霊界物語 第一五巻 如意宝珠 寅の巻
出口王仁三郎
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●テキスト中に現れる記号について
《》……ルビ
|……ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)天地|剖判《ぼうはん》の
[#]……入力者注
【】……傍点が振られている文字列
(例)【ヒ】は火なり
●シフトJISコードに無い文字は他の文字に置き換え、そのことをWebサイトに「相違点」として記した。
●底本
『霊界物語 第十五巻』愛善世界社
1996(平成08)年02月03日 第一刷発行
※現代では差別的表現と見なされる箇所もあるが修正はせずにすべて底本通りにした。
※図表などのレイアウトは完全に再現できるわけではないので適宜変更した。
※詳細な凡例は次のウェブサイト内に掲載してある。
http://www.onisavulo.jp/
※作成者…『王仁三郎ドット・ジェイピー』
2004年04月01日作成
2008年06月23日修正
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●目次
|序《じよ》
|凡例《はんれい》
|総説歌《そうせつか》
第一篇 |正邪《せいじや》|奮戦《ふんせん》
第一章 |破羅門《ばらもん》〔五六八〕
第二章 |途上《とじやう》の|変《へん》〔五六九〕
第三章 |十六花《じふろくくわ》〔五七〇〕
第四章 |神《かみ》の|栄光《えいくわう》〔五七一〕
第五章 |五天狗《ごてんぐ》〔五七二〕
第六章 |北山川《きたやまがは》〔五七三〕
第七章 |釣瓶攻《つるべぜめ》〔五七四〕
第八章 ウラナイ|教《けう》〔五七五〕
第九章 |薯蕷汁《とろろじる》〔五七六〕
第一〇章 |神楽舞《かぐらまひ》〔五七七〕
第二篇 |古事記《こじき》|言霊解《ことたまかい》
第一一章 |大蛇《をろち》|退治《たいぢ》の|段《だん》〔五七八〕
第三篇 |神山霊水《しんざんれいすゐ》
第一二章 |一人旅《ひとりたび》〔五七九〕
第一三章 |神女《しんぢよ》|出現《しゆつげん》〔五八〇〕
第一四章 |奇《くし》の|岩窟《がんくつ》〔五八一〕
第一五章 |山《やま》の|神《かみ》〔五八二〕
第一六章 |水上《すゐじやう》の|影《かげ》〔五八三〕
第一七章 |窟《いはや》の|酒宴《しゆえん》〔五八四〕
第一八章 |婆々勇《ばばいさみ》〔五八五〕
第四篇 |神行霊歩《しんかうれいほ》
第一九章 |第一《だいいち》|天国《てんごく》〔五八六〕
第二〇章 |五十世紀《ごじつせいき》〔五八七〕
第二一章 |帰顕《きけん》〔五八八〕
第二二章 |和《わ》と|戦《せん》〔五八九〕
第二三章 |八日《やうか》の|月《つき》〔五九〇〕
|跋文《ばつぶん》
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|序《じよ》
|光陰《くわういん》の|経過《けいくわ》は|電波《でんぱ》の|如《ごと》く、この|物語《ものがたり》の|口述《こうじゆつ》を|始《はじ》めしより、|最早《もはや》|満《まん》|六ケ月《ろくかげつ》に|十日《とをか》の|日数《につすう》を|欠《か》くのみ、その|間《あひだ》に|神事《しんじ》や|家事《かじ》その|他《た》|訪問者《はうもんしや》に|対《たい》する|応答《おうたふ》や、|種々雑多《しゆじゆざつた》の|用務《ようむ》に|妨《さまた》げられ|意《い》の|如《ごと》く|運《はこ》ばず、|予定《よてい》の|二十巻《にじつくわん》を|満《まん》|六カ月間《ろくかげつかん》に|仕上《しあ》げ|得《え》ざりしは、|口述者《こうじゆつしや》として|最《もつと》も|遺憾《ゐかん》とする|所《ところ》であります。|何事《なにごと》も|世間《せけん》|一切《いつさい》の|事《こと》は|予期《よき》の|如《ごと》く|進《すす》まないものたることを|切《せつ》に|感《かん》じました。
もうこの|上《うへ》は|梟《ふくろ》の|宵企《よひだく》みは|全廃《ぜんぱい》して、|只々《ただただ》|惟神《かむながら》に|進《すす》む|考《かんが》へであります。
|開闢《かいびやく》の|太初《たいしよ》より|数十万年《すふじふまんねん》の|未来《みらい》に|亘《わた》りての、|際限《さいげん》なき|夢物語《ゆめものがたり》なれば、|確《かく》たる|冊数《さつすう》も|殆《ほとん》ど|予測《よそく》する|事《こと》が|出来《でき》ませぬ。また|第十三巻《だいじふさんくわん》よりは|少《すこ》しく、|物語《ものがたり》の|形式《けいしき》と|用語《ようご》が|変《かは》つて|居《を》りますが、|何《なに》とぞ|神直日《かむなほひ》|大直日《おほなほひ》に|見直《みなほ》し|宣《の》り|直《なほ》し、|御愛読《ごあいどく》あらむ|事《こと》を|希望《きばう》する|次第《しだい》であります。
大正十一年四月四日 |錦水亭《きんすゐてい》にて王仁識
神の心は凡夫の心 凡夫の心は神ごころ
|凡例《はんれい》
一、|本巻《ほんくわん》の『|総説歌《そうせつか》』にもあります|通《とほ》り、|物語《ものがたり》の|中《なか》に|大分《だいぶ》|英語《えいご》が|挿入《さうにふ》されて|来《き》ました。|単《たん》に|英語《えいご》ばかりでなく、|種々《いろいろ》の|外国語《ぐわいこくご》が|交《まじ》つてゐます。
一、|本巻《ほんくわん》の|第十一章《だいじふいつしやう》『|大蛇《をろち》|退治《たいぢ》の|段《だん》』は|大正《たいしやう》|十年《じふねん》|三月《さんぐわつ》|号《がう》の『|神霊界《しんれいかい》』|誌上《しじやう》に|掲載《けいさい》されたことのあるものです。
一、|巻末《くわんまつ》の|跋文《ばつぶん》には|生死《せいし》|不二《ふじ》、|顕幽《けんいう》|一致《いつち》の|真理《しんり》に|就《つい》て|説《と》いたものですが、|第十一巻《だいじふいつくわん》の『|死生観《しせいくわん》』などと|参照《さんせう》して|読《よ》んで|見《み》たならば|一層《いつそう》|興味《きようみ》がある|事《こと》でせう。
一、|本巻《ほんくわん》の|中《なか》に『|印度《つき》の|国《くに》』|又《また》は『|月《つき》の|国《くに》』とあるのは|結局《けつきよく》|同《おな》じ|事《こと》で、|印度《つき》の|国《くに》を|指《さ》したものです。
大正十一年十一月
編者識
|総説歌《そうせつか》
|大《ひろ》き|正《ただ》しき|壬《みづのゑ》の |戌《いぬ》の|年《とし》こそ|如月《きさらぎ》の
|月《つき》の|終《をは》りも|恙《つつが》|無《な》く |輝《かがや》き|渡《わた》る|言霊《ことたま》の
|清《きよ》き|神代《かみよ》の|物語《ものがたり》 |心《こころ》も|勇《いさ》む|石《いそ》の|上《かみ》
|古《ふる》きを|温《たづ》ね|新《あたら》しく |世人《よびと》に|知《し》らす|神《かみ》の|道《みち》
|四方《よも》に|栄《さか》えを|五六七《みろく》の|世《よ》 |清《きよ》き|神代《かみよ》を|来《きた》さむと
|教《をし》への|御子《みこ》に|励《はげ》まされ |走《はし》り|出口《でぐち》の|滑《なめ》らかに
|巡《めぐ》る|月日《つきひ》の|御示《おんしめ》し |虚《きよ》に|憑《よ》り|空《くう》に|身《み》を|置《お》きて
|綾《あや》の|言糸《こといと》あつさりと |繰返《くりかへ》したる|小田巻《をだまき》の
|数《かず》も|三五《さんご》の|大御空《おほみそら》 |暉《かがや》き|渡《わた》る|瑞月《ずゐげつ》が
|雲《くも》|押《お》し|分《わ》けて|地《ち》に|降《くだ》り |泉《いづみ》|湧《わ》き|出《づ》る|奇魂《くしみたま》
|引《ひ》き|抜《ぬ》き|来《きた》りスラスラと |英語《えいご》|交《まじ》りの|物語《ものがたり》
|新旧《しんきう》|用語《ようご》の|玉《たま》の|塵《ちり》 かきて|集《あつ》むる|言霊《ことたま》は
|妙音《めうおん》|菩薩《ぼさつ》の|神力《しんりき》と |並《なら》びて|尊《たふと》き|観自在《くわんじざい》
|三十三相《さんじふさんさう》また|四相《しさう》 |思想《しさう》の|泉《いづみ》|滾々《こんこん》と
|尽《つ》きぬ|言霊別《ことたまわけ》の|神《かみ》 |霊《みたま》|幸《さちは》ひましまして
|厳《いづ》の|御魂《みたま》のいつ|迄《まで》も |湧《わ》き|出《で》て|竭《つ》きぬ|水《みづ》|御魂《みたま》
|汲《く》めども|尽《つ》きず|色艶《いろつや》も |味《あぢ》もかはらず|常永《とことは》に
インテレストは|弥深《いやふか》く インフルエンスを|布《し》きて|行《ゆ》く
イグノランスの|瑞月《ずゐげつ》が アートに|迂《うと》き|身《み》を|以《もつ》て
|文士《ぶんし》|気取《きど》りのアーテイスト ベストを|尽《つく》し|身《み》をつくし
|自性《じしやう》の|教《をしへ》|加持《かぢ》の|教《のり》 |寝物語《ねものがたり》も|十五夜《じふごや》の
つきせぬ|巻《まき》の|緒論《いとぐち》を |求《もと》めて|茲《ここ》に|識《しる》しおく。
第一篇 |正邪《せいじや》|奮戦《ふんせん》
第一章 |破羅門《ばらもん》〔五六八〕
|千早《ちはや》|振《ふ》る|遠《とほ》き|神代《かみよ》の|物語《ものがたり》 |常夜《とこよ》の|暗《やみ》を|晴《は》らさむと
ノアの|子孫《しそん》のハム|族《ぞく》が |中《なか》にも|強《つよ》き|婆羅門《ばらもん》の
|神《かみ》の|御言《みこと》は|常世国《とこよくに》 |大国彦《おほくにひこ》の|末《すゑ》の|御子《みこ》
|大国別《おほくにわけ》を|神《かみ》の|王《わう》と |迎《むか》へまつりて|埃及《エヂプト》の
イホの|都《みやこ》に|宮《みや》|柱《はしら》 |太《ふと》しく|建《た》てて|宣伝《のりつた》ふ
その|言霊《ことたま》はかすかにも この|世《よ》の|瀬戸《せと》の|海《うみ》|越《こ》えて
|希臘《ギリシヤ》|伊太利《イタリア》|仏蘭西《フランス》や |遂《つひ》に|進《すす》みて|小亜細亜《せうアジア》
メソポタミヤの|顕恩郷《けんおんきやう》 |此処《ここ》に|根拠《こんきよ》を|築固《つきかた》め
|次第々々《しだいしだい》に|道《みち》を|布《し》き |更《さら》に|波斯《ペルシヤ》を|横断《よこぎ》りて
|印度《インド》を|指《さ》して|進《すす》み|来《く》る エデンの|河《かは》を|打渡《うちわた》り
ハムの|一族《いちぞく》|悉《ことごと》く |顕恩郷《けんおんきやう》を|中心《ちうしん》に
|婆羅門教《ばらもんけう》を|開《ひら》きける セムの|流裔《ながれ》と|聞《きこ》えたる
コーカス|山《さん》の|神人《かみびと》は |婆羅門教《ばらもんけう》を|言向《ことむ》けて
|誠《まこと》の|道《みち》を|開《ひら》かむと |広道別《ひろみちわけ》の|宣伝使《せんでんし》
|太玉《ふとたま》の|命《みこと》を|遣《つか》はして |顕恩郷《けんおんきやう》に|攻《せ》めて|行《ゆ》く
|奇《く》しき|神代《かみよ》の|物語《ものがたり》 |十五《じふご》の|巻《まき》の|入口《いりくち》に
|述《の》べ|始《はじ》むるぞ|面白《おもしろ》き。
|此《この》メソポタミヤは|一名《いちめい》|秀穂国《ほづまのくに》と|称《とな》へ、|地球上《ちきうじやう》に|於《おい》て|最《もつと》も|豊饒《ゆたか》なる|安住《あんぢう》|地帯《ちたい》なり。|羊《ひつじ》は|能《よ》く|育《そだ》ち、|牛馬《ぎうば》は|蕃殖《はんしよく》し、|五穀《ごこく》|果実《このみ》は|無類《むるゐ》の|豊作《ほうさく》|年々《ねんねん》|変《かは》る|事《こと》|無《な》き|地上《ちじやう》の|天国《てんごく》|楽園《らくゑん》なり。|世界《せかい》は|暗雲《あんうん》に|包《つつ》まれ、|日月《じつげつ》の|光《ひかり》も|定《さだ》かならざる|時《とき》に|於《おい》ても、この|国土《こくど》のみは|相当《さうたう》に|総《すべ》ての|物《もの》|生育《せいいく》する|事《こと》を|得《え》たりと|云《い》ふ。|西《にし》にエデンの|河《かは》|長《なが》く|流《なが》れ、|東《ひがし》にイヅの|河《かは》|南流《なんりう》して、|国《くに》の|南端《なんたん》にて|相合《あひがつ》しフサの|海《うみ》に|入《い》る。|八頭八尾《やつがしらやつを》の|大蛇《をろち》、|悪狐《あくこ》の|邪霊《じやれい》は、コーカス|山《さん》の|都《みやこ》を|奪《うば》はれ、|随《したが》つてウラル|山《さん》、アーメニヤ|危険《きけん》に|瀕《ひん》したれば、ウラル|彦《ひこ》、ウラル|姫《ひめ》は、|遠《とほ》く|常世《とこよ》|国《くに》に|逃《のが》れ、|茲《ここ》に|大自在天《だいじざいてん》|大国彦《おほくにひこ》の|末裔《まつえい》|大国別《おほくにわけ》、|醜国姫《しこくにひめ》の|夫婦《ふうふ》をして、|埃及《エヂプト》のイホの|都《みやこ》に|現《あら》はれ、|第二《だいに》のウラル|教《けう》たる|婆羅門教《ばらもんけう》を|開設《かいせつ》し、|大国別《おほくにわけ》を|大自在天《だいじざいてん》と|奉称《ほうしよう》し、|茲《ここ》に|極端《きよくたん》なる|難行《なんぎやう》|苦行《くぎやう》を|以《もつ》て、|神《かみ》の|御心《みこころ》に|叶《かな》うとなせる|教理《けうり》を|樹立《じゆりつ》し、|進《すす》んでメソポタミヤの|秀穂《ほづま》の|国《くに》に|来《きた》り、エデンの|園《その》|及《およ》び|顕恩郷《めぐみのさと》を|根拠《こんきよ》としたりける。それが|為《ため》に|聖地《せいち》エルサレムの|旧都《きうと》に|於《お》ける|黄金山《わうごんざん》の|三五教《あななひけう》は|忽《たちま》ち|蚕食《さんしよく》せられ、|埴安彦《はにやすひこ》、|埴安姫《はにやすひめ》の|教理《けうり》は|殆《ほとん》ど|破壊《はくわい》さるる|悲境《ひきやう》に|陥《おちい》りたるなり。
