霊界物語 第二一巻 如意宝珠 申の巻
出口王仁三郎
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●テキスト中に現れる記号について
《》……ルビ
|……ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)天地|剖判《ぼうはん》の
[#]……入力者注
【】……傍点が振られている文字列
(例)【ヒ】は火なり
●シフトJISコードに無い文字は他の文字に置き換え、そのことをWebサイトに「相違点」として記した。
●底本
『霊界物語 第二一巻』愛善世界社
1997(平成9)年07月12日 第一刷発行
※現代では差別的表現と見なされる箇所もあるが修正はせずにすべて底本通りにした。
※図表などのレイアウトは完全に再現できるわけではないので適宜変更した。
※詳細な凡例は次のウェブサイト内に掲載してある。
http://www.onisavulo.jp/
※作成者…『王仁三郎ドット・ジェイピー』
2005年10月22日作成
2008年06月23日修正
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●目次
|序文《じよぶん》
|凡例《はんれい》
|総説《そうせつ》
第一篇 |千辛万苦《せんしんばんく》
第一章 |高春山《たかはるやま》〔六七五〕
第二章 |夢《ゆめ》の|懸橋《かけはし》〔六七六〕
第三章 |月休殿《げつきうでん》〔六七七〕
第四章 |砂利喰《じやりくひ》〔六七八〕
第五章 |言《ことば》の|疵《きず》〔六七九〕
第二篇 |是生滅法《ぜしやうめつぽふ》
第六章 |小杉《こすぎ》の|森《もり》〔六八〇〕
第七章 |誠《まこと》の|宝《たから》〔六八一〕
第八章 |津田《つだ》の|湖《うみ》〔六八二〕
第九章 |改悟《かいご》の|酬《むくい》〔六八三〕
第三篇 |男女共権《だんぢよきようけん》
第一〇章 |女権拡張《ぢよけんくわくちやう》〔六八四〕
第一一章 |鬼娘《おにむすめ》〔六八五〕
第一二章 |奇《くしび》の|女《をんな》〔六八六〕
第一三章 |夢《ゆめ》の|女《をんな》〔六八七〕
第一四章 |恩愛《おんあい》の|涙《なみだ》〔六八八〕
第四篇 |反復無常《はんぷくむじやう》
第一五章 |化地蔵《ばけぢざう》〔六八九〕
第一六章 |約束履行《やくそくりかう》〔六九〇〕
第一七章 |酒《さけ》の|息《いき》〔六九一〕
第一八章 |解決《かいけつ》〔六九二〕
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|序文《じよぶん》
|時代《じだい》に|順応《じゆんおう》せよとは、|今日《こんにち》|上流《じやうりう》に|立《た》てる|床次《とこなみ》|内相《ないしやう》の|訓戒《くんかい》であつた。|併《しか》し|乍《なが》ら|日進月歩《につしんげつぽ》の|今日《こんにち》|順応《じゆんおう》も|結構《けつこう》だが、|併《しか》し|無暗《むやみ》に|外国《ぐわいこく》の|行方《やりかた》|許《ばか》りに|順応《じゆんおう》してはならない。|世界《せかい》の|趨勢《すうせい》に|省《かへり》み、|建国《けんこく》の|精神《せいしん》に|背馳《はいち》せない|様《やう》に、|取捨選択《しゆしやせんたく》するの|必要《ひつえう》がありませう。|世界《せかい》の|大勢《たいせい》に|順応《じゆんおう》しつつ|国民《こくみん》を|指導《しだう》するのが、|治者《ちしや》や|学者《がくしや》の|最《もつと》も|注意《ちゆうい》すべき|義務《ぎむ》であると|思《おも》ふ。|瑞月《ずゐげつ》が|神命《しんめい》に|依《よ》りて、|此《この》|物語《ものがたり》を|口述《こうじゆつ》するのも|亦《また》|今日《こんにち》|一般《いつぱん》の|人々《ひとびと》、|即《すなは》ち|老若男女《らうにやくなんによ》|貴賤《きせん》|智愚《ちぐ》の|区別《くべつ》なく|諒解《りやうかい》|出来《でき》|得《う》るやうにと、|卑近《ひきん》な|言葉《ことば》を|使《つか》つて、|多数者《たすうしや》の|知識《ちしき》の|程度《ていど》に|順応《じゆんおう》しつつ、|神意《しんい》の|一部《いちぶ》を|発表《はつぺう》|指導《しだう》する|考《かんが》へであります。|故《ゆゑ》に|所謂《いはゆる》|智者《ちしや》|学者《がくしや》の|眼《め》より|見《み》れば、|実《じつ》に|約《つま》らない|物語《ものがたり》たることは、|口述者《こうじゆつしや》に|於《おい》ては|百《ひやく》も|千《せん》も|承知《しようち》の|上《うへ》のことであります。|要《えう》するに|此《この》|物語《ものがたり》は、|神《しん》、|幽《いう》、|現《げん》|三界《さんかい》の|状況《じやうきやう》や、|神《かみ》の|大御心《おほみこころ》の|一端《いつたん》や、|神理《しんり》の|片鱗《へんりん》を|描《ゑが》き|出《だ》したに|過《す》ぎませぬ。|読者《どくしや》|幸《さいは》ひに|諒《りやう》せられむ|事《こと》を|希望《きばう》|致《いた》します。
大正十一年五月二十一日 旧四月廿五日
口述著者 王仁識
|凡例《はんれい》
一、|本巻《ほんくわん》の|原稿《げんかう》は|全部《ぜんぶ》|口述者《こうじゆつしや》の|周到《しうたう》なる|校閲《かうえつ》を|経《へ》たものであります。お|蔭《かげ》で|校正上《かうせいじやう》のいろいろな|注意《ちゆうい》に|就《つい》て|得《う》る|所《ところ》がありました。
一、|既刊《きかん》|第二十二巻《だいにじふにくわん》|及《およ》び|其《その》|他《た》の|巻《くわん》の『百足姫』はオサムシと|訓《くん》すべきですから、『|蜈蚣姫《むかでひめ》』となるべきでしたのを、|活字《くわつじ》が|無《な》かつたので|已《や》むを|得《え》ず『|百足姫《むかでひめ》』としておきましたが、|本巻《ほんくわん》より|全部《ぜんぶ》『|蜈蚣姫《むかでひめ》』と|訂正《ていせい》しておきました。
一、『|物語《ものがたり》』の|中《うち》に|屡《しばしば》『|言霊《ことたま》【戦】を|発射《はつしや》する』といふ|言葉《ことば》が|現《あら》はれて|来《き》ますが、それは『|言霊《ことたま》【線】を|発射《はつしや》する』の|誤《あやま》りです。が、『|言霊戦《ことたません》に|参加《さんか》する』といふ|如《ごと》き|場合《ばあひ》は|無論《むろん》『|言霊《ことたま》【戦】』でよい|訳《わけ》です。
一、『……でありません』とか『……であるんだ』とかいふ|場合《ばあひ》の『ん』は|本巻《ほんくわん》より|全部《ぜんぶ》『……でありませぬ』|又《また》は『……であるのだ』に|訂正《ていせい》しましたが、|読《よ》む|時《とき》には|矢張《やはり》『……でありません』『……であるんだ』といふ|風《ふう》に|読《よ》むのださうです。
大正十二年三月   編者識
|総説《そうせつ》
|霊界《れいかい》は|想念《さうねん》の|世界《せかい》であつて、|無限《むげん》に|広大《くわうだい》なる|精霊《せいれい》|世界《せかい》である。|現実《げんじつ》|世界《せかい》は|凡《すべ》て|神霊《しんれい》|世界《せかい》の|移写《いしや》であり、|又《また》|縮図《しゆくづ》である。|霊界《れいかい》の|真象《かたち》をうつしたのが、|現界《げんかい》、|即《すなは》ち|自然界《しぜんかい》である。|故《ゆゑ》に|現界《げんかい》を|称《しよう》してウツシ|世《よ》と|言《い》ふのである。|例之《たとへば》|一万三千尺《いちまんさんぜんしやく》の|大富士山《だいふじさん》を|僅《わづ》か|二寸《にすん》|四方《しはう》|位《くらゐ》の|写真《しやしん》にうつした|様《やう》なもので、その|写真《しやしん》が|所謂《いはゆる》|現界《げんかい》|即《すなは》ちウツシ|世《よ》である。|写真《しやしん》の|不二山《ふじさん》は|極《きは》めて|小《ちひ》さいものだが、|其《その》|実物《じつぶつ》は|世人《せじん》の|知《し》る|如《ごと》く、|駿《すん》、|甲《かふ》、|武《ぶ》|三国《みくに》にまたがつた|大高山《だいかうざん》であるが|如《ごと》く、|神霊界《しんれいかい》は|到底《たうてい》|現界人《げんかいじん》の|夢想《むさう》だになし|得《え》ざる|広大《くわうだい》なものである。|僅《わづ》か|一間《いつけん》|四方《しはう》|位《くらゐ》の|神社《じんじや》の|内陣《ないぢん》でも、|霊界《れいかい》にては|殆《ほとん》ど|現界人《げんかいじん》の|眼《め》で|見《み》る|十里《じふり》|四方《しはう》|位《くらゐ》はあるのである。|凡《すべ》て|現実界《げんじつかい》の|事物《じぶつ》は、|何《いづ》れも|神霊界《しんれいかい》の|移写《いしや》であるからである。|僅《わづか》に|一尺《いつしやく》|足《た》らずの|小《ちひ》さい|祭壇《さいだん》にも、|八百万《やほよろづ》の|神々《かみがみ》や|又《また》は|祖先《そせん》の|神霊《しんれい》が|余《あま》り|狭隘《けふあい》を|感《かん》じ|玉《たま》はずして|鎮《しづ》まり|給《たま》ふのは、|凡《すべ》て|神霊《しんれい》は|情動《じやうだう》|想念《さうねん》の|世界《せかい》なるが|故《ゆゑ》に、|自由自在《じいうじざい》に|想念《さうねん》の|延長《えんちやう》を|為《な》し|得《う》るが|故《ゆゑ》である。|三尺《さんじやく》|四方《しはう》|位《くらゐ》の|祠《ほこら》を|建《た》てておいて|下津岩根《したついはね》に|大宮柱《おほみやばしら》|太敷立《ふとしきたて》、|高天原《たかあまはら》に|千木高知《ちぎたかし》りて|云々《うんぬん》と|祝詞《のりと》を|奏上《そうじやう》するのも、|少《すこ》し|許《ばか》りの|供物《くもつ》を|献《けん》じて、|横山《よこやま》の|如《ごと》く|八足《やたり》の|机代《つくゑしろ》に|置足《おきた》らはして|奉《たてまつ》る|云々《うんぬん》とある|祝詞《のりと》の|意義《いぎ》も、|決《けつ》して|虚偽《きよぎ》ではない。|凡《すべ》て|現界《げんかい》はカタ|即《すなは》ち|形《かたち》の|世界《せかい》であるから、その|祠《ほこら》も|供物《くもつ》も|前《まへ》に|述《の》べた|不二山《ふじさん》の|写真《しやしん》に|比《ひ》すべきものであつて、|神霊界《しんれいかい》にあつては|極《きは》めて|立派《りつぱ》な|祠《ほこら》が|建《た》てられ、|又《また》|八百万《やほよろづ》の|神々《かみがみ》が|知食《きこしめ》しても|不足《ふそく》を|告《つ》げない|程《ほど》の|供物《くもつ》となつて|居《ゐ》るのである。|凡《すべ》て|世界《せかい》は|霊界《れいかい》が|主《しゆ》で|現界《げんかい》|即《すなは》ち|形体界《けいたいかい》が|従《じう》である。|一切万事《いつさいばんじ》が|霊主体従的《れいしゆたいじうてき》に|組織《そしき》されてあるのが、|宇宙《うちう》の|真相《しんさう》で|大神《おほかみ》の|御経綸《ごけいりん》である。|現実界《げんじつかい》より|外《ほか》に|神霊界《しんれいかい》の|儼然《げんぜん》として|存在《そんざい》する|事《こと》を|知《し》らない|人《ひと》が|斯《こ》んな|説《せつ》を|聞《き》いたならば|定《さだ》めて|一笑《いつせう》に|付《ふ》して|顧《かへり》みないでありませう。|無限絶対《むげんぜつたい》|無始無終《むしむしう》の|霊界《れいかい》の|事象《じしやう》は、|極限《きよくげん》された|現界《げんかい》に|住《す》む|人間《にんげん》の|智力《ちりよく》では、|到底《たうてい》|会得《ゑとく》する|事《こと》は|出来《でき》ないでせう。
この|物語《ものがたり》は、|現《げん》、|幽《いう》、|神《しん》、|三界《さんかい》を|一貫《いつくわん》し、|過去《くわこ》と|現在《げんざい》|未来《みらい》を|透徹《とうてつ》したるが|故《ゆゑ》に、|読《よ》む|人々《ひとびと》に|由《よ》つて|種々《しゆじゆ》と|批評《ひひやう》が|出《で》るでせうが、|須《すべか》らく|現実界《げんじつかい》を|従《じう》とし、|神霊界《しんれいかい》を|主《しゆ》として|御熟読《ごじゆくどく》あらば、|幾分《いくぶん》か|其《その》|真相《しんさう》を|掴《つか》む|事《こと》が|出来《でき》るであらうと|思《おも》ひます。
|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》。
大正十一年五月廿一日
於松雲閣 口述著者識
第一篇 |千辛万苦《せんしんばんく》
第一章 |高春山《たかはるやま》〔六七五〕
|雲《くも》を|圧《あつ》して|聳《そそ》り|立《た》つ  |高春山《たかはるやま》の|山頂《さんちやう》に
バラモン|教《けう》を|開《ひら》きたる  |大国別《おほくにわけ》に|憑依《ひようい》せる
|八岐大蛇《やまたをろち》の|分霊《わけみたま》  |醜《しこ》の|曲霊《まがひ》が|割拠《かつきよ》して
|山野河海《さんやかかい》を|睥睨《へいげい》し  |大江《おほえ》の|山《やま》と|三国岳《みくにだけ》
|六甲山《ろくかふざん》と|相俟《あいま》つて  |冷《つめ》たき|魔風《まかぜ》を|吹《ふ》き|送《おく》り
|蜈蚣《むかで》の|姫《ひめ》の|手下《てした》なる  |鷹依姫《たかよりひめ》が|朝夕《あさゆふ》に
|心《こころ》を|砕《くだ》く|鳩胸《はとむね》や  |仕組《しぐみ》の|奥《おく》は|割《わ》れ|岩《いは》の
|胆《きも》を|煎《い》るこそ|恐《おそ》ろしき。
|南《みなみ》に|瀬戸《せと》の|海《うみ》を|控《ひか》へ、|東南《たつみ》に|浪速《なには》の|里《さと》を|見下《みお》ろし、|西北東《せいほくとう》に|重畳《ちようでふ》たる|連山《れんざん》を|瞰下《かんか》する|高春山《たかはるやま》の|絶頂《ぜつちやう》に|岩窟《いはや》を|作《つく》り、バラモン|教《けう》の|一派《いつぱ》を|建《た》て、アルプス|教《けう》と|称《しよう》し、|自転倒島《おのころじま》を|飽《あ》く|迄《まで》も、|八岐大蛇《やまたをろち》の|勢力圏内《せいりよくけんない》に|握《にぎ》らむと、|昼夜《ちうや》|心《こころ》を|悩《なや》まして|居《ゐ》た。|山麓《さんろく》には|細長《ほそなが》き|津田《つだ》の|湖《うみ》が|横《よこ》たはつてゐる。|此《この》|湖水《こすゐ》には|大蛇《をろち》の|分身《ぶんしん》たる|数多《あまた》の|蛇神《じやしん》|潜伏《せんぷく》して、|日夜《にちや》|邪気《じやき》を|吐《は》き|出《だ》し、|地上《ちじやう》の|空気《くうき》を|腐爛《ふらん》せしめつつあつた。|高姫《たかひめ》、|黒姫《くろひめ》は|波斯《フサ》の|国《くに》|北山村《きたやまむら》の|本山《ほんざん》を|捨《す》て|蠑〓別《いもりわけ》、|魔我彦《まがひこ》をして|後《あと》を|守《まも》らしめおき、|三五教《あななひけう》に|帰順《きじゆん》したる|改心《かいしん》の|証拠《しようこ》として、アルプス|教《けう》の|鷹依姫《たかよりひめ》を|言向《ことむ》け|和《やは》さむと、|波斯《フサ》の|国《くに》より|乗《の》り|来《きた》れる|飛行船《ひかうせん》に|乗《じやう》じ、|高春山《たかはるやま》の|山麓《さんろく》に|着《つ》いた。これより|二人《ふたり》は|巡礼姿《じゆんれいすがた》に|身《み》を|変《へん》じ、|高春山《たかはるやま》の|鷹依姫《たかよりひめ》が|岩窟《がんくつ》に|進《すす》まむと、|壁《かべ》を|立《た》てたる|如《ごと》き|高山《かうざん》を|登《のぼ》り|行《ゆ》く。
|高春山《たかはるやま》の|五合目《ごがふめ》|許《ばか》りの|処《ところ》に、|天《あめ》の|森《もり》と|云《い》ふ|巨岩《きよがん》が|立並《たちなら》び、|中央《ちうあう》の|樹木《じゆもく》|鬱蒼《うつさう》たる|間《あひだ》に、|小《ちひ》さき|祠《ほこら》がある。|之《これ》を|竜神《りうじん》の|宮《みや》と|云《い》ふ。|此《この》|竜神《りうじん》は|雨風《あめかぜ》を|自由《じいう》になす|神《かみ》と|称《とな》へられ、|鷹依姫《たかよりひめ》が|唯一《ゆいつ》の|守護神《しゆごじん》として|尊敬《そんけい》して|居《ゐ》た。それが|為《ため》に|何人《なにびと》も、|此《この》|境域《きやうゐき》に|近《ちか》づく|事《こと》を|厳禁《げんきん》して|居《ゐ》た。テーリスタン、カーリンスと|云《い》ふ|二人《ふたり》の|荒男《あらをとこ》は、|此《この》|竜神《りうじん》の|宮《みや》を|固《かた》く|警護《けいご》して|居《ゐ》た。|二人《ふたり》は|巌《いは》の|上《うへ》に|高鼾《たかいびき》をかいて|寝《やす》んで|居《ゐ》る。|高姫《たかひめ》、|黒姫《くろひめ》は|漸《やうや》く|此処《ここ》に|登《のぼ》り|来《きた》り、
|高姫《たかひめ》『なんと|立派《りつぱ》な|岩《いは》が|並《なら》んで|居《ゐ》るぢやありませぬか。|一《ひと》つ|此《この》|景色《けしき》の|佳《よ》い|所《ところ》で|休息《きうそく》して|行《ゆ》きませう。まだ|頂上《ちやうじやう》までは|余程《よほど》|道程《みちのり》がありますから……』
|黒姫《くろひめ》『|宜《よろ》しう|御座《ござ》いませう』
と|碁盤形《ごばんなり》の|門《もん》の|戸《と》を|押《お》し|開《あ》け|奥《おく》に|進《すす》み|入《い》る。
『アヽ|此処《ここ》には|妙《めう》な|祠《ほこら》がある。|是《こ》れが|噂《うはさ》に|名高《なだか》い|鷹依姫《たかよりひめ》の、|雨《あめ》を|降《ふ》らせ|風《かぜ》を|起《おこ》す|唯一《ゆいつ》の|武器《ぶき》でせう。|一《ひと》つ|改心《かいしん》さしてやりませうか。|将《しやう》を|射《い》むとする|者《もの》は|先《ま》づ|其《その》|馬《うま》を|射《い》よと|云《い》ふ|事《こと》だから、|此《この》|雨風《あめかぜ》を|起《おこ》す|悪神《あくがみ》の|眷属《けんぞく》を|改心《かいしん》させる|方《はう》が、|近路《ちかみち》かも|知《し》れませぬなア』
『マア|一寸《ちよつと》お|待《ま》ちなさいませ。|拙劣《へた》に|間誤《まご》|付《つ》くと、|大風《おほかぜ》|大雨《おほあめ》で|攻《せ》められては|困《こま》りますから、|充分《じうぶん》に|様子《やうす》を|探《さぐ》つた|上《うへ》、ゆつくりとやらうぢやありませぬか』
『そりや|黒姫《くろひめ》さま、|何《なに》を|仰有《おつしや》る。|冠島《かむりじま》の|金剛不壊《こんがうふえ》の|玉《たま》を|腹《はら》に|呑《の》み|込《こ》んだ|此《この》|高姫《たかひめ》、|言《い》はば|妾《わたし》の|体《からだ》は|如意宝珠《によいほつしゆ》も|同然《どうぜん》、|多寡《たくわ》の|知《し》れた|雨《あめ》や|風《かぜ》を|起《おこ》す|竜神《りうじん》|位《くらゐ》に、|何《なに》|躊躇《ちうちよ》する|事《こと》がありますかい。お|前《まへ》さまは|三五教《あななひけう》に|帰順《きじゆん》してから、チツと|変《へん》になつたぢやありませぬか……イヤ|三五教《あななひけう》に|帰順《きじゆん》する|以前《いぜん》から|高山彦《たかやまひこ》さまに|対《たい》し、|余程《よほど》|御親切《ごしんせつ》が|過《す》ぎたやうですよ。|神《かみ》|第一《だいいち》|主義《しゆぎ》をどつかへ|遺失《ゐしつ》し、|高山《たかやま》|第一《だいいち》、|神《かみ》|第二《だいに》と|云《い》ふ|様《やう》なあなたの|態度《たいど》だから、そんな|弱音《よわね》を|吐《は》く|様《やう》になるのだ。モウ|此処《ここ》へ|来《き》たら|生命《いのち》を|的《まと》に、|悪神《あくがみ》を|改心《かいしん》させて|大神様《おほかみさま》にお|目《め》にかけ、|我々《われわれ》の|今迄《いままで》の|御無礼《ごぶれい》、お|気障《きざは》りの|謝罪《おわび》をせなくてはならぬ。|謂《い》はば|千騎一騎《せんきいつき》の|性念場《しやうねんば》だ。チツとしつかりしなさらぬかい』
『ハイハイ、そんな|事《こと》に|呆《はう》けて|居《を》る|様《やう》な|黒姫《くろひめ》と|見《み》えますかな。チト|残酷《ざんこく》ぢやありませぬか。それ|程《ほど》|妾《わたし》に|信用《しんよう》がないのなれば、|却《かへつ》て|貴女《あなた》の|御邪魔《おじやま》になつては|可《い》けませぬから、あなたユツクリ|如意宝珠《によいほつしゆ》の|力《ちから》を|発揮《はつき》して|手柄《てがら》をなさいませ。|妾《わたし》は|飛行船《ひかうせん》を|借用《しやくよう》して、|自分《じぶん》の|性《しやう》の|合《あ》うた|所《とこ》へ|活動《くわつどう》に|参《まゐ》ります』
『|益々《ますます》|変《へん》な|事《こと》を|仰有《おつしや》るぢやないか。すべて|戦《たたか》ひは|結束《けつそく》を|固《かた》くせねば|勝利《しようり》は|得《え》らるるものでない。|味方《みかた》の|方《はう》から|裏切《うらぎ》りをする|様《やう》な|弱音《よわね》を|吹《ふ》いて|何《ど》うなりますか。|飛行船《ひかうせん》は|既《すで》に|既《すで》に|鷹依姫《たかよりひめ》の|部下《ぶか》が|占領《せんりやう》して|了《しま》つて|居《ゐ》ますよ。|飛行船《ひかうせん》なんかモウ|必要《ひつえう》はない。|是《こ》れから|頂上《ちやうじやう》の|割《わ》れ|岩《いは》の|醜《しこ》の|岩窟《いはや》を|言向《ことむ》け|和《やは》し、|進《すす》んで|六甲山《ろくかふざん》へ|行《ゆ》かねばならぬ。チト|確《しつか》りしなさい。あまり|高山《たかやま》さまに|精神《せいしん》を|取《と》られて|居《を》れるものだから、|曲津《まがつ》が|憑依《ひようい》したのだらう。サア|妾《わたし》が|鎮魂《ちんこん》をして|審《しら》べてあげよう。|婆《ばば》アの|癖《くせ》に|髪《かみ》を|染《そ》めたり、|薄化粧《うすげしやう》をしたり、まるで|化物《ばけもの》|見《み》たやうなそんな|柔弱《にうじやく》な|事《こと》でどうして|神界《しんかい》の|御用《ごよう》が|出来《でき》ますか。お|前《まへ》さまは|二《ふた》つ|目《め》に、|言依別命《ことよりわけのみこと》|様《さま》を|柔弱《にうじやく》だとか、ハイカラだとか|非難《ひなん》をしなさるが、それはお|前《まへ》さまの|心《こころ》が|映《うつ》つて|見《み》えるのだよ』
『|何《なん》と|仰有《おつしや》つても、|鎮魂《ちんこん》は|御無用《ごむよう》です。さうしてお|暇《ひま》を|頂《いただ》きませう』
『|御勝手《ごかつて》になさいませ。モウ|今日《けふ》|限《かぎ》り|師弟《してい》の|縁《えん》を|絶《き》りますから』
『|其《その》お|言葉《ことば》を|待《ま》つて|居《ゐ》ました。サアサアどうぞ|絶《き》つて|貰《もら》ひませう』
『アヽ|絶《き》つてあげよう。|黒姫《くろひめ》の|肉体《にくたい》を|此処《ここ》に|置《お》いて、サツサと|帰《かへ》りなさい。|黒姫《くろひめ》はソンナ|馬鹿《ばか》な|事《こと》を|云《い》ふ|身霊《みたま》ぢやなからう』
『|決《けつ》して|決《けつ》して|守護神《しゆごじん》(|精霊《せいれい》)が|言《い》ふのぢやありませぬよ。|黒姫《くろひめ》の|本人《ほんにん》が|申《まを》すのです。|何程《なんぼ》|神直日《かむなほひ》|大直日《おほなほひ》に|見直《みなほ》し|聞直《ききなほ》して、|妾《わたし》の|肉体《にくたい》に|瑕瑾《きず》をつけぬ|様《やう》に|宣《の》り|直《なほ》して|下《くだ》さつても、それは|気休《きやす》めです。どうしてもお|暇《ひま》を|頂戴《ちやうだい》|致《いた》します。|本当《ほんたう》に|好《す》かんたらしい、|驕慢《けうまん》な|高姫《たかひめ》さま。どうぞ|此《こ》れ|限《き》り、|何《なん》と|云《い》つても|御暇《おひま》を|頂《いただ》き、|醜《しこ》の|岩窟《いはや》の|鷹依姫《たかよりひめ》|様《さま》の|御家来《ごけらい》となつて|活動《くわつどう》|致《いた》します。ウラナイ|教《けう》の|時《とき》には|大変《たいへん》に|重《おも》く|用《もち》ひて|下《くだ》さつたが、|三五教《あななひけう》になつてからは、あなたを|始《はじ》め、|誰《たれ》も|彼《かれ》も|妾《わたし》を|馬鹿《ばか》にして……|態《ざま》ア|見《み》たか、|偉相《えらさう》に|威張《ゐば》つて|居《を》つたが、|今《いま》の|態《ざま》は|何《なん》ぢや。|白米《しらが》に|籾《もみ》が|混《まじ》つた|様《やう》な|顔《かほ》して、|隈《すま》くたに|小《ちひ》さくなつて|居《を》らねばならぬぞよ……と|神様《かみさま》が|仰有《おつしや》つたぢやないか、その|実地《じつち》が|来《き》たのだ……なんて|言依別命《ことよりわけのみこと》の|左右《さいう》に|侍《はべ》る|幹部連《かんぶれん》が、|妙《めう》な|顔《かほ》をして|妾《わたし》を|冷笑《れいせう》して|居《を》る。それが|第一《だいいち》|気《き》に|喰《く》はないのだ。モウ|妾《わたし》は|三五教《あななひけう》は|駄目《だめ》だと|思《おも》ふ。しかし|神様《かみさま》は|結構《けつこう》だ。|取次《とりつぎ》が|間違《まちが》つて|居《を》るのだから、|三五教《あななひけう》に|離《はな》れても、あなたに|暇《ひま》を|貰《もら》つても、|一寸《ちよつと》も|痛痒《つうよう》は|感《かん》じない。|神様《かみさま》だけは|妾《わたし》の|真心《まごころ》を|知《し》つて|居《ゐ》て|下《くだ》さる。お|前《まへ》さまも|将来《さき》になつたら……ア|黒姫《くろひめ》はそんな|心《こころ》であつたか、|流石《さすが》|玄人《くろうと》だけあつて|偉《えら》い|者《もん》だつたと、アフンとしなさる|事《こと》が|出来《でき》て|来《き》ませうぞい』
『|随分《ずゐぶん》|猛烈《まうれつ》な|気焔《きえん》ですなア。どうなつと|勝手《かつて》になされ。|人《ひと》を|杖《つゑ》に|突《つ》くなと|云《い》ふ|事《こと》がある。|妾《わたし》もこれから|独舞台《ひとりぶたい》で|活動《くわつどう》するのだ』
『|師匠《ししやう》を|依頼《たより》にするなと|神様《かみさま》が|仰有《おつしや》つた。こんな|猫《ねこ》の|目《め》の|様《やう》に|心《こころ》のクレクレ|変《かは》る|高姫《たかひめ》のお|師匠《ししやう》さまは、|真平《まつぴら》|御免《ごめん》だ。|好《よ》い|腐《くさ》れ|縁《えん》の|絶《き》り|時《どき》だ。お|前《まへ》さまは|今日《こんにち》|限《かぎ》り|妾《わたし》の|宗旨敵《しうしがたき》だからさう|思《おも》ひなさい。|天晴《あつぱれ》|戦場《せんぢやう》で、|堂々《だうだう》とお|目《め》にかかりませうかい』
|岩《いは》の|上《うへ》に|寝《ね》て|居《を》つた、|最前《さいぜん》の|二人《ふたり》の|男《をとこ》、ムツクリ|立《た》ちあがり、
『コリヤ|女《をんな》、|此処《ここ》を|何《なん》と|心得《こころえ》て|居《を》る、|天《あめ》の|森《もり》の|竜神様《りうじんさま》の|御守護《ごしゆご》|遊《あそ》ばす|聖地《せいち》だ。|汚《けが》らはしい|女《をんな》の|分際《ぶんざい》として、|断《ことわ》りもなく、|此《この》|聖地《せいち》を|蹂躙《じうりん》しやがつた。サアもう|量見《りやうけん》がならぬ。|当山《たうざん》の|規則《きそく》に|照《て》らして|制敗《せいばい》してやらう。……オイ、カーリンス、|綱《つな》を|持《も》つて|来《こ》い。フン|縛《じば》つて|鷹依姫《たかよりひめ》|様《さま》の|御前《ごぜん》に|引《ひき》ずり|据《す》ゑてやるのだから……』
『モシモシお|二人《ふたり》のお|方《かた》、|此処《ここ》へ|参《まゐ》りましたのは、|決《けつ》して|蹂躙《じうりん》したのではありませぬ、|竜宮《りうぐう》の|乙姫《おとひめ》|様《さま》の|肉《にく》の|宮《みや》、|黒姫《くろひめ》に|用《よう》があるから、|一寸《ちよつと》|来《き》て|呉《く》れいと、|天《あめ》の|森《もり》の|竜神様《りうじんさま》が|仰有《おつしや》つたので、|飛行船《ひかうせん》に|乗《の》つて|遥々《はるばる》|参《まゐ》つたのですよ』
『ナニ、お|前《まへ》さんが、|竜宮《りうぐう》の|乙姫《おとひめ》さまの|御命令《ごめいれい》で|来《き》たと|云《い》ふのか』
『ハイハイ、|妾《わたし》は|乙姫《おとひめ》|様《さま》の|肉《にく》の|宮《みや》ですもの』
『|妙《めう》な|事《こと》を|言《い》ひますな。|我々《われわれ》の|御大将《おんたいしやう》|鷹依姫《たかよりひめ》さまも、|此《この》|頃《ごろ》は|大変《たいへん》に、|竜宮《りうぐう》の|乙姫《おとひめ》さまがお|出《い》でになると|云《い》つて、|一生懸命《いつしやうけんめい》|祈念《きねん》を|凝《こ》らして|居《を》られますよ』
『それ|見《み》なさい、|高姫《たかひめ》さま』
『|竜宮《りうぐう》の|乙姫《おとひめ》さまは、|遠《とほ》の|昔《むかし》にお|前《まへ》さまの|肉体《にくたい》を|出《で》て、|後《あと》には|曲津神《まがつかみ》が|巣《す》を|組《く》んで|居《ゐ》るのですよ』
『|最前《さいぜん》から|我々《われわれ》が|寝真似《ねまね》をして、|二人《ふたり》の|話《はなし》を|聞《き》いて|居《を》れば、|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》と|見《み》えるが、なんだか|愚図々々《ぐづぐづ》と|喧嘩《けんくわ》をしてゐたぢやないか』
『|没分暁漢《わからずや》の|高姫《たかひめ》が、|如意宝珠《によいほつしゆ》の|玉《たま》を|腹《はら》に|呑《の》み|込《こ》んで|居《ゐ》ると|言《い》つて、あんまり|威張《ゐば》るものですから、|今《いま》|妾《わたし》の|方《はう》から|絶縁《ぜつえん》を|申込《まをしこ》んだ|所《ところ》です』
『そりや|結構《けつこう》だ。お|前《まへ》さまは|全《まつた》く|我々《われわれ》の|同志《どうし》だ。よしよし|鷹依姫《たかよりひめ》|様《さま》に|申上《まをしあ》げて、|都合《つがふ》|好《よ》く【とりなし】を|致《いた》しませう』
『どうぞ|宜《よろ》しうお|頼《たの》み|申《まを》します。………コラ|高姫《たかひめ》、|態《ざま》を|見《み》い、|何程《なにほど》|如意宝珠《によいほつしゆ》でも、|大勢《おほぜい》と|一人《ひとり》では|叶《かな》ふまいぞや』
と|捨台詞《すてぜりふ》を|残《のこ》し、テーリスタンと|云《い》ふ|大《だい》の|男《をとこ》に|手《て》を|曳《ひ》かれ|乍《なが》ら|急坂《きふはん》を|登《のぼ》り|行《ゆ》く。
『アヽ|仕方《しかた》がない。|到頭《たうとう》|悪魔《あくま》の|容器《いれもの》になつて|了《しま》つた。|黒姫《くろひめ》も|今迄《いままで》|長《なが》らくの|苦労《くらう》を、|一朝《いつてう》にして|水《みづ》の|泡《あわ》にして|了《しま》つたか。アヽ|可哀相《かはいさう》なものだなア。コレコレそこのカーリンスと|云《い》ふお|方《かた》、お|前《まへ》さまは|何処《どこ》から|来《き》たのだ、|生《うま》れは|何処《どこ》だえ』
『|自分《じぶん》の|国《くに》や|生《うま》れが|分《わか》る|様《やう》な|者《もの》が、|斯《こ》んな|所《ところ》へ|来《き》て、|宮番《みやばん》をするものかい。|馬鹿《ばか》な|事《こと》を|言《い》ふない』
『お|前《まへ》さまは|如意宝珠《によいほつしゆ》の|玉《たま》の|肉体《にくたい》を|知《し》つて|居《を》るか。|日《ひ》の|出神《でのかみ》の|生宮《いきみや》は|誰《たれ》だと|云《い》ふ|事《こと》が|分《わか》つて|居《ゐ》るかい』
『|知《し》つて|居《を》らいでか。お|前《まへ》の|事《こと》ぢやないか。|真偽《しんぎ》の|程《ほど》は|確《たしか》でないが、|最前《さいぜん》から|二人《ふたり》の|話《はなし》を|聞《き》いて|居《ゐ》た。お|前《まへ》が|所謂《いはゆる》|日《ひ》の|出神《でのかみ》の|生宮《いきみや》だらう』
『|敵《てき》の|中《なか》にも|味方《みかた》あり、|味方《みかた》の|中《なか》にも|敵《てき》があるとは、よう|言《い》つたものだ。お|前《まへ》は|妾《わし》の|知己《ちき》だ。|中々《なかなか》|身魂《みたま》がよく|磨《みが》けて|居《ゐ》る。|三五教《あななひけう》へでも|入信《はい》つたら、こんな|小《ち》つぽけな|宮番《みやばん》をせなくとも、|立派《りつぱ》な|宣伝使《せんでんし》になれるがなア』
『|私《わし》は|宣伝使《せんでんし》は|嫌《きら》ひだ。|朝《あさ》から|晩《ばん》まで|酒《さけ》を|飲《の》んでグウグウと|寝《ね》るのが|好《すき》だ。|彼方《あちら》や|此方《こちら》へ|乞食《こじき》の|様《やう》な|真似《まね》をして、|戸別《こべつ》|訪問《はうもん》をして、|犬《いぬ》の|様《やう》に|杓《しやく》で|水《みづ》をかけられたり、|箒《はうき》で|掃出《はきだ》されたり、|引合《ひきあ》はぬからなア。|爺《おやぢ》の|痰《たん》を|飲《の》まされ、|薯汁《とろろ》と|痰《たん》の|混汁《こんじふ》に|辷《すべ》り|転《こ》けて、|揚句《あげく》の|果《は》てには|真裸《まつぱだか》で|茨《いばら》の|池《いけ》に|落《お》ち|込《こ》み、|着物《きもの》を|敵《てき》から|貰《もら》ふ|様《やう》な|事《こと》が|出来《しゆつたい》するから|止《や》めとかうかい』
『お|前《まへ》は|妙《めう》なことを|言《い》ふ。|薯汁《とろろ》や|痰《たん》に|辷《すべ》り|転《こ》けたのは|何時《いつ》の|事《こと》だ。そして|又《また》|誰《たれ》の|事《こと》だいなア』
『そりやあお|前《まへ》さまよく|御存《ごぞん》じの|筈《はず》だ』
『ハテなア。|海洋万里《かいやうばんり》の|波斯《フサ》の|国《くに》の|出来事《できごと》の|譏《そし》り|走《ばし》りを|聞《き》いて|居《を》るとは、|世間《せけん》は|広《ひろ》いやうなものの|狭《せま》いものだ。これだから|人間《にんげん》は|慎《つつし》まねばならぬ。|悪事《あくじ》|千里《せんり》と|云《い》つて|何処迄《どこまで》もよく|行《ゆ》きわたるものだなア』
『お|前《まへ》さまビツクリしただらう』
『そりやまた、|誰《たれ》に|聞《き》いたのだい』
『|今頃《いまごろ》そんな|事《こと》を|知《し》らぬ|者《もの》が|一人《ひとり》でもあるものか。|随分《ずゐぶん》|名高《なだか》い|話《はなし》だぜ。|鷹依姫《たかよりひめ》さまは……おつつけ、|心《こころ》の|明《あ》き|盲《めくら》、|高姫《たかひめ》と|云《い》ふ|者《もの》が|此《この》|山《やま》に|出《で》て|来《く》るから、|一《ひと》つ|泡《あわ》を|吹《ふ》かして|改心《かいしん》させてやらねばならぬ。|彼奴《あいつ》を|改心《かいしん》させたならば、アルプス|教《けう》の|為《ため》には|大変《たいへん》に|間《ま》に|合《あ》ふ……と|云《い》つて|居《を》られました。お|前《まへ》は|高姫《たかひめ》さまだらうがな』
『ヘン、|見違《みちが》ひをして|下《くだ》さるな。|黒姫《くろひめ》の|様《やう》な|猫《ねこ》の|目《め》とは、チツと|違《ちが》ひますよ。サアこれから|高姫《たかひめ》が|獅子奮迅《ししふんじん》の|勢《いきほひ》を|以《もつ》て、|鷹依姫《たかよりひめ》|其《その》|他《た》の|部下《ぶか》を|悉《ことごと》く|言向《ことむ》け|和《やは》すのだ。|万々一《まんまんいち》、|高姫《たかひめ》の|失敗《しつぱい》になる|様《やう》な|事《こと》であれば、|再《ふたた》び|三五教《あななひけう》へは|帰《かへ》らぬ|積《つも》りだ。|喉《のど》でも|突《つ》いて|死《し》んで|了《しま》うのだから、|何《なん》と|云《い》つても、バラモン|教《けう》の|焼直《やきなほ》しのアルプス|教《けう》に|対《たい》し、|徹頭徹尾《てつとうてつび》、|頭《あたま》を|下《さ》げぬから、|其《その》|積《つも》りで|居《ゐ》なさい』
『|大変《たいへん》な|固《かた》い|決心《けつしん》だなア』
『|定《きま》つた|事《こと》だよ』
|高姫《たかひめ》は|谷間《たにま》から|滲《にじ》み|出《で》る|清水《しみづ》を|手《て》に|掬《むす》んで、|渇《かわ》いた|喉《のど》を|潤《うるほ》して|居《を》る。|其《その》|隙《すき》を|窺《うかが》ひ、カーリンスは|高姫《たかひめ》の|首《くび》に|細紐《ほそひも》を|手早《てばや》くひつ|掛《か》け、グツと|首《くび》を|締《し》め、
『サアもう|大丈夫《だいぢやうぶ》だ。これで|一《ひと》つ、|私《わし》の|出世《しゆつせ》が|出来《でき》る』
と|高姫《たかひめ》を|背《せな》に|負《お》ひ|乍《なが》ら、|急坂《きふはん》をエチエチ|登《のぼ》つて|行《ゆ》く。
|岩窟《いはや》の|中《なか》には、アルプス|教《けう》の|開山《かいざん》|鷹依姫《たかよりひめ》と|云《い》ふ|中婆《ちうばば》ア、|木《き》の|株《かぶ》で|作《つく》つた|天然《てんねん》の|火鉢《ひばち》を|前《まへ》に、|長煙管《ながぎせる》を|喞《くは》へ、|二三《にさん》の|部下《ぶか》を|前《まへ》に|据《す》ゑて、
『|今日《けふ》は|高姫《たかひめ》、|黒姫《くろひめ》と|云《い》ふ|二人《ふたり》の|婆《ばば》アが、|此処《ここ》へ|出《で》て|来《く》る|筈《はず》だ。キツと|神《かみ》の|魔力《まりよく》に|依《よ》りて、|天《あめ》の|森《もり》の|竜神《りうじん》の|宮《みや》に|立《た》ち|寄《よ》る|筈《はず》だから、テーリスタン、カーリンスの|二人《ふたり》に、|待伏《まちぶ》せをさせて|置《お》いたのだが、やがてやつて|来《く》る|時刻《じこく》だらう』
|甲《かふ》『そんな|事《こと》は、どうして|分《わか》るのですか』
『そんな|事《こと》に|抜目《ぬけめ》のある|妾《わし》かいな。チヤンと|三五教《あななひけう》の|聖地《せいち》へ|指《さ》して|密偵《みつてい》が|這入《はい》り|込《こ》ましてあるから、それが|知《し》らして|来《き》たのだよ。モウつい|二人《ふたり》|共《とも》、|此処《ここ》へやつて|来《く》る|筈《はず》だから、お|前達《まへたち》も|充分《じうぶん》に|気《き》を|付《つ》けて、|妾《わし》が|此《この》|煙管《きせる》で「クワン」と|此《この》|磬盤《けいばん》を|叩《たた》いたが|最後《さいご》|飛《と》んで|出《で》るのだ。それまでは|次《つぎ》の|間《ま》で、|横《よこ》になり|考《かんが》へて|居《を》るのだよ。|併《しか》し|寝《ね》て|了《しま》つては|可《い》かぬから、|目《め》を|開《あ》けて|居《を》るのだぜ』
|三人《さんにん》は『ハイ』と|答《こた》へて、|次《つぎ》の|間《ま》に|身《み》を|隠《かく》した。そこへテーリスタンに|伴《とも》なはれて|黒姫《くろひめ》が|這入《はい》つて|来《き》た。
『|只今《ただいま》|帰《かへ》りました。あなたの|眼識《がんしき》には、|実《じつ》に|敬服《けいふく》|致《いた》しました。|此《この》|通《とほ》り|黒姫《くろひめ》を|巧《うま》く|引張《ひつぱ》り|込《こ》みましたから、|御安心《ごあんしん》|下《くだ》さいませ』
|鷹依姫《たかよりひめ》『これこれテーリスタン、|何《なん》と|云《い》ふ|失礼《しつれい》な|事《こと》を|言《い》ふのだい。|鬼《おに》の|岩窟《いはや》か|何《なん》ぞの|様《やう》に、|引《ひ》つぱり|込《こ》みましたなんて、チツト|言霊《ことたま》を|慎《つつし》みなさい。|結構《けつこう》なお|方《かた》を|御迎《おむか》へして|帰《かへ》りましたと、|何故《なぜ》|言《い》はないのだい。……これはこれは|黒姫《くろひめ》|様《さま》、|遥々《はるばる》とよう|来《き》て|下《くだ》さいました。|空中《くうちう》は|余程《よほど》|風《かぜ》が|烈《はげ》しうてお|困《こま》りでしたらう。|後《のち》|程《ほど》ユルユルとお|話《はなし》を|承《うけたま》はりますから、|少時《しばらく》|奥《おく》で|御休息《ごきうそく》を|願《ねが》ひます』
『|初《はじ》めてお|目《め》にかかります。|御神徳《ごしんとく》の|高《たか》い|御山《おやま》と|見《み》えまして、|雲《くも》までが|皆《みな》|謙遜《へりくだ》り、|谷底《たにそこ》へ|遠慮《ゑんりよ》を|致《いた》してゐますなア』
『|雲《くも》に|突《つ》き|出《で》た|高春山《たかはるやま》、|誠《まこと》の|御神徳《ごしんとく》は|俗塵《ぞくぢん》を|離《はな》れて|中空《ちうくう》に|聳《そび》えた|聖地《せいち》でなければ|本当《ほんたう》の|神力《しんりき》は|現《あら》はれませぬ。|炮烙《はうらく》を|伏《ふ》せた|様《やう》な|低《ひく》い|山《やま》を|背景《バツク》にして|神業《しんげふ》を|開始《かいし》するなぞと、てんで|物《もの》に|成《な》りませぬワ。|四尾山《よつをやま》と|高春山《たかはるやま》とは|気分《きぶん》が|違《ちが》ひませうがなア』
『|大《おほ》きに|違《ちが》ひます。|妾《わたし》も|此処《ここ》へ|登《のぼ》つてから|何《なん》だか|気分《きぶん》が|面白《おもしろ》くなつて|来《き》ました。|三五教《あななひけう》のアの|字《じ》を|聞《き》いても|厭《いや》になりましたよ。それに|言依別命《ことよりわけのみこと》と|云《い》ふハイカラな|教主《けうしゆ》になつて|居《を》るのだから、|内幕《うちまく》の|腐爛《ふらん》|状態《じやうたい》と|云《い》つたら|御話《おはなし》になりませぬ。|又《また》|高姫《たかひめ》と|云《い》ふ……もとは|妾《わたし》のお|師匠《ししやう》で|御座《ござ》いますが、カンカラカンのカン|太郎《たらう》が、|頑固《ぐわんこ》|一途《いちづ》を|立《た》て|通《とほ》すものですから、|妾《わたし》も|此処《ここ》までやつて|来《き》て、|天《あめ》の|森《もり》の|竜神《りうじん》さまの|前《まへ》で、|暇《ひま》を|呉《く》れてやりました』
『それは|何《なに》より|結構《けつこう》です。|此《この》|世《よ》でさへも|切《き》り|替《か》へがあるのだから、|良《い》い|加減《かげん》に|思《おも》ひ|切《き》つて、|新《あたら》しい|世界《せかい》へ|出《で》た|方《はう》が|貴女《あなた》の|身《み》の|為《ため》ですよ』
『ハイ|有難《ありがた》う|御座《ござ》います。|黒姫《くろひめ》の|思《おも》うて|居《を》ることをスツカリ|仰有《おつしや》つて|下《くだ》さいまして、|唯一《ゆいつ》の|共鳴者《きようめいしや》を|得《え》た|様《やう》な|心持《こころもち》が|致《いた》します。|生《うま》れてからこれ|位《くらゐ》|愉快《ゆくわい》な|事《こと》はありませぬワ』
『サアどうぞ|奥《おく》へ|行《い》つて|御休息《ごきうそく》|下《くだ》さいませ』
とテーリスタンに|目配《めくば》せした。
『サア|黒姫《くろひめ》さま、|奥《おく》へ|御案内《ごあんない》|致《いた》しませう』
と|手《て》を|取《と》つて|岩室《いはむろ》の|中《なか》に|案内《あんない》した。そして|外《そと》よりガタリと|蝦錠《えびぢやう》をおろし、
『モウ|斯《か》うなつては、|何程《なにほど》|藻掻《もが》いても|駄目《だめ》ですから、|充分《じうぶん》に|御考《おかんが》へ|置《お》きを|願《ねが》ひます。|左様《さやう》ならば』
と|云《い》ひ|捨《す》て、|鷹依姫《たかよりひめ》の|側《そば》に|立帰《たちかへ》り、
『|首尾《しゆび》よう|岩室《いはむろ》の|中《なか》に|籠城《ろうじやう》を|命《めい》じて|置《お》きました。|併《しか》し|乍《なが》ら、あの|黒姫《くろひめ》に|限《かぎ》つて、|決《けつ》して|御心配《ごしんぱい》は|要《い》りませぬ。|平岩《ひらいは》の|上《うへ》に|於《おい》てスツカリ、|高姫《たかひめ》と|黒姫《くろひめ》の|心中《しんちう》を|探《さぐ》りました。モウ|大丈夫《だいぢやうぶ》ですよ』
『さう|軽々《かるがる》しく|楽観《らくくわん》は|出来《でき》ない。|油断《ゆだん》は|大敵《たいてき》だ。|罷《まか》り|違《ちが》へば|爆裂弾《ばくれつだん》を|抱《だ》いて|寝《ね》るやうなものだからなア』
『|竜神《りうじん》の|祠《ほこら》の|前《まへ》へ|来《く》るまでは、|両人《りやうにん》はどうしても、|貴女《あなた》を|三五教《あななひけう》へ|帰順《きじゆん》させると|云《い》ふ|目算《もくさん》らしう|御座《ござ》いましたが、|竜神《りうじん》の|祠《ほこら》の|中《なか》から|神様《かみさま》の|御神霊《ごしんれい》が|現《あら》はれ、|黒姫《くろひめ》にのり|憑《うつ》られたと|見《み》えて、|俄《にはか》に……|妾《わし》は|竜宮《りうぐう》の|乙姫《おとひめ》の|生宮《いきみや》だと|威張《ゐば》り|出《だ》し、|二人《ふたり》が|喧嘩《けんくわ》をおつ|始《ぱじ》め、|到頭《たうとう》|黒姫《くろひめ》は|貴女《あなた》の|部下《ぶか》になると|云《い》つて、ここを|目蒐《めが》けて|走《はし》り|出《だ》しました。それで|私《わたくし》もコレコソ|渡《わた》りに|船《ふね》だと|心《こころ》|勇《いさ》み、|手《て》を|曳《ひ》いて|此処《ここ》まで|連《つ》れて|帰《かへ》つたのです。モウ|大丈夫《だいぢやうぶ》ですから|御安心《ごあんしん》|下《くだ》さいませ』
『それは|結構《けつこう》だが、モウ|一人《ひとり》の|高姫《たかひめ》はどうなつたのだえ』
『|高姫《たかひめ》ですか。あれは|何事《なにごと》にも|抜目《ぬけめ》のないカーリンスに|一任《いちにん》して|来《き》ました。|屹度《きつと》フン|縛《じば》つて、やがて|登《のぼ》つて|来《く》るでせう』
『あの|高姫《たかひめ》は|腹《はら》に|如意宝珠《によいほつしゆ》の|玉《たま》を|呑《の》んで|居《を》るのだから、どうしても|腹《はら》|断《た》ち|割《わ》つて|抉《えぐ》り|出《だ》さねばならないのだ。|併《しか》しうまくカーリンスが|連《つ》れて|帰《かへ》つて|来《く》るだらうかなア。|黒姫《くろひめ》は|玉《たま》|無《な》しだから、どうでも|良《い》い|様《やう》なものの、|肝腎要《かんじんかなめ》なは|高姫《たかひめ》だ。カーリンスが|大変《たいへん》に|困《こま》つて|居《を》るだらう。お|前《まへ》|御苦労《ごくらう》だが、モウ|一度《いちど》|加勢《かせい》に|行《い》つて|呉《く》れまいか』
『|行《ゆ》けと|仰有《おつしや》れば、|行《ゆ》かぬ|事《こと》はありませぬが、|大変《たいへん》に、|彼奴《あいつ》の|顔《かほ》を|見《み》ると|目《め》がマクマクするのですよ』
『|何《なに》、|目《め》がマクマクするか、|正《まさ》しく|如意宝珠《によいほつしゆ》の|玉《たま》を|呑《の》んで|居《ゐ》る|証拠《しようこ》だ。|目《め》を|塞《ふさ》いで、|早《はや》くどうでもいいからフン|縛《じば》つてなつと、|二人《ふたり》して|連《つ》れてお|出《い》で』
『|承知《しようち》|致《いた》しました』
とテーリスタンは、|山《やま》を|一散走《いつさんばし》りに|駆下《かけくだ》る。|後《あと》に|鷹依姫《たかよりひめ》は|独言《ひとりごと》、
『アヽ|時節《じせつ》は|待《ま》たねばならぬものだなア。|鬼雲彦《おにくもひこ》や|鬼熊別《おにくまわけ》の|大将株《たいしやうかぶ》は、|三五教《あななひけう》の|言霊《ことたま》とやらに|討《う》たれて、|見《み》つともない、|男《をとこ》の|癖《くせ》に|雲《くも》を|霞《かすみ》と|本国《ほんごく》へ|逃帰《にげかへ》り、いい|恥《はぢ》|曝《さら》しをなされたが、|女《をんな》の|一心《いつしん》|岩《いは》でも|徹《とほ》すと|云《い》つて、|夫《をつと》に|似《に》ぬ|健気《けなげ》な|女房《にようばう》|蜈蚣姫《むかでひめ》は|三国ケ岳《みくにがだけ》に|立籠《たてこも》り、|到頭《たうとう》|黄金《こがね》の|玉《たま》を|手《て》に|入《い》れた。ヤレ|嬉《うれ》しやと|思《おも》ふ|間《ま》もなく、|又《また》しても|其《その》|玉《たま》を|三五教《あななひけう》にウマウマと|取返《とりかへ》され、|喜《よろこ》んだのは|束《つか》の|間《ま》、サツパリ|糠喜《ぬかよろこ》びとなつて|了《しま》つた。|併《しか》し|何程《なにほど》|蜈蚣姫《むかでひめ》が|智慧《ちゑ》があつても、|神徳《しんとく》が|備《そな》はつて|居《を》ると|云《い》つても、|此《この》|鷹依姫《たかよりひめ》には|足元《あしもと》へも|寄《よ》れない。チツと|爪《つめ》の|垢《あか》でも|煎《せん》じて|呑《の》まして|上《あ》げたいものだ。|如意宝珠《によいほつしゆ》の|玉《たま》の|容器《いれもの》は、|声《こゑ》なくして|呼《よ》びつける。|黒姫《くろひめ》は|玉《たま》|無《な》しだが|彼奴《あいつ》は|黄金《こがね》の|玉《たま》の|在処《ありか》を|一番《いちばん》よく|知《し》つて|居《ゐ》ると|云《い》ふ|事《こと》だ。|此間《こないだ》|帰《かへ》つて|来《き》た|虎公《とらこう》の|報告《はうこく》では|黒姫《くろひめ》さへ|手《て》に|入《い》れてうまく|白状《はくじやう》させたならば、|黄金《こがね》の|玉《たま》も|手《て》に|入《い》ると|云《い》ふ|事《こと》だから、|云《い》はば|玉《たま》を|手《て》に|入《い》れたも|同然《どうぜん》だ。アヽなんとした|結構《けつこう》な|事《こと》が|出来《でき》て|来《き》たものだらう』
とカンカン|磬盤《けいばん》を|長煙管《ながぎせる》で|打《う》つた。ウツウツと|眠《ねむ》つて|居《ゐ》た|三人《さんにん》の|耳《みみ》には、|早鐘《はやがね》の|様《やう》に|強《きつ》く|響《ひび》いた。|三人《さんにん》はビツクリ|仰天《ぎやうてん》|起《おき》あがり、|周章狼狽《あわてふため》き、|鷹依姫《たかよりひめ》の|居間《ゐま》に|走《はし》り|行《ゆ》き、
『|火事《くわじ》だ |火事《くわじ》だ』
と|擂鉢《すりばち》を|抱《かか》へて|走《はし》る|奴《やつ》、|火鉢《ひばち》を|抱《かか》へて|飛《と》び|出《だ》さうとする|者《もの》、|座敷《ざしき》の|真中《まんなか》でキリキリ|舞《まひ》をする|奴《やつ》、|右往左往《うわうさわう》に|狼狽《うろた》へ|廻《まは》る。|鷹依姫《たかよりひめ》は|長煙管《ながぎせる》の|先《さき》で|三人《さんにん》の|頭《あたま》をピシヤピシヤと|叩《たた》き、|元《もと》の|座《ざ》に|悠然《いうぜん》として|腰《こし》をおろし、
『コラコラ|貴様達《きさまたち》は、|何《なに》を|狼狽《うろた》へて|居《ゐ》るのだい』
と|大《おほ》きな|尖《とが》つた|声《こゑ》で|喚《わめ》き|立《た》てる。
『ハイハイ|何《なん》で|御座《ござ》いますか』
|鷹依姫《たかよりひめ》『|何《なん》でもない。|気《き》を|落《お》ち|着《つ》けなさい。|今《いま》タカが|一羽《いちは》|此家《ここ》へ|来《く》るのだから、|料理《れうり》をせにやならぬ。|其《その》|用意《ようい》に|出刃《でば》でも|磨《と》いで|置《お》きなされ』
『|誰《たれ》か|鷹《たか》の|様《やう》なものを|捕《と》つたのですか。|彼奴《あいつ》は|肉食鳥《にくしよくどり》だから|味《あぢ》が|悪《わる》うて、|臭《くさ》くつて|喰《く》べられませぬ。|大《おほ》きな|図体《づうたい》の|割《わ》りとは|羽根《はね》ばつかりで、|食《く》ふ|所《ところ》はチヨビンとよりないものですよ』
『エーそんな|講釈《かうしやく》は|後《あと》にしなさい。|羽根《はね》の|無《な》いタカが|来《き》たのだ』
|斯《か》く|話《はな》す|折《をり》しも、カーリンス、テーリスタンの|両人《りやうにん》は、|高姫《たかひめ》の|首《くび》を|締《し》めた|儘《まま》、|担《かつ》いで|這入《はい》つて|来《き》た。
『アヽ|御苦労《ごくらう》|々々々《ごくらう》、マア|庭《には》の|隅《すみ》へでも|片付《かたづ》けておいて、ユツクリ|休《やす》んでお|呉《く》れ。|随分《ずゐぶん》|骨《ほね》が|折《を》れただらうなア』
『イエ|骨《ほね》は|折《を》りませぬが、|首《くび》だけ|締《し》めて|置《お》きました』
『|早《はや》く|解《ほど》いてやらないと|息《いき》が|絶《き》れるぢやないか。|息《いき》が|絶《た》れて|了《しま》へば、|折角《せつかく》の|玉《たま》が|死《し》んで|了《しま》ふ。|生《い》きた|間《うち》に|取《と》らねば|間《ま》に|合《あ》はぬのだ。|早《はや》う|早《はや》う…』
と|急《せ》き|立《た》てる。カーリンス、テーリスタンの|両人《りやうにん》は『ハイ』と|答《こた》へて、|徳利結《とつくりむす》びにした|首《くび》の|紐《ひも》を|解《ほど》いた。|最早《もはや》|高姫《たかひめ》は|縡切《ことぎ》れたか、ビクとも|動《うご》かぬ。
『ヤア|此奴《こいつ》ア、|到頭《たうとう》|寂滅《じやくめつ》しやがつたなア。どうしたら|宜《よ》からうか』
『|人工呼吸法《じんこうこきふはふ》だ』
と|両人《りやうにん》は|一生懸命《いつしやうけんめい》に|高姫《たかひめ》の|体《からだ》を|捉《とら》へ、|手《て》や|足《あし》を|無暗《むやみ》|矢鱈《やたら》に|動《うご》かして|居《ゐ》る。|暫《しばら》くあつて、|高姫《たかひめ》は「ウーン」と|息《いき》を|吹《ふ》き|返《かへ》す。
『アヽもう|此方《こつち》のものだ。|鷹依姫《たかよりひめ》さま、|此《この》|先《さき》はどうするのですか』
『マア|茶《ちや》でも|飲《の》んでユツクリするのだ。|其《その》|間《うち》に|妾《わし》から|命令《めいれい》を|下《くだ》すから……』
|暫《しばら》くあつて|鷹依姫《たかよりひめ》は、
『|黒姫《くろひめ》さまを|招《よ》んで|来《き》なさい』
『ハイ』
と|答《こた》へてテーリスタンは、|黒姫《くろひめ》を|押込《おしこ》めた|岩窟《いはや》の|前《まへ》に|走《はし》り|行《ゆ》く。|黒姫《くろひめ》は|忍《しの》び|忍《しの》びに|何《なに》か|歌《うた》つて|居《ゐ》る。
『|高天原《たかあまはら》を|立出《たちい》でて  |三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》
|高姫《たかひめ》さまと|諸共《もろとも》に  |御空《みそら》を|翔《か》ける|磐船《いはふね》に
|乗《の》りてやうやう|高春《たかはる》の  |山《やま》の|麓《ふもと》に|着陸《ちやくりく》し
|黄金《こがね》の|草《くさ》をより|分《わ》けて  |霧《きり》の|海原《うなばら》|探《さぐ》りつつ
|一歩々々《ひとあしひとあし》|急坂《きふはん》を  |登《のぼ》つて|来《き》たのが|天《あめ》の|森《もり》
|巨岩《きよがん》|怪石《くわいせき》|立並《たちなら》び  |風光絶佳《ふうくわうぜつか》の|霊地《れいち》ぞと
|二人《ふたり》は|此処《ここ》に|息《いき》|休《やす》め  |竜神《りうじん》さまの|祠《ほこら》をば
|眺《なが》めて|休《やす》らふ|折柄《をりから》に  |何《な》んとは|無《な》しにビリビリと
|震《ふる》ひ|出《だ》したる|我《わが》|身体《からだ》  |高姫《たかひめ》さまは|知《し》らねども
|確《たし》かに|尊《たふと》き|神懸《かむがか》り  さはさり|乍《なが》ら|黒姫《くろひめ》が
|夢《ゆめ》にも|思《おも》はぬ|囈語《たはごと》を  ベラベラ|喋《しやべ》つて|高姫《たかひめ》に
|力《ちから》の|限《かぎ》り|毒《どく》ついた  |吾《わが》|師《し》の|君《きみ》よ|高姫《たかひめ》よ
|猫《ねこ》の|目玉《めだま》のくれくれと  |心《こころ》の|変《かは》る|黒姫《くろひめ》と
|必《かなら》ず|思《おも》うて|下《くだ》さるな  |此《こ》れには|何《なに》か|神界《しんかい》の
|深《ふか》い|仕組《しぐみ》のあるならむ  |曲津《まがつ》の|軍《いくさ》いと|多《おほ》く
アルプス|教《けう》を|開《ひら》きたる  |鷹依姫《たかよりひめ》が|右左《みぎひだり》
|司《つかさ》と|仕《つか》へしカーリンス  テーリスタンの|両人《りやうにん》が
|巌《いはほ》の|上《うへ》に|横臥《わうぐわ》して  |狐《きつね》|狸《たぬき》の|空寝入《そらねい》り
|様子《やうす》を|窺《うかが》ひ|居《ゐ》ることに  |黒姫《くろひめ》|早《はや》くも|気《き》が|付《つ》いて
ワザと|師匠《ししやう》の|高姫《たかひめ》に  |心《こころ》に|在《あ》らぬ|事《こと》ばかり
|申上《まをしあ》げたは|済《す》まないが  これも|何《なに》かの|御経綸《ごけいりん》
|妾《わたし》の|心《こころ》はさうぢやない  どうぞ|赦《ゆる》して|下《くだ》さんせ
|生命《いのち》|捧《ささ》げた|宣伝使《せんでんし》  |悪魔《あくま》のはびこる|此《この》|岩窟《いはや》
|如何《いか》なる|憂《うき》を|見《み》るとても  |言向和《ことむけやは》さで|置《お》くべきか
|暫《しばら》く|待《ま》てよ|高姫《たかひめ》の  |吾《わが》|師《し》の|君《きみ》の|宣伝使《せんでんし》
|朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも  |月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも
|仮令《たとへ》|大地《だいち》は|沈《しづ》むとも  |黒姫《くろひめ》|如何《いか》になるとても
|三五教《あななひけう》の|神教《みをしへ》を  |天下《てんか》に|拡《ひろ》げにや|置《お》くものか
|巌《いは》をも|射貫《いぬ》く|黒姫《くろひめ》が  |固《かた》き|心《こころ》の|梓弓《あづさゆみ》
|矢竹心《やたけごころ》は|高姫《たかひめ》の  |心《こころ》の|的《まと》に|命中《めいちう》し
やがては|疑雲《ぎうん》|隅《くま》も|無《な》く  |天津日《あまつひ》の|如《ごと》|晴《は》れるだろ
アヽ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |御霊《みたま》の|幸《さち》を|賜《たま》へかし』
と|歌《うた》つて|居《ゐ》る。カーリンスは|外《そと》より|岩《いは》の|戸《と》を、|鍵《かぎ》を|以《もつ》て|押開《おしあ》け、
『|黒姫《くろひめ》さま、|教主様《けうしゆさま》がお|召《よ》びになりました。|大変《たいへん》な|所《とこ》へお|入《はい》れ|申《まを》して、さぞ|御腹《おはら》が|立《た》つたでせうが、ここはどんな|立派《りつぱ》なお|方《かた》でも、|初《はじ》めて|這入《はい》つて|来《き》た|方《かた》は、|早《はや》くて|三日《みつか》、|遅《おそ》いのは|十日《とをか》|二十日《はつか》と、|此《この》|岩窟《いはや》で|修行《しうぎやう》をさすのが|規則《きそく》ですから、|決《けつ》して|押籠《おしこ》めたなどと|思《おも》つては|可《い》けませぬぞや。|三五教《あななひけう》でさへも、|岩窟《いはと》の|修行場《しうぎやうば》が|拵《こしら》へてあるでせう』
『イエイエ|決《けつ》して|悪《わる》くは|思《おも》うて|居《ゐ》ませぬ。|斯様《かやう》な|結構《けつこう》な|所《とこ》で|修行《しうぎやう》をさして|頂《いただ》くなら|仮令《たとへ》|一月《ひとつき》が|二月《ふたつき》、|三年《さんねん》|五年《ごねん》|要《かか》つた|所《ところ》で、|別《べつ》に|苦痛《くつう》とは|思《おも》ひませぬよ』
『それはまた|大変《たいへん》な|馬力《ばりき》ですな』
|黒姫《くろひめ》は|微笑《ほほゑ》み|乍《なが》ら、イソイソとして|鷹依姫《たかよりひめ》の|前《まへ》に|現《あら》はれ、
『これはこれは|教主様《けうしゆさま》、|結構《けつこう》な|修行《しうぎやう》をさして|頂《いただ》きまして|有難《ありがた》う|御座《ござ》います。|成程《なるほど》あの|岩窟《がんくつ》は|心《こころ》が|静《しづ》まつて、|結構《けつこう》で|御座《ござ》いますな』
『|結構《けつこう》でせうがな。あなたは|身魂《みたま》の|洗錬《せんれん》が|出来《でき》て|居《を》りますから、|僅《わづか》|一時《ひととき》|位《くらゐ》で|卒業《そつげふ》が|出来《でき》たのですよ。|開教《かいけう》|以来《いらい》あなたの|様《やう》に|早《はや》く|出《で》た|方《かた》は|御座《ござ》いませぬ。お|芽出度《めでた》う|御座《ござ》います』
|黒姫《くろひめ》は、
『イヤ|有難《ありがた》う|御座《ござ》いました』
と|振《ふ》り|向《む》く|途端《とたん》に、|高姫《たかひめ》の|横《よこ》たはる|姿《すがた》を|見《み》て|打驚《うちおどろ》き、
『ヤア|高姫《たかひめ》さまが|縡切《ことぎ》れて|居《ゐ》らつしやる』
と|顔《かほ》の|色《いろ》をサツと|変《か》へた。|鷹依姫《たかよりひめ》は、
『オツホツホツホヽ、あんまりカーリンスと|格闘《かくとう》をなさつたものだから、|御疲労《ごひらう》なさつたものと|見《み》えます。お|前《まへ》さまは|今《いま》|見《み》て|居《を》れば|蒼白《まつさを》の|顔《かほ》をしてビツクリなさつたが、|矢張《やつぱ》り|未練《みれん》がありますかい。|斃《くたば》つた|人《ひと》を|座敷《ざしき》へも|上《あ》げず、|土間《どま》に|寝《ね》かして|置《お》いたのは|無残《むざん》の|様《やう》に|貴女《あなた》は|思《おも》つたでせうが、これは|一《ひと》つの|医療法《いれうはふ》ですよ。お|土《つち》のお|蔭《かげ》で|血液《けつえき》の|循環《じゆんかん》が|旧《もと》へ|復《かへ》り、|息《いき》|吹《ふ》き|返《かへ》す|様《やう》にしてあるのだ。やがて|蘇生《そせい》されるでせう』
『ナニ|妾《わたし》は|高姫《たかひめ》なんかに|未練《みれん》がありますものか。こんな|傲慢《がうまん》|不遜《ふそん》な|頑固者《ぐわんこもの》、|今《いま》|天《あめ》の|森《もり》で|弟子《でし》の|方《はう》から|暇《ひま》を|与《く》れてやつた|所《とこ》です。それを|証拠《しようこ》に、|妾《わたし》は|貴女《あなた》の|弟子《でし》になりたいのですが、|使《つか》つて|下《くだ》さいますか』
『お|前《まへ》さまの|云《い》ふ|事《こと》に|間違《まちが》ひなくば、|喜《よろこ》んで|手《て》を|引合《ひきあ》うて|行《い》きませう』
『|有難《ありがた》う|御座《ござ》います』
と|云《い》ひつつ|黒姫《くろひめ》は|庭《には》に|下《お》り、|高姫《たかひめ》の|尻《しり》を|力限《ちからかぎ》りに|握《にぎ》り|拳《こぶし》を|固《かた》めて、|七《なな》つ|八《や》つ|打《う》ち、
『コリヤ|高姫《たかひめ》、|思《おも》ひ|知《し》つたか』
|高姫《たかひめ》は『ウーン』と|息《いき》を|吹《ふ》く。
『オホヽヽヽ、|能《よ》う|斃《くたば》つたものだ。この|儘《まま》|棄《す》てておけば|死《し》んで|了《しま》ふのだが、|併《しか》し|此奴《こいつ》は|貴方《あなた》の|御存《ごぞん》じの|通《とほ》り|如意宝珠《によいほつしゆ》の|玉《たま》を|呑《の》んで|居《を》りますから、|吐出《はきだ》さしてアルプス|教《けう》の|神宝《しんぽう》にせなくてはなりますまい。|何《なん》とかして|大事《だいじ》に……イヤイヤ|大事《だいじ》にせなくてもよい。|生《い》き|返《かへ》らして|生玉《いくだま》を|取《と》らねばなりませぬから、|暫《しばら》く|助《たす》けてやつたらどうです』
『|黒姫《くろひめ》さまの|仰有《おつしや》る|通《とほ》り、|一先《ひとま》づ|生《い》かして、|玉《たま》を|吐《は》き|出《だ》させねば、|折角《せつかく》|苦労《くらう》した|効能《かうのう》が|無《な》い。|玉《たま》さへ|取《と》れば|後《あと》は|煮《に》て|食《く》はうと、|焼《た》いて|食《く》はうと、|若《わか》い|奴《やつ》に|呉《く》れてやる。|併《しか》し|生《い》き|返《かへ》らうかな』
『これは|容易《ようい》に|恢復《くわいふく》しますまい。|何卒《どうぞ》|黒姫《くろひめ》に|任《まか》して|下《くだ》さるまいか。さうすればキツト|体《からだ》を|旧《もと》の|通《とほ》りにして、さうして|折《をり》を|考《かんが》へ、|生玉《いくだま》を|引抜《ひきぬ》いて|見《み》せませう』
『アヽそんならお|前様《まへさま》にお|任《まか》せするから、|宜《よろ》しく|頼《たの》みます』
『|何《なん》と|云《い》つても|玉《たま》を|呑《の》んで|居《を》るのだから、|玉《たま》の|納《をさ》めてある|室《しつ》へ|高姫《たかひめ》の|死骸《しがい》を|寝《ね》さし|妾《わたし》が|介抱《かいほう》をしてやりますから、|極秘密《ごくひみつ》に、|誰《たれ》にも|分《わか》らぬ|様《やう》にして|下《くだ》さい。|黒姫《くろひめ》がキツト|取《と》つてお|目《め》に|掛《か》けます』
『アヽそんなら|御頼《おたの》み|申《まを》します。|誰《たれ》も|這入《はい》つた|事《こと》のない|玉《たま》の|居間《ゐま》、|彼処《あこ》には|紫《むらさき》の|夜光《やくわう》の|玉《たま》が|納《をさ》まつて|居《ゐ》る。|是《こ》れはアルプス|教《けう》の|生玉《いくだま》だから、|誰《たれ》にも|見《み》せないのだが、お|前《まへ》さまの|精神《せいしん》を|見届《みとど》けたから、|其《その》|居間《ゐま》を|一任《いちにん》しませう』
『それはそれは|実《じつ》に|望外《ばうぐわい》の|仕合《しあは》せ、|此《この》|上《うへ》は|粉骨砕身《ふんこつさいしん》、アルプス|教《けう》の|為《ため》に、|犬馬《けんば》の|労《らう》を|惜《をし》みませぬ』
『|妾《わし》も|実《じつ》は|相談《そうだん》しようにも|相手《あひて》がなくて|困《こま》つて|居《を》つたのだ。|御前《おまへ》さまが|此処《ここ》へ|来《き》て|呉《く》れたは|天《てん》の|与《あた》へ、|肉身《にくしん》の|妹《いもうと》が|来《き》たも|同然《どうぜん》だから、|互《たがひ》にこれから|諒解《りやうかい》し|合《あ》うて|秘密《ひみつ》の|相談《そうだん》を|致《いた》しませう。サア|妾《わし》が|案内《あんない》をしますから……』
と|先《さき》に|立《た》つ。
『|高姫《たかひめ》の|死骸《しがい》を|持《も》つて|行《ゆ》かねばなりますまい』
『アヽさうでしたな。|併《しか》し|乍《なが》ら|秘密室《ひみつしつ》に|誰《たれ》も|入《い》れる|事《こと》が|出来《でき》ないのだから……』
『|妾《わたし》が|担《かつ》いで|参《まゐ》りませう。………ヤイ|高姫《たかひめ》、お|前《まへ》は|幸福者《しあはせもの》だ。|一旦《いつたん》|縁《えん》を|絶《き》つた|妾《わし》に|又《また》|世話《せわ》になるのかいやい』
と|口汚《くちぎたな》く|罵《ののし》り|乍《なが》ら、|脇《わき》にエチエチ|引抱《ひつかか》へ、|足《あし》を|引摺《ひきず》りもつて、|鷹依姫《たかよりひめ》の|後《あと》に|従《したが》つて|秘密室《ひみつしつ》に|這入《はい》つて|行《ゆ》く。
『ここが|大切《たいせつ》な|所《ところ》だから、お|前《まへ》さま、|高姫《たかひめ》の|息《いき》|吹《ふ》き|返《かへ》す|様《やう》に、|鎮魂《ちんこん》をしてやつて|下《くだ》さい。さうして|時節《じせつ》を|待《ま》つて|生玉《いくだま》を|抜《ぬ》いて|下《くだ》さいや』
『|何事《なにごと》も|呑《の》み|込《こ》んで|居《ゐ》ます。|其《その》|代《かは》りに|十日《とをか》|許《ばか》り、|二人前《ににんまへ》の|食料《しよくれう》を|入《い》れて|下《くだ》さい』
|鷹依姫《たかよりひめ》はニコニコし|乍《なが》ら、|我《わが》|居間《ゐま》に|帰《かへ》り、|珍味佳肴《ちんみかかう》を、ソツト|秘密室《ひみつしつ》へ|持運《もちはこ》び、|素知《そし》らぬ|顔《かほ》をして|居《ゐ》る。
|高姫《たかひめ》はムクムクと|起上《おきあが》り、|四辺《あたり》をキヨロキヨロ|見廻《みまは》して、
『アヽ|妾《わし》は|夢《ゆめ》を|見《み》て|居《ゐ》たのかいな。アヽ|黒姫《くろひめ》さま、お|前《まへ》さまと|天《あめ》の|森《もり》の|竜神《りうじん》の|祠《ほこら》で|従来《つい》に|無《な》い|大喧嘩《おほげんくわ》をして、それより|悪《わる》い|奴《やつ》に|喉《のど》を|締《し》められたと|思《おも》つて|居《ゐ》たが……ヤツパリ|夢《ゆめ》だつたかなア』
|黒姫《くろひめ》、あたりを|憚《はばか》る|小声《こごゑ》にて、
『|高姫《たかひめ》さま、|決《けつ》して|夢《ゆめ》ぢやありませぬ。ここは|高春山《たかはるやま》の|割《わ》れ|岩《いは》の|岩窟《がんくつ》……』
と|耳《みみ》に|口《くち》を|当《あ》て、|何事《なにごと》かヒソヒソと|囁《ささや》いて|居《ゐ》る。|高姫《たかひめ》は|紫《むらさき》の|玉《たま》を|眺《なが》め、
『マア|立派《りつぱ》な|玉《たま》がありますな』
『これがアルプス|教《けう》の|性念玉《しやうねんだま》です。|此《こ》れさへ|手《て》に|入《い》れば、アルプス|教《けう》は|最早《もはや》|寂滅《じやくめつ》、|何《なん》とかして|帰順《きじゆん》させる|方法《はうはふ》はありますまいかなア』
『ナニ、ありますとも、この|高姫《たかひめ》が|呑《の》んで|持《も》つて|帰《かへ》れば|好《い》いのだ』
『|何《なん》でもあなたは|呑《の》み|込《こ》みが|良《よ》いから|便利《べんり》ですなア』
『|練《ね》つて|練《ね》つて|練《ね》つて|練《ね》り|倒《たふ》し、|仕組《しぐみ》の|奥《おく》の|生玉《いくだま》を|呑《の》み|込《こ》んだ|此《この》|妾《わたし》、|此《この》|玉《たま》の|一《ひと》つや|二《ふた》つ|呑《の》むのに|何《なん》の|手間暇《てまひま》が|要《い》りますものか』
と|云《い》ふより|早《はや》く、|玉《たま》を|手《て》に|取《と》り、クネクネクネと|撫《な》で|廻《まは》し、|餅《もち》の|様《やう》に|軟《やはら》かくして、グツと|呑《の》み|込《こ》んで|了《しま》つた。|此《この》|時《とき》|秘密室《ひみつしつ》の|外《そと》に、|慌《あわ》ただしく|駆出《かけだ》す|足音《あしおと》が|聞《きこ》えた。|此《こ》れはテーリスタン、カーリンスの|二人《ふたり》であつた。|嗚呼《ああ》、|高姫《たかひめ》、|黒姫《くろひめ》の|運命《うんめい》は|如何《どう》なるであらうか。
(大正一一・五・一六 旧四・二〇 松村真澄録)
第二章 |夢《ゆめ》の|懸橋《かけはし》〔六七六〕
|高春山《たかはるやま》に|割拠《かつきよ》するバラモン|教《けう》の|一派《いつぱ》アルプス|教《けう》の|教主《けうしゆ》|鷹依姫《たかよりひめ》を|言向《ことむ》け|和《やは》すべく、|言依別命《ことよりわけのみこと》の|旨《むね》を|奉《ほう》じて|天《あま》の|磐樟船《いはくすぶね》に|乗《の》り、|勢《いきほひ》よく|聖地《せいち》を|出発《しゆつぱつ》した|高姫《たかひめ》、|黒姫《くろひめ》は|殆《ほとん》ど|三ケ月《さんかげつ》を|経《ふ》るも|何《なん》の|消息《せうそく》もない。|言依別命《ことよりわけのみこと》は|密《ひそ》かに|竜国別《たつくにわけ》、|玉治別《たまはるわけ》、|国依別《くによりわけ》の|三人《さんにん》の|宣伝使《せんでんし》を|招《まね》き、|聖地《せいち》の|何人《なにびと》にも|明《あか》さず、|高春山《たかはるやま》に|二人《ふたり》の|消息《せうそく》を|探査《たんさ》すべく|出張《しゆつちやう》を|命《めい》じた。|竜国別《たつくにわけ》はもと|高城山《たかしろやま》の|松姫館《まつひめやかた》に|仕《つか》へたる|竜若《たつわか》の|改名《かいめい》である。|玉治別《たまはるわけ》は|田子作《たごさく》、|国依別《くによりわけ》は|宗彦《むねひこ》の|改名《かいめい》である。
|教《をしへ》の|花《はな》も|香《かん》ばしく  |咲《さ》き|匂《にほ》ひたる|桶伏《をけふせ》の
|山《やま》の|麓《ふもと》にそそり|立《た》つ  |錦《にしき》の|宮《みや》を|伏《ふ》し|拝《をが》み
|言依別《ことよりわけ》の|命令《めいれい》を  |密《ひそ》かに|奉《ほう》じて|三人《さんにん》は
