霊界物語 第一九巻 如意宝珠 午の巻
出口王仁三郎
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●テキスト中に現れる記号について
《》……ルビ
|……ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)天地|剖判《ぼうはん》の
[#]……入力者注
【】……傍点が振られている文字列
(例)【ヒ】は火なり
●シフトJISコードに無い文字は他の文字に置き換え、そのことをWebサイトに「相違点」として記した。
●底本
『霊界物語 第一九巻』愛善世界社
1997(平成9)年02月03日 第一刷発行
※現代では差別的表現と見なされる箇所もあるが修正はせずにすべて底本通りにした。
※図表などのレイアウトは完全に再現できるわけではないので適宜変更した。
※詳細な凡例は次のウェブサイト内に掲載してある。
http://www.onisavulo.jp/
※作成者…『王仁三郎ドット・ジェイピー』
2005年10月22日作成
2008年06月23日修正
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●目次
|序《じよ》
|凡例《はんれい》
|総説《そうせつ》 |三十三魂《みづみたま》
第一篇 |神慮洪遠《しんりよかうゑん》
第一章 |高熊山《たかくまやま》(謡曲調)〔六四六〕
第二章 |〓《いすか》の|嘴《はし》〔六四七〕
第三章 |千騎一騎《せんきいつき》〔六四八〕
第四章 |善《ぜん》か|悪《あく》か〔六四九〕
第二篇 |意外《いぐわい》の|意外《いぐわい》
第五章 |零敗《ゼロはい》の|苦《く》〔六五〇〕
第六章 |和合《わがふ》と|謝罪《しやざい》〔六五一〕
第七章 |牛飲馬食《ぎういんばしよく》〔六五二〕
第八章 |大悟徹底《たいごてつてい》〔六五三〕
第三篇 |至誠通神《しせいつうしん》
第九章 |身魂《みたま》の|浄化《じやうくわ》〔六五四〕
第一〇章 |馬鹿正直《ばかしやうぢき》〔六五五〕
第一一章 |変態動物《へんたいどうぶつ》〔六五六〕
第一二章 |言照姫《ことてるひめ》〔六五七〕
第四篇 |地異天変《ちいてんぺん》
第一三章 |混線《こんせん》〔六五八〕
第一四章 |声《こゑ》の|在所《ありか》〔六五九〕
第一五章 |山神《やまがみ》の|滝《たき》〔六六〇〕
第一六章 |玉照彦《たまてるひこ》〔六六一〕
第一七章 |言霊車《ことたまぐるま》〔六六二〕
|霊《たま》の|礎《いしずゑ》(五)
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|序《じよ》
|本宮《ほんぐう》の|神山《しんざん》|新装《しんさう》をこらして、|希望《きばう》に|充《み》てる|面貌《めんばう》を、|小雲川《こくもがは》の|流《なが》れに|映《うつ》し、|畠《はた》の|小麦《こむぎ》は、デリケートな|歯磨《はみが》き|楊枝《やうじ》を|陳列《ちんれつ》して|花粉《くわふん》を|含《ふく》み、|紫雲英《げんげ》の|花莚《はなむしろ》を|敷詰《しきつ》めた|何鹿《いかるが》の|原野《げんや》は、|箱庭式《はこにはしき》|青山《せいざん》の|間《あひだ》に|点綴《てんてつ》し、|四尾《よつを》の|山秀《さんしう》|雲《くも》を|圧《あつ》して|聳《そび》え、|弥仙《みせん》の|霊峰《れいほう》|木花姫《このはなひめ》の|優《やさ》しき、|雄々《をを》しき|姿《すがた》を|現《あらは》して、|王仁《おに》が|松雲閣《しよううんかく》に|於《お》ける|霊界物語《れいかいものがたり》を|監督《かんとく》し|給《たま》ふ|心地《ここち》すなり。|松村《まつむら》、|外山《とやま》、|加藤《かとう》、|藤津《ふぢつ》の|祐筆《いうひつ》に|囲繞《ゐぜう》されつつ、|寝物語《ねものがたり》の|十九《じふく》の|巻《まき》、いよいよ|卯月《うづき》の|十四日《じふよつか》、|十九《つづ》の|坂《さか》をば|越《こ》えにける。
於松雲閣 王仁識
|凡例《はんれい》
一、|本巻《ほんくわん》には、|主《しゆ》として|玉照彦《たまてるひこ》の|御因縁《ごいんねん》に|就《つい》て|物語《ものがた》られてありますが、|玉照彦《たまてるひこ》は|第十八巻《だいじふはちくわん》の|玉照姫《たまてるひめ》と|相並《あひなら》びて|五六七神政《みろくしんせい》の|生御魂《いくみたま》となられます。その|意味《いみ》に|於《おい》て|第十八巻《だいじふはちくわん》と|本巻《ほんくわん》は|姉妹巻《しまいくわん》を|成《な》すものといえます。
一、|本巻《ほんくわん》の|第一章《だいいつしやう》『|高熊山《たかくまやま》』は|謡曲《えうきよく》の|形式《けいしき》に|作《つく》られたものです。
大正十二年二月 編者識
|総説《そうせつ》 |三十三魂《みづみたま》
|内【外】《うちそと》の|【山】《やま》に|塞《ふさ》がる|醜雲《しこぐも》を
|【豊】《ゆたか》な|空【二】《そらに》|晴《は》らすこの|物語《ふみ》(○外山豊二)
|皇神《すめかみ》の|教《をしへ》の|花《はな》も|【桜井】《さくらゐ》の
|瑞《ずゐ》を|【重】《かさ》ねて|【雄】々《をを》しきこの|物語《ふみ》(桜井重雄)
|【谷】波《たには》なる|出【口】《でぐち》の|神《かみ》の|言霊《ことたま》に
|【正】《ただ》しく|【治】《をさ》まる|神国《かみくに》の|空《そら》(△谷口正治)
|曇《くも》る|【加藤】《かと》|見《み》えし|綾部《あやべ》の|大元《おほもと》も
|晴《は》れ|【明】《あか》しけりこの|物語《ものがたり》(○加藤明子)
|【松】《まつ》ぶさに|四方《よも》の|【村】雲《むらくも》|吹《ふ》き|散《ち》らし
|【真澄】《ますみ》の|空《そら》に|鳴《な》るはこの|物語《ふみ》(○松村真澄)
|【谷】波《たには》なる|神《かみ》|住《す》む|【村】《むら》に|【真】誠《あななひ》の
|【友】《とも》を|集《あつ》めて|物語《ものがたり》するも(○谷村真友)
|【近】《ちか》き|世《よ》も|【藤】《とう》き|神代《かみよ》も|隔《へだ》てなく
|【貞】《さだ》か|【二】《に》|明《あ》かす|霊界物語《このものがたり》(○近藤貞二)
|【藤】《ふぢ》かづら|【津】留《つる》を|手繰《たぐ》りて|【久】方《ひさかた》の
|遠《とほ》き|昔《むかし》の|物語《ものがたり》せむ(藤津久子)
いと|【高木】《たかき》|神《かみ》の|教《をしへ》を|金【鉄】《きんてつ》の
|魂【男】《たまを》|力《ちから》に|明《あ》かし|行《ゆ》くかも(高木鉄男)
|【井】《ゐ》す|細《くは》し|【上】《かみ》つ|代《よ》の|事《こと》|悉《ことごと》に
|聞《き》き|洩《も》らさじと|【留五郎】《とめごらう》の|筆《ふで》(井上留五郎)
|【上】《かみ》つ|代《よ》の|道《みち》|【西】《にし》あれば|洩《も》らさじと
|心《こころ》|【真澄】《ますみ》の|筆《ふで》に|写《うつ》しつ(△上西真澄)
よしや|【吉】《よし》|高天【原】《たかあまはら》は|曇《くも》るとも
|晴《は》らして|【亨】《とほ》るこの|霊界物語《ものがたり》(吉原亨)
いと|清《きよ》き|奇《くし》き|霊界物語《れいかいものがたり》
|一筆《ひとふで》|記《しる》すと|【湯浅仁斎】《ゆあさじんさい》(湯浅仁斎)
|【石】《いそ》の|上《かみ》|神代《かみよ》の|戸張《とばり》|【破】《やぶ》られて
|四方《よも》の|国々《くにぐに》|【馨】《かを》るこの|物語《ふみ》(○石破馨)
|【藤原】《ふぢはら》の|家《いへ》の|流《なが》れの|瑞月《ずゐげつ》が
|【勇】《いさ》みて|【造】《つく》る|霊界物語《このものがたり》(藤原勇造)
|【藤】《ふぢ》|栄《さか》え|【松】《まつ》|茂《しげ》るなる|神《かみ》の|教《のり》
|【良】《よ》く|【寛】《ゆたや》かに|伝《つた》ふこの|物語《ふみ》(○藤松良寛)
|【嵯峨根】《さがね》ぢにかへりし|【民蔵】《たみざ》よろこびて
|心《こころ》を|直《なほ》す|霊界物語《このものがたり》(嵯峨根民蔵)
いや|【広】《ひろ》き|河【瀬】《かはせ》の|波《なみ》の|音《おと》も|【義】《よし》
|【邦】人《くにびと》さます|霊界物語《このものがたり》(広瀬義邦)
|【奥】《おく》|深《ふか》く|包《つつ》む|【村】雲《むらくも》かきわけて
|神代《かみよ》の|【芳夫】《よしを》あかす|霊界物語《このふみ》(奥村芳夫)
|【谷川】《たにがは》の|流《なが》れの|【常】《つね》に|【清】《きよ》き|如《ごと》
|湧《わ》きて|出口《でぐち》のこの|物語《ものがたり》(○谷川常清)
|【東】《ひむがし》の|空【尾】《そらを》|照《てら》して|世《よ》を|救《すく》ふ
|教《をしへ》の|【吉雄】《よしを》|示《しめ》すこの|物語《ふみ》(東尾吉雄)
|皇神《すめかみ》の|深《ふか》き|真【森】《まもり》に|心地《ここち》|【良】《よ》く
|至【仁】至愛《みろく》の|教《をしへ》|明《あ》かすこの|物語《ふみ》(森良仁)
|空《そら》|【高】《たか》き|黄金【橋】《わうごんけう》や|【常】立《とこたち》の
|【祥】《めで》たき|道《みち》を|渡《わた》るこの|物語《ふみ》(高橋常祥)
|和知【河】《わちがは》のその|中【津】瀬《なかつせ》に|下《お》り|立《た》ちて
|霊魂《みたま》の|垢【雄】《あかを》|流《なが》すこの|物語《ふみ》(河津雄)
|久【土井】《くどゐ》とていやがる|霊界物語《れいかいものがたり》
|浦【靖都】《うらやすくに》の|杖《つゑ》と|知《し》らずに(土井靖都)
|【有田】《ありた》けの|夢《ゆめ》|打《う》ち|明《あ》けて|【九皐】《きうこう》の
|空《そら》かがやかすこの|物語《ものがたり》(有田九皐)
|語《かた》るべき|時《とき》は|漸《やうや》く|【北村】《きたむら》の
|【隆】《たか》く|【光】《て》るらむこの|物語《ものがたり》(北村隆光)
|【大】神《おほかみ》の|神【賀】言《ほごと》つばらに|万代《よろづよ》の
|【亀】《かめ》のよはひの|物《もの》が|【太郎】《たる》なり(○大賀亀太郎)
|【吉】凶《よしあし》を|【見】極《みきは》め|述《の》ぶるこの|物語《ふみ》に
|心《こころ》|【清】《きよ》めよ|神《かみ》の|生宮《いきみや》(△吉見清子)
|今迄《いままで》は|深《ふか》く|包《つつ》みて|【岩田】帯《いはたおび》
|【久】《ひさ》か|【太】《た》ぶりに|解《と》き|初《そ》めにけり(岩田久太郎)
|【池沢】《いけさは》に|浮《う》かべる|月《つき》の|影《かげ》|清《きよ》く
|【原二】《もとに》|納《をさ》めし|光《ひか》り|出《い》でけり(△池沢原二郎)
|丹波【栗】《たんばぐり》|【原】《はら》を|開《ひら》いて|打明《うちあ》かす
|五六【七】《みろく》の|教【蔵】《をしへぞ》この|霊界物語《ものがたり》(栗原七蔵)
|千早振《ちはやふる》|神《かみ》の|【出口】《でぐち》の|物語《ものがたり》
|【王仁】口《わにぐち》|開《あ》けて|能《よ》くも|【三郎】《しやべらう》(出口王仁三郎)
|天地《あめつち》の|神《かみ》の|出口《でぐち》の|大本《おほもと》は
|【宇知】《うち》と|外《そと》とを|【麿】《まる》め|行《ゆ》くな|里《り》(出口宇知麿)
○
|神界《しんかい》|出口《でぐち》の|瑞月《ずゐげつ》が |苦集滅道《くしふめつだう》の|真諦《しんたい》を
|雲《くも》の|間《ま》に|間《ま》に|出没《しゆつぼつ》し |三十三相《さんじふさんさう》の|木花《このはな》の
|咲耶《さくや》の|姫《ひめ》の|三十四相《さんじふしさう》 |具足《ぐそく》し|玉《たま》ふ|妙音菩薩《めうおんぼさつ》
|言依別《ことよりわけ》の|後援《こうゑん》に |夢物語《ゆめものがたり》としるしおく。
大正十一年旧四月十四日 於松雲閣
|著者《ちよしや》を|除《のぞ》き|筆録者《ひつろくしや》|三十三名《さんじふさんめい》、|其《その》|中《うち》○|印《じるし》|九名《きうめい》は|上天者《しようてんしや》にして△|印《じるし》|四名《よんめい》は|脱退者《だつたいしや》なり。
昭和十年五月二十八日現在
第一篇 |神慮洪遠《しんりよかうゑん》
第一章 |高熊山《たかくまやま》(謡曲調)〔六四六〕
|梅《うめ》|咲《さ》き|匂《にほ》ふ|春《はる》の|夜半《よは》、|牛《うし》|飼《か》ふ|男子《をのこ》の|枕辺《まくらべ》に、|忽然《こつぜん》として|現《あら》はれ|出《い》でたる|異様《いやう》の|輝《かがや》き、|眼《まなこ》を|〓《みは》り|眺《なが》むれば、|世人《せじん》の|無情《むじやう》|残酷《ざんこく》を、うら|紫《むらさき》や|青黄色《あをきいろ》、|神《かみ》の|大道《おほぢ》も|白玉《しらたま》や、|赤《あか》き|心《こころ》の|五色《ごしき》の|玉《たま》は、|賤《しづ》が|伏屋《ふせや》の|室内《しつない》を、|右往左往《うわうさわう》に|飛《と》び|交《か》ひて、|何時《いつ》とはなしに|男子《をのこ》の|身体《しんたい》|目蒐《めが》けて、|或《あるひ》は|胸《むね》に、|或《あるひ》は|腹《はら》に、|肩《かた》に|背中《せなか》に|滲《にじ》み|込《こ》み、|男子《をのこ》は|忽《たちま》ち|心機一転《しんきいつてん》して、|三十路《みそぢ》に|近《ちか》き|現身《うつそみ》の、|命毛《いのちげ》の|筆《ふで》|執《と》るより|早《はや》く、|苦労《くらう》する|墨硯《すみすずり》の|海《うみ》に、うつす|誠《まこと》の|月照《つきてる》の、|神《かみ》の|御霊《みたま》に|照《て》らされて、|床《とこ》の|間《ま》|近《ちか》く|立寄《たちよ》りつ、|壁《かべ》にさらさら|書《か》き|下《お》ろす、|天地大本大御神《あめつちおほもとおほみかみ》、|今日《けふ》は|昨日《きのふ》に|引替《ひきか》へて、|此《この》|世《よ》に|神《かみ》なきものをぞと、|思《おも》ひ|詰《つ》めたる|青年《わかもの》が、|恭敬礼拝《きようけいらいはい》|神号《しんがう》を|唱《とな》へつつ、|吾《わが》|身《み》の|罪《つみ》を|詫《わ》ぶる|折《をり》しも、|門《かど》の|戸《と》を|叩《たた》き|訪《おとの》ふ|者《もの》あり。
|神使《しんし》『|吾《われ》こそは、|天教山《てんけうざん》に|現《あら》はれ|給《たま》ふ|木《こ》の|花姫《はなひめ》の|御使《おんつかひ》、|弥勒《みろく》の|御代《みよ》を|松岡《まつをか》の、|梅花《ばいくわ》も|開《ひら》く|蓮葉《はちすば》の、|台《うてな》の|国《くに》に|導《みちび》かむ。|早《はや》く|此《この》|門《かど》あけさせ|給《たま》へ』
|若男《わかいをとこ》『あら|訝《いぶ》かしや、|此《この》|真夜中《まよなか》に|金門《かなど》を|敲《たた》く|人《ひと》の|有《あ》りとは。|風《かぜ》も|静《しづ》まり|水《みづ》さへも、|子《ね》の|正刻《しやうこく》に|候《さふら》へば、|夜《よ》の|明《あ》くるを|待《ま》つて|訪《おとづ》れ|給《たま》へ』
|松岡神使《まつをかしんし》は|詞《ことば》も|終《をは》らぬに、|戸《と》をさらりと|引《ひ》き|開《あ》け、|悠々《いういう》として|入《い》り|来《きた》り、
|神使《しんし》『|吾《われ》は|天教山《てんけうざん》の|皇大神《すめおほかみ》の|御使《おんつかひ》なり。|抑《そもそ》も|木花咲耶姫命《このはなさくやひめのみこと》、|蓮華《はちす》の|山《やま》に|立《た》たせ|給《たま》ひて、|西《にし》の|空《そら》|高《たか》く|望《のぞ》ませ|給《たま》へば、|瑞雲《ずゐうん》|棚引《たなび》き、|星《ほし》の|光《ひかり》|奇《くし》く|照《てら》させ|給《たま》へば、|神《かみ》の|仕組《しぐみ》の|真人《しんじん》の|現《あら》はれ|給《たま》ふ|瑞祥《ずゐしやう》ならむ。|汝《なんぢ》|迅《と》く|迅《と》く|我《わが》|神言《みこと》を|奉《ほう》じ、|雲井《くもゐ》の|空《そら》を|翔《かけ》つけて、|天《あめ》の|八重雲《やへくも》|押開《おしひら》き、|心《こころ》の|空《そら》も|丹波《あかなみ》の、|青垣山《あをがきやま》を|繞《めぐ》らせる、|穴太《あなを》の|郷《さと》に|出立《いでた》ちて、|我《わが》|神言《みこと》を|宣《の》り|伝《つた》へ、|迎《むか》へ|帰《かへ》れとの|御神勅《ごしんちよく》なり。|早々《はやはや》|吾《われ》に|続《つづ》かせ、|天教山《てんけうざん》に|参上《まゐのぼ》り|給《たま》へ』
|男子《をのこ》は|益々《ますます》|訝《いぶ》かりつ、|松岡《まつをか》|神使《しんし》の|顔《かほ》を|打眺《うちなが》め、|暫《しば》し|茫然《ばうぜん》として|居《ゐ》たりけり。|時《とき》しもあれや|一陣《いちぢん》の|春風《しゆんぷう》|烈《はげ》しく、|梅《うめ》の|花片《はなびら》を|撒《ま》いて、|家《いへ》の|外面《そとも》を|亘《わた》りゆく。|忽《たちま》ち|屋内《をくない》に|美妙《びめう》の|音楽《おんがく》|聞《きこ》え、|梅《うめ》の|花片《はなびら》チラチラと、|男子《をのこ》が|頭《かしら》に|降《ふり》かかるよと|見《み》る|間《ま》に、|紫《むらさき》の|被衣《かづき》に|包《つつ》まれ、あと|白雲《しらくも》となりにける。
|若男《わかいをとこ》『|嗚呼《あゝ》|吾《われ》は|空《そら》|行《ゆ》く|鳥《とり》なれや。|遥《はるか》に|高《たか》き|雲《くも》に|乗《の》り、|地上《ちじやう》の|人《ひと》が|各自《めいめい》に、|喜怒哀楽《きどあいらく》に|捉《とら》はれて、|手振《てぶ》り|足振《あしぶ》りする|様《さま》を、|吾《われ》を|忘《わす》れて|眺《なが》むなり。|実《げ》に|面白《おもしろ》の|人《ひと》の|世《よ》や。|然《さ》れども|余《あま》り|興《きよう》に|乗《の》り、|地上《ちじやう》に|落《お》つる|事《こと》もがな。|嗟《あゝ》、|大神《おほかみ》よ|大神《おほかみ》よ、|千代《ちよ》に|八千代《やちよ》に|永久《とこしへ》に|吾《わが》|身《み》を|守《まも》らせ|給《たま》へかし』
と|唯《ただ》|一筆《ひとふで》の|落《おと》し|書《がき》、|賤《しづ》が|伏家《ふせや》に|遺《のこ》し|置《お》き、|松樹《しようじゆ》|茂《しげ》れる|山《やま》の|口《くち》、|洋服姿《やうふくすがた》の|松岡《まつをか》|神使《しんし》、|俄《にはか》に|白髪《はくはつ》|異様《いやう》の|神人《しんじん》と|変化《けんげ》し、|男子《をのこ》が|手《て》を|把《と》り、|林《はやし》の|茂《しげ》みをイソイソと、|進《すす》むで|此処《ここ》に|如月《きさらぎ》の、|九日《ここのか》の|月《つき》|西山《せいざん》に|傾《かたむ》きて、|再《ふたた》び|閉《と》ざす|闇《やみ》の|幕《まく》、|千丈《せんぢやう》の|岩窟《いはや》の|前《まへ》に|着《つ》きにけり。
|松岡《まつをか》|神使《しんし》は|男子《をのこ》に|一礼《いちれい》し、
|神使《しんし》『|此処《ここ》は|名《な》におふ、|高天原《たかあまはら》の|移写《いしや》と|聞《きこ》えたる|高熊山《たかくまやま》の|岩窟《がんくつ》にて|候《さふらふ》、|天地《あめつち》|百《もも》の|神《かみ》たちの、|時《とき》|有《あ》つて|神集《かむつど》ひに|集《つど》ひ|給《たま》ふ、|四十八個《しじふはちこ》の|宝座《ほうざ》あり。|吾《われ》はこれにて|袂《たもと》を|別《わか》たむ。|汝《なんぢ》は|此処《ここ》に|現世《うつしよ》の|粗《あら》き|衣《きぬ》を|脱《ぬ》ぎ、|瑞《みづ》の|御霊《みたま》の|真人《しんじん》として、|五六七《みろく》の|神業《しんげふ》に|奉仕《ほうし》せよ。さらばさらば』
と|云《い》ふかと|見《み》れば、|姿《すがた》は|消《き》えて|白雲《しらくも》の、|彼方《あなた》の|空《そら》に|幽《かす》かに|靉《たなび》く|訝《いぶ》かしさ。|男子《をのこ》は|忽《たちま》ち|身体《しんたい》|硬化《かうくわ》し、|時間《じかん》|空間《くうかん》を|超越《てうゑつ》し、|寒暑《かんしよ》の|外《ほか》に|立《た》ちて、|何時《いつ》とはなしに|身変定《みかへる》の、|今《いま》の|姿《すがた》と|白装束《しらしやうぞく》、|黄金《こがね》の|翼《つばさ》|身《み》に|備《そな》へ、|一道《いちだう》の|空《そら》に|輝《かがや》く|光《ひかり》の|架橋《かけはし》、|矢《や》を|射《い》る|如《ごと》く|天《あめ》の|八重雲《やへくも》|切《き》り|抜《ぬ》けて、|須弥仙山《しゆみせんざん》の|頂上《ちやうじやう》に、|早《はや》くも|其《その》|身《み》は|立《た》ちにける。|白馬《はくば》に|跨《またが》り、|白雲《はくうん》|別《わ》けて|駆来《かけきた》る|一人《ひとり》の|神人《しんじん》、|男子《をのこ》の|前《まへ》に|立《た》ち|現《あら》はれ、|馬《うま》を|乗《の》り|棄《す》てツカツカと|立寄《たちよ》り、|男子《をのこ》の|左手《ゆんで》をシツカと|握《にぎ》り、
|明神《みやうじん》『われは|小幡大明神《をばただいみやうじん》なり。|此《この》|度《たび》|五六七《みろく》の|神世《しんせい》|出現《しゆつげん》に|際《さい》し、|天津神《あまつかみ》|国津神《くにつかみ》の|依《よ》さしのまにまに、|暫時《しばらく》|丹州《たんしう》と|現《あら》はれ|給《たま》ふ|汝《なんぢ》が|御霊《みたま》、|現幽神《げんいうしん》|三界《さんかい》の|探険《たんけん》を|命《めい》じ、|神業《しんげふ》に|参加《さんか》せしめよとの|神勅《しんちよく》なれば、|三十五年《さんじふごねん》の|昔《むかし》より、|木《こ》の|花姫《はなひめ》と|語《かた》らひて、|汝《なれ》が|御霊《みたま》を|拝領《はいりやう》し、|我《わ》が|氏《うぢ》の|子《こ》として|生《うま》れ|出《い》でしめたり。ゆめゆめ|疑《うたが》ふ|事《こと》|勿《なか》れ』
|男子《をのこ》は|驚《おどろ》き『ハイ』と|一声《ひとこゑ》、さし|俯《うつむ》き、|涙《なみだ》に|暮《く》るる|折《をり》しもあれ、|松《まつ》|吹《ふ》く|風《かぜ》に|覚《さま》されて、|四辺《あたり》を|見《み》れば|此《こ》は|如何《いか》に、|処《ところ》はシカと|分《わか》らねど、|何処《どこ》とはなしに|見覚《みおぼ》えの、|有難《ありがた》や、|清《きよ》き|岩窟《がんくつ》の|前《まへ》に|端坐《たんざ》し|居《を》るこそ|不思議《ふしぎ》なれ。|男子《をのこ》は|首《かうべ》を|傾《かたむ》け、
|若男《わかいをとこ》『|人里《ひとざと》|離《はな》れし|此《この》|深山《みやま》の|奥《おく》、|何処《いづこ》の|山《やま》かは|知《し》らねども、|何《なん》とはなしに、|心《こころ》|勇《いさ》ましき|所《ところ》かな。|牛《うし》|飼《か》ふ|男子《をのこ》の|昨日《きのふ》まで、|賤《しづ》の|職業《みわざ》に|励精《いそし》みし|身《み》の、|四辺《あたり》に|輝《かがや》く|吾《わが》|身《み》の|服装《ふくさう》、|紫《むらさき》|青《あを》|赤《あか》|白《しろ》|黄色《きいろ》、|白地《しろぢ》に|梅《うめ》の|花《はな》は|散《ち》り、|裳裾《もすそ》に|松葉《まつば》の|模様《もやう》、|何時《いつ》の|間《ま》にかは|更衣《きさらぎ》や、|忽《たちま》ち|変《かは》る|女神《めがみ》の|姿《すがた》、|心《こころ》も|凪《な》ぎて|春風《はるかぜ》の、|木々《きぎ》の|木《こ》の|花《はな》|撫《な》で|渡《わた》る、いとも|長閑《のどか》な|思《おも》ひなり』
|忽《たちま》ち|虚空《こくう》に|音楽《おんがく》|聞《きこ》え、|今迄《いままで》|岩窟《がんくつ》と|見《み》えしは、|夢《ゆめ》か|現《うつつ》か|幻《まぼろし》か、|際限《さいげん》もなく|四方《よも》に|展開《てんかい》せる、|荘厳無比《さうごんむひ》の|大宮殿《だいきうでん》、|黄金《こがね》の|甍《いらか》|旭《あさひ》に|輝《かがや》き、|眼下《がんか》の|渓間《たにま》を|眺《なが》むれば、|緑《みどり》|漂《ただよ》ふ|池《いけ》の|面《も》に、|鴛鴦《をし》の|比翼《つがひ》の|此処《ここ》|彼処《かしこ》、|時《とき》ならぬ|菖蒲《あやめ》の|花《はな》も|咲《さ》きみだれ、|百鳥《ももとり》の|唄《うた》ふ|声《こゑ》、|天国《てんごく》|浄土《じやうど》も|斯《か》くやあらむと|思《おも》はるる|許《ばか》りなり。|嗚呼《ああ》|訝《いぶ》かしや|訝《いぶ》かしやと、|首《かうべ》を|傾《かた》げ|思案《しあん》に|暮《く》るる|時《とき》しもあれ、|宮殿《きうでん》の|彼方《あなた》に|声《こゑ》ありて、
『|瑞月《ずゐげつ》、|瑞月《ずゐげつ》』
と|呼《よ》ばせ|給《たま》ふ。|男子《をのこ》は|此《この》|声《こゑ》に|耳《みみ》を|澄《す》ませ、
|若男《わかいをとこ》『|瑞月《ずゐげつ》とは|誰人《たれびと》なるか、われより|外《ほか》に|人《ひと》も|無《な》し。|怪《あや》しき|事《こと》よ』
と|佇《たたず》む|折《をり》しも、|黄金《こがね》の|翼《つばさ》を|飜《ひるがへ》し、|此《この》|場《ば》に|向《むか》つて|現《あら》はれ|来《きた》る、|黄金《こがね》の|鵄《とび》を|先頭《せんとう》に、|孔雀《くじやく》、|鳳凰《ほうわう》、|迦陵頻伽《かりようびんが》、|八咫烏《やあたがらす》、|何時《いつ》とはなしに|王仁《おに》の|身《み》は、|又《また》もや|月《つき》の|付近《まぢか》まで|進《すす》み|居《ゐ》るよと|見《み》る|中《うち》に、|黄金《こがね》の|扉《とびら》は|開《ひら》かれて、|中《なか》より|現《あら》はれ|給《たま》ふ|梅花《ばいくわ》の|如《ごと》き|女神《めがみ》の|姿《すがた》、|二人《ふたり》の|侍女《じぢよ》に|松梅《まつうめ》の|小枝《こえだ》を|持《も》たせ、|御手《おんて》に|玉《たま》を|携《たづさ》へて、|言葉《ことば》|静《しづ》かに|宣《の》り|給《たま》ふ。
|女神《めがみ》『われこそは|三千年《さんぜんねん》の|其《その》|昔《むかし》、|国治立《くにはるたち》の|大神《おほかみ》と|共《とも》に、|中津御国《なかつみくに》の|聖地《せいち》を|後《あと》にして、|根底《ねそこ》の|国《くに》に|到《いた》りしが、|一度《いちど》に|開《ひら》く|梅花《ばいくわ》の|時《とき》を|得《え》て、|再《ふたた》び|天《てん》に|舞《ま》ひ|昇《のぼ》り、|今《いま》は|西王母《せいわうぼ》が|園《その》の|桃《もも》、|花《はな》|散《ち》り|実《み》のる|時《とき》ぞ|来《き》て、|皇大神《すめおほかみ》に|奉《たてまつ》らむ。|時《とき》|遅《おく》れては|一大事《いちだいじ》、|小幡明神《をばたみやうじん》の|承諾《うべなひ》に|依《よ》りて、|今《いま》より|汝《なれ》が|命《みこと》の|体《たい》を|借《か》らむ』
と|言《い》ふかと|見《み》れば、|姿《すがた》は|消《き》えて|白煙《しらけむり》、|忽《たちま》ち|其《その》|身《み》は|天馬《てんば》に|跨《またが》り、|小幡明神《をばたみやうじん》に|送《おく》られて、|宇宙《うちう》の|外《そと》の|世界《せかい》を|眺《なが》め、|地上《ちじやう》を|指《さ》して|降《くだ》り|来《く》る。|此処《ここ》は|何処《いづく》ぞ、|以前《いぜん》の|宝座《ほうざ》の|前《まへ》、|不思議《ふしぎ》なりける|次第《しだい》なり。
(大正一一・五・六 旧四・一〇 松村真澄録)
○
|本章《ほんしやう》は、|謡曲《えうきよく》まがひに|口述《こうじゆつ》してありますから、|専門《せんもん》の|方々《かたがた》は|言葉《ことば》の|長短《ちやうたん》を|補《おぎな》ひ|又《また》は|削《けづ》り|謡《うた》ひよく|直《なほ》して|見《み》て|下《くだ》さい。
第二章 |〓《いすか》の|嘴《はし》〔六四七〕
|足《あし》|踏《ふ》む|隙《すき》も|夏草《なつくさ》の、|生茂《おひしげ》りたる|魔窟ケ原《まくつがはら》、|山時鳥《やまほととぎす》|悲《かな》しげに、|血《ち》を|吐《は》く|思《おも》ひの|岩窟《いはや》の|中《なか》、|高姫《たかひめ》、|高山彦《たかやまひこ》、|黒姫《くろひめ》の|三人《さんにん》は、|奥《おく》の|一室《ひとま》に|鼎坐《ていざ》して、|紫姫《むらさきひめ》や|青彦《あをひこ》の、|消息《たより》|如何《いか》にと|待《ま》ち|居《ゐ》たる。|頃《ごろ》しもあれや|梅公《うめこう》は、|辰《たつ》、|鳶《とび》|二人《ふたり》を|従《したが》へて、|息《いき》せき|切《き》つて|馳《は》せ|帰《かへ》りきぬ。
|寅若《とらわか》『ヨオ、|梅公《うめこう》ぢやないか、|何処《どこ》へ|行《い》つて|居《ゐ》たのだ。|甚《ひど》う|顔《かほ》の|色《いろ》が|晴《は》れ|晴《ば》れして|居《ゐ》ないぢやないか、|何時《いつ》も|快活《くわいくわつ》なお|前《まへ》に|似合《にあ》はず、どこともなく|影《かげ》が|薄《うす》う|見《み》えて|仕方《しかた》がないワ』
|梅公《うめこう》『エヽ、|何《なん》でもない、お|前《まへ》の|出《で》る|幕《まく》ぢやないから|柔順《おとな》しく|待《ま》つて|居《ゐ》ろ』
|寅若《とらわか》は【ニタリ】と|笑《わら》ひ、
|寅若《とらわか》『ヘン、やられよつたな、|鼈《すつぽん》に|尻《しり》をやられたと|云《い》はうか、|嘘《うそ》を|月夜《つきよ》に|釜《かま》を|抜《ぬ》かれたと|云《い》ふ|為体《ていたらく》、|又《また》も|違《ちが》つたら|梟鳥《ふくろどり》が|夜食《やしよく》に|外《はづ》れたと|云《い》ふ|塩梅式《あんばいしき》だな、|黒姫《くろひめ》さまもよい|家来《けらい》をお|持《も》ちになつて|仕合《しあは》せだワイ、イヒヽヽヽ』
|梅公《うめこう》『エヽ|喧敷《やかまし》う|云《い》ふな、|其処《そこ》|退《ど》け、ソンナ|狭《せま》い|入口《いりぐち》に|貴様《きさま》が|立《た》つて|居《ゐ》ては|這入《はい》る|事《こと》も|出来《でき》やしないワ』
|寅若《とらわか》『ハヽヽヽ、|可成《なるべく》|這入《はい》らぬが|好《よ》からうぜ、|御注進《ごちうしん》|申上《まをしあ》げるや|否《いな》や|形勢《けいせい》|不穏《ふおん》、|大地震《だいぢしん》でも|勃発《ぼつぱつ》してみよ、|此《この》|岩窟《いはや》はガタガタだ。|此《この》|寅若《とらわか》は|御信任《ごしんにん》が|無《な》いから|駄目《だめ》だが、|併《しか》し|紫姫《むらさきひめ》さまや、|青彦《あをひこ》さま、それに|次《つい》で|梅公《うめこう》と|来《き》たら|豪《えら》いものだよ。|一《ひと》つ|今回《こんくわい》の|失敗《しつぱい》、|否《いや》、お|手柄話《てがらばなし》を|聞《き》かして|貰《もら》はうかい、|何時《いつ》も|黒姫《くろひめ》は|目《め》が|黒《くろ》いと|仰有《おつしや》る、|間違《まちが》ひはあるまい、|此《この》|眼《め》で|一目《ひとめ》|睨《にら》みたら|些《ちつ》とも|違《ちが》はぬと|仰《あふ》せられるのだからなア、アハヽヽヽ』
と|頤《あご》をしやくつて|入口《いりぐち》に|立《た》ち|塞《ふさ》がり、【きよく】つたやうな|笑《わら》ひをする。|奥《おく》の|一室《ひとま》には|高姫《たかひめ》、|高山彦《たかやまひこ》、|黒姫《くろひめ》|三人《さんにん》、|鳩首謀議《きうしゆぼうぎ》の|真最中《まつさいちう》なりける。
|高姫《たかひめ》『これ|黒姫《くろひめ》さま、|紫姫《むらさきひめ》や|青彦《あをひこ》が|出立《しゆつたつ》してから、もう|一週間《いつしうかん》にもなるぢやありませぬか、それに|今《いま》になつて、|猫《ねこ》が|嚔《くしやみ》をしたとも、|膿《う》ンだ|鼻《はな》が|潰《つぶ》れたとも|云《い》ふ|便《たよ》りが|無《な》いぢやありませぬか、|貴女《あなた》のお|眼識《めがね》に|叶《かな》つた|許《ばか》りか、|選抜《せんばつ》してお|遣《や》りになつたのだから、|如才《じよさい》はありますまいが、|万一《まんいち》あつては|大変《たいへん》だと|気《き》に|懸《かか》つてなりませぬワ』
|黒姫《くろひめ》は|稍《やや》|不安《ふあん》の|面持《おももち》にて、
『|何分《なにぶん》|突飛《とつぴ》な|談判《だんぱん》に|遣《や》つたものだから、|摺《す》つた|揉《も》ンだと、|毎日《まいにち》|問題《もんだい》が|次《つぎ》から|次《つぎ》へと|提出《ていしゆつ》され、|家庭《かてい》|会議《くわいぎ》でも|開《ひら》いて|連日《れんじつ》|連夜《れんや》|小田原《をだはら》|評定《へうぢやう》に|時《とき》を|費《つひ》やして|居《ゐ》るのでせう。|早《はや》く|成《な》るものは|破《やぶ》れ|易《やす》く、|遅《おそ》く|成《な》るものは|破《やぶ》れ|難《がた》し、|大器晩成《たいきばんせい》と|云《い》つて|暇《ひま》の|要《い》る|程《ほど》|脈《みやく》があるのですよ、|一年《いちねん》にすつと|伸《の》びて|花《はな》の|咲《さ》く|草木《さうもく》は|秋《あき》が|来《く》れば|萎《しほ》れて|仕舞《しま》ひます。|梅《うめ》|桜《さくら》、|桃《もも》|椿《つばき》などの|喬木《けうぽく》になると、|二年《にねん》や|三年《さんねん》に|花《はな》は|咲《さ》かない|代《かは》りに、|天《てん》を|衝《つ》くやうに|其《その》|幹《みき》は|成長《せいちやう》し、|毎年々々《まいねんまいねん》|花《はな》も|咲《さ》く、|私《わたし》の|眼識《めがね》に|叶《かな》つた|紫姫《むらさきひめ》、|青彦《あをひこ》の|事《こと》ですから、よもや|寝返《ねがへ》りを|打《う》つと|云《い》ふ|事《こと》はありますまい、ナア|高山彦《たかやまひこ》さま』
|高山彦《たかやまひこ》『サア、|何《なん》とも|保証《ほせう》の|限《かぎ》りではないなア』
|黒姫《くろひめ》、|目《め》に|角《かど》を|立《た》て、
『エヽ|何《なん》と|仰有《おつしや》る、|高山彦《たかやまひこ》さま、|余《あま》り|紫姫《むらさきひめ》や、|青彦《あをひこ》を|見損《みそこな》つてはいけませぬよ。お|前《まへ》さまの|身魂《みたま》は|昔《むかし》|鬼城山《きじやうざん》にあつて|木常姫《こつねひめ》さまに|悪《わる》い|事《こと》を|教《をし》へ、|今度《こんど》は|南高山《なんかうざん》の|宝取《たからと》りには|道彦《みちひこ》の|為《ため》に|大失敗《だいしつぱい》を|演《えん》じ、|今《いま》|又《また》ウラナイ|教《けう》へ|帰《かへ》つてくると|云《い》ふ|身魂《みたま》だから、ソンナ|考《かんが》へが|出《で》るのだよ、|自分《じぶん》の|心《こころ》を|標準《へうじゆん》として|青彦《あをひこ》や|紫姫《むらさきひめ》の|心《こころ》を|測量《そくりやう》なさるとは、|些《ちつ》と|残酷《ざんこく》と|云《い》ふものだワ』
|高山彦《たかやまひこ》は|少《すこ》し|声《こゑ》を|高《たか》うして、
『|昔《むかし》は|昔《むかし》|今《いま》は|今《いま》ぢや、|身魂《みたま》に|経験《けいけん》を|積《つ》みて|来《き》て|居《を》るから、|大概《たいがい》の|人《ひと》の|心《こころ》の|底《そこ》はよく|分《わか》つて|居《ゐ》る。|何時《いつ》も|俺《おれ》は|柔順《おとな》しくして|不言実行《ふげんじつかう》|主義《しゆぎ》を|採《と》つて|居《を》れば、|貴様《おまへ》は|何時《いつ》も|先《さき》に|出《で》て|何《なに》から|何《なに》|迄《まで》、|掻《か》いて|掻《か》いて|掻《か》き|廻《まは》し、|一言《ひとこと》|云《い》へば|直《ただ》ちに|眉《まゆ》を|逆立《さかだ》て|鼻息《はないき》を|荒《あら》くし、|口《くち》から|泡《あわ》を|飛《と》ばすぢやないか、|俺《おれ》は|五月蠅《うるさ》いから|何時《いつ》も|黙《だま》つて|居《ゐ》るのだ。|今日《けふ》は|幸《さいは》ひ|高姫《たかひめ》|様《さま》の|前《まへ》だから、|俺《おれ》の|思《おも》つて|居《ゐ》る|事《こと》を|忌憚《きたん》なく|吐露《とろ》したのだ』
|黒姫《くろひめ》『そりや|何《なに》を|云《い》ひなさる、|貴方《あなた》は|此《この》|家《いへ》の|主人《しゆじん》ぢやないか、|私《わたし》の|云《い》ふ|事《こと》を|聞《き》くやうな|素直《すなほ》な|身魂《みたま》ですかいな、|何《なん》でも|彼《かん》でも|一《ひと》つ|一《ひと》つ【ケチ】をつけねば|置《お》かぬ|因果《いんぐわ》な|身魂《みたま》だから』
|高山彦《たかやまひこ》『|今度《こんど》の|青彦《あをひこ》、|紫姫《むらさきひめ》を|派遣《はけん》したのはお|前《まへ》の|発案《はつあん》だらう、|其《その》|時《とき》|俺《おれ》は|貴様《おまへ》に|剣呑《けんのん》だからそつと|寅若《とらわか》でもつけてやつたら|何《ど》うだと|云《い》うたぢやないか、|其《その》|時《とき》|貴様《おまへ》は|首《くび》を|振《ふ》り、|大変《たいへん》な|荒《すさ》びやうだつた、アヽ、|又《また》|毎度《いつも》の|病気《びやうき》が|出《で》た|哩《わい》と|思《おも》つて|辛抱《しんばう》して|居《ゐ》たのだ。|此奴《こいつ》は|屹度《きつと》|不成功《ふせいこう》、|否《いな》|不成功《ふせいこう》のみならず、|青彦《あをひこ》、|紫姫《むらさきひめ》は|三五教《あななひけう》の|間諜《まはしもの》だつたに|違《ちが》ひない』
|黒姫《くろひめ》『|何《なに》を|云《い》ひなさるのだい、マア|見《み》て|居《ゐ》なされ、|屹度《きつと》|今《いま》に|分《わか》る。|玉照姫《たまてるひめ》を|連《つ》れて|青彦《あをひこ》が|帰《かへ》つて|来《き》ますよ。|若《も》し|連《つ》れて|帰《かへ》つて|来《こ》なかつたら、|二度《にど》とお|前《まへ》さまにも|高姫《たかひめ》さまにもお|目《め》にかかりませぬ|哩《わい》なア』
と|頤《あご》をしやくり、|上下《じやうげ》の|歯《は》を【ぐつ】と|噛《か》みしめ、|前《まへ》に|突《つ》き|出《だ》して|見《み》せける。|高山彦《たかやまひこ》はムツとしたか|蠑螺《さざえ》のやうな|拳骨《げんこつ》を|固《かた》めて|黒姫《くろひめ》の|横面《よこづら》を|撲《なぐ》らむとする。スワ|一大事《いちだいじ》と|高姫《たかひめ》は|仲《なか》に|割《わ》つて|入《い》り、
『ヤア|待《ま》つた|待《ま》つた、|犬《いぬ》も|食《く》はぬ|喧嘩《けんくわ》をすると|云《い》ふ|事《こと》がありますか、|些《ちつ》と|心得《こころえ》なさい。お|前《まへ》さま|二人《ふたり》はウラナイ|教《けう》の|柱石《ちうせき》たる|重要《ぢうえう》|人物《じんぶつ》ぢやないか、ソンナ|事《こと》で|皆《みな》の|者《もの》に|教訓《しめし》が|出来《でき》ますか』
|黒姫《くろひめ》『ハイハイ、|左様《さやう》で|御座《ござ》います、|何分《なにぶん》|宅《うち》のがヒヨツトコですから』
|高山彦《たかやまひこ》『こりや|黒《くろ》、ヒヨツトコとは|何《なん》だ。|俺《おれ》がヒヨツトコなら|貴様《おまへ》はベツトコだ』
|高姫《たかひめ》『コレコレ、お|二人《ふたり》とも|詔直《のりなほ》しだ|詔直《のりなほ》しだ、|言霊《ことたま》をお|慎《つつし》みなさらぬか』
|斯《か》かる|所《ところ》へ|寅若《とらわか》を|先頭《せんとう》に、|梅《うめ》、|辰《たつ》、|鳶《とび》の|三人《さんにん》は|現《あら》はれ|来《きた》り、
|寅若《とらわか》『|黒姫《くろひめ》|様《さま》、|三人《さんにん》の、|私《わたくし》へ|隠《かく》してのお|使《つかひ》が|偉《えら》い|勢《いきほひ》なくして|帰《かへ》つて|参《まゐ》りました、|何卒《どうぞ》|詳《くは》しくお|聞《き》き|取《と》り|下《くだ》さいませ』
|黒姫《くろひめ》『お|前《まへ》は|梅公《うめこう》、|辰公《たつこう》、|鳶公《とびこう》、|首尾《しゆび》は|何《ど》うだつたな、|紫姫《むらさきひめ》、|青彦《あをひこ》を|旨《うま》くやつたらうなア?』
|梅公《うめこう》『ヘエヘエ、|流石《さすが》の|青彦《あをひこ》、|紫姫《むらさきひめ》で|御座《ござ》います、|梅《うめ》いことをやつて、|此《この》|三人《さんにん》ぢやないが|【鳶辰】《とびたつ》やうに【トツト】と|凱歌《がいか》を|奏《そう》して、|何々《なになに》の|何《なに》へ|向《むか》つて|帰《かへ》りましたワ』
|黒姫《くろひめ》『アヽ、さうかさうか、それは|御苦労《ごくらう》であつた。サア|早《はや》く|玉照姫《たまてるひめ》|様《さま》のお|居間《ゐま》のお|掃除《さうぢ》を|為《な》し、|皆様《みなさま》の|御飯《ごはん》やお|酒《さけ》の|用意《ようい》をして|置《お》きなさい』
|梅公《うめこう》『ヘイ、|根《ね》つから|其《その》|必要《ひつえう》は|認《みと》めませぬがなア』
|黒姫《くろひめ》『そりや|梅公《うめこう》、お|前《まへ》|何《なん》と|云《い》ふ|事《こと》を|云《い》ふのぢや、|必要《ひつえう》を|認《みと》めるの|認《みと》めないのと|何故《なぜ》|私《わし》の|云《い》ふ|事《こと》を|聞《き》かないのかい、これこれ|辰公《たつこう》、|鳶公《とびこう》、お|前《まへ》も|御苦労《ごくらう》ぢやつた。どうぞ|詳《くは》しく|高姫《たかひめ》さまの|前《まへ》で、|青彦《あをひこ》や|紫姫《むらさきひめ》さまの|天晴《あつぱれ》|功名《こうみやう》した|事《こと》を|聞《き》かして|下《くだ》さい』
|鳶公《とびこう》『エー、もう|余《あま》りの|事《こと》で|申上《まをしあ》げます|事《こと》も|出来《でき》ませぬ』
|辰公《たつこう》『|何《なん》と|云《い》つても|六日《むゆか》の|菖蒲《あやめ》、|十日《とをか》の|菊《きく》、|何《なに》が|何《な》ンだやら|薩張《さつぱり》|神様《かみさま》の|御都合《ごつがふ》を|頂《いただ》いて|来《き》ました』
|寅若《とらわか》『アハヽヽヽ、|此奴《こいつ》|余程《よほど》|弱《よわ》つて|居《ゐ》やがるな、|御都合《ごつがふ》と|云《い》ふのは|卑怯者《ひけふもの》の|適当《てきたう》な|遁辞《とんじ》だ。モシモシ|黒姫《くろひめ》さま、こいつは|屹度《きつと》【もの】にならなかつたのですよ、|蛸《たこ》の|揚壺《あげつぼ》を|食《くら》つて|帰《かへ》つたとより|見《み》えませぬな』
|黒姫《くろひめ》『これ|寅若《とらわか》、お|前《まへ》に|誰《たれ》が|物《もの》を|尋《たづ》ねたかい、|弥仙山《みせんざん》へ|往《い》つて|失敗《しつぱい》をして|帰《かへ》つて|来《き》たやうな|男《をとこ》だから、|今度《こんど》の|事《こと》は|彼是《かれこれ》|云《い》ふお|前《まへ》には|資格《しかく》がない、|一段《いちだん》|下《お》りて|庭《には》へ|下《さ》がつて|其処《そこ》の|掃除《さうぢ》でもしなさい。これこれ|梅公《うめこう》|早《はや》く|云《い》ひなさいよ』
|梅公《うめこう》は|左《ひだり》の|手《て》で|頭《あたま》を|三遍《さんぺん》ばかりも、つるつると|撫《な》でながら、
|梅公《うめこう》『ハイ、|私《わたくし》は|紫姫《むらさきひめ》、|青彦《あをひこ》その|他《た》|一行《いつかう》の|後《あと》を|見《み》え|隠《がく》れに|監視《かんし》して|参《まゐ》りました。さうした|処《ところ》|流石《さすが》の|青彦《あをひこ》さま、|綾彦《あやひこ》お|民《たみ》の|両人《りやうにん》を|前《まへ》に|出《だ》して|豊彦爺《とよひこぢい》をアツと|云《い》はせ、ヤアお|前《まへ》は|綾彦《あやひこ》であつたか、お|民《たみ》であつたか、ヤア|父《とと》さまか、|母《かか》さまか、|妹《いもうと》か、|兄《あに》さまかと|一場《いちぢやう》の|悲喜劇《ひきげき》が|現《あら》はれ、|其処《そこ》へ|平和《へいわ》の|女神然《めがみぜん》たる|紫姫《むらさきひめ》さまが、おチヨボ|口《ぐち》を【ぱつ】と|開《ひら》いて|仰有《おつしや》るには、|何事《なにごと》も|皆《みな》|神様《かみさま》のなさる|事《こと》、|豊彦《とよひこ》さまも|斯《こ》うして|若夫婦《わかふうふ》が|帰《かへ》つて|御座《ござ》つた|以上《いじやう》は、|神様《かみさま》へ|御恩返《ごおんがへ》しにお|玉《たま》さま|始《はじ》め、|玉照姫《たまてるひめ》|様《さま》を|神様《かみさま》に|奉《たてまつ》らねばなりますまいと、さも|流暢《りうちやう》な|弁《べん》で|談判《かけあひ》になりますと、|豊彦爺《とよひこぢい》は、|喜《よろこ》ぶの|喜《よろこ》ばないのつて、|首《くび》を|滅多《めつた》|矢鱈《やたら》に|振《ふ》つて|振《ふ》つて|振《ふ》りさがし、|千切《ちぎ》れはせぬかと|思《おも》ふ|程《ほど》|首肯《うなづ》いて、|仕舞《しまひ》の|果《はて》にはドンと|尻餅《しりもち》を|搗《つ》き、|眼《め》を|暈《まは》しかけました。マアさうして|爺《ぢい》の|云《い》ふのには、アヽ|結構《けつこう》な|事《こと》だ、|嬉《うれ》しい|時《とき》には|欣喜雀躍《きんきじやくやく》、|手《て》の|舞《ま》ひ|足《あし》の|踏《ふ》む|所《ところ》を|知《し》らずと|云《い》ふ|事《こと》だが、|俺《わし》は|余《あま》り|嬉《うれ》しくて|目《め》のまひ、|家《いへ》のまひ、|身体《からだ》の|居《を》る|所《ところ》を|知《し》らずぢや、と|云《い》ひまして、それはそれは|大変《たいへん》|喜《よろこ》びましたよ。あれ|位《くらゐ》|喜《よろこ》びた|事《こと》は|生《うま》れてから|見《み》た|事《こと》も、|聞《き》いた|事《こと》もありませぬワ』
|黒姫《くろひめ》『アヽ、さうだらうさうだらう、|喜《よろこ》びたらうな、これ|高山《たかやま》さまどうですかい、これでも|文句《もんく》がありますかい、|高姫《たかひめ》さま、もうこれで、|大《おほ》きな|顔《かほ》で|本山《ほんざん》に|帰《かへ》つて|貰《もら》はうと|儘《まま》ですワイ、オホヽヽヽ、サア|其《その》|次《つぎ》を|梅公《うめこう》|云《い》ひなさい、|瞬《またた》く|間《ひま》も|待《ま》ち|遠《どほ》しいやうな|心持《こころもち》がする』
|梅公《うめこう》『サア、これから|先《さき》は|時間《じかん》の|問題《もんだい》ですな、|云《い》はぬ|方《はう》が|却《かへ》つて|先楽《さきたの》しみで|宜《よろ》しからう。オイ|鳶《とび》、|辰《たつ》、|貴様《きさま》も|些《ちつ》と|云《い》はぬかい』
|辰公《たつこう》『ヘン、よい|所《ところ》ばつかり|食《く》つて|糟粕《かす》ばつかり|人《ひと》に|食《く》はさうと|思《おも》つたつて|駄目《だめ》だよ、|貴様《きさま》が|報告《はうこく》した|後《あと》に……サアサア|其《その》|次《つぎ》を|諄々《じゆんじゆん》と|掛《か》け|値《ね》の|無《な》い|所《ところ》を|申上《まをしあ》げてお|目玉《めだま》を|頂戴《ちやうだい》するのだな』
|梅公《うめこう》『エヽ|何《なに》も|彼《か》も|大将《たいしやう》になると|責任《せきにん》が|重《おも》い、エイエイ|仕方《しかた》がない、ソンナラ|私《わたくし》が|申上《まをしあ》げます、|黒姫《くろひめ》さま|喫驚《びつくり》なさいますな』
|黒姫《くろひめ》『|何《なに》|喫驚《びつくり》するものか、|喫驚《びつくり》するのは|高山《たかやま》さまぢや、|余《あま》り|嬉《うれ》しいて|喫驚《びつくり》する|者《もの》と、|余《あま》り|阿呆《あはう》らしくて|会《あ》はす|顔《かほ》がなくて|喫驚《びつくり》する|者《もの》と|出来《でき》ませうぞい』
|梅公《うめこう》『エヽ、|紫姫《むらさきひめ》、|青彦《あをひこ》はお|玉《たま》、|玉照姫《たまてるひめ》|様《さま》を|連《つ》れて|意気《いき》|揚々《やうやう》と、|吾々《われわれ》を|何々《なになに》し、|何々《なになに》の|何々《なになに》へ|何々《なになに》して|仕舞《しま》ひました』
|黒姫《くろひめ》『これ|梅公《うめこう》、アタもどかしい、|早《はや》く|云《い》はぬかいナ、いつ|迄《まで》|私《わし》を|焦《じ》らすのだい』
|梅公《うめこう》『イエイエ、|決《けつ》して|焦《じ》らすのぢやありませぬ、|知《し》らすのですよ、|知《し》らず|識《し》らずの|御無礼《ごぶれい》|御気障《おきざはり》、|知《し》らぬ|神《かみ》に|祟《たた》りなし、どうぞ|私《わたくし》だけは|今日《けふ》の|所《ところ》は|帳外《ちやうはづ》れにして|下《くだ》さいませ』
|黒姫《くろひめ》『|怪体《けつたい》な|事《こと》を|云《い》ふぢやないか、さうして|青彦《あをひこ》の|一行《いつかう》はいつ|帰《かへ》つて|来《く》るのだい』
|梅公《うめこう》『それは【いつ】になるとも|判然《はつきり》お|答《こた》へが|出来《でき》ませぬなア、|是《これ》も|矢張《やつぱり》|時《とき》の|力《ちから》でせう』
|高姫《たかひめ》『|黒姫《くろひめ》さま、|青彦《あをひこ》|初《はじ》め、|紫姫《むらさきひめ》は|三五教《あななひけう》へ|帰《かへ》つたのですよ』
|梅公《うめこう》『マア マア、|高姫《たかひめ》さまの|天眼力《てんがんりき》にて|御観察《ごくわんさつ》の|通《とほ》り、|誠《まこと》に|以《もつ》てお|気《き》の|毒《どく》|千万《せんばん》、|青彦《あをひこ》、|紫姫《むらさきひめ》|其《その》|他《た》は|共《とも》に【グレン】をやりました。|今頃《いまごろ》は|世継王山《よつわうざん》の|麓《ふもと》で|祝《いは》ひ|酒《ざけ》でも|呑《の》みて|居《を》るでせう』
と|頭《あたま》を|抱《かか》へ|小隅《こすみ》にすくみける。
|黒姫《くろひめ》『エヽソンナ|青彦《あをひこ》ぢやない、|又《また》|紫姫《むらさきひめ》も|紫姫《むらさきひめ》ぢや、|三五教《あななひけう》へ|行《ゆ》くなぞと、そりや|大方《おほかた》|副守護神《ふくしゆごじん》を|放《ほ》かしに|往《い》つたのだらう、|屹度《きつと》|戻《もど》つて|来《く》る|確信《かくしん》がある』
|高姫《たかひめ》『|黒姫《くろひめ》さま、もう|駄目《だめ》だ。|高山彦《たかやまひこ》さま、お|前《まへ》さまも|立派《りつぱ》な|奥《おく》さまを|持《も》つて|御満足《ごまんぞく》でせう、この|忙《いそが》しいのに|永《なが》らく|逗留《とうりう》してお|邪魔《じやま》をしました。エライ|馬鹿《ばか》を|見《み》せて|下《くだ》さいましたナ、アーア、|併《しか》しこれも|何《なに》かの|御都合《ごつがふ》だ。|左様《さやう》なら、|帰《かへ》ります』
|高山彦《たかやまひこ》『どうぞ|私《わたくし》も|連《つ》れて|帰《かへ》つて|下《くだ》さい』
|高姫《たかひめ》『お|前《まへ》さまの|勝手《かつて》になされ、|黒姫《くろひめ》さまを|大切《たいせつ》にお|守《まも》りなさるがお|徳《とく》だらう、|左様《さやう》なら』
と、|大勢《おほぜい》の|止《と》むるをも|聞《き》かず、|額《ひたい》に|青筋《あをすぢ》を|立《た》て、|偉《えら》い|気色《けしき》で|表《おもて》へかけ|出《だ》し、|鶴《つる》、|亀《かめ》|来《きた》れと|二人《ふたり》を|伴《ともな》ひ|魔窟ケ原《まくつがはら》を|驀地《まつしぐら》に、|由良《ゆら》の|港《みなと》を|指《さ》して|走《はし》り|行《ゆ》く。
|高山彦《たかやまひこ》『こりや|大変《たいへん》』
と|捻鉢巻《ねぢはちまき》、|七分三分《しちぶさんぶ》に|尻《しり》からげ、|細長《ほそなが》いコンパスに|油《あぶら》をかけ、|飛《と》び|出《だ》さうとする。|黒姫《くろひめ》はグツと|袂《たもと》を|握《にぎ》り、
|黒姫《くろひめ》『|高山《たかやま》さま、|血相《けつさう》|変《か》へて|何処《どこ》へお|出《いで》るのだえ』
|高山彦《たかやまひこ》『|定《きま》つた|事《こと》だ。|肝腎《かんじん》の|玉照姫《たまてるひめ》は|申《まを》すに|及《およ》ばず、|青彦《あをひこ》、|紫姫《むらさきひめ》|迄《まで》|三五教《あななひけう》に|取《と》られて、どうして|高姫《たかひめ》さまに|申訳《まをしわけ》が|立《た》つか、|是《これ》より|此《この》|高山彦《たかやまひこ》が|世継王山《よつわうざん》の|悦子姫《よしこひめ》の|館《やかた》にかけ|込《こ》み、|玉照姫《たまてるひめ》を|小脇《こわき》にヒン|抱《だ》き|帰《かへ》らで|置《お》かうか、|愚図々々《ぐづぐづ》|致《いた》せば|高姫《たかひめ》さまは|飛行機《ひかうき》に|乗《の》つて【フサ】の|国《くに》へお|帰《かへ》りだ、それ|迄《まで》に|玉照姫《たまてるひめ》|様《さま》を|手《て》に|入《い》れてお|詫《わび》をせにやならぬ、|邪魔《じやま》ひろぐな』
と|蹶飛《けと》ばし、|突飛《つきと》ばし、|一生懸命《いつしやうけんめい》にかけ|出《だ》したり。|黒姫《くろひめ》も|声《こゑ》を|限《かぎ》りにオーイオーイと|髪《かみ》|振《ふ》り|乱《みだ》し、|帯《おび》を|引《ひ》きずり|乍《なが》ら|高山彦《たかやまひこ》の|後《あと》を|追《お》ひ、|足《あし》に|任《まか》せて|走《はし》り|行《ゆ》く。
(大正一一・五・六 旧四・一〇 加藤明子録)
第三章 |千騎一騎《せんきいつき》〔六四八〕
|高山彦《たかやまひこ》は|魔窟ケ原《まくつがはら》の|岩窟《がんくつ》を|後《あと》にし、|一生懸命《いつしやうけんめい》に|聖地《せいち》を|指《さ》して|進《すす》み|行《ゆ》く。|漸《やうや》く|白瀬川《しらせがは》の|畔《ほとり》に|着《つ》けば、|降《ふ》り|続《つづ》く|五月雨《さみだれ》に|河水《かすゐ》|汎濫《はんらん》し、|波《なみ》|堆《うづたか》く|渡川《とせん》は|絶対《ぜつたい》に|不可能《ふかのう》となりぬ。
|高山彦《たかやまひこ》は|川《かは》の|岸《きし》を|下《くだ》りつ、|上《のぼ》りつ、|地団太《ぢだんだ》|踏《ふ》みて|口惜《くや》しがり、|現在《げんざい》|目《め》の|前《まへ》に|聖地《せいち》|世継王山《よつわうざん》を|眺《なが》め、|玉照姫《たまてるひめ》の|御座所《ござしよ》は|彼方《かなた》かと|憧憬《どうけい》の|念《ねん》に|駆《か》られて|狂気《きやうき》の|如《ごと》くなり|居《ゐ》たり。|斯《かか》る|処《ところ》へ|息《いき》せき|切《き》つて|馳来《はせきた》りしは、|妻《つま》の|黒姫《くろひめ》なりける。
『ヤーお|前《まへ》は|黒姫《くろひめ》か、|何《なに》しに|出《で》て|来《き》たのだ』
『|高山《たかやま》さま、ソラ|何《なに》を|言《い》はつしやる。|此《この》|儘《まま》にして|置《お》く|訳《わけ》には|行《ゆ》きますまい。あれ|彼《あ》の|向《むか》ふに|見《み》ゆるは|世継王《よつわう》の|神山《しんざん》、|三五教《あななひけう》の|隠《かく》れ|場所《ばしよ》、|玉照姫《たまてるひめ》|様《さま》は|彼《あ》の|森《もり》の【しげみ】に|御座《ござ》るであらう。サアサア|早《はや》く|渡《わた》りなさい』
『|渡《わた》れと|云《い》つたつて|此《こ》の|激流《げきりう》が、どうして|渡《わた》れやうか』
『|生命《いのち》を|的《まと》に|渡《わた》るのだよ。それだから|男《をとこ》は|真逆《まさか》の|時《とき》に|間《ま》に|合《あは》ぬと|云《い》ふのだ。お|前《まへ》さまも|鼻高《はなだか》の|守護神《しゆごじん》の|御厄介《ごやくかい》になつて|中空《ちうくう》|高《たか》く|渡《わた》りなさい』
『ソンナことを|言《い》つたつて、さう|易々《やすやす》と|元《もと》の|体《からだ》に|還元《くわんげん》することは|出来《でき》ないよ』
『|還元《くわんげん》|出来《でき》ないと|云《い》ふ|道理《だうり》があらうか、|貴方《あなた》の|信仰《しんかう》が|足《た》らぬからだ。|火《ひ》になつても|蛇《じや》になつても、|此《こ》の|川《かは》|渡《わた》らな|置《お》くものか』
と|云《い》ふより|早《はや》く、|見《み》るも|恐《おそ》ろしき|大蛇《だいじや》の|姿《すがた》となり、|激流《げきりう》|怒濤《どたう》の|真《ま》ン|中《なか》を|目蒐《めが》けて、ザンブとばかり|飛《と》び|込《こ》み、|漸《やうや》く|対岸《むかうぎし》に|渡《わた》り|付《つ》きたり。
|高山彦《たかやまひこ》は|此《こ》の|気色《けしき》に|恐《おそ》れ|戦《をのの》き、ガタガタ|慄《ぶる》ひの|最中《さいちう》、|蛇体《じやたい》の|身体《からだ》より|黒雲《くろくも》|起《おこ》り|一団《いちだん》となりて、|川《かは》の|上空《じやうくう》を|此方《こなた》に|渡《わた》り|高山彦《たかやまひこ》の|身体《からだ》を|包《つつ》むよと|見《み》る|間《ま》に、|高山彦《たかやまひこ》は|川《かは》の|対岸《むかうぎし》にバタリと|落《お》ち|来《き》たりぬ。|蛇体《じやたい》は|忽《たちま》ち|元《もと》の|黒姫《くろひめ》と|変《へん》じ、
『サア|高山《たかやま》さま、コンナ|放《はな》れ|業《わざ》は|一生《いつしやう》に|一度《いちど》より|出来《でき》ないのだが、|千騎一騎《せんきいつき》の|此《この》|場合《ばあひ》、|黒姫《くろひめ》が|信念《しんねん》の|力《ちから》が|現《あら》はれたのだ。サアサアこれに|怖《おそ》れず、|今後《こんご》は|斯様《かやう》なことは|無《な》い|程《ほど》に、|妾《わたし》に|続《つづ》いてお|出《い》でなさい』
|高山彦《たかやまひこ》は|慄《ふる》ひ|声《ごゑ》で、
『ナント|女《をんな》と|云《い》ふ|奴《やつ》は|恐《おそ》ろしいものだなア』
『コレ|高山《たかやま》さま、お|前《まへ》はモーこれで|愛想《あいさう》がつきただらうな。|愛想《あいさう》をつかすなら、つかして|見《み》なさい、|此方《こちら》にも|一《ひと》つ|考《かんが》へがありますよ』
と|冷《ひや》やかに|笑《わら》ふ。|高山彦《たかやまひこ》は|眼《め》を|瞬《しばた》たき、|高《たか》き|鼻《はな》を|手《て》の|甲《かふ》で|擦《こす》り|乍《なが》ら、
『イヤ|何事《なにごと》も|黒姫《くろひめ》さまに|御任《おまか》せする、|此《この》|後《ご》は|一切《いつさい》|構《かま》ひ|事《ごと》は|致《いた》さぬ。|貴女《あなた》のお|好《す》きの|様《やう》に|御使《おつか》ひ|下《くだ》さいませ』
『|大分《だいぶ》|改心《かいしん》が|出来《でき》ましたナア、それでこそ|妾《わたし》の|立派《りつぱ》なハズバンドだ。サアサア|往《ゆ》きませう、エヽなンとした|足《あし》つきじやいな、|確《しつか》りしなさらぬか、|此《この》|川《かは》を|渡《わた》るが|最後《さいご》、|油断《ゆだん》のならぬ|敵《てき》の|繩張《なはば》りだよ』
『さうだと|云《い》つて、ナンダか|脚《あし》がワナワナして|歩《ある》けないのだもの』
『エー|何《なん》とした|卑怯《ひけふ》な|人《ひと》だらう。|誰《たれ》が|恐《こは》いのだい。【たか】が|知《し》れた|紫姫《むらさきひめ》、|青彦《あをひこ》の|連中《れんちう》ぢやないかいナ』
『|青彦《あをひこ》、|紫姫《むらさきひめ》も、ナンニも|恐《こわ》くはない。|恐《こわ》いのはお|前《まへ》の|性念《しやうねん》だよ』
『|高山《たかやま》さま、|斯《こ》う|見《み》えても|矢張《やつぱり》|女《をんな》は|女《をんな》だよ。|御心配《ごしんぱい》なさるな。これでも|又《また》|大事《だいじ》にして|可愛《かあい》がつて|上《あ》げますワ』
|高山彦《たかやまひこ》はブルブル|慄《ふる》ひ|乍《なが》ら、
『ヤーもう|可愛《かあい》がつて|貰《もら》はいでも|結構《けつこう》です。|私《わたくし》の|様《やう》なものは|貴女《あなた》のお|側《そば》に|寄《よ》るのは|勿体《もつたい》ない。|畏《おそ》れ|多《おほ》い。どうぞ|草履持《ざうりもち》になつとして|下《くだ》さいな』
『エー|此《この》|人《ひと》は|又《また》|何《なん》とした|卑怯《ひけふ》なことを|云《い》ふのだらう。アヽもうすつかり|愛想《あいさう》が|尽《つ》きちやつた、|嫌《いや》になつて|了《しま》ふワ』
『どうぞ|愛想《あいさう》をつかして|下《くだ》さいな。|嫌《いや》になつて|貰《もら》へば|大変《たいへん》に|好都合《かうつがふ》です』
|黒姫《くろひめ》は|声《こゑ》を|尖《とが》らし、
『ソリヤ|何《なに》を|云《い》ふのだい、|嫌《いや》になつて|呉《く》れと|言《い》つたつて、|今《いま》となつて|誰《たれ》がソンナ|軽挙《かるはづみ》なことをするものかいな。|蛇《へび》に|狙《ねら》はれた|蛙《かはづ》ぢやと|思《おも》つて|諦《あきら》めなさいよ』
『ハイ|諦《あきら》めます。|何事《なにごと》も|因縁《いんねん》づくぢやと|思《おも》つて、コンナ|悪縁《あくえん》も|辛抱《しんばう》|致《いた》しませう。|前生《ぜんせい》の|悪《わる》い|因縁《いんねん》が|報《むく》うて|来《き》たのだから』
『|何《なに》が|悪縁《あくえん》だへ。お|前《まへ》さまは|男《をとこ》の|心《こころ》と|秋《あき》の|空《そら》、|直《すぐ》に|飽縁《あくえん》だらうが、|妾《わたし》は|何処迄《どこまで》も|秋《あき》の|空《そら》で、|何処々々迄《どこどこまで》も|好《い》いて|好《す》いてすき|透《とう》つてゐますよ、ホヽヽヽヽ』
『モシモシ|黒姫《くろひめ》|様《さま》、|何卒《どうぞ》|人《ひと》を|一人《ひとり》|助《たす》けると|思《おも》つて|私《わたくし》の|罪《つみ》を|赦《ゆる》して|下《くだ》さいな』
『そりや|又《また》|何《なに》を|言《い》ふのだえ、モー|斯《こ》うなる|上《うへ》は|赦《ゆる》してたまるものか。|竜宮《りうぐう》の|海《うみ》の|底《そこ》まで|伴《つ》れて|行《い》つて|呑《の》みたり、|噛《か》みたり、|舐《ねぶ》つたり|大事《だいじ》にして|上《あ》げようぞへ』
『モー|大事《だいじ》にして|貰《もら》はいでも|結構《けつこう》です。|何卒《どうぞ》|其《そ》の|御心遣《おこころづか》ひは|御無用《ごむよう》になさつて|下《くだ》さいませ。|返礼《へんれい》の|仕方《しかた》がありませぬワ』
『エーわからぬ|男《をとこ》だ。|話《はなし》は|後《あと》で|悠《ゆつ》くりして|上《あ》げよう。サア|一時《いちじ》も|早《はや》く|往《い》かねばなるまい。|恰度《ちやうど》|日《ひ》も|暮《く》れて|来《き》た』
と|高山彦《たかやまひこ》を|先《さき》に|立《た》たせ、|夏草《なつぐさ》|茂《しげ》る|露野ケ原《つゆのがはら》を|世継王《よつわう》の|山麓《さんろく》|指《さ》して|辿《たど》り|行《ゆ》く。
|五月《ごぐわつ》|十三夜《じふさんや》の|月《つき》は、|楕円形《だゑんけい》の|鏡《かがみ》を|空《そら》に|照《てら》してゐる。|馬公《うまこう》、|鹿公《しかこう》は|月《つき》の|光《ひかり》を|眺《なが》め、
『アヽ|何《なん》といい|月《つき》ぢやないか、のう|鹿公《しかこう》』
『ソリヤ|馬公《うまこう》、きまつた|事《こと》だ。|五月五日《ごぐわついつか》の|宵《よひ》に|玉照姫《たまてるひめ》|様《さま》がお|越《こ》し|遊《あそ》ばし、|記念《きねん》すべき|月《つき》だもの。|古往今来《こわうこんらい》コンナよい|月《つき》があるものかい。それに|就《つい》ても|可哀相《かわいさう》なのは|黒姫《くろひめ》ぢやないか。この|通《とほ》り|御空《みそら》に|水晶《すゐしやう》の|玉照姫《たまてるひめ》|様《さま》が|輝《かがや》き|渡《わた》り、この|又《また》|屋内《をくない》にもお|玉《たま》さまに、|玉照姫《たまてるひめ》さまぢや、|之《これ》を|三《み》つ|合《あは》せて|三《み》つの|御魂《みたま》と|云《い》つても|宜《い》いワ。アヽ、
|濡《ぬ》れて|出《で》たやうに|思《おも》ふや|雨後《うご》の|月《つき》
とは|如何《どう》だ』
『ヤー|鹿公《しかこう》、|貴様《きさま》|俳句《はいく》を|知《し》つて|居《ゐ》るのか』
『ハイ|句《く》でも、|歌《うた》でも、|何《なん》でも|知《し》らぬものは|無《な》い。|何《なん》なと|言《い》うて|見《み》よ。|当意即妙《たういそくめう》、|直《ただち》に|作《つく》つて|御目《おめ》にかける|鹿公《しかこう》だよ』
『ソンナラ|今《いま》|彼《あ》のお|月《つき》さまに|黒雲《くろくも》がさしかかり、|今《いま》や|隠《かく》さうとして|居《ゐ》る。|彼《あ》れを|一《ひと》つやつて|見《み》よ』
『|黒姫《くろひめ》に|玉照姫《たまてるひめ》は|包《つつ》まれて |馬鹿《ばか》を|見《み》むとす|青彦《あをひこ》の|空《そら》』
『|何《なん》と|云《い》ふ|縁起《えんぎ》の|悪《わる》い|歌《うた》を|詠《よ》むのだ。|宣《の》り|直《なほ》さぬかい、|鹿公《しかこう》|奴《め》』
『|大方《おほかた》|馬公《うまこう》がさうお|出《いで》ると|思《おも》つて|居《ゐ》た。|今度《こんど》が|真剣《しんけん》だよ。
|青彦《あをひこ》や|紫姫《むらさきひめ》の|大空《おほぞら》に |月《つき》の|玉照姫《たまてるひめ》ぞ|輝《かがや》く
とは|如何《どう》だ』
『ヨーシ モー|一《ひと》つやれ』
『いくらでも、|月《つき》を|題《だい》にするのなら|月《つき》は|先祖《せんぞ》よ。|月《つき》の|大神様《おほかみさま》が|此《この》|世《よ》の|御先祖様《ごせんぞさま》であるぞよ。|馬公《うまこう》|志《し》つかり|聞《き》けよアーン、
|月《つき》に|叢雲《むらくも》|花《はな》には|嵐《あらし》 |東《ひがし》に|旗雲《はたぐも》|箒星《はうきぼし》
|天《あま》の|河原《かはら》は|北南《きたみなみ》 |星《ほし》の|流《なが》れは|久方《ひさかた》の
フサの|御国《みくに》に|落《お》ちて|行《ゆ》く |高山彦《たかやまひこ》や|短山《ひきやま》の
|嶺《みね》より|昇《のぼ》る|月影《つきかげ》も |今日《けふ》は|芽出度《めでた》き|十三夜《じふさんや》
たとへ|黒姫《くろひめ》かかるとも |伊吹《いぶき》の|狭霧《さぎり》に|吹《ふ》き|散《ち》らし
|忽《たちま》ち|変《かは》る|大御空《おほみそら》 |紫姫《むらさきひめ》や|青彦《あをひこ》の
|清《きよ》き|姿《すがた》となりにけり。
とは|如何《どう》だ』
『|随分《ずゐぶん》|長《なが》い|歌《うた》だのう、|鹿公《しかこう》』
『|長《なが》いとも|長《なが》いとも、|今《いま》に|長《なが》い|奴《やつ》が|黒《くろ》い|顔《かほ》してやつて|来《く》るのだ。|横《よこ》に|長《なが》い|奴《やつ》と、|縦《たて》に|長《なが》い|高山彦《たかやまひこ》の|青瓢箪《あをべうたん》だ。うまくやらぬと|馬鹿《うましか》を|見《み》るぞよ。|変性男子《へんじやうなんし》の|申《まを》す|事《こと》は|一分一厘《いちぶいちりん》|違《ちが》ひはないぞよ』
『|何《なに》を|吐《ぬか》すのだ、モー|好《い》い|加減《かげん》に|止《や》めて|貰《もら》はうかい。オイオイ|彼《あ》れを|見《み》よ、|二《ふた》つの|影《かげ》が|蠢《うごめ》いて|居《ゐ》るぢやないか、|鹿《しか》とは|判《わか》らぬけれど』
|鹿公《しかこう》『ヨオ|来居《きを》つたぞ、|太《ふと》い|短《みじか》い|奴《やつ》と|細《ほそ》い|長《なが》い|奴《やつ》だ。ヤー|此奴《こいつ》は|高山彦《たかやまひこ》に|黒姫《くろひめ》だ。|愚図々々《ぐづぐづ》して|居《を》ると|空《そら》のお|月《つき》さまの|様《やう》に、|黒姫《くろひめ》に|呑《の》まれて|了《しま》つちや、|玉照姫《たまてるひめ》|様《さま》が|一大事《いちだいじ》だ、サアサア|戸《と》を|締《し》めろ』
と|云《い》ふより|早《はや》く、|鹿公《しかこう》は|飛込《とびこ》みてピシヤリと|錠《ぢやう》を|下《お》ろしたり。
『オイ|俺《おれ》も|入《い》れて|呉《く》れないか』
『エー|邪魔臭《じやまくさ》い。|貴様《きさま》は|何処《どこ》か|叢《くさむら》の|中《なか》へ|潜伏《せんぷく》して|居《を》れ、|馬《うま》じやないか。|俺《おれ》は|中《なか》から|此《こ》の|関所《せきしよ》を|死守《ししゆ》するのだ』
|二《ふた》つの|影《かげ》は|段々《だんだん》|近寄《ちかよ》つて|来《く》る。|鹿公《しかこう》は|何《ど》うしても|開《あ》けぬ。|馬公《うまこう》は|已《や》むを|得《え》ず|茅《かや》の【しげみ】に|身《み》を|隠《かく》して|慄《ふる》ひ|居《ゐ》る。
|二人《ふたり》の|影《かげ》は|戸口《とぐち》に|現《あら》はれたり。|一人《ひとり》は|女《をんな》、|一人《ひとり》は|男《をとこ》、
『モシモシ|一寸《ちよつと》|此処《ここ》を|開《あ》けて|下《くだ》さいな』
『ナンダ、|暮六《くれむ》つ|下《さが》つてから|他《ひと》の|家《うち》を|訪《おとづ》れる|奴《やつ》があるかい。|夜《よ》は|魔《ま》の|世界《せかい》だ、|用《よう》があれば|明日《あす》|出《で》て|来《こ》い。|此《この》|門口《かどぐち》は|鹿公《しかこう》は|絶対《ぜつたい》に|開《あ》けることは|出来《でき》ないぞよ』
『|左様《さやう》で|御座《ござ》いませうが、ホンのチヨイトで|宜《よろ》しい、|一尺《いつしやく》|許《ばか》り|開《あ》けて|下《くだ》さい。|申《まを》し|上《あ》げ|度《た》い|一大事《いちだいじ》がございます』
|鹿公《しかこう》、|戸口《とぐち》に|立《た》つて、
『|其方《そちら》で|一大事《いちだいじ》があつても|此方《こちら》も|亦《また》|一大事《いちだいじ》だ。ナント|言《い》つても|開《あ》けないよ。モシモシ|青彦《あをひこ》さま、|貴方《あなた》|一寸《ちよつと》|来《き》て|下《くだ》さいな。どうやら|黒姫《くろひめ》がやつて|来《き》たやうですワ』
|青彦《あをひこ》は|奥《おく》の|間《ま》より、
『|誰《たれ》がなんと|言《い》つても|開《あ》けられないぞ』
『さうだと|言《い》つて|馬公《うまこう》が|外《そと》に、|這入《はい》り|損《そこ》ねて|隠《かく》れて|居《ゐ》ますがな』
|黒姫《くろひめ》は|此《こ》の|声《こゑ》を|聞《き》き、|辺《あた》りの|叢《くさむら》を|尋《たづ》ね、
『ヤアお|前《まへ》は|馬公《うまこう》ぢやな。サアもう|大丈夫《だいぢやうぶ》だ。コレコレ|高山《たかやま》さま、|用意《ようい》の|綱《つな》をお|出《だ》しなさい。エー|何《なに》をビリビリ|地震《ぢしん》の|様《やう》に|慄《ふる》ふて|居《ゐ》なさる。|気《き》の|弱《よわ》い|獣《けもの》だな』
と|云《い》ふより|早《はや》く|自分《じぶん》の|細帯《ほそおび》を|解《ほど》いて、|馬公《うまこう》を|縛《しば》つて|了《しま》ひ、
『サア|馬公《うまこう》、|此方《こつち》へ|来《く》るのだよ。|此《この》|戸《と》を|開《あ》ける|迄《まで》、お|前《まへ》は|人質《ひとじち》だ。|若《も》し|開《あ》けなかつたら|此《この》|黒姫《くろひめ》が|正体《しやうたい》を|現《あら》はして、|一呑《ひとの》みに|呑《の》みて|了《しま》はうか』
『エーコンナことだと|思《おも》つて|居《を》つた。それだから|神様《かみさま》が|言霊《ことたま》を|慎《つつし》めと|仰有《おつしや》るのに、|鹿公《しかこう》の|奴《やつ》、|黒姫《くろひめ》が|何《ど》うだの|斯《こ》うだのと|言《い》ひよるものだから、コンナ|破目《はめ》に|陥《おちい》るんだ。オイ|馬公《うまこう》は|括《くく》られたよ、|鹿公《しかこう》|開《あ》けて|呉《く》れないか』
『|貴様《きさま》は|括《くく》られる|役《やく》だ、|俺《おれ》は|中《なか》で|長《なが》くなつてグツスリ|休《やす》む|役《やく》だ。マア|夜《よ》が|明《あ》ける|迄《まで》、|其処《そこ》で|立往生《たちわうじやう》するがよいワ。お|優《やさ》しい|黒姫《くろひめ》さまと、|色男《いろをとこ》の|高山《たかやま》さまとのお|伴《つ》れだもの、あまり|淋《さび》しくもあるまいがな』
『ソンナ|冷酷《れいこく》なことを|言《い》ふものぢやないよ、お|前《まへ》もちつとは|朋友《ほういう》の|道《みち》を|弁《わきま》へて|居《を》るだらう』
『マア|待《ま》て、|今《いま》これから|紫姫《むらさきひめ》|様《さま》が|十八番《じふはちばん》の|言霊《ことたま》の|発射《はつしや》を|為《な》さるところだ。さうすれば|黒姫《くろひめ》だつて|高山彦《たかやまひこ》だつて|風《かぜ》に|木《こ》の|葉《は》の|散《ち》る|如《ごと》く、|悲惨《ひさん》な|目《め》に|会《あ》つて|滅《ほろび》て|了《しま》ふのだ』
『さうしたら|俺《おれ》は|何《ど》うなるのだ』
『|貴様《きさま》の|事《こと》まで、|未《ま》だ|研究《けんきう》はして|居《を》らぬ|哩《わい》。オイ|黒姫《くろひめ》の|奴《やつ》、|誠《まこと》に|以《もつ》てお|気《き》の|毒《どく》|千万《せんばん》、|御心中《ごしんちう》|御察《おさつ》し|申《まを》す。|高姫《たかひめ》|様《さま》に|嘸《さぞ》お|叱言《こごと》を|頂戴《ちやうだい》なさつたでせう。|併《しか》し|乍《なが》ら|何程《なにほど》お|前《まへ》さまが|玉照姫《たまてるひめ》|様《さま》をお|迎《むか》へしようと|思《おも》つてもモー|駄目《だめ》だから|足許《あしもと》の|明《あか》るい|間《うち》に、トツトと|帰《かへ》りなさい。|其処《そこ》に|馬《うま》が|一匹《いつぴき》|居《を》るから、ソレに|乗《の》つてお|帰《かへ》りなさいよ』
『コラ|鹿公《しかこう》、|無茶《むちや》ばつかり|言《い》ふない、|俺《おれ》は|決《けつ》して|黒姫《くろひめ》さまの|馬《うま》ではないぞ』
|黒姫《くろひめ》『どうしても|開《あ》けませぬか、|開《あ》けな|宜《よろ》しい。|黒姫《くろひめ》は|道成寺《だうじやうじ》の|釣鐘《つりがね》ぢやないが|此《こ》の|家《いへ》を|大蛇《だいじや》となつて、|十重二十重《とへはたへ》に|取捲《とりま》き、|熱湯《ゆ》にして|見《み》せうか』
『モシモシ|紫姫《むらさきひめ》さま、|青彦《あをひこ》さま、|確《しつか》りして|下《くだ》さい。トツケもないことを|言《い》ひますぜ』
|紫姫《むらさきひめ》は|言葉《ことば》|静《しづか》に、
『ホヽヽヽヽ、|御心配《ごしんぱい》なさいますな。|鹿《しか》さま、|確《しつ》かりと|戸《と》を|締《し》めて|置《お》きなさいや、モシモシ|黒姫《くろひめ》さま、|誠《まこと》に|貴女《あなた》には|御気《おき》の|毒《どく》でございますが、|神界《しんかい》の|為《た》め、|世《よ》の|中《なか》の|為《ため》には|貴女《あなた》に|対《たい》して|不親切《ふしんせつ》なことを|致《いた》すのも|已《や》むを|得《え》ませぬ。どうぞ|帰《かへ》つて|下《くだ》さいませ』
『|何《なん》と|云《い》つても|帰《かへ》らない。|青彦《あをひこ》と|紫姫《むらさきひめ》の|素首《そつくび》を|引抜《ひきぬ》いて、フサの|国《くに》の|高姫《たかひめ》|様《さま》にお|目《め》にかけ、|玉照姫《たまてるひめ》|様《さま》を|御迎《おむか》へ|申《まを》さねば|置《お》きませぬぞや』
