すがた》を|隠《かく》せ』
『ヤイ|秋山別《あきやまわけ》、|良《よ》つく|聴《き》け。
カヽヽー|神々《かみがみ》と|申《まを》すが、|国治立尊《くにはるたちのみこと》が|神《かみ》ならば、|八岐大蛇《やまたおろち》も|亦《また》|神《かみ》であるぞよ。|神《かみ》と|云《い》ふ|点《てん》に|於《おい》て|何処《どこ》に|違《ちが》つた|所《ところ》があるか。|此《この》|方《はう》はウラル|教《けう》を|守護《しゆご》|致《いた》す|元《もと》の|神《かみ》にして、|世界《せかい》の|先祖《せんぞ》と|聞《きこ》えたるアダム、エバの|霊《みたま》より|現《あら》はれ|出《い》でたる|者《もの》なるぞ。|言《い》はば|汝《なんぢ》ら|人民《じんみん》の|祖神《おやがみ》である。|子《こ》が|親《おや》に|対《たい》してたてつくと|云《い》ふ|道理《だうり》は|何処《どこ》にあるか、
キヽヽ|鬼門《きもん》の|金神《こんじん》とはそりや|何《なん》の|囈言《たはごと》、|八岐大蛇《やまたおろち》が|悪神《わるがみ》なれば、|鬼門《きもん》の|鬼《き》の|字《じ》は|又《また》|鬼《おに》ではないか、
クヽヽ|下《くだ》らぬ|事《こと》を|申《まを》すより、|早《はや》く|往生《わうじやう》|致《いた》せば、|苦労《くらう》なしに|神徳《しんとく》が|頂《いただ》けるではないか、
ケヽヽ|見当《けんたう》の|取《と》れぬ|神界《しんかい》の|模様《もやう》、|人間《にんげん》の|分際《ぶんざい》として|如何《どう》して|分《わか》らうぞ、
コヽヽ|是《これ》|位《くらゐ》|神《かみ》が|言葉《ことば》を|分《わ》けて|申《まを》したら、|如何《いか》な|頑迷《ぐわんめい》な|其《その》|方《はう》でも、|合点《がてん》が|往《い》つたであらう。
サヽヽさつぱりと|今迄《いままで》の|心《こころ》を|取直《とりなほ》し、|大蛇《をろち》の|神《かみ》に|帰順《きじゆん》|致《いた》すか、
シヽヽしぶとう|致《いた》して|居《ゐ》ると|最早《もはや》|量見《れうけん》はならぬぞ、
スヽヽ|好《すき》だ|嫌《きら》ひだと、|神《かみ》に|区別《くべつ》を|立《た》て、|世界《せかい》をうろたへまはる|腰抜共《こしぬけども》、
セヽヽせせこましい|事《こと》を|思《おも》はずに、|天地《てんち》|一体《いつたい》の|真理《しんり》を|弁《わきま》へ、|早《はや》く|此《この》|方《はう》に|帰順《きじゆん》せよ、
ソヽヽそれが|其《その》|方《はう》に|取《と》つて|最《もつと》も|安全《あんぜん》な|道《みち》であるぞ、
タヽヽ|高天原《たかあまはら》の|聖地《せいち》|錦《にしき》の|宮《みや》の|神司《かむづかさ》だとか、イソの|館《やかた》に|鎮《しづ》まる|素盞嗚尊《すさのをのみこと》の|部下《ぶか》だとか、
チヽヽ|小《ちい》さき|隔《へだ》てを|立《た》てて、|自《みづか》ら|小《ちい》さき|穴《あな》に|迷《まよ》ひ|込《こ》み、
ツヽヽ|月《つき》の|大神《おほかみ》|許《ばか》りを|持《も》て|囃《はや》し、
テヽヽ|天《てん》に|輝《かがや》く|日《ひ》の|大神《おほかみ》を|次《つぎ》に|致《いた》し、
トヽヽ|十曜《とえう》の|神紋《しんもん》を|閃《ひらめ》かし、|世界《せかい》を|宣伝使面《せんでんしづら》さげて、うろたへ|廻《まは》るとは|何《なん》のたわ|事《ごと》、|早《はや》く|此《この》|方《はう》の|傘下《さんか》に|集《あつ》まり|来《きた》つて、|吾《わが》|神業《しんげふ》に|奉仕《ほうし》するか、さもなくば|汝《なんぢ》が|身体《しんたい》は|風前《ふうぜん》の|燈火《ともしび》だ。ハヽヽヽヽ』
と|四辺《あたり》に|響《ひび》く|高笑《たかわら》ひ。|秋山別《あきやまわけ》は|暗夜《あんや》、|此《この》|深山《しんざん》に|於《おい》て、|斯《か》かる|怪物《くわいぶつ》に|出会《であ》ひ、|胸《むね》|轟《とどろ》き、|身《み》の|毛《け》もよだつ|計《ばか》りに|恐《おそ》ろしくなり|来《き》たりぬ。されど|飽《あ》く|迄《まで》も、|一旦《いつたん》|心《こころ》にきめた|信仰《しんかう》を|翻《ひるがへ》さじと、|臍下丹田《さいかたんでん》に|息《いき》をこめ『|一《ひと》|二《ふた》|三《み》|四《よ》|五《いつ》|六《むゆ》|七《なな》|八《や》|九《ここの》|十《たり》|百《もも》|千《ち》|万《よろづ》』と|辛《から》うじて、|天《あま》の|数歌《かずうた》を|奏上《そうじやう》すれば、|怪物《くわいぶつ》の|顔《かほ》は|漸《やうや》くに|和《やはら》ぎ|少《すこ》しく|笑《ゑみ》を|湛《たた》へ|居《ゐ》るにぞ、|秋山別《あきやまわけ》は|吾《わが》|言霊《ことたま》の|非常《ひじやう》に|効力《かうりよく》ありしことを|心中《しんちう》に|打喜《うちよろこ》び、|怪物《くわいぶつ》に|向《むか》つて、
『オイお|爺《ぢ》イさま、|随分《ずいぶん》|偉《えら》い|勢《いきほひ》で、|吾々《われわれ》を|威喝《ゐかつ》したぢやないか。そンな|事《こと》を|怖《こわ》がる|様《やう》な|者《もの》は|只《ただ》の|一人《ひとり》もないぞよ。|俺《おれ》の|怖《こわ》いと|云《い》ふのはそンな|化州《ばけしう》でも|何《なん》でもないワ』