|月《つき》の|光《ひかり》を|浴《あ》びながら  |勇《いさ》み|進《すす》んで|石原《いさ》の|駅《えき》
|長田野《をさだの》、|土師《はせ》を|夜《よる》の|間《ま》に  |栗毛《くりげ》の|駒《こま》に|跨《またが》りて
|蹄《ひづめ》の|音《おと》も|勇《いさ》ましく  |晨《あした》の|風《かぜ》の|福知山《ふくちやま》
|尻《しり》に|帆《ほ》かけてブウブウと  |痩《や》せ|馬《うま》の|屁《へ》を|放《ひ》りながら
|青野ケ原《あをのがはら》を|右左《みぎひだり》  |眺《なが》めて|走《はし》る|黒井村《くろゐむら》
|心《こころ》いそいそ|石生《いそ》の|駅《えき》  |御教《みのり》|畏《かしこ》み|柏原《かいばら》の
|田圃《たんぼ》を|越《こ》えて|進《すす》み|行《ゆ》く。
|此処《ここ》は|神智地山《じんちぢやま》の|入口《いりぐち》、アルプス|教《けう》の|鷹依姫《たかよりひめ》の|勢力《せいりよく》|範囲《はんゐ》として|居《ゐ》る|十里《じふり》|四方《しはう》の|入口《いりぐち》である。|鬼《おに》の|懸橋《かけはし》と|云《い》つて、|谷《たに》から|谷《たに》へ|天然《てんねん》に|架《か》け|渡《わた》された|一本《いつぽん》の|岩《いは》の|橋《はし》がある。|此処《ここ》を|通《とほ》らねば|何《ど》うしても|高春山《たかはるやま》へ|進《すす》む|事《こと》が|出来《でき》ない|嶮要《けんえう》の|地《ち》である。
|幾百丈《いくひやくぢやう》とも|知《し》れぬ|山《やま》の|頂《いただ》きに|天然《てんねん》に|架《か》け|渡《わた》された|石橋《いしばし》、|眼下《がんか》を|流《なが》るる|谷川《たにがは》の|水《みづ》は|淙々《そうそう》として|四辺《あたり》に|響《ひび》き、|自《おのづか》ら|凄惨《せいさん》の|気《き》に|打《う》たるる|許《ばか》りである。|玉治別《たまはるわけ》はこの|橋《はし》の|前《まへ》に|着《つ》くや|否《いな》や、|頓狂《とんきやう》な|声《こゑ》を|出《だ》して、
『ヨー|要害《えうがい》|堅固《けんご》の|絶所《ぜつしよ》だ。アルプス|教《けう》の|奴《やつ》、|中々《なかなか》|良《よ》い|地点《ちてん》を|撰《えら》んで|関所《せきしよ》にしやがつたものだなア。|我《わが》|恋《こひ》は|深谷川《ふかたにがは》の|鬼《おに》かけ|橋《ばし》、|渡《わた》るは|怖《こは》し、|渡《わた》らねば、|恋《こひ》しと|思《おも》ふ|鷹依姫《たかよりひめ》の|鬼婆《おにば》アさんに|会《あ》はれない』
と|無駄口《むだぐち》を|叩《たた》きながら|半分《はんぶん》|許《ばか》り|進《すす》んで|行《い》つた。どうした|機《はづみ》か、さしもに|長《なが》い|石橋《いしばし》は、|中程《なかほど》より|脆《もろ》くも|折《を》れて、|橋《はし》と|共《とも》に|玉治別《たまはるわけ》は|深《ふか》き|谷間《たにま》に|顛落《てんらく》し、|泡立《あわだ》つ|淵《ふち》にドブンと、|落《お》ち|込《こ》んで|仕舞《しま》つた。
|竜国別《たつくにわけ》、|国依別《くによりわけ》は|此《この》|変事《へんじ》に|胆《きも》を|潰《つぶ》し、
『ヤア、|国《くに》さん、|何《ど》うしよう|何《ど》うしよう』
と|顔《かほ》を|見合《みあは》して|驚《おどろ》きの|浪《なみ》に|打《う》たれて|居《ゐ》る。
『|今日《けふ》は|何《なん》となしに|気分《きぶん》の|悪《わる》い|日《ひ》だと|思《おも》つて、|石生《いそ》の|里《さと》から|馬《うま》を|放《う》ちやり、|三人《さんにん》が|斯《か》うして【テク】ついて|来《き》たが、まアまア|結構《けつこう》だつた。|馬《うま》にでも|乗《の》つて|居《を》らうものなら|玉治別《たまはるわけ》と|一緒《いつしよ》に|馬《うま》も|死《し》んで|仕舞《しま》ふところだつた』
『|何《なに》を|云《い》つて|居《ゐ》るのだ。|馬《うま》|位《くらゐ》|死《し》んだつて|諦《あきら》めがつくが、|肝腎《かんじん》の|玉治別《たまはるわけ》を|谷底《たにそこ》へ|落《おと》して|仕舞《しま》つて|詮《つま》らぬぢやないか。|何《なん》とか|考《かんが》へねばなるまい。|馬《うま》と|同《おな》じやうに|取扱《とりあつか》はれては|玉治別《たまはるわけ》も|可憐《かはい》さうだ』
『アヽさうだつた。|余《あま》り|吃驚《びつくり》して|狼狽《うろた》へたのだ。サア|川下《かはしも》へいつて、|何処《どこ》かの|岩石《がんせき》に|宿泊《しゆくはく》して|居《を》るだらうから、|肉体《にくたい》なと|探《さが》してやらねばなるまい』
と|早《はや》くも|引返《ひきかへ》す。|竜国別《たつくにわけ》も|後《あと》についてトントンと|四五丁《しごちやう》ばかり|引返《ひきかへ》し、|谷川《たにがは》を|彼方《あちら》|此方《こちら》と|眼配《めくば》り、|捜索《そうさく》し|始《はじ》めた。
いくら|探《さが》しても|影《かげ》も|形《かたち》もない。|二人《ふたり》は|途方《とはう》に|暮《く》れて|施《ほどこ》すべき|手段《てだて》もなく、|悔《くや》し|涙《なみだ》に|暮《く》れて|居《ゐ》る。|二三丁《にさんちやう》|下手《しもて》の|方《はう》より、
『オーイ オーイ』
と|呼《よ》ぶ|者《もの》がある。|二人《ふたり》は、
『ハテなア、|聞《き》き|覚《おぼ》えのある|言霊《ことたま》だ』
と|声《こゑ》する|方《はう》に|向《むか》つて|駆出《かけだ》した。
|見《み》れば|玉治別《たまはるわけ》は、|谷川《たにがは》の|中《なか》に|立《た》つ|大岩石《だいがんせき》ホテルの|露台《ろだい》の|上《うへ》にて、|着物《きもの》を|一生懸命《いつしやうけんめい》にしぼつて|居《ゐ》る。
『オー、お|前《まへ》は|玉治別《たまはるわけ》ぢやないか。|何《なに》か|変《かは》つた|事《こと》はなかつたかなア』
|玉治別《たまはるわけ》『|変《かは》つた|事《こと》が|大《おほ》ありだ。|堂々《だうだう》たる|天下《てんか》の|宣伝使《せんでんし》がお|通《とほ》り|遊《あそ》ばしたものだから、あれだけの|大《おほ》きい|石《いし》の|橋《はし》が|脆《もろ》くも|折《を》れよつて、|忽《たちま》ち|玉治別《たまはるわけ》のプロパガンデイストは、|数千丈《すうせんぢやう》の|空中滑走《くうちうくわつそう》を|旨《うま》く|演《えん》じ、|無事《ぶじ》|御着水《ごちやくすゐ》、|直《す》ぐ|谷川《たにがは》の|水《みづ》に|送《おく》られて|殆《ほとん》ど|下流《かりう》|十丁《じつちやう》|許《ばか》り、|忽《たちま》ち|変《かは》る|男《をとこ》の|洗濯婆《せんたくば》アさま、|今《いま》|濡《ぬ》れ|衣《ぎぬ》を|圧搾《あつさく》して|居《ゐ》る|最中《さいちう》だ、アハヽヽヽ』
と|平気《へいき》で|笑《わら》つて|居《ゐ》る。
『オイ、|貴様《きさま》は|真実《ほんと》の|玉治別《たまはるわけ》ではあるまい。あれだけ|高《たか》い|石橋《いしばし》から|顛倒《てんたふ》し、|谷底《たにそこ》の|深淵《ふかぶち》へ|墜落《つゐらく》しながら、そんな|平気《へいき》な|顔《かほ》して|居《を》れる|筈《はず》がない。|大方《おほかた》|貴様《きさま》は|化州《ばけしう》だらう。オイ|竜国別《たつくにわけ》、ちつと|合点《がてん》が|行《ゆ》かぬぢやないか』
『アヽさうだ。|彼奴《あいつ》は|何《なに》かの|変化《へんげ》であらうよ』
と|矢庭《やには》に|眉毛《まゆげ》に|唾《つばき》をつけて|居《ゐ》る。
『|実際《じつさい》は|玉治別《たまはるわけ》は|死《し》んだのだ。|大岩石《だいがんせき》と|共《とも》に|墜落《つゐらく》し、|五体《ごたい》は|木《こ》つ|端微塵《ぱみぢん》、|流血淋漓《りうけつりんり》として|谷水《たにみづ》を|紅《あけ》に|染《そ》め、|忽《たちま》ち|変《かは》るインフエルノの|血《ち》の|河《かは》となつたと|思《おも》ひきや、まアざつと|此《こ》の|通《とほ》り|御壮健体《ごさうけんたい》だ。オイ|竜《たつ》、|国《くに》の|両人《りやうにん》、お|前《まへ》も|橋《はし》は|無《な》いが、あの|橋詰《はしづめ》から|一辺《いつぺん》|飛《と》び|込《こ》んで|見《み》よ、|随分《ずゐぶん》|愉快《ゆくわい》だよ』
『|益々《ますます》|怪《け》しからん|事《こと》を|云《い》ふ|奴《やつ》だ。オイ|国依別《くによりわけ》、も|少《すこ》し|下《しも》を|探《さが》して|死骸《しがい》でも|拾《ひろ》うて|帰《かへ》らうぢやないか』
『お|前《まへ》の|探《さが》す|肝腎《かんじん》の|玉《たま》は、この|岩上《がんじやう》に|洗濯爺《せんたくぢい》となつて|鎮座《ちんざ》|坐《ま》しますのを|知《し》らぬのか。お|前《まへ》の|考《かんが》へは【タマ】で|間違《まちが》つて|居《ゐ》る。|【玉】治別《たまはるわけ》の|宣伝使《せんでんし》が|二人《ふたり》もあつて【たま】るものかい。|死骸《しがい》を|探《さが》すと|云《い》うても、【|死《し》なぬ】|者《もの》の|死骸《しがい》が|何処《どこ》にあるか。そんな【|至難《しなん》】の|業《わざ》はよしにせよ。|苦労《くらう》の【|仕甲斐《しがひ》】がないぞよ、アハヽヽヽ』
|竜国別《たつくにわけ》『|本当《ほんたう》に|玉治別《たまはるわけ》に|間違《まちが》ひは|無《な》からうかのう、|国依別《くによりわけ》』
『|間違《まちが》ひがあつて|耐《たま》らうかい。|俺《おれ》はお|勝《かつ》の|婿《むこ》の|元《もと》の|田吾作《たごさく》だ。これでもまだ|疑《うたが》ふのか。|今《いま》の|人民《じんみん》は|薩張《さつぱり》|悪《あく》の|心《こころ》になりて|仕舞《しま》うて|居《を》るから、|疑《うたがひ》がきつうて|何《なに》を|云《い》うても|誠《まこと》に|致《いた》さず、|神《かみ》も|迷惑《めいわく》|致《いた》すぞよ。|改心《かいしん》なされよ。|改心《かいしん》|致《いた》せば|盲《めくら》も|目《め》があき、|聾《つんぼ》も|耳《みみ》が|聞《きこ》えるやうになるぞよ。|灯台下《とうだいもと》は|真闇《まつくら》がり、|目《め》の|前《まへ》に|居《を》る|友達《ともだち》の|真偽《しんぎ》が|分《わか》らぬとは|良《よ》くも|此処《ここ》まで|曇《くも》つたものだぞよ。|玉治別《たまはるわけ》の|神《かみ》も、|今《いま》の|人民《じんみん》さまには|往生《わうじやう》|致《いた》すぞよ。|余《あんま》り|鼻《はな》を|高《たか》う|致《いた》すと、|鼻《はな》が|邪魔《じやま》して|上《うへ》も|見《み》えず、|向《むか》ふも|見《み》えず、|足許《あしもと》は|尚《なほ》|見《み》えぬやうになつて|仕舞《しま》ふぞよ。|開《あ》いた|口《くち》が|塞《ふさ》がらぬ、|煎豆《いりまめ》に|花《はな》の|咲《さ》いたやうな|結構《けつこう》な|御神徳《ごしんとく》が、|目《め》の|前《まへ》にぶらついて|居《を》りながら、|灯台下《とうだいもと》は|真闇《まつくら》がり、ほんに|可憐《かはい》さうなものであるぞよ。|改心《かいしん》なされよ。|改心《かいしん》|致《いた》せば|其《その》|日《ひ》から|目《め》も|見《み》えるぞよ。|身魂《みたま》も|光《ひか》り|出《だ》すぞよ。|二人《ふたり》のお|方《かた》|疑《うたが》ひ|晴《は》らして|下《くだ》されよ。|玉治別《たまはるわけ》の|幽宣伝使《いうせんでんし》に|間違《まちが》ひはないぞよ。これが|違《ちが》うたら|神《かみ》は|此《この》|世《よ》に|居《を》らぬぞよ。|余《あんま》り|慢心《まんしん》|致《いた》して|宣伝使《せんでんし》が|馬《うま》に|乗《の》つたり|致《いた》すから、|神罰《しんばつ》を|蒙《かうむ》つて、|結構《けつこう》な|神《かみ》のかけた|橋《はし》を|折《を》られ、|谷川《たにがは》に|落《おと》されてアフンと|致《いた》さなならぬと|云《い》ふ|実地正真《じつちしやうまつ》を|見《み》せてやつたのであるぞよ。|高姫《たかひめ》や|黒姫《くろひめ》を|見《み》て|改心《かいしん》なされよ。|結構《けつこう》な|二本《にほん》の|足《あし》を|神界《しんかい》から|頂《いただ》きながら、|偉《えら》さうに|飛行船《ひかうせん》に|乗《の》つて、|悪魔《あくま》の|征服《せいふく》なぞと|云《い》つて|出《で》かけるものだから、|今《いま》に|行衛《ゆくゑ》が|知《し》れぬではないか。|其《その》|方《はう》|等《ら》は|神《かみ》の|御用《ごよう》を|致《いた》す|宣伝使《せんでんし》だ。|鑑《かがみ》は|何程《いくら》でも|出《だ》してあるから、|鑑《かがみ》を|見《み》て|改心《かいしん》|致《いた》されよ。この|玉治別《たまはるわけ》は|誠《まこと》に|結構《けつこう》な|神《かみ》が|守護《しゆご》して|御座《ござ》るぞよ。|明神《みやうじん》の|高倉《たかくら》、|旭《あさひ》を|眷属《けんぞく》と|致《いた》して、|身代《みがは》りに|立《た》てたぞよ。|人民《じんみん》の|知《し》らぬ|事《こと》であるぞよ、アハヽヽヽ』
『オイオイ|田吾作《たごさく》、|馬鹿《ばか》にするない。|貴様《きさま》は|稲荷《いなり》ぢやないか。|稲荷《いなり》なら|稲荷《いなり》で【はつきり】と|云《い》へ、|俺《おれ》はこれから|貴様《きさま》の|審神《さには》をしてやるから、|早《はや》く|素直《すなほ》に|往生《わうじやう》|致《いた》さぬと|取《と》り|返《かへ》しのつかぬ|事《こと》が|出来《しゆつたい》|致《いた》すぞよ。ジリジリ|悶《もだ》え|致《いた》しても|後《あと》の|祭《まつ》り、|苦《くる》しむのを|見《み》るのが|国依別《くによりわけ》は|可憐《かわい》さうなから、|気《け》もない|中《うち》から|気《き》をつけるぞよ。お|前《まへ》は|俺《おれ》の|妹《いもうと》のお|勝《かつ》の|婿《むこ》に|化《ば》けて|居《ゐ》るが、|早《はや》く|往生《わうじやう》|致《いた》して|改心《かいしん》|致《いた》せばよし、|余《あま》り|我《が》を|張通《はりとほ》すと、|神界《しんかい》の|規則《きそく》に|照《て》らして|帳《ちよう》を|切《き》るぞよ、|外国《ぐわいこく》|行《ゆ》きに|致《いた》すぞよ』
『こらこら|何《なに》を|云《い》ふのだ。|彼方《あちら》にも|此方《こちら》にも、しようもない|神懸《かむがかり》をやりよつて、|俺《おれ》を|馬鹿《ばか》にするのか』
『|神《かみ》は|直《ぢ》き|直《ぢ》きにものは|云《い》はれぬから|田吾作《たごさく》の|肉体《にくたい》を|借《か》りて|気《き》をつけるぞよ。|実地正真《じつちしやうまつ》の|手本《てほん》を|見《み》せてあるぞよ。|大本《おほもと》の|大橋《おほはし》|越《こ》えてまだ|先《さき》へ、|行方《ゆくへ》|分《わか》らぬ|後戻《あともど》り、|慢心《まんしん》すると|其《その》|通《とほ》り|谷底《たにそこ》へ|落《おと》されて|仕舞《しま》ふぞよ』
『エヽ|怪体《けつたい》な、|早《はや》く|真正《ほんま》ものなら|此方《こつち》へ|出《で》て|来《こ》い』
|玉治別《たまはるわけ》『|真正者《ほんまもの》でも|贋者《にせもの》でも、|何時《いつ》|迄《まで》もこんな|所《ところ》に|立《た》つて|居《を》れるかい。|早《はや》く|改心《かいしん》して|呉《く》れ、|改心《かいしん》さへ|出来《でき》たなら、|神《かみ》はいつでも|谷《たに》を|渡《わた》つて、|其方《そちら》へ|行《い》つてやるぞよ』
|国依別《くによりわけ》『|竜国別《たつくにわけ》の|改心《かいしん》の|出来《でき》ぬのは、|度渋太《どしぶと》い|豆狸《まめだぬき》の|守護神《しゆごじん》であるから、|玉治別神《たまはるわけのかみ》|様《さま》が|御降臨《ごかうりん》、イヤ|御降来《ごくわうらい》|遊《あそ》ばさぬのは|無理《むり》もないぞよ。|早《はや》く|豆狸《まめだぬき》や、|野天狗《のてんぐ》の|守護神《しゆごじん》を|放《ほ》り|出《だ》して、|神様《かみさま》に|貰《もら》うた|生粋《きつすゐ》の|水晶魂《すゐしやうだま》に|磨《みが》いて|下《くだ》されよ。|神《かみ》は|嘘《うそ》は|申《まを》さぬぞよ』
|竜国別《たつくにわけ》『エヽ|兄《あに》と|弟《おとうと》と|寄《よ》りよつて、|此《この》|谷底《たにそこ》で|竜国別《たつくにわけ》を|馬鹿《ばか》にするのか』
|玉治別《たまはるわけ》『|馬鹿《ばか》にし|度《た》いは|山々《やまやま》なれども、|頂上《ちやうじやう》に|達《たつ》した|完全《くわんぜん》な|馬鹿《ばか》だから、|此《この》|上《うへ》もう|馬鹿《ばか》にしようがないので、|玉《たま》もたまらぬから|神《かみ》も|胸《むね》を|痛《いた》めて|居《を》るぞよ』
|竜国別《たつくにわけ》、|自暴自棄《やけくそ》になつて、
『|余《あま》り|此《この》|世《よ》が|上《のぼ》りつめて、|悪魔《あくま》|計《ばか》りの|世《よ》になりて、|神《かみ》は|三千年《さんぜんねん》の|苦労《くらう》|艱難《かんなん》|致《いた》して|此《この》|世《よ》に|現《あら》はれて|見《み》たなれど、|余《あんま》り|其処辺中《そこらぢう》が|穢《むさくる》しうて、|足《あし》|突《つ》つこむ|所《ところ》も、|指一本《ゆびいつぽん》|押《おさ》へる|処《ところ》もありは|致《いた》さぬぞよ。|余《あんま》り|此《この》|豆狸《まめだぬき》の|身魂《みたま》が|世界《せかい》を|曇《くも》らしたによつて、|神《かみ》が|仕組《しぐみ》を|致《いた》して、|玉治別《たまはるわけ》の|身魂《みたま》を|懲戒《みせしめ》のために、|折《を》れる|筈《はず》のない|石橋《いしばし》をポキンと|折《を》つて、|神力《しんりき》を|現《あら》はし、|身魂《みたま》の|洗濯《せんたく》をして|見《み》せたぞよ。|曇《くも》つた|世《よ》の|中《なか》にも、|一人《ひとり》や|二人《ふたり》は|誠《まこと》の|者《もの》があらうかと|思《おも》うて、|鉄《かね》の|草鞋《わらぢ》が|破《やぶ》れる|処《ところ》|迄《まで》|探《さが》して|見《み》たが、|唯《たつ》た|一人《ひとり》|誠《まこと》の|者《もの》が|現《あら》はれたぞよ。|之《これ》を|地《ぢ》に|致《いた》して|三千世界《さんぜんせかい》の|立替《たてかへ》|立直《たてなほ》しを|致《いた》すのであるぞよ。|竜国別《たつくにわけ》の|身魂《みたま》は|誠《まこと》に|結構《けつこう》な|因縁《いんねん》の|身魂《みたま》であるから、|神《かみ》が|懸《うつ》りて|何彼《なにか》の|事《こと》を|知《し》らさねばならぬから、|長《なが》らく|御苦労《ごくらう》になりて|居《を》るぞよ。|糞糟《くそかす》に|落《お》ちて|居《を》りて|下《くだ》されと|神《かみ》が|申《まを》したら、|一言《ひとこと》も|背《そむ》かずに|竜国別《たつくにわけ》が|聞《き》いて|下《くだ》されたおかげによつて、|神《かみ》の|大望《たいもう》|成就《じやうじゆ》|致《いた》したぞよ。それについても|因縁《いんねん》の|悪《わる》い|身魂《みたま》は|玉治別《たまはるわけ》、|国依別《くによりわけ》のガラクタであるぞよ。|此《この》|身魂《みたま》さへ|改心《かいしん》|致《いた》せば|世界《せかい》は|一度《いちど》に|改心《かいしん》|致《いた》すぞよ。|此《この》|御方《おんかた》は|誠《まこと》に|結構《けつこう》な|清《きよ》く|尊《たふと》い|偉《えら》い|立派《りつぱ》な、|世界《せかい》にもう|一人《ひとり》とない|生粋《きつすゐ》の|根本《こつぽん》の|元《もと》の|分霊《わけみたま》であるから、|神《かみ》が|懸《うつ》りて|大望《たいまう》な|御用《ごよう》が|仰《あふ》せつけてあるぞよ。|世界《せかい》の|者《もの》よ、|竜国別《たつくにわけ》の|行《おこな》ひを|見《み》て|改心《かいしん》|致《いた》されよ』
『アハヽヽヽ、|何奴《どいつ》も|此奴《こいつ》も|皆《みな》|神懸《かむがかり》の|真似《まね》ばかりしよるわい。サアサアこんな|人足《にんそく》に|相手《あひて》になつて|居《を》れば|日《ひ》が|暮《く》れる。|一遍《いつぺん》|出直《でなほ》して、|再《ふたた》び|出陣《しゆつぢん》しようかい』
と、|濡《ぬ》れた|着物《きもの》を|脇《わき》に|拘《かか》へ、|真裸《まつぱだか》のまますたすたと|谷《たに》の|流《なが》れを|此方《こちら》に|渡《わた》り、|坂道《さかみち》を|谷《たに》|沿《ぞ》ひに|下《くだ》り|行《ゆ》く。|二人《ふたり》は、
『オーイ|待《ま》て』
と|後《あと》を|追《お》ふ。
|折《をり》から|俄《にはか》に|黒雲《くろくも》|塞《ふさ》がり、|咫尺《しせき》も|弁《べん》ぜざるに|至《いた》つた。|玉治別《たまはるわけ》は、
『オーイオーイ|二人《ふたり》の|奴《やつ》、|俺《おれ》の|声《こゑ》を|目当《めあて》について|来《こ》い』
と|力一杯《ちからいつぱい》|呶鳴《どな》り|立《た》てる。
|竜国別《たつくにわけ》『アヽ|吃驚《びつくり》した。|何《なん》だい、|夜中《よなか》に|夢《ゆめ》を|見《み》やがつて、|大《おほ》きな|声《こゑ》を|出《だ》しよつて、|寝《ね》られぬぢやないか』
|国依別《くによりわけ》『アヽ|俺《おれ》もエライ|夢《ゆめ》を|見《み》て|居《を》つた。|玉公《たまこう》の|奴《やつ》、|鬼《おに》の|懸橋《かけはし》から|谷川《たにがは》に|顛落《てんらく》し、|軈《やが》て|仕様《しやう》もない|事《こと》を|口走《くちばし》りよつたと|思《おも》つたら、|何《なん》だ、|夢《ゆめ》だつたか。|錦《にしき》の|宮《みや》の|高殿《たかどの》に|七五三《しちごさん》の|太鼓《たいこ》が|鳴《な》りかけた。サア|早《はや》くお|礼《れい》をして、|言依別《ことよりわけ》|様《さま》の|夜前《やぜん》|俺達《おれたち》に|云《い》ひつけられた|高春山《たかはるやま》|征伐《せいばつ》に|向《むか》はうぢやないか』
|折《をり》からの|風《かぜ》に|小雲川《こくもがは》の|水瀬《みなせ》の|音《おと》は|手《て》に|取《と》る|如《ごと》く|耳《みみ》に|入《い》る。
|言依別《ことよりわけ》の|御言《みこと》もて  |聖地《せいち》を|後《あと》に|竜国別《たつくにわけ》の
|神《かみ》の|命《みこと》の|宣伝使《せんでんし》  |心《こころ》の|玉治別司《たまはるわけつかさ》
|国依別《くによりわけ》を|伴《ともな》ひて  |小雲《こくも》の|流《なが》れを|溯《さかのぼ》り
|高春山《たかはるやま》の|鬼神《おにがみ》を  |征服《せいふく》せむと|出《い》で|行《ゆ》きし
|高姫《たかひめ》|黒姫《くろひめ》|両人《りやうにん》を  |助《たす》けにや|山家《やまが》の|肥後《ひご》の|橋《はし》
|膝《ひざ》の|栗毛《くりげ》に|鞭《むち》|打《う》ちて  |草鞋脚絆《わらぢきやはん》に|身《み》を|固《かた》め
|菅《すげ》の|小笠《をがさ》の|草《くさ》や|蓑《みの》  |巡礼姿《じゆんれいすがた》に|身《み》を|窶《やつ》し
|谷《たに》を|伝《つた》ひてテクテクと  |須知《しうち》|蒲生野ケ原《がまふのがはら》を|過《す》ぎ
|観音峠《くわんのんたうげ》も|乗《の》り|越《こ》えて  |教《をしへ》の|花《はな》の|咲《さ》き|匂《にほ》ふ
|珍《うづ》の|園部《そのべ》や|小山郷《をやまがう》  |翼《つばさ》なけれど|鳥羽《とば》の|里《さと》
|道《みち》も|広瀬《ひろせ》の|川伝《かはづた》ひ  |高城山《たかしろやま》を|右手《めて》に|見《み》て
|名《な》さへ|目出度《めでた》き|亀山《かめやま》の  |珍《うづ》の|館《やかた》に|着《つ》きにける。
|此処《ここ》には|梅照彦《うめてるひこ》、|梅照姫《うめてるひめ》の|二人《ふたり》、|言依別命《ことよりわけのみこと》の|命《めい》を|奉《ほう》じ、|小《ささ》やかな|館《やかた》を|建《た》て、|教《をしへ》を|遠近《をちこち》に|伝《つた》へて|居《ゐ》た。|三人《さんにん》の|姿《すがた》に|驚《おどろ》いて|梅照姫《うめてるひめ》は|奥《おく》に|駆入《かけい》り、
『モシモシ|御主人様《ごしゆじんさま》、|妙《めう》な|男《をとこ》が|三人《さんにん》やつて|来《き》ました。さうして|門口《かどぐち》に|立《た》つて|動《うご》きませぬ。どう|致《いた》しませうか』
『|誰人《どなた》か|知《し》らぬが、|服装《ふう》が|悪《わる》くつても、|如何《いか》なる|神様《かみさま》が|化《ば》けて|御座《ござ》るか|知《し》れないから、|鄭重《ていちよう》にお|迎《むか》へ|申《まを》したらよからう』
|梅照姫《うめてるひめ》は|召使《めしつかひ》の|春公《はるこう》を|招《まね》き、
『|何人《どなた》か|門《もん》に|来《き》て|居《を》られる|筈《はず》だから、|【鄭重】《ていちやう》にお|迎《むか》へ|申《まを》して|来《き》なさい』
『|承知《しようち》|致《いた》しました』
と|門口《かどぐち》に|走《はし》つて|出《で》た。|春公《はるこう》は|其処《そこら》をきよろきよろ|見廻《みまは》しながら|独言《ひとりごと》。
『|【庭長】《ていちやう》にせよと|仰有《おつしや》るから|迎《むか》ひに|出《で》たが、|誰《たれ》も|居《ゐ》やせぬぢやないか。|乞食《こじき》が|三人《さんにん》|居《を》る|計《ばか》りで、|大切《たいせつ》なお|客《きやく》さまは|見《み》えはせぬ。ハヽア、もう、つい|御座《ござ》るのであらう。オイ|其処《そこ》な|乞食《こじき》|共《ども》、|其処《そこ》|退《ど》いて|呉《く》れ。|唯今《ただいま》|庭長《ていちやう》さまがお|越《こ》しになるのだから、お|前《まへ》のやうな|乞食《こじき》が|門口《かどぐち》に|立《た》つて|居《ゐ》ると、|見《み》つとも|好《よ》くない。サアサア|何処《どこ》かへ|往《い》つたり|往《い》つたり』
|竜国別《たつくにわけ》『|貴方《あなた》は|当家《たうけ》の|召使《めしつかひ》ですか。|梅照彦《うめてるひこ》は|居《を》られますかな』
『エヽ|何《なに》をごてごて|云《い》ふのだ。|人《ひと》を|見下《みさ》げて|召使《めしつかひ》かなんて、|其様《そん》なものとはちつと|違《ちが》ふのだ』
|竜国別《たつくにわけ》『|然《しか》らば|貴方《あなた》は|当家《たうけ》の|御主人《ごしゆじん》ですか』
『マアマア|何《ど》うでもよいわい。どつちかの|中《うち》ぢや』
『|御主人《ごしゆじん》とあれば、|一寸《ちよつと》|承《うけたま》はり|度《た》い|事《こと》があつて|参《まゐ》りました』
『そんな|者《もの》に|当家《たうけ》の|主人《しゆじん》は|用《よう》が|無《な》いわい。|早《はや》く|何処《どこ》かへ|退散《たいさん》せぬか。|今《いま》|庭長《ていちやう》さまがお|越《こ》しになるのだ。|邪魔《じやま》を|致《いた》すと|此《この》|箒《はうき》で|撲《なぐ》りつけるぞ』
|玉治別《たまはるわけ》『これや、お|前《まへ》は|此処《ここ》の|召使《めしつかひ》だらう。|下男《しもをとこ》だらう。|門前《もんぜん》に|三人《さんにん》の|宣伝使《せんでんし》が|見《み》えて|居《ゐ》るのに|主人《しゆじん》にも|取《と》り|次《つ》がず、|追《お》ひ|出《だ》すと|云《い》ふ|事《こと》があるものか。|早《はや》く|取《と》り|次《つ》いで|呉《く》れ』
『|取《と》り|次《つぎ》がぬ|事《こと》もないが、|今日《けふ》は|俄《にはか》にお|取込《とりこ》みが|出来《でき》たのだ。|庭長《ていちやう》さまがお|出《いで》になるのだから、|何《いづ》れ|御馳走《ごちそう》をせなくてはならぬ、さうすれば|又《また》ちつとは|余《あま》るから、|明日《あした》|除《の》けて|置《お》いてやるから、|更《あらた》めて|出《で》て|来《こ》い。それ|迄《まで》|其辺《そこら》うちを|迂路《うろ》ついて、|今日《けふ》はまア|他家《よそ》で|貰《もら》ふが|好《よ》からう』
|玉治別《たまはるわけ》『お|前《まへ》は|我々《われわれ》を|乞食《こじき》と|見《み》て|居《ゐ》るのだなア。それや|余《あんま》りぢやないか』
『|余《あんま》りも|糞《くそ》もあつたものかい。|縦《たて》から|見《み》ても、|横《よこ》から|見《み》ても|乞食《こじき》に|間違《まちが》ひはない。|余《あんま》りぢやと|云《い》うたが、|今日《けふ》は|御馳走《ごちそう》が|余《あんま》るとも|余《あんま》らぬとも|見当《けんたう》がつかぬ。|明日《あす》|出《で》て|来《こ》い。|屹度《きつと》|握《にぎ》り|飯《めし》の【あんまり】を|一《ひと》つ|位《くらゐ》は|俺《おれ》がそつと|除《の》けて|置《お》いてやる。|貴様《きさま》も|腹《はら》が|空《へ》つとるだらうが、まア|辛抱《しんばう》をして|居《を》れ。|俺《おれ》だつて|生《うま》れつきの|悪人《あくにん》ぢやない。つい|十日《とをか》|程《ほど》|前《まへ》まで、|乞食《こじき》に|歩《ある》いて、|道《みち》の|端《はた》で|飢《うゑ》に|迫《せま》り|倒《たふ》れて|居《を》つたところ、|此家《ここ》の|主人《しゆじん》が|拾《ひろ》ひ|上《あ》げて|下《くだ》さつたのだから|何処迄《どこまで》も|大切《たいせつ》に|此《この》|門《もん》を|守《まも》らねばならぬのだ。|何卒《どうぞ》|頼《たの》みだから|暫《しばら》く|他家《よそ》へ|行《い》つて|居《ゐ》て|呉《く》れ。|今《いま》|庭長《ていちやう》さまがお|見《み》えになるのだ。|若《も》しその|庭長《ていちやう》さまが、|此《この》|家《いへ》の|主人《しゆじん》にでも|何《なに》かの|端《はし》に、|此方《こなた》の|門口《かどぐち》には|乞食《こじき》が|三人《さんにん》|立《た》つて|居《ゐ》ましたと|云《い》はつしやらうものなら、それこそ|俺《おれ》は|此《この》|家《や》を|放《ほ》り|出《だ》されて|又《また》|元《もと》の|乞食《こじき》になり、お|前等《まへたち》の|仲間《なかま》に|逆転《ぎやくてん》せなくてはならぬから、|何《ど》うぞここは|俺《おれ》を|助《たす》けると|思《おも》つて、|暫《しばら》く|退却《たいきやく》して|呉《く》れ。|乞食《こじき》の|味《あぢ》は|俺《おれ》もよく|知《し》つて|居《を》る。|辛《つら》いものだ。|本当《ほんたう》に|同情《どうじやう》するよ。|訳《わけ》の|分《わか》らぬ|無慈悲《むじひ》の|奴《やつ》だと|恨《うら》めて|呉《く》れな』
|国依別《くによりわけ》は|大声《おほごゑ》を|発《はつ》し、
『|梅照彦《うめてるひこ》 |々々々《うめてるひこ》』
と|呶鳴《どな》つた。|春《はる》は|吃驚《びつくり》して、
『コラコラ、そんな|非道《ひど》い|事《こと》を|云《い》ふものぢやない。|俺《おれ》が|叱《しか》られるぢやないか。|乞食《こじき》が|云《い》うたと|思《おも》はずに、|俺《おれ》が|主人《しゆじん》を|呼《よ》び|捨《す》てにしたやうにとられては|耐《たま》らぬぢやないか。|些《ちつ》とは|俺《おれ》の|身《み》にもなつて|呉《く》れ』
|竜《たつ》、|玉《たま》、|国《くに》の|三人《さんにん》の|宣伝使《せんでんし》は|一時《いちじ》に|声《こゑ》を|揃《そろ》へて、
『|梅照彦《うめてるひこ》 |々々々《うめてるひこ》』
と|呶鳴《どな》り|付《つ》ける。|春《はる》は、
『やアこいつは|耐《たま》らぬ、ぢやと|云《い》うて|人《ひと》の|口《くち》に|戸《と》を|立《た》てる|訳《わけ》にも|行《ゆ》かないわ。|一《ひと》つ|奥《おく》へ|行《い》つて|言《い》ひ|訳《わけ》をして|来《こ》う』
とバタバタと|奥《おく》に|駆込《かけこ》む。|梅照彦《うめてるひこ》は|人待顔《ひとまちがほ》にて、
『お|客《きやく》さまはどうなつたか。|早《はや》くこちらへ|御案内《ごあんない》せぬか』
『イヤ、|未《ま》だ|見《み》えませぬ。|何《ど》うしてこんなに|遅《おそ》いのでせうなア』
『|今《いま》|何《なん》だか|大勢《おほぜい》の|声《こゑ》がしたではないか』
『あれは|乞食《こじき》が|歌《うた》を|歌《うた》つて|御門前《ごもんぜん》を|通《とほ》つたのですよ』
『お|前《まへ》の|声《こゑ》ではなかつたかな』
『イエイエ|滅相《めつさう》もない、|誰人《だれ》が|御主人様《ごしゆじんさま》を|梅照彦《うめてるひこ》なんて|呼《よ》びつけに|致《いた》しますものか。|何《なん》でも|貴方《あなた》のお|名《な》を|知《し》つて|居《を》る|乞食《こじき》が|云《い》つたのでせう』
『ハテナ、それでも|今《いま》|妻《つま》が、|門口《かどぐち》に|三人《さんにん》のお|方《かた》が|門《もん》を|開《あ》けて|呉《く》れと|云《い》つてお|待《ま》ちになつて|居《ゐ》ると|云《い》うて|居《ゐ》た。|今《いま》|御飯《ごぜん》の|仕度《こしらへ》をすると|云《い》つて|炊事場《すゐじば》の|方《はう》にいきよつたが、もうお|客《きやく》さまは|帰《かへ》つて|仕舞《しま》はれたのかなア』
『イヽエ、まだお|客《きやく》さまは|見《み》えませぬ。|唯《ただ》|三人《さんにん》の|見《み》【すぼら】しい|乞食《こじき》が、|蓑笠《みのかさ》を|着《き》て、|門《もん》の|傍《はた》に|立《た》つて|居《を》ります』
『|何《なに》、まだ|立《た》つて|居《を》られるか』
『|御主人様《ごしゆじんさま》、|貴方《あなた》はあんな|乞食《こじき》に|丁寧《ていねい》な|言葉《ことば》をお|使《つか》ひになるのですなア』
『|乞食《こじき》だつて|誰人《だれ》だつて、|同《おな》じ|神様《かみさま》から|生《うま》れた|人間《にんげん》だ。|丁寧《ていねい》に|致《いた》さねばならぬではないか』
『それでも|私《わたし》に|対《たい》しては|余《あま》り|丁寧《ていねい》ぢやありませぬな。いつも|春《はる》、|春《はる》と|呼《よ》びつけになさるでせう』
『そんならこれから、|春《はる》さまと|云《い》つたらお|気《き》に|入《い》りますかなア』
『|御尤《ごもつと》もでございますなア』
|斯《か》く|話《はな》す|折《をり》しも、|門口《かどぐち》から|宣伝歌《せんでんか》が|聞《きこ》え|来《きた》る。
『|神《かみ》が|表《おもて》に|現《あら》はれて  |善《ぜん》と|悪《あく》とを|立《た》て|別《わ》ける
|此《この》|世《よ》を|造《つく》りし|神直日《かむなほひ》  |心《こころ》も|広《ひろ》き|大直日《おほなほひ》
|唯《ただ》|何事《なにごと》も|人《ひと》の|世《よ》は  |直日《なほひ》に|見直《みなほ》せ|聞《き》き|直《なほ》せ
|身《み》の|過《あやま》ちは|宣《の》り|直《なほ》す  |三五教《あななひけう》の|神《かみ》の|教《のり》
|四方《よも》に|伝《つた》ふる|亀山《かめやま》の  |珍《うづ》の|館《やかた》を|守《まも》り|居《ゐ》る
|梅照彦《うめてるひこ》の|門《もん》の|前《まへ》  |遥々《はるばる》|訪《たづ》ね|来《き》て|見《み》れば
|佇《たたず》み|居《ゐ》たる|山《やま》の|神《かみ》  |我等《われら》の|姿《すがた》を|見《み》るよりも
|踵《きびす》を|返《かへ》し|奥《おく》に|入《い》る  |嗚呼《ああ》|訝《いぶ》かしや|訝《いぶ》かしや
|主人《あるじ》の|妻《つま》か|下婢《はしため》か  |不思議《ふしぎ》と|門《かど》に|立《た》ち|止《ど》まり
|門《もん》の|開《ひら》くを|待《ま》つうちに  |躍《をど》り|出《いで》たる|下男《しもをとこ》
|我等《われら》の|前《まへ》に|竹箒《たけばうき》  |掃出《はきだ》すやうな|捨言葉《すてことば》
|庭長《ていちやう》さまが|来《きた》るまで  |帰《かへ》つて|呉《く》れいと|頑張《がんば》つて
|又《また》もや|門《もん》をピシヤと|締《し》め  |蒼惶《さうくわう》|姿《すがた》を|隠《かく》しけり
|汝《なんぢ》|梅照彦司《うめてるひこつかさ》  |三五教《あななひけう》の|御教《みをしへ》を
|何《なん》と|思《おも》ふか|世《よ》の|人《ひと》を  |貴賤《きせん》|老幼《らうえう》|別《わか》ちなく
|救《すく》ひ|助《たす》けて|皇神《すめかみ》の  |教《をしへ》の|徳《とく》に|靡《なび》かせつ
|世人《よびと》を|守《まも》る|神司《かむづかさ》  |世《よ》にも|尊《たふと》き|天職《てんしよく》を
もはや|汝《なんぢ》は|忘《わす》れしか  |神《かみ》の|教《をしへ》を|笠《かさ》に|着《き》て
|体主霊従《たいしゆれいじう》|利己主義《りこしゆぎ》を  |発揮《はつき》し|居《を》るは|三五《あななひ》の
|神《かみ》の|教《をしへ》に|非《あら》ずして  バラモン|教《けう》の|行《や》り|方《かた》ぞ
|我《われ》は|御国《みくに》を|救《すく》はむと  |晨《あした》の|風《かぜ》や|夕《ゆふ》の|雨《あめ》
そぼち|濡《ぬ》れつつ|高春《たかはる》の  |山《やま》に|向《むか》うてアルプスの
|神《かみ》の|教《をしへ》の|司《つかさ》なる  |鷹依姫《たかよりひめ》を|言向《ことむ》けて
|世人《よびと》を|救《すく》ふ|神柱《かむばしら》  |言依別《ことよりわけ》の|御言《みこと》もて
|漸《やうや》う|此処《ここ》に|来《きた》りしぞ  |汝《なんぢ》が|日頃《ひごろ》のやり|方《かた》は
|今《いま》|現《あら》はれた|下男《しもをとこ》  |言葉《ことば》の|端《はし》によく|見《み》える
|貴《たふと》き|衣《きぬ》を|身《み》に|纏《まと》ひ  |表面《うはべ》を|飾《かざ》る|曲人《まがびと》を
|喜《よろこ》び|迎《むか》へ|入《い》れながら  |服装《みなり》|卑《いや》しき|我々《われわれ》を
|唯《ただ》|一言《ひとくち》に|膠《にべ》もなく  |追《お》ひ|帰《かへ》さむと|努《つと》むるは
|全《まつた》く|汝《そなた》が|指金《さしがね》か  |但《ただし》は|下男《しもべ》の|誤《あやま》りか
|詳細《つぶさ》に|御答《おこた》へ|致《いた》されよ  |朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも
|月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも  |仮令《たとへ》|大地《だいち》は|沈《しづ》むとも
|神《かみ》に|仕《つか》へし|身《み》の|上《うへ》は  |如何《いか》なる|卑《いや》しき|姿《すがた》をも
|如何《いか》なる|見悪《みにく》き|服装《みなり》せる  |乞食《こじき》の|端《はし》に|至《いた》るまで
|救《すく》ひ|助《たす》けにやおかれまい  |汝《なんぢ》は|易《やす》きに|狎《な》れ|過《す》ぎて
|救《すく》ひの|道《みち》を|忘《わす》れしか  |神《かみ》は|我等《われら》と|倶《とも》にあり
|神《かみ》の|勅《みこと》を|畏《かしこ》みて  |曲津《まがつ》の|征途《せいと》に|上《のぼ》り|行《ゆ》く
|我等《われら》|一行《いつかう》|三人連《みたりづ》れ  |竜国別《たつくにわけ》や|玉治別《たまはるわけ》
|国依別《くによりわけ》の|宣伝使《せんでんし》  |此処《ここ》に|暇《いとま》を|告《つ》げまつる
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |恩頼《みたまのふゆ》を|蒙《かかぶ》りて
|早《は》や|暮《く》れかかる|冬《ふゆ》の|日《ひ》を  |御稜威《みいづ》も|高《たか》き|高熊《たかくま》の
|御山《みやま》を|指《さ》して|進《すす》むべし  |梅照彦《うめてるひこ》よ|妻神《つまがみ》よ
|随分《ずゐぶん》お|健《まめ》でお|達者《たつしや》で  |神《かみ》のお|道《みち》に|尽《つ》くされよ
|私《わたし》はこれにて|暇乞《いとまご》ひ  |三人《みたり》の|司《つかさ》が|凱旋《がいせん》を
|指《ゆび》をり|数《かぞ》へて|待《ま》つがよい  さアさア|往《ゆ》かうさア|往《ゆ》かう
|門前《もんぜん》|払《ばら》ひを|喰《く》はされて  |余《あま》り|嬉《うれ》しうは|無《な》けれども
これも|何《なに》かのお|仕組《しぐみ》か  |行《ゆ》けるとこ|迄《まで》|行《い》つて|見《み》よう
|決《けつ》して|世界《せかい》に|鬼《おに》は|無《な》い  |三五教《あななひけう》の|身《み》の|内《うち》に
|梅照彦《うめてるひこ》の|鬼《おに》が|坐《ま》す  もしや|我等《われら》の|云《い》ふ|事《こと》が
お|気《き》に|障《さは》れば|赦《ゆる》してよ  あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》の|幸《さち》を|賜《たま》へかし』
と|玉治別《たまはるわけ》は|大声《おほごゑ》にて|心《こころ》の|丈《たけ》を|歌《うた》ひ|終《をは》つた。
|梅照彦《うめてるひこ》は|此《この》|歌《うた》を|聞《き》くや、|驚《おどろ》いて|表門《おもてもん》に|駆《か》けつけ|砂上《しやじやう》に|頭《かうべ》を|下《さ》げ、
『これはこれは|宣伝使《せんでんし》|様《さま》で|御座《ござ》いましたか。まことに|下男《しもべ》が|粗忽《そそう》を|致《いた》しまして、|申訳《まをしわけ》が|御座《ござ》いませぬ。さアさアどうぞお|這入《はい》り|下《くだ》さいませ』
|玉治別《たまはるわけ》『イヤ|有難《ありがた》う。かういふ|立派《りつぱ》なお|館《やかた》へ|乞食《こじき》が|這入《はい》りましては、お|館《やかた》の|名誉《めいよ》にかかはりますから、|今日《けふ》はまアこれで|御免《ごめん》を|蒙《かうむ》りませう』
『お|腹立《はらだち》|御尤《ごもつと》もで|御座《ござ》いますが、つい|失礼《しつれい》|致《いた》しまして……|全《まつた》く|下男《しもべ》の|業《わざ》で|御座《ござ》いますから、どうぞ|許《ゆる》して|下《くだ》さいませ。さアさア|御機嫌《ごきげん》|直《なほ》して、トツトとお|這入《はい》り|下《くだ》さいませ。コレ|梅照姫《うめてるひめ》、|春公《はるこう》、お|詫《わび》を|申上《まをしあ》げないか』
と|呶鳴《どな》つて|居《ゐ》る。|二人《ふたり》は|此《この》|声《こゑ》に|驚《おどろ》いて|様子《やうす》は|分《わか》らねど、|梅照彦《うめてるひこ》が|土下座《どげざ》をして|居《ゐ》るのを|見《み》て、|自分《じぶん》も|同《おな》じく|大地《だいち》に|平伏《へいふく》して|頭《かうべ》を|下《さ》げた。
|玉治別《たまはるわけ》『|今《いま》|貴方《あなた》は|下男《しもべ》が|悪《わる》いのだと|云《い》はれましたな。|決《けつ》して|下男《しもべ》ぢやありませぬよ。|責任《せきにん》は|矢張《やつぱり》|主人《しゆじん》にある。さう|云《い》ふ|気《き》のつかない|馬鹿《ばか》な|男《をとこ》を、|門番《もんばん》にするのが|第一《だいいち》|過《あやま》りだ』
『ハイ、|何《なん》と|仰《あふ》せられましても|弁解《べんかい》の|辞《ことば》がありませぬ』
『サア、|事《こと》が|分《わか》れば|好《い》いぢやないか。|玉治別《たまはるわけ》、|国依別《くによりわけ》、お|世話《せわ》になりませうかい』
と|先《さき》に|立《た》つて|進《すす》み|入《い》る。|二人《ふたり》もニコニコしながら、
『アヽ、エライお|気《き》を|揉《も》ませました。もうこれで|一切《いつさい》の|経緯《いきさつ》は|帳消《ちやうけし》だ。さア|梅照彦《うめてるひこ》|御夫婦《ごふうふ》さま、|春《はる》さま、|何《ど》うぞ|安心《あんしん》して|下《くだ》さいませ』
『|有難《ありがた》う|御座《ござ》います』
と|安心《あんしん》の|胸《むね》を|撫《な》で|下《おろ》し、|妻《つま》|諸共《もろとも》|三人《さんにん》の|後《あと》に|従《つ》いて|奥《おく》に|入《い》る。|春公《はるこう》は|門《もん》の|傍《かたはら》に|佇立《ちよりつ》し、
『アヽ|庭長《ていちやう》さまの|御挨拶《ごあいさつ》だつた。お|蔭《かげ》で|免職《めんしよく》もどうやら|免《のが》れたやうだ』
(大正一一・五・一六 旧四・二〇 加藤明子録)
第三章 |月休殿《げつきうでん》〔六七七〕
|竜国別《たつくにわけ》、|玉治別《たまはるわけ》、|国依別《くによりわけ》の|三人《さんにん》は|珍《うづ》の|館《やかた》の|奥《おく》の|室《ま》に|打通《うちとほ》り、|梅照姫《うめてるひめ》が|調理《てうり》せし|晩餐《ばんさん》に|舌鼓《したつづみ》を|打《う》ち、|主客《しゆきやく》|打《う》ち|解《と》けて|四方八方《よもやも》の|話《はなし》に|耽《ふけ》る。
|梅照彦《うめてるひこ》『|最前《さいぜん》の|玉治別《たまはるわけ》|様《さま》のお|歌《うた》に|依《よ》つて、|津《つ》の|国《くに》の|高春山《たかはるやま》へお|出《い》でになる|事《こと》を|承知《しようち》|致《いた》しました。|然《しか》し|乍《なが》ら|此方《こちら》から|御出《おい》でになるのは、|少《すこ》し|迂回《うくわい》ではありませぬか』
『|少《すこ》しは|迂回《うくわい》ですが|是《これ》には|理由《わけ》があるのです。|実《じつ》は|福知山《ふくちやま》の|方面《はうめん》から|柏原《かいばら》を|通《とほ》り|鬼《おに》の|懸橋《かけはし》を|渡《わた》つて|参《まゐ》る|積《つも》りでしたが、|出発《しゆつぱつ》の|前夜《ぜんや》に|大変《たいへん》な|夢《ゆめ》を|見《み》まして……それで|此方《こちら》へ|途《みち》を|変《か》へたのです。さうして|玉照彦《たまてるひこ》|様《さま》のお|出《で》ましになつた|高熊山《たかくまやま》の|岩窟《がんくつ》を|拝《はい》して|行《ゆ》くのが|順当《じゆんたう》だと|気《き》がついたのです。|悪魔《あくま》に|対《たい》し|言霊戦《ことたません》を|開始《かいし》するのですから、|余程《よほど》|修業《しうげふ》をして|参《まゐ》らねばなりませぬ。|高姫《たかひめ》、|黒姫《くろひめ》の|宣伝使《せんでんし》は、|不覚《ふかく》にも|飛行船《ひかうせん》に|乗《の》つて|只《ただ》|一息《ひといき》に|苦労《くらう》も|無《な》しに|高《たか》い|所《ところ》から|敵《てき》を|威喝《ゐかつ》しようと|思《おも》つて|出《で》たものですから、|三ケ月《さんかげつ》|有余《いうよ》も|経《た》つた|今日《こんにち》|何《なん》の|消息《せうそく》も|無《な》し、それが|為《た》めに|言依別命《ことよりわけのみこと》が|我々《われわれ》を|密《ひそ》かにお|遣《つか》はしになるのです。|聖地《せいち》の|人々《ひとびと》は|我々《われわれ》|三人《さんにん》|以外《いぐわい》、|誰一人《たれひとり》|知《し》つて|居《ゐ》ないのです。バラモン|教《けう》やアルプス|教《けう》の|間者《まはしもの》が|沢山《たくさん》に|信者《しんじや》となつて|化込《ばけこ》んで|居《を》りますから、うつかりした|事《こと》は|言《い》はれないのです。|又《また》|仮令《たとへ》|異教《いけう》の|間者《まはしもの》が|居《を》らないにしても|幹部《かんぶ》の|連中《れんちう》や|信者《しんじや》に|知《し》らせますと、|直《すぐ》に|如何《どん》な|大切《たいせつ》の|事《こと》でも|喋《しやべ》つて|仕舞《しま》ひますから|困《こま》つたものですよ。|何故《なぜ》あれだけ|秘密《ひみつ》が|守《まも》れないのかと|不思議《ふしぎ》な|位《くらゐ》です。|三人《さんにん》の|外《ほか》に|誰《たれ》にも|言《い》ふなと|仰有《おつしや》つたのですから、|秘密《ひみつ》は|何処迄《どこまで》も|守《まも》らねばなりませぬからなア』
|国依別《くによりわけ》『オイ、|玉治別《たまはるわけ》、お|前《まへ》は|幹部《かんぶ》が|喋舌《しやべ》ると|今《いま》|言《い》つたが、|我々《われわれ》|両人《りやうにん》が|何《なに》も|言《い》はないのに、お|前《まへ》は|斯《こ》んな|秘密《ひみつ》を|門前《かどさき》で|大《おほ》きな|声《こゑ》で|歌《うた》つたぢやないか。|猿《さる》の|尻笑《しりわら》ひと|言《い》ふのはお|前《まへ》の|事《こと》だよ』
|竜国別《たつくにわけ》『ハヽヽヽヽ、|到頭《たうとう》|秘密《ひみつ》が|曝《ば》れて|仕舞《しま》つたぢやないか。「これは|秘密《ひみつ》だからお|前《まへ》さまより|外《ほか》には|言《い》はないから、|誰《たれ》にも|言《い》つて|下《くだ》さるな」と|口止《くちど》めする。|聞《き》いた|人《ひと》は「|諾々《よしよし》|決《けつ》して|言《い》はぬ」と|言《い》ひ|乍《なが》ら、|又《また》|次《つぎ》の|人《ひと》に「|此奴《こいつ》ア|秘密《ひみつ》だから|誰《たれ》にも|言《い》はれぬ。お|前《まへ》だけに|言《い》つたのだから、|屹度《きつと》|他言《たごん》はして|呉《く》れるな」と|口止《くちど》めする。|又《また》|次《つぎ》から|次《つぎ》へと|其《その》|通《とほ》り|繰返《くりかへ》されるものだ。そして|一人《ひとり》より|言《い》はないと|言《い》つた|者《もの》が、|会《あ》ふ|人《ひと》|毎《ごと》に|尋《たづ》ねもせぬのに「お|前《まへ》|一人《ひとり》だけだ」と|言《い》つて、|終《しまひ》には|秘密《ひみつ》の|方《はう》が|拡《ひろ》がるものだ。|表向《おもてむき》|広告的《くわうこくてき》に|言《い》つたのは|誰《たれ》も|耳《みみ》に|止《と》めないから|却《かへつ》て|拡《ひろ》まらないものだよ。「お|前《まへ》|一人《ひとり》と|定《さだ》めて|置《お》いて、|浮気《うはき》や|其《その》|日《ひ》の|出来心《できごころ》」|式《しき》だから|困《こま》つたものだ。なア|国依別《くによりわけ》』
|国依別《くによりわけ》『そうだなア、|此《この》|筆法《ひつぱふ》を|宣伝《せんでん》に|応用《おうよう》したら|如何《どう》でせう。|不言講《いはずかう》とか|言《い》つて「お|前《まへ》|丈《だ》けに|結構《けつこう》な|事《こと》を|聞《き》かしてやるのだから、|主人《しゆじん》にでも……|仮令《たとへ》|我《わが》|子《こ》にでも|女房《にようばう》にでも|言《い》ふ|事《こと》はならぬ」と|口止《くちど》めをして|置《お》くと、|其《その》|男《をとこ》は「|俺《おれ》は|身魂《みたま》が|立派《りつぱ》だから、|誰《たれ》も|知《し》らぬ|事《こと》を|神様《かみさま》から|彼《かれ》の|口《くち》を|通《とほ》して|言《い》つて|下《くだ》さつたのだ」「|俺《おれ》の|身魂《みたま》は|立派《りつぱ》だから、|神慮《しんりよ》に|叶《かな》つて|居《を》るから、|斯《か》う|言《い》ふ|大切《たいせつ》な|事《こと》を|知《し》らして|貰《もら》へるのだ」と|思《おも》つて|自慢《じまん》|相《さう》に|人々《ひとびと》に|秘密《ひみつ》|々々《ひみつ》と|言《い》つては|喋《しやべ》り|散《ち》らす、それが|却《かへつ》て|能《よ》く|拡《ひろ》まる|様《やう》なものだ。|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》も、その|筆法《ひつぱふ》を|応用《おうよう》したら、|却《かへつ》て|良《い》いかも|知《し》れないぞ、アハヽヽヽ』
|玉治別《たまはるわけ》『|然《しか》しそれは……さうとして、|梅照彦《うめてるひこ》さまはそんな|軽薄《けいはく》な|御方《おかた》ぢや|無《な》いから、|屹度《きつと》|秘密《ひみつ》を|守《まも》られるでせう』
|梅照彦《うめてるひこ》『|私《わたくし》は|守《まも》る|積《つも》りですが、|女房《にようばう》や|下男《しもべ》が……|余《あま》り|大《おほ》きな|声《こゑ》で|仰有《おつしや》つたものだから……|全部《すつかり》|聞《き》いて|居《を》りませう。そいつア|何《ど》うも|請負《うけお》ふ|事《こと》は|出来《でき》ませぬなア』
|玉治別《たまはるわけ》『|困《こま》つた|事《こと》だ。|何卒《どうぞ》|成就《じやうじゆ》するまで|他《た》へ|洩《も》れない|様《やう》に……|喋舌《しやべ》られては|困《こま》るから……どうか|暫時《しばらく》|奥《おく》さまと|下男《げなん》とは|座敷牢《ざしきらう》にでも|入《い》れて、|人《ひと》に|会《あ》はさない|様《やう》にして|下《くだ》さいますまいかなア』
|梅照姫《うめてるひめ》『オホヽヽヽ、|妾《わたし》は|滅多《めつた》に|言《い》ひませぬが、|貴方《あなた》|言《い》はぬ|様《やう》になされませ。|屹度《きつと》|道々《みちみち》|秘密《ひみつ》を|開《あ》け|放《はな》しにして、|何《なに》も|彼《か》もみんな|仰有《おつしや》るでせう』
|玉治別《たまはるわけ》『イヤイヤ|決《けつ》して|決《けつ》して、|余《あんま》りむかついたものですから、つい|門口《かどぐち》で|脱線《だつせん》したのですよ』
|梅照姫《うめてるひめ》『|余程《よほど》|言霊鉄道《ことたまてつだう》の|敷設《ふせつ》|工事《こうじ》が|請負《うけおひ》と|見《み》えて、|粗末《そまつ》な|事《こと》がしてあると|見《み》えてますなア、ホヽヽヽヽ』
|竜国別《たつくにわけ》『|何分《なにぶん》|宇都山村《うづやまむら》の|田吾作《たごさく》|時代《じだい》には、|随分《ずゐぶん》|狼狽者《あわてもの》の|大将《たいしやう》だといふ|評判《ひやうばん》でしたから、|矢張《やつぱり》|三才児《みつご》の|癖《くせ》は|百歳《ひやく》|迄《まで》とか|言《い》つて、|仕方《しかた》の|無《な》いものですワイ』
|玉治別《たまはるわけ》『そんな|昔《むかし》の|事《こと》をさらけ|出《だ》して、|人《ひと》の|前《まへ》で|言《い》ふものぢやない。|竜国別《たつくにわけ》、|私《わし》が|出立《しゆつたつ》の|際《さい》に「|何卒《どうぞ》|誰《たれ》にも|玉治別《たまはるわけ》は|宇都山村《うづやまむら》の|田吾作《たごさく》だと|云《い》つて|下《くだ》さるな、|秘密《ひみつ》にして|下《くだ》さい」と|頼《たの》んだ|時《とき》「|俺《おれ》も|男《をとこ》だ、ヨシ、|言《い》はぬと|云《い》つたら|首《くび》が|千切《ちぎ》れても|言《い》はない」と|言明《げんめい》し|乍《なが》ら、|三日《みつか》も|経《た》たぬ|間《うち》に|秘密《ひみつ》を|明《あか》すとは|何《なん》の|事《こと》だい。|余《あんま》り|人《ひと》の|事《こと》を|云《い》ふものぢやありませぬぞ。|自分《じぶん》の|過失《あやまち》は|分《わか》らぬものと|見《み》えますわい』
|竜国別《たつくにわけ》『ヤア|此奴《こいつ》ア|縮尻《しくじ》つた。|然《しか》し|乍《なが》らお|前《まへ》が|田吾作《たごさく》だつたと|言《い》つた|所《ところ》で、|今回《こんくわい》の|作戦《さくせん》|計画《けいくわく》に|齟齬《そご》を|来《きた》す|様《やう》な|大問題《だいもんだい》ぢや|無《な》いから……マア|大目《おほめ》に|見《み》るのだなア』
|玉治別《たまはるわけ》『|小《ちひ》さい|事《こと》だと|云《い》つて|秘密《ひみつ》を|洩《も》らしても|良《い》いのですか。|小《ちひ》さい|事《こと》を|洩《も》らすやうな|人《ひと》は、|矢張《やつぱり》|大事《だいじ》を|洩《も》らすものですよ。|蟻穴《ぎけつ》|堤防《ていばう》を|崩《くづ》すとか|言《い》つて、|極微細《ごくびさい》な|事《こと》から|大失敗《だいしつぱい》を|演《えん》ずるものだ。|如何《どう》ですか』
|竜国別《たつくにわけ》『ヤア|大変《たいへん》な|速射砲《そくしやはう》を|向《む》けられて……イヤもう|恐《おそ》れ|入《い》りました。|只今《ただいま》|限《かぎ》り|屹度《きつと》|慎《つつし》みませう』
|梅照彦《うめてるひこ》『|皆《みな》さま、お|疲労《くたびれ》でせうから、もうお|寝《やす》みなさいませ』
|玉治別《たまはるわけ》『|何時《いつ》|迄《まで》も|攻撃《こうげき》|計《ばか》り|受《う》けて|居《を》つても|詮《つま》らない。ア、お|迎《むか》ひが|出《で》て|来《き》た|様《やう》だ。アーアツ』
と|口《くち》の|引裂《ひきさ》ける|様《やう》な|欠伸《あくび》をなし、|目《め》を|擦《こす》つて|居《ゐ》る。
|梅照姫《うめてるひめ》『サア、お|寝《やす》みなさいませ。|奥《おく》の|室《ま》に|寝床《ねま》が|敷《し》いて|御座《ござ》いますから』
|玉治別《たまはるわけ》は、
『|皆《みな》さま、お|先《さき》へ』
と|奥《おく》の|室《ま》に|入《い》るや|否《いな》や、|雷《らい》の|如《ごと》き|鼾《いびき》をかいて|他愛《たあい》もなく|寝入《ねい》つて|了《しま》ふ。|二人《ふたり》は|続《つづ》いて、
『|左様《さやう》なれば|寝《やす》ませて|頂《いただ》きませう』
と|奥《おく》の|室《ま》に|入《い》る。|玉治別《たまはるわけ》の|粥《かゆ》を|煮《に》る|大《おほ》きな|鼾《いびき》が|耳《みみ》に|這入《はい》つて|二人《ふたり》とも|寝《ね》つかれず、そつと|裏口《うらぐち》を|開《あ》けて、|月《つき》を|賞《ほ》め|乍《なが》ら|庭園《ていえん》を|逍遥《せうえう》してゐる。
|竜国別《たつくにわけ》『アヽ|佳《い》い|月《つき》だな。|秋《あき》の|月《つき》も|佳《い》いが、|冬《ふゆ》の|月《つき》も|又《また》|格別《かくべつ》|綺麗《きれい》な|様《やう》だ。あの|月《つき》の|中《なか》に|猿《さる》と|兎《うさぎ》が|餅《もち》を|搗《つ》いて|居《を》ると|云《い》ふ|事《こと》だが、|一《ひと》つ|我々《われわれ》に|搗落《つきおと》して|呉《く》れさうなものだなア』
|国依別《くによりわけ》『アハヽヽヽ、|八日日《やうかび》が|来《き》たら|落《おと》して|呉《く》れますワイ』
|竜国別《たつくにわけ》『|卯月《うづき》|八日《やうか》、|花《はな》より|団子《だんご》と|言《い》つて、あれや|餅《もち》ぢやない、|団子《だんご》ぢや』
|国依別《くによりわけ》『|団子《だんご》でも|餅《もち》でも、|矢張《やつぱり》|搗《つ》かねばならぬよ』
|竜国別《たつくにわけ》『|団子《だんご》は|月《つき》が|落《おと》すのぢや|無《な》い。|此方《こちら》から|搗《つ》いて|上《あ》げるのだよ。|竹《たけ》の|先《さき》に|躑躅《つつじ》の|花《はな》と|一緒《いつしよ》に|括《くく》つてな……』
|国依別《くによりわけ》『その|上《あ》げた|団子《だんご》を|揺《ゆ》すつて|落《おと》して|喰《く》つて|呉《く》れるのだ。|十五《じふご》の|月《つき》は|望月《もちづき》(|餅搗《もちつき》)と|云《い》ふから、|屹度《きつと》|十五日《じふごにち》になれば|餅搗《もちつき》するに|違《ちが》ひない』
|竜国別《たつくにわけ》『|良《よ》い|加減《かげん》に|洒落《しやれ》て|置《お》かぬか。お|月《つき》さまに|恥《はづ》かしいぞよ』
|国依別《くによりわけ》『|三五《さんご》の|月《つき》の|御教《みをしへ》を|開《ひら》く|我々《われわれ》|宣伝使《せんでんし》は、|何《なに》……|月《つき》に|遠慮《ゑんりよ》する|事《こと》があらうかい。|子《こ》がお|母《か》アさまになんぞお|呉《く》れと|言《い》つて、|駄々《だだ》と|団子《だんご》をこねるやうな|心餅《こころもち》で|居《を》るのだよ、アハヽヽヽ』
|竜国別《たつくにわけ》『あのお|月《つき》さまの|顔《かほ》には|痘痕《あばた》が|出来《でき》て|居《ゐ》るぢやないか。|円満清朗《ゑんまんせいろう》、|月《つき》の|如《ごと》しと|言《い》ふけれど、|余《あんま》りあの|痘痕面《あばたづら》では|立派《りつぱ》でも|無《な》い|様《やう》だ。|月《つき》は|玉兎《ぎよくと》と|云《い》ふからには、ドコか|玉治別《たまはるわけ》の|円《まる》い|御面相《ごめんさう》に|似《に》た|所《ところ》がある|様《やう》ぢや|無《な》いか』
|国依別《くによりわけ》『|玉治別《たまはるわけ》の|面《つら》の|様《やう》に|見《み》えてるのは、|矢張《やつぱり》あれは|地球《ちきう》の|影《かげ》が|映《うつ》つて|居《ゐ》るのだ。|白《しろ》い|所《ところ》は|水《みづ》、|黒《くろ》い|所《とこ》は|陸地《りくち》だ。|天体学《てんたいがく》の|事《こと》なら、|何《なん》でも|俺《おれ》に|尋《たづ》ねたら|聞《き》かしてやらう、オホン』
|竜国別《たつくにわけ》『アハヽヽヽ、|瑞月《ずいげつ》|霊界物語《れいかいものがたり》の|第四巻《だいよんくわん》を|読《よ》んだのだらう』
|国依別《くによりわけ》『そんな|本《ほん》が|何処《どこ》にあるのだ』
|竜国別《たつくにわけ》『|三十五万年《さんじふごまんねん》の|未来《みらい》に|活版刷《くわつぱんずり》で|天声社《てんせいしや》から|発行《はつかう》せられた|単行本《たんかうぼん》だ。それに|出《で》て|居《ゐ》るぢやないか。|貴様《きさま》はまだ|見《み》た|事《こと》が|無《な》いのだなア。あれだけ|名高《なだか》い|名著《めいちよ》を|知《し》らないとは|余程《よほど》|時代《じだい》|遅《おく》れだ。それでも|宣伝使《せんでんし》だからなア』
|国依別《くによりわけ》『|未来《みらい》の|著述《ちよじゆつ》は|見《み》ても|見《み》ぬ|顔《かほ》をして|居《を》るものだ。|世《よ》の|中《なか》が|開《ひら》けて|来《く》ると|種々《いろいろ》の|学者《がくしや》とやら、|役者《やくしや》とやらが|出《で》て|来《き》て、|屁理屈《へりくつ》を|言《い》つて|飯食《めしく》ふ|種《たね》にする|奴《やつ》があるから、……それを|思《おも》うと|俺《おれ》も|愛想《あいさう》が|月《つき》さまだよ。まア|現在《げんざい》の|事《こと》でさへも|分《わか》らないのに、|未来《みらい》の|事《こと》までも|研究《けんきう》は|廃《や》めて|置《お》かうかい。|三五教《あななひけう》の|其《その》|時代《じだい》の|宣伝使《せんでんし》でさへも、|読《よ》んで|居《ゐ》ないものがある|位《くらゐ》だからなア』
|竜国別《たつくにわけ》『|未来《みらい》の|宣伝使《せんでんし》は|無謀《むぼう》なものだなア。しかし|大分《だいぶ》に|夜露《よつゆ》を|浴《あ》びた|様《やう》だが、もう|徐々《そろそろ》|帰《かへ》つて|寝床《ねま》に|横《よこた》はらうぢやないか』
|国依別《くによりわけ》『|俺《おれ》はもう|少時《しばらく》|散歩《さんぽ》する。|却《かへつ》て|一人《ひとり》の|方《はう》が|都合《つがふ》が|好《い》いから……お|前《まへ》は|先《さき》へ|寝《ね》たが|宜《よ》からう。|又《また》|肝腎《かんじん》の|時《とき》になつて|眠《ね》むたがると|困《こま》るからなア』
|竜国別《たつくにわけ》『そんならお|先《さき》へ|御免《ごめん》を|蒙《かうむ》る。お|前《まへ》は、ゆつくりお|月《つき》さまとオツキ|合《あ》ひ|話《ばなし》でもするが|良《よ》いわい。|近《ちか》い|所《とこ》に|御座《ござ》るからよく|聞《きこ》えるだらう』
|国依別《くによりわけ》『きまつた|事《こと》だ。お|月様《つきさま》の|分霊《ぶんれい》が……これ|見《み》い、|此《この》|通《とほ》り……|草《くさ》の|上《うへ》にも|玉《たま》の|如《ごと》く|輝《かがや》いて|御座《ござ》る。|貴様《きさま》の|鬚《ひげ》にも|沢山《たくさん》に|天降《あまくだ》つて|御座《ござ》るぢやないか。|神様《かみさま》の|御威徳《ごゐとく》は|斯《こ》んなものだ。|貴様《きさま》はお|月様《つきさま》は|只《ただ》|御一体《ごいつたい》で|大空《おほぞら》ばつかりに|居《を》られると|思《おも》つて|居《ゐ》るやうだが、|仁慈無限《じんじむげん》の|弥勒様《みろくさま》だから、|草《くさ》の|片葉《かきは》に|至《いた》る|迄《まで》|此《この》|通《とほ》り|恵《めぐ》みの|露《つゆ》を|降《くだ》して、|輝《かがや》き|給《たま》ふではないか』
|竜国別《たつくにわけ》『|成《な》る|程《ほど》、さう|言《い》へば……そうだ。|是《これ》だけは|国《くに》さまの|嘘月《うそつき》でも|間誤月《まごつき》でもない、|併《しか》し|雨露月《うろつき》だなア』
|国依別《くによりわけ》『|分《わか》つたか、「|月《つき》|二《ふた》つ|担《にな》うて|帰《かへ》る|水《みづ》|貰《もら》ひ」と|云《い》つて、|一荷《いつか》の|桶水《をけみづ》の|中《なか》にも|御丁寧《ごていねい》に|一《ひと》ツづつお|月様《つきさま》は|御守護《ごしゆご》して|下《くだ》さるのだ』
|竜国別《たつくにわけ》『よく|分《わか》りました。モウ|之《これ》|位《くらゐ》で|御中止《ごちゆうし》を|願《ねが》ひます』
|国依別《くによりわけ》『|馬鹿《ばか》|云《い》ふな。|此処《ここ》は|月《つき》の|名所《めいしよ》、|月宮殿《げつきうでん》の|御境内《ごけいだい》だ。これ|丈《だ》け|結構《けつこう》な|月《つき》の|光《ひかり》を|拝《をが》んで|此《この》|儘《まま》|寝《ね》ると|云《い》ふ|事《こと》があるものか。サア|今《いま》の|間《うち》に|月宮殿《げつきうでん》へ|参拝《さんぱい》して、その|上《うへ》で|寝《やす》まうぢやないか』
|竜国別《たつくにわけ》『ウン、それもそうだ。そんなら|一《ひと》つ|是《これ》からお|参詣《まゐり》して|来《こ》うか。|天《てん》には|寒月《かんげつ》、|地《ち》には|迂露月《うろつき》の|影《かげ》ふるふだ、アハヽヽヽ』
『サア|行《ゆ》かう』
と|両人《りやうにん》は|鬱蒼《こんもり》とした|森影《もりかげ》に|建《た》てられたお|宮《みや》の|前《まへ》にすたすたと|進《すす》み|行《ゆ》く。
|二人《ふたり》は|月《つき》の|森《もり》の|月宮殿《げつきうでん》の|階段《かいだん》を|登《のぼ》りながら、
|竜国別《たつくにわけ》『|結構《けつこう》な|月《つき》だが、|斯《か》う|鬱蒼《こんもり》と|樹木《じゆもく》が|茂《しげ》つて|居《ゐ》ると、|肝腎《かんじん》の|月宮殿《げつきうでん》は、|暗《やみ》も|同様《どうやう》ぢやないか。|此《この》|月宮殿《げつきうでん》は|暗宮殿《あんきうでん》だ。これ|程《ほど》|綺麗《きれい》なお|月様《つきさま》が|祀《まつ》つてあるのに、|何故《なぜ》|此《この》|森《もり》が|明《あか》くないのだらう』
|国依別《くによりわけ》『|馬鹿《ばか》|言《い》ふな。|之《これ》は|晦《つごもり》の|月宮殿《げつきうでん》といつて、お|月様《つきさま》のお|休《やす》み|遊《あそ》ばす|御殿《ごてん》だ。|宮《きう》と|云《い》ふ|字《じ》は|休《きう》と|云《い》ふ|字《じ》に|改《あらた》めさへすれば、|名実《めいじつ》|相適《あひかな》ふのだ、イヤ|明月《めいげつ》|相反《あひはん》すと|言《い》ふのだ。アハヽヽヽ』
|神殿《しんでん》の|何処《いづく》ともなく、
『ガサガサ グヽヽヽ』
と|怪《あや》しき|物音《ものおと》が|聞《きこ》えて|来《く》る。
|竜国別《たつくにわけ》『ヤア|此《この》|宮《みや》は|余程《よほど》|古《ふる》いと|思《おも》へば、|貂《てん》か|鼬《いたち》が|巣《す》をしてると|見《み》えて、|大変《たいへん》に|暴《あば》れて|居《を》るぢやないか。「|月《つき》は|天《てん》に|澄《す》み|渡《わた》る」と|詩人《しじん》が|言《い》つて|居《ゐ》るが、|貂《てん》は|月《つき》の|宮《みや》に|棲《す》み|渡《わた》り|頭《あたま》から|糞《くそ》、|小便《せうべん》を|垂《た》れ|流《なが》すぢやないか。|之《これ》を|思《おも》へば|月宮殿《げつきうでん》も|薩張《さつぱり》|愛想《あいさう》が|月《つき》の|宮《みや》ぢや。|此《この》|宮《みや》も|貂《てん》や|鼬《いたち》の|棲処《すみか》となつては|最早《もはや》|運《うん》の|月《つき》だなア』
|国依別《くによりわけ》『|人間《にんげん》の|運命《うんめい》にも|栄枯盛衰《ゑいこせいすゐ》がある。|潮《しほ》にも|満干《みちひ》がある。|此《この》|宮《みや》さまは|今《いま》は|干潮時《ひきしほどき》ぢや。それだからかう|見窄《みすぼ》らしく|荒廃《くわうはい》して|居《ゐ》るのだ。|之《これ》でも|五六七《みろく》の|世《よ》に|成《な》れば、|此《この》お|宮《みや》は|金光燦然《きんくわうさんぜん》として|闇《やみ》を|照《てら》し、|高天原《たかあまはら》の|霊国《れいごく》にある|月宮殿《げつきうでん》の|様《やう》になるのだが、|何程《なにほど》|結構《けつこう》な|弥勒《みろく》さまのお|宮《みや》でも|時《とき》を|得《え》ざればこんなものだ。|信真《しんしん》の|徳《とく》の|失《う》せたる|世《よ》の|中《なか》の|姿《すがた》が|遺憾《ゐかん》なく|此《この》お|宮《みや》に|写《うつ》されてあるのだ。|嗚呼《ああ》|如何《いか》にせんやだ』
|竜国別《たつくにわけ》『そうだなア、|社会《しやくわい》の|時代的《じだいてき》|反映《はんえい》かも|知《し》れないなア。|神様《かみさま》が|頭《あたま》から|四足《よつあし》に|糞《くそ》や|小便《せうべん》をかけられ、|四足《よつあし》と|同居《どうきよ》して|御座《ござ》る|様《やう》では|御神徳《ごしんとく》も|何《なに》もあつたものぢやない。|御神徳《ごしんとく》さへあれば、こんな|失敬《しつけい》な……|神様《かみさま》の|頭《あたま》の|上《うへ》へ|上《あが》つて|糞《くそ》や|小便《せうべん》を|垂《た》れる|奴《やつ》に、|罰《ばち》を|当《あ》てて|動《うご》けない|様《やう》に|霊縛《れいばく》なさりさうなものぢやないか』
|社《やしろ》の|中《なか》より、
『|此《この》|方《はう》は|月《つき》の|大神《おほかみ》であるぞよ。|汝《なんぢ》|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》、|竜国別《たつくにわけ》、|国依別《くによりわけ》の|盲目《めくら》ども、|否《いな》|魔誤月《まごつき》、|嘘月《うそつき》、キヨロ|月《つき》|人足《にんそく》、|神《かみ》の|申《まを》すことを|耳《みみ》を|浚《さら》へてよつく|聞《き》け。|神《かみ》は|人間《にんげん》の|信真《しんしん》の|頭《かうべ》に|宿《やど》る、|決《けつ》して|畜生《ちくしやう》|等《など》には|神《かみ》の|聖霊《せいれい》は|宿《やど》らないぞ。|畜生《ちくしやう》には|人間《にんげん》の|副霊《ふくれい》が|宿《やど》つて|居《を》るのだ。それだから|神殿《しんでん》に|鼬《いたち》や|貂《てん》|等《など》が|小便《せうべん》を|垂《た》れ|様《やう》が、|糞《くそ》を|垂《た》れ|様《やう》が、|放任《はうにん》してあるのだ。|元来《ぐわんらい》が|畜生《ちくしやう》の|因縁《いんねん》を|以《もつ》て|生《うま》れて|来《き》て|居《ゐ》るからだ。|神《かみ》は|人間《にんげん》らしき|人間《にんげん》が|無礼《ぶれい》を|致《いた》した|時《とき》は|即座《そくざ》に|神罰《しんばつ》を|与《あた》ふるぞ。|只今《ただいま》の|世《よ》の|中《なか》は|獣《けだもの》が|人間《にんげん》の|皮《かは》を|被《かぶ》り|白日《はくじつ》|天下《てんか》を|横行《わうかう》|濶歩《くわつぽ》する|暗《やみ》の|世《よ》だ。|今《いま》、|此処《ここ》へ|人一化九《にんいちばけきう》の|妖怪《えうくわい》が|二匹《にひき》も|現《あら》はれて|来《き》よつたが、|之《これ》も|人間《にんげん》で|無《な》いから|神罰《しんばつ》は|当《あ》てないで|差赦《さしゆる》してやらう。サア|如何《どう》ぢや、|人間《にんげん》なれば|人間《にんげん》と|判然《はつきり》|申《まを》せ。|四足《よつあし》の|容器《いれもの》なれば|容器《いれもの》で|御座《ござ》いますと|白状《はくじやう》|致《いた》せ。|神《かみ》の|方《はう》にも|考《かんが》へがあるぞよ』
|国依別《くによりわけ》は|小声《こごゑ》で|竜国別《たつくにわけ》に|向《むか》ひ、
『オイ、|何《なん》だらうな。えらい|事《こと》を|言《い》ふぢやないか』
|竜国別《たつくにわけ》『あんまり|神様《かみさま》の|悪《わる》いことを|言《い》つたものだから、|神《かみ》さまが|怒《おこ》つて|御座《ござ》るのかも|知《し》れないよ』
