霊界物語 第一八巻 如意宝珠 巳の巻
出口王仁三郎
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●テキスト中に現れる記号について
《》……ルビ
|……ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)天地|剖判《ぼうはん》の
[#]……入力者注
【】……傍点が振られている文字列
(例)【ヒ】は火なり
●シフトJISコードに無い文字は他の文字に置き換え、そのことをWebサイトに「相違点」として記した。
●底本
『霊界物語 第十八巻』愛善世界社
1996(平成8)年11月04日 第一刷発行
※現代では差別的表現と見なされる箇所もあるが修正はせずにすべて底本通りにした。
※図表などのレイアウトは完全に再現できるわけではないので適宜変更した。
※詳細な凡例は次のウェブサイト内に掲載してある。
http://www.onisavulo.jp/
※作成者…『王仁三郎ドット・ジェイピー』
2005年04月28日作成
2008年06月23日修正
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●目次
|序《じよ》
|凡例《はんれい》
|総説《そうせつ》
第一篇 |弥仙《みせん》の|神山《みやま》
第一章 |春野《はるの》の|旅《たび》〔六二九〕
第二章 |厳《いづ》の|花《はな》〔六三〇〕
第三章 |神命《しんめい》〔六三一〕
第二篇 |再探再険《さいたんさいけん》
第四章 |四尾山《よつをやま》〔六三二〕
第五章 |赤鳥居《あかとりゐ》〔六三三〕
第六章 |真《しん》か|偽《ぎ》か〔六三四〕
第三篇 |反間苦肉《はんかんくにく》
第七章 |神《かみ》か|魔《ま》か〔六三五〕
第八章 |蛙《かはづ》の|口《くち》〔六三六〕
第九章 |朝《あした》の|一驚《いつきやう》〔六三七〕
第一〇章 |赤面《せきめん》|黒面《こくめん》〔六三八〕
第四篇 |舎身活躍《しやしんくわつやく》
第一一章 |相見互《あひみたがひ》〔六三九〕
第一二章 |大当違《おほあてちがひ》〔六四〇〕
第一三章 |救《すくひ》の|神《かみ》〔六四一〕
第五篇 |五月五日祝《ごがついつかのいはひ》
第一四章 |蛸《たこ》の|揚壺《あげつぼ》〔六四二〕
第一五章 |遠来《ゑんらい》の|客《きやく》〔六四三〕
第一六章 |返《かへ》り|討《うち》〔六四四〕
第一七章 |玉照姫《たまてるひめ》〔六四五〕
|霊《たま》の|礎《いしずゑ》(四)
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|序《じよ》
|梅《うめ》は|散《ち》りて|漸《やうや》く|赤坊《あかんばう》の|青《あを》い|頭《あたま》を|名残《なごり》に|留《とど》め、|山桜《やまざくら》|薫《かを》るも|七日《なぬか》|又《また》|匂《にほ》ふ、|七日《なぬか》の|空《そら》の|遅桜《おそざくら》、|首尾《しゆび》よく|散《ち》りて|葉桜《はざくら》の、|新装《しんさう》|凝《こ》らす|晩春《ばんしゆん》の、|頭《あたま》もぽかぽかする|陽気《やうき》、|素敵滅法界《すてきめつぱふかい》もない|銀杏《いてふ》の|大古木《だいこぼく》が、|図体《づうたい》にも|似気《にげ》ないデリケートな|若葉《わかば》の|衣《ころも》を|着《き》た|姿《すがた》も|亦《また》|一見《いつけん》の|価値《かち》|無《な》きにしもあらず、|万寿山《まんじゆざん》の|新緑《しんりよく》|時々刻々《じじこくこく》に|芽《め》を|吹《ふ》き|出《だ》す|惟神的《かむながらてき》|天地《てんち》の|活動《くわつどう》、|心《こころ》の|空《そら》もドンヨリと、|曇《くも》り|勝《が》ちなる|瑞月《ずゐげつ》が、|瑞祥閣《ずゐしやうかく》の|奥《おく》の|間《ま》で、|述《の》べる|霊界物語《れいかいものがたり》、|十八番《じふはちばん》の|言霊《ことたま》の、お|筥《はこ》を|叩《たた》き|口《くち》たたく、|竜宮城《りうぐうじやう》の|乙姫《おとひめ》の|憑《うつ》りたまひし|肉《にく》の|宮《みや》と、|誇《ほこ》り|顔《がほ》なる|黒姫《くろひめ》が、|千思万慮《せんしばんりよ》の|経綸《けいりん》も、|明《あ》けて|悔《くや》しき|玉手箱《たまてばこ》、|玉照姫《たまてるひめ》の|生魂《いくみたま》と、|母《はは》のお|玉《たま》を|引《ひ》き|抜《ぬ》かれ、|魔窟ケ原《まくつがはら》の|地下室《ちかしつ》を|放棄《はうき》し、|北山村《きたやまむら》の|高姫《たかひめ》が|本城《ほんじやう》に|悄然《せうぜん》として|帰《かへ》り|行《ゆ》く|迄《まで》の|錯雑《さくざつ》なる|物語《ものがたり》、|過去《くわこ》、|現在《げんざい》、|未来《みらい》に|亘《わた》り|読《よ》む|人々《ひとびと》の|心《こころ》に|写《うつ》る|千姿万態《せんしばんたい》の|面白《おもしろ》き|語草《かたりぐさ》、|短《みじか》き|春《はる》の|夜《よ》の|夢心地《ゆめごこち》して|現《うつつ》を|抜《ぬ》かすと|云爾《しかいふ》。
|凡例《はんれい》
一、『|霊界《れいかい》|物語《ものがたり》』が|段々《だんだん》|発表《はつぺう》されて、|吾人《ごじん》は|始《はじ》めて|従来《じゆうらい》|宣伝《せんでん》してゐた|大本《おほもと》の|教《をしへ》に|幾多《いくた》の|誤謬《ごびう》と|錯誤《さくご》との|存《そん》したことを|知《し》つた。そして|同時《どうじ》に|吾々《われわれ》は|余《あま》りに|多《おほ》く|所謂《いはゆる》|大本的《おほもとてき》|知識《ちしき》の|過重《くわぢう》に|煩《わづら》はされてゐたことをも|発見《はつけん》した。
|吾々《われわれ》は|今《いま》や|従来《じゆうらい》の|誤《あやま》れる|所謂《いはゆる》|大本的《おほもとてき》|知識《ちしき》を|一掃《いつさう》し、|一切《いつさい》の|先入的《せんにふてき》|観念《くわんねん》を|排除《はいぢよ》して|白紙《はくし》の|生《うま》れ|赤兒《あかご》の|心《こころ》を|以《もつ》て、|大本《おほもと》の|教《おしへ》に|対《たい》さねばならぬ|時機《じき》に|到達《たうたつ》した。|瑞月師《ずゐげつし》が、|嘗《かつ》て『|神霊界《しんれいかい》』|誌上《しじやう》に|於《おい》て、|大本《おほもと》の|歴史《れきし》に|関《くわん》する|著作《ちよさく》は|差支《さしつかへ》ないが、|教義的《けうぎてき》|分子《ぶんし》を|含《ふく》みた|著作《ちよさく》は、|神意《しんい》の|分《わか》つた|人《ひと》からやめて|貰《もら》ひたいといふ|意味《いみ》のことを|言《い》はれてゐたが、その|意味《いみ》が『|物語《ものがたり》』の|巻《くわん》を|逐《お》うて|発表《はつぺう》されるに|従《したが》ひいよいよハツキりとして|来《き》た。
一、|本巻《ほんくわん》は、|大本《おほもと》と|最《もつと》も|神縁《しんえん》|深《ふか》き|弥仙山《みせんざん》の|因縁《いんねん》に|就《つい》て|詳《くは》しく|説《と》かれたものである。
大正十二年一月 編者識
|総説《そうせつ》
|日進月歩《につしんげつぽ》|文明《ぶんめい》の、|世界《せかい》と|聞《きこ》えし|今年《ことし》より、|年《とし》|遡《さかのぼ》り|数《かず》ふれば、|殆《ほとん》ど|三十五万年《さんじふごまんねん》、|古《ふる》き|神代《かみよ》の|物語《ものがたり》、|神素盞嗚《かむすさのを》の|大神《おほかみ》が、|天《あめ》の|安河《やすかわ》|中《なか》におき、|天《あめ》の|真名井《まなゐ》に|誓約《うけひ》して、|瑞《みづ》の|御霊《みたま》と|現《あ》れ|給《たま》ひ、|天地《あめつち》|百《もも》の|神《かみ》|達《たち》に、|千座《ちくら》の|置戸《おきど》を|負《お》はせられ、|八洲《やしま》の|国《くに》の|此処《ここ》|彼処《かしこ》、|漂浪《さすら》ひ|給《たま》ひ|天《あめ》が|下《した》、|四方《よも》の|国内《くぬち》に|蟠《わだか》まる、|八岐大蛇《やまたをろち》を|言向《ことむ》けて、|再《ふたた》び|日《ひ》の|出《で》の|御代《みよ》となし、|皇大神《すめおほかみ》に|奉《たてまつ》り、|大海原《おほうなばら》の|主宰《つかさ》たる、|其《その》|天職《てんしよく》を|完全《くわんぜん》に、|遂行《すゐかう》せむと|村肝《むらきも》の、|心《こころ》|砕《くだ》かせ|給《たま》ひつつ、|尊《みこと》の|水火《いき》より|出《い》でませる、|八乙女《やをとめ》を|四方八方《よもやも》に、|遣《つか》はせ|給《たま》ふ|其《その》|中《なか》に、|別《わ》けて|賢《かしこ》き|英子姫《ひでこひめ》、|悦子《よしこ》の|姫《ひめ》と|諸共《もろとも》に、|自転倒島《おのころじま》に|漂着《へうちやく》し、|荒《あら》ぶる|神《かみ》や|鬼《おに》|大蛇《をろち》、|醜女《しこめ》|探女《さぐめ》を|言向《ことむ》けて、|神《かみ》の|御国《みくに》の|礎《いしずゑ》を、|常磐堅磐《ときはかきは》に|建《た》てたまふ、|尊《たふと》き|神代《かみよ》の|物語《ものがたり》、|茲《ここ》に|天運《てんうん》|循環《じゆんかん》し、|神《かみ》の|御言《みこと》を|畏《かしこ》みて、|神代《かみよ》に|於《お》ける|神々《かみがみ》の、|不惜身命《ふしやくしんみやう》の|御活動《ごくわつどう》、|言《こと》の|葉車《はぐるま》|転《ころ》ぶまに、|早瀬《はやせ》の|水《みづ》のするすると、|流《なが》れ|出《い》づるを|一言《ひとこと》も、|外《ほか》へはやらじと|息《いき》を|詰《つ》め、|手具脛《てぐすね》|曳《ひ》いて|松村《まつむら》や、|鉛筆《えんぴつ》|尖《とが》らせ|北村氏《きたむらし》、|瑞祥閣《ずゐしやうかく》に|仕《つか》へたる、|役員《やくゐん》|東尾《ひがしを》|副会長《ふくくわいちやう》、|加藤明子《かとうはるこ》の|如来《によらい》|迄《まで》、|眠《ねむ》たき|眼《まなこ》|擦《こす》りつつ、|名《な》さへ|目出度《めでた》き|万寿苑《まんじゆゑん》、|風《かぜ》|透《す》き|通《とほ》る|奥《おく》の|間《ま》に、|筆《ふで》の|穂先《ほさき》を|揃《そろ》へつつ、|言葉《ことば》の|玉《たま》を|拾《ひろ》ひ|集《あつ》めてあらあらかくの|通《とほ》り|十八巻《じふはちくわん》の|物語《ものがたり》、|月《つき》の|暦《こよみ》に|数《かず》ふれば、|四月三日《しいがさんにち》|雨《あめ》|降《ふ》らば、|鋤鍬《すきくは》あまに|釣《つ》り|下《さ》げよと、|農夫《のうふ》の|気遣《きづか》ふ|今日《けふ》の|日《ひ》も、|晴《は》れてうれしき|亀岡《かめをか》の、|小高《こだか》き|丘《をか》の|一《ひと》つ|家《や》に、|万代《よろづよ》|迄《まで》と|記《しる》し|置《お》く。
第一篇 |弥仙《みせん》の|神山《みやま》
第一章 |春野《はるの》の|旅《たび》〔六二九〕
|風《かぜ》|暖《あたた》かく|八重霞《やへがすみ》  |春日《はるひ》と|伯母《をば》はクレさうで
クレナイに|包《つつ》む|弥生空《やよひぞら》  |朧《おぼろ》の|月《つき》は|中天《ちうてん》に
|照《て》らず|曇《くも》らずボンヤリと  かかる|山家《やまが》の|夕《ゆふ》まぐれ
|川《かは》の|流《なが》れは|淙々《そうそう》と  |轟《とどろ》き|渡《わた》る|和知《わち》の|里《さと》
|空《そら》を|封《ふう》じて|立並《たちなら》ぶ  |老樹《らうじゆ》の|下《した》の|小径《せうけい》を
トボトボ|来《きた》る|宣伝使《せんでんし》  |神《かみ》の|教《をしへ》をどこまでも
|伝《つた》へにや|山家《やまが》の|肥後《ひご》の|橋《はし》  |月《つき》の|光《ひかり》を|力《ちから》とし
|神《かみ》の|恵《めぐみ》を|杖《つゑ》となし  |烏《からす》は|眠《ねむ》る|鷹栖《たかのす》の
|川辺《かはべ》の|里《さと》に|進《すす》み|来《く》る  |顔《かほ》も|容《かたち》も|悦子姫《よしこひめ》
|水《みづ》の|流《なが》れの|音彦《おとひこ》や  やがては|来《きた》る|夏彦《なつひこ》の
|九十九曲《つくもまが》りの|山路《やまみち》を  |曲《まが》つた|腰《こし》のトボトボと
|這《は》はぬばかりに|加米彦《かめひこ》が  |草鞋《わらぢ》に|足《あし》を|擦《す》り|乍《なが》ら
|神子坂橋《みこさかばし》の|袂《たもと》まで  |来《きた》る|折《をり》しも|向《むか》ふより
スタスタ|来《きた》る|二人連《ふたりづ》れ  |何《なに》かヒソヒソ|囁《ささや》きつ
|夜目《よめ》に|透《す》かして|一行《いつかう》を  |心《こころ》|有《あ》りげに|眺《なが》めゐる。
『モシモシ、|一寸《ちよつと》お|尋《たづ》ね|致《いた》します。|最前《さいぜん》から|承《うけたま》はれば、|路々《みちみち》|宣伝歌《せんでんか》を|謡《うた》ひつつお|出《いで》になつた|様《やう》で|御座《ござ》いますが、|若《も》しやあなたは、|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》|様《さま》では|御座《ござ》いますまいか』
|加米彦《かめひこ》は、
『ヤアさう|仰有《おつしや》るあなたは、|何《なん》だか|聞覚《ききおぼ》えのあるやうな|感《かん》じが|致《いた》します。|朧夜《おぼろよ》の|事《こと》とてハツキリお|顔《かほ》は|分《わか》りませぬが、どなたで|御座《ござ》いましたかなア』
『|私《わたくし》は|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》|亀彦《かめひこ》と|申《まを》す|者《もの》、|今《いま》|一人《ひとり》の|方《かた》は|素盞嗚尊《すさのをのみこと》|様《さま》のお|娘子《むすめご》|英子姫《ひでこひめ》と|云《い》ふ|方《かた》で|御座《ござ》います』
『アヽお|懐《なつか》しや、|英子姫《ひでこひめ》|様《さま》で|御座《ござ》いましたか、|妾《わたし》は|悦子《よしこ》で|厶《ござ》ります。|好《い》い|所《ところ》でお|目《め》にかかりました。|妾《わたし》は|剣尖山《けんさきやま》の|麓《ふもと》に|於《おい》てお|別《わか》れ|申《まを》しましてより、|真奈井ケ原《まなゐがはら》の|貴《うづ》の|宝座《ほうざ》を|拝礼《はいれい》|致《いた》し、それより|三岳《みたけ》の|岩窟《がんくつ》を|言向和《ことむけやは》し、|鬼熊別《おにくまわけ》の|割拠《かつきよ》する|鬼ケ城山《おにがじやうざん》の|岩窟《がんくつ》を、|四五《しご》の|同志《どうし》と|共《とも》に|言霊《ことたま》を|以《もつ》て|包囲《はうゐ》|攻撃《こうげき》|致《いた》し、それから|生野《いくの》、|長田野《をさだの》を|越《こ》え、|神知地山《じんちぢやま》の|魔神《まがみ》を|征服《せいふく》し、|高城山《たかしろやま》に|立向《たちむか》ひ、|再《ふたた》び|道《みち》を|転《てん》じ、|和知《わち》の|流《なが》れに|沿《そ》うて|聖地《せいち》に|引返《ひきかへ》し、あなた|様《さま》に|御目《おんめ》にかかり、|今後《こんご》の|妾等《わたしら》が|取《と》るべき|方法《はうはふ》を、|御相談《ごさうだん》|申上《まをしあ》げたいと|思《おも》ひまして、|遥々《はるばる》|夜《よ》を|冒《をか》し、|此処《ここ》まで|参《まゐ》りました』
|英子姫《ひでこひめ》は|喜《よろこ》び|乍《なが》ら、
『アヽ|左様《さやう》ですか、|妾《わたし》は|其方《そなた》に|別《わか》れてより、|神様《かみさま》の|命《めい》に|依《よ》り、|弥仙《みせん》の|深山《しんざん》に、|或《ある》|使命《しめい》を|帯《お》びて|登山《とざん》し、|今《いま》|又《また》|父大神《ちちおほかみ》の|神霊《しんれい》のお|告《つげ》に|依《よ》りて、|亀彦《かめひこ》を|伴《ともな》ひ、|伊吹山《いぶきやま》に|参《まゐ》る|途中《とちう》で|御座《ござ》います。アヽ|好《よ》い|所《ところ》でお|目《め》にかかりました。お|連《つ》れの|方《かた》は|何方《どなた》か|存《ぞん》じませぬが、|何《いづ》れ|三五教《あななひけう》の|方《かた》でせう。|此《この》|川音《かはおと》を|聞《き》き|乍《なが》ら、|出会《であ》うたを|幸《さいは》ひ|悠《ゆつ》くりと|休息《きうそく》|致《いた》しませう』
『それは|願《ねが》うてもないこと。|妾《わたし》もどこか|良《い》い|所《ところ》があれば|一休《ひとやす》み|致《いた》したいと|思《おも》うて|居《ゐ》ました。……|此《この》|方《かた》は|音彦《おとひこ》|加米彦《かめひこ》の|宣伝使《せんでんし》、|一人《ひとり》はウラナイ|教《けう》に|暫《しばら》く|入信《にふしん》して|居《ゐ》た|夏彦《なつひこ》と|云《い》ふ|男《をとこ》で|御座《ござ》います』
『|私《わたくし》は|亀彦《かめひこ》です。|貴下《あなた》は|由良《ゆら》の|湊《みなと》の|人子《ひとご》の|司《つかさ》、|秋山彦《あきやまひこ》の|門前《もんぜん》に|於《おい》てお|目《め》にかかつた|加米彦《かめひこ》さまですか、コレハコレハ|妙《めう》な|所《ところ》でお|目《め》にかかりました。|又《また》|音彦《おとひこ》さまとは、フサの|国《くに》でお|別《わか》れ|致《いた》しました|私《わたくし》の|旧友《きういう》ぢやありませぬか』
『|左様《さやう》その|音彦《おとひこ》で|御座《ござ》いますよ』
『|遥々《はるばる》と|此《この》|自転倒島《おのころじま》へお|越《こ》しになつたのは、|何《なに》か|深《ふか》い|仔細《しさい》が|御座《ござ》いませう』
『これに|就《つ》いては、|種々《いろいろ》|珍談《ちんだん》も|御座《ござ》いまするが、ユルリと|後《あと》から|申上《まをしあ》げませう。サアサア|皆《みな》さま、|打揃《うちそろ》うて|此《この》|芝生《しばふ》の|上《うへ》で|骨休《ほねやす》めを|致《いた》しませうかい』
『|宜《よろ》しからう』
と|一同《いちどう》は|老樹《らうじゆ》の|蔭《かげ》に|打解《うちと》け、|手足《てあし》を|延《の》ばして|休息《きうそく》したり。
|茲《ここ》に|六人《むたり》の|宣伝使《せんでんし》  |六《む》つの|花《はな》|散《ち》る|冬《ふゆ》も|過《す》ぎ
|風《かぜ》に|散《ち》り|布《し》く|山桜《やまざくら》  |香《かほ》りを|浴《あ》びて|来《こ》し|方《かた》の
|百《もも》の|話《はなし》に|花《はな》|咲《さ》かせ  |思《おも》はず|時《とき》を|移《うつ》しける。
『モシ|英子姫《ひでこひめ》|様《さま》、|最前《さいぜん》あなたの|御言葉《おことば》に|依《よ》れば、|弥仙山《みせんざん》へ|神務《しんむ》を|帯《お》びて|御登山《ごとざん》になつたと|仰《あふ》せられましたなア。|音彦《おとひこ》も|一度《いちど》|其《その》|霊山《れいざん》へ、|是非《ぜひ》|登山《とざん》|致《いた》したいと|存《ぞん》じて|居《ゐ》ます。|随分《ずゐぶん》|嶮岨《けんそ》な|所《ところ》でせうなア』
『お|察《さつ》しの|通《とほ》り、|実《じつ》に|嶮峻《けんしゆん》な|深山《しんざん》で|御座《ござ》います。|昼《ひる》|猶《なほ》|暗《くら》く、|鬱蒼《うつさう》たる|老樹《らうじゆ》|天《てん》を|封《ふう》じ、|到底《たうてい》|日月《じつげつ》の|光《ひかり》は|拝《をが》む|事《こと》は|出来《でき》ませぬ。|併《しか》し|乍《なが》ら、|貴方方《あなたがた》は|登山《とざん》なされますならば、|大変《たいへん》|都合《つがふ》の|好《い》い|事《こと》が|御座《ござ》います。|妾《わたし》は|父《ちち》の|神勅《しんちよく》に|依《よ》りて、|一《ひと》つの|経綸《けいりん》を|行《おこな》うて|置《お》きました。どうぞあなた|方《がた》|一度《いちど》|行《い》つて|下《くだ》さいませ』
『|其《その》|御経綸《ごけいりん》とは、|如何《いか》なる|御用《ごよう》で|御座《ござ》いました。|予《あらかじ》め|仰有《おつしや》つて|下《くだ》さいませぬか。|音彦《おとひこ》も|其《その》|覚悟《かくご》を|致《いた》さねばなりませぬ』
『|只今《ただいま》|申上《まをしあ》げずとも、お|出《いで》になれば、……ハハア|之《これ》であつたかなア……と|自然《しぜん》にお|判《わか》りになりませう。|先楽《さきたの》しみに、|此《この》お|話《はなし》は|暫《しばら》く|保留《ほりう》して|置《お》きませう』
|加米彦《かめひこ》『エー|英子姫《ひでこひめ》|様《さま》さう|出《だ》し|惜《をし》みをなさるものぢやない、アツサリと|云《い》つて|下《くだ》さいナ』
|英子姫《ひでこひめ》『イエイエ|宣伝使《せんでんし》の|言葉《ことば》に|二言《にごん》は|御座《ござ》いませぬ。|一旦《いつたん》|申上《まをしあ》げぬと|云《い》つた|事《こと》は、|金輪際《こんりんざい》|口外《こうぐわい》する|事《こと》は|出来《でき》ませぬ』
『あなた|様《さま》は|綺麗《きれい》な|女神《めがみ》にも|似《に》ず、|随分《ずゐぶん》|愛嬌《あいけう》のない|事《こと》を|仰有《おつしや》いますなア。|初《はじ》めて|加米《かめ》の|御願《おねが》ひしたことを、|直様《すぐさま》お|聞《き》き|容《い》れ|下《くだ》されず、クルツプ|式《しき》|砲弾《はうだん》を|発射《はつしや》し、|加米《かめ》|等《ら》の|欲求《よくきう》を|撃退《げきたい》なされますか。シテ、あなたは|愛嬌《あいけう》の|定義《ていぎ》を|知《し》つて|居《ゐ》ますか』
『イヤもう おむつかしい|議論《ぎろん》を|吹《ふ》つかけられますこと。マアマアぼつぼつと|御登山《ごとざん》なされませ。それはそれはアツと|言《い》ふ|様《やう》な|仕組《しぐみ》がして|御座《ござ》いますワ』
『|何《なん》だか|諄々《じゆんじゆん》として|詭弁《きべん》を|弄《ろう》するお|姫《ひめ》さまだナア。キベン|万丈《ばんぢやう》|加米《かめ》|当《あた》る|可《べ》からずだ、アハヽヽヽ』
『コレコレ|加米彦《かめひこ》さま、さうヅケヅケと|無遠慮《ぶゑんりよ》に|物《もの》を|仰有《おつしや》るものでない。チトたしなみなさらぬか』
『ハイハイたしなみませうよ、|悦子《よしこ》さま。|無礼《ぶれい》ぢやとか、|謙遜《けんそん》ぢやとか、|遠慮《ゑんりよ》ぢやとか、たしなみぢやとか、|種々《いろいろ》の|雅号《ががう》が|沢山《たくさん》|有《あ》つて、|取捨選択《しゆしやせんたく》に|殆《ほとん》ど|閉口《へいこう》|頓死《とんし》|致《いた》します』
|音彦《おとひこ》は|顔《かほ》をシカメ、
『エー|縁起《えんぎ》の|悪《わる》い。|閉口《へいこう》|頓死《とんし》なぞと、せうもない|事《こと》を|言《い》ふものでない。お|前達《まへたち》は|哲学《てつがく》とか|道学《だうがく》とか|云《い》ふ|親不孝《おやふかう》、|不作法《ぶさはふ》の|学問《がくもん》をかぢつて|居《を》るから、|仕末《しまつ》にをへない、マアマア|英子姫《ひでこひめ》|様《さま》の|仰有《おつしや》る|通《とほ》りハイハイと|温順《おとな》しくして|居《を》れば|良《い》いのだ。|吾々《われわれ》|六人《ろくにん》の|中《なか》では、|最《もつと》もお|偉《えら》い|方《かた》だ、|言《い》はば|吾々《われわれ》のお|師匠様《ししやうさま》だ。|師《し》の|影《かげ》は|六尺《ろくしやく》|下《さが》つても|踏《ふ》むなと|云《い》ふ|位《くらゐ》だ』
『あなたも|縁起《えんぎ》の|悪《わる》い|事《こと》を|言《い》ひますネ。|加米《かめ》が|閉口頓首《へいこうとんしゆ》と|云《い》つた|事《こと》を|咎《とが》め|乍《なが》ら、あなたは|死《し》の|影《かげ》がどうの|斯《か》うのつて、|夫《そ》れこそ|自繩自縛《じじようじばく》ぢやありませぬか』
|音彦《おとひこ》は|吹《ふ》き|出《だ》し、
『ハヽヽヽ、|訳《わけ》の|分《わか》らぬ|団子理屈《だんごりくつ》を|能《よ》く|捏《こ》ねる|男《をとこ》だなア』
『お|前《まへ》こそ|団子理屈《だんごりくつ》だ。|吾々《われわれ》のは|餅理屈《もちりくつ》だ。|蚋《ぶと》が|餅搗《もちつ》きや|加米彦《かめひこ》が|捏《こ》ねる、ポンポンと|音彦《おとひこ》がすると|云《い》ふぢやないか、アハヽヽヽ』
|亀彦《かめひこ》は|立《た》ち|上《あ》がり、
『サア|皆《みな》さま、|何時《いつ》まで|御話《おはなし》を|致《いた》して|居《を》つても|際限《さいげん》が|有《あ》りませぬ。|冗談《ぜうだん》から|暇《ひま》が|出《で》る、|瓢箪《へうたん》から|駒《こま》が|出《で》る。|駒《こま》に|鞭《むち》|打《う》ち、|一日《ひとひ》も|早《はや》く|目的地《もくてきち》へ|向《むか》つて|発足《はつそく》|致《いた》しませう。ナア|英子姫《ひでこひめ》|様《さま》……』
『|折角《せつかく》お|目《め》にかかつて|嬉《うれ》しいと|思《おも》へば、|神界《しんかい》の|御命令《ごめいれい》、|止《や》むにやまれませぬ。|英子《ひでこ》も|直様《すぐさま》お|別《わか》れ|致《いた》しませう。|皆様《みなさま》|左様《さやう》なら、|何《いづ》れ|又《また》お|目《め》にかかる|機会《きくわい》が|御座《ござ》いませう』
と|会釈《ゑしやく》し、|早《はや》くも|歩《あゆ》み|出《だ》したり。
|悦子姫《よしこひめ》は|会釈《ゑしやく》しながら、
『|左様《さやう》ならば、|姫様《ひめさま》、ご|機嫌《きげん》よくお|出《い》で|下《くだ》さいませ。|亀彦《かめひこ》|様《さま》、|御如才《ごじよさい》は|御座《ござ》いますまいが、どうぞ|姫様《ひめさま》の|御身辺《ごしんぺん》に|注意《ちうい》を|払《はら》つて|下《くだ》さいませやア』
『|亀彦《かめひこ》、|委細《ゐさい》|承知《しようち》|仕《つかまつ》りました。|必《かなら》ず|必《かなら》ず|御煩慮《ごはんりよ》|下《くだ》さいますな。サアこれからコンパスに|油《あぶら》を|注《さ》して|進《すす》みませう。|悦子姫《よしこひめ》さま、|音彦《おとひこ》、|加米《かめ》の|宣伝使《せんでんし》|殿《どの》、|夏彦《なつひこ》さま、|左様《さやう》ならば|御機嫌《ごきげん》よう……』
『お|二人様《ふたりさま》、お|仕合《しあは》せよう|抜群《ばつぐん》の|功名《こうみやう》|手柄《てがら》を|現《あら》はし|給《たま》はむ|事《こと》を|念願《ねんぐわん》|致《いた》します、アリヨース』
と|双方《さうはう》に|袂《たもと》を|分《わか》つ。|二本《にほん》の|白《しろ》い|杖《つゑ》のみ|朧月夜《おぼろづきよ》の|山路《やまみち》を、|川上《かはかみ》|指《さ》して|上《のぼ》り|行《ゆ》く。
|春《はる》の|夜《よ》は|瞬《またた》く|中《うち》に|明《あ》け|放《はな》れ、|霞《かすみ》の|空《そら》を|押《お》し|分《わ》けて、|天津日《あまつひ》の|大神《おほかみ》は、まん|円《まる》き|温顔《をんがん》を|差《さ》し|出《だ》して、|四人《よにん》が|頭《かうべ》を|照《てら》し|給《たま》ふ。|心持《こころもち》よき|春風《はるかぜ》に、|道《みち》も|狭《せ》きまで|散《ち》り|布《し》く|山桜《やまざくら》、|花《はな》を|欺《あざむ》く|悦子姫《よしこひめ》、|山路《やまみち》|通《とほ》る|床《ゆか》しさは、|画中《ぐわちう》の|人《ひと》の|如《ごと》くなり。
|音彦《おとひこ》は|急坂《きふはん》を|打《う》ち|仰《あふ》ぎ、
『アヽ|随分《ずゐぶん》|嶮《けは》しい|坂《さか》ですなア。|英子姫《ひでこひめ》さまが|一切《いつさい》|沈黙《ちんもく》を|守《まも》つて|居《を》られたのも、|斯《か》う|云《い》ふ|胸突坂《むなつきざか》が|沢山《たくさん》あるので、|吾々《われわれ》が|恐怖心《きようふしん》を|起《おこ》し、|折角《せつかく》|張詰《はりつ》めた|精神《せいしん》を、|薄志弱行《はくしじやくかう》の|逆転《ぎやくてん》|旅行《りよかう》と|出《で》かけるかと|思《おも》つての|御心配《おこころくば》り、イヤもう|恐《おそ》れ|入《い》りました。|人《ひと》を|導《みちび》き、|向上《かうじやう》させてやらうと|思《おも》ふ|宣伝使《せんでんし》の|御心《おこころ》は、|又《また》|格別《かくべつ》なものですなア』
|悦子姫《よしこひめ》は、
『イヤ|決《けつ》して|決《けつ》して|英子姫《ひでこひめ》|様《さま》の|御心中《ごしんちゆう》は、さうではありますまい、モ|少《すこ》し|意味《いみ》の|深《ふか》い|事《こと》があるのでせう。|妾《わたし》も|英子姫《ひでこひめ》|様《さま》の|御言葉《おことば》の|端《はし》に、|深《ふか》い|深《ふか》い|意味《いみ》があると、|直《すぐ》に|胸《むね》の|琴線《きんせん》に|触《ふ》れました。マアマア|行《ゆ》く|所《ところ》まで|行《い》つて|見《み》なくては|分《わか》りますまい』
『さうですかなア。|音彦《おとひこ》の|様《やう》な|木訥《ぼくとつ》な|人間《にんげん》は、ソンナ|微細《びさい》な|点《てん》まで|気《き》が|付《つ》きませぬ、|何分《なにぶん》|仁王《にわう》の|荒削《あらけづ》り|然《ぜん》たる|男《をとこ》ですからなア、ハヽヽヽヽ』
|加米彦《かめひこ》は|大声《おほごゑ》で、
『コレコレ|音彦《おとひこ》さま、|巧妙《うま》い|事《こと》|言《い》つてるぢやないか。|悦子姫《よしこひめ》さまと、|此《この》|細《ほそ》い|道《みち》を|引《ひ》つ|付《つ》く|様《やう》にして|歩《ある》き|乍《なが》ら、|似合《にあ》うの|似合《にあ》はぬのつて、ソラ|何《なに》を|言《い》ふのだ、|鬼《おに》が|笑《わら》ふぞよ、アツハヽヽヽ。オイ|夏彦《なつひこ》、|貴様《きさま》は|苦《くる》しさうに、|汗《あせ》をたらたらと|流《なが》して|居《を》るぢやないか』
『きまつた|事《こと》ですよ。|夏《なつ》ヒコに|当《あた》れば、|汗《あせ》は|滝《たき》の|如《ごと》く|流《なが》れ|出《で》るのが、|昔《むかし》からきまりきつた、|天地《てんち》の|御規則《ごきそく》。|汗《あせ》をかかねば、|天則違反《てんそくゐはん》の|罪《つみ》に|問《と》はれるよ|加米《かめ》さま』
『|何《なに》を|言《い》ふのだ。|鼈《すつぽん》に|蓼《たで》を|咬《か》ました|様《やう》に、|大《おほ》きな|鼻息《はないき》をしよつて……』
『|加米彦《かめひこ》、|鼈《すつぽん》だつて、カメ|彦《ひこ》だつて|同《おな》じ|事《こと》ぢやないか。|鼈《すつぽん》が|荒《あら》い|息《いき》をする|様《やう》に、|亀《かめ》が|一匹《いつぴき》、どこやらで、ヤツパリ、フースーフースーと|呼吸《いき》をし|乍《なが》ら、|法界悋気《はふかいりんき》をやつて|居《ゐ》るやうだワイ、ハツハヽヽヽ』
『アヽ|夏《なつ》チヤン、ホーカイなア』
『オイオイ|加米彦《かめひこ》、|夏彦《なつひこ》の|両人《りやうにん》、|早《はや》う|来《こ》ぬか、ナンダ、|斯《こ》ンなチツポケな|坂《さか》に|屁古垂《へこた》れよつて………|随分《ずゐぶん》|足《あし》の|遅《おそ》い|奴《やつ》だなア』
『|喧《やかま》しい|言《い》うて|呉《く》れない|音彦《おとひこ》さま、|上《あが》り|坂《ざか》は|前《まへ》が|高《たか》いワイ。|其《その》|代《かは》りに|下《くだ》り|坂《ざか》になつたら、ドンナものだ、|一瀉千里《いつしやせんり》の|勢《いきほひ》で、アフンとさしてやるぞ。|併《しか》し|乍《なが》ら|此《この》|日《ひ》の|永《なが》いのに、さう|急《いそ》ぐにも|及《およ》ばぬぢやないか、そこらの|木蔭《こかげ》で|一《ひと》つ|切腹《せつぷく》したらどうだい』
|音彦《おとひこ》は、
『エー|又《また》|縁起《えんぎ》の|悪《わる》い|事《こと》を|云《い》ふ|加米《かめ》だナア。エヽ|仕方《しかた》がない。|悦子姫《よしこひめ》|様《さま》、|此《こ》の|平地《ひらち》で|一服《いつぷく》|致《いた》しませうか、|両人《ふたり》の|奴《やつ》、|大変《たいへん》に|屁古垂《へこた》れて|居《ゐ》る|様《やう》ですから』
|悦子姫《よしこひめ》は|気軽《きが》るげに、
『マア|此処《ここ》で|悠《ゆつ》くりと|待《ま》つてあげませう』
|加米彦《かめひこ》は|小柴《こしば》の|茂《しげ》る|小径《こみち》を、ガサガサ|喘《あへ》ぎ|喘《あへ》ぎ、|手負猪《ておひじし》の|様《やう》な|鼻息《はないき》を|立《た》て、|玉《たま》の|汗《あせ》を|絞《しぼ》りつつ、|漸《やうや》く|二人《ふたり》の|側《そば》に|登《のぼ》り|着《つ》きける。
|足《あし》を|容《い》るる|許《ばか》りの|細路《ほそみち》を、|粗朶《そだ》を|背《せ》に|負《お》うて|降《くだ》り|来《く》る|二人《ふたり》の|女《をんな》あり、|四人《よにん》の|姿《すがた》を|見《み》て、
『コレハコレハ|皆様《みなさま》、|狭《せま》い|路《みち》を|量《かさ》の【たか】い|物《もの》を|負《お》うて|通《とほ》りまして、|誠《まこと》に|済《す》みませぬ、どうぞ|御勘弁《ごかんべん》|下《くだ》さいませ』
|加米彦《かめひこ》は、
『サアそれは|仕方《しかた》がありませぬ、|天下《てんか》|御免《ごめん》の|大道《だいだう》、|否《いな》、|羊腸《やうちやう》の|山路《やまみち》、………サアサア|皆《みな》さま、|林《はやし》の|中《なか》へ|暫《しばら》く|沈没《ちんぼつ》|致《いた》しませう。そして|敵艦《てきかん》|二隻《にせき》、|暗礁《あんせう》を|避《さ》けた|安全《あんぜん》|海路《かいろ》を|通過《つうくわ》させてやりませうかい』
|四人《よにん》はガサガサと、|木《き》の|茂《しげ》みへ|避《よ》けると、|二人《ふたり》の|女《をんな》は|汗《あせ》を|片手《かたて》に、|手拭《てぬぐひ》にて|拭《ぬぐ》ひ|乍《なが》ら、
『コレハコレハ|皆《みな》さま、|済《す》みませぬ』
と|板《いた》を|立《た》てし|如《ごと》き|細《ほそ》き|坂路《さかみち》をエチエチ|降《くだ》り|行《ゆ》く。
|加米彦《かめひこ》は|二人《ふたり》の|後姿《うしろすがた》を|見送《みおく》りて、
『アヽ|無事《ぶじ》に|御神輿《ごしんよ》|通過《つうくわ》も|済《す》ンだ。サアサア|皆《みな》さま、|一服《いつぷく》のやり|直《なほ》しを|致《いた》しませう……』
|音彦《おとひこ》『あの|女《をんな》は|沢山《たくさん》の|粗朶《そだ》をムクムクと|負《お》うて|帰《かへ》りよつたが、|一体《いつたい》|何《なん》と|云《い》ふ|雅名《がめい》だらう』
|加米彦《かめひこ》『あれかい、きまつて|居《を》るワイ。オハラ|女《め》が|柴《しば》を|負《お》うて|通《とほ》つたのだ』
『ナニ、|斯《こ》ンな|所《ところ》に|大原女《おほはらめ》が|通《とほ》つてたまるものか。|叡山《えいざん》の|麓《ふもと》ぢやあるまいし』
『それでも|大《おほ》きな|腹《はら》をして|居《を》つたぢやないか』
『あれはヤセの|女《をんな》だよ。|八瀬大原《やせおほはら》と|云《い》つて、|畑《はた》の|小母《をば》の|産地《さんち》だよ。|此処《ここ》もヤツパリ|山地《さんち》には|間違《まちが》ひない。|前《さき》の|女《をんな》は|大変《たいへん》な|痩女《やせをんな》、|後《あと》のは|孕《はら》み|女《をんな》だ。それで|一人《ひとり》はヤセ|女《め》、|一人《ひとり》はオハラ|女《め》だ、|斯《か》う|宣《の》り|直《なほ》せば、|双方《さうはう》の|意見《いけん》が|成立《せいりつ》して、|複雑《ふくざつ》な|議論《ぎろん》も|起《おこ》らぬだらう』
『モシ|悦子姫《よしこひめ》さま、あなた|最前《さいぜん》|音彦《おとひこ》と、|大変《たいへん》|仲《なか》ようして|歩《ある》いて|居《ゐ》ましたなア。|気《き》をつけなされませや。|此《この》|音彦《おとひこ》は、|女房《にようばう》の|五十子姫《いそこひめ》は|竜宮《りうぐう》の|一《ひと》つ|島《じま》へ|行《い》つて|居《を》るものですから、【やもめ】|鳥《どり》も|同様《どうやう》、ウツカリして|居《を》ると、|今《いま》|行《い》つた|女《をんな》ぢやないが、|今《いま》はヤセ|女《め》のあなたでも、|何時《いつ》の|間《ま》にか|大腹女《おほはらめ》になりますよ』
|悦子姫《よしこひめ》『オツホヽヽヽ、お|気遣《きづか》ひ|下《くだ》さいますな、|決《けつ》して|決《けつ》して|御心配《ごしんぱい》はかけませぬから』
|加米彦《かめひこ》『アヽそれならマア|私《わたくし》も|御安心《ごあんしん》だ』
|音彦《おとひこ》『オイ|加米彦《かめひこ》、|冗談《ぜうだん》も|良《よ》い|加減《かげん》にせぬか、|永《なが》い|春日《はるひ》が|又《また》|暮《く》れて|了《しま》ふぞ』
|悦子姫《よしこひめ》『サア|皆《みな》さま、|参《まゐ》りませう』
と|九十九折《つくもをり》の|嶮《けは》しき|小径《こみち》を|登《のぼ》り|行《ゆ》く。
|音彦《おとひこ》『|今度《こんど》は|加米彦《かめひこ》、|夏彦《なつひこ》、|先《さき》へ|行《ゆ》け、|又《また》|煩雑《うるさ》い|問題《もんだい》を|提起《ていき》されては|処置《しよち》に|困《こま》るから』
|加米彦《かめひこ》『さうだらう。ヤツパリ|物《もの》がある|奴《やつ》は、|何処《どこ》までも|注意深《ちういぶか》いものだ、イヒヽ』
|加米彦《かめひこ》は|悦子姫《よしこひめ》の|後《あと》に、|三尺《さんじやく》|許《ばか》り|離《はな》れて|随《つ》いて|行《ゆ》く。|七八丁《しちはつちやう》|登《のぼ》つたと|思《おも》うと、|胸突坂《むねつきさか》を|登《のぼ》り|来《く》る|二人《ふたり》の|姿《すがた》、|半丁《はんちやう》|許《ばか》り|谷底《たにそこ》に、|笠《かさ》ばつかり|揺《ゆら》ついて|居《を》る。
|加米彦《かめひこ》『ヤア、|大《おほ》きな|白《しろ》い|松茸《まつたけ》が|登《のぼ》つて|来《く》るワイ。オイ|音彦《おとひこ》、|夏彦《なつひこ》、|悦子姫《よしこひめ》さまが|夫《それ》|程《ほど》|恥《はづ》かしいのか。|何《なん》だ、|笠《かさ》で|顔《かほ》も|体《からだ》もみな|隠《かく》しよつて……』
|悦子姫《よしこひめ》『|加米彦《かめひこ》さま、|又《また》|貴方《あなた》は|嘲弄《からか》ふのかい、|良《よ》い|加減《かげん》、|冗談《ぜうだん》はよしにしなさいよ』
|加米彦《かめひこ》『|此《この》さみしい|山路《やまみち》、|私《わたくし》の|様《やう》な|鳴《な》り|物《もの》が|一《ひと》つあるのも|亦《また》|重宝《ちようほう》でせう。|併《しか》し|乍《なが》ら、お|気《き》に|入《い》らぬとあれば|仕方《しかた》がない。|冗談《ぜうだん》はこれ|限《かぎ》りヨシコ|姫《ひめ》に|致《いた》しませう、アツハヽヽヽ』
|悦子姫《よしこひめ》『それまた、|冗談《ぜうだん》を|仰有《おつしや》るワ』
|加米彦《かめひこ》『|仰有《おつしや》いますな。|加米彦《かめひこ》に|憑依《ひようい》して|居《を》る|雲雀彦《ひばりひこ》の|守護神《しゆごじん》|奴《め》、|山《やま》へ|来《く》ると|親類《しんるゐ》へ|帰《かへ》つた|様《やう》に|思《おも》つて、はしやいでなりませぬワイ、ウフヽ』
|悦子姫《よしこひめ》『|大分《だいぶん》|音彦《おとひこ》さまが|遅《おく》れなさつたよな|塩梅《あんばい》ぢや。|少《すこ》し|待《ま》ち|合《あ》はせませうか』
|加米彦《かめひこ》『ヤツパリ|気《き》に|懸《かか》りますかな、|遅《おく》れとるのは|音彦《おとひこ》ばつかりぢやありませぬ。|腰《こし》の|曲《まが》つた|夏彦《なつひこ》にもチツとは|目《め》を|呉《く》れてやつて|下《くだ》さいナ。あなたは|博愛心《はくあいしん》がどうかしてますネー』
|悦子姫《よしこひめ》『|何《なん》だかケンケン|言《い》つてるぢやありませぬか』
|加米彦《かめひこ》『エーあれや|雉子《きじ》ですよ。|音彦《おとひこ》の|兄弟分《きやうだいぶん》ですがなア。|二《ふた》つ|目《め》にはケンケンコンコンと|言《い》つては|頭《あたま》を|打《う》たれ、|腰《こし》を|打《う》たれ、|攻撃《こうげき》の|矢《や》ばつかり|喰《く》つて|居《ゐ》ます。|雉子《きじ》も|鳴《な》かねば|撃《う》たれまい………と|云《い》ひましてなア……』
|悦子姫《よしこひめ》『|雉子《きじ》と|云《い》ふ|鳥《とり》はコンナ|深《ふか》い|山《やま》に|棲《す》みて、|何《なに》を|喰《く》つてるのでせう』
|加米彦《かめひこ》『アルタイ|山《ざん》の|蛇掴《へびつかみ》の|様《やう》に、|蛇《へび》ばつかり|喰《く》つて|居《ゐ》よるのです』
|悦子姫《よしこひめ》『|丸《まる》で|加米彦《かめひこ》さまの|様《やう》な|鳥《とり》ですネー』
|加米彦《かめひこ》『ソラ|何《なに》を|仰有《おつしや》います。|私《わたくし》が|何時《いつ》|蛇《へび》を|喰《く》ひましたか』
|悦子姫《よしこひめ》『|蛇《へび》ぢやありませぬ。あなたは|何時《いつ》も、ヘマばつかり|喰《く》つてるぢやありませぬか、ホヽヽヽ』
|加米彦《かめひこ》『ナアンダ、|屁《へー》でもない|屁理屈《へりくつ》を|能《よ》く|並《なら》べなさる。あなたも|随分《ずゐぶん》|言霊《ことたま》の|練習《れんしふ》が|出来《でき》て、お|口《くち》|丈《だけ》は|悦子姫《よしこひめ》ぢやなくて、|悪子姫《わるこひめ》になりましたなア』
|悦子姫《よしこひめ》『ホツホヽヽヽ』
|加米彦《かめひこ》『アヽ|何《なん》だか|交通機関《かうつうきくわん》が|倦怠《けんたい》して|来《き》ました。|音彦《おとひこ》の|来《く》るまで|待《ま》つてやりませうかい』
|悦子姫《よしこひめ》『|重宝《ちようほう》なお|口《くち》だこと、|進退《しんたい》|維《こ》れ|谷《きは》まりて、|待《ま》つておあげなさるのでせう』
|加米彦《かめひこ》『ハハア、あなた|用心《ようじん》しなさいよ。|悪神《あくがみ》が|憑《つ》いて|居《ゐ》ますで………|随分《ずゐぶん》|言霊《ことたま》が|濁《にご》つて|来《き》ました。|一《ひと》つ|神霊《しんれい》|注射《ちうしや》をやつてあげませうか』
|悦子姫《よしこひめ》『|有難《ありがた》う。またユルユル|皆《みな》さまの|御協議《ごけふぎ》の|上《うへ》で、|御願《おねがひ》|致《いた》します』
と|悦子姫《よしこひめ》が|蓑《みの》を|敷《し》いて、|一年越《いちねんごし》の|霜枯《しもが》れの|萱《かや》の|上《うへ》にドツカとすわる。
|千歳《ちとせ》の|老松《らうしよう》|杉《すぎ》|檜《ひのき》  |槻《けやき》|楓《かへで》|雑木《ざふき》も|苔《こけ》|蒸《む》して
|神《かむ》さび|立《たて》る|左右《さいう》の|密林《みつりん》  |躑躅《つつじ》の|花《はな》の|此処《ここ》|彼処《かしこ》
|白《しろ》に|紅《くれなゐ》|青《あを》|黄色《きいろ》  |艶《えん》を|争《あらそ》ふ|其《その》|中《なか》を
|藪鶯《やぶうぐひす》や|山雀《やますずめ》  |四十雀《しじふがら》ガラ|鳴《な》き|立《た》つる
|山路《やまぢ》を|越《こ》えて|何時《いつ》しかに  |小広《こびろ》き|田圃《たんぼ》に|流《なが》れ|出《で》る
|古《ふる》き|神代《かみよ》の|物語《ものがたり》  |唯《ただ》|一言《ひとこと》も|漏《も》らさずに
|書《か》き|伝《つた》へむと|土筆《つくづくし》  |鉛筆《えんぴつ》|尖《とが》らし|道《みち》の|辺《べ》に
|待構《まちかま》へ|居《ゐ》るしほらしさ  |麦《むぎ》の|青葉《あをば》は|止《と》め|葉《ば》うち
|筆《ふで》を|隠《かく》して|青々《あをあを》と  |手具脛《てぐすね》ひいて|待《ま》つて|居《ゐ》る
|花《はな》は|一面《いちめん》|田《た》の|面《おも》に  |艶《えん》を|競《きそ》ふて|咲《さ》きぬれど
|床《とこ》には|置《お》くな、|矢張《やはり》|野《の》で|見《み》よ|紫雲英《げんげばな》  |虎杖草《いたんどうり》のここかしこ
|万年筆《まんねんひつ》の|芽《め》を|吹《ふ》いて  |書《か》き|取《と》り|清書《せいしよ》の|準備顔《じゆんびがほ》
|此《この》|物語《ものがたり》の|主人公《しゆじんこう》  |四辺《あたり》の|景色《けしき》も|悦子姫《よしこひめ》は
|音彦《おとひこ》、|加米彦《かめひこ》、|夏彦《なつひこ》を  |吾子《わがこ》の|如《ごと》く|労《いた》はりつ
|親《おや》になつたる|気取《きど》りにて  お|山《やま》を|見当《めあ》てに|進《すす》み|行《ゆ》く。
|加米彦《かめひこ》『アーアナント|云《い》ふ|佳《よ》い|景色《けしき》だらう。……|音彦《おとひこ》さま、|向《むか》ふに|雲《くも》の|被衣《かづき》を|着《き》て|居《ゐ》るズンと|高《たか》い|高山《かうざん》がそれぢやないか』
|音彦《おとひこ》『さうだ、あれが|目的《もくてき》の|木《こ》の|花姫《はなひめ》の|御分霊《ごぶんれい》の|祀《まつ》られてある|弥仙《みせん》のお|山《やま》だ』
|加米彦《かめひこ》『|道理《だうり》で、|首《くび》から|上《うへ》は、|雲《くも》の|奴《やつ》、スツカリ|包《つつ》みて、|峰《みね》の|姿《すがた》を……【ミセン】の|山《やま》だな、|併《しか》し|乍《なが》ら|泰然自若《たいぜんじじやく》として|動《うご》かないあの|姿《すがた》を|見《み》ると、|実《じつ》に|癪《しやく》に|障《さは》るぢやないか。|俺達《おれたち》ばつかりにテクらせよつて、|一歩《ひとあし》も|動《うご》かず、ヂツとして、|俺《おれ》が|見《み》たけら|此処《ここ》まで|御座《ござ》れ、と|云《い》ふ|塩梅式《あんばいしき》だ。|丸《まる》で|吾々《われわれ》を|眼下《がんか》に|見《み》くだし、|奴隷視《どれいし》して|居《ゐ》るぢやないか。|何《なん》だか|軽蔑《けいべつ》せられる|様《やう》な|心持《こころもち》がしてきたワイ』
|音彦《おとひこ》『アハヽヽヽ、|云《い》ふ|事《こと》が|無《な》いと、|何《なん》なと|言《い》はねば|気《き》の|済《す》まぬ|男《をとこ》だなア。さう|心配《しんぱい》するな、|今《いま》に、|何程《なにほど》|威張《ゐば》つて|居《を》る|弥仙山《みせんざん》でも、|頭《あたま》の|頂辺《てつぺん》を、|吾々《われわれ》の|足《あし》で|踏《ふ》みにじる|様《やう》になるのだよ。さうだから、|時節《じせつ》を|待《ま》て……と|云《い》ふのだよ』
|夏彦《なつひこ》『|皆《みな》さま、|此《この》|美《うつく》しい|紫雲英野《げんげの》で、お|弁当《べんたう》でも|開《ひら》いて、お|山《やま》を|拝《をが》み|乍《なが》ら|休息《きうそく》|致《いた》しませうか』
|加米彦《かめひこ》『|待《ま》て|待《ま》て、|女王様《ぢよわうさま》の|御機嫌《ごきげん》を|伺《うかが》つた|上《うへ》、|認可《にんか》してやらう。|暫《しばら》く|控《ひか》へて|待《ま》つて|居《を》らう』
|夏彦《なつひこ》『|随分《ずゐぶん》|薬鑵《やくわん》が|能《よ》く|沸騰《たぎ》りますなア、|否《いな》かめは|能《よ》く|沸騰《ふつとう》しますナア、アハヽヽヽ』
|悦子姫《よしこひめ》『|皆《みな》さま、どうでせう、|此《この》|麗《うるは》しい|野原《のはら》で、お|山《やま》を|遥拝《えうはい》し|乍《なが》ら、くつろぎませうか』
|夏彦《なつひこ》『ソラ、どうだい、|以心伝心《いしんでんしん》、|吾輩《わがはい》の|身魂《みたま》は|暗々裡《あんあんり》に、|女王様《ぢよわうさま》に|感応《かんのう》して|居《ゐ》たのだ。|斯《か》うして|見《み》ると、|肉体《にくたい》は|主従《しゆじゆう》だが、|霊《みたま》は……』
|加米彦《かめひこ》『その|次《つぎ》を|言《い》はぬかい、|霊魂《みたま》が|何《なん》だい、|狸身魂《たぬきみたま》の|鼬《いたち》みたまをして、|何《なん》だか|物《もの》|臭《くさ》い|事《こと》を|言《い》ふ|奴《やつ》だ、|斯《こ》ンな|怪体《けつたい》なスタイルをして、|能《よ》うソンナ|事《こと》が|云《い》はれたものだワイ』
|夏彦《なつひこ》『ナーニ、スタイルで|女《をんな》が……ウンニヤ、ムニヤムニヤ』
|加米彦《かめひこ》『|又《また》|行詰《ゆきつま》りよつたナ、|閻魔《えんま》さまの|浄玻璃《じやうはり》の|鏡《かがみ》の|前《まへ》では、|心《こころ》の|奥《おく》まで|照《てら》されて、|恥《はづ》かしさに|忽《たちま》ち|唖《おし》とならねばなるまい。グヅグヅして|居《ゐ》ると、|舌《した》を|抜《ぬ》かれて|了《しま》ふぞ』
|夏彦《なつひこ》『|舌《した》の|一枚《いちまい》や|二枚《にまい》|抜《ぬ》かれたとて、|沢山《たくさん》に|仕入《しい》れてあるから|大丈夫《だいぢやうぶ》だよ。|今《いま》の|人間《にんげん》に|一枚《いちまい》や|二枚《にまい》の|舌《した》で|甘《あま》ンじて|居《を》る|様《やう》な|者《もの》は、それこそ|不便《ふべん》|極《きは》まる|片輪《かたわ》|人足《にんそく》だ』
|加米彦《かめひこ》『|本当《ほんたう》に|能《よ》う|廻《まは》る|舌《した》だなア。|俺《おれ》も|此奴《こいつ》には|一寸《ちよつと》ビツクリ|舌《した》、イヤ|感服《かんぷく》|舌《した》、アツハヽヽヽ』
|斯《か》かる|所《ところ》へ、|小夜具染《さやぐぞめ》の|半纒《はんてん》をまとひ、【あかざ】の|杖《つゑ》を|突《つ》き|乍《なが》ら、ヒヨコリヒヨコリと|一人《ひとり》の|老翁《らうをう》、|四人《よにん》が|前《まへ》に|立現《たちあら》はれ、
『|皆《みな》さま|達《たち》は、|弥仙《みせん》のお|山《やま》へ|御参拝《ごさんぱい》のお|方《かた》と|見受《みう》けますが、どうぞ|私《わたし》の|家《うち》へお|寄《よ》り|下《くだ》さいませぬか。|一《ひと》つお|尋《たづ》ねをしたり、お|願《ねが》ひしたい|事《こと》が|御座《ござ》います』
|加米彦《かめひこ》はシヤシヤり|出《い》で、
『ヤアお|前《まへ》さまは、|北光《きたてる》の|神《かみ》さまの|様《やう》な、|崇高《すうかう》な|容貌《ようばう》をしたお|爺《ぢい》さまだな、コンナ|若《わか》い|宣伝使《せんでんし》や、|若《わか》い|男《をとこ》に、|老人《らうじん》が|物《もの》を|尋《たづ》ねるとは、チツと|間違《まちが》つては|居《ゐ》やせぬか。|一年《いちねん》でも|先《さき》へ|此《この》|世《よ》へ|飛《と》び|出《だ》した|者《もの》は、|経験《けいけん》が|積《つ》み、|社会学《しやくわいがく》に|達《たつ》して|居《を》る|筈《はず》だ、|怪体《けたい》な|事《こと》を|言《い》ふお|爺《ぢい》さまだなア。わしは|又《また》、お|前《まへ》さまの|姿《すがた》が|木蔭《こかげ》にチラと|見《み》えた|時《とき》から……ヤア|占《しめ》た、|一《ひと》つ|沓《くつ》でも|穿《は》かして|上《あ》げて、|張子房《ちやうしばう》ぢやないが、|太公望《たいこうばう》の|兵法《へいはふ》でも|伝授《でんじゆ》して|貰《もら》はうと|思《おも》うて|楽《たの》しみて|居《ゐ》たのだ』
|爺《ぢい》『|世界《せかい》の|事《こと》なら、|一日《いちにち》でも|先《さき》へ|生《うま》れた|丈《だけ》わしは|兄貴《あにき》だ、|教《をし》へても|上《あ》げるが、これ|丈《だけ》|長生《ながいき》をして、|世《よ》の|中《なか》の|酸《す》いも|甘《あま》いも|悟《さと》りきつた|此《この》|爺《おやぢ》に、どう|考《かんが》へても|合点《がてん》のいかぬ|事《こと》が|一《ひと》つあるのだ。これはどうしても|神様《かみさま》のお|道《みち》の|人《ひと》に|聞《き》かなくては、|分《わか》らぬ|事《こと》だと|思《おも》うて、お|山《やま》へ|詣《まゐ》るお|方《かた》を、|婆《ばば》アと|二人《ふたり》が、|茅屋《あばらや》へ|寄《よ》つて|貰《もら》ひ、|種々《いろいろ》と|尋《たづ》ねて|見《み》るけれども、どのお|方《かた》も|完全《くわんぜん》な|解決《かいけつ》を|与《あた》へて|下《くだ》さらぬのだ。|此《この》|間《あひだ》も|英子姫《ひでこひめ》さまとやら……|此《この》お|女中《ぢよちう》よりもズツと|綺麗《きれい》な、|神様《かみさま》のお|使《つか》ひのお|方《かた》が|凛々《りり》し|相《さう》なお|従者《とも》を|連《つ》れて|通《とほ》らしやつたので、|一《ひと》つ|尋《たづ》ねてみた|所《ところ》、|二人《ふたり》のお|方《かた》はニヤツと|笑《わら》うて、|何《なん》にも|仰有《おつしや》つて|下《くだ》さらず、やがて|女《をんな》|一人《ひとり》|男《をとこ》|三人《さんにん》の|一行《いつかう》が、お|山詣《やままゐ》りをするから、|其《その》|者《もの》に|会《あ》うて|尋《たづ》ねて|呉《く》れいと|仰有《おつしや》つたので、|毎日《まいにち》|日日《ひにち》|首《くび》を|長《なが》うして|待《ま》つて|居《を》つたのだ、もしや、お|前《まへ》さま|等《ら》の|事《こと》ではあるまいかと|思《おも》うて、|重《おも》い|足《あし》を|引《ひ》きずつて|出《で》て|来《き》たのだ』
|加米彦《かめひこ》『アヽさうだつたか、|社会学《しやくわいがく》はまだ|未完成《みくわんせい》だが、|神様《かみさま》の|事《こと》ならば、ドンナ|事《こと》でも|解決《かいけつ》をつけてあげよう。|英子姫《ひでこひめ》さまも|流石《さすが》は|偉《えら》いワイ。|手柄《てがら》を|俺達《おれたち》に|譲《ゆづ》つてやらうと|思召《おぼしめ》して、|昨夜《ゆうべ》|会《あ》うた|時《とき》にも|仰有《おつしや》らなかつたのだ。|流石《さすが》は|先見《せんけん》の|明《めい》ありだ。|古今《ここん》|来《らい》を|空《むな》しうして|東西《とうざい》|位《ゐ》を|尽《つく》したる、|世界《せかい》の|外《そと》の|世界《せかい》|迄《まで》|踏《ふ》み|込《こ》んで、|宇宙《うちう》の|真相《しんさう》を|悉皆《しつかい》|看破《かんぱ》したる、|此《この》|加米彦《かめひこ》がお|出《い》でになると|云《い》ふ|事《こと》を、|流石《さすが》は|明智《めいち》の|英子姫《ひでこひめ》|様《さま》、|予期《よき》して|御座《ござ》つたと|見《み》える。サアサア|何《なん》なりとお|尋《たづ》ねなされ。|神界《しんかい》に|関《くわん》する|事《こと》ならば|決《けつ》して|退却《たいきやく》は|致《いた》さぬ、|三五教《あななひけう》には|退却《たいきやく》の|二字《にじ》は|有《あ》りませぬから………オツホン』
|爺《ぢい》『さうかな、|若《わか》いにも|似合《にあ》はず、|能《よ》うそこまで|勉強《べんきやう》をなさつた、|感心《かんしん》|々々《かんしん》。|今時《いまどき》の|若《わか》い|者《もの》は、|皆《みな》|心得《こころえ》が|悪《わる》くて、|神《かみ》さまなンテ、|此《この》|世《よ》の|中《なか》に|有《あ》るものか、|人間《にんげん》が|神《かみ》さまだ、|神《かみ》があるのなら、|一遍《いつぺん》|会《あ》はして|呉《く》れ、そしたら|神《かみ》の|存在《そんざい》を|認《みと》めてやるなンテ、|大《だい》ソレた|事《こと》を|云《い》ふ|時節《じせつ》だ。それにお|前《まへ》さまは、|何《なん》も|彼《か》も|御存《ごぞん》じとは、|実《じつ》に|偉《えら》いお|方《かた》だ、|此《この》|爺《ぢい》も|今迄《いままで》コンナ|方《かた》に|会《あ》ひたいと|思《おも》うて、|待《ま》つて|居《ゐ》ました……アヽ|神様《かみさま》、|有難《ありがた》う|御座《ござ》います、これと|云《い》ふのも|全《まつた》く|弥仙《みせん》のお|山《やま》の|木《こ》の|花姫《はなひめ》|様《さま》の|篤《あつ》き|御守護《ごしゆご》……』
と|袖《そで》に|涙《なみだ》を|拭《ぬぐ》ふ。
|夏彦《なつひこ》『モシモシお|爺《ぢい》さま、|此奴《こいつ》ア、|由良《ゆら》の|湊《みなと》の|秋山彦《あきやまひこ》の|門番《もんばん》をして|居《を》つた|男《をとこ》です。|偉《えら》さうに|口《くち》ばつかり|開《ひら》くのですよ。|朝《あさ》から|晩《ばん》まで|門《もん》を|開《ひら》くのが|商売《しやうばい》だから、|其《その》|惰力《だりよく》が|未《いま》だに|残《のこ》つて|居《を》つて、|大門《おほもん》の|様《やう》な|大《おほ》けな|口《くち》を|開《ひら》きよるのだ。|相手《あひて》になりなさるな。|此《この》|男《をとこ》の|云《い》ふ|位《くらゐ》な|事《こと》は、|私《わたし》だつて、|年《とし》の|功《こう》は|豆《まめ》の|粉《こ》だ、|豆《まめ》の|粉《こ》は|黄《き》な|粉《こ》だ、|黄《き》な|粉《こ》はヤツパリ|豆《まめ》の|粉《こな》だ。|猪《しし》|喰《く》た|犬《いぬ》は、|犬《いぬ》のどこやらに|勝《すぐ》れた|所《ところ》が|有《あ》りますワイ。|私《わたし》が|教《をし》へてあげませう』
|加米彦《かめひこ》『コレコレお|爺《ぢい》さま、|此奴《こいつ》はなア、ウラナイ|教《けう》の|黒姫《くろひめ》と|云《い》ふ、|口《くち》ばつかり|達者《たつしや》な|奴《やつ》に|十年間《じふねんかん》も|朝《あさ》から|晩《ばん》まで、|法螺《ほら》を|仕込《しこ》まれて|来《き》た|奴《やつ》だから、|何《なに》を|言《い》ふやら、|蜜柑《みかん》やら、|金柑桝《きんかんます》で|量《はか》るやら、なにも|分《わか》つた|代物《しろもの》ぢやありませぬワイ』
|爺《ぢい》『|最前《さいぜん》から|此《この》|老爺《ぢぢい》が|一生懸命《いつしやうけんめい》に|頼《たの》みて|居《を》るのに、お|前《まへ》さま|達《たち》は、|此《この》|老人《としより》を|飜弄《ほんろう》するのかい、エーエやつぱり|英子姫《ひでこひめ》さまの|仰有《おつしや》つた|偉《えら》いお|方《かた》は、|此《この》|御連中《ごれんちう》ぢや|有《あ》るまい。アーア|阿呆《あほ》らしい、コンナ|事《こと》なら|此《この》|重《おも》い|足《あし》を、|老人《らうじん》が|引摺《ひきず》つて|来《く》るのぢやなかつたのに……』
|音彦《おとひこ》『モシモシお|爺《ぢい》さま、さう|腹《はら》を|立《た》てて|下《くだ》さるな。|此等《これら》|二人《ふたり》は|雲雀《ひばり》や|燕《つばめ》の|親類《しんるゐ》ですから、どうぞお|望《のぞ》みの|事《こと》を、|私《わたくし》に|仰有《おつしや》つて|下《くだ》さいませ。|私《わたくし》の|力《ちから》|限《かぎ》り|神様《かみさま》に|伺《うかが》つて|御答《おこたへ》を|致《いた》しませう』
|爺《ぢい》『アヽさうかなア、お|前《まへ》さまはどこやらが、|締《しま》りのある|男《をとこ》だと|思《おも》うて|居《を》つた。|此処《ここ》では|話《はなし》が|出来《でき》ませぬから、お|前《まへ》さま|一人《ひとり》、|私《わたくし》の|宅《うち》へ|来《き》て|下《くだ》され、|婆《ばば》アや|娘《むすめ》が|待《ま》つて|居《を》ります』
|音彦《おとひこ》『お|爺《ぢい》さま、それは|有難《ありがた》う|御座《ござ》いますが、|私《わたくし》の……|此処《ここ》に|御主人《ごしゆじん》とも|先生《せんせい》とも|仰《あふ》ぐ|悦子姫《よしこひめ》さまがいらつしやいます。|此《この》お|方《かた》は|吾々《われわれ》の|大先生《だいせんせい》で|御座《ござ》いますから、|此《この》|方《かた》を|捨《す》てて|私《わたくし》ばつかり|参《まゐ》る|訳《わけ》にはゆきませぬ』
|爺《ぢい》『アーさうだらうさうだらう、ソンナラ、|悦子姫《よしこひめ》さまの|先生《せんせい》とお|前《まへ》さまと|来《き》て|下《くだ》され、|斯《こ》ンな|若《わか》い|男《をとこ》は|此処《ここ》に|待《ま》たして|置《お》いたら|宜《よろ》しからう』
|音彦《おとひこ》『|併《しか》し|乍《なが》ら、|四人《よにん》はどうしても|離《はな》れないと|云《い》ふ|不文律《ふぶんりつ》が|定《さだ》められてあるので、|此《この》|男《をとこ》|二人《ふたり》を|此処《ここ》に|放棄《はうき》して|置《お》く|訳《わけ》にはゆきませぬ、|四人《よにん》|共《とも》|参《まゐ》りませう。それがお|気《き》に|入《い》らねば|仕方《しかた》がありませぬから|御断《おことわ》り|申《まを》すより|途《みち》は|御座《ござ》いませぬ』
|爺《ぢい》『アヽソンナラ|来《き》て|下《くだ》さいませ。コレコレ|二人《ふたり》のお|若《わか》いの、|私《わたくし》の|家《うち》へ|来《き》て|下《くだ》さるのは|構《かま》ひませぬが、あまり|喧《やかま》しう|言《い》つて|下《くだ》さるな、|娘《むすめ》の|身体《からだ》に|障《さは》ると|困《こま》りますから……』
|加米彦《かめひこ》『オイ|夏《なつ》、|貴様《きさま》|一杯《いつぱい》|奢《おご》らぬと|冥加《みやうが》が|悪《わる》いぞ、|此《この》|中《うち》で|一番《いちばん》の|年長《としがさ》だ、それに「お|若《わか》いの」と|云《い》はれよつたぢやないか、|是《こ》れと|云《い》ふのも、|俺《おれ》の|好男子《かうだんし》の|余徳《よとく》に|依《よ》りて|若《わか》く|見《み》られたのだよ。それだから|老爺《おぢい》さまが、|娘《むすめ》の|体《からだ》に|障《さは》ると|困《こま》ります……ナンテ|予防線《よばうせん》を|張《は》るのだよ。|険呑《けんのん》な|代物《しろもの》と|見込《みこ》まれたものだなア、アツハヽヽヽ』
|音彦《おとひこ》『サア|悦子姫《よしこひめ》さま、|御苦労《ごくらう》|乍《なが》ら、|一寸《ちよつと》|老爺《おぢい》さまの|宅《うち》まで|寄《よ》つてあげて|下《くだ》さいませ』
|悦子姫《よしこひめ》『|不束《ふつつか》な|妾《わたし》でもお|間《ま》に|合《あ》ひますれば、お|爺《ぢい》さま|参《まゐ》ります』
|爺《ぢい》『ハア|有難《ありがた》い|有難《ありがた》い、|御礼《おれい》は|後《あと》で|致《いた》します。|老爺《ぢい》の|家《うち》は|此《この》|向《むか》ふの|森《もり》を|一《ひと》つ|廻《まは》つた|所《とこ》で|御座《ござ》います。|私《わたくし》の|座敷《ざしき》から、あなた|方《がた》が|此処《ここ》に|御休息《ごきうそく》になつて|御座《ござ》るのが、|手《て》に|取《と》る|様《やう》に|見《み》えました|位《くらゐ》ですから、ホンの|一寸《ちよつと》の|廻《まは》りで|御座《ござ》います』
と|先《さき》に|立《た》ち、ヨボヨボと|己《おの》が|家路《いへぢ》へ|伴《ともな》ひ|行《ゆ》く。
(大正一一・四・二四 旧三・二八 松村真澄録)
第二章 |厳《いづ》の|花《はな》〔六三〇〕
|山《やま》と|山《やま》との|迫《せま》りたる  |春野《はるの》の|花《はな》に|右左《みぎひだり》
|白《しろ》や|紫《むらさき》|黄金《こがね》なす  |男蝶《をてふ》|女蝶《めてふ》の|翩翻《へんぽん》と
|常世《とこよ》の|春《はる》を|舞《ま》ひ|遊《あそ》ぶ  |紫雲英《げんげ》の|花《はな》の|咲《さ》き|満《み》ちた
|山《やま》の|麓《ふもと》の|田圃道《たんぼみち》  |景色《けしき》も|殊《こと》に|悦子姫《よしこひめ》
|谷《たに》の|水音《みなおと》|潺湲《せんくわん》と  |遠音《とほね》に|響《ひび》く|音彦《おとひこ》や
|加米彦《かめひこ》|夏彦《なつひこ》|諸共《もろとも》に  |白髪《しらが》|親爺《おやぢ》の|豊彦《とよひこ》が
|賤《しづ》の|伏屋《ふせや》へ|徐々《しづしづ》と  |石《いし》の|田楽橋《でんがくばし》を|越《こ》え
|蒲公英《たんぽぽ》の|花《はな》を|踏《ふ》みすだき  |半《なかば》|倒《たふ》れた|萱《かや》の|家《や》の
|漸《やうや》う|表門《おもて》に|着《つ》きにける。
|豊彦《とよひこ》は、|三月《さんぐわつ》の|菱餅《ひしもち》の|様《やう》になつた|門口《かどぐち》の|戸《と》を|敲《たた》いて、
『オイオイ、お|婆《ばば》、お|客《きやく》さまだ、|早《はや》う|開《あ》けぬか』
|婆《ばば》『|豊彦《とよひこ》どのか、マアマア|待《ま》つて|下《くだ》され、|敷居《しきゐ》も|鴨居《かもゐ》も|斜《はすかい》になり、|戸《と》を|噛《か》みて|一寸《ちよつと》やそつとにや|開《あ》きはせぬ。お|玉《たま》はお|玉《たま》で|身体《からだ》は|自由《じいう》にならず、|爺《ぢい》どの、お|前《まへ》も|外《ほか》から|力《ちから》を|添《そ》へて|下《くだ》さい。アーア|貧乏《びんばふ》すると|戸《と》までが|嫌《いや》|相《さう》に|歪《ゆが》み|出《だ》すなり、|壁《かべ》は|身上《しんじやう》の|痩《や》せたせいか|骨《ほね》を|出《だ》すなり、|情《なさけ》|無《な》い|事《こと》だ、コンナ|茅屋《あばらや》にソンナ|立派《りつぱ》なお|客《きやく》さまに|来《き》て|貰《もら》うた|処《ところ》で、|腰《こし》を|掛《か》けて|貰《もら》ふ|処《ところ》もありやせぬワ』
|豊彦《とよひこ》は|婆《ばば》アと|共《とも》に|内《うち》と|外《そと》から|年寄《としより》の|金剛力《こんがうりき》を|出《だ》し、|左《ひだり》の|方《かた》へグイツとしやくつた|其《その》|途端《とたん》に、|半《なかば》|破《やぶ》れた|古戸《ふるど》は|敷居《しきゐ》を|外《はづ》れてバタリと|中《なか》へ|転《こ》け|込《こ》みたり。
|豊彦《とよひこ》『エーエ、|気《き》の|利《き》かぬ|婆《ばば》だ、|戸倒《とたふ》しものだナ、サアサお|客《きやく》さま、ずつと|奥《おく》へお|通《とほ》り|下《くだ》さいませ』
|加米彦《かめひこ》は、
『お|爺《ぢい》さま、|奥《おく》へ|通《とほ》れと|云《い》つたつて|何処《どこ》に|奥《おく》があるのだい、|門口《かどぐち》へ|這入《はい》るなり、もう|裏口《うらぐち》ぢやないか、ウラナイ|教《けう》なら|奥《おく》の|奥《おく》に|奥《おく》があり、|其《その》|又《また》|奥《おく》にも|奥《おく》があるものだが、こら|又《また》|何《なん》と|狭《せま》い|箱枕《はこまくら》の|様《やう》な|家《うち》だなア』
|音彦《おとひこ》は|気《き》の|毒《どく》がり|乍《なが》ら、
『コラコラ、|加米《かめ》、|又《また》はつしやぎよる、ちつと|沈黙《ちんもく》せぬかい|失礼《しつれい》な』
|加米彦《かめひこ》『ハイ、|如何《どう》も|副守《ふくしゆ》の|奴《やつ》、|加米彦《かめひこ》の|命令《めいれい》を|遵奉《じゆんぽう》せないので|困《こま》る、モシモシお|爺《ぢい》さま、|何卒《どうぞ》|気《き》に|障《さ》へて|下《くだ》さいますな、|私《わたし》の|茅屋《あばらや》に|這入《はい》つて|居《ゐ》るお|客《きやく》が|申《まを》したので|御座《ござ》います』
『さうだらう、|私《わたくし》の|茅屋《あばらや》に|這入《はい》つて|来《き》たお|客《きやく》の|一人《ひとり》だ、さう|八釜《やかま》しく|云《い》ふと|娘《むすめ》の|身体《からだ》に|障《さは》ります、ちつとお|静《しづか》にして|下《くだ》さい』
|加米彦《かめひこ》、|小声《こごゑ》になつて、
『ハイ、|承知《しようち》|致《いた》しました、|然《しか》し|余《あんま》り|軽蔑《けいべつ》して|下《くだ》さるな、|斯《か》う|見《み》えても|娘《むすめ》の|身体《からだ》に|障《さは》る|様《やう》な|不躾《ぶしつけ》な|事《こと》は|致《いた》しませぬワ』
|豊彦《とよひこ》『コレコレ|婆《ばば》や、|座蒲団《ざぶとん》を|出《だ》さぬかい、お|茶《ちや》を|酌《く》まぬか、モシモシお|姫《ひめ》さま、|何卒《どうぞ》お|腰《こし》をかけて|下《くだ》さいませ』
|婆《ばば》『|皆《みな》さま、よう|来《き》て|下《くだ》さいました。|早速《さつそく》|乍《なが》らお|尋《たづ》ね|致《いた》しますが|私等《わたくしら》|夫婦《ふうふ》は|誠《まこと》に|運《うん》の|悪《わる》いもので|御座《ござ》いまして、|一人《ひとり》の|息子《むすこ》に|嫁《よめ》を|貰《もら》ひ、|比沼《ひぬ》の|真名井山《まなゐさん》へ|参拝《さんぱい》をさせました|其《その》|途中《とちう》に、|大江山《おほえやま》の|鬼雲彦《おにくもひこ》とやら|云《い》ふ|悪人《あくにん》の|手下《てした》|共《ども》に|掻攫《かつさら》はれ、|生《い》きて|居《ゐ》るか|死《し》んで|居《ゐ》るか。|今《いま》に|便《たよ》りが|御座《ござ》いませぬ、それに|又《また》|一人《ひとり》の|妹娘《いもうとむすめ》は、|一年半《いちねんはん》ほど|前《まへ》から|身体《からだ》が|変《へん》になりまして、|酢《す》い|物《もの》が|食《く》ひ|度《た》いと|云《い》ひ|出《だ》し、|腹《はら》は|段々《だんだん》、|日《ひ》に|日《ひ》に|太《ふと》り|出《だ》し、|最早《もはや》|十八ケ月《じふはちかげつ》にもなりますのに、|脹満《てうまん》でもなければ|子《こ》でもない|様《やう》な、|訳《わけ》の|分《わか》らぬ|業病《ごふびやう》に|罹《かか》つて|苦《くるし》みて|居《を》ります。かう|云《い》ふ|山奥《やまおく》の|一《ひと》つ|家《や》、|娘《むすめ》は|元来《もとより》|臆病者《おくびやうもの》で、|十八才《じふはつさい》の|今日《こんにち》まで|親《おや》の|側《そば》を|半時《はんとき》だつて|離《はな》れた|事《こと》はありませぬ、それだから|子《こ》の|宿《やど》る|筈《はず》もなし、|腹《はら》を|抑《おさ》へて|見《み》れば|大《おほ》きな|塊《かたまり》がゴロゴロと|動《うご》いて|居《ゐ》るなり、|何《なに》が|何《なん》ぢややら|訳《わけ》が|分《わか》らず、|天《てん》にも|地《ち》にも|只《ただ》|一人《ひとり》の|娘《むすめ》の|為《た》めに、|年寄《としより》|夫婦《ふうふ》が|泣《な》きの|涙《なみだ》で|暮《くら》して|居《を》ります。それに|合点《がてん》のゆかぬは、|此《この》|間《あひだ》も|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》の|英子姫《ひでこひめ》さまとやら|云《い》ふお|方《かた》が、|立派《りつぱ》な|家来《けらい》をお|伴《つ》れ|遊《あそ》ばして|此《この》|茅屋《あばらや》へ|立寄《たちよ》つて|下《くだ》さいまして、|娘《むすめ》の|容態《ようだい》をつくづくと|眺《なが》め、これは|妊娠《にんしん》だから|大切《たいせつ》にせよとの|御言葉《おことば》、|妊娠《にんしん》なれば|遠《と》うの|昔《むかし》に|生《うま》れて|居《を》らねばなりませぬが、もう|十八ケ月《じふはちかげつ》にもなりますのに|何《なん》の|音沙汰《おとさた》も|無《な》し、|英子姫《ひでこひめ》さまの|仰《おつ》しやるには|四五日《しごにち》の|間《うち》に|立派《りつぱ》な|宣伝使《せんでんし》を|遣《よこ》してやるから、それに|頼《たの》みて|無事《ぶじ》に|子《こ》を|生《う》まして|貰《もら》へとの|事《こと》でした。|相手《あひて》も|無《な》いのに|子《こ》が|出来《でき》ると|云《い》ふ|様《やう》な|事《こと》が|昔《むかし》からあるものでせうか』
|悦子姫《よしこひめ》『アヽそれは|御心配《ごしんぱい》でせう、|一寸《ちよつと》|妾《わたし》が|見《み》てあげませう』
とお|玉《たま》の|側《そば》に|寄《よ》り|添《そ》ひ、|腹《はら》を|撫《な》で、
『ア、これは|全《まつた》く|妊娠《にんしん》です、|然《しか》し|乍《なが》ら|決《けつ》して、|人間《にんげん》と|人間《にんげん》との|息《いき》から|出来《でき》た|子《こ》ではありませぬ、|何《なに》か|心当《こころあた》りは|御座《ござ》いませぬか』
|豊彦《とよひこ》『さう|聞《き》けば|無《な》い|事《こと》もありませぬ、|一昨年《おととし》の|秋《あき》の|初《はじ》め、|私《わたくし》の|夢《ゆめ》に|白髪《はくはつ》|異様《いやう》の|老人《らうじん》が|此《この》|茅屋《あばらや》に|訪《たづ》ねて|御《お》いでになり、|立派《りつぱ》な|水晶《すゐしやう》とも|瑠璃《るり》とも|譬方《たとへかた》ない|玉《たま》を|五《いつ》つ|下《くだ》さいまして「|之《これ》をお|前《まへ》にやるから|娘《むすめ》に|呑《の》ましてやれ」と|仰《おつ》しやいました。そこで|私《わたくし》は「|承知《しようち》|致《いた》しました、|然《しか》し|乍《なが》ら|斯《こ》んな|硬《かた》いものが|呑《の》めますか」と|尋《たづ》ねましたら、その|方《かた》の|云《い》はれるのには「|俺《わし》が|呑《の》ましてやらう、|決《けつ》して|呑《の》み|難《にく》い|物《もの》ではない」と|仰《おつ》しやつてお|玉《たま》の|身体《からだ》をグツと|抱《かか》へ、|胸《むね》の|辺《あた》りに|無理《むり》に|押《お》し|込《こ》|皆《みな》さつたと|思《おも》へば|目《め》が|覚《さ》めました。さうすると|娘《むすめ》のお|玉《たま》がウンウンと|魘《うな》されて|居《ゐ》るので、|揺《ゆす》り|起《お》こしてやりますと、お|玉《たま》の|身体《からだ》は|一面《いちめん》、|汗《あせ》びしよ|濡《ぬ》れになり、|私《わたくし》の|見《み》た|夢《ゆめ》と|同様《どうやう》の|夢《ゆめ》を|見《み》た、それから|身体《からだ》が|何《なん》となく|苦《くる》しくなつて|堪《たま》らぬと|云《い》ひました。|何《いづ》れ|夢《ゆめ》の|事《こと》だから|明日《あした》になつたら|苦《くる》しいのも|癒《なほ》るだらうと|云《い》つて、その|晩《ばん》|寝《やす》みました。|夜《よ》が|明《あ》けて|見《み》ればお|玉《たま》は|矢張《やつぱり》ウンウンと|呻《うな》つて|居《を》ります。それつきり|十八ケ月《じふはちかげつ》の|今日《こんにち》まで、|腹《はら》が|段々《だんだん》|膨《ふく》れる|許《ばか》りで、|身体《からだ》の|自由《じいう》も|利《き》きませず、|不思議《ふしぎ》な|事《こと》があればあるもので|御座《ござ》います、|何《なに》か|悪神《あくがみ》の|所作《しよさ》ではありますまいかな』