|青彦《あをひこ》『|何《なん》と|執念深《しふねんぶか》い|婆《ば》アさまぢやな、|青彦《あをひこ》も|呆《あき》れたよ。いい|加減《かげん》に|執着心《しふちやくしん》を|放棄《はうき》したらどうだい』
『|執着心《しふちやくしん》はお|前《まへ》のことだよ。お|前《まへ》から|除《と》つたがよからう。さうして|玉照姫《たまてるひめ》さまと、お|玉《たま》さまを|此方《こつち》へ|渡《わた》しなさい』
|青彦《あをひこ》『|此《こ》の|執着心《しふちやくしん》だけは|何処《どこ》までも|放《はな》されない。|決《けつ》して|個人《こじん》の|私有《しいう》すべきものでない、|神政成就《しんせいじやうじゆ》の|大切《たいせつ》な|御宝《おたから》だ。たとへ|天地《てんち》が|覆《か》へるとも、こればかりは|承諾《しようだく》は|出来《でき》ない、どうぞ|早《はや》くお|帰《かへ》りになつて|下《くだ》さい』
『|何《なん》と|云《い》つても|黒姫《くろひめ》は|帰《かへ》りませぬ』
|紫姫《むらさきひめ》『|玉照姫《たまてるひめ》|様《さま》は|三五教《あななひけう》に|於《おい》ても|無《な》くてはならぬ|結構《けつこう》な|神様《かみさま》でございます。|又《また》ウラナイ|教《けう》にも|必要《ひつえう》な|神様《かみさま》でございます。さうだと|申《まを》して|両方《りやうはう》の|欲求《よくきう》を|充《みた》すと|云《い》ふ|事《こと》は、|到底《たうてい》|出来《でき》ませぬから、【いつそ】の|事《こと》|貴方《あなた》が|御改心《ごかいしん》をなさつて、|三五教《あななひけう》にお|入《はい》り|下《くだ》さつたら|如何《どう》ですか。|貴方《あなた》が|御改心《ごかいしん》なさつた|以上《いじやう》は、|高姫《たかひめ》さまも|自然《しぜん》|御改心《ごかいしん》になりませうから、|紫《むらさき》がさう|云《い》つたと|高姫《たかひめ》さまに|伝《つた》へて|下《くだ》さいませ』
『|権謀術数《けんぼうじゆつすう》を|弄《ろう》し|折角《せつかく》|妾《わたし》が|望《のぞ》みた|玉照姫《たまてるひめ》|様《さま》を|計略《けいりやく》を|以《もつ》て、|横領《わうりやう》なさつたお|前《まへ》さまこそ|改心《かいしん》を|為《な》され。どちらが|善《ぜん》か、|悪《あく》か、|心《こころ》の|鏡《かがみ》に|照《てら》して|御覧《ごらん》なさい。|貴方《あなた》の|行《や》り|方《かた》は|三五教《あななひけう》の|精神《せいしん》を|破壊《はくわい》する|行《や》り|方《かた》、つまり|優勝劣敗《いうしようれつぱい》|利己主義《われよし》ではありませぬか』
|鹿公《しかこう》『エー|八釜敷《やかまし》い|云《い》ふない、|黒姫《くろひめ》の|奴《やつ》、|貴様《きさま》こそ|利己主義《われよし》ぢやないか。|此《こ》の|玉照姫《たまてるひめ》|様《さま》は|三五教《あななひけう》の|神様《かみさま》が|御経綸《おしぐみ》|遊《あそ》ばして|悦子姫《よしこひめ》|様《さま》が|取《と》り|上《あ》げまでなさつた|因縁《いんねん》があるのぢや。|何《なん》と|云《い》つても|正義《せいぎ》だ、|先取権《せんしゆけん》があるのだ。|他《ひと》の|宝《たから》に|垂涎《すゐゑん》して|要《い》らぬ|謀叛《むほん》を|起《おこ》し|煩悶《はんもん》をするよりも、すつかりと|思《おも》ひ|切《き》つて|気楽《きらく》になつたら|如何《どう》だ、|鹿公《しかこう》は|腹《はら》が|立《た》つワイ』
|黒姫《くろひめ》『|何《なん》と|云《い》つても|是《こ》れ|許《ばか》りは|貫徹《くわんてつ》させなくては|置《お》くものか。|仮令《たとへ》|千年《せんねん》|万年《まんねん》かかつても|祈《いの》つて|祈《いの》つて|祈《いの》り|勝《か》つて|見《み》せよう。ヤアコンナ|馬公《うまこう》を|人質《ひとじち》に|取《と》つたところが、|何《なん》の|役《やく》にも|立《た》たない。サア|馬公《うまこう》、|世界中《せかいぢう》|放《はな》し|飼《がひ》だ。|何処《どこ》なと|勝手《かつて》にお|出《い》でなさい』
と|縛《いましめ》を|解《ほど》けば、|馬公《うまこう》は、
『ヤアヤア|黒姫《くろひめ》さま|有難《ありがた》う。ヤアどつこい、お|前《まへ》に|縛《しば》られて、お|前《まへ》に|解《ほど》かれたのだ、|有難《ありがた》うと|云《い》ふ|筋《すぢ》が|無《な》い。エー|取返《とりかへ》しのならぬ|失策《しつさく》をやつたものだ。|馬鹿々々《ばかばか》しい』
|此《この》|時《とき》|紫姫《むらさきひめ》の|涼《すず》やかな|声《こゑ》にて、|天《あま》の|数歌《かずうた》が|轟《とどろ》き|渡《わた》りける。|忽《たちま》ち|黒姫《くろひめ》は|頭部《とうぶ》|真白《まつしろ》と|変《へん》じ、|高山彦《たかやまひこ》の|手《て》を|引《ひ》き|雲《くも》を|霞《かすみ》と|西北《せいほく》|指《さ》して|逃《にげ》て|行《ゆ》く。
|馬公《うまこう》『オイ|鹿公《しかこう》、モー|黒姫《くろひめ》|夫婦《ふうふ》は|逃《にげ》て|了《しま》つたよ。どうぞ|開《あ》けて|呉《く》れないか』
『ヨシヨシ』
と|戸《と》をガラリと|引《ひ》き|開《あ》け、
『オイ|馬公《うまこう》どうだつたい、|貴様《きさま》|縛《しば》られて|居《を》つたぢやないか』
『ウン|縛《しば》られたよ。|併《しか》しチツトモ|痛《いた》くはなかつた。|黒姫《くろひめ》の|奴《やつ》、|俺《おれ》を|縛《しば》るときに|一生懸命《いつしやうけんめい》に|小声《こごゑ》になつて、「|大神様《おほかみさま》|済《す》みませぬ、|赦《ゆる》して|下《くだ》さい。|罪《つみ》も|無《な》い|馬公《うまこう》を|縛《しば》ります、これも|御道《おみち》の|為《ため》ですから、|神直日《かむなほひ》、|大直日《おほなほひ》に|見直《みなほ》し、|聞直《ききなほ》して|下《くだ》さいませ」と|念《ねん》じて|居《を》つた。|人《ひと》の|性《せい》は|善《ぜん》なりとは、よく|言《い》うたものだなア』
|青彦《あをひこ》はこれを|聞《き》いて|両手《りやうて》を|組《く》み、|頭《かうべ》を|首垂《うなだ》れ|思案《しあん》に|沈《しづ》む。|紫姫《むらさきひめ》は|直《ただち》に|神前《しんぜん》に|感謝《かんしや》の|祝詞《のりと》を|奏上《そうじやう》する。|玉照姫《たまてるひめ》は|俄《にはか》にヒシるが|如《ごと》く|泣《な》き|出《だ》し|給《たま》ひける。お|玉《たま》は|驚《おどろ》きあはてて|玉照姫《たまてるひめ》の|背《せ》を|撫《な》で|擦《さす》り、|慰《なぐさ》め|居《ゐ》たり。
|空《そら》には|白《しろ》き|魚鱗《ぎよりん》の|波《なみ》を|湛《たた》へた|雲《くも》の|切《き》れ|目《め》に|月《つき》は|朧《おぼろ》に|輝《かがや》き、|悲《かな》しげに|山杜鵑《やまほととぎす》の|声《こゑ》|峰《みね》の|彼方《かなた》に|聞《きこ》え|居《ゐ》る。
(大正一一・五・六 旧四・一〇 外山豊二録)
第四章 |善《ぜん》か|悪《あく》か〔六四九〕
|瑞穂《みづほ》の|国《くに》の|真秀良場《まほらば》や |青垣山《あをがきやま》を|繞《めぐ》らせる
|下津岩根《したついはね》と|聞《きこ》えたる |要害《えうがい》|堅固《けんご》の|神策地《しんさくち》
|小三災《せうさんさい》の|饑病戦《きびやうせん》 |大三災《だいさんさい》の|風水火《ふうすゐくわ》
|夢《ゆめ》にも|知《し》らぬ|世継王《よつわう》の |山《やま》の|麓《ふもと》に|現《あ》れませる
|玉照姫《たまてるひめ》の|御稜威《おんみいづ》 |光《ひかり》は|四方《よも》に|照妙《てるたへ》の
|衣《きぬ》を|纏《まと》ひて|経緯《たてよこ》の |綾《あや》と|錦《にしき》の|機《はた》を|織《お》る
|棚機姫《たなばたひめ》と|現《あら》はれし |紫姫《むらさきひめ》に|侍《かしづ》かれ
|月日《つきひ》を|重《かさ》ね|年《とし》を|越《こ》え |其《その》|名《な》は|四方《よも》に|轟《とどろ》きぬ。
|悦子姫《よしこひめ》は、|夏彦《なつひこ》、|常彦《つねひこ》、|加米彦《かめひこ》、|滝《たき》、|板《いた》を|伴《ともな》ひ、|我《わが》|使命《しめい》を|明《あ》かさず、|世継王《よつわう》|山麓《さんろく》の|住家《すみか》を|後《あと》にして、|何処《いづこ》ともなく|神業《しんげふ》の|為《た》めに|出発《しゆつぱつ》したり。|音彦《おとひこ》、|五十子姫《いそこひめ》は|別《べつ》の|使命《しめい》を|受《う》け、|是《これ》|亦《また》|何処《いづく》ともなく、|行先《ゆくさき》を|明《あ》かさず、|惟神的《かむながらてき》に、|世継王《よつわう》の|住家《すみか》を|後《あと》にして|出発《しゆつぱつ》せり。
|後《あと》には、|紫姫《むらさきひめ》、|若彦《わかひこ》、お|節《せつ》、お|玉《たま》、|馬公《うまこう》、|鹿公《しかこう》の|面々《めんめん》|朝《あさ》な|夕《ゆふ》なに、|玉照姫《たまてるひめ》の|保育《ほいく》に|全力《ぜんりよく》を|尽《つく》し|居《ゐ》たりける。
|夏《なつ》も|何時《いつ》しか|暮《く》れ|果《は》て、|天《てん》|高《たか》く、|風《かぜ》|清《きよ》く、|野《の》には|稲穂《いなほ》が|黄金《こがね》の|波《なみ》を|打《う》ち、|佐保姫《さほひめ》の|錦《にしき》|織《おり》なす|紅葉《もみぢば》の、|愈《いよいよ》|秋《あき》の|半《なかば》となりぬ。
|時《とき》しもあれ、|真夜中《まよなか》に|戸《と》を|叩《たた》く|一人《ひとり》の|男《をとこ》あり。|馬公《うまこう》、|鹿公《しかこう》は|此《この》|音《おと》に|驚《おどろ》き|目《め》を|醒《さ》まし、
|馬公《うまこう》『オイ|鹿公《しかこう》、|何《なん》だか|表《おもて》の|戸《と》を|叩《たた》く|音《おと》がするではないか、お|前《まへ》|御苦労《ごくらう》だが|一《ひと》つ|調《しら》べて|見《み》て|呉《く》れないか』
『|何《なに》、あれは|秋《あき》の|夜《よ》の|紅葉《もみぢ》を|散《ち》らす|凩《こがらし》の|戸《と》を|叩《たた》く|音《おと》だ。|余程《よほど》お|前《まへ》も|神経《しんけい》|過敏《くわびん》になつたものだな、そりや|無理《むり》もない、|五六七《みろく》|神政《しんせい》の|生御霊《いくみたま》|玉照姫《たまてるひめ》|様《さま》の|御保護《ごほご》の|任《にん》に|当《あた》つて|居《ゐ》るのだから、|雨《あめ》の|音《おと》、|風《かぜ》の|響《ひびき》にも|注意《ちうい》を|払《はら》ふのは|当然《たうぜん》だ。|併《しか》し|乍《なが》ら|余《あま》り|思《おも》ひ|過《す》ぎると|神経病《しんけいびやう》を|起《おこ》す|様《やう》になつては|詰《つま》らないから、|何事《なにごと》も|神様《かみさま》にお|任《まか》せして、|吾々《われわれ》は|能《あた》ふ|限《かぎ》りのベストを|尽《つく》し、|忠実《ちうじつ》に|務《つと》めさへすれば|宜《よ》いのだよ』
『そりやお|前《まへ》の|云《い》ふ|通《とほ》りだが、|併《しか》し|今《いま》の|音《おと》は|決《けつ》して|雨《あめ》や|風《かぜ》の|音《おと》ではない、|何《なに》か|訪《おとづ》るる|人《ひと》が|門《かど》にありさうだよ』
|鹿公《しかこう》『|峰《みね》の|嵐《あらし》か|松風《まつかぜ》か、|一《ひと》つ|違《ちが》へば|狐狸《こり》の|悪戯《いたづら》か、|尻尾《しつぽ》を|以《もつ》て|雨戸《あまど》を|叩《たた》き、|吾々《われわれ》を|脅威《おどか》さうとするのだ。|此《この》|間《あひだ》から|幾度《いくたび》となく、ウラナイ|教《けう》の|間者《まはしもの》がやつて|来《き》て、|玉照姫《たまてるひめ》|様《さま》を|奪《うば》ひ|返《かへ》さうとかかつて|居《ゐ》るらしい、|迂濶《うつか》り|夜中《やちう》に|戸《と》でも|開《あ》け|様《やう》ものなら|大変《たいへん》だ、|英子姫《ひでこひめ》|様《さま》、|悦子姫《よしこひめ》|様《さま》に|申訳《まをしわけ》がない、|先《ま》づ|此処《ここ》は、|見《み》ざる、|聞《き》かざる、|言《い》はざるの|三猿主義《さんゑんしゆぎ》を|取《と》る|方《はう》が|安全《あんぜん》|第一《だいいち》だ。|俺《おれ》の|鹿《しか》とお|前《まへ》の|馬《うま》とでシカりとウマウマ|守《まも》るのだナア』
|戸《と》を|叩《たた》く|音《おと》|益々《ますます》|烈《はげ》しくなり|来《きた》る。
『それでも|益々《ますます》|烈《はげ》しく|叩《たた》くぢやないか、どうだ|一《ひと》つ|紫姫《むらさきひめ》|様《さま》に|伺《うかが》つて|見《み》たら』
『それもさうだな、|併《しか》し|乍《なが》ら|折角《せつかく》よくお|寝《やす》みになつて|居《ゐ》られるのだから、|夜中《やちう》にお|目《め》を|醒《さ》まさせるのもお|気《き》の|毒《どく》だ』
|表《おもて》を|叩《たた》く|音《おと》|益々《ますます》|烈《はげ》しい。|鹿公《しかこう》はムツとした|様《やう》な|声《こゑ》で、
『|誰《たれ》だい、|人《ひと》の|寝《ね》しづまつた|家《うち》を|無闇《むやみ》に|叩《たた》くものは』
『|吾《わ》れは|英子姫《ひでこひめ》|様《さま》の|御命令《ごめいれい》によつて、|江州《ごうしう》|竹生島《ちくぶしま》よりはるばる|単騎《たんき》|旅行《りよかう》でやつて|来《き》た|者《もの》だ。|紫姫《むらさきひめ》は|在宅《ざいたく》か、|若彦《わかひこ》は|居《を》るか』
|鹿公《しかこう》『|紫姫《むらさきひめ》|様《さま》や|若彦《わかひこ》|様《さま》の|名《な》を|知《し》つて|居《ゐ》るからには、|何《なん》でも|何《なん》だらう、さう|考《かんが》へると|容易《ようい》に|開《あ》ける|事《こと》は|出来《でき》ない。|吾々《われわれ》は|昼《ひる》は|寝《い》ね|夜《よる》は|不寝番《ふしんばん》をつとめて|居《ゐ》るのだ。|夜《よる》の|間《あひだ》は|俺達《おれたち》の|権限《けんげん》があるのだから|誰《たれ》が|開《あ》けいと|云《い》つても、|此《この》|鹿公《しかこう》の|本守護神《ほんしゆごじん》が|開《あ》けと|命令《めいれい》を|下《くだ》す|迄《まで》は|開《あ》けられぬのだ。マアマア|暫《しばら》く|御苦労《ごくらう》だが|正体《しやうたい》が|分《わか》らぬから、|自然《しぜん》に|開《あ》ける|迄《まで》|待《ま》つて|居《ゐ》たが|宜《よ》からう。|日光《につくわう》に|照《てら》されて、モウモウした|毛《け》を|体《からだ》|一面《いちめん》に|現《あら》はすのだらう。|吾々《われわれ》は|夜分《やぶん》は|目《め》の|見《み》えぬ|人間《にんげん》だから、|平《ひら》にお|断《ことわ》り|申《まを》す』
|外《そと》より、
『さう|云《い》ふ|声《こゑ》は|鹿公《しかこう》ぢやないか、|今日《こんにち》|参《まゐ》つたのは|余《よ》の|儀《ぎ》ではない。|神素盞嗚大神《かむすさのをのおほかみ》|様《さま》の|御心《みこころ》により、|英子姫《ひでこひめ》|様《さま》の|大命《たいめい》を|奉《ほう》じて|御直使《おぢきし》として|出張《しゆつちやう》|致《いた》した、|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》|亀彦《かめひこ》であるぞよ』
『|何《なに》、|亀彦《かめひこ》さまか、ソンナラ|開《あ》けぬ|事《こと》は|無《な》いが|若《も》しや|作《つく》り|声《ごゑ》ではあるまいかなア』
『|何《なに》、|作《つく》り|声《ごゑ》する|必要《ひつえう》があるか、|紫姫《むらさきひめ》|以下《いか》|一同《いちどう》に|申《まを》し|渡《わた》す|仔細《しさい》がある。|一時《いつとき》も|早《はや》く|開《あ》けたが|宜《よ》からうぞ』
『|何《なん》だか|亀彦《かめひこ》さま、|今日《けふ》に|限《かぎ》つて|言葉《ことば》つき|迄《まで》|厳粛《げんしゆく》に|構《かま》へて|御座《ござ》る、|何《なに》かこれに|就《つい》ては|善《ぜん》か|悪《あく》か、|吉《きち》か|凶《きよう》か、|普通《ふつう》のお|使《つかい》ではあるまい、なア|馬公《うまこう》、どうしたら|宜《よ》からうなア』
『|荘重《さうちよう》な|語気《ごき》だな、|今日《けふ》は|大神様《おほかみさま》の|代理権《だいりけん》を|以《もつ》て|来《き》て|居《を》るのだと|見《み》えて、いつもとは|言霊《ことたま》の|響《ひび》きが|何処《どこ》とは|無《な》しに|森厳《しんげん》だぞ』
『|何《なに》、アンナ|事《こと》を|云《い》つて|洒落《しやれ》てるのだよ。|大変《たいへん》な|用向《ようむ》きがある|様《やう》な|語調《ごてう》で|吾々《われわれ》を|威喝《ゐかつ》しようと|思《おも》つて|居《ゐ》るのだ。|何《なに》、|心配《しんぱい》する|事《こと》はないさ、|大山《たいざん》|鳴動《めいどう》して|鼠《ねずみ》|一匹《いつぴき》|位《くらゐ》なものだ。アハヽヽヽ』
|亀彦《かめひこ》『|早《はや》く|開《あ》けぬか、|何《なに》をぐづぐづ|致《いた》して|居《を》るぞ』
|鹿公《しかこう》『ヨオ|高圧的《かうあつてき》に|大袈裟《おほげさ》に|出《で》やがつたな、これでは|吾々《われわれ》|両人《りやうにん》にては|一寸《ちよつと》|解決《かいけつ》がつき|難《にく》い、|若彦《わかひこ》の|大将《たいしやう》に|一寸《ちよつと》|相談《さうだん》して|見《み》ようか』
|馬公《うまこう》『それが|宜《よ》からう』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら|若彦《わかひこ》の|居間《ゐま》に|立《た》ち|入《い》り|肩《かた》を|揺《ゆす》つて、
『モシモシ|若彦《わかひこ》さまか、|青彦《あをひこ》さまか、どちらを|云《い》つて|宜《よ》いのか|知《し》らぬが|一寸《ちよつと》|起《お》きて|下《くだ》さい。|門口《かどぐち》に|大変《たいへん》な|者《もの》が|現《あら》はれました。サアサア|早《はや》く|起《お》きたり|起《お》きたり』
『|誰《たれ》かと|思《おも》へば|馬公《うまこう》ぢやないか。|夜《よる》の|夜中《よなか》に|何《なに》を|喧《やかま》しう|云《い》ふのだい』
『イエイエ|急《きふ》な|事件《じけん》が|突発《とつぱつ》しました。|素盞嗚大神《すさのをのおほかみ》|様《さま》の|御心《みこころ》により|英子姫《ひでこひめ》|様《さま》より|御直使《おぢきし》として、|亀彦《かめひこ》の|宣伝使《せんでんし》が|見《み》えました』
|若彦《わかひこ》『|何《なに》、|亀彦《かめひこ》の|宣伝使《せんでんし》が|見《み》えたと、|何《なん》と|遅《おそ》かつたな、もう|英子姫《ひでこひめ》|様《さま》よりお|褒《ほ》めの|言葉《ことば》が|下《さが》るか|下《さが》るかと|指折《ゆびを》り|数《かぞ》へて、|紫姫《むらさきひめ》を|始《はじ》め|吾々《われわれ》|一同《いちどう》は|首《くび》を|伸《の》ばして|待《ま》つて|居《ゐ》たのだ。|馬公《うまこう》|喜《よろこ》べ|屹度《きつと》|御褒美《ごほうび》を|頂戴《ちやうだい》するのだらう』
『それは|有難《ありがた》い、ソンナラ|開《あ》けませうか』
『|一寸《ちよつと》|待《ま》つて|呉《く》れ、|寝間《ねま》を|片付《かたづ》け、|其処《そこ》いらを|掃除《さうぢ》してそれから|御這入《おはい》りを|願《ねが》はないと、こう|散《ちら》けては|御直使《おぢきし》に|対《たい》して|御無礼《ごぶれい》だ。モシモシ|紫姫《むらさきひめ》さま、お|玉《たま》さま、|早《はや》く|起《お》きて|下《くだ》さい、|英子姫《ひでこひめ》|様《さま》のお|使《つかい》として|亀彦《かめひこ》の|宣伝使《せんでんし》が|只今《ただいま》|見《み》えました』
|紫姫《むらさきひめ》『ア、さうですか、そりや|大変《たいへん》です、|困《こま》つた|事《こと》になりましたねエ』
『あれだけの|吾々《われわれ》は|苦心惨憺《くしんさんたん》を|重《かさ》ね|玉照姫《たまてるひめ》|様《さま》を|三五教《あななひけう》へお|迎《むか》へ|申《まを》したのだから、|褒《ほ》めて|貰《もら》ふ|事《こと》はあつてもお|咎《とが》めを|蒙《かうむ》る|様《やう》な|道理《だうり》がない。|御心配《ごしんぱい》なさいますな、|何程《なにほど》|立派《りつぱ》な|神人《しんじん》ぢやと|云《い》つても、|女《をんな》は|矢張《やつぱ》り|女《をんな》だナア、そンな|取越苦労《とりこしくらう》はするものぢやありませぬよ』
『それでも|何《なん》だか|気掛《きがか》りでなりませぬワ。|何《なに》は|兎《と》もあれ、|早《はや》く|室内《しつない》を|片《かた》づけて|這入《はい》つて|貰《もら》ひませう』
と|一同《いちどう》は|夜着《よぎ》を|片付《かたづ》け、|綺麗《きれい》に|掃除《さうぢ》をなし|終《をは》り、
|若彦《わかひこ》『サア|準備《じゆんび》は|出来《でき》た、|馬公《うまこう》、|鹿公《しかこう》、|表《おもて》を|開《あ》けて|亀彦《かめひこ》さまを|御案内《ごあんない》|申《まを》したがよからう』
|馬《うま》、|鹿《しか》の|両人《りやうにん》は|畏《かしこ》まりましたと|表戸《おもてど》をサラリと|開《あ》け、|驚《おどろ》いたのは|両人《りやうにん》、|亀彦《かめひこ》の|宣伝使《せんでんし》は|威儀《ゐぎ》|儼然《げんぜん》として|金色《こんじき》の|冠《かむり》を|頂《いただ》き、|夜光《やくわう》の|宝玉《ほうぎよく》|四辺《あたり》を|照《て》らし、|薄《うす》き|絹《きぬ》の|袖《そで》|長《なが》き|白衣《びやくい》を|着《ちやく》し、|入口《いりぐち》|狭《せま》しと|悠々《いういう》と|進《すす》み|入《い》り、|二人《ふたり》に|一揖《いちいふ》し、つかつかと|奥《おく》の|間《ま》に|進《すす》み、|玉照姫《たまてるひめ》の|御前《みまへ》に|端坐《たんざ》し、|拍手《はくしゆ》|再拝《さいはい》、|神言《かみごと》を|奏《そう》し|終《をは》り|正座《しやうざ》に|着《つ》きける。
|紫姫《むらさきひめ》は|手《て》を|突《つ》ひて、
『これはこれは|亀彦《かめひこ》の|宣伝使《せんでんし》|様《さま》、|否《いな》、|英子姫《ひでこひめ》|様《さま》の|御直使《おぢきし》|様《さま》、|夜陰《やいん》といひ|遠方《ゑんぱう》の|処《ところ》、ようこそ|御入来《ごじゆらい》|下《くだ》さいました。|御用《ごよう》の|趣《おもむき》|仰《あふ》せ|聞《き》けられ|下《くだ》さいませ』
|亀彦《かめひこ》は|威儀《ゐぎ》を|正《ただ》し、
『|今日《けふ》|只今《ただいま》|此《この》|館《やかた》に|参《まゐ》りしは|余《よ》の|儀《ぎ》では|厶《ござ》らぬ。|此《この》|度《たび》|其《その》|方《はう》|紫姫《むらさきひめ》を|始《はじ》め|若彦《わかひこ》の|行為《かうゐ》に|就《つ》いて|神素盞嗚大神《かむすさのをのおほかみ》|様《さま》、|以《もつ》ての|外《ほか》の|御不興《ごふきよう》、|英子姫《ひでこひめ》|様《さま》に|御神示《ごしんじ》あらせられたれば、|亀彦《かめひこ》ここに|英子姫《ひでこひめ》の|命《みこと》の|直使《ぢきし》としてわざわざ|参《まゐ》りたり』
|紫姫《むらさきひめ》、|若彦《わかひこ》はハツと|両手《りやうて》をつき、
『これはこれは|御直使《おぢきし》|様《さま》|御苦労《ごくらう》に|存《ぞん》じます。|御用《ごよう》の|趣《おもむき》、|速《すみやか》にお|聞《き》かせ|下《くだ》さいませ』
『|其《その》|方《はう》|事《こと》は|神界経綸《しんかいけいりん》の|玉照姫《たまてるひめ》を|天地《てんち》の|律法《りつぱう》を|忘却《ばうきやく》し、|権謀術数《けんぼうじゆつすう》の|秘策《ひさく》を|用《もち》ゐ、|反間苦肉《はんかんくにく》の|策《さく》を|以《もつ》て|目的《もくてき》を|達《たつ》したる|事《こと》|神意《しんい》に|叶《かな》はず、|彼《か》れ|玉照姫《たまてるひめ》の|神《かみ》は、|一旦《いつたん》、ウラナイ|教《けう》の|黒姫《くろひめ》に|与《あた》ふべきものなり。|一時《いちじ》も|早《はや》く|玉照姫《たまてるひめ》|様《さま》|及《およ》びお|玉《たま》を|黒姫《くろひめ》の|手許《てもと》に|送《おく》り、|汝等《なんぢら》は|此《この》|責任《せきにん》を|負《お》ひて|宣伝使《せんでんし》の|職《しよく》を|去《さ》るべし、との|厳命《げんめい》で|御座《ござ》る』
と|厳《おごそ》かに|云《い》ひ|渡《わた》したり。
|紫姫《むらさきひめ》は|顔《かほ》を|赤《あか》らめ、
『|実《じつ》に|理義《りぎ》|明白《めいはく》なる|御直使《おぢきし》のお|言葉《ことば》、|妾《わらは》|不徳《ふとく》の|致《いた》す|処《ところ》、|今《いま》となつては|最早《もはや》|弁解《べんかい》の|辞《じ》も|御座《ござ》いませぬ。|謹《つつし》みてお|受《う》け|致《いた》します』
『モシモシ|紫姫《むらさきひめ》さま、|此《この》|若彦《わかひこ》を|差《さ》し|置《お》き、さうづけづけと【もの】を|仰有《おつしや》つては|後《あと》の|結《むす》びがつきませぬ。|仮令《たとへ》|権謀術数《けんぼうじゆつすう》の|策《さく》にもしろ|五六七《みろく》|神政《しんせい》の|貴《うづ》の|御宝《おんたから》、|玉照姫《たまてるひめ》の|生御霊《いくみたま》を|三五教《あななひけう》に|迎《むか》へ|奉《たてまつ》りたる|抜群《ばつぐん》の|功名《こうみやう》|手柄《てがら》、|御賞詞《ごしやうし》こそ|頂《いただ》くべきに、|却《かへ》つて|吾々《われわれ》の|職《しよく》を|免《めん》じ、|剰《あま》つさへ|玉照姫《たまてるひめ》|様《さま》を|黒姫《くろひめ》に|渡《わた》せとは|大神様《おほかみさま》|始《はじ》め|英子姫《ひでこひめ》|様《さま》の|御言葉《おことば》とも|覚《おぼ》えませぬ。オイ、コラ|亀彦《かめひこ》、|貴様《きさま》は|吾々《われわれ》の|成功《せいこう》を|嫉《ねた》み、|左様《さやう》な|事《こと》を|申《まを》すのであらう。|否《いな》、|汝《なんぢ》の|本守護神《ほんしゆごじん》より|出《い》でたる|世迷《よま》ひ|言《ごと》ではあるまい、|屹度《きつと》|副守護神《ふくしゆごじん》の|悪戯《いたづら》ならむ。|只今《ただいま》|若彦《わかひこ》が|神霊《しんれい》|注射《ちうしや》を|行《おこな》ひ、|汝《なんぢ》に|憑依《ひようい》せる|悪魔《あくま》を|現《あら》はし|呉《く》れむ』
と|早《はや》くも|両手《りやうて》を|組《く》みウンと|一声《ひとこゑ》|霊縛《れいばく》を|加《くは》へむとするや、|亀彦《かめひこ》の|背後《はいご》より|煙《けぶり》の|如《ごと》く|忽然《こつぜん》として|顕《あら》はれ|給《たま》うた|光華明彩《くわうくわめいさい》|六合《りくがふ》を|照徹《せうてつ》する|許《ばか》りの|女神《めがみ》|顕《あら》はれ|給《たま》ひ、|若彦《わかひこ》が|面《おもて》を|射《い》させ|給《たま》ひぬ。|紫姫《むらさきひめ》、|若彦《わかひこ》は|身体《しんたい》|萎縮《ゐしゆく》し|其《その》|場《ば》に|畏伏《ゐふく》しワナワナと|震《ふる》ひ|戦《をのの》き、|涙《なみだ》に|畳《たたみ》を|潤《うるほ》すに|至《いた》りぬ。|亀彦《かめひこ》は|顔色《がんしよく》を|和《やは》らげ、
『|英雄《えいゆう》|涙《なみだ》を|振《ふる》つて|馬稷《ばしよく》を|斬《き》るとは|神素盞嗚大神《かむすさのをのおほかみ》、|英子姫《ひでこひめ》|様《さま》の|御心事《ごしんじ》、さり|乍《なが》ら|汝《なんぢ》よく|直日《なほひ》に|見直《みなほ》し|聞《き》き|直《なほ》し、|奇魂《くしみたま》の|覚《さと》りによりて|此《この》|大望《たいもう》を|完全《くわんぜん》に|遂行《すゐかう》せば、|再《ふたた》び|神業《しんげふ》に|参加《さんか》する|事《こと》を|得《え》む』
と|稍《やや》|俯《うつ》むき、|同情《どうじやう》の|涙《なみだ》を|流《なが》しつつ|女神《めがみ》と|共《とも》に、|亀彦《かめひこ》の|姿《すがた》は|忽然《こつぜん》として|此《この》|場《ば》より|消《き》えにける。|玉照姫《たまてるひめ》の|泣《な》き|給《たま》ふ|声《こゑ》は|此《この》|時《とき》より|時々刻々《じじこくこく》に|烈《はげ》しくなり|来《き》たれり。
お|玉《たま》『|玉照姫《たまてるひめ》|様《さま》、どうぞ|御機嫌《ごきげん》を|直《なほ》して|下《くだ》さいませ。|何《なに》かお|気障《きざは》りが|御座《ござ》いますか。|幾重《いくへ》にも|御詫《おわび》|致《いた》します』
と|頭《かしら》を|畳《たたみ》にすり|付《つ》け|詫入《わびい》る。
『|紫姫《むらさきひめ》さま、|大変《たいへん》な|事《こと》になりましたねエ。|若彦《わかひこ》はどう|致《いた》したら|宜《よろ》しいのでせう』
『|仕方《しかた》がありませぬ、|成功《せいこう》を|急《いそ》ぐの|余《あま》り|無理《むり》をやつたものですから、|何程《なにほど》|目的《もくてき》は|手段《しゆだん》を|選《えら》ばずといつても、それは|俗人《ぞくじん》の|為《な》すべき|事《こと》、|吾々《われわれ》|宣伝使《せんでんし》の|分際《ぶんざい》として|余《あま》り|立派《りつぱ》な|行動《かうどう》をやつたとは|云《い》はれますまい。|吾々《われわれ》|両人《りやうにん》を|殊勲者《しゆくんしや》として|大神様《おほかみさま》より|賞詞《しやうし》さるる|様《やう》な|事《こと》あらば、それこそ|三五教《あななひけう》の|生命《せいめい》は|茲《ここ》に|全《まつた》く|滅亡《めつぼう》を|告《つ》げ、ウラル|教《けう》となつて|了《しま》ひませう。アヽ|大神様《おほかみさま》の|御言葉《おことば》には|千《せん》に|一《ひと》つもあだは|御座《ござ》いませぬ。|是《これ》よりは|前非《ぜんぴ》を|悔《く》い|身魂《みたま》を|研《みが》いて|本当《ほんたう》の|宣伝使《せんでんし》にならなくちやなりませぬ。|玉照姫《たまてるひめ》|様《さま》のあの|御泣《おンな》き|声《ごゑ》、|御神慮《ごしんりよ》に|叶《かな》つて|居《ゐ》ないのは|当然《たうぜん》です』
『エヽ|仕方《しかた》がありませぬなア』
|馬公《うまこう》は、(|小声《こごゑ》で)
『オイ|鹿公《しかこう》、|梟鳥《ふくろどり》の|宵企《よひだく》み、|夜食《やしよく》に|外《はづ》れて|難《むつ》かしい|顔《かほ》を|致《いた》すぞよ。ドンナ|良《よ》い|事《こと》でも|誠《まこと》で|致《いた》した|事《こと》でなければ、|毛筋《けすぢ》の|横巾《よこはば》|程《ほど》でも|悪《あく》が|混《まじ》りたら、|物事《ものごと》|成就《じやうじゆ》|致《いた》さぬぞよ、と|云《い》ふ|三五教《あななひけう》の|御神諭《ごしんゆ》を|知《し》つて|居《を》るか』
『ウン、いつか|聞《き》いた|様《やう》に|思《おも》ふ。ナント|神様《かみさま》といふものは|七難《しちむつ》かしい|事《こと》を|仰有《おつしや》るものだな。|三千世界《さんぜんせかい》を|自由《じいう》になさる|大神様《おほかみさま》が、ソンナ|小《ちひ》さい|事《こと》をゴテゴテ|仰有《おつしや》る|様《やう》では|神政成就《しんせいじやうじゆ》も|覚束《おぼつか》ないワイ。|然《しか》し|乍《なが》ら|若彦《わかひこ》さまや、|吾々《われわれ》の|師匠《ししやう》と|仰《あふ》ぎ|主人《しゆじん》と|崇《あが》むる|紫姫《むらさきひめ》|様《さま》|迄《まで》が、|御退職《ごたいしよく》なさる|以上《いじやう》は|吾々《われわれ》とても|同《おな》じ|事《こと》だ。|何《なん》とか|考《かんが》へないと|馬鹿《うましか》な|目《め》に|遭《あ》はねばならぬぞ』
『モシモシ|若彦《わかひこ》さま、|紫姫《むらさきひめ》さま、|御目出度《おめでた》う、お|祝《いは》ひ|致《いた》します』
|鹿公《しかこう》は|慌《あは》てて|馬公《うまこう》の|口《くち》に|手《て》を|当《あ》て、
『コラコラ|馬公《うまこう》|何《なに》を|云《い》ふのだ、|些《ちつ》と|失礼《しつれい》ぢやないか』
『|馬公《うまこう》、よう|云《い》ふて|下《くだ》さつた。|本当《ほんたう》にコンナ|目出度《めでた》い|事《こと》はありませぬワ。|今日《こんにち》|只今《ただいま》|始《はじ》めて|臍下丹田《したついはね》の|天《あま》の|岩戸《いはと》が|開《ひら》けました。これから|本当《ほんたう》の|真如《しんによ》の|日月《じつげつ》が|現《あら》はれませう。お|互《たがひ》|様《さま》にお|目出度《めでた》う|存《ぞん》じます』
|若彦《わかひこ》は|拍手《かしはで》を|打《う》つて、
『|大神様《おほかみさま》|有難《ありがた》う|御座《ござ》います。|愈《いよいよ》|私《わたくし》も|心天《しんてん》の|妖雲《えううん》が|晴《は》れました』
と|感謝《かんしや》の|辞《じ》を|涙《なみだ》と|共《とも》に|述《の》べたて|居《ゐ》る。
|玉照姫《たまてるひめ》は|何《なん》とも|形容《けいよう》の|出来《でき》ない|美《うる》はしき|顔色《かほいろ》にて、|御機嫌斜《ごきげんななめ》ならずニコニコと|笑《わら》ひ|始《はじ》め|給《たま》ひ、お|玉《たま》は|嬉《うれ》し|泣《な》きに|泣《な》き|入《い》る。
|馬公《うまこう》、|鹿公《しかこう》|二人《ふたり》は|互《たがひ》に|顔《かほ》を|見合《みあは》せ、
『ハテ|合点《がてん》がゆかぬ。こりやマアどうなり|往《ゆ》くのであらうかな』
|紫姫《むらさきひめ》、|若彦《わかひこ》は|今後《こんご》|果《はた》して|如何《いか》なる|行動《かうどう》に|出《い》づるならむか。
(大正一一・五・六 旧四・一〇 藤津久子録)
第二篇 |意外《いぐわい》の|意外《いぐわい》
第五章 |零敗《ゼロはい》の|苦《く》〔六五〇〕
|炎熱《えんねつ》|火房《くわばう》に|坐《ざ》するが|如《ごと》く、|釜中《ふちう》に|在《あ》るが|如《ごと》き|酷暑《こくしよ》の|空《そら》、|雲路《くもぢ》を|別《わ》けて|降《くだ》り|来《く》る|一隻《いつせき》の|飛行船《ひかうせん》は、フサの|国《くに》|北山村《きたやまむら》のウラナイ|教《けう》が|本山《ほんざん》の|広庭《ひろには》に|無事《ぶじ》|着陸《ちやくりく》したり。|魔我彦《まがひこ》、|蠑〓別《いもりわけ》の|二人《ふたり》は|此《この》|音《おと》に|驚《おどろ》き、|高姫《たかひめ》の|御帰館《ごきくわん》なりと、|取《と》るものも|取敢《とりあへ》ず、|表《おもて》に|駆《か》け|出《だ》し|見《み》れば、|高姫《たかひめ》は|眼《まなこ》|釣《つ》り、|得《え》も|謂《ゐ》はれぬ|凄《すさま》じき|形相《ぎやうさう》し|乍《なが》ら、|鶴《つる》、|亀《かめ》の|両人《りやうにん》を|伴《ともな》ひ、|船《ふね》より|出《い》で|来《きた》り、
『アヽ|蠑〓別《いもりわけ》さま、|留守中《るすちう》|大儀《たいぎ》で|御座《ござ》いました。|別《べつ》に|変《かは》つた|事《こと》は|有《あ》りませなンだかな』
『ハイ、たいした|変《かは》りは|有《あ》りませぬが、|二三日《にさんにち》|以前《いぜん》より、|何《なん》とも|知《し》れぬ|太白星《たいはくせい》の|様《やう》な|光《ひかり》を|発《はつ》した|光玉《くわうぎよく》、|夜半《やはん》の|頃《ころ》になると、|大音響《だいおんきやう》を|立《た》て、|庭前《ていぜん》に|落下《らくか》する|事《こと》|屡《しばしば》で|有《あ》ります』
『それは|大変《たいへん》な|吉祥《きちしやう》だ。|併《しか》し|其《その》|玉《たま》はどうなさつたか』
|魔我彦《まがひこ》は|丁重《ていちよう》に|首《くび》を|下《さ》げ、
『|毎朝《まいあさ》|早《はや》くより、|綿密《めんみつ》に|調《しら》べて|見《み》ましたが、|別《べつ》に|此《こ》れと|云《い》ふものも|落《おち》て|居《を》らず、|又《また》|何《なん》の|形跡《けいせき》も|残《のこ》つて|居《ゐ》ませぬ』
『それは|不思議《ふしぎ》な|事《こと》だ。いづれ|何《なに》か|結構《けつこう》な|事《こと》が|有《あ》るでせう』
|蠑〓別《いもりわけ》『|紫《むらさき》の|雲《くも》の|出所《でどころ》は|分《わか》りましたか。|定《さだ》めて|良結果《りやうけつくわ》を|得《え》られたでせう。|万事《ばんじ》|抜目《ぬけめ》も|無《な》いあなたの|事《こと》ですから、|大成功《だいせいこう》|疑《うたがひ》なしと、|館内《くわんない》|一同《いちどう》の|者《もの》は|貴方《あなた》の|御帰《おかへ》りを|今《いま》か|今《いま》かと|首《くび》を|長《なが》くして|待《ま》つて|居《ゐ》ました。どうぞ|早《はや》く|奥《おく》へお|這入《はい》り|下《くだ》さいまして、|結構《けつこう》な|御土産話《おみやげばなし》を、|一同《いちどう》に|聞《き》かして|下《くだ》さいませ』
|高姫《たかひめ》『………』
|魔我彦《まがひこ》『コレコレ|蠑〓別《いもりわけ》さま、|大切《たいせつ》な|神界《しんかい》の|御経綸《ごけいりん》、|玄関口《げんくわんぐち》で|尋《たづ》ねると|云《い》ふ|事《こと》があるものか、|高姫《たかひめ》|様《さま》が|沈黙《ちんもく》なさるも|当然《たうぜん》だ』
|蠑〓別《いもりわけ》『ア、それもさうでした。|高姫《たかひめ》さま、サア|奥《おく》へ|御案内《ごあんない》|致《いた》しませう』
|高姫《たかひめ》は|奥《おく》に|入《い》る。|一同《いちどう》は|俄《にはか》に|上《うへ》を|下《した》へと、バタバタ|歓迎《くわんげい》の|準備《じゆんび》に|多忙《たばう》を|極《きは》め|居《ゐ》る。
|高姫《たかひめ》『|今日《けふ》は|無事《ぶじ》に|墜落《つゐらく》もせず、|遥々《はるばる》と|帰《かへ》つて|来《き》たのだから、|御神前《ごしんぜん》にお|神酒《みき》を|沢山《たくさん》に|献上《けんじやう》し、|種々《いろいろ》の|御馳走《ごちそう》をお|供《そな》へ|申《まを》し、ゆつくり|直会《なほらひ》の|宴《えん》でも|張《は》つて|下《くだ》さい。あまり|急速力《きふそくりよく》で|帰《かへ》つて|来《き》ましたので、|妾《わたし》は|少《すこ》し|許《ばか》り|頭痛気味《づつうぎみ》だから、|奥《おく》へ|往《い》つて|二三日《にさんにち》ユツクリ|休息《きうそく》を|致《いた》します』
|蠑〓別《いもりわけ》『ア、それはさうでせう。|併《しか》し|乍《なが》ら|御休《おやす》みになれば、お|尋《たづ》ね|申《まを》す|訳《わけ》にもゆかず、|一寸《ちよつと》|端緒《たんちよ》なりと、|一口《ひとくち》|仰有《おつしや》つて|下《くだ》さいませいナ』
|高姫《たかひめ》『|神界《しんかい》の|御経綸《おしぐみ》、|秘密《ひみつ》は|何処《どこ》までも|秘密《ひみつ》ぢや。|今《いま》は|御神命《ごしんめい》に|依《よ》りて|言《い》ふ|事《こと》が|出来《でき》ませぬ……コレ|鶴《つる》に、|亀《かめ》、お|前《まへ》も|休《やす》みなさい。|種々《いろいろ》の|事《こと》を|言《い》ふではないよ』
|鶴公《つるこう》『|私《わたし》はチツトも|疲労《ひらう》して|居《を》りませぬ。|別《べつ》に|休《やす》む|必要《ひつえう》も|御座《ござ》いませぬから、ゆつくりと|貴方《あなた》に|代《かは》はつて、|亀《かめ》と|二人《ふたり》が|交《かは》る|交《がは》る、|一切《いつさい》の|大失敗《だいしつぱい》……ウン……オツトドツコイ|顛末《てんまつ》を|演説《えんぜつ》|致《いた》しませうか』
|高姫《たかひめ》『コレコレ|鶴《つる》、|亀《かめ》、|鶴《つる》は|千年《せんねん》、|亀《かめ》は|万年《まんねん》と|云《い》ふ|事《こと》が|有《あ》るぢやないか。|鶴《つる》には|千年《せんねん》の|間《あひだ》|箝口令《かんこうれい》を|布《し》く。|亀《かめ》には|一万年《いちまんねん》が|間《あひだ》|箝口令《かんこうれい》を|布《し》く…』
|鶴公《つるこう》『モシ|高姫《たかひめ》さま、|千年《せんねん》も|箝口令《かんこうれい》を|布《し》かれては、|唖《おし》も|同様《どうやう》ですから、そればつかりは|取消《とりけし》を|願《ねが》ひます』
|高姫《たかひめ》『イヤ、|今度《こんど》の|事《こと》に|関《くわん》してのみ|箝口令《かんこうれい》を|布《し》くのだよ。|其《その》|外《ほか》の|事《こと》はお|前《まへ》の|勝手《かつて》だ。|紫《むらさき》の|雲《くも》に|関《くわん》した|秘密《ひみつ》の|件《けん》だけは|言《い》うてはならない。|時節《じせつ》が|来《き》たならば、|高姫《たかひめ》が|皆《みな》に|披露《ひろう》するから、サア|鶴《つる》、|亀《かめ》、お|前《まへ》も|永《なが》らくお|供《とも》をして|呉《く》れて、|辛《つら》かつただらう。|二三日《にさんにち》、|誰《たれ》も|居《を》らぬ|所《とこ》へ|往《い》つてユツクリと|遊《あそ》びて|来《き》なさい、|又《また》いろいろの|事《こと》を|喋舌《しやべ》ると|煩雑《うるさ》いからな。……|蠑〓別《いもりわけ》さま、|魔我彦《まがひこ》さま、それなら|失礼《しつれい》|致《いた》します。どうぞユツクリ|酒《さけ》でも|飲《の》み、|皆《みな》さまと|仲《なか》よく、|神恩《しんおん》を|感謝《かんしや》して|下《くだ》さい。|妾《わたし》は|何《なん》だか|頭痛《づつう》がして、モウこれつきり|暫《しばら》く|言《い》ひませぬから』
と|襖《ふすま》を|引開《ひきあ》け|奥《おく》の|間《ま》に|力《ちから》|無《な》げに|進《すす》み|入《い》り、|中《なか》より|固《かた》く|鍵《かぎ》をかけて|了《しま》ひけり。
|蠑〓別《いもりわけ》『サア|皆《みな》さま、これから|祭典《さいてん》を|執行《しつかう》し、|終《をは》つて|直会《なほらひ》の|宴《えん》だ。|今日《けふ》は|酒《さけ》の|飲《の》み|満足《たんのう》だ。|併《しか》し|酒《さけ》を|飲《の》むのはいいが、|酒《さけ》に|呑《の》まれない|様《やう》にして|下《くだ》さいよ』
|甲《かふ》『|蠑〓別《いもりわけ》の|大将《たいしやう》、あなたこそ|何時《いつ》も|酒《さけ》に|呑《の》まれるでせう。|今日《けふ》はあなたから|十分《じふぶん》の|御警戒《ごけいかい》を|願《ねが》ひますで。|何分《なにぶん》|高姫《たかひめ》|様《さま》が|頭痛《づつう》を|起《おこ》してお|休《やす》みになつて|居《を》るのだから、あまり|大《おほ》きな|声《こゑ》を|出《だ》しては、お|体《からだ》に|障《さは》つちやなりませぬからなア』
|蠑〓別《いもりわけ》『きまつた|事《こと》だ。ソンナ|事《こと》に|抜《ぬ》かりの|有《あ》る|私《わし》だと|思《おも》つて|居《を》るか』
|祭典《さいてん》は|型《かた》の|如《ごと》く|厳粛《げんしゆく》に|行《おこな》ひ|了《をは》り、|一同《いちどう》は|別殿《べつでん》に|進《すす》み|入《い》り、|直会《なほらひ》の|宴《えん》に|現《うつつ》を|抜《ぬ》かし、そろそろ|酒《さけ》の|酔《ゑい》が|廻《まは》るにつれて、|喧騒《けんさう》を|極《きは》め|出《だ》したり。
|甲《かふ》『オイ|鶴《つる》、|随分《ずゐぶん》|愉快《ゆくわい》だつたらうなア。お|羨《うらや》ましい。|吾々《われわれ》もアヽ|云《い》ふお|供《とも》がして|見《み》たいワ』
|鶴公《つるこう》『|何《なに》を|云《い》うても、|大飛行船《だいひかうせん》に|乗《の》つて、|地上《ちじやう》の|森羅万象《しんらばんしやう》を|眼下《がんか》に|見《み》くだし、|空中《くうちう》|征服《せいふく》の|勇者《ゆうしや》になつて、|自転倒島《おのころじま》へ|渡《わた》るのだもの、|実《じつ》に|愉々快々《ゆゆくわいくわい》、|筆紙《ひつし》の|尽《つく》すべき|限《かぎ》りでは|無《な》かつたよ』
|甲《かふ》『|立派《りつぱ》に|目的《もくてき》は|達《たつ》しただらうな』
|鶴公《つるこう》『|勿論《もちろん》の|事《こと》、|途中《とちう》に|墜落《つゐらく》もなく、|立派《りつぱ》に|目的地《もくてきち》に|到達《たうたつ》したのだ』
|甲《かふ》『それは|定《き》まつて|居《ゐ》るが、モ|一《ひと》つの|肝腎要《かんじんかなめ》の|紫《むらさき》の|雲《くも》だ。それはどうなつたのだい』
|鶴公《つるこう》『|紫《むらさき》の|雲《くも》に|関《くわん》する|事《こと》は|千年間《せんねんかん》の|箝口令《かんこうれい》が|布《し》かれてあるから、|紫《むらさき》だけは|言《い》つて|呉《く》れな。|其《その》|代《かは》りに|玉照姫《たまてるひめ》の|一件《いつけん》は、|事《こと》に|依《よ》つたら|報告《はうこく》してやらう。|併《しか》し|乍《なが》らモウ|少《すこ》し|酒《さけ》が|廻《まは》らぬと、|巧《うま》く|言霊《ことたま》が|運転《うんてん》しないワイ。|一《ひと》つ|滑車《くわつしや》に|油《あぶら》を|注《つ》ぐのだな』
|亀公《かめこう》『コラコラ|鶴公《つるこう》、|紫《むらさき》の|雲《くも》に|関《くわん》する|事《こと》と|云《い》へば、|玉照姫《たまてるひめ》の|事《こと》だつて|言《い》はれぬぢやないか、|箝口令《かんこうれい》を|厳守《げんしゆ》せぬかい』
|鶴公《つるこう》『ナーニ、|紫《むらさき》の|雲《くも》の|事《こと》さへ|言《い》はなかつたら|良《い》いぢやないか。|皆《みな》の|御連中《ごれんちう》が|証人《しようにん》ぢや、ナア|蠑〓別《いもりわけ》さま、|高姫《たかひめ》さまはそう|仰有《おつしや》つただらう』
|蠑〓別《いもりわけ》『|兎《と》も|角《かく》、|成功話《せいこうばなし》を|言《い》つて|下《くだ》さい。|皆《みな》の|者《もの》が|待《ま》ちに|待《ま》つて|居《を》つたのだ』
|亀公《かめこう》『コラコラ|鶴《つる》、|滅多《めつた》の|事《こと》を|言《い》うではないぞ』
|鶴公《つるこう》『|貴様《きさま》は|酒《さけ》を|喰《くら》はぬから、|生真面目《きまじめ》で|仕方《しかた》がない。|融通《ゆうづう》の|利《き》かぬ|奴《やつ》だ。|高姫《たかひめ》|様《さま》のお|口《くち》からは、アンナ|事《こと》がどうしても|言《い》はれぬものだから、|俺達《おれたち》に|代《かは》はつて、|言《い》うではないぞと|仰有《おつしや》つたのは、|要《えう》するに|言《い》へと|云《い》ふ|事《こと》だよ。|別《べつ》に|俺《おれ》の|口《くち》で|俺《おれ》が|喋《しや》べるのに、|資本金《しほんきん》が|要《い》るのでもなし、|国税《こくぜい》を|納《をさ》める|心配《しんぱい》も|要《い》らぬのだから……|俺《おれ》は|俺《おれ》の|自由《じいう》の|権《けん》を|発揮《はつき》するのだ』
|亀公《かめこう》『ソンナラお|前《まへ》の|勝手《かつて》にしたがよいワイ。|俺《おれ》だけは|何処《どこ》までも|沈黙《ちんもく》を|守《まも》るから…』
|鶴《つる》は|酒《さけ》にグタグタに|酔《よ》ひ、|傲然《ごうぜん》として|肱《ひぢ》を|張《は》り、
|鶴公《つるこう》『|今日《けふ》の|鶴公《つるこう》は、|要《えう》するに|高姫《たかひめ》|様《さま》の|代言者《だいげんしや》ぢや。さう|心得《こころえ》て|謹聴《きんちやう》しなさい、エヘン、
フサの|国《くに》をば|後《あと》にして |雲井《くもゐ》の|空《そら》を|高姫《たかひめ》が
|翼《つばさ》ひろげて|鶴亀《つるかめ》の |二人《ふたり》の|勇士《ゆうし》を|伴《ともな》ひつ
|高山短山《たかやまひきやま》|下《した》に|見《み》て |大海原《おほうなばら》を|打渡《うちわた》り
|自転倒島《おのころじま》にゆらゆらと |降《くだ》り|着《つ》いたは|由良湊《ゆらみなと》
|魔窟ケ原《まくつがはら》へテクテクと |三人《さんにん》|駒《こま》を|並《なら》べつつ
|黒姫館《くろひめやかた》に|立入《たちい》りて |委細《ゐさい》の|様子《やうす》を|尋《たづ》ぬれば
|弥仙《みせん》の|山《やま》の|裾野原《すそのはら》 |賤《しづ》が|伏家《ふせや》に|世《よ》を|忍《しの》ぶ
|豊彦《とよひこ》|夫婦《ふうふ》の|館《やかた》より |色《いろ》も|芽出度《めでた》き|訝《いぶ》かしの
|雲《くも》|立《た》ち|昇《のぼ》り|玉照姫《たまてるひめ》の |神《かみ》の|命《みこと》の|神人《しんじん》が
|現《あら》はれました|事《こと》の|由《よし》 |聞《き》いたる|時《とき》の|嬉《うれ》しさよ
|黒姫司《くろひめつかさ》は|逸早《いちはや》く |千変万化《せんぺんばんくわ》の|手《て》を|尽《つく》し
|紫姫《むらさきひめ》や|青彦《あをひこ》の |二人《ふたり》の|勇士《ゆうし》に|一任《いちにん》し
|玉照姫《たまてるひめ》をウラナイの |教《をしへ》の|道《みち》の|本山《ほんざん》に
|迎《むか》へむものと|気《き》を|配《くば》り |心《こころ》を|尽《つく》す|妙案《めうあん》|奇策《きさく》
どうした|拍子《へうし》の|瓢箪《へうたん》か ガラリと|外《はづ》れて|三五《あななひ》の
|神《かみ》の|教《をしへ》の|間諜《まはしもの》 |紫姫《むらさきひめ》や|青彦《あをひこ》は
|手《て》の|掌《ひら》|返《かへ》す|情《なさけ》|無《な》さ |高姫司《たかひめつかさ》は|青筋《あをすぢ》を
|立《た》ててカツカと|怒《おこ》り|出《だ》す |高山彦《たかやまひこ》や|黒姫《くろひめ》は
ソロソロ|喧嘩《けんくわ》を|始《はじ》め|出《だ》す |此《この》|有様《ありさま》を|見《み》る|俺《おれ》は
|立《た》つても|坐《ゐ》ても|居《を》られない |気《き》の|毒《どく》さまと|申《まを》さうか
|愛想《あいさう》が|尽《つ》きたと|申《まを》さうか |言《い》ふに|謂《ゐ》はれぬ|為体《ていたらく》
これから|奥《おく》は|有《あ》るけれど |此《こ》れより|先《さき》は|神界《しんかい》の
|秘密《ひみつ》ぢや|程《ほど》にどうしても |紫姫《むらさきひめ》や|青彦《あをひこ》の
|誠《まこと》の|様子《やうす》は|話《はな》せない アヽ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|高山彦《たかやまひこ》や|黒姫《くろひめ》は さぞ|今頃《いまごろ》はブクブクと
|面《つら》を|膨《ふく》らし|燻《くすぶ》つて |互《たがひ》に|顔《かほ》を|睨《にら》み|鯛《たひ》
|目《め》を|釣《つ》り|腮《あご》|釣《つ》り|蛸《たこ》|釣《つ》つて |一悶錯《ひともんさく》の|最中《さいちう》だらう
モウモウコンナ|物語《ものがたり》 |飲《の》みし|酒《さけ》|迄《まで》|冷《ひ》えて|来《く》る
|三五教《あななひけう》は|日《ひ》に|月《つき》に |旭《あさひ》の|豊栄昇《とよさかのぼ》るごと
|玉照姫《たまてるひめ》の|神力《しんりき》で |宇内《うだい》へ|輝《かがや》き|渡《わた》るだらう
それに|引換《ひきか》へウラナイの |神《かみ》の|教《をしへ》はゴテゴテと
|貧乏《びんばふ》|世帯《しよたい》の|夕日影《ゆふひかげ》 |段々《だんだん》|影《かげ》が|薄《うす》くなり
|終局《しまひ》に|闇《やみ》となるで|有《あ》らう アヽ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|叶《かな》はぬ|時《とき》の|神頼《かみだの》み |鶴公司《つるこうつかさ》の|報告《はうこく》は
|先《ま》づ|先《ま》づザツと|此《この》|通《とほ》り』
|蠑〓別《いもりわけ》『オイ|鶴公《つるこう》、|真面目《まじめ》に|報告《はうこく》をせないか。ソンナ|馬鹿《ばか》な|事《こと》が|有《あ》つて|堪《たま》るものかい』
|鶴公《つるこう》『|堪《たま》つても|堪《たま》らいでも、|事実《じじつ》は|事実《じじつ》だ』
|蠑〓別《いもりわけ》『|仕方《しかた》がないなア』
|鶴公《つるこう》『エーもう|此《この》|鶴公《つるこう》は、|千年《せんねん》の|箝口令《かんこうれい》を|布《し》かれて|居《を》るが、|俺《おれ》の|副守護神《ふくしゆごじん》に|対《たい》しては|言論《げんろん》|自由《じいう》だ。……オイ|副守《ふくしゆ》の|奴《やつ》、チツと|酒《さけ》ばつかり|喰《くら》うて|居《を》らずに|発動《はつどう》せぬかい。|責任《せきにん》は|副守《ふくしゆ》が|負《お》ふのだよ。……|副守護神《ふくしゆごじん》が|現《あら》はれて|何《なに》から|何《なに》|迄《まで》|包《つつ》まず|隠《かく》さず|知《し》らすのであるから、|鶴公司《つるこうつかさ》は|何《なん》にも|知《し》らず、|高姫《たかひめ》|殿《どの》、|必《かなら》ず|必《かなら》ず|鶴公《つるこう》を|恨《うら》めて|下《くだ》さるなよだ、ヒヽン』
|魔我彦《まがひこ》『サア|副守先生《ふくしゆせんせい》、|細《こま》かく|仰有《おつしや》つて|下《くだ》さいませ』
|鶴公《つるこう》『ウーン、ウンウン、|此《この》|方《はう》は|鶴公《つるこう》の|肉体《にくたい》を|守護《しゆご》|致《いた》す|副守護神《ふくしゆごじん》のズル|公《こう》であるぞよ。|併《しか》し|乍《なが》ら|大体《だいたい》の|要領《えうりやう》は、|鶴公《つるこう》の|肉体《にくたい》が|申《まを》した|通《とほ》り、|今回《こんくわい》の|事件《じけん》は|全部《ぜんぶ》|高姫《たかひめ》さん|一派《いつぱ》の|零敗《ゼロはい》だ。|大当違《おほあてちがひ》の|大失策《おほしくじり》だ。それだから|頭痛《づつう》もせないのに|頭痛《づつう》がすると|言《い》つて、|此《この》|不利益《ふりえき》|極《きは》まる|報告《はうこく》を|避《さ》けたのだ。|何《いづ》れ|早晩《さうばん》|分《わか》る|事実《じじつ》だから、|隠《かく》したつて|仕方《しかた》がない。モウ、ウラナイ|教《けう》は|駄目《だめ》だ。バラモン|教《けう》は|間近《まぢか》まで|教線《けうせん》を|張《は》り、|猛烈《まうれつ》な|勢《いきほひ》でやつて|来《く》る。ウラル|教《けう》は|又《また》もや|蘇生《そせい》した|様《やう》に、|此《この》フサの|国《くに》を|中心《ちうしん》として|押寄《おしよ》せて|来《き》て|居《を》る。|三五教《あななひけう》も|其《その》|通《とほ》り。|三方《さんぱう》から|敵《てき》を|受《う》けて、どうして|此《この》|教《をしへ》が、|拡張《くわくちやう》|所《どころ》か|現状《げんじやう》|維持《ゐぢ》も|難《むづ》かしい。|日向《ひなた》に|氷《こほり》だ。|風前《ふうぜん》の|灯火《ともしび》だ。アツハヽヽヽ、|良《い》い|気味《きみ》だ。|世界一《せかいいち》の|黍団子《きびだんご》、|何程《なにほど》キビキビした|高姫《たかひめ》の|智嚢《ちなう》でも、|最早《もはや》|底叩《そこたた》きだ。|底抜《そこぬ》けの|大失策《だいしつさく》だ。|底抜《そこぬ》け|序《ついで》に|自棄酒《やけざけ》でも|飲《の》み、|底抜《そこぬ》け|騒《さわ》ぎをやつたがよからうぞよ。ウーン、ウン、もうズル|公《こう》はこれで|引取《ひきと》るぞよ。|蠑〓別《いもりわけ》、|魔我彦《まがひこ》、|好《すき》な|酒《さけ》でもズルズルベツタリに|飲《の》みたが|宜《よ》からうぞよ』
とグレンと|体《たい》をかわし、|汗《あせ》をブルブルかいて|正気《しやうき》に|返《かへ》つた|様《やう》な|姿《すがた》を|装《よそほ》ひ、
『|何《なん》だか|副守護神《ふくしゆごじん》が|仰有《おつしや》つたやうですな。|何《なん》と|言《い》はれました。|自分《じぶん》の|口《くち》で|言《い》つて|自分《じぶん》の|耳《みみ》へ|聞《きこ》えぬのだから、|大変《たいへん》に|不便利《ふべんり》だ。|知覚《ちかく》|精神《せいしん》を|忘却《ばうきやく》し、|大死一番《たいしいちばん》の|境《きやう》に|立《た》ち、|感覚《かんかく》を|蕩尽《たうじん》し、|意念《いねん》を|断滅《だんめつ》して、|仮死《かし》|状態《じやうたい》になつて|居《ゐ》たものだから、|言《い》うた|事《こと》がトンと|分《わか》らない。…|鶴公《つるこう》は|何《なに》も|知《し》らぬぞよ。|高姫《たかひめ》の|先生《せんせい》|殿《どの》、|屹度《きつと》|鶴公《つるこう》を|叱《しか》つて|下《くだ》さるなよ。|守護神《しゆごじん》が|口《くち》を|借《か》つた|許《ばか》りであるぞよ』
|甲《かふ》『アハヽヽヽ、|何《なに》は|兎《と》もあれ、|貴様《きさま》は|知《し》らな|知《し》らぬでよいワ。|副守護神《ふくしゆごじん》の|奴《やつ》、|鶴公《つるこう》が|全部《ぜんぶ》|言《い》つた|通《とほ》りだと|証明《しようめい》したよ。ヤツパリ|鶴公《つるこう》の|肉体《にくたい》に|責任《せきにん》があるのだ。…モシモシ|蠑〓別《いもりわけ》さま、|一寸先《いつすんさき》や|暗《やみ》の|夜《よ》だ。|飲《の》めよ|騒《さわ》げよと、ウラル|教《けう》もどきに|乱痴気《らんちき》|騒《さわ》ぎでもやりませうかい。チツト|位《くらゐ》|乱暴《らんばう》したつて、|劫腹癒《ごふばらい》やしだ。|今日《けふ》に|限《かぎ》つて、|高姫《たかひめ》さまだつて、|失敗《しつぱい》して|帰《かへ》つて|来《き》て、|吾々《われわれ》に|荘重《さうちよう》な|口調《くてう》を|以《もつ》て、|戒告《かいこく》を|与《あた》へる|事《こと》は|出来《でき》ますまい』
|亀公《かめこう》『|今《いま》|鶴公《つるこう》の|肉体《にくたい》の|言《い》つた|事《こと》も、ズル|公《こう》の|副守《ふくしゆ》の|言《い》つた|事《こと》も、|全然《ぜんぶ》|反対《はんたい》だ。お|前達《まへたち》を|驚《おどろ》かさうと|思《おも》つて、アンナ|芝居《しばゐ》をやりよつたのだ。|鶴《つる》|位《ぐらゐ》の|知《し》つた|事《こと》かい。|本当《ほんたう》の|事《こと》は|此《この》|亀公《かめこう》が|脳裡《なうり》に|秘《ひ》め|隠《かく》してあるのだ。|鶴《つる》と|云《い》ふ|奴《やつ》ア、ツルツルと|口《くち》が|辷《すべ》るから|本当《ほんたう》の|事《こと》は|知《し》らしてないのだよ。|屹度《きつと》|一道《いちだう》の|光明《くわうみやう》がウラナイ|教《けう》の|上《うへ》に|輝《かがや》いて|居《を》るのだから、さう|気投《きな》げをするものぢやない。|千秋万歳楽《せんしうばんざいらく》の|鶴亀《つるかめ》の|齢《よはひ》と|共《とも》に、|天《あま》の|岩戸《いはと》は|立派《りつぱ》に|開《ひら》けて|日《ひ》の|出神《でのかみ》|様《さま》の|御守護《ごしゆご》の|世《よ》となるのだ。|闇《やみ》の|後《あと》には|月《つき》が|出《で》る。|夜《よる》が|過《す》ぐれば|日《ひ》の|出《で》となるのは、|天地《てんち》の|真理《しんり》だ。|暗中《あんちう》|明《めい》あり、|明中《めいちう》|暗《あん》あり、|明暗交々《めいあんこもごも》|代《かは》り|行《ゆ》くは、|所謂《いはゆる》|神《かみ》の|摂理《せつり》だ。|人《ひと》は|得意《とくい》の|時《とき》に|屹度《きつと》|失望《しつばう》|落胆《らくたん》の|種《たね》を|蒔《ま》き、|不遇《ふぐう》の|境遇《きやうぐう》に|有《あ》る|時《とき》、|屹度《きつと》|光明《くわうみやう》|幸福《かうふく》の|因《いん》を|培《つちか》ひ|養《やしな》ふものだ。|何時《いつ》も|昼《ひる》ばつかり|有《あ》るものぢやない、|又《また》|暗黒《あんこく》な|夜《よ》ばかりでもない。|善悪不二《ぜんあくふじ》、|吉凶同根《きつきようどうこん》、|明暗一如《めいあんいちによ》、|禍福一途《くわふくいちづ》、|大楽観《だいらくくわん》の|中《なか》に|大苦観《だいくくわん》あり、|大苦観《だいくくわん》の|中《なか》に|大楽観《だいらくくわん》あり、|天国《てんごく》に|地獄《ぢごく》|交《まじ》はり、|地獄《ぢごく》に|天国《てんごく》|現《あら》はる。|有耶無耶《うやむや》の|世《よ》の|中《なか》だ。マアマア|心配《しんぱい》するな。コンナ|結構《けつこう》な|事《こと》は|無《な》いのだよ。|人《ひと》は|心《こころ》の|持様《もちやう》|一《ひと》つだ。ドンナ|苦《くる》しい|事《こと》でも、|観念《かんねん》|一《ひと》つで|大歓楽《だいくわんらく》と|忽《たちま》ち|一変《いつぺん》する|世《よ》の|中《なか》だ。|吁《あゝ》|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》』
と|拍手《はくしゆ》し、|祈願《きぐわん》を|凝《こ》らして|居《を》る。|高姫《たかひめ》は|此《この》|場《ば》に|手拭《てぬぐひ》にて|鉢巻《はちまき》し|乍《なが》ら、ノコノコと|現《あら》はれ|来《きた》り、
『ヤア|皆《みな》さま、お|元気《げんき》な|事《こと》、|親《おや》の|心《こころ》は|子《こ》|知《し》らず、|神《かみ》の|心《こころ》は|人間《にんげん》|知《し》らず。あなた|方《がた》は|実《じつ》に|羨《うらや》ましいお|身分《みぶん》だ。|妾《わたし》も|半時《はんとき》なりとあなた|方《がた》の|様《やう》な|気分《きぶん》になつて|見《み》たいワ』
|魔我彦《まがひこ》『|何分《なにぶん》に|重大《ぢうだい》なる|責任《せきにん》を|負担《ふたん》して|御座《ござ》る|貴女《あなた》の|事《こと》ですから、|御心中《ごしんちう》を|御察《おさつ》し|申《まを》します。|今回《こんくわい》の|遠路《ゑんろ》の|御旅行《ごりよかう》、さぞさぞお|疲《つか》れで|御座《ござ》いませう。それに|就《つ》いても|言《い》ふに|謂《ゐ》はれぬ|御苦心《ごくしん》が|有《あ》つた|様《やう》です。|玉照姫《たまてるひめ》は|到頭《たうとう》|三五教《あななひけう》に|取《と》られて|了《しま》つた|様《やう》ですなア』
|高姫《たかひめ》『エー、それは|誰《た》れが|言《い》つたのかなア』
|魔我彦《まがひこ》『ズル|公《こう》が|詳細《しやうさい》に|報告《はうこく》を|致《いた》しました。|併《しか》し|乍《なが》ら|失敗《しつぱい》は|成功《せいこう》の|基《もと》、|失敗《しつぱい》が|無《な》くては|経験《けいけん》が|積《つ》みませぬ。|即《すなは》ち|万世《ばんせい》に|残《のこ》る|大偉業《だいゐげふ》は|七転《ななころ》び|八起《やお》きと|云《い》うて、|幾度《いくど》も|失敗《しつぱい》を|重《かさ》ね、|鍛《きた》へ|上《あ》げねば|駄目《だめ》ですよ。イヤもう|御心中《ごしんちう》お|察《さつ》し|申《まを》します』
|高姫《たかひめ》『ヤアこれだけ|沢山《たくさん》な|宣伝使《せんでんし》や|信者《しんじや》がある|中《なか》に、|妾《わし》の|苦衷《くちゆう》を|察《さつ》して|呉《く》れる|者《もの》はお|前《まへ》だけだ、アヽ|妾《わし》もこれで|死《し》ンでも|得心《とくしん》だ。|千歳《せんざい》の|後《のち》に|一人《ひとり》の|知己《ちき》を|得《え》れば|満足《まんぞく》だと|覚悟《かくご》して|居《ゐ》たが、|現在《げんざい》|此処《ここ》に|一人《ひとり》の|知己《ちき》を|得《え》たか、アヽ|有難《ありがた》や、これと|云《い》ふのもウラナイ|教《けう》の|神様《かみさま》のお|蔭《かげ》…』
|鶴公《つるこう》『|知己《ちき》を|得《え》ましたか。|千歳《せんざい》の|後《のち》で|無《な》くて|今《いま》チキに|妙《めう》チキチンのチンチキチン、|心《こころ》の|曲《まが》つた|魔我彦《まがひこ》が|共鳴《きようめい》しましたのは、|実《じつ》に|上下一致《じやうげいつち》|天地合体《てんちがつたい》の|象徴《しやうちやう》でせう。|併《しか》しこれは|鶴公《つるこう》の|肉体《にくたい》に|守護《しゆご》|致《いた》すズル|公《こう》の|託宣《たくせん》ですから、|決《けつ》して|鶴公《つるこう》に|怒《おこ》つては|下《くだ》さるなよ。…|神《かみ》は|物《もの》は|言《い》はなンだが、|時節《じせつ》|参《まゐ》りて|鶴公《つるこう》の|口《くち》を|藉《か》りて|委細《ゐさい》の|事《こと》を|説《と》いて|聞《き》かすぞよ。ウンウンウン、ドスン……アーア|又《また》|何《なん》だか|憑依《ひようい》しよつたな。イヤ|副守《ふくしゆ》の|奴《やつ》|発動《はつどう》したと|見《み》える。|飛行機《ひかうき》に|乗《の》つて|空中《くうちう》を|征服《せいふく》し|乍《なが》ら、|意気《いき》|揚々《やうやう》とやつて|居《を》つたと|思《おも》へば、|俄《にはか》の|暴風《ばうふう》に|翼《よく》を|煽《あふ》られ、|地上《ちじやう》|目蒐《めが》けて|真《ま》つ|逆様《さかさま》に|顛落《てんらく》せしと|思《おも》ひきや、ウラナイ|教《けう》の|本山《ほんざん》、|八咫《やあた》の|大広間《おほひろま》の|酒宴《しゆえん》の|場席《ばせき》、アーア|助《たす》かつた|助《たす》かつた』
|高姫《たかひめ》『コレコレ|鶴公《つるこう》、ソンナ|偽神術《ぎしんじゆつ》をやつたつて、|此《この》|高姫《たかひめ》はチヤンと|審神《さには》をして|居《ゐ》ますよ。お|前《まへ》は|余程《よほど》|卑怯者《ひけふもの》だ。|残《のこ》らず|責任《せきにん》を|副守護神《ふくしゆごじん》に|転嫁《てんか》せうとするのだナ』
|鶴公《つるこう》『イエイエ|決《けつ》して|決《けつ》して、|臍下丹田《せいかたんでん》に|割拠《かつきよ》する|副守《ふくしゆ》の|発動《はつどう》です。どうぞ|此《この》|副守《ふくしゆ》を|何《なん》とかして|追《お》ひ|出《だ》して|下《くだ》さいな』
|高姫《たかひめ》『|蠑〓別《いもりわけ》さま、|魔我彦《まがひこ》さま、|鶴公《つるこう》の|臍下丹田《さいかたんでん》に|割拠《かつきよ》する|副守《ふくしゆ》の|奴《やつ》、|此《この》|短刀《たんたう》を|貸《か》してあげるから、|剔《えぐ》り|出《だ》してやつて|下《くだ》さい。|鶴公《つるこう》の|願《ねが》ひだから……ナア|鶴公《つるこう》、チツトは|痛《いた》くつても|辛抱《しんばう》するのだよ。|苦《く》の|後《あと》には|楽《らく》がある。|死《し》ぬのは|生《うま》れるのだ。|生《うま》れるのは|墓場《はかば》へ|近寄《ちかよ》るのだ。|仮令《たとへ》|死《し》ンだ|所《ところ》で、やがて|新《あたら》しくなるのだからナア、ヒヽヽヽ』
|鶴公《つるこう》『モシモシ|高姫《たかひめ》さま、そンなことせなくつても、|副守《ふくしゆ》は|飛《と》ンで|出《で》ますよ。ウンウンウン……ソレ、もう|飛《と》ンで|出《で》ました。ア、もう|此《この》ズル|公《こう》は|鶴公《つるこう》の|肉体《にくたい》には|居《を》らぬぞよ』
|魔我彦《まがひこ》『|馬鹿《ばか》にするない。|飛《と》ンで|出《で》たと|言《い》つてからまだ……|此《この》|肉体《にくたい》には|居《を》らぬぞよ……とは|誰《たれ》が|言《い》つたのだ。ヤツパリ|副守《ふくしゆ》が|居《を》つて|貴様《きさま》の|口《くち》を|使《つか》つたのだらう。|肉体《にくたい》を|離《はな》れた|奴《やつ》が|貴様《きさま》の|肉体《にくたい》を|使《つか》つて|腹《はら》の|中《なか》から|声《こゑ》を|出《だ》すと|云《い》ふ|理由《りいう》が|有《あ》るか』
|鶴公《つるこう》『これは|副守護神《ふくしゆごじん》の|言霊《ことたま》の|惰力《だりよく》だ。どうぞ|半時《はんとき》ばかり|待《ま》つて|居《ゐ》て|下《くだ》さい』
|斯《か》かる|所《ところ》へ|又《また》もや|一隻《いつせき》の|飛行船《ひかうせん》|天《てん》を|轟《とどろ》かし、|庭前《ていぜん》に|下《お》り|来《きた》る。
|鶴公《つるこう》『あの|物音《ものおと》は|敵《てき》か、|味方《みかた》か。|紫姫《むらさきひめ》、|青彦《あをひこ》、|玉照姫《たまてるひめ》を|捧持《ほうぢ》してウラナイ|教《けう》に|献納《けんなふ》に|来《き》たのか。|但《ただし》は|高山彦《たかやまひこ》、|黒姫《くろひめ》、|悄然《せうぜん》として|泣《な》き|面《づら》かわき|帰《かへ》つて|来《き》たのか。……ヤアヤア|者共《ものども》、|一刻《いつこく》も|早《はや》く|表《おもて》へ|駆《か》け|出《だ》し、|実否《じつぴ》を|調《しら》べて|参《まゐ》れ。|世界《せかい》|見《み》え|透《す》く|日《ひ》の|出神《でのかみ》が、|鶴公《つるこう》の|肉体《にくたい》を|借《か》りて|申付《まをしつ》けるぞよ』
|亀公《かめこう》『|何《なに》を|言《い》うのだ。|日《ひ》の|出神《でのかみ》|様《さま》は|世界中《せかいぢう》|見《み》え|透《す》き|遊《あそ》ばすのだが、|門口《かどぐち》へ|出《で》て|来《き》た|者《もの》が|敵《てき》か|味方《みかた》か|分《わか》らぬと|云《い》ふ|様《やう》な、|日《ひ》の|出神《でのかみ》が|有《あ》るものかい』
|鶴公《つるこう》『ウラナイ|教《けう》に|憑依《ひようい》する|日《ひ》の|出神《でのかみ》は、|先《ま》づ|此《この》|位《くらゐ》な|程度《ていど》だよ、イヒヽヽヽ』
|亀公《かめこう》『|誠《まこと》の|日《ひ》の|出神《でのかみ》の|生宮《いきみや》の|高姫《たかひめ》さまの|御前《おんまへ》だぞ。チツトは|遠慮《ゑんりよ》を|致《いた》さぬかい』
|鶴公《つるこう》『モシモシ|本当《ほんたう》の|日《ひ》の|出神《でのかみ》の|生宮《いきみや》、|高姫《たかひめ》さま、|貴女《あなた》はジツとして、|世界中《せかいぢう》の|事《こと》が|見《み》え|透《す》く|御身霊《おんみたま》、|表《おもて》へ|下《くだ》つて|来《き》た|飛行船《ひかうせん》の|主《ぬし》は|敵《てき》で|御座《ござ》いますか、|味方《みかた》で|御座《ござ》いますか、どうぞお|知《し》らせ|下《くだ》さいませ。これがよい|審神《さには》のし|時《どき》ぢや。これが|分《わか》らぬよな|事《こと》では、|日《ひ》の|出神《でのかみ》さまも|良《い》い|加減《かげん》なものですよ。|貴女《あなた》の|信用《しんよう》を|回復《くわいふく》し……|否《いな》|御威徳《ごゐとく》を|顕彰《けんしやう》するのは、|今《いま》を|措《お》いて|他《ほか》にありませぬ。サア|此《この》|一瞬間《いつしゆんかん》が|貴女《あなた》に|対《たい》し、ウラナイ|教《けう》に|対《たい》し、|国家《こくか》|興亡《こうばう》の|分《わか》るる|所《ところ》、|明《あきら》かに|命中《めいちう》させて、|一同《いちどう》の|胆玉《きもたま》を|取《と》り|挫《ひし》ぎ、|疑惑《ぎわく》を|晴《は》らしてやつて|下《くだ》さい』
|高姫《たかひめ》『コレコレ|鶴公《つるこう》、|一歩《ひとあし》|出《で》れば|分《わか》る|事《こと》ぢやないか。お|前《まへ》は|大《だい》それた、|神《かみ》を|審神《さには》せうとするのかい。ソンナ|逆様事《さかさまごと》が|何処《どこ》に|有《あ》るものか。|恰度《ちやうど》|学校《がくかう》の|生徒《せいと》が|校長《かうちやう》の|学力《がくりよく》を|試験《しけん》するよなものだ。ソンナ|天地《てんち》の|転倒《ひつくりかへ》つた|事《こと》が|何処《どこ》に|有《あ》りますか。|心得《こころえ》なされツ』
|鶴公《つるこう》『これは|誠《まこと》に|済《す》みませぬ。|併《しか》し|乍《なが》ら、|私《わたくし》も|実《じつ》は|今回《こんくわい》の|貴女《あなた》の|大失敗《だいしつぱい》を|回復《くわいふく》させ、|帰依心《きえしん》を|増《ま》さしめむが|為《ため》の、|血涙《けつるい》を|呑《の》みての|忠告《ちうこく》ですから、|悪《わる》く|思《おも》つて|下《くだ》さつてはなりませぬ』
|高姫《たかひめ》、|心《こころ》の|中《うち》に、
『|今《いま》|来《き》た|人《ひと》は|何《なに》して|居《ゐ》るのかなア、|早《はや》く|此処《ここ》へ|来《き》て|呉《く》れれば|良《よ》いのに……』
|鶴公《つるこう》『|高姫《たかひめ》さま、スツタ|揉《も》ンだと|掛合《かけあ》つとる|間《うち》に、やがて|誰《たれ》か|這入《はい》つて|来《き》ませう。さうすればヤツと|胸《むね》|撫《な》でおろし、|虎口《ここう》を|遁《のが》れたと、|一安心《ひとあんしん》する|人《ひと》が、どつかに|一人《ひとり》|現《あら》はれさうですよ』
|高姫《たかひめ》チツトでも|暇《ひま》をいれようと|考《かんが》へて|居《を》る。|外《ほか》には|高山彦《たかやまひこ》、|黒姫《くろひめ》、|寅若《とらわか》、|菊若《きくわか》、|富彦《とみひこ》の|五人連《ごにんづ》れ、|傷《きず》|持《も》つ|足《あし》の|何《なん》となく|屋内《をくない》に|進《すす》みかね、モヂモヂとして|入《い》りがてに|居《ゐ》る。
|黒姫《くろひめ》『アヽ|誰《たれ》か|来《き》て|呉《く》れさうなものだなア。|何時《いつ》もの|様《やう》に|堂々《だうだう》と……|何《なん》だか|今日《けふ》は|閾《しきゐ》が|高《たか》くて|這入《はい》れない|様《やう》な|気《き》がする……オイ|寅若《とらわか》、お|前《まへ》|這入《はい》つて|下《くだ》さいな』
|寅若《とらわか》『|此奴《こいつ》ア|一《ひと》つ|低気圧《ていきあつ》が|襲来《しふらい》しますよ。ウツカリ|這入《はい》らうものなら、|暴風雨《ばうふうう》の|為《ため》に|何処《どこ》へ|吹《ふ》き|散《ち》らされるか|分《わか》つたものぢや|有《あ》りませぬ。|私《わたくし》の|様《やう》に|横平《よこひら》たい|図体《づうたい》の|者《もの》は、|風《かぜ》が|能《よ》く|当《あた》つて|散《ち》り|易《やす》いから、|斯《こ》う|云《い》ふ|時《とき》にはお|誂《あつら》ひ|向《むき》の|細長《ほそなが》い、|風《かぜ》を|啣《ふく》まぬ、|帆柱竹《ほばしらだけ》の|様《やう》な|高山彦《たかやまひこ》さまが|適任《てきにん》でせう』
|黒姫《くろひめ》『エー|一寸《ちよつと》も|自由《じいう》にならぬ|人《ひと》だな。なぜお|前《まへ》はそれ|程《ほど》|師匠《ししやう》の|言《い》ふ|事《こと》を|用《もち》ひぬのだい』
|寅若《とらわか》『ヘン、|師匠《ししやう》なぞと、|殊勝《しゆしよう》らしい|事《こと》を|仰有《おつしや》いますワイ。|失笑《しつせう》せざるを|得《え》ませぬワ。|今《いま》までは|乞食《こじき》の|虱《しらみ》の|様《やう》に|口《くち》で|殺《ころ》して|御座《ござ》つたが、|今度《こんど》の|失敗《しつぱい》はどうです。|吾々《われわれ》の|顔《かほ》までが、|何《なん》ともなしに|痩《や》せた|様《やう》な|気《き》が|致《いた》しますワイ。これと|云《い》ふも|全《まつた》く、お|前《まへ》さまが|出《だ》しやばるからだ。それだから|牝鶏《めんどり》の|唄《うた》ふ|家《うち》は|碌《ろく》な|事《こと》が|出来《でき》ぬと|言《い》ひませうがな。|此《この》|役目《やくめ》は|大責任《だいせきにん》の|地位《ちゐ》に|立《た》たせられる|黒姫《くろひめ》さまの|直接《ちよくせつ》|任務《にんむ》だ。|外《ほか》の|事《こと》なら|二《ふた》つ|返辞《へんじ》で|承《うけたま》はりませうが、こればつかりは|真《ま》つ|平《ぴら》|御免《ごめん》だ。お|生憎様《あいにくさま》……』