|国依別《くによりわけ》『|罰《ばち》が|当《あた》る|様《やう》なことは|出来《でき》はしまいかな』
|竜国別《たつくにわけ》『サア、|其処《そこ》ぢやて。|俺《おれ》も|一《ひと》つ|如何《どう》|言《い》はうか|知《し》らんと|思《おも》つて|心配《しんぱい》をして|居《を》るのだ。|結構《けつこう》な|神《かみ》の|生宮《いきみや》たる|万物《ばんぶつ》の|霊長《れいちやう》、|大和魂《やまとだましひ》の|人間《にんげん》で|御座《ござ》いますと|言《い》へば、|直《すぐ》に|神罰《しんばつ》を|当《あ》てられて|如何《どん》な|目《め》に|逢《あ》はされるか|知《し》れないし、|四足《よつあし》の|容器《いれもの》と|言《い》へば、お|咎《とが》めは|無《な》いけれど|本守護神《ほんしゆごじん》に|対《たい》して|申訳《まをしわけ》が|立《た》たぬなり、|自分《じぶん》も|何《なん》だか|阿呆《あはう》らしくて、|卑怯《ひけふ》|未練《みれん》にもそんな|事《こと》は|断然《だんぜん》、アヽもう|良《よ》う|言《い》はんワ』
|宮《みや》の|御殿《ごてん》より、
『|人間《にんげん》か、|四足《よつあし》か、|早《はや》く|返答《へんたふ》|致《いた》せ。|四足《よつあし》と|有体《ありてい》に|白状《はくじやう》すれば|今日《けふ》は|断然《だんぜん》|赦《ゆる》して|遣《つか》はす。|人間《にんげん》と|申《まを》せば|此《この》|儘《まま》|汝《なんぢ》の|生命《いのち》を|取《と》つて、|根《ね》の|国《くに》、|底《そこ》の|国《くに》へ|追《お》ひやつてやらう。サア|早《はや》く|返答《へんたふ》を|致《いた》さぬか』
|竜国別《たつくにわけ》『ハイ、|一寸《ちよつと》|待《ま》つて|下《くだ》さいませ。|今《いま》|鳩首謀議《きうしゆぼうぎ》の|最中《さいちう》で|御座《ござ》います。|相談《そうだん》が|纏《まと》まつた|上《うへ》|御返事《ごへんじ》を|申上《まをしあ》げます』
|宮《みや》の|中《うち》より、
『エー、これしきの|問題《もんだい》に|凝議《ぎようぎ》も|何《なに》もあつたものか、|一目瞭然《いちもくれうぜん》だ、|早《はや》く|返答《へんたふ》|致《いた》せ。|四足《よつあし》に|間違《まちが》ひあるまいがな』
|両人《りやうにん》『へ……そ……それは……あんまり……|殺生《せつしやう》で|御座《ござ》います……』
|宮《みや》の|中《うち》より、
『それなら|誠《まこと》の|人間《にんげん》と|申《まを》すのか』
|国依別《くによりわけ》『ハイ……まア|人間《にんげん》が|半分《はんぶん》……|畜生《ちくしやう》が|半分《はんぶん》で|人獣合一《にんじうがふいつ》の|身魂《みたま》で|御座《ござ》います』
|宮《みや》の|中《うち》より、
『|然《しか》らば|獣《けだもの》の|分《ぶん》だけは|赦《ゆる》して|遣《つか》はす。|半分《はんぶん》の|人間《にんげん》を|之《これ》から|成敗《せいばい》|致《いた》す。|耳《みみ》|一《ひと》つ、|眼玉《めだま》|一《ひと》つ、|鼻《はな》|一《ひと》つ、|下腮《したあご》を|取《と》り、|手《て》|一本《いつぽん》、|足《あし》|一本《いつぽん》|引《ひ》き|抜《ぬ》いてやらう。|有難《ありがた》う|思《おも》へ』
|竜国別《たつくにわけ》『ヤア、もう|何卒《どうぞ》|今度《こんど》に|限《かぎ》り|大目《おほめ》に|見《み》て|下《くだ》さいませ』
|宮《みや》の|中《うち》より、
『|何《なに》、|大目《おほめ》に|見《み》て|呉《く》れと|申《まを》すか、|蛇《じや》の|目《め》の|唐傘《からかさ》の|様《やう》な|大《おほ》きな|目《め》で|睨《にら》んでやらうか』
|国依別《くによりわけ》『イエイエ|滅相《めつさう》な、そんな|目《め》で|睨《にら》まれては|此方《こちら》も……めゝゝゝゝ|迷惑《めいわく》を|致《いた》します』
|宮《みや》の|中《うち》より、
『|此《この》|方《はう》も|時節《じせつ》の|力《ちから》で|斯《かく》の|如《ごと》く|屋根《やね》は|雨《あめ》|漏《も》り、|鼬《いたち》、|貂《てん》の|棲処《すみか》となり、|些《いささ》か|迷惑《めいわく》をいたして|居《を》る。どうか|此《この》|方《はう》の|片腕《かたうで》が|欲《ほ》しいと|思《おも》つて|居《ゐ》た|矢先《やさき》だ。いやでも|応《おう》でも|其《その》|方《はう》|達《たち》の|片腕《かたうで》を|取《と》つてやらう』
|竜国別《たつくにわけ》『|滅相《めつさう》もない、|片腕《かたうで》どころか、|弥勒様《みろくさま》の|為《ため》なら、|両腕《りやううで》を|差上《さしあ》げて|粉骨砕身《ふんこつさいしん》して|尽《つく》しますから、お|頼《たの》み|申《まを》します』
と|泣《な》き|入《い》る。|宮《みや》の|中《うち》より、
『よしよし、|粉骨砕身《ふんこつさいしん》は|註文《ちうもん》|通《どほ》り|赦《ゆる》してやらう。サア|脇立《わきだち》、|眷族《けんぞく》|共《ども》、|両人《りやうにん》の|骨《ほね》を|粉《こな》にし|身《み》を|砕《くだ》いて|参《まゐ》れ。|粉骨砕身《ふんこつさいしん》して|尽《つく》さして|呉《く》れえと|願《ねが》ひよつたぞよ』
|竜国別《たつくにわけ》『モシモシ、その|粉骨砕身《ふんこつさいしん》の|意味《いみ》が|断然《だんぜん》|違《ちが》ひます。さう|早取《はやど》りをしてもらつては|困《こま》ります』
|宮《みや》の|中《うち》より、
『|粉骨砕身《ふんこつさいしん》とは|読《よ》んで|字《じ》の|如《ごと》しだ。|神《かみ》は|正直《しやうぢき》だから|誤魔化《ごまくわ》しは、|些《ちつと》も|聞《き》かぬぞよ』
|国依別《くによりわけ》『オイ|竜《たつ》、|此奴《こいつ》アちつと|怪《あや》しいぞ』
|竜国別《たつくにわけ》『そうだなア、|田吾作《たごさく》の|声《こゑ》に|似《に》ては|居《ゐ》やせぬかなア』
|宮《みや》の|中《うち》より、
『コラコラ|両人《りやうにん》、|其《その》|方《はう》はまだ|疑《うたが》ふのか。|此《この》|方《はう》は|空《そら》に|輝《かがや》く|月《つき》の|玉治別命《たまはるわけのみこと》、|又《また》の|御名《みな》は|田吾作彦《たごさくひこ》の|大神《おほかみ》であつたぞよ。ワツハヽヽヽ』
|竜国別《たつくにわけ》『あんまり|馬鹿《ばか》にすない。|俺《おれ》の|胆玉《きもだま》を|大方《おほかた》|潰《つぶ》して|仕舞《しま》ひやがつた』
|国依別《くによりわけ》『こら、|悪戯《ふざ》けた|真似《まね》をしやがると|承知《しようち》をせぬぞ』
|玉治別《たまはるわけ》『|胆玉《きもだま》ばかりぢや|無《な》からう。|睾丸《きんたま》が|潰《つぶ》れかけただらう、アハヽヽヽ』
と|笑《わら》ひ|乍《なが》ら、ドシンドシンと|朽《く》ちはてた|階段《かいだん》を|降《くだ》つて|来《く》る。|三人《さんにん》は|笑《わら》ひ|乍《なが》ら|梅照彦《うめてるひこ》の|館《やかた》を|指《さ》して、|月《つき》を|仰《あふ》ぎつつ|門前《もんぜん》に|着《つ》いた。|梅照彦《うめてるひこ》、|梅照姫《うめてるひめ》は、
『モシ|貴方等《あなたがた》、|何処《どこ》へ|行《い》つて|居《を》られました。|俄《にはか》に|三人様《さんにんさま》のお|姿《すがた》が|見《み》えぬので、|何《なに》かお|気《き》に|障《さは》つてお|帰《かへ》りになつたかと|思《おも》ひ、|大変《たいへん》に|胆《きも》を|潰《つぶ》しましたよ』
|玉治別《たまはるわけ》『|睾丸《きんたま》は|大丈夫《だいぢやうぶ》ですかな、アハヽヽヽ』
|竜国別《たつくにわけ》『|実《じつ》は|我々《われわれ》|両人《りやうにん》はあんまり|月《つき》が|佳《い》いので、つい|浮《う》かれて|散歩《さんぽ》をし……|月宮殿《げつきうでん》に|参拝《さんぱい》して……』
|玉治別《たまはるわけ》『|胆玉《きもだま》を|潰《つぶ》しました』
|竜国別《たつくにわけ》『お|前《まへ》、|黙《だま》つて|居《を》れ。|人《ひと》の|話《はなし》の|尻《しり》を|取《と》るものぢやない』
|玉治別《たまはるわけ》『|何《なに》、|尻《しり》は|取《と》りたくないが|睾丸《きんたま》が|取《と》り|度《た》いのだ、アハヽヽヽ』
|国依別《くによりわけ》『|月宮殿《げつきうでん》と|云《い》ふ|所《とこ》は|妙《めう》な|処《ところ》ですな。|貂《てん》がものを|言《い》ひましたよ。|而《しか》も|神《かみ》さまの|声色《こわいろ》を|使《つか》つて……【てん】と|合点《がてん》のゆかぬ|事《こと》ですわい』
|梅照彦《うめてるひこ》『エ、|貂《てん》がものを|言《い》ひましたか、それや|聞《き》き|始《はじ》めだ。|何《なん》と|云《い》ふ|貂《てん》でせう』
|国依別《くによりわけ》『|何《なん》でも|田吾作《たごさく》とか|言《い》ふ|貂《てん》で、|鼬《いたち》の|成上《なりあが》りださうです。|随分《ずゐぶん》|気【転】《きてん》の|利《き》かぬ|馬鹿貂《ばかてん》の|水転《みづてん》でしたよ、アハヽヽヽ』
|一同《いちどう》|腹《はら》を|抱《かか》へて『アハヽヽヽ』と|笑《わら》ひ|転《こ》ける。
(大正一一・五・一六 旧四・二〇 北村隆光録)
第四章 |砂利喰《じやりくひ》〔六七八〕
|梅照彦《うめてるひこ》が|朝夕《あさゆふ》に  |神《かみ》の|教《をしへ》を|宣《の》り|伝《つた》ふ
|珍《うづ》の|館《やかた》を|後《あと》にして  ここに|三人《みたり》の|宣伝使《せんでんし》
|玉照彦《たまてるひこ》の|生《あ》れませる  |高熊山《たかくまやま》の|巌窟《がんくつ》に
|心《こころ》を|洗《あら》ひ|魂《たま》|清《きよ》め  |神国守《かみくにもり》に|送《おく》られて
|来勿止館《くなどめやかた》の|門前《もんぜん》に  |暇《いとま》を|告《つ》げてスタスタと
|足《あし》に|任《まか》せて|進《すす》み|行《ゆ》く  |天狗《てんぐ》の|岩《いは》にて|名《な》も|高《たか》き
|境峠《さかひたうげ》を|打渡《うちわた》り  |小幡《をばた》の|川《かは》の|上流《じやうりう》を
|尻《しり》を|捲《まく》つて|対岸《むかふぎし》  |青野ケ原《あをのがはら》を|右左《みぎひだり》
|眺《なが》めて|進《すす》む|法貴谷《ほふきだに》  |戸隠岩《とがくしいは》の|前《まへ》に|着《つ》く。
|三人《さんにん》は|激湍飛沫《げきたんひまつ》の|音《おと》|高《たか》き|谷川《たにがは》に|沿《そ》へる、|樹木《じゆもく》|鬱蒼《うつさう》たる|谷道《たにみち》をエチエチ|登《のぼ》つて、|漸《やうや》く|戸隠岩《とがくしいは》の|麓《ふもと》に|着《つ》き|路傍《ろばう》の|岩《いは》に|腰《こし》|打掛《うちか》け、|息《いき》を|休《やす》めてゐる。|其処《そこ》より|一丁《いつちやう》|許《ばか》り|離《はな》れた|坂道《さかみち》に|五六人《ごろくにん》の|怪《あや》しき|男《をとこ》の|影《かげ》、|何《なに》か|頻《しき》りに|囁《ささや》いてゐる。
|玉治別《たまはるわけ》『|竜国別《たつくにわけ》、|国依別《くによりわけ》の|兄貴《あにき》、|何《なん》だ、|向《むか》ふの|方《はう》に|怪体《けつたい》な|奴《やつ》が|囁《ささや》いてゐるぢやないか。|此《こ》の|山道《やまみち》に|何《なに》をして|居《ゐ》るのだらうかな』
|国依別《くによりわけ》『あれは|泥棒《どろばう》の|群《むれ》だ。|往来《ゆきき》の|人《ひと》の|衣類《いるゐ》|持物《もちもの》を、すつかり|脱《ぬ》がせる|追剥《おひはぎ》|商売《しやうばい》が|現《あら》はれたのだよ。|最前《さいぜん》も|真裸体《まつぱだか》になつて|女《をんな》が|泣《な》きもつて|通《とほ》つただらう。あれは|屹度《きつと》|的《てき》さんにやられたのに|違《ちが》ひないぞ。|俺達《おれたち》も|斯《か》うして|蓑笠《みのかさ》を|着《き》て|歩《ある》いて|居《ゐ》るものだから、|彼《あ》の|女《をんな》も|吾々《われわれ》を|同類《どうるゐ》と|見《み》よつたか、|恐《こは》さうにキヤーと|云《い》つて|一目散《いちもくさん》に|遁《に》げたぢやないか』
|竜国別《たつくにわけ》『それに|間違《まちが》ひは|無《な》い。|吾々《われわれ》も|屹度《きつと》|脱《ぬ》がされるのだな。|一《ひと》つ|此処《ここ》で|何《なん》とか|考《かんが》へねばなるまいぞ』
|玉治別《たまはるわけ》『なアに、|往《ゆ》くとこ|迄《まで》|行《い》つて|見《み》な|分《わか》るものか、|刹那心《せつなしん》だ。|取越苦労《とりこしくらう》をするに|及《およ》ばないぞ、|万々一《まんまんいち》|先方《むかう》が|泥棒《どろばう》だつたら、|此方《こちら》が|率先《そつせん》して|泥棒《どろばう》の|仮声《こわいろ》を|使《つか》ひ、|泥棒《どろばう》|仲間《なかま》に|交《まじ》つて、|彼奴等《あいつら》をうまく|改心《かいしん》させるのだな。|木花姫命《このはなひめのみこと》|様《さま》は|三十三相《さんじふさんさう》に|身《み》を|現《げん》じ|盗人《ぬすびと》を|改心《かいしん》させようと|思《おも》へば|自分《じぶん》から|盗人《ぬすびと》になつて、|一緒《いつしよ》に|働《はたら》いて|見《み》て「オイ、|盗人《ぬすびと》と|云《い》ふものは|随分《ずゐぶん》|世間《せけん》の|狭《せま》いものの|怖《おそ》ろしいものだ。|斯《こ》んな|詮《つま》らない|事《こと》は|止《や》めて|天下《てんか》|晴《は》れての|正業《せいげふ》に|就《つ》かうぢやないか」と|云《い》つて、|盗人《ぬすびと》を|改心《かいしん》させなさると|云《い》ふことだ。|酒《さけ》|飲《の》みを|改心《かいしん》させるには、|自分《じぶん》も|一緒《いつしよ》に|酒《さけ》を|飲《の》み、|賭博打《ばくちうち》を|改心《かいしん》させるには|自分《じぶん》も|賭博打《ばくちう》ちになつて、さうして|改心《かいしん》させるのが|神様《かみさま》の|御経綸《ごけいりん》だ。|吾々《われわれ》も|一《ひと》つ|先方《むかう》が|盗人《ぬすびと》だつたら、|此方《こちら》も|盗人《ぬすびと》に|化《ば》けて、|手《て》を|曳合《ひきあ》うて|仲間入《なかまい》りをなし、さうして|改心《かいしん》させれば|良《よ》いのだ』
|国依別《くによりわけ》『なんぼ|何《ど》うでも、|盗人《ぬすびと》だけは|断然《だんぜん》|止《や》めたいなア』
|玉治別《たまはるわけ》『ナニ、|心《こころ》から|盗人《ぬすびと》になれと|云《い》ふのぢやない。|盗人《ぬすびと》を|止《や》めさせるための|手段《しゆだん》だから|構《かま》はぬぢやないか。それが|観自在天《くわんじざいてん》の|身魂《みたま》の|働《はたら》きだ。|万一《まんいつ》|先方《むかう》が|盗人《ぬすびと》であつたら、|此《こ》の|玉治別《たまはるわけ》が|俺《おれ》は|盗賊《たうぞく》の|親方《おやかた》だと|云《い》つて|威喝《ゐかつ》するのだから、お|前達《まへたち》は|俺《おれ》の|乾児《こぶん》に|化《ば》けて|居《ゐ》るのだぞ。さうして|竜国別《たつくにわけ》とか、|国依別《くによりわけ》とか、|斯《こ》んな|道名《だうめい》を|唱《とな》へては|先方《むかう》に|悟《さと》られるから、|此処《ここ》で|名《な》を|暫《しばら》く|改《か》へて|竜公《たつこう》、|国公《くにこう》、|玉公《たまこう》|親分《おやぶん》で|行《ゆ》くことにしよう。|先方《むかう》から「オイ|旅人《たびびと》|一寸《ちよつと》|待《ま》つた、|持物《もちもの》|一切《いつさい》|渡《わた》して|行《い》かつせエ」なんて|言《い》はれてからは|面白《おもしろ》くない。|先《さき》んずれば|人《ひと》を|制《せい》すだ。|泥棒《どろばう》と|見込《みこ》みがついたら、|一《ひと》つ|俺《おれ》の|方《はう》から|口火《くちび》をつけるのだ。オイ|竜公《たつこう》、|国公《くにこう》、|玉公《たまこう》|親分《おやぶん》さんに|従《つ》いて|来《こ》い』
|竜国別《たつくにわけ》『|到頭《たうとう》|宣伝使《せんでんし》を|泥棒《どろばう》の|乾児《こぶん》にして|了《しま》ひやがつたなア』
|国依別《くによりわけ》『エーこれも|仕方《しかた》がない。|観自在天《くわんじざいてん》の|御化身《ごけしん》になると|思《おも》へば、|辛抱《しんぼう》も|出来《でき》ぬことはない、サア|玉公《たまこう》|親分《おやぶん》、|先《さき》へ|行《い》つて|下《くだ》さい』
|玉治別《たまはるわけ》は|先《さき》に|立《た》ち|大手《おほて》を|振《ふ》り|乍《なが》ら、|五六人《ごろくにん》の|男《をとこ》の|車座《くるまざ》になつて|道《みち》を|塞《ふさ》いで|居《ゐ》る|前《まへ》に|近《ちか》づき|見《み》れば、|今《いま》|剥《は》ぎ|取《と》つたらしい|女《をんな》の|衣服《いふく》が|傍《かたはら》に|在《あ》るに|気《き》が|付《つ》いた。|的切《てつき》り|此奴《こいつ》は|泥棒《どろばう》と、|玉治別《たまはるわけ》はわざと|大《おほ》きな|声《こゑ》で、
|玉治別《たまはるわけ》『オイ|竜《たつ》、|国《くに》、|早《はや》く|来《こ》んかい。|彼処《あこ》に|五六人《ごろくにん》の|男《をとこ》が|居《ゐ》る。|彼奴《あいつ》の|着物《きもの》をフン|奪《だく》つて|真裸《まつぱだか》にしてやるのだ』
と|進《すす》んで|行《ゆ》く。|五六人《ごろくにん》の|泥棒《どろばう》は|此《この》|声《こゑ》を|聞《き》いて|何《いづ》れも|呆気《あつけ》にとられてゐる。
|玉治別《たまはるわけ》『コレヤ|木端《こつぱ》|泥棒《どろばう》、|俺《おれ》を|誰《たれ》だと|思《おも》つて|居《ゐ》るか。|三国ケ岳《みくにがだけ》の|鬼婆《おにばば》の|片腕《かたうで》と|聞《きこ》えたる|大泥棒《おほどろばう》の|玉公《たまこう》|親分《おやぶん》さんぢやぞ。サア|持物《もちもの》|一切《いつさい》|此《この》|方《はう》にすつぱりと|渡《わた》さばよし、|愚図々々《ぐづぐづ》|吐《ぬか》すと|何奴《どいつ》も|此奴《こいつ》も|一蓮托生《いちれんたくしやう》、|素首《そつくび》を|引抜《ひきぬ》いて|了《しま》ふぞ』
|甲《かふ》『|喧《やかま》しう|云《い》ふない。|俺《おれ》だつて|同《おな》じことだ。|商売《しやうばい》の|好《よし》みで、|俺達《おれたち》の|着物《きもの》だけは|堪《こら》へて|呉《く》れ』
|玉治別《たまはるわけ》『|堪《た》へて|呉《く》れとぬかしやア|話《はなし》の|次第《しだい》によつては|堪《こら》へぬ|事《こと》も|無《な》いが、|何《ど》うだ、|一枚《いちまい》だけ|俺《おれ》に|渡《わた》さないか。|大難《だいなん》を|小難《せうなん》にして|赦《ゆる》してやるのだから』
|乙《おつ》『モシ|親方《おやかた》、|一寸《ちよつと》|待《ま》つて|下《くだ》さい。|今《いま》|吾々《われわれ》が|集会《しふくわい》を|致《いた》しまして、ヌースー|会社《ぐわいしや》の|創立《さうりつ》|委員《ゐゐん》となり、|株式《かぶしき》|募集《ぼしふ》の|協議《けふぎ》の|最中《さいちう》でございます。|貴方《あなた》もどうぞ|沢山《どつさり》|株《かぶ》を|持《も》つて|下《くだ》さい、|品《しな》に|依《よ》つたら|社長《しやちやう》さまに|推薦《すいせん》するかも|知《し》れませぬから』
|玉治別《たまはるわけ》『|俺《おれ》は|株《かぶ》は|持《も》つてはやらうが、|一番《いちばん》の|親方《おやかた》だから|株代《かぶだい》は|払《はら》はないぞ。|優先株《いうせんかぶ》を|八百万株《はつぴやくまんかぶ》ばかり|俺《おれ》に|献上《けんじやう》|致《いた》せ。さうすれば|徹胴《てつどう》|敷設《ふせつ》でも|何《なん》でも、うまく|認可《にんか》してやらう』
|甲《かふ》『そんな|認可《にんか》をして|貰《もら》つたつて、|此《こ》の|泥棒《どろばう》|会社《ぐわいしや》に|用《よう》は|無《な》い。|徹胴《てつどう》の|刃過《にんか》(|鉄道《てつだう》の|認可《にんか》)や|無銭出《むせんで》ン|話《わ》(|無線電話《むせんでんわ》)や|田紳《でんしん》(|電信《でんしん》)の|御《お》かげで、|吾々《われわれ》の|商売《しやうばい》の|大変《たいへん》|邪魔《じやま》になつて|居《ゐ》るのだから、そんなものは|要《い》らないわ』
|玉治別《たまはるわけ》『|貴様《きさま》は|矢張《やつぱり》|狐鼠盗人《こそぬすと》だな。|通行人《つうかうにん》の|着物《きもの》|位《くらゐ》|脱《ぬ》がして|虐《いぢ》めて|何《なん》になるかい。モツト|羽織袴《はおりはかま》を|着《き》たり、|洋服《やうふく》をつけて|立派《りつぱ》に|万年筆《まんねんひつ》の|先《さき》で、|一遍《いつぺん》に|難渋万《なんじふまん》、|難迫万《なんびやくまん》、|難船万《なんぜんまん》と|云《い》ふ|泥棒《どろばう》をせぬのかい。|徹胴《てつどう》|敷設《ふせつ》をすればレールをかぢり、|道路《だうろ》を|開鑿《かいさく》すれば|砂利《じやり》をかぢり、|軍艦《ぐんかん》を|拵《こしら》へては|鋼鉄《かうてつ》をかぢり、|缶詰《くわんづめ》を|請負《うけお》うては|石《いし》を|詰込《つめこ》み、|斯《か》う|云《い》ふ|立派《りつぱ》な|智慧《ちゑ》を|出《だ》してヌースー|式《しき》をやるのだ。さうすれば|別《べつ》に|斯《こ》んな|山奥《やまおく》に|隠《かく》れて、|慄《ふる》うて|居《を》らないでも|好《い》いのだ、|白昼《はくちう》に|堂々《だうだう》と|大都会《だいとくわい》の【まん】|中《なか》を|自動車《じどうしや》を|飛《と》ばし、|白首《しらくび》を|乗《の》せて|天下《てんか》の|馬鹿者《ばかもの》どもを|睥睨《へいげい》しつつ、|葉巻《はまき》を|燻《くゆ》らして|大《おほ》きな|面《つら》をしていけるのだぞ。モウ|斯《こ》んな|仕様《しやう》もない|小盗人《こぬすと》は|廃《や》めて、|世界一《せかいいち》の|宝《たから》を|手《て》に|入《い》れる|商売《しやうばい》に|乗《の》り|替《か》へたら|何《ど》うだい。|軍艦《ぐんかん》かぢりよりも、レール|喰《く》ひよりも、|砂利《じやり》|喰《く》ひよりも|何万倍《なんまんばい》とも|知《し》れぬ|結構《けつこう》な|商売《しやうばい》があるのだぞ』
|甲《かふ》『エヽそんな|商売《しやうばい》が、|親方《おやかた》|何処《どこ》にありますか』
|玉治別《たまはるわけ》『あらいでかい。|俺《おれ》にまア|二三日《にさんにち》ついて|歩《ある》いて|見《み》よ。|斯《か》うして|俺《おれ》は|乞食《こじき》のやうな|風《ふう》に|化《ば》けて|居《を》るが、|其《その》|実《じつ》は|立派《りつぱ》なものだぞ。|今《いま》の|世《よ》の|中《なか》は|家《いへ》を|飾《かざ》り、|衣服《いふく》を|飾《かざ》り、|身体中《からだぢう》|金《きん》ピカに|扮《やつ》して|居《ゐ》る|奴《やつ》は、|却《かへつ》て|内実《ないじつ》が|苦《くる》しいものだ。|家《いへ》の|中《なか》は|火《ひ》の|雨《あめ》が|降《ふ》つて|居《を》る。|俺達《おれたち》は|斯《か》うして|表面《うはべ》は|汚《きたな》い|風《ふう》をして|居《ゐ》る|代《かは》りに、【かかり】ものが|沢山《やつと》はかからず、|大変《たいへん》|気楽《きらく》で、|世界《せかい》の|者《もの》の|知《し》らぬ|結構《けつこう》な|宝《たから》を|手《て》に|入《い》れて、|毎日《まいにち》|日日《ひにち》|嬉《うれ》し|嬉《うれ》しの|花《はな》を|咲《さ》かして|楽《たの》しんで|居《ゐ》るのだ。|一《ひと》つ|貴様《きさま》も|俺《おれ》の|乾児《こぶん》になつたらどうだ。|随分《ずゐぶん》|小盗人《こぬすと》も|苦《くる》しいものだらうが』
|甲《かふ》『お|察《さつ》しの|通《とほ》り|随分《ずゐぶん》|苦《くる》しいものです。|併《しか》し、しようことなしに、|斯《こ》んな|商売《しやうばい》をやつて|居《ゐ》るのです』
|乙《おつ》『|三国ケ嶽《みくにがだけ》の|鬼婆《おにば》アさまは、|何《なん》でも|蜈蚣姫《むかでひめ》とか|云《い》うたさうですな。|蜈蚣《むかで》の|精《せい》から|生《うま》れたのぢやありませぬか』
|玉治別《たまはるわけ》『なアに、そんなことがあるものか、|随分《ずゐぶん》あの|婆《ば》アさまは|俺《おれ》の|親方《おやかた》で|自慢《じまん》するぢやないが|偉《えら》いものだよ。|世界中《せかいぢう》の|金銭《かね》を|自由《じいう》にして|居《ゐ》るのだ。それだからお|銭《あし》(|足《あし》)が、【たんと】|有《あ》るので|蜈蚣姫《むかでひめ》と|言《い》ふのだよ』
|丙《へい》『アーそれで|蜈蚣姫《むかでひめ》と|云《い》ふのですか。|何《なに》を|云《い》つても|金銭《かね》の|世《よ》の|中《なか》ですから、せめて|蜈蚣姫《むかでひめ》の|乾児《こぶん》になりとして|欲《ほ》しいものですな』
|玉治別《たまはるわけ》『|俺《おれ》が|蜈蚣姫《むかでひめ》の|代理《だいり》を|勤《つと》めて|居《を》る|玉公《たまこう》と|云《い》ふものだ。|此処《ここ》に|二人《ふたり》、|怪体《けたい》な|面《つら》をして|来《き》て|居《を》る|奴《やつ》は、|竜公《たつこう》、|国公《くにこう》と|云《い》つて、|随分《ずゐぶん》|貴様《きさま》の|様《やう》に|奴甲斐性《どがひしやう》の|無《な》い、|小《ちひ》さい|小盗人《こぬすと》をチヨコチヨコやつて|居《を》つた|奴《やつ》だが、|到頭《たうとう》|往生《わうじやう》しよつて|俺《おれ》の|乾児《こぶん》になつたのだ。|金銭《かね》よりも|何《なに》よりも、モツトモツト|立派《りつぱ》な|宝《たから》が|発見《はつけん》されたのだ。それを|俺達《おれたち》は|二人《ふたり》の|乾児《こぶん》を|伴《つ》れて|取《と》りにゆくのだ、それは|立派《りつぱ》なものだぞ。|紫《むらさき》の|玉《たま》に|黄金《わうごん》の|玉《たま》だ』
|乙《おつ》『へーい、それは|立派《りつぱ》なものでせうなア』
|玉治別《たまはるわけ》『その|玉《たま》さへあれば、|三千世界《さんぜんせかい》の|事《こと》は|何《なん》でも|彼《か》でも、|自分《じぶん》の|心《こころ》の|儘《まま》になるのだ。|貴様《きさま》も|俺《おれ》の|乾児《こぶん》にしてやるから、|御供《おとも》をしたらどうだい。さうして|名《な》は|何《なん》と|云《い》ふか』
|甲《かふ》『ハイ|私《わたくし》は|遠州《ゑんしう》と|申《まを》します、それから|此奴《こいつ》が|駿州《すんしう》、|此奴《こいつ》が|甲州《かふしう》、|武州《ぶしう》に|三州《さんしう》と|云《い》ふものです。モー|一人《ひとり》の|奴《やつ》は|雲助《くもすけ》|上《あ》がりだから|雲州《うんしう》と|云《い》ふ|名《な》がつけてあるのです』
|玉治別《たまはるわけ》『さうか、よし、それでは|小盗人《こぬすと》は|今日《けふ》|限《かぎ》り|廃《や》めるか、|何《ど》うだ』
|遠州《ゑんしう》|始《はじ》め|一同《いちどう》は、
『ヘイヘイ|誰《たれ》が|斯《こ》んな|小《ちひ》さい|商売《しやうばい》を、アタ|恐《こは》い、|致《いた》しますものか。|貴方《あなた》の|御供《おとも》を|致《いた》しまして、これから|其《その》|玉《たま》を|取《と》りに|参《まゐ》りませう』
|玉治別《たまはるわけ》『オイ|此処《ここ》に|居《ゐ》る|竜州《たつしう》と|国州《くにしう》は、|貴様等《きさまら》の|兄貴分《あにきぶん》だから、よく|言《い》ふ|事《こと》を|聞《き》かねばならぬぞ。それも|承知《しようち》か』
|遠州《ゑんしう》『|私《わたくし》は|承知《しようち》|致《いた》しました。|一同《いちどう》の|奴《やつ》も|異議《いぎ》はありますまい』
|玉治別《たまはるわけ》『さうか、それならよし。|今日《けふ》からこの|玉州《たましう》さんの|新乾児《しんこぶん》だ、オイ|竜州《たつしう》、|国州《くにしう》、|俺《おれ》は|今《いま》|俄《にはか》に|腹《はら》を|痛《いた》めずに、これだけ|大《おほ》きな|子《こ》を|生《う》んだのだから、|貴様達《きさまたち》は|子守役《こもりやく》になつて|世話《せわ》をしてやつて|呉《く》れよ』
|竜国別《たつくにわけ》『エー|仕方《しかた》が|無《な》い。|国《くに》、|何《ど》うするつもりだい』
|国依別《くによりわけ》『どうすると|云《い》つたところで、|行《ゆ》きつきばつたりだ。まア|行《い》くとこ|迄《まで》|行《い》つて|玉《たま》を|掠奪《りやくだつ》した|上《うへ》のことだ。オイオイ|貴様等《きさまら》は|俺《おれ》の|弟分《おとうとぶん》だ。|俺達《おれたち》|二人《ふたり》の|言《い》ふ|事《こと》を|神妙《しんめう》に|聞《き》くのだぞ。どんな|用《よう》があつても|直接《ちよくせつ》に、お|頭領《かしら》の|玉州《たましう》さんに|口《くち》を|利《き》いちやならない。この|国州《くにしう》や|竜州《たつしう》に|相談《そうだん》をかけ、|指揮《しき》を|仰《あふ》ぐのだぞ』
|遠州《ゑんしう》『ハイ|委細《ゐさい》|承知《しようち》|致《いた》しました。|併《しか》し|乍《なが》ら|私《わたくし》の|大親分《おほおやぶん》に|天州《てんしう》と|云《い》ふ|奴《やつ》があります。|此《こ》の|天州《てんしう》は|今《いま》|三五教《あななひけう》の|本山《ほんざん》へ、|何《なに》か|結構《けつこう》な|玉《たま》があるに|違《ちが》ひないといつて、|信者《しんじや》に|化込《ばけこ》んで|這入《はい》つて|居《を》ります。それは|徳公《とくこう》と|云《い》ふ|智慧《ちゑ》も|力《ちから》も|立派《りつぱ》に|備《そな》はつた|大親分《おほおやぶん》です』
|玉治別《たまはるわけ》『ナニ、あの|徳公《とくこう》が|貴様《きさま》の|親分《おやぶん》と|云《い》ふのか。|彼奴《あいつ》は|聖地《せいち》で|門掃《かどはき》をして|居《を》つた|奴《やつ》ぢや。あんな|奴《やつ》を|親分《おやぶん》に|仰《あふ》ぐ|貴様《きさま》だから|知《し》れたものだ。|実《じつ》の|所《ところ》は|俺《おれ》は|泥棒《どろばう》でも|何《なん》でもない、|三五教《あななひけう》の|誠《まこと》|一《ひと》つの|教《をしへ》を|宣伝《せんでん》する|玉治別《たまはるわけ》のプロパガンデイストだ。さうしてこの|御二方《おふたかた》は|竜国別《たつくにわけ》、|国依別《くによりわけ》と|云《い》ふ|立派《りつぱ》な|宣伝使《せんでんし》だ。サアこれから|其方等《そのはうら》が、すつぱりと|改心《かいしん》をして、|誠《まこと》の|道《みち》に|復帰《たちかへ》るか、さうでなければ、|其《その》|方《はう》|達《たち》に|言霊《ことたま》を|発射《はつしや》して、ビリツとも|出来《でき》ないやうに、|五年《ごねん》でも|十年《じふねん》でも|固《かた》めて|置《お》くがそれでもよいか』
|一同《いちどう》『エー|貴方《あなた》は、さうすると|三国ケ嶽《みくにがだけ》の|鬼婆《おにばば》の|乾児《こぶん》ではないのですか』
|玉治別《たまはるわけ》『|定《きま》つた|事《こと》だよ。|誰《たれ》が|泥棒《どろばう》|商売《しやうばい》のやうな、|世間《せけん》の|狭《せま》い|引合《ひきあ》はぬことをするものかい。|俺達《おれたち》は|人《ひと》を|相手《あひて》にせず、|天《てん》を|相手《あひて》にすると|云《い》ふ、|実《じつ》に|武勇絶倫《ぶゆうぜつりん》なる|不世出《ふせいしゆつ》の|英雄《えいゆう》|豪傑《がうけつ》だ』
|甲《かふ》『|泥棒《どろばう》の|親分《おやぶん》でさへ|結構《けつこう》だと|思《おも》つてゐるのに、|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》とは|思《おも》ひもよりませなんだ。|併《しか》し|泥棒《どろばう》より|幾千倍《いくせんばい》、イヤ|天《てん》と|地《ち》との|差異《ちがひ》ある|神様《かみさま》の|御道《おみち》、どうぞ|吾々《われわれ》を|可愛《かあい》がつて|救《すく》うて|下《くだ》さいませぬか』
|玉治別《たまはるわけ》『ヨシヨシ|救《すく》うてやる。その|代《かは》りに|吾々《われわれ》の|指揮《しき》|命令《めいれい》に|盲従《もうじう》を|続《つづ》けるのだよ』
|此《この》|時《とき》|空中《くうちう》に|涼《すず》しき|宣伝歌《せんでんか》と|思《おも》はるる|曲《きよく》が|聞《きこ》えて|来《き》た。
|三千世界《さんぜんせかい》の|梅《うめ》の|花《はな》  |一度《いちど》に|開《ひら》く|時《とき》|来《きた》り
|本霊《もとつみたま》を|曇《くも》らせし  |憐《あは》れな|世人《よびと》を|悉《ことごと》く
|誠《まこと》の|神《かみ》の|御教《みをしへ》に  |救《すく》ふ|時《とき》とは|成《な》りにけり
この|谷道《たにみち》に|現《あら》はれし  |遠州《ゑんしう》、|武州《ぶしう》を|始《はじ》めとし
|甲州《かふしう》|三州《さんしう》|其《その》|他《ほか》の  |曲津《まがつ》をことごと|言向《ことむ》けて
|神《かみ》の|誠《まこと》の|教《のり》を|説《と》き  いよいよ|吾等《われら》が|睦《むつ》び|合《あ》ひ
|力《ちから》を|協《あは》せて|高春《たかはる》の  |山《やま》の|尾《を》の|上《へ》に|巣《す》を|造《つく》る
アルプス|教《けう》の|司神《つかさがみ》  |鷹依姫《たかよりひめ》が|本城《ほんじやう》に
どつと|乗《の》り|込《こ》み|如意宝珠《によいほつしゆ》  |黄金《こがね》の|玉《たま》や|紫《むらさき》の
|玉《たま》をマンマと|手《て》に|入《い》れて  |三千世界《さんぜんせかい》を|神《かみ》の|世《よ》に
|立直《たてなほ》さむは|目《ま》の|当《あた》り  |遠州《ゑんしう》|駿州《すんしう》|甲州《かふしう》|武州《ぶしう》
|雲州《うんしう》|三州《さんしう》|諸共《もろとも》に  |来《きた》れや|来《きた》れいざ|来《きた》れ
|敵《てき》は|幾万《いくまん》あるとても  |何《なん》の|懼《おそ》るることやある
|直日《なほひ》の|剣《つるぎ》|抜《ぬ》きつれて  |群《むら》がる|奴輩《やつばら》|悉《ことごと》く
|神《かみ》の|誠《まこと》の|言霊《ことたま》に  |縦横無尽《じうわうむじん》に|攻《せ》めなやめ
|勝鬨《かちどき》|上《あ》げて|神界《しんかい》の  |堅磐常磐《かきはときは》の|御使《みつかひ》と
|千代万代《ちよよろづよ》に|名《な》を|揚《あ》げて  |尽《つ》きぬ|生命《いのち》を|何時《いつ》|迄《まで》も
|生《い》かして|通《とほ》る|神《かみ》の|道《みち》  |朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも
|月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも  |鷹依姫《たかよりひめ》の|手《て》に|持《も》てる
|宝珠《ほつしゆ》の|玉《たま》を|取《と》り|還《かへ》し  |此《この》|世《よ》を|救《すく》ひの|神《かみ》として
|吾等《われら》と|倶《とも》に|抜群《ばつぐん》の  |功名《こうみやう》|手柄《てがら》をしよぢやないか
アヽ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |御霊《みたま》|幸《さち》はひましませと
さしもに|嶮《けは》しき|山坂《やまさか》を  |先《さき》に|立《た》つてぞ|進《すす》み|行《ゆ》く
|瑞《みづ》の|御霊《みたま》の|三柱《みはしら》に  |五《い》つの|身魂《みたま》を|加《くは》へつつ
|三五《さんご》の|月《つき》|照《て》る|夜半《よなか》ごろ  |別院村《べつゐんむら》を|乗《の》り|越《こ》えて
|大槻並《おほつきなみ》や|能勢《のせ》の|里《さと》  |乗《の》せて|馳行《はせゆ》く|口車《くちぐるま》
|摂津《せつつ》の|国《くに》の|多田《ただ》の|里《さと》  |波《なみ》を|湛《たた》へし|津田《つだ》の|湖《うみ》
|畔《ほとり》にこそは|着《つ》きにける
|此《こ》の|物語《ものがたり》|長《なが》けれど  |眠《ねむ》りの|神《かみ》に|誘《さそ》はれて
|横《よこ》に|寝《ね》|乍《なが》ら|根《ね》の|国《くに》や  |華胥《くわしよ》の|国《くに》に|進《すす》み|行《ゆ》く
アヽ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |御霊《みたま》|幸《さち》はひましませと
|後《あと》|振《ふ》り|返《かへ》り|眺《なが》むれば  |【外山】《とやま》の|霞《かすみ》|晴渡《はれわた》り
|高春山《たかはるやま》の|頂《いただ》きに  |【豊二】《ゆたかに》|照《て》らす|朝日影《あさひかげ》
|上《あが》るを|待《ま》つて|此《こ》の|続《つづ》き  いと|細《こま》やかに|伝《つた》ふべし。
(大正一一・五・一六 旧四・二〇 外山豊二録)
第五章 |言《ことば》の|疵《きず》〔六七九〕
|玉治別《たまはるわけ》が|早速《さつそく》の|頓智《とんち》に、|六人《ろくにん》の|小盗人《こぬすと》は|始《はじ》めて|其《その》|非《ひ》を|悟《さと》り、|喜《よろこ》んで|神《かみ》の|道《みち》に|帰順《きじゆん》し、|宣伝使《せんでんし》に|従《したが》つて|高春山《たかはるやま》に|向《むか》ふ|事《こと》となつた。|日《ひ》は|漸《やうや》く|暮《く》れかかり、|月背《つきしろ》と|見《み》えて|山《やま》と|山《やま》とに|囲《かこ》まれし|谷道《たにみち》も、どことなく|明《あか》るくなつて|来《き》た。されど|東西《とうざい》に|高山《かうざん》を|負《お》ひたる|谷路《たにみち》には、|皎々《かうかう》たる|月《つき》の|影《かげ》は|見《み》えなかつた。|暫《しばら》くすると|怪《あや》しき|唸《うな》り|声《ごゑ》が|前方《ぜんぱう》に|聞《きこ》え、|次《つ》いで|幾百人《いくひやくにん》とも|知《し》れぬ|人《ひと》の|足音《あしおと》らしきもの、|刻々《こくこく》に|聞《きこ》えて|来《き》た。
|玉治別《たまはるわけ》『ヨー|怪《あや》しき|物音《ものおと》が|聞《きこ》えて|来《き》たぞ。コレヤ|大方《おほかた》|山賊《さんぞく》の|大集団《だいしふだん》の|御通過《ごつうくわ》と|見《み》える。|我々《われわれ》は|此処《ここ》に|待受《まちうけ》して、|片《かた》つ|端《ぱし》から|言向和《ことむけやは》し、|天晴《あつぱれ》|大親分《おほおやぶん》となつてやらう。アヽ|面白《おもしろ》い|面白《おもしろ》い。|天《てん》の|時節《じせつ》が|到来《たうらい》したか。サア|竜《たつ》、|国《くに》、|遠州《ゑんしう》、|其《その》|他《た》の|乾児《こぶん》|共《ども》、|抜目《ぬけめ》なく|準備《じゆんび》を|致《いた》すのだよ』
|国依別《くによりわけ》『ハハア、|又《また》|商売替《しやうばいがへ》ですかな』
|玉治別《たまはるわけ》『|機《き》に|臨《のぞ》み|変《へん》に|応《おう》ずるは|英雄《えいゆう》|豪傑《がうけつ》の|本能《ほんのう》だよ』
|遠州《ゑんしう》『モシモシあの|足音《あしおと》は|人間《にんげん》ぢやありませぬ。あれは|千匹狼《せんびきおほかみ》と|云《い》つて、|時々《ときどき》|此《この》|路《みち》を|通過《つうくわ》する|猛獣《まうじう》です。|何程《なにほど》|英雄《えいゆう》|豪傑《がうけつ》でも、|千匹狼《せんびきおほかみ》にかかつては|叶《かな》ひませぬ。サアサア|皆《みな》さま、|散《ち》り|散《ぢ》りバラバラになつて、|山林《さんりん》に|姿《すがた》を|隠《かく》して|下《くだ》さい。|余《あま》り|密集《みつしふ》して|居《を》ると|狼《おほかみ》の|目《め》に|付《つ》いたら|大変《たいへん》です』
|玉治別《たまはるわけ》『ナアニ、|善言美詞《ぜんげんびし》の|言霊《ことたま》を|以《もつ》て、|狼《おほかみ》の|奴《やつ》|残《のこ》らず|言向《ことむ》け|和《やは》すのだ』
|竜国別《たつくにわけ》『そんな|馬鹿《ばか》|言《い》つてる|所《どころ》か、サア|早《はや》く、|各自《めいめい》に|覚悟《かくご》をせよ。|畜生《ちくしやう》に|相手《あひて》になつて|堪《たま》るものかい。|怪我《けが》でもしたら、それこそ|犬《いぬ》に|咬《か》まれた|様《やう》なものだ……|否《いや》|狼《おほかみ》に|咬《か》まれては|損害賠償《そんがいばいしやう》を|訴《うつた》へる|訳《わけ》にも|行《ゆ》かず、|治療代《ちれうだい》もどつからも|出《で》やせぬぞ。オイ|国依別《くによりわけ》、|遠州《ゑんしう》、|駿州《すんしう》、|一同《いちどう》、|玉公《たまこう》の|言《い》ふ|事《こと》を|聞《き》くに|及《およ》ばぬ。|今日《けふ》は|俺《おれ》が|臨時《りんじ》の|大将《たいしやう》だ。サア|早《はや》く|早《はや》く』
と|傍《かたはら》の|樹木《じゆもく》|密生《みつせい》せる|森林《しんりん》の|中《なか》へ|駆込《かけこ》む。|国依別《くによりわけ》|外《ほか》|六人《ろくにん》は|竜国別《たつくにわけ》と|行動《かうどう》を|共《とも》にした。|玉治別《たまはるわけ》は|依然《いぜん》として|路上《ろじやう》に|立《た》ち、
|玉治別《たまはるわけ》『アハヽヽヽ、|何奴《どいつ》も|此奴《こいつ》も|弱《よわ》い|奴《やつ》だなア。|多寡《たくわ》が|知《し》れた|四《よ》つ|足《あし》の|千匹《せんびき》|万匹《まんびき》|何《なに》が|怖《こは》いのだ。オイ|狼《おほかみ》の|奴《やつ》、|幾《いく》らでも|出《で》て|来《こ》い』
と|呶鳴《どな》つて|居《を》る。|狼《おほかみ》は|五六間《ごろくけん》|前《まへ》まで|列《れつ》を|組《く》んでやつて|来《き》たが、|路《みち》の|真《ま》ん|中《なか》に|立《た》ちはだかり、|捻鉢巻《ねぢはちまき》をしながら|噪《はし》やいで|居《ゐ》る|玉治別《たまはるわけ》の|勢《いきほひ》に|辟易《へきえき》したか、|途《みち》を|転《てん》じて|谷《たに》の|向側《むかふがは》の|山《やま》を|目《め》がけ、ガサガサと|音《おと》させ|乍《なが》ら、|風《かぜ》の|如《ごと》くに|過《す》ぎ|去《さ》つて|了《しま》つた。|玉治別《たまはるわけ》は、
『アハヽヽヽ、|弱《よわ》い|奴《やつ》だな。そんな|事《こと》で|高春山《たかはるやま》の|猛悪《まうあく》な|鬼婆《おにばば》が、どうして|退治《たいぢ》が|出来《でき》るかい。エーいい|足手纏《あしてまと》ひだ、|単騎《たんき》|進軍《しんぐん》と|出《で》かけよう』
と|四辺《あたり》に|聞《きこ》ゆる|様《やう》にワザと|大声《おほごゑ》で|喚《わめ》き|乍《なが》ら|峠《たうげ》を|登《のぼ》り|行《ゆ》く。|竜国別《たつくにわけ》|外《ほか》|七人《しちにん》は|早《はや》くも|山《やま》を|一生懸命《いつしやうけんめい》に|駆《かけ》あがり、|向側《むかふがは》に|姿《すがた》を|隠《かく》して|居《ゐ》た。|為《ため》に|玉治別《たまはるわけ》の|声《こゑ》も|聞《きこ》えなかつた。|玉治別《たまはるわけ》は|鼻唄《はなうた》を|唄《うた》ひ|乍《なが》ら、|峠《たうげ》の|頂上《ちやうじやう》に|達《たつ》し|赤児岩《あかごいは》と|云《い》ふ|赤子《あかご》の|足型《あしがた》の|一面《いちめん》に|出来《でき》た、カナリ|大《おほ》きな|岩石《がんせき》が|突《つ》き|出《で》て|居《ゐ》るのを|見付《みつ》け、
『アヽ|結構《けつこう》な|天然椅子《てんねんいす》が|人待顔《ひとまちがほ》にチヨコナンとやつて|居《ゐ》るワイ。オイ|岩椅子《いはいす》|先生《せんせい》、|貴様《きさま》は|余程《よほど》|幸福《かうふく》な|奴《やつ》だ。|三五教《あななひけう》の|大宣伝使《だいせんでんし》|兼《けん》|山賊《さんぞく》の|大親分《おほおやぶん》たる|玉治別命《たまはるわけのみこと》|又《また》の|御名《みな》は|田吾作大明神《たごさくだいみやうじん》が、|少時《しばらく》|尻《しり》をおろして|休息《きうそく》してやらう。|此《この》|光栄《くわうえい》を|堅磐常磐《かきはときは》に、|此《この》|岩《いは》の|粉微塵《こなみじん》になる|千万劫《せんまんがふ》の|後《のち》|迄《まで》も|忘《わす》れてはならぬぞよ。|躓《つま》づく|石《いし》も|縁《えん》の|端《はし》、|腰掛《こしかけ》け|岩《いは》|椅子《いす》もヤツパリ|縁《えん》の|端《はし》だ。……ヤア|始《はじ》めてお|月様《つきさま》のお|顔《かほ》を|拝《をが》んだ。|実《ほん》に|立派《りつぱ》な|美《うつく》しい|御姿《おすがた》だなア』
と|独《ひとり》ごちつつ|少《すこ》しく|眠気《ねむけ》を|催《もよほ》し、フラフラと|体《からだ》を|揺《ゆす》つて|居《ゐ》る。|其処《そこ》へスタスタと|上《あが》つて|来《き》た|二人《ふたり》の|荒男《あらをとこ》、
|甲《かふ》『ヤア|来《き》て|居《を》る|来《き》て|居《を》る』
|乙《おつ》『|居眠《ゐねむ》つて|居《ゐ》るぢやないか。|大分《だいぶん》に|草臥《くたび》れよつたと|見《み》えるワイ。オイ|源州《げんしう》、|貴様《きさま》はこれを|持《も》つて、テーリスタンに|渡《わた》すのだ。|俺《おれ》は|今《いま》|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》が|沢山《たくさん》な|乾児《こぶん》を|連《つ》れて、|高春山《たかはるやま》へやつて|来《き》よるから、|其《その》|準備《じゆんび》の|為《ため》に|行《ゆ》くのだから、|貴様《きさま》は|此処《ここ》に|金《かね》もあれば、|一切《いつさい》の|作戦《さくせん》|計画《けいくわく》を|記《しる》した|人名簿《じんめいぼ》もある…しつかりと|渡《わた》して|呉《く》れよ』
|玉治別《たまはるわけ》はワザとに|声《こゑ》をも|出《だ》さず、|首《くび》を|二三度《にさんど》|上下《じやうげ》に|振《ふ》つて|包《つつ》みを|受取《うけと》つた。|二人《ふたり》の|荒男《あらをとこ》は|追手《おつて》にでも|追《お》ひかけられたやうな|調子《てうし》で、|峠《たうげ》を|南《みなみ》へ|地響《ぢひび》きさせ|乍《なが》ら、|巨岩《きよがん》が|山上《さんじやう》から|落下《らくか》する|様《やう》な|勢《いきほひ》で|駆下《かけくだ》り|行《ゆ》く。
|玉治別《たまはるわけ》『|彼奴《あいつ》はアルプス|教《けう》の……|部下《ぶか》の|者《もの》と|見《み》えるな。|俺《おれ》を|味方《みかた》と|見違《みちが》へて、|大切《たいせつ》な|物《もの》を|預《あづ》けて|行《ゆ》きよつた。ヤツパリ、アルプス|教《けう》の|奴《やつ》も|巡礼姿《じゆんれいすがた》になつて|居《ゐ》るのがあると|見《み》えるワイ。|併《しか》し|乍《なが》ら|此処《ここ》に|居《を》つては、|又《また》やつて|来《き》よつて|発覚《はつかく》されては|面白《おもしろ》くない。なんとか|位置《ゐち》を|転《てん》じて、ユツクリと|中《なか》の|書類《しよるゐ》を|調《しら》べて|見《み》ようかな』
と|小声《こごゑ》に|言《い》ひ|乍《なが》ら、|二三十間《にさんじつけん》|許《ばか》り|山《やま》の|尾《を》を|踏《ふ》んで、|月《つき》の|光《ひかり》を|賞《ほ》めつつ|歩《あゆ》み|出《だ》した。|谷底《たにそこ》に|当《あた》つて|幽《かす》かな|火《ひ》が、|木《こ》の|間《ま》に|瞬《またた》いて|居《ゐ》る。これを|眺《なが》めた|玉治別《たまはるわけ》は、
『アヽ|此《この》|山奥《やまおく》に|火《ひ》を|点《とも》して|居《を》るのは、|此奴《こいつ》ア|不思議《ふしぎ》だ。ヒヨツとしたら|山賊《さんぞく》の|棲家《すみか》か、|但《ただし》は|樵夫《きこり》か。|何《なに》は|兎《と》もあれ、あの|火光《くわくわう》を|目当《めあて》に|近寄《ちかよ》つて、|様子《やうす》を|窺《うかが》うて|見《み》よう。|旅《たび》と|云《い》ふものは|随分《ずゐぶん》|面白《おもしろ》いものだなア』
と|一点《いつてん》の|火《ひ》を|目標《めあて》に、|樹木《じゆもく》|茂《しげ》れる|嶮《けは》しき|山《やま》を、|谷底《たにそこ》|目蒐《めが》けて|下《くだ》りついた。|見《み》れば|笹《ささ》や|木《き》の|皮《かは》をもつて|屋根《やね》を|蔽《おほ》ひたる、|小《ちひ》さき|木挽小屋《こびきごや》である。|中《なか》には|男《をとこ》のしはぶきが|聞《きこ》えて|居《ゐ》る。
|玉治別《たまはるわけ》『モシモシ、|私《わたくし》は|巡礼《じゆんれい》で|御座《ござ》いますが、|道《みち》に|踏《ふ》みまよひ、|行手《ゆくて》は|分《わか》らず、|幽《かす》かな|火《ひ》を|目《め》あてに|此処《ここ》まで|参《まゐ》りました。どうぞ、|怪《あや》しい|者《もの》ではありませぬから、|一晩《ひとばん》|泊《と》めて|下《くだ》さいな』
|中《なか》より|男《をとこ》の|声《こゑ》、
『ハイハイ、|此処《ここ》は|御存《ごぞん》じの|通《とほ》り、|穢苦《むさくる》しい|木挽小屋《こびきごや》で|御座《ござ》いますが、|巡礼様《じゆんれいさま》なれば|大変《たいへん》|結構《けつこう》で|御座《ござ》います。どうぞ|御這入《おはい》り|下《くだ》さいませ』
と|快《こころよ》く|荒《あら》くたい|戸《と》を、|中《なか》からガタつかせ|乍《なが》ら|漸《やうや》く|開《ひら》いて、|奥《おく》に|案内《あんない》する。|玉治別《たまはるわけ》は|案内《あんない》に|連《つ》れて、|一寸《ちよつと》した|山中《さんちう》に|似合《にあ》はぬ|美《うつく》しい|座敷《ざしき》に|通《とほ》つた。
『|此《この》|深山《しんざん》にお|前《まへ》さま、たつた|一人《ひとり》|暮《くら》して|居《ゐ》るのかい。|門《かど》にて|聞《き》けば|男《をとこ》の|泣《な》き|声《ごゑ》がして|居《を》つたやうだが、アレヤ|一体《いつたい》、|誰《たれ》が|泣《な》いてゐたのですか』
|男《をとこ》『|私《わたくし》は|木挽《こびき》の|杢助《もくすけ》で|御座《ござ》いますが、|家内《かない》のお|杉《すぎ》が|二時《ふたとき》|許《ばか》り|前《まへ》に|国替《くにがへ》を|致《いた》しまして、それが|為《ため》に|死人《しにん》の|枕許《まくらもと》で、|此《この》|世《よ》の|名残《なごり》に|女房《にようばう》に|向《むか》つて|泣《な》いてやりました。|併《しか》し|乍《なが》ら|俄《にはか》【やもを】でどうする|事《こと》も|出来《でき》ず、|霊前《れいぜん》に|供《そな》へる|物《もの》もないので、|握飯《にぎりめし》を|拵《こしら》へて|霊前《れいぜん》に|供《そな》へ、|戒名《かいみやう》の|代《かは》りに|板切《いたぎ》れを|削《けづ》つて、|斯《か》うして|祀《まつ》つて|置《お》きましたが、あなたは|巡礼様《じゆんれいさま》ぢやと|聞《き》きましたが、どうぞ|私《わたくし》がお|供《そな》へ|物《もの》の|準備《じゆんび》や、|其《その》|外《ほか》|親友《しんいう》や|寺《てら》の|坊《ばう》さまに|知《し》らして|来《く》る|間《あひだ》、|此処《ここ》に|留守《るす》して|居《ゐ》て|下《くだ》さいますまいか。|一寸《ちよつと》|行《い》つて|参《まゐ》りますから……』
|玉治別《たまはるわけ》『ヘエそれは|真《まこと》にお|気《き》の|毒《どく》な|事《こと》ですな。|私《わたし》も|急《いそ》ぐ|旅《たび》ではあるが、これを|見《み》ては、|見棄《みす》てておく|訳《わけ》にも|行《ゆ》かぬ。|死人《しにん》の|夜伽《よとぎ》をして|居《を》るから、サアサア|早《はや》く|行《い》て|来《き》なさい』
|杢助《もくすけ》『|是《こ》れで|安心《あんしん》|致《いた》しました。どうぞ|宜《よろ》しうお|願《ねがひ》|致《いた》します』
とイソイソ|戸外《こぐわい》に|駆出《かけだ》して|了《しま》つた。|玉治別《たまはるわけ》は、
『エー|仕方《しかた》がない。|偶《たまたま》|家《いへ》があると|思《おも》へば|死人《しにん》の|夜伽《よとぎ》を|命《めい》ぜられ、あんまり|気分《きぶん》の|良《い》いものぢやないワ。それよりも|千匹狼《せんびきおほかみ》と|戦争《せんそう》する|方《はう》が、なんぼ|気《き》が|勇《いさ》んで、|心持《こころもち》が|良《い》いか|知《し》れない。|併《しか》しこれも|時《とき》の|廻《まは》り|合《あは》せだ。|泥棒《どろばう》から|金《かね》を|貰《もら》ひ、|秘密《ひみつ》|書類《しよるゐ》を|巧《うま》く|手《て》に|入《い》れたと|思《おも》へば、|一時《ひととき》|経《た》つか|経《た》たぬ|間《ま》に、|忽《たちま》ち|坊主《ばうず》の|代《かは》りだ。|蚊《か》の|喰《く》ふのに|蚊帳《かや》も|吊《つ》らずに、こんな|所《ところ》にシヨビンと|残《のこ》されて、|蚊《か》の|施行《せぎやう》を|今晩《こんばん》はやらねばならぬか。どこぞ|此処《ここ》らに|湯《ゆ》でも|沸《わ》いては|居《を》りませぬかな』
と|其処辺中《そこらぢう》を|探《さが》して|見《み》ると、|口《くち》の|欠《か》けた|土瓶《どびん》が|一《ひと》つ|手《て》に|触《さは》つた。
『ヨー、|水《みづ》も|大分《だいぶん》に|汲《く》んであるワイ。|一層《いつそ》のこと、|土瓶《どびん》に|湯《ゆ》でも|沸《わ》かして|飲《の》んでやらうかな』
と|木《き》の|破片屑《はつりくづ》を|拾《ひろ》うて|竈《かまど》に|土瓶《どびん》を|懸《か》け、コトコトと|焚《た》き|出《だ》した。|瞬《またた》く|間《うち》に|湯《ゆ》は|沸騰《たぎ》つた。
『サアこれでも|飲《の》んで、|一《ひと》つ|夜《よ》を|徹《あ》かさうかな』
フト|女房《にようばう》の|死骸《しがい》の|方《はう》に|目《め》を|注《つ》けると、|頭《あたま》の|先《さき》に|無字《むじ》の|位牌《ゐはい》を|据《す》ゑ、|線香《せんかう》を|立《た》て、|其《その》|前《まへ》に|握《にぎ》り|飯《めし》が|供《そな》へてある。|蒲団《ふとん》の|中《なか》から|細《ほそ》い|手《て》を|出《だ》して|握《にぎ》り|飯《めし》をグツと|掴《つか》んでは|取《と》り、|又《また》|掴《つか》んでは|取《と》るものがある。
|玉治別《たまはるわけ》『エー|幽霊《いうれい》の|奴《やつ》、|供《そな》へてある|握《にぎ》り|飯《めし》を|喰《くら》つて|居《ゐ》やがる。|此奴《こいつ》ア、|胃病《ゐびやう》かなんぞで|死《し》んだ|奴《やつ》だらう。|喰物《くひもん》に|執着心《しふちやくしん》の|深《ふか》い|亡者《まうじや》だなア。|何《なん》だか|首《くび》の|辺《あた》りがゾクゾクと|寒《さむ》うなつて|来居《きを》つた。エー|構《かま》はぬ、|熱《あつ》い|湯《ゆ》でも|呑《の》んで|元気《げんき》でも|出《だ》さうかい』
と|口《くち》の|焼《や》ける|様《やう》な|湯《ゆ》を、|欠《か》けた|茶碗《ちやわん》に|注《つ》いで、フウフウと|吹《ふ》きもつて|飲《の》み|始《はじ》め、
『ヤア|何《なん》だ。ここの|水《みづ》は|炭酸《たんさん》でも|含《ふく》んで|居《を》るのか、|怪体《けつたい》な|臭気《にほひ》がするぞ。|大方《おほかた》|女房《にようばう》が|薬入《くすりい》れか、|炭酸曹達《たんさんそうだ》でも|入《い》れて|居《を》つた|土瓶《どびん》かも|知《し》れないぞ。あんまり|慌《あわ》てて|中《なか》を|調査《しらべ》るのを|忘《わす》れて|居《を》つた。ヤア|何《なん》だか|粘《ねば》つくぞ。|大変《たいへん》に|粘着性《ねんちやくせい》のある|水《みづ》だなア』
と|明《あか》りに|透《す》かして|見《み》ると、|燻《くすぶ》つた|中《なか》からホンノリと|文字《もじ》が|浮《う》いて|居《ゐ》る。よくよく|見《み》れば「お|杉《すぎ》の|痰壺《たんつぼ》|代用《だいよう》」としてある。
『エー|怪《け》つ|体《たい》の|悪《わる》い、|此奴《こいつ》ア|失策《しくじ》つた。|幽霊《いうれい》は|細《ほそ》い|手《て》を|出《だ》して|握《にぎ》り|飯《めし》を|食《く》ふ、|此方《こちら》は|痰《たん》を|呑《の》まされる、|怪《け》つ|体《たい》なこともあればあるものだ。……コレヤ|最前《さいぜん》の|男《をとこ》が|俺《おれ》に|与《く》れた|此《この》|包《つつ》みもヒヨツトしたら|蜈蚣《むかで》か|何《なに》かが|出《で》て|来《く》るのぢやあるまいかな。|一度《いちど》ある|事《こと》は|三度《さんど》あると|云《い》ふから、ウツカリ|此奴《こいつ》は|手《て》が|付《つ》けられぬぞ。|開《あ》けたが|最後《さいご》、|爆裂弾《ばくれつだん》でも|這入《はい》つて|居《を》つたら|大変《たいへん》だ。ヤア|厭《いや》らしい、|又《また》|細《ほそ》い|手《て》で|握《にぎ》り|飯《めし》を|掴《つか》んで|居《ゐ》やがる。|大方《おほかた》|喰《く》うて|了《しま》ひよつた。|此奴《こいつ》ア、|中有《ちうう》なしに|直《すぐ》に|餓鬼道《がきだう》へ|落《お》ちた|精霊《せいれい》と|見《み》えるワイ。こんな|所《とこ》に|厭《いや》らしうて|居《を》れるものぢやない。|併《しか》し|一旦《いつたん》|男《をとこ》が|留守《るす》してやらうと|請合《うけあ》つた|以上《いじやう》は、|卑怯《ひけふ》にも|逃《に》げ|出《だ》す|訳《わけ》にも|行《ゆ》くまい。やがて|帰《かへ》つて|来《く》るだらう。それまで|其処辺《そこら》の|林《はやし》をぶらついて、お|月様《つきさま》のお|顔《かほ》でも|拝《をが》んで|来《こ》よう。|斯《か》うなると、|我々《われわれ》に|同情《どうじやう》を|表《へう》して|呉《く》れるのはお|月様《つきさま》|丈《だけ》ぢや。|竜国別《たつくにわけ》、|国依別《くによりわけ》|其《その》|他《た》の|腰抜《こしぬけ》は、どつかへ|滅尽《めつじん》して|了《しま》ひ、|寂《さび》しい|事《こと》になつて|来《き》たワイ』
と|門口《かどぐち》を|跨《また》げ、|何時《いつ》とはなしに|二三丁《にさんちやう》も|歩《あゆ》み|出《だ》し、|谷水《たにみづ》の|流《なが》れに|水《みづ》を|掬《すく》ひ、|口《くち》に|含《ふく》んで|盛《さかん》に、|家鶏《にはとり》が|水《みづ》を|飲《の》む|様《やう》に、|一口《ひとくち》|入《い》れては|首《くび》を|挙《あ》げ、ガラガラガラ ブーブーと|吹《ふ》き、|又《また》|一口《ひとくち》|飲《の》んでは|仰向《あふむ》き、ガラガラガラガラ、ブーブーブーと、|幾度《いくど》ともなく|繰返《くりかへ》して|居《ゐ》る。
|火影《ほかげ》を|目標《めあて》に|探《さぐ》つて|来《き》た|竜国別《たつくにわけ》、|国依別《くによりわけ》、|遠州《ゑんしう》、|武州《ぶしう》|外《ほか》|四人《よにん》は、|玉治別《たまはるわけ》の|姿《すがた》を|夜目《よめ》に|見《み》て、|怪《あや》しき|者《もの》と|木蔭《こかげ》に|佇《たたず》み、|様子《やうす》を|窺《うかが》つて|居《ゐ》る。
|遠州《ゑんしう》『モシ|宣伝使《せんでんし》|様《さま》、ガラガラブーブーが|現《あら》はれました。ここは|一《ひと》つ|家《や》の|木挽小屋《こびきごや》、|何《なに》が|出《で》るやら|知《し》れませぬ。アレヤきつと|化州《ばけしう》でせう』
|国依別《くによりわけ》『ナニ|幽霊《いうれい》が|水《みづ》を|飲《の》んでゐるのだ。つまり|含嗽《うがひ》をしてるのだよ。|貴様《きさま》|行《い》つてしらべて|来《こ》い』
|玉治別《たまはるわけ》は|木蔭《こかげ》にヒソビソ|語《かた》る|人声《ひとごゑ》を|聞《き》きつけ、
『オイ|何処《どこ》の|何者《なにもの》か|知《し》らぬが、|俺《おれ》も|連《つ》れがなくて、|淋《さび》しくつて|困《こま》つて|居《を》るのだ。|狼《おほかみ》でも|泥棒《どろばう》でも|何《なん》でも|構《かま》はぬ。|遠慮《ゑんりよ》は|要《い》らぬ。|這入《はい》つて、マア|湯《ゆ》が|沸《わ》かしてあるから、ゆつくりと|飲《の》んだがよからうよ』
|竜国別《たつくにわけ》『アヽあの|声《こゑ》は|玉治別《たまはるわけ》によく|似《に》て|居《ゐ》るぢやないか』
|国依別《くによりわけ》『|左様々々《さうさう》、|大方《おほかた》|玉公《たまこう》の|先生《せんせい》でせう……オイ|玉《たま》ぢやないか』
『その|声《こゑ》は|国《くに》だなア。|好《い》い|所《とこ》へ|来《き》て|呉《く》れた。マア|面白《おもしろ》い|見《み》せ|物《もの》も|見《み》ようと|儘《まま》だし、|湯《ゆ》も|沢山《たくさん》に|沸《わ》いてるから、トツトと|俺《おれ》に|従《つ》いて|来《こ》い。|今日《けふ》は|山中《さんちう》の|一《ひと》つ|家《や》の|臨時《りんじ》|御主人公《ごしゆじんこう》だ。サア|此方《こちら》へ……』
と|手招《てまね》きし|乍《なが》ら、|月光《げつくわう》|漏《も》るる|谷路《たにみち》を|帰《かへ》つて|行《ゆ》く。
|遠州《ゑんしう》『ヤア|此家《ここ》は|杢助《もくすけ》と|云《い》ふ|強力者《ちからづよ》の|住《す》まつて|居《ゐ》る|木挽小屋《こびきごや》です。|彼奴《あいつ》に|随分《ずゐぶん》、|我々《われわれ》の|仲間《なかま》は|酷《えら》い|目《め》に|遭《あ》うたものです。|剣術《けんじゆつ》、|柔術《じうじゆつ》の|達人《たつじん》で、|三十人《さんじふにん》や|五十人《ごじふにん》は|手毬《てまり》の|様《やう》に|投《な》げ|付《つ》ける|奴《やつ》ですよ。さうして|立派《りつぱ》な|嬶《かか》アを|持《も》つて|居《ゐ》るのです。その|嬶《かか》アが|又《また》|中々《なかなか》の|強者《しれもの》で、|杢助《もくすけ》に|相当《さうたう》した|腕力《わんりよく》を|持《も》つて|居《を》るのだから、|誰《たれ》も|此処《ここ》ばつかりは、|怖《こは》くてよう|窺《うかが》はなかつた|所《ところ》です。|私等《わたくしら》は|顔《かほ》をこれまでに|見《み》られて|居《を》るから|剣呑《けんのん》です。|貴方《あなた》がたどうぞお|這入《はい》り|下《くだ》さいませ。|暫時《しばらく》|木蔭《こかげ》で|待《ま》つて|居《ゐ》ますから』
|竜国別《たつくにわけ》『|何《なに》、|我々《われわれ》が|付《つ》いて|居《を》れば|大丈夫《だいぢやうぶ》だ。|遠慮《ゑんりよ》は|要《い》らぬ。|今日《けふ》は|玉公《たまこう》|親分《おやぶん》の|家長権《かちやうけん》を|持《も》つて|居《を》る|日《ひ》だから、トツトと|這入《はい》つたがよからう』
|遠州《ゑんしう》『それでもあんまり|閾《しきゐ》が|高《たか》く|跨《またが》れませぬワ』
|竜国別《たつくにわけ》『ハハア、ヤツパリお|前《まへ》にも|羞悪《しうを》の|心《こころ》がどつかに|残《のこ》つて|居《を》るな。そんなら|暫《しばら》く|泥棒組《どろばうぐみ》は|木蔭《こかげ》に|待《ま》つて|居《ゐ》て|呉《く》れ』
|遠州《ゑんしう》『|泥棒組《どろばうぐみ》とは|酷《ひど》いぢやありませぬか。|最早《もはや》|我々《われわれ》はピユリタン|組《ぐみ》とは|違《ちが》ひますかいな』
|竜国別《たつくにわけ》『ピユリタン|組《ぐみ》でも|泥棒組《どろばうぐみ》でも|良《い》いワ。|暫《しばら》く|其処辺《そこら》へドロンと|消《き》えて、|待《ま》つてゐるのだよ』
と|云《い》ひ|棄《す》て、|竜《たつ》、|国《くに》の|両人《りやうにん》はヌツと|家中《うち》に|這入《はい》り、
『ヤア|割《わ》りとは|山中《さんちう》に|似《に》ず、|小瀟洒《こざつぱり》とした|家《いへ》だなア』
『エヽ|定《きま》つた|事《こと》だい。|俺《おれ》が|家長権《かちやうけん》を|握《にぎ》つた|大家庭《だいかてい》だから、|隅《すみ》から|隅《すみ》まで|能《よ》く|行届《ゆきとど》いて|居《を》らうがな。|併《しか》し|俺《おれ》の|嬶《かかあ》が|俄《にはか》の|罹病《わづらひ》で|死亡《しぼう》しよつたのだ。|就《つい》ては|俺《おれ》に|恋着心《れんちやくしん》が|残《のこ》つたと|見《み》えて、|死《し》んでからでも|細《ほそ》い|手《て》を|出《だ》して、|十《とを》|許《ばか》りの|握《にぎ》り|飯《めし》を|既《すで》に|八《やつ》つ|許《ばか》り|平《たひら》らげて|了《しま》ひよつたのだ。マア|湯《ゆ》でも|呑《の》んでユツクリと|嬶《かか》アの|夜伽《よとぎ》をしてやつて|呉《く》れ』
|国依別《くによりわけ》『|又《また》しても、しようもない。|本当《ほんたう》に|当家《たうけ》に|死人《しにん》があつたのか。|貴様《きさま》|泥棒《どろばう》の|臨時《りんじ》|親方《おやかた》になつたと|思《おも》うて、|強盗《がうたう》をやつて|此家《ここ》の|大切《たいせつ》な|嬶《かか》アを|殺《ころ》したのぢやないか』
|玉治別《たまはるわけ》『|若《わか》い|時《とき》から、|女殺《をんなごろ》しの|後家倒《ごけだふ》し、|姫殺《ひめごろ》しと|綽名《あだな》を|取《と》つた|玉治別《たまはるわけ》ぢや。|口《くち》でも|殺《ころ》せば、|目《め》でも|殺《ころ》すと|云《い》ふ|業平朝臣《なりひらあそん》だから、|女《をんな》の|一人《ひとり》|位《くらゐ》、|強盗《がうたう》になつて|殺《ころ》すのは|当然《あたりまへ》だよ』
|竜国別《たつくにわけ》『マサカ|人《ひと》の|女房《にようばう》を|殺《ころ》す|様《やう》な、|貴様《きさま》も|悪人《あくにん》ではなかつたが、|三国ケ嶽《みくにがだけ》の|鬼婆《おにばば》の|霊《れい》でも|憑《つ》きよつたのかなア。エライ|事《こと》をして|呉《く》れたものだワイ』
『マアどうでも|良《い》い。|湯《ゆ》が|沸《わ》いて|居《を》るから|一杯《いつぱい》|飲《の》んだらどうだ。これも|玉治公《たまはるこう》がお|手《て》づからお|沸《わ》し|遊《あそ》ばした|結構《けつこう》なお|湯《ゆ》だ。チヨツと|毒試《どくみ》をして|見《み》たが、|随分《ずゐぶん》セキタン|臭《くさ》い|水《みづ》だ。|併《しか》し|胃病《ゐびやう》の|薬《くすり》には|良《い》いかも|知《し》れないわ』
|国依別《くによりわけ》『|一寸《ちよつと》|其《その》|土瓶《どびん》を|俺《おれ》に|貸《か》して|呉《く》れ。|調査《しらべ》る|必要《ひつえう》があるから。ウツカリ|知《し》らぬ|宅《うち》へ|来《き》て、|湯《ゆ》でも|飲《の》まうものなら、どんな|毒薬《どくやく》が|仕込《しこ》んであるか|分《わか》つたものぢやないわ』
『ナアニ、|抜目《ぬけめ》のない|玉治公《たまはるこう》がチヤンと|査《しら》べてある。|決《けつ》して|毒《どく》ぢやない。これは|宝丹《はうたん》の|入《い》れ|物《もの》だ。それで|【宝丹】《はうたん》の|匂《にほ》ひが|少《すこ》しはして|居《を》る』
とニヤリと|笑《わら》ふ。|国依別《くによりわけ》は、
『ナニ|放痰《はうたん》、いやマスマス|怪《あや》しいぞ』
と|無理《むり》に|取《と》り|上《あ》げ、|灯《ひ》にすかして|見《み》て、
『ヤア|何《なん》だか|印《しるし》が|付《つ》いて|居《ゐ》る……お|杉《すぎ》の|痰壺《たんつぼ》|代用《だいよう》……エイ|胸《むね》の|悪《わる》い』
と|云《い》ひなり、|不潔《きたな》さうに|土瓶《どびん》を|握《にぎ》つた|手《て》を|放《はな》した。|土瓶《どびん》は|庭《には》にバタリと|落《お》ちて|滅茶《めつちや》|々々《めつちや》に|破《わ》れ、|煮湯《にえゆ》はパツと|四方《しはう》に|飛《と》び|散《ち》り、|三人《さんにん》の|顔《かほ》に|熱《あつ》い|臭《くさ》い|奴《やつ》が、|厭《いや》と|云《い》ふ|程《ほど》|御見舞《おみまひ》|申《まを》した。
|竜国別《たつくにわけ》『サツパリ|男《をとこ》の|顔《かほ》に|墨《すみ》ではなうて、|痰《たん》を|塗《ぬ》りやがつたな。ヤアヤア|死人《しにん》がムクムクと|動《うご》き|出《だ》したぢやないか。|永久《えいきう》の|死人《しにん》ぢやあるまい。|夜分《やぶん》になつたら|臨時死《りんじし》ぬると|云《い》ふ|睡眠《すゐみん》|状態《じやうたい》だらう』
|玉治別《たまはるわけ》『そんな|死方《しにかた》なら、|誰《たれ》でも|毎晩《まいばん》やつて|居《ゐ》るぢやないか。お|前達《まへたち》の|様《やう》な|怠惰者《なまくらもの》は|日《ひ》が|永《なが》いとか|云《い》つて、|木《き》の|蔭《かげ》で|一時《ひととき》も|二時《ふたとき》も、チヨコチヨコ|死《し》ぬぢやないか。そんな|死《し》にやうとはチツト|違《ちが》ふのだい。|徹底的《てつていてき》の|永《なが》き|眠《ねむり》に|就《つ》いて|十万億土《じふまんおくど》へ|精霊《せいれい》の|旅立《たびだち》の|最中《さいちう》だ』
|竜国別《たつくにわけ》『それにしては、|細《ほそ》い|手《て》を|出《だ》して|飯《めし》を|掴《つか》んで|食《く》つたり、ムクムク|動《うご》いて|居《を》るぢやないか』
|玉治別《たまはるわけ》『オイ|国依別《くによりわけ》、お|前《まへ》は|宗彦《むねひこ》と|云《い》つて、|随分《ずゐぶん》に|嬶《かか》アを|沢山《たくさん》に|泣《な》かしたり、|殺《ころ》したと|云《い》ふ|事《こと》だが、|大方《おほかた》|其《その》|亡念《まうねん》が|此家《ここ》の|死人《しにん》に|憑《つ》いて|居《を》るのかも|知《し》れないぞ』
|国依別《くによりわけ》『|何《なん》にしても|気分《きぶん》の|悪《わる》い|家《うち》だ。さうして|此家《ここ》の|主人《しゆじん》は|何処《どこ》へ|行《い》つたのだい』
|玉治別《たまはるわけ》『|一寸《ちよつと》|買物《かひもの》に|行《い》つて|来《く》るから、|帰《かへ》るまで|留守《るす》を|頼《たの》むと|云《い》つて|出《で》たなり、まだ|帰《かへ》つて|来《こ》ないのだ。|随分《ずゐぶん》|暇《ひま》の|要《い》る|事《こと》だなア』
|死人《しにん》を|寝《ね》かした|夜具《やぐ》は、ムクムクと|動《うご》き|出《だ》した。|五《いつ》つ|六《むつ》つの|女《をんな》の|児《こ》がムクツと|起《お》きあがり……
|子供《こども》『お|父《とう》さん お|父《とう》さん お|父《とう》さん』
と|四辺《あたり》をキヨロキヨロ|見廻《みまは》して|居《ゐ》る。|三人《さんにん》はヤツと|胸《むね》|撫《な》でおろし、
|三人《さんにん》『ヤアこれで|細《ほそ》い|手《て》も、|握《にぎ》り|飯《めし》|掴《つか》みも|解決《かいけつ》がついた』
|斯《か》かる|所《ところ》へスタスタと|帰《かへ》つて|来《き》たのは|主人《しゆじん》の|杢助《もくすけ》、
|杢助《もくすけ》『|巡礼《じゆんれい》さま、エライ|御厄介《ごやくかい》になりました。|何分《なにぶん》|急《いそ》いで|行《い》つたのですけれど、|夜分《やぶん》の|事《こと》とて|先《さき》が|容易《ようい》に|起《お》きてくれませぬので、つい|手間取《てまど》りまして、エライ|御迷惑《ごめいわく》を|掛《か》けました』
|玉治別《たまはるわけ》『エー|滅相《めつさう》な、どう|致《いた》しまして……ここに|二人《ふたり》|居《を》りますのは、|我々《われわれ》の|兄弟分《きやうだいぶん》で|御座《ござ》います。どうぞお|見知《みし》り|置《お》かれますやうに』
|子供《こども》は、
『お|父《とう》さん』
と|走《はし》つて|抱《だ》きつく。
|杢助《もくすけ》『アーお|前《まへ》は|賢《かしこ》い|子《こ》だ。よう|留守《るす》をして|居《を》つた。あんな|死《し》んだお|母《か》アの|側《はた》に|黙《だま》つて|寝《ね》て|居《ゐ》るとは、|肝《きも》の|太《ふと》い|奴《やつ》だ。|世《よ》の|中《なか》には|大《おほ》きな|男《をとこ》が、|宣伝《せんでん》をしに|歩《ある》いて|居《を》つても、|死人《しにん》の|側《そば》には|怖《こは》がつて、|三人《さんにん》も|五人《ごにん》も|居《を》らねば、|夜伽《よとぎ》をようせぬものだが、|子供《こども》はヤツパリ|罪《つみ》が|無《な》いワイ』
|玉治別《たまはるわけ》は|頭《あたま》を|掻《か》き、
