霊界物語 第二八巻 海洋万里 卯の巻
出口王仁三郎
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●テキスト中に現れる記号について
《》……ルビ
|……ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)天地|剖判《ぼうはん》の
[#]……入力者注
【】……傍点が振られている文字列
(例)【ヒ】は火なり
●シフトJISコードに無い文字は他の文字に置き換え、そのことをWebサイトに「相違点」として記した。
●底本
『霊界物語 第二八巻』愛善世界社
1998(平成10)年11月03日 第一刷発行
※現代では差別的表現と見なされる箇所もあるが修正はせずにすべて底本通りにした。
※図表などのレイアウトは完全に再現できるわけではないので適宜変更した。
※詳細な凡例は次のウェブサイト内に掲載してある。
http://www.onisavulo.jp/
※作成者…『王仁三郎ドット・ジェイピー』
2005年11月18日作成
2008年06月23日修正
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●目次
|序歌《じよか》
|総説歌《そうせつか》
第一篇 |高砂《たかさご》の|島《しま》
第一章 カールス|王《わう》〔八〇一〕
第二章 |無理槍《むりやり》〔八〇二〕
第三章 |玉藻山《たまもやま》〔八〇三〕
第四章 |淡渓《たんけい》の|流《ながれ》〔八〇四〕
第五章 |難有迷惑《ありがためいわく》〔八〇五〕
第六章 |麻《あさ》の|紊《みだ》れ〔八〇六〕
第二篇 |暗黒《あんこく》の|叫《さけび》
第七章 |無痛《むつう》の|腹《はら》〔八〇七〕
第八章 |混乱戦《こんらんせん》〔八〇八〕
第九章 |当推量《あてすゐりやう》〔八〇九〕
第一〇章 |縺《もつ》れ|髪《がみ》〔八一〇〕
第一一章 |木茄子《きなすび》〔八一一〕
第一二章 サワラの|都《みやこ》〔八一二〕
第三篇 |光明《くわうみやう》の|魁《さきがけ》
第一三章 |唖《おし》の|対面《たいめん》〔八一三〕
第一四章 |二男三女《になんさんによ》〔八一四〕
第一五章 |願望成就《ぐわんまうじやうじゆ》〔八一五〕
第一六章 |盲亀《まうき》の|浮木《ふぼく》〔八一六〕
第一七章 |誠《まこと》の|告白《こくはく》〔八一七〕
第一八章 |天下泰平《てんかたいへい》〔八一七〕
第四篇 |南米《なんべい》|探険《たんけん》
第一九章 |高島丸《たかしままる》〔八一九〕
第二〇章 |鉈理屈《なたりくつ》〔八二〇〕
第二一章 |喰《く》へぬ|女《をんな》〔八二一〕
第二二章 |高砂上陸《たかさごじやうりく》〔八二二〕
跋 |暗闇《くらやみ》
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|序歌《じよか》
|月光《げつくわう》いよいよ|世《よ》に|出《い》でて |精神界《せいしんかい》の|王国《わうこく》は
|東《あづま》の|国《くに》に|開《ひら》かれぬ |真理《しんり》の|太陽《たいやう》|晃々《くわうくわう》と
|輝《かがや》き|渡《わた》り|永遠《とことは》に |尽《つ》きぬ|生命《いのち》の|真清水《ましみづ》は
|下津岩根《したついはね》に|溢《あふ》れつつ |慈愛《じあい》の|雨《あめ》は|降《ふ》りそそぐ
|荘厳無比《さうごんむひ》の|光明《くわうみやう》は |世人《よびと》の|身魂《みたま》を|照《て》らすべく
|現《あら》はれ|坐《ま》せり|人々《ひとびと》よ |一日《ひとひ》も|早《はや》く|目《め》を|覚《さ》ませ
|四方《よも》の|国《くに》より|聞《きこ》え|来《く》る |誠《まこと》の|神《かみ》の|声《こゑ》を|聞《き》け
|霊《たま》の|清水《しみづ》に|渇《かは》く|人《ひと》 |瑞《みづ》の|御魂《みたま》に|潤《うるほ》へよ。
大正十一年八月十日(旧六月十八日) 於竜宮館
|総説歌《そうせつか》
|三千世界《さんぜんせかい》の|人類《じんるゐ》や |禽獣虫魚《きんじうちうぎよ》に|至《いた》る|迄《まで》
|救《すく》ひの|舟《ふね》を|差向《さしむ》けて |誠《まこと》の|道《みち》を|教《をし》へ|行《ゆ》く
|神幽現《しんいうげん》の|救世主《きうせいしゆ》 |太白星《たいはくせい》の|東天《とうてん》に
きらめく|如《ごと》く|現《あら》はれぬ |一切万事《いつさいばんじ》|更世《かうせい》の
|誠《まこと》の|智慧《ちゑ》を|胎蔵《たいざう》し |世間《せけん》の|所在《あらゆる》|智者《ちしや》|学者《がくしや》
|権威《けんゐ》と|智慧《ちゑ》に|超越《てうゑつ》し |迫害《はくがい》|苦痛《くつう》を|一身《いつしん》に
|甘受《かんじゆ》し|世界《せかい》を|助《たす》け|行《ゆ》く |歓喜《くわんき》と|平和《へいわ》を|永遠《ゑいゑん》に
|森羅万象《しんらばんしやう》に|供給《きようきふ》し |至幸《しかう》|至福《しふく》の|神恵《しんけい》の
|精神上《せいしんじやう》の|王国《わうこく》を |斯《この》|土《ど》の|上《うへ》に|建設《けんせつ》し
|無限《むげん》の|仁慈《じんじ》を|経《たて》となし |無窮《むきう》の|知識《ちしき》を|緯《ぬき》として
|小人《せうじん》|弱者《じやくしや》の|耳《みみ》に|克《よ》く |理解《りかい》し|易《やす》き|明教《めいけう》を
|徹底的《てつていてき》に|唱導《しやうだう》し |如何《いか》なる|悪魔《あくま》も|言霊《ことたま》の
|威力《ゐりよく》に|言向《ことむ》け|和《やは》しつつ |寄《よ》せ|来《く》る|悲哀《ひあい》と|災厄《さいやく》を
|少《すこ》しも|心《こころ》に|掛《か》けずして |所信《しよしん》を|飽《あ》く|迄《まで》|貫徹《くわんてつ》し
|裁《さい》、|制《せい》、|断《だん》、|割《かつ》、|道《みち》|極《きは》め |神人《しんじん》|和合《わがふ》の|境《きやう》に|立《た》ち
|悪魔《あくま》の|敵《てき》に|遇《あ》ふ|毎《ごと》に |益々《ますます》|心《こころ》は|堅実《けんじつ》に
|信仰《しんかう》|熱度《ねつど》を|日《ひ》に|加《くは》へ |三千世界《さんぜんせかい》に|共通《きやうつう》の
|真《しん》の|文明《ぶんめい》を|完成《くわんせい》し |世界《せかい》|雑多《ざつた》の|宗教《しうけう》や
|凡《すべ》ての|教義《けうぎ》を|統一《とういつ》し |崇高《すうかう》|至上《しじやう》の|道徳《だうとく》を
|不言実行《ふげんじつかう》|体現《たいげん》し |暗黒無道《あんこくぶだう》の|社会《しやくわい》をば
|神《かみ》の|教《をしへ》と|神力《しんりき》に |照破《せうは》し|尽《つく》し|天津日《あまつひ》の
|光《ひかり》を|四方《よも》に|輝《かがや》かす マイトレーヤの|神業《しんげふ》に
|奉仕《ほうし》するこそ|世《よ》を|澄《すま》す |大真人《だいしんじん》の|神務《しんむ》なれ
アヽ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ。
大正十一年八月十日(旧六月十八日) 於竜宮館
第一篇 |高砂《たかさご》の|島《しま》
第一章 カールス|王《わう》〔八〇一〕
|千早《ちはや》|振《ふ》る|遠《とほ》き|神代《かみよ》の|其《その》|昔《むかし》 |国治立大神《くにはるたちのおほかみ》は
|豊葦原《とよあしはら》の|瑞穂国《みづほくに》を |堅磐常磐《かきはときは》に|治《をさ》めむと
|心《こころ》を|尽《つく》し|身《み》を|尽《つく》し |綾《あや》と|錦《にしき》の|機《はた》を|織《お》る
|其《その》|糸口《いとぐち》の|竜世姫《たつよひめ》 |永遠《とは》に|鎮《しづ》まる|此《この》|島《しま》は
|神《かみ》の|御稜威《みいづ》も|高砂島《たかさごじま》の |胞衣《えな》となり|出《い》でし|台湾島《たいわんたう》
|清《きよ》く|正《ただ》しき|真道彦《まみちひこ》 |神《かみ》の|子孫《しそん》は|今《いま》も|猶《なほ》
|栄《さか》え|栄《さか》えて|新高《にひたか》の |山《やま》のあなたの|神聖地《しんせいち》
|清鮮《せいせん》の|波《なみ》を|湛《たた》へし|日月潭《じつげつたん》の |湖面《こめん》を|見下《みお》ろす|玉藻山《たまもやま》
|国治立大神《くにはるたちのおほかみ》や |瑞《みづ》の|御霊《みたま》の|神霊《しんれい》を
|斎《いつ》き|祀《まつ》りて|高砂《たかさご》の |島《しま》の|老若男女《らうにやくなんによ》をば
|三五教《あななひけう》の|大道《おほみち》に |導《みちび》き|救《すく》ふぞ|健気《けなげ》なる。
|全島《ぜんたう》|第一《だいいち》の|大高山《だいかうざん》、|新高山《にひたかやま》の|北麓《ほくろく》に|花森彦命《はなもりひこのみこと》の|子孫《しそん》、カールス|王《わう》の|鎮《しづ》まる|都《みやこ》が|古《ふる》くより|建設《けんせつ》され|居《ゐ》たり。
|花森彦命《はなもりひこのみこと》の|子《こ》にアークス、エーリスの|二人《ふたり》があつた。|兄《あに》のアークスは|花森彦《はなもりひこ》の|後《あと》を|襲《おそ》うて|国王《こくわう》となり、アークス|姫《ひめ》と|夫婦《ふうふ》の|間《あひだ》にカールス|王《わう》を|生《う》んだ。|弟《おとうと》のエーリス|夫婦《ふうふ》の|間《あひだ》に|生《うま》れたるをヤーチン|姫《ひめ》と|云《い》ふ。ヤーチン|姫《ひめ》は|性質《せいしつ》|温厚《をんこう》|篤実《とくじつ》にして、|容色《ようしよく》|衆《しう》に|優《すぐ》れ、|高砂島《たかさごじま》の|花《はな》と|謳《うた》はれ、|将来《しやうらい》はカールス|王《わう》の|后《きさき》たるべしと|自《みづか》らも|信《しん》じ、|国人《くにびと》も|之《これ》を|認《みと》めて|居《ゐ》た。カールス|王《わう》も|亦《また》ヤーチン|姫《ひめ》の|吾《わが》|妃《きさき》となるべき|者《もの》たることを、|堅《かた》く|心中《しんちう》に|期待《きたい》して|居《ゐ》た。
|時《とき》に|高国別《たかくにわけ》、|玉手姫《たまてひめ》の|間《あひだ》に|生《うま》れたるサアルボース、ホーロケースの|二人《ふたり》の、|心《こころ》|善《よ》からざる|兄弟《きやうだい》ありき。|玉手姫《たまてひめ》は|悪神《あくがみ》の|化身《けしん》たりし|事《こと》は、「|霊主体従《れいしゆたいじう》」|寅《とら》の|巻《まき》の|物語《ものがたり》に|於《おい》て|示《しめ》したる|通《とほ》りである。|其《その》|水火《いき》より|生《うま》れたるサアルボース、ホーロケースの|二人《ふたり》の|心魂《しんこん》は|恰《あたか》も|猛獣《まうじう》|毒蛇《どくじや》の|如《ごと》く、アークス|王《わう》の|部下《ぶか》に|仕《つか》へて|暴政《ばうせい》を|全島《ぜんたう》に|布《し》き、|民《たみ》の|怨恨《ゑんこん》を|買《か》ひ、|国家《こくか》は|益々《ますます》|攪乱紛糾《かくらんふんきう》して|収拾《しうしふ》す|可《べか》らざる|情勢《じやうせい》となり|居《ゐ》たり。
|然《しか》るにアークス|王《わう》は|或時《あるとき》|新高山《にひたかやま》の|淡渓《たんけい》に|清遊《せいいう》を|試《こころ》みたる|際《さい》、|玉手姫《たまてひめ》の|怨霊《をんりやう》に|憑依《ひようい》されて、|誤《あやま》つて|渓流《けいりう》に|陥《おちい》り|上天《しやうてん》した。|茲《ここ》に|於《おい》て|其《その》|子《こ》カールス|王《わう》をして|其《その》|後《あと》を|継《つ》がしむる|事《こと》となつた。|就《つい》てはエーリスの|娘《むすめ》ヤーチン|姫《ひめ》を|容《い》れて|妃《きさき》となさむと、|数多《あまた》の|群臣《ぐんしん》は|全力《ぜんりよく》を|尽《つく》して|奔走《ほんそう》し|居《ゐ》たりける。
|然《しか》るにアークス|王《わう》の|上天後《しやうてんご》はサアルボース、ホーロケースの|勢《いきほひ》|益々《ますます》|烈《はげ》しく、あわよくばカールス|王《わう》を|排除《はいじよ》し|自《みづか》ら|其《その》|位置《ゐち》に|直《なほ》らむと、|計画《けいくわく》して|居《ゐ》た。サアルボース、ホーロケースの|勢力《せいりよく》は|旭日昇天《きよくじつしようてん》の|如《ごと》く、カールス|王《わう》を|殆《ほとん》ど|眼中《がんちう》に|置《お》かざるの|概《がい》があつた。されど|天使《てんし》|花森彦命《はなもりひこのみこと》の|子孫《しそん》たるカールス|王《わう》を|排除《はいじよ》するは、|国民《こくみん》|全体《ぜんたい》の|反感《はんかん》を|買《か》ひ、|暴虐無道《ばうぎやくぶだう》の|譏《そしり》を|受《う》けむことを|恐《おそ》れて、|表面《へうめん》はカールス|王《わう》の|臣《しん》となり、|之《これ》を|敬遠《けいゑん》し|居《ゐ》たり。カールス|王《わう》は|唯《ただ》|単《たん》に|名義《めいぎ》を|存《ぞん》するのみ。|其《その》|宮殿《きうでん》も|其《その》|生活《せいくわつ》もサアルボース|兄弟《きやうだい》に|比《くら》べて、|実《じつ》に|比較《ひかく》にもならぬ|程《ほど》の|質素《しつそ》さなりける。
|時《とき》にカールス|王《わう》の|従妹《いとこ》に|当《あた》るヤーチン|姫《ひめ》を|妃《きさき》となす|事《こと》は、|国民《こくみん》|一般《いつぱん》の|熱望《ねつばう》する|所《ところ》であり、|且《か》つアークス|王《わう》の|旧臣《きうしん》は|残《のこ》らず|婚儀《こんぎ》の|成立《せいりつ》を|希望《きばう》して|居《ゐ》た。サアルボースは|自分《じぶん》の|娘《むすめ》セールス|姫《ひめ》を|王妃《わうひ》となし、ヤーチン|姫《ひめ》を|何《なん》とかして|却《しりぞ》け、|自《みづか》らカールス|王《わう》の|外戚《ぐわいせき》となりて、|完全《くわんぜん》に|政権《せいけん》を|左右《さいう》せむ|事《こと》を|企画《きくわく》してゐたのである。ヤーチン|姫《ひめ》の|身辺《しんぺん》の|危険《きけん》は|実《じつ》に|風前《ふうぜん》の|灯火《ともしび》に|均《ひと》しかりける。
アークス|王《わう》の|上天後《しやうてんご》は|其《その》|長子《ちやうし》カールス|王《わう》を|立《た》てて、|万機《ばんき》を|総裁《そうさい》せしむる|事《こと》とし、ヤーチン|姫《ひめ》を|一日《いちにち》も|早《はや》く|王妃《わうひ》の|位地《ゐち》に|据《す》ゑむことを|謀《はか》り、|別殿《べつでん》を|造《つく》り、ヤーチン|姫《ひめ》にユリコ|姫《ひめ》を|従《したが》へ、キールスタンをしてヤーチン|姫《ひめ》の|守護職《しゆごしよく》となさしめた。|然《しか》るにヤーチン|姫《ひめ》は|新造《しんざう》の|館《やかた》に|移《うつ》りてより、|俄《にはか》に|急病《きふびやう》を|発《はつ》し|苦悩《くなう》|甚《はなはだ》しく、|呻吟《しんぎん》の|声《こゑ》|遠近《をちこち》に|聞《きこ》ゆる|計《ばか》りなり。
サアルボースの|娘《むすめ》セールス|姫《ひめ》はマリヤス|姫《ひめ》を|従《したが》へてヤーチン|姫《ひめ》の|病床《びやうしやう》を|見舞《みま》ひけるに、ヤーチン|姫《ひめ》はセールス|姫《ひめ》を|見《み》るより|忽《たちま》ち|目《め》を|釣《つ》り|上《あ》げ|髪《かみ》を|逆立《さかだ》て、|恰《あたか》も|狂乱《きやうらん》の|如《ごと》く|荒《あ》れ|狂《くる》ひ、セールス|姫《ひめ》に|飛《と》び|掛《かか》つて、|矢庭《やには》に|髻《たぶさ》を|掴《つか》み|痩《やせ》こけたる|病躯《びやうく》をも|顧《かへり》みず、|室内《しつない》を|引摺《ひきづ》り|廻《まは》し、
ヤーチン|姫《ひめ》『|汝《なんぢ》は|吾《わ》れを|悩《なや》ます|金狐《きんこ》の|邪神《じやしん》、|一刻《いつこく》も|早《はや》く|此《この》|場《ば》を|立去《たちさ》れツ』
とわめき|狂《くる》ふ。キールスタンはヤーチン|姫《ひめ》の|荒《あ》れ|狂《くる》ふを|背後《はいご》より|抱《いだ》きとめ、|且《かつ》セールス|姫《ひめ》に|対《たい》し|言葉《ことば》を|低《ひく》うして、|其《その》|無礼《ぶれい》を|謝《しや》し、|従臣《じゆうしん》のホールをしてセールス|姫《ひめ》|主従《しゆじゆう》をサアルボースの|館《やかた》へ|送《おく》り|帰《かへ》らしめたり。
セールス|姫《ひめ》の|立帰《たちかへ》りし|後《あと》のヤーチン|姫《ひめ》は|精神《せいしん》|稍《やや》|鎮静《ちんせい》したりと|見《み》えて、スヤスヤと|眠《ねむり》に|就《つ》いた。されど|時々《ときどき》『|玉手姫《たまてひめ》|々々々《たまてひめ》』と|連呼《れんこ》し、|其《その》|度《たび》|毎《ごと》に|発熱《はつねつ》|苦悶《くもん》の|状《じやう》|益々《ますます》|烈《はげ》しく、|身体《からだ》の|肉《にく》は|日《ひ》に|削《けづ》るが|如《ごと》く|痩衰《やせおとろ》へ、|見《み》る|影《かげ》もなき|状態《じやうたい》に|陥《おちい》りぬ。
|此《この》|時《とき》カールス|王《わう》はヤーチン|姫《ひめ》の|重病《ぢうびやう》と|聞《き》き、|病床《びやうしやう》を|見舞《みま》ふべく、テーレンス、ハルマーズの|重臣《ぢうしん》を|従《したが》へヤーチン|姫《ひめ》の|館《やかた》に|到《いた》り、|痩《や》せ|衰《おとろ》へて|見《み》る|影《かげ》もなき|姫《ひめ》の|姿《すがた》に|呆《あき》れ|果《は》て、|日頃《ひごろ》の|恋愛《れんあい》の|心《こころ》も|漸《やうや》く|薄《うす》らぎ|来《き》たりぬ。されどエールスの|娘《むすめ》にして、|切《き》つても|切《き》れぬ|従妹《いとこ》の|間柄《あひだがら》、|如何《いか》にもしてヤーチン|姫《ひめ》の|病気《びやうき》を|回復《くわいふく》せしめ、|元《もと》の|美《うる》はしき|容貌《ようばう》となつて|吾《わが》|妃《きさき》となし、|永《なが》く|偕老同穴《かいらうどうけつ》を|契《ちぎり》らむと|心《こころ》の|奥《おく》|深《ふか》く|希求《ききう》し|居《ゐ》たりける。テーレンス、ハルマーズは|一生懸命《いつしやうけんめい》|淡渓《たんけい》の|畔《ほとり》に|出《い》でて|水垢離《みづこうり》を|取《と》り、ヤーチン|姫《ひめ》の|病気《びやうき》|全快《ぜんくわい》を|祈願《きぐわん》しける。
ユリコ|姫《ひめ》はヤーチン|姫《ひめ》の|枕頭《ちんとう》に|侍《じ》し、|看護《かんご》に|余念《よねん》なかりし|折《をり》しも、|夜中《やちう》|堅《かた》き|戸締《とじま》りを|風《かぜ》の|如《ごと》くに|押開《おしあ》けて|入《い》り|来《く》る|一人《ひとり》の|美人《びじん》、|数多《あまた》の|侍女《じぢよ》を|伴《ともな》ひ、|此《この》|場《ば》に|現《あら》はれ、|眉間《みけん》より|金色《こんじき》の|光《ひかり》を|放《はな》ち、ユリコ|姫《ひめ》に|向《むか》つて|言《い》ふ。
『|妾《わらは》は|新高山《にひたかやま》を|守護《しゆご》|致《いた》す|高照姫命《たかてるひめのみこと》なり。ヤーチン|姫《ひめ》の|病気《びやうき》|危篤《きとく》と|聞《き》きて、|座視《ざし》するに|忍《しの》びず、|姫《ひめ》が|生命《いのち》を|救《すく》はむものと、|起死回生《きしくわいせい》の|薬《くすり》を|持参《ぢさん》したり。|一刻《いつこく》も|早《はや》く|之《これ》を|飲《の》ませよ』
と|言《い》ひつつ、|紫色《むらさきいろ》の|木瓜《もくか》をユリコ|姫《ひめ》に|与《あた》へ、|烟《けぶり》の|如《ごと》く|立去《たちさ》りにけり。ユリコ|姫《ひめ》は|合点《がてん》|行《ゆ》かず、|木瓜《もつか》の|一部《いちぶ》を|割《さ》いて|狆《ちん》の|子《こ》に|与《あた》へたるに、|狆《ちん》は|尻《しり》を|振《ふ》り|頭《あたま》を|振《ふ》り、|一口《ひとくち》に|呑《の》み|込《こ》みしと|思《おも》ふ|間《ま》もなく、|忽《たちま》ち|室内《しつない》を|前後左右《ぜんごさいう》に|狂《くる》ひまはり、|七転八倒《しちてんばつたう》、|黒血《くろち》を|吐《は》き|悲鳴《ひめい》をあげて|其《その》|場《ば》に|殪《たふ》れける。
ユリコ|姫《ひめ》『|今《いま》の|女神《めがみ》は|如何《いか》なる|魔神《まがみ》なりしか。ヤーチン|姫様《ひめさま》を|毒殺《どくさつ》せむと|企《たく》みたるセールス|姫《ひめ》の|間者《かんじや》ならめ』
と|且《か》つは|驚《おどろ》き、|且《か》つは|怒《いか》り、|直《ただち》に|新高山《にひたかやま》の|南方《なんぱう》に|立昇《たちのぼ》る|雲気《うんき》を|目標《めあて》に、|汗《あせ》みどろになつて|祈願《きぐわん》をこらしけり。|忽《たちま》ち|身体《しんたい》|動揺《どうえう》して|帰神《かみがかり》となり、|今《いま》の|高照姫《たかてるひめ》と|称《しよう》する|女神《めがみ》は、|金狐《きんこ》の|化身《けしん》にして、セールス|姫《ひめ》の|副守護神《ふくしゆごじん》なることを|口走《くちばし》り、|初《はじ》めて|女神《めがみ》の|正体《しやうたい》を|感知《かんち》したり。ヤーチン|姫《ひめ》は|衰弱《すゐじやく》|甚《はなはだ》しく、|殆《ほとん》ど|虫《むし》の|息《いき》となり|居《ゐ》たるが、キールスタンは|此《この》|場《ば》に|慌《あわた》だしく|走《は》せ|来《きた》り、
キールスタン『ユリコ|姫《ひめ》さま、|姫様《ひめさま》には|御異状《ごいじやう》は|御座《ござ》りませぬか。|只今《ただいま》|此《この》|館《やかた》より|怪《あや》しき|光《ひかり》|現《あら》はれしと|見《み》る|間《ま》に、|悪狐《あくこ》の|姿《すがた》|現《あら》はれ、|暗《やみ》に|紛《まぎ》れて|山上《さんじやう》|高《たか》く|駆去《かけさ》りました。|私《わたし》は|之《これ》を|見《み》るより|取《と》る|物《もの》も|取《と》り|敢《あへ》ず、|姫《ひめ》の|身辺《しんぺん》に|異状《いじやう》なきやと、|急《いそ》ぎ|御伺《おんうかが》ひに|参《まゐ》りまして|御座《ござ》います』
ユリコ|姫《ひめ》『ハイ、あなたの|御推量《ごすゐりやう》にたがはず、|怪《あや》しき|女《をんな》が|突然《とつぜん》|現《あら》はれ、|姫様《ひめさま》の|病気《びやうき》|本復《ほんぷく》|致《いた》す|様《やう》に|此《この》|木瓜《もつか》を|与《あた》へよと|渡《わた》して、|直様《すぐさま》|立帰《たちかへ》へりました。どうも|腑《ふ》に|落《お》ちませぬので、|狆《ちん》の|子《こ》に|木瓜《もつか》の|一片《いつぺん》を|切《き》り|取《と》り|与《あた》ふれば、|狆《ちん》は|忽《たちま》ち|苦悶《くもん》の|結果《けつくわ》、|黒血《くろち》を|吐《は》いて|斃《たふ》れまして|御座《ござ》います』
キールスタン『|油断《ゆだん》のならぬ|悪神《あくがみ》の|仕業《しわざ》……すべて|台湾島《たいわんたう》は|高砂島《たかさごじま》の|胞衣《えな》と|昔《むかし》の|神代《かみよ》より|定《さだ》められ、|竜世姫命《たつよひめのみこと》|国魂神《くにたまがみ》として、|御守護《ごしゆご》|遊《あそ》ばす|以上《いじやう》は、|竜世姫命《たつよひめのみこと》を|丁重《ていちよう》に|奉斎《ほうさい》し、|敬神《けいしん》の|大道《たいだう》を|再興《さいこう》|致《いた》し|候《さふらふ》はば、|妖怪変化《えうくわいへんげ》の|災《わざはひ》は、|忽《たちま》ち|払拭《ふつしき》する|事《こと》で|御座《ござ》りませう。アークス|王《わう》の|不慮《ふりよ》の|御上天《ごしやうてん》も|全《まつた》く|国魂神《くにたまがみ》をおろそかにし、バラモンの|教《をしへ》を|国内《こくない》に|奨励《しやうれい》したる|神《かみ》の|戒《いまし》めで|御座《ござ》いませう。カールス|王《わう》は|兎《と》も|角《かく》も、ヤーチン|姫様《ひめさま》の|御居間《おゐま》|丈《だけ》なりと、|三五教《あななひけう》の|大神《おほかみ》を|祀《まつ》り、|竜世姫《たつよひめ》の|国魂神《くにたまがみ》を|奉斎《ほうさい》|致《いた》さば、|初《はじ》めて|御安泰《ごあんたい》に|渡《わた》らせられ、|流石《さすが》の|難病《なんびやう》も|必《かなら》ず|本復《ほんぷく》|遊《あそ》ばす|事《こと》と|考《かんが》へるのです』
ユリコ|姫《ひめ》『キールスタン|様《さま》いい|所《ところ》へ|心《こころ》|付《づ》かれました。|妾《わたし》も|貴方《あなた》の|御意見《ごいけん》|通《どほ》り、|国魂《くにたま》の|神《かみ》を|祀《まつ》るべき|事《こと》は|承知《しようち》|致《いた》して|居《を》りまするが、|何《なに》を|言《い》うても、|此《この》|国《くに》はバラモン|教《けう》の|教《をしへ》を|以《もつ》て|政治《せいぢ》の|助《たす》けとなしあれば、|三五教《あななひけう》の|神《かみ》を|念《ねん》ずる|事《こと》、|世間《せけん》に|現《あら》はれなば、|如何《いか》なる|戒《いまし》めに|遭《あ》ふやも|計《はか》り|難《がた》く、|実《じつ》は|内々《ないない》にて|妾《わたし》|一人《ひとり》|信仰《しんかう》を|致《いた》して|居《を》りました。|然《しか》らばあなたと|妾《わたし》と|心《こころ》を|協《あは》せ、|竜世姫命《たつよひめのみこと》の|御前《みまへ》に|御祈願《ごきぐわん》|致《いた》しませう』
キールスタンは|嬉《うれ》しげに|打諾《うちうなづ》き、|両人《りやうにん》|声《こゑ》を|潜《ひそ》めて、
『|三五教《あななひけう》の|大神《おほかみ》、|殊更《ことさら》に|国魂神《くにたまがみ》|竜世姫命《たつよひめのみこと》、|守《まも》り|給《たま》へ|幸《さち》はひ|玉《たま》へ』
と|祈願《きぐわん》を|凝《こ》らしけるに、|不思議《ふしぎ》にもヤーチン|姫《ひめ》の|病気《びやうき》は|刻々《こくこく》と|快《こころよ》く、|四五日《しごにち》を|経《へ》て|元《もと》の|如《ごと》くに|全快《ぜんくわい》したりけり。
これよりヤーチン|姫《ひめ》は|俄《にはか》に|三五教《あななひけう》を|信《しん》ずる|事《こと》となり、|三人《さんにん》|密《ひそ》かに|館《やかた》の|一方《いつぱう》に|斎壇《さいだん》を|設《まう》けて|日夜《にちや》|祈願《きぐわん》をこらしつつありける。
○
セールス|姫《ひめ》はマリヤス|姫《ひめ》を|従《したが》へ、|髪《かみ》ふり|乱《みだ》し、|顔色《がんしよく》|青《あを》ざめ|父《ちち》の|館《やかた》に|慌《あわただ》しく|立帰《たちかへ》り、|奥《おく》の|間《ま》に|駆入《かけい》り、|大声《おほごゑ》をあげ|泣《な》き|倒《たふ》れ|居《ゐ》たり。
サアルボースの|館《やかた》の|司《つかさ》タールスは、セールス|姫《ひめ》の|悲《かな》しげなる|声《こゑ》を|聞《き》きつけ、|恐《おそ》る|恐《おそ》る|其《その》|居間《ゐま》に|駆《かけ》つけて、|両手《りやうて》をつき|頭《かしら》を|下《さ》げ、
タールス『|恐《おそ》れ|乍《なが》ら|姫様《ひめさま》に|御伺《おうかが》ひ|致《いた》します。あなた|様《さま》はヤーチン|姫《ひめ》の|館《やかた》へおこし|遊《あそ》ばし、|御帰《おかへ》りになるや|否《いな》や、|俄《にはか》に|変《かは》りし|御様子《ごやうす》、|如何《いか》なる|事《こと》が|出来《しゆつたい》|致《いた》しましたか、どうぞ|包《つつ》まず|隠《かく》さず|私《わたくし》まで|仰《あふ》せ|付《つ》けられ|下《くだ》さいませ。あなたの|御為《おんため》ならば、|仮令《たとへ》|此《この》タールス、|身命《しんめい》を|抛《なげう》つても|御無念《ごむねん》を|晴《は》らし、|御希望《ごきばう》を|叶《かな》へまゐらす|覚悟《かくご》で|御座《ござ》います』
セールス|姫《ひめ》は|漸々《やうやう》に|顔《かほ》をあげ、|鬢《びん》の|縺《もつ》れ|毛《げ》を|撫《な》で|上《あ》げ|乍《なが》ら、|半巾《はんかち》にて|涙《なみだ》を|拭《ぬぐ》ひ、|声《こゑ》もきれぎれに、
セールス『タールス、よく|聞《き》いて|呉《く》れた。|妾《わらは》は|終生《しうせい》|拭《ぬぐ》ふ|可《べか》らざる|侮辱《ぶじよく》を|受《う》け、|且《かつ》|九死一生《きうしいつしやう》の|虐待《ぎやくたい》に|遭《あ》ひました。アヽ|残念《ざんねん》や、|口惜《くちをし》や』
と|声《こゑ》を|限《かぎ》りに|其《その》|場《ば》に|泣《な》き|伏《ふ》しぬ。
タールス『モシ|御姫様《おひめさま》、|泣《な》いて|許《ばか》り|居《を》られましては、|一向《いつかう》|訳《わけ》が|分《わか》かりませぬ。どうぞ|詳《くは》しく|御示《おしめ》し|願《ねが》ひます』
セールス『|委細《ゐさい》はマリヤス|姫《ひめ》に|聞《き》いておくれ。|余《あま》り|残念《ざんねん》さと|恐《おそ》ろしさに|心《こころ》も|顛倒《てんたう》し、|言《い》ふ|事《こと》が|出来《でき》ませぬ』
と|又《また》もや|泣《な》き|倒《たふ》れる。
タールス『マリヤス|姫《ひめ》さま、あなたは|姫様《ひめさま》の|御供《おとも》をしてヤーチン|姫《ひめ》の|館《やかた》へ|御出《おい》でになつた|以上《いじやう》は、|一切《いつさい》の|様子《やうす》|残《のこ》らず|御存《ごぞん》じの|筈《はず》、|一伍一什《いちぶしじう》|包《つつ》まず|隠《かく》さず、|言《い》つて|下《くだ》さい。|此方《こちら》にもそれに|対《たい》する|覚悟《かくご》をせなくてはなりませぬから』
マリヤス『ハイ』
と|言《い》つた|限《き》り、|言《い》ひ|渋《しぶ》つて|居《ゐ》る。マリヤス|姫《ひめ》はセールス|姫《ひめ》の|侍女《じぢよ》なれ|共《ども》、|平素《へいそ》よりセールス|姫《ひめ》の|嫉妬《しつと》と|猜疑《さいぎ》と|悪虐無道《あくぎやくぶだう》の|行為《かうゐ》とに|愛想《あいさう》を|尽《つ》かして|居《ゐ》た。されど|主人《しゆじん》の|事《こと》なれば、|無理《むり》に|戒《いまし》め|諭《さと》す|訳《わけ》にも|行《ゆ》かず、|今迄《いままで》|幾度《いくたび》か|命《めい》を|賭《と》して|諫言《かんげん》せしことあれ|共《ども》、いつも|馬耳東風《ばじとうふう》に|聞《き》き|流《なが》して|居《ゐ》た。|今回《こんくわい》のヤーチン|姫《ひめ》に|打擲《ちやうちやく》されしは、|全《まつた》く|天《てん》の|戒《いまし》め|玉《たま》ふ|所《ところ》と|深《ふか》く|心中《しんちう》に|感謝《かんしや》して|居《ゐ》た|位《くらゐ》であるから、|其《その》|実状《じつじやう》をタールスに|物語《ものがた》りし|結果《けつくわ》ヤーチン|姫《ひめ》の|如何《いか》なる|災厄《さいやく》に|陥《おちい》り|玉《たま》ふやも|計《はか》り|難《がた》しと、|躊躇《ちうちよ》して|居《ゐ》たのである。
タールスはマリヤス|姫《ひめ》に|向《むか》つて、|短兵急《たんぺいきふ》に|訊問《じんもん》の|矢《や》を|放《はな》つた。マリヤス|姫《ひめ》は|僅《わづ》かに|小声《こごゑ》で、
『ヤーチン|姫様《ひめさま》は|御病気《ごびやうき》の|勢《いきほひ》にて、セールス|姫様《ひめさま》の|御肉体《おにくたい》に|少《すこ》し|許《ばか》り|御手《おて》をかけられました。さり|乍《なが》らヤーチン|姫様《ひめさま》はカールス|王《わう》の|御従妹《おいとこ》、セールス|姫様《ひめさま》は|臣下《しんか》の|御身《おみ》の|上《うへ》、|仮令《たとへ》|如何《いか》なる|事《こと》を|遊《あそ》ばしても|彼是《かれこれ》|申上《まをしあ》げる|訳《わけ》のものでは|御座《ござ》いませぬ。|妾《わたし》は|此《この》|事《こと》|許《ばか》りは|申上《まをしあ》げる|事《こと》は|出来《でき》ませぬ。セールス|姫様《ひめさま》に、|後《あと》でゆるゆる|御聞《おき》き|遊《あそ》ばせ』
セールス|姫《ひめ》は、|矢庭《やには》に|起《た》ち|上《あが》り、|眼光《ぐわんくわう》|凄《すさま》じく|夜叉《やしや》の|如《ごと》き|勢《いきほひ》にて、マリヤス|姫《ひめ》の|髻《たぶさ》をひつ|掴《つか》み|室内《しつない》を|引摺《ひきづ》り|廻《まは》し、|身体《しんたい》|所《ところ》|構《かま》はず、|打《う》つ、|蹴《け》る、|殴《なぐ》る、|殆《ほとん》ど|息《いき》の|根《ね》も|絶《た》えむ|許《ばか》りに|打擲《ちやうちやく》した。そしてセールス|姫《ひめ》は|声《こゑ》を|荒《あら》らげ、
『|不忠不義《ふちゆうふぎ》のマリヤス|姫《ひめ》、|臣下《しんか》の|身分《みぶん》として、|主人《しゆじん》より|如何《いか》なる|乱暴《らんばう》を|加《くは》へらるる|共《とも》、|一言《いちごん》も|申上《まをしあ》げられないと|言《い》つたであらう。「|我《わが》|身《み》を|抓《つめ》つて|人《ひと》の|痛《いた》さを|知《し》れ」と|云《い》ふ|事《こと》を|覚《おぼ》えて|居《を》るか。|妾《わらは》がヤーチン|姫《ひめ》より|被《かうむ》つた|虐待《ぎやくたい》は|此《この》|通《とほ》りだ。……タールス、|妾《わらは》がなす|業《わざ》をよつく|覚《おぼ》えて|居《を》れよ。|此《この》|通《とほ》りなりしぞ』
と|又《また》もやマリヤス|姫《ひめ》の|髻《たぶさ》を|掴《つか》んで|室内《しつない》を|引摺《ひきづ》りまはし、|頭髪《とうはつ》は|房《ふさ》の|如《ごと》くに|肉《にく》のついた|儘《まま》、|血《ち》に|染《そま》つて【むし】り|取《と》られた。マリヤス|姫《ひめ》は|苦《くるし》みをこらへ、セールス|姫《ひめ》のなすが|儘《まま》に|任《まか》してゐた。|最早《もはや》|虫《むし》の|息《いき》となつて|了《しま》つた。セールス|姫《ひめ》は|心地《ここち》よげにニタリと|笑《わら》ひ、
『イヤ、タールス、|汝《なんぢ》は|此《この》|由《よし》|御父上《おんちちうへ》、|叔父上《をぢうへ》の|前《まへ》に|報告《はうこく》されよ』
タールスは『ハイ』と|答《こた》へて、|慌《あわただ》しく|此《この》|場《ば》を|立《た》ち|去《さ》つた。
(大正一一・八・六 旧六・一四 松村真澄録)
(昭和一〇・六・五 旧五・五 王仁校正)
第二章 |無理槍《むりやり》〔八〇二〕
タールスの|報告《はうこく》によつて、サアルボース、ホーロケースの|二人《ふたり》は|足音《あしおと》|荒々《あらあら》しく、|此《この》|場《ば》に|現《あら》はれ|来《きた》り、セールス|姫《ひめ》に|向《むか》ひ、
サアルボース『|只今《ただいま》タールスの|注進《ちうしん》に|依《よ》れば、|姫《ひめ》はヤーチン|姫《ひめ》の|病気《びやうき》|見舞《みまひ》に|参《まゐ》り、|名状《めいじやう》す|可《べか》らざる|虐待《ぎやくたい》を|蒙《かうむ》り、|拭《ぬぐ》ふ|可《べか》らざる|侮辱《ぶじよく》を|被《かうぶ》りしと|聞《き》く。|果《はた》して|真《まこと》か。サアルに|於《おい》ても|覚悟《かくご》を|致《いた》さねばならぬ。|事《こと》の|顛末《てんまつ》を|包《つつ》まず|隠《かく》さず|物語《ものがた》つて|呉《く》れ。|怪我《けが》は|大《おほ》きくはなかつたか。|気分《きぶん》はどうだ』
と|流石《さすが》の|悪人《あくにん》も、|吾《わが》|子《こ》の|愛《あい》に|引《ひ》かされて、|胸《むね》を|轟《とどろ》かせ|乍《なが》ら、|慌《あわた》だしく|問《と》ひつめた。セールス|姫《ひめ》はさも|苦《くる》しげに|漸《やうや》く|顔《かほ》をあげ、
『|御父上様《おちちうへさま》、|叔父上様《をぢうへさま》、|残念《ざんねん》で|御座《ござ》います。……どうぞ|此《この》|讐敵《かたき》を|討《う》つて|下《くだ》さいませ』
サアルボースは|首《くび》を|縦《たて》に|振《ふ》り|乍《なが》ら、
『ヤア|心配《しんぱい》するな。|天《てん》にも|地《ち》にも|掛替《かけがへ》のない|一人《ひとり》の|娘《むすめ》、|仮令《たとへ》|台湾島《たいわんたう》を|全部《ぜんぶ》|手《て》に|握《にぎ》るとも、|汝《そなた》の|生命《いのち》には|換《か》へられ|難《がた》し。|大切《たいせつ》なる|娘《むすめ》を|打擲《ちやうちやく》|致《いた》せし|憎《につ》くきヤーチン|姫《ひめ》、|今《いま》に|思《おも》ひ|知《し》らせてやらう』
と|子《こ》の|愛《あい》に|掛《か》けては、|目《め》の|中《なか》へ|這入《はい》つても|痛《いた》くないセールス|姫《ひめ》の|針《はり》を|棒《ぼう》に|変《か》へての|陳弁《ちんべん》を|一《いち》も|二《に》もなく|信《しん》じて|了《しま》つた。
セールス『それにつけても|残念《ざんねん》なのは、マリヤス|姫《ひめ》で|御座《ござ》います。|彼《かれ》はいつも|妾《わらは》が|侍女《じぢよ》として|仕《つか》へ|乍《なが》ら、|一事々々《ひとことひとこと》|口答《くちごたへ》を|申《まを》し、|今日《けふ》も|今日《けふ》とて、ヤーチン|姫《ひめ》に|無体《むたい》の|乱暴《らんばう》と|恥辱《ちじよく》を|受《う》けたる|主人《しゆじん》の|妾《わらは》をいたはらず、|却《かへつ》て|痛快《つうくわい》げに|欣々《いそいそ》と|立帰《たちかへ》り、タールスの|訊問《じんもん》に|対《たい》しても|一言《ひとこと》も|答《こた》へず、つまり|妾《わらは》|親子《おやこ》の|悪虐無道《あくぎやくぶだう》を|天《てん》の|戒《いまし》め|玉《たま》ふものなりと、|口《くち》には|言《い》はねど、|其《その》|面色《めんしよく》にありありと|画《ゑが》いてゐます。それ|故《ゆゑ》|妾《わらは》は|女《をんな》の|身《み》として|乱暴《らんばう》とは|知《し》り|乍《なが》ら、ヤーチン|姫《ひめ》より|蒙《かうむ》りたる|迫害《はくがい》と|恥辱《ちじよく》を|彼《かれ》に|移《うつ》して、タールスに|見《み》せました。|女《をんな》の|身《み》としての|乱暴狼藉《らんばうろうぜき》、|心《こころ》きつき|娘《むすめ》と、どうぞ|御叱《おしか》り|下《くだ》さいませぬ|様《やう》、|余《あま》り|残念《ざんねん》が|凝《こ》つて、マリヤス|姫《ひめ》を|打擲《ちやうちやく》|致《いた》しました』
とワツと|許《ばか》りに|声《こゑ》をあげて|泣《な》き|倒《たふ》れ、|身《み》を|揺《ゆす》つて|悶《もだ》えて|居《ゐ》る。ホーロケースはニヤリと|笑《わら》ひ、
『ヤア|待《ま》つて|居《ゐ》たのだ。|斯《こ》ういふ|事《こと》がなければ、|吾々《われわれ》の|陰謀《いんぼう》は|成就《じやうじゆ》|致《いた》さぬ。……セールス|姫《ひめ》、|能《よ》くも|打擲《ちやうちやく》されて|帰《かへ》つた。|如何《いか》に|病気《びやうき》とは|言《い》へ、ヤーチン|姫《ひめ》の|乱暴狼藉《らんばうろうぜき》、|到底《たうてい》カールス|王《わう》の|妃《きさき》としての|資格《しかく》はこれにて|絶無《ぜつむ》となつた。あゝセールス|姫《ひめ》、|汝《そなた》が|今日《こんにち》|受《う》けたる|虐待《ぎやくたい》と|侮辱《ぶじよく》は、|却《かへつ》て|汝《そなた》が|身《み》の|仕合《しあは》せ、よくもマア|苦《くるし》められた。……|時《とき》にマリヤス|姫《ひめ》、|汝《なんぢ》はセールス|姫《ひめ》の|侍女《じぢよ》として、|昼夜《ちうや》|身辺《しんぺん》に|仕《つか》へ|乍《なが》ら、|何故《なぜ》ヤーチン|姫《ひめ》に|向《むか》つて|抵抗《ていかう》せなかつたか。|何《なん》の|為《ため》の|侍女《じぢよ》であるか。|汝《なんぢ》の|不忠不義《ふちゆうふぎ》の|天罰《てんばつ》は|忽《たちま》ち|眼前《がんぜん》に|巡《めぐ》り|来《きた》つて、|此《この》|有様《ありさま》、|天《てん》はセールス|姫《ひめ》の|手《て》を|借《か》つて|汝《なんぢ》を|戒《いまし》め|玉《たま》うたのだ。|必《かなら》ず|恨《うら》むことはならぬぞ。|恵《めぐみ》の|鞭《むち》と|思《おも》つて、|有難《ありがた》くセールス|姫《ひめ》の|前《まへ》に|両手《りやうて》をついて|謝罪《しやざい》|致《いた》せよ』
マリヤス|姫《ひめ》、|漸《やうや》く|血汐《ちしほ》の|滴《したた》る|顔《かほ》を|拭《ぬぐ》ひ|乍《なが》ら、つと|身《み》を|起《おこ》し、|四人《よにん》をハツタと|睨《にら》みつけ、
『|妾《われ》こそは|賤《いや》しき|汝《なんぢ》が|娘《むすめ》セールス|姫《ひめ》の|侍女《じぢよ》となり、|汝《なんぢ》|親子《おやこ》が|日夜《にちや》の|陰謀《いんぼう》を|監視《かんし》せむ|為《ため》、|前《ぜん》アークス|王《わう》の|旨《むね》を|受《う》け、|汝《なんぢ》が|家《いへ》に|忍《しの》び|込《こ》みし|者《もの》なるぞ。|妾《わらは》はアークス|王《わう》の|落胤《らくいん》マリヤス|姫《ひめ》……|言《い》はばカールス|王《わう》とは|兄妹《けうだい》の|間柄《あひだがら》、|汝《なんぢ》が|如《ごと》き|賤《いや》しき|親子《おやこ》の|侍女《じぢよ》として|仕《つか》へしも、|深《ふか》き|仔細《しさい》あつての|事《こと》、|天《てん》は|何時《いつ》までも、|汝《なんぢ》|親子《おやこ》が|悪逆無道《あくぎやくぶだう》を|赦《ゆる》し|玉《たま》はず。|妾《わらは》はこれより、カールス|王《わう》の|御兄《おんあに》の|前《まへ》に|出《い》で、|汝《なんぢ》が|陰謀《いんぼう》を|一々《いちいち》|申告《しんこく》し|国内《こくない》|一般《いつぱん》に|発表《はつぺう》せむ。さは|去《さ》り|乍《なが》ら、|汝《なんぢ》|只今《ただいま》より|悔《く》い|改《あらた》めて、|善道《ぜんだう》に|帰《かへ》りなば、|此《この》|儘《まま》にて|差許《さしゆる》す|可《べ》し。|返答《へんたふ》|如何《いかに》』
と、|勢《いきほひ》|烈《はげ》しく|詰責《きつせき》し|始《はじ》めた。サアルボース|外《ほか》|三人《さんにん》はマリヤス|姫《ひめ》の|言葉《ことば》に|肝《きも》を|潰《つぶ》し、|如何《いかが》はせむと|暫《しば》しためらひ|居《ゐ》たりしが、|茲《ここ》まで|企《たく》みし|陰謀《いんぼう》、いかで|初心《しよしん》を|翻《ひるがへ》さむや、|互《たがひ》に|目《め》と|目《め》を|見合《みあは》し、|各《おのおの》|長刀《ちやうたう》を|引抜《ひきぬ》き、マリヤス|姫《ひめ》に|前後左右《ぜんごさいう》より、|斬《き》つてかかる。
マリヤス|姫《ひめ》は|刃《やいば》の|中《なか》を|上下左右《じやうげさいう》に|潜《くぐ》りぬけ、サアルボースの|襟首《えりくび》をグツと|握《にぎ》つて、|庭前《ていぜん》の|溜池《ためいけ》に|投《な》げつけた。
マリヤス『ナニ|猪口才《ちよこざい》な』
と|抱《だき》つくタールスの|又《また》もや|襟首《えりがみ》とつて|高殿《たかどの》より|眼下《がんか》の|泉水《せんすゐ》に|投《な》げ|込《こ》んだ。|残《のこ》り|二人《ふたり》は|此《この》|態《てい》に|驚《おどろ》き、|此《この》|場《ば》を|逃《に》げ|去《さ》つた。
マリヤス|姫《ひめ》は|悠々《いういう》として|鏡《かがみ》の|前《まへ》に|立《た》ち、|髪《かみ》をつくろひ、|衣服《いふく》を|着替《きがへ》、|天《あま》の|数歌《かずうた》を|歌《うた》ひ|乍《なが》ら、|何処《いづく》ともなく、|玉《たま》の|如《ごと》き|姿《すがた》を|隠《かく》して|了《しま》つた。あゝマリヤス|姫《ひめ》の|行方《ゆくへ》はどうなつたであらう。
○
カールス|王《わう》は|日頃《ひごろ》|念頭《ねんとう》にかけたるヤーチン|姫《ひめ》の|危篤《きとく》の|報《はう》に|接《せつ》し、|失望落胆《しつばうらくたん》の|余《あま》り、|新高山《にひたかやま》の|淡渓《たんけい》に|身《み》を|投《な》げ、|恋愛《れんあい》の|苦痛《くつう》を|免《まぬが》れむと、|夜《よる》|窃《ひそか》に|館《やかた》を|立出《たちい》で、|谷《たに》の|畔《ほとり》に|到《いた》り、|彼方《あちら》|此方《こちら》と|死場所《しにばしよ》を|求《もと》めて|彷徨《さまよ》ひつつあつた。
|谷《たに》の|彼方《かなた》に|忽然《こつぜん》として|一塊《いつくわい》の|火光《くわくわう》|現《あら》はれ、|其《その》|中《なか》より|容色《ようしよく》|端麗《たんれい》なる|美人《びじん》、|莞爾《くわんじ》として|中空《ちうくう》を|歩《あゆ》み|乍《なが》ら、カールス|王《わう》の|前《まへ》に|近付《ちかづ》き|来《きた》り|涙《なみだ》を|腮辺《しへん》にたらし|乍《なが》ら、|細《ほそ》き|繊手《せんしゆ》をさし|伸《の》べて、カールス|王《わう》の|手《て》を|握《にぎ》つた。カールス|王《わう》は|忽《たちま》ち|精神《せいしん》|恍惚《くわうこつ》として|吾《わが》|身《み》の|此処《ここ》にある|事《こと》を|忘《わす》るる|計《ばか》りであつた。|能《よ》く|能《よ》く|見《み》れば、|夢寐《むび》にも|忘《わす》れぬヤーチン|姫《ひめ》に|容貌《ようばう》、|骨格《こつかく》、|言葉《ことば》の|綾《あや》までも|其《その》|儘《まま》であつた。
|女《をんな》、|言葉《ことば》|静《しづ》かに、
『|妾《わらは》が|最《もつと》も|愛《あい》するカールス|王《わう》よ』
と|言《い》つた|限《き》り、|恨《うら》めしげに|両眼《りやうがん》に|涙《なみだ》を|湛《たた》へて|居《ゐ》る|其《その》|愛《あい》らしさ。カールス|王《わう》は|忽《たちま》ち|心《こころ》|輝《かがや》き、|今迄《いままで》の|悲哀《ひあい》の|情《じやう》は|全《まつた》く|消《き》え|失《う》せた。
カールス『|御身《おんみ》はヤーチン|姫《ひめ》ならずや。|病気《びやうき》|危篤《きとく》に|陥《おちい》り、|汝《そなた》が|命《めい》|旦夕《たんせき》に|迫《せま》ると|聞《き》きしより、|吾《われ》は|失恋《しつれん》の|結果《けつくわ》、|此《この》|渓流《けいりう》に|身《み》を|投《な》げて、|汝《そなた》の|来《きた》るのを|幽界《いうかい》にて|待《ま》たむと|思《おも》ひしに、|俄《にはか》に|変《かは》る|汝《そなた》の|容貌《ようばう》、|且《か》つ|健全《けんぜん》なる|其《その》|身体《からだ》、|如何《いかが》せしぞ』
と|不審顔《ふしんがほ》に|問《と》ひつめた。ヤーチン|姫《ひめ》は|莞爾《くわんじ》として|打諾《うちうなづ》き|乍《なが》ら、カールス|王《わう》の|手《て》を|取《と》り、|館《やかた》を|指《さ》して|帰《かへ》り|行《ゆ》く。
|館《やかた》の|前《まへ》に|近付《ちかづ》き|見《み》れば、|今迄《いままで》|伴《ともな》ひ|来《きた》りし|姫《ひめ》の|姿《すがた》は|煙《けぶり》の|如《ごと》く|消《き》え、|月《つき》は|中天《ちうてん》に|皎々《かうかう》と|輝《かがや》き、|油蝉《あぶらぜみ》の|声《こゑ》は|彼方《あなた》|此方《こなた》に|騒《さわ》がしく|聞《きこ》えて|居《ゐ》る。カールス|王《わう》はフツと|気《き》が|付《つ》き、
『サテ|訝《いぶ》かしや、|吾《われ》は|失恋《しつれん》の|結果《けつくわ》、|渓流《けいりう》に|身《み》を|投《な》げむとせし|時《とき》、ヤーチン|姫《ひめ》|来《きた》りて、|此処《ここ》まで|伴《ともな》ひ|帰《かへ》りしと|見《み》しは|夢《ゆめ》なりしか。|何《なに》は|兎《と》もあれ、|館《やかた》に|入《い》りて|休息《きうそく》し、|其《その》|上《うへ》にて|決心《けつしん》の|臍《ほぞ》を|固《かた》めむ』
と|独語《ひとりごち》つつ、|奥《おく》の|間《ま》に|忍《しの》び|足《あし》にて|進《すす》み|入《い》る。
|今《いま》|現《あら》はれしヤーチン|姫《ひめ》は、セールス|姫《ひめ》が|使役《しえき》せる|金狐《きんこ》の|邪霊《じやれい》の|変化《へんくわ》であつた。カールス|王《わう》の|変死《へんし》を|喰《く》ひ|止《と》め、|吾《わが》|目的《もくてき》を|達成《たつせい》せむとの|計略《けいりやく》より|出《い》でたる|魔術《まじゆつ》であつた。
カールス|王《わう》は|奥《おく》の|間《ま》に|端坐《たんざ》し|双手《もろで》を|組《く》んで、ヤーチン|姫《ひめ》の|雲《くも》に|乗《の》り|谷《たに》を|渡《わた》り、|或《あるひ》は|吾《わ》が|館《やかた》の|前《まへ》にて|煙《けぶり》の|如《ごと》く|消《き》え|失《う》せたるを|見《み》て、|稍《やや》|怖気《おぢけ》づき、|疑惑《ぎわく》の|念《ねん》に|駆《か》られて|其《その》|夜《よ》は|一睡《いつすゐ》もせず|夜《よ》を|明《あ》かした。
ヤーチン|姫《ひめ》は|三五教《あななひけう》の|神徳《しんとく》に|依《よ》つて、さしもの|重病《ぢうびやう》も|全《まつた》く|恢復《くわいふく》したれば、ユリコ|姫《ひめ》、キールスタンを|伴《ともな》ひ、カールス|王《わう》の|館《やかた》を|訪問《はうもん》した。|表門《おもてもん》には|門番《もんばん》のホールいかめしく|控《ひか》へて|居《ゐ》る。
キールスタン『あいやホール、|只今《ただいま》ヤーチン|姫様《ひめさま》の|御来城《ごらいじやう》、|何卒《なにとぞ》|一刻《いつこく》も|早《はや》くテーレンス|殿《どの》に|申上《まをしあ》げ、カールス|王《わう》の|御前《ごぜん》に|奏聞《そうもん》して|下《くだ》さい』
ホール『ハイ|承知《しようち》|致《いた》しました。|暫《しばら》く|此《この》|門前《もんぜん》に|御待《おま》ち|願《ねが》ひます』
と|足早《あしばや》に|奥《おく》|深《ふか》く|進《すす》み|入《い》り、テーレンスに|委細《ゐさい》を|報告《はうこく》した。テーレンスは|直《ただ》ちにカールス|王《わう》の|御前《ごぜん》に|伺候《しこう》し、
『|只今《ただいま》ヤーチン|姫《ひめ》、|御来城《ごらいじやう》で|厶《ござ》います』
との|声《こゑ》に、カールス|王《わう》はハツと|驚《おどろ》き、
『ナニ、ヤーチン|姫《ひめ》が|参《まゐ》つたか。|雲《くも》に|乗《の》つて|参《まゐ》つたのでないか。|又《また》|館《やかた》の|入口《いりぐち》にて|消滅《せうめつ》は|致《いた》さぬか。よく|調《しら》べて|来《き》て|呉《く》れ』
テーレンス『これは|又《また》|異《い》な|事《こと》を|承《うけたま》はります。|妖怪変化《えうくわいへんげ》ならぬヤーチン|姫様《ひめさま》、|雲《くも》に|乗《の》り、|或《あるひ》は|煙《けぶり》の|如《ごと》く|消滅《せうめつ》し|玉《たま》ふ|道理《だうり》は|厶《ござ》いませぬ。|立派《りつぱ》なる|玉《たま》の|輿《こし》に|御乗《おの》り|遊《あそ》ばし、キールスタン、ユリコ|姫《ひめ》|御供《おとも》を|致《いた》して|参《まゐ》られました。|直様《すぐさま》|御通《おとほ》し|申《まを》しませうか』
カールス|王《わう》は|暫《しばら》く|小首《こくび》をかたげ、|吐息《といき》をもらし|乍《なが》ら、
『|何《なに》は|兎《と》も|有《あ》れ、|吾《わが》|目通《めどほり》へ|通《とほ》せ』
『ハイ』と|答《こた》へて、テーレンスは|自《みづか》ら|門前《もんぜん》に|迎《むか》へ、|王《わう》の|前《まへ》に|三人《さんにん》を|案内《あんない》した。
ヤーチン|姫《ひめ》|恭《うやうや》しく|両手《りやうて》を|仕《つか》へ、
『|妾《わらは》は、ヤーチン|姫《ひめ》で|御座《ござ》います。|永《なが》らく|病気《びやうき》に|付《つ》き、いろいろと|御心配《ごしんぱい》|掛《か》けまして、|御蔭《おかげ》によりて|此《この》|通《とほ》り|全快《ぜんくわい》を|致《いた》しました。どうぞ|御安心《ごあんしん》|下《くだ》さいませ』
カールス|王《わう》は|稍《やや》|暫《しば》し|無言《むごん》の|儘《まま》、ヤーチン|姫《ひめ》の|姿《すがた》に|目《め》を|放《はな》たず、|考《かんが》へ|込《こ》んで|居《ゐ》る。|夜前《やぜん》|現《あら》はれたヤーチン|姫《ひめ》に|寸分《すんぶん》|違《ちが》はぬ|訝《いぶ》かしさ。|又《また》もや|昨夜《さくや》の|妖怪変化《えうくわいへんげ》にはあらざるかと、|無言《むごん》の|儘《まま》|考《かんが》へ|込《こ》んで|居《ゐ》た。
|斯《か》かる|所《ところ》へ|宰相神《さいしやうがみ》のサアルボース、ホーロケースの|両人《りやうにん》は、セールス|姫《ひめ》を|先《さき》に|立《た》て|数多《あまた》の|従者《じゆうしや》を|引連《ひきつ》れ、カールス|王《わう》の|館《やかた》の|奥《おく》の|間《ま》|指《さ》して、|遠慮会釈《ゑんりよゑしやく》もなく|進《すす》み|来《きた》り、|此《この》|態《てい》を|見《み》て、|冷笑《れいせう》を|向《む》け|乍《なが》ら、カールス|王《わう》に|向《むか》ひ、
サアルボース『これはこれはカールス|王殿《わうどの》、いつとても|御健勝《ごけんしやう》で|吾々《われわれ》|恐悦《きようえつ》の|至《いた》りに|存《ぞん》じます。|就《つ》いては|御存《ごぞん》じの|通《とほ》り、ヤーチン|姫《ひめ》は|発狂《はつきやう》|致《いた》し、|身体《からだ》は|痩衰《やせおとろ》へ、|最早《もはや》|削《けづ》るべき|肉《にく》もなく、|骨《ほね》|計《ばかり》の|醜《みにく》き|有様《ありさま》、|到底《たうてい》|台湾島《たいわんたう》のカールス|王《わう》が|妃《きさき》として|仕《つか》へ|奉《まつ》る|事《こと》は|不可能《ふかのう》となりました。|実《じつ》に|吾々《われわれ》は|御気《おき》の|毒《どく》と|申《まを》さうか、|残念《ざんねん》|至極《しごく》と|申《まを》さうか、|憂苦《いうく》の|結果《けつくわ》|申上《まをしあ》げる|言葉《ことば》も|知《し》りませぬ。|就《つ》いては|一日《いちにち》も|妃《きさき》なくして、|万機《ばんき》の|政事《せいじ》を|総裁《そうさい》することは|出来《でき》ますまい。|不束《ふつつか》|乍《なが》ら|吾《わが》|一人娘《ひとりむすめ》セールス|姫《ひめ》を|王《わう》の|御妃《おきさき》として|献上《けんじやう》|仕《つかまつ》りまする。どうぞ|不束者《ふつつかもの》なれ|共《ども》、|幾久《いくひさ》しく|御納《おをさ》め|下《くだ》されまする|様《やう》に、|国家《こくか》の|為《ため》に|申上《まをしあ》げまする』
と|稍《やや》|強圧的《きやうあつてき》にセールス|姫《ひめ》を|妃《きさき》となすべき|事《こと》を|申込《まをしこ》みたり。
カールス|王《わう》は|五里霧中《ごりむちゆう》に|彷徨《はうくわう》する|如《ごと》き|面色《おももち》にて、|何《なん》の|応答《いらへ》もなく|黙然《もくぜん》として、ヤーチン|姫《ひめ》、セールス|姫《ひめ》の|顔《かほ》を|見比《みくら》べてゐた。
キールスタンは|不審《ふしん》の|眉《まゆ》をひそめ、
『サアルボース|殿《どの》の|只今《ただいま》の|御言葉《おことば》、ヤーチン|姫様《ひめさま》は|病気《びやうき》の|為《ため》、|身体《からだ》|痩衰《やせおとろ》へ|醜《みにく》き|御姿《おすがた》|到底《たうてい》|王妃《わうひ》としての|御用《ごよう》は|勤《つと》まらないかの|如《ごと》く|仰《あふ》せられましたが、|御覧《ごらん》の|通《とほ》りヤーチン|姫様《ひめさま》の|御病気《ごびやうき》は|既《すで》に|既《すで》に|御全快《ごぜんくわい》|遊《あそ》ばされ、|斯《こ》の|通《とほ》り|御健勝《ごけんしよう》なる|御身体《おからだ》、|英気《えいき》に|充《み》ちた|御容色《ごようしよく》、|然《しか》るに|何《なに》を|以《もつ》てか、|宰相《さいしやう》|殿《どの》は|左様《さやう》なことを|仰《あふ》せられまするか』
と|反問《はんもん》した。サアルボースはニツコと|笑《わら》ひ、
『|只今《ただいま》|此処《ここ》に|安坐《あんざ》し|居《ゐ》るヤーチン|姫《ひめ》は|本者《ほんもの》にあらず、これ|全《まつた》く|妖怪変化《えうくわいへんげ》の|偽者《にせもの》で|御座《ござ》る。|雲《くも》に|乗《の》り、|或《あるひ》は|身《み》を|白烟《はくえん》と|消《け》し、|種々雑多《しゆじゆざつた》の|摩術《まじゆつ》を|使《つか》ひ、|王《わう》の|館《やかた》に|忍《しの》び|込《こ》み、|巧言令色《かうげんれいしよく》の|限《かぎ》りを|尽《つく》し、|王《わう》の|心胆《しんたん》を|奪《うば》ひ、|国内《こくない》を|攪乱《かうらん》せむとする|悪魔《あくま》の|再来《さいらい》で|厶《ござ》る。|某《それがし》は|不肖《ふせう》なれ|共《ども》、バラモン|教《けう》の|大神《おほかみ》の|神力《しんりき》に|依《よ》りて|天眼通《てんがんつう》を|得《え》たれば、ヤーチン|姫《ひめ》の|真偽《しんぎ》を|分別《ふんべつ》する|位《くらゐ》は|朝飯前《あさめしまへ》の|事《こと》で|厶《ござ》る。あゝサテモ サテモ、|当館内《たうやかたない》には|盲神《めくらがみ》|許《ばか》りの……よくも|集《あつ》まつたもので|厶《ござ》るワイ。アツハヽヽヽ』
と|肩《かた》を|揺《ゆす》り、パツとキールスタンを|睨《ね》め|付《つ》けた。
キールスタン『|益々《ますます》|以《もつ》て|不届《ふとど》き|至極《しごく》の|宰相《さいしやう》の|言葉《ことば》、|何《なに》を|証拠《しようこ》に|左様《さやう》の|事《こと》を|仰《あふ》せらるるか』
サアルボース『|汝等《なんぢら》|如《ごと》き|盲神《めくらがみ》の|関知《くわんち》する|所《ところ》ではない。|賢明《けんめい》なるカールス|王《わう》に|於《おい》ては、よくも|其《その》|真偽《しんぎ》を|御存《ごぞん》じの|筈《はず》、|吾々《われわれ》が|弁明《べんめい》するの|必要《ひつえう》は|御座《ござ》らぬ。……|恐《おそ》れ|乍《なが》らカールス|王様《わうさま》、|如何《いかが》|思召《おぼしめ》しまするや』
カールス|王《わう》は|黙然《もくねん》として|腕《うで》をこまねき、|俯《うつ》むいて|思案《しあん》に|暮《く》れて|居《ゐ》る。
ヤーチン|姫《ひめ》『アイヤ|宰相《さいしやう》|殿《どの》、|妾《わらは》を|妖怪変化《えうくわいへんげ》とは、|何《なに》を|証拠《しようこ》に|仰《あふ》せらるるか。|詳細《しやうさい》に|弁明《べんめい》なされよ。|返答《へんたふ》|次第《しだい》に|依《よ》つては、ヤーチン|姫《ひめ》|容赦《ようしや》は|致《いた》しませぬぞ』
カールス|王《わう》の|叔父《をぢ》エーリスは|稍《やや》|言葉《ことば》を|荒《あら》らげ|憤怒《ふんど》の|面色《めんしよく》|物凄《ものすご》く、
『ヤア、サアルボース、|汝《なんぢ》は|無礼千万《ぶれいせんばん》にも|吾《わが》|娘《むすめ》ヤーチン|姫《ひめ》を|妖怪変化《えうくわいへんげ》と|申《まを》すは|何故《なにゆゑ》ぞ。これには|深《ふか》き|企《たく》みのある|事《こと》ならむ。|詳《つぶ》さに|事情《じじやう》を|申述《まをしの》べよ』
ホーロケースは|立《たち》あがりて、
『エーリス|殿《どの》に|申上《まをしあ》げます。|貴方《あなた》の|御娘《おんむすめ》、ヤーチン|姫様《ひめさま》は|先《さき》つ|頃《ころ》|重病《ぢうびやう》に|罹《かか》らせられ、|身体《からだ》は|痩衰《やせおとろ》へ、|見《み》る|影《かげ》もなき|御姿《おすがた》と|御成《おな》り|遊《あそ》ばされ、|到底《たうてい》|御全快《ごぜんくわい》の|見込《みこ》みもなく、カールス|王様《わうさま》を|始《はじ》め、|吾々《われわれ》|一同《いちどう》|憂苦《いうく》の|情《じやう》に|堪《た》へず、|如何《いか》にもして|一刻《いつこく》も|早《はや》く|御全快《ごぜんくわい》|遊《あそ》ばす|様《やう》と、バラモン|神《がみ》に|祈願《きぐわん》を|籠《こ》め|居《を》りました|所《ところ》、|三五教《あななひけう》の|邪神《じやしん》|忽《たちま》ち|来《きた》つて|姫《ひめ》の|肉体《にくたい》を|喰《くら》ひ、|己《おのれ》|代《かは》はつてヤーチン|姫《ひめ》と|成《な》りすまし、|斯《かく》の|如《ごと》く|堂々《だうだう》として、|此処《ここ》に|姿《すがた》を|現《あら》はして|居《を》りまする。|現在《げんざい》|御父上《おんちちうへ》なる|貴方《あなた》の|御目《おんめ》にさへも、|其《その》|真偽《しんぎ》が|判明《はんめい》せないまで、よく|化込《ばけこ》んだ|枉神《まがかみ》、|到底《たうてい》|一通《ひととほ》りや|二通《ふたとほり》りでは、|正体《しやうたい》を|現《あら》はす|様《やう》なチヨロコイ|奴《やつ》では|御座《ござ》らぬ。|此《この》|真偽《しんぎ》はカールス|王様《わうさま》の|既《すで》に|御承知《ごしようち》の|事《こと》と|存《ぞん》じまする。|言《い》はば|貴方《あなた》の|御娘《おんむすめ》ヤーチン|姫《ひめ》の|仇敵《かたき》で|御座《ござ》いますれば、|此《この》|場《ば》で|御手討《おてうち》に|遊《あそ》ばされたう|存《ぞん》じます。|万一《まんいち》|御疑《おうたが》ひとあらば、|憚《はばか》り|乍《なが》ら|此《この》ホーロケースが|此《この》|場《ば》に|於《おい》て|退治《たいぢ》し|御目《おめ》にかけませう』
ヤーチン|姫《ひめ》『コレコレ、ホーロケース、そなたは|何《なに》を|言《い》ふのだ。|気《き》が|違《ちが》うたか。トツクリと|妾《わらは》が|顔《かほ》を|調《しら》べて|見《み》よ』
ホーロケース『カールス|王様《わうさま》、|貴方《あなた》の|御考《おかんが》へは|如何《いかが》で|御座《ござ》いまする』
カールス|王《わう》『|如何《いか》にも|合点《がてん》の|往《ゆ》かぬヤーチン|姫《ひめ》、|昨夜《さくや》|雲《くも》に|乗《の》り、|吾《わが》|前《まへ》に|現《あら》はれ、|再《ふたた》び|館《やかた》の|前《まへ》にて|消《き》え|失《う》せたる|不思議《ふしぎ》の|女《をんな》に|寸分《すんぶん》|違《たが》はぬ|此《この》|女《をんな》。|吾《われ》は|正《まさ》しく|妖怪変化《えうくわいへんげ》と|見《み》るより|外《ほか》に|手段《てだて》はない』
サアルボース、ホーロケースの|両人《りやうにん》は|王《わう》の|言葉《ことば》を|聞《き》くより、|俄《にはか》に|鼻息《はないき》|荒《あら》く、
サアルボース『|王者《わうしや》の|言葉《ことば》に|二言《にごん》なし。|汝《なんぢ》ヤーチン|姫《ひめ》、|妖怪変化《えうくわいへんげ》にきはまつたり。|此《この》|国《くに》の|掟《おきて》に|従《したが》ひ、ヤーチン|姫《ひめ》を|籠《かご》に|乗《の》せ、|新高山《にひたかやま》の|淡渓《たんけい》に|投《な》げ|棄《す》て、|災《わざはひ》の|根《ね》を|絶《た》たむ。……|如何《いか》にエーリス|殿《どの》、これでも|猶《なほ》|御疑《おうたが》ひあるや』
と|睨《ね》めつけた。エーリスは|暫《しばら》く|首《かうべ》を|傾《かたむ》けて|居《ゐ》たが、|頓《やが》て|王《わう》に|向《むか》ひ、
『カールス|王《わう》よ、ヤーチン|姫《ひめ》を|妖怪変化《えうくわいへんげ》に|相違《さうゐ》なしと|断定《だんてい》さるるや』
と|息《いき》を|喘《はづ》ませ、|問《と》ひつめた。カールス|王《わう》は|首《かうべ》を|左右《さいう》に|振《ふ》り、
『|否々《いやいや》|吾《われ》は|決《けつ》して|妖怪変化《えうくわいへんげ》と|断定《だんてい》はせない。|只《ただ》|訝《いぶ》かしき|昨夜《さくや》|出会《であ》ひたる|女《をんな》に、|容貌《ようばう》|其《その》|他《た》|寸毫《すんがう》の|差《さ》なきを|不思議《ふしぎ》と|思《おも》ふのみ。|果《はた》して|妖怪変化《えうくわいへんげ》なりや、ヤーチン|姫《ひめ》なりや、これは|未《いま》だ|判明《はんめい》せず』
エーリスはサアルボース|兄弟《きやうだい》に|向《むか》ひ、
『|宰相《さいしやう》|殿《どの》、|今《いま》の|王《わう》の|御言葉《おことば》に|依《よ》れば、|未《いま》だ|的確《てきかく》なる|妖怪変化《えうくわいへんげ》と|認《みと》め|玉《たま》はざるに|非《あら》ざるか。|然《しか》るに|軽々《かるがる》しくヤーチン|姫《ひめ》を|妖怪変化《えうくわいへんげ》として、|渓流《けいりう》に|棄《す》つるは|没義道《もぎだう》で|御座《ござ》らう。|今《いま》|一息《ひといき》|御熟考《ごじゆくかう》を|願《ねが》ひませう』
ホーロケースは|言下《げんか》に、
『お|黙《だま》りなさい。カールス|王《わう》の|叔父《をぢ》たるの|地位《ちゐ》を|利用《りよう》して、|吾等《われら》が|忠言《ちうげん》を|遮《さへぎ》らむとする|貴神《あなた》の|振舞《ふるまひ》、|如何《いか》に|親子《おやこ》の|愛情《あいじやう》に|眼《まなこ》|眩《くら》めばとて、|妖怪変化《えうくわいへんげ》を|以《もつ》てカールス|王《わう》の|妃《きさき》となし、|国家《こくか》を|紊乱《ぶんらん》せむとするは|不忠不義《ふちゆうふぎ》の|至《いた》りで|御座《ござ》らう。|御控《おひか》へめされ』
サアルボースは|又《また》もや|立上《たちあが》つて、
『|一旦《いつたん》|王者《わうしや》の|口《くち》より|妖怪変化《えうくわいへんげ》ならむと|宣示《せんじ》されたる|以上《いじやう》は、|再《ふたたび》|撤回《てつくわい》す|可《べ》からず。|且《かつ》|又《また》|現在《げんざい》|目前《もくぜん》に|居《ゐ》る|妖怪《えうくわい》に|対《たい》し、|真偽《しんぎ》に|迷《まよ》ふが|如《ごと》き|暗君《あんくん》なれば、|王《わう》としての|資格《しかく》は|絶無《ぜつむ》なり。|速《すみや》かに|退位《たいゐ》さるるか、さなくば|吾《わが》|言葉《ことば》を|容《い》れ、ヤーチン|姫《ひめ》と|変《へん》じたる|妖怪《えうくわい》を|淡渓《たんけい》に|捨《す》て、セールス|姫《ひめ》を|容《い》れて|妃《きさき》となし|玉《たま》はば、|上下一致《じやうかいつち》、|天下泰平《てんかたいへい》の|祥兆《しやうてう》を|見《み》む|事《こと》|火《ひ》を|睹《み》るより|明《あきら》かならむ、|返答《へんたふ》|承《うけたま》はらむ』
のつぴきさせぬ|釘鎹《くぎかすがひ》にカールス|王《わう》も|返《かへ》す|言葉《ことば》なく、うつうつとして|顔色《かほいろ》|青《あを》ざめ、|二三《にさん》の|従臣《じうしん》と|共《とも》に|奥《おく》の|間《ま》に|姿《すがた》を|隠《かく》した。サアルボース、ホーロケースの|二人《ふたり》は|数多《あまた》の|従臣《じゆうしん》に|命《めい》じ、ヤーチン|姫《ひめ》を|高手小手《たかてこて》に|縛《いまし》め、|粗末《そまつ》な|吊籠《つりかご》に|入《い》れ、|父《ちち》のエーリス|始《はじ》め、キールスタン、ユリコ|姫《ひめ》の|止《と》むるのも|聞《き》かばこそ、|突《つ》きのけ|撥《は》ねのけ、|凱歌《がいか》を|奏《そう》しつつ|淡渓《たんけい》|指《さ》して|進《すす》み|行《ゆ》く。
(大正一一・八・六 旧六・一四 松村真澄録)
(昭和一〇・六・五 王仁校正)
第三章 |玉藻山《たまもやま》〔八〇三〕
|真道彦命《まみちひこのみこと》は|国治立大神《くにはるたちのおほかみ》の|時代《じだい》より、|此《この》|島《しま》に|鎮《しづ》まり、|子孫《しそん》|皆《みな》|真道彦《まみちひこ》の|名《な》を|継《つ》いで、|新高山《にひたかやま》の|北方《ほくぱう》に、|聖場《せいぢやう》を|定《さだ》め、|三五《あななひ》の|道《みち》を|全島《ぜんたう》に|拡充《くわくじゆう》し、|神国魂《みくにだましひ》の|根源《こんげん》を|培《つちか》ひつつあつた。|然《しか》るにバラモン|教《けう》の|一派《いつぱ》|此《この》|島《しま》に|漂着《へうちやく》してより、|花森彦命《はなもりひこのみこと》の|子孫《しそん》なるアークス|王《わう》は、|三五《あななひ》の|教《をしへ》を|棄《す》ててバラモン|教《けう》に|帰順《きじゆん》せしため、|住民《ぢうみん》は|上下《じやうか》の|区別《くべつ》なく、|残《のこ》らずバラモンの|教《をしへ》に|帰順《きじゆん》して|了《しま》つた。されど|新高山《にひたかやま》の|以北《いほく》にのみアークス|王《わう》の|権力《けんりよく》も、バラモンの|教権《けうけん》も|行《おこな》はれて|居《ゐ》たのみで、|新高山《にひたかやま》|以南《いなん》は|少《すこ》しも|勢力《せいりよく》が|及《およ》ばなかつた。
|真道彦《まみちひこ》は|遠《とほ》く|新高山《にひたかやま》を|越《こ》えて、|東南方《とうなんぱう》に|当《あた》る|高原地《かうげんち》|日月潭《じつげつたん》に|居《きよ》を|構《かま》へ、|東南西《とうなんせい》の|地《ち》を|教化《けうくわ》しつつありき。|然《しか》るにアークス|王《わう》の|宰相《さいしやう》たるサアルボース|兄弟《きやうだい》は、|此《この》|地点《ちてん》をも|占領《せんりやう》し|第二《だいに》の|王国《わうこく》を|建《た》てんと、|時々《ときどき》|兵《へい》を|引連《ひきつ》れ、|玉藻山《たまもやま》の|聖地《せいち》に|向《むか》つて|攻《せ》めよせた。されど|竜世姫《たつよひめ》の|永久《とことは》に|鎮《しづ》まり|玉《たま》ふ|大湖水《だいこすゐ》を|南《みなみ》へ|越《こ》ゆることは|容易《ようい》に|出来《でき》なかつた。
|或《ある》|時《とき》ホーロケースはバラモンの|信徒《しんと》を|数多《あまた》|引連《ひきつ》れ、|三五教《あななひけう》の|巡礼《じゆんれい》に|身《み》をやつし、|玉藻山《たまもやま》の|聖地《せいち》に、|雲霞《うんか》の|如《ごと》く|押寄《おしよ》せ、|隙《すき》を|覗《うかが》つて|真道彦命《まみちひこのみこと》を|生擒《せいきん》し、|一挙《いつきよ》に|全島《ぜんたう》を|占領《せんりやう》せむと|試《こころ》みつつあつた。|真道彦命《まみちひこのみこと》はホーロケースの|悪竦《あくらつ》なる|計画《けいくわく》を|前知《ぜんち》し、|数多《あまた》の|信徒《しんと》を|駆《か》り|集《あつ》め、|言霊戦《ことたません》を|以《もつ》て、|之《こ》れに|向《むか》ふこととなし、|玉藻山《たまもやま》の|山頂《さんちやう》に、|祭壇《さいだん》を|新《あらた》に|設《まう》けて、|寄《よ》せ|来《く》る|敵《てき》に|向《むか》つて、|言霊線《ことたません》を|発射《はつしや》しつつあつた。され|共《ども》、バラモン|教《けう》のホーロケースは|少《すこ》しも|屈《くつ》せず、|獅子奮迅《ししふんじん》の|勢《いきほひ》を|以《もつ》て|各《おのおの》|隠《かく》し|持《も》つたる|兇器《きようき》を|振《ふ》り|翳《かざ》し、|鬨《とき》を|作《つく》つて|一挙《いつきよ》に|亡《ほろ》ぼさむと|斬《き》り|込《こ》んで|来《き》た。
|真道彦《まみちひこ》の|子《こ》に|日楯《ひたて》、|月鉾《つきほこ》と|云《い》ふ|二人《ふたり》の|信神《しんじん》|堅固《けんご》なる|屈強《くつきやう》|盛《ざか》りの|二児《にじ》があつた。|父《ちち》|真道彦《まみちひこ》はホーロケースに|向《むか》つて、|言霊《ことたま》を|奏上《そうじやう》するや、ホーロケースは|怒《いか》つて、|真道彦《まみちひこ》の|胸板《むないた》を|長剣《ちやうけん》を|以《もつ》て|突《つ》き|刺《さ》し、|此《この》|場《ば》に|打殪《うちたふ》し、|凱歌《がいか》を|奏《そう》し、|其《その》|勢《いきほひ》|天地《てんち》も|震《ふる》ふ|計《ばか》りであつた。|突刺《つきさ》されて|其《その》|場《ば》に|倒《たふ》れた|真道彦《まみちひこ》の|身体《しんたい》より|白烟《はくえん》|忽《たちま》ち|濛々《もうもう》として|立《たち》あがり、|美《うる》はしき|女神《めがみ》となつて、|雲《くも》の|彼方《かなた》に|姿《すがた》を|隠《かく》した。