|悦子姫《よしこひめ》『ヤ、|心配《しんぱい》なされますな、|悪神《あくがみ》どころか|立派《りつぱ》な|神様《かみさま》のお|霊魂《みたま》が|宿《やど》らせられていらつしやいます。|厳《いづ》の|御霊《みたま》の|大神《おほかみ》が|御生《おんうま》れになるのでせう。|妾《わたし》が|今《いま》|神様《かみさま》にお|願《ねがひ》を|致《いた》します』
と|何事《なにごと》か|小声《こごゑ》になつて|頻《しき》りに|祈願《きぐわん》を|凝《こ》らしつつある|折《をり》しも、お|玉《たま》は『ウン』と|一声《いつせい》|諸共《もろとも》に|初《はじ》めて|起《お》き|直《なほ》り|夢中《むちう》になつて、
『ア、|有難《ありがた》う|御座《ござ》います、これで|私《わたくし》も|助《たす》かります、|七人《しちにん》の|女《をんな》の|随一《ずゐいつ》、|厳《いづ》の|御霊《みたま》の|御誕生《ごたんじやう》だと|何時《いつ》やら|見《み》えた|白髪《はくはつ》の|神様《かみさま》が|仰《おつ》しやいました、|何卒《どうぞ》、とり|上《あ》げの|用意《ようい》をして|下《くだ》さいませ、|強《きつ》い|陣痛《しきり》が|催《もよほ》して|来《き》ました』
|豊彦《とよひこ》|夫婦《ふうふ》は|吃驚《びつくり》し、
『ヤア、それは|大変《たいへん》ぢや、|早《はや》く|湯《ゆ》を|沸《わ》かさねばなるまい』
|悦子姫《よしこひめ》『お|爺《ぢい》さま、お|婆《ば》アさま、|貴方等《あなたら》は|此処《ここ》にぢつとして|居《ゐ》て|下《くだ》さい、これ|加米彦《かめひこ》や|夏彦《なつひこ》さま、|早《はや》くお|湯《ゆ》を|沸《わ》かしなさい』
|加米彦《かめひこ》『ハイ(|妙《めう》な|声《こゑ》で)ナア|夏彦《なつひこ》、どうで|碌《ろく》な|事《こと》ぢや|無《な》いと|思《おも》うて|居《を》つた、コンナ|山奥《やまおく》へ|出《で》て|来《き》てお|産《う》の|湯《ゆ》まで|沸《わ》かさして|頂《いただ》くとは、|思《おも》ひも|寄《よ》らぬ|光栄《くわうえい》ぢやないか』
|夏彦《なつひこ》『ソンナ|勿体《もつたい》ない|事《こと》を|云《い》ふものぢやない、|結構《けつこう》な|神様《かみさま》が|御出産《おしゆつさん》|遊《あそ》ばすのぢや、その|御用《ごよう》の|端《はし》に|使《つか》うて|貰《もら》ふのは|余程《よほど》の|因縁《いんねん》ぢや|無《な》くちや、コンナ|御用《ごよう》が|仰《あふ》せ|付《つ》かるものかいヤイ、あら|有難《ありがた》い|辱《かたじけ》ない』
お|玉《たま》『ウンウン』
|音彦《おとひこ》『サア|早《はや》く、|加米彦《かめひこ》、|夏彦《なつひこ》、|湯《ゆ》を|沸《わ》かして|上《あ》げぬかい』
『ハイハイ』
と|破《わ》れ|鍋《なべ》に|水《みづ》を|盛《も》り、|閉蓋《とぢぶた》をチヤンとのせ、|薪《たきぎ》をポキポキ|折《を》つて|火鉢《ひばち》の|火《ひ》を|吹《ふ》き|点《つ》け、|座蒲団《ざぶとん》で|風《かぜ》をおこし、|湯沸《ゆわ》かしに|全力《ぜんりよく》を|注《そそ》いで|居《ゐ》る。|忽《たちま》ち|聞《きこ》ゆる|赤子《あかご》の|声《こゑ》、
『ほぎやア ほぎやア ほぎやア』
『アヽ|目出度《めでた》い|目出度《めでた》い、サア|腹帯《はらおび》を|締《し》めてあげよう』
と|悦子姫《よしこひめ》は|甲斐々々《かひがひ》しくお|玉《たま》の|後《うしろ》に|廻《まは》り、グツと|腹帯《はらおび》を|締《し》め、
『サア|之《これ》でもう|大丈夫《だいぢやうぶ》です、お|爺《ぢい》さま、お|婆《ば》アさま、ご|安心《あんしん》なさいませ』
|爺《ぢい》、|婆《ばば》『ハイハイ、|有難《ありがた》う|御座《ござ》います、とりあげ|迄《まで》させまして|誠《まこと》に|何《なん》とも|恐《おそ》れ|入《い》つた|事《こと》で|御座《ござ》います』
『サア|湯《ゆ》が|沸《わ》いた|様《やう》です、どれどれ|私《わたくし》が|湯《ゆ》を|浴《あぶ》せてやりませう、ヤア|何《なん》と|長《なが》い|事《こと》|腹《はら》の|中《なか》に|居《ゐ》られたせいか、|立派《りつぱ》なお|子《こ》さまだワイ』
と|音彦《おとひこ》は|赤子《あかご》を|両手《りやうて》に|抱《かか》へ、|湯《ゆ》の|手加減《てかげん》をした|上《うへ》、|悦子姫《よしこひめ》と|共《とも》に|行水《ぎやうずゐ》をさせる。|赤子《あかご》は|盥《たらひ》の|中《なか》で、|火《ひ》でも|身体《からだ》に|焦《こげ》ついた|様《やう》に|真赤《まつか》な|顔《かほ》をして|泣《な》き|立《た》て|居《ゐ》る。
|悦子姫《よしこひめ》はいそいそとして、
『ア、|立派《りつぱ》な|丈夫《ぢやうぶ》なお|子《こ》さまだ。お|爺《ぢい》さま、お|婆《ば》アさま、お|玉《たま》さま、|御安心《ごあんしん》なさいませよ』
|三人《さんにん》|黙然《もくねん》として|涙《なみだ》を|零《こぼ》し|俯向《うつむ》き|居《ゐ》る。
『|何《なん》と|不思議《ふしぎ》な|事《こと》があるものぢや|無《な》いか、ナア|夏彦《なつひこ》、|十八ケ月《じふはちかげつ》で|子《こ》が|出来《でき》るとは|前代《ぜんだい》|未聞《みもん》だ。|俺達《おれたち》は|節季《せつき》が|来《く》ると|何時《いつ》も【たらい】(|不足《たらひ》)で|泣《な》くが、|此《この》|赤《あか》ン|坊《ばう》は、ほンのりと|温《ぬく》う|暖《あたた》まつて|矢張《やつぱり》【たらい】(|盥《たらひ》)で|泣《な》くのだな、アハヽヽヽ』
|夏彦《なつひこ》『コラコラ|加米《かめ》、|又《また》そンな|大《おほ》きな|声《こゑ》を|出《だ》しよると、お|玉《たま》さまの|身体《からだ》に|障《さは》つたら|如何《どう》するのだ』
『【さはる】のは|加米《かめ》とはお|役《やく》が|違《ちが》ふ|哩《わい》、|悦子姫《よしこひめ》さまが【さは】つて|御座《ござ》るぢやないか、アハヽヽヽ』
|音彦《おとひこ》『コラコラ|両人《りやうにん》、|静《しづか》にせぬか』
『ハイ|畏《かしこ》まりました』
お|玉《たま》『|皆様《みなさま》、いかい|御世話《おせわ》になりました。|生《で》けた|子《こ》は|男《をとこ》で|御座《ござ》いますか、|女《をんな》で|御座《ござ》いますか』
|音彦《おとひこ》『オヽ、さうさう、あまり|嬉《うれ》しうて|調査《てうさ》するのを|失念《しつねん》して|居《ゐ》た。アア|折角《せつかく》|乍《なが》ら|割《わ》れて|居《ゐ》ますワ』
|豊姫《とよひめ》『エ、|又《また》|女《をんな》で|御座《ござ》いますか、|矢張《やつぱり》|私《わたくし》の|家《うち》は|養子《やうし》でなければ|治《をさ》まらぬと|見《み》えます。|伜《せがれ》に|嫁《よめ》を|貰《もら》つて|後《あと》を|継《つ》がさうと|思《おも》へば、|最前《さいぜん》|申《まを》した|通《とほ》り|行衛《ゆくへ》は|分《わか》らず、|矢張《やつぱり》|妹《いもうと》のお|玉《たま》に|養子《やうし》をせねばなりませぬ、|今度《こんど》|生《うま》れた|総領《そうりやう》も|養子《やうし》を|貰《もら》ふ|様《やう》になりました』
|加米彦《かめひこ》、|又《また》もや【はしや】いで、
『お|爺《ぢい》さま、お|目出度《めでた》う、これで|貴方《あなた》の|家《うち》の|運《うん》も|開《ひら》ける、|養子《やうし》が|三代《さんだい》|続《つづ》けば|長者《ちやうじや》になると|云《い》ふ|事《こと》だ、お|喜《よろこ》びなさい、|私《わたくし》も|嬉《うれ》しい、お|目出度《めでた》い、|手《て》の|舞《ま》ひ|足《あし》の|踏《ふ》む|所《ところ》を|知《し》らずだ。どつこいしよ どつこいしよ』
と|跳上《はねあが》り|田楽橋《でんがくばし》を|踏《ふ》み|外《はづ》し、|小溝《こみぞ》の|中《なか》へバサリと|落《お》ち、
|加米彦《かめひこ》『ヤア|折角《せつかく》の|着物《きもの》を|濡《ぬ》らして|仕舞《しま》つた』
|夏彦《なつひこ》『ハヽヽヽ、|狼狽者《あはてもの》だな』
|悦子姫《よしこひめ》『もうこれでお|案《あん》じなさる|事《こと》は|要《い》りませぬ、|大丈夫《だいぢやうぶ》です。|名《な》はおつけなさいますか』
|豊彦《とよひこ》『|誠《まこと》に|済《す》みませぬが、|貴女様《あなたさま》のお|世話《せわ》になつた|子供《こども》で|御座《ござ》いますから、|何卒《どうぞ》お|名《な》をやつて|下《くだ》さいませ』
|悦子姫《よしこひめ》『|承知《しようち》|致《いた》しました、ソンナラ|妾《わたし》が|名《な》をあげませう、|玉照姫《たまてるひめ》とつけませう』
|豊彦《とよひこ》、|豊姫《とよひめ》、お|玉《たま》、|一時《いちじ》に|口《くち》を|揃《そろ》へて、
『|有難《ありがた》う|存《ぞん》じます』
|悦子姫《よしこひめ》『サアサア|私《わたくし》は|之《これ》からお|山《やま》へ|参拝《さんぱい》を|致《いた》して|参《まゐ》ります。|又《また》|帰《かへ》りがけに|悠《ゆつ》くり|伺《うかが》ひます、|左様《さやう》なら』
と|早《はや》くも|門口《かどぐち》を|跨《また》げる。|三人《さんにん》は|何《なに》も|云《い》はず|手《て》を|合《あは》して|悦子姫《よしこひめ》の|方《かた》に|向《むか》つて|拝《をが》ンで|居《ゐ》る。|音彦《おとひこ》は、
『サア、|加米彦《かめひこ》、|夏彦《なつひこ》|出陣《しゆつぢん》だ』
と|悦子姫《よしこひめ》の|後《あと》に|従《したが》ひ|旧来《もとき》し|道《みち》に|引返《ひきかへ》し、|四人《よにん》は|又《また》もや|道《みち》に|這《は》ひ|出《で》た|急坂《きふはん》の|木《き》の|根《ね》の|段梯子《だんばしご》を|渡《わた》つて|奥《おく》へ|奥《おく》へと|登《のぼ》り|行《ゆ》く。
(大正一一・四・二四 旧三・二八 北村隆光録)
第三章 |神命《しんめい》〔六三一〕
|賤《しづ》が|伏家《ふせや》を|後《あと》にして、|悦子姫《よしこひめ》の|一行《いつかう》は、|胸突坂《むなつきざか》をテクテクと、|梯子《はしご》|登《のぼ》りに|登《のぼ》り|行《ゆ》く。|日《ひ》は|西山《せいざん》に|傾《かたむ》きて、|昼《ひる》さへ|暗《くら》き|深山《しんざん》を、|黒《くろ》く|色彩《いろど》る|群烏《むらがらす》、|塒《ねぐら》|尋《たづ》ねて|右左《みぎひだり》、ガアガアガアと|舞《ま》ひ|狂《くる》ふ、|見上《みあ》ぐる|空《そら》に|鷹《たか》|鳶《とんび》、|羽《はね》|一文字《いちもんじ》に|展開《てんかい》し、|悠々《いういう》|迫《せま》らず|空中《くうちう》を|征服《せいふく》せる|態度《たいど》を|示《しめ》し|居《ゐ》る。
|加米彦《かめひこ》『ヤアこれは|大変《たいへん》、|大切《たいせつ》な|一張羅《いつちやうら》の|宣伝使服《せんでんしふく》に|鳶《とび》の|奴《やつ》、|糞《くそ》をかけよつた。|実《じつ》に|糞懣《ふんまん》の|至《いた》りだ。オイ|鳶《とび》の|奴《やつ》、|不都合《ふつがふ》|千万《せんばん》、|一先《ひとま》づ|此方《こつち》へ|引《ひ》き|戻《もど》せ、|天地《てんち》の|道理《だうり》を|説《と》き|諭《さと》して|呉《く》れうぞ』
|夏彦《なつひこ》『アハヽヽヽ、ウフヽヽヽ』
|音彦《おとひこ》『|何《なん》とか|言《い》はねば|虫《むし》の|納《をさ》まらぬ|男《をとこ》だなア、|何程《なにほど》|人間《にんげん》が|偉《えら》いと|云《い》うても、|空中《くうちう》を|自由自在《じいうじざい》に|〓翔《かうしよう》するだけの|神力《しんりき》は|無《な》いから、|黙《だま》つて|泣《な》き|寝入《ねい》るが|利巧《りかう》だなア』
|加米彦《かめひこ》『エヽ|忌々《いまいま》しい、|音彦《おとひこ》さま|迄《まで》が|鳶《とび》の|応援《おうゑん》をしたり、|水臭《みづくさ》い|人《ひと》だ。|糞《くそ》|忌々《いまいま》しい、アヽ|臭《くさ》い|九歳《くさい》の|十八歳《じふはちさい》だ』
|音彦《おとひこ》『|大変《たいへん》|其辺《そこら》が|暗《くら》くなつて|来《き》たぢやないか、|道《みち》で|紛失《ふんしつ》しないやうに、|二尺《にしやく》|位《くらゐ》|距離《きより》を|保《たも》つて|行《ゆ》く|事《こと》にしよう』
|加米彦《かめひこ》『|何程《なにほど》|暗《くら》くつても、【|苦楽《くらく》】を|共《とも》にする|吾々《われわれ》|宣伝使《せんでんし》だ、かういふ|時《とき》には|加米彦《かめひこ》には|大変《たいへん》|都合《つがふ》がよい|哩《わい》、|無形《むけい》に|見《み》ると|云《い》ふ|天眼通《てんがんつう》が|開《ひら》けて|御座《ござ》らぬノダ。オイ|夏彦《なつひこ》、|俺《おれ》の|腰《こし》を|捉《つか》まへて|来《く》るのだぞ、|貴様《きさま》は|体《からだ》が|小《ちひ》さいから、ひよつとすると|蕗《ふき》の|葉《は》の|下《した》にでもなると、|分《わか》らぬやうになるからなア』
|夏彦《なつひこ》『お|前《まへ》、それでもエロー|体《からだ》が|動揺《どうえう》して|居《を》るぢやないか、|何《いづ》れ|歩行《ほかう》すれば|全身《ぜんしん》は|動揺《どうえう》するものだが、お|前《まへ》の|動揺振《どうえうぶり》はチト|変《へん》だぞ、|慄《ふる》うとるのぢやないかな』
|加米彦《かめひこ》『|何《ど》うでもよいワ、|確《しつか》りと|俺《おれ》の|腰《こし》を|捉《つか》まへて|居《を》るのだ、|放《はな》しちやならぬぞ』
|夏彦《なつひこ》『ハヽヽヽヽ、|随分《ずゐぶん》|負《ま》けぬ|気《き》な|男《をとこ》だなア、|怖《こわ》いのだらう』
|加米彦《かめひこ》『こわいともこわいとも、|踵《きびす》の|皮《かは》が|大変《たいへん》|硬《こわ》い|哩《わい》』
|音彦《おとひこ》『|悦子姫《よしこひめ》さま、かう|闇《やみ》の|帳《とばり》がピタリと|降《お》りては|仕方《しかた》が|無《な》いぢや|御座《ござ》いませぬか、|夜《よる》になると|目《め》の|見《み》えない|人間《にんげん》は|不自由《ふじゆう》ですなア』
|悦子姫《よしこひめ》『|何処《どこ》か|適当《てきたう》な|場所《ばしよ》で|夜《よ》を|明《あ》かしませうか、|最早《もはや》|山《やま》も|半分《はんぶん》ばかり|登《のぼ》つたやうですが、どうせ|今日《けふ》|参拝《さんぱい》を|済《す》まして|帰《かへ》る|訳《わけ》には|行《ゆ》きますまいから』
|加米彦《かめひこ》『アヽ|目《め》の|見《み》えぬ|人間《にんげん》は|気《き》の|毒《どく》なものだ、|盲《めくら》|千人《せんにん》の|世《よ》の|中《なか》とはよくも|云《い》つたものだ。|目明《めあ》き|一人《ひとり》の|加米彦《かめひこ》も|仕方《しかた》が|無《な》いワ、|交際《おつきあひ》に|此処《ここ》で|御輿《みこし》を|下《おろ》さうかい』
|夏彦《なつひこ》『オイ|加米彦《かめひこ》、|何《なに》を|云《い》ふのだ、|実際《じつさい》|目《め》が|見《み》えるのか』
|加米彦《かめひこ》『|見《み》えるとも|見《み》えるとも、|目《め》の|見《み》えぬ|奴《やつ》は|盲《めくら》ぢやないか』
|夏彦《なつひこ》『ハヽア|此奴《こいつ》は|四《よ》つ|足《あし》|身魂《みたま》だな、|暗《くら》がりで|目《め》の|見《み》える|奴《やつ》は|狐《きつね》、|狸《たぬき》、|鼬《いたち》か|猫《ねこ》か、|又《また》|違《ちが》うたら|虎《とら》、|熊《くま》、|狼《おほかみ》と|云《い》ふ|代物《しろもの》だ。オイ|四足《よつあし》|先生《せんせい》、|今日《けふ》は|十分《じふぶん》|威張《ゐば》るとよい|哩《わい》、|何処《どこ》ぞ|其辺《そこら》に|兎《うさぎ》でも|居《を》つたら|探《さが》して|丸喰《まるぐ》ひなとして|来《こ》い』
|加米彦《かめひこ》『|誰《たれ》だつて|目《め》は|見《み》えるが、それや|火《ひ》を|点《とも》すか、|夜《よ》が|明《あ》けた|上《うへ》のこつた、アハヽヽヽ』
|夏彦《なつひこ》『|大分《だいぶん》|四足《よつあし》が|徹《こた》へたと|見《み》える|哩《わい》、ソンナラもう|四足《よつあし》の|称号《しやうがう》だけは|只今《ただいま》|限《かぎ》り、|特別《とくべつ》の|仁慈《じんじ》をもつて|解除《かいぢよ》してやらうかい』
|加米彦《かめひこ》『|大《おほ》きに|憚《はばか》りさま、|今《いま》は|他人《たにん》ぢや、|放《ほ》つて|置《お》いてくれ、|又《また》|御親類《ごしんるゐ》になつたら|宜敷《よろし》うお|願《ねが》ひ|申《まを》します、オホヽヽヽ』
|悦子姫《よしこひめ》『モシモシ|加米彦《かめひこ》さま、|夏彦《なつひこ》さま、さう|喧《やかま》しう|仰有《おつしや》ると|此《この》お|山《やま》には【だいじや】が|沢山《たくさん》|居《ゐ》ますから、|些《ちつ》と【おとな】しうなされませや』
|加米彦《かめひこ》『ハイハイ、|何《なに》が|来《き》たつて【だいじや】|御座《ござ》いませぬ、|元来《ぐわんらい》が|豪胆《がうたん》|不敵《ふてき》な|性質《うまれつき》、|長《なが》の|先生《せんせい》、|千匹《せんびき》や|万匹《まんびき》|束《たば》になつてお|出《いで》になつても、|些《ちつ》とも【おろちい】|事《こと》はありませぬ|哩《わい》』
|音彦《おとひこ》『エヽ|喧《やかま》しい|哩《わい》、|沈黙々々《ちんもくちんもく》』
|茲《ここ》に|四人《よにん》は|去年《こぞ》の|名残《なごり》の|枯草《かれくさ》の|交《まじ》つた、|中年増《ちうどしま》の|頭髪《とうはつ》のやうな|芝生《しばふ》の|上《うへ》に、|右腹《みぎはら》を|下《した》に|足《あし》を|曲《ま》げ|体《からだ》を【さ】の|字形《じがた》につがねて|静《しづ》かに|寝《しん》につきたり。
|梢《こずゑ》を|伝《つた》ふ|猿《ましら》の|群《むれ》、|幾百《いくひやく》とも|知《し》らず、|前後左右《ぜんごさいう》にキヤツキヤツと|亡国的《ばうこくてき》の|啼声《なきごゑ》を|出《だ》して|淋《さび》しさを|添《そ》へてゐる。|風《かぜ》も|吹《ふ》かぬにザアザアと|大蛇《をろち》の|草野《くさの》を|渡《わた》るやうな|声《こゑ》、|虎《とら》|狼《おほかみ》の|唸《うな》るやうな|怪声《くわいせい》、|遠近《をちこち》に|聞《きこ》え|来《き》たり、|大木《たいぼく》を|捻折《ねぢお》る|音《おと》、|大岩石《だいがんせき》の|一度《いちど》に|崩壊《ほうくわい》する|如《ごと》き|凄《すさま》じき|物音《ものおと》に|加米彦《かめひこ》は|目《め》を|覚《さ》まし、|小声《こごゑ》になつて|夏彦《なつひこ》の|耳《みみ》に|口《くち》を|寄《よ》せ、
『オイ、なゝ|夏《なつ》、|夏《なつ》、|夏彦《なつひこ》ヤイ』
|歯《は》、カチカチカチ、
『オヽ|起《お》きぬかい、あの|音《おと》、きゝ|聞《き》きよつたか』
|夏彦《なつひこ》『|喧《やかま》しう|云《い》ふない、|悦子姫《よしこひめ》|様《さま》の|安眠《あんみん》の|妨害《ばうがい》になるぞ、|貴様《きさま》コンナ|深山《しんざん》に|来《き》たら|是《これ》|位《くらゐ》の|事《こと》はありがちだよ、キヤアキヤア|云《い》うて|女《をんな》でも|締《し》め|殺《ころ》すやうな|声《こゑ》のするのは、あれや|猿《さる》の|群《むれ》だ、ザアザアと|音《おと》のするのは|大蛇隊《だいじやたい》の|大活動《だいくわつどう》の|音《おと》だ、オンオンオンと|唸《うな》つて|居《を》るのはあれや|狼《おほかみ》や|熊《くま》の|先生《せんせい》が【いきつ】て|居《を》るのだよ、|木《き》の|枝《えだ》が|裂《さ》けるやうな|音《おと》がしたり、|岩石《がんせき》が|崩壊《ほうくわい》したりするやうな|声《こゑ》が|聞《きこ》えるのは|鼻高《はなたか》の|悪戯《いたづら》だ、|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》を|口《くち》の|中《なか》で|唱《とな》へて|早《はや》く|寝《ね》ぬかい』
|加米彦《かめひこ》『|寝《ねえ》と|云《い》つたつて、コンナ|気味《きみ》の|悪《わる》い|処《ところ》で|安眠《あんみん》も|出来《でき》ぬぢやないか』
|夏彦《なつひこ》『お|前《まへ》は|罪障《ざいしやう》の|深《ふか》い|罪《つみ》の|重《おも》い|代物《しろもの》とみえる|哩《わい》、|梟鳥《ふくろどり》は|夜分《やぶん》になると|噪《はしや》いで|昼《ひる》はコンモリとした|木《き》の|枝《えだ》に|小《ちい》さくなつて|大《おほ》きな|眼《め》を|剥《む》いて|慄《ふる》うて|居《ゐ》るが、お|前《まへ》はそれと|正反対《せいはんたい》な|昼《ひる》になると|滅多《めつた》|矢鱈《やたら》に|噪《はしや》ぎ|廻《まは》し、|夜《よ》になると|蛭《ひる》に|塩《しほ》を|呑《の》ませたやうに、|百足《むかで》に|唾《つばき》を|吐《は》きかけたやうに|弱《よわ》つて|仕舞《しま》ふのだな、|強弱《きやうじやく》のハーモニイが|取《と》れぬ|男《をとこ》だ。マアマア|俺《おれ》の|体《からだ》にでも|喰《くら》ひついて|慄《ふる》ひもつて|寝《ね》るがよい|哩《わい》』
|加米彦《かめひこ》『|頼《たの》む|頼《たの》む、|併《しか》しながらコンナ|事《こと》を、|音彦《おとひこ》や|悦子姫《よしこひめ》さまに|云《い》うて|呉《く》れては|困《こま》るよ、|極秘《ごくひ》にしてお|前《まへ》の|腹《はら》へ|仕舞《しま》つて|置《お》いて|呉《く》れ』
|夏彦《なつひこ》『ヨシヨシ、|承知《しようち》した、その|代《かは》り|余《あま》り|昼《ひる》になつて|無茶苦茶《むちやくちや》に|噪《はしや》ぐと|素破《すつぱ》|抜《ぬ》くからさう|覚悟《かくご》して|居《を》れ、|何《なん》と|云《い》つても|鎌《かま》の|柄《え》を|俺《おれ》が|握《にぎ》つて、|切《き》れる|方《はう》をお|前《まへ》が|掴《つか》みて|居《ゐ》るやうなものだからなア、アハヽヽヽ』
|加米彦《かめひこ》『ソンナ|大《おほ》きな|声《こゑ》で|笑《わら》ふない、|安眠《あんみん》の|妨害《ばうがい》になるぞ、サアサア|寝《ね》よう』
|夏彦《なつひこ》は|早《はや》くも|高鼾《たかいびき》をかいてゐる。|加米彦《かめひこ》は|三人《さんにん》の|中央《ちうあう》に|挟《はさ》まつて|夜《よ》の|明《あ》くるのを|今《いま》や|遅《おそ》しと|待《ま》つて|居《ゐ》る。|怪《あや》しの|声《こゑ》は|間断《かんだん》なく、|且《か》つ|時々刻々《じじこくこく》に|強烈《きやうれつ》に|聞《きこ》え|来《きた》る。
|春《はる》の|夜《よ》は|明《あ》け|易《やす》く、|闇《やみ》の|帳《とばり》はいつしか|空《そら》に|捲《ま》くり|上《あ》げられた。|百鳥《ももどり》の|声《こゑ》は|噪《さは》がしく|囀《さへづ》り|初《はじ》めたり。それと|同時《どうじ》に|今迄《いままで》の|巨声《きよせい》|怪音《くわいおん》はピタリと|止《と》まりぬ。|加米彦《かめひこ》は|又《また》もや|元気《げんき》|回復《くわいふく》し、
『アヽ|春《はる》の|夜《よさ》と|云《い》ふものは|短《みじか》いものだな、|今《いま》|其処《そこ》に|倒《こ》けたと|思《おも》へばもう|夜《よ》が|明《あ》けよつた。サアサア|音彦《おとひこ》さま、|目《め》を|開《あ》けて|手水《てうづ》でも|使《つか》つて|登山《とざん》しませうか、もうこれだけ【ぐつすり】|寝《ね》たら|昼《ひる》の|疲《つか》れもやすまつたでせう。|私《わたくし》も|潰《つぶ》れる|程《ほど》よく|寝《ね》て|仕舞《しま》ひました』
|夏彦《なつひこ》『オヽ|本当《ほんたう》に|皆《みな》よく|寝《ね》ましたな、|併《しか》しこの|中《なか》に|〆《しめ》て|一人《ひとり》|不寝番《ねずばん》を|務《つと》めて|呉《く》れた|忠実《ちうじつ》なお|方《かた》がありますよ、|悦子姫《よしこひめ》さま、どうぞ|論功行賞《ろんこうかうしやう》に|漏《も》れないやうに|頼《たの》みますぜ』
|加米彦《かめひこ》『ウンさうさう、|雀《すずめ》の|奴《やつ》に、|烏《からす》の|奴《やつ》、|寝《ね》る|時《とき》にチウチウガアガア|云《い》うて|居《を》つた。|矢張《やつぱり》|吾々《われわれ》のために|不寝番《ねずばん》を|務《つと》めて|呉《く》れたと|見《み》え、|相変《あひかは》はらずチウチウカアカアと|忠勤振《ちうきんぶり》を|発揮《はつき》して|御座《ござ》る。【ひとり】や|二《ふた》【とり】や、|三羽《さんば》や|四羽《よは》の|鳥《とり》ぢやない、|何千《なんぜん》とも|知《し》れぬ|程《ほど》の|鳥《とり》ぢや』
|夏彦《なつひこ》『ヘン|誰《たれ》も|聞《き》くものがないのに【やもめ】の|行水《ぎやうずゐ》ぢやないが、|一人《ひとり》|湯取《ゆうと》る|哩《わい》、ハヽヽヽ』
|悦子姫《よしこひめ》『|弥《いよいよ》、|新《あたら》しい|光明《ひかり》が|頂《いただ》けました。サアサア|幸《さいは》ひ|此処《ここ》に|湧《わ》いて|居《を》る|清水《しみづ》で|手水《てみづ》を|使《つか》つて、|神様《かみさま》に|祝詞《のりと》を|奏上《そうじやう》しませう』
と|傍《かたはら》の|清水《しみづ》に|口《くち》を|嗽《すす》ぎ|手《て》を|洗《あら》ふ。|三人《さんにん》も|影《かげ》の|形《かたち》に|従《したが》ふ|如《ごと》く|同《おな》じ|事《こと》を|繰返《くりかへ》したり。|祝詞《のりと》の|奏上《そうじやう》も|無事《ぶじ》に|済《す》み、|四人《よにん》は|腰《こし》の|皮包《かはづつみ》より|焼《や》き|飯《めし》を|出《だ》して|手軽《てがる》く|朝餉《あさげ》をすまし、|悦子姫《よしこひめ》の|先頭《せんとう》にて|頂上《ちやうじやう》|目蒐《めが》けて|行進《かうしん》。|間《ま》もなく|頂上《ちやうじやう》に|達《たつ》したり。
|年《とし》|経《ふ》りたる|老樹《らうじゆ》の|茂《しげ》みを|透《す》かして|田辺《たなべ》の|海《うみ》はキラキラ|光《ひか》り、|船《ふね》の|白帆《しらほ》は|右往左往《うわうさわう》にまたたき|居《ゐ》たり。
|加米彦《かめひこ》『|何《なん》と|云《い》ふ|絶景《ぜつけい》でせう、|悦子姫《よしこひめ》さま、|音彦《おとひこ》さま、|暫《しばら》く|汗《あせ》が|乾《かわ》く|迄《まで》|御輿《みこし》を|下《おろ》して|呼吸《いき》を|調《ととの》へ、|其《その》|後《ご》に|御祈念《ごきねん》にかかりませうか』
と|皆《みな》まで|云《い》はず、どつかと|腰《こし》を|下《おろ》し|足《あし》を|投《な》げ|出《だ》し、|膝頭《ひざがしら》を|揉《も》み|居《ゐ》る。|悦子姫《よしこひめ》は|徐々《しづしづ》と|神前《しんぜん》に|進《すす》み、|何事《なにごと》か|頻《しき》りに|暗祈黙祷《あんきもくたう》しつつありき。
|加米彦《かめひこ》『|遠《とほ》く|瞳《ひとみ》を|放《はな》てば|千山万嶽《せんざんばんがく》|重畳《ちようでふ》として|際限《さいげん》|無《な》く、|各自《かくじ》にその|容姿《ようし》を|誇《ほこ》り|顔《がほ》に、|特徴《とくちやう》を|発揮《はつき》して|居《を》る|哩《わい》。|近《ちか》きは|青《あを》く、|或《あるひ》はコバルト|色《いろ》に|山容《さんよう》を|飾《かざ》り、|紺碧《こんぺき》の|海《うみ》は|眼下《がんか》に|輝《かがや》き、|天《てん》は|薄雲《うすぐも》の|衣《ころも》を|脱《ぬ》ぎ、|奥《おく》の|奥《おく》の|其《その》|奥《おく》|迄《まで》|地金《ぢがね》を|現《あら》はして|居《ゐ》る。|其《その》|中心《ちうしん》に|名物男《めいぶつをとこ》の|加米彦《かめひこ》が|大《だい》の|字《じ》になつて、|宇宙《うちう》の|森羅万象《しんらばんしやう》を|睥睨《へいげい》して|居《ゐ》る。|此《この》|場《ば》の|光景《くわうけい》は|恰《あたか》も|一幅《いつぷく》の|宇宙《うちう》|大活人画《だいくわつじんぐわ》のやうだ。|天《てん》は|広々《くわうくわう》として|際限《さいげん》なく、|海《うみ》は|洋々《やうやう》として|極《きは》まりなし、|燕雀《えんじやく》|何《なん》ぞ|大鵬《たいほう》の|志《こころざし》を|知《し》らむ。エイ、|燕《つばめ》の|奴《やつ》、|小雀《こすずめ》の|餓鬼《がき》、|喧《やかま》しい|哩《わい》、|些《ちつ》と|沈黙《ちんもく》を|守《まも》らないか、|安眠《あんみん》の、オツトドツコイ|悦子姫《よしこひめ》|様《さま》が|暗祈黙祷《あんきもくたう》の|妨害《ばうがい》になるぞ』
|音彦《おとひこ》『コラコラ|加米彦《かめひこ》、お|前《まへ》こそ|妨害《ばうがい》になる、|些《ちつ》と|言霊《ことたま》を|慎《つつし》まぬか』
|加米彦《かめひこ》『ハイハイ|早速《さつそく》|言霊《ことたま》の|停電《ていでん》を|命《めい》じます』
|悦子姫《よしこひめ》『サアサア|皆《みな》さま|下向《げかう》|致《いた》しませう』
|加米彦《かめひこ》『モシモシ、|一寸《ちよつと》|待《ま》つて|下《くだ》さい、|折角《せつかく》|苦労《くらう》|艱難《かんなん》をして|頂上《ちやうじやう》を|突《つ》き|止《と》め、|祝詞《のりと》も|上《あ》げずお|祈《いの》りもせぬ|先《さき》に|下向《げかう》されては、|何《なに》しに|此処迄《ここまで》やつて|来《き》たのか|訳《わけ》が|分《わか》りませぬ、どうぞ|暫《しばら》くの|間《あひだ》|御猶予《ごいうよ》を|願《ねが》ひます』
|悦子姫《よしこひめ》『|妾《わたし》は|今《いま》|重大《ぢうだい》なる|御神勅《ごしんちよく》が|下《くだ》りました、|一刻《いつこく》も|猶予《いうよ》をする|事《こと》が|出来《でき》ませぬ、|一足《ひとあし》お|先《さき》に|女《をんな》の|足弱《あしよわ》、|下向《げかう》|致《いた》します。|貴方方《あなたがた》は|悠《ゆつ》くり|祝詞《のりと》を|上《あ》げ、|後《あと》から|追《お》ひついて|下《くだ》さい、アリヨウス』
|加米彦《かめひこ》『エヽ|仕方《しかた》がない、|肝腎《かんじん》の|女王《ぢよわう》に|見限《みかぎ》られては|浮《う》かぶ|瀬《せ》がない。|何事《なにごと》も|簡単《かんたん》を|尊《たふと》ぶ|世《よ》の|中《なか》ぢや、|繁文縟礼的《はんぶんじよくれいてき》の|祝詞《のりと》は|略《りやく》しまして、|道々《みちみち》|祝詞《のりと》を|奏上《そうじやう》しながら|下向《げかう》|致《いた》しませう、|時間《じかん》の|経済上《けいざいじやう》|一挙両得《いつきよりやうとく》だ』
と|周章狼狽《あわてふため》き|悦子姫《よしこひめ》の|後《あと》を|追《お》うて、|口《くち》に|祝詞《のりと》を|称《とな》へながら、|下《くだ》り|坂《ざか》を|地響《ぢひび》きさせつつ|駈《か》け|下《くだ》る。
|音彦《おとひこ》、|夏彦《なつひこ》は|悠々《いういう》と|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》し|神言《かみごと》を|上《あ》げ、|恭《うやうや》しく|再拝《さいはい》|拍手《はくしゆ》の|式《しき》を|終《を》へ|下向《げかう》の|途《と》につく。
|山《やま》の|五合目《ごがふめ》|辺《あた》りにて|一行《いつかう》の|足《あし》は|揃《そろ》ひたり。これより、|加米彦《かめひこ》は|先頭《せんとう》に|立《た》ち|綾《あや》の|聖地《せいち》を|指《さ》して|宣伝歌《せんでんか》を|謡《うた》ひながら|進《すす》み|行《ゆ》く。
(大正一一・四・二四 旧三・二八 加藤明子録)
第二篇 |再探再険《さいたんさいけん》
第四章 |四尾山《よつをやま》〔六三二〕
|天《あめ》と|地《つち》との|神《かみ》の|水火《いき》  うまらにつばらに|大八洲《おほやしま》
|天《あま》の|沼矛《ぬほこ》の|一雫《ひとしづく》  |自転倒島《おのころじま》の|真秀良場《まほらば》や
|青垣山《あをがきやま》を|繞《めぐ》らせる  |下津岩根《したついはね》の|貴《うづ》の|苑《その》
|此《この》|世《よ》を|治《をさ》むる|丸山《まるやま》の  |神《かみ》の|稜威《みいづ》は|世継王山《よつわうやま》
|力《ちから》|隠《かく》して|桶伏《をけふせ》の  |丸《まる》き|姿《すがた》の|神《かみ》の|丘《をか》
|黄金《こがね》の|玉《たま》の|隠《かく》されし  |貴《うづ》の|聖地《せいち》の|永久《とこしへ》に
|動《うご》かぬ|御代《みよ》の|神柱《かむばしら》  |国武彦《くにたけひこ》の|常永《とことは》に
|鎮《しづ》まりまして|天《あま》|翔《かけ》り  |国《くに》かけります|神力《しんりき》を
|潜《ひそ》めて|茲《ここ》に|弥仙山《みせんざん》  |木《こ》の|花姫《はなひめ》の|生御魂《いくみたま》
|埴安彦《はにやすひこ》や|埴安姫《はにやすひめ》の  |神《かみ》の|命《みこと》の|建《た》てましし
|神《かみ》の|都《みやこ》の|何時《いつ》しかに  |開《ひら》けて|栄《さか》ゆる|梅《うめ》の|花《はな》
|薫《かほ》り|床《ゆか》しき|松《まつ》の|世《よ》の  |弥勒《みろく》の|御代《みよ》に|老松《おいまつ》の
|茂《しげ》る|川辺《かはべ》や|小雲川《こくもがは》  |清《きよ》き|流《なが》れの|底《そこ》|深《ふか》く
|四方《よも》の|神々《かみがみ》|人々《ひとびと》の  |霊魂《みたま》を|洗《あら》ふ|白瀬川《しらせがは》
|神《かみ》の|仕組《しぐみ》に|由良《ヨルダン》の  ほまれを|流《なが》す|生田川《いくたがは》
イクタの|悩《なや》み|凌《しの》ぎつつ  |神素盞嗚大神《かむすさのをのおほかみ》は
|天《あめ》と|地《つち》との|神柱《かむばしら》  |堅磐常磐《かきはときは》に|建《た》て|給《たま》ふ
|暗《やみ》を|晴《は》らして|英子姫《ひでこひめ》  |万代《よろづよ》|寿《ことほ》ぐ|亀彦《かめひこ》が
|鶴《つる》の|巣籠《すごも》る|松ケ枝《まつがえ》に  |千代《ちよ》の|礎《いしずゑ》|固《かた》めつつ
|此《この》|世《よ》を|紊《みだ》す|曲津神《まがつかみ》  |鬼雲彦《おにくもひこ》を|言向《ことむ》けて
|四方《よも》に|塞《ふさ》がる|叢雲《むらくも》を  |神《かみ》の|伊吹《いぶき》に|吹払《ふきはら》ひ
|清《きよ》めにや|山家《やまが》の|肥後《ひご》の|橋《はし》  |神子坂橋《みこさかばし》の|手前《てまへ》まで
スタスタ|来《きた》る|宣伝使《せんでんし》  |朧《おぼろ》にかかる|月影《つきかげ》を
|透《すか》して|向《むか》ふを|眺《なが》むれば  |虫《むし》が|知《し》らすか|何《なん》となく
|心《こころ》にかかる|春霞《はるがすみ》  シカと|見《み》えねど|陽炎《かげろふ》の
|瞬《またた》く|間《ま》もなく|宣伝歌《せんでんか》  |耳《みみ》さす|如《ごと》く|聞《きこ》え|来《く》る
ツと|立止《たちと》まり|道《みち》の|辺《へ》に  |様子《やうす》|窺《うかが》ふ|折《をり》もあれ
|夜目《よめ》にシカとは|分《わか》らねど  どこやら|気分《きぶん》が|悦子姫《よしこひめ》
|床《ゆか》しき|影《かげ》とおとなへば  |案《あん》にたがはぬ|麻柱《あななひ》の
|神《かみ》の|司《つかさ》の|悦子姫《よしこひめ》  |川瀬《かはせ》も|響《ひび》く|音彦《おとひこ》や
まだシーズンは|来《きた》らねど  |名《な》は|夏彦《なつひこ》や|加米彦《かめひこ》の
|随従《みとも》の|影《かげ》は|四人連《よにんづ》れ  |情《つれ》|無《な》き|浮世《うきよ》に|揉《も》まれたる
|心《こころ》の|底《そこ》のつれづれを  |徒然草《つれづれぐさ》を|褥《しとね》とし
|互《たがひ》にあかす|物語《ものがたり》  |神徳《しんとく》|照《て》らす|一《ひ》イ|二《ふ》ウ|三四《みよ》
|五《いつ》の|御霊《みたま》の|六人連《むたりづ》れ  |七度《ななたび》|八度《やたび》|九十《ここのたり》
|百度《ももたび》|千度《ちたび》|万度《よろづたび》  |亀《かめ》と|加米《かめ》との|呼吸《いき》|合《あは》せ
|顕幽二界《けんいうにかい》に|出没《しゆつぼつ》し  |五六七《みろく》の|御代《みよ》を|来《きた》すまで
|心《こころ》の|帯《おび》を|堅《かた》く|締《し》め  |尽《つ》くさにや|山家《やまが》の|道《みち》の|辺《べ》に
|深《ふか》き|思《おも》ひを|残《のこ》しつつ  |東《ひがし》と|西《にし》へ|別《わか》れ|路《ぢ》の
|積《つも》る|願《ねが》ひの|山坂《やまさか》を  さらばさらばの|声《こゑ》|共《とも》に
|別《わか》れ|行《ゆ》くこそ|雄々《をを》しけれ  |悦子《よしこ》の|姫《ひめ》はスタスタと
|三人《みたり》の|益良夫《ますらを》|伴《ともな》ひて  |胸突坂《むなつきざか》を|辿《たど》りつつ
|心《こころ》の|空《そら》に|浮《う》かぶ|雲《くも》  |英子《ひでこ》の|姫《ひめ》の|御言葉《おんことば》
|由縁《ゆかり》ありげに|味《あぢ》はひつ  |霞《かすみ》を|辿《たど》る|心地《ここち》して
いと|勇《いさ》ましくかけて|行《ゆ》く  |山《やま》の|老樹《らうじゆ》は|大空《おほぞら》を
|封《ふう》じて|月日《つきひ》を|隠《かく》しつつ  |深《ふか》き|仕組《しぐみ》を|包《つつ》むなる
|躑躅《つつじ》の|花《はな》のここかしこ  |胸《むね》もいろいろ|乱《みだ》れ|咲《さ》く
|咲耶《さくや》の|姫《ひめ》を|祀《まつ》りたる  |木《こ》の|花《はな》|匂《にほ》ふ|神《かみ》の|山《やま》
|恵《めぐみ》も|高《たか》き|須弥仙《しゆみせん》の  |山《やま》の|麓《ふもと》に|来《き》て|見《み》れば
アヽ|天国《てんごく》か|楽園《らくゑん》か  |山《やま》と|山《やま》とに|挟《はさ》まれし
|青麦畑《あをむぎばたけ》|菜種花《なたねばな》  |紫雲英《げんげ》の|花《はな》も|咲《さ》きみちて
|心持《こころもち》よき|花《はな》むしろ  |蝶《てふ》|舞《ま》ひ|遊《あそ》ぶ|神苑《しんゑん》に
|心《こころ》も|赤《あか》き|丹頂《たんちやう》の  |鶴《つる》の|下《お》りたる|如《ごと》くなる
|景色《けしき》|眺《なが》めて|賤《しづ》の|屋《や》の  |細《ほそ》き|煙《けぶり》も|豊彦《とよひこ》が
|雪《ゆき》を|欺《あざむ》く|白髯《しらひげ》を  |折柄《をりから》|吹《ふ》き|来《く》る|春風《はるかぜ》に
いぢらせ|乍《なが》らコツコツと  【あかざ】の|杖《つゑ》にすがりつつ
|神《かみ》の|使《つか》ひか|真人《しんじん》か  やつれし|人《ひと》に|似《に》もやらず
|威風《ゐふう》|備《そな》はる|翁《おきな》どの  |頼《たの》むとかけし|言《こと》の|葉《は》の
|刹那《せつな》の|風《かぜ》に|煽《あふ》られて  |心《こころ》もそよぐ|悦子姫《よしこひめ》
|神《かみ》にひかるる|思《おも》ひにて  |伏屋《ふせや》の|前《まへ》に|来《き》て|見《み》れば
|三月三日《さんぐわつみつか》の|菱餅《ひしもち》に  |紛《まが》ふべらなる|門《かど》の|戸《と》に
|驚《おどろ》き|乍《なが》ら|何気《なにげ》なう  |表戸《おもてど》|開《ひら》く|音彦《おとひこ》が
|悦子《よしこ》の|姫《ひめ》を|伴《とも》なひて  しけこき|小屋《こや》の|上《あが》り|口《ぐち》
|休《やす》らふ|折《をり》しも|老夫婦《らうふうふ》  |蝶《てふ》よ|花《はな》よと|育《はぐく》みし
|生命《いのち》と|頼《たの》む|掌中《しやうちう》の  |娘《むすめ》のお|玉《たま》が|病気《いたつき》の
|心《こころ》にかかる|物語《ものがたり》  うまらにつばらに|宣《の》りつれば
|慈愛《じあい》の|権化《ごんげ》の|悦子姫《よしこひめ》  |真玉手《またまで》|玉手《たまで》さし|延《の》べて
|娘《むすめ》のお|玉《たま》を|撫《な》でさすり  |首《くび》を|傾《かたむ》けとつおいつ
|老《おい》の|夫婦《ふうふ》に|打向《うちむか》ひ  |豊彦《とよひこ》|豊姫《とよひめ》お|玉《たま》さま
|必《かなら》ず|心配《しんぱい》|遊《あそ》ばすな  |一生《いつしやう》|癒《なほ》らぬ|脹《は》れ|病《やまひ》
|生命《いのち》にかかる|気遣《きづか》ひは  【ない】た|涙《なみだ》を|晴《は》らしませ
|厳《いづ》の|御霊《みたま》の|大神《おほかみ》が  |五六七《みろく》の|御代《みよ》の|礎《いしずゑ》と
|神《かみ》の|水火《いき》をば|固《かた》めまし  お|玉《たま》の|方《かた》の|体《たい》を|藉《か》り
|三《み》つの|御霊《みたま》の|睦《むつ》み|合《あ》ひ  |宿《やど》りましたる|神《かみ》の|御子《みこ》
|人《ひと》の|呼吸《いき》にて|固《かた》めたる  |曇《くも》りの|多《おほ》き|魂《たま》でない
|水晶玉《すいしやうだま》のミツ|御霊《みたま》  |厳《いづ》の|御霊《みたま》を|兼《か》ねませる
|三五《さんご》の|月《つき》の|大神《おほかみ》の  |教《をしへ》を|守《まも》る|神人《しんじん》の
|今日《けふ》は|嬉《うれ》しき|誕生日《たんじやうび》  |黒白《あやめ》も|分《わ》かぬ|暗《やみ》の|夜《よ》も
|愈《いよいよ》|開《ひら》き|春《はる》の|空《そら》  アヽ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さち》はひましませと  |祈《いの》る|折《をり》しも|忽《たちま》ちに
ホギヤアホギヤアと|産《うぶ》の|声《こゑ》  |爺《ぢぢ》と|姿《ばば》アは|云《い》ふも|更《さら》
おつたま|消《げ》たるお|玉《たま》まで  |妊娠《おと》がしてから|十八月《じふやつき》
|神《かみ》の|恵《めぐみ》に|恙《つつが》なく  |生《う》み|落《おと》したる|音彦《おとひこ》や
|万代《よろづよ》|祝《いは》ふ|加米彦《かめひこ》が  |手《て》の|舞《まひ》|足《あし》の|踏《ふ》む|所《ところ》
|知《し》らぬ|許《ばか》りに|雀躍《こをどり》し  |芽出度《めでた》い|芽出度《めでた》いお|芽出《めで》たい
|千代《ちよ》に|八千代《やちよ》に|伊勢蝦《いせえび》の  |曲《まが》つた|腰《こし》の|夏彦《なつひこ》が
|百《もも》の|齢《よはひ》を|重《かさ》ねつつ  ピンピンシヤンと|跳《は》ねまはる
|此《この》|瑞祥《ずゐしやう》のミツ|御霊《みたま》  |悦子《よしこ》の|姫《ひめ》の|計《はか》らひに
|玉照姫《たまてるひめ》と|命名《めいめい》し  |述《の》ぶる|挨拶《あいさつ》そこそこに
|口籠《くちごも》りたる|涙声《なみだごゑ》  |涙《なみだ》の|雨《あめ》を|凌《しの》ぎつつ
|門口《かどぐち》|出《い》づる|四《よ》つの|笠《かさ》  |四《よ》ツつの|杖《つゑ》は|地《ち》を|叩《たた》き
|春《はる》の|霞《かすみ》に|包《つつ》まれて  |笠《かさ》は|空中《くうちう》に|揺《ゆら》ぎ|行《ゆ》く
|夜《よ》は|烏羽玉《うばたま》と|暮《く》れ|果《は》てて  |一夜《ひとや》を|明《あ》かす|森《もり》の|中《なか》
|鴉《からす》の|声《こゑ》と|諸共《もろとも》に  |又《また》もや|進《すす》む|四《よ》つの|杖《つゑ》
|弥仙《みせん》の|山《やま》の|絶頂《ぜつちやう》に  |四足《しそく》の|草蛙《わらぢ》に|恙《つつが》なく
|七尺《しちしやく》|余《あま》りの|身《み》を|乗《の》せて  |神《かみ》の|御声《みこゑ》を|笠《かさ》の|内《うち》
|厳《いづ》の|御前《みまへ》のいと|清《きよ》く  |鬼《おに》も|大蛇《をろち》もコンパスの
|谷間《たにま》を|指《さ》して|下《くだ》り|行《ゆ》く  |茲《ここ》に|四人《よにん》の|一行《いつかう》は
|峰《みね》の|嵐《あらし》に|送《おく》られて  |老木《らうぼく》|茂《しげ》る|谷路《たにみち》を
|流《なが》れに|沿《そ》ひて|逸早《いちはや》く  |進《すす》み|進《すす》みて|檜山《ひのきやま》
|神《かみ》の|恵《めぐみ》の|木《こ》の|花《な》も  |一度《いちど》に|開《ひら》く|梅迫《うめざこ》や
|道《みち》も|直《すぐ》なる|上杉《うへすぎ》の  |郷《さと》を|後《うしろ》に|味方原《みかたばら》
|深《ふか》き|仕組《しぐみ》は|白瀬川《しらせがは》  |浪音《なみおと》|高《たか》き|音彦《おとひこ》が
|加米《かめ》と|夏《なつ》とを|伴《とも》なひて  |悦子《よしこ》の|姫《ひめ》を|守《まも》りつつ
|綾《あや》の|聖地《せいち》に|上《のぼ》り|来《く》る  |珍《うづ》の|御言《みこと》を|蒙《かうむ》りし
|悦子《よしこ》の|姫《ひめ》の|胸《むね》の|内《うち》  うちあけかねし|苦《くるし》みは
|神《かみ》より|外《ほか》に|世《よ》の|人《ひと》の  |計《はかり》り|知《し》られぬ|仕組《しぐみ》なり
アヽ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ。
|悦子姫《よしこひめ》は、|世継王山《よつわうざん》の|麓《ふもと》に、|神《かみ》の|大命《たいめい》を|被《かうむ》りて、|加米彦《かめひこ》、|夏彦《なつひこ》、|音彦《おとひこ》に|命《めい》じ、|些《ささ》やかなる|家《いへ》を|作《つく》らしめ、ここに|国治立命《くにはるたちのみこと》、|豊国姫命《とよくにひめのみこと》の|二神《にしん》を|鎮祭《ちんさい》し、|加米彦《かめひこ》、|夏彦《なつひこ》をして|之《これ》を|守《まも》らしめ、|自《みづか》らは|音彦《おとひこ》を|伴《とも》なひ、|神素盞嗚大神《かむすさのをのおほかみ》の|隠《かく》れ|給《たま》ふ|近江《あふみ》の|竹生島《ちくぶしま》に|出立《しゆつたつ》せむとする|折《をり》しも、|悦子姫《よしこひめ》の|在処《ありか》を|尋《たづ》ねて|来《きた》る|四人《よにん》の|男女《だんぢよ》、|日《ひ》は|漸《やうや》く|西山《せいざん》に|没《かく》れし|黄昏時《たそがれどき》、|門《もん》の|戸《と》を|叩《たた》いて、
『モシモシお|尋《たづ》ね|申《まを》します。|此《この》お|家《うち》は|悦子姫《よしこひめ》|様《さま》のお|館《やかた》では|御座《ござ》いませぬか』
と|優《やさ》しき|女《をんな》の|声《こゑ》。
|加米彦《かめひこ》『ヤアどこやらで|聞《き》いた|事《こと》の|有《あ》る|様《やう》な|声《こゑ》だ……おい|夏彦《なつひこ》、|表《おもて》を|開《あ》けて|見《み》よ』
|夏彦《なつひこ》『|此《この》|木《き》の|生《は》え|茂《しげ》つた|山《やま》の|裾《すそ》の|一軒家《いつけんや》、|薄暗《うすぐら》くなつてから、|女《をんな》の|声《こゑ》を|出《だ》して|尋《たづ》ねて|来《く》るよな|者《もの》は、どうせ|本物《ほんもの》であるまい……|加米彦《かめひこ》、|御苦労《ごくらう》だが|開《あ》けて|下《くだ》さらぬか。|私《わし》は|又《また》|弥仙山《みせんざん》の|様《やう》な|声《こゑ》がすると|困《こま》るからなア』
|加米彦《かめひこ》『エー|気《き》の|弱《よわ》い|男《をとこ》だなア。|昼《ひる》になるとビチビチはしやいで、|夜《よる》になると|悄気《せうげ》て|了《しま》ふ|加米彦《かめひこ》……オツトドツコイ|夏彦《なつひこ》の|様《やう》な|男《をとこ》だなア』
|夏彦《なつひこ》『ハヽヽヽ、オイ|加米彦《かめひこ》、チツト|勘定《かんぢやう》が|違《ちが》ひはしませぬか、ソンナ|計算《けいさん》をやつて|居《を》ると、|一年《いちねん》も|経《た》たずに|破産《はさん》の|運命《うんめい》に|陥《おちい》り、|身代《しんだい》|限《かぎ》りの|処分《しよぶん》を|受《う》けますぞ』
|加米彦《かめひこ》『ナーニ、|一寸《ちよつと》|神霊術《しんれいじゆつ》に|依《よ》つて、|人格《じんかく》|交換《かうくわん》をやつたのだ。お|前《まへ》の|肉体《にくたい》には|加米彦《かめひこ》が|憑《うつ》り、|加米彦《かめひこ》の|肉体《にくたい》にはお|前《まへ》の|霊《れい》が|憑《うつ》つて|居《を》るのだから、|所謂《いはゆる》、お|前《まへ》が|戸《と》を|開《あ》けるのは|畢竟《つまり》|加米彦《かめひこ》が|開《あ》けるのだ。……オイ|加米彦《かめひこ》の|代表者《だいへうしや》、|夏彦《なつひこ》が|命令《めいれい》する、……|早《はや》く|開《あ》けないか』
|夏彦《なつひこ》『エー|何《なん》とかかとか|言《い》つて、|責任《せきにん》を|忌避《きひ》する|事《こと》ばつかり|考《かんが》へて|居《ゐ》やがる。……アヽ|仕方《しかた》がない、ソンナラ|准《じゆん》|加米彦《かめひこ》が|戸《と》を|開《あ》けてやらうかい』
と|小声《こごゑ》に|囁《ささや》き|乍《なが》ら、ガラリと|開《あ》けた。
|夏彦《なつひこ》『ヤアあなたは|紫姫《むらさきひめ》|様《さま》、……ヤア|青彦《あをひこ》さま、|馬《うま》さま、|鹿《しか》さま、|久《ひさ》し|振《ぶり》だ。サア|這入《はい》つて|下《くだ》さい。……オイオイ|夏彦《なつひこ》の|代理《だいり》、|紫姫《むらさきひめ》|様《さま》の|御光来《ごくわうらい》だ。|悦子姫《よしこひめ》|様《さま》に|御取次《おとりつぎ》を|申《まを》さぬか』
|加米彦《かめひこ》『モウ|人格《じんかく》|変換《へんくわん》だ。|併《しか》し|悦子姫《よしこひめ》|様《さま》に|申上《まをしあ》げるのは、|矢張《やつぱり》|加米彦《かめひこ》の|特権《とくけん》だ』
と|一間《ひとま》に|入《い》り、
『モシモシ|悦子姫《よしこひめ》さま、|紫姫《むらさきひめ》さま|一行《いつかう》が|見《み》えました』
|悦子姫《よしこひめ》『それは|良《い》い|所《ところ》へ|来《き》て|下《くだ》さつた。|実《じつ》は|夜前《やぜん》から、|一寸《ちよつと》、|神界《しんかい》の|御用《ごよう》があるので、|鎮魂《ちんこん》をかけて|置《お》いたのです。|青彦《あをひこ》、|馬公《うまこう》、|鹿公《しかこう》さんも|来《き》ましたでせう』
|加米彦《かめひこ》『ヤアあなたは|変《へん》な|事《こと》を|仰有《おつしや》いますネ』
|悦子姫《よしこひめ》『|天眼通《てんがんつう》、|自他神通《じたしんつう》の|妙法《めうはふ》を|以《もつ》て、|人《ひと》の|霊魂《みたま》を|自由自在《じいうじざい》に|使《つか》うたのです、ホヽヽヽ』
|加米彦《かめひこ》『ヤアそンな|事《こと》があなたに|出来《でき》るとは、|今迄《いままで》|思《おも》はなかつた。|人《ひと》は|見掛《みかけ》に|依《よ》らぬものですネー』
|悦子姫《よしこひめ》『|紫姫《むらさきひめ》さまを|一時《いちじ》も|早《はや》く、|私《わたくし》の|居間《ゐま》へお|連《つ》れ|申《まを》して|下《くだ》さい』
『|承知《しようち》|致《いた》しました』
と|加米彦《かめひこ》は、|次《つぎ》の|間《ま》に|下《さが》り、
『アヽやつぱり|女《をんな》は|女連《をんなれん》れだ。モシモシ|紫姫《むらさきひめ》さま、|悦子姫《よしこひめ》|様《さま》が|特別《とくべつ》|待遇《たいぐう》を|以《もつ》てあなた|一人《ひとり》に|限《かぎ》り、|拝謁《はいえつ》を|許《ゆる》すと|仰《あふ》せられます。どうぞ|奥《おく》へお|通《とほ》り|下《くだ》さい』
|紫姫《むらさきひめ》『ハイ|有難《ありがた》う|御座《ござ》います』
と|奥《おく》の|一間《ひとま》に|姿《すがた》を|隠《かく》したり。
|悦子姫《よしこひめ》『コレ|音彦《おとひこ》さま、|加米彦《かめひこ》さま、あなた|暫《しばら》く、|妾《わたし》の|声《こゑ》の|聞《きこ》えぬ|所《とこ》に|居《ゐ》て|下《くだ》さい。|少《すこ》し|御相談《ごさうだん》がありますから……』
|加米彦《かめひこ》『|女《をんな》は|曲者《くせもの》とはよく|言《い》つたものだ、ナア|音彦《おとひこ》さま、|今迄《いままで》は|音彦《おとひこ》|々々《おとひこ》と|仰有《おつしや》つたが、|紫姫《むらさきひめ》さまがお|出《い》でになるが|早《はや》いか、|一寸《ちよつと》|相談《さうだん》があるから、|聞《きこ》えぬ|所《とこ》へ|往《い》て|下《くだ》さい……なンテ|本当《ほんたう》に|馬鹿《ばか》にされますなア』
|音彦《おとひこ》『|何《なに》は|兎《と》も|角《かく》、|皆《みな》さま、|暫《しばら》く|林《はやし》の|中《なか》へでも|往《い》つて、|面白《おもしろ》い|話《はなし》でも|致《いた》しませう。|何時《なんどき》|吾々《われわれ》は|斯《か》うやつて|居《を》つても、|悦子姫《よしこひめ》|女王《ぢよわう》から、ドンナ|御命令《ごめいれい》が|下《さが》つて、|何処《どこ》へ|出張《しゆつちやう》を|命《めい》ぜられるやら|分《わか》つたものぢやない。|今《いま》の|内《うち》に|一《ひと》つゆつくりと、|芝生《しばふ》の|上《うへ》で|打解《うちと》けて|話《はなし》を|致《いた》しませうかい。|青彦《あをひこ》さま、|馬《うま》さま、|鹿《しか》さま、サア|参《まゐ》りませう』
と|音彦《おとひこ》は|先《さき》に|立《た》ち、|半丁《はんちやう》|許《ばか》り|離《はな》れたる|木下闇《こしたやみ》に、|探《さぐ》り|探《さぐ》り|進《すす》み|行《ゆ》く。
|加米彦《かめひこ》『アヽ|暗《くら》い|暗《くら》い、|丸《まる》で|弥仙山《みせんざん》に|野宿《のじゆく》した|時《とき》の|様《やう》だ』
|夏彦《なつひこ》『キヤツキヤツ、ザアザア、ウンウン、バチバチ、ガラガラ……ガ、サアこれから|幕開《まくあ》きと|御座《ござ》い』
|加米彦《かめひこ》『エーしやうもない|事《こと》|言《い》ふな。|言霊《ことたま》の|幸《さち》はふ|国《くに》だ。|併《しか》し|乍《なが》ら|夏彦《なつひこ》、|貴様《きさま》は|紫姫《むらさきひめ》さまに|電波《でんぱ》を、チヨイチヨイ|送《おく》つて|居《ゐ》るが、|長持《ながもち》の|蓋《ふた》だ、|片一方《かたいつぱう》はアイても、|片一方《かたいつぱう》はアク|気遣《きづか》ひはないワ。モウ|今日《けふ》|限《かぎ》り、|執着心《しふちやくしん》を|棄《す》てたが|宜《よ》からうぞ』
|夏彦《なつひこ》『|何《なに》を|言《い》ひよるのだ。|蛙《かはづ》は|口《くち》から、……それや|貴様《きさま》の|事《こと》だよ』
|加米彦《かめひこ》『ナーニ、|貴様《きさま》の|霊《れい》が|俺《おれ》の|肉体《にくたい》に|始終《しじう》|出入《でいり》しよつて、ソンナ|心《こころ》を|出《だ》しよるのだ。|貴様《きさま》の|霊《れい》が|憑依《ひようい》した|時《とき》の|恋《こひ》の|猛烈《まうれつ》さ……と|云《い》つたら、|九寸五分式《くすんごぶしき》だ、まだも|違《ちが》へば|軋死式《あつししき》、|首吊《くびつ》り|式《しき》、|暴風雨《ばうふうう》|地震式《ぢしんしき》の|恋《こひ》の|雲《くも》が|包《つつ》ンで|来《き》よつて、|暗憺咫尺《あんたんしせき》を|弁《べん》ぜずと|云《い》ふ……|時々《ときどき》|幕《まく》が|下《お》りるのだよ。もう|良《い》い|加減《かげん》に|改心《かいしん》をして、|俺《おれ》の|肉体《にくたい》を|離《はな》れて|呉《く》れ。|其《その》|代《かは》りに|小豆飯《あづきめし》を|三升《さんじよう》|三合《さんがふ》、|油揚《あぶらあげ》を|三十三枚《さんじふさんまい》|買《か》つて、|四辻《よつつじ》まで|送《おく》つてやる、|斯《こ》れでモウさつぱりと|諦《あきら》めるのだよ』
|夏彦《なつひこ》『|何《なに》を|言《い》やがるのだ。|勝手《かつて》な|熱《ねつ》ばつかり|吹《ふ》きよつて、……|弥仙山《みせんざん》の|極秘《ごくひ》を、|音彦《おとひこ》さまの|前《まへ》で|暴露《ばくろ》しようか』
|加米彦《かめひこ》『どうなつと|勝手《かつて》にしたが|宜《い》いワい。|大胆不敵《だいたんふてき》の|加米彦《かめひこ》は|梟鳥式《ふくろどりしき》だ。|斯《か》う|云《い》ふ|暗夜《あんや》になればなる|程《ほど》、|元気《げんき》|旺盛《わうせい》となつて|来《く》るのだ。|弥仙山《みせんざん》に|野宿《のじゆく》した|時《とき》は、|貴様《きさま》の|副守護神《ふくしゆごじん》が|俺《おれ》の|肉体《にくたい》に|憑依《ひようい》しよつて、|臆病《おくびやう》な|態《ざま》を|見《み》せたぢやないか。|他人《ひと》の|事《こと》ぢやと|思《おも》うて|居《を》れば、|皆《みな》|吾《わ》が|事《こと》であるぞよ、|改心《かいしん》なされ……』
|夏彦《なつひこ》『どこまでも|厳重《げんぢう》な|鉄条網《てつでうまう》を|張《は》りよつて、|攻撃《こうげき》する|余地《よち》がなくなつた。まつ|四角《しかく》な|顔《かほ》に|四角《しかく》い|肩《かた》を|聳《そび》やかし、|四角《しかく》|四面《しめん》な、|冗談《ぜうだん》|一《ひと》つ|言《い》はぬ|様《やう》な|風《かぜ》を|装《よそほ》うて|居乍《ゐなが》ら、ぬらりくらりと、まるで|蛸入道《たこにふだう》の|様《やう》な|代物《しろもの》だなア。カメと|云《い》ふ|奴《やつ》ア、|六角《ろくかく》の|甲《かふ》を|着《き》て|居《ゐ》る|奴《やつ》だが、|此奴《こいつ》は|二角《にかく》|程《ほど》|落《おと》して|来《き》よつた。カメと|鼈《すつぽん》との|混血児《こんけつじ》だなア。……オーさうさう|混血児《こんけつじ》で|思《おも》ひ|出《だ》した。コンコン|鳴《な》く|奴《やつ》ア、やつぱり、ケツだ。|小豆飯《あづきめし》に|油揚式《あぶらあげしき》の|霊魂《みたま》だ。|其《その》|勢《せい》か、|能《よ》く|口《くち》が|滑《なめ》らかに|辷《すべ》る|哩《わい》』
|音彦《おとひこ》『オイ|加米彦《かめひこ》、|充分《じゆうぶん》に|今日《けふ》は|気焔《きえん》を|吐《は》いて|聞《き》かして|呉《く》れ。|明日《あす》はお|別《わか》れせにやならぬかも|分《わか》らないからなア』
|加米彦《かめひこ》『エーそれや|音彦《おとひこ》さま、|本当《ほんたう》ですか』
|音彦《おとひこ》『どうやらソンナ|気配《けはい》がする|様《やう》だ。どうも|悦子姫《よしこひめ》さまのお|顔色《かほいろ》に|現《あら》はれて|居《ゐ》る|様《やう》だ』
|加米彦《かめひこ》『アハー、あなたは、|間《ま》がな|隙《すき》がな、あの|美《うつく》しい|別嬪《べつぴん》を|見詰《みつ》めて|御座《ござ》る|丈《だけ》あつて|違《ちが》つてますなア。|男《をとこ》を|怪《あや》しい|笑靨《ゑくぼ》の|中《なか》に|巻《ま》き|込《こ》みて|了《しま》ふ|丈《だけ》の|魔力《まりよく》を|保有《ほいう》して|御座《ござ》る|女王《ぢよわう》さまだから、|何時《いつ》の|間《ま》にか|音彦《おとひこ》さまも|恋縛《れんばく》を|受《う》けなさつたと|見《み》えるワイ……ヤアお|芽出《めで》たう、おウラ|山吹《やまぶき》さま、……|併《しか》し|乍《なが》ら|道心堅固《だうしんけんご》の|悦子姫《よしこひめ》|様《さま》だ。|太田道灌《おほただうくわん》ぢやないが「|七重八重《ななへやへ》|花《はな》は|咲《さ》けども|山吹《やまぶき》の、|実《み》の|一《ひと》つだになきぞ|悲《かな》しき」とウツカリ|秋波《しうは》でも|送《おく》らうものなら、|三十珊《さんじつサンチ》の|巨弾《きよだん》で|撃退《げきたい》されて|了《しま》ふよ。|自惚《うぬぼれ》と|梅毒気《かさけ》の|無《な》い|者《もの》は|滅多《めつた》にないから、|音彦《おとひこ》さま、|能《よ》う|気《き》を|付《つ》けなさい』
|音彦《おとひこ》『アハヽヽヽ、|加米彦《かめひこ》さま、それは、|例《れい》の|人格《じんかく》|交換《かうくわん》ぢや|有《あ》りませぬか。|音彦《おとひこ》でなくて|実際《じつさい》は|加米彦《かめひこ》さまの|事《こと》でせう。お|芽出《めで》たいお|方《かた》ですネ』
|一同《いちどう》|大声《おほごゑ》を|挙《あ》げて|笑《わら》ふ。
|加米彦《かめひこ》『モウ|密談《みつだん》も|済《す》みただらう。|宜《よ》い|加減《かげん》に|気《き》を|利《き》かして|帰《かへ》りませうか、コンナ|暗《くら》がりへ|放《ほ》り|込《こ》まれて、|夜分《やぶん》に|目《め》の|見《み》えぬ|人間《にんげん》は、|聊《いささ》か|迷惑《めいわく》だ。|斯《か》う|云《い》ふ|暗《くら》い|晩《ばん》に|得意《とくい》な|奴《やつ》はアマ|夏彦《なつひこ》|一匹《いつぴき》|位《くらゐ》なものだ、ワツハヽヽヽ』
と|仇笑《あだわら》ひつつ|先《さき》に|立《た》ち|帰《かへ》つて|行《ゆ》く。|加米彦《かめひこ》、|門口《かどぐち》より、
『モシモシ|悦子姫《よしこひめ》|様《さま》、モウ|御安産《ごあんざん》は|済《す》みましたかな、|男《をとこ》でしたか|女《をんな》でしたか、……|何《なん》と|云《い》ふお|名《な》をおつけになりました。……|玉照彦《たまてるひこ》ですか……』
|悦子姫《よしこひめ》『ホヽヽヽ、|加米《かめ》さまですか。エライ|失礼《しつれい》を|致《いた》しました。サア|皆《みな》さまと|一緒《いつしよ》にお|這入《はい》り|下《くだ》さいませ』
|加米彦《かめひこ》『お|役目《やくめ》なれば、|罷《まか》り|通《とほ》るツ。|悦子姫《よしこひめ》|殿《どの》、|紫姫《むらさきひめ》|殿《どの》、|許《ゆる》させられえ』
とワザと|体《からだ》を|角立《かどだ》て、|紙雛《かみびな》の|様《やう》なスタイルで、|稍《やや》|反《そ》り|気味《ぎみ》になつて、|悦子姫《よしこひめ》の|居間《ゐま》にズーツと|通《とほ》る。
|悦子姫《よしこひめ》『|加米《かめ》さま、|冗談《ぜうだん》も|良《い》い|加減《かげん》にして|置《お》きなさらぬか。|妾《わたし》は|明早朝《みやうさうてう》、|音彦《おとひこ》さまと|此処《ここ》を|立出《たちい》で、|或《あ》る|所《ところ》へ|参《まゐ》ります。|加米彦《かめひこ》さまと|夏彦《なつひこ》さま、どうぞ|留守《るす》をシツカリ|頼《たの》みます』
|加米彦《かめひこ》『ヘー、ヤツパリ……ヤツパリですなア』
|悦子姫《よしこひめ》『エツ、|何《なん》ですと』
|加米彦《かめひこ》『ヤア、|何《なん》でも|有《あ》りませぬ。ヤツパリあなたは|神界《しんかい》の|大切《たいせつ》な|御用《ごよう》をなさるお|方《かた》、|到底《たうてい》|吾々《われわれ》ヘツポコの|計《はか》り|知《し》る|可《べか》らざる|御経綸《ごけいりん》が|有《あ》ると|見《み》えますワイ』
|悦子姫《よしこひめ》『ホヽヽヽ』
|紫姫《むらさきひめ》『ホヽヽヽ』
|音彦《おとひこ》『|唯今《ただいま》|承《うけたま》はれば、|私《わたくし》はあなたと|共《とも》に、どつかへ|参《まゐ》るのですか』
|悦子姫《よしこひめ》『ハイ|御苦労様《ごくらうさま》|乍《なが》ら、どうぞ|妾《わたし》に|従《つ》いて|来《き》て|下《くだ》さいませ』
|音彦《おとひこ》『ハイ|承知《しようち》|仕《つかまつ》りました。どこまでも、|神様《かみさま》の|為《ため》ならば、お|伴《とも》|致《いた》しませう』
|加米彦《かめひこ》『ヤア|音彦《おとひこ》の|命《みこと》、|万歳《ばんざい》|々々《ばんざい》』
と、|度拍子《どべうし》の|抜《ぬ》けた|大声《おほごゑ》で|呶鳴《どな》り|立《た》てる。
|音彦《おとひこ》『|加米彦《かめひこ》さま、|永《なが》らく|御昵懇《ごぢつこん》になりましたが、|暫《しばら》くお|別《わか》れせなくてはなりませぬ。どうぞ|機嫌《きげん》よく|留守《るす》をして|居《ゐ》て|下《くだ》さいませや』
|加米彦《かめひこ》『ハイハイ|畏《かしこ》まりました。あなたも、|悦子姫《よしこひめ》さまと|御機嫌《ごきげん》よく、|相《あひ》|提携《ていけい》して、|極秘的《ごくひてき》|神業《しんげふ》に|御参加《ごさんか》|下《くだ》されませ』
と|意味《いみ》|有《あ》りげに、ニタリと|笑《わら》ふ。
|夏彦《なつひこ》『|悦子姫《よしこひめ》|様《さま》、|私《わたくし》はお|伴《とも》は|叶《かな》ひませぬか』
|悦子姫《よしこひめ》『ハイ|有難《ありがた》う|御座《ござ》います。|併《しか》し|乍《なが》ら|神様《かみさま》の|御命令《ごめいれい》で、あなたは|暫《しばら》く、|妾《わらは》の|帰《かへ》るまで、|加米彦《かめひこ》さまと|留守《るす》をして|居《ゐ》て|下《くだ》さいませ』
|加米彦《かめひこ》『アハヽヽヽ、|態《ざま》を|見《み》い、サア|明日《あす》からは|此《この》|加米彦《かめひこ》の、|何事《なにごと》も|指揮《しき》|命令《めいれい》に|服従《ふくじゆう》するのだぞ。……モシモシ|悦子姫《よしこひめ》さま、どうぞあなたのお|留守中《るすちう》は、|夏彦《なつひこ》が|吾々《われわれ》の|命令《めいれい》に|服従《ふくじゆう》|致《いた》します|様《やう》に、|厳《きび》しく|命令《めいれい》を|下《くだ》しておいて|下《くだ》さい。|上下《じやうげ》の|区別《くべつ》がついて|居《ゐ》ませぬと、|凡《すべ》ての|点《てん》に|於《おい》て|矛盾《むじゆん》|撞着《どうちやく》、|政治上《せいぢじやう》の|統一《とういつ》を|紊《みだ》しますから……』
|悦子姫《よしこひめ》『|加米彦《かめひこ》さま、あなたお|年《とし》は|幾歳《いくつ》でしたかネー』
|加米彦《かめひこ》『ハイ|私《わたくし》はザツト|二十才《にじつさい》で|御座《ござ》います』
|悦子姫《よしこひめ》『|違《ちが》ひませう……』
|加米彦《かめひこ》『イエ|別《べつ》に……さう|沢山《やつと》も|違《ちが》ひませぬが……|精神上《せいしんじやう》から|申《まを》せば、|先《ま》づ|二十才《にじつさい》……|現界《げんかい》に|肉体《にくたい》を|現《あら》はしてからは|三十三年《さんじふさんねん》になります』
|悦子姫《よしこひめ》『それは|大変《たいへん》な|違算《ゐさん》ぢやありませぬか』
|加米彦《かめひこ》『|何分《なにぶん》|亡父《ぼうふ》が|貧乏暮《びんばふぐら》しをして|居《ゐ》たものですから、|素寒貧《すかんぴん》で、|十三《じふさん》(|仰山《ぎやうさん》)な|遺産《ゐさん》も|御座《ござ》いませぬ、アハヽヽヽ』
|悦子姫《よしこひめ》『|夏彦《なつひこ》さまは|幾才《いくつ》ですか』
|夏彦《なつひこ》『ハイ|私《わたくし》は|見《み》た|割《わり》とは、【ひね】|南瓜《かぼちや》で|御座《ござ》います。|精神《せいしん》は|兎《と》も|角《かく》も、|肉体《にくたい》は|四十八《しじふはち》になりました』
|悦子姫《よしこひめ》『アヽそれなら|年長者《ねんちやうしや》を|以《もつ》て|上役《うはやく》と|定《さだ》めます。|加米彦《かめひこ》さま、|妾《わたし》が|此家《ここ》を|出立《しゆつたつ》するが|最後《さいご》、|何事《なにごと》も|夏彦《なつひこ》さまの|指揮《しき》|命令《めいれい》に|従《したが》つて、|神妙《しんめう》に|留守《るす》をして|下《くだ》さいや』
|加米彦《かめひこ》『ヘエ………』
|悦子姫《よしこひめ》、|稍《やや》|顔色《がんしよく》を|変《か》へ、
『|加米彦《かめひこ》さま、お|嫌《いや》ですか』
『イヤイヤ|滅相《めつそう》もない、|何事《なにごと》もあなたの|御命令《ごめいれい》に|従《したが》ひます』
|悦子姫《よしこひめ》『|夏彦《なつひこ》さまの|命令《めいれい》は|即《すなは》ち|妾《わたし》の|命令《めいれい》、どうぞ|宜《よろ》しうお|頼《たの》み|申《まを》します』
とワザと|両手《りやうて》をついて|叮嚀《ていねい》に|下《した》から|出《で》る。
『エー|実《じつ》の|所《ところ》は、|夏彦《なつひこ》の|下《した》に|従《つ》くのは|虫《むし》が|好《す》きませぬが、|其処《そこ》まで|仰有《おつしや》つて|下《くだ》さいますれば、|謹《つつし》みてお|受《うけ》|致《いた》します。……|悦子姫《よしこひめ》|様《さま》のお|代理《だいり》|夏彦《なつひこ》|様《さま》、どうぞ|宜《よろ》しう、|何事《なにごと》も|御指導《ごしだう》|下《くだ》さいませ』
|夏彦《なつひこ》『お|互様《たがひさま》に|宜《よろ》しうお|願《ねがひ》|致《いた》します』
|悦子姫《よしこひめ》『どうぞお|二人《ふたり》さま、|公私《こうし》|混同《こんどう》せない|様《やう》に|頼《たの》みますで……』
|二人《ふたり》|一度《いちど》に、
『ハイハイ|承知《しようち》|致《いた》しました』
と|両手《りやうて》を|突《つ》き、|今度《こんど》は|真面目《まじめ》になつてお|受《うけ》をする。
|紫姫《むらさきひめ》『|青彦《あをひこ》さま、|馬《うま》さま、|鹿《しか》さま、これから|妾《わたし》は、|悦子姫《よしこひめ》|様《さま》の|神様《かみさま》より|重大《ぢうだい》なる|使命《しめい》を|蒙《かうむ》りました。|明朝《みやうてう》|未明《みめい》に|此処《ここ》を|立出《たちい》で、|妾《わたし》の|行《ゆ》く|所《ところ》へ、|御苦労《ごくらう》|乍《なが》ら|従《つ》いて|来《き》て|下《くだ》さい。さうして|青彦《あをひこ》さまと|云《い》ふお|名《な》は、|一寸《ちよつと》|都合《つがふ》の|悪《わる》い|事《こと》が|有《あ》りますから、|今日《けふ》|限《かぎ》り|名《な》を|改《あらた》めて、|日《ひ》の|出神《でのかみ》|様《さま》より|若彦《わかひこ》とお|改《か》へになりましたから、|其《その》お|積《つ》もりで|居《ゐ》て|下《くだ》さいや』
|青彦《あをひこ》『ハイ|承知《しようち》|致《いた》しました。|何《なん》だか|天《あま》の|稚彦命《わかひこのみこと》|様《さま》に|能《よ》く|似《に》たよな|名《な》ですなア。|嬉《うれ》しい|様《やう》でもあり、|悲《かな》しい|様《やう》な|気持《きもち》も|致《いた》します。|併《しか》し|乍《なが》ら、|何事《なにごと》も|神命《しんめい》のまにまに、|絶対《ぜつたい》|服従《ふくじゆう》を|致《いた》します。どうぞ|宜《よろ》しう……』
|紫姫《むらさきひめ》『ハイ、|不束《ふつつか》な|妾《わたし》、どうぞ|宜《よろ》しう|御指導《ごしだう》を|仰《あふ》ぎます。……まだ|夜明《よあ》けまでには|間《ま》が|御座《ござ》いますれば、|皆《みな》さま|一休眠《ひとやすみ》|致《いた》しませう』
|音彦《おとひこ》『それや|結構《けつこう》です。サア|皆《みな》さま、お|休眠《やすみ》なさいませ。お|先《さき》へ|失礼《しつれい》』
と|横《よこ》になつて、|早《はや》くも|高鼾《たかいびき》をかく。
|加米彦《かめひこ》『ナント|罪《つみ》のない|男《をとこ》だなア。|今《いま》|物《もの》を|言《い》つて|居《を》つたかと|思《おも》えば、|早《はや》|高鼾《たかいびき》だ。|人間《にんげん》も|茲《ここ》まで|総《すべ》てに|超越《てうゑつ》すれば、モウ|占《しめ》たものだ、|悦子姫《よしこひめ》|様《さま》の|眼力《がんりき》も|偉《えら》いワイ』
|夏彦《なつひこ》『コレコレ|加米彦《かめひこ》さま、|皆様《みなさま》のお|就寝《やすみ》の|御邪魔《おじやま》になります。あなたも|早《はや》く、おとなしくお|睡眠《やすみ》なさい』
|加米彦《かめひこ》『コレハコレハ|上官《じやうくわん》の|御命令《ごめいれい》、|確《たしか》に|遵守《じゆんしゆ》し|奉《たてまつ》る、|恐惶頓首《きようくわうとんしゆ》、アツハヽヽヽ』
と|笑《わら》ひ|転《こ》けた|儘《まま》、|呼吸《こきふ》|不整調《ふせいてう》な|高鼾《たかいびき》をかく。|一同《いちどう》は|之《こ》れに|倣《なら》うて、|残《のこ》らず|寝《しん》に|就《つ》きたり。
|鶏《とり》の|声《こゑ》に|目《め》をさまし、|悦子姫《よしこひめ》は|音彦《おとひこ》を|伴《ともな》ひ、|綾《あや》の|大橋《おほはし》|打渡《うちわた》り、|山家《やまが》|方面《はうめん》を|指《さ》して|進《すす》み|行《ゆ》く。|紫姫《むらさきひめ》は、|由良川《ゆらがは》の|川辺《かはべ》|伝《づた》ひに、|西北《せいほく》|指《さ》して|三人《さんにん》の|男《をとこ》を|伴《ともな》ひ、|行先《ゆくさき》をも|告《つ》げずトボトボと|下《くだ》り|行《ゆ》く。|嗚呼《ああ》、|紫姫《むらさきひめ》は|今後《こんご》|如何《いか》なる|活動《くわつどう》をなすならむか。