『ヤア|恐《おそ》れ|入《い》りました。|私《わたくし》もチツとも|怖《こわ》くはありませぬ』
『|女房《にようばう》の|霊前《れいぜん》にお|経《きやう》を|唱《とな》へて|下《くだ》さいましたか』
『ハイ、お|茶湯《ちやたう》を|献《あ》げませうと|思《おも》つて、つい|考《かんが》へて|居《を》りました。|併《しか》し|遠距離《ゑんきより》|読経《どきやう》をやつて|置《お》きました。それも|無形無声《むけいむせい》の、|暗祈黙祷《あんきもくたう》、|愈《いよいよ》これから|始《はじ》める|所《ところ》で|御座《ござ》います』
と|何《なに》が|何《なに》やら|間誤《まご》ついて、|支離滅裂《しりめつれつ》の|挨拶《あいさつ》をやつて|居《ゐ》る。ここに|三人《さんにん》は|霊前《れいぜん》に|向《むか》ひ、|神言《かみごと》を|奏上《そうじやう》し、お|杉《すぎ》の|冥福《めいふく》を|祈《いの》り、|遠州《ゑんしう》|外《ほか》|五人《ごにん》の|手伝《てつだひ》の|下《もと》に、|野辺《のべ》の|送《おく》りを|無事《ぶじ》に|済《す》ました。
|玉治別《たまはるわけ》『ヤアこれで|無事《ぶじ》|終了《しうれう》、|先《ま》づ|先《ま》づお|芽出《めで》……たくもありませぬ。|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸《ち》はへ|坐《ま》せ|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸《ち》はへ|坐《ま》せ|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸《ち》はへ|坐《ま》せ』
|杢助《もくすけ》『|有難《ありがた》う|御座《ござ》いました』
|一同《いちどう》は、
『|左様《さやう》ならば……|随分《ずゐぶん》|御壮健《ごさうけん》でお|暮《くら》しなさいませ』
と|立《た》つて|行《ゆ》かむとする。|杢助《もくすけ》は、
|杢助《もくすけ》『モシモシ、|此処《ここ》にこんな|風呂敷包《ふろしきづつみ》が|残《のこ》つて|居《ゐ》ます。コレはお|前《まへ》さまのぢやあるまいかな』
|玉治別《たまはるわけ》『ヤア|到頭《たうとう》|忘《わす》れて|居《ゐ》た。これは|私《わたくし》ので|御座《ござ》います』
|杢助《もくすけ》『お|前《まへ》さまのに|間違《まちが》ひはないか』
|玉治別《たまはるわけ》『|実《じつ》の|所《ところ》は|峠《たうげ》の|岩《いは》に|休息《きうそく》して|居《を》つた|時《とき》に、|乾児《こぶん》がやつて|来《き》て、お|頭様《かしらさま》|此《この》|通《とほ》りと|言《い》つて|渡《わた》して|行《ゆ》きやがつたのだ。|金《かね》も|随分《ずゐぶん》|沢山《たくさん》あるだらう』
|杢助《もくすけ》『|其《その》|方《はう》は|巡礼《じゆんれい》に|見《み》せかけ、|大泥棒《おほどろばう》を|働《はたら》く|奴《やつ》だ。コレヤ|此《こ》の|風呂敷《ふろしき》は|現在《げんざい》|杢助《もくすけ》の|所持品《しよぢひん》だ。これを|見《み》よ。|杢《もく》の|印《しるし》が|付《つ》いて|居《ゐ》る。|此間《こなひだ》の|晩《ばん》に、|五六人《ごろくにん》|抜刀《ぬきみ》で|躍《をど》り|込《こ》んで、|俺《おれ》の|留守《るす》を|幸《さいはひ》に、|包《つつ》みを|持《も》つて|帰《かへ》つた|小盗人《こぬすと》がある。|女房《にようばう》は|何時《いつ》もならば|木端盗人《こつぱぬすと》の|三十《さんじふ》や|五十《ごじふ》、|束《たば》になつて|来《き》た|所《ところ》が|感応《こた》へぬのだが、|何分《なにぶん》|労咳《らうがい》で|骨《ほね》と|皮《かは》とになつて|居《ゐ》た|所《ところ》だから、ミスミス|盗《と》られて|了《しま》つたのだ。さうすると|貴様《きさま》はヤツパリ|泥棒《どろばう》の|親分《おやぶん》だな。サア|斯《か》く|現《あら》はれし|上《うへ》は|百年目《ひやくねんめ》、|此《この》|杢助《もくすけ》が|片《かた》つ|端《ぱし》から|素首《そつくび》を|引抜《ひきぬ》いてやらう。……|何《いづ》れも|皆《みな》|覚悟《かくご》せい』
と|鉞《まさかり》を|揮《ふる》つて|勢《いきほひ》|鋭《するど》く|進《すす》んで|来《く》る。
|玉治別《たまはるわけ》『|待《ま》つた|待《ま》つた。|嘘《うそ》だ|嘘《うそ》だ。|夜前《やぜん》|泥棒《どろばう》が|俺《おれ》に|渡《わた》したのだよ。|俺《おれ》や|決《けつ》して|泥棒《どろばう》でも|何《なん》でもない。マア|待《ま》て|待《ま》て……』
|杢助《もくすけ》『|泥棒《どろばう》が|泥棒《どろばう》でない|者《もの》に|金《かね》を|渡《わた》すと|云《い》ふ|事《こと》があるかい。|貴様《きさま》もヤツパリ|泥棒《どろばう》の|張本人《ちやうほんにん》だ。サア|量見《りやうけん》|致《いた》さぬ』
と|今《いま》や|頭上《づじやう》より|玉治別《たまはるわけ》を|梨割《なしわり》にせむとする|此《この》|刹那《せつな》『|一《ひと》|二《ふた》|三《み》|四《よ》……』の|天《あま》の|数歌《かずうた》を|一生懸命《いつしやうけんめい》に|称《とな》へ|始《はじ》めた。|玉治別《たまはるわけ》の|手《て》を|組《く》んだ|食指《ひとさしゆび》の|尖端《せんたん》より|五色《ごしき》の|霊光《れいくわう》|放射《はうしや》し、|杢助《もくすけ》は|身体《しんたい》|強直《きやうちよく》して|其《その》|場《ば》に|忽《たちま》ち|銅像《どうざう》の|様《やう》になつて|了《しま》つた。
|玉治別《たまはるわけ》『ハヽヽヽヽ』
|竜国別《たつくにわけ》『オイ|玉公《たまこう》、|我々《われわれ》に|離《はな》れて|何処《どこ》へ|行《い》つたかと|思《おも》へば、|泥棒《どろばう》をやつて|居《ゐ》たのだな。モウ|今日《けふ》|限《かぎ》り|貴様《きさま》と|縁《えん》を|絶《き》るから、さう|思《おも》へ』
|国依別《くによりわけ》『オイお|前《まへ》は|何《なん》とした|卑《さも》しい|根性《こんじやう》になつたのだ。|俺《おれ》はモウ|合《あ》はす|顔《かほ》が|無《な》いワイ』
と|涙声《なみだごゑ》になる。|玉治別《たまはるわけ》は|一伍一什《いちぶしじふ》を|詳細《しやうさい》に|物語《ものがた》り、|漸《やうや》く|二人《ふたり》の|疑《うたが》ひは|氷解《ひようかい》した。|杢助《もくすけ》は|固《かた》まつた|儘《まま》、|此《この》|実地《じつち》を|目撃《もくげき》して、|玉治別《たまはるわけ》の|無実《むじつ》を|悟《さと》つた。|玉治別《たまはるわけ》は「ウン」と|一声《いつせい》|指頭《しとう》を|以《もつ》て|霊縛《れいばく》を|解《と》いた。|杢助《もくすけ》は|旧《もと》の|身体《からだ》に|復《ふく》し、
|杢助《もくすけ》『お|客《きやく》さま、|失礼《しつれい》な|事《こと》を|申上《まをしあ》げました。どうぞ|御勘弁《ごかんべん》|下《くだ》さいませ』
|玉治別《たまはるわけ》『|分《わか》つたらそれで|結構《けつこう》です……|何《なに》も|言《い》ふ|事《こと》はありませぬ。|併《しか》し|此《この》|包《つつ》みはあなた|調《しら》べて|下《くだ》さい』
|杢助《もくすけ》『そんなら|皆様《みなさま》の|前《まへ》で|検《しら》べて|見《み》ませう』
とガンヂガラミに|括《くく》つた|風呂敷包《ふろしきづつみ》を|解《と》き|開《ひら》いて|見《み》れば、|金色燦然《きんしよくさんぜん》たる|金銀《きんぎん》の|小玉《こだま》ザラザラと|現《あら》はれて|来《き》た。さうして|一冊《いつさつ》の|手帳《てちやう》が|出《で》て|来《き》た。|開《ひら》いて|見《み》れば、アルプス|教《けう》の|秘密《ひみつ》|書類《しよるゐ》である。|三人《さんにん》はこれ|幸《さいは》ひと|懐中《くわいちゆう》に|収《をさ》め、|後《あと》は|杢助《もくすけ》に|返《かへ》し、|九人連《くにんづ》れ|此《この》|家《や》を|発《た》つて|津田《つだ》の|湖辺《こへん》に|向《むか》つて|宣伝歌《せんでんか》を|歌《うた》ひ|乍《なが》ら|勢《いきほひ》よく|進《すす》み|行《ゆ》く。
(大正一一・五・一七 旧四・二一 松村真澄録)
第二篇 |是生滅法《ぜしやうめつぽふ》
第六章 |小杉《こすぎ》の|森《もり》〔六八〇〕
|高春山《たかはるやま》の|岩窟《がんくつ》に  |巣《す》を|構《かま》へたる|曲神《まがかみ》の
|鷹依姫《たかよりひめ》を|言向《ことむ》けて  |誠《まこと》の|神《かみ》の|御教《みをしへ》に
|靡《なび》かせみむと|三五《あななひ》の  |道《みち》の|教《をしへ》の|宣伝使《せんでんし》
|鼻《はな》も|高姫《たかひめ》|黒姫《くろひめ》が  |天《あま》の|岩樟船《いはくすぶね》に|乗《の》り
|意気昇天《いきしようてん》の|勢《いきほひ》で  |高天原《たかあまはら》を|後《あと》にして
|天空《てんくう》|高《たか》く|飛《と》んで|行《ゆ》く  |三月《みつき》|経《た》ちたる|冬《ふゆ》の|空《そら》
|何《なん》の|便《たよ》りも|無《な》き|儘《まま》に  |言依別《ことよりわけ》の|神司《かむづかさ》
|竜国別《たつくにわけ》や|国依別《くによりわけ》  |玉治別《たまはるわけ》の|三柱《みはしら》に
|密《ひそ》かに|旨《むね》を|含《ふく》ませつ  |高春山《たかはるやま》に|向《むか》はしむ
ここに|三人《みたり》の|宣伝使《せんでんし》  |草鞋脚袢《わらぢきやはん》に|蓑笠《みのかさ》や
|軽《かる》き|姿《すがた》の|扮装《いでたち》に  |万代《よろづよ》|寿《ことほ》ぐ|亀山《かめやま》の
|梅照彦《うめてるひこ》が|神館《かむやかた》  |一夜《いちや》を|明《あ》かし|高熊《たかくま》の
|稜威《いづ》の|岩窟《いはや》に|参拝《さんぱい》し  |神《かみ》の|御言《みこと》を|拝聴《はいちやう》し
|来勿止神《くなどめがみ》に|送《おく》られて  |善悪正邪《ぜんあくせいじや》の|大峠《おほたうげ》
|越《こ》えて|漸《やうや》う|法貴谷《ほふきだに》  |戸隠岩《とがくしいは》の|傍《かたはら》に
|登《のぼ》りて|見《み》ればこは|如何《いか》に  |行手《ゆくて》に|当《あた》りて|四五人《しごにん》の
|怪《あや》しき|影《かげ》は|山賊《さんぞく》の  |群《むれ》と|玉治別司《たまはるわけつかさ》
|俄《にはか》に|変《かは》る|三国岳《みくにだけ》  |蜈蚣《むかで》の|姫《ひめ》の|片腕《かたうで》と
|早速《さそく》の|頓智《とんち》に|山賊《さんぞく》は  |一時《いちじ》は|兜《かぶと》を|脱《ぬ》ぎたれど
|元来《ぐわんらい》ねぢけた|曲霊《まがみたま》  |湯谷《ゆや》が|峠《たうげ》の|谷底《たにそこ》の
|木挽小屋《こびきごや》なる|杢助《もくすけ》が  |家《いへ》に|立寄《たちよ》り|金銀《きんぎん》の
|包《つつ》みの|光《ひかり》に|目《め》が|眩《くら》み  |又《また》もや|元《もと》の|曲津神《まがつかみ》
|心《こころ》の|鬼《おに》に|遮《さへぎ》られ  |悪魔《あくま》の|道《みち》に|逆転《ぎやくてん》し
|心《こころ》|秘《ひそ》かに|六人《ろくにん》は  |目《め》と|目《め》を|互《たがひ》に|見合《みあは》せつ
|竜国別《たつくにわけ》に|従《したが》ひて  |津田《つだ》の|湖水《こすゐ》の|畔《ほとり》まで
|素知《そし》らぬ|顔《かほ》を|装《よそほ》ひつ  |三人《みたり》の|司《つかさ》と|諸共《もろとも》に
やうやう|湖辺《こへん》に|着《つ》きにける。
|三州《さんしう》『モシ|玉治別《たまはるわけ》さま、あなたは|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》と|云《い》つて|居《ゐ》るが、|実際《じつさい》は|蜈蚣姫《むかでひめ》の|乾児《こぶん》の|玉公《たまこう》に|間違《まちが》ひはあるめい』
|玉治別《たまはるわけ》『|馬鹿《ばか》を|言《い》つては|困《こま》るよ。|汝《きさま》はどうして、|俺《おれ》がそんな|悪神《あくがみ》に|見《み》えるのだ』
|三州《さんしう》『|論《ろん》より|証拠《しようこ》、|泥棒《どろばう》の|乾児《こぶん》を|使《つか》つて、|杢助《もくすけ》の|宅《うち》へ|忍《しの》び|入《い》らせ、|沢山《たくさん》の|金銀《きんぎん》を|強奪《がうだつ》しお|前《まへ》は|赤児岩《あかごいは》に|待伏《まちぶ》せして、|乾児《こぶん》から|受取《うけと》つたのだらう。|直接《ちよくせつ》に|盗《と》らないと|言《い》つてもやはり|人《ひと》を|使《つか》つて|盗《ぬす》ませたのだから、|要《えう》するに|今回《こんくわい》の|強盗《がうたう》|事件《じけん》の|張本人《ちやうほんにん》だよ』
|玉治別《たまはるわけ》『|汝《きさま》は|今《いま》になつて、まだそんな|事《こと》を|言《い》ふのか。|俺《おれ》の|無実《むじつ》は|既《すで》に|杢助《もくすけ》|始《はじ》め、|大勢《おほぜい》の|者《もの》が|氷解《ひようかい》してゐるぢやないか』
|三州《さんしう》『それでも|戸隠岩《とがくしいは》の|麓《ふもと》で、|蜈蚣姫《むかでひめ》の|片腕《かたうで》だと|自白《じはく》したぢやないか。ナア|甲州《かふしう》、|雲州《うんしう》|汝《きさま》が|証拠人《しようこにん》だ』
|甲州《かふしう》『そらそうだ。|蛙《かはづ》は|口《くち》から、|吾《わ》れと|吾《わが》|手《て》に|白状《はくじやう》すると|云《い》ふ|事《こと》がある。……オイ|玉州《たましう》モウ|駄目《だめ》だぞ。|何《なん》と|言《い》つても|自分《じぶん》の|口《くち》から|言《い》つたのだから、|竜州《たつしう》に|国州《くにしう》、|俺《おれ》の|観察《くわんさつ》は|誤謬《あやまり》はあるまい。|斯《か》う|大地《だいち》に|打《うち》おろす|此《この》|杖《つゑ》は|外《はづ》れても、|俺《おれ》の|言葉《ことば》は|外《はづ》れよまいぞよ』
|玉治別《たまはるわけ》『アヽこれは|聊《いささ》か|迷惑《めいわく》の|至《いた》りだ。あの|時《とき》は|汝等《きさまら》を|改心《かいしん》させる|為《ため》に、|三十三相《さんじふさんさう》の|観自在天《くわんじざいてん》の|真似《まね》をして|方便《はうべん》を|使《つか》つたのだ。これから|高春山《たかはるやま》の|曲神《まがかみ》の|征伐《せいばつ》に|向《むか》ふと|云《い》ふ|真最中《まつさいちう》、|内訌《ないこう》を|起《おこ》しては|味方《みかた》の|不利益《ふりえき》だから、そんな|事《こと》は|後《のち》に|詳《くは》しく、|合点《がてん》の|行《ゆ》く|様《やう》に|説明《せつめい》してやらう。|今日《けふ》は|先《ま》づ|沈黙《ちんもく》を|守《まも》るがよい』
|三州《さんしう》『|仮《かり》にも|欺《あざむ》く|勿《なか》れと|云《い》ふ|宣伝使《せんでんし》が、|方便《はうべん》を|使《つか》つたり、|嘘《うそ》を|言《い》つて|良《い》いものか。|嘘《うそ》から|出《で》た|真《まこと》でなくて、|真《まこと》から|出《で》た|嘘《うそ》を|云《い》ふお|前《まへ》は|大泥棒《おほどろばう》だ』
|遠州《ゑんしう》『コラ|三州《さんしう》の|野郎《やらう》、|尊《たふと》き|宣伝使《せんでんし》に|向《むか》つて、|何《なん》と|云《い》ふ|雑言《ざふごん》|無礼《ぶれい》を|吐《ほざ》くのだ。|愚図々々《ぐづぐづ》|吐《ぬか》すと|此《この》|遠州《ゑんしう》が|承知《しようち》|致《いた》さぬぞ』
|三州《さんしう》『|今迄《いままで》は|遠州《ゑんしう》の|哥兄《あにい》と|尊敬《そんけい》して|来《き》たが、|汝《きさま》の|様《やう》な|泥棒心《どろばうごころ》の|俄《にはか》に|消滅《せうめつ》する|様《やう》な、|腰抜《こしぬけ》は|今日《こんにち》|限《かぎ》り|俺《おれ》の|方《はう》から|縁《えん》を|絶《き》つてやらう。|泥棒《どろばう》ならば|徹底的《てつていてき》になぜ|泥棒《どろばう》で|通《とほ》さぬのだ、|又《また》|改心《かいしん》するならば、|本当《ほんたう》の|宣伝使《せんでんし》に|従《したが》つて|誠《まこと》の|道《みち》へ|這入《はい》るのなれば、|俺《おれ》だとてチツトも|不服《ふふく》は|称《とな》へないが、|此《この》|玉《たま》に|竜《たつ》、|国《くに》と|云《い》ふ|代物《しろもの》は、どこまでもヅウヅウしく|宣伝使《せんでんし》だなぞと、|仮面《かめん》を|被《かぶ》つて|居《ゐ》やがるからムカツクのだよ』
|遠州《ゑんしう》『オイ|駿州《すんしう》、|武州《ぶしう》、|汝《きさま》はどう|思《おも》ふ? |俺《おれ》はどうしても|立派《りつぱ》な|宣伝使《せんでんし》と|観測《くわんそく》して|居《ゐ》るのだ』
|駿州《すんしう》『|俺《おれ》もそうだ』
|武州《ぶしう》『|定《きま》つた|事《こと》だ。グヅグヅ|吐《ぬか》すと、|三《さん》|甲《かふ》|雲《うん》の|木端盗人《こつぱぬすと》、|雁首《がんくび》を|引抜《ひきぬ》いてやらうか』
『ナニ|猪口才《ちよこざい》な』
と|三州《さんしう》は|俄作《にはかづく》りの|有合《ありあは》せの|杖《つゑ》を|以《もつ》て、|武州《ぶしう》の|向脛《むかふづね》を|擲《なぐ》りつけた。|武州《ぶしう》は『アイタヽ』と|其《その》|場《ば》に|顔《かほ》を|顰《しか》めて|倒《たふ》れた。|続《つづ》いて|甲州《かふしう》、|雲州《うんしう》の|二人《ふたり》、|遠州《ゑんしう》、|駿州《すんしう》を|目蒐《めが》け、|向脛《むかうづね》を|厭《いや》と|云《い》ふ|程《ほど》|擲《なぐ》りつける。|脆《もろ》くも|三人《さんにん》は|其《その》|場《ば》に|踞《しやが》んで|顔《かほ》を|顰《しか》め、|笑《わら》つたり、|泣《な》いたり、|怒《おこ》つたりして|居《ゐ》る。
|遠州《ゑんしう》『|蟻《あり》も|這《は》はすなと|云《い》ふ|大切《だいじ》な|向脛《むかうづね》を|叩《たた》きやがつて、……|覚《おぼ》えて|居《を》れ』
|三州《さんしう》『|杢助爺《もくすけおやぢ》ぢやないが、|肝腎《かんじん》のおアシをとられて|苦《くる》しからう。おアシの|沢山《たくさん》な|蜈蚣姫《むかでひめ》さまの|乾児《こぶん》|共《ども》に|修繕《しうぜん》して|貰《もら》へ。|俺《おれ》は|最早《もはや》|汝等《きさまら》|三人《さんにん》とは|縁絶《えんぎ》れだ。|勿論《もちろん》|玉《たま》、|竜《たつ》、|国《くに》の|奴盗人《どぬすと》とも|同様《どうやう》だ。こんな|所《ところ》に|居《を》るのは|胸《むね》が|悪《わる》い。これから|先《さき》は|善《ぜん》になるか|悪《あく》になるか、|我々《われわれ》|三人《さんにん》の|都合《つがふ》にする。|汝等《きさまら》は|鷹依姫《たかよりひめ》に|散々《さんざん》|脂《あぶら》を|搾《しぼ》られ、|高姫《たかひめ》、|黒姫《くろひめ》の|様《やう》に|岩窟《いはや》の|中《なか》へ|閉《と》ぢ|込《こ》められて、|木乃伊《みいら》になるのが|性《しやう》に|合《あ》うて|居《ゐ》るワ……アバヨ』
と|歯《は》を|剥《む》き|出《だ》し、|腮《あご》をしやくり、|尻《しり》を|叩《たた》いて、あらゆる|嘲笑《てうせう》を|加《くは》へ、|此《この》|場《ば》を|棄《す》て、|湯谷ケ岳《ゆやがだけ》の|方面《はうめん》|指《さ》して|駆《か》けて|行《ゆ》く。
|三州《さんしう》、|甲州《かふしう》、|雲州《うんしう》の|三人《さんにん》は|津田《つだ》の|湖辺《こへん》を|後《あと》に、|湯谷ケ岳《ゆやがだけ》の|山麓《さんろく》に|着《つ》いた。|此処《ここ》には|少彦名神《すくなひこなのかみ》を|祀《まつ》りたる|形《かたち》ばかりの|小《ちひ》さき|祠《ほこら》がある。|樫《かし》の|大木《たいぼく》は|半《なか》ば|枯《か》れながら、|皮《かは》ばかりになつて、|若《わか》き|枝《えだ》より|稠密《ちうみつ》な|葉《は》を|出《だ》し、|空《そら》を|封《ふう》じて|居《ゐ》る。|猿《ましら》の|声《こゑ》はキヤツキヤツと|祠《ほこら》の|背後《はいご》の|木《き》の|茂《しげ》みに|聞《きこ》えて|居《ゐ》る。
|三州《さんしう》『オイ、ここまで|漸《やうや》く|来《く》るは|来《き》たが、|玉治別《たまはるわけ》|以下《いか》の|宣伝使《せんでんし》はどうだらう。|我々《われわれ》を|此《この》|儘《まま》にして|放任《はうにん》して|置《お》くだらうかな。|彼奴《あいつ》は|馬鹿正直者《ばかしやうぢきもの》だから、「|折角《せつかく》|神《かみ》の|綱《つな》の|懸《かか》つた|三人《さんにん》、|再《ふたた》び|邪道《じやだう》へ|逆転《ぎやくてん》させては、|大神様《おほかみさま》に|申訳《まをしわけ》がない」とかなんとか|云《い》つて、|俺達《おれたち》の|後《あと》を|追《お》つかけて|来《き》はせまいかと、そればつかりが|気《き》にかかるよ』
|甲州《かふしう》『|向《むか》うにも|現《げん》に|三人《さんにん》の|足《あし》を|折《を》られた|連中《れんちう》が|居《を》るのだから、|去《さ》る|者《もの》は|追《お》はず、|来《きた》る|者《もの》は|拒《こば》まずとか、|何《なん》とか|御都合《ごつがふ》の|好《よ》い|理屈《りくつ》を|付《つ》けて、|此《この》アタ|辛《つら》い|山坂《やまさか》を、|行方《ゆくへ》も|知《し》れぬ|我々《われわれ》の|後《あと》を|追《お》つかけて|来《き》さうな|筈《はず》がない。マア|安心《あんしん》したが|宜《よ》からうぞ』
|雲州《うんしう》『そんな|心配《しんぱい》は|要《い》らないよ。|三人《さんにん》|残《のこ》してあるのだから、|三人《さんにん》が|三人《さんにん》の|足《あし》にでも|喰《くら》ひ|付《つ》いて、|何《なん》とか|此方《こちら》へ|来《こ》ない|様《やう》に|工夫《くふう》をするだらう。そんな|取越苦労《とりこしくらう》は|止《や》めたが|良《よ》いワイ。|彼奴等《あいつら》|三人《さんにん》は|足《あし》が|痛《いた》いと|云《い》つて、キツと|津田《つだ》の|湖《うみ》を、|玉治別《たまはるわけ》と|一緒《いつしよ》に|船《ふね》に|乗《の》つて|高春山《たかはるやま》の|山麓《さんろく》に|渡《わた》る|手段《しゆだん》をとり、|湖水《こすゐ》のまん|中《なか》|程《ほど》で、|俄《にはか》に|足痛《あしいた》が|癒《なほ》り、|彼奴《あいつ》の|懐《ふところ》の|秘密《ひみつ》|書類《しよるゐ》を|取《と》り|返《かへ》し、ウマク|目的《もくてき》を|達《たつ》するに|定《き》まつて|居《を》る。それよりも|俺達《おれたち》は|軍用金《ぐんようきん》の|調達《てうたつ》が|肝腎《かんじん》だから、|自分《じぶん》の……これから|作戦《さくせん》|計画《けいくわく》を|進《すす》める|事《こと》にしようぢやないか』
|三州《さんしう》『|何《なに》を|言《い》つても、|百人力《ひやくにんりき》と|云《い》ふ|豪傑《がうけつ》の|杢助《もくすけ》だから、|到底《たうてい》|正面《しやうめん》|攻撃《こうげき》では|目的《もくてき》を|達《たつ》する|事《こと》は|出来《でき》ない。|幸《さいは》ひに|女房《にようばう》の|葬式《さうしき》の|手伝《てつだ》ひや、|穴掘《あなほり》までしてやつたのだから、|先方《むかふ》は|気《き》を|許《ゆる》して|俺達《おれたち》を|歓迎《くわんげい》するにきまつて|居《ゐ》る。さうしてまだ|女房《にようばう》の|一七日《ひとなぬか》は|経《た》たないのだから、|彼奴《あいつ》も|菩提心《ぼだいしん》を|出《だ》して、|手荒《てあら》い|事《こと》はせないに|定《きま》つて|居《ゐ》るよ』
|甲州《かふしう》『|併《しか》し|高春山《たかはるやま》に|行《ゆ》くと|云《い》つて|出《で》たのだから、|今更《いまさら》|何《なん》と|云《い》つて、|杢助《もくすけ》をチヨロ|魔化《まくわ》さうか、ウツカリ|拙劣《へた》な|事《こと》を|云《い》ふと、|計略《けいりやく》の|裏《うら》をかかれて、|取返《とりかへ》しのならぬ|大失敗《だいしつぱい》に|陥《おちい》るかも|知《し》れない。|爰《ここ》は|余程《よほど》|智慧袋《ちゑぶくろ》を|圧搾《あつさく》して、|違算《ゐさん》なき|様《やう》に|仕組《しぐ》んでいかねばなるまい。|一《ひと》つ|此処《ここ》で|練習《れんしふ》をやつて|行《ゆ》かうではないか』
|三州《さんしう》『オヽそれが|宜《よ》からう』
|甲州《かふしう》『|三州《さんしう》、お|前《まへ》は|杢助《もくすけ》になるのだ。さうして|俺《おれ》と|雲州《うんしう》がウマク|化《ば》け|込《こ》んで|這入《はい》るのだ。|其《その》|時《とき》の|問答《もんだふ》を、|今《いま》から|研究《けんきう》して|置《お》かねばならぬからのう』
|三州《さんしう》『|杢助《もくすけ》の|腹《はら》の|中《なか》が|分《わか》らぬぢやないか。それから|観測《くわんそく》せぬ|事《こと》には|此《この》|練習《れんしふ》も|駄目《だめ》だぞ。……|雲州《うんしう》、|汝《きさま》が|一層《いつそ》の|事《こと》、|杢助《もくすけ》になつたらどうだ。|体《からだ》も|大《おほ》きいなり、どこともなしにスタイルが|似《に》て|居《を》るからなア』
|雲州《うんしう》『|俺《おれ》も|俄《にはか》に|百人力《ひやくにんりき》の|勇士《ゆうし》になつたのかな。ヨシヨシ|芝居《しばゐ》をするにも、|憎《にく》まれ|役《やく》は|引合《ひきあ》はぬ。|汝《きさま》は|小盗人役《こぬすとやく》、|此《この》|雲州《うんしう》が|杢助《もくすけ》だ。サア|何《なん》なとウマく|瞞《だま》して|来《こ》い……|雲州《うんしう》|否《いな》|杢助《もくすけ》は|智勇《ちゆう》|兼備《けんび》の|豪傑《がうけつ》だから、|借《か》つて|来《き》た|智慧《ちゑ》や、|一夜作《いちやづく》りの|考《かんが》へではチヨロ|魔化《まくわ》す|事《こと》は|到底《たうてい》|駄目《だめ》だぞ。|此《この》|祠《ほこら》を|杢助《もくすけ》の|館《やかた》と|仮定《かてい》して、|貴様等《きさまら》|両人《りやうにん》が|金銀《きんぎん》の|小玉《こだま》を、ウマく|手《て》に|入《い》れるべく|言葉《ことば》を|尽《つく》して|来《く》るのだよ』
|三州《さんしう》『|定《きま》つた|事《こと》だ。シツカリして|肝腎《かんじん》の|宝《たから》を、……|杢助《もくすけ》……どうして|俺《おれ》が|盗《と》るか、|妙案《めうあん》|奇策《きさく》を|出《だ》して|来《く》るから、|今後《こんご》の|参考《さんかう》|資料《しれう》にするがよからう。|泥棒学《どろばうがく》の|及第点《きふだいてん》を|貰《もら》ふか、|貰《もら》へぬか、ここが|成功《せいこう》|不成功《ふせいこう》の|分界線《ぶんかいせん》だ。サア|甲州《かふしう》、|二三丁《にさんちやう》|出直《でなほ》して、|改《あらた》めて|杢助館《もくすけやかた》へ|乗《の》り|込《こ》むとしようかい』
と|二人《ふたり》は|此《この》|場《ば》より|姿《すがた》を|消《け》した。
|雲州《うんしう》『|暫《しばら》く|此《この》|祠《ほこら》を|拝借《はいしやく》して、|杢助館《もくすけやかた》と|仮定《かてい》し、|泥棒《どろばう》の|襲来《しふらい》に|備《そな》へねばなるまい。|併《しか》し|盗人《ぬすと》は|何時《いつ》|来《く》るか|分《わか》らないから、|常《つね》に|戸締《とじま》りを|厳重《げんぢう》にして|置《お》くのだが、|今度《こんど》の|盗人《ぬすと》は|予告《よこく》して|来《く》るのだから、|充分《じうぶん》の|用意《ようい》が|出来《でき》さうなものだが、さて|差当《さしあた》つて|防禦《ばうぎよ》の|方法《はうはふ》が|無《な》い。|本当《ほんたう》の|杢助《もくすけ》なれば|小盗人《こぬすと》の|五十《ごじふ》や|百《ひやく》は|手玉《てだま》に|取《と》つて|振《ふ》るのだが、|此《この》|杢助《もくすけ》はそう|云《い》ふ|訳《わけ》にも|行《ゆ》かず、|何《なん》とか|工夫《くふう》をせねばなるまい……オウさうだ。|今《いま》|持《も》つて|帰《かへ》ると|云《い》ふ|所《ところ》へ、コラツと|大喝一声《だいかついつせい》|腰《こし》を|抜《ぬ》いてやるに|限《かぎ》る。|玉治別《たまはるわけ》の|宣伝使《せんでんし》が|何事《なにごと》も|言霊《ことたま》で|解決《かいけつ》がつくと|云《い》ひよつた。|一《ひと》つ|力《ちから》|一杯《いつぱい》|呶鳴《どな》つてやらう。|併《しか》し|此処《ここ》に|金銀《きんぎん》の|代《かは》りに|砂利《じやり》でも|拾《ひろ》つて、|褌《ふんどし》に|包《つつ》んで、|分《わか》らぬ|様《やう》に|置《お》いとくのだなア』
と|真黒《まつくろ》の|褌《ふんどし》の|包《つつみ》を|祠《ほこら》の|下《した》にソツと|隠《かく》した。
|三州《さんしう》『オイ|甲州《かふしう》、|本当《ほんたう》の|杢助《もくすけ》だないから、|盗《と》るのは|容易《ようい》だが、|併《しか》しそれでは|本当《ほんたう》の|練習《れんしふ》にならぬ。|何《なん》とか|本真者《ほんまもの》と|見做《みな》してゆかねば、|本場《ほんば》になつてから|当《あて》が|外《はづ》れ、|首《くび》つ|玉《たま》でも|抜《ぬ》かれたら|大変《たいへん》だからのう』
|甲州《かふしう》『|到底《たうてい》|強盗《がうたう》は|駄目《だめ》だ。マア|住込《すみこ》み|泥棒《どろばう》の|方法《はうはふ》が|安全《あんぜん》|第一《だいいち》だらう。|彼奴《あいつ》は|嬶《かか》アに|死《し》なれて|困《こま》つて|居《を》る|所《ところ》、|我々《われわれ》が|親切《しんせつ》に|隠坊《おんぼ》の|役《やく》まで|勤《つと》めてやつたのだから、|巧妙《うま》く|行《や》つたら|杢助《もくすけ》も|気《き》を|許《ゆる》して、|俺達《おれたち》を|泊《と》めて|呉《く》れるに|違《ちが》ひはない……サア|其《その》|覚悟《かくご》で|行《ゆ》くのだよ』
「ヨシヨシ」と|三州《さんしう》は|勢《いきほひ》|込《こ》んで|行《ゆ》かうとする。|甲州《かふしう》は|袖《そで》をグツと|握《にぎ》り、
|甲州《かふしう》『オイオイそんな|戦《いくさ》に|行《い》く|様《やう》な|調子《てうし》で|行《い》つては|駄目《だめ》だ。|涙《なみだ》でもドツサリと|目《め》に|溜《た》めて、|如何《いか》にも|同情《どうじやう》に|堪《た》へないと|云《い》ふ|態度《たいど》を|示《しめ》して|行《ゆ》かねば|先方《むかふ》が|気《き》を|許《ゆる》さぬぢやないか』
|三州《さんしう》『まだ|一二丁《いちにちやう》もあるから、ここで|目《め》に|唾《つば》をつけても、|到着《たうちやく》までには|風《かぜ》がスツカリ|拭《ふ》き|取《と》つて|了《しま》ひよる。|先方《むかう》へ|行《い》つてから、ソツと|唾《つば》を|付《つ》けるのだ。|忘《わす》れちや|可《い》かぬよ』
|甲州《かふしう》『|忘《わす》れるものかい』
とコソコソと|足音《あしおと》を|忍《しの》ばせ|乍《なが》ら、
『モシモシ|杢助様《もくすけさま》、|私《わたくし》は|此間《こなひだ》|御宅《おたく》で|御世話《おせわ》になつたり、あんまり|人《ひと》の|喜《よろこ》ばぬ|隠坊《おんぼ》までさして|戴《いただ》きました|三州《さんしう》、|甲州《かふしう》……モ|一人《ひとり》は|半鐘《はんしよう》|泥棒《どろばう》の|雲州《うんしう》で|御座《ござ》います。|併《しか》し|雲州《うんしう》は|其《その》|名《な》の|如《ごと》く、どつかへウンでもやりに|行《い》つたと|見《み》えて|遅《おく》れましたが、やがて|後《あと》から|来《く》るでせう。あんな|奴《やつ》はどうでも|良《い》いのだ。|折角《せつかく》|盗《と》つた|宝《たから》を|分配《ぶんぱい》するのにも|配当《わけまへ》が|少《すく》なくなるから、|同《おな》じ|事《こと》なら|二人《ふたり》が|成功《せいこう》すれば、それの|方《はう》が|余程《よほど》|結構《けつこう》だ』
|三州《さんしう》『コラコラそんな|腹《はら》の|中《なか》を|先《さき》へ|言《い》つて|了《しま》ふとスツカリ|落第《らくだい》だ。|不成功《ふせいこう》|疑《うたがひ》なし。ここは|杢助館《もくすけやかた》ぢやないか』
|甲州《かふしう》『|杢助《もくすけ》なれば|又《また》|其《その》|考《かんが》へも|出《で》るのだが、|現在《げんざい》|雲州《うんしう》が|此処《ここ》に|居《を》ると|思《おも》へば、|本気《ほんき》になつて|泥棒《どろばう》の|練習《れんしふ》も|出来《でき》ぬぢやないか』
|三州《さんしう》『|幸《さいは》ひ、|雲州《うんしう》の|杢助《もくすけ》がどつかへ|行《い》つて|居《を》ると|見《み》えて、|不在《るす》だから|良《い》いものの、そんな|事《こと》が|聞《きこ》えたら、サツパリ|駄目《だめ》だぞ』
|甲州《かふしう》『さうだと|云《い》つて、|我《わが》|良心《りやうしん》の|詐《いつは》らざる|告白《こくはく》だもの』
|三州《さんしう》『|良心《りやうしん》が|聞《き》いて|呆《あき》れるワ。|貴様《きさま》の|両親《りやうしん》もエライ|放蕩《ごくだう》の|子《こ》を|持《も》つたものぢや……と|云《い》つて|泣《な》きの|涙《なみだ》で|暮《くら》して|居《を》るだらう』
|甲州《かふしう》『ヤア|其《その》|涙《なみだ》で|思《おも》ひ|出《だ》した。|早《はや》く|唾《つばき》を|付《つ》けぬかい』
|三州《さんしう》『そんな|大《おほ》きな|声《こゑ》で|言《い》うと、|発覚《ばれ》て|了《しま》ふぞ。|此方《こちら》は|何程《なにほど》|目《め》に|唾《つばき》を|付《つ》けても、|先方《むかふ》が|音《おと》に|聞《きこ》えた【ツバ】|者《もの》だから、グヅグヅしてると、|一《いち》も|取《と》らず|二《に》も|取《と》らず、アフンとせねばなるまいぞ。……モシモシ|杢助《もくすけ》さま、|其《その》|後《ご》、よう|御訪《おたづ》ねを|致《いた》しませなんだが、|御機嫌《ごきげん》は|宜《よろ》しいかな、お|嬢《ぢやう》さまも|御変《おかは》りはありませぬか』
|雲州《うんしう》『|此《この》|真夜中《まよなか》にお|前達《まへたち》は|何《なに》しに|来《き》たのだ。|折角《せつかく》|改心《かいしん》し|乍《なが》ら、|俺《おれ》の|持《も》つて|居《を》る|金銀《きんぎん》に|眼《まなこ》が|眩《くら》んで、|魔道《まだう》へ|逆転《ぎやくてん》して|来《き》たのだらう。モウ|良《い》い|加減《かげん》に|改心《かいしん》をしたらどうだ。|悪《あく》をする|程《ほど》|世《よ》の|中《なか》に|馬鹿《ばか》な|奴《やつ》はありませぬぞ。|仮令《たとへ》|人間《にんげん》は|知《し》らずとも、|天《てん》|知《し》る|地《ち》|知《し》る、|自分《じぶん》の|精霊《せいれい》たる|本守護神《ほんしゆごじん》も、|副守護神《ふくしゆごじん》も|皆《みな》|知《し》つて|居《ゐ》る。|天網恢々《てんまうくわいくわい》|疎《そ》にして|漏《も》らさず。|良《い》い|加減《かげん》に|小盗人《こぬすと》を|廃《や》めて、|結構《けつこう》な|無形《むけい》の|宝《たから》を|手《て》に|入《い》れる|事《こと》を、|何故《なぜ》|心《こころ》がけぬか。|俺《おれ》は|女房《にようばう》がなくなつて|非常《ひじやう》に|無情《むじやう》を|感《かん》じて|居《を》るのだ。
|白銀《しろがね》も|黄金《こがね》も|玉《たま》も|何《なに》かせん  |女房《にようばう》にます|宝《たから》|世《よ》にあらめやも
|併《しか》し|乍《なが》ら|肉体《にくたい》のある|限《かぎ》り、|衣食住《いしよくぢう》の|必要《ひつえう》がある。|汝《きさま》に|慈善的《じぜんてき》に|盗《と》らしてやりたいのは|山々《やまやま》であるが、さうウマくは|問屋《とひや》が|卸《おろ》さぬ。それよりも|善心《ぜんしん》に|立帰《たちかへ》つたらどうだい』
|三州《さんしう》『オイ|雲州《うんしう》、しようも|無《な》い|事《こと》を|言《い》ひよると、|張合《はりあひ》が|抜《ぬ》けて|泥棒《どろばう》が|出来《でき》ないぢやないか。アーアーもう|廃業《はいげふ》したくなつた。|併《しか》し|乍《なが》ら|遠州《ゑんしう》、|駿州《すんしう》、|武州《ぶしう》に|対《たい》しても、|足《あし》まで|叩《たた》き|懲《こら》して|仕組《しぐ》んだ|狂言《きやうげん》だから、|不成功《ふせいこう》に|終《をは》れば|彼奴等《あいつら》に|合《あ》はす|顔《かほ》がない。モウちつと|変《かは》つた|事《こと》を|言《い》つてくれ』
|雲州《うんしう》『ヨシ、|御註文《ごちうもん》|通《どほ》り|変《かは》つた|事《こと》を|言《い》つてやらう……|其《その》|方《はう》はアルプス|教《けう》の|鬼婆《おにばば》の|乾児《こぶん》であらうがな。|改心《かいしん》したと|見《み》せかけ、|目《め》に|唾《つばき》を|付《つ》け、|俺《おれ》の|心《こころ》に|油断《ゆだん》をさせ、|金銀《きんぎん》の|小玉《こだま》をウマくシテやらうと|思《おも》つて|来《き》たのだらう。そんな|事《こと》は|俺《おれ》の|天眼通《てんがんつう》でチヤンと|前《さき》に|承知《しようち》して|居《を》るのだ。|此《この》|閾《しきゐ》|一足《ひとあし》でも|跨《また》げるなら|跨《また》げて|見《み》よ。|百人力《ひやくにんりき》の|杢助《もくすけ》だ。|手足《てあし》を|引《ひ》き|千切《ちぎ》つて、|亡《な》き|女房《にようばう》の|御供《おそな》へにしてやらうか。|狐鼠盗人《こそぬすびと》|奴《め》』
|三州《さんしう》『オイオイ|雲州《うんしう》、さう|出《で》られては|俺《おれ》の|施《ほどこ》すべき|手段《しゆだん》がないぢやないか。|女郎屋《ぢよらうや》の|二階《にかい》で|孔子《こうし》の|教《をしへ》を|説《と》く|様《やう》な|事《こと》を|言《い》ひよるものだから、|拍子《ひやうし》が|抜《ぬ》けたワイ。|強《つよ》く|出《で》いと|云《い》へばそんな|縁起《えんぎ》の|悪《わる》い|事《こと》を|言《い》ひよつて、どうする|積《つも》りだ。チツとは|俺《おれ》の|立場《たちば》になつて|見《み》よ』
|雲州《うんしう》『サア|勝手《かつて》に|持《も》つて|帰《かへ》れ。|貴様《きさま》の|執着心《しふちやくしん》の|懸《かか》つたこの|金銀《きんぎん》、|長《なが》い|浮世《うきよ》を|短《みじか》う|太《ふと》う|暮《くら》さうと|汝《きさま》は|思《おも》つて|居《を》るが、|幽界《いうかい》へ|行《い》つて|鬼《おに》に|金《かね》の|蔓《つる》で|首《くび》を|絞《し》められ、|逆様《さかさま》に|吊《つ》られるのを|覚悟《かくご》して|持《も》つて|帰《かへ》れ』
|甲州《かふしう》『コレヤ|雲州《うんしう》の|奴《やつ》、しようも|無《な》い|事《こと》を|云《い》ふない。そんな|事《こと》を|聞《き》くと|泥棒《どろばう》も|出来《でき》ぬぢやないか』
|雲州《うんしう》『さうだと|云《い》つて|真理《しんり》は|依然《やつぱり》|真理《しんり》だ。|取《と》りたい|物《もの》は|幾《いく》らでも|取《と》らしてやらう。|其《その》|代《かは》りに|俺《おれ》も|取《と》つてやらう。|汝《きさま》の|一《ひと》つより|無《な》い|生命《いのち》を……|金《かね》が|大事《だいじ》か|生命《いのち》が|大事《だいじ》か、|事《こと》の|大小軽重《だいせうけいぢゆう》をよく|考《かんが》へて|見《み》い』
|甲州《かふしう》『そんな|事《こと》を|考《かんが》へて|居《を》つて、|泥棒《どろばう》|商売《しやうばい》が|出来《でき》るものかい』
|雲州《うんしう》『|泥棒《どろばう》|商売《しやうばい》が|辛《つら》けれや|働《はたら》け。|働《はたら》くのが|厭《いや》なら|睾丸《きんたま》なつと|銜《くは》へて|死《し》ぬるか、|首《くび》でも|吊《つ》つた|方《はう》が|良《い》いワイ』
|三州《さんしう》『ヤア|此奴《こいつ》ア|駄目《だめ》だ。モウ|練習《れんしふ》も|打切《うちき》りにしようかい』
|雲州《うんしう》『さうすると|汝《きさま》は|最早《もはや》|断念《だんねん》したのか。|腰抜《こしぬけ》|野郎《やらう》だなア。それだから|天州《てんしう》の|乾児《こぶん》になつて、ヘイヘイ ハイハイと|箱根《はこね》の|坂《さか》を|痩馬《やせうま》を|追《お》ふ|様《やう》に|言《い》つて、いつ|迄《まで》も|頭《あたま》が|上《あ》がらないのだ。|鉄槌《かなづち》の|川流《かはなが》れとは|汝《きさま》の|事《こと》だよ。|何《なに》なつと|持《も》つて|行《ゆ》かぬかい』
|三州《さんしう》『|持《も》つて|帰《い》ねと|言《い》つた|所《ところ》で、|何《なに》も|無《な》いぢやないか』
|雲州《うんしう》『|其処辺《そこら》を|探《さが》して|見《み》い。|金銀《きんぎん》の|妄念《もうねん》が|褌《ふんどし》に|包《つつ》んであるかも|知《し》れぬ』
|甲州《かふしう》『オイ|三州《さんしう》、どうしよう。|何《なん》でも|好《い》いから|手《て》に|入《い》れた|摸擬《かた》をせぬ|事《こと》には、|練習《れんしふ》にならぬぢやないか』
|三州《さんしう》『さうだと|云《い》つて、プンプン|臭気《にほひ》のする、|斯《こ》んな|褌《ふんどし》が、どうして|懐《ふところ》へ|入《い》れられるものか。|屋根葺《やねふき》の|褌《ふんどし》を|三年三月《さんねんみつき》、|鰯《いはし》の|糞壺《どうけんつぼ》の|中《なか》へ|突込《つつこ》んで|置《お》いた|様《やう》な|臭気《にほひ》がして|居《を》るワ……|汝《きさま》|御苦労《ごくらう》だが、|懐《ふところ》へ|入《い》れてくれ。|之《これ》でもヤツパリ|金包《きんつつみ》だ、|黄金色《わうごんいろ》の|新《あたら》しい|奴《やつ》がそこらに|付着《ふちやく》して|居《を》るぞ。|褌《まはし》は|古《ふる》うても|尻糞《しりくそ》は|新《あたら》しい。|早《はや》く|処置《しよち》を|付《つ》けて、|此奴《こいつ》の|化物《ばけもの》ぢやないが、カイた|物《もの》がものを|言《い》ふ|時節《じせつ》だ。|併《しか》し|書《か》いた|物《もの》と|言《い》へば、|玉治別《たまはるわけ》の|懐《ふところ》にある|一件《いつけん》|書類《しよるゐ》を|巧妙《うま》く|遠州《ゑんしう》の|奴《やつ》、|取返《とりかへ》しよつたか|知《し》らぬて』
|雲州《うんしう》『そんな|外《ほか》の|話《はなし》をする|所《どころ》ぢやない。|一意専心《いちいせんしん》、さしせまつた|大問題《だいもんだい》を|研究《けんきう》しなくてはなるまいが』
|三州《さんしう》『|杢助《もくすけ》さま、|私《わたくし》は|真実《しんじつ》|改心《かいしん》|致《いた》しました。|玉治別《たまはるわけ》の|宣伝使《せんでんし》の|仰有《おつしや》るには……|多寡《たくわ》が|知《し》れた|高春山《たかはるやま》の|鬼婆《おにばば》|位《ぐらゐ》に、お|前達《まへたち》|大勢《おほぜい》をゴテゴテ|連《つ》れて|行《ゆ》くと|見《み》つともない。|三人《さんにん》|居《を》れば|大丈夫《だいぢやうぶ》だ。それよりも|早《はや》く|杢助《もくすけ》さまの|宅《うち》へ|行《い》つて、|亡《な》くなられた|奥《おく》さまの|御霊前《ごれいぜん》で|祝詞《のりと》を|奏《あ》げて|来《こ》い。|何《いづ》れ|帰路《かへり》には|杢助《もくすけ》さまのお|宅《うち》へ|寄《よ》るから、それまで|毎日《まいにち》|神妙《しんめう》にお|前達《まへたち》|三人《さんにん》は、|故人《こじん》の|霊《れい》を|慰《なぐさ》めるのだ。|又《また》|杢助《もくすけ》さまも|寂《さび》しいだらうから、|話相手《はなしあひて》になつてあげるが|良《い》い。|嬶《かか》アに|死《し》なれた|時《とき》は|何《なん》となく、|世《よ》の|中《なか》が|寂寥《せきれう》になり、|憂愁《いうしう》の|涙《なみだ》に|暮《く》れるものだから、|面白《おもしろ》い|話《はなし》でもして、|一呼吸《ひといき》の|間《ま》でも、|心《こころ》を|慰《なぐさ》めてあげるが|宜《よ》い。それが|一番《いちばん》に|亡者《まうじや》の|精霊《せいれい》に|対《たい》しても、|杢助《もくすけ》さまに|対《たい》しても、|最善《さいぜん》の|道《みち》だ……と|斯《か》う|仰有《おつしや》つた。それで|暫《しばら》くの|間《あひだ》お|宅《うち》へ|御厄介《ごやくかい》に|参《まゐ》りました。|決《けつ》して|金銀《きんぎん》などを|盗《と》らうと|思《おも》うて|三人《さんにん》が|相談《そうだん》して|来《き》たのぢやありませぬから、|留守《るす》は|私等《わたくしら》|三人《さんにん》が|立派《りつぱ》にしてあげます。サア|暫《しばら》く|都会《ひろみ》へでも|出《で》て|遊《あそ》んで|来《き》なさるか、|友達《ともだち》の|宅《うち》へでも|行《い》つて、|酒《さけ》でも|飲《の》んで|来《き》なさい。あなたの|奥《おく》さまの|霊《れい》が|玉治別《たまはるわけ》さまに|姿《すがた》を|現《あら》はして、|涙《なみだ》を|零《こぼ》して|頼《たの》まれたさうです。さうして|金《かね》を|見《み》えぬ|所《ところ》へ|隠《かく》して|置《お》くのは、|金《かね》に|対《たい》して|殺生《せつしやう》だ。|妾《わたし》の|死骸《しがい》を|埋葬《いけ》たも|同然《どうぜん》だから、よく|分《わか》る|所《ところ》へ|出《だ》し、さうして|妾《わたし》にも|一遍《いつぺん》|見《み》せる|為《ため》に、|霊前《れいぜん》へ|三四日《さんよつか》|供《そな》へて|置《お》いて|下《くだ》さい。さうすれば|妾《わたし》は|天晴《あつぱ》れ|成仏《じやうぶつ》|致《いた》します…………と|斯《か》う|仰有《おつしや》つたさうで、|玉治別《たまはるわけ》さまが……エー|此《この》|亡者《まうじや》は|執着心《しふちやくしん》が|強《つよ》いと|見《み》えて、|死《し》んでからまでも|金銀《きんぎん》に|目《め》をくれるのか、|身魂《みたま》の|因縁《いんねん》と|云《い》ふものは|仕方《しかた》のないものだ…………と|仰有《おつしや》いました。どうぞ|霊前《れいぜん》へお|供《そな》へになつても、|我々《われわれ》|三人《さんにん》が|盗《と》るのぢやありませぬ。|万一《まんいち》|無《な》くなつたら、それはインヘルノの|立派《りつぱ》な|旅館《りよくわん》で|宿泊《とま》る|旅費《りよひ》に、|奥《おく》さまが|持《も》つて|行《ゆ》かれたのでせうから、|惜気《をしげ》なく|執着心《しふちやくしん》を|棄《す》てて|御出《おだ》しなさる|方《はう》が|宜《よろ》しからう……なア|杢助《もくすけ》さま』
|雲州《うんしう》『|此《この》|杢助《もくすけ》は|金《かね》なんかに|執着《しふちやく》はない。|併《しか》し|乍《なが》ら|人間《にんげん》と|云《い》ふ|者《もの》は|宝《たから》を|見《み》るとつい|悪心《あくしん》が|起《おこ》るものだから、|折角《せつかく》|改心《かいしん》したお|前達《まへたち》に|又《また》|罪《つみ》を|作《つく》らすは|可哀相《かはいさう》だによつて、マア|金《かね》の|在処《ありか》は|知《し》らさぬがよい。|強《た》つて、それでも|知《し》りたければ|知《し》らしてやらぬ|事《こと》は|無《な》い。|嬶《かか》アの|死骸《しがい》の|懐《ふところ》に|持《も》たして|帰《い》なしてあるのだから、|玉治別《たまはるわけ》の|神《かみ》さまの|前《まへ》へ|現《あら》はれてそんな|事《こと》を|女房《にようばう》が|言《い》ふ|筈《はず》がない。|大方《おほかた》お|前達《まへたち》が|仕組《しぐ》んで|来《き》たのだらう。これから|墓《はか》へいつて|土《つち》を|掘《ほ》り|起《おこ》し、|逆様《さかさま》に|首《くび》を|突込《つきこ》んで、|懐《ふところ》の|金《かね》を|盗《と》るなら|取《と》つて|見《み》い。|女房《にようばう》は|金《かね》に|執着心《しふちやくしん》の|強《つよ》い|奴《やつ》だから、キツト|冷《つめ》たい|手《て》で、お|前達《まへたち》の|素首《そつくび》にギユツと|抱付《だきつ》き、|頭《あたま》を|下《した》にしられて、|汝《きさま》の|尻《しり》の|穴《あな》を|花立《はなたて》に|代用《だいよう》するかも|知《し》れやしないぞ。それでも|承知《しようち》なら|墓《はか》へいつて|掘《ほ》つて|行《い》かつしやい』
|三州《さんしう》『オイ|雲州《うんしう》、モウ|汝《きさま》の|杢助《もくすけ》は|駄目《だめ》だ。|臨機応変《りんきおうへん》、|兎《と》も|角《かく》|杢助《もくすけ》の|住家《すみか》へいつてから、|当意即妙《たういそくめう》の|知識《ちしき》を|発揮《はつき》する|事《こと》にしよう。|何事《なにごと》も|俺《おれ》の|云《い》ふ|通《とほ》りにするのだぞ。|衆口《しうこう》|金《きん》を|溶《とろ》かす……と|云《い》つて、|大勢《おほぜい》が|喋舌《しやべ》ると、|目的《もくてき》の|金銀《きんぎん》が|溶《とろ》けて|無《な》くなつて|了《しま》うと|困《こま》るから、|総《すべ》て|俺《おれ》に|一任《いちにん》せいよ』
|雲州《うんしう》『|何《なん》だか|雲《くも》でも|無《な》い|様《やう》な|気《き》になつて|了《しま》つた。|杢助《もくすけ》|気分《きぶん》が|漂《ただよ》うて、|汝等《きさまら》が|泥棒《どろばう》に|見《み》えて|仕方《しかた》が|無《な》いワ』
|三州《さんしう》『|汝《きさま》も|泥棒《どろばう》ぢやないかい』
|雲州《うんしう》『モウ|此《この》|計画《けいくわく》は|中止《ちゆうし》したらどうだ。|何《なん》とはなしに|大変《たいへん》な|罪悪《ざいあく》を|犯《をか》す|様《やう》な|気《き》がしてならないのだよ』
|甲州《かふしう》『|何《いづ》れ|善《ぜん》ではない。|併《しか》し|我々《われわれ》|泥棒《どろばう》としては、|巧妙《うま》く|手《て》に|入《い》れるのが|最善《さいぜん》の|方法《はうはふ》だ。|善《ぜん》とか|悪《あく》とか、そんな|事《こと》に|心《こころ》を|奪《うば》はれて、どうして|此《この》|商売《しやうばい》が|発展《はつてん》するか。サア|大分《だいぶん》に|夜《よ》も|更《ふ》けた、これからボツボツ|行《ゆ》かう』
と|十丁《じつちやう》|許《ばか》り|前方《むかう》の|杢助《もくすけ》が|館《やかた》に、|体《からだ》を|胴震《どうぶる》ひさせ|乍《なが》ら、|萱《かや》の|穂《ほ》のそよぎにも|胸《むね》を|轟《とどろ》かせつつ|心細々《こころほそぼそ》|脚《あし》もワナワナガタガタ|震《ぶる》ひで|進《すす》んで|行《ゆ》く。
(大正一一・五・一九 旧四・二三 松村真澄録)
第七章 |誠《まこと》の|宝《たから》〔六八一〕
|湯谷ケ岳《ゆやがだけ》の|山麓《さんろく》なる|杢助《もくすけ》が|住家《すみか》へ、|面白《おもしろ》からぬ|目的《もくてき》を|達成《たつせい》せむがために、|高天原《たかあまはら》の|神国《しんこく》より|根底《ねそこ》の|国《くに》へ|急転《きふてん》|落下《らくか》したる|心《こころ》の|鬼《おに》の|雲州《うんしう》、|三州《さんしう》、|甲州《かふしう》は、|疵《きず》|持《も》つ|足《あし》のきよろきよろと|木挽《こびき》の|小屋《こや》に|近《ちか》づいた。
|雲州《うんしう》『サア|兄弟《きやうだい》、|是《こ》れからが|正念場《しやうねんば》だぞ。|善《ぜん》と|云《い》ふ|名詞《めいし》は|此処《ここ》ですつかり|抹殺《まつさつ》して、|飽迄《あくまで》|悪《あく》で|遣《や》り|通《とほ》すのだ。|併《しか》し|乍《なが》ら|悪《あく》を|為《な》さむとする|者《もの》は、|悪相《あくさう》を|現《あら》はしては|出来《でき》ない。|善《ぜん》の|仮面《かめん》を|被《かぶ》らねば|敵《てき》に|内兜《うちかぶと》を|見透《みす》かされて|仕舞《しま》ふから、|三州《さんしう》、|汝《きさま》は|一《ひと》つ|殊勝《しゆしよう》らしいお|経《きやう》を|唱《とな》へるのだぞ』
|三州《さんしう》『お|経《きやう》を|唱《とな》へと|云《い》つても、|何《なん》にも【てん】で|知《し》らぬのだから|仕方《しかた》がないワ』
|雲州《うんしう》『|何《なん》でも|好《い》い。|其処《そこ》らの|物《もの》を|出鱈目《でたらめ》|放題《はうだい》に|並《なら》べるのだ。|一《ひと》つ|俺《おれ》が|云《い》うて|見《み》ようかな。アヽ|何《なに》から|何《なに》|迄《まで》|教育《けういく》をしてやらねばならぬのか、|低能児《ていのうじ》を|捉《つか》まへたテイーチヤーさんも|大抵《たいてい》ぢやないワイ。そこらの|器具《きぐ》|万端《ばんたん》を|逆様《さかさま》に|云《い》ふのだ。|先《ま》づ|屏風《びやうぶ》に|襖《ふすま》、|鍋《なべ》に|釜《かま》、|徳利《とくり》、|杉《すぎ》に|松《まつ》、|門口《かどぐち》|其《その》|他《た》|我々《われわれ》の|名《な》だ。|門口《かどぐち》に|立《た》つて、ブベウ、マフス、ベナーマカ、チバヒ、シバヒ、ツマ、ギス、ドカー、シウウン、シウサン、シウコウ、ケワルハー、マーター、ケーワー、ニーク、ツター、ケワー、リヨーニクー、スケモクノボウニヨーノー、ギスーオーサン、ダーシン、ダーシン、ワイカワイカ、ワカイマツー、カハノー、カナーデー、クタベツナツテ、ルオーデー、ローアー、ハンニヤハラミタシンギヨウ、ウン、アボキヤ、スギコーノリーモーデ、ボードロノ、シウレン、オリーヤーマーシータ、アサ、アサ、レコラカハレカノ、ラカダヲ、ラモイ、シヨマ、ハンニヤハラミタシンギヨー、と|斯《か》う|云《い》ふのだ』
|三州《さんしう》『そんな|事《こと》|云《い》つたつて|分《わか》りやしない。もつと|分《わか》るやうに|云《い》はないか』
|雲州《うんしう》『|分《わか》らないのがお|経《きやう》の|価値《ねうち》だ。|今時《いまどき》の|蛸坊主《たこばうず》や、|宣伝使《せんでんし》に|満足《まんぞく》なお|経《きやう》の|読《よ》める|奴《やつ》があるかい』
|三州《さんしう》『オイ|甲州《かふしう》、|汝《きさま》がよく|似合《にあ》ふだらう。|一《ひと》つ|臨時《りんじ》|坊主《ばうず》が|嫌《いや》なら、|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》になつて、|宣伝歌《せんでんか》をうまく|歌《うた》つたらどうだい』
|甲州《かふしう》『それの|方《はう》が|近道《ちかみち》だ。|彼我共《ひがとも》に|意志《いし》が|疎通《そつう》して|面白《おもしろ》からう。サアこれから|俺《おれ》が|宣伝歌《せんでんか》をやる。さうすればきつと|杢助《もくすけ》の|奴《やつ》、|頭《あたま》を|下《さ》げ、|尾《を》を|掉《ふ》つて|飛《と》びつくかも|知《し》れないぞ、|汝《きさま》|達《たち》は|甲《かふ》さまの|後《あと》から|小声《こごゑ》でついて|来《こ》い』
と|甲州《かふしう》は|入口《いりぐち》に|立《た》つて、
『|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》  |玉治別《たまはるわけ》の|神司《かむつかさ》
それに|従《したが》ふ|竜国別《たつくにわけ》の  プロパガンデイストに|従《したが》ひて
|湯屋《ゆや》が|峠《たうげ》を|打《う》ち|渡《わた》り  |津田《つだ》の|湖水《こすゐ》の|辺《ほとり》まで
やつと|進《すす》んで|来《き》た|折《をり》に  |玉治別《たまはるわけ》の|宣伝使《せんでんし》
|俄《にはか》に|手《て》をふり|首《くび》をふり  |顔色《かほいろ》|変《か》へて|神懸《かむがかり》
これや|大変《たいへん》な|神様《かみさま》が  |懸《かか》つて|何《なに》か|仰有《おつしや》ると
お|供《とも》をして|居《ゐ》た|六人《ろくにん》は  |息《いき》を|殺《ころ》して|畏《かしこ》まり
|其《その》|託宣《たくせん》を|待《ま》ち|居《を》れば  |玉治別《たまはるわけ》のお|言葉《ことば》に
|妾《わし》はお|杉《すぎ》の|亡霊《ばうれい》だ  |杢助《もくすけ》さまや|幼児《をさなご》を
|後《あと》に|残《のこ》して|霊界《れいかい》に  |旅立《たびだち》したが|残念《ざんねん》ぢや
|土《つち》の|底《そこ》へと|埋《う》められて  |頭《あたま》の|上《うへ》から|冷水《ひやみづ》を
|蛙《かはづ》のやうに|浴《あ》びせられ  |妾《わたし》は|困《こま》つて|居《を》りまする
|行《ゆ》きたい|所《とこ》へもよう|行《ゆ》かず  |六道《ろくだう》の|辻《つじ》をウロウロと
|彼方《あちら》|此方《こちら》と|彷徨《さまよ》ひつ  |淋《さび》しき|枯野ケ原《かれのがはら》の|中《なか》
|言問《ことと》ふ|人《ひと》も|無《な》き|折《をり》に  |実《げ》に|有難《ありがた》い|三五《あななひ》の
|神《かみ》の|教《をしへ》の|宣伝使《せんでんし》  |霊魂《みたま》の|磨《みが》けた|玉治別《たまはるわけ》の
|珍《うづ》の|使《つかひ》の|御肉体《おにくたい》  |一寸《ちよつと》|拝借《はいしやく》|致《いた》します
|可愛《かあい》い|女房《にようばう》に|先立《さきだ》たれ  まだ|東西《とうざい》も|知《し》らぬ|児《こ》を
|抱《かか》へて|此《この》|世《よ》を|淋《さび》しげに  |暮《くら》して|御座《ござ》る|我《わが》|夫《つま》の
|心《こころ》は|如何《いか》にと|朝夕《あさゆふ》に  |案《あん》じ|過《す》ごして|結構《けつこう》な
|高天原《たかあまはら》へもええ|行《ゆ》かず  |中有《ちうう》に|迷《まよ》うて|居《を》りまする
どうぞ|憐《あは》れと|思《お》ぼ|召《しめ》し  お|杉《すぎ》の|願《ねがひ》を|聞《き》いてたべ
|如何《いか》に|気強《きづよ》い|我《わが》|夫《つま》も  |二世《にせ》を|契《ちぎ》つた|女房《にようばう》の
|涙《なみだ》を|流《なが》して|頼《たの》む|事《こと》  よもや|厭《いや》とは|申《まを》すまい
せめて|十日《とをか》や|三十日《さんじふにち》  |三五教《あななひけう》に|帰順《きじゆん》した
|三《さん》|甲《かふ》|雲《うん》の|三州《さんしう》を  |我《わが》|霊前《れいぜん》に|額《ぬか》づかせ
|輪廻《りんね》に|迷《まよ》うた|我《わが》|魂《たま》を  |安心《あんしん》さして|下《くだ》さんせ
もしも|主人《しゆじん》がゴテゴテと  |疑《うたが》うて|聞《き》かぬ|事《こと》あれば
|高春山《たかはるやま》を|言向《ことむ》けて  |帰《かへ》つてござる|其《その》|時《とき》に
|玉治別《たまはるわけ》の|体《たい》を|借《か》り  |一々《いちいち》|細々《こまごま》ハズバンドに
|心《こころ》の|底《そこ》からサツパリと  |氷解《ひようかい》するよに|申《まを》しませう
|小盗人《こぬすと》ばかりを|働《はたら》いた  |此《この》|三人《さんにん》も|元《もと》からの
|決《けつ》して|悪《わる》い|奴《やつ》でない  |神《かみ》の|光《ひかり》に|照《て》らされて
|身魂《みたま》の|洗濯《せんたく》した|上《うへ》は  |尊《たふと》き|神《かみ》の|分霊《わけみたま》
|一時《いちじ》も|早《はや》く|杢助《もくすけ》の  |住居《すまゐ》に|駆《か》けつけ|幽界《いうかい》で
お|杉《すぎ》の|霊魂《みたま》が|苦《くるし》んで  |迷《まよ》うて|居《を》ると|逐一《ちくいち》に
|話《はな》して|聞《き》かして|下《くだ》されと  |玉治別《たまはるわけ》の|口《くち》を|借《か》り
|涙《なみだ》ドツサリ|流《なが》しつつ  しみじみ|頼《たの》んで|居《を》らしやつた
|袖《そで》|振《ふ》り|合《あ》ふも|多生《たしやう》の|縁《えん》  |躓《つまづ》く|石《いし》も|縁《えん》の|端《はし》
|高春山《たかはるやま》の|征伐《せいばつ》に  |行《ゆ》かねばならぬ|我《われ》なれど
|顕幽《けんいう》|共《とも》に|助《たす》け|行《ゆ》く  |誠《まこと》の|道《みち》のピユリタンと
なつた|我々《われわれ》|三人《さんにん》は  |是《これ》を|見捨《みす》ててなるものか
|杢助《もくすけ》さまがどのやうに  |頑張《ぐわんば》り|散《ち》らして|怒《おこ》るとも
|寄《よ》る|辺《べ》|渚《なぎさ》の|捨小舟《すてをぶね》  |浪《なみ》に|取《と》られた|沖《おき》の|舟《ふね》
|憐《あは》れ|至極《しごく》のお|杉《すぎ》さま  |助《たす》けて|上《あ》げたいばつかりに
|岩石《がんせき》|起伏《きふく》の|細道《ほそみち》を  |足《あし》を|痛《いた》めてようように
|此処《ここ》まで|訪《たづ》ねて|来《き》ましたぞ  |杢助《もくすけ》さまは|在宅《ざいたく》か
|早《はや》う|此《この》|戸《と》を|開《あ》けなされ  お|前《まへ》の|大事《だいじ》な|女房《にようばう》の
|私《わたし》は|頼《たの》みで|親切《しんせつ》に  |誠《まこと》|尽《つく》しにやつて|来《き》た
よもや|厭《いや》とは|言《い》はりよまい  お|杉《すぎ》さまの|精霊《せいれい》に|頼《たの》まれて
お|前《まへ》に|代《かは》はつて|霊前《れいぜん》に  お|給仕《きふじ》さして|貰《もら》ひます
サアサア|開《あ》けた サア|開《あ》けた  |開《あ》けて|嬉《うれ》しい|玉手箱《たまてばこ》
これも|全《まつた》く|三五《あななひ》の  |神《かみ》の|御蔭《おかげ》と|感謝《かんしや》して
お|前《まへ》が|今迄《いままで》|貯《たくは》へた  |金《かね》と|銀《ぎん》との|小玉《こだま》まで
|皆《みな》|霊前《れいぜん》に|置《お》き|並《なら》べ  お|杉《すぎ》の|霊《みたま》を|慰《なぐさ》めよ
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |御霊《みたま》|幸《さち》はひましまして
お|杉《すぎ》の|精霊《せいれい》の|憑《うつ》つたる  |玉治別《たまはるわけ》の|宣伝使《せんでんし》
それに|従《したが》ふ|雲《うん》、|甲《かふ》、|三《さん》  |三人《さんにん》さまのお|目《め》にかけ
|修羅《しゆら》の|妄執《まうしふ》を|晴《は》らさして  |極楽《ごくらく》|参《まゐ》りをさすがよい
|女房《にようばう》となるも|前世《さきのよ》の  |深《ふか》い|因縁《いんねん》あればこそ
|貞操《ていさう》|深《ふか》いお|杉《すぎ》さま  お|前《まへ》が|体主霊従《たいしゆれいじう》の
|慾《よく》に|捉《とら》はれ|金銀《きんぎん》に  |眼《まなこ》|眩《くら》みて|女房《にようばう》を
|根底《ねそこ》の|国《くに》に|突落《つきおと》し  |可愛《かあい》い|子供《こども》に|苦労《くらう》させ
|自分《じぶん》も|死《し》んで|根《ね》の|国《くに》や  |底《そこ》の|国《くに》へと|突込《つきこ》まれ
|無限《むげん》の|苦《く》をば|嘗《な》めて|泣《な》く  |事《こと》に【てつきり】|定《きま》つたと
|貞操《ていさう》|深《ふか》いお|杉《すぎ》さまが  |大変《たいへん》|心配《しんぱい》|遊《あそ》ばして
|我等《われら》に|伝言《ことづけ》なさつたぞ  それは|兎《と》も|角《かく》|一時《いつとき》も
|此《この》|門《かど》|開《あ》けて|下《くだ》されや  ゴテゴテ|言《い》うて|開《あ》けぬなら
|開《あ》けでもよいがお|前《まへ》さま  |未来《みらい》の|程《ほど》が|恐《おそ》ろしと
やがて|気《き》が|付《つ》く|時《とき》が|来《く》る  |神《かみ》が|表《おもて》に|現《あら》はれて
|善《ぜん》と|悪《あく》とを|立別《たてわ》けて  お|前《まへ》の|身魂《みたま》の|行先《ゆくさき》を
キツと|守《まも》つて|下《くだ》さらう  アヽ|金《かね》が|欲《ほ》しい|金《かね》が|欲《ほ》し
|欲《ほ》しいと|云《い》ふのは|俺《おれ》ぢやない  |冥途《めいど》にござるお|杉《すぎ》さまだ』
と|口《くち》から|出任《でまか》せに、|憐《あは》れつぽい|声《こゑ》を|出《だ》して|歌《うた》つて|居《ゐ》る。|杢助《もくすけ》フト|目《め》を|覚《さま》し、
|杢助《もくすけ》『なんだ。|門口《かどぐち》に|乞食《こじき》が|来《き》よつて、|蚊《か》の|泣《な》く|様《やう》な|声《こゑ》で|何《なん》だか|言《い》つて|居《ゐ》るやうだ。|腹《はら》が|空《へ》つとるのだらう。|死人《しにん》に|供《そな》へた|飯《めし》の|余《あま》りがある。|此《こ》れなつと|戴《いただ》かして、|早《はや》くボツ|払《ぱら》うてやらう。……エヽこれだけ|気《き》が|沈淪《しづ》むで|居《ゐ》るのに、|憐《あは》れつぽい|声《こゑ》を|出《だ》して、|益々《ますます》|淋《さび》しくなるワ』
と|云《い》ひつつ、|門口《かどぐち》をサラリと|開《あ》けた|杢助《もくすけ》、
『|何処《どこ》の|物貰《ものもら》ひか|知《し》らぬが、|此《この》|山中《さんちう》の|一《ひと》つ|家《や》へ|踏《ふ》み|迷《まよ》うて|来《き》たのか。|腹《はら》が|空《へ》つたらしい、|力《ちから》のない|声《こゑ》だが、|生憎《あいにく》|此《この》|頃《ごろ》は|女房《にようばう》に|死《し》なれ、|俄《にはか》に|飯《めし》|炊《た》く|事《こと》を|知《し》らず、|骨《ほね》だらけの|飯《めし》が|炊《た》いてある。さうして|女房《にようばう》の|亡霊《ばうれい》に|供《そな》へた|奴《やつ》も|沢山《たくさん》に|蓄積《たま》つて|居《ゐ》る。|恰度《ちやうど》|好《い》い|所《ところ》へ|来《き》て|呉《く》れた。|勿体《もつたい》なくて|放棄《ほか》す|事《こと》も|出来《でき》ないので|困《こま》つて|居《ゐ》た|所《ところ》だ。サア|遠慮《ゑんりよ》は|要《い》らぬ。|這入《はい》つてドツサリと|喰《く》つて|呉《く》れい』
|雲州《うんしう》『|夜中《やちう》にお|休眠《やすみ》になつて|居《ゐ》る|所《ところ》を、お|目《め》を|醒《さ》ましまして|申訳《まをしわけ》が|御座《ござ》いませぬ。|私《わたくし》は|先般《こなひだ》お|世話《せわ》になつた|雲州《うんしう》、この|二人《ふたり》は|甲州《かふしう》、|三州《さんしう》で|御座《ござ》います。|宣伝使《せんでんし》のお|伴《とも》をして|津田《つだ》の|湖辺《こへん》まで|参《まゐ》りますと、お|杉《すぎ》さまの|精霊《せいれい》が|現《あら》はれ|遊《あそ》ばして、|是非《ぜひ》|共《とも》|杢助《もくすけ》さまに|一度《いちど》|会《あ》つて|来《き》て|呉《く》れと|仰有《おつしや》つたものですから、|高春山《たかはるやま》の|征服《せいふく》の|結構《けつこう》なお|伴《とも》を|棒《ぼう》に|振《ふ》つて|漸《やうや》く|此処《ここ》までスタスタやつて|来《き》ました』
|杢助《もくすけ》『アヽさうでしたか。それは|御親切《ごしんせつ》に、|女房《にようばう》の|精霊《せいれい》も|定《さだ》めて|喜《よろこ》ぶ|事《こと》でせう。|此処《ここ》は|小杉《こすぎ》の|森《もり》の|祠《ほこら》とはチツト|広《ひろ》う|御座《ござ》いますから、ユツクリとお|這入《はい》り|下《くだ》さいませ』
|雲州《うんしう》『|何《なん》と|仰有《おつしや》います。|小杉《こすぎ》の|森《もり》の|祠《ほこら》の|前《まへ》とは、それや|貴方《あなた》|御存《ごぞん》じですか』
|杢助《もくすけ》『|御存《ごぞん》じも|御存《ごぞん》じだ、|此家《ここ》から|僅《わづ》か|四五丁《しごちやう》より|無《な》い。|俺《わし》の|日々《にちにち》|信仰《しんかう》するお|宮《みや》さまだ。|其《その》|神《かみ》さまは|国治立大神《くにはるたちのおほかみ》|様《さま》で、|何《なん》でもかでも|信神《しんじん》の|徳《とく》に|依《よ》つて|知《し》らして|下《くだ》さるのだ。お|三人様《さんにんさま》、|随分《ずゐぶん》|作戦《さくせん》|計画《けいくわく》は|手落《ておち》なく|整《ととの》ひましたかなア。イヤ|成功《せいこう》する|見込《みこみ》がありますかな。|玉治別《たまはるわけ》の|持《も》つて|居《を》る|秘密《ひみつ》|書類《しよるゐ》を、|遠州《ゑんしう》、|駿州《すんしう》、|武州《ぶしう》が、|今頃《いまごろ》はウマク|手《て》に|入《い》れて|御座《ござ》るでせう。お|前等《まへたち》も|負《ま》けない|様《やう》に|計略《けいりやく》を|廻《めぐ》らして、|金銀《きんぎん》の|小玉《こだま》を|手《て》に|入《い》れたが|良《よ》からうぞ』
|三人《さんにん》は|互《たがひ》に|顔《かほ》を|見合《みあは》せ、|小声《こごゑ》で、
|三人《さんにん》『オイ|怪体《けつたい》な|事《こと》を|言《い》ふぢやないか。どうしてあんな|事《こと》が|判《わか》つたのだらうか。|俺達《おれたち》の|盗賊《どろぼう》|演習《えんしふ》を、ソツと|側《そば》で|観戦《くわんせん》して|居《ゐ》たのぢやなからうか。これやモウ|駄目《だめ》だぞ』
|杢助《もくすけ》『アハヽヽヽ、|俺《わし》が|小杉《こすぎ》の|森《もり》の|祠《ほこら》に|参拝《さんぱい》して|居《を》ると、|二三人《にさんにん》の|小盗人《こぬすと》|奴《め》が、|何処《どこ》からともなくやつて|来《き》やがつて、|虫《むし》のよい|妙《めう》な|相談《そうだん》をやつて|居《ゐ》よつた。|盗《と》らぬ|先《さき》から|取《と》つた|様《やう》な|気《き》になつて、|涸《かわ》き|切《き》つた|智慧《ちゑ》を|絞《しぼ》り|出《だ》し、|終局《しまひのはて》には、|人名《じんめい》や|器具《きぐ》などの|名詞《めいし》を|逆唱《ぎやくしやう》してお|経《きやう》に|見《み》せたり、|哀《あは》れつぽい|宣伝歌《せんでんか》を|歌《うた》つて、|寒《さむ》いのにビリビリ|慄《ふる》へて|立《た》つて|居《ゐ》やがつた|奴《やつ》は|誰《だ》れだあい』
と|雷《かみなり》の|落《お》ちたやうな|声《こゑ》で|終《しまひ》の|一句《いつく》を|高《たか》く|呶鳴《どな》りつけた。
|雲州《うんしう》は|慄《ふる》ひながら、
『ワヽ|私《わたくし》は|貴方《あなた》の|御高名《ごかうめい》を|一寸《ちよつと》|拝借《はいしやく》|致《いた》しまして、|洒落《しやれ》に|芝居《しばゐ》をしたのです』
『|芝居《しばゐ》なら|芝居《しばゐ》でよい。さうすれば|金銀《きんぎん》の|小玉《こだま》は|必要《ひつえう》がないのだなア』
『ハイ、ヒヽ|必要《ひつえう》はないことはありませぬ。|併《しか》し|猿猴《ゑんこう》が|水《みづ》の|月《つき》を|探《さぐ》るやうなもので|到底《たうてい》|貴方《あなた》のお|手《て》にある|以上《いじやう》は|私《わたくし》の|自由《じいう》になりますまい。オイ|甲州《かふしう》、|三州《さんしう》、|汝《きさま》の|意見《いけん》は|何《ど》うだ。|何《なん》と|云《い》うても|遠州《ゑんしう》に|申訳《まをしわけ》が|無《な》いぢやないか』
『|汝《きさま》の|執着心《しふちやくしん》が、|俺所《おれんとこ》の|宝《たから》に|付着《ふちやく》して|居《を》るから、|俺《おれ》も|今日《こんにち》では、|最早《もはや》|金銀《きんぎん》の|恐《おそ》ろしいと|云《い》ふ|事《こと》を|悟《さと》つたのだ。|恰度《まるで》、|蜈蚣《むかで》か|蝮《はみ》か|鬼《おに》のやうな|心持《こころもち》がする。|夜前《やぜん》も|金銀《きんぎん》の|小玉《こだま》|奴《め》が|赤鬼《あかおに》や|黒鬼《くろおに》に|化《ば》けて、|鉄《かね》の|棒《ぼう》をもつて|俺《おれ》を|突刺《つきさ》しに|来《き》よつた。|今後《こんご》|此《この》|金《かね》を|手《て》に|入《い》れた|奴《やつ》は|皆《みな》|此《この》|通《とほ》りにしてやると|吐《ぬか》しよつたぞ。|本当《ほんたう》に|金《かね》が|敵《かたき》の|世《よ》の|中《なか》とは|好《よ》く|云《い》うたものだよ。|汝等《きさまら》もそれ|程《ほど》|金《かね》が|欲《ほ》しければ|持《も》つて|行《い》つたがよい。|併《しか》し|鬼《おに》が|出《で》て|即座《そくざ》に|汝《きさま》の|命《いのち》を|取《と》つても|承知《しようち》かい』