|茲《ここ》にコーカス|山《さん》に|坐《まし》ます|素盞嗚神《すさのをのかみ》は、|日《ひ》の|出神《でのかみ》、|日《ひ》の|出別神《でわけのかみ》をして、ハム|族《ぞく》の|樹立《じゆりつ》せる|婆羅門教《ばらもんけう》の|邪神《じやしん》を|帰順《きじゆん》せしめむとし|給《たま》ひ、|霊鷲山《りやうしうざん》より|現《あら》はれたる|三葉彦命《みつばひこのみこと》の|又《また》の|御名《みな》|広道別《ひろみちわけ》の|宣伝使《せんでんし》|太玉命《ふとたまのみこと》は、|松代姫《まつよひめ》をコーカス|山《さん》に|残《のこ》し、|夜《よ》を|日《ひ》に|継《つ》いでエデンの|河上《かはかみ》に|現《あら》はれ、エデンの|花園《はなぞの》を|回復《くわいふく》して|根拠《こんきよ》とし、ハム|族《ぞく》の|侵入《しんにふ》を|防《ふせ》がしめむとし|給《たま》ひ、|太玉命《ふとたまのみこと》は|安彦《やすひこ》、|国彦《くにひこ》、|道彦《みちひこ》の|三柱《みはしら》と|共《とも》に、エデンの|園《その》に|宮殿《きうでん》を|造《つく》り、ハム|族《ぞく》の|侵入《しんにふ》に|備《そな》へ|居《ゐ》たり。されど|河下《かはしも》の|顕恩郷《けんおんきやう》は|遂《つひ》に|婆羅門教《ばらもんけう》の|占領《せんりやう》する|所《ところ》となり|了《をは》りぬ。ここに|太玉命《ふとたまのみこと》は、その|娘《むすめ》|照妙姫《てるたへひめ》をエデンの|花園《はなぞの》に|残《のこ》し|置《お》き、|安彦《やすひこ》、|国彦《くにひこ》、|道彦《みちひこ》を|引連《ひきつ》れて、|顕恩郷《けんおんきやう》の|宣伝《せんでん》に|向《むか》ひたり。この|安彦《やすひこ》と|云《い》ふは|弥次彦《やじひこ》の|改名《かいめい》、|国彦《くにひこ》は|与太彦《よたひこ》の|改名《かいめい》、|道彦《みちひこ》は|勝彦《かつひこ》の|改名《かいめい》せし|者《もの》なり。
|婆羅門《ばらもん》の|教《をしへ》は、|一旦《いつたん》|日《ひ》の|出神《でのかみ》と|偽称《ぎしよう》したる|大国彦《おほくにひこ》の|子《こ》にして、|大国別《おほくにわけ》|自《みづか》ら|大自在天《だいじざいてん》と|称《しよう》し、|難行《なんぎやう》|苦行《くぎやう》を|以《もつ》て|神《かみ》の|心《こころ》に|叶《かな》ふものとなし、|霊主体従《れいしゆたいじゆう》の|本義《ほんぎ》を|誤解《ごかい》し、|肉体《にくたい》を|軽視《けいし》し、|霊魂《れいこん》を|尊重《そんちよう》する|事《こと》|最《もつと》も|甚《はなはだ》しき|教《をしへ》なり。|此《この》|教《をしへ》を|信《しん》ずる|者《もの》は、|茨《いばら》の|群《むれ》に|真裸《まつぱだか》となりて|飛《と》び|込《こ》み、|或《あるひ》は|火《ひ》を|渡《わた》り、|水中《すゐちう》を|潜《くぐ》り、|寒中《かんちう》に|真裸《まつぱだか》となり、|崎嶇《きく》たる|山路《やまみち》を|跣足《はだし》のまま|往来《ゆきき》し、|修行《しうぎやう》の|初門《しよもん》としては、|足駄《あしだ》の|表《おもて》に|釘《くぎ》を|一面《いちめん》に|打《う》ち、|之《これ》を|足《あし》にかけて|歩《あゆ》ましむるなり。|故《ゆゑ》に|此《この》|教《をしへ》を|信《しん》ずる|者《もの》は、|身体《からだ》|一面《いちめん》に|血《ち》|爛《ただ》れ、|目《め》も|当《あ》てられぬ|血達磨《ちだるま》の|如《ごと》くなり、|斯《か》くして|修行《しうぎやう》の|苦業《くげふ》を|誇《ほこ》る|教《をしへ》なり。|八頭八尾《やつがしらやつを》、|及《およ》び|金毛九尾《きんまうきうび》、|邪鬼《じやき》の|霊《れい》は、|人《ひと》の|血《ち》を|視《み》ることを|好《この》む|者《もの》なれば、|霊主体従《れいしゆたいじゆう》の|美名《びめい》の|下《もと》に、|斯《かく》の|如《ごと》き|暴虐《ばうぎやく》なる|行為《かうゐ》を、|人々《ひとびと》の|身魂《みたま》に|憑《かか》りて|慣用《くわんよう》するを|以《もつ》て|唯一《ゆゐいつ》の|手段《しゆだん》となし|居《ゐ》るが|故《ゆゑ》に、|此《この》|教《をしへ》に|魅《み》せられたる|信徒《しんと》は、|生《せい》を|軽《かろ》んじ、|死《し》を|重《おも》んじ、|無限《むげん》|絶対《ぜつたい》なる|無始《むし》|無終《むしう》の|歓楽《くわんらく》を|受《う》くる|天国《てんごく》に|救《すく》はれむ|事《こと》を、|唯一《ゆゐいつ》の|楽《たのし》みとなし|居《ゐ》るなり。|如何《いか》に|霊《れい》を|重《おも》んじ|体《たい》を|軽《かろ》んずればとて、|霊肉一致《れいにくいつち》の|天則《てんそく》を|忘《わす》れ、|神《かみ》の|生宮《いきみや》たる|肉体《にくたい》を|塵埃《ぢんあい》の|如《ごと》く、|鴻毛《こうまう》の|如《ごと》くに|軽蔑《けいべつ》するは、|生成《せいせい》|化育《くわいく》の|神《かみ》の|大道《だいだう》に|違反《ゐはん》する|事《こと》|最《もつと》も|甚《はなは》だしきものなれば、この|教《をしへ》にして|天下《てんか》に|拡充《くわくじゆう》せられむか、|地上《ちじやう》の|生物《せいぶつ》は|残《のこ》らず|邪神《じやしん》の|為《ため》に|滅亡《めつぼう》するの|已《や》むを|得《え》ざるに|至《いた》るべく、また|婆羅門教《ばらもんけう》には|上中下《じやうちうげ》の|三段《さんだん》の|身魂《みたま》の|区別《くべつ》を|厳格《げんかく》に|立《た》てられ、|大自在天《だいじざいてん》の|大祖先《だいそせん》たる|大国彦《おほくにひこ》の|頭《あたま》より|生《うま》れたる|者《もの》は、|如何《いか》なる|愚昧《ぐまい》なる|者《もの》と|雖《いへど》も|庶民《しよみん》の|上位《じやうゐ》に|立《た》ち、|治者《ちしや》の|地位《ちゐ》に|就《つ》き、|又《また》|神《かみ》の|腹《はら》より|生《うま》れたる|者《もの》は、|上下《じやうげ》|生民《せいみん》の|中心《ちうしん》に|立《た》ち、|準治者《じゆんちしや》の|位地《ゐち》を|受得《じゆとく》して、|少《すこ》しの|労苦《らうく》もなさず、|神《かみ》の|足《あし》より|生《うま》れたりと|云《い》ふ|多数《たすう》の|人民《じんみん》の|膏血《かうけつ》を|絞《しぼ》り、|安逸《あんいつ》に|生活《せいくわつ》をなさむとするの|教理《けうり》なり。|多数《たすう》の|人民《じんみん》は|種々《しゆじゆ》の|難行《なんぎやう》|苦行《くぎやう》を|強《し》ひられ、|体《たい》は|窶《やつ》れ|或《あるひ》は|亡《ほろ》び、|怨声《えんせい》|私《ひそ》かに|国内《こくない》に|漲《みなぎ》り、|流石《さすが》の|天国《てんごく》|浄土《じやうど》に|住《す》み|乍《なが》ら、|多数《たすう》の|人民《じんみん》は|地獄《ぢごく》の|如《ごと》き|生活《せいくわつ》を|続《つづ》くるの|已《や》むを|得《え》ざる|次第《しだい》となりける。|邪神《じやしん》の|勢《いきほひ》は|益々《ますます》|激《はげ》しく、|遂《つひ》にはフサの|国《くに》を|渡《わた》り、|印度《つき》の|国《くに》|迄《まで》もその|勢力《せいりよく》|範囲《はんゐ》を|拡張《くわくちやう》しつつありしなり。
|太玉命《ふとたまのみこと》は、|安彦《やすひこ》、|国彦《くにひこ》、|道彦《みちひこ》を|伴《ともな》ひ、|顕恩郷《けんおんきやう》の|東南《とうなん》を|流《なが》るる|渡場《わたしば》に|着《つ》きぬ。|此処《ここ》には|鳶彦《とびひこ》、|田加彦《たかひこ》、|百舌彦《もずひこ》の|三柱《みはしら》の|魔神《まがみ》、|捻鉢巻《ねぢはちまき》をし|乍《なが》ら、|他国人《たこくじん》の|侵入《しんにふ》を|防《ふせ》ぐため、|河縁《かはべり》に|関所《せきしよ》を|設《まう》けて|堅《かた》く|守《まも》り|居《ゐ》る。
|太玉命《ふとたまのみこと》『ヤア|三人《さんにん》の|伴人《ともびと》よ、|昔《むかし》|此《この》|河《かは》を|渡《わた》つた|時《とき》は、|何《なん》とも|言《い》へぬ|清《きよ》らかな|流《なが》れであつたが、ウラル|山《さん》、アーメニヤの|悪神《あくがみ》は|一旦《いつたん》|常世《とこよ》の|国《くに》に|逃《に》げ|去《さ》り、|再《ふたた》び|顕恩郷《けんおんきやう》に|潜《ひそ》かに|現《あら》はれ|来《きた》つて、|婆羅門教《ばらもんけう》の|邪教《じやけう》を|開《ひら》き|始《はじ》めてより、|吹《ふ》き|来《く》る|風《かぜ》も|腥《なまぐさ》く、|山河草木《さんかさうもく》|色《いろ》を|変《へん》じ、|河《かは》の|流《なが》れも|亦《また》|血泥《ちどろ》の|如《ごと》くなつて|了《しま》つた。|吾々《われわれ》は|素盞嗚尊《すさのをのみこと》の|御神慮《ごしんりよ》を|奉《ほう》じ、メソポタミヤの|野《や》をして|再《ふたた》び|秀穂国《ほづまのくに》の|楽園《らくゑん》に|復帰《ふくき》せしめねばならぬ|重大《ぢうだい》なる|使命《しめい》を|帯《お》びて|来《きた》れる|以上《いじやう》は、|仮令《たとへ》|如何《いか》なる|魔神《まがみ》の|襲《おそ》ひ|来《きた》る|共《とも》、|一歩《いつぽ》も|退《しりぞ》くことは|出来《でき》ない、|汝等《なんぢら》もその|覚悟《かくご》を|以《もつ》て|当《あた》られたし。|彼《あ》の|河縁《かはべり》に|建《た》てる|宏大《くわうだい》なる|館《やかた》は、|正《まさ》しく|魔神《まがみ》の|関所《せきしよ》ならむ、|汝等《なんぢら》|三人《さんにん》の|内《うち》、|偵察《ていさつ》のため|一足先《ひとあしさき》に|至《いた》つて|関所《せきしよ》の|悪神《あくがみ》と|交渉《かうせふ》を|開始《かいし》し、|事《こと》|急《きふ》なるときは、|合図《あひづ》の|笛《ふえ》を|吹《ふ》け、それまで|吾等《われら》は|此《この》|森林《しんりん》に|身《み》を|潜《ひそ》めて|事《こと》の|成行《なりゆき》を|窺《うかが》はむ』
と、|太玉命《ふとたまのみこと》の|言葉《ことば》に、|道彦《みちひこ》は|勇《いさ》み|立《た》ち、
『|憚《はばか》り|乍《なが》ら、|道彦《みちひこ》に|此《この》|御用《ごよう》を|仰付《おほせつ》けられたし』
と|願《ねが》ひければ|太玉命《ふとたまのみこと》は、
『|御苦労《ごくらう》だが、|一足先《ひとあしさき》に|探険《たんけん》して|呉《く》れよ』
『|承知《しようち》|致《いた》しました』
と|道彦《みちひこ》は|宣伝歌《せんでんか》を|歌《うた》ひつつ、|河縁《かはべり》の|関所《せきしよ》を|指《さ》して|悠々《いういう》と|進《すす》み|行《ゆ》く。ピタリと|行当《ゆきあた》つた|関所《せきしよ》の|大門《おほもん》、|道彦《みちひこ》は|大音声《だいおんじやう》、
『ヤア、この|顕恩郷《けんおんきやう》は|昔《むかし》、|日《ひ》の|出神《でのかみ》が|南天王《なんてんわう》と|称《しよう》して|支配《しはい》され、その|後《のち》|鬼武彦《おにたけひこ》その|他《た》の|神々《かみがみ》|南天王《なんてんわう》となつて|永久《とこしへ》に|大神《おほかみ》の|命《めい》を|受《う》け|守護《しゆご》せられたる|聖地《せいち》なり。|然《しか》るに|何者《なにもの》の|邪神《じやしん》ぞ、|顕恩郷《けんおんきやう》を|占領《せんりやう》し|且《かつ》|又《また》この|河縁《かはべり》に|関所《せきしよ》を|造《つく》るか、|一時《いちじ》も|早《はや》く|此《この》|門《もん》|開《ひら》け、|吾《われ》は|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》|道彦《みちひこ》であるぞ』
と|門戸《もんこ》を|破《やぶ》れむばかりに|打叩《うちたた》く。|此《この》|時《とき》|門《もん》の|外《そと》の|樹《き》の|茂《しげ》みより|現《あら》はれ|出《い》でたる|三人《さんにん》の|男《をとこ》、|鋭利《えいり》なる|手槍《てやり》をしごき、|三方《さんぱう》より|道彦《みちひこ》を|取《と》りかこみ、|眼《め》を|怒《いか》らせ、|身体《からだ》をブルブルと|震動《しんどう》させつつ、
『ヤア、|汝《なんぢ》は|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》なるか、|飛《と》んで|火《ひ》に|入《い》る|夏《なつ》の|虫《むし》、|吾《わが》|槍《やり》の|切尖《きつさき》を|喰《くら》へよ』
と|三人《さんにん》|一度《いちど》に|突《つ》いてかかるを、|道彦《みちひこ》は、|或《あるひ》は|右《みぎ》に、|或《あるひ》は|左《ひだり》に、|前後左右《ぜんごさいう》に、|槍《やり》の|切尖《きつさき》を|避《さ》け、|一人《ひとり》の|槍《やり》をバタリと|叩《たた》き|落《おと》した。|一人《ひとり》は|驚《おどろ》いて|矢庭《やには》に|河《かは》に|飛《と》びこみ、|対岸《むかふぎし》に|遁《のが》れ|去《さ》つた。ここに|道彦《みちひこ》は|其《その》|槍《やり》を|手早《てばや》く|拾《ひろ》ひあげ、
『サア|来《こ》い、|蝿虫《はへむし》|奴《め》|等《ら》』
と|身構《みがま》へするや、|其《その》|勢《いきほひ》に|辟易《へきえき》してか、|二人《ふたり》の|男《をとこ》は|槍《やり》をバタリと|大地《だいち》に|投《な》げ|棄《す》て、|犬突這《いぬつくばい》となつて、
『ヤア、どうも|恐《おそ》れ|入《い》りました。|重々《ぢうぢう》の|御無礼《ごぶれい》お|許《ゆる》し|下《くだ》さいませ』
と|泣声《なきごゑ》になつて|謝罪《あやま》る。
|道彦《みちひこ》『|其《その》|方《はう》は|婆羅門《ばらもん》の|眷属《けんぞく》と|見《み》ゆるが、|何故《なにゆゑ》に|斯《か》かる|邪神《じやしん》に|信従《しんじゆう》するか、|委細《ゐさい》|包《つつ》まず|白状《はくじやう》せよ』
|百舌彦《もずひこ》『|実《じつ》の|所《ところ》、|吾々《われわれ》は|常世《とこよ》の|国《くに》より|大国別《おほくにわけ》の|部下《ぶか》なる|玉取別《たまとりわけ》に|従《したが》ひて、|荒海《あらうみ》を|渡《わた》り、|埃及《エヂプト》の|地《ち》に|現《あら》はれ、|追々《おひおひ》|進《すす》んで|此《この》|顕恩郷《けんおんきやう》の|門番《もんばん》となり、|少《すこ》しの|過失《あやまち》より|罰《ばつ》せられて|遂《つひ》には|河《かは》の|関所守《せきしよもり》となりました。|決《けつ》して|旧《もと》よりの|悪徒《あくと》ではありませぬ』