(大正一一・四・二五 旧三・二九 松村真澄録)
(昭和一〇・六・一 王仁校正)
第五章 |赤鳥居《あかとりゐ》〔六三三〕
|天火水地《てんくわすゐち》と|結《むす》びたる  |青赤白黄《あをあかしろき》をこき|交《ま》ぜて
|緑《みどり》|滴《したた》る|足曳《あしびき》の  |山《やま》と|山《やま》とに|包《つつ》まれし
|由良《ゆら》の|流《なが》れに|沿《そ》ひ|乍《なが》ら  |彼方《かなた》に|立《た》てる|紫《むらさき》の
|煙《けぶり》|目《め》あてに|進《すす》み|行《ゆ》く  |紫姫《むらさきひめ》の|宣伝使《せんでんし》
|草木《くさき》も|萠《も》ゆる|若彦《わかひこ》や  |馬《うま》に|鞭《むち》|鞭《う》つ|膝栗毛《ひざくりげ》
|鹿《しか》と|踏《ふ》み|締《し》めテクテクと  |肩《かた》も|斑鳩《いかるが》、|飛《と》ぶ|空《そら》を
|笠西坂《かさにしさか》の|頂上《ちやうじやう》に  |四人《よにん》は|漸《やうや》く|着《つ》きにけり。
|若彦《わかひこ》『|紫姫《むらさきひめ》|様《さま》、|此《この》|風景《ふうけい》の|佳《い》い|地点《ちてん》で|四方《よも》の|景色《けしき》を|観望《くわんばう》して|息《いき》を|休《やす》めませうか』
|紫姫《むらさきひめ》『|妾《わたし》もさう|思《おも》つて|居《ゐ》ました、|弥仙《みせん》のお|山《やま》
は|紫《むらさき》のお|容姿《すがた》を|現《あら》はし|給《たま》ひ、|連峰《れんぽう》を|圧《あつ》して|高《たか》く|雲表《うんぺう》に|頭《かしら》を|突出《つきだ》して、|実《じつ》に|何《なん》とも|云《い》へぬ|雄大《ゆうだい》さで|御座《ござ》いますね』
|若彦《わかひこ》『|左様《さやう》です、|春《はる》の|弥仙山《みせんざん》は|又《また》|格別《かくべつ》ですな、|彼方《あちら》に|見《み》ゆる|四尾《よつを》の|神山《しんざん》、コンモリした|木《き》の|繁茂《しげみ》、|桶伏山《をけふせやま》もちらりと|見《み》えて|居《ゐ》ます、|実《じつ》に|遠方《ゑんぱう》から|見《み》た|四尾山《よつをざん》は|一層《いつそう》の|崇高味《すうかうみ》を|増《ま》すやうですな、|昨夜《さくや》あの|山麓《さんろく》の|悦子姫《よしこひめ》|様《さま》のお|館《やかた》を|訪《たづ》ねた|時《とき》は、その|様《やう》に|立派《りつぱ》な|山《やま》ぢやと|思《おも》ひませなンだが、|矢張《やつぱり》|大《おほ》きなものは|近寄《ちかよ》つて|見《み》るよりも、|遠見《ゑんけん》の|方《はう》が|余程《よほど》|真相《しんさう》に|触《ふ》れる|様《やう》ですな』
|紫姫《むらさきひめ》『アヽ|佳《よ》い|景色《けしき》にうたれ、|思《おも》はず|時間《じかん》を|費《つひ》やしました、そろそろ|出掛《でかけ》ませうか』
|馬公《うまこう》『もう|些《ちつ》と|休《やす》みていつたら|如何《どう》です、|之《これ》から|奥《おく》へ|行《ゆ》けば|山《やま》と|山《やま》と、|双方《さうはう》から|圧搾《あつさく》した|様《やう》な|殺風景《さつぷうけい》な|難路《なんろ》|許《ばか》りですよ、|充分《じゆうぶん》|聖地《せいち》を|此処《ここ》から|憧憬《どうけい》して|名残《なごり》を|惜《を》しみ、|四尾山《よつをざん》に|袂別《けつべつ》の|挨拶《あいさつ》を|終《をは》つて|行《ゆ》かうではありませぬか、|随分《ずゐぶん》|此《この》|先《さき》は|急坂《きふはん》がありますから………』
|紫姫《むらさきひめ》『サア、も|少《すこ》し|休《やす》みませうか』
|鹿公《しかこう》『アヽ、さうなさいませ、|充分《じゆうぶん》|英気《えいき》を|養《やしな》つて|参《まゐ》りませう、|一歩々々《いつぽいつぽ》|大江山《おほえやま》に|接近《せつきん》するのですから、…|此《この》|安全《あんぜん》|地帯《ちたい》で|充分《じゆうぶん》に|浩然《こうぜん》の|気《き》を|養《やしな》つて|行《ゆ》く|事《こと》に|致《いた》しませう。|然《しか》し|乍《なが》ら|最早《もはや》|大江山《おほえやま》の|鬼雲彦《おにくもひこ》は|遁走《とんそう》し、|後《あと》には|鬼武彦《おにたけひこ》の|御眷属《ごけんぞく》が|御守護《ごしゆご》して|居《を》られるなり、|三嶽《みたけ》の|岩窟《がんくつ》は|滅茶《めつちや》|々々《めつちや》となり、|鬼ケ城《おにがじやう》|亦《また》|鬼熊別《おにくまわけ》の|敗走《はいそう》|以来《いらい》、|敵《てき》の|影《かげ》を|留《とど》めて|居《ゐ》ないぢやありませぬか、それに|又《また》|貴女《あなた》は|吾々《われわれ》を|此《この》|方面《はうめん》へ|用向《ようむき》も|仰有《おつしや》らずに|引《ひ》き|連《つ》れておいでになつたのは、|少《すこ》しく|合点《がてん》が|参《まゐ》りませぬ、|一体《いつたい》|全体《ぜんたい》|如何《どう》|遊《あそ》ばす|積《つも》りですか。|少《すこ》し|位《くらゐ》お|洩《も》らし|下《くだ》さつても|滅多《めつた》に|口外《こうぐわい》は|致《いた》しませぬがな』
|紫姫《むらさきひめ》『いいえ、|悦子姫《よしこひめ》|様《さま》を|通《つう》じて|大神様《おほかみさま》の「|一切《いつさい》|秘密《ひみつ》を|守《まも》れ」との|御神命《ごしんめい》なれば、|仮令《たとへ》|貴方《あなた》と|妾《わたし》の|仲《なか》でも|之《これ》ばかりは|発表《はつぺう》する|事《こと》は|出来《でき》ませぬ、|軈《やが》て|真相《しんさう》が|分《わか》るでせう』
|鹿公《しかこう》『|紫姫《むらさきひめ》|様《さま》は、|吾々《われわれ》|二人《ふたり》は|元来《もとより》|貴女《あなた》の|従僕《しもべ》、さう|叮嚀《ていねい》なお|言葉《ことば》をお|使《つか》ひ|下《くだ》さつては|実《じつ》に|恐《おそ》れ|入《い》ります、|何卒《どうぞ》|今後《こんご》は|鹿《しか》、|馬《うま》と|仰有《おつしや》つて|下《くだ》さいませ』
|紫姫《むらさきひめ》『いえいえ、|今迄《いままで》の|妾《わたし》なれば|極端《きよくたん》なる|階級《かいきふ》|制度《せいど》の|習慣《しふくわん》で|主人《しゆじん》|気取《きど》りになるでせうが、|三五教《あななひけう》に|救《すく》はれてより|上下《じやうげ》の|隔壁《かくへき》を|念頭《ねんとう》よりすつかり|散逸《さんいつ》させて|仕舞《しま》ひました。|人間《にんげん》の|作《つく》つた|不合理的《ふがふりてき》な|階級《かいきふ》|制度《せいど》を|墨守《ぼくしゆ》するは、|却《かへつ》て|大神様《おほかみさま》の|御神慮《ごしんりよ》に|違反《ゐはん》する|事《こと》となりませう。|元《もと》は|一株《ひとかぶ》の|同《おな》じ|神様《かみさま》の|分霊《わけみたま》ですからな』
|鹿公《しかこう》『ハイ、|有難《ありがた》う|御座《ござ》います。|左様《さやう》ならば|今後《こんご》は|主従《しゆじゆう》の|障壁《しやうへき》を|撤去《てつきよ》し、|私交上《しかうじやう》に|於《おい》ては|平等的《べうどうてき》|交際《かうさい》を|指《さ》して|頂《いただ》きませう。|然《しか》し|乍《なが》ら|教理《をしへ》の|上《うへ》の|事《こと》に|就《つ》いては|矢張《やつぱり》|師弟《してい》の|関係《くわんけい》を|何処迄《どこまで》も|維持《ゐぢ》して|行《ゆ》き|度《た》う|御座《ござ》います、|何卒《どうぞ》|之《これ》だけはお|認《みと》め|置《お》きをお|願《ねが》ひ|申《まを》します』
|紫姫《むらさきひめ》『|何《なん》だか|妾《わたし》がお|前《まへ》さまの|師匠《ししやう》なぞと|云《い》はれると、|足《あし》の|裏《うら》まで【くすぐ】つたい|様《やう》な|気《き》がしてなりませぬ』
|鹿公《しかこう》『|今後《こんご》は|其《その》|積《つも》りでお|願《ねが》ひ|致《いた》します、|然《しか》し|乍《なが》ら|貴女《あなた》は|花《はな》の|都《みやこ》へは|帰《かへ》り|度《た》うは|御座《ござ》いませぬか』
|紫姫《むらさきひめ》『それは|人間《にんげん》ですもの、|故郷《こきやう》に|帰《かへ》り|度《た》いは|山々《やまやま》ですが、|神様《かみさま》の|御命令《ごめいれい》を|完全《くわんぜん》に|果《はた》さなくてはなりませぬ、それ|迄《まで》は|妾《わたし》は|故郷《こきやう》の|事《こと》はすつかり|念頭《ねんとう》から|分離《ぶんり》して|居《ゐ》ます、|何卒《どうぞ》|今後《こんご》は|故郷《こきやう》の|事《こと》は|云《い》つて|下《くだ》さいますな……、サア|若彦《わかひこ》さま、|参《まゐ》りませう』
と|潔《いさぎよ》く|駆出《かけだ》す。
|紫姫《むらさきひめ》の|一行《いつかう》は  |厳《いづ》の|霊《みたま》や|瑞霊《みづみたま》
|神《かみ》の|恵《めぐみ》を|河守駅《かうもりえき》や  やすやす|渉《わた》る|船岡《ふなをか》の
|深山《みやま》を|左手《ゆんで》に|眺《なが》めつつ  |人《ひと》の|心《こころ》のあか|鳥居《とりゐ》
|鬼武彦《おにたけひこ》が|眷属《けんぞく》の  |旭明神《あさひみやうじん》|祀《まつ》りたる
|祠《ほこら》の|前《まへ》に|立《た》ちどまり  |行《ゆ》く|手《て》の|幸《さち》を|祈《いの》りつつ
|又《また》もや|北《きた》へ|行《ゆ》かむとす  |頃《ころ》しもあれや|山林《さんりん》に
|悲《かな》しき|女《をんな》の|叫《さけ》び|声《ごゑ》  |鳥《とり》の|啼《な》く|音《ね》か|猿《ましら》の|声《こゑ》か
|合点《がてん》ゆかぬと|立《た》ちとまり  |頭《かうべ》を|傾《かたむ》け|聞《き》き|居《を》れば
|助《たす》けて|呉《く》れいと|手弱女《たをやめ》の  |正《まさ》しく|叫《さけ》びの|声《こゑ》なりき。
|若彦《わかひこ》は|此《この》|声《こゑ》に|引《ひ》きつけらるる|如《ごと》き|面持《おももち》にて|前後《ぜんご》を|忘《わす》れ|耳《みみ》をすまし|居《ゐ》る。
|馬公《うまこう》『モシモシ|若彦《わかひこ》さま、|何《なに》を|茫然《ぼんやり》として|居《ゐ》なさる、あの|声《こゑ》は|如何《どう》ですか、|悲《かな》し|相《さう》な|乙女《をとめ》の|救援《きうゑん》を|求《もと》むる|声《こゑ》ぢやありませぬか』
|若彦《わかひこ》『|何《なん》とも|合点《がつてん》のゆかぬ|声《こゑ》だ』
|叫《さけ》び|声《ごゑ》は|益々《ますます》|烈《はげ》しく|聞《きこ》え|来《きた》る。
|紫姫《むらさきひめ》『|皆《みな》さま、|御苦労《ごくらう》ですが|妾《わたし》は|此《この》|祠《ほこら》の|前《まへ》で|御祈念《ごきねん》を|致《いた》して|待《ま》つて|居《ゐ》ますから、|道《みち》は|暗《くら》う|御座《ござ》いますが|気《き》を|注《つ》け|乍《なが》ら、あの|声《こゑ》を|尋《たづ》ねて|実否《じつぴ》を|調《しら》べて|来《き》て|下《くだ》さいませぬか』
|若彦《わかひこ》『ハイ、|畏《かしこ》まりました、|貴女《あなた》お|一人《ひとり》|此処《ここ》にお|待《ま》たせしても|済《す》みませぬから、|鹿公《しかこう》を|添《そ》へて|置《お》きませう』
|紫姫《むらさきひめ》『いえいえ、|決《けつ》して|御心配《ごしんぱい》|下《くだ》さいますな、|妾《わたし》は|之《これ》より|宣伝使《せんでんし》となつて|如何《いか》なる|魔神《まがみ》の|中《なか》にも|単騎《たんき》|進撃《しんげき》をやらねばならない|者《もの》で|御座《ござ》います、|何卒《どうぞ》お|構《かま》ひなく|一刻《いつこく》も|早《はや》くあの|声《こゑ》の|方《はう》に|向《むか》つてお|進《すす》み|下《くだ》さいませ』
|若彦《わかひこ》『|委細《ゐさい》|承知《しようち》|致《いた》しました、|戦況《せんきやう》は|時々刻々《じじこくこく》に|報告《はうこく》|致《いた》させます、サアサア|馬公《うまこう》、|鹿公《しかこう》、サア|出陣《しゆつぢん》だ』
|馬公《うまこう》『ここに|馬《うま》が|居《を》ります、|千里《せんり》の|名馬《めいば》、|御跨《おまたが》り|下《くだ》さいませ、|敵《てき》に|向《むか》つて|天晴《あつぱ》れ|名将《めいしやう》の|武者振《むしやぶ》りを|発揮《はつき》するも|一寸《ちよつと》|妙《めう》ですぜ』
|鹿公《しかこう》『|馬《うま》でお|気《き》に|入《い》らねば|鹿《しか》も|居《を》ります、|児屋根《こやね》の|命《みこと》さまは|鹿《しか》にお|乗《の》り|遊《あそ》ばしたぢやありませぬか、|成《な》る|可《べ》くは|私《わたくし》に|恩命《おんめい》を|下《くだ》し|給《たま》はらば|結構《けつこう》ですが……』
|若彦《わかひこ》『|馬公《うまこう》、|鹿公《しかこう》、|馬鹿口《ばかぐち》たたく|猶予《いうよ》があるか、サア|早《はや》く|行《ゆ》きませう』
|馬《うま》、|鹿《しか》『エー、|馬鹿々々《ばかばか》しい、|突貫《とつくわん》|々々《とつくわん》、お|一二《いちに》お|一二《いちに》』
と|暗《くら》がりの|道《みち》を|声《こゑ》をあげて|進《すす》み|行《ゆ》く。|以前《いぜん》の|声《こゑ》はピタリと|止《と》まりぬ。|三人《さんにん》は|暗夜《あんや》に|方向《はうかう》を|失《うしな》ひ|当惑《たうわく》に|暮《く》るる|折《をり》しも|暗中《あんちう》に|人《ひと》の|声《こゑ》、
|甲《かふ》『サア、もう|之《これ》で|大丈夫《だいぢやうぶ》だ、ああして|松《まつ》の|下《した》に|猿轡《さるぐつわ》を|箝《は》めて|引括《ひつくく》つて|置《お》けば|逃《に》げる|気遣《きづか》ひはない|哩《わい》、マアゆつくりと|暗《くら》がりを|幸《さいは》ひ|休息《きうそく》でも|遊《あそ》ばさうぢやないか』
|乙《おつ》『|休息《きうそく》しようと|云《い》つたつて|俄《にはか》に|暗《くら》くなつて|寸魔尺哭《すんましやくこく》ぢや、まるで|釜《かま》を|被《かぶ》つた|様《やう》ぢやないか』
|甲《かふ》『|釜《かま》を|被《かぶ》れば|空《そら》の|星《ほし》は|見《み》えない|筈《はず》だ、あれ|見《み》よ、|雲《くも》の|綻《ほころ》びからチラホラと|星《ほし》の|光《ひかり》が|幽《かすか》に|瞬《またた》いて|居《ゐ》るぢやないか』
|乙《おつ》『|何《なに》、|何処《どこ》もかも|天地暗憺《てんちあんたん》、|星《ほし》|一《ひと》つだに|見《み》えぬ|悲《かな》しさだ』
|甲《かふ》『|之《これ》|程《ほど》|立派《りつぱ》に|星《ほし》が|見《み》えて|居《ゐ》るのに|貴様《きさま》は|又《また》|何処《どこ》を|向《む》いて|居《を》るのだ、アハヽヽヽ、やられ|居《を》つたな、|八畳敷《はちでふじき》に』
|乙《おつ》『|八畳敷《はちでふじき》て|何《なん》だい』
|甲《かふ》『|大方《おほかた》|狸《たぬき》に|睾丸《きんたま》でも|被《かぶ》されよつたのだらう』
|乙《おつ》『|何《なに》、ソンナ|気遣《きづか》ひがあるものか、ヤア|方角《はうがく》を|間違《まちが》つて|居《を》つた。|下《した》ばつかり|見《み》て|居《を》つたものだから、|星《ほし》が|見《み》えなかつたのだ、ホンに|彼方《あちら》|此方《こちら》に|星《ほし》の|金米糖《こんぺいたう》が|光《ひか》つて|居《を》る|哩《わい》』
|甲《かふ》『それこそ|方角《はうがく》が|天《てん》と|地《ち》がつて|居《を》つたのだ』
|乙《おつ》『|何《なに》、|地《ち》と|違《ちが》つた|丈《だけ》だよ、アハヽヽヽ。|然《しか》し|貴様《きさま》と|俺《おれ》と|二人《ふたり》では|彼《あ》の|女《をんな》を|此《この》|暗《くら》がりに|舁《かつ》いで|行《ゆ》く|訳《わけ》にもゆかず、|道《みち》で|又《また》|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》にでも|出会《であ》つたら|大変《たいへん》だからなア』
|甲《かふ》『ちつたア|出世《しゆつせ》しようと|思《おも》へば|之《これ》|位《くらゐ》な|苦労《くらう》はせなくちや|成《な》らないよ。|何時《いつ》も|黒姫《くろひめ》さまが|苦労《くらう》は|出世《しゆつせ》の|基《もと》ぢやと|仰《おつ》しやるぢやないか、ソンナ|弱《よわ》い|事《こと》を|言《い》はずに、サア|之《これ》から|棒片《ぼうちぎれ》にでも|括《くく》りつけて、|貴様《きさま》と|俺《おれ》とが|舁《かつ》いで|魔窟ケ原《まくつがはら》の|岩窟《いはや》へ|帰《かへ》るとしよう。さうすれば|富彦《とみひこ》だつて|虎若《とらわか》だつて、|俺達《おれたち》に|対《たい》し|今迄《いままで》の|様《やう》に|無暗《むやみ》に|威張《ゐば》らなくなるよ。|吾々《われわれ》は|殊勲者《しゆくんしや》として|黒姫《くろひめ》さまの|信任《しんにん》|益々《ますます》|厚《あつ》く、|鼻高々《はなたかだか》と|高山彦《たかやまひこ》の|御大将《おんたいしやう》|以上《いじやう》に|待遇《たいぐう》されるかも|知《し》れないよ、アハヽヽヽ』
|鹿《しか》は|俄《にはか》に|女《をんな》の|作《つく》り|声《ごゑ》を|出《だ》して、
|鹿公《しかこう》『コレコレ、|滝公《たきこう》、|板公《いたこう》、|俺《わし》は|黒姫《くろひめ》ぢや、その|女《をんな》を|大切《たいせつ》に|踏縛《ふんじば》つて|早《はや》く|舁《かつ》いで、|此《この》|黒姫《くろひめ》の|後《あと》に|跟《つ》いて|御座《ござ》れ、|愚図々々《ぐづぐづ》して|居《を》ると|三五教《あななひけう》に|寝返《ねがへ》りを|打《う》つた|青彦《あをひこ》が|馬公《うまこう》や|鹿公《しかこう》の|古今無双《ここんむさう》の|英雄《えいゆう》|豪傑《がうけつ》を|引率《ひきつ》れ、お|前達《まへたち》の|首《くび》を|捻切《ねぢき》るかも|知《し》れぬ。サアサ|早《はや》く|用意《ようい》をなされ、コンナ|処《ところ》で|愚図々々《ぐづぐづ》して|居《ゐ》ると|云《い》ふ|事《こと》があるものかいのう』
|甲《かふ》『ヤ、|呼《よ》ぶより|誹《そし》れとは|此処《ここ》の|事《こと》か、|今《いま》の|今《いま》とて、…へ…|一寸《ちよつと》……|貴女様《あなたさま》のお|噂《うはさ》を|致《いた》して|居《を》りました。イヤもう|骨《ほね》の|折《お》れた|事《こと》で|御座《ござ》いました。お|節《せつ》の|阿魔女《あまつちよ》|随分《ずゐぶん》|手《て》が|利《き》いて|居《ゐ》ましたよ』
|鹿公《しかこう》『ア、さうぢやらう さうぢやらう、|彼奴《あいつ》は|仲々《なかなか》|手《て》の|利《き》いた|奴《やつ》ぢや、|強情《がうじやう》な|女《をんな》ぢや、サアサア|早《はや》く|月《つき》の|出《で》ぬ|間《うち》に|用意《ようい》をなされ』
|甲《かふ》、|乙《おつ》『ハイ、|畏《かしこ》まりました、|暫時《しばらく》お|待《ま》ち|下《くだ》さいませ』
|鹿公《しかこう》『そのお|節《せつ》は|何処《どこ》に|置《お》いてあるのだい』
|乙《おつ》『ハイハイ、|此処《ここ》から|十間《じつけん》|許《ばか》り|先方《むかう》の|松《まつ》の|木《き》の|麓《ふもと》に|猿轡《さるぐつわ》を|箝《は》ませ、|手足《てあし》を|縛《しば》つて|根元《ねもと》に|確《しつか》り|括《くく》つて|置《お》きました』
|鹿公《しかこう》『それはお|骨折《ほねをり》ぢやつた、|然《しか》し|息《いき》の|絶《た》える|様《やう》な|事《こと》はして|無《な》からうな』
|乙《おつ》『|何《なに》、|貴女《あなた》、|何《ど》うせ|連《つ》れて|帰《かへ》つて|殺《ころ》すか、|此処《ここ》で|殺《ころ》すか、|手間《てま》は|同《おな》じ|事《こと》ですもの、あの|通《とほ》り|猿轡《さるぐつわ》を|箝《は》めた|以上《いじやう》は、もう|今頃《いまごろ》はコロリといつて|居《を》るかも|知《し》れませぬ』
|甲《かふ》『イエイエ、|滅多《めつた》に|死《し》ンでは|居《を》りますまい、|此《この》|滝公《たきこう》が|息《いき》の|絶《き》れない|様《やう》に、|声《こゑ》を|出《だ》さない|様《やう》に、そこは|注意《ちうい》|周到《しうたう》な|者《もの》です、|大丈夫《だいぢやうぶ》ですよ』
|鹿公《しかこう》『|俺《わし》も|一寸《ちよつと》|調《しら》べがてらにお|前《まへ》の|後《あと》に|跟《つ》いて|行《ゆ》かうかな』
|甲《かふ》『サアサ|黒姫《くろひめ》|様《さま》、|御実検《ごじつけん》|下《くだ》さいませ、|貴女《あなた》に|実地《じつち》を|見《み》て|貰《もら》へばお|馬《うま》の|前《さき》の|功名《こうみやう》も|同然《どうぜん》、いやもう|無上《むじやう》の|光栄《くわうえい》で|御座《ござ》います』
|鹿公《しかこう》『それはお|手柄《てがら》お|手柄《てがら》、サア|早《はや》く|見《み》せて|下《くだ》さい』
|板公《いたこう》『|随分《ずゐぶん》|険難《けんのん》な|暗《くら》がり|道《みち》で|御座《ござ》いますから、|私《わたくし》がお|手《て》を|把《と》つて|上《あ》げませう』
|鹿公《しかこう》『イヤイヤ、|滅相《めつさう》な、|年《とし》は|寄《よ》つても|未《ま》だお|前《まへ》の|様《やう》な|若《わか》いお|方《かた》に|助《たす》けられる|程《ほど》、|耄碌《まうろく》はして|居《を》りませぬ|哩《わい》、|手《て》を|握《にぎ》られると|発覚《はつかく》の……どつこい……|八角《はつかく》の|糞《くそ》をこめて|気張《きば》つても……お|節《せつ》の|手《て》を|握《にぎ》つて|妙《めう》な|事《こと》をするでないぞ』
|板公《いたこう》『|阿呆《あはう》らしい、|何《なに》を|仰《おつ》しやいます、ソンナラ|私《わたくし》の|後《あと》から|足音《あしおと》をたよつて|来《き》て|下《くだ》さいませ、アヽ|暗《くら》い|暗《くら》い』
と|探《さぐ》り|足《あし》に|歩《ある》き|出《だ》す。|三人《さんにん》は|息《いき》を|凝《こ》らし|闇《やみ》を|幸《さいは》ひ|跟《つ》いて|行《ゆ》く。
|滝公《たきこう》『オイ、|板公《いたこう》、|何《ど》の|辺《へん》だつたいな、あまり|暗《くら》くつて|鼻《はな》|抓《つま》まれても|分《わか》らぬ|様《やう》だ、テント|方向《はうかう》がとれぬぢやないか』
|板公《いたこう》『ヤ、|此処《ここ》だ|此処《ここ》だ、オイお|節《せつ》、これから|魔窟ケ原《まくつがはら》の|結構《けつこう》な|処《ところ》へ|送《おく》つてやるのだ、|満足《まんぞく》だらう。オイお|節《せつ》、|返事《へんじ》をせぬか』
|滝公《たきこう》『|馬鹿《ばか》|云《い》うない、|声《こゑ》をたてぬ|様《やう》に|猿轡《さるぐつわ》を|箝《は》めて|置《お》いた|者《もの》が|返事《へんじ》をするものかい、|狼狽《うろた》へた|事《こと》を|云《い》ふな』
|板公《いたこう》『オヽ、さうだつたな、サアサアお|節《せつ》、|解《ほど》いてやらう、ヤア|偉《えら》い|猿轡《さるぐつわ》だ、|息《いき》を|絶《き》らしては|面白《おもしろ》くない、ちつと|緩《ゆる》めてやらう、ヤア|暖《ぬく》いぞ|暖《ぬく》いぞ、|確《たしか》に|此《この》|耆婆扁鵲《きばへんじやく》の|診察《しんさつ》に|依《よ》れば|極《きは》めて|安心《あんしん》だ。|恢復《くわいふく》の|見込《みこみ》たしかだ。|予後《よご》|良《りやう》だ』
|馬《うま》、|妙《めう》な|声《こゑ》を|出《だ》して、
『ヒユー、ドロドロドロ、|怨《うら》めしやア、|仮令《たとへ》|生命《いのち》はとらるるとも、|魂魄《こんぱく》|此《この》|土《ど》に|留《とど》まりて、|滝公《たきこう》、|板公《いたこう》の|素首《そつくび》|引《ひ》き|抜《ぬ》かいでやむべきか……』
|滝《たき》、|板《いた》は、
『ヤア、|出《で》やがつた、こいつア|堪《たま》らぬ』
と|無茶苦茶《むちやくちや》に|駆《か》け|出《だ》す。|過《あやま》つて|傍《かたへ》の|谷川《たにがは》へザンブと|二人《ふたり》は|陥《お》ち|込《こ》みたり。
|馬公《うまこう》は|手早《てばや》く|綱《つな》を|解《ほど》き|猿轡《さるぐつわ》を|外《はづ》し、
『ヤアお|節《せつ》さま、しつかり|成《な》さいませ、もう|大丈夫《だいぢやうぶ》です』
お|節《せつ》は|初《はじ》めて|気《き》が|付《つ》いたと|見《み》え、
『|何《なに》、|汝《なんぢ》|悪神《あくがみ》の|家来《けらい》|共《ども》、もう|斯《か》うなる|上《うへ》はお|節《せつ》が|死物狂《しにものぐるひ》、|目《め》に|物《もの》|見《み》せて|呉《く》れむ』
|馬公《うまこう》『ヤア、それは|違《ちが》ひます、|私《わたくし》は|三五教《あななひけう》の|馬《うま》と|申《まを》すもの、|貴女《あなた》のお|声《こゑ》を|尋《たづ》ねてお|助《たす》けに|来《き》たのです、|御安心《ごあんしん》なさいませ。|今《いま》|二人《ふたり》の|悪者《わるもの》|共《ども》は|驚《おどろ》いて|逃行《にげゆ》く|途端《とたん》に、|此《この》|谷川《たにがは》へ|落《お》ち|込《こ》みました。あまり|暗《くら》いので|如何《どう》なつたか|知《し》りませぬが、|吾々《われわれ》は|決《けつ》して|悪者《わるもの》では|御座《ござ》いませぬ。サア|鹿公《しかこう》、|若彦《わかひこ》さま、|此《この》お|節《せつ》さまの|手《て》を|引《ひ》いて|広《ひろ》い|道《みち》まで|連《つ》れて|行《い》つてあげませうか』
お|節《せつ》は|初《はじ》めて|安心《あんしん》の|態《てい》、
『これはこれは|危《あやふ》い|処《ところ》をようこそお|助《たす》け|下《くだ》さいました。アヽ|神様《かみさま》|有難《ありがた》う|御座《ござ》います』
と|天《てん》に|向《むか》つて|合掌《がつしやう》し|感謝《かんしや》する|折《をり》しも、|山《やま》を|覗《のぞ》いて|出《で》る|半円《はんゑん》の|月《つき》、|忽《たちま》ち|道《みち》は|判然《はつきり》と|見《み》え|出《だ》しにける。
|馬公《うまこう》『アヽ|有難《ありがた》いものだ、これで|安心《あんしん》だ、サア|早《はや》く、|紫姫《むらさきひめ》さまがお|待《ま》ちかね、|参《まゐ》りませう』
とお|節《せつ》の|手《て》を|把《と》り、|四人《よにん》は|紫姫《むらさきひめ》の|暗祈黙祷《あんきもくたう》を|凝《こ》らす|祠《ほこら》の|前《まへ》にやつと|帰《かへ》り|来《き》たりぬ。
|鹿公《しかこう》『|紫姫《むらさきひめ》|様《さま》、|鹿《しか》の|野郎《やらう》が|功名《こうみやう》|手柄《てがら》、お|褒《ほ》め|下《くだ》さいませよ。|目的物《もくてきぶつ》は|首尾《しゆび》よく|手《て》に|入《い》りました』
|紫姫《むらさきひめ》『ア、それはそれは、|御苦労様《ごくらうさま》、|何処《どこ》のお|方《かた》だつたか|知《し》らぬが|危《あやふ》い|処《ところ》で|御座《ござ》いましたな』
お|節《せつ》『ハイ、|有難《ありがた》う|御座《ござ》います、|力《ちから》と|頼《たの》むお|爺《ぢい》さまには|死《し》に|別《わか》れ、お|婆《ば》アさまにも|亦《また》|死別《しにわか》れ、|今《いま》は|頼《たよ》りなき|女《をんな》の|一人暮《ひとりぐら》し、|許婚《いひなづけ》の|妾《わたし》が|夫《をつと》の|後《あと》を|慕《した》ひ、|聖地《せいち》に|向《むか》つて|進《すす》み|来《く》る|折《をり》しも、|道《みち》に|踏《ふ》み|迷《まよ》ひ|魔窟ケ原《まくつがはら》を|通《とほ》りました。|所《ところ》が|後《うしろ》より「オーイオーイ」と|男《をとこ》の|声《こゑ》、|何《なに》は|兎《と》もあれ、|怪《あや》しき|奴《やつ》と|一生懸命《いつしやうけんめい》に|長《なが》い|道《みち》を|此処《ここ》まで|逃《に》げて|参《まゐ》りました、|折《をり》あしく|道中《だうちう》の|岩石《がんせき》に|躓《つまづ》きバタリと|転《こ》けて|倒《たふ》れた|所《ところ》を、|追《お》ひかけて|来《き》た|二人《ふたり》の|男《をとこ》、|折《を》り|重《かさ》なつて|妾《わたし》を|高手小手《たかてこて》に|縛《しば》り、|松《まつ》の|木《き》の|麓《ふもと》に|連《つ》れて|行《い》つて、|打《う》つ|蹴《け》る|殴《なぐ》るの|乱暴狼藉《らんばうろうぜき》、|妾《わらは》は|力《ちから》の|限《かぎ》り|何《いづ》れの|方《かた》かお|通《とほ》りあらばお|助《たす》け|下《くだ》さるであらうと、|女々《めめ》しくも|声《こゑ》をたてました。さうすると|二人《ふたり》の|悪者《わるもの》は|妾《わたし》の|口《くち》に|箝《は》ます|猿轡《さるぐつわ》、|最早《もはや》|叶《かな》はぬと|観念《かんねん》の|目《め》を|〓《みは》り、|気《き》も|鈍《うと》くなりまする|際《さい》、|思《おも》はぬお|助《たす》けに|預《あづ》かりました。|此《この》|御恩《ごおん》は|死《し》すとも|忘《わす》れませぬ、|皆様《みなさま》|能《よ》くお|助《たす》け|下《くだ》さいました』
と|嬉《うれ》し|涙《なみだ》に|泣《な》き|伏《ふ》しける。
|鹿公《しかこう》『モシ|若彦《わかひこ》さま、|察《さつ》する|処《ところ》|貴方《あなた》の【れこ】ぢやありませぬか』
『ハイ……』
と|云《い》つたきり|若彦《わかひこ》は|俯向《うつむ》き|居《ゐ》る。
|鹿公《しかこう》『アハヽヽヽ、これはこれは、お|恥《はづか》しう|御座《ござ》るか、|久《ひさ》し|振《ぶ》りの|恋女房《こひにようばう》の|対面《たいめん》、|柔和《やさ》しい|言葉《ことば》の|一《ひと》つも|掛《か》けておあげなさつては|如何《どう》ですか、|吾々《われわれ》が|居《を》ると|思《おも》つて|云《い》ひ|度《た》い|事《こと》も|能《よ》う|云《い》はず、|泣《な》き|度《た》うても|能《よ》う|泣《な》かず、|吾《われ》と|吾《わが》|心《こころ》を|詐《いつは》つて|居《ゐ》らつしやるのでせう。|吾々《われわれ》であつたなればソンナ|虚偽《きよぎ》な|事《こと》は|致《いた》しませぬワ、「ア、お|前《まへ》は|女房《にようばう》か、|能《よ》うマア|無事《ぶじ》に|居《ゐ》て|呉《く》れた、これと|云《い》ふも|神様《かみさま》のお|蔭《かげ》、|会《あ》ひたかつた|会《あ》ひたかつた」としつかと|抱《だ》きしめ|嬉《うれ》し|涙《なみだ》に|暮《く》れにけり……と|云《い》ふ|場面《ばめん》だ。|吾々《われわれ》は|暫《しばら》く|退却《たいきやく》を|致《いた》さう、ナア|若彦《わかひこ》さま、お|節《せつ》さまとゆつくり|程《ほど》|経《へ》し|思《おも》ひ|出《で》の|物語《ものがたり》、しつぽりとなされませや、ずつしりとお|泣《な》き|遊《あそ》ばせ、|紫姫《むらさきひめ》さま、|馬公《うまこう》、|暫《しばら》く|気《き》を|利《き》かせませう』
|若彦《わかひこ》『イヤ|有難《ありがた》う|御座《ござ》います、|皆様《みなさま》のお|蔭《かげ》、|斯様《かやう》な|処《ところ》でお|節《せつ》|殿《どの》に|会《あ》ふのも|神様《かみさま》のお|摂理《せつり》で|御座《ござ》いませう。モシモシお|節《せつ》どの、|私《わたくし》を|覚《おぼ》えて|居《ゐ》ますか、|青彦《あをひこ》ですよ』
お|節《せつ》『ア、|貴方《あなた》が|青彦《あをひこ》さま、お|懐《なつか》しう|御座《ござ》います。|能《よ》うマア|無事《ぶじ》で|居《ゐ》て|下《くだ》さいました』
と|嬉《うれ》しさに|前後《ぜんご》を|忘《わす》れ、|青彦《あをひこ》の|手《て》に|獅噛《しが》み|付《つ》く|様《やう》に|身体《からだ》をもだえ|泣《な》き|叫《さけ》ぶ。
|鹿公《しかこう》『カチカチ、|観客《くわんきやく》の|皆《みな》さま、これで|幕切《まくきり》と|致《いた》します。|今後《こんご》の|成行《なりゆき》は|又《また》|明晩《みやうばん》|続《つづ》き|物《もの》として|演《えん》じまする、|何卒《なにとぞ》|不相変《あひかはらず》|御贔屓《ごひいき》を|以《もつ》て|賑々《にぎにぎ》しく|御入来《ごじゆらい》あらむ|事《こと》を|偏《ひとへ》に|希《こひねが》ひ|上《あ》げ|奉《たてまつ》ります、アハヽヽヽ』
|紫姫《むらさきひめ》『オホヽヽヽ、|鹿公《しかこう》、|時《とき》と|場合《ばあひ》に|依《よ》ります、|洒落《しやれ》もいい|加減《かげん》にしなさいや』
|馬公《うまこう》『オイ|鹿《しか》、|何《なに》を|云《い》ふのだ、サアサア|皆《みな》さま、|月《つき》も|出《で》ました、もう|一息《ひといき》だ、|天《あま》の|岩戸《いはと》まで|急《いそ》ぎませう』
(大正一一・四・二五 旧三・二九 北村隆光録)
第六章 |真《しん》か|偽《ぎ》か〔六三四〕
|紫姫《むらさきひめ》は|紫《むらさき》の  |姿《すがた》を|装《よそほ》ふ|弥仙山《みせんざん》
|四尾《よつを》の|山《やま》や|桶伏《をけふせ》の  |珍《うづ》の|聖地《せいち》を|伏《ふ》し|拝《をが》み
|西坂峠《にしさかたうげ》を|後《あと》に|見《み》て  |若葉《わかば》もそよぐ|若彦《わかひこ》や
|心《こころ》の|馬公《うまこう》|鹿公《しかこう》を  |伴《ともな》ひ|進《すす》む|春《はる》の|道《みち》
|山《やま》|追々《おひおひ》と|迫《せま》り|来《く》る  |心《こころ》も|細《ほそ》き|谷道《たにみち》を
|伝《つた》ひ|伝《つた》ひて|河守《かうもり》の  |里《さと》を|左手《ゆんで》に|打《う》ち|眺《なが》め
|船岡山《ふなをかやま》を|右《みぎ》に|見《み》て  |日《ひ》もやうやうに|酉《とり》の|刻《こく》
|暗《やみ》の|帳《とばり》はおろされて  |一行《いつかう》ゆくてに|迷《まよ》ひつつ
|道《みち》のかたへの|小《ささ》やけき  |神《かみ》の|祠《ほこら》に|立寄《たちよ》りて
|息《いき》を|休《やす》むる|折柄《をりから》に  |俄《にはか》に|女《をんな》の|叫《さけ》び|声《ごゑ》
|紫姫《むらさきひめ》は|立《た》ち|上《あが》り  |耳《みみ》を|傾《かたむ》け|聞《き》き|終《をは》り
|若彦《わかひこ》、|馬《うま》、|鹿《しか》|三人《さんにん》を  |声《こゑ》する|方《かた》に|遣《つか》はして
|様子《やうす》|探《さぐ》らせ|調《しら》ぶれば  |思《おも》ひがけなき|愛娘《まなむすめ》
|闇《やみ》の|林《はやし》に|縛《しば》られて  |息《いき》|絶《た》え|絶《だ》えと|苦《くる》しみの
|中《なか》を|助《たす》けて|三人《さんにん》が  |忽《たちま》ち|登《のぼ》る|月影《つきかげ》に
|心《こころ》|照《て》らして|帰《かへ》り|来《く》る  |何処《いづこ》の|方《かた》と|訪《おとな》へば
|若《わか》き|女《をんな》の|物語《ものがたり》  |驚《おどろ》く|若彦《わかひこ》|一同《いちどう》は
|互《たがひ》に|労《いたは》りかばいつつ  |月《つき》の|光《ひかり》を|力《ちから》とし
|四辺《あたり》に|注意《ちうい》を|為《な》し|乍《なが》ら  |剣尖山《けんさきやま》の|麓《ふもと》なる
|珍《うづ》の|聖地《せいち》に|立向《たちむか》ふ。
|三男《さんなん》|二女《にぢよ》の|一隊《いつたい》は、|月《つき》もる|山道《やまみち》を|漸《やうや》くにして|皇大神《すめおほかみ》を|斎《いつ》き|祀《まつ》れる|大宮《おほみや》の|前《まへ》に|無事《ぶじ》|参向《さんかう》する|事《こと》を|得《え》たり。|水《みづ》も|子《ね》の|刻《こく》|丑《うし》の|刻《こく》と|夜《よ》は|段々《だんだん》と|更《ふ》け|渡《わた》り、|淙々《そうそう》たる|谷川《たにがは》の|水《みづ》の|音《おと》を|圧《あつ》して|聞《きこ》え|来《く》る|祈《いの》りの|声《こゑ》、|凄味《すごみ》を|帯《お》びて|許々多久《ここたく》の、|鬼《おに》や|大蛇《をろち》や|曲津見《まがつみ》の、|霊《みたま》|寄《よ》り|来《こ》む|言霊《ことたま》の|濁《にご》り、|清《きよ》き|流《なが》れの|谷川《たにがは》にふさはしからぬ|配合《はいがふ》なり。
|紫姫《むらさきひめ》『|皆様《みなさま》、|妾《わたし》は|神様《かみさま》のお|告《つげ》により、|半日《はんにち》|許《ばか》り|此《この》お|宮《みや》の|中《なか》で|御神勅《ごしんちよく》を|承《うけたま》はらねばなりませぬ、|何卒《どうぞ》|其《その》|間《あひだ》、|産釜《うぶがま》、|産盥《うぶだらひ》の|河原《かはら》の|谷水《たにみづ》に|御禊《みそぎ》をなし、|神言《かみごと》を|奏上《そうじやう》して|待《ま》つて|居《ゐ》て|下《くだ》さいませ』
|若彦《わかひこ》『|委細承知《ゐさいしようち》|仕《つかまつ》りました。サアサア|馬公《うまこう》、|鹿公《しかこう》、お|節殿《せつどの》、|参《まゐ》りませう』
と|神前《しんぜん》の|礼拝《れいはい》を|終《をは》り|天《あま》の|岩戸《いはと》の|下方《しもて》、|紫姫《むらさきひめ》が|指定《してい》の|場所《ばしよ》に|進《すす》み|往《ゆ》く。|夜《よ》はほのぼのと|明《あ》けかかる。|谷《たに》の|向岸《むかうぎし》を|見《み》れば|一人《ひとり》の|女《をんな》、|二人《ふたり》の|従者《じゆうしや》らしき|者《もの》と|共《とも》に|産釜《うぶがま》、|産盥《うぶだらひ》の|水《みづ》を|杓《しやく》にて|汲《く》み|上《あ》げ、|頭上《づじやう》より|浴《あ》び、|一生懸命《いつしやうけんめい》|皺枯《しわが》れた|声《こゑ》を|絞《しぼ》つてウラナイ|教《けう》の|宣伝歌《せんでんか》を|唱《とな》へ|居《ゐ》る。|四人《よにん》はつかつかと|進《すす》み|寄《よ》るを、|婆《ばば》アは|頻《しき》りに|四人《よにん》の|来《き》たのも|知《し》らずに|水垢離《みづごり》を|取《と》り|居《ゐ》たり。
|馬公《うまこう》『モシモシ|何処《どこ》の|婆《ば》アさまか|知《し》らぬが、この|聖地《せいち》へやつて|来《き》て、|勿体《もつたい》ない|神様《かみさま》の|御手洗《みたらし》を|無雑作《むざふさ》に|頭《あたま》から|被《かぶ》り、|怪体《けたい》な|歌《うた》を|謡《うた》うて|何《なに》をして|居《ゐ》るのだ、|些《ちつ》と|心得《こころえ》なさい』
|婆《ばば》、|水《みづ》を|被《かぶ》りながら、
『|何処《どこ》の|方《かた》か|知《し》らぬが、|神様《かみさま》のため|世界《せかい》のために|誠《まこと》|一心《いつしん》を|立《た》てぬく、|日本魂《やまとだましひ》の|生粋《きつすゐ》の|真正《せうまつ》の|水晶魂《すゐしやうだま》の|守護神《しゆごじん》さまの|命令《めいれい》によつて、この|結構《けつこう》なお|水《みづ》で|身魂《みたま》を|清《きよ》め、|結構《けつこう》な|歌《うた》を|宇宙《うちう》の|神々《かみがみ》に|宣《の》べて|居《を》るのに、お|前《まへ》は|何《なに》を|云《い》ふのだい、|結構《けつこう》な|言霊《ことたま》がお|前《まへ》には|聞《きこ》えぬのかい』
|馬公《うまこう》『|一向《いつかう》トンと|聞《きこ》えませぬ|哩《わい》、|何《なん》だか|其《その》|言霊《ことたま》を|聞《き》くと|悪魔《あくま》が|寄《よ》つて|来《く》るやうだ』
|鹿公《しかこう》『オイ|馬公《うまこう》、|野暮《やぼ》の|事《こと》を|云《い》ふない、|牛《うし》の|爪《つめ》ぢやないが|先《さき》から|分《わか》つて|居《ゐ》るぢやないか。|悪魔《あくま》の|大将《たいしやう》が、|悪魔《あくま》の|乾児《こぶん》を|集《あつ》めやうと|思《おも》つて|全力《ぜんりよく》を|尽《つく》し、|車輪《しやりん》の|活動《くわつどう》をやつて|御座《ござ》るのだ、|人《ひと》の|商売《しやうばい》を|妨害《ばうがい》するものでないぞ』
|馬公《うまこう》『|別《べつ》に|妨害《ばうがい》はしようとは|思《おも》はぬが、アンナ|声《こゑ》|出《だ》しやがると|何《なん》だか|癪《しやく》に|触《さは》つて、|反吐《へど》が|出《だ》さうになつて|来《き》た。オイ|婆《ば》アさま、もう|好《よ》い|加減《かげん》にやめたらどうだい。この|産盥《うぶだらひ》はお|前《まへ》|一人《ひとり》の|専有物《せんいうぶつ》ぢやないぞ、|好《よ》い|加減《かげん》に|退却《たいきやく》したらどうだ』
|婆《ばば》『|何処《どこ》の|若《わか》い|衆《しう》か|知《し》らぬが|老人《としより》が|世界《せかい》のため|道《みち》のため、|命《いのち》がけで|修業《しうげふ》をして|居《ゐ》るのだ。|私《わし》の|言霊《ことたま》が|偉《えら》いお|気《き》に|触《さは》ると|見《み》えるが、それは|無理《むり》もない、お|前《まへ》に|憑《つ》いて|居《を》る|悪魔《あくま》が|恐《おそ》れて|居《を》るのだ、|其処《そこ》を|辛抱《しんばう》して|暫《しばら》く|私《わし》の|言霊《ことたま》を|謹聴《きんちやう》しなされ、さうして|修業《しうげふ》の|仕方《しかた》も|私《わし》のやり|方《かた》を|手本《てほん》として|頭《あたま》の|先《さき》から|足《あし》の|裏《うら》まで、|一分一厘《いちぶいちりん》の|垢《あか》もない|処《ところ》まで|落《おと》しなされ、さうしたら|結構《けつこう》な|結構《けつこう》なウラナイ|教《けう》の|神様《かみさま》のお|道《みち》へ|入信《にふしん》を|許《ゆる》して|上《あ》げる。|今時《いまどき》の|若《わか》い|者《もの》は|何《なん》でも|彼《か》でも|新《あたら》しがつて|昔《むかし》の|元《もと》の|根本《こつぽん》の|神様《かみさま》の|因縁《いんねん》や|性来《しやうらい》を|知《し》らず、|誠《まこと》の|事《こと》を|云《い》うてやれば|馬鹿《ばか》にしてホクソ|笑《わら》ひをする|者《もの》|許《ばか》りぢや、|十万億土《じふまんおくど》の|根《ね》の|国《くに》、|底《そこ》の|国《くに》へと|落《おと》されて、|万劫末代《まんごふまつだい》|上《あが》られぬやうな|目《め》に|遇《あ》ふもの|許《ばか》りぢやから、それが|可憐相《かあいさう》で|目《め》を|開《あ》けて|見《み》て|居《を》れぬから、|世界《せかい》の|人民《じんみん》の|身魂《みたま》を|立替《たてかへ》|立直《たてなほ》し、|大先祖《おほせんぞ》の|因縁《いんねん》から|身魂《みたま》の|罪障《めぐり》の|事《こと》から、|何《なに》も|彼《か》も|説《と》いて|聞《き》かして|助《たす》けてやる|結構《けつこう》のお|道《みち》ぢやぞよ。お|前《まへ》も|縁《えん》があればこそ、コンナ|結構《けつこう》な|私《わし》の|行《ぎやう》を|見《み》せて|貰《もら》うたのぢや。ちと|気分《きぶん》が|悪《わる》うても|辛抱《しんばう》して|聞《き》きなされ』
|馬公《うまこう》『それは|大《おほ》きに|御親切《ごしんせつ》に|有難《ありがた》う、|私《わたし》も|元《もと》は|都《みやこ》で|生《うま》れたものだが、|御主人《ごしゆじん》の|娘《むすめ》さまと|比沼《ひぬ》の|真名井山《まなゐさん》へ|参拝《さんぱい》しようと|思《おも》うて|行《ゆ》く|途中《とちう》で、|大江山《おほえやま》の|鬼《おに》の|乾児《こぶん》に|欺《だま》され、|岩窟《がんくつ》の|中《なか》に|放《ほ》り|込《こ》まれ、エライ|目《め》に|遇《あ》うた。そこへ|偉《えら》い|人《ひと》が|出《で》て|来《き》て|私《わし》を|助《たす》けて|下《くだ》さつたので、|何《なん》でも|此《この》|辺《へん》に|結構《けつこう》な|神様《かみさま》が|御座《ござ》ると|聞《き》いてお|礼詣《れいまゐ》りに|来《き》たのだよ』
|婆《ばば》は、|一生懸命《いつしやうけんめい》に|水《みづ》を|被《かぶ》りながら|此方《こちら》も|向《む》かず|声《こゑ》を|当《あて》に、
『さうだらう、さうだらう、|真名井山《まなゐさん》に|詣《まゐ》つてお|蔭《かげ》どころか、|鬼《おに》の|岩窟《いはや》へ|釣《つ》り|込《こ》まれたのだな。|真名井山《まなゐさん》と|云《い》ふのは、それや|云《い》ひ|損《ぞこな》ひぢや、あれは|魔《ま》が|井《ゐ》さまと|云《い》うて|神様《かみさま》の|擬《まが》ひぢや、|変性女子《へんじやうによし》の|三《み》つの|御霊《みたま》と|云《い》うて、どてらい|悪神《あくがみ》が|変性男子《へんじやうなんし》の|日本魂《やまとだましひ》の|根本《こつぽん》の|生粋《きつすゐ》の|神様《かみさま》の|真似《まね》をしよつて、|善《ぜん》に|見《み》せて|悪《あく》を|働《はたら》いとるのぢや、|暫《しばら》く|待《ま》ちなさい、|私《わし》が|結構《けつこう》の|事《こと》を|教《をし》へて|上《あ》げる、|三五教《あななひけう》とやら|云《い》ふ|教《をしへ》は|三五《さんご》の|月《つき》ぢやと|云《い》うて|居《を》るが、|三五《あななひ》の|月《つき》なら|満月《まんげつ》ぢや、|片割《かたわ》れ|月《づき》の|変性女子《へんじやうによし》だけの|教《をしへ》が|何《なん》になるものか、|雲《くも》に|隠《かく》れて|此処《ここ》に|半分《はんぶん》、|誠《まこと》の|経綸《しぐみ》が|聞《き》きたければ|私《わし》について|御座《ござ》れ、|三千年《さんぜんねん》の|長《なが》い|苦労《くらう》|艱難《かんなん》の|一厘《いちりん》の|経綸《しぐみ》を、|信仰《しんかう》|次第《しだい》に|依《よ》つて|聞《き》かして|上《あ》げぬ|事《こと》もない、マア|其辺《そこら》にヘタつて|此方《こちら》の|修業《しうげふ》がすむまで|待《ま》つて|居《ゐ》なさい』
と|又《また》もや|婆《ばば》は|頻《しき》りに|水《みづ》を|被《かぶ》る。|二人《ふたり》の|男《をとこ》も|影《かげ》の|形《かたち》に|従《したが》ふやうに、|水《みづ》を|汲《く》み|上《あ》げてはザブザブと|黒《くろ》い|体《からだ》に|浴《あ》びせて|居《ゐ》る。|婆《ばば》は|漸《やうや》く|水行《すゐぎやう》を|終《をは》り、|頭《あたま》の|先《さき》から|足《あし》の|裏《うら》|迄《まで》すつくり|水気《すゐき》を|拭《ぬぐ》ひ|取《と》り、|念入《ねんい》りにチヤンと|風《ふう》を|整《ととの》へ、|紋付《もんつき》|羽織《はおり》を|着用《ちやくよう》に|及《およ》び、|二人《ふたり》の|男《をとこ》を|伴《ともな》ひ、|谷川《たにがは》の|足《あし》のかかる|石《いし》を、|蛇《へび》が|蛙《かわづ》を|狙《ねら》ふやうな|眼《め》つきで、ポイポイポイと|兎渡《うさぎわた》りに|渡《わた》りつく。お|節《せつ》は|腰《こし》を|折《お》り|両手《りやうて》をもみながら、
『|黒姫《くろひめ》の|先生様《せんせいさま》、|久《ひさ》しうお|目《め》に|掛《かか》りませぬ、お|健康《たつしや》でお|目出度《めでた》う』
|黒姫《くろひめ》『ヤアお|前《まへ》はオヽお|節《せつ》ぢやつたか、|何《なん》と|云《い》つてもかと|云《い》うても、ひつ|括《くく》つてでも|捉《つかま》へてでも、|聞《き》かさにや|置《お》かぬは|女《をんな》の|一心《いつしん》、|大慈《だいじ》|大悲《だいひ》の|心《こころ》をもつて|助《たす》けてやらうと、|滝《たき》、|板《いた》の|二人《ふたり》に|跡《あと》を|追《お》はせたが、|何処《どこ》をお|前《まへ》は|迂路《うろ》ついとつたのだエ、サアサア|私《わし》について|御座《ござ》れ。ヤアお|前《まへ》は|青彦《あをひこ》ぢやないか、|三五教《あななひけう》に|呆《とぼ》けてまだ|目《め》が|醒《さ》めぬか』
|若彦《わかひこ》『ハイ|有難《ありがた》う、お|蔭《かげ》ではつきり|目《め》が|醒《さ》めました』
|黒姫《くろひめ》『さうだらう、|若《わか》い|者《もの》は|能《よ》う|気《き》の|変《かは》るもので、|彼方《あちら》へ|迂路々々《うろうろ》、|此方《こちら》へ|迂路々々《うろうろ》して|仕方《しかた》の|無《な》いものぢや、お|前《まへ》を|助《たす》けてやり|度《た》いと|思《おも》うて、どれだけ|骨《ほね》を|折《お》つたか|知《し》れたものぢやない。サア|悠《ゆつ》くりと|私《わし》の|所《ところ》までお|節《せつ》と|一緒《いつしよ》に|出《で》て|来《き》なされ、|三五教《あななひけう》も、|一寸《ちよつと》|尤《もつと》もらしい|事《こと》を|云《い》ひよるが、|終《しまひ》には|箔《はく》が|剥《は》げて|何程《なにほど》|金太郎《きんたらう》のお|前《まへ》でも|愛想《あいさう》が|尽《つ》きたらう、|肝腎要《かんじんかなめ》の|厳《いづ》の|霊《みたま》の|本家《ほんけ》を|蔑《ないがしろ》にして、|新米《しんまい》の|出来《でき》|損《そこな》ひのやうな|三五教《あななひけう》に|呆《とぼ》けて|見《み》た|処《ところ》で、|飯《めし》に|骨《ほね》があつて|喉《のど》に|通《とほ》りやせまいがな。|一杯《いつぱい》や|二杯《にはい》は|珍《めづ》らしいので|喉《のど》にも|触《さは》らないで|鵜呑《うの》みにするが、|三杯目《さんばいめ》|位《くらゐ》からは、ニチヤづいて|舌《した》の|先《さき》にザラザラ|触《さは》り、それを|無理《むり》に|呑《の》み|込《こ》めば|腹《はら》の|具合《ぐあひ》が|悪《わる》くなつて|下痢《くだ》を|催《もよほ》し、|終《しまひ》の|果《はて》にはソレ|般若波羅蜜多《はんにやはらみつた》と|云《い》うて|腹《はら》を|撫《な》でたり、|尻《しり》の|具合《ぐあひ》|迄《まで》|悪《わる》くして|雪隠《せつちん》へお|千度《せんど》を|踏《ふ》み、オンアボキヤ、ビルシヤナブツ、マカモダラニブツ、ヂンラバ、ハラバリタヤと、|陀羅尼《だらに》を|尻《しり》が|称《とな》へるやうになつて|仕舞《しま》ふ、さうぢやから|食《く》つてみにや|分《わか》らぬのだ。|加減《かげん》の|好《よ》いウラナイ|教《けう》の|御飯《ごはん》を|長《なが》らく|食《た》べて|居《を》つて、|栄耀《えいえう》に|剰《あま》つて|餅《もち》の|皮《かは》を|剥《は》ぎ、まだ|甘《うま》い|事《こと》があるかと|思《おも》うて、|三五教《あななひけう》に|珍《めづら》しい|食物《くひもの》があるかと|這入《はい》つて|見《み》たところ、|味《あぢ》もしやしやりも|有《あ》りやせまいがな、|三五教《あななひけう》ぢやなく、|味無《あぢな》い|教《けう》ぢや、アヽよい|修業《しうげふ》をして|御座《ござ》つた。よもや|後戻《あともど》りはしやしまいなア』
|若彦《わかひこ》『ヘイ、|何《ど》うして|何《ど》うして|三五教《あななひけう》ナンか|信《しん》じますものか、これから|貴方《あなた》の|頤使《いし》に|従《したが》つて、|犬馬《けんば》の|労《らう》をも|惜《を》しまぬ|覚悟《かくご》でございます』
|黒姫《くろひめ》『それは|結構《けつこう》ぢや、お|節《せつ》、あの|頑固《ぐわんこ》な|爺《ぢい》や|婆《ばば》アが、|国替《くにがへ》したので|悲《かな》しいやら|嬉《うれ》しいやら、|好《すき》な|青彦《あをひこ》と|気楽《きらく》に|添《そ》はれるやうになつたのも、|全《まつた》くウラナイ|教《けう》のお|蔭《かげ》ぢやぞエ、あのマア|何《なん》と|好《よ》う|揃《そろ》うた|若夫婦《わかふうふ》ぢやなア』
と|打《う》つて|変《かは》つて|機嫌《きげん》を|直《なほ》し、|青彦《あをひこ》の|背中《せなか》をポンと|叩《たた》いて|笑《わら》ふ。
|馬公《うまこう》『お|安《やす》くない|所《ところ》を|拝見《はいけん》さして|貰《もら》ひましてイヤもう|羨望万望《せんばうまんばう》の|次第《しだい》で|御座《ござ》います|哩《わい》』
|鹿公《しかこう》『|何《なん》と|妙《めう》ぢやないか、|此処《ここ》には|産釜《うぶがま》、|産盥《うぶだらひ》と|云《い》うて|眼鏡《めがね》のやうに|夫婦《めをと》の|水溜《みづたま》りが|綺麗《きれい》に|湧《わ》いて|居《を》る、|河《かは》を|隔《へだ》ててお|節《せつ》サンに|若彦《わかひこ》、オツトドツコイ|青彦《あをひこ》さま、|何《なん》と|好《よ》い|配合《はいがふ》だ、|俺等《おれたち》も|早《はや》く|誰人《だれ》かの|媒妁《なかうど》で|配偶《はいぐう》したいものだ、ナア|馬公《うまこう》………』
|黒姫《くろひめ》『お|前《まへ》は|初《はじ》めて|見《み》た|方《かた》ぢやが、|青彦《あをひこ》の|弟子《でし》ぢやな、さうして|名《な》は|何《なん》と|云《い》ふのぢや、|最前《さいぜん》から|聞《き》いて|居《を》れば|四足《よつあし》のやうな|名《な》を|呼《よ》びて|御座《ござ》るが、|本当《ほんたう》の|名《な》で|聞《き》かして|下《くだ》さい、|大方《おほかた》|副守護神《ふくしゆごじん》の|名《な》だらう、|一寸《ちよつと》|見《み》たところでは|馬鹿《うましか》らしいお|顔《かほ》ぢや、|何程《なにほど》|立派《りつぱ》な|女房《にようばう》が|欲《ほ》しいと|云《い》うても、そのスタイルでは|駄目《だめ》ぢやなア、|四足《よつあし》の|守護神《しゆごじん》をこれからウラナイ|教《けう》で|追《お》つ|放《ぽ》り|出《だ》して、|結構《けつこう》な|竜宮《りうぐう》の|乙姫《おとひめ》|様《さま》の|御眷属《ごけんぞく》を|守護神《しゆごじん》に|入《い》れ|替《かへ》て|上《あ》げよう、|何《ど》うぢや|嬉《うれ》しいか、|恥《はづ》かしさうに|男《をとこ》だてら|俯《うつ》むいて、|気《き》の|弱《よわ》い|事《こと》だ。|併《しか》し|其処《そこ》が|良《よ》い|所《ところ》ぢや、|優《やさ》しいものぢや、|人間《にんげん》も|恥《はづ》かしい|事《こと》を|忘《わす》れては|駄目《だめ》ぢや、サアサア|四人《よにん》とも|私《わし》の|処《ところ》へお|出《いで》なさい。|此《この》|二人《ふたり》の|男《をとこ》も|一人《ひとり》は|弥仙山《みせんざん》の、ではない|弥仙山《みせんざん》の|木花咲耶姫《このはなさくやひめ》の|神様《かみさま》が|好《す》きと|云《い》つて|大変《たいへん》に|信仰《しんかう》をして|居《を》つたが、モウ|一《ひと》つ|偉《えら》い|日《ひ》の|出神《でのかみ》|様《さま》、|竜宮《りうぐう》の|乙姫《おとひめ》|様《さま》のある|事《こと》を|悟《さと》つて、かうして|一生懸命《いつしやうけんめい》に|信神《しんじん》をして|居《を》るのぢや』
|青彦《あをひこ》『アヽさうですか、それは|熱心《ねつしん》な|事《こと》ですなア』
|馬公《うまこう》『お|婆《ば》アさま、|一寸《ちよつと》|待《ま》つて|下《くだ》さい、|私《わたし》には|一人《ひとり》|連《つれ》が|御座《ござ》います』
|黒姫《くろひめ》『|極《きま》つたこつちや、お|前《まへ》の|連《つれ》は|鹿《しか》ぢやないか』
|馬公《うまこう》『イヤイヤま|一人《ひとり》、|元《もと》は|私《わたし》の|御主人《ごしゆじん》であつた|紫姫《むらさきひめ》と|云《い》ふ|結構《けつこう》なお|方《かた》が|居《を》られます』
|黒姫《くろひめ》『その|方《かた》は|何処《どこ》に|居《を》られるのだ、|早《はや》う|呼《よ》びて|来《き》なさい』
|馬公《うまこう》『|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》に、つい|此《この》|間《あひだ》からなられまして、|今日《けふ》|初《はじ》めて|大神様《おほかみさま》へ|御参拝《ごさんぱい》なされました。|今《いま》お|宮《みや》で|御祈念《ごきねん》をして|居《を》られます』
|黒姫《くろひめ》『アーさうかな、コレコレ|青彦《あをひこ》、お|前《まへ》は|改心《かいしん》をしてウラナイ|教《けう》に|戻《もど》つた|土産《みやげ》に、|其《その》|紫姫《むらさきひめ》とやらを|帰順《きじゆん》させて|来《き》なさい、|三五教《あななひけう》へも|暫《しばら》く|這入《はい》つて|居《を》つたから、|長所《ちやうしよ》もあるけれど、|短所《たんしよ》も|沢山《たくさん》|知《し》つて|居《ゐ》るだらう、|其《その》お|前《まへ》が|三五教《あななひけう》に|愛想《あいさう》を|尽《つ》かした|経歴《けいれき》でも|説《と》いて|聞《き》かして、その|紫姫《むらさきひめ》を|早《はや》く|連《つ》れて|来《き》なさい』
|青彦《あをひこ》『|確《たしか》に|請合《うけあ》つて|帰順《きじゆん》さして|来《き》ます、どうぞ|私《わたくし》|達《たち》を|元《もと》の|如《ごと》くお|使《つか》ひ|下《くだ》さいませぬか』
|黒姫《くろひめ》『|使《つか》うて|上《あ》げるとも、ヤア|私《わし》が|使《つか》ふのではない、|竜宮《りうぐう》の|乙姫《おとひめ》|様《さま》がお|使《つか》ひ|遊《あそ》ばすのだ』
|斯《か》かる|所《ところ》へ|静々《しづしづ》とやつて|来《き》たのは|紫姫《むらさきひめ》なり。
|紫姫《むらさきひめ》『|若彦《わかひこ》さま、|馬公《うまこう》、|鹿公《しかこう》、エローお|待《ま》たせ|致《いた》しました。サアサア|下向《げかう》|致《いた》しませう』
|一同《いちどう》は、
『ハイ』
と、どことも|無《な》く|躊躇《ためらひ》|気味《きみ》の|生返事《なまへんじ》をして|居《ゐ》る。
|黒姫《くろひめ》『ヤアお|前《まへ》が|紫姫《むらさきひめ》と|云《い》ふのか、|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》と|云《い》ふ|事《こと》ぢやが、|神界《しんかい》のために|御苦労様《ごくらうさま》で|御座《ござ》います、どうぞ|精々《せいぜい》、|世界《せかい》のために|活動《くわつどう》して|下《くだ》さい』
|紫姫《むらさきひめ》、|嬉《うれ》しさうな|顔《かほ》つきで、
『ハア|貴方《あなた》は|竜宮《りうぐう》の|乙姫《おとひめ》|様《さま》の|生宮《いきみや》、|好《よ》い|所《ところ》でお|目《め》にかかりました。|妾《わたし》は|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》になりましてから、まだ|日《ひ》も|浅《あさ》う|御座《ござ》いますので、|何《なに》も|存《ぞん》じませぬ、|何卒《どうぞ》|老練《らうれん》な|貴女様《あなたさま》、|宜《よろ》しく|御教授《ごけうじゆ》を|願《ねが》ひます』
|黒姫《くろひめ》『アヽ|宜《よろ》しい|宜《よろ》しい、|三五教《あななひけう》でも|結構《けつこう》だ、|何《いづ》れ|私《わし》の|話《はなし》を|聞《き》いたらきつと|兜《かぶと》を|脱《ぬ》いでウラナイ|教《けう》にならねばならぬ。|発根《ほつこん》の|合点《がてん》のゆく|迄《まで》、お|前《まへ》は|矢張《やつぱり》|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》の|肩書《かたがき》をもつて|居《ゐ》なさるが|宜敷《よろし》からう、|無理《むり》にウラナイ|教《けう》に|入《はい》つて|下《くだ》さいとは|申《まを》しませぬ、|神《かみ》が|開《ひら》かにや|開《ひら》けぬぞよ、|無理《むり》に|引張《ひつぱり》には|行《い》つて|下《くだ》さるなと|大神様《おほかみさま》が|仰有《おつしや》つてござる、|心《こころ》から|発根《ほつこん》の|改心《かいしん》でなければお|蔭《かげ》はないから』
|紫姫《むらさきひめ》『|一寸《ちよつと》お|見受《みう》け|申《まを》しても、|立派《りつぱ》な|貴女《あなた》の|神格《しんかく》、|一目《ひとめ》|見《み》れば|貴女《あなた》の|奉《ほう》じたまふお|道《みち》は|優《すぐ》れて|居《を》ることは|愚《おろ》かな|妾《わたし》にも|観測《くわんそく》が|出来《でき》ます。|何卒《なにとぞ》|宜敷《よろし》く|御指導《ごしだう》を|願《ねが》ひます』
|黒姫《くろひめ》『ヤア|何《なん》と|賢明《けんめい》な|淑女《しゆくぢよ》ぢやなア、コンナ|物《もの》の|好《よ》う|分《わか》る|方《かた》が|何《ど》うして|三五教《あななひけう》のやうな|教《をしへ》に|入《はい》つたのだらう、|世《よ》の|中《なか》にはコンナ|人《ひと》がちよいちよい|隠《かく》れて|居《ゐ》るから、|何処迄《どこまで》も|探《さが》し|求《もと》めて、|誠《まこと》の|人《ひと》を|集《あつ》めねばならぬ。|誠《まこと》の|者《もの》|許《ばか》り|引《ひ》き|寄《よ》せて|大望《たいもう》な|経綸《しぐみ》を|成就《じやうじゆ》|致《いた》させるぞよとは、|大神様《おほかみさま》のお|言葉《ことば》、アヽ|恐《おそ》れ|入《い》りました。|変性男子《へんじやうなんし》の|霊様《みたまさま》、|真実《ほんと》の|根本《こつぽん》の|変性女子《へんじやうによし》の|霊様《みたまさま》、サアサア|皆様《みなさま》、|神様《かみさま》にお|礼《れい》を|申《まを》しませう』
と|黒姫《くろひめ》は|意気《いき》|揚々《やうやう》として|祝詞《のりと》を|奏上《そうじやう》し、|得意《とくい》の|色《いろ》を|満面《まんめん》に|浮《うか》べ、|鼻《はな》をぴこつかせ、|肩《かた》を|揺《ゆす》り、|歩《あゆ》み|振《ぶり》も|常《つね》とは|変《かは》つて、いそいそと|崎嶇《きく》たる|山道《やまみち》を|先《さき》に|立《た》ち、|魔窟ケ原《まくつがはら》の|隠家《かくれが》さして|一行《いつかう》|八人《はちにん》|進《すす》み|行《ゆ》く。
(大正一一・四・二五 旧三・二九 加藤明子録)
第三篇 |反間苦肉《はんかんくにく》
第七章 |神《かみ》か|魔《ま》か〔六三五〕
|四方《よも》の|山々《やまやま》|紅葉《もみぢ》して  |錦《にしき》|織《おり》なす|佐保姫《さほひめ》が
|衣《ころも》を|飾《かざ》る|秋《あき》の|空《そら》  |日脚《ひあし》|短《みじか》き|山坂《やまさか》を
|下《くだ》つて|来《きた》るウラナイの  |道《みち》の|教《をしへ》のヘボ|司《つかさ》。
|七八人《しちはちにん》の|荒男《あらをとこ》、|普甲峠《ふかふたうげ》の|麓《ふもと》の|木蔭《こかげ》に|休《やす》らひ|乍《なが》ら、|雑談《ざつだん》に|耽《ふけ》り|居《ゐ》る。
|甲《かふ》『|此《この》|頃《ごろ》の|比沼真名井《ひぬまなゐ》の|参詣者《さんけいしや》は、|随分《ずゐぶん》|沢山《たくさん》にあるではないか。|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》が|到頭《たうとう》あの|聖地《せいち》を|占領《せんりやう》して|了《しま》ひよつて、|終《しまひ》にはウラナイ|教《けう》の|高姫《たかひめ》さまの|懐刀《ふところがたな》とまで|持《も》て|囃《はや》された|青彦《あをひこ》までが、たうとう|三五教《あななひけう》へ|陥落《かんらく》して|了《しま》ひよつた。|音彦《おとひこ》、|加米彦《かめひこ》|両人《りやうにん》も|変《へん》な|奴《やつ》だが、|何時《いつ》|陥落《かんらく》するか|分《わか》りやしないぞ。|此《この》|頃《ごろ》の|高姫《たかひめ》さまや、|黒姫《くろひめ》さまの|御機嫌《ごきげん》の|悪《わる》い|事《こと》と|云《い》つたらないぢやないか。なぜあの|様《やう》に|何《なん》でもない|事《こと》にツンケンと|目《め》に|角《かど》を|立《た》てるのだらう』
|乙《おつ》『きまつた|事《こと》よ。|俺達《おれたち》は|毎日《まいにち》|日日《ひにち》、|路傍《ろばう》|宣伝《せんでん》をやつて|居《を》つても、|一《ひと》つも|土産《みやげ》がないものだから、|誰《たれ》だつて|吾々《われわれ》の|様《やう》な|喰《くら》ひ|潰《つぶ》しを、|沢山《たくさん》|養《やしな》うて|置《お》くのは|詰《つま》らぬから、|自然《しぜん》に|黒姫《くろひめ》さまだつて|御機嫌《ごきげん》が|悪《わる》くなるのは|当然《あたりまへ》だ。|何時《いつ》も|仰有《おつしや》るだらう。お|前達《まへたち》|一人《ひとり》が|一人《ひとり》づつ|信者《しんじや》を|拵《こしら》へて|来《く》れば、|十人《じふにん》で|十人《じふにん》の|信者《しんじや》が|出来《でき》る。その|信者《しんじや》が|又《また》|一人《ひとり》づつ|殖《ふ》やして|行《ゆ》けば、|別《べつ》に|宣伝使《せんでんし》がなくても、|自然《しぜん》に|教線《けうせん》が|拡《ひろ》まると|仰有《おつしや》つただらう。それに|毎日《まいにち》|日日《ひにち》、|斯《か》うして|往来《ゆきき》の|人《ひと》を|掴《つか》まへて|宣伝《せんでん》にかかつて|居《を》つても、|誰一人《たれひとり》|帰順《きじゆん》する|者《もの》がないぢやないか。|比沼《ひぬ》の|真名井《まなゐ》さまは、|三月《みつき》に|一遍《いつぺん》|位《くらゐ》|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》が|出《で》て|来《く》る|丈《だけ》だ。それに|自然《ひとりで》に|信者《しんじや》が|殖《ふ》えて|来《く》る。それだから、|要《えう》するに|吾々《われわれ》はモ|一《ひと》つどつかに|徹底《てつてい》せない|所《ところ》があるのだらう。|今日《けふ》は|何《なん》とかして、|一人《ひとり》でも|入信者《にふしんじや》を|拵《こしら》へて|帰《い》ななくては、|合《あ》はす|顔《かほ》がないぢやないか』
|丙《へい》『さうだと|言《い》つて、|来《こ》ぬ|者《もの》を|無理《むり》に|引《ひ》つ|張《ぱ》つて|帰《い》ンだ|所《ところ》で|仕方《しかた》がない。|心《こころ》の|底《そこ》から……アヽ、ウラナイ|教《けう》は|有難《ありがた》い|神様《かみさま》だと|云《い》ふ|感《かん》じを|与《あた》へてやらねば、|本当《ほんたう》の|信仰《しんかう》に|導《みちび》く|事《こと》は|出来《でき》ぬぢやないか』
|甲《かふ》『それもさうだが、|何《なん》ぞ|良《い》い|方法《はうはふ》は|有《あ》るまいかなア。|俺達《おれたち》は|一生懸命《いつしやうけんめい》に|言葉《ことば》を|尽《つく》し|教理《けうり》を|研究《けんきう》して|説《と》き|立《た》てるのだが、どうしたものか、|誰《たれ》も|彼《かれ》も|九分九厘《くぶくりん》になるとみな|逃《に》げて|了《しま》ふ。|偶《たまたま》|信者《しんじや》が|出来《でき》たと|思《おも》へば、|青彦《あをひこ》やお|節《せつ》の|様《やう》に、|直《すぐ》に|三五教《あななひけう》へ|走《はし》つて|了《しま》ふ。|本当《ほんたう》に|妙《めう》だなア』
|丁《てい》『|目的《もくてき》は|手段《しゆだん》を|選《えら》ばずと|云《い》ふ|事《こと》がある。|一《ひと》つ、|是《こ》れ|丈《だけ》チヨイチヨイ|詣《まゐ》る、|比沼《ひぬ》の|真名井《まなゐ》の|参詣者《さんけいしや》を|計略《けいりやく》を|以《もつ》て|入信《にふしん》させたらどうだ』
|乙《おつ》『|何《なん》ぞ|良《い》い|妙案《めうあん》|奇策《きさく》があるのか』
|丁《てい》『あるともあるとも、|併《しか》しお|前達《まへたち》の|様《やう》な|馬鹿正直者《ばかしやうぢきもの》では、|到底《たうてい》|出来《でき》ない|芸当《げいたう》だから、|先《ま》づ|発表《はつぺう》は|見合《みあ》はす|事《こと》にしようかい』
|丙《へい》『さうだと|言《い》つて、|今日《けふ》も|又《また》|獲物《えもの》なしに|帰《かへ》る|訳《わけ》にも|行《ゆ》かず、|日《ひ》はズツプリ|暮《く》れて|了《しま》つたなり、|内《うち》へ|帰《かへ》つて|大《おほ》きな|顔《かほ》して、|麦飯《むぎめし》も|頂《いただ》けぬぢやないか。ドンナ|手段《しゆだん》でも|構《かま》はぬ、|良《い》い|方法《はうはふ》があるなら|教《をし》へて|呉《く》れ』
|丁《てい》『|何《なん》でも|俺《おれ》の|言《い》ふ|様《やう》にするか、|俺《おれ》の|妙案《めうあん》|奇策《きさく》を|用《もち》ゐたら|成功《せいこう》|疑《うたが》ひなしだ。|天《てん》に|口《くち》あり|壁《かべ》に|耳《みみ》、|大《おほ》きな|声《こゑ》では|言《い》はれぬが、|実《じつ》は|斯《か》う|斯《か》う|斯《か》ういふ|手段《しゆだん》だ』
と|一同《いちどう》の|耳元《みみもと》に|口《くち》を|寄《よ》せ|何事《なにごと》か|囁《ささや》いた。|一同《いちどう》は、
『|合点《がつてん》だ|合点《がつてん》だ』
と|唸《うなづ》き、|大道《だいだう》の|中央《まんなか》に|五人《ごにん》の|男《をとこ》、|横《よこ》になつて|道《みち》を|塞《ふさ》ぎ、|酒《さけ》に|酔《よ》うた|気分《きぶん》で|寝転《ねころ》ンだ。|甲《かふ》|乙《おつ》|丙《へい》の|三人《さんにん》は|依然《いぜん》として|傍《かたはら》の|森林《しんりん》に|身《み》を|潜《ひそ》めて|居《ゐ》る。|日《ひ》はズツプリと|暮《く》れ、|誰彼《たれかれ》の|顔《かほ》も|見《み》えなくなつて|了《しま》つた。|向《むか》ふの|方《はう》より|男女《だんぢよ》の|二人《ふたり》、ひそひそと|囁《ささや》き|乍《なが》ら、|斯《か》かる|計略《たくみ》のありとは、|神《かみ》ならぬ|身《み》の|知《し》る|由《よし》もなく、|空《そら》の|星《ほし》や|山《やま》の|形《かたち》、|木《き》の|枝《えだ》などを|目標《めあて》に、|覚束《おぼつか》なげに|歩《あゆ》み|来《きた》り、|一人《ひとり》の|横腹《よこはら》をグツと|踏《ふ》み、『キヤツ』と|驚《おどろ》き|逃《に》げむとする|途端《とたん》に、|二人《ふたり》は|二三人《にさんにん》の|腹《はら》、|脚《あし》の|辺《あた》りを|踏《ふ》み、|辷《すべ》つてバツタリと|倒《たふ》れたり。
|丑公《うしこう》『タヽヽ|誰《たれ》ぢやい、|俺《おれ》の|睾丸《きんたま》を|踏《ふ》みよつて……|馬鹿《ばか》にしやがる』
|寅公《とらこう》『|俺《おれ》も|何処《どこ》の|奴《やつ》か、|腰《こし》を|踏《ふ》みよつた』
|辰公《たつこう》『アイタヽヽ、|腹《はら》をグサと|踏《ふ》みよつて………ヤイヤイ|何処《どこ》の|奴《やつ》だ、|人《ひと》の|体《からだ》を|土足《どそく》にかけて……|一体《いつたい》|何《なに》をするのだ。……オイ|皆《みな》の|奴《やつ》、|起《お》きぬかい、|此奴《こいつ》ア|何《なん》でも|夫婦連《めをとづれ》と|見《み》える。モウ|量見《りやうけん》ならぬ、|皆《みな》|寄《よ》つて|集《たか》つて|叩《たた》き|延《の》ばし、フン|縛《じば》つて、|宮津《みやづ》の|海《うみ》へ|放《ほ》り|込《こ》ンだろうかい』
『|賛成《さんせい》|々々《さんせい》』
と|何《いづ》れも|作《つく》り|声《ごゑ》、|滅多《めつた》|矢鱈《やたら》に|四方《しはう》|八方《はつぱう》より|叩《たた》きつける。
|男《をとこ》『コレハコレハ|誠《まこと》に|済《す》まぬ|事《こと》を|致《いた》しました。あまり|暗《くら》いものですから、|足許《あしもと》も|見《み》えず……どうぞ|御勘弁《ごかんべん》を|遊《あそ》ばして|下《くだ》さいませ』
|寅公《とらこう》『ナーニ|勘弁《かんべん》も|糞《くそ》もあるものか。|俺《おれ》を|誰《たれ》だと|思《おも》つて|居《ゐ》やがる。|大江山《おほえやま》の|鬼雲彦《おにくもひこ》の|一《いち》の|乾児《こぶん》、|鬼虎《おにとら》だぞ。モウ|斯《か》うなる|以上《いじやう》は|何《なん》と|云《い》つたつて、|叩《たた》き|延《の》ばし、|大江山《おほえやま》の|本城《ほんじやう》へ|連《つ》れ|帰《かへ》り、|手足《てあし》をもぎ|取《と》り、|酒《さけ》の|肴《さかな》にしてやるか、さもなくば|海《うみ》へぶち|込《こ》むか、|二《ふた》つに|一《ひと》つだ、……オイ|兄弟《きやうだい》、|俺達《おれたち》に|無礼《ぶれい》を|加《くは》へた|代物《しろもの》だ、|此奴《こいつ》|二人《ふたり》|共《とも》|殺《や》つて|了《しま》へ』
『ヨーシ』
と|又《また》もや|無性《むしやう》|矢鱈《やたら》に|叩《たた》く、|踏《ふ》む、|蹴《け》る、|有《あ》らむ|限《かぎ》りの|打擲《ちやうちやく》をやつて|居《ゐ》る。|女《をんな》は|悲鳴《ひめい》を|揚《あ》げ、
『|人殺《ひとごろ》しイ |人殺《ひとごろ》しイ』
|丑公《うしこう》『ナーニ、|人殺《ひとごろ》しとは|貴様《きさま》の|事《こと》だ、スツテの|事《こと》で|俺《おれ》を|踏《ふ》み|殺《ころ》さうとしやがつたぢやないか。まかり|違《ちが》へば|俺達《おれたち》が|殺《ころ》される|所《ところ》だ。|殺《ころ》すか、|殺《ころ》されるか、どちらかが|死《し》ぬのだ、モウ|斯《か》うなる|以上《いじやう》は|何《なん》と|云《い》つても、|思《おも》ふ|存分《ぞんぶん》|制敗《せいばい》をしてやらう』