『ワツハヽヽヽ、それなら|其《その》|方《はう》は|何《なに》が|一番《いちばん》|怖《こわ》いと|思《おも》ふか。|此《この》|爺《おやぢ》は|恐《おそ》ろしくないか』
『ヘン、|何《なに》が|恐《おそ》ろしいのだ。|夜《よる》になればそンな|偉相《えらさう》な|面《つら》をして|出《で》て|来《く》るが、お|日様《ひさま》がお|出《で》ましになると、すぐに|消《き》えて|了《しま》ふ|代物《しろもの》が|恐《おそ》ろしくて、|此《この》|世《よ》の|中《なか》が|生《い》きて|行《い》けるかい。コリヤ|此《この》|方《はう》は|三途《さんづ》の|川《かは》を|渡《わた》り、|焦熱《せうねつ》|地獄《ぢごく》へ|往《ゆ》き、|地獄《ぢごく》の|底《そこ》まで|探険《たんけん》して、|実地《じつち》|修養《しうやう》を|経《へ》た|秋山別《あきやまわけ》の|宣伝使《せんでんし》だぞ。お|前達《まへたち》が|怖《こわ》くて|堪《たま》らうかい』
『そンなら、|一《ひと》つ|怖《こわ》い|者《もの》があると|云《い》つたのは|何《なん》の|事《こと》だい。|俺《おれ》の|怖《こわ》いと|云《い》ふのは|誠《まこと》と|云《い》ふ|一字《いちじ》|許《ばか》りだ』
とウツカリ|怪物《くわいぶつ》は|口《くち》を|辷《すべ》らしたるを、|秋山別《あきやまわけ》は|之《これ》を|聞《き》いて、
『ハヽー|此奴《こいつ》、|誠《まこと》が|怖《こわ》いと|云《い》ひよつたなア。|大方《おほかた》|言霊《ことたま》に|恐《おそ》れてゐるのだらう。ヨシ、|之《これ》からグヅグヅ|吐《ぬか》しよつたら、|言霊《ことたま》を|連発《れんぱつ》してやるのだナア』
と|腹《なか》の|中《なか》で|決定《きめ》て|了《しま》つた。
『オイ|爺《ぢぢ》、モウしめたものだ。|貴様《きさま》は|誠《まこと》が|一番《いちばん》|怖《こわ》いと|云《い》ひよつた。|誠生粋《まこときつすゐ》の|大和魂《やまとだましひ》の|言霊《ことたま》をこれから|発射《はつしや》してやるから、|其《その》|積《つも》りで|居《を》れ。
ナヽヽ|何《なん》と|申《まを》しても、|此《この》|言霊《ことたま》は|俺《おれ》の|口《くち》から|出《で》るのだから、|貴様《きさま》の|力《ちから》でとめる|訳《わけ》にも|行《ゆ》こまい、|早《はや》く|改心《かいしん》を|致《いた》さぬと、
ニヽヽ|二進《につち》も|三進《さつち》も|行《い》かさぬ|様《やう》に、|秋山別《あきやまわけ》がここで|封《ふう》じて|了《しま》つてやるぞ』
『ヌヽヽ|吐《ぬか》すな|吐《ぬか》すな。|強盗《ぬすびと》|猛々《たけだけ》しいとは|其《その》|方《はう》の|事《こと》だぞ。|主人《しゆじん》の|娘《むすめ》を|盗《ぬす》み|出《だ》さうと|致《いた》した|痴者《しれもの》|奴《め》、
ネヽヽ|佞《ねぢ》け|曲《まが》つた|其《その》|方《はう》の|言霊《ことたま》が、|此《この》|方《はう》に|対《たい》して|応用《おうよう》が|出来《でき》て|堪《たま》るものかい、
ノヽヽ|野天狗《のてんぐ》、|野狸《のだぬき》、|野狐《のぎつね》の|様《やう》な|厄雑神《やくざがみ》の|容物《いれもの》となり、|言霊《ことたま》を|発射《はつしや》するのなンのと、
ハヽヽ|腹《はら》が|撚《よ》れるワイ、|余《あま》り|可笑《をか》しうてのウ。
ヒヽヽ|姫《ひめ》の|後《あと》を|野良犬《のらいぬ》の|様《やう》に|嗅《か》ぎまはる、
フヽヽ|不束者《ふつつかもの》|奴《め》が、
ヘヽヽ|屁《へ》でも|喰《くら》つたがよからうぞ、
ホヽヽ|呆《はう》け|野郎《やらう》|奴《め》、
マヽヽ|誠《まこと》が|怖《こわ》いと|申《もう》せば|直《すぐ》に|附《つ》け|上《あが》り、|言霊《ことたま》を|発射《はつしや》してやらうなどと、|心《こころ》の|中《なか》で|北叟笑《ほくそゑ》みを|致《いた》して|居《ゐ》るぞよ。この|方《はう》は|余《あま》りの|可笑《をか》しさに、
ミヽヽ|見《み》つともない、|其《その》|面付《つらつき》で|女《をんな》に|対《たい》し、|恋《こひ》の|鮒《ふな》のと、ソリヤ|何《なん》のたわ|事《ごと》。
ムヽヽ|昔《むかし》から|無理《むり》|往生《わうじやう》の|恋《こひ》が|遂《と》げられた|例《ため》しはないぞ。
メヽヽ|盲《めくら》|滅法界《めつぽふかい》に、
モヽヽ|盲目的《まうもくてき》に、
ヤヽヽやり|切《き》らうと|思《おも》うても、
イヽイ|行《い》きは|致《いた》さぬぞよ。
ユヽヽ|幽冥界《いうめいかい》へ|落《おと》されて、|焦熱《せうねつ》|地獄《ぢごく》に|迷《まよ》ひ|込《こ》み、|火《ひ》の|車《くるま》に|乗《の》せられ、
エヽヽえぐい、|熱《あつ》い|苦《くるし》みに|会《あ》ひ、
ヨヽヽヨウもヨウも|幽界《いうかい》の|探険《たんけん》をして|来《き》たなどと、|口幅《くちはば》の|広《ひろ》い|事《こと》を|云《い》はれたものだ、
ラヽヽらつちもない、
リヽヽ|悋気《りんき》|喧嘩《げんくわ》を|致《いた》したり、
ルヽヽ|坩堝《るつぼ》の|様《やう》な|黒《くろ》い|洒《しや》つ|面《つら》をして、
レヽヽ|恋愛《れんあい》の|恋慕《れんぼ》のと、ソリヤ|何《なに》を|吐《ほざ》くのだい、
ロヽヽ|碌《ろく》でなし|奴《め》。
ワヽヽ|吾《わ》れの|身分《みぶん》を|考《かんが》へて|見《み》よ。