|道彦《みちひこ》『|然《しか》らば|汝等《なんぢら》は|顕恩郷《けんおんきやう》の|様子《やうす》を|悉皆《しつかい》|存《ぞん》じ|居《を》るであらう。これより|三五教《あななひけう》の|吾々《われわれ》を|顕恩郷《けんおんきやう》の|城砦《じやうさい》に|案内《あんない》|致《いた》せ』
|百舌彦《もずひこ》『そ、それは|到底《たうてい》|吾々《われわれ》の|力《ちから》には|及《およ》びませぬ、グズグズして|居《を》れば|吾々《われわれ》は|申《まを》すに|及《およ》ばず、あなた|方《がた》の|御生命《おいのち》も|危《あやふ》からむ、|此《この》|儀《ぎ》ばかりは|御容赦《ごようしや》|下《くだ》されたし』
|道彦《みちひこ》『ナニ|心配《しんぱい》をするな、|神変《しんぺん》|不可思議《ふかしぎ》の|三五教《あななひけう》の|神力《しんりき》を|以《もつ》て|如何《いか》なる|曲津《まがつ》の|敵《てき》も|言向和《ことむけやは》し、この|顕恩郷《けんおんきやう》をして|再《ふたた》び|古《いにしへ》の|天国《てんごく》|楽土《らくど》となさしめむ、|必《かなら》ず|必《かなら》ず|煩慮《はんりよ》するに|及《およ》ばぬぞ』
|田加彦《たかひこ》『オイ|百舌彦《もずひこ》、コンナ|方《かた》を|顕恩郷《けんおんきやう》へでも|連《つ》れて|行《い》つた|位《くらゐ》なら、それこそ|大変《たいへん》だ、|鬼雲彦《おにくもひこ》の|大神様《おほかみさま》に、「|汝《なんぢ》は|顕恩郷《けんおんきやう》の|厳《きび》しき|規則《きそく》を|蹂躙《じうりん》する|大罪人《だいざいにん》だ」と|云《い》つて、|又《また》もや|真裸《まつぱだか》にされて、|針《はり》の|雨《あめ》の|御制敗《ごせいばい》に|逢《あ》はねばならぬ、ウカウカと|物《もの》を|言《い》ふものではない。もうしもうし|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》|様《さま》、ここは|一《ひと》つ|御思案《ごしあん》|下《くだ》さいまして、|双方《さうはう》|好《よ》い|様《やう》に|何《なん》とか|良《い》い|解決《かいけつ》を|付《つ》けて|戴《いただ》きたいものです。|今《いま》|河《かは》に|飛込《とびこ》んで|対岸《むかう》に|渡《わた》つた|男《をとこ》は、|鬼雲彦《おにくもひこ》の|真《まこと》のスパイを|勤《つと》めて|居《ゐ》る|悪人《あくにん》ですから、|数多《あまた》の|眷属《けんぞく》や、スレーブを|引《ひ》きつれ、|今《いま》に|如何《いか》なる|事《こと》をし|出《で》かすかも|分《わか》りませぬ、さうして|大変《たいへん》に|力《ちから》の|強《つよ》い|奴《やつ》、|顕恩郷《けんおんきやう》でも|名代《なだい》の|豪《がう》の|者《もの》です。|今《いま》あなたに|槍《やり》を|持《も》つて|攻《せ》めかかり、ワザと|敗《ま》けた|振《ふり》をして、|槍《やり》を|打棄《うちす》てたのも、|深《ふか》き|計略《けいりやく》のあること、あなた|方《がた》を|顕恩郷《けんおんきやう》に|引《ひ》き|入《い》れて、|嬲《なぶ》り|殺《ごろし》にしやうと|云《い》ふステージに|外《ほか》ならぬのです。|私《わたくし》も|彼奴《あいつ》の|目玉《めだま》の|光《ひか》つて|居《ゐ》る|間《あひだ》は|逃《に》げる|事《こと》も、どうする|事《こと》も|出来《でき》なかつた。あなたがお|出《い》で|下《くだ》さつたのを|幸《さいは》ひ、|顕恩郷《けんおんきやう》を|脱出《だつしゆつ》して、どうぞフサの|都《みやこ》へ|連《つ》れて|行《い》つて|下《くだ》さい。|常世《とこよ》の|国《くに》にも|三五教《あななひけう》は|沢山《たくさん》に|弘《ひろ》まつて|居《を》りますが、|今日《けふ》の|所《ところ》はみな|隠《かく》れての|信仰《しんかう》、|表面《へうめん》はウラル|教《けう》の|信者《しんじや》と|見《み》せかけ、|吾々《われわれ》も|無理《むり》やりに|此処《ここ》へ|引《ひ》き|寄《よ》せられ、|河番《かはばん》を|致《いた》しては|居《を》りますが、その|実《じつ》は|三五教《あななひけう》の|信者《しんじや》で|御座《ござ》います。ウラル|教《けう》は|極端《きよくたん》な|体主霊従《たいしゆれいじう》|主義《しゆぎ》で、|常世《とこよ》|神王《しんわう》や、その|他《た》の|神々《かみがみ》が、|黄泉比良坂《よもつひらさか》の|戦《たたか》ひに|全部《すつかり》|帰順《きじゆん》し、|夫々《それぞれ》|御守護《ごしゆご》に|就《つ》かれてから|後《のち》は、|大国彦《おほくにひこ》の|子孫《しそん》たる|大国別《おほくにわけ》が、|何故《なにゆゑ》か|又《また》もやバラモン|教《けう》と|云《い》ふ|怪体《けたい》な|宗教《しうけう》を|開《ひら》き、|表面《へうめん》は|三五教《あななひけう》の|信条《しんでう》の|如《ごと》く|霊主体従《れいしゆたいじゆう》を|標榜《へうぼう》し、|数多《あまた》の|人民《じんみん》の|肉体《にくたい》を|傷《きず》つけ|血《ち》を|出《だ》させて、それが|信仰《しんかう》の|本義《ほんぎ》と、すべての|者《もの》に|強《し》ひるのですから|堪《たま》つたものではありませぬ。けれども|何《なん》にも|知《し》らぬ|人民《じんみん》は|後《さき》の|世《よ》が|恐《おそ》ろしいと|云《い》つて、|肉体《にくたい》が|如何《いか》なる|惨虐《ざんぎやく》な|目《め》に|遭《あ》はされても|辛抱《しんばう》して|喜《よろこ》んで|居《ゐ》ると|云《い》ふ|有様《ありさま》、|私等《わたくしら》は|一向《いつかう》トント|合点《がてん》が|往《ゆ》きませぬ、|鬼《おに》か|大蛇《をろち》か|悪魔《あくま》の|様《やう》な|神様《かみさま》じやないかと、|何時《いつ》も|胸《むね》に|手《て》をあて|考《かんが》へては|居《ゐ》るものの、|一口《ひとくち》これを|口《くち》ヘ|出《だ》さうものなら、それこそ|大変《たいへん》な|事《こと》になりますので|腹《はら》の|中《なか》に|包《つつ》み|秘《かく》して、|已《や》むを|得《え》ずこの|河番《かはばん》を|致《いた》して|居《を》ります。|幸《さいは》ひ|鳶彦《とびひこ》が|帰《かへ》りました、この|間《ま》に|吾々《われわれ》|二人《ふたり》を|伴《つ》れて、どつかへ|御逃《おに》げ|下《くだ》さい。|大変《たいへん》なことがオツ|始《ぱじ》まりますから………』
|道彦《みちひこ》『ナアニ、|吾々《われわれ》は|神《かみ》の|御守護《ごしゆご》がある、|又《また》|三人《さんにん》の|神徳《しんとく》|強《つよ》き|宣伝使《せんでんし》を|同行《どうかう》し|居《を》れば、|大丈夫《だいぢやうぶ》だ、|心配《しんぱい》|致《いた》すな』
|百舌彦《もずひこ》『|三人《さんにん》のお|方《かた》は|何処《どこ》に|居《ゐ》られますか、どうぞ|一時《いちじ》も|早《はや》くこれへお|越《こ》しを|願《ねが》ひたう|御座《ござ》います。グズグズ|致《いた》して|居《ゐ》ると|鳶彦《とびひこ》の|奴《やつ》、|今《いま》にドンナ|事《こと》を|為向《しむ》けて|来《く》るか|分《わか》りませぬから………』
|道彦《みちひこ》は|合図《あひづ》の|笛《ふえ》を|吹《ふ》いた。|太玉命《ふとたまのみこと》|外《ほか》|二人《ふたり》は|合図《あひづ》の|笛《ふえ》にスワ|一大事《いちだいじ》の|突発《とつぱつ》と、|急《いそ》いで|此《この》|場《ば》に|現《あら》はれた。|河《かは》の|彼方《あなた》には|騒々《さうざう》しい|人声《ひとごゑ》|次第々々《しだいしだい》に|高《たか》まり|来《きた》る。
(大正一一・三・三一 旧三・四 松村真澄録)
此日大先生御吹込の蓄音器円板到着、夕礼拝後五六七殿に於て参拝者一同に拝聴せしむ。
(昭和一〇・三・一八 於台中市高橋邸 王仁校正)
第二章 |途上《とじやう》の|変《へん》〔五六九〕
|太玉命《ふとたまのみこと》、|安彦《やすひこ》、|国彦《くにひこ》、|道彦《みちひこ》は|河向《かはむか》ふの|騒々《さうざう》しき|物音《ものおと》に|頭《かうべ》を|傾《かたむ》け|暫《しば》らく|思案《しあん》に|暮《く》れけるが、
|太玉命《ふとたまのみこと》『|田加彦《たかひこ》、|百舌彦《もずひこ》、その|方《はう》は|顕恩郷《けんおんきやう》の|様子《やうす》を|熟知《じゆくち》するものならむ、|彼《か》の|騒々《さうざう》しき|物音《ものおと》は|何物《なにもの》なるか、|逐一《ちくいち》|陳弁《ちんべん》せよ』
|百舌彦《もずひこ》『あの|物音《ものおと》は|察《さつ》する|処《ところ》、|顕恩郷《けんおんきやう》の|大将《たいしやう》|鬼雲彦《おにくもひこ》の|部下《ぶか》の|軍勢《ぐんぜい》、|此方《こなた》に|向《むか》つて|攻《せ》め|来《きた》り、|貴下等《きから》を|召捕《めしと》らむとの|計画《けいくわく》なるべし。|一時《いちじ》も|早《はや》く|吾等《われら》を|助《たす》け、|此《この》|場《ば》を|立《た》ち|退《の》き|給《たま》へ。|三五教《あななひけう》の|神司《かむつかさ》ともあるべき|御身《おんみ》が|名《な》もなき|邪神《じやしん》に|亡《ほろ》ぼされむは|心許《こころもと》なし、|早《はや》く|此《この》|場《ば》を』
と|頻《しき》りに|促《うなが》す。
|道彦《みちひこ》『ナニ、|敵《てき》を|看《み》て|矛《ほこ》を|収《をさ》め、|旗《はた》を|捲《ま》いて【おめ】おめと|遁走《とんそう》するは|男子《だんし》の|本分《ほんぶん》に|非《あら》ず。|吾等《われら》には|退却《たいきやく》の|二字《にじ》なし、|只《ただ》|進《すすむ》の|一字《いちじ》あるのみ。|如何《いか》なる|強敵《きやうてき》|現《あら》はれ|来《きた》るとも|吾等《われら》は|神《かみ》の|愛護《あいご》により|怯《お》めず|臆《おく》せず、ステツプを|進《すす》めて|敵《てき》の|牙城《がじやう》に|進撃《しんげき》せむ。|生死《せいし》|勝敗《しようはい》は|問《と》ふ|処《ところ》に|非《あら》ず』
と|勇《いさ》みの|顔色《がんしよく》|物凄《ものすご》し。
|安彦《やすひこ》『ヤア|敵《てき》の|先鋒隊《せんぽうたい》は|蟻《あり》の|如《ごと》く|黒山《くろやま》を|築《きづ》き|向《むか》ふ|岸《ぎし》に|現《あら》はれたり。サア|之《これ》からは|吾々《われわれ》が|神力《しんりき》を|試《ため》す|時節《じせつ》の|到来《たうらい》、|田加彦《たかひこ》、|百舌彦《もずひこ》、|船《ふね》の|用意《ようい》をせよ』
|百舌彦《もずひこ》『|船《ふね》の|用意《ようい》は|何時《いつ》でも|出来《でき》て|居《ゐ》ますが|御覧《ごらん》の|通《とほ》りの|大敵《たいてき》、|仮令《たとへ》|鬼神《きしん》を|挫《ひし》ぐ|神勇《しんゆう》ありとも|多勢《たぜい》に|無勢《ぶぜい》、|殊更《ことさら》|味方《みかた》は|身《み》に|寸鉄《すんてつ》を|帯《お》びず、|敵《てき》は|凡有《あらゆる》|精鋭《せいえい》の|武器《ぶき》を|持《も》つて|押《お》し|寄《よ》せ|来《きた》る、|勝敗《しようはい》の|数《すう》|戦《たたか》はずして|明《あきら》かなり。|時《とき》を|移《うつ》さば|彼等《かれら》は|此《この》|濁流《だくりう》を|渡《わた》り|吾等《われら》を|生捕《いけどり》にせむは|火《ひ》を|睹《み》るよりも|瞭《あきらか》なり。|退《しりぞ》いて|徐《おもむろ》に|策《さく》を|講《かう》じ、|捲土重来《けんどぢうらい》の|期《き》を|待《ま》たせ|給《たま》へ』
|太玉命《ふとたまのみこと》は|大口《おほぐち》を|開《あ》けて|高笑《たかわら》ひ、
|太玉命《ふとたまのみこと》『アハヽヽヽ、|運《うん》は|天《てん》にあり、|吾《われ》は|善言美詞《ぜんげんびし》の|言霊《ことたま》の|力《ちから》を|以《もつ》て、|寄《よ》せ|来《く》る|敵《てき》を|片《かた》つ|端《ぱし》から|言向和《ことむけやは》し、|昔《むかし》の|顕恩郷《けんおんきやう》に|回復《くわいふく》せむ。|先《さき》んずれば|人《ひと》を|制《せい》するとかや、|此《この》|期《ご》に|及《およ》んで|躊躇《ちうちよ》|逡巡《しゆんじゆん》するは|御神慮《ごしんりよ》に|反《はん》す』
と|言《い》ふより|早《はや》く|身《み》を|躍《をど》らして|船《ふね》に|跳《と》び|込《こ》んだ。|五人《ごにん》は|止《や》むを|得《え》ず|太玉命《ふとたまのみこと》に|従《つ》いて|船中《せんちう》の|人《ひと》となつた。さしもに|広《ひろ》きエデンの|河《かは》の|殆《ほとん》ど|中流《ちうりう》に|進《すす》みし|時《とき》、|向岸《むかふぎし》より|雨《あめ》と|降《ふ》り|来《く》る|急箭《きふせん》に|百舌彦《もずひこ》は|胸《むね》を|射抜《いぬ》かれ|忽《たちま》ち|水中《すゐちう》に|顛落《てんらく》した。|田加彦《たかひこ》は|此《この》|態《てい》を|見《み》て|大《おほい》に|驚《おどろ》き、ザンブと|許《ばか》り|水中《すゐちう》に|身《み》を|躍《をど》らして|飛《と》び|込《こ》んだ。|残《のこ》り|四人《よにん》の|宣伝使《せんでんし》は|此《この》|河《かは》の|水心《みづごころ》を|知《し》らず、|船《ふね》は|忽《たちま》ち|流《なが》れのまにまに|下方《かはう》に|向《むか》つて|濁流《だくりう》に|押《お》されて|矢《や》を|射《い》る|如《ごと》く|流《なが》れ|行《ゆ》く。|敵《てき》の|矢《や》は|雨《あめ》の|如《ごと》く|注《そそ》ぎ|来《きた》る。|忽《たちま》ち|船《ふね》は|河中《かちう》の|岩石《がんせき》に|衝突《しようとつ》し|木葉微塵《こつぱみぢん》に|粉砕《ふんさい》された。
|太玉命《ふとたまのみこと》は|辛《から》うじて|向岸《むかふぎし》に|着《つ》いた。|安彦《やすひこ》、|国彦《くにひこ》、|道彦《みちひこ》は|濁流《だくりう》に|呑《の》まれた|儘《まま》|行衛《ゆくゑ》|不明《ふめい》となつて|仕舞《しま》つた。|嗚呼《ああ》|三人《さんにん》の|運命《うんめい》は|如何《いか》に?