|日楯《ひたて》、|月鉾《つきほこ》の|兄弟《きやうだい》は|父《ちち》|真道彦《まみちひこ》の|行方不明《ゆくへふめい》となりしを|歎《なげ》き、|如何《いか》にもして、ホーロケースの|一族《いちぞく》を|亡《ほろ》ぼし、|父《ちち》の|仇《あだ》を|報《はう》じ、|三五教《あななひけう》の|教《をしへ》を|再《ふたた》び|樹立《じゆりつ》せむと|苦心《くしん》の|結果《けつくわ》、|湖中《こちう》に|泛《うか》べる|竜《たつ》の|島《しま》に|夜《よる》|秘《ひそ》かに|漕《こ》ぎつけ、|祈願《きぐわん》をこらして|居《ゐ》た。|此《この》|時《とき》|既《すで》に|玉藻山《たまもやま》の|聖地《せいち》は、ホーロケースの|占領《せんりやう》する|所《ところ》となつて|居《ゐ》た。|真道彦《まみちひこ》の|部下《ぶか》は|四方《しはう》に|散乱《さんらん》して、|其《その》|影《かげ》さへも|止《とど》めなかつた。
|竜《たつ》の|島《しま》は|樹木《じゆもく》|鬱蒼《うつさう》として、|湖水《こすゐ》の|中心《ちうしん》に|浮《うか》び、|周囲《しうゐ》|殆《ほとん》ど|一里《いちり》|計《ばか》りもある|霊島《れいたう》であつた。|二人《ふたり》は|島山《しまやま》の|頂上《ちやうじやう》|目蒐《めが》けて|登《のぼ》り|行《ゆ》く。|此処《ここ》に|高大《かうだい》なる|巨岩《きよがん》|壁《かべ》の|如《ごと》く|立並《たちなら》び、|中央《ちうあう》に|人《ひと》の|入《はい》れる|計《ばか》りの|岩穴《いはあな》が|開《あ》いて|居《ゐ》た。|兄弟《きやうだい》は|其《その》|岩窟《がんくつ》に|思《おも》はず|足《あし》を|向《む》けた。|炎熱《えんねつ》|焼《や》くが|如《ごと》き|夏《なつ》の|空《そら》に|得《え》も|言《い》はれぬ|涼《すず》しき|香《かん》ばしき|風《かぜ》、|坑内《かうない》より|頻《しき》りに|吹《ふ》き|来《きた》る。|二人《ふたり》は|何《なん》となく|此《この》|窟内《くつない》を|探険《たんけん》したき|心持《こころもち》となつて、|思《おも》はず|知《し》らず|四五丁《しごちやう》|計《ばか》り|奥《おく》へ|進《すす》んで|行《い》つた。
|俄《にはか》に|強烈《きやうれつ》なる|光線《くわうせん》|何処《いづこ》よりかさし|来《き》たる。|振《ふり》かへり|見《み》れば、|最早《もはや》|岩窟《がんくつ》の|終点《しうてん》と|見《み》えて、|両方《りやうはう》に|円《まる》き|天然《てんねん》の|穴《あな》が|穿《うが》たれ、そこより|太陽《たいやう》の|光線《くわうせん》が|直射《ちよくしや》してゐた。あたりを|見《み》れば、|階段《かいだん》の|如《ごと》きもの|自然《しぜん》にきざまれてゐる。|日楯《ひたて》、|月鉾《つきほこ》の|二人《ふたり》は、|此《この》|階段《かいだん》を|登《のぼ》り|詰《つ》め、|前方《ぜんぱう》を|遥《はる》かに|見渡《みわた》せば、|紺碧《こんぺき》の|波《なみ》を|湛《たた》へた|玉藻《たまも》の|湖水《こすい》、|小《ちい》さき|島影《しまかげ》は|彼方《あなた》|此方《こなた》に|浮《うか》み、|白《しろ》き|翼《つばさ》を|拡《ひろ》げたる|数多《あまた》の|水鳥《みづどり》は|前後左右《ぜんごさいう》に|飛《と》び|交《か》ふ|様《さま》、|実《じつ》に|美《うる》はしく、|二人《ふたり》は|此《この》|光景《くわうけい》に|見惚《みと》れて|居《ゐ》た。|遠《とほ》く|目《め》を|東南《とうなん》に|注《そそ》げば、|玉藻山《たまもやま》の|聖地《せいち》は|以前《いぜん》の|儘《まま》なれど、ホーロケースが|襲来《しふらい》せしより、バラモン|教《けう》の|拠《よ》る|所《ところ》となり、|何《なん》となく|恨《うら》めしき|心地《ここち》せられて、|稍《やや》|今昔《こんじやく》の|念《ねん》に|沈《しづ》み|居《ゐ》たり。
|日楯《ひたて》『オイ|弟《おとうと》、|斯《かく》の|如《ごと》き|聖場《せいぢやう》を|敵《てき》に|蹂躙《じうりん》され、|父上《ちちうへ》は|行方不明《ゆくへふめい》とならせ|玉《たま》ひ、|吾々《われわれ》|兄弟《きやうだい》は|身《み》の|置所《おきどころ》なく、|漸《やうや》くにして|此《この》|竜《たつ》の|島《しま》に|逃《に》げ|来《きた》りしものの、|未《いま》だ|安心《あんしん》する|所《ところ》へは|往《ゆ》かない。|罷《まか》り|違《ちが》へばバラモン|教《けう》の|奴原《やつばら》、|此《この》|島《しま》|迄《まで》|吾等《われら》が|後《あと》を|追跡《つゐせき》し|来《きた》るやも|計《はか》られ|難《がた》し、|吾等《われら》|兄弟《きやうだい》は|今《いま》|此処《ここ》に|於《おい》て、|三五教《あななひけう》の|大神《おほかみ》に|祈願《きぐわん》をこらし、|運《うん》を|一時《いちじ》に|決《けつ》せば|如何《いか》に。|見下《みおろ》せば|千丈《せんぢやう》の|断崖《だんがい》|絶壁《ぜつぺき》、|神《かみ》に|祈願《きぐわん》をこめ、|此《この》|青淵《あをぶち》に|飛《と》び|込《こ》み、|生死《せいし》の|程《ほど》を|試《ため》し|見《み》む。|万一《まんいち》|吾等《われら》|両人《りやうにん》|生命《いのち》を|取《と》り|止《と》めなば、|再《ふたた》び|三五教《あななひけう》は|元《もと》の|如《ごと》く|勢力《せいりよく》も|盛返《もりかへ》し、バラモン|教《けう》の|一派《いつぱ》を|新高山《にひたかやま》の|北方《ほつぱう》に|追返《おひかへ》し|得《え》む。|月鉾《つきほこ》、|汝《なんぢ》|如何《いか》に|思《おも》ふや』
と|決心《けつしん》の|色《いろ》を|顕《あら》はして|話《はな》しかけた。
|月鉾《つきほこ》『|兄上《あにうへ》の|仰《あふ》せの|如《ごと》く、これより|天地神明《てんちしんめい》に|祈願《きぐわん》をこめ、|此《この》|断崖《だんがい》より|湖中《こちう》に|飛《と》び|込《こ》み、|神慮《しんりよ》を|伺《うかが》ひ|見《み》む』
と|同意《どうい》を|表《へう》し、|二人《ふたり》は|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》し、|此《この》|世《よ》の|名残《なごり》と|天《あま》の|数歌《かずうた》を|数回《すうくわい》|繰返《くりかへ》し|唱《とな》へて|居《ゐ》た。|傍《かたはら》の|密樹《みつじゆ》の|蔭《かげ》より、
『|神《かみ》が|表《おもて》に|現《あら》はれて |善《ぜん》と|悪《あく》とを|立別《たてわけ》る
|此《この》|世《よ》を|造《つく》りし|神直日《かむなほひ》 |心《こころ》も|広《ひろ》き|大直日《おほなほひ》
|只《ただ》|何事《なにごと》も|人《ひと》の|世《よ》は |直日《なほひ》に|見直《みなほ》せ|聞直《ききなほ》せ
|身《み》の|過《あやま》ちは|宣《の》り|直《なほ》せ |三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》
|言依別《ことよりわけ》や|国依別《くによりわけ》の |神《かみ》の|司《つかさ》は|此処《ここ》に|在《あ》り
|国治立大神《くにはるたちのおほかみ》の |教《をしへ》を|伝《つた》ふる|真道彦《まみちひこ》
|脆《もろ》くも|敵《てき》に|聖地《せいち》を|追《お》はれ |玉藻《たまも》の|山《やま》を|後《あと》にして
|雲《くも》を|霞《かすみ》と|逃《に》げ|去《さ》りぬ |後《あと》に|残《のこ》りし|兄弟《きやうだい》は
|力《ちから》と|頼《たの》む|父《ちち》には|別《わか》れ |教《をしへ》の|御子《みこ》には|見棄《みす》てられ
|寄辺渚《よるべなぎさ》の|捨小船《すてをぶね》 |泣《な》く|泣《な》く|聖地《せいち》を|立出《たちい》でて
ここに|荒波《あらなみ》|竜《たつ》の|島《しま》 |涙《なみだ》の|雨《あめ》に|濡《ぬ》れ|乍《なが》ら
|此《この》|岩窟《いはやど》に|尋《たづ》ね|来《き》て |玉藻《たまも》の|湖面《こめん》を|打眺《うちなが》め
|感慨無量《かんがいむりやう》の|思《おも》ひ|出《で》に |今《いま》や|生死《せいし》を|決《けつ》せむと
|思《おも》ひ|煩《わづら》ふ|憐《あは》れさよ |日楯《ひたて》、|月鉾《つきほこ》|両人《りやうにん》よ
|必《かなら》ず|心《こころ》を|悩《なや》ますな |琉《りう》と|球《きう》との|宝玉《ほうぎよく》の
|御稜威《みいづ》を|吾《あ》が|身《み》に|負《お》ひ|来《きた》る |三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》
|汝等《なれら》|二人《ふたり》に|玉藻山《たまもやま》 |元《もと》の|昔《むかし》に|恢復《くわいふく》し
|誠《まこと》の|道《みち》にバラモンの |敵《てき》を|言向《ことむ》け|和《やは》すてふ
|珍《うづ》の|神宝《しんぽう》|授《さづ》けなむ あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ』
と|歌《うた》ひながら、|此《この》|場《ば》に|二人《ふたり》の|宣伝使《せんでんし》は|現《あら》はれ|来《きた》り、|兄弟《きやうだい》の|前《まへ》に|直立《ちよくりつ》して、|軽《かる》く|目礼《もくれい》した。
|兄弟《きやうだい》は|夢《ゆめ》かと|計《ばか》り|打驚《うちおどろ》き、|平身《へいしん》|低頭《ていとう》|稍《やや》|少時《しばし》、|何《なん》の|応《いら》へも【なく】|計《ばか》り。やうやうにして|両人《りやうにん》|面《おもて》をあぐれば、こはそも|如何《いか》に、|二人《ふたり》の|宣伝使《せんでんし》の|影《かげ》は|何処《どこ》へ|消《き》え|失《う》せしか、|山《やま》の|尾《を》の|上《へ》を|通《かよ》ふ|風《かぜ》の|音《おと》|颯々《さつさつ》と|響《ひび》き|亘《わた》るのみなり。
これより|二人《ふたり》の|兄弟《きやうだい》は、|勇気《ゆうき》|日頃《ひごろ》に|百倍《ひやくばい》し、|天《あま》の|数歌《かずうた》を|歌《うた》ひ|乍《なが》ら、|湖上《こじやう》に|泛《うか》べる|島々《しまじま》を|残《のこ》る|隈《くま》なく|駆巡《かけめぐ》り、|二人《ふたり》の|宣伝使《せんでんし》の|所在《ありか》を|尋《たづ》ねたれ|共《ども》、|何《いづ》れへ|行《ゆ》きたりしか、|其《その》|影《かげ》さへも|見《み》ることは|出来《でき》なかつた。されど|二人《ふたり》は|何《なん》となく|勇気《ゆうき》に|充《み》ち、|再《ふたた》び|玉藻山《たまもやま》に|向《むか》つて|言霊戦《ことたません》を|開始《かいし》せむと、|湖水《こすゐ》に|浮《う》きつ|沈《しづ》みつ、|七日七夜《なぬかななや》の|御禊《みそぎ》を|修《しう》し、|言霊《ことたま》の|練習《れんしふ》に|全力《ぜんりよく》を|尽《つく》す|事《こと》となつた。
○
セールス|姫《ひめ》の|侍女《じぢよ》として|永《なが》く|仕《つか》へ|居《ゐ》たるアークス|王《わう》の|落胤《らくいん》なるマリヤス|姫《ひめ》は、サアルボースの|館《やかた》を|脱《ぬ》け|出《い》で、|夜《よ》を|日《ひ》に|次《つい》で、|新高山《にひたかやま》を|東南《とうなん》に|越《こ》え、|玉藻《たまも》の|湖辺《こへん》を|巡《めぐ》つて、|玉藻山《たまもやま》の|聖地《せいち》に|救《すく》はれて|居《ゐ》た。|然《しか》るに、|此《この》|度《たび》のホーロケースの|襲来《しふらい》に|依《よ》りて、|真道彦命《まみちひこのみこと》は|行方不明《ゆくへふめい》となり、|数多《あまた》の|部下《ぶか》は|四方《しはう》に|散乱《さんらん》し、|日楯《ひたて》、|月鉾《つきほこ》の|二人《ふたり》はこれ|亦《また》、|行方不明《ゆくへふめい》となり、|進退《しんたい》|谷《きは》まる|折《をり》しも、ホーロケースに|捕《とら》へられ、|散々《さんざん》な|責苦《せめく》に|会《あ》ひ、|遂《つひ》には|一室《いつしつ》に|厳重《げんぢう》なる|監視人《かんしにん》をつけ、|幽閉《いうへい》されにける。
ホーロケースは|兄《あに》のサアルボースと|相応《あひおう》じて、|此《この》|全島《ぜんたう》の|主権《しゆけん》を|握《にぎ》らむと、|意気昇天《いきしようてん》の|勢《いきほひ》にて、|玉藻山《たまもやま》にバラモン|教《けう》の|聖場《せいぢやう》を|開《ひら》き、|吾物顔《わがものがほ》に|振《ふ》るまつて|居《ゐ》た。さうしてマリヤス|姫《ひめ》を|幽閉《いうへい》し、|時々《ときどき》|其《その》|居間《ゐま》に|到《いた》りて、|強談判《こはだんぱん》を|開始《かいし》することもあつた。
|話《はな》し|変《かは》つて、マリヤス|姫《ひめ》は、|悲歎《ひたん》の|涙《なみだ》に|暮《く》れ|乍《なが》ら、|独《ひとり》ごちつつ、|心《こころ》の|憂《う》さを|歌《うた》ひ|居《ゐ》たり。
『|水《みづ》の|流《なが》れと|人《ひと》の|行末《ゆくすゑ》 |変《かは》れば|変《かは》る|世《よ》の|中《なか》よ
|遠津御祖《とほつみおや》の|其《その》|源《みなもと》を|尋《たづ》ぬれば |高天原《たかあまはら》のエルサレム
|花森彦《はなもりひこ》のエンゼルと |仕《つか》へ|玉《たま》ひし|吾《わが》|御祖《みおや》
|美《うま》しの|命《みこと》の|御裔《みすゑ》なる アークス|王《わう》が|子《こ》と|生《うま》れ
|浮世《うきよ》を|忍《しの》ぶ|落胤《らくいん》の |吾《われ》は|果敢《はか》なき|身《み》の|因果《いんぐわ》
|高砂島《たかさごじま》を|所知食《しろしめ》す カールス|王《わう》の|妹《いもうと》と|生《うま》れ
|心《こころ》|汚《きた》なきサアルボースが|娘《むすめ》 セールス|姫《ひめ》の|侍女《じぢよ》となり
|醜《しこ》の|企《たく》みを|探《さぐ》らむと |父《ちち》の|御言《みこと》を|畏《かしこ》みて
|心《こころ》を|尽《つく》す|折柄《をりから》に セールス|姫《ひめ》のあぢきなき
|其《その》|振舞《ふるまひ》に|追《お》ひ|立《た》てられ |今《いま》は|果敢《はか》なき|独身《ひとりみ》の
|行方《ゆくへ》も|知《し》らぬ|旅枕《たびまくら》 |神《かみ》の|情《なさけ》に|助《たす》けられ
|真道彦神《まみちひこのかみ》の|開《ひら》きます |三五教《あななひけう》の|霊場《れいぢやう》と
|音《おと》に|聞《きこ》えし|玉藻山《たまもやま》 これの|館《やかた》に|救《すく》はれて
|楽《たの》しき|月日《つきひ》を|送《おく》る|折《をり》 |月《つき》に|村雲《むらくも》、|花《はな》には|嵐《あらし》
|浮世《うきよ》の|風《かぜ》に|煽《あふ》られて |今日《けふ》は|悲《かな》しき|幽閉《いうへい》の|身《み》
あゝ|何《なん》とせむ|只《ただ》|泣《な》く|涙《なみだ》 かはき|果《は》てたる|夕《ゆふ》まぐれ
|恋《こひ》しと|思《おも》ふ|月鉾《つきほこ》の |神《かみ》は|何《いづ》れにましますか
|親子《おやこ》|兄弟《きやうだい》|諸共《もろとも》に |夜半《よは》の|嵐《あらし》に|散《ち》らされて
|行方《ゆくへ》も|分《わ》かぬ|旅《たび》の|空《そら》 |仮令《たとへ》|何処《いづこ》にますとても
マリヤス|姫《ひめ》の|真心《まごころ》は |山野海河《やまのうみかは》|幾千里《いくせんり》
|隔《へだ》つるとても|何《なん》のその |尋《たづ》ねて|行《ゆ》かむ|君《きみ》が|側《そば》
とは|言《い》ひ|乍《なが》ら|情《なさけ》|無《な》や |心《こころ》|汚《きた》なき|醜神《しこがみ》の
ホーロケースに|捉《とら》へられ |暗《くら》き|一間《ひとま》に|幽閉《いうへい》されて
|面白《おもしろ》からぬ|月日《つきひ》を|送《おく》る|吾《わが》|身《み》の|上《うへ》 |朝《あさ》に|夕《ゆふべ》に|涙《なみだ》の|袖《そで》を|絞《しぼ》りつつ
|恋《こひ》しき|人《ひと》の|行方《ゆくへ》を|尋《たづ》ね |夢《ゆめ》になりとも|吾《わが》|恋《こ》ふる
|月鉾《つきほこ》|神《かみ》に|会《あ》はせかしと |木花姫《このはなひめ》の|御前《おんまへ》に
|祈《いの》りし|甲斐《かひ》もあら|悲《かな》しや ホーロケースの|横恋慕《よこれんぼ》
|牢獄《ひとや》の|暗《くら》き|吾《わが》|居間《ゐま》に |夜《よ》な|夜《よ》な|来《きた》りてかき|口説《くど》く
|其《その》|言《こと》の|葉《は》の|厭《いや》らしさ |消《き》え|入《い》りたくは|思《おも》へ|共《ども》
|神《かみ》ならぬ|身《み》の|如何《いか》にせむ |逃《のが》るる|由《よし》もなくばかり
|恋《こひ》しき|人《ひと》は|来《き》まさずに |蝮《まむし》の|如《ごと》く|忌《い》み|嫌《きら》ふ
|醜《しこ》の|曲霊《まがひ》の|執念深《しふねんぶか》く |朝《あさ》な|夕《ゆふ》なに|附《つ》け|狙《ねら》ふ
バラモン|教《けう》の|神司《かむづかさ》 |吾《わが》|身《み》に|翼《つばさ》あるならば
|牢獄《ひとや》の|窓《まど》を|飛《と》び|越《こ》えて |恋《こひ》しき|主《ぬし》が|御許《おんもと》に
|天翔《あまかけ》り|行《ゆ》かむものを あゝもどかしや|苦《くる》しや』と
|小声《こごゑ》になつて|涙《なみだ》と|共《とも》に|掻口説《かきくど》く。
○
|折《をり》しもあれや|館内《くわんない》|俄《にはか》に|騒々《さうざう》しく |数多《あまた》の|人々《ひとびと》|右往左往《うわうさわう》に|逃《に》げ|惑《まど》ふ
|其《その》|様子《やうす》の|一方《ひとかた》ならざるに マリヤス|姫《ひめ》は『|真道彦命《まみちひこのみこと》
|味方《みかた》を|数多《あまた》|引連《ひきつ》れて |弔戦《とむらひいくさ》に|向《むか》ひ|玉《たま》ひしか
|但《ただし》は|日楯《ひたて》、|月鉾《つきほこ》の|二人《ふたり》 |数多《あまた》の|神軍《しんぐん》を|引率《いんそつ》して
|茲《ここ》に|現《あら》はれ|玉《たま》ひしか |何《なん》とはなしに|吾《わ》が|心《こころ》
|勇《いさ》ましくなりぬ あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ』
と|思《おも》はず|合掌《がつしやう》する。|其処《そこ》へ|密室《みつしつ》の|戸《と》を|荒《あら》かに|押開《おしあ》けて、|形相《ぎやうさう》|凄《すさ》まじく|入《い》り|来《きた》れるホーロケースは、
『ヤア、マリヤス|姫《ひめ》、|変事《へんじ》|突発《とつぱつ》|致《いた》した。サア|吾《わ》れに|続《つづ》いて|来《きた》れ』
と|無理《むり》に|引《ひ》つ|抱《かか》へ、|此《この》|場《ば》を|逃《に》げ|出《いだ》さむとする|其《その》|周章《あわて》|加減《かげん》、マリヤス|姫《ひめ》はキツとなり、
『|仮《か》りにもバラモン|教《けう》の|神司《かむづかさ》、|数多《あまた》の|部下《ぶか》を|引率《いんそつ》し|玉《たま》ふ|御身《おんみ》を|以《もつ》て、|其《その》|周章《あわて》|方《かた》は|何事《なにごと》ぞ。|先《ま》づ|先《ま》づ|鎮《しづ》まり|玉《たま》へ。|様子《やうす》を|承《うけたま》はりし|上《うへ》にては、あなたの|御後《おあと》に|従《したが》ひ、|参《まゐ》らうも|知《し》れませぬ』
とワザとに|落付払《おちつきはら》つて、|時《とき》を|移《うつ》さうとする。ホーロケースは、
『|時《とき》|遅《おく》れては|一大事《いちだいじ》』
と|有無《うむ》を|言《い》はせず、|小脇《こわき》にひんだき、|密室《みつしつ》を|駆出《かけいだ》さむとする|時《とき》しも、|日楯《ひたて》、|月鉾《つきほこ》の|両人《りやうにん》は、|琉《りう》、|球《きう》の|玉《たま》の|威徳《ゐとく》に|感《かん》じたりけむ、|身体《しんたい》より|強烈《きやうれつ》なる|五色《ごしき》の|光《ひかり》を|放射《はうしや》し|乍《なが》ら、|此《この》|場《ば》に|現《あら》はれ|来《きた》り、
|両人《りやうにん》『ヤア、ホーロケース、|暫《しばら》く|待《ま》たれよ』
と|声《こゑ》をかけた。ホーロケースは|転《こ》けつ|輾《まろ》びつ、マリヤス|姫《ひめ》を|後《あと》に|残《のこ》し、|数多《あまた》の|部下《ぶか》と|共《とも》に、|雲《くも》を|霞《かすみ》と|夜陰《やいん》に|紛《まぎ》れ、|何処《いづこ》ともなく|姿《すがた》を|隠《かく》した。
|月鉾《つきほこ》『あゝマリヤス|姫《ひめ》|殿《どの》、|御無事《ごぶじ》で|御座《ござ》つたか、|芽出度《めでた》い|芽出度《めでた》い。これと|云《い》ふも|全《まつた》く、|大神様《おほかみさま》の|御恵《おめぐ》み』
と|両手《りやうて》を|合《あは》せて、|感謝《かんしや》の|涙《なみだ》を|流《なが》して|居《ゐ》る。
マリヤス|姫《ひめ》は|夢《ゆめ》か|現《うつつ》か|幻《まぼろし》かと、|飛《と》び|立《た》つ|計《ばか》り|喜《よろこ》び|勇《いさ》み、あたりをキヨロキヨロ|見廻《みまは》し|乍《なが》ら、ヤツと|胸《むね》を|撫《な》でおろし、
マリヤス『|悲《かな》しき|恐《おそ》ろしき|苦《くる》しき|所《ところ》へお|越《こ》し|下《くだ》さいまして、|妾《わたし》を|救《すく》ひ|賜《たま》はり、|嬉《うれ》しいやら、|有難《ありがた》いやら、|何《なん》とも|申上《まをしあ》ぐる|言葉《ことば》は|御座《ござ》いませぬ。……|日楯《ひたて》|様《さま》、|月鉾《つきほこ》|様《さま》、|最早《もはや》|館《やかた》の|内《うち》は|別状《べつじやう》は|御座《ござ》いませぬか』
と|云《い》ひつつ、|月鉾《つきほこ》にすがり|着《つ》いた。
|月鉾《つきほこ》『マリヤス|姫《ひめ》|殿《どの》、|御安心《ごあんしん》なさりませ。|最早《もはや》|敵《てき》は|残《のこ》らず|散乱《さんらん》|致《いた》しました。|今後《こんご》の|警戒《けいかい》が|最《もつと》も|肝要《かんえう》で|御座《ござ》います。まづまづ|御心《おこころ》を|落着《おちつ》けられよ』
|日楯《ひたて》『サアサア、|皆《みな》さま、|打揃《うちそろ》うて|神前《しんぜん》に|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》|致《いた》しませう』
|茲《ここ》に|玉藻山《たまもやま》の|聖地《せいち》は|再《ふたた》び、|三五教《あななひけう》に|返《かへ》り、|宏大《くわうだい》なる|神殿《しんでん》は|造営《ざうえい》され、|日楯《ひたて》、|月鉾《つきほこ》の|声名《せいめい》は|遠近《をちこち》に|押《お》し|拡《ひろ》まり、|旭日昇天《きよくじつしようてん》の|勢《いきほひ》となり|来《き》たれり。あゝ|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》。
(大正一一・八・六 旧六・一四 松村真澄録)
(昭和一〇・六・六 王仁校正)
第四章 |淡渓《たんけい》の|流《ながれ》〔八〇四〕
|真道彦命《まみちひこのみこと》はホーロケースの|軍勢《ぐんぜい》に|包囲《はうゐ》|攻撃《こうげき》され、|言霊《ことたま》を|発射《はつしや》したれども、|何故《なにゆゑ》か|少《すこ》しも|効力《かうりよく》|現《あら》はれず、|遂《つひ》にはホーロの|鋭《するど》き|槍先《やりさき》に|胸《むね》を|刺《さ》されて、アワヤ|亡《ほろ》びむとする|時《とき》しもあれ、|木花姫《このはなひめ》の|化身《けしん》に|救《すく》はれ、|館《やかた》を|棄《す》てて、|二三《にさん》の|従者《じゆうしや》と|共《とも》に、|新高山《にひたかやま》の|峰《みね》|続《つづ》き、アーリス|山《ざん》の|渓谷《けいこく》に|逃《のが》れ、|谷間《たにま》の|凹所《あふしよ》に|草庵《さうあん》を|結《むす》び、あたりの|果物《くだもの》などを|食《しよく》しつつ|神《かみ》を|祈《いの》り、|時《とき》の|到《いた》るを|待《ま》ちつつあつた。
|頃《ころ》しもあれや、|絶壁《ぜつぺき》の|谷《たに》の|傍《かたはら》に|当《あた》つて、|阿鼻叫喚《あびけうくわん》の|声《こゑ》|切《しき》りに|聞《きこ》え|来《きた》る。|何事《なにごと》ならむと|仰《あふ》ぎ|見《み》れば、|二人《ふたり》の|男女《なんによ》|谷《たに》を|指《さ》し、『アレヨアレヨ』と、|狂気《きやうき》の|如《ごと》く|叫《さけ》び|廻《まは》つて|居《ゐ》る。|飛沫《ひまつ》を|飛《と》ばす|大激流《だいげきりう》に|籐《とう》にて|編《あ》みたる|籠《かご》|一個《いつこ》、|浮《う》きつ|沈《しづ》みつ|流《なが》れ|下《くだ》るを|見《み》、|直《ただち》に|真道彦命《まみちひこのみこと》は|三人《さんにん》の|従者《じゆうしや》に|命《めい》じ、『|彼《あ》の|籠《かご》を|拾《ひろ》ひ|来《きた》れよ』と|命《めい》じた。され|共《ども》|滝《たき》の|如《ごと》き|激流《げきりう》、|近《ちか》よるべくも|非《あら》ず、|一生懸命《いつしやうけんめい》に|拍手《はくしゆ》し|乍《なが》ら|言霊《ことたま》を|奏上《そうじやう》した。
|籠《かご》は|不思議《ふしぎ》にも|渦巻《うづまき》にまかれて、|真道彦《まみちひこ》が|足下《あしもと》の|淵《ふち》にキリキリと|舞《ま》ひ|寄《よ》つた。|直《ただち》に|三人《さんにん》の|従者《じゆうしや》は|籠《かご》を|拾《ひろ》ひ|上《あ》げ、|庵《いほり》の|前《まへ》に|担《かつ》ぎ|来《きた》り、|中《なか》を|改《あらた》め|見《み》れば、|容色《ようしよく》|端麗《たんれい》にして|品格《ひんかく》|高《たか》き|一人《ひとり》の|美女《びぢよ》、|高手小手《たかてこて》に|縛《いましめ》られ、|気絶《きぜつ》して|居《ゐ》た。|四人《よにん》は|驚《おどろ》き、|直《ただち》に|籠《かご》より|引出《ひきいだ》し、|水《みづ》を|吐《は》かせ|縛《いましめ》を|解《と》き、いろいろと|手《て》を|尽《つく》して|漸《やうや》く|蘇生《そせい》せしむる|事《こと》を|得《え》た。
|向《むか》ふの|河岸《かはぎし》に|立《た》てる|二人《ふたり》の|男女《なんによ》は、|両手《りやうて》をあげて|歓呼《くわんこ》し、|或《あるひ》は|両手《りやうて》を|合《あは》せ|此方《こなた》に|向《むか》つて|感謝《かんしや》の|意《い》を|表《へう》して|居《ゐ》る。
|蘇生《そせい》せし|美人《びじん》は|余《あま》りの|疲労《ひらう》に、|言葉《ことば》も|発《はつ》し|得《え》ず、|僅《わづか》に|目《め》を|開《ひら》き、|口《くち》をモガモガさせ|乍《なが》ら、|何《なに》か|言《い》はむとするものの|如《ごと》くであつた。|斯《か》くする|事《こと》|半日《はんにち》|許《ばか》り、|日《ひ》は|漸《やうや》く|新高山《にひたかやま》の|峰《みね》に|没《ぼつ》し、|四面《しめん》|暗黒《あんこく》に|閉《とざ》された。|四人《よにん》は|代《かは》る|代《がは》る|祝詞《のりと》を|奏上《そうじやう》し、|漸《やうや》く|暁《あかつき》の|烏《からす》の|声《こゑ》、|彼方《あなた》|此方《こなた》の|谷《たに》の|木《こ》の|間《ま》に|聞《きこ》え|始《はじ》めた。
|此《この》|時《とき》|何処《いづこ》より|渡《わた》り|来《きた》りけむ、|二人《ふたり》の|男女《なんによ》|此《この》|場《ば》に|現《あら》はれ、|女《をんな》の|手《て》を|取《と》り、
『ヤーチン|姫様《ひめさま》、よくマア|無事《ぶじ》で|居《ゐ》て|下《くだ》さりました。キーリスタン、ユリコ|姫《ひめ》で|御座《ござ》います』
|此《この》|声《こゑ》にヤーチン|姫《ひめ》はハツと|気《き》が|付《つ》き、
『アヽ|嬉《うれ》しや、|両人《りやうにん》よくマア|来《き》て|下《くだ》さつた。|何《いづ》れの|方《かた》かは|知《し》りませぬが、|危《あやふ》き|所《ところ》をお|助《たす》け|下《くだ》さつた。どうぞ|両人《りやうにん》より|宜《よろ》しく|御礼《おれい》を|申《まを》して|下《くだ》さい』
|両人《りやうにん》は|真道彦命《まみちひこのみこと》に|向《むか》つて、|大地《だいち》に|両手《りやうて》をつき、
|両人《りやうにん》『|有難《ありがた》う|御座《ござ》います』
と|云《い》つた|限《き》りあとは|嬉《うれ》し|涙《なみだ》にかき|暮《く》れて、|無言《むごん》の|儘《まま》|俯《うつ》むいて|居《ゐ》る。
|真道彦《まみちひこ》『|世《よ》の|中《なか》は|相身互《あひみたがひひ》、|御礼《おれい》を|言《い》はれては|却《かへつ》て|吾々《われわれ》の|親切《しんせつ》が|無《む》になります。マアマアゆるりと|御休《おやす》み|下《くだ》さいませ』
と|奥《おく》の|一間《ひとま》に|三人《さんにん》を|引入《ひきい》れ、あたりの|木々《きぎ》の|果物《くだもの》を|取《と》り|来《きた》りて|饗応《きやうおう》し、|種々《いろいろ》の|物語《ものがたり》に|時《とき》を|移《うつ》した。
|谷《たに》の|彼方《あなた》にはサアルボース、ホーロケースの|部下《ぶか》の|者共《ものども》、ヤーチン|姫《ひめ》の|最後《さいご》を|見届《みとど》けむと|右往左往《うわうさわう》にさざめき|乍《なが》ら、|渓流《けいりう》の|面《おもて》を|見《み》つめて|居《ゐ》た。|庵《いほり》の|中《なか》より|真道彦命《まみちひこのみこと》は|此《この》|体《てい》を|覗《のぞ》き|見《み》て、|三人《さんにん》に|警戒《けいかい》を|与《あた》へ、|暗《やみ》に|乗《じやう》じて|谷間《たにま》を|流《ながれ》に|添《そ》うて|遡《さかのぼ》り、アーリス|山《ざん》を|渉《わた》り、|漸《やうや》くにして|玉藻《たまも》の|湖水《こすい》の|畔《ほとり》に|着《つ》いた。
|日楯《ひたて》、|月鉾《つきほこ》の|二人《ふたり》は|再《ふたた》び|聖地《せいち》を|恢復《くわいふく》し、|教勢《けうせい》|旭日昇天《きよくじつしようてん》の|如《ごと》く|天下《てんか》に|輝《かがや》きたれ|共《ども》、|吾《わが》|父《ちち》の|行方《ゆくへ》の|不明《ふめい》なるに|心《こころ》を|痛《いた》め、|湖水《こすゐ》の|畔《ほとり》に|来《きた》つて|御禊《みそぎ》を|修《しう》し、|祈願《きぐわん》をこむる|時《とき》であつた。|数百《すうひやく》の|取次《とりつぎ》|信徒《しんと》は|此処《ここ》に|集《あつ》まり、|共《とも》に|感謝《かんしや》|祈願《きぐわん》の|詞《ことば》を|奏上《そうじやう》し|居《を》る|際《さい》であつた。|真道彦命《まみちひこのみこと》はヤーチン|姫《ひめ》、ユリコ|姫《ひめ》、キールスタン|其《その》|外《ほか》|三人《みたり》の|従者《じゆうしや》と|共《とも》に|此処《ここ》に|帰《かへ》り|来《きた》り、|数多《あまた》の|人々《ひとびと》の|祈《いの》りの|声《こゑ》を|聞《き》いて、|暗《やみ》を|幸《さいは》ひ、|木蔭《こかげ》に|身《み》を|潜《ひそ》め、|様子《やうす》を|伺《うかが》ひつつあつた。
|真道彦命《まみちひこのみこと》は|聖地《せいち》の|大変《たいへん》より、|深《ふか》くアーリス|山《ざん》の|渓谷《けいこく》に|身《み》を|隠《かく》し、|世《よ》を|忍《しの》び|居《ゐ》たりし|事《こと》とて、|玉藻山《たまもやま》の|霊地《れいち》は|再《ふたた》び|三五教《あななひけう》に|取返《とりかへ》され、|吾《わが》|子《こ》の|日楯《ひたて》、|月鉾《つきほこ》の|二人《ふたり》が|三五教《あななひけう》を|開《ひら》き|居《ゐ》る|事《こと》を|夢《ゆめ》にも|知《し》らなかつた。それ|故《ゆゑ》|今《いま》|此《この》|多人数《たにんずう》の|祈《いの》りの|声《こゑ》を|聞《き》いて、|若《も》しやホーロケースの|一派《いつぱ》にはあらざるかと、|深《ふか》く|心《こころ》を|痛《いた》めつつあつたのである。
|日楯《ひたて》は|御禊《みそぎ》を|終《をは》り、|衆人《しうじん》の|中《なか》に|立《た》ち、|宣伝歌《せんでんか》を|謡《うた》ひ|始《はじ》めたり。
『|神《かみ》が|表《おもて》に|現《あら》はれて |善《ぜん》と|悪《あく》とを|立分《たてわ》ける
|此《この》|世《よ》を|造《つく》りし|神直日《かむなほひ》 |心《こころ》も|広《ひろ》き|大直日《おほなほひ》
|唯《ただ》|何事《なにごと》も|人《ひと》の|世《よ》は |直日《なほひ》に|見直《みなほ》せ|聞直《ききなほ》せ
|身《み》の|過《あやま》ちは|宣《の》り|直《なほ》せ |必《かなら》ず|人《ひと》を|恨《うら》むなと
|三五教《あななひけう》の|御教《おんをしへ》 さはさり|乍《なが》ら さり|乍《なが》ら
|吾等《われら》|兄弟《きやうだい》|両人《りやうにん》は |三五教《あななひけう》の|神司《かむづかさ》
|国治立大神《くにはるたちのおほかみ》の |清《きよ》き|教《をしへ》を|宣《の》べ|伝《つた》ふ
|誠《まこと》の|道《みち》の|宣伝使《せんでんし》 |真道《まみち》の|彦《ひこ》の|生《う》みませる
|三五教《あななひけう》の|取次《とりつぎ》ぞ |仮令《たとへ》|天地《てんち》が|変《かは》る|共《とも》
|親《おや》と|現《あ》れます|吾《あ》が|恋《こ》ふる |真道《まみち》の|彦《ひこ》の|御行方《おんゆくへ》
|此《この》|儘《まま》|見捨《みす》てておかれやうか |定《さだ》めなき|世《よ》と|言《い》ひ|乍《なが》ら
|何処《いづく》の|空《そら》にましますぞ バラモン|教《けう》の|神司《かむづかさ》
ホーロケースや|其《その》|外《ほか》の |魔神《まがみ》の|為《ため》に|捉《とら》はれて
|百千万《ももちよろづ》の|苦《くるし》みを |受《う》けさせ|玉《たま》ふに|非《あら》ざるか
|思《おも》へば|思《おも》へばあぢきなき |吾《わが》|身《み》の|上《うへ》よ|身《み》の|果《は》てよ
|父《ちち》が|此《この》|世《よ》にましまさば |一日《ひとひ》も|早《はや》く|片時《かたとき》も
|皇大神《すめおほかみ》の|恵《めぐみ》にて |一目《ひとめ》なりとも|会《あ》はせかし
せめては|空《そら》|行《ゆ》く|雁《かりがね》の |便《たよ》りもがなと|朝夕《あさゆふ》に
|祈《いの》る|吾等《われら》が|真心《まごころ》を |汲《く》ませ|玉《たま》へよ|天津神《あまつかみ》
|国津神《くにつかみ》|達《たち》|八百万《やほよろづ》 |高砂島《たかさごじま》を|守《まも》ります
|竜世《たつよ》の|姫《ひめ》の|御前《おんまへ》に |心《こころ》を|清《きよ》め|身《み》を|浄《きよ》め
|慎《つつし》み|敬《うやま》ひ|祈《ね》ぎまつる。 |朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも
|月《つき》は|盈《み》つ|共《とも》|虧《か》くる|共《とも》 |高砂島《たかさごじま》は|沈《しづ》むとも
|誠《まこと》の|心《こころ》は|世《よ》を|救《すく》ふ |神《かみ》の|宣《の》らせし|太祝詞《ふとのりと》
|確《たし》かに|証兆《しるし》あるならば |吾《わが》|願言《ねぎごと》を|聞《き》こしめせ
|玉藻《たまも》の|山《やま》は|日《ひ》に|月《つき》に |神《かみ》の|光《ひかり》も|輝《かがや》きて
|旭《あさひ》の|豊栄《とよさか》|登《のぼ》るごと |栄《さか》えませ|共《ども》あが|父《ちち》の
|居《ゐ》まさぬ|事《こと》の|淋《さび》しさよ |風《かぜ》|吹《ふ》く|度《たび》に|父《ちち》の|身《み》を
|思《おも》ひ|悩《なや》ませ|雨《あめ》の|宵《よひ》 |霧《きり》の|晨《あした》に|大前《おほまへ》に
あが|国人《くにびと》の|安全《あんぜん》を |祈《いの》る|傍《かたはら》|父《ちち》の|身《み》の
|恙《つつが》なかれと|祈《いの》るこそ |日楯《ひたて》、|月鉾《つきほこ》|両人《りやうにん》が
|尽《つ》きせぬ|願《ねがひ》ときこし|召《め》せ |神《かみ》は|吾等《われら》と|倶《とも》にあり
|神《かみ》は|汝《なんぢ》と|倶《とも》にあり とは|言《い》ふものの|情《なさけ》なや
|日《ひ》に|夜《よ》に|研《みが》きし|吾《あが》|魂《たま》も |父《ちち》を|慕《した》ひし|恩愛《おんあい》の
|涙《なみだ》に|心《こころ》|曇《くも》り|果《は》て |生死《せいし》の|程《ほど》も|弁《わきま》へぬ
|暗《くら》き|身魂《みたま》ぞ|悲《かな》しけれ アヽ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ』
と|兄弟《きやうだい》は|互《たがひ》に|手《て》を|取《と》り、|足《あし》を|揃《そろ》へて|踊《をど》りつ、|舞《ま》ひつ、|祈《いの》りを|捧《ささ》げて|居《ゐ》る。
|此《この》|歌《うた》を|聞《き》いて、|真道彦命《まみちひこのみこと》は|始《はじ》めて|吾《わが》|子《こ》の|消息《せうそく》を|知《し》り、|且《か》つ|三五教《あななひけう》の|様子《やうす》を|略《ほぼ》|悟《さと》り、|欣喜雀躍《きんきじやくやく》の|余《あま》り|此《この》|場《ば》に|立出《たちい》で、|二人《ふたり》の|吾《わが》|子《こ》に|飛《と》びつかんかと|許《ばか》り|気《き》をいらだてた。され|共《ども》、|傍《かたはら》にヤーチン|姫《ひめ》|其《その》|他《た》の|人々《ひとびと》のあるに|心《こころ》を|奪《うば》はれ、|轟《とどろ》く|胸《むね》をヂツと|怺《こら》へて、|心《こころ》|静《しづ》かに|成行《なりゆき》を|見守《みまも》つて|居《ゐ》た。
(大正一一・八・六 旧六・一四 松村真澄録)
第五章 |難有迷惑《ありがためいわく》〔八〇五〕
|日楯《ひたて》、|月鉾《つきほこ》の|両《りやう》|教主《けうしゆ》は|数多《あまた》の|取次《とりつぎ》|信徒《しんと》|等《ら》に|取巻《とりま》かれ、|数多《あまた》の|松明《たいまつ》を|点《てん》じ|乍《なが》ら、|湖《みづうみ》の|畔《ほとり》を|長蛇《ちやうだ》の|陣《ぢん》を|作《つく》り、|蜿蜒《えんえん》として|玉藻山《たまもやま》の|聖地《せいち》を|指《さ》して|帰《かへ》り|行《ゆ》く。|松明《たいまつ》の|火光《くわくわう》は|湖面《こめん》に|映《えい》じ、|恰《あたか》も|水中《すゐちう》に|火竜《ひりよう》の|泳《およ》ぐが|如《ごと》く、|壮観《さうくわん》|譬《たと》ふるに|物《もの》なき|眺《なが》めなりけり。
|真道彦命《まみちひこのみこと》は|松明《たいまつ》の|後《うしろ》より、ヤーチン|姫《ひめ》、ユリコ|姫《ひめ》、キールスタンと|共《とも》に|一行《いつかう》に|従《したが》ひ、|聖地《せいち》に|帰《かへ》り|着《つ》いた。されど、|夜中《よなか》の|事《こと》と|云《い》ひ、|最後《さいご》より|来《きた》りし|事《こと》とて、|気《き》の|付《つ》く|者《もの》は|一人《ひとり》もなかりけり。
|日楯《ひたて》、|月鉾《つきほこ》の|二人《ふたり》は|新《あらた》に|建造《けんざう》されたる|神殿《しんでん》に|進《すす》み|入《い》り、『|父《ちち》|真道彦命《まみちひこのみこと》の|一日《ひとひ》も|早《はや》く|行方《ゆくへ》の|分《わか》りますよう』……と|一心不乱《いつしんふらん》に|祈念《きねん》をし|居《ゐ》たり。
そこへ|衆人《しうじん》を|掻《か》き|分《わ》け、|悠々《いういう》として|現《あら》はれ|出《い》でたる|真道彦命《まみちひこのみこと》は、|先《ま》づ|第一《だいいち》に|神前《しんぜん》に|向《むか》つて|拍手《はくしゆ》し|祝詞《のりと》を|奏上《そうじやう》し|始《はじ》めた。|二人《ふたり》の|兄弟《きやうだい》は|其《その》|姿《すがた》と|云《い》ひ、|声《こゑ》と|云《い》ひ、|且《か》つ……|吾《わ》が|前《まへ》に|出《い》でて|祝詞《のりと》を|奏上《そうじやう》する|者《もの》は、|三五教《あななひけう》に|一人《ひとり》もなし、|正《まさ》しく|神《かみ》の|顕現《けんげん》か、|但《ただし》は|吾《わが》|父《ちち》の|帰《かへ》りませしにあらずや……と|心中《しんちう》に|且《か》つ|疑《うたが》ひ、|且《か》つ|歓《よろこ》び、|祝詞《のりと》の|終《をは》るを|待《ま》つて|居《ゐ》た。
|真道彦命《まみちひこのみこと》は|拝礼《はいれい》を|了《をは》り、|一同《いちどう》に|目礼《もくれい》をなし、|兄弟《きやうだい》の|手《て》を|握《にぎ》り、|涙《なみだ》を|流《なが》し|乍《なが》ら、
『|吾《わ》れは|久《ひさ》しく|此《この》|聖地《せいち》を|逃《のが》れ|居《ゐ》たる|汝《なんぢ》が|父《ちち》なるぞ。よくマア|無事《ぶじ》に|生《い》き|永《なが》らへしのみならず、|再《ふたた》び|聖場《せいぢやう》を|復興《ふくこう》し|得《え》たるは、|全《まつた》く|汝等《なんぢら》が|信仰《しんかう》の|真心《まごころ》を、|三五教《あななひけう》の|大神《おほかみ》|御照覧《ごせうらん》|遊《あそ》ばし、|厚《あつ》く|守《まも》らせ|玉《たま》ふものならむ。あゝ|有難《ありがた》や、|辱《かたじけ》なや』
と|落涙《らくるい》に|咽《むせ》び、|嬉《うれ》しさ|余《あま》つて、|其《その》|場《ば》にハタと|打倒《うちたふ》れけり。
これを|聞《き》きたる|数多《あまた》の|取次《とりつぎ》、|信徒《しんと》|等《ら》は|一斉《いつせい》に|神徳《しんとく》を|讃美《さんび》し、|神恩《しんおん》を|感謝《かんしや》し、|欣喜雀躍《きんきじやくやく》の|余《あま》り、|夜《よ》の|明《あ》くるも|知《し》らずに、|直会《なほらひ》の|宴《えん》に、|日三日《ひみつか》、|夜三夜《よるみよさ》を|費《つひ》やしけるが、|玉藻《たまも》の|聖地《せいち》|開設《かいせつ》|以来《いらい》の|大盛宴《だいせいえん》なりける。
|真道彦命《まみちひこのみこと》は|日楯《ひたて》、|月鉾《つきほこ》|二人《ふたり》の|兄弟《きやうだい》に、|美《うる》はしき|館《やかた》を|作《つく》られ、そこに|老《おい》の|身《み》を|養《やしな》ふこととなりぬ。されど|真道彦《まみちひこ》は|年齢《ねんれい》に|似合《にあ》はず、|神徳《しんとく》、|霊肉《れいにく》|共《とも》に|充実《じゆうじつ》して|若々《わかわか》しく、|元気《げんき》も|亦《また》|壮者《さうしや》を|凌《しの》ぐ|許《ばか》りなり。
|玉藻《たまも》の|湖水《こすゐ》は|東西《とうざい》|十五里《じうごり》、|南北《なんぽく》|八里《はちり》、|山中《さんちう》にては|可《か》なり|大《だい》なる|湖水《こすゐ》なり。|玉藻山《たまもやま》の|霊地《れいち》は|殆《ほとん》ど|其《その》|中心《ちうしん》に|位《くらゐ》し、|東《ひがし》の|端《はし》に|天嶺《てんれい》といふ|小高《こだか》き|樹木《じゆもく》|密生《みつせい》せる|景勝《けいしよう》の|山地《さんち》があつた。そこに|日楯《ひたて》をして|守《まも》らしめ、|神殿《しんでん》を|新《あらた》に|造《つく》り、|政教一致《せいけういつち》の|道《みち》を|布《し》かしめた。さうしてユリコ|姫《ひめ》を|宮司《みやつかさ》とし、|聖地《せいち》の|東方《とうはう》を|固《かた》めしめ、|真道彦命《まみちひこのみこと》は|玉藻山《たまもやま》の|霊場《れいぢやう》に|在《あ》つて、|老後《らうご》を|養《やしな》ひつつヤーチン|姫《ひめ》を|奉《ほう》じ、|神業《しんげふ》に|奉仕《ほうし》して|居《ゐ》た。
|玉藻湖《たまもこ》の|西端《せいたん》には|泰嶺《たいれい》と|云《い》ふ|霊山《れいざん》があつた。そこには|月鉾《つきほこ》を|配置《はいち》し、マリヤス|姫《ひめ》を|神司《かむづかさ》として|奉仕《ほうし》せしめつつありき。|玉藻山《たまもやま》|以東《いとう》を|日潭《につたん》の|聖地《せいち》と|称《しよう》し、|以西《いせい》を|月潭《げつたん》の|霊地《れいち》と|称《とな》へ、オレオン|星《せい》の|如《ごと》く|三座《さんざ》|相並《あひなら》びて、|三五教《あななひけう》の|神業《しんげふ》に|奉仕《ほうし》し、|其《その》|稜威《みいづ》は|台湾《たいわん》|全島《ぜんたう》に|轟《とどろ》き|渡《わた》り、|新高山《にひたかやま》の|山麓《さんろく》なる|泰安《たいあん》の|都《みやこ》にまで、|其《その》|勢力《せいりよく》は|轟《とどろ》いて|居《ゐ》た。
|泰嶺《たいれい》の|鎮守《ちんじゆ》として|使《つか》へたる|月鉾《つきほこ》は|神《かみ》の|命《めい》により|独身《どくしん》|生活《せいくわつ》を|続《つづ》け|居《ゐ》たり。マリヤス|姫《ひめ》は|何時《いつ》とはなしに|月鉾《つきほこ》に|対《たい》し|恋慕《れんぼ》の|念《ねん》|起《おこ》り、|矢《や》も|楯《たて》もたまらず、|神業《しんげふ》を|閑却《かんきやく》して|昼夜《ちうや》の|区別《くべつ》なく、|月鉾《つきほこ》に|対《たい》し|心《こころ》を|奪《うば》はれ、|隙《すき》ある|毎《ごと》に|寄《よ》り|添《そ》ひて、|種々《いろいろ》と|思《おも》ひの|丈《たけ》を|述《の》べ|立《た》つるのであつた。されど|月鉾《つきほこ》は|信心《しんじん》|堅固《けんご》にして、|神《かみ》の|命《めい》をよく|守《まも》り、|且《か》つマリヤス|姫《ひめ》は|泰安《たいあん》の|都《みやこ》にましますカールス|王《わう》の|妹《いもうと》たる|尊《たふと》き|身《み》の|上《うへ》なる|事《こと》を|知《し》り|居《ゐ》たれば、|手厳《てきび》しく|戒《いまし》むる|事《こと》も|得《え》せず、|又《また》|放逐《はうちく》する|事《こと》も|得《え》ずして、|心《こころ》の|限《かぎ》り|尊敬《そんけい》を|払《はら》つて|居《ゐ》た。マリヤス|姫《ひめ》の|恋路《こひぢ》は|益々《ますます》|猛烈《まうれつ》となり、|遂《つひ》には|取次《とりつぎ》|信徒《しんと》|等《ら》の|端《はし》に|至《いた》る|迄《まで》、|月鉾《つきほこ》とマリヤス|姫《ひめ》の|間《あひだ》に|温《あたた》かき|関係《くわんけい》の|結《むす》ばれある|事《こと》を|固《かた》く|信《しん》じいたりけり。|月鉾《つきほこ》は|神命《しんめい》と|姫《ひめ》との|板挟《いたばさ》みとなつて、|日夜《にちや》|苦慮《くりよ》しつつ|其《その》|日《ひ》を|送《おく》り|居《ゐ》たり。|又《また》|日楯《ひたて》はユリコ|姫《ひめ》と|共《とも》に|夫婦《ふうふ》となり|睦《むつ》まじく|神業《しんげふ》に|参加《さんか》し|居《ゐ》たり。
|老《おい》たりとは|云《い》へ、|未《いま》だ|元気《げんき》|旺盛《わうせい》なる|真道彦命《まみちひこのみこと》は|妻《つま》に|先立《さきだ》たれ、|独身《どくしん》の|生活《せいくわつ》を|続《つづ》けて、|余生《よせい》を|此《この》|聖地《せいち》に|送《おく》り|居《ゐ》たるが、ヤーチン|姫《ひめ》は|危《あやふ》き|生命《いのち》を|救《すく》はれたる|真道彦《まみちひこ》に|対《たい》して|何時《いつ》とはなしに|恋《こひ》に|落《お》ち、|昼夜《ちうや》|煩悶《はんもん》の|結果《けつくわ》、|面《おも》やつれ、|身体《しんたい》|骨立《こつりつ》し、|遂《つひ》には|重《おも》き|病《やまひ》の|床《とこ》に|就《つ》きける。
|侍女《じぢよ》のユリコ|姫《ひめ》は|天嶺《てんれい》の|聖地《せいち》にあつて、|日楯《ひたて》の|妻《つま》となり、|早《はや》くも|妊娠《にんしん》の|身《み》となり|居《ゐ》たり。それ|故《ゆゑ》ヤーチン|姫《ひめ》の|重病《ぢうびやう》を|看護《かんご》することさへ|出来《でき》ざりき。キールスタンは|昼夜《ちうや》の|別《べつ》なく、|忠実《ちうじつ》に|姫《ひめ》の|看護《かんご》に|全力《ぜんりよく》を|尽《つく》し|居《ゐ》たれ|共《ども》、|姫《ひめ》の|病《やまひ》は|日《ひ》に|日《ひ》に|重《おも》る|計《ばか》りなりける。
|真道彦命《まみちひこのみこと》は|姫《ひめ》の|大病《たいびやう》を|救《すく》はむと、|朝《あさ》な|夕《ゆふ》な|神前《しんぜん》に|祈願《きぐわん》をこらしつつありしか|共《ども》、|少《すこ》しも|其《その》|効験《かうけん》|現《あら》はれず、|尊《たふと》きエーリスの|姫君《ひめきみ》、|如何《いか》にもして、|元《もと》の|身体《からだ》に|回復《くわいふく》せしめむと|心胆《しんたん》を|砕《くだ》き|乍《なが》ら、|病床《びやうしやう》を|見舞《みま》つた。キールスタンは|真道彦命《まみちひこのみこと》の|来《きた》れるに|打喜《うちよろこ》び、|挨拶《あいさつ》も|碌々《ろくろく》になさず、あはてふためきて、ヤーチン|姫《ひめ》の|枕許《まくらもと》に|走《はし》り|寄《よ》り、|耳《みみ》に|口《くち》を|寄《よ》せ、
キールスタン『あなたの|日頃《ひごろ》|恋《こ》はせ|玉《たま》ふ|真道彦命《まみちひこのみこと》|様《さま》が、|今《いま》|茲《ここ》におみえになりました』
と|囁《ささや》きし|此《この》|声《こゑ》に、|姫《ひめ》はムツクと|起上《おきあが》り、さも|嬉《うれ》しげに、|真道彦命《まみちひこのみこと》に|向《むか》ひ、
ヤーチン|姫《ひめ》『|真道彦《まみちひこ》|様《さま》、ようこそ|御親切《ごしんせつ》に|御訪《おたづ》ね|下《くだ》さいました。モウ|妾《わたし》、これぎり|国替《くにがへ》|致《いた》しても、|後《あと》に|残《のこ》る|事《こと》は|御座《ござ》いませぬ。どうぞ|妾《わたし》の|死後《しご》に|於《おい》て、|夢《ゆめ》になりとも|妾《わたし》の|事《こと》を|思《おも》ひ|出《だ》し|玉《たま》ふ|事《こと》あらば、|只《ただ》|一言《ひとこと》なりと|吾《わが》|名《な》をお|呼《よ》び|下《くだ》さいませ。これが|妾《わたし》の|一生《いつしやう》の|願《ねが》ひで|御座《ござ》います』
と|恥《はづ》かしげに|言《い》ひ|終《をは》つて、|枕《まくら》に|顔《かほ》を|伏《ふ》せた。|真道彦《まみちひこ》は|稍《やや》|当惑《たうわく》の|体《てい》にて、|少時《しばし》ためらひ|居《ゐ》たりしが、|斯《か》く|迄《まで》|吾《われ》を|慕《した》へる|此《この》|婦人《ふじん》に|対《たい》し、|今《いま》はの|際《きは》に、|余《あま》り|没義道《もぎだう》にあしらふべきに|非《あら》ず、|何《いづ》れ|死《し》に|行《ゆ》く|運命《うんめい》の|人《ひと》ならば、|優《やさ》しき|言葉《ことば》をかけて、|潔《いさぎよ》く|此《この》|世《よ》を|去《さ》らしむるに|若《し》かじ……と|決心《けつしん》し、|厳然《げんぜん》として|身《み》を|構《かま》へ、
|真道彦《まみちひこ》『ヤーチン|姫殿《ひめどの》、あなたの|尊《たふと》き|御心《おこころ》、|木石《ぼくせき》ならぬ|真道彦《まみちひこ》も|満足《まんぞく》に|存《ぞん》じます。|今迄《いままで》の|貴女《あなた》に|対《たい》する|無情《むじやう》の|罪《つみ》、|御赦《おゆる》し|下《くだ》さいませ』
とキツパリ|言《い》ひ|放《はな》つた。ヤーチン|姫《ひめ》は|此《この》|言葉《ことば》に|何《なん》となく|元気《げんき》づき、|病《やまひ》の|身《み》を|忘《わす》れて|身《み》を|起《おこ》し、|膝《ひざ》を|摺《す》り|寄《よ》せ、|命《みこと》の|顔《かほ》を|打《うち》みまもり、|感謝《かんしや》の|涙《なみだ》をハラハラと|流《なが》し|乍《なが》ら、
ヤーチン『|日頃《ひごろ》|恋《こ》ひ|慕《した》ふ|真道彦命《まみちひこのみこと》|様《さま》、それならあなたは|今日《こんにち》|只今《ただいま》より、ヤーチン|姫《ひめ》の|夫《をつと》、よもや|御冗談《ごじようだん》では|御座《ござ》いますまいなア』
と|念《ねん》を|押《お》したりしに、
|真道《まみち》『エー|勿体《もつたい》ない、|私《わたし》も|神《かみ》に|仕《つか》ふる|身《み》の|上《うへ》、|決《けつ》して|嘘《うそ》は|申《まを》しませぬ』
ヤーチン『そんなら……あなたは|妾《わたし》の|夫《をつと》、モウ|斯《こ》うなる|上《うへ》は、|病《やまひ》|位《くらゐ》は|物《もの》の|数《かず》では|御座《ござ》いませぬ』
と|痩《やせ》こけたる|体《からだ》も|俄《にはか》に|元気《げんき》づき、|顔《かほ》の|色《いろ》さへ|仄紅《ほのあか》く、|直《ただち》に|井戸端《ゐどばた》に|歩《あゆ》み|寄《よ》り、|身《み》を|浄《きよ》め、|自《みづか》ら|衣服《いふく》を|着替《きか》へ、|身繕《みつくろ》ひを|終《をは》つて、|再《ふたた》び|真道彦《まみちひこ》の|前《まへ》に|現《あら》はれ|来《きた》り、
ヤーチン『あゝ|吾《わが》|夫様《つまさま》、|吾《わが》|居間《ゐま》へ|御越《おこ》し|下《くだ》さいませ。いろいろと|申上《まをしあ》げたき|仔細《しさい》が|御座《ござ》います』
と|無理《むり》に|手《て》を|曳《ひ》き、|吾《わが》|居間《ゐま》に|姿《すがた》を|没《ぼつ》したり。
ヤーチン|姫《ひめ》は|吾《わが》|居間《ゐま》に|真道彦命《まみちひこのみこと》を|伴《ともな》ひ、あたりを|密閉《みつぺい》して|両人《りやうにん》|端坐《たんざ》し|声《こゑ》を|私《ひそ》めて、
ヤーチン『カールス|様《さま》、|泰安《たいあん》の|都《みやこ》の|様子《やうす》は|如何《いかが》なりましたか。セールス|姫《ひめ》は|如何《どう》|遊《あそ》ばされました。どうぞ|包《つつ》まず|隠《かく》さず、|御漏《おも》らし|下《くだ》さいませ』
|真道《まみち》『これは|又《また》|異《い》なることを|承《うけたま》はるものかな。|私《わたし》は|祖先代々《そせんだいだい》|此《この》|玉藻《たまも》の|聖地《せいち》に|住居《ぢうきよ》して、|三五教《あななひけう》を|開《ひら》く|者《もの》、|畏《おそ》れ|多《おほ》くも|泰安《たいあん》の|都《みやこ》のカールス|王《わう》などとは|思《おも》ひも|寄《よ》らぬ|御言葉《おことば》、|永《なが》の|御病気《ごびやうき》の|為《ため》に、|精神《せいしん》に|御異状《ごいじやう》を|御来《おきた》し|遊《あそ》ばされ、カールス|王《わう》に、|私《わたし》が|見《み》えたのでせう。|決《けつ》して|私《わたし》は|左様《さやう》な|尊《たふと》き|身分《みぶん》では|御座《ござ》いませぬ。どうぞトツクリと|御検《おあらた》め|下《くだ》され』
とヤーチン|姫《ひめ》の|面前《めんぜん》にワザとに|顔《かほ》をつき|出《だ》して|見《み》せた。ヤーチン|姫《ひめ》は、|兎見《とみ》|斯《こ》う|見《み》し|乍《なが》らニヤリと|笑《わら》ひ、
『|如何《いか》に|御忍《おしの》びの|御身《おんみ》の|上《うへ》なればとて、さう|御隠《おかく》しなさるには|及《およ》びますまい。|妾《わたし》が|淡渓《たんけい》に|投《な》げ|込《こ》まれ、|生命《いのち》|危《あやふ》き|所《ところ》へ|貴方《あなた》は|妾《わたし》を|助《たす》けむと、|先《さき》に|廻《まは》つて|御救《おすく》ひ|下《くだ》さつた|生命《いのち》の|恩人《おんじん》カールス|様《さま》に|間違《まちが》ひは|御座《ござ》いますまい。|最早《もはや》|斯《こ》うなる|上《うへ》は、|御隠《おかく》しなさるには|及《およ》びませぬ。どうぞ|打解《うちと》けて|誠《まこと》の|事《こと》を|仰有《おつしや》つて|下《くだ》さいませ。|何程《なにほど》|御隠《おかく》し|遊《あそ》ばしても、どこから|何処《どこ》まで、|毛筋《けすぢ》の|横巾《よこはば》も|違《ちが》はぬあなたの|御姿《おすがた》、これが|如何《どう》して|別人《べつじん》と|思《おも》へませうか』
|真道《まみち》『これは|聊《いささ》か|迷惑千万《めいわくせんばん》、|能《よ》く|御考《おかんが》へ|遊《あそ》ばしませ。カールス|様《さま》は|未《ま》だ|御年《おんとし》|三十《さんじふ》に|成《な》らせ|玉《たま》はず、|吾《われ》は|最早《もはや》|五十路《いそぢ》の|坂《さか》にかかつて|居《ゐ》る|老《おい》ぼれ|者《もの》、|何程《なにほど》|能《よ》く|似《に》たりとは|言《い》へ、|老者《らうしや》と|壮者《さうしや》、|皮膚《ひふ》の|色《いろ》、|声《こゑ》の|色《いろ》、|決《けつ》して|決《けつ》して|同《おな》じ|筈《はず》は|御座《ござ》いませぬ。|仮令《たとへ》|姿《すがた》は|能《よ》く|似《に》たりと|雖《いへど》も、|月《つき》に|鼈《すつぽん》、|尊卑《そんぴ》の|点《てん》に|於《おい》て|雲泥《うんでい》の|相違《さうゐ》ある|私《わたし》|何卒《なにとぞ》|御心《おこころ》を|鎮《しづ》められ、|真偽《しんぎ》の|御判断《ごはんだん》を|下《くだ》し|遊《あそ》ばす|様《やう》、|御願《おねがひ》|致《いた》します』
ヤーチン『どこまでも|用心《ようじん》|深《ぶか》いあなたの|御言葉《おことば》、|女《をんな》は|嫉妬《しつと》に|大事《だいじ》を|漏《もら》すとの|諺《ことわざ》を|信《しん》じ、|分《わか》り|切《き》つたる|秘密《ひみつ》を、どこまでも|包《つつ》み|隠《かく》さむと|遊《あそ》ばすあなた|様《さま》の|御心根《おこころね》が|恨《うら》めしう|御座《ござ》います。どこまでも|御隠《おかく》し|遊《あそ》ばすならば、|最早《もはや》|是非《ぜひ》も|御座《ござ》いませぬ。|真道彦命《まみちひこのみこと》ならば|真道彦命《まみちひこのみこと》で|宜《よろ》しう|御座《ござ》います。|王様《わうさま》に|間違《まちがひ》は|御座《ござ》いませぬ。どうぞ|此処《ここ》に|改《あらた》めて|結婚《けつこん》の|式《しき》を|御挙《おあ》げ|下《くだ》さいます|様《やう》に|御願《おねがひ》|致《いた》します』
|真道《まみち》『アヽ|困《こま》つたなア。どうしたら|姫様《ひめさま》の|疑《うたがひ》が|晴《は》れるであらうか。|他人《たにん》の|空似《そらに》とは|云《い》ひ|乍《なが》ら|勿体《もつたい》ない、カールス|王様《わうさま》に|能《よ》く|似《に》て|居《ゐ》るとは………|真道彦《まみちひこ》の|何《なん》たる|光栄《くわうえい》であらう。|否《いや》|迷惑《めいわく》であらう。アヽどうしたら|此《この》|難関《なんくわん》が|切《き》り|抜《ぬ》けられようかなア』
とさし|俯《うつむ》いて|溜息《ためいき》をつき|居《ゐ》る。
ヤーチン『|何程《なにほど》|御隠《おかく》し|遊《あそ》ばしても、カールス|王様《わうさま》に|間違《まちがひ》はありませぬ。あなたはサアルボースやホーロケース|両人《りやうにん》の|悪者《わるもの》に|恐《おそ》れて、|淡渓《たんけい》の|畔《ほとり》に|身《み》を|隠《かく》し、|真道彦命《まみちひこのみこと》と|名《な》を|変《か》へて、|此《この》|世《よ》を|偽《いつは》る|卑怯《ひけふ》|未練《みれん》の|御振舞《おふるまひ》、|御父上《おんちちうへ》の|許《ゆる》し|玉《たま》ひし|夫婦《ふうふ》の|仲《なか》、|未《いま》だ|一夜《いちや》も|枕《まくら》を|交《かは》さね|共《ども》、|親《おや》と|親《おや》との|許《ゆる》し|玉《たま》ひし|夫婦《ふうふ》の|間柄《あひだがら》、|誰《たれ》に|遠慮《ゑんりよ》が|御座《ござ》いませう。あなたは|昔《むかし》はエルサレムに|仕《つか》へ|玉《たま》ひし、|天使《てんし》|花森彦命《はなもりひこのみこと》の|御末孫《ごばつそん》、|高国別《たかくにわけ》や|玉手姫《たまてひめ》の|悪神《あくがみ》の|腹《はら》より|生《うま》れ|出《い》でたる、サアルボースや、ホーロケースを|父《ちち》や|叔父《をぢ》に|持《も》つ、セールス|姫《ひめ》が|御気《おき》に|入《い》らぬのは|御尤《ごもつと》もで|御座《ござ》います。さり|乍《なが》ら|何《なに》を|苦《くるし》んで、|泰安《たいあん》の|都《みやこ》を|脱《ぬ》け|出《い》で、あの|様《やう》な|処《ところ》に|身《み》を|隠《かく》し|遊《あそ》ばしたので|御座《ござ》いますか……それはさうと、|妾《わたし》の|生命《いのち》を|助《たす》け|下《くだ》さつたのもヤツパリあなた|様《さま》、|都《みやこ》を|出《い》でさせ|玉《たま》ひし|其《その》|御蔭《おかげ》、|尽《つ》きぬ|縁《えにし》の|証《しるし》にて、|恋《こひ》しきあなたに|助《たす》けられ、|此《この》|里《さと》に|参《まゐ》りましたのも、|結《むす》ぶの|神《かみ》の|引合《ひきあは》せ、これより|夫婦《ふうふ》|心《こころ》を|合《あは》せ、|三五教《あななひけう》の|信徒《しんと》を|引《ひき》つれ、|時《とき》を|見《み》て|泰安《たいあん》の|都《みやこ》に|攻《せ》め|寄《よ》せ、|父《ちち》の|業《げふ》を|御継《おつ》ぎ|遊《あそ》ばす|御所存《ごしよぞん》は|御座《ござ》いませぬか。それさへ|承《うけたま》はらば、|妾《わたし》は|此《この》|儘《まま》|帰幽《きいう》|致《いた》す|共《とも》、あなたの|雄々《をを》しき|心《こころ》を|力《ちから》として、|幽界《いうかい》より|御神業《ごしんげふ》を|御助《おたす》け|申《まを》す|覚悟《かくご》で|御座《ござ》います。|生《いき》ても|死《し》しても、|決《けつ》してあなたの|御側《おそば》を|離《はな》れぬヤーチン|姫《ひめ》の|真心《まごころ》、どうぞ|仇《あだ》に|思召《おぼしめ》し|下《くだ》さいますな』
|真道《まみち》『|私《わたし》には|日楯《ひたて》、|月鉾《つきほこ》と|云《い》ふ|二人《ふたり》の|息子《むすこ》が|御座《ござ》います。|私《わたし》の|妻《つま》は|既《すで》に|此《この》|世《よ》を|去《さ》り、|今《いま》は|此《この》|通《とほ》り|位牌《ゐはい》となつて、|此《この》|神殿《しんでん》に|御祭《おまつ》りして|御座《ござ》いますれば、どうしても|妻《つま》を|持《も》つことは、|私《わたし》として|出来《でき》ませぬ。|併《しか》し|乍《なが》らあなたの|御志《おんこころざし》を|無《む》にするも|情《つれ》なく|存《ぞん》じますれば、|夫婦《ふうふ》の|交《まじ》はりのみは|御許《おゆる》しを|頂《いただ》きまして、|夫婦気取《ふうふきどり》で|御神業《ごしんげふ》に|参加《さんか》させて|下《くだ》さいませ。カールス|王様《わうさま》の|御身《おんみ》の|上《うへ》に|就《つい》て、|変事《へんじ》あらば|時《とき》を|移《うつ》さず、|吾々《われわれ》は|数多《あまた》の|強者《つはもの》を|引具《ひきぐ》し、|泰安《たいあん》の|都《みやこ》に|乗込《のりこ》んで|御助《おたす》け|申《まを》し、|貴女《あなた》の|望《のぞ》みを|達《たつ》し|参《まゐ》らす|覚悟《かくご》で|御座《ござ》います。|此《この》|事《こと》|計《ばか》りは|御安心《ごあんしん》|遊《あそ》ばしませ。|決《けつ》して|私《わたし》はカールス|王《わう》では|御座《ござ》いませぬ。|正真正銘《しやうしんしやうめい》の|真道彦《まみちひこ》で|御座《ござ》います』
ヤーチン『エーもどかしや』
と|言《い》ひ|乍《なが》ら、|矢庭《やには》に|真道彦《まみちひこ》の|利腕《ききうで》にしがみつき、|涙《なみだ》と|共《とも》に|泣《な》き|口説《くど》き、|身《み》をもだえ|居《ゐ》る。
|此《この》|時《とき》|何気《なにげ》なく、|隔《へだ》の|襖《ふすま》をおし|開《ひら》き、|入《い》り|来《きた》るキールスタンは|此《この》|態《てい》を|見《み》て|驚《おどろ》き、|物《もの》をも|言《い》はず|一目散《いちもくさん》に|此《この》|場《ば》を|駆出《かけだ》したり。これより|真道彦命《まみちひこのみこと》とヤーチン|姫《ひめ》の|間《あひだ》には、|情意《じやうい》|投合《とうがふ》の|契約《けいやく》が|結《むす》ばれたるものとして、|窃《ひそか》に|三五教《あななひけう》の|一般《いつぱん》に|伝《つた》へらるる|事《こと》となりぬ。されど|真道彦命《まみちひこのみこと》は|将来《しやうらい》を|慮《おもんばか》り、|姫《ひめ》に|対《たい》して|一指《いつし》だにも|支《さ》へざりける。
|姫《ひめ》は|其《その》|後《ご》|病気《びやうき》|追々《おひおひ》|快復《くわいふく》して|元《もと》の|如《ごと》く|容色《ようしよく》|端麗《たんれい》なる|美人《びじん》となり、|聖地《せいち》の|大神殿《だいしんでん》に|朝夕《あさゆふ》|奉仕《ほうし》して、|神《かみ》の|威徳《ゐとく》は|益々《ますます》|四方《よも》に|輝《かがや》き|亘《わた》りぬ。|真道彦命《まみちひこのみこと》は|飽《あ》く|迄《まで》もヤーチン|姫《ひめ》を|尊敬《そんけい》し、|主人《しゆじん》の|如《ごと》く|待遇《たいぐう》して、|至誠《しせい》を|尽《つく》したるに、ヤーチン|姫《ひめ》も|漸《やうや》くにして、|真道彦命《まみちひこのみこと》のカールス|王《わう》に|非《あら》ざりしことを|悟《さと》り、|且《か》つ|命《みこと》の|信仰《しんかう》の|堅実《けんじつ》なるに|感歎《かんたん》し、|互《たがひ》に|胸襟《きやうきん》を|開《ひら》きて|神業《しんげふ》に|参加《さんか》し、|時《とき》の|到《いた》るを|待《ま》ちつつありける。|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》。
(大正一一・八・六 旧六・一四 松村真澄録)
第六章 |麻《あさ》の|紊《みだ》れ〔八〇六〕
|泰安《たいあん》の|都《みやこ》に|於《お》けるカールス|王《わう》は、|最愛《さいあい》のヤーチン|姫《ひめ》を|失《うしな》ひ、|怏々《あうあう》として|楽《たのし》まず、|且《か》つ|蛇蝎《だかつ》の|如《ごと》く|忌《い》み|嫌《きら》ひし、サアルボースの|娘《むすめ》セールス|姫《ひめ》を|無理矢理《むりやり》に|王妃《わうひ》に|強要《きやうえう》され、|懊悩《おうなう》の|結果《けつくわ》|遂《つひ》に|病《やまひ》を|発《はつ》し、|淡渓《たんけい》の|畔《ほとり》にささやかなる|館《やかた》を|作《つく》り、これに|静養《せいやう》の|名《な》の|下《もと》に、|蟄居《ちつきよ》せしめらるる|事《こと》となつた。|而《しか》して|四五《しご》の|役員《やくゐん》、|館《やかた》の|内外《ないぐわい》を|警固《けいご》し、|他人《たにん》の|出入《しゆつにふ》を|厳禁《げんきん》しつつあつた。
セールス|姫《ひめ》は|吾《わが》|父《ちち》のサアルボースを|宰相《さいしやう》となし、|吾《あが》|叔父《をぢ》に|当《あた》るホーロケースを|副宰相《ふくさいしやう》として、|新高山《にひたかやま》|以北《いほく》の|政権《せいけん》を|握《にぎ》り、|且《かつ》バラモン|教《けう》の|教主《けうしゆ》を|兼《か》ねて|居《ゐ》た。セールス|姫《ひめ》の|従兄《いとこ》にセウルスチンと|云《い》ふ|美男子《びだんし》があつた。これはホーロケースの|独息子《ひとりむすこ》である。
|茲《ここ》にセールス|姫《ひめ》の|発起《ほつき》にて、|泰安《たいあん》の|館《やかた》を|改築《かいちく》し、|城塞《じやうさい》を|築《きづ》き、|国民《こくみん》を|使役《しえき》し、|殆《ほとん》ど|三年《さんねん》を|費《つひ》やして|漸《やうや》くにして|宏大《くわうだい》なる|城廓《じやうくわく》は|築造《ちくざう》された。|何時《いつ》の|間《ま》にやら、セウルスチンとセールス|姫《ひめ》の|間《あひだ》には|怪《あや》しき|糸《いと》が|結《むす》ばるる|事《こと》となつた。セウルスチンは|殆《ほとん》ど|城中《じやうちう》に|坐臥《ざぐわ》し、セールス|姫《ひめ》の|背後《はいご》に|在《あ》りて、|凡《あら》ゆる|暴政《ばうせい》を|行《おこな》はしめた。
|茲《ここ》に|城内《じやうない》の|重臣《ぢうしん》|共《ども》はセウルスチンの|傍若無人《ばうじやくぶじん》なるに|愛想《あいさう》をつかし、|怨嗟《ゑんさ》の|声《こゑ》|城《しろ》の|内外《ないぐわい》に|溢《あふ》るるに|至《いた》つた。|国内《こくない》は|各所《かくしよ》に|騒擾《さうぜう》|勃発《ぼつぱつ》し、|掠奪《りやくだつ》|闘争《とうそう》|日々《ひび》に|行《おこな》はれ、|乱麻《らんま》の|如《ごと》き|状態《じやうたい》となつて|了《しま》つた。|茲《ここ》に|心《こころ》|有《あ》る|正《ただ》しき|人々《ひとびと》は、|泰安城《たいあんじやう》を|窃《ひそか》に|脱出《だつしゆつ》して、|遠《とほ》く|玉藻山《たまもやま》の|聖地《せいち》に|逃《のが》れ、|真道彦命《まみちひこのみこと》、ヤーチン|姫《ひめ》の|教《をしへ》に|従《したが》ひ、|花鳥風月《くわてうふうげつ》を|友《とも》として、|時《とき》の|到《いた》るを|待《ま》つ|者《もの》|踵《きびす》を|接《せつ》するに|至《いた》つた。
|泰安城《たいあんじやう》にはセウルスチンの|意《い》を|迎《むか》へて、|吾《わが》|身《み》の|名利《めいり》|栄達《ゑいだつ》を|望《のぞ》む|悪人《あくにん》のみ|跋扈《ばつこ》し、|政教《せいけう》は|日《ひ》に|月《つき》にすたれて、|殆《ほとん》ど|収拾《しうしふ》す|可《べか》らざるに|至《いた》り、|国内《こくない》の|各地《かくち》には|革命《かくめい》の|煙花《のろし》|上《あが》つて、|騒擾《さうぜう》を|起《おこ》し、|民家《みんか》を|焼《や》き、|婦女《ふぢよ》を|辱《はづかし》め、|財物《ざいぶつ》を|掠奪《りやくだつ》し、|乱暴狼藉《らんばうろうぜき》|到《いた》らざるなく、|恰《あたか》も|餓鬼《がき》|畜生《ちくしやう》|修羅道《しゆらだう》を|現出《げんしゆつ》せし|如《ごと》く、|混乱《こんらん》に|混乱《こんらん》を|重《かさ》ね、|呪咀《じゆそ》の|声《こゑ》は|五月蠅《さばへ》の|如《ごと》く|湧《わ》き|充《み》ちた。|猛獣《まうじう》|毒蛇《どくじや》は|白昼《はくちう》に|濶歩《くわつぽ》し、|鰐《わに》、|水牛《すゐぎう》などは|池《いけ》、|沼《ぬま》などを|根拠《こんきよ》とし、|民家《みんか》|近《ちか》く|襲《おそ》ひ|来《きた》つて、|人《ひと》を|傷《きず》つけ、|国内《こくない》|恰《あたか》も|阿鼻叫喚《あびけうくわん》の|惨状《さんじやう》を|呈《てい》するに|至《いた》つた。され|共《ども》|民心《みんしん》を|失《うしな》ひたる|泰安城《たいあんじやう》のセールス|姫《ひめ》を|始《はじ》め、サアルボース、ホーロケースの|威力《ゐりよく》を|以《もつ》てしても、|最早《もはや》|如何《いかん》ともする|事《こと》|能《あた》はざるに|立到《たちいた》つた。
|泰安城《たいあんじやう》は|最早《もはや》|風前《ふうぜん》の|灯火《ともしび》と、|誰《たれ》|云《い》ふとなく|称《とな》ふるに|至《いた》つた。|数多《あまた》の|国人《くにびと》は|遠《とほ》く|難《なん》を|避《さ》けて、アーリス|山《ざん》を|越《こ》え、|天嶺《てんれい》、|泰嶺《たいれい》を|始《はじ》め、|玉藻山《たまもやま》の|聖地《せいち》に|避難《ひなん》する|者《もの》|日夜《にちや》|踵《きびす》を|接《せつ》した。|中《なか》にも、
ホールサース。マールエース。テールスタン。ホーレンス。ユウトピヤール。ツーレンス。シーリンス。エール。ハーレヤール。オーイツク。ヒユーズ。アンデーヤ。ニユージエール。
などの|錚々《そうそう》たる|人物《じんぶつ》はヤーチン|姫《ひめ》を|中心《ちうしん》として|三五教《あななひけう》の|幹部《かんぶ》を|組織《そしき》し、|表面的《へうめんてき》|教理《けうり》を|宣布《せんぷ》し|乍《なが》ら、|時《とき》の|到《いた》るを|待《ま》つて、|泰安城《たいあんじやう》の|佞人輩《ねいじんばら》を|却《しりぞ》け、カールス|王《わう》を|城内《じやうない》に|迎《むか》へ|入《い》れ、ヤーチン|姫《ひめ》を|元《もと》の|如《ごと》く|妃《きさき》となして、|新《あらた》に|善政《ぜんせい》を|布《し》かむ|事《こと》を|心《こころ》|私《ひそ》かに|期待《きたい》しつつ、|盛《さかん》に|教理《けうり》を|宣布《せんぷ》し、|新高山《にひたかやま》|以北《いほく》の|地《ち》まで|隈《くま》なく|勢力《せいりよく》を|扶植《ふしよく》しつつあつた。