と|白《しろ》い|歯《は》を|喰《く》ひ|締《し》め、|腮《あご》を【しやく】つて|見《み》せたり。
|黒姫《くろひめ》『エー|剛情《がうじやう》な|男《をとこ》だナア。|一旦《いつたん》|師匠《ししやう》と|仰《あふ》いだら、|何《なん》でも|彼《かん》でも|盲従《まうじゆう》するのが|弟子《でし》の|道《みち》だ。|師匠《ししやう》や|親《おや》は|無理《むり》を|云《い》ふものだと|思《おも》ひなされと、|常々《つねづね》|云《い》うて|聞《き》かして|有《あ》るぢやないか。|何事《なにごと》に|依《よ》らず、|絶対《ぜつたい》|服従《ふくじゆう》を|誓《ちか》つたお|前《まへ》ぢやないか。モウお|前《まへ》は|今日《けふ》|限《かぎ》り、|師弟《してい》の|縁《えん》を|切《き》るから、さう|思《おも》ひなさい』
|寅若《とらわか》『トラ、ワカらぬ|事《こと》を|仰有《おつしや》いますな。|宇治《うぢ》の|橋姫《はしひめ》ぢやないが、|二《ふた》つ|目《め》には|縁《えん》を|切《き》るの、|封《ふう》を|切《き》るのと、|口癖《くちぐせ》の|様《やう》に……|馬鹿々々《ばかばか》しい。|実《じつ》の|所《ところ》は|此方《こちら》から|切《き》りたい|位《くらゐ》だ。アツハヽヽヽ』
|菊若《きくわか》『モシモシ|黒姫《くろひめ》さま、|私《わたくし》は|何時《いつ》も|申《まを》す|通《とほ》り、|善悪邪正《ぜんあくじやせい》の|外《ほか》に|超越《てうゑつ》し、|絶対《ぜつたい》|信仰《しんかう》を|以《もつ》て|貴女《あなた》の|仰《あふ》せは、|徹頭徹尾《てつとうてつび》キク|若《わか》だ。オイ|富彦《とみひこ》、|俺《おれ》と|一緒《いつしよ》に|出《で》て|来《こ》い。|何時《いつ》まで|閾《しきゐ》が|高《たか》いと|言《い》つて、|物貰《ものもら》ひの|様《やう》に|門口《かどぐち》に|立《た》つて|居《ゐ》たところで、|解決《かいけつ》がつかない。|常《つね》よりも|大股《おほまた》に|跨《また》げて|這入《はい》らうぢやないか、|黒姫《くろひめ》さまばつかりの|失敗《しつぱい》ぢやない。|総監督《そうかんとく》の|任《にん》に|当《あた》る|高姫《たかひめ》さまも、|其《その》|責《せめ》を|負《お》ふべきものだ。|先《さき》んずれば|人《ひと》を|制《せい》すだ。ナニ|構《かま》ふものか、|堂々《だうだう》と|這入《はい》つてやらうかい』
と|菊若《きくわか》はワザと|大《おほ》きな|咳払《せきばらひ》をなし、|富彦《とみひこ》を|従《したが》へ、|大手《おほて》を|揮《ふ》つて、|人声《ひとごゑ》のする|八咫《やあた》の|大広間《おほひろま》へ|向《むか》つて|進《すす》み|行《ゆ》く。
|菊若《きくわか》『これはこれは|高姫《たかひめ》|様《さま》、|御無事《ごぶじ》で|御帰館《ごきくわん》|遊《あそ》ばされまして、お|芽出《めで》たう|存《ぞん》じます』
|高姫《たかひめ》『|此《この》|日《ひ》の|出神《でのかみ》が|霊眼《れいがん》で|見《み》た|通《とほ》り、お|前《まへ》は|黒姫《くろひめ》のお|使《つかい》で、|飛行船《ひかうせん》に|乗《の》つて|遠方《ゑんぱう》ご|苦労《くらう》だつたなア。あア|見《み》えても|高山彦《たかやまひこ》、|黒姫《くろひめ》さまも|大抵《たいてい》ぢやない。|非常《ひじやう》な|御苦心《ごくしん》だ。|何事《なにごと》も|時節《じせつ》には|敵《かな》はぬから、お|前《まへ》が|帰《かへ》つたら、どうぞ|慰《なぐさ》めて|上《あ》げて|下《くだ》さいよ。|妾《わし》もつい|腹《はら》が|立《た》つて、|怒《おこ》つて|帰《かへ》るは|帰《かへ》つたものの、|何《なん》だか|黒姫《くろひめ》さまの|事《こと》が|気《き》になつて、|後《うし》ろ|髪《がみ》|曳《ひ》かるる|様《やう》な|気《き》がしてならなかつた。アヽ|可哀相《かはいさう》に……|魔窟ケ原《まくつがはら》の|陰気《いんき》な|岩窟《いはや》で、|黒姫《くろひめ》さまも|第二《だいに》の|作戦《さくせん》|計画《けいくわく》をして|御座《ござ》るであらう』
|菊若《きくわか》『イエ、|黒姫《くろひめ》さま|始《はじ》め、|高山彦《たかやまひこ》、|寅若《とらわか》も、|今《いま》|門前《もんぜん》へ|飛来《ひらい》|致《いた》しまして、|余《あま》り|貴方《あなた》に|会《あ》はす|顔《かほ》がないので、|門口《かどぐち》にモガモガと|手持無沙汰《てもちぶさた》で、|這入《はい》るにも|這入《はい》られず、|帰《かへ》るにも|帰《かへ》られぬと|言《い》つて、|煩悶《はんもん》|苦悩《くなう》の|自由《じいう》|権利《けんり》を|極端《きよくたん》に|発揮《はつき》して|居《を》られます』
|高姫《たかひめ》『アヽさうだらうさうだらう、|妾《わし》の|見《み》たのは|黒姫《くろひめ》さまの|本守護神《ほんしゆごじん》だつた。|本守護神《ほんしゆごじん》は|依然《いぜん》として|岩窟《いはや》に|止《とど》まつて|居《ゐ》られる。|副守《ふくしゆ》の|先生《せんせい》|肉体《にくたい》をひつぱつて|来《き》たのだな。|何分《なにぶん》|顕幽《けんいう》を|超越《てうゑつ》して|居《を》る|天眼通《てんがんつう》だから、ツイ|軽率《けいそつ》に|見誤《みあやま》つたのだ。|霊眼《れいがん》と|云《い》ふものは|余程《よほど》|注意《ちうい》をせなならぬものだ、ホツホヽヽヽ』
|鶴公《つるこう》『|高姫《たかひめ》さま、|貴方《あなた》の|霊眼《れいがん》は|実《じつ》に|重宝《ちようほう》ですなア。|活殺《くわつさつ》|自在《じざい》、|実《じつ》に|一分一厘《いちぶいちりん》の|隙《すき》も|有《あ》りませぬワ。さうなくては|一方《いつぱう》の|将《しやう》として、|多数《たすう》を|率《ひき》ゐる|事《こと》は|出来《でき》ませぬワイ。イヤもう|貴方《あなた》の|神智《しんち》|神識《しんしき》には……|否《いな》|邪智頑識《じやちぐわんしき》には、|実《じつ》に|感服《かんぷく》の|外《ほか》なしで|御座《ござ》います』
|高姫《たかひめ》『エーつべこべ|何《なに》|理屈《りくつ》を|仰有《おつしや》る。|神界《しんかい》の|事《こと》が|物質《ぶつしつ》かぶれのお|前《まへ》に|分《わか》つて|堪《たま》るものか。|斯《こ》うして|幾十年《いくじふねん》も|神界《しんかい》の|為《ため》に|尽《つく》して|居《を》る|妾《わたし》でさへも、あまり|奥《おく》が|深《ふか》うてまだ|其《その》|蘊奥《うんあう》を|究《きは》めて|居《ゐ》ない|位《くらゐ》だのに、|僅《わづ》か|十年《じふねん》|足《た》らずの|入信者《にふしんじや》が|分《わか》つてたまるものか……|誠《まこと》が|分《わか》りたら、|口《くち》をつまへて|黙《だま》りて|居《を》つて、|改心《かいしん》|致《いた》さなならぬ|様《やう》になるぞよ。ゴテゴテと|喋舌《しやべ》りたい|間《あひだ》は、|誠《まこと》の|改心《かいしん》が|出来《でき》て|居《を》らぬのであるぞよ。|一時《いちじ》も|早《はや》く|改心《かいしん》|致《いた》して、うぶの|心《こころ》になりて、|誠《まこと》の|御用《ごよう》を|致《いた》して|下《くだ》されよ……と|変性男子《へんじやうなんし》のお|筆先《ふでさき》にチヤンと|書《か》いて|有《あ》るぢやないか。|筆先《ふでさき》の|読《よ》みよが|足《た》らぬと、そンな|屁理屈《へりくつ》を|言《い》はねばならぬ。|神《かみ》の|道《みち》は|理屈《りくつ》では|可《い》けませぬぞエ。|絶対《ぜつたい》|服従《ふくじゆう》、|帰依心《きえしん》、|帰依道《きえだう》、|帰依師《きえし》でなければ|信仰《しんかう》の|鍵《かぎ》は|握《にぎ》れませぬぞエ』
|鶴公《つるこう》『|二《ふた》つ|目《め》にはよい|避難所《ひなんじよ》を|見《み》つけられますなア。|鍵《かぎ》が|握《にぎ》れぬなぞと、うまく|仰有《おつしや》いますワイ。|鶴公《つるこう》の|名論卓説《めいろんたくせつ》を|握《にぎ》り|潰《つぶ》すと|云《い》ふ|心算《しんざん》でせう』
|高姫《たかひめ》『きまつた|事《こと》だ。|古参者《こさんもの》の|吾々《われわれ》に、|新参《しんざん》のお|前《まへ》たちが、|太刀打《たちうち》しようと|思《おも》つたつてそりや|駄目《だめ》だ。|駄目《だめ》の|事《こと》は|言《い》はぬが|宜《よろ》しい。あつたら|口《くち》に|風《かぜ》|引《ひ》かすよなものだ。|何時《いつ》までもツルツルと|理屈《りくつ》を|仰有《おつしや》るなら、モウ|神《かみ》のツルを|切《き》らうか』
|鶴公《つるこう》『ツルなつと、カメなつと、|縁《えん》なつとお|切《き》りなさい。|三五教《あななひけう》もウラナイ|教《けう》も|奉斎主神《ほうさいしゆしん》は|同《をんな》じ|事《こと》だもの。|私《わたくし》は|神《かみ》さまと|直接《ちよくせつ》|交渉《かうせふ》|致《いた》します。|人《ひと》を|力《ちから》にするな、|師匠《ししやう》を|杖《つゑ》につくなと、|三五教《あななひけう》もどきに|貴女《あなた》も|始終《しじう》|仰有《おつしや》つたぢやありませぬか。|嘘《うそ》を|吐《つ》く|師匠《ししやう》を|杖《つゑ》に|突《つ》くと|云《い》ふ|事《こと》は、|熟々《つくづく》|考《かんが》へて|見《み》ればみる|程《ほど》|厭《いや》になつて|来《き》ましたワイ。|何《いづ》れ|私《わたくし》が|脱退《だつたい》すれば、|千匹猿《せんびきざる》の|様《やう》に、|喧《やかま》し|屋《や》の|革新派《かくしんは》が|従《つ》いて|来《く》るでせう。さうすればウラナイ|教《けう》もシーンとして、|世間《せけん》から|見《み》て、|大《おほ》きな|館《やかた》で|沢山《たくさん》|人《ひと》が|居《ゐ》る|様《やう》だがナンした|静《しづ》かな|所《ところ》ぢやと、|世間《せけん》から|申《まを》す|様《やう》になるぞよ。さうでなければ|誠《まこと》が|開《ひら》けぬぞよと|日《ひ》の|出神《でのかみ》のお|筆先《ふでさき》にも|出《で》て|居《ゐ》る|通《とほ》り、|貴方《あなた》も|御本望《ごほんもう》でせう。|筆先《ふでさき》の|実地《じつち》|証明《しようめい》が|出来《でき》て、|日《ひ》の|出神《でのかみ》の|生宮《いきみや》の|御威勢《ごゐせい》は|益々《ますます》|揚《あが》り、|旭日昇天《きよくじつしようてん》のウラナイ|教《けう》となりませう』
|高姫《たかひめ》『コレ|鶴公《つるこう》、よう|物《もの》を|考《かんが》へて|見《み》なさいや、ソンナ|浅薄《せんぱく》な|仕組《しぐみ》ぢや|有《あ》りませぬぞエ。お|前《まへ》はチツトばかり|青表紙《あをべうし》や、|蟹文字《かにもんじ》を|噛《かぢ》つて|居《ゐ》るから、|仕末《しまつ》にをへぬ。マアマア|時節《じせつ》を|待《ま》ちなさい。|枯木《かれき》にも|花《はな》|咲《さ》く|時《とき》が|来《く》る。|後《あと》になつて、アーアあの|時《とき》に|短気《たんき》を|起《おこ》さなかつたらよかつたにと、|地団駄《ぢだんだ》|踏《ふ》みてジリジリ|悶《もだ》えをしてもあきませぬぞエ。よう|胸《むね》に|手《て》を|当《あて》て|心《こころ》と|相談《さうだん》をして|見《み》なさい』
|鶴公《つるこう》『ヤツパリ、|私《わたくし》の|様《やう》なプロテスタントにも|未練《みれん》がかかりますかなア』
|高姫《たかひめ》『プロテスタント|派《は》だから|余計《よけい》|可愛《かあい》のだ。|敵《てき》を|愛《あい》せよと|神様《かみさま》は|仰有《おつしや》る。|改心《かいしん》の|出来《でき》ぬ|悪人《あくにん》|程《ほど》、|妾《わたし》は|可愛《かあい》いのだ。|不具《ふぐ》な|子《こ》|程《ほど》|親《おや》は|余計《よけい》|憐《あは》れみを|加《くは》へたがる|様《やう》に、|神様《かみさま》の|御慈愛《ごじあい》と|云《い》ふものは、|親《おや》が|子《こ》を|思《おも》ふと|同《おな》じ|事《こと》だ』
|鶴公《つるこう》『アヽ|仕方《しかた》がない。|流石《さすが》は|高姫《たかひめ》さまだ。チツトも|攻撃《こうげき》の|出来《でき》ない|様《やう》に、|何時《いつ》の|間《ま》にか|鉄条網《てつでうまう》を|張《は》つて|了《しま》つた』
|高姫《たかひめ》『|早《はや》く|黒姫《くろひめ》さまを|此方《こちら》へお|迎《むか》へして|来《こ》ないか。コレコレ|亀公《かめこう》、|黒姫《くろひめ》さま|一同《いちどう》にどうぞお|這入《はい》りなさいませと|言《い》つて、|御案内《ごあんない》を|申《まを》してお|出《い》で……』
|亀公《かめこう》『|承知《しようち》|致《いた》しました』
|鶴公《つるこう》『オイ|亀公《かめこう》、|鶴《つる》と|亀《かめ》とは|配合物《つきもん》だ。|俺《おれ》も|従《つ》いて|往《い》かう』
|亀公《かめこう》『ヤアお|前《まへ》が|来《く》ると|又《また》|難問題《なんもんだい》が|突発《とつぱつ》すると|仲裁《ちうさい》に|困《こま》るから、マア|控《ひか》へとつて|呉《く》れ』
|鶴公《つるこう》『ナーニ、|鶴《つる》と|亀《かめ》と|揃《そろ》うてゆけば、|鶴亀凛々《くわくきりんりん》だ。|活機臨々《くわつきりんりん》として|高姫《たかひめ》の|御威勢《ごゐせい》は、|天《てん》より|高《たか》く|輝《かがや》き|亘《わた》り、|大空《おほぞら》に|塞《ふさ》がる|黒姫《くろひめ》……オツトドツコイ|黒雲《くろくも》は、|高山彦《たかやまひこ》のイホリを|掻《か》き|分《わ》けて、|天津《あまつ》|日《ひ》の|出神《でのかみ》の|御守護《ごしゆご》となるに|定《きま》つて|居《を》る。それは|此《この》|鶴公《つるこう》が|鶴証《くわくせう》するよ。アハヽヽヽ』
|高姫《たかひめ》『コレコレ|鶴公《つるこう》、お|前《まへ》は|此処《ここ》に|待《ま》つて|居《ゐ》なさい。|亀公《かめこう》|一人《ひとり》で|結構《けつこう》だ』
|鶴公《つるこう》『これは|高姫《たかひめ》さまのお|言葉《ことば》とも|覚《おぼ》えませぬ。|折角《せつかく》|遠方《ゑんぱう》からお|出《い》でになつたのに、|亀公《かめこう》|一人《ひとり》を|出《だ》しては、チツト|不待遇《ふたいぐう》ぢや|有《あ》りませぬか。|鶴亀《つるかめ》の|揃《そろ》はぬのは、あまりお|芽出《めで》たうは|有《あ》りますまいぞ。|併《しか》し|乍《なが》ら|高姫《たかひめ》|様《さま》は|芽出《めで》たい|様《やう》にと、|鶴亀《つるかめ》の|両人《りやうにん》を|連《つ》れてお|出《い》でになつたが、ヤツパリ……ヤツパリだから、|御案《おあん》じ|遊《あそ》ばすのも|無理《むり》は|御座《ござ》いますまい。……エー|仕方《しかた》が|有《あ》りませぬ。|大譲歩《だいじやうほ》を|致《いた》しまして、|鶴公《つるこう》は|本陣《ほんぢん》に|扣《ひか》へて|居《を》りませう。……オイ|亀公《かめこう》、|一人《ひとり》|御苦労《ごくらう》だが、|鶴公《つるこう》は|奥《おく》にハシヤいで|居《ゐ》ます……と|黒姫《くろひめ》さま|一行《いつかう》に|伝言《でんごん》をするのだよ』
|亀公《かめこう》『|勝手《かつて》に、|何《なん》なと|吐《ほざ》けツ』
と|足《あし》を|早《はや》めて|表《おもて》へ|駆《か》け|出《だ》したり。|黒姫《くろひめ》の|一行《いつかう》は|亀公《かめこう》に|案内《あんない》され、|喪家《さうか》の|犬《いぬ》の|様《やう》に|悄気返《しよげかへ》つて、コソコソと|足音《あしおと》までソツと、|薄氷《はくひよう》を|踏《ふ》む|様《やう》な|体裁《ていさい》で|此《この》|場《ば》に|現《あら》はれたり。
|高姫《たかひめ》『アヽ|黒姫《くろひめ》さま、|高山彦《たかやまひこ》さま、ようマア|帰《かへ》つて|下《くだ》さつた。|今《いま》も|今《いま》とて|霊眼《れいがん》で|貴方《あなた》の|御心労《ごしんらう》を|拝観《はいくわん》して|居《ゐ》ました。お|前《まへ》さまは|副守護神《ふくしゆごじん》の|容器《いれもの》だらう。|黒姫《くろひめ》さまや、|高山彦《たかやまひこ》さまの|本守護神《ほんしゆごじん》は|屹度《きつと》アンナ|利巧《りかう》な|事《こと》はなさいますまい』
|黒姫《くろひめ》『ハイ|誠《まこと》に|申訳《まをしわけ》の|有《あ》り……もせぬ|事《こと》を|致《いた》しまして、|何分《なにぶん》|副守護神《ふくしゆごじん》が|此《この》|頃《ごろ》は|権幕《けんまく》が|強《つよ》いものですから、|黒姫《くろひめ》の|本守護神《ほんしゆごじん》も|持《も》て|余《あま》して|居《ゐ》られますワイ。|高山彦《たかやまひこ》さまの|本守護神《ほんしゆごじん》も|第二《だいに》の|作戦《さくせん》|計画《けいくわく》をやつて|居《ゐ》られます。|此処《ここ》に|参上《みえ》たのはヤツパリお|察《さつ》しの|通《とほ》り|副守護神《ふくしゆごじん》の|容器《いれもの》で|御座《ござ》います』
|高姫《たかひめ》『それはそれは|副守護神《ふくしゆごじん》どの、|遠路《ゑんろ》の|所《ところ》|御苦労《ごくらう》で|御座《ござ》いました。サアサアどうぞ|妾《わたし》の|居間《ゐま》へお|出《い》で|下《くだ》さいませ。|副守護神《ふくしゆごじん》|同志《どうし》、|何《なに》かの|相談《さうだん》を|致《いた》しませう』
ハイと|答《こた》へて、|黒姫《くろひめ》、|高山彦《たかやまひこ》は、|高姫《たかひめ》の|後《あと》に|従《したが》ひ、ホツと|一息《ひといき》つき|乍《なが》ら、|奥《おく》の|間《ま》|指《さ》してシホシホと|進《すす》み|行《ゆ》く。|後《あと》には|魔我彦《まがひこ》、|蠑〓別《いもりわけ》、|鶴公《つるこう》、|亀公《かめこう》、|寅若《とらわか》、|菊若《きくわか》、|富彦《とみひこ》、|甲《かふ》|乙《おつ》|丙《へい》|丁《てい》|戊《ぼう》|己《き》|其《その》|他《た》|数十人《すうじふにん》の|者《もの》、|酒《さけ》に|酔《よ》ひ|潰《つぶ》れ、|喧々囂々《けんけんごうごう》、|遂《つい》には|打《う》つ、|蹴《け》る、|擲《なぐ》る、|泣《な》く、|笑《わら》ふ、|怒《おこ》るの|一大《いちだい》|修羅場《しゆらぢやう》が|現出《げんしゆつ》されウラナイ|教《けう》の|本山《ほんざん》は|鼎《かなへ》の|沸《わ》くが|如《ごと》く|大乱脈《だいらんみやく》の|幕《まく》に|包《つつ》まれにける。
(大正一一・五・七 旧四・一一 松村真澄録)
第六章 |和合《わがふ》と|謝罪《しやざい》〔六五一〕
|一葉《いちえふ》|落《お》ちて|天下《てんか》の|秋《あき》を|知《し》るとかや。|神《かみ》の|教《をしへ》も|不相応《ふさは》ぬフサの|国《くに》、|北山村《きたやまむら》の|本山《ほんざん》ウラナイ|教《けう》の|頭株《あたまかぶ》、|心《こころ》も|驕《おご》る|高姫《たかひめ》が、|執着心《しふちやくしん》の|胸《むね》の|闇《やみ》、|鼻高山彦《はなたかやまひこ》や|黒姫《くろひめ》は、|奥《おく》の|一間《ひとま》に|差《さ》し|籠《こ》もり、ウラナイ|教《けう》の|前途《ぜんと》に|就《つ》いて、コソコソ|協議《けふぎ》を|凝《こ》らし|居《を》る。
|高姫《たかひめ》『|栄枯盛衰《ゑいこせいすゐ》、|会者定離《ゑしやぢやうり》は|人生《じんせい》の|常《つね》とは|云《い》ひ|乍《なが》ら、よくも|是《これ》だけウラナイ|教《けう》は、|庭先《にはさき》の|紅葉《もみぢ》の|風《かぜ》に|散《ち》る|如《ごと》く|凋落《てうらく》したものだ。|彼《あ》れ|程《ほど》|熱心《ねつしん》に|活動《くわつどう》して|居《を》つた|蠑〓別《いもりわけ》は|煙《けぶり》の|如《ごと》く|此《この》|本山《ほんざん》から|消《き》えて|了《しま》ひ、|数多《あまた》の|部下《ぶか》や|信徒《しんと》は|四方《しはう》に|散乱《さんらん》し、|全《まる》で|蟹《かに》の|手足《てあし》を【もが】れた|様《やう》な|敗残《はいざん》のウラナイ|教《けう》、|何《なん》とか|回復《くわいふく》の|道《みち》を|講《かう》ぜねばなりますまいよ』
|黒姫《くろひめ》『|日《ひ》の|出神《でのかみ》さまも|此《この》|際《さい》、ちつとどうかして|居《ゐ》らつしやるのではありますまいかなア』
|高姫《たかひめ》『|日《ひ》の|出神《でのかみ》|様《さま》は|外国《ぐわいこく》での|御守護《ごしゆご》、|世界《せかい》の|隅々《すみずみ》|迄《まで》も|調《しら》べに|往《い》つて|御座《ござ》るのだから|今《いま》はお|留守《るす》だ。|何《いづ》れお|帰《かへ》りになれば、|日《ひ》の|出《で》の|守護《しゆご》になるのは|定《きま》つて|居《を》りますが、さうだと|云《い》つて|此《この》|儘《まま》|放任《はうにん》して|置《お》けば|此《この》|本山《ほんざん》は、|孤城落日《こじやうらくじつ》、|土崩瓦解《どほうぐわかい》の|憂目《うきめ》に|会《あは》ねばなりませぬワ。それよりも|黒姫《くろひめ》さま、|竜宮《りうぐう》の|乙姫《おとひめ》|様《さま》は|此《この》|頃《ごろ》はどうして|御座《ござ》るのでせう。|随分《ずゐぶん》|気《き》の|利《き》かぬ|神様《かみさま》ですねエ。コンナ|時《とき》に|御活動《ごくわつどう》|下《くだ》されば|宜《よろ》しいのに』
|黒姫《くろひめ》『|竜宮《りうぐう》の|乙姫《おとひめ》|様《さま》は|貴方《あなた》もお|筆先《ふでさき》で|御存《ごぞん》じの|通《とほ》り、|日《ひ》の|出神《でのかみ》|様《さま》に|引添《ひつそ》うて|一所《いつしよ》に|外国《ぐわいこく》で|御守護《ごしゆご》して|居《を》られるに|定《きま》つて|居《を》るぢやありませぬか。|高姫《たかひめ》|様《さま》は、|玉照姫《たまてるひめ》の|一件《いつけん》から|何処《どこ》ともなしに、ボーとなさいましたなア』
|高姫《たかひめ》『|黒姫《くろひめ》さまも|御同様《ごどうやう》ぢやありませぬか。|貴女《あなた》は、|高山彦《たかやまひこ》さまが、あちらにお|出《い》でになつてから、|日増《ひまし》に、ボンヤリなされましたさうですよ。|御自分《ごじぶん》の|事《こと》は|御自分《ごじぶん》には|分《わか》りますまいが、|寅若《とらわか》がそう|云《い》つてましたぞえ』
|黒姫《くろひめ》『|何《なに》を|仰有《おつしや》います。そう|人《ひと》を|見損《みそこ》なつて|貰《もら》つては|困《こま》ります。|高山《たかやま》さまがお|出《い》でになつて|以来《いらい》といふものは、|層一層《そういつそう》|活動《くわつどう》しました。それよりも|高姫《たかひめ》さま、|斯《こ》う|云《い》うとお|気《き》に|障《さは》るか|知《し》れませぬが、|蠑〓別《いもりわけ》さまが|此《この》|本山《ほんざん》から|姿《すがた》を|隠《かく》されてより、|層一層《そういつそう》|気抜《きぬ》けがなさつた|様《やう》な、|燗《かん》ざましの|酒《さけ》を|十日《とほか》も|放《ほ》つて|置《お》いて|飲《の》みた|様《やう》な|塩梅式《あんばいしき》ですよ。お|互《たがひ》に|気《き》を|取直《とりなほ》して|確《しつか》りと|仕様《しやう》ではありませぬか。あの|三五教《あななひけう》を|御覧《ごらん》なさい。|旭日昇天《きよくじつしようてん》の|勢《いきほひ》、まるでウラナイ|教《けう》なぞとは|比較物《くらべもの》になりませぬワ』
|高姫《たかひめ》『|憎《にく》まれ|子《ご》|世《よ》に|覇張《はば》る、と|云《い》つて、|悪《あく》が|栄《さか》える|世《よ》の|中《なか》だ、その|悪《あく》の|世《よ》に|栄《さか》ゆる|教《をしへ》だから|大概《たいがい》|分《わか》つて|居《を》りますよ。|併《しか》し|九分九厘《くぶくりん》|迄《まで》|悪《あく》の|身魂《みたま》は|世《よ》に|覇張《はば》る、|善《ぜん》の|身魂《みたま》は|落《お》ちて|居《ゐ》ても|一厘《いちりん》でグレンと|覆《かへ》ると|日《ひ》の|出神《でのかみ》|様《さま》が|仰有《おつしや》る。|三五教《あななひけう》は|何程《なにほど》|沢山《たくさん》|集《あつ》まつて|居《ゐ》ても|烏合《うがふ》の|衆《しう》ですよ。|何《いづ》れ|内裏《うちうら》から|内閣《ないかく》|瓦解《ぐわかい》の|運命《うんめい》が|萌《きざ》しかけて|居《を》ります。ウラナイ|教《けう》は|少数《せうすう》でも、|善一筋《ぜんひとすぢ》の|誠《まこと》|生粋《きつすゐ》の|大和魂《やまとだましひ》の|堅実《けんじつ》な|信仰《しんかう》の|団体《だんたい》だ。|万卒《ばんそつ》は|得易《えやす》く|一将《いつしやう》は|得難《えがた》しと|云《い》つてな、|少数《せうすう》なのは|結構《けつこう》ですよ。|余《あんま》り|瓦落多《がらくた》|人足《にんそく》がガラガラ|寄《よ》つて|居《を》ると、|遂《つひ》に|虫《むし》が【わき】まして|水晶《すゐしやう》の|水《みづ》が|臭《くさ》くなり、|孑孑《ぼうふり》が【わい】て|鼻持《はなも》ちならぬ|臭《にほひ》がし|出《だ》し、|終局《しまひ》には|此《この》|孑孑《ぼうふり》に|羽《はね》が|生《は》えて|飛散《ひさん》し、|遂《つひ》には|人《ひと》の|頭《あたま》に|留《と》まつて|生血《いきち》を|絞《しぼ》る|様《やう》になります|哩《わい》。|必《かなら》ず|必《かなら》ず|御心配《ごしんぱい》なさいますな。|日《ひ》の|出《で》の|守護《しゆご》になれば|一度《いちど》にグレンと|覆《かへ》るお|仕組《しぐみ》がして|御座《ござ》います』
|黒姫《くろひめ》『さうすると|善《ぜん》|許《ばか》り|選《よ》り|抜《ぬ》いて、|身魂《みたま》の|曇《くも》つた|者《もの》は|一人《ひとり》も|寄《よ》せないと|云《い》ふ|神様《かみさま》の|御方針《ごはうしん》ですかな』
|高姫《たかひめ》『|其処《そこ》は|惟神《かむながら》ですよ。|無理《むり》に|引張《ひつぱり》に|行《い》つた|処《ところ》で|寄《よ》らなきや|仕方《しかた》がありませぬワ。|又《また》|何程《なにほど》|引留《ひきと》めたつて|綱《つな》を|付《つ》けて|縛《しば》つて|置《お》く|訳《わけ》にもゆかず、|脱退《だつたい》する|者《もの》は|是《これ》も|惟神《かむながら》に|任《まか》して、|自由《じいう》|行動《かうどう》を|取《と》らして|置《お》くのですな。|来《きた》る|者《もの》は|拒《こば》まず、|去《さ》る|者《もの》は|追《お》はずと|云《い》ふのが|神様《かみさま》の|思召《おぼしめし》だ。|無理《むり》に|引張《ひつぱ》りに|行《い》つて|下《くだ》さるなよ、|時節《じせつ》|参《まゐ》りたら|神《かみ》が|誠《まこと》の|者《もの》を|引寄《ひきよ》せて|誠《まこと》の|御用《ごよう》をさすぞよ。と|仰有《おつしや》るのだから、そうヤキモキ|心配《しんぱい》するには|及《およ》びませぬ|哩《わい》』
|黒姫《くろひめ》『それでも|玉照姫《たまてるひめ》さまを|無理《むり》に|引張《ひつぱつ》て|来《こ》いと|御命令《ごめいれい》をなさつたぢやありませぬか』
|高姫《たかひめ》『それはあなたの|量見違《りやうけんちがひ》だ。|無理《むり》に|引《ひ》つぱらうとするから、|取《と》り|逃《にが》したのだ。|向《むか》うの|方《はう》から|何卒《どうぞ》|玉照姫《たまてるひめ》|様《さま》をお|預《あづか》り|下《くだ》さいと|云《い》つて|来《く》る|様《やう》に、|上手《じやうず》に|仕向《しむ》けぬから、そンな|事《こと》にかけては|抜目《ぬけめ》のない|素盞嗚尊《すさのをのみこと》は|甘《うま》い|事《こと》をやつたぢやないか。お|前《まへ》さまも|随分《ずゐぶん》|賢《かしこ》いお|方《かた》ぢやが、|千慮《せんりよ》の|一失《いつしつ》とか|云《い》つて、|此《この》|度《たび》あの|件《けん》に|限《かぎ》つては|黒姫《くろひめ》さまの|失敗《しつぱい》でしたよ』
|黒姫《くろひめ》『そうだと|云《い》つて、|愚図々々《ぐづぐづ》して|居《を》れば|三五教《あななひけう》に|八九分《はちくぶ》|取《と》られて|了《しま》ふ|様《やう》になつて|居《ゐ》たのだから、ソンナ|廻《まは》り|遠《どほ》い|事《こと》をして|居《を》つては、|六菖十菊《ろくしやうじつきく》の|悔《く》いを|残《のこ》さねばならぬと|思《おも》つたから|非常《ひじやう》|手段《しゆだん》をやつただけの|事《こと》です。|勝敗《しようはい》は|時《とき》の|運《うん》、|今《いま》になつて|死《し》ンだ|児《こ》の|年《とし》を|数《かぞ》へたつて|仕方《しかた》がありませぬワ。|貴方《あなた》も|余程《よほど》|愚痴《ぐち》つぽくなつて、|取返《とりかへ》しのつかぬ|愚痴《ぐち》な|事《こと》を|言《い》ひなさいますな』
|高姫《たかひめ》は|眉《まゆ》をキリリとつり|上《あ》げ、ドシンと|四股《しこ》を|踏《ふ》み、|畳《たたみ》を|鳴《な》らしプリンと|尻《しり》を|向《む》け、|次《つぎ》の|間《ま》に|姿《すがた》を|隠《かく》したり。
|高山彦《たかやまひこ》『コレコレ|黒姫《くろひめ》さま、お|前《まへ》は|何《なん》と|云《い》ふ|御無礼《ごぶれい》な|事《こと》を|仰有《おつしや》るのだい。|大将《たいしやう》や|師匠《ししやう》は|無理《むり》を|云《い》ふものだと|思《おも》へと|何時《いつ》も|部下《ぶか》の|者《もの》に|云《い》つて|聞《き》かせて|居《ゐ》|乍《なが》ら、|何故《なぜ》|一《ひと》つ|一《ひと》つ|口答《くちごた》へをしたり、|言《い》ひ|込《こ》めたりなさるのだ。|仲《なか》に|立《た》つた|柱《はしら》の|私《わたし》は|何《なん》とも|挨拶《あいさつ》の|仕様《しやう》が|無《な》いではないか』
|黒姫《くろひめ》は|目《め》に|角《かど》|立《た》てて、
『コレお|前《まへ》さま、|以前《いぜん》|由良《ゆら》の|川《かは》を|渡《わた》つた|時《とき》に、|何《なん》でも|彼《か》でも|絶対《ぜつたい》|服従《ふくじゆう》すると|云《い》つたぢやないか、|草履取《ざうりとり》にでもして|呉《く》れと|云《い》つたではないか。|今《いま》|良《よ》い|亭主面《ていしゆづら》をして|竜宮《りうぐう》の|乙姫《おとひめ》|様《さま》の|生宮《いきみや》の|云《い》ふ|事《こと》に|一々《いちいち》|干渉《かんせう》なさるのか。|黙《だま》つて|引込《ひつこ》みて|居《ゐ》なさい、お|前《まへ》さまが|首《くび》を|突《つ》き|出《だ》して|出《で》しやばる|幕《まく》ぢやないのだ。|余《あま》り|差出口《さしでぐち》をしなさると|箝口令《かんこうれい》を|励行《れいかう》しますぞ』
|高山彦《たかやまひこ》『ハイハイ|竜宮様《りうぐうさま》の|御逆鱗《ごげきりん》、もう|是《こ》れからは|沈黙《ちんもく》を|守《まも》りますワイ』
|黒姫《くろひめ》『|何程《なにほど》|黒姫《くろひめ》が|砲弾《はうだん》を|発射《はつしや》しても、|高山砲台《たかやまはうだい》は|沈黙《ちんもく》を|守《まも》つて|決《けつ》して|応戦《おうせん》してはなりませぬぞや。|二〇三高地《にひやくさんかうち》の|性念場《しやうねんば》になつて|居《を》るのに|傍《はた》から|敵《てき》の|援軍《ゑんぐん》が|来《き》て|堪《たま》るものか』
|高山彦《たかやまひこ》『ハイハイ|仕方《しかた》がありませぬ。どつか、|渤海湾《ぼつかいわん》の|海底《かいてい》にでも|伏艇《ふくてい》して|形勢《けいせい》|観望《くわんばう》と|出《で》かけませう。|併《しか》し|乍《なが》ら|黒船《くろぶね》が|敵弾《てきだん》を|受《う》けて|苦戦《くせん》の|最中《さいちう》を|見《み》て|居《を》る|私《わたし》は、どうしても|中立的《ちうりつてき》|態度《たいど》は|取《と》れませぬワ。|何《なん》とか|応援《おうゑん》を|致《いた》し|度《た》い|様《やう》な|気《き》が|致《いた》します』
|黒姫《くろひめ》は|稍《やや》|機嫌《きげん》を|直《なほ》し、
『アヽさうかいなア、それが|真心《まごころ》の|現《あら》はれと|云《い》ふものだ。|矢張《やつぱ》り|気《き》になるかいなア、|夫婦《ふうふ》となれば|気《き》にかかると|見《み》える。|矢張《やつぱり》|黒姫《くろひめ》のハズバンドとして|相当《さうたう》の|資格《しかく》を|保有《ほいう》して|御座《ござ》る。|元《もと》は|赤《あか》の|他人《たにん》でも|夫婦《ふうふ》の|愛情《あいじやう》と|云《い》ふものは|又《また》|格別《かくべつ》なものだ』
と|又《また》ニコニコ|笑《わら》ひ|出《だ》すおかしさよ。
|一天《いつてん》|黒雲《くろくも》|漲《みなぎ》り|暴風《ばうふう》|吹《ふ》き|起《おこ》り|雷鳴《らいめい》|轟《とどろ》くかと|思《おも》ひきや、|高山彦《たかやまひこ》の|円滑《ゑんくわつ》なる|言霊《ことたま》の|伊吹《いぶき》によつて|黒雲《こくうん》|忽《たちま》ち|四方《しはう》に|飛散《ひさん》し、|明皎々《めいかうかう》たる|満月《まんげつ》の|光《ひかり》、|中天《ちうてん》に|綺羅星《きらぼし》の|現《あら》はれたる|如《ごと》き|天候《てんこう》と|一変《いつぺん》したりける。
|黒姫《くろひめ》『コレコレ|高山彦《たかやまひこ》さま、お|前《まへ》さまは|見掛《みか》けに|依《よ》らぬ|親切《しんせつ》な|人《ひと》だつた。|其《その》|親切《しんせつ》を|吐露《とろ》して|高姫《たかひめ》さまの|御機嫌《ごきげん》を|直《なほ》して|来《き》て|下《くだ》さい。|併《しか》し|親切《しんせつ》を|尽《つ》くすと|云《い》つても|程度《ていど》がありますよ』
|高山彦《たかやまひこ》『|随分《ずゐぶん》|難《むつ》かしい|御註文《ごちうもん》ですなア。|其《その》|程度《ていど》が|一寸《ちよつと》|分《わか》りませぬ、|何処迄《どこまで》と|云《い》ふ|制限《せいげん》を|与《あた》へて|下《くだ》さいな』
|黒姫《くろひめ》『エヽ|不粋《ぶすゐ》な|人《ひと》だなア。そこはそれ、|不離不即《ふりふそく》の|間《あひだ》に|立《た》つて|円満《ゑんまん》|解決《かいけつ》を|計《はか》るのだ。|電波《でんぱ》を|送《おく》るなぞは|絶対《ぜつたい》に|禁物《きんもつ》ですからな』
|高山彦《たかやまひこ》『|誰《たれ》がアンナ|婆《ば》アさまに|電波《でんぱ》を|送《おく》つて|堪《たま》るものか、|安心《あんしん》なさい』
|黒姫《くろひめ》『|婆《ば》アさまに|電波《でんぱ》を|送《おく》らぬと|仰有《おつしや》つたが、|高姫《たかひめ》さまが|婆《ば》アさまなら、|私《わたし》はもう|一《ひと》つ|婆《ば》アさまだ、そうするとお|前《まへ》は|余程《よほど》|険呑《けんのん》な|人《ひと》だナア。これだから|折角《せつかく》|出《で》て|来《き》たお|民《たみ》を、|巧《うま》い|事《こと》を|云《い》つて|高城山《たかしろやま》|迄《まで》|放《はう》り|出《だ》したのだ。コレ|高山《たかやま》さま、ソンナ|事《こと》に|抜《ぬ》け|目《め》のある|様《やう》な、|素人《しろうと》とは|違《ちが》ひますよ。|此《この》|道《みち》にかけたら、|世界一《せかいいち》の|経験者《けいけんしや》だから、お|前《まへ》の|様《やう》な|雛子《ひよつこ》とは|違《ちが》ひますよ、|確《しつか》りとやつて|来《き》なさい。これからは|婆《ば》アと|云《い》ふ|事《こと》は|云《い》つて|貰《もら》ひますまい。|年《とし》は|取《と》つても|心《こころ》は|二八《にはち》の|花盛《はなざか》り、|霊主体従《れいしゆたいじう》の|仕組《しぐみ》と|云《い》つて|心《こころ》に|重《おも》きを|置《お》くのだよ』
|高山彦《たかやまひこ》『|同《おな》じ、|婆《ば》アどつこい、|昔《むかし》の|娘《むすめ》でも|貴方《あなた》は|又《また》|格別《かくべつ》ぢや、どことは|無《な》しに、|良《い》い|処《ところ》があります|哩《わい》』
|黒姫《くろひめ》『それはそうだらう、|七尺《しちしやく》の|男子《だんし》を|手鞠《てまり》の|様《やう》に|飜弄《ほんろう》すると|云《い》ふ|黒姫《くろひめ》の|腕前《うでまへ》だから、|何程《なにほど》|高山《たかやま》さまが、|地団太《ぢだんだ》|踏《ふ》んだつて、|足許《あしもと》へも|寄《よ》り|付《つ》けるものか。|然《しか》し|乍《なが》ら、|良《よ》く|気《き》を|付《つ》けて、|昔《むかし》の|娘《むすめ》の|高姫《たかひめ》さまに|旨《うま》く|取《と》り|入《い》つて|御機嫌《ごきげん》を|回復《くわいふく》して|来《く》るのだ。|呉《く》れ|呉《ぐ》れも|送《おく》つてはなりませぬぞや』
|高山彦《たかやまひこ》は|迷惑相《めいわくさう》な|顔付《かほつき》で|高姫《たかひめ》の|居間《ゐま》を|訪《おとづ》れた。|高姫《たかひめ》は、|夜着《よぎ》を|頭《あたま》|迄《まで》グツスリ|被《かぶ》つて、|捨鉢気味《すてばちぎみ》になつて|横《よこ》たはつて|居《ゐ》る。
|高山彦《たかやまひこ》『モシモシ|高姫《たかひめ》さま、|高山《たかやま》で|御座《ござ》います』
|高姫《たかひめ》『コレお|前《まへ》さま、|戸惑《とまど》ひをして|居《を》るのかな、|私《わたし》は|黒姫《くろひめ》さまぢやありませぬよ。|貴方《あなた》のお|出《い》でになる|処《ところ》は|方角違《はうがくちがひ》ですよ。サアサア トツトとあつちへ|往《い》つて|下《くだ》さい、|黒姫《くろひめ》さまに|痛《いた》くも|無《な》い|腹《はら》を|探《さぐ》られちやお|互《たがひ》の|迷惑《めいわく》だからなア』
|高山彦《たかやまひこ》『イエイエ|決《けつ》して|決《けつ》して|御心配《ごしんぱい》|下《くだ》さいますな。|山《やま》の|神様《かみさま》の|公然《こうぜん》|認可《にんか》を|得《え》て|参《まゐ》りました。|実《じつ》の|処《ところ》、|黒姫《くろひめ》がお|詫《わび》に|参《まゐ》りますので|御座《ござ》いますが、どうも|余《あま》り|失礼《しつれい》な|事《こと》を|物《もの》の|機《はづみ》で|申上《まをしあ》げ、|貴方《あなた》に|合《あは》す|顔《かほ》がないところから、|私《わたし》に|代《かは》はつて|旨《うま》く|御機嫌《ごきげん》をドツコイ、|十分《じふぶん》に|御得心《ごとくしん》の|往《ゆ》く|様《やう》にお|詫《わび》をして|来《こ》いと|仰有《おつしや》いました。|何卒《どうぞ》|黒姫《くろひめ》さまの|脱線振《だつせんぶ》りは、|神直日《かむなほひ》|大直日《おほなほひ》に|見直《みなほ》し|聞直《ききなほ》し|不調法《ぶてうはふ》は|宣《の》り|直《なほ》して|上《あ》げて|下《くだ》さいませ』
|高姫《たかひめ》『コレコレお|前《まへ》さまは、|何時《いつ》の|間《ま》にやら|下鶏《したどり》になつて|了《しま》つた。|何故《なぜ》それ|程《ほど》|主人《しゆじん》のクセに|奥様《おくさま》に|敬語《けいご》を|使《つか》ふのだい』
|高山彦《たかやまひこ》『ハイハイこれには、|曰《いは》く|因縁《いんねん》が|御座《ござ》います』
|高姫《たかひめ》『|因縁《いんねん》があるか|何《なん》だか|知《し》らぬが、|貴方《あなた》がさう|御丁寧《ごていねい》な|言霊《ことたま》を|使《つか》ひなさると、|自然《しぜん》に|夫婦仲《ふうふなか》が|良《よ》くなつてお|目出度《めでた》い。それだから|嬶大明神《かかあだいみやうじん》で、|高山彦《たかやまひこ》さまはお|目出度《めでた》いと|人《ひと》が|云《い》ひますよ。ホヽヽヽヽ』
|高山彦《たかやまひこ》『|何《なん》でも|結構《けつこう》です。|何卒《どうぞ》|貴方《あなた》も|御機嫌《ごきげん》を|直《なほ》して|下《くだ》さい。さうすれば|此《この》お|目出度《めでた》い|男《をとこ》が|尚《なほ》お|目出度《めでた》くなりますから、|和合《わがふ》して|下《くだ》さい』
|高姫《たかひめ》『|和合《わがふ》して|下《くだ》さいとはそれは|何《なに》を|云《い》ひなさる。|一方《いつぱう》の|大将《たいしやう》と|大将《たいしやう》の|争《いさか》ひを|平和《へいわ》にするのは|和合《わがふ》だが、|何《なん》と|云《い》つても、|私《わたし》と|黒姫《くろひめ》さまとは|師弟《してい》の|間柄《あひだがら》ぢやないか。|師匠《ししやう》の|私《わたし》に|和合《わがふ》して|呉《く》れなぞとチツと|僣越《せんえつ》ぢやありませぬか。|今迄《いままで》のお|気《き》に|障《さは》つた|処《ところ》は|何卒《どうぞ》お|許《ゆる》し|下《くだ》さいませと|謝罪《しやざい》するのが|当然《たうぜん》だ、それをソンナ|傲慢《ごうまん》|不遜《ふそん》の|態度《たいど》では、|高姫《たかひめ》の|腹《はら》の|虫《むし》が|容易《ようい》にチヤキチヤキと|承諾《しようだく》|致《いた》しませぬよ』
|高山彦《たかやまひこ》『|御説《おせつ》|御尤《ごもつと》も、|夫婦《ふうふ》の|仲《なか》と|師弟《してい》の|間《あひだ》を|混同《こんどう》して|居《ゐ》ました。これは|黒姫《くろひめ》と|私《わたくし》との|間《あひだ》に|用《もち》ゆる|言葉《ことば》で|御座《ござ》います。|高姫《たかひめ》のチヤチヤ|様《さま》、|何卒《なにとぞ》|黒姫《くろひめ》の|御無礼《ごぶれい》、|寛大《くわんだい》な|大御心《おほみこころ》に|見直《みなほ》し|聞直《ききなほ》し|許《ゆる》してやつて|下《くだ》さいませ』
|高姫《たかひめ》『アヽさうかいな、さう|物《もの》が|分《わ》かれば、|元《もと》より|根《ね》のない|喧嘩《けんくわ》だ。どちらも|神《かみ》を|思《おも》ひお|道《みち》を|思《おも》うての|争《いさか》ひなのだから、|私人《しじん》としての|恨《うら》みはチツとも|無《な》いのだ。どうぞ|黒姫《くろひめ》さまに|早《はや》く|此処《ここ》に|来《き》て|貰《もら》つて|下《くだ》さい』
|高山彦《たかやまひこ》『|承知《しようち》|致《いた》しました。|黒姫《くろひめ》さまも|嘸《さぞ》お|喜《よろこ》びになる|事《こと》で|御座《ござ》いませう』
|高姫《たかひめ》『ソレ|又々《またまた》、|貴方《あなた》は|奥《おく》さまに|対《たい》して|敬語《けいご》を|使《つか》ひなさる。|余《あま》り|見《み》つともよくない、|慎《つつし》みなさいや』
|高山彦《たかやまひこ》『ハイハイ|以後《いご》は|慎《つつし》みます』
と|此《この》|場《ば》を|立《た》ち、
『アヽ|敬語《けいご》を|使《つか》はねば、|黒姫《くろひめ》さまには|叱《しか》られるなり、|困《こま》つた|事《こと》だ』
と|呟《つぶや》きつつ|黒姫《くろひめ》の|居間《ゐま》に|帰《かへ》り|来《きた》り、|高山彦《たかやまひこ》は|怖《こわ》さうに、|襖《ふすま》をスーツと|開《ひら》き、|半分《はんぶん》|逃《に》げ|腰《ごし》になつて、|顔《かほ》|許《ばか》り|突出《つきだ》し、|形勢《けいせい》|観望《くわんばう》の|態度《たいど》を|取《と》つて|居《ゐ》る。|黒姫《くろひめ》は|目敏《めざと》くこれを|眺《なが》めて、
『コレコレお|前《まへ》は|高山《たかやま》さまぢやないか。|其《その》|態度《たいど》は|一体《いつたい》どうしたのだい』
と|震《ふる》ひ|声《ごゑ》で|呶鳴《どな》り|付《つ》けた。
『ハイ、ドドドーモ|致《いた》しませぬ』
と|云《い》ひつつびつくりして|閾《しきゐ》の|外《そと》にドスンと|尻餅《しりもち》を|搗《つ》きアイタヽヽヽ、
|黒姫《くろひめ》『コレ|高山《たかやま》さま、|何《なに》をしとるのだい。|這入《はい》つて|来《き》て|早《はや》く|注進《ちうしん》なさらぬかい』
|高山彦《たかやまひこ》はもぢもぢし|乍《なが》ら、|云《い》ひ|難《にく》さうに、
『|高姫《たかひめ》さまがそれはそれは|御機嫌《ごきげん》|麗《うる》はしく、|和合《わがふ》は|和合《わがふ》、|謝罪《しやざい》は|謝罪《しやざい》、そこで|和謝《わしや》|何《なに》も|彼《か》も|中立《ちうりつ》と|合罪《がふざい》』
『|何《なん》だか|歯切《はぎ》れのせぬ|返事《へんじ》だな。|何《なに》は|兎《と》もあれ、|高姫《たかひめ》さまのお|居間《ゐま》にお|伺《うかが》ひしよう、|何時迄《いつまで》|兄弟《けいてい》|牆《かき》に|鬩《せめ》ぐ|様《やう》な|内輪喧嘩《うちわげんくわ》を|継続《けいぞく》して|居《ゐ》ても、お|互《たがひ》の|不利益《ふりえき》だ。どれ、これから|和合《わがふ》して|来《き》ませう』
|高山彦《たかやまひこ》『モシモシ|黒姫《くろひめ》さま、|和合《わがふ》はいけませぬよ』
『|何《なに》、|和合《わがふ》が|不可《いかん》と、|喧嘩《けんくわ》をせいと|云《い》ひなさるのか』
|高山彦《たかやまひこ》は|周章気味《あわてぎみ》で、
『イエ|高姫《たかひめ》さまが、|喧嘩《けんくわ》|株式《かぶしき》|会社《くわいしや》を|創立《さうりつ》なさつて、|株券《かぶけん》を|募集《ぼしふ》したり、|社債《しやさい》(|謝罪《しやざい》)を|起《おこ》したりするとか|何《なん》とか|云《い》つてましたよ。|何《なん》でも|些細《ささい》な|間違《まちが》ひで、いつ|迄《まで》も|蝸牛《くわぎう》|角上《かくじやう》の|争闘《そうとう》を|続《つづ》けて|居《を》るのは、|国家《こくか》の|内乱《ないらん》も|同様《どうやう》だから|可成《なるべ》く|平和《へいわ》の|解決《かいけつ》を|致《いた》します』
|黒姫《くろひめ》は|委細《ゐさい》かまはず、ドスンドスンと|床《ゆか》を|響《ひび》かせ|乍《なが》ら、|高姫《たかひめ》の|居間《ゐま》をさして|進《すす》み|入《い》り、
『|高姫《たかひめ》|様《さま》、|御機嫌《ごきげん》は|如何《いかが》で|御座《ござ》います。|御無礼《ごぶれい》の|段《だん》は|平《ひら》にお|詫《わび》を|致《いた》します』
『イヤ|御無礼《ごぶれい》はお|互《たがひ》|様《さま》で、|何卒《どうぞ》これからは|感情《かんじやう》の|衝突《しようとつ》は|一掃《いつさう》し|車《くるま》の|両輪《りやうりん》となつて、|神国《しんこく》|成就《じやうじゆ》の|為《た》めに|活動《くわつどう》|致《いた》さうぢやありませぬか』
『|有難《ありがた》う|御座《ござ》います。|何分《なにぶん》|宜《よろ》しく|御願《おねが》ひ|致《いた》します』
『|時《とき》に|黒姫《くろひめ》さま、|自転倒島《おのころじま》の|魔窟ケ原《まくつがはら》に|残《のこ》してある|梅公《うめこう》、|其《その》|他《た》の|宣伝使《せんでんし》の|方々《かたがた》は、|愚図々々《ぐづぐづ》して|居《を》ると、|又《また》もや|三五教《あななひけう》に、|青彦《あをひこ》や|常彦《つねひこ》、|夏彦《なつひこ》の|様《やう》に|沈没《ちんぼつ》すると|困《こま》りますから、|今《いま》の|内《うち》に|本山《ほんざん》に|迎《むか》へ|取《と》つたらどうでせうか』
『ハア|御意見《ごいけん》|通《どほ》り、|黒姫《くろひめ》も|賛成《さんせい》|致《いた》します。|飛行船《ひかうせん》を|二艘《にそう》|許《ばか》り、|鶴《つる》、|亀《かめ》の|両人《りやうにん》に|操縦《さうじう》さして|迎《むか》へて|帰《かへ》つてはどうでせうか』
『それは|至極《しごく》|適任《てきにん》でせう。コレコレ|鶴公《つるこう》、|亀公《かめこう》』
と|高姫《たかひめ》は|金切声《かなきりごゑ》を|出《だ》して|呼《よ》び|立《た》て|居《ゐ》る。|軈《やが》て|鶴《つる》、|亀《かめ》の|二人《ふたり》は、|二艘《にそう》の|飛行船《ひかうせん》を|操縦《さうじう》して|四五《しご》の|随員《ずゐゐん》と|共《とも》に|天空《てんくう》を|轟《とどろ》かして|進《すす》み|行《ゆ》く。
(大正一一・五・七 旧四・一一 藤津久子録)
第七章 |牛飲馬食《ぎういんばしよく》〔六五二〕
|厳《いづ》の|御霊《みたま》の|大御神《おほみかみ》、その|和魂《にぎみたま》を|祭《まつ》りたる、|神《かみ》の|光《ひかり》の|元伊勢《もといせ》の、|大御前《おほみまへ》に|額《ぬか》づきて、|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》し、|心《こころ》の|空《そら》の|雲霧《くもきり》を|晴《は》らせ|給《たま》へと、|汗《あせ》をたらたら|祈《いの》り|居《を》る、|三男《さんなん》|二女《にぢよ》の|信徒《まめひと》ありけり。
|若彦《わかひこ》『コレコレ|馬公《うまこう》に|鹿公《しかこう》、お|前《まへ》|御苦労《ごくらう》だが|是《これ》から、|魔窟ケ原《まくつがはら》の|黒姫《くろひめ》さまの|岩窟館《がんくつやかた》を|訪《たづ》ねて|往《い》つて|貰《もら》へまいかな、|私《わたくし》は|玉照姫《たまてるひめ》|様《さま》を|御保護《ごほご》|申上《まをしあ》げて、|紫姫《むらさきひめ》|様《さま》、お|玉《たま》さまと|此《この》|御神殿《ごしんでん》に|円満《ゑんまん》|解決《かいけつ》の|祈願《きぐわん》を|凝《こ》らして|待《ま》つて|居《ゐ》るから、|黒姫《くろひめ》さまに|会《あ》つて、とつくりと|吾々《われわれ》の|真心《まごころ》を|伝《つた》へて|貰《もら》ひたいのだ』
|馬公《うまこう》『ハイハイ、かうなればもう|破《やぶ》れかぶれだ。|神様《かみさま》の|仰有《おつしや》る|事《こと》は|何《なに》が|何《なん》だか|訳《わけ》が|分《わか》らない、|行《い》つて|参《まゐ》りませう』
|若彦《わかひこ》『|分《わか》らない|所《ところ》に|妙味《めうみ》があるのだらう、|往《ゆ》く|所《ところ》|迄《まで》|行《ゆ》かねば|到底《たうてい》|吾々《われわれ》の|限《かぎ》りある|知識《ちしき》では|御神慮《ごしんりよ》を|窺知《きち》し|奉《たてまつ》る|事《こと》は|出来《でき》ない。|此《この》|度《たび》は|十分《じふぶん》に|低《ひく》う|出《で》て、|黒姫《くろひめ》さまが、|何《なん》と|云《い》うても|一言《いちごん》も|口答《くちごた》へをしてはならないよ』
|鹿公《しかこう》『ソンナラ|馬公《うまこう》、|兎《と》も|角《かく》|偵察《ていさつ》がてら|行《い》つて|来《き》ませう。|何《なん》だか|張合《はりあひ》の|無《な》いやうな|気《き》が|致《いた》します|哩《わい》。|併《しか》し|乍《なが》ら|黒姫《くろひめ》が|居《ゐ》なかつたらどうしませう』
|若彦《わかひこ》『|万一《まんいち》フサの|国《くに》へでも|帰《かへ》られた|後《あと》であつたならば、|誰《たれ》か|代理者《だいりしや》が|置《お》いてあらうから、|其《その》|代理者《だいりしや》に|懸《か》け|合《あ》つて|来《く》ればよいのだ』
|鹿公《しかこう》『|代理者《だいりしや》が|居《ゐ》なかつたら|何《ど》うしませう。|万一《まんいち》|留守《るす》であつたら|何《ど》うなるのです』
|若彦《わかひこ》『エヽ、ソンナ|事《こと》|迄《まで》|尋《たづ》ねる|必要《ひつえう》が|無《な》いぢやないか。|臨機《りんき》|応変《おうへん》でやつて|来《く》るのだ』
|馬《うま》、|鹿《しか》|両人《りやうにん》|一度《いちど》に、
『|委細《ゐさい》|承知《しようち》|仕《つかまつ》りました。オイ|兄弟《きやうだい》、|駆歩《かけあし》だ』
と|早《はや》くも|尻引《しりひ》きからげ|飛《と》び|出《だ》さむとするを、|若彦《わかひこ》は、
『オイオイ|両人《りやうにん》、|用向《ようむき》は|知《し》つて|居《を》るか』
|馬公《うまこう》『ハイ|知《し》つて|居《ゐ》ます。|黒姫《くろひめ》が|居《を》るか|居《を》らぬか|見《み》て|来《き》たらよいのでせう』
|鹿公《しかこう》『|黒姫《くろひめ》が|居《ゐ》なかつたら、|代理《だいり》を|見《み》て|来《く》る。|代理《だいり》が|居《ゐ》なかつたら|臨機《りんき》|応変《おうへん》、|酒《さけ》でもあつたら|一杯《いつぱい》|飲《の》みて|来《く》るのでせう』
|紫姫《むらさきひめ》『ホヽヽヽヽ』
|若彦《わかひこ》『ハヽヽヽヽ、|狼狽者《あはてもの》だなア、|黒姫《くろひめ》さまが|被居《いらつしや》らなかつたら、|吾々《われわれ》|両人《りやうにん》は|紫姫《むらさきひめ》|様《さま》や、|若彦《わかひこ》の|代理《だいり》にお|詫《わび》に|参《まゐ》りました。|玉照姫《たまてるひめ》|様《さま》を|献上《けんじやう》|致《いた》しますから、|今迄《いままで》の|御立腹《ごりつぷく》は|河《かは》に|流《なが》して|下《くだ》さいませ、|是非《ぜひ》とも|宜敷《よろし》くお|願《ねが》ひ|致《いた》します。と|云《い》うて|返事《へんじ》を|聞《き》いて|来《く》るのだよ』
|馬公《うまこう》『ソンナ|察《さつ》しの|無《な》い|馬公《うまこう》とは|違《ちが》ひます|哩《わい》。|亀彦《かめひこ》のお|直使《ぢきし》がお|出《い》でになつた|時《とき》からチヤンと|筋書《すぢがき》は|分《わか》つて|居《ゐ》るのだ。なア|鹿公《しかこう》』
|鹿公《しかこう》『|【鹿】《しか》り|鹿《しか》り、サア|往《ゆ》かう。|三人様《さんにんさま》、|玉照姫《たまてるひめ》さまを|大切《たいせつ》にして|御保護《ごほご》なさいませや、たつた|今《いま》|黒姫《くろひめ》の|手《て》に|渡《わた》すかと|思《おも》へば、|何《なん》だかお|世話《せわ》の|仕甲斐《しがひ》が|無《な》いやうな|気《き》が|致《いた》しまするが、これも|成行《なりゆき》だ。|因縁《いんねん》づくぢやと|諦《あきら》めましてな、|是非《ぜひ》とも|宜敷《よろし》うお|頼《たの》み|申《まをし》やす』
と|云《い》ひ|捨《す》てて|谷川《たにがは》|伝《づた》ひ、|崎嶇《きく》たる|小径《せうけい》を|魔窟ケ原《まくつがはら》|指《さ》して|驀地《まつしぐら》に|駆《か》けり|往《ゆ》く。
|話《はなし》|変《かは》つて|魔窟ケ原《まくつがはら》の|岩窟《がんくつ》には|主人《しゆじん》の|留守《るす》の|間鍋《まなべ》たき、|梅公《うめこう》の|留守《るす》|師団長《しだんちやう》、|丑《うし》、|寅《とら》、|辰《たつ》、|鷹《たか》、|鳶《とび》|其《その》|他《た》|七八名《しちはちめい》は、|食《く》つては|寝《ね》、|寝《ね》ては|起《お》き、|朝《あさ》から|晩《ばん》|迄《まで》、|土竜《むぐらもち》のやうに|穴住《あなずま》ひ|許《ばか》りに|日《ひ》を|暮《くら》し、|宣伝《せんでん》にも|行《ゆ》かず、|貯蔵《ちよざう》せし|酒《さけ》や|米《こめ》を|出《だ》し|放題《はうだい》に|出《だ》して、|白蟻《しろあり》が|柱《はしら》を|食《く》ふやうにちびちびと、|獅子《しし》|身中《しんちう》の|虫《むし》の|本領《ほんりやう》を|遺憾《ゐかん》なく|発揮《はつき》して|居《を》る。
|寅若《とらわか》『コレコレ|梅《うめ》の|大将《たいしやう》、|去年《きよねん》の|此《この》|頃《ごろ》だつたねエ、|普甲峠《ふかふたうげ》の|突発《とつぱつ》|事件《じけん》、|黒姫《くろひめ》さまに|分《わか》つた|時《とき》にや|随分《ずゐぶん》ひやひやしたぢやないか』
|梅公《うめこう》『|過《す》ぎ|去《さ》つた|事《こと》は|云《い》ふものぢやない|哩《わい》。あれが|抑《そもそ》もの|序幕《じよまく》で、|玉照姫《たまてるひめ》の|事件《じけん》が|起《おこ》り、それが|失敗《しつぱい》の|原因《げんいん》となつて、|意地癖《いぢくせ》の|悪《わる》い|高山彦《たかやまひこ》|夫婦《ふうふ》が、|吾々《われわれ》に|城《しろ》を|明《あ》け|渡《わた》してフサの|国《くに》の|本山《ほんざん》へ|帰《かへ》つて|行《い》つた。お|蔭《かげ》で|目《め》の|上《うへ》の|瘤《こぶ》が|取《と》れて|毎日《まいにち》ウラル|教《けう》ぢやないが、|飲《の》めよ|騒《さわ》げよ|一寸先《いつすんさき》ア|闇《やみ》よと、|牛飲馬食《ぎういんばしよく》が|続《つづ》けられるのだ。|矢張《やつぱり》これも|梅公《うめこう》の|方寸《はうすん》から|出《で》たのだ。|一年前《いちねんまへ》から|見越《みこ》しての|梅公《うめこう》の|計画《けいくわく》と|云《い》ふものは|偉《えら》いものだらう。|黒姫《くろひめ》|迄《まで》おつ|放《ぽ》り|出《だ》すと|云《い》ふ|土台《どだい》を|作《つく》つた|凄《すご》い|腕前《うでまへ》だから、|何《なん》と|云《い》うても|哥兄《にい》さまだよ』
|寅若《とらわか》『ソンナ|自慢《じまん》は|置《お》いて|貰《もら》はうかい。|此《この》|新《あたら》しがる|世《よ》の|中《なか》に、|黴《かび》の|生《は》えたやうな|一年越《いちねんごし》の|自慢話《じまんばなし》は|買手《かひて》がないぞ。それにつけても|漁夫《ぎよふ》の|利《り》を|占《しめ》たのは|三五教《あななひけう》の|奴《やつ》だ。|一敗《いつぱい》|地《ち》に|塗《まみ》れ|馬鹿《ばか》を|見《み》たのは|黒姫《くろひめ》さまだよ。|紫姫《むらさきひめ》や、|青彦《あをひこ》を|特別《とくべつ》|待遇《たいぐう》で|下《した》にも|置《お》かぬ|様《やう》な|信任振《しんにんぶり》を|発揮《はつき》して|居《ゐ》たが、|豈《あに》|図《はか》らむや、|妹《いもうと》|図《はか》らむやだ。あの|態《ざま》つたらないぢやないか。アンナ|奴《やつ》は|又《また》|三五教《あななひけう》で|愛想《あいさう》|尽《つ》かされて、|盆《ぼん》|過《す》ぎの|幽霊《いうれい》の|様《やう》に|矢張《やつぱり》ウラナイ|教《けう》が|誠《まこと》だつた、|改心《かいしん》|致《いた》しましたなぞと|尾《を》を|掉《ふ》つて|帰《かへ》つて|来《く》るかも|知《し》れやしないぞ。|今度《こんど》はドンナ|事《こと》があつても|相手《あひて》になつてはいけないよ』
|梅公《うめこう》『|何程《なにほど》|鉄面皮《てつめんぴ》の|青彦《あをひこ》だつて、さう|何度《なんど》も|謝罪《あやま》つて|来《こ》られた|態《ざま》ぢやあるまい。ソンナ|事《こと》は|絶対《ぜつたい》にないと|俺《おれ》は|確信《かくしん》して|居《を》る、マアマア|悠《ゆつ》くり|飲《の》みて|騒《さわ》ぐがよからうぞ。|一寸先《いつすんさき》は|暗《やみ》の|世《よ》だ。ある|中《うち》に|飲《の》ンだり|食《く》つたりして|置《お》かない|事《こと》には、|三五教《あななひけう》は|兎《と》も|角《かく》バラモン|教《けう》の|残党《ざんたう》が|押《お》し|寄《よ》せて|来《き》て|奪《と》つて|行《ゆ》くかも|分《わか》つたものぢやない。|兎《と》に|角《かく》|腹《はら》の|中《なか》に|入《い》れて|置《お》けば|損《そん》は|無《な》いのだから、|人数《にんずう》は|減《へ》つたなり、|二年《にねん》ぶりの|食糧《しよくりやう》や|酒《さけ》があるのだから、お|前《まへ》|方《がた》|勉強《べんきやう》して|胃《ゐ》の|腑《ふ》を|働《はたら》かし、|毎日《まいにち》|日日《ひにち》、|五六人前《ごろくにんまへ》|宛《づつ》|勉強《べんきやう》せないと|神様《かみさま》に|済《す》まないぞ』
と|他愛《たあい》もなく、|酒《さけ》に|酔《よ》うて|勝手《かつて》な|理屈《りくつ》を|囀《さへづ》り|居《を》る。
|此《この》|時《とき》|門口《もんぐち》より|岩《いは》の|戸《と》を|覗《のぞ》いて『オイオイ』と|呼《よ》ぶ|男《をとこ》ありき。
|寅若《とらわか》『オイ|鷹公《たかこう》、|鳶公《とびこう》、|何《なん》だか|入口《いりぐち》からオイオイと|云《い》つて|居《ゐ》やがるぢやないか。|何処《どこ》の|奴《やつ》か|知《し》らないが、|敵《てき》でも|味方《みかた》でも|構《かま》はぬ、|引張込《ひつぱりこ》んで|飯《めし》を|鱈腹《たらふく》|喰《く》はせ、|酒《さけ》を|十分《じふぶん》|飲《の》ませて|穀潰《ごくつぶ》しの|御用《ごよう》をさせるんだ。|早《はや》く|行《い》つて|引張《ひつぱ》つて|来《こ》い。|是《これ》から|酒責《さけぜ》め、|飯責《めしぜ》め、|御馳走責《ごちそうぜ》めだ』
『オイ|合点《がつてん》だ』と|鳶《とび》、|鷹《たか》の|両人《ふたり》は|握《にぎ》り|飯《めし》を|片手《かたて》に|持《も》ち、|片手《かたて》に|酒徳利《さけどつくり》を|各自《めいめい》|提《さ》げながら、|穴《あな》の|入口《いりぐち》|迄《まで》やつて|来《く》る。
|馬公《うまこう》『モシモシ、|私《わたくし》は|馬《うま》で|御座《ござ》います。どうぞ|通《とほ》して|下《くだ》さいませぬか』
|鳶公《とびこう》『ウン、|荷《に》つけ|馬《うま》か、|乗馬馬《じやうめうま》か、|木馬《きうま》か、|尻馬《しりうま》か|知《し》らぬが、マアこの【うま】い|酒《さけ》を|飲《の》んで|握《にぎ》り|飯《めし》でも|食《く》へ。さうして|誠意《せいい》を|現《あら》はすのだ』
|馬公《うまこう》『|飯相《めしさう》な、|何《ど》う|致《いた》しまして、お|酒《さけ》を|頂戴《ちやうだい》しては|済《す》みませぬ。|実《じつ》は|謝罪《あやま》りに|参《まゐ》りました。|是非《ぜひ》|共《とも》|宜敷《よろし》くお|願《ねが》ひ|致《いた》します』
|鳶公《とびこう》『エヽ、ちよろ|臭《くさ》い、|徳利《とくり》の|顔《かほ》を|見《み》て|謝罪《あやま》る|奴《やつ》があるか。|二升《にしよう》や|三升《さんじよう》グツとやつて|其《その》|上《うへ》で|謝罪《あやま》るのなら|筋《すぢ》が|立《た》つが、|徳利《とくり》の|顔《かほ》をみて|謝罪《あやま》る|奴《やつ》が|何処《どこ》にあるかい』
|馬公《うまこう》『イエイエ、|私《わたくし》は|黒姫《くろひめ》さまに|反対《はんたい》|致《いた》しました|青彦《あをひこ》や、|紫姫《むらさきひめ》の|部下《ぶか》の|者《もの》で|御座《ござ》います。|誠《まこと》に|済《す》まない|事《こと》で、|黒姫《くろひめ》さまにお|詫《わび》に|参《まゐ》りました』
|鳶公《とびこう》『ウン、あの|黒姫《くろひめ》の|奴《やつ》か、|彼奴《あいつ》はお|前達《まへたち》のお|蔭《かげ》で|縮尻《しゆくじ》りやがつた。とうの|昔《むかし》フサの|国《くに》の|本山《ほんざん》に|引《ひ》き|上《あ》げよつた、|其《その》|後《ご》と|云《い》ふものは|毎日《まいにち》|日日《ひにち》、|食《く》つたり|飲《の》んだり、|気楽《きらく》なものだ。|青彦《あをひこ》|様々《さまさま》だ。お|前《まへ》も|其《その》|家来《けらい》であらば|尚々《なほなほ》|結構《けつこう》だ。マアマア|祝《いは》ひに|一杯《いつぱい》やれ』
|馬公《うまこう》『オイ|鹿公《しかこう》、|何《ど》うやらこいつは|風並《かざなみ》が|変《へん》だよ』
|鹿公《しかこう》『|変《へん》でも|何《なん》でも|唯《ただ》|飲《の》めと|云《い》ふのだから|飲《の》んだらいいぢやないか。モシモシ|皆《みな》さま、|是非《ぜひ》|共《とも》|宜敷《よろし》く、|私《わたくし》は|決《けつ》して|決《けつ》して|謝罪《あやま》りなどは|致《いた》しませぬ』
|鳶公《とびこう》『ヤアお|前《まへ》は|鹿公《しかこう》だつたな。ウンよしよし、|一寸《ちよつと》|話《はな》せる、|我《わが》|党《たう》の|士《し》だ。サア|是《これ》から|酒責《さけぜ》め、|飯責《めしぜ》め、|牡丹餅責《ぼたもちぜ》めの|御馳走責《ごちそうぜ》めだ。|去年《きよねん》の|返報《へんぱう》がへしだ。おぢおぢせずに|男《をとこ》らしう|牛飲馬食《ぎういんばしよく》するのだぞ。|黒姫《くろひめ》が|留守《るす》になつたから|梅公《うめこう》の|会長《くわいちやう》で、|牛飲馬食会《ぎういんばしよくくわい》の|本部《ほんぶ》が|設立《せつりつ》されたのだ。|貴様《きさま》も|成績《せいせき》|次第《しだい》で|幹部《かんぶ》にしてやらぬ|事《こと》も|無《な》いし、|特別《とくべつ》|会員《くわいいん》に|推薦《すいせん》しないにも|限《かぎ》らない、
|岩窟《いはや》にも|春《はる》は|来《き》にけり|酒《さけ》の|花《はな》
だ。アハヽヽヽ、サア|這入《はい》つたり|這入《はい》つたり』
|鷹《たか》、|鳶《とび》の|両人《ふたり》は、|馬《うま》、|鹿《しか》の|手《て》を|無理無体《むりむたい》に|引張《ひつぱ》り、|大勢《おほぜい》の|前《まへ》に|連《つ》れて|来《き》た。
|梅公《うめこう》『ヤアお|前《まへ》は|三五教《あななひけう》の|連中《れんちう》ぢやないか』
|馬公《うまこう》『|今日《けふ》から|牛飲馬食会《ぎういんばしよくくわい》へ|入会《にふくわい》を|願《ねが》ひます』
|梅公《うめこう》『ヤア、|二人《ふたり》だな、|本会《ほんくわい》|創立《さうりつ》|以来《いらい》|創立者《さうりつしや》の|外《ほか》に、|入会《にふくわい》を|申込《まをしこ》んだのは|君《きみ》|達《たち》が|最初《さいしよ》だ。|普通《あたりまへ》なれば|飲《の》みぶり、|食《く》ひぶりを|検査《けんさ》した|上《うへ》に|会員《くわいいん》の|等級《とうきふ》を|定《き》めるのだが、|今日《けふ》は|祝意《しゆくい》を|表《へう》する|為《ため》、|特別《とくべつ》|会員《くわいいん》に|推薦《すいせん》するから、|特別《とくべつ》|会員《くわいいん》の|名誉《めいよ》を|保持《ほぢ》する|為《ため》に、|腹《はら》が|破《やぶ》れる|程《ほど》|食《く》つて、|天《てん》が|地《ち》になり、|地《ち》が|天《てん》になる|所《ところ》|迄《まで》|酒《さけ》を|飲《の》むのだ。いいか、|合点《がつてん》か』
|馬公《うまこう》『これはこれは|特別《とくべつ》の|御詮議《ごせんぎ》を|以《もつ》て』
|鹿公《しかこう》『【しか】も|特別《とくべつ》|会員《くわいいん》に|列《れつ》せられまして|有難《ありがた》う。|飽迄《あくまで》|頂戴《ちやうだい》|仕《つかまつ》ります』
|梅公《うめこう》『ヤア、これで|同志《どうし》がざつと|二人《ふたり》|増加《ぞうか》した。|黒姫《くろひめ》の|信徒《しんと》|募集《ぼしふ》とは|余程《よほど》|早《はや》い|哩《わい》。|否《いな》|効果《かうくわ》が|挙《あ》がると|云《い》ふものだ』
|寅若《とらわか》『オイ|皆《みな》の|奴《やつ》、|会長《くわいちやう》|万歳《ばんざい》を|三唱《さんしやう》しようぢやないか』
|一同《いちどう》『オー|宜《よ》からう|宜《よ》からう、|牛飲馬食会《ぎういんばしよくくわい》|万歳《ばんざい》、|会長《くわいちやう》さん|万歳《ばんざい》、|馬《うま》、|鹿《しか》|両人《りやうにん》|万歳《ばんざい》、|会員《くわいいん》|一同《いちどう》|万々歳《ばんばんざい》、ワハヽヽヽ』
と|岩窟《がんくつ》も|崩《くづ》るる|許《ばか》り|笑《わら》ひ|倒《こ》ける。|此《この》|時《とき》|岩窟《がんくつ》の|外《そと》には|鶴《つる》、|亀《かめ》の|両人《りやうにん》|四五《しご》の|従者《じゆうしや》を|引《ひ》き|連《つ》れやつて|来《き》た。
|鶴公《つるこう》『これこれ|亀公《かめこう》、|随分《ずゐぶん》|賑《にぎ》やかな|声《こゑ》がするぢやないか』
|亀公《かめこう》『オウ、そうだなア、|何《なん》でも|此《この》|中《なか》に|天眼通《てんがんつう》の|利《き》く|奴《やつ》があつて、|吾々《われわれ》の|歓迎会《くわんげいくわい》でも|開《ひら》いて|前祝《まへいはひ》でもしとるのだらう』
|鶴公《つるこう》『それだけ|天眼《てんがん》の|利《き》いて|居《ゐ》る|奴《やつ》があるのなら、|何故《なぜ》|吾々《われわれ》を|迎《むか》ひに|来《こ》ないのだらう』
|亀公《かめこう》『|余《あま》り|嬉《うれ》しいので|酒《さけ》に|喰《くら》ひ|酔《よ》うて|忘《わす》れたのかも|知《し》れない。|併《しか》し|霊《れい》は|屹度《きつと》|迎《むか》ひに|来《き》て|居《を》るよ。|何事《なにごと》も|善意《ぜんい》に|解《かい》するのが|安全《あんぜん》|第一《だいいち》だ』
|鶴公《つるこう》『|併《しか》し|何《なん》だかチと|変梃《へんてこ》だ。|鬼《おに》の|来《こ》ぬ|間《ま》に|体《からだ》の|洗濯《せんたく》、|睾丸《きんたま》の|皺伸《しわの》ばしをやつて|居《を》るのぢやなからうかなア。|何《なに》は|兎《と》もあれ|一《ひと》つ|呶鳴《どな》つて|見《み》ようぢやないか』
|斯《か》く|話《はな》す|折《をり》しも、|鳶《とび》、|鷹《たか》の|二人《ふたり》は|行歩蹣跚《かうほまんさん》として|入口《いりぐち》に|現《あら》はれ|来《きた》り、
『ダヽヽ|誰人《だれ》だ。|羨望《けな》りさうに|入口《いりぐち》から|覗《のぞ》きよつて、|何《なに》も|遠慮《ゑんりよ》は|要《い》らない。サア|思《おも》ひ|切《き》り|飲《の》んで、|思《おも》ひ|切《き》り|食《く》つて|踊《をど》るんだ。|今日《けふ》は|三五教《あななひけう》からも|二人《ふたり》も|入会者《にふくわいしや》があつた。ヤア|七八人《しちはちにん》も|連《つ》れて|居《ゐ》やがるな。|牛飲馬食会《ぎういんばしよくくわい》の|隆盛《りうせい》、|旭日昇天《きよくじつしようてん》の|勢《いきほひ》だ。|今日《けふ》の|祝意《しゆくい》を|表《へう》するため、|特別《とくべつ》|会員《くわいいん》に|推薦《すいせん》してやる。そんなに|入口《いりぐち》に|乞食《こじき》のやうに|立《た》つて|居《ゐ》ないで、トツトと|辷《すべ》り|込《こ》めい』
|鶴公《つるこう》『|貴様《きさま》は|鷹公《たかこう》と|鳶公《とびこう》ぢやないか。|黒姫《くろひめ》の|留守役《るすやく》たる|梅公《うめこう》は|何《なに》をして|居《を》るか。|此《この》|方《はう》はフサの|国《くに》の|本山《ほんざん》より|出張《しゆつちやう》|致《いた》したる|鶴《つる》、|亀《かめ》の|両人《りやうにん》だ。|一刻《いつこく》も|早《はや》く|梅公《うめこう》の|奴《やつ》に|注進《ちうしん》|致《いた》せ』
|鷹《たか》と|鳶《とび》とは|此《こ》の|声《こゑ》を|聞《き》いて|一度《いちど》に|酔《ゑひ》を|醒《さ》まし、ぶるぶる|慄《ふる》へながら、
『ヤア、これはこれは|鶴公《つるこう》に|亀公《かめこう》、|鷹公《たかこう》に|鳶公《とびこう》、|馬公《うまこう》に|鹿公《しかこう》、|鶴公《つるこう》に|亀公《かめこう》、|鷹公《たかこう》に|鳶公《とびこう》、|馬公《うまこう》に|鹿公《しかこう》』
|鶴公《つるこう》『|何《なに》を|云《い》つて|居《を》るのだ。|狼狽《うろた》へやがつて、|早《はや》く|注進《ちうしん》せぬかい』
|鷹公《たかこう》『オイ|鳶公《とびこう》、|気《き》の|利《き》かぬ|奴《やつ》だ。|早《はや》く|今《いま》の|内《うち》に|奥《おく》に|行《い》つて|皆《みな》に|注進《ちうしん》して、|酒徳利《さけどつくり》や|何《なに》かを|隠《かく》すのだ。それ|迄《まで》|俺《おれ》は|何《なん》とか|彼《か》とか|云《い》うて|閉塞隊《へいそくたい》の|御用《ごよう》を|務《つと》めて|居《を》るから』
|亀公《かめこう》『オイ、|鷹公《たかこう》、その|狭《せま》い|入口《いりぐち》に|何《なに》をうごうごして|居《ゐ》るのだ。|早《はや》く|退《の》かぬかい、|這入《はい》れないぢやないか』
|鷹公《たかこう》『|今《いま》|這入《はい》られて|何《ど》う|耐《たま》らう。|出口《でぐち》|入口《いりぐち》|一寸《ちよつと》|一《ひと》つ|門《もん》、|徳利《とくり》の|口《くち》で|一口《ひとくち》ぢや、|土瓶《どびん》の|口《くち》ぢや|二口《ふたくち》ぢや、|口《くち》は|幸福《かうふく》の|門《もん》、|今日《けふ》の|口《くち》はどうやら|禍《わざはい》の|門《もん》ぢや。|謹《つつし》んで|漫《みだ》りに|口《くち》を|開《ひら》くぢやないぞ。|口《くち》は|禍《わざはい》の|基《もと》だぞよ。|口《くち》|程《ほど》|恐《こわ》いものはないぞよ。|今《いま》に|天《あま》の|岩戸《いはと》を|開《ひら》いて|見《み》せるぞよ』
|鶴公《つるこう》『コラ|鷹公《たかこう》、|貴様《きさま》|酒《さけ》に|喰《くら》ひ|酔《よ》つて|居《を》るな、|大方《おほかた》|誰《たれ》も|彼《かれ》も|残《のこ》らず|酒《さけ》を|喰《くら》ひ、|御馳走《ごちそう》に|飽《あ》いて|居《を》るのぢやらう』
|鷹公《たかこう》『|滅相《めつさう》な|滅相《めつさう》な、|何《ど》うして|何《ど》うして、|黒姫《くろひめ》|様《さま》のお|留守中《るすちう》は|慎《つつし》んだ|上《うへ》にも|慎《つつし》まねばなりませぬ、その|故《ゆゑ》に|牛飲馬食会《ぎういんばしよくくわい》が|創立《さうりつ》されました』
|鶴公《つるこう》『|何《なに》、|牛飲馬食会《ぎういんばしよくくわい》、そりや|何《なに》をする|会《くわい》だ』
|鷹公《たかこう》『エイエイ、それは|彼《あ》の|何《なん》です。|大江山《おほえやま》に|八岐《やまた》の|大蛇《をろち》が|現《あらは》れまして|大《おほ》きな|牛《うし》を|五六匹《ごろつぴき》も|一遍《いつぺん》に【ぎう】と|飲《の》み、|馬《うま》も|七八匹《しちはつぴき》|一遍《いつぺん》に|食《く》つたと|云《い》ふ|事《こと》です。それで|呑《のむ》のが|商売《しやうばい》の|八岐《やまた》の|大蛇《をろち》の|牛飲馬食《ぎういんばしよく》をやつて|居《を》る|其《その》|型《かた》を|一寸《ちよつと》して|見《み》たのですよ。ちと|位《くらゐ》|酒《さけ》を|飲《の》んで|飯《めし》を|食《く》つたつて|矢張《やつぱり》|一升袋《いつしようぶくろ》は|一升《いつしよう》だ。|何《いづ》れ|留守中《るすちう》の|事《こと》だからチツと|位《くらゐ》|不都合《ふつがふ》があつても|大目《おほめ》に|見《み》なさるがよからう。|兎《と》に|角《かく》|憎《にく》まれるのは|損《そん》だ。|八方《はつぱう》|美人《びじん》|主義《しゆぎ》が|当世《たうせい》だから』
|奥《おく》の|方《はう》では|鳶公《とびこう》の|注進《ちうしん》によつて|俄《にはか》の|大騒《おほさわ》ぎ、|徳利《とくり》を|持《も》つて|雪隠《せつちん》に|隠《かく》るる|奴《やつ》、|丼鉢《どんぶりばち》を|抱《かか》へて|床下《ゆかした》に|這《は》ひ|込《こ》む|奴《やつ》、|着物《きもの》を|前《まへ》|後《うしろ》に|着《き》る|奴《やつ》、|大騒《おほさわ》ぎをやつて|居《を》る。|鶴《つる》、|亀《かめ》|両人《りやうにん》は|遂《つひ》に|鷹公《たかこう》を|蹴飛《けと》ばし、|六人《ろくにん》の|従者《じゆうしや》と|共《とも》にこの|乱痴気《らんちき》|騒《さわ》ぎの|現場《げんぢやう》に|現《あら》はれ|来《き》たり、