|太玉命《ふとたまのみこと》は|濡《ぬ》れたる|衣《ころも》を|絞《しぼ》り|日《ひ》に|乾《かわ》かし、|悠々《いういう》として|宣伝歌《せんでんか》を|歌《うた》ひ|顕恩郷《けんおんきやう》の|敵《てき》の|巣窟《そうくつ》に|向《むか》つて|単騎《たんき》|進入《しんにふ》するのであつた。|日《ひ》は|西山《せいざん》に|傾《かたむ》いて|黄昏《たそがれ》の|空《そら》|暗《くら》く|一点《いつてん》の|星《ほし》さへ|見《み》えぬ|闇夜《やみよ》は|刻々《こくこく》と|身辺《しんぺん》を|包《つつ》んで|来《き》た。|宣伝歌《せんでんか》の|声《こゑ》は|暗《やみ》を|縫《ぬ》うて|遠近《ゑんきん》に|響《ひび》き|渡《わた》る。|此《この》|時《とき》|天地《てんち》も|割《わ》るる|許《ばか》りの|音響《おんきやう》|聞《きこ》ゆると|見《み》る|間《ま》に|眼前《がんぜん》に|落下《らくか》した|大火光《だいくわくわう》がある。|不図《ふと》|見《み》れば|眉目清秀《びもくせいしう》|容貌端麗《ようばうたんれい》なる|一柱《ひとり》の|神人《しんじん》、|身体《からだ》より|電光《でんくわう》の|如《ごと》き|火気《くわき》を|放出《はうしゆつ》し|乍《なが》ら|太玉命《ふとたまのみこと》に|向《むか》ひ、
『|吾《われ》は|天照大神《あまてらすおほかみ》の|第四《だいし》の|御子《みこ》、|活津彦根神《いくつひこねのかみ》なり。|汝《なんぢ》|大胆《だいたん》にも|唯一人《ただひとり》|悪逆無道《あくぎやくぶだう》の|婆羅門《ばらもん》が|根拠《こんきよ》に|進入《しんにふ》し|来《きた》る|事《こと》、|無謀《むぼう》の|極《きは》みなり。|岩石《がんせき》を|抱《いだ》いて|海中《かいちう》に|投《とう》ずるよりも|危《あやふ》し。|一時《いちじ》も|早《はや》く、もと|来《き》し|道《みち》へ|引返《ひきかへ》せよ』
|太玉命《ふとたまのみこと》『|汝《なんぢ》は|活津彦根神《いくつひこねのかみ》とは|全《まつた》くの|詐《いつは》りならむ。|鬼雲彦《おにくもひこ》に|憑依《ひようい》する|八岐大蛇《やまたをろち》の|変化《へんげ》か|金毛九尾《きんまうきうび》の|変身《へんしん》か、|悪鬼《あくき》の|変化《へんげ》ならむ。|吾《われ》は|苟《いやし》くも|大神《おほかみ》の|神使《しんし》、この|顕恩郷《けんおんきやう》をして|昔《むかし》の|天国《てんごく》|楽土《らくど》に|復帰《ふくき》せしむるは|吾《わが》|大神《おほかみ》より|委託《ゐたく》されたる|一大《いちだい》|使命《しめい》なり。|不幸《ふかう》にして|神軍《しんぐん》|利《り》|有《あ》らずとも、そは|天命《てんめい》なり、|要《い》らざる|構《かま》ひ|立《だ》て|聞《き》く|耳《みみ》|持《も》たぬ』
と|暗《やみ》の|道《みち》を|一目散《いちもくさん》に|前進《ぜんしん》する。|活津彦根神《いくつひこねのかみ》は、
『|然《しか》らば|汝《なんぢ》の|勝手《かつて》にせよ』
と|云《い》ふかと|見《み》れば|姿《すがた》は|忽《たちま》ち|消《き》えて、|山《やま》の|尾上《をのへ》を|渡《わた》る|嵐《あらし》の|音《おと》のザワザワと|聞《きこ》ゆるのみなり。|太玉命《ふとたまのみこと》は|漸《やうや》く|暗《やみ》に|慣《な》れ、|朧気《おぼろげ》|乍《なが》らも|探《さぐ》り|探《さぐ》り|進《すす》む|事《こと》を|得《え》た。
この|時《とき》|雲《くも》の|扉《とびら》を|開《ひら》いて|十三夜《じふさんや》の|月《つき》は|輝《かがや》き|初《はじ》めた。|太玉命《ふとたまのみこと》は|敵《てき》の|城砦《じやうさい》を|指《さ》して|又《また》もや|宣伝歌《せんでんか》を|歌《うた》ひつつ|進《すす》み|行《ゆ》く。|向《むか》ふの|方《はう》より|数十《すうじふ》の|黒《くろ》き|影《かげ》|現《あら》はれ|来《きた》り、|前後左右《ぜんごさいう》より|一柱《ひとり》の|太玉命《ふとたまのみこと》を|取《と》り|囲《かこ》み、
|鳶彦《とびひこ》『ヤア|我《われ》こそは|大国別《おほくにわけ》の|命《みこと》の|従者《じゆうしや》にして、|鳶彦《とびひこ》と|言《い》ふ|顕恩郷《けんおんきやう》きつてのヒーロー|豪傑《がうけつ》、|汝《なんぢ》|無謀《むぼう》にも|唯《ただ》|一柱《ひとり》|顕恩郷《けんおんきやう》に|進《すす》み|来《きた》るとは|生命《いのち》|知《し》らずの|大馬鹿者《おほばかもの》、サア|尋常《じんじやう》に|手《て》を|廻《まは》せ』
と|言《い》ふより|早《はや》く|槍《やり》の|切突《きつさき》を|月光《げつくわう》に|閃《ひらめ》かし|乍《なが》ら|四方《しはう》よりつめ|掛《かけ》|来《きた》る。|進退《しんたい》|維《これ》|谷《きはま》りし|太玉命《ふとたまのみこと》は|懐中《くわいちう》より|柄《え》の|短《みじか》き|太玉串《ふとたまぐし》を|取《と》り|出《だ》し、|左右左《さいうさ》と|打《う》ち|振《ふ》れば|豈《あに》|図《はか》らむや|鳶彦《とびひこ》|以下《いか》の|黒影《くろかげ》は|拭《ぬぐ》ふが|如《ごと》く|消《き》え|失《う》せて|塵《ちり》だにも|留《とど》めざりける。
|太玉命《ふとたまのみこと》『アハヽヽヽ、|何事《なにごと》も|悪神《あくがみ》の|計画《たくみ》は|斯《か》くの|如《ごと》く|脆《もろ》きものだ、|吾《わ》が|所持《しよぢ》する|太玉串《ふとたまぐし》の|神力《しんりき》に|依《よ》つて|斯《か》くも|消《き》え|失《う》せたるか。アヽ|有難《ありがた》い|有難《ありがた》い、|三五教《あななひけう》の|大神《おほかみ》!』
と|大地《だいち》に|平伏《へいふく》してその|神恩《しんおん》を|感謝《かんしや》するのであつた。|太玉命《ふとたまのみこと》は|不図《ふと》|頭《かうべ》を|上《あ》ぐれば|此《こ》はそも|如何《いか》に、コーカス|山《さん》に|残《のこ》し|置《お》きたる|妻《つま》、|松代姫《まつよひめ》を|始《はじ》めエデンの|園《その》を|守《まも》る|最愛《さいあい》の|一人娘《ひとりむすめ》、|照妙姫《てるたへひめ》は|高手《たかて》|小手《こて》に|縛《いま》しめられ|猿轡《さるぐつわ》を|箝《は》まされ、|鬼《おに》の|如《ごと》き|番卒《ばんそつ》|数多《あまた》に|引《ひ》き|立《た》てられ|命《みこと》の|前《まへ》を|萎々《しをしを》と|稍《やや》|伏《ふ》し|目《め》|勝《が》ちに|通《とほ》り|過《す》ぎむとす。|太玉命《ふとたまのみこと》はハツと|驚《おどろ》き、|二人《ふたり》の|顔《かほ》を|息《いき》を|凝《こ》らし|目《め》を|見張《みは》り|眺《なが》めて|居《ゐ》た。|松代姫《まつよひめ》、|照妙姫《てるたへひめ》は|猿轡《さるぐつわ》を|箝《は》められたる|為《た》めにや、|此方《こなた》に|向《むか》つて|目《め》を|瞬《しばたた》き、|何事《なにごと》か|訴《うつた》ふるものの|如《ごと》くであつた。この|時《とき》|黒頭巾《くろづきん》を|被《かぶ》りたる|大《だい》の|男《をとこ》、|田蠑《たにし》の|如《ごと》き|目《め》を|剥《む》き|出《だ》し、
『ヤア|其《その》|方《はう》は|三五教《あななひけう》の|神司《かむづかさ》|太玉命《ふとたまのみこと》に|非《あら》ずや、|汝《なんぢ》|速《すみやか》に|此《この》|河《かは》を|渡《わた》り|再《ふたた》び|顕恩郷《けんおんきやう》を|窺《うかが》はざるに|於《おい》ては|汝《なんぢ》の|妻子《さいし》を|赦《ゆる》し|遣《つか》はさむ。|之《これ》にも|屈《くつ》せず|益々《ますます》|顕恩郷《けんおんきやう》に|向《むか》つて|進入《しんにふ》するに|於《おい》ては、|汝《なんぢ》が|最愛《さいあい》の|妻子《さいし》を|今《いま》|此《この》|場《ば》に|於《おい》て|嬲殺《なぶりごろ》しにして|呉《く》れむ、|返答《へんたふ》|如何《いか》に』
|太玉命《ふとたまのみこと》『サアそれは……』
|男《をとこ》『サア、サア|如何《どう》じや、|返答《へんたふ》|聞《き》かせ』
|太玉命《ふとたまのみこと》『サア、それは……』
|男《をとこ》『サア、サアサア』
と|掛合《かけあ》ふ。この|時《とき》|如何《いかが》しけむ、|松代姫《まつよひめ》の|猿轡《さるぐつわ》はサラリと|解《と》けた。
|松代姫《まつよひめ》『ヤア|貴方《あなた》は|吾《あが》|夫《をつと》|太玉命《ふとたまのみこと》に|在《おは》さずや、|妾《わらは》は|今《いま》やバラモン|教《けう》の|兇徒《きようと》に|捕《とら》へられ、|無限《むげん》の|苦《く》を|受《う》け|今《いま》|又《また》|斯《か》くの|如《ごと》き|憂目《うきめ》に|会《あ》ふ。|如何《いか》に|夫《をつと》にして|勇猛《ゆうまう》|絶倫《ぜつりん》に|在《おは》せばとて、|顕恩郷《けんおんきやう》には|鬼雲彦《おにくもひこ》を|始《はじ》め、|無数《むすう》の|強神《きやうしん》|綺羅星《きらぼし》の|如《ごと》く|固《かた》く|守《まも》り|居《を》れば|到底《たうてい》|衆寡《しうくわ》|敵《てき》せず|一時《いちじ》も|早《はや》く|自我心《じがしん》を|折《を》り、|当郷《たうきやう》を|退却《たいきやく》し|妾《わらは》|母子《おやこ》の|命《いのち》を|救《すく》はせ|給《たま》へ』
とワツと|許《ばか》りに|泣《な》き|伏《ふ》しにける。|照妙姫《てるたへひめ》の|猿轡《さるぐつわ》も|如何《いかが》しけむバラバラと|解《と》けたりける。
|照妙姫《てるたへひめ》『アヽ|恋《こひ》しき|父上様《ちちうへさま》、|妾《わらは》は|敵《てき》の|為《た》めに|無限《むげん》の|苦《く》を|嘗《な》め、|譬《たと》へ|方《かた》なき|侮辱《ぶじよく》を|受《う》け|悲哀《ひあい》に|沈《しづ》む|今《いま》の|境遇《きやうぐう》、|何卒《どうぞ》|妻子《つまこ》をお|救《すく》ひ|下《くだ》さいませ』
と|又《また》もや|其《その》|場《ば》に|泣《な》き|倒《たふ》るるにぞ、|太玉命《ふとたまのみこと》は|合点《がてん》|行《ゆ》かずと|双手《もろて》を|組《く》み|稍《やや》|少時《しばし》|思案《しあん》に|暮《く》れて|居《ゐ》た。|松代姫《まつよひめ》、|照妙姫《てるたへひめ》は|頻《しき》りに|両手《りやうて》を|合《あは》せ、
『|吾《わが》|夫《をつと》よ、|吾《わが》|父《ちち》よ、|一時《いちじ》も|早《はや》く|貴方《あなた》は|我《が》を|折《を》り、バラモン|教《けう》の|命《めい》に|従《したが》ひ|妾《わらは》を|助《たす》けて|此《この》|顕恩郷《けんおんきやう》を|退《の》かせ|給《たま》へ』
と|前後《ぜんご》より|命《みこと》に|取《と》り|縋《すが》り|泣《な》き|叫《さけ》びける。
|男《をとこ》『サア、|太玉命《ふとたまのみこと》、|汝《なんぢ》が|所持《しよぢ》する|太玉串《ふとたまぐし》を|吾等《われら》に|渡《わた》し|降参《かうさん》|致《いた》せば、|汝《なんぢ》が|妻子《さいし》の|生命《いのち》を|助《たす》けて|遣《つか》はす。|如何《どう》じや、|妻子《さいし》は|殺《ころ》され|吾身《わがみ》を|捨《す》てても|神《かみ》の|道《みち》を|進《すす》まむとするか、|返答《へんたふ》|聞《き》かせ』
と|詰《つ》め|掛《かけ》る。|太玉命《ふとたまのみこと》は|心《こころ》に|思《おも》ふ|様《やう》、
『|焼野《やけの》の|雉子《きぎす》、|夜《よる》の|鶴《つる》、|子《こ》を|憐《あはれ》まざるはなしと|聞《き》く、|况《ま》して|最愛《さいあい》の|妻《つま》|諸共《もろとも》に|非業《ひがう》の|最後《さいご》を|遂《と》ぐるを【みす】みす|見捨《みす》てて|敵城《てきじやう》に|進《すす》むは|如何《いか》に|神命《しんめい》なればとて|忍《しの》び|難《がた》し。さりながら|松代姫《まつよひめ》は|斯《か》くの|如《ごと》き|悪魔《あくま》にオメオメと|捕縛《ほばく》せらるるが|如《ごと》き|卑怯者《ひけふもの》に|非《あら》ず。|又《また》|吾《わ》が|娘《むすめ》の|照妙姫《てるたへひめ》はかかる|女々《めめ》しき|言《げん》を|吐《は》く|娘《むすめ》に|非《あら》ず、まさしく|之《これ》|妖怪《えうくわい》|変化《へんげ》の|所為《しよゐ》ならむ』
と|又《また》もや|神言《かみごと》を|奏上《そうじやう》し、|太玉串《ふとたまぐし》を|懐中《くわいちう》より|取《と》り|出《だ》して|左右左《さいうさ》と|打《う》ち|振《ふ》つた。|忽《たちま》ち|雷鳴《らいめい》|轟《とどろ》き|電光石火《でんくわうせきくわ》、|四辺《あたり》|眩《まばゆ》き|以前《いぜん》の|神人《しんじん》|此《この》|場《ば》に|下《くだ》り|来《きた》るよと|見《み》る|間《ま》に|松代姫《まつよひめ》、|照妙姫《てるたへひめ》を|始《はじ》め|数多《あまた》の|敵《てき》の|影《かげ》は|煙《けぶり》の|如《ごと》く|消《き》え|失《う》せ、|野路《のぢ》を|吹《ふ》き|渡《わた》る|風《かぜ》の|音《おと》のみザワザワと|聞《きこ》ゆるのであつた。
|太玉命《ふとたまのみこと》『アハヽヽヽ、|又《また》|欺《だま》しやがつたな』
(大正一一・四・一 旧三・五 北村隆光録)
第三章 |十六花《じふろくくわ》〔五七〇〕
|太玉命《ふとたまのみこと》は|路傍《ろばう》の|岩《いは》に|腰打掛《こしうちか》け、|天津祝詞《あまつのりと》を|声低《こゑびく》に|奏上《そうじやう》しつつあつた。|百鳥《ももどり》の|声《こゑ》は|遠近《ゑんきん》の|林《はやし》に|聞《きこ》え|始《はじ》めた。|東《ひがし》の|空《そら》はほんのりとして|暁《あかつき》の|色《いろ》|刻々《こくこく》さえて|来《き》た。|数多《あまた》の|魔神《まがみ》の|声《こゑ》は|森《もり》の|彼方《あなた》にザワザワと|聞《きこ》え|来《きた》る。|油断《ゆだん》ならじとキツト|身構《みがまへ》する|折《をり》しもあれ、|馬《うま》の|蹄《ひづめ》の|音《おと》いと|高《たか》く、|岩彦《いはひこ》、|梅彦《うめひこ》、|音彦《おとひこ》、|亀彦《かめひこ》、|駒彦《こまひこ》、|鷹彦《たかひこ》は|矢《や》を|射《い》る|如《ごと》く|此《この》|場《ば》に|馳来《はせきた》り、|太玉命《ふとたまのみこと》に|向《むか》つて、