セールス|姫《ひめ》は|国内《こくない》の|日々《ひび》に|乱《みだ》れ|行《ゆ》くを、|吾《わが》|身《み》の|不心得《ふこころえ》より|来《きた》りしものとは|夢《ゆめ》にも|知《し》らず、セウルスチンを|始《はじ》め|其《その》|他《た》の|邪神《じやしん》|共《ども》の|誣言《ぶげん》を|信《しん》じ、|斯《かく》の|如《ごと》く|吾《わが》|領内《りやうない》の|日々《ひび》に|乱《みだ》れ|行《ゆ》くは|全《まつた》く|玉藻山《たまもやま》の|霊地《れいち》に、|三五教《あななひけう》の|教《をしへ》を|樹《た》つる|真道彦命《まみちひこのみこと》|頭領《とうりやう》となり、ヤーチン|姫《ひめ》、マリヤス|姫《ひめ》の|王族《わうぞく》を|擁立《ようりつ》し、|城内《じやうない》の|重臣《ぢうしん》を|言葉《ことば》|巧《たくみ》に|引付《ひきつ》け、|時《とき》を|待《ま》つて|泰安城《たいあんじやう》を|攻《せ》め|亡《ほろ》ぼし、|真道彦命《まみちひこのみこと》|自《みづか》ら、|台湾《たいわん》|全島《ぜんたう》を|統一《とういつ》し、|政教《せいけう》の|両権《りやうけん》を|握《にぎ》るものとなし、|怨恨《えんこん》|止《や》み|難《がた》く、|種々《しゆじゆ》の|画策《くわくさく》をめぐらせ|共《ども》、|阿里山《アーリスざん》を|区域《くゐき》として、|東南《とうなん》の|地《ち》は|容易《ようい》に|近付《ちかづ》く|可《べか》らず、|千思万慮《せんしばんりよ》の|結果《けつくわ》、|土民《どみん》の|中《なか》より|二三《にさん》の|者《もの》を|抜擢《ばつてき》し、|敵地《てきち》に|深《ふか》く|入《い》り|込《こ》ませ、|其《その》|内情《ないじやう》を|探《さぐ》らしめつつありき。
アーリス|山《ざん》を|区域《くゐき》として|東南《とうなん》の|地方《ちはう》は、|花森彦命《はなもりひこのみこと》の|子孫《しそん》|及《およ》び|遠祖《ゑんそ》|真道彦命《まみちひこのみこと》の|裔《すゑ》、|国内《こくない》に|充《み》ち、|清廉潔白《せいれんけつぱく》の|民《たみ》|最《もつと》も|多《おほ》きに|引替《ひきか》へ、|新高山《にひたかやま》|以北《いほく》の|地《ち》は|玉手姫《たまてひめ》の|魔神《まがみ》の|子孫《しそん》|蕃殖《ばんしよく》して、|邪悪《じやあく》|行《おこな》はれ、|天災地妖《てんさいちよう》|切《しき》りに|到《いた》り、|住民《ぢうみん》は|常《つね》に|塗炭《とたん》の|苦《くるし》みに|陥《おちい》り、|一日《いちにち》として|安《やす》き|日《ひ》とてはなかつたのである。
|花森彦命《はなもりひこのみこと》の|直系《ちよくけい》なるアークス|王《わう》の|奇禍《きくわ》に|係《かか》つて|上天《しやうてん》せし|後《あと》は、カールス|王《わう》|病《やまひ》に|罹《かか》り|殆《ほとん》ど|幽閉《いうへい》|同様《どうやう》の|身《み》となりたれば、|玉手姫《たまてひめ》の|血《ち》を|引《ひ》けるサアルボースの|娘《むすめ》セールス|姫《ひめ》の|政権《せいけん》を|握《にぎ》りてより、|其《その》|混乱《こんらん》は|急速度《きふそくど》を|以《もつ》て|増《ま》し|来《きた》り、|今《いま》や|国民《こくみん》|怨嗟《えんさ》の|声《こゑ》は|天《てん》に|冲《ちう》する|如《ごと》く、さしもに|難攻不落《なんこうふらく》として|築造《ちくざう》させし|泰安城《たいあんじやう》も、|何時《いつ》|根底《こんてい》より|顛覆《てんぷく》するやも|計《はか》り|難《がた》き|情勢《じやうせい》に|差迫《さしせま》つて|居《ゐ》た。
○
|話《はなし》|変《かは》つて、|日楯《ひたて》は|天嶺《てんれい》の|聖地《せいち》を|後《あと》に、|玉藻《たまも》の|湖辺《こへん》にユリコ|姫《ひめ》の|手《て》を|携《たづさ》へ、|二三《にさん》の|従者《じゆうしや》と|共《とも》に|湖面《こめん》を|眺《なが》めて|逍遥《せうえう》しつつあつた。|此《この》|時《とき》|捩鉢巻《ねぢはちまき》をした|男《をとこ》、|額《ひたい》に|血《ち》をタラタラと|流《なが》し|乍《なが》ら、|勢《いきほ》ひ|込《こ》んで|駆来《かけきた》り、|従者《じゆうしや》の|一人《ひとり》に|衝突《しようとつ》し、ヨロヨロとして|其《その》|場《ば》にパタリと|倒《たふ》れて|人事不省《じんじふせい》となつた。|日楯《ひたて》は|従臣《じうしん》に|命《めい》じ、|湖水《こすゐ》の|水《みづ》を|彼《かれ》が|面部《めんぶ》に|注《そそ》がしめた。|彼《かれ》は|漸《やうや》くにして|正気《しやうき》に|返《かへ》り、|額《ひたい》の|血汐《ちしほ》を|拭《ぬぐ》ひ|乍《なが》ら、
|男《をとこ》『|何《いづ》れの|方様《かたさま》かは|存《ぞん》じませぬが、|御無礼《ごぶれい》を|致《いた》しました|上《うへ》に、|生命《いのち》|迄《まで》も|御助《おたす》け|下《くだ》さいまして……|此《この》|御恩《ごおん》は|決《けつ》して|忘《わす》れは|致《いた》しませぬ。|私《わたくし》はアーリス|山《ざん》の|渓谷《けいこく》に|住居《ぢうきよ》|致《いた》す|樵夫《きこり》の|一人《ひとり》で|厶《ござ》います。|泰安城《たいあんじやう》のセールス|姫《ひめ》が|部下《ぶか》の|悪者《わるもの》に|虐《しへた》げられ、|生命《いのち》カラガラ|何処《どこ》を|当途《あてど》ともなく、ここ|迄《まで》|逃《に》げて|参《まゐ》りました。|斯《か》く|云《い》ふ|間《うち》にも|如何《いか》なる|追手《おつて》が|来《きた》るやも|計《はか》り|知《し》れませぬ。どうぞ|一時《いちじ》も|早《はや》く|私《わたくし》を|御匿《おかく》まひ|下《くだ》さいますまいか』
と|落《おち》つかぬ|態《てい》に|頼《たの》み|入《い》る。
|日楯《ひたて》『|汝《なんぢ》はアーリス|山《ざん》の|渓谷《けいこく》に|住《す》む|樵夫《きこり》と|聞《き》きしが、|何故《なにゆゑ》セールス|姫《ひめ》の|部下《ぶか》に|追《お》はるる|理由《りいう》あるか。|詳細《しやうさい》に|物語《ものがた》れよ』
となじれば、|其《その》|男《をとこ》は|涙《なみだ》を|払《はら》ひ、
|樵夫《きこり》『|私《わたくし》には|親《おや》|一人《ひとり》、|子《こ》|一人《ひとり》の|大切《たいせつ》なヨブと|云《い》ふ|娘《むすめ》が|御座《ござ》いました。|私《わたくし》の|名《な》はハールと|申《まを》します。セールス|姫《ひめ》がセウルスチンと|云《い》ふ|立派《りつぱ》な|大将《たいしやう》とアーリス|山《ざん》に|数多《あまた》の|家来《けらい》を|召連《めしつ》れ、|狩《かり》にお|越《こ》し|遊《あそ》ばした|時《とき》、|吾《わが》|草庵《さうあん》に|立寄《たちよ》り|玉《たま》ひ、|吾《わが》|娘《むすめ》ヨブを|見《み》て……|此《この》|女《をんな》を|吾《わが》|侍女《じぢよ》に|奉《たてまつ》れよ……と|仰《あふ》せられました。|天《てん》にも|地《ち》にも、|親《おや》|一人《ひとり》|子《こ》|一人《ひとり》の|間柄《あひだがら》、|最愛《さいあい》の|娘《むすめ》を|泰安城内《たいあんじやうない》|深《ふか》く|連《つ》れ|行《ゆ》かれては、|最早《もはや》|吾々《われわれ》は|一生涯《いつしやうがい》|親子《おやこ》の|対面《たいめん》は|叶《かな》ふまじと|思《おも》ひました|故《ゆゑ》、いろいろと|言葉《ことば》を|尽《つく》して、|御断《おことわ》りを|申上《まをしあ》げますれば、セウルスチンと|云《い》ふ|御大将《おんたいしやう》の|御言葉《おことば》に……|然《しか》らば|此《この》|娘《むすめ》は|吾《わが》|女房《にようばう》に|遣《つか》はすべし……と|数多《あまた》の|家来《けらい》に|命《めい》じ、|無理矢理《むりやり》に|泣《な》き|叫《さけ》ぶ|娘《むすめ》を|引抱《ひつかか》え、|連《つ》れて|行《ゆ》かれました。|私《わたくし》は|一生懸命《いつしやうけんめい》|後《あと》を|追《お》はむとすれば、セウルスチンは|一刀《いつたう》を|引抜《ひきぬ》き、|吾《わが》|眉間《みけん》に|斬《き》りつけ、|猶《なほ》も|数多《あまた》の|家来《けらい》に|命《めい》じ……|彼《かれ》が|生命《いのち》を|取《と》れよ……と|下知《げち》|致《いた》しました。|数多《あまた》の|家来衆《けらいしう》は|私《わたし》の|後《あと》を|追《お》つかけ|来《きた》る。され|共《ども》|山途《やまみち》の|勝手《かつて》を|知悉《ちしつ》したる|私《わたし》は、|巧《うま》く|間道《かんだう》を|通《とほ》り|抜《ぬ》け、|漸《やうや》くにして|此処迄《ここまで》|逃《に》げのびました|様《やう》な|次第《しだい》で|御座《ござ》います。|何卒々々《なにとぞなにとぞ》|早《はや》く|御匿《おかく》まひ|下《くだ》さいませ』
と|両手《りやうて》を|合《あは》せ|涙《なみだ》と|共《とも》に|頼《たの》み|入《い》る。|日楯《ひたて》を|始《はじ》めユリコ|姫《ひめ》は|之《これ》を|憐《あはれ》み、|二三《にさん》の|従者《じゆうしや》に|彼《かれ》が|身辺《しんぺん》を|守《まも》らせ、|天嶺《てんれい》の|聖地《せいち》に|連《つ》れ|帰《かへ》り|親切《しんせつ》に|介抱《かいほう》させ、|漸《やうや》くにして|額《ひたい》の|疵《きず》は|全快《ぜんくわい》し、|茲《ここ》に|日楯《ひたて》の|従僕《しもべ》となつて|忠実《ちうじつ》に|仕《つか》ふる|事《こと》となつた。|併《しか》し|此《この》|男《をとこ》はセールス|姫《ひめ》が|意《い》を|含《ふく》めて|遣《つか》はしたる|間者《かんじや》なりけり。
ヤーチン|姫《ひめ》やマリヤス|姫《ひめ》の |珍《うづ》の|命《みこと》やカールス|王《わう》の
|泰安館《たいあんやかた》を|出《い》でしより |鳥《とり》なき|里《さと》の|蝙蝠《かうもり》と
|羽振《はぶ》りを|利《き》かしセールス|姫《ひめ》が |傍若無人《ばうじやくぶじん》の|悪政《あくせい》に
|居《ゐ》たたまらず|重臣《ぢうしん》は |次第《しだい》|々々《しだい》に|逃走《たうそう》し
|玉藻《たまも》の|山《やま》の|霊場《れいぢやう》に |身《み》を|忍《しの》びつつ|三五《あななひ》の
|教司《をしへつかさ》と|身《み》を|変《へん》じ |花《はな》|咲《さ》く|春《はる》を|待《ま》ち|居《ゐ》たる
サアルボースやホーロケースの|両人《りやうにん》は カールス|王《わう》を|淡渓《たんけい》の
|森《もり》の|彼方《あなた》に|放逐《はうちく》し |形《かたち》ばかりの|館《やかた》を|建《た》てて
|四五《しご》の|部下《ぶか》をば|派遣《はけん》しつ |人《ひと》の|出入《でいり》を|警戒《けいかい》し
|苦《くる》しめ|居《ゐ》たるぞ|忌々《ゆゆ》しけれ。 セールス|姫《ひめ》は|只《ただ》|一人《ひとり》
|閨《ねや》|淋《さび》しさに|従兄《いとこ》なる セウルスチンを|寝間《ねま》|近《ちか》く
|招《まね》きて|秘密《ひみつ》の|謀計《はかりごと》 |酒池肉林《しゆちにくりん》の|贅沢《ぜいたく》を
|極《きは》めて|民《たみ》の|苦《くる》しみは |空《そら》|吹《ふ》く|風《かぜ》と|聞《き》き|流《なが》し
あらむ|限《かぎ》りの|暴政《ばうせい》を |行《おこな》ひければ|国人《くにびと》は
|益々《ますます》|塗炭《とたん》の|苦《くるし》みに |堪《たま》りかねてか|遠近《をちこち》の
|山《やま》の|尾《を》の|上《へ》や|川《かは》の|瀬《せ》に |三人《さんにん》|五人《ごにん》と|集《あつ》まりて
|大革命《だいかくめい》の|謀計《はかりごと》 |目引《めひ》き|袖引《そでひ》き|語《かた》り|合《あ》ふ
|暗夜《やみよ》とこそはなりにけれ。 ヤーチン|姫《ひめ》やマリヤス|姫《ひめ》の
|珍《うづ》の|命《みこと》は|国内《こくない》の |此《この》|惨状《さんじやう》を|耳《みみ》にして
|心《こころ》は|矢竹《やたけ》と|逸《はや》れども |詮術《せんすべ》もなき|今《いま》の|身《み》の
|神《かみ》に|祈《いの》りて|木《こ》の|花《はな》の |開《ひら》くる|春《はる》を|待《ま》つばかり
|松《まつ》の|名《な》に|負《お》ふ|高砂《たかさご》の |胞衣《えな》と|聞《きこ》えし|此《この》|島《しま》も
|今《いま》は|果敢《はか》なき|曲津身《まがつみ》の |荒《あら》ぶる|世《よ》とはなりにけり
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |御霊《みたま》|幸《さち》はひましませと
|朝《あさ》な|夕《ゆふ》なに|真心《まごころ》を こめてぞ|祈《いの》る|神《かみ》の|前《まへ》
|真道彦《まみちのひこ》を|始《はじ》めとし |日楯《ひたて》、|月鉾《つきほこ》|諸共《もろとも》に
|日月潭《じつげつたん》の|湖《みづうみ》に |朝《あさ》な|夕《ゆふ》なに|禊《みそぎ》して
|高砂島《たかさごじま》の|安泰《あんたい》を |只管《ひたすら》|祈《いの》る|真心《まごころ》は
いつしか|願《ねが》ひ|竜世姫《たつよひめ》 |国魂神《くにたまがみ》の|功績《いさをし》に
|常夜《とこよ》の|暗《やみ》も|晴《は》れ|渡《わた》り |天津御空《あまつみそら》に|日《ひ》の|神《かみ》の
|影《かげ》も|豊《ゆたか》に|昇《のぼ》りまし |神《かみ》の|御稜威《みいづ》も|高砂《たかさご》の
|尾《を》の|上《へ》の|松《まつ》の|末永《すえなが》く |栄《さか》えよ|栄《さか》え|何時《いつ》|迄《まで》も
|世《よ》は|平《たひら》けく|安《やす》らけく |治《をさ》まりませと|一同《いちどう》が
|朝《あさ》な|夕《ゆふ》なの|神言《かみごと》を |神《かみ》も|諾《うべ》なひ|玉《たま》ふらむ
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |御霊《みたま》|幸《さち》はひましまして
|三五教《あななひけう》の|御教《みをしへ》を |此《この》|神島《かみしま》に|隈《くま》もなく
|完全《うまら》に|委曲《つばら》に|宣《の》り|伝《つた》へ |昔《むかし》の|神代《かみよ》の|其《その》|儘《まま》の
|清《きよ》き|心《こころ》に|上下《うへした》の |司《つかさ》も|民《たみ》も|睦《むつ》び|合《あ》ひ
|栄《さか》え|久《ひさ》しき|松《まつ》の|世《よ》を |来《きた》させ|玉《たま》へと|真心《まごころ》を
こめて|祈《いの》るぞ|尊《たふと》けれ。
セールス|姫《ひめ》の|間者《かんじや》として|入《い》り|込《こ》みしハールを|始《はじ》め、|其《その》|外《ほか》|数名《すうめい》の|間者《かんじや》、|日月潭《じつげつたん》を|始《はじ》め、|玉藻《たまも》の|山《やま》の|聖地《せいち》に|入《い》り|込《こ》みたる|件《けん》は、|一々《いちいち》|述《の》ぶるも、くどくどしければ、|今《いま》は|之《こ》れを|略《りやく》し|事《こと》の|序《ついで》に|述《の》ぶる|事《こと》となすべし。
(大正一一・八・六 旧六・一四 松村真澄録)
第二篇 |暗黒《あんこく》の|叫《さけび》
第七章 |無痛《むつう》の|腹《はら》〔八〇七〕
|泰安城《たいあんじやう》はセールス|姫《ひめ》、サアルボース、ホーロケース、セウルスチン|等《ら》の|横暴《わうばう》|極《きは》まる|悪政《あくせい》に、|国民《こくみん》|怨嗟《ゑんさ》の|声《こゑ》は、|日《ひ》に|月《つき》に|高《たか》まり|来《きた》り、|漸《やうや》く|革命《かくめい》の|機運《きうん》|熟《じゆく》す。シヤーカルタンの|一派《いつぱ》とトロレンスの|一派《いつぱ》は、|東西《とうざい》|相《あひ》|呼応《こおう》して、|泰安城《たいあんじやう》に|攻《せ》め|寄《よ》せ、|今《いま》やセールス|姫《ひめ》|以下《いか》の|身辺《しんぺん》は、|最《もつと》も|危急《ききふ》の|地《ち》に|迫《せま》つて|来《き》た。|此《この》|事《こと》|早鐘《はやがね》の|如《ごと》く|台湾《たいわん》|全島《ぜんたう》に|響《ひび》き|渡《わた》り、|玉藻山《たまもやま》の|聖地《せいち》には|一《ひと》しほ|早《はや》く|或《ある》|者《もの》の|手《て》より|其《その》|真相《しんさう》を|報告《はうこく》されたり。
|茲《ここ》にヤーチン|姫《ひめ》、|真道彦命《まみちひこのみこと》の|部下《ぶか》に|仕《つか》へたる|神司《かむづかさ》ホールサース、マールエース、テールスタン、|其《その》|他《た》|数多《あまた》の|幹部連《かんぶれん》は|八尋殿《やひろどの》に|集《あつ》まつて、|此《この》|度《たび》の|泰安城《たいあんじやう》に|於《お》ける|大革命的《だいかくめいてき》|騒擾《さうぜう》に|対《たい》して、|如何《いか》なる|処置《しよち》を|取《と》るべきかを|協議《けふぎ》したりけり。
|真道彦命《まみちひこのみこと》を|始《はじ》め、|日楯《ひたて》、|月鉾《つきほこ》は|八尋殿《やひろどの》の|中央《ちうあう》なる|高座《かうざ》に|現《あら》はれて、|此《この》|会議《くわいぎ》を|監督《かんとく》する|事《こと》となりぬ。
ホールサースは、|先《ま》づ|第一《だいいち》に|高座《かうざ》に|登《のぼ》り、|一同《いちどう》に|向《むか》つて|開会《かいくわい》の|挨拶《あいさつ》を|述《の》べ、|徐《おもむろ》に|降壇《かうだん》した。|次《つい》でマールエースは、|今回《こんくわい》の|恰《あたか》も|議長格《ぎちやうかく》として|意気《いき》|揚々《やうやう》と|登壇《とうだん》し、|一同《いちどう》に|向《むか》ひ、
『|皆様《みなさま》、|今日《こんにち》|此《この》|八尋殿《やひろどの》に|炎暑《えんしよ》を|構《かま》はず、|御集会《ごしふくわい》|下《くだ》さいましたのは、|吾々《われわれ》|発起人《ほつきにん》として|実《じつ》に|感謝《かんしや》の|至《いた》りに|堪《た》へませぬ。|就《つ》きましては|諸君《しよくん》に|於《お》いても|略《ほぼ》|御承知《ごしようち》の|通《とほ》り、セールス|姫《ひめ》|其《その》|他《た》の|暴政《ばうせい》に|依《よ》つて、|国民《こくみん》|塗炭《とたん》の|苦《くる》しみを|受《う》け、|今《いま》や|此《この》|苦痛《くつう》に|堪《た》へ|兼《か》ねて、|新進気鋭《しんしんきえい》の|国民《こくみん》の|団体《だんたい》は、シヤーカルタン、トロレンスの|首領《しゆりやう》に|引率《いんそつ》され、|泰安城《たいあんじやう》へ|攻《せ》め|寄《よ》せたりとの|事《こと》で|御座《ござ》います。|承《うけたま》はればシヤーカルタン、トロレンスはバラモン|教《けう》の|錚々《さうさう》たる|神司《かむづかさ》との|事《こと》、|彼《かれ》|破竹《はちく》の|勢《いきほひ》を|以《もつ》て|泰安城《たいあんじやう》を|乗《の》り|取《と》り、|又《また》もや、バラモン|的《てき》|暴政《ばうせい》を|布《し》くに|於《おい》ては、|世《よ》は|益々《ますます》|混乱《こんらん》を|重《かさ》ね、|遂《つひ》には|三五教《あななひけう》の|聖地《せいち》|迄《まで》も|蹂躙《じうりん》され、|吾々《われわれ》は|此《この》|島《しま》より|放逐《はうちく》されねばならなくなるのは、|火《ひ》を|睹《み》るよりも|明《あきら》かな|事実《じじつ》で|御座《ござ》いませう。これに|就《つい》て|私《わたくし》は|考《かんが》へます……|一日《いちにち》も|早《はや》く|三五教《あななひけう》の|信徒《しんと》を|率《ひき》ゐ、|泰安城《たいあんじやう》に|向《むか》つて|言霊戦《ことたません》を|開始《かいし》し、シヤーカルタン、トロレンスの|一派《いつぱ》を|言向《ことむ》け|和《やは》し、|三五教《あななひけう》の|部下《ぶか》となし、|其《その》|機《き》に|乗《じやう》じて|全島《ぜんたう》の|支配権《しはいけん》を|握《にぎ》らば、|三五教《あななひけう》は|万世《ばんせい》|不易《ふえき》の|基礎《きそ》が|建《た》ち、|又《また》|国民《こくみん》も|泰平《たいへい》の|恩恵《おんけい》に|浴《よく》する|事《こと》と|考《かんが》へます。……|皆《みな》さまの|御意見《ごいけん》は|如何《いかが》で|御座《ござ》いませう。どうぞ|此《この》|演壇《えんだん》に|登《のぼ》りて、|御感想《ごかんさう》を|述《の》べて|頂《いただ》きたう|御座《ござ》います』
と|言《い》つて、|壇《だん》を|降《くだ》り|吾《わが》|席《せき》に|着《つ》いた。|此《この》|時《とき》|肩《かた》を|揺《ゆす》り|両手《りやうて》の|拳《こぶし》を|握《にぎ》り|締《し》め、|堂々《だうだう》として|登壇《とうだん》したのはテールスタンであつた。|満場《まんぢやう》を|睥睨《へいげい》し|乍《なが》ら|声《こゑ》を|励《はげ》まして|言《い》ふ。
テールスタン『これの|聖地《せいち》は|遠《とほ》き|神代《かみよ》より、|真道彦命《まみちひこのみこと》|様《さま》の|遠祖《ゑんそ》|茲《ここ》に|鎮《しづ》まり|玉《たま》ひ、|至仁《しじん》|至愛《しあい》の|三五教《あななひけう》を|樹立《じゆりつ》し、|無抵抗主義《むていかうしゆぎ》を|遵守《じゆんしゆ》して、ここに|国魂神《くにたまがみ》の|神力《しんりき》を|以《もつ》て|数多《あまた》の|国民《こくみん》を|教《をし》へ|導《みちび》き|玉《たま》ひつつ、|多《おほ》く|年所《ねんしよ》を|経《へ》|玉《たま》ひました。|併《しか》し|乍《なが》ら、|余《あま》り|極端《きよくたん》なる|無抵抗主義《むていかうしゆぎ》の|為《ため》に|追々《おひおひ》|其《その》|領域《りやうゐき》は|狭《せば》められ、|僅《わづか》に|日月潭《じつげつたん》の|附近《ふきん》にのみ|其《その》|勢力《せいりよく》を|維持《ゐぢ》して|居《ゐ》られたのは、|諸君《しよくん》も|御承知《ごしようち》の|通《とほ》りで|御座《ござ》います。|然《しか》るに|泰安城《たいあんじやう》に|於《おい》てセールス|姫《ひめ》を|中心《ちうしん》とする|悪人輩《あくにんばら》の|日夜《にちや》の|行動《かうどう》に|慊《あ》きたらず、|吾々《われわれ》|始《はじ》め|此《この》|席《せき》に|列《れつ》し|玉《たま》ふ|幹部《かんぶ》の|方々《かたがた》は、|顕要《けんえう》の|地位《ちゐ》を|棄《す》てて、|現世的《げんせいてき》に|無勢力《むせいりよく》なる|此《この》|聖地《せいち》に|集《あつ》まり、|信仰《しんかう》|三昧《さんまい》に|入《い》り、|殆《ほとん》ど|政治慾《せいぢよく》を|絶《た》つて、|花鳥風月《くわてうふうげつ》を|友《とも》となし、|其《その》|日《ひ》を|送《おく》り|来《きた》りしも、|決《けつ》して|無意味《むいみ》に|吾々《われわれ》は|光陰《くわういん》を|費《つひ》やして|居《ゐ》たのではありませぬ。|時《とき》|来《きた》らば|国家《こくか》の|為《ため》に|全力《ぜんりよく》を|発揮《はつき》し、カールス|王《わう》を|助《たす》けて、|元《もと》の|地位《ちゐ》に|復《か》やし|奉《たてまつ》り、|完全《くわんぜん》|無欠《むけつ》なる|神政《しんせい》を|布《し》き、|再《ふたた》び|元《もと》の|地位《ちゐ》に|立《た》たむと|欲《ほつ》するの|念慮《ねんりよ》は|一日《いちにち》も|忘《わす》れた|事《こと》はありませぬ。|諸君《しよくん》に|於《おい》ても、|此《この》|席《せき》に|列《れつ》せらるる|方々《かたがた》は、|十中《じつちう》の|八九《はつく》|迄《まで》|元《もと》は|泰安城《たいあんじやう》の|重要《ぢうえう》なる|地位《ちゐ》に|立《た》たせ|玉《たま》ひし|方々《かたがた》なれば、|吾々《われわれ》と|御同感《ごどうかん》なるべし。|吾々《われわれ》は|此《この》|聖地《せいち》に|来《きた》りてより、|三五教《あななひけう》は|蘇生《そせい》せし|如《ごと》く、|日々《ひび》に|隆盛《りうせい》に|赴《おもむ》きたるも、|全《まつた》く|人物《じんぶつ》の|如何《いかん》に|依《よ》る|事《こと》と|考《かんが》へられます。|諸君《しよくん》は|瀕死《ひんし》の|境《さかひ》にありし|三五教《あななひけう》をして、|斯《かく》の|如《ごと》く|隆盛《りうせい》に|赴《おもむ》かしめたる|能力者《のうりよくしや》で|御座《ござ》いますれば、キツと|此《この》|腕前《うでまへ》を|活用《くわつよう》して|泰安城《たいあんじやう》に|向《むか》ひ、シヤーカルタン、トロレンスの|向《むか》うを|張《は》つて、|此《この》|際《さい》|一戦《いつせん》を|試《こころ》み、セールス|姫《ひめ》を|言向《ことむ》け|和《やは》し、|且《かつ》|又《また》シヤーカルタン、トロレンスの|一派《いつぱ》を|吾等《われら》の|言霊《ことたま》に|帰順《きじゆん》せしめ、|全島《ぜんたう》の|政教《せいけう》|両権《りやうけん》を|掌握《しやうあく》するは、|此《この》|時《とき》を|措《お》いて|何時《いつ》の|日《ひ》か|来《きた》るべき。|曠日《くわうじつ》、|瀰久《びきう》|徒《いたづら》に|逡巡《しゆんじゆん》して、|彼等《かれら》に|先《せん》を|越《こ》されなば、|吾々《われわれ》は|何時《いつ》の|日《ひ》か|頭《かしら》を|抬《もた》ぐるを|得《え》られませうか。|何卒《なにとぞ》|皆様《みなさま》に|於《おい》ても|御熟慮《ごじゆくりよ》……|否《いな》|御即考《ごそくかう》あつて、|速《すみや》かに|御賛成《ごさんせい》あらむ|事《こと》を|希望《きばう》|致《いた》します』
と|云《い》ひ|終《をは》つて|悠々《いういう》と|壇《だん》を|降《くだ》る。|拍手《はくしゆ》の|声《こゑ》は|雨霰《あめあられ》の|如《ごと》く|場《ぢやう》の|内外《ないぐわい》に|響《ひび》き|渡《わた》つた。
|此《この》|時《とき》|末席《まつせき》よりセールス|姫《ひめ》の|間者《かんじや》として|入《い》り|込《こ》み|居《ゐ》たるハールは|壇上《だんじやう》に|現《あら》はれ、
ハール『|皆《みな》さまに、|末席《まつせき》の|吾々《われわれ》|恐《おそ》れげもなく、|此《この》|高座《かうざ》に|登《のぼ》りて、|御意見《ごいけん》を|承《うけたま》はりたしと|斯《か》く|現《あら》はれました。マールエース、テールスタンの|幹部方《かんぶがた》の|御意見《ごいけん》は、|末輩《まつぱい》の|私《わたし》に|於《おい》ても、|極《きは》めて|賛成《さんせい》を|致《いた》します。|就《つ》いては|三五教《あななひけう》の|信徒《しんと》を|以《もつ》て|言霊軍《ことたまぐん》を|組織《そしき》し、|泰安城《たいあんじやう》へ|攻《せ》め|寄《よ》せ|玉《たま》ふ|目的《もくてき》は|此《この》|度《たび》の|暴動《ばうどう》を|鎮定《ちんてい》し、シヤーカルタン、トロレンスの|一派《いつぱ》に|対《たい》して|痛棒《つうぼう》を|加《くは》ふるにあるか、|但《ただし》はセールス|姫《ひめ》を|中心《ちうしん》とする|泰安城《たいあんじやう》の|重役《ぢうやく》に|対《たい》して、|大痛棒《だいつうぼう》を|与《あた》ふるの|覚悟《かくご》で|御座《ござ》るか、|此《この》|点《てん》を、|何卒《なにとぞ》|明瞭《めいれう》に|御示《おしめ》し|頂《いただ》きたう|御座《ござ》います。|先《ま》づ|出陣《しゆつぢん》に|先立《さきだ》ち、|敵《てき》を|定《さだ》めておかねばなりますまい』
と|心《こころ》ありげに|述《の》べ|立《た》てた。|此《この》|時《とき》ホールサースは|再《ふたた》び|壇上《だんじやう》に|現《あら》はれて|言《い》ふ。
『|天《てん》は|必《かなら》ず|善人《ぜんにん》に|組《くみ》す。|吾々《われわれ》は|正義《せいぎ》の|為《ため》に|戦《たたか》ふのである。セールス|姫《ひめ》にして|悪《あく》ならば、|彼《かれ》を|懲《こら》し、|又《また》|善《ぜん》ならば|彼《か》れを|輔《たす》けん。シヤーカルタン、トロレンスにして|其《その》|目的《もくてき》、|国家《こくか》|民人《みんじん》の|為《ため》ならば|吾《われ》は|彼《かれ》を|助《たす》けむ。|未《ま》だ|何《いづ》れを|善《ぜん》とも|悪《あく》とも|定《さだ》め|難《がた》し。さり|乍《なが》ら、カールス|王《わう》の|御病気《ごびやうき》を|楯《たて》に、|淡渓《たんけい》の|畔《ほとり》に|小《ちい》さき|館《やかた》を|造《つく》り、|之《これ》に|幽閉《いうへい》し、セウルスチンの|如《ごと》き|賤《いや》しきホーロケースの|伜《せがれ》を|重用《ぢうよう》して、|悪政《あくせい》を|布《し》くセールス|姫《ひめ》の|行動《かうどう》に|居《ゐ》たたまらず、|吾等《われら》|一同《いちどう》は|此《この》|聖地《せいち》に|逃《のが》れ|来《きた》りし|者《もの》なれば、|此《この》|度《たび》の|大騒動《おほさうどう》も|其《その》|原因《げんいん》は、セールス|姫《ひめ》|一派《いつぱ》の|暴政《ばうせい》に|依《よ》りて|勃発《ぼつぱつ》せしものたる|事《こと》は|察《さつ》するに|余《あま》りあり。|要《えう》するに|此《この》|度《たび》の|神軍《しんぐん》はカールス|王《わう》を|御助《おたす》け|申上《まをしあ》げ、|再《ふたた》び|元《もと》の|泰安城《たいあんじやう》に|立《た》て|直《なほ》す|目的《もくてき》と|思《おも》へば|間違《まちがひ》なからうと|思《おも》ひます』
とキツパリ|言《い》つてのけた。ハールは|再《ふたた》び|口《くち》を|開《ひら》いて、
『|此《この》|度《たび》の|神軍《しんぐん》|幸《さいはひ》にして|勝利《しようり》を|得《え》、カールス|王《わう》を|救《すく》ひ|出《い》だし、|再《ふたた》び|王位《わうゐ》に|立《た》たしめなば、セールス|姫《ひめ》を|正妃《せいひ》となし|玉《たま》ふ|御所存《ごしよぞん》なるか。|但《ただし》はヤーチン|姫《ひめ》を|以《もつ》て|正妃《せいひ》と|定《さだ》め|玉《たま》ふ|考《かんが》へなりや|承《うけたま》はりたし』
と|呼《よば》はつた。ホーレンスは|始《はじ》めて|登壇《とうだん》し、
『|吾々《われわれ》の|考《かんがへ》ふる|所《ところ》は、カールス|王《わう》を|救《すく》ひ|奉《たてまつ》り、ヤーチン|姫《ひめ》を|正妃《せいひ》となさむ|事《こと》を|熱望《ねつばう》して|居《を》ります。さうなればカールス|王《わう》もヤーチン|姫《ひめ》も|日頃《ひごろ》の|思《おも》ひが|遂《と》げられて、|円満《ゑんまん》に|政事《せいじ》が|行《おこな》はれ、|国民《こくみん》の|父母《ふぼ》と|仰《あふ》がれ|玉《たま》ふ|瑞祥《ずゐしやう》の|来《きた》る|事《こと》と|信《しん》じて|居《を》ります』
ハール『ヤーチン|姫様《ひめさま》は|最早《もはや》|昔《むかし》とは|御心《おこころ》が|変《かは》つて|居《ゐ》る|様《やう》に|思《おも》はれます。|此《この》|事《こと》は|第一《だいいち》|教主《けうしゆ》の|真道彦《まみちひこ》|様《さま》の|御意見《ごいけん》に|依《よ》らねばなりますまい。|一般《いつぱん》の|噂《うはさ》に|依《よ》れば、|内面的《ないめんてき》に|御夫婦《ごふうふ》の|関係《くわんけい》が|結《むす》ばれ|居《ゐ》ると|云《い》ふ|事《こと》、むしろ|神軍《しんぐん》の|勝利《しようり》を|得《え》たる|暁《あかつき》は|真道彦《まみちひこ》|様《さま》を|政教《せいけう》|両面《りやうめん》の|主権者《しゆけんしや》となし、ヤーチン|姫様《ひめさま》を|其《その》|妃《ひ》と|公然《こうぜん》|遊《あそ》ばしたら|如何《いかが》で|御座《ござ》いませう。それの|方《はう》が|余程《よほど》|治《をさ》まりが|良《よ》き|様《やう》に|考《かんが》へられます』
テールスタン『|吾々《われわれ》は|要《えう》するに|泰安城《たいあんじやう》の|主権者《しゆけんしや》を|選《えら》み|其《その》|幕下《ばくか》に|仕《つか》へて|元《もと》の|位地《ゐち》に|帰《かへ》りさへすれば|良《よ》いのである。|主権者《しゆけんしや》がカールス|王《わう》であらうと、|真道彦命《まみちひこのみこと》であらうと、|問《と》ふ|所《ところ》ではありませぬ。|吾々《われわれ》の|考《かんがへ》ふる|所《ところ》では、|真道彦命《まみちひこのみこと》|様《さま》|必《かなら》ず|心中《しんちう》に|泰安城《たいあんじやう》の|王《わう》たるべきことを|御期待《ごきたい》|遊《あそ》ばされある|事《こと》と|確信《かくしん》|致《いた》し、|泰安城《たいあんじやう》を|棄《す》てて|茲《ここ》に|集《あつ》まつて|来《き》た|者《もの》で|御座《ござ》います。|真道彦命《まみちひこのみこと》|様《さま》にして、|只《ただ》|単《たん》に|教法上《けうはふじやう》の|主権者《しゆけんしや》を|以《もつ》て|甘《あま》んずるの|御意志《ごいし》ならば|吾々《われわれ》は|元《もと》より|斯様《かやう》な|所《ところ》へ|首《くび》を|突込《つつこ》む|者《もの》ではありませぬ。|諸君《しよくん》に|於《お》かせられても、|吾々《われわれ》と|同感《どうかん》ならむと|察《さつ》します』
|一堂《いちだう》は|拍手《はくしゆ》の|声《こゑ》に|満《み》たされた。
|真道彦《まみちひこ》は|憤然《ふんぜん》として|身《み》を|起《おこ》し、|壇《だん》の|中央《ちうあう》に|現《あら》はれ、|慨歎《がいたん》の|情《じやう》に|堪《た》へざるものの|如《ごと》く、|暫《しばら》くは|壇上《だんじやう》に|目《め》を|閉《ふさ》ぎ|悄然《せうぜん》として|立《た》つた|儘《まま》、|両眼《りやうがん》よりは|涙《なみだ》さへ|流《なが》して|居《ゐ》る。|漸《やうや》くにして|口《くち》を|開《ひら》き、
|真道彦《まみちひこ》『|只今《ただいま》の|幹部方《かんぶがた》の|御話《おはなし》を|聞《き》き、|此《この》|真道彦《まみちひこ》に|於《お》きましては、|実《じつ》に|青天《せいてん》の|霹靂《へきれき》と|申《まを》さうか、|寝耳《ねみみ》に|水《みづ》と|申《まを》さうか、|驚《おどろ》きと|慨歎《がいたん》とに|包《つつ》まれて|了《しま》ひました。|世《よ》の|中《なか》に|誤解《ごかい》|位《くらゐ》|恐《おそ》ろしきものは|有《あ》りませぬ。|各自《めいめい》の|心《こころ》を|以《もつ》て|人《ひと》の|心《こころ》を|推《お》し|量《はか》ると|云《い》ふ|事《こと》は、|実《じつ》に|対者《たいしや》たるもの|恐《おそ》るべき|迷惑《めいわく》を|感《かん》じます。|吾々《われわれ》は|祖先《そせん》|以来《いらい》、|国魂《くにたま》の|神《かみ》を|斎《まつ》り、|三五教《あななひけう》の|教《をしへ》を|確《かた》く|遵守《じゆんしゆ》し、|少《すこ》しも|政治《せいぢ》に|心《こころ》を|傾《かたむ》けず、|万民《ばんみん》を|善道《ぜんだう》に|教化《けうくわ》するを|以《もつ》て|最善《さいぜん》の|任務《にんむ》と|衷心《ちうしん》より|確《かた》く|信《しん》じ、|且《か》つ|神慮《しんりよ》を|万民《ばんみん》に|伝《つた》ふるを|以《もつ》て、|無限《むげん》の|光栄《くわうえい》と|存《ぞん》じて|居《を》ります。|然《しか》るに|只今《ただいま》の|幹部方《かんぶがた》の|御意見《ごいけん》を|承《うけたま》はり|見《み》れば、|私《わたくし》を|以《もつ》て|政治的《せいぢてき》|救世主《きうせいしゆ》の|如《ごと》く|思《おも》つて|居《を》られるやうで|御座《ござ》います。|又《また》|王族《わうぞく》たるヤーチン|姫様《ひめさま》と|私《わたくし》の|間《あひだ》に、|何《なん》だか|怪《あや》しき|関係《くわんけい》でも|結《むす》ばれある|様《やう》な|語気《ごき》を|洩《も》らされました。|私《わたくし》は|実《じつ》に|心外《しんぐわい》|千万《せんばん》でなりませぬ。どうぞ|三五教《あななひけう》の|精神《せいしん》と、|吾々《われわれ》の|誠意《せいい》を|能《よ》く|御諒解《ごりやうかい》|下《くだ》さいまして、|大慈《だいじ》|大悲《だいひ》の|大神様《おほかみさま》の|御旨《みむね》に|叶《かな》はせらるる|様《やう》、|神《かみ》かけて|祈《いの》り|奉《たてまつ》ります。|重《かさ》ねて|申《まを》して|置《お》きますが、|決《けつ》して|此《この》|真道彦《まみちひこ》は|物質的《ぶつしつてき》の|野心《やしん》も|無《な》ければ、|政治的《せいぢてき》|慾望《よくばう》は|毫末《がうまつ》も|有《あ》りませぬ。|又《また》|皆様《みなさま》に|推《お》されて|政治的《せいぢてき》|権威《けんゐ》を|握《にぎ》らうとは、|夢寐《むび》にも|思《おも》ひませぬ。|此《この》|事《こと》は|呉々《くれぐれ》も|御承知《ごしようち》をして|頂《いただ》きたう|御座《ござ》います』
と|云《い》ひ|終《をは》り、|憮然《ぶぜん》として、|吾《わが》|居間《ゐま》に|姿《すがた》を|隠《かく》した。|真道彦《まみちひこ》の|退場《たいぢやう》に|連《つ》れて、|日楯《ひたて》、|月鉾《つきほこ》の|兄弟《きやうだい》も|亦《また》|満場《まんぢやう》に|目礼《もくれい》し、|悄然《せうぜん》として|父《ちち》の|後《あと》に|従《したが》ひ|此《この》|議席《ぎせき》を|退場《たいぢやう》したり。
|後《あと》には|気兼《きがね》なしの|大会場《だいくわいぢやう》は|口々《くちぐち》に|勝手《かつて》な|議論《ぎろん》が|沸騰《ふつとう》し|出《だ》した。セールス|姫《ひめ》の|間者《かんじや》として|予《かね》てより|入《い》り|込《こ》み|居《ゐ》たりしカントンと|云《い》ふ|男《をとこ》、|忽《たちま》ち|壇上《だんじやう》に|現《あら》はれ|衆《しう》に|向《むか》つて|言《い》ふ。
カントン『|皆《みな》さま、|只今《ただいま》|真道彦命《まみちひこのみこと》が|仰《あふ》せられた|御言葉《おことば》、|何《なん》と|御観察《ごくわんさつ》なされますか。|吾々《われわれ》の|貧弱《ひんじやく》なる|智識《ちしき》を|以《もつ》て|教主《けうしゆ》の|御心中《ごしんちう》を|測量《そくりやう》|致《いた》すは、|少《すこ》しく|烏呼《をこ》の|沙汰《さた》では|御座《ござ》いますが、あの|御言葉《おことば》は、|吾々《われわれ》は|心《こころ》にも|無《な》き|嘘言《そらごと》を|云《い》つて|居《ゐ》られるのだと|思《おも》ひます。|政治的《せいぢてき》に|野心《やしん》は|毛頭《まうとう》|無《な》いと|仰《あふ》せられたのは、|要《えう》するに|大《おほい》に|有《あ》りといふ|謎《なぞ》で|御座《ござ》いませう。|注意《ちうい》|周到《しうたう》なる|教主《けうしゆ》はセールス|姫《ひめ》の|間者《かんじや》、もしや|信徒《しんと》に|化《ば》けて|忍《しの》び|入《い》り|居《を》るやも|知《し》れずと|心遣《こころづか》ひ、……ヤアもう|英雄《えいゆう》|豪傑《がうけつ》の|心事《しんじ》は|容易《ようい》に|計《はか》り|知《し》れないもので|御座《ござ》います。|吾々《われわれ》はキツと|真道彦命《まみちひこのみこと》、|泰安城《たいあんじやう》に|現《あら》はれ、|自《みづか》ら|主権者《しゆけんしや》となり、|最愛《さいあい》のヤーチン|姫《ひめ》を|妃《きさき》として|君臨《くんりん》せむと|心中《しんちう》|企画《きくわく》し|居《を》らるる|事《こと》は、|少《すこ》しも|疑《うたが》ふの|余地《よち》なき|事《こと》と|確《かた》く|信《しん》じます。|幹部《かんぶ》の|方々《かたがた》の|御意見《ごいけん》は|如何《いかが》で|御座《ござ》いまするか』
|一同《いちどう》は『|賛成々々《さんせいさんせい》、|尤《もつと》も|尤《もつと》も』と|拍手《はくしゆ》して|迎《むか》へた。カントンは|得意《とくい》の|鼻《はな》を|蠢《うごめ》かし|乍《なが》ら|両手《りやうて》を|鷹揚《おうよう》に|振《ふ》りつつ、|壇《だん》を|降《くだ》りて|自席《じせき》に|着《つ》く。
|幹部《かんぶ》の|一人《ひとり》と|聞《きこ》えたる|頑固派《ぐわんこは》の|頭領株《とうりやうかぶ》エールは、|慌《あわただ》しく|壇上《だんじやう》に|立上《たちあが》り、
『|吾々《われわれ》は|素《もと》より|泰安城《たいあんじやう》の|重臣《ぢうしん》としてカールス|王《わう》に|仕《つか》へ、|殊恩《しゆおん》に|浴《よく》したる|者《もの》、|然《しか》るにサアルボース、ホーロケース|一派《いつぱ》の|悪臣《あくしん》の|為《ため》に|大恩《だいおん》あるカールス|王《わう》を|御病気《ごびやうき》を|楯《たて》に、|淡渓《たんけい》の|畔《ほとり》に|幽閉《いうへい》し|奉《たてまつ》り、|悪鬼《あくき》の|如《ごと》きセールス|姫《ひめ》、|権《けん》を|恣《ほしいまま》にし、|暴虐《ばうぎやく》|日々《ひび》に|増長《ぞうちよう》し、|無念《むねん》の|涙《なみだ》やる|瀬《せ》なく、|如何《いか》にもしてカールス|王《わう》を|救《すく》ひ|奉《たてまつ》り、|元《もと》の|泰安城《たいあんじやう》に|立直《たてなほ》さむと|肺肝《はいかん》を|砕《くだ》きつつあつた|者《もの》で|御座《ござ》います。|然《しか》るに|天《てん》の|時《とき》|未《いま》だ|到《いた》らず、|涙《なみだ》を|呑《の》んで|時《とき》の|到《いた》るを|待《ま》つ|内《うち》、|此《この》|玉藻山《たまもやま》の|聖地《せいち》に、|現幽二界《げんいうにかい》の|救世主《きうせいしゆ》|現《あら》はれたりと|聞《き》き、|城内《じやうない》を|脱出《だつしゆつ》して、|茲《ここ》に|三五教《あななひけう》の|信徒《しんと》となり、|幹部《かんぶ》に|列《れつ》せられ、|時《とき》を|得《え》てカールス|王《わう》の|為《ため》に|全力《ぜんりよく》を|尽《つく》し、|忠義《ちうぎ》を|立《た》てむと|決意《けつい》し、|顕要《けんえう》の|地位《ちゐ》を|棄《すて》て、|無抵抗主義《むていかうしゆぎ》の|三五教《あななひけう》に|身《み》を|寄《よ》せて|居《ゐ》たのであります。|併《しか》し|乍《なが》ら|吾々《われわれ》|日夜《にちや》|真道彦《まみちひこ》の|挙動《きよどう》を|偵察《ていさつ》するに、|畏《おそ》れ|多《おほ》くもヤーチン|姫《ひめ》と|怪《あや》しき|交際《かうさい》を|結《むす》ばれたる|如《ごと》く|感《かん》ぜられ、|憤怒《ふんぬ》の|情《じやう》に|堪《た》へませぬ。|又《また》|一般《いつぱん》の|噂《うはさ》もヤハリ|教主《けうしゆ》とヤーチン|姫《ひめ》との|交際《かうさい》の|点《てん》に|就《つい》て、ヒソビソと|怪《あや》しき|噂《うはさ》が|立《た》つて|居《を》ります。|火《ひ》の|無《な》い|所《ところ》には|決《けつ》して|煙《けぶり》も|立《た》つものではありませぬ。これに|付《つ》いて|吾々《われわれ》は|考《かんが》へまするに、|教主《けうしゆ》は|最早《もはや》ヤーチン|姫《ひめ》を|内縁《ないえん》の|妻《つま》となし|居《を》らるる|以上《いじやう》は、|仮令《たとへ》カールス|王《わう》を|救《すく》ひたりとて、|一旦《いつたん》|汚《けが》されたるヤーチン|姫《ひめ》をして、|堂々《だうだう》と|王妃《わうひ》に|薦《すす》めまつる|事《こと》は、|吾々《われわれ》|臣下《しんか》の|身《み》として|忍《しの》びざる|所《ところ》で|御座《ござ》います。|又《また》|教主《けうしゆ》はヤーチン|姫《ひめ》を|自己《じこ》|薬籠中《やくろうちう》の|者《もの》となし、カールス|王《わう》を|排斥《はいせき》して|自《みづか》ら|治権《ちけん》を|握《にぎ》る|野心《やしん》を|包蔵《はうざう》さるるは、|一点《いつてん》|疑《うたが》ふの|余地《よち》は|無《な》からうかと|信《しん》じます』
と|憤然《ふんぜん》として|壇上《だんじやう》に|雄健《をたけ》びし、|足踏《あしふ》みならして|鼻息《はないき》|荒《あら》く|降壇《かうだん》した。
カントンは|再《ふたた》び|壇上《だんじやう》に|上《あが》り、
『|吾々《われわれ》は|時節《じせつ》の|力《ちから》と|云《い》ふ|事《こと》を|確《かた》く|信《しん》じて|居《ゐ》る|者《もの》で|御座《ござ》います。|泰安城《たいあんじやう》の|主権者《しゆけんしや》が、カールス|王《わう》だらうが、|真道彦命《まみちひこのみこと》であらうが、|但《ただし》はセールス|姫《ひめ》であらうが、|国民《こくみん》の|歓迎《くわんげい》する|主権者《しゆけんしや》であらば|良《い》いので|御座《ござ》います。|天下《てんか》|公共《こうきよう》の|為《ため》には|些々《ささ》たる|感情《かんじやう》の|為《ため》に|左右《さいう》されてはなりますまい。|只今《ただいま》エールさまの|御言葉《おことば》は|一応《いちおう》|御尤《ごもつと》もでは|御座《ござ》いまするが、それはエール|其《その》|人《ひと》を|本位《ほんゐ》としての|議論《ぎろん》であつて、|天下《てんか》に|通用《つうよう》しにくい|御話《おはなし》だと|思《おも》ひます。カールス|王《わう》に|殊恩《しゆおん》を|蒙《かうむ》つた|其《その》|御恩《ごおん》に|酬《むく》いむ|為《ため》に|種々《いろいろ》と|肺肝《はいかん》を|砕《くだ》かせらるるは、それは|主従《しゆじゆう》としての|関係上《くわんけいじやう》、|主恩《しゆおん》に|酬《むく》いむとする|真心《まごころ》より|出《い》でさせられたる|感情論《かんじやうろん》であつて、|言《い》はば|乾児《こぶん》が|親分《おやぶん》の|贔屓《ひいき》をする|様《やう》なものであります。|国民《こくみん》|一般《いつぱん》より|見《み》れば|余《あま》り|問題《もんだい》とならない|議論《ぎろん》だと、|私《わたくし》は|思《おも》ふのであります。|吾々《われわれ》の|如《ごと》き|無冠《むかん》の|太夫《たいふ》は|別《べつ》にエール|様《さま》の|如《ごと》く、|特別《とくべつ》の|恩寵《おんちよう》を|被《かうむ》つた|覚《おぼ》えもなければ、|又《また》カールス|王《わう》に|対《たい》して|一片《いつぺん》の|恨《うら》みも|持《も》ちませぬ。|唯《ただ》|此《この》|際《さい》は|国家《こくか》の|為《ため》に|善良《ぜんりやう》なる|主権者《しゆけんしや》を|得《え》、|万民《ばんみん》|鼓腹撃壌《こふくげきじやう》の|享楽《きやうらく》を|得《う》る|様《やう》に、|世《よ》の|中《なか》が|進《すす》みさへすれば、それで|満足《まんぞく》であります。|諸君《しよくん》の|御考《おかんが》へは|如何《いかが》で|御座《ござ》いますか。|小田原《をだはら》|評定《へうぢやう》にあたら|光陰《くわういん》を|空費《くうひ》し、|時機《じき》を|失《しつ》するよりは、|手取早《てつとりばや》く|話《はなし》を|決《き》めて、|早《はや》く|救援《きうゑん》に|向《むか》はねば、|国家《こくか》は|益々《ますます》|修羅《しゆら》の|巷《ちまた》の|惨状《さんじやう》を|極《きは》め、|国民《こくみん》の|苦《くる》しみは|日《ひ》を|逐《お》うて|烈《はげ》しくなるでせう。|何《なに》は|兎《と》もあれ、|出陣《しゆつぢん》か|非出陣《ひしゆつぢん》か、|一時《いちじ》も|早《はや》く|諸君《しよくん》の|誠意《せいい》に|依《よ》つて|御決定《ごけつてい》を|願《ねが》ひます』
と|言《い》ひ|終《をは》るや、|以前《いぜん》のエールは|烈火《れつくわ》の|如《ごと》く|憤《いきどほ》り、|忽《たちま》ち|壇上《だんじやう》に|駆上《かけあ》がり、|弁者《べんしや》の|面上《めんじやう》を|目《め》あてに|鉄拳《てつけん》を|乱打《らんだ》したるより、|満場《まんぢやう》|総立《さうだ》ちとなりて、
『ヤレ|乱暴者《らんばうもの》を|捉《とら》へよ』
とひしめき|立《た》ちぬ。エールは|敏捷《びんせふ》にも|混乱《こんらん》の|隙《すき》を|窺《うかが》ひ、|何処《どこ》ともなく、|此《この》|場《ば》より|姿《すがた》を|隠《かく》したりける。
(大正一一・八・八 旧六・一六 松村真澄録)
第八章 |混乱戦《こんらんせん》〔八〇八〕
エールは|乱暴《らんばう》を|働《はたら》き、|大勢《おほぜい》に|取巻《とりま》かれ、|進退《しんたい》|谷《きは》まつて、|捷《すば》しこくも|満座《まんざ》|総立《さうだち》となつて|立騒《たちさわ》いで|居《ゐ》る|人々《ひとびと》の|股《また》をくぐり、|聖地《せいち》を|後《あと》に、|二三《にさん》の|知己《ちき》と|共《とも》に、アーリス|山《ざん》を|越《こ》え、|泰安城《たいあんじやう》の|間近《まぢか》の|山《やま》に|身《み》を|忍《しの》ばせ、|形勢《けいせい》|如何《いか》にと|窺《うかが》ひつつあつた。
|一方《いつぱう》|八尋殿《やひろどの》に|於《おい》てはホールサース、マールエース、テールスタン、ホーレンス|其《その》|他《た》の|幹部連《かんぶれん》は|再《ふたた》び|議論《ぎろん》の|花《はな》を|咲《さ》かした。テールスタンは|立上《たちあが》りて、|決心《けつしん》の|色《いろ》を|面《おもて》に|現《あら》はし、|満座《まんざ》に|向《むか》つて|云《い》ふ。
『|満場《まんぢやう》の|諸君《しよくん》よ、|一時《いつとき》も|早《はや》く|出陣《しゆつぢん》を|致《いた》さうでは|御座《ござ》らぬか。グヅグヅ|致《いた》して|居《を》れば、シヤーカルタンやトロレンスの|一派《いつぱ》の|為《ため》に、|泰安城《たいあんじやう》を|占領《せんりやう》せられ、|彼《かれ》が|手《て》に|依《よ》つてカールス|王《わう》を|救《すく》ひ|出《だ》す|事《こと》あらば、|吾等《われら》が|今迄《いままで》の|希望《きばう》も|苦心《くしん》も|全《まつた》く|水泡《すゐほう》に|帰《き》すべし。|六菖十菊《ろくしやうじつきく》の|悔《くい》を|後日《ごじつ》に|残《のこ》すよりは、|若《し》かず、|一刻《いつこく》も|早《はや》く|衆《しう》を|率《ひき》ゐ、|破竹《はちく》の|勢《いきほひ》を|以《もつ》て、|旗鼓堂々《きこだうだう》と|泰安城《たいあんじやう》に|押寄《おしよ》せ、セールス|姫《ひめ》の|一派《いつぱ》を|撃退《げきたい》し、|且《か》つカールス|王《わう》を|救《すく》ひ、シヤーカルタン、トロレンスの|一派《いつぱ》に|先鞭《せんべん》をつけ、|本島《ほんたう》の|統治権《とうぢけん》を|掌握《しやうあく》|致《いた》すは、|今《いま》を|措《お》いて|又《また》とある|可《べか》らず。|千戴一遇《せんざいいちぐう》の|此《この》|好機《かうき》、|躊躇逡巡《ちうちよしゆんじゆん》して、|後日《ごじつ》に|呑噬《どんぜい》の|悔《くい》を|残《のこ》す|事《こと》|勿《なか》れ。|如何《いか》に|真道彦命《まみちひこのみこと》、|表面《へうめん》|無抵抗主義《むていかうしゆぎ》を|唱《とな》へ|給《たま》へばとて、|決《けつ》して|其《その》|本心《ほんしん》には|非《あら》ざるべし。|先《さき》んずれば|人《ひと》を|制《せい》すとかや、|吾等《われら》|率先《そつせん》して|衆《しう》を|引率《いんそつ》し、|泰安城《たいあんじやう》に|立向《たちむか》ひなば、|真道彦命《まみちひこのみこと》も、ヤーチン|姫《ひめ》も|必《かなら》ず|承諾《しようだく》し|玉《たま》ふべし。|三五教《あななひけう》の|教主《けうしゆ》として、あらはに|神軍《しんぐん》を|率《ひき》ゐ、|泰安城《たいあんじやう》の|主権《しゆけん》を|握《にぎ》らむなどとは|口外《こうぐわい》し|玉《たま》はざるは|当然《たうぜん》である。そこは|吾々《われわれ》|幹部《かんぶ》たる|者《もの》|一《いち》を|聞《き》いて|十《じふ》を|悟《さと》るの|知識《ちしき》なかる|可《べか》らず。|学《がく》|古今《ここん》を|絶《ぜつ》し、|識《しき》|東西《とうざい》を|貫《ぬ》き|玉《たま》ふ|教主《けうしゆ》にして、|目前《もくぜん》に|落下《らくか》し|来《きた》る|此《この》|天運《てんうん》を|袖手傍観《しうしゆばうくわん》して|受《う》け|入《い》れ|玉《たま》はざるの|理《り》あらむや。|不肖《ふせう》|乍《なが》らテールスタンの|観察《くわんさつ》は|謬《あやま》りますまい。|皆様《みなさま》、|何卒《なにとぞ》|御賛成《ごさんせい》を|願《ねが》ひませう』
|一同《いちどう》は|何《なん》となく|心《こころ》|勇《いさ》み、|歓声《くわんせい》をあげ、|賛意《さんい》を|表《へう》しける。
|茲《ここ》にホールサースを|大将《たいしやう》と|仰《あふ》ぎ、マールエース、テールスタンを|副将《ふくしやう》とし、|日月潭《じつげつたん》の|信徒《しんと》を|加《くは》へて、|殆《ほとん》ど|三万《さんまん》|有余人《いうよにん》、|竹槍《たけやり》を|携《たづさ》へ、|愈《いよいよ》|時《とき》を|移《うつ》さず、|泰安城《たいあんじやう》に|立向《たちむか》ふ|事《こと》となつた。
|真道彦命《まみちひこのみこと》は|大《おほい》に|驚《おどろ》き、|一同《いちどう》に|向《むか》つて|吾《わが》|意《い》にあらざる|事《こと》を|言葉《ことば》を|尽《つく》して、|説《と》き|明《あか》せ|共《ども》、|逸《はや》り|切《き》つたる|数多《あまた》の|人々《ひとびと》、|真道彦《まみちひこ》の|言葉《ことば》を|却《かへ》つて|逆《さか》に|取《と》り、|容易《ようい》に|一人《ひとり》として|其《その》|命《めい》に|従《したが》ふ|者《もの》はなかつた。|真道彦《まみちひこ》は|止《や》むを|得《え》ず、|幹部《かんぶ》|其《その》|他《た》に|推《お》されて|出陣《しゆつぢん》する|事《こと》となつた。|日楯《ひたて》、|月鉾《つきほこ》の|兄弟《きやうだい》を|天嶺《てんれい》、|泰嶺《たいれい》の|両所《りやうしよ》に|残《のこ》し、|玉藻山《たまもやま》の|聖地《せいち》にはヤーチン|姫《ひめ》、マリヤス|姫《ひめ》をしてこれを|守《まも》らしめ、|馬上《ばじやう》|豊《ゆたか》に|衆《しう》を|率《ひき》ゐて、|心《こころ》ならずも|泰安城《たいあんじやう》に|向《むか》ふ|事《こと》となつた。あゝ|真道彦命《まみちひこのみこと》の|運命《うんめい》は|如何《いか》になるらむか。
|先《さき》に|逃走《たうそう》したるエールは、セールス|姫《ひめ》の|間者《かんじや》として|玉藻山《たまもやま》に|忍《しの》び|入《い》り|込《こ》みたるマルチル、ウラール、キングス、トーマス、マーシヤル|等《ら》の|一味《いちみ》と|共《とも》に、|数十人《すうじふにん》の|部下《ぶか》を|集《あつ》め、アーリス|山《ざん》の|北麓《ほくろく》に、|真道彦《まみちひこ》の|神軍《しんぐん》の|到《いた》るを|待伏《まちぶ》せて|居《ゐ》た。|先頭《せんとう》に|立《た》つたるテールスタンはこれを|見《み》て|大音声《だいおんじやう》、
『ヤア、エール、|汝《なんぢ》は|聖地《せいち》を|脱出《だつしゆつ》し、|少数《せうすう》の|一味《いちみ》の|奴原《やつばら》を|引率《いんそつ》し、|吾等《われら》が|大軍《たいぐん》を|待討《まちう》たむとするか。|弱小《じやくせう》の|味方《みかた》を|以《もつ》て、|雲霞《うんか》の|如《ごと》き|大軍《たいぐん》に|抵抗《ていかう》せむとするは、|実《じつ》に|険呑《けんのん》|千万《せんばん》であらうぞ。それよりも|悔《く》い|改《あらた》めて、|再《ふたた》び|吾《わが》|軍《ぐん》に|加《くは》はり、|共《とも》に|共《とも》に|抜群《ばつぐん》の|功名《こうみやう》を|致《いた》さうではないか』
と|教《をしへ》ゆる|様《やう》に|言《い》つた。エールは|笑顔《ゑがほ》を|以《もつ》てこれを|迎《むか》へ、つかつかとテールスタンの|前《まへ》に|近《ちか》づき、|堅《かた》く|手《て》を|握《にぎ》り、|両眼《りやうがん》より|熱涙《ねつるい》を|落《おと》し|乍《なが》ら、
エール『あゝテールスタンよ、よくも|云《い》つて|下《くだ》さつた。|一時《いちじ》の|怒《いか》りより|聖場《せいぢやう》を|脱出《だつしゆつ》し、|泰安《たいあん》の|都《みやこ》|近《ちか》く|立帰《たちかへ》つて|見《み》れば、シヤーカルタンやトロレンスの|勢《いきほひ》、|頗《すこぶ》る|猖獗《せうけつ》にして|侮《あなど》る|可《べか》らず。|吾等《われら》|少数《せうすう》の|味方《みかた》を|以《もつ》て|彼等《かれら》に|当《あた》るとも、|何《なん》の|効果《かうくわ》もなきのみか、|却《かへつ》て|自《みづか》ら|滅亡《めつぼう》の|淵《ふち》に|飛《と》び|込《こ》む|如《ごと》きもので|御座《ござ》る。それに|付《つ》いても、カールス|王《わう》の|御身《おみ》の|上《うへ》、サアルボースの|一派《いつぱ》、|淡渓《たんけい》の|館《やかた》を|十重廿重《とへはたへ》に|取巻《とりま》き、シヤーカルタンの|寄手《よせて》に|向《むか》つて|王《わう》を|奪《うば》はれまじと|厳《きび》しく|警固《けいご》し|居《を》れば、|王《わう》の|命《めい》は|早《はや》|旦夕《たんせき》に|迫《せま》れり。|思《おも》ふにセールス|姫《ひめ》|一派《いつぱ》は、シヤーカルタン|等《ら》にカールス|王《わう》を|奪《うば》はれ、これを|擁立《ようりつ》して|泰安城《たいあんじやう》に|新《あたら》しき|政事《せいじ》を|布《し》くならば、|吾等《われら》|一派《いつぱ》の|一大事《いちだいじ》と|心得《こころえ》、|王《わう》を|寄手《よせて》に|渡《わた》さじと|全力《ぜんりよく》を|籠《こ》めて|守《まも》り|居《ゐ》るものの|如《ごと》し。さり|乍《なが》ら|寄手《よせて》の|勢《いきほひ》|益々《ますます》|猛烈《まうれつ》にして、|到底《たうてい》|守《まも》る|可《べか》らざるを|知《し》らば、サアルボースの|一派《いつぱ》は|後難《こうなん》を|恐《おそ》れて、|王《わう》を|弑《しい》し、|遁走《とんそう》するやも|計《はか》り|難《がた》し、これを|思《おも》へば|一刻《いつこく》も|猶予《いうよ》す|可《べか》らず。|何卒《なにとぞ》|三五教《あななひけう》の|神軍《しんぐん》の|一部《いちぶ》を|吾《われ》に|賜《たま》はらば、|王《わう》の|生命《いのち》は|安全《あんぜん》に|守《まも》り|奉《たてまつ》る|事《こと》を|得《え》む。|曲《ま》げて|此《この》|儀《ぎ》|御許《おゆる》しあれ』
と|言葉《ことば》を|尽《つく》して|頼《たの》み|入《い》る。テールスタンは|直《ただ》ちに|自己《じこ》の|率《ひき》ゆる|神軍《しんぐん》を|以《もつ》てエールの|請《こ》ふが|儘《まま》に、|淡渓《たんけい》の|王《わう》が|館《やかた》に|応援《おうゑん》の|為《ため》、|出《い》で|向《むか》ふ|事《こと》となつた。
|淡渓《たんけい》の|館《やかた》にはサアルボースの|部下《ぶか》の|者《もの》|十重二十重《とへはたへ》に|取巻《とりま》き|王《わう》の|警固《けいご》に|当《あた》つて|居《ゐ》る。トロレンスの|一隊《いつたい》は|淡渓《たんけい》の|館《やかた》に|攻《せ》め|寄《よ》せ、|王《わう》を|奪《うば》はむとして、サアルボースの|部下《ぶか》と|衝突《しようとつ》し、|互《たがひ》に|一勝一敗《いつしよういつぱい》、|死力《しりよく》を|尽《つく》して|戦《たたか》ひしが、|寄《よ》せ|手《て》の|勢《いきほひ》|刻々《こくこく》に|加《くは》はり、サアルボースは|最早《もはや》|身《み》を|以《もつ》て|免《まぬが》るるの|余儀《よぎ》なきに|立到《たちいた》つた。カールス|王《わう》を|敵手《てきしゆ》に|渡《わた》しては、|後日《ごじつ》の|為《ため》に|面白《おもしろ》からずと、|今《いま》は|覚悟《かくご》を|極《き》め、|王《わう》に|向《むか》つて|自殺《じさつ》を|逼《せま》り、|万一《まんいち》|肯《がえ》んぜざれば、サアルボース|自《みづか》ら|手《て》を|下《くだ》して、|王《わう》を|弑《しい》せむとする|折《をり》しもあれ、|何処《いづこ》よりともなく、|一塊《いつくわい》の|大火光《だいくわくわう》|飛来《ひらい》して、サアルボースの|前《まへ》に|爆発《ばくはつ》し、|大音響《だいおんきやう》を|立《た》てた。サアルボースは|忽《たちま》ち|失心《しつしん》して|其《その》|場《ば》に|倒《たふ》れた。
トロレンスの|寄手《よせて》は|勝《かち》に|乗《じやう》じて|早《はや》くも|館内《くわんない》に|乱入《らんにふ》せむとする。|時《とき》しもあれ、テールスタン、エールの|率《ひき》ゆる|竹槍隊《たけやりたい》は|雲霞《うんか》の|如《ごと》く|鬨《とき》を|作《つく》つて|此《この》|場《ば》に|現《あら》はれ|来《きた》り、|忽《たちま》ち|寄手《よせて》に|向《むか》つて|遮二無二《しやにむに》|突込《つつこ》めば、トロレンスを|始《はじ》め|全軍《ぜんぐん》|狼狽《らうばい》の|結果《けつくわ》、|泰安城《たいあんじやう》を|指《さ》して|敗走《はいそう》して|了《しま》つた。
サアルボースは|漸《やうや》くにして|正気《しやうき》づき、あたりを|見《み》れば、トロレンスの|寄手《よせて》は|影《かげ》もなく、それに|代《かは》はつてテールスタン、エールの|三五軍《あななひぐん》の|襲来《しふらい》せるに|再《ふたた》び|肝《きも》を|潰《つぶ》し、|僅《わづか》に|身《み》を|以《もつ》て|此《この》|場《ば》を|逃《のが》るる|事《こと》を|得《え》た。テールスタン、エールはカールス|王《わう》の|前《まへ》に|出《い》で、|恭《うやうや》しく|手《て》を|仕《つか》へて|王《わう》の|危急《ききふ》を|知《し》り、|遥々《はるばる》|救援《きうゑん》に|向《むか》ひし|事《こと》を|奏上《そうじやう》した。|王《わう》は|立《た》つて|両人《りやうにん》が|手《て》を|固《かた》く|握《にぎ》り、|涙《なみだ》と|共《とも》に|感謝《かんしや》の|辞《じ》を|与《あた》へた。
これより|二人《ふたり》は|王《わう》を|奏《ほう》じ、|淡渓《たんけい》を|溯《さかのぼ》り|新高山《にひたかやま》の|岩窟《がんくつ》を|仮《か》りの|城塞《じやうさい》となし、テールスタンは|一軍《いちぐん》の|半《なかば》を|割《さ》いて|泰安城《たいあんじやう》の|攻撃《こうげき》に|向《むか》ひ、|残《のこ》りの|神軍《しんぐん》はエールこれを|統率《とうそつ》し、|王《わう》の|身辺《しんぺん》を|堅《かた》く|守《まも》り、|時機《じき》を|窺《うかが》ひつつあつた。これよりテールスタン、エールの|二人《ふたり》はカールス|王《わう》の|殊寵《しゆちよう》を|蒙《かうむ》り、|得意《とくい》の|時代《じだい》に|見舞《みま》はるる|事《こと》となりぬ。
○
|一方《いつぱう》|泰安城《たいあんじやう》にてはセールス|姫《ひめ》、セウルスチン、ホーロケースの|大将株《たいしやうかぶ》、|城内《じやうない》の|兵《へい》を|指揮《しき》し、|華々《はなばな》しく|立働《たちはたら》き、|容易《ようい》に|落城《らくじやう》せず。|寄《よ》せ|手《て》のシヤーカルタンの|攻軍《こうぐん》も|素《もと》より|烏合《うがふ》の|衆《しう》なれば、|稍《やや》|厭気《いやき》を|生《しやう》じ、|内訌《ないこう》を|起《おこ》し、|内部《ないぶ》より|瓦解《ぐわかい》せむとする|危急《ききふ》の|場合《ばあひ》であつた。
|此《この》|時《とき》|淡渓《たんけい》より|逃《に》げ|去《さ》つたるサアルボースは、|散乱《さんらん》せる|味方《みかた》を|集《あつ》め、|応援《おうゑん》の|為《ため》に|此《この》|場《ば》に|集《あつ》まり|来《きた》る。|民軍《みんぐん》の|勢《いきほひ》は|稍《やや》|回復《くわいふく》し、|此《この》|機《き》を|逸《いつ》せず|一挙《いつきよ》に|攻《せ》め|寄《よ》せむと|城塞《じやうさい》を|攀《よ》ぢ、|乱入《らんにふ》せむとする|時《とき》しも、テールスタンの|率《ひき》ゆる|一隊《いつたい》、|後方《こうはう》より|鬨《とき》を|作《つく》つて|攻《せ》めよせ|来《きた》り、|民軍《みんぐん》は|内外《ないぐわい》より|敵《てき》を|受《う》け、|再《ふたた》び|窮地《きうち》に|陥《おちい》り|最早《もはや》|敗走《はいそう》の|余儀《よぎ》なき|立場《たちば》となつた。|此《この》|時《とき》|後方《こうはう》より|真道彦命《まみちひこのみこと》の|率《ひき》ゆる|大軍《たいぐん》は、ホールサース、マールエースと|共《とも》に|軍《ぐん》を|三隊《さんたい》に|分《わか》ち、|三方《さんぱう》より|泰安城《たいあんじやう》に|攻寄《せめよ》せ|来《きた》る。|此《この》|勢《いきほひ》に|辟易《へきえき》し、セールス|姫《ひめ》、セウルスチン、ホーロケース、サアルボースも|又《また》|寄《よ》せ|手《て》の|民軍《みんぐん》も、|敵味方《てきみかた》の|区別《くべつ》なく、|雪崩《なだれ》の|如《ごと》く|敗走《はいそう》したり。
|茲《ここ》にテールスタンの|率《ひき》ゆる|三五軍《あななひぐん》と、|真道彦命《まみちひこのみこと》の|率《ひき》ゆる|三五軍《あななひぐん》とは、ゆくりもなくも|大衝突《だいしようとつ》を|来《きた》し、テールスタンは|形勢《けいせい》|非《ひ》なりと|見《み》るより、|部下《ぶか》と|共《とも》にカールス|王《わう》の|臨時《りんじ》の|城塞《じやうさい》に|引返《ひきかへ》し、|虚実《きよじつ》|交々《こもごも》|真道彦命《まみちひこのみこと》の|暴状《ぼうじやう》を|進言《しんげん》したり。カールス|王《わう》は|怒《いか》り|心頭《しんとう》に|達《たつ》し、|如何《いか》にもして|真道彦《まみちひこ》|一派《いつぱ》を|滅《ほろ》ぼさむと、|腕《うで》を|扼《やく》し、|歯《は》を|喰《く》ひしばり、|怒《いか》りの|涙《なみだ》ハラハラと|流《なが》し、|無念《むねん》さを|堪《こら》へて|居《ゐ》たり。
|一方《いつぱう》|真道彦命《まみちひこのみこと》の|神軍《しんぐん》は|悠々《いういう》として|泰安城《たいあんじやう》に|進《すす》み|入《い》り、|真道彦命《まみちひこのみこと》を|始《はじ》め、ホールサース、マールエースの|副将《ふくしやう》|以下《いか》、ホーレンス、ユートピヤール、ツーレンス、シーリンス、ハーレヤール、オーイツク、ヒユーズ、アンデーヤ、ニユヂエール|其《その》|他《た》の|勇将《ゆうしやう》と|共《とも》に、チユーリツクを|脱《ぬ》ぎ|捨《す》て|戦勝《せんしよう》の|酒宴《しゆえん》を|催《もよほ》し、|数多《あまた》の|軍卒《ぐんそつ》を|犒《ねぎら》うた。|城内《じやうない》の|奥殿《おくでん》には|三五教《あななひけう》の|大神《おほかみ》を|斎《まつ》り、|戦勝《せんしよう》の|礼代《いやしろ》として|各神殿《かくしんでん》に|音楽《おんがく》を|奏《そう》し、|舞曲《ぶきよく》を|演《えん》じ、|神慮《しんりよ》を|慰《なぐさ》め、|城内《じやうない》は|忽《たちま》ち|天国《てんごく》|楽園《らくゑん》の|如《ごと》くになつて|来《き》た。
|真道彦命《まみちひこのみこと》はホールサースに|命《めい》じ、|玉藻山《たまもやま》の|聖地《せいち》に|在《あ》るヤーチン|姫《ひめ》、マリヤス|姫《ひめ》を|奉迎《ほうげい》して|泰安城《たいあんじやう》に|帰《かへ》らるべしと、|信書《しんしよ》を|持《も》たせ、|急遽《きふきよ》、|聖地《せいち》に|遣《つか》はした。|又《また》|一方《いつぱう》カールス|王《わう》の|御在処《みあらか》を|探《さぐ》り|得《え》たれば、マールエースをして|少《すこ》しの|従者《じゆうしや》と|共《とも》に、|王《わう》を|泰安城《たいあんじやう》に|奉迎《ほうげい》せしめむと、|急《いそ》ぎ|派遣《はけん》したり。
ホールサースはヤーチン|姫《ひめ》、マリヤス|姫《ひめ》を|首尾《しゆび》|克《よ》く|迎《むか》へ|帰《かへ》りたれ|共《ども》、|何故《なにゆゑ》かマールエースは|旬日《じゆんじつ》を|経《ふ》れ|共《ども》|帰《かへ》り|来《きた》らず、|何《なん》の|音沙汰《おとさた》もなきに|不審《ふしん》を|抱《いだ》き、|此《この》|度《たび》はホーレンスをして|再《ふたた》び、|王《わう》を|迎《むか》ふべく、|王《わう》の|陣所《ぢんしよ》に|差《さ》し|向《む》けた。これ|又《また》|幾日《いくにち》を|経《ふ》るも|何《なん》の|音沙汰《おとさた》|無《な》ければ、ユートピヤール、ツーレンス、シーリンス、ハーレヤールをして|王《わう》を|迎《むか》ふべく|差《さ》し|遣《つか》はしたれ|共《ども》これ|又《また》|何《なん》の|音沙汰《おとさた》も|無《な》かりけり。
|茲《ここ》に|真道彦命《まみちひこのみこと》は|稍《やや》|不安《ふあん》の|念《ねん》に|駆《か》られ|乍《なが》ら、|此《この》|度《たび》はヤーチン|姫《ひめ》を|促《うなが》し、|自《みづか》ら|王《わう》の|隠《かく》れ|家《が》に|到《いた》りて、|泰安城《たいあんじやう》に|奉迎《ほうげい》せむとし、マリヤス|姫《ひめ》|其《その》|他《た》に|城《しろ》を|守《まも》らしめ、|淡渓《たんけい》の|上流《じやうりう》なる|王《わう》の|陣屋《ぢんや》に|自《みづか》ら|出張《しゆつちやう》したりける。
(大正一一・八・八 旧六・一六 松村真澄録)
(昭和一〇・六・七 王仁校正)
第九章 |当推量《あてすゐりやう》〔八〇九〕
テールスタンは|泰安城《たいあんじやう》に|於《おい》て、|真道彦命《まみちひこのみこと》の|神軍《しんぐん》より|手厳《てきび》しく|撃退《げきたい》されたる|無念《むねん》を|晴《は》らさむが|為《ため》に、エールと|共《とも》にカールス|王《わう》に|向《むか》つて|口《くち》を|極《きは》めて、|真道彦命《まみちひこのみこと》|一派《いつぱ》を|讒訴《ざんそ》した。
|真道彦命《まみちひこのみこと》は|斯《か》かる|王《わう》の|怒《いか》りに|触《ふ》れ|居《ゐ》ることは|夢《ゆめ》にも|知《し》らず、マールエースをして、|王《わう》を|泰安城《たいあんじやう》に|迎《むか》へむと、|誠意《せいい》をこめて|遣《つか》はしたるにも|関《かか》はらず、エール|等《ら》の|讒訴《ざんそ》を|固《かた》く|信《しん》じたるカールス|王《わう》は|容易《ようい》に|怒《いか》り|解《と》けず、|真道彦《まみちひこ》の|使者《ししや》を|悉《ことごと》く|牢獄《らうごく》に|投《とう》じ、|日夜《にちや》エールをして|厳《きび》しく|訊問《じんもん》せしめつつあつた。|真道彦命《まみちひこのみこと》は|幾度《いくたび》|使《つかひ》を|遣《つか》はすも、|一人《ひとり》として|帰《かへ》り|来《きた》らざるに|不審《ふしん》を|抱《いだ》き、ヤーチン|姫《ひめ》と|共《とも》に、|王《わう》の|陣屋《ぢんや》に|伺候《しこう》し、|誠意《せいい》をこめて|王《わう》を|泰安城《たいあんじやう》に|迎《むか》へむと、|遥々《はるばる》|訪問《はうもん》したりける。
|手具脛《てぐすね》ひいて|待《ま》つて|居《ゐ》たエール|一味《いちみ》の|者《もの》は、|有無《うむ》を|言《い》はせず、ヤーチン|姫《ひめ》、|真道彦命《まみちひこのみこと》を|牢獄《らうごく》に|投《とう》じ、|日夜《にちや》|訊問《じんもん》を|続《つづ》けたり。|第一《だいいち》に|王《わう》の|前《まへ》に|堅《かた》く|両手《りやうて》を|縛《いまし》められて|引出《ひきいだ》されたるは、マールエース、ホーレンスの|二人《ふたり》であつた。|正面《しやうめん》にカールス|王《わう》は|閻羅王《えんらわう》の|如《ごと》く|厳然《げんぜん》として|眼《め》を|光《ひか》らせ、エール、テールスタンは|左右《さいう》に|赤面《あかづら》を|曝《さら》し、|目《め》を|怒《いか》らして、|訊問《じんもん》の|矢《や》を|放《はな》ちゐる。|王《わう》はマールエースに|向《むか》ひ、