ヰヽヽいたづら|小僧《こぞう》の|分際《ぶんざい》として、
ウヽヽ|囈言《うさごと》のような|恋《こひ》を|語《かた》り、
ヱヽヽ|縁《えん》があるの、ないのと、
ヲヽヽ|可笑《おか》しいワイ。|貴様《きさま》の|怖《こわ》いのは|大方《おほかた》|女《をんな》だらう。|女《をんな》の|為《ため》に、シーズン|河《がは》へ|投込《なげこ》まれ、|有《あ》るに|有《あ》られぬ|苦労《くらう》を|致《いた》し、|地獄《ぢごく》の|八丁目《はつちやうめ》|迄《まで》|落《おと》されて|来《き》よつたのだから、|女《をんな》にはコリコリ|致《いた》したと|見《み》えて、|元気《げんき》のない|其《その》|面付《つらつき》は|何《なん》だい』
『ヨシ|待《ま》て、|糞爺《くそぢぢ》、|今《いま》に|秋山別《あきやまわけ》が|神力《しんりき》|無双《むさう》、|円満《ゑんまん》|清朗《せいらう》なる|生言霊《いくことたま》の|弾丸《だんぐわん》を|其《その》|方《はう》の|面体《めんてい》に|向《むか》つて|乱射《らんしや》してやるから|覚悟《かくご》を|致《いた》せ。コリヤ|取《と》つときの|言霊《ことたま》だぞ。|最前《さいぜん》のは|鉛《なまり》の|玉《たま》だつたが、|今度《こんど》は|銀《ぎん》の|玉《たま》と|金《きん》の|玉《たま》だ。|化物《ばけもの》に|向《むか》つて|金《きん》の|玉《たま》を|発射《はつしや》すれば、|化者《ばけもの》は|滅亡《めつぼう》するのは|昔《むかし》から|定《き》まつてゐる。サア|良《い》いか』
『アハヽヽヽ、|睾玉《きんたま》を|発射《はつしや》するのも|面白《おもしろ》からう。|其《その》|方《はう》は|最早《もはや》|女《をんな》に|絶縁《ぜつえん》し|来《き》た|以上《いじやう》は、|睾玉《きんたま》は|不必要《ふひつえう》だ。サア|何《なん》ぼなと|発射《はつしや》せい。|受取《うけと》つてやらう。|併《しかし》|乍《なが》ら|只《ただ》の|二《ふた》つより|有《あ》ろまい。|其《その》|代《かは》り、|其《その》|二《ふた》つを|発射《はつしや》したが|最後《さいご》、|其《その》|方《はう》の|勇気《ゆうき》はなくなり、|言霊戦《ことたません》はモウ|駄目《だめ》だぞ』
『|馬鹿《ばか》だなア。そんな|睾《きん》の|玉《たま》とは|違《ちが》うのだ。|一言《いちげん》|天地《てんち》を|震憾《しんかん》し、|一声《いつせい》よく|風雨雷霆《ふううらいてい》を|叱咤《しつた》する|黄金《わうごん》の|言霊《ことたま》だ』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら、
『|一《ひと》|二《ふた》|三《み》|四《よ》|五《いつ》|六《むゆ》|七《なな》|八《や》|九《ここの》|十《たり》|百《もも》|千《ち》|万《よろづ》』
と|四五回《しごくわい》も|繰返《くりかへ》せば、|流石《さすが》の|怪物《くわいぶつ》も|追々《おひおひ》|其《その》|容積《ようせき》を|減《げん》じ、|遂《つひ》には|二三尺《にさんじやく》の|童子《どうじ》の|姿《すがた》となり、|小《ちい》さき|声《こゑ》にて、
『コリヤ|秋山別《あきやまわけ》、|其《その》|方《はう》は|俺《おれ》の|一番《いちばん》|怖《こわ》がる|誠《まこと》の|言霊《ことたま》を|発射《はつしや》して|攻《せ》めよつたな。ヨシ|此《この》|方《はう》にも|考《かんが》へがある。|今日《けふ》はこれで|別《わか》れてやるが、|明晩《みやうばん》キツと|仇《かたき》を|打《う》つてやるから|其《その》|積《つも》りで|居《を》れ。ウーーツ』
と|唸《うな》りを|立《た》ててパツと|其《その》|儘《まま》|消《き》え|失《う》せにけり。
(大正一一・八・二〇 旧六・二八 松村真澄録)
第二四章 |魔違《まちがひ》〔八九〇〕
|秋山別《あきやまわけ》は|此《この》|樹下《じゆか》に|一夜《いちや》を|明《あ》かす|折《をり》しも、|遥《はるか》の|方《かた》より|宣伝歌《せんでんか》の|声《こゑ》が|聞《きこ》え|来《きた》るにぞ、|秋山別《あきやまわけ》は|雀躍《こをどり》し、|後《あと》ふり|返《かへ》り|能《よ》く|見《み》れば、モリスは|只一人《ただひとり》|何《なに》か|手《て》に|采配様《さいはいやう》の|者《もの》を|握《にぎ》り、|之《これ》を|打《うち》ふり|打《うち》ふり|此方《こなた》に|向《むか》つて|進《すす》み|来《きた》る。|秋山別《あきやまわけ》は|地獄《ぢごく》で|神《かみ》に|会《あ》ひし|心地《ここち》にて、|雀躍《こをどり》しつつ|待《ま》ちゐたりしが、|近寄《ちかよ》つて|来《きた》るを、|能《よ》く|能《よ》く|見《み》ればモリスにあらで、|夜前《やぜん》の|化爺《ばけぢぢ》、|体《からだ》を|少《すこ》し|小《ちい》さくして、モリスの|声色《こはいろ》を|使《つか》ひながら|来《きた》れるなりけり。されど|秋山別《あきやまわけ》はモリスとのみ|深《ふか》く|信《しん》じて|少《すこ》しも|疑《うたが》はず、|飛《と》びつく|様《やう》に、