|鶴公《つるこう》『ヤア|御大将《おんたいしやう》|梅公《うめこう》さま、|仲々《なかなか》の|元気《げんき》ですなア。|流石《さすが》は|黒姫《くろひめ》|様《さま》が|留守師団長《るすしだんちやう》に|選抜《せんばつ》せられるだけあつて|好《よ》く|隅《すみ》から|隅《すみ》|迄《まで》|行《ゆ》き|届《とど》いて|居《ゐ》ます。|余程《よほど》|貴方《あなた》の|御政治《ごせいぢ》が|良《よ》いと|見《み》えて|四辺《あたり》の|草木《くさき》は|申《まを》すに|及《およ》ばず、|室内《しつない》の|徳利《とくり》や|土瓶《どびん》、|膳《ぜん》、|椀《わん》、|箸《はし》にいたる|迄《まで》|貴方《あなた》の|余徳《よとく》で|交歓《かうくわん》|抃舞雀躍《べんぶじやくやく》|手《て》の|舞《ま》ひ|足《あし》の|踏《ふ》む|所《ところ》を|知《し》らずと|云《い》ふ|有様《ありさま》ですな』
|梅公《うめこう》『イヤもう、さう|云《い》はれましては|答弁《たふべん》の|辞《じ》が|御座《ござ》いませぬ。|何分《なにぶん》|有力《いうりよく》な|黒姫《くろひめ》|様《さま》がお|留守《るす》になつたものですから、|吾々《われわれ》は|粉骨砕身《ふんこつさいしん》|大車輪《だいしやりん》の|活動《くわつどう》を|致《いた》さねばならぬと|思《おも》うて、|部下《ぶか》の|者共《ものども》に|奨励《しやうれい》を|致《いた》して|居《ゐ》ます。|其《その》|感化力《かんくわりよく》に|依《よ》りまして、|土瓶《どびん》から|徳利《とくり》の|端《はし》に|至《いた》る|迄《まで》|活溌《くわつぱつ》に|働《はたら》いて|見《み》せて|呉《く》れます|哩《わい》。アハヽヽヽ』
|亀公《かめこう》『コレコレ|梅公《うめこう》、それは|何《なん》と|云《い》ふ|不真面目《ふまじめ》な|云《い》ひ|分《ぶん》だ。|一体《いつたい》|此《この》|態《ざま》は|何《なん》だ、|落花狼藉《らくくわらうぜき》|名状《めいじやう》すべからざる|為体《ていたらく》ぢやないか』
|鳶《とび》、グダグダに|酔《よ》ひながら、
『お|前《まへ》は|亀《かめ》ぢやな、|亀《かめ》は|酒《さけ》の|好《す》きなものだ。そんな|四角張《しかくば》つた|面構《つらがま》へをせずにちつと|命《いのち》の|水《みづ》を|飲《の》んだら|何《ど》うだい。|酒《さけ》は|百薬《ひやくやく》の|長《ちやう》だ、|酒《さけ》|位《くらゐ》|元気《げんき》な、|曲芸《きよくげい》をする|奴《やつ》はないぞ』
|亀《かめ》、|儼然《げんぜん》として、
『|吾《われ》こそは、フサの|国《くに》|北山村《きたやまむら》の|本山《ほんざん》より、|高姫《たかひめ》の|使者《ししや》として|罷《まか》り|越《こ》したるものである。これより|汝等《なんぢら》|一同《いちどう》の|者《もの》はフサの|国《くに》へ|連《つ》れ|帰《かへ》るから|其《その》|用意《ようい》を|致《いた》されよ。ヤア|梅公《うめこう》、|其《その》|方《はう》は|特別《とくべつ》をもつて|亀公《かめこう》の|御伴《おとも》|申付《まをしつ》ける』
|梅公《うめこう》『|斯《か》くある|事《こと》とかねて|承知《しようち》を|致《いた》して|居《を》りました。それ|故《ゆゑ》|先見《せんけん》の|明《めい》ある|吾々《われわれ》、|敵《てき》に|糧《かて》を|渡《わた》すも|約《つま》らぬと|存《ぞん》じ、|皆《みな》の|奴等《やつら》に|昼夜《ちうや》|間断《かんだん》なく|勉強《べんきやう》して|牛飲馬食《ぎういんばしよく》をさせ|置《お》いて|御座《ござ》る。|斯《か》くの|如《ごと》く|体内《たいない》に|滲《し》み|込《こ》ませて|置《お》けば、|今後《こんご》|一年《いちねん》や|二年《にねん》、|半粒《はんつぶ》の|米《こめ》も|一滴《いつてき》の|水《みづ》も|飲《の》ます|必要《ひつえう》は|御座《ござ》らぬ。アハヽヽヽ』
|鷹公《たかこう》『オイ|鳶公《とびこう》、|辰《たつ》、|寅《とら》、|皆《みな》の|奴《やつ》、|梅《うめ》の|大将《たいしやう》|甚《ひど》い|事《こと》を|吐《ぬか》すぢやないか。|俺達《おれたち》を|蛇《へび》か|蛙《かはづ》のやうに|思《おも》ひやがつて|夏中《なつぢう》|餌食《ゑば》みさせて、|二年《にねん》|三年《さんねん》はもう|喰《く》はいでもよいなぞと|云《い》うて|居《ゐ》やがるぜ。こんな|処《ところ》にいつ|迄《まで》も|居《を》つたら|蛙《かへる》の|干乾《ひぼし》になつて|仕舞《しま》ふぞ。|今《いま》の|内《うち》に|逃《に》げ|出《だ》さうかな』
|梅公《うめこう》『オイ|丑公《うしこう》、|皆《みな》の|奴《やつ》が|逃《に》げ|出《だ》さぬやう|一方口《いつぱうぐち》に|立塞《たちふさ》がり、|槍《やり》をもつて|立番《たちばん》を|致《いた》せ。|無理《むり》に|逃走《たうそう》を|企《くはだ》てた|奴《やつ》があれば|容赦《ようしや》なし|芋刺《いもざ》しにするのだぞ』
|丑公《うしこう》『|畏《かしこ》まりました』
と|長押《なげし》の|槍《やり》を|取《と》るより|早《はや》く、|一方口《いつぱうぐち》に|立《た》ち|塞《ふさ》がり、|儼然《げんぜん》として|警戒《けいかい》の|任《にん》に|当《あた》つて|居《ゐ》る。|梅公《うめこう》は|馬《うま》、|鹿《しか》の|両人《りやうにん》が|此《この》|場《ば》に|混《まじ》り|居《を》るに|初《はじ》めて|気《き》がついたものか、|目《め》を|丸《まる》くして|頓狂《とんきやう》な|声《こゑ》で、
|梅公《うめこう》『ヤア、お|前《まへ》は|三五教《あななひけう》の|馬《うま》、|鹿《しか》と|云《い》ふ|男《をとこ》ぢやないか』
|馬公《うまこう》『ヘイ、さうでげす。|最前《さいぜん》|貴方《あなた》|様《さま》の|前《まへ》に|於《おい》て|特別《とくべつ》|会員《くわいいん》に|推薦《すいせん》されました|馬《うま》、|鹿《しか》の|両人《りやうにん》、|吾々《われわれ》も|特別《とくべつ》|会員《くわいいん》に|列《れつ》せられたチヤキチヤキです。もしもしフサの|国《くに》からお|越《こ》しになつた|鶴公《つるこう》さま、|亀公《かめこう》さま、よい|所《ところ》でお|目《め》に|懸《かか》りました。|実《じつ》の|処《ところ》、|特別《とくべつ》|火急《くわきふ》のお|願《ねが》ひがあつて|黒姫《くろひめ》さまにお|目《め》に|懸《か》からうと|出《で》て|参《まゐ》りました|処《ところ》、|生憎《あいにく》|御不在《ごふざい》の|上《うへ》、|梅公《うめこう》の|会長《くわいちやう》の|下《もと》に|盛《さかん》な|牛飲馬食会《ぎういんばしよくくわい》が|開会《かいくわい》されて|居《ゐ》ましたので、|吾々《われわれ》も|鷹公《たかこう》、|鳶公《とびこう》の|推薦《すいせん》によつて|特別《とくべつ》|会員《くわいいん》たるの|光栄《くわうえい》を|得《え》ました。|併《しか》し|乍《なが》ら|鶴公《つるこう》さま、|貴方《あなた》は|黒姫《くろひめ》さまに|一《ひと》つ|吾々《われわれ》の|願《ねがひ》を|取次《とりつい》で|下《くだ》さいますまいかな』
|鶴公《つるこう》『|是《これ》は|又《また》|妙《めう》な|事《こと》を|聞《き》きます。|一体《いつたい》|取次《とりつ》げと|云《い》ふ|要件《えうけん》は|何《ど》んな|事《こと》で|御座《ござ》いますか』
|鹿公《しかこう》『|実《じつ》は|紫姫《むらさきひめ》、|青彦《あをひこ》が|改心《かいしん》を|致《いた》しまして、|折角《せつかく》|手《て》に|入《い》れた|玉照姫《たまてるひめ》|様《さま》|母子《おやこ》を|黒姫《くろひめ》|様《さま》に|献《けん》じ|度《た》いと|申《まを》し|出《で》たので|御座《ござ》います』
|鶴公《つるこう》|暫《しば》し|首《くび》を|傾《かたむ》け|稍《やや》|思案《しあん》に|暮《く》れ|居《ゐ》たりしが、|亀公《かめこう》は|不思議《ふしぎ》さうに、
『|又《また》そんな|事《こと》を|云《い》つてウラナイ|教《けう》を|打《ぶ》ち|返《かへ》しに|来《く》るのだらう。そんな|下手《へた》な|計略《けいりやく》はよしたがよからうぜ』
|鹿公《しかこう》『|是非《ぜひ》とも|宜敷《よろし》うお|願《ねが》ひ|申《まを》します』
|鶴公《つるこう》は|手《て》を|打《う》つて、
『|嗚呼《ああ》|流石《さすが》は|神様《かみさま》だ、|斯《こ》うなくては|叶《かな》はぬ|道理《だうり》だ、イヤ|承知《しようち》|致《いた》しました。|直様《すぐさま》お|伝《つた》へ|致《いた》しませう。|馬公《うまこう》、|鹿公《しかこう》、|貴方《あなた》は|一時《いちじ》も|早《はや》く|帰《かへ》つて|皆《みな》さまに|報告《はうこく》して|下《くだ》さい。|私《わたくし》は|一寸《ちよつと》|飛行船《ひかうせん》を|飛《と》ばしてフサの|本山《ほんざん》に|立帰《たちかへ》り、|高姫《たかひめ》、|黒姫《くろひめ》|様《さま》の|御両人様《おふたりさま》の|御意見《ごいけん》を|承《うけたま》はつて|参《まゐ》りませう』
|馬公《うまこう》『|是非《ぜひ》|共《とも》|宜敷《よろし》くお|頼《たの》み|申《まを》します』
|鹿公《しかこう》『|私《わたくし》も|同《おな》じく|是非《ぜひ》|共《ども》|宜敷《よろし》う』
と、いそいそとして|門番《もんばん》の|丑公《うしこう》に|事情《じじやう》を|明《あ》かし、|元伊勢《もといせ》|指《さ》して|帰《かへ》り|行《ゆ》く。
(大正一一・五・七 旧四・一一 加藤明子録)
第八章 |大悟徹底《たいごてつてい》〔六五三〕
|紫姫《むらさきひめ》、|若彦《わかひこ》、お|玉《たま》は|元伊勢《もといせ》の|神殿《しんでん》に|祈願《きぐわん》を|籠《こ》め|終《をは》り、|玉照姫《たまてるひめ》を|介抱《かいほう》しつつ、|馬《うま》、|鹿《しか》|両人《りやうにん》の|復命《ふくめい》|如何《いか》にと|待《ま》つて|居《ゐ》た。
|黄昏《たそがれ》|過《す》ぐる|頃《ころ》|神殿《しんでん》に|向《むか》つて|急《いそ》ぎ|来《きた》る|二《ふた》つの|影《かげ》。
『モシモシ|紫姫《むらさきひめ》さま、|若彦《わかひこ》さまは|居《ゐ》られますか、|馬《うま》、|鹿《しか》の|両人《りやうにん》で|御座《ござ》います』
|若彦《わかひこ》『ヤア|馬公《うまこう》に|鹿公《しかこう》、|御苦労《ごくらう》だつたナア。|様子《やうす》は|如何《どう》ぢや』
|馬公《うまこう》『ハイまアまア|上《じやう》【いき】でした。|黒姫《くろひめ》はフサの|国《くに》へ|帰《かへ》つて|不在中《ふざいちゆう》だとかで、|残《のこ》りの|十四五人《じふしごにん》の|連中《れんちう》、|酒《さけ》に|喰《くら》ひ|酔《よ》つて|大騒《おほさわ》ぎの|真最中《まつさいちう》、|到頭《たうとう》|吾々《われわれ》|両人《りやうにん》も|引張《ひつぱ》り|込《こ》まれ、|酒《さけ》に|酔《よ》ひ|潰《つぶ》され、|敵味方《てきみかた》の|区別《くべつ》も|無《な》く|互《たがひ》に|歓《くわん》を|尽《つく》して|居《ゐ》る|最中《さいちう》へ、やつて|来《き》たのはフサの|国《くに》の|本山《ほんざん》より|高姫《たかひめ》、|黒姫《くろひめ》の|使《つかひ》として|鶴公《つるこう》、|亀公《かめこう》の|両人《りやうにん》、そこで|吾々《われわれ》|両人《りやうにん》は|貴女方《あなたがた》の|御意見《ごいけん》を|伝《つた》へますると、|鶴公《つるこう》、|亀公《かめこう》は|一《いち》も|二《に》も|無《な》く|承諾《しようだく》をしました。|併《しか》し|乍《なが》ら|一寸《ちよつと》フサの|国《くに》まで|伺《うかが》つて|来《く》るから、|確《かく》たる|返答《へんたふ》は|後《のち》|程《ほど》するとの|事《こと》でございました』
|紫姫《むらさきひめ》『アヽそれは|御苦労《ごくらう》でしたナ。|左様《さやう》ならば|御返事《ごへんじ》のあるまで、|一旦《いつたん》|聖地《せいち》へ|引返《ひきかへ》しませうか』
|若彦《わかひこ》『それが|御《お》よろしうございませう。|玉照姫《たまてるひめ》|様《さま》が|元伊勢《もといせ》へ|御参拝《ごさんぱい》の|御供《おとも》を|致《いた》したと|思《おも》へば|無駄《むだ》にはなりませぬ。サアサア|急《いそ》ぎ|帰《かへ》りませう』
と|一行《いつかう》|五人《ごにん》は、|玉照姫《たまてるひめ》を|恭《うやうや》しく|捧持《ほうぢ》しつつ|再《ふたた》び|世継王山麓《よつわうさんろく》の|館《やかた》に|立帰《たちかへ》りける。|峰《みね》の|嵐《あらし》に|吹《ふ》き|散《ち》らされて|満天《まんてん》の|雲《くも》は|何処《いづく》ともなく|姿《すがた》を|消《け》し、|上弦《じやうげん》の|月《つき》は|東天《とうてん》に|輝《かがや》き|初《はじ》めた。|夜明《よあ》けに|間《ま》もなき|時《とき》なりける。
|四五日《しごにち》|過《す》ぐる|夜半《よなか》|頃《ごろ》、|世継王山麓《よつわうさんろく》の|玉照姫《たまてるひめ》が|庵《いほり》を|訪《たづ》ねる|数名《すうめい》の|男女《だんぢよ》が|現《あら》はれた。|凩《こがらし》|吹《ふ》き|荒《すさ》ぶ|真夜中《まよなか》|頃《ごろ》、|紫姫《むらさきひめ》|以下《いか》の|家族《かぞく》は|残《のこ》らず|寝《しん》に|就《つい》て|居《ゐ》た。|門《もん》の|戸《と》を|敲《たた》く|男《をとこ》の|声《こゑ》、
|鶴公《つるこう》『モシモシ|夜中《よなか》に|参《まゐ》りまして|済《す》みませぬが、|私《わたくし》は|御存知《ごぞんぢ》のフサの|国《くに》のウラナイ|教《けう》の|本山《ほんざん》から|参《まゐ》りました|鶴公《つるこう》でございます。|先日《せんじつ》|馬公《うまこう》さま、|鹿公《しかこう》さまに|御聞《おき》き|申《まを》したことを、|直様《すぐさま》|高姫《たかひめ》、|黒姫《くろひめ》|様《さま》に|御伝《おつた》へ|致《いた》しました|所《ところ》、|殊《こと》の|外《ほか》|御悦《およろこ》び|遊《あそ》ばして、|唯今《ただいま》|此所《ここ》へ|大勢《おほぜい》|伴《つ》れて|御出《おい》でになりました』
|馬公《うまこう》は|此《こ》の|声《こゑ》を|聞《き》き、|家《いへ》の|中《なか》より、
『ヤア|擬《まが》ふ|方《かた》なき|鶴公《つるこう》さまの|声《こゑ》、|一寸《ちよつと》|待《ま》つて|下《くだ》さい。|今直《いますぐ》に|紫姫《むらさきひめ》|様《さま》に|申上《まをしあ》げますから、オイ|鹿公《しかこう》、|起《お》きぬか、|大変《たいへん》だ|大変《たいへん》だ』
|鹿公《しかこう》はむつくと|起《お》き、
『ナヽヽ|何《なに》が|大変《たいへん》だ。|大方《おほかた》フサの|国《くに》から|黒姫《くろひめ》さま、|高姫《たかひめ》さまが|殊《こと》の|外《ほか》|御悦《およろこ》びで|御出《おい》でになつたのだらう』
|馬公《うまこう》『なまくらな|奴《やつ》だ、|聞《き》いてゐやがつたのだな』
|鹿公《しかこう》『アハヽヽヽ、モシモシ|紫姫《むらさきひめ》さま、|若彦《わかひこ》さま、|高姫《たかひめ》、|黒姫《くろひめ》の|御両人《ごりやうにん》が|御出《おい》でになりましたよ』
|紫姫《むらさきひめ》『アーそれは|御遠方《ごゑんぽう》の|所《ところ》、よう|来《き》て|下《くだ》さつた。|馬公《うまこう》や、|早《はや》く|表《おもて》を|開《あ》けて|下《くだ》さい。さうして|受付《うけつけ》で|一寸《ちよつと》|御茶《おちや》でも|差上《さしあ》げて、|此方《こちら》の|奥《おく》の|片付《かたづ》くまで|待《ま》つて|居《ゐ》て|貰《もら》うて|下《くだ》さい』
と|欣々《いそいそ》として|寝床《ねどこ》を|片付《かたづ》け、|掃除《さうぢ》にかかる。|若彦《わかひこ》は|寝巻《ねまき》を|着替《きか》へ、|慌《あわて》て|表《おもて》に|飛《と》び|出《だ》し、
|若彦《わかひこ》『ヤー|黒姫《くろひめ》さま、|高姫《たかひめ》さま、よう|御出《おい》で|下《くだ》さいました。サアほんの|仮小屋《かりごや》で|貴方《あなた》の|御在遊《おいであそ》ばす|本山《ほんざん》に|比《くら》ぶれば、|全《まる》で|柴小屋《しばごや》の|様《やう》なものでございますが、どうぞ|御入《おはい》り|下《くだ》さいませ』
|高姫《たかひめ》『|青彦《あをひこ》さま、|何事《なにごと》も|神界《しんかい》の|御都合《ごつがふ》だから|今迄《いままで》の|事《こと》は、|全然《すつかり》|水《みづ》に|流《なが》して|仲好《なかよ》うするのだよ』
|若彦《わかひこ》『ハイハイ|仰《あふ》せの|通《とほ》り|仲好《なかよ》うする|程《ほど》、|結構《けつこう》なことはございませぬ』
|黒姫《くろひめ》『お|前《まへ》は|矢張《やつぱ》り|私《わし》の|眼識《めがね》に|違《たが》はず、|屹度《きつと》こんな|好結果《かうけつくわ》を|齎《もたら》すであらうと|思《おも》つて|居《を》つた。|私《わし》の|眼《め》は|矢張《やつぱ》り|黒《くろ》いワ。|高姫《たかひめ》さま|如何《どう》でございます、|間違《まちが》ひはありますまい』
|高姫《たかひめ》『イヤどうも|恐《おそ》れ|入《い》りました。サアサア|御免《ごめん》|蒙《かうむ》りませう』
と|一同《いちどう》はぞろぞろと|閾《しきゐ》を|跨《また》げて|奥《おく》に|進《すす》み|入《い》る。
|紫姫《むらさきひめ》『これはこれは|皆様《みなさま》よく【おはせ】られました。|毎日《まいにち》|日日《ひにち》|首《くび》を|伸《の》ばして|御返事《ごへんじ》|如何《いか》にと|御待《おま》ち|申《まを》してゐました。【こちら】の|方《はう》から|御返事《ごへんじ》の|有《あ》り|次第《しだい》|伺《うかが》ふつもりでしたのに、|自《みづか》ら|御出張《ごしゆつちやう》|下《くだ》さいますとは、|実《じつ》に|有難《ありがた》いことでございます。どうぞ|今迄《いままで》の|御無礼《ごぶれい》は|御赦《おゆる》し|下《くだ》さいませ』
|黒姫《くろひめ》『モー|斯《こ》うなれば|親子《おやこ》も|同然《どうぜん》だ。|決《けつ》して|御気遣《おきづか》ひ|下《くだ》さるな』
と|奥《おく》の|間《ま》の|正座《しやうざ》に|一行《いつかう》|七人《しちにん》ずらりと|棚《たな》の|布袋然《ほていぜん》として|座《ざ》を|占《しめ》る。
|紫姫《むらさきひめ》は|心底《しんてい》より|嬉々《きき》として、|丁寧《ていねい》に|遠来《ゑんらい》の|客《きやく》をもてなしてゐる。|若彦《わかひこ》、|馬《うま》、|鹿《しか》の|三人《さんにん》は|俄《にはか》に|襷掛《たすきが》けとなり、|御馳走《ごちそう》の|献立《こんだて》に|全力《ぜんりよく》を|尽《つく》してゐる。お|玉《たま》は|玉照姫《たまてるひめ》の|側《そば》を|離《はな》れず|大切《たいせつ》に|保護《ほご》して|居《を》る。
|黒姫《くろひめ》『これ|紫姫《むらさきひめ》さま、|貴女《あなた》は|本当《ほんたう》に|見上《みあ》げた|御方《おかた》だ。この|黒姫《くろひめ》でさへも|深遠《しんゑん》|霊妙《れいめう》なる|貴女《あなた》の|秘策《ひさく》には|気《き》が|付《つ》かなかつた。|大事《だいじ》を|遂行《すゐかう》するものは、さうなくてはならぬものだ。|現在《げんざい》|上役《うはやく》の|私《わたし》さへも|知《し》らぬやうに、うまく|芝居《しばゐ》を|仕組《しぐ》まれた|其《そ》の|腕前《うでまへ》は、|実《じつ》に|感服《かんぷく》|致《いた》しました。モシ|高姫《たかひめ》さま、それだから|私《わたし》が|貴女《あなた》に|御目《おめ》にかけた|時《とき》、|掘《ほ》り|出《だ》し|物《もの》が|手《て》に|入《い》つたと|言《い》うたぢやありませぬか。|黒姫《くろひめ》の|眼力《がんりき》も、あまり|捨《す》てたものぢやありますまい。エヘヽヽヽ』
と|肩《かた》を|揺《ゆす》る。
|紫姫《むらさきひめ》『イエイエもとより|智慧《ちゑ》の|足《た》らはぬ|妾《わらは》のことでございますから、|実《じつ》の|処《ところ》は|若彦《わかひこ》、|元《もと》の|名《な》の|青彦《あをひこ》と|二人《ふたり》、|悦子姫《よしこひめ》さまの|御指図《おさしづ》に|従《したが》つて、|済《す》まぬとは|知《し》り|乍《なが》ら|黒姫《くろひめ》|様《さま》を|誑《たば》かつたのです。つまり|貴女《あなた》に|揚《あ》げ|壺《つぼ》を|喰《く》はし、|玉照姫《たまてるひめ》|様《さま》を|此方《こちら》へ|捧持《ほうぢ》して|帰《かへ》つた|時《とき》は、それはそれは|何《なん》とも|知《し》れぬ|心持《こころもち》でございました。|嬉《うれ》しいやら|又《また》|何《なん》ともなしに|気持《きもち》が|悪《わる》いやら、|貴女《あなた》に|対《たい》して|御気《おき》の|毒《どく》やら、|何《なに》か|心《こころ》の|奥《おく》の|奥《おく》に|一《ひと》つの|黒《くろ》い|影《かげ》があるやうな|心持《こころもち》でした、|今日《こんにち》となつては|実《じつ》に|一点《いつてん》の|曇《くも》りも|無《な》き|様《やう》になりまして、こんな|嬉《うれ》しいことはございませぬ』
|黒姫《くろひめ》は|眼《め》を|丸《まる》うし、|口《くち》を|尖《とが》らし、
|黒姫《くろひめ》『さうすると|矢張《やつぱ》りお|前等《まへら》|二人《ふたり》|諜《しめ》し|合《あ》はして、|私《わし》を|抱《だ》き|落《おと》しにかけたのだな。ほんにほんに|油断《ゆだん》ならぬ|途方《とはう》も|無《な》い|腹《はら》の|黒《くろ》いお|姫様《ひめさま》だ。オホヽヽヽ』
|高姫《たかひめ》『これ|黒姫《くろひめ》さま、もう|好《よ》いぢやありませぬか。|改心《かいしん》さへなさつたら|何《なに》も|言《い》ふことはありませぬワ。|過《す》ぎ|去《さ》つたことを|言《い》うて|互《たがひ》に|気分《きぶん》を|悪《わる》うするよりも、|勇《いさ》んで|御用《ごよう》をするのが|神様《かみさま》に|対《たい》して|孝行《かうかう》ぢや。もうそんな|事《こと》は|打切《うちき》りに|致《いた》して、|打解《うちと》けて|是《これ》から|神業《しんげふ》に|参加《さんか》しようではありませぬか』
|紫姫《むらさきひめ》『|有難《ありがた》うございます。これに|就《つ》きましては|種々《いろいろ》と|深《ふか》い|理由《わけ》がございますが、|軈《やが》て|御膳《ごぜん》の|支度《したく》も|出来《でき》ませうから、ゆつくりと|召上《めしあが》つて|其《そ》の|後《あと》に、|妾等《わたしら》の|懺悔話《ざんげばなし》を|聞《き》いて|貰《もら》ひませう』
|斯《かか》る|処《ところ》へ|若彦《わかひこ》は|現《あら》はれ|来《きた》り、
『|皆《みな》さま、|御飯《ごはん》の|用意《ようい》が|出来《でき》ました。もう|夜《よ》も|明《あ》けかけましたから、どうぞ|御手水《おてうづ》を|使《つか》つて|御飯《ごはん》を|召上《めしあが》つて|下《くだ》さいませ』
|黒姫《くろひめ》『サア|皆《みな》さま、|身体《からだ》を|潔《きよ》めて|神様《かみさま》に|御礼《おれい》を|申上《まをしあ》げ、|御飯《ごはん》を|頂戴《ちやうだい》して、ゆるゆると|御話《おはなし》を|承《うけたま》はることにしませう』
|此《こ》の|言葉《ことば》に|一同《いちどう》は|裏《うら》の|谷川《たにがは》の|清泉《せいせん》に|口《くち》を|嗽《すす》ぎ、|手水《てうづ》を|使《つか》ひ|神前《しんぜん》に|祝詞《のりと》を|奏上《そうじやう》し、|終《をは》つて|朝餉《あさげ》の|膳《ぜん》に|就《つ》いた。
|黒姫《くろひめ》『|何《なに》から|何《なに》まで|心《こころ》を|籠《こ》めた|結構《けつこう》な|御馳走《ごちそう》を|頂戴《ちやうだい》|致《いた》しました。|青彦《あをひこ》さまの|真心《まごころ》が|染《し》み|込《こ》んで、|何《なん》となく|美味《おいし》く|頂戴《ちやうだい》|致《いた》しました。|時《とき》に|青彦《あをひこ》さまに|否《いや》|紫姫《むらさきひめ》さまに|改《あらた》めて|御訊《おたづ》ね|致《いた》しますが、それだけ|仕組《しぐ》んで|此《こ》の|年寄《としより》をちよろまかし、|茲《ここ》まで|成功《せいこう》して|置《お》き|乍《なが》ら、|何《なん》の|為《ため》に|今《いま》となつて|玉照姫《たまてるひめ》|様《さま》を、|私《わたし》の|方《はう》へ|渡《わた》さうと|言《い》ふのだい。|大方《おほかた》|玉照姫《たまてるひめ》|様《さま》の|御意《ぎよい》に|叶《かな》はずして|何《なに》か|恐《おそ》ろしい|夢《ゆめ》でも|毎晩《まいばん》|二人《ふたり》の|方《かた》が|見《み》せられ、|責《せめ》られるのが|辛《つら》さに|切羽《せつぱ》|詰《つま》つての|今度《こんど》の|降参《かうさん》ぢやないか。|素盞嗚尊《すさのをのみこと》の|悪神《わるがみ》の|御用《ごよう》をするお|前《まへ》として、どうも|不思議《ふしぎ》で|堪《たま》らぬぢやないか。サアすつぱりと|打明《うちあ》けて|言《い》ひなされ。|事《こと》によつたら|玉照姫《たまてるひめ》|様《さま》を|受取《うけと》つて|上《あ》げぬこともない』
|若彦《わかひこ》『イエイエ|滅相《めつさう》もない。|玉照姫《たまてるひめ》|様《さま》は|何時《いつ》も|大変《たいへん》な|御機嫌《ごきげん》でゐらせられ、|御神徳《ごしんとく》は|日々《にちにち》|輝《かがや》きまして、|此《こ》の|御方《おかた》あるため|三五教《あななひけう》は|大変《たいへん》な|勢力《せいりよく》になつて|来《き》ました』
|黒姫《くろひめ》『そんな|結構《けつこう》な|玉照姫《たまてるひめ》|様《さま》を|何故《なぜ》|又《また》あれだけ|秘術《ひじゆつ》を|尽《つく》して|手《て》に|入《い》れ|乍《なが》ら、ウラナイ|教《けう》へ|受取《うけと》つて|下《くだ》されと|頼《たの》みに|来《き》たのだい』
|若彦《わかひこ》『|実《じつ》は|剣尖山《けんさきやま》の|麓《ふもと》の|谷川《たにがは》で、|貴女《あなた》に|御眼《おめ》にかかつた|時《とき》、|紫姫《むらさきひめ》|様《さま》と|吾々《われわれ》|以心伝心的《いしんでんしん》に|詐《いつは》つて、ウラナイ|教《けう》に|帰順《きじゆん》と|見《み》せかけ、|貴女《あなた》の|計略《けいりやく》をすつかり|探知《たんち》し、うまく|取《と》り|入《い》つて|重任《ぢうにん》を|仰《あふ》せ|付《つ》けらるるところまで|漕《こ》ぎつけ、これ|幸《さいは》ひと|豊彦《とよひこ》の|家《うち》へ|綾彦《あやひこ》|夫婦《ふうふ》を|引伴《ひきつ》れ、|玉照姫《たまてるひめ》|様《さま》、お|玉《たま》さまを|受取《うけと》り、|黒姫《くろひめ》さまは|今頃《いまごろ》は|欠伸《あくび》をして|待《ま》つてゐらつしやるだらう。エー|好《よ》いことをした、|痛快《つうくわい》だと|心《こころ》|欣々《いそいそ》|帰《かへ》つて|参《まゐ》り、|日《ひ》に|夜《よ》に|侍《かしづ》き|仕《つか》へ|奉《まつ》り、その|御《お》かげで|旭日昇天《きよくじつしようてん》の|三五教《あななひけう》の|勢《いきほ》ひとなり、|素盞嗚大神《すさのをのおほかみ》|様《さま》も|嘸《さぞ》|御悦《およろこ》びの|事《こと》と|思《おも》つて|居《を》りましたところ、|或《ある》|夜《よ》のこと|大神様《おほかみさま》の|御娘《おんむすめ》|英子姫《ひでこひめ》|様《さま》に、|大神様《おほかみさま》より|非常《ひじやう》な|御意見《ごいけん》を|遊《あそ》ばされた|上《うへ》、|権謀術数的《けんぼうじゆつすうてき》|偽策《ぎさく》を|弄《ろう》して|貴《たふと》き|神様《かみさま》を|手《て》に|入《い》れるとは|不都合《ふつがふ》|千万《せんばん》だ、|三五教《あななひけう》に|於《おい》て|最《もつと》も|必要《ひつえう》なる|玉照姫《たまてるひめ》なれば、ウラナイ|教《けう》にも|必要《ひつえう》であらう。|黒姫《くろひめ》が|全力《ぜんりよく》を|尽《つく》して|手《て》に|入《い》れようとしてゐるものを、|無慈悲《むじひ》にも|何故《なぜ》そんな|掠奪的《りやくだつてき》|行動《かうどう》を|執《と》つたのだ。|己《おのれ》の|欲《ほつ》する|所《ところ》は|他人《ひと》に|施《ほどこ》せと|云《い》ふ|神《かみ》の|心《こころ》を|知《し》らぬか、|一時《いつとき》も|早《はや》く|黒姫《くろひめ》に|玉照姫《たまてるひめ》を|御渡《おわた》し|申《まを》し、|御詫《おわび》を|致《いた》せ。さうして|其《その》|方《はう》|等《ら》は|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》を|止《や》めよとの|意外《いぐわい》なる|御不興《ごふきよう》、|厳《きび》しき|御命令《ごめいれい》でございました。それが|為《ため》に|紫姫《むらさきひめ》|様《さま》も、|私《わたくし》も|嗚呼《ああ》|縮尻《しくじ》つた。|三五教《あななひけう》の|精神《せいしん》はそんなものぢやない。また|素盞嗚大神《すさのをのおほかみ》|様《さま》の|大御心《おほみこころ》は、|吾々《われわれ》のやうな|半清半濁《はんせいはんだく》の|魂《たましひ》ではない。|誠《まこと》|一《ひと》つの|水晶《すゐしやう》の|御魂《みたま》と|感《かん》じ|入《い》り、|恐《おそ》れ|入《い》つて|気《き》が|気《き》でならず、|貴女《あなた》が|依然《いぜん》として|魔窟ケ原《まくつがはら》の|巌窟《がんくつ》に|御座《ござ》ることと|思《おも》ひ、|玉照姫《たまてるひめ》|様《さま》が|元伊勢様《もといせさま》へ|御参拝《ごさんぱい》の|御供《おとも》を|幸《さいは》ひ、|馬《うま》、|鹿《しか》の|両人《りやうにん》を|遣《つか》はして|御詫《おわび》にやつたところ、|生憎《あいにく》|本山《ほんざん》へ|御引上《おひきあ》げの|御留守中《おるすちう》、|幸《さいは》ひにも|本山《ほんざん》より、|鶴《つる》、|亀《かめ》の|御両人《ごりやうにん》が|御出《おい》でになつたさうで、そこで|馬《うま》、|鹿《しか》の|両人《りやうにん》が|吾々《われわれ》の|意志《いし》を|伝《つた》へて、|貴女《あなた》に|御願《おねが》ひしたやうな|次第《しだい》でございます。|決《けつ》して|決《けつ》して|吾々《われわれ》|両人《りやうにん》が|心《こころ》からの|改心《かいしん》で|御渡《おわた》し|申《まを》さうと|言《い》ふのではございませぬ。|全《まつた》く|大神様《おほかみさま》の|御命令《ごめいれい》に|拠《よ》つたのでございます』
|紫姫《むらさきひめ》『|唯今《ただいま》|若彦《わかひこ》の|申《まを》された|通《とほ》り、|寸分《すんぶん》の|相違《さうゐ》もございませぬ。どうぞ|吾々《われわれ》の|今迄《いままで》の|悪心《あくしん》を|御赦《おゆる》し|下《くだ》さいまして、|玉照姫《たまてるひめ》|様《さま》をウラナイ|教《けう》へ|御受取《おうけとり》|下《くだ》さいませ。|吾々《われわれ》|一同《いちどう》がフサの|国《くに》|迄《まで》|御供《おとも》を|致《いた》します。さうして|吾々《われわれ》|最早《もはや》|三五教《あななひけう》を|除名《ぢよめい》されたものでございますれば、どうぞ|貴女《あなた》の|幕下《ばくか》に|御使《おつか》ひ|下《くだ》さいますように|御願《おねが》ひ|申《まを》します』
|黒姫《くろひめ》『よしよし|私《わし》の|否《いな》ウラナイ|教《けう》の|立派《りつぱ》な|宣伝使《せんでんし》にして|上《あ》げませうよ。|御心配《ごしんぱい》なさるな。|又《また》|玉照姫《たまてるひめ》|様《さま》もお|玉《たま》さまも|確《たしか》に|御受取《おうけと》り|致《いた》しませう』
|高姫《たかひめ》『アヽ|一寸《ちよつと》|黒姫《くろひめ》さま、|御待《おま》ち|下《くだ》さいませ。こりや|吾々《われわれ》も|一《ひと》つ|考《かんが》へねばなりますまい。|何程《なにほど》|玉照姫《たまてるひめ》|様《さま》が|結構《けつこう》な|御方《おかた》だと|言《い》つて、ハイ|左様《さやう》かと|頂《いただ》いて|帰《かへ》る|訳《わけ》には|行《い》きますまい』
|黒姫《くろひめ》『そりや|又《また》|何故《なぜ》に、|折角《せつかく》ここ|迄《まで》に|漕《こ》ぎつけたのに、|神様《かみさま》の|御神徳《ごしんとく》を|受取《うけと》らぬと|仰有《おつしや》るのですか』
|高姫《たかひめ》『|私《わたくし》は|実《じつ》に|心《こころ》の|中《うち》の【さもしさ】が|今更《いまさら》の|如《ごと》く|恥《はづ》かしくなつて|来《き》ました。|素盞嗚尊《すさのをのみこと》|様《さま》は|変性女子《へんじやうによし》だ、|悪役《あくやく》だと|今《いま》の|今《いま》まで|思《おも》ひ|詰《つ》め、こんな|神《かみ》の|建《た》てた|教《をしへ》は|絶対《ぜつたい》に|根底《こんてい》から|粉砕《ふんさい》して|了《しま》はねば|世界《せかい》は|何時《いつ》|迄《まで》も|闇黒《くらやみ》だから、|仮令《たとへ》|私《わたし》の|生命《いのち》は|如何《どう》なつても、|素盞嗚尊《すさのをのみこと》の|悪神《あくがみ》を|打滅《うちほろぼ》し、|三五教《あななひけう》を|根底《こんてい》より|替《か》へて|誠《まこと》|一《ひと》つのウラナイの|教《をしへ》で|世界《せかい》を|水晶《すゐしやう》に|致《いた》し、|二度目《にどめ》の|岩戸開《いはとびら》きをせなならぬと、|今《いま》の|今迄《いままで》|一生懸命《いつしやうけんめい》に|活動《くわつどう》して|来《き》ましたが、|素盞嗚尊《すさのをのみこと》|様《さま》は|矢張《やつぱ》り|善《ぜん》であつた。|大善《たいぜん》は|大悪《だいあく》に|似《に》たり、|真《しん》の|孝《かう》は|不孝《ふかう》に|似《に》たり、|誠《まこと》の|教《をしへ》は|偽《いつは》りの|教《をしへ》に|似《に》たりと|言《い》ふ|神様《かみさま》の|御教示《ごけうじ》が、|私《わたくし》の|胸《むね》に|釘《くぎ》さすやうに|響《ひび》いて|来《き》ました。アヽ|瑞《みづ》の|御霊様《みたまさま》、|今迄《いままで》の|私《わたし》の|取違《とりちが》ひ、|御無礼《ごぶれい》を|何卒《どうぞ》|赦《ゆる》して|下《くだ》さいませ』
と|両手《りやうて》を|合《あは》せ、|涙《なみだ》をハラハラと|流《なが》し、|身体《からだ》を|畳《たたみ》に|打突《うちつ》けるやうに|藻掻《もが》いて|詫入《わびい》るのであつた。
|黒姫《くろひめ》は|狐《きつね》につままれたやうな|顔《かほ》をして、|一言《いちごん》も|発《はつ》せず、|眼《め》ばかりギヨロつかせて|一同《いちどう》を|眺《なが》めて|居《ゐ》る。|梟鳥《ふくろどり》の|夜食《やしよく》に|外《はづ》れたと|言《い》はうか、|鳩《はと》が|豆鉄砲《まめでつぱう》を|喰《く》つたと|言《い》はうか、|何《なん》とも|形容《けいよう》の|出来《でき》ぬスタイルを|遺憾《ゐかん》なく|暴露《ばくろ》してゐる。|紫姫《むらさきひめ》は|高姫《たかひめ》に|取縋《とりすが》り、|涙《なみだ》|乍《なが》らに、
|紫姫《むらさきひめ》『モシモシ|高姫《たかひめ》|様《さま》、どうぞ|許《ゆる》して|下《くだ》さいませ。|貴女《あなた》は|其《その》|様《やう》な|綺麗《きれい》な|御心《おこころ》とは|知《し》らず、|今《いま》の|今迄《いままで》|陰険《いんけん》な|御方《おかた》と|疑《うたが》つて|居《を》りました。|何《なに》も|彼《か》も|是《これ》にてすつかり|御心中《ごしんちう》が|氷解《ひようかい》|致《いた》しました。アー|私《わたくし》は|何《なん》とした【さもしい】|根性《こんじやう》でありましただらう。どうぞ|私達《わたしたち》を|助《たす》けると|思《おも》つて、|玉照姫《たまてるひめ》|様《さま》を|御受取《おうけと》り|下《くだ》さいませ』
|高姫《たかひめ》は|漸々《やうやう》|顔《かほ》を|上《あ》げ、|涙《なみだ》を|袖《そで》にて|拭《ぬぐ》ひ|乍《なが》ら|鼻《はな》を|啜《すす》つて、
|高姫《たかひめ》『イヤもう|前世《ぜんせ》よりの|深《ふか》い|罪業《めぐり》で、|今《いま》が|今迄《いままで》|瞋恚《しんい》の|雲《くも》に|包《つつ》まれ、|執着心《しふちやくしん》の|悪魔《あくま》に|囚《とら》はれて、|思《おも》はぬ|恥《はぢ》を|神様《かみさま》の|前《まへ》に|晒《さら》しました。|国治立《くにはるたち》の|大神様《おほかみさま》、|豊国姫《とよくにひめ》の|大神様《おほかみさま》、|素盞嗚大神《すさのをのおほかみ》|様《さま》も|嘸《さぞ》|端《はした》ない|奴《やつ》だと|御笑《おわら》ひでございませう。それに|就《つ》けても|茲《ここ》|迄《まで》|素盞嗚大神《すさのをのおほかみ》|様《さま》を|敵《かたき》として、|有《あ》らむ|限《かぎ》りの|悪口《あくこう》を|申上《まをしあ》げ、|神業《しんげふ》の|御邪魔《おじやま》を|何彼《なにか》につけて|致《いた》して|来《き》ました。|此《こ》の|深《ふか》い|罪《つみ》をも|御咎《おとが》めなく、|大切《たいせつ》な|玉照姫《たまてるひめ》|様《さま》を|私達《わたしたち》に|御遣《おつか》はし|下《くだ》された|上《うへ》、|大切《たいせつ》な|宣伝使《せんでんし》まで|懲戒《みせしめ》のため|除名《ぢよめい》をするとの|御言葉《おんことば》、|何《なん》たる|公平無私《こうへいむし》な|神様《かみさま》でございませう。アヽ|勿体《もつたい》ない、どうぞ|神様《かみさま》|赦《ゆる》して|下《くだ》さいませ』
と|又《また》もや|泣《な》き|伏《ふ》しける。|黒姫《くろひめ》も|何《なん》となく|悲《かな》しさうに|俯向《うつむ》いて、|肩《かた》で|息《いき》をして|居《ゐ》る。
|馬公《うまこう》『オイ|鹿公《しかこう》、どうしても|世継王山《よつわうざん》の|麓《ふもと》はフモトぢや。|全《まる》で|狐《きつね》を|馬《うま》に|乗《の》せたやうな|天変《てんぺん》|地変《ちへん》が|勃発《ぼつぱつ》したぢやないか』
|鹿公《しかこう》『そうだから|一寸先《いつすんさき》は|暗《やみ》の|世《よ》よ。|何事《なにごと》も|惟神《かむながら》に|任《まか》せ、|人間《にんげん》の|分際《ぶんざい》で|神《かみ》の|経綸《しぐみ》は|判《わか》らぬと|仰有《おつしや》るのだ』
|馬公《うまこう》『そうだと|言《い》つて、|変《かは》ると|言《い》つても、あまりぢやないか。|彼《あ》れ|程《ほど》|両方《りやうはう》から|一生懸命《いつしやうけんめい》になつて、|狙《ねら》つて|居《を》つた|玉照姫《たまてるひめ》|様《さま》を|貰《もら》つて|呉《く》れ、イヤ|勿体《もつたい》ないなんて|肝腎《かんじん》の|玉照姫《たまてるひめ》|様《さま》を|馬鹿《ばか》にして|居《を》るぢやないか。|此方《こちら》で|振《ふ》られ、|彼方《あちら》で|振《ふ》られ、|玉照姫《たまてるひめ》さまだつて|立《た》つ|所《ところ》が|無《な》いぢやらう。|俺《おれ》はウラナイ|教《けう》が|伴《つ》れて|帰《かへ》らねば、お|玉《たま》さまと|一緒《いつしよ》に|手《て》を|携《たづさ》へて、|玉照姫《たまてるひめ》|様《さま》を|捧持《ほうぢ》し、|何処《どこ》かの|山奥《やまおく》に|行《い》つて、|一旗《ひとはた》|挙《あ》げて|見《み》ようと|思《おも》ふが|如何《どう》だらうな』
|鹿公《しかこう》『|何《なに》を|吐《ぬか》すのだ。|貴様等《きさまら》に|玉照姫《たまてるひめ》さまやお|玉《たま》さまが|随《つ》いて|往《い》かつしやると|思《おも》ふか』
|馬公《うまこう》『|一寸先《いつすんさき》は|暗《やみ》の|世《よ》だ。|人間《にんげん》の|知識《ちしき》の|範囲《はんゐ》でわかるものかい。|何事《なにごと》も|神様《かみさま》の|御意思《ごいし》の|儘《まま》だ。|併《しか》しよく|考《かんが》へてみよ、|高姫《たかひめ》さまや、|黒姫《くろひめ》さまが|泣《な》いて|受取《うけと》らず、|紫姫《むらさきひめ》さまや、|若彦《わかひこ》が|受取《うけと》つて|呉《く》れと|言《い》ふ。|何方《どちら》にもゆき|場《ば》がなくなつて、|宙《ちう》にブラリの|玉照姫《たまてるひめ》さまだ。|白羽《しらは》の|矢《や》は|屹度《きつと》|俺《おれ》にささらねば、ささるものがないぢやないか』
|鹿公《しかこう》『アハヽヽヽ、|取《と》らぬ|狸《たぬき》の|皮算用《かはざんよう》だ、|拾《ひろ》はぬ|金子《かね》の|分配話《ぶんぱいばなし》|見《み》たやうな|惚《とぼ》けたことを|言《い》ふない。|余程《よつぽど》|貴様《きさま》もお|目出度《めでた》い|奴《やつ》だ。アハヽヽヽ』
|若彦《わかひこ》『こりや|馬《うま》、|鹿《しか》の|両人《りやうにん》、|沈黙《ちんもく》せぬか』
『ハイ|沈黙《ちんもく》|致《いた》します。|併《しか》しお|前《まへ》さま|等《ら》のやうに|涙《なみだ》をこぼしての|沈黙《ちんもく》とは|違《ちが》ひますから、|玉石混淆《ぎよくせきこんかう》されては|困《こま》りますで』
|若彦《わかひこ》『|要《い》らぬ|口《くち》をたたくものぢやない』
|馬《うま》、|鹿《しか》は|目《め》を|細《ほそ》うし、|舌《した》をベロツと|出《だ》し、|腮《あご》をしやくつて|蹲踞《しやが》んで|見《み》せた。
|高姫《たかひめ》は|涙《なみだ》を|払《はら》ひ、
『アヽ|兎《と》も|角《かく》|一旦《いつたん》フサの|国《くに》の|本山《ほんざん》へ|帰《かへ》りまして、トツクリと|思案《しあん》を|致《いた》しまして|其《その》|上《うへ》に|御返事《ごへんじ》をさして|貰《もら》ひませう。サア|黒姫《くろひめ》さま、|御暇乞《おいとまご》ひをしようではございませぬか』
|黒姫《くろひめ》『|玉照姫《たまてるひめ》さまの|御身《おみ》の|上《うへ》はどうなさる。|序《ついで》に|鄭重《ていちよう》に|御迎《おむか》ひ|申《まを》して|帰《かへ》つたら|如何《どう》でせう』
|紫姫《むらさきひめ》『どうぞさうなさつて|下《くだ》さいませ。ナアお|玉《たま》さま、|貴方《あなた》|行《い》つて|下《くだ》さいますか』
お|玉《たま》『ハイ|何事《なにごと》も|惟神《かむながら》に|任《まか》した|妾《わたし》、どうぞ|宜敷《よろし》きやうに|御願《おねが》ひ|致《いた》します』
|高姫《たかひめ》『なんと|仰有《おつしや》つて|下《くだ》さいましても、|心《こころ》が|恥《はづ》かしくつて|玉照姫《たまてるひめ》|様《さま》を|御世話《おせわ》さして|戴《いただ》くだけの|資格《しかく》がないやうに、|守護神《しゆごじん》が|申《まを》します。どうぞ|此《この》|場《ば》は、これ|限《ぎ》りにして|下《くだ》さいませ』
|若彦《わかひこ》『どうしても|御受取《おうけとり》|下《くだ》さらぬのですか。|又《また》|吾々《われわれ》の|願《ねが》ひを|諾《き》いてやらぬとの|御了簡《ごりやうけん》ですか。それはあまりぢやありませぬか』
|高姫《たかひめ》『なんと|仰有《おつしや》つても|暫《しば》らくの|御猶予《ごいうよ》を|頂《いただ》きます。どうぞ|大切《たいせつ》に|玉照姫《たまてるひめ》|様《さま》を|御世話《おせわ》して|上《あ》げて|下《くだ》さいませ。|万々一《まんまんいち》|素盞嗚大神《すさのをのおほかみ》|様《さま》が|此《この》|事《こと》に|就《つい》て、|貴方《あなた》|方《がた》をお|咎《とが》めになるやうなことがあれば、|此《こ》の|高姫《たかひめ》がどんな|責任《せきにん》でも|負《おは》して|頂《いただ》きます。アヽ|玉照姫《たまてるひめ》|様《さま》どうぞ|御機嫌《ごきげん》よう|三五教《あななひけう》を|御守《おまも》り|下《くだ》さいませ。|罪深《つみふか》き|高姫《たかひめ》、|御言葉《おことば》をおかけ|申《まを》すも|畏《おそ》れ|多《おほ》うございますが、|広《ひろ》き|厚《あつ》き|大御心《おほみこころ》に|見直《みなほ》し、|聞直《ききなほ》し|下《くだ》さいまして|罪深《つみふか》き|吾々《われわれ》どもを|御許《おゆる》し|下《くだ》さいませ。|左様《さやう》ならば|御暇《おいとま》|致《いた》しますよ』
|黒姫《くろひめ》『もうお|帰《かへ》りですか』
|高姫《たかひめ》『サア|貴方《あなた》も|帰《かへ》りませう。|玉照姫《たまてるひめ》|様《さま》にお|暇乞《いとまご》ひをなさいませ。|紫姫《むらさきひめ》|様《さま》、|青彦《あをひこ》|様《さま》、|其《その》|外《ほか》|御一同様《ごいちどうさま》、|突然《とつぜん》|参《まゐ》りまして、エライ|御造作《ござうさ》をかけました。|一先《ひとま》づ|本山《ほんざん》まで|帰《かへ》つて|参《まゐ》ります。|何分《なにぶん》|宜《よろ》しうお|願《ねが》ひ|申《まを》します』
|紫姫《むらさきひめ》『アヽ|強《た》つてさう|仰有《おつしや》れば|是非《ぜひ》はございませぬ。これも|全《まつた》く|妾等《わたしら》の|行届《ゆきとど》かないからのこと、どうぞ|悪《あし》からず|思召《おぼしめ》し|下《くだ》さいまして、|将来《しやうらい》|何分《なにぶん》|宜敷《よろし》く|御願《おねが》ひ|申《まを》します』
|馬公《うまこう》『|是非《ぜひ》ともよろしう』
|鹿公《しかこう》『|私《わたし》も|同《おな》じく|是非《ぜひ》ともよろしう』
|高姫《たかひめ》『サア|金公《きんこう》、|八公《はちこう》、|飛行船《ひかうせん》の|用意《ようい》だ』
|高姫《たかひめ》|一行《いつかう》は|二隻《にせき》の|飛行船《ひかうせん》に|搭乗《たふじやう》するや|否《いな》や、|円《ゑん》を|描《ゑが》いて|空中《くうちう》に|駆《か》け|昇《のぼ》り、|西天《せいてん》|高《たか》く|姿《すがた》を|隠《かく》したり。
アヽ|高姫《たかひめ》、|黒姫《くろひめ》は|今後《こんご》|如何《いか》なる|行動《かうどう》に|出《い》づるならむか。
(大正一一・五・七 旧四・一一 外山豊二録)
第三篇 |至誠通神《しせいつうしん》
第九章 |身魂《みたま》の|浄化《じやうくわ》〔六五四〕
|心《こころ》の|暗《やみ》の|空《そら》|晴《は》れて、|世界《せかい》に|鬼《おに》は|梨《なし》の|木《き》の、|峠《たうげ》の|巌《いはほ》に|腰《こし》|打掛《うちか》け、|雪雲《ゆきぐも》の|空《そら》を|眺《なが》めて、|雑談《ざつだん》に|耽《ふけ》る|二人《ふたり》の|男《をとこ》あり。
|荒鷹《あらたか》『アヽ|思《おも》ひまはせば|今年《ことし》の|春《はる》の|初《はじめ》、|鬼熊別《おにくまわけ》の|部下《ぶか》となつて、|三岳山《みたけやま》の|岩窟《がんくつ》に|数多《あまた》の|手下《てした》を|引連《ひきつ》れ、|善《ぜん》からぬ|事《こと》|計《ばか》りを|得意《とくい》になつて、|自己《じこ》|保存《ほぞん》は|人生《じんせい》の|本領《ほんりやう》だと|思《おも》ひ|詰《つ》め、|利己主義《りこしゆぎ》の|行動《かうどう》を|以《もつ》て|金科玉条《きんくわぎよくでう》として|居《ゐ》たが、まだ|天道様《てんだうさま》は|吾々《われわれ》を|捨《す》て|給《たま》はざりしか、|音彦《おとひこ》、|加米彦《かめひこ》、|悦子姫《よしこひめ》|様《さま》の|一行《いつかう》に|救《すく》はれ、|飜然《ほんぜん》と|悟《さと》り、|三五教《あななひけう》に|入信《にふしん》さして|頂《いただ》き、|鬼熊別《おにくまわけ》の|本城《ほんじやう》に|逆襲《ぎやくしふ》し、|言向和《ことむけやは》さむと|心力《しんりよく》を|尽《つく》して|見《み》たが、まだ|鬼熊別《おにくまわけ》の|大将《たいしやう》は、|神《かみ》の|救《すく》ひのお|綱《つな》が|掛《かか》つて|居《ゐ》なかつたと|見《み》え、|吾々《われわれ》の|熱誠《ねつせい》なる|言霊《ことたま》の|忠告《ちうこく》を|馬耳東風《ばじとうふう》と|聞《き》き|流《なが》し、|終《つひ》には|鬼雲彦《おにくもひこ》の|後《あと》を|追《お》うて|何処《いづこ》ともなく|遁走《とんそう》して|了《しま》つた。|仮令《たとへ》|三日《みつか》でも|同《おな》じ|鍋《なべ》【はだ】の|飯《めし》を|食《く》つた|間柄《あひだがら》だから、|我々《われわれ》としては|何処《どこ》までも、|誠《まこと》の|道《みち》に|救《すく》はねばならないのだが、|何処《どこ》へお|出《い》でになつたか|行衛《ゆくへ》は|知《し》れず、|三五教《あななひけう》へ|這入《はい》つてから、|此《こ》れと|云《い》ふ|様《やう》な|神様《かみさま》に|御奉仕《ごほうし》も|出来《でき》ず、|困《こま》つたものだ。|竹生島《ちくぶしま》へ|行《い》つて|見《み》れば、|英子姫《ひでこひめ》|様《さま》は|神業《しんげふ》を|完成《くわんせい》|遊《あそ》ばして、|素盞嗚大神《すさのをのおほかみ》|様《さま》と|共《とも》に、フサの|国《くに》|斎苑《いそ》の|御住居《ごぢうきよ》へお|帰《かへ》り|遊《あそ》ばした|後《あと》なり、|三五教《あななひけう》の|方々《かたがた》には、|散《ち》り|散《ぢ》りバラになつて|別《わか》れて|了《しま》ひ、|殆《ほとん》ど|方向《はうかう》に|迷《まよ》ふ|今日《けふ》の|有様《ありさま》、せめては|高城山《たかしろやま》の|松姫《まつひめ》でも|言向和《ことむけやは》して、|一《ひと》つ|功《こう》を|立《た》てねばなるまい………ナア|鬼鷹《おにたか》』
|鬼鷹《おにたか》『オーそうだ。|此処《ここ》も|所《ところ》は|違《ちが》ふが、ヤツパリ|大枝山《おほえやま》だ。あの|向《むか》うに|見《み》えるは|確《たし》かに|高城山《たかしろやま》だ。|何時《いつ》も|悪神《あくがみ》の|邪気《じやき》に|依《よ》つて|黒雲《くろくも》が|山《やま》の|頂《いただき》を|包《つつ》んで|居《ゐ》たが、|今日《けふ》は|又《また》どうしたものだ。|何時《いつ》にない|立派《りつぱ》な|雲《くも》が|棚引《たなび》いて|居《を》るではないか。|何《なん》でも|三五教《あななひけう》の|誰《たれ》かが|征服《せいふく》して、|結構《けつこう》な|神様《かみさま》を|祀《まつ》り、|神徳《しんとく》が|現《あら》はれて|居《ゐ》るのではなからうかな。|万一《まんいち》さうであるとすれば、|結構《けつこう》は|結構《けつこう》だが、|吾々《われわれ》はモウ|此《この》|自転倒島《おのころじま》に|於《お》いて|活動《くわつどう》する|所《ところ》が|無《な》くなつた|様《やう》なものだ。|兎《と》も|角《かく》|高城山《たかしろやま》を|一度《いちど》|踏査《たふさ》して|実否《じつぴ》を|探《さぐ》り、|万々一《まんまんいち》|三五教《あななひけう》に|帰順《きじゆん》して|居《ゐ》たとすれば、モウ|仕方《しかた》がない。どつと|張《は》り|込《こ》んで|此《この》|海《うみ》を|渡《わた》り、|竜宮《りうぐう》の|一《ひと》つ|島《じま》へでも|往《い》つて、|一働《ひとはたら》きしようぢやないか』
|荒鷹《あらたか》『オウそれが|上分別《じやうふんべつ》だ。|併《しか》し|第一着手《だいいちちやくしゆ》として、|高城山《たかしろやま》の|探険《たんけん》と|出《で》かけやうぢやないか』
|鬼鷹《おにたか》『|高城山《たかしろやま》に|立派《りつぱ》な|雲《くも》が|棚引《たなび》いて|居《ゐ》るが、あれ|見《み》よ、|真西《まにし》に|当《あた》つて|又《また》もや|弥仙山《みせんざん》の|麓《ふもと》の|様《やう》に|紫《むらさき》の|雲《くも》が|靉靆《たなび》いて|居《ゐ》るぢやないか。|玉照姫《たまてるひめ》|様《さま》に|匹敵《ひつてき》した|男神様《をがみさま》が|御出現《ごしゆつげん》|遊《あそ》ばしたのではあるまいかなア。|併《しか》し|何《なに》は|兎《と》も|角《かく》|高城山《たかしろやま》へ|打向《うちむか》ひ、|其《その》|次《つぎ》に|紫《むらさき》の|雲《くも》の|出処《でどころ》を|調《しら》べる|事《こと》としようかい。サアサア|行《ゆ》かう』
と|板《いた》を|立《た》てた|様《やう》な|坂道《さかみち》を|下《くだ》り、|西《にし》へ|西《にし》へと|駆出《かけだ》した。|満目蕭然《まんもくせうぜん》として|地《ち》は|一面《いちめん》の|薄雪《はくせつ》の|白布《はくふ》を|被《かぶ》つて|居《ゐ》る。|仁王《にわう》の|様《やう》な|足型《あしがた》を|印《いん》し|乍《なが》ら、|高城山《たかしろやま》の|山麓《さんろく》、|千代川《ちよかは》の|郷《さと》、|鳴石《なきいし》の|傍《かたはら》までやつて|来《き》た。
|荒鷹《あらたか》『|一方《いつぱう》は|樹木《じゆもく》|鬱蒼《うつさう》とした|箱庭式《はこにはしき》の|小山《こやま》に、|卯《う》の|花《はな》の|咲《さ》いた|様《やう》に、|白雪《はくせつ》が|梢《こずゑ》に|止《と》まり、|時《とき》ならぬ|花《はな》を|咲《さ》かせ、|前《まへ》は|何《なん》とも|知《し》れぬ|綺麓《きれい》な|水《みづ》の|流《なが》れた|大堰川《おほいがは》、こんな|佳《い》い|景色《けしき》は|大枝《おほえ》の|坂《さか》を|越《こ》えてこのかた、|見《み》た|事《こと》も|無《な》い。|一《ひと》つ|此《この》|辺《へん》で|休息《きうそく》した|上《うへ》、ボツボツと|高城山《たかしろやま》に|向《むか》ふ|事《こと》にしようかい』
|鬼鷹《おにたか》『|何《なん》だか|妙《めう》な|声《こゑ》がし|出《だ》したぢやないか。|別《べつ》に|人間《にんげん》らしい|者《もの》も|居《を》らず、|獣《けだもの》とても|居《ゐ》ないやうだ。|狐《きつね》や|狸《たぬき》の|足型《あしがた》は|薄雪《はくせつ》の|上《うへ》に|残《のこ》つて|居《ゐ》るが、|併《しか》し|狐《きつね》の|声《こゑ》でもなし、|人間《にんげん》の|声《こゑ》でもなし、|合点《がつてん》のいかぬ|響《ひび》きがするぢやないか。|兎《と》も|角《かく》|此処《ここ》に|大《おほ》きな|岩《いは》がある。どこもかも|薄《うす》|雪《ゆき》だらけだが、|此《この》|岩《いは》に|限《かぎ》つて|一片《いつぺん》の|雪《ゆき》もたまつて|居《ゐ》ない、さうして|又《また》カラカラに|乾《かわ》いて|居《ゐ》る。|幸《さいは》ひ|此《この》|岩《いは》の|上《うへ》で、|楊柳観音《やうりうくわんおん》ぢやないが、|一《ひと》つ|瞑目《めいもく》|静坐《せいざ》し|心胆《しんたん》を|錬《ね》つて|見《み》たらどうだ』
|荒鷹《あらたか》は|打首肯《うちうなづ》き|乍《なが》ら、|平坦《へいたん》な|巌《いはほ》の|上《うへ》にドツカと|坐《すわ》つた。
|荒鷹《あらたか》『オイ|兄弟《きやうだい》、|大変《たいへん》|此《この》|岩《いは》は|温《あたた》かいぞ。お|前《まへ》も|一寸《ちよつと》|此処《ここ》に|坐《すわ》つて|見《み》よ』
|鬼鷹《おにたか》『ヤア|本当《ほんたう》に|温《あたた》かい|岩《いは》だなア。|地上《ちじやう》|一面《いちめん》|冷《つめ》たい|雪《ゆき》が|降《ふ》り、|冷酷《れいこく》な|世界《せかい》の|人情《にんじやう》は|此《この》|通《とほ》りと、|天地《てんち》から|鑑《かがみ》を|出《だ》して、|俺達《おれたち》に|示《しめ》して|御座《ござ》るのに、こりや|又《また》どうしたものだ。|僅《わづ》か|一坪《ひとつぼ》ばかりの|此《この》|岩《いは》の|上《うへ》|許《ばか》りは、|冷酷《れいこく》な|雪《ゆき》もたまらず、|春《はる》の|様《やう》な|暖《あたた》かみを|帯《お》びて|居《ゐ》る。|是《こ》れを|見《み》ても、どつかに|暖《あたた》かい|人間《にんげん》も、チツとは|残《のこ》つて|居《ゐ》ると|云《い》ふ|神様《かみさま》の|暗示《あんじ》だらうよ』
|忽《たちま》ち|膝下《しつか》の|平面岩《へいめんいは》は|鳴動《めいどう》を|始《はじ》め、|刻々《こくこく》に|音響《おんきやう》|強大《きやうだい》|猛烈《まうれつ》の|度《ど》を|加《くは》へて|来《き》た。|二人《ふたり》は|驚《おどろ》いて|足早《あしばや》に|飛《と》び|下《お》り、|七八間《しちはちけん》|此方《こなた》に|引《ひ》き|返《かへ》し、|岩石《がんせき》を|見詰《みつ》めて|居《ゐ》た。|忽《たちま》ち|岩石《がんせき》は|白煙《はくえん》を|吐《は》き|出《だ》した。|続《つづ》いて|紫《むらさき》の|雲《くも》|細《ほそ》く|長《なが》く、|白煙《はくえん》の|中《なか》に|棹《さを》を|立《た》てた|様《やう》に|天《てん》に|冲《ちう》し、|蕨《わらび》が|握《にぎ》り|拳《こぶし》を|固《かた》めたやうな|恰好《かつかう》になつては、|二三十間《にさんじつけん》|中空《ちうくう》に|消《き》え、|又《また》|同《おな》じく|現《あら》はれては|消《き》え、|幾回《いくくわい》となく|紫《むらさき》の|円柱《ゑんちゆう》が|立昇《たちのぼ》り、|生々滅々《せいせいめつめつ》して|居《ゐ》る。|二人《ふたり》は『ヤアヤア』と|声《こゑ》を|張《は》り|上《あ》げ|驚《おどろ》くばかりであつた。|猛烈《まうれつ》なる|大爆音《だいばくおん》は|次第《しだい》|々々《しだい》に|低声《ていせい》となり、|遂《つひ》にピタリと|止《と》まつた。|白煙《はくえん》は|依然《いぜん》として|盛《さかん》に|立昇《たちのぼ》つて|居《ゐ》る。|此《この》|時《とき》|金《きん》の|冠《かむり》を|戴《いただ》き、|種々《しゆじゆ》の|宝玉《ほうぎよく》を|以《もつ》て|造《つく》られたる|瓔珞《やうらく》を|身体《しんたい》|一面《いちめん》に|着飾《きかざ》り、|白《しろ》き|薄衣《うすぎぬ》を|着《ちやく》したる、|白面豊頬《はくめんほうけふ》の|女神《めがみ》、|眉目《びもく》の|位置《ゐち》と|謂《ゐ》ひ、|鼻《はな》の|附《つき》|具合《ぐあひ》と|云《い》ひ、|唇《くちびる》の|色《いろ》|紅《くれなゐ》を|呈《てい》し、|雪《ゆき》の|如《ごと》き|歯《は》を|少《すこ》しく|見《み》せ、ニヤリと|笑《わら》ひ|乍《なが》ら|現《あら》はれ|給《たま》うた。
|荒鷹《あらたか》『ヤア|音《おと》に|名高《なだか》い|川堰《かはぜき》の|鳴石《なきいし》であつたか。それとは|知《し》らずに|御無礼千万《ごぶれいせんばん》にも、|吾々《われわれ》の|汚《けが》れた|体《からだ》で|踏《ふ》みにじり、|誠《まこと》に|申訳《まをしわけ》のない|事《こと》を|致《いた》したワイ。キツと|鳴石《なきいし》の|霊《れい》が|現《あら》はれて、|何《なに》か|吾々《われわれ》に|対《たい》して|厳《きび》しい|御託宣《ごたくせん》を|下《くだ》されるのであらう。|何《なに》はともあれお|詫《わび》をするより|仕方《しかた》がない』
と|荒鷹《あらたか》は|薄雪《はくせつ》の|積《つ》もる|大地《だいち》にペタリと|平太張《へたば》つて、|謝罪《しやざい》の|意《い》を|表《へう》した。|鬼鷹《おにたか》も|同《おな》じく|大地《だいち》に|鰭伏《ひれふ》し|慄《ふる》うて|居《を》る。|忽《たちま》ち|虚空《こくう》に|音楽《おんがく》|聞《きこ》え、|蓮《はす》の|葉《は》の|様《やう》な|大花弁《だいくわべん》がパラパラと|降《ふ》つて|来《き》た。|四辺《あたり》はえも|云《い》はれぬ|芳香《はうかう》に|包《つつ》まれた。|荒鷹《あらたか》は|頭《かしら》を|地《ち》に|附《つ》け|乍《なが》ら、|少《すこ》しく|首《くび》を|曲《ま》げ、|一方《いつぱう》の|目《め》にて|恐《おそ》る|恐《おそ》る|岩上《がんじやう》の|女神《めがみ》を|眺《なが》めた。|女神《めがみ》は|二人《ふたり》の|美《うつく》しき|稚児《ちご》を|左右《さいう》に|侍《はべ》らせ、|例《れい》の|白烟《はくえん》の|中《なか》に|莞爾《くわんじ》として|立現《たちあら》はれ、|白《しろ》に|稍《やや》|桃色《ももいろ》を|帯《お》びたる|繊手《せんしゆ》を|差《さ》し|延《の》べて、|此方《こなた》の|両人《りやうにん》に|向《むか》ひ|手招《てまね》きして|居《を》る。
|荒鷹《あらたか》『オイ|鬼鷹《おにたか》、ソウツと|頭《あたま》を|上《あ》げてあの|女神《めがみ》を|拝《をが》んで|見《み》よ。|何《なん》だか|吾々《われわれ》|両人《りやうにん》に|対《たい》して|御用《ごよう》が|有《あ》りそうだぞ』
|此《この》|声《こゑ》に|鬼鷹《おにたか》はコワゴワ|乍《なが》ら、|女神《めがみ》の|方《はう》に|眼《め》を|注《そそ》いだ|刹那《せつな》、|鬼鷹《おにたか》は『アツ』と|叫《さけ》んで、|又《また》もや|大地《だいち》に|頭《あたま》を|摺付《すりつ》けた。|何時《いつ》の|間《ま》にやら|両人《りやうにん》の|体《からだ》は|何者《なにもの》にか|引《ひ》きずらるる|様《やう》な|心地《ここち》し、|以前《いぜん》の|平岩《ひらいは》の|前《まへ》に|安着《あんちやく》して|居《ゐ》た。|女神《めがみ》は|淑《しと》やかに、
『|荒鷹《あらたか》どの、|鬼鷹《おにたか》どの、しばらくで|御座《ござ》つたなア』
|此《この》|声《こゑ》に|両人《りやうにん》は|一度《いちど》に|頭《かしら》を|擡《もた》げ、|熟々《つくづく》と|女神《めがみ》の|姿《すがた》を|打眺《うちなが》め、|腑《ふ》に|落《お》ちぬ|面色《おももち》にて|頭《あたま》を|掻《か》いて|居《を》る。|女神《めがみ》は|二人《ふたり》の|稚児《ちご》に、|懐《ふところ》より|麗《うるは》しき|玉《たま》を|持《も》たせ、|何事《なにごと》か|目配《めくば》せした。|二人《ふたり》の|稚児《ちご》は|両人《りやうにん》の|前《まへ》に|進《すす》みより、|小《ちひ》さき|紫《むらさき》の|玉《たま》を|両人《りやうにん》の|額《ひたひ》に|当《あ》て、コンコンと|打《う》ち|込《こ》んだ。|二人《ふたり》は『アイタタ』と|云《い》ふ|間《ま》もなく、|痛《いた》みは|止《と》まつた。|二人《ふたり》の|稚児《ちご》は|忽《たちま》ち|女神《めがみ》の|両脇《りやうわき》に|復帰《ふくき》し、さも|愉快《ゆくわい》げに|笑《わら》つて|居《を》る。|此《この》|時《とき》より|荒鷹《あらたか》、|鬼鷹《おにたか》の|二人《ふたり》は|何《なん》となく|心《こころ》|穏《おだや》やかに|春《はる》の|様《やう》な|気分《きぶん》が|漂《ただよ》うた。
|女神《めがみ》は|静《しづか》に、
『|唯今《ただいま》より|荒鷹《あらたか》、|鬼鷹《おにたか》では|有《あ》りませぬ。|隆靖彦《たかやすひこ》、|隆光彦《たかてるひこ》と|名《な》を|与《あた》へます。どうぞ|今後《こんご》は|誠《まこと》の|神人《しんじん》となつて、|神業《しんげふ》に|参加《さんか》して|下《くだ》さい。|妾《わらは》の|顔《かほ》を|覚《おぼ》えて|居《ゐ》ますか』
|荒鷹《あらたか》はやつと|安堵《あんど》の|態《てい》、
『|隆靖彦《たかやすひこ》の|名《な》を|賜《たま》はり、|有難《ありがた》き、|身《み》に|取《と》つての|光栄《くわうえい》で|御座《ござ》います』
|隆光彦《たかてるひこ》『|私《わたくし》の|如《ごと》き|曇《くも》り|切《き》つた|身魂《みたま》に|対《たい》し、|隆光彦《たかてるひこ》と|御名《おんな》を|下《くだ》さいましたのは、|何《なん》ともお|礼《れい》の|申様《まをしやう》が|御座《ござ》いませぬ。|失礼《しつれい》|乍《なが》ら|貴神様《あなたさま》は|吾々《われわれ》と|共《とも》に|三岳山《みたけやま》の|岩窟《がんくつ》にお|住居《すまゐ》|遊《あそ》ばした|丹州様《たんしうさま》では|御座《ござ》いませぬか』
|女神《めがみ》は|莞爾《くわんじ》として|首肯《うなづ》く。
|隆靖彦《たかやすひこ》『アヽ|是《こ》れで|世界晴《せかいば》れが|致《いた》しました。モウ|此《この》|上《うへ》は|高城山《たかしろやま》の|松姫《まつひめ》を|言向《ことむ》け|和《やは》し、|瑞《みづ》の|御霊《みたま》の|大神様《おほかみさま》の|御神業《ごしんげふ》に|奉仕《ほうし》し、|天地《てんち》に|蟠《わだか》まる|八岐《やまた》の|大蛇《をろち》を|言向《ことむ》け|和《やは》す|御神力《ごしんりき》は、|十分《じふぶん》に|与《あた》へられた|様《やう》な|心持《こころもち》になりました。|有難《ありがた》う|御座《ござ》います』
|隆光彦《たかてるひこ》も|無言《むごん》の|儘《まま》、|頭《かしら》を|下《さ》げ|感謝《かんしや》の|意《い》を|表示《へうじ》する。
|隆靖彦《たかやすひこ》『あなた|様《さま》は|今《いま》まで|丹州《たんしう》と|身《み》を|変《へん》じ、|吾々《われわれ》の|身魂《みたま》を|研《みが》く|為《ため》に、|種々雑多《しゆじゆざつた》と|御苦労《ごくらう》を|遊《あそ》ばした|神様《かみさま》、どうぞ|御名《おんな》を|現《あら》はし|下《くだ》さいませ』
|女神《めがみ》『|今《いま》は|我《わが》|名《な》を|現《あら》はすべき|時《とき》にあらず。|自然《しぜん》に|貴方《あなた》|等《がた》の|身魂《みたま》に|感得《かんとく》し|得《う》る|所《ところ》まで|磨《みが》いて|下《くだ》さい。|妾《わらは》の|素性《すじやう》が|明瞭《はつきり》お|分《わか》りになつた|其《その》|時《とき》は、|貴方《あなた》|等《がた》の|身魂《みたま》は|天晴《あつぱ》れの|神人《しんじん》となられた|時《とき》です。それまでは、あなた|方《がた》の|為《ため》に|懸案《けんあん》として|暫《しばら》く|留保《りうほ》して|置《お》きませう』
と|云《い》ふかと|見《み》れば、|三柱《みはしら》の|姿《すがた》は|煙《けぶり》となつて|消《き》えて|了《しま》つた。|鳴石《なきいし》は|依然《いぜん》として|小《ちひ》さき|唸《うな》りを|立《た》てて|居《ゐ》る。
|隆靖彦《たかやすひこ》『なんと|不思議《ふしぎ》な|事《こと》が|有《あ》つたもんですなア。|吾々《われわれ》に|不思議《ふしぎ》な|女神《めがみ》さまが|現《あら》はれて、|隆靖彦《たかやすひこ》だとか、|隆光彦《たかてるひこ》だとか、|身分不相応《みぶんふさうおう》の|神名《しんめい》を|下《くだ》さつたが、|実際《じつさい》に|於《おい》て|責任《せきにん》を|尽《つく》す|事《こと》が|出来《でき》るであらうかと、|又《また》|一《ひと》つ|心配《しんぱい》が|殖《ふ》えて|来《き》たやうだ』
|隆光彦《たかてるひこ》『そうだ、|私《わたくし》も|同感《どうかん》だ。|併《しか》しあの|女神様《めがみさま》は|何処《どこ》となく|丹州《たんしう》さまにソツくりだつた。お|前《まへ》もさう|思《おも》つただらう』
|隆靖彦《たかやすひこ》『ヤア|私《わし》はあまり|勿体《もつたい》なくて、とつくりと|顔《かほ》を、ヨウ|拝《をが》まなんだよ。|何《なん》とはなしに|目《め》がマクマクして、|面《おもて》を|向《む》ける|事《こと》が|出来《でき》なかつた。そうして|何《なん》だか|心《こころ》の|底《そこ》から|恥《はづか》しくつて、|自分《じぶん》の|今迄《いままで》の|罪悪《ざいあく》を|照《てら》される|様《やう》な|気《き》がして、|随分《ずゐぶん》|苦《くる》しかつた。|是《こ》れはヒヨツとしたら|夢《ゆめ》ぢや|有《あ》るまいかなア』
|隆光彦《たかてるひこ》『ナニ、|夢《ゆめ》|所《どころ》か|本当《ほんたう》に|顕《あら》はれ|給《たま》うたのだ。|斯《こ》うなつた|以上《いじやう》は、|層一層《そういつそう》|言行《げんかう》を|慎《つつし》んで|立派《りつぱ》な|宣伝使《せんでんし》にならなくちや、|今《いま》の|女神様《めがみさま》に|対《たい》して|申訳《まをしわけ》が|無《な》からう。|併《しか》し|乍《なが》ら|此《こ》の|鳴石《なきいし》は|依然《いぜん》として|唸《うな》つて|居《ゐ》るぢやないか。|又々《またまた》どんな|神様《かみさま》が|出現《しゆつげん》|遊《あそ》ばすか|分《わか》らないよ。モウ|暫《しばら》く|此処《ここ》に|祝詞《のりと》を|奏上《そうじやう》して|待《ま》つて|居《ゐ》たらどうだらう』
|隆靖彦《たかやすひこ》『ヤア|此《この》|上《うへ》|立派《りつぱ》な|神様《かみさま》に|出《で》られてたまるものかい。モウ|此《こ》れで|結構《けつこう》だ。|恥《はづ》かしくつて|仕方《しかた》がない。サアサア|早《はや》く|高城山《たかしろやま》へ|行《ゆ》かう』
|二人《ふたり》は|鳴石《なきいし》に|恭《うやうや》しく|礼拝《れいはい》し、|足早《あしばや》に|大川《おほかは》の|堤《つつみ》を|伝《つた》つて|上《のぼ》り|行《ゆ》く。|忽《たちま》ちドンと|突《つ》き|当《あた》つた|二人《ふたり》の|男《をとこ》、|驚《おどろ》いて、
|二人《ふたり》『ヤアこれはこれは|誠《まこと》に|無調法《ぶてうはふ》|致《いた》しました。あまり|俯《うつ》むいて|道《みち》を|急《いそ》いで|居《ゐ》ましたので、|女神様《めがみさま》の|御通《おとほ》りとも|知《し》らず、|衝突《しようとつ》を|致《いた》しまして、|申訳《まをしわけ》が|御座《ござ》いませぬ。どうぞお|許《ゆる》し|下《くだ》さいませ』
|隆靖彦《たかやすひこ》『ヤアお|前《まへ》は、|馬公《うまこう》に|鹿公《しかこう》ぢやないか。エライ|勢《いきほ》ひで|何処《どこ》へ|行《ゆ》く|積《つも》りぢや』
|馬公《うまこう》『ハイ|吾々《われわれ》の|大将《たいしやう》、|紫姫《むらさきひめ》、|青彦《あをひこ》の|両人《りやうにん》さま、|大失敗《だいしつぱい》を|演《えん》じ、|聖地《せいち》にも|居《を》れないと|云《い》ふ|立場《たちば》になつて|苦《くるし》んで|居《ゐ》られます。|私等《わたくしら》|両人《りやうにん》はあまりお|気《き》の|毒《どく》で、|見《み》て|居《ゐ》る|訳《わけ》にも|行《ゆ》かず、そつと|館《やかた》を|飛《と》び|出《だ》し、|江州《ごうしう》の|竹生島《ちくぶしま》へ|参《まゐ》つて、|英子姫《ひでこひめ》|様《さま》にお|目《め》にかかり、お|情《なさけ》を|以《もつ》て、|素盞嗚大神《すさのをのおほかみ》|様《さま》に|両人《りやうにん》のお|詫《わび》をして|頂《いただ》かうと|思《おも》ひ、|取《と》る|物《もの》も|取敢《とりあへ》ず|参《まゐ》りました。どうぞ|丹州《たんしう》さま、|何《なん》とか、あなたもお|力添《ちからぞへ》をして|下《くだ》さいませぬか、お|頼《たの》み|申《まを》します』
|隆靖彦《たかやすひこ》『|私《わたし》は|丹州《たんしう》さまぢやない。お|前《まへ》さんと|一緒《いつしよ》に、|鬼ケ城《おにがじやう》の|言霊戦《ことたません》に|向《むか》つた|大悪人《だいあくにん》たりし、|荒鷹《あらたか》で|御座《ござ》いますよ』
|馬公《うまこう》『モシモシ|丹州《たんしう》さま、ソラ|何《なに》を|仰有《おつしや》います。|眉目清秀《びもくせいしう》、|厳《げん》として|冒《をか》す|可《べか》らざるあなたの|御容貌《ごようばう》、|女神《めがみ》の|姿《すがた》に|化《ば》けて|居《ゐ》らつしやるが、|適切《てつき》りあなたは|擬《まが》ふ|方《かた》なき|丹州様《たんしうさま》、そんな|意地《いぢ》の|悪《わる》い|事《こと》を|仰有《おつしや》らずに、|気《き》を|許《ゆる》して、|打解《うちと》けて|下《くだ》さいな』
|鹿公《しかこう》『ヤア|不思議《ふしぎ》だ。|此処《ここ》にも|丹州《たんしう》さまそつくりの|方《かた》が|又《また》|現《あら》はれた。|一目《ひとめ》|見《み》た|時《とき》から|変《かは》つたお|方《かた》ぢやと|思《おも》つて|居《ゐ》たが、ヤツパリ|神様《かみさま》の|化身《けしん》で|御座《ござ》いましたか。どうぞ|唯今《ただいま》|申《まを》した|通《とほ》りの|始末《しまつ》ですから、|宜《よろ》しく|御神力《ごしんりき》を|以《もつ》てお|助《たす》け|下《くだ》さいませ』
|隆光彦《たかてるひこ》『イエイエ|決《けつ》して|決《けつ》して、|私《わたくし》は|丹州《たんしう》さまでは|御座《ござ》いませぬ。|荒鷹《あらたか》の|兄弟分《きやうだいぶん》|鬼鷹《おにたか》と|云《い》ふ、|三岳山《みたけやま》の|岩窟《がんくつ》に|於《おい》て、|悪《あく》ばかり|働《はたら》いて|居《を》つた|男《をとこ》で|御座《ござ》いますよ』
|馬《うま》、|鹿《しか》『なんと|仰有《おつしや》つても、|鬼鷹《おにたか》、|荒鷹《あらたか》の|様《やう》な|粗雑《そざつ》な|容貌《ようばう》ぢや|有《あ》りませぬワ。|彼奴《あいつ》ア、|一旦《いつたん》|改心《かいしん》はしよつたが、|又《また》|地金《ぢがね》を|出《だ》して、どつかへ|迂路《うろ》つき、|此《この》|頃《ごろ》は|鬼雲彦《おにくもひこ》や|鬼熊別《おにくまわけ》の|後《あと》を|追《お》うて、|悪《あく》の|道《みち》へ|逆転《ぎやくてん》|旅行《りよかう》をやつて|居《を》るだらうと、|吾々《われわれ》|仲間《なかま》の|評定《へうぢやう》に|上《のぼ》つて|居《を》る|位《くらゐ》な|男《をとこ》です。そんな|善悪《ぜんあく》|不可解《ふかかい》の|筒井式《つつゐしき》の|男《をとこ》の|名《な》を|騙《かた》つたりなさらずに、|本当《ほんたう》の|事《こと》を|言《い》つて|下《くだ》さい。|私《わたくし》|達《たち》は|千騎一騎《せんきいつき》の|場合《ばあひ》で|御座《ござ》います』
|隆靖彦《たかやすひこ》『|世間《せけん》の|眼識《めがね》は|違《ちが》はぬものだなア。|何程《なにほど》|改心《かいしん》してもヤツパリどつかに、|副守《ふくしゆ》が|割拠《かつきよ》して|居《を》つたと|見《み》えて、|三五教《あななひけう》の|御連中《ごれんちう》からは、|今《いま》、|馬公《うまこう》、|鹿公《しかこう》の|言《い》つた|様《やう》に|見《み》られて|居《を》つたのだなア。アーア|仕方《しかた》のないものだ。どうぞしてあの|時《とき》の|姿《すがた》になつて、|此《この》|両人《りやうにん》の|疑《うたがひ》を|晴《は》らしたいものだ。|斯《こ》うなると、|麗《うるは》しき|容貌《ようばう》になつたのが、|却《かへつ》て|有難《ありがた》|迷惑《めいわく》だ。ナア|鬼鷹《おにたか》|否々《いやいや》、|隆光彦《たかてるひこ》さま…』