カールス|王《わう》『|汝《なんぢ》は|玉藻山《たまもやま》の|聖地《せいち》に|永《なが》らく|入《い》り|込《こ》みて、|真道彦命《まみちひこのみこと》と|何事《なにごと》かを|企画《きくわく》しつつありしと|聞《き》く。|委細《ゐさい》を|詳《つぶ》さに|陳弁《ちんべん》せよ』
と|厳《きび》しく|問《と》ひかくれば、マールエースは、
『ハイ|私《わたし》は|王《わう》が|御病気《ごびやうき》の|為《ため》、|淡渓《たんけい》の|館《やかた》に|御退去《ごたいきよ》の|後《のち》はセールス|姫《ひめ》、セウルスチン|其《その》|他《た》の|悪人輩《あくにんぱら》の|行動《かうどう》、|見《み》るに|忍《しの》びず、|時《とき》を|待《ま》つてカールス|王様《わうさま》の|御親政《ごしんせい》に|復帰《ふくき》し|奉《たてまつ》らむと|心《こころ》を|決《けつ》し、|玉藻山《たまもやま》に|身《み》を|逃《のが》れて、|時機《じき》の|到《いた》るを|待《ま》ちつつありましたので|御座《ござ》います。|然《しか》るに|此《この》|度《たび》|泰安城《たいあんじやう》の|大変事《だいへんじ》を|聞《き》き、|王《わう》の|御身辺《ごしんぺん》を|危《あやぶ》み、|救援《きうゑん》の|為《ため》に|神軍《しんぐん》を|率《ひき》ゐ|参《まゐ》りました。|外《ほか》にそれ|以上《いじやう》の|目的《もくてき》は|何《なに》も|御座《ござ》いませぬ。|何卒《なにとぞ》|公平《こうへい》なる|御判断《ごはんだん》を|願《ねが》ひ|奉《たてまつ》ります』
カールス|王《わう》『|汝《なんぢ》の|申《まを》す|事《こと》、よもや|間違《まちがひ》はあるまい。それに|就《つ》いて、|汝《なんぢ》に|尋《たづ》ねたき|事《こと》がある。ヤーチン|姫《ひめ》と|真道彦命《まみちひこのみこと》|二人《ふたり》の|間《あひだ》の|関係《くわんけい》は|存《ぞん》じて|居《ゐ》るや』
マールエース『ハイ|御両人《ごりやうにん》|共《とも》|忠実《ちうじつ》に|御神務《ごしんむ》に|奉仕《ほうし》されて|居《を》られました。|別《べつ》に|噂《うはさ》にのぼつて|居《ゐ》る|如《ごと》き|醜関係《しうくわんけい》は、|私《わたくし》としては|認《みと》められませぬ』
カールス|王《わう》『テールスタンやエールも|永《なが》らく|汝《なんぢ》の|如《ごと》く|聖地《せいち》に|入《い》り|込《こ》んで、|幹部《かんぶ》に|列《れつ》して|居《ゐ》た|者《もの》、|彼《か》れら|両人《りやうにん》の|言《い》ふ|所《ところ》に|依《よ》れば、|真道彦《まみちひこ》はヤーチン|姫《ひめ》と|怪《あや》しき|関係《くわんけい》を|結《むす》び、|時《とき》を|得《え》て|泰安城《たいあんじやう》を|占領《せんりやう》し、|台湾島《たいわんたう》の|主権《しゆけん》を|握《にぎ》り、|自《みづか》ら|王《わう》と|称《しよう》する|計画《けいくわく》を|立《た》てて|居《を》つたではないか。|斯《かく》の|如《ごと》く|歴然《れきぜん》たる|二人《ふたり》の|証人《しようにん》ある|上《うへ》は、|隠《かく》すも|無駄《むだ》であらう。|有態《ありてい》に|白状《はくじやう》せよ』
マールエース『|真道彦命《まみちひこのみこと》に|限《かぎ》りて、|決《けつ》して|左様《さやう》な|政治的《せいぢてき》|野心《やしん》も、|又《また》|醜行《しうかう》も、|毛頭《まうとう》|御座《ござ》いませぬ。|三五教《あななひけう》の|古来《こらい》の|主義《しゆぎ》として、|教主《けうしゆ》たる|者《もの》は|政治的《せいぢてき》|野心《やしん》を|持《も》つ|可《べ》からずと|云《い》ふ|厳《きび》しき|掟《おきて》が|御座《ござ》いまする。|信心《しんじん》|堅固《けんご》なる|真道彦命《まみちひこのみこと》に|於《おい》て、|如何《どう》して|左様《さやう》な|御心《おこころ》を|抱《いだ》かれませう。|全《まつた》く|人々《ひとびと》の|邪推《じやすい》より|出《い》でたる|噂《うはさ》で|御座《ござ》いますれば、|何卒《なにとぞ》|神直日《かむなほひ》|大直日《おほなほひ》に|見直《みなほ》し|聞直《ききなほ》し、|公平《こうへい》なる|御判断《ごはんだん》を|願《ねが》ひ|奉《たてまつ》ります』
|王《わう》は|烈火《れつくわ》の|如《ごと》く|憤《いきどほ》り、
カールス|王《わう》『|汝《なんぢ》、マールエース、|其《その》|方《はう》は|真道彦《まみちひこ》と|心《こころ》を|協《あは》せ、|泰安城《たいあんじやう》を|占領《せんりやう》し、|政治《せいぢ》の|全権《ぜんけん》を|握《にぎ》り、|且《か》つ|吾《わ》れを|排斥《はいせき》せむとの|悪虐無道《あくぎやくぶだう》の|一類《いちるゐ》であらう。……ヤア、エール、|一刻《いつこく》も|早《はや》くマールエースが|事実《じじつ》を|白状《はくじやう》|致《いた》す|迄《まで》、|牢獄《らうごく》に|投《とう》じ、|水責《みづぜ》め|火責《ひぜ》めの|責苦《せめく》に|会《あ》はしても、|事実《じじつ》を|吐露《とろ》せしめよ』
エールは|傍《かたはら》の|従卒《じゆうそつ》に|命《めい》じ、|目配《めくば》せすれば、|従卒《じゆうそつ》はマールエースを|荒々《あらあら》しく|引立《ひきた》て、|暗黒《あんこく》なる|牢獄《らうごく》の|中《なか》に|投込《なげこ》んで|了《しま》つた。
カールス|王《わう》は、|続《つづ》いてホーレンスに|向《むか》ひ、
カールス|王《わう》『|汝《なんぢ》はホーレンス、|久《ひさ》しく|玉藻山《たまもやま》の|聖地《せいち》に|参《まゐ》り|居《を》りし|者《もの》、エール、テールスタンの|申《まを》した|事《こと》に|間違《まちがひ》はあるまいなア』
ホーレンス『ハイ|決《けつ》して|間違《まちがひ》は|御座《ござ》いますまい。ヤーチン|姫様《ひめさま》と|真道彦命《まみちひこのみこと》の|醜関係《しうくわんけい》は、|私《わたくし》は|実地《じつち》|目撃《もくげき》は|致《いた》しませぬが、これは|随分《ずゐぶん》|喧《やかま》しき|噂《うはさ》で|御座《ござ》います。|御両人《ごりやうにん》の|間柄《あひだがら》はつまり|公然《こうぜん》の|秘密《ひみつ》も|同様《どうやう》、|三歳《さんさい》の|童児《どうじ》に|至《いた》る|迄《まで》|知《し》らぬ|者《もの》は|御座《ござ》いませぬ』
カールス|王《わう》『|真道彦《まみちひこ》はヤーチン|姫《ひめ》と|関係《くわんけい》を|結《むす》び、|将来《しやうらい》は|泰安城《たいあんじやう》の|国王《こくわう》となり、ヤーチン|姫《ひめ》を|妃《きさき》とし、|日頃《ひごろ》の|野心《やしん》を|遂行《すゐかう》し、|且《か》つ|此《この》カールスを|目《め》の|上《うへ》の|瘤《こぶ》と|忌《い》み|嫌《きら》ひ、|排斥《はいせき》せむとの|計画《けいくわく》を|立《た》て|居《を》りしと|云《い》ふ|事《こと》、|事実《じじつ》であらうなア』
ホーレンス『ハイ、|夫《それ》も|私《わたし》の|考《かんが》へでは|事実《じじつ》だと|信《しん》じて|居《を》ります。|此《この》|度《たび》|神《かみ》に|仕《つか》ふる|身《み》であり|乍《なが》ら|数多《あまた》の|部下《ぶか》を|引率《いんそつ》し、|泰安城《たいあんじやう》へ|救援《きうゑん》の|名《な》の|下《もと》に|攻寄《せめよ》せ|来《きた》りしは、|全《まつた》く|王者《わうじや》たらむとの、|野心《やしん》より|起《おこ》つたる|出陣《しゆつぢん》と|考《かんが》へるより|途《みち》は|御座《ござ》いませぬ』
|王《わう》『あゝさうであらう。|其《その》|方《はう》は|正直《しやうぢき》な|奴《やつ》だ。サア|只今《ただいま》より|縛《いまし》めの|繩《なは》を|解《と》いてやらう』
エールは|従卒《じゆうそつ》に|命《めい》じ、ホーレンスの|縛《いまし》めを|解《と》いた。ホーレンスは|大《おほ》いに|喜《よろこ》び、|三拝九拝《さんぱいきうはい》して、|王《わう》の|意《い》を|迎《むか》ふる|事《こと》のみに|熱中《ねつちゆう》し、|夫《それ》が|為《ため》に|真道彦命《まみちひこのみこと》の|寃罪《ゑんざい》は|容易《ようい》に|拭《ぬぐ》ふ|可《べか》らざるものとなりにける。
|続《つづ》いてユートピヤール、ツーレンス、シーリンス、ハーレヤール|其《その》|他《た》|数多《あまた》の|嫌疑《けんぎ》を|受《う》けて|投獄《とうごく》されたる|三五教《あななひけう》の|幹部《かんぶ》は、ホーレンスと|略《ほぼ》|同様《どうやう》の|陳述《ちんじゆつ》をなし、|遂《つひ》に|縛《いまし》めを|解《と》かれ、|再《ふたた》び|王《わう》の|寵臣《ちようしん》として|深《ふか》く|用《もち》ゐらるる|事《こと》となりけり。
|茲《ここ》にカールス|王《わう》はエールをして|此《この》|岩城《がんじやう》の|総監督《そうかんとく》たらしめ、|且《か》つ|真道彦命《まみちひこのみこと》、ヤーチン|姫《ひめ》を|牢獄《らうごく》につなぎ、|数多《あまた》の|従卒《じゆうそつ》をして|監視《かんし》せしめつつ、テールスタンの|部下《ぶか》を|引率《ひきつ》れ、|数多《あまた》の|幹部《かんぶ》と|共《とも》に、|泰安城《たいあんじやう》に|堂々《だうだう》として|乗《の》り|込《こ》んだ。|此《この》|勢《いきほひ》に|真道彦《まみちひこ》の|率《ひき》ゐ|来《きた》れる|神軍《しんぐん》を|始《はじ》め、マリヤス|姫《ひめ》は|思《おも》ひ|思《おも》ひに|遁走《とんそう》し、|再《ふたた》びアーリス|山《ざん》の|東南方《とうなんぱう》に|避難《ひなん》する|者《もの》、|或《あるひ》は|各自《かくじ》の|郷里《きやうり》に|帰《かへ》りて、|何喰《なにく》はぬ|顔《かほ》にて|樵夫《きこり》、|耕《たがや》しなどに|従事《じうじ》し、|暫《しばら》くは|玉藻山《たまもやま》の|霊地《れいち》にも、|大部分《だいぶぶん》|足《あし》を|向《む》けなくなり、カールス|王《わう》の|威力《ゐりよく》と|真道彦《まみちひこ》|教主《けうしゆ》の|投獄《とうごく》とに|萎縮《ゐしゆく》して、|一時《いちじ》|三五教《あななひけう》は|火《ひ》の|消《き》えし|如《ごと》く|淋《さび》しくなりにけり。
カールス|王《わう》は|再《ふたた》び|泰安城《たいあんじやう》の|城主《じやうしゆ》となり、テールスタンを|宰相《さいしやう》とし|其《その》|他《た》の|一同《いちどう》を|重用《ぢうよう》して、|万機《ばんき》の|政事《せいじ》を|執《と》り|行《おこな》ひつつあつた。され|共《ども》|何《なん》となく|国内《こくない》の|情勢《じやうせい》は|穏《おだや》かならず、サアルボースはセールス|姫《ひめ》を|奉《ほう》じて、|日《ひ》ならず|泰安城《たいあんじやう》へ|攻来《せめきた》るべしとか、シヤーカルタン、トロレンスの|一派《いつぱ》、|同志《どうし》を|集《あつ》め|捲土重来《けんどぢうらい》、|再《ふたた》び|戦闘《せんとう》は|開始《かいし》さるべしとか、|種々雑多《しゆじゆざつた》の|噂《うはさ》にて|持切《もちき》つて|居《ゐ》た。されどカールス|王《わう》はテールスタン|以下《いか》の|重臣《ぢうしん》の|甘言《かんげん》に|誤《あやま》られ、|少《すこ》しも|国内《こくない》の|不穏《ふおん》なることを|知《し》らず、|天下《てんか》は|無事《ぶじ》|太平《たいへい》にて、|国民《こくみん》はカールス|王《わう》の|徳《とく》に|悦服《えつぷく》するものとのみ|確《かた》く|信《しん》じつつありしなり。
テールスタン、ホーレンス、ユートピヤール、|其《その》|他《た》の|重臣《ぢうしん》は|王《わう》に|諂《へつら》ひ、|下《しも》を|虐《しへた》げ、|我利《がり》|我慾《がよく》にのみ|耽《ふけ》り、バラモンの|神《かみ》を|祀《まつ》り、|今迄《いままで》|信《しん》じ|居《ゐ》たりし|三五教《あななひけう》を|塵芥《ぢんかい》の|如《ごと》く|振棄《ふりす》てて、|新高山《にひたかやま》|以北《いほく》の|地《ち》には、|再《ふたた》びバラモンの|教《をしへ》を|布《し》き、|以《もつ》て|国政《こくせい》の|輔助《ほじよ》となしつつあつた。|国民《こくみん》|怨嗟《えんさ》の|声《こゑ》は|以前《いぜん》に|倍加《ばいか》して、|何時《いつ》|動乱《どうらん》の|勃発《ぼつぱつ》するやも|計《はか》り|難《がた》き|危機《きき》に|迫《せま》りつつあつた。
(大正一一・八・八 旧六・一六 松村真澄録)
(昭和一〇・旧五・七 王仁校正)
第一〇章 |縺《もつ》れ|髪《がみ》〔八一〇〕
|真道彦命《まみちひこのみこと》の|教主《けうしゆ》を|始《はじ》めヤーチン|姫《ひめ》は、|淡渓《たんけい》の|上流《じやうりう》なる|岩窟《がんくつ》の|牢獄《らうごく》に|投《とう》ぜられ、|数多《あまた》の|幹部《かんぶ》は|鉾《ほこ》を|逆《さか》さまにして、カールス|王《わう》に|取《と》り|入《い》り、|暴政《ばうせい》を|振《ふる》ひ、|其《その》|勢《いきほ》ひ|猛烈《まうれつ》にして|何時《いつ》|如何《いか》なる|難題《なんだい》を|此《この》|聖地《せいち》に|向《むか》つて|持込《もちこ》み|来《きた》るやも|計《はか》られず、|且《か》つ|数多《あまた》の|信徒《しんと》は|殆《ほとん》ど|離散《りさん》し、|寂寥《せきれう》の|気《き》に|包《つつ》まれ、|日楯《ひたて》|夫婦《ふうふ》を|始《はじ》め、|月鉾《つきほこ》は|心《こころ》も|落《お》ちつかず、|薄氷《はくひよう》を|踏《ふ》む|如《ごと》き|心地《ここち》し|乍《なが》ら、ヤーチン|姫《ひめ》|始《はじ》め、|父《ちち》の|寃罪《ゑんざい》の|一日《いちにち》も|早《はや》く|晴《は》れむ|事《こと》を、|朝夕《あさゆふ》|神前《しんぜん》に|祈願《きぐわん》しつつあつた。|忽《たちま》ちユリコ|姫《ひめ》に|神懸《かむがか》りあり、|詞《ことば》おごそかに|宣《の》り|玉《たま》ふよう、
『|汝《なんぢ》|日楯《ひたて》、|月鉾《つきほこ》の|兄弟《きやうだい》よ、|真道彦命《まみちひこのみこと》の|此《この》|度《たび》の|奇禍《きくわ》は、すべて|神界《しんかい》の|経綸《けいりん》に|出《い》でさせ|玉《たま》ふものなれば|必《かなら》ず|案《あん》じ|煩《わづら》ふ|勿《なか》れ。|頓《やが》て|晴天白日《せいてんはくじつ》の|時《とき》|来《きた》るべし。|真道彦命《まみちひこのみこと》、|此《この》|度《たび》の|遭難《さうなん》なくば、|到底《たうてい》|三五教《あななひけう》の|救世主《きうせいしゆ》としての|任務《にんむ》を|全《まつた》うする|事《こと》|能《あた》はず。|今日《こんにち》の|悲《かな》しみは|後日《ごじつ》の|喜《よろこ》びなり、|必《かなら》ず|必《かなら》ず|傷心《しやうしん》する|事《こと》|勿《なか》れ。|是《こ》れより|汝《なんぢ》|兄弟《きやうだい》は、ユリコ|姫《ひめ》を|伴《ともな》ひ、|暗夜《あんや》に|乗《じやう》じて|聖地《せいち》を|去《さ》り、|荒波《あらなみ》を|渡《わた》りて、|琉球《りうきう》の|南島《なんたう》に|在《あ》る|三五教《あななひけう》の|神司《かむづかさ》|兼《けん》|国王《こきし》たる|照彦《てるひこ》、|照子姫《てるこひめ》の|許《もと》に|到《いた》り、|事情《じじやう》を|打明《うちあ》かし、|救援《きうゑん》を|求《もと》めよ。|然《しか》らばカールス|王《わう》の|迷夢《めいむ》も|醒《さ》め、|汝《なんぢ》が|父《ちち》の|疑《うたがひ》も|全《まつた》く|晴《は》るるに|至《いた》らむ。|汝《なんぢ》|兄弟《きやうだい》は|未《いま》だ|年《とし》|若《わか》く、|如何《いか》なる|艱難辛苦《かんなんしんく》にも|堪《た》へ|得《う》べき|能力《のうりよく》あり。|年《とし》|老《おい》たる|父《ちち》の|危難《きなん》を|思《おも》へば、|如何《いか》なる|難事《なんじ》に|遭遇《さうぐう》する|共《とも》、|物《もの》の|数《かず》にも|非《あら》ざるべし。|今宵《こよひ》は|時《とき》を|移《うつ》さず、|聖地《せいち》を|立出《たちい》で|琉球《りうきう》の|島《しま》に|向《むか》へよ。|中途《ちうと》にして|種々雑多《しゆじゆざつた》の|迫害《はくがい》|艱難《かんなん》に|遭《あ》ふ|事《こと》あるとも、|撓《たゆ》まず|屈《くつ》せず、|勇猛心《ゆうまうしん》を|発揮《はつき》して、|此《この》|使命《しめい》を|果《はた》すべし。|我《わ》れは|本島《ほんたう》の|国魂神《くにたまがみ》|竜世姫命《たつよひめのみこと》なるぞ。ゆめゆめ|我《わが》|神勅《しんちよく》を|疑《うたが》ふな』
と|云《い》ひ|終《をは》つて、ユリコ|姫《ひめ》の|神懸《かむがか》りは|元《もと》に|復《ふく》した。|茲《ここ》に|日楯《ひたて》、|月鉾《つきほこ》|兄弟《きやうだい》はユリコ|姫《ひめ》と|共《とも》に、|身《み》を|巡礼姿《じゆんれいすがた》にやつし、|蓑笠《みのかさ》|草鞋《わらぢ》|脚絆《きやはん》の|扮装《いでたち》、|金剛杖《こんがうづゑ》をつき|乍《なが》ら、|人里《ひとざと》|離《はな》れし|山途《やまみち》を|辿《たど》りて|遂《つひ》に|基隆《キール》の|港《みなと》を|指《さ》して|進《すす》むこととなつた。
|月《つき》|照《て》りわたる|涼《すず》しき|夏《なつ》の|夜《よ》を、|三人《さんにん》は|漸《やうや》くにして、アーリス|山《ざん》の|頂上《ちやうじやう》に|辿《たど》り|着《つ》き、|傍《かたはら》の|巌《いはほ》に|腰打《こしうち》かけ|息《いき》を|休《やす》めてゐた。フト|見《み》れば、|月夜《つきよ》の|中《なか》に|白《しろ》く|光《ひか》つた|菅《すげ》の|小笠《をがさ》|一枚《いちまい》、ゆらぎつつ|峠《たうげ》を|目蒐《めが》けて|登《のぼ》り|来《く》る。|三人《さんにん》は|目《め》を|瞠《みは》り、テールスタンの|部下《ぶか》の|間者《かんじや》にはあらざるかと|稍《やや》|胸《むね》を|轟《とどろ》かせ|乍《なが》ら、|心《こころ》の|中《なか》にて|天《あま》の|数歌《かずうた》を|称《とな》へつつあつた。|笠《かさ》は|漸《やうや》く|間近《まぢか》くなつた。|見《み》れば|一人《ひとり》の|巡礼姿《じゆんれいすがた》の|妙齢《めうれい》の|美人《びじん》である。|美人《びじん》は|三人《さんにん》の|憩《いこ》へる|前《まへ》に、|恐《おそ》る|恐《おそ》る|近《ちか》づき|来《きた》り、さも|慇懃《いんぎん》に、
|巡礼《じゆんれい》『|失礼《しつれい》|乍《なが》ら、あなたは|月鉾様《つきほこさま》の|一行《いつかう》では|御座《ござ》いませぬか。|妾《わたし》は|泰嶺《たいれい》の|聖地《せいち》に|朝《あさ》な|夕《ゆふ》な|仕《つか》へまつれるテーリン|姫《ひめ》で|御座《ござ》います』
|月鉾《つきほこ》は|此《この》|声《こゑ》に|驚《おどろ》き、あたりを|見廻《みまは》し|乍《なが》ら、|声《こゑ》をひそめて、
『|如何《いか》にも|私《わたくし》は|月鉾《つきほこ》で|御座《ござ》います。|此《この》|深山《しんざん》を|繊弱《かよわ》き|婦人《ふじん》の|身《み》として、|同伴《つれ》もなく|只《ただ》|一人《ひとり》、|御越《おこ》しになるとは|大胆至極《だいたんしごく》の|御振舞《おふるまひ》、|何処《どこ》へ|御出《おい》でになりますか』
テーリン|姫《ひめ》は|涙《なみだ》を|拭《ぬぐ》ひ|乍《なが》ら、
『|月鉾様《つきほこさま》、|何《いづ》れへ|行《ゆ》くかとは、それは|余《あま》り|御胴慾《おどうよく》で|御座《ござ》います。|三五教《あななひけう》の|神様《かみさま》に|心願《しんぐわん》を|掛《か》け、ヤツト|叶《かな》うた|妾《わたし》の|恋路《こひぢ》、あなたは|妾《わたし》に|仰《あふ》せられた|御言葉《おことば》、|最早《もはや》|御忘《おわす》れになりましたか。エヽ|残念《ざんねん》で|御座《ござ》います。そんな|御心《おこころ》とは|露知《つゆし》らず、|互《たがひ》に|心《こころ》を|変《かは》るまじとの|御言葉《おことば》を|神様《かみさま》の|教示《けうじ》と|信《しん》じ、|夢《ゆめ》にも|忘《わす》れぬ|妾《わたし》の|心《こころ》、……エヽ|口惜《くや》しい、|残念《ざんねん》な』
とあたり|構《かま》はず、|身《み》を|大地《だいち》にうちつけて|泣《な》き|叫《さけ》ぶのであつた。|月鉾《つきほこ》は|当惑顔《たうわくがほ》にて、|太《ふと》き|息《いき》をつき|乍《なが》ら、
『あなたに|誓《ちか》つた|言葉《ことば》は、|夢寐《むび》にも|忘《わす》れは|致《いた》しませぬ。|去《さ》り|乍《なが》ら、|已《や》むに|止《や》まれぬ|事情《じじやう》の|為《ため》、あなたにも|委細《ゐさい》を|打明《うちあ》けず、|俄《にはか》に|或《ある》|秘密《ひみつ》の|用務《ようむ》を|帯《お》びて、|暫《しばら》く|聖地《せいち》を|離《はな》れねばならぬ|事《こと》が|出来《でき》ました。|決《けつ》して|決《けつ》して|貴女《あなた》を|嫌《きら》つたのでも、|忘《わす》れたのでも|有《あ》りませぬ。|此《この》|月鉾《つきほこ》が|天晴《あつぱ》れ|使命《しめい》を|果《はた》すまで、|泰嶺《たいれい》に|帰《かへ》り|神妙《しんめう》に|神様《かみさま》に|仕《つか》へて|居《ゐ》て|下《くだ》さい。キツト|貴女《あなた》との|約束《やくそく》は|反古《ほご》には|致《いた》しませぬ。サア|斯《こ》う|云《い》ふ|内《うち》にも、テールスタンの|部下《ぶか》の|者共《ものども》の|耳《みみ》に|入《い》らば、|互《たがひ》の|不覚《ふかく》、|今《いま》の|辛《つら》き|別《わか》れは|後《のち》の|楽《たのし》み、どうぞ|此《この》|事《こと》を|聞《き》き|分《わ》けて、|一刻《いつこく》も|早《はや》く|帰《かへ》つて|下《くだ》さい』
テーリン『イエイエあなたはさう|仰有《おつしや》つて、うまく|妾《わたし》を|振棄《ふりす》て、|泰安城《たいあんじやう》に|隠《かく》れますマリヤス|姫様《ひめさま》のお|側《そば》へ|招《まね》かれて|行《ゆ》かれるのでせう。|何《なん》と|仰有《おつしや》つても、|妾《わたし》は|仮令《たとへ》|火《ひ》の|中《なか》、|水《みづ》の|底《そこ》をも|厭《いと》ひませぬ。あなたに|影《かげ》の|如《ごと》く|附添《つきそ》ひ|参《まゐ》ります』
|月鉾《つきほこ》『あゝ|困《こま》つたなア。……|日楯《ひたて》さま、ユリコ|姫《ひめ》さま、どうしたら|宜《よ》いでせうか』
|日楯《ひたて》『ハテ|困《こま》つた|事《こと》が|出来《でき》ましたなア。|何《なん》と|云《い》つても、|今度《こんど》は|特別《とくべつ》の|使命《しめい》が|有《あ》るのだから、ここの|所《ところ》はテーリンさまに|聞分《ききわ》けて|貰《もら》つて、|帰《かへ》つて|貰《もら》ふより|仕方《しかた》が|有《あ》りますまい』
テーリン『あなた|迄《まで》が|腹《はら》を|合《あ》はして、|妾《わたし》を|排斥《はいせき》なされますか。キツト|御恨《おうら》み|申《まを》します』
|日楯《ひたて》『あゝあ、どうしたら|良《よ》からうかなア。|竜世姫《たつよひめ》|様《さま》がいろいろの|迫害《はくがい》や|艱難《かんなん》に|遭《あ》うても、|撓《たゆ》まず|屈《くつ》せず、|初心《しよしん》を|貫徹《くわんてつ》せよと|仰有《おつしや》つたが、これは|又《また》|同情《どうじやう》ある|迫害《はくがい》に|会《あ》つたものだ。|情《なさけ》ある|艱難《かんなん》に|出会《でつくわ》したものだ。……ナア|月鉾《つきほこ》さま』
ユリコ『もし、テーリン|様《さま》、|妾《わたし》は|女《をんな》の|身《み》として、|差出《さしで》がましく|申上《まをしあ》げるのも、|何《なん》となく|恥《はづ》かしう|御座《ござ》いますが、|貴方《あなた》も|月鉾様《つきほこさま》と|深《ふか》く|契合《ちぎりあ》うたお|仲《なか》、|切《せつ》なき|御心《おこころ》は|御察《おさつ》し|申上《まをしあ》げます。さり|乍《なが》ら|夫《をつと》の|一大事《いちだいじ》、ここは|能《よ》く|噛《か》み|分《わ》けて、|一先《ひとま》づ|聖地《せいち》へ|帰《かへ》つて|下《くだ》さいませ。|何《いづ》れ|遠《とほ》からぬ|内《うち》に、|吉《よ》き|便《たよ》りをお|聞《き》かせ|申《まを》すことが|出来《でき》ませう』
と|慰《なぐさ》める|様《やう》に、|言葉《ことば》やさしく|説《と》き|諭《さと》す。テーリン|姫《ひめ》は|首《くび》を|左右《さいう》にふり、
テーリン『イエイエ、|夫《をつと》が|行《ゆ》かるる|所《ところ》へ、|仮令《たとへ》|内縁《ないえん》にせよ、|妻《つま》の|妾《わたし》が|行《ゆ》かれない|道理《だうり》が|有《あ》りますか。|女房《にようばう》が|行《ゆ》く|事《こと》が|出来《でき》ないのならば、あなたも|日楯《ひたて》さまと|此処《ここ》で|袂《たもと》を|別《わか》ち、|泰嶺《たいれい》の|聖地《せいち》へ|帰《かへ》つて、|神前《しんぜん》に|御奉仕《ごほうし》なさりませ。|貴女《あなた》がさうなされば、|妾《わたし》も|泰嶺《たいれい》の|聖地《せいち》へ|潔《いさぎよ》く|帰《かへ》ります』
と|抜差《ぬきさ》しならぬ|理詰《りづ》めに、ユリコ|姫《ひめ》は|是非《ぜひ》なく|黙《だま》り|込《こ》んで|了《しま》つた。
|月鉾《つきほこ》は|父《ちち》の|危難《きなん》を|救《すく》ふべく、|意《い》を|決《けつ》して|住《す》み|慣《な》れし|聖地《せいち》をあとに、|漸《や》う|漸《や》う|此処《ここ》まで|息《いき》せき|来《きた》りしものを、|恋女《こひをんな》に|追《お》ひせまられ、|恥《はづ》かしさと|苦《くる》しさに、|五色《ごしき》の|息《いき》を|吐《つ》いて|居《ゐ》る。
|日楯《ひたて》『テーリンさま、|貴女《あなた》は|最前《さいぜん》の|御言葉《おことば》に|依《よ》れば、|泰安《たいあん》の|城《しろ》に|御座《ござ》るマリヤス|姫様《ひめさま》に|会《あ》はむとて、|月鉾《つきほこ》さまが|御出《おい》でになる|様《やう》に|仰有《おつしや》つたが、|左様《さやう》な|気楽《きらく》な|場合《ばあひ》では|御座《ござ》いませぬ。|吾々《われわれ》|兄弟《きやうだい》は|父上《ちちうへ》の|危難《きなん》を|救《すく》はねばならぬ|千騎一騎《せんきいつき》の|此《この》|場合《ばあひ》、どうして|気楽《きらく》|相《さう》に|女《をんな》を|連《つ》れて|行《ゆ》くことが|出来《でき》ませう。まさかの|時《とき》に|手足《てあし》|纏《まと》ひになるのは|女《をんな》で|御座《ござ》いますよ』
テーリン『オホヽヽヽ、|勝手《かつて》な|事《こと》|能《よ》う|仰有《おつしや》ります。ユリコ|姫様《ひめさま》は|男《をとこ》で|御座《ござ》いますか、そして|貴方《あなた》と|無関係《むくわんけい》の|御方《おかた》で|御座《ござ》いますか。あなた|方《がた》は|夫婦《ふうふ》で|御出《おい》でになつても|陽気《やうき》ではなくて、|妾《わたし》が|月鉾《つきほこ》さまと|一緒《いつしよ》に|参《まゐ》るのが|陽気《やうき》なとは、そりや|又《また》|如何《どう》した|訳《わけ》で|御座《ござ》います。|此《この》|事《こと》をハツキリと|妾《わたし》の|合点《がつてん》の|往《ゆ》く|様《やう》に|仰有《おつしや》つて|下《くだ》さいませ。|心《こころ》の|僻《ひが》みか|存《ぞん》じませぬが、|左様《さやう》な|事《こと》を|仰有《おつしや》れば|仰有《おつしや》る|程《ほど》、|妾《わたし》は|月鉾《つきほこ》さまに|見放《みはな》されたとより|思《おも》はれませぬ。|月鉾《つきほこ》さまには、マリヤス|姫《ひめ》と|云《い》ふ|立派《りつぱ》な|恋女《こひをんな》が|御座《ござ》いますから、ここでは|一人旅《ひとりたび》なれど、|泰安《たいあん》の|都《みやこ》|迄《まで》|御着《おつ》きになれば、キツと|二夫婦《ふたふうふ》|手《て》に|手《て》を|取《と》つて、どつかへ|御越《おこ》し|遊《あそ》ばすのでせう』
|月鉾《つきほこ》『あゝ|持《も》つ|可《べか》らざるものは|女《をんな》なりけり。|余《あま》りの|親切《しんせつ》にほだされて、|内縁《ないえん》を|結《むす》んだのは|今《いま》になつて|見《み》ると、チト|早計《さうけい》だつた。あゝ|如何《どう》したら|良《よ》からうかなア』
テーリン『そら|御覧《ごらん》、|吾《わ》れと|吾《わが》|手《て》に|心《こころ》の|底《そこ》を|御明《おあ》かしなさつたぢやありませぬか。それ|程《ほど》|妾《わたし》がうるさくて|堪《たま》らねば、どうぞ|此《この》|場《ば》であなたの|御手《おて》にかけて、|一思《ひとおも》ひに|殺《ころ》して|下《くだ》さい。さうすれば|定《さだ》めし、マリヤス|姫《ひめ》も|御満足《ごまんぞく》|遊《あそ》ばし、|夫婦《ふうふ》|睦《むつま》じく|末永《すえなが》く|暮《くら》して|下《くだ》さるでせう』
と|身《み》を|悶《もだ》えて|泣《な》きまろぶ。|三人《さんにん》は|代《かは》る|代《がは》る|理《り》を|分《わ》けて|諭《さと》せ|共《ども》、テーリン|姫《ひめ》は|容易《ようい》に|承知《しようち》せず、|言《い》へば|言《い》ふ|程《ほど》、|益々《ますます》|疑《うたがひ》|烈《はげ》しくなる|計《ばか》りである。
|最前《さいぜん》よりあたりの|木蔭《こかげ》に|潜《ひそ》んで、|此《この》|悲劇《ひげき》を|聞《き》き|居《ゐ》たる|人影《ひとかげ》があつた。|忽《たちま》ち|此《この》|場《ば》に|現《あら》はれ、|四人《よにん》の|前《まへ》につつ|立《た》ち、
『ヤア|汝《なんぢ》は|月鉾《つきほこ》の|一行《いつかう》であらう。|最前《さいぜん》よりここを|通《とほ》り|合《あは》せ|見《み》れば、|何事《なにごと》か|人《ひと》の|囁《ささや》き|声《ごゑ》、|様子《やうす》あらむと|木蔭《こかげ》に|立寄《たちよ》り、|聞《き》くともなしに|聞《き》き|居《を》れば、|汚《けが》らはしや、アークス|王《わう》の|娘《むすめ》と|生《うま》れたる、マリヤス|姫《ひめ》と|月鉾《つきほこ》と|夫婦《ふうふ》の|約束《やくそく》を|結《むす》びしとか、|結《むす》ぶとか、|無礼千万《ぶれいせんばん》なる|申様《まうしやう》、|妾《わたし》は|仮令《たとへ》|父《ちち》に|死《し》に|別《わか》れたりとはいへ、カールス|王《わう》の|妹《いもうと》、かかる|尊貴《そんき》の|身《み》を|以《もつ》て、|如何《いか》に|泰嶺《たいれい》の|神司《かむづかさ》たりとはいへ、|月鉾《つきほこ》の|如《ごと》きに、|秋波《しうは》を|送《おく》らむや。|吾《わ》れは|神《かみ》を|信《しん》ずるの|余《あま》り、|泰嶺《たいれい》の|聖地《せいち》に|仕《つか》へ|居《を》れ|共《ども》、|決《けつ》して、|月鉾《つきほこ》|如《ごと》きに|従《したが》ひ|居《を》るものにあらず、|雑言《ざふごん》|無礼《ぶれい》、|思《おも》ひこらし|呉《く》れん』
と|云《い》ふより|早《はや》く、|蓑《みの》の|上《うへ》より、|骨《ほね》も|砕《くだ》けよと|計《ばか》り、|月鉾《つきほこ》を|打据《うちす》ゑた。|月鉾《つきほこ》は|一言《ひとこと》も|発《はつ》せず、マリヤス|姫《ひめ》の|乱打《らんだ》の|鞭《むち》を|痛《いた》さを|忍《しの》んで|怺《こら》へて|居《ゐ》る。|此《この》|態《てい》を|見《み》て、テーリン|姫《ひめ》は|狂気《きやうき》の|如《ごと》くマリヤス|姫《ひめ》に|飛《と》びつき、|直《ただち》に|右《みぎ》の|腕《うで》にカブリつき、|一口《ひとくち》|計《ばか》り|肉《にく》を|喰《く》ひちぎつた。|忽《たちま》ち|血《ち》はボトボトと|流《なが》れ|出《い》で、|月夜《つきよ》の|木蔭《こかげ》を|黒《くろ》く|染《そ》むるに|至《いた》つた。|月鉾《つきほこ》は|此《この》|態《てい》を|見《み》て、テーリン|姫《ひめ》の|腕《うで》を|後《うしろ》に|廻《まは》し、|笠《かさ》の|紐《ひも》を|以《もつ》て|厳《きび》しく|縛《しば》りあげた。|日楯《ひたて》、ユリコ|姫《ひめ》は、|直《ただち》におのが|帯《おび》を|引裂《ひきさ》き、マリヤス|姫《ひめ》の|傷所《きずしよ》に、|土《つち》をかき|集《あつ》めて、|塗《ぬ》りつけ、|固《かた》く|縛《しば》り、|天《あま》の|数歌《かずうた》を|歌《うた》ひ、|伊吹《いぶき》の|狭霧《さぎり》を|吹《ふ》きかけた。|傷《きず》は|忽《たちま》ち|元《もと》の|如《ごと》くに|癒《い》えて|了《しま》つた。
|日楯《ひたて》、|月鉾《つきほこ》、ユリコ|姫《ひめ》は|此《この》|機《き》に|乗《じやう》じて、|足早《あしばや》に|何処《いづく》ともなく|姿《すがた》を|隠《かく》して|了《しま》つた。|跡《あと》に|残《のこ》りし|二人《ふたり》は|稍《やや》|暫《しば》し、|無言《むごん》の|儘《まま》にて|互《たがひ》に|顔《かほ》を|見《み》つめて|居《ゐ》た。
|暫《しばら》くあつて、マリヤス|姫《ひめ》は|言葉《ことば》を|軟《やは》らげ、
『|貴女《あなた》|様《さま》はテーリン|姫様《ひめさま》で|御座《ござ》いましたか。|不思議《ふしぎ》な|所《ところ》でお|目《め》にかかりました。|何事《なにごと》も|人間《にんげん》は|神界《しんかい》の|御経綸《ごけいりん》の|儘《まま》によりなるものでは|御座《ござ》いませぬから、どうぞ|心《こころ》を|落《お》ちつけて、|月鉾様《つきほこさま》の|無事《ぶじ》|使命《しめい》を|了《をは》つて、|泰嶺《たいれい》の|聖地《せいち》へ|無事《ぶじ》|御帰《おかへ》りなさる|日《ひ》を|御待《おま》ちなされませ。キツト|妾《わたし》があなたの|望《のぞ》みを|叶《かな》へさして|上《あ》げませう』
テーリン|姫《ひめ》は|後手《うしろで》に|縛《しば》られ|乍《なが》ら、|歯《は》を|喰《く》ひしばり、|血《ち》さへ|滲《にぢ》らして|居《ゐ》る|其《その》|形相《ぎやうさう》の|凄《すさま》じさ。|月《つき》の|光《ひかり》に|照《て》らし|見《み》て、マリヤス|姫《ひめ》は|恋《こひ》の|妄執《まうしふ》の|如何《いか》にも|恐《おそ》ろしきものたることに|舌《した》を|巻《ま》いた。
テーリン|姫《ひめ》『あなたは、|妾《わたし》に|比《くら》べて、|余程《よほど》|年《とし》をとつて|居《を》られます|丈《だけ》あつて、|実《じつ》に|巧名《こうめう》な|八百長《やほちやう》を|行《や》られますなア。|田舎《いなか》の|未通娘《おぼこむすめ》をだまさうとなさつても、|私《わたくし》は|一生懸命《いつしやうけんめい》ですから、そんな|手《て》には|乗《の》りませぬよ。|要《い》らぬ|気休《きやす》めはモウ|言《い》つて|下《くだ》さるな。|何《なん》と|仰有《おつしや》つても、あなたには、そんな|事《こと》を|仰有《おつしや》る|資格《しかく》はありませぬ。|三五教《あななひけう》|一般《いつぱん》の|喧《やかま》しい|噂《うはさ》で|御座《ござ》います』
マリヤス|姫《ひめ》『あゝ|情《なさけ》ない|事《こと》になりました。|実《じつ》の|事《こと》を、|妾《わたし》は|白状《はくじやう》|致《いた》して、|貴女《あなた》の|疑《うたがひ》を|晴《は》らして|頂《いただ》かねばなりませぬ。|妾《わたし》は|或《ある》|事情《じじやう》の|為《ため》、|泰安城《たいあんじやう》をのがれ、|泰嶺《たいれい》の|聖地《せいち》に|参《まゐ》りまして、|尊《たうと》き|神様《かみさま》の|教《をしへ》を|奉《ほう》じ、|今《いま》は|神前《しんぜん》|近《ちか》く|仕《つか》ふる|聖職《せいしよく》となりました。|一度《いちど》は|月鉾様《つきほこさま》に|対《たい》し、|妾《わたし》も|非常《ひじやう》に|恋慕《れんぼ》の|念《ねん》を|起《おこ》し、いろいろと|言《い》ひよりましたが、|如何《どう》しても、|月鉾様《つきほこさま》は|御聞《おき》き|下《くだ》さりませぬ。|翻《ひるがへ》つてよく|考《かんが》へて|見《み》れば、|妾《わたし》はアークス|王《わう》の|落胤《らくいん》とは|申《まを》し|乍《なが》ら、|父《ちち》が|母《はは》の|目《め》を|忍《しの》んで|生《う》みましたる|罪《つみ》の|子《こ》の|妾《わたし》、|如何《どう》して|尊《たふと》い|月鉾様《つきほこさま》の|女房《にようばう》になることが|出来《でき》ませうか。|又《また》|国治立大神《くにはるたちのおほかみ》|様《さま》の|御教《みをしへ》を|奉《ほう》じ|玉《たま》ふ|真道彦命《まみちひこのみこと》|様《さま》は、アークス|王《わう》に|弥《いや》|増《ま》して|尊《たふと》き|御身《おみ》の|上《うへ》、|其《その》|御方《おかた》の|珍《うづ》の|子《こ》と|生《うま》れ|玉《たま》ひし|月鉾様《つきほこさま》に、|恋慕《れんぼ》の|心《こころ》を|起《おこ》すといふは、|全《まつた》く|早《はや》まつた|考《かんが》へだと|気《き》が|付《つ》きました。|其《その》|日《ひ》よりプツツリと|思《おも》ひ|切《き》り、|今《いま》は|極《きは》めて|清《きよ》き|心《こころ》を|以《もつ》て|神前《しんぜん》に|奉仕《ほうし》して|居《ゐ》るので|御座《ござ》います。|世間《せけん》の|噂《うはさ》の|喧《やかま》しく|立《た》つたのも、|元《もと》はヤツパリ|妾《わたし》の|月鉾様《つきほこさま》を|恋《こ》ひ|慕《した》ふ|其《その》|様子《やうす》が|何《なん》となく|目《め》に|立《た》つたからで|御座《ござ》いませう。|全《まつた》く|妾《わたし》の|罪《つみ》と|諦《あきら》めるより|仕方《しかた》はありませぬ。……どうぞテーリン|姫様《ひめさま》、|今迄《いままで》の|疑《うたがひ》を|私《わたくし》の|此《この》|告白《こくはく》に|依《よ》つてお|晴《は》らし|下《くだ》さいませ。|貴女《あなた》は|月鉾様《つきほこさま》とは|従兄妹《いとこ》|同志《どうし》の|仲《なか》、|何《いづ》れも|尊《たふと》い|神様《かみさま》の|御胤《おたね》、こんな|結構《けつこう》な|縁《えん》はないと|存《ぞん》じまして、|妾《わたし》は|内々《ないない》|月鉾様《つきほこさま》に、あなたとの|御結婚《ごけつこん》を、お|勧《すす》め|申《まを》して|居《ゐ》る|者《もの》で|御座《ござ》います』
テーリン|姫《ひめ》『|其《そ》のお|言葉《ことば》に|依《よ》つて、|妾《わたし》も|安心《あんしん》|致《いた》しました。|月鉾様《つきほこさま》は|父上《ちちうへ》の|危難《きなん》を|救《すく》はねばならぬ|大切《たいせつ》な|此《この》|場合《ばあひ》|妾《わたし》などが|此《こ》んな|所《ところ》へ|参《まゐ》りまして、ゴテゴテと|御邪魔《おじやま》を|致《いた》す|場合《ばあひ》では|御座《ござ》いませぬが、つい|恋《こひ》の|意地《いぢ》から|貴女様《あなたさま》の|事《こと》が|気《き》にかかり、|妬《ねた》ましくなり、|最前《さいぜん》の|様《やう》な|恥《はづか》しい|事《こと》をお|目《め》にかけました。どうぞ|御宥《おゆる》し|下《くだ》さいませ。|妾《わたし》は|月鉾《つきほこ》に|後手《うしろで》に|縛《いまし》められて|居《を》ります。どうぞ|此《この》|縛《いましめ》をお|解《と》き|下《くだ》さいますまいか』
マリヤス|姫《ひめ》『あゝさうで|御座《ござ》いましたか、|夜分《やぶん》の|事《こと》とて、……つい、|気《き》が|付《つ》きませなんだ』
と|言《い》ひ|乍《なが》ら、テーリン|姫《ひめ》の|縛《いましめ》を|解《と》き、|背《せ》を|撫《な》でさすり、|労《いたは》り|助《たす》け|抱《だ》き|起《おこ》し、
マリヤス|姫《ひめ》『サア|妾《わたし》も|是《こ》れより|泰嶺《たいれい》へ|参《まゐ》りませう。|泰安城《たいあんじやう》には|大変《たいへん》な|事《こと》が|突発《とつぱつ》|致《いた》し、|何時《いつ》|妾《わたし》に|追手《おつて》がかかるかも|計《はか》られませぬ。|何事《なにごと》も|運《うん》を|神様《かみさま》に|任《まか》せ、|泰嶺《たいれい》の|聖地《せいち》に|於《おい》て|神様《かみさま》に|奉仕《ほうし》し、|惟神《かむながら》の|御摂理《ごせつり》に|任《まか》す|考《かんが》へで|御座《ござ》います。|又《また》|日楯様《ひたてさま》が|夫婦連《ふうふづれ》にてお|越《こ》し|遊《あそ》ばしたのも、これには|特別《とくべつ》の|事情《じじやう》が|御座《ござ》いますから、|聖地《せいち》へ|帰《かへ》つた|上《うへ》|御得心《ごとくしん》の|行《ゆ》く|様《やう》に|御話《おはな》し|申上《まをしあ》げませう。サア|斯様《かやう》な|処《ところ》にグヅグヅ|致《いた》して|居《を》りましては|険呑《けんのん》|千万《せんばん》、|早《はや》く|帰《かへ》りませう』
とテーリン|姫《ひめ》の|手《て》を|取《と》り、|互《たがひ》に|打解《うちと》けて、アーリス|山《ざん》を|降《くだ》り、|日月潭《じつげつたん》の|湖辺《こへん》を|辿《たど》りて、|遂《つひ》に|玉藻山《たまもやま》の|聖地《せいち》に|参拝《さんぱい》し、|漸《やうや》くにして|泰嶺《たいれい》の|聖地《せいち》に|帰《かへ》り|着《つ》いた。これよりテーリン|姫《ひめ》の|疑《うたがひ》は|全《まつた》く|晴《は》れ、|姉妹《しまい》の|如《ごと》く|相親《あひした》しみ、|神業《しんげふ》に|奉仕《ほうし》し、|月鉾《つきほこ》の|帰《かへ》り|来《きた》るを|待《ま》ち|居《ゐ》たりける。
(大正一一・八・八 旧六・一六 松村真澄録)
第一一章 |木茄子《きなすび》〔八一一〕
|日楯《ひたて》、|月鉾《つきほこ》、ユリコ|姫《ひめ》の|三人《さんにん》は、|人目《ひとめ》を|避《さ》けて|峰伝《みねづた》ひに、アーリス|山《ざん》より|須安《シユアン》の|山脈《さんみやく》を|渡《わた》り、|石《いし》の|枕《まくら》に|青雲《あをぐも》の|夜具《やぐ》を|被《か》ぶり、|幾《いく》|夜《よ》を|明《あ》かし|乍《なが》ら、|漸《やうや》くにしてテルナの|渓谷《けいこく》に|辿《たど》り|着《つ》いた。|時《とき》しも|日《ひ》は|山《やま》に|隠《かく》れ、|黄昏《たそがれ》|間近《まぢか》くなつて|来《き》た。|茲《ここ》|一日《いちにち》|二日《ふつか》の|山中《さんちう》の|旅行《りよかう》は、|峰《みね》の|尾《を》の|上《へ》のみを|伝《つた》つて|居《ゐ》たので、|思《おも》はしき|木《こ》の|実《み》もなく、|食料《しよくれう》に|窮《きう》し、|空腹《くうふく》に|苦《くるし》み、|歩行《ほかう》も|自由《じいう》ならず、|喉《のど》は|渇《かは》き|水《みづ》は|無《な》く、|弱《よわ》り|切《き》つて|居《ゐ》た。
|此《この》|時《とき》|遥《はるか》の|谷間《たにあひ》に|黄昏《たそがれ》の|暗《やみ》を|縫《ぬ》うて、|一塊《いつくわい》の|火光《くわくわう》が|瞬《またた》いて|居《ゐ》る。|三人《さんにん》は|其《その》|火光《くわくわう》に|力《ちから》を|得《え》、|疲《つか》れた|足《あし》を|引《ひき》ずり|乍《なが》ら|進《すす》んで|行《ゆ》く。|火光《くわくわう》を|中心《ちうしん》に|数多《あまた》の|厭《いや》らしき|面構《つらがまゑ》の|毛武者男《けむしやをとこ》|幾十人《いくじふにん》となく|赤裸《まつぱだか》の|儘《まま》、|何事《なにごと》か|大声《おほごゑ》に|笑《わら》ひさざめいて|居《ゐ》た。
|三人《さんにん》は|木蔭《こかげ》に|身《み》を|横《よこ》たへ、|暫《しば》し|谷水《たにみづ》に|喉《のど》をうるほし、|息《いき》を|休《やす》めて|居《ゐ》る|折柄《をりから》、サツと|吹《ふ》き|来《く》る|谷風《たにかぜ》に|揺《ゆ》られて|三人《さんにん》の|頭《かしら》に|障《さわ》つたものがある。|月鉾《つきほこ》は|思《おも》はず|手《て》を|頭上《づじやう》にあげた|途端《とたん》に|手《て》に|触《さわ》つたのは、|水《みづ》の|滴《したた》るような|木茄子《きなすび》であつた。|三人《さんにん》は|天《てん》の|与《あた》へと|喜《よろこ》び|勇《いさ》んで|矢庭《やには》に|木茄子《きなすび》をむしり、|腹《はら》を|拵《こしら》へた。|長途《ちやうと》の|疲《つか》れに|腹《はら》は|太《ふと》り、|俄《にはか》に|眠気《ねむけ》を|催《もよほ》し、|三人《さんにん》|共《とも》|其《その》|場《ば》に|他愛《たあい》もなく|熟睡《じゆくすゐ》して|了《しま》つた。
|今日《けふ》はテルナの|里《さと》のバラモン|教《けう》の|大祭日《だいさいじつ》にして、|数多《あまた》の|里人《さとびと》|集《あつ》まり、|夜祭《よまつ》りをなさむと、|種々《いろいろ》|準備《じゆんび》の|相談《さうだん》をして|居《ゐ》る|最中《さいちう》であつた。|今日《けふ》の|祭典《さいてん》に|奉《たてまつ》らむと、|此《この》|里《さと》に|只《ただ》|一本《いつぽん》よりなき|木茄子《きなすび》を、|今迄《いままで》|一個《いつこ》もむしり|取《と》らず、|大切《たいせつ》に|保存《ほぞん》して|居《ゐ》た。それを|三人《さんにん》の|者《もの》に|残《のこ》らずむしり|取《と》つて|喰《く》はれて|了《しま》つたのである。|愈《いよいよ》|祭典《さいてん》の|時刻《じこく》となり、|四五《しご》の|里人《さとびと》は|白衣《びやくい》を|着《ちやく》し、|大麻《おほぬさ》を|打振《うちふ》り、バラモン|教《けう》の|神歌《しんか》を|称《とな》へ|乍《なが》ら、|大切《たいせつ》なる|木茄子《きなすび》をむしり|取《と》り、|供物《くもつ》にせむと|来《き》て|見《み》れば、|大切《たいせつ》なる|木茄子《きなすび》は|何者《なにもの》にか|盗《ぬす》み|取《と》られ、|一個《いつこ》も|枝《えだ》に|留《とど》まつて|居《ゐ》ない。|一同《いちどう》は|驚《おどろ》き|乍《なが》ら、あたりを|透《す》かし|見《み》れば、|雷《らい》の|如《ごと》き|鼾《いびき》をかいて|三人《さんにん》の|男女《なんによ》が|傍《かたはら》に|寝《ね》て|居《ゐ》る。
|里人《さとびと》は|忽《たちま》ち|大騒《おほさわ》ぎをなし、|松明《たいまつ》を|点《てん》じ|来《きた》り、よくよく|見《み》れば、|一人《ひとり》の|男《をとこ》|木茄子《きなすび》を|片手《かたて》に|持《も》ち、|半分《はんぶん》|許《ばか》りかぢつた|儘《まま》、|熟睡《じゆくすゐ》してゐる。
|甲《かふ》『オイオイ|皆《みな》の|連中《れんちう》、|大変《たいへん》な|奴《やつ》が|出《で》て|来《き》やがつて、|神饌用《しんせんよう》の|木茄子《きなすび》を、|皆《みんな》|取《と》つて|食《くら》ひ、|腹《はら》をふくらせ、|平気《へいき》でグウグウ|寝《ね》てゐやがるぢやないか、|怪《け》しからぬ|奴《やつ》だ。……オイ|誰《たれ》か|一時《ひととき》も|早《はや》く|此《この》|由《よし》を、テルナの|酋長様《しうちやうさま》に|報告《はうこく》して|来《こ》い。さうせなくては|俺達《おれたち》が|取《と》つて|食《く》た|様《やう》に|疑《うたが》はれ、|酋長《しうちやう》よりどんなお|目玉《めだま》を|食《くら》ふか|分《わか》らないぞ』
|其《その》|中《なか》の|一人《ひとり》は『オイ』と|答《こた》へて、|韋駄天走《ゐだてんばし》りに、|群集《ぐんしふ》の|集《あつ》まる|斎場《さいぢやう》に|向《むか》つて|酋長《しうちやう》に|報告《はうこく》すべく|走《はし》り|去《さ》つた。
|甲《かふ》は|杖《つゑ》の|先《さき》にて|三人《さんにん》の|頭《あたま》をコンコンと|打《う》ち|乍《なが》ら、
|甲《かふ》『コラツ、|大《だい》それた|大盗人《おほぬすと》|奴《め》、|早《はや》く|起《お》きぬか』
と|呶鳴《どな》りつけた。|三人《さんにん》は|驚《おどろ》いて|起《お》きあがり|四辺《あたり》を|見《み》れば、|松明《たいまつ》を|持《も》つた|四五人《しごにん》の|男《をとこ》、|傍《そば》には|白衣《びやくい》を|着《つ》けた|男《をとこ》と|共《とも》に、|鬼《おに》の|様《やう》な|顔《かほ》に|団栗眼《どんぐりまなこ》を|剥《む》き|出《だ》し、|唇《くちびる》をビリビリ|震《ふる》はせ|乍《なが》ら|睨《にら》みつけてゐる。
|日楯《ひたて》『|何人《なにびと》ならば……|吾々《われわれ》|三人《さんにん》の|頭《あたま》を、|失礼千万《しつれいせんばん》にも…|杖《つゑ》の|先《さき》にて|打叩《うちたた》くとは|何事《なにごと》ぞ』
と|言《い》はせも|果《は》てず、|甲《かふ》は|毛《け》だらけの|腕《うで》を|伸《の》ばし、|日楯《ひたて》の|首筋《くびすぢ》をグツと|握《にぎ》つた。|日楯《ひたて》は|首《くび》の|千切《ちぎ》れる|様《やう》な|痛《いた》さに|顔色《かほいろ》|青《あを》ざめ、|唇《くちびる》まで|紫色《むらさきいろ》にして|苦《くるし》んで|居《ゐ》る。|大《だい》の|男《をとこ》は|声《こゑ》を|荒《あら》らげ、
|大男《おほをとこ》『|其《その》|方《はう》|共《ども》は|大方《おほかた》|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》であらう。|今日《けふ》はバラモン|大神《おほかみ》の|大祭日《だいさいじつ》、|里人《さとびと》が|大切《たいせつ》に|致《いた》して|今日《けふ》の|祭典《さいてん》の|供物《くもつ》にせうと|守《まも》つて|居《ゐ》た、|木茄子《きなすび》を|残《のこ》らず|取《と》り|食《くら》ひ、|此《この》|聖場《せいぢやう》に|於《おい》て|不行儀《ふぎやうぎ》|千万《せんばん》にも|寝《ね》さらばひ、|大胆不敵《だいたんふてき》の|其《その》|方《はう》|等《ら》の|振舞《ふるまひ》、|待《ま》つて|居《を》れ、|今《いま》に|酋長様《しうちやうさま》が|此《この》|場《ば》に|御越《おこ》しになるから、|何分《なにぶん》の|御沙汰《ごさた》があるであらう』
と|云《い》ひ|了《をは》つて、|日楯《ひたて》の|首《くび》を|握《にぎ》つた|手《て》を|放《はな》した。|日楯《ひたて》は|余《あま》りの|痛《いた》さに|物《もの》をも|言《い》はず、|其《その》|儘《まま》|大地《だいち》に|獅噛《しがみ》ついて|苦痛《くつう》を|怺《こら》へてゐた。|月鉾《つきほこ》は|一同《いちどう》に|向《むか》ひ|丁寧《ていねい》に|両手《りやうて》をつき、
|月鉾《つきほこ》『|吾々《われわれ》|三人《さんにん》は|決《けつ》して|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》では|御座《ござ》いませぬ。バラモン|教《けう》の|聖場《せいぢやう》を|巡拝《じゆんぱい》|致《いた》す|巡礼《じゆんれい》で|御座《ござ》います。|馴《なれ》ぬ|途《みち》とて|山奥《やまおく》にふみ|迷《まよ》ひ、|空腹《くうふく》に|苦《くるし》みつつありし|所《ところ》、|谷間《たにま》に|当《あた》つて|一点《いつてん》の|火光《くわくわう》を|認《みと》め、それを|便《たよ》りに|此処《ここ》まで|出《で》て|参《まゐ》り、|休息《きうそく》|致《いた》して|居《を》る|際《さい》、フト|木茄子《きなすび》が|頭《あたま》に|触《さは》り、|左様《さやう》な|大切《たいせつ》な|物《もの》とは|知《し》らず、|別《べつ》に|盗《ぬす》むと|云《い》ふ|心《こころ》もなく、|頂戴《ちやうだい》|致《いた》しました。|誠《まこと》に|申訳《まをしわけ》のない|事《こと》で|御座《ござ》います。どうぞ|酋長様《しうちやうさま》に|宜《よろ》しく|御執成《おとりな》しを|願《ねが》ひます』
|甲《かふ》『|今日《けふ》はバラモン|教《けう》の|大祭日《だいさいじつ》で、|人間《にんげん》の|犠牲《いけにへ》を|献《たてまつ》らねばならぬ|大切《たいせつ》な|日《ひ》である。され|共《ども》|人命《じんめい》を|損《そん》するは|如何《いか》にも|残酷《ざんこく》だと、|酋長様《しうちやうさま》が|大神《おほかみ》に|御願《おねがひ》|遊《あそ》ばし、|此《この》|谷間《たにま》に|一本《いつぽん》よりない|木茄子《きなすび》を、|人間《にんげん》の|代《かは》りとして|大神様《おほかみさま》に|献《たてまつ》りますから、|人身御供《ひとみごくう》|丈《だけ》は|御許《おゆる》し|下《くだ》されと|御願《おねが》ひになり、それから|此《この》|果物《くだもの》は|神様《かみさま》の|御物《ぎよぶつ》として、|里人《さとびと》は|指《ゆび》をもさへず、|大切《たいせつ》に|夜廻《よまは》りをつけて|守《まも》つて|居《ゐ》たのだ。それを|汝等《なんぢら》|三人《さんにん》ムザムザと|取食《とりくら》うた|以上《いじやう》は、|仕方《しかた》がない、|其《その》|方《はう》の|腹中《ふくちう》にはまだ|幾分《いくぶん》か|残《のこ》つて|居《ゐ》るであらう。|直《ただち》に|腹《はら》をかき|切《き》つて|木茄子《きなすび》をゑぐり|出《だ》し、|汝《なんぢ》の|体《からだ》を|贄《いけにへ》として|神《かみ》に|献《たてまつ》り、|神《かみ》の|怒《いか》りを|解《と》かねばならぬ。|皆《みな》の|者共《ものども》、|其《その》|覚悟《かくご》を|致《いた》したがよからうぞ』
|月鉾《つきほこ》『それは|又《また》|大変《たいへん》な|事《こと》で|御座《ござ》いますなア。|併《しか》し|神《かみ》は|人《ひと》を|助《たす》くるが|神《かみ》の|心《こころ》、|人間《にんげん》の|命《いのち》を|取《と》り、|或《あるひ》は|贄《いけにへ》を|献《たてまつ》らせて|喜《よろこ》ぶ|様《やう》な|神《かみ》は|誠《まこと》の|神《かみ》ではありますまい。|吾々《われわれ》は|及《およ》ばず|乍《なが》ら|其《その》|神《かみ》に|向《むか》つて、|一《ひと》つ|訓戒《くんかい》を|与《あた》へて|見《み》ませう』
|甲《かふ》『ナニ、|馬鹿《ばか》な|事《こと》を|申《まを》すか。|神様《かみさま》に|対《たい》して、|人間《にんげん》が|訓戒《くんかい》を|与《あた》へるなどとは、|不届《ふとど》き|千万《せんばん》な|申条《まをしでう》、|左様《さやう》な|事《こと》を|申《まを》すと、|神《かみ》の|怒《いか》りにふれて、|此《この》テルナの|里《さと》は|果実《くわじつ》|稔《みの》らず、|暴風雨《ばうふうう》|大洪水《だいこうずゐ》の|為《ため》に|苦《くる》しまねばならぬ。いよいよ|以《もつ》て|差赦《さしゆる》し|難《がた》き|痴者《しれもの》』
と|言《い》ひ|乍《なが》ら、|力《ちから》に|任《まか》せて|杖《つゑ》を|振上《ふりあ》げ、|三人《さんにん》の|背骨《せぼね》の|折《を》れる|程《ほど》|敲《たた》きつけた。
|暫《しばら》くあつて、テルナの|里《さと》の|酋長《しうちやう》ゼームスは|四五《しご》の|従者《じゆうしや》に|鋭利《えいり》なる|青竜刀《せいりうたう》を|持《も》たせ|乍《なが》ら、|此《この》|場《ば》に|現《あら》はれ|来《きた》り、|三人《さんにん》の|姿《すがた》を|見《み》て、|声《こゑ》も|荒《あら》らかに|云《い》ふ。
ゼームス『|其《その》|方《はう》は|大切《たいせつ》なる|果物《くだもの》を|取喰《とりくら》ひし|大罪人《だいざいにん》、|此《この》|儘《まま》にては|差赦《さしゆる》し|難《がた》し。|汝等《なんぢら》|三人《さんにん》、これより|神《かみ》の|贄《いけにへ》とし、|神《かみ》の|怒《いか》りを|和《やは》らげなくてはならぬ。サア|覚悟《かくご》を|致《いた》せよ』
と|言《い》ひ|渡《わた》した。ユリコ|姫《ひめ》は|両手《りやうて》を|合《あは》せ、ゼームスの|前《まへ》ににじり|寄《よ》り、|悲《かな》しさうな|顔《かほ》をあげて|涙《なみだ》を|流《なが》し、
ユリコ|姫《ひめ》『|何卒《なにとぞ》、|知《し》らず|知《し》らずの|不都合《ふつがふ》なれば、どうぞ|此《この》|度《たび》は|御見逃《おみのが》しを|願《ねが》ひます』
と|頼《たの》んだ。ゼームスはユリコ|姫《ひめ》の|顔《かほ》を|一目《ひとめ》|見《み》るより、|忽《たちま》ち|顔色《かほいろ》をやはらげ、
ゼームス『|赦《ゆる》し|難《がた》き|罪人《ざいにん》なれ|共《ども》、|汝《なんぢ》は|吾《わが》|妻《つま》となる|事《こと》を|承諾《しようだく》するに|於《おい》ては、|汝《なんぢ》の|生命《いのち》|丈《だけ》は|助《たす》けてやらう。どうぢや…|有難《ありがた》いか』
と|稍《やや》|砕《くだ》けた|相好《さうがう》し|乍《なが》ら、ユリコ|姫《ひめ》の|顔《かほ》を|覗《のぞ》き|込《こ》んだ。
ユリコ|姫《ひめ》『どうぞ、|妾《わたくし》のみならず、|二人《ふたり》の|男《をとこ》も|生命《いのち》|許《ばか》りは|助《たす》けて|下《くだ》さいませ。それさへ|御承諾《ごしようだく》|下《くだ》さらば、|如何《いか》なるあなたの|要求《えうきう》にも|応《おう》じまする』
|酋長《しうちやう》『イヤ、さうはならぬ。|如何《どう》しても|一人《ひとり》|丈《だけ》は|生命《いのち》を|取《と》つて、|贄《いけにへ》に|致《いた》さねばならぬ。|此《この》|中《うち》に|汝《なんぢ》の|夫《をつと》があるであらう。|其《その》|方《はう》に|免《めん》じて、|夫《をつと》だけは|助《たす》けてやらう』
|日楯《ひたて》『ゼームスとやら、|吾々《われわれ》は|仮令《たとへ》|木《こ》の|実《み》を|知《し》らず|知《し》らず|取喰《とりくら》ひたればとて、|汝等《なんぢら》|如《ごと》きに|命《いのち》を|取《と》らるる|理由《りいう》が|何処《どこ》にある。|生命《いのち》|取《と》るなら|勝手《かつて》に|取《と》つて|見《み》よ』
ゼームス|大口《おほぐち》をあけて、
『アハヽヽヽ』
と|高笑《たかわら》ひし|乍《なが》ら、
ゼームス『|汝《なんぢ》、いかに|神力《しんりき》あればとて、|僅《わづか》に|二人《ふたり》や|三人《さんにん》、|此《この》|大勢《おほぜい》の|中《なか》に|囲《かこ》まれ|乍《なが》ら、|如何《いかん》ともする|事《こと》は|能《あた》ふまじ。|神妙《しんめう》に|其《その》|方《はう》は|覚悟《かくご》をきはめて|贄《いけにへ》となれ』
ユリコ|姫《ひめ》『もしもし|酋長様《しうちやうさま》、あれは|妾《わたくし》の|夫《をつと》で|御座《ござ》います。さうしてモウ|一人《ひとり》は|吾《わが》|夫《をつと》の|弟《おとうと》で|御座《ござ》います。|妾《わたし》は|如何《いか》なる|事《こと》でも|承《うけたま》はりませう。|其《その》|代《かは》りどうぞ|二人《ふたり》の|命《いのち》を|御助《おたす》け|下《くだ》さいませ』
ゼームス『あゝ|仕方《しかた》がない。|可愛《かあい》い|其《その》|方《はう》の|申《まを》す|事《こと》、|無下《むげ》に|断《ことわ》る|訳《わけ》にも|行《ゆ》こまい。|然《しか》らば|生命《いのち》|丈《だけ》は|助《たす》けてやらう。バラモン|教《けう》の、|今日《けふ》は|大祭日《だいさいじつ》、|両人《りやうにん》|共《とも》|烈火《れつくわ》の|中《なか》を|渡《わた》り、|剣《つるぎ》の|橋《はし》を|越《こ》え、|釘《くぎ》の|足駄《あしだ》を|履《は》き、|赤裸《まつぱだか》となつて|茨《いばら》の|叢《むろ》を|潜《くぐ》れ。これがバラモン|教《けう》の|第一《だいいち》の|神《かみ》に|対《たい》する|謝罪《しやざい》の|途《みち》である。|生命《いのち》を|取《と》らるる|事《こと》を|思《おも》へば|易《やす》い|事《こと》である。|吾々《われわれ》は|斯様《かやう》な|行《ぎやう》は|年中《ねんぢう》|行事《ぎやうじ》として、|別《べつ》に|辛《つら》しとも|思《おも》つて|居《ゐ》ない。|其《その》|方《はう》も|巡礼《じゆんれい》ならば、これ|位《くらゐ》の|修業《しうげふ》は|堪《こら》へられるであらう』
|両人《りやうにん》|一度《いちど》に、
『|承知《しようち》|致《いた》しました。|生命《いのち》さへ|助《たす》けて|頂《いただ》けるならば、どんな|行《ぎやう》でも…|喜《よろこ》んで|致《いた》しませう』
ゼームス『|最早《もはや》|祭典《さいてん》の|時期《じき》も|迫《せま》つた。サア|早《はや》く|此方《こちら》へ|来《きた》れ。さうして|裸《はだか》、|跣足《はだし》の|儘《まま》、|烈火《れつくわ》の|中《なか》を|渡《わた》り、|神《かみ》の|怒《いか》りを|解《と》くがよからう』
と|三人《さんにん》の|前後《あとさき》を|大勢《おほぜい》に|警固《けいご》させ|乍《なが》ら、|斎場《さいぢやう》に|導《みちび》いた。
|斎場《さいぢやう》に|到《いた》り|見《み》れば、|数多《あまた》の|果物《くだもの》|小山《こやま》の|如《ごと》く|神前《しんぜん》に|飾《かざ》られ、|前方《ぜんぱう》の|広庭《ひろには》には|山《やま》の|如《ごと》き|枯柴《かれしば》を|積《つ》み、これに|火《ひ》を|放《はな》てば|炎々《えんえん》として|燃《も》えあがる|其《その》|凄《すさま》じさ。|二人《ふたり》は|大勢《おほぜい》の|者《もの》に|投《な》げ|込《こ》まれて、|火中《くわちう》に|止《や》むを|得《え》ず|飛《と》び|込《こ》んだ。|一生懸命《いつしやうけんめい》に|天《あま》の|数歌《かずうた》を|唱《とな》へつつ、|猛火《まうくわ》の|中《なか》を|少《すこ》しも|火傷《やけど》もせず、|幾度《いくど》となく|巡《めぐ》つて|元《もと》の|所《ところ》に|帰《かへ》つて|来《き》た。|一同《いちどう》は|其《その》|神力《しんりき》に|肝《きも》を|潰《つぶ》し、|二人《ふたり》の|顔《かほ》を|眺《なが》めてゐる。
ユリコ|姫《ひめ》は|酋長《しうちやう》の|俄妻《にはかづま》として|美々《びび》しき|衣裳《いしやう》を|与《あた》へられ、|酋長《しうちやう》と|相並《あひなら》んで|斎壇《さいだん》に|立《た》つた。|忽《たちま》ち|何処《いづこ》よりともなく、|一塊《いつくわい》の|火光《くわくわう》|飛《と》び|来《きた》つて|此《この》|場《ば》に|爆発《ばくはつ》し、ゼームスの|身体《からだ》は、|中空《ちうくう》に|捲《ま》きあげられて|了《しま》つた。|一同《いちどう》はこれに|肝《きも》を|潰《つぶ》し、|右往左往《うわうさわう》に|逃《に》げ|惑《まど》ひ、|或《あるひ》は|腰《こし》を|抜《ぬ》かし、|顔《かほ》の|色《いろ》さへ|紫色《むらさきいろ》になつて|半死半生《はんしはんしやう》の|態《てい》に|呻吟《しんぎん》して|居《ゐ》るものもあつた。
ユリコ|姫《ひめ》は|美々《びび》しき|衣裳《いしやう》を|矢庭《やには》に|脱《ぬ》ぎ|捨《す》て|直《ただ》ちに|火中《くわちう》に|投《とう》じ、|日楯《ひたて》、|月鉾《つきほこ》と|共《とも》に|三人《さんにん》|祭壇《さいだん》の|前《まへ》に|立《た》ち、|感謝《かんしや》|祈願《きぐわん》の|祝詞《のりと》を|奏上《そうじやう》し、|宣伝歌《せんでんか》を|歌《うた》ひ|始《はじ》めたり。
ユリコ|姫《ひめ》『|朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも |月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも
|仮令《たとへ》|大地《だいち》は|沈《しづ》む|共《とも》 |誠《まこと》の|力《ちから》は|世《よ》を|救《すく》ふ
|神《かみ》が|表《おもて》に|現《あら》はれて |善《ぜん》と|悪《あく》とを|立別《たてわけ》る
|此《この》|世《よ》を|造《つく》りし|神直日《かむなほひ》 |心《こころ》も|広《ひろ》き|大直日《おほなほひ》
|只《ただ》|何事《なにごと》も|人《ひと》の|世《よ》は |直日《なほひ》に|見直《みなほ》せ|聞直《ききなほ》せ
|身《み》の|過《あやま》ちは|宣《の》り|直《なほ》せ |天《あめ》が|下《した》なる|民草《たみぐさ》は
|何《いづ》れも|貴《たふと》き|神《かみ》の|御子《みこ》 |力《ちから》の|弱《よわ》き|人《ひと》の|身《み》は
いなで|過《あやま》ちあらざらめ |誠《まこと》を|知《し》らぬバラモンの
|神《かみ》の|司《つかさ》のゼームスや それに|従《したが》ふ|者共《ものども》の
|暗《くら》き|心《こころ》のいぢらしさ |尊《たふと》き|人《ひと》の|命《めい》を|取《と》り
|神《かみ》の|御前《みまへ》に|贄《いけにへ》を |献《たてまつ》るとは|何《なん》の|事《こと》
|果《はた》して|神《かみ》が|贄《いけにへ》を |望《のぞ》むとすればバラモンの
|大国彦《おほくにひこ》は|曲津神《まがつかみ》 かかる|怪《あや》しき|御教《みをしへ》を
|高砂島《たかさごじま》に|布《し》き|拡《ひろ》め |国魂神《くにたまがみ》の|竜世姫《たつよひめ》
|外所《よそ》になしたる|天罰《てんばつ》は |忽《たちま》ち|其《その》|身《み》に|酬《むく》い|来《き》て
|猛火《まうくわ》の|中《なか》を|打渡《うちわた》り |茨《いばら》の|叢《むろ》に|投《な》げ|込《こ》まれ
|剣《つるぎ》を|渡《わた》り|釘《くぎ》の|下駄《げた》 |穿《うが》ちて|神《かみ》の|御前《おんまへ》に
|重《おも》き|罪《つみ》をば|詫《わび》|乍《なが》ら |楽《たの》しき|此《この》|世《よ》を|苦《くるし》みて
|暮《くら》す|世人《よびと》の|憐《あは》れさよ あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さち》はひましまして |仁慈無限《じんじむげん》の|三五《あななひ》の
|神《かみ》の|教《をしへ》の|拡《ひろ》まりて |怪《あや》しき|教《をしへ》を|逸早《いちはや》く
|海《うみ》の|彼方《あなた》に|追払《おひはら》ひ |至治太平《しぢたいへい》の|神《かみ》の|代《よ》を
|築《きづ》かせ|玉《たま》へ|天津神《あまつかみ》 |国津神《くにつかみ》|達《たち》|八百万《やほよろづ》
|竜世《たつよ》の|姫《ひめ》の|御前《おんまへ》に |三五教《あななひけう》の|神司《かむづかさ》
|天《てん》に|輝《かがや》く|日月《じつげつ》の |名《な》を|負《お》ひ|玉《たま》ひし|吾《わが》|夫《つま》の
|日楯《ひたて》の|神《かみ》や|月鉾《つきほこ》の |尊《たふと》き|教《をしへ》に|国人《くにびと》を
|一人《ひとり》も|残《のこ》さず|服従《まつろ》はせ |暗黒無道《あんこくぶだう》の|世《よ》の|中《なか》を
|天国《てんごく》|浄土《じやうど》と|化《くわ》せしめよ あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》の|幸《さち》を|賜《たま》へかし』
と|祈《いの》り|終《をは》つた。|何時《いつ》の|間《ま》にやら、|中天《ちうてん》に|捲《ま》き|上《あ》げられたる|酋長《しうちやう》のゼームスは、|礼服《れいふく》を|着飾《きかざ》り、|四五《しご》の|従者《じゆうしや》と|共《とも》に、|珍《めづ》らしき|果物《くだもの》を|持《も》ち|来《きた》り、|三人《さんにん》の|前《まへ》に|恭《うやうや》しく|捧《ささ》げ、
ゼームス『|私《わたくし》は|最前《さいぜん》のゼームスと|申《まを》す|此《この》|里《さと》の|酋長《しうちやう》で|御座《ござ》います。|尊《たふと》きあなた|方《がた》|等《ら》に|対《たい》し、|御無礼《ごぶれい》な|事《こと》を|申上《まをしあ》げました。|勿体《もつたい》なくも|生神様《いきがみさま》に|対《たい》し、|吾々《われわれ》|如《ごと》き|賤《いや》しき|者《もの》の|女房《にようばう》になれとか、|火渡《ひわた》りをせよとか、いろいろの|難題《なんだい》を|申上《まをしあ》げました|無礼《ぶれい》の|罪《つみ》、|何卒《なにとぞ》|御赦《おゆる》し|下《くだ》さいませ。これも|全《まつた》くバラモン|教《けう》の|掟《おきて》を|遵奉《じゆんぽう》|致《いた》しての|言葉《ことば》で|御座《ござ》いました。|只《ただ》|済《す》まなかつたのは|尊《たふと》き|女神様《めがみさま》に|対《たい》し、|女房《にようばう》になれと|申上《まをしあ》げた|事《こと》のみは、バラモン|教《けう》の|方《はう》から|申《まを》しても|大《だい》なる|罪悪《ざいあく》で|御座《ござ》います。|其《その》|為《ため》、|大自在天《だいじざいてん》|様《さま》の|御怒《おいか》りに|触《ふ》れ、|天《てん》より|戒《いまし》めの|大火弾《だいくわだん》を|投《な》げつけられ、|私《わたくし》は|其《その》|途端《とたん》に|中空《ちうくう》に|捲《まき》あげられ、|最早《もはや》|命《いのち》は|無《な》きものと|覚悟《かくご》|致《いた》して|居《を》りましたが、|国魂神《くにたまがみ》|竜世姫《たつよひめ》|様《さま》とやらの、|厚《あつ》き|御守《みまも》りに|依《よ》つて|大切《たいせつ》なる|生命《いのち》を|救《すく》はれ、|且《か》ついろいろの|訓戒《くんかい》をうけました。それ|故《ゆゑ》|取《と》る|物《もの》も|取敢《とりあへ》ず、あなた|様《さま》に|御詫《おわび》を|申上《まをしあ》げむと|参《まゐ》りました。どうぞ|此《この》|杖《つゑ》にて、|私《わたくし》の|身体《からだ》を|所《ところ》かまはず、|腹《はら》のいえる|迄《まで》|打据《うちす》ゑ|下《くだ》さいますれば、|罪《つみ》の|一部《いちぶ》は|贖《あがな》へられるものと|心得《こころえ》ます。どうぞ|宜《よろ》しく|御願《おねが》ひ|致《いた》します』
と|熱涙《ねつるい》を|流《なが》し、|真心《まごころ》より|頼《たの》み|入《い》るのであつた。|逃《に》げ|散《ち》つた|数多《あまた》の|里人《さとびと》は、|追々《おひおひ》と|集《あつ》まり|来《きた》り、|何《いづ》れも|一《ひと》つの|負傷《ふしやう》もなきに、|不審《ふしん》の|思《おも》ひをし|乍《なが》ら、|酋長《しうちやう》の|此《この》|態《てい》を|見《み》て、|一同《いちどう》は|三人《さんにん》に|向《むか》ひ|手《て》を|合《あは》し、|神《かみ》の|如《ごと》く|尊敬《そんけい》の|意《い》を|表《へう》し、|合掌《がつしやう》して|拝《をが》み|倒《たふ》して|居《ゐ》る。
|三人《さんにん》は|三五教《あななひけう》の|教理《けうり》を|諄々《じゆんじゆん》と|説《と》き|諭《さと》し|酋長《しうちやう》|以下《いか》|数十人《すうじふにん》に|守《まも》られて|数日《すうじつ》の|後《のち》、|漸《やうや》くキールの|港《みなと》に|着《つ》いた。
(大正一一・八・八 旧六・一六 松村真澄録)
(昭和一〇・六・八 王仁校正)
第一二章 サワラの|都《みやこ》〔八一二〕
|玉藻《たまも》の|山《やま》の|聖場《せいぢやう》に |遠《とほ》き|神代《かみよ》の|昔《むかし》より
|三五教《あななひけう》を|開《ひら》|来《きた》る |真道《まみち》の|彦《ひこ》の|末流《まつりう》と
|世《よ》に|聞《きこ》えたる|真道彦《まみちひこ》 |泰安城《たいあんじやう》の|急変《きふへん》を
|救《すく》はむ|為《ため》に|三五《あななひ》の |神《かみ》の|司《つかさ》や|信徒《まめひと》を