『ヤア、モリスどこへ|往《い》つて|居《を》つたのだい、|随分《ずいぶん》|待《ま》ち|詫《わ》びたよ。|夜前《やぜん》も|夜前《やぜん》とて、|此《この》|木《き》の|下《した》に|寝《ね》て|居《を》れば、それはそれは|厭《いや》らしい|化爺《ばけぢぢ》が|出《で》て|来《き》よつてナ、|流石《さすが》の|俺《おれ》も|荒肝《あらぎも》を|潰《つぶ》したよ。|併《しか》し|俺《おれ》の|取《と》つときの|言霊《ことたま》を|発射《はつしや》したのに|驚《おどろ》き、|小《ちい》さくなつて|逃《に》げよつた|時《とき》の|愉快《ゆくわい》さと|云《い》つたら、|有《あ》つたものぢやないワ、アハヽヽヽ』
モリスに|見《み》えた|男《をとこ》、
『そうか、ソリヤ|愉快《ゆくわい》だつたネイ。イヤ|気味《きみ》が|悪《わる》かつただらうネ。|併《しか》し|今日《けふ》はお|前《まへ》の|一番《いちばん》|怖《こわ》い|者《もの》をドツサリ|持《も》つて|来《き》てやつたから、マア|昨夜《ゆうべ》の|返礼《へんれい》だ。ゆつくり|楽《たのし》むがよからうよ』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら、|麻《ぬさ》の|様《やう》な|物《もの》を|左右左《さいうさ》にプツプツプツと|振《ふ》りまはす。|小《ちい》さい|玉《たま》の|様《やう》な|物《もの》が、|幾百《いくひやく》ともなく|落《お》つる|途端《とたん》に、|何《いづ》れも|一時《いちじ》に|爆発《ばくはつ》し、|中《なか》から|桃太郎《ももたらう》が|生《うま》れた|様《やう》に、|何百《なんびやく》とも|知《し》れぬ|紅井姫《くれなゐひめ》が|現《あら》はれて、|秋山別《あきやまわけ》の|前後《ぜんご》|左右《さいう》に|取《と》りつき、
『コレコレまうし|秋山別《あきやまわけ》さまお|前《まへ》は|情《つれ》ない|人《ひと》だよ。|能《よ》うマア|私《わたし》を|見捨《みす》ててこンな|所迄《とこまで》|逃《に》げて|来《き》やしやつたは|本当《ほんたう》に|憎《にく》らしいワ』
と|云《い》つて|頬辺《ほほべ》たをピシヤツと|叩《たた》き、|耳《みみ》を|引《ひつ》かき、そこら|中《ぢう》をひねりまはす。|又《また》|同《おな》じ|姿《すがた》の|女《をんな》、|秋山別《あきやまわけ》の|足《あし》にしがみつき、
『お|前《まへ》は|本当《ほんたう》に|罪《つみ》な|人《ひと》、|私《わたし》が|国依別《くによりわけ》さまに、あれ|丈《だけ》|恋《こひ》して|居《ゐ》るのに、|好《す》かぬたらしい、|横恋慕《よこれんぼ》をして、|一《いち》も|取《と》らず|二《に》も|取《と》らずにして|了《しま》つたぢやないか。エヽ|恋《こひ》の|敵《かたき》ぢや、|秋山別《あきやまわけ》さま!』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら、|拳《こぶし》を|一口《ひとくち》クワツとかぶり|取《と》る。|又《また》|一人《ひとり》の|女《をんな》は|武者振《むしやぶ》りつき、
『エヽ|残念々々《ざんねんざんねん》、お|前《まへ》|故《ゆゑ》に、|私《わたし》はシーズン|河《がは》へ|身《み》を|投《な》げたのだよ。|敵《かたき》を|討《う》たずにおくものか!』
と|髻《たぶさ》を|掴《つか》み、|無性矢鱈《むしやうやたら》に|引《ひき》まはす|其《その》|痛《いた》さ。|秋山別《あきやまわけ》は|声《こゑ》を|限《かぎ》りに|悲鳴《ひめい》をあげ、
『|痛《いた》い|痛《いた》い、|怺《こら》へてくれ。モウ|是丈《これだけ》|女《をんな》|攻《ぜ》めに|会《あ》うてはやりきれないワ。|命《いのち》がなくなる、どうぞ|助《たす》けてくれ!』
と|泣《な》き|声《ごゑ》になつて|呼《よ》ばはつて|居《ゐ》る。|数多《あまた》の|女《をんな》は|又《また》もや|武者《むしや》ぶりつき、
『|女《をんな》にかけたら、|命《いのち》も|何《なん》にも|要《い》らぬと|云《い》つたぢやないか。お|前《まへ》の|心《こころ》が|生《う》ンだ|紅井姫《くれなゐひめ》、サア|命《いのち》を|貰《もら》はう。|妾《わらは》の|手《て》にかかつて|死《し》ンだら|得心《とくしん》でせう。コレ|秋山別《あきやまわけ》さま、|黒《くろ》い|色男《いろをとこ》には|生《うま》れて|来《こ》ぬものぢやなア。ホヽヽヽヽ|痛《いた》いか|痛《いた》いか、チト|痛《いた》いとても|辛抱《しんばう》なされ。|可愛《かあい》い|女《をんな》につつかれたり、|囓《か》ぶりつかれたり、|体《からだ》|一面《いちめん》|抓《つね》られるのは、|男《をとこ》として|天下《てんか》|第一《だいいち》の|光栄《くわうゑい》でせう。……コレコレ|甲《かふ》|乙《おつ》|丙《へい》|丁《てい》|戊《ぼう》|己《き》の|紅井姫《くれなゐひめ》さま、|寄《よ》つて|集《たか》つて|此《この》|男《をとこ》を|苛《いぢ》めてやらうぢやありませぬか。あゝ|面白《おもしろ》い|面白《おもしろ》い』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら|何百人《なんびやくにん》とも|知《し》れぬ|女《をんな》が、|交《かは》る|交《がは》る|頭《あたま》を|叩《たた》き、|髪《かみ》をひつたくり、|鼻《はな》を|抓《つ》まみ、|耳《みみ》を|引《ひ》つかき、|手足《てあし》にかぢりつく|其《その》|苦《くる》しさ。|遂《つひ》に|秋山別《あきやまわけ》は|堪《たま》りかねて、|其《その》|場《ば》に|昏倒《こんたう》したりける。モリスに|見《み》えた|男《をとこ》、|大口《おほぐち》あけて、