|岩彦《いはひこ》『ヤア|貴下《きか》は|太玉命《ふとたまのみこと》の|宣伝使《せんでんし》、|私等《わたくしら》はフサの|都《みやこ》に|於《おい》て、|日《ひ》の|出別神《でわけのかみ》の|命《めい》に|依《よ》り、|貴下《きか》と|共《とも》に|顕恩郷《けんおんきやう》を|言向和《ことむけやは》さむと、エデン|河《がは》の|濁流《だくりう》を|渡《わた》り、|漸《やうや》く|此処《ここ》に|走《は》せ|参《さん》じたり、|一行《いつかう》の|人々《ひとびと》は|如何《いかが》なりしか』
|太玉命《ふとたまのみこと》『ヤア|思《おも》ひも|寄《よ》らぬ|貴下等《きから》の|御入来《ごじふらい》、いよいよこれより|敵《てき》の|牙城《がじやう》に|唯一人《ただひとり》|進撃《しんげき》せむとする|場合《ばあひ》で|御座《ござ》る。|斯《かく》の|如《ごと》き|曲神《まがかみ》の|砦《とりで》を|言向《ことむ》け|和《やは》すは|吾《われ》|一人《ひとり》にて|充分《じゆうぶん》なり。|折角《せつかく》の|御出馬《ごしゆつば》なれど、|貴下《きか》は|速《すみや》かにフサの|都《みやこ》に|引返《ひきかへ》し、|夫々《それぞれ》の|神業《しんげふ》に|就《つ》かせられたし』
|岩彦《いはひこ》『それはあまり|無謀《むぼう》の|極《きはみ》と|申《まを》すもの、|吾々《われわれ》は|折角《せつかく》|山川《さんせん》を|渡《わた》り|漸《やうや》く|此処《ここ》に|立向《たちむか》ひ、|目前《もくぜん》に|敵《てき》を|見《み》ながら|空《むな》しく|駒《こま》の|頭《かしら》を|立《た》て|直《なほ》すは、|男子《だんし》の|本分《ほんぶん》にあらず。|願《ねが》はくは|吾等《われら》を|此《この》|神戦《しんせん》に|参加《さんか》させ|給《たま》へ』
|梅彦《うめひこ》|以下《いか》|五人《ごにん》の|宣伝使《せんでんし》は、|口《くち》を|揃《そろ》へて|従軍《じゆうぐん》せむことを|強要《きやうえう》した。
|太玉命《ふとたまのみこと》『|然《しか》らば|是非《ぜひ》に|及《およ》ばぬ、|御苦労《ごくらう》|乍《なが》ら|御加勢《ごかせい》を|願《ねが》ふ』
『|早速《さつそく》の|御承知《ごしようち》、|有難《ありがた》し|辱《かたじけ》なし』
と|一行《いつかう》|六人《ろくにん》は、|太玉命《ふとたまのみこと》の|後《あと》に|従《つ》いて、|山《やま》|深《ふか》く|進《すす》み|入《い》る。この|場《ば》の|光景《くわうけい》は|絵巻物《ゑまきもの》を|見《み》る|如《ごと》くであつた。
|進《すす》むこと|一里《いちり》|半《はん》|許《ばか》り、|此処《ここ》には|深《ふか》き|谷川《たにがは》が|横《よこ》たはつて|居《ゐ》る。その|幅《はば》|殆《ほとん》ど|十間《じつけん》|許《ばか》り、ピタツと|行詰《ゆきつま》つた。|七人《しちにん》の|宣伝使《せんでんし》は|暫《しばら》く|此処《ここ》に|駒《こま》を|繋《つな》ぎ、|少憩《せうけい》し、|如何《いか》にして|此《この》|渓谷《たに》を|対岸《むかふ》に|渡《わた》らむかと|協議《けふぎ》を|凝《こ》らしつつありき。|谷《たに》の|向側《むかふがは》には、オベリスクの|如《や》うな|帽子《ばうし》を|被《かぶ》つた|半鐘泥棒的《はんしようどろぼうてき》ジヤイアントが|七八人《しちはちにん》、|巨眼《きよがん》を|開《ひら》き、|大口《おほぐち》|開《あ》けてカラカラと|打笑《うちわら》ひ、
『ワハヽヽヽハア、どうぢや、|何程《なにほど》|肝《きも》の|太玉《ふとたま》の|命《みこと》でも、この|谷川《たにがは》を|渡《わた》ることは|出来《でき》まい|此《この》|川底《かはぞこ》を|熟視《じゆくし》せよ』
と|指《ゆびさ》す。|見《み》れば|川底《かはぞこ》には、|空地《あきち》なき|程《ほど》、|二尺《にしやく》|許《ばか》りの|鋭利《えいり》なる|鎗《やり》の|穂先《ほさき》が、|幾百千《いくひやくせん》ともなく、|土筆《つくし》の|生《は》えてる|様《やう》に|直立《ちよくりつ》して|居《ゐ》る。|此《この》|川《かは》に|落《お》ちるが|最後《さいご》、|如何《いか》なる|肉体《にくたい》も|芋刺《いもざし》となつて|亡《ほろ》びねばならぬシーンを|現《あら》はして|居《ゐ》る。|太玉命《ふとたまのみこと》はカラカラとうち|笑《わら》ひ、
『これしきの|谷川《たにがは》を|恐《おそ》れて、|三五教《あななひけう》の|宣伝《せんでん》が|出来《でき》ようか、|美事《みごと》|渡《わた》つて|見《み》せうぞ』
と|云《い》ふより|早《はや》く|一同《いちどう》に|目配《めくば》せした。|一同《いちどう》は|心得《こころえ》たりと|馬《うま》に|跨《またが》り、|太玉命《ふとたまのみこと》は|岩彦《いはひこ》の|背後《はいご》に|飛乗《とびの》り、|忽《たちま》ち|四五丁《しごちやう》|許《ばか》り|元《もと》|来《きた》りし|道《みち》に|引返《ひきかへ》し、|又《また》もや|馬首《ばしゆ》を|転《てん》じ|鞭《むち》をうちつつ、|幅《はば》|三間《さんげん》|許《ばか》りの|谷合《たにあひ》を|勢《いきほひ》に|任《まか》せて|一足飛《いつそくとび》に|飛《と》び|越《こ》えた。|巨大《きよだい》の|男《をとこ》は|驚《おどろ》き|慌《あは》て、|雲《くも》を|霞《かすみ》と|逃帰《にげかへ》る。|又《また》もや|続《つづ》いて|梅彦《うめひこ》、|鷹彦《たかひこ》、|亀彦《かめひこ》、その|他《た》|一同《いちどう》|矢庭《やには》に|駒《こま》に|鞭《むちう》つて、|難《なん》なく|此《この》|谷川《たにがは》を|打渡《うちわた》り、|後《あと》|振返《ふりかへ》り|見《み》れば|豈《あに》|図《はか》らむや、|谷川《たにがは》らしきものは|一《ひと》つもなく、|草《くさ》|茫々《ばうばう》と|生《は》え|茂《しげ》る|平野《へいや》であつた。
|太玉命《ふとたまのみこと》『アハヽヽヽ、|又《また》|瞞《だま》しをつた、|各方《おのおのがた》|能《よ》く|気《き》を|付《つ》けねばなりませぬぞ、|此《この》|前途《さき》は|仮令《たとへ》|如何《いか》なる|渓谷《けいこく》ありとも|平気《へいき》で|渉《わた》ることに|致《いた》しませうかい。|神変《しんぺん》|不可思議《ふかしぎ》の|妖術《えうじゆつ》を|使《つか》ふ|悪魔《あくま》の|巣窟《そうくつ》ですから、|最前《さいぜん》も|吾《わが》|妻《つま》の|松代姫《まつよひめ》、|及《およ》び|娘《むすめ》|照妙姫《てるたへひめ》と|変《へん》じ、|吾《わが》|精神《せいしん》を|鈍《にぶ》らさむと|致《いた》せし|魔神《まがみ》の|計略《けいりやく》、|飽《あ》く|迄《まで》も|誑《たば》かられない|様《やう》に|気《き》を|付《つ》けて|参《まゐ》りませう』
と|先《さき》に|立《た》つて|進《すす》み|行《ゆ》く。|一同《いちどう》は|馬《うま》を|傍《かたはら》の|樹木《じゆもく》に|繋《つな》ぎ、|山《やま》と|山《やま》との|渓道《たにみち》を、|宣伝歌《せんでんか》を|歌《うた》ひ|乍《なが》ら|山《やま》|深《ふか》く|進《すす》むのであつた。|行《ゆ》く|事《こと》|数里《すうり》にして、|荘厳《さうごん》なる|城壁《じやうへき》の|前《まへ》にピタリと|突当《つきあた》つた。|朱欄碧瓦《しゆらんへきぐわ》の|宏壮《くわうさう》なる|大門《おほもん》は|建《た》てられ、|方尖塔《はうせんたふ》の|如《ごと》き|冠《かむり》を|被《かぶ》りたる|四五《しご》のジヤイアント|門《もん》を|堅《かた》く|守《まも》つて|居《ゐ》る。|太玉命《ふとたまのみこと》|一行《いつかう》は|忽《たちま》ち|門前《もんぜん》に|立現《たちあら》はれ、
『|吾《わ》れこそは|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》、|当国《たうごく》には|八岐大蛇《やまたをろち》、|金狐《きんこ》、|悪鬼《あくき》の|邪霊《じやれい》に|憑依《ひようい》されたる|鬼雲彦《おにくもひこ》|夫妻《ふさい》|立籠《たてこも》り、|不公平《ふこうへい》|極《きは》まる|神政《しんせい》を|布《し》き、この|顕恩郷《けんおんきやう》をして|殆《ほとん》ど|地獄《ぢごく》の|境地《きやうち》と|変《へん》ぜしめたるは、|天恵《てんけい》を|無視《むし》する|大罪《だいざい》なれば、|吾《われ》は|是《これ》より|鬼雲彦《おにくもひこ》を|善道《ぜんだう》に|帰順《きじゆん》せしめむため、|大神《おほかみ》の|命《めい》を|奉《ほう》じて|宣伝《せんでん》に|向《むか》うたり。|速《すみや》かに|此《この》|門扉《もんぴ》を|開《ひら》けよ』
と|言葉《ことば》|厳《きび》しく|詰《なじ》り|寄《よ》る。|門番《もんばん》は|面喰《めんくら》ひながら、
『|暫《しばら》くお|待《ま》ち|下《くだ》さいませ、あなた|方《がた》のエデン|河《がは》を|御渡《おわた》りありしより|城内《じやうない》は|上《うへ》を|下《した》への|大混雑《だいこんざつ》、|如何《いか》にして|貴下等《きから》を|満足《まんぞく》せしめむやと、|鬼雲彦《おにくもひこ》の|大将《たいしやう》に|於《お》かせられても|千辛万苦《せんしんばんく》の|御有様《おんありさま》、やがて|開門《かいもん》のシグナルの|鐘《かね》が|響《ひび》き|亘《わた》りますれば、それ|迄《まで》ゆるゆる|此処《ここ》に|御休息《ごきうそく》|願《ねが》ひたし。|必《かなら》ず|必《かなら》ず|敵対《てきたい》|申《まを》す|者《もの》は|一柱《ひとはしら》も|居《を》りませぬ。|御安心《ごあんしん》|下《くだ》さいませ』
|音彦《おとひこ》『ヤア|其《その》|方《はう》は|何《なん》ぢや|彼《か》ぢやと|暇《ひま》|取《と》らせ、|其《その》|間《あひだ》に|戦闘《せんとう》の|準備《じゆんび》を|整《ととの》へ、|吾々《われわれ》を|鏖殺《おうさつ》せむとするの|計略《けいりやく》ならむ。ソンナ ヨタリスクは|聞《き》く|耳《みみ》|持《も》たぬ、|速《すみやか》に|此《この》|門《もん》|開《ひら》けよ』
|門番《もんばん》『これ|程《ほど》|申上《まをしあ》げてもお|疑《うたがひ》|晴《は》れずば、|御自由《ごじいう》に|御這入《おはい》り|下《くだ》さいませ』
と|云《い》ふより|早《はや》く、|潜《くぐ》り|門《もん》を|開《ひら》いて、|門内《もんない》に|姿《すがた》を|隠《かく》して|了《しま》つた。
|鷹彦《たかひこ》『|一《ひと》つ|吾々《われわれ》が|還元《くわんげん》の|芸当《げいたう》をやつて、|城内《じやうない》|隈《くま》なく|偵察《ていさつ》をやつて|見《み》ませう』
と|忽《たちま》ち|霊鷹《れいよう》と|変《へん》じ、|中空《ちうくう》に|舞上《まひあが》り、|顕恩城《けんおんじやう》の|内外《ないぐわい》を|隈《くま》なく|偵察《ていさつ》し、もとの|大門《おほもん》に|現《あら》はれ|来《きた》り、|中《なか》より|閂《かんぬき》を|外《はづ》し、|門扉《もんぴ》を|左右《さいう》に|開《ひら》いた。
|鷹彦《たかひこ》『サアサア|是《これ》から|吾々《われわれ》|一同《いちどう》が|活動《くわつどう》のステージだ。|轡《くつわ》を|並《なら》べて|七人《しちにん》がスパークを|散《ち》らして、|奮戦《ふんせん》するの|時《とき》や|迫《せま》つた、ヤア|面白《おもしろ》し|面白《おもしろ》し、|太玉命《ふとたまのみこと》|続《つづ》かせ|給《たま》へ』
と|先《さき》に|立《た》つて|進《すす》み|行《ゆ》く。|数多《あまた》の|敵《てき》は|左右《さいう》に、|蟻《あり》の|集《つど》ふが|如《ごと》く|整列《せいれつ》して、|七人《しちにん》が|通行《つうかう》を|敵対《てきたい》もせず、|歓迎《くわんげい》もせぬと|云《い》ふ|態度《たいど》にて|見《み》まもつて|居《を》る。
|岩彦《いはひこ》『ヤア|各方《おのおのがた》、あれ|丈《だけ》|沢山《たくさん》の|敵《てき》が|吾々《われわれ》に|抵抗《ていかう》も|致《いた》さず、|各自《めいめい》|手槍《てやり》を|携《たづさ》へ|乍《なが》ら|目送《もくそう》しつつあるは、|合点《がてん》の|行《ゆ》かぬ|次第《しだい》で|御座《ござ》る。|余《あま》り|軽々《かるがる》しく|進《すす》み|過《す》ぎて、|四方《しはう》|八方《はつぱう》より|取囲《とりかこ》まれなば、|如何《いかん》とも|出来《でき》ない|様《やう》な|破目《はめ》に|陥《おちい》るかも|知《し》れませぬぞ、これは|一《ひと》つ|考《かんが》へねばなりますまい』
|太玉命《ふとたまのみこと》『ナニ|躊躇逡巡《ちうちよしゆんじゆん》は|三五教《あななひけう》の|大禁物《だいきんもつ》、|生死《せいし》も、|勝敗《しようはい》も、|皆《みな》|神《かみ》の|手《て》に|握《にぎ》られあれば、|運《うん》を|天《てん》に|任《まか》せ、|行《ゆ》く|所《ところ》|迄《まで》|行《い》つて|見《み》ませう』
と|太玉命《ふとたまのみこと》は|先《さき》に|立《た》つて|進《すす》み|行《ゆ》く。|鬼雲彦《おにくもひこ》の|御殿《ごてん》の|前《まへ》に|近付《ちかづ》く|折《をり》しも、|瀟洒《せうしや》たる|白木《しらき》の|門《もん》をサラリと|開《ひら》いて|悠々《いういう》|現《あら》はれ|来《きた》る|十数人《じふすうにん》の|窈窕嬋研《ようてうせんけん》たる|美人《びじん》、スノーの|如《ごと》き|繊手《せんしゆ》を|揉《も》み|乍《なが》ら、