|男《をとこ》『お|腹《はら》が|立《た》ちませうが、|知《し》らず|知《し》らずの|不調法《ぶてうはふ》、どうぞ|今度《こんど》ばかりはお|見逃《みのが》し|下《くだ》さいませ』
|寅公《とらこう》『ヤア|何《なん》と|言《い》つても|一度《いちど》|量見《りやうけん》ならぬと|言《い》つたら、|金輪奈落《こんりんならく》の|底《そこ》|迄《まで》|量見《りやうけん》ならぬのだ。オイ|皆《みな》の|奴《やつ》、|槍《やり》だ、|刀《かたな》だ、|早《はや》く|持《も》つて|来《こ》い。………コラ|夫婦《ふうふ》の|奴《やつ》、|貴様《きさま》が|来《く》ると|思《おも》つて|最前《さいぜん》から、|数十人《すうじふにん》の|手下《てした》を|四辺《あたり》の|森林《しんりん》に|忍《しの》ばせ、|待《ま》つて|居《ゐ》た』
と|二人《ふたり》の|男女《だんぢよ》に|向《むか》つて|殻竿勝《からざをがち》の|様《やう》に|叩《たた》きつける。|夫婦《ふうふ》は|悲鳴《ひめい》をあげ、
『|助《たす》けて|呉《く》れイ |助《たす》けて|呉《く》れイ』
と|声《こゑ》を|限《かぎ》りに|泣《な》き|叫《さけ》ぶ。|忽《たちま》ち|此《この》|場《ば》に|現《あら》はれた|二三人《にさんにん》の|大男《おほをとこ》、
『ヤアヤア|吾《われ》こそはウラナイ|教《けう》の|宣伝使《せんでんし》だ。|大江山《おほえやま》の|鬼雲彦《おにくもひこ》が|家来《けらい》の|奴輩《やつばら》、|仮令《たとへ》|何百人《なんびやくにん》|一度《いちど》に|攻《せ》め|来《きた》る|共《とも》、ウラナイ|教《けう》の|神《かみ》の|神力《しんりき》を|以《もつ》て、|汝《なんじ》|悪魔《あくま》の|一群《ひとむれ》、|片《かた》つ|端《ぱし》から|滅《ほろぼ》し|呉《く》れむ、|覚悟《かくご》を|致《いた》せ』
|寅公《とらこう》『|何《なに》|猪口才《ちよこざい》な、|何程《なにほど》|神力《しんりき》があると|言《い》つても、|多寡《たくわ》が|知《し》れた|二人《ふたり》や|三人《さんにん》の|木端武者《こつぱむしや》、|味方《みかた》は|殆《ほとん》ど|百人《ひやくにん》、グヅグヅ|吐《ぬか》さず、|一時《いつとき》も|早《はや》く|此《この》|場《ば》を|立去《たちさ》れツ。|吾々《われわれ》に|無礼《ぶれい》を|働《はたら》いた|二人《ふたり》の|男女《だんぢよ》、|是《こ》れより|制敗《せいばい》する|所《ところ》だ。|俺達《おれたち》の|行動《かうどう》を|妨《さまた》ぐると、|汝等《なんぢら》|諸《もろ》|共《とも》|手足《てあし》を|縛《しば》り|大江山《おほえやま》の|本城《ほんじやう》へ|連《つ》れ|帰《かへ》り、|五体《ごたい》をグタグタに|切《き》つて|切《き》つて|切《き》り|屠《はふ》り、|酒《さけ》の|肴《さかな》にして|呉《く》れむ、|覚悟《かくご》を|致《いた》せ』
|大男《おほをとこ》『ハヽヽヽ、|何《なに》を|吐《ぬか》しやがる、|何《なに》ほど|鬼雲彦《おにくもひこ》の|家来《けらい》、|仮令《たとへ》|百万《ひやくまん》|千万《せんまん》|一度《いちど》に|攻《せ》め|寄《よ》せ|来《きた》る|共《とも》、ウラナイ|教《けう》の|神力《しんりき》、|唯《ただ》|一本《いつぽん》の|指先《ゆびさき》にて、|汝等《なんぢら》を|縦横無尽《じうわうむじん》に|斬《き》り|立《た》て|薙立《なぎた》て、|海《うみ》の|藻屑《もくづ》と|致《いた》し|呉《く》れむ、|覚悟《かくご》を|致《いた》せ』
|辰公《たつこう》『ヤアヤア|家来《けらい》の|奴輩《やつばら》、|此《この》|両人《りやうにん》は|申《まを》すに|及《およ》ばず、|邪魔《じやま》ひろぐウラナイ|教《けう》の|三人《さんにん》の|奴輩《やつばら》、|四方《しはう》より|取囲《とりかこ》み、|槍《やり》を|以《もつ》て|唯《ただ》|一突《ひとつ》き、|大江山《おほえやま》の|本城《ほんじやう》へ|一時《いちじ》も|早《はや》く|連《つ》れ|帰《かへ》れ』
|一人《ひとり》の|男《をとこ》、|暗《くら》がりより、
|男《をとこ》『ヤア|鬼《おに》の|奴輩《やつばら》、ウラナイ|教《けう》の|言霊《ことたま》を|喰《くら》つて|見《み》よ、|手《て》も|足《あし》もビクとも|致《いた》さぬ|様《やう》に、|霊縛《れいばく》を|加《くは》へて|呉《く》れむ。|一《ひと》|二《ふた》|三《み》|四《よ》|五《いつ》|六《むゆ》|七《なな》|八《や》|九《ここの》|十《たり》|百《もも》|千《ち》|万《よろづ》』
|丑《うし》、|寅《とら》を|始《はじ》め|五人《ごにん》の|男《をとこ》、
『アイタヽヽ。|痛《いた》いワ|痛《いた》いワ、|手《て》も|足《あし》も|石地蔵《いしぢざう》の|様《やう》になつて|動《うご》きよらぬ………オイもしウラナイ|教《けう》の|大先生《だいせんせい》|達《たち》、|如何《いか》なる|鬼《おに》の|乾児《こぶん》の|吾々《われわれ》も|是《こ》れには|閉口《へいこう》|致《いた》します。|偉《えら》い|御神力《ごしんりき》だ。どうぞ|霊縛《れいばく》を|解《と》いて|下《くだ》さい。|決《けつ》して|決《けつ》してモウ|貴方等《あなたがた》には|相手《あひて》にはなりませぬ、|併《しか》し|乍《なが》ら|此《この》|二人《ふたり》の|男女《だんぢよ》は|吾々《われわれ》を|土足《どそく》にかけた|無礼者《ぶれいもの》、これ|丈《だけ》はどうしても|貰《もら》うて|帰《かへ》ります』
|暗中《あんちう》より、
『まださう|云《い》ふ|事《こと》を|吐《ぬか》すと、|今度《こんど》は|言霊《ことたま》の|神力《しんりき》に|依《よ》つて、|汝《なんぢ》が|五体《ごたい》をグタグタに|解体《かいたい》しよか。サアどうぢや、|一《ひと》|二《ふた》|三《み》|四《よ》…………』
『アイタヽヽ、ヤア|叶《かな》はぬ|叶《かな》はぬ、どうぞ|勘忍《かんにん》して|下《くだ》さいませ』
|暗《くら》がりより、
『ソンナラ|汝《なんぢ》を|赦《ゆる》して|遣《つか》はす。|二人《ふたり》を|此処《ここ》に|残《のこ》して|一時《いつとき》も|早《はや》く|此《この》|場《ば》を|立去《たちさ》れ…………ヤイヤイ|森《もり》の|中《なか》の|数百人《すうひやくにん》の|鬼《おに》の|眷族《けんぞく》|共《ども》、|手足《てあし》が|動《うご》かなくなつて|物《もの》も|言《い》へず、|憐《あは》れな|者《もの》だ。|此《この》|方《はう》が|今日《けふ》は|特別《とくべつ》を|以《もつ》て|赦《ゆる》してやらう。|黙《だま》つてサツサと|大江山《おほえやま》へ|帰《かへ》つて|行《ゆ》け…………ヤイそこな|腰抜《こしぬけ》|共《ども》、|貴様《きさま》も|早《はや》く|立去《たちさ》らぬか』
|寅《とら》、|丑《うし》、|鷹《たか》、|辰《たつ》、|鳶《とび》、|一時《いちじ》に|泣《な》き|声《ごゑ》を|出《だ》して、
『|逃《に》げと|仰有《おつしや》つても、|手《て》も|足《あし》も、チツトも|動《うご》きませぬ。どうぞ|霊縛《れいばく》を|解《と》いて|下《くだ》さいませ』
|暗《くら》がりより、
『オヽさうだつたな、|貴様《きさま》|丈《だけ》を|忘《わす》れて|居《を》つた。サア|霊縛《れいばく》を|解《と》いてやる、|一《ひと》|二《ふた》|三《み》|四《よ》………これで|結構《けつこう》だ、サア|早《はや》く|逃《に》げ|帰《かへ》らう』
|五人《ごにん》|一度《いちど》に、
『|有難《ありがた》う|御座《ござ》います、モウ|此《こ》れ|限《き》り|悪《わる》い|事《こと》は|致《いた》しませぬ。なンとウラナイ|教《けう》は|偉《えら》い|御神力《ごしんりき》で|御座《ござ》います、|恐《おそ》れ|入《い》りました』
|暗《くら》がりより、
『エー|四《し》の|五《ご》の|吐《ぬか》さず、トツトと|帰《かへ》れ』
|忽《たちま》ち|五人《ごにん》の|影《かげ》は|足音《あしおと》|立《た》てて|一生懸命《いつしやうけんめい》、|西方《せいはう》|指《さ》して|走《はし》つて|行《ゆ》く。|暗《くら》がりより|三人《さんにん》|一度《いちど》に、
『ハヽヽヽ|人《ひと》の|恐《おそ》れる|悪逆無道《あくぎやくぶだう》の|鬼神《おにがみ》|共《ども》、|脆《もろ》いものだ。とうと|御神力《ごしんりき》にくたばりよつたワイ。モシモシ|旅《たび》のお|方《かた》、|偉《えら》い|危《あぶ》ない|事《こと》で|御座《ござ》いました。お|怪我《けが》はありませぬか』
|男《をとこ》『ハイ|有難《ありがた》う|御座《ござ》います。|私《わたくし》は|弥仙山《みせんざん》の|麓《ふもと》に|住居《すまゐ》|致《いた》す、|綾彦《あやひこ》と|申《まを》す|者《もの》、|一人《ひとり》は|私《わたくし》の|女房《にようばう》のお|民《たみ》と|申《まを》します。|比沼《ひぬ》の|真名井ケ原《まなゐがはら》へ|参詣《さんけい》を|致《いた》し、|途中《とちう》に|日《ひ》を|暮《く》らし、|由良《ゆら》の|湊《みなと》まで|行《い》つて|宿《やど》をとらうと|思《おも》ひ、|此処《ここ》までやつて|来《き》ました|所《ところ》、|大江山《おほえやま》の|鬼共《おにども》に|取囲《とりかこ》まれ、|生命《いのち》を|夫婦《ふうふ》|共《とも》|取《と》られようとする、|危急《ききふ》|存亡《そんばう》の|場合《ばあひ》、お|助《たす》け|下《くだ》さいましてコンナ|有難《ありがた》い|事《こと》が、|天《てん》にも|地《ち》にも|御座《ござ》いませうか。|此《この》|御恩《ごおん》を|如何《どう》して|返《かへ》したら|宜《よろ》しう|御座《ござ》いませうか』
お|民《たみ》『|誠《まこと》に|誠《まこと》に、|危《あやふ》い|所《ところ》、|生命《いのち》を|拾《ひろ》うて|下《くだ》さいまして……|貴方《あなた》|様《さま》は、|吾々《われわれ》|夫婦《ふうふ》が|生命《いのち》の|親《おや》で|御座《ござ》います。|御恩《ごおん》|返《がへ》しには、|如何《いか》なる|事《こと》でも|仰《あふ》せ|付《つ》け|下《くだ》さいませ。|夫婦《ふうふ》の|者《もの》が|力《ちから》の|尽《つく》せる|限《かぎ》り|御用《ごよう》を|致《いた》します』
|暗《くら》がりより、
『|私《わたくし》はウラナイ|教《けう》の|者《もの》で|御座《ござ》います。|浅《あさ》、|幾《いく》、|梅《うめ》と|申《まを》す|三人《さんにん》の|者《もの》。あなたも|是《こ》れから|神様《かみさま》の|御恩報《ごおんはう》じに、|無《な》い|生命《いのち》だと|思《おも》つて、ウラナイ|教《けう》の|道《みち》に|入《い》り、|神様《かみさま》の|為《ため》にお|働《はたら》きなさい。それが|一番《いちばん》、|吾々《われわれ》に|対《たい》する|恩返《おんがへ》し……また|神様《かみさま》に|対《たい》する|孝行《かうかう》と|申《まを》すもの、………』
|綾彦《あやひこ》、お|民《たみ》|一時《いちじ》に|涙声《なみだごゑ》、
『ハイ|有難《ありがた》う|御座《ござ》います。モウ|斯《か》うなる|以上《いじやう》は|無《な》い|生命《いのち》を|拾《ひろ》つて|貰《もら》うたので|御座《ござ》いますから、|仰《あふ》せに|従《したが》ひます、|如何様《いかやう》の|事《こと》なつと|仰《あふ》せつけ|下《くだ》さいませ』
|浅公《あさこう》『ヤアよしよし、|承知《しようち》|致《いた》した。サア|是《こ》れから|吾々《われわれ》が|館《やかた》へお|越《こ》しなさい。|斯《か》う|云《い》ふ|所《ところ》にグヅグヅして|居《を》ると、|又《また》|剣呑《けんのん》です。|私達《わたしたち》は|急《いそ》いで|帰《かへ》らねばなりませぬから、あなたも|一緒《いつしよ》にお|越《こ》し|下《くだ》さい、|何時《なんどき》|蒸《む》し|返《かへ》しに|来《く》るかも|知《し》れませぬよ』
|夫婦《ふうふ》『それはそれは|有難《ありがた》う|御座《ござ》います。|生命《いのち》を|助《たす》けて|戴《いただ》いた|上《うへ》に、|又《また》|今晩《こんばん》|御世話《おせわ》になるので|御座《ござ》いますか』
|浅公《あさこう》『|何《なに》、ソンナ|御心配《ごしんぱい》はチツトも|要《い》らない。|世界《せかい》の|人《ひと》を|普《あまね》く|救《すく》ふのが、ウラナイ|教《けう》の|神様《かみさま》の|御趣旨《ごしゆし》だ。サアサア|帰《かへ》りませう』
|夫婦《ふうふ》『|有難《ありがた》う|御座《ござ》います。|然《しか》らばあなた|様《さま》|方《がた》の|御厄介《ごやくかい》に|与《あづか》りませうか』
|浅公《あさこう》『チツとも|遠慮《ゑんりよ》は|要《い》らぬ、サアお|出《いで》なさい。あなたは|道《みち》の|勝手《かつて》も|知《し》らないし、マンなかをお|出《い》でなさい。|吾々《われわれ》は|後先《あとさき》を|警護《けいご》して|上《あ》げませう』
|夫婦《ふうふ》『|何《なに》から|何《なに》まで|御親切《ごしんせつ》に……|何時《いつ》の|世《よ》にかは|忘《わす》れませう。|是《こ》れと|云《い》ふのも、|真名井《まなゐ》の|神様《かみさま》のおかげ……』
|浅公《あさこう》『コレコレ|御夫婦《ごふうふ》、|今《いま》|何《なん》と|仰有《おつしや》つた、|真名井《まなゐ》の|神様《かみさま》のお|蔭《かげ》と|云《い》はれましたが、|真名井《まなゐ》の|神様《かみさま》にお|蔭《かげ》があるなら、|参拝《さんぱい》した|下向《げかう》の|途《みち》に、コンナ|災難《さいなん》に|遭《あ》ふ|筈《はず》がないぢやありませぬか。もしも|吾々《われわれ》ウラナイ|教《けう》の|取次《とりつぎ》が|来《こ》なかつたならば、あなたは、それこそ|大変《たいへん》な|目《め》に|遇《あ》つて|居《を》るのですよ。モウ|真名井《まなゐ》さまの|事《こと》はスツカリと|思《おも》ひ|切《き》つて、|私《わたくし》|達《たち》の|信《しん》ずるウラナイ|教《けう》へ|入信《にふしん》しさい』
|夫婦《ふうふ》『|入信《にふしん》|指《さ》して|下《くだ》さいますか、|有難《ありがた》う|御座《ござ》います』
と|三人《さんにん》の|中《なか》に|挟《はさ》まれ、|薄明《うすあか》りの|道《みち》をトボトボと、|魔窟ケ原《まくつがはら》|指《さ》して|誘《いざな》はれ|行《ゆ》く。|魔窟ケ原《まくつがはら》の|中途《なかば》|迄《まで》|帰《かへ》り|来《く》る|折《をり》しも|以前《いぜん》の|丑《うし》、|寅《とら》、|鷹《たか》、|辰《たつ》、|鳶《とび》の|五人《ごにん》、
『ヤアこれは、|浅公《あさこう》、|幾公《いくこう》、|梅公《うめこう》、|御苦労《ごくらう》で|御座《ござ》いました。|今《いま》|私《わたくし》|達《たち》が|御神前《ごしんぜん》で|御祈願《ごきぐわん》をして|居《を》りました|所《ところ》、|普甲峠《ふかふたうげ》の|麓《ふもと》に|大江山《おほえやま》の|鬼雲彦《おにくもひこ》の|眷族《けんぞく》|数多《あまた》|現《あら》はれ、|二人《ふたり》の|旅人《たびびと》を|捕《とら》まへて|無体《むたい》の|乱暴《らんばう》、|既《すで》に|生命《いのち》まで|奪《と》らむと|致《いた》して|居《を》るのが|天眼《てんがん》に|映《うつ》りました。ヤアこら|大変《たいへん》だと、|又《また》もや|天眼通《てんがんつう》を|光《ひか》らかし|見《み》れば、|森蔭《もりかげ》に|潜《ひそ》む|百人《ひやくにん》|余《あま》りの|鬼《おに》の|手下《てした》|共《ども》、ヤア|此奴《こいつ》ア|助《たす》けねばなるまいと|気《き》を|焦《いら》てど、|何分《なにぶん》|遠隔《ゑんかく》の|土地《とち》、そこへ|天眼《てんがん》に|映《えい》じたのはあなた|方《がた》|三人《さんにん》、|二人《ふたり》の|叫《さけ》び|声《ごゑ》を|聞《き》きつけ、|韋駄天《ゐだてん》|走《ばし》りに|駆《かけ》つけるのが|見《み》えた|時《とき》の|嬉《うれ》しさ、|吾々《われわれ》|五人《ごにん》は|神前《しんぜん》より|一生懸命《いつしやうけんめい》に|霊縛《れいばく》をかけると、|鬼《おに》の|手下《てした》の|奴《やつ》|共《ども》、|身体《しんたい》|強直《きやうちよく》し|苦《くるし》み|悶《もだ》へる|可笑《をか》しさ、|蜘蛛《くも》の|子《こ》を|散《ち》らすが|如《ごと》く|逃《に》げ|失《う》せよつた。あの|時《とき》に|吾々《われわれ》が、|此方《こちら》から|応援《おうゑん》せなかつたら、|随分《ずゐぶん》|貴方等《あなたがた》も|危《あやふ》いものであつた』
|浅《あさ》、|幾《いく》、|梅《うめ》の|三人《さんにん》、
『それは|御苦労《ごくらう》でした。|併《しか》しさう|仰《おつしや》ると、|吾々《われわれ》の|働《はたら》きはサツパリ ゼロの|様《やう》に|聞《きこ》えますなア』
|寅公《とらこう》『イヤ|決《けつ》して|決《けつ》して、あなた|方《がた》が|居《を》つて|呉《く》れたばつかりに、|此方《こちら》の|鎮魂《ちんこん》が|利《き》いたのだ。|全《まつた》くはあなた|方《がた》|三人《さんにん》の|功績《こうせき》が|九分九厘《くぶくりん》だ。……ヤア|其処《そこ》に|御座《ござ》るお|二人《ふたり》の|方《かた》、|霊眼《れいがん》で|見《み》た|通《とほ》りだ。|能《よ》うマア|貴方《あなた》、|助《たす》けて|貰《もら》ひなさつた。|型《かた》の|良《い》い|方《かた》だ。サアサア|吾々《われわれ》の|本拠《ほんきよ》へお|越《こ》しなさいませ』
|夫婦《ふうふ》『これはこれは、あなた|方《がた》はウラナイ|教《けう》のお|方《かた》で|御座《ござ》いますか、いかい|御世話《おせわ》になりました。どうぞ|宜《よろ》しうお|頼《たの》み|申《まを》します』
|寅公《とらこう》『ヤア|何事《なにごと》も|神様《かみさま》の|御引合《おひきあは》せだ。モウ|斯《か》うなつては|兄弟《きやうだい》も|同様《どうやう》だ。|何《なん》の|隔《へだ》ても、|遠慮《ゑんりよ》も|要《い》らぬ。|互《たがひ》に|心《こころ》を|打明《うちあ》けて|神様《かみさま》の|為《ため》に|働《はたら》きませう。|御大将《おんたいしやう》の|黒姫《くろひめ》|様《さま》や、|高山彦《たかやまひこ》さまも|大変《たいへん》に|御喜《およろこ》びなさいませう』
|夫婦《ふうふ》『あなた|方《がた》の|御大将《おんたいしやう》が|御座《ござ》いますのか』
|寅公《とらこう》『ヘエヘエ、|有《あ》りますとも、それはそれは|立派《りつぱ》な、|偉《えら》い|方《かた》ですよ。|吾々《われわれ》は|影《かげ》も|踏《ふ》めぬ|位《くらゐ》な|者《もの》です。サアサア|今日《けふ》の|吾々《われわれ》の|手柄《てがら》を、|一《ひと》つ|帰《かへ》つて|御大将《おんたいしやう》に|報告《はうこく》|致《いた》しませう』
|夫婦《ふうふ》『どうぞ|宜《よろ》しう、あなた|方《がた》から|御頼《おたの》み|下《くだ》さいませ』
|寅公《とらこう》『ヤア|心配《しんぱい》なさるな。|神《かみ》の|道《みち》は|結構《けつこう》なものですよ。|一寸《ちよつと》|会《あ》うても|十年《じふねん》の|知己《ちき》の|様《やう》なものです……サアサア|行《ゆ》かう』
と|十人《じふにん》の|同勢《どうぜい》は|地底《ちてい》の|岩窟《がんくつ》|指《さ》して|帰《かへ》り|行《ゆ》く。
(大正一一・四・二五 旧三・二九 松村真澄録)
第八章 |蛙《かはづ》の|口《くち》〔六三六〕
|黄金《こがね》の|峰《みね》と|聞《きこ》えたる  |弥仙《みせん》の|山《やま》の|麓辺《ふもとべ》に
|此《この》|世《よ》を|忍《しの》ぶ|豊彦《とよひこ》が  |娘《むすめ》お|玉《たま》の|訝《いぶ》かしや
|去年《こぞ》の|秋《あき》よりブクブクと  |息《いき》も|苦《くる》しく|日《ひ》に|月《つき》に
むかつき|出《だ》した|布袋腹《ほていばら》  |豊彦《とよひこ》|夫婦《ふうふ》は|日《ひ》に|夜《よる》に
|心《こころ》を|痛《いた》め|木《こ》の|花《はな》の  |神《かみ》に|願《ねがひ》を|掛巻《かけま》くも
|畏《かしこ》き|神《かみ》の|夢《ゆめ》の|告《つ》げ  |真名井ケ原《まなゐがはら》に|現《あ》れませる
|豊国姫《とよくにひめ》の|大神《おほかみ》の  |御許《みもと》に|綾彦《あやひこ》お|民《たみ》をば
|一日《ひとひ》も|早《はや》く|参《まゐ》らせよ  |天地《あめつち》かぬる|大神《おほかみ》の
|貴《うづ》の|御霊《みたま》の|御心《みこころ》と  |諭《さと》し|給《たま》ふと|見《み》るうちに
|忽《たちま》ち|夢《ゆめ》は|破《やぶ》られて  |雨戸《あまど》を|叩《たた》く|雨《あめ》の|音《おと》
|秋《あき》の|木《こ》の|葉《は》の|凩《こがらし》に  |吹《ふ》かれて|落《お》つる|騒《さわ》がしさ
|夜《よ》も|漸《やうや》くに|明《あ》けぬれば  |兄《あに》の|綾彦《あやひこ》|妻《つま》お|民《たみ》
|二人《ふたり》に|命《めい》じて|逸早《いちはや》く  |時《とき》を|移《うつ》さず|豊国姫《とよくにひめ》の
|珍《うづ》の|命《みこと》の|御前《おんまへ》に  |参向《さんかう》せよと|命《めい》ずれば
|正直《しやうぢき》|一途《いちづ》の|孝行者《かうかうもの》  |親《おや》の|言葉《ことば》を|大地《だいち》より
|重《おも》しと|仰《あふ》ぎ|夫婦《ふうふ》|連《づ》れ  |草蛙脚絆《わらぢきやはん》の|扮装《いでたち》に
|若草山《わかくさやま》を|乗《の》り|越《こ》えて  |空《そら》も|真倉《まくら》の|谷径《たにみち》を
|進《すす》み|進《すす》みて|一本木《いつぽんぎ》  |田辺《たなべ》、|丸八江《まるやえ》、|由良《ゆら》の|川《かは》
|息《いき》も|切戸《きれど》の|文珠堂《もんじゆだう》  |天《あま》の|橋立《はしだて》|右《みぎ》に|見《み》て
|親《おや》の|言葉《ことば》に|一言《ひとこと》も  |小言《こごと》は|互《たがひ》に|岩淵《いはふち》や
|広野《ひろの》を|過《す》ぎて|五箇《ごか》の|庄《しやう》  |比治山峠《ひぢやまたうげ》の|峰《みね》|続《つづ》き
|比沼《ひぬ》の|真名井《まなゐ》の|神霊地《しんれいち》  |瑞《みづ》の|宝座《ほうざ》に|参拝《さんぱい》し
|草《くさ》の|枕《まくら》も|数《かず》|重《かさ》ね  |普甲峠《ふかふたふげ》の|麓《ふもと》まで
すたすた|帰《かへ》る|二人連《ふたりづ》れ  |忽《たちま》ち|暮《く》るる|秋《あき》の|空《そら》
|黒雲《くろくも》|低《ひく》う|塞《ふさ》がりて  |心《こころ》は|暗《やみ》に|怖々《おぢおぢ》と
|帰《かへ》り|来《きた》れる|道《みち》の|上《うへ》  |思《おも》はず|躓《つまづ》く|人《ひと》の|影《かげ》
|忽《たちま》ち|五人《ごにん》の|荒男《あらをとこ》  |前後左右《ぜんごさいう》に|立《た》ち|上《あが》り
|殺《ころ》して|呉《く》れむと|呶鳴《どな》りつつ  |打《う》つやら|蹴《け》るやら|殴《なぐ》るなら
|綾彦《あやひこ》お|民《たみ》は|声《こゑ》|限《かぎ》り  |助《たす》けて|呉《く》れえと|叫《さけ》ぶ|声《こゑ》
|聞《き》くより|忽《たちま》ち|暗《くら》がりに  |現《あら》はれ|出《い》でた|大男《おほをとこ》
ウラナイ|教《けう》の|言霊《ことたま》に  |悪者《わるもの》|共《ども》を|追《お》ひ|散《ち》らし
|綾彦《あやひこ》お|民《たみ》を|伴《ともな》ひて  |魔窟ケ原《まくつがはら》の|岩窟《いはやど》に
|意気《いき》|揚々《やうやう》と|帰《かへ》り|行《ゆ》く  |道《みち》に|出会《であ》うた|五人連《ごにんづ》れ
|手柄話《てがらばなし》の|花《はな》|咲《さ》かし  |土産《みやげ》|沢山《たつぷり》|黒姫《くろひめ》が
|隠家《かくれが》|指《さ》して|帰《かへ》り|行《ゆ》く。
|浅《あさ》、|幾《いく》の|両人《りやうにん》は|例《れい》の|岩蓋《いはぶた》を|剥《めく》つて|一行《いつかう》|十人《じふにん》と|共《とも》に|滑《すべ》り|入《い》る。
|浅公《あさこう》『|高山彦《たかやまひこ》|様《さま》、|黒姫《くろひめ》|様《さま》、|只今《ただいま》|帰《かへ》りました』
|黒姫《くろひめ》『ヤア、お|前《まへ》は|浅公《あさこう》か、ヤ、|幾公《いくこう》、|梅公《うめこう》、えらう|遅《おそ》いぢやないか、|何《なに》をして|居《を》つたのだい、|何時《いつ》までも|日《ひ》が|暮《く》れてから|其処《そこ》らをブラブラ|歩《ある》いて|居《を》ると、|大江山《おほえやま》の|鬼《おに》の|眷族《けんぞく》と|間違《まちが》へられるから、|日《ひ》が|暮《く》れたら|直《すぐ》に|帰《かへ》つて|来《く》るのだよ、|今日《けふ》は|又《また》えらい|遅《おそ》い|事《こと》ぢやないか、ヤ、|今日《けふ》は|見馴《みなれ》ぬ|方《かた》がお|二人《ふたり》、これや|又《また》|如何《どう》ぢや、えらう|頭《あたま》の|髪《かみ》も|乱《みだ》れて|居《ゐ》る、|何《なに》かこれには|様子《やうす》でもあるのかな』
|幾公《いくこう》『これに|就《つ》いて|色々《いろいろ》の|苦心話《くしんばなし》が|御座《ござ》います、それが|為《ため》に|今日《けふ》は|吾々《われわれ》|一同《いちどう》の|者《もの》が|遅《おそ》くなりました、|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》|数多《あまた》の|人民《じんみん》を|迷《まよ》はすに|依《よ》つて、|吾々《われわれ》は|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》を|見《み》つけ|出《だ》し、|天地《てんち》の|道理《だうり》を|説《と》き|聞《き》かせ|帰順《きじゆん》させむものと|普甲峠《ふかふたふげ》を|降《くだ》つて|来《き》ました。|暗《くら》さは|暗《くら》し、|風《かぜ》はピユーピユーと|吹《ふ》いて|来《く》る、|浪《なみ》|立《た》ち|騒《さわ》ぐ|海原《うなばら》は|太鼓《たいこ》の|様《やう》な|音《おと》をたててイヤもう|凄《すさま》じい|光景《くわうけい》、|忽《たちま》ち|騒《さわ》がしい|物音《ものおと》、|何事《なにごと》ならむと|吾々《われわれ》|一同《いちどう》は|耳《みみ》をすまして|聞《き》き|居《を》れば「|人殺《ひとごろ》し|人殺《ひとごろ》し、|助《たす》けて|呉《く》れえ」との|嫌《いや》らしい|声《こゑ》が|聞《きこ》えて|来《く》る、ア、これや|大変《たいへん》だ、|人《ひと》を|助《たす》けるのがウラナイ|教《けう》の|神《かみ》の|教《をしへ》、|吾《わが》|身《み》は|如何《どう》なつても|構《かま》はぬ、|仮令《たとへ》|大江山《おほえやま》の|鬼《おに》の|餌食《ゑじき》にならうとも|神《かみ》に|仕《つか》ふる|吾々《われわれ》、|此《この》|悲鳴《ひめい》を|聞《き》いて|如何《どう》して|捨《す》てて|帰《かへ》れようか、|人《ひと》を|助《たす》くるは|宣伝使《せんでんし》の|役《やく》と、|生命《いのち》を|的《てき》に|声《こゑ》する|方《はう》に|窺《うかが》ひ|寄《よ》り|見《み》れば、|案《あん》に|違《たが》はぬ|百人《ひやくにん》|近《ちか》くの|鬼雲彦《おにくもひこ》が|眷族《けんぞく》の|者共《ものども》、|覆面《ふくめん》|頭巾《づきん》の|扮装《いでたち》、|槍《やり》、|薙刀《なぎなた》に|棍棒《こんぼう》、|刺股《さすまた》|氷《こほり》の|刃《やいば》、|暗《やみ》に|閃《ひらめ》かし|十重二十重《とへはたへ》に|取《と》り|囲《かこ》み、|中《なか》で|二人《ふたり》の|男女《だんぢよ》を|捕《とら》へて|四五人《しごにん》の|男《をとこ》、|打《う》つ|蹴《け》る|殴《なぐ》るの|乱暴狼藉《らんばうろうぜき》、|大江山《おほえやま》の|砦《とりで》に|連《つ》れ|帰《かへ》りバラモン|教《けう》の|神《かみ》の|贄《いけにへ》にせむとの|企《たく》み、と|覚《さと》つた|吾々《われわれ》は|矢《や》も|楯《たて》も|堪《たま》らず、|一生懸命《いつしやうけんめい》|熱湯《ねつたう》の|汗《あせ》を|絞《しぼ》り、ウラナイ|教《けう》の|大神様《おほかみさま》、|何卒々々《なにとぞなにとぞ》この|旅人《たびびと》が|生命《いのち》を|救《すく》はせ|玉《たま》へ、|吾々《われわれ》の|生命《いのち》はたとへ|無《な》くなつても、と|幸魂《さちみたま》を|極端《きよくたん》に|発揮《はつき》し|暗祈黙祷《あんきもくたう》すれば、アーラ|不思議《ふしぎ》や|吾《わが》|身体《しんたい》に|忽《たちま》ち|降《くだ》り|給《たま》ふ|天津神《あまつかみ》|国津神《くにつかみ》|八百万《やほよろづ》の|神《かみ》|等《たち》、|日《ひ》の|出神《でのかみ》を|先頭《せんとう》に|竜宮《りうぐう》の|乙姫《おとひめ》、|吾々《われわれ》|三人《さんにん》が|肉体《にくたい》に|懸《かか》らせ|給《たま》ひ、|天地《てんち》に|轟《とどろ》く|言霊《ことたま》の|声《こゑ》、|一《ひと》|二《ふた》|三《み》|四《よ》と|皆《みな》まで|言《い》はずに、さしも|強力無双《がうりきむさう》の|鬼雲彦《おにくもひこ》が|手下《てした》|共《ども》、|朝日《あさひ》に|露《つゆ》の|消《き》ゆるが|如《ごと》く、|魂《たましひ》|奪《うば》はれ|骨《ほね》は|砕《くだ》けて|生命《いのち》|惜《を》しさに|涙《なみだ》と|共《とも》に|頼《たの》み|入《い》る。|思《おも》へば|憎《に》つくき|奴《やつ》なれど、|彼等《かれら》と|雖《いへど》も|元《もと》は|神《かみ》の|分霊《わけみたま》、|善《ぜん》を|助《たす》け|悪《あく》を|許《ゆる》すは|大神《おほかみ》の|慈悲《じひ》、と|心《こころ》の|裡《うち》に|見直《みなほ》し|宣《の》り|直《なほ》せば、|百《ひやく》に|余《あま》る|豪傑《がうけつ》どもは、チウの|声《こゑ》も|能《よ》う|立《た》てず|足音《あしおと》を|忍《しの》ばせ|乍《なが》ら、|風《かぜ》の|如《ごと》く|魔《ま》の|如《ごと》く|水泡《みなわ》と|消《き》えてやみの|中《なか》、そこで|吾々《われわれ》|八人《はちにん》は|予《かね》ての|計略《けいりやく》、オツト、ドツコイ……|計略《けいりやく》を|以《もつ》て|旅人《たびびと》を|苦《くる》しめむと|致《いた》す|鬼《おに》|共《ども》に、|言霊《ことたま》の|鉄鎚《てつつゐ》を|加《くは》へ|今後《こんご》を|戒《いまし》め|置《お》き|二人《ふたり》のこれなる|夫婦《ふうふ》を|救《すく》ひ|花々《はなばな》しく|立《た》ち|帰《かへ》つて|候《さふらふ》』
|黒姫《くろひめ》『ヤア、それは|御苦労《ごくらう》であつた、|人間《にんげん》と|云《い》ふものは|目前《まさか》の|時《とき》になれば|神様《かみさま》がお|使《つか》ひ|下《くだ》さるもの「|腐《くさ》り|繩《なは》にも|取《と》りえ」と|云《い》ふ|事《こと》がある、|私《わし》もお|前《まへ》の|様《やう》な|穀潰《ごくつぶ》しを|沢山《たくさん》に|養《やしな》つて|置《お》いてつまらぬ|者《もの》ぢや、|棄《ほ》かすにも|棄《す》かされず、|大根《だいこん》の|葉《は》に【ねち】が|着《つ》いた|様《やう》なものぢやと|思《おも》つて|居《を》つたが、|目前《まさか》の|時《とき》にそれ|丈《だけ》の|神力《しんりき》が|出《で》れば|万更《まんざら》|捨《す》てたものぢや|無《な》い。ヤ、|御苦労《ごくらう》だつた、サアサア|一服《いつぷく》して|下《くだ》され、|然《しか》し|乍《なが》ら|丑《うし》、|寅《とら》、|辰《たつ》|外《ほか》|二人《ふたり》の|男《をとこ》は|今迄《いままで》|何《なに》をして|居《を》つたのだ、|浅《あさ》、|幾《いく》の|様《やう》にお|前《まへ》もチツと|活動《くわつどう》をせなくては|神様《かみさま》に|済《す》むまいぞや』
|寅公《とらこう》『|吾々《われわれ》は|御神前《ごしんぜん》に|於《おい》て……|否《いや》|無形《むけい》の|神殿《しんでん》に|向《むか》つて|祈願《きぐわん》する|折《をり》しも、|忽《たちま》ち|吾々《われわれ》の|天眼通《てんがんつう》に|映《えい》じた|普甲峠《ふかふたうげ》の|突発《とつぱつ》|事件《じけん》。やれ|可憐相《かはいさう》な|二人《ふたり》の|旅人《たびびと》、|神力《しんりき》を|以《もつ》て|助《たす》けてやらむと|心《こころ》は|千々《ちぢ》に|焦慮《あせ》れども、|何《なに》を|云《い》つても|遠隔《ゑんかく》の|地《ち》、アヽ|仕方《しかた》が|無《な》い、|遠隔《ゑんかく》|神霊《しんれい》|注射法《ちうしやはふ》を|実行《じつかう》せむかと|思《おも》ふ|折《をり》、|又《また》もや|吾々《われわれ》が|天眼《てんがん》に|映《えい》じたのは|浅《あさ》、|幾《いく》、|梅《うめ》の|三人《さんにん》、これや|良《よ》い|霊代《みたましろ》だと|五人《ごにん》|一度《いちど》に|三人《さんにん》の|身体《からだ》に|神懸《かむがか》りし、|群《むら》がる|魔軍《まぐん》に|向《むか》つて、|言霊《ことたま》の|神力《しんりき》は|申《まを》すに|及《およ》ばず、あらゆる|霊力《れいりよく》を|尽《つく》して|戦《たたか》へば、|敵《てき》は|蜘蛛《くも》の|子《こ》を|散《ち》らすが|如《ごと》く、|散《ち》り|散《ぢ》りパツと|花《はな》に|嵐《あらし》の|当《あた》りし|如《ごと》く、|霞《かすみ》となつて|消《き》え|失《う》せたりツ』
|浅公《あさこう》『アハヽヽヽ』
|黒姫《くろひめ》『|何《なに》は|兎《と》もあれ、|藪医者《やぶいしや》が|手柄《てがら》をした|様《やう》なものだ、|篦《へら》で|鬼《おに》の|首《くび》とつたも|同然《どうぜん》、|今日《けふ》は|離《はな》れの|室《ま》で|御神酒《おみき》でも|沢山《たくさん》|頂《いただ》いてグツスリと|寝《ね》たが|良《よ》い、コレコレ|旅《たび》の|方《かた》、|神様《かみさま》の|尊《たふと》い|事《こと》が|分《わか》りましたかな』
|綾《あや》、|民《たみ》『ハイ、|何《なん》とも|有難《ありがた》うて|申《まを》し|様《やう》が|御座《ござ》いませぬ、|只《ただ》もう|此《この》|通《とほ》り……』
と|夫婦《ふうふ》は|両手《りやうて》を|合《あは》せ|黒姫《くろひめ》の|顔《かほ》を|伏《ふ》し|拝《をが》み、|熱《あつ》い|涙《なみだ》をボロボロと|零《こぼ》すのみである。
|黒姫《くろひめ》『お|前《まへ》は|真《ほん》に|幸福《しあはせ》な|御夫婦《ごふうふ》ぢや、|結構《けつこう》な|御神徳《おかげ》を|頂《いただ》きなさつた、|袖振《そでふ》り|合《あ》ふも|多生《たしやう》の|縁《えん》、|躓《つまづ》く|石《いし》も|縁《えん》の|端《はし》と|云《い》うて、コンナ|結構《けつこう》な|神様《かみさま》の|教《をしへ》の|取次《とりつぎ》に|助《たす》けて|貰《もら》うとはよくよく|深《ふか》い|昔《むかし》からの|果報《くわはう》が|現《あら》はれたのぢやぞえ、|私《わし》も|何《なん》ぢやか|始《はじ》めて|会《あ》うた|人《ひと》の|様《やう》な|気《き》がせぬ、|之《これ》からは|総《すべ》ての|娑婆心《しやばごころ》を|捨《す》てて|神界《しんかい》の|為《ため》に|千騎一騎《せんきいつき》の|活動《くわつどう》をしなされや、|就《つ》いては|夫婦《ふうふ》ありては|御用《ごよう》の|出来《でき》ぬ|神《かみ》のお|道《みち》ぢやから、お|前《まへ》は|明日《あす》から|夫婦《ふうふ》|別《わか》れて|御用《ごよう》をするのだ、|死《し》ンで|別《わか》るるのは|辛《つら》いけれど、|此《この》|世《よ》に|生《い》きて|居《を》れば|矢張《やつぱ》り|同《おな》じウラナイの|道《みち》に|御用《ごよう》するのだから|会《あ》ふ|機会《きくわい》は|幾《いく》らもある、お|前《まへ》は|何《なん》と|云《い》ふ|名《な》だ』
『ハイ、|綾彦《あやひこ》と|申《まを》します。|妾《わらは》はお|民《たみ》と|申《まを》します』
|黒姫《くろひめ》『アヽさうか、|綾彦《あやひこ》は|俺《わし》の|側《そば》で|御用《ごよう》をするなり、お|民《たみ》は|矢張《やつぱ》りウラナイ|教《けう》の|支所《でやしろ》で|高城山《たかしろやま》と|云《い》う|処《ところ》、そこには|意地《いぢ》くねの………|悪《わる》くない|松姫《まつひめ》が|控《ひか》へて|居《を》る、お|民《たみ》は|松姫《まつひめ》の|側《そば》へ|行《い》つて|御用《ごよう》をなさるのだ、|御承知《ごしようち》がゆけば|明日《あす》から、|幾公《いくこう》に|送《おく》らしてあげよう』
お|民《たみ》『ハイ、|如何《いか》なる|事《こと》でも|神様《かみさま》の|御為《おんた》めなれば|否《いや》とは|申《まを》しませぬ、|然《しか》し|何卒《どうぞ》|三四日《さんよつか》|許《ばか》り|一緒《いつしよ》に|置《お》いて|下《くだ》さいますまいか、とつくり|夫婦《ふうふ》の|者《もの》が|相談《さうだん》を|致《いた》し|度《た》う|御座《ござ》いますから……』
|黒姫《くろひめ》『アヽ|其《その》|相談《さうだん》がいかぬのだ、|人間心《にんげんごころ》で|取越苦労《とりこしくらう》をしたつて|何《なに》になるものか、|何事《なにごと》も|神様《かみさま》に|絶対《ぜつたい》にお|任《まか》せするのだ、|夫婦《ふうふ》|別《わか》るるのが|辛《つら》いかな、それはお|若《わか》い|身《み》の|上《うへ》だから|無理《むり》も|無《な》い、|年寄《としよ》りの|私《わし》でさへも|夫婦《ふうふ》は|無《な》ければならぬ|者《もの》ぢやと|思《おも》うて|居《を》る|位《くらゐ》ぢや、|然《しか》し|年寄《としよ》りは|又《また》|例外《れいぐわい》ぢや、|末《すゑ》が|短《みじか》かいから……、|若《わか》い|者《もの》は|何程《なんぼ》でも|会《あ》う|機会《きくわい》が、|長《なが》い|月日《つきひ》には|有《あ》るものぢや。あの|木貂《きてん》と|云《い》ふ|奴《やつ》は、|夫婦仲《ふうふなか》の|良《よ》いものぢやが|決《けつ》して|夫婦《めをと》は|一緒《いつしよ》に|棲《す》まひはせぬ、|雄《をす》の|方《はう》が|東《ひがし》の|山《やま》の|木《き》の|洞《うろ》に|棲《す》みて|居《を》れば、|雌《めす》の|方《はう》は|屹度《きつと》|谷《たに》を|隔《へだ》てて、|西《にし》の|山《やま》の|木《き》の|洞《うろ》に|棲居《すまゐ》をし、|西《にし》からと|東《ひがし》からと|互《たがひ》に|見張《みはり》をして|居《を》るさうぢや、|若《も》し|雌《めす》の|棲《す》みて|居《を》る|大木《たいぼく》の|麓《ふもと》へ|猟師《れふし》でも|出《で》て|来《き》たら、|灯台《とうだい》|元暗《もとくら》がり、|近《ちか》くに|居《ゐ》る|雌《めす》に|気《き》がつかいでも|遠《とほ》くから|見《み》て|居《ゐ》る|雄《をす》がチヤンと|之《これ》を|悟《さと》つて、|電波《でんぱ》を|送《おく》つて|雌《めす》に|知《し》らせ、|雄《をす》に|危険《きけん》が|迫《せま》つた|時《とき》は|又《また》|遠《とほ》くから|見《み》て|居《ゐ》る|雌《めん》が|電波《でんぱ》を|以《もつ》て|雄《をす》に|知《し》らせると|云《い》う|事《こと》だ。その|通《とほ》りお|前《まへ》も|両方《りやうはう》に|分《わ》かれて|互《たがひ》に|妻《つま》は|夫《をつと》を|思《おも》ひ、|夫《をつと》は|妻《つま》を|思《おも》ひ、|偶々《たまたま》|会《あ》うた|時《とき》のその|嬉《うれ》しさは|何《なん》とも|云《い》へぬ|味《あぢ》が|出《で》るぞえ、|之《これ》だけ|若《わか》い|者《もの》ばかり|沢山《たくさん》|居《を》るのだからお|前《まへ》の|様《やう》な|若夫婦《わかめをと》を|一緒《いつしよ》において|置《お》くと、いろいろと|若《わか》い|者《もの》が|修羅《しゆら》を|燃《も》やしてごてつき、お|前《まへ》も|亦《また》|辛《つら》いであらうから、|明日《あす》は|直《すぐ》にお|民《たみ》は|高城山《たかしろやま》へ|行《い》つて|御用《ごよう》をして|下《くだ》さい』
『|何事《なにごと》も|神様《かみさま》にお|任《まか》せした|以上《いじやう》は、|何卒《どうぞ》|貴女《あなた》の|思召《おぼしめし》の|通《とほ》りお|使《つか》ひ|下《くだ》さいませ』
|黒姫《くろひめ》『ア、さうかさうか、|結構《けつこう》|結構《けつこう》、|本当《ほんたう》に|聞訳《ききわけ》の|良《よ》い|人《ひと》ぢや、サアサ|今晩《こんばん》は|奥《おく》へ|行《い》つて|寝《やす》|皆《みな》され、|俺《わし》も|大変《たいへん》|草臥《くたび》れたから|今晩《こんばん》は|之《これ》で|寝《やす》みませう、|然《しか》しこれこれお|若《わか》いの、|神様《かみさま》に|手《て》を|合《あは》せお|礼《れい》を|申《まを》して|寝《やす》みなされや、|必《かなら》ず|必《かなら》ず|神様《かみさま》の|祀《まつ》つてある|方《はう》に|尻《しり》を|向《む》けたり|足《あし》を|向《む》けてはなりませぬぞえ』
|夫婦《ふうふ》『ハイ|有難《ありがた》う|御座《ござ》います、|然《しか》らば|寝《やす》まして|頂《いただ》きます』
と|奥《おく》を|目蒐《めが》けて|両人《りやうにん》は|徐々《しづしづ》|進《すす》み|行《ゆ》く。
|黒姫《くろひめ》『アーア、|世《よ》の|中《なか》は|思《おも》ふ|様《やう》にいかぬものだなア、|今《いま》|斯《か》う|云《い》うて|若夫婦《わかふうふ》に|生木《なまき》を|裂《さ》く|様《やう》な|命令《めいれい》をしたが、|思《おも》へば|思《おも》へば|可憐相《かはいさう》な|者《もの》だ。|俺《わし》とても|其《その》|通《とほ》り、|高山彦《たかやまひこ》さまが|二三日《にさんにち》|他所《よそ》へ|行《い》つてお|顔《かほ》が|見《み》ええでも|淋《さび》しくて|仕方《しかた》が|無《な》いのに、|鴛鴦《をしどり》の|様《やう》な|仲《なか》の|良《よ》い|若夫婦《わかふうふ》が|別《わか》れて|御用《ごよう》するのは、|私《わし》に|比《くら》ぶれば|幾層倍《いくそうばい》|辛《つら》いだらう。ウラナイ|教《けう》の|双壁《そうへき》といはれた|竜宮《りうぐう》の|乙姫《おとひめ》の|此《この》|生宮《いきみや》でさへも、|高山彦《たかやまひこ》さまを|夫《をつと》に|持《も》つたのが|露見《あらは》れてより、|夏彦《なつひこ》や|常彦《つねひこ》は|直《すぐ》に|飛《と》び|出《だ》し、それから|後《のち》は|毎日《まいにち》|日日《ひにち》|何《なん》とか、かとか|云《い》つて、|岡餅《をかもち》を|焼《や》いて|法界悋気《はふかいりんき》の|続出《ぞくしゆつ》、コンナ|事《こと》では|折角《せつかく》|築《きづ》き|上《あ》げたウラナイ|教《けう》も|崩解《ほうかい》するかも|知《し》れない、|何《なに》ほど|一旦《いつたん》|綱《つな》かけたらホーカイはやらぬと、|色《いろ》の|黒《くろ》き|尉殿《じやうどの》が|鈴《すず》を|振《ふ》る|様《やう》に|矢釜《やかま》しく|云《い》つても|駄目《だめ》だ、アヽいやいやいやオンハと、|三番叟《さんばさう》もどきに|逃《に》げて|去《い》ぬ|奴《やつ》が|踵《くびす》を|接《せつ》するのだから、|法界悋気《ほふかいりんき》の|深《ふか》い|連中《れんちう》の|中《なか》へ、|何《なに》ほど|可憐相《かはいさう》でも|若夫婦《わかふうふ》を|交《まじ》へて|置《お》く|事《こと》は|出来《でき》ぬ。アーア|若夫婦《わかめをと》、|必《かなら》ず|必《かなら》ず|黒姫《くろひめ》は|邪慳《じやけん》な|奴《やつ》ぢやと|思《おも》うて|呉《く》れな、|口先《くちさき》では|強《きつ》う|云《い》うては|居《ゐ》るものの、|涙《なみだ》もあれば|血《ち》もある、アヽ|可憐相《かはいさう》だ、|青春《せいしゆん》の|血《ち》に|燃《も》ゆる|二人《ふたり》の|心《こころ》、|察《さつ》しのない|様《やう》な|黒姫《くろひめ》ぢや|御座《ござ》いませぬ』
と|独語《ひとりご》ちつつ|同情《どうじやう》の|涙《なみだ》に|暮《く》れて|居《ゐ》る。
かかる|所《ところ》へ|高山彦《たかやまひこ》|現《あら》はれ|来《きた》り、
『ヤア|黒姫《くろひめ》か、|夜《よ》も|大分《だいぶん》|更《ふ》けた|様《やう》だ、もうお|寝《やす》みになつたら|如何《どう》です』
『ハイ、|只今《ただいま》|寝《やす》みます』
『お|前《まへ》に|一《ひと》つ|相談《さうだん》がある、|聞《き》いて|呉《く》れまいか』
『|之《これ》は|又《また》|改《あらた》まつたお|言葉《ことば》、|相談《さうだん》とは|何事《なにごと》で|御座《ござ》いますか』
『|外《ほか》でも|無《な》い、|俺《わし》は|一《ひと》つ|大《おほい》に|期《き》する|処《ところ》があるのだ、|之《これ》からフサの|国《くに》へ|一先《ひとま》づ|立《た》ち|帰《かへ》り、|大《おほい》に|高姫《たかひめ》さまの|後援《こうゑん》をして|大々的《だいだいてき》|活動《くわつどう》を|仕様《しやう》と|思《おも》ふ、お|前《まへ》は|此処《ここ》に|居《を》つて|自転倒島《おのころじま》を|征服《せいふく》して|下《くだ》さい、|明日《あす》からすぐ|出立《しゆつたつ》しようと|思《おも》ふから…』
『エ、|何《なん》と|仰《おつ》しやいます、|夫婦《ふうふ》は|車《くるま》の|両輪《りやうりん》、|唇歯輔車《しんしほしや》の|関係《くわんけい》を|保《たも》たねばなりませぬ、|例《たと》へば|男《をとこ》は|左《ひだり》の|手足《てあし》、|女《をんな》は|右《みぎ》の|手足《てあし》も|同様《どうやう》、|片手《かたて》|片足《かたあし》では|大切《たいせつ》な|神業《しんげふ》に|奉仕《ほうし》する|事《こと》は|出来《でき》ますまい、ちつとお|考《かんが》へ|直《なほ》しを|願《ねが》ひます』
『|木貂《きてん》、|一名《いちめい》|雷獣《らいじう》と|云《い》ふ|獣《けだもの》は|随分《ずゐぶん》|仲《なか》の|良《よ》いものだが、|夫婦《ふうふ》は|決《けつ》して|一緒《いつしよ》に|居《ゐ》ないものだ』
『エヽ|措《を》いて|下《くだ》され、|妾《わたし》の|模像《もざう》ばつかりやるのですな、ソンナ|玩弄物《おもちや》の|九寸五分《くすんごぶ》を|突《つ》きつけた|様《やう》な|同情《どうじやう》ある|恐喝《きようかつ》|手段《しゆだん》にのる|様《やう》な|黒姫《くろひめ》とは|違《ちが》ひますわいな、ヘン……いい|加減《かげん》に|揶揄《からか》つて|置《お》きなさいよ、ホヽヽヽ』
『ヤア|真剣《しんけん》だ、|強《た》つてお|暇《ひま》を|願《ねが》ひ|度《た》い』
『まつたくですか、ハヽア、|宜《よろ》しい、|御勝手《ごかつて》になさいませ、|外《ほか》に|増花《ますはな》が|出来《でき》たと|見《み》えます、もの|云《い》ふ|花《はな》は|此《この》|黒姫《くろひめ》|一人《ひとり》だと|妾《わたし》が|心《こころ》で|自惚《うぬぼれ》して|居《を》つたのは|妾《わたし》の|不覚《ふかく》、|薊《あざみ》の|花《はな》に|接吻《キツス》をして|来《き》なさいよ』
『そう|怒《おこ》つて|貰《もら》つては|困《こま》るぢやないか、|二《ふた》つ|目《め》には|妙《めう》な|処《ところ》へ|論鋒《ろんぽう》を|向《む》けるのだな、|昼《ひる》|演壇《えんだん》に|立《た》つて|滔々《たうたう》と|苦集滅道《くしふめつだう》を|説《と》くお|前《まへ》の|態度《たいど》と|今《いま》の|態度《たいど》とは|丸《まる》で|別人《べつじん》の|様《やう》な、|声《こゑ》の|色《いろ》まで|変《かは》つて|居《を》るぢやないか』
『ヘンきまつた|事《こと》ですよ』
と|肩《かた》を|高山彦《たかやまひこ》の|方《はう》へニユツと|突《つ》き|出《だ》し、|首《くび》を|斜《ななめ》にし|目《め》を|細《ほそ》うし、
『|野暮《やぼ》な|事《こと》|仰《おつ》しやるな、【こゑ】は|思案《しあん》の|外《ほか》ぢやないか、ホヽヽヽ』
と|鰐口《わにぐち》を|無理《むり》に【おちよぼ】|口《ぐち》に|仕様《しやう》とつとめる。|巾着《きんちやく》を|引《ひ》き|締《し》めた|様《やう》に|縦《たて》の|皺《しわ》が|一所《ひとところ》に|集中《しふちう》し、|牛蒡《ごぼう》の|切《き》り|口《くち》の|様《やう》に|口《くち》の|辺《あた》りが|見《み》えて|居《ゐ》る。
|高山彦《たかやまひこ》は、
『アヽもう|寝《やす》まうか』
と|黒姫《くろひめ》の|背中《せなか》をポンと|叩《たた》く。
『|勝手《かつて》に|一人《ひとり》|寝《ね》やしやンせいな』
と|黒姫《くろひめ》は、|故意《わざ》とピーンとした|顔《かほ》を|見《み》せ、|向返《むきかへ》つて|背中《せなか》を|向《む》ける。
『ハヽヽヽ、|非常《ひじやう》な|逆鱗《げきりん》だ、どれどれ|今晩《こんばん》は|山《やま》の|神《かみ》さまに|巨弾《きよだん》を|撃《う》たれて、|只《ただ》|一人《ひとり》|赤十字《せきじふじ》|病院《びやうゐん》に|収容《しうよう》されるのかな、アハヽヽヽ』
と|寝室《ねま》に|帰《かへ》り|行《ゆ》く。|黒姫《くろひめ》は|水鏡《みづかがみ》を|灯火《あかり》に|照《てら》し|顔《かほ》の|修繕《しうぜん》をなし、|羽《は》ばたきし|乍《なが》ら|四辺《あたり》を|見《み》まはし|目《め》を|細《ほそ》うし、
『どれ|夫《をつと》の|負傷《ふしやう》を、|女房《にようばう》としてお|見舞《みまひ》|申《まを》さねばなるまい』
と|又《また》もや|一室《ひとま》にいそいそ|走《はし》り|行《ゆ》く。
|黒姫《くろひめ》が|許可《ゆるし》を|得《え》て|浅公《あさこう》、|幾公《いくこう》、|梅公《うめこう》、その|他《た》|十数名《じふすうめい》の|老壮連《らうさうれん》は|御神酒《おみき》|頂戴《ちやうだい》の|名《な》の|下《もと》に、「|会《あ》うた|時《とき》に|笠《かさ》|脱《ぬ》げ」|式《しき》にガブリガブリと|酌《つ》いでは|飲《の》み|酌《つ》いでは|飲《の》み、|酔《ゑい》が|廻《まは》るにつれ|徳利《とくり》の|口《くち》から「|火《ひ》|吹《ふ》き|竹《だけ》|飲《の》み」を|初《はじ》め|出《だ》しける。
|甲《かふ》『オイ、|梅《うめ》の|大将《たいしやう》、|随分《ずゐぶん》よく|飲《の》むぢやないか』
|梅公《うめこう》『きまつた|事《こと》だ、|大蛇《をろち》の|子孫《しそん》だもの、|飲《の》む|事《こと》にかけたら|天下一品《てんかいつぴん》だ、|親譲《おやゆづ》りの|山《やま》を|呑《の》み|田《た》を|呑《の》み|家《いへ》まで|呑《の》みて、|酒《さけ》の|肴《さかな》に|親《おや》の|脛《すね》を|噛《かじ》り、|此奴《こいつ》|手《て》に|負《お》へぬ|奴《やつ》ぢや、|七生《しちしやう》(|升《しよう》)までの|勘《かん》(|燗《かん》)|当《だう》ぢやと|云《い》つて|放《ほ》り|出《だ》されたと|云《い》ふ|阿哥兄《にい》さまだ。|親爺《おやぢ》が|七升《しちしよう》の|燗《かん》をせいと|云《い》つた|時《とき》は|流石《さすが》の|俺《おれ》も|一寸《ちよつと》|弱《よわ》つたね、|朝《あさ》|九一合《くいちがふ》、|昼《ひる》|九一合《くいちがふ》、|晩《ばん》|九一合《くいちがふ》、|夜中《よなか》に|九一合《くいちがふ》、|夜明《よあ》け|前《まへ》に|九一合《くいちがふ》、マア|一寸《ちよつと》ゴシヨゴシヨ(|五升《ごしよう》)とやつた|処《ところ》で、それ|以上《いじやう》は|腹《はら》の|虫《むし》が「|梅公《うめこう》、あまりぢや、もう|此《この》|上《うへ》は|六升《ろくしよう》だ、|七升《しちしよう》(|七生《しちしやう》)|迄《まで》|怨《うら》み|升《ます》」と|副守《ふくしゆ》の|奴《やつ》でさへも|弱音《よわね》を|吹《ふ》いたのだからな』
|甲《かふ》『|随分《ずゐぶん》|酒豪《しゆがう》だな』
|梅公《うめこう》『|酒豪《【しゆがう】》な|守護神《【しゆご】じん》だ、|然《しか》し|之《これ》だけ、|酒《さけ》|飲《の》みの|梅公《うめこう》も|此《この》|頃《ごろ》はずつと|改心《かいしん》して、|滅多《めつた》に|飲《の》みた|事《こと》はあるまいがな、|偉《えら》い|者《もの》だらう』
|浅公《あさこう》『アハヽヽヽ、|飲《の》み|度《た》いと|云《い》つたつて|飲《の》ます|者《もの》がないものだから|気《き》の|毒《どく》なものだ』
|梅公《うめこう》『|酒《さけ》の|酔《よ》い|本性《ほんしやう》|違《たが》はずだ、|何程《なにほど》|酔《よ》つた|処《ところ》で|足《あし》が【ひよろ】つくの、|頭《あたま》が|痛《いた》いの、|眩暈《めまい》が|来《く》るの、|八百屋店《やほやみせ》を|開業《かいげふ》するのと|云《い》ふ|様《やう》な|不始末《ふしまつ》な|事《こと》は、ちつとも、|無《な》いのだからな、それで|今日《けふ》の|様《やう》な|妙案《めうあん》|奇策《きさく》を|捻《ひね》り|出《だ》すのだ、|今晩《こんばん》|斯《か》うして|貴様達《きさまたち》が|甘《うま》い|酒《さけ》に|舌鼓《したつづみ》を|打《う》つ|様《やう》にしてやつたのは|俺《おれ》のお|蔭《かげ》ぢやないか、|随分《ずゐぶん》うまくいつたぢやないか』
|寅公《とらこう》『あの|暗《くら》がりに|飲《の》まぬ|酒《さけ》に|酔《よ》うた|気《き》になつて、|冷《つめた》い|土《つち》の|上《うへ》に|横《よこた》はり、|向《むか》うから|一歩々々《ひとあしひとあし》|近《ちか》づいて|来《く》る|足音《あしおと》、|何処《どこ》を|踏《ふ》まれるか|分《わか》つたものぢやない、|其《その》|時《とき》の|心《こころ》のせつなさ、|腰《こし》をトウトウ|土足《どそく》で|踏《ふ》まれ、|睾丸《きんたま》を|踏《ふ》まれた|時《とき》の|痛《いた》いの|痛《いた》くないのつて|一生懸命《いつしやうけんめい》の|放《はな》れ|業《わざ》だ、|随分《ずゐぶん》|俺《おれ》も|骨《ほね》を|折《お》つた、|何《なに》ほど|梅公《うめこう》が|賢《かしこ》うても|俺達《おれたち》が|実行《じつかう》せなくては|今夜《こんや》の|芝居《しばゐ》は|打《う》てやしない、あまり|威張《ゐば》つて|貰《もら》うまいかい』
|辰公《たつこう》『|俺《おれ》だつて|臍《へそ》の|上《うへ》をギユツと|踏《ふ》まれた|時《とき》の|苦《くる》しさ、|早速《さつそく》ベランメー|口調《くてう》で|業託《ごうたく》を|云《い》はうと|思《おも》つても|満足《まんぞく》に|声《こゑ》も|出《で》やがらぬのだ、|皆《みな》の|奴《やつ》、|気《き》が|利《き》かぬ|者《もの》だから|暗《くら》がり|紛《まぎ》れに|旅人《たびびと》だと|思《おも》つて|俺《おれ》の|頭《あたま》と|云《い》はず|背中《せなか》と|云《い》はず、|幾《いく》ら|叩《たた》きよつたか|分《わか》つたものぢやない、コオこれを|見《み》い、|背中《せなか》が|青《あを》くなつて|居《を》るワ』
|梅公《うめこう》『アハヽヽヽ、|何《なに》ぬかしよるのだ、|蛙《かはづ》ぢやあるまいし|背中《せなか》の|青《あを》くなつたのが|如何《どう》して|分《わか》るかい、|兎角《とかく》|芝居《しばゐ》は|幕開《まくあ》きはしたものの|馬《うま》の|脚《あし》や|猪《しし》になる|大根役者《だいこんやくしや》が、うまくやつて|呉《く》れるかと|思《おも》つて|随分《ずゐぶん》|気《き》を|揉《も》みたよ、マアマア|木戸銭《きどせん》|取《と》らずの|奉納《ほうなふ》|芝居《しばゐ》だから、あれ|位《くらゐ》で|観客《くわんきやく》も|何《なん》とも|云《い》はぬが、|下足賃《げそくちん》でも|徴《と》つて|見《み》よ、それこそ|一人《ひとり》も|這入《はい》る|者《もの》はありやせないぞ、|然《しか》し|寅公《とらこう》、|辰公《たつこう》、|鳶公《とびこう》、|貴様等《きさまら》|五人《ごにん》は|如何《どう》しやがつたかと|思《おも》つて|心配《しんぱい》して|居《を》つたら、|何時《いつ》の|間《ま》にか|先《さき》に|行《ゆ》きよつて|天眼通《てんがんつう》だの、|何《ど》のと|甘《うま》い|事《こと》を|云《い》ひよつたね』
|寅公《とらこう》『|当意即妙《たういそくめう》、|神謀《しんぼう》|奇略《きりやく》の|智勇《ちゆう》|兼備《けんび》の|大将《たいしやう》だ、|知識《ちしき》の|源泉《げんせん》たる|吾々《われわれ》、|何処《どこ》に|抜《ぬ》け|目《め》があるものかい、サアサ|良《い》い|加減《かげん》に|寝《やす》まうぢやないか』
|浅公《あさこう》『オヽ、|寝《やす》みても|宜《よ》からう、|膝坊主《ひざばうず》でも|抱《だ》いて|寝《ね》エ、アーア、|今晩《こんばん》の|女《をんな》は|随分《ずゐぶん》|素敵《すてき》な|奴《やつ》ぢやないか、アンナ|良《よ》い|女房《にようばう》を|持《も》つたハズバンドは|随分《ずゐぶん》に|幸福《かうふく》だらうな、エー|怪体《けつたい》の|悪《わる》い、あれ|程《ほど》|堅苦《かたぐる》しい|事《こと》|云《い》つて|居《ゐ》た|黒姫《くろひめ》の|大将《たいしやう》は|婿《むこ》を|持《も》つ、【やもめ】ばつかりの|俺達《おれたち》は|指《ゆび》を|啣《くは》へて、|見《み》て|居《を》るより|仕方《しかた》が|無《な》い、そこへ|又《また》うら|若《わか》い|綺麗《きれい》な|夫婦《ふうふ》がやつて|来《き》やがつて、|随分《ずゐぶん》|貴様達《きさまたち》も|気《き》が|揉《も》める|事《こと》だらう、アハヽヽヽ』
と|酔《よ》ひに|乗《じやう》じて|四辺《あたり》|構《かま》はず|罵《ののし》つて|居《を》る。|綾彦《あやひこ》、お|民《たみ》は|黒姫《くろひめ》の|命《めい》に|依《よ》り、|一室《ひとま》に|行《い》つて|寝《しん》に|就《つ》かむと|廊下《らうか》を|通《とほ》る|折《をり》、|思《おも》はぬ|酒《さけ》の|酔《よ》ひの|笑《わら》ひ|声《ごゑ》、|立《た》ち|聞《ぎ》きは|不道徳《ふだうとく》とは|知《し》り|乍《なが》らも、つひ|気《き》にかかりフツと|耳《みみ》を|傾《かたむ》け|聞《き》いて|居《を》れば、どうやら|自分《じぶん》の|事《こと》らしい、|二人《ふたり》は|顔《かほ》|見合《みあは》せ|何事《なにごと》かひそひそ|囁《ささや》き|乍《なが》ら|一睡《いつすゐ》もせず|其《その》|夜《よ》を|明《あ》かしける。
(大正一一・四・二六 旧三・三〇 北村隆光録)
(昭和一〇・六・一 王仁校正)
第九章 |朝《あした》の|一驚《いつきやう》〔六三七〕
|晩秋《ばんしう》の|長《なが》き|夜《よ》はいつしか|明《あ》けて、|朝霧《あさきり》|籠《こ》むる|東南《とうなん》の|天《てん》に、|太陽《たいやう》は|霞《かす》みて|低《ひく》うかかり|居《を》る。|高山彦《たかやまひこ》は|漸《やうや》く|起《お》き|上《あが》り、|不便《ふべん》の|地《ち》に|似《に》あはぬ|贅沢三昧《ぜいたくざんまい》、|朝風呂《あさぶろ》、|丹前《たんぜん》、|長火鉢《ながひばち》、|入《い》り|日《ひ》の|影《かげ》に|当《あた》つたやうな|細長《ほそなが》き|体《からだ》に、|長煙管《ながぎせる》を|持《も》つた|黒姫《くろひめ》と|二人《ふたり》|睦《むつ》まじさうに、ニタニタと、|昨夜《さくや》の|夢《ゆめ》を|思《おも》ひ|出《だ》してか、|悦《えつ》に|入《い》つて|居《を》る。|斯《かか》る|処《ところ》へ|新参者《しんざんもの》の|夫婦連《ふうふづれ》、|恭《うやうや》しく|両手《りやうて》をつかへ、
|綾彦《あやひこ》『コレハコレハお|二人様《ふたりさま》、お|早《はや》う|御座《ござ》います、|昨夜《さくや》はいかい|御厄介《ごやくかい》になりまして、|吾々《われわれ》|夫婦《ふうふ》は|暖《あたた》かく|寝《ね》さして|頂《いただ》きました。どうぞ|今日《けふ》より、|折角《せつかく》の|思召《おぼしめし》では|御座《ござ》いますが、|吾々《われわれ》|夫婦《ふうふ》にお|暇《ひま》を|下《くだ》さいませ』
|黒姫《くろひめ》、|怪訝《けげん》な|顔《かほ》にて、
『お|前《まへ》は|昨夜《ゆうべ》|来《き》た|許《ばか》りぢやないか、あれ|程《ほど》|固《かた》い|事《こと》を|云《い》つて|居《を》つて、|一夜《ひとよさ》の|間《ま》にさうグラグラと|心《こころ》をかへて|何《ど》うするのだい。|大方《おほかた》お|民《たみ》を|高城山《たかしろやま》へ|遣《つか》はすのが、|夫婦《ふうふ》|共《とも》お|気《き》に|入《い》らぬのだらう、ヤアそれは|若《わか》い|夫婦《ふうふ》として|御無理《ごむり》もない、|併《しか》しながら|此処《ここ》が|辛抱《しんばう》だ、|前夜《ぜんや》も|云《い》つたやうに、|一《ひと》つの|苦労《くらう》|心配《しんぱい》と|云《い》ふ|事《こと》がなければ、|人間《にんげん》は|誠《まこと》の|花《はな》が|咲《さ》きませぬぞや』
『|重《かさ》ね|重《がさ》ねの|御教訓《ごけうくん》、|誠《まこと》に|有難《ありがた》う|御座《ござ》います、|併《しか》し|乍《なが》ら|吾々《われわれ》|夫婦《ふうふ》は|一旦《いつたん》|神様《かみさま》にお|任《まか》せした|以上《いじやう》は、|仮令《たとへ》|夫婦《ふうふ》がこの|儘《まま》|生別《いきわか》れにならうとも、ソンナ|事《こと》に|執着心《しふちやくしん》は|持《も》ちませぬ。|併《しか》しながら、|夜前《やぜん》|承《うけたまは》れば|皆様《みなさま》のお|酒《さけ》の|上《うへ》のお|話《はなし》に、|八人《はちにん》の|方《かた》が|八百長《やほちやう》をお|行《や》りなされて、|私《わたくし》をウラナイ|教《けう》に|引《ひ》き|込《こ》む|手段《しゆだん》で、|俄《にはか》に|芝居《しばゐ》を|仕組《しぐ》まれましたのですから、|私《わたくし》のやうな|馬鹿正直者《ばかしやうぢきもの》は、|到底《たうてい》あの|方々《かたがた》と|共《とも》に|暮《くら》す|事《こと》は|出来《でき》ませぬから、どうぞお|暇《ひま》を|下《くだ》さいませ』
|黒姫《くろひめ》『|何《なん》と|妙《めう》な|事《こと》を|仰有《おつしや》るぢやないか、|誠《まこと》|正直《しやうぢき》|一方《いつぱう》のウラナイ|教《けう》に、ソンナ|八百長《やほちやう》|芝居《しばゐ》があるものか、|大方《おほかた》お|前《まへ》|旅《たび》の|疲《つか》れで、ソンナ|夢《ゆめ》でも|見《み》たのだらう』
|綾彦《あやひこ》『イエイエ|決《けつ》して|夢《ゆめ》では|御座《ござ》いませぬ、|夜前《やぜん》|貴方様《あなたさま》に|御挨拶《ごあいさつ》をして、|寝《ね》さして|貰《もら》はうと|思《おも》ひ、|廊下《らうか》を|通《とほ》りますと、|皆《みな》さまがお|酒《さけ》に|酔《よ》ひ、|面白《おもしろ》さうなお|話《はなし》、|聞《き》くともなしに|吾々《われわれ》|夫婦《ふうふ》の|耳《みみ》に|雷《らい》の|如《ごと》くに|響《ひび》いたのは、|夜前《やぜん》|普甲峠《ふかふたうげ》の|辛辣《しんらつ》な|計略《けいりやく》、|一伍一什《いちぶしじふ》の|自慢話《じまんばなし》、|私《わたくし》は|腹《はら》が|立《た》つやら|恐《おそ》ろしいやら、|一旦《いつたん》|有難《ありがた》いと|思《おも》うた|信念《しんねん》も|煙《けぶり》と|消《き》え、|唯《ただ》|口惜《くちを》しさに|二人《ふたり》は|一睡《いつすゐ》もせず、|夜《よ》の|明《あ》けるのを|待《ま》つて|泣《な》いて|居《を》りました。|必《かなら》ず|夢《ゆめ》ぢや|御座《ござ》いませぬ、|何卒《どうぞ》お|暇《ひま》を|下《くだ》さいませ』
|黒姫《くろひめ》|不思議《ふしぎ》の|顔《かほ》をして、
『|何《なん》とお|前《まへ》|合点《がつてん》が|行《ゆ》かぬ|事《こと》を|仰有《おつしや》る。どうかして|居《を》るのぢやないかな、|此処《ここ》の|若《わか》い|者《もの》には、|毎日《まいにち》|噛《か》みて|含《ふく》めるやうに|誠《まこと》の|道《みち》が|説《と》き|聞《き》かしてある。|鵜《う》の|毛《け》で|突《つ》いたほども|嘘《うそ》を|云《い》ふものはない、あまり|正直《しやうぢき》で|間《ま》が|抜《ぬ》けて、|当世《たうせい》に|役《やく》に|立《た》たぬやうな|代物《しろもの》ばかりぢや、ソンナ|筈《はず》は|断《だん》じてありませぬ、それや|何《なに》かの|幻《まぼろし》でせう』
『イエイエ|決《けつ》して|幻《まぼろし》でも|何《なん》でも|御座《ござ》いませぬ、|現《げん》に|夜前《やぜん》のお|方《かた》が|自慢話《じまんばなし》に|仰有《おつしや》つたのをお|民《たみ》は|確《たし》かに|聞《き》きました』
と|聞《き》くより|黒姫《くろひめ》は|訝《いぶか》しがり、
『|一寸《ちよつと》|待《ま》つて|下《くだ》さい、|妙《めう》な|事《こと》を|云《い》ひなさる、|今《いま》|査《しら》べて|見《み》ませう。これこれ|浅公《あさこう》、|幾公《いくこう》、|梅公《うめこう》、|寅公《とらこう》、|辰公《たつこう》、|鳶公《とびこう》、|皆々《みなみな》|此処《ここ》へ、|尋《たづ》ねたい|事《こと》がある、|出《で》て|来《き》なさい』
と|稍《やや》|慄《ふる》ひ|声《ごゑ》で|呶鳴《どな》り|立《た》てる。|此《この》|声《こゑ》に|一同《いちどう》|八人《はちにん》はバラバラと|現《あら》はれ|来《きた》り、|各自《めいめい》|蛙《かへる》|踞《つくば》ひになつて、
『|今《いま》|吾々《われわれ》を、お|呼《よ》びになつたのは、|何《なに》|御用《ごよう》で|御座《ござ》いますか、ねつから|間《ま》に|合《あ》ひませず、|偶《たま》に|人《ひと》を|助《たす》けた|位《くらゐ》で|沢山《たくさん》の|御馳走《ごちそう》を|戴《いただ》き、まだ|其《その》|上《うへ》に|何彼《なにか》の|恩命《おんめい》を|下《くだ》し|給《たま》ふのは|余《あま》り|勿体《もつたい》なくて|冥加《みやうが》に|尽《つ》きます、|何一《なにひと》つ|御恩報《ごおんはう》じも|致《いた》さず、|誠《まこと》に|恥《はづ》かしい|次第《しだい》で|御座《ござ》います。ヤアお|前《まへ》は|夜前《やぜん》の|人《ひと》、マアマアよかつたねエ、これと|云《い》ふのも|全《まつた》くウラナイ|教《けう》の|神様《かみさま》のお|蔭《かげ》だ、|次《つぎ》には|私達《わたくたち》のお|蔭《かげ》だよ、|此《この》|御恩《ごおん》は|何時迄《いつまで》も|忘《わす》れてはなりませぬぞえ』
|綾彦《あやひこ》、|煮《に》え|切《き》らぬ|返事《へんじ》、
『ヘエ』
お|民《たみ》『ヒン』
|浅公《あさこう》『これこれお|民《たみ》さまとやら、その|返事《へんじ》は|何《なん》だ。|痩馬《やせうま》か|何《なん》ぞの|様《やう》に【あげづら】をしてヒンなぞと、|命《いのち》の|恩人《おんじん》に|向《むか》つて|嘲弄《てうろう》するのかい、イヤ|挑戦的《てうせんてき》|態度《たいど》を|執《と》るのだな』
お|民《たみ》『ヘン』
|黒姫《くろひめ》『お|前達《まへたち》|八人《はちにん》の|者《もの》、|夜前《やぜん》の|話《はなし》をもう|一遍《いつぺん》|詳《くは》しうして|下《くだ》さらぬか』
|梅《うめ》、|肩《かた》を|怒《いか》らし|得意顔《とくいがほ》で、
『アヽ|夜前《やぜん》の|吾々《われわれ》の|功名《こうみやう》|手柄話《てがらばなし》ですか、よう|聞《き》いて|下《くだ》さいました。|唯《ただ》|一回《いつくわい》だけでは|折角《せつかく》の|神謀《しんぼう》|奇略《きりやく》、ではない|辛苦艱難《しんくかんなん》したことが、|貴女《あなた》のお|心《こころ》に|十分《じふぶん》|徹底《てつてい》しないやうな|心持《こころもち》がして|物足《ものた》りないと|思《おも》つて|居《ゐ》ました。それはそれは|随分《ずゐぶん》|沢山《たくさん》な|鬼《おに》の|手下《てした》|共《ども》』
と|針小棒大《しんせうぼうだい》にべらべらと|喋《しやべ》り|立《た》てるを|黒姫《くろひめ》は、
『アヽそれは|嘘《うそ》ぢやあるまいなア』
『エヽ|決《けつ》して|決《けつ》して|嘘《うそ》と|坊子《ぼうづ》の|頭《あたま》は|生《うま》れてから【いう】た|事《こと》がありませぬ、|正真正銘《しやうしんしやうめい》ネツトプライスの|物語《ものがたり》ですよ』
『それでもお|前《まへ》、|夜前《やぜん》|酒《さけ》を|飲《の》みて、|種々《しゆじゆ》の|手段《しゆだん》を|廻《めぐ》らし、|八百長《やほちやう》をやつて|此《この》|方《かた》を|無理《むり》に|信仰《しんかう》させ、|引張《ひつぱ》つて|来《き》た|手柄話《てがらばなし》を|交《かは》る|交《がは》るやつて|居《ゐ》たぢやないか、|誠《まこと》|一《ひと》つの|神《かみ》の|教《をしへ》の|道《みち》に|居《ゐ》ながら、|何《なん》と|云《い》ふ|事《こと》をするのだい。|綾彦《あやひこ》|夫婦《ふうふ》が|大変《たいへん》|残念《ざんねん》がつてこれから|暇《ひま》をくれと|云《い》うて|居《ゐ》らつしやる|所《ところ》だ。|何程《なんぼ》|云《い》つて|聞《き》かしてもお|前等《まへら》は|駄目《だめ》だ、サア|只今《ただいま》|限《かぎ》り|浅《あさ》、|幾《いく》|外《ほか》|六人《ろくにん》|破門《はもん》する。エヽ|汚《けが》らはしい、ウラナイ|教《けう》を|破《やぶ》る|者《もの》は|外《そと》からでない、ウラナイ|教《けう》から|現《あら》はれるから|気《き》をつけよと|神様《かみさま》が|仰有《おつしや》つた、|何程《なにほど》|要害《えうがい》|堅固《けんご》な|針《はり》をもつて|固《かた》めた|丹波栗《たんばぐり》でも、|中《なか》からはぢけ|落《お》ちるやうに、お|前等《まへら》はウラナイ|教《けう》の|爆裂弾《ばくれつだん》ぢや、|神様《かみさま》のお|道《みち》の|面汚《つらよご》し、アヽ|汚《けが》らはしい、トツトと|一時《いちじ》も|早《はや》く|帰《かへ》つて|下《くだ》さい』
『それは|何《なに》を|仰有《おつしや》います、|傘屋《かさや》の|丁稚《でつち》ぢやないが、|骨《ほね》|折《お》つて|小言《こごと》を|聞《き》かされては|梅公《うめこう》|一同《いちどう》も|一向《いつこう》|算盤《そろばん》が|合《あ》ひませぬ』
『それでも|蛙《かはづ》は|口《くち》からと|云《い》うて、|現在《げんざい》お|前《まへ》の|口《くち》から|自白《じはく》したぢやないか』
|梅公《うめこう》は|空《そら》とぼけて、
『アヽあれですかい、|夜前《やぜん》は|沢山《たくさん》なお|酒《さけ》を|頂《いただ》いて|気《き》が|緩《ゆる》みたものですから、|其処《そこ》へ|大江山《おほえやま》の|悪魔《あくま》の|霊《れい》が|襲《おそ》うて|来《き》よつて、|吾々《われわれ》|八人《はちにん》の|功名《こうみやう》|手柄《てがら》を|抹殺《まつさつ》しやうと|思《おも》ひ、|私《わたくし》を|初《はじ》め|皆《みな》にのり|憑《うつ》り、|酒《さけ》は|私《わたくし》には|余《あま》り|呑《の》まさず、|悪霊《あくれい》が|皆《みな》|飲《の》みて|仕舞《しま》ひ、|遂《つひ》には|私等《わたくしら》の|口《くち》を|藉《か》りて|反間苦肉《はんかんくにく》の|策《さく》をやりよつたのですよ、|真実《ほんと》に|悪霊《あくれい》と|云《い》ふものは|油断《ゆだん》のならぬものですなア、アハヽヽヽ。オイ|浅《あさ》、|幾《いく》、|寅《とら》、|辰《たつ》、|鳶《とび》、|鷹公《たかこう》、|貴様《きさま》も|余程《よほど》|腹帯《はらおび》を|締《し》めぬと|昨夜《ゆうべ》の|様《やう》に|魔霊《まれい》に|襲《おそ》はれ、|鬼《おに》の|容器《いれもの》になつて|仕舞《しま》うぞよ』
|辰公《たつこう》『|偉《えら》さうに|云《い》ふない、|貴様《きさま》にも|矢張《やつぱり》|鬼《おに》が|憑《つ》いて|居《ゐ》るのぢやないか』
|梅公《うめこう》『それやさうだ。お|互《たがひ》さまぢや、|悪平等的《あくべうどうてき》に、|吾々《われわれ》|八人《はちにん》にすつかり|憑依《ひようい》しよつたのだ、アヽ|何《なん》だか|気分《きぶん》が|悪《わる》い、どうぞ|高山彦《たかやまひこ》さま、|黒姫《くろひめ》さま、|一遍《いつぺん》|悪魔《あくま》の|入《はい》らぬやう、ウンと|神霊《しんれい》|注射《ちうしや》の|鎮魂《ちんこん》をして|下《くだ》さいませな』
|黒姫《くろひめ》『オホヽヽヽ、アヽさうだつたか、|大抵《たいてい》ソンナ|事《こと》だと|思《おも》うて|居《ゐ》た。|之《これ》から|気《き》をつけなさい、|追《おつ》て|鎮魂《ちんこん》して|上《あ》げるから、|谷川《たにがは》にでも|行《い》つて|充分《じゆうぶん》|体《からだ》を|清《きよ》めて|来《く》るのだよ』