|隆光彦《たかてるひこ》『アヽさうですなア。|併《しか》し、|馬公《うまこう》さま、|鹿公《しかこう》さまにまで|疑《うたが》はれる|程《ほど》、|霊魂《みたま》が|向上《かうじやう》し、|体《からだ》の|相貌《さうばう》までが|変《かは》つて|来《き》たと|云《い》ふ|事《こと》は、|実《じつ》に|尊《たふと》いものだ。ヤツパリ|人間《にんげん》は|霊魂《みたま》が|第一《だいいち》だ。……モシモシ|馬《うま》さま|鹿《しか》さま、|決《けつ》して|嘘《うそ》は|申《まを》しませぬ。たつた|今《いま》、|何《なん》とも|知《し》れぬ|立派《りつぱ》な|女神様《めがみさま》から、|玉《たま》を|頂《いただ》いたが|最後《さいご》、|斯《こ》んなに|変化《へんくわ》して|了《しま》つたのだ。|名《な》も|隆靖彦《たかやすひこ》、|隆光彦《たかてるひこ》と|頂《いただ》いたのだが、つい|今《いま》の|先《さき》まで|依然《いぜん》として、|荒鷹《あらたか》、|鬼鷹《おにたか》の|姿《すがた》で|居《を》つたのだ。どうぞ|疑《うたがひ》を|晴《は》らして|下《くだ》さい』
|馬《うま》、|鹿《しか》の|二人《ふたり》は|疑団《ぎだん》の|雲《くも》に|包《つつ》まれ、|両人《りやうにん》の|姿《すがた》を|頭《あたま》の|上《うへ》から|足《あし》の|爪先《つまさき》まで、|念入《ねんい》りに|見詰《みつ》めて|居《ゐ》る。
『バラモン|教《けう》の|総大将《そうだいしやう》 |鬼雲彦《おにくもひこ》の|部下《ぶか》となり
|三岳《みたけ》の|山《やま》の|岩窟《がんくつ》に |心《こころ》も|荒《あら》き|荒鷹《あらたか》や
|生血《いきち》を|絞《しぼ》る|鬼鷹《おにたか》と |現《あら》はれ|出《い》でて|四方八方《よもやも》の
|老若男女《らうにやくなんによ》を|拐《かど》はかし |無慈悲《むじひ》の|限《かぎ》りを|尽《つく》したる
|鬼熊別《おにくまわけ》と|諸共《もろとも》に |大江《おほえ》の|山《やま》や|鬼ケ城《おにがじやう》
|三岳《みたけ》の|山《やま》に|山砦《さんさい》を |構《かま》へて|住《す》まへる|折《をり》もあれ
|天津御空《あまつみそら》の|雲《くも》|別《わ》けて |降《くだ》りましたか|地《ち》を|掘《ほ》りて
|現《あら》はれましたか|知《し》らねども |何《なん》とはなしに|威厳《ゐげん》ある
|丹州《たんしう》さまがやつて|来《き》て |俺《わし》の|乾児《こぶん》にして|呉《く》れと
|頭《かしら》を|下《さ》げて|頼《たの》まれる |二人《ふたり》は|素《もと》より|神《かみ》ならぬ
|身《み》の|悲《かな》しさに|丹州《たんしう》を |奴隷《どれい》の|如《ごと》く|酷《こ》き|使《つか》ひ
|紫姫《むらさきひめ》の|主従《しゆじゆう》を ウマウマ|岩窟《いはや》に|騙《だま》し|込《こ》み
|馬公《うまこう》、|鹿公《しかこう》|二人《ふたり》をば |地獄《ぢごく》に|等《ひと》しき|岩穴《いはあな》へ
|情《なさけ》|容赦《ようしや》も|荒繩《あらなは》に |縛《しば》つてヤツと|放《ほ》り|込《こ》みし
|天地《てんち》|容《い》れざる|大悪《だいあく》の |罪《つみ》をも|憎《にく》まず|三五《あななひ》の
|神《かみ》の|教《をしへ》の|宣伝使《せんでんし》 |音彦《おとひこ》、|加米彦《かめひこ》|現《あら》はれて
|悦子《よしこ》の|姫《ひめ》を|守《まも》りつつ |深《ふか》き|罪《つみ》をば|差《さ》し|赦《ゆる》し
|神《かみ》の|教《をしへ》に|導《みちび》きて |忽《たちま》ち|変《かは》る|神心《かみごころ》
|人《ひと》を|悩《なや》める|鬼ケ城《おにがじやう》 |悪魔《あくま》の|砦《とりで》に|立向《たちむか》ひ
|聞《き》くも|芽出《めで》たき|言霊《ことたま》の |清《きよ》き|戦《いくさ》に|参加《さんか》して
|神《かみ》の|尊《たふと》き|事《こと》を|知《し》り |三五教《あななひけう》の|神《かみ》の|道《みち》
|四方《よも》の|国々《くにぐに》|弘《ひろ》めむと |心《こころ》を|配《くば》る|折柄《をりから》に
|弥仙《みせん》の|山《やま》の|山麓《さんろく》に |神《かみ》の|知《し》らせか|紫《むらさき》の
|雲《くも》|立昇《たちのぼ》る|麗《うるは》しさ |吾々《われわれ》|二人《ふたり》は|何《なん》となく
|雲《くも》に|引《ひ》かるる|心地《ここち》して |木《こ》の|花姫《はなひめ》の|斎《まつ》りたる
|御山《みやま》の|麓《ふもと》に|来《き》て|見《み》れば |豈計《あにはか》らむや|丹州《たんしう》の
|威厳《ゐげん》|備《そな》はる|御姿《みすがた》に |再《ふたた》び|驚《おどろ》き|畏《かしこ》みて
|踵《きびす》を|返《かへ》し|須知山《しゆちやま》の |峠《たうげ》の|上《うへ》に|来《き》て|見《み》れば
|常彦《つねひこ》さまや|滝《たき》、|板《いた》の |二人《ふたり》の|姿《すがた》に|驚《おどろ》きつ
|一言《ひとこと》|二言《ふたこと》|云《い》ひかはし |丹州《たんしう》さまの|仰《あふ》せをば
|畏《かしこ》み|仕《つか》へ|東路《あづまぢ》を |指《さ》して|山坂《やまさか》|打渉《うちわた》り
|荒波《あらなみ》|猛《たけ》る|琵琶《びは》の|湖《うみ》 |英子《ひでこ》の|姫《ひめ》の|隠《かく》れます
|竹生《ちくぶ》の|島《しま》に|往《い》て|見《み》れば |藻抜《もぬ》けの|殻《から》の|果敢《はか》なさに
|駒《こま》の|首《かしら》を|立《た》て|直《なほ》し |彼方《あちら》|此方《こちら》と|彷徨《さまよ》ひつ
|吾《わが》|信仰《しんかう》も|堅木原《かたぎはら》 |足並《あしなみ》|揃《そろ》へて|沓掛《くつかけ》の
|郷《さと》を|踏《ふ》み|越《こ》え|懺悔坂《ざんげざか》 |漸《やうや》く|登《のぼ》り|梨《なし》の|木《き》の
|峠《たうげ》に|立《た》ちて|眺《なが》むれば |遥《はるか》に|見《み》ゆる|西《にし》の|空《そら》
|高城山《たかしろやま》の|頂《いただ》きに |五色《ごしき》の|雲《くも》の|棚引《たなび》きし
|其《その》|光景《くわうけい》に|憧憬《あこが》れつ |薄雪《はくせつ》|踏《ふ》み|締《し》め|来《き》て|見《み》れば
|風《かぜ》の|音《ね》|高《たか》く|鳴石《なきいし》の |上《うへ》より|昇《のぼ》る|白煙《しらけぶり》
また|立昇《たちのぼ》る|紫《むらさき》の |雲《くも》に|心《こころ》を|奪《うば》はれつ
|両手《りやうて》を|合《あは》せ|拝《をが》む|内《うち》 |煙《けぶり》の|中《なか》より|現《あら》はれし
|荘厳無比《さうごんむひ》の|女神《めがみ》さま |二人《ふたり》の|稚児《ちご》を|伴《ともな》ひて
|吾《わ》れにうつしき|宝玉《ほうぎよく》を |授《さづ》け|給《たま》うと|見《み》る|間《うち》に
|鬼《おに》をも|欺《あざむ》く|醜体《しうたい》の |二人《ふたり》は|忽《たちま》ち|此《この》|通《とほ》り
|白衣《びやくい》の|袖《そで》に|包《つつ》まれて |容貌《ようばう》|忽《たちま》ち|一変《いつぺん》し
|降靖彦《たかやすひこ》や|隆光彦《たかてるひこ》の |教《をしへ》の|司《つかさ》と|名付《なづ》けられ
やうやう|此処《ここ》に|来《き》て|見《み》れば |顔《かほ》|見覚《みおぼ》えた|馬公《うまこう》や
|鹿公《しかこう》|二人《ふたり》に|巡《めぐ》り|会《あ》ひ |俄《にはか》に|変《かは》る|吾《わが》|姿《すがた》
|如何《いか》|程《ほど》|言葉《ことば》を|尽《つく》すとも |諾《うべ》なひまさぬは|道理《だうり》なれ
アヽ|然《さ》り|乍《なが》ら|然《さ》り|乍《なが》ら |吾《わ》れはヤツパリ|荒鷹《あらたか》に
|鬼鷹《おにたか》|二人《ふたり》の|向上身《こうじやうしん》 どうぞ|疑《うたがひ》|晴《は》らしませ
|人《ひと》は|心《こころ》が|第一《だいいち》よ |霊魂《みたま》|研《みが》けば|忽《たちま》ちに
|鬼《おに》も|変《へん》じて|神《かみ》となり |心《こころ》|一《ひと》つの|持方《もちかた》で
|神《かみ》も|忽《たちま》ち|鬼《おに》となる さは|然《さ》り|乍《なが》ら|人《ひと》の|身《み》の
|如何《いか》に|霊魂《みたま》を|研《みが》くとも |神《かみ》の|力《ちから》に|依《よ》らざれば
|徹底的《てつていてき》に|魂《たましひ》は |清《きよ》まるものに|有《あ》らざらむ
|自力《じりき》|信仰《しんかう》もよけれども |唯《ただ》|何事《なにごと》も|人《ひと》の|世《よ》は
|他力《たりき》の|神《かみ》に|身《み》を|任《まか》せ |心《こころ》を|任《まか》せ|皇神《すめかみ》の
|救《すく》ひを|得《う》るより|途《みち》はない |人《ひと》の|賢《さか》しき|利巧《りかう》もて
|誠《まこと》の|道《みち》を|究《きは》めむと |思《おも》うた|事《こと》の|誤《あやま》りを
|今《いま》|漸《やうや》くに|悟《さと》りけり |吁《あゝ》|馬公《うまこう》よ|鹿公《しかこう》よ
|人間心《にんげんごころ》を|振棄《ふりす》てて |唯《ただ》|何事《なにごと》も|惟神《かむながら》
|神《かみ》の|他力《たりき》に|打任《うちまか》せ |誠《まこと》の|信仰《しんかう》|積《つ》むがよい
|吾《わ》れは|是《こ》れより|高城《たかしろ》の |山《やま》の|麓《ふもと》に|現《あら》はれし
ウラナイ|教《けう》の|宣伝使《せんでんし》 |松姫《まつひめ》さまを|言向《ことむ》けて
|誠《まこと》の|道《みち》に|救《すく》はむと |思《おも》ひ|定《さだ》めて|進《すす》み|行《ゆ》く
|紫姫《むらさきひめ》や|若彦《わかひこ》の |二人《ふたり》の|心《こころ》は|察《さつ》すれど
|人間心《にんげんごころ》の|如何《いか》にして |救《すく》ふ|手段《てだて》がありませうか
|魂《たま》を|研《みが》いて|今《いま》は|唯《ただ》 |花《はな》|咲《さ》く|春《はる》を|待《ま》てばよい
|神素盞嗚大神《かむすさのをのおほかみ》の |無量《むりやう》|無限《むげん》のお|慈悲心《じひしん》
|如何《いか》でか|見捨《みす》て|給《たま》はむや アヽ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さち》はひましまして |紫姫《むらさきひめ》や|若彦《わかひこ》に
|如何《いか》なる|罪《つみ》の|有《あ》りとても |心《こころ》|平《たひ》らに|安《やす》らかに
|直日《なほひ》に|見直《みなほ》し|聞直《ききなほ》し |宣《の》り|直《なほ》しませ|素盞嗚《すさのを》の
|大神様《おほかみさま》に|祈《ね》ぎ|奉《まつ》る |朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも
|月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも |仮令《たとへ》|大地《だいち》は|沈《しづ》むとも
|誠《まこと》|一《ひと》つの|麻柱《あななひ》の |道《みち》を|貫《つらぬ》く|吾々《われわれ》は
|神《かみ》の|救《すく》ひは|目《ま》の|前《あたり》 |必《かなら》ずともに|二人《ふたり》|共《とも》
|心《こころ》を|痛《いた》め|給《たま》ふまじ |女神《めがみ》の|姿《すがた》と|現《あら》はれし
|吾々《われわれ》|二人《ふたり》は|先頭《せんとう》に |高城山《たかしろやま》に|向《むか》ひ|行《ゆ》く
|馬公《うまこう》、|鹿公《しかこう》|両人《りやうにん》よ |執着心《しふちやくしん》を|振《ふ》り|棄《す》てて
|吾等《われら》と|共《とも》に|言霊《ことたま》の |清《きよ》き|戦《いくさ》に|加《くは》はりて
|太《ふと》しき|功績《いさを》を|立《た》て|給《たま》へ いざいざさらば、いざさらば
|一時《いちじ》も|早《はや》く|片時《かたとき》も |疾《と》く|速《すむや》けく|参《まゐ》りませう
|神《かみ》は|汝《なんぢ》と|倶《とも》にあり |神《かみ》の|恵《めぐみ》は|海《うみ》よりも
|深《ふか》しと|聞《き》けば|高城《たかしろ》の |山《やま》は|如何《いか》|程《ほど》|嶮《さか》しとも
|悪魔《あくま》の|勢《いきほひ》|強《つよ》くとも |神《かみ》の|光《ひかり》を|身《み》に|受《う》けて
|常世《とこよ》の|暗《やみ》を|照《てら》し|行《ゆ》く |三五教《あななひけう》の|吾々《われわれ》が
|身《み》の|上《うへ》こそは|楽《たの》しけれ アヽ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さち》はひ|坐《ま》しませよ』
と|宣伝歌《せんでんか》を|歌《うた》ひつつ、|一行《いつかう》|四人《よにん》は|一歩々々《ひとあしひとあし》、ウラナイ|教《けう》の|松姫《まつひめ》が|館《やかた》を|指《さ》して|近付《ちかづ》きぬ。
|馬公《うまこう》『モシモシ|最前《さいぜん》のお|歌《うた》に|依《よ》つて、|私達《わたくしたち》もスツカリと|信仰《しんかう》の|妙味《めうみ》と|効果《かうくわ》が、|心底《しんてい》から|諒解《りやうかい》|出来《でき》ました。|併《しか》し|乍《なが》ら|吾々《われわれ》|両人《りやうにん》は、|紫姫《むらさきひめ》|様《さま》のお|供《とも》を|致《いた》し、|比沼《ひぬ》の|真奈井《まなゐ》の|貴《うづ》の|宝座《ほうざ》へ|参拝《さんぱい》の|途中《とちう》、あなた|方《がた》に|拐《かど》はかされ、|其《その》お|蔭《かげ》にて|尊《たふと》き|三五教《あななひけう》の|信者《しんじや》となり、|御主人《ごしゆじん》の|紫姫《むらさきひめ》|様《さま》は、|世《よ》にも|尊《たふと》き|宣伝使《せんでんし》とまでお|成《な》り|遊《あそ》ばし、|吾々《われわれ》|両人《りやうにん》は|昼夜《ちうや》|感涙《かんるい》に|咽《むせ》び……アーア|吾々《われわれ》|主従《しゆじゆう》は|何《なん》とした|果報者《くわほうもの》だ……と|喜《よろこ》んで|居《を》りましたが、|計《はか》らずも|紫姫《むらさきひめ》|様《さま》は|若彦《わかひこ》さまと|共《とも》に、|大神様《おほかみさま》の|御不興《ごふきよう》を|蒙《かうむ》り、|少《すこ》しの|取違《とりちがひ》より、|今《いま》は|三五教《あななひけう》を|除名《ぢよめい》され、|神様《かみさま》に|対《たい》しては|申訳《まをしわけ》なく、|其《その》|罪《つみ》|万死《ばんし》に|値《あたひ》すると|言《い》つて、|日夜《にちや》|紫姫《むらさきひめ》|様《さま》のお|歎《なげ》き、|家来《けらい》の|吾々《われわれ》|両人《りやうにん》、これがどうして|見《み》て|居《ゐ》られませう。そこで|吾々《われわれ》は|紫姫《むらさきひめ》|様《さま》にお|暇《いとま》を|願《ねが》ひ、|一《ひと》つの|功名《こうみやう》を|立《た》て、|大神様《おほかみさま》に|誠《まこと》を|現《あら》はし、|其《その》|功《いさを》に|依《よ》りて|御主人《ごしゆじん》の|罪《つみ》を|赦《ゆる》して|戴《いただ》かうと|思《おも》ひ、それとはなしにお|願《ねがひ》|致《いた》しましたが、どうしても|紫姫《むらさきひめ》|様《さま》は|吾々《われわれ》に|暇《いとま》を|下《くだ》さらないので、|血《ち》を|吐《は》くやうな|思《おも》ひをして、|心《こころ》にも|有《あ》らぬ|主人《しゆじん》に|対《たい》し|罵詈雑言《ばりざふごん》を|逞《たくま》しうし、ヤツと|勘当《かんどう》されて|此処《ここ》までやつて|来《き》ました。モウ|斯《こ》うなる|上《うへ》は、|仮令《たとへ》|失敗《しつぱい》を|致《いた》さうとも、|御主人《ごしゆじん》の|御身《おんみ》には|何《なん》の|関係《くわんけい》も|及《およ》ぼさないなり、|万々一《まんまんいち》|吾々《われわれ》が|功名《こうみやう》|手柄《てがら》を|現《あら》はした|時《とき》には|御主人様《ごしゆじんさま》に|帰参《きさん》をお|願《ねがひ》|致《いた》し、さうして|紫姫《むらさきひめ》|様《さま》の|名誉《めいよ》を|回復《くわいふく》したいばつかりで、|両人《りやうにん》|申合《まをしあは》せ、|何《なん》とか|良《い》い|御用《ごよう》をして|見《み》たいと|思《おも》つて、|此処《ここ》まで|参《まゐ》りました。|併《しか》し|乍《なが》らあなたは|既《すで》に|高城山《たかしろやま》を|言向《ことむ》け|和《やは》さむと|御決心《ごけつしん》なされた|以上《いじやう》は、|吾々《われわれ》はお|供《とも》の|身《み》の|上《うへ》、|仮令《たとへ》|成功《せいこう》を|致《いた》しましても、それが|御主人様《ごしゆじんさま》のお|詫《わび》の|材料《ざいれう》にはなりませぬ。あなたは|既《すで》に|其《そ》れだけの|御神徳《ごしんとく》をお|頂《いただ》きになつたのだから、|此《この》|言霊戦《ことたません》はどうぞ、|私《わたくし》に|譲《ゆづ》つて|下《くだ》さいますまいか』
|鹿公《しかこう》『いま|馬公《うまこう》の|申《まを》した|通《とほ》りの|事情《じじやう》で|御座《ござ》います。どうぞ、|吾々《われわれ》の|切《せつ》なる|胸中《きようちう》をお|察《さつ》し|下《くだ》さいまして、|今回《こんくわい》は|吾々《われわれ》にお|任《まか》せ|下《くだ》さいませ。|万々一《まんまんいち》|失敗《しつぱい》を|致《いた》しました|時《とき》は、|第二軍《だいにぐん》として、あなた|方《がた》|御両人《ごりやうにん》が、|弔戦《とむらひいくさ》をやつて|下《くだ》さいませぬか』
と|涙《なみだ》をハラハラと|流《なが》し、|真心《まごころ》を|面《おもて》に|現《あら》はして|頼《たの》みゐる。
|隆靖彦《たかやすひこ》『|吾々《われわれ》も|入信《にふしん》|以来《いらい》、|一《ひと》つの|功労《こうらう》もなく、せめては|頑強《ぐわんきやう》なる|松姫《まつひめ》を|言向《ことむ》け|和《やは》し、|神様《かみさま》にお|目《め》にかけたいと|思《おも》つてやつて|来《き》たが、|武士《ぶし》は|相身互《あひみたがひ》ひだ。それだけの|事情《じじやう》を|聞《き》いた|以上《いじやう》は、|強《た》つて|断《ことわ》る|訳《わけ》にも|行《ゆ》かぬ。ナア|隆光彦《たかてるひこ》さま、|此《この》|言霊戦《ことたません》は|馬公《うまこう》、|鹿公《しかこう》に|手柄《てがら》を|譲《ゆづ》りませうか。|己《おのれ》の|欲《ほつ》する|所《ところ》は|人《ひと》に|施《ほどこ》せとの|御神勅《ごしんちよく》を|思《おも》ひ|出《いだ》せば、|無情《むげ》に|撥《は》ねつける|訳《わけ》にもゆきますまい』
|隆光彦《たかてるひこ》『あなたの|仰有《おつしや》る|通《とほ》りです。|馬公《うまこう》、|鹿公《しかこう》、|御苦労《ごくらう》|乍《なが》ら|華々《はなばな》しくやつて|見《み》て|下《くだ》さい。|私《わたくし》は|彼《あ》の|川縁《かはべり》の|景色《けしき》の|佳《よ》い|所《ところ》で、あなたの|武者振《むしやぶり》を|拝見《はいけん》|致《いた》します』
|馬《うま》、|鹿《しか》『それは|早速《さつそく》の|御承諾《ごしようだく》、|有難《ありがた》う|御座《ござ》います。|何分《なにぶん》|身魂《みたま》の|磨《みが》けぬ|吾々《われわれ》の|言霊戦《ことたません》、|蔭《かげ》|乍《なが》ら|御保護《ごほご》を|御願《おねが》ひ|致《いた》します』
|隆靖彦《たかやすひこ》『|天晴《あつぱ》れ|功名《こうみやう》|手柄《てがら》を|現《あら》はして|下《くだ》さい』
|隆光彦《たかてるひこ》『|大勝利《だいしようり》を|祈《いの》ります』
|馬《うま》、|鹿《しか》の|両人《りやうにん》は『|有難《ありがた》う』と|感謝《かんしや》の|意《い》を|表《へう》し、|二人《ふたり》に|別《わか》れ、|松姫《まつひめ》の|館《やかた》を|指《さ》してイソイソ|進《すす》み|行《ゆ》く。
(大正一一・五・八 旧四・一二 松村真澄録)
第一〇章 |馬鹿正直《ばかしやうぢき》〔六五五〕
|雲《くも》を|抜《ぬ》き|出《で》てそそり|立《た》つ |高城山《たかしろやま》の|峰伝《みねづた》ひ
|松樹《しようじゆ》|茂《しげ》れる|神《かみ》の|山《やま》 |木《こ》の|間《ま》に|閃《ひらめ》く|十曜《とえう》の|神紋《もん》
|国治立《くにはるたち》の|大神《おほかみ》や |埴安神《はにやすかみ》や|木《こ》の|花《はな》の
|姫《ひめ》の|命《みこと》の|御教《みをしへ》を |四方《よも》に|伝《つた》ふるウラナイの
|神《かみ》の|教《をしへ》の|出社《でやしろ》と |鳴《な》り|響《ひび》きたる|神館《かむやかた》
|五六七《みろく》の|御世《みよ》を|松姫《まつひめ》が |朝《あさ》な|夕《ゆふ》なに|真心《まごころ》を
こめて|祈《いの》りの|言霊《ことたま》に |百《もも》の|神《かみ》たち|寄《よ》り|集《つど》ひ
|醜《しこ》の|教《をしへ》と|云《い》ひ|乍《なが》ら |御国《みくに》を|思《おも》ひ|世《よ》を|思《おも》ふ
|其《その》|御心《みこころ》を|諾《うべ》なひて |守《まも》らせ|給《たま》ふぞ|尊《たふと》けれ。
|松姫館《まつひめやかた》の|表門《おもてもん》には、|受付《うけつけ》|兼《けん》|門番《もんばん》の|溜《たま》り|所《どころ》が|設《まう》けられてある。|竜若《たつわか》、|熊彦《くまひこ》、|虎彦《とらひこ》の|三人《さんにん》は、【あどけ】なき|話《はなし》に|冬《ふゆ》の|短《みじか》き|日《ひ》を|潰《つぶ》して|居《ゐ》る。
|竜若《たつわか》『|此《この》|春《はる》|頃《ごろ》は|陽気《やうき》も|良《よ》し、|日々《ひび》|木《き》の|芽《め》を|萌《ふ》く|様《やう》に、|求道者《きうだうしや》が|踵《くびす》を|接《せつ》し、|随分《ずゐぶん》|吾々《われわれ》も|受付《うけつけ》や|門《もん》の|開閉《かいへい》に|繁忙《はんばう》を|極《きは》めたものだが、|春《はる》|逝《ゆ》き、|夏《なつ》|過《す》ぎ、|秋《あき》|去《さ》り、|冬《ふゆ》|来《きた》る|今日《けふ》|此《この》|頃《ごろ》、|雪《ゆき》は|散《ち》らつく、|凩《こがらし》は|吹《ふ》く、|梢《こずゑ》は|真裸《まつぱだか》となり|白《しろ》い|白《しろ》い|花《はな》が|咲《さ》く|様《やう》になつた|様《やう》に、ウラナイ|教《けう》の|此《この》|館《やかた》も、|一葉《ひとは》|落《お》ちて|天下《てんか》の|秋《あき》を|知《し》る|処《どころ》か、|全葉《ぜんえふ》|落《お》ちて|寂寥《せきれう》|極《きは》まる|天下《てんか》の|冬《ふゆ》となつて|来《き》たぢやないか。|如何《いか》に|栄枯盛衰《ゑいこせいすゐ》は|世《よ》の|習《なら》ひだと|云《い》つても、ウラナイ|教《けう》の|凋落《てうらく》と|云《い》つたら、|実《じつ》に|哀《あは》れ|儚《はか》なき|有様《ありさま》だ。|我々《われわれ》は|斯《こ》うチヨコナンとして|用《よう》も|無《な》いのに、|借《か》つて|来《き》た|狆《ちん》の|様《やう》にして|居《を》るのも、|何《なん》だか|気《き》が|利《き》かない。|松姫《まつひめ》|様《さま》に|対《たい》しても|気《き》の|毒《どく》な|様《やう》な|気《き》がしてならないワ。|嗚呼《ああ》ウラナイ|教《けう》にも、|冷酷《れいこく》|無残《むざん》の|冬《ふゆ》が|来《き》たのかなア』
|熊彦《くまひこ》『それが|身魂《みたま》の|恩頼《ふゆ》だ。|冬《ふゆ》が|有《あ》りやこそ|春《はる》が|来《く》るのだ。|神様《かみさま》は|引懸《ひつか》け|戻《もど》しの|仕組《しぐみ》ぢやと|仰有《おつしや》るぢやないか。|海《うみ》の|波《なみ》だつて|風《かぜ》だつて|其《その》|通《とほ》りだ。|七五三《しちごさん》と|風《かぜ》が|吹《ふ》き、|波《なみ》は|立《た》つ、ウラナイ|教《けう》も|此《この》|春《はる》|頃《ごろ》は|七《しち》の|風《かぜ》が|吹《ふ》き、|七《しち》の|波《なみ》が|立《た》つて|居《ゐ》た。|夏《なつ》になると|五《ご》の|風《かぜ》や|五《ご》の|波《なみ》、|秋《あき》の|末《すゑ》から|冬《ふゆ》のかかりにかけて、|三《さん》の|風《かぜ》が|吹《ふ》き、|三《さん》の|波《なみ》が|打《う》つて|居《ゐ》る|様《やう》なものだ。|又《また》|世《よ》の|中《なか》の|歴史《れきし》は|繰返《くりかへ》すものだから、|花《はな》|咲《さ》く|春《はる》は|屹度《きつと》ウラナイ|教《けう》に|見舞《みま》うて|来《く》るよ。|天下《てんか》の|春《はる》にウラナイ|教《けう》|計《ばか》り|何時迄《いつまで》も、|冬《ふゆ》の|冷酷《れいこく》を|眺《なが》めて|居《を》る|様《やう》な|事《こと》はあるまい、さう|悲観《ひくわん》したものぢやないよ』
|虎彦《とらひこ》『|熊公《くまこう》、|随分《ずゐぶん》お|前《まへ》は|楽観者《らくくわんしや》だなア。|蜘蛛《くも》が|巣《す》をかけて、|虫《むし》が|引《ひ》つかかるのを|待《ま》ち|受《う》ける|様《やう》なやり|方《かた》では|何時迄《いつまで》|経《た》つても、ウラナイ|教《けう》に|春《はる》は|見舞《みま》うて|呉《く》れない。|矢張《やつぱり》|能《あた》ふ|限《かぎ》り|最善《さいぜん》の|努力《どりよく》を|費《つひ》やさねば|駄目《だめ》だ。|運《うん》と|云《い》ふものは|手《て》を|束《つか》ねて|待《ま》つて|居《ゐ》たつて、|来《く》るものではない。|矢張《やつぱり》こちらから、|活動《くわつどう》を|開始《かいし》せねばならないぢやないか。それに|此《この》|頃《ごろ》は|館《やかた》の|松姫《まつひめ》|様《さま》も、|宣伝使《せんでんし》の|布教《ふけう》をお|止《と》めなさつたぢやないか。|一体《いつたい》|吾々《われわれ》は|諒解《りやうかい》に|苦《くるし》まざるを|得《え》ないのだ』
|竜若《たつわか》『|吾々《われわれ》|一同《いちどう》の|宣伝使《せんでんし》が|御神慮《ごしんりよ》に|叶《かな》つて|居《ゐ》ないのだから、|十分《じふぶん》に|此《この》|静《しづ》かな|間《うち》に、|身魂《みたま》を|研《みが》き|上《あ》げ、|御神慮《ごしんりよ》を|悟《さと》り、|本当《ほんたう》の|神様《かみさま》の|大御心《おほみこころ》を|体得《たいとく》して、|神様《かみさま》から|是《こ》れなら|宣伝《せんでん》をしにやつても|差支《さしつか》へ|無《な》いと|御認《おみと》めになる|迄《まで》、|吾々《われわれ》は|修行《しうぎやう》をさされて|居《を》るのだ。|月日《つきひ》の|駒《こま》は|再《ふたた》び|帰《かへ》り|来《きた》らず、|一日《いちじつ》|再《ふたた》び|晨《あした》|成《な》り|難《がた》し、|此《この》|機会《きくわい》に、|吾々《われわれ》は|充分《じゆうぶん》の|魂磨《たまみが》きをやつて|置《お》くのだ。|今迄《いままで》の|様《やう》な|脱線《だつせん》だらけの|宣伝《せんでん》をしたつて、|世《よ》の|中《なか》を|益々《ますます》|混乱誑惑《きやうわく》させるだけだ。|一《いつ》かど|立派《りつぱ》な|神様《かみさま》の|御用《ごよう》を|勉《つと》めた|積《つも》りで、お|邪魔《じやま》|許《ばか》りして|居《ゐ》たのだから、|神様《かみさま》が|戒《いまし》めの|為《ため》に、|此《この》|頃《ごろ》の|様《やう》に|宣伝《せんでん》もお|止《と》めなさつたり、|求道者《きうだうしや》もお|寄《よ》せにならないのだらうよ。|吾々《われわれ》|一同《いちどう》の|者《もの》が、|本当《ほんたう》の|誠《まこと》の|神心《かみごころ》が|解《わか》つたならば、|宣伝《せんでん》にもやつて|下《くだ》さらうし、|因縁《いんねん》の|身魂《みたま》も|寄《よ》せて|下《くだ》さるだらう。|神様《かみさま》は|何処《どこ》から|何処迄《どこまで》|抜《ぬ》け|目《め》が|無《な》いからなア』
|熊彦《くまひこ》『それに|就《つ》いても|三五教《あななひけう》は|比較的《ひかくてき》|隆盛《りうせい》ぢやないか。|高姫《たかひめ》さまや、|黒姫《くろひめ》さまの|大頭株《おほあたまかぶ》が|得意《とくい》の|神算鬼智《しんさんきち》を|発輝《はつき》して、|玉照姫《たまてるひめ》|様《さま》をウラナイ|教《けう》に|奉迎《ほうげい》せむとなさつたが、|薩張《さつぱり》|三五教《あななひけう》の|紫姫《むらさきひめ》や、|青彦《あをひこ》の|奴《やつ》に|裏《うら》をかかれて|馬鹿《ばか》を|見《み》たと|云《い》ふのだから、|油断《ゆだん》も|隙《すき》もあつたものぢやない。それに|又《また》|合点《がてん》のゆかぬは|松姫《まつひめ》さまぢや。|青彦《あをひこ》の|裏返《うらがへ》り|者《もの》の|女房《にようばう》お|節《せつ》が、|此《この》|間《あひだ》から|猫撫《ねこな》で|声《ごゑ》を|出《だ》しよつて、|旨《うま》く|松姫《まつひめ》さまに|取《と》り|入《い》り、|今《いま》では|奥《おく》の|間《ま》の|御用《ごよう》を|務《つと》めて|居《ゐ》るぢやないか。|又《また》|黒姫《くろひめ》の|二《に》の|舞《まひ》を|演《えん》じてアフンとなさる|様《やう》な|事《こと》はあるまいかなア。|何程《なにほど》、|清濁《せいだく》|併《あは》せ|呑《の》む|大海《たいかい》の|様《やう》な|松姫《まつひめ》さまの|御心《みこころ》でも、お|節《せつ》の|様《やう》な|危険《きけん》|人物《じんぶつ》を|奥《おく》に|住《す》み|込《こ》ませて|置《お》くのは、|爆裂弾《ばくれつだん》を|抱《かか》へて|寝《ね》る|様《やう》なものだ。|此《この》|位《くらゐ》な|分《わか》り|切《き》つた|道理《だうり》がどうして|松姫《まつひめ》さまは|気《き》が|付《つ》かぬのだらうか』
|虎彦《とらひこ》『|何《なに》は|兎《と》もあれ、|権謀術数《けんぼうじゆつすう》|至《いた》らざるなき、|素盞嗚尊《すさのをのみこと》の|悪神《あくがみ》の|一派《いつぱ》だから|千変万化《せんぺんばんくわ》に|身《み》を|窶《やつ》し、|大胆不敵《だいたんふてき》にも、|女《をんな》の|分際《ぶんざい》としてこんな|所《ところ》へ、|恐《おそ》れ|気《げ》もなくやつて|来居《きを》つた|危険性《きけんせい》を|帯《お》びた|化物《ばけもの》だから、|一《ひと》つでもお|節《せつ》の|欠点《けつてん》を|発見《はつけん》したら、それを|機会《きくわい》に|松姫《まつひめ》の|大将《たいしやう》が|何《なん》と|仰有《おつしや》つても、|吾々《われわれ》は|職《しよく》を|賭《と》してお|諫《いさ》め|申《まを》し、お|節《せつ》をおつ|放《ぽ》り|出《だ》さねばなるまいぞ』
|竜若《たつわか》『それもそうだ。|女《をんな》でさへも|三五教《あななひけう》へ|這入《はい》つた|奴《やつ》は、あれだけの|胆力《たんりよく》が|据《す》わつて|居《を》るのだから、|男《をとこ》は|尚更《なほさら》|手《て》に|合《あ》はぬ|奴《やつ》|計《ばか》りだ。|又《また》|何時《なんどき》|三五教《あななひけう》の|奴《やつ》がやつて|来居《きを》つて、|魔窟ケ原《まくつがはら》の|岩窟《いはや》の|二《に》の|舞《ま》ひをやらうと|掛《かか》るかも|知《し》れないから|良《よ》く|気《き》を|付《つ》けて、|三五教《あななひけう》の|連中《れんちう》だつたら、|此《この》|門内《もんない》へ|一足《ひとあし》でも|入《い》れさす|事《こと》は|出来《でき》ないぞ。|箒《はうき》で|掃出《はきだ》すか、それも|聞《き》かねば|六尺棒《ろくしやくぼう》で|袋叩《ふくろだた》きにしても|懲《こ》らしめてやらねば、ウラナイ|教《けう》は|何時《なんどき》|根底《こんてい》から|顛覆《てんぷく》さされるやら|分《わか》つたものぢやない。|松姫《まつひめ》さまは|狼《おほかみ》であらうが、|虎《とら》であらうが、|老若男女《らうにやくなんによ》の|区別《くべつ》なく、|物食《ものぐ》ひがよいから|困《こま》つて|了《しま》ふ。|腹《はら》の|中《なか》へ|毒薬《どくやく》を|呑《の》み|込《こ》んで|平気《へいき》で|居《を》るのだから|実《じつ》に|剣呑《けんのん》|千万《せんばん》だ。もうこれからは、|一々《いちいち》|出《で》て|来《く》る|奴《やつ》を|誰何《すゐか》して、|身魂《みたま》を|調《しら》べた|上《うへ》でなければ、|通行《つうかう》させる|事《こと》は|出来《でき》ないぞ。|此《この》|門《もん》の|出入《しゆつにふ》を|許否《きよひ》するは|吾々《われわれ》|一同《いちどう》の|権限《けんげん》でもあり|大責任《だいせきにん》だから、|今後《こんご》|吾々《われわれ》は|三角《さんかく》|同盟《どうめい》を|形造《かたちづく》り、|結束《けつそく》を|固《かた》うして、|毛色《けいろ》の|変《かは》つた|怪《あや》しき|人物《じんぶつ》は、|断乎《だんこ》として|通過《つうくわ》させない|事《こと》にして|締盟《ていめい》|仕様《しやう》ぢやないか、|日《ひ》の|出神《でのかみ》の|生宮《いきみや》でも|竜宮《りうぐう》の|乙姫《おとひめ》さまの|生宮《いきみや》でも、|月夜《つきよ》に|釜《かま》を|抜《ぬ》かれた|様《やう》な|馬鹿《ばか》らしい、|悲惨《みじめ》な|目《め》に|遭《あ》はされ|給《たま》ふのだから、|余程《よほど》|警戒《けいかい》を|厳重《げんぢう》にせなくては|国家《こくか》の|一大事《いちだいじ》だ。|此《この》|門《もん》|一《ひと》つが|危急《ききふ》|存亡《そんばう》の|分《わか》るる|所《ところ》だからなア』
|斯《か》かる|処《ところ》へ|馬《うま》、|鹿《しか》の|両人《りやうにん》、|潜《くぐ》り|戸《ど》をガラガラと|開《あ》けて|這入《はい》り|来《き》たり。
|熊彦《くまひこ》『ヤア、|門番《もんばん》の|吾々《われわれ》に|何《なん》の|応答《こたへ》もなく、|潜《くぐ》り|戸《ど》を|開《あ》けて|這入《はい》つて|来《く》るとは、|怪《け》しからぬぢやないか、サア|出《で》て|下《くだ》さい』
|馬公《うまこう》『ヤアこれは|誠《まこと》に|失礼《しつれい》を|致《いた》しました。|余《あま》り|森閑《しんかん》として|居《ゐ》たものですから、|貴方《あなた》|等《がた》が|厳《いかめ》しい|御装束《ごしやうぞく》をして|門《もん》を|守《まも》つて|御座《ござ》るとは|露《つゆ》|知《し》らず、|心急《こころせ》く|儘《まま》ついお|応答《こたへ》もせず|御無礼《ごぶれい》|致《いた》しました。|何卒《どうぞ》|此《この》|不都合《ふつがふ》は、|神直日《かむなほひ》|大直日《おほなほひ》に|見直《みなほ》し|聞直《ききなほ》し|下《くだ》さいまして|通過《つうくわ》させて|下《くだ》さいませ』
|熊彦《くまひこ》『|成《な》らぬと|云《い》つたら|絶対《ぜつたい》にならぬのだ。|事《こと》と|品《しな》によつたら|通《とほ》してやらぬ|事《こと》もないが、|貴様《きさま》に|限《かぎ》つて|通《とほ》す|事《こと》|出来《でき》ぬ|哩《わい》。|其《その》|理由《りいう》とする|処《ところ》は|今《いま》|貴様《きさま》が、|神直日《かむなほひ》|大直日《おほなほひ》に|見直《みなほ》し|聞《き》き|直《なほ》して|呉《く》れと|云《い》つたぢやないか。そんな|文句《もんく》を|称《とな》へる|者《もの》は、|此《この》|広《ひろ》い|世界《せかい》にウラナイ|教《けう》と|三五教《あななひけう》の|二派《には》あるのみだ。|併《しか》し|乍《なが》ら|貴様《きさま》はウラナイ|教《けう》の|人間《にんげん》ぢやない。てつきり|三五教《あななひけう》の|瓦落多《がらくた》だらう。|貴様《きさま》の|様《やう》な|奴《やつ》を|此《この》|館《やかた》へ|侵入《しんにふ》させ|様《やう》ものなら、それこそ|館《やかた》の|中《なか》は|忽《たちま》ちぢや、さうならば、|我々《われわれ》も|何々《なになに》に|何々《なになに》しられては|矢張《やつぱり》|忽《たちま》ちぢや。|忽《たちま》ち|変《かは》る|秋《あき》の|空《そら》、|冬《ふゆ》の|来《く》るのにブルブルと、|面《つら》の|皮《かは》|剥《は》ぎオツポリ|出《だ》されて、|七尺《しちしやく》の|男子《だんし》も|矢張《やつぱり》|忽《たちま》ちぢや』
|馬公《うまこう》『ヤアヤアそれは|誠《まこと》に|御親切《ごしんせつ》|有難《ありがた》う。|我々《われわれ》|三五教《あななひけう》の|馬《うま》、|鹿《しか》の|二人《ふたり》が|此処《ここ》へ|参《まゐ》る|事《こと》を、|流石《さすが》|明智《めいち》の|松姫《まつひめ》|様《さま》が|御存《ごぞん》じ|遊《あそ》ばして、|門番《もんばん》に|命《めい》じ|吾々《われわれ》を|歓迎《くわんげい》の|為《た》め|立待《たちま》ちさせて|置《お》かしやつたのだな。【たちまち】|開《ひら》く|心《こころ》の|門《もん》、|是《こ》れから|愈《いよいよ》|日《ひ》の|出《で》の|守護《しゆご》になるであらう、サア|鹿公《しかこう》、|御免《ごめん》を|蒙《かうむ》つて|奥《おく》へ|参《まゐ》りませうかい』
|熊彦《くまひこ》『|何《なん》だ、|怪《け》つ|体《たい》な、|馬《うま》だとか|鹿《しか》だとか、|道理《だうり》で|馬鹿《うましか》な|面付《つらつき》をして|居《ゐ》やがる|哩《わい》。コラコラ|此《この》|門《もん》は|善一筋《ぜんひとすぢ》、|誠《まこと》|一《ひと》つの|神様《かみさま》や|人間《にんげん》の|通行門《つうかうもん》だ。|四足《よつあし》の|通《とほ》るべき|処《ところ》ぢやない。トツトと|帰《かへ》らぬか』
|馬公《うまこう》『|如何《いか》にも|吾々《われわれ》の|名《な》は|馬《うま》、|鹿《しか》、|四足《よつあし》に|間違《まちが》ひありませぬが、|此《この》|御門《ごもん》を|御覧《ごらん》なさい、これも|矢張《やつぱり》|四足《よつあし》ぢやないか。それにお|前《まへ》の|名《な》も、|竜《たつ》とか|熊《くま》とか、|虎《とら》とか|云《い》うぢやないか。|矢張《やつぱり》|四足《よつあし》だらう。|四足門《よつあしもん》を、|四足《よつあし》が|守《まも》るとは、|余程《よほど》よいコントラストだ、アハヽヽヽ』
|虎彦《とらひこ》『トラ|何《なに》を|吐《ぬか》しやがるのだ。それ|程《ほど》コントラストが|望《のぞ》みなら、|貴様《きさま》の|薬鑵《やかん》を|此《この》|棍棒《こんぼう》でコントラストと|叩《たた》き|付《つ》けてやらうか』
と|云《い》ふより|早《はや》く|傍《かたはら》の|六尺棒《ろくしやくぼう》を|以《もつ》て、|馬《うま》、|鹿《しか》の|前頭部《ぜんとうぶ》を|二《ふた》つ|三《み》つ|撲《なぐ》り|付《つ》けた。
|鹿公《しかこう》『|随分《ずゐぶん》ウラナイ|教《けう》は、|手荒《てあら》い|事《こと》をなされますなア』
|虎彦《とらひこ》『|何《なに》、ウラナイ|教《けう》が|手荒《てあら》い|事《こと》をするのだ|無《な》い、|貴様《きさま》の|悪心《あくしん》が|此《この》|虎彦《とらひこ》をして、|貴様《きさま》を|打《う》たしめるのだ。|心《こころ》の|虎《とら》が|身《み》を|責《せ》めると|云《い》ふのは|此《この》|事《こと》だ。|名詮自性《めいせんじしやう》、|馬鹿《うましか》な|事《こと》を|云《い》つて|通過《つうくわ》を|懇望《こんもう》するものだからそれで|御註文《ごちゆうもん》|通《どほ》り、|棍棒《こんぼう》を|頂《いただ》かしてやつたのだ。|今後《こんご》は|謹《つつし》んで、|斯様《かやう》な|乱暴《らんばう》な|事《こと》を|致《いた》すでないぞよ。|馬《うま》、|鹿《しか》の|守護神《しゆごじん》、|勿体《もつたい》なくも、|虎彦《とらひこ》さんの|肉体《にくたい》を|使《つか》つて|馬鹿《うましか》にして【けつ】かる、アハヽヽヽ』
|馬公《うまこう》『|重々《ぢうぢう》|私《わたくし》が|悪《わる》う|御座《ござ》いました。|何卒《どうぞ》|御勘弁《ごかんべん》|下《くだ》さいませ』
|熊彦《くまひこ》『|悪《わる》いと|云《い》ふ|事《こと》が|分《わか》つたか。|悪《わる》かつたら|勘弁《かんべん》せい、と|云《い》つて、それで|勘弁《かんべん》が|出来《でき》ると|思《おも》ふか。|結構《けつこう》な|御神門《ごしんもん》を、|四足門《よつあしもん》だの、|吾々《われわれ》|三人《さんにん》を|四足《よつあし》だのと|失敬《しつけい》|千万《せんばん》な、|劫託《ごふたく》を|吐《ほざ》きやがつて、|何《なん》だ、|三五教《あななひけう》はそんな|無茶《むちや》な|身勝手《みがつて》な|理屈《りくつ》は|通《とほ》るか|知《し》らぬが、|誠一途《まこといちづ》のウラナイ|教《けう》ではそんな|屁理屈《へりくつ》は|通《とほ》らぬぞ』
|鹿公《しかこう》『イヤもう、|通《とほ》つても|通《とほ》らひでも|結構《けつこう》です、|吾々《われわれ》の|目的《もくてき》は|此《この》|門《もん》を|通《とほ》りさへすれば|宜《よ》いのだ。|黙《だま》つて|門《もん》を|開《あ》けたのは|誠《まこと》に|済《す》まないけれど、|諺《ことわざ》にも「|桃李《たうり》|物《もの》|云《い》はず」と|云《い》ふ|事《こと》がある。それだから、|物静《ものしづ》かに|敬虔《けいけん》の|態度《たいど》を|以《もつ》て|通行《つうかう》したのです』
|虎彦《とらひこ》『エヽツベコベと、よう|囀《さへづ》る|奴《やつ》だ。|愚図々々《ぐづぐづ》|吐《ぬか》すと、|鬼《おに》の|蕨《わらび》がお|見舞《みま》ひ|申《まを》すぞ』
と|骨《ほね》だらけの|握拳《にぎりこぶし》を|固《かた》めて、|鹿《しか》の|顔《かほ》を|二《ふた》つ|三《み》つガツンとやつた。
|鹿公《しかこう》『アイタヽヽ、|随分《ずゐぶん》|気張《きば》り|応《ごたへ》があります|哩《わい》』
|虎彦《とらひこ》『|定《きま》つた|事《こと》だ、|斯《こ》う|見《み》えても、|朝《あさ》から|晩《ばん》|迄《まで》、|剣術《けんじゆつ》に|柔術《じうじゆつ》で|鍛《きた》え|上《あ》げた|百段《ひやくだん》の|免状《めんじやう》|取《と》りだ。|全身《ぜんしん》|鉄《くろがね》を|以《もつ》て|固《かた》めた、|虎彦《とらひこ》さまの|鉄身《てつしん》、|鉄腸《てつちやう》、|槍《やり》でも|鉄砲《てつぱう》でも|持《も》つて|来《き》て、|撃《う》つなと、|突《つ》くなとやつて|見《み》よ。|鋼鉄艦《かうてつかん》にブトが|襲撃《しふげき》する|様《やう》なものだ、アハヽヽヽ』
と|得意《とくい》の|鼻《はな》を|蠢《うごめ》かし、|四角《しかく》な|肩《かた》を|不恰好《ぶかつかう》に|腰《こし》|迄《まで》|揺《ゆす》つて|嘲笑《てうせう》する。|馬公《うまこう》、|鹿公《しかこう》は|堪忍袋《かんにんぶくろ》の|緒《を》が|今《いま》やプツリと|切《きれ》かけた。エヽ|残念《ざんねん》だ、もう|此《この》|上《うへ》は|善《ぜん》も|悪《あく》もあつたものかい、|三人《さんにん》の|奴《やつ》を|片《かた》ツ|端《ぱし》から|打《うち》のめし、|三五教《あななひけう》の|腕力《わんりよく》を|見《み》せてやらうか。イヤイヤ、なる|勘忍《かんにん》は|誰《たれ》もする、ならぬ|堪忍《かんにん》するが|堪忍《かんにん》だ。|訳《わけ》の|分《わか》らぬ|下劣《げれつ》な|奴《やつ》を|相手《あひて》にしての|争《あらそ》ひは|自《みづか》ら|好《この》んで|人格《じんかく》を|失墜《しつつゐ》するのみならず、|延《ひ》いては、|大神様《おほかみさま》の|御心《みこころ》に|背《そむ》き、|三五教《あななひけう》の|名誉《めいよ》を|毀損《きそん》する|生死《せいし》の|境《さかひ》だ。|仮令《たとへ》|叩《たた》き|殺《ころ》されても|柔和《にうわ》と|誠《まこと》を|以《もつ》て、|彼等《かれら》|悪人《あくにん》を|心《こころ》の|底《そこ》より、|改心《かいしん》させるのが|吾々《われわれ》|信者《しんじや》の|第一《だいいち》の|務《つと》めだ。|国治立《くにはるたち》の|大神様《おほかみさま》や|素盞嗚大神《すさのをのおほかみ》|様《さま》の|御事《おんこと》を|思《おも》へば、これ|位《くらゐ》の|口惜《くやし》|残念《ざんねん》は|宵《よひ》の|口《くち》だ。|怒《いか》りに|乗《じやう》じ|手向《てむか》ひすれば、|一時《いちじ》の|胸《むね》は|治《をさ》まるだらうが、|叩《たた》かれた|者《もの》は、|安楽《あんらく》に|夜分《やぶん》も|寝《ね》られる、|叩《たた》いた|者《もの》は|夜分《やぶん》に|寝《ね》られぬといふ|事《こと》だ。|嗚呼《ああ》、|何事《なにごと》も|大慈《だいじ》|大悲《だいひ》の|大神様《おほかみさま》の|深遠《しんゑん》なる|恵《めぐみ》の|鞭《むち》だ。|吾々《われわれ》は|大神様《おほかみさま》の|試錬《しれん》を|受《う》けて|居《を》るのだ。|紫姫《むらさきひめ》|様《さま》のお|身《み》の|上《うへ》に|関《くわん》する|様《やう》な|失敗《しつぱい》を|演《えん》じては|済《す》まない。と、|馬《うま》、|鹿《しか》|両人《りやうにん》は|一度《いちど》に、|心中《しんちう》の|光明《くわうみやう》に|照《てら》されて、|嬉《うれ》し|涙《なみだ》をタラタラと|流《なが》し|大地《だいち》にカヂリ|付《つ》いて|神恩《しんおん》を|感謝《かんしや》して|居《を》る。
|虎彦《とらひこ》『オイ|馬《うま》、|鹿《しか》、どうだ、|往生《わうじやう》|致《いた》したか。|初《はじ》めの|高言《かうげん》に|似《に》ずメソメソと|泣面《なきづら》|掻《か》きやがつてチヨロ|臭《くさ》い。|女郎《めらう》の|腐《くさ》つた|様《やう》な|奴《やつ》だなア。|貴様《きさま》は|何時《いつ》の|間《ま》にか、|睾丸《きんたま》を|落《おと》して|来《き》やがつたのだらう。オイ|熊彦《くまひこ》、|貴様《きさま》は|馬《うま》の|睾丸《きんたま》を|検査《けんさ》するのだ。|俺《おれ》は|鹿《しか》の|睾丸《きんたま》を|実地《じつち》|検分《けんぶん》してやらう』
と|目《め》と|目《め》を|見合《みあは》せ|両人《りやうにん》の|尻《しり》を|引捲《ひきまく》り、|三《み》つ|四《よ》つ|臀部《でんぶ》を|叩《たた》き、
|虎彦《とらひこ》『ヤア|腰抜《こしぬ》けだと|思《おも》つたら、|矢張《やつぱり》|此奴《こいつ》の|体《からだ》は|女《をんな》に|出来《でき》て|居《ゐ》やがる。|骨盤《こつばん》が|非常《ひじやう》に|大《でか》いぞ。ヤア|長《なが》い|睾丸《きんたま》を|垂《た》らして|居《ゐ》やがる』
とギユツと|握《にぎ》り、|無理無体《むりむたい》に|後向《うしろむ》けに|引張《ひつぱ》つた。
|馬《うま》、|鹿《しか》|両人《りやうにん》は|睾丸《きんたま》を|引張《ひつぱ》られ|痛《いた》さに|堪《たま》らず、|後向《うしろむ》けにノタノタと|這《は》ひ|乍《なが》ら、|門《もん》の|外《そと》へ|引摺《ひきず》り|出《だ》された。
|熊彦《くまひこ》、|虎彦《とらひこ》|両人《りやうにん》は、|手早《てばや》く|門内《もんない》に|駆入《かけい》り、|潜《くぐ》り|戸《ど》の|錠前《ぢやうまへ》を|下《お》ろし、
|熊《くま》、|虎《とら》『アハヽヽヽ、|態《ざま》ア|見《み》やがれ、ノソノソとやつて|来《く》ると|又《また》こんなものだぞ。|早《はや》く|帰《かへ》つて|三五教《あななひけう》の|奴《やつ》に、|酷《えら》い|目《め》に|遭《あ》はされましたと|報告《はうこく》しやがれ』
|馬公《うまこう》『モシモシ、それは|余《あま》りで|御座《ござ》います。|開《あ》けて|下《くだ》さいと|無理《むり》に|申《まを》しませぬ、|何卒《どうぞ》、|馬《うま》、|鹿《しか》の|両人《りやうにん》が、|門《もん》の|外《そと》|迄《まで》|参《まゐ》りました、と|松姫《まつひめ》さまに|報告《はうこく》して|下《くだ》さいませ』
|虎彦《とらひこ》『|報告《はうこく》すると、せぬとは、|吾々《われわれ》の|自由《じいう》の|権利《けんり》だ。|犬《いぬ》の|遠吠《とほぼえ》の|様《やう》に、|見《み》つともない、|門《もん》の|外《そと》で、ワンワン|吐《ぬか》すな』
|鹿公《しかこう》『|左様《さやう》で|御座《ござ》いませうが、どうぞ、|何《なに》かのお|話《はなし》の|序《ついで》に、|一言《ひとこと》でも|宜《よろ》しいから、|仰有《おつしや》つて|下《くだ》さいませ』
|虎彦《とらひこ》(|大《おほ》きな|声《こゑ》で)『|喧《やかま》しう|云《い》ふない。|貴様《きさま》が|言《い》つて|呉《く》れなと|云《い》つたつて、|此《この》|手柄話《てがらばなし》を|黙《だま》つて|居《ゐ》る|馬鹿《ばか》が|何処《どこ》にあるかい。ウラナイ|教《けう》の|邪魔《じやま》|計《ばか》り|致《いた》す、|三五教《あななひけう》の|馬《うま》、|鹿《しか》の|両人《りやうにん》の|睾丸《きんたま》を|掴《つか》んで、|門外《もんぐわい》におつ|放《ぽ》り|出《だ》してやつたと|云《い》ふ、|古今独歩《ここんどつぽ》、|珍無類《ちんむるゐ》の|功名《こうみやう》|手柄《てがら》を|包《つつ》み|隠《かく》す|必要《ひつえう》があるか、|縁《えん》の|下《した》の|舞《まひ》は、|我々《われわれ》の|取《と》らざる|所《ところ》だ、|一時《いちじ》も|早《はや》く|帰《かへ》らぬか、|愚図々々《ぐづぐづ》|致《いた》して|居《を》ると、|薬鑵《やかん》に|熱湯《ねつたう》を|浴《あ》びせてやらうか。シーツ、シー、こん|畜生《ちくしやう》ツ、アハヽヽヽ。|是《こ》れで|俺《おれ》も|日頃《ひごろ》の|鬱憤《うつぷん》が|晴《は》れ、|溜飲《りういん》が|下《さが》つた。サアこれから、|松姫《まつひめ》|様《さま》に|申上《まをしあ》げて|喜《よろこ》んで|頂《いただ》かう、さうすれば|又《また》、|御褒美《ごほうび》に|御神酒《おみき》の|一升《いつしよう》もお|下《さ》げ|下《くだ》さるかも|知《し》れぬぞ、オホヽヽヽ』
|馬公《うまこう》『オイ|鹿公《しかこう》、|随分《ずゐぶん》|結構《けつこう》な|神様《かみさま》の|試錬《しれん》に|遭《あ》つたぢやないか。ようお|前《まへ》も|辛抱《しんばう》して|呉《く》れた。|俺《わし》は、お|前《まへ》が|短気《たんき》を|起《おこ》しはせぬかと|思《おも》つて、どれだけ|胸《むね》を|怯々《びくびく》さして|心配《しんぱい》したか|知《し》れなかつたよ。それでこそ|俺《おれ》の|親友《しんいう》だ、|有難《ありがた》い、|此《この》|通《とほ》りだ、|手《て》を|合《あは》して|拝《をが》むワ』
と|涙《なみだ》を|滝《たき》の|如《ごと》くに|流《なが》し|男泣《をとこな》きに|泣《な》き|沈《しづ》む。
|鹿公《しかこう》『そうだな、|本当《ほんたう》に|結構《けつこう》な|御神徳《おかげ》を|頂《いただ》いた。これで|俺達《おれたち》も、|余程《よほど》、|身魂《みたま》に|力《ちから》が|出来《でき》て|胴《どう》が|据《す》わつた。|身魂《みたま》に|千人力《せんにんりき》の|御神徳《ごしんとく》を|与《あた》へて|下《くだ》さつた。アヽ|神様《かみさま》、あなたの|深《ふか》き|広《ひろ》き|御恵《みめぐ》み、|身《み》に|浸《し》み|渡《わた》つて|有難《ありがた》う|感謝《かんしや》|致《いた》します』
と|嬉《うれ》し|涙《なみだ》に|掻《か》きくれる。
|馬公《うまこう》『オー|鹿公《しかこう》、よう|云《い》うて|呉《く》れた。|嬉《うれ》しい』
と、【しがみ】|付《つ》く。|鹿公《しかこう》も|亦《また》、|馬公《うまこう》の|体《からだ》に【しがみ】|付《つ》き、|互《たがひ》に|抱《いだ》き|合《あ》ひ、|忍《しの》び|泣《な》きに|泣《な》いて|居《を》る。
|秋《あき》の|名残《なご》りの|柿《かき》の|実《み》、|只《ただ》|二《ふた》つ、|冬枯《ふゆが》れの|梢《こずゑ》に|淋《さび》しげにブラ|下《さが》つて|居《ゐ》る。
|凩《こがらし》に|煽《あふ》られて、|烏《からす》の|雌雄連《めをとづ》れは|忽《たちま》ち|此《この》|柿《かき》の|木《き》に|羽《はね》を|休《やす》め、|悲《かな》しさうに|可愛《かあ》い|可愛《かあ》いと|啼《な》き|立《た》てる。
|嗚呼《ああ》|此《この》|結果《けつくわ》は、|如何《いかが》なるならむか。
(大正一一・五・八 旧四・一二 藤津久子録)
第一一章 |変態動物《へんたいどうぶつ》〔六五六〕
|書院造《しよゐんづく》りのこつてりとした、|余《あま》り|装飾《さうしよく》の|施《ほどこ》して|無《な》い|瀟洒《せうしや》たる|建物《たてもの》の|中《なか》に、|三十路《みそぢ》を|越《こ》えた|一人《ひとり》の|女《をんな》と、|二十《はたち》|前後《ぜんご》の|優《やさ》しい|女《をんな》、|桐《きり》の|丸火鉢《まるひばち》を|中《なか》に【ひそ】ひそと|何《なに》か|囁《ささや》き|話《ばなし》を|始《はじ》めて|居《ゐ》る。
お|節《せつ》『|松姫《まつひめ》|様《さま》、|春《はる》の|景色《けしき》も|宜敷《よろし》う|御座《ござ》いますが、かう|薄雪《うすゆき》の|溜《たま》つた|四方八方《よもやも》の|景色《けしき》、この|苔蒸《こけむ》した|庭《には》から|見渡《みわた》す|時《とき》の|美《うつく》しさは|又《また》|格別《かくべつ》で|御座《ござ》いますな。|満目《まんもく》|皆《みな》|銀《ぎん》の|蓆《むしろ》を|敷《し》き|詰《つ》めたやうに、それへ|日輪様《にちりんさま》の|御光《おひかり》が|宿《やど》つてきらきらと|反射《はんしや》して|居《ゐ》る|所《ところ》は|恰《まる》で|玉《たま》を|敷《し》き|詰《つ》めたやうですなア、|荒金《あらがね》の|土《つち》を|御守護《ごしゆご》|遊《あそ》ばす|神素盞嗚大神《かむすさのをのおほかみ》の|大御心《おほみこころ》は、|此《この》|景色《けしき》のやうに|一点《いつてん》の|塵《ちり》もなく|汚《けが》れもなく、|実《じつ》に|瑞々《みづみづ》しい|御霊《みたま》で|御座《ござ》いませう』
|松姫《まつひめ》『|左様《さやう》です、|此《この》|雪《ゆき》の|野辺《のべ》を|眺《なが》めますと、|妾《わらは》|達《たち》の|心《こころ》|迄《まで》、【すが】すがしうなつて|来《き》ます。|貴女《あなた》のお|国《くに》は|此《この》|辺《へん》とは|違《ちが》つて|雪《ゆき》も|深《ふか》く、|今頃《いまごろ》は|嘸《さぞ》|綺麗《きれい》な|事《こと》で|御座《ござ》いませう、|何事《なにごと》も|天地《てんち》の|合《あは》せ|鏡《かがみ》と|云《い》つて、|国魂《くにたま》の|清《きよ》い|所《ところ》は|又《また》それ|相当《さうたう》に|清《きよ》い|美《うつく》しい|景色《けしき》が|天地《てんち》|自然《しぜん》に|描《ゑが》き|出《だ》されるものです、|私《わたくし》も|一度《いちど》|比沼《ひぬ》の|真名井《まなゐ》の|珍《うづ》の|宝座《ほうざ》に|参拝《さんぱい》したいと|思《おも》つて|居《ゐ》ますが、|何分《なにぶん》|大任《たいにん》を|負《お》はされて|居《ゐ》ますので、|一日《いちにち》も|館《やかた》をあけて|置《お》く|訳《わけ》にもゆかず、|実《じつ》に|神様《かみさま》のお|道《みち》は|広《ひろ》いやうで、|窮屈《きうくつ》なもので|御座《ござ》います。お|節《せつ》さま、|貴女《あなた》はこの|夏《なつ》の|初《はじ》め、|魔窟ケ原《まくつがはら》の|黒姫《くろひめ》さまの|方《はう》へお|越《こ》しになつて|以来《いらい》、|俄《にはか》にお|心《こころ》|変《がは》りがして|三五教《あななひけう》へ|後戻《あともど》りをなさつたさうぢやが、|三五教《あななひけう》とウラナイ|教《けう》は|何《ど》う|違《ちが》ひますか』
お|節《せつ》『ハイ|誠《まこと》にお|恥《はづ》かしい|事《こと》で|御座《ござ》います、|心《こころ》にちつとも|根締《ねじ》めが|無《な》いものですから、|風《かぜ》のまにまに|弄《な》ぶられて、つい|彼方《あちら》|此方《こちら》と|迂路《うろ》つき|廻《まは》りました。|併《しか》し|乍《なが》ら|何方《どちら》の|教《をしへ》も|実《じつ》に|結構《けつこう》だと|思《おも》ひます、|神様《かみさま》は|元《もと》は|一株《ひとかぶ》、|三五教《あななひけう》だとかウラナイ|教《けう》だとか、|名称《めいしよう》は|分《わ》かれて|居《を》りますが、|尊敬《そんけい》する|誠《まこと》の|神様《かみさま》に|些《ち》つとも|変《かは》りはありませぬ、|唯《ただ》|教《をしへ》を|伝《つた》ふる|人々《ひとびと》の|解釈《かいしやく》に|浅深広狭《せんしんくわうけふ》の|別《べつ》があるのみです。|併《しか》し|乍《なが》ら|人間《にんげん》と|致《いた》しましては|何事《なにごと》も|神様《かみさま》にお|任《まか》せするより|仕方《しかた》がありませぬ、|此《この》|世《よ》をお|造《つく》り|遊《あそ》ばして|人民《じんみん》を|昼夜《ちうや》の|区別《くべつ》なくお|守《まも》り|下《くだ》さる|神様《かみさま》を|念《ねん》じさへすればよいのです、|教《をしへ》が|高遠《かうゑん》だとか、|浅薄《せんぱく》だとか|云《い》ふのは|人間《にんげん》の|解釈《かいしやく》の|如何《いかん》によるので、|神様《かみさま》|御自身《ごじしん》に|対《たい》しては|何《なん》の|関係《くわんけい》も|無《な》からうと|思《おも》ひます』
|松姫《まつひめ》『|其《その》お|考《かんが》へなれば|何故《なぜ》ウラナイ|教《けう》へお|出《い》でになりましたか、|貴女《あなた》の|御主人《ごしゆじん》はいまだに|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》を|勤《つと》めて|居《を》られるのではありませぬか。「|二世《にせ》|契《ちぎ》る|夫婦《めをと》の|中《なか》も|踏《ふ》みてゆく|道《みち》し|違《ちが》へば|憎《にく》み|争《あらそ》ふ」と|云《い》ふ|道歌《だうか》がありましたねエ、|夫《をつと》は|東《ひがし》へ|妻《つま》は|西《にし》へと|云《い》ふやうな|信仰《しんかう》のやり|方《かた》はちと|考《かんが》へものですよ、|信仰《しんかう》の|道《みち》を|異《こと》にする|時《とき》は|屹度《きつと》|家内《かない》は|治《をさ》まりますまい、|夫唱婦従《ふしやうふじゆう》と|云《い》うて|女《をんな》は|夫《をつと》に|従《したが》ふべきものたる|以上《いじやう》、|青彦《あをひこ》さまの|奉《ほう》じ|給《たま》ふ|三五教《あななひけう》を|信奉《しんぽう》なさつた|方《はう》が、|御家庭《ごかてい》の|為《た》めよいぢやありませぬか、|但《ただし》|青彦《あをひこ》さまを|貴女《あなた》の|奉《ほう》ずるウラナイ|教《けう》へ|帰順《きじゆん》させるとか、どちらか|一《ひと》つの|道《みち》にお|定《き》めなさつたらどうでせう』
お|節《せつ》『|実《じつ》の|所《ところ》は|私《わたくし》がこれへ|参《まゐ》りましたのは、|貴女《あなた》に|聞《き》いて|貰《もら》ひ|度《た》い|事《こと》があるからで|御座《ござ》います、|貴女《あなた》は|三五教《あななひけう》のどの|点《てん》が|悪《わる》いと|思召《おぼしめ》すか』
|松姫《まつひめ》『|別《べつ》に|私《わたくし》としては|彼是《かれこれ》|申上《まをしあ》げるだけの|権利《けんり》も|知識《ちしき》もありませぬ。|併《しか》し|乍《なが》ら|今《いま》の|三五教《あななひけう》は|変性女子《へんじやうによし》の|御霊《みたま》が|混入《こんにふ》して、|変性男子《へんじやうなんし》の|教《をしへ》にない|種々《しゆじゆ》のものが|輸入《ゆにふ》されて|居《を》りますから、|此《この》|儘《まま》にして|置《お》けば|折角《せつかく》の|男子《なんし》の|御苦労《ごくらう》も|水《みづ》の|泡《あわ》になつて、|天下《てんか》|国家《こくか》の|為《ため》に|由々敷《ゆゆしき》|一大事《いちだいじ》と、|男子《なんし》の|系統《ひつぽう》の|高姫《たかひめ》さまが|御心配《ごしんぱい》|遊《あそ》ばし、|止《や》むを|得《え》ずウラナイ|教《けう》をお|立《た》てなさつたのですから、ならう|事《こと》なら|三五教《あななひけう》の|方々《かたがた》も|一《ひと》つ|考《かんが》へ|直《なほ》して|頂《いただ》いて、|本当《ほんたう》の|教《をしへ》を|立《た》てて|貰《もら》ひ|度《た》いものです』
お|節《せつ》『|変性女子《へんじやうによし》の|御霊《みたま》の|素盞嗚尊《すさのをのみこと》|様《さま》の|教《をしへ》はお|気《き》に|入《い》らぬのですか』
|松姫《まつひめ》『|何《なん》だか|虫《むし》が|好《す》きませぬ、どこかに|物足《ものた》らぬ|所《ところ》があるやうで|御座《ござ》います、|合縁奇縁《あひえんきえん》と|云《い》うて|信仰《しんかう》の|道《みち》にも|向《むき》、|不向《ふむき》がありましてな』
お|節《せつ》『さう|致《いた》しますと|貴女《あなた》は|此《この》|頃《ごろ》の|高姫《たかひめ》|様《さま》や、|黒姫《くろひめ》|様《さま》の|御意中《ごいちう》はお|分《わか》りになつて|居《ゐ》ないのですか』
|松姫《まつひめ》『イヤ、うすうす|承知《しようち》|致《いた》して|居《を》ります、|何《ど》うかするとお|二人様《ふたりさま》は|怪《あや》しくなつて|来《き》ました、やがて|三五教《あななひけう》へお|帰《かへ》りになるのでせう、|併《しか》し|乍《なが》ら|私《わたくし》としては、さうくれくれと|掌《てのひら》|返《かへ》したやうに|軽々《かるがる》しく、|吾《わが》|精神《せいしん》を|玩弄物《おもちや》にする|事《こと》は|出来《でき》ませぬ』
お|節《せつ》『さうすると|貴女《あなた》の|師匠《ししやう》と|仰《あふ》ぐ|高姫《たかひめ》|様《さま》や、|黒姫《くろひめ》|様《さま》の|御命令《ごめいれい》でもお|聞《き》きなさらぬお|考《かんが》へですか』
|松姫《まつひめ》『|仮令《たとへ》|高姫《たかひめ》さまが|顛覆《てんぷく》なされても、|私《わたくし》は|最後《さいご》の|一人《ひとり》になる|所《ところ》|迄《まで》ウラナイ|教《けう》を|立《た》てて|行《ゆ》きます。|師匠《ししやう》も|大切《たいせつ》だがお|道《みち》も|大切《たいせつ》です、お|道《みち》が|大事《だいじ》か、|師匠《ししやう》が|大切《たいせつ》か、よく|考《かんが》へて|御覧《ごらん》なさい、それだと|申《まを》して|師匠《ししやう》に|背《そむ》くと|云《い》ふ|心《こころ》は|露《つゆ》|程《ほど》も|持《も》ちませぬが、|止《や》むを|得《え》ない|場合《ばあひ》には|矢張《やつぱり》|本末《ほんまつ》|自他《じた》|公私《こうし》の|区別《くべつ》を|明《あきら》かにするため、ウラナイ|教《けう》の|孤城《こじやう》を|死守《ししゆ》する|考《かんが》へで|御座《ござ》います』
お|節《せつ》『さう|聞《き》きますと|貴女《あなた》は|何処迄《どこまで》もお|固《かた》いのですなア』
|松姫《まつひめ》『|岩《いは》にさへも|姫松《ひめまつ》の|生《は》える|例《ためし》がある。|一心《いつしん》の|誠《まこと》は|岩《いは》でも|射貫《いぬ》くと|云《い》ひます。|私《わたくし》の|鉄石心《てつせきしん》は|如何《いか》なる|砲火《はうくわ》も|威力《ゐりよく》も|動《うご》かす|事《こと》は|出来《でき》ますまい、これが|私《わたくし》の|唯一《ゆゐいつ》の|生命《せいめい》ですから|誰《たれ》が|何《なん》と|云《い》つても【ビク】とも|致《いた》しませぬよ。|槍《やり》でも|鉄砲《てつぱう》でも|梃子《てこ》でも|棒《ぼう》でも、いつかな いつかな|動《うご》くやうな|脆弱《ぜいじやく》な|御魂《みたま》ぢやありませぬ、そんな|動揺《ぐらぐら》するやうな|信仰《しんかう》なら|初《はじ》めからしない|方《はう》がよろしい、お|節《せつ》さまが|私《わたくし》に|対《たい》して|何程《なにほど》|婉曲《ゑんきよく》に|熱心《ねつしん》にお|勧《すす》め|下《くだ》さつても|駄目《だめ》ですから、|何卒《どうぞ》|是《これ》|限《かぎ》り|御親切《ごしんせつ》は|有難《ありがた》う|受《う》けますが、もう|云《い》つて|下《くだ》さいますな。|人《ひと》は|柔順《じうじゆん》と|忍耐《にんたい》と|誠《まこと》さへ|徹底的《てつていてき》に|守《まも》つて|居《を》れば|神様《かみさま》は|守《まも》つて|下《くだ》さいます。|教派《けうは》の|如何《いかん》にかかはるものぢやありませぬ』
|斯《か》く|二人《ふたり》の|話《はな》す|折《をり》しも、|慌《あわ》ただしく|駆《か》け|来《きた》る|門番《もんばん》の|熊彦《くまひこ》、|虎彦《とらひこ》|二人《ふたり》、
|熊《くま》、|虎《とら》『|松姫《まつひめ》|様《さま》に|申上《まをしあ》げます、|只今《ただいま》|大変《たいへん》な|事《こと》が|出来《しゆつたい》|致《いた》しました、それはそれは、|小気味《こきみ》よい|大勝利《だいしようり》です、|何卒《どうぞ》お|喜《よろこ》び|下《くだ》さいませ』
|松姫《まつひめ》『オヽお|前《まへ》は|熊公《くまこう》と|虎公《とらこう》さま、エライ|血相《けつさう》をして|慌《あわた》だしく|何事《なにごと》ですか』
|虎彦《とらひこ》『|貴方《あなた》も|御存《ごぞん》じの|通《とほ》り、ウラナイ|教《けう》の|目《め》の|上《うへ》の|瘤仇敵《こぶがたき》、|素盞嗚尊《すさのをのみこと》の|悪神《あくがみ》の|教《をしへ》を|奉《ほう》ずる|三五教《あななひけう》の|木端武者《こつぱむしや》、|馬《うま》、|鹿《しか》と|云《い》ふ|馬鹿面《ばかづら》した|二人《ふたり》の|奴《やつ》がやつて|来《き》まして、|御免《ごめん》とも|何《なん》とも|云《い》はず、|潜《くぐ》り|門《もん》を|開《ひら》き、|吾々《われわれ》の|門番《もんばん》に|無断《むだん》で、【すつ】と|奥《おく》へ|通《とほ》らうと|致《いた》します。|貴女《あなた》が|今迄《いままで》|仰有《おつしや》つたでせう、|三五教《あななひけう》の|連中《れんちう》が|来《き》たら、|一人《ひとり》たりとも|通《とほ》してはならぬ、|追払《おつぱら》へとの|仰《あふ》せ、|又《また》|魔窟ケ原《まくつがはら》の|黒姫《くろひめ》さまのやうな|馬鹿《ばか》な|目《め》に|遭《あ》つてはならないからと|仰有《おつしや》つたのを、|我々《われわれ》は|其《その》お|言葉《ことば》を|夢寐《むび》にも|忘《わす》れず、|今日《けふ》|迄《まで》よく|守《まも》り、|表門《おもてもん》を|厳重《げんぢう》に|固《かた》めて|居《を》りました。|其所《そこ》へヌクヌクとやつて|来《き》て、|門《もん》が|四足《よつあし》だの、|吾々《われわれ》を|四足身魂《よつあしみたま》だのと|嘲弄《てうろう》するものですから、エイ|猪口才《ちよこざい》な、|礼儀《れいぎ》を|知《し》らぬ|畜生《ちくしやう》め、|畜生《ちくしやう》なら|畜生《ちくしやう》|相当《さうたう》の|制《せい》|裁《さい》を|加《くは》へてやらうと|云《い》うて、|吾々《われわれ》|両人《りやうにん》が|六尺棒《ろくしやくぼう》を|以《もつ》て|頭《あたま》を|三《み》つ|四《よ》つガンとやつた|処《ところ》、|口《くち》|程《ほど》にもない|腰抜《こしぬ》け|野郎《やらう》、|荒肝《あらぎも》を|摧《ひし》がれ、|大地《だいち》に|蛙踞《かへるつくばひ》になりめそめそと|吠面《ほえづら》かわいて|居《ゐ》る、エヽ|此《この》|尊《たふと》い|神門《しんもん》を|無断《むだん》で|通《とほ》り、|剰《あま》つさへ|門《もん》の|様《さま》が|四足《よつあし》だのと|吐《ほざ》いた|上《うへ》、|涙《なみだ》を|大地《だいち》に|零《こぼ》して|霊場《れいぢやう》を|汚《けが》しよつたので、つい|勇猛心《ゆうまうしん》を|発揮《はつき》して|断行《だんかう》しました』
|松姫《まつひめ》『それは|乱暴《らんばう》な|事《こと》をなさつたものだ、|誰《たれ》がそんな|事《こと》をせいと|云《い》ひましたか、これ|熊公《くまこう》、|真実《ほんと》にお|前達《まへたち》、|虎公《とらこう》の|云《い》ふやうな|事《こと》をしたのかい』
|熊彦《くまひこ》『ヘエヘエ、そんな|事《こと》|処《どころ》ですか、|余《あま》り|業腹《ごふばら》が|立《た》つので|尻《しり》をひん|捲《ま》くり、|虎公《とらこう》と|二人《ふたり》、|両人《りやうにん》の|臀部《でんぶ》をエヽこの|柔道《じうだう》|百段《ひやくだん》の|腕拳《うでこぶし》を|固《かた》めて、|青《あを》くなる|所《ところ》まで|叩《たた》いてやりました、|其《その》|時《とき》の|態《ざま》つたら|実《じつ》に|滑稽《こつけい》でしたよ』
|松姫《まつひめ》『|其《その》お|二人《ふたり》の|方《かた》は|何《ど》うなつたのかい』
|熊彦《くまひこ》『ヘエ、|其《その》|二人《ふたり》ですか、イヤ|二匹《にひき》の|畜生《ちくしやう》ですか、|門《もん》の|外《そと》へ|追放《おつぽ》り|出《だ》され、めそめそと|女《をんな》の|腐《くさ》つたやうに|抱《だ》きついて|愁歎場《しうたんば》の|一幕《ひとまく》を|演《えん》じて|居《ゐ》ました。|戸《と》の|節穴《ふしあな》より|覗《のぞ》いて|見《み》ましたら|実《じつ》に|憐《あは》れなものでした、イヤ|気味《きみ》のよい、|溜飲《りういん》が|下《さ》がるやうでした。アヽ|大変《たいへん》に|骨《ほね》を|折《を》つてウラナイ|教《けう》の|爆裂弾《ばくれつだん》を|未発《みはつ》に|防《ふせ》ぎ|得《え》たのは、|全《まつた》く|大神様《おほかみさま》の|広大無辺《くわうだいむへん》の|御神力《ごしんりき》は|申《まを》すに|及《およ》ばず、|吾々《われわれ》|両人《りやうにん》が|愛教《あいけう》の|大精神《だいせいしん》の|発露《はつろ》で|御座《ござ》います、|何卒《どうぞ》|何分《なにぶん》の|何々《なになに》を|何々《なになに》して|下《くだ》さいますれば|吾々《われわれ》は|益々《ますます》|神恩《しんおん》を|忝《かたじ》けなみ、|層一層《そういつそう》に|厳格《げんかく》に|御用《ごよう》を|務《つと》めます』
|松姫《まつひめ》『|竜若《たつわか》の|受付《うけつけ》は|黙《だま》つて|見《み》て|居《ゐ》たのかい』
|熊公《くまこう》『|指揮《しき》をなさつたでもなく、なさらぬでもなし、|悪《わる》く|云《い》へば|瓢鯰式《へうねんしき》ですな、|併《しか》し|乍《なが》ら|吾々《われわれ》に|対《たい》し|一部《いちぶ》の|声援《せいゑん》を|与《あた》へて|呉《く》れましたから、|其《その》|功績《こうせき》は|矢張《やつぱり》|等分《とうぶん》と|見《み》て|差支《さしつかへ》|無《な》からうと|思《おも》ひます、ヘエヘエいやもうエライ|活動《くわつどう》|致《いた》しました』
|松姫《まつひめ》、|膝《ひざ》に|手《て》を|置《お》き、|俯《うつ》むいて|何事《なにごと》か|考《かんが》へて|居《を》る。
お|節《せつ》『|熊公《くまこう》、|虎公《とらこう》、|今《いま》|承《うけたま》はれば|三五教《あななひけう》の|馬公《うまこう》に|鹿公《しかこう》が|見《み》えたやうですが、|真実《ほんと》に|其《その》|様《やう》な|手荒《てあら》い|事《こと》をなされましたのか、ウラナイ|教《けう》は|時々《ときどき》|乱暴《らんばう》な|事《こと》をする|人《ひと》が|現《あら》はれますな、|決《けつ》して|大神様《おほかみさま》はお|喜《よろこ》びなされますまい』
|虎彦《とらひこ》『オイお|節《せつ》、|何《なに》を|吐《ぬか》しやがるのだ、|貴様《きさま》は|猫《ねこ》|見《み》たやうな|奴《やつ》だ、|甘《うま》く|口先《くちさき》で|松姫《まつひめ》|様《さま》をチヨロマカしよつて、|其《その》|上《うへ》に|馬《うま》、|鹿《しか》の|畜生《ちくしやう》と|内外《ないぐわい》|相応《あひおう》じ、|此《この》|館《やかた》を|根底《こんてい》から|顛覆《てんぷく》させようと|仕組《しぐ》んで|居《を》るのだらう、そんな|事《こと》は|貴様《きさま》が|来《き》た|時《とき》からチヤンと|看破《かんぱ》して|居《を》るのだ、|貴様《きさま》も|序《ついで》に|睾丸《きんたま》を|握《にぎ》つて|門外《もんぐわい》へ|追放《おつぽ》り|出《だ》してやらうか』
|熊彦《くまひこ》『アハヽヽヽ|女《をんな》の|睾丸《きんたま》とは|今《いま》が|聞《き》き|初《はじ》めだ、そりや|虎公《とらこう》|貴様《きさま》|肝玉《きもだま》の|間違《まちが》ひだないか』
|虎彦《とらひこ》『ちつと|位《くらゐ》|違《ちが》つたつて、ゴテゴテ|云《い》ふな、|睾《きん》の【ん】と|肝《きも》の【も】だけの|間違《まちが》ひだ、|元来《ぐわんらい》が|【門】《もん》から|起《おこ》つた【もん】|題《だい》だから、|肝《きも》の【も】を|睾《きん》の【ん】の|言霊《ことたま》に|詔《の》り|直《なほ》したのだ。それだからお|節《せつ》の|守護神《しゆごじん》は|俺《おれ》がいつも、【きんもう】|九尾《きうび》の|悪神《わるがみ》と|云《い》うたぢやないか、アハヽヽヽ』
|松姫《まつひめ》『コレ|虎公《とらこう》|熊公《くまこう》、|馬公《うまこう》|鹿公《しかこう》とやらによくお|詫《わび》をして|私《わたし》の|居間《ゐま》へお|迎《むか》へ|申《まを》して|来《く》るのだよ、|本当《ほんたう》に|仕方《しかた》のない|男《をとこ》だなア』
|虎彦《とらひこ》『ヘエ、|何《なん》と|仰有《おつしや》います、あの|様《やう》な|爆裂弾《ばくれつだん》を|連《つ》れて|来《こ》いと|仰有《おつしや》るのですか、|貴女《あなた》も|此《この》|頃《ごろ》はちつと|変《へん》だと|思《おも》うて|居《ゐ》ましたが、|矢張《やつぱり》|脱線《だつせん》しとりますなア』
|松姫《まつひめ》『ごてごて|云《い》はいでも|宜敷《よろし》い、|迎《むか》へてお|出《い》でなさいと|云《い》うたら|迎《むか》へてお|出《いで》なさい。|熊公《くまこう》も|一緒《いつしよ》に|行《ゆ》くのだよ』
|両人《りやうにん》は『ヘエ』と|嫌《いや》さうな|返事《へんじ》を|此《この》|場《ば》に|投《な》げ|捨《す》て|力《ちから》|無《な》げに|表門《おもてもん》にやつて|来《き》た。
|竜若《たつわか》『オイ|両人《りやうにん》、ちつと|貴様《きさま》|顔色《かほいろ》が|変《へん》だないか、|一体《いつたい》どうしたのだい』