『これはこれは|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》|様《さま》の|御一行様《ごいつかうさま》、|能《よ》うマア|遥々《はるばる》お|越《こ》し|下《くだ》さいました。|鬼雲彦《おにくもひこ》の|御大将《おんたいしやう》の|御命令《ごめいれい》に|依《よ》りて、|妾《わらは》|一同《いちどう》はお|迎《むか》へに|参《まゐ》りました。|訳《わけ》の|分《わか》らぬ|者共《ものども》が|種々《いろいろ》と|御無礼《ごぶれい》を|働《はたら》きましたでせう、|何事《なにごと》も|足《た》らはぬスレーブの|為《な》す|業《わざ》と、|広《ひろ》き|厚《あつ》き|大御心《おほみこころ》に|見直《みなほ》し|聞直《ききなほ》し|下《くだ》さいまして、ゆるゆると|奥殿《おくでん》にて|御休息《ごきうそく》の|上《うへ》、|尊《たふと》き|御話《おはなし》をお|聞《き》かせ|下《くだ》さいませ、|御大将《おんたいしやう》も|定《さだ》めて|御満足《ごまんぞく》の|事《こと》と|存《ぞん》じます』
と|言葉《ことば》スガスガしく、|満面《まんめん》に|笑《ゑみ》を|湛《たた》へて|慇懃《いんぎん》に|挨拶《あいさつ》する。|太玉命《ふとたまのみこと》|以下《いか》の|宣伝使《せんでんし》は、|張合《はりあひ》|抜《ぬ》けたる|如《ごと》き|心地《ここち》し|乍《なが》ら、|美人《びじん》|一行《いつかう》の|後《あと》に|伴《つ》いて、|奥殿《おくでん》に|悠々《いういう》と|進《すす》み|入《い》るのであつた。
|宣伝使《せんでんし》の|一行《いつかう》は、|顕恩城《けんおんじやう》の|奥殿《おくでん》に|深《ふか》く|進《すす》み|入《い》つた。|山海《さんかい》の|珍味《ちんみ》は|整然《せいぜん》として|並《なら》べられてあつた。|美人《びじん》の|中《うち》の|最年長者《さいねんちやうしや》と|見《み》ゆる、|眼《まなこ》|涼《すず》しく、|背《せ》の|高《たか》き|愛子姫《あいこひめ》は|溢《あふ》るる|許《ばか》りの|愛嬌《あいけう》を|湛《たた》へ、
『これはこれは|宣伝使《せんでんし》|様《さま》、|能《よ》うこそ|遠路《ゑんろ》の|所《ところ》|入《い》らせられました。|顕恩郷《けんおんきやう》の|名産《めいさん》、|桃《もも》の|果実《このみ》を|始《はじ》め、|種々《いろいろ》の|珍《めづ》らしき|物《もの》を|以《もつ》て|馳走《ちそう》を|拵《こしら》へました、お|腹《なか》が|空《す》いたで|御座《ござ》いませう、どうぞ|御遠慮《ごゑんりよ》なくお|召《めし》あがり|下《くだ》さいませ。|果実《このみ》の|酒《さけ》も|沢山《たくさん》|御座《ござ》いますれば|御遠慮《ごゑんりよ》なく……サアお|酌《しやく》をさして|頂《いただ》きませう』
と|云《い》ふより|早《はや》く、|杯《さかづき》を|太玉命《ふとたまのみこと》に|献《さ》した。
『ヤア|思《おも》ひがけなき|山野河海《さんやかかい》の|珍味《ちんみ》、|御芳志《ごはうし》の|段《だん》|恐《おそ》れ|入《い》りました。それに|就《つ》いても|当城《たうじやう》の|御大将《おんたいしやう》|鬼雲彦《おにくもひこ》に|面会《めんくわい》の|上《うへ》、|戴《いただ》きませう』
|愛子姫《あいこひめ》『|御大将《おんたいしやう》は|只今《ただいま》|御出席《ごしゆつせき》になります、それまでに|御寛《ごゆる》りと|御酒《おさけ》を|飲《あが》つてお|待《ま》ち|下《くだ》さいませ』
|岩彦《いはひこ》、|大口《おほぐち》を|開《あ》けて、
『アハヽヽヽ、どこ|迄《まで》も|脱《ぬ》かりのない|悪神《あくがみ》の|計略《けいりやく》、|太玉命《ふとたまのみこと》の|御大将《おんたいしやう》、|迂濶《うつか》り|酒《さけ》でも|口《くち》に|入《い》れるものなら、それこそ|大変《たいへん》だ。|七転八倒《しちてんばつたう》、|苦悶《くもん》の|結果《けつくわ》、|敢《あへ》なき|最期《さいご》を|遂《と》げにけりだ。ナア|梅彦《うめひこ》サン、あなたはどう|思《おも》ひますか』
|梅彦《うめひこ》『|吾々《われわれ》は|五里霧中《ごりむちう》に|彷徨《はうくわう》の|為体《ていたらく》だ、|夢《ゆめ》に|牡丹餅《ぼたもち》、|食《く》つた|牡丹餅《ぼたもち》はダイナマイトの|御馳走《ごちそう》か、|何《なに》が|何《な》んだか、サツパリ|不得要領《ふとくえうりやう》だ。ナア|鷹彦《たかひこ》サン、あなたはどう|思《おも》ふか』
|鷹彦《たかひこ》『|先《ま》づ|十六人《じふろくにん》の|別嬪《べつぴん》さまから、|毒味《どくみ》をして|頂《いただ》きませう。|其《その》|上《うへ》でなくば|到底《たうてい》|安心《あんしん》が|出来《でき》ない、ナア|愛子姫《あいこひめ》さまとやら、さう|願《ねが》ひませうか』
|愛子姫《あいこひめ》『オホヽヽヽ、|御心配《ごしんぱい》|下《くだ》さいますな、|然《しか》らば|妾《わたし》がお|先《さき》へ|失礼《しつれい》|致《いた》します』
と|盃《さかづき》に|酒《さけ》を|注《つ》いで、グツト|飲《の》んだ。
|岩彦《いはひこ》『|妙々《めうめう》、これや|心配《しんぱい》は|要《い》らぬらしいぞ、ナア|音《おと》サン、|駒《こま》サン………|百味《ひやくみ》の|飲食《おんじき》を|心持《こころもち》よく|頂《いただ》きませうか』
|音彦《おとひこ》、|駒彦《こまひこ》は|頭《かうべ》を|左右《さいう》に|打振《うちふ》り、|黙然《もくねん》として|俯《うつ》むくのみであつた。|奥《おく》の|襖《ふすま》を|引開《ひきあ》けて|悠々《いういう》として|現《あら》はれ|来《きた》る|鬼雲彦《おにくもひこ》|夫婦《ふうふ》、|目鼻《めはな》が|無《な》かつたら、|万金丹計量《まんきんたんばかり》か、|砂《すな》つ|原《ぱら》の|夕立《ゆふだち》か、|山葵卸《わさびおろし》の|様《やう》な|不景気《ふけいき》な|面付《つらつき》に、|所々《ところどころ》|色《いろ》の|変《かは》つたアドラスの|様《やう》な、|膨《ふく》れ|面《づら》をニユツと|出《だ》しドス|声《ごゑ》になつて、
『これはこれは|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》|様《さま》、|当城《たうじやう》は|御聞及《おききおよび》の|通《とほり》、|霊主体従《れいしゆたいじゆう》を|本義《ほんぎ》と|致《いた》すバラモン|教《けう》の|教《をしへ》を|立《た》つる|屈強《くつきやう》の|場所《ばしよ》、|三五教《あななひけう》は|予《かね》て|聞《き》く|霊主体従《れいしゆたいじゆう》の|正教《せいけう》にして、ウラル|教《けう》の|如《ごと》き|体主霊従《たいしゆれいじう》の|邪教《じやけう》にあらず、バラモン|教《けう》は|茲《ここ》に|鑑《かんがみ》る|所《ところ》あり、ウラル|教《けう》を|改造《かいざう》して、|真正《しんせい》の|霊主体従教《れいしゆたいじゆうけう》を|樹立《じゆりつ》せしもの、|是《こ》れ|全《まつた》く|天《てん》の|時節《じせつ》の|到来《たうらい》せるもの、|謂《ゐ》はば|三五教《あななひけう》とバラモン|教《けう》は|切《き》つても|断《き》れぬ、|教理《けうり》に|於《おい》て、|真《しん》のシスター|教《けう》であります。どうぞ|以後《いご》は|互《たがひ》に|胸襟《きようきん》を|開《ひら》いて、|相《あひ》|提携《ていけい》されむ|事《こと》を|懇願《こんぐわん》|致《いた》します』
と|御面相《ごめんさう》にも|似合《にあ》はぬ、|御叮嚀《ごていねい》な|挨拶《あいさつ》をするのであつた。|太玉命《ふとたまのみこと》はこれに|答《こた》へて、
『|何分《なにぶん》|宜《よろ》しく、|今後《こんご》はシスター|教《けう》として|提携《ていけい》|致《いた》したい。|夫《そ》れに|就《つ》いては|互《たがひ》に|長《ちやう》を|採《と》り|短《たん》を|補《おぎな》ひ、|正《せい》を|取《と》り|偽《ぎ》を|削《けづ》り、|神聖《しんせい》なる|大神《おほかみ》の|御心《みこころ》に|叶《かな》ふべき|教理《けうり》を|立《た》てたきもので|御座《ござ》います。|吾々《われわれ》|一行《いつかう》、|当城《たうじやう》に|参《まゐ》る|途中《とちう》に|於《おい》て、|妖怪《えうくわい》|変化《へんげ》の|数多《あまた》|出没《しゆつぼつ》するは|何故《なにゆゑ》ぞ。バラモン|教《けう》は|斯《かく》の|如《ごと》き|妖術《えうじゆつ》を|以《もつ》て|世人《せじん》を|誑惑《けうわく》し、|信仰《しんかう》の|道《みち》に|引《ひ》き|入《い》れむとするや、|其《その》|意《い》の|在《あ》る|所《ところ》|承《うけたま》はりたし』
と|稍《やや》|語気《ごき》を|強《つよ》めて|詰問的《きつもんてき》に|出《で》た。|鬼雲彦《おにくもひこ》、|事《こと》もなげに|打笑《うちわら》ひ、
『アハヽヽヽ、|左様《さやう》で|御座《ござ》いましたか、|諺《ことわざ》にも|云《い》ふ、|正法《しやうはふ》に|不思議《ふしぎ》|無《な》し、|不思議《ふしぎ》|有《あ》るは|正法《しやうはふ》にあらず。|此《この》メソポタミヤは|世界《せかい》の|天国《てんごく》|楽土《らくど》と|聞《きこ》えたれば、|甘味《かんみ》|多《おほ》き|果物《くだもの》に|悪虫《あくちう》の|簇生《ぞくせい》するが|如《ごと》く、|天下《てんか》の|悪神《あくがみ》|此《この》|地《ち》に|蝟集《ゐしふ》して、|妖邪《えうじや》を|行《おこな》ふならむ、|決《けつ》して|決《けつ》して|霊主体従《れいしゆたいじゆう》のバラモン|教《けう》の|主意《しゆい》にあらず。|正邪《せいじや》を|混淆《こんかう》し、|善悪《ぜんあく》を|一視《いつし》されては、|聊《いささ》か|迷惑《めいわく》の|至《いた》りで|御座《ござ》います。|又《また》|中《なか》には|教理《けうり》を|能《よ》く|体得《たいとく》せざる|者《もの》|多《おほ》く、|或《ある》パートに|依《よ》りては|羊頭《やうとう》を|掲《かか》げて|狗肉《くにく》を|鬻《う》る|宣伝使《せんでんし》の|絶無《ぜつむ》を|保証《ほしよう》し|難《がた》し。|何教《なにけう》と|雖《いへど》も、|創立《さうりつ》の|際《さい》は|総《すべ》て、ハーモニーを|欠《か》くもの、|何卒《なにとぞ》|時節《じせつ》の|力《ちから》を|待《ま》つてバラモン|教《けう》の|真価《しんか》を|御覧《ごらん》|下《くだ》さい。|創立《さうりつ》|間《ま》もなき|吾《わが》|教《をしへ》、|到底《たうてい》ノーマルに|適《はま》つた|教理《けうり》は、|容易《ようい》に|完成《くわんせい》し|難《がた》いのは|三五教《あななひけう》の|創立《さうりつ》|当初《たうしよ》に|於《お》けると|同様《どうやう》でありませう、アハヽヽヽ』
と|腮《あご》をしやくり、|稍《やや》|空《そら》を|向《む》いて|嘲笑的《てうせうてき》に|笑《わら》ふのであつた。|鬼雲姫《おにくもひめ》は|言葉《ことば》|優《やさ》しく、
『これはこれは|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》|様《さま》、|能《よ》くこそ|御訪問《ごはうもん》|下《くだ》さいました。|教《をしへ》の|話《はなし》になりますと|自然《しぜん》|堅苦《かたぐる》しくなつて、お|座《ざ》が|白《しら》けます、お|話《はなし》はゆつくりと|後《あと》に|承《うけたま》はることに|致《いた》しませう。|心許《こころばか》りの|馳走《ちそう》、|何卒《なにとぞ》|御遠慮《ごゑんりよ》なくお|食《あが》り|下《くだ》さいませ、|決《けつ》して|毒《どく》などは|入《はい》つては|居《を》りませぬから…………』
|岩彦《いはひこ》『これはこれは|思《おも》ひがけなき|御饗応《ごきやうおう》、|吾々《われわれ》の|如《ごと》き|乞食《こじき》|宣伝使《せんでんし》は、|見《み》た|事《こと》も|御座《ござ》らぬ|山野河海《さんやかかい》の|珍味《ちんみ》、|有難《ありがた》く|頂戴《ちやうだい》|致《いた》しませう』
|鬼雲彦《おにくもひこ》は、|愛子姫《あいこひめ》、|幾代姫《いくよひめ》に|向《むか》ひ、
『ヤア|愛子姫《あいこひめ》、|幾代姫《いくよひめ》の|両人《りやうにん》、|遠来《ゑんらい》の|珍客《ちんきやく》を|犒《ねぎら》う|為《ため》、|汝等《なんぢら》|二人《ふたり》はアルマの|役《やく》を|勤《つと》め、|舞曲《ぶきよく》を|演《えん》じて|御目《おんめ》に|掛《か》けよ』
『アイ』
と|答《こた》へて、|両女《りやうぢよ》は|白扇《はくせん》を|開《ひら》き、|春野《はるの》の|花《はな》に|蝶《てふ》の|狂《くる》ふが|如《ごと》く、|身《み》も|軽々《かるがる》しく|長袖《ちやうしう》を|翻《ひるがへ》して、|前後左右《ぜんごさいう》に|踊《をど》り|狂《くる》ふた。|顕恩城《けんおんじやう》の|上役《うはやく》、|数十人《すうじふにん》は|此《この》|場《ば》に|現《あら》はれ、|酒《さけ》に|酔《よ》ひて、|或《あるひ》は|舞《ま》ひ、|或《あるひ》は|歌《うた》ひ、|遂《つひ》には|無礼講《ぶれいかう》と|変《へん》じ、|赤裸《まつぱだか》になつて|踊《をど》り|狂《くる》ふ。|七人《しちにん》の|宣伝使《せんでんし》は|心許《こころゆる》さず、|表面《へうめん》|酒《さけ》に|酔《よ》ひ|潰《つぶ》れたる|態《てい》を|装《よそほ》ひ、|他愛《たあい》もなく|腮《あご》の|紐《ひも》を|解《と》いて、|或《あるひ》は|笑《わら》ひ、|或《あるひ》は|歌《うた》ひ、|余念《よねん》なき|体《てい》を|装《よそほ》うて|居《ゐ》た。|不思議《ふしぎ》や|数十人《すうじふにん》の|顕恩城《けんおんじやう》の|上役《うはやく》の|面々《めんめん》は、|忽《たちま》ち|黒血《くろち》を|吐《は》き、|目《め》を|剥《む》き、|鼻水《はなみづ》を|垂《た》らし、さしもに|広《ひろ》き|殿内《でんない》を、|呻吟《うめき》の|声《こゑ》と|諸共《もろとも》に、のたうち|廻《まは》り、|顔色《がんしよく》|或《あるひ》は|青《あを》く、|或《あるひ》は|黒《くろ》く、|赤《あか》く、|苦悶《くもん》の|息《いき》を|嵐《あらし》の|如《ごと》く|吹《ふ》き|立《た》てた。|十六人《じふろくにん》の|美人《びじん》は、【てんで】に|襷《たすき》を|十文字《じふもんじ》にあやどりて、|人々《ひとびと》の|介抱《かいほう》に|従事《じゆうじ》した。|七人《しちにん》の|宣伝使《せんでんし》もお|附合《つきあひ》に、|苦悶《くもん》の|体《てい》を|装《よそほ》ひ、|縦横無尽《じうわうむじん》に、