|集《あつ》めて|神軍《しんぐん》|組織《そしき》なし |泰安城《たいあんじやう》に|現《あら》はれて
|寄《よ》せ|来《く》る|敵《てき》を|打払《うちはら》ひ |遂《つひ》には|奇禍《きくわ》を|蒙《かうむ》りて
カールス|王《わう》に|疑《うたが》はれ |暗《くら》き|牢獄《ひとや》に|投《な》げ|込《こ》まれ
|逃《にげ》るる|由《よし》も|泣《な》く|許《ばか》り ヤーチン|姫《ひめ》も|諸共《もろとも》に
|聞《き》くもいまはし|寃罪《ゑんざい》に かかりて|暗《やみ》に|呻吟《しんぎん》し
|苦《くる》しき|月日《つきひ》を|送《おく》ります |其《その》|惨状《さんじやう》を|救《すく》はむと
|父《ちち》を|思《おも》ふの|真心《まごころ》に |日楯《ひたて》、|月鉾《つきほこ》|両人《りやうにん》は
|聖地《せいち》を|後《あと》にユリコ|姫《ひめ》 |夜《よる》に|紛《まぎ》れて|蓑笠《みのかさ》の
|軽《かる》き|姿《すがた》に|身《み》を|装《よそ》ひ アーリス|山《ざん》の|頂《いただ》きに
|息《いき》もせきせき|辿《たど》り|着《つ》き |月《つき》の|光《ひかり》を|浴《あ》び|乍《なが》ら
|片方《かたへ》の|岩《いは》に|腰《こし》をかけ |息《いき》を|休《やす》むる|折柄《をりから》に
|泰嶺山《たいれいざん》の|聖地《せいち》より |神《かみ》の|司《つかさ》の|月鉾《つきほこ》が
|後《あと》を|尋《たづ》ねて|追《お》ひ|来《きた》る テーリン|姫《ひめ》の|執拗《しつえう》な
|恋《こひ》の|縺《もつ》れの|糸《いと》をとき |言葉《ことば》を|尽《つく》して|聖場《せいぢやう》に
|帰《かへ》らしめむと|思《おも》へども |恋《こひ》に|曇《くも》りしテーリンは
とけば|説《と》く|程《ほど》もつれ|来《く》る |時《とき》しもあれや|木《こ》かげより
|現《あら》はれ|出《い》でし|人影《ひとかげ》に |一同《いちどう》|驚《おどろ》き|見廻《みまは》せば
|思《おも》ひ|掛《が》けなきマリヤス|姫《ひめ》の |珍《うづ》の|命《みこと》の|出現《しゆつげん》に
|漸《やうや》く|急場《きふば》を|逃《のが》れ|出《い》で |日楯《ひたて》、|月鉾《つきほこ》、ユリコ|姫《ひめ》
|三人《みたり》の|司《つかさ》はやうやうに ヤツと|蘇生《そせい》の|心地《ここち》して
アーリス|山《ざん》の|峰《みね》を|越《こ》え |須安《シユアン》の|山脈《さんみやく》|打渡《うちわた》り
|夜《よ》を|日《ひ》についで|漸々《やうやう》に テルナの|里《さと》に|辿《たど》りつき
|谷間《たにま》にまたたく|一《ひと》つ|火《び》を |目《め》あてに|進《すす》む|折柄《をりから》に
|喉《のんど》は|渇《かわ》き|腹《はら》は|飢《う》ゑ |根気《こんき》も|尽《つ》きて|三人《さんにん》は
とある|木蔭《こかげ》に|休《やす》らひつ |幽《かす》かに|漏《も》れ|来《く》る|人声《ひとごゑ》を
|耳《みみ》をすまして|聞《き》き|居《を》れば |俄《にはか》に|吹《ふ》き|来《く》る|谷《たに》の|風《かぜ》
|三人《みたり》の|頭《あたま》に|何物《なにもの》か |触《さわ》ると|見《み》れば|木茄子《きなすび》の
|香《かを》りゆかしき|果物《くだもの》に |飛《と》びつく|計《ばか》り|喜《よろこ》びて
|忽《たちま》ち|三人《みたり》は|木茄子《きなすび》を |一個《いつこ》も|残《のこ》らず【むし】り|取《と》り
|腹《はら》をふくらせ|横《よこた》はり いつしか|眠《ねむ》りにつきにける。
|折《をり》も|折《をり》とてバラモンの |神《かみ》の|祭典《まつり》の|真最中《まつさいちう》
|四五《しご》の|土人《どじん》は|木茄子《きなすび》を |神《かみ》の|御前《みまへ》に|供《そな》へむと
|冠《かむり》|装束《しやうぞく》いかめしく |幣《ぬさ》|振《ふ》り|乍《なが》ら|進《すす》み|来《く》る
|素《もと》より|三人《みたり》は|白河《しらかは》の |夜船《よぶね》を|操《あやつ》る|真最中《まつさいちう》
|土人《どじん》は|忽《たちま》ち|木茄子《きなすび》の |一個《いつこ》も|残《のこ》らず|何者《なにもの》にか
|盗《ぬす》まれたるに|肝《きも》|潰《つぶ》し |明《あか》りに|照《てら》して|眺《なが》むれば
|雷《らい》のやうなる|鼾声《いびきごゑ》 |驚《おどろ》き|直《ただち》に|此《この》|由《よし》を
テルナの|里《さと》の|酋長《しうちやう》に |報告《はうこく》すればゼームスは
|時《とき》を|移《うつ》さず|駆来《かけきた》り |三人《みたり》の|男女《だんぢよ》に|打向《うちむか》ひ
|団栗眼《どんぐりまなこ》を|怒《いか》らせて 『テルナの|里《さと》の|人々《ひとびと》が
|生命《いのち》に|代《か》へて|守《まも》り|居《を》る |神《かみ》に|捧《ささ》ぐる|木茄子《きなすび》を
|取《と》りて|食《くら》ひし|横道者《わうだうもの》 |汝《なんぢ》|三人《みたり》の|生命《せいめい》を
|奪《うば》ひて|神《かみ》の|贄《いけにへ》に |奉《たてまつ》らむ』と|居丈高《ゐたけだか》
|罵《ののし》りちらせばユリコ|姫《ひめ》 |酋長《しうちやう》の|前《まへ》に|手《て》をついて
『|長途《ちやうと》の|旅《たび》に|疲《つか》れ|果《は》て |喉《のんど》は|渇《かわ》き|腹《はら》は|飢《う》ゑ
かかる|尊《たふと》き|果物《くだもの》と |知《し》らずに|取《と》つて|食《く》ひました
|何卒《なにとぞ》|深《ふか》き|此《この》|罪《つみ》を |広《ひろ》き|心《こころ》に|見直《みなほ》して
|吾等《われら》を|赦《ゆる》し|給《たま》へかし』 |願《ねが》へば|酋長《しうちやう》はユリコ|姫《ひめ》の
|顔《かほ》|打眺《うちなが》め|笑《わら》ひ|顔《がほ》 『|汝《なんぢ》は|吾《わ》れの|要求《えうきう》を
|容《い》れて|女房《にようばう》となるならば |汝《なんぢ》の|罪《つみ》を|赦《ゆる》すべし
|二人《ふたり》の|男《をとこ》は|如何《どう》しても |命《いのち》を|取《と》つて|神前《しんぜん》の
|尊《たふと》き|犠牲《ぎせい》に|供《きよう》さねば |神《かみ》の|怒《いか》りを|如何《いか》にせむ
|覚悟《かくご》せよや』と|睨《ね》めつける ユリコの|姫《ひめ》はいろいろと
|詞《ことば》を|尽《つく》し|身《み》を|尽《つく》し |口説《くど》き|立《た》つれば|酋長《しうちやう》は
|漸《やうや》く|心《こころ》|和《やは》らぎて |苦《くる》しき|荒行《あらぎやう》いろいろと
|二人《ふたり》の|男《をとこ》に|言《い》ひ|付《つ》けて |漸《やうや》く|此《この》|場《ば》は|鳧《けり》がつき
|大祭壇《だいさいだん》の|傍《かたはら》に |三人《みたり》の|男女《なんによ》を|伴《ともな》ひて
ユリコの|姫《ひめ》には|美《うる》はしき |衣服《いふく》を|与《あた》へ|二人《ふたり》には
『|猛火《まうくわ》の|中《なか》をくぐれよ』と |言葉《ことば》|厳《きび》しく|下知《げち》すれば
|日楯《ひたて》、|月鉾《つきほこ》|両人《りやうにん》は |天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》し
|天《あま》の|数歌《かずうた》ひそびそと |小声《こごゑ》になりて|唱《とな》へつつ
|猛火《まうくわ》の|中《なか》を|幾度《いくたび》も いと|易々《やすやす》と|潜《くぐ》りぬけ
|大祭壇《だいさいだん》の|其《その》|前《まへ》に |火傷《やけど》もせずに|帰《かへ》り|来《く》る
|並《な》みゐる|人々《ひとびと》|両人《りやうにん》が |其《その》|神力《しんりき》に|驚《おどろ》きて
|互《たがひ》に|顔《かほ》を|見合《みあは》せつ |舌《した》|巻《ま》き|居《ゐ》たる|折柄《をりから》に
|何処《いづこ》ともなく|大火光《だいくわくわう》 |此《この》|場《ば》に|忽《たちま》ち|落下《らくか》して
|酋長《しうちやう》ゼームス|果敢《あへ》なくも |身《み》は|中空《ちうくう》に|飛《と》びあがり
|行方《ゆくへ》も|知《し》らずなりにける。 |並《な》み|居《ゐ》る|数多《あまた》の|里人《さとびと》は
|此《この》|爆発《ばくはつ》に|驚《おどろ》きて |雲《くも》を|霞《かすみ》と|逃《に》げて|行《ゆ》く
|逃《に》げ|遅《おく》れたる|人々《ひとびと》は |胆《きも》をば|潰《つぶ》し|腰《こし》|抜《ぬ》かし
|呻吟《うめ》き|苦《くるし》む|折柄《をりから》に ユリコの|姫《ひめ》は|酋長《しうちやう》に
|与《あた》へられたる|衣《きぬ》を|脱《ぬ》ぎ |直《ただち》に|火中《くわちう》に|投《とう》ずれば
|日楯《ひたて》、|月鉾《つきほこ》|両人《りやうにん》は ユリコの|姫《ひめ》の|右左《みぎひだり》
|立現《たちあら》はれて|宣伝歌《せんでんか》 |声《こゑ》も|涼《すず》しく|宣《の》りつれば
|醜《しこ》の|曲霊《まがひ》は|何時《いつ》しかに |消《き》え|失《う》せたるか|風《かぜ》|清《きよ》く
|何《なん》とはなしに|心地《ここち》よく |神《かみ》の|恵《めぐみ》を|三人《さんにん》が
|喜《よろこ》ぶ|折《をり》しもゼームスは |衣紋《ゑもん》を|整《ととの》へ|供人《ともびと》を
|数多《あまた》|引連《ひきつ》れ|珍《めづら》しき |木《こ》の|実《み》を|器《うつは》に|盛《も》り|乍《なが》ら
|三人《みたり》が|前《まへ》に|手《て》をついて |以前《いぜん》の|無礼《ぶれい》を|心《こころ》より
|詫入《わびい》る|姿《すがた》の|殊勝《しゆしよう》さよ |茲《ここ》に|三人《みたり》は|三五《あななひ》の
|神《かみ》の|教《をしへ》を|細々《こまごま》と ゼームス|始《はじ》め|里人《さとびと》に
|伝《つた》へて|直《ただ》ちに|三五《あななひ》の |教《をしへ》の|柱《はしら》をつき|固《かた》め
|酋長《しうちやう》|始《はじ》め|数十《すうじふ》の |里人《さとびと》|達《たち》に|送《おく》られて
|夜《よ》を|日《ひ》に|継《つ》いで|高砂《たかさご》の |北《きた》の|端《はし》なるキールンの
|漸《やうや》く|浜辺《はまべ》に|着《つ》きにけり あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ。
○
|常世《とこよ》の|波《なみ》も|竜世姫《たつよひめ》 |高砂島《たかさごじま》の|胞衣《えな》として
|神《かみ》の|造《つく》りし|台湾島《たいわんたう》 |木《こ》の|実《み》も|豊《ゆたか》に|水《みづ》|清《きよ》く
|禽獣虫魚《きんじうちうぎよ》も|生《お》ひたちて |天与《てんよ》の|楽土《らくど》と|聞《きこ》えたる
|台湾島《たいわんたう》の|中心地《ちうしんち》 |玉藻《たまも》の|山《やま》の|聖場《せいぢやう》を
|三人《みたり》は|後《あと》に|立出《たちい》でて |艱難辛苦《かんなんしんく》を|嘗《な》め|乍《なが》ら
テルナの|里《さと》の|酋長《しうちやう》に |長《なが》き|道程《だうてい》を|守《まも》られて
キールの|港《みなと》に|安着《あんちやく》し |船《ふね》を|傭《やと》ひて|三人《さんにん》は
|波《なみ》のまにまに|漕《こ》ぎ|出《だ》しぬ |折柄《をりから》|吹《ふ》き|来《く》る|北風《きたかぜ》に
|山《やま》なす|浪《なみ》は|容赦《ようしや》なく |三人《みたり》の|船《ふね》に|衝《つ》き|当《あた》る
ユリコの|姫《ひめ》は|船頭《せんとう》に |立《た》ちて|波《なみ》をば|静《しづ》めつつ
|神《かみ》のまにまに|琉球《りうきう》の |八重山島《やへやまたう》を|指《さ》して|行《ゆ》く
やうやう|茲《ここ》に|三人《さんにん》は エルの|港《みなと》に|安着《あんちやく》し
|岸辺《きしべ》に|船《ふね》をつなぎおき |声名《せいめい》|轟《とどろ》く|照彦《てるひこ》の
|千代《ちよ》の|住家《すみか》と|聞《きこ》えたる サワラの|都《みやこ》を|指《さ》して|行《ゆ》く。
サワラの|都《みやこ》に、|三人《さんにん》は|漸《やうや》く|辿《たど》りついた。ここは|際限《さいげん》もなき|広原《くわうげん》の|中央《まんなか》に|築《きづ》かれたる|新都会《しんとくわい》にして、|白楊樹《はくやうじゆ》の|森《もり》|四辺《しへん》を|包《つつ》み、|芭蕉《ばせう》の|林《はやし》は|所々《ところどころ》に|点綴《てんてつ》してゐる。|国人《くにびと》は|大抵《たいてい》、|芭蕉実《ばなな》、|苺《いちご》、|林檎《りんご》、|木茄子《きなすび》、|柿《かき》などを|常食《じやうしよく》とし、|或《あるひ》は|山《やま》の|芋《いも》、|淡水魚《たんすゐぎよ》などを|副食物《ふくしよくもつ》として|生活《せいくわつ》を|続《つづ》けてゐる。
サワラの|都《みやこ》には、|広大《くわうだい》なる|堀《ほり》を|以《もつ》て|四方《しはう》を|囲《めぐ》らしてゐる。|其《その》|巾《はば》|殆《ほとん》ど|一丁《いつちやう》|計《ばか》りの|広《ひろ》さである。|東西南北《とうざいなんぼく》に|堅固《けんご》なる|橋梁《けうりやう》を|渡《わた》し、|稍《やや》|北方《ほくぱう》にサワラの|高峰《かうはう》、|雲表《うんぺう》に|聳《そび》え、|四神相応《しじんさうおう》の|聖地《せいち》と|称《しよう》せられてゐる。|城内《じやうない》には|数百《すうひやく》の|人家《じんか》|立並《たちなら》び、|今《いま》より|三十万年前《さんじふまんねんぜん》の|都会《とくわい》としては、|最《もつと》も|大《だい》なるものと|称《しよう》されて|居《ゐ》た。サワラの|城《しろ》は|殆《ほとん》ど|其《その》|中心《ちうしん》に|宏大《くわうだい》なる|地域《ちゐき》を|構《かま》へ、|石造《せきざう》の|館《やかた》|高《たか》く|老樹《らうじゆ》の|上《うへ》にぬき|出《で》て|居《ゐ》る。|城内《じやうない》には|畑《はたけ》もあれば、|川《かは》もあり、|沼《ぬま》もあり、|何一《なにひと》つ|不自由《ふじゆう》なき|様《やう》に|作《つく》られてゐた。
|三人《さんにん》は|東《ひがし》の|門《もん》より|橋《はし》を|渡《わた》つて、|門内《もんない》に|進《すす》み|入《い》つた。|黄紅白紫紺《くわうこうはくしこん》いろいろの|花《はな》は|木《き》の|枝《えだ》に、|草《くさ》の|先《さき》に、|爛漫《らんまん》と|咲《さ》き|乱《みだ》れてゐる。|又《また》|道《みち》の|両側《りやうがは》には|百日紅《さるすべり》や|日和花《ひよりばな》の|類《たぐひ》|密生《みつせい》し、|白《しろ》き|砂《すな》は|日光《につくわう》に|輝《かがや》き、|台湾島《たいわんたう》の|日月潭《じつげつたん》に|比《ひ》して、|幾層倍《いくそうばい》とも|知《し》れぬ|気分《きぶん》のよき|土地《とち》である。
|三人《さんにん》は|何《なん》となく|恥《はづか》しき|様《やう》な、おめる|様《やう》な|心持《こころもち》にて、|小声《こごゑ》に|宣伝歌《せんでんか》を|歌《うた》ひ|乍《なが》ら、|照彦《てるひこ》が|千代《ちよ》の|住家《すみか》と|定《さだ》めたる|城門《じやうもん》の|前《まへ》に|漸《やうや》くにして|歩《ほ》を|運《はこ》んだ。|四五《しご》の|門番《もんばん》は|頬杖《ほほづゑ》をつき|乍《なが》ら、|何《いづ》れも|睡魔《すゐま》に|襲《おそ》はれて、コクリコクリと|居睡《いねむ》つてゐる|其《その》|長閑《のどか》さ、|天国《てんごく》の|門番《もんばん》も|斯《か》くやと|思《おも》ふ|計《ばか》りの|気楽《きらく》さを|現《あら》はし|居《ゐ》る。|日楯《ひたて》は|門番《もんばん》の|前《まへ》に|進《すす》み|寄《よ》り、
|日楯《ひたて》『|頼《たの》みます |頼《たの》みます』
と|声《こゑ》をかけた。|門番《もんばん》の|一《いち》、ねむた|目《め》をこすり|乍《なが》ら、
|門番《もんばん》ノ|一《いち》『アヽ|此《この》|真夜中《まよなか》に|誰《たれ》か|知《し》らぬが、|人《ひと》を|起《おこ》しやがつて、ねむたいワイ。|此《この》|門《もん》は|暮《くれ》|六《む》つから|明《あ》け|六《む》つ|迄《まで》は|開《あ》ける|事《こと》は|出来《でき》ぬ。|夜《よ》が|明《あ》けたら、|誰《たれ》か|知《し》らぬが|行《や》つて|来《こ》い。キツと|開《あ》けて|通《とほ》してやる、ムニヤ ムニヤ ムニヤ……』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら|又《また》ゴロンと|横《よこ》になる。
|月鉾《つきほこ》『モシモシ|門番様《もんばんさま》、まだ|日中《につちう》で|御座《ござ》います。|暮《くれ》|六《む》つ|迄《まで》には|余程《よほど》|間《ま》も|御座《ござ》いますから、どうぞ|目《め》を|醒《さ》まして、|此《この》|門《もん》をお|開《あ》け|下《くだ》さいませ』
|門番《もんばん》ノ|二《に》『お|前《まへ》は|夜《よ》が|明《あ》けとるか|知《し》らぬが、|俺《おれ》の|目《め》ではそこら|中《ぢう》が|真暗《まつくら》がりだ。|暗《くら》い|時《とき》は|夜分《やぶん》にきまつて|居《ゐ》る。アタねむたい、|喧《やかま》しう|言《い》はずにトツトと|出直《でなほ》して|来《こ》い』
|月鉾《つきほこ》『アハヽヽヽ、あなた|目《め》をおあけなさい。さう|目蓋《まぶた》を|固《かた》く|密着《みつちやく》させてゐては、|昼《ひる》でもヤツパリ|暗《くら》く|見《み》えますぞ』
|門番《もんばん》ノ|二《に》『|喧《やかま》しう|言《い》ふない。【|暗《くら》く】も|何《なに》もあつたものかい。|【苦楽】一如《くらくいちによ》だ。|世《よ》の|中《なか》に|寝《ね》る|程《ほど》|楽《らく》はなきものを、|起《おき》てガヤガヤ|騒《さわ》ぐ|馬鹿《ばか》のたわけ。おれはまだ|夜中《よなか》の|夢《ゆめ》を|見《み》て|居《ゐ》るのだ。おれの|目《め》の|引明《ひきあ》けに|出《で》て|来《こ》い。そしたら、あけてやらぬ|事《こと》もないワイ』
とダル|相《さう》な|声《こゑ》でブツブツ|云《い》ひ|乍《なが》ら、|又《また》|横《よこ》にゴロンとなる。|三人《さんにん》はもどかしがり、|稍《やや》|思案《しあん》に|暮《く》れて|佇《たたず》んで|居《ゐ》る|時《とき》しも、|表門《おもてもん》はサラリと|左右《さいう》に|開《ひら》かれ、|中《なか》より|立派《りつぱ》なる|男女《だんぢよ》|幾十人《いくじふにん》となく|行列《ぎやうれつ》を|作《つく》り、|三人《さんにん》の|前《まへ》に|恭《うやうや》しく|手《て》をつき|乍《なが》ら|大将《たいしやう》らしき|一人《ひとり》は、
『エヽあなたは|台湾島《たいわんたう》の|玉藻山《たまもやま》の|霊場《れいぢやう》にまします、|真道彦命《まみちひこのみこと》|様《さま》の|御子息様《ごしそくさま》では|御座《ござ》いませぬか』
|日楯《ひたて》|丁寧《ていねい》に|礼《れい》を|返《かへ》し、
『ハイ|御察《おさつ》しの|通《とほ》り、|吾等《われら》は|真道彦命《まみちひこのみこと》の|伜《せがれ》、|日楯《ひたて》、|月鉾《つきほこ》と|申《まを》す|者《もの》、これなる|女《をんな》は|私《わたし》の|妻《つま》ユリコ|姫《ひめ》と|申《まを》します。|竜世姫《たつよひめ》|様《さま》の|御神勅《ごしんちよく》に|依《よ》り、|当国《たうこく》の|城主《じやうしゆ》|照彦《てるひこ》|様《さま》、|照子姫《てるこひめ》|様《さま》に|御願《おねがひ》の|筋《すぢ》ありて、|大海原《おほうなばら》を|渡《わた》り、|漸《やうや》くこれへ|参《まゐ》つた|者《もの》で|御座《ござ》います』
|一人《ひとり》の|男《をとこ》『|私《わたし》はセルと|申《まを》して、|照彦王《てるひこわう》の|御側《おそば》|近《ちか》く|仕《つか》ふる|者《もの》で|御座《ござ》います。|二三日《にさんにち》|以前《いぜん》より、|照子姫《てるこひめ》|様《さま》に|高砂島《たかさごじま》の|竜世姫命《たつよひめのみこと》|様《さま》|御神懸《おかむがか》り|遊《あそ》ばし、あなた|方《がた》|御三人様《ごさんにんさま》がここへ|御越《おこ》しになるから、|出迎《でむか》ひに|出《で》よとのお|告《つげ》で|御座《ござ》いました。それ|故《ゆゑ》|今日《けふ》はお|越《こ》しの|日《ひ》と|早朝《さうてう》よりいろいろと、あなた|方《がた》の|歓迎《くわんげい》の|用意《ようい》を|致《いた》し、|照彦《てるひこ》|様《さま》、|照子姫《てるこひめ》|様《さま》、|奥《おく》にお|待《まち》で|御座《ござ》います。サア|御案内《ごあんない》|致《いた》しますから、|早《はや》くお|這入《はい》り|下《くだ》さいませ』
|三人《さんにん》は|一度《いちど》に|頭《あたま》を|下《さ》げ、
『|有難《ありがた》う』
と|言《い》ひ|乍《なが》らセルの|後《あと》に|従《したが》ひ、|奥《おく》|深《ふか》く|進《すす》み|入《い》る。|門番《もんばん》は|漸《やうや》く|目《め》を|醒《さま》し、
|甲《かふ》『オイ、ベース、チヤール、|起《お》きぬか|起《お》きぬか、|大変《たいへん》な|事《こと》が|出来《でき》て|来《き》たぞ。お|側役《そばやく》のセル|様《さま》が|沢山《たくさん》の|御近侍《ごきんじ》の|方々《かたがた》と|共《とも》に|三人《さんにん》のお|客《きやく》さまをお|迎《むか》へ|遊《あそ》ばして、|奥《おく》へお|這入《はい》りになつた。|貴様達《きさまたち》はなまくらを|構《かま》へて、|寝真似《ねまね》をし、|糟《かす》に|酔《よ》うた|様《やう》な|事《こと》をぬかしてをつたが、たつた|今《いま》ドテライお|目玉《めだま》だぞ。サア|早《はや》く|何《なん》とか、|言訳《いひわけ》を|拵《こしら》へて、セル|様《さま》へお|断《ことわ》りに|行《ゆ》かねば、|足袋屋《たびや》の|看板《かんばん》だ。サツパリ|足《あし》あがりになつて|了《しま》ふぞよ』
エル『バカを|言《い》ふな、|俺達《おれたち》が|寝真似《ねまね》をして|居《を》つたのを|知《し》つてゐた|以上《いじやう》は、|貴様《きさま》もチヨボチヨボだ。|俺《おれ》が|足《あし》があがる|位《くらゐ》なら、|貴様《きさま》は|頭《かしら》だから、キツト|首《くび》が|飛《と》ぶぞよ。|貴様《きさま》は|俺達《おれたち》の|組頭《くみがしら》だからお|詫《わび》に|往《い》つて|来《く》るがよからう。|俺《おれ》や、こんな|門番《もんばん》なんか、|何時《なんどき》|足《あし》があがつても|構《かま》やしないのだ。|常世城《とこよじやう》の|門番《もんばん》を|見《み》い、|失敗《しつぱい》して|王様《わうさま》のお|側附《そばつき》になつたぢやないか。|何時《いつ》|迄《まで》も|門番《もんばん》を|厳重《げんぢゆう》に|勤《つと》めて|居《を》つたら、|彼奴《あいつ》は|門番《もんばん》に|適当《てきたう》な|奴《やつ》だと、セルの|大将《たいしやう》に|見込《みこ》まれたが|最後《さいご》、|金槌《かなづち》の|川流《かはなが》れ、|一生《いつしやう》|頭《あたま》の|上《あが》る|事《こと》はないぞよ。それより|日中《につちう》にグウグウと|寝《ね》てる|方《はう》が、|何時《いつ》|栄達《ゑいたつ》の|途《みち》が|開《ひら》けるか|知《し》れないぞ。|大体《だいたい》こんな|智者《ちしや》|学者《がくしや》を|門番《もんばん》にさしておくのが|見当《けんたう》|違《ちが》ひだ。マア|見《み》て|居《を》れ、|明日《あす》になつたら、|貴様達《きさまたち》は|門番《もんばん》に|不適当《ふてきたう》だから、|奥勤《おくづと》めに|使《つか》つてやらうとの|御命令《ごめいれい》が|下《くだ》るに|違《ちがひ》ない。|余《あま》り|取越《とりこし》|苦労《くらう》をするものでない。マア|刹那心《せつなしん》を|楽《たのし》むのだなア。|待《ま》てば|海路《かいろ》の|風《かぜ》が|吹《ふ》くとやら、|何事《なにごと》も|運《うん》は|天《てん》にありだ。そんな|事《こと》に|心配《しんぱい》するよりも、|酒《さけ》でも|呑《の》み、|一生懸命《いつしやうけんめい》に|騒《さわ》ぎ、ステテコでも|踊《をど》つて、|今度《こんど》のお|客様《きやくさま》のお|慰《なぐさ》みに|供《きよう》したら、|照彦王様《てるひこわうさま》も|面白《おもしろ》い|奴《やつ》だと|云《い》つて、……|苦《くる》しうない、|門番《もんばん》|近《ちか》く|参《まゐ》れ……とか|何《なん》とか|仰有《おつしや》つて、お|手《て》づから|盃《さかづき》を|下《くだ》され、|結構《けつこう》な|御褒美《ごほうび》に|預《あづか》るやらも|知《し》れたものだない。サアサア、|酒《さけ》だ|酒《さけ》だ、|酒《さけ》なくて|何《なん》のおのれが|門番《もんばん》かなだ。アハヽヽヽヽ』
と|他愛《たあい》もなき|無駄事《むだごと》を|囀《さへづ》り|乍《なが》ら、バナナで|作《つく》つた|強烈《きつ》い|酒《さけ》を、|五人《ごにん》の|門番《もんばん》が|胡坐座《あぐらざ》になつてガブリガブリと|呑《の》み|始《はじ》め、ヘベレケになつて、|妙《めう》な|手《て》つきをし|乍《なが》ら、|踊《をど》りつ|舞《ま》ひつ、|奥殿《おくでん》|指《さ》して|転《ころ》げ|込《こ》んだ。
(大正一一・八・八 旧六・一六 松村真澄録)
第三篇 |光明《くわうみやう》の|魁《さきがけ》
第一三章 |唖《おし》の|対面《たいめん》〔八一三〕
|千早《ちはや》|振《ふ》る|神代《かみよ》の|昔《むかし》エルサレム |厳《いづ》の|都《みやこ》に|仕《つか》へたる
|神《かみ》の|司《つかさ》の|国彦《くにひこ》が |霊《たま》の|御裔《みすゑ》と|生《うま》れたる
|心《こころ》も|固《かた》き|常楠《つねくす》の |流《なが》れを|汲《く》みし|清《きよ》、|照《てる》の
|二人《ふたり》の|御子《みこ》は|琉球《りうきう》の |双児《ふたご》の|島《しま》を|北南《きたみなみ》
|相《あひ》|受持《うけも》ちて|永久《とこしへ》に |此《この》|浮島《うきじま》を|守《まも》ります
|中《なか》にも|別《わ》けて|照彦《てるひこ》は |遠《とほ》き|神代《かみよ》の|其《その》|昔《むかし》
|貴《うづ》の|都《みやこ》の|天使長《てんしちやう》 |広宗彦《ひろむねひこ》の|其《その》|御裔《みすゑ》
|照子《てるこ》の|姫《ひめ》を|娶《めと》りつつ |南《みなみ》に|当《あた》る|八重山島《やへやまたう》の
|神《かみ》の|司《つかさ》と|国王《こきし》を|兼《かね》て |風《かぜ》さへ|清《きよ》き|高原地《かうげんち》
サワラの|土地《とち》に|神都《しんと》を|開《ひら》き |四方《よも》の|国人《くにびと》|愛撫《あいぶ》して
|神《かみ》の|如《ごと》くに|敬《うやま》はれ |世《よ》は|太平《たいへい》に|治《をさ》まりて
|宛然《さながら》|神代《かみよ》の|如《ごと》くなり サワラの|城《しろ》を|繞《めぐ》らせる
|清泉《せいせん》|漂《ただよ》ふ|水垣《みづがき》に |真鯉《まごひ》|緋鯉《ひごひ》の|数多《かずおほ》く
|溌溂《はつらつ》として|金鱗《きんりん》を |旭《あさひ》に|照《て》らしキラキラと
|泳《およ》ぎ|楽《たの》しむ|光景《くわうけい》は |昔《むかし》|聖地《せいち》を|繞《めぐ》りたる
|黄金《こがね》の|海《うみ》の|如《ごと》くなり。 |城頭《じやうとう》|高《たか》く|金色《こんじき》の
|十曜《とえう》の|神紋《しんもん》|輝《かがや》きて |神威《しんゐ》は|四方《よも》に|鳴《な》り|渡《わた》り
|小鳥《ことり》の|声《こゑ》も|何《なん》となく |長閑《のどか》な|春《はる》を|歌《うた》ひつつ
|実《げ》に|神《かみ》の|御稜威《みいづ》も|照彦《てるひこ》や |照子《てるこ》の|姫《ひめ》の|功績《いさをし》を
|高《たか》く|御空《みそら》に|現《あら》はしぬ。 |無事《ぶじ》|太平《たいへい》の|球《きう》の|島《しま》
|民《たみ》は|互《たがひ》に|睦《むつ》び|合《あ》ひ |争《あらそ》ひもなく|病《やまひ》なく
|凶作《きようさく》もなく|国人《くにびと》は |安喜和楽《あんきわらく》の|夢《ゆめ》に|酔《よ》ひ
|歌舞音曲《かぶおんきよく》の|艶声《えんせい》は |国内《こくない》|隈《くま》なく|響《ひび》きけり。
|斯《か》かる|所《ところ》へ|台湾《たいわん》の |玉藻《たまも》の|山《やま》の|聖地《せいち》より
|日楯《ひたて》、|月鉾《つきほこ》、ユリコ|姫《ひめ》 |始《はじ》めて|三人《みたり》|神司《かむづかさ》
|波《なみ》|押切《おしき》つて|球《きう》の|島《しま》 エルの|港《みなと》に|漕《こ》ぎ|付《つ》けて
|樹木《じゆもく》|茂《しげ》れる|高原《かうげん》を |心《こころ》の|駒《こま》に|鞭《むちう》ちて
|悩《なや》みも|知《し》らぬ|膝栗毛《ひざくりげ》 |漸《やうや》う|都《みやこ》に|辿《たど》り|着《つ》き
|長《なが》き|橋梁《けうりやう》|打渡《うちわた》り |東《ひがし》の|門《もん》より|徐々《しづしづ》と
|百日紅《ひやくじつこう》や|日和花《ひよりばな》 |咲《さ》き|誇《ほこ》りたる|道《みち》の|上《うへ》
|心《こころ》|欣々《いそいそ》|三人《さんにん》は サワラの|城《しろ》の|表門《おもてもん》
やうやう|月鉾《つきほこ》、ユリコ|姫《ひめ》 |日楯《ひたて》は|門《もん》の|傍《かたはら》に
|肱《ひぢ》を|枕《まくら》に|眠《ねむ》りゐる サワラの|城《しろ》の|門番《もんばん》に
|礼《れい》を|尽《つく》して|掛合《かけあ》へど |皆《みな》|太平《たいへい》の|夢《ゆめ》に|酔《よ》ひ
|昼《ひる》の|日中《ひなか》に|真夜中《まよなか》の |夢《ゆめ》か|現《うつつ》か|囈言《うさごと》を
|並《なら》べて|起《お》きぬもどかしさ |茲《ここ》に|三人《みたり》は|止《や》むを|得《え》ず
|佇《たたず》む|折《をり》しも|門《もん》の|戸《と》を |中《なか》より|左右《さいう》に|開《ひら》きつつ
|照彦王《てるひこわう》の|側近《そばちか》く |仕《つか》へ|奉《まつ》りしセルの|司《つかさ》
|数多《あまた》の|男女《なんによ》を|引《ひ》きつれて いと|慇懃《いんぎん》に|出《い》で|迎《むか》へ
|奥殿《おくでん》|指《さ》して|進《すす》み|入《い》る。 |三人《みたり》の|司《つかさ》は|何《なん》となく
|心《こころ》いそいそし|乍《なが》らも セルの|後《うしろ》に|従《つ》いて|行《ゆ》く。
|三人《さんにん》はセルの|司《つかさ》の|後《あと》に|従《したが》ひ、|奥殿《おくでん》|深《ふか》く|進《すす》み|入《い》つた。|美《うる》はしき|琉球畳《りうきうたたみ》を|布《し》き|詰《つ》めたる|広《ひろ》き|一間《ひとま》には、|数多《あまた》の|男女《なんによ》|威儀《ゐぎ》を|正《ただ》し、|行儀《ぎやうぎ》よく|端坐《たんざ》して、|一行《いつかう》の|入《い》り|来《きた》るを|待《ま》ち|迎《むか》へて|居《ゐ》た。セルは|三人《さんにん》に|向《むか》ひ、
セル『どうか、これへ|御坐《おすわ》り|下《くだ》さいませ』
と|最上壇《さいじやうだん》の|間《ま》に、|三人《さんにん》を|導《みちび》いた。|三人《さんにん》は|円座《ゑんざ》の|上《うへ》に|端坐《たんざ》し、|一同《いちどう》に|向《むか》つて|目礼《もくれい》を|施《ほどこ》した。
|数十人《すうじふにん》の|男女《なんによ》は|威儀《ゐぎ》を|正《ただ》し、|行儀《ぎやうぎ》よく|列《れつ》を|作《つく》りて|端坐《たんざ》し|乍《なが》ら、|無言《むごん》の|儘《まま》、|目礼《もくれい》を|返《かへ》した。|少時《しばらく》あつて、|隔《へだ》ての|襖《ふすま》を|押《おし》あけ|入《い》り|来《きた》る|妙齢《めうれい》の|美人《びじん》、|一人《ひとり》は|照代姫《てるよひめ》、|一人《ひとり》は|八千代姫《やちよひめ》、|三人《さんにん》の|前《まへ》に|丁寧《ていねい》に|両手《りやうて》をつき、|言葉《ことば》|淑《しと》やかに|八千代姫《やちよひめ》は、
『これはこれは|日楯様《ひたてさま》、|月鉾様《つきほこさま》、ユリコ|姫様《ひめさま》、|遠路《ゑんろ》の|所《ところ》、はるばるとようこそ|御越《おこ》し|下《くだ》さいました。|二三日《にさんにち》|以前《いぜん》より|照彦王様《てるひこわうさま》の|御差図《おさしづ》に|依《よ》り、あなた|方《がた》|御一行《ごいつかう》の|御着城《ごちやくじやう》を、|今《いま》か|今《いま》かと、|首《くび》を|伸《の》ばして|御待受《おまちうけ》|致《いた》して|居《を》りました。どうぞ|長途《ちやうと》の|御疲《おつか》れの|直《なほ》ります|迄《まで》、|御《ご》ゆるりと|御休息《ごきうそく》|下《くだ》さいませ』
|三人《さんにん》|一度《いちど》に、
『ハイ|有難《ありがた》う|御座《ござ》います。いろいろと|御心配《ごしんぱい》をかけまして、|誠《まこと》に|済《す》みませぬ』
|照代姫《てるよひめ》『|折角《せつかく》|御越《おこ》し|下《くだ》さいましたが、|照彦王様《てるひこわうさま》は|照子姫《てるこひめ》|様《さま》と、|今朝《けさ》より|俄《にはか》に|神勅《しんちよく》を|奉《ほう》じて|天啓山《てんけいざん》に|御登《おのぼ》りになりました。|何《いづ》れ|御帰《おかへ》りは|二三日《にさんにち》の|後《のち》で|御座《ござ》いませう。|王様《わうさま》の|御言葉《おことば》に、|三人《さんにん》の|御方《おかた》が|御《お》いでになつたらば、|吾々《われわれ》が|帰城《きじやう》する|迄《まで》、|御待《おま》ちを|願《ねが》つて|置《お》けとの|御命令《ごめいれい》で|御座《ござ》いました。どうぞ|王様《わうさま》の|御帰城《ごきじやう》|迄《まで》|此処《ここ》にてゆるゆる|御待《おま》ちの|程《ほど》を|願《ねがひ》|上《あ》げ|奉《たてまつ》ります。|吾々《われわれ》|一同《いちどう》は|王様《わうさま》の|無事《ぶじ》お|帰《かへ》りになる|迄《まで》は|各《おのおの》|謹慎《きんしん》を|表《へう》し、|無言《むごん》|無食《むしよく》|無飲《むいん》の|行《げう》を|致《いた》さねばなりませぬ。それ|故《ゆゑ》あなた|様《さま》に|御挨拶《ごあいさつ》が|終《をは》れば、|後《あと》は|何事《なにごと》も|無言《むごん》で|御座《ござ》いますれば、どうぞ|御気《おき》に|支《さ》へない|様《やう》にして|下《くだ》さいませ』
|三人《さんにん》『ハイ|承知《しようち》|仕《つかまつ》りました。さうして|王様《わうさま》は|何日《いつ》|頃《ごろ》お|帰《かへ》りで|御座《ござ》いますか』
|八千代姫《やちよひめ》、|照代姫《てるよひめ》は|一旦《いつたん》|挨拶《あいさつ》を|了《をは》りし|事《こと》とて|一言《いちごん》も|答《こた》へず、サラサラと|畳《たたみ》に|足《あし》を|辷《すべ》らせ|乍《なが》ら|再《ふたた》び|襖《ふすま》を|押《おし》あけ、スツと|閉《と》ぢて|一間《ひとま》に|姿《すがた》を|隠《かく》した。|並《なみ》ゐる|一同《いちどう》の|男女《なんによ》は|何《いづ》れも|無言《むごん》の|儘《まま》、|行儀《ぎやうぎ》よく|円座《ゑんざ》の|上《うへ》に|端坐《たんざ》して、|王《わう》の|不在中《ふざいちゆう》|絶対的《ぜつたいてき》|謹慎《きんしん》を|表《へう》して|居《ゐ》る。
|三人《さんにん》も|已《や》むを|得《え》ず、|無言《むごん》の|儘《まま》、|膝《ひざ》もくづさず、|昼夜《ちうや》の|区別《くべつ》なく|円座《ゑんざ》の|上《うへ》に|安座《あぐら》し、|膝《ひざ》も|踵《きびす》もむしれる|如《ごと》き|痛《いた》さをジツと|怺《こら》へ、|汗《あせ》をブルブルかき|乍《なが》ら、|一同《いちどう》の|手前《てまへ》を|憚《はばか》り、|顔《かほ》をも|得拭《えぬぐ》はず、
『ヤアえらい|修業《しうげふ》をさせられたものだ。こんな|事《こと》なら、モウ|二三日《にさんにち》どつかで|遊《あそ》んで|来《き》たらよかつたに……』
と|心《こころ》の|内《うち》に|思《おも》ひ|乍《なが》ら、|苦《くる》しさを|怺《こら》へて|居《ゐ》る。
|以前《いぜん》の|八千代姫《やちよひめ》、|照代姫《てるよひめ》は|三人《さんにん》の|侍女《じぢよ》に|膳部《ぜんぶ》を|運《はこ》ばせ、|恭《うやうや》しく|三人《さんにん》の|前《まへ》に|無言《むごん》の|儘《まま》つき|出《だ》した。|見《み》れば|飯《めし》も|平《ひら》も|汁《しる》も|生酢《なます》も|一切《いつさい》|団子石《だんごいし》や|砂《すな》|許《ばか》りが|盛《も》つてある。|三人《さんにん》の|侍女《じぢよ》はしづしづとして、|無言《むごん》の|儘《まま》|立去《たちさ》つた。|照代姫《てるよひめ》、|八千代姫《やちよひめ》は|盛装《せいさう》をこらし、|二人《ふたり》|各《おのおの》|銀扇《ぎんせん》を|開《ひら》いて|無言《むごん》の|儘《まま》、|壬生《みぶ》|狂言《きやうげん》の|様《やう》に|三人《さんにん》の|馳走《ちそう》の|心持《こころもち》か、|品《しな》よく、|手拍子《てべうし》|足拍子《あしべうし》を|揃《そろ》へ、|一時《ひととき》|許《ばか》り|汗《あせ》をたらして|踊《をど》つて|見《み》せた。|其《その》|手《て》つき|足《あし》つき、|尻《しり》の|振《ふ》りやう、|腰《こし》の|具合《ぐあひ》、|実《じつ》に|滑稽《こつけい》を|極《きは》め、|吹《ふ》き|出《だ》す|様《やう》に|思《おも》はれたが、|無言《むごん》の|行《げう》の|此《この》|席《せき》には|吹《ふ》き|出《だ》す|事《こと》も|出来《でき》ず、|可笑《をか》しさを|無理《むり》に|怺《こら》へて|居《ゐ》る|苦《くる》しさ。|厳《きび》しき|暑《あつ》さに|喉《のど》は|渇《かは》いて|来《く》る。|腹《はら》は|空《す》いて|来《く》る。され|共《ども》|石《いし》を|食《く》らふ|訳《わけ》にもゆかず、|恨《うら》めし|相《さう》に|膳部《ぜんぶ》を|眺《なが》めてゐるのみであつた。|照代姫《てるよひめ》、|八千代姫《やちよひめ》は|一時《ひととき》|許《ばか》り|踊《をど》つた|末《すゑ》、|次《つぎ》の|間《ま》に|姿《すがた》を|隠《かく》した。
|交《かは》る|交《がは》る|男女《なんによ》|入《い》り|来《きた》りて、|面白《おもしろ》き|物真似《ものまね》を|演《えん》じ、|一同《いちどう》の|腮《あご》をとき、|笑《わら》ひ|倒《たふ》さむと|努《つと》むるものの|如《ごと》くであつた。されど|何《いづ》れも、そんな|事《こと》が|何《なに》が|可笑《をか》しい……と|云《い》つた|様《やう》な|渋《しぶ》り|切《き》つた|顔《かほ》をして、|可笑《をか》しさを|隠《かく》して|居《ゐ》る。
|斯《か》くして|漸《やうや》く|三日三夜《みつかみよさ》を|過《す》ぎた。|俄《にはか》に|騒々《さうざう》しき|人《ひと》の|足音《あしおと》、|何事《なにごと》ならむと|三人《さんにん》は|心《こころ》を|配《くば》る|折《をり》、|数多《あまた》の|従臣《じゆうしん》に|守《まも》られて、|帰《かへ》り|来《きた》りしは|照彦王《てるひこわう》、|照子姫《てるこひめ》の|一行《いつかう》であつた。
|矢庭《やには》に|奥殿《おくでん》に|進《すす》み|入《い》り、これ|亦《また》|無言《むごん》の|儘《まま》、|三人《さんにん》に|軽《かる》く|目礼《もくれい》し、|夫婦《ふうふ》は|目《め》と|目《め》に|物《もの》|言《い》はせ|乍《なが》ら、|別館《べつくわん》に|足早《あしばや》く|姿《すがた》を|隠《かく》した。
|照彦王《てるひこわう》の|御供《みとも》に|仕《つか》へし|男女《なんによ》も|同《おな》じく|無言《むごん》の|儘《まま》、|一同《いちどう》に|軽《かる》く|目礼《もくれい》し、|其《その》|場《ば》に|行儀《ぎやうぎ》よく|列《れつ》を|正《ただ》して|端坐《たんざ》して|居《ゐ》る。|稍《やや》|少時《しばし》あつて|別館《べつくわん》より、|照彦王《てるひこわう》、|照子姫《てるこひめ》の|奏上《そうじやう》する|天津祝詞《あまつのりと》の|声《こゑ》|響《ひび》き|来《きた》る。|一同《いちどう》は|此《この》|声《こゑ》に|連《つれ》て、|待兼《まちかね》てゐた|様《やう》な|調子《てうし》で、|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》し|天《あま》の|数歌《かずうた》を|唱《とな》へ|上《あ》げた。されど|日楯《ひたて》、|月鉾《つきほこ》、ユリコ|姫《ひめ》は|依然《いぜん》として|無言《むごん》の|儘《まま》、|合掌《がつしやう》して|暗祈黙祷《あんきもくたう》を|続《つづ》くるのみであつた。
|暫《しばら》くあつて|照彦王《てるひこわう》、|照子姫《てるこひめ》は、|以前《いぜん》の|美人《びじん》|八千代姫《やちよひめ》、|照代姫《てるよひめ》に|三宝《さんぱう》を|持《も》たせ|乍《なが》ら、|三人《さんにん》の|前《まへ》に|厳然《げんぜん》として|現《あら》はれ、|軽《かる》く|目礼《もくれい》して|物《もの》をも|言《い》はず、|照代姫《てるよひめ》、|八千代姫《やちよひめ》に|目配《めくば》せすれば、|二人《ふたり》は|三宝《さんぱう》を|三人《さんにん》の|前《まへ》に|差出《さしいだ》した。|見《み》れば|三通《さんつう》の|封書《ふうしよ》である。|一通《いつつう》は|日楯《ひたて》に、|又《また》|他《た》の|二通《につう》は|月鉾《つきほこ》、ユリコ|姫《ひめ》の|宛名《あてな》が|記《しる》してあつた。|三人《さんにん》は|無言《むごん》の|儘《まま》|押戴《おしいただ》き、|直《ただち》に|封《ふう》を|押切《おしき》つて|開《ひら》き|見《み》れば、|種々《いろいろ》の|神示《しんじ》が|示《しめ》されてある。|三人《さんにん》は|喜《よろこ》びの|色《いろ》を|現《あら》はし、|無言《むごん》の|儘《まま》|感謝《かんしや》の|意《い》を|示《しめ》した。|照彦王《てるひこわう》、|照子姫《てるこひめ》は|悠々《いういう》として|又《また》もや|別館《べつくわん》に|姿《すがた》を|隠《かく》した。
|茲《ここ》に|日楯《ひたて》の|一行《いつかう》は|一同《いちどう》に|目礼《もくれい》し|乍《なが》ら|急《いそ》ぎ|館《やかた》を|立出《たちい》で、|表門《おもてもん》を|潜《くぐ》り、|城外《じやうぐわい》に|走《はし》り|出《で》た。|後《あと》より|八千代姫《やちよひめ》、|照代姫《てるよひめ》は|息《いき》もせきせき|追《お》つかけ|来《きた》る。|漸《やうや》くサワラの|都《みやこ》の|南《みなみ》の|門《もん》にて、|二人《ふたり》は|追《お》ひ|付《つ》き、|爰《ここ》に|二男三女《になんさんによ》は|常楠仙人《つねくすせんにん》の|立籠《たてこも》る|向陽山《こうやうざん》を|指《さ》して|進《すす》み|行《ゆ》く|事《こと》となつた。
(大正一一・八・九 旧六・一七 松村真澄録)
第一四章 |二男三女《になんさんによ》〔八一四〕
|天津御空《あまつみそら》に|照《て》り|亘《わた》る |日楯《ひたて》、|月鉾《つきほこ》、|両人《りやうにん》は
|照彦王《てるひこわう》や|照子姫《てるこひめ》 |数多《あまた》の|人《ひと》に|立別《たちわか》れ
サワラの|城《しろ》を|後《あと》に|見《み》て |緑《みどり》、|紅《くれなゐ》、|白《しろ》、|黄色《きいろ》
|花《はな》|咲《さ》く|野辺《のべ》のユリコ|姫《ひめ》 |尽《つ》きせぬ|御代《みよ》も|八千代姫《やちよひめ》
|神《かみ》の|御稜威《みいづ》も|照代姫《てるよひめ》 |二男三女《になんさんによ》の|五身霊《いつみたま》
|照彦王《てるひこわう》の|密書《みつしよ》をば |力《ちから》と|頼《たの》み|向陽《こうやう》の
|高嶺《たかね》をさして|進《すす》み|行《ゆ》く。
|二男三女《になんさんによ》は|無言《むごん》の|儘《まま》、|向陽山《こうやうざん》を|指《さ》して|進《すす》んで|行《ゆ》く。|照彦王《てるひこわう》より|与《あた》へられたる|密書《みつしよ》には、
『|向陽山《こうやうざん》の|麓《ふもと》を|流《なが》るる|大谷川《おほたにがは》の|畔《ほとり》|迄《まで》は|決《けつ》して|言語《げんご》を|発《はつ》す|可《べか》らず、|其《その》|川《かは》を|渡《わた》ると|共《とも》に、|発言《はつげん》|自由《じいう》たるべし。|向陽山《こうやうざん》には|常楠仙人《つねくすせんにん》|永住《えいぢう》して|汝等《なんぢら》|一同《いちどう》に|摂受《せつじゆ》の|剣《けん》と|折伏《しやくふく》の|剣《けん》を|与《あた》へ|玉《たま》ふべし。これを|受取《うけと》つて、|汝等《なんぢら》は|一日《ひとひ》も|早《はや》く|泰安城《たいあんじやう》に|立向《たちむか》ひ、|魔軍《まぐん》を|言向《ことむ》け|和《やは》し、|且《か》つヤーチン|姫《ひめ》|及《および》|真道彦《まみちひこ》、カースル|王《わう》|其《その》|他《た》|一同《いちどう》を|救《すく》ふべし』
との|文意《ぶんい》が|示《しめ》されてあつた。|行《ゆ》く|事《こと》|殆《ほとん》ど|五六里《ごろくり》、|徒歩《とほ》に|稍《やや》|疲《つか》れを|感《かん》じ、|山麓《さんろく》までは|到底《たうてい》|日《ひ》の|内《うち》に|到達《たうたつ》し|難《がた》く|思《おも》はれた。
|茫々《ばうばう》たる|萱野原《かやのはら》に、|萩《はぎ》、|桔梗《ききやう》、|百合《ゆり》の|花《はな》は|配置《はいち》|良《よ》く|咲《さ》き|匂《にほ》うて|居《ゐ》る。|二男三女《になんさんぢよ》は|草《くさ》を|分《わ》け、|漸《やうや》くにして、|向陽山麓《こうやうさんろく》の|木々《きぎ》の|梢《こずゑ》まで|肉眼《にくがん》にて|見分《みわ》くる|計《ばか》りの|地点《ちてん》まで|近寄《ちかよ》つた。|忽《たちま》ち|前方《ぜんぱう》に|当《あた》りて、|大《だい》なる|沼《ぬま》が|横《よこた》はつて|居《ゐ》る。|水底《みなそこ》|最《もつと》も|深《ふか》く、|周囲《しうゐ》の|樹木《じゆもく》は|沼《ぬま》の|底《そこ》に|逆《さか》しまに|影《かげ》を|映《うつ》し、|大空《たいくう》の|淡雲《たんうん》は|沼底《ぬまぞこ》に|映《うつ》つて|居《ゐ》る。|不思議《ふしぎ》にも|五人《ごにん》の|姿《すがた》は|沼《ぬま》の|水《みづ》に|逆《さか》しまに|映《うつ》り、|何《なん》とも|言《い》はれぬ|麗《うるは》しき|光景《くわうけい》であつた。|一同《いちどう》はハタと|突当《つきあた》り、|如何《いかが》はせむと|思案《しあん》に|暮《く》れてゐたが、|言語《げんご》を|発《はつ》する|事《こと》を|戒《いまし》められ|居《ゐ》る|為《ため》、|互《たがひ》に|相談《さうだん》する|事《こと》も|出来《でき》ず、どうせうかと|手真似《てまね》、|目使《めつか》ひ|等《とう》にて|話《はな》し|合《あ》つて|居《ゐ》る。
|日《ひ》は|漸《やうや》く|山《やま》の|尾《を》の|上《へ》に|姿《すがた》を|没《ぼつ》し、|夕《ゆふ》べの|風《かぜ》はソヨソヨと|吹《ふ》き|出《だ》し、|木《こ》の|葉《は》の|梢《こずゑ》にゆらぐ|影《かげ》は、|沼底《ぬまぞこ》に|逆《さか》さまに|映《うつ》り、|数多《あまた》の|小魚《せうぎよ》の|躍《をど》るが|如《ごと》く|見《み》えて|来《き》た。|進退《しんたい》|惟《これ》|谷《きは》まつたる|五人《ごにん》は|愈《いよいよ》|意《い》を|決《けつ》し、|底《そこ》ひも|知《し》れぬ|沼《ぬま》を|目蒐《めが》けてバサバサと|歩《あゆ》み|出《だ》した。|不思議《ふしぎ》にも|此《この》|深《ふか》き|沼《ぬま》にも|係《かか》はらず、|五人《ごにん》の|身体《からだ》は|膝《ひざ》|迄《まで》も|没《ぼつ》するに|至《いた》らず、|易々《やすやす》とさしもに|広《ひろ》き|沼《ぬま》の|面《おも》を、|彼方《かなた》の|岸《きし》に|渡《わた》り|着《つ》き、|後《あと》|振《ふ》り|返《かへ》つて|眺《なが》むれば、|沼《ぬま》らしき|影《かげ》だにもなく、いろいろの|草花《くさばな》が|広《ひろ》き|原野《げんや》に|咲《さ》き|満《みち》て|居《ゐ》た。これは|常楠《つねくす》|仙人《せんにん》が|仙術《せんじゆつ》を|用《もち》ゐ、|五人《ごにん》の|信仰力《しんかうりよく》を|試《ため》す|為《ため》に|地鏡《ちきやう》を|映出《えいしゆつ》したのである。
|夜《よ》の|帳《とばり》は|細《こま》やかに|下《お》ろされて、|月《つき》は|周囲《しうゐ》の|高山《かうざん》に|隔《へだ》てられ、|姿《すがた》を|見《み》せず、|星《ほし》の|光《ひかり》は|何《なん》となく、|雨気《あまけ》の|空《そら》の|様《やう》に|低《ひく》う|麗《うるは》しく|瞬《またた》いてゐる。|二男三女《になんさんによ》は|例《れい》の|手真似《てまね》にて|合図《あひづ》をなし、|爰《ここ》に|一夜《いちや》を|明《あ》かす|事《こと》となつた。
|猛獣《まうじう》の|唸《うな》り|声《ごゑ》、|前後左右《ぜんごさいう》より|刻々《こくこく》に|高《たか》く、|烈《はげ》しく|響《ひび》き|来《きた》る。|一同《いちどう》は|心《こころ》の|中《うち》に|天《あま》の|数歌《かずうた》を|称《とな》へ、|暗祈黙祷《あんきもくたう》を|続《つづ》けてゐる。そこへ|一種《いつしゆ》|異様《いやう》の|大怪物《だいくわいぶつ》、|鹿《しか》の|如《ごと》き|枝角《えだつの》の|一丈《いちぢやう》|計《ばか》りあるものを|頭《かしら》に|戴《いただ》き、|大象《たいざう》の|如《ごと》き|大動物《だいどうぶつ》、バサリバサリと|進《すす》み|来《きた》り、|五人《ごにん》の|前《まへ》に|鏡《かがみ》の|如《ごと》き|巨眼《きよがん》を|光《ひか》らせ、|大口《おほぐち》を|開《ひら》き、|洗濯屋《せんたくや》の|張板《はりいた》の|様《やう》な|長広舌《ちやうくわうぜつ》を|左右《さいう》に|振《ふ》り|乍《なが》ら、|一行《いつかう》を|目《め》がけて|舌《した》に|巻《ま》き|込《こ》まんとして|居《ゐ》る。|日楯《ひたて》、|月鉾《つきほこ》は|無言《むごん》の|儘《まま》、|両手《りやうて》を|組《く》み、|怪物《くわいぶつ》の|前《まへ》に|進《すす》み|寄《よ》るや、|怪物《くわいぶつ》は|象《ざう》が|鼻《はな》にて|子供《こども》を|捲《ま》く|様《やう》に、|舌《した》にてペロペロと|巻《ま》き|乍《なが》ら、|喉《のど》の|中《なか》へ|二人《ふたり》|共《とも》|一度《いちど》に|呑《の》み|込《こ》んで|了《しま》つた。
|三人《さんにん》の|女《をんな》は|愈《いよいよ》|決心《けつしん》を|固《かた》め|怪物《くわいぶつ》のなすが|儘《まま》に|任《まか》した。|怪物《くわいぶつ》は|以前《いぜん》の|如《ごと》く、|舌《した》にて|一人《ひとり》|一人《ひとり》|捲《ま》いては|吾《わが》|背《せ》に|乗《の》せあげ、|三人《さんにん》|共《とも》|大象《たいざう》の|幾倍《いくばい》とも|知《し》れぬ|様《やう》な|大背中《おほせなか》に|乗《の》せた|儘《まま》、|向陽山《こうやうざん》を|目蒐《めが》けてドシンドシンと|地響《ぢひび》きさせ|乍《なが》ら|進《すす》んで|行《ゆ》く。|日楯《ひたて》、|月鉾《つきほこ》の|両人《りやうにん》は|怪物《くわいぶつ》の|腹《はら》に|呑《の》まれ|乍《なが》ら、|別《べつ》に|痛苦《つうく》も|感《かん》ぜず、|暖《あたた》かき|湯《ゆ》に|入《い》りたる|如《ごと》き|心地《ここち》して、|運命《うんめい》を|惟神《かむながら》に|任《まか》せて|居《ゐ》た。
|忽《たちま》ち|轟々《ぐわうぐわう》たる|水音《みなおと》|耳《みみ》に|入《い》るよと|思《おも》ふ|間《ま》に、あたりはパツと、|際立《きはだ》つて|明《あか》くなつて|来《き》た。|見《み》れば|其《その》|身《み》は|向陽山麓《こうやうさんろく》の|大谷川《おほたにがは》の|激流《げきりう》を|渡《わた》りて、|其《その》|岸辺《きしべ》に|立《た》つて|居《ゐ》た。|三人《さんにん》の|女《をんな》は、|岸《きし》の|彼方《かなた》に|激流《げきりう》を|眺《なが》め、|二人《ふたり》の|首尾《しゆび》|克《よ》く|山麓《さんろく》に|渡《わた》り|得《え》たるを|恨《うら》めしげに|眺《なが》めて|居《ゐ》た。
|日楯《ひたて》|始《はじ》めて|口《くち》を|開《ひら》いて、
『|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》』
と|言《い》ひ|乍《なが》ら、
|日楯《ひたて》『モシ|月鉾《つきほこ》さま、|無言《むごん》の|行《げう》も|随分《ずゐぶん》|辛《つら》いものでしたなア。さうして|地鏡《ちきやう》の|沼《ぬま》に|出会《でつくわ》した|時《とき》の|胸《むね》の|驚《おどろ》き、ヤツと|安心《あんしん》する|間《ま》もなく、|今度《こんど》は|大怪物《だいくわいぶつ》に|出会《でつくわ》し|舌《した》に|巻《ま》かれて|腹《はら》に|葬《はうむ》られ、どうなる|事《こと》かと|心配《しんぱい》して|居《を》つたが、|何時《いつ》の|間《ま》にか、|怪物《くわいぶつ》の|影《かげ》はなく、|吾々《われわれ》|二人《ふたり》は|此《この》|渡《わた》る|可《べか》らざる|大激流《だいげきりう》を、|無事《ぶじ》に|渡《わた》つて|居《ゐ》たのは、|何《なん》と|思《おも》つても|合点《がてん》が|往《ゆ》かぬぢやないか。コリヤ、うかうかとしては|居《を》られまい。|何《なに》を|言《い》うても|常楠《つねくす》|仙人《せんにん》の|隠《かく》れます|聖場《せいぢやう》だから、|謹《つつし》んだ|上《うへ》にも|慎《つつし》んで|参《まゐ》らねば、|幾度《いくど》もあの|様《やう》な|試《こころ》みに|会《あ》はされては|堪《たま》りませぬからなア』
|月鉾《つきほこ》『|左様《さやう》です。|此《この》|球島《きうじま》へ|渡《わた》つてからと|云《い》ふものは、|実《じつ》に|不思議《ふしぎ》な|事《こと》|計《ばか》り、|神秘的《しんぴてき》な|島《しま》ですなア。それにしても|照彦王《てるひこわう》、|照子姫《てるこひめ》|様《さま》は|仙人《せんにん》に|出会《であ》ひ|摂受《せつじゆ》の|剣《けん》と|折伏《しやくふく》の|剣《けん》を|得《え》て|来《こ》いと|教書《けうしよ》に|御示《おしめ》しになつて|居《ゐ》るが、|果《はた》して|与《あた》へられるであらうか、それ|計《ばか》りが|心配《しんぱい》でなりませぬワ』
|日楯《ひたて》『|照彦王《てるひこわう》は|吾々《われわれ》に|此《この》|御用《ごよう》を|致《いた》さすべく、|前《まへ》|以《もつ》て|御夫婦《ごふうふ》がどつかの|高山《かうざん》へ|登《のぼ》られ、|非常《ひじやう》な|苦労《くらう》を|遊《あそ》ばして、|神勅《しんちよく》を|受《う》け|御帰《おかへ》りになつたのだから、|滅多《めつた》に|間違《まちが》ふ|気遣《きづか》ひはありますまい。|疑《うたがひ》は|益々《ますます》|神慮《しんりよ》を|損《そこな》ふ|所以《ゆゑん》となりませう。|兎《と》も|角《かく》|教書《けうしよ》の|儘《まま》を|固《かた》く|信《しん》じ|今後《こんご》|如何《いか》なる|艱難辛苦《かんなんしんく》に|出会《であ》うとも、|屈《くつ》せず|撓《たゆ》まず、|忍耐《にんたい》を|強《つよ》くして、|目的《もくてき》を|達《たつ》せなくては、|折角《せつかく》|遥々《はるばる》|此処《ここ》まで|参《まゐ》つた|甲斐《かひ》が|有《あ》りませぬ。|先《ま》づ|此処《ここ》で|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》|致《いた》しませう』
|月鉾《つきほこ》も|此《この》|言葉《ことば》に|打諾《うちうなづ》き、|二人《ふたり》は|川岸《かはぎし》に|端坐《たんざ》して|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》した。|不思議《ふしぎ》や|三人《さんにん》の|女《をんな》は|激流《げきりう》の|上《うへ》を|平然《へいぜん》として|此方《こなた》に|渡《わた》り|来《く》る。|両人《りやうにん》は|手《て》を|拍《う》ちて|喜《よろこ》び、|全《まつた》く|神《かみ》の|深《ふか》き|御庇護《ごひご》と|又《また》もや|感謝《かんしや》の|祝詞《のりと》を|奏上《そうじやう》する。|三人《さんにん》は|漸《やうや》くにして|激流《げきりう》を|渡《わた》り、|二人《ふたり》の|前《まへ》に|来《きた》つて|嬉《うれ》し|相《さう》に|笑《ゑみ》を|湛《たた》へ|乍《なが》ら、|二人《ふたり》を|手招《てまね》きしつつ、さしもの|急坂《きふはん》を|猿《ましら》が|梢《こずゑ》を|伝《つた》ふ|如《ごと》く|登《のぼ》り|行《ゆ》く。|見《み》る|見《み》る|間《うち》に|三女《さんぢよ》の|姿《すがた》は|山霧《やまきり》に|包《つつ》まれ|見《み》えなくなつて|了《しま》つた。|日《ひ》、|月《つき》|二人《ふたり》は|互《たがひ》に|顔《かほ》を|見合《みあは》せ、
|日楯《ひたて》『|何《なん》と|月鉾《つきほこ》さま、|神仙境《しんせんきやう》はヤツパリ|神秘的《しんぴてき》な|事《こと》が|続出《ぞくしゆつ》|致《いた》しますなア』
|月鉾《つきほこ》『|本当《ほんたう》に|不思議《ふしぎ》なこと|計《ばか》りですワ。それにしても|三人《さんにん》の|女《をんな》の、あの|足《あし》の|早《はや》さ、|人間業《にんげんわざ》とは|思《おも》はれませぬ。|大方《おほかた》|仙人《せんにん》の|霊魂《みたま》でも|憑依《ひようい》したのでせうかなア』
|日楯《ひたて》『|何《なに》は|兎《と》もあれ、|此《この》|高山《かうざん》を|一刻《いつこく》も|早《はや》く|登《のぼ》りきはめねばなりますまい。サア|急《いそ》ぎませう』
と|日楯《ひたて》は|先《さき》に|立《た》ち、|宣伝歌《せんでんか》を|歌《うた》ひ|乍《なが》ら|登《のぼ》り|行《ゆ》く。
|向陽山《こうやうざん》は|峰巒重畳《ほうらんちようでふ》たる|中《なか》に|魏然《ぎぜん》として|聳《そび》え|立《た》つて|居《ゐ》る|霊山《れいざん》である。|山頂《さんちやう》に|達《たつ》する|迄《まで》には|幾十《いくじふ》とも|知《し》れぬ|山《やま》を|越《こ》え、|谷《たに》を|渉《わた》り、|或《あるひ》は|広《ひろ》き|山中《さんちう》の|湖水《こすゐ》を|渉《わた》りなどせなくては、|到底《たうてい》|達《たつ》し|得《え》ない、|要害《えうがい》|堅固《けんご》の|絶勝《ぜつしよう》である。
|二人《ふたり》は|漸《やうや》くにして、|山中《さんちう》の|稍《やや》|広《ひろ》き|湖水《こすゐ》の|畔《ほとり》に|着《つ》いた。|俄《にはか》に|女《をんな》の|叫《さけ》び|声《ごゑ》、あたりの|森林《しんりん》に|聞《きこ》えて|来《く》る。フト|声《こゑ》する|方《はう》を|眺《なが》むれば、|幾丈《いくぢやう》とも|知《し》れぬ|大蛇《をろち》、ユリコ|姫《ひめ》の|身体《からだ》を|腰《こし》のあたり|迄《まで》|呑《の》みこみ、|鎌首《かまくび》を|立《た》てて|渦巻《うづま》いてゐる。|日楯《ひたて》、|月鉾《つきほこ》は|大《おほい》に|驚《おどろ》き、|如何《いかが》はせむと|稍《やや》|少時《しばし》、|首《くび》を|傾《かたむ》けてゐた。ユリコ|姫《ひめ》は|声《こゑ》を|限《かぎ》りに、
ユリコ|姫《ひめ》『|日楯様《ひたてさま》、どうぞ|妾《わたし》をお|助《たす》け|下《くだ》さいませ』
と|手《て》を|合《あは》して|命《いのち》|限《かぎ》りに|叫《さけ》んでゐる。|又《また》もや|女《をんな》の|泣声《なきごゑ》、フト|目《め》を|右方《うはう》に|転《てん》ずれば、|照代姫《てるよひめ》、|八千代姫《やちよひめ》の|二人《ふたり》は、これ|又《また》|二匹《にひき》の|大蛇《をろち》に|半身《はんしん》を|呑《の》まれ、|顔《かほ》の|色《いろ》|迄《まで》|青《あを》くなり、|声《こゑ》も|碌々《ろくろく》に|得立《えた》てず、|両人《りやうにん》の|方《はう》に|向《むか》つて|手《て》をあはせ、|救《すく》ひを|求《もと》めてゐる。
|日楯《ひたて》は|吾《わが》|女房《にようばう》を|救《すく》はむか、|八千代姫《やちよひめ》、|照代姫《てるよひめ》を|如何《いか》にせむ、|照代姫《てるよひめ》、|八千代姫《やちよひめ》を|救《すく》はむか、|吾《わが》|妻《つま》の|生命《いのち》を|如何《いか》にせむと|去就《きよしう》に|迷《まよ》ひつつあつた。|月鉾《つきほこ》は『ウン』と|一声《ひとこゑ》|断末魔《だんまつま》の|声《こゑ》と|共《とも》に、|其《その》|場《ば》に|打倒《うちたふ》れ|失心《しつしん》|状態《じやうたい》になつて|了《しま》つた。|日楯《ひたて》は|現在《げんざい》の|弟《おとうと》は|斯《こ》の|通《とほ》り、|妻《つま》も|亦《また》|瞬間《しゆんかん》に|迫《せま》る|生命《いのち》、|救《すく》ひたきは|山々《やまやま》なれど、|先《ま》づ|八千代姫《やちよひめ》、|照代姫《てるよひめ》を|救《すく》ふこそ|人《ひと》たる|者《もの》の|行《おこな》ふべき|道《みち》ならむと|決心《けつしん》し、あたりに|落《お》ち|散《ち》つたる|太《ふと》き|角杭《かつくひ》を|折《を》るより|早《はや》く、|八千代姫《やちよひめ》、|照代姫《てるよひめ》を|呑《の》みつつある|大蛇《をろち》に|向《むか》つて、|首筋《くびすぢ》あたりを|力《ちから》|限《かぎ》りに|打《う》ち|据《す》えた。|見《み》れば|大蛇《をろち》の|影《かげ》も、|女《をんな》の|姿《すがた》もなく、|只《ただ》|月鉾《つきほこ》のみ|足許《あしもと》に|倒《たふ》れて|居《ゐ》た。
|日楯《ひたて》『ハテ|訝《いぶか》しや』
とあたりを|見《み》れば、|白髪《はくはつ》|異様《いやう》の|老人《らうじん》、|藜《あかざ》の|杖《つゑ》をつき|乍《なが》ら、|木《き》の|茂《しげ》みを|分《わ》けてのそりのそりと|近付《ちかづ》いて|来《く》る。|日楯《ひたて》は|直《ただち》に|湖水《こすゐ》の|水《みづ》を|口《くち》に|含《ふく》み、|月鉾《つきほこ》の|面上《めんじやう》に|注《そそ》ぎかけた。|月鉾《つきほこ》は|漸《やうや》くにして|正気《しやうき》に|復《かへ》り、あたりをキヨロキヨロ|見廻《みまは》して|居《ゐ》る。|月鉾《つきほこ》の|卒倒《そつたう》したのは、ユリコ|姫《ひめ》|其《その》|他《た》|二人《ふたり》の|大蛇《をろち》に|呑《の》まれたる|姿《すがた》を|眺《なが》めて|驚《おどろ》いた|為《ため》である。
|白髪《はくはつ》|異様《いやう》の|老人《らうじん》は|二人《ふたり》に|向《むか》ひ、|微笑《びせう》を|浮《うか》べ|乍《なが》ら、|手招《てまね》きしつつ|老《おい》の|身《み》に|似《に》ず、|雲《くも》を|翔《かけ》るが|如《ごと》く、|向陽山《こうやうざん》の|頂上《ちやうじやう》|目蒐《めが》けて|足早《あしばや》に|登《のぼ》り|行《ゆ》く。|二人《ふたり》は|老人《らうじん》の|後《あと》に|従《したが》ひ、|息《いき》を|喘《はづ》ませ|乍《なが》ら、|足《あし》の|続《つづ》く|限《かぎ》り|急《いそ》ぎ|登《のぼ》り|行《ゆ》くのであつた。
|老人《らうじん》の|姿《すがた》は|早《はや》くも|向陽山《こうやうざん》を|包《つつ》む|白雲《はくうん》の|中《なか》に|消《き》えて|了《しま》つた。|二人《ふたり》は|一生懸命《いつしやうけんめい》になつて|一里《いちり》|計《ばか》り|登《のぼ》り|行《ゆ》けば、ハタと|突当《つきあた》つた|大岩石《だいがんせき》がある。よくよく|見《み》れば|此《この》|岩《いは》は|鏡《かがみ》の|如《ごと》く|日光《につくわう》に|照《て》り|輝《かがや》き、|三人《さんにん》の|女《をんな》の|姿《すがた》が|奥《おく》の|方《はう》に|歴然《れきぜん》と|映《うつ》つて|居《ゐ》る。|三女《さんぢよ》は|二人《ふたり》の|姿《すがた》を|見《み》て|早《はや》く|来《きた》れと|手招《てまね》きをして|居《ゐ》る。|其《その》|距離《きより》|殆《ほとん》ど|二百間《にひやくけん》|計《ばか》りであつた。|兄弟《きやうだい》|二人《ふたり》は|三人《さんにん》の|側《そば》に|行《い》かうとしてあせれ|共《ども》、|鏡《かがみ》の|如《ごと》く|透《す》き|通《とほ》つた|此《この》|岩《いは》も、|入口《いりぐち》は|分《わか》らず、|非常《ひじやう》に|気《き》を|揉《も》んで|居《ゐ》る。
ユリコ|姫《ひめ》|外《ほか》|二人《ふたり》は|頻《しき》りに|早《はや》く|来《きた》れ……と|差招《さしまね》く。|兄弟《きやうだい》は|心《こころ》をいらち、|進《すす》み|入《い》らむとすれ|共《ども》、|硝子《がらす》の|如《ごと》き|岩《いは》に|突当《つきあた》つて、|入口《いりぐち》がどう|藻掻《もが》いても|分《わか》らない。|此《この》|時《とき》|頭《あたま》の|上《うへ》の|方《はう》から『|天津祝詞《あまつのりと》』……と|云《い》ふ|声《こゑ》が|聞《きこ》えて|来《き》た。|二人《ふたり》はハツと|気《き》がつき、|直《ただち》に|拍手《はくしゆ》し、|天津祝詞《あまつのりと》を|声《こゑ》もすがすがしく|奏上《そうじやう》し|始《はじ》めた。
|二人《ふたり》の|身体《からだ》は|何者《なにもの》にか|吸《す》ひ|込《こ》まるる|様《やう》に、|透明《とうめい》なる|岩窟《いはや》の|中《なか》に|自然《しぜん》に|進《すす》み|入《い》つた。|忽《たちま》ち|山嶽《さんがく》も|崩《くづ》るる|計《ばか》りの|大音響《だいおんきやう》|聞《きこ》え|来《きた》ると|見《み》る|間《ま》に、|周囲《まはり》|一丈《いちぢやう》|計《ばか》りの|黒色《こくしよく》の|大蛇《をろち》、|腹《はら》の|鱗《うろこ》は|血《ち》にただれ|乍《なが》ら、|十数匹《じふすうひき》、|此《この》|岩窟《がんくつ》に|向《むか》つて|勢《いきほひ》|猛《たけ》く|進《すす》み|来《きた》り、|兄弟《きやうだい》を|呑《の》まむと、|大口《おほぐち》を|開《あ》けて|焦《あせ》れども、|入口《いりぐち》の|分《わか》らざる|為《ため》、|大蛇《をろち》は|外《そと》にて|残念《ざんねん》|相《さう》に|頭《あたま》を|並《なら》べて|二男三女《になんさんによ》の|姿《すがた》を|眺《なが》めて|居《ゐ》る。
|二男三女《になんさんによ》は|心中《しんちう》に|深《ふか》く|神徳《しんとく》を|感謝《かんしや》し|乍《なが》ら、|尚《なほ》も|奥《おく》へ|奥《おく》へと|進《すす》み|入《い》る。|際限《さいげん》もなき|岩窟《がんくつ》をもしや|蛇《へび》の|入口《いりぐち》を|探《さぐ》り、|後《うしろ》より|追《お》ひ|来《きた》らざるやと、|稍《やや》|恐《おそ》ろしさに、|知《し》らず|知《し》らずに|足《あし》は|意外《いぐわい》に|早《はや》く|運《はこ》びて、|終《つひ》に|岩窟《がんくつ》の|終点《しうてん》に|着《つ》いた。|茲《ここ》には|以前《いぜん》|現《あら》はれし|白髪《はくはつ》|異様《いやう》の|老人《らうじん》が|厳然《げんぜん》として|立現《たちあら》はれ、|一同《いちどう》に|向《むか》ひ|言葉《ことば》おごそかに、
|老人《らうじん》『われは|当山《たうざん》を|中心《ちうしん》として|琉《りう》、|球《きう》の|夫婦島《ふうふじま》を|守護《しゆご》|致《いた》す|常楠仙人《つねくすせんにん》であるぞ。|其《その》|方《はう》は|父《ちち》の|難《なん》を|救《すく》ひ|且《か》つ|国王《こくわう》を|始《はじ》め、|数多《あまた》の|人々《ひとびと》の|苦難《くなん》を|救《すく》はむ|為《ため》に|遥々《はるばる》|此処《ここ》に|来《きた》ること、|実《じつ》に|殊勝《しゆしよう》の|至《いた》りである。|汝等《なんぢら》は|之《これ》より|一刻《いつこく》も|早《はや》く|此《この》|島《しま》を|離《はな》れ、エルの|港《みなと》より|船《ふね》に|乗《の》り、|照代姫《てるよひめ》、|八千代姫《やちよひめ》と|諸共《もろとも》に、キールの|港《みなと》に|向《むか》つて|立帰《たちかへ》れよ。|又《また》|汝《なんぢ》に|与《あた》ふべき|神宝《しんぽう》は、|此《この》|岩窟《いはや》の|入口《いりぐち》にあれば、|身魂《みたま》|相応《さうおう》に|其《その》|一個《いつこ》を|所持《しよぢ》して|帰《かへ》れよ。さらば』
と|言《い》つたきり、|老人《らうじん》の|姿《すがた》は|煙《けぶり》となつて|消《き》えて|了《しま》つた。|五人《ごにん》は|爰《ここ》に|於《おい》て|又《また》もや|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》し、|元来《もとき》し|岩窟《いはや》の|入口《いりぐち》に|大蛇《をろち》は|帰《かへ》りしかと|気遣《きづか》ひ|乍《なが》ら、|漸《やうや》くにして|入口《いりぐち》を|出《い》で|見《み》れば、そこに|二《ふた》つの|玉《たま》と|三《みつ》つの|鏡《かがみ》が|置《お》いてある。これは|最前《さいぜん》|襲《おそ》ひ|来《きた》りし|大蛇《をろち》の|所持《しよぢ》して|居《ゐ》た|宝《たから》であつたが、|余《あま》り|二男三女《になんさんによ》の|姿《すがた》を|見《み》て|恋慕《れんぼ》の|念《ねん》を|起《おこ》し、|遂《つひ》に|此《この》|宝《たから》を|知《し》らず|知《し》らずに|体内《たいない》より|脱出《だつしゆつ》し|帰《かへ》つた|後《あと》であつた。
|日楯《ひたて》は|日《ひ》の|色《いろ》に|因《ちな》みたる|赤玉《あかだま》を|取《と》り、|月鉾《つきほこ》は|白《しろ》き|玉《たま》を|拾《ひろ》ひ、ユリコ|姫《ひめ》、|八千代姫《やちよひめ》、|照代姫《てるよひめ》は|光《ひか》り|輝《かがや》く|大中小《だいちうせう》|三個《さんこ》の|鏡《かがみ》を|各《おのおの》|一面《いちめん》づつ|拾《ひろ》ひ|上《あ》げ、|押戴《おしいただ》いて、|道々《みちみち》|天《あま》の|数歌《かずうた》を|歌《うた》ひ|乍《なが》ら|向陽山《こうやうざん》を|降《くだ》り|行《ゆ》く。
|漸《やうや》くにして|大谷川《おほたにがは》の|岸《きし》に|着《つ》いた。さしもの|急流《きふりう》|容易《ようい》に|渡《わた》るべくも|見《み》えなかつた。ユリコ|姫《ひめ》は|大《だい》の|鏡《かがみ》を|懐中《くわいちう》より|取出《とりいだ》し、|川《かは》の|面《おも》を|照《て》らした。|不思議《ふしぎ》や|大谷川《おほたにがは》の|水《みづ》は|板《いた》にて|堰《せ》き|止《と》めたる|如《ごと》く|横《よこ》に|分《わ》かれて、|一滴《いつてき》の|水《みづ》もなき|道路《だうろ》がついた。|二男三女《になんさんによ》は|足早《あしばや》に|川中《かはなか》を|向《むか》うへ|渡《わた》り|後《あと》ふり|返《かへ》り|見《み》れば、|大谷川《おほたにがは》は|依然《いぜん》として|激潭飛沫《げきたんひまつ》の|大急流《だいきふりう》になつてゐる。これより|一同《いちどう》は|足《あし》を|早《はや》めて、|三日三夜《みつかみよさ》の|後《のち》エルの|港《みなと》に|到着《たうちやく》し、|繋《つな》ぎおきし|船《ふね》に|身《み》を|托《たく》し、|日楯《ひたて》、|月鉾《つきほこ》|二人《ふたり》は|艪櫂《ろかい》を|操《あやつ》り、|荒《あ》れ|狂《くる》ふ|海原《うなばら》を|難《なん》なく|漕《こ》ぎ|渡《わた》り、|漸《やうや》くキールの|港《みなと》に、|夜半《よは》の|頃《ころ》|安着《あんちやく》した。