|虎彦《とらひこ》『|何《ど》うしたも|斯《か》うしたもあつた【もん】かい、|門《もん》から|大《だい》【もん】|題《だい》が|起《おこ》つて|我々《われわれ》は|煩《はん》【もん】|苦悩《くなう》の|真最中《まつさいちう》だ。|本当《ほんたう》に|馬鹿《ばか》な|目《め》に|遭《あ》つて|来《き》たよ』
|熊彦《くまひこ》『|摺《す》つた、【もん】だと【もん】|着《ちやく》の|結果《けつくわ》この|熊公《くまこう》も|今日《けふ》は【もん】もんの|情《じやう》に|堪《た》へ|難《がた》しだ』
|竜若《たつわか》『|貴様《きさま》の|出方《でかた》が|悪《わる》いから、|打《う》ち|返《かへ》しを|喰《くら》つたのだよ』
|熊彦《くまひこ》『|何《なに》、|出方《でかた》は|至極《しごく》|完全無欠《くわんぜんむけつ》|寸毫《すんがう》も|欠点《けつてん》なしだが、|何《なに》を|云《い》うてもお|節《せつ》の|奴《やつ》、|間《ま》がな|隙《すき》がな|松姫《まつひめ》を|籠絡《ろうらく》しきつて|居《ゐ》やがるものだから、|松姫《まつひめ》さまの|性格《せいかく》は【ガラリ】と|一変《いつぺん》し、いつもなら、|比丘尼《びくに》に|何《なに》やらを|見《み》せたやうに|飛《と》びついて|悦《よろこ》ぶのだけれど、どんな|結構《けつこう》な|報告《はうこく》をしても【ビク】ともしやがらぬのだ。|俺《おれ》やもうお|節《せつ》の|面《つら》を|見《み》ても|腹《はら》が|立《た》つのだ。エヽ|怪体《けつたい》の|悪《わる》い、ケツ、ケヽケ|怪体《けつたい》が|悪《わる》くて|腸《はらわた》が【でんぐり】|返《がへ》る|哩《わい》、それにまだまだ|業《ごう》の|沸《わ》くのは、|折角《せつかく》|追放《おつぽ》り|出《だ》した|馬《うま》、|鹿《しか》の|両人《りやうにん》を|此処《ここ》へ|丁寧《ていねい》にお|迎《むか》へ|申《まを》せと|吐《ぬか》しやがるのだもの、|薩張《さつぱり》お|話《はなし》にならないのだ』
|虎彦《とらひこ》『|余《あま》り【てれ】|臭《くさ》いから、|両人《りやうにん》は|疾《とつ》くの|昔《むかし》に|逃《に》げ|帰《かへ》りやがつて、|其辺《そこら》に|居《ゐ》なかつたと|報告《はうこく》して|置《お》かうかい』
|竜若《たつわか》『そんな|事《こと》を|云《い》つた|処《ところ》で、|云《い》ひ|出《だ》したら|後《あと》へ|引《ひ》かぬ|片意地《かたいぢ》な|松姫《まつひめ》の|大将《たいしやう》だ、|仮令《たとへ》|百里《ひやくり》でも|千里《せんり》でも|跡《あと》|追《お》つかけて|馬《うま》、|鹿《しか》の|二人《ふたり》を|此処《ここ》へ|連《つ》れて|来《こ》いと|頑張《ぐわんば》つて、|大《おほ》きな|雷《かみなり》でも|落《おと》しよつたらどうする、|屹度《きつと》さうお|出《いで》になるに|定《きま》つて|居《ゐ》るよ、|虎《とら》、|熊《くま》の|両人《りやうにん》が|乱暴《らんばう》したのだから|貴様《きさま》は|当《たう》の|責任者《せきにんしや》だ、|七重《ななへ》の|膝《ひざ》を|八重《やへ》に|折《を》つて、お|二人《ふたり》さま、|何《なん》と|仰有《おつしや》つてもお|頼《たの》み|申《まを》して、お|迎《むか》へ|申《まを》して|御大将《おんたいしやう》のお|目《め》|通《どほ》りへ|実検《じつけん》に|供《そな》へ|奉《たてまつ》るのだよ』
|虎彦《とらひこ》『さうだと|云《い》うて、まさかそんな|阿呆《あはう》げた|事《こと》が|七尺《しちしやく》の|男子《だんし》として|出来《でき》るものかい』
|竜若《たつわか》『オイ、|虎《とら》、|熊《くま》の|両人《りやうにん》、|上官《じやうくわん》の|命令《めいれい》に|服従《ふくじゆう》せぬか』
|虎彦《とらひこ》『ヘン、|一寸《ちよつと》、|上役風《うはやくかぜ》を|吹《ふ》かし|遊《あそ》ばす|哩《わい》、|併《しか》し|乍《なが》ら|今度《こんど》の|事件《じけん》は|上官《じやうくわん》の|責任《せきにん》だからさう|思《おも》ひなさい、|我々《われわれ》は|唯《ただ》|上官《じやうくわん》の|目色《めいろ》を|見《み》てやつただけのものだ、|万々一《まんまんいち》|吾々《われわれ》の|行動《かうどう》に|対《たい》し、|不都合《ふつがふ》の|点《てん》ありとみた|時《とき》は、|上官《じやうくわん》の|職権《しよくけん》を|以《もつ》て、|制止《せいし》せなくてはならぬ|筈《はず》だ』
|竜若《たつわか》『その|責任《せきにん》はどこ|迄《まで》も|此《この》|方《はう》が|背負《せお》ふのは|当然《たうぜん》だ、ゴタゴタ|云《い》はずに|早《はや》く|謝罪《あやま》つて|来《こ》い』
|熊彦《くまひこ》『オイ|虎公《とらこう》、|仕方《しかた》がないなア』
と|不承無精《ふしやうぶしやう》に|潜《くぐ》り|門《もん》を|開《ひら》き、|門外《もんぐわい》を【キヨロ】キヨロと|見廻《みまは》して|居《を》る。|遥《はるか》|向《むか》ふの|森蔭《もりかげ》に|馬《うま》、|鹿《しか》の|両人《りやうにん》を|始《はじ》め、|立派《りつぱ》な|女神《めがみ》が|二柱《ふたり》|立《た》つて|居《ゐ》る。
|虎彦《とらひこ》『オイ|熊公《くまこう》、|何時《いつ》の|間《ま》にか【なめくじり】のやうにあんな|所《ところ》|迄《まで》|這《は》つて|往《ゆ》きやがつたぢやないか、エヽ|厄介《やくかい》の|事《こと》が|起《おこ》つたものぢや、|何《ど》うしようかなア』
|熊彦《くまひこ》『|何《ど》うしようも|斯《か》うしようもあつたものぢやない、|謝罪《あやま》つてお|迎《むか》へするより|仕方《しかた》がないワ』
|虎彦《とらひこ》『それだと|云《い》うてあんな|綺麗《きれい》な|美人《びじん》が|二人《ふたり》も|傍《そば》に|立《た》つて|居《を》るぢやないか、|睾丸《きんたま》を|提《さ》げた|男《をとこ》が、あんな|綺麗《きれい》な|美人《びじん》の|傍《そば》で|謝罪《あやま》るなんて|男《をとこ》の|顔《かほ》が|全潰《まるつぶ》れだ、|困《こま》つた|事《こと》だなア』
|熊彦《くまひこ》『エヽ、|身《み》から|出《で》た|錆《さび》、|誰人《だれ》に|聞《き》いて|貰《もら》ふ|訳《わけ》にも|行《ゆ》かず、|恥《はぢ》を|忍《しの》んで|参《まゐ》りませう、サア|虎彦《とらひこ》、|俺《おれ》に|従《つ》いて|来《く》るのだよ』
|虎彦《とらひこ》『|本当《ほんたう》に|土竜《むぐらもち》になり|度《た》いワ、せめて|貴様《きさま》の|後《あと》から|俺《おれ》の|姿《すがた》を|隠《かく》して|往《い》かうかなア、さうぢやと|云《い》うて|貴様《きさま》より|俺《おれ》の|方《はう》が|背《せ》が|高《たか》いから|肝腎《かんじん》の|顔《かほ》の|方《はう》が|見《み》えるなり、|困《こま》つた|事《こと》だ』
|熊彦《くまひこ》『|何《いづ》れ|面《つら》を|晒《さ》らされるのだ、|併《しか》し|一時凌《いちじしの》ぎに|俺《おれ》の|後《あと》から、|腰《こし》を|屈《かが》めて|出《で》て|来《く》るか、|邪魔臭《じやまくさ》ければ|四《よ》つ|這《ばひ》になつて|従《つ》いて|来《こ》い、さうすれば|暫《しばら》くなりと|助《たす》かるだらう』
|虎彦《とらひこ》は|熊彦《くまひこ》の|後《あと》から|這《は》はぬ|許《ばか》りに|屁《へ》つぴり|腰《ごし》をしながら|従《つ》いて|往《ゆ》く。
|熊彦《くまひこ》『モシモシ|馬公《うまこう》に|鹿公《しかこう》、|先刻《せんこく》は|誠《まこと》に|御無礼《ごぶれい》な|事《こと》を|致《いた》しまして、|何《なん》とも|顔《かほ》の|合《あは》しやうがありませぬ、|松姫《まつひめ》|様《さま》の|御命令《ごめいれい》で|面《めん》を|被《かぶ》つて|参《まゐ》りました』
|馬公《うまこう》『ハイ、|有難《ありがた》う、|吾々《われわれ》のやうな|無礼者《ぶれいもの》に、|左様《さやう》な|鄭重《ていちよう》な|言葉《ことば》をお|使《つか》ひ|下《くだ》さつては|畏《おそ》れ|入《い》ります、|貴方《あなた》の|背後《うしろ》に|従《つ》いて|来《き》た|影《かげ》はなんで|御座《ござ》いますか』
|熊彦《くまひこ》『これは|私《わたくし》の|影法師《かげぼうし》で|御座《ござ》います』
|馬公《うまこう》『お|日様《ひさま》が|西《にし》に|輝《かがや》いて|御座《ござ》るのに、この|影法師《かげぼうし》は|南《みなみ》の|方《はう》へさして|居《ゐ》ますなア』
|熊彦《くまひこ》『|此奴《こいつ》ア|高城山《たかしろやま》で|生擒《いけど》つた|虎《とら》で|御座《ござ》います』
|虎彦《とらひこ》『オイ|熊彦《くまひこ》、|余《あま》り|人《ひと》を|馬鹿《ばか》|扱《あつか》ひにするものぢやないぞ、モシモシ|今《いま》|囀《さへづ》つて|居《を》る|奴《やつ》は、|人間《にんげん》に|見《み》えても|此奴《こいつ》は|矢張《やつぱり》|四足《よつあし》の|熊《くま》で|御座《ござ》います』
|熊彦《くまひこ》『エヽいらぬ|事《こと》を|云《い》ふものぢやない|哩《わい》、モシモシ|馬公《うまこう》に|鹿公《しかこう》さん、|私《わたくし》は|良心《りやうしん》に|責《せめ》られて|貴方《あなた》の|前《まへ》へ|出《で》て|来《く》るだけの|勇気《ゆうき》がありませぬ、お|詫《わび》のために|恥《はぢ》を|忍《しの》んで|四足《よつあし》になつて|参《まゐ》りました、|何卒《どうぞ》、|神直日《かむなほひ》、|大直日《おほなほひ》に|見直《みなほ》し|聞《き》き|直《なほ》して|下《くだ》さいまして|御機嫌《ごきげん》を|直《なほ》し、|奥《おく》へお|通《とほ》り|下《くだ》さいませ、|松姫《まつひめ》|様《さま》に|大変《たいへん》なお|目玉《めだま》を|頂戴《ちやうだい》|致《いた》しました。|三五教《あななひけう》のお|節《せつ》さまも|待《ま》つて|居《ゐ》なさいます、|貴方等《あなたがた》がお|出《い》で|下《くだ》さらねば|私《わたくし》|達《たち》は|今日《けふ》|限《かぎ》り|鼻《はな》の|下《した》が|干上《ひあ》つがて|仕舞《しま》ひます。|何卒《どうぞ》、|虎《とら》|一匹《いつぴき》、|熊《くま》|一匹《いつぴき》|助《たす》けると|思《おも》うてお|這入《はい》り|下《くだ》さいませ』
|馬公《うまこう》『ハイ、|有難《ありがた》う、|何卒《なにとぞ》|宜敷《よろし》うお|願《ねが》ひ|致《いた》します』
|鹿公《しかこう》『|御丁寧《ごていねい》なお|迎《むか》ひ|有難《ありがた》う|感謝《かんしや》|致《いた》します』
|熊公《くまこう》は|馬《うま》、|鹿《しか》の|頭部《とうぶ》に|目《め》を|注《そそ》ぎ、
『ヤア、お|頭《つむり》に|大変《たいへん》に|血《ち》が|流《なが》れて|居《を》ります、どうなさいました』
|馬公《うまこう》『これは|貴方《あなた》のお|慈悲《じひ》の|鞭《むち》で|御座《ござ》います』
|鹿公《しかこう》『これも|矢張《やつぱり》、|貴方等《あなたがた》のお|情《なさけ》で、|結構《けつこう》なお|蔭《かげ》を|頂《いただ》きました』
|虎《とら》、|熊《くま》は|之《これ》を|聞《き》くより、|大地《だいち》に|犬踞《いぬつくばひ》となり|拳大《こぶしだい》の|石《いし》を|拾《ひろ》ひ、|片手《かたて》に|捧《ささ》げ|乍《なが》ら、
『モシ|馬公《うまこう》に|鹿公《しかこう》さま、|何卒《どうぞ》|私《わたくし》にもこの|石《いし》をもつて|頭《あたま》に|沢山《どつさり》お|蔭《かげ》を|頂《いただ》かして|下《くだ》さいませ、さうでなければ|奥《おく》に|這入《はい》る|事《こと》が|出来《でき》ませぬ、|何卒《どうぞ》お|願《ねが》ひで|御座《ござ》います』
|馬公《うまこう》『それは|絶対《ぜつたい》になりませぬ』
|鹿公《しかこう》『|折角《せつかく》の|御懇望《ごこんまう》なれど、これ|許《ばか》りは|御免《ごめん》|蒙《かうむ》りませう』
|隆靖彦《たかやすひこ》『|皆《みな》さまの|真心《まごころ》が|現《あら》はれて|実《じつ》に|気分《きぶん》が|冴《さ》え|冴《ざ》え|致《いた》しました。|何事《なにごと》も|神様《かみさま》の|思召《おぼしめ》しで|御座《ござ》いませう』
|隆光彦《たかてるひこ》『|何事《なにごと》も|此《この》|場《ば》の|事《こと》は|私《わたくし》にお|任《まか》せ|下《くだ》さいませ、|松姫《まつひめ》|様《さま》がお|待《ま》ち|兼《かね》でせう、サア|何卒《どうぞ》|御案内《ごあんない》して|下《くだ》さいませ』
|熊彦《くまひこ》、|虎彦《とらひこ》は|四這《よつば》ひになり、
『サアサア|四足《よつあし》の|後《あと》へ|従《つ》いて|来《き》て|下《くだ》さい、|御案内《ごあんない》|致《いた》しませう』
|馬公《うまこう》『そんな|事《こと》をなさるには|及《およ》ばぬぢやありませんか、ナア|鹿公《しかこう》さま』
|鹿公《しかこう》『ヘエ、さうですとも、|御両人《ごりやうにん》さま、|何卒《どうぞ》|立《た》つて|御案内《ごあんない》して|下《くだ》さいな』
|虎《とら》、|熊《くま》『|何卒《どうぞ》、|門《もん》へ|這入《はい》る|迄《まで》この|儘《まま》にさし|許《ゆる》して|下《くだ》さいませ』
|馬公《うまこう》『アヽ|仕方《しかた》がない、そんなら|馬《うま》も|鹿《しか》も|四足《よつあし》になつて|這《は》つて|往《ゆ》かうかなア』
と|二人《ふたり》の|後《あと》を|四這《よつば》ひになつて|従《つ》いて|行《ゆ》く。
|熊《くま》を|先頭《せんとう》に|虎《とら》、|馬《うま》、|鹿《しか》、|四四十六足《ししじふろくあし》の|変態動物《へんたいどうぶつ》は|表門《おもてもん》さして、のそりのそりと|這《は》つて|往《ゆ》く。
|隆靖彦《たかやすひこ》『|何《なん》と|誠《まこと》と|云《い》ふものは|偉《えら》いものですなア』
|隆光彦《たかてるひこ》『ヤア|実《じつ》に|感心《かんしん》|致《いた》しました』
と|感歎《かんたん》しながら|気《き》の|毒《どく》さうな|顔《かほ》をして|四人《よにん》の|跡《あと》をつけて|往《ゆ》く。
(大正一一・五・八 旧四・一二 加藤明子録)
第一二章 |言照姫《ことてるひめ》〔六五七〕
|松姫館《まつひめやかた》の|表門《おもてもん》の|司《つかさ》を|兼《か》ねたる|受付役《うけつけやく》の|竜若《たつわか》は、|両手《もろて》を|組《く》み|深《ふか》き|思案《しあん》に|沈《しづ》む|折柄《をりから》、|潜《くぐ》り|門《もん》を|潜《くぐ》つてノタノタ|入《い》り|込《こ》む|四人《よにん》の|姿《すがた》を|眺《なが》めて|打《う》ち|驚《おどろ》いた。|女神姿《めがみすがた》の|二人《ふたり》の|宣伝使《せんでんし》は|門外《もんぐわい》に|煙《けぶり》の|如《ごと》く|姿《すがた》を|消《け》した。
|竜若《たつわか》は|怪《あや》しき|四人《よにん》の|姿《すがた》を|見《み》て、
『オイ|其処《そこ》へ|往《ゆ》くのは、|熊《くま》に|虎《とら》ぢやないか。ヤー|馬公《うまこう》に|鹿公《しかこう》、この|冷《つめ》たい|地上《ちじやう》を|四這《よつば》ひになつて|通《とほ》るとは、こりや|又《また》|何《ど》うした|理由《わけ》だ』
|熊彦《くまひこ》『|熊《くま》、|虎《とら》の|本守護神《ほんしゆごじん》の|顕現《けんげん》だよ』
|竜若《たつわか》『|貴様《きさま》は|馬公《うまこう》、|鹿公《しかこう》を|威喝《ゐかつ》|殴打《おうだ》|致《いた》した|罪人《ざいにん》だから、|当然《たうぜん》の|成《な》り|行《ゆ》きだが、|馬公《うまこう》に|鹿公《しかこう》は|又《また》|何《ど》うしたものだ』
|馬公《うまこう》『ハイ|私《わたくし》も|本守護神《ほんしゆごじん》が|現《あら》はれました。どうぞ|尻《しり》でも|叩《たた》いて|追《お》ひ|込《こ》んで|下《くだ》さい』
|竜若《たつわか》『ハテな』
と|暫時《しばし》|思案《しあん》の|後《のち》|自分《じぶん》も|又《また》|四這《よつば》ひになつて|従《つ》いて|行《ゆ》く、|五人《ごにん》の|姿《すがた》は|館《やかた》の|奥深《おくふか》く|這《は》ひ|込《こ》んだ。|奥《おく》には|松姫《まつひめ》、お|節《せつ》の|両人《りやうにん》、|桐《きり》の|丸火鉢《まるひばち》を|挟《はさ》んで|頻《しき》りに|御蔭話《おかげばなし》に|現《うつつ》を|抜《ぬ》かしてゐる。|苔蒸《こけむ》す|庭前《ていぜん》にノコノコ|現《あら》はれた|五人《ごにん》の|四這《よつば》ひ|姿《すがた》、|二人《ふたり》は|話《はなし》に|実《み》が|入《い》り、|少《すこ》しも|此《こ》の|珍姿怪体《ちんしくわいたい》に|気《き》が|付《つ》かなかつた。|獣《けもの》になつた|五人《ごにん》は|人語《じんご》を|発《はつ》すること|能《あた》はず、|二人《ふたり》が|自然《しぜん》に|目《め》を|注《そそ》ぐのを【もど】かしげに|待《まち》てゐる。|待《まち》あぐんでか、|熊公《くまこう》は|熊《くま》の|様《やう》に、
|熊彦《くまひこ》『ウン ウーン』
と|一声《いつせい》|唸《うな》る。|続《つづ》いて|虎公《とらこう》は、
『ウワー ウワアー』
と|一生懸命《いつしやうけんめい》に|唸《うな》り|立《た》てる。|馬公《うまこう》は、
『ヒン ヒン ヒン』
と|叫《さけ》ぶ。|鹿公《しかこう》は、
『カイロー カイロー』
と|鳴《な》く。|竜若《たつわか》は|沈黙《ちんもく》を|守《まも》つてゐる。|此《こ》の|声《こゑ》に|驚《おどろ》いて|二人《ふたり》は|庭前《ていぜん》を|見《み》やれば|四這《よつば》ひになつた|五人《ごにん》の|男《をとこ》、|松姫《まつひめ》は、
『アーいやらしいこと、|何《なん》でせうなア、お|節《せつ》さま』
と|座《ざ》を|立《た》つて|遁《に》げようとする。
お|節《せつ》『モシモシ|松姫《まつひめ》さま、さう|驚《おどろ》くには|及《およ》びませぬ。なんでもありませぬ、|竜若《たつわか》さまに|熊彦《くまひこ》、|虎彦《とらひこ》の|両人《りやうにん》さま、それに|三五教《あななひけう》の|馬公《うまこう》に|鹿公《しかこう》さまですよ。ホヽヽヽヽ、あのマアよう|似合《にあ》ひますこと』
|松姫《まつひめ》はやつと|安心《あんしん》の|面色《おももち》にて、
『コレコレ|竜若《たつわか》、|熊彦《くまひこ》、|虎彦《とらひこ》、|冗談《ぜうだん》もよい|加減《かげん》にしなさい。|女主人《をんなあるじ》だと|思《おも》つて|人《ひと》を|嘲弄《てうろう》するのかい。なんだ|見《み》つともない。|神様《かみさま》の|御用《ごよう》をする|身《み》であり|乍《なが》ら、|汚《けが》らはしい|獣《けだもの》の|真似《まね》をしたり、|何《なん》の|態《ざま》だ。ちと|嗜《たしな》みなさらぬか』
|虎彦《とらひこ》『ウワー ウワー』
|熊彦《くまひこ》『ウー ウー』
|松姫《まつひめ》『アーア|困《こま》つたことになつて|来《き》た。|誰《たれ》も|彼《か》も|気《き》が|違《ちが》つたのだらうか。これお|節《せつ》さま、|如何《どう》しませう』
お|節《せつ》『サア|困《こま》つたことですな、|何《ど》うしようと|云《い》つたところで|仕方《しかた》が|無《な》いぢやありませぬか。コレコレ|馬公《うまこう》、|鹿公《しかこう》、お|節《せつ》ですよ。あまり|御無礼《ごぶれい》ぢやありませぬか』
|馬公《うまこう》『ヒンヒンヒン』
|鹿公《しかこう》『カイローカイロー』
お|節《せつ》『アヽ|互《かたみ》|恨《うら》みの|無《な》いやうに、|両方《りやうはう》|共《とも》|怪体《けつたい》なことになりましたな』
|松姫《まつひめ》『|斯《か》う|云《い》ふ|時《とき》には|神様《かみさま》より|外《ほか》に|解決《かいけつ》をつけて|下《くだ》さる|方《かた》はない、アーア|可憐想《かはゐさう》に|生《い》き|乍《なが》ら|畜生道《ちくしやうだう》へ|落《お》ちたのかいな。|人面獣心《じんめんじうしん》と|云《い》ふことは|聞《き》いて|居《ゐ》るが、|此奴《こいつ》は|又《また》|獣体獣心《じうたいじうしん》になつた|様《やう》だ。やつぱり|此《この》|世《よ》にも|地獄《ぢごく》もあれば、|餓鬼道《がきだう》、|畜生道《ちくしやうだう》もあると|見《み》える。アヽ|怖《おそ》ろしい|怖《おそ》ろしい。コレコレ|皆《みな》さま、|立《た》つて|見《み》なさい。どうしても|立《た》つことが|出来《でき》ないのか。|最早《もはや》|人間《にんげん》の|位《くらゐ》が|無《な》くなつたのかいな。|位《くらゐ》と|云《い》ふ|字《じ》は、|立《た》つ|人《ひと》と|書《か》くが、|此奴《こいつ》は|又《また》|完全《くわんぜん》な|四足《よつあし》ぢや、アヽ|可憐想《かはゐさう》に、これと|云《い》ふのも|松姫《まつひめ》の|我《が》が|強《つよ》いからだ。ドレドレ|一《ひと》つ|神様《かみさま》にお|詫《わび》を|致《いた》しませう。お|節《せつ》さま、|貴女《あなた》はこの|五人《ごにん》の|男《をとこ》の|看守《みまも》りをして|居《ゐ》て|下《くだ》さい。|私《わたくし》はこれからお|水《みづ》でも|頂《いただ》いて|一生懸命《いつしやうけんめい》|御祈念《ごきねん》を|致《いた》します』
と|真青《まつさを》な|顔《かほ》をして、|神前《しんぜん》の|間《ま》さして|進《すす》み|入《い》る。|五人《ごにん》は|声《こゑ》|限《かぎ》りに『ウーウー』『ウワー』『ヒンヒン』『カイロカイロ』と|負《まけ》ず|劣《おと》らず|呶鳴《どな》り|立《た》ててゐる。
|暫《しばら》くあつて|松姫《まつひめ》は|此《この》|場《ば》に|現《あら》はれ、
『アヽお|節《せつ》さま、|一生懸命《いつしやうけんめい》に|願《ねが》つて|来《き》ましたが、まだ|皆《みな》の|衆《しう》は|治《なほ》りませぬかな』
お|節《せつ》『ハイ|依然《いぜん》として|最前《さいぜん》の|通《とほ》り、|庭《には》の|木《き》の【しげみ】へかたまつて|這《は》ひつくばうて|居《を》られます。|漸《やうや》く|唸《うな》り|声《ごゑ》だけは|止《と》まつた|様《やう》です』
|松姫《まつひめ》『どう|致《いた》しませう。|私《わたくし》も|仕方《しかた》が|無《な》い、|罪滅《つみほろぼ》しに|四這《よつば》ひになつて|這《は》うて|見《み》ませうか』
お|節《せつ》『|滅相《めつさう》な、|何《なに》を|仰有《おつしや》います。|結構《けつこう》な|立《た》つて|歩《ある》ける|人間《にんげん》に|生《うま》れ|乍《なが》ら、|神様《かみさま》の|生宮《いきみや》を|軽蔑《けいべつ》し、|四足《よつあし》の|真似《まね》を|為《な》さると|今《いま》の|五人《ごにん》さまのやうに、|神罰《しんばつ》が|当《あた》つて|本当《ほんたう》の|四足《よつあし》になつて|了《しま》ひますよ』
|松姫《まつひめ》『それだと|言《い》つて|私《わたくし》の|責任《せきにん》が|済《す》まぬぢやありませぬか。|私《わたくし》は|畜生道《ちくしやうだう》へ|落《お》ちても|構《かま》ひませぬ、|苦楽《くらく》を|共《とも》にするのが|本当《ほんたう》です』
お|節《せつ》『|結構《けつこう》な|神《かみ》の|生宮《いきみや》と|生《うま》れて|其《その》|様《やう》な|汚《けが》らはしい|事《こと》を|為《な》さると、|本守護神《ほんしゆごじん》を|侮辱《ぶじよく》した|事《こと》になり、|本守護神《ほんしゆごじん》は|愛想《あいさう》をつかして|貴方《あなた》の|肉体《にくたい》を|脱出《だつしゆつ》し、|副守護神《ふくしゆごじん》ばかりになつて|了《しま》ひます。さうすればあのやうな|浅猿《あさま》しい【さま】にならねばなりますまい。|人間《にんげん》は|神様《かみさま》に|対《たい》し|持身《ぢしん》の|責任《せきにん》があります。|我《わが》|身《み》を|軽《かろ》んずると|云《い》ふことは、|所謂《いはゆる》|大神様《おほかみさま》を|軽《かろ》んずるも|同様《どうやう》、これ|位《くらゐ》|深《ふか》い|慢神《まんしん》の|罪《つみ》はありませぬ。どうぞそれ|丈《だけ》は|思《おも》ひ|止《と》まつて|下《くだ》さいませ』
|松姫《まつひめ》『そうだと|言《い》つて|此《こ》の|惨状《さんじやう》を|私《わたくし》として|傍観《ばうくわん》する|事《こと》が|出来《でき》ませうか』
お|節《せつ》『|成《な》り|行《ゆ》きなれば|仕方《しかた》がありませぬ。|前車《ぜんしや》の|覆《くつが》へるは|後車《こうしや》の|戒《いまし》め、|必《かなら》ず|必《かなら》ずそんな|真似《まね》をなさつてはなりませぬぞ』
と|声《こゑ》に|力《ちから》を|籠《こ》め、|常《つね》に|変《かは》つて|稍《やや》|気色《けしき》ばみ|叱《しか》りつけるやうに|言《い》つた。|松姫《まつひめ》は|黙念《もくねん》として|首《かうべ》を|垂《た》れ、|悲歎《ひたん》の|涙《なみだ》に|暮《く》れてゐる。
お|節《せつ》『|人間《にんげん》と|云《い》ふものは|行《おこな》ひが|大切《たいせつ》です。|吃《ども》りの|真似《まね》をすれば|自然《しぜん》に|吃《ども》りとなり、|唖《おし》の|真似《まね》をすれば|自然《しぜん》に|唖《おし》となり、|聾《つんぼ》の|真似《まね》をすれば|忽《たちま》ち|聾《つんぼ》となり、|躄《いざり》の|真似《まね》をすれば|天罰《てんばつ》|覿面《てきめん》|躄《いざり》になつて|了《しま》ふのは、|争《あらそ》はれぬ|天地《てんち》の|真理《しんり》です。それに|人間《にんげん》に|生《せい》を|亨《う》け|乍《なが》ら|如何《いか》なる|事情《じじやう》があるにもせよ、|勿体《もつたい》ない、|結構《けつこう》な|肉体《にくたい》を|四足《よつあし》の|真似《まね》をしたりすると|云《い》ふことがありますものか。アレ|見《み》なさい|五人《ごにん》の|方《かた》は|段々《だんだん》|身体《からだ》の|様子《やうす》が|獣《けもの》らしくなるぢやありませぬか。それに|又《また》|人間《にんげん》と|生《うま》れ|乍《なが》ら|汚《けが》らはしい、|馬《うま》ぢやの、|鹿《しか》ぢやの、|熊《くま》、|虎《とら》、|竜《たつ》なぞの|獣《けもの》の|名《な》をつけるものだから、|忽《たちま》ち|其《その》|名《な》の|如《ごと》く|堕落《だらく》して|了《しま》ふ。|言霊《ことたま》の|幸《さち》はふ|国《くに》と|申《まを》しますが、|言霊《ことたま》|計《ばか》りではありませぬ、|行《おこな》ひの|幸《さち》はひ|災《わざはひ》する|世《よ》の|中《なか》、どうしても|人間《にんげん》は|名《な》を|清《きよ》くし、|心《こころ》を|清《きよ》め、|行《おこな》ひを|正《ただ》しくせなくてはなりませぬ。アヽ|可憐想《かはゐさう》に|私《わたくし》が|及《およ》ばず|乍《なが》ら、|言霊《ことたま》を|以《もつ》て|宣《の》り|直《なほ》して|見《み》ませう。さすれば|大慈《だいじ》|大悲《だいひ》の|大神様《おほかみさま》が|一度《いちど》は|御許《おゆる》し|下《くだ》さるでせう』
|松姫《まつひめ》『|本当《ほんたう》に|驚《おどろ》きました。どうぞ|貴女《あなた》、|神様《かみさま》にお|詫《わび》して|下《くだ》さいませ』
お|節《せつ》『|畏《かしこ》まりました』
とお|節《せつ》は|立上《たちあが》り、|神前《しんぜん》に|進《すす》み|入《い》り|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》し、|終《をは》つて|再《ふたた》び|此《この》|場《ば》に|現《あら》はれた。
お|節《せつ》『モシモシ|竜若《たつわか》さま、|熊彦《くまひこ》さま、|虎彦《とらひこ》さま、|神様《かみさま》が|御許《おゆる》し|下《くだ》さいました。サアお|立《た》ちなさいませ。|一《ひと》|二《ふた》|三《み》|四《よ》|五《いつ》|六《むゆ》|七《なな》|八《や》|九《ここの》|十《たり》|百《もも》|千《ち》|万《よろづ》』
|竜若《たつわか》は|忽《たちま》ちムツクと|立上《たちあが》り、
|竜若《たつわか》『アヽ|有難《ありがた》うございました』
|次《つい》で|熊彦《くまひこ》、|虎彦《とらひこ》、|馬《うま》、|鹿《しか》の|四人《よにん》、|又《また》もやスツクと|立上《たちあが》り、
『コレハコレハお|節《せつ》さま、よう|助《たす》けて|下《くだ》さいました。エライ|心得《こころえ》|違《ちが》ひを|致《いた》しました。モウ|今後《こんご》は|決《けつ》して|斯《こ》んな|馬鹿《ばか》なことは|致《いた》しませぬ』
|松姫《まつひめ》『コレ|竜《たつ》、|熊《くま》、|虎《とら》の|三人《さんにん》さま、お|前《まへ》は|彼《あ》んな|馬鹿《ばか》な|態《ざま》をして|私《わたくし》を|困《こま》らしたのぢやないかいな』
|竜若《たつわか》『イエイエ|滅相《めつさう》な、|私《わたくし》が|門番《もんばん》を|致《いた》して|居《を》りますと、|潜《くぐ》り|門《もん》をノタノタ|這《は》うて|来《く》る|熊彦《くまひこ》、|虎彦《とらひこ》の|姿《すがた》、こりや|不思議《ふしぎ》だとよくよく|見《み》れば、|馬公《うまこう》、|鹿公《しかこう》|四人《よにん》|揃《そろ》うてノタノタと|四這《よつば》ひになつて|奥《おく》へ|向《むか》つて|進《すす》んで|往《ゆ》く。ヤア|此奴《こいつ》は|熊《くま》、|虎《とら》、|最前《さいぜん》の|無礼《ぶれい》を|謝《しや》する|為《ため》、|謙遜《けんそん》の|余《あま》り|這《は》うてゆくのだな。それに|就《つい》ても|馬公《うまこう》、|鹿公《しかこう》は|立《た》つて|歩《ある》くにしのびず、|御付合《おつきあ》ひに|這《は》うてゆかつしやるのだ。アヽ|何方《どちら》も|誠《まこと》と|誠《まこと》の|寄《よ》り|合《あ》ひ、|義理《ぎり》の|立《た》て|合《あ》ひと|感服《かんぷく》の|余《あま》り、|大責任《だいせきにん》を|持《も》つた|私《わたし》|一人《ひとり》、|人間《にんげん》らしう|立《た》つて|歩《ある》く|訳《わけ》にも|行《ゆ》かず、|余《あま》り|心《こころ》の|恥《はづ》かしさに|四這《よつば》ひになつて|随《つ》いて|来《き》ました。さうした|所《ところ》|二三間《にさんげん》|歩《ある》く|内《うち》に|本当《ほんたう》の|四足《よつあし》になつて|了《しま》ひ、|立《た》つことも|出来《でき》ず、もの|言《い》ふ|事《こと》も|出来《でき》なくなつたのです。|実《じつ》に|恐《おそ》ろしいものです。ナア|熊彦《くまひこ》、|虎彦《とらひこ》、お|前《まへ》はどうだつた』
|熊《くま》、|虎《とら》|一度《いちど》に、
『|何《なん》だか|本当《ほんたう》の|獣《けもの》になつたやうな|心持《こころもち》がし、|再《ふたた》び|立《た》つて|歩《ある》く|事《こと》が|出来《でき》ないかと|心配《しんぱい》してゐました。お|節《せつ》さまの|御《お》かげで|畜生道《ちくしやうだう》の|苦《くるし》みを|助《たす》けて|頂《いただ》きました。|有難《ありがた》うございます』
と|心底《しんてい》から|嬉《うれ》し|涙《なみだ》を|零《こぼ》して|居《を》る。
お|節《せつ》『アヽそれは|大変《たいへん》な|事《こと》になるとこでした。|今後《こんご》は|何卒《どうぞ》|慎《つつし》んで|下《くだ》さいませ。|鹿公《しかこう》、|馬公《うまこう》、お|前《まへ》|迄《まで》が|何《なん》とした|馬鹿《ばか》な|真似《まね》をなさるのぢや。|私《わたし》は|大神様《おほかみさま》に|恥《はづ》かしい』
『イヤどうも|申訳《まをしわけ》がありませぬ。|以後《いご》は|屹度《きつと》|心得《こころえ》ます』
お|節《せつ》『|馬公《うまこう》、|鹿公《しかこう》、|貴方《あなた》は|途中《みち》で|立派《りつぱ》な|女神《めがみ》さまにお|会《あ》ひぢやなかつたか』
|馬公《うまこう》『ハイ|会《あ》ひました』
|鹿公《しかこう》『|門前《もんぜん》まで|送《おく》つて|頂《いただ》きました。|併《しか》しそれ|限《き》り|御姿《おすがた》がなくなつて|了《しま》つたのです』
お|節《せつ》『さうでせう。|貴方《あなた》が|自《みづか》ら|人格《じんかく》を|落《おと》して|馬鹿《ばか》な|真似《まね》を|為《な》さるものだから、|流石《さすが》に|慈愛《じあい》|深《ぶか》き|女神様《めがみさま》もおあきれ|遊《あそ》ばして、お|帰《かへ》りになつたのだ。お|詫《わび》をなさいませ』
|馬公《うまこう》『|有難《ありがた》うございます』
|鹿公《しかこう》『|今度《こんど》といふ|今度《こんど》は|種々《いろいろ》と|神様《かみさま》から|実地《じつち》|教育《けういく》を|授《さづ》かりました』
|熊彦《くまひこ》『|私《わたくし》は、|馬公《うまこう》、|鹿公《しかこう》に|対《たい》し、|実《じつ》に|有《あ》るに|有《あ》られぬ|侮辱《ぶじよく》を|与《あた》へ、|打擲《ちやうちやく》を|加《くは》へました。|然《しか》るに|忍耐《にんたい》|強《つよ》きお|二人《ふたり》さまは、チツトも|抵抗《ていかう》もなさらず、|却《かへつ》て|私《わたくし》|達《たち》に|感謝《かんしや》をされました。|智慧《ちゑ》|浅《あさ》き|私《わたくし》|共《ども》は、|馬鹿《ばか》か、|気違《きちが》ひかと|思《おも》うて|益々《ますます》|虐待《ぎやくたい》を|致《いた》しましたので、|心《こころ》の|底《そこ》より|恥入《はぢい》つて、アヽ|私《わたくし》の|精神《せいしん》は|四足《よつあし》だつた、|人間《にんげん》らしく、どうしてお|地《つち》の|上《うへ》を|立《た》つて|歩《ある》けようかと、|懺悔《ざんげ》の|余《あま》り|一《ひと》つは|謝罪《しやざい》のため|四足《よつあし》の|真似《まね》を|致《いた》しました』
と|涙《なみだ》ぐむ。
|松姫《まつひめ》『アーアさうだつたか、|其処迄《そこまで》|改心《かいしん》が|出来《でき》れば、|斯《こ》んな|結構《けつこう》なことはありませぬ。|併《しか》し|神様《かみさま》の|御教《みをしへ》に、|神《かみ》を|敬《うやま》ひ、|人《ひと》を|敬《うやま》ひ、|我《わが》|身《み》を|敬《うやま》へと|云《い》ふことがあります。|何卒《どうぞ》|人間《にんげん》の|身体《からだ》は|神様《かみさま》の|結構《けつこう》なお|宮《みや》だと|思《おも》つて、|仮令《たとへ》|自分《じぶん》の|身体《からだ》でも|粗末《そまつ》にしてはなりませぬ。|私《わたし》もお|節《せつ》さまがお|止《と》め|下《くだ》さらなかつたならば、お|前《まへ》さま|等《ら》のやうに|畜生道《ちくしやうだう》に|落《お》ちるとこでございました。サア|皆《みな》さま、|打揃《うちそろ》つて|神様《かみさま》にお|礼《れい》を|申《まを》しませう。|実《じつ》の|所《ところ》はフサの|国《くに》の|本山《ほんざん》より、|高姫《たかひめ》|様《さま》、|黒姫《くろひめ》|様《さま》の|御命令《ごめいれい》が|降《くだ》り、|心《こころ》は|既《すで》に|三五教《あななひけう》へ|帰順《きじゆん》|致《いた》して|居《を》つたのですが、|部下《ぶか》の|皆《みな》さま|達《たち》が|俄《にはか》にそんな|事《こと》を|云《い》つたところで|聞《き》いて|下《くだ》さる|道理《だうり》もなし、どうしたらよからうかと|思《おも》ひ|煩《わづら》つて|居《を》りました。|然《しか》るに|神様《かみさま》は|何《なに》から|何《なに》まで|抜《ぬ》け|目《め》なく、|誠《まこと》の|手本《てほん》を|示《しめ》して|皆《みな》さまの|改心《かいしん》を|促《うなが》して|下《くだ》さいました。|此《この》|間《あひだ》からお|節《せつ》さまがお|出《い》でになり、いろいろと|言葉《ことば》を|尽《つく》して|三五教《あななひけう》に|帰《かへ》るようとお|示《しめ》し|下《くだ》さつたけれども、|余《あま》り|易々《やすやす》と|帰順《きじゆん》すればお|節《せつ》さまの|夫《をつと》を|思《おも》ふ|真心《まごころ》の|誠《まこと》が|現《あら》はれ|難《にく》いと|思《おも》つて、わざと|心《こころ》にも|無《な》い|事《こと》を|云《い》うて|頑張《ぐわんば》つて|居《を》りました。さうして|紫姫《むらさきひめ》|様《さま》の|御身《おみ》の|上《うへ》を|案《あん》じて|助《たす》けたいと|思《おも》ふ|馬公《うまこう》、|鹿公《しかこう》のお|二方《ふたかた》に|花《はな》を|持《も》たしたいばつかりで、|今迄《いままで》|頑張《ぐわんば》つて|居《ゐ》たのです。|私《わたし》が|心《こころ》の|底《そこ》から|改心《かいしん》を|致《いた》しましたのは、|大神様《おほかみさま》のお|慈悲《じひ》は|申《まを》すに|及《およ》ばずお|節《せつ》さまのお|力《ちから》と、|馬公《うまこう》|鹿公《しかこう》の|主人《しゆじん》を|思《おも》ふ|真心《まごころ》のお|力《ちから》でございます。|私《わたし》のみかウラナイ|教《けう》|一同《いちどう》の|者《もの》が|帰順《きじゆん》するやうになりますのも、|夫《をつと》を|思《おも》ふお|節《せつ》さまの|至誠《しせい》と、|主人《しゆじん》を|思《おも》ふ|馬公《うまこう》、|鹿公《しかこう》の|忠義心《ちうぎしん》とのお|力《ちから》でございます。|誠《まこと》ほど|結構《けつこう》なものは|此《この》|世《よ》の|中《なか》にございませぬ。|私《わたし》は|今日《けふ》|限《かぎ》り|此《こ》の|館《やかた》をあけて|暫《しばら》く|修業《しうげふ》に|参《まゐ》り、|身魂《みたま》を|研《みが》くつもりでございます。どうぞお|節《せつ》さま、|馬公《うまこう》、|鹿公《しかこう》と|共《とも》に|此《この》|館《やかた》をお|守《まも》り|下《くだ》さつて、|数多《あまた》の|信者《しんじや》に|誠《まこと》の|道《みち》を|説《と》いてやつて|下《くだ》さいませ。|貴方《あなた》|等《がた》が|夫《をつと》や|主人《しゆじん》を|大切《たいせつ》に|思《おも》はるるのと|同様《どうやう》に、|私《わたし》も|師匠《ししやう》の|高姫《たかひめ》|様《さま》や、|黒姫《くろひめ》|様《さま》のために|尽《つく》さねばなりませぬ。どうぞ|宜敷《よろし》くお|願《ねが》ひ|致《いた》します。|竜《たつ》、|熊《くま》、|虎《とら》|其《その》|他《た》|一同《いちどう》の|方々《かたがた》、お|節《せつ》さまを|私《わたし》の|代理《だいり》|否《いな》、|私《わたし》の|御師匠《おししやう》さまと|崇《あが》め、|鹿公《しかこう》、|馬公《うまこう》を|高弟《かうてい》と|仰《あふ》いで、|仲好《なかよ》くお|道《みち》のために|尽《つく》して|下《くだ》さい』
と|言《い》ひ|棄《す》て|庭先《にはさき》の|草履《ざうり》を|穿《は》くや|否《いな》や、|夕《ゆうべ》の|闇《やみ》に|紛《まぎ》れて|何処《どこ》ともなく|姿《すがた》を|隠《かく》しけり。
|熊彦《くまひこ》は|驚《おどろ》きあわて、
『ヤア|竜若《たつわか》さま、|松姫《まつひめ》さまは|到頭《たうとう》|蒙塵《もうぢん》されました。コラ|斯《こ》うして|居《を》られまい。|何処《どこ》までも|追《お》ひ|駆《か》けてお|姿《すがた》を|見《み》つけ|出《だ》し、|帰《かへ》つて|貰《もら》はねばなりますまい。オイ|虎彦《とらひこ》、サア|足装束《あしごしらへ》をせい』
|竜若《たつわか》『オイ|熊彦《くまひこ》、|虎彦《とらひこ》、|待《ま》て|待《ま》て、|去《さ》るものは|追《お》はず、|来《きた》るものは|拒《こば》まずぢや。|何事《なにごと》も|惟神《かむながら》に|任《まか》して|置《お》けばよいのだ』
|熊彦《くまひこ》『オイ|竜若《たつわか》、|貴様《きさま》は|人情《にんじやう》を|知《し》らぬ|不徳漢《ふとくかん》だ。|今迄《いままで》|師匠《ししやう》と|仰《あふ》いだ|松姫《まつひめ》さまが、|吾々《われわれ》の|醜態《しうたい》を|御覧《ごらん》になつて|恥《はづか》しさに|堪《た》へかね、|結構《けつこう》な|館《やかた》を|捨《す》てて|何一《なにひと》つ|持《も》たず、|飛《と》び|出《だ》されたぢやないか。|春秋《しゆんじう》の|筆法《ひつぱふ》を|以《もつ》て|言《い》ふならば、|竜若《たつわか》、|松姫《まつひめ》を|追放《つゐはう》すと|云《い》ふことになるぞ。|今迄《いままで》は|上役《うはやく》を|笠《かさ》に|着居《きを》つて|偉《えら》さうに、|熊《くま》だの、|虎《とら》だのと|頤《あご》で|俺《おれ》を|使《つか》ひ|居《を》つたが、|何《なん》ぢや、|斯《こ》んな|時《とき》に|平然《へいぜん》として|構《かま》へて|居《を》る|奴《やつ》が|何処《どこ》にあるか。モウ|今日《けふ》|限《かぎ》り|上官《じやうくわん》でも|兄弟子《あにでし》でも、|何《なん》でも|無《な》いワ。|不徳《ふとく》を|懲《こら》すために、コラ|柔道《じうだう》|百段《ひやくだん》の|鉄拳《てつけん》をお|見舞《みま》ひ|申《まを》さうか、|返答《へんたふ》は|如何《どう》だ』
|竜若《たつわか》『アハヽヽヽ、|又《また》|鍍金《めつき》が|剥《は》げかけたぞ。|今《いま》のことを|忘《わす》れたか。また|四足《よつあし》に|還元《くわんげん》したら|如何《どう》するのだ』
|熊彦《くまひこ》『エー|四足《よつあし》になつたつて|構《かま》ふものか。|国家《こくか》の|興亡《こうばう》|旦夕《たんせき》に|迫《せま》る|此《こ》の|一刹那《いちせつな》、|愚図々々《ぐづぐづ》して|居《を》る|場合《ばあひ》でないぞ。|間髪《かんぱつ》を|入《い》れずとは|此《こ》の|事《こと》だ。オイ|竜若《たつわか》、|貴様《きさま》も|今迄《いままで》|松姫《まつひめ》|様《さま》の|殊恩《しゆおん》に|浴《よく》した|代物《しろもの》だ、|斯《こ》う|云《い》ふ|場合《ばあひ》に|赤誠《せきせい》を|表《あら》はし、|師弟《してい》の|道《みち》を|尽《つく》すと|云《い》ふ|義侠心《ぎけふしん》はないか』
|虎彦《とらひこ》『コラ|竜若《たつわか》の|野郎《やらう》、|何《なに》を|怖《お》ぢ|怖《お》ぢとしてゐるのだ。|松姫《まつひめ》|様《さま》を|見殺《みごろ》しにする|量見《りやうけん》か』
|竜若《たつわか》『|喧《やかま》しい|云《い》ふない。|貴様《きさま》のやうな|慌者《あわてもの》が|居《を》るから、ウラナイ|教《けう》は|発達《はつたつ》せないのだ。
|君《きみ》ならで|誰《たれ》かは|知《し》らむ|我《わが》|心《こころ》
と|松姫《まつひめ》|様《さま》は|俺《おれ》の|千万無量《せんばんむりやう》の|心中《しんちう》をよくお|察《さつ》し|遊《あそ》ばしてござるのだぞ。|貴様《きさま》のやうにうろたへ|騒《さわ》いで|何《なん》になるか。それだから|平素《へいそ》から|臍下丹田《せいかたんでん》に|心魂《しんこん》を|鎮《しづ》めよと|云《い》うてあるぢやないか』
|熊彦《くまひこ》『アカンアカン、そんな|逃《に》げ|口上《こうじやう》を|云《い》つたつて、|誰《たれ》が|承諾《しようだく》するものかい。|卑怯者《ひけふもの》|奴《め》が、|不徳漢《ふとくかん》|奴《め》が』
|竜若《たつわか》『オイ、それ|程《ほど》|松姫《まつひめ》|様《さま》の|神業《しんげふ》の|邪魔《じやま》がしたければ、|俺《おれ》に|構《かま》はずトツトと|往《ゆ》け。|間誤々々《まごまご》して|居《を》るとお|姿《すがた》を|紛失《ふんしつ》して|了《しま》ふぞ』
|熊彦《くまひこ》『エー|忌々《いまいま》しい、|禄盗人《ろくぬすびと》|奴《め》、サア|虎彦《とらひこ》、|首途《かどで》の|血祭《ちまつり》に、|仮令《たとへ》|熊《くま》や|虎《とら》に|還元《くわんげん》したつて|構《かま》ふものか。|此奴《こいつ》を|一《ひと》つ|打撲《ぶんなぐ》つて|潔《いさぎよ》く|出発《しゆつぱつ》しようぢやないか』
|虎彦《とらひこ》『ヨシヨシ|合点《がつてん》だ』
と|早《はや》くも|拳骨《げんこつ》を|固《かた》め|前後《ぜんご》より|打《うち》かからむとする。|馬公《うまこう》、|鹿公《しかこう》は|両人《りやうにん》の|利腕《ききうで》をグツと|握《にぎ》り、
『ヤア|待《ま》つた|待《ま》つた』
『|待《ま》てと|云《い》つたつて|是《これ》が|何《ど》うして|待《ま》たれるものか。エー|邪魔《じやま》して|呉《く》れな、|放《はな》せ|放《はな》せ』
|馬公《うまこう》『お|前《まへ》さまの|焦《あせ》るのは|尤《もつと》もだ。|併《しか》し|乍《なが》ら|松姫《まつひめ》|様《さま》をそれだけ|思《おも》ふ|真心《まごころ》は、|実《じつ》に|感心《かんしん》だが、|贔屓《ひいき》の|引倒《ひきだふ》しとなつては、|反《かへ》つて|済《す》まないぞ。|一生懸命《いつしやうけんめい》に|松姫《まつひめ》|様《さま》のお|為《ため》だと|思《おも》つてやつたことが、|却《かへつ》て|師匠《ししやう》を|泥溝《どろつぼ》へ|落《おと》すことになるのだ。マア|冷静《れいせい》に|考《かんが》へて|見《み》よ。|余《あま》り|熱《ねつ》した|時《とき》は|公平《こうへい》な|判断《はんだん》は|出来《でき》ぬものだ。|此処《ここ》が|鎮魂《ちんこん》の|必要《ひつえう》な|所《ところ》だ。マアマア|俺達《おれたち》に|免《めん》じて|思《おも》ひ|止《とど》まつて|呉《く》れ。|屹度《きつと》|松姫《まつひめ》|様《さま》は|神様《かみさま》に|助《たす》けられ、|立派《りつぱ》な|手柄《てがら》を|遊《あそ》ばすのだから』
|熊彦《くまひこ》『|馬公《うまこう》、そんな|気休《きやす》めを|云《い》うて|呉《く》れな』
|馬公《うまこう》『ナニ|決《けつ》して|気休《きやす》めぢやない。|正真正銘《しやうしんしやうめい》の|偽《いつは》らざる|俺《おれ》の|忠告《ちうこく》だ。|屹度《きつと》お|前《まへ》のためにならぬやうなことはせないよ』
|熊彦《くまひこ》『|俺《おれ》はどうなつても|構《かま》はぬ。|松姫《まつひめ》|様《さま》を|見捨《みす》てる|訳《わけ》にはいかない。どうぞ|頼《たの》みだから|放《はな》して|呉《く》れ』
|虎彦《とらひこ》『オイ|鹿公《しかこう》、どうぞ|今度《こんど》|許《ばか》りは|見遁《みのが》して|呉《く》れ。|二人《ふたり》のものに|自由《じいう》|行動《かうどう》を|採《と》らして|下《くだ》さい。これが|一生《いつしやう》の|頼《たの》みだ』
|竜若《たつわか》『|馬公《うまこう》、|鹿公《しかこう》、|構《かま》うて|下《くだ》さるな。これだけ|貴方《あなた》が|親切《しんせつ》に|云《い》つて|下《くだ》さつても、|私《わたし》が|何《なん》と|云《い》つても|通《つう》じないやうな|没分暁漢《わからずや》だから、|二人《ふたり》の|自由《じいう》に|任《まか》して|置《お》きませう。|併《しか》し|乍《なが》ら|二人《ふたり》とも|実《じつ》に|美《うる》はしい|紅《あか》い|血《ち》が|全身《ぜんしん》に|漲《みなぎ》つて|居《ゐ》る。ヤア|熊《くま》、|虎《とら》、ようそこ|迄《まで》|師匠《ししやう》を|思《おも》うて|呉《く》れる。|俺《おれ》は|何《なに》も|云《い》はぬ、|唯《ただ》もうこの|通《とほ》りだ』
と|手《て》を|合《あは》す。
お|節《せつ》『コレコレ|熊公《くまこう》、|虎公《とらこう》、どうぞ|思《おも》ひ|止《とど》まつて|下《くだ》さい。お|節《せつ》がこの|通《とほ》りお|願《ねが》ひ|致《いた》します』
と|跣足《はだし》の|儘《まま》|庭先《にはさき》に|飛《と》び|下《お》り、|大地《だいち》にペタリと|平伏《へいふく》し、|両手《りやうて》を|合《あは》して|涙《なみだ》と|共《とも》に|頼《たの》みいる。
どこともなく|嚠喨《りうりやう》たる|音楽《おんがく》の|響《ひびき》、|一同《いちどう》はハツと|驚《おどろ》き|空《そら》を|見上《みあ》ぐる|途端《とたん》に|現《あら》はれた|一人《ひとり》のエンゼル、|声《こゑ》も|涼《すず》しく、
エンゼル『われこそは|神素盞嗚大神《かむすさのをのおほかみ》の|御使《おんつかひ》|言照姫命《ことてるひめのみこと》なり。|松姫《まつひめ》の|改心《かいしん》に|依《よ》り、ウラナイ|教《けう》の|教主《けうしゆ》|高姫《たかひめ》、|副教主《ふくけうしゆ》|黒姫《くろひめ》の|罪《つみ》は|赦《ゆる》された。|又《また》|松姫《まつひめ》は|神《かみ》が|守護《しゆご》を|致《いた》し、|神界《しんかい》のために|抜群《ばつぐん》の|功名《こうみやう》を|顕《あら》はし、|日《ひ》ならず|当館《たうやかた》へ|帰《かへ》り|来《きた》るべし。|此《この》|上《うへ》はお|節《せつ》に|対《たい》し、|玉能姫《たまのひめ》と|云《い》ふ|神名《しんめい》を|賜《たま》ふ。|竜若《たつわか》は|今《いま》より|竜国別《たつくにわけ》、|馬公《うまこう》は|駒彦《こまひこ》、|鹿公《しかこう》には|秋彦《あきひこ》、|熊彦《くまひこ》には|千代彦《ちよひこ》、|虎彦《とらひこ》には|春彦《はるひこ》と|神名《しんめい》を|賜《たま》ふ。|汝等《なんぢら》|玉能姫《たまのひめ》を|師《し》と|仰《あふ》ぎ|協心戮力《けふしんりくりよく》|神界《しんかい》のために|全力《ぜんりよく》を|尽《つく》せ。|神《かみ》は|汝《なんぢ》の|心魂《しんこん》を|守護《しゆご》し|天地《てんち》に|代《かは》はる|大業《たいげふ》を|万世《ばんせい》に|建《た》てさせむ。ゆめゆめ|疑《うたが》ふこと|勿《なか》れ』
と|詔《の》り|終《をは》り、|崇高《すうかう》なるエンゼルの|姿《すがた》は|烟《けぶり》の|如《ごと》く|消《き》え|失《う》せたまひぬ。
|一塊《いつくわい》の|紫雲《しうん》は|室内《しつない》より|戸外《こぐわい》に|向《むか》つて|流《なが》れ|出《い》で、|中空《ちうくう》|高《たか》く|舞《ま》ひ|上《あが》る。|星《ほし》は|満天《まんてん》に|燦然《さんぜん》として|輝《かがや》き|渡《わた》り、|東《ひがし》の|山《やま》の|端《は》に|三五《さんご》の|明月《めいげつ》|皎々《かうかう》として|輝《かがや》き|始《はじ》め、|芳《かん》ばしき|風《かぜ》|颯々《さつさつ》として|吹《ふ》き|来《きた》り、|一同《いちどう》の|心胆《しんたん》を|洗《あら》ふ。
アヽ|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》。
(大正一一・五・八 旧四・一二 外山豊二録)
(昭和一〇・六・三 王仁校正)
第四篇 |地異天変《ちいてんぺん》
第一三章 |混線《こんせん》〔六五八〕
|月《つき》|照《て》りわたる|御空《みそら》より まばらの|雪《ゆき》はちらちらと
|恥《はづ》かしさうに|降《ふ》つて|来《く》る |樹木《じゆもく》|茂《しげ》れる|木下闇《こじたやみ》
ウラル|教《けう》の|宣伝使《せんでんし》 テルヂー、コロンボの|両人《りやうにん》は
|常世《とこよ》の|国《くに》を|後《あと》に|見《み》て ウラルの|道《みち》を|開《ひら》かむと
|海河山野《うみかはやまぬ》を|打渡《うちわた》り |自転倒島《おのころじま》に|来《き》て|見《み》れば
|遥《はるか》の|空《そら》に|紫《むらさき》の |雲《くも》|立《た》ち|昇《のぼ》る|怪《あや》しさに
|是《こ》れぞ|正《まさ》しく|真人《しんじん》の |出現《しゆつげん》ならむ|兎《と》も|角《かく》も
|雲《くも》を|目当《めあ》てに|行《ゆ》き|見《み》むと |高熊山《たかくまやま》の|峰伝《みねづた》ひ
|大原山《おほはらやま》の|山麓《さんろく》に |月《つき》の|光《ひかり》を|浴《あ》び|乍《なが》ら
|二人《ふたり》テクテク|進《すす》み|来《く》る。
|片方《かたへ》の|森《もり》に|怪《あや》しき|人《ひと》の|声《こゑ》、|何事《なにごと》ならむと|両人《りやうにん》は、|差《さ》し|足《あし》、|抜《ぬ》き|足《あし》、|摺寄《すりよ》つて、|声《こゑ》の|出処《でどころ》を|窺《うかが》ひ|居《を》る。
|谷丸《たにまる》『オイ、|鬼丸《おにまる》、|御苦労《ごくらう》だつたなア。|鬼雲彦《おにくもひこ》の|御大将《おんたいしやう》は、|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》に|撃退《げきたい》され、|続《つづ》いて|鬼ケ城《おにがじやう》に|堅城鉄壁《けんじやうてつぺき》を|構《かま》へ、|天下《てんか》を|席巻《せきけん》せむとして|居《ゐ》た|鬼熊別《おにくまわけ》の|副将《ふくしやう》も|亦《また》、アヽ|云《い》ふ|悲惨《みじめ》な|態《ざま》になつて、フサの|国《くに》に|逃《に》げ|帰《かへ》り、|振《ふ》り|残《のこ》された|吾々《われわれ》は、|鳥《とり》の|翼《つばさ》を|取《と》られたやうな|悲境《ひきやう》に|沈淪《ちんりん》し、|何《なん》とかしてモウ|一度《いちど》、|大江山《おほえやま》、|鬼ケ城《おにがじやう》を|回復《くわいふく》し、|吾々《われわれ》|両人《りやうにん》は|両山《りやうざん》に|立《た》て|籠《こも》り、|再《ふたた》び|堂々《だうだう》と|陣取《ぢんど》り、|以前《いぜん》の|隆盛《りうせい》に|復活《ふくくわつ》せむと、|千辛万苦《せんしんばんく》の|結果《けつくわ》|漸《やうや》く|目的《もくてき》を|達《たつ》し、|斯《こ》うして|高熊山《たかくまやま》の|言照姫《ことてるひめ》が|産《う》んだとか|云《い》ふ|玉照彦《たまてるひこ》の|神様《かみさま》をお|迎《むか》へした|以上《いじやう》は、|何程《なにほど》|三五教《あななひけう》だつて、どうする|事《こと》も|出来《でき》まい。ウラナイ|教《けう》の|高姫《たかひめ》や|黒姫《くろひめ》の|奴《やつ》が|一生懸命《いつしやうけんめい》に|骨《ほね》を|居《を》つて、その|結果《けつくわ》|三五教《あななひけう》に|肝腎《かんじん》の|玉照姫《たまてるひめ》を|横奪《わうだつ》され、|今《いま》の|所《ところ》ではウラナイ|教《けう》も|追々《おひおひ》と|凋落《てうらく》の|風《かぜ》が|吹《ふ》いて|来《き》よつたぢやないか。それに|引替《ひきか》へ|三五教《あななひけう》は、|玉照姫《たまてるひめ》の|神力《しんりき》で、あの|通《とほ》りの|隆盛《りうせい》だ。|吾々《われわれ》の|奉《ほう》ずるバラモン|教《けう》も、|玉照彦《たまてるひこ》さへ|手《て》に|入《い》らば、|三五教《あななひけう》もウラナイ|教《けう》も、|唯《ただ》|一蹴《いつしう》の|下《もと》に|滅《ほろ》ぼして|了《しま》ふのだが、|到底《たうてい》|大将《たいしやう》があんな|事《こと》になつたのだから、どうする|事《こと》も|出来《でき》やしない。|併《しか》し|乍《なが》ら|吾々《われわれ》は|仮令《たとへ》|鬼雲彦《おにくもひこ》、|鬼熊別《おにくまわけ》の|大将《たいしやう》が|屁古垂《へこた》れても|誠《まこと》の|神《かみ》さまは|決《けつ》して|屁古垂《へこた》れないのだから、|一人《ひとり》になつても|此《この》|道《みち》を|立《た》てねば|置《お》かぬと|思《おも》つて|居《ゐ》たが、|待《ま》てば|海路《かいろ》の|風《かぜ》が|吹《ふ》くとやら、|今日《けふ》は|本当《ほんたう》に|結構《けつこう》な|日《ひ》だつたネー。それに|就《つい》てもお|前《まへ》に|随分《ずゐぶん》|骨《ほね》を|折《を》らしたものだ』
|鬼丸《おにまる》『|谷丸《たにまる》の|哥兄《あにい》、|別《べつ》に|俺《おれ》にそう|礼《れい》を|言《い》ふには|及《およ》ばぬぢやないか。お|前《まへ》の|働《はたら》きつたら、|実《じつ》に|華々《はなばな》しいものだつた。|山口《やまぐち》の|来勿止《くなどめ》まで|行《い》つた|時《とき》は、|来勿止神《くなどめのかみ》が|沢山《たくさん》の|手下《てした》を|引連《ひきつ》れ、|固《かた》く|守《まも》つて|居《ゐ》る。|俺《おれ》はモウ|此《この》|難関《なんくわん》をどうして|突破《とつぱ》しようと|心配《しんぱい》でならなかつた、その|時《とき》お|前《まへ》は|来勿止神《くなどめのかみ》に|向《むか》つて、|強硬《きやうかう》な|談判《だんぱん》をやつたお|蔭《かげ》で、ヤツと|其《その》|場《ば》を|通過《つうくわ》し|高熊山《たかくまやま》の|麓《ふもと》まで|泳《およ》ぎつく|様《やう》にして|駆《か》けつけて、ヤアこれでこつちのものだと|安心《あんしん》して|居《ゐ》る|最中《さいちう》へ、|神国守《みくにもり》の|神《かみ》が|国依姫《くによりひめ》とか|云《い》ふ|女房《にようばう》を|連《つ》れて|其《その》|場《ば》に|現《あら》はれ、|俺達《おれたち》を|睨《にら》んだ|時《とき》の|其《その》|形相《ぎやうさう》の|凄《すさま》じさ、|今《いま》|思《おも》つてもゾツとするよ』
|谷丸《たにまる》『|併《しか》し|乍《なが》らイロイロと|得意《とくい》の|弁舌《べんぜつ》を|以《もつ》て、|此《この》|関所《せきしよ》をウマく|切《き》り|抜《ぬ》け、|両人《りやうにん》が|岩窟《がんくつ》の|前《まへ》に|行《い》つた|所《ところ》、|目的物《もくてきぶつ》の|言照姫《ことてるひめ》も|玉照彦《たまてるひこ》さまも、お|姿《すがた》は|見《み》えず、イロイロと|岩窟内《がんくつない》を|探険《たんけん》する|最中《さいちう》、|赤児《あかご》の|泣《な》き|声《ごゑ》が|耳《みみ》に|這入《はい》つた|時《とき》の|嬉《うれ》しさ、|臍《へそ》の|緒《を》|切《き》つてから、あの|時《とき》|位《くらゐ》|愉快《ゆくわい》な|事《こと》はなかつたなア』
|鬼丸《おにまる》『お|蔭《かげ》で|玉照彦《たまてるひこ》|様《さま》は|奉迎《ほうげい》して|帰《かへ》つたが、|女神《めがみ》の|様《やう》な|立派《りつぱ》なお|姿《すがた》の|母親《ははおや》と|聞《き》いて|居《ゐ》た|言照姫《ことてるひめ》は、|皆目《かいもく》|影《かげ》を|見《み》せなかつたぢやないか』
|谷丸《たにまる》『|吾々《われわれ》の|威勢《ゐせい》に|恐《おそ》れて|遁走《とんそう》して|了《しま》つたのだ。|併《しか》し|腹《はら》は|借《か》り|物《もの》、|玉照彦《たまてるひこ》|様《さま》の|蝉《せみ》の|脱殻《ぬけがら》も|同然《どうぜん》だ。|肝腎《かんじん》の|本尊《ほんぞん》を|手《て》に|入《い》れて|帰《かへ》つたのだから、|言照姫《ことてるひめ》なんかどうでも|良《い》いぢやないか』
と|玉照彦《たまてるひこ》を|大切《たいせつ》に|傍《かたはら》に|休《やす》ませ|乍《なが》ら、|一方《いつぱう》に|窺《うかが》ふ|人《ひと》|有《あ》りとも|知《し》らず、|嬉《うれ》しさの|余《あま》り|声《こゑ》|高々《たかだか》と|囁《ささや》いて|居《を》る。|此方《こなた》の|木蔭《こかげ》に|身《み》を|潜《ひそ》めた|二人《ふたり》、
コロンボ『コレ、テルヂーよ、|遥々《はるばる》と|常世《とこよ》の|国《くに》からやつて|来《き》て|功名《こうみやう》を|現《あら》はし、ウラル|教《けう》を|昔《むかし》の|勢《いきほひ》に|回復《くわいふく》しようと|思《おも》つたのに、バラモン|教《けう》の|奴《やつ》に|先《せん》を|越《こ》されて|詰《つま》らぬぢやないか。|何《なん》とかして|此方《こちら》の|方《はう》へボツたくる|手段《しゆだん》はあるまいかなア』
テルヂー『さうじやなア、|向《むか》ふはどうやら|二人《ふたり》らしい。|此方《こちら》もヤツパリ|二人《ふたり》だ。|何《なん》とかして、|一《ひと》つ|脅《おど》かし、|玉照彦《たまてるひこ》|様《さま》をウマく|手《て》に|入《い》れる|工夫《くふう》を|廻《めぐ》らさねばなるまい。|現在《げんざい》|五六間《ごろくけん》|眼《め》の|前《まへ》に、|肝腎《かんじん》の|玉《たま》が|輝《かがや》いて|居《を》るのだから、|成功《せいこう》|不成功《ふせいこう》は|後《あと》の|問題《もんだい》として、|吾々《われわれ》としては|此《この》|儘《まま》|帰《かへ》る|事《こと》は|出来《でき》ないなア』
コロンボ『|併《しか》し|今《いま》の|彼奴《あいつ》の|話《はなし》で|聞《き》けば、|来勿止神《くなどめのかみ》が|沢山《たくさん》な|部下《ぶか》を|連《つ》れて、|厳守《げんしゆ》して|居《ゐ》た|山口《やまぐち》の|関所《せきしよ》も、モ|一《ひと》つ|奥《おく》の|神国守《みくにもり》の|関所《せきしよ》も、|巧《うま》く|突破《とつぱ》した|位《くらゐ》な|奴《やつ》だから、|中々《なかなか》|力《ちから》の|強《つよ》い|奴《やつ》に|違《ちが》ひないぞ。|吾々《われわれ》の|様《やう》に|長途《ちやうと》の|旅《たび》で|疲労《くたび》れきつた|肉弾《にくだん》を|以《もつ》て|打向《うちむか》ふた|所《ところ》で|到底《たうてい》|駄目《だめ》だ。|何《なん》とか|奇計《きけい》を|廻《めぐ》らすより|仕方《しかた》がない。……オイ、テルヂーの|哥兄《あにい》お|前《まへ》|何《なに》か|良《い》い|考《かんが》へは|湧《わ》いて|来《こ》ぬかなア』
テルヂー『|何《いづ》れ|此《この》|路《みち》を|通《とほ》つて|帰《かへ》るのだから、|中途《ちうと》に|待《ま》ち|受《う》けて、|何《なん》とかやらうぢやないか。あまりヒソビソ|話《ばなし》をやつて|居《ゐ》て、|敵《てき》に|悟《さと》られては|一大事《いちだいじ》だ。サア|俺《おれ》に|随《つ》いて|来《こ》い』
と|足音《あしおと》を|忍《しの》ばせ、|腰《こし》を|屈《かが》め、|這《は》ふ|様《やう》にして|此《この》|場《ば》を|後《あと》に、|元《もと》|来《き》し|道《みち》へ|引返《ひきかへ》し、|堺峠《さかひたうげ》の|山麓《さんろく》に|帰《かへ》り|着《つ》いた。
テルヂー『|何時《なんどき》バラモン|教《けう》の|奴《やつ》が|帰《かへ》つて|来《く》るか|知《し》れないから、|早《はや》く|計略《けいりやく》をめぐらさねばならぬ、|俺《おれ》は|此《この》|老木《らうぼく》に|攀登《よぢのぼ》り、|松《まつ》の|枝《えだ》をザアザアと|揺《ゆす》つて、|天狗《てんぐ》の|声色《こはいろ》を|使《つか》ふから、|貴様《きさま》は|灌木《くわんぼく》の|茂《しげ》みに|身《み》を|隠《かく》し、|二人連《ふたりづ》れの|奴《やつ》がビツクリして|腰《こし》を|抜《ぬ》かした|隙《すき》を|考《かんが》へ、|玉照彦《たまてるひこ》さまをソツと|抱《だ》きあげ、|堺峠《さかひたうげ》の|天狗岩《てんぐいは》の|側《そば》まで|逃《に》げて|呉《く》れ、そうすれば|成功《せいこう》|屹度《きつと》|疑《うたがひ》|無《な》しだ』
コロンボ『|兄貴《あにき》の|計画《けいくわく》も|一寸《ちよつと》|聞《き》くと|面白《おもしろ》いが、しかし|当事《あてごと》と|牛《うし》のオモガイは|先《さき》から|外《はづ》れるとか|云《い》つて、|危《あぶ》ない|芸当《げいたう》だなア、|罷《まか》り|違《ちが》へば|高《たか》い|木《き》の|上《うへ》から|滑走《くわつそう》して、|腰《こし》を|抜《ぬ》くか、|脚《あし》の|骨《ほね》を|折《を》る|位《くらゐ》が|結末《おち》かも|知《し》れないよ』
テルヂー『エヽまだ|松《まつ》の|木《き》に|登《のぼ》らぬ|間《うち》から、|落《お》ちるの、|落《お》ちぬのつて、せうもない|事《こと》|言《い》ふな。|俺《おれ》の|計略《けいりやく》に|一《ひと》つとして|今迄《いままで》|欠点《おちど》があつたかい』
コロンボ『|天道様《てんだうさま》の|弔《とむら》ひだ、|空葬《そらさう》だ』
テルヂー『エー|又《また》|怪体《けつたい》の|悪《わる》い|事《こと》を|云《い》ふ|奴《やつ》だ。これから|高《たか》い|木《き》へ|登《のぼ》らうと|思《おも》つて|居《を》るのに、|空葬《そらさう》だなんて、|又《また》しても|縁起《えんぎ》の|悪《わる》いことを|言《い》ふ|奴《やつ》だなア。|併《しか》しながら、|何時《なんどき》|帰《かへ》つて|来《く》るか|知《し》れない。|早《はや》く|計画《けいくわく》に|取《と》りかからう。…………|俺《おれ》は|貴様《きさま》に|妙《めう》な|言霊《ことたま》を|使《つか》はれたから、|今日《けふ》は|遠慮《ゑんりよ》して|置《お》く。|罰金《ばつきん》として|貴様《きさま》が|木登《きのぼ》り|役《やく》だ。うまく|天狗《てんぐ》の|言霊《ことたま》を|使《つか》ふのだよ』
コロンボ『|兄貴《あにき》、|俺《おれ》の|木登《きのぼ》りの|拙劣《へた》なのは、|常《つね》から|能《よ》く|知《し》つて|居《を》るぢやないか。そんな|事《こと》|言《い》はずに、お|前《まへ》|上役《うはやく》だから、ヤツパリ|上《うへ》の|役《やく》をして|呉《く》れ。|俺《おれ》は|下役《したやく》を|務《つと》める。こんな|挽臼《ひきうす》の|様《やう》な|重《おも》たい|体《からだ》で|木登《きのぼ》りをして|踏《ふ》み|外《はづ》し、|地上《ちじやう》へスツテンコロンボーとやつては、それこそ|大変《たいへん》だ。サアサア|一《ひ》イ|二《ふ》ウ|三《みつ》ツだ』
テルヂー『エー|仕方《しかた》がない。|勇将《ゆうしやう》の|下《もと》に|弱卒《じやくそつ》|有《あ》り。これも|俺《おれ》の|型《かた》が|悪《わる》いのだ』
と|猿《ましら》の|如《ごと》く、|大木《たいぼく》の|幹《みき》をかかへて、|樹上《じゆじやう》|高《たか》く|駆登《かけのぼ》つた。
コロンボ『オーイ、|兄貴《あにき》、どこに|居《を》るのだ』
テルヂー『|馬鹿《ばか》ツ、|大《おほ》きな|声《こゑ》で|物《もの》を|言《い》うと、そこいらへ|近寄《ちかよ》つて|来《く》る|二人《ふたり》の|奴《やつ》に|聞《きこ》えると|大変《たいへん》だぞ。チツと|静《しづ》かにせぬかい』
コロンボ『|併《しか》し|作戦《さくせん》|計画《けいくわく》を、|俺《おれ》に|充分《じゆうぶん》|教《をし》へて|置《お》かないものだから、どう|方針《はうしん》を|採《と》つたら|良《よ》いかサツパリ|暗雲《やみくも》だ』
テルヂー『|暗雲《やみくも》だから|結構《けつこう》だ。|幸《さいは》ひ|雪雲《ゆきぐも》の|空《そら》、|円《まる》いお|月《つき》さまも|見《み》えず、ボンヤリと|其処《そこ》らが|暗《くら》いので、|此《この》|芸当《げいたう》がうてるのだ。グヅグヅして|居《を》ると|発覚《はつかく》するぞ。モウ|良《い》い|加減《かげん》|沈黙《ちんもく》せい』
コロンボ『アヽさぶしい|事《こと》だ。なんだ|白《しろ》い|手《て》を|出《だ》して|招《まね》いて|居《ゐ》やがるぞ。いやらしい|事《こと》だなア……………オイ|何《なん》だか|厭《いや》らしい|奴《やつ》が、|細《ほそ》い|白《しろ》い|手《て》を|出《だ》して、|俺《おれ》を|招《まね》いて|居《を》るワイ。|俺《おれ》も|何《なん》とかして|兄貴《あにき》の|側《そば》へ|登《のぼ》つて|行《ゆ》かうかなア』
テルヂー『エー|臆病者《おくびやうもの》の、|気《き》の|利《き》かぬ|奴《やつ》つたら|仕方《しかた》がない。|俺《おれ》の|側《そば》に|居《を》れば|随分《ずゐぶん》|強《つよ》さうな|事《こと》を|言《い》ひ、|立派《りつぱ》な|智慧《ちゑ》も|出《だ》しやがる|癖《くせ》に、|一人《ひとり》になると|直《す》ぐ|怖《おぢ》けやがつて……グヅグヅ|言《い》うてると|帰《かへ》つて|来《く》るぞ。|白《しろ》い|手《て》を|出《だ》して|招《まね》く|様《やう》に|見《み》えたのは、それは|枯尾花《かれをばな》だ。|昔《むかし》から……|幽霊《いうれい》の|正体《しやうたい》|見《み》たり|枯尾花《かれをばな》……と|云《い》ふ|事《こと》がある。チツと|臍下丹田《せいかたんでん》に|魂《たましひ》を|据《す》ゑて……|千騎一騎《せんきいつき》の|場合《ばあひ》だ。|奮闘《ふんとう》して|呉《く》れないと|困《こま》るぢやないか』
コロンボ『エー|仕方《しかた》がない。|木《き》の|茂《しげ》みへ|隠《かく》れて|居《を》らうかなア』
とコワゴワ|枯尾花《かれをばな》の|中《なか》に|身《み》を|隠《かく》し|慄《ふる》うて|居《ゐ》る。|斯《か》かる|所《ところ》へ|鬼丸《おにまる》、|谷丸《たにまる》の|両人《りやうにん》は、|玉照彦《たまてるひこ》を|恭《うやうや》しく|抱《いだ》き|乍《なが》ら|進《すす》み|来《きた》り、
|鬼丸《おにまる》『オイ|谷丸《たにまる》、|何《なん》だか|妙《めう》な|声《こゑ》がして|居《ゐ》たぢやないか。|三五教《あななひけう》の|奴《やつ》が|吾々《われわれ》の|行動《かうどう》を|探知《たんち》し、|玉照彦《たまてるひこ》|様《さま》を|横領《わうりやう》に|来《き》たのぢやありますまいか』
|谷丸《たにまる》『そうだ、|人間《にんげん》の|声《こゑ》らしかつた。|一人《ひとり》や|二人《ふたり》|来《き》たつて|構《かま》はぬが、|大勢《おほぜい》だと|一寸《ちよつと》|面倒《めんだう》だ、|此方《こちら》は|玉照彦《たまてるひこ》|様《さま》をお|守《まも》りせにやならず、さうすれば、|敵《てき》に|向《むか》つて|奮闘《ふんとう》する|者《もの》は|唯《ただ》の|一人《ひとり》だ。そつと……|失礼《しつれい》だが……|玉照彦《たまてるひこ》|様《さま》に|此《この》|叢《くさむら》に|御休息《ごきうそく》を|願《ねが》つて、|二人《ふたり》で|様子《やうす》を|考《かんが》へる|事《こと》にしようではないか』
|鬼丸《おにまる》『それでも、|玉照彦《たまてるひこ》|様《さま》がホギヤア ホギヤアとでも|仰有《おつしや》らうものなら|大変《たいへん》だぞ』
|谷丸《たにまる》『|玉照彦《たまてるひこ》|様《さま》、|誠《まこと》に|申訳《まをしわけ》が|御座《ござ》いませぬが、|一寸《ちよつと》|暫《しばら》くの|間《あひだ》|此処《ここ》にお|休《やす》み|下《くだ》さいませ。|必《かなら》ず|必《かなら》ず|御声《おこゑ》をお|発《た》てにならない|様《やう》にお|願《ねが》ひ|致《いた》します』
と|恭《うやうや》しく|蓑《みの》を|敷《し》き、|其《その》|上《うへ》に|笠《かさ》を|蔽《おほ》ひ、|木《き》の|枝《えだ》を|折《を》つて|載《の》せ、
|谷丸《たにまる》『サアもう|是《こ》れで|大丈夫《だいぢやうぶ》だ。|事《こと》|急《きふ》なれば、|一時《いちじ》|逃《に》げる|事《こと》にせなくてはならぬが、|両人《りやうにん》が|此《この》|山中《さんちう》で|散《ち》り|散《ぢ》りバラバラになつて|了《しま》つては|困《こま》るから、|落《お》ち|着《つ》く|所《ところ》を|定《き》めて|置《お》かう。………|堺峠《さかひたうげ》の|天狗岩《てんぐいは》の|前《まへ》だぞ。|良《い》いか………』
|鬼丸《おにまる》『ハイハイ|承知《しようち》|致《いた》しました』
|両人《りやうにん》は|四辺《あたり》を|窺《うかが》ひ|乍《なが》ら、ノソ……ノソと|握《にぎ》り|拳《こぶし》を|固《かた》めて、|大木《たいぼく》の|下《もと》に|進《すす》んで|来《き》た。コロンボは|草《くさ》の|中《なか》から|樹上《じゆじやう》を|眺《なが》め、|妙《めう》な|声《こゑ》を|出《だ》し、
コロンボ『イ………マ………ジヤ………』
|谷丸《たにまる》『ヤア|何《なん》だか|妙《めう》な|声《こゑ》がするぞ。|鹿《しか》でもなし、|虫《むし》でもなし、|鳥《とり》の|声《こゑ》でもなし、|怪体《けつたい》な|亡国的《ばうこくてき》|悲調《ひてう》を|帯《お》びた、|奇声《きせい》|怪音《くわいおん》だないか』
|鬼丸《おにまる》『イ……ヤ……ラ……シイ………』
|谷丸《たにまる》『オイ|鬼丸《おにまる》、|貴様《きさま》までが、イ……なんて、|何《なに》を|言《い》ふのだ。シツカリせんかい。|俺《おれ》が|附《つ》いて|居《を》る|以上《いじやう》は、|百万人力《ひやくまんにんりき》ぢや。シツカリ|胴《どう》を|据《す》ゑるのだぞ』
|忽《たちま》ち|樹上《じゆじやう》より、
『ザア ザア ザア、ウーツ、|其《その》|方《はう》は|大江山《おほえやま》の|悪神《あくがみ》の|残党《ざんたう》であらうがな。|不都合《ふつがふ》|千万《せんばん》な、|高熊山《たかくまやま》の|神山《しんざん》に|立《た》ち|入《い》り|玉照彦《たまてるひこ》|様《さま》を|奪《うば》つて|帰《かへ》る|横道者《わうだうもの》、|今《いま》|高熊山《たかくまやま》の|大天狗《だいてんぐ》が|汝《なんぢ》の|素《そ》ツ|首《くび》|引抜《ひきぬ》き、|股《また》から|裂《さ》いて|松《まつ》の|木《き》の|枝《えだ》に|懸《か》けてやらう。それが|叶《かな》はぬとあれば|今《いま》|其《その》|方《はう》が|懐《ふところ》に|抱《だ》いて|居《を》る|玉照彦《たまてるひこ》|様《さま》を、|此《この》|木《き》の|下《した》にソツとおろし|一時《いつとき》も|早《はや》く|此《この》|場《ば》を|立去《たちさ》れツ』
|谷丸《たにまる》『|何《なん》だ、|怪体《けつたい》な|天狗《てんぐ》も|有《あ》れば|有《あ》るものぢやないか。|天狗《てんぐ》と|云《い》ふ|奴《やつ》は、|千里《せんり》|向《むか》うの|事《こと》でも|知《し》つとる|筈《はず》だ。|玉照彦《たまてるひこ》|様《さま》を|懐《ふところ》からソツと|出《だ》せと|吐《ぬか》しやがる。|此奴《こいつ》ア|木葉天狗《こつぱてんぐ》か|野天狗《のてんぐ》だらう。………ヤイ|樹上《じゆじやう》の|野天狗《のてんぐ》、|木葉天狗《こつぱてんぐ》、|馬鹿《ばか》な|真似《まね》を|致《いた》すと、|此《この》|方《はう》が|反対《あべこべ》に|股《また》から|引裂《ひきさ》いてやらうか』
|鬼丸《おにまる》『モシモシ|谷丸《たにまる》さま、そんな|途方《とはう》もない|事《こと》を|言《い》ふものぢや|有《あ》りませぬ。こんな|大木《たいぼく》に|棲《す》まつて|御座《ござ》る|天狗《てんぐ》に、|相手《あひて》になつて|堪《たま》りますか………モシモシ|樹上《じゆじやう》の|天狗様《てんぐさま》、|私《わたくし》の|大将《たいしやう》は|一寸《ちよつと》|酒《さけ》に|酔《よ》うて|居《を》りますから、どうぞ|御見《おみ》のがし|下《くだ》さいませ。これは|酒《さけ》が|言《い》つたので|御座《ござ》います』
|谷丸《たにまる》『エー|何《なに》をゴテゴテ|言《い》ふのだ。……オイ|樹上《じゆじやう》の|天狗《てんぐ》、シツカリ|聞《き》け、|吾《わ》れこそはバラモン|教《けう》の|大棟梁《だいとうりやう》|鬼雲彦《おにくもひこ》が|懐刀《ふところがたな》と|綽名《あだな》を|取《と》つた|谷丸《たにまる》ぢやぞツ。|野天狗《のてんぐ》の|千疋《せんびき》|万疋《まんびき》は|此《この》|方《はう》に|取《と》つては|河童《かつぱ》のこいた|屁《へ》|程《ほど》にも|感《かん》じないのだ。サア|早《はや》く|木《き》から|下《お》りて|来《き》て|此《この》|方《はう》の|前《まへ》に|謝罪《おわび》を|致《いた》さぬか』