『|苦《くる》しい|苦《くる》しい』
と|言《い》ひ|乍《なが》ら、|跳廻《はねまは》るのであつた。|此《この》|態《てい》を|見《み》て|鬼雲彦《おにくもひこ》|夫妻《ふさい》は|高笑《たかわら》ひ、
『アハヽヽヽ、|汝《なんぢ》|太玉命《ふとたまのみこと》、|吾《わが》|計略《けいりやく》にかかり、|能《よ》くも|斃《へた》ばつたな、|口汚《くちぎたな》き|宣伝使《せんでんし》、|毒《どく》と|知《し》らずに|調子《てうし》に|乗《の》つて、|命《いのち》を|棄《す》つる|愚《おろか》さよ。|吁《ああ》、さり|乍《なが》ら|味方《みかた》の|強者《つはもの》を|数多《あまた》|殺《ころ》すは|残念《ざんねん》なれど、|斯《かく》の|如《ごと》き|豪傑《がうけつ》を|倒《たふ》すには、|多少《たせう》の|犠牲《ぎせい》は|免《まぬが》れざる|所《ところ》、……ヤアヤア|数多《あまた》の|家来《けらい》|共《ども》、|汝等《なんぢら》は|毒酒《どくしゆ》に|酔《よ》ひ|今《いま》|生命《いのち》を|棄《す》つると|雖《いへど》も、バラモン|教《けう》の|神力《しんりき》に|依《よ》つて、|栄光《さかえ》と|歓喜《よろこび》とに|充《み》てる|天国《てんごく》に|救《すく》はれ、|永遠《えいゑん》にバラモンの|守《まも》り|神《がみ》となるべきステーヂなれば|心残《こころのこ》さず|帰幽《きいう》|致《いた》せ、……ヤア|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》、|予《よ》が|身変《しんぺん》|不思議《ふしぎ》の|神術《かむわざ》には|恐《おそ》れ|入《い》つたか、|最早《もはや》|叶《かな》はぬ|全身《ぜんしん》に|廻《まは》つた|毒酒《どくしゆ》の|勢《いきほひ》、ワツハヽヽヽヽ|苛《いぢら》しい|者《もの》だなア』
|此《この》|時《とき》|愛子姫《あいこひめ》、|幾代姫《いくよひめ》、|五十子姫《いそこひめ》、|梅子姫《うめこひめ》は、|鬼雲彦《おにくもひこ》に|向《むか》ひ、|柳眉《りうび》を|逆立《さかだ》て、|懐剣《くわいけん》を|抜《ぬ》き|放《はな》ち、|四方《しはう》より|詰《つ》めかけながら、
『ヤア|汝《なんぢ》こそは|悪逆無道《あくぎやくぶだう》の|鬼雲彦《おにくもひこ》、|前生《ぜんせい》に|於《おい》ては|竜宮城《りうぐうじやう》に|仕《つか》へ、|神国別《かみくにわけ》の|部下《ぶか》とならむとして、|花森彦命《はなもりひこのみこと》に|妨《さまた》げられ、|是非《ぜひ》なく|鬼城山《きじやうざん》の|棒振彦《ぼうふりひこ》が|砦《とりで》に|参加《さんか》し、|神罰《しんばつ》を|蒙《かうむ》つて|帰幽《きいう》したる|悪魔《あくま》の|再来《さいらい》、|復《ふたた》び|鬼雲彦《おにくもひこ》と|現《あら》はれて、この|顕恩郷《けんおんきやう》に|城砦《じやうさい》を|構《かま》へ、|天下《てんか》を|紊《みだ》さむとする|悪魔《あくま》の|帳本《ちやうほん》、|思《おも》ひ|知《し》つたか、|妾《わらは》|十六人《じふろくにん》の|手弱女《たよわめ》は、|神素盞嗚《かむすさのを》の|大神《おほかみ》の|密使《みつし》として、|汝《なんぢ》が|身辺《しんぺん》に|仕《つか》へ、|時機《じき》を|待《ま》ちつつありしを|悟《さと》らざりしか、|城内《じやうない》の|豪《がう》の|者《もの》は|残《のこ》らず、|汝《なんぢ》の|計略《けいりやく》の|毒酒《どくしゆ》に|酔《よ》ひて、|最早《もはや》|命《めい》|旦夕《たんせき》に|迫《せま》る。|七人《しちにん》の|宣伝使《せんでんし》には、|清酒《せいしゆ》を|与《あた》へ、|元気《げんき》|益々《ますます》|旺盛《わうせい》となり、|一騎当千《いつきたうせん》のヒーロー|豪傑《がうけつ》、|最早《もはや》|斯《か》くなる|上《うへ》は|遁《のが》るるに|由《よし》なし、|汝《なんぢ》|速《すみやか》に|前非《ぜんぴ》を|悔《く》いて|三五教《あななひけう》に|従《したが》へよ……|返答《へんたふ》|如何《いか》に』
と|前後左右《ぜんごさいう》より、|鬼雲彦《おにくもひこ》|夫婦《ふうふ》に|向《むか》つて|詰《つ》めかけた。|残《のこ》り|十二人《じふににん》の|美人《びじん》は、|又《また》もや|手《て》に|手《て》に|懐剣《くわいけん》スラリと|引抜《ひきぬ》き、
『サアサアサア|鬼雲彦《おにくもひこ》|夫婦《ふうふ》、|返答《へんたふ》|如何《いか》に』
と|詰《つ》めかくる。|鬼雲彦《おにくもひこ》は|此《こ》は|叶《かな》はじと、|夫婦《ふうふ》|手《て》に|手《て》を|執《と》り、|高殿《たかどの》より|眼下《がんか》の|掘《ほり》を|目《め》がけて、ザンブと|許《ばか》り|飛込《とびこ》んだ。パツと|立《た》ち|上《あが》る|水煙《みづけぶり》、|見《み》るも|恐《おそ》ろしき|二匹《にひき》の|大蛇《をろち》となつて|雲《くも》を|起《おこ》し、|雨《あめ》を|呼《よ》び、|風《かぜ》に|乗《じやう》じ、|東方《とうはう》|波斯《ペルシヤ》の|天《てん》を|目《め》がけて、|蜒々《えんえん》として|空中《くうちう》を|泳《およ》ぐが|如《ごと》く|姿《すがた》を|隠《かく》した。
|太玉命《ふとたまのみこと》|一行《いつかう》は、|十六人《じふろくにん》の|女神《めがみ》に|向《むか》ひ、
『ハテ|心得《こころえ》ぬ|貴下等《きから》の|振舞《ふるまひ》、これには|深《ふか》き|様子《やうす》のある|事《こと》ならむ、|逐一《ちくいち》|物語《ものがた》られたし』
と|叮嚀《ていねい》に|頭《かしら》を|下《さ》げ、|両手《りやうて》をついて|挨拶《あいさつ》するを、|愛子姫《あいこひめ》は|言葉《ことば》|淑《しと》やかに、
『|妾《わらは》はコーカス|山《ざん》に|現《あ》れませる、|神素盞嗚尊《かむすさのをのみこと》の|娘《むすめ》、|愛子姫《あいこひめ》、|幾代姫《いくよひめ》、|五十子姫《いそこひめ》、|梅子姫《うめこひめ》、|英子姫《ひでこひめ》、|菊子姫《きくこひめ》、|君子姫《きみこひめ》、|末子姫《すゑこひめ》の|八人《はちにん》|姉妹《けうだい》にて|侯《さふらふ》、これなる|八人《はちにん》の|乙女《をとめ》は|妾《わらは》の|侍女《じじよ》にして、|浅子姫《あさこひめ》、|岩子姫《いはこひめ》、|今子姫《いまこひめ》、|宇豆姫《うづひめ》、|悦子姫《よしこひめ》、|岸子姫《きしこひめ》、|清子姫《きよこひめ》、|捨子姫《すてこひめ》と|申《まを》す|者《もの》、バラモン|教《けう》の|勢力《せいりよく》|旺盛《わうせい》にして、|天下《てんか》の|人民《じんみん》を|苦《くる》しめ、|邪教《じやけう》を|開《ひら》き|生成化育《せいせいくわいく》の|惟神《かむながら》の|大道《だいだう》を|毀損《きそん》する|事《こと》、|日《ひ》に|月《つき》に|甚《はなはだ》しきを|以《もつ》て、|吾《あが》|父《ちち》|素盞嗚大神《すさのをのおほかみ》は、|妾《わらは》|八人《はちにん》の|姉妹《けうだい》に|命《めい》じ、|各《おのおの》|身《み》を|窶《やつ》し、|或《あるひ》は|彼《かれ》が|部下《ぶか》に|捕《とら》へられ、|或《あるひ》は|顕恩郷《けんおんきやう》に|踏迷《ふみまよ》ひたる|如《ごと》き|装《よそほ》ひをなして|此《この》|城内《じやうない》に|運《はこ》び|入《い》れられ、|悪魔《あくま》|退治《たいぢ》の|時機《じき》を|待《ま》ちつつありしに、|天《てん》の|時《とき》|到《いた》りて|太玉命《ふとたまのみこと》は、|父《ちち》の|命《めい》を|奉《ほう》じ|当城《たうじやう》に|現《あら》はれ|給《たま》ひしも、|全《まつた》く|吾父《わがちち》の|水《みづ》も|漏《も》らさぬ|御経綸《おしぐみ》、|又《また》|八人《はちにん》の|侍女《じじよ》は、|今迄《いままで》|鬼雲彦《おにくもひこ》の|側《そば》|近《ちか》く|仕《つか》へたるバラモン|教《けう》の|信徒《しんと》なりしが、|妾達《わらはたち》が|昼夜《ちうや》の|感化《かんくわ》に|依《よ》りて、|衷心《ちうしん》より|三五教《あななひけう》の|教《をしへ》を|奉《ほう》ずるに|至《いた》りし|者《もの》、|最早《もはや》|変心《へんしん》するの|虞《おそれ》なし。|太玉命《ふとたまのみこと》の|宣伝使《せんでんし》よ、|彼等《かれら》|八人《はちにん》の|侍女《じじよ》を|妾《わらは》の|如《ごと》く|愛《あい》し|給《たま》ひて、|神業《しんげふ》に|参加《さんか》せしめられよ』
と|淀《よど》みなく|述《の》べ|立《た》つる。|太玉命《ふとたまのみこと》は|首《かうべ》を|傾《かたむ》け、|感歎《かんたん》の|声《こゑ》をもらし、
『|吁《ああ》、|宏遠《くわうゑん》なるかな、|大神《おほかみ》の|御経綸《おしぐみ》、|吾等《われら》|人心小智《じんしんせうち》の|窺知《きち》すべき|所《ところ》にあらず。|大神《おほかみ》は|最愛《さいあい》の|御娘子《おむすめご》を|顕恩郷《けんおんきやう》に|乗込《のりこ》ましめ|置《お》き|乍《なが》ら、|吾《わ》れに|向《むか》つて|一言《ひとこと》も|漏《も》らし|給《たま》はず、|顕恩郷《けんおんきやう》に|進《すす》めと|云《い》ふ|御託宣《ごたくせん》、|今《いま》に|及《およ》んで|大神《おほかみ》の|御神慮《ごしんりよ》は|釈然《しやくぜん》として|解《と》けたり。|吁《ああ》、|何事《なにごと》も|人智《じんち》を|棄《す》て、|神《かみ》の|命《めい》のまにまに|従《したが》ふべしとは|此《この》|事《こと》なるか、アヽ|有難《ありがた》し、|辱《かたじけ》なし』
とコーカス|山《ざん》の|方《はう》に|向《むか》つて、|落涙《らくるい》し|乍《なが》ら|手《て》を|合《あは》せ|神言《かみごと》を|奏上《そうじやう》しける。|六人《ろくにん》の|宣伝使《せんでんし》を|始《はじ》め、|十六人《じふろくにん》の|女性《ぢよせい》は、コーカス|山《ざん》に|向《むか》つて|両手《りやうて》を|合《あは》し、|太玉命《ふとたまのみこと》と|共《とも》に|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》した。|忽《たちま》ち|何処《いづく》ともなく、|馥郁《ふくいく》たる|芳香《はうかう》|四辺《しへん》を|包《つつ》み、|百千《ひやくせん》の|音楽《おんがく》|嚠喨《りうりやう》として|響《ひび》き|渡《わた》り、|紫《むらさき》の|雲《くも》|天空《てんくう》より|此《この》|場《ば》に|下《くだ》り|来《きた》り、|容色端麗《ようしよくたんれい》なる|女神《めがみ》の|姿《すがた》、|中空《ちうくう》に|忽然《こつぜん》として|現《あら》はれ、
『われは|妙音《めうおん》|菩薩《ぼさつ》なり、|汝《なんぢ》が|行手《ゆくて》を|守《まも》らむ、|益々《ますます》|勇気《ゆうき》を|励《はげ》まし|神業《しんげふ》に|参加《さんか》せよ。また、|安彦《やすひこ》、|国彦《くにひこ》、|道彦《みちひこ》を|始《はじ》め、|田加彦《たかひこ》、|百舌彦《もずひこ》の|五人《ごにん》は、|一旦《いつたん》エデン|河《がは》の|濁流《だくりう》に|溺《おぼ》れて|帰幽《きいう》せりと|雖《いへど》も、|未《ま》だ|宿世《しゆくせ》の|因縁《いんねん》|尽《つ》きず、イヅの|河辺《かはべ》に|於《おい》て、|汝等《なんぢら》に|邂逅《かいこう》せば|彼《かれ》も|亦《また》|再《ふたた》び|神業《しんげふ》に|参加《さんか》するを|得《え》む。|一時《いちじ》も|早《はや》く、|太玉命《ふとたまのみこと》は|本城《ほんじやう》に|留《とど》まり、|愛子姫《あいこひめ》|浅子姫《あさこひめ》は|太玉命《ふとたまのみこと》の|身辺《しんぺん》を|保護《ほご》し、|其《その》|他《た》の|宣伝使《せんでんし》と|女人《めがみ》はエデン|河《がは》を|渡《わた》りて、イヅ|河《がは》に|向《むか》へ、ゆめゆめ|疑《うたが》ふ|事《こと》|勿《なか》れ』
と|云《い》ふかと|見《み》れば、|姿《すがた》は|掻《か》き|消《け》す|如《ごと》く、|百千《ひやくせん》の|音楽《おんがく》は|天《てん》に|向《むか》つて|追々《おひおひ》と|消《き》えて|行《ゆ》く。|一同《いちどう》は|声《こゑ》する|方《はう》に|向《むか》つて|恭敬《きようけい》|礼拝《れいはい》し、|感謝《かんしや》の|意《い》を|表《へう》したりける。
(大正一一・四・一 旧三・五 松村真澄録)
第四章 |神《かみ》の|栄光《えいくわう》〔五七一〕
|鬼雲彦《おにくもひこ》|夫妻《ふさい》は、|美酒《びしゆ》に|強《したた》か|酔《よ》ひ|潰《つぶ》れ、|苦悶《くもん》の|体《てい》にて|堀《ほり》に|飛《と》び|込《こ》み、|八頭八尾《やつがしらやつを》の|大蛇《だいじや》の|正体《しやうたい》を|現《あら》はし、|風雲《ふううん》を|捲《ま》き|起《おこ》し|雲《くも》に|乗《の》つてフサの|国《くに》の|天空《てんくう》を|指《さ》して|姿《すがた》を|隠《かく》した。|後《あと》に|残《のこ》りし|勇将《ゆうしやう》|猛卒《まうそつ》は、|知《し》らず|識《し》らず|毒酒《どくしゆ》に|酔《よ》ひ|瀕死《ひんし》の|状態《じやうたい》に|陥《おちい》り、|呻吟苦悶《しんぎんくもん》の|声《こゑ》|目《め》も|当《あ》てられぬ|惨状《さんじやう》なりければ、|太玉命《ふとたまのみこと》は|之《これ》を|憐《あはれ》み、|直《ただち》に|天《てん》に|向《むか》つて|解毒《げどく》|恢復《くわいふく》の|祈願《きぐわん》を|籠《こ》め、|懐中《くわいちう》より|太玉串《ふとたまぐし》を|取出《とりだ》して、|左右左《さいうさ》に|打《う》ち|振《ふ》れば、|不思議《ふしぎ》や|神徳《しんとく》|忽《たちま》ち|現《あら》はれ、|残《のこ》らず|元気《げんき》|恢復《くわいふく》して|命《みこと》を|始《はじ》め|七人《しちにん》の|前《まへ》に|集《あつ》まり|来《きた》り、|感謝《かんしや》の|涙《なみだ》に|咽《むせ》びながら、|助命《じよめい》の|大恩《たいおん》に、|心《こころ》の|底《そこ》より|悔改《くいあらた》め、|合掌《がつしやう》|恭敬《きようけい》|到《いた》らざるなく、|欣喜雀躍《きんきじやくやく》|手《て》を|拍《う》ち|足《あし》をあげ、|面白《おもしろ》き|歌《うた》を|謡《うた》ひ、|躍《をど》り|狂《くる》うて、|宣伝使《せんでんし》の|一行《いつかう》を|犒《ねぎら》ひける。