『ソヽその|鬼《おに》は|何時《いつ》でも|出《で》ますか』
『ウン、|何時《いつ》でも|出《で》て|来《く》る。|汝《きさま》の|現《げん》に|腹《はら》の|中《なか》にも|鉄棒《かなぼう》を|突《つ》いて|現《あら》はれて|居《を》るぢやないか。そして|現実的《げんじつてき》に|現《あら》はれた|鬼《おに》は、|百人力《ひやくにんりき》の|杢助《もくすけ》と|云《い》ふ|手《て》に|合《あ》はぬ【やもを】の|鬼《おに》だ。|第一《だいいち》その|鬼《おに》が|最《もつと》も|手《て》に|合《あ》はぬのだよ、アハヽヽヽ』
『そんなら|私《わたくし》はもう|是《これ》で|泥棒《どろばう》は|廃業《はいげふ》しますから|堪《こら》へて|下《くだ》さい』
『|馬鹿《ばか》|云《い》ふな、|地獄《ぢごく》の|沙汰《さた》も|金《かね》|次第《しだい》だ。|金《かね》さへあれば|何《ど》んな|恐《こは》い|鬼《おに》でも|俄《にはか》に|地蔵様《ぢざうさま》のやうになつて|仕舞《しま》ふのだ。サアサア|遠慮《ゑんりよ》は|要《い》らぬ、|御註文《ごちゆうもん》|通《どほ》り|女房《にようばう》の|御霊前《ごれいぜん》に|供《そな》へてある、トツトと|持《も》つて|帰《かへ》れ』
『そんなら|御遠慮《ごゑんりよ》なう|頂《いただ》いて|帰《かへ》りませうか』
『|薪《たきぎ》に|油《あぶら》をかけ、それを|抱《だ》いて|火中《くわちう》に|飛《と》び|込《こ》むやうな|剣呑《けんのん》な|芸当《げいたう》だぞ。|旨《うま》く|汝《きさま》でそれが|遂行《すゐかう》|出来《でき》るか』
『|背中《せなか》に|腹《はら》は|代《か》へられぬ。|一寸《ちよつと》で|宜敷《よろし》いから、|長《なが》らく|拝借《はいしやく》しようとは|申《まを》しませぬ、|触《さは》らしてさへ|下《くだ》さればよろしい』
『|俺《おれ》も|男《をとこ》だ。|持《も》つて|去《い》ねと|云《い》つたら、|綺麗《きれい》|薩張《さつぱり》|持《も》つて|帰《かへ》れツ』
『|差支《さしつか》へはありませぬか』
『|汝《きさま》が|最前《さいぜん》|小杉《こすぎ》の|森《もり》で|云《い》つて|居《ゐ》た、|玉治別《たまはるわけ》の|宣伝使《せんでんし》に|従《つ》いて|行《い》つた|三人《さんにん》の|計略《けいりやく》を、|逐一《ちくいち》|此処《ここ》で|白状《はくじやう》せい。さうすれば|其《その》|白状賃《はくじやうちん》として、あるだけ|皆《みな》|汝《きさま》に|渡《わた》してやらう。さうすれば|汝《きさま》も|泥棒《どろばう》したのでない、|俺《おれ》から|報酬《ほうしう》として|貰《もら》つたのだから』
|雲州《うんしう》|喉《のど》をゴロゴロ|云《い》はせながら、
『それは|杢助《もくすけ》さま、|真《ほんと》ですかな。|併《しか》し|乍《なが》ら|三人《さんにん》の|計略《けいりやく》を|此処《ここ》で|薩張《さつぱり》|云《い》つて|了《しま》つては、|遠州《ゑんしう》の|親方《おやかた》に|縁《えん》を|絶《き》られて|仕舞《しま》ふかも|知《し》れませぬ』
『|泥棒《どろばう》に|縁《えん》を|絶《き》られても|好《い》いぢやないか。|汝《きさま》はそれほど|泥棒《どろばう》を|結構《けつこう》な|商売《しやうばい》と|思《おも》うて|居《を》るのか』
『|金《かね》は|欲《ほ》しいし、|遠州《ゑんしう》の|親分《おやぶん》に|縁《えん》を|絶《き》られるのは|辛《つら》いし、オイ|三州《さんしう》、|甲州《かふしう》、|秘密《ひみつ》を|明《あ》かして|金《かね》を|貰《もら》つて|帰《かへ》らうか………エヽ|秘密《ひみつ》を|云《い》つて|金《かね》を|貰《もら》へば|我々《われわれ》の|估券《こけん》が|下《さ》がるなり、|何程《なにほど》|此奴《こいつ》が|強《つよ》いと|云《い》つても|知《し》れたものだ。サア|三人《さんにん》|寄《よ》つて|此奴《こいつ》をフン|縛《じば》り|持《も》つて|帰《かへ》らう』
と|云《い》ふより|早《はや》く、|杢助《もくすけ》に|三方《さんぱう》から|武者振《むしやぶ》りついた。|杢助《もくすけ》はまるで|蝶々《てふてふ》でも|押《おさ》へたやうに、
『|何《なに》を|小癪《こしやく》な、|蠅虫《はへむし》|奴《め》|等《ら》』
と|三人《さんにん》を|一緒《いつしよ》に|倒《たふ》し、グツと|股《また》に|支《ささ》へ、|蠑螺《さざえ》のやうな|拳骨《げんこつ》を|固《かた》めて、
『|是《これ》|程《ほど》|事《こと》を|分《わ》けて|俺《おれ》が|柔順《おとな》しく|出《いづ》れば【のし】|上《あが》り、|何《なん》と|云《い》ふ|事《こと》を|致《いた》すか。|最早《もはや》|汝《きさま》は|改心《かいしん》の|望《のぞ》みがない。サア|此《この》|拳骨《げんこつ》が|一《ひと》つ|触《さは》るや|否《いな》や、|汝《きさま》の|命《いのち》はそれきりだ。|俺《おれ》の|女房《にようばう》のお|伴《とも》をさしてやらう』
と|今《いま》や|打《う》たむとする|時《とき》、|六才《むつつ》になつた|娘《むすめ》のお|初《はつ》は|其《その》|場《ば》に|駆《か》け|出《い》で、
『お|父《とう》さま、まア|待《ま》つておやりなさい。さうして|此《この》お|金《かね》は|此《この》|人《にん》に|遣《や》つて|下《くだ》さい』
『お|前《まへ》が|成人《せいじん》してから、|好《よ》い|婿《むこ》を|貰《もら》ひ、|楽《らく》に|暮《くら》せる|様《やう》にと|思《おも》つて、|夜昼《よるひる》|働《はたら》いて|貯《た》めて|置《お》いたお|金《かね》だ。|此《この》|金《かね》は|詮《つま》り|俺《おれ》のものぢやない、|心《こころ》の|中《うち》で|既《すで》にお|前《まへ》にやつてあるのだ』
『お|父《とう》さま、そんなら|今《いま》|私《わたくし》に|下《くだ》さいな』
『オヽ|何時《いつ》でもやる。|今《いま》か、|今《いま》やつて|置《お》かう』
『そんなら|貰《もら》ひました。これこれ|三人《さんにん》のお|方《かた》、|私《わたくし》が|此《この》|金《かね》を|皆《みんな》にあげるから|持《も》つて|帰《かへ》りなさい。その|代《かは》りにこれで|何《なん》なりと|商売《しやうばい》をして、もう|此《この》|先《さき》はこんな|恐《こは》い|商売《しやうばい》は|廃《や》めなさい。お|父《とう》さま、|何卒《どうぞ》この|三人《さんにん》を|助《たす》けて|上《あ》げて|下《くだ》さい』
『よしよし、ヤア|命冥加《いのちみやうが》な|三人《さんにん》の|奴《やつ》、|娘《むすめ》の|云《い》ふ|事《こと》をよく|聞《き》いて、|此《この》|金《かね》をもつて|何《なん》とか|商売《しやうばい》をして、|今後《こんご》は|悪《わる》い|事《こと》をすな。サア|早《はや》く|持《も》つて|帰《かへ》れ』
|三人《さんにん》|一度《いちど》に|頭《かしら》を|下《さ》げ、
『|誠《まこと》に|済《す》まぬ|事《こと》で|御座《ござ》いました。そんなら|暫《しばら》く|拝借《はいしやく》して|帰《かへ》ります。きつと|是《これ》はお|返《かへ》し|致《いた》します』
お|初《はつ》『|貸《か》したのでは|無《な》い、|進上《あげ》たのだから|返《かへ》しては|要《い》りませぬ。こんな|恐《こは》いものがあると|私《わたくし》の|将来《しやうらい》のためになりませぬ。アヽお|父《とう》さま、これで|気楽《きらく》になりました。よう|私《わたくし》を|助《たす》けて|下《くだ》さいました。このお|金《かね》があるばつかりで、|毎日《まいにち》|日日《ひにち》|恐《こは》くつて|寝《ね》るのも|寝《ね》られませなんだ。お|母《かあ》さまも|此《この》お|金《かね》のために|心配《しんぱい》して、あんな|病気《びやうき》になつたのです』
|三人《さんにん》はお|初《はつ》の|渡《わた》す|金包《かねづつみ》を|取《と》るより|早《はや》く、|雲《くも》を|霞《かすみ》と|此《この》|場《ば》を|逃《に》げ|去《さ》る。|杢助《もくすけ》はお|初《はつ》を|抱《いだ》き、|涙《なみだ》に|暮《く》れながら、
『アヽお|初《はつ》、|有《あ》り|難《がた》い、|金銀《きんぎん》よりも|何《なに》よりも|貴《たつと》い|宝《たから》が|手《て》に|入《い》つた。あゝ|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》』
と|合掌《がつしやう》し、|嬉《うれ》し|涙《なみだ》に|暮《く》れて|居《ゐ》る。
|折《をり》から|吹《ふ》き|来《きた》る|夜嵐《よあらし》の|声《こゑ》、|雨戸《あまど》をガタガタガタと|揺《ゆす》つて|通《とほ》る。
(大正一一・五・一九 旧四・二三 加藤明子録)
第八章 |津田《つだ》の|湖《うみ》〔六八二〕
|津田《つだ》の|湖辺《こへん》に|現《あら》はれたる|三人《さんにん》の|宣伝使《せんでんし》を|始《はじ》め、|遠《ゑん》、|駿《すん》、|武《ぶ》、|三《さん》、|甲《かふ》、|雲《うん》の|六人《ろくにん》は|高春山《たかはるやま》を|遥《はるか》に|眺《なが》めて、|今《いま》や|三方《さんぱう》より|進撃《しんげき》せんとする|計画《けいくわく》を|定《さだ》むる|折《をり》しも、|六人《ろくにん》の|泥棒《どろばう》は|内輪喧嘩《うちわげんくわ》を|始《はじ》め|出《だ》し、|武州《ぶしう》、|駿州《すんしう》、|遠州《ゑんしう》は|向脛《むかふづね》を|打《う》たれて|其《その》|場《ば》に|倒《たふ》れたるを|見《み》すまし、|三《さん》、|甲《かふ》、|雲《くも》の|三人《さんにん》は|此《この》|場《ば》を|見捨《みす》てて、|元《もと》|来《き》し|道《みち》に|逃《に》げ|去《さ》つた。
|茲《ここ》に|竜国別《たつくにわけ》は|道《みち》を|北《きた》に|採《と》り、|迂回《うくわい》して|大谷山《おほたにやま》より|攻《せ》め|上《のぼ》る|事《こと》とした。|又《また》|国依別《くによりわけ》は|鼓《つづみ》の|滝《たき》を|越《こ》え|六甲山《ろくかふざん》に|登《のぼ》り、|魔神《まがみ》を|言向《ことむ》けつつ|高春山《たかはるやま》に|向《むか》ふ|計画《けいくわく》を|定《さだ》めた。|玉治別《たまはるわけ》は|湖辺《こへん》に|繋《つな》ぎある|舟《ふね》に|身《み》を|托《たく》し、|津田《つだ》の|湖《うみ》を|渡《わた》つて|驀地《まつしぐら》に|高春山《たかはるやま》に|押寄《おしよ》すべく、|足《あし》を|痛《いた》めた|三人《さんにん》を|舟《ふね》に|乗《の》せて|自《みづか》ら|艪《ろ》を|操《あやつ》り|乍《なが》ら、|寒風《かんぷう》|荒《すさ》む|月《つき》の|夜《よ》を|西方《せいはう》の|山麓《さんろく》|目蒐《めが》けて|漕《こ》ぎ|出《い》だす。|湖水《こすゐ》の|殆《ほとん》ど|中央《ちうあう》まで|進《すす》みし|時《とき》、|三人《さんにん》は|俄《にはか》に|立上《たちあが》り、
|遠州《ゑんしう》『オイ|貴様《きさま》は|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》、|誠《まこと》の|道《みち》を|立《た》て|通《とほ》す|神聖《しんせい》な|役目《やくめ》であり|乍《なが》ら、|秘密《ひみつ》|書類《しよるゐ》を|手《て》に|入《い》れたを|幸《さいはひ》に、|敵《てき》の|備《そな》へを|覚《さと》り、|三方《さんぱう》より|攻《せ》め|寄《よ》せむとするは|実《じつ》に|見下《みさ》げ|果《は》てたるやり|方《かた》だ。|何故《なぜ》|誠《まこと》|一《ひと》つで|進《すす》まぬのかい』
|駿州《すんしう》『|実《じつ》の|処《ところ》はその|手帳《てちやう》は|吾々《われわれ》の|仲間《なかま》に|取《と》つて|大切《たいせつ》な|品物《しなもの》だ。それを|貴様《きさま》に|奪《と》られて|堪《たま》るものか。|杢助《もくすけ》の|宅《たく》に|於《お》いて、この|大切《たいせつ》な|書類《しよるゐ》を|貴様《きさま》が|手《て》に|入《い》れたのを|覚《さと》つた|故《ゆゑ》、|吾々《われわれ》|六人《ろくにん》は|道々《みちみち》|符牒《ふてう》を|以《もつ》て|諜《しめ》し|合《あ》はせ、|態《わざ》と|喧嘩《けんくわ》をして|見《み》せ、|脚《あし》が|痛《いた》いと|詐《いつは》つてこの|舟《ふね》に|乗込《のりこ》んだのだぞ』
|武州《ぶしう》『サア、|最早《もはや》ジタバタしても|叶《かな》はぬぞ。|綺麗《きれい》|薩張《さつぱり》と|俺達《おれたち》に|返納《へんなふ》|致《いた》せ。|愚図々々《ぐづぐづ》|吐《ぬか》すと、|此《こ》の|湖中《こちう》へ|投《ほ》り|込《こ》んで|了《しま》ふぞ』
|玉治別《たまはるわけ》『アハヽヽヽ、|貴様達《きさまたち》|何《なに》を|吐《ぬか》すのだ。|三五教《あななひけう》の|神力《しんりき》|無双《むさう》の|宣伝使《せんでんし》に|向《むか》つて、|刃向《はむか》うとは、|生命《いのち》|知《し》らずも|程《ほど》がある。|蟷螂《たうらう》の|斧《をの》を|揮《ふる》つて|竜車《りうしや》に|向《むか》ふも|同然《どうぜん》、|速《すみや》かに|改心《かいしん》|致《いた》せば|赦《ゆる》してやるが、|何処《どこ》までも|悪心《あくしん》を|立《た》て|通《とほ》すなら、|最早《もはや》|是非《ぜひ》に|及《およ》ばぬ、|言霊《ことたま》を|以《もつ》て|汝《なんぢ》が|身体《からだ》を|縛《しば》り|上《あ》げ、|此《こ》の|湖水《こすゐ》へ|投《な》げ|込《こ》んでやらうか』
|遠州《ゑんしう》『|貴様《きさま》に|言霊《ことたま》の|武器《ぶき》があれば、|此方《こちら》にも|言霊《ことたま》の|武器《ぶき》がある。おまけにこの|鉄腕《てつわん》が|唸《うな》りを|立《た》てて|待《ま》つて|居《ゐ》るぞよ。サア|早《はや》く|此《この》|方《はう》に|渡《わた》さないか』
『|渡《わた》せと|云《い》つても|俺《おれ》|一人《ひとり》の|物《もの》では|無《な》い。|竜国別《たつくにわけ》や、|国依別《くによりわけ》に|協議《けふぎ》をした|上《うへ》、|渡《わた》してもよければ|渡《わた》してやらう』
『|馬鹿《ばか》を|云《い》ふな。|竜国別《たつくにわけ》や、|国依別《くによりわけ》は|吾々《われわれ》の|同類《どうるゐ》が|途中《とちう》に|待伏《まちふ》せて、|平《たひら》らげて|了《しま》ふ|手筈《てはず》がチヤンと|整《ととの》うて|居《を》るのだ。この|湖《みづうみ》を|向方《むかふ》へ|渡《わた》るが|最後《さいご》、|味方《みかた》のものが|待《ま》ちうけて、|貴様《きさま》を|嬲殺《なぶりごろ》しにする|手筈《てはず》が|定《きま》つて|居《を》る。|驚《おどろ》いたか、|何《なん》と|吾々《われわれ》の|計略《けいりやく》は|偉《えら》いものだらう』
『たとへ|小童《こわつぱ》どもの|三人《さんにん》や|五人《ごにん》、|百人《ひやくにん》|攻《せ》め|来《きた》るとも、|恟《びく》とも|致《いた》すやうな|玉治別《たまはるわけ》では|無《な》い、あんまり|見損《みそこな》ひを|致《いた》すな。|鷹依姫《たかよりひめ》は|表面《おもて》にアルプス|教《けう》を|標榜《へうぼう》しながら、|山賊《さんぞく》の|大親分《おほおやぶん》になつて|居《を》るのだな』
|駿州《すんしう》『|馬鹿《ばか》を|云《い》ふない。アルプス|教《けう》には|泥棒《どろばう》は|一人《ひとり》も|居《ゐ》ない。|唯《ただ》|俺達《おれたち》は|駄賃《だちん》を|貰《もら》つて|此《この》|仕事《しごと》をするだけだ。|実《じつ》は|俺達《おれたち》はアルプス|教《けう》ではない。|盗人《ぬすびと》の|団体《だんたい》だからトツクリ|見《み》て|見《み》よ。その|手帳《てちやう》に|俺達《おれたち》の|名《な》は|記《しる》してない|筈《はづ》だ。|聖地《せいち》へ|忍《しの》び|込《こ》んだ|奴《やつ》の|名前《なまへ》が|沢山《たくさん》あるといふことだが、|最早《もはや》|貴様《きさま》にそれが|判《わか》つたところで、アルプス|教《けう》は|痛痒《つうよう》を|感《かん》じない。|其《その》|代《かは》り|貴様等《きさまら》|三人《さんにん》の|宣伝使《せんでんし》を|亡《な》き|者《もの》に|致《いた》せばよいのだ。……オイ|何《ど》うだい、|此奴《こいつ》を|真裸体《まつぱだか》にして|秘密《ひみつ》|書類《しよるゐ》をフン|奪《だく》り、|高春山《たかはるやま》へ|持参《ぢさん》せば|結構《けつこう》な|御褒美《ごほうび》が|頂戴《ちやうだい》|出来《でき》る。サア【ぬかる】な』
と|三方《さんぱう》より|櫂《かい》を|以《もつ》て|打《う》つてかかる。
|無抵抗主義《むていかうしゆぎ》の|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》も、|已《や》むを|得《え》ず|正当《せいたう》|防禦《ばうぎよ》の|積《つも》りで、|両手《りやうて》を|組《く》み|天《あま》の|数歌《かずうた》を|謳《うた》つた。されど|神慮《しんりよ》に|反《そむ》きし|敵《てき》の|秘密《ひみつ》|書類《しよるゐ》を|懐中《くわいちゆう》したる|穢《けが》れのためか、|今日《けふ》に|限《かぎ》つて|天《あま》の|数歌《かずうた》も、|鎮魂《ちんこん》も、|何《なん》の|効果《かうくわ》も|現《あら》はれなかつた。|三人《さんにん》は|三方《さんぱう》より|滅多打《めつたう》ちに|打《う》ちかかる。
|玉治別《たまはるわけ》は|已《や》むを|得《え》ず、|又《また》もや|櫂《かい》を|握《にぎ》るより|早《はや》く|三人《さんにん》の|中《なか》に|交《まじ》つて|飛鳥《ひてう》の|如《ごと》く|防《ふせ》ぎ|戦《たたか》うた。|如何《いか》がはしけむ、|遠州《ゑんしう》はバサリと|湖中《こちう》に|落《お》ちた。|二人《ふたり》に|追《お》ひ|詰《つ》められて|玉治別《たまはるわけ》は|又《また》もやザンブとばかり|湖中《こちう》に|真逆様《まつさかさま》に|落込《おちこ》んだ。|舟《ふね》に|掻《か》き|着《つ》き|上《あが》らうとすれば、|二人《ふたり》は|上《うへ》より|櫂《かい》を|以《もつ》て|頭《あたま》を|撲《なぐ》りつけやうとする。|遠州《ゑんしう》は|其《その》|間《あひだ》に|舟《ふね》に|駆上《かけあが》り、
『サア|玉《たま》の|奴《やつ》、|神妙《しんめう》に|渡《わた》せばよし、|渡《わた》さねば|貴様《きさま》の|生命《いのち》はモーないぞ』
|玉治別《たまはるわけ》は|一生懸命《いつしやうけんめい》|抜《ぬ》き|手《て》を|切《き》つて|逃出《にげだ》す。|三人《さんにん》は|櫂《かい》を|操《あやつ》り|乍《なが》ら|玉治別《たまはるわけ》を|追《お》ひかける。|玉治別《たまはるわけ》は|浮《う》きつ|沈《しづ》みつ|逃《に》げ|廻《まは》る。|秘密《ひみつ》|書類《しよるゐ》は|懐中《くわいちゆう》より|脱出《だつしゆつ》して|水面《すゐめん》に|浮《う》き|上《あが》つた。|三人《さんにん》は|手早《てばや》く|之《これ》を|拾《ひろ》ひ|上《あ》げて、|大切《たいせつ》に|濡《ぬ》れた|儘《まま》【そつ】と|舟《ふね》の|中《なか》に|匿《かく》し、|尚《なほ》も|玉治別《たまはるわけ》の|浮《う》きつ|沈《しづ》みつ|逃《に》ぐるを|追《お》ひかけ、|頭《あたま》を|目蒐《めが》けて|撲《なぐ》りつけようとする。|撲《なぐ》られては|一大事《いちだいじ》と、|苦《くる》しき|息《いき》を|凝《こ》らし|乍《なが》ら|水底《すゐてい》を|潜《くぐ》り、|一方《いつぱう》に|頭《あたま》を|上《あ》げて|息《いき》をつぎ|見《み》れば、|又《また》もや|三人《さんにん》は|舟《ふね》にて|追《お》ひかけて|来《く》る。
|玉治別《たまはるわけ》は|進退《しんたい》|谷《きは》まり、|九死一生《きうしいつしやう》のところへ|矢《や》を|射《い》る|如《ごと》く、|一人《ひとり》の|子供《こども》を|乗《の》せて|漕《こ》ぎつけた|一隻《いつさう》の|舟《ふね》。|玉治別《たまはるわけ》は|盲亀《まうき》の|浮木《ふぼく》と|喜《よろこ》び|勇《いさ》んで|舟《ふね》に|取《とり》ついた。|舟人《ふなびと》は|玉治別《たまはるわけ》を|助《たす》けて|舟《ふね》に|乗《の》せた。|玉治別《たまはるわけ》は|息《いき》も|絶《た》え|絶《だ》えになつてゐる。|此《こ》の|時《とき》|三人《さんにん》の|盗人《ぬすびと》は、
『エー|邪魔《じやま》ひろぐな』
と|此《こ》の|舟《ふね》|目蒐《めが》けて|攻《せ》めかけ|来《きた》る。
|船人《ふなびと》『|貴様《きさま》は|遠州《ゑんしう》、|駿州《すんしう》、|武州《ぶしう》の|小盗人《こぬすと》だらう。サア、モウ|俺《おれ》が|此処《ここ》に|来《き》た|上《うへ》は、|汝《きさま》も|最早《もはや》|観念《かんねん》せねばなるまい。|片《かた》つ|端《ぱし》から|叩《たた》き|潰《つぶ》してやらう』
|此《この》|声《こゑ》に|三人《さんにん》は|驚《おどろ》いて|一生懸命《いつしやうけんめい》に|櫂《かい》を|操《あやつ》り、|矢《や》を|射《い》る|如《ごと》くに|西《にし》へ|西《にし》へと|逃《に》げ|出《だ》した。|湖中《こちう》に|突出《とつしゆつ》せる|大岩石《だいがんせき》に|舟《ふね》の|先端《さき》を|衝突《しようとつ》させ、|船体《せんたい》は|木《こ》つ|端微塵《ぱみぢん》になつて、ゴブゴブゴブと|沈没《ちんぼつ》した。|三人《さんにん》は|思《おも》ひ|思《おも》ひに|抜《ぬ》き|手《て》を|切《き》つて|逃《に》げようとする。
|船頭《せんどう》は|三人《さんにん》の|浮《う》いた|頭《あたま》を|目当《めあて》に|舟《ふね》を|差向《さしむ》けた。|玉治別《たまはるわけ》は|漸《やうや》く|気《き》がついた。|見《み》れば|杢助《もくすけ》|親子《おやこ》が|舟《ふね》に|乗《の》つて、|三人《さんにん》の|泥棒《どろばう》の|影《かげ》を|目当《めあて》に|走《はし》つてゐる。
『アー|貴方《あなた》は|杢助《もくすけ》さま。|危《あやふ》い|所《ところ》をよう|助《たす》けに|来《き》て|下《くだ》さいました』
『|話《はなし》は|後《あと》でゆつくり|聞《き》きませう。|愚図々々《ぐづぐづ》して|居《を》れば|三人《さんにん》の|泥棒《どろばう》の|生命《いのち》が|失《な》くなつて|了《しま》ふ。サア|貴方《あなた》も|此《この》|櫂《かい》を|漕《こ》いで|下《くだ》さい』
|玉治別《たまはるわけ》は|直《ただ》ちに|櫂《かい》を|漕《こ》ぎ|始《はじ》めた。|漸《やうや》くにして|三人《さんにん》の|泥棒《どろばう》を|救《すく》ひ|上《あ》げた。さうして|以前《いぜん》の|湖中《こちう》の|岩《いは》の|上《うへ》に|三人《さんにん》を|送《おく》り、|舟《ふね》を|此方《こなた》に|引返《ひきかへ》し、|十数間《じふすうけん》|許《ばか》り|距離《きより》を|保《たも》つて、|三人《さんにん》に|向《むか》ひ|宣伝歌《せんでんか》を|聞《き》かさむと、|声《こゑ》も|涼《すず》しく|歌《うた》ひ|始《はじ》めた。
|玉治別《たまはるわけ》『|朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも  |月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも
|仮令《たとへ》|大地《だいち》は|沈《しづ》むとも  |誠《まこと》の|力《ちから》は|世《よ》を|救《すく》ふ
|誠《まこと》|一《ひと》つの|世《よ》の|中《なか》に  |誠《まこと》の|道《みち》を|踏《ふ》み|外《はづ》し
|天地《てんち》に|罪《つみ》を|重《かさ》ねつつ  |終《つひ》には|根《ね》の|国《くに》|底《そこ》の|国《くに》
|地獄《ぢごく》の|底《そこ》の【どん】|底《ぞこ》の  |焦熱地獄《せうねつぢごく》に|落《おと》されて
|苦《くる》しみ|悶《もだ》える|幽界《いうかい》の  |掟《おきて》を|知《し》らずに|智慧《ちゑ》|浅《あさ》き
|体主霊従《たいしゆれいじう》の|人々《ひとびと》が  |小《ちひ》さき|慾《よく》に|目《め》が|眩《くら》み
|結構《けつこう》な|身魂《みたま》を|持《も》ち|乍《なが》ら  |他《ひと》の|宝《たから》を|奪《うば》ひ|取《と》り
|飲《の》めよ|騒《さわ》げの|大騒《おほさわ》ぎ  |遊《あそ》んで|暮《くら》す|悪企《わるだく》み
|地獄《ぢごく》の|釜《かま》の|道《みち》|作《つく》り  それも|知《し》らずに|曲道《まがみち》を
|通《とほ》る|身魂《みたま》ぞいぢらしき  |仮令《たとへ》|大地《だいち》は|沈《しづ》むとも
|誠《まこと》の|道《みち》に|叶《かな》ひなば  |大慈《だいじ》|大悲《だいひ》の|大神《おほかみ》は
|必《かなら》ず|救《たす》け|給《たま》ふべし  |遠州《ゑんしう》|武州《ぶしう》|駿州《すんしう》よ
|汝《なんぢ》も|元《もと》は|神《かみ》の|御子《みこ》  |聖《きよ》き|身魂《みたま》を|受継《うけつ》ぎし
|貴《たふと》き|神《かみ》の|生宮《いきみや》ぞ  |小《ちひ》さき|慾《よく》にからまれて
|此《この》|世《よ》からなる|地獄道《ぢごくだう》  |餓鬼《がき》|畜生《ちくしやう》や|修羅道《しゆらだう》の
|責苦《せめく》に|自《みづか》ら|遭《あ》ひ|乍《なが》ら  |未《ま》だ|覚《さと》らずに|日《ひ》に|夜《よる》に
|道《みち》に|背《そむ》いた|事《こと》ばかり  われは|此《この》|世《よ》を|平《たひら》けく
|治《をさ》め|鎮《しづ》むる|大神《おほかみ》の  |教《をしへ》を|宣《の》ぶる|宣伝使《せんでんし》
|決《けつ》して|憎《にく》しと|思《おも》はない  |汝《なんぢ》に|潜《ひそ》む|曲神《まがかみ》を
|一日《ひとひ》も|早《はや》く|取《と》り|除《の》けて  |誠《まこと》の|道《みち》に|救《すく》はむと
|願《ねが》ふばかりの|我《わが》|心《こころ》  さはさり|乍《なが》ら|三五《あななひ》の
|道《みち》を|教《をし》ふる|神司《かむづかさ》  |其《そ》の|身《み》を|忘《わす》れてアルプスの
|神《かみ》の|教《をしへ》に|立《た》て|籠《こも》る  |鷹依姫《たかよりひめ》が|計略《けいりやく》を
|事《こと》も|細《こま》かに|記《しる》したる  |秘密《ひみつ》の|鍵《かぎ》を|懐《ふところ》に
|収《をさ》めて|曲《まが》を|倒《たふ》さむと  |思《おも》うたことは|玉治別《たまはるわけ》の
これ|一生《いつしやう》の|誤《あやま》りぞ  |汝等《なれら》は|之《これ》を|携《たづさ》へて
|高春山《たかはるやま》に|持参《もちまゐ》り  |鷹依姫《たかよりひめ》に|手渡《てわた》して
|手柄《てがら》を|現《あら》はし|御褒美《ごほうび》の  |金《かね》を|沢山《たくさん》|貰《もろ》て|来《こ》い
さすれば|汝《なんぢ》が|懐《ふところ》は  ふとつて|親子《おやこ》が|安々《やすやす》と
|楽《たの》しき|月日《つきひ》を|送《おく》るだらう  さは|云《い》ふものの|三人《さんにん》よ
|此《この》|世《よ》は|仮《かり》の|世《よ》の|中《なか》ぞ  |万劫末代《まんごまつだい》|生《い》き|通《とほ》す
|霊魂《みたま》の|生命《いのち》は|限《かぎ》りなし  なることならば|三五《あななひ》の
|神《かみ》の|教《をしへ》に|身《み》を|任《まか》せ  |天晴《あつぱ》れ|世界《せかい》の|塩《しほ》となり
|花《はな》ともなりて|香《かん》ばしき  |実《み》のりを|残《のこ》せ|後《のち》の|世《よ》に
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |御霊《みたま》|幸《さち》はひましまして
|悪魔《あくま》の|為《ため》に|魂《たましひ》を  |曇《くも》らされたる|三人《さんにん》を
|直日《なほひ》に|見直《みなほ》し|聞直《ききなほ》し  |其《そ》の|過《あやま》ちを|宣《の》り|直《なほ》し
|神《かみ》の|大道《おほぢ》にすくすくと  |歩《あゆ》ませ|給《たま》へ|大御神《おほみかみ》
|珍《うづ》の|御前《みまへ》に|玉治別《たまはるわけ》が  |畏《かしこ》み|畏《かしこ》み|願《ね》ぎ|奉《まつ》る』
と|歌《うた》ひ|終《をは》つた。
|三人《さんにん》は|此《この》|歌《うた》に|感《かん》じてか、|但《ただし》は|離《はな》れ|島《じま》に|捨《す》てられた|悲《かな》しさに|此《この》|場《ば》を|免《のが》れむとしてか、|一度《いちど》に|玉治別《たまはるわけ》に|向《むか》つて|両手《りやうて》を|合《あは》せ、|涙《なみだ》を|流《なが》して|改心《かいしん》の|意《い》を|表《へう》する。|杢助《もくすけ》は|舟《ふね》を|岩《いは》の|前《まへ》に|近《ちか》づけ|乍《なが》ら、
|杢助《もくすけ》『オイ|三人《さんにん》の|男《をとこ》、|汝《きさま》の|片割《かたわ》れ|三州《さんしう》、|甲州《かふしう》、|雲州《うんしう》の|三人《さんにん》は|俺《おれ》の|館《やかた》に|乗《の》り|込《こ》んで|金銀《きんぎん》の|小玉《こだま》を|全部《ぜんぶ》|貰《もら》つて|帰《かへ》りよつた。|汝《きさま》は|玉治別《たまはるわけ》の|懐中《くわいちゆう》せるアルプス|教《けう》の|書類《しよるゐ》を|狙《ねら》つてゐるさうだ。|併《しか》しそれを|鷹依姫《たかよりひめ》に|届《とど》けてやつたところで、|余《あま》り|大《たい》した|礼物《れいもつ》もくれはしよまい。|生命《いのち》を|的《まと》にそんな|慾《よく》の|無《な》い|小《ちひ》さいことを|致《いた》すな。|改心《かいしん》するなら|今《いま》だ。|何《なん》と|云《い》つても|此《こ》の|離《はな》れ|島《じま》に|捨《す》てられては|汝《きさま》も|浮《うか》ぶ|瀬《せ》はあるまい。サア|改心《かいしん》を|誓《ちか》ふか|何《ど》うだ、|改心《かいしん》|致《いた》せば|此《この》|舟《ふね》に|乗《の》せて|助《たす》けてやるが』
|三人《さんにん》は|口《くち》を|揃《そろ》へて、
『|改心《かいしん》します。|何《ど》うぞ|赦《ゆる》して|下《くだ》さいませ』
|杢助《もくすけ》『|玉治別《たまはるわけ》さま、|貴方《あなた》のお|考《かんが》へは|何《ど》うでせうか』
|玉治別《たまはるわけ》『|改心《かいしん》さへしてくれたならば|四海《しかい》|兄弟《きやうだい》だ、|何処《どこ》までも|助《たす》けたいものですな』
『そんなら|助《たす》けてやらうか』
お|初《はつ》は|首《くび》を|左右《さいう》に|振《ふ》り、
『お|父《とう》さん、|斯《こ》んな|人《ひと》を|助《たす》けたつて|直《すぐ》に|又《また》|悪《わる》いことを|致《いた》しますよ。|暫《しばら》くこの|離《はな》れ|島《じま》に|預《あづ》けて|置《お》いたがよろしいでせう』
|遠州《ゑんしう》『モシモシ|小《ちひ》さいお|方《かた》、お|前《まへ》さまは|年《とし》にも|似合《にあ》はぬ、【きつい】|人《ひと》だな。そんな|事《こと》を|云《い》はずに|何《ど》うぞ|助《たす》けて|下《くだ》さいな。|屹度《きつと》|改心《かいしん》しますから』
『イエイエ|貴方《あなた》は|未《ま》だ|未《ま》だ|改心《かいしん》が|出来《でき》ませぬよ。サア、お|父《とう》さま、|早《はや》く|艪《ろ》を|操《あやつ》つて|下《くだ》さい。|小父《をぢ》さま、|櫂《かい》を|漕《こ》いで|下《くだ》さい。|私《わたし》も|手伝《てつだひ》ひませう』
『アヽさうだ。|子供《こども》は|正直《しやうぢき》だ。|此奴等《こいつら》|可愛《かあい》いと|思《おも》へば、|暫《しば》らく|岩《いは》の|上《うへ》に|預《あづ》けて|置《お》いた|方《はう》が|将来《しやうらい》のためだらう。サア、|杢助《もくすけ》さま、|彼方《あちら》へ|進《すす》みませう』
と|湖中《こちう》の|岩島《いはしま》を|後《あと》に、|高春山《たかはるやま》の|東麓《とうろく》を|指《さ》して|矢《や》を|射《い》る|如《ごと》く|進《すす》み|行《ゆ》く。
|不思議《ふしぎ》や|湖水《こすゐ》の|水《みづ》は|見《み》る|見《み》る|水量《みづかさ》|増《まさ》り、さしもに|高《たか》き|湖中《こちう》の|巌《いは》も|次第《しだい》|々々《しだい》に|水中《すゐちう》に|没《ぼつ》し、|早《はや》くも|足許《あしもと》まで|波《なみ》が|押寄《おしよ》せて|来《き》た。|刻々《こくこく》に|増《まさ》る|水量《みづかさ》に|三人《さんにん》は、|最早《もはや》|首《くび》の|辺《あた》りまで|浸《つか》つて|了《しま》つた。
(大正一一・五・一九 旧四・二三 外山豊二録)
第九章 |改悟《かいご》の|酬《むくい》〔六八三〕
|雨《あめ》もなきに|湖水《こすゐ》の|水量《みづかさ》は|増《まさ》りゆき、|最早《もはや》|三人《さんにん》の|鼻《はな》の|位置《ゐち》まで|水《みづ》は|漂《ただよ》うて|来《き》た。|湖水《こすゐ》に|聳《そそ》り|立《た》ちたる|一《ひと》つ|岩《いは》も|今《いま》は|水中《すゐちう》に|没《ぼつ》し、|黒《くろ》い|頭《あたま》が|三《み》つ|許《ばか》り|湖面《こめん》に|浮《う》かんで|居《ゐ》る|様《やう》に|見《み》えた。|月《つき》は|俄《にはか》に|黒雲《こくうん》に|包《つつ》まれ、|咫尺《しせき》を|弁《べん》ぜざる|細《こま》かき|雪《ゆき》は|俄《にはか》に|降《ふ》り|来《きた》り、|寒冷《かんれい》|身《み》をきる|如《ごと》くなり、その|生命《せいめい》|瞬間《しゆんかん》に|迫《せま》るを、|三人《さんにん》は|如何《いかが》はせむと|相互《さうご》に|心《こころ》を|揉《も》み|乍《なが》ら、|尚《なほ》も|神《かみ》を|念《ねん》ずる|事《こと》を|為《な》さずありけるが、|忽《たちま》ち|暗黒《あんこく》の|水面《すゐめん》をパツと|照《て》らして|入《い》り|来《きた》る|三箇《さんこ》の|火球《くわきう》ありて|三人《さんにん》が|身《み》の|上下左右《じやうげさいう》に|荒《あ》れ|狂《くる》ふ。|湖水《こすゐ》は|二《ふた》つに|割《わ》れたりと|見《み》るや|湖底《こてい》より|美《うる》はしき|三柱《みはしら》の|女神《めがみ》、|左手《ゆんで》に|小《ちひ》さき|玉《たま》を|捧《ささ》げ、|右手《めて》に|鋭利《えいり》なる|両刃《もろは》の|剣《つるぎ》を|抜《ぬ》き|持《も》ち|乍《なが》ら、|徐々《しづしづ》と|三人《さんにん》の|前《まへ》に|現《あら》はれ|来《きた》りしが|何時《いつ》の|間《ま》にか|岩《いは》は|水面《すゐめん》に|高《たか》く|現《あら》はれける。|而《しか》して|岩島《いはしま》の|根《ね》には|一滴《いつてき》もなき|迄《まで》、|水《みづ》は|左右《さいう》に|分《わか》れて|干上《ひあが》り、|三人《さんにん》の|女神《めがみ》と|見《み》えしは|誤《あやま》りにて、さきに|立《た》ちたるは|六歳《ろくさい》のお|初《はつ》、|次《つぎ》に|玉治別《たまはるわけ》、|次《つぎ》に|杢助《もくすけ》の|大男《おほをとこ》なり。
|遠州《ゑんしう》『ヤア|貴方《あなた》は|玉治別《たまはるわけ》さま、|何卒《どうぞ》|生命《いのち》ばかりは|助《たす》けて|下《くだ》さい』
|玉治別《たまはるわけ》『|此《この》|湖水《こすゐ》は|八岐大蛇《やまたをろち》の|眷族《けんぞく》の|大蛇《だいじや》の|棲処《すみか》である。|此《この》|湖《うみ》の|水《みづ》を|左右《さいう》に|割《わ》つたのは|全《まつた》く|大蛇《だいじや》の|仕業《しわざ》であるぞ。|早《はや》く|心《こころ》の|底《そこ》から|悔悟《くわいご》を|致《いた》し、|誠《まこと》の|道《みち》に|立《た》ち|帰《かへ》れば|宜《よ》し、さなくば|斯《か》くの|如《ごと》く|神変不可思議《しんぺんふかしぎ》の|神術《かむわざ》を|以《もつ》て、|汝《なんぢ》を|飽迄《あくまで》も|懲《こら》しめてくれむ。いつ|迄《まで》も|我《が》を|張《は》るならば|大蛇《だいじや》の|腹《はら》に|葬《はうむ》られる|様《やう》な|事《こと》が、|今《いま》|眼前《がんぜん》に|突発《とつぱつ》するぞ』
|駿州《すんしう》『|何卒《どうぞ》|今度《こんど》ばかりはお|助《たす》け|下《くだ》さいませ。|決《けつ》して|悪事《あくじ》は|致《いた》しませぬ』
|湖水《こすゐ》は|見渡《みわた》す|限《かぎ》り|次第《しだい》|々々《しだい》に|水量《みづかさ》|減《げん》じて、|遂《つい》には|湖底《こてい》まで|現《あら》はれ|来《きた》り、|只《ただ》|一条《ひとすぢ》の|川《かは》、|真《ま》ん|中《なか》を|流《なが》るるのみとはなりぬ。
|此《この》|時《とき》|又《また》もや|杢助《もくすけ》、|玉治別《たまはるわけ》、お|初《はつ》の|三人《さんにん》は|宣伝歌《せんでんか》を|歌《うた》ひ|乍《なが》ら|此《この》|場《ば》に|近寄《ちかよ》り|来《きた》る。|其《その》|歌《うた》、
|杢助《もくすけ》『|瀬織津姫大神《せおりつひめのおほかみ》の  |神言《みこと》|畏《かしこ》み|玉治別《たまはるわけ》の
|神《かみ》の|使《つかひ》は|津田《つだ》の|湖《うみ》  |枉津《まがつ》の|棲処《すみか》を|言向《ことむ》けて
|世《よ》の|災患《わざはひ》を|救《すく》はむと  |心《こころ》に|腹帯《はらおび》、|時置師《ときおかし》
|神命《かみのみこと》の|世《よ》を|忍《しの》ぶ  |賤《しづ》の|樵夫《きこり》と|身《み》を|窶《やつ》し
|名《な》も|杢助《もくすけ》と|改《あらた》めて  |津田《つだ》の|湖《うみ》をば|根底《ねそこ》より
|清《きよ》めむものと|時《とき》を|待《ま》つ  |折《をり》しもあれや|三五《あななひ》の
|神《かみ》の|教《をしへ》の|宣伝使《せんでんし》  |玉治別《たまはるわけ》が|訪《たづ》ね|来《き》て
|執着心《しふちやくしん》の|深《ふか》かりし  |妻《つま》の|霊魂《みたま》を|弔《とむら》ひつ
|根底《ねそこ》の|国《くに》の|苦《くるし》みを  |救《すく》ひ|給《たま》ひし|神恩《しんおん》に
|報《むく》いむ|為《ため》と|今《いま》|此処《ここ》に  |娘《むすめ》お|初《はつ》と|諸共《もろとも》に
|現《あら》はれ|来《きた》り|玉《たま》の|緒《を》の  |生命《いのち》|救《すく》ひし|其《その》|上《うへ》に
|鼓《つづみ》の|滝《たき》に|現《あら》はれて  |鋼《まがね》の|鍬《くは》を|打《う》ち|揮《ふる》ひ
さしもに|堅《かた》き|岩石《がんせき》を  きつて|落《おと》せば|忽《たちま》ちに
|底《そこ》を|現《あら》はす|津田《つだ》の|湖《うみ》  ここに|三人《みたり》はイソイソと
|遠州《ゑんしう》|武州《ぶしう》|駿州《すんしう》の  |生命《いのち》を|託《あづ》けた|一《ひと》つ|岩《いは》
|来《きた》りて|見《み》れば|此《こ》は|如何《いか》に  |我等《われら》が|姿《すがた》か|幻《まぼろし》か
|寸分《すんぶん》|違《たが》はぬ|三柱《みはしら》の  |女神《めがみ》は|此処《ここ》に|現《あ》れましぬ
|神《かみ》の|恵《めぐみ》の|御光《みひかり》に  |今《いま》は|漸《やうや》く|照《て》らされて
|霊肉一致《れいにくいつち》の|清姿《きよすがた》  |最早《もはや》|我等《われら》は|神界《しんかい》の
|誠《まこと》の|道《みち》の|太柱《ふとばしら》  |実《げ》に|尊《たふと》さの|限《かぎ》りなり
アヽ|三人《さんにん》の|人々《ひとびと》よ  |今《いま》より|心《こころ》を|取直《とりなほ》し
|小《ちひ》さき|慾《よく》を|打《う》ち|捨《す》すてて  |万劫末代《まんごまつだい》|萎《しを》れない
|誠《まこと》|一《ひと》つの|花《はな》|咲《さ》かせ  |味《あぢ》も|香《か》もある|桃《もも》の|実《み》の
|神《かみ》の|御楯《みたて》と|逸早《いちはや》く  |成《な》りて|仕《つか》へよ|現世《うつしよ》は
|夢幻《ゆめまぼろし》の|浮世《うきよ》ぞや  |幾千代《いくちよ》までも|限《かぎ》りなく
|生命《いのち》|栄《さか》えて|神《かみ》の|国《くに》  |生《い》きたる|儘《まま》に|神《かみ》となり
|世人《よびと》を|救《すく》ふ|人《ひと》となり  |早《はや》く|心《こころ》を|改《あらた》めて
|我等《われら》に|従《したが》ひ|来《きた》れかし』
|玉治別《たまはるわけ》『|高春山《たかはるやま》は|高《たか》くとも  |鷹依姫《たかよりひめ》は|猛《たけ》くとも
|誠《まこと》|一《ひと》つの|言霊《ことたま》に  |服《まつろ》へ|和《やは》すは|眼前《まのあたり》
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |御霊《みたま》|幸《さち》はひましまして
|我等《われら》を|始《はじ》め|杢助師《もくすけし》  |神《かみ》の|化身《けしん》のお|初嬢《はつぢやう》
|厚《あつ》く|守《まも》りて|此《この》|度《たび》の  |言霊戦《ことたません》に|恙《つつが》なく
|全《まつた》き|勝利《しようり》を|得《え》させかし  |此《この》|三人《さんにん》の|肉《にく》の|宮《みや》
|洗《あら》ひ|清《きよ》めて|霊《たま》|幸《ち》はふ  |神《かみ》の|尊《たふと》き|宮《みや》となし
|神政成就《しんせいじやうじゆ》の|神業《しんげふ》に  |使《つか》はせ|給《たま》へ|天教山《てんけうざん》に
|永久《とは》に|鎮《しづ》まる|木《こ》の|花姫《はなひめ》の  |神《かみ》の|命《みこと》や|斎苑館《いそやかた》
|治《をさ》めまします|素盞嗚《すさのを》の  |神《かみ》の|尊《みこと》の|御前《おんまへ》に
|心《こころ》に|潜《ひそ》む|鬼《おに》|大蛇《をろち》  |醜女《しこめ》|探女《さぐめ》も|喜《よろこ》びて
|誠《まこと》の|神《かみ》となり|変《かは》り  |此《この》|肉体《にくたい》を|何時《いつ》|迄《まで》も
いと|健《すこや》かに|現世《うつしよ》に  |立《た》ちて|働《はたら》く|神代《かみしろ》と
|守《まも》らせ|給《たま》へ|惟神《かむながら》  |御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ』
と|玉治別《たまはるわけ》が|声《こゑ》を|限《かぎ》りに|歌《うた》ひ|終《をは》れば、|今迄《いままで》|現《あら》はれたる|三人《さんにん》の|姿《すがた》は、|又《また》もや|元《もと》の|女神《めがみ》となつて|天女《てんによ》の|舞《まひ》を|舞《ま》ひ|乍《なが》ら、|中空《ちうくう》さして|昇《のぼ》り|行《ゆ》き、|遂《つい》には|神姿《すがた》も|見《み》えずなりにけり。|遠州《ゑんしう》、|駿州《すんしう》、|武州《ぶしう》の|三人《さんにん》は|涙《なみだ》を|滝《たき》の|如《ごと》くに|流《なが》しつつ|感謝《かんしや》に|咽《むせ》ぶ。|三人《さんにん》の|背後《はいご》よりは|紫《むらさき》の|雲《くも》、シユウシユウと|湯烟《ゆえん》の|如《ごと》く|音《おと》をたてて|頭上《づじやう》に|高《たか》く|立昇《たちのぼ》り、|其《その》|中《うち》より|蜃気楼《しんきろう》の|如《ごと》く|三人《さんにん》の|女神《めがみ》|現《あら》はれ|給《たま》ひ、|右手《めて》に|鈴《すず》を|持《も》ち、|左《ひだり》に|日月《じつげつ》の|紋《もん》を|記《しる》したる|扇《あふぎ》を|開《ひら》いて|中空《ちうくう》に|舞《ま》ひ|狂《くる》ふ。|之《これ》ぞ|遠州《ゑんしう》、|駿州《すんしう》、|武州《ぶしう》|三人《さんにん》の|副守護神《ふくしゆごじん》が|体《からだ》を|離《はな》れたるより、その|精霊中《せいれいちう》の|本守護神《ほんしゆごじん》は|喜《よろこ》び|給《たま》ひて|其《その》|神姿《しんし》を|現《あら》はし|歓喜《よろこび》の|意《い》を|表《へう》したるなりき。|一同《いちどう》は|此《この》|奇瑞《きずゐ》に|感歎《かんたん》し|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》する|折《をり》しも、|雲州《うんしう》、|三州《さんしう》、|甲州《かふしう》の|三人《さんにん》は、|容色《ようしよく》|艶麗《えんれい》なる|女神《めがみ》の|手《て》を|引《ひ》き、|杢助《もくすけ》の|前《まへ》に|現《あら》はれて、|前非《ぜんぴ》を|悔《く》い|涙《なみだ》を|流《なが》して|合掌《がつしやう》する。|三人《さんにん》に|手《て》を|引《ひ》かれて|此処《ここ》に|現《あら》はれし|女神《めがみ》を|見《み》れば、こは|抑《そも》|如何《いか》に、|十年《じふねん》|以前《いぜん》の|壮健《さうけん》なりし|花《はな》の|盛《さか》りのお|杉《すぎ》が|姿《すがた》なりければ、|杢助《もくすけ》は|思《おも》はず|知《し》らず、
『アヽ|女房《にようばう》の|精霊《せいれい》か、|能《よ》くも|無事《ぶじ》に|居《ゐ》てくれた』
『お|母《かあ》さま、よう|来《き》て|下《くだ》さいました』
とお|初《はつ》はお|杉《すぎ》の|精霊《せいれい》に|取《と》りついて|嬉《うれ》し|涙《なみだ》に|泣《な》き|崩《くづ》るる。|甲州《かふしう》、|雲州《うんしう》、|三州《さんしう》の|三人《さんにん》の|後《うしろ》よりは|又《また》もや|紫雲《しうん》|立《た》ち|昇《のぼ》り、|以前《いぜん》の|如《ごと》く|美《うる》はしき|女神《めがみ》|現《あら》はれ|空中《くうちう》に|舞曲《ぶきよく》を|奏《そう》し、|之《これ》|亦《また》|雲中《うんちう》に|神姿《すがた》を|隠《かく》しける。
|暴悪無道《ばうあくぶだう》の|盗賊《たうぞく》、|三州《さんしう》、|雲州《うんしう》、|甲州《かふしう》も|杢助《もくすけ》が|娘《むすめ》のお|初《はつ》の|誠心《まごころ》に|絆《ほだ》され、|一旦《いつたん》|金銀《きんぎん》は|奪《うば》ひ|取《と》りて|帰《かへ》りしものの|何《なん》となく|後髪《うしろがみ》|引《ひ》かるる|心地《ここち》して、お|杉《すぎ》の|墓《はか》に|知《し》らず|識《し》らず|引《ひ》き|寄《よ》せられしが、|此《この》|時《とき》|墓《はか》よりヌツと|現《あら》はれし|影《かげ》は、|痩《や》せ|衰《おとろ》へて|死《し》したる|筈《はず》のお|杉《すぎ》にして、|中肉中背《ちうにくちうぜい》の|色《いろ》|飽迄《あくまで》|白《しろ》く|元気《げんき》|飽迄《あくまで》|旺盛《わうせい》なる|姿《すがた》なりけり。お|杉《すぎ》は|之《これ》より|娑婆《しやば》の|執着心《しふちやくしん》をさり|天国《てんごく》に|上《のぼ》り、|後《あと》に|残《のこ》せし|夫《をつと》|並《ならび》に|一粒種《ひとつぶだね》の|我《わが》|娘《こ》の|幸福《かうふく》を|祈《いの》り、|尊《たふと》き|天人《てんにん》の|列《れつ》に|加《くは》はりける。|之《これ》を|思《おも》へば|恐《おそ》るべきは|執着心《しふちやくしん》と|慾望《よくばう》なり。あゝ|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》。
|之《これ》より|玉治別《たまはるわけ》は|遠州《ゑんしう》|以下《いか》|五人《ごにん》に|諄々《じゆんじゆん》として|誠《まこと》の|道《みち》を|説《と》き、|再会《さいくわい》を|約《やく》して|此処《ここ》に|別《わか》れを|告《つ》げ、|杢助《もくすけ》、お|初《はつ》と|共《とも》に|艱難《かんなん》を|冒《をか》して、|鷹依姫《たかよりひめ》の|割拠《かつきよ》せる|岩窟《いはや》に|向《むか》つて|宣伝歌《せんでんか》を|唱《とな》へながら|勢《いきほひ》よく|登《のぼ》り|行《ゆ》く。
(大正一一・五・一九 旧四・二三 北村隆光録)
第三篇 |男女共権《だんぢよきようけん》
第一〇章 |女権拡張《ぢよけんくわくちやう》〔六八四〕
|吹雪《ふぶき》|烈《はげ》しき|山《やま》の|奥《おく》  |竜国別《たつくにわけ》の|宣伝使《せんでんし》は
|高春山《たかはるやま》に|向《むか》はむと  |猿《ましら》の|声《こゑ》に|耳《みみ》|打《う》たれ
|心《こころ》イソイソ|進《すす》み|行《ゆ》く  |人煙《じんえん》|稀《まれ》なる|谷《たに》の|道《みち》
|雪《ゆき》に|埋《うづ》もれ【ゆき】|暮《く》れて  |路傍《ろばう》に|立《た》てる|岩蔭《いはかげ》に
|少時《しばし》|息《いき》をば|休《やす》めける。
|谷《たに》の|片方《かたへ》の|突出《つきで》た|岩《いは》の|蔭《かげ》に|身《み》を|寄《よ》せ、|一夜《いちや》を|明《あ》かす|事《こと》となりぬ。|竜国別《たつくにわけ》はウツラウツラと|眠《ねむ》りに|就《つ》きけるが、フト|耳《みみ》に|入《い》りしはなまめかしき|女《をんな》の|声《こゑ》、|驚《おどろ》いて|目《め》を|醒《さ》ませば|妙齢《めうれい》の|美人《びじん》、|鬢《びん》のほつれ|毛《げ》を|頬《ほほ》の|辺《あたり》に|七八本《しちはちほん》|垂《た》れ|乍《なが》ら、|稍《やや》|憂《うれ》ひを|含《ふく》み、|一人《ひとり》の|赤児《あかご》を|抱《だ》き|前方《ぜんぱう》に|立《た》てり。
『|此《この》|真夜中《まよなか》の|雪路《ゆきみち》に|女《をんな》の|一人《ひとり》、|而《しか》も|乳呑児《ちのみご》を|抱《だ》いて、|何処《どこ》へ|御出《おい》でなされますか』
『ハイ|妾《わたし》は|浪速《なには》の|者《もの》で|御座《ござ》います。|高春山《たかはるやま》の|鬼婆《おにばば》に|拐《かどは》かされ、|日夜《にちや》|責苦《せめく》に|遇《あ》ひ|難渋《なんじふ》を|致《いた》して|居《を》りましたが、|情《なさけ》あるカーリンスと|云《い》ふ|婆《ばば》アの|部下《ぶか》に|想《おも》ひをかけられ、ソツと|救《すく》はれて|此処迄《ここまで》|逃《に》げ|帰《かへ》りました。|併《しか》し|乍《なが》ら|何時《なんどき》|追手《おつて》がかからうやら|知《し》れませぬ。どうぞ|助《たす》けて|下《くだ》さいませ。|妾《わたし》としても|此《この》|寒《さむ》さに|凍《こご》え、|身体《しんたい》|強直《きやうちよく》して|一歩《ひとあし》も|進《すす》む|事《こと》が|出来《でき》ないので|御座《ござ》います。どうぞ|火《ひ》が|御座《ござ》りますれば|暖取《あた》らして|下《くだ》さいませぬか』
『それは|御難儀《ごなんぎ》な|事《こと》でせう。|此処《ここ》へ|木《こ》の|葉《は》を|集《あつ》めて|焚《た》く|訳《わけ》にもゆかず、|困《こま》つたものですなア』
『どうぞ|貴方《あなた》の|暖《あたた》かいお|体《からだ》の|温《ぬく》みを|分《わ》けて|頂《いただ》くことは|出来《でき》ますまいか。|最早《もはや》|斯《か》うなつては、|恥《はぢ》も|何《なに》も|構《かま》うて|居《を》れませぬ。|全身《ぜんしん》の|血液《けつえき》が|凝固《ぎようこ》しさうに|御座《ござ》いますワ』
『アー|困《こま》つた|事《こと》だなア。|今《いま》|高春山《たかはるやま》の|魔神《まがみ》の|征服《せいふく》に|向《むか》ふ|途中《とちう》、|女《をんな》の|肉体《にくたい》に|触《ふ》れると|云《い》ふ|事《こと》は|絶対《ぜつたい》に|出来《でき》ない。|何《なに》か|良《い》い|考《かんが》へは|出《で》ぬものかなア』
と|四辺《あたり》を|見廻《みまは》せば、|雪明《ゆきあか》りに|目《め》に|付《つ》いたのは|一束《ひとたば》の|枯柴《かれしば》、|突出《つきで》た|岩《いは》に|蔽《おほ》はれて|乾《かわ》いた|儘《まま》に|残《のこ》つて|居《ゐ》る。
『アー|此処《ここ》に|結構《けつこう》な|薪《たきぎ》がある。|何人《なにびと》が|刈《か》つて|置《お》いたか|知《し》らないが、これも|神様《かみさま》の|御蔭《おかげ》だ、これを|焚《た》いて|暖《だん》を|取《と》つたら|如何《どう》でせう』
『それは|好都合《かうつがふ》で|御座《ござ》います。どうぞ|燃《も》やして|下《くだ》さいませ。しかし|余《あま》り|大《おほ》きな|火《ひ》を|焚《た》くと|追手《おつて》の|目標《めじるし》になつては|困《こま》りますから……』
『|宜《よろ》しい|宜《よろ》しい、|小《ちひ》さく|燃《も》やしませう。しかし|雪《ゆき》の|足形《あしかた》を|索《たづ》ねて|追手《おつて》が|来《く》るかも|知《し》れますまい』
『お|蔭《かげ》で|足跡《あしあと》は|降《ふ》る|雪《ゆき》が|次々《つぎつぎ》に|埋《うづ》めてくれましたから、|大丈夫《だいぢやうぶ》で|御座《ござ》います』
|竜国別《たつくにわけ》は|燧《ひうち》を|打《う》ち|火《ひ》を|出《だ》し、|薪《たきぎ》に|点《つ》けて|暖《だん》をとり、|女《をんな》も|嬉《うれ》しげに|手《て》を|炙《あぶ》つて|居《ゐ》る。
『いまのあなたの|御話《おはなし》に|依《よ》れば、|高春山《たかはるやま》へ|囚《とら》はれて|居《を》られたとの|事《こと》、|然《しか》らばアルプス|教《けう》の|内幕《うちまく》はよく|御存《ごぞん》じでせうな』
『ハイよく|承知《しようち》|致《いた》して|居《を》ります。|到底《たうてい》あなた|方《がた》が|三人《さんにん》や|五人《ごにん》お|出《い》でになつた|所《ところ》で、|飛《と》んで|火《ひ》に|入《い》る|夏《なつ》の|虫《むし》ですよ、お|止《や》めになつた|方《はう》が|却《かへつ》てお|身《み》の|為《ため》だと|思《おも》ひます』
|竜国別《たつくにわけ》は|不機嫌《ふきげん》な|顔《かほ》で、
『|仮令《たとへ》|幾万《いくまん》の|強敵《きやうてき》があらうとも、|一旦《いつたん》|我々《われわれ》は|言依別《ことよりわけ》の|教主《けうしゆ》より|任命《にんめい》された|以上《いじやう》は、|一《ひと》つの|生命《いのち》が|無《な》くなつても、|此《この》|使命《しめい》を|果《はた》さねばならないのだから、|行《ゆ》く|所《ところ》|迄《まで》|行《ゆ》く|積《つも》りです』
『それは|大変《たいへん》な|御決心《ごけつしん》で|結構《けつこう》で|御座《ござ》います。|妾《わたし》もあなたの|様《やう》な|気《き》の|強《つよ》い|御方《おかた》と|手《て》を|曳《ひ》いて、|今迄《いままで》|鬼婆《おにばば》が|妾《わたし》に|加《くは》へた|惨虐《ざんぎやく》の|恨《うら》みを|晴《は》らしたいのですから、どうぞ|伴《つ》れて|行《い》つて|下《くだ》さいませぬか』
『イヤ|滅相《めつさう》も|無《な》い。|女《をんな》の|方《かた》と|道伴《みちづ》れなんか|出来《でき》ますものか。|又《また》あなたに|助《たす》けられて、|魔神《まがみ》の|征服《せいふく》に|行《い》つたと|云《い》はれては、|末代《まつだい》の|恥辱《はぢ》ですから、それだけは|平《ひら》に|御断《おことわ》り|致《いた》します』
『|随分《ずゐぶん》お|堅《かた》い|方《かた》ですなア。さう|云《い》ふ|堅固《けんご》な|精神《せいしん》の|夫《をつと》が、|妾《わたし》も|持《も》つて|見《み》たう|御座《ござ》いますワ』
『コレコレ|女中《ぢよちう》、|戯談《じやうだん》も|良《よ》い|加減《かげん》になさいませ。|貴女《あなた》は|赤《あか》ん|坊《ばう》を|懐《ふところ》に|抱《だ》いて|居《ゐ》るぢやないか。|立派《りつぱ》な|夫《をつと》があるに|相違《さうゐ》はありますまい』
『イエイエ、|夫《をつと》はまだ|持《も》つた|事《こと》は|御座《ござ》いませぬ』
『|夫《をつと》が|無《な》いのに|児《こ》があるとは、|一《ひと》つの|不思議《ふしぎ》ではありませぬか』
『ホヽヽヽヽ、|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》にも|似合《にあ》はない|事《こと》を|仰有《おつしや》いますこと。|玉照姫《たまてるひめ》|様《さま》の|御生母《ごせいぼ》のお|玉《たま》さまは、|夫《をつと》なしに|妊娠《にんしん》なさつたぢやありませぬか』
『それはさうだが、ああ|云《い》ふことはまた|例外《れいぐわい》だ。|普通《ふつう》の|女《をんな》にさう|云《い》ふことがある|道理《だうり》がない』
『|妾《わたし》を|普通《ふつう》|一般《いつぱん》の|女《をんな》と|御覧《ごらん》になりましたか』
『サア|別《べつ》に|斯《か》う|見《み》た|所《ところ》では、|何《なん》の|変《かは》つた|点《てん》もなし、|判別《はんべつ》がつきませぬワイ』
『|妾《わたし》の|素性《すじやう》が|分《わか》らない|様《やう》な|事《こと》では|審神者《さには》も|駄目《だめ》ですよ。どうして|高春山《たかはるやま》の|魔神《まがみ》を|帰順《きじゆん》させる|事《こと》が|出来《でき》ませうか』
『これは|又《また》|妙《めう》な|女《をんな》に|会《あ》つたものだ。お|前《まへ》は|要《えう》するに|化物《ばけもの》だらう』
『|何《いづ》れ|化物《ばけもの》には|違《ちが》ひありませぬ。|併《しか》し|化物《ばけもの》にも|善《ぜん》と|悪《あく》とがあります。|其《その》|審神者《さには》をして|下《くだ》さいな』
『|此《この》|雪《ゆき》の|降《ふ》るのに、|一人《ひとり》で|山路《やまみち》を|赤児《あかご》を|抱《かか》へて|歩《ある》くところを|見《み》れば、|先《ま》づ|立派《りつぱ》な|者《もの》だなかりそうだ。|鷹依姫《たかよりひめ》の|悪神《あくがみ》に|苦《くる》しめられて|逃《に》げて|帰《かへ》つたところを|見《み》れば、どうせ|碌《ろく》なものぢやなからうて』
『|鷹依姫《たかよりひめ》に|苦《くる》しめられた|様《やう》な|女《をんな》だから、|碌《ろく》な|者《もの》で|無《な》いと|仰有《おつしや》りますが、|現在《げんざい》|玉照姫《たまてるひめ》|様《さま》をお|生《う》み|遊《あそ》ばしたお|玉《たま》の|方《かた》は、|三国ケ岳《みくにがだけ》で|蜈蚣姫《むかでひめ》に|苦《くる》しめられたぢやありませぬか。あなたの|判断《はんだん》は|正鵠《せいこう》を|欠《か》いで|居《ゐ》ますよ。お|玉《たま》さまは|立派《りつぱ》だが、|妾《わたし》は|雪路《ゆきみち》を|夜中《よなか》に|歩《ある》いて|居《を》るから|怪《あや》しいと|云《い》ふ|事《こと》が|先入主《せんにふしゆ》になつて、お|目《め》が|眩《くら》んだのぢやありますまいかなア』
|竜国別《たつくにわけ》は|両手《りやうて》を|胸《むね》のあたりに|組《く》んで|太《ふと》い|息《いき》をつき|考《かんが》へ|込《こ》む。|女《をんな》は|薪《たきぎ》を|先繰《せんぐ》り|燻《く》べる。|二人《ふたり》の|顔《かほ》は|益々《ますます》|明《あきら》かになつて|来《き》た。|竜国別《たつくにわけ》はフト|女《をんな》の|顔《かほ》を|見《み》ると、|二《ふた》つの|耳《みみ》が|馬《うま》の|様《やう》にビリビリと|動《うご》いて|居《ゐ》るに|気《き》が|付《つ》いた。
『あなたの|耳《みみ》はどうしましたか。|人間《にんげん》なれば|耳《みみ》は|動《うご》かないのが|通例《つうれい》だ。お|前《まへ》さまの|耳《みみ》は|不随意筋《ふずゐいきん》が|発達《はつたつ》して|居《を》ると|見《み》えて、|畜生《ちくしやう》の|様《やう》に|自由自在《じいうじざい》に|動《うご》く。コレヤ|屹度《きつと》|魔性《ましやう》の|女《をんな》に|相違《さうゐ》あるまい』
『オホヽヽヽ、|耳《みみ》が|動《うご》くのがそれ|丈《だけ》|気《き》になりますか。あなたは|耳《みみ》|所《どころ》か|肝腎《かんじん》の|霊魂《みたま》まで|頻《しき》りに|動揺《どうえう》し、ハートには|激浪《げきらう》|怒濤《どたう》が|立《た》ち|騒《さわ》いで|居《を》るぢやありませぬか。それの|方《はう》がよつ|程《ぽど》|可笑《をか》しいワ、ホヽヽヽヽ』
『ハーテナ。ますます|分《わか》らなくなつて|来《き》たワイ』
『|本当《ほんたう》に|妾《わたし》だつて、あなたの|様《やう》な|分《わか》らぬ|宣伝使《せんでんし》に|出会《であ》うた|事《こと》はありませぬワ。|神様《かみさま》はイロイロ|姿《すがた》をお|変《へん》じ|遊《あそ》ばすぢやありませぬか。|木《こ》の|花姫《はなひめ》|様《さま》を|御覧《ごらん》なさい。|竜体《りうたい》にもなれば、|獣《けだもの》にもなり、|立派《りつぱ》な|神《かみ》の|姿《すがた》にも|現《げん》じ、|乞食《こじき》にまで|身《み》を|窶《やつ》して|衆生済度《しうじやうさいど》を|遊《あそ》ばすのに、|妾《わたし》の|耳《みみ》が|動《うご》いたと|云《い》つて|軽率《けいそつ》にも|獣《けもの》|扱《あつか》ひなさるのは、チツト|聞《きこ》えないぢやありませぬか』
|竜国別《たつくにわけ》は、
『ハーテナー』
と|云《い》つた|限《き》り、|又《また》|俯向《うつむ》く。
『ハテナハテナと|何程《なにほど》|仰有《おつしや》つても、あなたの|身魂《みたま》が|磨《みが》けねば、|此《この》|談判《だんぱん》は|何時《いつ》までも|果《は》てませぬ。ハテ|悟《さと》りの|悪《わる》い|宣伝使《せんでんし》だこと、ホヽヽヽヽ』
『|兎《と》も|角《かく》|今日《けふ》は|本守護神《ほんしゆごじん》が|不在《ふざい》だから、|番頭《ばんとう》の|副守護神《ふくしゆごじん》が|発動《はつどう》して|居《を》るので、|根《ね》つからお|前《まへ》さまの|審神《さには》も|出来《でき》ない。|本守護神《ほんしゆごじん》が|帰《かへ》つてから、ユツクリと|御答《おこたへ》を|致《いた》しませう』
『ホヽヽヽヽ、うまい|事《こと》|仰有《おつしや》いますこと。|一時遁《いちじのが》れの|言《い》ひ|訳《わけ》でせう。そんな|痩我慢《やせがまん》を|出《だ》して|我《が》を|張《は》らずに、|男《をとこ》らしくスツパリと、|身魂《みたま》が|曇《くも》つて|居《を》るので|分《わか》らないから……と|仰有《おつしや》つたらどうです。|妾《わたし》の|素性《すじやう》を|明《あ》かす|為《ため》に、|今《いま》|此処《ここ》で|羽衣《はごろも》の|舞《まひ》を|舞《ま》うて|見《み》せますから、どうぞ|此《この》|赤《あか》ん|坊《ばう》を|一寸《ちよつと》|抱《だ》いて|下《くだ》さらぬか』
『|何《なに》は|兎《と》もあれ、|旅《たび》の|慰《なぐさ》めだ。|審神《さには》を|兼《か》ねて|其《その》|舞《まひ》を|拝見《はいけん》|致《いた》さうかなア』
『どこまでも|徹底的《てつていてき》に、|我《が》の|強《つよ》いお|方《かた》ですこと、ホヽヽヽヽ』
『|我《が》が|無《な》ければならず、|我《が》があつてはならず、|我《が》は|腹《はら》の|中《なか》へキユツと|締《し》め|込《こ》みて|落《お》ちついて|居《ゐ》る|身魂《みたま》でないと、|誠《まこと》の|御用《ごよう》は|出来《でき》ませぬワイ』
『ホヽヽヽヽ、|三五教《あななひけう》の|御神諭《ごしんゆ》を|其《その》|儘《まま》|拝借《はいしやく》して、|巧妙《うま》い|事《こと》|仰有《おつしや》りますこと』
『|日進月歩《につしんげつぽ》の|世《よ》の|中《なか》、|知識《ちしき》を|世界《せかい》に|求《もと》めると|云《い》つて、|善《い》い|事《こと》は|直《ただち》に|取《と》つて|我《わが》|物《もの》とするのが、|豁達《かつたつ》|自在《じざい》の|文明人《ぶんめいじん》としての|本領《ほんりやう》だ。お|前《まへ》さまは|浪速《なには》の|土地《とち》に|生《うま》れたものだと|云《い》つたが、|文化生活《ぶんくわせいくわつ》と|云《い》ふものはどんなものだか|知《し》つて|居《ゐ》るかい』
『ホヽヽヽヽ、|文化生活《ぶんくわせいくわつ》が|聞《き》いて|呆《あき》れますよ。そんなことは|疾《とう》の|昔《むかし》に|御存《ごぞん》じの|妾《わたし》、|文《ぶん》と|云《い》ふのは|蚊《か》の|活動《くわつどう》する|羽翼《うよく》の|声《こゑ》……|一秒時間《いちべうじくわん》に|何万回《なんまんくわい》とも|知《し》れぬ|羽翼《うよく》の|廻転《くわいてん》から|起《おこ》る|声音《せいおん》ですよ。|化《くわ》と|云《い》ふのは|人《ひと》の|褌《ふんどし》で|相撲《すまふ》をとつたり|顔《かほ》を|舐《な》めたりして、|生血《いきち》を|絞《しぼ》り|自分《じぶん》|一人《ひとり》うまい|汁《しる》を|吸《す》ふと|云《い》ふ|生活《せいくわつ》でせう。|体主霊従《たいしゆれいじう》、|我利々々亡者《がりがりまうじや》の|充満《じうまん》した|世《よ》の|中《なか》を|矯直《ためなほ》す|為《ため》に、|国治立大神《くにはるたちのおほかみ》が|変性男子《へんじやうなんし》の|生宮《いきみや》を|借《か》つて|教《をしへ》を|垂《た》れさせられ、|其《その》|御心《みこころ》を|世界《せかい》に|宣伝《せんでん》するお|前《まへ》さま|達《たち》が、|悪逆非道《あくぎやくひだう》の|利己主義《われよし》の|文化生活《ぶんくわせいくわつ》を|主張《しゆちやう》するとは、|逆様《さかさま》の|世《よ》の|中《なか》とは|云《い》ひ|乍《なが》ら、|実《じつ》に|矛盾《むじゆん》したものですなア。それだから|神様《かみさま》がこれ|丈《だけ》|沢山《たくさん》の|宣伝使《せんでんし》があつても、|誠《まこと》の|解《わか》つた|者《もの》は|一柱《ひとはしら》も|無《な》いと|云《い》つて、|御悔《おくや》み|遊《あそ》ばすのですよ。|三五教《あななひけう》を|破《やぶ》る|者《もの》は|依然《やつぱり》|三五教《あななひけう》にあるとは|千古不磨《せんこふま》の|金言《きんげん》ですワ。|妾《わたし》は|此《この》|第一言《だいいちごん》に|対《たい》し|無量《むりやう》の|感《かん》に|打《う》たれて|居《ゐ》ます。サア|妾《わたし》がこれから|羽衣《はごろも》の|舞《まひ》を|舞《ま》うて、|尊《たふと》き|天《てん》の|神様《かみさま》を|御招待《ごせうたい》|申上《まをしあ》げ、|貴方《あなた》の|心《こころ》の|岩戸《いはと》を|開《ひら》いて|見《み》せませう。どうぞ|此《この》|赤《あか》ん|坊《ばう》を|抱《かか》へて|下《くだ》さいませ』
『|随分《ずゐぶん》|愛《あい》らしいお|子《こ》だ。|併《しか》し|男《をとこ》ですか、|女《をんな》ですか』
『|三十三相《さんじふさんさう》|揃《そろ》うた|女《をんな》です。|女《をんな》の|赤《あか》ん|坊《ばう》です』
『ヤアそれならば|御免《ごめん》|蒙《かうむ》りたい。|女《をんな》を……|仮令《たとへ》|子供《こども》にもせよ、|魔神《まがみ》の|征討《せいたう》に|上《のぼ》る|我々《われわれ》、|抱《だ》く|訳《わけ》には|行《ゆ》きますまい』
『|何《なに》を|仰有《おつしや》いますか。|女《をんな》|位《ぐらゐ》|世《よ》の|中《なか》に|潔白《けつぱく》なものはありますまい。あなた|方《がた》は|二《ふた》つ|目《め》には|婦人《ふじん》に|対《たい》し、|軽侮《けいぶ》の|目《め》を|以《もつ》て|臨《のぞ》まれるのが|怪《あや》しからぬ。|我々《われわれ》は|新《あたら》しい|婦人《ふじん》となつてどこまでも|女権拡張《ぢよけんくわくちやう》をやらねばならない。|婦人《ふじん》の|代議士《だいぎし》さへ|選出《せんしゆつ》される|世《よ》の|中《なか》に|何《なん》と|云《い》ふ|頭脳《あたま》の|古《ふる》い|事《こと》を|仰有《おつしや》るのでせう』
『|何《なん》と|云《い》つても、|男《をとこ》は|陽《やう》、|女《をんな》は|陰《いん》だ。おまけに|月《つき》に|七日《なぬか》の|汚《けが》れがある。そんな|汚《けが》れた|女《をんな》に|男《をとこ》が|触《さは》つてどうなるものか。|清《きよ》きが|上《うへ》にも|清《きよ》くせなくては、|神業《しんげふ》が|勤《つと》まりますまい』
『|男《をとこ》|位《くらゐ》|不潔苦《むさくる》しい|肉体《にくたい》はありますまい。|十三《じふさん》|元素《げんそ》とか、|十五《じふご》|元素《げんそ》にて|固《かた》め|上《あ》げた|肉体《にくたい》の、|半《なか》ば|腐敗《ふはい》せる|燐火《りんくわ》の|燃《も》える、|臭気《しうき》の|激《はげ》しい|醜体《しうたい》を|持《も》ち|乍《なが》ら、|月《つき》に|一週間《いつしうかん》づつ|汚《けが》れを|排除《はいじよ》し、|清《きよ》められた|女《をんな》の|肉体《にくたい》が|汚《けが》れるとは、ソラまア|何《なん》とした|分《わか》らぬ|事《こと》を|仰有《おつしや》るのでせう。|開闢《かいびやく》の|初《はじめ》より、|女《をんな》ならでは|夜《よ》の|明《あ》けぬ|国《くに》と|云《い》ふぢやありませぬか。|太陽界《たいやうかい》を|治《しろ》しめす|大神様《おほかみさま》は|男《をとこ》でしたか。|木花咲耶姫《このはなさくやひめ》|様《さま》はどうでせう。|変性男子《へんじやうなんし》の|身魂《みたま》、|国治立命《くにはるたちのみこと》|様《さま》の|肉《にく》の|宮《みや》は|男《をとこ》ですか、よく|考《かんが》へて|御覧《ごらん》なさい』
『|短兵急《たんぺいきふ》にさう|攻撃《こうげき》されては、|二《に》の|矢《や》が|継《つ》げませぬ。|併《しか》し|牝鶏《ひんけい》|暁《あかつき》を|告《つ》ぐる|時《とき》は|其《その》|家《いへ》|亡《ほろ》ぶ、と|云《い》ふ|事《こと》がある。|何《なん》と|云《い》つても|牝鶏《めんどり》は|牝鶏《めんどり》だ。|何程《なにほど》|女《をんな》が|男《をとこ》の|真似《まね》をしようと|思《おも》つても、|第一《だいいち》|体格《たいかく》が|劣《おと》つて|居《を》る。|鼻下《びか》に|髭《ひげ》もなければ、|腮髯《あごひげ》もない。それから|見《み》ても|男尊女卑《だんそんぢよひ》と|云《い》ふ|事《こと》は|証明《しようめい》されるぢやないか』
『よく|掃清《はききよ》められた|庭《には》には、|雑草《ざつさう》は|一本《いつぽん》も|生《は》えて|居《を》りますまい。|鼻《はな》の|下《した》を|長《なが》くして|女《をんな》に|洟《はな》をたらす|天罰《てんばつ》の|酬《むく》いとして、|雑草《ざつさう》がムシヤクシヤと|生《は》えて|居《を》るのだ。お|前《まへ》さまは|髯《ひげ》を|大変《たいへん》|自慢《じまん》にして|居《を》るが、|其《その》|髯《ひげ》は|男《をとこ》の|卑劣《ひれつ》な|根性《こんじやう》を|隠《かく》す|為《ため》の|道具《だうぐ》だ。つまり|世間《せけん》に|卑下《ひげ》をせなくてはならぬ|所《ところ》を、|神様《かみさま》のお|恵《めぐみ》で|包《つつ》む|様《やう》にして|貰《もら》つて|居《ゐ》るのだから、【ヒゲ】と|云《い》ふのですよ、オホヽヽヽ』
『どこまでも|男子《だんし》を|馬鹿《ばか》にするぢやないか。|俺《わし》は|天下《てんか》の|男子《だんし》に|代《かは》はつて、|大《おほ》いに|男尊女卑《だんそんぢよひ》の|至当《したう》なる|道理《だうり》を|徹底《てつてい》させなくてはならない。お|転婆女《てんばをんな》の|跋扈《ばつこ》する|世《よ》の|中《なか》だから……』