|樹上《じゆじやう》|又《また》もや、
『ザワザワザワ、ウ………ツ』
|鬼丸《おにまる》『モシモシ|天狗様《てんぐさま》、どうぞ|赦《ゆる》して|下《くだ》さいませ』
|草《くさ》の|中《なか》よりコロンボは、
コロンボ『モシモシ|谷丸《たにまる》さま、どうぞ|生命《いのち》ばかりはお|助《たす》け|下《くだ》さいませ。|序《ついで》に|天狗《てんぐ》も|助《たす》けてやつて|下《くだ》さい、アンアンアン』
|谷丸《たにまる》『ヤア|何《なん》だ。|鬼丸《おにまる》、|貴様《きさま》|余程《よつぽど》|怖《こわ》いと|見《み》えるな。|副守《ふくしゆ》の|奴《やつ》、|貴様《きさま》の|体《からだ》から|飛《と》び|出《だ》しやがつたと|見《み》えて、|萱《かや》の|中《なか》に|隠《かく》れて、|見《み》つともない、|泣《な》いて|居《を》るぢやないか』
|鬼丸《おにまる》『こんな|恐《おそ》ろしい、|魂《こん》|飛《と》び|魄《はく》|消《き》えると|云《い》ふ|様《やう》な|目《め》に|会《あ》うたのだもの、|副守護神《ふくしゆごじん》も|飛《と》び|出《だ》しませうかい。モウモウどうぞ|我《が》を|出《だ》さぬ|様《やう》にお|鎮《しづ》まり|下《くだ》さいませ。あなたの|副守護神《ふくしゆごじん》も|随分《ずゐぶん》|乱暴《らんばう》です。どうぞ|副守護神《ふくしゆごじん》さま、お|静《しづ》まりを|願《ねが》ひます。………コレ|此《この》|通《とほ》り|手《て》を|合《あは》して|拝《をが》みます。アンアンアン』
コロンボ『オンオンオン』
とソロソロ|勢《いきほひ》が|付《つ》いたと|見《み》えて、|狼泣《おほかみな》きを|始《はじ》めたり。
|鬼丸《おにまる》『アーア|上《うへ》には|天狗《てんぐ》、|下《した》には|狼《おほかみ》、コラまア、どうしたら|宜《よ》からうかなア』
この|時《とき》テルヂーは、どうした|機《はづ》みか、|足《あし》|踏《ふ》み|外《はづ》し、|風《かぜ》を|切《き》つて『ズーズドン』と|真逆様《まつさかさま》に|落《お》ち|来《きた》りぬ。|鬼丸《おにまる》は『キヤツ』と|云《い》つて|腰《こし》を|抜《ぬ》かす。|谷丸《たにまる》は|一生懸命《いつしやうけんめい》、|此《この》|光景《くわうけい》に|面喰《めんくら》つたか、もと|来《き》し|道《みち》に|引返《ひきかへ》し、|玉照彦《たまてるひこ》を|引抱《ひつかか》へ、|天狗岩《てんぐいは》|指《さ》して|茨《いばら》|茂《しげ》れる|密林《みつりん》を、|遮二無二《しやにむに》|掻《か》き|分《わ》けて|行《ゆ》く。コロンボは、
『|生命《いのち》あつての|物種《ものだね》、|予《かね》ての|約束《やくそく》|天狗岩《てんぐいは》だ。|兄貴《あにき》、|後《あと》から|続《つづ》けツ』
と|言葉《ことば》を|残《のこ》し、|一生懸命《いつしやうけんめい》に|駆出《かけだ》す。
|鬼丸《おにまる》『アーア|何《なん》だ、|天狗《てんぐ》の|奴《やつ》、|木《き》から|落《お》ちて|目《め》を|暈《まは》して|居《ゐ》やがるな。ヤアこれでヤツと|安心《あんしん》した。………ヨウ|腰《こし》が|抜《ぬ》けたと|思《おも》へば、まだ|腰抜《こしぬ》けの|未成品《みせいひん》だ。|天狗岩《てんぐいは》さして|一散走《いちさんばし》りだ』
と|又《また》も|駆出《かけだ》す。
テルヂー『アーア、あまり|下《した》の|活劇《くわつげき》が|面白《おもしろ》いので、|枝《えだ》の|端《はし》へ|行《い》つて、|一生懸命《いつしやうけんめい》に|覗《のぞ》いて|居《を》つたら、|何時《いつ》の|間《ま》にか、|斯《こ》んな|所《ところ》へ|墜落《つゐらく》して|居《ゐ》る。|一寸《ちよつと》……コラ|目《め》を|暈《まは》して|居《ゐ》たと|見《み》えるワイ。…………オイ、コロンボ、|俺《おれ》だ|俺《おれ》だ……ヤア、コロンボの|奴《やつ》|天狗岩《てんぐいは》へ|行《ゆ》きよつたと|見《み》える。……ドーレ|彼奴《あいつ》を|捜索《そうさく》|旁《かたがた》|行《い》つてやらうかなア。それにしてもバラモン|教《けう》の|奴等《やつら》、|俺達《おれたち》の|目《め》をまはしとる|間《ま》に、|巧《うま》く|関所《せきしよ》を|通過《つうくわ》しよつたと|見《み》える……エー|残念《ざんねん》だが|仕方《しかた》がない』
と|地団駄《ぢだんだ》を|踏《ふ》みつつ、|叢《くさむら》の|中《なか》を|峠《たうげ》の|上《うへ》の|天狗岩《てんぐいは》さして、|又《また》もや|登《のぼ》り|行《ゆ》く。コロンボは|漸《やうや》くにして、|朧月夜《おぼろづきよ》を|便《たよ》りに、|目的《もくてき》の|天狗岩《てんぐいは》の|傍《かたはら》に|登《のぼ》り|着《つ》いた。|樹木《じゆもく》|繁茂《はんも》して|暗《くら》く、|岩《いは》のみ|白《しろ》く|闇《やみ》に|浮《う》き|出《で》て|居《ゐ》る。
コロンボ『アヽこれが|目的《もくてき》の|天狗岩《てんぐいは》だ、|名高《なだか》い|割《わり》には|見映《みば》えのせぬ|巨岩《きよがん》だなア。|併《しか》し|乍《なが》ら|俄天狗《にはかてんぐ》のテルヂーは、どうしとるだらうか。|本当《ほんたう》に、|偉《えら》い|奴《やつ》が|来《き》やがつて、|反対《あべこべ》に|荒胆《あらぎも》を|取《と》つて|了《しま》ひよつた。スツテの|事《こと》で|睾丸《きんたま》の|洋行《やうかう》する|所《ところ》だつた。……アーア|早《はや》く|来《き》て|呉《く》れれば|好《い》いのに……|寂《さび》しい|事《こと》だ。……そうして|玉照彦《たまてるひこ》|様《さま》はウマく|手《て》に|入《い》つたか|知《し》らぬテ』
と|一人《ひとり》|呟《つぶや》いて|居《ゐ》る。|其処《そこ》へノソノソと|白《しろ》い|物《もの》を|抱《かか》へてやつて|来《き》た|一人《ひとり》の|男《をとこ》、
コロンボ『ヤアうまく|玉照彦《たまてるひこ》|様《さま》が|手《て》に|入《い》つて|結構《けつこう》でした。|私《わたし》は|大変《たいへん》に|心配《しんぱい》|致《いた》しました』
|谷丸《たにまる》『なんだ、お|前《まへ》は|声《こゑ》まで|嗄《か》らして|居《を》るぢやないか。|胴《どう》の|据《す》わらぬ|奴《やつ》ぢやなア。……|玉照彦《たまてるひこ》|様《さま》を|渡《わた》して|堪《たま》るものかい。|此《この》|通《とほ》りチヤンと|懐《ふところ》に|奉按《ほうあん》して|居《を》るのだ』
コロンボ『それはそれは|結構《けつこう》でした。|流石《さすが》|大将《たいしやう》だけありますワイ』
|谷丸《たにまる》『|定《きま》つた|事《こと》だよ。|貴様《きさま》の|様《やう》に|泣声《なきごゑ》を|出《だ》して|慄《ふる》うとるのはチツと|違《ちが》ふのだから』
コロンボ『|併《しか》し|天狗《てんぐ》の|失敗《しつぱい》はどうでした。|別状《べつじやう》は|有《あ》りませぬかい』
|谷丸《たにまる》『ウン|天狗《てんぐ》の|失敗《しつぱい》か。|彼奴《あいつ》ア|一寸《ちよつと》|乙《おつ》だつた。|併《しか》し|乍《なが》ら|肝腎《かんじん》の|玉照彦《たまてるひこ》さまに|別状《べつじやう》は|無《な》いのだから、マア|安心《あんしん》せい』
コロンボ『ハイ|有難《ありがた》う|御座《ござ》います。………あなたもチツトお|声《こゑ》がどうかなさいましたなア』
|谷丸《たにまる》『ウンあまり|俄《にはか》の|出来事《できごと》で、|一寸《ちよつと》|面喰《めんくら》つたものだから、どうで|声《こゑ》も|変《かは》らうかい。|三五教《あななひけう》の|奴《やつ》が|鵜《う》の|目《め》|鷹《たか》の|目《め》で|考《かんが》へて|居《を》るのだから、チツとも|油断《ゆだん》は|出来《でき》ないぞ』
コロンボ『|御尤《ごもつと》もです。ヤツパリ|哥兄《あにい》は|哥兄《あにい》だ。|何《なに》から|何《なに》まで|抜目《ぬけめ》が|有《あ》りませぬなア』
|谷丸《たにまる》『|定《きま》つた|事《こと》だよ』
|話《はなし》かはつてテルヂーは、|峠《たうげ》の|七八合目《しちはちがふめ》まで|登《のぼ》り|着《つ》き、|路傍《ろばう》の|岩《いは》に|腰打掛《こしうちか》け|息《いき》を|休《やす》めて|居《ゐ》る。そこへ|鼻息《はないき》|荒《あら》く|上《あが》つて|来《き》た|一人《ひとり》の|男《をとこ》、
|男《をとこ》『ヤア|哥兄《あにい》、イヤ|参謀長《さんぼうちやう》、|玉照彦《たまてるひこ》はどうだつた。うまくい|来《き》ましたかな』
テルヂー『|貴様《きさま》が|卑怯《ひけふ》な、|下《した》の|方《はう》から|泣《な》き|声《ごゑ》を|出《だ》しよるものだから、|到頭《たうとう》|目的物《もくてきぶつ》をシテやられて|了《しま》つたのだ。エー|仕方《しかた》のない|腰抜《こしぬけ》だナア』
|鬼丸《おにまる》『|腰《こし》が|一時《いちじ》|抜《ぬ》けたと|思《おも》つた|丈《だけ》で、ヤツパリ|腰《こし》はもとの|通《とほ》り|大丈夫《だいぢやうぶ》ですよ。|其《その》|点《てん》は|必《かなら》ず|必《かなら》ず|心配《しんぱい》して|下《くだ》さるな。|併《しか》し|折角《せつかく》|此処《ここ》まで|仕組《しぐ》んだ|玉照彦《たまてるひこ》さまを|取逃《とりにが》すとは|残念《ざんねん》な|事《こと》だ。そうだから|上役面《うはやくづら》をして|高上《たかあが》りをするものぢやないと、|何時《いつ》も|言《い》うのですがなア』
テルヂー『|貴様《きさま》さう|言《い》つたつて、ヤツパリ|上役《うはやく》の|務《つと》めが|出来《でき》やせうまいがな。マアマア|生命《いのち》|丈《だけ》|拾《ひろ》つたら|結構《けつこう》だと|思《おも》つて|諦《あきら》めるのだなア』
|此《この》|時《とき》|雪雲《ゆきぐも》を|分《わ》けて|十六夜《じふろくや》の|満月《まんげつ》は、|明皎々《めいかうかう》と|二人《ふたり》の|顔《かほ》を|照《てら》したまふ。
テルヂー『ヤア|貴様《きさま》はコロンボぢやないのか』
|鬼丸《おにまる》『ヤア|貴様《きさま》は|谷丸《たにまる》ぢやないのか』
テルヂー『ウン|進退《しんたい》|維《こ》れ|谷丸《たにまる》ぢや。|何程《なにほど》|月《つき》はテルヂーでも、|吾々《われわれ》の|心《こころ》は|真暗闇《まつくらやみ》だ。|暗闇《くらやみ》|紛《まぎ》れに|頭《あたま》と|尻《しり》を、|何時《いつ》の|間《ま》にか|取《と》つ|換《か》へて|了《しま》つたらしい』
|鬼丸《おにまる》『そんな|事《こと》|仰有《おつしや》つても、|私《わたくし》は|頭《あたま》からシリませぬワイ、アハヽヽハア』
テルヂー『ヤア|貴様《きさま》はバラモン|教《けう》の|奴《やつ》だなア。|貴様《きさま》の|大将《たいしやう》はどうしたのだい』
|鬼丸《おにまる》『サツパリ|婆羅門《ばらもん》だ。|笠《かさ》が|古《ふる》くなれば|新《あたら》しいのと|換《か》へたら|好《い》いのだ。お|前《まへ》、|俺《わし》の|大将《たいしやう》になつて|呉《く》れないか。こんな|山路《やまみち》で|一人《ひとり》になつちや|心《こころ》|寂《さび》しくつて|仕方《しかた》がない』
テルヂー『ウン、なつてやらぬ|事《こと》もない。|頭《あたま》|許《ばか》りで|歩《ある》く|訳《わけ》にも|行《ゆ》かず。………|俺《おれ》も|大切《たいせつ》な|足《あし》をどつかの|谷底《たにそこ》へコロンボーして|了《しま》つたので|困《こま》つて|居《を》るのだ。|合《あ》うたり|叶《かな》うたり。サアこれから|仲善《なかよ》うして|行《ゆ》くのだぞ。|此《この》|俄天狗《にはかてんぐ》に|従《つ》いて|来《こ》い。|貴様《きさま》は|小天狗《こてんぐ》にしてやらう』
|鬼丸《おにまる》『さうすると、お|前《まへ》は|松《まつ》の|木《き》から|墜落《つゐらく》した|天狗《てんぐ》だな。………ヤアもう|解約《かいやく》|致《いた》しませう。アタ|恐《おそ》ろしい、|天狗《てんぐ》と|主従《しゆじゆう》の|縁《えん》を|結《むす》ぶなんて、どんな|祟《たた》りが|来《く》るか|知《し》れたものぢやない』
テルヂー『アハヽヽヽ、|実《じつ》の|処《ところ》、|貴様達《きさまたち》|両人《りやうにん》、うまい|事《こと》をやりよつて、|大原山麓《おほはらさんろく》の|木蔭《こかげ》で、|玉照彦《たまてるひこ》さまを|手《て》に|入《い》れた|自慢話《じまんばなし》をやつて|居《を》つたのを、|俺達《おれたち》|両人《りやうにん》がソツと|拝聴《はいちやう》して、……|此奴《こいつ》|一《ひと》つ|計略《けいりやく》を|以《もつ》て|横奪《わうだつ》せむものと、|俺《おれ》の|家来《けらい》のコロンボと|云《い》ふ|奴《やつ》を、|樹下《じゆか》の|薄原《すすきはら》に|忍《しの》ばせ、|俺《おれ》は|松《まつ》の|木《き》の|上《うへ》に|登《のぼ》つて、|天狗《てんぐ》の|声色《こわいろ》を|使《つか》ひ、|貴様等《きさまら》|両人《りやうにん》を|嚇《おど》かして|目的《もくてき》を|達《たつ》しようと、|一幕《ひとまく》の|芝居《しばゐ》を|行《や》つて|見《み》た|処《ところ》、|貴様《きさま》の|大将《たいしやう》|谷丸《たにまる》が、|非常《ひじやう》に|剛腹《がうばら》な|奴《やつ》で、|此《この》|天狗《てんぐ》も|策《さく》の|施《ほどこ》す|所《ところ》が|無《な》かつたのだ。|実際《じつさい》は|俺《おれ》も|横目《よこめ》|立《た》つ|鼻《はな》の|人間《にんげん》だ、|疑《うたが》ふなら|俺《おれ》の|鼻《はな》を|見《み》い。|一割《いちわり》|低《ひく》い|鼻《はな》だらう』
|鬼丸《おにまる》『アハー、それでヤツと|安心《あんしん》しました。モウ|斯《こ》うなれば、|神《かみ》さまの|道《みち》は|元《もと》は|一株《ひとかぶ》、ウラル|教《けう》とバラモン|教《けう》の|同盟軍《どうめいぐん》を|作《つく》り、|玉照彦《たまてるひこ》|様《さま》の|行衛《ゆくゑ》を|尋《たづ》ね、|三五教《あななひけう》に|一泡《ひとあわ》|吹《ふ》かせてやりませうかい』
テルヂー『それも|宜《よ》からう。|併《しか》し|肝腎《かんじん》の|時《とき》になつて、|俺達《おれたち》に|素《す》ツ|破《ぱ》|抜《ぬ》きを|喰《く》はさぬやうにして|呉《く》れよ』
|鬼丸《おにまる》『それは|三五教《あななひけう》ぢやないが、|刹那心《せつなしん》ですよ。|何時《なんどき》|神界《しんかい》の|御都合《ごつがふ》で、どうなるやら|予測《よそく》す|可《べ》からざるが、|吾々《われわれ》|神《かみ》に|仕《つか》ふる|宣伝使《せんでんし》の|境遇《きやうぐう》、|其《その》|時《とき》はマア|其《その》|時《とき》、|兎《と》も|角《かく》|玉照彦《たまてるひこ》|様《さま》の|行衛《ゆくゑ》を|協心戮力《けふしんりくりよく》|捜査《さうさ》する|事《こと》に|致《いた》しませう。|私《わたし》は|是《こ》れから|一寸《ちよつと》、|天狗岩《てんぐいは》まで|往《い》つて|来《こ》ねばなりませぬ。|約束《やくそく》があるのですから……|併《しか》し|天狗岩《てんぐいは》は|本当《ほんたう》の|天狗《てんぐ》が|出《で》よつたら|困《こま》るから……どうぞテルヂーさま、あなたのお|伴《とも》をさして|下《くだ》さいな』
テルヂー『ハヽヽハア、|巧《うま》い|事《こと》|言《い》やがるなア。|天狗岩《てんぐいは》には|大方《おほかた》|谷丸《たにまる》の|大将《たいしやう》が|玉照彦《たまてるひこ》|様《さま》を|奉按《ほうあん》して|待《ま》つて|居《ゐ》るのだなア』
|鬼丸《おにまる》『サア|其《その》|辺《へん》は|保証《ほしよう》|出来《でき》ませぬが、|抜目《ぬけめ》の|無《な》い|谷丸《たにまる》|先生《せんせい》の|事《こと》だから、|屹度《きつと》|大切《たいせつ》に|保護《ほご》して、|私《わし》の|行《ゆ》くのを|待《ま》つて|居《を》られるでせう』
テルヂー『|谷丸《たにまる》に|会《あ》うたが|最後《さいご》、|俄《にはか》に|又《また》|噪《はし》やぎ|出《だ》して、|俺《おれ》に|三行半《みくだりはん》を|渡《わた》すと|云《い》ふ|計画《けいくわく》だなア』
|鬼丸《おにまる》『イエイエ|斯《こ》うして、あなたと|此処《ここ》で|会《あ》うたのも|神様《かみさま》の|御引合《おひきあは》せでせう。|谷丸《たにまる》の|大将《たいしやう》も|中々《なかなか》【ひらけ】て|居《ゐ》ますよ。|屹度《きつと》|喜《よろこ》んであなたと|提携《ていけい》するに|間違《まちが》ひ|有《あ》りませぬワ』
テルヂー『|俺《おれ》も|実《じつ》は|天狗岩《てんぐいは》へ|行《ゆ》かねばならぬのだ。コロンボが|先《さき》へ|往《い》つて|待《ま》つてる|筈《はず》だから』
|鬼丸《おにまる》『あなたもヤツパリ|天狗岩《てんぐいは》に|御用《ごよう》が|有《あ》るのですか。……ア、そんなら|別《べつ》にあたま|下《さ》げて|頼《たの》むぢやなかつたに……エライ|言霊《ことたま》の|濫費《らんぴ》をしたものだ』
テルヂー『アハヽヽヽ、|現金《げんきん》な|奴《やつ》だなア。|口《くち》に|資本《もと》は|要《い》らぬぢやないか。|何程《なんぼ》|物価《ぶつか》|騰貴《とうき》の|今日《けふ》|此《この》|頃《ごろ》でも、|言霊《ことたま》|丈《だけ》は|無料《むれう》だ。|親《おや》の|讎敵《かたき》でも|討損《うちそこ》なうた|様《やう》に、そう|過《す》ぎこし|苦労《くらう》をするものぢやない……サアサア|行《ゆ》かう』
とテルヂーは|先《さき》に|立《た》つ。|鬼丸《おにまる》はブルブル|慄《ふる》ひ|乍《なが》ら|従《つ》いて|行《ゆ》く。|漸《やうや》く|木下闇《こしたやみ》に|白《しろ》く|浮《う》き|出《で》た|天狗岩《てんぐいは》の|間近《まぢか》になつた。
|鬼丸《おにまる》『モシモシ|谷丸《たにまる》は|来《き》て|居《ゐ》ますかなア。|天狗《てんぐ》を|一疋《いつぴき》|連《つ》れて|来《き》ました』
テルヂー『それ|見《み》たか。|直《すぐ》|噪《はし》やぎやがる』
|谷丸《たにまる》『|誰《たれ》だ。|鬼丸《おにまる》の|作《つく》り|声《ごゑ》を|仕《し》やがつて、|狐《きつね》か|狸《たぬき》か、|但《ただし》はウラル|教《けう》の|奴《やつ》だらう。そんな|手《て》に|乗《の》る|谷丸《たにまる》ぢやないぞ。|俺《おれ》の|部下《ぶか》の|鬼丸《おにまる》は|最前《さいぜん》から|此処《ここ》に|来《き》て|居《ゐ》るのだ。|二人《ふたり》も|鬼丸《おにまる》が|有《あ》つて|堪《たま》るか』
テルヂー『オイ、バラモン|教《けう》の|谷丸《たにまる》とやら、|俺《おれ》はウラル|教《けう》のテルヂーと|云《い》ふ|宣伝使《せんでんし》だ。|玉照彦《たまてるひこ》|様《さま》を、|御無事《ごぶじ》に|奉按《ほうあん》して|来《き》たか』
|谷丸《たにまる》『ナニツ、|貴様《きさま》、|玉照彦《たまてるひこ》|様《さま》の|事《こと》を|尋《たづ》ねてどうする|積《つも》りだ。|仮令《たとへ》|天地《てんち》が|覆《かへ》つても、|貴様等《きさまら》に|渡《わた》すものかい。|天狗《てんぐ》の|化損《ばけそこな》ひ|奴《め》が……』
コロンボ『アヽ、テルヂー、|今《いま》|来《き》たのかい。|私《わたし》は|今迄《いままで》お|前《まへ》だと|思《おも》つて、|一生懸命《いつしやうけんめい》に|話《はな》して|居《を》つた。ア|馬鹿《ばか》らしい』
テルヂー『アハヽヽヽ、エライ|混線《こんせん》したものだなア。|是《こ》れだけ|需要者《じゆえうしや》が|殖《ふ》えて|来《く》ると、|電話交換局《でんわかうくわんきよく》も|大抵《たいてい》ぢやないワイ』
|再《ふたた》び|月《つき》は|皎々《かうかう》と|輝《かがや》き|始《はじ》めた。|四人《よにん》の|顔《かほ》は、|菊石《あばた》まで|見《み》える|様《やう》になつて|来《き》た。
|谷丸《たにまる》『ウラル|教《けう》の|御大将《おんたいしやう》、|是《こ》れも|何《なに》かの|神様《かみさま》の|御引合《おひきあは》せだらう。どうぞ|打解《うちと》けて|仲《なか》ようして|下《くだ》さいや。|併《しか》し|乍《なが》ら|松《まつ》の|木《き》から|墜落《つゐらく》する|事《こと》は|廃《や》めて|下《くだ》さい。|一《ひと》つ|違《ちが》へば、|一《ひと》つより|無《な》い|生命《いのち》を|棒《ぼう》に|振《ふ》らねばなりませぬぞ』
テルヂー『それは|有難《ありがた》う。そんなら|此処《ここ》で|平和《へいわ》|条約《でうやく》を|締結《ていけつ》しませう。|併《しか》し|玉照彦《たまてるひこ》さまは|何方《どちら》の|手《て》に|預《あづか》つたら|良《よ》いのだ、|先決《せんけつ》|問題《もんだい》として、それが|定《き》めたいのだ』
|谷丸《たにまる》『|是《こ》ればつかりは、|御免《ごめん》|蒙《かうむ》りたい。|折角《せつかく》|骨《ほね》|折《を》つて|奉迎《ほうげい》して|来《き》たのだから………ヤア|玉照彦《たまてるひこ》さまは|冷《つめ》たくなつて|居《ゐ》らつしやる。コリヤ|大変《たいへん》だ……ハヽア、あまり|慌《あわて》て|石《いし》と|間違《まちが》へてきたなア。|道理《だうり》でエロウ|重《おも》たくならつしやつたと|思《おも》うて|居《ゐ》た。エーエ|何《なん》の|事《こと》だい』
テルヂー『アハヽヽヽ、|態《ざま》を|見《み》なさい。それだからあまり|慾張《よくば》るものぢやありませぬぞ』
|谷丸《たにまる》『ヤアこりや|大変《たいへん》だ。マ|一遍《いつぺん》|元《もと》の|所《ところ》へ|引返《ひきかへ》して|探《さが》して|来《こ》うかな』
テルヂー『|今度《こんど》は|一《ひ》イ|二《ふ》ウ|三《み》ツで、|先《さき》へ|往《い》つた|者《もの》が|頂《いただ》く|事《こと》にしようかい。お|前《まへ》が|放《ほ》かして|置《お》いたものだから、|棄《ほ》かしたものを|拾《ひろ》ふのは|拾《ひろ》ひ|勝《がち》だ。サア|走《はし》つた|走《はし》つた』
|谷丸《たにまる》『テルヂー、お|前《まへ》から|先《さき》へ|走《はし》りなさい。わしや、ゆつくりと|後《あと》から|探《さが》しに|行《ゆ》きます』
テルヂー『それだと|言《い》つて、お|前《まへ》から|先《さき》へ|往《い》つて|呉《く》れな、|何処《どこ》に|落《おと》してあるか|方角《はうがく》が|分《わか》らぬぢやないか。|谷丸《たにまる》、|御遠慮《ごゑんりよ》は|要《い》らぬ。サアお|前《まへ》からお|先《さき》へお|出《い》でなさいませ、|最後《さいご》の|一秒間《いちべうかん》が|勝負《しようぶ》ぢや』
|谷丸《たにまる》『アハヽヽヽ、うまい|事《こと》|仰有《おつしや》るワイ。お|前《まへ》が|動《いご》かねば、|私《わたし》は|二日《ふつか》でも|三日《みつか》でも|動《いご》かせぬのだい。|人《ひと》を|先頭《せんとう》に|立《た》てて|所在《ありか》を|探《さが》さうと|思《おも》つて……|本当《ほんたう》にウラル|教《けう》の|宣伝使《せんでんし》は、|狡猾《ずる》いなア』
|鬼丸《おにまる》『オイオイ|谷丸《たにまる》、グヅグヅして|居《を》ると、|三五教《あななひけう》の|奴《やつ》が|通《とほ》つて、|拾《ひろ》つて|帰《い》んで|了《しま》ひますで。サア|早《はや》う|往《ゆ》きませう』
|谷丸《たにまる》『エヽ|気《き》の|利《き》かぬ|奴《やつ》ぢやなア。|俺《おれ》が|斯《こ》う|言《い》うて|暇《ひま》|費《い》れてる|間《ま》に、|貴様《きさま》は|場所《ばしよ》を|知《し》つてるのだから、|何《な》んでソツと|何々《なになに》せぬのぢやい。|頓馬《とんま》な|野郎《やらう》だ』
テルヂー『オイ、コロンボ、|鬼丸《おにまる》|君《くん》の|側《そば》をチツトも|離《はな》れちやならぬぞ。キユツと|袖《そで》を|掴《つか》まへて|何処《どこ》へ|行《い》つても|構《かま》はぬ、|往《ゆ》く|所《ところ》へ|従《つ》いて|往《ゆ》くのだ。そして|何々《なになに》を|何々《なになに》して|来《く》るのだ。|良《い》いか』
コロンボ『|承知《しようち》|致《いた》しました。|併《しか》し|鬼丸《おにまる》の|足《あし》が|速《はや》かつたら、どう|致《いた》しませう』
テルジー『|帯《おび》なつと、|足《あし》なつと、|喰《く》らひついて|行《ゆ》くのだ。|気《き》の|利《き》かぬ|奴《やつ》だなア』
|谷丸《たにまる》『アヽもうこうなつちや、|到底《たうてい》|独占《どくせん》する|訳《わけ》にはゆかなくなつて|来《き》た。そんならモウ|仕方《しかた》がない、|共有物《きよういうぶつ》として、ユツクリと|行《ゆ》きませう』
とソロソロ|歩《ある》き|始《はじ》めた。テルヂーは|谷丸《たにまる》の|袖《そで》をグツト|握《にぎ》り|乍《なが》ら、
テルジー『オイ、コロンボ、|鬼丸《おにまる》を|放《はな》しちや|可《い》けないよ』
|谷丸《たにまる》『エーエ|鳥黐桶《とりもちをけ》に|足《あし》を|突《つ》つこんだ|様《やう》なものだ。エライ|所《とこ》でダニが|喰《くら》ひ|付《つ》きやがつて……アヽ|是《こ》れも|何《なに》かの|罪業《めぐり》だらう』
と|面《つら》|膨《ふく》らし|乍《なが》ら、|四本足《しほんあし》の|二組《ふたくみ》は、|堺峠《さかひたうげ》の|麓《ふもと》を|指《さ》して|急《いそ》ぎ|下《くだ》り|行《ゆ》く。
(大正一一・五・九 旧四・一三 松村真澄録)
第一四章 |声《こゑ》の|在所《ありか》〔六五九〕
|谷丸《たにまる》、|鬼丸《おにまる》、テルヂー、コロンボの|四人《よにん》は|堺峠《さかひたうげ》の|天狗岩《てんぐいは》を|後《あと》にし|乍《なが》ら、|山麓《さんろく》の|老松《らうしよう》の|根元《ねもと》を|越《こ》え、|玉照彦《たまてるひこ》の|幼児《えうじ》の|隠《かく》し|場所《ばしよ》に|走《はし》り|着《つ》いた。|谷丸《たにまる》は、|目《め》を|丸《まる》くして、|此処《ここ》|彼処《かしこ》と|探《さが》し|廻《まは》し、|三人《さんにん》は|吾一《われいち》の|功名《こうみやう》せむと、|血眼《ちまなこ》になつて、|谷丸《たにまる》の|行《ゆ》く|後《あと》に|従《したが》ひ、|捜索《そうさく》を|始《はじ》めた。|忽《たちま》ち|聞《きこ》ゆる|赤児《あかご》の|泣《な》き|声《ごゑ》、|谷丸《たにまる》は|立止《たちど》まり、|腕《うで》を|組《く》み、|泣《な》き|声《ごゑ》の|何《いづ》れより|来《きた》るかを|考《かんが》へて|居《ゐ》る。
|谷丸《たにまる》『|慥《たしか》に|此処《ここ》に、お|寝《ね》かせ|申《まを》して|置《お》いた|筈《はず》だ、それに|形跡《けいせき》だに|残《のこ》つてゐないのみならず、|御声《おこゑ》は|聞《きこ》えて|居《ゐ》るがトント|方角《はうがく》が|分《わか》らない。|東《ひがし》に|聞《きこ》える|様《やう》でもあるし、|西《にし》の|様《やう》でもあるし、|西《にし》かと|思《おも》へば|南《みなみ》に|聞《きこ》えるし、|南《みなみ》かと|思《おも》へば、|北《きた》に|聞《きこ》える|様《やう》だし、ハテナ、こいつは、|狐《きつね》の|奴《やつ》、|玉照彦《たまてるひこ》|様《さま》を|啣《くは》へて、|其処中《そこらぢう》を|迂路《うろ》ついて|居《ゐ》やがるのだな、オイ|俺《おれ》は|東《ひがし》を|探《さが》すから、|鬼丸《おにまる》、|貴様《きさま》は|西《にし》の|方《はう》を|探《さが》して|呉《く》れ。そして、テルヂー、コロンボ|二人《ふたり》は、|南《みなみ》、|北《きた》に|手分《てわ》けして|捜索《そうさく》して|下《くだ》さい。|其《その》|代《かは》り|誰《たれ》が|見付《みつ》けても|共有《きよういう》だから|其《その》お|積《つ》もりで|願《ねが》ひますよ』
テルヂー『|其《その》|約束《やくそく》は|間違《まちが》ひありませぬなア。イヤ|面白《おもしろ》い。さあコロンボ、|貴様《きさま》は|南《みなみ》に|行《ゆ》け、|俺《おれ》は|北《きた》の|方《はう》を|探《さが》して|見《み》る』
|不思議《ふしぎ》にも、|幼児《えうじ》の|泣声《なきごゑ》は、|谷丸《たにまる》の|耳《みみ》には|東《ひがし》に|最《もつと》も|高《たか》く|聞《きこ》えて|来《く》る。|鬼丸《おにまる》には|西《にし》の|方《はう》に|聞《きこ》える。コロンボの|耳《みみ》には|南《みなみ》に|聞《きこ》える。テルヂーの|耳《みみ》には|慥《たしか》に|北《きた》の|方《はう》から|聞《きこ》えて|来《く》る。
|四人《よにん》は|東西南北《とうざいなんぼく》に、|慌《あはただ》しく、|声《こゑ》を|尋《たづ》ねて|駆《か》け|出《だ》した。|四人《よにん》の|耳《みみ》に|聞《きこ》ゆる|猛烈《まうれつ》な|泣《な》き|声《ごゑ》、|各自《かくじ》|前後左右《ぜんごさいう》より|響《ひび》いて|来《く》る。|四人《よにん》は|其《その》|声《こゑ》に、|耳《みみ》を|引張《ひつぱ》られる|様《やう》に、|体《からだ》をキリキリ|舞《ま》ひさせ、|目《め》を|廻《まは》して|四人《よにん》|共《とも》、バタリと|倒《たふ》れた。|一時《いつとき》|許《ばか》り|四人《よにん》の|呼《よ》ぶ|声《こゑ》も、|風《かぜ》の|音《おと》も|鎮《しづ》まり|閑寂《かんじやく》の|幕《まく》が|下《お》ろされた。|夜《よ》はそろそろと|明《あ》け|放《はな》れ、|東《ひがし》の|空《そら》の|雲《くも》|押《お》し|分《わ》けて|昇《のぼ》り|給《たま》ふ|天津日《あまつひ》の|御影《みかげ》に|照《てら》され、|各《おのおの》|一度《いちど》に|目《め》を|醒《さま》せば、|豈《あに》|計《はか》らむや、|四人《よにん》は|天狗岩《てんぐいは》の|根元《ねもと》にヅブ|濡《ぬ》れになつて|眠《ねむ》りゐたりき。
|谷丸《たにまる》『アヽ|何《なん》だ、|夢《ゆめ》|見《み》て|居《ゐ》たのか、|矢張《やつぱり》|天狗岩《てんぐいは》の|傍《そば》だから|鼻高《はなだか》の|奴《やつ》、|俺達《おれたち》を|一寸《ちよつと》チヨロマカしやがつたのだな。それにしても、|肝腎《かんじん》の、|玉照彦《たまてるひこ》|様《さま》は|何処《どこ》にお|出《い》でになつたのだらう。アヽ|此処《ここ》に|御座《ござ》つた、|有難《ありがた》い|有難《ありがた》い、|玉照彦《たまてるひこ》|様《さま》どうぞ|許《ゆる》して|下《くだ》さいませ。|貴方《あなた》お|一人《ひとり》をこんな|岩《いは》の|上《うへ》に、|御寝《おね》かし|申《まを》し、|吾々《われわれ》は|前後《ぜんご》も|知《し》らず|寝込《ねこ》んで|了《しま》ひました』
と|云《い》ひつつ|傍《そば》に|寄《よ》り、|抱《だ》き|上《あ》げむとしたるに、|玉照彦《たまてるひこ》の|全身《ぜんしん》は|冷切《ひえき》つて|氷《こほり》の|如《ごと》くに|冷《つめ》たくなつて|居《を》る。
|谷丸《たにまる》『オイ|鬼丸《おにまる》、|玉照彦《たまてるひこ》|様《さま》は|冷《つめ》たくなつて|居《ゐ》らつしやる、こりやマア|何《ど》うしたら|宜《よ》からうかなア』
|鬼丸《おにまる》『そりや|夢《ゆめ》の|中《なか》に|見《み》た|通《とほ》り|石《いし》ぢやありませぬか』
|谷丸《たにまる》『ヤア|如何《いか》にも、|此奴《こいつ》は|夢《ゆめ》の|通《とほ》り|矢張《やつぱり》|石《いし》だつた』
テルヂー、コロンボ|一度《いちど》に、
テ、コ『アハヽヽヽ、|誠《まこと》に|誠《まこと》に、|御挨拶《ごあいさつ》の|仕様《しやう》も|御座《ござ》いませぬ、もう|斯《こ》うなつた|以上《いじやう》は|何程《なにほど》|泣《な》いても|悔《くや》んでも|石《いし》が|物《もの》|云《い》ふ|例《ためし》は|御座《ござ》いませぬ、どうぞ|鄭重《ていちよう》に|弔《とむら》うて|上《あ》げて|下《くだ》さい。さあコロンボ、|夢《ゆめ》の|処《ところ》へ|行《ゆ》くのだ』
と|駆出《かけだ》す。|谷丸《たにまる》、|鬼丸《おにまる》も|続《つづ》いて|駆出《かけだ》したり。
|坂《さか》の|中程《なかほど》|迄《まで》|下《くだ》り|来《きた》る|折《をり》しも、|水《みづ》の|滴《したた》る|如《ごと》き|一人《ひとり》の|美人《びじん》、|玉照彦《たまてるひこ》を|抱《だ》いて|上《のぼ》り|来《きた》るに|出会《であ》つた。
テルヂー『モシモシ、|貴方《あなた》は|言照姫《ことてるひめ》|様《さま》では|御座《ござ》いませぬか』
|美人《びじん》『ハイ|左様《さやう》で|御座《ござ》います。|今《いま》|玉照彦《たまてるひこ》の|神様《かみさま》を|保護《ほご》して|此処迄《ここまで》|参《まゐ》りました』
テルヂー『|変《へん》な|事《こと》を|申《まを》しますが、|何卒《どうぞ》ウラル|教《けう》の|神様《かみさま》として|大切《たいせつ》に|致《いた》しますから、|吾々《われわれ》に|下《くだ》さいますまいか』
|言照姫《ことてるひめ》『ハイ|何誰《どなた》かに|貰《もら》つて|貰《もら》はねばならないのですから、お|望《のぞ》みとあれば、|何《ど》うとも|致《いた》しませう』
|斯《か》かる|処《ところ》へ、|谷丸《たにまる》、|鬼丸《おにまる》は|追《おつ》かけ|来《きた》り、
|谷《たに》、|鬼《おに》『ヤア|玉照彦《たまてるひこ》|様《さま》で|御座《ござ》いましたか、|大変《たいへん》にお|慕《した》ひ|申《まを》し|探《さが》して|居《を》りました。サアサア|何卒《どうぞ》|谷丸《たにまる》へお|越《こ》し|下《くだ》さいませ。|私《わたくし》が|抱《だ》いて|上《あ》げませう』
|言照姫《ことてるひめ》『お|前《まへ》は、|谷丸《たにまる》さまぢやないか。|私《わたくし》の|不在中《ふざいちゆう》に、|岩窟《いはや》の|中《なか》から|盗《ぬす》み|出《だ》し、|大切《たいせつ》にする|事《こと》か、あのやうな|茨室《いばらむろ》へ|蓑《みの》を|敷《し》いて、|捨子《すてご》|同様《どうやう》にして|置《お》きなさつたぢやないか。どうして|貴方《あなた》に、|此《この》|尊《たふと》い|玉照彦《たまてるひこ》|様《さま》を|安心《あんしん》してお|預《あづ》け|申《まを》す|事《こと》が|出来《でき》ませうか』
|谷丸《たにまる》『イヤ|誠《まこと》に|済《す》みませぬ。|何《なに》を|云《い》つても、ウラル|教《けう》のテルヂーが|狙《ねら》つて|居《を》るのですから、|取《と》られちや|大変《たいへん》と、|茨《いばら》の|中《なか》とは|知《し》らず、|朧月夜《おぼろづきよ》の|事《こと》とて|間違《まちが》ひ、お|寝《ね》かせ|申《まを》したのです。どうぞ|私《わたくし》に|下《くだ》さいませ』
|言照姫《ことてるひめ》『|斯《か》う|両方《りやうはう》から|懇望《こんもう》されては、|一方《いつぱう》を|立《た》てれば|一方《いつぱう》に|済《す》まず、|処置《しよち》に|困《こま》ります。そんなら|斯《か》う|致《いた》しませう。|玉照彦《たまてるひこ》|様《さま》は|御生《おうま》れ|遊《あそ》ばしてからまだ|百日《ひやくにち》にもなりませぬが、ちよいちよい|物《もの》も|仰有《おつしや》る、|立歩《たちあゆ》みもなさいますから、ウラル|教《けう》のテルヂーとバラモン|教《けう》の|谷丸《たにまる》とお|二人《ふたり》で|両方《りやうはう》の|手《て》を|握《にぎ》つて、|玉照彦《たまてるひこ》|様《さま》を|引張合《ひつぱりあ》ひして|下《くだ》さい。|引張《ひつぱ》つて|勝《か》つ|方《はう》に|上《あ》げませう』
|四人《よにん》|一度《いちど》に、
『さう|願《ねが》へば|公平《こうへい》で|結構《けつこう》です』
|言照姫《ことてるひめ》は|玉照彦《たまてるひこ》を|坂道《さかみち》の|真中《まんなか》に|下《お》ろした。|玉照彦《たまてるひこ》は|左右《さいう》の|手《て》を|両方《りやうはう》に|差《さ》し|延《の》ばし、
|玉照彦《たまてるひこ》『サア|坊《ぼん》の|手《て》を|引張《ひつぱ》つて|下《くだ》さい。|勝《か》つたお|方《かた》の|方《はう》へ|参《まゐ》ります。|然《しか》しソツと|引《ひ》いて|下《くだ》さいや』
『|承知《しようち》|致《いた》しました』
と|谷丸《たにまる》、テルヂーの|二人《ふたり》は、|左右《さいう》に|立《た》ち|現《あら》はれ、|腰《こし》を|跼《かが》めて、|背《せ》の|低《ひく》い|玉照彦《たまてるひこ》の|手《て》をグツト|握《にぎ》り|力《ちから》を|極《きは》めて、
『サア|玉照彦《たまてるひこ》|様《さま》、|私《わたくし》の|方《はう》へ|来《き》て|下《くだ》さい』
と、|一生懸命《いつしやうけんめい》、|腕《うで》が|抜《ぬ》ける|程《ほど》|引張《ひつぱ》る。
|玉照彦《たまてるひこ》『アヽ|痛《いた》い|痛《いた》い、|痛《いた》いわいなア』
と|顔《かほ》を|顰《しか》め|泣《な》き|出《だ》す。テルヂーは|此《この》|声《こゑ》に|驚《おどろ》いて、|思《おも》はず|手《て》を|離《はな》した。
|谷丸《たにまる》『サア|愈《いよいよ》こちらの|物《もの》ぢや。|玉照彦《たまてるひこ》|様《さま》、|御苦労《ごくらう》|乍《なが》ら、|今日《けふ》から、バラモン|教《けう》の|神様《かみさま》になつて|下《くだ》さい』
|玉照彦《たまてるひこ》、|首《かぶり》を|振《ふ》り、
|玉照彦《たまてるひこ》『イヤイヤ テルヂーの|方《はう》に|御世話《おせわ》になります』
|谷丸《たにまる》『そりやあ|約束《やくそく》が|違《ちが》ふぢやありませぬか』
|玉照彦《たまてるひこ》『|貴方《あなた》は、|私《わたくし》が|悲鳴《ひめい》を|上《あ》げて|痛《いた》がつて|居《を》るのに、|構《かま》はずに|引張《ひつぱ》つたぢやありませぬか、あの|時《とき》にテルヂーが|放《はな》して|下《くだ》さらなかつたら、|私《わたし》の|体《からだ》は|二《ふた》つに|千切《ちぎ》れて|居《を》るのです。|愛情《あいじやう》の|深《ふか》いテルヂーに|御世話《おせわ》になります』
|谷丸《たにまる》『|小難《こむつ》かしい|事《こと》を|仰《おつ》しやいますなア、チト|位《くらゐ》|辛抱《しんばう》して|下《くだ》さつても|宜《よ》いぢやありませぬか。モシモシ|言照姫《ことてるひめ》|様《さま》、どうぞ|生《う》みの|御母様《おかあさま》の|貴方《あなた》からよく|云《い》つて|下《くだ》さいな』
と|振《ふ》り|向《む》き|見《み》れば、こは|如何《いか》に、|言照姫《ことてるひめ》の|姿《すがた》は|最早《もはや》|影《かげ》も|形《かたち》もない。
|玉照彦《たまてるひこ》『|私《わたし》は|最《も》う|斯《こ》うなる|以上《いじやう》は、どちらへも|参《まゐ》る|事《こと》は|止《や》めませう。|今《いま》ウラナイ|教《けう》の|松姫《まつひめ》さまが、お|迎《むか》へに|来《き》て|下《くだ》さるから、そちらへ|行《ゆ》きます』
|此《この》|時《とき》トボトボと|坂《さか》を|登《のぼ》つて|来《く》る|一人《ひとり》の|女《をんな》がありしが、|玉照彦《たまてるひこ》は|嬉《うれ》しさうに、
『ヤア、|其方《そなた》は|松姫《まつひめ》か、よう|迎《むか》へに|来《き》て|呉《く》れた。サアサア|連《つ》れて|行《い》つておくれ』
|松姫《まつひめ》『これはこれは|玉照彦《たまてるひこ》|様《さま》、|焦《こが》れ|慕《した》うて|参《まゐ》りました。サア|私《わたくし》が|御負《おんぶ》して|進《しん》ぜませう』
と|背中《せなか》を|突《つ》き|出《だ》す。|四人《よにん》は|目《め》と|目《め》を|見合《みあは》せ|乍《なが》ら、|松姫《まつひめ》を|前後左右《ぜんごさいう》より|取《と》り|巻《ま》き、|鉄拳《てつけん》を|以《もつ》て|擲《たた》きつけ、|悲鳴《ひめい》を|上《あ》げて|倒《たふ》れるのを|見済《みす》まし、|玉照彦《たまてるひこ》を|引攫《ひつさら》へ、|四人《よにん》は|林《はやし》の|茂《しげ》みに|姿《すがた》を|隠《かく》したり。
|松姫《まつひめ》は|暴漢《ばうかん》に|乱打《らんだ》され|忽《たちま》ち|気絶《きぜつ》して|坂道《さかみち》に|倒《たふ》れ|居《ゐ》たりしが、|其《その》|日《ひ》の|夕暮《ゆふぐれ》|頃《ごろ》フト|息《いき》を|吹《ふ》き|返《かへ》し、|四辺《あたり》を|見《み》れば、|麗《うるは》しき|二柱《ふたはしら》の|女神《めがみ》、|儼然《げんぜん》として|其《その》|前《まへ》に|立《た》ち|給《たま》ふ。
|女神《めがみ》一『|汝《そなた》は|高城山《たかしろやま》の|松姫《まつひめ》であらう。サア、|妾《わらは》に|従《したが》つて|是《これ》より、|高熊山《たかくまやま》の|岩窟《いはや》に|参《まゐ》りませう』
|松姫《まつひめ》『|何《いづ》れの|神様《かみさま》か|存《ぞん》じませぬが、ようマア|助《たす》けて|下《くだ》さいました。|私《わたくし》は|悪者《わるもの》に|虐《しひた》げられ|気絶《きぜつ》をして、|遠《とほ》い|遠《とほ》い|彼《あ》の|世《よ》の|旅行《りよかう》をやつて|居《ゐ》ました。|処《ところ》が|二人《ふたり》の|女神様《めがみさま》が|現《あら》はれて、コレ|松姫《まつひめ》、|此処《ここ》は|何《なん》と|心得《こころえ》て|居《を》る、|幽界《いうかい》の|入口《いりぐち》であるぞや。|汝《なんぢ》はまだまだ|幽界《いうかい》に|出《で》て|来《く》る|時《とき》でない、サアサア|妾《わらは》が|送《おく》つてやるから、と|仰有《おつしや》つたと|思《おも》へば|気《き》が|付《つ》きました。|見《み》れば|幽界《いうかい》で|見《み》た|女神様《めがみさま》と、|寸分《すんぶん》も|間違《まちが》ひのない|御二方様《おふたかたさま》、お|蔭《かげ》で|命《いのち》を|助《たす》けて|戴《いただ》きました』
と|手《て》を|合《あは》せ|感謝《かんしや》の|涙《なみだ》にくれて|居《ゐ》る。
|女神《めがみ》二『サア|松姫《まつひめ》どの、|高熊山《たかくまやま》の|玉照彦《たまてるひこ》|様《さま》をお|迎《むか》へに|行《ゆ》きませう』
|松姫《まつひめ》『あの|玉照彦《たまてるひこ》|様《さま》はたつた|今《いま》、|悪者《わるもの》に|攫《さら》はれて|行《ゆ》かれました。|最早《もはや》、|高熊山《たかくまやま》には|居《ゐ》らつしやいますまい』
|女神《めがみ》一『オホヽヽヽ、|今朝《けさ》ウラル|教《けう》とバラモン|教《けう》の|宣伝使《せんでんし》が|来《き》たでせう。|彼等《かれら》は|貪慾心《どんよくしん》に|絡《から》まれ、|眼《まなこ》|暗《くら》み、|石《いし》くれを|玉照彦《たまてるひこ》|様《さま》と|思《おも》ひ|違《ちが》へ、|喜《よろこ》んで|逃《に》げ|帰《かへ》つたのです。サアこれから、|貴女《あなた》は|気《き》を|取《と》り|直《なほ》し、|単身《たんしん》|岩窟《がんくつ》に|進《すす》み、|言照姫《ことてるひめ》にお|逢《あ》ひなされて、|玉照彦《たまてるひこ》|様《さま》をお|連《つ》れ|申《まを》してお|帰《かへ》りなさい。|妾《わらは》は|来勿止《くなどめ》|迄《まで》|送《おく》つて|上《あ》げませう。それから|奥《おく》は|貴女《あなた》|一人《ひとり》のお|働《はたら》きです。|妾《わらは》|達《たち》|二柱《ふたはしら》、お|手伝《てつだひ》ひ|申《まを》すは|易《やす》き|事《こと》|乍《なが》ら、それでは|貴女《あなた》の|御手柄《おてがら》にはなりませぬから、|心《こころ》|丈夫《ぢやうぶ》に|以《もつ》てお|出《い》でなさいませ』
|松姫《まつひめ》『|何《なに》から|何《なに》|迄《まで》、|有難《ありがた》う|御座《ござ》います。お|言葉《ことば》に|甘《うま》へて|来勿止《くなどめ》|迄《まで》|送《おく》つて|頂《いただ》きませうか。さうして、|貴女様《あなたさま》の|御神名《ごしんめい》は|何《なん》と|申《まを》します』
|二人《ふたり》の|女神《めがみ》はニコリと|笑《わら》ひ、
『|何《いづ》れ|分《わか》る|時節《じせつ》が|参《まゐ》りませう。|此処《ここ》では|一寸《ちよつと》|申《まを》し|上《あ》げ|兼《か》ねます』
と|先《さき》き|立《た》ち、|足早《あしばや》に、|山奥《やまおく》|指《さ》して|進《すす》み|給《たま》ふ。|松姫《まつひめ》は、|二女神《にぢよしん》の|後《あと》に|従《したが》ひ、|心《こころ》いそいそ|歩《あゆ》み|出《だ》したり。
|二女神《にぢよしん》『もう|二三丁《にさんちやう》|先《さき》が、|来勿止《くなどめ》の|関所《せきしよ》で|御座《ござ》います。|吾々《われわれ》は|此処《ここ》でお|別《わか》れ|致《いた》します。|何《いづ》れ|改《あらた》めてお|目《め》にかかる|事《こと》が|御座《ござ》いませう。|左様《さやう》なら』
と|云《い》ふかと|思《おも》へば|二女神《にぢよしん》の|姿《すがた》は|忽《たちま》ちかき|消《け》す|如《ごと》く|見《み》えなくなりぬ。|松姫《まつひめ》は|盲人《めくら》が|杖《つゑ》を|失《うしな》つた|如《ごと》く、|暗夜《あんや》に|提灯《ちやうちん》|取《と》られた|如《ごと》き|心地《ここち》して、|重《おも》き|足《あし》を、|希望《きばう》の|車《くるま》に|乗《の》せられ、|引摺《ひきず》つて|行《ゆ》く。|日《ひ》は|既《すで》に|黄昏《たそが》れ、|十七夜《じふしちや》の|月《つき》はまだ|昇《のぼ》り|給《たま》はざる|一《いち》の|暗《くら》み|時《どき》、|来勿止《くなどめ》の|神《かみ》の|関所《せきしよ》に|着《つ》いた。|此処《ここ》は|厳格《げんかく》な|関門《くわんもん》が|築《きづ》かれてある。
|松姫《まつひめ》『モシモシ|私《わたくし》は|霊山《れいざん》へ|詣《まゐ》る|者《もの》で|御座《ござ》います。|何卒《なにとぞ》、|此《この》|門《もん》お|通《とほ》し|下《くだ》さいませ』
|門番《もんばん》の|一人《ひとり》|甲《かふ》は、|横門《よこもん》を|押《お》し|開《あ》け|出《い》で|来《きた》り、
|甲《かふ》『|何誰《どなた》か|知《し》りませぬが、|此《この》|一《いち》の|暗《やみ》に、|此《この》|門《もん》あけいと|云《い》ふ|者《もの》は|碌《ろく》な|者《もの》ぢやありませぬ。|何時《いつ》も|何時《いつ》も|狐《きつね》や|狸《たぬき》に|誑《なぶ》られて、|馬鹿《ばか》を|見通《みどほ》しだから、|今日《けふ》は|何《なん》と|云《い》つても|開《あ》けませぬ、|否《いや》|通過《つうくわ》させませぬ。|出直《でなほ》して|明日《あす》の|朝《あさ》お|出《いで》なさい』
|松姫《まつひめ》『|左様《さやう》では|御座《ござ》いませうが、|決《けつ》して|怪《あや》しい|者《もの》では|御座《ござ》いませぬ。どうぞ|通《とほ》して|下《くだ》さいませ。|玉照彦《たまてるひこ》|様《さま》の|御誕生地《ごたんじやうち》へ|至急《しきふ》|詣《まゐ》らねばなりませぬから』
|乙《おつ》|此《この》|声《こゑ》を|聞《き》いて、
|乙《おつ》『オイ|勝公《かつこう》、|此《この》|暗《くら》がりに、アタ|厭《いや》らしい、そんな|白《しろ》い|装束《しやうぞく》を|着《き》た|女《をんな》を|相手《あひて》に|何《なに》を|揶揄《からか》つて|居《を》るのか、|早《はや》く|這入《はい》らぬか、|又《また》|例《れい》の|奴《やつ》に|定《きま》つて|居《を》るぞ』
|勝公《かつこう》『そうだと|云《い》つて|此《こ》の|方《かた》が|是非《ぜひ》|玉照彦《たまてるひこ》|様《さま》に|参拝《さんぱい》したいから、|通過《つうくわ》させて|呉《く》れと、|懇願《こんぐわん》なさるのだもの、|無情《むげ》に|断《ことわ》る|訳《わけ》にもゆかぬぢやないか』
|乙《おつ》『|何《なん》だ、|又《また》|貴様《きさま》、|日《ひ》の|暮《く》れ|紛《まぎ》れに、|女《をんな》を|掴《つか》まへて、|愚図々々《ぐづぐづ》|云《い》つて|居《ゐ》やがるのだな、|余程《よほど》、|勝手《かつて》な|奴《やつ》だ。|男《をとこ》が|尋《たづ》ねて|来《く》ると、|何時《いつ》も、|慳《けん》もほろろに、|木《き》で|鼻《はな》こすつた|様《やう》な|応待《おうたい》をするクセに、|今日《けふ》は|言葉付《ことばつき》|迄《まで》、|優《やさ》しく|出《で》やがつて、|貴様《きさま》の|面《つら》つたら、|大方《おほかた》|崩壊《ほうくわい》して|居《を》るのだらう。|暗夜《やみよ》でマア|仕合《しあは》せだ。|昼《ひる》であつて|見《み》よ、|好《よ》い|化者《ばけもの》だぞ』
|勝公《かつこう》『|俺《おれ》の|顔《かほ》が|化者《ばけもの》なら、|貴様《きさま》の|顔《かほ》は|何《なん》だい。|鯰《なまづ》が|沸茶《にえちや》を|浴《か》ぶせられた|様《やう》な|面《つら》をしやがつて、|人《ひと》さんの|御面相《ごめんさう》|迄《まで》、|批評《ひへう》すると|云《い》ふ|資格《しかく》がどこに|有《あ》るかい』
|乙《おつ》『|何《なん》と|云《い》つても|貴様《きさま》は|女《をんな》にかけては|五月蠅《うるさ》い|奴《やつ》だ、|俺《おれ》が|来《こ》なんだら、|優《やさ》しい|声《こゑ》を|出《だ》しやがつて|何々《なになに》を、|何々《なになに》する、|何々《なになに》だつたらう。エライ|邪魔物《じやまもの》が|飛《と》び|出《だ》しまして|済《す》みませぬなア、アハヽヽヽ』
|松姫《まつひめ》『モシモシお|二人様《ふたりさん》、|今日《けふ》は|特別《とくべつ》の|御憐愍《ごれんびん》を|以《もつ》てお|通《とほ》し|下《くだ》さいませ。どうしても|今晩《こんばん》の|中《うち》に|参拝《さんぱい》|致《いた》さねばなりませぬから』
|乙《おつ》『|大胆至極《だいたんしごく》な、|女《をんな》の|分際《ぶんざい》として|此《この》|山奥《やまおく》に|只《ただ》|一人《ひとり》|踏《ふ》み|込《こ》み|来《きた》り、|此《この》|怖《おそ》ろしい|岩窟《いはや》へ|参詣《さんけい》し|様《やう》なんて、そんな|大野心《だいやしん》を|起《おこ》しても|駄目《だめ》ですよ。|屹度《きつと》|途中《とちう》で、|狼《おほかみ》にバリバリとやられて|了《しま》ふのは|請合《うけあひ》だ。|此《この》|門《もん》|潜《くぐ》るや|否《いな》や、|地獄《ぢごく》の|八丁目《はつちやうめ》だから、|悪《わる》い|事《こと》は|云《い》はぬ。お|前《まへ》の|身《み》の|為《ため》ぢや。いつ|迄《まで》も|絶対《ぜつたい》|通《とほ》さないとは|申《まを》さぬから、|明日《あす》|来《き》て|下《くだ》さい』
|松姫《まつひめ》『|御注意《ごちうい》は|有難《ありがた》う|御座《ござ》いますが、|私《わたくし》は|神様《かみさま》に|何事《なにごと》もお|任《まか》せ|申《まを》した|身《み》の|上《うへ》、|命《いのち》なんかどうなつても|宜《よろ》しいから、|何卒《どうぞ》|心《こころ》よう|通《とほ》して|下《くだ》さいませ』
|乙《おつ》『イヤイヤ、|命《いのち》が|惜《を》しくない|様《やう》な、ド|転婆《てんば》を|通《とほ》す|事《こと》は|愈《いよいよ》|以《もつ》てなりませぬ|哩《わい》、|来勿止《くなどめ》の|神様《かみさま》に|又《また》どんなお|小言《こごと》を|頂戴《ちやうだい》するか|知《し》れやしない。|此《この》|頃《ごろ》は|此《この》|門番《もんばん》も|失策《しつさく》だらけで、|薩張《さつぱ》り|鼻《はな》【べちや】で|威勢《ゐせい》が|上《あが》らない。それと|云《い》ふのも、|勝公《かつこう》が|心《こころ》の|締《しま》りがないものだから、いつでも|俺達《おれたち》が|巻添《まきぞ》へを|食《く》ふのだ。オイ|勝公《かつこう》、サアこんな|命《いのち》|知《し》らずの|強者《したたかもの》を|相手《あひて》にせずと、トツトと|奥《おく》へ|這入《はい》つてそれから|門《もん》を|閉《し》めて、|警戒《けいかい》を|厳重《げんぢう》にせなくちやならぬぞ。サア|這入《はい》らう|這入《はい》らう』
|勝公《かつこう》『それだと|云《い》つてこれ|程《ほど》|熱心《ねつしん》に、お|頼《たの》みなさるのに、どうして|刎《は》ね|付《つ》ける|訳《わけ》にゆくものか。|貴様《きさま》|這入《はい》りたければ、|勝手《かつて》に|這入《はい》つて|勝手《かつて》に|閉《し》めたが|宜《よ》からう。|俺《おれ》は|仕方《しかた》がないから、|日頃《ひごろ》|覚《おぼ》えた、ぬけ|道《みち》を|伝《つた》うて|此《この》|御方《おかた》を|背中《せなか》に|背負《せお》つて|上《あ》げるのだ』
|乙《おつ》『とうとう|尻尾《しつぽ》を|現《あら》はしやがつたな、アハヽヽヽ、|随分《ずゐぶん》|女《をんな》にかけては|腰抜《こしぬ》けなものだ』
|勝公《かつこう》『エヽ|竹公《たけこう》の|唐変木《たうへんぼく》|奴《め》、|貴様《きさま》に|女《をんな》が|分《わか》つて|堪《たま》るかい。|女《をんな》で|苦労《くらう》して|来《き》た|者《もの》でないと|女人《によにん》|心理《しんり》は|解《わか》らないぞ。さう|毒々《どくどく》しく|無情《むじやう》な|事《こと》を|云《い》ふものぢやないワ。|人間《にんげん》は|堅《かた》い|許《ばか》りが|能《のう》ぢやない。|砕《くだ》ける|時《とき》は|砕《くだ》けて、|世《よ》の|中《なか》の|人々《ひとびと》の|為《ため》に|便利《べんり》を|計《はか》るのが|人間《にんげん》の|務《つと》めだ。|况《ま》して|此《この》|館《やかた》に|泊《と》めて|呉《く》れと|仰有《おつしや》るのでもなし、|通《とほ》してさへ|上《あ》げれば|宜《よ》いのぢやないか』
|竹公《たけこう》『|貴様《きさま》が|何《なん》と|云《い》つても、|一旦《いつたん》|男《をとこ》の|口《くち》から、|通《とほ》さぬと|云《い》つたら|通《とほ》さぬのだ』
|勝公《かつこう》『モシモシお|女中《ぢよちう》、|今《いま》お|聞《き》きの|通《とほ》り|同僚役《あひぼうやく》があの|通《とほ》りの|頑固者《ぐわんこもの》ですから、|無理《むり》にお|通《とほ》し|申《まを》しても、|後《あと》でどんな|難題《なんだい》を|吾々《われわれ》|両人《りやうにん》にふきかけるやら|分《わか》りませぬ。さうすればお|互《たがひ》の|迷惑《めいわく》ですから、どうぞ|貴方《あなた》も|折角《せつかく》|此処迄《ここまで》お|出《い》でになつたのですから、お|気《き》の|毒《どく》で|堪《たま》りませぬが、|今晩《こんばん》は|一旦《いつたん》、|引返《ひきかへ》して|下《くだ》さいませぬか』
|松姫《まつひめ》『どうぞ、|方角《はうがく》だけなつと|教《をし》へて|下《くだ》さいませ。|送《おく》つて|貰《もら》つては|大変《たいへん》な、|貴方《あなた》の|御迷惑《ごめいわく》になつては|済《す》みませぬから』
|勝公《かつこう》『|実《じつ》の|処《ところ》は、これだけ|厳《きび》しく|門番《もんばん》も|今迄《いままで》は|云《い》はなかつたのですが、|二三日前《にさんにちまへ》に、バラモン|教《けう》の、|谷《たに》とか|鬼《おに》とか|云《い》ふ|奴《やつ》がやつて|来《き》て、|来勿止神《くなどめのかみ》|様《さま》を|始《はじ》め、|吾々《われわれ》をチヨロまかし、トウトウ|大切《たいせつ》な、|玉照彦《たまてるひこ》|様《さま》を|盗《ぬす》んで|帰《かへ》つたものですから、|其《その》|後《ご》と|云《い》ふものは|大変《たいへん》に|警戒《けいかい》が|厳《きび》しくなつて、|暮六《くれむ》つ|下《さが》れば、|老若男女《らうにやくなんによ》にかかはらず、|一切《いつさい》|通《とほ》してはならぬと|云《い》ふ、|来勿止神《くなどめのかみ》|様《さま》の|厳《きび》しき|御命令《ごめいれい》で|御座《ござ》います。それ|故《ゆゑ》、|今《いま》の|男《をとこ》があんな|無情《むじやう》な|事《こと》を|云《い》うたのですが、|然《しか》しあゝ|見《み》えても|彼奴《あいつ》は|極《きは》めて|平常《ふだん》から|親切《しんせつ》な|男《をとこ》ですよ。|言葉《ことば》つきこそ、|穢《きたな》ふ|御座《ござ》いますが、それはそれは|心《こころ》の|美《うつく》しい|男《をとこ》ですよ。|屹度《きつと》|腹《はら》の|中《なか》では|涙《なみだ》をこぼして|居《ゐ》たに|違《ちが》ひありませぬ。どうぞ、|竹公《たけこう》は|無情《むじやう》な|奴《やつ》だと|恨《うら》んでやつては|下《くだ》さいますな』
|松姫《まつひめ》『イエイエ|決《けつ》して|決《けつ》して|何《なん》の|恨《うら》みませう。お|役目《やくめ》|大切《たいせつ》にお|守《まも》りなさる|処《ところ》を、|私《わたくし》が|御無理《ごむり》を|申《まを》しますのですから、|何《なん》と|仰有《おつしや》られても|是非《ぜひ》はありませぬ。|併《しか》し|今《いま》|貴方《あなた》のお|言葉《ことば》によれば、|玉照彦《たまてるひこ》|様《さま》はバラモン|教《けう》の|方《かた》が|盗《ぬす》んで|帰《かへ》つたと|仰有《おつしや》いましたが、それは|事実《じじつ》ですか』
|勝公《かつこう》『|盗《ぬす》んで|帰《かへ》つたのは|事実《じじつ》ですが、|併《しか》し|乍《なが》ら|御神徳《ごしんとく》|高《たか》き|高熊《たかくま》の|霊山《れいざん》、|不思議《ふしぎ》な|事《こと》には|盗《ぬす》まれたと|思《おも》つた|玉照彦《たまてるひこ》|様《さま》は、|依然《いぜん》として|御機嫌《ごきげん》|麗《うる》はしく、|言照姫《ことてるひめ》|様《さま》に|抱《だ》かれて|居《を》られます。|本当《ほんたう》に|妙《めう》な|事《こと》があつたものです』
|松姫《まつひめ》『それ|聞《き》いて|安心《あんしん》|致《いた》しました。|私《わたくし》にも|成程《なるほど》と|諾《うなづ》かれる|点《てん》が|御座《ござ》います』
|斯《か》く|話《はな》す|折《をり》しも|石《いし》の|本門《ほんもん》はガラリと|開《あ》いた。|灯火《ともしび》をとぼし、|現《あら》はれ|来《きた》る、|白髪《はくはつ》|異様《いやう》の|老人《らうじん》の|姿《すがた》が、|松明《たいまつ》に|照《てら》されて、|明瞭《はつきり》と|松姫《まつひめ》の|目《め》に|映《うつ》つた。
|松姫《まつひめ》は|思《おも》はず、ハツと|地《ち》に|平伏《へいふく》した。
|勝公《かつこう》『これはこれは|来勿止神《くなどめのかみ》|様《さま》、|何処《どこ》へお|出《で》ましになります』
|来勿止神《くなどめのかみ》『ヤアお|前《まへ》は|勝《かつ》ぢやなア。|此処《ここ》へ|一人《ひとり》の|女《をんな》が|来《く》る|筈《はず》ぢや。|未《ま》だ|出《で》て|来《こ》ないかな』
|勝公《かつこう》『ハイ、それは|何《なん》と|云《い》ふ|方《かた》ですか。|松姫《まつひめ》ぢや|御座《ござ》いませぬか』
|来勿止神《くなどめのかみ》『アヽさうぢや、|其《その》|松姫《まつひめ》が|来《く》る|筈《はず》だ。|二時《ふたとき》ばかり|以前《いぜん》に、|玉照彦《たまてるひこ》|様《さま》よりお|使《つかい》が|見《み》えて、|此処《ここ》へ|松姫《まつひめ》と|云《い》ふ|女《をんな》が|一人《ひとり》|来《く》る|筈《はず》だから、|夜分《やぶん》でも|構《かま》はぬ|故《ゆゑ》、|通《とほ》してやつて|呉《く》れとの|御命令《ごめいれい》であつた』
|勝公《かつこう》『その|方《かた》なら、|今《いま》|此処《ここ》に|居《を》られます。サア|松姫《まつひめ》|様《さま》、|御心配《ごしんぱい》なさいますな。|今《いま》お|聞《き》きの|通《とほ》りですから』
|松姫《まつひめ》|頭《かしら》を|上《あ》げ、
|松姫《まつひめ》『|勝《かつ》さまとやら、|御親切《ごしんせつ》|有難《ありがた》う|御座《ござ》いました。して|貴方《あなた》が|来勿止神《くなどめのかみ》|様《さま》で|御座《ござ》いましたか。|罪深《つみふか》き|妾《わらは》なれど、どうぞ|此《この》|御門《ごもん》を|通《とほ》して|下《くだ》さいませ』
|来勿止神《くなどめのかみ》『サアサア|遠慮《ゑんりよ》は|要《い》りませぬ、ズツとお|通《とほ》り|下《くだ》さいませ。|貴女《あなた》のお|登《のぼ》りを、|岩窟《いはや》の|大神様《おほかみさま》が|大変《たいへん》に|御待《おま》ち|遊《あそ》ばして|居《を》られます。サアサアこちらへ』
と|松姫《まつひめ》の|手《て》を|把《と》り|門内《もんない》に|導《みちび》き|入《い》れたり。
(大正一一・五・九 旧四・一三 藤津久子録)
第一五章 |山神《やまがみ》の|滝《たき》〔六六〇〕
|松姫《まつひめ》は|来勿止神《くなどめのかみ》に|導《みちび》かれ、|門《もん》の|傍《かたはら》の|細《ささ》やけき|二間造《ふたまづく》りの|室《へや》に|案内《あんない》された。
|来勿止神《くなどめのかみ》『|此《こ》の|暗夜《あんや》に|女《をんな》の|身《み》として|此《こ》の|神山《しんざん》へ|御参拝《ごさんぱい》なされますに|就《つい》ては、|何《なに》か|深《ふか》い|理由《わけ》がございませう。|私《わたし》は|此《こ》の|関所《せきしよ》を|守《まも》る|役目《やくめ》として|一応《いちおう》|御尋《おたづ》ねして|置《お》く|必要《ひつえう》がございますから、どうぞ|包《つつ》まず|隠《かく》さず|事情《じじやう》を|述《の》べて|下《くだ》さい』
|松姫《まつひめ》『|御恥《おはづ》かしいことで|御座《ござ》いますが、|私《わたくし》は|今《いま》まで|大変《たいへん》な|取違《とりちが》ひを|致《いた》して|居《を》りましたものでございます。ウラナイ|教《けう》の|分社《でやしろ》|高城山《たかしろやま》の|麓《ふもと》の|館《やかた》に|於《おい》て、|三五教《あななひけう》に|対抗《たいかう》し、|素盞嗚大神《すさのをのおほかみ》|様《さま》の|御邪魔《おじやま》ばかり|致《いた》して|来《き》ました|罪《つみ》の|深《ふか》い|女《をんな》でございます。|私《わたくし》の|師匠《ししやう》の|高姫《たかひめ》、|黒姫《くろひめ》と|云《い》ふ|方《かた》が|大変《たいへん》に|素盞嗚尊《すさのをのみこと》|様《さま》に|反対《はんたい》の|教《をしへ》をなさつたので、|私《わたくし》はそれを|真《ま》に|受《う》け、|何処《どこ》までも|天下《てんか》|国家《こくか》のためにウラナイ|教《けう》を|拡張《くわくちやう》し、|素盞嗚尊《すさのをのみこと》の|一派《いつぱ》|言依別《ことよりわけ》、|八島主神《やしまぬしのかみ》|様《さま》の|主管《しゆくわん》せらるる|三五教《あななひけう》を|根底《こんてい》から|打《う》ち|壊《こわ》す|決心《けつしん》を|以《もつ》て、|昼夜《ちうや》の|活動《くわつどう》を|続《つづ》けて|来《き》たものでございますが、|素盞嗚尊《すさのをのみこと》|様《さま》は|吾々《われわれ》|凡人《ただびと》の|考《かんが》へて|居《を》るやうな|方《かた》ではなく、|大慈《だいじ》|大悲《だいひ》の|世界《せかい》の|贖主《あがなひぬし》であるといふ|事《こと》を、|第一《だいいち》に|高姫《たかひめ》|様《さま》が|合点《がつてん》|遊《あそ》ばし、|立《た》つても|坐《ゐ》ても|居《ゐ》られないので、|黒姫《くろひめ》|様《さま》と|御相談《ごそうだん》の|上《うへ》|私《わたくし》の|方《はう》へも|詳細《しやうさい》な|手紙《てがみ》が|参《まゐ》りました。|就《つい》ては|高姫《たかひめ》、|黒姫《くろひめ》|御二方《おふたかた》の|今迄《いままで》の|罪《つみ》を|許《ゆる》して|頂《いただ》かねばなりませぬので、|弟子《でし》としての|私《わたくし》も|立《た》つても|坐《ゐ》ても|居《ゐ》られませず、|何《なに》か|一《ひと》つの|荒修行《あらしうぎやう》を|致《いた》しまして、|功名《こうみやう》|手柄《てがら》を|顕《あら》はし、それを|御土産《おみやげ》に|三五教《あななひけう》へ|参《まゐ》り、|師匠《ししやう》や|自分《じぶん》の|罪《つみ》を|赦《ゆる》して|頂《いただ》き|度《た》いばつかりに、|高城山《たかしろやま》の|館《やかた》を|振《ふ》り|捨《す》てて|一人《ひとり》とぼとぼと|此《こ》の|霊山《れいざん》に|修行《しうぎやう》がてら、|玉照彦《たまてるひこ》|様《さま》を|如何《どう》かして|御迎《おむか》へ|申《まを》し、これを|土産《みやげ》に|三五教《あななひけう》へ|帰《かへ》るつもりで|参《まゐ》つたのでございます』
|来勿止神《くなどめのかみ》『アヽさうでせう。|私《わたし》もうすうす|言照姫《ことてるひめ》|様《さま》より|承《うけたま》はつて|居《を》りました。|併《しか》し|乍《なが》ら|貴女《あなた》は|余程《よほど》|御改心《ごかいしん》が|出来《でき》て|居《ゐ》るやうだが、|未《ま》だお|腹《はら》の|中《なか》に|副守護神《ふくしゆごじん》が|沢山《たくさん》に|潜伏《せんぷく》して|居《を》りますから、|此《この》|儘《まま》|御出《おい》でになつても|玉照彦《たまてるひこ》|様《さま》が|御承知《ごしようち》|下《くだ》さいますまい。|此《この》|先《さき》に|山《やま》の|神《かみ》の|滝《たき》がございますから、|其処《そこ》で|七日七夜《なぬかななや》|荒行《あらぎやう》をなさつて|副守護神《ふくしゆごじん》を|追《お》ひ|出《だ》し、|至粋《しすゐ》|至純《しじゆん》の|本心《ほんしん》に|復帰《たちかへ》り|水晶玉《すいしやうだま》に|磨《みが》き|上《あ》げた|上《うへ》、|御出《おい》でにならなくては|駄目《だめ》ですよ』
|松姫《まつひめ》『|如何《いか》にも|左様《さやう》でございませう。どうか|如何《いか》なる|荒行《あらぎやう》でも|厭《いと》ひませぬ、どうぞ|御命《おめい》じ|下《くだ》さいませ』
|来勿止神《くなどめのかみ》『|此処《ここ》の|修行《しうぎやう》は|大変《たいへん》に|辛《つら》いですが、|貴女《あなた》それが|忍《こば》り|切《き》れますか』
|松姫《まつひめ》『|何程《なにほど》|辛《つら》くても|構《かま》ひませぬ。|仮令《たとへ》|生命《いのち》が|亡《な》くなつても、|御師匠様《おししやうさま》の|罪《つみ》が|消《き》えさへすれば、それで|満足《まんぞく》|致《いた》します』
|来勿止神《くなどめのかみ》『アヽそれは|感心《かんしん》な|御心《おこころ》がけだ。それなら|是《これ》から|時《とき》を|移《うつ》さず、|山《やま》の|神《かみ》の|滝《たき》に|於《お》いて|修行《しうぎやう》をなされ、|神《かみ》の|道《みち》に|断飲《だんいん》|断食《だんじき》は|無《な》けれども、|貴女《あなた》は|自分《じぶん》の|罪《つみ》|及《およ》び、|御師匠様《おししやうさま》の|罪《つみ》、|其《その》|他《た》|部下《ぶか》|一般《いつぱん》の|罪《つみ》の|贖《あがな》ひのために、|七日七夜《なぬかななや》|断飲《だんいん》|断食《だんじき》をなし、その|上《うへ》に|荒行《あらぎやう》をせなくては|本当《ほんたう》に|罪《つみ》は|消《き》えませぬぞ』
|松姫《まつひめ》『|何分《なにぶん》よろしく|御願《おねが》ひ|致《いた》します』
|来勿止神《くなどめのかみ》『|勝《かつ》、|竹《たけ》の|両人《りやうにん》、|一寸《ちよつと》|此処《ここ》へ|出《で》ておいで』
|言下《げんか》に|二人《ふたり》は|此《この》|場《ば》に|現《あら》はれ、
|勝公《かつこう》『|何用《なによう》でございます』
|来勿止神《くなどめのかみ》『|別《べつ》に|外《ほか》の|事《こと》ではないが、この|松姫《まつひめ》|様《さま》が|山《やま》の|神《かみ》の|滝《たき》で、|七日七夜《なぬかななや》の|荒行《あらぎやう》をなさるのだから、お|前《まへ》は|十分《じふぶん》|世話《せわ》を|代《かは》る|代《がは》るして|上《あ》げて|呉《く》れ。|荒行《あらぎやう》の|間《あひだ》は|決《けつ》して|此《こ》の|方《かた》に|同情《どうじやう》したり、|憫《あはれ》みをかけてはいけませぬぞ。|能《あた》う|限《かぎ》りの|虐待《ぎやくたい》をするのだ。さうでなければ|神様《かみさま》へ|対《たい》し|重《かさ》ね|重《がさ》ね|御無礼《ごぶれい》|御気障《おきざは》り、|到底《たうてい》|何時《いつ》までかかつても|罪《つみ》は|消滅《せうめつ》するものではないから、|松姫《まつひめ》|様《さま》を|助《たす》けたいと|思《おも》ふなら、|十分《じふぶん》|厳《きび》しき|行《ぎやう》をさしてあげて|呉《く》れなくてはなりませぬ』
|勝公《かつこう》『ハイ|畏《かしこ》まりました。|何分《なにぶん》|門番《もんばん》も|勤《つと》めねばなりませぬから、|竹《たけ》さんと|私《わたし》とが|代《かは》る|代《がは》る|世話《せわ》をします』
|来勿止神《くなどめのかみ》『アヽそうだ。|若《わか》いものをよく|監督《かんとく》して、|落度《おちど》の|無《な》い|様《やう》に|十分《じふぶん》の|荒行《あらぎやう》をさせ、|立派《りつぱ》な|人間《にんげん》に|研《みが》いて|上《あ》げて|呉《く》れ』
|二人《ふたり》は|一礼《いちれい》し、
『サア|松姫《まつひめ》|様《さま》、|早速《さつそく》ながら|是《これ》から|滝壺《たきつぼ》へ|参《まゐ》りませう。|何《いづ》れ|大《おほ》きな|灸《やいと》を|据《す》ゑられると|随分《ずゐぶん》|熱《ねつ》うて|辛《つら》いものだが、そのために|大病《たいびやう》が|全快《ぜんくわい》した|時《とき》の|愉快《ゆくわい》といふものは、|口《くち》で|言《い》ふやうなことでないと|同様《どうやう》に、お|前《まへ》さまも|是《これ》から|私《わたし》が|大《おほ》きな|灸《やいと》を|据《す》ゑます。|併《しか》し|乍《なが》ら|決《けつ》して|憎《にく》んでするのぢやないから、|悪《わる》く|思《おも》うて|下《くだ》さらぬ|様《やう》に|頼《たの》みますぜ』
|松姫《まつひめ》『|罪《つみ》|重《おも》き|妾《わたし》、どんな|辛《つら》い|行《ぎやう》でも|甘《あま》んじて|致《いた》します。|何卒《どうぞ》よろしう|御願《おねが》ひ|申《まを》します』
|勝公《かつこう》『よしよし、サア|斯《か》う|来《く》るんだぞ、|松姫《まつひめ》の|女《あま》つちよ。|愚図々々《ぐづぐづ》してゐやがると|頭《あたま》を【かち】|割《わ》らうか』
と|俄《にはか》に|言葉《ことば》や|行《おこな》ひに|大変動《だいへんどう》を|現《あら》はした。
|松姫《まつひめ》『ハイ』
と|答《こた》へて|随《つ》いて|行《ゆ》く。
|勝《かつ》は|先《さき》に|立《た》ち、|竹《たけ》は|松姫《まつひめ》の|後《うしろ》より|棒千切《ぼうちぎれ》を|以《もつ》て|背《せ》を|打《う》ち、|臀《しり》を|突《つ》き、
|竹公《たけこう》『ヤイ|松姫《まつひめ》、|何《なに》を|愚図々々《ぐづぐづ》してゐやがるのだ。|早《はや》く|歩《ある》かぬか、あた|面倒《めんだう》|臭《くさ》い。|日《ひ》が|暮《くれ》てからやつて|来《き》やがつて、|俺達《おれたち》が|楽《らく》に|寝《ね》ようと|思《おも》つて|居《ゐ》るのに、|滝《たき》まで|送《おく》つてやつて|貴様《きさま》を|大切《たいせつ》に|虐待《ぎやくたい》せねばならぬ。|今《いま》まで|慢神《まんしん》をして|大神様《おほかみさま》に|敵対《てきと》うた|其《そ》の【みせしめ】だ』
と|言《い》ひつつ|棒千切《ぼうちぎ》れを|以《もつ》て、|松姫《まつひめ》の|後頭部《こうとうぶ》をカツンを|撲《なぐ》つた。|松姫《まつひめ》は|痛《いた》さを|堪《こら》へ|乍《なが》ら、
|松姫《まつひめ》『どうも|有難《ありがた》うございます。これで【ちつと】は|妾《わたし》の|罪《つみ》も|軽《かる》くなりませうか』
|竹公《たけこう》『ナニ|百《ひやく》や|二百《にひやく》|撲《なぐ》つたつて、|頭《あたま》をかち|割《わ》つたつて、|貴様《きさま》の|罪《つみ》は|容易《ようい》に|浄《きよ》まるものか』
|勝公《かつこう》『オイ|竹公《たけこう》、あまりぢやぞ』
|竹公《たけこう》『|何《なに》があまりぢや。|貴様《きさま》は|来勿止神《くなどめのかみ》|様《さま》の|御言葉《おことば》をなんと|聞《き》いたか。|松姫《まつひめ》に|親切《しんせつ》があるのなら、|十分《じふぶん》に|虐待《ぎやくたい》をしてやれと|仰有《おつしや》つたぢやないか』
|勝公《かつこう》『ウーそれはさうだが、あまり|役《やく》たいもないことをするものぢやないぞ。|虐待《ぎやくたい》も|十分《じふぶん》にするが|好《えー》が、|其処《そこ》は|又《また》、それ|其処《そこ》ぢや、|人情《にんじやう》を|呑《の》み|込《こ》まずにな。|好《い》いか』
|竹公《たけこう》『|貴様《きさま》は|偉《えら》さうに|先頭《せんとう》に|立《た》ちやがつて、|来勿止神《くなどめのかみ》|様《さま》の|御言葉《おことば》を|無視《むし》し、|且《かつ》|又《また》|松姫《まつひめ》の|修行《しうぎやう》を|妨《さまた》げ、|重《おも》い|罪《つみ》を|更《さら》に|重《おも》うしようとするのか』
|松姫《まつひめ》『モシモシ|御二方《おふたかた》、|妾《わたし》のことに|就《つい》て、どうぞ|口論《いさかひ》はないやうにして|下《くだ》さいませ。|神様《かみさま》に|済《す》みませぬから』
|竹公《たけこう》『エー|松姫《まつひめ》の|奴《やつ》、|何《なに》をゴテゴテと|干渉《かんせう》するのだ。【ふざけた】|事《こと》を|吐《ぬか》すとモー|一《ひと》つ|御見舞《おみまひ》だぞ。イヤ|此《こ》の|棍棒《こんぼう》で|力《ちから》|一《いち》パイ|首《くび》が|飛《と》ぶ|程《ほど》、|可愛《かはい》がつてやらうか』
|松姫《まつひめ》『|重々《ぢうぢう》の|御親切《ごしんせつ》|有難《ありがた》う|存《ぞん》じます。|併《しか》し|乍《なが》ら|御苦労《ごくらう》をかけて|済《す》みませぬ。どうぞ|貴方《あなた》もお|疲《つか》れでせうから、|今日《けふ》はこれ|位《くらゐ》でお|休《やす》み|下《くだ》さいませ』