|梅公《うめこう》『オイ、|大江山《おほえやま》の|鬼《おに》の|住宅《ぢうたく》|七軒《しちけん》の|奴《やつ》、サア|洗濯《せんたく》だ。|又《また》もや|鬼《おに》の|来《こ》ぬまに|洗濯婆《せんたくば》サン|婆《ば》サン』
と|志《し》やり|散《ち》らし|乍《なが》ら、|尻引《しりひ》きからげ、|細《ほそ》い|岩戸《いはと》を|潜《くぐ》り|谷川《たにがは》|目蒐《めが》けて|走《はし》り|行《ゆ》く。|後《あと》には|高山彦《たかやまひこ》、|黒姫《くろひめ》、|綾彦《あやひこ》、お|民《たみ》の|四人《よにん》。
|黒姫《くろひめ》『ヤア|油断《ゆだん》のならぬ|悪霊《あくれい》ぢや、|折角《せつかく》の|綾彦《あやひこ》|夫婦《ふうふ》が|善《ぜん》の|道《みち》に|救《すく》はれようとなさる|最中《さいちう》に、|執拗《しつえう》なる|鬼《おに》の|霊《れい》がやつて|来《き》よつて|引落《ひきおと》しにかからうとする。|高山《たかやま》さま、|確《しつか》りせないと、|何時《いつ》|悪霊《あくれい》が|襲来《しふらい》するやら|分《わか》りませぬなア』
|高山彦《たかやまひこ》『ヤアさうだなア、これこれお|二人《ふたり》のお|方《かた》、|心配《しんぱい》なさるな、|今《いま》お|聞《きき》の|通《とほ》りだから|決《けつ》してウラナイ|教《けう》にはソンナ|悪《わる》いものは|居《を》りませぬ、|安心《あんしん》なされ』
|綾彦《あやひこ》『|悪霊《あくれい》と|云《い》ふものはソンナものですか、ヘエ|油断《ゆだん》がなりませぬなア』
|黒姫《くろひめ》『|隅《すみ》から|隅《すみ》まで、|蜘蛛《くも》の|巣《す》を|張《は》つたやうに|手配《てくば》りをして|居《ゐ》ますから、|一寸《ちよつと》も|油断《ゆだん》は|出来《でき》ませぬよ、|貴女《あなた》は|未《ま》だウラナイ|教《けう》は|初《はじ》めてですから、|霊《れい》の|事《こと》を|云《い》つても|分《わか》りますまいが、|暫《しばら》く|信神《しんじん》して|見《み》なさい、|何《なに》も|彼《か》もすつかり|分《わか》つて|来《き》ます、さうしたらお|前《まへ》さまの|疑《うたがひ》も|氷解《ひようかい》するでせう』
お|民《たみ》『アヽ|左様《さやう》で|御座《ござ》いましたか、|誠《まこと》にお|気《き》を|揉《も》ましまして|申訳《まをしわけ》が|御座《ござ》いませぬ、どうぞ|宜敷《よろしく》お|願《ねが》ひ|致《いた》します』
|黒姫《くろひめ》『アヽ、それで|好《よ》い|好《よ》い、|奥《おく》へ|往《い》つて|神様《かみさま》にこの|解決《かいけつ》がついたお|礼《れい》を|云《い》つて|来《き》なさい』
|二人《ふたり》は|叮嚀《ていねい》に|頭《あたま》を|下《さ》げ、|静々《しづしづ》と|神壇《かみだな》の|間《ま》に|進《すす》み|行《ゆ》く。
|梅公《うめこう》|外《ほか》|七人《しちにん》は|黒姫《くろひめ》の|面部《めんぶ》にさつと|現《あら》はれた|低気圧《ていきあつ》の|襲来《しふらい》を、|危機一髪《ききいつぱつ》の|間《ま》にやつと|許《ゆる》され、|虎口《ここう》を|逃《のが》れた|心地《ここち》して|谷川《たにがは》|目蒐《めが》けて|禊《みそぎ》のために|走《はし》り|行《ゆ》く。|梅公《うめこう》は|道々《みちみち》、
『|嗚呼《ああ》|恐《おそ》ろしや|恐《おそ》ろしや  |剣《つるぎ》を|渡《わた》る|心地《ここち》して
あらぬ|智慧《ちゑ》をば|絞《しぼ》り|出《だ》し  |反間苦肉《はんかんくにく》の|策《さく》を|立《た》て
|漸《やうや》く|目的《もくてき》|成就《じやうじゆ》して  |意気《いき》|揚々《やうやう》と|立《た》ち|帰《かへ》り
|黒姫《くろひめ》さまの|御前《おんまへ》に  |忠臣《ちうしん》|気取《きどり》で|報告《はうこく》し
やつと|解《ほど》けた|閻魔顔《えんまがほ》  |福禄寿《げほう》の|様《やう》なハズバンド
|高山彦《たかやまひこ》の|目《め》の|前《まへ》で  |手柄話《てがらばなし》を|諄々《じゆんじゆん》と
|並《なら》べ|立《た》つれば|黒姫《くろひめ》も  |相好《さうがう》|崩《くづ》して|感歎《かんたん》し
|褒美《ほうび》の|積《つも》りで|甘酒《うまざけ》を  どつさり|飲《の》まして|呉《く》れた|故《ゆゑ》
|出会《であ》ふうた|時《とき》に|笠《かさ》ぬげと  |世《よ》の|諺《ことわざ》の|其《その》|儘《まま》に
|前後《ぜんご》を|忘《わす》れて|舌鼓《したつづみ》  うつて|廻《まは》つた|酒《さけ》の|酔《よ》ひ
|副守《ふくしゆ》か|何《なに》か|知《し》らねども  |功名心《こうみやうしん》にかり|出《だ》され
|迂闊《うつか》と|喋《しやべ》つた|謀《たく》み|事《ごと》  |天《てん》に|口《くち》あり|壁《かべ》に|耳《みみ》
いつの|間《ま》にかは|綾彦《あやひこ》や  お|民《たみ》の|奴《やつ》に|顛末《てんまつ》を
|一切《いつさい》|残《のこ》らず|聞《き》き|取《と》られ  |知《し》らぬが|仏《ほとけ》、|神心《かみごころ》
|白河夜船《しらかはよぶね》のぐうぐうと  |夢路《ゆめぢ》を|渡《わた》り|起《お》き|上《あが》り
|互《たがひ》に|顔《かほ》を|見合《みあは》せて  |旨《うま》くやつたな、ようやつた
|俺《おれ》の|知識《ちしき》はこの|通《とほ》り  |文殊菩薩《もんじゆぼさつ》も|丸跣《まるはだし》
|是《これ》から|信者《しんじや》を|集《あつ》めるは  |是《これ》より|外《ほか》に|手段《しゆだん》なし
これや|好《よ》い|事《こと》を|覚《おぼ》えたと  |心《こころ》|窃《ひそか》に|誇《ほこ》りつつ
|肩肱《かたひぢ》|怒《いか》らす|折柄《をりから》に  |黒姫《くろひめ》さまの|高《たか》い|声《こゑ》
こいつアてつきり|御褒美《ごはうび》と  |喜《よろこ》び|勇《いさ》み|八人《はちにん》が
|西瓜頭《すゐくわあたま》を|並《なら》ぶれば  |電光《でんくわう》|石火《せきくわ》|雷《いかづち》の
|轟《とどろ》くやうな|凄《すご》い|声《こゑ》  |胆玉《きもたま》|取《と》られ|臍《へそ》ぬかれ
|爪《つめ》を|取《と》られて|恥《はぢ》をかき  |此《この》|難関《なんくわん》を|如何《いか》にして
|突破《とつぱ》し|呉《く》れむと|首《くび》ひねる  |折《をり》しも|浮《う》かぶ|守護神《しゆごじん》
|法螺《ほら》を|副守《ふくしゆ》のべらべらと  |布留那《ふるな》の|弁《べん》の|黒姫《くろひめ》を
|煙《けぶり》に|捲《ま》いて|大江山《おほえやま》  |鬼《おに》の|悪霊《あくれい》の|仕業《しわざ》よと
|大責任《だいせきにん》を|転嫁《てんか》する  |早速《さつそく》の|頓智《とんち》、|梅公《うめこう》が
|甘《うま》い|理屈《りくつ》に|欺《あざむ》かれ  |閻魔《えんま》の|顔《かほ》は|忽《たちま》ちに
|急転直下《きふてんちよくか》の|地蔵顔《ぢざうがほ》  |鬼《おに》と|仏《ほとけ》の|入替《いれか》はり
やつと|破門《はもん》を|助《たす》かつて  |黒姫《くろひめ》さまの|命令《めいれい》で
|憑依《ひようい》もしない|悪霊《あくれい》を  |放《ほ》り|出《だ》すために|谷川《たにがは》で
|禊《みそぎ》をせいと|教《をし》へられ  |胸《むね》|撫《な》で|下《お》ろし|皺《しわ》|延《の》ばし
|国家《こくか》|興亡《こうばう》はまだ|愚《おろ》か  |危急《ききふ》|存亡《そんばう》の|身《み》の|始末《しまつ》
|川《かは》に|流《なが》した|心地《ここち》して  |漸《やうや》く|此処《ここ》にやつて|来《き》た
あゝ|面白《おもしろ》い|面白《おもしろ》い  |孫呉《そんご》に|勝《まさ》る|兵法《へいはふ》を
|際限《さいげん》もなく|編《あ》み|出《いだ》し  |虱殺《しらみごろ》しに|諸人《もろびと》を
|一人《ひとり》も|残《のこ》さずウラナイの  |教《をしへ》の|道《みち》に|引《ひ》き|入《い》れて
|鼻高姫《はなたかひめ》や|黒姫《くろひめ》の  |笑壺《ゑつぼ》に|入《い》るが|吾々《われわれ》の
|上分別《じやうふんべつ》では|在《あ》るまいか  |知識《ちしき》の|浅《あさ》い|浅公《あさこう》よ
|意気地《いくぢ》の|弱《よわ》い|幾公《いくこう》よ  【うめい】|智慧《ちゑ》|出《だ》す|梅公《うめこう》の
|手足《てあし》の|爪《つめ》でも|頂戴《ちやうだい》し  |煎《せん》じて|飲《の》めば|偉《えら》くなる
|寅公《とらこう》、|辰公《たつこう》、|鳶公《とびこう》よ  |是《これ》から|俺《おれ》の|云《い》ふ|事《こと》を
|聞《き》いて|出世《しゆつせ》をするがよい  |黒姫《くろひめ》さまの|大将《たいしやう》が
|口《くち》を|極《きは》めてべらべらと  お|節《せつ》を|説《と》いてウラナイの
|道《みち》に|入《い》れよと|全力《ぜんりよく》を  |尽《つく》して|見《み》てもあの|通《とほ》り
|弁論《べんろん》よりも|実行《じつかう》だ  |直接《ちよくせつ》|行動《かうどう》に|限《かぎ》るぞや
さは|然《さ》りながら|皆《みな》の|者《もの》  |夢《ゆめ》にもコンナ|計略《はかりごと》を
|高山《たかやま》さまや|黒姫《くろひめ》に  |必《かなら》ず|喋舌《しやべ》つちやならないぞ
|若《も》しも|分《わか》つた|其《その》|時《とき》は  |皆《みな》、|各々《めいめい》の|鼻《はな》の|下《した》
|大旱魃《だいかんばつ》の|大恐慌《だいきようくわう》  |蛙《かへる》は|口《くち》から、うつかりと
|酒《さけ》を|飲《の》む|時《とき》や|心得《こころえ》よ  |心《こころ》|一《ひと》つの|遣《つか》ひよで
|賢《かしこ》も|見《み》える|又《また》|阿呆《あほ》に  |見《み》えると|思《おも》へば|口《くち》だけは
どうぞ|慎《つつし》み|下《くだ》されよ  |賛成《さんせい》のお|方《かた》は|手《て》をあげて
|拍手《はくしゆ》|喝采《かつさい》してお|呉《く》れ  あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸倍《さちはへ》|坐《ま》しませよ  |月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも
|朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも  |仮令《たとへ》|大地《だいち》は|沈《しづ》むとも
|黒姫《くろひめ》さまが|怒《おこ》るとも  |金輪奈落《こんりんならく》この|秘密《ひみつ》
|云《い》うてはならぬぞお|互《たがひ》の  |身《み》の|一大事《いちだいじ》と|心得《こころえ》て
|必《かなら》ず|口外《こうぐわい》するでない  |秘密《ひみつ》はどこ|迄《まで》|秘密《ひみつ》だよ
|神《かみ》の|奥《おく》には|奥《おく》がある  |其《その》|又《また》|奥《おく》には|奥《おく》がある
|奥《おく》の|分《わか》らぬ|梅公《うめこう》の  |智慧《ちゑ》の|奥山《おくやま》|踏《ふ》み|分《わ》けて
|確《しか》と|梅公《うめこう》に|従《つ》いて|来《こ》い  こいでこいでと|松世《まつよ》はこいで
|末法《まつぱう》の|世《よ》が|来《き》て|門《かど》に|立《た》つ  |一《ひと》つ|違《ちが》へば|俺達《おれたち》も
|門《かど》に|立《た》たねば、ならぬとこ  |持《も》つて|生《うま》れた|智慧《ちゑ》の|徳《とく》
|大《おほ》きな|顔《かほ》して|黒姫《くろひめ》に  |賞《ほ》めて|貰《もら》うて|傲然《ごうぜん》と
ウラナイ|教《けう》の|宣伝使《せんでんし》  あゝ|面白《おもしろ》い|面白《おもしろ》い
|唯《ただ》|何事《なにごと》も|人《ひと》の|世《よ》は  |曲津《まがつ》に|見直《みなほ》し|聞直《ききなほ》し
|身《み》の|過《あやま》ちは|都合《つがふ》|好《よ》く  |宣《の》り|直《なほ》すのが|智慧《ちゑ》の|徳《とく》
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |叶《かな》はぬ|時《とき》があつたなら
|頭《あたま》を|下《さ》げて|梅公《うめこう》に  ドンナ|事《こと》でも|聞《き》くがよい
|聞《き》くは|当座《たうざ》の|恥《はぢ》なれど  |聞《き》かずに|知《し》つた|顔《かほ》をして
|失敗《しつぱい》したら|末代《まつだい》の  それこそ|恥《はぢ》となる|程《ほど》に
|阿呆《あはう》|正直《しやうぢき》|今迄《いままで》の  |態度《たいど》すつくり|立替《たてか》へて
|権謀《けんぼう》、|術策《じゆつさく》、|戦略《せんりやく》に  |心《こころ》の|底《そこ》から|立直《たてなほ》せ
あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |何故《なぜ》に|是程《これほど》よい|智慧《ちゑ》が
|梅公《うめこう》だけは|出《で》るであろ  あゝ|其《その》|筈《はず》ぢや|其《その》|筈《はず》ぢや
|厳《いづ》の|霊《みたま》のお|筆先《ふでさき》  |一度《いちど》に|開《ひら》く|梅《うめ》の|花《はな》
|梅《うめ》で|開《ひら》いて|常磐《ときは》の|松《まつ》で  |世界《せかい》|治《をさ》める|神《かみ》の|道《みち》
|見違《みちが》ひするなよ|皆《みな》の|奴《やつ》  |黒姫《くろひめ》さまは|偉《えら》くとも
|高山《たかやま》さまを|貰《もら》うてから  |何《なん》とはなしに【ぼつ】とした
これから|俺《おれ》が|全軍《ぜんぐん》の  |参謀総長《さんぼうそうちやう》である|程《ほど》に
|参謀《さんぼう》|本部《ほんぶ》の|梅公《うめこう》の  |指揮《しき》|命令《めいれい》に|従《したが》つて
|事《こと》を|執《と》るなら|毛《け》の|条《すぢ》の  |横幅《よこはば》|程《ほど》も|違算《ゐさん》なし
|余程《よつぽど》|偉《えら》い|守護神《しゆごじん》  |俺《おれ》に|守護《しゆご》をして|御座《ござ》る
|必《かなら》ず|俺《おれ》が|云《い》ふでない  |日《ひ》の|出神《でのかみ》や|竜宮《りうぐう》の
|乙姫《おとひめ》さまのお|脇立《わきだち》  |中《なか》でも|一層《いつそう》|偉《えら》い|奴《やつ》
|吾《わ》が|神勅《しんちよく》を|軽蔑《けいべつ》し  |必《かなら》ず【ぬか】りを|取《と》らぬやう
|皆《みな》の|奴等《やつら》に|気《き》をつける  あゝ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|叶《かな》はぬ|時《とき》の|神頼《かみだの》み  アハヽヽ ハツハア アハヽヽヽ』
|一同《いちどう》『アハヽヽヽ、|随分《ずゐぶん》|偉《えら》くメートルを|上《あ》げたものだなア』
|梅公《うめこう》『|何《なに》をごてごて|吐《ほざ》くのだ、|貴様等《きさまら》の|命《いのち》の|親《おや》だ、お|飯《まま》の|種《たね》だ、サアサア|黒姫《くろひめ》さまがお|待《ま》ち|兼《かね》だ。|御禊《みそぎ》がすみたら|帰《かへ》らう』
|一同《いちどう》はバラバラと|元《もと》の|地底《ちてい》の|岩窟《がんくつ》に|向《むか》つて|帰《かへ》り|行《ゆ》く。
(大正一一・四・二六 旧三・三〇 加藤明子録)
第一〇章 |赤面《せきめん》|黒面《こくめん》〔六三八〕
|谷川《たにがは》に|禊《みそぎ》を|済《す》まして、|梅公《うめこう》|一行《いつかう》は|再《ふたた》び|地底《ちてい》の|館《やかた》に|帰《かへ》り|来《き》たり、
|梅公《うめこう》『|高山彦《たかやまひこ》|様《さま》、|黒姫《くろひめ》|様《さま》、お|蔭《かげ》で|大江山《おほえやま》の|悪霊《あくれい》も、スツカリ|退散《たいさん》|致《いた》しました。そこら|中《ぢう》が|何《なん》ともなしに|軽《かる》くなつた|様《やう》で、|明晰《めいせき》な|頭脳《づなう》が|益々《ますます》|明晰《めいせき》になり、モウ|是《こ》れで|大宇宙《だいうちう》の|根本《こつぽん》が、|現界《げんかい》、|神界《しんかい》、|幽界《いうかい》の、|万事《ばんじ》|万端《ばんたん》|手《て》に|取《と》る|如《ごと》く|明瞭《めいれう》に、|梅《うめ》が|心鏡《しんきやう》に|映《えい》ずる|様《やう》になつて|来《き》ました。|随分《ずゐぶん》|御禊《みそぎ》と|云《い》ふものは|結構《けつこう》なものですなア』
|黒姫《くろひめ》『さうだろさうだろ、|何時《いつ》もそれぢやから、|朝《あさ》と|晩《ばん》と|昼《ひる》と、|間《ま》さへあれば、お|水《みづ》を|頂《いただ》きなさいと|云《い》うとるのぢや。|火《ひ》と|水《みづ》とお|土《つち》の|御恩《ごおん》が|第一《だいいち》ぢや。|何時《いつ》も|水《みづ》を|被《かぶ》るのは、|蛙《かはづ》の|行《ぎやう》ぢやと|言《い》つてブツブツ|叱言《こごと》を|云《い》つてらつしやるが、|今日《けふ》は|合点《がてん》がいつただらう』
|梅公《うめこう》『ヤアもう|徹底的《てつていてき》に|分《わか》りました。|有難《ありがた》い|事《こと》には、|日《ひ》の|出神《でのかみ》|様《さま》と|竜宮《りうぐう》の|乙姫《おとひめ》さまが|私《わたくし》の|肉体《にくたい》にお|懸《かか》り|下《くだ》さいまして、|結構《けつこう》で|御座《ござ》いました』
|黒姫《くろひめ》『これこれ|梅公《うめこう》、|何《なん》と|云《い》ふ|傲慢《ごうまん》|不遜《ふそん》な|事《こと》を|言《い》ひなさる。|日《ひ》の|出神《でのかみ》|様《さま》は、|誠《まこと》|水晶《すゐしやう》の|生粋《きつすゐ》の|根本《こつぽん》の|元《もと》の|身魂《みたま》でなければお|憑《うつ》りなさらず、|又《また》|竜宮《りうぐう》の|乙姫《おとひめ》さまは、|因縁《いんねん》の|身魂《みたま》でなければ、|誰《たれ》にも、|彼《か》れにもお|憑《うつ》りなさる|筈《はず》がない。「|昔《むかし》から|神《かみ》はものを|言《い》はなンだぞよ。|世《よ》の|変《かは》り|目《め》に|神《かみ》が|憑《うつ》りて、|世界《せかい》の|人《ひと》に|何《なに》かの|事《こと》を|知《し》らせねばならぬから、|因縁《いんねん》の|身魂《みたま》に|神《かみ》が|憑《うつ》りて、|世界《せかい》の|初《はじ》まりの|事《こと》から、|行末《ゆくすゑ》の|事《こと》、|身魂《みたま》の|因縁《いんねん》|性来《しやうらい》を|細《こま》かう|説《と》いて|聞《き》かして、|世界《せかい》の|人民《じんみん》を|改心《かいしん》さすぞよ。|稲荷《いなり》|位《くらゐ》は|誰《たれ》にも|憑《うつ》るが、|誠《まこと》の|大神《おほかみ》は|禰宜《ねぎ》や|巫子《みこ》には|憑《うつ》らぬぞよ」と|変性男子《へんじやうなんし》の|身魂《みたま》が|仰有《おつしや》つて|御座《ござ》る。それに|何《なん》ぞや、|下司《げす》の|身魂《みたま》にソンナ|結構《けつこう》な|神様《かみさま》が|憑《うつ》りなさる|筈《はず》があるものか。|日《ひ》の|出神《でのかみ》の|生宮《いきみや》が、さう|二《ふた》つもあつたり、|竜宮《りうぐう》の|乙姫《おとひめ》さまの|生宮《いきみや》が、さう|彼方《あつち》にも|此方《こつち》にも|出来《でき》て|堪《たま》るものか。お|前《まへ》は|一寸《ちよつと》|良《よ》いと|直《ぢき》によい|気《き》になつて、|慢心《まんしん》をするなり、|一寸《ちよつと》|叱《しか》られると、|直《すぐ》に|青《あを》くなつてビシヨビシヨとして|了《しま》ふ。それと|云《い》ふのも、モ|一《ひと》つ|腹帯《はらおび》が|締《しま》つて|居《を》らぬからぢや。|身魂相応《みたまさうおう》の|御用《ごよう》をさされるのぢやから、|慢心《まんしん》をし、|高上《たかあが》りをしてブチヤダレヌ|様《やう》にしなされや、|灯台下《とうだいもと》はまつ|暗《くら》がり、|自分《じぶん》の|顔《かほ》の|墨《すみ》は|分《わか》るまい。|空《そら》|向《む》いて|世《よ》の|中《なか》を|歩《ある》かうと|思《おも》へば、|高《たか》い|石《いし》に|躓《つまづ》いて、|逆《さか》トンボリを|打《う》たねばならぬぞよ。|開《あ》いた|口《くち》がすぼまらぬ|様《やう》なことのない|様《やう》に、|各自《めいめい》に|心得《こころえ》たが|宜《よ》いぞ』
|梅公《うめこう》『ヤア|承知《しようち》|致《いた》しました。|併《しか》し|乍《なが》ら、|臨時《りんじ》|御降臨《ごかうりん》|遊《あそ》ばしたのだから|仕方《しかた》がありませぬ』
|黒姫《くろひめ》『そら|何《なに》を|云《い》ひなさる。|神憑《しんぺう》には|公憑《こうひよう》、|私憑《しひよう》と|二《ふた》つの|種類《しゆるゐ》がある。|其《その》|中《なか》でも|私憑《しひよう》と|云《い》ふのは、|因縁《いんねん》の|身魂《みたま》|丈《だけ》によりお|憑《うつ》りなさらぬと|云《い》う|事《こと》ぢや。|国治立命《くにはるたちのみこと》は|変性男子《へんじやうなんし》の|肉体《にくたい》、|日《ひ》の|出神《でのかみ》は|系統《ひつぽう》の|肉体《にくたい》、|竜宮《りうぐう》の|乙姫《おとひめ》は|又《また》その|系統《ひつぽう》の|肉体《にくたい》と、チヤンと|定《きま》つて|居《を》るのぢや。|公憑《こうひよう》と|云《い》うて、|上《うへ》の|方《はう》の|身魂《みたま》にも、|中《なか》の|身魂《みたま》にも、|下《げ》の|身魂《みたま》にも|臨機《りんき》|応変《おうへん》に|憑《うつ》ると|云《い》ふ|様《やう》な、ソンナ|自堕落《じだらく》な|神《かみ》さまとは|違《ちが》ひまつせ。|竜宮《りうぐう》の|乙姫《おとひめ》さまを、|何《なん》と|思《おも》うて|居《を》りなさる。チツトお|筆先《ふでさき》でも|拝読《いただ》きなさい。お|筆《ふで》さへ|腹《はら》へ|締《し》め|込《こ》みておきたら、|目前《まさか》の|時《とき》に、ドンナ|神力《しんりき》でも|与《あた》へて|下《くだ》さる。|兎角《とかく》お|前達《まへたち》は、|字《じ》が|悪《わる》いとか、|読《よ》み|難《にく》いとか、クドイとか、|首尾《しゆび》|一貫《いつくわん》せぬとか、|肉体《にくたい》が|混《まぜ》つとるとか、ここは|神諭《しんゆ》ぢや、|此《この》|点《てん》は|人諭《じんゆ》ぢやと、|屁理屈《へりくつ》ばつかり|仰有《おつしや》るから、サツパリ|訳《わけ》が|分《わか》らぬ|様《やう》になつて|了《しま》うのだ。|日《ひ》の|出神《でのかみ》の|生宮《いきみや》のお|書《か》き|遊《あそ》ばしたお|筆先《ふでさき》を|審神《さには》したり、しやうとするから|間違《まちが》ふのだ。|是《こ》れから、|絶対《ぜつたい》に|有難《ありがた》いと|思《おも》うていただきなさい』
|梅公《うめこう》『|私《わたくし》はお|道《みち》を|開《ひら》く|因縁《いんねん》の|身魂《みたま》ぢやありませぬか』
|黒姫《くろひめ》『きまつた|事《こと》ぢや。|因縁《いんねん》なくて、|此《この》|結構《けつこう》なウラナイ|教《けう》へ|来《こ》られるものか』
|梅公《うめこう》『|因縁《いんねん》の|身魂《みたま》の|中《なか》でも、|私《わたくし》は|最《もつと》も|因縁《いんねん》の|深《ふか》いものでせう。|高姫《たかひめ》さまは|高天原《たかあまはら》に|因縁《いんねん》のある|名《な》ぢやし、|黒姫《くろひめ》さまは、【くろう】の|固《かた》まりの|花《はな》が|咲《さ》くとお|筆先《ふでさき》に|因縁《いんねん》があるなり、|私《わたくし》は|三千世界《さんぜんせかい》|一度《いちど》に|開《ひら》く|梅《うめ》の|花《はな》と|云《い》ふ、|変性男子《へんじやうなんし》の|初発《しよつぱつ》のお|筆先《ふでさき》に|出《で》て|居《を》る|因縁《いんねん》の|名《な》ぢやありませぬか。|何《なん》と|云《い》つても|梅《うめ》は|梅《うめ》、|一度《いちど》に|開《ひら》く|役《やく》は|梅公《うめこう》の|守護神《しゆごじん》のお|役《やく》でせう』
|黒姫《くろひめ》『|此《この》|広《ひろ》い|世界《せかい》に、|梅《うめ》の|名《な》のつくのは、お|前《まへ》ばつかりぢやないわいな』
|梅公《うめこう》『それでも、|今《いま》あなた、|因縁《いんねん》の|身魂《みたま》ばつかり|引《ひ》き|寄《よ》せて|有《あ》ると|仰有《おつしや》つたぢやありませぬか。ウラナイ|教《けう》へ|引寄《ひきよ》せられた|人間《にんげん》の|中《うち》に、|梅《うめ》の|名《な》の|付《つ》いた|者《もの》が、|一人《ひとり》でもありますか。|松《まつ》で|治《をさ》めると|云《い》ふ、|松《まつ》に|因縁《いんねん》のある|松姫《まつひめ》さまは、|高城山《たかしろやま》であの|通《とほ》り|羽振《はぶ》りを|利《き》かし、なぜ|此《この》|梅公《うめこう》は、さうあなたから|軽蔑《けいべつ》されるのでせう』
|黒姫《くろひめ》『もうチツと|修業《しうげふ》しなされ。さうしたら|又《また》、|松姫《まつひめ》と|肩《かた》を|並《なら》べる|様《やう》にならうも|知《し》れぬ。|併《しか》し|今日《けふ》は|初《はじ》めて|綾彦《あやひこ》、お|民《たみ》に、|宣伝《せんでん》を、|竜宮《りうぐう》の|乙姫《おとひめ》の|肉体《にくたい》が、|直接《ちよくせつ》にしてあげるから、お|前《まへ》もシツカリ|聴《き》きなされ。そして|此《この》|肉体《にくたい》の|宣伝振《せんでんぶり》をよく|腹《はら》へ|締《し》め|込《こ》みて、|世界《せかい》を|誠《まこと》で|開《ひら》くのぢやぞえ』
|梅公《うめこう》『それは|有難《ありがた》う|御座《ござ》います。|吾々《われわれ》も|傍聴《ばうちやう》の|栄《えい》を|得《え》まして……』
|黒姫《くろひめ》『コレコレあまり|喋《しやべ》るものぢやない……|男《をとこ》だてら……|口《くち》は|禍《わざはひ》の|門《もん》ぢや。|黙《だま》つて|謹聴《きんちやう》しなさい』
と|押《おさ》へつけ|乍《なが》ら、|少《すこ》し|曲《まが》つた|腰付《こしつき》をして|底太《そこぶと》い|声《こゑ》を|張上《はりあ》げ|歌《うた》ひ|始《はじ》めたり。
『|昔《むかし》の|昔《むかし》その|昔《むかし》  |遠《とほ》き|神代《かみよ》の|初《はじ》めより
|国治立《くにはるたち》の|大神《おほかみ》は  |千座《ちくら》の|置戸《おきど》を|負《お》ひ|給《たま》ひ
|世《よ》を|艮《うしとら》に|隠《かく》れまし  |三千年《さんぜんねん》の|其《その》|間《あひだ》
|苦労《くらう》|艱難《かんなん》|遊《あそ》ばして  |此《この》|世《よ》を|永久《とは》に|開《ひら》かむと
|種々《いろいろ》|雑多《ざつた》と|身《み》をやつし  |蔭《かげ》の|守護《しゆご》を|遊《あそ》ばされ
ミクロの|御代《みよ》を|待《ま》ち|給《たま》ふ  |時節《じせつ》|参《まゐ》りて|煎豆《いりまめ》に
|花《はな》|咲《さ》く|御代《みよ》となりかはり  |変性男子《へんじやうなんし》の|御身魂《おんみたま》
|道具《だうぐ》に|使《つか》ふて|昔《むかし》から  |末《すゑ》の|末《すゑ》まで|見通《みとほ》され
|尊《たふと》きお|筆《ふで》を|出《いだ》しまし  |世《よ》に|落《お》ちぶれた|神々《かみがみ》を
|今度《こんど》|一緒《いつしよ》に|世《よ》にあげて  それぞれお|名《な》を|賜《たま》ひつつ
|神《かみ》の|御用《ごよう》に|立《た》て|給《たま》ふ  |時節《じせつ》|来《き》たのを|竜宮《りうぐう》の
|乙姫《おとひめ》|様《さま》は|活溌《くわつぱつ》な  |御察《おさつ》しの|良《よ》い|神《かみ》|故《ゆゑ》に
|今《いま》まで|生命《いのち》と|蓄《たくは》へた  |金銀《きんぎん》、|珠玉《しゆぎよく》、|珊瑚珠《さんごじゆ》も
|残《のこ》らず|宝《たから》|投《な》げ|出《だ》して  |大神様《おほかみさま》へ|献《たてま》つり
|穢《きた》ない|心《こころ》をスツパリと  |海《うみ》へ|流《なが》して|因縁《いんねん》の
|身魂《みたま》と|現《あ》れし|黒姫《くろひめ》を  |神政成就《しんせいじやうじゆ》の|機関《きくわん》とし
|現《あら》はれ|給《たま》うた|尊《たふと》さよ  |今《いま》まで|竜宮《りうぐう》の|乙姫《おとひめ》の
|醜《みぐる》しかつた|御霊《みたま》|丈《だけ》  |系統《ひつぽう》の|身魂《みたま》に|憑《うつ》られて
|懺悔《ざんげ》|遊《あそ》ばし|一番《いちばん》に  |改心《かいしん》なされた|利巧者《りかうもの》
|三千世界《さんぜんせかい》の|世《よ》に|落《お》ちた  |神々《かみがみ》さまは|竜宮《りうぐう》の
|乙姫《おとひめ》さまを|手本《てほん》とし  |力一杯《ちからいつぱい》|身魂《みたま》をば
|磨《みが》いて|今度《こんど》の|御大謨《ごたいも》に  お|役《やく》に|立《た》つた|其《その》|上《うへ》で
それぞれお|名《な》を|頂《いただ》いて  |結構《けつこう》な|神《かみ》と|祀《まつ》られる
|三千世界《さんぜんせかい》の|梅《うめ》の|花《はな》  |一度《いちど》に|開《ひら》くと|云《い》ふ|事《こと》は
|永《なが》らく|海《うみ》の|底《そこ》の|底《そこ》  お|住居《すまゐ》なされた|竜宮《りうぐう》さま
|肉《にく》のお|宮《みや》にをさまりて  |広《ひろ》い|世界《せかい》の|民草《たみくさ》に
|誠《まこと》|一《ひと》つのお|仕組《しぐみ》を  |現《あら》はしなさるお|働《はたら》き
|日《ひ》の|出《で》の|神《かみ》と|引《ひ》つ|添《そ》うて  |今度《こんど》の|御用《ごよう》の|地《もと》となり
|神《かみ》の|大望《たいもう》|成就《じやうじゆ》させ  |天《てん》にまします|三体《さんたい》の
|大神様《おほかみさま》へ|地《ち》の|世界《せかい》  |斯《か》うなりましたとお|目《め》にかけ
お|手柄《てがら》|遊《あそ》ばす|仕組《しぐみ》ぞや  |此《この》お|仕組《しぐみ》は|三五《あななひ》の
|神《かみ》の|教《をしへ》を|厳御霊《いづみたま》  |変性男子《へんじやうなんし》の|筆先《ふでさき》に
くまめる|様《やう》に|書《か》いてある  |其《その》|筆先《ふでさき》の|読《よ》み|様《やう》が
|足《た》らぬ|盲《めくら》のミヅ|御霊《みたま》  |変性女子《へんじやうによし》が|混《ま》ぜ|返《かへ》し
|蛙《かはづ》の|行列《ぎやうれつ》|向《むか》ふミヅ  |瑞《みづ》の|御霊《みたま》と|偉相《えらさう》に
|日《ひ》の|出神《でのかみ》の|筆先《ふでさき》を  |何《なん》ぢや|彼《か》ンぢやとケチをつけ
|黒姫《くろひめ》までも|馬鹿《ばか》にする  され|共《ども》|此方《こちら》はどこまでも
|耐《こば》り|耐《こば》りて|出《で》て|来《き》たが  |余《あま》り|何時《いつ》まで|分《わか》らねば
|是非《ぜひ》に|及《およ》ばず|帳《ちやう》を|切《き》り  |悪《あく》の|鑑《かがみ》と|現《あら》はして
|万劫末代《まんごうまつだい》|書《か》き|残《のこ》す  |変性男子《へんじやうなんし》は|唯《ただ》|一人《ひとり》
|変性女子《へんじやうによし》も|亦《また》|一人《ひとり》  それに|何《なん》ぞや|三《み》つ|御霊《みたま》
|三《み》つもあつてたまるかい  |此《この》|事《こと》からが|間違《まちが》ひぢや
|変性男子《へんじやうなんし》は|経《たて》の|役《やく》  |変性女子《へんじやうによし》は|緯《よこ》の|役《やく》
|経《たて》と|緯《よこ》とを|和合《わがふ》させ  |錦《にしき》の|機《はた》を|織《お》る|仕組《しぐみ》
|日《ひ》の|出神《でのかみ》が|地《ぢ》となりて  |竜宮様《りうぐうさま》のお|手伝《てつだひ》ひ
|今度《こんど》|一番《いちばん》|御出世《ごしゆつせ》を  |遊《あそ》ばす|事《こと》を|知《し》らないか
|必《かなら》ず|必《かなら》ず|三五《あななひ》の  |緯《よこ》の|教《をしへ》に|迷《まよ》ふなよ
|経《たて》が|七分《しちぶ》に|緯《よこ》|三分《さんぶ》  これでなければ|立派《りつぱ》なる
|誠《まこと》の|機《はた》は|織《お》れないに  |三五教《あななひけう》の|大本《おほもと》は
|次第《しだい》|々々《しだい》に|紊《みだ》れ|来《き》て  |経《たて》が|三分《さんぶ》に|緯《よこ》|七分《しちぶ》
|変性男子《へんじやうなんし》は|先走《さきばし》り  |変性女子《へんじやうによし》は|弥勒《みろく》さま
|何《なん》ぢや|彼《か》ンぢやと|身勝手《みがつて》な  |理屈《りくつ》を|並《なら》べて|煙《けむ》に|巻《ま》く
|此《この》|儘《まま》|棄《す》てて|置《お》いたなら  |変性男子《へんじやうなんし》の|永年《ながねん》の
|艱難《かんなん》|苦労《くらう》も|水《みづ》の|泡《あわ》  |水《みづ》の|泡《あわ》にはさせまいと
|系統《ひつぽう》の|身魂《みたま》を|選《え》り|抜《ぬ》いて  |日《ひ》の|出神《でのかみ》が|現《あら》はれて
|誠《まこと》の|筆先《ふでさき》|書《か》きしるし  |一度《いちど》|読《よ》めよと|勧《すす》むれど
|変性女子《へんじやうによし》の|頑固者《ぐわんこもの》  どうして|此《こ》れが|読《よ》まれよかと
|声《こゑ》を|荒立《あらだ》て|投《な》げつける  それ|程《ほど》|厭《いや》なら|読《よ》までよい
|後《あと》で|吠面《ほえづら》かわくなと  |言《い》うて|聞《き》かしてやつたれど
|訳《わけ》の|分《わか》らぬ|頑固者《ぐわんこもの》  |神《かみ》の|恵《めぐみ》を|仇《あだ》に|取《と》り
|何《なに》ほど|親切《しんせつ》|尽《つく》しても  モウこの|上《うへ》は|助《たす》けやうが
|無《な》いと|悔《くや》みて|高姫《たかひめ》が  |何時《いつ》も|涙《なみだ》をポロポロと
|零《こぼ》して|御座《ござ》るお|慈悲心《じひしん》  それに|続《つづ》いて|分《わか》らぬは
|金勝要《きんかつかね》の|大御神《おほみかみ》  この|肉体《にくたい》もド|渋《しぶ》とい
まだまだ|渋《しぶ》とい|奴《やつ》がある  |仮令《たとへ》|大地《だいち》は|沈《しづ》むとも
|生命《いのち》の|綱《つな》が|切《き》れるとも  |日《ひ》の|出神《でのかみ》の|筆先《ふでさき》は
|当《あて》にならぬと|撥《は》ねつける  |木《こ》の|花姫《はなひめ》の|生宮《いきみや》と
|嘘《うそ》か|本真《ほんま》か|知《し》らねども  |現《あら》はれ|出《い》でた|男女郎《をとこめらう》
|火《ひ》が|蛇《じや》になろがどうしようが  |改心《かいしん》させねば|置《お》くものか
|縦《たて》から|横《よこ》から|八方《はつぱう》から  |探女醜女《さぐめしこめ》を|遣《つか》はして
いろいろ|骨《ほね》を|折《お》るけれど  |固《もと》より|愚鈍《ぐどん》な|生《うま》れつき
|石《いし》の|地蔵《ぢざう》に|打向《うちむか》ひ  |説教《せつけう》するよな|塩梅《あんばい》で
どしても|聞《き》かうと|致《いた》さない  |木《こ》の|花姫《はなひめ》の|肉体《にくたい》を
|改心《かいしん》させねば|何時《いつ》までも  |神《かみ》の|仕組《しぐみ》は|成就《じやうじゆ》せぬ
ウラナイ|教《けう》も|栄《さか》やせぬ  サア|是《こ》れからは|黒姫《くろひめ》の
|指図《さしづ》に|従《したが》ひ|身《み》をやつし  |千変万化《せんぺんばんくわ》に|活動《くわつどう》し
|一日《ひとひ》も|早《はや》く|因縁《いんねん》の  |身魂《みたま》を|改心《かいしん》さす|様《やう》に
|祈《いの》つて|呉《く》れよ|黒姫《くろひめ》も  これから|百日百夜《ひやくにちひやくよさ》は
|剣尖山《けんさきやま》の|谷川《たにがは》の  |産《うぶ》のお|水《みづ》で|身《み》を|清《きよ》め
|一心不乱《いつしんふらん》に|祈念《きねん》する  アヽ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ』
と|汗《あせ》をブルブルに|掻《か》き、|身体《しんたい》|一面《いちめん》ポーツポーツと|湯気《ゆげ》を|立《た》て、
『アーア|苦《くる》しいこと。……|世界《せかい》の|人民《じんみん》を|助《たす》けようと|思《おも》へば、|並大抵《なみたいてい》ぢやない、|変性男子《へんじやうなんし》や|高姫《たかひめ》さまの|御苦労《ごくらう》が|身《み》に|浸《し》みて、【おいと】しう|御座《ござ》るわいの、オンオンオン』
と|泣《な》き|崩《くづ》れる。
これより|黒姫《くろひめ》は、|百日百夜《ひやくにちひやくや》、|宮川《みやかは》の|滝《たき》に|水行《すゐぎやう》をなし、|高山彦《たかやまひこ》の|懇望《こんもう》もだし|難《がた》く、|一旦《いつたん》|数多《あまた》の|信徒《しんと》を|宣伝使《せんでんし》に|仕立《した》てて、|自転倒島《おのころじま》の|東西南北《とうざいなんぼく》に|間配《まくば》り|置《お》き、|手《て》に|手《て》を|把《と》つて、フサの|国《くに》へ|渡《わた》り、|高姫《たかひめ》の|身許《みもと》に|着《つ》きける。|高姫《たかひめ》は|三五教《あななひけう》の|勢力《せいりよく》|侮《あなど》り|難《がた》きを|黒姫《くろひめ》より|聞《き》き、|黒姫《くろひめ》を|北山村《きたやまむら》の|本山《ほんざん》に|残《のこ》し|置《お》き、|自《みづか》らは|二三《にさん》の|弟子《でし》と|共《とも》に、|自転倒島《おのころじま》に|渡《わた》り、|再《ふたた》び|魔窟ケ原《まくつがはら》に|現《あら》はれ、|衣懸松《きぬかけまつ》の|下《した》にて|庵《いほり》を|結《むす》び、|三五教《あななひけう》|覆滅《ふくめつ》の|根拠地《こんきよち》を|作《つく》らむとして|居《ゐ》たのである。|又《また》もやそれより|由良《ゆら》の|湊《みなと》の|人子《ひとご》の|司《つかさ》、|秋山彦《あきやまひこ》が|館《やかた》に|於《おい》て、|冠島《かむりじま》、|沓島《くつじま》の|宝庫《はうこ》の|鍵《かぎ》を|盗《と》り、|遂《つひ》には|如意宝珠《によいほつしゆ》の|玉《たま》を|呑《の》み、|空中《くうちう》に|白煙《はくえん》となりて|再《ふたた》び|逃《に》げ|帰《かへ》りしが、それと|行違《ゆきちがひ》に|黒姫《くろひめ》は、|又《また》もや|魔窟ケ原《まくつがはら》に|現《あら》はれ、|草庵《さうあん》の|焼跡《やけあと》に|新《あらた》に|庵《いほり》を|結《むす》び、|前年《ぜんねん》|高姫《たかひめ》と|共《とも》に|築《きづ》き|置《お》きたる|地底《ちてい》の|大岩窟《だいがんくつ》に|居《きよ》を|定《さだ》め、|極力《きよくりよく》|宣伝《せんでん》に|従事《じうじ》して|居《ゐ》たりしなり。|然《しか》るに|黒姫《くろひめ》の|部下《ぶか》に|仕《つか》ふる|夏彦《なつひこ》、|常彦《つねひこ》、|其《その》|他《た》の|弟子《でし》|共《ども》は、フサの|国《くに》より|扈従《こじう》し|来《きた》り|乍《なが》ら、|少《すこ》しも|黒姫《くろひめ》に|夫《をつと》ある|事《こと》を|知《し》らざりける。|黒姫《くろひめ》は|独身《どくしん》|主義《しゆぎ》を|高唱《かうしやう》し、|盛《さか》ンに|宣伝《せんでん》をして|居《ゐ》た|手前《てまへ》、|今更《いまさら》|夫《をつと》ありとは|打明《うちあ》け|兼《か》ね、|私《ひそか》に|高姫《たかひめ》に|通《つう》じて、|神界《しんかい》の|都合《つがふ》と|称《しよう》し、|始《はじ》めて|夫《をつと》を|持《も》つた|如《ごと》く|装《よそほ》ひける。|高山彦《たかやまひこ》の|表面《へうめん》|入婿《いりむこ》として|来《きた》るや、|以前《いぜん》の|事情《じじやう》を|知《し》らざりし|弟子《でし》|達《たち》は、|黒姫《くろひめ》の|此《この》|行動《かうどう》に|慊《あきた》らず、|遂《つひ》にウラナイ|教《けう》を|脱退《だつたい》するに|至《いた》りたるなり。|夏彦《なつひこ》、|常彦《つねひこ》|以下《いか》の|主《おも》なる|者《もの》は、|此《この》|時《とき》|高城山《たかしろやま》に|立籠《たてこも》り、|東南《とうなん》|地方《ちはう》を|宣伝《せんでん》し|居《ゐ》たれば、|梅《うめ》、|浅《あさ》、|幾《いく》などの|計《はか》らひに|依《よ》りて、|新《あらた》に|入信《にふしん》したる|綾彦《あやひこ》の|事《こと》は|少《すこ》しも|知《し》らざりける。また|高城山《たかしろやま》の|松姫《まつひめ》が|侍女《じぢよ》として|仕《つか》へ|居《ゐ》るお|民《たみ》の|素性《すじやう》も、|気《き》が|付《つ》かず、|唯《ただ》|普通《ふつう》の|信者《しんじや》とのみ|思《おも》ひて|取扱《とりあつか》ひ|居《ゐ》たりしなり。|黒姫《くろひめ》は|又《また》もや|剣尖山《けんさきやま》の|麓《ふもと》を|流《なが》るる|宮川《みやかは》に、|綾彦《あやひこ》|外《ほか》|一人《ひとり》を|伴《ともな》ひ、|禊《みそぎ》の|最中《さいちう》、|紫姫《むらさきひめ》、|青彦《あをひこ》の|一行《いつかう》に|出会《でつくは》し、|青彦《あをひこ》が|再《ふたた》びウラナイ|教《けう》に|復帰《ふくき》せしと|聞《き》き、|喜《よろこ》び|勇《いさ》みて、この|岩窟《がんくつ》に|意気《いき》|揚々《やうやう》として|帰《かへ》り|来《き》たりしなり。
|黒姫《くろひめ》『サアサアこれが|妾《わし》の|仮《かり》の|出張所《しゆつちやうじよ》だ。|大江山《おほえやま》の|悪魔《あくま》|防《ふせ》ぎに|地下室《ちかしつ》を|拵《こしら》へて|有《あ》るのだから、|這入《はい》つて|下《くだ》さいませ。……|青彦《あをひこ》、お|前《まへ》は|勝手《かつて》をよく|知《し》つてる|筈《はず》ぢや。どうぞ|皆《みな》さまを|叮嚀《ていねい》に|案内《あんない》をしてあげて|下《くだ》さいな』
|鹿公《しかこう》『ヤアこれは|又《また》|奇妙《きめう》なお|住居《すまゐ》ですな、|三五教《あななひけう》の|反対《はんたい》で、|穴有教《あなありけう》だなア、ヤア|結構《けつこう》|結構《けつこう》、|穴有難《あなありがた》や|穴《あな》たふとやだ』
と|一人《ひとり》|々々《ひとり》、ゾロゾロと|辷《すべ》り|込《こ》む。
|黒姫《くろひめ》『モシモシ|高山彦《たかやまひこ》さま、|極道《ごくだう》|息子《むすこ》が|帰《かへ》つて|来《き》ました。どうぞ|勘当《かんどう》を|赦《ゆる》してやつて|下《くだ》さい』
|高山彦《たかやまひこ》『ヤアお|前《まへ》の|常々《つねづね》|喧《やかま》しう|言《い》つて|居《を》つた……これが|青彦《あをひこ》だらう』
|青彦《あをひこ》『ハイ|始《はじ》めてお|目《め》にかかります。どうぞ|宜《よろ》しう|御願《おねが》ひ|致《いた》します』
|高山彦《たかやまひこ》『ハイハイ、もう|是《こ》れからは、あまりグラつかぬ|様《やう》にして|下《くだ》さい』
|青彦《あをひこ》『|決《けつ》して|決《けつ》して、|御心配《ごしんぱい》|下《くだ》さいますな』
|高山彦《たかやまひこ》『ヤアなンと|綺麗《きれい》な|娘《むすめ》さまがお|出《いで》になつたぢやないか』
|青彦《あをひこ》『|此《この》お|方《かた》は|由緒《ゆいしよ》ある|都《みやこ》の|方《かた》で|御座《ござ》いますが、お|伊勢様《いせさま》へ|御参拝《ごさんぱい》の|折《をり》、|黒姫《くろひめ》|様《さま》の|言霊《ことたま》を|聞《き》いて、|大変《たいへん》|感心《かんしん》|遊《あそ》ばし、「どうぞ|妾《わたし》も|入信《にふしん》が|致《いた》したう|御座《ござ》いますから、|青彦《あをひこ》さま、|頼《たの》みて|下《くだ》さいな」ナンテ、それはそれはお|優《やさ》しい|口許《くちもと》でお|頼《たの》みになりました。|私《わたくし》もコンナ|綺麗《きれい》な|方《かた》が、|男《をとこ》ばつかりの|所《ところ》へお|出《いで》になつては、|嘸《さぞ》|御迷惑《ごめいわく》だらうと|思《おも》ひましたけれども、|折角《せつかく》のお|頼《たの》み、|無下《むげ》に|断《ことわ》る|訳《わけ》にもゆかず、|黒姫《くろひめ》|様《さま》に|御取次《おとりつぎ》|致《いた》しました。|黒姫《くろひめ》さまは|二《ふた》つ|返辞《へんじ》で|承知《しようち》して|下《くだ》さいました』
|紫姫《むらさきひめ》『ホヽヽヽヽ』
と|袖《そで》に|顔《かほ》を|隠《かく》す。
|黒姫《くろひめ》『コレ|青彦《あをひこ》、チツと|違《ちが》つては|居《を》らぬかな』
|青彦《あをひこ》『アーさうでしたかなア。あまり|嬉《うれ》しかつたので、|精神《せいしん》|錯乱《さくらん》|致《いた》しました。どうぞ|見直《みなほ》し|聞直《ききなほ》しを|願《ねが》ひます』
|黒姫《くろひめ》『|青彦《あをひこ》お|前《まへ》は|久振《ひさしぶり》で|親《おや》の|家《うち》へ|帰《かへ》つたのだから、|気《き》を|許《ゆる》して|奥《おく》でゆつくりと|寝《ね》なされ、|今《いま》は|新顔《しんがほ》ばつかりで、お|前《まへ》の|知《し》つて|居《を》る|者《もの》は、みなフサの|国《くに》の|本山《ほんざん》へ|往《い》つたり、|高城山《たかしろやま》へ|行《い》つて|居《を》る、|馴染《なじみ》がなくて|寂《さび》しいだらうが、|気《き》の|良《よ》い|者《もの》ばつかりだから、|気兼《きがね》なしにユツクリと|休《やす》まつしやい。|馬公《うまこう》|鹿公《しかこう》も、トツトとお|休《やす》み、|又《また》|明日《あす》になつたら|結構《けつこう》な|話《はなし》を|聞《き》かしてあげる。……サテ|紫姫《むらさきひめ》さまとやら、あなたは|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》におなりになつたのは、|何《なに》を|感《かん》じてですかなア。|何《なに》か|一《ひと》つの|動機《どうき》がなければ、あなたの|様《やう》な|賢明《けんめい》な|淑女《しゆくぢよ》が、あの|様《やう》な|瑞《みづ》の|御霊《みたま》の|混《ま》ぜ|返《かへ》し|教《けう》に|入信《にふしん》なさる|道理《だうり》がない。みな|奥《おく》へ|行《い》つて|睡眼《やす》みて|了《しま》つたから、|誰《たれ》も|聞《き》く|者《もの》もないから、|遠慮《ゑんりよ》なしに|話《はな》して|下《くだ》さいな』
|紫姫《むらさきひめ》『ハイ|有難《ありがた》う|御座《ござ》います、|別《べつ》に|是《こ》れと|云《い》ふ|動機《どうき》も|御座《ござ》いませぬ。|国家《こくか》の|為《ため》|社会《しやくわい》の|為《ため》に|舎身的《しやしんてき》の|活動《くわつどう》をなさる|瑞《みづ》の|御霊《みたま》の|大神《おほかみ》さまに|同情《どうじやう》を|表《へう》しまして、つい|何《なん》とはなしに|宣伝使《せんでんし》になりました』
|黒姫《くろひめ》『それはそれは|結構《けつこう》な|事《こと》だ。|身魂《みたま》の|因縁《いんねん》がなくては、|到底《たうてい》|尊《たふと》い|宣伝使《せんでんし》にはなれませぬ。|三五教《あななひけう》もウラナイ|教《けう》も、みな|変性男子《へんじやうなんし》、|変性女子《へんじやうによし》と、|経《たて》と|緯《よこ》との|身魂《みたま》が|現《あら》はれて|錦《にしき》の|機《はた》の|仕組《しぐみ》をなさるのぢやが、|併《しか》し|乍《なが》ら、|素盞嗚尊《すさのをのみこと》は|天《あま》の|岩戸《いはと》を|閉《し》めるお|役《やく》で、|大神様《おほかみさま》が、|此《この》|世《よ》の|乱《みだ》れた|行方《やりかた》がさしてあると|仰有《おつしや》る。ナンボ|神様《かみさま》の|仰有《おつしや》る|事《こと》でも……これ|丈《だけ》|乱《みだ》れた|世《よ》の|中《なか》を、|治《をさ》める|事《こと》を|措《お》いて、|乱《みだ》れた|方《はう》の|御守護《ごしゆご》をしられて|堪《たま》りますか。そこで|吾々《われわれ》は|元《もと》は|三五教《あななひけう》の|熱心《ねつしん》な|取次《とりつぎ》だが、|今《いま》では|変性女子《へんじやうによし》の|行方《やりかた》に|愛想《あいさう》をつかし、|已《や》むを|得《え》ず、ウラナイ|教《けう》と|名《な》をつけて、|神様《かみさま》の|御用《ごよう》をして|居《を》りますのぢや。|同《おな》じ|事《こと》なら|三五教《あななひけう》の|名《な》が|附《つ》けたいけれど、|高姫《たかひめ》や|黒姫《くろひめ》は、|支部《しぶ》ぢやとか、|隠居《いんきよ》ぢやとか|言《い》はれるのが|癪《しやく》に|障《さは》るので、|已《や》むを|得《え》ず|結構《けつこう》な|結構《けつこう》なウラル|教《けう》の「ウラ」の|二字《にじ》を|取《と》り、アナナイ|教《けう》の「ナイ」の|二字《にじ》をとつて、|表《おもて》ばつかり、|裏鬼門金神《うらきもんこんじん》の|変性女子《へんじやうによし》の|教《をしへ》は|一寸《ちよつと》も|無《な》いと|云《い》ふ、|生粋《きつすゐ》の|日本魂《やまとだましひ》のウラナイ|教《けう》ぢや。お|前《まへ》も、|同《おな》じ|宣伝使《せんでんし》になるのなら、|喰《く》はせものの|三五教《あななひけう》を|廃《や》めてウラナイ|教《けう》になりなされ。あなたのお|得《とく》ぢや。|否々《いやいや》|天下《てんか》の|為《ため》ぢや』
|紫姫《むらさきひめ》『|素盞嗚尊《すさのをのみこと》さまは、それ|程《ほど》|悪《わる》いお|方《かた》で|御座《ござ》いますか。|世界《せかい》|万民《ばんみん》の|為《ため》に|千座《ちくら》の|置戸《おきど》を|負《お》うて、|世界《せかい》の|悪《あく》を|一身《いつしん》に|引受《ひきう》け、|人民《じんみん》の|悪《わる》い|事《こと》は、みな|吾《われ》が|悪《わる》いのぢやと|言《い》つて、|犠牲《ぎせい》になつて|下《くだ》さる|神《かみ》さまぢや|有《あ》りませぬか』
|黒姫《くろひめ》『それはさうぢやけれども、モ|一《ひと》つ|我《が》が|強《つよ》うて|改心《かいしん》が|出来《でき》ぬものぢやから、|神界《しんかい》のお|仕組《しぐみ》が|成就《じやうじゆ》しませぬ。|何《なん》と|言《い》うても、|高天原《たかあまはら》から、|手足《てあし》の|爪《つめ》まで|抜《ぬ》かれて、おつ|放《ぽ》り|出《だ》される|様《やう》な|神《かみ》ぢやから、|大抵《たいてい》|云《い》はいでも|分《わか》つとる。お|前《まへ》も|能《よ》う|胸《むね》に|手《て》を|当《あ》てて|御思案《ごしあん》なさいませ』
|紫姫《むらさきひめ》『ウラナイ|教《けう》には、ちツとも……|仰有《おつしや》る|通《とほ》り|裏《うら》がないので|御座《ござ》いますか』
|黒姫《くろひめ》『|勿論《もちろん》の|事《こと》、|見《み》えた|向《む》きの、|正真正銘《しやうしんしやうめい》、|併《しか》し|乍《なが》ら、|神様《かみさま》のお|仕組《しぐみ》は|奥《おく》が|深《ふか》いからなア、|一寸《ちよつと》やそつとに、|人間《にんげん》の|理屈《りくつ》|位《くらゐ》では|分《わか》りませぬ。マアマア|暫《しばら》く|絶対《ぜつたい》|服従《ふくじゆう》で|信神《しんじん》して|見《み》なさい。|御神徳《おかげ》が|段々《だんだん》|分《わか》つて|来《く》るから』
|斯《か》く|話《はな》す|折《をり》しも、|慌《あは》ただしく|走《はし》り|帰《かへ》つた|二人《ふたり》の|男《をとこ》。
|黒姫《くろひめ》『ヤアお|前《まへ》は|滝《たき》と|板《いた》とぢやないか』
『ハイ|左様《さやう》で|御座《ござ》います』
|黒姫《くろひめ》『|昨日《きのふ》から|此処《ここ》を|飛《と》び|出《だ》した|限《き》り、どこをウロウロ|迂路《うろ》ついとつたのだい』
|滝公《たきこう》『ハイ|昨日《きのふ》|遅《おそ》がけに、|一人《ひとり》の|女《をんな》が|通《とほ》りましただらう。それをあなたが|捉《つか》まへて|来《こ》いと|仰有《おつしや》つたものだから、|此奴《こいつ》ア|又《また》、|梅公《うめこう》の|故智《こち》に|倣《なら》つて、|一《ひと》つ|大手柄《おほてがら》を|現《あら》はし、あの|女《をんな》を|入信《にふしん》させてやるか、あまり|諾《き》かねば、|何《いづ》れ|三五教《あななひけう》の|奴《やつ》だから、|叩《たた》き|潰《つぶ》してやらうかと|思《おも》うて、あなたの|御命令《ごめいれい》で|追《お》ひかけてゆ|来《き》ました』
|黒姫《くろひめ》『|誰《たれ》が|叩《たた》き|潰《つぶ》せと|言《い》つたのか。|丹波村《たんばむら》のお|節《せつ》に|違《ちが》ひないから、|捉《つか》まへて|来《こ》いと|言《い》つたのだ、そして|其《その》お|節《せつ》を|如何《どう》したのぢやい』
|滝公《たきこう》『|板公《いたこう》と|二人《ふたり》、|尻引《しりひ》き|捲《まく》つて……お|節《せつ》は|走《はし》る、|二人《ふたり》は|追《お》ひかける、|船岡山《ふなをかやま》の|手前《てまへ》までやつて|来《く》ると、|日《ひ》は|暮《く》れかける。お|節《せつ》は|石《いし》に|躓《つまづ》きパタリと|倒《たふ》れたので、|其《その》|間《あひだ》に|追《お》ひつき、|無理無体《むりむたい》に|手足《てあし》を|括《くく》り、|暗《やみ》の|林《はやし》に|連《つ》れ|往《い》つて、グツと|縛《しば》りつけ、|猿轡《さるぐつわ》を|箝《は》ませ、|再《ふたた》び|姿《すがた》を|改《あら》ため、……コレコレどこのお|女中《ぢよちう》か|知《し》らぬが、コンナ|所《ところ》に|悪者《わるもの》に|括《くく》られて|可愛想《かあいさう》に……と|云《い》つて|助《たす》けてやる。さうすれば|如何《いか》なお|節《せつ》もウラナイ|教《けう》の|親切《しんせつ》に|感《かん》じて、|三五教《あななひけう》を|思《おも》ひ|切《き》るだらう……と|思《おも》ひまして、|一寸《ちよつと》|智慧《ちゑ》を|出《だ》しました。さうした|所《ところ》が、お|前《まへ》さまがやつて|来《き》て、|種々《いろいろ》と|仰有《おつしや》るものだから、|暗《くら》がり|乍《なが》ら|御案内《ごあんない》しました。……あなた|覚《おぼ》えが|御座《ござ》いませう……|忽《たちま》ちお|節《せつ》は|息《いき》が|切《き》れ、|厭《いや》らしい|声《こゑ》を|出《だ》して、|化《ば》けて|出《で》よつた、|其《その》|途端《とたん》に|私《わたくし》は|尻餅《しりもち》を|搗《つ》いて、|暗《くら》さは|暗《くら》し、|傍《かたはら》の|谷川《たにがは》へサクナダリに|落《お》ち|滝《たき》つ、|腰《こし》イタツ|磐根《いはね》に|打据《うちす》ゑて、それはそれは|酷《えら》い|目《め》に|遭《あ》ひました。|暫《しばら》くは|気《き》を|取《と》り|失《うしな》うて、|半死《はんじに》になつて|了《しま》ひ、|苦《くるし》みて|居《を》るのに、あなたは|側《そば》へ|来《き》て|居《を》り|乍《なが》ら|私《わたくし》を|見殺《みごろ》しにして|帰《かへ》りなさつたぢやないか。|何時《いつ》も|人《ひと》を|助《たす》ける|助《たす》けると|仰有《おつしや》るが、アンナ|時《とき》に|助《たす》けて|貰《もら》はねば、|常《つね》に|御大将《おんたいしやう》と|仰《あふ》いで|居《ゐ》る|甲斐《かひ》がありませぬワ』
|黒姫《くろひめ》『そら|何《なに》を|云《い》うのだ、|妾《わし》が|何故《なぜ》ソンナ|所《ところ》へ|行《ゆ》く|必要《ひつえう》があるか、|又《また》|何《なん》とした|乱暴《らんばう》な|事《こと》をするのだい。ソンナ|事《こと》がウラナイ|教《けう》の|教《をしへ》にありますか。モウ|今日《けふ》|限《かぎ》り、|破門《はもん》するツ、サア|出《で》て|行《ゆ》け|出《で》て|行《ゆ》け』
|滝公《たきこう》『|悪人《あくにん》は|悪人《あくにん》とせず、|鬼《おに》でも、|蛇《じや》でも、|餓鬼《がき》|虫《むし》けらでも|助《たす》けるのが、ウラナイ|教《けう》ぢや|有《あ》りませぬか。|出《で》て|行《ゆ》けとはチツと|聞《きこ》えませぬワ』
|黒姫《くろひめ》『モシ|紫姫《むらさきひめ》さま、|斯《か》う|云《い》ふ|取違《とりちがひ》する|者《もの》がチヨコチヨコ|出来《でき》ますので、|誠《まこと》に|困《こま》ります。|併《しか》し|乍《なが》ら、コンナ|者《もの》ばつかりぢや|御座《ござ》いませぬ。これは|大勢《おほぜい》の|中《なか》でも、|選《よ》りに|選《よ》つて|一番《いちばん》|悪《わる》い|奴《やつ》で|御座《ござ》います。そして|又《また》|入信《にふしん》してから、|幾《いく》らもならぬものですから、つい|脱線《だつせん》をしましてナ』
|板公《いたこう》『モシモシ|黒姫《くろひめ》さま、|余《あんま》り|甚《ひど》いぢやありませぬか、|私《わたくし》が|悪人《あくにん》なら、モツとモツと|大悪人《だいあくにん》が|沢山《たくさん》|居《を》りますで……|綾彦《あやひこ》だつて、お|民《たみ》だつて、|改心《かいしん》さしたのは、あなた|知《し》らぬか|知《し》らぬが、それはそれは|大変《たいへん》な|酷《えら》い|事《こと》をやつて|入信《にふしん》させたのだ。|私《わたし》も|兄弟子《あにでし》の|兵法《へいはふ》を|倣《なら》つて|巧《うま》くやらうと|思《おも》つたのが|当《あて》が|外《はづ》れた|丈《だけ》のものですよ、あれ|程《ほど》|喧《やかま》しう|下《した》の|者《もの》が|噂《うはさ》をして|居《を》るのに、あなたの|耳《みみ》へ|這入《はい》らぬ|筈《はず》はない、|一年《いちねん》からになるのに、|世界《せかい》が|見《み》え|透《す》くと|云《い》ふあなたが、|知《し》つとらぬとは|言《い》はれませぬ。|腹《はら》の|底《そこ》を|叩《たた》けば、「|権謀術数的《けんぼうじゆつすうてき》|手段《しゆだん》は|用《もち》ゐるな。|併《しか》し|俺《おれ》の|知《し》らぬ|所《ところ》では|都合《つがふ》よく|行《や》れ、|勝手《かつて》たるべし」と|云《い》ふ、あなたの|御精神《ごせいしん》でせう』
|滝公《たきこう》『ソンナこたア、|言《い》はなくても|定《き》まつて|居《を》るワイ。あれ|程《ほど》、|神《かみ》の|取次《とりつぎ》する|者《もの》は、|独身《ひとりみ》でなければ|可《い》かぬと|仰有《おつしや》つた|黒姫《くろひめ》さまでさへも、ヤツパリ|言《い》うた|事《こと》をケロリと|忘《わす》れて|因縁《いんねん》だとか、|御都合《ごつがふ》だとか|理屈《りくつ》を|附《つ》けて、ハズバンドを|持《も》たつしやるのだもの、|言《い》ふ|丈《だけ》|野暮《やぼ》だよ』
|黒姫《くろひめ》『|何《なに》を|言《い》ふのだ。|早《はや》う|出《で》て|下《くだ》さい』
|滝公《たきこう》『|都合《つがふ》が|悪《わる》うおますかなア……|初《はじ》めての|入信者《にふしんじや》の|前《まへ》ですから、|成《な》るべくは、コンナ|内幕話《うちまくばなし》は|言《い》ひたくはありませぬが、お|前《まへ》さまが|今日《けふ》から|除名《ぢよめい》すると|仰有《おつしや》つた|以上《いじやう》は、|今迄《いままで》の|師匠《ししやう》でもなければ、|弟子《でし》でもない。|力一杯《ちからいつぱい》|奮戦《ふんせん》して、どこまでも|素破抜《すつぱぬ》きませうか』
|黒姫《くろひめ》は|唇《くちびる》を|震《ふる》はし、|目《め》を|逆立《さかだ》て、クウクウ|歯《は》を|喰《く》ひしばつて、|怒《いか》つて|居《ゐ》る。
|滝公《たきこう》『モシ|黒姫《くろひめ》さま、|怒《いか》る|勿《なか》れ……と|云《い》ふ|事《こと》がありますなア。|怒《いか》つて|居《ゐ》るのぢやありませぬか。チツと|笑《わら》ひなされ』
|黒姫《くろひめ》『ウーム ウーム』
と|歯《は》を|喰《く》ひしばり、|目《め》を|剥《む》いて|居《ゐ》る。
|紫姫《むらさきひめ》『これはこれは|滝《たき》さまとやら、|板《いた》さまとやら、|良《い》い|加減《かげん》にお|静《しづ》まりなさいませ。|夜前《やぜん》あなたがお|節《せつ》さまを|悩《なや》めて|御座《ござ》る|所《ところ》を、|妾《わたし》|外《ほか》|三人《さんにん》の|者《もの》がよく|見《み》て|居《を》りました。|黒姫《くろひめ》さまは|決《けつ》してお|出《い》でぢやありませぬ。|妾《わらは》の|連《つれ》の|鹿《しか》と|云《い》ふ|男《をとこ》が|黒姫《くろひめ》さまの……|暗《やみ》を|幸《さいは》ひ……|声色《こはいろ》を|使《つか》つたのですよ。それに|黒姫《くろひめ》さまがお|出《い》でになつたなぞと|仰有《おつしや》つてはお|気《き》の|毒《どく》ですワ、お|節《せつ》さまはこの|奥《おく》へ|来《き》て、スヤスヤ|寝《やす》みてゐらつしやいますよ』
『エー|何《なん》と|仰有《おつしや》る、お|節《せつ》さまが……そいちやア|大変《たいへん》だ』
|紫姫《むらさきひめ》『さう|御心配《ごしんぱい》なされますな、|青彦《あをひこ》さまも|見《み》えて|居《を》ります』
|滝公《たきこう》『ヤアうつかりして|居《を》ると、ドンナ|目《め》に|合《あ》ふか|分《わか》らぬぞ。|仇討《かたきうち》に……|岩窟《いはや》|退治《たいぢ》に|来《き》よつたのだなア。……オイ|板公《いたこう》、|黒姫《くろひめ》さまはどうでも|良《い》い。|生命《いのち》あつての|物種《ものだね》だ、|見付《みつ》からぬ|間《うち》に、|一刻《いつこく》も|早《はや》く|此《この》|場《ば》を|退却《たいきやく》だ』
と|滝《たき》は|駆出《かけだ》す。|板《いた》も|続《つづ》いて、
『オイ|合点《がつてん》だ』
と|後《あと》を|追《お》ふ。|黒姫《くろひめ》は、
『オイこれこれ、|滝公《たきこう》、|板公《いたこう》、|待《ま》つた|待《ま》つた、|言《い》ひたい|事《こと》がある』
|滝《たき》|板《いた》の|両人《りやうにん》は、|岩穴《いはあな》の|外《そと》から|内《うち》を|覗《のぞ》いて、
『|黒姫《くろひめ》さま、|左様《さやう》なら、ゆつくりと、|青彦《あをひこ》やお|節《せつ》に、|脂《あぶら》を|搾《しぼ》られなさつたが|宜《よ》からう、アバヨ、アハヽヽヽ、ウフヽヽヽ』
と|云《い》つた|限《き》り、|何処《どこ》ともなく……それ|限《き》りウラナイ|教《けう》には|姿《すがた》を|見《み》せなくなりにけり。
|紫姫《むらさきひめ》は|気《き》の|毒《どく》がり、
『モシモシ|黒姫《くろひめ》さま、お|腹《はら》が|立《た》ちませうが、|若《わか》い|人《ひと》の|仰有《おつしや》る|事《こと》、どうぞ|宥《ゆる》して|上《あ》げて|下《くだ》さいませ、……イヤもう|人《ひと》を|使《つか》へば|苦《く》を|使《つか》ふと|申《まを》しまして、|御苦心《ごくしん》の|程《ほど》、お|察《さつ》し|申《まを》します』
|黒姫《くろひめ》『これはこれは、ご|親切《しんせつ》によう|言《い》うて|下《くだ》さいました。|無茶《むちや》ばつかり|申《まを》しまして|困《こま》ります。これと|言《い》ふのも、|決《けつ》して|決《けつ》して、|滝《たき》や|板《いた》が|申《まを》すのぢや|御座《ござ》いませぬ。|又《また》さう|云《い》ふ|様《やう》な|悪《わる》い|事《こと》をする|男《をとこ》ぢや|有《あ》りませぬが、|素盞嗚尊《すさのをのみこと》の|悪神《あくがみ》の|眷属《けんぞく》が|憑《うつ》つて、|吾々《われわれ》を|苦《くるし》めやうと|思《おも》うて、アンナ|事《こと》を|言《い》つたり、したりするのです。チツとも|油断《ゆだん》はなりませぬ。|悪神《あくがみ》に|使《つか》はれた、|滝公《たきこう》|板公《いたこう》こそ|不憫《ふびん》な|者《もの》で|御座《ござ》います、オンオンオン』
と|泣《な》き|真似《まね》をする。
|紫姫《むらさきひめ》『|黒姫《くろひめ》さま、モウお|休《やす》みなさいましたらどうでせう。|大分《だいぶん》|夜《よ》も|更《ふ》けた|様《やう》です』
|黒姫《くろひめ》『ハイ|有難《ありがた》う、ソンナラお|先《さき》へ|御免《ごめん》|蒙《かうむ》りませう。|明日《あす》|又《また》ゆつくりと、|根本《こつぽん》のお|話《はなし》を|聴《き》いて|貰《もら》ひませう』
|紫姫《むらさきひめ》『ハイ|有難《ありがた》う』
と|互《たがひ》に|寝《しん》に|就《つ》きにける。
(大正一一・四・二六 旧三・三〇 松村真澄録)
第四篇 |舎身活躍《しやしんくわつやく》
第一一章 |相見互《あひみたがひ》〔六三九〕
|降《ふ》りみ|降《ふ》らずみ|空《そら》|低《ひく》う  |四辺《あたり》は|暗《くら》く|黄昏《たそが》れて
|山時鳥《やまほととぎす》|遠近《をちこち》に  |本巣《ほんざう》かけたか、かけたかと
|八千八声《はつせんやこゑ》の|血《ち》を|吐《は》いて  |声《こゑ》も|湿《しめ》りし|五月空《さつきぞら》
|憂《うき》に|悩《なや》める|人々《ひとびと》を  |教《をし》へて|神《かみ》の|大道《おほみち》に
|救《すく》はむものと|常彦《つねひこ》が  |鬼ケ城山《おにがじようざん》|後《あと》にして
|足《あし》もゆらゆら|由良《ゆら》の|川《かは》  |蛇《じや》が|鼻《はな》、|長谷《はせ》の|郷《さと》を|越《こ》え
|生野《いくの》を|過《す》ぎての|檜山《ひのきやま》  |須知《しゆち》、|蒲生野《こもの》を|乗《の》り|越《こ》えて
|駒《こま》に|鞭打《むちう》つ|一人旅《ひとりたび》  |観音峠《くわんおんたうげ》の|頂上《ちやうじやう》に
シトシト|来《きた》る|雨《あめ》の|空《そら》  |遠《とほ》く|彼方《あなた》を|見渡《みわた》せば
|天神山《てんじんやま》や|小向山《こむきやま》  |花《はな》の|園部《そのべ》も|目《ま》の|下《した》に
|横田《よこた》、|木崎《きざき》と|開展《かいてん》し  |高城山《たかしろやま》は|雲表《うんぺう》に
|姿《すがた》|現《あら》はす|夜明《よあ》け|頃《ごろ》  |眼下《がんか》の|野辺《のべ》を|眺《なが》むれば
|生命《いのち》の|苗《なへ》を|植《うゑ》つける  |早乙女《さをとめ》|達《たち》の|田《た》の|面《おも》に
|三々伍々《さんさんごご》と|隊《たい》をなし  |御代《みよ》の|富貴《ふうき》を|唄《うた》ふ|声《こゑ》
さながら|神代《かみよ》の|姿《すがた》なり。
|常彦《つねひこ》は|峠《たうげ》の|上《うへ》の|岩石《がんせき》に|凭《もた》れ、|夜《よ》の|旅路《たびぢ》の|疲《つか》れを|催《もよほ》し、|昇《のぼ》る|旭《あさひ》を|遥拝《えうはい》しつつ、|知《し》らず|識《し》らずに|睡魔《すゐま》に|襲《おそ》はれ|居《ゐ》る。
|観音峠《くわんおんたうげ》の|頂上《ちやうじやう》さして、|東《ひがし》より|登《のぼ》り|来《く》る|二人《ふたり》の|乞食姿《こじきすがた》、
|甲《かふ》『|人間《にんげん》も、|斯《か》う|落魄《おちぶ》れては、どうも|仕方《しかた》がないぢやないか。|何程《なにほど》|男《をとこ》は|裸《はだか》|百貫《ひやくくわん》だと|云《い》つても、|破《やぶ》れ|襦袢《じゆばん》を|一枚《いちまい》|身《み》に|着《つ》けて、|斯《こ》うシヨボシヨボと、|雨《あめ》の|降《くだ》る|五月雨《さみだれ》の|空《そら》、どこの|家《うち》を|尋《たづ》ねても、|戸《と》をピツシヤリ|閉《し》めて、|野良《のら》へ|出《で》て|居《を》る|者《もの》ばつかり、|茶《ちや》|一杯《いつぱい》|餐《よ》ばれる|所《ところ》も|無《な》し、|谷川《たにがは》の|水《みづ》を|掬《すく》つて|飲《の》めば、|塩分《しほけ》はあるが、|忽《たちま》ち|腹《はら》の|加減《かげん》を|悪《わる》うして|了《しま》ふ。|裸《はだか》で|物《もの》は|遺失《おと》さぬ|代《かは》りに、|何《なに》か|有《あ》りつかうと|思《おも》つても、せめて|着物《きもの》|丈《だけ》なつとなければ、|相手《あひて》になつて|呉《く》れる|者《もの》もなし。|純然《じゆんぜん》たるお|乞食《こじき》さまと、|誤解《ごかい》されて|了《しま》ふ。|実《じつ》に|残念《ざんねん》だなア』
|乙《おつ》『|天下《てんか》を|救済《きうさい》するの、|誠《まこと》の|道《みち》ぢやのと、|偉相《えらさう》に|言《い》つて|居《ゐ》るウラナイ|教《けう》の|高城山《たかしろやま》の|松姫《まつひめ》も、|今迄《いままで》とは|態度《たいど》|一変《いつぺん》し、|飯《めし》の|上《うへ》の|蠅《はへ》を|払《はら》ふ|様《やう》に|虐待《ぎやくたい》をしよつたぢやないか。これと|云《い》ふのも、ヤツパリ|此方《こちら》の|智慧《ちゑ》が|足《た》らぬからぢや。|雨《あめ》には|嬲《なぶ》られ、|風《かぜ》にはなぶられ、おまけに|蚊《か》にまで|襲撃《しふげき》され、|七尺《しちしやく》の|男子《だんし》が、|此《この》|広《ひろ》い|天地《てんち》に|身《み》を|容《い》るる|所《ところ》もなき|様《やう》になつたのも|要《えう》するに、|智慧《ちゑ》が|廻《まは》らぬからだよ。あの|梅公《うめこう》の|奴《やつ》を|始《はじ》め、|松姫《まつひめ》の|如《ごと》きは、|随分《ずゐぶん》|陰険《いんけん》な|代物《しろもの》だが、|巧妙《うま》く|黒姫《くろひめ》に|取入《とりい》つて、|今《いま》では|豪勢《がうせい》なものだ。|何《なん》とかして、モウ|一度《いちど》|黒姫《くろひめ》の|部下《ぶか》になる|訳《わけ》にはいかうまいかなア』
|甲《かふ》『|一旦《いつたん》|男子《だんし》が|広言《くわうげん》を|吐《は》いて、|此方《こちら》から|暇《ひま》を|呉《く》れた|以上《いじやう》、ノメノメと|尾《を》を|掉《ふ》つて|帰《い》ぬ|事《こと》が|出来《でき》ようか。|鷹《たか》は|飢《う》ゑても|穂《ほ》を|喙《つ》まぬ……と|云《い》ふ|事《こと》がある。ソンナ|弱音《よわね》を|吹《ふ》くな、|暗《やみ》の|後《あと》には|月《つき》が|出《で》るぢやないか』
|乙《おつ》『|人間《にんげん》の|運命《うんめい》と|云《い》ふものは|定《き》まつて|居《ゐ》ると|見《み》える。|黒姫《くろひめ》や|高姫《たかひめ》、|松姫《まつひめ》はどこともなしに、|丸《まる》い|豊《ゆたか》な|顔《かほ》をして|居《を》るが、|丸顔《まるがほ》に|憂《うれ》ひなし、|長顔《なががお》に|憂《うれ》ひありと|云《い》つて、|俺達《おれたち》は|金《かね》さへ|有《あ》れば、|社会《しやくわい》にウリザネ|顔《かほ》だと|言《い》つて、|歓待《もて》る|代物《しろもの》だけれど、|今日《けふ》の|様《やう》な|態《ざま》になつては、ますます|貧相《ひんさう》に……|自分《じぶん》|乍《なが》ら|見《み》えて|来《く》る。|自分《じぶん》から|愛想《あいさう》をつかす|様《やう》な|物騒《ぶつそう》な|肉体《にくたい》、|何程《なにほど》|馬鹿《ばか》の|多《おほ》い|世《よ》の|中《なか》だと|言《い》つて、|誰《たれ》が|目《め》をかけて|呉《く》れる|者《もの》が|有《あ》らうか。アーア|仕方《しかた》がない。|何《なん》とか|一身上《いつしんじやう》の|処置《しよち》を|附《つ》ける|事《こと》にしようかい。ヌースー|式《しき》をやつては、|神界《しんかい》へ|対《たい》して|罪《つみ》を|重《かさ》ね、|万劫末代《まんごふまつだい》|苦《くる》しみの|種《たね》を|蒔《ま》かねばならず、|実《じつ》、さうだと|言《い》つて、|自殺《じさつ》は|罪悪《ざいあく》であり、|死《し》ぬにも|死《し》なれず、|困《こま》つた|者《もの》だ。どうしたら|此《この》|煩悶《はんもん》|苦悩《くなう》が|解《と》けるであらう。|否《いや》スツパリと|忘《わす》れられるだらう』
|甲《かふ》『|心《こころ》|一《ひと》つの|持《も》ちやうだ。|刹那心《せつなしん》を|楽《たのし》むんだよ』
|乙《おつ》『|貴様《きさま》はまだ、ソンナ|気楽《きらく》な|事《こと》を|言《い》つて|居《ゐ》るが、|衣食《いしよく》|足《た》りて|礼節《れいせつ》を|知《し》るだ。|今日《けふ》で|三日《みつか》も|何《なに》も|食《く》はずに、|胃《ゐ》の|腑《ふ》は|身代限《しんだいかぎ》りを|請求《せいきう》する。|一歩《いつぽ》も|歩《あゆ》む|事《こと》も|出来《でき》なくなつて、どうして|刹那心《せつなしん》が|楽《たのし》めよう。|刹那《せつな》|々々《せつな》に|苦痛《くつう》を|増《ます》ばつかりぢやないか。アーアこれを|思《おも》へば、|黒姫《くろひめ》の|御恩《ごおん》が|今更《いまさら》の|如《ごと》く|分《わか》つて|来《き》たワイ』
|甲《かふ》『ヤア|情《なさけ》ない|事《こと》を|言《い》ふな。そら|其処《そこ》に|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》が|立《た》つて|居《を》るぞ』