『ホヽヽヽヽ、|男《をとこ》|位《くらゐ》|得手《えて》|勝手《かつて》な|者《もの》がありませうか。|女房《にようばう》に|口《くち》の|先《さき》でウマい|事《こと》ばつかり|言《い》つて、|社交《しやかう》の|為《ため》だとか、|外交《ぐわいかう》|手段《しゆだん》だとか、|甘《うま》い|辞令《じれい》を|編《あ》み|出《だ》して|女房《にようばう》の|手前《てまへ》を|繕《つく》ろひ、|狐鼠々々《こそこそ》と|家《いへ》を|飛《と》び|出《だ》し、スベタ|女《をんな》に|酌《しやく》をさせ、|涎《よだれ》をたらして、|間《ま》がな|隙《すき》がなズボリ|込《こ》み、スゴスゴと|家《うち》へ|帰《かへ》つては、|山《やま》の|神《かみ》に|如何《どう》してウマク|弁解《べんかい》しようかと、そんな|事《こと》ばかりに|心《こころ》を|悩《なや》ましてゐる、|腑甲斐《ふがひ》ない|男《をとこ》は、|世界《せかい》に|九分九厘《くぶくりん》と|云《い》つても|差支《さしつかへ》ありますまい。ヤツパリ|女《をんな》は|家庭《かてい》の|女王《ぢよわう》ですよ。|女《をんな》がそれ|程《ほど》|卑《いや》しいものなら、なぜ|亭主《おやぢ》になつた|男《をとこ》はそれ|丈《だけ》|女房《にようばう》に|遠慮《ゑんりよ》をしたり、|弁解《べんかい》をするのだらう。|何《なん》と|云《い》つても|男《をとこ》は|下劣《げれつ》ですよ。|天下《てんか》の|事《こと》は|一切《いつさい》|女《をんな》でなければ|解決《かいけつ》はつきますまい』
『お|前《まへ》さまは|浪速《なには》の|土地《とち》に|生《うま》れた|丈《だけ》に、|新刊《しんかん》|雑誌《ざつし》でも|沢山《たくさん》に|噛《かぢ》つて|居《ゐ》ると|見《み》え、|随分《ずゐぶん》|口先《くちさき》は|巧妙《うま》いものだなア』
『|日進月歩《につしんげつぽ》の|世《よ》の|中《なか》、|一日《いちにち》|新聞紙《しんぶんし》を|見《み》なくても|雑誌《ざつし》を|繙《ひもと》かなくても、|社会《しやくわい》に|遅《おく》れて|了《しま》ふのですから、|女《をんな》は|十分《じふぶん》に|時勢《じせい》に|遅《おく》れない|様《やう》に|注意《ちゆうい》を|払《はら》つて|居《を》りますよ。|男《をとこ》の|様《やう》にスベタ|女《をんな》の|機嫌《きげん》を|取《と》つたり|女房《にようばう》の|顔色《かほいろ》を|見《み》て|弁解《べんかい》ばかりに|心力《しんりよく》を|費消《ひせう》する|野呂作《のろさく》とは、|大《おほい》に|趣《おもむき》が|違《ちが》ふのです。グヅグヅして|居《ゐ》ると、|今《いま》に|女尊男卑《ぢよそんだんぴ》の|実《じつ》が|現《あら》はれ、|亭主《おやぢ》は|赤《あか》ん|坊《ばう》を|背《せな》にひつ|括《くく》り、|鍋《なべ》の|下《した》から、|走《はし》り|元《もと》から、|何《なに》から|何《なに》まで、|女房《にようばう》の|頤使《いし》に|従《したが》つて、|御用《ごよう》を|承《うけたま》はらねばならぬ|様《やう》になつて|来《き》ますよ。|現《げん》に|今《いま》でもチヨコチヨコ、さういふ|事《こと》が|実現《じつげん》して|居《ゐ》ます。|女《をんな》は|長煙管《ながぎせる》を|銜《くは》へながら、|腮《あご》で|指図《さしづ》をして|居《を》る|例《れい》は|沢山《たくさん》あるのです。これも|時代《じだい》の|趨勢《すうせい》だから、|坂《さか》に|車《くるま》を|押《お》す|事《こと》は|出来《でき》ませぬ。|男子《だんし》は|須《すべか》らく|沈黙《ちんもく》を|守《まも》り、|従順《じうじゆん》の|態度《たいど》を|執《と》るのが、|今後《こんご》の|男子《だんし》の|立場《たちば》として|安全《あんぜん》|第一《だいいち》の|良法《りやうはふ》と|考《かんが》へますワ、オホヽヽヽ』
『イヤもう|是《こ》れ|位《くらゐ》で、|女権拡張論《ぢよけんくわくちやうろん》の|演説《えんぜつ》は|中止《ちゆうし》を|命《めい》じませう』
『そんなら|此《この》|赤《あか》ん|坊《ばう》を|抱《だ》いて|呉《く》れますか』
『エー|仕方《しかた》がない。そんなら|今日《けふ》に|限《かぎ》りて|女尊男卑《ぢよそんだんぴ》の|実《じつ》を|示《しめ》しませう。|併《しか》し|明日《あす》からは|捲土重来《けんどぢゆうらい》、|男子《だんし》の|為《ため》に|大気焔《だいきえん》を|吐《は》いて、|現代《げんだい》のハイカラ|婦人《ふじん》の|心胆《しんたん》を|寒《さむ》からしめる|覚悟《かくご》だから、|其《その》|積《つも》りで|応戦《おうせん》|準備《じゆんび》をなさるが|良《よ》からう』
|斯《か》かる|所《ところ》へ|何処《いづく》ともなく「ブーブー」と|法螺貝《ほらがひ》を|吹《ふ》く|声《こゑ》、|谺《こだま》に|響《ひび》き|出《だ》した。|女《をんな》はあたりをキヨロキヨロ|見廻《みまは》し、|心《こころ》|落《おち》つかぬ|様子《やうす》である。ザクザクと|雪《ゆき》|踏《ふ》み|鳴《な》らし、|此《この》|場《ば》に|現《あら》はれた|大《だい》の|男《をとこ》、|此《この》|態《てい》を|見《み》て、
『|汝《なんぢ》|魔性《ましやう》の|女《をんな》、そこを|動《うご》くなツ』
と|大喝《だいかつ》した。|女《をんな》は|乳呑児《ちのみご》を|火中《くわちう》に|投《とう》じ、|忽《たちま》ち|金毛九尾《きんまうきうび》|白面《はくめん》の|悪狐《あくこ》となつて、|宙空《ちうくう》をかけり|姿《すがた》を|隠《かく》したり。|竜国別《たつくにわけ》はこれを|見《み》て|肝《きも》を|潰《つぶ》し、|夢心地《ゆめごこち》に|入《い》つて|了《しま》つた。|又《また》もや|大空《おほぞら》に|美妙《びめう》の|音楽《おんがく》が|聞《きこ》えて|来《き》た。ややあつて|又《また》もや|降《くだ》る|天女《てんによ》の|姿《すがた》、|巨人《きよじん》の|前《まへ》に|現《あら》はれて、
『アヽ|其方《そなた》は|鬼武彦《おにたけひこ》|様《さま》。よく|竜国別《たつくにわけ》を|助《たす》けて|下《くだ》さりました。|妾《わらは》は|聖地《せいち》に|於《おい》て|竜国別《たつくにわけ》が|危急《ききふ》を|悟《さと》り、|取《と》る|物《もの》も|取敢《とりあ》へず|救援《きうゑん》に|向《むか》うた|言依別《ことよりわけ》の|本守護神《ほんしゆごじん》|言依姫《ことよりひめ》で|御座《ござ》ります』
『|何《なに》、これしきの|事《こと》に|御褒《おほ》めの|詞《ことば》を|頂戴《ちやうだい》|致《いた》しまして、|実《じつ》に|汗顔《かんがん》の|至《いた》りで|御座《ござ》ります。|併《しか》し|竜国別《たつくにわけ》、|玉治別《たまはるわけ》、|国依別《くによりわけ》の|三人《さんにん》では、|余《あま》りに|高春山《たかはるやま》の|征服《せいふく》は、|荷《に》が|重《おも》すぎる|様《やう》ですから、|私《わたくし》に|加勢《かせい》を|命《めい》じて|頂《いただ》けませぬか』
『|彼等《かれら》|三人《さんにん》の、|今度《こんど》は|卒業《そつげふ》|試験《しけん》も|同様《どうやう》ですから、どうぞ|構《かま》へ|立《だ》てをしてやつて|下《くだ》さりますな。|併《しか》し|乍《なが》ら|危急《ききふ》の|場合《ばあひ》は、|御助勢《ごじよせい》を|願《ねが》ひおきます。サアこれから|聖地《せいち》を|指《さ》して|帰《かへ》りませう』
と|二人《ふたり》は|雲《くも》に|乗《の》り、|中空《ちうくう》に|姿《すがた》を|隠《かく》したり。|又《また》もや|降《ふ》り|来《く》る|雪《ゆき》しばき、|嵐《あらし》の|音《おと》に|目《め》を|醒《さま》せば|岩窟《がんくつ》の|前《まへ》に|火《ひ》を|焚《た》き、|其《その》|正中《まんなか》に|巨岩《きよがん》が|放《ほ》り|込《こ》まれてあつた。|赤児《あかご》と|見《み》えたのは、|此《こ》の|岩石《いはいし》である。|竜国別《たつくにわけ》は|夢《ゆめ》の|醒《さ》めたる|心地《ここち》して、|夜明《よあ》けに|間《ま》もなき|雪空《ゆきぞら》を、|宣伝歌《せんでんか》を|歌《うた》ひ|乍《なが》ら|前進《ぜんしん》する。
アヽ|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》。
(大正一一・五・二〇 旧四・二四 松村真澄録)
第一一章 |鬼娘《おにむすめ》〔六八五〕
|白雪《はくせつ》|皚々《がいがい》として|四面《しめん》の|山野《さんや》、|白布《しろぬの》の|褥《しとね》を|被《かぶ》つた|如《ごと》く|満目蕭然《まんもくせうぜん》として|一点《いつてん》の|塵《ちり》を|留《とど》めず、|道《みち》|問《と》ふ|人《ひと》もあら|風《かぜ》に|向《むか》つて|進《すす》む|竜国別《たつくにわけ》の|宣伝使《せんでんし》は、|刻々《こくこく》に|降《ふ》り|積《つも》る|雪《ゆき》を|踏《ふ》み|分《わ》け、|漸《やうや》く|谷《たに》と|谷《たに》との|細《ほそ》き|十字路頭《じふじろとう》に|出《い》でたり。
|太陽《たいやう》は|雪雲《ゆきぐも》にしきられて|光《ひかり》を|中空《ちうくう》に|包《つつ》み、|東西南北《とうざいなんぼく》の|方向《はうかう》さへも|判《わか》らなくなつて|来《き》た。|日《ひ》は|漸《やうや》く|雪雲《ゆきぐも》の|西天《せいてん》に|没《ぼつ》したと|見《み》えて、|何《なん》とはなしに|薄暗《うすぐら》く|寂《さび》し。されど|雪《ゆき》の|光《ひかり》に|四面《しめん》は|月夜《つきよ》の|如《ごと》く|朦朧《もうろう》と|光《ひか》つてゐる。|竜国別《たつくにわけ》は|五尺《ごしやく》|有余《いうよ》の|雪《ゆき》に|鎖《とざ》され|進退《しんたい》|谷《きは》まつて、|最早《もはや》|凍死《とうし》せむばかりに|困《くる》しみつつ、|言霊《ことたま》の|続《つづ》く|限《かぎ》り|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》し、|夜《よ》の|明《あ》くるを|待《ま》つの|止《や》むなき|破目《はめ》とはなりぬ。
|僅《わづ》か|一里《いちり》|許《ばか》りの|山路《やまみち》に|一日《いちにち》を|費《つひ》やしたるを|見《み》れば、|如何《いか》に|通路《つうろ》の|困難《こんなん》なりしかを|察《さつ》するに|余《あま》りあり。|真白《まつしろ》の|雪《ゆき》の|中《なか》より|白《しろ》き|影《かげ》、むくむくと|膨《ふく》れ|出《だ》し、|一塊《いつくわい》の|白《しろ》き|立姿《たちすがた》となつて|竜国別《たつくにわけ》が|佇《たたず》む|前《まへ》に|現《あら》はれ|来《きた》り、|物《もの》をも|言《い》はず|冷《つめ》たき|手《て》を|伸《の》ばして、|竜国別《たつくにわけ》の|手《て》を|執《と》り|進《すす》んで|行《ゆ》く。
|竜国別《たつくにわけ》は|心《こころ》の|中《うち》に|怪《あや》しみ|乍《なが》ら、|最早《もはや》|如何《いかん》ともすること|能《あた》はず、|怪物《くわいぶつ》に|手《て》を|引《ひ》かれたる|儘《まま》に|不安《ふあん》の|念《ねん》に|駆《か》られて|進《すす》み|行《ゆ》く。|怪物《くわいぶつ》は|小山《こやま》の|麓《ふもと》の|荒屋《あばらや》の|中《なか》に、|竜国別《たつくにわけ》を|誘《いざな》うた。
『|如何《いか》なる|方《かた》か|存《ぞん》じませぬが、|雪《ゆき》に|鎖《とざ》され|身動《みうご》きもならず、|困難《こんなん》の|処《ところ》へお|出《い》で|下《くだ》さいまして、|斯様《かやう》な|安全《あんぜん》|地帯《ちたい》へ|御案内《ごあんない》|下《くだ》さいましたのは、|誠《まこと》に|有難《ありがた》う|存《ぞん》じます』
『|汝《そなた》は|蜈蚣姫《むかでひめ》の|部下《ぶか》か、|但《ただし》は|言依別命《ことよりわけのみこと》の|部下《ぶか》なるか、|返答《へんたふ》|次第《しだい》で|吾々《われわれ》にも|一《ひと》つの|考《かんが》へがあるから、|敵《てき》か、|味方《みかた》か|聞《き》かして|欲《ほ》しい』
『さう|云《い》ふ|貴方《あなた》は、|何《なん》と|云《い》ふ|御婦人《ごふじん》でございますか』
『|貴方《あなた》の|返答《へんたふ》を|聞《き》くまで|申《まを》すまい。|吾々《われわれ》の|敵《てき》ならば|今《いま》|此処《ここ》で、|汝《そなた》を|征伐《せいばつ》せなければならず、もし|味方《みかた》ならば|何処迄《どこまで》も|助《たす》ける|覚悟《かくご》だよ。サア、バラモン|教《けう》か|三五教《あななひけう》か、|二《ふた》つに|一《ひと》つの|返答《へんたふ》を|聞《き》きませう』
『|仮令《たとへ》バラモン|教《けう》でも、|三五教《あななひけう》でも|誠《まこと》の|道《みち》に|変《かは》りはありませぬ。|私《わたくし》は|誠《まこと》の|道《みち》の|宣伝使《せんでんし》です。|三五教《あななひけう》、バラモン|教《けう》、|又《また》アルプス|教《けう》と|云《い》ふやうな|区分《くぶん》した|名称《めいしよう》に、|余《あま》り|重《おも》きを|置《お》いては|居《を》りませぬ』
『それは|誰《たれ》しも|同《おな》じこと。|併《しか》し|今《いま》|汝《そなた》の|属《ぞく》して|居《を》る|教派《けうは》は、|何教《なにけう》だと|尋《たづ》ねてゐるのだ』
『|何教《なにけう》でも|好《い》いぢやありませぬか。|兎角《とかく》|天下《てんか》|国家《こくか》の|為《ため》に|最善《さいぜん》を|尽《つ》くすのが、|宣伝使《せんでんし》の|天職《てんしよく》だと|心得《こころえ》てゐます』
『アハヽヽヽ、どうも|卑怯《ひけふ》|千万《せんばん》な|男《をとこ》だこと。|三五教《あななひけう》なら|三五教《あななひけう》だと、キツパリ|云《い》つたら|如何《どう》ですか』
と|最後《さいご》の|一言《いちごん》に|力《ちから》を|籠《こ》め|雷《らい》の|如《ごと》く|呶鳴《どな》り|立《た》てた。|見《み》ればその|怪物《くわいぶつ》は|拳《こぶし》のやうな|目玉《めだま》をクルクルと|廻転《くわいてん》させてゐる。
『|先程《さきほど》より|妙《めう》なことを|尋《たづ》ねる|怪物《くわいぶつ》だと|思《おも》つて|居《ゐ》たら、いよいよ|怪《あや》しき|奴《やつ》だ。|其《その》|方《はう》は|古狸《ふるだぬき》であらうがなア。|雪《ゆき》に|鎖《とざ》され|食料《しよくれう》に|苦《くる》しみ、|吾々《われわれ》が|腰《こし》の|弁当《べんたう》が|欲《ほ》しさにやつて|来《き》たのだらう。|貴様《きさま》に|与《あた》へるのは|易《やす》いこと|乍《なが》ら、|聊《いささ》か|此《この》|方《はう》が|迷惑《めいわく》を|致《いた》す。マア|気《き》の|毒《どく》|乍《なが》ら、|此処《ここ》を|早《はや》く|立去《たちさ》つたがよからうぞ。そんな|請求《せいきう》は|駄目《だめ》だから』
『お|前《まへ》は|人《ひと》を|救《すく》ふ|宣伝使《せんでんし》ぢやないか。わが|身《み》を|捨《す》てて|人《ひと》を|救《すく》はねばならぬ|職務《しよくむ》にあり|乍《なが》ら、|現在《げんざい》|飢《う》ゑたる|吾々《われわれ》を|見殺《みごろ》しに|致《いた》し、|自分《じぶん》さへ|腹《はら》が|膨《ふく》れたら、それで|好《い》いのか、それでも|人《ひと》を|救《すく》ふ|宣伝使《せんでんし》と|思《おも》うて|居《ゐ》るか。|此《この》|世《よ》を|誑《たばか》る|偽物《にせもの》|奴《め》、|吾々《われわれ》を|化物《ばけもの》と|申《まを》すが、|汝《そなた》こそ|真《しん》の|化物《ばけもの》だ。|人間《にんげん》の|皮《かは》を|被《かぶ》つては|居《を》るものの、|汝《そなた》が|身魂《みたま》は|四足《よつあし》|同然《どうぜん》ぢや』
『オイ|狐《きつね》か、|狸《たぬき》か|知《し》らないが、|人《ひと》に|食物《くひもの》をねだるのに、そんな|驕慢《けうまん》な|言葉《ことば》があるかい』
『|誰《たれ》が|貴様《きさま》のやうな|穢《けが》れた|人間《にんげん》の|所持《しよぢ》する|食物《しよくもつ》をくれいと|云《い》つたか。|吾々《われわれ》は|失礼《しつれい》|乍《なが》ら|乞食《こじき》の|真似《まね》は|致《いた》さぬ。|唯《ただ》|一《ひと》つ|欲《ほ》しいものがある。それを|頂戴《ちやうだい》すれば|好《よ》いのだ』
『お|前《まへ》の|欲《ほ》しいと|云《い》ふのは|一体《いつたい》|何《なん》だ』
『|外《ほか》でも|無《な》い。|其《そ》の|高《たか》い|鼻《はな》の|先《さき》を|削《けづ》つて|貰《もら》ひたいのだ』
『|此《この》|鼻《はな》は|親《おや》から|預《あづ》かつた|一《ひと》つの|貴重品《きちようひん》だ。こればかりは|遣《や》ることは|出来《でき》ない』
『そんなら|一《ひと》つ|交換《かうくわん》して|欲《ほ》しいものがある。|大《おほ》きな|物《もの》と、|小《ちひ》さい|物《もの》と|交換《かうくわん》するのだから、【どちら】かと|云《い》へば|俺《おれ》の|方《はう》が|余程《よほど》|損《そん》がゆくやうなものだが、|申込《まをしこ》んだ|方《はう》から|実物《じつぶつ》の|二倍《にばい》|三倍《さんばい》を|提供《ていきよう》すると|云《い》ふことは、|現代人間《げんだいにんげん》の|不文律《ふぶんりつ》だから、|俺《おれ》の|物《もの》は|大《おほ》きいが|交換《かうくわん》をして|貰《もら》ひたい』
『|八畳敷《はちでふじき》と|交換《かうくわん》して|堪《たま》るものかい。|歩《ある》くのに|妨害《ばうがい》になつて|仕方《しかた》が|無《な》いワ』
『アハヽヽヽ、|人間《にんげん》と|云《い》ふものは|汚《きたな》いものだな。|直《すぐ》にそんなとこへ|気《き》を|廻《まは》しよる。|俺《おれ》の|要望《えうばう》するのは、そんなものぢやない。|貴様《きさま》は|余《あま》り|目《め》が|小《ちひ》さいから、|向《むか》ふ|先《さき》が|見《み》えぬ|盲目《めくら》|同様《どうやう》の|化物《ばけもの》だ。それで|俺《おれ》の|目《め》と|貴様《きさま》の|目《め》と|交換《かうくわん》して|呉《く》れと|云《い》ふのだ』
『その|様《やう》な|大《おほ》きな|目《め》を|俺《おれ》の|面《つら》に|当《あ》てやうものなら、|一《ひと》つで|一杯《いつぱい》になつて|了《しま》ふワ』
『|一《ひと》つ|目《め》|小僧《こぞう》と|云《い》ふ|化物《ばけもの》があるそうだ。お|前《まへ》は|恰度《ちやうど》それに|魂《たましひ》が|適合《てきがふ》して|居《ゐ》る。|霊肉一致《れいにくいつち》だから|交換《かうくわん》してくれ』
『|一《ひと》つの|目《め》は|余《あま》るぢやないか』
『|残《のこ》り|一《ひと》つは|後頭部《こうとうぶ》へ|付《つ》けたらよからう。さうすれば|前《まへ》も|後《うし》ろも、よくわかつて|調法《てうはふ》だぞ。サア|強圧的《きやうあつてき》に|眼玉《めだま》を|抜《ぬ》いて|付《つ》け|替《か》へてやらうか』
『|俺《おれ》は|人間様《にんげんさま》だ。|此《この》|目《め》で|十分《じふぶん》に|用《よう》を|足《あし》して|居《ゐ》るのだ。|此《こ》の|交換《かうくわん》は|御免《ごめん》|蒙《かうむ》る』
『|一旦《いつたん》|言《い》ひ|出《だ》した|事《こと》は|後《あと》へ|退《ひ》かぬ|某《それがし》だ。そんなら|仕方《しかた》がない。お|前《まへ》の|腐《くさ》つた|魂《たましひ》を|受取《うけと》らう』
『|馬鹿《ばか》|云《い》ふな。|俺《おれ》の|魂《たましひ》は|水晶玉《すいしやうだま》だ。|何処《どこ》が|腐《くさ》つて|居《を》るか。|大《おほ》きな|目《め》を|剥《む》きよつて、それが|見《み》えぬのか』
『|貴様《きさま》は|高城山《たかしろやま》の|山麓《さんろく》、|松姫《まつひめ》の|館《やかた》に|於《おい》て|四足《よつあし》になつた|代物《しろもの》ぢやないか。|俺《おれ》の|素性《すじやう》が|判《わか》らぬ|筈《はず》はあるまい』
『ハテナー、|一体《いつたい》|貴様《きさま》は|何者《なにもの》だ。|俺《おれ》の|事《こと》をよく|知《し》つてるぢやないか』
『アハヽヽヽ』
と|笑《わら》ひ|乍《なが》ら、|被物《かぶりもの》をツツと|脱《ぬ》げばこは|如何《いか》に、|擬《まが》ふ|方《かた》なき|松姫《まつひめ》であつた。
『ヤア|貴女《あなた》は|松姫《まつひめ》さま、|随分《ずゐぶん》|悪戯《いたづら》をなさいますな。|本当《ほんたう》に|肝玉《きもだま》が|転宅《てんたく》しかけましたよ』
『オホヽヽヽ、|私《わたし》が|松姫《まつひめ》に|見《み》えますかな。それだから|其《そ》の|眼《め》の|玉《たま》を|交換《かうくわん》しようと|云《い》つたのだよ』
『そんならお|前《まへ》は|何者《なにもの》だ』
『|雪《ゆき》の|精《せい》から|現《あら》はれた|雪姫《ゆきひめ》と|云《い》ふものだよ』
『|雪《ゆき》にでも|霊《れい》があるのかなア』
『お|前《まへ》の|心《こころ》の|空《そら》に|真如《しんによ》の|太陽《たいやう》が|輝《かがや》き|渡《わた》らぬ|限《かぎ》り、|此《こ》の|雪姫《ゆきひめ》の|謎《なぞ》は|解《と》けないよ。|曇《くも》り|切《き》つた|今日《けふ》の|空《そら》のやうな|身魂《みたま》では、|可愛相《かあいさう》に|目《め》も|碌《ろく》に|見《み》えまい』
『|毬《まり》のやうな|目《め》を|剥《む》いて|現《あら》はれて|来《く》るものだから、|的切《てつき》り|狸《たぬき》のお|化《ばけ》と|思《おも》つたのだ。|雪姫《ゆきひめ》はそんなに|種々《いろいろ》に|変化《へんげ》|出来《でき》るものかなア』
『【ゆき】|詰《つま》つて、|行《ゆ》くに|行《ゆ》かれぬ|橡麺棒《とちめんぼう》を|振《ふ》つた|時《とき》は、お|前《まへ》でも|大《おほ》きな|目《め》を|剥《む》き|出《だ》して|困《こま》るだらうがなア。さうだからデカイ【きつい】|目《め》に|遇《あ》うたと|言《い》ふのだ。モー|一《ひと》つ|御望《おのぞ》みなら|大《おほ》きな|目《め》を|剥《む》いて、|御覧《ごらん》に|入《い》れようか』
『いやモー|沢山《たくさん》だ。【めい】|惑千万《わくせんばん》、これで|御遠慮《ごゑんりよ》|申《まを》して|置《お》かう』
|雪姫《ゆきひめ》は、
『これでもかア』
と|言《い》ひ|乍《なが》ら、|蛇《じや》の|目《め》の|傘《かさ》のやうな、|大《おほ》きな|目《め》を|剥《む》いて|見《み》せる。|竜国別《たつくにわけ》は|驚《おどろ》いて|後《うしろ》に|倒《たふ》れる|途端《とたん》に、|雪姫《ゆきひめ》は|忽《たちま》ち|白狐《びやくこ》となつて|一目散《いちもくさん》に|山道《やまみち》を|駆出《かけだ》し|逃《に》げて|行《ゆ》く。
『アヽ|偉《えら》いビツクリさせよつた。|奴狐《どぎつね》の|野郎《やらう》、|彼奴《あいつ》の|正体《しやうたい》がモウ|斯《か》う|判《わか》つた|以上《いじやう》は|別《べつ》に|怖《おそ》れることもない。|跡《あと》|追《お》つかけて|往生《わうじやう》させねば|宣伝使《せんでんし》の|役《やく》が|勤《つと》まらぬ。|併《しか》しこの|大雪《おほゆき》の|中《なか》、|四足《よつあし》は|歩《ある》きよからうが、|人間《にんげん》は|一寸《ちよつと》|困《こま》るワイ』
と|独語《どくご》し|乍《なが》ら|四辺《あたり》を|見《み》れば|六尺《ろくしやく》|有余《いうよ》もタマつたと|思《おも》ふ|雪《ゆき》は、|僅《わづ》か|一寸《いつすん》|許《ばか》り、|狐《きつね》の|足形《あしかた》がついて|居《ゐ》る。
|竜国別《たつくにわけ》は|手《て》を|組《く》んでドツカと|坐《すわ》り、
『アヽ|何《なん》の|事《こと》だ、|狐《きつね》の|奴《やつ》、|俺《おれ》を|魅《つま》み|居《を》つたなア。|一日《いちにち》|骨《ほね》を|折《を》つて|深《ふか》い|雪路《ゆきみち》を|進《すす》んだ|積《つも》りだつたが、|矢張《やつぱり》|元《もと》の|岩蔭《いはかげ》だつたワイ。|俺《おれ》はどうかして|居《ゐ》ると|見《み》える。サアこれから|一《ひと》つ|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》し、|大神《おほかみ》の|御神力《ごしんりき》を|頂戴《ちやうだい》して|前進《ぜんしん》することにしよう。|思《おも》はぬ|所《ところ》で|思《おも》はぬ|夢《ゆめ》を|見《み》たものだ。どうやら|夜《よ》が|明《あ》けたらしい。|此《こ》の|狐《きつね》の|足跡《あしあと》を|踏《ふ》むで|行《ゆ》けば、|道路《みち》が|分《わか》るだらう』
と|薄雪《はくせつ》に|印《いん》した|足跡《あしあと》を|頼《たよ》りにドシドシ|進《すす》み|行《ゆ》く。
|七八丁《しちはつちやう》|許《ばか》り|前進《ぜんしん》したと|思《おも》ふ|時《とき》、|一頭《いつとう》の|猪《しし》が|現《あら》はれ|前《まへ》を|横《よこ》ぎる。
『ハテ|不思議《ふしぎ》だ。|狐《きつね》の|足跡《あしあと》があると|思《おも》へば|又《また》|猪《しし》だ。|今度目《こんどめ》は|本当《ほんたう》の|狸《たぬき》の|野郎《やらう》に|出会《でつくは》すのかも|知《し》れないぞ』
と|佇《たたず》む|折《をり》しも、|何処《どこ》ともなく|空《くう》を|切《き》つてヒユウと|唸《うな》り|乍《なが》ら、|頭上《づじやう》を|掠《かす》めて|一本《いつぽん》の|流《なが》れ|矢《や》が|猪《しし》の|面部《めんぶ》に|発止《はつし》と|突立《つきた》つ。
|猪《しし》は|狼狽《うろた》へ|騒《さわ》いで|転《ころ》げ|廻《まは》り、|終《つひ》に|一《ひと》つの|禿山《はげやま》を|越《こ》えて、|向《むか》ふの|谷《たに》に|姿《すがた》を|隠《かく》したり。
『アヽ|可愛相《かあいさう》なことだ。|鳥《とり》、|獣《けだもの》でも|助《たす》けるのが|吾々《われわれ》の|役《やく》だ。これや|神様《かみさま》が|吾々《われわれ》の|気《き》を|惹《ひ》いて|御座《ござ》るのかも|知《し》れない。|之《これ》を|見捨《みす》てて|行《い》つては|大変《たいへん》だ。|幸《さいは》ひ|薄雪《はくせつ》に|残《のこ》つた|足跡《あしあと》を|索《たづ》ねて、|猪《しし》のお|宿《やど》を|探《さが》し、|鎮魂《ちんこん》を|施《ほどこ》して|助《たす》けてやらねばならぬ。|又《また》|彼《あ》の|矢《や》を|抜《ぬ》いてやらねば|到底《たうてい》|助《たす》かるまい。|何《なに》は|兎《と》もあれこれを|救《すく》ふが|第一《だいいち》だ』
と|禿山《はげやま》をトントン|登《のぼ》り|進《すす》み|行《ゆ》く。
|此処《ここ》は|大谷山《おほたにやま》の|山麓《さんろく》、|岩ケ谷《いはがたに》といふ|芒《すすき》の|生《お》ひ|茂《しげ》つた、|人《ひと》の|行《い》つたことのないやうな|草原《くさはら》である。|彼方《あちら》|此方《こちら》に|落《お》ちたる|血糊《ちのり》を|索《たづ》ねて|進《すす》んで|行《ゆ》くと、|其処《そこ》に|一《ひと》つの|岩穴《いはあな》があり、|以前《いぜん》の|猪《しし》は|既《すで》に|縡切《ことき》れてゐる。
|竜国別《たつくにわけ》『ハヽア|此処《ここ》が|猪《しし》の|棲処《すみか》だつたなア。それでも|途中《とちう》で|死《し》なずに、|自分《じぶん》の|棲処《すみか》まで|帰《かへ》つて|倒《たふ》れたのはまだしも、|猪《しし》に|取《と》つては|幸福《しあはせ》だ。|何処《どこ》ぞ|此処《ここら》に|厚《あつ》く|葬《はうむ》つてやらう』
と|手頃《てごろ》の|石《いし》を|拾《ひろ》つて、|土《つち》をカチカチ|掘《ほ》り|初《はじ》める。
|岩穴《いはあな》の|中《なか》より|二十五六《にじふごろく》の|女《をんな》、|角《つの》を|生《は》やして|莞爾々々《にこにこ》し|乍《なが》ら|出《い》で|来《きた》り、|矢庭《やには》に|猪《しし》の|屍骸《しがい》に|取《とり》つき|血《ち》を|吸《す》ひ|初《はじ》める。|竜国別《たつくにわけ》は|黙《だま》つて|此《この》|様子《やうす》を|眺《なが》めて|居《ゐ》ると|鬼娘《おにむすめ》は、|美味《うま》さうにチウチウと|音《おと》をさせて|全身《ぜんしん》の|血《ち》をスツカリと|吸《す》つて|了《しま》ひ、|腹《はら》を|両手《りやうて》で|撫《な》で|乍《なが》ら|竜国別《たつくにわけ》の|立《た》つて|居《を》るのに|気《き》がついたと|見《み》え、|目《め》を|丸《まる》くし、|口《くち》を|尖《とが》らし、
『ヤアお|前《まへ》は|竜若《たつわか》ぢやないか』
と|睨《ね》めつける|物《もの》すごさに、|竜国別《たつくにわけ》は、
『オイ、お|前《まへ》はお|光《みつ》ぢやないか。お|前《まへ》の|両親《りやうしん》は|行方《ゆくへ》が|知《し》れぬので|毎日《まいにち》|日日《ひにち》|心配《しんぱい》して|居《を》つたよ。ウラナイ|教《けう》の|高城山《たかしろやま》の|館《やかた》へも|幾度《いくど》か|参拝《さんぱい》して|来《き》たが、|如何《どう》しても|知《し》れないので、|出《で》た|日《ひ》を|命日《めいにち》と|定《さだ》めて|立派《りつぱ》な|葬式《さうしき》を|営《いとな》まれたが、|其《そ》の|時《とき》に|俺《おれ》も|祭官《さいくわん》に|列《れつ》したことがある。サアサアお|前《まへ》は|早《はや》く|親《おや》の|家《うち》へ|帰《かへ》れ。こんな|処《ところ》で|鬼娘《おにむすめ》になつては|堪《たま》らないぞ。|高春山《たかはるやま》に|俺《おれ》は|征伐《せいばつ》に|行《ゆ》くものだが、これから|伴《つ》れて|行《い》つてやるのは|易《やす》いけれど、|女《をんな》と|同道《どうだう》は|許《ゆる》されないから、これから|早《はや》く|家《いへ》へ|帰《かへ》つたら|如何《どう》だ』
『コレ|竜若《たつわか》さん、|私《わたし》は|祖母《おばあ》さんの|眉毛《まゆげ》を|剃《そ》つて|居《ゐ》ました|時《とき》、|誤《あやま》つて|顔《かほ》を|斬《き》り、|沢山《たくさん》の|血《ち》が|出《で》たので、|驚《おどろ》いて|嘗《な》めて|見《み》たところ、それから|生血《いきち》の|味《あぢ》をおぼえて、|人間《にんげん》や|獣《けだもの》の|血《ち》が|吸《す》ひたくなり、|到頭《たうとう》こんなに|頭《あたま》に|角《つの》が|生《は》えて|鬼娘《おにむすめ》になつて|了《しま》つたのだ。|斯《こ》んな|態《ざま》して|如何《どう》して|我家《うち》へ|帰《かへ》れませう。お|前《まへ》さんも|私《わたし》の|所在《ありか》を|知《し》つた|以上《いじやう》は、|村《むら》に|帰《かへ》つて|喋《しやべ》るであらう。さうすれば|私《わたし》は|最早《もはや》|身《み》の|終《をは》りだから、|自分《じぶん》の|肉体《にくたい》|保護《ほご》の|上《うへ》から、|気《き》の|毒《どく》|乍《なが》らお|前《まへ》の|生命《いのち》を|貰《もら》ふのだ。|覚悟《かくご》を|為《な》され』
『そんな|無茶《むちや》な|事《こと》を|云《い》ふない。チツとはお|前《まへ》も|恩義《おんぎ》と|云《い》ふことを|知《し》つて|居《ゐ》るだらう。|此《こ》の|小父《をぢ》さんが|貴様《きさま》の|子供《こども》の|時《とき》には、|負《お》うたり、|抱《だ》いたり、|小便《せうべん》をさしてやつたり、【うんこ】の|掃除《さうぢ》まで|世話《せわ》をやいてやつたのを|覚《おぼ》えて|居《ゐ》るだらう。ちつとは|其《そ》の|義理《ぎり》ででも、|俺《おれ》を|喰《く》ふなんて|云《い》ふことが|出来《でき》るものか。|恩《おん》を|知《し》らぬものは、|人間《にんげん》ぢやないぞ。|烏《からす》に|反哺《はんぽ》の|孝《かう》あり、|犬《いぬ》は|三日《みつか》|飼《か》うて|貰《もら》つた|主人《しゆじん》を、|一生《いつしやう》|忘《わす》れぬと|云《い》ふぢやないか』
『そんな|事《こと》が|解《わか》つて|居《を》つて、|如何《どう》して|鬼娘《おにむすめ》になれますか。|世《よ》の|中《なか》の|義理《ぎり》や、|人情《にんじやう》を|構《かま》つて|居《を》つたら、|鬼《おに》の|修行《しうぎやう》は|出来《でき》るものぢやない。サア|小父《をぢ》さん、|此処《ここ》で|逢《あ》うたがお|前《まへ》の|運《うん》の|尽《つ》きだ。アヽ|美味《うま》さうな|血《ち》の|香《にほひ》がして|居《ゐ》る。|済《す》まないけれど【よばれ】ませう』
『コラコラ|俺《おれ》は|今迄《いままで》の|竜若《たつわか》とは|違《ちが》ふぞ。|神力《しんりき》|無限《むげん》の|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》、|言依別命《ことよりわけのみこと》|様《さま》の|御覚《おんおぼ》え|芽出度《めでた》き|竜国別命《たつくにわけのみこと》ぢや。|馬鹿《ばか》な|事《こと》を|致《いた》すと|地獄《ぢごく》の【どん】|底《ぞこ》へ|落《おと》されて、|鬼《おに》の|成敗《せいばい》に|遇《あ》はねばならぬぞ。|未来《みらい》を|怖《おそ》れぬか』
『ホヽヽヽヽ、|鬼娘《おにむすめ》が|地獄《ぢごく》の|鬼《おに》が|恐《こは》くて、|如何《どう》なりませう。これでも|地獄《ぢごく》へ|行《い》つたら、|立派《りつぱ》な|鬼娘《おにむすめ》が|来《き》たと|云《い》つて、|持囃《もてはや》されるのだ。|私《わたし》は|鬼《おに》になるのが|願望《ぐわんばう》だ。お|前《まへ》の|生血《いきち》を|吸《す》へば、もう|一層《いつそう》|立派《りつぱ》な|鬼娘《おにむすめ》になれる。|猪《しし》の|生血《いきち》は|最早《もはや》|呑《の》み|飽《あ》いたから』
『|如何《どう》しても|俺《おれ》を|喰《く》ふと|云《い》ふのか。イヤ|血《ち》を|吸《す》はうと|申《まを》すのか』
『|如何《どう》しても|吸《す》はねば|私《わたし》の|身体《からだ》が|燃《も》えて|来《く》る。|私《わたし》も|苦《くる》しいから、|義理《ぎり》、|人情《にんじやう》を|省《かへり》みる|遑《いとま》がない。|併《しか》しあんまり|御世話《おせわ》になつたのだから、|何処《どこ》とはなしに|気《き》の|毒《どく》なやうな|感《かん》じがする。【ちつと】ばかり|吸《す》うて【こら】へて|上《あ》げませう』
と|手頃《てごろ》の|石《いし》を|以《もつ》て、|竜国別《たつくにわけ》の|額《ひたひ》をカツカツと|打《う》つた。|竜国別《たつくにわけ》は|気《き》が|遠《とほ》くなり、|其《そ》の|場《ば》に|倒《たふ》れた。
『アヽ|気《き》の|毒《どく》な|小父《をぢ》さんだ。|沢山《たくさん》|呑《の》むと|生命《いのち》が|危《あやふ》いから、|一二升《いちにしよう》|許《ばか》り|呑《の》んで【こら】へて|上《あ》げよう』
と|傷口《きずぐち》に|口《くち》を|当《あ》て、チウチウと|呑《の》み|始《はじ》めた。
『アヽ|如何《どう》したものか、|此《こ》の|血《ち》はエグイ。なかなか|苦味《にがみ》がある。|矢張《やつぱり》|身魂《みたま》が|曇《くも》つて|居《を》ると|見《み》えて、|流《なが》れる|血《ち》まで|味《あぢ》が|悪《わる》いのかなア。サアサア|小父《をぢ》さん、モー【こら】へて|上《あ》げよう。|起《お》きなさい』
と|揺《ゆ》り|起《おこ》されて|竜国別《たつくにわけ》は|吾《われ》に|帰《かへ》り、
『アヽなんだか|気分《きぶん》がスイツとした。|俄《にはか》に|身体《からだ》が|軽《かる》くなり、|目《め》までハツキリして|来《き》たやうだ』
『お|前《まへ》の|血管《けつくわん》を|通《とほ》つて|居《を》る|悪霊《あくれい》を|薩張《さつぱり》|吸《す》うて|上《あ》げたのだから、モーお|前《まへ》さんは|結構《けつこう》な|赤《あか》い|誠《まこと》の|血《ち》|計《ばか》りになつて|了《しま》つたのだよ。|此《この》|上《うへ》は|最早《もはや》|私《わたくし》の|手《て》に|合《あ》はぬ。お|前《まへ》さんは|愈《いよいよ》|大和魂《やまとだましひ》の|生粋《きつすゐ》になつて|了《しま》つた。|併《しか》し|此《この》|事《こと》を|誰《たれ》にも|話《はな》してはなりませぬぞや。|話《はな》すが|最後《さいご》|千里《せんり》|向《む》かふからでも|私《わたし》の|耳《みみ》は|聞《きこ》えるから、|宙《ちう》を|駆《かけ》つて|行《ゆ》き、お|前《まへ》の|素首《そつくび》を|引抜《ひきぬ》くから、|其《そ》の|覚悟《かくご》でゐて|下《くだ》さいや。|此処《ここ》で|殺《ころ》すのは|易《やす》いけれど、お|前《まへ》に|助《たす》けられたと|云《い》ふ|弱味《よわみ》があるので、|如何《いか》に|悪党《あくたう》な|鬼娘《おにむすめ》でも|如何《どう》する|事《こと》も|出来《でき》ない。|併《しか》し|私《わたし》と|今《いま》|約束《やくそく》して、それを|破《やぶ》れば、|初《はじ》めてお|前《まへ》さんに|破約《はやく》の|罪《つみ》が|出来《でき》たのだから、|其《その》|時《とき》は|堂々《だうだう》と|生命《いのち》を|取《と》りに|行《ゆ》くから、|其《そ》の|覚悟《かくご》で|帰《かへ》つて|下《くだ》さい。これで|高春山《たかはるやま》の|征伐《せいばつ》も|立派《りつぱ》に|出来《でき》るだらう。|人間《にんげん》|万事《ばんじ》|塞翁《さいをう》の|馬《うま》だ。|私《わたし》に|酷《えら》い|目《め》に|遇《あ》はされて、|其《その》|結果《けつくわ》|誠《まこと》の|手柄《てがら》を|現《あら》はす|様《やう》になるので、|謂《い》はば|私《わたくし》はお|前《まへ》さんの|守護神《しゆごじん》のやうなものだ。|感謝《かんしや》しなさい』
『|妙《めう》な|理屈《りくつ》もあるものだなア。|頭《あたま》を【こつ】かれ、|血《ち》を|吸《す》はれて|感謝《かんしや》するとは、|開闢《かいびやく》|以来《いらい》|聞《き》いたことがない。|何処《どこ》で|斯《か》うも|勘定《かんぢやう》が|違《ちが》つたのだらう』
『|定《きま》つた|事《こと》だ。|処《ところ》|変《かは》れば|品《しな》|変《かは》る、お|家《いへ》が|変《かは》れば|風《ふう》|変《かは》る、|郷《がう》に|入《い》つては|郷《がう》に|随《したが》へだ。|世界《せかい》には|賭博《ばくち》のアラを|取《と》つて|国《くに》の|会計《くわいけい》を|助《たす》け、|国民《こくみん》が|安楽《あんらく》に|暮《くら》して|居《ゐ》る|国《くに》さへもあるぢやないか。また|一方《いつぱう》の|国《くに》では|賭博《ばくち》を|罪悪《ざいあく》としてゐるやうなもので、|社会《しやくわい》が|違《ちが》へば|善悪《ぜんあく》の|標準《へうじゆん》も|違《ちが》ふのだ。|併《しか》し|何処《どこ》へ|行《い》つても|約束《やくそく》を|破《やぶ》ると|云《い》ふ|事《こと》は|罪悪《ざいあく》だぞえ。|天照大神《あまてらすおほかみ》|様《さま》と|素盞嗚尊《すさのをのみこと》|様《さま》が、|天《あま》の|安《やす》の|河原《かはら》を|中《なか》に|置《お》いて|誓約《うけひ》を|遊《あそ》ばしたではないか。|世《よ》の|中《なか》には|現界《げんかい》、|幽界《いうかい》、|神界《しんかい》の|区別《くべつ》なく、|約束《やくそく》を|守《まも》ると|云《い》ふことが|最《もつと》も|大切《たいせつ》なことだ。|之《これ》を|破《やぶ》るのは|罪悪《ざいあく》の|骨頂《こつちやう》だ。お|前《まへ》も|私《わし》の|所在《ありか》を|誰《たれ》にも|言《い》はないと|云《い》ふことを|誓約《せいやく》なされ。さうでなければ、|今《いま》|此処《ここ》でお|前《まへ》の|生命《いのち》を|奪《と》つて|了《しま》ふ』
|竜国別《たつくにわけ》『なに、お|前達《まへたち》に|生命《いのち》を|奪《と》られるやうな|俺《おれ》では|無《な》いが、お|前《まへ》の|生命《いのち》を|奪《うば》つた|所《ところ》で|仕方《しかた》がない。つまり|俺《おれ》が|罪人《ざいにん》になるだけだから、|此処《ここ》はうまく|妥協《だけふ》して|互《たがひ》に|言《い》はないと|云《い》ふ|約束《やくそく》をしよう』
お|光《みつ》『そんなら|助《たす》けて|上《あ》げよう。トツトとお|帰《かへ》りなさい。|屹度《きつと》|言《い》ひませぬな』
|竜国別《たつくにわけ》『ウン、|俺《おれ》も|男《をとこ》だ。|屹度《きつと》|約束《やくそく》を|守《まも》るから|安心《あんしん》して|呉《く》れ』
お|光《みつ》『|左様《さやう》なら』
と|云《い》つた|限《き》り、|岩窟《がんくつ》の|中《なか》|深《ふか》く|影《かげ》を|没《ぼつ》したり。
|竜国別《たつくにわけ》は|額《ひたひ》の|傷《きず》を|撫《な》で|乍《なが》ら、|元《もと》|来《き》し|路《みち》へ|引返《ひきかへ》し、それより|左《ひだり》に|取《と》つて|枯草《かれくさ》|茂《しげ》る|小径《こみち》を|悄々《すごすご》と|上《のぼ》り|行《ゆ》く。
(大正一一・五・二〇 旧四・二四 外山豊二録)
第一二章 |奇《くしび》の|女《をんな》〔六八六〕
|竜国別《たつくにわけ》は|小声《こごゑ》に|宣伝歌《せんでんか》を|歌《うた》ひながら、|大谷山《おほたにやま》の|谷《たに》|深《ふか》く|進《すす》み|入《い》る。
|夕《ゆふ》べを|告《つ》ぐる|鐘《かね》の|声《こゑ》、|諸行無常《しよぎやうむじやう》と|鳴《な》り|響《ひび》く。|空《そら》に|烏《からす》の|幾千羽《いくせんば》、|塒《ねぐら》|求《もと》めてカアカアと|物憂《ものう》げに|啼《な》き|立《た》つる。|身《み》に|沁《し》む|風《かぜ》は|樹々《きぎ》の|梢《こずゑ》を|七五三《しちごさん》に|揺《ゆす》つて|居《ゐ》る。|竜国別《たつくにわけ》は|年《とし》|古《ふ》りたる|松《まつ》の|木立《こだち》に|立《た》ち|寄《よ》りて|一夜《いちや》の|雨露《うろ》を|凌《しの》がんと、|傍《かたはら》を|見《み》れば|小《ちひ》さき|祠《ほこら》がある。
|竜国別《たつくにわけ》『アヽ|有難《ありがた》い、|何《いづ》れかの|神様《かみさま》のお|社《やしろ》が|建《た》つて|居《ゐ》る。|大方《おほかた》、|山口《やまぐち》の|神様《かみさま》が|祭《まつ》つてあるのだらう』
と|独言《ひとりご》ちつつ|神前《しんぜん》に|恭《うやうや》しく|拍手叩頭《はくしゆこうとう》し、|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》し、|宣伝歌《せんでんか》をうたつて|祠《ほこら》の|後《うしろ》に|横《よこた》はる。|其《その》|歌《うた》、
『|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》  |玉治別《たまはるわけ》や|国依別《くによりわけ》の
|神《かみ》の|使《つかひ》と|諸共《もろとも》に  |津田《つだ》の|湖辺《こへん》に|到着《たうちやく》し
|鷹依姫《たかよりひめ》が|力《ちから》とも  |杖《つゑ》とも|頼《たの》む|秘密文《ひみつぶみ》
ふとした|事《こと》より|手《て》に|入《い》れて  |敵《てき》の|配置《はいち》を|悉《ことごと》く
|手《て》に|取《と》る|如《ごと》く|探索《たんさく》し  |茲《ここ》に|間道《かんだう》|潜《くぐ》りつつ
|山野《さんや》を|伝《つた》ひて|来《きた》るうち  |日《ひ》は|漸《やうや》くに|暮《く》れ|果《は》てて
|行手《ゆくて》も|見《み》えずなりければ  |千引《ちびき》の|岩《いは》の|岩《いは》が|根《ね》に
そつと|立《た》ち|寄《よ》り|降《ふ》る|雪《ゆき》を  |凌《しの》ぎて|一夜《いちや》を|明《あ》かすうち
|現《あら》はれ|来《きた》る|妙齢《めうれい》の  |花《はな》をあざむく|一《いち》|婦人《ふじん》
|赤子《あかご》を|胸《むね》に|抱《いだ》きつつ  |寒気《かんき》に|閉《と》ぢられ|手《て》も|足《あし》も
|儘《まま》にならねば|一夜《ひとよさ》の  |我《われ》に|暖気《だんき》を|与《あた》へよと
|身辺《しんぺん》|近《ちか》く|襲《おそ》ひ|来《く》る  |我《われ》は|此《この》|世《よ》を|救《すく》うてふ
|神《かみ》の|教《をしへ》の|宣伝使《せんでんし》  |高春山《たかはるやま》の|曲神《まがかみ》を
|言向《ことむ》け|和《やは》し|帰《かへ》るまで  |女《をんな》に|肌《はだ》は|触《ふ》れまじと
|唯《ただ》|一言《いちごん》に|断《ことわ》れば  |女《をんな》は|又《また》もや|手《て》を|合《あは》せ
|火《ひ》を|焚《た》き|呉《く》れよと|願《ねが》ひ|入《い》る  ふと|傍《かたはら》に|目《め》をやれば
|天《てん》の|与《あた》へか|枯小柴《かれこしば》  |忽《たちま》ち|燧《ひうち》を|打《う》ち|出《い》でて
|火《ひ》を|点《てん》ずれば|炎々《えんえん》と  |四辺《あたり》は|真昼《まひる》の|如《ごと》くなり
|女《をんな》の|顔《かほ》はありありと  |生地《きぢ》|迄《まで》スツカリ|見《み》えて|来《き》た
|男尊女卑《だんそんぢよひ》の|言論《げんろん》と  |女尊男卑《ぢよそんだんぴ》の|弁舌《べんぜつ》に
|天《あま》の|瓊鉾《ぬぼこ》(舌)を|磨《と》ぎ|澄《す》まし  |火花《ひばな》を|散《ち》らして|戦《たたか》へば
|女《をんな》もさるもの|中々《なかなか》に  |我《わが》|言霊《ことたま》に|怖《おそ》れない
|既《すで》に|危《あやふ》く|見《み》えし|時《とき》  |彼方《あちら》|此方《こちら》の|谷々《たにだに》の
|木霊《こだま》を|響《ひび》かせ|進《すす》み|来《く》る  |法螺貝《ほらがひ》|吹《ふ》いた|大男《おほをとこ》
|忽《たちま》ち|此《この》|場《ば》に|現《あら》はれて  |魔性《ましやう》の|女《をんな》を|一睨《ひとにら》み
|女《をんな》は|驚《おどろ》き|抱《だ》きし|子《こ》を  |直《すぐ》に|火中《くわちう》に|投《な》げ|捨《す》てて
|雲《くも》を|霞《かすみ》と|逃《に》げて|行《ゆ》く  |我《われ》は|睡魔《すゐま》に|襲《おそ》はれて
|夢路《ゆめぢ》を|辿《たど》る|折柄《をりから》に  |揺《ゆ》り|起《おこ》されて|目《め》を|開《ひら》き
|四辺《あたり》きよろきよろ|見廻《みまは》せば  |大江《おおえ》の|山《やま》に|現《あら》はれし
|鬼武彦《おにたけひこ》の|白狐神《びやくこがみ》  |続《つづ》いて|言依姫神《ことよりひめのかみ》
|我《わ》が|眼前《がんぜん》に|現《あら》はれて  |急場《きふば》を|救《すく》ひ|給《たま》ひつつ
|妙音菩薩《めうおんぼさつ》の|音楽《おんがく》に  |連《つ》れて|此《この》|場《ば》を|消《き》えたまふ
|竜国別《たつくにわけ》は|唯《ただ》|一人《ひとり》  |巌《いはほ》を|背《せな》にうとうとと
|睡《ねむ》りながらに|明《あ》けを|待《ま》つ  |雪《ゆき》は|頻《しき》りに|降《ふ》り|来《きた》り
|道《みち》も|塞《ふさ》がり|進退《しんたい》の  |自由《じいう》を|失《うしな》ひ【ユキ】|詰《つ》まる
|中《なか》をも|厭《いと》はず|荒魂《あらみたま》  |勇気《ゆうき》を|鼓《こ》してザクザクと
|進《すす》む|折《をり》しもむくむくと  |雪《ゆき》の|中《なか》より|現《あら》はれし
|不思議《ふしぎ》の|女《をんな》に|手《て》をひかれ  |破《やぶ》れた|小屋《こや》に|伴《ともな》はれ
|種々《いろいろ》|雑多《ざつた》の|問題《もんだい》を  |吹《ふ》きかけられて|困《こま》り|入《い》り
|如何《いかが》はせんと|思《おも》ふうち  |傘《かさ》のやうなる|目《め》を|剥《む》いて
パツと|消《き》えたと|思《おも》ひきや  |忽《たちま》ち|変《かは》る|大白狐《おほびやくこ》
|山路《やまぢ》を|目蒐《めが》けて|駆出《かけい》だす  よくよく|見《み》ればこは|如何《いか》に
|五尺《ごしやく》|有余《いうよ》も|積《つも》りたる  |雪《ゆき》の|山路《やまぢ》はいつとなく
|消《き》えて|僅《わづ》かな|薄雪《うすゆき》に  |不審《ふしん》の|胸《むね》を|抱《だ》きながら
ふと|傍《かたはら》を|眺《なが》むれば  |豈《あに》|図《はか》らんや|岩《いは》の|根《ね》に
くだらぬ|夢路《ゆめぢ》を|辿《たど》りつつ  |心《こころ》の|眼《まなこ》を|閉《と》ぢて|居《ゐ》た
|朝日《あさひ》の|光《ひかり》を|身《み》に|沿《そ》びて  |此処《ここ》を|立《た》ち|出《い》でスタスタと
|雪《ゆき》に|印《いん》した|足跡《あしあと》を  |索《たづ》ねて|進《すす》む|折《をり》もあれ
|雪《ゆき》|踏《ふ》み|分《わ》けて|駆来《かけきた》る  |野猪《のじし》に|出遇《であ》ひ|暫《しばら》くは
|道《みち》に|佇《たたず》み|眺《なが》め|入《い》る  |空《くう》を|掠《かす》めて|何処《どこ》よりか
|白羽《しらは》の|征矢《そや》の|飛《と》び|来《きた》り  |猪《しし》の|頭《かしら》に|突《つ》き|立《た》てば
|猪《しし》は|驚《おどろ》き|右左《みぎひだり》  |前《まへ》や|後《うしろ》に|狂《くる》ひつつ
|峰《みね》の|尾上《をのへ》を|打《う》ち|渡《わた》り  |谷間《たにま》に|身《み》をば|隠《かく》したり
|鳥《とり》|獣《けだもの》の|末《すゑ》までも  |救《すく》ひ|助《たす》くる|神《かみ》の|道《みち》
これが|見捨《みす》てて|置《お》かれうか  |助《たす》けやらんと|足跡《あしあと》を
|探《さぐ》りて|谷間《たにま》に|下《くだ》り|往《ゆ》く  |萱《かや》|茫々《ばうばう》と|生《お》ひ|茂《しげ》り
|人跡《じんせき》|絶《た》えし|谷《たに》の|底《そこ》  |血糊《ちのり》を|標《しる》べに|来《き》て|見《み》れば
|自然《しぜん》に|穿《うが》てる|岩《いは》の|洞《ほら》  |其《その》|傍《かたはら》に|横《よこた》はる
|猪《しし》の|屍《かばね》を|愍《あは》れみて  |天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》し
|蘇《よみがへ》らせて|助《たす》けんと  |思《おも》ふ|折《をり》しも|岩窟《がんくつ》の
|中《なか》より|出《い》づる|鬼娘《おにむすめ》  |忽《たちま》ち|猪《しし》にかぶりつき
|血汐《ちしほ》を|吸《す》ひ|込《こ》む|嫌《いや》らしさ  はて|訝《いぶ》かしとよく|見《み》れば
|高城山《たかしろやま》の|近村《きんそん》に  お|竜《たつ》が|娘《むすめ》と|生《うま》れたる
お|光《みつ》の|顔《かほ》によく|似《に》たり  お|光《みつ》は|血汐《ちしほ》を|吸《す》ひ|終《をは》り
|我《わが》|顔《かほ》じつと|打《う》ち|眺《なが》め  お|前《まへ》は|隣《となり》の|小父《をぢ》さまか
お|前《まへ》はお|光《みつ》か|何《なん》として  この|山奥《やまおく》に|忍《しの》び|住《す》む
|早《はや》く|帰《かへ》れと|促《うなが》せば  お|光《みつ》は|首《くび》をふりながら
|猪《しし》の|血糊《ちのり》は|吸《す》ひ|飽《あ》いた  |美味《うま》い|香《にほひ》のするお|前《まへ》
|喰《く》はしておくれと|強要《ねだり》よる  これや|大変《たいへん》と|驚《おどろ》いて
なだめ|慊《すか》しついろいろと  |義理《ぎり》|人情《にんじやう》を|教《をし》ふれば
お|光《みつ》はフンと|鼻《はな》の|先《さき》  |馬耳東風《ばじとうふう》と|聞《き》き|流《なが》し
|義理《ぎり》|人情《にんじやう》を|弁《わきま》へて  |如何《どう》して|鬼《おに》になれますか
お|前《まへ》の|生血《いきち》を|唯《ただ》|一度《いちど》  |飲《の》ましてくれいと|云《い》ひながら
|手頃《てごろ》の|石《いし》を|手《て》に|持《も》つて  |忽《たちま》ち|砕《くだ》く|我《わ》が|額《ひたひ》
|血潮《ちしほ》は|川《かは》と|迸《ほとばし》る  |我《われ》は|脆《もろ》くも|気絶《きぜつ》して
|前後《ぜんご》も|知《し》らずなりけるが  |俄《にはか》に|吹《ふ》き|来《く》る|寒風《かんぷう》に
|眼《まなこ》|覚《さ》ませばこは|如何《いか》に  |額《ひたひ》は|少《すこ》し|痛《いた》けれど
|霊肉《れいにく》|共《とも》に|清々《すがすが》と  |洗《あら》つたやうな|心地《ここち》して
|鬼《おに》の|娘《むすめ》と|誓約《うけひ》しつ  やつと|虎口《ここう》を|逃《のが》れ|出《い》で
|崎嶇《きく》たる|山路《やまぢ》|辿《たど》りつつ  |漸《やうや》く|此処《ここ》につきにけり
|月《つき》は|御空《みそら》に|輝《かがや》けど  |木立《こだち》の|茂《しげ》み|深《ふか》くして
|我《わが》|影《かげ》だにも|見《み》えかぬる  |椿《つばき》の|森《もり》の|宮《みや》の|下《した》
|明日《あす》はいよいよ|大谷《おほたに》の  |山《やま》を|踏《ふ》み|越《こ》え|高春山《たかはるやま》の
|曲《まが》の|砦《とりで》に|向《むか》ふなり  あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸倍《さちはへ》ましまして  |三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》
|高姫《たかひめ》|黒姫《くろひめ》|両人《りやうにん》を  |救《すく》ひ|出《いだ》させ|給《たま》へかし
|野立《のだち》の|彦《ひこ》や|野立姫《のだちひめ》  |神素盞嗚大御神《かむすさのをのおほみかみ》
|木花姫《このはなひめ》の|御前《おんまへ》に  |竜国別《たつくにわけ》の|神司《かむづかさ》
|遥《はるか》に|祈《いの》り|奉《たてまつ》る』
と|歌《うた》ひ|終《をは》つて|古社《ふるやしろ》の|床下《ゆかした》に|横《よこた》はり|居《ゐ》る。
|夜《よ》は|深々《しんしん》と|更《ふ》け|渡《わた》り、|寂然《せきぜん》として|木《こ》の|葉《は》のそよぎもピタリと|止《と》まつた|丑満《うしみつ》の|頃《ころ》、|猿《さる》を|責《せ》めるやうな|女《をんな》の|泣《な》き|声《ごゑ》、|刻々《こくこく》に|近《ちか》づき|来《きた》る。|竜国別《たつくにわけ》は|目《め》を|醒《さ》まし|耳《みみ》を|傾《かたむ》けて、|何者《なにもの》なるかと|息《いき》を|凝《こ》らして|考《かんが》へて|居《ゐ》る。バタバタと|数人《すうにん》の|足音《あしおと》、|女《をんな》を|一人《ひとり》|此《この》|場《ば》に|連《つ》れ|来《きた》り、
『サア、もう|斯《か》うなつた|上《うへ》は、【じたばた】しても|駄目《だめ》だ。|体《てい》よくカーリンスの|宣伝使《せんでんし》の|奥《おく》さまになつて、|左団扇《ひだりうちは》で|数多《あまた》の|乾児《こぶん》を|頤《あご》で|使《つか》ふ|身分《みぶん》となるのが、|却《かへ》つてお|前《まへ》の|身《み》に|取《と》つて|幸福《かうふく》だらう。|土臭《つちくさ》い|田舎者《ゐなかつぺい》に|心中立《しんぢうだ》てをしたつて|何《なん》になるか、サア|早《はや》うウンと|云《い》へ』
『お|前《まへ》は|立派《りつぱ》な|男《をとこ》の|癖《くせ》に、|私《わたし》のやうな|繊弱《かよわ》き|一人《ひとり》の|女《をんな》を|寄《よ》つて|集《たか》つて、|無理往生《むりわうじやう》をさせようとは|些《ちつ》と|卑怯《ひけふ》ではありませぬか。カーリンスとか|云《い》ふ|人《ひと》に、それだけの|徳望《とくばう》があれば、|天下《てんか》の|女《をんな》は|何程《なにほど》|袖《そで》で|蜂《はち》を|掃《はら》ふやうにして|居《を》つても、|獅噛《しが》みついてゆきます。|世間《せけん》から|高春山《たかはるやま》のカーリンスの|鬼《おに》と|噂《うはさ》され、|蚰蜒《げぢげぢ》か|蛇《へび》のやうに|嫌《きら》はれて|居《ゐ》るお|方《かた》に、|誰《たれ》が|靡《なび》くものが|有《あ》りませう。お|前等《まへら》はその|蚰蜒《げぢげぢ》に|頤《あご》で|使《つか》はれて|居《を》る|人間《にんげん》だから、なほ|更《さら》|鼻持《はなもち》のならぬ|男《をとこ》だ。エヽ|汚《けが》らはしい、もう|触《さは》つて|下《くだ》さるな』
『|此奴《こいつ》|中々《なかなか》|剛情《がうじやう》な|女《をんな》だ、よしよし|貴様《きさま》がさう|出《で》れば|此方《こつち》にも|覚悟《かくご》がある』
『|其《その》|覚悟《かくご》を|聞《き》かして|貰《もら》ひませう』
『そんな|事《こと》は|俺達《おれたち》の|秘密《ひみつ》だ、|貴様《きさま》に|聞《き》かす|必要《ひつえう》が|何処《どこ》にあるか』
『ありますとも、|私《わたし》は|貴方等《あなたがた》の|目的物《もくてきぶつ》、|云《い》はば|当局者《たうきよくしや》である。|秘密《ひみつ》を|知《し》らずにどうして|一日《いちにち》だつて|治《をさ》まつて|行《ゆ》きますか』
『エヽ、|女《をんな》の|癖《くせ》に|何《なに》を【ツベコベ】と|吐《ほざ》くのだ、|引《ひ》き|裂《さ》いてやらうか』
『|口《くち》を|引《ひ》き|裂《さ》きなさつても|宜《よろ》しい。|併《しか》し|乍《なが》ら|万々一《まんまんいち》|私《わたし》がカーリンスの|女房《にようばう》になると|定《きま》つたら、お|前《まへ》は|私《わたし》の|家来《けらい》ぢやないか。さうすれば|主人《しゆじん》の|口《くち》を|引《ひ》き|裂《さ》き、|折角《せつかく》|綺麗《きれい》な|女《をんな》を|傷者《きずもの》にしたと|云《い》ふ|罪《つみ》を、|何《ど》うしてカーリンスにお|詫《わび》をなさるか、お|詫《わび》の|仕方《しかた》がありますまい』
『たつて|引《ひ》き|裂《さ》かうとは|申《まを》しませぬ。|併《しか》し|乍《なが》ら|我々《われわれ》の|要求《えうきう》を|容《い》れて、|奥《おく》さまになつて|下《くだ》さいますか』
『ホヽヽヽヽ、|好《す》かんたらしい、カーリンスの|嫁《よめ》になる|位《くらゐ》なら|烏《からす》の|嫁《よめ》に|行《ゆ》きますワ』
『|七尺《しちしやく》の|男子《だんし》を|貴様《きさま》は|翻弄《ほんろう》するのか』
『|定《きま》つた|事《こと》ですよ。|女《をんな》と|云《い》ふものは|強《つよ》いものです。|女《をんな》の|髪《かみ》の|毛《け》|一条《ひとすぢ》あれば|大象《だいざう》も|繋《つな》ぐと|云《い》ふ|魔力《まりよく》をもつて|居《ゐ》る。ヒヨツトコ|野郎《やらう》の|五人《ごにん》や|六人《ろくにん》、|束《たば》になつて|来《き》た|所《ところ》が|到底《たうてい》|駄目《だめ》ですワ、そんな|謀反《むほん》は|大抵《たいてい》にしてお|止《や》めなさい。|山《やま》も|田《た》も|家《いへ》も|倉《くら》も、|舌《した》の|先《さき》や|目《め》の|先《さき》で|一遍《いつぺん》に|消滅《せうめつ》させたり、|顛覆《てんぷく》させたりするのは|女《をんな》の|力《ちから》です。お|前達《まへたち》は|男《をとこ》に|生《うま》れたと|言《い》つてエラさうにして|居《を》るが、|多寡《たくわ》の|知《し》れた|青瓢箪《あをべうたん》のお|化《ばけ》|見《み》た|様《やう》なカーリンスに、|口汚《くちぎたな》なく|酷《こ》き|使《つか》はれて、|満足《まんぞく》をして|居《ゐ》るやうな|腰抜《こしぬ》けだから、|思《おも》へば|思《おも》へば|気《き》の|毒《どく》なものだよ』
『これや|女《をんな》、そんな|劫託《がふたく》を|並《なら》べる|癖《くせ》に、|何故《なぜ》キヤツキヤツと|悲鳴《ひめい》を|挙《あ》げたのだ。そんな|空威張《からいば》りをしたつて|駄目《だめ》だぞ』
『ホヽヽヽヽ、キヤアキヤアと|云《い》ふ|声《こゑ》は|泣《な》き|声《ごゑ》ですか。お|前《まへ》こそ|女《をんな》の|腐《くさ》つたやうな|猿《さる》とも|人間《にんげん》とも|弁別《べんべつ》のつかぬ|代物《しろもの》は、キヤアキヤアと|云《い》うて|泣《な》くだらうが、|私《わたし》はお|前等《まへたち》のする|事《こと》が|余《あんま》り|可笑《をか》しいので、キヤツキヤツと|云《い》つて|笑《わら》つたのですよ』
『|何《なん》とマア|強太《しぶと》い|女《をんな》もあればあるものだなア。|俺《おれ》は|生《うま》れてからこんな|女《をんな》に|出遇《であ》つた|事《こと》がないワ』
『|出遇《であ》つた|事《こと》がない|筈《はず》、|世界《せかい》の|女《をんな》はお|前《まへ》の|姿《すがた》を|見《み》ても、お|前《まへ》の|方《はう》から|風《かぜ》が|吹《ふ》いても、|嫌《いや》がつて|皆《みな》|逃《に》げて|仕舞《しま》ふ。それもお|前《まへ》が|強《つよ》いとか、|怖《こは》いとか|云《い》うて|逃《に》げるのではない。|汚《けが》らはしくつて、|怪体《けつたい》な|臭《にほひ》がして|鼻持《はなも》ちがならないから、|化物《ばけもの》だと|思《おも》つて|逃《に》げるのですよ』
『|仕方《しかた》のない|女《をんな》だなア。こんな|女《をんな》を|連《つ》れて|帰《かへ》つて、カーリンスの|奥《おく》さまにでもしようものなら、|俺達《おれたち》の|却《かへ》つて|迷惑《めいわく》になるかも|知《し》れやしないぞ』
『ナニ|決《けつ》して|迷惑《めいわく》にやなりませぬ。キヨロキヨロ|間誤《まご》ついて|居《ゐ》ると、ちよいちよい|長煙管《ながきせる》がお|前等《まへたち》のお|頭《つむり》にお|見舞《みまひ》|申《まを》す|位《くらゐ》なものだよ。けれども|生命《いのち》には|別条《べつでう》はないから|安心《あんしん》なさい、ホヽヽヽヽ』
『|女子《によし》と|小人《せうじん》は|養《やしな》ひ|難《がた》し、|到底《たうてい》|弁舌《べんぜつ》では|俺達《おれたち》は|敗軍《はいぐん》だ。|不言実行《ふげんじつかう》に|限《かぎ》る。サア|各自《めいめい》に|手足《てあし》を|取《と》り、|高春山《たかはるやま》に|帰《かへ》つてゆかう。これや|女《をんな》、|何《な》んぼ|頤《あご》が|達者《たつしや》でも|直接《ちよくせつ》|行動《かうどう》には|叶《かな》ふまい、|男《をとこ》は|口《くち》は|下手《へた》だが|実地《じつち》の|力《ちから》は|強《つよ》いぞ』
『ホヽヽヽヽ、たつた|一人《ひとり》の|繊弱《かよわ》い|女《をんな》に|対《たい》し|見《み》つともない、|五人《ごにん》も|六人《ろくにん》も|一丈《いちぢやう》の|褌《まはし》をかいた|荒男《あらをとこ》が、|蚯蚓《みみづ》を|蟻《あり》が|寄《よ》つて|集《たか》つて|巣《す》へ|引《ひ》き|込《こ》むやうにせねば、|一人《ひとり》の|女《をんな》を|引捉《ひつとら》へて、その|目的《もくてき》を|達《たつ》する|事《こと》が|出来《でき》ないとは、|何《なん》と|男《をとこ》|程《ほど》|困《こま》つたものはないものだなア』
『|偉《えら》さうに|云《い》ふない、|男《をとこ》は|裸《はだか》|百貫《ひやくくわん》と|云《い》つて、|体《からだ》が|一《ひと》つあれば|世《よ》の|中《なか》に|立派《りつぱ》な|一人前《いちにんまへ》の|大丈夫《だいぢやうぶ》として|通用《つうよう》するのだ。|女《をんな》は|蔭《かげ》ものだ。もつと|女《をんな》らしく|淑《しと》やかにしたら|如何《どう》だい。|女《をんな》の|徳《とく》は|柔順《じうじゆん》にあるのだぞ』
『|私《わたし》は|柔順《じうじゆん》なんか|大《だい》の|嫌《きら》ひだ。|私《わたし》の|女《をんな》としての|徳《とく》は|柔術《じうじゆつ》だ。|一《ひと》つ|見本《みほん》にお|前達《まへたち》|六人《ろくにん》を、お|月《つき》さまの|世界《せかい》|迄《まで》も|放《はう》りあげて|見《み》ようか』
『オイ|皆《みな》の|奴《やつ》、|如何《どう》しようかなア。こんな|女《をんな》を|迂濶《うつかり》|連《つ》れて|帰《かへ》らうものなら、|何《ど》んな|大騒動《だいさうどう》が|勃発《ぼつぱつ》するか|知《し》れたものぢやないぞ』
『それだと|云《い》つて、|連《つ》れて|帰《かへ》らねばカーリンスの|親方《おやかた》に|合《あは》す|顔《かほ》がなし、|困《こま》つた|事《こと》になつたものだなア』
『|一《ひと》つ|柔術《じうじゆつ》をお|目《め》にかけませうかな、オホヽヽヽ』
『エヽ、この|上《うへ》は|直接《ちよくせつ》|行動《かうどう》だ。|乙《おつ》、|丙《へい》、|丁《てい》、|戊《ぼう》、|己《き》、|一度《いちど》にかかれ』
『ヨシ、|合点《がつてん》だ』
と|六人《ろくにん》の|男《をとこ》は|手取《てと》り|足取《あしと》り|無理《むり》に|女《をんな》を|担《かつ》ぎ|行《ゆ》かむとする。|女《をんな》は|又《また》もやキヤツ キヤツと|頻《しき》りに|叫《さけ》ぶ。|祠《ほこら》の|後《うしろ》より、
『|暫《しばら》く|待《ま》てツ、|大自在天《だいじざいてん》|大国別命《おほくにわけのみこと》これにあり、|申《まを》し|渡《わた》す|仔細《しさい》がある』
と|雷《らい》の|如《ごと》く|呶鳴《どな》りつけた。|六人《ろくにん》は|女《をんな》を|其《その》|場《ば》に|投《な》げ|捨《す》て|雲《くも》を|霞《かすみ》と|逃《に》げ|散《ち》つた。|女《をんな》は|静々《しづしづ》と|神前《しんぜん》に|詣《まう》で、|拍手《はくしゆ》しながら|何事《なにごと》か|暗祈黙祷《あんきもくたう》をして|居《ゐ》る。
(大正一一・五・二〇 旧四・二四 加藤明子録)
第一三章 |夢《ゆめ》の|女《をんな》〔六八七〕
|竜国別《たつくにわけ》は|祠《ほこら》の|下《した》より|蜘蛛《くも》の|巣《す》だらけになつて|現《あら》はれ|来《きた》り、あたりの|木《こ》の|葉《は》や|枯枝《かれえだ》を|集《あつ》め、|社側《しやそく》の|広場《ひろば》に|火《ひ》を|焚《た》いた。|此《この》|火光《くわくわう》に|照《て》らされて|以前《いぜん》の|女《をんな》は、|艶麗《えんれい》|譬《たと》ふるに|物《もの》なく、|暗《やみ》よりポツと|浮出《うきで》たかの|如《や》うに|輪廓《りんくわく》も|判然《はんぜん》として、|竜国別《たつくにわけ》の|前《まへ》に|徐々《しづしづ》|近寄《ちかよ》つて|来《き》た。
『ヤア|何処《いづく》のお|女中《ぢよちう》か|知《し》りませぬが、|大変《たいへん》な|危《あぶな》い|事《こと》で|御座《ござ》いましたなア』
『ハイ|私《わたし》は|此《この》|里《さと》のもので、お|作《さく》と|申《まを》す|一人娘《ひとりむすめ》で|御座《ござ》います』
『|貴女《あなた》は|御兄弟《ごきやうだい》はありませぬか』
『|兄《あに》が|二人《ふたり》、|弟《おとうと》が|一人《ひとり》、さうして|両親《りやうしん》|共《とも》|壮健《さうけん》に|暮《く》らして|居《を》ります』
『それは|何《なに》よりお|目出度《めでた》い|事《こと》で|御座《ござ》います。|併《しか》し|乍《なが》ら|此《この》|真夜中《まよなか》にどうして、あの|様《やう》な|悪漢《ならずもの》が|貴女《あなた》を|引攫《ひつさら》へたのでせう。|貴女《あなた》は|女《をんな》に|似《に》ず|夜徘徊《よあるき》をなさいますと|見《み》えますなア、それ|丈《だけ》|親《おや》もあり|御兄弟《ごきやうだい》もあれば、|何程《なにほど》|無茶《むちや》な|奴《やつ》でも、|貴女《あなた》の|家《うち》へ|乗込《のりこ》むことは|出来《でき》ますまいに』
『ハイ|妾《わたし》は|恥《はづ》かし|乍《なが》ら|一《ひと》つの|御願《おねがひ》があつて、|何時《いつ》も|此《この》|山口《やまぐち》の|宮様《みやさま》へ|丑満《うしみつ》の|刻《こく》に、|親兄弟《おやきやうだい》にも|知《し》らさず、|参詣《さんけい》を|致《いた》して|居《を》りました。|今日《けふ》は|三七二十一日《さんしちにじふいちにち》の|上《あが》りで|御座《ござ》ります。|然《しか》るにどうして|妾《わたし》のお|宮詣《みやまゐ》りを|覚《さと》つたか|知《し》りませぬが、|此《この》お|山《やま》の|入口《いりぐち》に|彼等《かれら》が|待伏《まちぶ》せして、|妾《わたし》を|惟神《かむながら》にお|宮《みや》の|前《まへ》に|連《つ》れて|来《き》て|呉《く》れましたのよ』
『さうして|其《その》|御願《おねがひ》とは|如何《いか》なる|事《こと》で|御座《ござ》いますか。|何《なに》か|一身上《いつしんじやう》に|関《かか》はる|御難儀《ごなんぎ》でもおありになるのですか』
『|貴方《あなた》は|今《いま》|社《やしろ》の|背後《はいご》より|大自在天《だいじざいてん》|大国別命《おほくにわけのみこと》と|仰有《おつしや》りましたなア。それは|本当《ほんたう》で|御座《ござ》いますか。|大自在天《だいじざいてん》|大国別命《おほくにわけのみこと》|様《さま》なれば、|彼等《かれら》|悪漢《わるもの》の|日頃《ひごろ》|尊敬《そんけい》する、バラモン|教《けう》やアルプス|教《けう》の|祖神様《おやがみさま》です。それにも|不拘《かかはらず》|彼等《かれら》が|脆《もろ》くも|逃散《にげち》つたのは、|不思議《ふしぎ》ぢやありませぬか。|妾《わたし》は|察《さつ》するに、どうしても|大自在天《だいじざいてん》|系統《けいとう》の、|貴方《あなた》の|言霊《ことたま》とは|受取《うけと》れませぬ。|屹度《きつと》|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》………』
と|図星《づぼし》を|指《さ》されて|竜国別《たつくにわけ》は、
『イヤもう|恐《おそ》れ|入《い》りました、|貴女《あなた》の|御明察《ごめいさつ》。さうして|貴女《あなた》の|御願《おねが》ひの|筋《すぢ》は、|何《なに》か|六ケ敷《むつかし》い|事《こと》が|出来《でき》て|居《を》るのではありませぬか』
『|妾《わたし》の|一生《いつしやう》に|取《と》つて|一大事《いちだいじ》が|突発《とつぱつ》したので|御座《ござ》います』
『それや|又《また》どういふ|理由《わけ》ですか』
『ハイ|妾《わたし》も|最早《もはや》|十八才《じふはつさい》になりました。|彼方《あちら》|此方《こちら》から|嫁《よめ》にくれいと、|父母《ふぼ》|兄弟《きやうだい》に|向《むか》つて|日々《にちにち》|迫《せま》つて|参《まゐ》ります。|然《しか》し|乍《なが》ら|私《わたし》としては|理想《りさう》の|夫《をつと》が、まだ|一人《ひとり》も|見付《みつ》かりませぬ。それ|故《ゆゑ》|適当《てきたう》な|夫《をつと》を|授《さづ》けて|下《くだ》さるようにと、|今日《けふ》で|三週間《さんしうかん》お|詣《まゐ》りを|致《いた》しました。|神様《かみさま》の|夢《ゆめ》の|御告《おつげ》には、|三週間目《さんしうかんめ》に|宮《みや》の|前《まへ》で、|一人《ひとり》の|男《をとこ》に|逢《あ》はして|遣《や》らう。それがお|前《まへ》の|本当《ほんたう》の|夫《をつと》だと|教《をし》へられました。|貴方《あなた》は|神様《かみさま》から|御許《おゆる》し|下《くだ》された|本当《ほんたう》の|夫《をつと》、どうぞ|可愛《かあい》がつて|下《くだ》さいませ』
『これはしたりお|女中《ぢよちう》、|聊《いささ》か|迷惑《めいわく》のお|言葉《ことば》』
『ホヽヽヽヽ、|迷惑《めいわく》と|仰有《おつしや》いますか、|貴方《あなた》は|女《をんな》はお|嫌《きら》ひですか。|広《ひろ》い|世《よ》の|中《なか》に|女嫌《をんなぎら》ひな|男《をとこ》はありますまい』
『|男《をとこ》の|方《はう》から|申《まを》し|込《こ》んだ|女房《にようばう》なら|兎《と》も|角《かく》も、|女《をんな》の|方《はう》からさう|出《で》られては|何《なん》だか|恐《おそ》ろしくて、|早速《さつそく》に|御返事《ごへんじ》が|出来《でき》ませぬワ』
『|貴方《あなた》は|独身《どくしん》でせう。|奥《おく》さんがあれば|兎《うさぎ》も|角《つの》、|今《いま》のお|身《み》の|上《うへ》、どうで|一度《いちど》|妻帯《さいたい》を|遊《あそ》ばさねばならないのでせう。|神《かみ》の|結《むす》んだ|二人《ふたり》の|縁《えん》、どうぞ|色《いろ》よき|御返事《ごへんじ》をして|下《くだ》さいな』