『アハヽヽヽ、|偉相《えらさう》に|昨夜《ゆうべ》は|俺《おれ》に|言霊《ことたま》を|発射《はつしや》し、|苦《くるし》めよつた|其《その》|返報《へんぱう》がやしぢや。|此奴《こいつ》は|何《なん》にも|世《よ》の|中《なか》に|恐《こわ》いものはないが、|女《をんな》が|一番《いちばん》|恐《こわ》いと|吐《ぬか》しよつたので、|女《をんな》で|仇敵討《かたきうち》をしてやつたのだ。モウ|斯《こ》うなれば、|命《いのち》もあろまい。ハヽヽヽヽ、|好《い》い|気味《きみ》だナ。サア|帰《かへ》らう』
と|云《い》ふや|否《いな》や、|再《ふたた》び|采配《さいはい》を|打《うち》ふれば、|数多《あまた》の|女《をんな》は|夢《ゆめ》の|如《ごと》くに|消《き》え|失《う》せ、|怪物《くわいぶつ》も|亦《また》|何時《いつ》とはなしに|煙《けぶり》の|如《ごと》く|消《き》えにける。|秋山別《あきやまわけ》はホツと|息《いき》をつぎ、|馬鹿面《ばかづら》をさらして、そこらをキヨロキヨロ|見《み》まはし|居《ゐ》たりしが、|又《また》もや|宣伝歌《せんでんか》の|声《こゑ》|聞《きこ》え|来《き》たるにぞ、|秋山別《あきやまわけ》は|再《ふたた》び|驚《おどろ》き|立上《たちあが》り、よくよく|見《み》ればモリスである。『|又《また》|出《で》よつたなア』と|目《め》を|怒《いか》らし、|臍下丹田《さいかたんでん》に|息《いき》をつめ、|双手《もろて》を|組《く》みモリスに|向《むか》つて|身構《みがま》へなし|居《ゐ》たりしが、|樹下《じゆか》に|近寄《ちかよ》り|来《きた》りしモリスは|此《この》|態《さま》を|見《み》て、
『ヤア|此処《ここ》に|居《を》つたのかい。|俺《おれ》やモウ|貴様《きさま》が|何処《どこ》かへ|散《ち》つて|了《しま》つたのだと|思《おも》ひ、|心配《しんぱい》して|居《ゐ》たよ。マア|無事《ぶじ》で|結構《けつこう》だつた。|併《しか》し|俺《おれ》は|途中《とちう》に|於《おい》て|紅井姫《くれなゐひめ》の|御化《おばけ》に|出会《であ》ひ、|大変《たいへん》に|試《た》めされて|来《き》たよ』
と|聞《き》くに、|秋山別《あきやまわけ》は、
『オツトドツコイ|化物《ばけもの》|奴《め》|其《その》|手《て》は|喰《く》はぬぞ』
と|言《い》ひ|乍《なが》ら、|身構《みがまへ》をなし、|両手《もろて》を|組《く》み、モリスに|向《むか》ひ、『ウーンウーン』と|力限《ちからかぎ》りに|唸《うな》り|立《た》て、『|一《ひと》|二《ふた》|三《み》|四《よ》』を|一生懸命《いつしやうけんめい》|繰返《くりかへ》す。モリスは|何《なん》の|事《こと》だか|合点《がつてん》|行《ゆ》かず、
『オイ|秋山別《あきやまわけ》、そら|何《なん》だイ、いい|加減《かげん》に|言霊《ことたま》をやめたら|如何《どう》だい。チツとお|前《まへ》に|話《はな》したい|事《こと》があるのだから』
『|吐《ぬ》かすな|吐《ぬ》かすな。|言霊《ことたま》をいい|加減《かげん》に|止《や》めと|吐《ぬか》すが、|之《これ》を|止《や》めて|堪《たま》るかい。|益々《ますます》|猛烈《まうれつ》に|発射《はつしや》|志《し》てやるぞよ』
といひ|乍《なが》ら、|又《また》もや『|一《ひと》|二《ふた》|三《み》|四《よ》』を|繰返《くりかへ》した。
『オイ、お|前《まへ》は|気《き》が|違《ちが》うたのぢやないか。|俺《おれ》が|分《わか》らぬか、|俺《おれ》はモリスだよ』
『|馬鹿《ばか》にするない。|又《また》|女《をんな》を|振《ふ》り|出《だ》して、|俺《おれ》を|責《せめ》ようと|思《おも》つたつて、|其《その》|手《て》にや|乗《の》らないぞ。|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》、|一《ひと》|二《ふた》|三《み》|四《よ》……』
と|切《しき》りに|汗《あせ》をたらたら|流《なが》し、|数歌《かずうた》を|唱《とな》へてゐる。モリスは、
『|此奴《こいつ》|烈風《れつぷう》にあほられて、|肝《きも》をつぶし|発狂《はつきやう》してゐるのに|違《ちが》ひない、|一《ひと》つ|水《みづ》でも|頭《あたま》から、ぶつ|掛《か》けてやれば|気《き》がつくだろう』
と|小声《こごゑ》に|囁《ささや》き|乍《なが》ら、|秋山別《あきやまわけ》の|手《て》をグツト|握《にぎ》り、|無理矢理《むりやり》に|谷川《たにがは》の|流《なが》れの|傍《そば》へ|引張《ひつぱり》|行《ゆ》き、|片一方《かたいつぱう》の|手《て》にて、|頭部《とうぶ》|面部《めんぶ》の|嫌《きら》ひなく、|切《しき》りに|谷水《たにみづ》をブツ|掛《かけ》るを、|秋山別《あきやまわけ》は、
『コリヤ|畜生《ちくしやう》、|何《なに》をしよるのだ。|沢山《たくさん》な|女責《をんなぜ》めに|会《あ》はして|置《お》いて、|又《また》|水責《みづぜ》めに|会《あは》す|積《つも》りか。ヨシ、|俺《おれ》にも|了見《れうけん》がある。|今《いま》に|返報《へんぱう》がやしをしてやるぞよ。|俺《おれ》の|兄弟分《けうだいぶん》のモリスがやがて|此処《ここ》へやつて|来《く》るから、|待《ま》つて|居《を》れ、|仇《かたき》を|討《う》つてやるワ』