|乙《おつ》『モウ|斯《か》うなつちやア、|三五教《あななひけう》もウラナイ|教《けう》も|有《あ》るものぢやない。|食《く》はぬが|悲《かな》しさぢや。|飢渇《きかつ》に|迫《せま》つてから、|恥《はづか》しいも|何《なに》も|有《あ》つたものかい』
と|常彦《つねひこ》の|佇《たたず》む|前《まへ》に|進《すす》み|寄《よ》り、
|乙《おつ》『モシモシ、あなたは|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》ぢやありませぬか』
と|力《ちから》|無《な》き|声《こゑ》に、|常彦《つねひこ》はフツと|目《め》を|醒《さま》し、
『アーア|夜《よる》の|旅《たび》で|草臥《くたび》れたと|見《み》えて、|知《し》らぬ|間《ま》に|寝込《ねこ》んで|了《しま》うたワイ。……ヤアお|前《まへ》は|乞食《こじき》と|見《み》えるな。|何《なん》ぞ|御用《ごよう》で|御座《ござ》るか』
|乙《おつ》は|何《なん》にも|言《い》はず、|口《くち》と|腹《はら》を|指《さ》し、|飢《うゑ》に|迫《せま》れる|事《こと》を|示《しめ》した。
|常彦《つねひこ》『ヤア|一人《ひとり》かと|思《おも》へば、|二人連《ふたりづれ》ぢやな。|幸《さいは》ひ、ここに|握《にぎ》り|飯《めし》が|残《のこ》つて|居《を》る。|失礼《しつれい》だが|之《これ》をお|食《あが》りなさらぬか』
|乙《おつ》『ハイそれは|有難《ありがた》う|御座《ござ》います。|早速《さつそく》|頂戴《ちやうだい》|致《いた》しませう。……オイ|滝公《たきこう》、|助《たす》け|船《ぶね》だ|兵站部《へいたんぶ》が|出来《でき》たぞ。サア|御礼《おれい》を|申《まを》せ』
|滝公《たきこう》『アーそんなら|頂戴《ちやうだい》しようかなア、|恥《はづか》しい|事《こと》だ。|旅人《たびびと》の|弁当《べんたう》を|貰《もら》つて|食《く》ふのは、|生《うま》れてから|始《はじ》めてだ』
と|四個《よんこ》の|握《にぎ》り|飯《めし》を|分配《ぶんぱい》し、|二《ふた》ツづつ、|飛《と》び|付《つ》く|様《やう》に|平《たひら》げて|了《しま》ひ、
|乙《おつ》『アーアこれで|少《すこ》し|人間《にんげん》らしい|気《き》がして|来《き》た。……イヤ|宣伝使《せんでんし》|様《さま》、|有難《ありがた》う|御座《ござ》います。……|併《しか》し|乍《なが》ら|此《この》|先《さき》は|又《また》どうしたら|宜《よ》からうかなア』
|滝公《たきこう》『|刹那心《せつなしん》だよ。|又《また》|神様《かみさま》がお|助《たす》け|下《くだ》さる。|心配《しんぱい》するな。……|何《いづ》れの|方《かた》か|知《し》りませぬが|有難《ありがた》う|御座《ござ》いました。これでヤツと、こつちのものになりました』
と|見上《みあ》ぐる|途端《とたん》にハツと|驚《おどろ》き|顔《かほ》を|隠《かく》す。
|常彦《つねひこ》『ヤア|失礼《しつれい》|乍《なが》らあなたは、ウラナイ|教《けう》の|滝公《たきこう》さまぢやありませぬか。ヤアあなたは|板公《いたこう》さま、どうしてそんな|姿《すがた》におなりなさつた。|何《なに》か|様子《やうす》が|御座《ござ》いませう。|差支《さしつかへ》なくばお|聞《き》かせ|下《くだ》さいませいなア』
|板公《いたこう》『|恥《はづか》しい|所《ところ》、お|目《め》にかかりました。|実《じつ》は|斯《か》うなるも|身《み》から|出《で》た|錆《さび》、|何《なん》とも|言《い》ひ|様《やう》がありませぬが、|実《じつ》の|所《ところ》は、あまり|宣伝《せんでん》の|効果《かうくわ》が|挙《あ》がらないので、|一寸《ちよつと》した|事《こと》をやりました。それが|此《この》|通《とほ》り|大零落《だいれいらく》の|淵《ふち》に|沈《しづ》む|端緒《たんちよ》となつたのです』
|滝公《たきこう》『|誠《まこと》に|赤面《せきめん》の|至《いた》り、|智慧《ちゑ》も|廻《まは》らぬ|癖《くせ》に、|人真似《ひとまね》をして、|大変《たいへん》な|失敗《しつぱい》を|演《えん》じ、|闇《やみ》の|谷底《たにそこ》へ|転落《てんらく》し、|生命《いのち》カラガラな|目《め》に|遭《あ》ひ、|終《つひ》には|黒姫《くろひめ》の|御機嫌《ごきげん》を|損《そこな》ねたのみならず、|青彦《あをひこ》、お|節《せつ》に|踏《ふ》み|込《こ》まれ、|一生懸命《いつしやうけんめい》|逃《に》げて|来《き》ました。それから|私等《わたくしら》|二人《ふたり》は|高城山《たかしろやま》へ|参《まゐ》り、|松姫《まつひめ》の|前《まへ》に|尻《しり》を|捲《まく》つて、ウラナイ|教《けう》の|内幕《うちまく》を|暴露《ばくろ》してやらうと、|強圧的《きやうあつてき》に|出《で》た|所《ところ》、|中々《なかなか》の|強者《しれもの》、|吾々《われわれ》の|智嚢《ちなう》を|搾《しぼ》り|出《だ》した|狂言《きやうげん》も、|松姫《まつひめ》に|対《たい》しては|兎《う》の|毛《け》の|露《つゆ》|程《ほど》も|脅威《けふゐ》を|与《あた》へず、シツペイ|返《かへ》しを|喰《くら》つて、|生命《いのち》からがら|此処《ここ》までやつて|来《き》ました。|併《しか》し|乍《なが》ら|窮《きう》すれば|乱《らん》すと|云《い》ふ|諺《ことわざ》もありますが、|吾々《われわれ》は|一旦《いつたん》|誠《まこと》の|道《みち》を|聞《き》いた|者《もの》、|仮令《たとへ》|餓死《がし》しても|人《ひと》の|物《もの》を|失敬《しつけい》する|事《こと》は|絶対《ぜつたい》に|厭《いや》で|堪《たま》らず、|最早《もはや》|生命《いのち》の|瀬戸際《せとぎは》、|一生《いつしやう》の|大峠《おほたうげ》となつた|所《ところ》、あなたに|巡《めぐ》り|会《あ》ひ、|一塊《いつくわい》のパンを|与《あた》へられて、|漸《やうや》く|人間心地《にんげんごこち》が|致《いた》しました。これもアカの|他人《たにん》に|恵《めぐ》まれるのであつたならば|残念《ざんねん》ですが、|有難《ありがた》い|事《こと》には、|一旦《いつたん》|御心易《おこころやす》うして|居《ゐ》たあなたに|救《すく》はれたと|云《い》ふのも、まだ|天道《てんだう》は|吾々《われわれ》を|棄《す》て|給《たま》はざる|証《しるし》と、|何《なん》となく|勇気《ゆうき》が|出《で》て|来《き》ました』
|常彦《つねひこ》『|今《いま》のお|言葉《ことば》に、|青彦《あをひこ》お|節《せつ》が|黒姫《くろひめ》の|所《ところ》へ|往《い》つたと|仰有《おつしや》つたが、ソレヤ|本当《ほんたう》ですか』
|滝公《たきこう》『ヘエヘエ|本当《ほんたう》も|本当《ほんたう》、|一文生中《いちもんきなか》の、|掛値《かけね》も|御座《ござ》いませぬ。|今頃《いまごろ》は|黒姫《くろひめ》も、|青彦《あをひこ》お|節《せつ》|其《その》|他《た》の|二三人《にさんにん》の|男女《だんぢよ》に|欺《あざむ》かれて、|道場《だうぢやう》を|破《やぶ》られ、フサの|国《くに》へでも|逃《に》げて|行《い》つたかも|知《し》れますまい、|高城山《たかしろやま》の|松姫《まつひめ》の|様子《やうす》が|何《なん》だか|変《へん》で|御座《ござ》いましたから……』
|板公《いたこう》『ナーニ|黒姫《くろひめ》はそんな|奴《やつ》ぢやない。キツと|青彦《あをひこ》、お|節《せつ》は|袋《ふくろ》の|鼠《ねずみ》、|舌《した》の|先《さき》で|巧《うま》くチヨロまかされて|居《を》るに|違《ちが》ひない。それよりも|惜《を》しいと|思《おも》うのは、|紫姫《むらさきひめ》さまに、|馬公《うまこう》|鹿公《しかこう》と|云《い》ふ|若《わか》い|男《をとこ》だ。キツと、ウラナイ|教《けう》に|沈没《ちんぼつ》して|居《を》るに|相違《さうゐ》ない』
|常彦《つねひこ》『ハテナ、|吾々《われわれ》も|御両人《ごりやうにん》の|知《し》らるる|通《とほ》り、ウラナイ|教《けう》のカンカンであつたが、|余《あま》り|内容《ないよう》が|充実《じゆうじつ》せないのと、|黒姫《くろひめ》の|言心行《げんしんかう》|一致《いつち》を|欠《か》いだ|其《その》|点《てん》が|腑《ふ》に|落《お》ちず、|又《また》|数多《あまた》の|信者《しんじや》に|対《たい》して、|吾々《われわれ》|部下《ぶか》の|宣伝使《せんでんし》として|弁解《べんかい》の|辞《ことば》がないので、アヽ|最早《もはや》ウラナイ|教《けう》は|前途《さき》が|見《み》えた。|根底《ねそこ》から|崩《くづ》れて|了《しま》つた。|斯《か》う|云《い》ふ|事《こと》で、どうして|天下《てんか》の|修斎《しうさい》が|出来《でき》ようぞ、|信仰《しんかう》に|酔払《よつぱら》つた|連中《れんちう》は|今《いま》の|所《ところ》、|稍《やや》|命脈《めいみやく》を|保《たも》つて|居《ゐ》るが、|酔払《よつぱら》つた|酒《さけ》は|何時《いつ》しか|醒《さ》める|如《ごと》く、|信仰《しんかう》も|追々《おひおひ》|冷却《れいきやく》するは|当然《たうぜん》の|帰結《きけつ》と、|前途《ぜんと》を|見越《みこ》して、ヤツパリ|天下《てんか》を|救《すく》ふは|三五教《あななひけう》だと、|直《ただち》に|三五教《あななひけう》に|入信《にふしん》し、|鬼ケ城《おにがじよう》の|邪神《じやしん》|退治《たいぢ》と|出掛《でか》け、それより|諸方《しよはう》を|宣伝《せんでん》し|廻《まは》つて|居《ゐ》るのだ。それにしても|合点《がつてん》のゆかぬは、あれ|程《ほど》|決心《けつしん》の|堅《かた》かつた|青彦《あをひこ》、お|節《せつ》に|紫姫《むらさきひめ》さまぢや。これには|何《なに》か|深《ふか》い|様子《やうす》が|有《あ》る|事《こと》であらう。コラ|斯《か》うしても|居《を》られない。|一時《いつとき》も|早《はや》く|魔窟ケ原《まくつがはら》へ|行《い》つて、|事《こと》の|真偽《しんぎ》を|確《たしか》め、|其《その》|上《うへ》で|又《また》|作戦《さくせん》|計画《けいくわく》を|定《さだ》めねばなるまい。アーア|困《こま》つた|事《こと》が|出来《でき》たワイ』
と|手《て》を|組《く》んで|太《ふと》い|息《いき》をつく。
|滝公《たきこう》『これに|就《つい》て|常彦《つねひこ》さま、あなたは|何《なに》かお|考《かんが》へがありますか。ならう|事《こと》なら、|私達《わたくしたち》も|共々《ともども》に|三五教《あななひけう》の|為《ため》に|尽《つく》さして|頂《いただ》きたいのですが、|何《なに》を|言《い》うても|零落《おちぶ》れた|此《この》|体《からだ》、あなたの|顔《かほ》にかかはりますから……』
|常彦《つねひこ》『ソラ|何《なに》を|仰有《おつしや》る。|衣服《いふく》は|何時《なんどき》でも|替《か》へられる。あなたの|今迄《いままで》の|失敗《しつぱい》の|経験《けいけん》に|会《あ》つて|鍛《きた》へ|上《あ》げられたる|其《その》|身魂《みたま》は、|容易《ようい》に|得《え》られるものでない。|何《なに》は|兎《と》も|角《かく》|一緒《いつしよ》に|参《まゐ》りませう。また|都合《つがふ》の|好《よ》い|所《ところ》が|有《あ》れば、|衣服《いふく》でも|買《か》つて|上《あ》げませう。|兎《と》も|角《かく》|青彦《あをひこ》|以下《いか》の|救援《きうゑん》に|向《むか》はねばならぬ。サア|滝公《たきこう》、|板公《いたこう》、|参《まゐ》りませう』
|二人《ふたり》は|何《なん》にも|言《い》はず、|嬉《うれ》し|涙《なみだ》に|暮《く》れ|乍《なが》ら、|常彦《つねひこ》の|後《あと》に|従《したが》ひ、|西北《せいほく》|指《さ》して、|今迄《いままで》の|衰耗敗残《すゐまうはいざん》の|気《き》に|充《みた》された|態度《たいど》は|忽《たちま》ち|枯木《かれき》に|花《はな》の|咲《さ》きし|如《ごと》く、イソイソとして|従《つ》いて|行《ゆ》く。
|山頭寒巌《さんとうかんがん》に|倚《よ》りて|立《た》てる|古木《こぼく》も|春《はる》の|陽気《やうき》に|会《あ》ひて|深緑《しんりよく》の|芽《め》を|吹《ふ》き|出《だ》したる|如《ごと》く、|青《あを》ざめた|顔《かほ》は|忽《たちま》ち|桜色《さくらいろ》と|変《かは》り、|常彦《つねひこ》に|絶対《ぜつたい》|服従《ふくじゆう》の|至誠《しせい》を|捧《ささ》げつつ、|花《はな》|咲《さ》き|匂《にほ》ふ|枯木峠《かれきたうげ》を|打渡《うちわた》り、|神《かみ》の|救《すく》ひをエノキ|峠《たうげ》の|急坂《きふはん》|後《あと》に|見《み》て、|握《にぎ》り|拳《こぶし》をホドいて|夏風《なつかぜ》に、そよぐ|蕨《わらび》の|野辺《のべ》を|打渡《うちわた》り、とある|茶店《ちやみせ》に|立入《たちい》りて、|再《ふたた》び|腹《はら》を|拵《こしら》へ|忽《たちま》ち|太《ふと》る|大原《おほはら》の|郷《さと》、テクテク|来《きた》る|須知山峠《しゆちやまたうげ》の|絶頂《ぜつちやう》に、|青葉《あをば》を|渡《わた》る|涼《すず》しき|夏《なつ》の|風《かぜ》を|受《う》け|乍《なが》ら、かたへの|巌《いはほ》に|腰《こし》|打掛《うちか》け、
|常彦《つねひこ》『アヽ|早《はや》いものだ、モウ|一息《ひといき》で|聖地《せいち》に|到着《たうちやく》する。|世継王山《よつわうざん》の|山麓《さんろく》には、|悦子姫《よしこひめ》さまの|経綸場《けいりんば》が|出来《でき》たと|云《い》ふ|事《こと》だ。|一《ひと》つ|立寄《たちよ》つて|見《み》ようかな。|大抵《たいてい》|青彦《あをひこ》の|様子《やうす》も|分《わか》らうから………イヤイヤ|今度《こんど》は|素通《すどほり》をして、|青彦《あをひこ》に|対面《たいめん》し、|救《すく》はるるものならば、どこまでも|誠《まこと》を|尽《つく》して|忠告《ちうこく》を|与《あた》へ、|其《その》|上《うへ》にて|悦子姫《よしこひめ》|様《さま》の|庵《いほり》を|御訪《おたづ》ねする|事《こと》にしよう。|幸《さいはひ》に|青彦《あをひこ》|以下《いか》が|改心《かいしん》をして、|三五教《あななひけう》に|復帰《ふくき》したとすれば、|先《さき》へ|妙《めう》な|事《こと》をお|耳《みみ》に|入《い》れ|置《お》くのは|却《かへつ》て|青彦《あをひこ》の|為《ため》に|面白《おもしろ》くない。|友人《いうじん》の|道《みち》として|絶対《ぜつたい》|秘密《ひみつ》にしてやるが|本当《ほんたう》だらう』
|滝公《たきこう》『|青彦《あをひこ》さまはよもや、ウラナイ|教《けう》になつて|居《を》る|気遣《きづか》ひは|有《あ》りますまい』
|板公《いたこう》『|何《なん》とも、|保証《ほしよう》がでけぬ、|突然《とつぜん》の|事《こと》で|吾々《われわれ》も|岩窟《いはや》|退治《たいぢ》に|来《き》たのだと|思《おも》つて|驚《おどろ》いたが、|後《あと》になつてよくよく|考《かんが》へて|見《み》れば、どうも|黒姫《くろひめ》と|云《い》ひ、|青彦《あをひこ》、|紫姫《むらさきひめ》さま|其《その》|他《た》の|顔色《がんしよく》に|少《すこ》しも|変《へん》な|色《いろ》が|浮《う》かんで|居《を》らなかつた。|黒姫《くろひめ》の|魔術《まじゆつ》に|依《よ》りて|剣尖山《けんさきやま》の|滝《たき》の|麓《ふもと》でうまくシテやられたのかも|知《し》れない、|兎《と》も|角《かく》も|常彦《つねひこ》さまをお|頼《たの》み|申《まを》して、|吾々《われわれ》も|弟子《でし》となつた|以上《いじやう》は、|青彦《あをひこ》さま|一行《いつかう》を|元《もと》の|道《みち》へ|救《すく》はねばなりますまい。これから|首尾《しゆび》|能《よ》く|凱旋《がいせん》する|迄《まで》、|悦子姫《よしこひめ》|様《さま》の|庵《いほり》を|訪《たづ》ねなさらぬ|方《はう》が、|万事《ばんじ》の|都合《つがふ》が|良《よ》い|様《やう》に|思《おも》ひます。ナア|常彦《つねひこ》さま』
|常彦《つねひこ》『アヽ|私《わたくし》はさう|考《かんが》へるのだ。|何《なに》に|付《つ》けても|大事件《だいじけん》が|突発《とつぱつ》した|様《やう》なものだ』
と|話《はな》す|折《をり》しも、|坂《さか》を|登《のぼ》り|来《きた》る|二人《ふたり》の|男《をとこ》、
|男《をとこ》『ヤアあなたは|常彦《つねひこ》さまぢやありませぬか。|何処《どこ》へお|出《い》でになつて|居《ゐ》ました? |吾々《われわれ》|二人《ふたり》は|丹州《たんしう》と|共《とも》に|弥仙山《みせんざん》の|麓《ふもと》に|当《あた》つて、|紫《むらさき》の|雲《くも》、|日々《にちにち》|立昇《たちのぼ》るのを|見《み》て、コレヤ|何《なに》か|神界《しんかい》の|経綸《けいりん》が|有《あ》るのだらうと|其《その》|雲《くも》を|目当《めあて》に|参《まゐ》りました。|所《ところ》が|近《ちか》くへ|寄《よ》つて|見《み》れば、|恰度《ちやうど》|虹《にじ》の|様《やう》で、|其《その》|雲《くも》は|一寸《ちよつと》|向《むか》ふの|方《はう》に|靉靆《たなび》いて|居《ゐ》る。コレヤ|大変《たいへん》だ、どこまで|行《い》つても|雲《くも》を|掴《つか》むとは|此《この》|事《こと》だと、|丹州《たんしう》さまにお|別《わか》れをして、ここまでやつて|来《き》ました』
|常彦《つねひこ》『ヤアお|前《まへ》は|鬼ケ城《おにがじやう》|言霊戦《ことたません》の|勇士《ゆうし》、|荒鷹《あらたか》、|鬼鷹《おにたか》のお|二人《ふたり》さま、どこへ|行《ゆ》く|積《つも》りだ』
|荒鷹《あらたか》『|丹州《たんしう》さまは|吾々《われわれ》に|向《むか》ひ|仰有《おつしや》るには、|一寸《ちよつと》|神界《しんかい》の|御用《ごよう》があるから|弥仙山《みせんざん》を|中心《ちうしん》として|暫《しばら》く|此《この》|辺《へん》を|探険《たんけん》しようと|思《おも》ふから、お|前達《まへたち》はこれから|聖地《せいち》を|指《さ》して|進《すす》んで|行《ゆ》け。|併《しか》し|乍《なが》ら|聖地《せいち》に|立寄《たちよ》る|事《こと》はならぬ。|須知山峠《しゆちやまたうげ》を|指《さ》して|行《ゆ》けとの|御言葉《おことば》、どこを|目的《あて》ともなくやつて|来《き》ました。|其《その》|時々《ときどき》に|神《かみ》が|懸《うつ》つて|知《し》らしてやるから、|安心《あんしん》して|行《ゆ》けとの|事《こと》、|大方《おほかた》|伊吹山《いぶきやま》の|邪神《じやしん》|退治《たいぢ》に|行《ゆ》くのではなからうかと|思《おも》つて|参《まゐ》りました。|併《しか》しあなたのお|顔《かほ》を|見《み》るなり、|何《なん》だか|向《むか》ふへ|行《ゆ》くのが|張合《はりあひ》が|抜《ぬ》けた|様《やう》な|気《き》がしてなりませぬワイ』
|常彦《つねひこ》『それは|不思議《ふしぎ》な|事《こと》を|聞《き》くものだ。|何《なに》か|外《ほか》に|聞《き》いた|事《こと》は|有《あ》りませぬか』
|鬼鷹《おにたか》『ヤア|有《あ》ります|有《あ》ります、|大変《たいへん》な|変《かは》つた|事《こと》があるのですよ』
|常彦《つねひこ》『|変《かは》つた|事《こと》とは|何《なん》ですか』
|鬼鷹《おにたか》『|弥仙山《みせんざん》の|麓《ふもと》の|村《むら》に、お|玉《たま》と|云《い》ふ|娘《むすめ》があつて、|夫《をつと》も|無《な》いのに|腹《はら》が|膨《ふく》れ、|十八ケ月目《じふはちかげつめ》に|生《う》み|落《おと》したのが|女《をんな》の|子《こ》、|玉照姫《たまてるひめ》とか|云《い》つて、|生《うま》れてから|百日《ひやくにち》にもならないのに、|種々《いろいろ》の|事《こと》を|説《と》いて|聞《き》かせる、さうして|室内《しつない》を|自由《じいう》に|立《た》つて|歩《ある》くと|云《い》ふ|噂《うはさ》で……あの|近在《きんざい》は|持切《もちき》りで|御座《ござ》います。それに|就《つい》て、ウラナイ|教《けう》の|黒姫《くろひめ》の|奴《やつ》、|抜目《ぬけめ》のない……|其《その》|子供《こども》を|何《な》んとか|彼《か》とか|云《い》つて、|手《て》に|入《い》れようとし、|幾度《いくたび》も|使《つかい》を|遣《つか》はし、|骨《ほね》を|折《お》つて|居《を》るさうですが、|爺《ぢい》と|婆《ばば》アとが、|中々《なかなか》|頑固者《ぐわんこもの》で|容易《ようい》に|渡《わた》さない。|家《うち》の|血統《ちすぢ》が|断《き》れると|云《い》つて|居《を》るさうです。なかなかウラナイ|教《けう》も|抜目《ぬけめ》がありませぬなア』
|常彦《つねひこ》『|不思議《ふしぎ》な|事《こと》が|有《あ》るものだなア。|兎《と》も|角《かく》|吾々《われわれ》も|一度《いちど》|其《その》|子《こ》が|見《み》たいものだが、それよりも|先《さき》に|定《き》めた|問題《もんだい》から|解決《かいけつ》せなくてはならぬ。|其《その》|問題《もんだい》さへ|解決《かいけつ》がつかば、|黒姫《くろひめ》の|様子《やうす》も|分《わか》り、|子供《こども》の|因縁《いんねん》も|分《わか》るだらう。|併《しか》し|鬼鷹《おにたか》さま、|荒鷹《あらたか》さま、あなたは|何処《どこ》へ|行《ゆ》く|積《つも》りか』
|荒《あら》、|鬼《おに》『まだ|行先《ゆくさき》|不明《ふめい》……|私《わたくし》の|行《ゆ》く|所《ところ》は|何処《どこ》で|御座《ござ》います……と|実《じつ》はあなたにお|尋《たづ》ねしたいと|思《おも》つて|居《ゐ》るのです』
|常彦《つねひこ》『|兎《と》も|角《かく》|丹州《たんしう》さまのお|言葉《ことば》|通《どほ》り、|行《ゆ》く|所《とこ》までお|出《い》でなさいませ。|神《かみ》の|綱《つな》に|操《あやつ》られて|居《を》るのだから、|今《いま》|何《なに》を|考《かんが》へた|所《ところ》で|仕方《しかた》が|有《あ》りますまい。|併《しか》し|丹州《たんしう》さまは……あなた|方《がた》、|何《なん》と|思《おも》うて|居《ゐ》ますか』
|荒鷹《あらたか》『どうもあの|方《かた》は、|吾々《われわれ》としては、|正《ただ》とも|邪《じや》とも、|賢《けん》とも|愚《ぐ》とも、|見当《けんたう》が|取《と》れませぬ。つまり|一種《いつしゆ》の……|悪《わる》く|言《い》へば|怪物《くわいぶつ》ですなア。|併《しか》し|何《なん》とも|言《い》はれぬ|崇高《すうかう》な|所《ところ》があつて、|自然《しぜん》に|吾々《われわれ》は|頭《あたま》が|下《さ》がり、|何程《なにほど》|下目《しため》に|見《み》ようと|思《おも》うても、|知《し》らぬ|間《ま》に|吾々《われわれ》の|守護神《しゆごじん》は|服従《ふくじゆう》|致《いた》します』
|鬼鷹《おにたか》『|私《わたくし》も|同感《どうかん》です。|何《なん》でも|特別《とくべつ》の|神界《しんかい》の|使命《しめい》を|受《う》けた|方《かた》に|違《ちが》ひありませぬワ、|元《もと》|吾々《われわれ》が|使《つか》つて|居《を》つた|其《その》|時分《じぶん》から、|少《すこ》し|変《へん》だなアと|思《おも》うて|居《ゐ》た。|今日《こんにち》の|所《ところ》では、|兎《と》も|角《かく》|不可解《ふかかい》な|人物《じんぶつ》だ。|時々《ときどき》|頭上《づじやう》より|閃光《せんくわう》を|発射《はつしや》したり、|眉間《みけん》からダイヤモンドの|様《やう》な|光《ひかり》が|放出《はうしゆつ》して|忽《たちま》ち|人《ひと》を|射《い》る。|到底《たうてい》|凡人《ぼんじん》の|品等《ひんとう》すべき|限《かぎ》りではありませぬワ』
|常彦《つねひこ》、|手《て》を|組《く》み、|首《くび》をうな|垂《だ》れ、|思案《しあん》に|暮《く》れて|居《を》る。|荒鷹《あらたか》、|鬼鷹《おにたか》は、
『|左様《さやう》なら|常彦《つねひこ》さま、|又《また》|惟神《かむながら》に|再会《さいくわい》の|時《とき》を|楽《たのし》みませう』
と|一礼《いちれい》して、スタスタ|坂《さか》を|南《みなみ》へ|下《くだ》り|行《ゆ》く。|常彦《つねひこ》は|少《すこ》しも|気付《きづ》かず、|瞑目《めいもく》して|俯《うつ》むいて|居《を》る。
|滝公《たきこう》『モシ|常彦《つねひこ》さま|二人《ふたり》の|方《かた》はモウ|行《ゆ》かれました』
と|背中《せなか》を|揺《ゆす》る。|常彦《つねひこ》は|夢《ゆめ》からさめた|様《やう》な|心地《ここち》、
|常彦《つねひこ》『ナニ、|二人《ふたり》はモウ|行《ゆ》かれたと……エー|何事《なにごと》も|神様《かみさま》のお|仕組《しぐみ》だらう。とも|角《かく》、|弥仙山麓《みせんさんろく》へ|往《い》つて|見《み》たいやうな|気《き》がするが、|始《はじ》めに|思《おも》ひ|立《た》つた|青彦《あをひこ》の|事件《じけん》から|解決《かいけつ》するのが|順序《じゆんじよ》だ。サア|皆《みな》さま、|参《まゐ》りませう……』
(大正一一・四・二八 旧四・二 松村真澄録)
第一二章 |大当違《おほあてちがひ》〔六四〇〕
|月《つき》|傾《かたむ》いて|山《やま》を|慕《した》ひ  |人《ひと》|老《おい》て|妄《みだ》りに|道《みち》を|説《と》くとかや
|弥仙《みせん》の|山《やま》の|麓《ふもと》なる  |賤《しづ》が|伏家《ふせや》の|豊彦《とよひこ》は
|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》  |悦子《よしこ》の|姫《ひめ》の|一行《いつかう》に
|娘《むすめ》のお|玉《たま》を|助《たす》けられ  |世《よ》にも|優《すぐ》れし|初孫《うひまご》の
|顔《かほ》を|眺《なが》めて|老夫婦《らうふうふ》  |蝶《てふ》よ|花《はな》よと|労《いた》はりつ
|神《かみ》の|教《をしへ》を|説《と》き|諭《さと》す  |此《この》|事《こと》|四方《よも》に|何時《いつ》となく
|風《かぜ》のまにまに|伝《つた》はりて  |於与岐《およぎ》の|郷《さと》の|爺《ぢい》さまは
|弥仙《みせん》の|山《やま》と|諸共《もろとも》に  |其《その》|名《な》も|高《たか》くなりにける
|老若男女《らうにやくなんによ》は|絡繹《らくえき》と  |蟻《あり》の|甘《うま》きに|集《つど》ふが|如《ごと》く
|豊彦老爺《とよひこらうや》の|教示《けうじ》をば  |神《かみ》の|如《ごと》くに|敬《うやま》ひて
|昼《ひる》は|終日《ひねもす》|夜《よ》は|終夜《よもすがら》  |救《すく》ひを|求《もと》めて|詣《まゐ》り|来《く》る。
|中《なか》に|目立《めだ》つて|三人《さんにん》の|大男《おほをとこ》、|宣伝使《せんでんし》の|服《ふく》を|着《つ》けながら、
|男《をとこ》『|御免《ごめん》なさいませ。|私《わたし》は|富彦《とみひこ》、|寅若《とらわか》、|菊若《きくわか》と|申《まを》す|者《もの》、|此《この》|度《たび》|弥仙山《みせんざん》のお|宮《みや》に|参拝《さんぱい》を|致《いた》し、|神勅《しんちよく》に|依《よ》りて|承《うけたま》はれば、|此《この》|山麓《さんろく》の|一《ひと》つ|家《や》に|豊彦《とよひこ》と|云《い》ふ|方《かた》|現《あら》はれ、|誠《まこと》の|教《をしへ》を|伝《つた》ふる|故《ゆゑ》、|汝等《なんぢら》|三人《さんにん》は|帰路《きろ》に|立寄《たちよ》り、|彼《か》れ|豊彦《とよひこ》をウラナイ|教《けう》に|誘《いざな》ひ|帰《かへ》れ、|娘《むすめ》のお|玉《たま》|及《およ》び|今度《こんど》|生《うま》れた|玉照姫《たまてるひめ》を|本山《ほんざん》に|迎《むか》ひ|帰《かへ》れ……との、|有《あ》り|有《あ》りとの|御神示《おんしめし》、|神様《かみさま》のお|言葉《ことば》は|疑《うたが》はれずと、|弥仙《みせん》の|山麓《さんろく》を|彼方《あちら》|此方《こちら》と|探《さが》す|内《うち》、|道《みち》|行《ゆ》く|人《ひと》に|承《うけたま》はれば|於与岐《およぎ》の|森《もり》の|彼方《あなた》の|一《ひと》つ|家《や》こそ、|豊彦《とよひこ》さまの|住宅《ぢうたく》と|聞《き》いた|故《ゆゑ》、|御神勅《ごしんちよく》により|出張《しゆつちやう》|仕《つかまつ》りました』
と|門口《かどぐち》に|立《た》つた|儘《まま》|呶鳴《どな》つて|居《ゐ》る。|幸《さいは》ひ|今日《けふ》は|参詣者《さんけいしや》もなく、|老夫婦《らうふうふ》と|娘《むすめ》、|孫《まご》の|四人《よにん》、|弥仙《みせん》の|神霊《しんれい》を|祀《まつ》りたる|霊前《れいぜん》に、|拝跪《はいき》|黙祷《もくたう》する|最中《さいちう》であつた。|豊彦《とよひこ》は|拝礼《はいれい》を|終《を》へ、|門口《かどぐち》|近《ちか》く|進《すす》み|来《きた》り、
|豊彦《とよひこ》『どなたか|知《し》らぬが、|門口《かどぐち》に|何《なに》か|尋《たづ》ぬる|人《ひと》が|有《あ》るらしい、|何《いづ》れの|方《かた》か、|先《ま》づ|戸《と》を|開《あ》けてお|這入《はい》りなされませ』
|寅若《とらわか》『ハイ|有難《ありがた》う』
と|斜交《はすかひ》になつた|雨戸《あまど》をガラリと|開《あ》け、
|寅若《とらわか》『ヤア|随分《ずゐぶん》|立派《りつぱ》な|家《うち》だなア……オイ|富彦《とみひこ》、|菊若《きくわか》、|這入《はい》れ、……|汚《きたな》い|家《うち》に|不似合《ふにあひ》な|綺麗《きれい》な|娘《むすめ》さまが|御座《ござ》るなア、|下水《せせなぎ》に|咲《さ》いた|杜若《かきつばた》と|云《い》はうか、|谷底《たにそこ》の|山桜《やまざくら》、これはどつか|良《い》い|所《ところ》へ|植替《うゑか》へたならば、|随分《ずゐぶん》|立派《りつぱ》な|者《もの》になるだろう』
|豊彦《とよひこ》『コレコレお|前《まへ》さまの|仰有《おつしや》る|通《とほ》りムサ|苦《くる》しい|茅屋《あばらや》なれど、これでも|私《わたし》の|唯一《ゆゐいつ》の|休養場《きうやうば》ぢや、……あまり|失礼《しつれい》ぢやありませぬか』
と|足音《あしおと》|荒《あら》く、|破《やぶ》れ|畳《だたみ》を|威喝《ゐかつ》し|乍《なが》ら、|上《あが》り|口《ぐち》に|下《お》りて|来《き》て、ジロジロと|三人《さんにん》の|顔《かほ》を|睨《にら》みつけて|居《ゐ》る。
|寅若《とらわか》『ヤアこれはお|爺《ぢい》さま、|誠《まこと》に|失言《しつげん》を|致《いた》しました。|決《けつ》して|悪《わる》く|申《まを》したのぢや|御座《ござ》いませぬ。|少《すこ》しも|飾《かざ》りのない、|正直《しやうぢき》|正銘《しやうめい》な、|心《こころ》に|映《えい》じた|儘《まま》を|申上《まをしあ》げたのだから、お|悪《わる》く|思《おも》つて|下《くだ》さいますな、|歪《ゆが》みかかつた|家《いへ》を、|立派《りつぱ》な|家《いへ》だと|云《い》つた|方《はう》が|却《かへ》つて|嘲弄《てうろう》した|事《こと》になりませう。お|多福《かめ》を|掴《つか》まへて、お|前《まへ》は|別嬪《べつぴん》だと|言《い》へば、お|多福《かめ》は|馬鹿《ばか》にしたと|言《い》つて|怒《おこ》る|様《やう》なもので、|兎《と》も|角《かく》も|神《かみ》の|道《みち》に|仕《つか》へて|居《ゐ》る|者《もの》は、チツとも|斟酌《しんしやく》とか|巧言《じやうず》とかが|有《あ》りませぬ、お|気《き》に|障《さは》りましたら、どうぞ|宥《ゆる》して|下《くだ》さいませ』
|豊彦《とよひこ》『ソレヤお|前《まへ》の|言《い》ふ|通《とほ》りぢやが、|併《しか》し|碌《ろく》に|挨拶《あいさつ》もせないで、イキナリ|吾々《われわれ》の|住宅《ぢうたく》を|非難《ひなん》すると|云《い》ふのは、あまり|此方《こつち》も|気《き》の|良《よ》いものぢやない。お|前《まへ》も|宣伝使《せんでんし》だと|仰有《おつしや》つたが、|斯《か》う|云《い》うたら|人《ひと》が|感情《かんじやう》を|害《がい》するか、|害《がい》せないか|位《くらゐ》は|分《わか》りさうなものだなア』
|寅若《とらわか》『|只今《ただいま》|申《まを》したのは|決《けつ》して|寅若《とらわか》では|有《あ》りませぬ。|弥仙山《みせんざん》に|鎮《しづ》まります|大神《おほかみ》の|眷属《けんぞく》、|寅若天狗《とらわかてんぐ》が|言《い》つたのです。|天狗《てんぐ》と|云《い》ふ|奴《やつ》は|世《よ》に|落《お》ちぶれて、|神様《かみさま》の|下働《したばたら》きばつかりやつて|居《ゐ》ますから、|行儀《ぎやうぎ》も|無《な》ければ、|作法《さはふ》も|知《し》らず、|酒《さけ》|呑《の》みの|極道《ごくだう》|天狗《てんぐ》もあり、どうぞお|赦《ゆる》し|下《くだ》さいませ。|何分《なにぶん》|身魂《みたま》が|研《みが》け|過《す》ぎて|居《を》るものだから、|感《かん》じ|易《やす》うて|直《すぐ》に|憑《うつ》られて|困《こま》ります、アハヽヽヽ』
|豊彦《とよひこ》『さうして|御神勅《ごしんちよく》の|趣《おもむき》はどう|云《い》ふ|事《こと》だ、|早《はや》く|聞《き》かして|貰《もら》ひませう』
|寅若《とらわか》『|御存《ごぞん》じの|通《とほ》り、|私《わたくし》はあまり|素直《すなほ》な|身魂《みたま》で、|種々《いろいろ》の|神《かみ》が|憑依《ひようい》|致《いた》しますから、|余程《よほど》|審神《さには》をせねばなりませぬが、|此《この》|富彦《とみひこ》と|云《い》ふ|宣伝使《せんでんし》は、それはそれは|立派《りつぱ》な|者《もの》で|御座《ござ》います。|実《じつ》は|富彦《とみひこ》に|御神勅《ごしんちよく》が|有《あ》つたのです。サア|富彦《とみひこ》さま、|御神勅《ごしんちよく》の|次第《しだい》をお|爺《ぢい》さまにお|知《し》らせなされ』
|富彦《とみひこ》、|両手《りやうて》を|組《く》み、|威丈高《ゐたけだか》になり、
|富彦《とみひこ》『コヽヽ|此《この》|方《はう》は、|弥仙山《みせんざん》に|守護《しゆご》|致《いた》す|木花咲耶姫《このはなさくやひめ》であるぞよ。|此《この》|度《たび》|汝《なんぢ》が|家《うち》に、|木花姫《このはなひめ》の|御霊《みたま》、|玉照姫《たまてるひめ》を|遣《つか》はしたのは、|深《ふか》き|仕組《しぐみ》の|有《あ》る|事《こと》ぢや、|何事《なにごと》も|皆《みな》|神《かみ》からさせられて|居《を》るのだから、|吾《わが》|子《こ》であつて、|吾《わが》|子《こ》ではないぞよ。|体内《たいない》に|宿《やど》つて|十ケ月目《じつかげつめ》に|生《うま》れ|出《い》でたる|此《この》|玉照姫《たまてるひめ》は、|神《かみ》のお|役《やく》に|立《た》てる|為《ため》に、|昔《むかし》から|因縁《いんねん》の|身魂《みたま》を|探《さが》して、|其《その》|方《はう》が|娘《むすめ》に|御用《ごよう》をさせたのであるぞよ。サア|是《こ》れからは|其《その》|玉照姫《たまてるひめ》を|神《かみ》の|御用《ごよう》に|立《た》てるが|良《よ》いぞよ。|神《かみ》の|申《まを》す|事《こと》を|諾《き》かねば|諾《き》く|様《やう》に|致《いた》して|諾《き》かしてやるぞよ。|返答《へんたふ》はどうぢや、|豊彦《とよひこ》、|承《うけたま》はらう』
|豊彦《とよひこ》、|平気《へいき》な|顔《かほ》でニタリと|笑《わら》ひ、|三人《さんにん》の|顔《かほ》をギヨロギヨロ|眺《なが》め、
『ハヽヽヽヽ、お|前達《まへたち》、|巧妙《うま》い|事《こと》を|行《や》りますなア。|田舎《いなか》の|老爺《ぢぢい》ぢやと|思《おも》うて、|一杯《いつぱい》|欺《か》けようと|企《たく》んで|来《き》ても、|斯《か》う|見《み》えても|此《この》|爺《ぢい》はナカナカ、|酢《す》でも|蒟蒻《こんにやく》でも|行《い》く|奴《やつ》ぢやない。お|前達《まへたち》とは|役者《やくしや》が|七八枚《しちはちまい》も|上《うへ》だから、|其《その》|手《て》は|喰《く》ひませぬワイ、アツハヽヽヽ、なる|程《ほど》|人間《にんげん》の|子《こ》は|十月《とつき》で|生《うま》れるだらうが、|此方《こちら》の|子《こ》はそんな|仕入《しいれ》とはチツと|種《たね》が|違《ちが》ふのだ。|神《かみ》さまもタヨリ|無《な》いものだなア。|実際《じつさい》お|前様《まへさん》に|大神《おほかみ》が|懸《うつ》つて|仕組《しぐ》まれたのならば、|此《この》|玉照姫《たまてるひめ》は|何時《いつ》|宿《やど》つて、|何ケ月目《なんかげつめ》に|分娩《ぶんべん》したか、|又《また》|何《なん》と|云《い》ふ|方《かた》が|取上《とりあ》げて|下《くだ》さつたか|分《わか》つて|居《を》る|筈《はず》だ。サアそれを|聞《き》かして|下《くだ》さい』
|富彦《とみひこ》、|汗《あせ》をタラタラ|出《だ》し、|真青《まつさを》な|顔《かほ》をして、
『ヤア|大神《おほかみ》と|云《い》つたのは|実《じつ》は|眷属《けんぞく》だ。……ケヽヽ|眷属《けんぞく》はモウ|引取《ひきと》る。|今度《こんど》は|本当《ほんたう》の|大神様《おほかみさま》がお|憑《うつ》りなさるから、|御無礼《ごぶれい》を|致《いた》してはならぬぞ。ウーム』
と|言《い》つた|限《き》り、パタリと|倒《たふ》れ、|又《また》もや|手《て》を|振《ふ》つて、|姿勢《ゐずまゐ》を|直《なほ》し、
『|今度《こんど》こそは|真正《ほんま》の|神《かみ》だ。|頭《あたま》が|高《たか》い、|下《さが》れ|下《さが》れ|下《さが》り|居《を》らう……』
|豊彦《とよひこ》『ヘン、|又《また》かいな、どうで|碌《ろく》な|神《かみ》ぢやあるまい。|大方《おほかた》|羽《はね》の|無《な》い|天狗《てんぐ》か、|尾《を》の|無《な》い|狐《きつね》なんかだらう。|随分《ずゐぶん》|此《この》|暑《あつ》いのに、そんな|芸当《げいたう》を|無報酬《むほうしう》でやつて|見《み》せて|下《くだ》さるのも|大抵《たいてい》ぢやない。あんたは|慈悲心《じひしん》の|深《ふか》い|人《ひと》ぢや、|其《その》|点《てん》|丈《だけ》は|此《この》|爺《ぢい》も|大《おほ》いに|感謝《かんしや》する。|今朝《けさ》も|二三人《にさんにん》|参《まゐ》つて|来《き》よつたが、お|前《まへ》の|様《やう》な|野天狗憑《のてんぐつき》がやつて|来《き》て、|法螺《ほら》を|吹《ふ》くの|吹《ふ》かんのつて、|随分《ずゐぶん》|面白《おもしろ》かつた。お|前《まへ》もウラナイ|教《けう》の|宣伝使《せんでんし》なら、モ|一《ひと》つ|修業《しうげふ》をなされ。|其《その》|様《やう》な|事《こと》で|衆生済度《しうじやうさいど》なぞとは、|思《おも》ひも|寄《よ》りませぬぞい』
|富彦《とみひこ》『|大神《おほかみ》に|向《むか》つて|無礼千万《ぶれいせんばん》な、|其《その》|方《はう》は|此《この》|神《かみ》を|嘲弄《てうろう》|致《いた》すか。|量見《りやうけん》ならぬぞ』
|豊彦《とよひこ》『ハヽヽヽヽ、|此方《こつち》から|量見《りやうけん》ならぬ。サア|一《ひと》つ|審神《さには》してやらう。……|娘《むすめ》のお|玉《たま》の|妊娠《にんしん》の|日《ひ》は|何時《いつ》ぢや。|何ケ月《なんかげつ》|孕《はら》んで|居《を》つた、ハツキリ|云《い》うて|見《み》よ。|十月《とつき》|位《くらゐ》で|出来《でき》た|様《やう》な|普通《ふつう》の|粗製《そせい》|濫造品《らんざうひん》とはチツと|違《ちが》ふのだ。|特別《とくべつ》|神界《しんかい》から|念《ねん》に|念《ねん》を|入《い》れて、|鍛錬《たんれん》に|鍛錬《たんれん》を|加《くは》へ|調製《てうせい》された|玉照姫《たまてるひめ》だよ。サアサア|当《あ》てて|御覧《ごらん》なさい』
|富彦《とみひこ》『|十二ケ月《じふにかげつ》だ。|間違《まちが》ひなからう。|此《この》お|玉《たま》は|牛《うし》の|綱《つな》を|跨《また》げたに|依《よ》つて、|十二ケ月《じふにかげつ》|掛《かか》つたのぢや。どうぢや|恐《おそ》れ|入《い》つたか』
|豊彦《とよひこ》『アハヽヽヽ、これ|富彦《とみひこ》さんとやら、|良《い》い|加減《かげん》に、そんな|芸当《げいたう》はお|止《や》めなさい。|随分《ずゐぶん》エライ|汗《あせ》だ』
|富彦《とみひこ》『|大神《おほかみ》は|折角《せつかく》|結構《けつこう》な|事《こと》を|言《い》うて|聞《き》かしてやらうと|思《おも》ひ、|因縁《いんねん》の|身魂《みたま》に|憑《うつ》つて|知《し》らしてやれ|共《ども》、|此《この》|爺《ぢい》は|我《が》が|強《つよ》うて、|少《すこ》しも|改心《かいしん》|致《いた》さぬから、|神《かみ》は|已《や》むを|得《え》ず、|帳《ちやう》を|切《き》つて|引取《ひきと》るより|仕方《しかた》はないぞよ。|後《あと》で|後悔《こうくわい》|致《いた》さぬ|様《やう》に|気《き》を|付《つ》けて|置《お》くぞよ』
|豊彦《とよひこ》『ヘエヘエ|有難《ありがた》う|御座《ござ》んす。お|狸《たぬき》さまか、お|狐《きつね》さまか|知《し》らぬが、|斯《か》う|見《み》えても、|此《この》|家《うち》は|神様《かみさま》の|立派《りつぱ》なお|宮《みや》だ。エー|四足《よつあし》の|這入《はい》る|所《ところ》ぢやない。|穢《けが》らはしい、|出《で》て|下《くだ》さい、|玉照姫《たまてるひめ》|様《さま》が|大変《たいへん》|御機嫌《ごきげん》が|悪《わる》い。サアサア|帰《い》なつしやい|帰《い》なつしやい』
と|箒《はうき》を|把《と》つて|掃《は》き|立《た》てる。|富彦《とみひこ》は|手持無沙汰《てもちぶさた》に、|手拭《てぬぐひ》で|顔《かほ》を|拭《ふ》いて|居《ゐ》る。
|寅若《とらわか》『オイ|爺《ぢい》さま、あまりぢやないか。|人《ひと》を|埃《ほこり》か|何《なん》ぞの|様《やう》に、|箒《はうき》で|掃《は》き|出《だ》すと|云《い》ふ|法《はふ》があるか。よい|年《とし》して|居《を》つて、チツと|位《くらゐ》|行儀《ぎやうぎ》|作法《さはふ》を|心得《こころえ》たらどうだい』
|豊彦《とよひこ》『エーエー|神様《かみさま》のお|宮《みや》の|中《なか》へ、ノコノコ|這入《はい》つて|来《く》る|四足《よつあし》に、|行儀《ぎやうぎ》も|何《なに》も|要《い》るものかい、|行儀《ぎやうぎ》と|云《い》ふものは|人間《にんげん》|同士《どうし》、|又《また》は|人間《にんげん》か、より|以上《いじやう》の|神様《かみさま》に|対《たい》してこそ|必要《ひつえう》だ。グヅグヅ|吐《ぬか》すと、|此《この》|箒《はうき》が|頭《あたま》の|上《うへ》まで|参《まゐ》るぞ』
|菊若《きくわか》は|爺《ぢい》の|振《ふ》り|上《あ》げた|箒《はうき》をクワツと|掴《つか》み、
|菊若《きくわか》『モシモシお|爺《ぢい》さま、お|静《しづ》まり|下《くだ》さい。|短気《たんき》は|損気《そんき》だ。さうお|前《まへ》の|様《やう》に|神懸《かむがかり》を【けなし】ては|話《はなし》が|出来《でき》ぬ。マア|静《しづ》まつた|静《しづ》まつた』
|豊彦《とよひこ》『お|前達《まへたち》に|説教《せつけう》を|聴《き》く|耳《みみ》|持《も》たぬ。|斯《か》う|見《み》えても、|此《この》|豊彦《とよひこ》は|神様《かみさま》の|御神徳《ごしんとく》を|頂《いただ》いて、|何処《どこ》の|教《をしへ》にもつかず、|独立《どくりつ》|独歩《どくぽ》で、|神様《かみさま》|直接《ちよくせつ》の|御用《ごよう》を|致《いた》して|居《を》るのだ。|人《ひと》を|助《たす》けるのは|神《かみ》の|道《みち》だから、お|前《まへ》さへ|改心《かいしん》して、|低《ひく》うなつて|来《く》れば、どんな|結構《けつこう》な|事《こと》でも|教《をし》へてやるが、そんな|態度《たいど》では|一息《ひといき》の|間《ま》も|置《お》く|事《こと》は|出来《でき》ぬ。サアサア|帰《かへ》つた|帰《かへ》つた』
お|玉《たま》『お|爺《ぢい》さま、あまり|酷《ひど》い|事《こと》を|言《い》はぬが|宜《よろ》しい』
|豊彦《とよひこ》『コレコレお|玉《たま》、お|前《まへ》は|黙《だま》つて|居《ゐ》なさい。|又《また》こんな|奴《やつ》に|因縁《いんねん》を|附《つ》けられては|煩雑《うるさ》いから……』
|寅若《とらわか》『ヤアお|玉《たま》さま、|話《はな》せる、さうなくては|女《をんな》ではない。ヤツパリ|社交界《しやかうかい》の|花《はな》は|女《をんな》だ。|挨拶《あいさつ》は|時《とき》の|氏神《うぢがみ》、そこを|巧《うま》く|斡旋《あつせん》の|労《らう》を|取《と》つて|下《くだ》さい。お|前《まへ》さま|所《ところ》の|床《ゆか》の|置物《おきもの》を|御覧《ごらん》なされ。|私等《わたくしら》が|此処《ここ》の|門《もん》を|潜《くぐ》るや|否《いな》や、|能《よ》うお|出《いで》やす……と|云《い》つて、あの|長《なが》い|頭《あたま》をうちつけて、|福禄寿《げほう》の|像《ざう》が|叮嚀《ていねい》に|挨拶《あいさつ》をして|居《を》るぢやないか。あんな|無心《むしん》の|福禄寿《げほう》さまでも、|吾々《われわれ》の|御威勢《ごゐせい》には……いや|神格《しんかく》には|感応《かんのう》して、|畏《かしこ》まつて|御座《ござ》る。それに|此《この》お|爺《ぢい》さまはあまり|剛情《がうじやう》が|過《す》ぎる。|私達《わたしたち》が|言《い》つても、|中々《なかなか》|年寄《としよ》りの|片意地《かたいぢ》で|諾《き》かつしやるまいから……|娘《むすめ》にかけたら|目《め》も|鼻《はな》も|無《な》い|爺《おやぢ》さまに、お|玉《たま》さまからトツクリと|気《き》の|軟《やは》らぐ|様《やう》に|言《い》つて|下《くだ》さい』
お|玉《たま》『ホヽヽヽヽ』
|豊彦《とよひこ》『エー|帰《い》ねと|言《い》つたら|帰《い》なぬか』
と|床《ゆか》が|落《お》ちる|程《ほど》|四股《しこ》を|踏《ふ》む。|三人《さんにん》は、
『エーお|爺《ぢい》さま、|又《また》お|目《め》にかかります。|今日《けふ》は|大変《たいへん》|天候《てんこう》が|悪《わる》いから……|又《また》|日和《ひより》を|考《かんが》へてお|邪魔《じやま》に|参《まゐ》ります』
|豊彦《とよひこ》『エーグヅグヅ|言《い》はずに、|早《はや》く|帰《い》んで|呉《く》れ、|玉照姫《たまてるひめ》|様《さま》の|御機嫌《ごきげん》が|悪《わる》くなると|困《こま》るから……オイ|婆《ば》ア、|塩《しほ》|持《も》つて|来《こ》い。そこらを|一《ひと》つ|浄《きよ》めないと、|何《なん》だか|四足《よつあし》の|香《にほひ》がして|仕方《しかた》がないワ、アハヽヽヽ』
|三人《さんにん》は|突出《つきだ》される|様《やう》に|怪訝《けげん》な|顔《かほ》して|此《この》|家《や》を|立出《たちい》で、スタスタと|弥仙山《みせんざん》の|急坂《きふはん》にさしかかる。
|菊若《きくわか》『オイ|此処《ここ》らで|一《ひと》つ、|一服《いつぷく》しやうぢやないか』
|寅若《とらわか》『あまり|怪体《けつたい》が|悪《わる》くつて、|黒姫《くろひめ》さまに|会《あ》はす|顔《かほ》がない。|休《やす》む|気《き》にもならぬぢやないか。そこらの|蝶々《てふてふ》や|糞蛙《くそがへる》まで、|俺達《おれたち》の|顔《かほ》を|見《み》て、|馬鹿《ばか》にして|居《ゐ》やがる|様《やう》な|心持《こころもち》がする。どつか、|蛙《かへる》や|蝶《てふ》の|居《を》らぬ|所《ところ》へ|行《い》つて|一服《いつぷく》しやうかい』
と|胸突坂《むなつきざか》を|後《あと》から|追手《おつて》にでも|追《お》ひかけられる|様《やう》な、|慌《あは》てた|姿《すがた》で、|三本桧《さんぼんひのき》の|麓《ふもと》までやつて|来《き》た。
『アヽ|此処《ここ》に|良《い》い|休息所《きうそくしよ》がある。|清水《しみづ》も|湧《わ》いて|居《を》る。|水《みづ》でも|飲《の》んで、ゆつくりと|第二《だいに》の|作戦《さくせん》|計画《けいくわく》に|着手《ちやくしゆ》する|事《こと》としやうかい』
|三人《さんにん》は|樹下《じゆか》に|涼風《すずかぜ》を|入《い》れ|乍《なが》ら、|雑談《ざつだん》に|時《とき》を|移《うつ》した。
|菊若《きくわか》『これ|程《ほど》|名高《なだか》くなつた|豊彦《とよひこ》と|云《い》ふ|爺《ぢい》も、あの|玉照姫《たまてるひめ》と|云《い》ふ|赤《あか》ん|坊《ばう》が|出来《でき》て、それがイロイロの|事《こと》を|知《し》らすと|云《い》ふのが|呼《よ》びものになつて、|毎日《まいにち》|日日《ひにち》、|桃李《たうり》|物《もの》|言《い》はずして|小径《せうけい》をなす|様《やう》に、あちらこちらから、|信者《しんじや》が|集《あつ》まるのだ。|黒姫《くろひめ》さまが|毎朝《まいあさ》|起《お》きて、|行水《ぎやうずゐ》をなさると|東《ひがし》の|天《てん》に|当《あた》つて|紫《むらさき》の|雲《くも》が|靉靆《たなび》くから、|何《なん》でも|弥仙山《みせんざん》の|方面《はうめん》に|違《ちが》ひないから|一遍《いつぺん》|偵察《ていさつ》に|行《い》て|来《こ》いと|言《い》はれ、|此《この》|間《あひだ》、|俺《おれ》|一人《ひとり》|此《この》|山麓《さんろく》まで|来《き》て|見《み》ると、|大変《たいへん》な|人気《にんき》だ。|紫《むらさき》の|雲《くも》の|出所《でどころ》は、どうしても、あの|茅屋《あばらや》に|間違《まちが》ひない。そして|毎晩《まいばん》|東《ひがし》の|天《てん》に|当《あた》つて|大変《たいへん》な|綺麗《きれい》な|星《ほし》が|輝《かがや》き|始《はじ》めた。|偉人《ゐじん》の|出現《しゆつげん》には、キツと|天《てん》に|明星《みやうぜう》が|現《あら》はれると|云《い》ふ|事《こと》だが、テツキリそれに|間違《まちがひ》ないと、|直《ただち》に|立帰《たちかへ》つて|報告《はうこく》をした|所《ところ》、|黒姫《くろひめ》さまは……「マア|待《ま》て、|一週間《いつしうかん》|水行《すゐぎやう》をして、ハツキリと|神勅《しんちよく》を|受《う》ける」と|仰有《おつしや》つて、|夜《よる》、|丑《うし》の|刻《こく》から|起《お》き|出《い》でて、|皆《みな》の|知《し》らぬ|間《ま》に、|何百杯《なんびやくぱい》とも|知《し》れぬ|水行《すゐぎやう》を|遊《あそ》ばした|結果《けつくわ》、イヨイヨそれに|間違《まちがひ》ない。グツグツしてい|居《ゐ》ると、|三五教《あななひけう》の|奴《やつ》に|取《と》られて|了《しま》ふから、お|前達《まへたち》|早《はや》く|外《ほか》の|者《もの》に|秘密《ひみつ》で、|其《その》|子供《こども》を|貰《もら》つて|来《こ》い……との|御仰《おんあふ》せ、あんな|茅屋《あばらや》の|娘《むすめ》、|二《ふた》つ|返事《へんじ》でウラナイ|教《けう》に、|熨斗《のし》を|付《つ》けて|献上《けんじやう》するかと|思《おも》ひきや、|今日《けふ》の|鼻息《はないき》、|到底《たうてい》|一通《ひととほ》りや|二通《ふたとほり》りでは、|梃子《てこ》に|合《あ》はぬ。それに|寅若《とらわか》の|先生《せんせい》、|最初《さいしよ》からヘマな|神憑《かむがか》りを|行《や》つて|爺《おやぢ》に|睨《にら》まれ、|第二線《だいにせん》として|現《あら》はれた|富彦《とみひこ》は、|老爺《ぢぢい》の|審神《さには》に|睨《にら》まれ、ヨロヨロと|受太刀《うけだち》になり……これはヤツパリ|野天狗《のてんぐ》で|御座《ござ》いました……と|出直《でなほ》した|所《ところ》は|巧《うま》いものだが、|今度《こんど》|又《また》|大神《おほかみ》と、|太《ふと》う|出《で》やがつて、|零敗《ゼロはい》を|喰《く》はされ、|最早《もはや》|回復《くわいふく》の|見込《みこ》みなく、|終局《しまひ》の|果《は》てにや、|箒《ほうき》で|掃出《はきだ》された|無態《ぶざま》さ……|斯《こ》んな|事《こと》を、|怪我《けが》の|端《はし》にでも、|黒姫《くろひめ》さまや|外《ほか》の|連中《れんちう》に|聞《き》かれようものなら、|馬鹿《ばか》らしくつて、|外《そと》も|歩《ある》けやしない。|何《なん》とか|一《ひと》つ|智慧《ちゑ》を|絞《しぼ》り|出《だ》して、|会稽《くわいけい》の|恥《はぢ》を|雪《すす》がねばなるまい。|何《なん》ぞよい|考《かんが》へはなからうか』
|寅若《とらわか》『|別《べつ》に|方法《はうはふ》|手段《しゆだん》もないが、|先《ま》づ|梅公式《うめこうしき》だなア。それが|最後《さいご》の|手段《しゆだん》だ』
|富彦《とみひこ》『|梅公式《うめこうしき》を|行《や》り|損《そこ》なうと、|滝板式《たきいたしき》になり、|終局《しまひ》におつ|放《ぽ》り|出《だ》されにやならぬ|様《やう》な|事《こと》になると|大変《たいへん》だ。|此奴《こいつ》ア|一《ひと》つ、|熟思《じゆくし》|熟考《じゆくかう》の|余地《よち》は|充分《じゆうぶん》に|存《そん》するぞ』
|寅若《とらわか》『ナーニ、|目的《もくてき》は|手段《しゆだん》を|選《えら》ばずだ。|善《ぜん》の|為《ため》にするのだから、|別《べつ》に|罪《つみ》になると|云《い》ふ|事《こと》もあるまい。|一《ひと》つ|決行《けつかう》しやうぢやないか』
|菊若《きくわか》『アヽ|結構《けつこう》|々々《けつこう》、|結構《けつこう》|毛《け》だらけ、|猫《ねこ》|灰《はい》だらけだ。|弥仙山《みせんざん》の|大神《おほかみ》さまは、|猫《ねこ》が|使者《つかはしめ》だと|云《い》ふ|事《こと》だ、|何《なん》でも|今度《こんど》は|猫《ねこ》を|被《かぶ》つて、|梅滝流《うめたきりう》を|行《や》らうぢやないか』
|富彦《とみひこ》『|梅滝流《うめたきりう》とはソラ|何《なん》だ』
|菊若《きくわか》『|其《その》|正中《まんなか》を|行《ゆ》くのだ。|普甲峠《ふかふたうげ》の|梅公《うめこう》の|行《や》り|口《くち》は、|味方《みかた》|八人《はちにん》も|居《を》つたものだから、|大変《たいへん》に|都合《つがふ》が|好《よ》かつた。|船岡山《ふなをかやま》の|近所《きんじよ》で|行《や》つた|滝板《たきいた》の|芝居《しばゐ》は、|何分《なにぶん》|役者《やくしや》が|少《すくな》いものだから、バレて|了《しま》つたのだよ。|併《しか》し|吾々《われわれ》|三人《さんにん》では、どうする|事《こと》も|出来《でき》ぬぢやないか、|三人《さんにん》|寄《よ》れば|文珠《もんじゆ》の|智慧《ちゑ》と|云《い》つても、|程《ほど》よい|考案《かうあん》が|浮《うか》んで|来《こ》ない。ハテ|困《こま》つた|事《こと》だなア』
|寅若《とらわか》『|噂《うはさ》に|聞《き》けば、|明日《あす》はお|玉《たま》が|七十五日《しちじふごにち》の|忌明《いみあけ》で、|弥仙山《みせんざん》へお|参《まゐ》りするさうだ。どうぢや。|吾々《われわれ》|三人《さんにん》は|一《ひと》つ、|体《からだ》|一面《いちめん》に|日蔭葛《ひかげかづら》でも|被《かぶ》つて、お|玉《たま》の|参詣路《さんけいみち》を|脅《おびや》かし、グツと|括《くく》つて|猿轡《さるぐつわ》を|箝《は》め、|山伝《やまづた》ひに|連《つ》れ|帰《かへ》り、さうして|外《ほか》の|連中《れんちう》を|爺《ぢぢ》の|家《うち》へ|差《さ》し|向《む》け、「お|前《まへ》さまの|家《うち》は、|大事《だいじ》のお|玉《たま》さまを|悪者《わるもの》の|為《ため》に|拐《かどは》かされたさうぢや。|気《き》の|毒《どく》なが、|何《なん》と|吾々《われわれ》が|力一杯《ちからいつぱい》|骨《ほね》を|折《お》つて|探《さが》して|来《く》るから、|其《その》|褒美《ほうび》に|玉照姫《たまてるひめ》さまを、|三日《みつか》でも、|四日《よつか》でもよいから、|貸《か》して|下《くだ》さらぬか」……と|云《い》つて、チヨロまかすより|外《ほか》に|途《みち》は|有《あ》るまい、どうだ|賛成《さんせい》かなア』
『ヤアあまり|名案《めいあん》でもないが、|斯《か》うなれば|仕方《しかた》が|無《な》い。マアそれ|位《くらゐ》な|事《こと》で|辛抱《しんばう》しやうかい。|併《しか》し|巧《うま》くいかうかな』
『|何《なに》は|兎《と》も|角《かく》|一遍《いつぺん》|都合《つがふ》よくいく|様《やう》に、お|空《そら》の|大神様《おほかみさま》へ|参拝《さんぱい》をして|来《こ》う。|今晩中《こんばんぢう》|三人《さんにん》が|一生懸命《いつしやうけんめい》に、|木花姫《このはなひめ》|様《さま》の|御分霊《ごぶんれい》の|前《まへ》で、|祈《いの》つて|祈《いの》つて|祈《いの》り|倒《たふ》すのだ、さうすれば|神《かみ》さまだつて……|終局《しまひ》にや|五月蠅《うるさ》いから……エー|仕方《しかた》がない、|一遍《いつぺん》は|諾《き》いてやらう……と|仰有《おつしや》るに|違《ちが》ひない。さうでなくちや、どうしてウラナイ|教《けう》へ|帰《かへ》る|事《こと》が|出来《でき》ようか。|青彦《あをひこ》さまや、|紫姫《むらさきひめ》さまに|恥《はづ》かしいぞ』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら、|山上《さんじやう》|目蒐《めが》けて|進《すす》み|行《ゆ》く。|一夜《いちや》は|頂上《ちやうじやう》の|社前《しやぜん》に|夜《よ》を|明《あ》かし、|一生懸命《いつしやうけんめい》に|願望《ぐわんばう》|成就《じやうじゆ》の|祈願《きぐわん》を|凝《こ》らし|居《ゐ》る。|果《はた》して|大神様《おほかみさま》は|御聴許《ごちやうきよ》|遊《あそ》ばすであらうか。
(大正一一・四・二八 旧四・二 松村真澄録)
第一三章 |救《すくひ》の|神《かみ》〔六四一〕
|寅若《とらわか》、|富彦《とみひこ》、|菊若《きくわか》の|三人《さんにん》は|金峰山《きんぷせん》の|頂上《ちやうじやう》、|弥仙神社《みせんじんしや》の|前《まへ》に|一心不乱《いつしんふらん》に|願望《ぐわんばう》|成就《じやうじゆ》の|祈願《きぐわん》を|凝《こ》らし、|遂《つひ》に|夜《よ》を|明《あ》かした。
|寅若《とらわか》『アヽ|大分《だいぶん》|沢山《たくさん》に|神言《かみごと》を|奏上《そうじやう》し、|最早《もはや》|声《こゑ》の|倉庫《さうこ》は|窮乏《きうばふ》を|告《つ》げたと|見《み》え、そろそろかすつて|来《き》だした』
と|瘡《かさ》かきの|様《やう》な|声《こゑ》で|云《い》ふ。|二人《ふたり》も|同《おな》じくかすり|声《ごゑ》、
|寅若《とらわか》『もう|仕方《しかた》がない、ありだけの|言霊《ことたま》を|献納《けんなふ》したのだから、|声《こゑ》としては|殆《ほと》んど|無一物《むいちぶつ》だ、|声《こゑ》の|裸《はだか》になつた|様《やう》なものだ、これだけ|生《うま》れ|赤子《あかご》になれば、|如何《どん》な|願《ねがひ》も|聞《き》いて|下《くだ》さるだらう』
と|枯《か》れ|草《くさ》の|上《うへ》を|竹箒《たけばうき》で|撫《な》でる|様《やう》な|貧弱《ひんじやく》な|言霊《ことたま》をやつと|発射《はつしや》してゐる。|寅若《とらわか》、|懐中《くわいちゆう》の|短刀《たんたう》をヒラリと|抜《ぬ》いて|傍《あたり》の|木《き》を|削《けづ》り、それへ|向《む》けて|矢立《やたて》から、|竹片《たけぎれ》を|叩《たた》いた、|笹葉《ささら》の|様《やう》な、|長三角《ちやうさんかく》の|筆《ふで》を|取《と》り|出《だ》し、|何《なに》かクシヤクシヤ|書《か》き|初《はじ》めた。|書《か》き|終《をは》つて|唖《おし》の|様《やう》にウンウンと|木《き》の|文字《もんじ》を|見《み》よと|指《ゆび》さし|得意顔《とくいがほ》、|二人《ふたり》は|立《た》ち|寄《よ》つて|読《よ》み|下《お》ろすと、
『|木花姫《このはなひめ》の|命《みこと》の|筆先《ふでさき》、|今日《けふ》は|七十五日《しちじふごにち》の|忌明《いみあけ》で|必《かなら》ず|参拝《さんぱい》|致《いた》す|筈《はず》のお|玉《たま》に|神《かみ》が|気《き》をつける、|汝《なんぢ》に|授《さづ》けた|玉照姫《たまてるひめ》は|普通《ふつう》の|人間《にんげん》の|子《こ》で|無《な》いぞよ、|神《かみ》が|御用《ごよう》に|立《た》てる|為《た》めに|汝《なんぢ》の|肉体《にくたい》に、そつと|這入《はい》つて|生《うま》れ|変《かは》つたのであるから、|今《いま》|此処《ここ》で|改心《かいしん》を|致《いた》してウラナイ|教《けう》に|献《たてまつ》り、|神《かみ》のお|役《やく》に|立《た》てて|下《くだ》されよ、これが|神《かみ》の|仕組《しぐみ》であるぞよ、|若《も》し|承知《しようち》を|致《いた》したなれば|其《その》【しるし】に|日蔭葛《ひかげかづら》を|頭《あたま》にのせて、|其方《そなた》の|家《いへ》まで|帰《かへ》つて|下《くだ》されよ、|若《も》し|不承知《ふしようち》なれば|其《その》|儘《まま》で|帰《かへ》るがよい、|又《また》|後《あと》から|神《かみ》が【みせしめ】を|致《いた》すぞよ』
と|書《か》いてある。|菊若《きくわか》、かすり|声《ごゑ》で、
|菊若《きくわか》『アハヽヽヽ、うまいうまい、ナア|富彦《とみひこ》、やつぱり|哥兄貴《あにき》だなア』
|寅若《とらわか》『|哥兄貴《あにき》だらう』
と、かすり|声《ごゑ》で|云《い》つて|居《ゐ》る。|三人《さんにん》は|軈《やが》てお|玉《たま》が|朝参詣《あさまゐり》して|登《のぼ》つて|来《く》る|時刻《じこく》と|裏山《うらやま》より、【ずり】|下《お》り、そつと|廻《まは》つて|中腹《ちうふく》の|灌木《くわんぼく》の|繁茂《しげみ》に|姿《すがた》を|隠《かく》し、お|玉《たま》の|下向《げかう》を|待《ま》つて|居《ゐ》た。お|玉《たま》は|只《ただ》|一人《ひとり》|桜《さくら》の|杖《つゑ》をつき|乍《なが》ら|漸《やうや》く|頂上《ちやうじやう》に|達《たつ》し、|神前《しんぜん》に|向《むか》つて|感謝《かんしや》の|辞《じ》を|奉《たてまつ》り、フツと|社側《しやそく》の|大木《たいぼく》を|見《み》れば|何《なに》か|文字《もじ》が|現《あら》はれて|居《ゐ》る。『ハテ|不思議《ふしぎ》』と|近寄《ちかよ》つて|見《み》れば|以前《いぜん》の|文面《ぶんめん》、|暫《しばら》く|其《その》|木《き》と|睨《にら》め【くら】し、|腕《うで》を|組《く》んで|思案《しあん》に|暮《く》れて|居《ゐ》た。|暫時《しばし》あつて、
お|玉《たま》『エー、|馬鹿《ばか》らしい、|神様《かみさま》が|斯《こ》んな|事《こと》をお|書《か》き|遊《あそ》ばすものか、|何者《なにもの》かの|悪戯《いたづら》であらう。|日蔭葛《ひかげかづら》を|被《かぶ》つて|帰《かへ》る|所《ところ》を|眺《なが》めて、|近在村《きんざいむら》の|若《わか》い|衆《しう》が|手《て》を|拍《たた》いて|笑《わら》つてやらうとの|悪戯《いたづら》だらう、ホヽヽヽ、|阿呆《あほ》らしい』
と|独語《ひとりご》ちつつ|又《また》もや|神前《しんぜん》に|軽《かる》く|会釈《ゑしやく》をし、もと|来《き》し|急坂《きふはん》を|下《くだ》り|行《ゆ》く。|半分《はんぶん》あまり|下《くだ》つたと|思《おも》ふ|時《とき》、
|寅若《とらわか》『ヤア、|駄目《だめ》だ、|日蔭葛《ひかげかづら》を|被《かぶ》つて|居《ゐ》やがらぬぞ、|不承諾《ふしようだく》だと|見《み》える、もう|斯《こ》うなる|上《うへ》は|直接《ちよくせつ》|行動《かうどう》だ、サア、|一《ひい》、|二《ふ》、|三《み》つで|一度《いちど》にかからうかい』
|菊若《きくわか》『オイオイ、あまり|慌《あわて》るな、|彼奴《あいつ》の|身体《からだ》を|見《み》よ、|一歩一歩《ひとあしひとあし》|些《ちつ》とも|隙《すき》がない、うつかりかからうものなら、|谷底《たにそこ》へ|取《と》つて|放《はう》られるかも|知《し》れないから、|余程《よほど》ここは|慎重《しんちよう》の|態度《たいど》をとらねばなるまいぞ』
|富彦《とみひこ》『|愚図々々《ぐづぐづ》|云《い》つてる|間《ま》に、さつさと|帰《かへ》つて|仕舞《しま》うちや|仕方《しかた》がないぢやないか、もう|斯《か》うなつては|何《なん》の|猶予《いうよ》もない、サア|一《ひい》、|二《ふう》、|三《みつ》つだ』
とお|玉《たま》の|前《まへ》に|身体《からだ》|一面《いちめん》、|日蔭葛《ひかげかづら》で|取《と》り|巻《ま》いた|化物《ばけもの》の|様《やう》な|姿《すがた》で|三人《さんにん》は|現《あら》はれた。
お|玉《たま》『シイツ、オイ|畜生《ちくしやう》、|何《なん》と|心得《こころえ》て|居《ゐ》る、|此処《ここ》は|神様《かみさま》のお|宮《みや》だ、|昼中《ひるなか》に|四《よ》つ|足《あし》が|出《で》ると|云《い》ふ|事《こと》があるものか、|昼《ひる》は|人間《にんげん》の|世界《せかい》、|夜《よる》はお|前達《まへたち》の|世界《せかい》だ、|早《はや》く|姿《すがた》を|隠《かく》せ、|一《ひと》|二《ふた》|三《み》|四《よ》|五《いつ》|六《むゆ》|七《なな》|八《や》|九《ここの》|十《たり》|百《もも》|千《ち》|万《よろづ》……』
|寅若《とらわか》、|作《つく》り|声《ごゑ》をして、
|寅若《とらわか》『オイ、お|玉《たま》、|其《その》|方《はう》は|生神様《いきがみさま》に|向《むか》つて|獣《けだもの》と|云《い》つたな、もう|量見《りやうけん》がならぬ、|覚悟《かくご》|致《いた》せ』
お|玉《たま》『オホヽヽヽヽ、お|前《まへ》は|昨日《きのふ》|妾《わたし》の|家《うち》へやつて|来《き》て、お|爺《ぢい》さまに|審神《さには》をせられた|狐《きつね》や|狸《たぬき》の|生宮《いきみや》だらう、やつぱり|争《あらそ》はれぬもの、|宅《うち》のお|爺《ぢい》さまは|目《め》が|高《たか》い、|今日《けふ》は|正真《せうまつ》になつて|姿《すがた》を|現《あら》はし|遊《あそ》ばしたな、ホヽヽヽヽ』
|寅若《とらわか》『|何《なに》を|吐《ぬか》すのだ、もう|斯《こ》う|成《な》つた|上《うへ》は|此方《こちら》も|死物狂《しにものぐる》ひだ、|幸《さいは》ひ|外《ほか》に|人《ひと》は|無《な》し、|何程《なにほど》|貴様《きさま》に|神力《しんりき》があるか、|手《て》が|利《き》いて|居《ゐ》るか、|荒《あら》くれ|男《をとこ》の|三人《さんにん》と|女《をんな》|一人《ひとり》、|愚図々々《ぐづぐづ》|吐《ぬか》さず|後《うしろ》へ|手《て》を|廻《まは》せ』
お|玉《たま》『オホヽヽヽ、お|前《まへ》こそ、ちつと|尻《しり》へ|手《て》を|廻《まは》さぬと|大変《たいへん》な|失敗《しつぱい》が|出来《でき》ますよ、|後《うしろ》へ|手《て》を|廻《まは》す|様《やう》な|人間《にんげん》はお|前《まへ》の|様《やう》な|悪人《あくにん》ばつかりだ、やがて|捕手《とりて》が|出《で》て|来《き》て……|括《くく》つて|去《い》なれぬ|様《やう》に|御注意《ごちうい》なさいませや』
|菊若《きくわか》『エー|自暴糞《やけくそ》だ、やつて|仕舞《しま》へ、サア|一《ひい》、|二《ふう》、|三《みつ》つ』
お|玉《たま》『オホヽヽヽ、|随分《ずゐぶん》|偉《えら》い|馬力《ばりき》ですこと、お|宮《みや》の|前《まへ》に|綺麗《きれい》な|楽書《らくがき》がして|御座《ござ》いましたな、|妾《わたし》|拝見《はいけん》|致《いた》しまして、|見事《みごと》なる|御手跡《ごしゆせき》だと|感心《かんしん》しましたのよ』
|寅若《とらわか》『エー、ベラベラと|怖《こわ》くなつたものだから|追従《つゐしやう》ならべやがつて、|此《この》|場《ば》を【ちよろまか】して|逃《に》げ|様《やう》と|思《おも》つたつて、|仏《ほとけ》の|碗《わん》ぢや、もう【かなわん】ぞ、|神妙《しんめう》に|手《て》を|廻《まは》さぬかい』
お|玉《たま》『|大《おほ》きに|憚《はばか》りさま、|廻《まは》さうと、|廻《まは》すまいと|妾《わたし》の|手《て》、|自由《じいう》の|権利《けんり》だ、お|構《かま》ひ|下《くだ》さいますな、それよりも|貴方《あなた》の|身《み》の|上《うへ》を|御注意《ごちうい》なさいませ、|玩具《おもちや》のピストルを|突《つ》きつける|様《やう》な|脅喝《けふかつ》|手段《しゆだん》にのる|様《やう》なお|玉《たま》ぢや|御座《ござ》いませぬワ』
|富彦《とみひこ》『|何程《なんぼ》|口《くち》は|達者《たつしや》でも|力《ちから》には|叶《かな》うまい、オイ|寅若《とらわか》|菊若《きくわか》、もう|斯《こ》うなれば|容赦《ようしや》はならぬ、|愚図々々《ぐづぐづ》して|居《ゐ》ると、|人《ひと》に|見付《みつ》かつちや|大変《たいへん》だ、|早《はや》う|事業《じげふ》に|着手《ちやくしゆ》しようぢやないか』
『オツト|合点《がつてん》だ』
と|三人《さんにん》は|武者振《むしやぶ》り|付《つ》く。お|玉《たま》は|右《みぎ》に|隙《す》かし|左《ひだり》に|隙《す》かし、|飛鳥《ひてう》の|如《ごと》く|揉《も》み|合《あ》ひ【へし】|合《あ》ひ|戦《たたか》つて|居《ゐ》る。|寅若《とらわか》はお|玉《たま》の|足《あし》に|喰《く》ひついた|途端《とたん》にお|玉《たま》は|仰向態《あふむけざま》に、ひつくりかへり|二三間《にさんげん》|谷《たに》を|目蒐《めが》けて、|寅若《とらわか》と|上《うへ》になり|下《した》になりクレリクレリと|三四回《さんしくわい》|軽業《かるわざ》を|演《えん》じた。|菊若《きくわか》、|富彦《とみひこ》は|予《かね》て|用意《ようい》の|藤綱《ふぢつな》を|以《もつ》て|後手《うしろで》に|縛《しば》り、|猿轡《さるぐつわ》を|箝《は》め|様《やう》とする。|此《この》|時《とき》|下《した》の|方《はう》から|白《しろ》い|笠《かさ》が|揺《ゆ》らついて|登《のぼ》つて|来《く》る。
|寅若《とらわか》『ヤア、|何《なん》だか|怪《あや》しげな|奴《やつ》が|一匹《いつぴき》やつて|来《き》やがつたぞ、|大方《おほかた》|豊彦爺《とよひこぢい》だらう』
|菊若《きくわか》『|親爺《おやぢ》にしては|随分《ずゐぶん》|足並《あしなみ》が|早《はや》い|様《やう》だ、|早《はや》く|縛《しば》りあげて|其処辺《そこら》へ|隠《かく》し、|彼奴《あいつ》の|通《とほ》るのをば|待《ま》とうぢやないか』
と|慌《あわて》て|括《くく》つたお|玉《たま》の|肉体《にくたい》を|灌木《くわんぼく》の|繁茂《しげみ》に|隠《かく》して|仕舞《しま》つた。そこへ|上《のぼ》つて|来《き》た|一人《ひとり》の|男《をとこ》、
『ヤアお|前《まへ》はウラナイ|教《けう》の|方《かた》ぢやなア、|一寸《ちよつと》|物《もの》をお|尋《たづ》ね|致《いた》します、|此処《ここ》へ|於与岐《およぎ》の|豊彦《とよひこ》の|娘《むすめ》お|玉《たま》と|云《い》ふ|綺麗《きれい》な|女《をんな》は|通《とほ》らなかつたかな、|見《み》れば|貴方等《あなたがた》は|身体《からだ》|一面《いちめん》、|狐《きつね》の|襷《たすき》を|身《み》に|纒《まと》うて|居《ゐ》るが、|何《なん》ぞ|面白《おもしろ》い|事《こと》でもありましたか』
|寅若《とらわか》『イヤ、|別《べつ》に|何《なに》もありませぬ、お|玉《たま》さまはねつからお|目《め》にかかりませぬがな』
と|故意《わざ》とお|玉《たま》を|隠《かく》した|反対《はんたい》の|方《はう》へ|目《め》を|注《そそ》ぐ。
|男《をとこ》『もう|此処《ここ》へ|来《き》て|居《を》らねばならぬ|時刻《じこく》ですが……|彼方《あちら》から|一寸《ちよつと》|窺《うかが》つて|居《ゐ》ましたが|人《ひと》の|影《かげ》が|四《よつ》ばかり|動《うご》いて|居《を》つた|様《やう》だ』
|寅若《とらわか》『ハイ、そう|見《み》えましたかな。それは|大方《おほかた》|昼《ひる》の|事《こと》でもあり|影法師《かげぼうし》がさしたのでせう』
|男《をとこ》『|天《てん》を|封《ふう》じた|此《この》|密林《みつりん》、|影《かげ》が|映《さ》すとは|妙《めう》ですな、|私《わたくし》も|此処《ここ》で|一《ひと》つ|煙草《たばこ》でも……さして|貰《もら》ひませう、|何《なん》だか|女《をんな》の|息《いき》が|聞《きこ》える|様《やう》だ、ハツハツハヽヽヽ、お|前《まへ》、|隠《かく》して|居《ゐ》るのぢやあるまいな』
|寅若《とらわか》『|滅相《めつさう》な、|此《この》|昼中《ひるなか》に|隠《かく》すと|云《い》つたつて……|何《なに》を|隠《かく》す|必要《ひつえう》がありますものか、【かくす】れば|斯《か》くなるものと|知《し》り|乍《なが》ら|止《や》むにやまれぬ|日本魂《やまとだましひ》と|云《い》ひまして、ホンの|一寸《ちよつと》……』
|男《をとこ》『|何《なに》が|一寸《ちよつと》……だ、|其《その》|一寸《ちよつと》が|聞《き》かして|欲《ほ》しい』