『モシモシお|作《さく》さんとやら、|貴女《あなた》は|随分《ずゐぶん》|新《あたら》しい|女《をんな》と|見《み》えますなア。|世《よ》の|中《なか》が|変《かは》つて|来《く》ると、|女《をんな》の|方《はう》から|男《をとこ》に|直接《ちよくせつ》|談判《だんぱん》を|始《はじ》める|様《やう》になつて|来《く》ると|見《み》える。ハテ|変《かは》れば|変《かは》るものだワイ』
『どうしても|私《わたし》の|様《やう》な|不束者《ふつつかもの》はお|気《き》に|入《い》らないのですか』
『イエ|滅相《めつさう》もない。|天女《てんによ》の|天降《あまくだ》りか、|弁財天《べんざいてん》の|再来《さいらい》とも|云《い》ふ|様《やう》な|立派《りつぱ》な|綺麗《きれい》な|貴女《あなた》、|花《はな》で|譬《たと》へて|見《み》れば、|今《いま》|半開《はんかい》の|美《うつく》しき|露《つゆ》を|帯《お》びた|最中《さいちう》、|決《けつ》して|厭《いや》でも|嫌《きら》ひでもありませぬが、|何《なに》を|申《まを》しても、|神命《しんめい》を|奉《ほう》じ|高春山《たかはるやま》に|悪魔《あくま》の|征服《せいふく》に|参《まゐ》る|途中《とちう》ですから、|夫婦《ふうふ》の|約束《やくそく》なぞ|思《おも》ひもよらぬ|事《こと》で|御座《ござ》います』
『それでは|女《をんな》には|決《けつ》して|目《め》を|呉《く》れないと|仰有《おつしや》るのですなア』
『|勿論《もちろん》の|事《こと》です。|折角《せつかく》|乍《なが》ら|今日《けふ》はお|断《ことわ》りを|申《まを》しませう』
『そんなら|何時《いつ》|約束《やくそく》をして|下《くだ》さいますか』
『|刹那心《せつなしん》です。|明日《あす》の|事《こと》は|分《わか》らないから、お|約束《やくそく》する|訳《わけ》には|参《まゐ》りませぬ』
『|貴方《あなた》は|高春山《たかはるやま》の|軍功《ぐんこう》を|現《あら》はし、|其《その》|上《うへ》で|天下《てんか》の|立派《りつぱ》な|女《をんな》を|抜萃《ばつすい》して、|女房《にようばう》にする|考《かんが》へだから、お|前《まへ》|見《み》たやうな|草深《くさぶか》い|山家育《やまがそだ》ちの|女《をんな》には、|目《め》を|呉《く》れないと|云《い》ふお|積《つも》りでせう』
『イエイエ|決《けつ》して|決《けつ》して、そんな|事《こと》は|毛頭《まうとう》、|心《こころ》には|浮《うか》びませぬ。|何《なに》は|兎《と》もあれ|一《ひと》つの|使命《しめい》を|果《はた》すまでは、|女《をんな》に|関係《くわんけい》は|致《いた》しませぬ。|神界《しんかい》に|対《たい》して|恐《おそ》れ|多《おほ》う|御座《ござ》いますから』
『|神様《かみさま》は|高春山《たかはるやま》の|征服《せいふく》が|済《す》む|迄《まで》は、|女《をんな》に|会《あ》つて|約束《やくそく》をしてはならないと|仰《あふ》せられましたか、|伊邪那岐命《いざなぎのみこと》、|伊邪那美命《いざなみのみこと》|様《さま》は、|夫婦《ふうふ》|水火《いき》を|合《あは》せて、|国生《くにう》み|島産《しまう》み|神産《かみう》みの|神業《しんげふ》を|遊《あそ》ばしたぢやありませぬか。|神様《かみさま》も|夫婦《ふうふ》なくては|真《まこと》の|御活動《ごくわつどう》は|出来《でき》ますまい。|陰陽《いんやう》の|水火《いき》を|合《あは》して、|初《はじ》めて|万物《ばんぶつ》が|発生《はつせい》するのでせう。|然《しか》るに|大切《たいせつ》なる|神業《しんげふ》の|途中《とちう》だから、|女《をんな》には|絶対《ぜつたい》に|約束《やくそく》せないと|仰有《おつしや》るのは、|少《すこ》し|合点《がてん》が|参《まゐ》りませぬワ』
『イヤ|絶対《ぜつたい》にと|申《まを》すのではありませぬが、|今度《こんど》ばかりは|何卒《どうぞ》|許《ゆる》して|下《くだ》さいませ。|又《また》|首尾好《しゆびよ》く|目的《もくてき》を|達《たつ》した|上《うへ》、|御相談《ごそうだん》に|乗《の》りませう』
『オホヽヽヽ、|勝手《かつて》なお|方《かた》、|貴方《あなた》は|杢助《もくすけ》さんの|奥《おく》さまの|葬式《さうしき》までなさつたでせう。それを|思《おも》へば|私《わたし》と|今《いま》|夫婦《ふうふ》の|約束《やくそく》を|結《むす》んだ|位《くらゐ》が、|何故《なぜ》|神様《かみさま》のお|気《き》に|入《い》らないのでせう。|貴方《あなた》の|御神業《ごしんげふ》の|妨《さまた》げになるのでせうか』
『アヽどうしたら|好《よ》からうかなア。かう|追求《つゐきう》されては、|我々《われわれ》は|身《み》の|振方《ふりかた》に|迷《まよ》はざるを|得《え》ない』
『|宜《よろ》しいぢやありませぬか。これだけ|女《をんな》の|真心《まごころ》を|無《む》になされますと、|遂《つひ》には|女冥加《をんなみやうが》に|尽《つ》きて、|一代《いちだい》セリバシー|生活《せいくわつ》を|送《おく》らねばなりますまい』
『アヽ|情《じやう》に|脆《もろ》いは|男子《だんし》の|心《こころ》、さう|懇切《こんせつ》に|仰有《おつしや》つて|下《くだ》さらば、|折角《せつかく》のお|志《こころざし》、|無《む》にするも|済《す》まない|様《やう》な|感《かん》じが|致《いた》します。そんなら|此処《ここ》で|約束《やくそく》だけ|固《かた》めませうか』
|此《この》|時《とき》|樹上《じゆじやう》より「|馬鹿《ばか》ツ」と|一喝《いつかつ》した。
『|折角《せつかく》ながらお|作《さく》さんとやら、|今《いま》|彼《あ》の|通《とほ》り|頭《あたま》の|上《うへ》から|私《わたくし》の|言葉《ことば》に|対《たい》し「|馬鹿《ばか》」と|呶鳴《どな》り|付《つ》けました。|矢張《やつぱり》これは|取消《とりけ》しませう』
『|男《をとこ》が|一旦《いつたん》|歯《は》の|外《そと》へ|出《だ》した|言葉《ことば》を、|無責任《むせきにん》にも|引込《ひつこ》めなさる|積《つも》りですか。そんな|事《こと》が|出来《でき》るのなれば、|吐《は》いた|唾《つばき》を|飲《の》んでも|宜《よろ》しからう。|妾《わたし》は、どうしても|此《この》|約束《やくそく》を|履行《りかう》して|貰《もら》はねば|承知《しようち》|致《いた》しませぬよ』
『まだ|約束《やくそく》はして|居《ゐ》ませぬ。|約束《やくそく》をしようかと|云《い》つたまでですワ』
『|其《その》お|言葉《ことば》が|出《で》るに|先立《さきだ》ち、|貴方《あなた》の|心《こころ》の|中《うち》では|既《すで》に|承諾《しようだく》をしたのでせう。
|人《ひと》|問《と》はば|鬼《おに》は|居《ゐ》ぬとも|答《こた》ふ|可《べ》し|心《こころ》の|問《と》はば|如何《いか》に|答《こた》へむ
|貴方《あなた》は|自《みづか》ら|心《こころ》を|欺《あざむ》く|積《つも》りですか』
『さうぢやと|言《い》つて、どうしてこれが|承諾《しようだく》|出来《でき》ませう。|又《また》|頭《あたま》の|上《うへ》から|馬鹿《ばか》|呼《よ》ばはりをされますから』
『オホヽヽヽヽ、あれは|何時《いつ》も|此《この》|森《もり》に|棲《す》まひをして|居《を》る、|大天狗《だいてんぐ》が|云《い》つたのですよ。|貴方《あなた》は|結構《けつこう》な|神様《かみさま》のお|使《つかひ》でありながら、|天狗《てんぐ》の|一匹《いつぴき》や|二匹《にひき》が、それほど|怖《こは》いのですかい』
『|何《なに》|天狗《てんぐ》ならば|怖《こわ》くはありませぬが、あの|言葉《ことば》は、どうしても|私《わたくし》の|考《かんが》へに|共鳴《きようめい》して|居《ゐ》る|様《やう》ですから、|服従《ふくじゆう》せなくてはなりませぬ。どうぞ|此《この》|場《ば》を|見遁《みのが》して|下《くだ》さいませ』
『エヽ|男《をとこ》と|云《い》ふものは|気《き》の|弱《よわ》いものだなア。もうかうなれば|仕方《しかた》がない』
と【いきなり】|握手《あくしゆ》した。
『|何《な》んと|仰有《おつしや》つても、こればかりは|後《あと》にして|下《くだ》さい』
『イエイエ|何《なん》と|云《い》つても、|妾《わたし》の|願《ねが》ひを|聞《き》き|容《い》れて|貰《もら》はなくては|放《はな》しませぬよ』
『そんなら、もう|仕方《しかた》がない。サア|私《わたし》から|進《すす》んで|握手《あくしゆ》|致《いた》しませう』
と|竜国別《たつくにわけ》は|右手《めて》を|延《の》ばして、お|作《さく》の|手《て》を|握《にぎ》らうとした。お|作《さく》は|喜《よろこ》ぶかと|思《おも》ひきや、
『エヽ|汚《けが》らはしき|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》|竜国別《たつくにわけ》』
と|言《い》ふより|早《はや》く、|満身《まんしん》の|力《ちから》を|籠《こ》めて|其《その》|場《ば》に|突《つ》き|倒《たふ》した。
『これや|怪《け》しからぬ。|何《なん》としたらお|気《き》に|入《い》るのですか』
『|苟《いやし》くも|神命《しんめい》を|受《う》けて、|曲津《まがつ》の|征服《せいふく》に|向《むか》ふ|途中《とちう》に|於《おい》て、|如何《いか》なる|切《せつ》なる|女《をんな》の|願《ねが》ひなればとて、|堅《かた》き|決心《けつしん》を|翻《ひるがへ》すとは|何事《なにごと》ぞ。かかる|柔弱《にうじやく》なる|汝《なんぢ》の|魂《たましひ》で、どうして|悪魔《あくま》の|征服《せいふく》が|出来《でき》ようぞ』
『ハテ|合点《がてん》の|行《ゆ》かぬ|女《をんな》の|振舞《ふるま》ひ』
と|双手《もろて》を|組《く》んで|暫時《しばし》|思案《しあん》に|耽《ふけ》つて|居《ゐ》る。|忽《たちま》ち|轟《とどろ》く|雷鳴《らいめい》にフト|頭《かしら》を|上《あ》ぐれば、|以前《いぜん》の|女《をんな》は|跡形《あとかた》もなく|消《き》え|失《う》せ、|其《その》|身《み》は|古社《ふるやしろ》の|縁《えん》の|下《した》に|眠《ねむ》つて|居《ゐ》た。|雷《かみなり》と|聞《きこ》えしは|社《やしろ》に|棲《す》む|古鼠《ふるねずみ》の|荒《あ》れ|狂《くる》ふ|足音《あしおと》であつた。|竜国別《たつくにわけ》は|直《ただち》に|神前《しんぜん》に|額《ぬか》づき、|夢《ゆめ》の|教訓《けうくん》を|感謝《かんしや》し|心魂《しんこん》を|練《ね》つて、|愈《いよいよ》|高春山《たかはるやま》の|征服《せいふく》に|向《むか》つて|進《すす》み|行《ゆ》く。
(大正一一・五・二〇 旧四・二四 谷村真友録)
第一四章 |恩愛《おんあい》の|涙《なみだ》〔六八八〕
|玉治別《たまはるわけ》は|津田《つだ》の|湖水《こすゐ》を|渡《わた》つて、|高春山《たかはるやま》の|正面《しやうめん》より|攻《せ》め|登《のぼ》り|行《ゆ》く。|杢助《もくすけ》はお|初《はつ》を|背《せな》に|負《お》ひ|其《その》|後《あと》に|従《したが》ふ。|日《ひ》は|漸《やうや》く|暮《く》れ|果《は》てて、|月《つき》は|雪雲《ゆきぐも》に|包《つつ》まれ、|姿《すがた》も|朧気《おぼろげ》に|天空《てんくう》に|明滅《めいめつ》して|居《ゐ》る。|一行《いつかう》は、とある|木蔭《こかげ》に|立寄《たちよ》りて|息《いき》を|休《やす》める|折柄《をりから》に、|慌《あわ》ただしき|数多《あまた》の|人《ひと》の|足音《あしおと》、|刻々《こくこく》に|近寄《ちかよ》り|来《きた》る。|玉治別《たまはるわけ》、|杢助《もくすけ》は|朧月夜《おぼろづきよ》の|木蔭《こかげ》に、|何事《なにごと》ならむと|透《す》かし|見《み》れば、|一人《ひとり》の|女《をんな》に|猿轡《さるぐつわ》を|箝《は》ませ、エイヤエイヤと|言《い》ひつつ|担《かつ》ぎ|来《きた》る。|様子《やうす》あらんと|両人《りやうにん》は|息《いき》を|凝《こ》らして|眺《なが》むれば、|数多《あまた》の|男《をとこ》は、|一人《ひとり》の|女《をんな》を|目《め》の|前《まへ》の|木蔭《こかげ》の|稍《やや》|広《ひろ》き|所《ところ》に|下《おろ》し、|猿轡《さるぐつわ》を|解《と》き|何事《なにごと》かよつて|集《たか》つて、|訊問《じんもん》を|始《はじ》め|出《だ》した。
『コレヤ|女《をんな》、|貴様《きさま》は|何処《いづこ》の|者《もの》だ。|白状《はくじやう》いたせ』
『|妾《わたし》は|都《みやこ》の|者《もの》で|御座《ござ》います』
『|馬鹿《ばか》を|言《い》ふな。|此《この》|黒《くろ》い|目《め》でチヨツと|睨《にら》んだら|間違《まちがひ》はないぞ。|貴様《きさま》は|田舎《ゐなか》の|女《をんな》であらうがな』
『それを|尋《たづ》ねてどうなさいますか』
『|必要《ひつえう》があつて|尋《たづ》ねるのだ。|綺麗《きれい》サツパリと|白状《はくじやう》|致《いた》して|了《しま》へ』
『|妾《わたし》は|浪速《なには》の|都《みやこ》に|生《うま》れた|者《もの》で|御座《ござ》います。|父《ちち》もなければ、|母《はは》もなし、|兄弟姉妹《きやうだい》もなき|憐《あは》れな|独身者《ひとりもの》、|此《この》|山奥《やまおく》に|紛《まぎ》れ|込《こ》み、あなた|方《がた》に|捉《とら》へられたので|御座《ござ》いますが、|何一《なにひと》つ|悪《わる》い|事《こと》は|致《いた》した|覚《おぼ》えがありませぬ。どうぞ|見遁《みのが》して|下《くだ》さいませ』
『|貴様《きさま》はアルプス|教《けう》の|重要《ぢうえう》|書類《しよるゐ》を|手《て》に|入《い》れた|奴《やつ》の|女房《にようばう》に|間違《まちが》ひない。サア|有体《ありてい》に|汝《きさま》が|夫《をつと》の|所在《ありか》|及《および》|書類《しよるゐ》の|所在《ありか》を|白状《はくじやう》|致《いた》せ』
『|何《なに》かと|思《おも》へば、|思《おも》ひも|掛《か》けぬ|妙《めう》な|御尋《おたづ》ね、|左様《さやう》な|事《こと》は|今《いま》が|聞始《ききはじ》めで|御座《ござ》いますワ』
『|汝《きさま》は|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》の……|名《な》は|忘《わす》れたが……|女房《にようばう》であらう』
『イエイエ|決《けつ》して|決《けつ》して、|左様《さやう》の|者《もの》では|御座《ござ》いませぬ』
『|度渋《どしぶ》とい、|白々《しらじら》しい|女《をんな》だ。|仮令《たとへ》|水責《みづぜ》め|火責《ひぜ》めに|遇《あ》はしても、|白状《はくじやう》させねば|置《お》くものか』
『|何《なん》と|仰有《おつしや》りましても、|知《し》らぬ|事《こと》は|何処迄《どこまで》も|知《し》りませぬ』
『|此奴《こいつ》ア、|一通《ひととほ》りでは|吐《ぬか》すまい……オイ|皆《みな》の|奴《やつ》、|真裸《まつぱだか》にして|面白《おもしろ》い|芸当《げいたう》をやらしてやらうぢやないか』
『よからう よからう』
と|一同《いちどう》は|泣《な》きひしる|女《をんな》を|真裸《まつぱだか》になし、
『サア|女《をんな》、ワンと|言《い》へ、|吐《ぬか》さな、|此《この》かつ|杭《くひ》が|貴様《きさま》の|頭《あたま》にお|見舞《みまひ》|申《まを》すぞ』
『|何《なん》と|仰有《おつしや》つても、|人間《にんげん》が|畜生《ちくしやう》の|真似《まね》は|出来《でき》ませぬワ』
『|出来《でき》なくば|白状《はくじやう》|致《いた》すのだ。……サア、ワンと|申《まを》せ』
|一同《いちどう》|声《こゑ》を|揃《そろ》へて、
『ワツハヽヽヽ………』
と|笑《わら》ふ。|忽《たちま》ち|傍《かた》への|木《き》の|小蔭《こかげ》より、
『ヤアヤア アルプス|教《けう》の|悪魔《あくま》|共《ども》、よつく|聞《き》け。|某《それがし》こそは、|湯谷ケ岳《ゆやがだけ》の|麓《ふもと》に|於《おい》て|英雄《えいゆう》|豪傑《がうけつ》と|聞《きこ》えたる、|木挽《こびき》の|杢助《もくすけ》、|本名《ほんみやう》は|時置師神《ときおかしのかみ》だ。|一時《いちじ》も|早《はや》く|前非《ぜんぴ》を|悔《く》い、|其《その》|女《をんな》に|衣服《いふく》を|着《き》せ、|汝等《なんぢら》は|真裸《まつぱだか》となつて|四《よ》つ|這《ばひ》になり、ワンワンと|吠《ほ》えよ。|違背《ゐはい》に|及《およ》ばば|此《この》|杢助《もくすけ》が|片端《かたつぱし》から|汝等《なんぢら》が|素首《そつくび》を|捻切《ねぢき》つてやるぞ』
『オイ|偉《えら》い|奴《やつ》が|斯《こ》んな|所《ところ》までやつて|来《き》やがつたぢやないか。|真裸《まつぱだか》になつて|四《よ》つ|這《ばい》になるのは|残念《ざんねん》だし、どうしようかなア』
『サア、|逃《に》げろ|逃《に》げろ』
『コレヤ|者共《ものども》、|逃《に》げようといつても、|逃《にが》しはせぬぞ。|逃《に》げるなら|逃《に》げて|見《み》よ。|四方《しはう》|八方《はつぱう》に|味方《みかた》の|強者《つはもの》を|取巻《とりま》かせ|置《お》いたれば、|一寸《いつすん》でも|此《この》|場《ば》を|動《うご》くが|最後《さいご》、|汝《なんぢ》の|身体《しんたい》は|木端微塵《こつぱみぢん》だ。それでも|構《かま》はねば、どちらへなりと|勝手《かつて》に|走《はし》れ』
『オイ|皆《みな》の|奴《やつ》、どうしようかなア』
『|何《なん》と|云《い》つても|生命《いのち》が|大事《だいじ》だ。|裸《はだか》になつて、また|着物《きもの》を|着《き》れば|良《い》いぢやないか。|仮令《たとへ》ワンワンと|言《い》つた|所《ところ》で、|其《その》|儘《まま》|犬《いぬ》になつて|了《しま》ふのでもなし、|此処《ここ》は|一《ひと》つ|安全策《あんぜんさく》に、|御註文《ごちゆうもん》|通《どほ》り|真裸《まつぱだか》となり、ワンと|一声《ひとこゑ》|吠《ほ》えて|見《み》ようぢやないか』
『|此《この》|寒《さむ》いのに|真裸《まつぱだか》になつたら、|震《ふる》ひあがるぢやないか』
『|貴様《きさま》が|寒《さむ》いのも、|此《この》|女《をんな》が|寒《さむ》いのも|同《おな》じ|事《こと》だ。|早《はや》く|女《をんな》に|着物《きもの》をお|着《き》せ|申《まを》せ。|愚図々々《ぐづぐづ》|致《いた》すと、|杢助《もくすけ》が|汝《なんぢ》の|雁首《がんくび》を|引抜《ひきぬ》かうか』
『マアマアマア|杢助《もくすけ》さん、|貴方《あなた》の|御芳名《ごはうめい》は|此《この》|辺《へん》で|知《し》らない|者《もの》はありませぬ。お|偉《えら》い|方《かた》と|云《い》ふ|事《こと》は、|我々《われわれ》|仲間《なかま》もよく|知《し》つて|居《を》ります。どうぞ|待《ま》つて|下《くだ》さいませ』
『|早《はや》く|着物《きもの》を|着《き》せないか』
『ハイ、コラコラ|皆《みな》の|奴《やつ》、|着物《きもの》を|持《も》つて|来《こ》い。|此《この》|御婦人《ごふじん》に|鄭重《ていちよう》に|着《き》せるのだ』
|丙《へい》は|恐《おそ》る|恐《おそ》る|着物《きもの》を|持《も》つて、コハゴハ|女《をんな》の|後《うしろ》に|寄《よ》り|来《きた》り、|一間《いつけん》|程《ほど》の|距離《きより》から、|女《をんな》の|背中《せなか》を|目《め》がけてポイと|放《ほ》り、|二三間《にさんげん》|後《あと》ずさりし、|木《き》の|株《かぶ》に|躓《つまづ》いてドスンと|尻餅《しりもち》をつき、「アイタヽヽ」と|顔《かほ》をしかめて|居《ゐ》る。|女《をんな》は|早速《さつそく》|其《その》|着物《きもの》を|着《つ》け、
『|何《いづ》れの|方《かた》か|存《ぞん》じませぬが、|危急《ききふ》の|場合《ばあひ》、ようお|助《たす》け|下《くだ》さいました』
『|其《その》|御礼《おれい》には|及《およ》びませぬ。……ヤイヤイ|皆《みな》の|奴《やつ》、そこに|真裸《まつぱだか》となつて|這《は》はないか。|早《はや》く|這《は》はぬと|首《くび》を|引抜《ひきぬ》くぞ』
|一同《いちどう》はブツブツ|小声《こごゑ》に|呟《つぶや》き|乍《なが》ら、|真裸《まつぱだか》の|儘《まま》、|蛙突這《かへるつくばひ》になつて|慄《ふる》うて|居《ゐ》る。
『コレコレお|女中《ぢよちう》、|其《その》|着物《きもの》をお|前《まへ》さまは|御苦労《ごくらう》だが、|一々《いちいち》|畳《たた》んで|始末《しまつ》をつけて|下《くだ》さい。さうして|一所《ひととこ》へ|集《あつ》め、|帯《おび》でグツと|括《くく》り、|此《この》|杢助《もくすけ》が|担《かつ》いで|津田《つだ》の|湖《うみ》へ、ドンブリと|放《ほ》り|込《こ》んで|了《しま》ふ|考《かんが》へだから……』
『モシモシ|此《この》|寒《さむ》いのに|着物《きもの》を|取《と》られては、|息絶《いきつ》いて|了《しま》ひます。どうぞ|着物《きもの》だけは|赦《ゆる》して|下《くだ》さい』
『ヨシ、それなら|着物《きもの》は|其《その》|儘《まま》にして|置《お》かう。|俺《おれ》も|泥棒《どろばう》になつたと|云《い》はれては|末代《まつだい》の|恥《はぢ》だから……、|併《しか》し|此《この》|杢助《もくすけ》は|一度《いちど》|言《い》ひ|出《だ》したら|後《あと》へは|引《ひ》かぬ|男《をとこ》だ。サア、|一度《いちど》にワンと|言《い》へ』
|一同《いちどう》は|顔《かほ》を|見合《みあは》せ|乍《なが》ら、|小《ちひ》さい|声《こゑ》で、
『イイ……ワン』
と|吠《ほ》える。
『コレヤコレヤ|貴様《きさま》、ワンの|前《まへ》に|何《なん》だか|付《つ》いて|居《ゐ》たぢやないか』
『ハイ……イウイウ……|幽霊《いうれい》が|付《つ》いて|居《を》りました』
『|貴様《きさま》は……ワンと|云《い》ひ|乍《なが》ら……イワンと|吐《ぬか》すのか。どこまでも|負惜《まけをし》みの|強《つよ》い|奴《やつ》だな。マア|一時《ひととき》ばかり……ワンは|是《こ》れ|限《ぎ》りで|堪《こら》へてやる、|其《その》|代《かは》りに|赤裸《はだか》で|辛抱《しんばう》|致《いた》せ。|何程《なにほど》|寒《さむ》くても|此《この》|杢助《もくすけ》はカマ【ワン】ぢや、アハヽヽヽ。モシモシお|女中《ぢよちう》さま、お|前《まへ》さまは|何処《どこ》のお|方《かた》だ』
『ハイ、|妾《わたし》は|宇都山村《うづやまむら》の|者《もの》で|御座《ござ》います。|老人《としより》が|急病《きふびやう》で|困《こま》つて|居《を》りますので、|我《わが》|夫《をつと》の|玉治別《たまはるわけ》に|知《し》らさうと|思《おも》ひ、|聖地《せいち》へ|参《まゐ》つて|承《うけたま》はれば、|高春山《たかはるやま》の|言霊戦《ことたません》に|出陣《しゆつぢん》したとやら、|旦夕《たんせき》に|迫《せま》る|父《ちち》の|生命《いのち》、|一時《いちじ》も|早《はや》く|妾《わたし》も|女《をんな》の|身《み》なれども、|高春山《たかはるやま》の|言向《ことむ》け|戦《せん》に|御加勢《おかせい》をなし、|父《ちち》の|生存中《せいぞんちゆう》に|夫《をつと》に|会《あ》はせたいばつかりにやつて|来《き》ました』
『|何《なに》、|玉治別《たまはるわけ》の|宣伝使《せんでんし》が|貴女《あなた》の|夫《をつと》とな。コレコレ|玉治別《たまはるわけ》さま、|奥《おく》さまがお|見《み》えになつて|居《ゐ》ます。なぜ|御挨拶《ごあいさつ》をなさいませぬか』
『|私《わたし》は|高春山《たかはるやま》の|言霊戦《ことたません》が|済《す》みますまで、|女《をんな》を|連《つ》れる|事《こと》は|出来《でき》ませぬ。|断《だん》じて|私《わたし》の|女房《にようばう》ではありますまい』
『それでも|今《いま》|本人《ほんにん》がさう|仰有《おつしや》つたではありませぬか』
『ヤアそれなる|女《をんな》、|我《わが》|女房《にようばう》の|名《な》を|詐《いつは》り──|不届《ふとどき》|至極《しごく》な|奴《やつ》、|我《わが》|女房《にようばう》は|女々《めめ》しくも|神業《しんげふ》のため|出陣《しゆつぢん》したる|夫《をつと》の|後《あと》を|追《お》ふ|如《ごと》き|狼狽者《うろたへもの》ではない。|仮令《たとへ》|親《おや》の|急病《きふびやう》なればとて、|公私《こうし》を|混同《こんどう》し、|夫《をつと》の|大事《だいじ》を|誤《あやま》らしむる|如《ごと》き|馬鹿《ばか》な|女房《にようばう》は|持《も》たない。|何《いづ》れの|女《をんな》か|知《し》らねども|一刻《いつこく》も|早《はや》く|此《この》|場《ば》を|立去《たちさ》れ』
お|勝《かつ》は|涙《なみだ》を|揮《ふる》ひ、
『あなたの|御心中《ごしんちう》……イヤお|言葉《ことば》はよく|分《わか》りました。|決《けつ》して|妾《わたし》は|玉治別《たまはるわけ》|宣伝使《せんでんし》の|女房《にようばう》では|御座《ござ》いませぬ』
『|不届《ふとど》きな|女共《をんなども》|奴《め》、|我々《われわれ》|男子《だんし》を|誑《たば》かるとは|何事《なにごと》ぞ。…コレコレ|玉治別《たまはるわけ》さま、|一《ひと》つ|懲《こ》らしめておやりなさい』
|玉治別《たまはるわけ》は|熱涙《ねつるゐ》を|呑《の》み|乍《なが》ら、お|勝《かつ》の|前《まへ》に|進《すす》み|寄《よ》り、
『|不届《ふとど》き|至極《しごく》の|女《をんな》|奴《め》、|汝《なんぢ》は|真裸《まつぱだか》にして|河《かは》に|投《な》げ|込《こ》んでも、|尚《なほ》|足《た》らぬ|不届《ふとどき》な|奴《やつ》なれど、|今日《けふ》は|差赦《さしゆる》して|遣《つか》はす。サア|早《はや》く|此《この》|場《ば》を|立去《たちさ》れ。|玉治別《たまはるわけ》の|女房《にようばう》は|決《けつ》してそんな|未練《みれん》な|訳《わけ》の|分《わか》らぬ|者《もの》ではないぞ。アハヽヽヽ、|杢助《もくすけ》さま、|妙《めう》な|奴《やつ》もあるものですな』
『それなる|女《をんな》、|汝《なんぢ》も|必《かなら》ず|夫《をつと》があるであらう。|夫《をつと》の|名誉《めいよ》を|毀損《きそん》する|様《やう》な|行状《ぎやうじやう》は|決《けつ》して|致《いた》すでないぞや。|又《また》|汝《なんぢ》|夫《をつと》ありとせば、|必《かなら》ず|夫《をつと》の|無情《むじやう》を|恨《うら》んではならぬぞや』
お|勝《かつ》は|涙《なみだ》を|拭《ぬぐ》ひ|乍《なが》ら、
『ハイ|妾《わたし》は|御存《ごぞん》じの|通《とほ》りの|狼狽《うろた》へた|女《をんな》で|御座《ござ》います。まだ|幸《さいはひ》に|夫《をつと》は|持《も》ちませぬ。|併《しか》し|乍《なが》ら、|若《も》し|霊魂上《れいこんじやう》の|夫《をつと》がありとすれば、|如何《いか》なる|無情《むじやう》な|仕打《しうち》をなされましても|決《けつ》して|恨《うら》みとは|存《ぞん》じませぬ。|女《をんな》の【はした】ない|心《こころ》から、|皆様《みなさま》に|御心配《ごしんぱい》をかける|様《やう》な|事《こと》は|慎《つつし》みます。これから|妾《わたし》も|国《くに》へ|帰《かへ》りますから、|皆様《みなさま》|御安心《ごあんしん》|下《くだ》さいませ』
『|道中《だうちう》は|小盗人《こぬすと》が|往来《わうらい》|致《いた》して|居《を》るから、|神言《かみごと》を|奏上《そうじやう》し、|随分《ずゐぶん》|気《き》を|付《つ》けて|帰《かへ》つたがよからうぞ』
『ハイハイ|有難《ありがた》う|御座《ござ》います。あなたの|御親切《ごしんせつ》なお|言葉《ことば》はどこまでも|忘《わす》れませぬ。|左様《さやう》なれば|不束者《ふつつかもの》の|女《をんな》、これでお|別《わか》れ|致《いた》します。|随分《ずゐぶん》|皆様《みなさま》、|気《き》を|付《つ》けてお|出《い》でなさいませ。|御成功《ごせいこう》を|待《ま》つて|居《を》ります』
『ヤア|御女中《おぢよちう》、|御心底《ごしんてい》は|御察《おさつ》し|申《まを》す。|此《この》|杢助《もくすけ》だとて、|血《ち》もあれば|涙《なみだ》もある。|今《いま》は|何《なに》も|言《い》はぬが|花《はな》、|又《また》お|目《め》にかかる|事《こと》がありませう』
『ハイハイ|有難《ありがた》う|御座《ござ》います』
とシホシホとして|足早《あしばや》に|後《あと》|振《ふ》り|返《かへ》り、|振《ふ》り|返《かへ》り、|月夜《つきよ》の|木蔭《こかげ》に|消《き》えて|了《しま》つた。
『|玉治別《たまはるわけ》さま、|妙《めう》な|事《こと》に|出会《でつくは》したものですなア。|随分《ずゐぶん》|神様《かみさま》の|御用《ごよう》をして|居《を》ると、|局面《きよくめん》が|忽《たちま》ち|一変《いつぺん》し、|愉快《ゆくわい》な|事《こと》があつたり、|辛《つら》い|事《こと》があつたり、イヤもう|大変《たいへん》に|結構《けつこう》な|御神徳《ごしんとく》を|頂《いただ》きました。あなたも|定《さだ》めて|御修行《ごしうぎやう》が|出来《でき》たでせう』
『ハイ|有難《ありがた》う。|千万無量《せんばんむりやう》の|思《おも》ひ……|否《いな》|御神徳《ごしんとく》を|頂《いただ》きました』
『サアサア|小父《をぢ》さま、お|父《とう》さま、ボツボツ|参《まゐ》りませう』
|杢助《もくすけ》は|負《お》うた|子《こ》に|教《をし》へられ、|浅瀬《あさせ》を|渡《わた》る|心地《ここち》にて、|森林《しんりん》の|中《なか》を|山上《さんじやう》|目《め》がけてスタスタと|登《のぼ》り|行《ゆ》く。|玉治別《たまはるわけ》は|時々《ときどき》|太《ふと》き|息《いき》をつき|乍《なが》ら、ワザと|元気《げんき》を|装《よそほ》ひ、|後《あと》に|従《つ》いて|行《ゆ》く。
お|勝《かつ》は|道々《みちみち》|小声《こごゑ》に|歌《うた》ひ|乍《なが》ら、|足《あし》を|早《はや》めて|帰路《きろ》に|就《つ》いた。
『|神《かみ》が|表《おもて》に|現《あら》はれて  |善《ぜん》と|悪《あく》とを|立別《たてわけ》る
|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》  |玉治別《たまはるわけ》と|現《あら》はれて
|言依別《ことよりわけ》の|神言《かみごと》を  |畏《かしこ》みまつり|三人連《みたりづ》れ
|高春山《たかはるやま》に|潔《いさぎよ》く  |出《い》でます|後《あと》に|悲《かな》しくも
|力《ちから》と|思《おも》ふ|父上《ちちうへ》は  |俄《にはか》の|病《やまひ》に|臥《ふ》し|給《たま》ひ
|命《めい》|旦夕《たんせき》に|迫《せま》り|来《く》る  |天《あめ》の|真浦《まうら》の|宣伝使《せんでんし》
|兄《あに》の|命《みこと》はましませど  |義理《ぎり》の|中《なか》なる|弟《おとうと》の
|玉治別《たまはるわけ》のわが|夫《をつと》  |父《ちち》の|死《し》に|目《め》に|会《あ》はずして
|空《むな》しく|帰《かへ》り|給《たま》ひなば  |何《なん》とて|道《みち》に|叶《かな》ふべき
|神《かみ》を|敬《ゐやま》ひわが|親《おや》に  |孝養《かうやう》|尽《つく》すは|子《こ》たる|身《み》の
|務《つと》めと|固《かた》く|聞《き》くからは  |女房《にようばう》の|身《み》として|棄《す》てらりよか
|兄《あに》の|命《みこと》に|許《ゆる》されて  |父《ちち》の|病気《びやうき》を|救《すく》はむと
|聖地《せいち》に|参《まゐ》り|真心《まごころ》を  |籠《こ》めて|恢復《くわいふく》|祈《いの》りつつ
|心《こころ》の|闇《やみ》に|包《つつ》まれて  |遠《とほ》き|路《みち》をばスタスタと
|玉治別《たまはるわけ》や|国依別《くによりわけ》の  |悲《かな》しき|仲《なか》の|兄弟《きやうだい》に
|父《ちち》の|様子《やうす》を|知《し》らさむと  |来《きた》りて|見《み》ればアルプスの
|神《かみ》の|教《をしへ》の|手下《てした》|共《ども》  われを|捉《とら》へて|難題《なんだい》を
|吹《ふ》きかけ|来《きた》る|恐《おそ》ろしさ  わが|身《み》|危《あや》ふくなりし|時《とき》
|忽《たちま》ち|木蔭《こかげ》に|人《ひと》の|声《こゑ》  |杢助《もくすけ》さまとか|云《い》ふ|人《ひと》が
|現《あら》はれ|給《たま》ひて|悪者《わるもの》を  |追《お》ひ|退《しりぞ》けて|下《くだ》さつた
あゝ|有難《ありがた》し|有難《ありがた》し  |神《かみ》は|妾《わたし》をどこまでも
|労《いた》はりますか|尊《たふと》やと  |涙《なみだ》に|咽《むせ》ぶ|折《をり》も|折《をり》
|夫《をつと》の|声《こゑ》によく|似《に》たる  |其《その》|言霊《ことたま》に|胸《むね》|躍《をど》り
|飛《と》び|付《つ》きたくは|思《おも》へども  |悪魔《あくま》の|征途《せいと》に|上《のぼ》りたる
|玉治別《たまはるわけ》はどこまでも  |妻《つま》ではないとしらばくれ
|千万無量《せんまんむりやう》の|悲《かな》しみを  |心《こころ》に|包《つつ》み|玉《たま》ひつつ
|事理明白《じりめいはく》な|御教《おんをしへ》  |世間《せけん》の|義理《ぎり》にからまれて
|不覚《ふかく》を|取《と》りし|妾《われ》こそは  |実《げ》に|浅《あさ》ましき|心《こころ》かな
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |御霊《みたま》|幸《さち》はひましまして
|迷《まよ》ひ|果《は》てたるわが|心《こころ》  |直日《なほひ》に|見直《みなほ》し|聞直《ききなほ》し
|宣《の》り|直《なほ》しませ|三五《あななひ》の  |教《をしへ》の|道《みち》の|大御神《おほみかみ》
|妾《わたし》は|是《これ》より|本国《ほんごく》へ  |夜《よ》を|日《ひ》に|継《つ》いで|立帰《たちかへ》り
|父《ちち》の|看護《かんご》を|余念《よねん》なく  |国依別《くによりわけ》のわが|兄《あに》や
|玉治別《たまはるわけ》のわが|夫《つま》に  |代《かは》りて|孝養《かうやう》|尽《つく》します
|何卒《なにとぞ》|許《ゆる》させ|賜《たま》へかし  |女心《をんなごころ》の【はした】なき
|今《いま》の|仕業《しわざ》を|大神《おほかみ》の  |広《ひろ》き|心《こころ》に|見直《みなほ》して
|迷《まよ》ひの|罪《つみ》を|赦《ゆる》せかし  |仮令《たとへ》|天地《てんち》は|変《かは》るとも
|妾《わたし》の|心《こころ》は|何時《いつ》までも  |今《いま》|賜《たま》はりし|御教《みをしへ》を
|胆《きも》に|銘《めい》じて|忘《わす》れまじ  |神《かみ》の|隈手《くまで》も|恙《つつが》なく
|早《はや》く|帰《かへ》らせ|玉《たま》へかし  あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ』
と|樹木《じゆもく》|鬱蒼《うつさう》たる|猛獣《まうじう》の|猛《たけ》り|狂《くる》ふ|山路《やまみち》を、|一人《ひとり》スタスタ|帰《かへ》り|行《ゆ》く。
お|勝《かつ》は|武志《たけし》の|宮《みや》の|社務所《ながどこ》に|漸《やうや》く|帰《かへ》り|着《つ》いた。|不思議《ふしぎ》や|父《ちち》の|松鷹彦《まつたかひこ》は、|今日《けふ》は|何時《いつ》もよりは|気分《きぶん》も|好《よ》しとて、|庭先《にはさき》の|枝振《えだぶ》りの|良《よ》い|松《まつ》を|眺《なが》めて、|天《あめ》の|真浦《まうら》に|介抱《かいほう》され|乍《なが》ら、|嬉《うれ》しげにお|勝《かつ》の|帰《かへ》り|来《きた》りし|姿《すがた》を|眺《なが》めて|居《ゐ》た。
(大正一一・五・二〇 旧四・二四 松村真澄録)
第四篇 |反復無常《はんぷくむじやう》
第一五章 |化地蔵《ばけぢざう》〔六八九〕
バラモン|教《けう》の|其《その》|一派《いつぱ》  アルプス|教《けう》を|樹立《じゆりつ》して
|高春山《たかはるやま》に|巣窟《さうくつ》を  |構《かま》へて|住《す》める|鬼婆《おにばば》の
|鷹依姫《たかよりひめ》が|悪業《あくげふ》を  |言向《ことむ》け|和《やは》し|救《すく》はむと
|三五教《あななひけう》に|名《な》も|高《たか》き  |高姫《たかひめ》|黒姫《くろひめ》|両人《りやうにん》は
|鳥《とり》の|岩樟船《いはくすぶね》に|乗《の》り  |意気《いき》|揚々《やうやう》と|中天《ちうてん》に
|雲《くも》|押《お》し|開《ひら》き|分《わ》け|上《のぼ》り  |高春山《たかはるやま》の|麓《ふもと》まで
|二人《ふたり》は|無事《ぶじ》に|着陸《ちやくりく》し  |黄金《こがね》の|草《くさ》の|茂《しげ》りたる
|胸突坂《むなつきざか》を|攀《よ》じ|登《のぼ》り  |岩窟《がんくつ》|並《なら》ぶ|天《あめ》の|森《もり》
|祠《ほこら》の|前《まへ》に|休《やす》らひて  |天《あま》の|瓊矛《ぬぼこ》を|振《ふ》り|廻《まは》し
|言霊戦《ことたません》の|最中《さいちう》に  テーリスタンやカーリンス
|鷹依姫《たかよりひめ》の|両腕《りやううで》と  |頼《たの》む|曲津《まがつ》に|誘《さそ》はれて
|岩窟《いはや》の|中《なか》に|引《ひ》き|行《ゆ》かれ  |音信《たより》も|今《いま》に|知《し》れざれば
|二人《ふたり》を|救《すく》ひ|出《いだ》さむと  |言依別《ことよりわけ》の|神言《みこと》もて
|竜国別《たつくにわけ》や|玉治別《たまはるわけ》の  |神《かみ》の|使《つかひ》と|諸共《もろとも》に
|遠《とほ》き|山路《やまぢ》を|打渉《うちわた》り  |漸《やうや》う|此処《ここ》に|津田《つだ》の|湖《うみ》
|竜国別《たつくにわけ》は|北《きた》の|路《みち》  |玉治別《たまはるわけ》は|湖水《こすゐ》をば
|横断《よこぎ》り|乍《なが》ら|進《すす》み|行《ゆ》く  |国依別《くによりわけ》の|宣伝使《せんでんし》
|鼓《つづみ》の|滝《たき》を|右《みぎ》に|見《み》て  |神《かみ》と|君《きみ》とに|真心《まごころ》を
|尽《つ》くす|誠《まこと》の|宝塚《たからづか》  |峰《みね》を|伝《つた》ひて|六甲《ろくかふ》の
|御山《みやま》を|指《さ》して|登《のぼ》り|行《ゆ》く。
|国依別《くによりわけ》は|杖《つゑ》を|力《ちから》に|巡礼姿《じゆんれいすがた》の|甲斐々々《かひがひ》しく、|六甲山《ろくかふざん》の|頂上《ちやうじやう》|目蒐《めが》けて|登《のぼ》り|行《ゆ》くに|路《みち》の|傍《かた》への|枯草《かれくさ》の|中《なか》にスツクと|立《た》てる|石地蔵《いしぢざう》がある。
『アヽ|大変《たいへん》にコンパスも|疲労《ひらう》を|訴《うつた》へ|出《だ》した。|一《ひと》つ|此《この》|石地蔵《いしぢざう》を|相手《あひて》に|一服《いつぷく》しようかなア。……オイ|地蔵《ぢざう》さま、お|前《まへ》は|何時《いつ》も|美《うつく》しい|顔《かほ》をして|慈悲《じひ》の|権化《ごんげ》とも|云《い》ふ|様《やう》に|見《み》せて|御座《ござ》るが、|随分《ずゐぶん》|冷酷《れいこく》なものだなア。どこを|撫《な》でてもチツとも|温味《ぬくみ》はありやしない。|何程《なんぼ》|地蔵《ぢざう》だと|云《い》つても|斯《か》う|蒲鉾《かまぼこ》の|様《やう》に|石《いし》に|半身《はんしん》をくつつけて、|半分《はんぶん》|体《からだ》を|出《だ》した|所《ところ》は、まるで|磔刑《はりつけ》に|遇《あ》うた|様《やう》なものだよ。|今《いま》の|世界《せかい》|悪《あく》の|映像《えいざう》は、|恰度《ちやうど》お|前《まへ》が|好《い》い|代表者《だいへうしや》だ。|外面如地蔵《げめんによぢざう》、|内心如閻魔《ないしんによえんま》の|世《よ》の|中《なか》の|型《かた》が|映《うつ》つて|居《ゐ》るのだなア』
|地蔵《ぢざう》は|石《いし》から|離《はな》れて|浮《う》き|出《で》た|様《やう》に、ヒヨコヒヨコと|錫杖《しやくじやう》を|突《つ》いて、|一二間《いちにけん》|許《ばか》り|歩《あゆ》み|出《だ》し、
『オイ|国依別《くによりわけ》、イヤ|女殺《をんなごろ》しの|後家倒《ごけだふ》しの、|宗彦《むねひこ》の|巡礼《じゆんれい》|上《あが》りの|宣伝使《せんでんし》、|貴様《きさま》の|翫弄《ぐわんろう》した|女《をんな》|達《たち》に、|今《いま》|此処《ここ》で|会《あ》はしてやらうか。|俺《おれ》の|悪口《あくこう》を|言《い》ひよつたが、|貴様《きさま》も|随分《ずゐぶん》|悪《わる》い|奴《やつ》だよ。|貴様《きさま》こそ|心《こころ》に|鬼《おに》を|沢山《たくさん》|抱擁《はうよう》し、|外面《ぐわいめん》は|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》なぞと、チツとチヤンチヤラ|可笑《をか》しいワイ。|其《その》|様《やう》な|者《もの》を|言依別命《ことよりわけのみこと》が|信任《しんにん》するとは、ヤツパリ|暗《くら》がりの|世《よ》は|暗《くら》がりの|世《よ》だ。|盲目《めくら》ばかりの|暗黒《あんこく》|世界《せかい》だなア』
『コレコレ|石地蔵《いしぢざう》さま、|否《いな》|化地蔵《ばけぢざう》さま、お|前《まへ》はチツト|言霊《ことたま》が|悪《わる》いぢやないか。|大方《おほかた》|幽界《いうかい》で|高歩貸《たかぶがし》でも|行《や》つて|居《を》るのだらう。|中々《なかなか》|娑婆気《しやばけ》があつて|面白《おもしろ》いワイ』
『|今《いま》の|社会《しやくわい》の|奴《やつ》ア、|追々《おひおひ》と|渋《しぶ》とうなつて|来《き》やがつて、|俺《おれ》の|商売《しやうばい》もサツパリ|算用《さんよう》|合《あ》うて|銭《ぜに》|足《た》らず。あちらからも|小便《せうべん》を|掛《か》け、こちらからも|小便《せうべん》をかけ、まるで|世界《せかい》の|奴《やつ》ア、|犬《いぬ》の|様《やう》なものだよ。|借《か》る|時《とき》にや|尾《を》を|掉《ふ》つて|出《で》て|来《く》るが、|返《かへ》せと|言《い》へば|鬼権《おにごん》だとか|何《なん》とか|云《い》つてかぶり|付《つ》く、|咬犬《かみいぬ》の|様《やう》な|奴《やつ》ばつかりだ。|俺《おれ》も|仕方《しかた》がないで、|高歩貸《たかぶがし》をフツツリと|断念《だんねん》し、|菩提心《ぼだいしん》を|起《おこ》して|石地蔵《いしぢざう》になり、|世界《せかい》の|亡者《まうじや》を|助《たす》けてやらうと|思《おも》つて、|終始一貫《しうしいつくわん》|不動《ふどう》の|精神《せいしん》を|以《もつ》て、|路《みち》の|辻《つじ》に|鯱《しやち》こばつて|居《を》れば、|俺《おれ》に|金《かね》を|借《か》つた|奴《やつ》、|借《か》る|時《とき》の|地蔵顔《ぢざうがほ》、|済《な》す|時《とき》の|閻魔顔《えんまがほ》、|悪魔道《あくまだう》に|落《お》ちた|報《むく》ひで、|情《なさけ》ない、|犬《いぬ》に|性《しやう》を|変《へん》じて|再《ふたた》び|娑婆《しやば》に|現《あら》はれ、|又《また》しても|小便《せうべん》をかけて|通《とほ》りよる。|本当《ほんたう》に|人間《にんげん》と|云《い》ふ|奴《やつ》は|仕方《しかた》のないものだ。お|前《まへ》は|高歩貸《たかぶがし》は|苦《くるし》めなかつたが、|女《をんな》は|随分《ずゐぶん》|苦《くるし》めたものだのう。キツト|貴様《きさま》も|其《その》|報《むく》いで、|今度《こんど》は|猫《ねこ》に|生《うま》れ|変《かは》るのは、|閻魔《えんま》の|帳面《ちやうめん》にチヤンと|記《つ》いて|居《ゐ》たぞ。|国依別《くによりわけ》と|云《い》ふのは|娑婆《しやば》に|居《を》る|間《あひだ》の|雅号《ががう》だ。|貴様《きさま》の|名《な》はヤツパリ|竹公《たけこう》|又《また》の|名《な》は|宗彦《むねひこ》、|右《みぎ》の|腕《かいな》に|梅《うめ》の|花《はな》の|斑紋《はんもん》があると|云《い》ふ|事《こと》が|記《しる》してある。どうだ|間違《まちが》ひか』
『それはチツとも|間違《まちがひ》がない。|併《しか》し|冥土《めいど》へ|行《ゆ》けば|美人《びじん》は|沢山《たくさん》|居《ゐ》るだらうな』
『|居《を》らいでかい。しかし|乍《なが》ら|婦人同盟会《ふじんどうめいくわい》が|創立《さうりつ》されて、|第一《だいいち》、|宗彦《むねひこ》と|云《い》ふ|奴《やつ》が|出《で》て|来《き》たら、|集《よ》つて【かか】つて、|血《ち》の|池《いけ》へブチ|込《こ》んでやらうと|云《い》ふ|事《こと》に、チヤンと|定《き》まつて|居《ゐ》るよ』
『お|前《まへ》は|一体《いつたい》|男《をとこ》か|女《をんな》か』
『それを|尋《たづ》ねて|何《なに》にするのだ。|若《も》し|俺《おれ》が|女《をんな》だと|云《い》ふ|事《こと》が|分《わか》つたら、|又《また》|何《なに》か|地金《ぢがね》を|出《だ》して|註文《ちうもん》でもするのだらう』
『|誰《たれ》がそんな|冷《つめ》たい|奴《やつ》に|秋波《しうは》を|送《おく》る|馬鹿《ばか》があるかい』
『|幽界《いうかい》に|居《を》る|女《をんな》は、|誰《たれ》もかれも|氷《こほり》の|様《やう》な|冷《つめ》たい|体《からだ》ばつかりだぞ』
『お|前《まへ》は|坤《ひつじさる》の|金神《こんじん》の|別名《べつめい》で、|実《じつ》に|優《やさ》しい|神《かみ》の|権化《ごんげ》ぢやと|聞《き》いて|居《を》つたが、|違《ちが》ふのか』
『|地蔵《ぢざう》にもイロイロの|種類《しゆるゐ》がある。|俺《おれ》は|借《か》る|時《とき》の|地蔵顔《ぢざうがほ》、|済《な》す|時《とき》の|閻魔顔《えんまがほ》と|云《い》つて|善悪《ぜんあく》|両面《りやうめん》を|兼《か》ねた|活仏《いきぼとけ》だ。|地獄《ぢごく》の|沙汰《さた》も|金《かね》|次第《しだい》、|俺《おれ》がお|前《まへ》に|対《たい》し、|柔《やはら》かく|親切《しんせつ》に|持《も》ちかけるのも|辛《つら》く|当《あた》るのも、みんなお|前《まへ》の|心《こころ》|一《ひと》つだ。|善《ぜん》も|悪《あく》も|全部《ぜんぶ》|此《この》|地蔵《ぢざう》の|方寸《はうすん》にあるのだ。|昔《むかし》から|地蔵《ぢざう》(|地頭《ぢとう》)に|法《はふ》なしと|云《い》つて、|天下《てんか》は|地蔵《ぢざう》の|自由《じいう》だ。|馬鹿正直《ばかしやうぢき》な、|善《ぜん》だの|悪《あく》だのと、|俄《にはか》|上人《しやうにん》になつて|迂路《うろ》|付《つ》くものぢやない。なぜ|生地《きぢ》|其《その》|儘《まま》の|正体《しやうたい》を|現《あら》はさぬのか』
『お|前《まへ》の|様《やう》に|人《ひと》を|三文《さんもん》もせぬ|様《やう》に|言《い》つて|了《しま》へばそれまでだが、これでも|娑婆《しやば》|世界《せかい》に|於《お》いては|最優等《さいいうとう》の|身魂《みたま》を|持《も》つて|居《を》る|神《かみ》のお|使《つかひ》だぞ』
『|何《なに》は|兎《と》もあれ、|俺《おれ》を|背中《せなか》に|負《お》うて|六甲山《ろくかふざん》の|頂上《てつぺん》まで|連《つ》れて|往《い》つて|呉《く》れ。|俺《おれ》もこんな|谷底《たにそこ》に|何時《いつ》までも|立《た》ん|坊《ばう》になつて|居《を》つては|面白《おもしろ》くない。そこらの|景色《けしき》も|見飽《みあ》いて|了《しま》つた。チツと|世間《せけん》を|広《ひろ》く|見《み》たいからなう……』
『それや|事《こと》と|品《しな》によつたら、|負《お》うて|行《い》つてやらない|事《こと》もない。|併《しか》し|地獄《ぢごく》の|沙汰《さた》も|金《かね》|次第《しだい》だ、|金《かね》を|幾《いく》ら|出《だ》すか』
『|俺《おれ》は|貴様《きさま》の|実地《じつち》|目撃《もくげき》する|通《とほ》り|石《いし》の|地蔵《ぢざう》だ、|金《かね》があらう|筈《はず》はないよ』
『そんなら|止《や》めて|置《お》かうかい。アタ|重《おも》たい。|此《この》|山坂《やまさか》を|自分《じぶん》の|体《からだ》|丈《だけ》でも|持《も》て|余《あま》して|居《を》るのに、|此《この》|上《うへ》|重量《ぢうりやう》を|追加《つゐか》しては|堪《たま》つたものぢやないワ』
『|貴様《きさま》も|割《わり》とは|弱音《よわね》を|吹《ふ》く|奴《やつ》だなア。そんな|事《こと》で|高春山《たかはるやま》の|鷹依姫《たかよりひめ》が|帰順《きじゆん》すると|思《おも》ふのか。|俺《おれ》を|山頂《さんちやう》まで|連《つ》れて|行《ゆ》く|丈《だけ》の|勇気《ゆうき》がなければ、どうせ|落第《らくだい》だ。|貴様《きさま》の|連《つ》れの|玉治別《たまはるわけ》は|津田《つだ》の|湖水《こすゐ》で、|遠州《ゑんしう》、|駿州《すんしう》、|武州《ぶしう》の|為《ため》に|亡《ほろ》ぼされ、|竜国別《たつくにわけ》は|鬼娘《おにむすめ》に|喰《く》はれて|了《しま》つたぞ。|後《あと》に|残《のこ》るは|貴様《きさま》|一人《ひとり》だ。|到底《たうてい》|此《この》|言霊戦《ことたません》は|駄目《だめ》だから、|俺《おれ》を|負《お》うて|上《うへ》まで|能《よ》う|行《ゆ》かぬ|位《くらゐ》なら、|寧《むし》ろ|兜《かぶと》を|脱《ぬ》いで、|是《これ》から|引返《ひきかへ》したがよからうぞ』
『|何《なに》ツ、|竜国別《たつくにわけ》は|鬼娘《おにむすめ》に|喰《く》はれたと。それや|本当《ほんたう》かい』
『それや|本当《ほんたう》だ。|地蔵《ぢざう》(|自業《じごふ》)|自得《じとく》だ』
『コレヤ|石地蔵《いしぢざう》、|貴様《きさま》は|洒落《しやれ》てるのか。|嘘《うそ》だらう』
『|誰《たれ》が|嘘《うそ》の|事《こと》を|言《い》つて、あつたら|口《くち》に|風《かぜ》を|引《ひ》かす|馬鹿《ばか》があるかい。|玉治別《たまはるわけ》は|寂滅為楽《じやくめつゐらく》の|運命《うんめい》に|陥《おちい》り、|頭《あたま》に|三角《さんかく》の|霊衣《れいい》を|被《かぶ》つて、たつた|今《いま》やつて|来《く》る。マア|暫《しばら》く|待《ま》つて|居《を》るが|宜《よ》からう』
|国依別《くによりわけ》は「ハテナア」と|手《て》を|組《く》み|大地《だいち》にドツカと|坐《ざ》し、|鎮魂《ちんこん》を|修《しう》し、|自《みづか》ら|虚実《きよじつ》の|判断《はんだん》に|心力《しんりよく》を|熱中《ねつちゆう》して|居《ゐ》る。
『ハヽヽヽヽ、|何時《いつ》まで|考《かんが》へたつて、|一旦《いつたん》|国替《くにがへ》した|者《もの》が|帰《かへ》る|気遣《きづか》ひはない。|早《はや》く|俺《おれ》の|要求《えうきう》を|容《い》れないか』
『|八釜《やかま》しく|云《い》ふない。|自分《じぶん》の|体《からだ》も|自由《じいう》にならぬ|中風地蔵《ちうぶぢざう》|奴《め》。|負《お》うて|行《い》つてやるも、やらぬも、|俺《おれ》の|考《かんが》へ|一《ひと》つだ。|今《いま》|臍下丹田《せいかたんでん》、|地《ち》の|高天原《たかあまはら》に|八百万《やほよろづ》の|神《かみ》を|神集《かむつど》ひに|集《つど》ひ、|神議《かむはか》りに|議《はか》らむとして、|諸神《しよしん》を|鎮魂《ちんこん》にて|招《お》ぎまつり|居《を》る|最中《さいちう》だ』
|地蔵《ぢざう》は|何時《いつ》の|間《ま》にか、なまめかしい|美人《びじん》の|姿《すがた》と|化《くわ》して|了《しま》つた。
『サア|国《くに》さまえ、|妾《わたし》はお|前《まへ》さまに|娑婆《しやば》で|随分《ずゐぶん》|嬲《なぶ》られたお|市《いち》ですよ』
『ナニ、お|市《いち》だ、|馬鹿《ばか》を|言《い》ふな。|大方《おほかた》|金毛九尾《きんまうきうび》の|奴狐《どぎつね》め。|俺《おれ》を|誑《ばか》す|積《つも》りだらうが、そんな|事《こと》に|誑《たぶら》される|国依別《くによりわけ》と|思《おも》つて|居《ゐ》るかい』
『|妾《わたし》は|最早《もはや》|幽界《いうかい》の|人間《にんげん》、お|前《まへ》も、|何《なん》と|思《おも》つてらつしやるか|知《し》らぬが、|此処《ここ》は|六甲山《ろくかふざん》ぢやない、|六道《ろくだう》の|辻《つじ》ぢやぞえ。よう|考《かんが》へて|見《み》なさい。そこらの|光景《くわうけい》が|娑婆《しやば》とはスツカリ|違《ちが》ひませうがな』
『|馬鹿《ばか》を|言《い》ふない。|何処《どこ》に|違《ちが》つたとこがあるか。グツグツ|吐《ぬか》すと、|狐《きつね》の|正体《しやうたい》を|現《あら》はしてやらうか』
『ホヽヽヽヽ、あの|宗《むね》さまの|気張《きば》りようわいなう。|腹《はら》の|底《そこ》から|恐《おそ》ろしくなつて|来《き》たと|見《み》え、|汗《あせ》をブルブルかいて、あらむ|限《かぎ》りの|力《ちから》を|出《だ》して、|空威張《からいば》りして|居《ゐ》らつしやるワ、そんなこつて、どうして|鷹依姫《たかよりひめ》が|往生《わうじやう》しますかい』
『|往生《わうじやう》さす、ささぬは|此《この》|方《はう》の|自由《じいう》の|権《けん》だ。|女《をんな》だてら|我々《われわれ》の|行動《かうどう》を、|喋々《てふてふ》と|容喙《ようかい》する|権利《けんり》があるか』
『あつても|無《な》くても、|妾《わたし》は|【妖怪】《えうくわい》だから|【容喙】《ようかい》するのが|当然《あたりまへ》だ。お|前《まへ》さまは|現界《げんかい》に|居《を》つた|時《とき》から、|沢山《たくさん》の|女《をんな》を|【誘拐】《いうかい》しなさつただらう。それだから|今度《こんど》は|【幽界】《いうかい》へ|来《き》て、|反対《はんたい》に|女《をんな》から|何《なに》も|彼《か》も|【容喙】《ようかい》されるのは、|過去《くわこ》の|作《つく》つた|罪業《ざいごふ》が|酬《むく》うて|来《き》たのですよ、ホヽヽヽヽ、あのマア|不快《つま》らぬさうなお|顔《かほ》……』
『エー|放《ほ》つときやがれ』
『|放《ほ》つとけと|仰有《おつしや》つても、お|前《まへ》さまの|様《やう》な|悪党《あくたう》は|何程《なにほど》|気張《きば》つても|仏《ほつとけ》にはなれませぬぞえ。|鬼《おに》にもなれず、マア|石地蔵《いしぢざう》に|小便《せうべん》をかけて|歩《ある》く|犬《いぬ》|位《くらゐ》なものだ。けれども|幽界《いうかい》では|顔《かほ》|丈《だけ》は|【人間】《にんげん》たる|事《こと》を|許《ゆる》される。それだから|【人犬】《にんけん》と|云《い》ふのだ。|【人犬番犬妻王】《にんけんばんけんさいわう》の|馬《うま》と|云《い》つて|妾《わたし》を|今《いま》まで|馬《うま》にして|来《き》たが、|今度《こんど》は|【妻王】《さいわう》の|馬《うま》にしてあげるのだ。サア|其処《そこ》に|四這《よつば》ひに|這《は》ひなさいよ』
『どこまでも|男《をとこ》をチヨン|嬲《なぶ》るのか。|男《をとこ》の|腕《うで》には|骨《ほね》があるぞ』
『|女《をんな》だつて|骨《ほね》はありますよ。|細《ほそ》うても|樫《かし》の|木《き》、お|前《まへ》の|腕《うで》は|太《ふと》く|見《み》えても|新米竹《しんまいだけ》の|様《やう》な、|中《なか》が|空虚《うつろ》でヘナヘナだ。|娑婆《しやば》では|腕《うで》を|振廻《ふりまは》して、こけ|嚇《おど》しが|利《き》いただらう。|新米竹《しんまいだけ》の|竹《たけ》さんと|云《い》つて、|威張《ゐば》つて|行《ゆ》けたが、|幽界《いうかい》ではチツと|様子《やうす》が|違《ちが》ひますよ』
『エー|雀《すずめ》の|親方《おやかた》|見《み》たいに、|女《をんな》と|云《い》ふ|奴《やつ》は|娑婆《しやば》でも|囀《さへづ》るが、|幽界《いうかい》へ|来《き》てもヤツパリ|囀《さへづ》るのかなア。|雀女《すずめをんな》|奴《め》が』
『|竹《たけ》さんに|雀《すずめ》は|品《しな》よくとまる、とめて|止《と》まらぬ|恋《こひ》の|道《みち》だ。あちらからも|青《あを》い|顔《かほ》して|細《ほそ》い|手《て》を|出《だ》し、こちらからも|細《ほそ》い|手《て》を|出《だ》して、|竹《たけ》さん|来《こ》い|来《こ》いと|招《よ》んで|居《ゐ》る……あの|厭《いや》らしい|亡者《まうじや》の|姿《すがた》を|御覧《ごらん》。それ|芒原《すすきはら》の|彼方《あなた》から、お|前《まへ》に|翻弄《ほんろう》された|雀女《すずめをんな》が、|沢山《たくさん》に|頭《あたま》を|出《だ》してゐるぢやないか。チツとは|思《おも》ひ|知《し》つただらう』
『オモイ|知《し》るも、|軽《かる》い|知《し》るもあつたものかい。|女《をんな》なら|亡者《まうじや》であらうが、|化物《ばけもの》であらうが、ビクとも|致《いた》さぬ|竹《たけ》さん|兼《けん》|宗彦《むねひこ》|兼《けん》|国依別命《くによりわけのみこと》|様《さま》だ。サアお|市《いち》、|気《き》の|毒《どく》だが|貴様《きさま》ここへユウカイして|来《き》て|呉《く》れ。|俺《おれ》が|一々《いちいち》|因縁《いんねん》を|説《と》いて、|諒解《りやうかい》の|行《ゆ》く|様《やう》にしてやる。ワツハヽヽヽ。|女《をんな》と|云《い》ふ|奴《やつ》は|化物《ばけもの》でも|気分《きぶん》の|良《い》いものだワイ』
『お|前《まへ》は|娑婆《しやば》で、|石灰竈《いしばひがま》の|鼬《いたち》のやうにコテコテ|塗《ぬ》つた|魔性《ましやう》の|女《をんな》や、|化女《ばけをんな》、|売淫女《ぢごく》、|夜鷹《よたか》なぞに、|何時《いつ》も|現《うつつ》を|抜《ぬ》かして、|鼻毛《はなげ》を|抜《ぬ》かれ、|眉毛《まゆげ》を|数《よ》まれ、|涎《よだれ》を|垂《た》らかし、|骨《ほね》まで|蒟蒻《こんにやく》の|様《やう》に|為《し》られて|来《き》た|代物《しろもの》だから、|化物《ばけもの》は|好《よ》い|配偶《はいぐう》だ。どんな|奴《やつ》でも|構《かま》はぬ|物喰《ものく》ひのよい|助作《すけさく》だから、ヤツパリ|幽界《ここ》へ|来《き》ても|其《その》|癖《くせ》が|止《や》まぬと|見《み》える。|娑婆《しやば》から|幽界《いうかい》へ、そんな|糟《かす》を|持越《もちこ》して|貰《もら》つては、|閻魔《えんま》さまも|聊《いささ》か|迷惑《めいわく》だらう。|地蔵顔《ぢざうがほ》してお|前《まへ》の|巾着《きんちやく》ばつかり|狙《ねら》つて|居《を》る|魔性《ましやう》の|女《をんな》は、|幽界《ここ》にも|多数《たくさん》に|居《を》るから、|御註文《ごちうもん》なら|幾《いく》らでも|召集《せうしふ》して|来《き》ませうか』
『オイ|一寸《ちよつと》|待《ま》つた。|物《もの》も|相談《そうだん》ぢやが、|貴様《きさま》|一旦《いつたん》|暇《ひま》をやつたのだが、|今度《こんど》は|一《ひと》つ|焼《や》き|直《なほ》し、ドント|張《は》り|込《こ》んで|焼木杭《やけぼつくひ》に|火《ひ》が|点《つ》いた|様《やう》に、|旧交《きうかう》を|暖《あたた》めたらどうだ。さうすれば|貴様《きさま》も|沢山《たくさん》な|女《をんな》を|集《あつ》めて|来《き》て、|修羅《しゆら》を|燃《も》やし|修羅道《しゆらだう》へ|落《お》ちる|心配《しんぱい》はないぞ』
『ホヽヽヽヽ、|自惚《うぬぼれ》も|良《い》い|加減《かげん》にしたがよいワイナ。|誰《たれ》がお|前《まへ》の|様《やう》なヒヨツトコから|暇《ひま》を|貰《もら》ふものかいナ。|暇《ひま》を|貰《もら》ふ|所《ところ》までクツついとる|馬鹿《ばか》があるものかい。|憚《はばか》り|乍《なが》ら、お|市《いち》の|方《はう》から|肱鉄《ひぢてつ》を|喰《く》はして、|鼻毛《はなげ》を|抜《ぬ》いてお|暇《ひま》を|呉《く》れたのだ。|三行半《みくだりはん》は|誰《たれ》が|書《か》いたのだ。お|前《まへ》|覚《おぼ》えがあるだらう』
『|幽界《いうかい》へ|来《き》てまで、そんな|恥《はぢ》を|曝《さら》すものぢやない。|俺《おれ》ばつかりの|恥辱《ちじよく》ぢやないぞ。|女《をんな》は|温順《おんじゆん》なのが|値打《ねうち》だ。|一旦《いつたん》|女房《にようばう》になつたら、|仮令《たとへ》|夫《をつと》が|馬鹿《ばか》でもヒヨツトコでも、|泥棒《どろばう》でも、どこまでも|女《をんな》としての|貞操《ていさう》を|尽《つく》すのが|良妻賢母《りやうさいけんぼ》だ。それに|滔々《たうたう》と|女《をんな》の|方《はう》から|暇《ひま》をやつたなぞと、|天則違反的《てんそくゐはんてき》|行為《かうゐ》を|自《みづか》ら|曝《さら》け|出《だ》すと|云《い》ふ|不利益《ふりえき》な|事《こと》があるか。|閻魔《えんま》さまに|聞《きこ》えたら、キツト|貴様《きさま》は|冥罰《めいばつ》を|蒙《かうむ》るに|定《きま》つて|居《ゐ》るぞ』
『ホヽヽヽヽ、ガンザカ|箒《ばうき》の|様《やう》な|男《をとこ》が、どこを|押《お》したらそんな|真面目《まじめ》くさつた|言葉《ことば》が|出《で》るのですかい。|貴方《あなた》はそんな|事《こと》を|云《い》ふ|丈《だけ》の|資格《しかく》はありませぬよ』
『アヽしようもない。|石地蔵《いしぢざう》や|亡者女《まうじやをんな》に|妨《さまた》げられて、|思《おも》はぬ|光陰《くわういん》を|空費《くうひ》した。サア|是《こ》れから|高春山《たかはるやま》へ|出陣《しゆつぢん》せねばならぬ、そこ|退《の》け』
『|退《の》けと|云《い》つたつて、どうして|退《の》けませう。|妾《わたし》だつてアヽ|云《い》ふものの、ヤツパリ、|仮令《たとへ》|三年《さんねん》にもせよ、お|前《まへ》と、|夫《をつと》よ|妻《つま》よと|呼《よ》んで|暮《くら》した|仲《なか》だもの、チツとは|同情心《どうじやうしん》が|残《のこ》つて|居《ゐ》るのだから、お|前《まへ》も|酷《きつ》い|女《をんな》だと|思《おも》はずに、|腹《はら》の|底《そこ》をよく|考《かんが》へて|下《くだ》さらぬと|困《こま》りますよ。|此《この》|位《くらゐ》な|事《こと》に|怒《おこ》る|様《やう》では、|人犬《にんけん》たる|資格《しかく》はありませぬぞえ。|夫婦《ふうふ》|喧嘩《げんくわ》は|犬《いぬ》も|食《く》はぬと|云《い》ふぢやありませぬか。お|前《まへ》もあんまり|夫婦《めをと》|喧嘩《げんくわ》に|角《つの》を|立《た》てて|怒《おこ》ると、|外《ほか》の|人犬《にんけん》が|見《み》て|馬鹿《ばか》にしますよ。そこらの|女《をんな》に|小便《せうべん》を|掛《か》けさがし|高利《たかぶ》を|借《か》つては|糞《ばば》を|掛《か》けさがしたか……そいつア|知《し》らぬが、|後家倒《ごけだふ》しの|婆喰《ばばくら》ひの|人犬《にんけん》ぢやないか。お|前《まへ》に|喰《く》はれた|後家婆《ごけばば》アも、|臭《くさ》い|顔《かほ》して|随分《ずゐぶん》|沢山《たくさん》に|色慾道《しきよくだう》の|辻《つじ》に|待《ま》つて|居《を》りますぜ。これからがお|前《まへ》の|性念場《しやうねんば》だ。マア|楽《たの》しんで|行《ゆ》かつしやい。|妾《わたし》は|夫婦《ふうふ》の|交誼《よしみ》でこれ|丈《だけ》の|注意《ちゆうい》を|与《あた》へて|置《お》く。|何《なん》と|言《い》つても|地蔵《ぢざう》(|自業《じごふ》)|自得《じとく》だから|諦《あきら》めて|行《い》きなさい』
『|俺《おれ》は|何時《いつ》の|間《ま》に|幽界《いうかい》に|来《き》たのだらうかなア。オイお|市《いち》、|俺《おれ》にはテンと|顕幽《けんいう》|分離《ぶんり》の|時期《じき》が|分《わか》らない。|貴様《きさま》は|知《し》つて|居《を》るだらう。|言《い》つて|呉《く》れないか』
『オホヽヽヽ、|分《わか》りますまい。お|前《まへ》がモウ|此《この》|後《さき》|七十年《しちじふねん》|経《た》つた|未来《みらい》に、|斯《か》うして|妾《わし》に|会《あ》ふのだよ』
『なあんだ。それならまだ|大丈夫《だいぢやうぶ》だ』
『お|前《まへ》は|丙午《ひのえうま》の|年《とし》だから、|随分《ずゐぶん》これから|女《をんな》を|沢山《たくさん》に|殺《ころ》して、|七十年後《しちじふねんさき》になれば|今《いま》の|何十倍《なんじふばい》と|云《い》ふ|亡者《まうじや》が|出来《でき》て、|歓迎会《くわんげいくわい》でも|開《ひら》くだらうから、|苦《くる》しんで|待《ま》つて|居《ゐ》るがよからう』
『お|構《かま》ひ|御無用《ごむよう》だ。|俺《おれ》は|楽《たの》しんで|待《ま》つて|居《を》る。|楽天主義《らくてんしゆぎ》の|統一主義《とういつしゆぎ》の|進展主義《しんてんしゆぎ》の|清潔主義《せいけつしゆぎ》を|標榜《へうぼう》する|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》だ』
『|如何《いか》にもお|前《まへ》は|畜生道《ちくしやうだう》へ|【落転】主義《らくてんしゆぎ》だらう。さうして|現界《げんかい》で|高春山《たかはるやま》を|征服《せいふく》し、|鬼婆《おにばば》に|糞《ばば》をかけられ、|天《あめ》の|真名井《まなゐ》へ|泣《な》きもつて、|吠面《ほえづら》かわいて|立帰《たちかへ》り、|他《はた》の|宣伝使《せんでんし》からドツサリ|氷《こほり》の|様《やう》な|冷《つめ》たい|水《みづ》を|打掛《ぶつか》けられ、アヽこれで|清潔主義《せいけつしゆぎ》の|実行《じつかう》だと|喜《よろこ》ぶのだらう。|折角《せつかく》|人犬《にんけん》になつた|魂《たましひ》を|曇《くも》らして、|再《ふたた》び|鼬《いたち》となり、|人《ひと》に|最後屁《さいごぺ》をひりかけ、|業《ごふ》を|経《へ》て|貂《てん》に|進《すす》む、|【進貂】主義《しんてんしゆぎ》を|実行《じつかう》なさいませ』
『|娑婆《しやば》にある|間《あひだ》は、どうしようと|斯《か》うしようと|俺《おれ》の|腕《うで》にあるのだ。お|構《かま》ひ|御無用《ごむよう》だ。|亡者《まうじや》は|亡者《まうじや》らしく|石塔《せきたふ》の|下《した》へ|蟄伏《ちつぷく》して、|時々《ときどき》|風《かぜ》が|吹《ふ》いたら|首《くび》を|突出《つきだ》し、|糠団子《ぬかだんご》でも|喰《く》て|居《を》れば|好《い》いのだ、マア|暫《しばら》く|楽《たの》しんで|待《ま》つて|居《を》れ。|七十年未来《しちじふねんさき》になれば、|俺《おれ》の|殺《ころ》した|女亡者《をんなまうじや》に|限《かぎ》り、|全部《ぜんぶ》|統一主義《とういつしゆぎ》を|実行《じつかう》し、|幽冥界《いうめいかい》に|一《ひと》つの|国依別王国《くによりわけわうごく》を|建設《けんせつ》するから、それまでにイロイロと|世《よ》の|持方《もちかた》の|研究《けんきう》をして|置《お》くのだよ。|其《その》|時《とき》には|貴様《きさま》を|伴食大臣《ばんしよくだいじん》に|登庸《とうよう》してやる』
『|誰《たれ》が、お|前《まへ》の|部下《ぶか》になるものが|一人《ひとり》でもありますかい。エー|娑婆臭《しやばくさ》い|事《こと》を|言《い》ひなさるな』
|斯《か》かる|所《ところ》へ|五六人《ごろくにん》の|男《をとこ》、|茨《いばら》の|杖《つゑ》を|突《つ》き|乍《なが》ら|走《は》せ|来《きた》り、
『オイ|三五教《あななひけう》の……|貴様《きさま》は|宣伝使《せんでんし》だらう。|俺《おれ》は|高春山《たかはるやま》のテーリスタンの|部下《ぶか》の|者《もの》だ。|早《はや》く|起《お》きぬかい』
『ハハア、|貴様《きさま》は|悪業《あくごふ》|充《み》ちて|幽界《いうかい》へ|来《う》せたのだなア。|良《い》い|加減《かげん》に|改心《かいしん》せぬかい。|貴様等《きさまら》は|何奴《どいつ》も|此奴《こいつ》も|独身《どくしん》|生活《せいくわつ》と|見《み》えるが、|何程《なにほど》|幽界《いうかい》へ|来《き》ても、|女房《にようばう》は|欲《ほ》しいだらう。チツト|使《つか》ひ|古《ふる》しでお|気《き》に|入《い》らぬか|知《し》らぬが、|俺《おれ》のお|古《ふる》が|一寸《ちよつと》|十打《じふダース》|程《ほど》|此処《ここ》にあるのだ。|一《ひと》つ|手《て》を|叩《たた》けば「アーイ」と|言《い》つてやつて|来《く》るのだ。「|旦那《だんな》さん、こんちは」と|云《い》つてお|出《い》でになるぞ。|中《なか》にや|随分《ずゐぶん》|素敵《すてき》な|奴《やつ》もあるから、|何《ど》れなつと|選《よ》り|取《ど》り|見取《みど》りだ。|一品《ひとしな》が|一銭九厘屋《いつせんくりんや》で|御座《ござ》い』
『オイ|貴様《きさま》は|何《なに》|寝惚《ねとぼ》けて|居《ゐ》やがるのだ。|辻地蔵《つじぢざう》の|前《まへ》に|寝転《ねころ》びやがつて、シツカリさらさぬかい』
|此《この》|声《こゑ》に|国依別《くによりわけ》は|四辺《あたり》をキヨロキヨロ|見《み》まはし、
『ハハア、なあんだ。|夢《ゆめ》を|見《み》て|居《を》つたのか……オイ|貴様《きさま》は|何処《どこ》の|奴《やつ》だい』
『|俺《おれ》は|言《い》はいでも|知《し》れた、|高春山《たかはるやま》の|鷹依姫《たかよりひめ》|様《さま》の|御家来《ごけらい》だ。|貴様《きさま》は|唯《ただ》|一人《ひとり》|高春山《たかはるやま》へ|何《なに》しに|行《ゆ》くのだ。|此処《ここ》は|南《みなみ》の|関所《せきしよ》だぞ』
『アヽさうだつたか。マアゆつくり|一服《いつぷく》せい。|相談《そうだん》がある』
『|貴様《きさま》に|相談《そうだん》をかけられるのは、|碌《ろく》な|事《こと》ぢやあるまい』
『|其《その》|落《お》ちつかぬ|様子《やうす》はなんだい。|戦《たたか》はぬ|間《うち》から|負《ま》けてるぢやないか、|地震《ぢしん》の|神懸《かむがかり》をしやがつて………チツと|胴《どう》を|据《す》ゑないか』
『|貴様《きさま》は|国依別《くによりわけ》のヘボ|宣伝使《せんでんし》だらう。サア|白状《はくじやう》せい』
『アハヽヽヽ、|天晴《あつぱ》れ|堂々《だうだう》たる|天下《てんか》の|宣伝使《せんでんし》だ。|貴様《きさま》の|様《やう》な|小童武者《こわつぱむしや》に、|何《なに》|隠《かく》す|必要《ひつえう》があるか。|国依別命《くによりわけのみこと》とは|俺《おれ》の|事《こと》だ』
『ヤア|貴様《きさま》は|竹公《たけこう》ぢやないか。|何時《いつ》やら|俺《おれ》の|妹《いもうと》をチヨロまかした|曲者《くせもの》|奴《め》』
『ウンお|前《まへ》はお|松《まつ》の|兄貴《あにき》の|常公《つねこう》だつたなア。|言《い》はば|義理《ぎり》の|兄貴《あにき》だ。|併《しか》し|貴様《きさま》もよく|零落《れいらく》したものだなア。さうしてお|松《まつ》はどうなつたか』
『|貴様《きさま》|余程《よほど》|迂濶者《うつそり》だなア。|俺《おれ》の|妹《いもうと》のお|松《まつ》は|生意気《なまいき》な|奴《やつ》で、|俺《おれ》と|信仰《しんかう》を|異《こと》にし、|到頭《たうとう》ウラナイ|教《けう》の|高姫《たかひめ》の|乾児《こぶん》になりやがつて、|高城山《たかしろやま》で|松姫《まつひめ》と|名乗《なの》り、|立派《りつぱ》にやつてけつかるのだ。|俺《おれ》は|心《こころ》が|合《あ》はないから|行《い》つた|事《こと》がないが、|中々《なかなか》|俺《おれ》の|妹《いもうと》だけあつて|善《ぜん》にもせよ、|悪《あく》にもせよ、|傑出《けつしゆつ》した|所《ところ》があるワイ』
『|何《なに》ツ、あの|松姫《まつひめ》がお|松《まつ》だと|云《い》ふのか。|其奴《そいつ》ア|大変《たいへん》だ。さう|云《い》へば|何《なん》だか|合点《がてん》がゆかぬと|思《おも》つて|居《ゐ》たのだ。|松姫《まつひめ》は|中々《なかなか》|俺《おれ》|達《たち》とは|違《ちが》うて、|今《いま》は|三五教《あななひけう》の|錚々《さうさう》たる|宣伝使《せんでんし》だ。ヤツパリ|俺《おれ》に|秋波《しうは》を|送《おく》る|様《やう》な|奴《やつ》だから、|代物《しろもの》がどつか|違《ちが》つた|所《ところ》があるのだな、アハヽヽヽ』
『オイ|斯《こ》んな|所《とこ》で|惚気《のろけ》を|聞《き》かしやがつて、|何《なん》だ、チツと|確乎《しつかり》せぬかい』
『|羨《うらや》ましいだらう。|随分《ずゐぶん》|松姫《まつひめ》は|別嬪《べつぴん》だぞ。|知慧《ちゑ》もあれば|力《ちから》もあり、|愛嬌《あいけう》もあり、あんな|奴《やつ》ア、|滅多《めつた》にあつたものぢやない。|俺《おれ》もさう|聞《き》くと、|松姫《まつひめ》が|一層《いつそう》|崇高《すうかう》な|人格者《じんかくしや》の|様《やう》に|見《み》えて|来《き》たワイ』