これより|二男三女《になんさんによ》は|一旦《いつたん》|玉藻山《たまもやま》の|聖地《せいち》に|帰《かへ》り、|玉《たま》、|鏡《かがみ》を|安置《あんち》して、|日夜《にちや》|祈願《きぐわん》をこらし|竜世姫命《たつよひめのみこと》の|神勅《しんちよく》の|下《くだ》るを|待《ま》つて|大活動《だいくわつどう》を|開始《かいし》せむと、|昼夜《ちうや》|祈願《きぐわん》を|凝《こ》らして|居《ゐ》た。
|二男三女《になんさんによ》は|璽鏡《じきやう》の|神宝《しんぽう》を|手《て》に|入《い》れ、|意気《いき》|揚々《やうやう》として、|天嶺《てんれい》、|泰嶺《たいれい》の|聖地《せいち》には|立寄《たちよ》らず、|中心《ちうしん》|霊場《れいぢやう》なる|玉藻山《たまもやま》の|聖地《せいち》に|立帰《たちかへ》り、|残存《ざんぞん》せる|誠実《せいじつ》なる|信徒《しんと》に|迎《むか》へられ、|璽鏡《じきやう》の|宝物《ほうぶつ》を|宮殿《きうでん》|深《ふか》く|納《をさ》め、|無事《ぶじ》|凱旋《がいせん》の|祝宴《しゆくえん》を|開《ひら》いた。
マリヤス|姫《ひめ》はテーリン|姫《ひめ》を|伴《ともな》ひ、|嬉《うれ》し|相《さう》に|此《この》|席《せき》に|列《れつ》し、|二男三女《になんさんによ》の|功績《こうせき》を|口《くち》を|極《きは》めて|賞揚《しやうやう》し、|神前《しんぜん》に|祝意《しゆくい》を|表《へう》する|為《ため》、|自《みづか》ら|歌《うた》ひ|自《みづか》ら|舞《ま》ひ|始《はじ》めた。|其《その》|歌《うた》、
マリヤス|姫《ひめ》『|天運《てんうん》|茲《ここ》にめぐり|来《き》て |枯《か》れたる|木《き》にも|花《はな》は|咲《さ》く
|尊《たふと》き|御代《みよ》となりにけり |神代《かみよ》の|昔《むかし》|国治立尊《くにはるたちのみこと》は
|豊葦原《とよあしはら》の|瑞穂国《みづほくに》 |中心地点《ちうしんちてん》と|聞《きこ》えたる
|貴《うづ》の|都《みやこ》のエルサレムに |無限絶対《むげんぜつたい》|無始無終《むしむしう》の
|森羅万象《しんらばんしやう》を|造《つく》り|玉《たま》ひし |天御中主大御神《あめのみなかぬしのおほみかみ》
|又《また》の|御名《みな》は|大国治立尊《おほくにはるたちのみこと》の |大御神勅《おほみことのり》を|受《う》けまして
|豊葦原《とよあしはら》の|瑞穂国《みづほくに》に |天津御空《あまつみそら》の|神国《かみくに》の
|神《かみ》の|祭政《まつり》を|布《し》かむとし |心《こころ》を|千々《ちぢ》に|砕《くだ》きつつ
|洽《あまね》く|天地《あめつち》|神人《しんじん》の |身魂《みたま》の|為《ため》に|尽《つく》されし
|其《その》|神業《しんげふ》も|隙《ひま》|行《ゆ》く|駒《こま》のいつしかに |曲《まが》の|猛《たけ》びに|遮《さへぎ》られ
|尊《たふと》き|御身《おんみ》を|持《も》ち|乍《なが》ら |此《この》|世《よ》を|捨《す》てて|艮《うしとら》の
|自転倒島《おのころじま》の|秀妻国《ほつまぐに》 |国武彦《くにたけひこ》と|名《な》を|変《か》へて
|下津岩根《したついはね》の|綾錦《あやにしき》 |紅葉《もみぢ》の|色《いろ》も|紅《くれなゐ》の
|明《あか》き|神代《かみよ》を|建《た》てむとて |宣《の》る|言霊《ことたま》の|【一二三】《ひふみ》つ
|【四】尾《よつを》の|山《やま》に|永久《とことは》に |【五】《い》つの|御霊《みたま》を|隠《かく》しまし
|【六七】《むな》しく|神代《かみよ》の|来《きた》るをば |待《ま》たせ|玉《たま》ふぞ|尊《たふと》けれ
|【八】千代《やちよ》の|春《はる》の|玉椿《たまつばき》 |【九】《ここの》つ|花《はな》の|咲《さ》き|出《い》でて
|【十】《たり》の|神代《かみよ》を|築《きづ》きあげ |【百千万】《ももちよろづ》の|民草《たみぐさ》に
|恵《めぐみ》の|露《つゆ》を|垂《た》れ|玉《たま》ふ |尊《たふと》き|御代《みよ》を|松《まつ》の|世《よ》の
|神《かみ》の|心《こころ》は|永久《とこしへ》に |竜世《たつよ》の|姫《ひめ》の|鎮《しづ》まりゐます
|此《この》|神島《かみじま》に|花森彦命《はなもりひこのみこと》を |天降《あまくだ》し|玉《たま》ひ|顕事《あらはごと》
|幽事《かくりごと》をば|真道彦命《まみちひこのみこと》に |依《よ》さし|玉《たま》ひし|神事《かみごと》は
|千引《ちびき》の|岩《いは》の|動《うご》きなく |常磐《ときは》の|松《まつ》の|色《いろ》|褪《あ》せず
|茲《ここ》に|現《あら》はれ|来《きた》りまし |国治立大神《くにはるたちのおほかみ》の
|計《はか》り|玉《たま》ひし|松《まつ》の|世《よ》も |今《いま》や|開《ひら》くる|世《よ》となりぬ
|真道彦命《まみちひこのみこと》は |黒白《あやめ》も|分《わ》かぬ|窟上《くつじやう》の
|牢獄《ひとや》の|中《なか》に|投《な》げ|込《こ》まれ |日夜《にちや》に|苦難《くなん》を|嘗《な》め|玉《たま》へ|共《ども》
|天《あま》の|岩戸《いはと》も|時《とき》|来《く》れば |忽《たちま》ち|開《ひら》く|世《よ》の|習《なら》ひ
|日月潭《じつげつたん》に|現《あ》れませる |日楯《ひたて》、|月鉾《つきほこ》|両人《りやうにん》が
|誠心《まことごころ》の|現《あら》はれて |御稜威《みいづ》も|茲《ここ》に|照彦王《てるひこわう》の
|神《かみ》の|教《をしへ》に|導《みちび》かれ |向陽山《こうやうざん》に|登《のぼ》りまし
|神変《しんぺん》|不思議《ふしぎ》の|神術《かむわざ》を |悟《さと》りましたる|常楠仙人《つねくすせんにん》が
|水《みづ》も|洩《も》らさぬ|計《はか》らひに |竜《たつ》の|腮《あぎと》の|玉《たま》、|鏡《かがみ》
|二男三女《になんさんによ》は|恙《つつが》なく |身魂相応《みたまさうおう》に|授《さづ》けられ
|神徳《しんとく》|光《ひか》る|日月潭《じつげつたん》の |中《なか》に|泛《うか》べる|玉藻山《たまもやま》の
|聖地《せいち》に|帰《かへ》り|来《き》ますこそ |三五教《あななひけう》の|教《をしへ》の|花《はな》の|開《ひら》け|口《ぐち》
マリヤス|姫《ひめ》も|今日《けふ》こそは |心《こころ》の|底《そこ》より|勇《いさ》み|立《た》ち
|五《いづ》の|御魂《みたま》の|神人《しんじん》が |御国《みくに》の|為《ため》に|尽《つく》してし
|誠心《まことごころ》を|褒《ほ》め|奉《まつ》り |称《たた》へ|奉《まつ》るぞ|嬉《うれ》しけれ
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ』
と|歌《うた》ひをはり|舞《ま》ひ|終《をは》つて、|元《もと》の|座《ざ》につきにけり。
(大正一一・八・九 旧六・一七 松村真澄録)
第一五章 |願望成就《ぐわんまうじやうじゆ》〔八一五〕
|日楯《ひたて》は|祝意《しゆくい》を|表《へう》する|為《ため》、マリヤス|姫《ひめ》に|傚《なら》つて|自《みづか》ら|歌《うた》ひ|且《か》つ|自《みづか》ら|舞《ま》ひ|始《はじ》めた。
『|遠《とほ》き|神代《かみよ》の|昔《むかし》より |尊《たふと》き|神《かみ》の|選《えら》みてし
|高砂島《たかさごじま》の|中心地《ちうしんち》 |雲《くも》に|聳《そび》えた|新高《にひたか》の
|山《やま》の|巽《たつみ》の|神聖地《しんせいち》 |日月潭《じつげつたん》の|湖《みづうみ》を
|控《ひか》へて|清《きよ》き|玉藻山《たまもやま》 |遠津御祖《とほつみおや》の|真道彦命《まみちひこのみこと》は
|代毎々々《よごとよごと》に|神定《しんてい》の |此処《ここ》に|鎮《しづ》まりましまして
|尊《たふと》き|神《かみ》の|御教《みをしへ》を |四方《よも》の|民草《たみぐさ》|残《のこ》りなく
|教《をし》へ|導《みちび》き|玉《たま》ひつつ |父《ちち》の|命《みこと》の|御代《みよ》になり
|醜《しこ》の|教《をしへ》のバラモン|教《けう》 |此《この》|神島《かみしま》に|渡《わた》り|来《き》て
|体主霊従《たいしゆれいじう》の|振舞《ふるまひ》を |世人《よびと》の|頭《あたま》に|浸《し》み|込《こ》ませ
|日《ひ》に|夜《よ》に|曇《くも》る|人心《ひとごころ》 |山河《やまかは》どよみ|草木《くさき》|枯《か》れ
|四方《よも》の|人々《ひとびと》|泣《な》き|叫《さけ》び |争《あらそ》ひ|絶《た》ゆる|隙《ひま》もなく
|修羅《しゆら》の|巷《ちまた》となり|果《は》てぬ |父《ちち》の|命《みこと》は|今《いま》の|世《よ》の
|有様《ありさま》|見《み》るに|忍《しの》びかね |心《こころ》を|尽《つく》し|身《み》を|尽《つく》し
|誠《まこと》の|道《みち》を|世《よ》の|人《ひと》に |朝《あさ》な|夕《ゆふ》なにこまごまと
|諭《さと》し|玉《たま》へど|如何《いか》にせむ |時《とき》の|力《ちから》は|容赦《ようしや》なく
|悪人《あくにん》|栄《さか》え|蔓《はびこ》りて |善《ぜん》はますます|凋落《てうらく》し
|神《かみ》の|威徳《ゐとく》も|完全《くわんぜん》に |現《あら》はれ|玉《たま》はず|今《いま》は|早《はや》
|御国《みくに》の|為《ため》に|尽《つく》したる |其《その》|真心《まごころ》が|仇《あだ》となり
カールス|王《わう》に|疑《うたが》はれ |往来《ゆきき》|絶《た》えたる|岩窟上《がんくつじやう》の
|暗《くら》き|牢獄《ひとや》に|呻吟《しんぎん》し |果敢《はか》なき|浮世《うきよ》を|歎《かこ》ちつつ
|暮《くら》し|玉《たま》へる|悲《かな》しさに |吾等《われら》|兄弟《きやうだい》|両人《りやうにん》は
|烏羽玉《うばたま》の|世《よ》を |旭《あさひ》の|豊栄《とよさか》|昇《のぼ》るごと
|照《てら》し|清《きよ》めて|国民《くにたみ》を |塗炭《とたん》の|苦《く》より|救《すく》ひ|出《だ》し
|父《ちち》の|命《みこと》の|寃罪《ゑんざい》を すすぎまつりて|孝養《かうやう》を
|尽《つく》さむものと|国魂神《くにたまがみ》 |竜世《たつよ》の|姫《ひめ》の|神勅《しんちよく》を
いと|厳《おごそ》かに|被《かかぶ》りて アーリス|山《ざん》を|打渡《うちわた》り
|須安《シユアン》の|山《やま》の|峰伝《みねづた》ひ ふみも|慣《なら》らはぬ|長《なが》の|旅《たび》
|千里《せんり》の|波《なみ》を|乗切《のりき》りて |弟《おとうと》|月鉾《つきほこ》、ユリコ|姫《ひめ》
|茲《ここ》に|三人《みたり》は|琉球《りうきう》の |南《みなみ》の|島《しま》に|安着《あんちやく》し
サワラの|都《みやこ》に|進《すす》み|入《い》り |三五教《あななひけう》の|神司《かむづかさ》
|国王《こきし》を|兼《か》ねたる|照彦王《てるひこわう》や |照子《てるこ》の|姫《ひめ》に|面会《めんくわい》し
|神政成就《しんせいじやうじゆ》の|神策《しんさく》を いと|細《こま》やかに|教《をし》へられ
|大谷川《おほたにがは》を|打渡《うちわた》り |向陽山《こうやうざん》の|岩窟《がんくつ》に
|進《すす》み|進《すす》みて|常楠《つねくす》の |神《かみ》の|司《つかさ》の|仙人《せんにん》に
|玉《たま》や|鏡《かがみ》を|授《さづ》けられ |二男三女《になんさんによ》の|五《い》つ|身魂《みたま》
|心《こころ》も|勇《いさ》み|身《み》も|軽《かる》く |再《ふたた》び|船《ふね》を|操《あやつ》りて
|此《この》|神島《かみしま》に|到着《たうちやく》し やうやう|此処《ここ》に|帰《かへ》りけり
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |御霊《みたま》の|幸《さち》を|蒙《かうむ》りて
|吾等《われら》|兄弟《きやうだい》|始《はじ》めとし ユリコの|姫《ひめ》や|八千代姫《やちよひめ》
|曇《くも》る|此《この》|世《よ》も|照代姫《てるよひめ》 |奇《くし》き|功績《いさを》を|現《あら》はして
|父《ちち》の|命《みこと》の|永久《とことは》に |鎮《しづ》まりゐませし|霊場《れいぢやう》に
|帰《かへ》り|来《きた》れる|嬉《うれ》しさは |何《なん》に|譬《たと》へむ|物《もの》もなし
あゝ|尊《たふと》しや|神《かみ》の|恩《おん》 |仰《あふ》ぐも|畏《かしこ》き|神《かみ》の|徳《とく》
いよいよ|吾等《われら》は|大神《おほかみ》の |大御守《おほみまも》りを|力《ちから》とし
|泰安城《たいあんじやう》に|立向《たちむか》ひ |玉《たま》と|鏡《かがみ》を|手《て》に|持《も》ちて
|言霊戦《ことたません》を|押開《おしひら》き |魔神《まがみ》を|残《のこ》らず|言向《ことむ》けて
カールス|王《わう》やヤーチン|姫《ひめ》の |珍《うづ》の|命《みこと》を|始《はじ》めとし
|恋《こひ》しき|父《ちち》の|生命《いのち》をば |救《すく》ひ|奉《まつ》らむ|時《とき》は|来《き》ぬ
|思《おも》へば|嬉《うれ》し|神《かみ》の|恩《おん》 |仰《あふ》げば|高《たか》し|神《かみ》の|徳《とく》
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ』
と|歌《うた》ひ|終《をは》つて|座《ざ》に|着《つ》いた。|月鉾《つきほこ》は|又《また》もや|立上《たちあが》り|自《みづか》ら|歌《うた》ひ|自《みづか》ら|舞《ま》ひ|始《はじ》めた。
『|時世時節《ときよじせつ》といひ|乍《なが》ら |父《ちち》は|牢獄《ひとや》に|捕《とら》へられ
|三五教《あななひけう》の|聖地《せいち》なる |玉藻《たまも》の|山《やま》に|立向《たちむか》ひ
|千代《ちよ》の|住家《すみか》と|定《さだ》めたる |数多《あまた》の|神《かみ》の|取次《とりつぎ》も
|父《ちち》の|命《みこと》の|遭難《さうなん》に |心《こころ》の|生地《きぢ》を|露《あら》はして
|神《かみ》に|反《そむ》いて|逃《に》げ|帰《かへ》り |阿諛諂佞《あゆてんねい》の|限《かぎ》りを|尽《つく》し
カールス|王《わう》に|取入《とりい》りて |自己《じこ》の|利益《りえき》や|栄達《えいたつ》を
|謀《はか》る|魔神《まがみ》と|還《かへ》りけり |月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも
|仮令《たとへ》|大地《だいち》は|沈《しづ》むとも |二《ふた》つなき|身《み》の|生命《いのち》をば
|神《かみ》の|為《ため》には|捧《ささ》げむと |口先《くちさき》|計《ばか》り|華《はな》やかに
|囀《さへづ》りゐたる|百鳥《ももどり》の |尻《しり》より|糞《ふん》を|引《ひ》つかけて
|素知《そし》らぬ|顔《かほ》の|曲業《まがわざ》に |無念《むねん》の|涙《なみだ》やるせなく
|朝《あさ》な|夕《ゆふ》なに|国魂神《くにたまがみ》の |珍《うづ》の|御前《みまへ》にひれ|伏《ふ》して
|祈《いの》る|折《を》りしも|竜世姫《たつよひめ》 いと|厳《おごそ》かに|現《あら》はれて
|吾等《われら》|二人《ふたり》に|打向《うちむか》ひ |汝《なんぢ》はこれより|琉球《りうきう》の
|南《みなみ》の|島《しま》に|打渡《うちわた》り サワラの|都《みやこ》の|照彦王《てるひこわう》に
|一日《ひとひ》も|早《はや》く|面会《めんくわい》し |至治太平《しちたいへい》の|神策《しんさく》を
|授《さづ》かり|帰《かへ》れと|詳細《こまごま》と |宣《の》らせ|玉《たま》ひし|嬉《うれ》しさに
|兄《あに》の|日楯《ひたて》やユリコ|姫《ひめ》 |暗《やみ》に|紛《まぎ》れて|聖地《せいち》をば
|密《ひそか》に|立出《たちい》で|蓑笠《みのかさ》の |軽《かる》き|扮装《いでたち》トボトボと
|山路《やまぢ》を|伝《つた》ひてアーリスの |峠《たうげ》にかかり|路端《みちばた》の
|巌《いはほ》に|腰《こし》を|打掛《うちか》けて |息《いき》を|休《やす》むる|折柄《をりから》に
|思掛《おもひが》けなきテーリン|姫《ひめ》が |蛇《へび》が|蛙《かはず》を|狙《ねら》ひし|如《ごと》く
|執念深《しふねんぶか》くも|後《あと》|追《お》ひて |大胆至極《だいたんしごく》の|一人旅《ひとりたび》
ヤツサモツサと|恨《うら》み|言《ごと》 |百万《ひやくまん》ダラリと|並《なら》べられ
|困《こま》り|切《き》つたる|最中《さいちう》に |現《あら》はれ|出《い》でしマリヤス|姫《ひめ》の
|珍《うづ》の|命《みこと》の|御計《みはか》らひ |金剛杖《こんがうづゑ》を|打《うち》ふりて
|吾《わが》|身体《しんたい》を|滅多打《めつたうち》 |木石《ぼくせき》ならぬ|月鉾《つきほこ》も
|腹《はら》は|切《しき》りに|立騒《たちさわ》ぎ |悔《くや》し|涙《なみだ》は|雨《あめ》の|如《ごと》
|降《ふ》り|来《きた》れ|共《ども》|如何《いか》にせむ |大事《だいじ》を|抱《かか》へし|今《いま》の|身《み》は
|堪忍《かんにん》するより|道《みち》なしと |諦《あきら》め|居《ゐ》たる|折柄《をりから》に
テーリン|姫《ひめ》は|忽《たちま》ちに マリヤス|姫《ひめ》の|御腕《おんうで》に
|力《ちから》|限《かぎ》りに|噛《かぶ》りつき |争《あらそ》ふ|隙《すき》を|窺《うかが》ひて
|吾等《われら》|三人《みたり》は|逸早《いちはや》く |暗《やみ》に|紛《まぎ》れて|身《み》をかくし
|山《やま》の|尾《を》|渉《わた》り|谷《たに》を|越《こ》え いろいろ|雑多《ざつた》の|苦《くるし》みを
|嘗《な》めてやうやうキル|港《みなと》 |船《ふね》を|求《もと》めて|波《なみ》の|上《うへ》
|琉球島《りうきうじま》に|安着《あんちやく》し |竜世《たつよ》の|姫《ひめ》の|命《めい》の|如《ごと》
|照彦夫婦《てるひこふうふ》や|常楠《つねくす》の |尊《たふと》き|神《かみ》にめぐり|会《あ》ひ
|五《いつ》つの|宝《たから》を|授《さづ》かりて |漸《やうや》く|茲《ここ》に|帰《かへ》り|来《き》ぬ
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |御霊《みたま》|幸《さち》はひましまして
|今日《けふ》の|生日《いくひ》の|喜《よろこ》びは |煎《い》りたる|豆《まめ》に|生花《いきばな》の
|咲《さ》き|匂《にほ》ひたる|思《おも》ひなり |天津御神《あまつみかみ》や|国津神《くにつかみ》
|国魂神《くにたまがみ》の|御恵《おんめぐみ》 |未《いま》だ|吾々《われわれ》|兄弟《きやうだい》を
|見放《みはな》し|玉《たま》はぬ|嬉《うれ》しさよ さらば|是《こ》れより|五《い》つ|身魂《みたま》
|水火《いき》を|合《あは》せて|泰安《たいあん》の |都《みやこ》に|進《すす》み|言霊《ことたま》の
|伊吹《いぶき》の|征矢《そや》を|放《はな》しつつ |群《むら》がる|魔神《まがみ》を|言向《ことむ》けて
|国治立大神《くにはるたちのおほかみ》の |仕組《しぐ》ませ|玉《たま》ひし|五六七《みろく》の|世《よ》
|堅磐常磐《かきはときは》の|松《まつ》の|世《よ》を |千代万代《ちよよろづよ》に|動《ゆる》ぎなく
|建設《けんせつ》せむは|案《あん》の|中《うち》 マリヤス|姫《ひめ》の|計《はか》らひに
テーリン|姫《ひめ》はアーリスの |山《やま》の|尾《を》の|上《へ》の|争《あらそ》ひを
|漸《やうや》く|茲《ここ》に|納得《なつとく》し |今迄《いままで》|時節《じせつ》を|待居《まちゐ》たる
|其《その》|心根《こころね》の|健気《けなげ》さよ さはさり|乍《なが》らテーリン|姫《ひめ》
|妹背《いもせ》の|契《ちぎり》を|今《いま》ここで |結《むす》び|了《を》へむは|易《やす》けれど
|泰安城《たいあんじやう》の|一戦《ひといくさ》 |無事《ぶじ》に|凱旋《がいせん》する|迄《まで》は
|暫《しばら》く|待《ま》つて|賜《たま》へかし あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|竜世《たつよ》の|姫《ひめ》の|御前《おんまへ》に |固《かた》く|御誓《おんちか》ひ|奉《たてまつ》る
|必《かなら》ず|共《とも》にテーリン|姫《ひめ》 |心《こころ》を|悩《なや》ます|事《こと》|勿《なか》れ』
と|歌《うた》ひ|了《をは》つた。テーリン|姫《ひめ》は|直《ただち》に|立上《たちあが》り、|銀扇《ぎんせん》を|拡《ひろ》げて、|自《みづか》ら|歌《うた》ひ|自《みづか》ら|舞《ま》うた。
『|男心《をとこごころ》と|秋《あき》の|空《そら》 |猫《ねこ》の|目玉《めだま》と|諸共《もろとも》に
|変《かは》り|易《やす》いと|聞《き》くからは |如何《いか》なる|固《かた》き|御言葉《おことば》も
|妾《わたし》は|心《こころ》|安《やす》からず |添《そ》はねばならぬ|身魂《みたま》なら
|今《いま》でも|将来《さき》でも|同《おな》じこと |美味《うま》い|物《もの》なら|先《さき》に|食《く》へ
|世《よ》の|諺《ことわざ》もあるものを |何《いづ》れの|人《ひと》に|気兼《きがね》して
|左様《さやう》の|事《こと》を|仰有《おつしや》るか |聞《きこ》えませぬぞえ|月鉾《つきほこ》さま
そんな|気休《きやす》め|妾《わたし》に|云《い》うて |結構《けつこう》な|玉《たま》を|手《て》に|入《い》れた
|為《ため》にお|前《まへ》の|心《こころ》が|変《かは》り |田舎《いなか》じみたるテーリン|姫《ひめ》を
|一生《いつしやう》|一代《いちだい》の|女房《にようばう》に|持《も》つよりは |泰安城《たいあんじやう》に|到《いた》りなば
|桃《もも》や|菫《すみれ》や|桜花《さくらばな》 |選《え》り|取《ど》り|見取《みど》りのよい|女房《にようばう》
|勝手気儘《かつてきまま》に|娶《めと》らむと |先《さき》を|見越《みこ》してのお|前《まへ》の|言葉《ことば》
|妾《わたし》はどしても|腑《ふ》におちぬ どうせ|添《そ》うなら|今《いま》の|内《うち》
|大事《だいじ》を|抱《かか》へたお|前《まへ》の|身《み》の|上《うへ》 |無理《むり》に|枕《まくら》を|交《かは》せとは
|妾《わたし》も|野暮《やぼ》な|女《をんな》でない|限《かぎ》り |分《わか》らぬ|事《こと》は|云《い》ひませぬ
マリヤス|姫《ひめ》の|御前《おんまへ》で |二世《にせ》も|三世《さんせ》も|夫婦《ふうふ》ぞと
キツパリ|言《い》うて|下《くだ》さんせ お|前《まへ》の|兄《あに》の|日楯《ひたて》さま
ユリコの|姫《ひめ》と|手《て》を|曳《ひ》いて |仲《なか》よう|暮《くら》して|厶《ござ》るでないか
お|前《まへ》は|妾《わし》を|邪魔者扱《じやまものあつかひ》に なさつて|一人《ひとり》|琉球《りうきう》の
|島《しま》へお|出《い》でたばつかりに |夫婦《ふうふ》の|中《なか》に|只《ただ》|一《ひと》つ
|白《しろ》い|玉《たま》よりありはせぬ お|前《まへ》の|兄《あに》の|日楯《ひたて》さま
|夫婦《ふうふ》|揃《そろ》うて|神業《しんげふ》に お|勤《つと》めなさつた|其《その》おかげ
|玉《たま》と|鏡《かがみ》の|夫婦事《ふうふごと》 これでも|分《わか》るでありませう
あの|時《とき》お|前《まへ》が|此《この》|妾《わし》を |御用《ごよう》に|伴《つ》れて|行《い》つたなら
|妾《わたし》も|結構《けつこう》な|神業《しんげふ》に |加《くは》はり|珍《うづ》の|御鏡《みかがみ》を
|貰《もら》うて|帰《かへ》つたに|違《ちが》ひない |今度《こんど》お|前《まへ》が|泰安城《たいあんじやう》へ
|言霊戦《ことたません》に|行《ゆ》くならば |日楯《ひたて》|夫婦《ふうふ》と|同《おな》じ|様《やう》に
|妾《わたし》と|結婚《けつこん》|相済《あひす》まし |夫婦《ふうふ》の|水火《いき》を|合《あは》せつつ
|神《かみ》の|御用《ごよう》に|立《た》たうでないか これ|程《ほど》|妾《わし》が|言《こと》わけて
|言《い》うても|聞《き》かぬお|前《まへ》なら ヤツパリ|今《いま》のお|言葉《ことば》は
|嘘《うそ》と|言《い》はれても|仕方《しかた》があるまい |早《はや》く|返答《へんたふ》|承《うけたま》はりませう
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |国魂神《くにたまがみ》の|竜世姫《たつよひめ》|様《さま》
|何卒々々《なにとぞなにとぞ》|今《いま》ここで |夫婦《ふうふ》の|契《ちぎり》を|結《むす》ばせ|玉《たま》へ
テーリン|姫《ひめ》が|真心《まごころ》を |捧《ささ》げて|祈《いの》り|奉《たてまつ》る
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ』
と|歌《うた》ひ|了《をは》つた。|月鉾《つきほこ》は|当惑顔《たうわくがほ》を|隠《かく》し、
『あゝテーリン|姫様《ひめさま》、あなたの|御心《おこころ》はよく|分《わか》りました。|私《わたくし》もこれから|千騎一騎《せんきいつき》の|活動《くわつどう》を|致《いた》さねばなりませぬ。|女房《にようばう》があつては、|其《その》|為《ため》|心《こころ》を|惹《ひ》かれ、|思《おも》ふ|様《やう》の|活動《くわつどう》が|出来《でき》ませぬから、どうぞ|凱旋《がいせん》の|後《のち》まで|待《ま》つて|下《くだ》さい。キツト|約束《やくそく》を|履行《りかう》|致《いた》しませう。……マリヤス|姫様《ひめさま》、さう|致《いた》しましたら、|如何《どう》で|厶《ござ》いませうかな』
マリヤス|姫《ひめ》『ヘイ……』
と|言《い》つた|限《き》り、|黙然《もくねん》として|俯《うつ》むいてゐる。
テーリン|姫《ひめ》『|女房《にようばう》があつては|気《き》を|惹《ひ》かれて|十分《じふぶん》の|働《はたら》きが|出来《でき》ぬとは、これは|又《また》|妙《めう》な|事《こと》を|仰有《おつしや》いますな。|女房《にようばう》があつて|働《はたら》きが|出来《でき》ないのなら、|世界《せかい》の|男《をとこ》は|残《のこ》らず|未結婚《みけつこん》で|居《ゐ》る|筈《はず》ぢやありませぬか。|日楯《ひたて》さまでさへも、|夫婦《ふうふ》|揃《そろ》うて|立派《りつぱ》に|御神業《ごしんげふ》を|御勤《おつと》め|遊《あそ》ばしたぢやありませぬか。|瓢箪鯰式《へうたんなまづしき》に|何《なん》とか|彼《か》んとか|云《い》つて、|一時《いちじ》|逃《のが》れに|日《ひ》を|延《の》ばし、|妾《わたし》を|姥桜《うばざくら》にして|了《しま》ふ|貴方《あなた》の|御考《おかんが》へでせう。|何《なん》と|仰有《おつしや》つても、|妾《わたし》は|貴方《あなた》の|後《あと》を|慕《した》ひ|戦場《せんぢやう》に|向《むか》ひます。|貴方《あなた》と|一緒《いつしよ》に|参《まゐ》り、チツとでも|御邪魔《おじやま》になる|様《やう》な|事《こと》がありましたら、|妾《わたし》も|女《をんな》の|端《はし》くれ、|潔《いさぎよ》う|喉《のど》を|掻《か》き|切《き》つて|死《し》んで|見《み》せませう』
|月鉾《つきほこ》『そんな|事《こと》をさせともないから、|凱旋《がいせん》の|後《のち》まで|待《ま》つて|呉《く》れと|云《い》ふのだ』
テーリン|姫《ひめ》『それ|程《ほど》|妾《わたし》をヤクザの|女《をんな》とお|見下《みさ》げ|遊《あそ》ばして|御座《ござ》るのですか。|妾《わたし》だつてユリコ|姫様《ひめさま》のなさる|事《こと》|位《くらゐ》は|立派《りつぱ》に|勤《つと》めてお|目《め》にかけます。……コレコレ、マリヤス|姫様《ひめさま》、|貴女《あなた》は、アーリス|山《ざん》で|妾《わたし》に|仰有《おつしや》つたぢや|御座《ござ》いませぬか。どうぞ|早《はや》く|結婚《けつこん》の|取持《とりもち》をして|下《くだ》さいませ。|此《この》|期《ご》に|及《およ》んで|躊躇《ちうちよ》なさるのはヤツパリ|末《すゑ》になつて|月鉾《つきほこ》さまと|情意《じやうい》|投合《とうがふ》なさるお|考《かんが》へでせう』
と|妙《めう》な|所《ところ》へ|鉾《ほこ》を|向《む》けて|駄々《だだ》を|捏《こ》ね|出《だ》した。マリヤス|姫《ひめ》は|是非《ぜひ》なく|思《おも》ひ|切《き》つた|様《やう》に、
マリヤス|姫《ひめ》『|月鉾《つきほこ》さま、|是非《ぜひ》|此《この》|場《ば》で|結婚《けつこん》の|式《しき》を|挙《あ》げて|下《くだ》さい。|万一《まんいち》お|聞《き》き|下《くだ》さらねば、|妾《わたし》はテーリン|姫様《ひめさま》の|疑惑《ぎわく》を|解《と》く|為《ため》、ここで|自刃《じじん》して|相果《あひは》てまする』
と|早《はや》くも|懐剣《くわいけん》をスラリと|引抜《ひきぬ》き|決心《けつしん》の|心《こころ》を|現《あら》はし、|唇《くちびる》をビリビリ|震《ふる》はせ、|顔色《がんしよく》|青《あを》ざめて、|唯事《ただごと》ならぬ|気配《けはい》を|示《しめ》してゐる。
|月鉾《つきほこ》『ハイ、|貴女《あなた》の|御意《ぎよい》に|従《したが》ひます。……テーリン|姫様《ひめさま》、そんなら|今日《けふ》から|天下《てんか》|晴《は》れての|夫婦仲《めをとなか》、どうぞ|末長《すゑなが》う|御世話《おせわ》を|頼《たの》みます』
テーリン|姫《ひめ》|飛《と》び|立《た》つ|許《ばか》りに|打喜《うちよろこ》び、
『マリヤス|姫様《ひめさま》、|有難《ありがた》う、……|月鉾《つきほこ》さま、お|前《まへ》は|立派《りつぱ》な|男《をとこ》、|流石《さすが》は|真道彦《まみちひこ》|様《さま》の|御胤《おんたね》、|私《わたし》の|観察《くわんさつ》は|違《ちが》はなかつた』
と|狂気《きやうき》の|如《ごと》く|喜《よろこ》び、|直《ただち》に|神前《しんぜん》に|駆上《かけあが》つて、|感謝《かんしや》の|祝詞《のりと》を|奏上《そうじやう》するのであつた。
マリヤス|姫《ひめ》の|媒酌《ばいしやく》にて|芽出度《めでた》く、|月鉾《つきほこ》、テーリン|姫《ひめ》の|結婚《けつこん》は|行《おこな》はれた。これより、マリヤス|姫《ひめ》を|首領《しゆりやう》とし、|日《ひ》、|月《つき》|夫婦《ふうふ》を|始《はじ》め、|八千代姫《やちよひめ》、|照代姫《てるよひめ》の|二男五女《になんごぢよ》は、|愈《いよいよ》|準備《じゆんび》を|整《ととの》へ、|泰安城《たいあんじやう》へカールス|王《わう》、ヤーチン|姫《ひめ》、|真道彦命《まみちひこのみこと》|其《その》|他《た》を|救《すく》ふべく|出陣《しゆつぢん》する|事《こと》となつた。
(大正一一・八・九 旧六・一七 松村真澄録)
第一六章 |盲亀《まうき》の|浮木《ふぼく》〔八一六〕
|一旦《いつたん》|三五教《あななひけう》の|真道彦《まみちひこ》の|神軍《しんぐん》の|為《ため》に|潰走《くわいそう》し、|各地《かくち》に|潜伏《せんぷく》して、|捲土重来《けんどぢうらい》の|時機《じき》を|伺《うかが》ひゐたるシヤーカルタン、トロレンス、セールス|姫《ひめ》、サアルボース、ホーロケース、セウルスチン、タールス、ツーレンス、ナンダールス、ビヤセールの|一派《いつぱ》は|三角同盟軍《さんかくどうめいぐん》を|作《つく》つて|泰安城《たいあんじやう》に|夜陰《やいん》に|乗《じやう》じ、|鬨《とき》を|作《つく》つて|攻《せ》めかけ、|石火矢《いしびや》を|放《はな》ち、さしも|堅固《けんご》なる|金城鉄壁《きんじやうてつぺき》も、|一夜《ひとよ》さの|内《うち》に|脆《もろ》くも|陥《おちい》り、カールス|王《わう》を|始《はじ》めテールスタン、ホールサース、ホーレンス、ユートピヤール、ツーレンス、シーリンス、エール、ハーレヤール、オーイツク、ヒユーズ、アンデーヤール、ニユージエール、ハール、カントン、マルチル、ウラール、キングス、トーマス、マーシヤール、ヤールス|姫《ひめ》、カーネール|姫《ひめ》の|大将株《たいしやうかぶ》を|始《はじ》め|悉《ことごと》く|捕虜《ほりよ》となり、|淡渓《たんけい》の|上流《じやうりう》なるカールス|王《わう》が|一旦《いつたん》|陣取《ぢんどり》ゐたる|岩窟城《がんくつじやう》の|暗《くら》き|牢獄《らうごく》に|残《のこ》らず|繋《つな》がれ、|日夜《にちや》の|苛酷《かこく》なる|責苦《せめく》に|苦《くるし》めらるることとなつて|了《しま》つた。
|一旦《いつたん》|取返《とりかへ》されたる|泰安城《たいあんじやう》は、セールス|姫《ひめ》を|女王《ぢよわう》と|仰《あふ》ぎ、シヤーカルタン、トロレンスは|左守《さもり》、|右守《うもり》の|神《かみ》となり、サアルボース、ホーロケース、セウルスチンは|各重要《かくぢうえう》の|職《しよく》に|就《つ》き、|再《ふたた》び|新高山《にひたかやま》|以北《いほく》の|地《ち》の|政権《せいけん》を|掌握《しやうあく》し、|勢《いきほひ》に|乗《じやう》じて|三五教《あななひけう》の|聖地《せいち》|日月潭《じつげつたん》を|始《はじ》め、|国魂神《くにたまがみ》の|祭《まつ》りたる|宮殿《きうでん》を|占領《せんりやう》し、バラモン|教《けう》の|勢力《せいりよく》を|樹立《じゆりつ》せむと、セウルスチンを|将《しやう》となし、サアルボース、ホーロケースは|副将《ふくしやう》となり、|数万《すうまん》の|軍卒《ぐんそつ》を|率《ひき》ゐ、アーリス|山《ざん》を、|旗鼓堂々《きこだうだう》として|乗越《のりこ》え、|今《いま》や|玉藻《たまも》の|湖水《こすい》の|間近《まぢか》くまで|押寄《おしよ》せて|来《き》た。
|茲《ここ》に|玉藻山《たまもやま》の|聖地《せいち》よりは、マリヤス|姫《ひめ》を|神軍《しんぐん》の|将《しやう》となし、|日楯《ひたて》、|月鉾《つきほこ》、ユリコ|姫《ひめ》、テーリン|姫《ひめ》、|照代姫《てるよひめ》、|八千代姫《やちよひめ》は|僅《わづか》の|従者《じゆうしや》と|共《とも》に、|此《この》|大軍《たいぐん》に|向《むか》つて、|言霊戦《ことたません》を|開始《かいし》すべく|立向《たちむか》うた。|敵《てき》の|先鋒隊《せんぽうたい》と|三五軍《あななひぐん》の|一隊《いつたい》とは|玉藻湖《たまもこ》の|畔《ほとり》で|出会《でつくわ》し、セウルスチンの|率《ひき》ゆる|数多《あまた》の|軍卒《ぐんそつ》は、|少数《せうすう》の|敵《てき》と|侮《あなど》りて、マリヤス|姫《ひめ》の|小部隊《せうぶたい》に|向《むか》つて、|竹槍《たけやり》の|穂先《ほさき》を|揃《そろ》へ、|獅子奮迅《ししふんじん》の|勢《いきほひ》にて|吶喊《とつかん》し|来《きた》る|物凄《ものすご》さ。マリヤス|姫《ひめ》は|直《ただち》にユリコ|姫《ひめ》に|命《めい》を|降《くだ》し、|大蛇《をろち》の|鏡《かがみ》を|取出《とりだ》さしめ、|寄《よ》せ|来《く》る|猛卒《まうそつ》に|向《むか》つて|射照《いて》らさしめた。ユリコ|姫《ひめ》の|取出《とりだ》したる|鏡《かがみ》は|忽《たちま》ち|強度《きやうど》の|光輝《くわうき》を|発《はつ》し、|敵軍《てきぐん》は|一人《ひとり》も|残《のこ》らず、|眼《まなこ》|眩《くら》み、|心《こころ》|戦《おのの》き、|脆《もろ》くも|一戦《いつせん》をも|交《まじ》へずして、|其《その》|場《ば》に|将棋倒《しやうぎだふ》しとなつて|倒《たふ》れて|了《しま》つた。
セウルスチンは|鏡《かがみ》の|威徳《ゐとく》に|眼《まなこ》|眩《くら》み、|生命《いのち》カラガラ|部下《ぶか》に|助《たす》けられ、|何処《どこ》ともなく|遁走《とんそう》して|了《しま》つた。|大将《たいしやう》セウルスチンの|此《この》|見苦《みぐる》しき|戦敗《せんぱい》を|見《み》て、|左右《さいう》の|副将《ふくしやう》サアルボース、ホーロケースは|軍容《ぐんよう》を|紊《みだ》し、|吾《わ》れ|先《さき》にと|泰安城《たいあんじやう》|指《さ》して、|一目散《いちもくさん》に|退却《たいきやく》して|了《しま》つた。
|先鋒隊《せんぽうたい》として|此処《ここ》に|進《すす》みたる|猛卒《まうそつ》は、|殆《ほとん》ど|五六千人《ごろくせんにん》に|及《およ》んで|居《ゐ》た。|一人《ひとり》も|残《のこ》らず|目《め》を|失《うしな》ひ、|処狭《ところせ》き|迄《まで》に|打倒《うちたふ》れて|呻吟《しんぎん》しつつ、|手探《てさぐ》り、|足探《あしさぐ》りに|逃《に》げ|行《ゆ》かむとしては、|谷《たに》に|顛落《てんらく》し、|互《たがひ》に|衝突《しようとつ》して|混乱《こんらん》を|極《きは》め、|其《その》|惨状《さんじやう》|目《め》も|当《あて》られぬ|計《ばか》りであつた。マリヤス|姫《ひめ》は|直《ただ》ちに|言霊《ことたま》を|以《もつ》て|彼等《かれら》を|帰順《きじゆん》せしめむと、|声《こゑ》も|涼《すず》しく|宣伝歌《せんでんか》を|歌《うた》ひ|出《だ》したり。
『|神《かみ》が|表《おもて》に|現《あら》はれて |善《ぜん》と|悪《あく》とを|立分《たてわ》ける
|此《この》|世《よ》を|造《つく》りし|神直日《かむなほひ》 |心《こころ》も|広《ひろ》き|大直日《おほなほひ》
|只《ただ》|何事《なにごと》も|人《ひと》の|世《よ》は |直日《なほひ》に|見直《みなほ》せ|聞直《ききなほ》せ
|身《み》の|過《あやま》ちは|宣《の》り|直《なほ》せ |朝日《あさひ》は|照《て》る|共《とも》|曇《くも》る|共《とも》
|月《つき》は|盈《み》つ|共《とも》|虧《か》くる|共《とも》 |仮令《たとへ》|大地《だいち》は|沈《しづ》む|共《とも》
セールス|姫《ひめ》の|軍勢《ぐんぜい》は |如何《いか》に|勢《いきほひ》|猛《たけ》く|共《とも》
|仮令《たとへ》|幾万《いくまん》|攻《せ》め|来《く》|共《とも》 |誠《まこと》の|神《かみ》の|御教《みをしへ》を
|守《まも》りて|立《た》てる|三五《あななひ》の |神《かみ》の|軍《いくさ》は|悉《ことごと》く
|寄《よ》せ|来《く》る|敵《てき》を|打払《うちはら》ふ |心《こころ》の|眼《まなこ》を|失《うしな》ひし
セウルスチンを|始《はじ》めとし セールス|姫《ひめ》の|率《ひき》ゐたる
|百《もも》の|軍《いくさ》は|悉《ことごと》く |心《こころ》の|眼《まなこ》のみならず
|肉《にく》の|眼《まなこ》を|失《うしな》ひて |玉藻《たまも》の|湖畔《こはん》に|呻吟《しんぎん》し
のた|打《うち》まはる|憐《あは》れさよ |誠《まこと》の|神《かみ》は|世《よ》を|救《すく》ふ
|吾《われ》はマリヤス|姫《ひめ》の|神《かみ》 セウルスチンの|軍人《いくさびと》
|吾《わが》|言霊《ことたま》を|聞《き》き|分《わ》けて |誠《まこと》|一《ひと》つの|三五《あななひ》の
|神《かみ》の|教《をしへ》に|立返《たちかへ》れ |正義《せいぎ》に|刃向《はむか》ふ|刃《やいば》なし
|神《かみ》は|吾等《われら》と|倶《とも》に|有《あ》り |汝《なんぢ》の|身《み》にも|神《かみ》ゐます
|一時《いちじ》も|早《はや》く|真心《まごころ》に なりて|前非《ぜんぴ》を|大神《おほかみ》の
|御前《みまへ》に|悔《く》いよ|諸人《もろびと》よ |人《ひと》は|素《もと》より|神《かみ》の|御子《みこ》
|神《かみ》に|受《う》けたる|其《その》|身魂《みたま》 |研《みが》けば|元《もと》に|復《かへ》るなり
あが|言霊《ことたま》の|曲耳《まがみみ》に |通《かよ》ひし|者《もの》は|逸早《いちはや》く
|三五教《あななひけう》の|大神《おほかみ》の |尊《たふと》き|御名《みな》を|謹《つつし》みて
|褒《ほ》めよ|称《たた》へよ|神《かみ》の|御子《みこ》 |神《かみ》の|誠《まこと》に|通《かよ》ひなば
|汝《なんぢ》の|眼《まなこ》|忽《たちま》ちに |月日《つきひ》の|如《ごと》く|明《あき》らけく
|万《よろづ》の|物《もの》を|眺《なが》め|得《え》む あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ』
と|歌《うた》ひ|終《をは》るや、|数千《すうせん》の|目《め》を|失《うしな》ひたる|軍卒《ぐんそつ》は|叶《かな》はぬ|時《とき》の|神頼《かみだの》み………と|云《い》ふ|様《やう》な|按配式《あんばいしき》で、|一生懸命《いつしやうけんめい》に|両手《りやうて》を|合《あは》せ、|声《こゑ》を|揃《そろ》へて、
『|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》』
と|幾回《いくくわい》となく、|繰返《くりかへ》し|繰返《くりかへ》し|奏上《そうじやう》した。|其《その》|声《こゑ》は|四辺《あたり》の|山岳《さんがく》も|動揺《どうえう》するかと|計《ばか》り|思《おも》はれた。|暫《しばら》くにして|目《め》を|失《うしな》ひたる|敵《てき》の|将卒《しやうそつ》は、|残《のこ》らず|目《め》を|開《ひら》き、マリヤス|姫《ひめ》|其《その》|他《た》の|神軍《しんぐん》に|向《むか》つて|跪《ひざま》づき、|感謝《かんしや》の|涙《なみだ》を|滝《たき》の|如《ごと》く|流《なが》し|乍《なが》ら|帰順《きじゆん》の|意《い》を|表《へう》し|遂《つひ》には|三五軍《あななひぐん》に|従《したが》ひ、|泰安城《たいあんじやう》の|言霊戦《ことたません》に|従軍《じゆうぐん》する|事《こと》となつた。
マリヤス|姫《ひめ》、|日楯《ひたて》、|月鉾《つきほこ》は、|偉大《ゐだい》なる|言霊《ことたま》の|力《ちから》を|今更《いまさら》の|如《ごと》く|喜《よろこ》び|且《か》つ|驚《おどろ》き|乍《なが》ら、|俄《にはか》に|数千人《すうせんにん》の|味方《みかた》を|得《え》て、|十曜《とえう》の|神旗《しんき》を|秋風《あきかぜ》に|翻《ひるがへ》し、|旗鼓堂々《きこだうだう》として|泰安城《たいあんじやう》に|立向《たちむか》ふ|事《こと》となつた。
|二男五女《になんごによ》の|神将《しんしやう》を|先頭《せんとう》に、|数千《すうせん》の|帰順者《きじゆんしや》を|引《ひ》き|連《つ》れ、|泰安城《たいあんじやう》の|間近《まぢか》く|押寄《おしよ》するや、サアルボース、ホーロケースは|複横陣《ふくわうぢん》を|張《は》つて、|防戦《ばうせん》に|努《つと》めた。|此《この》|時《とき》|八千代姫《やちよひめ》は|右翼《うよく》のサアルボースの|軍《ぐん》に|向《むか》つて、|大蛇《をろち》の|鏡《かがみ》を|射照《いて》らし、|照代姫《てるよひめ》はホーロケースの|左翼軍《さよくぐん》に|向《むか》つて、|同《おな》じく|大蛇《をろち》の|鏡《かがみ》を|差向《さしむ》け|射照《いて》らせば、|又《また》もや|一人《ひとり》も|残《のこ》らず|盲目《まうもく》となり、ホーロケース、サアルボース|迄《まで》も、|眼《まなこ》くらみて|其《その》|場《ば》に|平伏《へいふく》し、|独《ひと》りも|残《のこ》らず|帰順《きじゆん》を|表《へう》した。
されどマリヤス|姫《ひめ》は|両軍《りやうぐん》の|平伏《へいふく》する|間《あひだ》を|目《め》も|呉《く》れず、|直《ただち》に|表門《おもてもん》に|向《むか》ひ、|城中《じやうちう》に|日楯《ひたて》、|月鉾《つきほこ》を|従《したが》へ、|深《ふか》く|進《すす》み|入《い》り、セールス|姫《ひめ》|其《その》|他《た》の|侍臣《じしん》|等《ら》に|向《むか》つて、|赤《あか》、|白《しろ》の|宝玉《ほうぎよく》を|差出《さしだ》し、|之《こ》れを|射照《いて》らせば、セールス|姫《ひめ》は|忽《たちま》ち|金毛九尾《きんまうきうび》の|悪狐《あくこ》と|還元《くわんげん》し、|其《その》|他《た》の|侍臣《じしん》|等《ら》は|残《のこ》らず、|悪鬼《あくき》、|悪狐《あくこ》となつて、|雲《くも》を|起《おこ》し、|何処《いづこ》ともなく、|中空《ちうくう》に|煙《けぶり》の|如《ごと》く|消《き》えて|了《しま》つた。
これよりマリヤス|姫《ひめ》は|城内《じやうない》に|止《とど》まり、|照代姫《てるよひめ》、|八千代姫《やちよひめ》、ユリコ|姫《ひめ》、テーリン|姫《ひめ》と|共《とも》に|玉藻《たまも》の|湖畔《こはん》にて|帰順《きじゆん》したる|兵士《つはもの》と|共《とも》に、|警固《けいご》の|任《にん》に|当《あた》り、|日楯《ひたて》、|月鉾《つきほこ》をして|淡渓《たんけい》の|上流《じやうりう》なる|岩窟《がんくつ》の|牢獄《らうごく》に|遣《つか》はし、カールス|王《わう》を|始《はじ》め、ヤーチン|姫《ひめ》、|真道彦命《まみちひこのみこと》を|救《すく》ふべく|出張《しゆつちやう》を|命《めい》じた。
|日《ひ》、|月《つき》の|兄弟《きやうだい》は|帰順《きじゆん》せし|兵士《つはもの》を|四五百人《しごひやくにん》|計《ばか》り|引率《ひきつ》れ、|岩窟《がんくつ》の|牢獄《ろうごく》|指《さ》して|進《すす》み|入《い》り、|数十《すうじふ》の|番卒《ばんそつ》を|片《かた》つ|端《ぱし》より|玉《たま》の|威徳《ゐとく》に|帰順《きじゆん》せしめ、|自《みづか》ら|牢獄内《らうごくない》に|入《い》りて、|先《ま》づ|第一《だいいち》にカールス|王《わう》を|救《すく》ひ|出《い》だした。カールス|王《わう》は|髭《ひげ》|蓬々《ぼうぼう》と|長《なが》く|延《の》び、|色《いろ》|青《あを》ざめ、|身体骨立《しんたいこつりつ》して、|恰《あたか》も|死人《しにん》の|如《ごと》く、|見《み》るも|憐《あは》れな|姿《すがた》となつてゐた。|日楯《ひたて》、|月鉾《つきほこ》は|此《この》|態《てい》を|見《み》て、|同情《どうじやう》の|念《ねん》に|堪《た》へ|難《がた》く、|吾《わが》|父《ちち》を|先《さき》に|幽閉《いうへい》したる|憎《にく》きカールス|王《わう》として、|今迄《いままで》|怨《うら》み|居《ゐ》たりし|心《こころ》もどこへやら|消《き》え|失《う》せ、|只《ただ》|同情《どうじやう》の|涙《なみだ》にくるるのみであつた。
カールス|王《わう》は|真道彦命《まみちひこのみこと》の|二人《ふたり》の|子《こ》に|救《すく》はれ、|一層《ひとしほ》|其《その》|慈愛《じあい》|深《ふか》き|兄弟《きやうだい》の|心《こころ》に|感《かん》じ、|固《かた》く|二人《ふたり》の|手《て》を|握《にぎ》つて|涕泣《ていきふ》|感謝《かんしや》に|時《とき》を|遷《うつ》した。カールス|王《わう》は|漸《やうや》くにして、|潔《いさぎよ》く|口《くち》を|開《ひら》き、
カールス『|汝《なんぢ》は|日楯《ひたて》、|月鉾《つきほこ》の|両人《りやうにん》に|非《あら》ざるか。|汝《なんぢ》が|父《ちち》の|真道彦命《まみちひこのみこと》は|壮健《さうけん》なりや』
と|問《と》ひかけた。|二人《ふたり》は|口《くち》を|揃《そろ》へて、
|両人《りやうにん》『ハイ、|吾《わが》|父《ちち》はあなたに|幽閉《いうへい》されてより、|未《いま》だ|此《この》|牢獄《らうごく》に|呻吟《しんぎん》|致《いた》し|居《を》る|様子《やうす》で|御座《ござ》います』
カールス『|早《はや》く|汝《なんぢ》の|父《ちち》を|救《すく》ひ|出《だ》せよ』
|二人《ふたり》は|此《この》|言葉《ことば》に|此《この》|場《ば》を|離《はな》れ、|彼方《あなた》|此方《こなた》と|牢屋《らうや》の|外《そと》を|巡《めぐ》り|乍《なが》ら、
|両人《りやうにん》『|日楯《ひたて》、|月鉾《つきほこ》の|兄弟《きやうだい》、|父《ちち》の|真道彦命《まみちひこのみこと》を|救《すく》はむ|為《ため》に|参《まゐ》り|候《さふらふ》。|願《ねが》はくは|在処《ありか》を|知《し》らせ|玉《たま》へ……』
と|呼《よ》ばはつた。|此《この》|声《こゑ》にヤーチン|姫《ひめ》は|間近《まぢか》の|獄室《ごくしつ》より、|細《ほそ》き|手《て》をさし|出《いだ》し|乍《なが》ら、
ヤーチン|姫《ひめ》『ヤアそなたは|日《ひ》、|月《つき》の|兄弟《きやうだい》、|能《よ》くマア|救《すく》ひに|来《き》て|下《くだ》さつた。|真道彦命《まみちひこのみこと》|様《さま》は|此《この》|隣室《りんしつ》におゐで|遊《あそ》ばします。どうぞ|早《はや》く|救《すく》ひ|出《だ》して|上《あ》げて|下《くだ》さい』
|二人《ふたり》は|父《ちち》の|在処《ありか》の|分《わか》りたると、ヤーチン|姫《ひめ》の|声《こゑ》とを|聞《き》きて、|且《かつ》|喜《よろこ》び|且《かつ》|驚《おどろ》き|乍《なが》ら、|直《ただち》に|牢獄《らうごく》の|錠《ぢやう》を|捩切《ねぢき》り、ヤーチン|姫《ひめ》を|救《すく》ひ|出《だ》し、|次《つぎ》に|父《ちち》の|牢獄《らうごく》の|戸《と》をねぢ|開《あ》け、|進《すす》み|入《い》つて|見《み》れば、|悲《かな》しや、|真道彦命《まみちひこのみこと》は|痩衰《やせおとろ》へ、|呼吸《こきふ》さへも|碌《ろく》に|通《かよ》つて|居《ゐ》ない|様《やう》な|瀕死《ひんし》の|状態《じやうたい》に|陥《おちい》つてゐた。|二人《ふたり》は|父《ちち》の|手足《てあし》に|取《と》り|付《つ》き、あたりを|憚《はばか》らず、|嬉《うれ》しさと|悲《かな》しさに|号泣《がうきふ》するのであつた。|此《この》|声《こゑ》|幽《かす》かに|真道彦命《まみちひこのみこと》の|耳《みみ》に|通《つう》じけむ、やつれ|果《は》てたる|身《み》を|起《おこ》して、|力《ちから》なげに|目《め》を|見開《みひら》き、
|真道彦《まみちひこ》『アヽそなたは|日楯《ひたて》、|月鉾《つきほこ》の|両人《りやうにん》、|能《よ》くマアどうして|此処《ここ》へ|来《こ》られたか。……アヽやつぱり、|夢《ゆめ》ではあるまいか』
と|不思議《ふしぎ》|相《さう》に|兄弟《きやうだい》の|顔《かほ》を|見《み》つめてゐる。|兄弟《きやうだい》は、
|両人《りやうにん》『|父上様《ちちうへさま》、|決《けつ》して|夢《ゆめ》でも|現《うつつ》でも|御座《ござ》いませぬ。……|実《じつ》は|斯様《かやう》|々々《かやう》の|訳《わけ》……』
と|有《あ》りし|次第《しだい》を、こまごまと|物語《ものがた》つた。|真道彦《まみちひこ》はこれを|聞《き》いて、|俄《にはか》に|元気《げんき》づき、|旱天《かんてん》の|草木《さうもく》が|雨《あめ》に|会《あ》ひたる|如《ごと》く、|顔《かほ》の|色《いろ》さへ|俄《にはか》に|冴《さ》えて|来《き》た。それよりカールス|王《わう》、ヤーチン|姫《ひめ》、|真道彦命《まみちひこのみこと》は|日楯《ひたて》|保護《ほご》の|下《もと》に、|泰安城《たいあんじやう》に|一先《ひとま》づ|入城《にふじやう》する|事《こと》となり、|数百《すうひやく》の|軍卒《ぐんそつ》に|送《おく》られて、|此《この》|牢獄《らうごく》を|立去《たちさ》つた。
|月鉾《つきほこ》はテールスタン、ホーレンスを|始《はじ》め、|其《その》|他《た》のカースル|王《わう》に|仕《つか》へ|居《ゐ》たる|重臣《ぢうしん》|共《ども》を、|悉《ことごと》く|牢獄《らうごく》より|救《すく》ひ|出《いだ》し、|泰安城《たいあんじやう》|指《さ》して|帰《かへ》り|行《ゆ》く。
|日楯《ひたて》はカールス|王《わう》、ヤーチン|姫《ひめ》、|真道彦命《まみちひこのみこと》を|守《まも》つて、|漸《やうや》く|泰安城《たいあんじやう》の|馬場《ばば》|近《ちか》くになつた。ホーロケース、サアルボースの|軍勢《ぐんぜい》は|大蛇《をろち》の|鏡《かがみ》に|照《て》らされて|目《め》を|失《うしな》つたまま、|四《よ》つ|這《ば》ひとなつて、|蟻《あり》のたかつた|様《やう》に|馬場《ばんば》を|這《は》ひ|廻《まは》つてゐる。カールス|王《わう》は|此《この》|態《てい》を|見《み》て、|不審《ふしん》に|堪《た》へず、
カールス『|彼《かれ》は|何者《なにもの》なりや』
と|日楯《ひたて》に|尋《たづ》ねた。|日楯《ひたて》は|直《ただ》ちに、
『ハイ、|彼《かれ》はセールス|姫《ひめ》の|家来《けらい》にして、ホーロケース、サアルボースの|部下《ぶか》の|軍卒《ぐんそつ》で|御座《ござ》います。|向陽山《こうやうざん》の|大蛇《をろち》の|鏡《かがみ》の|威徳《ゐとく》に|照《て》らされて|盲目《めくら》となり、|進退《しんたい》|谷《きは》まつて、あの|通《とほ》り|盲目《めくら》の|儘《まま》、|暗路《やみぢ》に|迷《まよ》うてゐる|亡者《まうじや》|共《ども》で|御座《ござ》います。|吾々《われわれ》は|向陽山《こうやうざん》の|常楠仙人《つねくすせんにん》より|賜《たま》はりたる|赤色《せきしよく》の|玉《たま》を|以《もつ》て、|折伏《しやくふく》の|剣《つるぎ》に|応用《おうよう》し、|弟《おとうと》|月鉾《つきほこ》は|白色《はくしよく》の|玉《たま》を|以《もつ》て|摂受《せつじゆ》の|剣《つるぎ》に|応用《おうよう》し、|数万《すうまん》の|敵《てき》を|彼《あ》の|如《ごと》く、|一人《ひとり》も|残《のこ》さず、|神《かみ》の|威徳《ゐとく》に|降服《かうふく》させ、セールス|姫《ひめ》は|金毛九尾《きんまうきうび》の|悪狐《あくこ》と|正体《しやうたい》を|露《あら》はし、|空中《くうちう》|高《たか》く|姿《すがた》を|消《け》しました。|実《じつ》に|稀代《きたい》の|神宝《しんぽう》で|御座《ござ》います。|此《この》|神宝《しんぽう》さへあらば、カールス|王《わう》が|泰安城《たいあんじやう》にあつて、|世《よ》を|治《をさ》め|玉《たま》ふは|実《じつ》に|易々《いい》たる|事業《じげふ》で|御座《ござ》います』
と|玉《たま》、|鏡《かがみ》の|効用《かうよう》を|略《ほぼ》|物語《ものがた》つた。|王《わう》を|始《はじ》めヤーチン|姫《ひめ》、|真道彦命《まみちひこのみこと》は|首《くび》を|傾《かたむ》け、|此《この》|話《はなし》を|感《かん》に|打《う》たれて|聞《き》いて|居《ゐ》る。
|茲《ここ》に|日楯《ひたて》は|数万《すうまん》の|盲軍《まうぐん》に|向《むか》つて|言霊歌《ことたまうた》を|宣《の》り|与《あた》へた。|其《その》|歌《うた》、
『|神《かみ》が|表《おもて》に|現《あら》はれて |善《ぜん》と|悪《あく》とを|立別《たてわけ》る
|此《この》|世《よ》を|造《つく》りし|神直日《かむなほひ》 |心《こころ》も|広《ひろ》き|大直日《おほなほひ》
|只《ただ》|何事《なにごと》も|人《ひと》の|世《よ》は |直日《なほひ》に|見直《みなほ》せ|聞直《ききなほ》せ
|身《み》の|過《あやま》ちは|宣《の》り|直《なほ》せ |朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも
|月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも |仮令《たとへ》|大地《だいち》は|沈《しづ》むとも
|誠《まこと》|一《ひと》つの|言霊《ことたま》の |珍《うづ》の|力《ちから》は|世《よ》を|救《すく》ふ
|神《かみ》は|吾等《われら》と|倶《とも》にあり |人《ひと》は|神《かみ》の|子《こ》|神《かみ》の|宮《みや》
|神《かみ》の|心《こころ》に|叶《かな》ひなば |仮令《たとへ》|数万《すうまん》の|曲津神《まがつかみ》
|鬨《とき》を|作《つく》つて|一散《いつさん》に |勢《いきほひ》|猛《たけ》く|攻《せ》め|来《く》とも
いかで|恐《おそ》れむ|敷島《しきしま》の |神《かみ》の|恵《めぐみ》は|忽《たちま》ちに
|吾《わが》|身《み》の|上《うへ》に|降《くだ》りまし |直《ただち》に|開《ひら》く|胸《むね》の|暗《やみ》
|玉《たま》や|鏡《かがみ》は|非《あら》ずとも |心《こころ》の|玉《たま》を|研《みが》きあげ
|神《かみ》の|賜《たま》ひし|胸中《きようちう》の |真澄《ますみ》の|鏡《かがみ》を|照《て》らしなば
|今《いま》|見《み》る|如《ごと》く|曲神《まがかみ》は |一人《ひとり》も|残《のこ》らず|神力《しんりき》に
|恐《おそ》れて|大地《だいち》に|平伏《へいふく》し |神《かみ》の|御前《みまへ》に|帰順《きじゆん》して
|産《うぶ》の|心《こころ》に|立帰《たちかへ》り |心《こころ》の|盲《めくら》も|忽《たちま》ちに
|開《ひら》けて|肉《にく》の|眼《まなこ》さへ |月日《つきひ》の|如《ごと》く|照《て》り|渡《わた》る
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |神《かみ》の|御稜威《みいづ》を|目《ま》のあたり
カールス|王《わう》やヤーチン|姫《ひめ》の |珍《うづ》の|命《みこと》の|御前《おんまへ》に
|只今《ただいま》|明《あ》かし|奉《たてまつ》る あゝ|諸人《もろびと》よ|諸人《もろびと》よ
|汝《なれ》が|心《こころ》に|潜《ひそ》みたる |醜《しこ》の|曲霊《まがひ》を|追《お》ひ|出《いだ》し
|神《かみ》より|受《う》けし|真心《まごころ》の |直日《なほひ》の|霊《たま》に|立返《たちかへ》り
|国治立大神《くにはるたちのおほかみ》の |守《まも》り|玉《たま》ひし|三五《あななひ》の
|誠《まこと》の|道《みち》に|従《まつろ》ひて |怪《あや》しき|心《こころ》を|立《た》て|直《なほ》せ
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 あが|言霊《ことたま》の|一息《ひといき》に
|咫尺《しせき》も|弁《べん》ぜぬ|盲目《まうもく》の |悩《なや》みは|忽《たちま》ち|晴《は》れ|渡《わた》り
|真如《しんによ》の|月《つき》は|汝等《なんぢら》が |心《こころ》の|海《うみ》に|輝《かがや》かむ
|朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも |月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも
|仮令《たとへ》|大地《だいち》は|沈《しづ》むとも |神《かみ》の|御前《みまへ》に|二心《ふたごころ》
|必《かなら》ず|起《おこ》す|事《こと》|勿《なか》れ あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ』
と|声《こゑ》も|涼《すず》しく|歌《うた》ひ|了《をは》るや、|今迄《いままで》|大地《だいち》に|盲目《めくら》となつて|呻吟《しんぎん》しゐたる|数万《すうまん》の|軍勢《ぐんぜい》は、|一斉《いつせい》に|目《め》を|開《ひら》き、|四人《よにん》の|前《まへ》に|両手《りやうて》を|合《あは》せ、|天津神《あまつかみ》の|降臨《かうりん》かと|感謝《かんしや》の|涙《なみだ》に|咽《むせ》びつつ、|心《こころ》の|底《そこ》より|帰順《きじゆん》するのであつた。
|日楯《ひたて》は|一同《いちどう》に|向《むか》つて、|三五《あななひ》の|道《みち》の|教《をしへ》を|細々《こまごま》と|説《と》き|諭《さと》し、|各々《おのおの》|一先《ひとま》づ|家路《いへぢ》に|帰《かへ》らしめ、カールス|王《わう》|其《その》|他《た》と|共《とも》に|泰安城《たいあんじやう》の|奥殿《おくでん》に|悠々《いういう》として|進《すす》み|入《い》るのであつた。
(大正一一・八・九 旧六・一七 松村真澄録)
(昭和一〇・六・八 王仁校正)
第一七章 |誠《まこと》の|告白《こくはく》〔八一七〕
|引《ひ》き|続《つづ》いて|月鉾《つきほこ》は|牢獄《ろうごく》の|中《なか》より、マールエース、テールスタン、|其《その》|他《た》|一旦《いつたん》|三五教《あななひけう》の|聖地《せいち》に|於《おい》て|幹部《かんぶ》となり、|再《ふたた》び|叛旗《はんき》を|翻《ひるがへ》し、カールス|王《わう》の|為《ため》に|立働《たちはたら》き、セールス|姫《ひめ》の|一派《いつぱ》に|捉《とら》へられて、カールス|王《わう》と|共《とも》に、|岩窟《がんくつ》の|牢獄《ろうごく》に|投《とう》ぜられたる|連中《れんちう》をも|救《すく》ひ|出《だ》し、|泰安城《たいあんじやう》|指《さ》して|帰《かへ》り|来《きた》り、|八咫《やあた》の|大広間《おほひろま》に|於《おい》て、|一同《いちどう》|会見《くわいけん》の|式《しき》を|挙《あ》げた。|中央《ちうあう》の|正座《しやうざ》にはカールス|王《わう》、|憔悴《せうすゐ》せる|体躯《たいく》を|現《あら》はし、|其《その》|傍《かたはら》にヤーチン|姫《ひめ》、マリヤス|姫《ひめ》|相並《あひなら》び、|次《つぎ》には|真道彦命《まみちひこのみこと》、|日楯《ひたて》、|月鉾《つきほこ》、|八千代姫《やちよひめ》、|照代姫《てるよひめ》と|云《い》ふ|順序《じゆんじよ》に|列《れつ》を|正《ただ》し、|綺羅星《きらほし》の|如《ごと》くに|集《あつ》まつて、|互《たがひ》に|祝詞《しゆくじ》を|述《の》べ、|終《をは》つて|神籬《ひもろぎ》を|立《た》て、|大国治立尊《おほくにはるたちのみこと》を|始《はじ》め、|国魂神《くにたまのかみ》の|祭典《さいてん》を|厳修《げんしう》し、|次《つ》いで|直会《なほらひ》の|宴《えん》に|移《うつ》り、|互《たがひ》にかけ|隔《へだ》てなく、|上下《しやうか》|相睦《あひむつ》びて|懐旧談《くわいきうだん》に|耽《ふけ》り、|且《か》つマリヤス|姫《ひめ》|以下《いか》の|此《この》|度《たび》の|戦功《せんこう》を|賞揚《しやうやう》し、|且《か》つ|感謝《かんしや》し、|一絃琴《いちげんきん》を|弾《だん》じつつ、|各《おのおの》|立《た》つて|神《かみ》を|讃《ほ》め|祝歌《しゆくか》を|歌《うた》ひ|舞《ま》ひ|狂《くる》うた。カールス|王《わう》は|鶴《つる》の|如《ごと》く|痩《やせ》たる|体躯《たいく》を|動《うご》かせ|乍《なが》ら、|自《みづか》ら|歌《うた》ひ|自《みづか》ら|舞《ま》ふ。|其《その》|歌《うた》、
『|遠《とほ》き|神代《かみよ》の|其《その》|昔《むかし》 |国治立大神《くにはるたちのおほかみ》の
|神言《みこと》|畏《かしこ》み|遠津祖《とほつおや》 |花森彦大神《はなもりひこのおほかみ》は
|神《かみ》の|神言《みこと》を|被《かうむ》りて |遠《とほ》き|波路《なみぢ》を|打渡《うちわた》り
|高砂島《たかさごじま》の|胞衣《えな》として |神《かみ》の|造《つく》りし|此《この》|島《しま》に
|現《あら》はれまして|国人《くにびと》を いと|平《たひら》けく|安《やす》らけく
|治《をさ》め|玉《たま》ひし|国《くに》の|祖《おや》 アークス|王《わう》の|珍《うづ》の|子《こ》と
|生《うま》れ|出《い》でたるカールスは |隙間《すきま》の|風《かぜ》にも|当《あた》らずに
|数多《あまた》の|侍女《じぢよ》に|侍《かしづ》かれ |成長《せいちやう》したる|酬《むく》いにて
|世《よ》の|有様《ありさま》は|何事《なにごと》も |弁《わきま》へ|知《し》らぬ|悲《かな》しさに
|己《おの》が|使《つか》ひし|醜司《しこつかさ》 テールスタンや|其《その》|外《ほか》の
|心《こころ》ねぢけし|者共《ものども》が |言葉《ことば》を|信《しん》じ|三五《あななひ》の
|誠《まこと》|一《ひと》つの|神司《かむづかさ》 |真道《まみち》の|彦《ひこ》の|命《みこと》をば
|吾《われ》に|刃向《はむか》ふ|仇人《あだびと》と |思《おも》ひ|謬《あやま》り|岩窟《がんくつ》の
|牢獄《ひとや》の|中《なか》に|投《な》げこみて |朝《あさ》な|夕《ゆふ》なの|憂苦労《うきくらう》
おはせし|事《こと》の|恥《はづ》かしさ かかる|尊《たふと》き|神人《しんじん》を
|苦《くるし》めたりし|其《その》|報《むく》い |忽《たちま》ち|吾《われ》に|循《めぐ》り|来《き》て
|時《とき》めき|渡《わた》る|泰安《たいあん》の |城《しろ》は|直《ただ》ちに|陥落《かんらく》し
セールス|姫《ひめ》や|其《その》|外《ほか》の |醜《しこ》の|魔神《まがみ》に|捉《とら》へられ
|己《おの》が|造《つく》りし|牢獄《ろうごく》に |情《なさけ》|容赦《ようしや》も|荒々《あらあら》しく
|冷《つめ》たき|穴《あな》に|投《な》げこまれ |悲歎《ひたん》の|涙《なみだ》に|咽《むせ》びつつ
|痩衰《やせおとろ》へて|骨《ほね》は|立《た》ち |日《ひ》に|日《ひ》に|弱《よわ》る|吾《わが》|体《からだ》
|早《はや》|玉《たま》の|緒《を》の|生命《いのち》|迄《まで》 |遂《つひ》に|切《き》れむとする|所《ところ》
|仁慈無限《じんじむげん》の|三五《あななひ》の |神《かみ》に|仕《つか》ふる|宣伝使《せんでんし》
|玉藻《たまも》の|湖《うみ》の|片畔《かたほとり》 |天嶺《てんれい》、|泰嶺《たいれい》、|両聖地《りやうせいち》に
|仕《つか》へ|玉《たま》ひし|日楯彦《ひたてひこ》 |月鉾彦《つきほこひこ》の|神人《しんじん》に
|危《あや》ふき|生命《いのち》を|助《たす》けられ やうやう|元《もと》の|吾《わが》|城《しろ》に
|帰《かへ》り|来《きた》りし|嬉《うれ》しさよ |仁慈無限《じんじむげん》の|大神《おほかみ》の
|建《た》て|玉《たま》ひたる|三五《あななひ》の |誠《まこと》の|教《をしへ》を|他所《よそ》にして
|体主霊従《たいしゆれいじう》の|教《をしへ》をば |此上《こよ》なきものと|迷信《めいしん》し
|利己《りこ》|一片《いつぺん》を|立《た》て|通《とほ》し |近侍《きんじ》の|者《もの》に|誤《あやま》られ
|国人《くにびと》|達《たち》の|怨恨《えんこん》を |知《し》らずに|買《か》ひし|愚《おろ》かさよ
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |神《かみ》の|御霊《みたま》の|幸《さち》はひて
|思《おも》ひもかけぬ|今日《けふ》の|日《ひ》の |再《ふたた》び|此《この》|世《よ》に|生《うま》れたる
|驚天動地《きやうてんどうち》の|慶《よろこ》びは |何時《いつ》の|世《よ》にかは|忘《わす》るべき
|日楯《ひたて》、|月鉾《つきほこ》|両人《りやうにん》が |父《ちち》の|命《みこと》を|苦《くるし》めて
|悪《あく》の|限《かぎ》りを|尽《つく》したる カールス|王《わう》をば|憎《にく》まずに
|助《たす》け|玉《たま》ひし|兄弟《きやうだい》の |清《きよ》き|心《こころ》は|何時《いつ》|迄《まで》も
|五六七《みろく》の|御代《みよ》の|末《すゑ》|迄《まで》も |子々孫々《ししそんそん》に|相《あひ》|伝《つた》へ
|忘《わす》れざらまし|此《この》|御恩《ごおん》 ヤーチン|姫《ひめ》やマリヤス|姫《ひめ》の
|神《かみ》の|命《みこと》の|真心《まごころ》を |心《こころ》の|鬼《おに》に|責《せ》められて
|今《いま》の|今迄《いままで》|一筋《ひとすぢ》に |疑《うたが》ひ|居《ゐ》たる|愚《おろ》かさよ。
|心《こころ》の|底《そこ》より|恋《こ》ひ|慕《した》ふ ヤーチン|姫《ひめ》よマリヤスよ
|今迄《いままで》|汝《なんぢ》に|与《あた》へたる |無理難題《むりなんだい》と|苦《くる》しみを
|直日《なほひ》に|見直《みなほ》し|聞直《ききなほ》し |吾《わが》|罪咎《つみとが》を|許《ゆる》せかし
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |御霊《みたま》|幸《さち》はひましまして
われに|従《したが》ひ|曲業《まがわざ》を |知《し》らず|知《し》らずに|尽《つく》したる
|醜《しこ》の|司《つかさ》の|百《もも》の|罪《つみ》 |直日《なほひ》に|見直《みなほ》し|聞直《ききなほ》し
|許《ゆる》させ|玉《たま》へ|天津神《あまつかみ》 |国津神《くにつかみ》|達《たち》|八百万《やほよろづ》
|国魂神《くにたまがみ》の|御前《おんまへ》に |謹《つつし》み|敬《うやま》ひ|願《ね》ぎまつる
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ』
と|歌《うた》ひ|終《をは》つて、|中央《ちうあう》の|正座《しやうざ》に|着《つ》いた。
ヤーチン|姫《ひめ》は|立上《たちあが》り|自《みづか》ら|歌《うた》ひ|自《みづか》ら|舞《ま》ふ。
『|花森彦《はなもりひこ》の|其《その》|末裔《みすゑ》 アークス|王《わう》の|弟《おとうと》と
|生《うま》れ|玉《たま》ひしエーリスの |娘《むすめ》と|生《うま》れしヤーチン|姫《ひめ》は
アークス|王《わう》に|見出《みいだ》だされ カールス|王《わう》の|妻《つま》として
|親《おや》の|許《ゆる》せし|許嫁《いいなづけ》 |時《とき》の|到《いた》るを|待《ま》つ|間《うち》に
サアルボースの|生《う》みませる セールス|姫《ひめ》の|曲神《まがかみ》に
|謀《はか》られ|遂《つひ》に|発狂《はつきやう》と |言葉《ことば》|巧《たくみ》に|誣《し》ひられて
|見《み》るも|恐《おそ》ろし|淡渓《たんけい》の |深《ふか》き|谷間《たにま》に|投《な》げ|込《こ》まれ
|生命《いのち》|危《あやふ》き|折《をり》もあれ |情《なさけ》も|深《ふか》き|三五《あななひ》の
|真道《まみち》の|彦《ひこ》に|助《たす》けられ |息《いき》|吹《ふ》き|返《かへ》す|其《その》|砌《みぎ》り
キールスタンやユリコ|姫《ひめ》 |後《あと》を|慕《した》つて|追《お》ひ|来《きた》り
|茲《ここ》に|四人《よにん》はアーリスの |御山《みやま》を|越《こ》えて|玉藻湖《たまもこ》の
|畔《ほとり》をよぎり|三五《あななひ》の |神《かみ》の|聖地《せいち》に|参詣《まゐまう》で
|八尋《やひろ》の|殿《との》に|朝夕《あさゆふ》に |仕《つか》へ|居《ゐ》たりし|折柄《をりから》に
シヤーカルタンやトロレンス |数多《あまた》の|民軍《みんぐん》|引率《ひきつ》れて
|泰安城《たいあんじやう》へ|攻上《せめのぼ》り |容易《ようい》ならざる|形勢《けいせい》と
|聞《き》くより|妾《わらは》は|気《き》をいらち |真道《まみち》の|彦《ひこ》を|押立《おしたて》て
|神《かみ》の|軍《いくさ》を|引率《いんそつ》し |泰安城《たいあんじやう》に|立向《たちむか》ひ
カールス|王《わう》に|疑《うたが》はれ |真道《まみち》の|彦《ひこ》と|諸共《もろとも》に
|牢獄《ひとや》の|中《うち》に|投込《なげこ》まれ |苦《くる》しき|月日《つきひ》を|送《おく》るうち
|善《ぜん》と|悪《あく》とを|立分《たてわ》ける |誠《まこと》の|神《かみ》の|現《あらは》れし
|今日《けふ》の|生日《いくひ》の|嬉《うれ》しさよ |最早《もはや》|生命《いのち》は|無《な》きものと
|覚悟《かくご》|極《きは》めし|此《この》|体《からだ》 |日頃《ひごろ》|信《しん》ずる|三五《あななひ》の
|皇大神《すめおほかみ》の|恵《めぐみ》にて |救《すく》はれたるかあら|尊《たふ》と
|尊《たふと》き|神《かみ》の|御道《おんみち》に |仕《つか》へ|奉《まつ》りて|此《この》|前途《さき》は
|吾《わが》|身《み》につける|一切《いつさい》の |執着心《しふちやくしん》を|脱却《だつきやく》し
|普《あまね》く|世人《よびと》を|善道《ぜんだう》に |導《みちび》き|救《すく》ひ|大神《おほかみ》の
|深《ふか》き|恵《めぐみ》の|露《つゆ》だにも |報《むく》い|奉《まつ》らむあが|心《こころ》
|日楯《ひたて》の|彦《ひこ》よ|月鉾《つきほこ》よ ユリコ|姫《ひめ》や|八千代姫《やちよひめ》
|照代《てるよ》の|姫《ひめ》の|御前《おんまへ》に ヤーチン|姫《ひめ》が|心《こころ》より
|生命《いのち》を|救《すく》ひ|玉《たま》ひたる |親《おや》にもまさる|鴻恩《こうおん》を