『オイ|秋山別《あきやまわけ》、|確《しつか》りせぬかい。|俺《おれ》はモリスだよ。トツクリと|顔《かほ》を|見《み》てくれ、モリスに|間違《まちがひ》ないのだから……』
と|秋山別《あきやまわけ》の|前《まへ》に|黒《くろ》い|顔《かほ》をニユツと|突出《つきだ》して|見《み》せるを、|秋山別《あきやまわけ》はモリスの|顔《かほ》を|熟視《じゆくし》して、
『アハヽヽヽ|能《よ》く|化《ば》けよつたな。|丸《まる》でモリスそつくりだ。|夫丈《それだけ》|化《ば》ける|技両《ぎりよう》があれば、どうだ|一《ひと》つ|改心《かいしん》して、|俺《おれ》の|弟子《でし》になる|気《き》はないか』
『|今《いま》|更《あらた》めてそんな|事《こと》を|云《い》はなくても|良《い》いぢやないか。|兄弟《けうだい》|同様《どうやう》にしてゐる|仲《なか》だもの。お|前《まへ》が|強《た》つて|弟子《でし》になれと|云《い》ふのなら、お|前《まへ》の|気《き》が|付《つ》く|迄《まで》なつてやらぬ|事《こと》はない』
『モウ|昨夜《ゆうべ》の|様《やう》に、|白髪《はくはつ》の|老爺《おやぢ》には|化《ばけ》てくれなよ。それから、あれ|丈《だけ》|沢山《たくさん》に|紅井姫《くれなゐひめ》を|出《だ》されると、|俺《おれ》もお|門《かど》が|広《ひろ》すぎて、|処置《しよち》に|困《こま》るからなア』
モリスは|合点《がてん》の|往《ゆ》かぬ|事《こと》を|言《い》ふ|奴《やつ》だと|思《おも》ひ|乍《なが》ら……チト|逆上《ぎやくじやう》して|居《ゐ》るのだらう、|余《あま》り|逆《さか》らつては|能《よ》くなからう……と|心《こころ》の|中《なか》に|思《おも》ひ|乍《なが》ら、よい|加減《かげん》にあしらひつつ、|帽子ケ岳《ぼうしがだけ》を|目当《めあ》てに|登《のぼ》り|行《ゆ》く|事《こと》とはなりける。
(大正一一・八・二〇 旧六・二八 松村真澄録)
第二五章 |会合《くわいがふ》〔八九一〕
|国依別《くによりわけ》は|安彦《やすひこ》、|宗彦《むねひこ》|両人《りやうにん》と|共《とも》に、|樹木《じゆもく》|鬱蒼《うつさう》たる|森林《しんりん》を|越《こ》え、|谷《たに》を|渉《わた》り、|小山《こやま》を|幾《いく》つか|越《こ》えて、|漸《やうや》くに|屏風山脈《びやうぶさんみやく》の|最高所《さいかうしよ》と|聞《きこ》えたる|帽子ケ岳《ぼうしがだけ》の|頂上《ちやうじやう》に|登《のぼ》りつき、|秋山別《あきやまわけ》、モリス|両人《りやうにん》の|此処《ここ》に|来《きた》り|会《くわい》するを|待《ま》ちつつ、|榧《かや》の|木《き》の|根元《ねもと》に|神言《かみごと》を|奏上《そうじやう》し|乍《なが》ら|待合《まちあは》せ|居《ゐ》たりけり。
|此《この》|時《とき》|山《やま》の|背後《はいご》より|宣伝歌《せんでんか》の|声《こゑ》|聞《きこ》え|来《き》たれり。
『|神《かみ》が|表《おもて》に|現《あら》はれて |善《ぜん》と|悪《あく》とを|立《たて》わける
|此《この》|世《よ》を|造《つく》り|玉《たま》ひたる |国治立大神《くにはるたちのおほかみ》は
|豊国姫《とよくにひめ》と|諸共《もろとも》に |豊葦原《とよあしはら》の|瑞穂国《みづほくに》
|青人草《あをひとぐさ》を|始《はじ》めとし |鳥《とり》|獣《けだもの》や|魚《うを》に|虫《むし》
|草《くさ》の|片葉《かきは》に|至《いた》るまで |生《いき》たる|命《いのち》を|与《あた》へつつ
|各《おのおの》|其《その》|処《しよ》を|得《え》せしめて |此《この》|世《よ》に|清《きよ》く|美《うる》はしく
|茂《しげ》らせ|玉《たま》ふ|有難《ありがた》さ さは|去《さ》り|乍《なが》らブラジルの
|此《この》|神国《かみくに》は|広《ひろ》くして |高山《かうざん》|三方《さんぱう》に|立《た》ちめぐり
|東《ひがし》に|荒波《あらなみ》|狂《くる》ひ|立《た》つ |大海原《おほうなばら》を|控《ひか》へたる
|人跡《じんせき》|稀《まれ》なる|国《くに》なれば |酷《しこ》の|曲津《まがつ》は|各自《めいめい》に
|先《さき》を|争《あらそ》ひ|寄《よ》り|来《きた》り アマゾン|河《がは》を|始《はじ》めとし
|時雨《しぐれ》の|森《もり》に|集《あつ》まりて |牙《きば》を|光《ひか》らせ|爪《つめ》を|研《と》ぎ
|時々《ときどき》|山《やま》を|乗《の》り|越《こ》えて アルゼンチンやテルの|国《くに》
ヒル、カル|其《その》|他《た》の|国々《くにぐに》へ |現《あら》はれ|来《きた》り|曲《まが》の|業《わざ》
|青人草《あをひとぐさ》の|安全《あんぜん》を |破《やぶ》りて|此《この》|世《よ》を|脅《おびや》かす
|其《その》|曲神《まがかみ》を|三五《あななひ》の |清《きよ》き|御水火《みいき》に|言向《ことむ》けて
|天《あめ》が|下《した》には|鬼《おに》もなく |醜《しこ》の|大蛇《をろち》や|曲神《まがかみ》の
|影《かげ》をば|絶《た》ちて|千早振《ちはやぶ》る |神《かみ》の|依《よ》さしの|神業《かむわざ》に