|一同《いちどう》は、
『ワツハヽヽヽ』
と|笑《わら》ひ|転《こ》ける。|甲《かふ》、|乙《おつ》、|丙《へい》、|丁《てい》、|戊《ぼう》、|己《き》の|六人《ろくにん》は|遂《つい》に|国依別《くによりわけ》に|言向《ことむ》け|和《やは》され、|心《こころ》の|底《そこ》より|国依別《くによりわけ》の|洒脱《しやだつ》なる|気品《きひん》に|惚込《ほれこ》み、|信者《しんじや》となつて|高春山《たかはるやま》へ|筒井順慶式《つつゐじゆんけいしき》を|発揮《はつき》すべく、がやがや|囁《ささや》きながら|進《すす》み|行《ゆ》く。
(大正一一・五・二一 旧四・二五 松村真澄録)
第一六章 |約束履行《やくそくりかう》〔六九〇〕
|高春山《たかはるやま》の|中腹《ちうふく》なる|天《あめ》の|森《もり》の|祠《ほこら》の|傍《かたはら》に|漸《やうや》う|登《のぼ》り|着《つ》いた|玉治別《たまはるわけ》、|杢助《もくすけ》、お|初《はつ》の|三人《さんにん》は、|周囲《しうゐ》に|碁列《ごれつ》せる|平岩《ひらいは》に|脚《あし》を|休《やす》め|乍《なが》ら、ひそひそ|話《はなし》に|耽《ふけ》る。
|玉治別《たまはるわけ》『|此処《ここ》へ|着《つ》いてから|殆《ほとん》ど|二時《ふたとき》ばかりになるが、まだ|竜国別《たつくにわけ》も|見《み》えず、|国依別《くによりわけ》も|顔《かほ》を|見《み》せないが|一体《いつたい》|如何《どう》したものだらうなア。|先《さき》へ|行《い》つて|居《ゐ》る|気遣《きづか》ひは|無《な》い|筈《はず》だ。|此《こ》の|森《もり》に|落《お》ち|合《あ》ひ、|一団《いちだん》となつて|上《のぼ》ると|云《い》ふ|計画《けいくわく》だから、マサカ|約束《やくそく》を|無視《むし》して|一人《ひとり》|上《のぼ》る|筈《はず》もなからう。アヽ|遅《おそ》いことだワイ』
|杢助《もくすけ》『ナニ|心配《しんぱい》は|要《い》りませぬよ、|軈《やが》て|見《み》えませう。|噂《うはさ》をすれば|影《かげ》とやら、|其《そ》の|人《ひと》のことを|云《い》つてをると、ツイ|来《く》るものだ。|軈《やが》て|堂々《だうだう》と|登《のぼ》つて|来《こ》られるでせう』
|玉治別《たまはるわけ》『あの|国依別《くによりわけ》にしても、|竜国別《たつくにわけ》にしても|随分《ずゐぶん》|女難《ぢよなん》の|相《さう》があるから、|途中《とちう》で|魔性《ましやう》の|女《をんな》にチヨロ|魔化《まくわ》されて、|肝腎《かんじん》の|御神業《ごしんげふ》を|忘却《ばうきやく》して|居《を》るのではあるまいかなア』
|杢助《もくすけ》『|決《けつ》して|決《けつ》して|左様《さやう》な|御心配《ごしんぱい》は|要《い》りますまい。|津田《つだ》の|湖辺《こへん》で|別《わか》れた|時《とき》には、|余程《よほど》の|堅《かた》い|決心《けつしん》の|色《いろ》が|見《み》えて|居《ゐ》ましたよ。|女《をんな》に|対《たい》しては|何《なん》の|交渉《かうせふ》もありますまい。|枯木《こぼく》|寒巌《かんがん》に|倚《よ》る|三冬《さんとう》|暖気《だんき》|無《な》し|程《てい》の|堅家《かたや》だから、|屹度《きつと》|女《をんな》なんかに|目《め》をくれるやうな|人物《じんぶつ》とは|認《みと》められませぬワ』
|玉治別《たまはるわけ》『イヤ|余《あま》り|安心《あんしん》は|出来《でき》ますまい。|何分《なにぶん》|元《もと》が|元《もと》ですから、|随分《ずゐぶん》|若《わか》い|時《とき》は|発展《はつてん》したものです。|大勢《おほぜい》の|前《まへ》では|石部金吉《いしべきんきち》、|金兜《かなかぶと》、|梃子《てこ》でも|棒《ぼう》でも、|女《をんな》|位《くらゐ》に|動《うご》かない|堅造《かたざう》のやうに|見《み》えて|居《を》つても、|心《こころ》の|中《なか》の|情火《じやうくわ》と|云《い》ふ|曲者《くせもの》が|煙《けむり》を|噴出《ふきだ》すと、ツイその|煤煙《ばいえん》に|包《つつ》まれて|目《め》が|眩《くら》み|途方《とつけ》も|無《な》い|所《ところ》へ|脱線《だつせん》する|虞《おそれ》のある|代物《しろもの》です。|教主《けうしゆ》|言依別命《ことよりわけのみこと》|様《さま》は|彼等《かれら》が|心情《しんじやう》を|御洞察《ごどうさつ》|遊《あそ》ばして、|出立《しゆつたつ》の|際《さい》にも、|決《けつ》して|女《をんな》にかかり|合《あ》つてはいけない、|今度《こんど》の|言霊戦《ことたません》は|汝等《なんぢら》|宣伝使《せんでんし》の|試練《しれん》だと|仰有《おつしや》つた|位《くらゐ》ですから、|実《じつ》に|心許《こころもと》ない|代物《しろもの》ですよ。|鬼《おに》でも|閻魔《えんま》でも|美人《びじん》の|顔《かほ》を|見《み》て|怒《おこ》る|気遣《きづか》ひはない。|況《いは》んや|人間《にんげん》に|於《おい》てをや。|何《なん》と|云《い》つても|今迄《いままで》の|経歴《けいれき》が|経歴《けいれき》ですからなア』
|杢助《もくすけ》『|此《こ》の|連山《れんざん》|重畳《ちようでふ》たる|山道《やまみち》に、そんな|女《をんな》が|迂路《うろ》ついて|居《ゐ》る|気遣《きづか》ひはありますまい。|生物《いきもの》と|云《い》つたら|猪《しし》、|狼《おほかみ》、|蛇《へび》、|狐《きつね》、|狸《たぬき》|位《くらゐ》なものでせう。|人間《にんげん》と|言《い》へばアルプス|教《けう》の|連中《れんちう》が|徘徊《はいくわい》してゐる|位《くらゐ》なもの、|私《わたし》は|女《をんな》よりも|案《あん》じるのは、アルプス|教《けう》の|集団《しふだん》に|出会《でつくは》し|苦戦《くせん》に|苦戦《くせん》を|重《かさ》ね、|其《そ》の|為《ため》に|時間《じかん》を|費《つひ》やして|居《ゐ》られるのではあるまいかと|思《おも》ひます。|大谷山《おほたにやま》も|随分《ずゐぶん》|魔神《まがみ》の|多《おほ》い|所《ところ》、|六甲山《ろくかふざん》も|時々《ときどき》テーリスタンが|部下《ぶか》を|率《ひき》ゐて|構《かま》へて|居《を》る|地点《ちてん》ですから、それ|等《ら》に|対手《あひて》になつてゐるかも|知《し》れますまい。|昨夜《さくや》の|女《をんな》を|虐《いぢ》めたやうに、あの|通《とほ》り|沢山《たくさん》な|奴《やつ》が|徘徊《はいくわい》して|居《を》るのですから、|随分《ずゐぶん》に|苦戦《くせん》をやつてゐられるのでせうよ』
|玉治別《たまはるわけ》『それはさうと、あの|秘密《ひみつ》|書類《しよるゐ》に|依《よ》つて|敵《てき》の|配置《はいち》を|覚《さと》り、|間道《かんだう》ばかり|進《すす》んで|来《く》る|筈《はず》だから、|滅多《めつた》に|敵《てき》に|出会《でつくは》す|筈《はず》はなからうと|思《おも》はれます』
|杢助《もくすけ》『さうだとすれば|随分《ずゐぶん》|暇《ひま》の|要《い》ることだなア。|併《しか》し|此方《こちら》は|船《ふね》に|乗《の》つて|真直《まつすぐ》に|来《き》たのだから、|余程《よほど》|早《はや》いのは|道理《だうり》だ。|二時《ふたとき》や、|三時《みとき》|遅《おく》れたつて|寧《むしろ》|当然《たうぜん》かも|知《し》れますまい』
|玉治別《たまはるわけ》『|我々《われわれ》は|湖上《こじやう》に|於《おい》ていろいろと|時間《ひま》をとりましたから、|平均《へいきん》すれば|向方《むかふ》の|方《はう》が|早《はや》く|此処《ここ》へ|到着《たうちやく》してゐなければならないのですワ』
|斯《かか》る|処《ところ》へ|蓑笠《みのかさ》の|影《かげ》、|霧《きり》の|中《なか》よりポコポコと|浮《う》き|上《あが》り|登《のぼ》り|来《きた》る。
|杢助《もくすけ》『アー|誰《たれ》か|登《のぼ》つて|来《き》ましたよ。|大方《おほかた》|竜国別《たつくにわけ》|様《さま》でせう』
|玉治別《たまはるわけ》は|首《くび》を|伸《の》ばして|見《み》つめてゐる。|追々《おひおひ》|近寄《ちかよ》つて|来《く》る|一人《ひとり》の|男《をとこ》。
|竜国別《たつくにわけ》『アヽ|長《なが》らく|待《ま》たしたでせう。|思《おも》ひの|外《ほか》|嶮《けは》しい|山坂《やまさか》、それにいろいろの|道草《みちぐさ》を|喰《く》つて|居《ゐ》たものですから、ツイ|遅《おく》れました』
|玉治別《たまはるわけ》『ヤア|結構《けつこう》|々々《けつこう》、|又《また》|谷底《たにそこ》へでも|沈澱《ちんでん》したのぢやなからうかと、|実《じつ》は|心配《しんぱい》して|居《ゐ》ました』
|竜国別《たつくにわけ》『|国依別《くによりわけ》さまはまだお|見《み》えになりませぬか』
|玉治別《たまはるわけ》『まだ|見《み》えませぬワ、|如何《どう》したのでせう』
|竜国別《たつくにわけ》『|中々《なかなか》|予定通《よていどほ》りには|進《すす》めないものでしてなア。|私《わたし》も|大変《たいへん》な|面白《おもしろ》いことに|出会《であ》つて|来《き》ましたよ』
と|笠《かさ》を|脱《ぬ》ぐ。|見《み》れば|額《ひたひ》を|石《いし》で|割《わ》られた|傷《きず》、
|玉治別《たまはるわけ》『ヤア|貴方《あなた》の|額《ひたひ》は|如何《どう》なさつた。|大変《たいへん》な|傷《きず》ぢやありませぬか』
|竜国別《たつくにわけ》『|石《いし》に|躓《つまづ》き|倒《こ》けた|途端《とたん》に、|額《ひたひ》を|打《う》ちました』
|玉治別《たまはるわけ》『それは|又《また》|妙《めう》ぢやなア。|一割《いちわり》|高《たか》い|鼻《はな》を|打《う》ちさうなものだのに、|如何《どう》して|又《また》その|額《ひたひ》を|打《う》たれたのでせう』
|竜国別《たつくにわけ》『アヽこれは|一寸《ちよつと》|訳《わけ》があつて、|明白《めいはく》に|申上《まをしあ》げ|兼《か》ねます。どうぞ|此《こ》の|事《こと》だけは|堅《かた》い|約束《やくそく》がしてあるのだから、|聞《き》いて|下《くだ》さいますな』
|玉治別《たまはるわけ》『|約束《やくそく》ぢやありますまい。|貴方《あなた》はアルプス|教《けう》の|部下《ぶか》に|取《と》り|巻《ま》かれ、|頭《あたま》を【こつ】かれたのでせう。|折角《せつかく》|三人《さんにん》|揃《そろ》つて、|無疵《むきず》で、|天晴《あつぱれ》|勝利《しようり》を|得《え》て|帰《かへ》らうと|思《おも》つて|居《ゐ》るのに、|負傷者《ふしやうしや》を|出《だ》したと|云《い》ふことは|実《じつ》に|残念《ざんねん》だ』
|竜国別《たつくにわけ》『イエイエ アルプス|教《けう》の|連中《れんちう》には、|一人《ひとり》も|逢《あ》うたことが|御座《ござ》いませぬ。|道中《だうちう》は|至極《しごく》|無事《ぶじ》|平穏《へいおん》でした』
|玉治別《たまはるわけ》『|無事《ぶじ》|平穏《へいおん》の|途中《とちう》に|其《そ》の|傷《きず》は|又《また》|如何《どう》なさつたのだ。|吾々《われわれ》は|親子《おやこ》|兄弟《きやうだい》よりも|親密《しんみつ》にして|居《ゐ》る|仲《なか》、|何故《なぜ》|御隠《おかく》しなさるか』
|竜国別《たつくにわけ》『|何《ど》うしても|斯《か》うしても|秘密《ひみつ》は|秘密《ひみつ》です。これ|計《ばか》りは|私《わたし》|一生《いつしやう》の|間《あひだ》|云《い》ふことは|出来《でき》ませぬ。もしも|半口《はんくち》でも|言《い》はうものなら|大変《たいへん》です。やつて|来《き》ますからなア』
|玉治別《たまはるわけ》『やつて|来《く》るとは、そりや|又《また》|何《なん》ですか。|世界《せかい》の|鬼《おに》、|大蛇《をろち》、|悪狐《あくこ》、|醜女《しこめ》、|探女《さぐめ》を|悉《ことごと》く|言向《ことむ》け|和《やは》さねばならぬ|宣伝使《せんでんし》、|何《なに》がやつて|来《き》たところで|怖《おそ》ろしいものがある|道理《だうり》はない。|怪体《けつたい》なことを|仰有《おつしや》るのですな』
|竜国別《たつくにわけ》『これは|誓約《うけひ》がしてありますから、|約束《やくそく》を|破《やぶ》れば|矢張《やつぱり》|違約《ゐやく》の|罪《つみ》になりますワ』
|玉治別《たまはるわけ》『ハヽヽヽヽ、エライ|惚気《のろけ》|方《かた》だなア。|途中《とちう》に|於《おい》て|立派《りつぱ》なナイスに|出会《でつくわ》し、|夫婦《ふうふ》の|約束《やくそく》を|結《むす》び、|女《をんな》の|方《はう》からお|前様《まへさま》の|様《やう》な|男《をとこ》らしい|男《をとこ》、|鼻《はな》の|高《たか》い|方《かた》は|他《ほか》の|女《をんな》に|惚《ほ》れられると|困《こま》るから、|傷《きず》をつけて|置《お》かうなんて、ナイスに|頭《あたま》を|割《わ》らせ、さうして|夫婦《ふうふ》の|誓約《うけひ》をしたのでせう。その|代《かは》り|貴方《あなた》も|女《をんな》の|小指《こゆび》|位《ぐらゐ》は|預《あづ》かつたでせうなア』
|竜国別《たつくにわけ》『イヤもう|迷惑千万《めいわくせんばん》、ナイスと|婚約《こんやく》を|結《むす》ぶやうな、そんな|気楽《きらく》なことですかい。|大変《たいへん》な|椿事《ちんじ》が|突発《とつぱつ》したのですよ。|言《い》ひ|度《た》いは|山々《やまやま》なれど|斯《こ》んなことを|言《い》ふと、|鬼娘《おにむすめ》がやつて|来《き》ますよ』
|杢助《もくすけ》『ハヽヽヽヽ、|大谷山《おほたにやま》の|谷底《たにそこ》に|巣《す》を|構《かま》へて|居《を》る|鬼娘《おにむすめ》のお|光《みつ》に|逢《あ》うて、|血《ち》を|吸《す》はれたのだなア』
|竜国別《たつくにわけ》『メヽヽ|滅相《めつさう》な、そんなものに|逢《あ》うたことはありませぬワ』
|杢助《もくすけ》『|貴方《あなた》は|宣伝使《せんでんし》であり|乍《なが》ら、|我々《われわれ》を|偽《いつは》るのですか。|偽《いつは》りの|罪《つみ》は|随分《ずゐぶん》|重《おも》いものですよ』
|竜国別《たつくにわけ》『|約束《やくそく》を|破《やぶ》つても|罪《つみ》になる。|偽《いつは》つても|罪《つみ》になる。エー|仕方《しかた》がない、|実《じつ》はお|光《みつ》と|云《い》ふ|鬼娘《おにむすめ》に|出会《でつくわ》し、|頭《あたま》をこづかれ、|血《ち》を|二升《にしよう》|許《ばか》り|吸《す》ひとられ、|何処《どこ》ともなしに|気分《きぶん》がサツパリとしました。|併《しか》し|何《なん》となく|意気沮喪《いきそさう》したやうな|感《かん》じが|致《いた》します。|千里《せんり》|向《むか》ふでも|私《わし》の|耳《みみ》は|聞《きこ》えるから、|人《ひと》に|言《い》つたが|最後《さいご》、|生命《いのち》を|奪《と》ると|云《い》ひました。|私《わたし》も|男《をとこ》だから|鬼娘《おにむすめ》の|一人《ひとり》や|二人《ふたり》は|怖《おそ》れませぬが、やつて|来《き》たら|何《なん》とかして|下《くだ》さいますか』
|玉治別《たまはるわけ》『|竜国別《たつくにわけ》さま、|御心配《ごしんぱい》なさいますな。|言霊《ことたま》を|以《もつ》て|忽《たちま》ち|鬼娘《おにむすめ》を|消滅《せうめつ》させて|了《しま》ひますよ』
|杢助《もくすけ》『|万一《まんいち》やつて|来居《きを》つたなら、|此《こ》の|杢助《もくすけ》が|足《あし》で|踏《ふ》み|躙《にじ》り|降参《かうさん》させて|呉《く》れます。|御心配《ごしんぱい》なさるな』
|斯《かか》る|所《ところ》へ|黒雲《くろくも》を|起《おこ》し、|山麓《さんろく》より|鬼娘《おにむすめ》、|面《かほ》ばかり|現《あら》はし、ヌーヌーと|雲《くも》と|共《とも》に|上《あが》つて|来《く》る。
|竜国別《たつくにわけ》『ヤアどうやら|見覚《みおぼ》えのある|鬼娘《おにむすめ》がやつて|来《き》たやうだ。モシ|杢助《もくすけ》さま、|頼《たの》みますよ』
|杢助《もくすけ》『|心配《しんぱい》なさるな。|貴方《あなた》は|早《はや》く|言霊戦《ことたません》を|始《はじ》めなさい。|其《そ》の|他《ほか》のことは、みんな|此《この》|杢助《もくすけ》が|御引受《おひう》け|申《まを》す』
と|云《い》ふ|折《をり》しも|鬼娘《おにむすめ》はグワツと|耳《みみ》|迄《まで》|引裂《ひきさ》けた|口《くち》を|開《ひら》き、|舌《した》をノロノロ|出《だ》し|乍《なが》ら、
|鬼娘《おにむすめ》『|竜国別《たつくにわけ》の|宣伝使《せんでんし》は、|此処《ここ》へ|来《き》た|筈《はず》だが、|何処《どこ》に|居《を》るかな』
|杢助《もくすけ》『|此処《ここ》に|確《たし》かたつた|一人《ひとり》|居《ゐ》る。さうして|貴様《きさま》は|竜国別《たつくにわけ》を|探《さが》して|何《なに》をする|積《つも》りだ。|見《み》つともない。|小《ちつ》ぽけな|角《つの》を|生《は》やし、|大《おほ》きな|口《くち》を|開《あ》けてやつて|来《き》たところで、|誰一人《たれひとり》|貴様《きさま》に|同情《どうじやう》するものはありやしないぞ。あんまり|馬鹿《ばか》にすな。|貴様《きさま》の|顔《かほ》と|相談《そうだん》して|来《こ》い。|男《をとこ》の|尻《しり》を|追《お》ふのなら|女《をんな》らしいオチヨボ|口《ぐち》をして|来《き》たら|如何《どう》だ。|大神楽《だいかぐら》のやうな|無恰好《ぶかつかう》な|口《くち》を|開《あ》けよつて、そないな|顔《かほ》を|見《み》ると|大抵《たいてい》の|男《をとこ》は、|夜分《やぶん》には|襲《おそ》はれて|安眠《あんみん》が|出来《でき》はしないぞ。|何故《なぜ》|女《をんな》らしく|淑《しと》やかに|化《ば》けて|来《こ》ぬか』
お|光《みつ》『お|前《まへ》に|用《よう》はない。|俺《わし》は|竜国別《たつくにわけ》に|堅《かた》い|堅《かた》い|約束《やくそく》がしてある。|約束《やくそく》|履行《りかう》のために|出《で》て|来《き》たのだから、|邪魔《じやま》して|下《くだ》さるな』
|杢助《もくすけ》『アハヽヽヽヽ、|何《なん》と|物好《ものず》きもあればあるものだな。コレ|竜国別《たつくにわけ》さま、|何程《なにほど》|一人旅《ひとりたび》で|女《をんな》に|飢《かつ》ゑて|居《を》ると|言《い》つても、あんまりぢやないか。|般若《はんにや》の|面《つら》みたやうな|鬼娘《おにむすめ》と、なんぞ|堅《かた》い|約束《やくそく》でもしたのか』
お|光《みつ》『|堅《かた》い|約束《やくそく》した|証拠《しようこ》には|竜国別《たつくにわけ》の|額口《ひたひぐち》を|御覧《ごらん》なさい、|俺《わし》の|所有物《しよいうぶつ》と|云《い》ふ|証拠《しようこ》に|石《いし》の|刻印《こくいん》が|捺《お》してある|筈《はず》だ。|竜国別《たつくにわけ》の|生命《いのち》は|最早《もはや》|此方《こつち》の|物《もの》だ。|邪魔《じやま》をして|下《くだ》さるな』
|杢助《もくすけ》『|二人《ふたり》の|恋仲《こひなか》を、|俺《おれ》もさう|野暮《やぼ》な|生《うま》れ|付《つ》きぢやないから、|別《べつ》に|邪魔《じやま》する|積《つも》りぢやないが、さてもさても|呆《あき》れたものだなア。|生命《いのち》までも|斯《こ》んな|鬼娘《おにむすめ》に|賭《か》けて、|約束《やくそく》するとは|余《あんま》りぢやないか。おまけに|石《いし》の|刻印《こくいん》まで|捺《お》して|貰《もら》ふとは、|何処《どこ》までも|徹底《てつてい》した|恋愛《れんあい》だなア』
お|光《みつ》『|早《はや》く|除《の》いて|下《くだ》さい。|俺《わし》は|胸《むね》の|火《ひ》が|燃《も》えて|来《き》て|居《を》るから、お|光《みつ》|狂乱《きやうらん》のやうになつて|了《しま》ひますよ』
|杢助《もくすけ》『アハヽヽヽ、|山家《やまが》に|長《なが》らく|蟄居《ちつきよ》して|居《を》つたので、|芝居《しばゐ》を|見《み》る|機会《きくわい》がなかつたが、|一《ひと》つ|此処《ここ》で|其《そ》のお|光《みつ》|狂乱《きやうらん》の|演劇《えんげき》を、|無料《むれう》|拝観《はいくわん》さして|貰《もら》ひたいものだなア』
|竜国別《たつくにわけ》『オイお|光《みつ》、|昨日《きのふ》の|約束《やくそく》はモー|取消《とりけし》だ。|誰《たれ》が|貴様《きさま》のやうな|鬼娘《おにむすめ》と|堅《かた》い|約束《やくそく》を|結《むす》んでたまらうか。|其《その》|場《ば》|遁《のが》れの|遁《に》げ|口上《こうじやう》だつた。|貴様《きさま》も|好《い》い|馬鹿《ばか》だなア』
と|杢助《もくすけ》の|力強《ちからづよ》を|後楯《うしろだて》に|徐々《そろそろ》メートルを|上《あ》げ|出《だ》した。
お|光《みつ》『ヘン、|偉《えら》さうに、|杢助《もくすけ》が|居《を》ると|思《おも》つて、お|前《まへ》は|虎《とら》の|威《ゐ》を|借《か》る|奴狐《どぎつね》だ。|欺《だま》すことは|上手《じやうず》だなア。この|鬼娘《おにむすめ》でさへも|呆《あき》れて|物《もの》が|云《い》はれませぬワイ。|併《しか》し|乍《なが》ら|其方《そちら》は|取消《とりけ》しても、|此方《こちら》は|取消《とりけ》さぬのだ。|何処《どこ》までも|生命《いのち》を|貰《もら》ふから|覚悟《かくご》をしなさい』
|杢助《もくすけ》は|足許《あしもと》のギザギザした|石《いし》を|一《ひと》つ|拾《ひろ》ひ、グツと|握《にぎ》つて、
|杢助《もくすけ》『オイ、お|光《みつ》、|約束《やくそく》は|履行《りかう》してやらう。|生命《いのち》も|奪《と》らしてやらう。|其《その》|代《かは》りに|証文《しようもん》は|返《かへ》して|貰《もら》はねばならぬ。サア、|此《この》|石《いし》で|貴様《きさま》の|額《ひたひ》に|力一杯《ちからいつぱい》|刻印《こくいん》を|捺《お》してやらう。これで|再《ふたた》び|竜国別《たつくにわけ》の|身《み》の|上《うへ》に|関《くわん》しては、|毛頭《まうとう》|苦情《くじやう》は|申《まを》しませぬと|言《い》ふ|証拠《しようこ》だぞ。サア|早《はや》く|凸凹《でこぼこ》を|突《つ》き|出《だ》せ』
|竜国別《たつくにわけ》『お|光《みつ》、ざまア|見《み》やがれ。|其《そ》の|凸《でこ》を|杢助《もくすけ》さまの|御前《おんまへ》に|提出《ていしゆつ》するのだ』
お|光《みつ》『エー|残念《ざんねん》な、|竜国別《たつくにわけ》、お|前《まへ》も|杢助《もくすけ》と|年《ねん》が|年中《ねんぢう》|歩《ある》いて|居《を》るのぢやあるまい。|又《また》|一人《ひとり》|出《で》る|時《とき》もあらう。その|時《とき》に|約束《やくそく》を|屹度《きつと》|履行《りかう》するから、さう|思《おも》つてゐらつしやい』
お|初《はつ》、|小《ちひ》さい|声《こゑ》で、
お|初《はつ》『オホヽヽヽ、|鬼娘《おにむすめ》のお|光《みつ》どの、|私《わし》の|顔《かほ》を|見覚《みおぼ》えて|居《ゐ》ますか』
お|光《みつ》は|不図《ふと》|六歳《ろくさい》のお|初《はつ》の|顔《かほ》を|見《み》るなり、キヤツと|叫《さけ》んで|白煙《はくえん》となり|消《き》えて|了《しま》つた。|今迄《いままで》|包《つつ》んで|居《ゐ》た|黒雲《くろくも》は、|高春山《たかはるやま》の|吹颪《ふきおろし》に|払拭《ふつしき》されて|四方《よも》に|飛散《ひさん》し、|山麓《さんろく》の|谷川《たにがは》の|水《みづ》までハツキリと|見《み》えるやうになつて|来《き》た。
|杢助《もくすけ》『アハヽヽヽ、|鬼娘《おにむすめ》と|云《い》つても|脆《もろ》いものだなア。|到頭《たうとう》|煙散霧消《えんさんむせう》して|了《しま》ひ|居《を》つた。アヽ|彼奴《あいつ》もこれで|成仏《じやうぶつ》しただらう。さア、モウ|竜国別《たつくにわけ》さま|御安心《ごあんしん》なさい』
|竜国別《たつくにわけ》『エライ|御厄介《ごやくかい》をかけましたが、|御《お》【かげ】で|助《たす》かりました』
|玉治別《たまはるわけ》『|竜国別《たつくにわけ》さま、|随分《ずゐぶん》|奇抜《きばつ》なローマンスを|見《み》せて|呉《く》れたものだな。|蓼《たで》|喰《く》ふ|虫《むし》も|好《す》き|好《ず》きとはよく|言《い》つたものだ』
|竜国別《たつくにわけ》『お|前《まへ》まで|余《あんま》り|人《ひと》をひやかすものぢやない。|俺《おれ》の|心《こころ》もチツとは|推量《すゐりやう》して|呉《く》れ』
|一同《いちどう》『アハヽヽヽ』
と|声《こゑ》を|放《はな》つて|敵地《てきち》にあるを|忘《わす》れて|面白《おもしろ》さうに|笑《わら》ふ。
|玉治別《たまはるわけ》『|時《とき》に、|国依別《くによりわけ》はまだ|来《こ》ないのかなア。|又《また》|鬼娘《おにむすめ》と|途中《とちう》に|狎戯《いちやつ》いて|居《を》るのぢやなからうかな』
|竜国別《たつくにわけ》『|斯《か》う|隙《ひま》が|要《い》るからは|何《なに》か|一《ひと》つの|故障《こしやう》が|起《おこ》つたのだらう。|彼奴《あいつ》も|随分《ずゐぶん》|罪業《めぐり》を|積《つ》んで|居《を》るから、|一人旅行《ひとりたび》は|剣呑《けんのん》だ』
と|語《かた》る|時《とき》しも、|国依別《くによりわけ》は|意気《いき》|揚々《やうやう》として|数人《すうにん》の|男《をとこ》を|伴《ともな》ひ|登《のぼ》つて|来《き》た。
|玉治別《たまはるわけ》『アヽ|国依別《くによりわけ》さまか、|随分《ずゐぶん》|待呆《まちばう》けに|逢《あ》うたよ。|如何《どう》して|居《を》つたのだい』
|国依別《くによりわけ》『|大変《たいへん》な|大事件《だいじけん》が|途中《とちう》で|勃発《ぼつぱつ》して、それが|為《ため》に|時間《ひま》が|要《い》つたのだよ。|到頭《たうとう》|地獄《ぢごく》の|八丁目《はつちやうめ》|迄《まで》|旅行《りよかう》して、|昔《むかし》の|女房《にようばう》に|包囲《はうゐ》|攻撃《こうげき》され|困《こま》つて|了《しま》つた。|若《わか》い|時《とき》から|嬶《かか》ア|泣《な》かしの|後家倒《ごけだふ》し、|刃物《はもの》|要《い》らずの|女殺《をんなごろ》しをやつて|来《き》た|報《むく》いで、|幽冥界《いうめいかい》に|彷徨《さまよ》ひ|落《お》ち|込《こ》んだところ、|合計《がふけい》|十打《じふダース》ばかりのレコが|一時《いちじ》に|現《あら》はれて、|百万陀羅《ひやくまんだら》|恨《うら》みの|数々《かずかず》|繰返《くりかへ》し、|俺《わし》も|已《や》むを|得《え》ず|昔《むかし》の|事《こと》を|思《おも》ひ|出《だ》し、|涎《よだれ》を|沢山《たくさん》に|繰返《くりかへ》して|居《を》つたのだから、ツイ|遅《おく》れて|済《す》まなかつた。|随分《ずゐぶん》|退屈《たいくつ》であつたらうなア』
|玉治別《たまはるわけ》『|別《べつ》に|退屈《たいくつ》でも|何《なん》でも|無《な》かつた。|竜国別《たつくにわけ》の|奴《やつ》、|天下一品《てんかいつぴん》の|鬼娘《おにむすめ》と|堅《かた》い|約束《やくそく》を|結《むす》び、|其《そ》の|契約《けいやく》を|履行《りかう》せよと|云《い》つて、お|光《みつ》の|鬼娘《おにむすめ》がやつて|来《き》て、|今《いま》|既《すで》に|愁歎場《しうたんば》の|幕《まく》を|下《お》ろしたところだ。モー|一足《ひとあし》|早《はや》く|来《く》ると|面白《おもしろ》い|活劇《くわつげき》が|見《み》られるところだつたよ。さうしてお|前《まへ》は|一人《ひとり》で|来《く》る|筈《はず》だつたのに、|随分《ずゐぶん》|沢山《たくさん》に|人間《にんげん》を|伴《つ》れて|居《を》るではないか』
|国依別《くによりわけ》『これは|死《し》んだ|女房《にようばう》の|亡霊《ばうれい》が|憑依《ひようい》した|容器《いれもの》だ』
|玉治別《たまはるわけ》『|仮令《たとへ》|亡霊《ばうれい》でも、|高春山《たかはるやま》の|征伐《せいばつ》が|済《す》む|迄《まで》|女《をんな》を|伴《つ》れることは|出来《でき》ないと|云《い》ふ|規則《きそく》ではなかつたか』
|国依別《くによりわけ》『それは|御互様《おたがひさま》だ。お|前《まへ》もお|初《はつ》さまを|伴《ともな》うて|来《き》ただらう。たとへ|小供《こども》でも|女《をんな》は|矢張《やつぱり》|女《をんな》だ。|竜国別《たつくにわけ》も|又《また》|鬼娘《おにむすめ》と|途中《とちう》に|於《おい》て、|何《なん》だか|堅《かた》い|契約《けいやく》を|結《むす》んで|一悶着《ひともんちやく》を【おつ】|始《ぱじ》めたと|云《い》ふではないか。|俺《おれ》ばかり|責《せ》めるのはチツと|惨酷《ざんこく》だよ。|此処《ここ》へ|伴《つ》れて|来《き》て|居《を》るのは、|実際《じつさい》はアルプス|教《けう》の|部下《ぶか》で、|松姫《まつひめ》さまの|兄《あに》の|常公《つねこう》|迄《まで》が|出《で》て|来《き》て|居《を》るのだ。|俺《おれ》の|戦利品《せんりひん》は|先《ま》づザツト|斯《こ》んなものだよ』
お|初《はつ》『ヤアヤア|竜国別《たつくにわけ》、|国依別《くによりわけ》、|玉治別《たまはるわけ》、|杢助《もくすけ》、|其《その》|他《た》の|者《もの》ども、これより|妾《わらは》が|作戦《さくせん》|計画《けいくわく》を|汝《なんぢ》らに|伝《つた》ふる。|暫《しばら》く|沈黙《ちんもく》を|守《まも》り、わが|言葉《ことば》を|謹聴《きんちやう》せよ』
と|子供《こども》に|似合《にあ》はず、|荘重《さうちよう》な|力《ちから》の|籠《こも》つた|声《こゑ》で|呼《よ》ばはるにぞ、|四人《よにん》は「ハイ」と|答《こた》へた|儘《まま》|大地《だいち》に|平伏《へいふく》して|宣示《せんじ》を|待《ま》つ。
(大正一一・五・二一 旧四・二五 外山豊二録)
第一七章 |酒《さけ》の|息《いき》〔六九一〕
アルプス|教《けう》の|仮本山《かりほんざん》と|聞《きこ》えたる、|高春山《たかはるやま》の|山巓《さんてん》の|岩窟《がんくつ》に|数多《あまた》の|部下《ぶか》を|集《あつ》めて、|大自在天《だいじざいてん》|大国別命《おほくにわけのみこと》の|神業《しんげふ》を|恢興《くわいこう》せむと、|捻鉢巻《ねぢはちまき》の|大車輪《だいしやりん》、|心胆《しんたん》を|練《ね》つて|時《とき》を|待《ま》ち|居《を》るアルプス|教《けう》の|教主《けうしゆ》|鷹依姫《たかよりひめ》は、|額《ひたひ》の|小皺《こじわ》を|撫《な》で|乍《なが》ら、|長煙管《ながきせる》をポンとはたき、|股肱《ここう》の|臣《しん》なるテーリスタン、カーリンスの|二人《ふたり》を|膝《ひざ》|近《ちか》く|招《まね》き、|口角泡《こうかくあわ》をにじませ|乍《なが》ら、
『これテーリスタン、カーリンスの|二人《ふたり》、お|前《まへ》も|好《よ》い|加減《かげん》に|酒《さけ》をやめたらどうだえ。どうやら|大切《たいせつ》なアルプス|教《けう》の|秘密《ひみつ》|書類《しよるゐ》を|紛失《ふんしつ》してから、|廻《まは》り|廻《まは》りて|三五教《あななひけう》の|手《て》に|入《はい》つて|居《を》る|様《やう》な|感《かん》じがして|仕方《しかた》がない。|何程《なにほど》|要害《えうがい》|堅固《けんご》に|固《かた》めて|居《を》つても、あの|地図《ちづ》を|見《み》られたが|最後《さいご》、|此《この》|本山《ほんざん》は|没落《ぼつらく》するより|仕方《しかた》がない。こんな|危険《きけん》な|場合《ばあひ》に|何時迄《いつまで》も|酒《さけ》ばかり|飲《の》んで、|管《くだ》を|巻《ま》いて|居《ゐ》る|時《とき》ぢやありますまい。チツトしつかりして|下《くだ》さらぬと|此《この》|城《しろ》が|維持《もち》ませぬぞえ』
テーリスタンはヅブ|六《ろく》に|酔《よ》ひ、|巻《ま》き|舌《じた》になつて、
『そんな|事《こと》に|抜目《ぬけめ》のある|様《やう》なテーリスタンとは、ヘン、チツト|違《ちが》ひますワイ。あんまり|天下《てんか》の|勇士《ゆうし》を|安《やす》く|買《か》つて|下《くだ》さるまいかい。|私《わたし》も|張《は》り|合《あ》ひが|御座《ござ》らぬワ、なア、カーリンス』
『オーさうともさうとも、|年老《としよ》りの|冷水《ひやみづ》と|云《い》つてナ、|冷水《ひやみづ》をあびせ|掛《か》けられると、|折角《せつかく》|酔《よ》うた|酒《さけ》までが|醒《さ》めて|了《しま》ふワ。|俺達《おれたち》が|酒《さけ》を|呑《の》むのは|酔《よ》うて|管《くだ》を|巻《ま》き、|浩然《かうぜん》の|気《き》を|養《やしな》ふ|為《ため》だ。|此《この》きつい|山坂《やまさか》を|日《ひ》に|何回《なんくわい》となく、|上《のぼ》つたり|下《くだ》つたり|耐《たま》つたものぢやない。|偶《たまたま》|高姫《たかひめ》が|乗《の》つて|来《き》た|飛行船《ひかうせん》を|占領《せんりやう》し、ブウブウとやつたと|思《おも》へば|深霧《ふかぎり》の|為《ため》に|方向《はうかう》を|失《うしな》ひ、|大谷山《おほたにやま》の|横《よこ》つ|面《つら》に|打《ぶ》つ|付《つ》けて|割《わ》つて|了《しま》ひ、|其《その》|時《とき》にアタ|怪体《けつたい》の|悪《わる》い、|大切《たいせつ》な|肱《ひじ》を|折《を》り、|漸《やうや》く|今《いま》|旧《もと》のものになりかけた|所《ところ》だ。それでも|時々《ときどき》|物《もの》を|云《い》ひよつて、|冷《つめ》たい|朝《あさ》になるとヅキヅキと|痛《いた》むのだ。これ|丈《だけ》|命《いのち》を|的《まと》にアルプス|教《けう》の|為《た》めに|活動《くわつどう》して|居《を》るのだ。|酒《さけ》の|一杯《いつぱい》や|二杯《にはい》|飲《の》んだつて、それがナナ|何《なん》だい。|鷹依姫《たかよりひめ》の|御大将《おんたいしやう》、|人《ひと》の|頭《かしら》に|成《な》らうと|思《おも》へば、マチツト|大《おほ》きな|心《こころ》にならつしやい。イチヤイチヤ|云《い》ふと|誰《たれ》も|彼《かれ》も|愛想《あいさう》を|尽《つ》かして、|遁《に》げて|了《しま》ふぢやないか、ナア、テーリスタン』
『お|前達《まへたち》はそれだから|酒《さけ》を|飲《の》ますと|困《こま》るのよ。|酒《さけ》|位《くらゐ》はチツトも|惜《をし》くはないが、|後《あと》が|八釜敷《やかまし》いので|困《こま》ると|云《い》ふのだ。|今《いま》にも|三五教《あななひけう》へ|首《くび》を|突込《つつこ》んだとか|云《い》ふ、|豪傑《がうけつ》の|杢助《もくすけ》でもやつて|来《き》たら、それこそ|大変《たいへん》ぢやないか』
『|何《なに》、そんな|心配《しんぱい》がいりますか。それは|老婆心《らうばしん》と|云《い》ふものだ。まだ|大将《たいしやう》は|中婆《ちうばあ》さんだから、|中婆心《ちうばしん》|位《くらゐ》な|所《ところ》で|止《や》めて|置《お》いて|呉《く》れるといいのだけれど、|余《あんま》り|深案《ふかあん》じをなさるから、|却《かへ》つて|計画《けいくわく》に|齟齬《そご》を|来《きた》し、|〓《いすか》の|嘴《はし》|程《ほど》することなす|事《こと》が|食違《くひちが》ふのだ。|杢助《もくすけ》だらうが|雲助《くもすけ》だらうが、あんなものが|五打《ごダース》や|十打《じふダース》|束《たば》になつて|来《き》たつて|何《なに》が|恐《こは》いのだ。そんな|事《こと》で|天下万民《てんかばんみん》をバラモン|教乃至《ないし》アルプス|教《けう》へ、|入信《にふしん》させて|救《すく》ふ|事《こと》が|出来《でき》るものか』
『お|前達《まへたち》は|今日《けふ》にかぎつて、|何時《いつ》もの|謹厳《きんげん》にも|似《に》ず、|教主《けうしゆ》の|私《わし》に、|反抗的《はんかうてき》|態度《たいど》をとるのかい』
『|別《べつ》に|反抗《はんかう》も|服従《ふくじゆう》もありませぬワイ。|心《こころ》の|欲《ほつ》する|儘《まま》に|酒《さけ》が|言《い》はせて|居《ゐ》るのだ。「|辛抱《しんばう》して|呉《く》れ|酒《さけ》が|言《い》ふのぢや|女房《にようばう》|共《ども》」と|云《い》ふ|冠句《くわんく》を|何処《どこ》やらで|聴《き》いた|事《こと》がある。|決《けつ》して|肉体《にくたい》が|言《い》つて|居《ゐ》るのぢやありませぬよ。|酒《さけ》が|云《い》ふのですから|酒《さけ》を|叱《しか》つて|下《くだ》さい。|酒《さけ》と|云《い》ふものは|好《よ》いもの……|悪《わる》う……ヤツパリないものだ。アヽ、サーサ|浮《う》いたり|浮《う》いたり、|瓢箪《へうたん》|計《ばか》りが|浮《う》き|物《もの》か、|俺達《おれ》の|心《こころ》も|浮物《うきもの》だ。|三《さん》ぷん|五厘《ごりん》に|浮世《うきよ》を|暮《くら》し、|浮世《うきよ》トンボの|楽天主義《らくてんしゆぎ》、これでなければ|人間《にんげん》は|長命《ながいき》は|出来《でき》ないなア。お|婆《ば》アさま、そんな|小六ケ敷《こむつかし》い|顔《かほ》をせずと、チツトはお|前《まへ》さまも|酒《さけ》でも|飲《の》んで、|雪隠《せんち》の|洪水《こうずゐ》では|無《な》いが|糞浮《ばばうき》になつて|見《み》たらどうだいなア』
|鷹依姫《たかよりひめ》は|面《つら》を|膨《ふく》らし、|一生懸命《いつしやうけんめい》に|二人《ふたり》を|睨《ね》め|付《つ》けて、
『お|前達《まへたち》|二人《ふたり》は|此《この》|大勢《おほぜい》の|団体《だんたい》を、|統率《とうそつ》して|行《ゆ》かねばならぬ|役目《やくめ》でありながら、|何《なん》といふ|不心得《ふこころえ》の|事《こと》だえ。お|前達《まへたち》はアルプス|教《けう》の|教主《けうしゆ》を|軽蔑《けいべつ》するのかナ』
『どうでバラモン|教《けう》の|脱走組《だつそうぐみ》だから、|支店《してん》や|受《う》け|売《うり》か|或《あるひ》は|意匠登録権侵害教《いしやうとうろくけんしんがいけう》だ、|何処《どこ》に|尊敬《そんけい》する|価値《かち》がありますかい。|今迄《いままで》は|猫《ねこ》を|被《かぶ》つて|居《を》つたが、|肝腎《かんじん》の|紫《むらさき》の|玉《たま》は|高姫《たかひめ》に|呑《の》んでしまはれ、|黒姫《くろひめ》と|高姫《たかひめ》は|中々《なかなか》|豪《がう》のものだから、|針《はり》の|穴《あな》からでも、|出《で》ようと|思《おも》へば|出《で》るといふ|魔力《まりよく》のある|奴《やつ》だ。|彼奴《あいつ》がアーして|神妙《しんめう》に|百日《ひやくにち》も|物《もの》を|喰《く》はずに|平然《へいぜん》として|居《を》るのは、|何《なに》か|心《こころ》に|頼《たの》む|所《ところ》があるからだ。|愚図々々《ぐづぐづ》して|居《を》ると|此《この》|館《やかた》は|三方《さんぱう》から|三五教《あななひけう》に|攻撃《こうげき》せられ、|蟹《かに》の|手足《てあし》をもいだ|様《やう》な、|身動《みうご》きもならぬ|憂目《うきめ》に|逢《あ》ふのは|目睫《もくせふ》の|間《あひだ》に|迫《せま》つて|居《ゐ》る。エーもう|雪隠《せんち》の|火事《くわじ》だ。|焼糞《やけくそ》だ。お|前《まへ》の|様《やう》な|婆《ばば》に|相手《あひて》になつて|居《を》つても|末《すゑ》の|見込《みこみ》がない。サア|怒《おこ》るなら|怒《おこ》つて|見《み》よ。|棺桶《くわんをけ》に|片足《かたあし》を|突込《つつこ》んだ|婆《ばば》と、|屈強盛《くつきやうざか》りのテーリスタン、カーリンスには|到底《たうてい》|歯節《はぶし》は|立《た》つまい、アハヽヽヽ』
と|徳利《とくり》を|口《くち》に|当《あ》てガブリガブリと|飲《の》んでは、|右《みぎ》の|手《て》で|自分《じぶん》の|額《ひたひ》を|叩《たた》き、
『ナア、カーリンス、|好《よ》う|利《き》く|酒《さけ》ぢやないか。|婆《ばば》の|耳《みみ》より|余程《よつぽど》|利《き》きがよいぞ、オホヽヽヽアハヽヽヽ』
と|無性《むしやう》|矢鱈《やたら》にヤケ|酒《ざけ》を|煽《あふ》つて|居《ゐ》る。
|其処《そこ》へ|六歳《ろくさい》になつたお|初《はつ》が、|御免《ごめん》とも|何《なん》とも|言《い》はずツカツカと|現《あら》はれ|来《きた》り、
『|小父《をぢ》さま、|私《わたし》にも|一杯《いつぱい》つがして|頂戴《ちやうだい》な』
『ヤアお|前《まへ》は|何処《どこ》から|来《き》たのか。ホンに|可愛《かあい》い|児《こ》だなア。|婆《ばば》の|顔《かほ》を|見《み》てお|小言《こごと》を|頂戴《ちやうだい》しながら|酒《さけ》を|飲《の》んでも|根《ね》つから|甘《うま》くない、|子供《こども》でもよい、|其《その》|可愛《かあい》らしい|手《て》で|一《ひと》つ|酌《つ》いで|呉《く》れ。|然《しか》し|徳利《とくり》が|重《おも》いから|落《おと》さぬ|様《やう》にしてくれよ』
『|小父《をぢ》さま、こんな|徳利《とくり》が|重《おも》たいやうな|事《こと》で、こんな|岩窟《いはや》へ|一人《ひとり》|這入《はい》つて|来《こ》られますか』
『そらさうだ。お|前《まへ》は|悧巧《りかう》な|奴《やつ》だ。さうして|一人《ひとり》|来《き》たのかい』
『イエイエお|父《とう》さまに|背負《おぶさ》つて|来《き》たのよ。お|父《とう》さまは|今《いま》|高姫《たかひめ》、|黒姫《くろひめ》さまを|引張《ひつぱ》りだし、|鷹依姫《たかよりひめ》とかいふお|婆《ば》アさまを|改心《かいしん》させ、テー、カーの|両人《りやうにん》を|乾児《こぶん》にして|遣《や》らうと|云《い》うて、|天《あめ》の|森《もり》で|相談《そうだん》をして|居《ゐ》たよ』
『|何《なに》、お|前《まへ》のお|父《とう》さまが、|俺《おれ》を|乾児《こぶん》にして|遣《や》らうと|言《い》つて|居《を》つたか。あんな|大将《たいしやう》の|乾児《こぶん》になれば、|世界《せかい》に|恐《おそ》る|可《べ》き|者《もの》なしだ。チツト|許《ばか》りの|酒《さけ》を|飲《の》んでも|愚図々々《ぐづぐづ》|言《い》ふ|様《やう》な|大将《たいしやう》に|虱《しらみ》の|卵《たまご》の|様《やう》に|死《し》んでも|離《はな》れぬと|云《い》ふ|様《やう》な|調子《てうし》で|随《つ》いて|居《を》つては|大変《たいへん》だ。ヤアこれで|酒《さけ》もチツトは|味《あぢ》が|出《で》て|来《き》たやうだ。オイ|婆《ば》アさま、|此《この》テー、カーは|最早《もはや》お|前《まへ》の|部下《ぶか》ではない|程《ほど》に、|勿体《もつたい》なくも|武術《ぶじゆつ》の|達人《たつじん》、|湯谷ケ嶽《ゆやがだけ》の|杢助《もくすけ》さまの|乾児《こぶん》だ、いや|兄弟分《きやうだいぶん》だ。サア、トツトと|城《しろ》|明《あ》け|渡《わた》して|出《で》やつせい。|愚図々々《ぐづぐづ》して|居《を》ると|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》が|此《この》|場《ば》に|現《あら》はれて、お|前《まへ》の|土堤腹《どてつぱら》に|大《おほ》きな|風穴《かぜあな》を|穿《うが》ち、|其処《そこ》から|棍棒《こんぼう》を|通《とほ》して、|聖地《せいち》へ|担《かつ》いで|帰《かへ》るかも|知《し》れないぞ。|足許《あしもと》の|明《あか》るい|間《うち》に、|早《はや》くトツトと|尻《しり》|引《ひ》つからげたがお|前《まへ》の|得《とく》だらうよ、のうカーリンス』
『|何《な》んとお|前達《まへたち》は|水臭《みづくさ》い|奴《やつ》だなア。|何処々々《どこどこ》|迄《まで》もお|伴《とも》を|致《いた》しますと|誓《ちか》つたぢやないか』
『|馬鹿《ばか》だなア、さう|言《い》はなくちや、|重《おも》く|用《もち》ひて|呉《く》れないから、|処世上《しよせいじやう》の|慣用《くわんよう》|手段《しゆだん》として、|言《い》はば|円滑《ゑんくわつ》な|辞令《じれい》を|用《もち》ひたまでだよ、のうテーリスタン』
『|何《な》んとよくお|前達《まへたち》の|心《こころ》は|変《かは》るものだなア』
『|定《きま》つた|事《こと》だ、|時《とき》の|天下《てんか》に|従《したが》へと|云《い》ふ|事《こと》がある。|何時迄《いつまで》も|世《よ》は|持《も》ち|切《き》りにはならぬぞ。|変《かは》る|時節《じせつ》にや|神《かみ》でも|変《かは》るのだ。|呆《とぼ》けた|事《こと》を|言《い》ふない。|矢張《やつぱり》|婆《ばば》だけあつて|頭《あたま》が|古《ふる》いなア。チツト|古《ふる》い|血《ち》を|出《だ》して|新《あたら》しい|血《ち》と|入《い》れ|替《か》へて|遣《や》らうかい』
といきなり|拳《こぶし》を|固《かた》めて|叩《たた》かうとするを、お|初《はつ》は|遮《さへぎ》つて、
『これこれ|小父《をぢ》さま、そんな|乱暴《らんばう》してはいけませぬ。お|婆《ば》アさま、|随分《ずゐぶん》|貴女《あなた》も|悪《わる》い|奴《やつ》を|信用《しんよう》したものですなア』
『コラコラ|子供《こども》の|癖《くせ》に|何《な》んと|云《い》ふ|悪《わる》い|事《こと》を|云《い》ふのだい。|小父《をぢ》さまは|斯《か》う|見《み》えても|時代《じだい》に|順応《じゆんおう》する、|立派《りつぱ》な|文化生活《ぶんくわせいくわつ》をやつて|居《ゐ》る|新《あたら》しい|人間《にんげん》だぜ。|余《あんま》り|見損《みそこな》ひをしてくれるない』
『|小父《をぢ》さま、|子供《こども》だから|何《なに》を|云《い》ふか|知《し》れはしないよ。|大《おほ》きな|男《をとこ》が|学齢《がくれい》にも|達《たつ》しない|子供《こども》を|捉《つか》まへて、|理屈《りくつ》を|言《い》ふのが|間違《まちが》つて|居《ゐ》るよ、オホヽヽヽ』
『ヤア|杢助《もくすけ》|親分《おやぶん》のお|嬢《ぢやう》さまだけあつて、さすが|偉《えら》いものだなア。…お|嬢《ぢやう》さま、どうぞ|我々《われわれ》|二人《ふたり》を、お|父《とう》さまに|好《よ》く|言《い》つて、|可愛《かあい》がつて|下《くだ》さいねエ』
『|子供《こども》に|大人《おとな》が|可愛《かあい》がつて|呉《く》れと|云《い》ふのは、チツト|可笑《をか》しいぢやありませぬか、|妙《めう》なおつさんだなア』
『お|前達《まへたち》|二人《ふたり》は、ほんたうに|杢助《もくすけ》の|乾児《こぶん》になるつもりかい』
『|定《き》まり|切《き》つた|事《こと》だい、|早《はや》く|何処《どこ》なと|出《で》て|行《ゆ》け。|今《いま》に|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》が|見《み》えたら、|黒姫《くろひめ》、|高姫《たかひめ》をあんな|処《ところ》へ|突込《つつこ》んで|於《おい》ては|申訳《まをしわけ》がない。……カーリンス、お|前《まへ》は|此《この》|場《ば》を|監督《かんとく》し|此《この》|婆《ばば》の|見張《みは》りをして|居《を》れ。|俺《おれ》は|奥《おく》へ|行《い》つて、|高姫《たかひめ》、|黒姫《くろひめ》お|二人《ふたり》さまにお|願《ねが》ひ|申《まを》して、|岩戸《いはと》から|出《で》て|貰《もら》ふから、|好《い》いか』
『ヨシヨシ|呑《の》み|込《こ》んだ、|早《はや》く|行《い》つてこい。|愚図々々《ぐづぐづ》して|居《ゐ》ると|最早《もはや》|難関《なんくわん》を|突破《とつぱ》して|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》が、|二百三高地《にひやくさんかうち》とも|云《い》ふ|可《べ》き|天《あめ》の|森《もり》にやつて|来《き》て|居《ゐ》るのだから、|開城《かいじやう》するなら|気《き》よう|開城《かいじやう》する|方《はう》が|後《あと》の|利益《ため》だ』
と|言《い》ひ|捨《す》てて、|高姫《たかひめ》、|黒姫《くろひめ》を|閉《と》ぢ|込《こ》めた|岩窟《いはや》の|前《まへ》に|周章《あわただ》しく|駆《かけ》り|行《ゆ》く。
(大正一一・五・二一 旧四・二五 谷村真友録)
第一八章 |解決《かいけつ》〔六九二〕
テーリスタンは|密室前《みつしつぜん》に|現《あら》はれて、
『モシモシ|私《わたし》はテーリスタンで|御座《ござ》います。|高姫《たかひめ》|様《さま》、|黒姫《くろひめ》|様《さま》、|御機嫌《ごきげん》は|如何《いかが》で|御座《ござ》いますか』
『お|前《まへ》はテーリスタンだな。いつも|我々《われわれ》を|軽蔑《けいべつ》して|置《お》きながら、|今日《けふ》に|限《かぎ》つて|其《その》|丁寧《ていねい》な|物《もの》|云《い》ひは|何事《なにごと》だい。|大方《おほかた》|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》がやつて|来《き》たものだから、そんなお|追従《つゐしよう》を|云《い》ふのだらう。なア|黒姫《くろひめ》さま、|抜目《ぬけめ》のない|男《をとこ》ぢやありませぬか』
『イエ|決《けつ》してさうぢや|御座《ござ》いませぬが、どうも|貴方《あなた》の|御神徳《ごしんとく》に|心《こころ》の|底《そこ》から|感動《かんどう》しました。|何卒《どうぞ》|早《はや》く|出《で》て|下《くだ》さいませ』
『|出《で》いと|云《い》つたつて、|神様《かみさま》のやうに|海老錠《えびぢやう》をかけて|置《お》いたぢやないか。お|前《まへ》は|妾等《わしら》|二人《ふたり》を|石室《いはむろ》に|入《い》れた|積《つも》りか|知《し》らぬが、|高姫大明神《たかひめだいみやうじん》、|黒姫大明神《くろひめだいみやうじん》の|結構《けつこう》な|御扉《おみと》ぢやぞエ、|何《なん》と|心得《こころえ》て|居《を》る。|大幣《おほぬさ》でも|持《も》つて|来《き》て|十分《じふぶん》に|祓《はら》ひ|清《きよ》め、お|供《そな》へ|物《もの》を|沢山《どつさり》と|奉《たてまつ》つて|冠装束《かむりしやうぞく》で|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》し、|岩戸開《いはとびら》きの|舞《まひ》を|舞《ま》はぬ|事《こと》には、|此《この》|女神《めがみ》さまは|滅多《めつた》に|出《で》はせぬぞエ』
テーリスタンは|鍵《かぎ》を|以《もつ》て、ガタガタ|云《い》はせながら|石《いし》の|戸《と》をパツと|開《ひら》き、
『サア|何卒《どうぞ》お|出《で》まし|下《くだ》さいませ』
『アヽ|有《あ》り|難《がた》う、サア、|高姫《たかひめ》さま|出《で》ませうか』
『|黒姫《くろひめ》さま、|何《なに》を|云《い》ひなさる、お|前《まへ》さまは|呆《とぼ》けて|居《ゐ》るのか。コレヤコレヤ、テーリスタン、|貴様《きさま》は|人《ひと》の|住家《すみか》の|戸《と》を|勝手《かつて》に|開《あ》けよつて、|誰《たれ》の|許可《ゆるし》を|受《う》けたのだ。|家宅侵入罪《かたくしんにふざい》で|訴《うつた》へてやるがどうだい』
『|高姫《たかひめ》さま、さういちやつかずに、|御頼《おたの》みぢや、|出《で》て|下《くだ》さいな』
『|出《で》て|呉《く》れいと|頼《たの》むなら|聞《き》いてやらぬ|事《こと》もない。|今日《けふ》はお|供《そな》へ|物《もの》も、|祝詞《のりと》も|免除《めんぢよ》してやらう。|実《じつ》は|妾《わたし》も|一刻《いつこく》も|早《はや》く、こんな|暗《くら》い|所《ところ》へ|居《を》りたい|事《こと》は|無《な》い|事《こと》は|無《な》い|事《こと》は|無《な》いのだ。サアサア|黒姫《くろひめ》さま、お|前《まへ》さまから|先《さき》に|出《で》なさい。|大分《だいぶん》|此《この》|間《あひだ》から|出《で》たさうだつたから』
『|先生《せんせい》からお|先《さき》へ|出《で》て|下《くだ》さいませ。あまり|失礼《しつれい》ですから』
『そんならお|先《さき》へ|御免《ごめん》|蒙《かうむ》りませう。|長《なが》らく|御厄介《ごやくかい》になりました。サアもう|此処《ここ》まで|出《で》た|以上《いじやう》は、|神変《しんぺん》|不思議《ふしぎ》の|紫《むらさき》の|玉《たま》に、|如意宝珠《によいほつしゆ》の|夜光《やくわう》の|玉《たま》を|呑《の》み|込《こ》んだ|此《この》|高姫《たかひめ》、|仮令《たとへ》|何万人《なんまんにん》の|豪傑《がうけつ》|攻《せ》め|来《きた》るとも、フンと|一《ひと》つ|鼻息《はないき》をしたら|飛《と》び|散《ち》つて|仕舞《しま》ふ|位《くらゐ》なものだ。これから|鷹依姫《たかよりひめ》を|一《ひと》つ|言向《ことむ》け|和《やは》してやらうかなア』
『|貴女《あなた》はお|腹《なか》は|空《す》きませぬか。|大分《だいぶん》にお|瘠《や》せになりましたな。テーは|心配《しんぱい》ですワ』
『|百日《ひやくにち》や|二百日《にひやくにち》|食《く》はいでも|瘠《やせ》るやうな|高姫《たかひめ》とは|些《ちつ》と|違《ちが》います。イヤ|瘠《やせ》たのぢやない。|体《からだ》を|細《ほそ》くして|置《お》いたのだよ。サアサア テーリスタン、|案内《あんない》をしなさい、|婆《ばば》アの|傍《そば》へ』
『イヤ、もう|最前《さいぜん》からカーリンスと|二人《ふたり》|酔《よ》つて|管《くだ》をまいてまいて、まき|潰《つぶ》した|所《とこ》です。もはや|我々《われわれ》は|三五教《あななひけう》の|信者《しんじや》ですから|安心《あんしん》して|下《くだ》さい』
『お|前《まへ》のやうな|者《もの》が|信者《しんじや》になれば、|安心《あんしん》|所《どころ》か、|益々《ますます》|気《き》をつけねばなるまい。|誰《たれ》に|許《ゆる》されて|三五教《あななひけう》の|信者《しんじや》になつたのだい』
『|私《わたくし》はお|初《はつ》さまに|頼《たの》みました』
『お|初《はつ》さまて|誰《たれ》の|事《こと》だえ』
『|五《いつ》つ|六《むつ》つのちつぽけな|娘《むすめ》の|子《こ》です。|貴女《あなた》を|岩窟《いはや》から|救《すく》ひ|出《だ》さねばならぬと|云《い》つて|唯《ただ》|一人《ひとり》|子供《こども》【だてら】やつて|来《き》たのですよ』
『さうしてお|前達《まへたち》は|其《その》|子供《こども》に|降参《かうさん》したのかい』
『ハイハイ|何処《どこ》ともなしに|御神力《ごしんりき》が|備《そな》はつて|居《ゐ》るので、|止《や》むを|得《え》ず|降参《かうさん》をして|貴女《あなた》をお|救《すく》ひ|申《まを》したのです』
『|何《なん》と|偉《えら》い|子供《こども》もあればあるものぢやなア。|子供《こども》に|大人《おとな》が|助《たす》けられるなんて|昔《むかし》から|聞《き》いた|事《こと》がない。|時節《じせつ》と|云《い》ふものは|結構《けつこう》なものだな』
『|高姫《たかひめ》|様《さま》、それで|世《よ》が|逆《さか》さまになつて|居《を》ると、|神様《かみさま》がお|筆《ふで》にお|示《しめ》しになつて|居《ゐ》るぢやありませぬか』
『|黒姫《くろひめ》さまは|暫《しばら》く|沈黙《ちんもく》して|居《ゐ》なさい。|言葉尻《ことばじり》を|捉《つか》まへられちや|却《かへつ》て|不利益《ふりえき》ですよ。|女《をんな》と|云《い》ふものは|成《な》る|可《べ》く|喋舌《しやべ》らぬ|方《はう》が|高尚《かうしやう》に|見《み》えて|宜敷《よろし》い、|併《しか》し|妾《わたし》は|例外《れいぐわい》だ。|何《ど》うしても|率先《そつせん》して|云《い》はねばならぬ|役廻《やくまは》りだから……これこれアルプス|教《けう》の|教主《けうしゆ》どの、|長《なが》らく|結構《けつこう》な|岩窟《がんくつ》ホテルに|逗留《とうりう》さして|頂《いただ》きまして、|日々《にちにち》|御馳走《ごちそう》を|根《ね》つから|頂戴《ちやうだい》|致《いた》しませず、|御親切《ごしんせつ》の|段《だん》|有《あ》りがたくお|礼《れい》|申上《まをしあ》げませぬワイ』
『|別《べつ》に|山中《さんちう》の|事《こと》とて|御馳走《ごちそう》も|御座《ござ》りませず、テーリスタンやカーリンスに|申付《まをしつ》けて、|三度《さんど》|々々《さんど》、|相当《さうたう》の|食物《しよくもつ》をお|上《あ》げ|申《まを》すやう|命令《めいれい》して|置《お》きましたが、|何《ど》うせお|気《き》に|召《め》すやうなものは|上《あ》げられませぬでしたらう』
『コレ|婆《ば》アさん、|自分《じぶん》の|責任《せきにん》を|我々《われわれ》に|転嫁《てんか》するのかい。|私《わし》がそつと|隠《かく》して|高姫《たかひめ》さまや|黒姫《くろひめ》さまに|進上《しんじやう》しようと|思《おも》へば、|隼《はやぶさ》のやうな|目《め》でジロジロと|私《わし》を|睨《にら》みつけ、さうして|水《みづ》|一滴《いつてき》、|飯《めし》|一粒《ひとつぶ》やつてはならない。|斯《か》うして|置《お》けば、|高姫《たかひめ》がカンピンタンになるだらう。|都合《つがふ》よく|干《ほ》からびた|時《とき》に、|腹《はら》に|呑《の》んだ|紫《むらさき》の|玉《たま》も|如意宝珠《によいほつしゆ》も|刳《く》り|抜《ぬ》いて|取《と》ると|云《い》つたのでは|無《な》かつたのではないか。|今《いま》となつて、そんな|卑怯《ひけふ》な|二枚舌《にまいじた》を|使《つか》ふものぢや|無《な》いワ。なア、カーリンス、|俺《おれ》の|云《い》ふ|事《こと》は|間違《まちが》ひはあるまい』
『オヽ、さうとも さうとも、|俺達《おれたち》にさへ【けち】けち|云《い》つて|酒《さけ》も|碌《ろく》に|呑《の》まさない|事《こと》は|無《な》い、|悪党婆《あくたうばば》アだから、どうしてあれだけ|憎《にく》んで|居《ゐ》た|高姫《たかひめ》さまや|黒姫《くろひめ》さまに、|飲食物《いんしよくぶつ》を|差上《さしあ》げる|筈《はず》があらうかい』
『お|前達《まへたち》は|何《なん》と|云《い》ふ|嘘《うそ》を|云《い》ふのだ。|私《わし》を|八方攻撃《はつぱうこうげき》|喰《く》はして|困《こま》らす|積《つも》りだな』
『|定《きま》つた|事《こと》だ。|大勢《おほぜい》の|人《ひと》を|困《こま》らせて|置《お》くと|其《その》|罪障《めぐり》が|出《で》て|来《き》て、|自分《じぶん》も|又《また》|困《こま》らねばならぬ|事《こと》が|出来《しゆつたい》|致《いた》すぞよ、と|三五教《あななひけう》の|神様《かみさま》が|仰有《おつしや》つた。|神《かみ》が|表《おもて》に|現《あら》はれて|善《ぜん》と|悪《あく》とを|立《た》て|別《わ》けると|云《い》ふのは|此《この》|事《こと》だ。|現《げん》にお|初《はつ》さまはまだ|年《とし》は|六《むつ》つだが、|尊《たふと》い|神様《かみさま》のお|生《うま》れ|代《かは》りだ。|此《この》|神様《かみさま》に|聞《き》いて|見《み》れば|善悪正邪《ぜんあくせいじや》が|一遍《いつぺん》に|分《わか》るのだ……|私《わたくし》が|悪《わる》いですか|婆《ばば》が|悪《わる》いですか|判断《はんだん》して|下《くだ》さいな』
『お|婆《ば》アさまもあんまり|良《よ》い|事《こと》はない。テーリスタンもカーリンスもあまり|善人《ぜんにん》でもありませぬよ。|早《はや》う|改心《かいしん》をしなさい。|改心《かいしん》さへすれば|皆《みな》|元《もと》の|善人《ぜんにん》になれますよ』
テー、カーの|二人《ふたり》は|顔《かほ》を|真赤《まつか》に|頭《あたま》を|掻《か》いて|俯《うつ》むく。|斯《か》かる|所《ところ》へ|表口《おもてぐち》より、|宣伝歌《せんでんか》を|歌《うた》ひながら、|竜国別《たつくにわけ》、|玉治別《たまはるわけ》、|国依別《くによりわけ》を|先頭《せんとう》に、|力強《ちからづよ》の|杢助《もくすけ》、|其《その》|他《た》|六人《ろくにん》のアルプス|教《けう》の|信者《しんじや》を|従《したが》へ、どやどやと|這入《はい》つて|来《く》る。
|玉治別《たまはるわけ》『ヨー、|貴女《あなた》は|高姫《たかひめ》さま、|黒姫《くろひめ》さま、ヨウ、マア|無事《ぶじ》で|居《ゐ》て|下《くだ》さつた。|我々《われわれ》は|言依別命《ことよりわけのみこと》|様《さま》の|内命《ないめい》を|受《う》けて、|漸《やうや》く|三方《さんぱう》より|当山《たうざん》に|攻《せ》め|登《のぼ》り、|言霊戦《ことたません》に|向《むか》つたのです。あゝこれで|結構《けつこう》だ。|此《この》|方《かた》は|湯谷ケ谷《ゆやがだに》の|杢助《もくすけ》さまと|云《い》つて、|実《じつ》は|時置師神《ときおかしのかみ》|様《さま》の|御変名《ごへんめい》、|大変《たいへん》なお|世話《せわ》になつたのですワ』
『それはそれは|皆《みな》さま|御苦労《ごくらう》でした。よう|来《き》て|下《くだ》さつた。|杢助様《もくすけさま》とやら、|玉治別《たまはるわけ》さまが【いかい】お|世話《せわ》になられたさうです。|私《わたし》から|厚《あつ》くお|礼《れい》|申上《まをしあ》げます』
『|皆様《みなさま》よくこそお|越《こ》し|下《くだ》さいました。|時《とき》にこの|婆《ば》アさまはまだ|改心《かいしん》せないのかな』
『サアお|婆《ば》アさま、モウ|斯《か》うなつては|我《が》を|張《は》つても|駄目《だめ》ですよ。|何《なに》も|彼《か》もすつかり|懺悔《ざんげ》して|誠《まこと》の|心《こころ》に|立《た》ち|帰《かへ》り、|結構《けつこう》な|神様《かみさま》の|生宮《いきみや》として、|此《この》|世《よ》を|清《きよ》く|麗《うるは》しくお|暮《くら》しなさい』
とお|初《はつ》の|小《ちひ》さき|唇《くちびる》より、|何《なん》となく|底力《そこぢから》のある|声《こゑ》にて|極《き》めつけられ、さしもに|頑固《ぐわんこ》な|鷹依姫《たかよりひめ》も|涙《なみだ》をハラハラと|流《なが》し、|遂《つい》には|声《こゑ》を|放《はな》つて|其《その》|場《ば》に|泣《な》き|伏《ふ》しにける。
お|初《はつ》『サア、これからは|高姫《たかひめ》さまだ。お|前《まへ》さまはウラナイ|教《けう》を|樹《た》てて|素盞嗚尊《すさのをのみこと》|様《さま》に|反対《はんたい》をして|居《を》つた|時《とき》、|秋山彦《あきやまひこ》の|館《やかた》に|立《た》ち|入《い》り、|冠島《かむりじま》の|宝庫《はうこ》の|鍵《かぎ》を|盗《ぬす》み|出《だ》し、|如意宝珠《によいほつしゆ》の|玉《たま》を|奪《うば》ひ|取《と》つて|呑《の》み|込《こ》んだその|罪《つみ》で、こんな|岩窟《がんくつ》へ|長《なが》らく|閉《と》じ|籠《こ》められ、|苦《くる》しんだのですよ。|何程《なにほど》|負《ま》けぬ|気《き》になつて|空元気《からげんき》を|出《だ》しても|矢張《やつぱり》|辛《つら》かつたでせう。|今《いま》|妾《わたし》の|前《まへ》にその|玉《たま》を|吐《は》き|出《だ》しなさい。さうして|又《また》、|昔《むかし》|竹熊《たけくま》と|云《い》ふ|悪神《わるがみ》が|居《を》つて、|八尋殿《やひろどの》へ|竜宮城《りうぐうじやう》の|使神《ししん》を|招待《せうたい》し、|芳彦《よしひこ》の|持《も》つて|居《を》つた|紫《むらさき》の|玉《たま》を|取《と》つたが、|竹熊《たけくま》の|終焉《しゆうえん》と|共《とも》に|死海《しかい》へ|落《お》ち|込《こ》んだ|十個《じつこ》の|玉《たま》の|中《なか》で、この|玉《たま》ばかりは|汚《けが》されず、|中空《ちうくう》に|飛《と》んで|自転倒島《おのころじま》へ|落《お》ちて|来《き》た|玉《たま》ですよ。それをこの|鷹依姫《たかよりひめ》が|手《て》に|入《い》れて、それを|御神体《ごしんたい》としてアルプス|教《けう》を|樹《た》てて|居《を》つたのだが、|其《その》|玉《たま》をお|前《まへ》さまは|又《また》|呑《の》み|込《こ》んで|仕舞《しま》つたぢやないか。|腹《はら》の|中《なか》に|何程《なにほど》|玉《たま》があると|云《い》つても、さう|云《い》ふ|悪《わる》い|心《こころ》で|呑《の》み|込《こ》んだのだから、|少《すこ》しも|光《ひかり》が|出《で》ない。サア|私《わたし》が|此所《ここ》で|出《だ》して|上《あ》げよう。|如意宝珠《によいほつしゆ》の|玉《たま》は|素盞嗚神《すさのをのかみ》|様《さま》に|御返《おかへ》し|申《まを》し、|紫《むらさき》の|玉《たま》は|鷹依姫《たかよりひめ》さまに|返《かへ》してお|上《あ》げなさいませ』
『ハイ|仕方《しかた》が|御座《ござ》いませぬ、|如何《どう》したら|呑《の》み|込《こ》んだ|玉《たま》が|出《で》ませうかなア』
『|心配《しんぱい》は|要《い》りませぬ。|私《わたし》が|今《いま》|楽《らく》に|出《だ》してあげませう』
と|云《い》ひつつ、|高姫《たかひめ》の|腰《こし》を|一《ひと》つエヽと|声《こゑ》かけ|打《う》つた|機《はづみ》に、ポイと|口《くち》から|飛《と》んで|出《で》たのは|紫《むらさき》の|玉《たま》である。もう|一《ひと》つ|左《ひだり》の|手《て》で|腰《こし》を|打《う》つた|機《はづみ》に|飛《と》んで|出《で》たのが|如意宝珠《によいほつしゆ》の|玉《たま》であつた。|高姫《たかひめ》はグタリと|疲《つか》れて|其《その》|場《ば》に|倒《たふ》れる。
『|高姫《たかひめ》さまは|斯《か》う|見《み》えても|心配《しんぱい》は|要《い》りませぬ、|暫《しばら》く|休息《きうそく》なされば|元気《げんき》は|元《もと》の|通《とほ》りになります。サア|竜国別《たつくにわけ》さま、|貴方《あなた》は|如意宝珠《によいほつしゆ》を|大切《たいせつ》に|預《あづか》つて|聖地《せいち》へお|帰《かへ》りなさい。|鷹依姫《たかよりひめ》さま、|紫《むらさき》の|玉《たま》は|貴方《あなた》の|持《も》つて|居《ゐ》たものだ、|何《ど》うか|受取《うけと》つて|下《くだ》さい』
『|私《わたくし》も|最早《もはや》|改心《かいしん》|致《いた》しました|以上《いじやう》は|玉《たま》の|必要《ひつえう》は|御座《ござ》いませぬ。|何卒《どうぞ》これを|聖地《せいち》へ|献上《けんじやう》|致《いた》したう|御座《ござ》います。|私《わたくし》も|白状《はくじやう》を|致《いた》しまするが、|私《わたくし》には|唯《たつた》|一人《ひとり》の|伜《せがれ》が|御座《ござ》いました。その|伜《せがれ》が|極道者《ごくだうもの》で|近所《きんじよ》の|人《ひと》に|迷惑《めいわく》をかけたり、|喧嘩《けんくわ》をする、|賭博《ばくち》はうつ、|女《をんな》に【ずぼる】、|妾《わたし》が|意見《いけん》をすれば「|何《なに》、|親顔《おやがほ》をしてゴテゴテ|云《い》ふな」と|撲《なぐ》りつける、|終《しまひ》の|果《はて》には|親《おや》をふり|捨《す》てて、|何処《いづこ》ともなく|姿《すがた》を|隠《かく》して|仕舞《しま》ひました。|極道《ごくだう》の|子《こ》は|尚《なほ》|可愛《かあい》とか|申《まを》しまして、|況《ま》して|一人《ひとり》の|天《てん》にも|地《ち》にもかけ|替《が》へのない|伜《せがれ》、も|一度《いちど》|会《あ》ひたい|事《こと》だと|一生懸命《いつしやうけんめい》に|神様《かみさま》にお|願《ねが》ひ|致《いた》し、とうとうバラモン|教《けう》に|入信《にふしん》し、|遂《つひ》にアルプス|教《けう》を|樹《た》てる|事《こと》になつたので|御座《ござ》います。|妾《わたし》のやうな|不運《ふうん》なものは|世界《せかい》に|御座《ござ》いませぬ』
『さうしてその|伜《せがれ》の|名《な》は|何《なん》と|云《い》ふ|方《かた》でしたか』
と|玉治別《たまはるわけ》の|問《と》ひに、
『ハイ、|今《いま》は|如何《どう》なつたか|行方《ゆくへ》は|分《わか》りませぬが、|顔《かほ》の|特徴《とくちやう》と|云《い》へば|一割《いちわり》|人《ひと》より|鼻《はな》の|高《たか》いもので|御座《ござ》いました。そして|名《な》は|竜若《たつわか》と|申《まを》します。|偉《えら》いまあ|極道《ごくだう》で|親《おや》に|心配《しんぱい》をかけよつたが、|今頃《いまごろ》はどうして|居《ゐ》る|事《こと》か、アーア』
と|袖《そで》を|絞《しぼ》る。|玉治別《たまはるわけ》は|不審《ふしん》さうに、
『コレコレ|竜国別《たつくにわけ》、お|前《まへ》も|竜若《たつわか》と|云《い》つたぢやないか。そして|一人《ひとり》の|母《はは》があると|話《はな》した|事《こと》があるなア。|何処《どこ》やら|此《この》|婆《ば》アさまに|目許《めもと》、|鼻《はな》の|高《たか》い|具合《ぐあひ》がよく|似《に》て|居《ゐ》るやうだ。もしや|此《この》|婆《ば》アさまぢやあるまいかな』
|竜国別《たつくにわけ》は|両手《りやうて》を|組《く》み、ウンと|吐息《といき》しながら|涙《なみだ》をホロホロと|流《なが》して|居《ゐ》る。
お|初《はつ》『|鷹依姫《たかよりひめ》の|伜《せがれ》は|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》|竜国別《たつくにわけ》に|間違《まちが》ひはない。|親子《おやこ》の|対面《たいめん》させるために、|神《かみ》が|仕組《しぐ》んで|当山《たうざん》へ|差《さ》し|向《む》けられたのです。|竜国別《たつくにわけ》の|改心《かいしん》に|免《めん》じ、|鷹依姫《たかよりひめ》の|罪《つみ》を|赦《ゆる》して|上《あ》げよう。|竜国別《たつくにわけ》の|宣伝使《せんでんし》、|昨夜《さくや》|古《ふる》き|社《やしろ》の|前《まへ》にて|汝《なんぢ》の|逢《あ》うた|女《をんな》は|妾《わたし》の|化身《けしん》であつたぞや』
|竜国別《たつくにわけ》は|無言《むごん》の|儘《まま》|両手《りやうて》を|合《あは》せ、|嬉《うれ》し|涙《なみだ》にかき|暮《く》れる。|鷹依姫《たかよりひめ》は|涙《なみだ》を|払《はら》ひ、
『アヽ、|其方《そなた》は|伜《せがれ》の|竜若《たつわか》であつたか。ヨウ、マア|改心《かいしん》して|下《くだ》さつた。|立派《りつぱ》な|宣伝使《せんでんし》になつたものだ。もう|是《これ》|限《かぎ》り|母《はは》も|改心《かいしん》するから、|何卒《どうぞ》|妾《わたし》の|罪《つみ》をお|詫《わび》して|下《くだ》さい』
『|母様《ははさま》で|御座《ござ》いましたか、お|懐《なつ》かしう|存《ぞん》じます』
『お|前《まへ》、|額《ひたひ》の|疵《きず》は|如何《どう》なさつた。|矢張《やつぱり》|人《ひと》に|憎《にく》まれて|怪我《けが》をしたのぢやないかな』
『エヽ』
『|竜国別《たつくにわけ》は|此《この》|額《ひたひ》の|疵《きず》によつて、|身魂《みたま》の|罪《つみ》をすつかり|取払《とりはら》はれ、|水晶《すゐしやう》の|身魂《みたま》と|生《うま》れ|変《かは》れり。|其《その》|徳《とく》に|依《よ》り|親子《おやこ》の|対面《たいめん》を|許《ゆる》したのである。|決《けつ》して|争《あらそ》ひなどを|致《いた》したのではないから、|鷹依姫《たかよりひめ》|御安心《ごあんしん》なさるがよからう。|何時《いつ》まで|云《い》うても|果《はて》しがなければ、サア|皆《みな》さま、|一緒《いつしよ》に|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》し、|感謝《かんしや》|祈願《きぐわん》の|詞《じ》を|捧《ささ》げて、|聖地《せいち》へ|一同《いちどう》うち|揃《そろ》うて|参《まゐ》りませう』
との|言葉《ことば》に|一同《いちどう》ハツと|頭《かしら》を|下《さ》げ、|口《くち》を|嗽《すす》ぎ、|手《て》を|洗《あら》つて|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》し、|宣伝歌《せんでんか》を|玉治別《たまはるわけ》の|音頭《おんど》に|連《つ》れて|高唱《かうしやう》する。
(大正一一・五・二一 旧四・二五 加藤明子録)
(昭和一〇・六・五 王仁校正)
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霊界物語 第二一巻 如意宝珠 申の巻
終り