|謹《つつし》み|感謝《かんしや》し|奉《たてまつ》る。 あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|神《かみ》の|御霊《みたま》の|幸《さち》はひて カールス|王《わう》を|始《はじ》めとし
|茲《ここ》に|並《な》みゐる|人々《ひとびと》に |神《かみ》の|恵《めぐみ》の|幸《さち》はひて
|心《こころ》の|魂《たま》を|逸早《いちはや》く |直日《なほひ》の|魂《たま》に|研《みが》きあげ
|尊《たふと》き|神《かみ》の|神業《しんげふ》に |尽《つく》させ|玉《たま》へ|惟神《かむながら》
|国魂神《くにたまがみ》の|御前《おんまへ》に |慎《つつし》み|願《ねが》ひ|奉《たてまつ》る
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ』
と|歌《うた》ひ|舞《ま》ひ|終《をは》つて|座《ざ》に|着《つ》いた。
|真道彦命《まみちひこのみこと》は|立《たち》あがり、|自《みづか》ら|歌《うた》ひ|自《みづか》ら|舞《ま》ふ。
『|神代《かみよ》の|昔《むかし》|其《その》|昔《むかし》 |貴《うづ》の|都《みやこ》のエルサレム
|神《かみ》の|司《つかさ》と|現《あれ》ませる |色香《いろか》めでたき|稚桜姫《わかざくらひめ》
|貴《うづ》の|命《みこと》のはるばると |天降《あも》りましたる|此《この》|島《しま》に
|遠津御祖《とほつみおや》とあれませる |真道《まみち》の|彦《ひこ》は|畏《かしこ》くも
|深《ふか》く|秘《ひ》めたる|宝玉《ほうぎよく》を |姫《ひめ》の|命《みこと》に|献《たてまつ》り
|真鉄《まがね》の|彦《ひこ》や|奇八玉《くしやたま》 |其《その》|他《た》の|尊《たふと》き|神々《かみがみ》も
|各《おのおの》|玉《たま》を|取《と》り|出《いで》て |稚姫君《わかひめぎみ》の|御神《おんかみ》に
|献《たてまつ》りたる|由緒《ゆいしよ》ある |珍《うづ》の|聖地《せいち》の|玉藻山《たまもやま》
|吾《われ》は|祖先《そせん》の|名《な》をつぎて |真道《まみち》の|彦《ひこ》と|名乗《なの》りつつ
|神《かみ》の|教《をしへ》を|四方《よも》の|国《くに》 |青人草《あをひとぐさ》に|宣《の》り|伝《つた》へ
|祖先《そせん》の|業《わざ》を|朝夕《あさゆふ》に |仕《つか》へまつりし|折柄《をりから》に
|泰安城《たいあんじやう》にセールス|姫《ひめ》の |神《かみ》の|命《みこと》の|現《あら》はれて
|利己《りこ》|一辺《いつぺん》の|政《まつりごと》 |開《ひら》かれしより|泰安《たいあん》の
|城《しろ》に|仕《つか》へし|司《つかさ》|等《ら》は |吾《わが》|守《まも》りたる|聖場《せいぢやう》へ
|潮《うしほ》の|如《ごと》く|押寄《おしよ》せて |神《かみ》の|誠《まこと》の|大道《おほみち》に
|只《ただ》|一筋《ひとすぢ》に|仕《つか》へむと |殊勝《しゆしよう》の|言葉《ことば》に|感歎《かんたん》し
|三五教《あななひけう》の|幹部《かんぶ》とし |教《をしへ》を|四方《よも》に|開《ひら》く|折《をり》
|泰安城《たいあんじやう》に|大変事《だいへんじ》 |突発《とつぱつ》せしと|聞《き》くよりも
テールスタンを|始《はじ》めとし |数多《あまた》の|人々《ひとびと》|三五《あななひ》の
|教《をしへ》を|伝《つた》ふる|吾《わが》|身《み》をば |現世的《げんせいてき》の|救主《すくひぬし》ぞと
|心《こころ》の|底《そこ》より|誤解《ごかい》して |泰安城《たいあんじやう》に|向《むか》はしめ
|忽《たちま》ち|吾《われ》を|振棄《ふりすて》て |利己一辺《りこいつぺん》の|魔心《まごころ》に
|又《また》もや|捉《とら》はれカールスの |王《わう》の|命《みこと》に|取《と》り|入《い》りて
|吾《われ》を|牢獄《ひとや》に|陥《おとしい》れ |百《もも》の|悩《なや》みを|与《あた》へたる
それの|恨《うらみ》を|返《かへ》さむと |無念《むねん》の|歯《は》がみをなし|乍《なが》ら
|夜《よ》の|目《め》もねずに|泣《な》きゐたる |時《とき》しもあれや|竜世姫《たつよひめ》
|牢獄《ひとや》の|中《なか》に|現《あら》はれて |汝《なんぢ》の|誠《まこと》は|天地《あめつち》の
|神《かみ》の|心《こころ》に|通《かよ》ひたり |今《いま》の|苦難《くなん》は|後《のち》の|日《ひ》の
|大歓楽《だいくわんらく》の|礎《いしずゑ》ぞ |高砂島《たかさごじま》の|全島《ぜんたう》を
|助《たす》け|導《みちび》く|救世主《きうせいしゆ》 |神《かみ》の|柱《はしら》となさむ|為《ため》
|尊《たふと》き|神《かみ》の|経綸《けいりん》に |汝《なんぢ》を|牢獄《ひとや》に|落《おと》す|也《なり》
|必《かなら》ず|心《こころ》|煩《わづら》ふな |神《かみ》は|汝《なんぢ》を|守《まも》るべし
|花《はな》|咲《さ》く|春《はる》を|暫《しば》し|待《ま》て |黒白《あやめ》も|分《わか》ぬ|暗《やみ》の|夜《よ》の
|光《ひかり》ともなり|塩《しほ》となり |色香《いろか》かんばし|花《はな》となり
|誠《まこと》の|果実《くわじつ》を|結《むす》ぶまで |神《かみ》は|汝《なんぢ》を|試《ため》すなり
|心《こころ》を|痛《いた》むる|事《こと》|勿《なか》れ これぞ|全《まつた》く|国治立《くにはるたち》の
|厳《いづ》の|尊《みこと》の|御心《みこころ》ぞ |喜《よろこ》び|勇《いさ》め|真道彦《まみちひこ》
|神《かみ》は|汝《なんぢ》の|生《う》みませる |日楯《ひたて》、|月鉾《つきほこ》|両人《りやうにん》に
|宏大無辺《くわうだいむへん》の|神徳《しんとく》を |沢《さは》に|授《さづ》けて|高砂《たかさご》の
|島《しま》に|蔽《おほ》へる|黒雲《くろくも》を |払《はら》ひ|清《きよ》めて|麗《うるは》しき
|神代《かみよ》の|柱《はしら》となさしめむ |必《かなら》ず|疑《うたが》ふ|事《こと》|勿《なか》れ
|神《かみ》の|言葉《ことば》に|二言《にごん》はなしと |言葉《ことば》|終《をは》ると|諸共《もろとも》に
|其《その》|儘《まま》|姿《すがた》は|消《き》え|玉《たま》ふ あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|思《おも》へば|嬉《うれ》しき|今日《けふ》の|日《ひ》も |尊《たふと》き|神《かみ》の|守《まも》ります
|稜威《いづ》の|仕組《しぐみ》の|開《ひら》け|口《ぐち》 |堅磐常磐《かきはときは》に|神国《かみくに》の
|栄《さか》えを|待《ま》つや|高砂《たかさご》の |島《しま》に|老《おい》たる|一《ひと》つ|松《まつ》
|千歳《ちとせ》の|鶴《つる》の|永久《とこしへ》に |何時《いつ》も|巣籠《すごも》る|芽出度《めでた》さは
やがて|開《ひら》くる|五六七《みろく》の|世《よ》 |亀《かめ》の|齢《よはひ》の|万世《よろづよ》も
|八百万世《やほよろづよ》も|末永《すえなが》く |此《この》|神島《かみじま》に|幸《さち》あれよ
|花森彦大神《はなもりひこのおほかみ》の |御裔《みすゑ》の|神《かみ》と|現《あ》れませる
カールス|王《わう》は|三五《あななひ》の |尊《たふと》き|神《かみ》の|御教《みをしへ》に
|仕《つか》へ|玉《たま》ひて|泰安《たいあん》の |此《この》|聖場《せいぢやう》に|末永《すえなが》く
|鎮《しづ》まりまして|国人《くにびと》を いと|安《やす》らけく|平《たひら》けく
|堅磐常磐《かきはときは》に|知《しろ》し|召《め》せ あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|神《かみ》の|御前《みまへ》に|真道彦《まみちひこ》 |真心《まごころ》こめて|願《ね》ぎ|奉《まつ》る』
と|歌《うた》ひ|終《をは》り、|吾《わが》|座《ざ》に|復帰《ふくき》した。
(大正一一・八・九 旧六・一七 松村真澄録)
第一八章 |天下泰平《てんかたいへい》〔八一七〕
マリヤス|姫《ひめ》は|立《たち》あがり、|自《みづか》ら|歌《うた》ひ|自《みづか》ら|舞《ま》ふ。
『|花森彦神《はなもりひこのかみ》の|裔《すゑ》 アークス|王《わう》の|隠《かく》し|子《ご》と
|生《うま》れ|出《い》でたる|吾《わが》|身魂《みたま》 |父《ちち》の|命《みこと》の|内命《ないめい》を
|奉《ほう》じて|侍女《じぢよ》と|身《み》をやつし セールス|姫《ひめ》に|従《したが》ひて
サアルボースやホーロケース |其《その》|他《た》の|魔神《まがみ》の|行動《かうどう》を
|朝《あさ》な|夕《ゆふ》なに|偵察《ていさつ》し |悪人《あくにん》|共《ども》の|計略《けいりやく》を
|一々《いちいち》|胸《むね》にたたみつつ |時《とき》の|来《きた》るを|待《ま》つ|間《うち》に
セールス|姫《ひめ》の|一類《いちるゐ》は ヤーチン|姫《ひめ》を|排斥《はいせき》し
カールス|王《わう》の|妃《ひ》となりて |泰安城《たいあんじやう》の|主権《しゆけん》をば
|吾《わが》|手《て》に|握《にぎ》り|暴政《ばうせい》を |布《し》かむとしたる|折柄《をりから》に
|妾《わらは》は|堪《たま》らずセールスの |姫《ひめ》の|一派《いつぱ》を|打懲《うちこ》らし
|泰安城《たいあんじやう》を|脱《ぬ》け|出《い》でて |真道《まみち》の|彦《ひこ》の|現《あ》れませる
|日月潭《じつげつたん》の|聖場《せいぢやう》に |忍《しの》びて|神《かみ》に|仕《つか》へつつ
|朝《あさ》な|夕《ゆふ》なに|月鉾《つきほこ》の |雄々《をを》しき|姿《すがた》を|見《み》るにつけ
|忽《たちま》ち|悩《なや》む|恋《こひ》の|暗《やみ》 |折《をり》ある|毎《ごと》に|言《い》ひ|寄《よ》りて
|心《こころ》の|丈《たけ》を|口説《くど》け|共《ども》 |信心《しんじん》|堅固《けんご》の|月鉾《つきほこ》は
|天地《てんち》の|道理《だうり》を|楯《たて》に|取《と》り |容易《ようい》に|妾《わらは》が|恋路《こひぢ》をば
|諾《うべ》なひ|玉《たま》はぬ|月鉾《つきほこ》の |情《つれ》なき|心《こころ》を|恨《うら》みしが
|神《かみ》の|御前《みまへ》に|額《ぬか》づきて |静《しづか》に|神意《しんい》を|伺《うかが》へば
アークス|王《わう》が|隠《かく》し|妻《つま》 |罪《つみ》より|生《うま》れし|吾《わが》|身体《からだ》
|神《かみ》に|等《ひと》しき|月鉾《つきほこ》の |尊《たふと》き|司《つかさ》に|汚《けが》れたる
|吾《わが》|身《み》を|以《もつ》て|妹《いも》と|背《せ》の |契《ちぎり》を|迫《せま》るは|何事《なにごと》ぞ
|誤《あやま》つたりと|悔悟《くわいご》して |茲《ここ》に|愈《いよいよ》|断念《だんねん》し
|天地《てんち》の|神《かみ》に|其《その》|罪《つみ》を |詫《わ》ぶれば|心天《しんてん》|忽《たちま》ちに
|真如《しんによ》の|月《つき》は|輝《かがや》きて |恋路《こひぢ》の|暗《やみ》は|晴《は》れにけり
|其《そ》れより|妾《わらは》は|一心《いつしん》に |泰嶺《たいれい》|聖地《せいち》の|神前《しんぜん》に
|心《こころ》を|尽《つく》し|身《み》を|尽《つく》し |仕《つか》へまつりてありけるが
|真道彦《まみちひこ》の|神司《かむづかさ》 |岩窟上《がんくつじやう》の|牢獄《ろうごく》に
|縛《いまし》められて|千万《ちよろづ》の |責苦《せめく》に|会《あ》はせ|玉《たま》ふ|事《こと》
|聞《き》くより|心《こころ》は|焦《あせ》り|立《た》ち |救《すく》ひ|出《だ》さむと|国魂《くにたま》の
|神《かみ》の|御前《みまへ》に|朝夕《あさゆふ》に |祈《いの》る|折《をり》しも|月鉾《つきほこ》や
|日楯《ひたて》の|神《かみ》やユリコ|姫《ひめ》 |照彦王《てるひこわう》に|仕《つか》へたる
|照代《てるよ》の|姫《ひめ》や|八千代姫《やちよひめ》 |尊《たふと》き|五《いつ》つの|神宝《しんぽう》を
|持《も》ちて|聖地《せいち》に|帰《かへ》りまし |朝《あさ》な|夕《ゆふ》なに|奉斎《ほうさい》し
|心《こころ》を|研《みが》く|折柄《をりから》に セールス|姫《ひめ》の|一類《いちるゐ》は
シヤーカルタンやトロレンス サアルボース、ホーロケースの
|悪神《わるがみ》|共《ども》を|駆《か》り|集《あつ》め |泰安城《たいあんじやう》を|陥《おとしい》れ
|暴威《ばうゐ》を|振《ふる》ひカールスの |王《わう》に|仕《つか》へし|司《つかさ》|等《ら》を
|岩窟上《がんくつじやう》の|牢獄《ろうごく》に |一人《ひとり》も|残《のこ》らず|投《な》げ|込《こ》みて
|暴虐無道《ばうぎやくぶだう》の|限《かぎ》りを|尽《つく》し |猶《なほ》も|進《すす》んで|玉藻山《たまもやま》
|聖地《せいち》を|蹂躙《じうりん》せむものと セウルスチンを|始《はじ》めとし
サアルボースやホーロケースを|将《しやう》となし |攻《せ》め|来《く》る|勢《いきほひ》なかなかに
|侮《あなど》り|難《がた》く|見《み》えにける |妾《わらは》は|少数《せうすう》の|神軍《しんぐん》を
|率《ひき》ゐて|聖地《せいち》を|出発《しゆつぱつ》し |玉藻《たまも》の|湖辺《こへん》に|到《いた》る|折《をり》
セウルスチンの|率《ひき》ゐたる |数多《あまた》の|軍《いくさ》と|出会《しゆつくわい》し
|獅子奮迅《ししふんじん》の|勢《いきほひ》に |槍《やり》を|揃《そろ》へて|攻《せ》め|来《きた》る
|猪武者《いのししむしや》に|打向《うちむか》ひ |大蛇《をろち》の|鏡《かがみ》を|取出《とりいだ》し
|敵《てき》を|照《て》らせば|鏡面《きやうめん》の |烈《はげ》しき|光《ひかり》に|目《め》も|眩《くら》み
|魂《こん》|戦《をのの》きて|忽《たちま》ちに |将棋倒《しやうぎだふ》しとなりにける
|神《かみ》に|受《う》けたる|言霊《ことたま》を |妾《わらは》はすかさず|宣《の》りつれば
|今迄《いままで》|倒《たふ》れし|敵軍《てきぐん》は |心《こころ》の|眼《まなこ》は|云《い》ふも|更《さら》
|肉《にく》の|目《め》さへも|忽《たちま》ちに |元《もと》の|如《ごと》くに|開《ひら》かれて
|漸《やうや》く|悟《さと》る|三五《あななひ》の |尊《たふと》き|神《かみ》の|御恵《おんめぐ》み
|心《こころ》の|底《そこ》より|正覚《しやうかく》し |帰順《きじゆん》なしたる|嬉《うれ》しさよ。
|妾《わらは》はそれよりアーリスの |峰《みね》を|乗越《のりこ》え|泰安《たいあん》の
|城《しろ》の|馬場《ばんば》に|攻寄《せめよ》せて |群《むら》がる|数万《すうまん》の|軍勢《ぐんぜい》に
|向《むか》つて|注《そそ》ぐ|照代姫《てるよひめ》 |八千代《やちよ》の|姫《ひめ》の|宝鏡《ほうきやう》の
|光《ひかり》に|敵《てき》は|辟易《へきえき》し |眼《まなこ》|眩《くら》みて|打《う》ち|倒《たふ》れ
|苦《くるし》み|藻掻《もが》く|其《その》|中《なか》を |城内《じやうない》|深《ふか》く|進《すす》み|入《い》り
セールス|姫《ひめ》に|打《う》ち|向《むか》ひ |大蛇《をろち》の|玉《たま》を|射照《いて》らせば
|悪狐《あくこ》の|姿《すがた》と|還元《くわんげん》し |数多《あまた》の|侍臣《じしん》と|諸共《もろとも》に
|怪《あや》しき|正体《しやうたい》|現《あら》はしつ |雲《くも》を|霞《かすみ》と|消《き》え|失《う》せぬ
|妾《わらは》は|茲《ここ》に|息《いき》|休《やす》め |照代《てるよ》の|姫《ひめ》や|八千代姫《やちよひめ》
テーリン|姫《ひめ》やユリコ|姫《ひめ》 |其《その》|他《た》の|尊《たふと》き|神人《かみびと》と
|泰安城《たいあんじやう》を|守《まも》りつつ カールス|王《わう》や|真道彦《まみちひこ》
ヤーチン|姫《ひめ》を|始《はじ》めとし マールエースやホーレンス
テールスタンや|其《その》|外《ほか》の |囚《とら》はれ|人《びと》を|救《すく》はむと
|日《ひ》、|月《つき》|二人《ふたり》の|兄弟《きやうだい》を |岩窟上《がんくつじやう》の|牢獄《ろうごく》に
|差遣《さしつか》はせば|両人《りやうにん》は |芽出度《めでた》く|使命《しめい》を|相果《あひは》たし
|凱歌《がいか》を|挙《あ》げて|堂々《だうだう》と |帰《かへ》り|来《き》ませる|勇《いさ》ましさ
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |御霊《みたま》|幸《さち》はひましまして
カールス|王《わう》を|始《はじ》めとし |誠《まこと》の|道《みち》を|誤《あやま》りし
|此《この》|場《ば》に|控《ひか》ゆる|諸人《もろびと》に |神《かみ》の|恵《めぐみ》の|幸《さち》|深《ふか》く
|天《てん》より|受《う》けし|魂《たましひ》の |曇《くも》りを|晴《は》らして|元《もと》の|如《ごと》
|厳《いづ》の|御霊《みたま》や|瑞御霊《みづみたま》 |直日《なほひ》の|霊《たま》に|立直《たてなほ》し
|救《すく》はせ|玉《たま》へ|天津神《あまつかみ》 |国津御神《くにつみかみ》の|御前《おんまへ》に
|謹《つつし》み|敬《うやま》ひ|願《ね》ぎまつる あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ』
と|歌《うた》ひ|了《をは》つて|元《もと》の|座《ざ》に|着《つ》いた。
|照代姫《てるよひめ》は|立上《たちあが》り、|自《みづか》ら|歌《うた》ひ、|自《みづか》ら|舞《ま》ふ。
『|神《かみ》の|都《みやこ》のエルサレム |国治立大神《くにはるたちのおほかみ》の
|御前《みまへ》に|仕《つか》へし|真鉄彦《まがねひこ》 |神《かみ》の|御裔《みすゑ》と|生《うま》れたる
|暗《くら》き|此《この》|世《よ》も|照代姫《てるよひめ》 サワラの|峰《みね》の|山麓《さんろく》に
|父《ちち》|照若《てるわか》と|諸共《もろとも》に |神《かみ》の|教《をしへ》を|守《まも》り|居《ゐ》る
|時《とき》しもあれや|三五《あななひ》の |神《かみ》の|司《つかさ》の|照彦《てるひこ》が
|照子《てるこ》の|姫《ひめ》と|諸共《もろとも》に |四辺《あたり》まばゆき|神徳《しんとく》を
|照《て》らして|茲《ここ》に|降《くだ》りまし |南《みなみ》の|島《しま》の|人々《ひとびと》を
|神《かみ》の|光《ひかり》と|御恵《みめぐ》みに |服従《まつろ》へ|和《やは》し|善政《ぜんせい》を
|施《ほどこ》し|玉《たま》へば|草《くさ》も|木《き》も |恵《めぐみ》の|風《かぜ》に|靡《なび》きつつ
|世《よ》は|泰平《たいへい》に|治《をさ》まりぬ |父《ちち》の|照若《てるわか》|喜《よろこ》びて
|照彦王《てるひこわう》の|御前《おんまへ》に |進《すす》み|出《い》でまし|八千代姫《やちよひめ》
|照代《てるよ》の|姫《ひめ》の|姉妹《けうだい》を |命《みこと》の|前《まへ》に|奉《たてまつ》り
|御側《おんそば》|近《ちか》く|侍《はべ》らせて |誠《まこと》を|示《しめ》し|玉《たま》ひけり。
|折《をり》しもあれや|三五《あななひ》の |神《かみ》の|御霊《みたま》を|祀《まつ》りたる
|玉藻《たまも》の|山《やま》の|聖地《せいち》より |日楯《ひたて》、|月鉾《つきほこ》|兄弟《きやうだい》は
ユリコの|姫《ひめ》を|伴《ともな》ひて |照彦王《てるひこわう》や|照子姫《てるこひめ》
|珍《うづ》の|御前《みまへ》に|現《あら》はれて |神《かみ》の|秘密《ひみつ》を|語《かた》り|合《あ》ふ
|素《もと》より|三人《みたり》は|口《くち》|無《な》しの |心《こころ》と|心《こころ》に|語《かた》りつつ
|照彦王《てるひこわう》の|計《はか》らひに |大谷川《おほたにがは》を|打《う》ち|渡《わた》り
|向陽山《こうやうざん》の|岩窟《がんくつ》に |心《こころ》も|堅《かた》き|常楠《つねくす》の
|白髪《はくはつ》|異様《いやう》の|仙人《せんにん》に |五《いつ》つの|宝《たから》|授《さづ》かりつ
エルの|港《みなと》を|船出《ふなで》して |波《なみ》を|渡《わた》りてキル|港《みなと》
|人目《ひとめ》を|忍《しの》び|山《やま》の|尾《を》を |伝《つた》ひてやうやう|玉藻山《たまもやま》
|神《かみ》の|集《あつ》まる|聖場《せいぢやう》へ |二男三女《になんさんによ》は|潔《いさぎよ》く
|到着《たうちやく》したる|嬉《うれ》しさよ。 |間《ま》もなく|聞《きこ》ゆる|泰安《たいあん》の
|都《みやこ》の|空《そら》の|大騒《おほさわ》ぎ セールス|姫《ひめ》の|一族《いちぞく》が
カールス|王《わう》を|幽閉《いうへい》し |尚《なほ》も|暴威《ばうゐ》を|揮《ふる》ひつつ
|三五教《あななひけう》の|聖場《せいぢやう》を |蹂躙《じゆうりん》せむと|襲《おそ》ひ|来《く》る
|高《たか》き|噂《うはさ》を|聞《き》くよりも マリヤス|姫《ひめ》を|将《しやう》となし
|日楯《ひたて》、|月鉾《つきほこ》|両人《りやうにん》を |副将軍《ふくしやうぐん》と|相定《あひさだ》め
テーリン|姫《ひめ》やユリコ|姫《ひめ》 |八千代《やちよ》の|姫《ひめ》と|諸共《もろとも》に
|僅《わづか》に|残《のこ》りし|信徒《まめひと》を |率《ひき》ゐて|玉藻《たまも》の|湖畔《こはん》|迄《まで》
|進《すす》み|来《きた》れる|折《をり》もあれ セウルスチンの|一隊《いつたい》と
|茲《ここ》にいよいよ|衝突《しようとつ》し |大蛇《をろち》の|鏡《かがみ》を|射照《ゐて》らせば
|神威《しんゐ》に|恐《おそ》れて|目《め》も|眩《くら》み マリヤス|姫《ひめ》の|言霊《ことたま》に
|帰順《きじゆん》の|意《い》をば|表《へう》しける セウルスチンの|一軍《いちぐん》を
|茲《ここ》に|改《あらた》め|味方《みかた》とし |泰安城《たいあんじやう》に|立向《たちむか》ひ
|空前絶後《くうぜんぜつご》の|勝利《しようり》をば |得《え》たるは|全《まつた》く|皇神《すめかみ》の
|深《ふか》き|守《まも》りと|知《し》られけり。 あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さち》はひましまして |泰安城《たいあんじやう》は|末永《すえなが》く
カールス|王《わう》やヤーチン|姫《ひめ》の |神《かみ》の|司《つかさ》は|睦《むつま》じく
|妹背《いもせ》の|契《ちぎり》を|結《むす》びまし |真道《まみち》の|彦《ひこ》の|御教《みをしへ》を
|朝《あさ》な|夕《ゆふ》なに|奉戴《ほうたい》し |五六七《みろく》の|神代《かみよ》の|仁政《じんせい》を
|台湾島《たいわんたう》に|隈《くま》もなく |施《ほどこ》し|玉《たま》へ|惟神《かむながら》
|神《かみ》の|御前《みまへ》に|願《ね》ぎまつる。 |八千代《やちよ》の|姫《ひめ》や|照代姫《てるよひめ》
サワラの|城《しろ》の|国王《こきし》より |日楯《ひたて》、|月鉾《つきほこ》|両人《りやうにん》に
|従《したが》ひまつりて|玉藻山《たまもやま》 |聖地《せいち》に|仕《つか》へまつれよと
|言《い》ひ|渡《わた》されし|上《うへ》からは |仮令《たとへ》|如何《いか》なる|事《こと》あるも
|再《ふたた》び|国《くに》へは|帰《かへ》らまじ カールス|王《わう》よヤーチンの
|姫命《ひめのみこと》よ|真道彦《まみちひこ》 |其《その》|他《た》の|尊《たふと》き|神人《かみびと》よ
|妾《わらは》|等《ら》|二人《ふたり》の|姉妹《おとどひ》が |身霊《みたま》を|恵《めぐ》み|玉《たま》ひつつ
|神《かみ》の|使命《しめい》を|永久《とこしへ》に |立《た》てさせ|玉《たま》へよ|台湾《たいわん》の
|島《しま》に|時《とき》めく|神人《かみびと》の |御前《みまへ》に|祈《いの》り|奉《たてまつ》る
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ』
と|歌《うた》ひ|終《をは》つて、|元《もと》の|座《ざ》に|着《つ》いた。
|茲《ここ》にカールス|王《わう》は|真道彦命《まみちひこのみこと》に|向《むか》ひ、|従前《じゆうぜん》の|過《あやま》ちと|無礼《ぶれい》を|謝《しや》し、|且《か》つ、
『|吾《われ》はこれより|三五教《あななひけう》の|神司《かむづかさ》となり、|罪亡《つみほろ》ぼしのため|宣伝使《せんでんし》となつて|天《あめ》が|下《した》|四方《よも》の|国《くに》を|遍歴《へんれき》したければ、|貴下《あなた》は|尊《たふと》き|真道彦命《まみちひこのみこと》の|神裔《しんえい》なるを|幸《さいは》ひ、|貴下《あなた》が|御子《みこ》なる|日楯《ひたて》、|月鉾《つきほこ》を|左右《さいう》の|臣《しん》となし、|泰安城《たいあんじやう》に|永《なが》く|留《とど》まりて、|政教《せいけう》|両面《りやうめん》の|主権《しゆけん》を|握《にぎ》り、|国家《こくか》を|平安《へいあん》に|治《しろ》し|召《め》せよ』
と|宣示《せんじ》したるを、|真道彦命《まみちひこのみこと》は|大《おほい》に|驚《おどろ》き、
『カールス|王様《わうさま》、|折角《せつかく》の|御言葉《おことば》なれ|共《ども》、|吾々《われわれ》は|国治立尊《くにはるたちのみこと》の|御退隠《ごたいいん》|以前《いぜん》より、|吾《わが》|祖先《そせん》は|専《もつぱ》ら|神政《しんせい》に|仕《つか》へ、|現界《げんかい》の|政治《せいぢ》に|容喙《ようかい》せざるを|以《もつ》て|天職《てんしよく》となし|来《きた》りたるものなれば、|如何《いか》なる|事情《じじやう》あり|共《とも》、|吾《われ》は|政教《せいけう》|両面《りやうめん》の|主権者《しゆけんしや》となり、|王者《わうじや》の|位地《ゐち》に|進《すす》むべき|者《もの》に|非《あら》ず。|何卒《どうぞ》|此《この》|事《こと》|許《ばか》りは|御取消《おとりけし》を|願《ねが》ひ|奉《たてまつ》ります。|貴王《あなた》は|花森彦命《はなもりひこのみこと》の|御裔《おんすゑ》、|必《かなら》ず|此《この》|島国《しまぐに》を|治《をさ》め|給《たま》ふべき、|祖先《そせん》よりの|使命《しめい》おはしませば、|一刻《いつこく》も|早《はや》く|元《もと》の|王位《わうゐ》に|就《つ》き、ヤーチン|姫《ひめ》を|正妃《せいひ》として|天下《てんか》に|君臨《くんりん》し|玉《たま》へ。|及《およ》ばず|乍《なが》ら、|真道彦命《まみちひこのみこと》|父子《ふし》の|者《もの》|君《きみ》が|政事《せいじ》を|蔭《かげ》より|麻柱《あななひ》|奉《たてまつ》り、|天下泰平《てんかたいへい》に|世《よ》を|治《をさ》め|玉《たま》ふべく|守護《しゆご》し|奉《まつ》らむ。|就《つい》ては|王《わう》に|進言《しんげん》したき|事《こと》あり。|信心《しんじん》|堅固《けんご》にして、|仁慈《じんじ》と|剛直《がうちよく》とを|兼《か》ね|備《そな》へたるマールエースを|以《もつ》て|宰相《さいしやう》となし、ホールサースをして|副宰相《ふくさいしやう》となし、|数多《あまた》の|罪人《つみびと》を|赦《ゆる》し、シヤーカルタンやトロレンスをも|重《おも》く|用《もち》ゐ|玉《たま》へば、|天下《てんか》は|益々《ますます》|太平《たいへい》ならむ。これ|真道彦《まみちひこ》が|赤誠《せきせい》を|籠《こ》めて、|国家《こくか》の|為《ため》に|進言《しんげん》する|所以《ゆゑん》であります』
と|毫《がう》も|政治的《せいぢてき》|野心《やしん》なき|事《こと》を|告白《こくはく》した。カールス|王《わう》は|真道彦命《まみちひこのみこと》の|清廉潔白《せいれんけつぱく》なる|精神《せいしん》に|感《かん》じ|入《い》り、|真道彦命《まみちひこのみこと》を|導師《だうし》と|仰《あふ》ぎ、|自《みづか》ら|三五教《あななひけう》の|信者《しんじや》となり、|全島《ぜんたう》に|範《はん》を|示《しめ》し、|天下《てんか》は|永久《とこしへ》に|三五教《あななひけう》|掩護《えんご》の|下《もと》に、|枝《えだ》もならさぬ|高砂《たかさご》の|芽出度《めでた》き|神国《かみくに》と|治《をさ》まることとなつた。さうしてヤーチン|姫《ひめ》に|対《たい》する|王《わう》の|疑《うたがひ》は|全《まつた》く|晴《は》れ、|茲《ここ》に|姫《ひめ》を|容《い》れて|正妃《せいひ》となし、マリヤス|姫《ひめ》を|侍女《じぢよ》の|頭《かしら》と|定《さだ》め、テールスタン、ホーレンス|其《その》|他《た》の|人々《ひとびと》をも|悔《く》い|改《あらた》めしめ、|元《もと》の|如《ごと》く|重用《ぢうよう》して、|世《よ》は|永久《とこしへ》に|治《をさ》まり、|万民《ばんみん》|鼓腹撃壌《こふくげきじやう》の|楽《たのし》みに|酔《よ》うた。
|茲《ここ》にカールス|王《わう》は|琉球《りうきう》のサワラの|都《みやこ》へ、マールエース、ホールサースを|遣《つか》はし、いろいろの|珍《めづ》らしき|貢物《みつぎもの》を|齎《もたら》せ、|照彦王《てるひこわう》の|前《まへ》に|感謝《かんしや》|帰順《きじゆん》の|意《い》を|表《へう》することとなつた。
|照彦王《てるひこわう》はカールス|王《わう》の|誠意《せいい》に|感《かん》じ、マールエース、ホールサースと|共《とも》に|始《はじ》めて|台湾島《たいわんたう》に|渡《わた》り、|泰安城《たいあんじやう》に|迎《むか》へられ、|暫《しばら》く|此処《ここ》に|留《とど》まり、|山野河海《さんやかかい》の|饗応《きやうおう》を|受《う》け、|且《か》つ|真道彦命《まみちひこのみこと》の|鎮《しづ》まり|居《ゐ》ます|玉藻山《たまもやま》の|聖場《せいぢやう》に|参拝《さんぱい》し、|茲《ここ》に|固《かた》く|手《て》を|握《にぎ》り、|琉球《りうきう》、|台湾《たいわん》|相提携《あひていけい》して、|神業《しんげふ》に|奉仕《ほうし》する|事《こと》となつた。
|真道彦《まみちひこ》、|照彦王《てるひこわう》の|媒介《ばいかい》に|依《よ》りて、マールエースは|八千代姫《やちよひめ》を|娶《めと》り、ホールサースは|照代姫《てるよひめ》を|娶《めと》り、|夫婦《ふうふ》|相睦《あひむつ》びて|泰安城《たいあんじやう》に|仕《つか》へ、|其《その》|子孫《しそん》は|永《なが》く|繁栄《はんゑい》した。
|末《すゑ》に|至《いた》りてカールス|王《わう》とヤーチン|姫《ひめ》の|間《あひだ》に|八千彦《やちひこ》、|八千姫《やちひめ》の|一男一女《いちなんいちによ》が|生《うま》れた。|又《また》|照彦王《てるひこわう》と|照子姫《てるこひめ》の|間《あひだ》にも、|照国彦《てるくにひこ》、|照国姫《てるくにひめ》の|一男一女《いちなんいちによ》が|生《うま》れた。|真道彦命《まみちひこのみこと》の|媒酌《ばいしやく》に|依《よ》つて、|照彦王《てるひこわう》の|長子《ちやうし》|照国彦《てるくにひこ》に|八千姫《やちひめ》を|娶《めあ》はせ、|又《また》カールス|王《わう》の|長子《ちやうし》|八千彦《やちひこ》に|照彦王《てるひこわう》の|娘《むすめ》|照国姫《てるくにひめ》を|娶《めあ》はせ、|茲《ここ》に|改《あらた》めて|親族《しんぞく》|関係《くわんけい》を|結《むす》ぶ|事《こと》となつた。
マリヤス|姫《ひめ》はアークス|王《わう》の|弟《おとうと》エーリスの|長子《ちやうし》フエールスの|妻《つま》となり、|泰安城《たいあんじやう》の|花《はな》と|謳《うた》はれて、|上下《しやうか》の|信望《しんばう》を|担《にな》ひ、ヤーチン|姫《ひめ》の|政事《せいじ》を|輔《たす》けて|子孫《しそん》|永《なが》く|繁栄《はんゑい》し、|今迄《いままで》|混乱《こんらん》に|混乱《こんらん》を|重《かさ》ねたる|台湾島《たいわんたう》も|全《まつた》く|天国《てんごく》|浄土《じやうど》と|化《くわ》するに|至《いた》つたのは、フエールス、マリヤス|姫《ひめ》の|力《ちから》|大《おほい》に|与《あづか》つて|功《こう》ありと|言《い》ふべしである。あゝ|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》。
(大正一一・八・一〇 旧六・一八 松村真澄録)
第四篇 |南米《なんべい》|探険《たんけん》
第一九章 |高島丸《たかしままる》〔八一九〕
|三五教《あななひけう》の|神司《かむづかさ》 |変性男子《へんじやうなんし》の|系統《ひつぽう》と
|日《ひ》の|出神《でのかみ》の|生宮《いきみや》を |唯一《ゆゐいつ》の|武器《ぶき》とふりかざし
|我意《がい》を|立《た》て|貫《ぬ》く|高姫《たかひめ》は |神素盞嗚大神《かむすさのをのおほかみ》の
|公平無私《こうへいむし》の|御心《みこころ》に |感謝《かんしや》の|涙《なみだ》|流《なが》しつつ
ウラナイ|教《けう》を|解散《かいさん》し |股肱《ここう》と|頼《たの》む|黒姫《くろひめ》や
|高山彦《たかやまひこ》や|魔我彦《まがひこ》を |伴《ともな》ひ|聖地《せいち》に|立帰《たちかへ》り
|三五教《あななひけう》に|帰順《きじゆん》して |金剛不壊《こんがうふゑ》の|如意宝珠《によいほつしゆ》
|紫色《むらさきいろ》の|宝玉《ほうぎよく》の |其《その》|監督《かんとく》を|命《めい》ぜられ
|鼻高々《はなたかだか》と|諸人《もろびと》を |眼下《がんか》に|見《み》おろす|慢心《まんしん》の
|心《こころ》の|鬼《おに》に|遮《さへぎ》られ |再《ふたた》び|魔道《まだう》へ|逆転《ぎやくてん》し
|執着心《しふちやくしん》を|再発《さいはつ》し |玉《たま》の|在処《ありか》を|探《さぐ》らむと
|西《にし》や|東《ひがし》や|北《きた》|南《みなみ》 |万里《ばんり》の|波濤《はたう》を|乗越《のりこ》えて
|力《ちから》を|尽《つく》す|玉探《たまさが》し |聖地《せいち》を|見捨《みすて》て|遠近《をちこち》と
|彷徨《さまよ》ふ|中《うち》に|竜宮《りうぐう》の |天火水地《てんくわすゐち》と|結《むす》びたる
|麻邇《まに》の|宝珠《ほつしゆ》は|梅子姫《うめこひめ》 |蜈蚣《むかで》の|姫《ひめ》や|黄竜姫《わうりようひめ》
テールス|姫《ひめ》や|友彦《ともひこ》の |五《い》つの|身魂《みたま》に|神業《かむわざ》を
|占領《せんりやう》されて|気《き》を|苛《いら》ち |聖地《せいち》に|帰《かへ》りていろいろと
|怒《いか》りをもらし|駄々《だだ》を|捏《こ》ね |麻邇《まに》の|宝珠《ほつしゆ》の|監督《かんとく》を
おためごかしに|命《めい》ぜられ |八尋《やひろ》の|殿《との》に|現《あら》はれて
|高山彦《たかやまひこ》や|黒姫《くろひめ》と |衆人《しうじん》|環視《くわんし》の|壇上《だんじやう》に
|玉《たま》|検《あらた》めを|始《はじ》めける |此《この》|時《とき》|五《いつ》つの|麻邇《まに》の|玉《たま》
|紫玉《むらさきだま》を|除《のぞ》く|外《ほか》 |残《のこ》りの|四《よつ》つはあら|不思議《ふしぎ》
|珍《うづ》の|宝《たから》と|思《おも》ひきや |見《み》る|価値《かち》もなき|団子石《だんごいし》
|何処《いづこ》の|誰《たれ》が|何時《いつ》の|間《ま》に |摺変《すりか》へたるかと|高姫《たかひめ》は
|口《くち》を|尖《とが》らし|目《め》をみはり |呆《あき》れ|居《ゐ》る|折《をり》|言依別《ことよりわけ》の
|珍《うづ》の|命《みこと》が|宝玉《ほうぎよく》を |抱《いだ》いて|聖地《せいち》を|遁走《とんそう》し
|国依別《くによりわけ》と|諸共《もろとも》に |高砂島《たかさごじま》に|渡《わた》りしと
|聞《き》くより|高姫《たかひめ》|気《き》をいらち |又《また》もや|聖地《せいち》を|立出《たちい》でて
|乗《の》るか|反《そ》るかの|瀬戸《せと》の|波《なみ》 |常彦《つねひこ》、|春彦《はるひこ》|諸共《もろとも》に
|棚無《たなな》し|舟《ぶね》に|身《み》を|任《まか》せ |艪擢《ろかい》を|操《あやつ》り|荒波《あらなみ》を
|乗切《のりき》り|乗切《のりき》り|和田中《わだなか》に |青《あを》く|泛《うか》べる|琉《りう》の|島《しま》
|那覇《なは》の|港《みなと》に|安着《あんちやく》し |常楠翁《つねくすをう》の|住処《すみか》なる
|槻《つき》の|大木《おほぎ》の|洞穴《どうけつ》に |現《あら》はれ|来《きた》り|言依別《ことよりわけ》の
|神《かみ》の|命《みこと》は|琉球《りうきう》の |玉《たま》を|手《て》に|入《い》れ|逸早《いちはや》く
|高砂島《たかさごじま》に|渡《わた》りしと |聞《き》くより|心《こころ》もいら|立《だ》ちて
|再《ふたた》び|舟《ふね》に|身《み》を|任《まか》せ |山《やま》なす|波《なみ》を|乗《の》り|切《き》りて
|大和田中《おほわだなか》に|浮《うか》びたる |高砂島《たかさごじま》に|渡《わた》らむと
|進《すす》み|行《ゆ》くこそ|健気《けなげ》なれ。
|高姫《たかひめ》は|常彦《つねひこ》、|春彦《はるひこ》に|舟《ふね》を|操《あやつ》らせ、|夜《よ》を|日《ひ》に|継《つ》いで、|漸《やうや》くにしてテルの|国《くに》の|山々《やまやま》|仄《ほのか》に|霞《かすみ》の|如《ごと》く|目《め》に|入《い》る|地点《ちてん》まで|漕《こ》ぎ|着《つ》けた。|舟《ふね》は|忽《たちま》ち|暗礁《あんせう》に|乗上《のりあ》げ、メキメキと|粉砕《ふんさい》して|了《しま》つた。|此《この》|頃《ころ》の|海面《かいめん》は|塩分《えんぶん》|最《もつと》も|多《おほ》く、|波《なみ》なき|時《とき》は|海上《かいじやう》と|雖《いへど》も、|直立《ちよくりつ》して|歩《あゆ》むに|僅《わづ》かにこぶらを|没《ぼつ》する|位《くらゐ》で、|水《みづ》の|抵抗力《ていかうりよく》|強《つよ》く、|一里《いちり》|二里《にり》|位《くらゐ》は|容易《ようい》に|徒歩《とほ》にて|渡《わた》る|事《こと》を|得《え》たのである。|併《しか》し|乍《なが》ら、|暴風《ばうふう》|吹《ふ》き|来《きた》り、|波《なみ》|立《た》つ|時《とき》は|忽《たちま》ち|波《なみ》に|包《つつ》まれ、|生命《いのち》を|失《うしな》ふ|危険《きけん》があつた。
|高姫《たかひめ》|一行《いつかう》は|船《ふね》を|破《わ》り、|已《や》むを|得《え》ず、|尻《しり》をからげて|霞《かすみ》の|如《ごと》く|現《あら》はれたるテルの|国《くに》を|目当《めあ》てに|海上《かいじやう》を|徒渉《とせふ》し|始《はじ》めた。|俄《にはか》に|風《かぜ》が|吹《ふ》いて|来《き》た。そろそろ|波《なみ》は|荒《あ》れ|出《だ》した。|酷熱《こくねつ》の|太陽《たいやう》は|焼《や》きつく|如《ごと》く|照《て》り|出《だ》した。|流石《さすが》|大胆不敵《だいたんふてき》の|高姫《たかひめ》も、|到底《たうてい》|此《この》|儘《まま》にては、|高砂島《たかさごじま》に|渡《わた》ることは|出来《でき》ないと、|心中《しんちう》|不安《ふあん》の|念《ねん》に|駆《か》られ、|声《こゑ》を|限《かぎ》りに|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》し|天《あま》の|数歌《かずうた》を|唱《とな》へ、
|高姫《たかひめ》『|国治立大神《くにはるたちのおほかみ》|様《さま》、|神素盞嗚大神《かむすさのをのおほかみ》|様《さま》、|玉照彦《たまてるひこ》|様《さま》、|玉照姫《たまてるひめ》|様《さま》、|言依別神《ことよりわけのかみ》|様《さま》、|時置師神《ときおかしのかみ》|様《さま》、|国依別《くによりわけ》|様《さま》、どうぞ、|此《この》|危難《きなん》をお|助《たす》け|下《くだ》さいませ。|高姫《たかひめ》も|只今《ただいま》|限《かぎ》り|我《が》を|折《を》りまして、あなた|方《がた》の|教《をしへ》|通《どほ》り|堅《かた》く|守《まも》ります』
と|今迄《いままで》|反対側《はんたいがは》に|立《た》つた|役員《やくゐん》の|名《な》まで|呼《よ》び|出《だ》して|祈願《きぐわん》する、|其《その》|心根《こころね》|余程《よほど》|往生《わうじやう》したと|見《み》える。|常彦《つねひこ》、|春彦《はるひこ》は|高姫《たかひめ》の|此《この》|祈《いの》りを|聞《き》いて、|俄《にはか》に|心細《こころぼそ》くなり、|泣《な》き|声《ごゑ》となつて、
『|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》』
と|蚊《か》の|鳴《な》く|様《やう》に|唱《とな》へて|居《ゐ》る。
|折柄《をりから》|波《なみ》を|蹴立《けだ》てて|進《すす》み|来《く》る|高島丸《たかしままる》は、|三人《さんにん》の|波上《はじやう》に|漂《ただよ》ひ|困難《こんなん》の|態《てい》を|見《み》て、|直《ただち》に|船《ふね》を|近寄《ちかよ》せ、これを|救《すく》ひ|上《あ》げた。|高島丸《たかしままる》には|筑紫《つくし》の|国《くに》、|竜宮《りうぐう》の|一《ひと》つ|島《じま》などより|常世《とこよ》の|国《くに》に|渡《わた》らむとする|者《もの》、|殆《ほとん》ど|二百人《にひやくにん》|許《ばか》り|乗込《のりこ》んで|居《ゐ》た。|船長《せんちやう》はタルチールと|云《い》ふ|骨格《こくかく》|秀《すぐ》れた|大《だい》の|男《をとこ》であつた。
|三人《さんにん》は|船長室《せんちやうしつ》に|招《まね》かれて、いろいろと|取調《とりしら》べを|受《う》けた。
|船長《せんちやう》『お|前《まへ》は|何国《どこ》の|方《かた》で、|何《なん》と|云《い》ふお|名前《なまへ》で、|何国《どこ》へ|何用《なによう》あつてお|出《い》でになるのか、|船中《せんちう》の|規則《きそく》として|調《しら》べておかねばなりませぬ。ハツキリと|茲《ここ》で、|国《くに》、|所《ところ》、|姓名《せいめい》、|用向《ようむき》の|次第《しだい》を|仰《おつしや》つて|下《くだ》さい』
|高姫《たかひめ》『ハイ|私《わたし》は|自転倒島《おのころじま》の|中心地《ちうしんち》、|錦《にしき》の|宮《みや》の|八尋殿《やひろどの》に|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》の|頭《かしら》として|奉仕《ほうし》する|変性男子《へんじやうなんし》の|系統《ひつぽう》、|日《ひ》の|出神《でのかみ》の|生宮《いきみや》と|世界《せかい》に|有名《いうめい》な|高姫《たかひめ》で|御座《ござ》います。|人民《じんみん》の|分際《ぶんざい》として、|神《かみ》の|生宮《いきみや》がどこへ|行《ゆ》かうと、|行《ゆ》かうまいと、|別《べつ》に|取調《とりしら》べる|必要《ひつえう》はありますまい。|神《かみ》の|事《こと》は|何程《なにほど》|賢《かしこ》い|人間《にんげん》でも、|到底《たうてい》|見当《けんたう》の|取《と》れぬものですよ』
|船長《せんちやう》『|神様《かみさま》は|神様《かみさま》として、|吾々《われわれ》は|人間《にんげん》としての|高姫《たかひめ》を|監督《かんとく》する|必要《ひつえう》があるから、|其《その》|用向《ようむき》を|尋《たづ》ねて|置《お》くのだ。キツパリ|言《い》つて|貰《もら》はねば|此《この》|船《ふね》に|乗《の》つて|貰《もら》ふことは|出来《でき》ませぬ』
|高姫《たかひめ》『それだから|人間《にんげん》は|困《こま》ると|云《い》ふのだ。|蕪《かぶら》から|菜種《なたね》|迄《まで》|教《をし》へて|上《あ》げねばならぬのかなア。|日《ひ》の|出神《でのかみ》の|生宮《いきみや》が|行《ゆ》く|所《ところ》ならば、|大抵《たいてい》|分《わか》りさうなものだのに…………エー|仕方《しかた》がない、|秘密《ひみつ》を|守《まも》つて|下《くだ》さるなら|申《まを》しませう。|実《じつ》の|所《ところ》は|三五教《あななひけう》の|教主《けうしゆ》|言依別命《ことよりわけのみこと》が、|国依別《くによりわけ》のガンガラ|者《もん》と|大切《たいせつ》な|玉《たま》を|盗《ぬす》み、|高砂島《たかさごじま》へ|逃《に》げて|行《ゆ》きよつた。それ|故《ゆゑ》、|三千世界《さんぜんせかい》の|御宝《おたから》、あの|様《やう》なドハイカラやガンガラ|者《もん》に|持《も》たせておいては、|世《よ》が|乱《みだ》れる|許《ばか》り、いつまでも|五六七《みろく》の|世《よ》は|出《で》て|来《き》は|致《いた》さぬから、|三千世界《さんぜんせかい》の|人民《じんみん》を|助《たす》ける|大慈《だいじ》|大悲《だいひ》の|日《ひ》の|出神《でのかみ》の|生宮《いきみや》が、|其《その》|玉《たま》を|取返《とりかへ》さむと、|神変《しんぺん》|不思議《ふしぎ》の|術《じゆつ》を|使《つか》ひ、|自転倒島《おのころじま》よりはるばると、|舟《ふね》にも|乗《の》らず、|二人《ふたり》の|家来《けらい》を|引《ひ》き|連《つ》れ、|波《なみ》の|上《うへ》を|渡《わた》つて|来《き》た|生神《いきがみ》の|高姫《たかひめ》で|御座《ござ》る。お|前《まへ》も|此《この》|高姫《たかひめ》の|因縁《いんねん》|性来《しやうらい》が、|言《い》うて|貰《もら》はねば|分《わか》らぬような|事《こと》で、|如何《どう》して|船長《せんちやう》が|勤《つと》まりますか。これから|此《この》|生宮《いきみや》の|云《い》ふ|事《こと》を|聞《き》いて、|宏大《くわうだい》なる|神徳《しんとく》を|頂《いただ》きなさい。|際限《さいげん》もなき|万里《ばんり》の|波濤《はたう》を|乗越《のりこ》える|船頭《せんどう》としては、チツと|神力《しんりき》がないと、|大勢《おほぜい》の|人間《にんげん》の|生命《いのち》を|預《あづか》つて|海《うみ》を|渡《わた》ると|云《い》ふ|事《こと》は|中々《なかなか》|荷《に》が|重《おも》たい。|何程《なにほど》|人間《にんげん》が|力《ちから》がありたとて、|智慧《ちゑ》がありたとて、|神力《しんりき》には|叶《かな》はぬから、|早《はや》く|我《が》を|折《を》つて|改心《かいしん》なさるが|宜《よろ》しいぞや』
|船長《せんちやう》|口《くち》を|尖《とが》らし、
『コリヤ|高姫《たかひめ》とやら、|吾々《われわれ》を|罪人扱《ざいにんあつかひ》に|致《いた》し、|改心《かいしん》せよとはチツと|無礼《ぶれい》ではないか。|改心《かいしん》と|云《い》ふ|言葉《ことば》は、|悪人《あくにん》や|罪人《つみびと》に|対《たい》して、|審判司《さばきつかさ》の|申《まを》すべき|言葉《ことば》であるぞよ。|汝《なんぢ》|如《ごと》きに|改心《かいしん》|呼《よ》ばはりをされる|様《やう》な|汚《けが》れたタルチールでは|御座《ござ》らぬぞ。|余《あま》りな|無礼《ぶれい》を|申《まを》すと、|了見《りやうけん》|致《いた》さぬ』
と|稍《やや》|怒気《どき》を|含《ふく》み、|顔色《かほいろ》を|変《か》へて|大声《おほごゑ》に|呶鳴《どな》り|立《た》てた。
|高姫《たかひめ》『コレ|船頭《せんどう》、お|前《まへ》は|高姫《たかひめ》の|言葉《ことば》がお|気《き》に|入《い》りませぬか、|腹《はら》が|立《た》ちますか、|神様《かみさま》の|御戒《おいまし》めに、|怒《いか》る|勿《なか》れと|云《い》ふ|事《こと》が|御座《ござ》いますぞや。|怒《いか》ると|云《い》ふ|事《こと》は|最《もつと》も|神界《しんかい》より|見《み》れば|重《おも》き|罪《つみ》で|御座《ござ》いますぞ。お|前《まへ》は|現《げん》に|今《いま》、|怒《おこ》つた|顔《かほ》をして|尖《とが》つた|声《こゑ》を|出《だ》し、|神界《しんかい》の|罪《つみ》を|犯《おか》した|罪人《ざいにん》です。それ|故《ゆゑ》|改心《かいしん》をなされと|高姫《たかひめ》が|云《い》つたのだよ。ヘン………コレでも|返答《へんたふ》が|出来《でき》るならして|見《み》なさい。そんな|高《たか》い|声《こゑ》をしておどしたつて、いつかな いつかな、ビクつく|様《やう》な|日《ひ》の|出神《でのかみ》の|生宮《いきみや》とは|違《ちが》ひますぞえ。ヘン……』
と|鼻《はな》を|手《て》の|甲《かふ》でこすり|上《あ》げ|乍《なが》ら|嘲笑《あざわら》ふ。
|船長《せんちやう》『コリヤ コリヤ|其《その》|方《はう》は|此《この》|高姫《たかひめ》の|同行者《どうかうしや》であらうなア』
|両人《りやうにん》『ハイ|仰《あふ》せの|通《とほ》りで|御座《ござ》います。|何《なに》を|云《い》つても、|高姫《たかひめ》さまは、|逆上《ぎやくじやう》して|居《を》りますから、どうぞお|気《き》に|障《さ》へないでゐて|下《くだ》さいませ。|吾々《われわれ》|両人《りやうにん》は|側《そば》に|聞《き》いて|居《ゐ》ても、ハラハラ|致《いた》します。|否《いや》|腹《はら》が|立《た》つて|来《き》ます。|況《ま》してやあなた|様《さま》のお|腹立《はらだち》は|御尤《ごもつと》もと|存《ぞん》じます』
|船長《せんちやう》『あゝさうだらう。|何《なん》でも|一通《ひととほ》りではないと|思《おも》つた。|余程《よほど》|変《かは》つてゐさうだなア』
|高姫《たかひめ》『ヘン、そりや|何《なに》を|仰有《おつしや》るのだ。|変《かは》つて|居《を》らいで|何《なん》とせう。|日《ひ》の|出神《でのかみ》の|生宮《いきみや》とガラクタ|人間《にんげん》と|一緒《いつしよ》にしられてたまるものか。|凡夫《ぼんぷ》の|目《め》から|神様《かみさま》を|見《み》れば、そりやモウ|変《かは》つた|様《やう》に|見《み》えるのは|当前《あたりまへ》だ。|一通《ひととほり》でないなんて、|能《よ》うマアそんな|馬鹿《ばか》な|事《こと》が|云《い》へたものだ。|一通《ひととほり》や|二通《ふたとほり》|所《どころ》か、|神《かみ》の|階級《かいきふ》は|百八十一通《ひやくはちじふひととほり》ある。そして|其《その》|一番《いちばん》|上《うへ》の|大神《おほかみ》こそ|天御中主大神《あめのみなかぬしのおほかみ》、|又《また》の|御名《みな》は|大国治立尊《おほくにはるたちのみこと》と|云《い》つて、|始《はじめ》|無《な》く|終《をはり》なく、|無限絶対《むげんぜつたい》|独一《どくいち》の|誠《まこと》の|独《ひと》り|神様《かみさま》だ。|其《その》|次《つぎ》には|国治立尊《くにはるたちのみこと》、|其《その》|次《つぎ》には|日《ひ》の|出神《でのかみ》、それから|段々《だんだん》と|枝《えだ》の|神《かみ》があり、|人民《じんみん》は|神《かみ》の|次《つぎ》だ。|百八十通《ひやくはちじふとほ》りも|隔《へだ》てがあるのだよ。さうだからテンデお|前達《まへたち》は、|此《この》|日《ひ》の|出神《でのかみ》の|申《まを》すことが|分《わか》らぬのだ。|人民《じんみん》は|人民《じんみん》らしくおとなしく|致《いた》して|神《かみ》に|口答《くちごた》へを|致《いた》すでないぞや。コレ|船長殿《せんちやうどの》、|此《この》|生宮《いきみや》の|申《まを》すこと、チツとは|御合点《ごがつてん》が|参《まゐ》りましたかなア』
|船長《せんちやう》『|常彦《つねひこ》、|春彦《はるひこ》の|両人《りやうにん》、お|前《まへ》さまは|此《この》|女《をんな》を|如何《どう》|考《かんが》へてゐますか。|随分《ずゐぶん》エライのぼせ|方《かた》だ。まだ|高砂島《たかさごじま》へは|三日《みつか》や|五日《いつか》では|到着《たうちやく》するのは|六《む》つかしい。|海《うみ》へでも|飛《と》び|込《こ》まれては|大変《たいへん》だから、|一《ひと》つ|手足《てあし》をしばり、|頭《あたま》から|水《みづ》でもかけておくか、|頭《あたま》のてつぺんに|穴《あな》でもあけて、|逆《さか》さまに|吊《つ》り|下《さ》げ、|少《すこ》し|血《ち》でも|抜《ぬ》いてやらねば、|此《この》|病気《びやうき》は|本復《ほんぷく》|致《いた》すまい。お|前達《まへたち》|二人《ふたり》は|此《この》|船《ふね》に|乗《の》つた|以上《いじやう》は、|何事《なにごと》も|船長《せんちやう》の|命令《めいれい》をきかねばならないのだから、お|前《まへ》の|手《て》で|此《この》|高姫《たかひめ》を|縛《しば》り|上《あ》げ、|船底《ふなぞこ》へ|伴《つ》れて|往《い》つて|呉《く》れ。|吾々《われわれ》もついて|往《い》つて|血《ち》を|出《だ》して|逆上《のぼせ》を|引下《ひきさ》げてやるから……』
|常彦《つねひこ》、|春彦《はるひこ》は|驚《おどろ》いて、
|両人《りやうにん》『モシモシ|船長様《せんちやうさま》、|此《この》|高姫《たかひめ》には|吾々《われわれ》|両人《りやうにん》が|附添《つきそ》ひ、|決《けつ》して|御迷惑《ごめいわく》になる|様《やう》な|事《こと》は|致《いた》させませぬから、|頭《あたま》を|割《わ》つて|血《ち》を|出《だ》したり、|縛《しば》り|上《あ》げる|事《こと》|丈《だけ》は|何卒《どうぞ》|許《ゆる》して|下《くだ》さいませ』
|船長《せんちやう》『…………』
|高姫《たかひめ》パツと|怒《いか》り、
『|盲《めくら》の|垣覗《かきのぞ》き、|猫《ねこ》に|小判《こばん》とはお|前《まへ》のことだ。|此《この》|生宮《いきみや》は|金鉄《きんてつ》も|同様《どうやう》、|指一本《ゆびいつぽん》|触《さ》へることは|出来《でき》ませぬぞ。|勿体《もつたい》ない、|日《ひ》の|出神《でのかみ》|様《さま》の|生宮《いきみや》を、|仮令《たとへ》|蚤《のみ》の|口《くち》|程《ほど》でも|傷《きず》つけてみよれ。|神《かみ》の|御立腹《ごりつぷく》は|忽《たちま》ち、|此《この》|船《ふね》は|瞬《またた》く|間《うち》に|岩《いは》に|打《ぶ》つかり|沈没《ちんぼつ》|致《いた》し、|日《ひ》の|出神《でのかみ》に|敵対《てきと》うた|者《もの》は|海《うみ》の|底《そこ》へ|突落《つきおと》され、|真心《まごころ》になつて|頼《たの》んだ|人民《じんみん》は、|天《てん》から|抓《つま》み|上《あ》げて、|善悪《ぜんあく》の|立別《たてわ》けをハツキリ|致《いた》して|見《み》せるぞや』
|船長《せんちやう》『ヤア|此奴《こいつ》は|如何《どう》しても|駄目《だめ》だ。……|常彦《つねひこ》、|春彦《はるひこ》、お|前《まへ》は|今迄《いままで》|先生《せんせい》と|仰《あふ》いで|来《き》たのだから、|何程《なにほど》|船長《せんちやう》の|命令《めいれい》でも、|高姫《たかひめ》を|縛《しば》る|訳《わけ》には|行《ゆ》くまい、|師弟《してい》の|情《じやう》として|無理《むり》もない。これから|此《この》タルチールが|直接《ちよくせつ》に|荒料理《あられうり》をしてやるから、お|前達《まへたち》|両人《りやうにん》は、|下《した》の|船室《せんしつ》に|控《ひか》へて|居《を》れ』
|高姫《たかひめ》『コレコレ|常《つね》、|春《はる》、|日《ひ》の|出神《でのかみ》の|生宮《いきみや》を、チツとの|間《あひだ》も、|目放《めはな》し|致《いた》すことはならぬぞや。|此《この》|肉体《にくたい》は、|尊《たふと》き|神《かみ》のお|役《やく》に|立《た》てねばならぬ|系統《ひつぽう》の|生宮《いきみや》だ。|船長《せんちやう》に|付《つ》くか、|日《ひ》の|出神《でのかみ》に|従《つ》くか。サア|二《ふた》つに|一《ひと》つの|返答《へんたふ》を|承《うけたまは》りませう』
|船長《せんちやう》は『エー|面倒《めんだう》』と|強力《がうりき》に|任《まか》せ、|高姫《たかひめ》を|後手《うしろで》に|縛《しば》り、|両足《りやうあし》を|括《くく》り、|太繩《ふとなは》を|帆柱《ほばしら》にかけ、キリキリと|絞《しぼ》り|出《だ》した。|高姫《たかひめ》は|足《あし》を|空《そら》に|頭《あたま》を|下《した》にした|儘《まま》、チクチク|帆柱《ほばしら》|目《め》がけて|吊《つ》り|上《あ》げられた。|常《つね》、|春《はる》の|両人《りやうにん》は|地団駄《ぢだんだ》ふんで、ワイワイと|泣《な》き|叫《さけ》ぶ。
|此《この》|船《ふね》に|折《をり》よくも|乗《の》つてゐた|言依別《ことよりわけ》、|国依別《くによりわけ》の|宣伝使《せんでんし》は|慌《あわて》て|此《この》|場《ば》に|走《はし》り|来《きた》り、|船長《せんちやう》に|何事《なにごと》か|目配《めくば》せした。|船長《せんちやう》は|驚《おどろ》いた|様《やう》な|顔《かほ》して、|慇懃《いんぎん》に|腰《こし》を|屈《かが》め、|直《ただち》に|高姫《たかひめ》を|吊《つ》りおろした。|常彦《つねひこ》、|春彦《はるひこ》の|両人《りやうにん》は、|余《あま》りの|事《こと》に|肝《きも》を|潰《つぶ》し、|此《この》|場《ば》に|言依別《ことよりわけ》、|国依別《くによりわけ》の|現《あら》はれ|来《きた》りし|事《こと》に|気《き》がつかなかつた。|高姫《たかひめ》も|亦《また》|苦《くる》しさに|両人《りやうにん》の|現《あら》はれて|吾《わ》れを|助《たす》けて|呉《く》れたる|事《こと》をチツとも|知《し》らなかつた。
|船長《せんちやう》のタルチールは、|言依別命《ことよりわけのみこと》、|国依別《くによりわけ》の|時々《ときどき》の|説教《せつけう》を|聞《き》き、スツカリと|三五教《あななひけう》の|信者《しんじや》となり、|言依別《ことよりわけ》の|高弟《かうてい》となつて、|既《すで》に|宣伝使《せんでんし》の|職名《しよくめい》を|与《あた》へられてゐた。それ|故《ゆゑ》タルチールは|言依別命《ことよりわけのみこと》を|高砂島《たかさごじま》へ|送《おく》り|届《とど》けると|共《とも》に、|自分《じぶん》は|宣伝使《せんでんし》となつて、|高砂島《たかさごじま》や|常世《とこよ》の|国《くに》を|宣伝《せんでん》すべく|決心《けつしん》してゐたのである。さうして|高姫《たかひめ》の|事《こと》も|略《ほぼ》、|国依別《くによりわけ》より|聞《き》かされてゐた。
|言依別《ことよりわけ》、|国依別《くによりわけ》は|手早《てばや》く|船長《せんちやう》の|寝室《しんしつ》の|間《ま》に|姿《すがた》を|隠《かく》した。|船長《せんちやう》も|亦《また》|言依別命《ことよりわけのみこと》に|従《したが》ひ、おのが|寝室《しんしつ》に|這入《はい》つて、|三人《さんにん》|鼎座《ていざ》し、|高姫話《たかひめばなし》に|時《とき》を|遷《うつ》した。
(大正一一・八・一〇 旧六・一八 松村真澄録)
第二〇章 |鉈理屈《なたりくつ》〔八二〇〕
|常彦《つねひこ》、|春彦《はるひこ》は|驚《おどろ》いて、|高姫《たかひめ》の|縛《いましめ》を|解《と》き、|抱起《だきおこ》し、
|常彦《つねひこ》『|先生《せんせい》、どうも|御座《ござ》いませなんだが、|大変《たいへん》な|危《あぶ》ないこつて|御座《ござ》いました。モウどうぞこれから|船《ふね》の|中《なか》は、|云《い》ひたい|事《こと》があつても|仰有《おつしや》らずに|辛抱《しんばう》して|居《ゐ》て|下《くだ》さいませ。|両人《りやうにん》が|御願《おねがひ》|致《いた》します』
|高姫《たかひめ》『お|前達《まへたち》はそれだから|腰抜《こしぬけ》といふのだよ。|三千世界《さんぜんせかい》を|団子《だんご》にせうと|餅《もち》にせうと、|三角《さんかく》にせうと、|四角《しかく》にせうと、|自由自在《じいうじざい》に|遊《あそ》ばす|国治立尊《くにはるたちのみこと》の|片腕《かたうで》とお|成《な》り|遊《あそ》ばす|日《ひ》の|出神《でのかみ》|様《さま》の|生宮《いきみや》、たかの|知《し》れた|高島丸《たかしままる》の|船頭《せんどう》|位《くらゐ》に|尾《を》を|巻《ま》いてなるものか、ヘン|余《あんま》り|見損《みぞこな》ひをして|下《くだ》さるなや。お|前等《まへら》は|丁度《ちやうど》|猫《ねこ》に|小判《こばん》を|見《み》せた|様《やう》なものだ。|小判《こばん》よりもダイヤモンドよりも|立派《りつぱ》な|光《ひかり》の|強《つよ》い、|日《ひ》の|出神《でのかみ》の|此《この》|生宮《いきみや》を|何《なん》と|心得《こころえ》て|御座《ござ》る。チツと|確《しつか》りなさらぬか。|神様《かみさま》が|吾々《われわれ》を|御守護《ごしゆご》をして|御座《ござ》る|以上《いじやう》は、|仮令《たとへ》|船頭《せんどう》の|百人《ひやくにん》や|千人《せんにん》、|束《たば》になつて|来《き》た|所《ところ》で、|指一本《ゆびいつぽん》さへさす|様《やう》な|高姫《たかひめ》ぢやありませぬぞえ』
|春彦《はるひこ》『それでも|貴女《あなた》、タルチールさまに|後手《うしろで》に|縛《しば》られ、|帆柱《ほばしら》へ|逆《さか》さまにして|吊《つ》り|上《あ》げられたぢやありませぬか』
|高姫《たかひめ》『|何《なん》とマア、|身魂《みたま》の|曇《くも》つた|者《もの》は、|御神徳《おかげ》の|頂《いただ》きようが|拙劣《へた》だから|困《こま》りますワイ。|日《ひ》の|出神《でのかみ》の|生宮《いきみや》が|一寸《ちよつと》|高砂島《たかさごじま》の|様子《やうす》を|見《み》やうと|思《おも》ひ、タルチールを|御用《ごよう》に|立《た》てて、|帆柱《ほばしら》の|上《うへ》まで|手《て》も|使《つか》はず、|足《あし》も|労《らう》せず、エレベータ|式《しき》に|上《あ》げさしたのだよ。|何《なん》でも|人《ひと》は|神直日《かむなほひ》|大直日《おほなほひ》に|見直《みなほ》し|聞直《ききなほ》し、|善意《ぜんい》に|解釈《かいしやく》しなくてはなりませぬぞや。それが|日《ひ》の|出神《でのかみ》さまの|水《みづ》も|洩《も》らさぬ|結構《けつこう》なお|仕組《しぐみ》、それだから|何時《いつ》も|身魂《みたま》を|研《みが》き|改心《かいしん》をなされと、|耳《みみ》が|蛸《たこ》になる|程《ほど》|云《い》うて|居《ゐ》るのだよ。タルチールの|奴《やつ》たうとう、|日《ひ》の|出神《でのかみ》の|御光《ごくわう》に|恐《おそ》れて、どつかへ|鼠《ねずみ》の|様《やう》に|隠《かく》れて|了《しま》つた』
|常彦《つねひこ》『|私《わたし》は|余《あま》り|感心《かんしん》して|目《め》も|碌《ろく》に|見《み》えず、ハツキリした|事《こと》は|分《わか》りませぬが、|何《なん》でも|立派《りつぱ》なお|方《かた》が|二人《ふたり》|現《あら》はれて、|船頭《せんどう》さまに|何《なに》か|言《い》ひつけられたと|思《おも》へば、|船頭《せんどう》は|匆惶《さうくわう》として|綱《つな》をゆるめ、あなたを|吊《つ》りおろして、どつかへ|隠《かく》れましたよ』
|高姫《たかひめ》『サアさうだから、|高姫《たかひめ》は|神《かみ》の|生宮《いきみや》と|云《い》ふのだ。|船頭《せんどう》の|奴《やつ》、|帆柱《ほばしら》の|上《うへ》へ|吊《つ》りあげて|見《み》た|所《ところ》、|余《あま》り|日《ひ》の|出神《でのかみ》の|御光《ごくわう》がきつうて、|目《め》が|眩《くら》みさうになり、お|客《きやく》までが|目舞《めまひ》が|来《き》さうなので|代表者《だいへうしや》が|二人《ふたり》やつて|来《き》て、|船頭《せんどう》に|掛合《かけあ》ひ、|其《その》|為《ため》に|止《や》むを|得《え》ずおろしよつたのだ。そこが|所謂《いはゆる》|神《かみ》の|御神力《ごしんりき》、|御都合《ごつがふ》ある|所《ところ》だ。こんな|水《みづ》も|洩《も》らさぬ|仕組《しぐみ》が、お|前達《まへたち》に|分《わか》つて|堪《たま》るものかい』
|常彦《つねひこ》『オイ|春彦《はるひこ》、|何《なん》とマア|剛情《がうじやう》な|先生《せんせい》だないか。|今日《けふ》と|云《い》ふ|今日《けふ》は|俺《おれ》も|本当《ほんたう》に|呆《あき》れて|了《しま》つたよ。こんな|人《ひと》の|弟子《でし》だと|思《おも》はれたら、それこそ|無事《ぶじ》に|高砂島《たかさごじま》へ|着《つ》く|事《こと》は|出来《でき》やしないぞ。|大陸《たいりく》へ|上《あが》つてからなら、はしやぎなりと、|法螺吹《ほらふ》くなりと、|如何《どう》なつと、|高姫《たかひめ》さまの|勝手《かつて》になさつてもよいが、こんな|所《ところ》で|分《わか》りきつた|負惜《まけをし》みを|出《だ》し、へらず|口《ぐち》を|叩《たた》き、|船長《せんちやう》に|憎《にく》まれたら|大変《たいへん》だぞ。コりや|茲《ここ》で|一《ひと》つ|高姫《たかひめ》|様《さま》にお|願《ねがひ》|申《まを》して、|師弟《してい》の|縁《えん》を|切《き》つて|貰《もら》ひ、アカの|他人《たにん》となつて|了《しま》はうぢやないか。|心《こころ》の|底《そこ》から|切《き》つて|頂《いただ》かうと|云《い》ふのぢやない。|此《この》|船《ふね》の|上《うへ》だけ、|表面的《へうめんてき》に|切《き》つて|貰《もら》ひたいのぢや』
|春彦《はるひこ》『それは|至極《しごく》|妙案《めうあん》だ。|直様《すぐさま》|高姫《たかひめ》|様《さま》にお|願《ねがひ》|致《いた》さうぢやないか』
|常彦《つねひこ》『|春彦《はるひこ》と|私《わたし》との|御願《おねがひ》で|御座《ござ》います。|暫《しばら》くあなたと|師弟《してい》の|関係《くわんけい》を|絶《た》つて|下《くだ》さいませぬか。それも|表面《へうめん》|丈《だけ》で、|高砂島《たかさごじま》へ|無事《ぶじ》に|着《つ》いたならば、|又《また》|元《もと》の|通《とほ》りに|使《つか》つて|下《くだ》さい。さうせないと|険呑《けんのん》で|堪《たま》りませぬから……』
|高姫《たかひめ》『|帳《ちやう》を|切《き》つてくれと|云《い》ふのかい。お|前《まへ》の|方《はう》から|言《い》はいでも、|高姫《たかひめ》の|方《はう》からお|前《まへ》の|様《やう》なガラクタの|弱虫《よわむし》は、|足手纏《あしでまと》ひになつて|困《こま》つて|居《を》つたのだ。|一時《いつとき》も|早《はや》くうるさいから、|縁《えん》を|切《き》らうと|思《おも》うたけれど、|此《この》|高姫《たかひめ》に|見放《みはな》されたが|最後《さいご》、|乞食《こじき》|一《ひと》つよう|致《いた》さぬ、|奴甲斐性《どかひしやう》なしだから、|可哀相《かはいさう》と|思《おも》つて|今《いま》まで|助《たす》けて|来《き》たのだ。お|前《まへ》の|方《はう》から|暇《ひま》くれと|云《い》ふのなら、こつちは|得手《えて》に|帆《ほ》だ。|万劫末代《まんごふまつだい》|帳《ちやう》を|切《き》るから、|二度《にど》と|再《ふたた》び|高姫《たかひめ》の|目《め》に|障《さは》る|所《ところ》に|居《を》つて|下《くだ》さるな。ガラクタ|野郎《やらう》|奴《め》、あゝ|盲万人《めくらまんにん》|目明《めあ》き|一人《ひとり》とはよくも|言《い》うたものだ。|高姫《たかひめ》の|真《まこと》の|力《ちから》を|知《し》つて|呉《く》れる|者《もの》は|此《この》|広《ひろ》い|世界《せかい》に|日《ひ》の|出神《でのかみ》|様《さま》ばつかりだ。|人民《じんみん》を|相手《あひて》にする|位《くらゐ》うるさいものはないワイ。サア|常《つね》、|春《はる》の|両人《りやうにん》、|早《はや》くどつかへ|行《ゆ》きなさらぬか。|名残《なごり》|惜《をし》さうに、|男《をとこ》らしうもない、|何《なに》マゴマゴして|居《を》るのだ、エヽ』
と|頬《ほほ》をプツと|膨《ふく》らし、|体《からだ》を|角《かく》に|振《ふ》つて|甲板《かんばん》の|上《うへ》を|二《ふた》つ|三《み》つ|強《つよ》く|踏《ふ》みならし、|二三遍《にさんぺん》くるりと|廻《まは》つて|見《み》せた。
|常彦《つねひこ》『モシモシ|高姫《たかひめ》|様《さま》、さう|怒《おこ》つて|貰《もら》つては|堪《たま》りませぬ。ホンの|二三日《にさんにち》の|間《あひだ》、|表《おもて》むき|丈《だけ》お|暇《ひま》を|下《くだ》されとお|願《ねがひ》して|居《を》るので|御座《ござ》います……なア|春彦《はるひこ》、お|前《まへ》もさうだろう』
|春彦《はるひこ》『さうだとも、|高姫《たかひめ》さまに|見《み》すてられて、|俺達《おれたち》は|如何《どう》なるものか。どうぞ|高姫《たかひめ》|様《さま》さう|短気《たんき》を|出《だ》さずに、|吾々《われわれ》の|申《まを》す|事《こと》を|善意《ぜんい》に|解釈《かいしやく》して|下《くだ》さいませ』
|高姫《たかひめ》『|仮令《たとへ》|一日《いちにち》でも|縁《えん》を|切《き》つたが|最後《さいご》、アカの|他人《たにん》ぢや。|三日《みつか》や|五日《いつか》の|間《あひだ》|縁《えん》|切《き》るのは|邪魔《じやま》|臭《くさ》い。|万劫末代《まんごふまつだい》|序《ついで》に|五六七《みろく》の|世《よ》の|末《すゑ》|迄《まで》|縁《えん》を|切《き》りますぞや。お|前《まへ》の|様《やう》な|蛆虫《うじむし》がたかつて|居《ゐ》ると、そこら|中《ぢう》がムザムザして|気分《きぶん》が|悪《わる》い。あゝこれで|病晴《やまひは》れがしたやうだ。|縁《えん》|切《き》つた|以上《いじやう》は、|師匠《ししやう》でも|弟子《でし》でもない。どうぞ|早《はや》う、どつこへなりと|姿《すがた》を|隠《かく》して|下《くだ》さい。|見《み》ても|厭《いや》らしい、|胸《むね》が|悪《わる》うなる』
|常彦《つねひこ》『|高姫《たかひめ》|様《さま》、|一時《いつとき》も|早《はや》う、|姿《すがた》を|隠《かく》せとか、|厭《いや》らしいとか、|胸《むね》が|悪《わる》いとか、|丸《まる》で|座敷《ざしき》へ|青大将《あをだいしやう》が|這《は》うて|来《き》た|様《やう》な|事《こと》を|仰有《おつしや》いますなア』
|高姫《たかひめ》『きまつた|事《こと》だよ、お|前《まへ》は|本当《ほんたう》の|阿呆大将《あはうだいしやう》だ。グヅグヅしてをると、|線香《せんかう》を|立《た》ててくすべますぞ。あゝ|面倒《めんだう》|臭《くさ》い、|一昨日《おととひ》|来《こ》い|一昨日《おととひ》|来《こ》い』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら、|歯《は》のぬけた|口《くち》から、ブツブツと、|唾《つばき》を|矢《や》たらに、|両人《りやうにん》に|向《むか》つて|吹《ふ》きかける。
|春彦《はるひこ》『|蛛蜘《くも》か|何《なん》ぞの|様《やう》に|一昨日《おととひ》|来《こ》いとは、そりや|余《あんま》りぢやありませぬか』
|高姫《たかひめ》『お|前《まへ》は|蜘蛛《くも》だよ。|一寸先《いつすんさき》の|見《み》えぬ|暗雲《やみくも》の|雲助《くもすけ》だ。|今迄《いままで》|高姫《たかひめ》のおかげで、|結構《けつこう》な|神様《かみさま》の|御用《ごよう》をして|威張《ゐば》つて|来《き》たが、|今日《けふ》|限《かぎ》り|高姫《たかひめ》から|縁《えん》を|切《き》られたが|最後《さいご》、|雲助《くもすけ》にでもならねば|仕方《しかた》がないぢやないか。|何程《なにほど》|平《ひら》た|蜘蛛《くも》になつて|謝《あやま》つても、|苦悶《くもん》しても|駄目《だめ》ですよ。オツホヽヽヽ』
|常彦《つねひこ》は|稍《やや》|顔色《かほいろ》を|赤《あか》らめ、
|常彦《つねひこ》『|高姫《たかひめ》さま、|吾々《われわれ》は|決《けつ》して|貴女《あなた》の|弟子《でし》ではありませぬよ。|言依別命《ことよりわけのみこと》の|教主《けうしゆ》から|立派《りつぱ》な|宣伝使《せんでんし》を|命《めい》ぜられて|居《ゐ》る|者《もの》、|言《い》はばあなたと|同格《どうかく》だ。|併《しか》し|乍《なが》ら|長幼《ちやうえう》の|序《じよ》を|守《まも》り、|先輩《せんぱい》の|貴女《あなた》を|師匠《ししやう》と、|義務上《ぎむじやう》から|尊敬《そんけい》して|居《を》る|丈《だけ》の|者《もの》、|弟子扱《でしあつかひ》をしておき|乍《なが》ら、|帳《ちやう》を|切《き》るも|切《き》らぬも|有《あ》るものか。グヅグヅ|仰有《おつしや》ると、|私《わたし》の|方《はう》から|絶交《ぜつかう》|致《いた》しますよ……なア|春彦《はるひこ》、お|前《まへ》もさうぢやないか』