|清《きよ》めむものと|葦原《あしはら》の |中津御国《なかつみくに》を|後《あと》にして
|荒波《あらなみ》|猛《たけ》る|海原《うなばら》を |国依別《くによりわけ》と|諸共《もろとも》に
|進《すす》み|進《すす》みてテルの|国《くに》 テル|山峠《やまたうげ》を|乗越《のりこ》えて
|神素盞嗚大神《かむすさのをのおほかみ》の |八人乙女《やたりをとめ》の|末子姫《すゑこひめ》
|鎮《しづ》まりゐますウズ|国《くに》の |神《かみ》の|都《みやこ》に|現《あら》はれて
|暫《しば》し|蹕《ひつぎ》を|止《とど》めしが |神素盞嗚大神《かむすさのをのおほかみ》は
はるばる|浪路《なみぢ》を|打《うち》わたり イソの|館《やかた》を|後《あと》にして
|珍《うづ》の|御霊《みたま》の|宇都《うづ》の|国《くに》 |現《あら》はれ|来《きた》り|宣《の》たまはく
|一日《ひとひ》も|早《はや》くアマゾンの |河《かは》に|沿《そ》ひたる|森林《しんりん》に
|汝《なんぢ》|言依別神《ことよりわけのかみ》 |二三《にさん》の|伴《とも》を|引連《ひきつ》れて
|進《すす》めや|進《すす》め|早《はや》|進《すす》め |屏風《びやうぶ》の|如《ごと》く|南北《なんぽく》に
|立《た》ち|並《なら》びたる|青垣《あをがき》の |大山脈《だいさんみやく》の|最高地《さいかうち》
|帽子ケ岳《ぼうしがだけ》に|国依別《くによりわけ》の |教《のり》の|司《つかさ》の|一行《いつかう》が
|来《きた》りて|汝《なんぢ》を|待《ま》つならむ |此《この》|神言《かみごと》を|畏《かしこ》みて
|数多《あまた》の|月日《つきひ》を|閲《けみ》しつつ |山野《やまの》を|渡《わた》り|川《かは》を|越《こ》え
|漸《やうや》く|此処《ここ》に|来《きた》りけり あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さち》はひましまして |国依別《くによりわけ》に|巡《めぐ》り|会《あ》ひ
|力《ちから》を|合《あは》せ|村肝《むらきも》の |心《こころ》を|一《ひと》つに|固《かた》めつつ
|神《かみ》の|依《よ》さしの|神業《かむわざ》に |仕《つか》へ|奉《まつ》りてアマゾンの
|時雨《しぐれ》の|森《もり》に|迷《まよ》ひたる |鷹依姫《たかよりひめ》の|一行《いつかう》や
|高姫《たかひめ》、|常彦《つねひこ》、|春彦《はるひこ》の |危難《きなん》を|救《すく》ひ|森林《しんりん》に
|蟠《わだか》まりたる|悪神《あくがみ》を |伊吹《いぶき》の|狭霧《さぎり》に|吹《ふ》き|散《ち》らし
|生言霊《いくことたま》の|神力《しんりき》に |悪魔《あくま》を|善《ぜん》に|宣《の》り|直《なほ》し
|言向《ことむけ》|和《やは》し|一日《いちにち》も |早《はや》く|神業《しんげふ》|成《な》し|遂《と》げて
|神素盞嗚大神《かむすさのをのおほかみ》の |御前《みまへ》に|復命《ふくめい》させ|玉《たま》へ
|旭《あさひ》はてるとも|曇《くも》るとも |月《つき》はみつともかくるとも
|時雨《しぐれ》の|森《もり》の|悪神《あくがみ》は いかに|勢《いきほひ》|猛《たけ》くとも
|厳《いづ》の|御霊《みたま》の|大神《おほかみ》が |依《よ》さしの|言《こと》をどこ|迄《まで》も
|楯《たて》に|飽《あ》く|迄《まで》|戦《たたか》はむ あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ』
|帽子ケ岳《ぼうしがだけ》の|東方《とうはう》を|登《のぼ》り|来《く》る|宣伝使《せんでんし》は、|此《この》|歌《うた》に|現《あら》はれたる|言依別命《ことよりわけのみこと》の|一行《いつかう》にぞありける。
|国依別《くによりわけ》は|此《この》|宣伝歌《せんでんか》を|聞《き》いて、|大《おほい》に|喜《よろこ》び、|百万《ひやくまん》の|援軍《ゑんぐん》を|得《え》たる|如《ごと》き|心地《ここち》して、|襟《えり》を|正《ただ》して|待《ま》ち|居《ゐ》たり。|安彦《やすひこ》は|嬉《うれ》しげに、
『|宣伝使《せんでんし》|様《さま》、|今《いま》の|宣伝歌《せんでんか》は|何《なん》とも|知《し》れぬ|清涼《せいりやう》な|言霊《ことたま》で、|大変《たいへん》な|強味《つよみ》のある|音声《おんせい》では|御座《ござ》いませぬか。|此《この》|様《やう》な|高山《かうざん》へ|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》が|出《で》て|来《こ》うとは|夢《ゆめ》にも|思《おも》ひませぬが、|誰《たれ》がやつて|来《く》るのでせうかなア』
『|誰《たれ》だかチツとも|分《わか》らぬが、|大方《おほかた》|神様《かみさま》が|御越《おこ》しになるのだらう。サー|行儀《ぎやうぎ》よくして、ここに|坐《すわ》つて、|御迎《おむか》へしたがよからうぞ』
『ハイ、|畏《かしこ》まりました。|併《しかし》|乍《なが》ら、|秋山別《あきやまわけ》、モリスの|両人《りやうにん》は|大変《たいへん》に|遅《おそ》いぢやありませぬか。|大方《おほかた》|一昨日《いつさくじつ》の|烈風《れつぷう》に|吹《ふ》きまくられて、どつかへ|散《ち》つて|了《しま》つたのぢや|御座《ござ》いますまいかな。|実《じつ》に|案《あん》じられた|者《もの》です。|宣伝使《せんでんし》|様《さま》は|如何《どう》|御考《おかんが》へなさいますか』