|寅若《とらわか》『そう|四角張《しかくば》つて|仰有《おつしや》るに|及《およ》びませぬワ、サアサアお|伴《とも》|致《いた》しませう、|貴方《あなた》お|空《そら》へお|詣《まゐ》りでせう、|私《わたくし》お|伴《とも》|致《いた》します。オイ|菊若《きくわか》、|富彦《とみひこ》、|宜《い》いか、|合点《がつてん》か、お|前《まへ》は|足弱《あしよわ》だから、|先《さき》へ|何《なに》を|何々《なになに》せい、|私《わたし》は|此《この》お|方《かた》のお|伴《とも》をしてお|空《そら》へ|詣《まゐ》つて|来《く》るから……』
|菊若《きくわか》『|昨晩《ゆうべ》|詣《まゐ》つただないか』
|寅若《とらわか》、グツと|目《め》を|剥《む》き、
|寅若《とらわか》『シイツ、|何《なに》を|云《い》ふのだい、|夢《ゆめ》を|見《み》やがつて……|此処《ここ》までやつて|来《き》て「アヽお|山《やま》はきついから……|神様《かみさま》は|何処《どこ》からも|同《おな》じことだ、ここで|勘《こら》へて|貰《もら》はう」と|平太《へた》つて|仕舞《しま》つたぢやないか、アハヽヽヽ。|昨晩《ゆうべ》のうちに|詣《まゐ》りよつた|夢《ゆめ》を|見《み》たのぢやな、|旅人《たびびと》、こんな|弱虫《よわむし》を|連《つ》れて|居《ゐ》ますと|閉口《へいこう》|致《いた》しますワイ、サアお|伴《とも》|致《いた》しませう』
|男《をとこ》『|御親切《ごしんせつ》は|有難《ありがた》いが、|私《わたくし》はお|空《そら》には|一寸《ちよつと》も|用《よう》はない、|私《わたくし》の|許嫁《いひなづけ》のお|玉《たま》と|云《い》ふものに|会《あ》ひさへすればよいのだ、|何《なん》だか|此処《ここ》へ|来《く》ると|足《あし》がピツタリ|止《と》まつて、お|玉《たま》|臭《くさ》い|匂《にほ》ひがして|来《き》た』
|三人《さんにん》は|徐々《そろそろ》|目《め》と|目《め》とを|見合《みあは》して|逃《に》げかけ|様《やう》とする。
|男《をとこ》『オイオイ、|三人《さんにん》の|奴《やつ》|共《ども》、|貴様《きさま》に|談判《だんぱん》がある、|一寸《ちよつと》|待《ま》て』
|寅若《とらわか》『ヘイ、なゝゝゝ|何《なん》と|仰《おつ》しやいます』
|男《をとこ》『|一寸《ちよつと》|待《ま》てと|云《い》うのだ』
|寅若《とらわか》『【ぢや】と|申《まを》して……|鬼《おに》と|申《まを》して……|寅《とら》と|申《まを》して……』
|男《をとこ》『アハヽヽヽ、|随分《ずゐぶん》よく|動《うご》くぢやないか、その|態《ざま》は|何《なん》ぢやい』
|寅若《とらわか》『ハイ………|地震《ぢしん》の|霊《れい》が|憑依《ひようい》しまして……いやもう|慄《ふる》つて|居《ゐ》ますワイ』
|男《をとこ》『|真《ほん》に|三人《さんにん》|共《とも》|慄《ふる》つてるな、まてまて|今一《いまひと》つ|退屈《たいくつ》|覚《ざま》しに|悪霊《あくれい》|注射《ちうしや》でもやつて|霊縛《れいばく》してやらう』
|菊若《きくわか》『めゝゝゝ|滅相《めつさう》な、もう|之《これ》で|沢山《たくさん》で|御座《ござ》います』
|男《をとこ》『ウン』
と|一声《ひとこゑ》、|霊縛《れいばく》を|施《ほどこ》した。|三人《さんにん》は|腰《こし》から|下《した》は|鞍掛《くらかけ》の|足《あし》の|様《やう》に|踏《ふ》ん|張《ば》つたまま|地《ち》から|生《は》えた|木《き》の|様《やう》にビクツとも|動《うご》かず、|腰《こし》から|上《うへ》は|貧乏《びんばふ》ぶるひをやり|乍《なが》ら|目《め》|許《ばか》りぎろつかせて|居《ゐ》る|可笑《おか》しさ。
|男《をとこ》『アーア、お|玉《たま》さまを|之《これ》から|助《たす》けて|上《あ》げねばなるまい』
と|傍《かたはら》の|灌木《くわんぼく》の|中《なか》に|倒《たふ》れて|居《ゐ》るお|玉《たま》の|綱《つな》を|解《と》き|猿轡《さるぐつわ》を|取《と》り|外《はづ》し、
|男《をとこ》『|旅《たび》のお|女中《ぢよちう》、|否《いや》お|玉《たま》さま、えらい|目《め》に|会《あ》ひましたね、サ、しつかりなさいませ、もう|大丈夫《だいぢやうぶ》ですよ、あの|通《とほ》り|霊縛《れいばく》を|施《ほどこ》して|置《お》きました』
お|玉《たま》はキヨロキヨロ|男《をとこ》の|顔《かほ》を|見廻《みまは》し、
お|玉《たま》『ヤア、|其《その》|方《はう》は|同類《どうるゐ》であらう、そんな|八百長《やほちやう》をしたつて|欺《だま》される|様《やう》なお|玉《たま》ではありませぬよ』
|男《をとこ》『これは|迷惑千万《めいわくせんばん》、|私《わたくし》は|丹州《たんしう》と|云《い》ふ|男《をとこ》、|豊彦《とよひこ》さまの|知己《ちき》ですよ』
お|玉《たま》は|男《をとこ》の|顔《かほ》を|熟視《じゆくし》し、
お|玉《たま》『ヤア|貴方《あなた》は|先日《せんじつ》お|越《こ》し|下《くだ》さいました|丹州《たんしう》さまで|御座《ござ》いますか、これはこれはよい|処《ところ》へ|来《き》て|下《くだ》さいました、サア|帰《かへ》りませう』
|丹州《たんしう》『マア、ゆつくり|成《な》さいませ、|足《あし》は|歩《ある》かねども|天《あめ》の|下《した》の|事《こと》|悉《ことごと》く|知《し》る|神《かみ》なりと|云《い》ふ|案山子彦《かがしひこ》|又《また》の|御名《みな》は|曽富斗《そふど》の|神《かみ》が|御三体《ごさんたい》|現《あら》はれました、アハヽヽヽ』
お|玉《たま》『ほんに、マア|見事《みごと》な|案山子彦《かがしひこ》の|神《かみ》さまですこと』
|丹州《たんしう》『|何《なん》でも|世界《せかい》の|事《こと》は|御存《ごぞん》じのお|方《かた》だから、|一《ひと》つ|伺《うかが》つて|見《み》ませうか』
お|玉《たま》『それは|面白《おもしろ》からう、いやいや|面白《おもしろ》いでせう』
|丹州《たんしう》『|神様《かみさま》に|伺《うかが》ふのに|面白《おもしろ》いなんて、……そんな|失敬《しつけい》な|事《こと》がありますか、ちつと|言霊《ことたま》をお|慎《つつし》みなさい』
お|玉《たま》『ホヽヽヽ、|屹度《きつと》|慎《つつし》みませう』
と|寅若《とらわか》の|前《まへ》に|徐々《しづしづ》と|現《あら》はれ、
お|玉《たま》『ハヽア、|此《この》|神様《かみさま》は|目《め》ばかり|剥《む》いて|居《ゐ》らつしやる、|何《なに》かお|供《そな》へしたいが|何《なに》もありませぬ、|丹州《たんしう》さま、|如何《どう》でせう、|大《おほ》きな|口《くち》を|開《あ》けて|居《ゐ》らつしやいますが………』
|丹州《たんしう》『お|土《つち》かお|石《いし》の|団子《だんご》でも|腹一杯《はらいつぱい》|捻込《ねぢこ》んであげたら|如何《どう》でせう、アハヽヽヽ』
お|玉《たま》『それは|経済《けいざい》で|宜《よろ》しいね、お|三方《さんかた》とも|勝負《かちまけ》のない|様《やう》にお|供《そな》へしませうか』
|丹州《たんしう》『ヤア|手《て》が|汚《よご》れますから|措《を》きませうかい、こらこら|六本足《ろつぽんあし》、|霊縛《れいばく》を|解《と》いてやる、|一時《いつとき》も|早《はや》く|立帰《たちかへ》り|此《この》|由《よし》を|高姫《たかひめ》、|黒姫《くろひめ》、|高山彦《たかやまひこ》の|御前《おんまへ》に|包《つつ》まず|隠《かく》さず|注進《ちうしん》|致《いた》して、|御褒美《ごほうび》に|預《あづか》つたが|宜《よ》からう』
『ウン』と|一声《ひとこゑ》|霊縛《れいばく》を|解《と》くや|否《いな》や|三人《さんにん》は|一生懸命《いつしやうけんめい》ガラガラガラと|坂道《さかみち》に|石礫《ばらす》を|打《ぶ》ちあけた|様《やう》に|転《ころ》んで|逃《に》げて|行《ゆ》く。
|丹州《たんしう》はお|玉《たま》と|共《とも》に|於与岐《およぎ》の|豊彦《とよひこ》の|家《いへ》に|黄昏《たそがれ》ごろ|帰《かへ》つて|来《き》た。|豊彦《とよひこ》|夫婦《ふうふ》はお|玉《たま》の|遭難《さうなん》の|顛末《てんまつ》より|丹州《たんしう》が|助《たす》けて|呉《く》れた|一条《いちでう》を|涙《なみだ》と|共《とも》に|聞《き》き|非常《ひじやう》に|感謝《かんしや》し、|丹州《たんしう》は|生命《いのち》の|親《おや》として|鄭重《ていちよう》に|待遇《もてな》され、それよりお|玉《たま》の|宅《うち》に|暫時《ざんじ》|同棲《どうせい》する|事《こと》となつた。されど|丹州《たんしう》とお|玉《たま》との|両人《りやうにん》の|仲《なか》は|一点《いつてん》の|怪《あや》しき|関係《くわんけい》も|無《な》く|極《きは》めて|純潔《じゆんけつ》であつた。
(大正一一・四・二八 旧四・二 北村隆光録)
第五篇 |五月五日祝《ごがついつかのいはひ》
第一四章 |蛸《たこ》の|揚壺《あげつぼ》〔六四二〕
|魔窟ケ原《まくつがはら》の|地下室《ちかしつ》に、ウラナイ|教《けう》の|双壁《そうへき》と|己《おのれ》も|許《ゆる》し|人《ひと》も|許《ゆる》した、|素人《しろうと》|離《ばな》れのした|黒姫《くろひめ》が、|高山彦《たかやまひこ》と|睦《むつま》じさうに|晩酌《ばんしやく》をグビリグビリとやつて|居《ゐ》る。
『コレ|高山《たかやま》さま、|時節《じせつ》は|待《ま》たねばならぬものだなア。お|前《まへ》と|偕老同穴《かいらうどうけつ》の|契《ちぎり》を|結《むす》び|乍《なが》ら、|枯木寒巌《こぼくかんがん》に|依《よ》つて、|三冬暖気《さんとうだんき》|無《な》しと|云《い》ふやうな、|没分暁漢《わからずや》の|部下《ぶか》の|宣伝使《せんでんし》や|信者《しんじや》の|動揺《どうえう》を|恐《おそ》れて|気兼《きが》ねをして、|貴方《あなた》をフサの|国《くに》の|本山《ほんざん》に、|私《わし》はこの|自転倒島《おのころじま》へ|渡《わた》つて、|神様《かみさま》の|為《ため》にお|道《みち》の|為《ため》に、|所在《あらゆる》|最善《さいぜん》の|努力《どりよく》を|尽《つく》し、|一生懸命《いつしやうけんめい》に|宣伝《せんでん》して|来《き》たが、|何《なに》を|云《い》つても|追《お》ひ|追《お》ひと|年《とし》は|寄《よ》る、|無常迅速《むじやうじんそく》の|感《かん》に|打《う》たれて、|何処《どこ》とも|無《な》く|心淋《うらさび》しく、どうぞ|晴《は》れて|夫婦《めをと》と|名乗《なの》つて|暮《くら》したいと|思《おも》つて|居《ゐ》たが、これ|迄《まで》|独身《どくしん》|主義《しゆぎ》を|高帳《かうちやう》して|来《き》た|手前《てまへ》、|今更《いまさら》|掌《てのひら》を|覆《かへ》したやうな|所作《しよさ》もならず、|本当《ほんたう》に|空《そら》|行《ゆ》く|雲《くも》を|眺《なが》めて|雁《かり》がねの|便《たよ》りもがなと、|明《あ》け|暮《く》れ|涙《なみだ》に|暮《く》れた|事《こと》は|幾度《いくたび》あつたでせう、|然《しか》し|乍《なが》ら|何程《なにほど》お|国《くに》の|為《ため》お|道《みち》の|為《ため》だといつても、|自分《じぶん》に|取《と》つて|一生《いつしやう》の|快楽《くわいらく》を|犠牲《ぎせい》にしてまで、|痩《や》せ|我慢《がまん》をはつて|居《を》つても、こいつは|駄目《だめ》だ。|初《はじ》めの|内《うち》は、|黒姫《くろひめ》は|偉《えら》いものだ、|言行一致《げんかういつち》だといつて|褒《ほ》めて|呉《く》れよつたが、|終《しま》ひには|神様《かみさま》の|御取次《おとりつ》ぎする|者《もの》は、|女《をんな》だつて|独身《どくしん》|生活《せいくわつ》するのは|当然《あたりまえ》だ。|何《なに》|感心《かんしん》する|事《こと》があるものか。あれや|大方《おほかた》、どつか|身体《からだ》の|一部《いちぶ》に|欠陥《けつかん》があるので、|負惜《まけをし》みを|出《だ》して|独身《どくしん》|生活《せいくわつ》をやつて|居《ゐ》るのだ……|何《なん》ぞと|云《い》ふ|者《もの》が|出来《でき》て|来《き》た。エヽ、アタ|阿呆《あはう》らしい。これだけ|辛抱《しんばう》して|居《を》つても|悪《わる》く|言《い》はれるのなら、|持《も》ちたい|夫《をつと》を|持《も》つて、|公然《こうぜん》とやつた|方《はう》が、|何程《なにほど》ましか|知《し》れないと、いよいよ|決行《けつかう》して|見《み》たが、|初《はじ》めの|内《うち》は|夏彦《なつひこ》、|常彦《つねひこ》をはじめ、|頑固連《ぐわんこれん》が|追々《おひおひ》|脱退《だつたい》し、|聊《いささ》か|面喰《めんくら》つたが、|案《あん》じるより|生《う》むが|易《やす》いといつて、|何時《いつ》の|間《ま》にやら、|私《わたし》と|貴方《あなた》の|結婚《けつこん》|問題《もんだい》も|信者《しんじや》の|話頭《わとう》に|上《のぼ》らなくなり、この|頃《ごろ》はソロソロと、|青彦《あをひこ》やお|節《せつ》、おまけに|紫姫《むらさきひめ》といふ|様《やう》な、|賢明《けんめい》な|淑女《しゆくぢよ》|迄《まで》が|帰順《きじゆん》したり、|入信《にふしん》したり、|実《じつ》に|結構《けつこう》な|機運《きうん》に|向《むか》つて|来《き》たものだ。これからは|高山《たかやま》さま、もう|一寸《ちよつと》も|遠慮《ゑんりよ》はいらないから、|私《わたし》ばかりに|命令《めいれい》をささずに、あなたは|天晴《あつぱ》れ|黒姫《くろひめ》の|夫《をつと》として、|権利《けんり》を|振《ふる》うて|下《くだ》さいねエ』
|高山彦《たかやまひこ》『アヽさうだなア、|待《ま》てば|海路《かいろ》の|風《かぜ》が|吹《ふ》くとやら、|時《とき》の|力《ちから》|位《くらゐ》、|結構《けつこう》なものの|恐《おそ》ろしいものは|無《な》いなア』
|黒姫《くろひめ》『|時《とき》に|寅若《とらわか》、|富彦《とみひこ》、|菊若《きくわか》の|三人《さんにん》は、ここを|出《で》てから|四五日《しごにち》にもなるに、まだ|帰《かへ》つて|来《こ》ない。|何《なに》か|道《みち》で|変《かは》つた|事《こと》でも|出来《でき》たのではあるまいか。|何《なん》だか|気《き》にかかつて|仕方《しかた》が|無《な》いワ』
|高山彦《たかやまひこ》『そう|心配《しんぱい》するものでも|無《な》い。|何事《なにごと》も|時節《じせつ》の|力《ちから》だ』
かく|言《い》ふ|折《をり》しも、ソツと|岩《いは》の|戸《と》を|開《あ》けて|辷《すべ》り|込《こ》んだ|三人《さんにん》の|男《をとこ》、
|黒姫《くろひめ》『アヽ、|噂《うはさ》をすれば|影《かげ》とやら、|寅若《とらわか》エロウ|遅《おそ》かつたぢやないか。|首尾《しゆび》はどうだつなナ』
|寅若《とらわか》『ハイ、|委細《ゐさい》の|様子《やうす》は|悠《ゆつ》くりと、|明日《あす》の|朝《あさ》でも|申上《まをしあ》げませう。ナア|菊若《きくわか》、|富彦《とみひこ》、エライ|目《め》に|遇《あ》うたぢやないか』
|黒姫《くろひめ》『お|前達《まへたち》は、あまり|遠《とほ》い|道《みち》でも|無《な》いのに、どうして|御座《ござ》つた。|今日《けふ》で|七日目《なぬかめ》ぢやないか。|何時《いつ》も|都合《つがふ》が|良《よ》い|時《とき》は、|大《おほ》きな|声《こゑ》で|門口《かどぐち》から|呶鳴《どな》つて|帰《かへ》つて|来《く》るが、|今日《けふ》はコソコソと|細《ほそ》うなつて|這入《はい》つて|来《き》たのは、|余《あま》り|結構《けつこう》な|話《はな》しぢや|有《あ》るまい、|明日《あす》の|朝《あさ》|申《まを》し|上《あ》げるとは、そら|何《なん》の|事《こと》だ。|此《この》|間《あひだ》から、|日日《ひにち》|毎日《まいにち》|指折《ゆびお》り|数《かぞ》へて|待《ま》つて|居《ゐ》たのだ。サア|早《はや》く|実地《じつち》の|事《こと》を、|包《つつ》まず|隠《かく》さず|云《い》ひなさいや』
|寅若《とらわか》、|頭《あたま》をガシガシ|掻《か》き|乍《なが》ら、|言《い》ひ|難《にく》さうに、
|寅若《とらわか》『あの、|何《なん》で|御座《ござ》います。それはそれは、|大変《たいへん》な|事《こと》で、|何《なん》とも|彼《か》とも、|注進《ちうしん》の|仕方《しかた》が|有《あ》りませぬワイ。|併《しか》し|乍《なが》ら、|物質的《ぶつしつてき》|獲物《えもの》は|一寸《ちよつと》|時期《じき》|尚早《しやうそう》で、|暫時《ざんじ》|機《き》の|熟《じゆく》するまで|保留《ほりう》して|置《お》きましたが、|霊的《れいてき》には|大変《たいへん》な|収獲《しうくわく》がありました』
|黒姫《くろひめ》『|又《また》しても|又《また》しても、|霊的《れいてき》の|収獲《しうくわく》と|仰有《おつしや》るが、それはお|前《まへ》の|慣用的《くわんようてき》|辞令《じれい》だ。もう|霊的《れいてき》の|収獲《しうくわく》には、この|黒姫《くろひめ》もウンザリしました。ハツキリと|成功《せいこう》だつたとか、|不成功《ふせいこう》だつたとか、|女王《ぢよわう》の|前《まへ》に|陳述《ちんじゆつ》するのだよ』
と|声《こゑ》を|尖《とが》らせ、|目《め》を|丸《まる》うして|睨《にら》みつける。
|三人《さんにん》は|縮《ちぢ》み|上《あが》り、
『イヤもう、|斯《こ》うなれば|委細《ゐさい》|残《のこ》らず|言上《ごんじやう》いたします。|紫雲《しうん》|棚引《たなび》く|東北《とうほく》の|天《てん》、|如何《いか》なる|神《かみ》の|出現《しゆつげん》したまふやと、|心《こころ》を|清《きよ》め|身《み》を|清《きよ》め、|途々《みちみち》|宣伝歌《せんでんか》を|唱《とな》へながら、|弥仙《みせん》の|山麓《さんろく》までやつて|行《い》つた。|時《とき》しもあれ、|噂《うはさ》に|高《たか》き|玉照姫《たまてるひめ》の|生母《せいぼ》お|玉《たま》の|方《かた》は、|吾々《われわれ》|三人《さんにん》の|威風《ゐふう》に|恐《おそ》れてか、|一生懸命《いつしやうけんめい》に|嬰児《あかご》を|背《せ》に、|弥仙山《みせんざん》に|向《むか》つて|雲《くも》を|起《おこ》し、|雨《あめ》を|呼《よ》び、|為《ため》に|地《ち》は|震《ふる》ひ|雷鳴《らいめい》|轟《とどろ》き、|山岳《さんがく》は|一度《いちど》に|崩《くづ》るる|許《ばか》りの|大音響《だいおんきやう》を|発《はつ》し、|面《おもて》を|向《む》く|可《べ》からざる|景色《けしき》となつて|来《き》た。|流石《さすが》の|寅若《とらわか》、|富彦《とみひこ》、|菊若《きくわか》の|三勇将《さんゆうしやう》も、|暫《しば》し|躊躇《ためら》ふ|折柄《をりから》に、|忽《たちま》ちあなたの|御霊《みたま》や、|高山彦《たかやまひこ》の|御霊《みたま》が、|吾々《われわれ》|三人《さんにん》に|憑依《ひようい》|遊《あそ》ばされ、|勇気《ゆうき》|百倍《ひやくばい》して|弥仙山《みせんざん》|目蒐《めが》けて|驀地《まつしぐら》にかけ|登《のぼ》り|行《ゆ》く。|時《とき》しもあれや、|山《やま》の|中腹《ちうふく》より、|現《あら》はれ|出《いで》たる|三五教《あななひけう》の|奴輩《やつばら》、|各自《てんで》に|柄物《えもの》を|携《たづさ》へ、|僅《わづ》か|三人《さんにん》の|吾々《われわれ》の|一隊《いつたい》に|向《むか》つて|攻《せ》めよせ|来《きた》るその|勢《いきほひ》の|凄《すさま》じさ、されども|黒姫《くろひめ》さま、|高山彦《たかやまひこ》|様《さま》の|御霊《みたま》の|憑《かか》つた|吾々《われわれ》|三人《さんにん》、|何条《なんでう》|怯《ひる》むべき。|群《むら》がる|敵《てき》に|向《むか》つて|電光石火《でんくわうせきくわ》、|突撃《とつげき》|攻撃《こうげき》、|言霊《ことたま》の|火花《ひばな》を|散《ち》らして|戦《たたか》うたり。さはさり|乍《なが》ら、|此方《こちら》は|形《かたち》|許《ばか》りの|九寸五分《くすんごぶ》、|只《ただ》|一本《いつぽん》あるのみ。|群《むら》がる|敵《てき》は|数百千万《すうひやくせんまん》の|同勢《どうぜい》、|全山《ぜんざん》|人《ひと》を|以《もつ》て|埋《うづ》まり、|如何《いか》に|防《ふせ》ぎ|戦《たたか》うとも、|遉《さすが》|黒姫《くろひめ》|様《さま》の|御神力《ごしんりき》も|是《こ》れには|敵《てき》し|兼《か》ねたりと|見《み》え、|吾々《われわれ》|三人《さんにん》の|肉体《にくたい》を|自由自在《じいうじざい》にお|使《つか》ひ|遊《あそ》ばされ、|血路《けつろ》を|開《ひら》いてターターターと、|滝水《たきみづ》の|落《お》ちるが|如《ごと》く、|一潟千里《いつしやせんり》の|勢《いきほひ》にて、こなたに|向《むか》つて|予定《よてい》の|退却《たいきやく》、|鬼神《おにがみ》も|欺《あざむ》くその|早業《はやわざ》、|勇《いさ》ましかりける|次第《しだい》なり』
|黒姫《くろひめ》『コレ、|富彦《とみひこ》、|寅若《とらわか》の|今《いま》|言《い》つた|通《とほ》り、|間違《まちがひ》は|無《な》からうなア』
|富彦《とみひこ》『ヘーヘー、|間違《まちが》つて|堪《たま》りますものか。あなたは|常《つね》に|吾々《われわれ》の|身《み》の|上《うへ》に、|仁慈《じんじ》のお|心《こころ》をお|注《そそ》ぎ|下《くだ》さいまする、|其《その》|一念《いちねん》が|幸《さち》はひ|給《たま》ひて、|御分霊《ごぶんれい》|忽《たちま》ち|降下《かうか》し|給《たま》ひ、さしもの|強敵《きやうてき》に|向《むか》つて、|獅々奮迅《ししふんじん》の|応戦《おうせん》をやつたのも、|全《まつた》くあなた|様《さま》|御両人《ごりやうにん》の|神徳《しんとく》の|然《しか》らしむる|処《ところ》、|万々一《まんまんいち》お|両方《ふたかた》の|御霊《みたま》の|御守護《ごしゆご》|無《な》き|時《とき》は、|如何《いか》に|吾々《われわれ》|勇《ゆう》なりと|雖《いへど》も、|忽《たちま》ち|木端微塵《こつぱみぢん》に|粉砕《ふんさい》されしは|勿論《もちろん》のこと、|然《しか》るに|僅《わづか》|三人《さんにん》を|以《もつ》て、かく|迄《まで》よく|奮闘《ふんとう》し、|敵《てき》の|胆《きも》を|寒《さむ》からしめたるは、|形体上《けいたいじやう》に|於《おい》ては|兎《と》も|角《かく》も、|精神上《せいしんじやう》に|於《おい》て、|敵《てき》を|威嚇《ゐくわく》せしこと、|幾何《いくばく》なるか|計《ばか》り|知《し》られませぬ。マアマア|御喜《およろこ》び|下《くだ》さいませ』
|黒姫《くろひめ》『それは|先《ま》づ|結構《けつこう》であつた。|併《しか》し、お|玉《たま》に|玉照姫《たまてるひめ》は|何《ど》うなつたのか』
|富彦《とみひこ》『オイ|菊若《きくわか》、これからは|貴様《きさま》の|番《ばん》だ。|確《しつか》りと|申《まを》し|上《あ》げるのだぞ』
|菊若《きくわか》『ハイハイ、|申上《まをしあ》げます。いやもう|何《なん》のかのと|云《い》うた|処《ところ》で、|向《むか》うはたつた|女《をんな》の|一人《ひとり》』
|黒姫《くろひめ》『ナニ、|女《をんな》|一人《ひとり》』
|菊若《きくわか》『|女《をんな》|一人《ひとり》と|思《おも》ひきや、|四辺《あたり》の|物蔭《ものかげ》より|来《く》るワ|来《く》るワ、|恰《あたか》も|蟻《あり》の|宿替《やどが》への|如《ごと》く、ゾロゾロゾロと|此方《こなた》へ|向《むか》つて|馳《は》せ|来《きた》る。|三人《さんにん》は|丹州《たんしう》の|霊縛《れいばく》にかけられ、|身体《しんたい》|忽《たちま》ち|強直《きやうちよく》し』
|黒姫《くろひめ》『|何《なに》、お|前達《まへたち》|三人《さんにん》が』
|菊若《きくわか》『イエイエ、|滅相《めつさう》な、|丹州《たんしう》と|云《い》ふ|奴《やつ》、|吾々《われわれ》|三人《さんにん》を|目蒐《めが》けて、|霊縛《れいばく》を|加《くは》へ|強直《きやうちよく》させようとかかつた|処《ところ》、|流石《さすが》|黒姫《くろひめ》|様《さま》、|高山彦《たかやまひこ》|様《さま》の|御威霊《ごゐれい》|憑《かか》らせ|給《たま》ふ|吾々《われわれ》|三人《さんにん》を|如何《いかん》ともするに|由《よし》なく、|敵《てき》は|一生懸命《いつしやうけんめい》|死力《しりよく》を|尽《つく》して|押《お》しよせ|来《きた》る。|吾々《われわれ》|三人《さんにん》は、アヽ|面白《おもしろ》い|面白《おもしろ》いと、|勇気《ゆうき》|百倍《ひやくばい》して、|挑《いど》み|戦《たたか》はむとする|折《をり》しも、|吾々《われわれ》|三人《さんにん》に|憑《かか》り|給《たま》うた|御魂《みたま》の|命令《めいれい》、|汝《なんぢ》は|一先《ひとま》づ|引返《ひきかへ》し、|時機《じき》を|待《ま》つて|捲土重来《けんどぢうらい》の|準備《じゆんび》をなすが|得策《とくさく》なりと、|流石《さすが》|神謀《しんぼう》|鬼略《きりやく》に|富《と》ませ|給《たま》う|黒姫《くろひめ》|様《さま》、|高山彦《たかやまひこ》|様《さま》の|御霊《おんみたま》の|命令《めいれい》もだし|難《がた》く、みすみす|敵《てき》を|見捨《みす》て|一目散《いちもくさん》に|立帰《たちかへ》つて|候《さふらふ》』
と|言《い》ひをはつて|冷汗《ひやあせ》を|拭《ぬぐ》く。
|黒姫《くろひめ》『コレコレ、|私《わたし》が|馬鹿《ばか》になつて|聞《き》いて|居《を》ればお|前《まへ》、それや|何《なん》という|法螺《ほら》を|吹《ふ》くのだい。みな|嘘《うそ》だらう。|一人《ひとり》か|二人《ふたり》の|木端武者《こつぱむしや》に|怖《おそ》れて|一目散《いちもくさん》に|逃《に》げ|帰《かへ》つたのだらう。そんなお|前《まへ》さん|達《たち》の|下司身魂《げすみたま》に|私《わし》の|霊魂《みたま》が|憑《うつ》つて|堪《たま》るものか。|馬鹿《ばか》にしなさるな』
|寅若《とらわか》『そんなら、あなたの|名《な》を|騙《かた》つて、|四足《よつあし》か|何《なん》かが|憑《つ》いたのでせうか』
|富彦《とみひこ》『そうかも|知《し》れぬよ。|豊彦《とよひこ》の|爺《ぢぢ》が|言《い》つて|居《ゐ》ただ|無《な》いか』
|黒姫《くろひめ》『それ|見《み》なさい。お|前《まへ》らは|豊彦《とよひこ》の|家《うち》へ|行《い》つて|尻《けつ》を|喰《く》はされて、|謝罪《あやま》つて|逃《に》げて|帰《かへ》つたのだらう。エヽ|仕方《しかた》のない|男《をとこ》だ。はるばる|高山《たかやま》さまがフサの|国《くに》から、|選《よ》りに|選《よ》つて|連《つ》れて|御座《ござ》つたお|前《まへ》は|大将株《たいしやうかぶ》ぢやないか。そらまた|何《なん》とした|腰抜《こしぬ》けだ』
|寅若《とらわか》『|何《なに》を|云《い》つてもフサの|国《くに》なれば、|地理《ちり》をよく|存《ぞん》じて|居《を》りますが、この|自転倒島《おのころじま》は|地理《ちり》|不案内《ふあんない》で、|思《おも》うやうに|戦闘《せんとう》も|出来《でき》ず、さうして|陽気《やうき》が|眠《ねむ》たいですから、|思《おも》うやうな|活動《くわつどう》も、|実際《じつさい》の|事《こと》は|出来《でき》なかつたのです。|併《しか》し|一遍《いつぺん》|失敗《しつぱい》したつて、さう|気《き》なげをしたものぢやありませぬ。|失敗《しつぱい》|毎《ごと》に|経験《けいけん》を|重《かさ》ね、|遂《つひ》には|成功《せいこう》するものですから、マア|今度《こんど》の|失敗《しつぱい》は|結局《けつきよく》|成功《せいこう》の|門口《かどぐち》ですなア』
|黒姫《くろひめ》『エヽ、おきなされ。|敗軍《はいぐん》の|将《しやう》は|兵《へい》を|語《かた》らずという|事《こと》が|有《あ》るぢやないか。|余《あま》り|大《おほ》きな|声《こゑ》で|減《へ》らず|口《ぐち》を|叩《たた》くものぢや|無《な》い。|奥《おく》へ|這入《はい》つて|麦飯《むぎめし》なと、ドツサリ|食《く》つて|休《やす》みなさい。|折角《せつかく》|機嫌《きげん》よう|飲《の》んで|居《を》つた|酒《さけ》までさめて|了《しま》つた。エヽ|早《はや》く|寝《ね》なさらぬか』
と|長煙管《ながぎせる》が|折《お》れる|程《ほど》|火鉢《ひばち》を|叩《たた》く。|三人《さんにん》は|頭《あたま》を|抱《かか》へ、こそこそと|奥《おく》に|影《かげ》を|隠《かく》した。
|黒姫《くろひめ》『|高山《たかやま》さま、もうお|休《やす》みなさいませ。|私《わたし》は|一寸《ちよつと》|綾彦《あやひこ》に|詮議《せんぎ》をしたい|事《こと》がありますからお|前《まへ》が|側《そば》に|居《を》られると、ツイ|臆《を》めてよう|言《い》はないと|困《こま》るから、|私《わたし》は|女《をんな》の|事《こと》であり、やあはりと|尋《たづ》ねて|見《み》ますから、|早《はや》く|寝《やす》んで|下《くだ》さい』
|高山彦《たかやまひこ》『ハイハイ、お|邪魔《じやま》になりませう。さやうなればお|先《さ》き|御免《ごめん》を|蒙《かうむ》りませう』
|黒姫《くろひめ》『|記憶《おぼ》えて|居《ゐ》らつしやい。|貴方《あなた》こそお|邪魔《じやま》になりませう。|紫姫《むらさきひめ》のお|側《そば》へでも|往《い》つて、ゆつくりと|夜明《よあ》かしをなさいませ』
と、ツンとした|顔《かほ》をする。
|高山彦《たかやまひこ》『ハヽヽヽ、|形勢《けいせい》|頗《すこぶ》る|不隠《ふおん》と|成《な》つて|来《き》た。どれどれ|雷《かみなり》の|落《お》ちぬ|間《うち》に|退却《たいきやく》しよう、アヽ|桑原《くはばら》|桑原《くはばら》』
と|捨台詞《すてぜりふ》を|残《のこ》し、ノソリノソリと|奥《おく》へ|行《ゆ》く。
|黒姫《くろひめ》『|高山《たかやま》さまはあゝ|見《み》えても、やつぱり|可愛相《かはいさう》な|程《ほど》|正直《しやうぢき》な|人《ひと》だ。|何処《どこ》ともなしに、|身魂《みたま》にいいとこが|有《あ》るワイ』
と|肩《かた》を|揺《ゆす》り、|又《また》もや|長煙管《ながぎせる》に|煙草《たばこ》をつぎ|乍《なが》ら、
『|綾彦《あやひこ》|綾彦《あやひこ》』
と|呼《よ》ぶ|声《こゑ》に|綾彦《あやひこ》はこの|場《ば》に|現《あらは》れ、|両手《りやうて》をつき、
『|今《いま》お|呼《よ》びになりましたのは|私《わたくし》で|御座《ござ》いましたか』
|黒姫《くろひめ》『アヽ|左様《さやう》ぢや|左様《さやう》ぢや、お|前《まへ》に|折入《をりい》つて|尋《たづ》ねたいと|此《この》|間《あひだ》から|思《おも》うて|居《ゐ》たのぢやが、ここへ|来《き》てから|大分《だいぶ》になりますが、|一体《いつたい》お|前《まへ》のお|国許《くにもと》は|何処《どこ》ぢやな、|色々《いろいろ》と|誰《たれ》に|尋《たづ》ねさしても|言《い》ひなさらぬが、|大方《おほかた》|何処《どこ》かで|悪《わる》い|事《こと》をして|逃《に》げて|来《き》たのだらう。それを|体《てい》よう|真名井《まなゐ》さまへ|詣《まゐ》つたなぞと、|誤魔化《ごまくわ》しとるのだらう』
|綾彦《あやひこ》『イエイエ|滅相《めつさう》もない、|生《うま》れてから|悪《わる》い|事《こと》は、|塵《ちり》|程《ほど》もやつた|覚《おぼ》えは|有《あ》りませぬ』
|黒姫《くろひめ》『そんならお|前《まへ》の|処《ところ》は|何処《どこ》ぢや。|虱《しらみ》でさへも|生《うま》れ|所《どこ》は|有《あ》るのに、|滅多《めつた》に|天《てん》から|降《ふ》つたのでもあるまい。|地《ち》の|底《そこ》から|湧《わ》いて|出《で》たのでも|有《あ》るまい。お|父《とう》さまや、お|母《かあ》さまが|有《あ》るだらう。|処《ところ》と|親《おや》の|名《な》と|聞《き》かして|下《くだ》さい』
|綾彦《あやひこ》『これ|許《ばか》りはどうぞ|赦《ゆる》して|下《くだ》さいませ』
|黒姫《くろひめ》『それ|見《み》たかな。|矢張《やつぱり》|怪《あや》しい|人《ひと》ぢや。|私《わし》は|何処《どこ》までも、|言《い》うて|悪《わる》い|事《こと》は|秘密《ひみつ》を|守《まも》る、|私《わし》|丈《だけ》に|言《い》ひなさらぬかいな』
|綾彦《あやひこ》『|貴方《あなた》|様《さま》はいつも|仰有《おつしや》る|通《とほ》り、|世界中《せかいぢう》|隅《すみ》から|隅《すみ》まで|見《み》え|透《す》く、|竜宮《りうぐう》の|乙姫《おとひめ》の|生宮《いきみや》ぢやありませぬか。そんな|事《こと》お|尋《たづ》ねなさらないでも、|遠《とほ》の|昔《むかし》に|何《なに》も|彼《か》も|御存《ごぞん》じの|筈《はず》、|煽動《おだて》て|下《くだ》さいますな』
|黒姫《くろひめ》『ソラさうぢや。|霊《れい》の|方《はう》ではお|前《まへ》の|身魂《みたま》は|何《なん》の|身魂《みたま》ぢや、|昔《むかし》の|根本《こつぽん》は|何《ど》んな|事《こと》をして|居《を》つた。また|行《ゆ》く|先《さき》は|何《ど》う|成《な》ると|云《い》ふ|事《こと》は、|能《よ》く|分《わか》つて|居《を》るが、|肉体上《にくたいじやう》の|事《こと》は|畑《はたけ》が|違《ちが》うから、|聞《き》いた|方《はう》が|便利《べんり》がよい。こんな|事《こと》を|神《かみ》さまに|勿体《もつたい》なうて、|御苦労《ごくらう》かけずともお|前《まへ》に|聞《き》いた|方《はう》が|早《はや》いぢやないか。|又《また》お|前《まへ》も、これ|丈《だけ》|長《なが》らく|世話《せわ》に|成《な》つて|居《ゐ》ながら、|何故《なぜ》|生《うま》れた|処《ところ》を|言《い》はれぬのか』
と|言葉《ことば》に|角《かど》を|立《た》て、|長煙管《ながぎせる》で|畳《たたみ》を|二《ふた》つ|三《み》つ|叩《たた》いた。
|綾彦《あやひこ》『|何《なん》と|仰有《おつしや》つても、これ|丈《だけ》は|申上《まをしあ》げられませぬ。どうぞあなた、|天眼通《てんがんつう》でお|調《しら》べ|下《くだ》さいませ、|私《わたくし》の|口《くち》が|一旦《いつたん》いかなる|事《こと》があつても|国処《くにところ》、|親《おや》の|名《な》は|言《い》うで|無《な》いと、|両親《りやうしん》にいましめられ、|決《けつ》して|生命《いのち》にかかる|様《やう》な|事《こと》が|有《あ》つても|申《まを》しませぬと|約束《やくそく》をして|出《で》た|以上《いじやう》は、|何処迄《どこまで》も|申上《まをしあ》げる|事《こと》は|出来《でき》ませぬ』
|黒姫《くろひめ》『ハヽヽヽ、お|前《まへ》は|親《おや》に|孝行《かうかう》な|人《ひと》ぢや。|親《おや》の|言葉《ことば》をよく|守《まも》つて、どうしてもいけぬと|仰有《おつしや》るのは、|実《じつ》に|感心《かんしん》ぢや。|人間《にんげん》はさう|無《な》くては|成《な》らぬ。|併《しか》し|乍《なが》ら、お|前《まへ》はモ|一《ひと》つ|大事《だいじ》の|親《おや》を|知《し》つて|居《ゐ》ますか。|大方《おほかた》|忘《わす》れたのだらう』
|綾彦《あやひこ》『|私《わたくし》は|親《おや》と|云《い》つたら、お|父《とう》さまと、お|母《かあ》さまと|二人《ふたり》より|御座《ござ》いませぬ。|其《その》|上《うへ》にま|一《ひと》つ|大事《だいじ》の|親《おや》とは、それや|何《なん》の|事《こと》で|御座《ござ》いますか』
|黒姫《くろひめ》『アーアー、お|前《まへ》も|見《み》た|割《わり》とは|愚鈍《ぐどん》な|人《ひと》ぢやな。あれ|程《ほど》|毎日《まいにち》|日日《ひにち》、|竜宮《りうぐう》の|乙姫《おとひめ》さまのお|筆先《ふでさき》を|読《よ》んで|居《を》つて、まだ|判《わか》らぬのかいなア。|自分《じぶん》の|肉体《にくたい》を|生《う》んで|呉《く》れた|親《おや》は|仮《かり》の|親《おや》ぢやぞい。|吾々《われわれ》の|霊魂《みたま》、|肉体《にくたい》の|根本《こつぽん》をお|授《さづ》け|下《くだ》さつた、|天地《てんち》の|誠《まこと》の|親《おや》が|有《あ》る|事《こと》を、お|前《まへ》|聞《き》いて|居《を》るぢや|無《な》いか』
|綾彦《あやひこ》『ハイ、それはお|筆先《ふでさき》でお|蔭《かげ》をいただいて|居《を》ります』
|黒姫《くろひめ》『お|前《まへ》は、|誠《まこと》の|親《おや》が|大切《だいじ》か、|肉体《にくたい》の|親《おや》が|大切《たいせつ》か、どちらが|大切《たいせつ》か|考《かんが》へてみなされ』
|綾彦《あやひこ》『それは|何方《どちら》も|大切《たいせつ》で|御座《ござ》います』
|黒姫《くろひめ》『|何方《どちら》も|大切《たいせつ》な|事《こと》は|決《きま》つてゐるが、|併《しか》し|其《その》|中《なか》でも、|重《おも》い|軽《かる》いが|有《あ》るだらう。|僅《わづ》か|百年《ひやくねん》や|二百年《にひやくねん》の|肉体《にくたい》を|生《う》んで|呉《く》れた|親《おや》が|大切《だいじ》か、|幾億万年《いくおくまんねん》と|知《し》れぬ|身魂《みたま》の|生命《いのち》を|与《あた》へて|万劫末代《まんごふまつだい》|守《まも》つて|下《くだ》さる、|慈悲《じひ》|深《ぶか》い|神様《かみさま》が|大切《だいじ》か、それが|聞《き》きたい』
|綾彦《あやひこ》『ハイ………』
|黒姫《くろひめ》『|天地《てんち》の|根本《こつぽん》の|神様《かみさま》の|生宮《いきみや》の|私《わし》は、つまり|大神様《おほかみさま》の|代《かは》りぢや。|何故《なぜ》|親《おや》の|云《い》ふ|事《こと》を|聞《き》いて|私《わし》の|云《い》ふ|事《こと》が|聞《き》けぬのかい。|一寸《ちよつと》|信心《しんじん》の|仕方《しかた》が|間違《まちが》うて|居《ゐ》やせぬか』
かかる|処《ところ》へ|紫姫《むらさきひめ》|現《あら》はれ|来《きた》り、
|紫姫《むらさきひめ》『|今《いま》|承《うけたま》はりますれば、|大変《たいへん》に|綾彦《あやひこ》さまに、|何《なに》かお|尋《たづ》ねのやうですが、|何《ど》うぞ|私《わたくし》に|任《まか》して|下《くだ》さいませ。|私《わたくし》が|機《をり》を|見《み》て、|綾彦《あやひこ》さまに|篤《とつく》りと|尋《たづ》ねまして、お|返事《へんじ》を|致《いた》します』
|黒姫《くろひめ》『さよかさよか、どうぞ|貴女《あなた》、やあはりと|問《と》うて|見《み》て|下《くだ》さい。|何分《なにぶん》|婆《ばば》の|言《い》ふことは、|気《き》に|入《い》らぬと|見《み》えますワイ、|綺麗《きれい》な|貴女《あなた》のお|尋《たづ》ねなら、|綾彦《あやひこ》も|惜気《をしげ》なく|言《い》ひませう』
|紫姫《むらさきひめ》『ホヽヽヽ、サア、|綾彦《あやひこ》さま、もうお|寝《やす》みなさいませ。|黒姫《くろひめ》さま、|夜《よ》も|更《ふ》けました、|何卒《どうぞ》|御休息《ごきうそく》を』
|黒姫《くろひめ》『ハイハイ、|早《はや》く|寝《ね》て|下《くだ》さい』
|紫姫《むらさきひめ》『さやうなら』
|紫姫《むらさきひめ》は|綾彦《あやひこ》の|手《て》を|引《ひ》き、|廊下《らうか》|伝《づた》ひに|奥《おく》に|入《い》る。
|黒姫《くろひめ》は|又《また》もや|疳声《かんごゑ》を|出《だ》して、
『|青彦《あをひこ》|青彦《あをひこ》』
と|呼《よ》び|立《た》ててゐる。
|青彦《あをひこ》は|周章《あわ》てて|此《こ》の|場《ば》に|走《はし》り|来《きた》り、
『ハイ、|何《なん》の|御用《ごよう》で|御座《ござ》いましたか』
|黒姫《くろひめ》『|青彦《あをひこ》、お|前《まへ》もお|節《せつ》を|高城山《たかしろやま》へやつて、さぞ|淋《さび》しからう。|心《こころ》の|裡《うち》は|私《わたし》もよく|察《さつ》して|居《ゐ》る。|本当《ほんたう》にお|気《き》の|毒《どく》ぢや。|同情《どうじやう》の|涙《なみだ》は、いつも|外《そと》へ|零《こぼ》さずに、|内《うち》へ|流《なが》して|居《を》る』
と|追従《つゐしやう》らしく|言《い》ふ。
|青彦《あをひこ》『|何御用《なにごよう》かと|思《おも》へば、そんな|事《こと》で|御座《ござ》いますか。イヤそんな|事《こと》なら、|御心配《ごしんぱい》|下《くだ》さいますな、|却《かへつ》て|私《わたし》は|気楽《きらく》で|宜《よろ》しう|御座《ござ》います』
|黒姫《くろひめ》『お|前《まへ》に|折入《をりい》つて|尋《たづ》ねたい|事《こと》がある。|外《ほか》でも|無《な》いが、あの|綾彦《あやひこ》と|云《い》ふ|男《をとこ》は、|弥仙山《みせんざん》の|麓《ふもと》の、|於与岐《およぎ》の|村《むら》の|豊彦《とよひこ》と|云《い》ふ|男《をとこ》の|息子《むすこ》ぢやないか』
|青彦《あをひこ》『あなた、それが|何《ど》うして|分《わか》りましたか』
|黒姫《くろひめ》はしたり|顔《がほ》にて、
|黒姫《くろひめ》『そんな|事《こと》が|判《わか》らないで、|竜宮《りうぐう》の|乙姫《おとひめ》さまの|生宮《いきみや》ぢやと|言《い》はれますかいな。|蛇《じや》の|道《みち》は|矢張《やつぱり》|蛇《へび》だ。|間違《まちが》ひは|有《あ》らうまいがな』
|青彦《あをひこ》『ヤア、あなたの|御明察《ごめいさつ》には|恐縮《きようしゆく》|致《いた》しました。それに|間違《まちが》ひは|有《あ》りますまい』
|黒姫《くろひめ》『さうだらう さうだらう、|流石《さすが》はお|前《まへ》はよう|改心《かいしん》が|出来《でき》て|居《ゐ》る。|正直《しやうぢき》な|男《をとこ》だ。|時《とき》にお|前《まへ》に|折入《をりい》つて|相談《さうだん》があるが、|乗《の》つて|下《くだ》さるまいかな』
|青彦《あをひこ》『これは|又《また》、|改《あらた》まつての|御言葉《おことば》、|何《なん》なりと|御遠慮《ごゑんりよ》なく|仰有《おつしや》つて|下《くだ》さいませ』
|黒姫《くろひめ》『ヤア、|有難《ありがた》い|有難《ありがた》い。お|前《まへ》も|噂《うはさ》に|聞《き》いて|居《を》る|通《とほ》り|於与岐《およぎ》の|里《さと》に、お|玉《たま》といふ|綺麗《きれい》な|娘《むすめ》が|有《あ》つて|玉照姫《たまてるひめ》とかいふ、|不思議《ふしぎ》な|子《こ》が|出来《でき》たといふ|事《こと》ぢや。それは|何《ど》うしても|斯《こ》うしても、ウラナイ|教《けう》へ|引《ひ》き|入《い》れねば、|神界《しんかい》のお|仕組《しぐみ》が|成就《じやうじゆ》しないから、|此《こ》の|間《あひだ》も、|寅若《とらわか》や、|富彦《とみひこ》、|菊若《きくわか》の|三人《さんにん》を|遣《つか》はして|交渉《かうせふ》に|遣《や》つたが、|何《ど》うやら|失敗《しつぱい》して|帰《かへ》つたらしい、|併《しか》し|乍《なが》ら、よう|考《かんが》へて|見《み》れば、|向《むか》うの|老爺《おやぢ》が|孫《まご》を|呉《く》れんのも、|一《ひと》つの|理由《りいう》がある。|何故《なぜ》といつたら、あの|綾彦《あやひこ》|夫婦《ふうふ》は|行衛《ゆくゑ》|不明《ふめい》となり、|只《ただ》|一人《ひとり》の|娘《むすめ》お|玉《たま》とやらが、|年寄《としより》の|世話《せわ》をして|居《を》るさうだ。そのお|玉《たま》に、|男《をとこ》も|無《な》いのに|子《こ》が|胎《やど》り、|其《その》|子《こ》が|又《また》|妙《めう》な|神力《しんりき》を|持《も》つて|居《を》るので、エライ|評判《へうばん》ぢやげな。そこで|其《その》|子《こ》を|貰《もら》うには、|綾彦《あやひこ》|夫婦《ふうふ》を|元《もと》へ|還《かへ》してやらねば|成《な》るまい。|若《も》しも|三五教《あななひけう》の|連中《れんちう》が、|綾彦《あやひこ》とお|民《たみ》が、|爺《ぢい》さまの|子《こ》ぢやと|云《い》ふ|事《こと》を|探知《さとら》うものなら、|何《ど》んな|手段《しゆだん》を|運《めぐ》らしてでも、|引張《ひつぱ》り|込《こ》んで|交換《かうくわん》に|玉照姫《たまてるひめ》を|貰《もら》つて|了《しま》ふに|違《ちが》ひ|無《な》い。さうなれば、|此方《こつち》は|薩張《さつぱり》、|蛸《たこ》の|揚壺《あげつぼ》を|喰《く》つた|様《やう》な|羽目《はめ》に|成《な》らねばならぬ。どうぢや、|青彦《あをひこ》、|何《なん》とかお|前《まへ》の|智慧《ちゑ》で、|玉照姫《たまてるひめ》を|此方《こつち》の|者《もの》にする|工夫《くふう》は|有《あ》るまいかな』
|青彦《あをひこ》『それは|重大事件《ぢうだいじけん》ですなア。よくよく|考《かんが》へませう。どうぞ|此処《ここ》|限《かぎ》り|他《た》に|漏《も》れないやうに、|絶対《ぜつたい》|秘密《ひみつ》を|守《まも》つて|下《くだ》さいませ』
|黒姫《くろひめ》『よしよし、お|前《まへ》と|私《わし》と|二人《ふたり》|限《き》りだ。|高山彦《たかやまひこ》さまにだつて、|此《こ》の|事《こと》|成就《じやうじゆ》する|迄《まで》は、|言《い》はぬと|言《い》つたら|言《い》はないから、|安心《あんしん》して|下《くだ》さい』
|青彦《あをひこ》『|左様《さやう》ならば|充分《じゆうぶん》|熟考《じゆくかう》した|上《うへ》、|又《また》コツソリと|御相談《ごさうだん》|致《いた》しませう。|今晩《こんばん》はこれでお|寝《やす》みなされませ』
|青彦《あをひこ》は|一間《ひとま》に|姿《すがた》を|隠《かく》した。|後《あと》に|黒姫《くろひめ》はニタリと|笑《わら》ひ、
『アーアー、|何《なん》と|言《い》つても|青彦《あをひこ》だ。|今《いま》ウラナイ|教《けう》で|誰《たれ》がエライと|言《い》つても、|彼《かれ》に|越《こ》した|奴《やつ》は|有《あ》りはしない、|三五教《あななひけう》が|欲《ほ》しがつた|筈《はづ》だ。|持《も》つ|可《べ》きものは|家来《けらい》なりけりだ、アヽどれどれ、|高山《たかやま》さまが|淋《さび》しがつて|御座《ござ》るであらう、|一寸《ちよつと》|話相手《はなしあひて》になつて|上《あ》げませう』
と、|独言《ひとりご》ちつつ|一間《ひとま》に|入《い》る。
(大正一一・四・二八 旧四・二 東尾吉雄録)
(昭和一〇・六・二 王仁校正)
第一五章 |遠来《ゑんらい》の|客《きやく》〔六四三〕
|米価《べいか》の|騰貴《あが》る|糠雨《ぬかあめ》が、|赤《あか》い|蛇腹《じやばら》を|空《そら》に|見《み》せて|居《ゐ》る。|八岐大蛇《やまたをろち》に|憑依《ひようい》されしウラナイ|教《けう》の|頭株《あたまかぶ》、|鼻高々《はなたかだか》と|高姫《たかひめ》が、|天空《てんくう》|高《たか》く|天《あま》の|磐船《いはぶね》|轟《とどろ》かしつつフサの|国《くに》をば|後《あと》にして、|大海原《おほうなばら》を|乗越《のりこ》えて、|由良《ゆら》の|港《みなと》に|着陸《ちやくりく》し、|二人《ふたり》の|伴《とも》を|引《ひ》き|連《つ》れて、|大江《おほえ》の|山《やま》の|程《ほど》|近《ちか》き、|魔窟ケ原《まくつがはら》に|黒姫《くろひめ》が、|教《をしへ》の|射場《いば》を|立《た》てて|居《ゐ》る、|要心《えうじん》|堅固《けんご》の|岩窟《がんくつ》に|勢《いきほひ》|込《こ》んでかけ|来《きた》る。
|梅公《うめこう》は|目敏《めざと》く|高姫《たかひめ》の|姿《すがた》を|見《み》て、|叮嚀《ていねい》に|会釈《ゑしやく》しながら、
『ヤア、これはこれは|高姫《たかひめ》|様《さま》、お|達者《たつしや》でしたか、|遠方《ゑんぱう》の|所《ところ》ようこそ|御飛来《ごひらい》|下《くだ》さいました。|黒姫《くろひめ》|様《さま》がお|喜《よろこ》びで|御座《ござ》いませう、サアずつと|奥《おく》へお|通《とほ》り|下《くだ》さいませ』
|高姫《たかひめ》は|四辺《あたり》きよろきよろ|見廻《みまは》しながら、
|高姫《たかひめ》『|嗚呼《ああ》|大変《たいへん》に|其辺《そこら》あたりが|変《かは》りましたね、これと|云《い》うのもお|前《まへ》さま|達《たち》の|日頃《ひごろ》の|丹精《たんせい》が|現《あら》はれて、|何処《どこ》も|彼《か》もよく|掃除《さうぢ》が|行届《ゆきとど》き、|清潔《きれい》な|事《こと》』
|梅公《うめこう》『エヽ、|滅相《めつさう》な、さう|褒《ほ》めて|頂《いただ》いては|実《じつ》に|汗顔《かんがん》の|至《いた》りで|御座《ござ》います、サア|奥《おく》へ|御案内《ごあんない》|致《いた》しませう』
|高姫《たかひめ》『|黒姫《くろひめ》さまは|在宅《ざいたく》ですかな』
|梅公《うめこう》『ハイ|高山《たかやま》さまも、|御両人《ごりやうにん》とも|朝《あさ》から|晩《ばん》|迄《まで》それはそれは|羨《うらや》ましい|程《ほど》お|睦《むつ》まじうお|暮《くら》しで|御座《ござ》います』
|斯《かか》る|処《ところ》へ|黒姫《くろひめ》はヌツと|現《あら》はれ、
『マア|高姫《たかひめ》|様《さま》、ようこそお|出《いで》|下《くだ》さいました。|何卒《どうぞ》|悠《ゆつ》くりお|休《やす》み|下《くだ》さいませ』
|高姫《たかひめ》『|黒姫《くろひめ》さま、|久《ひさ》し|振《ぶ》りでしたねえ、|高山彦《たかやまひこ》さまも|御機嫌《ごきげん》|宜敷《よろし》いさうでお|目出度《めでた》う|御座《ござ》います』
|黒姫《くろひめ》『ハイ、|有難《ありがた》う|御座《ござ》います、|頑固《ぐわんこ》なお|方《かた》で|困《こま》つて|居《を》ります』
|高姫《たかひめ》『ヤア、|人間《にんげん》は|頑固《ぐわんこ》でなければいけませぬ、|兎角《とかく》|正直者《しやうぢきもの》は|頑固《ぐわんこ》なものですよ、|変性男子式《へんじやうなんししき》の|身霊《みたま》でなくては|到底《たうてい》|神業《しんげふ》は|成就《じやうじゆ》|致《いた》しませぬからな。|時《とき》に|黒姫《くろひめ》さま、|貴女《あなた》は|日々《にちにち》この|自転倒島《おのころじま》の|大江山《おほえやま》の|近《ちか》くに、|紫《むらさき》の|雲《くも》が|立《た》ち|昇《のぼ》り、|神聖《しんせい》なる|偉人《ゐじん》の|出現《しゆつげん》して|居《ゐ》る|事《こと》は|御存《ごぞん》じでせうね』
|黒姫《くろひめ》『ハイハイ|委細《ゐさい》|承知《しようち》して|居《を》ります』
|高姫《たかひめ》『|承知《しようち》はして|居《ゐ》ても|又《また》|抜《ぬ》かりなく、|其《その》|玉照姫《たまてるひめ》とやらをウラナイ|教《けう》に|引《ひ》き|入《い》れる|手筈《てはず》は|調《ととの》うて|居《ゐ》ますか』
|黒姫《くろひめ》『|仰《おつ》しやる|迄《まで》もなく、|一切《いつさい》|万事《ばんじ》|羽織《はおり》の|紐《ひも》で、|黒姫《くろひめ》の|胸《むね》にチヤンと|置《お》いて|御座《ござ》います。オホヽヽヽ』
|高姫《たかひめ》『ヤアそれで|安心《あんしん》しました、|愚図々々《ぐづぐづ》して|居《ゐ》ると、また|素盞嗚尊《すさのをのみこと》の|方《はう》へ|取《と》られ|仕舞《しま》つては|耐《たま》りませぬからなア、|私《わたし》は|夫《そ》れ|許《ばか》りが|気《き》にかかつて、|忙《いそが》しい|中《なか》を|飛行機《ひかうき》を|飛《と》ばして|態々《わざわざ》やつて|来《き》ました。そうして|肝腎《かんじん》の|目的物《もくてきぶつ》はもう|手《て》に|入《い》りましたか』
|黒姫《くろひめ》『イヤ、|今《いま》|着々《ちやくちやく》と|歩《ほ》を|進《すす》めて|居《を》る|最中《さいちう》なんです。それについては|斯様斯様《かやうかやう》こうこうの|手段《しゆだん》で』
と|耳《みみ》に|口寄《くちよ》せて、|綾彦《あやひこ》|夫婦《ふうふ》の|人質《ひとじち》に|使用《しよう》する|事《こと》も|打《う》ち|明《あ》けて、|得意《とくい》の|顔《かほ》を|輝《かがや》かす。
|高姫《たかひめ》『|善《ぜん》は|急《いそ》げだ。|如才《じよさい》はあるまいが|一日《いちにち》も|早《はや》くやらねばなりませぬぞえ、|私《わたし》もそれが|成功《せいこう》する|迄《まで》は|気《き》が|気《き》ぢやありませぬ、|私《わたし》も|此処《ここ》で|待《ま》つて|居《ゐ》ませう、|玉照姫《たまてるひめ》が|手《て》に|入《い》るや|否《いな》や、|飛行機《ひかうき》に|乗《の》せてフサの|国《くに》に|帰《かへ》りませう』
|黒姫《くろひめ》『|高姫《たかひめ》さま、お|喜《よろこ》び|下《くだ》さいませ、|一旦《いつたん》|三五教《あななひけう》に|堕落《だらく》して|居《ゐ》た|青彦《あおひこ》が、|神様《かみさま》の|御神力《ごしんりき》に|往生《わうじやう》して|帰《かへ》つて|来《き》ました』
|高姫《たかひめ》『|何《なん》と|仰有《おつしや》る、あの|青彦《あをひこ》が|帰《かへ》りましたか、それはマアマアよい|事《こと》をなさいました。|遉《さすが》は|千軍万馬《せんぐんばんば》の|功《こう》を|経《へ》た|貴女《あなた》、いやもうお|骨《ほね》が|折《お》れたでせう、|貴女《あなた》の|敏腕家《びんわんか》には|日《ひ》の|出神《でのかみ》も|感服《かんぷく》|致《いた》しました。|時《とき》に|夏彦《なつひこ》、|常彦《つねひこ》は|何《ど》うなりましたか、なんだか|居《ゐ》ないやうですな』
|黒姫《くろひめ》『ヘイ、|彼奴《あいつ》はたうとう|三五教《あななひけう》に|眈溺《たんでき》して|仕舞《しま》ひました。|併《しか》し|乍《なが》ら|之《これ》も|時間《じかん》の|問題《もんだい》です、きつと|呼《よ》び|帰《かへ》して|見《み》せます。|何《なに》か|神界《しんかい》のお|仕組《しぐみ》でせう、ああして|三五教《あななひけう》に|這入《はい》り、|帰《かへ》りには|青彦《あをひこ》のやうに|沢山《たくさん》の|従者《じゆうしや》を|連《つ》れて|帰《かへ》るかも|知《し》れませぬ』
|高姫《たかひめ》『さう|楽観《らくくわん》も|出来《でき》ますまいが、|艮《うしとら》の|金神様《こんじんさま》は|何《なに》から|何《なに》|迄《まで》|抜《ぬ》け|目《め》のない|神様《かみさま》だから|屹度《きつと》|深《ふか》い|深《ふか》いお|仕組《しぐみ》があるのでせう』
|黒姫《くろひめ》『|貴女《あなた》にお|目《め》にかけ|度《た》い|方《かた》が|一人《ひとり》あります、それはそれは|行儀《ぎやうぎ》と|云《い》ひ、|器量《きりやう》と|云《い》ひ、|知識《ちしき》と|云《い》ひ、|言葉遣《ことばづか》ひと|云《い》ひ、|何《なに》から|何《なに》まで|穴《あな》のない|三十三相《さんじふさんさう》|揃《そろ》うた|観自在天《くわんじざいてん》のやうな|淑女《しゆくぢよ》が|信者《しんじや》になられまして、|今《いま》は|宣伝使《せんでんし》の|仕込《しこ》み|中《ちう》で|御座《ござ》います、|何《ど》うか|立派《りつぱ》な|宣伝使《せんでんし》に|仕立《した》てあげて、|貴女様《あなたさま》に|喜《よろこ》んで|頂《いただ》かうと|思《おも》つて|日々《にちにち》|骨《ほね》を|折《お》つて|居《を》ります、まア|一遍《いつぺん》|会《あ》うて|見《み》て|下《くだ》さい、|幸《さいは》ひ|其《その》|方《かた》も|青彦《あをひこ》も、|青彦《あをひこ》の|連《つ》れて|来《き》た|鹿公《しかこう》も、|馬公《うまこう》と|云《い》ふそれはそれは|実《じつ》に|男《をとこ》らしい|人物《じんぶつ》も|来《き》て|居《を》ります、|真実《ほんと》に|掘出《ほりだ》しものです、きつとウラナイ|教《けう》の|柱石《ちうせき》になる|人物《じんぶつ》ですなア』
|高姫《たかひめ》『それは|何《なに》より|結構《けつこう》です』
と|話《はな》す|折《をり》しも|高山彦《たかやまひこ》は、|羽織袴《はおりはかま》の|扮装《いでたち》、|此《この》|場《ば》に|現《あら》はれて、
『ヤア|高姫《たかひめ》さま、|久《ひさ》し|振《ぶ》りで|御座《ござ》いました、ようマア|遥々《はるばる》と|御入来《ごじゆらい》、|御疲労《おくたびれ》で|御座《ござ》いませう、サアどうぞ|悠《ゆつ》くりして|下《くだ》さいませ』
|高姫《たかひめ》『ヤア|高山彦《たかやまひこ》さま、|貴方《あなた》は|幾歳《いくつ》でしたいなア、|大変《たいへん》にお|若《わか》く|見《み》えますよ、|奥《おく》さまの|待遇《もてなし》が|好《よ》いので|自然《しぜん》にお|若《わか》くなられますなア、|私《わたし》は|此《この》|通《とほ》り|年《とし》が|寄《よ》り、|歯《は》が|抜《ぬ》けてもう【しやつち】もない|婆《ばば》アですが、|貴方《あなた》とした|事《こと》わいなア、フサの|国《くに》に|居《ゐ》らした|時《とき》よりも|余程《よほど》お|元気《げんき》な、お|顔《かほ》の|色《いろ》が|若々《わかわか》として、|私《わたし》でも|知《し》らず|識《し》らずに|電波《でんぱ》を|送《おく》るやうになりましたワ。オホヽヽヽ』
|高山彦《たかやまひこ》『|高姫《たかひめ》さま、|何《ど》うぞ|冷《ひ》やかさずに|置《お》いて|下《くだ》さい、|若《わか》い|者《もの》ぢやあるまいし、いやもう|斯《こ》う|見《み》えても|年《とし》と|云《い》ふものは|嘘《うそ》を|吐《つ》かぬ|者《もの》で、|気《き》|許《ばか》り|達者《たつしや》で|体《からだ》が|何《なん》となしに|無精《ぶしやう》になります』
|高姫《たかひめ》『|余《あま》り|奥《おく》さまの|御待遇《おもてなし》が|好《よ》いので、いつも|家《うち》に|許《ばか》り|居《ゐ》らつしやるものだから、|自然《しぜん》に|体《からだ》が|重《おも》くなるのでせう、|私《わたし》も|貴方《あなた》のやうな|気楽《きらく》な|身《み》になつて|見度《みた》う|御座《ござ》いますワ、オホヽヽヽ』
|黒姫《くろひめ》『|今日《けふ》は|遠方《ゑんぱう》からの|高姫《たかひめ》さまのお|越《こ》し、それについては|青彦《あをひこ》、|紫姫《むらさきひめ》、|其《その》|他《た》|一同《いちどう》の|者《もの》を|集《あつ》めて|貴女《あなた》の|歓迎会《くわんげいくわい》やら|祝《いはひ》を|兼《か》ねて、お|神酒《みき》|一盃《いつぱい》|頂《いただ》く|事《こと》にしませうか』
|高姫《たかひめ》『|何《ど》うぞお|構《かま》ひ|下《くだ》さいますな、|併《しか》し|私《わたし》の|参《まゐ》つた|印《しるし》に|皆《みな》さまにお|神酒《みき》を|上《あ》げて|貰《もら》へば|尚更《なほさら》|結構《けつこう》です』
|黒姫《くろひめ》はツト|立《た》つて「|梅《うめ》|梅《うめ》」と|呼《よ》んだ。
|此《この》|声《こゑ》に|梅公《うめこう》は|慌《あは》ただしく|走《はし》り|来《きた》り、
『|何《なに》|御用《ごよう》で|御座《ござ》いますか』
|黒姫《くろひめ》『|今日《けふ》は|高姫《たかひめ》|様《さま》の|久《ひさ》し|振《ぶり》のお|越《こ》しですから、|皆々《みなみな》お|神酒《みき》を|頂《いただ》くのだから、|其《その》|用意《ようい》をして|下《くだ》さい』
|梅公《うめこう》『ハイ|畏《かしこ》まりました、|嘸《さぞ》|皆《みな》の|者《もの》が|喜《よろこ》ぶことでせう』
といそいそとして|納戸《なんど》の|方《はう》に|姿《すがた》を|隠《かく》した。|紫姫《むらさきひめ》は|青彦《あをひこ》と|共《とも》に|此《この》|場《ば》に|現《あら》はれ、|叮嚀《ていねい》に|手《て》をつかへ、
|紫姫《むらさきひめ》『これはこれは|高姫《たかひめ》|様《さま》で|御座《ござ》いますか、|貴《たつと》い|御身《おんみ》をもつて|能《よ》くも|遠方《ゑんぱう》の|所《ところ》|入来《おわせ》られました。|私《わたくし》は|都《みやこ》の|者《もの》、|元伊勢様《もといせさま》へ|二人《ふたり》の|下僕《しもべ》を|連《つ》れて|参拝《さんぱい》|致《いた》します|折《をり》、|黒姫《くろひめ》さまの|熱心《ねつしん》なる|御信仰《ごしんかう》の|状態《じやうたい》を|目撃《もくげき》しまして、それから|俄《にわか》に|有難《ありがた》うなり、|三五教《あななひけう》の|信仰《しんかう》を|止《や》め、お|世話《せわ》になつて|居《ゐ》ます。|何《ど》うぞ|今後《こんご》は|御見捨《おみす》てなく|宜敷《よろし》く|御指導《ごしだう》をお|願《ねが》ひ|致《いた》します』
|青彦《あをひこ》『|私《わたくし》は|御存《ごぞん》じの|青彦《あをひこ》で|御座《ござ》います、|誠《まこと》に|不調法《ぶてうはふ》|許《ばか》り|致《いた》しまして、|大恩《たいおん》ある|貴女《あなた》のお|言葉《ことば》を|忘《わす》れ、|三五教《あななひけう》に|眈溺《たんでき》|致《いた》し、|大神様《おほかみさま》へ|重々《ぢうぢう》の|罪《つみ》を|重《かさ》ね、|何《なん》となく|神界《しんかい》が|恐《おそ》ろしくなりましたので、|再《ふたた》び|黒姫《くろひめ》|様《さま》にお|詫《わび》を|申《まを》し、|帰参《きさん》を|叶《かな》へさして|頂《いただ》きました、|何《ど》うぞ|宜敷《よろし》くお|願《ねが》ひ|致《いた》します』
|高姫《たかひめ》『ヤア|紫姫《むらさきひめ》さまに|青彦《あをひこ》さま、|皆《みな》|因縁《いんねん》づくぢやから、もう|此《この》|上《うへ》は|精神《せいしん》をかへては|不可《いけ》ませぬぞえ、|貴女《あなた》は|黒姫《くろひめ》さまに|聞《き》けば、|立派《りつぱ》な|淑女《しゆくぢよ》ぢやと|仰有《おつしや》いましたが、|如何《いか》にも|聞《き》きしに|勝《まさ》る|立派《りつぱ》な|人格《じんかく》、|日《ひ》の|出神《でのかみ》の|生宮《いきみや》も、|全《まつた》く|感服《かんぷく》|致《いた》しました』
|紫姫《むらさきひめ》『さうお|褒《ほ》め|下《くだ》さいましては|不束《ふつつ》かな|妾《わたし》、お|恥《はづ》かしうて|穴《あな》でもあれば|這入《はい》り|度《た》くなりますワ』
|高姫《たかひめ》『|滅相《めつさう》な、|何《なに》を|仰有《おつしや》います、|貴女《あなた》は|身魂《みたま》がよいから、もう|此《この》|上《うへ》|御修業《ごしうげふ》なさるには|及《およ》びますまい、|貴女《あなた》は|此《この》|支社《でやしろ》に|置《お》いておくのは|勿体《もつたい》ない、|私《わたし》と|一緒《いつしよ》に|北山村《きたやまむら》の|本山《ほんざん》へ|来《き》て|貰《もら》つて、|本山《ほんざん》の|牛耳《ぎうじ》を|執《と》つて|貰《もら》はねばなりませぬ。これこれ|青彦《あをひこ》、お|前《まへ》も|確《しつか》りして|今度《こんど》は|私《わたし》について|来《き》なさい、|此処《ここ》に|長《なが》らく|置《お》いておくと|剣呑《けんのん》だ、|大江山《おほえやま》の|悪霊《あくれい》が|何時《いつ》|憑依《ひようい》して|又《また》もや|身魂《みたま》を|濁《にご》らすかも|知《し》れないから、|今度《こんど》は|或《ある》|一《ひと》つの|目的《もくてき》が|成就《じやうじゆ》したら、|高姫《たかひめ》と|一緒《いつしよ》にフサの|国《くに》の|本山《ほんざん》に|行《ゆ》くのだよ』
|青彦《あをひこ》『アヽそれは|何《なに》より|有難《ありがた》う|御座《ござ》います、|私《わたくし》の|変心《へんしん》したのをお|咎《とが》めもなく、|本山《ほんざん》|迄《まで》|連《つ》れて|帰《かへ》つてやらうとは、|何《なん》とした|御仁慈《ごじんじ》のお|言葉《ことば》、もう|此《この》|上《うへ》は|貴女《あなた》の|御高恩《ごかうおん》に|報《むく》ゆるため、|粉骨砕身《ふんこつさいしん》|犬馬《けんば》の|労《らう》を|厭《いと》ひませぬ』
|高姫《たかひめ》『アヽ|人間《にんげん》はさうなくては|叶《かな》はぬ、|空《そら》に|輝《かがや》く|日月《じつげつ》でさへも、|時《とき》あつて|黒雲《こくうん》に|包《つつ》まれる|事《こと》がある。つまり|貴方《あなた》の|心《こころ》の|月《つき》に|三五教《あななひけう》の|変性女子《へんじやうによし》の|黒雲《こくうん》が|懸《かか》つて|居《ゐ》たのだ。|迷《まよ》ひの|雲《くも》が|晴《は》るれば|真如《しんによ》の|日月《じつげつ》が|出《で》るのぢや、アヽ|目出度《めでた》い|目出度《めでた》い、これと|云《い》ふのも|黒姫《くろひめ》さまのお|骨《ほね》|折《お》り』
と|高姫《たかひめ》は|一生懸命《いつしやうけんめい》に|褒《ほ》めそやして|居《ゐ》る。かかる|処《ところ》へ、
|梅公《うめこう》『モシモシ、|準備《じゆんび》が|出来《でき》ました。|皆《みな》の|者《もの》が|待《ま》つて|居《ゐ》ます、|何《ど》うぞ|皆《みな》さま|奥《おく》の|広間《ひろま》へお|越《こ》し|下《くだ》さいませ』
|黒姫《くろひめ》『ヤア、それは|御苦労《ごくらう》であつた。サア|高姫《たかひめ》さま、|紫姫《むらさきひめ》さま、|高山《たかやま》さま、|青彦《あをひこ》さま|参《まゐ》りませう』
と|先《さき》に|立《た》つ。|高姫《たかひめ》は|鷹《たか》の|羽《は》ばたきしたやうな|恰好《かつかう》しながら、いそいそと|奥《おく》に|入《い》る。|一同《いちどう》は|高姫《たかひめ》|導師《だうし》の|下《した》に|神殿《しんでん》に|向《むか》ひ|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》し、|続《つづ》いて|日《ひ》の|出神《でのかみ》の|筆先《ふでさき》の|朗読《らうどく》を|終《をは》り|弥々《いよいよ》|直会《なほらひ》の|宴《えん》に|移《うつ》つた、|高姫《たかひめ》は|歌《うた》を|謡《うた》つた。
『フサの|御国《みくに》の|空《そら》|高《たか》く  |鳥《とり》の|磐樟船《いわくすふね》に|乗《の》り
|雲井《くもゐ》の|空《そら》を|轟《とどろ》かせ  |一瀉千里《いつしやせんり》の|勢《いきほ》ひで
|西《にし》より|東《ひがし》へ|電《いなづま》の  |閃《きら》めく|如《ごと》くかけ|来《きた》り
|世人《よびと》の|胸《むね》を|冷《ひや》やしつつ  |高山《たかやま》、|低山《ひきやま》|乗《の》り|越《こ》えて
|天《あめ》の|真名井《まなゐ》も|打《う》ち|渡《わた》り  |安《やす》の|河原《かはら》を|下《した》に|見《み》て
|瞬《またた》くひまに|皇神《すめかみ》の  |日《ひ》の|出《で》の|守護《しゆご》の|著《いちじる》く
|由良《ゆら》の|港《みなと》に|着陸《ちやくりく》し  |鶴亀《つるかめ》|二人《ふたり》を|伴《ともな》ひて
|千秋万歳《せんしうばんざい》ウラナイの  |教《をしへ》の|基礎《きそ》を|固《かた》めむと
|東《あづま》に|輝《かがや》く|明星《みやうじやう》を  |求《もと》めて|此処《ここ》に|来《き》て|見《み》れば
|神《かみ》の|経綸《しぐみ》の|奥深《おくふか》く  |凡夫《ぼんぶ》の|眼《め》には|弥仙山《みせんざん》
|山《やま》の|彼方《かなた》に|現《あら》はれし  |玉照姫《たまてるひめ》の|厳霊《いづみたま》
|弥々《いよいよ》|此処《ここ》に|出現《しゆつげん》し  |三千年《さんぜんねん》の|御経綸《おんしぐみ》
|開《ひら》く|常磐《ときは》の|松《まつ》の|代《よ》を  |待《ま》つ|甲斐《かひ》あつて|高姫《たかひめ》が
|日頃《ひごろ》の|思《おも》ひも|晴《は》れ|渡《わた》る  |時《とき》は|漸《やうや》く|近《ちか》づきぬ
アヽ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |御霊《みたま》|幸倍《さちはへ》|坐《ま》し|在《ま》して
|誠《まこと》の|道《みち》にさやり|来《く》る  |頑固《ぐわんこ》|一《ひと》つの|瑞霊《みづみたま》
|変性女子《へんじやうによし》が|改心《かいしん》を  する|世《よ》とこそはなりにけり
|月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも  |旭《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも
|仮令《たとへ》|大地《だいち》は|沈《しづ》むとも  ウラナイ|教《けう》の|神《かみ》の|道《みち》
|唯《ただ》|一厘《いちりん》の|秘密《ひみつ》をば  グツと|握《にぎ》つた|高姫《たかひめ》が
|仕組《しぐみ》の|奥《おく》の|蓋《ふた》あけて  |腹《はら》に|呑《の》んだる|如意宝珠《によいほつしゆ》
|玉《たま》の|光《ひかり》を|鮮《あざや》かに  |三千世界《さんぜんせかい》に|輝《かがや》かし
|鬼《おに》や|大蛇《をろち》や|曲津神《まがつかみ》  |三五教《あななひけう》も|立直《たてなほ》し
|金勝要《きんかつかね》の|大神《おほかみ》や  |木花姫《このはなひめ》の|生宮《いきみや》を
|徹底《とことん》、|改心《かいしん》さして|置《お》き  グツと|弱《よわ》つた、しほどきに
|此《この》|高姫《たかひめ》が|乗《の》り|込《こ》んで  サアサア|何《ど》うぢや、サアどうぢや
|奥《おく》をつかんだ|太柱《ふとばしら》  |弥《いよいよ》|改悟《かいご》をすればよし
|未《ま》だ|分《わか》らねば|帳切《ちやうき》らうか  |変性男子《へんじやうなんし》の|御血統《おんちすぢ》
|神《かみ》の|柱《はしら》となりながら  こんな|事《こと》では、どうなるか
|誠《まこと》の|事《こと》が|分《わか》らねば  |早《はや》く|陣引《ぢんび》きするがよい
|後《あと》は|高姫《たかひめ》、|乗《の》り|込《こ》んで  |唯《ただ》|一厘《いちりん》の|御仕組《おんしぐみ》
|天晴《あつぱれ》|成就《じやうじゆ》させて|見《み》せう  |斯《か》うして|女子《ぢよし》を|懲《こ》らすまで
|一《ひと》つ|無《な》くてはならぬもの  |弥仙《みせん》の|山《やま》に|現《あら》はれた
|玉照姫《たまてるひめ》を|手《て》に|入《い》れて  |是《これ》をば|種《たね》に|攻《せめ》|寄《よ》れば
|如何《いか》に|頑固《ぐわんこ》な|緯役《よこやく》の  |変性女子《へんじやうによし》も|往生《わうじやう》して
|兜《かぶと》を|脱《ぬ》ぐに|違《ちが》ひない  |一分一厘《いちぶいちりん》、|毛筋《けすぢ》|程《ほど》
|間違《まちが》ひ|無《な》いのが|神《かみ》の|道《みち》  |三五教《あななひけう》やウラナイ|教《けう》
|神《かみ》の|教《をしへ》と|表面《へうめん》は  |二《ふた》つに|分《わか》れて|居《を》るけれど
|元《もと》を|糺《ただ》せば|一株《ひとかぶ》ぢや  |雨《あめ》や|霰《あられ》や|雪氷《ゆきこほり》
|形《かたち》|変《かは》れど|徹底《とことん》の  |落《お》ち|行《ゆ》く|先《さき》は|同《おな》じ|水《みづ》
|同《おな》じ|谷《たに》をば|流《なが》れ|往《ゆ》く  |変性女子《へんじやうによし》の|御霊《みたま》さへ
グヅと|往生《わうじやう》させたなら  |後《あと》は|金勝要《きんかつかね》の|神《かみ》
|木花咲耶姫《このはなさくやひめ》の|神《かみ》  |彦火々出見《ひこほほでみ》の|神霊《かむみたま》
|帰順《きじゆん》なさるは|易《やす》い|事《こと》  |邪魔《じやま》になるのは|緯役《よこやく》の
|此《この》|世《よ》の|乱《みだ》れた|守護神《しゆごじん》  |此奴《こいつ》ばかりが|気《き》にかかる
アヽさりながらさりながら  |時《とき》は|来《き》にけり、|来《きた》りけり
|此《この》|世《よ》を|造《つく》りし|神直日《かむなほひ》  |心《こころ》も|広《ひろ》き|大直日《おほなほひ》
|唯《ただ》|何事《なにごと》も|人《ひと》の|世《よ》は  |直日《なほひ》に|見直《みなほ》し、|宣《の》り|直《なほ》す
|三五教《あななひけう》やウラナイの  |神《かみ》の|教《をしへ》の|神勅《みことのり》
|高天原《たかあまはら》に|高姫《たかひめ》が  |天晴《あつぱ》れ|表《おもて》に|現《あら》はれて
|誠《まこと》の|道《みち》を|説《と》き|明《あ》かし  ミクロの|神《かみ》の|末長《すゑなが》う
|経《たて》のお|役《やく》と|立直《たてなほ》し  |緯《よこ》の|守護《しゆご》を|亡《ほろ》ぼして
|常世《とこよ》の|姫《ひめ》の|生魂《いきだま》や  |世界《せかい》の|秘密《ひみつ》を|探《さぐ》り|出《だ》し
|日《ひ》の|出神《でのかみ》や|竜宮《りうぐう》の  |乙姫《おとひめ》さまの|神力《しんりき》で
|堅磐常磐《かきはときは》の|松《まつ》の|世《よ》を  |建《た》つる|時《とき》こそ|来《きた》りけり
アヽ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |御霊《みたま》|幸倍《さちはへ》|坐《まし》ませよ』
|黒姫《くろひめ》も|稍《やや》、|微酔《ほろよひ》|機嫌《きげん》になつて|低太《ひくぶと》い|声《こゑ》を|張《は》り|上《あ》げて|謡《うた》ひ|始《はじ》めたり。
『|遠《とほ》き|海山《うみやま》|河野《かはの》|越《こ》え  |遥々《はるばる》|此処《ここ》に|帰《かへ》ります
ウラナイ|教《けう》の|根本《こつぽん》の  |要《かなめ》、|掴《つか》んだ|高姫《たかひめ》さま