|春彦《はるひこ》『さう|聞《き》けばさうだ。モシ|高姫《たかひめ》さま、|誠《まこと》にお|気《き》の|毒《どく》|乍《なが》ら、|只今《ただいま》|限《かぎ》り|貴女《あなた》と|万劫末代《まんがふまつだい》、|五六七《みろく》の|世《よ》の|末《すゑ》|迄《まで》|縁《えん》をきりますから、|否《いや》|絶交《ぜつかう》しますから、|厭《いや》らしい……|阿呆《あほう》|臭《くさ》いから|早《はや》く|何処《どこ》かへ|姿《すがた》を|隠《かく》して|下《くだ》さい。|渋《しぶ》たうして|御座《ござ》ると|線香《せんかう》を|立《た》てますぞ。アハヽヽヽ』
|高姫《たかひめ》『それもよからう。|併《しか》し|乍《なが》ら、|高姫《たかひめ》との|交際《かうさい》は|絶《た》つても、|日《ひ》の|出神《でのかみ》|様《さま》に|離《はな》れる|事《こと》は|出来《でき》ますまい』
|常彦《つねひこ》『|尤《もつと》も、|日《ひ》の|出神《でのかみ》|様《さま》には|絶対服従《ぜつたいふくじゆう》ですから、|誰《たれ》が|何《なん》と|云《い》つても|離《はな》れは|致《いた》しませぬ。|春彦《はるひこ》、お|前《まへ》もさうだらうなア』
|春彦《はるひこ》『|勿論《もちろん》の|事《こと》だ』
|高姫《たかひめ》『それ|御覧《ごらん》、ヤツパリさうすると、|日《ひ》の|出神《でのかみ》の|生宮《いきみや》の|高姫《たかひめ》には|絶対服従《ぜつたいふくじゆう》をせなくてはなりますまい』
|常彦《つねひこ》『|誠《まこと》の|日《ひ》の|出神《でのかみ》|様《さま》には|服従《ふくじゆう》しますが、|俄作《にはかづく》りの|自称《じしよう》|日《ひ》の|出神《でのかみ》には|絶対服従《ぜつたいふくじゆう》|致《いた》しませぬ。|言依別《ことよりわけ》の|教主《けうしゆ》に|玉《たま》を|隠《かく》されて、|隠《かく》され|場所《ばしよ》が|分《わか》らいで、|世界中《せかいぢう》うろつき|廻《まは》る|日《ひ》の|出神《でのかみ》さまなら、|余《あんま》り|立派《りつぱ》な|身魂《みたま》でもあるまい。|日《ひ》の|出《で》|所《どころ》か、|真暗《まつくら》がりのまつくろ|黒助《くろすけ》の|身魂《みたま》が|憑《うつ》つてゐる|肉《にく》の|宮《みや》の|鼻《はな》の|高姫《たかひめ》さま、|誰《たれ》が|馬鹿《ばか》らしい。|服従《ふくじゆう》する|者《もの》がありますか。|自惚《うぬぼれ》も|良《い》い|加減《かげん》にしておいたが|宜《よろ》しからうぜ。アツハヽヽヽ』
|高姫《たかひめ》『|常彦《つねひこ》の|結構《けつこう》な|宣伝使《せんでんし》|様《さま》、|春彦《はるひこ》の|結構《けつこう》な|結構《けつこう》なデモ|宣伝使《せんでんし》さま、|勝手《かつて》にホラを|吹《ふ》き、|勝手《かつて》に|自惚《うぬぼれ》ておきなさい。|左様《さやう》なら』
と|体《からだ》をしやくり|乍《なが》ら、|足音《あしおと》|荒《あら》く、|次《つぎ》の|船室《せんしつ》に|姿《すがた》を|隠《かく》して|了《しま》つた。
|常彦《つねひこ》は|甲板《かんばん》の|上《うへ》に|立《た》ち、|春彦《はるひこ》と|手《て》をつなぎ|高姫《たかひめ》の|去《さ》つた|後《あと》で、いろいろと|高姫話《たかひめばなし》に|耽《ふけ》り|乍《なが》ら、|焼糞《やけくそ》になつて、|海風《うなかぜ》に|向《むか》ひ|歌《うた》ひ|出《だ》した。
|常彦《つねひこ》『|日《ひ》の|出神《でのかみ》の|生宮《いきみや》か |系統《ひつぽう》の|身魂《みたま》か|知《し》らね|共《ども》
|自負心《じふしん》|強《つよ》い|鼻高《はなだか》の |男女郎《をとこめろう》の|高姫《たかひめ》に
|甘《うま》い|事《こと》づくめにたらされて |結構《けつこう》な|結構《けつこう》な|自転倒島《おのころ》の
|秀妻《ほつま》の|国《くに》の|中心地《ちうしんち》 |錦《にしき》の|宮《みや》を|後《あと》にして
|遠《とほ》き|山坂《やまさか》|打渡《うちわた》り |命《いのち》を|的《まと》に|海原《うなばら》の
|荒波《あらなみ》わけて|琉球《りうきう》の |島《しま》に|漸《やうや》く|上陸《じやうりく》し
|言依別《ことよりわけ》や|国依別《くによりわけ》の |神《かみ》の|命《みこと》の|後《あと》を|追《お》ひ
|執念深《しふねんぶか》くも|麻邇《まに》の|玉《たま》 |高姫《たかひめ》さまの|手《て》に|入《い》れて
|人《ひと》も|羨《うらや》む|神業《しんげふ》に |奉仕《ほうし》せむとて|両人《りやうにん》が
|慾《よく》の|皮《かは》をば|引《ひつ》ぱり|乍《なが》ら |可愛《かあい》い|女房《にようばう》をふりすてて
ここまで|来《き》たのが|馬鹿《ばか》らしい |琉球《りうきう》の|島《しま》へ|来《き》て|見《み》れば
|言依別《ことよりわけ》の|神《かみ》さまは |琉《りう》と|球《きう》との|宝玉《ほうぎよく》を
すでに|受取《うけと》り|国依別《くによりわけ》と |小舟《こぶね》に|乗《の》つて|高砂《たかさご》の
|島《しま》に|行《ゆ》かれた|後《あと》だつた |高姫《たかひめ》さまは|気《き》をいらち
|夜叉《やしや》の|如《ごと》くに|相恰《さうがう》を |変《か》へて|又《また》もや|船《ふね》に|乗《の》り
フーリン|島《たう》や|台湾島《たいわんたう》 |後《あと》に|眺《なが》めて|漸《や》う|漸《や》うに
テルの|連峰《れんぽう》|霞《かす》みつつ |目《め》に|入《い》る|迄《まで》に|近寄《ちかよ》りし
|時《とき》しもあれや|生命《せいめい》の |綱《つな》とも|頼《たの》む|吾《わが》|船《ふね》は
|波間《なみま》に|潜《ひそ》む|暗礁《あんせう》に |衝突《しようとつ》なして|粉砕《ふんさい》し
|何《なん》と|詮方《せんかた》|波《なみ》の|上《うへ》 |辛《から》くも|進《すす》む|折柄《をりから》に
|俄《にはか》に|吹《ふ》き|来《く》る|荒風《あらかぜ》に |波《なみ》|立《たち》さわぎ|三人《さんにん》の
|生命《せいめい》|最早《もはや》これ|迄《まで》と |慌《あわ》てふためく|時《とき》もあれ
|神《かみ》の|恵《めぐみ》の|幸《さち》はひて |高島丸《たかしままる》は|走《は》せ|来《きた》り
|吾等《われら》|三人《みたり》を|救《すく》ひあげ |船長室《せんちやうしつ》に|招《まね》かれて
|国《くに》や|所《ところ》や|姓名《せいめい》を |一々《いちいち》|詳《くは》しく|尋《たづ》ねられ
|日《ひ》の|出神《でのかみ》の|生宮《いきみや》と |高姫《たかひめ》さまの|法螺貝《ほらがい》に
|船長殿《せんちやうどの》も|舌《した》を|巻《ま》き |押《お》し|問答《もんだふ》の|末《すゑ》|遂《つひ》に
|高姫《たかひめ》さまを|発狂《はつきやう》と |見《み》なして|手足《てあし》を|縛《しば》りあげ
|身《み》を|逆《さか》しまに|帆柱《ほばしら》に クルリクルリと|巻《まき》あげる
|吾々《われわれ》|二人《ふたり》は|肝《きも》|潰《つぶ》し |驚《おどろ》き|倒《たふ》れて|居《を》る|内《うち》に
|何処《どこ》の|人《ひと》かは|知《し》らね|共《ども》 |尊《たふと》き|二人《ふたり》の|影《かげ》|見《み》えて
タルチールの|船長《せんちやう》に |何《なに》かヒソビソ|囁《ささや》けば
タルチールは|匆惶《さうくわう》と |畏《かしこ》まりつつ|高姫《たかひめ》を
|即座《そくざ》にここに|巻《まき》おろし |一間《ひとま》の|内《うち》に|隠《かく》れ|行《ゆ》く
|吾等《われら》|二人《ふたり》は|高姫《たかひめ》の |厳《きび》しき|縛《いまし》めとき|放《はな》ち
いと|親切《しんせつ》に|労《いた》はれば |高姫《たかひめ》さまのへらず|口《ぐち》
|分《わか》りきつたる|負惜《まけをし》み |流石《さすが》の|吾等《われら》も|呆《あき》れ|果《は》て
|暇《ひま》を|呉《く》れよと|掛合《かけあ》へば |高姫《たかひめ》さまは|驚《おどろ》いて
|万劫末代《まんごふまつだい》|帳《ちやう》きると おどし|文句《もんく》を|並《なら》べ|立《た》て
ヤツサモツサと|〓《いが》み|合《あ》ひ |揚句《あげく》の|果《はて》は|四股《しこ》をふみ
|肩《かた》をゆすつてどこへやら |婆《ばば》の|姿《すがた》を|隠《かく》された
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |御霊《みたま》|幸《さち》はひましまして
|折角《せつかく》|茲《ここ》まで|来《き》た|三人《みたり》 どうぞ|互《たがひ》に|睦《むつ》まじう
|高砂島《たかさごじま》に|上陸《じやうりく》し |麻邇《まに》の|宝珠《ほつしゆ》の|所在《ありか》をば
|索《もと》めて|聖地《せいち》に|恙《つつが》なく |帰《かへ》らせ|玉《たま》へ|惟神《かむながら》
|尊《たふと》き|神《かみ》の|御前《おんまへ》に |常彦《つねひこ》、|春彦《はるひこ》|謹《つつし》みて
|畏《かしこ》み|畏《かしこ》み|願《ね》ぎまつる あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ』
と|一生懸命《いつしやうけんめい》に|歌《うた》ひ|乍《なが》ら|舞《ま》ひ|狂《くる》うて|居《ゐ》る。|左右《さいう》|一丈《いちぢやう》|計《ばか》りの|羽《はね》を|拡《ひろ》げた|信天翁《あはうどり》は|二人《ふたり》の|頭上《づじやう》を|掠《かす》めて|前後左右《ぜんごさいう》に|潔《いさぎよ》く|〓翔《かうしやう》して|居《ゐ》る。
(大正一一・八・一〇 旧六・一八 松村真澄録)
第二一章 |喰《く》へぬ|女《をんな》〔八二一〕
タルチールの|船長室《せんちやうしつ》には、|言依別命《ことよりわけのみこと》、|国依別《くによりわけ》|三人《さんにん》|鼎座《ていざ》して、|神界《しんかい》の|経綸談《けいりんだん》に|就《つ》いて、|熱心《ねつしん》に|意見《いけん》を|戦《たたか》はして|居《ゐ》た。
|船長《せんちやう》『|只今《ただいま》|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》|高姫《たかひめ》と|申《まを》す|者《もの》、|甲板上《かんばんじやう》にて、|取《と》りとめもなき|事《こと》を|申《まを》して|居《を》りましたが、|如何《いか》にも|教主様《けうしゆさま》の|御言葉《おことば》の|通《とほ》り、|執着心《しふちやくしん》の|深《ふか》い|偏狭《へんけふ》な|人物《じんぶつ》ですなア。|何《なん》とかして|彼《かれ》を|救《すく》うてやる|訳《わけ》には|参《まゐ》りませぬか。|何《なん》でもあなた|様《さま》を|非常《ひじやう》に|恨《うら》み|且《か》つ|疑《うたが》ひ、|麻邇《まに》の|宝珠《ほつしゆ》を|御両人《ごりやうにん》が|懐中《ふところ》にして、|高砂島《たかさごじま》へ|逃《に》げたに|違《ちが》ひないから、どこまでも|追《お》つかけて|取返《とりかへ》さなならぬと、それはそれは|大変《たいへん》な|逆上《のぼせ》|方《かた》で|御座《ござ》いましたよ。あなたも|良《よ》い|加減《かげん》に|実《じつ》を|吐《は》いて、あの|高姫《たかひめ》を|安心《あんしん》さしておやりになつたら|如何《どう》でせう』
|言依別《ことよりわけ》『|麻邇宝珠《まにほつしゆ》の|替玉《かへだま》|事件《じけん》は|全《まつた》く|大神様《おほかみさま》の|御経綸《ごけいりん》に|出《い》でさせられたものでありまして、|吾々《われわれ》としては|其《その》|一切《いつさい》を|高姫《たかひめ》に|対《たい》し、|明示《めいじ》することは|出来《でき》ない|事《こと》になつて|居《を》ります。|又《また》|高姫《たかひめ》は|吾々《われわれ》の|申《まを》すことは|決《けつ》して|信《しん》ずる|者《もの》ではありませぬ。|何程《なにほど》|誠《まこと》の|事《こと》を|言《い》ひ|聞《き》かしましても、|心《こころ》の|底《そこ》からひがみ|切《き》つて|居《を》りますから、|到底《たうてい》|本当《ほんたう》には|致《いた》しませぬ。どうも|困《こま》つたものです』
|船長《せんちやう》『あなたで|可《い》かなければ、|国依別《くによりわけ》|様《さま》を|通《とほ》してお|示《しめ》しになつたら|如何《どう》ですか』
|言依別《ことよりわけ》『|到底《たうてい》|物《もの》になりませぬ。|国依別《くによりわけ》は|随分《ずゐぶん》|高姫《たかひめ》に|対《たい》し、|幾回《いくくわい》となくからかひ、|且《か》つ|玉《たま》の|所在《ありか》を|知《し》らせて|失敗《しつぱい》をさせた|事《こと》がありますから、なほなほ|聞《き》く|道理《だうり》は|御座《ござ》いませぬ』
|船長《せんちやう》『|其《その》|玉《たま》は|一体《いつたい》|如何《どう》なつてゐるのですか』
|言依《ことより》『|何人《なにびと》にも|口外《こうぐわい》することは|出来《でき》ないのですが、あなたに|限《かぎ》つて|他言《たごん》をして|下《くだ》さらねば|申上《まをしあ》げませう。|如意宝珠《によいほつしゆ》の|天火水地《てんくわすいち》の|宝玉《ほうぎよく》は、|自転倒島《おのころじま》の|中心地《ちうしんち》、|冠島《かむりじま》、|沓島《くつじま》に|大切《たいせつ》に|隠《かく》してあります。それを|高姫《たかひめ》が、|吾々《われわれ》が|持逃《もちにげ》したものと|思《おも》ひ、|私《わたし》の|後《あと》を|追《お》うて|此処《ここ》までやつて|来《き》たのでせう。|御存《ごぞん》じの|通《とほ》り|吾々《われわれ》|両人《りやうにん》は|玉《たま》などは|一個《いつこ》も|所持《しよぢ》してはゐませぬでせう』
|船長《せんちやう》『|仰《あふ》せの|通《とほ》り|何《なに》も|御持《おも》ちになつて|居《を》られませぬ。|一層《いつそう》の|事《こと》、|高姫《たかひめ》に|直接《ちよくせつ》|御会《おあ》ひになつて、これ|此《この》|通《とほ》り、|吾々《われわれ》は|玉《たま》なんか|持《も》つてゐない、と|御示《おしめ》しになつたら|如何《どう》でせう』
|国依別《くによりわけ》『それは|駄目《だめ》ですよ。ここに|持《も》つてゐなくても、どつかに|隠《かく》したのだらうと、どこどこ|迄《まで》も|疑《うたが》つて、|尚更《なほさら》|手《て》きびしき|脅迫《けふはく》を|致《いた》しますから、|自然《しぜん》に|気《き》のつく|迄《まで》|棄《す》てておく|方《はう》が|利益《りえき》だと|思《おも》ひます』
|言依《ことより》『|吾々《われわれ》|両人《りやうにん》が|何程《なにほど》|誠《まこと》を|申《まを》しても、|高姫《たかひめ》に|限《かぎ》つて|信用《しんよう》してくれませぬから、あなた、|誠《まこと》に|御苦労《ごくらう》をかけますが、|高姫《たかひめ》をソツと|何処《どこ》かへ|御招《おまね》きなつて、|高砂島《たかさごじま》には|決《けつ》して|玉《たま》なんか|隠《かく》してない、|自転倒島《おのころじま》を|探《さが》せよ……と|云《い》つて|貰《もら》つた|方《はう》が、|却《かへつ》て|信用《しんよう》するかも|知《し》れませぬ。|下《くだ》らぬことに|無駄骨《むだぼね》|折《を》らすも、|可哀相《かあいさう》でたまりませぬから……|実《じつ》の|所《ところ》は|其《その》|玉《たま》は|高姫《たかひめ》に|探《さが》させ|今迄《いままで》の|失敗《しつぱい》を|回復《くわいふく》し、|天晴《あつぱ》れ|聖地《せいち》の|神司《かむづかさ》として|恥《はづ》かしくない|様《やう》にしてやりたいとの、|神素盞嗚大神《かむすさのをのおほかみ》の|思召《おぼしめし》に|依《よ》り|言依別《ことよりわけ》が|持逃《もちにげ》したことに|致《いた》し、|私《わたし》は|犠牲《ぎせい》となつて|聖地《せいち》を|離《はな》れ、これより|高砂島《たかさごじま》、|常世国《とこよくに》を|宣伝《せんでん》し、|遂《つひ》にフサの|国《くに》ウブスナ|山脈《さんみやく》の|斎苑《いそ》の|館《やかた》に|参《まゐ》り、コーカス|山《ざん》に|至《いた》る|計画《けいくわく》で|御座《ござ》います。どうぞあなたより、|高姫《たかひめ》に|対《たい》して、|無駄骨《むだぼね》を|折《を》らない|様《やう》に|能《よ》く|諭《さと》して|下《くだ》さいませぬか』
|船長《せんちやう》『ハイ、|私《わたし》もあなたより|宣伝使《せんでんし》の|職《しよく》を|命《めい》ぜられたる|上《うへ》は、|高姫《たかひめ》さまに|対《たい》し、|宣伝《せんでん》の|初陣《うひぢん》を|試《こころ》みませう。もしも|不成功《ふせいこう》に|終《をは》つたならば、|宣伝使《せんでんし》を|辞職《じしよく》せねばなりませぬか』
|言依《ことより》『そんな|心配《しんぱい》は|御無用《ごむよう》です。|成《な》るも|成《な》らぬも|惟神《かむながら》ですから、|成否《せいひ》を|度外《どぐわい》に|置《お》いて、|一《ひと》つ|掛合《かけあ》つて|見《み》て|下《くだ》さい』
|船長《せんちやう》『ハイ|左様《さやう》ならば、|一《ひと》つ|初陣《うひぢん》をやつて|見《み》ませう』
|茲《ここ》に|船長《せんちやう》は、|高姫《たかひめ》を|吾《わが》|一室《ひとま》に|招《まね》き、|私《ひそ》かに|高姫《たかひめ》に|向《むか》つて|注意《ちうい》を|与《あた》ふる|事《こと》とした。
|船長《せんちやう》は|繁忙《はんばう》なる|事務《じむ》を|繰合《くりあは》せ、|真心《まごころ》より|顔色《がんしよく》を|和《やはら》げ、|言葉《ことば》もしとやかに|高姫《たかひめ》に|向《むか》つて|話《はな》しかけた。
|船長《せんちやう》『|高姫《たかひめ》さま、|先程《さきほど》は、|誠《まこと》に|尊《たふと》き|御身《おんみ》の|上《うへ》とも|知《し》らず|御無礼《ごぶれい》を|致《いた》しました。|今《いま》|更《あらた》めて|御詫《おわび》をいたします』
|高姫《たかひめ》『お|前《まへ》は|高島丸《たかしままる》の|船長《せんちやう》、それ|位《くらゐ》なことが|気《き》がつかねばならぬ|筈《はず》だ。|何故《なにゆゑ》に|今迄《いままで》|此《この》|日《ひ》の|出神《でのかみ》の|生宮《いきみや》が|分《わか》らぬのだらうかと、|実《じつ》は|不思議《ふしぎ》でたまらなかつた。|併《しか》し|賢明《けんめい》なるお|前《まへ》、|滅多《めつた》に|分《わか》らぬ|筈《はず》がないのだが、つまりお|前《まへ》にバラモン|教《けう》の|悪神《あくがみ》が|憑依《ひようい》してゐて、あのような|下《くだ》らぬ|事《こと》を|云《い》はしたのですよ。|日《ひ》の|出神《でのかみ》がチヤンと|一目《ひとめ》|睨《にら》んだら|能《よ》う|分《わか》つてゐます。|流石《さすが》の|曲津神《まがつかみ》も、|日《ひ》の|出神《でのかみ》の|威勢《ゐせい》に|恐《おそ》れて、|波《なみ》を|渡《わた》つて|逃《にげ》て|了《しま》ひよつたのです。|今《いま》のお|前《まへ》の|顔《かほ》と、|最前《さいぜん》の|顔《かほ》とは|丸《まる》で|閻魔《えんま》と|地蔵《ぢざう》|程《ほど》|違《ちが》つてゐます。あなたも|之《こ》れから|此《この》|高姫《たかひめ》の|教《をしへ》を|聞《き》いて、|三五教《あななひけう》の|信者《しんじや》におなりになさつたら、|益々《ますます》|御神徳《ごしんとく》が|現《あら》はれて|立派《りつぱ》な|人格者《じんかくしや》におなり|遊《あそ》ばし、これから|先《さき》、|高砂島《たかさごじま》の|国王《こくわう》にもなれまいものでも|御座《ござ》いませぬ。|同《おな》じ|一生《いつしやう》を|暮《くら》すなら、|船頭《せんどう》になつて、|日蔭者《ひかげもの》で|了《をは》るよりも、チツとは|気苦労《きぐらう》もあれど、あの|広《ひろ》い|高砂島《たかさごじま》の|国王《こくわう》になつて、|名《な》を|万世《ばんせい》に|轟《とどろ》かしなさるが、|何程《なにほど》|結構《けつこう》ぢや|分《わか》りますまい』
|船長《せんちやう》『ハイ|有難《ありがた》う、|私《わたし》は|御察《おさつ》しの|通《とほ》りバラモン|教《けう》の|信者《しんじや》で|御座《ござ》います』
とワザと|空呆《そらとぼ》けて、|言依別命《ことよりわけのみこと》より|宣伝使《せんでんし》の|職名《しよくめい》を|与《あた》へられたことを|絶対《ぜつたい》に|包《つつ》みかくしてゐる。
|高姫《たかひめ》『バラモン|教《けう》なんて|駄目《だめ》ですよ。あんな|邪教《じやけう》に|首《くび》を|突込《つつこ》んで|何《なん》になりますか。あなたも|立派《りつぱ》な|十人並《じふにんなみ》|秀《すぐ》れた|男《をとこ》と|生《うま》れ|乍《なが》ら、その|様《やう》な|教《をしへ》にお|這入《はい》りなさるとは、チト|権衡《けんかう》がとれませぬ。|早《はや》く|三五教《あななひけう》にお|這入《はい》りなさい。キツと|御出世《ごしゆつせ》が|出来《でき》ますぞえ』
|船長《せんちやう》『|私《わたし》は|国王《こくわう》なんかにならうとは|夢《ゆめ》にも|思《おも》ひませぬ。|船長《せんちやう》は|船長《せんちやう》として|最善《さいぜん》の|努力《どりよく》を|尽《つく》し、|吾《わが》|使命《しめい》を|完全《くわんぜん》に|遂行《すゐかう》すれば、これに|勝《まさ》つた|喜《よろこ》びはありませぬ、|又《また》|三五教《あななひけう》とか、バラモン|教《けう》とか|云《い》ふやうな|雅号《ががう》に|囚《とら》はれてゐては、|本当《ほんたう》の|真理《しんり》は|分《わか》りますまい。|雨《あめ》|霰《あられ》|雪《ゆき》や|氷《こほり》とへだつ|共《とも》、おつれば|同《おな》じ|谷川《たにがは》の|水《みづ》……とやら、|大海《だいかい》は|細流《さいりう》を|選《えら》ばずとか|云《い》つて、|真理《しんり》の|光明《くわうみやう》は|左様《さやう》な|区別《くべつ》や|雅号《ががう》に|関係《くわんけい》なく|皎々《かうかう》と|輝《かがや》いて|居《を》ります。|善《ぜん》とか、|悪《あく》とか、|三五《あななひ》とか、バラモンとかに|囚《とら》はれて|宗派心《しうはしん》を|極端《きよくたん》に|発揮《はつき》してゐる|間《あひだ》は、|却《かへつ》て|其《その》|教《をしへ》を|狭《せば》め、|其《その》|光《ひかり》を|隠《かく》し、|自《みづか》ら|獅子身中《しししんちう》の|虫《むし》となるものです。|三五教《あななひけう》は|諸教《しよけう》|大統一《だいとういつ》の|大光明《だいくわうみやう》だとか|聞《き》いて|居《を》りました。|然《しか》るに|貴女《あなた》は|世界《せかい》を|輝《かがや》きわたす|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》の|中《なか》でも、|一粒《ひとつぶ》よりの|系統《ひつぽう》の|御身魂《おんみたま》|而《しか》も|日《ひ》の|出神《でのかみ》さまの|生宮《いきみや》であり|乍《なが》ら、|偏狭《へんけふ》な|宗派心《しうはしん》に|駆《か》られて|他教《たけう》を|研究《けんきう》もせず、|只《ただ》|一口《ひとくち》に|排斥《はいせき》し|去《さ》らうとなさるのはチツと|無謀《むぼう》ではありませぬか。|猪《しし》を|追《お》ふ|猟師《れふし》は|山《やま》を|見《み》ず……|井中《せいちう》の|蛙《かはず》|大海《たいかい》を|知《し》らず……|富士《ふじ》へ|来《き》て|富士《ふじ》を|尋《たづ》ねつ|富士詣《ふじまう》で……とか|云《い》ふ|諺《ことわざ》の|通《とほ》り、|余《あま》り|区別《くべつ》された|一《ひと》つの|物《もの》に|熱中《ねつちゆう》すると、|誠《まこと》の|本体《ほんたい》を|掴《つか》むことは|出来《でき》ますまい。|如何《いか》がなもので|厶《ござ》いませうか。|併《しか》し|私《わたし》は|未《いま》だバラモン|教《けう》の|教《をしへ》を|全部《ぜんぶ》|究《きは》めたと|云《い》ふのでは|厶《ござ》いませぬ。|未成品的《みせいひんてき》|信者《しんじや》の|身分《みぶん》を|以《もつ》て、|錚々《さうさう》たる|宣伝使《せんでんし》の|貴女《あなた》に|斯様《かやう》なことを|申上《まをしあ》ぐるは、|恰《あたか》も|釈迦《しやか》に|向《むか》つて|経文《きやうもん》を|説《と》き、|幼稚園《えうちゑん》に|通《かよ》ふ|凸坊《でこぼう》が|大学《だいがく》の|教頭《けうとう》に|向《むか》つて|教鞭《けうべん》を|執《と》る|様《やう》な|矛盾《むじゆん》かは|存《ぞん》じませぬ。どうぞ|不都合《ふつがふ》な|点《てん》は|宜《よろ》しく|御諭《おさと》し|下《くだ》さいまして|御訂正《ごていせい》を|御願《おねが》ひ|致《いた》します』
と|極《きは》めて|円滑《ゑんくわつ》に|言依別《ことよりわけ》|仕込《じこ》みの|雄弁《ゆうべん》を|揮《ふる》ひ、|下《した》から|低《ひく》う|出《で》て、|高姫《たかひめ》の|心《こころ》を|改《あらた》めしめむと|努《つと》めて|居《ゐ》る。
|高姫《たかひめ》『|何《なん》とお|前《まへ》さまはお|口《くち》の|達者《たつしや》な|方《かた》ですなア。|丁度《ちやうど》|三五教《あななひけう》にもあなたの|様《やう》なことを|申《まを》す、ドハイカラが|厶《ござ》いますワイ。|其《その》ドハイカラが|而《しか》も|教主《けうしゆ》となつてゐるのですから、|幽玄微妙《いうげんびめう》なる|神界《しんかい》の|御仕組《おしぐみ》を、|智慧《ちゑ》|学《がく》や|理屈《りくつ》で|探《さぐ》らうと|致《いた》すから、|何時《いつ》も|細引《ほそびき》の|褌《ふんどし》であちらへ|外《はづ》れ、こちらへ|外《はづ》れ、|一《ひと》つも|成就《じやうじゆ》は|致《いた》しはせぬぞよと、|変性男子《へんじやうなんし》のお|筆《ふで》に|出《で》てをる|通《とほ》り、|失敗《しつぱい》だらけになつて|了《をは》らねばなりませぬぞや。お|前《まへ》もそんな|小理屈《こりくつ》を|云《い》はないやうになつたら、それこそ|誠《まこと》の|信者《しんじや》ですよ。ツベコベと|善悪《ぜんあく》の|批評《ひへう》をしたり、|日《ひ》の|出神《でのかみ》の|生宮《いきみや》に|意見《いけん》をするやうな|慢神心《まんしんごころ》では、|誠《まこと》の|正真《しやうまつ》は|分《わか》りませぬぞえ。|智慧《ちゑ》と|学《がく》と|理屈《りくつ》と|嘘《うそ》とで|固《かた》めた|世《よ》の|中《なか》の|身魂《みたま》が、|変性女子《へんじやうによし》の|言依別《ことよりわけ》に|映写《えいしや》して|居《ゐ》る|様《やう》に、お|前《まへ》も|人間《にんげん》としては、|実《じつ》に|立派《りつぱ》なお|方《かた》だが、|神《かみ》の|方《はう》から|見《み》れば、|丸《まる》で|赤《あか》ん|坊《ばう》のやうな|事《こと》を|仰有《おつしや》る。|人間《にんげん》の|理解力《りかいりよく》で、|如何《どう》して|神界《しんかい》の|真相《しんさう》が|分《わか》りますか。|妾《わたし》の|様《やう》に|生《うま》れ|赤子《あかご》の【うぶ】の|心《こころ》になつて、|神《かみ》さまの|仰有《おつしや》る|通《とほ》りに|致《いた》さねば、|三五教《あななひけう》の|一厘《いちりん》の|御仕組《おしぐみ》は|到底《たうてい》|分《わか》りはしませぬぞや』
|船長《せんちやう》『|成程《なるほど》、|言依別《ことよりわけ》さまに……ウン……オツとドツコイ|言依別《ことよりわけ》さまと|云《い》ふ|方《かた》は、|私《わたし》の|様《やう》な|理屈《りくつ》|言《い》ひで|御座《ござ》いますか。さぞお|道《みち》の|為《ため》にお|困《こま》りでせうなア』
|高姫《たかひめ》『さうです|共《とも》、|言依別《ことよりわけ》は|有名《いうめい》な|新《あたら》しがりで、ドハイカラで、|仕舞《しまひ》の|果《はて》には|大《だい》それた|麻邇《まに》の|玉《たま》|迄《まで》チヨロまかし、|今頃《いまごろ》は|高砂島《たかさごじま》で|何《なに》か|一《ひと》つ|謀叛《むほん》を|企《たく》んでゐるに|違《ちが》ひありませぬ。それだから|言依別《ことよりわけ》の|思惑《おもわく》がチツとでも|立《た》たうものなら、それこそ|世界《せかい》は|暗雲《やみくも》になつて|了《しま》ひ、|再《ふたた》び|天《あま》の|岩戸《いはと》をしめねばなりませぬから、|日《ひ》の|出神《でのかみ》が|活動《くわつどう》して、|言依別《ことよりわけ》のなす|事《こと》、|一《いち》から|十《じふ》|迄《まで》、|百《ひやく》から|千《せん》まで、|茶々《ちやちや》を|入《い》れて|邪魔《じやま》をしてやらねば|世界《せかい》の|人民《じんみん》が|助《たす》かりませぬ。ホンにホンに|神界《しんかい》の|御用《ごよう》|位《くらゐ》|気《き》の|揉《も》めたものは|御座《ござ》いませぬワイ』
|船長《せんちやう》『あなたは|日《ひ》の|出神《でのかみ》の|生宮《いきみや》だと|仰有《おつしや》いましたが、|世界《せかい》のことは|居《ゐ》|乍《なが》らにして、|曽富登《そほと》の|神《かみ》のやうに、|天《あめ》が|下《した》のことは|悉《ことごと》くお|知《し》りで|御座《ござ》いませうなア』
|高姫《たかひめ》『|三千世界《さんぜんせかい》のことなら、|何《なん》なつと|聞《き》いて|下《くだ》され。|昔《むかし》の|世《よ》の|初《はじ》まりの|根本《こつぽん》の、|大先祖《おほせんぞ》の|因縁《いんねん》|性来《しやうらい》から、|先《さき》の|世《よ》のまだ|先《さき》の|世《よ》の|事《こと》から、|鏡《かがみ》にかけた|様《やう》にハツキリと|知《し》らしてあげませう』
|船長《せんちやう》『さうすると、|貴女《あなた》の|天眼通力《てんがんつうりき》で|言依別命《ことよりわけのみこと》、|国依別《くによりわけ》のお|二方《ふたかた》は|今《いま》|何処《どこ》に|御座《ござ》ると|云《い》ふ|事《こと》は|御存《ごぞん》じでせうなア』
|高姫《たかひめ》『ヘン、|阿呆《あほ》らしい|事《こと》を|仰有《おつしや》るな。モツトらしい|事《こと》を|御尋《おたづ》ねなされ。|言依別《ことよりわけ》は|今《いま》テルの|都《みやこ》に、|国依別《くによりわけ》と|二人《ふたり》、|何《なに》か|大《だい》それた|謀叛《むほん》を|企《たく》んで、|四《よ》つの|玉《たま》を|飾《かざ》り、|山子《やまこ》を|始《はじ》めて|居《を》りますよ』
|船長《せんちやう》『あゝ|左様《さやう》で|御座《ござ》いますか。|実《じつ》に|日《ひ》の|出神《でのかみ》|様《さま》と|云《い》ふお|方《かた》は|偉《えら》いお|方《かた》で|御座《ござ》いますなア。ソンならこれからテルの|都《みやこ》へ|私《わたし》を|連《つ》れて|行《い》つて|下《くだ》さいませ。そして、|言依別命《ことよりわけのみこと》|様《さま》に|御会《おあ》ひ|申《まを》して、あなたの|教《をしへ》を|以《もつ》て|御意見《ごいけん》を|致《いた》して|見《み》ませう。キツト、テルの|都《みやこ》に|御座《ござ》るに|間違《まちがひ》はありませぬなア』
|高姫《たかひめ》『|神《かみ》の|言葉《ことば》に|二言《にごん》ありませぬ。|今日《こんにち》|只今《ただいま》の|所《ところ》は、テルの|都《みやこ》に|居《を》りますが、|此《この》|船《ふね》が|向《むか》うにつく|時分《じぶん》には|又《また》、|向《むか》うも|歩《ある》きますから、テルの|都《みやこ》には|居《を》りますまい。こちらが|歩《ある》く|丈《だけ》、|向《むか》うも|歩《ある》きますから、|今《いま》どこに|居《ゐ》ると|云《い》つた|所《ところ》で、|会《あ》ふことは|出来《でき》ませぬよ』
|船長《せんちやう》『そんなら|神様《かみさま》の|御神力《ごしんりき》で、|言依別《ことよりわけ》さまを、テルの|都《みやこ》を|御立《おた》ちなさらぬ|様《やう》に|守《まも》つて|頂《いただ》くことは|出来《でき》ますまいか』
|高姫《たかひめ》『その|位《くらゐ》なことは、|屁《へ》の|御茶《おちや》でもありませぬが、|言依別《ことよりわけ》は|妾《わたし》の|嫌《きら》ひなドハイカラで|厶《ござ》いますから、どうも|妾《わたし》の|霊《みたま》が|感《かん》じにくいので|気分《きぶん》が|悪《わる》うてなりませぬから、|言依別《ことよりわけ》や|国依別《くによりわけ》に|対《たい》しては|例外《れいぐわい》と|思《おも》うて|下《くだ》さいませ。あゝモウ|此《この》|事《こと》は|言《い》つて|下《くだ》さいますな、|胸《むね》が|悪《わる》うなつて|来《き》ました。オツホヽヽヽ』
|船長《せんちやう》『あゝそれで|分《わか》りました。|言依別《ことよりわけ》の|教主《けうしゆ》に|関《くわん》する|事《こと》は|御気分《ごきぶん》が|悪《わる》くなつて、|身魂《みたま》がお|曇《くも》り|遊《あそ》ばし、|何事《なにごと》も|御分《おわか》り|憎《にく》いと|仰有《おつしや》るのでせう。|実《じつ》の|所《ところ》は|此《この》|少《すこ》し|前《まへ》、|私《わたし》の|船《ふね》に|図《はか》らずも、|言依別《ことよりわけ》さま、|国依別《くによりわけ》さまが|乗《の》つて|下《くだ》さいまして、|仰有《おつしや》るのには、|実《じつ》は|此《この》|通《とほ》り|立派《りつぱ》な|麻邇《まに》の|玉《たま》を|四《よつ》つ|迄《まで》|聖地《せいち》から|持出《もちだ》して|来《き》たが、どうも|高姫《たかひめ》と|云《い》ふ|奴《やつ》、|執念深《しふねんぶか》く|附《つ》け|狙《ねら》ふので、|高砂島《たかさごじま》へ|往《い》つても|又《また》|追《おつ》かけて|来《く》るだらうから、ヤツパリ|自転倒島《おのころじま》の|冠島《をしま》|沓島《めしま》へ|隠《かく》しておかうと、|慌《あわた》だしく|私《わたくし》の|船《ふね》から|他《た》の|船《ふね》へ|乗替《のりか》へ|自転倒島《おのころじま》へ|引返《ひきかへ》されましたよ。キツと|其処《そこ》に|隠《かく》してあるに|違《ちがひ》ありませぬぜ。お|前《まへ》さまも|其《その》|玉《たま》を|探《さが》す|積《つも》りならば、|高砂島《たかさごじま》へ|御出《おい》でになつても|駄目《だめ》ですよ。それはそれは|美《うつく》しい、|青《あを》|赤《あか》|白《しろ》|黄《き》の|四《よつ》つの|立派《りつぱ》な、|喉《のど》のかわく|様《やう》な|宝玉《ほうぎよく》でした』
|高姫《たかひめ》『エヽ|何《なん》と|仰有《おつしや》る。|言依別《ことよりわけ》にお|会《あ》ひになりましたか。そして|本当《ほんたう》に|玉《たま》を|持《も》つてゐましたか』
|船長《せんちやう》『それはそれは|立派《りつぱ》な|物《もの》でしたよ。|現《げん》に|此《この》|船《ふね》に|乗《の》つてゐられたのですもの、モウ|今頃《いまごろ》は|余程《よほど》|遠《とほ》く|台湾島《たいわんたう》|附近《ふきん》を|航海《かうかい》して|居《を》られるでせう』
|高姫《たかひめ》|暫《しばら》く|首《くび》をかたげ、|思案《しあん》にくれてゐたが、|俄《にはか》に|体《からだ》をビリビリと|振《ふる》はし、
|高姫《たかひめ》『|船長《せんちやう》さま、あなた|言依別《ことよりわけ》に|幾《いく》ら|貰《もら》ひましたか。コン|丈《だけ》ですか』
と|五本《ごほん》の|指《ゆび》を|出《だ》して|見《み》せる。
|船長《せんちやう》『|言依別《ことよりわけ》さまに|別《べつ》に|口止《くちど》め|料《れう》を|貰《もら》ふ|必要《ひつえう》もなし、|只《ただ》|実地《じつち》|目撃《もくげき》した|丈《だけ》の|事《こと》を、お|前《まへ》さまに|親切上《しんせつじやう》|御知《おし》らせした|迄《まで》の|事《こと》だ。|貰《もら》うのなら|高姫《たかひめ》さまから|貰《もら》ふべきものだよ』
|高姫《たかひめ》は|船長《せんちやう》の|顔《かほ》を|穴《あな》のあく|程《ほど》|眺《なが》め、いやらしき|笑《ゑみ》を|浮《う》かべ|乍《なが》ら、
『|何《なん》とマア|悪神《あくがみ》の|仕組《しぐみ》は、どこから|何処《どこ》まで、|能《よ》う|行届《ゆきとど》いたものだなア。|言依別《ことよりわけ》が|自転倒島《おのころじま》へ|帰《かへ》つたと|見《み》せかけ、|外《ほか》の|船《ふね》に|乗替《のりか》へ、キツと|高砂島《たかさごじま》に|渡《わた》つたに|相違《さうゐ》ない、どうも|高姫《たかひめ》の|天眼通《てんがんつう》には|彷彿《はうふつ》として|見《み》えてゐる。……コレ|船頭《せんどう》さま、イヽ|加減《かげん》になぶつておきなさい。|外《ほか》の|者《もの》ならいざ|知《し》らず、|日《ひ》の|出神《でのかみ》の|生宮《いきみや》がさう|易々《やすやす》とチヨロまかされるものですかいな。そんなアザとい|事《こと》を|仰有《おつしや》ると、|人《ひと》が|馬鹿《ばか》に|致《いた》しますで、ホヽヽヽヽ』
と|首《くび》を|肩《かた》の|中《なか》に|埋《うづ》めて、|頤《あご》をしやくり|乍《なが》ら、|両手《りやうて》を|垂直《すゐちよく》に|下《さ》げ、|十本《じつぽん》の|指《ゆび》をパツと|開《ひら》いて|腰《こし》を|前後《まへうしろ》に|揺《ゆす》り|乍《なが》ら|笑《わら》うて|見《み》せた。
|船長《せんちやう》『|高姫《たかひめ》さま、マアゆるりと|貴女《あなた》の|御席《おせき》へ|帰《かへ》つて|休息《きうそく》して|下《くだ》さい。|又《また》|後《のち》|程《ほど》ゆるゆると|御話《おはなし》を|承《うけたまは》りませう』
|高姫《たかひめ》は|舌《した》を|巻出《まきだ》し、|目《め》をキヨロツと|剥《む》いて、
『ハーイ』
と|云《い》つた|限《き》り、チヨコチヨコ|走《ばし》りに|船長室《せんちやうしつ》を|出《い》でて|行《ゆ》く。
(大正一一・八・一〇 旧六・一八 松村真澄録)
第二二章 |高砂上陸《たかさごじやうりく》〔八二二〕
|高姫《たかひめ》は|大勢《おほぜい》の|船客《せんきやく》の|中《なか》に|只《ただ》|一人《ひとり》、|面《つら》をふくらして|坐《すわ》つて|居《ゐ》たが、|余《あま》り|気分《きぶん》がすぐれぬので、|再《ふたた》び|見晴《みは》らしよき|甲板《かんばん》に|姿《すがた》を|現《あら》はした。そこには|常彦《つねひこ》、|春彦《はるひこ》の|両人《りやうにん》が|切《しき》りに|手《て》をつないで、|歌《うた》を|歌《うた》ひ|踊《をど》り|狂《くる》うて|居《ゐ》る。
|高姫《たかひめ》は|目《め》に|角《かど》を|立《た》て、|大《おほ》きな|声《こゑ》で、
『コレ|常公《つねこう》、|春公《はるこう》、|千騎一騎《せんきいつき》の|此《この》|場合《ばあひ》、|何《なに》を|気楽《きらく》さうにグヅグヅ|踊《をど》つて|居《ゐ》るのだい。チト|確《しつか》りしなさらぬかい』
|常彦《つねひこ》『ハーイ、|何分《なにぶん》|五六七《みろく》の|世《よ》の|末《すゑ》|迄《まで》|勘当《かんどう》を|受《う》けたり、|勘当《かんどう》をした|祝《いはひ》に、|空散財《からさんざい》をやつて|居《を》りますのだ。お|前《まへ》さまもそこで|一組《ひとくみ》、|品《しな》よう|踊《をど》つて|御覧《ごらん》なさい。|随分《ずゐぶん》|見晴《みは》らしのよい|此《この》|甲板《かんばん》の|上《うへ》で、ソヨソヨ|風《かぜ》を|受《う》け|乍《なが》ら|踊《をど》つてゐるのは|素的滅法界《すてきめつぽふかい》|面白《おもしろ》いものですよ。アハヽヽヽ』
|春彦《はるひこ》『|高姫《たかひめ》さま、そんな|六《むつ》かしい|顔《かほ》をせずに、|長《なが》い|海《うみ》の|上《うへ》の|道中《だうちう》だ。チツとは|気楽《きらく》になりなさい。|苦《くるし》んでくらすのも、|喜《よろこ》んでくらすのも、|泣《な》くのも|怒《おこ》るのもヤツパリ|一日《いちにち》だよ。ヤア|面白《おもしろ》い|面白《おもしろ》い、ヤア|常彦《つねひこ》、サア|踊《をど》つたり|踊《をど》つたり』
と|又《また》もや|無茶苦茶《むちやくちや》に、|妙《めう》な|手《て》つきし|乍《なが》ら、ステテコ|踊《をどり》を|始《はじ》め|出《だ》した。|高姫《たかひめ》は|目《め》に|角《かど》を|立《た》て|足《あし》ふみならし、
『コレ|常公《つねこう》、|春公《はるこう》、|誰《たれ》が|勘当《かんどう》すると|云《い》ひました。|決《けつ》して|高姫《たかひめ》は|申《まを》しませぬよ。あれはお|前《まへ》に|憑依《ひようい》してゐた|副守護神《ふくしゆごじん》が、|妾《わたし》の|口《くち》を|借《か》つてあんな|事《こと》を|云《い》つたのだ。|海洋万里《かいやうばんり》の|航海《かうかい》に|杖柱《つゑはしら》と|頼《たの》むお|前達《まへたち》を|勘当《かんどう》して|如何《どう》なるものか。よう|考《かんが》へて|御覧《ごらん》なさい』
|春彦《はるひこ》『|何《なん》と|云《い》つても、こつちは|荒男《あらをとこ》の|二人連《ふたりづれ》、お|前《まへ》さまは|何程《なんぼ》|強《つよ》|相《さう》な|事《こと》を|云《い》つても、|大体《だいたい》が|女《をんな》だから、|心《こころ》|淋《さび》しくなつて|来《き》たので、|又《また》そんな|事《こと》を|云《い》つて|旧交《きうかう》を|温《あたた》めようとするのだらう。|其《その》|手《て》には|吾々《われわれ》だつて、さう|何遍《なんべん》も|乗《の》りませぬよ、|御生憎《おあひにく》さま、
|今《いま》は|他人《たにん》ぢやホツチツチ |一家《いつけ》になつたらかもてんか
ウントコドツコイ|高姫《たかひめ》さま ヤツトコドツコイ|常彦《つねひこ》さま
ゴテゴテ|云《い》ふと|鬼《おに》の|蕨《わらび》がお|見舞《みまひ》|申《まを》す |頭《あたま》のてつぺを|春彦《はるひこ》さま
アヽドツコイドツコイドツコイシヨ』
と|調子《てうし》に|乗《の》つて|踊《をど》り|狂《くる》ひ、|春彦《はるひこ》は|甲板《でつき》をふみはづし、|逆《さか》まく|波《なみ》にザンブと|許《ばか》り|落込《おちこ》んで|了《しま》つた。|常彦《つねひこ》は|甲板《でつき》の|上《うへ》を|右《みぎ》に|左《ひだり》に|真青《まつさを》な|顔《かほ》をして、キリキリと|狂《くる》ひ|廻《まは》つた。|高姫《たかひめ》は、
『コレ|常彦《つねひこ》、|何程《なにほど》キリキリ|舞《まひ》を|致《いた》しても、|此《この》|荒波《あらなみ》に|落《お》ち|込《こ》んだが|最後《さいご》、|到底《たうてい》|命《いのち》は|助《たす》かりませぬ。|諦《あきら》めなさいよ。それだから、|余《あま》り|慢心《まんしん》をいたすと、|先《さき》になりてからジリジリもだえを|致《いた》し、キリキリ|舞《ま》ひをして|騒《さわ》いでも|後《あと》の|祭《まつ》り、そこになりてから|何程《なにほど》|神《かみ》を|祈《いの》りたとて、|神《かみ》はモウ|知《し》らぬぞよとお|筆《ふで》に|書《か》いてありませうがなア。これを|見《み》て|御改心《ごかいしん》なされ。|日《ひ》の|出神《でのかみ》の|生宮《いきみや》に|腮《あご》をはづきなさるから、こんな|目《め》に|会《あ》うのですよ、サアこれから|私《わたし》に|絶対服従《ぜつたいふくじゆう》をなさるか。お|気《き》に|入《い》らねば|又《また》|春彦《はるひこ》の|様《やう》に|神様《かみさま》に|取《と》つて|放《はう》られますよ』
|常彦《つねひこ》は|耳《みみ》にもかけず、|一生懸命《いつしやうけんめい》に|気《き》をいらち、|声《こゑ》を|限《かぎ》りに、
『|助《たす》けてやつてくれーい』
と|叫《さけ》んで|居《ゐ》る。|船客《せんきやく》の|一人《ひとり》は|長《なが》き|綱《つな》に|板片《いたぎれ》を|括《くく》りつけ、|春彦《はるひこ》の|波《なみ》に|漂《ただよ》ひ|居《ゐ》る|方《はう》に|向《むか》つて、ハツシと|投《な》げた。|春彦《はるひこ》は|手早《てばや》く|其《その》|板《いた》に|喰《くら》ひ|付《つ》いた。|船客《せんきやく》は|力《ちから》|限《かぎ》りに|其《その》|綱《つな》を|引寄《ひきよ》せ、|漸《やうや》くにして|春彦《はるひこ》を|船中《せんちう》に|救《すく》ひ|上《あ》げた。|常彦《つねひこ》は|大《おほい》に|喜《よろこ》び、|直《ただち》に|甲板《かんばん》を|下《くだ》り、|春彦《はるひこ》を|救《すく》ひ|上《あ》げたる|船客《せんきやく》の|側《そば》に|走《はし》り|寄《よ》り、|心《こころ》の|底《そこ》より|涙《なみだ》を|流《なが》して|感謝《かんしや》する。よくよく|見《み》れば、|其《その》|船客《せんきやく》は|国依別《くによりわけ》であつた。
|常彦《つねひこ》『ヤアあなたは|国依別《くによりわけ》さま、よくマア|助《たす》けてやつて|下《くだ》さいました』
|国依別《くによりわけ》、|手《て》を|振《ふ》り|乍《なが》ら、
『モウチツと|小声《こごゑ》で|言《い》つて|下《くだ》さい。|高姫《たかひめ》さまの|耳《みみ》に|這入《はい》ると|困《こま》るから………サア|春彦《はるひこ》をお|前《まへ》に|任《まか》すから、|介抱《かいほう》して|上《あ》げて|呉《く》れ。そして|高姫《たかひめ》に|国依別《くによりわけ》が|此《この》|船《ふね》に|乗《の》つてゐると|云《い》ふ|事《こと》は|云《い》ふでないぞ』
|常彦《つねひこ》『|決《けつ》して|決《けつ》して、これ|丈《だけ》|御世話《おせわ》になつたあなたの|御頼《おんたの》み、|首《くび》が|千切《ちぎ》れても|秘密《ひみつ》を|守《まも》ります。サア|早《はや》くあなたの|居間《ゐま》へ|御隠《おかく》れ|下《くだ》さい。|高姫《たかひめ》が|下《お》りて|来《き》て|見《み》つかると、|又《また》|一悶錯《ひともんさく》が|起《おこ》りますから………』
|国依別《くによりわけ》は|怱々《さうさう》に|姿《すがた》を|隠《かく》した。そこへ|高姫《たかひめ》がノソリノソリと|現《あら》はれ|来《きた》り、|矢庭《やには》に|春彦《はるひこ》の|横面《よこつら》を|三《み》つ|四《よ》つ|打叩《うちたた》き、
|高姫《たかひめ》『コリヤ|春彦《はるひこ》、しつかりせぬか。|気《き》を|確《たし》かに|持《も》て、|日《ひ》の|出神《でのかみ》の|生宮《いきみや》が|綱《つな》をかけて|助《たす》けてやつたぞよ。モウ|大丈夫《だいぢやうぶ》だ』
|春彦《はるひこ》は|波《なみ》にさらはれ、|半死半生《はんしはんしやう》の|態《てい》になつてゐたが、|高姫《たかひめ》に|擲《なぐ》り|付《つ》けられて、|漸《やうや》く|気《き》を|取直《とりなほ》し、
|春彦《はるひこ》『ヤア|高姫《たかひめ》さま、ヨウマアお|助《たす》け|下《くだ》さいました。オウお|前《まへ》は|常彦《つねひこ》、エライ|御世話《おせわ》になりましたなア』
|常彦《つねひこ》『ナアニ、|俺《おれ》が|助《たす》けたのぢやない。あの|国《くに》イ……ドツコイ|国人《くにびと》が|俄《にはか》に|綱《つな》を|投《な》げて、お|前《まへ》を|救《すく》つて|下《くだ》さつたのだよ』
|春彦《はるひこ》『|其《その》お|方《かた》はどこに|居《ゐ》られるか、|命《いのち》の|親《おや》の|恩人《おんじん》、|御礼《おれい》を|申《まを》さねばならぬから、|一寸《ちよつと》|知《し》らして|呉《く》れ』
|常彦《つねひこ》『|其《その》|方《かた》はどつかへ|姿《すがた》を|御隠《おかく》しになつた。キツト|神様《かみさま》に|違《ちがひ》ない。|神様《かみさま》にお|礼《れい》を|申《まを》せば|良《よ》いのだよ』
|高姫《たかひめ》『|春彦《はるひこ》を|助《たす》けた|方《かた》は、お|姿《すがた》は|見《み》えなくなつただらう。そら|其《その》|筈《はず》よ。|日《ひ》の|出神《でのかみ》|様《さま》が|人間《にんげん》に|姿《すがた》を|現《あら》はし、|竜宮《りうぐう》の|乙姫《おとひめ》さまが|海《うみ》の|底《そこ》からお|手伝《てつだひ》ひ|遊《あそ》ばして、|高姫《たかひめ》の|家来《けらい》だと|思《おも》つて、|春彦《はるひこ》を|助《たす》けて|下《くだ》さつたのだ。|甲板《かんばん》の|上《うへ》から|此《この》|高姫《たかひめ》はヂツとして|調《しら》べて|居《を》つた。それに|間違《まちが》ひはあろまいがな。……|常彦《つねひこ》、それだから、どこまでも|此《この》|生宮《いきみや》に|従《したが》うて|居《を》りさへすれば、どこへ|往《い》つても|大安心《だいあんしん》だと、いつも|云《い》うて|聞《き》かしてあるぢやないか』
|常彦《つねひこ》『ヘン、|甘《うま》い|事《こと》を|仰有《おつしや》りますワイ。|春彦《はるひこ》を|救《たす》けて|呉《く》れたのは|日《ひ》の|出神《でのかみ》ぢや|有《あ》りませぬぞ。|国《くに》……|国《くに》……|国治立尊《くにはるたちのみこと》|様《さま》が|御眷属《ごけんぞく》を|使《つか》うて|救《たす》けて|下《くだ》さつたのだ。|日《ひ》の|出神《でのかみ》の|生宮《いきみや》は|神《かみ》の|罰《ばち》が|当《あた》つたのだからと|云《い》つて、|袖手傍観《しうしゆばうくわん》の|態《てい》を|取《と》つてゐ|乍《なが》ら、|日《ひ》の|出神《でのかみ》さまさまと|竜宮《りうぐう》さまがお|助《たす》け|遊《あそ》ばしたなどと、|甘《うま》い|事《こと》|仰有《おつしや》いますワイ。|自分《じぶん》の|悪《わる》い|事《こと》は|皆《みな》|人《ひと》にぬりつけ、|人《ひと》の|手柄《てがら》は|皆《みな》|自分《じぶん》の|手柄《てがら》にせうと|云《い》ふ、|抜目《ぬけめ》のない|高姫《たかひめ》さまだから、|恐《おそ》れ|入《い》ります。アハヽヽヽ』
|春彦《はるひこ》『どちらに|助《たす》けて|貰《もら》うたのか、テンと|訳《わけ》が|分《わか》らぬよになつて|来《き》た。|兎《と》も|角《かく》どちらでもよい、|助《たす》けて|呉《く》れた|神様《かみさま》に、これからは|絶対服従《ぜつたいふくじゆう》をするのだ』
|高姫《たかひめ》『|日《ひ》の|出神《でのかみ》に|救《すく》はれたのだから、|其《その》|生宮《いきみや》たる|高姫《たかひめ》にこれからは|唯々諾々《ゐゐだくだく》として、|一言《ひとこと》の|理屈《りくつ》も|言《い》はず、|仮令《たとへ》|水火《すゐくわ》の|中《なか》をくぐれと|云《い》つても、|命《いのち》の|恩人《おんじん》の|云《い》ふ|事《こと》、|神妙《しんめう》に|聞《き》きなされよ。|又《また》|慢心《まんしん》して|一言《ひとこと》でも|口答《くちごた》へをするが|最後《さいご》、|取《と》つて|放《ほ》かされますで……』
|常彦《つねひこ》『アハヽヽヽ、どこ|迄《まで》も|高姫式《たかひめしき》だなア。|言依別《ことよりわけ》|様《さま》や、|国依別《くによりわけ》さまが|愛想《あいさう》をつかして、|聖地《せいち》を|脱《ぬ》け|出《だ》しなさつたのも|無理《むり》はないワい。|本当《ほんたう》に|我《が》の|強《つよ》い|悪垂《あくた》れ|婆《ばあ》ぢやなア』
|高姫《たかひめ》、|常彦《つねひこ》の|胸倉《むなぐら》をグツと|取《と》り、
『コラ|常《つね》、|云《い》はしておけば|際限《さいげん》もない|雑言《ざふごん》|無礼《ぶれい》、モウ|了見《りやうけん》は|致《いた》さぬぞや』
と|喉《のど》をギユウギユウとしめつける。|数多《あまた》の|船客《せんきやく》は|総立《さうだち》となつて……|乱暴《らんばう》な|婆《ばば》アもあるものだ……と|呆《あき》れて|見《み》てゐる。|常彦《つねひこ》は|苦《くる》しき|声《ごゑ》を|絞《しぼ》り|乍《なが》ら、
|常彦《つねひこ》『ハヽ|春彦《はるひこ》、タヽヽヽ|助《たす》けて|呉《く》れ』
と|声《こゑ》もきれぎれに|叫《さけ》んだ。|春彦《はるひこ》は|矢庭《やには》に|高姫《たかひめ》の|両足《りやうあし》をさらへた。|高姫《たかひめ》はモンドリ|打《う》つて、|海中《かいちう》にザンブと|計《ばか》り|落《お》ち|込《こ》んだ。
|常彦《つねひこ》は|最前《さいぜん》|国依別《くによりわけ》が|残《のこ》しておいた|板片《いたぎれ》に|括《くく》つた|綱《つな》を|高姫《たかひめ》|目蒐《めが》けてパツと|投《な》げた。|高姫《たかひめ》は|手早《てばや》く|板子《いたご》にすがりついた。|春彦《はるひこ》、|常彦《つねひこ》は|一生懸命《いつしやうけんめい》に|綱《つな》を|手《た》ぐり、|漸《やうや》く|救《すく》ひ|上《あ》げた。
|高姫《たかひめ》『アヽ|日《ひ》の|出神《でのかみ》さま、ようマアお|助《たす》け|下《くだ》さいました。|有難《ありがた》う|御座《ござ》います』
と|手《て》を|拍《う》つて|拝《をが》んでゐる。
|常彦《つねひこ》『コレコレ|高姫《たかひめ》さま、|日《ひ》の|出神《でのかみ》ぢやない、|吾々《われわれ》|両人《りやうにん》が|此《この》|綱《つな》を|投《な》げて、お|前《まへ》の|生命《いのち》を|助《たす》けたのだよ』
|高姫《たかひめ》『ソリヤ|何《なん》と|云《い》ふ|大《だい》それたことを|云《い》ふのだい。|人間《にんげん》がすると|思《おも》うてゐると、|量見《りやうけん》が|違《ちが》ひますぞえ。|皆《みな》|神《かみ》からさされてをると|云《い》ふお|筆《ふで》を|何《なん》と|心得《こころえ》なさる。|日《ひ》の|出神《でのかみ》さまが|臨時《りんじ》にムサ|苦《くる》しいお|前《まへ》の|肉体《にくたい》を|使《つか》うて|御用《ごよう》をさして|下《くだ》さつたのだ。|其《その》|日《ひ》の|出神《でのかみ》|様《さま》は|直《すぐ》に|此《この》|高姫《たかひめ》の|肉体《にくたい》へお|鎮《しづ》まり|遊《あそ》ばして|御座《ござ》るから、|此《この》|高姫《たかひめ》の|肉《にく》の|宮《みや》を|拝《をが》みなさい。アーア|神界《しんかい》の|事《こと》の|分《わか》らぬ|宣伝使《せんでんし》は|困《こま》つた|者《もの》だ。|何《なに》から|何《なに》まで|実地《じつち》|教育《けういく》をしてやらねばならぬとは、|此《こ》の|高姫《たかひめ》も|骨《ほね》の|折《を》れた|事《こと》だワイ』
|常彦《つねひこ》、|春彦《はるひこ》は|余《あま》りの|事《こと》に|呆《あき》れ|果《は》て、|両人《りやうにん》|口《くち》をポカンと|開《あ》けて、
『アハー』
と|頤《あご》が|外《はづ》れるような|欠伸《あくび》をしてゐる。
|高姫《たかひめ》『コレコレそんな|大《おほ》きな|口《くち》を|開《あ》けると、|頤《あご》が|外《はづ》れますぞえ。|余《あま》りの|大《おほ》きなお|仕組《しぐみ》で、|開《あ》いた|口《くち》がすぼまらず、|頤《あご》が|外《はづ》れたり、|逆様《さかさま》になつて、そこらあたりをのたくらねばならぬぞよと、|変性男子《へんじやうなんし》のお|筆《ふで》に|立派《りつぱ》に|書《か》いてあるだないか、チト|改心《かいしん》なされ。|神様《かみさま》の|結構《けつこう》な|御用《ごよう》をさせられ|乍《なが》ら、|高姫《たかひめ》を|助《たす》けてやつたなぞと、|夢《ゆめ》にも|慢神心《まんしんごころ》を|出《だ》してはなりませぬぞ。|罪《つみ》の|重《おも》いお|前等《まへら》|二人《ふたり》が|沈《しづ》む|所《ところ》を、|此《こ》の|高姫《たかひめ》の|肉体《にくたい》を|神《かみ》が|使《つか》うてまぢなうて|下《くだ》さつたのぢや。|高姫《たかひめ》を|助《たす》けたのぢやない。つまり|高姫《たかひめ》の|犠牲的《ぎせいてき》|行動《かうどう》に|依《よ》つて、お|前達《まへたち》の|海《うみ》におちて|死《し》ぬ|所《ところ》を|助《たす》けて|頂《いただ》いたのだ。あゝ|何《なん》と、|神界《しんかい》の|御仕組《おしぐみ》は|人民《じんみん》では|見当《けんたう》の|取《と》れぬものだワイ。サア|常彦《つねひこ》、|春彦《はるひこ》、|是《こ》れで|改心《かいしん》が|出来《でき》たでせう。|此《この》|上《うへ》は|何事《なにごと》も|高姫《たかひめ》の|云《い》ふ|通《とほ》りにするのですよ』
|常彦《つねひこ》『ヘン』
|春彦《はるひこ》『ヒン、|馬鹿《ばか》にしてゐるワイ。|俺《おれ》が|両足《りやうあし》をかつさらへて|放《ほ》り|込《こ》んでやつたのだ。|余《あま》り|憎《にく》らしいから……それに|神《かみ》がしたのだなどと、|都合《つがふ》の|良《よ》い|弁解《べんかい》して|呉《く》れるワイ。|斯《こ》う|云《い》ふ|時《とき》には|高姫《たかひめ》さまの|御託宣《ごたくせん》も|満更《まんざら》、|無用《むよう》にはならぬ。ハヽヽヽヽ』
|高姫《たかひめ》『|蛙《かへる》は|口《くち》から、とうとう|白状《はくじやう》しよつたなア。お|前《まへ》が|此《こ》の|生宮《いきみや》の|足《あし》をさらへて、|海《うみ》へ|投《な》げ|込《こ》んだのだなア。まてまて、|懲《こら》しめの|為《ため》|制敗《せいばい》してやらう』
と|又《また》もや|胸倉《むなぐら》をグツと|取《と》り、|締《し》めつけようとする。
|常彦《つねひこ》『オイ|高姫《たかひめ》さま、|日《ひ》の|出神《でのかみ》が|憑《うつ》つたぞよ。お|前《まへ》の|両足《りやうあし》をさらへて、|海《うみ》の|中《なか》へ|放《ほ》り|込《こ》んでやらうか、それが|厭《いや》なら、|胸倉《むなぐら》を|放《はな》してお|詫《わび》をしたがよからうぞ』
|高姫《たかひめ》は|此《こ》の|言葉《ことば》に|驚《おどろ》き、|胸倉《むなぐら》|取《と》つた|手《て》を|放《はな》し、|面《つら》ふくらし|乍《なが》ら、|又《また》もや|甲板《かんばん》さして|上《のぼ》り|行《ゆ》く。|船《ふね》は|漸《やうや》くにしてテルの|港《みなと》に|安着《あんちやく》した。|高姫《たかひめ》は|衆人《しうじん》を|押分《おしわ》け、|厚《あつ》かましく、【い】の|一番《いちばん》に|船《ふね》を|飛《と》び|出《だ》した。|春彦《はるひこ》、|常彦《つねひこ》は|稍《やや》|遅《おく》れて|上陸《じやうりく》した。|高姫《たかひめ》は|一生懸命《いつしやうけんめい》にテルの|都《みやこ》を|指《さ》して|走《はし》り|行《ゆ》く。|常彦《つねひこ》、|春彦《はるひこ》の|両人《りやうにん》は|見《み》えつ|隠《かく》れつ、|高姫《たかひめ》の|後《あと》を|追《お》うて|行《ゆ》く。
|船長《せんちやう》のタルチールは|副船長《ふくせんちやう》たる|吾《わが》|子《こ》のテルチルに|船《ふね》を|与《あた》へ、|且《か》つ|之《これ》を|船長《せんちやう》となし、|言依別命《ことよりわけのみこと》、|国依別《くによりわけ》と|共《とも》に|宣伝歌《せんでんか》を|謡《うた》ひ|乍《なが》ら、|高砂島《たかさごじま》の|何処《いづこ》ともなく、|進《すす》み|入《い》つた。|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》。
(大正一一・八・一〇 旧六・一八 松村真澄録)
跋 |暗闇《くらやみ》
一、|現代《げんだい》の|社会《しやくわい》は|力《ちから》そのものが|物《もの》を|言《い》ふ。|力《ちから》なきものは|立《た》つべき|道理《だうり》も|立《た》たず。|立《た》つべからざる|無理《むり》も|力《ちから》あるものには|立派《りつぱ》に|立《た》つ|世《よ》の|中《なか》だ。
二、○○に|対《たい》して|或《ある》|方面《はうめん》から|行《おこな》つた|様《やう》な|無茶《むちや》を|塵《ちり》ほどでも|行《おこな》つたとすれば、|忽《たちま》ち|悪魔《あくま》|呼《よ》ばはりを|受《う》け|滅茶々々《めつちやめつちや》に|打《う》ち|砕《くだ》かれて|了《しま》ふであらう。|弱者《じやくしや》は|自《みづか》ら|犯《おか》さざる|罪《つみ》をも|謝《しや》せねばならぬ。|強者《きやうしや》は|自《みづか》ら|犯《おか》したる|罪《つみ》をも|平気《へいき》で|押《お》し|通《とほ》すと|云《い》ふ|現状《げんじやう》だ。|強者《きやうしや》は|自《みづか》ら|悪《あく》をなしても、|之《これ》を|甘《うま》く|世間《せけん》を|誤魔化《ごまくわ》して|却《かへつ》て|無上《むじやう》の|善行《ぜんかう》とせらるる|暗闇《くらやみ》の|世《よ》の|中《なか》だ。
三、|誤解《ごかい》を|釈《と》くには|他《た》の|誤《あやま》りを|正《ただ》すが|第一《だいいち》の|善法《ぜんはう》だ。|自己《じこ》の|正《ただ》しき|主張《しゆちやう》を|明白《めいはく》に|徹底的《てつていてき》に、|相手方《あひてがた》に|合点《がてん》の|行《ゆ》く|様《やう》に|弁明《べんめい》し|釈明《しやくめい》する|事《こと》に|努力《どりよく》せなくては|成《な》らない。|何程《なにほど》|誤解《ごかい》されても|構《かま》はぬ、|正《ただ》しき|神《かみ》は|御照覧《ごせうらん》|遊《あそ》ばすからと、|惟神主義《かむながらしゆぎ》を|保持《ほぢ》して|袖手傍観的《しうしゆばうくわんてき》|態度《たいど》に|出《い》づる|者《もの》は、|自分《じぶん》の|無能《むのう》と|無責任《むせきにん》とを|表白《へうはく》するもので、|結局《けつきよく》|神《かみ》の|国《くに》の|為《ため》には、|卑怯者《ひけふもの》|又《また》は|反抗者《はんかうしや》となるものである。
四、|相手方《あひてがた》の|言《い》ひ|放題《はうだい》に|何《なん》でも|彼《か》んでも|御無理《ごむり》|御尤《ごもつと》もと|承服《しようふく》するは、|決《けつ》して|誤解《ごかい》を|釈《と》くの|方法《はうはふ》に|非《あら》ず。|却《かへつ》て|誤解《ごかい》を|増大《ぞうだい》ならしむるものである。|相手方《あひてがた》の|強者《きやうしや》になると、|此方《こちら》の|譲歩退嬰《じやうほたいえい》を|以《もつ》て|謙譲《けんじやう》の|徳《とく》とせず、|好意《かうい》と|認《みと》めず、|却《かへつ》て|驕慢《けうまん》の|心《こころ》を|強《つよ》め|此方《こちら》の|行動《かうどう》を|見《み》て、|吾《わが》|輩《はい》の|臆測《おくそく》した|通《とほ》りだ、さればこそ|吾《わが》|抗議《かうぎ》や|言論《げんろん》や|行為《かうゐ》に|対《たい》して、|直《ただち》に|譲歩《じやうほ》したのだと|言《い》つて|澄《す》まし|込《こ》んで|了《しま》ふものである。
五、|所謂《いはゆる》|御無理《ごむり》|御尤《ごもつと》もの|譲歩的《じやうほてき》|態度《たいど》は、|相手方《あひてかた》の|無理《むり》を|是認《ぜにん》する|事《こと》となつて|了《しま》ふ。|換言《くわんげん》すれば|譲歩退嬰《じようほたいえい》は|誤解《ごかい》を|釈《と》く|方法《はうはふ》に|非《あら》ずして|却《かへつ》て|相手方《あひてかた》の|誤解《ごかい》を|裏書《うらがき》し、|益々《ますます》その|誤解《ごかい》をして|増長《ぞうちよう》せしむるものとなるのである。|之《これ》|例《たとへ》ば|或《あ》る|商品《しやうひん》に|対《たい》し、|即《すなは》ち|相手方《あひてかた》の|無暗《むやみ》に|値切《ねぎ》るに|任《まか》せて、|損《そこな》をして|迄《まで》|大負《おほまけ》に|負《まけ》る|時《とき》は、|相手方《あひてがた》の|買人《かひて》は|此方《こつち》の|好意《かうい》に|満足《まんぞく》するよりも、|却《かへつ》て|吾《わ》が|本来《ほんらい》|掛値《かけね》を|吹《ふ》き|掛《か》けたのを|甘《うま》く|値切《ねぎ》つてやつた、|然《しか》し|未《いま》だ|少《すこ》し|計《ばか》り|高値《たかね》であつたかも|知《し》れぬがなぞと|誤解《ごかい》する|様《やう》なものである。|何処《どこ》やそこい|等《ら》の|立派《りつぱ》な|方々《かたがた》の|中《なか》にも、|右様《みぎやう》の|態度《たいど》を|持《ぢ》する|人《ひと》が|十中《じつちう》の|十《じふ》まである|様《やう》に|感《かん》じられてならぬ。|是《これ》も|依然《やつぱり》|難《かた》きを|避《さ》け|易《やす》きにつかむとする|所謂《いはゆる》|惟神中毒《かむながらちうどく》の|影像《えいざう》かも|知《し》れぬ。
六、|他《た》の|誤解《ごかい》を|釈《と》く|必要《ひつえう》あるはさることながら、それに|益《ま》して|尤《もつと》も|大切《たいせつ》なるは、|他《た》を|自分《じぶん》から|誤解《ごかい》せざることである。|又《また》|今日《こんにち》の|世界《せかい》の|状態《じやうたい》に|対《たい》しては、|誤解《ごかい》せない|様《やう》に|努《つと》むるのが|最《もつと》も|重大《ぢうだい》なことである。|即《すなは》ち|兵家《へいか》の|所謂《いはゆる》|能《よ》く|彼《かれ》を|知《し》ることが|肝腎《かんじん》である。|孔子《こうし》は|人《ひと》の|己《おのれ》を|知《し》らざるを|患《うれ》へず。|人《ひと》を|知《し》らざるを|患《うれ》ふと|言《い》つた|通《とほ》りである。
七、|人間《にんげん》の|身体内《しんたいない》には|一方《いつぱう》に|天国《てんごく》あり、|一方《いつぱう》に|地獄《ぢごく》を|包蔵《はうざう》して|居《ゐ》るものだ。|要《えう》するに|人間《にんげん》は|天使《てんし》と|悪魔《あくま》との|雑種児《あいのこ》である。|現代《げんだい》の|人間《にんげん》に|於《おい》て|殊更《ことさら》にこの|傾向《けいかう》|多《おほ》きを|悟《さと》らねばならぬ。|故《ゆゑ》に|神示《しんじ》には|之《これ》を|中有人間《ちううにんげん》、|又《また》は|八衢人間《やちまたにんげん》と|称《とな》へられて|居《ゐ》る。
八、|世界《せかい》の|状態《じやうたい》を|正《ただ》しく|解《かい》せよ。|現代《げんだい》は|悪魔《あくま》|横行《わうかう》の|世《よ》なることを。|国際《こくさい》|連盟《れんめい》とか|云《い》つて、|表面《へうめん》から|見《み》れば、|天国《てんごく》の|福音《ふくいん》とも|見《み》るべき|平和《へいわ》|条約《でうやく》が|結《むす》ばれた。|併《しか》し|人類《じんるゐ》|平和《へいわ》の|随喜者《ずゐきしや》、|世界《せかい》|泰平《たいへい》の|夢想者《むさうしや》の|希望《きばう》した|程《ほど》、|期待《きたい》した|程《ほど》、|註文《ちうもん》したる|程《ほど》に|役《やく》に|立《た》つもので|在《あ》らう|乎《か》。
九、|獅子《しし》や|虎《とら》や、|狼《おほかみ》が|疲労《ひらう》の|結果《けつくわ》、|休息《きうそく》し|眠《ねむり》を|貪《むさぼ》つて|居《ゐ》るとても、|決《けつ》して|猫《ねこ》や|羊《ひつじ》や|兎《うさぎ》には|化《な》るものでない。|屹度《きつと》|元気《げんき》|恢復《くわいふく》して|眠《ねむり》より|醒《さ》むる|時《とき》が|来《く》るのは|当然《たうぜん》である。|一時《いちじ》の|暴風《ばうふう》に|逢《あ》つて|意気悄沈《いきせうちん》し、|拱手傍観《きようしゆばうくわん》|為《な》す|所《ところ》を|知《し》らざる|化《ば》け|虎《とら》や、|化《ば》け|獅子《しし》や、|化《ば》け|狼《おほかみ》がそこい|等《ら》の|山《やま》の|麓《ふもと》に、|永遠的《ゑいゑんてき》に|蟄伏《ちつぷく》して|居《ゐ》るのを|見《み》ると、|血《ち》|湧《わ》き|肉《にく》|躍《をど》り、|只《ただ》|一人《ひとり》|焦慮《せうりよ》し|活躍《くわつやく》せざるを|得《え》なくなつて|来《く》る。
一〇、|一難《いちなん》|来《きた》る|毎《ごと》にその|信仰《しんかう》と|勇気《ゆうき》を|強《つよ》め、|快活《くわいくわつ》に|愉快《ゆくわい》に|立働《たちはたら》く|誠《まこと》の|神国魂《みくにだま》の|人《ひと》は、|果《はた》して|幾人《いくにん》あるで|在《あ》らう|乎《か》。
一一、|僅《わづ》かに|不断《ふだん》の|活動《くわつどう》を|継続《けいぞく》して|居《ゐ》るものは、|飛行将軍《ひかうしやうぐん》を|先導《せんだう》に|五字《ごじ》の|教祖《けうそ》、|及《およ》び|日《ひ》の|出神《でのかみ》の|生宮《いきみや》と|称《しよう》する|一派《いつぱ》のかたがた|位《くらゐ》なものだ。|然《しか》し|乍《なが》ら|地方《ちはう》に|至《いた》つては、それ|相応《さうおう》の|活動《くわつどう》を|行《おこな》つて|居《ゐ》る|真人《しんじん》も|少《すこ》しはあるさうだ。|之《これ》がせめてもの|吾《わが》|慰安《ゐあん》となる|許《ばか》りだ。
一二、|三五教《あななひけう》、|無抵抗主義《むていかうしゆぎ》の|真諦《しんたい》を|誤解《ごかい》して、|如何《いか》なる|暴逆《ばうぎやく》にも、|無理難題《むりなんだい》にも|屈服《くつぷく》し、|御思召《おぼしめし》|次第《しだい》だとか、|御尤《ごもつと》も|千万《せんばん》だとか|言《い》つて、|極端《きよくたん》な|無抵抗主義《むていかうしゆぎ》を|標榜《へうぼう》するのも|一《ひと》つは|考《かんが》へものだ。
|遂《つひ》には|卑劣《ひれつ》と、|柔弱《じうじやく》と、|無腸漢《むちやうかん》の|卵《たまご》とならなければ|幸《さいはひ》だ。|只《ただ》|世間《せけん》の|評判《へうばん》や、|新聞《しんぶん》の|悪評《あくへう》や、|其《その》|他《た》の|圧迫《あつぱく》などを|気遣《きづか》つて、|正義《せいぎ》の|大道《だいだう》を|歩《あゆ》むことさへ|恐《おそ》るるに|至《いた》らば、|最早《もはや》|其《そ》の|人間《にんげん》は|駄目《だめ》だ。|製糞器《せいふんき》か、|立《た》つて|歩行《ある》く|樹木《じゆもく》か、|拙劣《せつれつ》なる|蓄音機《ちくおんき》の|様《やう》なものである。|斯《こ》うなれば|最早《もはや》|人格《じんかく》も|何《なに》もあつたものでは|無《な》い。|他人《たにん》の|尻馬《しりうま》に|乗《の》る|許《ばか》りが|人間《にんげん》の|勤《つと》むべき|道《みち》では|有《あ》るまい。
一三、|世間《せけん》の|評判《へうばん》や|新聞《しんぶん》の|批評《ひへう》ほど|当《あ》てにならぬものは|無《な》い。|評判《へうばん》が|良《よ》いからと|思《おも》つて|安心《あんしん》して|居《ゐ》ると、|忽《たちま》ち|背負投《せおひな》げを|喰《く》はされるものだ。|一昨年《いつさくねん》|以来《いらい》|悪鬼羅刹《あくきらせつ》の|権化《ごんげ》の|如《ごと》く|悪罵《あくば》され、|全国《ぜんこく》の|新聞紙上《しんぶんしじやう》に|曝《さら》された|東西《とうざい》|二人《ふたり》の|男女《だんぢよ》があつた。|然《しか》しその|男女《だんぢよ》に|直接《ちよくせつ》|面会《めんくわい》し、その|思想《しさう》や|行為《かうゐ》や|態度《たいど》を|実見《じつけん》したものは、|百人《ひやくにん》が|百人《ひやくにん》まで|世評《せへう》や|新聞《しんぶん》|記事《きじ》の|当《あて》にならない|而已《のみ》か、|全《まつた》く|正反対《せいはんたい》の|人物《じんぶつ》たることを|肯《うなづ》くで|有《あ》らう。|黒雲《くろくも》に|包《つつ》まれたる|大空《おほぞら》の|月《つき》も、|仇雲《あだくも》の|扉《とびら》を|披《ひら》ひて|其《その》|瑞々《みづみづ》しい|姿《すがた》を|現《あら》はす|時《とき》は、|暗黒《あんこく》の|地上《ちじやう》も|直《ただち》に|瑞光燦爛《ずいくわうさんらん》たる|神姿《しんし》を|見《み》る|事《こと》が|出来《でき》るであらう。(了)
(昭和一〇・六・八 王仁校正)
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霊界物語 第二八巻 海洋万里 卯の巻
終り