『あの|二人《ふたり》はまだ|十分《じふぶん》の|改心《かいしん》が|出来《でき》てゐないから、|故意《わざ》とに|南《みなみ》の|谷《たに》を|登《のぼ》らせたのだよ。キツといろいろの|神様《かみさま》の|試練《しれん》に|会《あ》うて|魂《たま》を|研《みが》き、|立派《りつぱ》な|人間《にんげん》になつて、ここへやつて|来《く》るから、お|前達《まへたち》|二人《ふたり》も|余程《よほど》しつかりせないと、|恥《はづか》しいことが|出《で》て|来《く》るよ』
『しつかりせいと|仰有《おつしや》つても|宗彦《むねひこ》は、|是《これ》|以上《いじやう》|如何《どう》したらよいのですか。あれ|丈《だけ》|猛獣《まうじう》の|声《こゑ》が|聞《きこ》えても、|又《また》|襲来《しふらい》されても、レコード|破《やぶ》りの|大風《たいふう》が|吹《ふ》いてもビリともせず、|一生懸命《いつしやうけんめい》に|御神力《ごしんりき》に|依《よ》つて|胴《どう》をすゑて|来《き》た|吾々《われわれ》ぢや|御座《ござ》いませぬか』
『まだどこやらに、|胴《どう》のすわらない|所《ところ》が、|国依別《くによりわけ》の|目《め》から|見《み》れば|沢山《たくさん》あるよ。これから|時雨《しぐれ》の|森《もり》へ|行《ゆ》かねばならぬが、あれ|位《くらゐ》の|事《こと》が|何《なん》ともなかつたと|云《い》つて、|自慢《じまん》をするやうな|事《こと》では、|到底《たうてい》、ドエライ|奴《やつ》に|出会《でくわ》した|時《とき》には、|怺《こら》へ|切《き》れないやうなことが|出《で》て|来《く》るよ。お|前《まへ》が|胴《どう》をすゑて|居《を》つたといふのも、|吾々《われわれ》が|居《を》つたからだよ。|単独《ひとり》であの|坂《さか》を|越《こ》えて、|胴《どう》が|据《す》わつてをつたなら、モウ|大丈夫《だいぢやうぶ》だが、|三人《さんにん》の|真中《まんなか》に|立《た》つて、やうやうここまでやつて|来《き》たお|前《まへ》の|腕前《うでまへ》、|案《あん》じられたものだよ』
と|話《はな》して|居《ゐ》る|折《をり》しも、モリスは|秋山別《あきやまわけ》の|手《て》を|引《ひ》いて|漸《やうや》く|此処《ここ》に|登《のぼ》り|来《きた》り、|国依別《くによりわけ》の|一行《いつかう》を|見《み》るや、|余《あま》りの|嬉《うれ》しさに|嗚咽涕泣《おえつていきふ》|久《ひさ》しうし、|漸《やうや》くに|口《くち》を|開《あ》いて、
『|国依別《くによりわけ》|様《さま》、|誠《まこと》に|有難《ありがた》う|御座《ござ》いました。|南《みなみ》の|谷間《たにあひ》を、|汝等《なんぢら》|両人《りやうにん》|通《とほ》つて|行《ゆ》け……と|仰《あふ》せられた|時《とき》は、|何《なん》とも|云《い》へぬ|淋《さ》みしさを|感《かん》じ、|又《また》|幾分《いくぶん》か|貴方《あなた》を|恨《うら》ンで|居《を》りましたが、イヤ|実《じつ》に|結構《けつこう》なお|神徳《かげ》を|頂《いただ》きまして、|始《はじ》めて、|神様《かみさま》や|貴方《あなた》の|御仁慈《ごじんじ》の|御心《おこころ》が|分《わか》りました。|吾々《われわれ》|両人《りやうにん》は|未《ま》だ|身魂《みたま》に|曇《くもり》が|多《おほ》く、|到底《たうてい》アマゾン|河《がは》の|言霊戦《ことたません》に|参加《さんか》する|資格《しかく》は|御座《ござ》りませなかつたが、どうやら、|斯《こ》うやら、やツと|及第点《きふだいてん》を|得《え》られた|様《やう》な|感《かん》じが|致《いた》します。|今《いま》|更《あらた》めて|厚《あつ》く|感謝《かんしや》し|奉《たてまつ》ります』
と|両人《りやうにん》は|土《つち》の|上《うへ》に|手《て》をついて、|嬉《うれ》し|涙《なみだ》にくれてゐる。
|宣伝歌《せんでんか》の|声《こゑ》は|追々《おひおひ》|近付《ちかづ》きしと|見《み》る|間《ま》に、|言依別命《ことよりわけのみこと》は|先頭《せんとう》に、|二三人《にさんにん》の|伴人《ともびと》と|共《とも》に、|国依別《くによりわけ》が|端坐《たんざ》し|待《ま》ち|居《ゐ》たる|榧《かや》の|大木《たいぼく》の|側《そば》|近《ちか》く|進《すす》み|来《きた》る。
|是《これ》より|言依別命《ことよりわけのみこと》、|国依別《くによりわけ》の|両将《りやうしやう》はここを|策源地《さくげんち》となし、いよいよ|時雨《しぐれ》の|森《もり》の|魔神《ましん》に|対《たい》し、|言向戦《ことむけせん》を|開始《かいし》することとはなりぬ。|此《この》|物語《ものがたり》は|紙面《しめん》の|都合《つがふ》に|依《よ》り、|未《ひつじ》の|巻《まき》に|口述《こうじゆつ》する|事《こと》とせり。
|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》。
(大正一一・八・二〇 旧六・二八 松村真澄録)
(昭和九・一二・一九 於北陸路 王仁校正)
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霊界物語 第三一巻 海洋万里 午の巻
終り