よくもお|出《で》まし|下《くだ》されて  |昔《むかし》の|昔《むかし》のさる|昔《むかし》
|国治立《くにはるたち》の|大神《おほかみ》の  |仕組《しぐ》み|給《たま》ひし|大謨《たいもう》を
|一日《ひとひ》も|早《はや》く|成就《じやうじゆ》させ  |世《よ》に|落《お》ちたまふ|神々《かみがみ》を
|残《のこ》らず|此《この》|世《よ》に、あげまして  |三千世界《さんぜんせかい》の|民草《たみくさ》を
|上下《じやうげ》|運否《うんぷ》の|無《な》いやうに  |桝《ます》かけひいて|相《あひ》ならし
|神政成就《しんせいじやうじゆ》の|大業《たいげふ》を  いよいよ|進《すす》めたまはむと
|出《いで》ます|今日《けふ》の|尊《たふと》さよ  |朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも
|月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも  |仮令《たとへ》、|天地《てんち》を|探《さが》しても
こんな|結構《けつこう》なお|肉体《にくたい》  |日《ひ》の|出神《でのかみ》の|生宮《いきみや》が
|又《また》と|世界《せかい》にあるものか  また|竜宮《りうぐう》の|乙姫《おとひめ》が
|憑《かか》りたまひて|艮《うしとら》の  |金神様《こんじんさま》のお|経綸《しぐみ》で
|骨身《ほねみ》、|惜《をし》まぬお|手伝《てつだ》い  こんな|誠《まこと》の|神様《かみさま》が
|又《また》と|世界《せかい》にあるものか  アヽ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|今迄《いままで》、|種々《くさぐさ》|態々《さまざま》に  |神《かみ》のお|道《みち》を|彼是《かれこれ》と
|要《い》らぬ|心配《しんぱい》して|見《み》たが  |時節《じせつ》|参《まゐ》りて|煎豆《いりまめ》に
|花《はな》|咲《さ》き|実《みの》る|嬉《うれ》しさよ』
と|謡《うた》ふ|折《をり》しも|表《おもて》の|岩戸《いはと》の|方《はう》に|当《あた》つて、|消魂《けたたま》しい|物音《ものおと》|聞《きこ》え|来《き》たる。
|嗚呼《ああ》|鼻《はな》の|高姫《たかひめ》さまよ、お|色《いろ》の|黒《くろ》い|黒姫《くろひめ》さまの|長《なが》たらしい|腰曲《こしまが》り|歌《うた》や、|青彦《あをひこ》の|舌鼓《したつづみ》、|紫姫《むらさきひめ》の|淑《しと》やかな|声《こゑ》、|馬公《うまこう》、|鹿公《しかこう》、|梅《うめ》、|浅《あさ》、|幾《いく》、|丑《うし》、|寅《とら》、|辰《たつ》、|鳶《とび》、|鶴《つる》、|亀《かめ》その|他《た》|沢山《たくさん》の|酒《さけ》に|酔《よ》うた|場面《ばめん》を|霊眼《れいがん》に|見《み》せられて、|余《あんま》り|霊肉《れいにく》|両眼《りやうがん》を|虐使《ぎやくし》した|天罰《てんばつ》、|俄《にはか》に|眠《ねむ》くなつて|来《き》た。|一寸《ちよつと》これで|切《き》つて|置《お》きます。
(大正一一・四・二八 旧四・二 加藤明子録)
第一六章 |返《かへ》り|討《うち》〔六四四〕
|微酔《ほろよひ》|機嫌《きげん》の|梅公《うめこう》は|表《おもて》のけたたましい|物音《ものおと》に、|鹿公《しかこう》、|馬公《うまこう》を|伴《ともな》ひ|走《はし》り|出《い》で|見《み》れば、|常彦《つねひこ》を|始《はじ》め|滝公《たきこう》、|板公《いたこう》の|三人《さんにん》、|息《いき》を|喘《はづ》ませ|大声《おほごゑ》を|張《は》り|上《あ》げ|乍《なが》ら、
『|青彦《あをひこ》、|紫姫《むらさきひめ》をこれへ|出《だ》せエ』
と|呶鳴《どな》りつけてゐる。|梅《うめ》、ベランメー|口調《くてう》で、
『なゝゝゝ|何《なに》を|吐《ぬか》しやがるのでエ、|此処《ここ》を|何処《どこ》だと|心得《こころえ》て|居《ゐ》やがるのでエ、|畏《おそれおほ》れも|勿体《もつたい》なくも|日《ひ》の|出神《でのかみ》の|生宮《いきみや》と|竜宮《りうぐう》の|乙姫《おとひめ》|様《さま》の|生宮《いきみや》の|鎮坐《ちんざ》まします|珍《うづ》の|宝座《ほうざ》だぞ、|貴様達《きさまたち》のやうな|反逆者《はんぎやくしや》の|出《で》て|来《く》る|処《ところ》ぢやない、トツトと|去《い》にやがれ。コラ|常彦《つねひこ》、|貴様《きさま》は|何《なん》だ、|恩《おん》|知《し》らず|奴《め》、ドン|畜生《ちくしやう》|奴《め》が、|永《なが》らく|黒姫《くろひめ》さまの|御厄介《ごやくかい》になつて|居《ゐ》やがつて、|後足《あとあし》で|砂《すな》をかけて|出《で》やがつた|奴《やつ》ぢやないか、よう【のめ】のめと【しやつ】|面《つら》を|下《さ》げて|来《こ》られたものだ。エー、|之《これ》から|一寸《いつすん》たりとも|入《い》れる|事《こと》は|罷《まか》りならぬ、トツトと|帰《けえ》れ|帰《かへ》れ』
|常彦《つねひこ》『|貴様《きさま》は|梅《うめ》ぢやないか、|兄弟子《あにでし》に|向《むか》つて|何《なん》と|云《い》ふ|事《こと》を|云《い》ふのだ、【ごて】ごて|云《い》はずに|奥《おく》に|行《い》つて、|青彦《あをひこ》や|紫姫《むらさきひめ》に、|常彦《つねひこ》さまがお|越《こ》しだから|一寸《ちよつと》|此処《ここ》まで|出《で》て|来《こ》いと|云《い》つて|呉《く》れ』
|梅公《うめこう》『|何《なに》|馬鹿《ばか》を|云《い》うのだ、|又《また》|紫姫《むらさきひめ》や|青彦《あをひこ》を【かひ】|出《だ》しに|来《き》たのだらう』
|常彦《つねひこ》『|勿論《もちろん》の|事《こと》だ、こんな|邪教《じやけう》に|友人《いうじん》が|眈溺《たんでき》して|居《ゐ》るのに、|黙《だま》つて|見《み》て|居《を》れるか。ごでごで|吐《ぬか》さず、|貴様《きさま》は|俺《おれ》の|云《い》つた|通《とほ》り|取次《とりつ》げばよいのだ』
|梅公《うめこう》『ヤア|常彦《つねひこ》、|貴様《きさま》は|今《いま》|俺《おれ》に|向《むか》つて|兄弟子《あにでし》と|云《い》ひやがつたな、|何《なに》が|兄弟子《あにでし》だ、ウラナイ|教《けう》に|居《を》つてこそ|俺《おれ》の|先輩《せんぱい》だが……|不人情《ふにんじやう》な……|勝手《かつて》に|逃《に》げて|行《ゆ》きやがつて、|三五教《あななひけう》の|土持《つちも》ちをする|様《やう》な|奴《やつ》に|兄弟子《あにでし》も|糞《くそ》もあつたものかい、これや、|此《この》|梅公《うめこう》を|何時迄《いつまで》も|鼻垂《はなたれ》|小僧《こぞう》と|思《おも》つて|居《ゐ》やがるか、|今日《こんにち》では|押《お》しも|押《お》されもせぬ|黒姫《くろひめ》さまの|参謀長《さんぼうちやう》だ。|折角《せつかく》|今日《けふ》は|高姫《たかひめ》さまが|遥々《はるばる》お|越《こ》しになつて|目出度《めでた》く|祝《いはひ》をして|居《ゐ》るのに……【けち】をつけに|来《き》やがつたのだな』
|常彦《つねひこ》『|何《なに》、|高姫《たかひめ》が|来《き》て|居《ゐ》るとな、|其奴《そいつ》は|恰度《ちやうど》|都合《つがふ》が|良《い》い、これから|俺《おれ》が|直接《ちよくせつ》|談判《だんぱん》だ、|邪魔《じやま》ひろぐな、そこ|除《の》けツ』
と|行《ゆ》かむとする。|鹿公《しかこう》、|馬公《うまこう》は|常彦《つねひこ》の|左右《さいう》より|両手《りやうて》をグツと|握《にぎ》り、
『これや、|常彦《つねひこ》、|此処《ここ》を|何《なん》と|心得《こころえ》て|居《ゐ》る』
|常彦《つねひこ》『ヤア|貴様《きさま》は|紫姫《むらさきひめ》の|従僕《しもべ》であつた|馬《うま》、|鹿《しか》の|両人《りやうにん》、|馬鹿《ばか》な|真似《まね》【さらす】と|為《た》めにならぬぞ』
『|今日《けふ》は|目出度《めでた》い|日《ひ》だ、|馬《うま》と|鹿《しか》の|俺《おれ》に|免《めん》じて|何卒《どうぞ》|帰《かへ》つて|呉《く》れ、|折角《せつかく》の|酒《さけ》が|醒《さ》めて|仕舞《しま》う』
|梅公《うめこう》『ヤア|貴様《きさま》は|滝《たき》に|板《いた》、|又《また》【のめ】のめと|何《なに》しに|帰《かへ》つて|来《き》たのだ、|貴様《きさま》は|高城山《たかしろやま》へ|行《い》つて|松姫《まつひめ》に|叩《たた》き|出《だ》され、|乞食《こじき》となつて|迷《まよ》うて|居《を》つたぢやないか。|又《また》しても|舞《ま》ひ|戻《もど》つて|来《き》やがつて、|口《くち》の|先《さき》で【ちよろまか】さうと|思《おも》つても……その|手《て》は|喰《く》はないぞ、サアサア|不人情者《ふにんじやうもの》、|三匹《さんびき》の|奴《やつ》、サア|帰《かへ》れ……こんな|奴《やつ》は|俺《おれ》|一人《ひとり》で|大丈夫《だいぢやうぶ》だ、オイ、|馬公《うまこう》、|鹿公《しかこう》、|奥《おく》へ|行《い》つて|此《この》|由《よし》を|注進《ちうしん》せい』
『よし、|合点《がつてん》ぢや』
と|二人《ふたり》は|奥《おく》へ|飛《と》んで|行《ゆ》く。|梅公《うめこう》は|三人《さんにん》を|相手《あひて》に|論戦《ろんせん》をやつて|居《ゐ》たが、|常彦《つねひこ》は|構《かま》はず|強硬的《きやうかうてき》に、
『サア|板公《いたこう》、|滝公《たきこう》、|続《つづ》けツ』
と|一同《いちどう》が|酒宴《しゆえん》の|場《ば》に|現《あら》はれたるを|見《み》て|高姫《たかひめ》は、
『ヤアお|前《まへ》は|常彦《つねひこ》ぢやないか』
|黒姫《くろひめ》『お|前《まへ》は|滝公《たきこう》、|板公《いたこう》、|何処《どこ》をうろついて|居《を》つたのだ、よう|気《き》の|変《かは》る|男《をとこ》だな、|然《しか》し|今迄《いままで》の|事《こと》は|見直《みなほ》し|聞直《ききなほ》す、サア|酒《さけ》でも|一杯《いつぱい》|飲《の》んで|高姫《たかひめ》さまがお|越《こ》しだから、とつくりと|誠《まこと》の|話《はなし》を|聞《き》かして|貰《もら》ひなさい』
|常彦《つねひこ》『もうウラナイ|教《けう》の|話《はなし》は|何《なに》もかも、みんな|聞《き》いて|居《ゐ》る、|今更《いまさら》|改《あらた》めて|聞《き》く|必要《ひつえう》はない、|又《また》|何程《なにほど》|頼《たの》んでも|一旦《いつたん》|決心《けつしん》した|以上《いじやう》、ウラナイ|教《けう》に|滅多《めつた》に|帰《かへ》つてやらぬぞ』
|青彦《あをひこ》『これやこれや、|常彦《つねひこ》、|滝公《たきこう》、|板公《いたこう》、|何《なん》ぢや、|貴様《きさま》は|三五教《あななひけう》に|現《うつつ》を|抜《ぬ》かしよつて……|良《い》い|加減《かげん》に|改心《かいしん》したら|如何《どう》だ』
|常彦《つねひこ》『|青彦《あをひこ》、|貴様《きさま》こそ|良《よ》い|腰抜《こしぬ》けだ、あれ|程《ほど》|鬼ケ城《おにがじやう》で|奮戦《ふんせん》をして|置《お》き|乍《なが》ら、|又《また》もやウラナイ|教《けう》に|尾《を》を|掉《ふ》つて|帰《かへ》つて|来《く》るとは……|腰抜《こしぬけ》|野郎《やらう》だ。|然《しか》し|一《ひと》つ|思案《しあん》をして|見《み》よ、|如何《どう》しても|三五教《あななひけう》の|方《はう》が|奥《おく》が|深《ふか》いぢやないか、さうして|不言実行《ふげんじつかう》の|教《をしへ》だ、それは|貴様《きさま》もよく|知《し》つて|居《ゐ》る|筈《はず》、|何故《なぜ》|又《また》こんな|処《ところ》へ|帰《かへ》つてきよつたのだ』
|青彦《あをひこ》『ほつときやがれ、|俺《おれ》は|俺《おれ》の|自由《じいう》の|権《けん》でウラナイ|教《けう》に|這入《はい》つたのだよ、|三五教《あななひけう》の|奴《やつ》は|吾々《われわれ》の|如何《どう》しても|虫《むし》が|好《す》かない|哩《わい》、|誰《たれ》が|何《なん》と|云《い》つても|三五教《あななひけう》なぞへ|這入《はい》る|馬鹿《ばか》があるか、|貴様《きさま》も|良《い》い|加減《かげん》に|見切《みき》りを|付《つ》けたら|如何《どう》だ』
|常彦《つねひこ》『|紫姫《むらさきひめ》と|云《い》ひ、|馬公《うまこう》、|鹿公《しかこう》まで|惚《とぼ》けやがつて|何《ど》の|醜態《ざま》だ。サア|俺《おれ》に|跟《つ》いて|来《こ》い。|俺《おれ》は|貴様《きさま》が|可憐相《かはいさう》だから|友人《いうじん》の|情《なさけ》を|以《もつ》て|迎《むか》へに|来《き》たのだ。こんな|処《ところ》に|愚図々々《ぐづぐづ》|致《いた》して|居《ゐ》ると、|如何《どん》な|目《め》に|会《あ》はされるか|知《し》れたものぢやない、|悪《わる》い|事《こと》は|云《い》はぬ、サア|俺《おれ》に|跟《つ》いて|帰《かへ》つて|呉《く》れ』
|紫姫《むらさきひめ》『ホヽヽヽ、あの|常彦《つねひこ》さまの|仰《おつ》しやる|事《こと》、|妾《わたし》は|何《なん》と|云《い》つて|下《くだ》さつても|三五教《あななひけう》は|何《なん》だか|虫《むし》が|好《す》きませぬ、もうすつかりウラナイ|教《けう》に|身《み》も|魂《たましひ》も|入《い》れて|仕舞《しま》ひました。|何卒《どうぞ》おついでの|節《せつ》、|悦子姫《よしこひめ》さまに|宜《よろ》しく|云《い》つて|居《ゐ》たと|仰《おつ》しやつて|下《くだ》さいませ』
|常彦《つねひこ》『|流石《さすが》は|魔窟ケ原《まくつがはら》だ、|此処《ここ》まで|来《き》て、|何《ど》れも|之《これ》も|皆《みな》|籠絡《ろうらく》せられて|仕舞《しま》ひよつたか、アヽ|残念《ざんねん》な|事《こと》をした|哩《わい》』
と|双手《もろて》を|組《く》み|乍《なが》ら|涙《なみだ》を|零《こぼ》し|思案《しあん》に|暮《く》れて|居《ゐ》る。
|青彦《あをひこ》『これほど|黒姫《くろひめ》さまが、|貴様《きさま》の|反対《はんたい》を|少《すこ》しもお|怒《おこ》りなく、|旧《もと》の|古巣《ふるす》へ|帰《かへ》つて|来《こ》いと|仰《おつ》しやるのは|普通《ふつう》の|人間《にんげん》には|出来《でき》ない|事《こと》だ』
|常彦《つねひこ》『|何《なん》と|云《い》つても|金輪奈落《こんりんならく》、|仮令《たとへ》|大地《だいち》が|沈《しづ》まうがウラナイ|教《けう》に|帰《かへ》つて|来《き》て|堪《たま》るものかい。これや|青彦《あをひこ》、|貴様《きさま》も|目《め》を|覚《さ》ましたら|如何《どう》だい』
|青彦《あをひこ》『|何《なに》|云《い》つてるのだい』
と|棍棒《こんぼう》を|把《と》るより|早《はや》く|常彦《つねひこ》|目蒐《めが》けて|三《み》つ|四《よ》つ|喰《くら》はした。|常彦《つねひこ》は|身《み》に|数ケ所《すうかしよ》の|傷《いたで》を|負《お》ひ|悲鳴《ひめい》をあげて|表《おもて》へ|駆出《かけだ》した。|滝《たき》、|板《いた》の|二人《ふたり》も|後《あと》に|跟《つ》いて|駆《か》け|出《だ》す。|馬公《うまこう》、|鹿公《しかこう》は|一生懸命《いつしやうけんめい》に|青彦《あをひこ》の|棒《ぼう》を|引《ひ》つたくる。|一方《いつぱう》|常彦《つねひこ》|外《ほか》|二人《ふたり》は|戸口《とぐち》を|這《は》ひ|上《あが》り、|魔窟ケ原《まくつがはら》を|何処《いづこ》ともなく|駆《か》けて|行《ゆ》く。|後《あと》には|高姫《たかひめ》|外《ほか》|一同《いちどう》|大口《おほぐち》|開《あ》けて|高笑《たかわら》ひ、
|黒姫《くろひめ》『オホヽヽヽ、|到頭《たうとう》|帰《かへ》つて|来《き》よつたが、やつぱり|心《こころ》が|責《せ》めると|見《み》えてよう|居《を》りませぬ|哩《わい》。|然《しか》し|乍《なが》ら|青彦《あをひこ》、お|前《まへ》もこれからあんな|乱暴《らんばう》をしちやいかぬよ』
|青彦《あをひこ》『つひ|酒《さけ》の|機嫌《きげん》で……|余《あんま》りむかついたものだから、やつてやりました』
|高姫《たかひめ》『|然《しか》し|乍《なが》ら|青彦《あをひこ》はあれで……すつかり|吾々《われわれ》の|疑《うたがひ》がとけた、|畢竟《つまり》|或《ある》|意味《いみ》から|云《い》へば、|結構《けつこう》な|御神徳《おかげ》を|頂《いただ》きなさつたのだ』
|青彦《あをひこ》『|御神徳《ごしんとく》か|何《なに》か|知《し》りませぬが|真実《ほんと》に|乱暴《らんばう》な|奴《やつ》で|困《こま》つて|仕舞《しま》う、|三五教《あななひけう》に|這入《はい》ると|直《すぐ》あんな【ヤンチヤ】になると|見《み》える、アヽ|思《おも》へば|思《おも》へば|益々《ますます》|三五教《あななひけう》が|嫌《いや》になつて|来《き》た|哩《わい》』
|高姫《たかひめ》『ヤア|皆《みな》さま、|此処《ここ》が|大切《たいせつ》な|処《ところ》ぢや、|悪魔《あくま》|奴《め》が|色々《いろいろ》と|手《て》を|換《か》へ|品《しな》を|替《か》へ、|引《ひ》き|落《おと》しに|来《く》るから|用心《ようじん》しなされ』
|黒姫《くろひめ》『ヤア|青彦《あをひこ》、|紫姫《むらさきひめ》さま、|御苦労《ごくらう》だが|貴方《あなた》はこれから|玉照姫《たまてるひめ》の|宅《たく》へ|行《い》つて|下《くだ》さるまいか、|貴方《あなた》でなければ|到底《たうてい》|他《ほか》の|奴《やつ》をやつても|要領《えうりやう》を|得《え》まい、|其《その》|代《かは》りに|首尾《しゆび》よく|玉照姫《たまてるひめ》を|渡《わた》せば、|綾彦《あやひこ》、お|民《たみ》の|両人《りやうにん》を|帰《かへ》してやるから……』
|青彦《あをひこ》『|承知《しようち》|致《いた》しました、|然《しか》し|乍《なが》ら|先方《むかう》の|豊彦《とよひこ》と|云《い》う|爺《ぢい》さまは|仲々《なかなか》|頑固《ぐわんこ》な|奴《やつ》と|見《み》えますから|到底《たうてい》|口先《くちさき》|位《くらゐ》では|聞《き》くものぢやありませぬ。|力《ちから》にして|居《を》つた|綾彦《あやひこ》、お|民《たみ》の|行衛《ゆくゑ》が|分《わか》らぬものだから、|今《いま》ではお|玉《たま》と|玉照姫《たまてるひめ》が|老夫婦《らうふうふ》の|生命《いのち》の|綱《つな》の|様《やう》なものであります、|私《わたし》が|談判《だんぱん》に|行《い》つても|駄目《だめ》でせう、|綾彦《あやひこ》、お|民《たみ》の|両人《りやうにん》を|引連《ひきつ》れて|爺《ぢい》さまにお|目《め》|通《どほ》りをしたならば、|御礼《おれい》|返《がへ》しに|渡《わた》して|呉《く》れるかも|知《し》れませぬ』
|黒姫《くろひめ》『そうかも|知《し》れぬ、|一切《いつさい》|青彦《あをひこ》に|任《まか》しますから|何卒《どうぞ》|往《い》つて|来《き》て|下《くだ》さい』
|青彦《あをひこ》は|紫姫《むらさきひめ》と|共《とも》に|綾彦《あやひこ》を|伴《ともな》ひ、|馬《うま》、|鹿《しか》の|一行《いつかう》|五人《ごにん》は、
『|然《しか》らば|高姫《たかひめ》|様《さま》、|高山彦《たかやまひこ》|様《さま》、|黒姫《くろひめ》|様《さま》、その|他《た》の|御一同様《ごいちどうさま》、|何《なに》とぞ|待《ま》つて|居《ゐ》て|下《くだ》さいませ』
|斯《か》く|云《い》う|所《ところ》へ|俄《にはか》に|帰《かへ》つて|来《き》たお|節《せつ》にお|民《たみ》、
『ヤア、これはこれは|黒姫《くろひめ》|様《さま》』
|黒姫《くろひめ》『ヤア、お|節《せつ》にお|民《たみ》|好《い》い|処《ところ》へ|帰《かへ》つて|来《き》て|呉《く》れた、|松姫《まつひめ》には|機嫌《きげん》ようして|居《を》られるかな』
お|節《せつ》『|松姫《まつひめ》さまを|初《はじ》め|皆《みな》さま|御無事《ごぶじ》で、|御神務《ごしんむ》に|鞅掌《おうしやう》されて|居《を》られます』
|黒姫《くろひめ》『アヽそれは|重畳《ちようでふ》|々々《ちようでふ》、|幸《さいは》ひウラナイ|教《けう》の|御大将《おんたいしやう》|高姫《たかひめ》さまがおいでになつて|居《ゐ》る、サア|御挨拶《ごあいさつ》を|申《まを》しあげなされ』
|二人《ふたり》は、
『ハイ』
と|答《こた》へて|高姫《たかひめ》に|向《むか》ひ、
『これは|予《かね》て|承《うけたま》はる|高姫《たかひめ》|様《さま》で|御座《ござ》いましたか、ようマアお|越《こ》し|下《くだ》さいました。|妾《わたし》はお|節《せつ》……お|民《たみ》と|申《まを》すもの、|黒姫《くろひめ》|様《さま》の【いかい】|御世話《おせわ》になつて|居《を》ります、|何卒《どうぞ》|今後《こんご》とても|可愛《かあい》がつて|下《くだ》さいませ』
|高姫《たかひめ》『お|前達《まへたち》は|若《わか》い|年《とし》にも|似合《にあ》はず|感心《かんしん》なお|方《かた》ぢや、|就《つ》いてはこれから|青彦《あをひこ》や|綾彦《あやひこ》に|行《い》つて|貰《もら》ひ|度《た》い|処《ところ》があるので……お|二人《ふたり》とも|恰度《ちやうど》|都合《つがふ》の|好《い》い|所《ところ》だ、|貴方《あなた》も|一緒《いつしよ》に|跟《つ》いて|行《い》つて|下《くだ》さいな』
お|節《せつ》『ハイハイ|有難《ありがた》う|御座《ござ》います、|何処《どこ》までもお|道《みち》の|為《た》めなら|参《まゐ》りますから……』
|茲《ここ》に|紫姫《むらさきひめ》、|青彦《あをひこ》、|馬《うま》、|鹿《しか》の|四人《よにん》は、|綾彦《あやひこ》、お|民《たみ》、お|節《せつ》を|伴《ともな》ひ|高姫《たかひめ》その|他《た》に|挨拶《あいさつ》を|述《の》べ、|悠々《いういう》として|此《この》|場《ば》を|立《た》ち|去《さ》りぬ。アヽ|紫姫《むらさきひめ》、|青彦《あをひこ》その|他《た》の|一行《いつかう》は|再《ふたた》びウラナイ|教《けう》に|帰《かへ》り|来《く》るならむか。
(大正一一・四・二八 旧四・二 北村隆光録)
(昭和一〇・六・三 王仁校正)
第一七章 |玉照姫《たまてるひめ》〔六四五〕
|自転倒島《おのころじま》の|第一《だいいち》の  |霊地《れいち》と|世《よ》にも|鳴《な》りひびく
|世界《せかい》に|無二《むに》の|神策地《しんさくち》  |瑞《みづ》の|御霊《みたま》の|隠《かく》れ|場所《ばしよ》
|青葉《あをば》も、そよぐ|夏彦《なつひこ》が  |万世《ばんせい》|不動《ふどう》の|瑞祥《ずゐしやう》を
|祝《いは》ふ|加米彦《かめひこ》、|諸共《もろとも》に  |四《よ》つの|手足《てあし》を|働《はたら》かせ
|朝《あさ》な|夕《ゆふ》なに|勉強《いそし》みて  |主《あるじ》の|留守《るす》を|守《まも》り|居《ゐ》る
|世継王《よつわう》の|山《やま》の|夕嵐《ゆふあらし》  |雨戸《あまど》を|敲《たた》く|折《をり》からに
|息《いき》もせきせき|尋《たづ》ね|来《く》る  |三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》
|常《つね》に|変《かは》りし|常彦《つねひこ》が  |顔《かほ》に|紅葉《もみぢ》を|散《ち》らしつつ
|音《おと》もサワサワ|滝公《たきこう》や  |心《こころ》|痛《いた》むる|板公《いたこう》が
これの|庵《いほり》を|打叩《うちたた》き  |頼《たの》も|頼《たの》もと|訪《おと》なへば
オウと|答《こた》へて|加米彦《かめひこ》は  |雨戸《あまど》ガラリと|引開《ひきあ》けて
|此《この》|真夜中《まよなか》に|一《ひと》つ|家《や》を  |訪《おと》なふ|神《かみ》は|何者《なにもの》ぞ
|鬼《おに》か|大蛇《をろち》か|曲神《まがかみ》か  まさか|違《ちが》へば|木常彦《きつねひこ》
|唯《ただ》|一言《いちごん》の|言霊《ことたま》の  |愛想《あいさう》もコソも|夕嵐《ゆふあらし》
|吹《ふ》き|払《はら》はむと|夕月夜《ゆふづくよ》  キツと|透《すか》して|眺《なが》むれば
|何《なん》とは、なしに|見覚《みおぼ》えの  |姿《すがた》に|心《こころ》|和《やは》らげつ
|林《はやし》の|中《なか》の|一《ひと》つ|家《いえ》  |訪《おと》なふ|人《ひと》は|何人《なにびと》ぞ
|御名《みな》を|名乗《なの》らせ|給《たま》へよと  いと|慇懃《いんぎん》に|言霊《ことたま》を
|宣《の》り|直《なほ》すれば|常彦《つねひこ》は  |首《かうべ》をかたげ|腰《こし》を|曲《ま》げ
|両手《りやうて》を|膝《ひざ》の|上《うへ》に|置《お》き  |鬼ケ城《おにがじやう》にて|別《わか》れたる
|吾《わ》れは|常彦《つねひこ》|宣伝使《せんでんし》  |汝《なれ》は|加米彦《かめひこ》、|夏彦《なつひこ》か
|申上《まをしあ》げたき|仔細《しさい》あり  |紫姫《むらさきひめ》や|青彦《あをひこ》が
|三五教《あななひけう》にアキの|空《そら》  |天津御空《あまつみそら》も|黒姫《くろひめ》が
|醜《しこ》の|魔風《まかぜ》に|包《つつ》まれて  |誠《まこと》の|道《みち》を|取《と》りはづし
|悪魔《あくま》の|擒《とりこ》となりにける  |友《とも》の|身魂《みたま》を|救《すく》はむと
|夜《よ》を|日《ひ》についで|遥々《はるばる》と  |茲《ここ》まで|訪《たづ》ね|来《きた》りしぞ。
|加米彦《かめひこ》はこれを|聞《き》くより、
『ナニ、|紫姫《むらさきひめ》、|青彦《あをひこ》がウラナイ|教《けう》に|沈没《ちんぼつ》しましたか。それは|大変《たいへん》、|先《ま》づ|先《ま》づお|這入《はい》り|下《くだ》さいませ……ヤア|見馴《みなれ》ぬ|方《かた》が、しかもお|二人《ふたり》』
|滝《たき》、|板《いた》|一度《いちど》に、
『|私《わたくし》は|常彦《つねひこ》|様《さま》のお|伴《とも》を|致《いた》して|参《まゐ》りました|新参者《しんざんもの》で|御座《ござ》います、|何卒《なにとぞ》|宜《よろ》しうお|願《ねがひ》|致《いた》します』
|加米彦《かめひこ》『アーよしよし、|御互《おたがひ》にお|心安《こころやす》う|願《ねが》ひませう。……|夏彦《なつひこ》の|御大将《おんたいしやう》、|何《なに》をグヅグヅして|御座《ござ》る。|天変地妖《てんぺんちえう》の|大事変《だいじへん》が|出来《しゆつたい》|致《いた》しましたぞ』
|夏彦《なつひこ》は|奥《おく》の|間《ま》より、ノソノソ|出《い》で|来《きた》り、
『ヤア|常彦《つねひこ》さま、|暫《しばら》くでしたネ、ようこそお|出《いで》|下《くだ》さいました。マアマアお|上《あが》り|下《くだ》さいませ。ユツクリと|内開《うちあ》け|話《ばなし》でも|致《いた》しませうか』
|加米彦《かめひこ》『コレコレ|夏彦《なつひこ》の|大将《たいしやう》、そんな|陽気《やうき》な|所《ところ》ぢやありませぬワ』
|夏彦《なつひこ》『そう|慌《あは》てずとも|宜《よろ》しいワイ。|何事《なにごと》も|皆《みな》|神様《かみさま》のなさる|事《こと》ぢや。ヤア|常彦《つねひこ》さま、|決《けつ》して|決《けつ》して|御心配《ごしんぱい》は|要《い》りませぬ。|今《いま》に|紫姫《むらさきひめ》、|青彦《あをひこ》も、|意気《いき》|揚々《やうやう》として|此家《ここ》へ|帰《かへ》つて|来《き》ますよ』
|常彦《つねひこ》『そうかは|存《ぞん》じませぬが、|只今《ただいま》の|所《ところ》では|非常《ひじやう》な|勢《いきほひ》で|御座《ござ》います。|私《わたくし》も|青彦《あをひこ》、|紫姫《むらさきひめ》の|堕落《だらく》を|救《すく》はむ|為《ため》に、ワザワザ|敵《てき》の|本城《ほんじやう》へ|侵入《しんにふ》し、|忠告《ちうこく》を|加《くは》へてやりました。そうした|所《ところ》、|青彦《あをひこ》の|人格《じんかく》はガラリと|悪化《あくくわ》し、|終結《しまひ》の|果《は》てには|乱暴狼藉《らんばうろうぜき》、|棍棒《こんぼう》を|以《もつ》て|吾々《われわれ》の|身体《しんたい》を、|所《ところ》|構《かま》はず|滅多《めつた》|打《う》ち、|斯《か》かる|乱暴者《らんばうもの》は|最早《もはや》|救《すく》ふべき|手段《しゆだん》なしと、|取《と》る|物《もの》も|取敢《とりあへ》ず|此《この》|二人《ふたり》を|伴《ともな》ひ、|悦子姫《よしこひめ》|様《さま》|初《はじ》めあなた|方《がた》に、|何《なん》とか|良《い》い|智慧《ちゑ》を|借《か》りたいと|思《おも》つて、|一先《ひとま》づ|引返《ひきかへ》して|来《き》ました。そう|楽観《らくくわん》は|出来《でき》ませぬ』
|加米彦《かめひこ》『ヤア|其奴《そいつ》ア|大変《たいへん》だ。|悦子姫《よしこひめ》さまは|竹生島《ちくぶしま》へ、|英子姫《ひでこひめ》さまの|後《あと》を|追《お》うてお|出《い》でになつた|不在中《ふざいちゆう》、こんな|突発《とつぱつ》|事件《じけん》を|等閑《とうかん》に|附《ふ》して|置《お》くと|云《い》ふ|事《こと》は、|不忠実《ふちうじつ》の|極《きは》まりだ。サア|常彦《つねひこ》さま、|時《とき》を|移《うつ》さず|魔窟ケ原《まくつがはら》の|黒姫《くろひめ》の|本陣《ほんぢん》へ|乗込《のりこ》み、|言霊戦《ことたません》の|大攻撃《だいこうげき》を|致《いた》しませう』
と|早《はや》くも|尻《しり》ひつからげ|飛《と》び|出《だ》さむとする。
|夏彦《なつひこ》『アハヽヽヽ、よく|慌《あは》てる|奴《やつ》だなア。これだから|若《わか》い|奴《やつ》は|困《こま》るのだ。マアゆるゆると|久《ひさ》し|振《ぶり》だ、お|神酒《みき》でも|戴《いただ》いて、|作戦《さくせん》|計画《けいくわく》をやらうぢやないか。|急《せ》いては|事《こと》を|仕損《しそん》ずる』
|加米彦《かめひこ》『|急《せ》かねば|事《こと》が|間《ま》に|合《あ》はぬ。|芽出度《めでたく》|凱旋《がいせん》した|其《その》|上《うへ》で、ゆるゆるお|神酒《みき》をあがる|事《こと》にせう。|刻一刻《こくいつこく》と|心《こころ》の|底《そこ》に|浸潤《しんじゆん》し|来《きた》るウラナイ|教《けう》が|悪霊《あくれい》の|誘拐《いうかい》の|矢《や》は|日《ひ》に|日《ひ》に|烈《はげ》しくなるであらう、|老耄爺《おいぼれおやぢ》の|夏彦《なつひこ》の|腰折《こしお》れ、モウ|俺《おれ》は|愛想《あいさう》が|尽《つ》きた。|悦子姫《よしこひめ》|様《さま》の|御命令《ごめいれい》だから、|姫様《ひめさま》に|仕《つか》へると|思《おも》つて、|今迄《いままで》は|如何《いか》なる|愚論《ぐろん》|拙策《せつさく》も、|目《め》を|塞《ふさ》いで|盲従《まうじゆう》して|来《き》たが、それは|平安時《へいあんじ》の|時《とき》の|事《こと》だ。|危急《ききふ》|存亡《そんばう》の|此《この》|場合《ばあひ》、|臨機《りんき》|応変《おうへん》の|処置《しよち》を|執《と》らねばならぬ。|平和《へいわ》の|時《とき》の|宰相《さいさう》には、カナリ|適当《てきたう》かは|知《し》らぬが|国家《こくか》|興亡《こうばう》|危機一髪《ききいつぱつ》の|此《この》|際《さい》、|仮令《たとへ》|上官《じやうくわん》の|夏彦《なつひこ》が|命令《めいれい》たりとも、|服従《ふくじゆう》すべき|限《かぎ》りにあらずだ。サアサア|常彦《つねひこ》|外《ほか》|両人《りやうにん》|加米彦《かめひこ》に|続《つづ》かせられい……』
|夏彦《なつひこ》『アツハヽヽヽ、|石亀《いしがめ》の|地団駄《ぢだんだ》、|何程《なにほど》|騒《さわ》いだ|所《ところ》で|駄目《だめ》だよ。マアゆつくりと|落着《おちつ》いたが|宜《よ》からう。|俺《おれ》は|一寸《ちよつと》|紫姫《むらさきひめ》|様《さま》の|御意中《ごいちう》を|以心伝心的《いしんでんしん》に|感得《かんとく》して|居《ゐ》るから、|滅多《めつた》な|事《こと》は|無《な》い。|何《なに》か|深《ふか》いお|考《かんが》へが|有《あ》つての|事《こと》だ。|万一《まんいち》|紫姫《むらさきひめ》を|始《はじ》め、|青彦《あをひこ》|其《その》|他《た》の|者《もの》、|一人《ひとり》にてもウラナイ|教《けう》の|黒姫《くろひめ》に|籠絡《ろうらく》さるる|様《やう》な|事《こと》が|実現《じつげん》したら、|此《この》|夏彦《なつひこ》が|一《ひと》つより|無《な》い|首《くび》を、|幾《いく》つでも|加米彦《かめひこ》、|常彦《つねひこ》さまに|献上《けんじやう》する』
|加米彦《かめひこ》『|今日《けふ》に|限《かぎ》つて|夏彦《なつひこ》の|大将《たいしやう》、|糞落《くそお》ち|着《つき》に|落《お》ち|着《つ》いて|御座《ござ》るぢやないか。コラちと|変《へん》だ|黒姫《くろひめ》の|悪霊《あくれい》が|憑依《ひようい》して|居《を》るのではなからうかなア。|一《ひと》つ|厳重《げんぢう》なる|審神《さには》を|施行《しかう》するの|余地《よち》|充分《じゆうぶん》あるワイ』
|夏彦《なつひこ》、|二人《ふたり》の|耳元《みみもと》に|口《くち》を|寄《よ》せ、|何事《なにごと》か|囁《ささや》いた。
|加米彦《かめひこ》『アーさうか、ア、それなら|安心《あんしん》だ。ナア|常彦《つねひこ》、|肝腎《かんじん》の|事《こと》を|俺達《おれたち》に|言《い》つて|呉《く》れぬものだから、|要《い》らぬ|気《き》を|揉《も》んだぢやないか』
|夏彦《なつひこ》『|身魂《みたま》にチツとでも|曇《くも》りの|有《あ》る|間《うち》は、|神《かみ》は|今《いま》の|今迄《いままで》|誠《まこと》の|仕組《しぐみ》は|申《まを》さぬぞよ。|誠《まこと》が|聞《き》きたくば、|我《が》を|折《お》りて|生《うま》れ|赤児《あかご》の|心《こころ》になり、|水晶《すゐしやう》の|身魂《みたま》に|研《みが》いて|下《くだ》されよ。|神《かみ》は|誠《まこと》を|聞《き》かしてやりたいなれど、|悪《あく》の|身魂《みたま》の|混《まじ》りて|居《を》る|守護神《しゆごじん》には、|実地正真《じつちしやうまつ》の|事《こと》が|云《い》うてやれぬぞよ……とお|筆先《ふでさき》に|現《あら》はれて|居《を》りますぞ』
|加米彦《かめひこ》『ヤアさうすると|常彦《つねひこ》さま、|吾々《われわれ》|二人《ふたり》はまだ|数《かず》に|入《い》つて|居《を》らぬのだ。なんとムツカしいものだなア』
|夏彦《なつひこ》『|兎《と》も|角《かく》、|神様《かみさま》にお|礼《れい》を|申上《まをしあ》げ、|此処《ここ》で|一日《いちにち》|二日《ふつか》|休養《きうやう》して|下《くだ》さい。|其《その》|間《あひだ》にキツと|紫姫《むらさきひめ》|様《さま》、|青彦《あをひこ》の|消息《せうそく》が|分《わか》るでせう』
|加米彦《かめひこ》『|流石《さすが》は|御大将《おんたいしやう》、イヤもう|今日《こんにち》|限《かぎ》り、|何事《なにごと》も|盲従《まうじゆう》|致《いた》しませう。|併《しか》し|乍《なが》ら|間違《まちが》つたら、|約束《やくそく》の|通《とほ》り、|常彦《つねひこ》と|加米彦《かめひこ》が、|夏彦《なつひこ》の|御首《みしるし》|頂戴《ちやうだい》|仕《つかまつ》るから……|御覚悟《おかくご》は|確《たしか》でせうな』
|夏彦《なつひこ》『アハヽヽヽ、たしかだ たしかだ』
|斯《か》く|話《はなし》に|眈《ふけ》り|乍《なが》ら、|其《その》|夜《よ》は|主客《しゆきやく》|五人《ごにん》|枕《まくら》を|並《なら》べて|寝《しん》に|就《つ》いた。
|連日《れんじつ》|連夜《れんや》|曇《くも》り|果《は》てたる|五月《さつき》の|空《そら》も、|今日《けふ》はカラリと|日本晴《にほんばれ》の|好天気《かうてんき》、|煎《い》りつく|様《やう》な|大空《おほぞら》に、|朝鮮燕《てうせんつばめ》の|幾十《いくじふ》となく|泥《どろ》を|含《ふく》みて、|前後左右《ぜんごさいう》に|飛《と》び|交《か》ふ|有様《ありさま》を、|夏彦《なつひこ》|外《ほか》|四人《よにん》は|窓《まど》を|開《ひら》いて|愉快気《ゆくわいげ》に|眺《なが》めて|居《ゐ》る。
|加米彦《かめひこ》『|随分《ずゐぶん》よく|活動《くわつどう》をしたものだなア。|我々《われわれ》も|燕《つばめ》に|傚《なら》つて、|一層《いつそう》の|雄飛《ゆうひ》|活躍《くわつやく》をやらねばなるまい。……ヤア|向《むか》うの|方《かた》へ、|白《しろ》い|笠《かさ》が|揺《ゆ》らついて|来《き》たぞ』
と|話《はな》す|折《をり》しも、|勢《いきほひ》よく|此方《こなた》に|向《むか》つて、|青葉《あをば》の|中《なか》を|波《なみ》|打《う》たせつつ|進《すす》み|来《きた》れる|饅頭笠《まんじうがさ》、|三本《さんぼん》の|金剛杖《こんがうづゑ》、|黒《くろ》い|脚《あし》が|二本《にほん》、|白《しろ》い|脚《あし》が|四本《しほん》。
|加米彦《かめひこ》『モシモシ|夏彦《なつひこ》の|大将《たいしやう》、|青彦《あをひこ》がどうやら|凱旋《がいせん》と|見《み》えますワイ。|一《ひと》つ|万歳《ばんざい》を|三唱《さんしやう》しませうか。|祝砲《しゆくはう》でも|上《あ》げませうか』
と|言《い》ひも|終《をは》らず「プツプツプウ」と|放射《はうしや》する。
|夏彦《なつひこ》『アーア|煙硝《えんせう》|臭《くさ》い、|屋内《をくない》で|花火《はなび》を|揚《あ》げるのは|険呑《けんのん》だ、|外《そと》へ|行《い》つてやつて|下《くだ》さい』
|加米彦《かめひこ》『モウ|裏《うら》の|言霊《ことたま》は|材料《ざいれう》|欠乏《けつぼう》、これから|表《おもて》の|言霊《ことたま》だ……ウローウロー』
と|唯《ただ》|一人《ひとり》|呶鳴《どな》つて|居《ゐ》る。|近《ちか》づいた|三人《さんにん》の|男女《だんぢよ》、
『ヤア|加米彦《かめひこ》さま、エライ|元気《げんき》だなア』
|加米彦《かめひこ》『サア エライ|元気《げんき》だ。|紫姫《むらさきひめ》に、|青彦《あをひこ》に、モ|一人《ひとり》は……|大方《おほかた》お|節《せつ》だらう。よう|帰《かへ》つて|下《くだ》さつた。サアサア|奮戦《ふんせん》の|情況《じやうきやう》、|委細《つぶさ》に|夏彦《なつひこ》の|御大将《おんたいしやう》に|言上《ごんじやう》|遊《あそ》ばせ』
『アハヽヽヽ』
と|一人《ひとり》の|男《をとこ》は|笠《かさ》を|脱《ぬ》ぐ。
|加米彦《かめひこ》『ヤアお|前《まへ》は|音彦《おとひこ》|様《さま》か。……アヽこれはしたり、|悦子姫《よしこひめ》|様《さま》……ア|何《なん》だ、|五十子姫《いそこひめ》|様《さま》……ヤア|音彦《おとひこ》|様《さま》、お|芽出度《めでた》う。|悦子《よしこ》|女王《ぢよわう》が|居《ゐ》らせられなかつたら、|大変《たいへん》|御夫婦《ごふうふ》ご|愉快《ゆくわい》で|有《あ》りましただらうに……ヤアもう|世《よ》の|中《なか》は|思《おも》う|様《やう》に|行《ゆ》かぬものですナア』
|悦子姫《よしこひめ》『オホヽヽヽ』
|加米彦《かめひこ》『|中《なか》を|隔《へだ》つる|悦子川《よしこがは》かなア、|可哀相《かはいさう》に、|焦《こが》れ|焦《こが》れたコガの|助《すけ》、お|顔《かほ》|見《み》|乍《なが》ら|儘《まま》ならぬ……と|云《い》ふ、|喜劇《きげき》、|悲劇《ひげき》の|活動《くわつどう》|写真《しやしん》……ヤア|兎《と》も|角《かく》お|這入《はい》り|下《くだ》さいませ』
|音彦《おとひこ》『|然《しか》らば|許《ゆる》しめされよ』
|加米彦《かめひこ》『|姫御前《ひめごぜん》と|道中《だうちう》を|遊《あそ》ばしたお|蔭《かげ》で、|大変《たいへん》|言霊《ことたま》が|向上《かうじやう》しました。……サア|夏彦《なつひこ》さま、|今日《けふ》|限《かぎ》り|吾々《われわれ》と|同僚《どうれう》だ、|何時《いつ》までも|女王《ぢよわう》の|代《かは》りは|出来《でき》ませぬぞ。……サア|悦子姫《よしこひめ》|女王《ぢよわう》、ズツと|奥《おく》へお|通《とほ》り|下《くだ》さいませ』
|悦子姫《よしこひめ》『|加米彦《かめひこ》さま、|夏彦《なつひこ》さま、よく|神妙《しんめう》にお|留守《るす》をして|下《くだ》さいました。あなた|方《がた》の|健実《まめ》な|事《こと》、よく|気《き》を|附《つ》けて|下《くだ》さると|見《み》えて、|風流《ふうりう》な|夏草《なつくさ》が|家《いへ》の|周囲《まはり》に|一杯《いつぱい》|生《は》えて|居《を》ります。|小蛇《こへび》でも|出《で》そうに|御座《ござ》いますな。オホヽヽヽ』
|加米彦《かめひこ》、|頭《あたま》を|掻《か》き|乍《なが》ら、
『イヤもう……エー|外《ほか》は|惟神《かむながら》に|任《まか》し、|内《うち》は|一生懸命《いつしやうけんめい》に、|内容《ないよう》の|充実《じゆうじつ》を|主《しゆ》と|致《いた》しました。これが|所謂《いはゆる》|内主外従《ないしゆぐわいじゆう》と|云《い》ふものです』
|悦子姫《よしこひめ》『ホヽヽヽ、|成程《なるほど》|外《そと》には|茫々《ばうばう》と|美《うつく》しい|草《くさ》が|御天道様《おてんだうさま》のお|蔭《かげ》で|繁茂《はんも》して|居《ゐ》ます。|室内《しつない》はザツクバラン、|沢山《たくさん》に|紙片《かみぎれ》が|散乱《さんらん》して、まるで|花見《はなみ》の|庭《には》の|様《やう》です』
|加米彦《かめひこ》『イヤ|此間《こなひだ》から、|夏彦《なつひこ》の|仮《かり》の|大将《たいしやう》、|寝冷《ねび》えを|致《いた》し、|風邪《かぜ》を|引《ひ》いたものですから、|鼻紙《はながみ》をそこら|中《ぢう》に|散《ち》らして|置《お》いたのです。……|一寸《ちよつと》|待《ま》つて|下《くだ》さい。|箒《はうき》で|今《いま》|掃《は》いて|除《の》けます、ウツカリ|踏《ふ》んで|貰《もら》へば、|足《あし》の|裏《うら》にニチヤツとひつつきます。……オイ|夏彦《なつひこ》|鼻紙《はながみ》の|大将《たいしやう》、|何《なに》をグヅグヅして|居《を》るのだ。|此《この》|加米彦《かめひこ》は|何事《なにごと》も|盲従《まうじゆう》して|来《き》たのだ。どうだ、|此《この》|鼻紙《はながみ》を|箒《はうき》で|掃《は》き|散《ち》らしても、お|叱《しか》りは|御座《ござ》いませぬかなア』
|夏彦《なつひこ》『これはこれは|悦子姫《よしこひめ》|様《さま》、|今《いま》|煤掃《すすはき》の|最中《さいちう》へお|帰《かへ》り|下《くだ》さいまして、|誠《まこと》に|申訳《まをしわけ》が|御座《ござ》いませぬ。どうぞ|暫《しばら》く、|裏《うら》の|森林《しんりん》に|美《うつく》しい|花《はな》も|咲《さ》いて|居《ゐ》ます、|恰度《ちやうど》|菖蒲《あやめ》が|真《ま》つ|盛《さか》り、お|三人《さんにん》|共《とも》|暫《しばら》く|御覧《ごらん》なし|下《くだ》さいませ。|其《その》|間《あひだ》に|夏季《かき》|大清潔法《だいせいけつはふ》を|執行《しつかう》|致《いた》します。……オイ|加米彦《かめひこ》、|箒《はうき》だ、|水《みづ》を|汲《く》め、|采払《さいはらひ》だ……』
|加米彦《かめひこ》『|貴様《きさま》はジツとして|手《て》を|出《だ》さずに、|頤《あご》ばつかりで……そう|一度《いちど》に……|千手観音様《せんじゆくわんのんさま》ぢやあるまいに、|水《みづ》を|汲《く》む、|采払《さいはらひ》を|使《つか》ふ、|箒《はうき》を|使《つか》うと|云《い》ふ|事《こと》が|出来《でき》るものか。|貴様《きさま》も|一《ひと》つ|活動《くわつどう》せぬか。|門外《かど》の|燕《つばめ》の|活動《くわつどう》を、チツと|傚《なら》へ』
|夏彦《なつひこ》『ハイハイ|畏《かしこ》まりました』
と|襷《たすき》をかけ、
『わしはお|家《いへ》を|掃除《さうぢ》する。お|前《まへ》は|庭《には》を|掃除《さうぢ》して|呉《く》れ…』
|俄《にはか》にバタバタ、ガタガタ……、
|夏彦《なつひこ》『オイ|常彦《つねひこ》、|板《いた》、|滝《たき》、|手伝《てつだ》ひして|呉《く》れぬか。……ヤアどつか|往《ゆ》きやがつたなア』
と|窓《まど》を|覗《のぞ》き、
『ヤア|一生懸命《いつしやうけんめい》に|草《くさ》をひいて|居《を》るワイ』
|半時《はんとき》ばかりかかつて|大掃除《おほさうぢ》を、|吐血《とけつ》の|起《お》こつた|様《やう》な|騒《さわ》ぎでやつてのけた。|時《とき》を|見計《みはか》らひ|悦子姫《よしこひめ》、|音彦《おとひこ》、|五十子姫《いそこひめ》、ニコニコし|乍《なが》ら、
|音彦《おとひこ》『ヤア|俄《にはか》に|参《まゐ》りまして、エライ|御雑作《ござふさ》をかけました』
|加米彦《かめひこ》『ヤア|有難《ありがた》う。|斯《こ》う|云《い》ふ|事《こと》が|無《な》ければ、モウ|一月《ひとつき》も|経《た》たぬ|内《うち》に、|此《この》|家《いへ》は|草《くさ》の|中《なか》に|沈没《ちんぼつ》する|所《ところ》でした。アハヽヽヽ』
|音彦《おとひこ》『|身魂《みたま》|相応《さうおう》の|御住宅《ごぢうたく》で……』
|悦子姫《よしこひめ》『オホヽヽヽ』
|茲《ここ》に|八《やつ》つの|笠《かさ》の|台《だい》は、|畳《たたみ》の|上《うへ》に|二列《にれつ》に|並列《へいれつ》した。|悦子姫《よしこひめ》を|始《はじ》め|一同《いちどう》は、|互《たがひ》に|久濶《きうくわつ》を|叙《じよ》し、|打解話《うちとけばなし》に|時《とき》を|移《うつ》す。|折《をり》しも|門口《かどぐち》に|現《あら》はれ|来《きた》る|馬公《うまこう》、|鹿公《しかこう》、
『モシモシ|夏彦《なつひこ》さま、|馬《うま》、|鹿《しか》の|両人《りやうにん》です。|御注進《ごちうしん》に|参《まゐ》りました』
と|門口《かどぐち》より|呶鳴《どな》り|込《こ》んだ。
|夏彦《なつひこ》『ヤア|馬公《うまこう》に|鹿公《しかこう》、よう|帰《かへ》つて|来《き》た。|併《しか》し|今日《けふ》は|奥《おく》に|珍《めづ》らしいお|客《きやく》さまだ。|御主人公《ごしゆじんこう》の|紫姫《むらさきひめ》さま|始《はじ》め|青彦《あをひこ》はどうなつた』
|馬公《うまこう》『|只今《ただいま》|結構《けつこう》な|生神《いきがみ》さまの|玉子《たまご》を|奉迎《ほうげい》して、これへお|帰《かへ》りになります。どうぞ|座敷《ざしき》を|片付《かたづ》けて、|充分《じゆうぶん》|清潔《せいけつ》にして|待《ま》つて|居《ゐ》て|呉《く》れいとの、|青彦《あをひこ》さまの|御命令《ごめいれい》、|宙《ちう》を|飛《と》んで|御報告《ごはうこく》に|参《まゐ》りました。やがて|御入来《ごじゆらい》になりませう』
|夏彦《なつひこ》『アーそれはそれは|御苦労《ごくらう》でした。マア|一服《いつぷく》して|下《くだ》さい』
とイソイソとして|奥《おく》に|入《い》り、
『|悦子姫《よしこひめ》|様《さま》、|只今《ただいま》|紫姫《むらさきひめ》|様《さま》、|青彦《あをひこ》がこれへ|帰《かへ》つて|来《く》るそうで|御座《ござ》います』
|悦子姫《よしこひめ》『アーそうだらう。|床《とこ》の|間《ま》もよく|掃除《さうぢ》して|御待受《おまちう》けを|致《いた》しませう。キツと|玉照姫《たまてるひめ》|様《さま》の|御光来《おいで》でせう』
|夏彦《なつひこ》『そんな|事《こと》が|御座《ござ》いませうかなア。どうして|又《また》それが|分《わか》りますか』
|悦子姫《よしこひめ》『|何事《なにごと》も|英子姫《ひでこひめ》|様《さま》の|御経綸《ごけいりん》、キツと|今《いま》にお|越《こ》しになります』
|斯《か》く|言《い》ふ|所《ところ》へ、|丹州《たんしう》を|先頭《せんとう》に、お|玉《たま》は|玉照姫《たまてるひめ》を|恭《うやうや》しく|捧持《ほうぢ》し、|紫姫《むらさきひめ》、|青彦《あをひこ》、お|節《せつ》の|一行《いつかう》ゾロゾロと|此《この》|一《ひと》つ|家《や》に|勢《いきほひ》よく|入《い》り|来《きた》る。|加米彦《かめひこ》、|慌《あわて》て|飛《と》んで|出《い》で、
|加米彦《かめひこ》『ヤア|杏《あんず》るより|桃《もも》が|安《やす》い。|今日《けふ》はモモだらけだ。モウモウ|忙《いそが》しうて|忙《いそが》しうて、|嬉《うれ》しいやら|面白《おもしろ》いやら、|勇《いさ》ましいやら、|根《ね》つから、|葉《は》つから|見当《けんたう》が|取《と》れなくなつた。|改心《かいしん》|致《いた》すとマサカの|時《とき》に、|嬉《うれ》しうてキリキリ|舞《まひ》を|致《いた》す|身魂《みたま》と、|辛《つら》うてキリキリ|舞《まひ》|致《いた》す|身魂《みたま》とが|出来《でき》るぞよ……とは|此《この》|事《こと》だ。サアサア|皆《みな》さま、ズツと|奥《おく》へ、キリキリ|舞《ま》ひもつてお|這入《はい》り|下《くだ》さいませ……ドツコイシヨのヤツトコシヨ…』
と|面白《おもしろ》い|手《て》つきをして|踊《をど》つて|居《を》る。|青彦《あをひこ》、
|青彦《あをひこ》『コレコレ|加米彦《かめひこ》さま、|早《はや》く|玉照姫《たまてるひめ》|様《さま》を、|悦子姫《よしこひめ》|様《さま》に|御紹介《ごせうかい》して|下《くだ》さい』
|悦子姫《よしこひめ》は|奥《おく》より|走《はし》り|来《きた》り、|恭《うやうや》しく|拍手《はくしゆ》し、|嬉《うれ》し|涙《なみだ》をタラタラと|流《なが》し|乍《なが》ら、
|悦子姫《よしこひめ》『|玉照姫《たまてるひめ》|様《さま》、よくもお|越《こ》し|下《くだ》さいました。これで|愈《いよいよ》|神政成就《しんせいじやうじゆ》|疑《うたがひ》なし。アヽ|有難《ありがた》し、|辱《かたじけ》なし』
と|言《い》つた|限《き》り、|嬉《うれ》し|涙《なみだ》に|暮《く》れて、|顔《かほ》さへあげず|泣《な》きいる。
|加米彦《かめひこ》『これはこれは|悦子姫《よしこひめ》の|女王様《ぢよわうさま》、|何《なに》を|此《この》|芽出度《めでた》い|時《とき》に、メソメソお|泣《な》き|遊《あそ》ばすのだ。ヤツパリ|女《をんな》は|女《をんな》だなア。|涙脆《なみだもろ》いと|見《み》えるワイ。アヽ|矢張《やつぱ》り|俺《おれ》も|何《なん》だか|泣《な》きたくなつて|来《き》た、アンアンアン』
|青彦《あをひこ》は|歌《うた》ふ、
『|神素盞嗚大神《かむすさのをのおほかみ》の  |御言《みこと》|畏《かしこ》み|曇《くも》りたる
|世《よ》を|照《てら》さむと|英子姫《ひでこひめ》  |神《かみ》の|仕組《しぐみ》を|奥山《おくやま》の
|心《こころ》に|深《ふか》く|包《つつ》みつつ  |隠《かく》して|容易《ようい》に|弥仙山《みせんざん》
|万代《よろづよ》|祝《いは》ふ|亀彦《かめひこ》を  |伴《ともな》ひ|聖地《せいち》を|後《あと》にして
|国《くに》の|栄《さか》えも|豊彦《とよひこ》が  |娘《むすめ》のお|玉《たま》に|木花《このはな》の
|姫《ひめ》の|命《みこと》の|分霊《わけみたま》  |咲耶《さくや》の|姫《ひめ》を|取《と》り|懸《か》けて
|後《あと》|白雲《しらくも》と|帰《かへ》り|行《ゆ》く  |心《こころ》も|春《はる》の|山家道《やまがみち》
|折《をり》こそよけれ|悦子姫《よしこひめ》  |音彦《おとひこ》、|加米彦《かめひこ》、|夏彦《なつひこ》が
|川辺《かはべ》の|木蔭《こかげ》に|立寄《たちよ》りて  |英子《ひでこ》の|姫《ひめ》の|神界《しんかい》の
それとはなしに|秘事《ひめごと》を  |以心伝心《いしんでんしん》|語《かた》りつつ
|父《ちち》に|近江《あふみ》の|竹生島《ちくぶしま》  |足《あし》を|速《はや》めて|出《い》で|給《たま》ふ。
|悦子《よしこ》の|姫《ひめ》は|急坂《きふはん》を  |三人《みたり》の|男《をとこ》と|諸共《もろとも》に
|辿《たど》りて、やうやう|弥仙山《みせんざん》  |麓《ふもと》に|建《た》てる|豊彦《とよひこ》が
|賤《しづ》の|伏家《ふせや》に|立寄《たちよ》りて  |俄《にはか》|産婆《さんば》の|神業《しんげふ》に
|思《おも》ひも|寄《よ》らぬ|貴《うづ》の|声《こゑ》  お|玉《たま》の|腹《はら》を|藉《か》つて|出《で》た
|玉照姫《たまてるひめ》を|取《と》りあげて  イソイソ|帰《かへ》る|世継王《よつわう》の
|山《やま》の|麓《ふもと》に|霊場《れいぢやう》を  |卜《ぼく》して|庵《いほり》を|結《むす》びつつ
|二人《ふたり》の|男《をとこ》に|留守《るす》をさせ  |紫姫《むらさきひめ》に|何事《なにごと》か
|囁《ささや》き|合《あ》ひて|右左《みぎひだ》り  |悦子《よしこ》の|姫《ひめ》は|近江路《あふみぢ》へ
|紫姫《むらさきひめ》や|青彦《あをひこ》は  |馬《うま》、|鹿《しか》|二人《ふたり》を|伴《ともな》ひて
|西北《せいほく》|指《さ》して|進《すす》み|行《ゆ》く  |船岡山《ふなをかやま》の|山麓《さんろく》に
かかる|折《をり》しも|夕闇《ゆふやみ》を  |透《すか》して|聞《きこ》ゆる|叫《さけ》び|声《ごゑ》
|青彦《あをひこ》、|馬《うま》、|鹿《しか》|三人《さんにん》は  |声《こゑ》を|尋《たづ》ねて|暗《やみ》の|路《みち》
|進《すす》む|折《をり》しもウラナイの  |道《みち》の|教《をしへ》の|滝《たき》、|板《いた》が
|一人《ひとり》の|女《をんな》を|引捉《ひつとら》へ  |松《まつ》の|古木《こぼく》に|縛《しば》りつけ
|権謀術数《けんぼうじゆつすう》の|最中《さいちう》を  |闇《やみ》を|幸《さいは》ひ|黒姫《くろひめ》の
|声色《こわいろ》|使《つか》ふ|鹿公《しかこう》が  |早速《さつそく》の|頓智《とんち》、|滝《たき》、|板《いた》は
おののき|怖《おそ》れ|幽霊《いうれい》と  |思《おも》ひ|誤《あやま》り|谷底《たにそこ》に
スツテンコロリと|転落《てんらく》し  |腰骨《こしぼね》|打《う》つてウンウンと
|闇《やみ》に|苦《くるし》む|憐《あは》れさよ  |紫姫《むらさきひめ》は|三人《さんにん》の
|男《をとこ》にお|節《せつ》を|守《まも》らせつ  |進《すす》んで|来《きた》る|元伊勢《もといせ》の
|稜威《いづ》の|御前《みまへ》に|参拝《さんぱい》し  |天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》し
|神示《しんじ》を|仰《あふ》ぐ|時《とき》もあれ  |谷《たに》に|聞《きこ》ゆる|言霊《ことたま》の
|怪《あや》しき|響《ひびき》に|青彦《あをひこ》は  |紫姫《むらさきひめ》を|伴《ともな》ひて
|剣先山《けんさきやま》の|深谷《ふかたに》を  |尋《たづ》ねて|行《ゆ》けば、こは|如何《いか》に
|顔色《かほいろ》|黒《くろ》き|黒姫《くろひめ》が  |二人《ふたり》の|男《をとこ》と|諸共《もろとも》に
|一心不乱《いつしんふらん》に|水垢離《みづごうり》  |其《その》|熱烈《ねつれつ》な|信仰《しんかう》に
|何《いづ》れも|肝《きも》を|冷《ひや》しつつ  |紫姫《むらさきひめ》や|青彦《あをひこ》は
|何《なに》か|心《こころ》に|諾《うなづ》きつ  |俄《にはか》に|変《かは》るウラナイの
|神《かみ》の|教《をしへ》の|宣伝使《せんでんし》  |馬公《うまこう》、|鹿公《しかこう》|諸共《もろとも》に
|魔窟ケ原《まくつがはら》に|築《きづ》きたる  |黒姫館《くろひめやかた》に|出《いで》て|行《ゆ》く
|高山彦《たかやまひこ》や|黒姫《くろひめ》は  |相好《さうがう》|崩《くづ》してニコニコと
|忽《たちま》ち|変《かは》る|地蔵顔《ぢざうがほ》  |勝《か》ち|誇《ほこ》りたる|会心《くわいしん》の
|笑《ゑみ》にあたりの|雰囲気《ふんゐき》は  |乾燥《かんさう》|無味《むみ》の|岩窟《がんくつ》も
|忽《たちま》ち|春《はる》の|花《はな》|咲《さ》いて  |飲《の》めよ|騒《さわ》げの|賑《にぎ》はしさ
|大洪水《だいこうずゐ》の|氾濫《はんらん》し  |堤防《ていぼう》|崩《くづ》した|如《ごと》くなる
|乱痴気《らんちき》|騒《さわ》ぎの|最中《さいちう》に  |阿修羅《あしゆら》の|如《ごと》き|勢《いきほひ》で
|現《あら》はれ|来《きた》る|常彦《つねひこ》が  |滝公《たきこう》|板公《いたこう》|伴《ともな》ひて
|青彦《あおひこ》さまが|胸《むね》の|内《うち》  |知《し》らぬが|仏《ほとけ》の|黒姫《くろひめ》や
|折柄《をりから》|来《きた》れる|高姫《たかひめ》に  |喰《く》つてかかつた|可笑《おか》しさよ
|可哀相《かあいさう》とは|知《し》り|乍《なが》ら  |時《とき》を|繕《つくろ》ふ|青彦《あをひこ》が
|早速《さそく》の|頓智《とんち》、|棍棒《こんぼう》を  |打《う》ち|振《ふ》り|打《う》ち|振《ふ》り|常彦《つねひこ》が
|体《からだ》を|目《め》がけて|滅多打《めつたうち》  |地蟹《づがに》の|様《やう》に|泡《あわ》|吹《ふ》いて
|涙《なみだ》を|流《なが》す|滝公《たきこう》や  |痛々《いたいた》しげに|板公《いたこう》が
|雲《くも》を|霞《かすみ》と|逃《にげ》て|行《ゆ》く  この|振舞《ふるまひ》に|高姫《たかひめ》や
|道《みち》に|迷《まよ》うた|黒姫《くろひめ》が  |始《はじ》めてヤツと|気《き》を|許《ゆる》し
|紫姫《むらさきひめ》や|青彦《あをひこ》に  |大事《だいじ》の|大事《だいじ》の|宝物《たからもの》
|玉照姫《たまてるひめ》の|人質《ひとじち》を  |何《ど》の|気《き》もなく|吾々《われわれ》に
|渡《わた》して|呉《く》れた|其《その》お|蔭《かげ》  |綾彦《あやひこ》、お|民《たみ》を|伴《ともな》ひて
|心《こころ》イソイソ|山坂《やまさか》を  |右《みぎ》に|左《ひだり》に|飛《と》び|越《こ》えつ
|於与岐《およぎ》の|里《さと》の|豊彦《とよひこ》が  |館《やかた》に|到《いた》りいろいろと
|一伍一什《いちぶしじふ》を|物語《ものがた》る  |紫姫《むらさきひめ》の|言霊《ことたま》に
|豊彦《とよひこ》|夫婦《ふうふ》は|雀踊《こをど》りし  お|玉《たま》を|添《そ》へて|玉照《たまてる》の
|姫《ひめ》の|命《みこと》の|貴《うづ》の|御子《みこ》  |一《いち》も|二《に》もなく|奉《たてまつ》る
|大願《たいぐわん》|成就《じやうじゆ》、|大勝利《だいしようり》  |長居《ながゐ》は|恐《おそ》れ|又《また》|御意《ぎよい》の
|変《かは》らぬ|内《うち》に|帰《かへ》らむと  |丹州《たんしう》、お|玉《たま》に|送《おく》られて
イヨイヨ|聖地《せいち》に|来《き》て|見《み》れば  |思《おも》ひかけぬは|悦子姫《よしこひめ》
|科戸《しなど》の|風《かぜ》の|音彦《おとひこ》や  |心《こころ》いそいそ|五十子姫《いそこひめ》
|並《なら》ぶ|五月《ごぐわつ》の|雛祭《ひなまつり》  |悠々然《いういうぜん》と|構《かま》へ|居《ゐ》る
|此方《こなた》の|隅《すみ》を|眺《なが》むれば  |常《つね》に|変《かは》つた|常彦《つねひこ》が
むつかしい|顔《かほ》の|紐《ひも》を|解《と》き  |滝公《たきこう》、|板公《いたこう》|従《したが》へて
|坐《すわ》つて|御座《ござ》る|勇《いさ》ましさ  |剽軽者《へうきんもの》の|加米彦《かめひこ》が
|主人《あるじ》の|留守《るす》を|幸《さいは》ひに  なまくら、したる|其《その》|酬《むく》ゐ
|捻鉢巻《ねぢはちまき》に|尻《しり》からげ  |庭《には》を|掃《は》くやら|采払《さいはら》ひ
そこらバタバタ|叩《たた》くやら  |戸口《とぐち》の|外《そと》を|眺《なが》むれば
|蛙《かわづ》や|蛇《へび》の|巣窟《さうくつ》と  なつた|庭《には》をば|滝《たき》、|板《いた》の
|二人《ふたり》は|忽《たちま》ち|頬《ほほ》かぶり  |汗《あせ》をタラタラ|流《なが》しつつ
|狼狽《うろた》へ|騒《さわ》ぐ|草《くさ》むしり  |蓬ケ原《よもぎがはら》を|掻《か》き|分《わ》けて
|黄金《こがね》|花《はな》|咲《さ》く|今日《けふ》の|空《そら》  |黄金《こがね》の|峰《みね》に|現《あら》はれし
|木花姫《このはなひめ》の|分霊《わけみたま》  |咲耶《さくや》の|姫《ひめ》の|再来《さいらい》と
|仰《あふ》ぐ|玉照姫《たまてるひめ》の|神《かみ》  |迎《むか》へ|奉《まつ》りて|三五《あななひ》の
|教《をしへ》を|守《まも》る|元津神《もとつかみ》  |国武彦《くにたけひこ》の|隠《かく》れます
|世継王山《よつわうざん》の|表口《おもてぐち》  |朝日《あさひ》|輝《かがや》く|夕日《ゆうひ》|照《て》る
これの|聖地《せいち》に|永久《とこしへ》に  |鎮《しづ》まり|居《ゐ》まして|常闇《とこやみ》の
|天《あま》の|岩戸《いはと》を|開《ひら》きます  ミクロの|御代《みよ》の|礎《いしずゑ》と
|寿《ことほ》ぎまつる|今日《けふ》の|空《そら》  |壬戌《みづのえいぬ》の|閏《うる》|五月《ごぐわつ》
|五日《いつか》の|宵《よひ》の|此《この》|仕組《しぐみ》  イツカは|晴《は》れて|松《まつ》の|世《よ》の
|栄《さかえ》を|見《み》るぞ|目出度《めでた》けれ  アヽ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さち》はへましませよ』
と|青彦《あをひこ》は|声《こゑ》も|涼《すず》しく|謡《うた》ひ|終《をは》りぬ。|十八《じふはち》バムの|仮字《かな》に|因《ちな》みし|松《まつ》の|神代《かみよ》の|物語《ものがたり》、|松竹梅《まつたけうめ》と|祝《いは》ひ|納《をさ》むる。
(大正一一・四・二八 旧四・二 松村真澄録)
(昭和一〇・六・三 王仁校正)
|霊《たま》の|礎《いしずゑ》(四)
一、|真神《しんしん》|又《また》は|厳瑞《げんずゐ》なる|主神《すしん》に|認《みと》められ|愛《あい》せられ|信《しん》ぜられ|又《また》|主神《しゆしん》を|認《みと》め|深《ふか》く|信《しん》じ|厚《あつ》く|愛《あい》する|所《ところ》には|必《かなら》ず|天国《てんごく》が|開《ひら》かれるものである。|諸多《しよた》の|団体《だんたい》に|於《お》ける|善徳《ぜんとく》の|不同《ふどう》よりして、|主神《しゆしん》を|礼拝《れいはい》するその|方法《はうはふ》も|亦《また》|同一《どういつ》でない、|故《ゆゑ》に|天国《てんごく》にも|差等《さとう》あり|人《ひと》の|往生《わうじやう》すべき|天国《てんごく》に|相違《さうゐ》が|出来《でき》るのである。|併《しか》し|乍《なが》ら|天国《てんごく》の|円満《ゑんまん》なるは|此《かく》の|如《ごと》く|不同《ふどう》あるが|故《ゆゑ》である。|同一《どういつ》の|花《はな》の|咲《さ》く|樹《き》にも|種々《しゆじゆ》の|枝振《えだぶ》りもあり|花《はな》にも|満開《まんかい》のもの|半開《はんかい》のもの|莟《つぼみ》の|儘《まま》のものがあつて、|一《ひと》つの|花樹《くわじゆ》の|本分《ほんぶん》を|完全《くわんぜん》に|尽《つく》して|居《ゐ》るやうなものである。
一、|天国《てんごく》は|各種《かくしゆ》|各様《かくやう》の|分体《ぶんたい》より|形成《けいせい》したる|単元《たんげん》であつて、その|分体《ぶんたい》は|最《もつと》も|円満《ゑんまん》なる|形式《けいしき》の|中《なか》に|排列《はいれつ》せられて|居《ゐ》る。|凡《すべ》て|円満《ゑんまん》|具足《ぐそく》の|相《さう》なるものは|諸分体《しよぶんたい》の|調節《てうせつ》より|来《きた》るものといふことは|吾人《ごじん》の|諸々《もろもろ》の|感覚《かんかく》や|外心《ぐわいしん》を|動《うご》かす|所《ところ》の|一切《いつさい》の|美《び》なるもの|楽《たの》しきもの|心《こころ》ゆくものの|性質《せいしつ》を|見《み》れば|分明《ぶんめい》である。|数多《あまた》の|相和《あひわ》し|相協《あいかな》うた|分体《ぶんたい》があつて|或《あるひ》は|同時《どうじ》に|或《あるひ》は|連続《れんぞく》して|節奏《せつそう》および|調和《てうわ》を|生《しやう》ずるより|起《おこ》り|来《きた》るもので|決《けつ》して|単独《たんどく》の|事物《じぶつ》より|発《はつ》せないものである。|故《ゆゑ》に|種々《しゆじゆ》の|変化《へんくわ》は|快感《くわいかん》を|生《しやう》ずるに|到《いた》ることは|吾人《ごじん》の|日夜《にちや》|目撃《もくげき》|実証《じつしよう》する|所《ところ》である。そして|此《この》|快感《くわいかん》の|性相《せいさう》を|定《さだ》むるは|変化《へんくわ》の|性質《せいしつ》|如何《いかん》にあるのである。|天国《てんごく》に|於《お》ける|円満《ゑんまん》|具足《ぐそく》の|実相《じつさう》は|種々《しゆじゆ》の|変態《へんたい》に|帰因《きいん》することを|明《あきら》め|得《え》らるるのである。
一、|天国《てんごく》の|全体《ぜんたい》は|一《ひとつ》の|巨人《きよじん》に|譬《たと》ふ|可《べ》きものである。|故《ゆゑ》に|甲《かふ》の|天国《てんごく》|団体《だんたい》はその|頭部《とうぶ》に|又《また》は|頭部《とうぶ》の|或《あ》る|局所《きよくしよ》に|在《あ》る|様《やう》なものである。|乙《おつ》|天国《てんごく》の|団体《だんたい》は|胸部《きようぶ》に|又《また》|胸部《きようぶ》の|或《あ》る|局所《きよくしよ》にある。|丙《へい》|天国《てんごく》の|団体《だんたい》は|腰部《えうぶ》|又《また》は|腰部《えうぶ》の|或《あ》る|局所《きよくしよ》に|在《あ》る|如《ごと》きものである。|故《ゆゑ》に|最上《さいじやう》|天国《てんごく》|即《すなは》ち|第一天国《だいいちてんごく》は|頭部《とうぶ》より|頸《くび》に|至《いた》るまでを|占《し》め、|中間《ちうかん》|即《すなは》ち|第二《だいに》|天国《てんごく》は|胸部《きようぶ》より|腰《こし》|及《およ》び|膝《ひざ》の|間《あひだ》を|占《し》め、|最下《さいか》|即《すなは》ち|第三《だいさん》|天国《てんごく》は|脚部《きやくぶ》より|脚底《きやくてい》と|臂《ひぢ》より|指頭《しとう》の|間《あひだ》を|占《し》めて|居《ゐ》る|様《やう》なものである。
一、|天国《てんごく》は|決《けつ》して|上《うへ》の|方《はう》|而已《のみ》に|在《あ》るもので|無《な》い。|上方《じやうはう》にも|中間《ちうかん》にも|下方《かはう》にも|存在《そんざい》するものである。|人間《にんげん》の|肉体《にくたい》に|上下《じやうげ》の|区別《くべつ》なく|頭部《とうぶ》より|脚底《きやくてい》に|至《いた》るまでそれぞれ|意志《いし》の|儘《まま》に|活動《くわつどう》する|資質《ししつ》ある|如《ごと》きものである。|故《ゆゑ》に|天国《てんごく》の|下面《かめん》に|住《す》む|精霊《せいれい》もあり、|天人《てんにん》もある、|又《また》|天国《てんごく》の|上面《じやうめん》に|住《す》むのも|中間《ちうかん》に|住《す》むのもある。|天《てん》の|高天原《たかあまはら》もあり|地《ち》の|高天原《たかあまはら》も|在《あ》つて|各自《かくじ》その|善徳《ぜんとく》の|相違《さうゐ》に|由《よ》つて|住所《ぢうしよ》を|異《こと》にするのである。
一、|宇宙間《うちうかん》に|於《おい》ては|一物《いちぶつ》と|雖《いへど》も|決《けつ》して|失《うしな》はるる|事《こと》も|無《な》く、|又《また》|一物《いちぶつ》も|静止《せいし》して|居《ゐ》るものでは|無《な》い。|故《ゆゑ》に|輪廻転生《りんねてんしやう》|即《すなは》ち|再生《さいせい》と|云《い》ふことは|有《あ》り|得《う》べきものである。|然《しか》るに|生前《せいぜん》の|記憶《きおく》や|意志《いし》が|滅亡《めつぼう》した|後《のち》に|矢張《やはり》|個人《こじん》と|云《い》ふものが|再生《さいせい》して|行《ゆ》くとすれば、|約《つま》り|自分《じぶん》が|自分《じぶん》であると|云《い》ふ|事《こと》を|知《し》らずに|再生《さいせい》するものならば|再生《さいせい》せないも|同《おな》じことであると|云《い》ふ|人《ひと》がある。|実《じつ》に|尤《もつと》もな|言《い》ひ|分《ぶん》である。|凡《すべ》て|人間《にんげん》の|意志《いし》や|情動《じやうだう》なるものは、|何処《どこ》までも|朽《くち》ないものである|以上《いじやう》は、|霊魂《れいこん》|不滅《ふめつ》の|上《うへ》から|見《み》ても|記憶《きおく》や|意志《いし》を|有《もつ》て|天国《てんごく》へ|行《ゆ》くものである。|然《しか》し|現界《げんかい》へ|再生《さいせい》する|時《とき》は|一旦《いつたん》その|肉体《にくたい》が|弱少《じやくせう》となるを|以《もつ》て|容易《ようい》に|記憶《きおく》を|喚起《くわんき》することは|出来《でき》ないのである。|又《また》|記憶《きおく》して|居《ゐ》ても|何《なん》の|益《えき》する|所《ところ》なき|而已《のみ》ならず、|種々《しゆじゆ》の|人生上《じんせいじやう》|弊害《へいがい》が|伴《ともな》ふからである。|之《これ》に|反《はん》して|天国《てんごく》へ|往《ゆ》く|時《とき》はその|記憶《きおく》も|意念《いねん》も|益々《ますます》|明瞭《めいれう》に|成《な》つて|来《く》るものである。|故《ゆゑ》に|天国《てんごく》にては|再生《さいせい》と|云《い》はず、|復活《ふくくわつ》と|云《い》ふのである。
一、|科学的《くわがくてき》の|交霊論者《かうれいろんしや》は|人霊《じんれい》の|憑依《ひようい》せし|情況《じやうきやう》や|死後《しご》の|世界《せかい》に|就《つ》いて|種々《しゆじゆ》と|論弁《ろんべん》を|試《こころ》みて|居《ゐ》るのは|全然《ぜんぜん》|無用《むよう》の|業《わざ》でもない。|然《しか》し|乍《なが》ら|彼等《かれら》の|徒《と》は|最初《さいしよ》と|最後《さいご》の|此《こ》の|二《ふた》つの|謎《なぞ》の|間《あひだ》に|板挟《いたばさ》みの|姿《すがた》で、|其《その》|言《い》ふ|所《ところ》を|知《し》らない|有様《ありさま》である。|彼等《かれら》はホンの|少時間《せうじかん》、|時間《じかん》と|云《い》ふものを|最早《もはや》|数《かぞ》へることの|出来《でき》ぬ|世界《せかい》へホンの|一足《ひとあし》|許《ばか》り|死者《ししや》の|跡《あと》をつけて|行《ゆ》くだけであつて、|闇黒《あんこく》の|中《なか》で|其《その》|儘《まま》|茫然《ばうぜん》としてその|行衛《ゆくゑ》を|失《うしな》つて|了《しま》つて|居《ゐ》る。|彼等《かれら》に|対《たい》して|宇宙《うちう》の|秘密《ひみつ》や|真相《しんさう》を|闡明《せんめい》せよと|言《い》つた|所《ところ》で、|到底《たうてい》ダメである。
一、|宇宙《うちう》の|秘密《ひみつ》や|真相《しんさう》は|到底《たうてい》|二言《ふたこと》や|三言《みこと》で|現代人《げんだいじん》の|脳裡《なうり》に|入《い》るものでは|無《な》い。|又《また》|本当《ほんたう》にこれを|物語《ものがた》つた|所《ところ》で|到底《たうてい》|人間《にんげん》の|頭脳《づなう》に|這入《はい》り|切《き》れるものでは|無《な》い。|人間《にんげん》の|分際《ぶんざい》としては|如何《いか》なる|聖人《せいじん》も|賢哲《けんてつ》も|決《けつ》して|天国《てんごく》や|霊界《れいかい》の|秘密《ひみつ》や|真相《しんさう》を|握《にぎ》る|事《こと》は|不可能《ふかのう》だと|信《しん》じて|居《ゐ》る。|何《なん》となれば|此《この》|秘密《ひみつ》や|真相《しんさう》は|宇宙《うちう》それ|自身《じしん》の|如《ごと》く|無限《むげん》で|絶対《ぜつたい》で|不可測《ふかそく》で|窮極《きうきよく》する|所《ところ》の|無《な》いものだからである。
一、|死者《ししや》が|矢張《やは》り|霊界《れいかい》に|生《いき》て|居《ゐ》るならば、|彼等《かれら》は|何等《なにら》かの|方法《はうはふ》を|用《もち》ゐてなりと|吾々《われわれ》に|教《をし》へて|呉《く》れさうなものだと|云《い》ふ|人《ひと》がある。|然《しか》しながら|死者《ししや》が|吾々《われわれ》に|話《はなし》をすることが|出来《でき》る|時分《じぶん》には|死者《ししや》の|方《はう》に|於《おい》て|何《なに》も|吾々《われわれ》に|報告《はうこく》すべき|材料《ざいれう》を|持《も》つて|居《ゐ》ないし、|又《また》|何《なに》か|話《はな》すべき|程《ほど》の|事柄《ことがら》を|知《し》り|得《え》た|時分《じぶん》には、|死者《ししや》は|最早《もはや》|吾々《われわれ》と|交通《かうつう》の|出来《でき》ない|天国《てんごく》へ|上《のぼ》つて、|永久《とこしへ》に|吾々《われわれ》|人間《にんげん》と|懸《か》け|離《はな》れて|了《しま》つて|居《ゐ》るからである。
大正十一年十二月
(昭和一〇・六・三 王仁校正)
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霊界物語 第一八巻 如意宝珠 巳の巻
終り