|竹公《たけこう》『なにうまい|事《こと》を|言《い》ふな。|矢張《やつぱ》り|頭《あたま》を|撲《なぐ》られるのが|苦《くるし》いと|見《み》えるな。|俺《おれ》は|此《この》|間《あひだ》から|何《なん》とはなしに、むかついてむかついて|其処《そこら》の|岩《いは》でも|木《き》でも、|見《み》つけ|次第《しだい》|撲《なぐ》り|度《た》うて|撲《なぐ》り|度《た》うて、|腕《かいな》が|唸《うな》つて|居《を》つたのだ。|今日《けふ》は|幸《さいは》ひ|来勿止神《くなどめのかみ》|様《さま》の|御命令《ごめいれい》を|遵奉《じゆんぽう》して|心地《ここち》よい|程《ほど》、|貴様《きさま》の|頭《あたま》を|可愛《かはい》がつてやるのだ。|有難《ありがた》く|思《おも》へ。|荒行《あらぎやう》と|云《い》ふものは|辛《つら》いものだらう。ウラナイ|教《けう》で|朝《あさ》から|晩《ばん》まで、|蛙《かへる》かなんぞのやうにザブザブと|水《みづ》をかぶつとるのとはちつと|段《だん》が|違《ちが》ふぞ。|何程《なにほど》|辛《つら》くても|生命《いのち》の|瀬戸際《せとぎは》になつても、|僅《わづ》か|七日七夜《なぬかななや》の|辛抱《しんばう》だ。|此処《ここ》で|修行《しうぎやう》をやり|損《そこ》ねたならば、|今《いま》まで|大神様《おほかみさま》の|御道《おみち》を|邪魔《じやま》した、|自《みづか》らの|罪《つみ》で|万劫末代《まんごふまつだい》|根底《ねそこ》の|国《くに》に|落《おと》され、|無限《むげん》の|苦《くる》しみを|受《う》けねばならぬぞ。|此《こ》の|位《くらゐ》なことはホンの|宵《よひ》の|口《くち》だ。|九牛《きうぎう》の|一毛《いちまう》にも|如《し》かざる|苦《くるし》みだから、|勇《いさ》んで|修行《しうぎやう》をするのだぞ』
|松姫《まつひめ》『ハイ』
と|答《こた》へた|儘《まま》、|頭部《とうぶ》より|流《なが》るる|血潮《ちしほ》の|眼《め》に|滲《し》み|込《こ》むを、|袖《そで》にそつと|拭《ぬぐ》ひつつ、しよぼしよぼと|滝《たき》の|方《はう》へ|向《むか》つて|随《つ》いて|行《ゆ》く。
|勝公《かつこう》『サア、これが|名題《なだい》の|山神《やまがみ》の|滝《たき》だ。ちつと|寒《さむ》うても|真裸体《まつぱだか》になつて、|頭《あたま》から|水《みづ》をかぶるのだ。|此処《ここ》は|猿《さる》が|沢山《たくさん》|居《ゐ》る|処《ところ》だから、|顔《かほ》を|引《ひ》つ|掻《か》かれぬやうに|用心《ようじん》なさい。|昼《ひる》は|大丈夫《だいぢやうぶ》だが、|夜分《やぶん》になると|千疋猿《せんびきざる》がやつて|来《き》て|悪戯《いたづら》をするから』
|松姫《まつひめ》『ハイ、|有難《ありがた》うございます』
|竹公《たけこう》『|勝公《かつこう》、|御苦労《ごくらう》だつた。お|前《まへ》は|門《もん》の|方《はう》を|守《まも》つて|呉《く》れ。|俺《おれ》はこれから|一《ひと》つ|此《こ》の|行者《ぎやうじや》を|十分《じふぶん》に|可愛《かはい》がつてやらにやならぬからな。それから|六《ろく》と|初《はつ》とに|棍棒《こんぼう》を|持《も》つて、|至急《しきふ》やつて|来《く》るやうに|言《い》うて|呉《く》れ』
|勝公《かつこう》『さう|沢山《たくさん》|棍棒《こんぼう》を|持《も》つて|来《き》て|如何《どう》するのだい』
|竹公《たけこう》『きまつたことだ。|一本《いつぽん》|位《くらゐ》の|棍棒《こんぼう》では|徹底的《てつていてき》に|可愛《かはい》がつてやる|訳《わけ》にはいかぬ。|助太刀《すけだち》のためだ』
|勝公《かつこう》『|併《しか》しなア、|竹公《たけこう》、わが|身《み》を|抓《つめ》つて|他《ひと》の|痛《いた》さを|知《し》れと|言《い》ふことがあるなア。|世界《せかい》に|鬼《おに》は|無《な》いといふことも、|誰《たれ》やらに|聞《き》いたことがあるやうに|思《おも》ふ』
と、それとは|無《な》しに|余《あま》り|虐待《ぎやくたい》をせぬようにと、|口《くち》には|言《い》はねど、|其《その》|意《い》をほのめかしてゐる。
|竹公《たけこう》『なに|謎《なぞ》のやうなことを|言《い》ひやがつて、|貴様《きさま》は|松姫《まつひめ》を|大切《たいせつ》にせいと|言《い》ふのぢやらう、|否《いや》|結局《けつきよく》|憎《にく》めといふのだらう。|何事《なにごと》も|竹《たけ》の|胸中《きようちう》に|有《あ》るのだ、|心配《しんぱい》せずに|早《はや》く|帰《かへ》れ。さうして|来勿止神《くなどめのかみ》さまに|俺《おれ》が|力《ちから》|一《いち》パイ|虐待《ぎやくたい》して|可愛《かはい》がつて|居《ゐ》る|実状《じつじやう》を、より|以上《いじやう》に|報告《はうこく》するのだぞ』
|勝公《かつこう》『|竹《たけ》の|奴《やつ》が|松姫《まつひめ》の|頭《あたま》を|七八分《しちはちぶ》|割《わ》り、|腕《かいな》を|折《を》り、|胴腹《どんばら》に|風穴《かぜあな》をあけよつたと|言《い》つて|置《お》かうか』
|竹公《たけこう》『そうだ、|其処《そこ》は|貴様《きさま》の|都合《つがふ》にして|呉《く》れ。マア|可成《なるべ》く|神様《かみさま》は|小《ちい》さいことはお|嫌《きら》ひだから、|言《い》ふのなら|十分《じふぶん》|大《おほ》きく|言《い》ふのだな。オイ|勝《かつ》、|一寸《ちよつと》|待《ま》つて|呉《く》れ。|二人《ふたり》の|奴《やつ》に|棍棒《こんぼう》を|持《も》つて|来《く》るように|言《い》つて|呉《く》れと|云《い》うたが、こんな|女《をんな》|一人《ひとり》を|虐待《ぎやくたい》するのに|応援《おうゑん》を|頼《たの》んだと|思《おも》はれては|残念《ざんねん》だ。|俺《おれ》が|徹底的《てつていてき》にやつて|置《お》くから、|来勿止神《くなどめのかみ》に|詳細《しやうさい》に|報告《はうこく》するのだぞ』
|勝公《かつこう》『そんなら|松姫《まつひめ》さま、|暫《しばら》くの|辛抱《しんばう》だ。どうぞ|立派《りつぱ》な|身魂《みたま》になつて|下《くだ》さいや』
|松姫《まつひめ》『ハイ|有難《ありがた》うございます』
|竹公《たけこう》『エー|又《また》|女《をんな》にベシヤベシヤと|正月《しやうぐわつ》|言葉《ことば》を|使《つか》ひやがつて、|早《はや》く|帰《かへ》れ』
|勝公《かつこう》『|帰《かへ》れと|云《い》はなくても|誰《たれ》が|斯《こ》んな|怖《おそ》ろしい|処《ところ》に|居《ゐ》る|奴《やつ》があるか』
とトントンと|帰《かへ》つてゆく。
|肌《はだ》を|裂《さ》く|如《ごと》き|寒風《かんぷう》は|木々《きぎ》の|梢《こずゑ》に|唸《うな》りを|立《た》てて|見舞《みま》うて|来《く》る。|月《つき》は|皎々《かうかう》として|東《ひがし》の|山《やま》の|頂《いただ》きから|滝壺《たきつぼ》をのぞいた。
|竹公《たけこう》『|松姫《まつひめ》さま、|御気《おき》の|毒《どく》ですが、どうぞ|暫《しば》らく|辛抱《しんばう》して|下《くだ》さい。|来勿止神《くなどめのかみ》は|中々《なかなか》|厳格《げんかく》な|神《かみ》で|寸分《すんぶん》も|仮借《かしやく》をしませぬから、|私《わたし》も|実《じつ》は|満腔《まんこう》の|涙《なみだ》を|隠《かく》して、|失礼《しつれい》なことを|致《いた》しました。|併《しか》し|乍《なが》ら|到底《たうてい》|貴女《あなた》の|身体《からだ》では、|此《こ》の|荒行《あらぎやう》は|続《つづ》きますまい。|世《よ》は|呪《まじなひ》と|言《い》うて|神様《かみさま》は、|大難《だいなん》を|小難《せうなん》に|祭《まつ》り|替《か》へて|下《くだ》さるのだから、|私《わたし》もこれからスツパリと|素裸体《すつぱだか》になつて、|貴女《あなた》の|行《ぎやう》を|助《たす》けて|上《あ》げよう。さうすれば|七日《なぬか》のものは|三日半《みつかはん》で|済《す》むといふ|道理《だうり》だ。お|前《まへ》さま、|頭《あたま》を|割《わ》られて|血《ち》が|出《で》たと|思《おも》つてゐるだらうが、ありや|血《ち》ぢやありませぬから|安心《あんしん》なさい。|私《わたし》が|紅殻《べにがら》の|汁《しる》を|棒《ぼう》の|先《さき》の|革袋《かはぶくろ》に|括《くく》りつけて|撲《なぐ》つたのですよ。|血《ち》と|見《み》えたのは|袋《ふくろ》の|紅殻《べにがら》だ。|撲《なぐ》られた|割《わり》には|痛《いた》くはありますまいがな』
|松姫《まつひめ》『ハイ、さうでございました。|別《べつ》に|何処《どこ》も|痛《いた》んで|居《を》りませぬ。|斯《こ》んなことで|神様《かみさま》の|御意《ぎよい》に|召《め》すやうな|荒行《あらぎやう》が|出来《でき》ませうかな』
|竹公《たけこう》『|出来《でき》ますとも。|神様《かみさま》は|形《かたち》だけをすれば|赦《ゆる》して|下《くだ》さいます。|可愛《かはい》い|世界《せかい》の|氏子《うぢこ》に|何《なに》を|好《この》んで|辛《つら》い|目《め》をさせなさいませう。|貴女《あなた》が|生命《いのち》がけの|荒行《あらぎやう》をして、|御詫《おわび》をしようと|決心《けつしん》なさつた|其《そ》の|心《こころ》が、|既《すで》に|貴方《あなた》の|罪《つみ》を|赦《ゆる》して|居《を》ります。|唯今《ただいま》の|貴女《あなた》は|最早《もはや》ちつとも|罪《つみ》は|無《な》いのですよ。|本当《ほんたう》の|生《うま》れ|赤児《あかご》の|心《こころ》ですワ。|併《しか》し|乍《なが》ら|余《あま》り|気分《きぶん》のよい|滝《たき》ですから、|清《きよ》めた|上《うへ》に|浄《きよ》めてお|出《い》でになつたら|宜敷《よろし》からう。|併《しか》し|来勿止神《くなどめのかみ》は、あゝ|見《み》えても|実際《じつさい》は|閻魔《えんま》さまの|化身《けしん》ですから、|中々《なかなか》|賞罰《しやうばつ》を|厳重《げんぢう》になさるのです。|今《いま》|帰《かへ》つた|勝公《かつこう》だつて|本当《ほんたう》に|優《やさ》しい、|慈悲深《じひぶか》い|人間《にんげん》です。|併《しか》し|乍《なが》ら|彼奴《あいつ》は|馬鹿正直《ばかしやうぢき》ですから|私《わたし》が|本当《ほんたう》に|貴女《あなた》を|虐待《ぎやくたい》したのだと|思《おも》つて|心配《しんぱい》をして|居《を》るのです』
|松姫《まつひめ》『アヽさうでございますか。なんとも|御礼《おれい》の|申《まを》しやうは|御座《ござ》いませぬ。|何分《なにぶん》よろしう|御指導《ごしだう》を|願《ねが》ひます』
|斯《か》くして|二三日《にさんにち》|経《た》つて、|四日目《よつかめ》の|朝《あさ》になつた。
|松姫《まつひめ》『なんと|荘厳《さうごん》な|景色《けいしよく》ですな。|日輪様《にちりんさま》が|此《こ》の|滝《たき》に|輝《かがや》き|遊《あそ》ばして|七色《しちしよく》の|虹《にじ》を|御描《おゑが》き|遊《あそ》ばし、|得《え》も|言《い》はれぬ|微妙《びめう》な|鳥《とり》の|声《こゑ》、|常磐木《ときはぎ》の|色《いろ》、まるで|天国《てんごく》の|様《やう》ぢやありませぬか』
|竹公《たけこう》『さうですとも、|貴女《あなた》の|心《こころ》が|清《きよ》まつたので|宇宙《うちう》|一切《いつさい》が|荘厳《さうごん》|雄大《ゆうだい》に|見《み》え、|環境《くわんきやう》すべて|楽園《らくゑん》と|化《くわ》したのですよ』
|松姫《まつひめ》『|高城山《たかしろやま》も|随分《ずゐぶん》|景色《けしき》に|富《と》んだ|処《ところ》ですが、|到底《たうてい》|比《くら》べものにはなりませぬワ』
|竹公《たけこう》『それは|貴女《あなた》のお|心《こころ》が|曇《くも》つてゐたからですよ。|今度《こんど》|見直《みなほ》して|御覧《ごらん》、|此《こ》の|景色《けしき》よりも|層一層《そういつそう》|立派《りつぱ》です』
|斯《か》く|話《はな》す|時《とき》しも|勝公《かつこう》は|莞爾々々《にこにこ》として|馳《は》せ|来《きた》り、
|勝公《かつこう》『アヽ|松姫《まつひめ》さん、|竹《たけ》さん、|御苦労《ごくらう》だつた。|来勿止神《くなどめのかみ》|様《さま》から|今日《けふ》は|行《ぎやう》の|中途《なかば》だけれど、モウ|修行《しうぎやう》が|済《す》んだから|直様《すぐさま》|御山《おやま》へ|参詣《まゐ》つて|宜《よろ》しいとの|御命令《ごめいれい》が|下《くだ》りました。お|悦《よろこ》びなさいませ』
|松姫《まつひめ》『それは|何《なに》より|有《あ》り|難《がた》うございます』
と|滝壺《たきつぼ》に|向《むか》ひ、|感謝《かんしや》の|祝詞《のりと》を|奏上《そうじやう》し|終《をは》つて|三人《さんにん》|打《う》ち|連《つ》れ|立《だ》つて、|来勿止神《くなどめのかみ》の|庵《いほり》に|向《むか》つて|帰《かへ》りゆく。
|竹公《たけこう》『|神様《かみさま》、おかげで|無事《ぶじ》に|松姫《まつひめ》|様《さま》の|御修行《ごしうぎやう》が|終《をは》りました』
|松姫《まつひめ》『|来勿止神《くなどめのかみ》|様《さま》、いろいろと|厚《あつ》き|広《ひろ》き|思召《おぼしめし》に|依《よ》りまして、|汚《きたな》い|身魂《みたま》を|洗《あら》つて|頂《いただ》きました』
|来勿止神《くなどめのかみ》『アヽそうだつたか、|結構《けつこう》|々々《けつこう》、モウそれで|何処《どこ》へ|出《だ》しても|立派《りつぱ》なものだ。お|前《まへ》さんの|修行《しうぎやう》のおかげで|玉照彦《たまてるひこ》|様《さま》のお|迎《むか》へも|出来《でき》ませう。お|師匠様《ししやうさま》の|罪《つみ》も|全然《すつかり》|赦《ゆる》されませう、よう|辛《つら》い|行《ぎやう》をなさいました。アヽ|竹公《たけこう》、お|前《まへ》も|大変《たいへん》な|心配《こころくば》り、|気遣《きづか》ひであつたな。|私《わし》の|心《こころ》を|知《し》つて|居《ゐ》るのはお|前《まへ》ばつかりだ』
と|嬉《うれ》し|涙《なみだ》を|袖《そで》にそつと|拭《ぬぐ》ふ。|暫《しばら》くは|沈黙《ちんもく》の|幕《まく》が|下《お》りた。|此《この》|時《とき》|門前《もんぜん》に|慌《あはただ》しく|駆来《かけきた》る|四人《よにん》の|男《をとこ》、
|男《をとこ》『モシモシ|此《こ》の|門《もん》|開《あ》けて|下《くだ》さいませ』
|勝《かつ》は|立上《たちあが》り|大石門《だいせきもん》をギーと|左右《さいう》に|開《あ》けた。|四人《よにん》の|姿《すがた》を|見《み》て|勝《かつ》は|驚《おどろ》き、
|勝公《かつこう》『ヤアお|前《まへ》は|此《こ》の|間《あひだ》やつて|来《き》た|不届者《ふとどきもの》、バラモン|教《けう》の|谷丸《たにまる》、|鬼丸《おにまる》の|両人《りやうにん》、|又《また》|二人《ふたり》も|味方《みかた》を|殖《ふ》やして|来居《きを》つたのだな。|玉照彦《たまてるひこ》|様《さま》だと|思《おも》つて|大《おほ》きな|岩石《がんせき》を|大事《だいじ》さうに|抱《かか》へて|帰《かへ》り、|途中《とちう》で|気《き》がついて|又《また》もや|二度目《にどめ》のお|迎《むか》ひに|来居《きを》つたのだらう。モウモウ|余人《よにん》は|知《し》らず|貴様《きさま》に|限《かぎ》つて、|此《この》|門《もん》を|通過《つうくわ》さすことは|出来《でき》ないと|来勿止神《くなどめのかみ》|様《さま》の|厳命《げんめい》だ』
|谷丸《たにまる》、|鬼丸《おにまる》は|大地《だいち》にペタツと|坐《すわ》り、|涙《なみだ》を|流《なが》し|乍《なが》ら、
|谷《たに》、|鬼《おに》『モーシ|門番様《もんばんさま》、|今日《けふ》の|谷丸《たにまる》、|鬼丸《おにまる》は|先日《せんじつ》の|両人《りやうにん》とは|違《ちが》ひます。どうぞ|御安心《ごあんしん》|下《くだ》さいませ』
|勝公《かつこう》『|違《ちが》うと|云《い》つたつてお|前《まへ》の|容貌《ようばう》と|云《い》ひ、|姿《すがた》と|云《い》ひ、|何処《どこ》に|一《ひと》つ|変《かは》つたとこがないぢやないか』
|谷《たに》、|鬼《おに》『ハイ|形《かたち》の|上《うへ》はちつとも|変《かは》つて|居《を》りませぬが、|私《わたくし》の|心《こころ》は|天地《てんち》の|相違《さうゐ》に|変《かは》りました』
|勝公《かつこう》『いよいよ|以《もつ》て|怪《け》しからぬ|奴《やつ》だ。|皮《かは》は|何時《いつ》でも|変《かは》るぞよ。|霊魂《みたま》は|中々《なかなか》|変《かは》らぬぞよと|神様《かみさま》が|教《をし》へてござる。それに|何《なん》ぞや、|心《こころ》が|変《かは》りましたとは|益々《ますます》|合点《がつてん》のゆかぬ|奴《やつ》だ』
|谷《たに》、|鬼《おに》『そのお|疑《うたが》ひは|御尤《ごもつと》もでございますが、|今《いま》までの|取違《とりちが》ひ、|慢神《まんしん》の|雲霧《くもきり》が|晴《は》れまして、すつぱりと|青天《せいてん》|白日《はくじつ》の|様《やう》な|魂《たましひ》に|生《うま》れ|変《かは》りました。|何程《なにほど》|人間《にんげん》が|利巧《りかう》や|智慧《ちゑ》をだして|焦慮《あせ》つて|見《み》た|所《ところ》で|駄目《だめ》だ。|神様《かみさま》のお|許《ゆる》しない|事《こと》は|九分九厘《くぶくりん》で|掌《てのひら》が|覆《かへ》ると|云《い》ふことをつくづくと|悟《さと》らして|頂《いただ》きました。アーア|心《こころ》|程《ほど》|怖《おそ》ろしいものは|御座《ござ》いませぬ。|今迄《いままで》|私《わたくし》は|三五教《あななひけう》や、ウラル|教《けう》、ウラナイ|教《けう》が|敵《かたき》ぢやと|思《おも》つて、|一生懸命《いつしやうけんめい》に|其《そ》の|敵《てき》を|征服《せいふく》したいと|憂身《うきみ》を|窶《やつ》し、|大活動《だいくわつどう》を|続《つづ》けて|居《ゐ》ました。|然《しか》るに|豈《あに》|図《はか》らむや、その|大悪魔《だいあくま》の|敵《てき》は|私等《わたくしら》の|心《こころ》の|中《なか》にみんな|潜《ひそ》んで|居《を》りました。|斯《こ》うおかげを|頂《いただ》いた|以上《いじやう》は、|天ケ下《あめがした》に|敵《てき》も|無《な》ければ、|他人《たにん》も|無《な》い、|鬼《おに》も|大蛇《をろち》も|何《なに》もありませぬ。|吾々《われわれ》は|松姫《まつひめ》と|云《い》ふウラナイ|教《けう》の|宣伝使《せんでんし》に|対《たい》し、|非常《ひじやう》な|暴虐《ばうぎやく》を|加《くは》へ、|大方《おほかた》|半死《はんし》になるとこ|迄《まで》|打擲《ちやうちやく》を|致《いた》しましたことを、|今《いま》|更《さら》|乍《なが》ら|悔《く》いまして、|立《た》つても|坐《ゐ》ても|居堪《ゐた》まらず、|四人《よにん》のものが、どうぞして|松姫《まつひめ》|様《さま》の|所在《ありか》を|尋《たづ》ね|御詫《おわび》をせなくてはならないと|思《おも》うて、【そこら】を|探《さが》す|内《うち》、|道《みち》で|会《あ》うた|杣人《そまびと》に|聞《き》いて|見《み》れば、|三四日《さんよつか》|以前《いぜん》の|暮《く》れ|方《がた》に|霊山《れいざん》の|方《はう》に|向《むか》つて、|一人《ひとり》の|女《をんな》が|上《あが》つたと|云《い》ふことを|聞《き》き、|之《これ》は|正《まさ》しく|松姫《まつひめ》|様《さま》に|間違《まちが》ひあるまいと、|飛《と》び|立《た》つ|許《ばか》り|悦《よろこ》んで|四人《よにん》が|打揃《うちそろ》ひ|御目《おんめ》にかかつて|御詫《おわび》をしようと|出《で》て|来《き》たのです。どうぞ|此処《ここ》を|通《とほ》して|下《くだ》さいませ。|又《また》|先達《せんだつて》は|貴方等《あなたがた》に|御無礼《ごぶれい》を|致《いた》しました|其《その》|罪《つみ》も|御詫《おわび》せなくてはなりませぬ。|何事《なにごと》も|過去《くわこ》のことは|水《みづ》に|流《なが》して、|吾々《われわれ》の|過《あやま》ちをお|赦《ゆる》し|下《くだ》さいますやうに』
|勝公《かつこう》『さてもさても|妙《めう》なことが|出来《でき》たものだ|哩《わい》。|変《かは》り|易《やす》いは|秋冬《しうとう》の|空《そら》と|聞《き》いてゐるが、こりや|又《また》|大変《たいへん》の|地異天変《ちいてんぺん》が|起《おこ》つたものだ。|一寸《ちよつと》|皆《みな》さま|待《ま》つて|下《くだ》さい。|松姫《まつひめ》|様《さま》もまだ|此処《ここ》にゐられますから、|伺《うかが》つた|上《うへ》で|会《あ》はせませう』
と|門内《もんない》に|影《かげ》を|隠《かく》しける。
(大正一一・五・九 旧四・一三 外山豊二録)
第一六章 |玉照彦《たまてるひこ》〔六六一〕
|来勿止神《くなどめのかみ》は、|松姫《まつひめ》、|竹《たけ》|其《その》|他《た》|四人《よにん》の|男《をとこ》と|共《とも》に|機嫌《きげん》よく|湯《ゆ》を|啜《すす》つて|居《ゐ》る。
|此処《ここ》へ|門番頭《もんばんがしら》の|勝《かつ》は|入《い》り|来《きた》り、
『モシモシ|神様《かみさま》、|此間《こなひだ》の|奴《やつ》が|二人《ふたり》も|新顔《しんがほ》を|連《つ》れ、|都合《つがふ》|四人《よにん》やつて|参《まゐ》りました』
|来勿止神《くなどめのかみ》『アヽさうだらう、|改心《かいしん》して|謝罪《あやま》つて|居《ゐ》るだらうなア、|大方《おほかた》|谷丸《たにまる》、|鬼丸《おにまる》、テルヂー、コロンボと|云《い》ふ|人間《にんげん》だらう、|早《はや》く|此方《こなた》へ|案内《あんない》をするが|宜敷《よろし》い』
|勝公《かつこう》『|承知《しようち》|致《いた》しました、|併《しか》し|松姫《まつひめ》|様《さま》にお|詫《わび》がしたいと|云《い》うて|居《ゐ》ます』
|来勿止神《くなどめのかみ》『アヽさうかさうか、それなら|尚更《なほさら》|結構《けつこう》だ』
|間《ま》もなく|勝《かつ》の|案内《あんない》に|連《つ》れ、|四人《よにん》の|男《をとこ》|此《この》|場《ば》に|現《あら》はれ|怖《こわ》さうに|閾《しきゐ》を|跨《ま》たげて|土間《どま》に|平太《へた》り|込《こ》み、|頭《かしら》を|地《ち》につけて|謝罪《あやま》つて|居《ゐ》る。
|来勿止神《くなどめのかみ》『オヽお|前《まへ》は|谷丸《たにまる》|以下《いか》|三人《さんにん》の|男《をとこ》だなア、|何《ど》うだ、|神様《かみさま》の|御神力《ごしんりき》には|屈服《くつぷく》したかな』
|谷丸《たにまる》|漸《やうや》く|首《くび》を|上《あ》げ、
|谷丸《たにまる》『イヤもう、|重々《ぢうぢう》|御無礼《ごぶれい》を|致《いた》しまして|申訳《まをしわけ》も|御座《ござ》いませぬ、そちらに|御座《ござ》るは|松姫《まつひめ》|様《さま》、|何《ど》うで|御座《ござ》います、お|体《からだ》は|痛《いた》みませぬか、つい|心《こころ》の|中《なか》の|悪魔《あくま》に|操《あやつ》られ、|御無礼《ごぶれい》|計《ばか》り|致《いた》しました。|今日《けふ》は|四人連《よにんづ》れ|打《う》ち|揃《そろ》ひ|貴女《あなた》のお|跡《あと》を|尋《たづ》ね、お|詫《わび》に|参《まゐ》りました。|重々《ぢうぢう》の|罪《つみ》お|赦《ゆる》し|下《くだ》さいませ』
と|四人《よにん》は|一度《いちど》に|首《くび》を|下《さ》げる。
|松姫《まつひめ》『イヽエ、|何《なん》の|何《なん》の、|私《わたくし》こそ|貴方等《あなたがた》にお|詫《わび》をせなくてはならないのです。|貴方等《あなたがた》のお|蔭《かげ》で|結構《けつこう》な|御神徳《ごしんとく》を|頂《いただ》きました』
|来勿止神《くなどめのかみ》『|皆様《みなさま》、|其処《そこ》は|土間《どま》ぢや、|冷《ひ》えますから|破屋《あばらや》なれど|座敷《ざしき》へ|上《あが》つて|下《くだ》さい』
|谷丸《たにまる》『イエイエ|何《ど》う|致《いた》しまして|畏多《おそれおほ》い、|斯様《かやう》な|罪人《ざいにん》が|貴方様《あなたさま》と|同席《どうせき》が|何《ど》うして|出来《でき》ませう』
|来勿止神《くなどめのかみ》『|貴方《あなた》はもはや|罪《つみ》より|救《すく》はれたのだ、|尊《たふと》い|神様《かみさま》の|珍《うづ》の|御子《みこ》だから、さう|遠慮《ゑんりよ》なさるに|及《およ》ばぬ。|遠慮《ゑんりよ》は|却《かへ》つて|神様《かみさま》に|御無礼《ごぶれい》の|基《もと》だから、|私《わたくし》の|云《い》ふ|通《とほ》り|素直《すなほ》にお|上《あが》り|下《くだ》さい』
テルヂー『サア|皆《みな》さま、|折角《せつかく》のお|志《こころざし》、|上《あが》らせて|頂《いただ》きませう』
と|一足《ひとあし》|跨《また》げて|先《さき》に|上《あが》る。|三人《さんにん》は、
『|御免《ごめん》|下《くだ》さいませ』
と|怖《おそ》る|怖《おそ》る、|座敷《ざしき》に|上《あが》つた。|竹《たけ》は|湯《ゆ》を|汲《く》んで|四人《よにん》に|勧《すす》める。
|谷丸《たにまる》『|松姫《まつひめ》|様《さま》、|貴女《あなた》は|是《これ》から|玉照彦《たまてるひこ》|様《さま》をお|迎《むか》ひにお|出《いで》なさるのでせう』
|松姫《まつひめ》『エヽ』
|谷丸《たにまる》『お|隠《かく》しなさいますな、もはや|吾々《われわれ》|共《ども》は|改心《かいしん》を|致《いた》しました|以上《いじやう》は、|玉照彦《たまてるひこ》|様《さま》を|奉迎《ほうげい》したいなどと、|左様《さやう》な|不都合《ふつがふ》な|考《かんが》へは|持《も》ちませぬ、ナア、|一同《いちどう》さま』
テルヂー『|左様《さやう》で|御座《ござ》います、|吾々《われわれ》も|神様《かみさま》のお|蔭《かげ》に|依《よ》つて|左様《さやう》な|執着心《しふちやくしん》は|念頭《ねんとう》から【さらり】と|去《さ》りました。|併《しか》し|松姫《まつひめ》|様《さま》にお|詫《わび》のため、|高熊山《たかくまやま》の|巌窟《がんくつ》|迄《まで》お|伴《とも》|致《いた》し、いろいろと|能《あた》う|限《かぎ》りの|御用《ごよう》をさして|頂《いただ》き|度《た》う|御座《ござ》います』
|来勿止神《くなどめのかみ》『|皆々《みなみな》の|赤心《まごころ》は|良《よ》く|分《わか》りましたが、|此《この》|事《こと》は|御助力《おてつだひ》を|受《う》けたとあつては|松姫《まつひめ》|様《さま》のお|手柄《てがら》になりませぬ、|松姫《まつひめ》さまだけ|御一人《おひとり》お|出《いで》なさるが|宜《よろ》しからう、|皆《みな》の|人《ひと》は|此処《ここ》に|待《ま》つて|居《ゐ》てお|上《あ》げなさい、|其《その》|間《ま》に|種々《いろいろ》と|神様《かみさま》の|結構《けつこう》なお|話《はなし》を|交換《かうくわん》|致《いた》しませう』
|一同《いちどう》は|言葉《ことば》を|返《かへ》す|勇気《ゆうき》もなく、|承知《しようち》の|旨《むね》を|答《こた》へ、|松姫《まつひめ》の|無事《ぶじ》の|帰途《きと》を|待《ま》つ|事《こと》とした。|松姫《まつひめ》は|心《こころ》いそいそ|勇《いさ》み|立《た》ち、|脚《あし》も|何《なん》となく|軽《かる》げに|枯草《かれくさ》|蔽《おほ》へる|谷道《たにみち》を|上《のぼ》り|往《ゆ》く。|前方《ぜんぱう》より|二人《ふたり》の|男女《だんぢよ》、にこにこしながら|出《い》で|来《きた》り、|丁寧《ていねい》に|会釈《ゑしやく》し、
『|私《わたくし》は|当山《たうざん》を|守護《しゆご》|致《いた》す、|神国守《みくにもり》、|妾《わたし》は|国依姫《くによりひめ》で|御座《ござ》います。|貴女《あなた》は|松姫《まつひめ》さまぢや|御座《ござ》いませぬか』
|松姫《まつひめ》『|仰《あふ》せの|通《とほ》り、|不束者《ふつつかもの》で|御座《ござ》います、|何分《なにぶん》|宜敷《よろし》うお|願《ねが》ひ|致《いた》します。|玉照彦《たまてるひこ》の|神様《かみさま》は|御機嫌《ごきげん》|麗《うるは》しう|在《あ》らせられますか、|言照姫《ことてるひめ》|様《さま》は|何《ど》うしておゐでなさいます』
|神国守《みくにもり》『ハイハイお|二方《ふたかた》|共《とも》、|御機嫌《ごきげん》|殊《こと》の|外《ほか》|麗《うるは》しく、|今朝《けさ》よりは|特別《とくべつ》の|御機嫌《ごきげん》で|貴女《あなた》のお|出《いで》を|大変《たいへん》に|待《ま》つて|居《を》られるやうです。サア、|私《わたくし》|夫婦《ふうふ》が|御案内《ごあんない》|致《いた》しませう、|随分《ずゐぶん》|茂《しげ》つた|嶮岨《さかし》い|山道《やまみち》で|御座《ござ》いますから、|私《わたくし》がお|手《て》を|把《と》つて|上《あ》げませう』
|松姫《まつひめ》『イエイエ|何卒《なにとぞ》|構《かま》うて|下《くだ》さいますな、|神様《かみさま》に|対《たい》して|畏《おそ》れ|多《おほ》い|事《こと》で|御座《ござ》います。|人様《ひとさま》のお|出《いで》|遊《あそ》ばす|所《ところ》へ|私《わたくし》が|往《い》けない|筈《はず》は|御座《ござ》いませぬ』
|国依姫《くによりひめ》『|左様《さやう》なれば|妾《わたし》が|先導《せんだう》を|致《いた》しませう』
と|夫婦《ふうふ》は|松姫《まつひめ》を|中《なか》にして|静々《しづしづ》と|岩窟《がんくつ》さして|登《のぼ》り|行《ゆ》く。
|神国守《みくにもり》『サア、|此処《ここ》が|岩窟《がんくつ》の|入口《いりぐち》で|御座《ござ》います、|四十八《しじふはち》の|宝座《ほうざ》の|御前《みまへ》で|御座《ござ》います、|一度《いちど》|礼拝《れいはい》|致《いた》しまして、|奥《おく》へ|御案内《ごあんない》する|事《こと》にしませう』
|松姫《まつひめ》は|嬉《うれ》しさうに【ニタリ】と|笑《わら》ひ、|四十八《しじふはち》の|宝座《ほうざ》を|一々《いちいち》|礼拝《れいはい》し、|神国守《みくにもり》|夫婦《ふうふ》に|案内《あんない》されて|岩窟《がんくつ》の|奥深《おくふか》く|忍《しの》び|入《い》る。
|国依姫《くによりひめ》『|此《この》|岩窟《がんくつ》は|上《のぼ》り|下《くだ》りが、|所々《ところどころ》に|御座《ござ》いますから、|御用心《ごようじん》なさいませ、|十七八丁《じふしちはつちやう》|奥《おく》へ|進《すす》みますと|立派《りつぱ》な|岩窟《がんくつ》のお|館《やかた》が|築《きづ》かれて|御座《ござ》います、|此処《ここ》が|玉照彦《たまてるひこ》|様《さま》のお|館《やかた》』
|松姫《まつひめ》『|有難《ありがた》う』
と|簡単《かんたん》に|礼《れい》を|返《かへ》し|窟内《くつない》の|隧道《すゐだう》を|右《みぎ》に|折《お》れ|左《ひだり》に|曲《まが》り、|上《のぼ》りつ|下《くだ》りつ|漸《やうや》く|館《やかた》の|前《まへ》に|辿《たど》り|着《つ》いた。|館《やかた》の|前《まへ》に|一人《ひとり》の|男《をとこ》が|立《た》ち|現《あら》はれ|松姫《まつひめ》の|到着《たうちやく》を|待《ま》つて|居《ゐ》た。
|松姫《まつひめ》『ヤア、お|前《まへ》は|熊公《くまこう》ぢやないか、|何《ど》うして|斯《こ》んな|処《ところ》へ|来《き》たのだい』
|熊彦《くまひこ》『ハイ、|私《わたくし》は|貴方《あなた》が|過日《せんだつて》の|夕間暮《ゆふまぐれ》、お|館《やかた》を|捨《す》てて、|御出奔《ごしゆつぽん》なされたので、お|跡《あと》を|尋《たづ》ね、お|願《ねが》ひ|申《まを》して|再《ふたた》び|高城山《たかしろやま》の|館《やかた》へお|帰《かへ》りを|願《ねが》ひ|度《た》いと、|取《と》るものも|取敢《とりあへ》ず|走《はし》り|出《い》でむとすれば、お|節《せつ》さまや|竜若《たつわか》に|無理《むり》に|引《ひ》き|留《とめ》られ、|残念《ざんねん》ながら|肉体《にくたい》は|館《やかた》に|残《のこ》し、|霊魂《れいこん》のみ|貴方《あなた》の|行衛《ゆくへ》を|尋《たづ》ね、|此処迄《ここまで》|御案内《ごあんない》を|申《まを》して|来《き》たのです、|堺峠《さかひたうげ》に|於《おい》て|四人《よにん》の|奴《やつ》に|貴方《あなた》がエライ|目《め》に|遭《あ》はされなさつた|時《とき》、|私《わたくし》はどれだけ|苦《くる》しんだか|知《し》れませぬ。|貴女《あなた》のお|体《からだ》に|付纏《つきまと》ひ、|私《わたくし》が|代《かは》はつて|撲《なぐ》られました、|御覧《ごらん》なさいませ、|此《この》|通《とほ》りまだ|創傷《きず》が|十分《じふぶん》に|癒《なほ》つて|居《を》りませぬ』
|松姫《まつひめ》『アヽさうするとお|前《まへ》は|肉《にく》の|宮《みや》を|館《やかた》に|残《のこ》して|置《お》いて|来《き》たのだなア、|跡《あと》は|何《ど》うしなさつた』
|熊彦《くまひこ》『ハイ、|肉《にく》の|宮《みや》は|千代彦《ちよひこ》と|云《い》ふ|本守護神《ほんしゆごじん》が|守《まも》つて|居《ゐ》ます』
|松姫《まつひめ》『アヽ、さうかな、それは|御苦労《ごくらう》だつた、|早《はや》く|帰《かへ》つて|下《くだ》さい、もう|大丈夫《だいぢやうぶ》だから』
|熊彦《くまひこ》『もう|暫《しばら》くお|伴《とも》さして|下《くだ》さい』
|神国守《みくにもり》『ヤア、さう|聞《き》くと|貴方《あなた》が|或《ある》|人《ひと》の|幽霊《いうれい》だな』
|松姫《まつひめ》『これは|私《わたくし》の|家《いへ》に|居《を》りまする|熊公《くまこう》と|云《い》ふ|大変《たいへん》|師匠《ししやう》|思《おも》ひの|男《をとこ》で、|門番《もんばん》や|受付《うけつけ》をして|居《を》るので|御座《ござ》います、|一心《いつしん》の|誠《まこと》が|通《とほ》つて|霊魂《れいこん》が|幽体《いうたい》を|現《げん》じ、|此処迄《ここまで》|私《わたくし》を|守《まも》つて|来《き》て|呉《く》れたのです』
|国依姫《くによりひめ》『|何《なん》と|誠《まこと》の|強《つよ》い、|師匠《ししやう》|思《おも》ひの|方《かた》ですなア』
|松姫《まつひめ》は|早《はや》くも|何故《なにゆゑ》か|涙《なみだ》ぐんで|居《ゐ》る。|熊公《くまこう》の|姿《すがた》は|煙《けぶり》の|如《ごと》く|消《き》えて|仕舞《しま》つた。
|忽然《こつぜん》として|館《やかた》の|戸《と》は|開《ひら》かれ、|中《なか》より|言照姫《ことてるひめ》の|威厳《ゐげん》に|満《み》ちた|姿《すがた》が|現《あら》はれた。
|言照姫《ことてるひめ》『ヤア|其方《そなた》は|松姫《まつひめ》であつたか、|妾《わたし》は|言照姫《ことてるひめ》の|命《みこと》、|様子《やうす》あつて|本名《ほんみやう》は|今《いま》|暫《しばら》く|名乗《なの》りませぬ、|奥《おく》に|寝《やす》ませらるる|玉照彦《たまてるひこ》|様《さま》は|遠《とほ》き|未来《みらい》に|於《おい》てミロク|神政成就《しんせいじやうじゆ》の|神業《しんげふ》に|参加《さんか》|遊《あそ》ばす|尊《たふと》き|伊都能売之御霊《いづのめのみたま》、|其方《そなた》は|大切《たいせつ》に|奉侍《ほうじ》し、|世継王山《よつわうざん》の|麓《ふもと》に|在《おは》す|国武彦《くにたけひこ》の|命《みこと》にお|届《とど》けあれ、|然《しか》らば|其方《そなた》は|云《い》ふに|及《およ》ばず|高姫《たかひめ》、|黒姫《くろひめ》|一派《いつぱ》の、|今迄《いままで》|瑞《みづ》の|御霊《みたま》の|大神《おほかみ》に|射向《いむ》かひまつりし|重大《ぢうだい》の|罪《つみ》を|赦《ゆる》され、|神界《しんかい》の|御用《ごよう》に|参加《さんか》し、|偉勲《ゐくん》を|建《た》つる|事《こと》を|得《え》む。|神国守《みくにもり》、|国依姫《くによりひめ》は|松姫《まつひめ》と|共《とも》に|玉照彦《たまてるひこ》の|命《みこと》を|保護《ほご》し|奉《たてまつ》り、|綾《あや》の|聖地《せいち》に|送《おく》らるべし』
と|言葉《ことば》|終《をは》るや|否《いな》や、|言照姫《ことてるひめ》の|姿《すがた》は|忽然《こつぜん》として|消《き》えて|仕舞《しま》つた。|松姫《まつひめ》は|畏《かしこ》み|慎《つつし》み、|天《あま》の|数歌《かずうた》を|謡《うた》ひあげ、|終《をは》つて|言葉《ことば》|静《しづ》かに、
|松姫《まつひめ》『|妾《わたし》は|松姫《まつひめ》と|申《まを》すもの、|唯今《ただいま》|言照姫《ことてるひめ》|様《さま》の|御命令《ごめいれい》を|拝《はい》し、|尊様《みことさま》をお|迎《むか》へ|申《まを》して|綾《あや》の|聖地《せいち》に|向《むか》ひます。|何卒《なにとぞ》|妾《わたし》にこの|尊《たふと》き|御用《ごよう》をお|許《ゆる》し|下《くだ》さいませ』
と|一心《いつしん》に|祈願《きぐわん》し|終《をは》るや、|玉照彦《たまてるひこ》の|命《みこと》は|立《た》ち|上《あが》り、|小《ちひ》さき|身体《からだ》を|揺《ゆ》りながら、|松姫《まつひめ》の|膝《ひざ》に|嬉《うれ》しげに|上《あが》らせられた。|松姫《まつひめ》は|恭《うやうや》しく|懐中《ふところ》に|抱《いだ》き|奉《たてまつ》り、|神国守《みくにもり》|夫婦《ふうふ》に|守《まも》られ、|漸《やうや》く|岩窟《がんくつ》を|立《た》ち|出《で》て、|再《ふたた》び|宝座《ほうざ》を|伏《ふ》し|拝《をが》み、|来勿止神《くなどめのかみ》の|庵《いほり》に|漸《やうや》く|帰《かへ》りついた。
|来勿止神《くなどめのかみ》を|始《はじ》め、|勝《かつ》、|竹《たけ》、|六《ろく》、|初《はつ》、|其《その》|他《た》の|門番《もんばん》|及《およ》び|谷丸《たにまる》、|鬼丸《おにまる》、テルヂー、コロンボは|門《もん》の|内面《ないめん》に|整列《せいれつ》して|奉迎《ほうげい》しつつあつた。|松姫《まつひめ》は|神国守《みくにもり》|夫婦《ふうふ》を|伴《ともな》ひ、|静々《しづしづ》と|目礼《もくれい》しながら|門《もん》を|出《い》づれば|豈《あに》|図《はか》らむや、|数多《あまた》の|白衣《びやくい》を|着《ちやく》せる|神人《しんじん》|幾百人《いくひやくにん》ともなく、|道《みち》の|左右《さいう》に|整列《せいれつ》し、|英子姫《ひでこひめ》、|悦子姫《よしこひめ》、|亀彦《かめひこ》、|常彦《つねひこ》、|若彦《わかひこ》、|紫姫《むらさきひめ》、|其《その》|他《た》|三五教《あななひけう》、ウラナイ|教《けう》の|宣伝使《せんでんし》の|肉体《にくたい》|及《およ》び|幽体《いうたい》|相交《あひまじ》はり、|恭《うやうや》しく|奉迎《ほうげい》して|居《ゐ》る。|何処《いづく》ともなく|微妙《びめう》の|音楽《おんがく》|四方《しはう》に|起《おこ》り|松姫《まつひめ》は|思《おも》はず|足《あし》も|進《すす》み|出《い》で、|何時《いつ》の|間《ま》にか、|世継王山麓《よつわうさんろく》の|悦子姫《よしこひめ》の|庵《いほり》に|着《つ》き|居《ゐ》たり。|茲《ここ》に|玉照彦《たまてるひこ》、|玉照姫《たまてるひめ》の|神人《しんじん》は|二柱《ふたはしら》|相並《あひなら》び|給《たま》ひ、|日《ひ》に|夜《よ》に|神徳《しんとく》|現《あら》はれ、|昼夜《ちうや》の|区別《くべつ》なく|瑞雲《ずゐうん》|棚引《たなび》き|渡《わた》り、ウラナイ|教《けう》の|高姫《たかひめ》、|黒姫《くろひめ》|其《その》|他《た》も|嬉々《きき》として|集《あつ》まり|来《き》たり、ミロク|神政《しんせい》の|基礎《きそ》を|固《かた》むる|事《こと》となりにける。
(大正一一・五・九 旧四・一三 加藤明子録)
(昭和一〇・六・四 於透明殿 王仁校正)
第一七章 |言霊車《ことたまぐるま》〔六六二〕
|仰《あふ》げば|遠《とほ》し|其《その》|昔《むかし》 |広大無辺《くわうだいむへん》の|大宇宙《だいうちう》
|天地《あめつち》|未《いま》だ|定《さだ》まらず |陰陽未分《いんやうみぶん》の|其《その》|時《とき》に
|葦芽《あしがひ》の|如《ごと》|萠《も》えあがり |黄芽《わうが》を|含《ふく》む|一物《いちもつ》は
|忽《たちま》ち|化《くわ》して|神《かみ》となる これぞ|天地《てんち》の|太元《おほもと》の
|大国常立尊《おほくにとこたちみこと》なり |其《その》|御霊《みたま》より|別《わか》れたる
|天地《てんち》の|祖《おや》と|現《あ》れませる |国治立《くにはるたち》の|大神《おほかみ》は
|豊国主《とよくにぬし》の|姫神《ひめがみ》と |力《ちから》を|協《あは》せ|御心《みこころ》を
|一《ひと》つになして|美《うる》はしき |世界《せかい》を|造《つく》り|玉《たま》ひつつ
|七十五声《しちじふごせい》の|言霊《ことたま》を うみ|出《い》でまして|千万《ちよろづ》の
|身魂《みたま》を|造《つく》り|国《くに》を|生《う》み |青人草《あをひとぐさ》や|山河《やまかは》を
|〓怜《うまら》に|委曲《つばら》に|生《う》み|終《を》へて |神伊邪諾《かむいざなぎ》の|大神《おほかみ》や
|神伊邪冊《かむいざなみ》の|大神《おほかみ》に |天《あま》の|瓊矛《ぬほこ》を|賜《たま》ひつつ
|修理固成《しうりこせい》の|大神業《おほみわざ》 |依《よ》さし|給《たま》へる|折柄《をりから》に
|現《あら》はれませる|素盞嗚《すさのを》の |神《かみ》の|尊《みこと》は|畏《かしこ》くも
|大海原《おほうなばら》を|治《しろ》しめし |国治立《くにはるたち》の|大神《おほかみ》や
|豊国主《とよくにぬし》の|姫神《ひめがみ》の |大御心《おほみこころ》を|心《こころ》とし
|千々《ちぢ》に|御胸《みむね》を|砕《くだ》かせつ |千座《ちくら》の|置戸《おきど》を|負《お》ひ|給《たま》ひ
|八洲《やしま》の|国《くに》を|治《をさ》めむと |心《こころ》を|配《くば》らせ|給《たま》へども
|天足《あだる》の|彦《ひこ》や|胞場姫《えばひめ》の |醜《しこ》の|身魂《みたま》に|成《な》り|出《い》でし
|怪《あや》しき|霊《みたま》|伊凝《いこ》り|居《ゐ》て |八岐大蛇《やまたをろち》や|醜狐《しこぎつね》
|醜女《しこめ》|探女《さぐめ》や|曲鬼《まがおに》の |荒《あら》ぶる|御代《みよ》と|成《な》り|果《は》てて
|体主霊従《たいしゆれいじう》の|雲《くも》|蔽《おほ》ひ |世《よ》は|常暗《とこやみ》となり|果《は》てぬ
|日《ひ》の|神国《かみくに》を|治食《しろ》しめす |天照《あまてら》します|大神《おほかみ》は
|此《この》|状態《ありさま》を|畏《かしこ》みて |岩屋戸《いはやど》|深《ふか》く|差《さ》しこもり
|戦《をのの》き|隠《かく》れ|玉《たま》ひしゆ |百《もも》の|神《かみ》たち|驚《おどろ》きて
|安《やす》の|河原《かはら》に|神集《かむつど》ひ |議《はか》り|玉《たま》ひし|其《その》|結果《あげく》
|神素盞嗚《かむすさのを》の|大神《おほかみ》を |天地《あめつち》|四方《よも》の|神人《しんじん》の
|百千万《ももちよろづ》の|罪科《つみとが》の |贖罪主《あがなひぬし》と|定《さだ》めまし
|高天原《たかあまはら》を|神追《かむやら》ひ |追《やら》ひ|玉《たま》へば|素盞嗚《すさのを》の
|神《かみ》は|是非《ぜひ》なく|久方《ひさかた》の |尊《たふと》き|位《くらゐ》を|振《ふ》り|棄《す》てて
|大海原《おほうなばら》に|漂《ただよ》へる |島《しま》の|八十島《やそしま》|百国《ももくに》の
|山《やま》の|尾《を》の|上《へ》の|曲神《まがかみ》を |言向《ことむ》け|和《やは》し|麗《うるは》しき
|五六七《みろく》の|神代《みよ》を|始《はじ》めむと |百《もも》の|悩《なや》みを|忍《しの》びつつ
|八洲《やしま》の|国《くに》を|遠近《をちこち》と |漂浪《さすら》ひ|給《たま》ふぞ|尊《たふと》けれ
○
|朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも |月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも
|仮令《たとへ》|大地《だいち》は|転倒《かへ》るとも |天津神《あまつかみ》|達《たち》|国津神《くにつかみ》
|百《もも》の|神々《かみがみ》|百人《ももびと》を |誠《まこと》|一《ひと》つの|言霊《ことたま》の
|稜威《いづ》の|剣《つるぎ》を|抜《ぬ》き|持《も》ちて |天地《てんち》にさやる|曲津神《まがつかみ》
|八岐大蛇《やまたをろち》を|言向《ことむ》けて |此《この》|世《よ》の|災禍《わざはひ》|払《はら》はむと
|大和心《やまとごころ》の|雄心《をごころ》を |振起《ふりおこ》しつつ|進《すす》み|行《ゆ》く
|神素盞嗚《かむすさのを》の|大神《おほかみ》は すべての|罪《つみ》を|差《さ》し|赦《ゆる》す
|三五教《あななひけう》を|守《まも》りつつ |心《こころ》も|広《ひろ》き|神直日《かむなほひ》
|大直日《おほなほひ》にと|見直《みなほ》しつ |肉《にく》の|宮《みや》より|現《あ》れませる
|八《やつ》の|柱《はしら》の|姫御子《ひめみこ》に |苦《くる》しき|神命《みこと》を|下《くだ》しつつ
|斎苑《いそ》の|館《やかた》に|身《み》を|忍《しの》び |日《ひ》の|出神《でのかみ》や|木《こ》の|花《はな》の
|姫《ひめ》の|命《みこと》と|諸共《もろとも》に |恵《めぐみ》の|露《つゆ》を|天《あめ》が|下《した》
|四方《よも》の|国々《くにぐに》|隈《くま》もなく |注《そそ》がせ|玉《たま》ふ|有難《ありがた》さ
|埴安彦《はにやすひこ》や|埴安姫《はにやすひめ》の |神《かみ》の|命《みこと》と|現《あら》はれし
|国治立《くにはるたち》や|豊国《とよくに》の |姫《ひめ》の|命《みこと》の|分霊《わけみたま》
|黄金山下《わうごんさんか》に|現《あら》はれて |暗《くら》き|此《この》|世《よ》を|照《てら》さむと
|八千八声《はつせんやこゑ》の|時鳥《ほととぎす》 |血《ち》を|吐《は》く|思《おも》ひの|苦《くるし》みを
|永《なが》の|年月《としつき》|重《かさ》ねつつ |五六七《みろく》|神政《しんせい》の|礎《いしずゑ》を
|常磐堅磐《ときはかきは》に|固《かた》めまし |豊葦原《とよあしはら》の|瑞穂国《みづほくに》
|秋津《あきつ》の|洲《しま》や|筑紫島《つくしじま》 |常世《とこよ》の|国《くに》や|高砂《たかさご》の
|島《しま》にそれぞれ|神司《かむつかさ》 |国魂神《くにたまがみ》を|定《さだ》めつつ
|天《あま》の|岩戸《いはと》もやうやうに |開《ひら》き|初《はじ》めて|英子姫《ひでこひめ》
|教《をしへ》の|花《はな》も|悦子姫《よしこひめ》 |空《そら》に|棚引《たなび》く|紫《むらさき》の
|姫《ひめ》の|命《みこと》の|現《あら》はれて |自転倒島《おのころじま》の|中心地《ちうしんち》
|錦《にしき》の|御機《みはた》|織《お》りなせる |四尾《よつを》の|峰《みね》の|山麓《さんろく》に
|幽玄微妙《いうげんびめう》の|神界《しんかい》の |経《たて》と|緯《よこ》との|経綸《けいりん》を
【うまら】に|委曲《つばら》に|固《かた》めつつ |薫《かを》りゆかしき|梅《うめ》が|香《か》の
|一度《いちど》に|開《ひら》く|御経綸《おんしぐみ》 |松《まつ》は|千歳《ちとせ》の|色《いろ》|深《ふか》く
|心《こころ》の|色《いろ》も|丹波《あかなみ》の |綾《あや》の|聖地《せいち》に|玉照彦《たまてるひこ》の
|神《かみ》の|命《みこと》や|玉照姫《たまてるひめ》の |神《かみ》の|命《みこと》の|二柱《ふたはしら》
|時節《じせつ》を|待《ま》ちて|厳御霊《いづみたま》 |瑞《みづ》の|御霊《みたま》のいと|清《きよ》く
|濁《にご》り|果《は》てたる|天地《あめつち》の |汚《けが》れを|流《なが》す|和知《わち》の|川《かは》
|並木《なみき》の|松《まつ》の|立並《たちなら》ぶ |川辺《かはべ》に|建《た》てる|松雲閣《しよううんかく》
|奥《おく》の|一間《ひとま》に|横臥《わうぐわ》して |五六七《みろく》|神政《しんせい》の|神界《しんかい》の
|尊《たふと》き|経緯《けいゐ》を|物語《ものがた》る アヽ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ。
○
|見渡《みわた》す|限《かぎ》り|紺青《こんじやう》の み|空《そら》に|清《きよ》く|玉照彦《たまてるひこ》の
|神《かみ》の|命《みこと》や|玉照姫《たまてるひめ》の |神《かみ》の|命《みこと》の|現《あら》はれて
|弥勒《みろく》の|御代《みよ》に|伊都能売《いづのめ》の |神《かみ》の|御霊《みたま》の|神業《しんげふ》を
|開始《かいし》し|玉《たま》ふ|物語《ものがたり》 |三五教《あななひけう》を|守《まも》ります
|神素盞嗚《かむすさのを》の|大神《おほかみ》の |仁慈《じんじ》|無限《むげん》の|真心《まごころ》に
|流石《さすが》の|曲霊《まがひ》も|感銘《かんめい》し |心《こころ》の|底《そこ》より|悔悟《くわいご》して
ウラナイ|教《けう》の|神司《かむづかさ》 |本《もと》つ|教《をしへ》に|帰順《きじゆん》せし
|聞《き》くも|芽出度《めでた》き|高姫《たかひめ》や |高山彦《たかやまひこ》や|黒姫《くろひめ》の
|罪《つみ》や|穢《けが》れを|贖《あがな》ひし |松《まつ》の|心《こころ》の|松姫《まつひめ》が
|高熊山《たかくまやま》の|山麓《さんろく》に |心《こころ》の|岩戸《いはと》を|開《ひら》きつつ
|最早《もはや》|悪魔《あくま》も|来勿止《くなどめ》の |神《かみ》に|魂《たま》をば|鍛《きた》へられ
|御稜威《みいづ》も|高《たか》き|高熊《たかくま》の |岩窟《いはや》の|中《なか》に|駆入《かけい》りて
|貴《うづ》の|御子《みこ》をば|奉迎《ほうげい》し |天《あめ》が|下《した》をば|平《たひら》らけく
いと|安《やす》らけく|治《をさ》め|行《ゆ》く |神《かみ》の|仕組《しぐみ》に|参加《さんか》せし
|誠心《まことごころ》は|三千歳《みちとせ》の |花《はな》|咲《さ》きいでて|今《いま》|茲《ここ》に
|五六七《みろく》の|神代《みよ》の|開《ひら》け|口《ぐち》 |松竹梅《まつたけうめ》の|宣伝使《せんでんし》
|月雪花《つきゆきはな》を|始《はじ》めとし |教《をしへ》を|開《ひら》く|八島主《やしまぬし》
|言依別《ことよりわけ》の|言霊《ことたま》に |敵《てき》と|味方《みかた》の|差別《けじめ》なく
|誠《まこと》|一《ひと》つの|大本《おほもと》を |世界《せかい》に|照《てら》す|糸口《いとぐち》を
|手繰《たぐ》りて|述《の》ぶる|物語《ものがたり》 |筆《ふで》|執《と》る|人《ひと》は|【松村】氏《まつむらし》 松村
|無尽意菩薩《むじんいぼさつ》の|【山上】氏《やまがみし》 |頭《あたま》も|照《てら》す|身《み》も|照《てら》す 山上
|月照彦《つきてるひこ》の|肉《にく》の|宮《みや》 |言霊《ことたま》|開《ひら》く|観自在《くわんじざい》
|三十三相《さんじふさんさう》また|四相《しさう》 |妙音菩薩《めうおんぼさつ》の|神力《しんりき》を
|愈《いよいよ》|現《あら》はす|十九《つづ》の|巻《まき》 |永《なが》き|春日《はるひ》に|照《てら》されて
|物語《ものがた》るこそ|楽《たの》しけれ。
○
|四方《よも》に|塞《ふさ》がる|雲霧《くもきり》を |神《かみ》の|御水火《みいき》に|吹《ふ》き|払《はら》ひ
|心《こころ》も|清《きよ》く|身《み》も|清《きよ》く |青《あを》き|御空《みそら》を|五六七殿《みろくでん》
|本宮山《ほんぐうやま》の|新緑《しんりよく》は |大本教《おほもとけう》の|隆盛《りうせい》を
|衣《ころも》の|色《いろ》に|現《あら》はして |行手《ゆくて》を|祝《ことほ》ぐ|如《ごと》くなり
|眼下《がんか》に|漂《ただよ》ふ|金銀《きんぎん》の |波《なみ》に|浮《うか》べる|大八洲《おほやしま》
|天《あま》の|岩戸《いはと》の|其《その》|上《うへ》に |大宮柱太《おほみやばしらふと》しりて
|千木《ちぎ》|勝男木《かつをぎ》も|弥《いや》|高《たか》く |朝日《あさひ》に|輝《かがや》く|金光《きんくわう》は
|神《かみ》の|御稜威《みいづ》の|十曜《とえう》の|紋《もん》 |冠島《おしま》|沓島《めしま》や|六合大《くにひろ》の
|常磐木《ときはぎ》|茂《しげ》る|浮島《うきしま》は |擬《まが》ふ|方《かた》なき|五大洲《ごだいしう》
|言霊閣《ことたまかく》は|雲表《うんぺう》に |黄金《こがね》の|冠《かんむり》|戴《いただ》きつ
|聳《そび》えて|下界《げかい》を|打《うち》まもる |教御祖《をしへみおや》を|斎《まつ》りたる
|甍《いらか》|輝《かがや》く|教祖殿《けうそでん》 |金竜殿《きんりうでん》や|教主殿《けうしゆでん》
|木々《きぎ》の|梢《こずゑ》も|青々《あをあを》と |春風《はるかぜ》そよぐ|神《かみ》の|苑《その》
|水《みづ》に|浮《うか》べる|錦水亭《きんすゐてい》 |地水《ちすゐ》に|輝《かがや》く|瑞月《ずゐげつ》が
|尽《つ》くる|事《こと》なく|物語《ものがた》る |瑞《みづ》の|御霊《みたま》の|開《ひら》け|口《ぐち》
|神《かみ》の|力《ちから》も|厳御霊《いづみたま》 |五十鈴《いすず》の|滝《たき》の|鼕々《とうとう》と
|際涯《はてし》も|知《し》らぬ|神《かみ》の|代《よ》の |奇《く》しき|尊《たふと》き|物語《ものがたり》
|高天原《たかあまはら》と|鳴《な》り|亘《わた》る |言霊閣《ことたまかく》のいや|高《たか》に
|声《こゑ》も|涼《すず》しき|神《かみ》の|風《かぜ》 |常磐堅磐《ときはかきは》に|吹《ふ》き|送《おく》り
|醜《しこ》の|草木《くさき》を|靡《なび》かせて |世人《よびと》の|胸《むね》に|塞《ふさ》がれる
|雲《くも》を|晴《は》らして|永久《とこしへ》の |花《はな》|咲《さ》く|春《はる》の|神国《かみくに》に
|導《みちび》き|救《すく》ふぞ|雄々《をを》しけれ アヽ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ。
○
|月日《つきひ》|並《なら》びて|治《をさ》まれる |聖《ひじり》の|御代《みよ》の|二十余《はたちま》り
|五《いつ》つの|年《とし》の|睦《むつ》の|月《つき》 |寒風《かんぷう》|荒《すさ》ぶ|真夜中《まよなか》に
|本宮《ほんぐう》|新宮《しんぐう》|坪《つぼ》の|内《うち》 |遠《とほ》き|神代《かみよ》の|昔《むかし》より
|貴《うづ》の|聖地《せいち》と|聞《きこ》えたる |竜門館《りうもんやかた》の|神屋敷《みやしき》に
|現《あら》はれ|給《たま》ひし|艮《うしとら》の |皇大神《すめおほかみ》は|三千歳《みちとせ》の
こらへ|忍《しの》びの|松《まつ》の|花《はな》 |手折《たを》る|人《ひと》なき|賤《しづ》の|家《や》に
|住《す》まはせ|玉《たま》ふ|未亡人《みぼうじん》 |出口《でぐち》|直子《なほこ》の|肉宮《にくみや》に
|電《いなづま》の|如《ごと》|懸《かか》りまし |宣《の》らせ|給《たま》へる|言霊《ことたま》は
|三千世界《さんぜんせかい》の|梅《うめ》の|花《はな》 |一度《いちど》に|開《ひら》く|時《とき》|来《きた》り
|須弥仙山《しゆみせんざん》に|腰《こし》をかけ |曲津《まがつ》の|猛《たけ》ぶ|世《よ》の|中《なか》を
|神《かみ》の|御水火《みいき》に|言向《ことむ》けて ミロクの|御代《みよ》を|開《ひら》かむと
|厳《いづ》の|雄健《をたけ》び|踏《ふ》みたけび |厳《いづ》のころびを|起《おこ》しつつ
|神《かみ》の|出口《でぐち》の|口開《くちびら》き |大本教《おほもとけう》の|礎《いしずゑ》を
|固《かた》め|給《たま》ひし|雄々《をを》しさよ |賤《しづ》が|伏家《ふせや》の|賤《しづ》の|女《め》は
|神《かみ》の|御声《みこゑ》に|目《め》をさまし |黒白《あやめ》も|分《わか》ぬ|暗《やみ》の|夜《よ》を
|光《ひかり》|眩《まばゆ》き|旭子《あさひこ》の |日《ひ》の|出《で》の|神代《みよ》に|還《かへ》さむと
|朝《あさ》な|夕《ゆふ》なに|命毛《いのちげ》の |御筆《みふで》を|執《と》りて|神言《かみごと》を
|心《こころ》|一《ひと》つに|記《しる》しつつ |二十七年《にじふしちねん》が|其《その》|間《あひだ》
|唯《ただ》|一日《いちじつ》の|如《ごと》くにて |仕《つか》へ|玉《たま》ひし|言《こと》の|葉《は》は
|国常立《くにとこたち》の|大神《おほかみ》の |貴《うづ》の|御声《みこゑ》と|尊《たふと》みて
|集《あつ》まり|来《きた》る|諸人《もろびと》は |遠《とほ》き|近《ちか》きの|隔《へだ》てなく
|貴賤老幼《きせんらうえう》おしなべて |聖地《せいち》をさして|寄《よ》り|来《きた》る
|神《かみ》の|御稜威《みいづ》の|赫灼《いやちこ》に |日々《ひび》に|栄《さか》えて|大本《おほもと》は
|朝日《あさひ》の|豊栄《とよさか》|昇《のぼ》るごと |四方《よも》の|国々《くにぐに》|照《て》らし|行《ゆ》く
|変性男子《へんじやうなんし》と|現《あらは》れて |錦《にしき》の|機《はた》の|経糸《たていと》を
|仕組《しぐ》みて|茲《ここ》に|七年《ななとせ》の |月日《つきひ》を|重《かさ》ねて|待《ま》ち|給《たま》ふ
|時《とき》しもあれや|三十余《みそあま》り |一《ひと》つの|年《とし》の|秋《あき》の|頃《ころ》
|変性女子《へんじやうによし》の|生御魂《いくみたま》 |神《かみ》の|教《をしへ》を|蒙《かうむ》りて
|穴太《あなを》の|郷《さと》を|後《あと》にして |変性男子《へんじやうなんし》の|住所《すみか》をば
|訪《たづ》ねし|事《こと》の|縁《えん》となり |愈《いよいよ》|茲《ここ》に|緯糸《よこいと》の
|機織姫《はたおりひめ》と|現《あら》はれて |襷十字《たすきじふじ》に|掛巻《かけまく》も
|畏《かしこ》き|神《かみ》の|御教《みをしへ》を |稜威《いづ》の|仕組《しぐみ》の|新聞紙《にひぶみ》に
|写《うつ》して|開《ひら》く|神霊界《しんれいかい》 |金言玉詞《きんげんぎよくし》の|神勅《しんちよく》を
|心《こころ》も|狭《せま》き|智慧《ちゑ》|浅《あさ》き パリサイ|人《びと》が|誤解《ごかい》して
あらぬ|言挙《ことあ》げなしければ |清《きよ》けき|神《かみ》の|御教《みをしへ》も
|漸《やうや》く|雲《くも》に|包《つつ》まれて |高天原《たかあまはら》の|空《そら》|暗《くら》く
|黒白《あやめ》も|分《わ》かぬ|人心《ひとごころ》 |瑞《みづ》の|御霊《みたま》は|悲《かな》しみて
|此《この》|雲霧《くもきり》を|払《はら》はむと |心《こころ》|痛《いた》むる|折柄《をりから》に
|忽《たちま》ち|轟《とどろ》く|雷《いかづち》の |雲《くも》の|上《うへ》より|落《お》ち|来《きた》り
|身動《みうご》きならぬ|籠《かご》の|鳥《とり》 |忠《ちう》と|囀《さへづ》る|群雀《むらすずめ》
|漸《やうや》く|声《こゑ》をひそめける |瑞《みづ》の|御霊《みたま》の|神言《みこと》もて
パリサイ|人《びと》や|世《よ》の|人《ひと》を |尊《たふと》き|神《かみ》の|御教《みをしへ》に
|眼《まなこ》を|覚《さ》まさせ|助《たす》けむと |心《こころ》を|定《さだ》めて|病労《いたづき》の
|身《み》もたなしらに|述《の》べ|立《た》つる |尊《たふと》き|神《かみ》の|御心《おんこころ》
|筆《ふで》に|写《うつ》して|松《まつ》の|世《よ》の |栄《さか》えの|本《もと》の|物語《ものがたり》
|臥竜如来《ぐわりようによらい》と|現《あら》はれて |松雲閣《しよううんかく》に|横《よこ》たはり
|落葉《おちば》を|探《さが》す|【佐賀伊佐男】《さがいさを》 佐賀伊佐男 |垢《あか》を|清《きよ》むる|温泉《をんせん》の
|【湯浅清高】《ゆあさきよたか》|両人《りやうにん》を 湯浅清高 |金剛童子《こんがうどうじ》や|勢多迦《せいたか》の
|二人《ふたり》の|役《やく》になぞらへて |倒《たふ》れかかりし|神柱《かむばしら》
|立直《たてなほ》さむと|真心《まごころ》の |限《かぎ》りを|尽《つく》し|身《み》を|尽《つく》し
|世人《よびと》の|覚醒《めざめ》を|【松村】《まつむら》や |【外山豊二】氏《とやまとよじし》|【加藤明子】《かとうはるこ》 外山豊二
|【藤津久子】《ふじつひさこ》の|筆《ふで》の|補助《ほじよ》 |神代《かみよ》の|巻《まき》の|前【宇城】《まへうしろ》 加藤明子
|口《くち》に|任《まか》せて|【信五郎】《のぶごらう》 なみなみならぬ|並松《なみまつ》の 藤津久子
|流《なが》れも|深《ふか》き|物語《ものがたり》 |空《そら》|吹《ふ》く|風《かぜ》の|颯々《さつさつ》と 宇城信五郎
|心《こころ》いそいそ|言霊《ことたま》の |車《くるま》に|乗《の》りて|勇《いさ》み|行《ゆ》く
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》 |御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ
(大正一一・五・一〇 旧四・一四 松村真澄録)
|霊《たま》の|礎《いしずゑ》(五)
一、|高天原《たかあまはら》に|復活《ふくくわつ》したる|人間《にんげん》の|霊身《れいしん》は、|地上《ちじやう》|現実界《げんじつかい》に|生存《せいぞん》せし|時《とき》の|如《ごと》く、|思想《しさう》|感情《かんじやう》|意識《いしき》|等《とう》を|有《いう》して|楽《たの》しく|神《かみ》の|懐《ふところ》に|抱《いだ》かれ、|種々《しゆじゆ》の|積極的《せつきよくてき》|神業《しんげふ》を|営《いとな》むことを|得《え》るは|前《まへ》に|述《の》べた|通《とほ》りである。
|扨《さ》て|人間《にんげん》は|何《ど》うして|現界《げんかい》に|人《ひと》の|肉躰《にくたい》を|保《たも》ちて|生《うま》れ|来《く》るかと|云《い》ふ|問題《もんだい》に|至《いた》つては、|如何《いか》なる|賢哲《けんてつ》も|的確《てきかく》な|解決《かいけつ》を|与《あた》へて|居《ゐ》ない。|併《しか》し|是《これ》は|実《じつ》に|止《や》むを|得《え》ない|所《ところ》である。|物質的《ぶつしつてき》|要素《えうそ》を|以《もつ》て|捏《こ》ね|固《かた》められたる|人間《にんげん》として|無限絶対《むげんぜつたい》なる|精霊界《せいれいかい》の|消息《せうそく》を|解釈《かいしやく》せむとするのは|恰《あたか》も|木《き》に|倚《よ》りて|魚《うを》を|求《もと》め、|海底《かいてい》に|潜《ひそ》みて|焚火《たきび》の|暖《だん》を|得《え》むとするやうなものである。|故《ゆゑ》に|現界人《げんかいじん》は|死後《しご》の|生涯《しやうがい》や|霊界《れいかい》の|真相《しんさう》を|探《さぐ》らむとして、|何程《なにほど》|奮勉《ふんべん》|努力《どりよく》した|所《ところ》で|到底《たうてい》|不可能《ふかのう》|不成功《ふせいこう》に|終《をは》るのは|寧《むし》ろ|当然《たうぜん》である。|一度《いちど》|神界《しんかい》の|特別《とくべつ》の|許可《きよか》を|得《え》たるものが、|無数《むすう》の|霊界《れいかい》を|探《さぐ》り|来《き》たり、|之《これ》を|現界《げんかい》へその|一部分《いちぶぶん》を|伝《つた》へたものでなくては|到底《たうてい》|今日《こんにち》の|学者《がくしや》の|所説《しよせつ》は|臆測《おくそく》に|過《す》ぎないことになつて|了《しま》ふ。
一、|抑《そもそ》も|高天原《たかあまはら》の|天国《てんごく》に|住《す》む|天人《てんにん》|即《すなは》ち|人間《にんげん》の|昇天《しようてん》せし|霊身人《れいしんじん》は|地上《ちじやう》と|同様《どうやう》に|夫婦《ふうふ》の|情交《じやうかう》を|行《おこな》ひ、|終《つひ》に|霊《れい》の|子《こ》を|産《う》んで|是《これ》を|地上《ちじやう》にある|肉体人《にくたいじん》の|息《いき》に|交《まじ》へて|人間《にんげん》を|産《う》ましめるものである。|故《ゆゑ》に|人《ひと》は|神《かみ》の|子《こ》、|神《かみ》の|宮《みや》といふのである。|地上《ちじやう》は|凡《すべ》て|天国《てんごく》の|移写《いしや》であるから|天国《てんごく》に|於《おい》て|天人《てんにん》|夫婦《ふうふ》が|情交《じやうかう》を|行《おこな》ひ|霊子《れいし》を|地上《ちじやう》に|蒔《ま》き|落《おと》す|時《とき》はその|因縁《いんねん》の|深《ふか》き|地上《ちじやう》の|男女《だんぢよ》は|忽《たちま》ち|霊《れい》に|感《かん》じ|情交《じやうかう》を|為《な》し|胎児《たいじ》を|宿《やど》すことになる。その|胎児《たいじ》は|即《すなは》ち|天人《てんにん》の|蒔《ま》いた|霊《れい》の|子《こ》の|宿《やど》つたものである。その|児《こ》の|善《ぜん》に|発達《はつたつ》したり|悪《あく》に|落《お》つるのも|亦《また》その|蒔《ま》かれた|田畑《たはた》の|良否《りやうひ》に|依《よ》つて|幾分《いくぶん》かの|影響《えいきやう》をその|児《こ》が|受《う》けるのは|止《や》むを|得《え》ない。|智愚《ちぐ》|正邪《せいじや》の|区別《くべつ》の|付《つ》くのも|止《や》むを|得《え》ない。|石《いし》の|上《うへ》に|蒔《ま》かれた|種子《たね》は|決《けつ》して|生《は》えない。|又《また》|瘠土《せきど》に|蒔《ま》かれた|種子《たね》は|肥沃《ひよく》の|地《ち》に|蒔《ま》かれた|種子《しゆし》に|比《ひ》すれば|大変《たいへん》な|相違《さうゐ》があるものだ。|之《これ》を|思《おも》へば|人間《にんげん》は|造次《ざうじ》にも|顛沛《てんぱい》にも|正《ただ》しき|清《きよ》き|温《あたた》かき|優《やさ》しき|美《うる》はしき|心《こころ》を|持《も》ち、|最善《さいぜん》の|行《おこな》ひを|励《はげ》まねばならぬ。|折角《せつかく》の|天《てん》よりの|種子《たね》を|発育《はついく》|不良《ふりやう》に|陥《おちい》らしめ|或《あるひ》は|不発生《ふはつせい》に|終《をは》らしむるやうなことに|成《な》つては、|人生《ひとう》みの|神業《しんげふ》を|完全《くわんぜん》に|遂行《すゐかう》することは|出来《でき》なくなつて|宇宙《うちう》の|大損害《だいそんがい》を|招《まね》くに|至《いた》るものである。|人間《にんげん》が|現界《げんかい》へ|生《うま》れて|来《く》る|目的《もくてき》は、|天国《てんごく》を|無限《むげん》に|開《ひら》く|可《べ》く|天《てん》よりその|霊体《れいたい》の|養成所《やうせいしよ》として|降《くだ》されたものである。|決《けつ》して|数十年《すうじふねん》の|短《みじか》き|肉的《にくてき》|生活《せいくわつ》を|営《いとな》むためでは|無《な》い。|要《えう》するに|人《ひと》の|肉体《にくたい》と|共《とも》にその|霊子《れいし》が|発達《はつたつ》して|天国《てんごく》の|神業《しんげふ》を|奉仕《ほうし》するためである。|天国《てんごく》に|住《す》む|天人《てんにん》は|是非《ぜひ》とも|一度《いちど》|人間《にんげん》の|肉体内《にくたいない》に|入《い》りてその|霊子《れいし》を|完全《くわんぜん》に|発育《はついく》せしめ|現人《げんじん》|同様《どうやう》の|霊体《れいたい》を|造《つく》り|上《あ》げ、|地上《ちじやう》の|世界《せかい》に|於《おい》て|善徳《ぜんとく》を|積《つ》ませ、|完全《くわんぜん》なる|霊体《れいたい》として|天上《てんじやう》に|還《かへ》らしめむがためである。|故《ゆゑ》に|現界人《げんかいじん》の|肉体《にくたい》は|天人《てんにん》|養成《やうせい》の|苗代《なはしろ》であり|学校《がくかう》であることを|悟《さと》るべきである。
一、|胎児《たいじ》は|母体《ぼたい》の|暗黒《あんこく》な|胞衣《えな》の|中《なか》で|平和《へいわ》な|生活《せいくわつ》を|続《つづ》け|十ケ月《じつかげつ》の|後《のち》には|母体《ぼたい》を|離《はな》れて|現界《げんかい》へ|生《うま》れ|喜怒哀楽《きどあいらく》の|為《ため》に|生存《せいぞん》するものだと|言《い》ふことは|知《し》らないが、|併《しか》し|生《うま》るべき|時《とき》が|充《み》つれば|矢張《やは》り|生《うま》れなくてはならぬ|如《ごと》く、|人間《にんげん》も|亦《また》|天国《てんごく》へ|復活《ふくくわつ》すべき|時《とき》が|充《み》つれば|如何《いか》なる|方法《はうはふ》にても|死《し》といふ|一《ひと》つの|関門《くわんもん》を|越《こ》えて|霊界《れいかい》に|復活《ふくくわつ》せなくてはならぬのである。|胎児《たいじ》は|月《つき》|充《み》ちて|胞衣《えな》といふ|一《ひと》つの|死骸《しがい》を|遺《のこ》して|生《うま》るる|如《ごと》く|人間《にんげん》も|亦《また》|肉体《にくたい》といふ|死骸《しがい》を|遺《のこ》して|霊界《れいかい》へ|復活《ふくくわつ》|即《すなは》ち|生《うま》るるのである。|故《ゆゑ》に|神《かみ》の|方《はう》から|見《み》れば|生通《いきとほ》しであつて|死《し》といふ|事《こと》は|皆無《かいむ》である。|只々《ただただ》|形骸《けいがい》を|自己《じこ》の|霊魂《れいこん》が|分離《ぶんり》した|時《とき》の|状態《じやうたい》を|死《し》と|称《しよう》するのみで|要《えう》するに|天人《てんにん》と|生《うま》れし|時《とき》の|胞衣《えな》と|見《み》れば|可《よ》いのである。|胎児《たいじ》の|生《うま》るる|時《とき》の|苦《くるし》みある|如《ごと》く|自己《じこ》の|本体《ほんたい》が|肉体《にくたい》から|分離《ぶんり》する|時《とき》にも|矢張《やはり》|相当《さうたう》の|苦《くる》しみはあるものである。|併《しか》しその|間《あひだ》は|極《きは》めて|短《みじか》いものである。|以上《いじやう》は|天国《てんごく》へ|復活《ふくくわつ》する|人《ひと》の|死《し》の|状態《じやうたい》である。|根底《ねそこ》の|国《くに》へ|落《お》ちて|行《ゆ》く|人間《にんげん》の|霊魂《れいこん》は|非常《ひじやう》な|苦《くる》しみを|受《う》けるもので、|恰度《ちやうど》|人間《にんげん》の|難産《なんざん》のやうなもので|産児《さんじ》の|苦痛《くつう》|以上《いじやう》である。|中《なか》には|死産《しさん》と|謂《ゐ》つて|死《し》んで|生《うま》れる|胎児《たいじ》のやうに|最早《もはや》|浮《う》かぶ|瀬《せ》が|無《な》い|無限苦《むげんく》の|地獄《ぢごく》へ|落《おと》されて|了《しま》ふのである。|故《ゆゑ》に|人間《にんげん》は|未来《みらい》の|世界《せかい》のある|事《こと》が|判《わか》らねば|真《しん》の|道義《だうぎ》を|行《おこな》ふことが|出来《でき》ぬものである。|神幽現《しんいうげん》|三界《さんかい》を|通《つう》じて|善悪正邪《ぜんあくせいじや》|勤怠《きんたい》の|応報《おうはう》が|儼然《げんぜん》としてあるものと|云《い》ふことを|覚《さと》らねば|人生《じんせい》の|本分《ほんぶん》は|何《ど》うしても|尽《つく》されないものである。
一、|天国《てんごく》に|住《す》める|天人《てんにん》は|地上《ちじやう》を|去《さ》つて|天国《てんごく》へ|昇《のぼ》り|来《きた》るべき|人間《にんげん》を|非常《ひじやう》に|歓迎《くわんげい》し|種々《しゆじゆ》の|音楽《おんがく》などを|奏《そう》して|待《ま》つて|居《ゐ》るものである。|故《ゆゑ》に|天国《てんごく》を|吾人《ごじん》は|称《しよう》して|霊魂《みたま》の|故郷《こきやう》と|曰《い》ふのである。
|真神《しんしん》|即《すなは》ち|主《しゆ》なる|神《かみ》は|人間《にんげん》の|地上《ちじやう》に|於《おい》て|善《よ》く|発達《はつたつ》し|完全《くわんぜん》なる|天人《てんにん》となつて|天国《てんごく》へ|昇《のぼ》り|来《きた》り|天国《てんごく》の|住民《ぢうみん》となつて|霊的《れいてき》|神業《しんげふ》に|参加《さんか》する|事《こと》を|非常《ひじやう》に|歓《よろこ》び|玉《たま》ふのである。|天国《てんごく》の|天人《てんにん》も|亦《また》|人間《にんげん》が|完全《くわんぜん》な|霊体《れいたい》となつて|天国《てんごく》へ|昇《のぼ》り|来《きた》り|天人《てんにん》の|仲間《なかま》に|成《な》ることを|大変《たいへん》に|歓迎《くわんげい》するものである。
|譬《たと》へば|爰《ここ》に|養魚家《やうぎよか》があつて|大池《だいち》に|鯉《こひ》の|児《こ》を|一万尾《いちまんび》|放養《はうやう》し|其《その》|鯉児《りじ》が|一尾《いちび》も|残《のこ》らず|生育《せいいく》して|呉《く》れるのを|待《ま》つて|歓《よろこ》び|楽《たのし》んで|居《ゐ》る|様《やう》なものである。|折角《せつかく》|一万尾《いちまんび》も|放養《はうやう》しておいた|鯉《こひ》が|一定《いつてい》の|年月《ねんげつ》を|経《へ》て|調《しら》べて|見《み》ると|其《その》|鯉《こひ》の|発育《はついく》|悪《あし》く|満足《まんぞく》に|発育《はついく》を|遂《と》げたものが|百分《ひやくぶん》|一《いち》に|減《げん》じ|其《その》|他《た》は|残《のこ》らず|死滅《しめつ》したり、|悪人《あくにん》に|捕獲《ほくわく》されて|養主《やうしゆ》の|手《て》に|返《かへ》らないとしたら|其《その》|養主《やうしゆ》の|失望《しつばう》|落胆《らくたん》は|思《おも》ひやらるるであらう。|併《しか》し|鯉《こひ》の|養主《やうしゆ》は|只《ただ》|物質的《ぶつしつてき》の|収益《しうえき》を|計《はか》るためであるが、|神様《かみさま》の|愛《あい》の|慾望《よくばう》は|到底《たうてい》|物質的《ぶつしつてき》の|慾望《よくばう》に|比《くら》ぶることは|出来《でき》ない。|故《ゆゑ》に|人間《にんげん》は|何処《どこ》までも|神《かみ》を|信《しん》じ|神《かみ》を|愛《あい》し|善《ぜん》の|行為《かうゐ》を|励《はげ》み、その|霊魂《れいこん》なる|本体《ほんたい》をして|完全《くわんぜん》なる|発達《はつたつ》を|遂《と》げしめ、|天津神《あまつかみ》の|御許《みもと》へ|神《かみ》の|大御宝《おほみたから》として|還《かへ》り|得《う》るやうに|努力《どりよく》せなくては、|人生《じんせい》の|本分《ほんぶん》を|全《まつた》うすることが|出来《でき》ない|而已《のみ》ならず、|神《かみ》の|最《もつと》も|忌《い》みたまふ|根底《ねそこ》の|国《くに》へ|自《みづか》ら|落行《おちゆ》かねばならぬやうになつて|了《しま》ふのである。
アヽ|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》。
大正十一年十二月
(昭和一〇・六・四 王仁校正)
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霊界物語 第一九巻 如意宝珠 午の巻
終り