|愛子姫《あいこひめ》は|立《た》ち|上《あが》り、|感謝《かんしや》の|歌《うた》を|謡《うた》ふ。
『|恵《めぐみ》も|深《ふか》き|顕恩《けんおん》の |里《さと》に|現《あ》れます|珍《うづ》の|御子《みこ》
|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》 |心《こころ》も|広《ひろ》き【|太玉《ふとたま》】の
|神《かみ》の|命《みこと》の|現《あら》はれて |元《もと》の|神代《かみよ》に|造《つく》らむと
【|岩《いは》】より|固《かた》き|誠心《まごころ》の |御稜威《みいづ》は|開《ひら》く【|梅《うめ》】の|花《はな》
【|音《おと》】に|名高《なだか》き|麻柱《あななひ》の |教《をしへ》の|花《はな》は|万代《よろづよ》の
【|亀《かめ》】の|齢《よはひ》と|諸共《もろとも》に |栄《さか》え|栄《さか》えて|春《はる》【|駒《こま》】の
|勇《いさ》むが|如《ごと》き|神《かみ》の|国《くに》 |教《をしへ》の|花《はな》も【|鷹《たか》】|彦《ひこ》の
|神《かみ》の|恵《めぐみ》の【|愛子《あいこ》】|姫《ひめ》 |千代《ちよ》に|栄《さか》えよ【|幾代《いくよ》】|姫《ひめ》
|心《こころ》いそいそ【|五十子《いそこ》】|姫《ひめ》 |香《かほ》り|床《ゆか》しき【|梅子《うめこ》】|姫《ひめ》
|闇夜《やみよ》を|照《てら》す【|英子《ひでこ》】|姫《ひめ》 |救《すく》ひの|道《みち》を【|菊子《きくこ》】|姫《ひめ》
|民《たみ》を|治《をさ》むる【|君子《きみこ》】|姫《ひめ》 ミロクの|御代《みよ》の【|末子《すゑこ》】|姫《ひめ》
|神《かみ》の|恵《めぐみ》も|浅《あさ》からぬ |心《こころ》|涼《すず》しき【|浅子《あさこ》】|姫《ひめ》
|岩《いは》より|固《かた》き【|岩子《いはこ》】|姫《ひめ》 |救《すく》ひの|神《かみ》は【|今子《いまこ》】|姫《ひめ》
|教《をし》へ|尊《たふと》き【|宇豆《うづ》】|姫《ひめ》の |栄《さか》え|嬉《うれ》しき【|悦子《よしこ》】|姫《ひめ》
|彼方《あなた》に|渡《わた》す【|岸子《きしこ》】|姫《ひめ》 |心《こころ》の|色《いろ》も【|清子《きよこ》】|姫《ひめ》
|百《もも》の|罪咎《つみとが》【|捨子《すてこ》】|姫《ひめ》 |十《とう》まり|六《むつ》の|瑞霊《みづのみたま》
【|神素盞嗚《かむすさのを》】の|大神《おほかみ》の |勅《みこと》|畏《かしこ》み|顕恩《けんおん》の
|園《その》に|巣《す》くへる|曲津見《まがつみ》を |言向《ことむ》け|和《や》はし|神国《かみくに》を
|常磐堅磐《ときはかきは》に|立《た》てむとて |心《こころ》を|尽《つく》し|身《み》を|尽《つく》し
|晨《あした》|夕《ゆふべ》と|送《おく》るうち |神《かみ》の|恵《めぐみ》の|隈《くま》もなく
|輝《かがや》き|渡《わた》り|今《いま》|此処《ここ》に |救《すく》ひの|道《みち》の|宣伝使《せんでんし》
【|太玉《ふとたま》】|命《のみこと》の|現《あ》れまして メソポタミヤの|秀妻国《ほづまぐに》
いと|平《たひら》けく|安《やす》らけく |知《し》ろし|召《め》す|世《よ》は|来《きた》りけり
あな|有難《ありがた》や|尊《たふと》やな |朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも
|月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも |大地《だいち》は|沈《しづ》む|事《こと》あるも
|顕恩郷《けんおんきやう》は|永久《とこしへ》に 【|南天王《なんてんわう》】の|古《いにしへ》に
|返《かへ》りて|御代《みよ》は|末永《すえなが》く |花《はな》も|開《ひら》けよ|実《み》も|結《むす》べ
|稲《いね》|麦《むぎ》|豆《まめ》|粟《あは》|黍《きび》|稗《ひえ》も |豊《ゆたか》に|穣《みの》れ|神《かみ》の|国《くに》
|羊《ひつじ》も|山羊《やぎ》も|牛馬《うしうま》も |浜《はま》の|真砂《まさご》の|数多《かずおほ》く
|殖《ふ》えよ|栄《さか》えよ|永久《とこしへ》に |常磐《ときは》の|松《まつ》のいつまでも
|色《いろ》は|褪《あ》せざれ|変《かは》らざれ |神《かみ》が|表《おもて》に|現《あら》はれて
|善《ぜん》と|悪《あく》とを|立《た》て|分《わ》ける |此《この》|世《よ》を|造《つく》りし|神直日《かむなほひ》
|心《こころ》も|広《ひろ》き|大直日《おほなほひ》 |直霊《なほひ》の|御魂《みたま》|現《あら》はれて
|顕恩郷《けんおんきやう》に|塞《ふさ》がれる |怪《あや》しき|雲《くも》を|吹《ふ》き|払《はら》ひ
|月日《つきひ》は|空《そら》に|澄《す》み|渡《わた》り |夜毎《よごと》|閃《きらめ》く|星《ほし》の|影《かげ》
|常磐堅磐《ときはかきは》に|健《さき》くあれ あゝ|惟神《かむながら》|神惟《かむながら》
|御霊《みたま》|幸倍《さちはへ》|在《ま》しませよ |神《かみ》の|御霊《みたま》の|幸倍《さちはひ》て
ためしも|夏《なつ》の|木草《きくさ》まで |色《いろ》|麗《うるは》しく|賑《にぎは》しく
|栄《さか》ゆる|御代《みよ》に【|愛子《あいこ》】|姫《ひめ》 【|幾代《いくよ》】|変《かは》らぬ|五十鈴《いそすず》の
|川《かは》の|流《なが》れは|永久《とこしへ》に |濁《にご》らであれよ【|五十子《いそこ》】|姫《ひめ》
|三千世界《さんぜんせかい》の|梅《うめ》の|花《はな》 |開《ひら》き|匂《にほ》へる|【梅子《うめこ》】|姫《ひめ》
|栄《さか》え|久《ひさ》しき【|英子《ひでこ》】|姫《ひめ》 |十六弁《じふろくべん》の|花《はな》|匂《にほ》ふ
【|菊子《きくこ》】の|姫《ひめ》や【|君子《きみこ》】|姫《ひめ》 【|末子《すゑこ》】の|姫《ひめ》に|至《いた》るまで
|神《かみ》の|生《う》みます【|宇豆《うづ》】|姫《ひめ》の |御稜威《みいづ》|喜《よろこ》ぶ【|悦子《よしこ》】|姫《ひめ》
|尊《たふと》き|御代《みよ》も【|岸子《きしこ》】|姫《ひめ》 エデンの|河《かは》に|身《み》の|罪《つみ》を
|洗《あら》ひ|清《きよ》めて【|清子《きよこ》】|姫《ひめ》 【|安彦《やすひこ》】【|国彦《くにひこ》】【|道彦《みちひこ》】の
|果敢《はか》なく|命《いのち》を【|捨子《すてこ》】|姫《ひめ》 |助《たす》くるすべも|荒波《あらなみ》の
|底《そこ》に|潜《くぐ》りて|今《いま》|此処《ここ》に |現《あら》はれ|来《きた》る【|今子《いまこ》】|姫《ひめ》
|深《ふか》き|流《なが》れも|忽《たちま》ちに |神《かみ》の|恵《めぐみ》に【|浅子《あさこ》】|姫《ひめ》
|心《こころ》も|固《かた》き|誠心《まごころ》の |千代《ちよ》も|動《うご》かぬ【|岩子《いはこ》】|姫《ひめ》
|巌《いはほ》の|上《うへ》に|松《まつ》さへも |生《お》ふるためしもある|御代《みよ》は
エデンの|河《かは》に|沈《しづ》みたる |三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》
|嬉《うれ》しき|顔《かほ》を|三柱《みはしら》の |時《とき》こそあらめ|片時《かたとき》も
いと|速《す》むやけく|皇神《すめかみ》の |恵《めぐみ》の|光《ひかり》に|照《てら》されて
【|百舌彦《もずひこ》】【|田加彦《たかひこ》】|諸共《もろとも》に |救《すく》はせ|給《たま》へ|天津神《あまつかみ》
|国津神《くにつかみ》|達《たち》|八百万《やほよろづ》 |万《よろづ》の|願《ねがひ》をかけまくも
|畏《かしこ》き|神《かみ》の|引《ひ》き|合《あは》せ |遇《あ》うて|嬉《うれ》しき|五柱《いつはしら》
いづの|霊《みたま》や|瑞霊《みづみたま》 |三五《さんご》の|月《つき》の|照《て》るまでに
|救《すく》はせたまへ|顕恩郷《けんおんきやう》 |遍《あまね》く|渡《わた》る|峰《みね》の|上《うへ》
|谷底《たにそこ》までも|尋《たづ》ねつつ |神《かみ》の|教《をしへ》に|麻柱《あななひ》の
|誠《まこと》の|御子《みこ》を|救《すく》へかし |誠《まこと》の|御子《みこ》を|救《すく》へかし
|畏《かしこ》き|神《かみ》の|御前《おんまへ》に |遥《はるか》に|拝《をが》み|奉《たてまつ》る
|遥《はるか》に|祈《いの》り|奉《たてまつ》る』
と、|祈願《きぐわん》を|籠《こ》めて|声《こゑ》も|涼《すず》しく|歌《うた》ひ|舞《ま》ひ|納《をさ》めけり。|太玉神《ふとたまのかみ》はツト|立《た》つて|感謝《かんしや》の|歌《うた》を|歌《うた》ひ|初《はじ》めたり。
『コーカス|山《さん》に|現《あ》れませる |瑞霊《みづのみたま》の|大神《おほかみ》の
|勅《みこと》|畏《かしこ》み|琵琶《びは》の|海《うみ》 |渡《わた》りて|四方《よも》を|宣伝《せんでん》し
|稜威《いづ》の|言霊《ことたま》|遠近《をちこち》に |響《ひび》き|渡《わた》らせ|進《すす》み|来《く》る
|吾《わが》|言霊《ことたま》の|勢《いきほひ》に |四方《よも》の|草木《くさき》も|靡《なび》き|伏《ふ》し
エデンの|園《その》に|蟠《わだか》まる |八岐大蛇《やまたをろち》や|醜神《しこがみ》の
|醜《しこ》の|砦《とりで》を|言向《ことむ》けて 【|松代《まつよ》】の|姫《ひめ》が|生《う》みませる
|光《ひかり》|愛《めで》たき【|照妙《てるたへ》】|姫《ひめ》の |貴《うづ》の|命《みこと》を|花園《はなぞの》の
|主宰《つかさ》の|神《かみ》と|任《ま》けつつも |吾《われ》は|進《すす》んでエデン|河《がは》
|河《かは》の|傍《ほとり》をつたひ|来《く》る |安彦《やすひこ》|国彦《くにひこ》|道彦《みちひこ》の
|三《みつ》の|御魂《みたま》の|宣伝使《せんでんし》 |引《ひ》き|連《つ》れ|急《いそ》ぐ|渡場《わたしば》に
|漸々《ようよう》|此処《ここ》に|月《つき》の|空《そら》 |濁流《だくりう》|漲《みなぎ》るエデン|河《がは》
|如何《いかが》はせむと|思《おも》ふうち |川《かは》の|関所《せきしよ》を|守《まも》り|居《を》る
|田加彦《たかひこ》|鳶彦《とびひこ》|百舌彦《もずひこ》が |砦《とりで》を|兼《か》ねし|川館《かはやかた》
|先《ま》づ【|道彦《みちひこ》】を|遣《つか》はして |事《こと》の|実否《じつぴ》を|窺《うかが》へば
|鋭利《えいり》な|槍《やり》を|扱《しご》きつつ 【|道彦《みちひこ》】|目蒐《めが》けて|突《つ》きかかる
|神《かみ》の|恵《めぐみ》を|身《み》に|浴《あ》びし |珍《うづ》の|御子《みこ》なる【|道彦《みちひこ》】は
|攻《せ》め|来《く》る|槍《やり》の|切尖《きつさき》を |右《みぎ》や|左《ひだり》に|引《ひ》きはづし
|挑《いど》み|戦《たたか》ふ|上段《じやうだん》|下段《げだん》 |火花《ひばな》を|散《ち》らして|戦《たたか》へば
|耐《たま》り|兼《か》ねてか|一人《いちにん》は |忽《たちま》ち|川《かは》へ【|鳶彦《とびひこ》】の
|猫《ねこ》に|追《お》はれた|小鼠《こねずみ》の |跡《あと》を|掻《か》き|消《け》す|水《みづ》の|中《なか》
|漸々《ようよう》|岸《きし》に|泳《およ》ぎつき |数多《あまた》の|手下《てした》を|引《ひ》き|連《つ》れて
|岸辺《きしべ》をさして|迫《せま》り|来《く》る |吾等《われら》|一行《いつかう》は|勇《いさ》み|立《た》ち
|用意《ようい》の|船《ふね》に|身《み》を|任《まか》せ |棹《さを》を|横《よこ》たへ|中流《ちうりう》に
|進《すす》む|折《をり》しも|流《なが》れ|来《く》る |征矢《そや》に|当《あた》りて【|百舌彦《もずひこ》】は
|忽《たちま》ち|河中《かちう》に|転倒《てんたう》し |後《あと》|白浪《しらなみ》と|消《き》えて|行《ゆ》く
|泡《あわ》|立《た》つ|浪《なみ》の【|田加彦《たかひこ》】も またもや【ザンブ】と|河中《かはなか》に
|身《み》を|躍《をど》らして|消《き》え|失《う》せぬ |棹《さを》を|取《と》られし|渡《わた》し|船《ぶね》
|操《あやつ》るよしも|浪《なみ》の|上《うへ》 |嗚呼《ああ》|如何《いか》にせむ|船体《せんたい》は
|忽《たちま》ち|岩《いは》に|衝突《しようとつ》し |木葉微塵《こつぱみぢん》に|成《な》り|果《は》てて
|御伴《みとも》に|仕《つか》へし|宣伝使《せんでんし》 |姿《すがた》も|三《み》つの|魂《たましひ》は
|河《かは》の|藻屑《もくづ》となり|果《は》てぬ |吾《われ》はやうやう|川縁《かはべり》に
|神《かみ》に|守《まも》られ|這《は》ひ|上《あが》り |群《むら》がる|敵《てき》の|諸声《もろこゑ》を
|目当《めあて》に|独《ひと》りとぼとぼと |進《すす》む|折《をり》しも|前方《ぜんぱう》に
|怪《あや》しの|男《をとこ》の|此処彼処《ここかしこ》 |現《あら》はれ|来《きた》り|槍《やり》の|穂《ほ》を
|揃《そろ》へて|一度《いちど》に|攻《せ》め|来《きた》る |何《なん》の|容赦《ようしや》も|荒男《あらをとこ》
|太玉串《ふとたまぐし》の|神力《しんりき》に |恐《おそ》れやしけむ|雲《くも》|霞《かすみ》
|煙《けぶり》となつて|消《き》え|失《う》せぬ |忽《たちま》ち|月《つき》は|大空《おほぞら》の
|雲《くも》の|帳《とばり》を|押《お》し|分《わ》けて |四辺《あたり》を|照《てら》す|嬉《うれ》しさに
|勇気《ゆうき》を|鼓《こ》して|進《すす》み|行《ゆ》く |山河《やまかは》|幾《いく》つ|打《う》ち|渡《わた》り
|進《すす》む|折《をり》しも|忽《たちま》ちに |電光石火《でんくわうせきくわ》|雷《いかづち》の
|轟《とどろ》き|渡《わた》る|折《をり》からに |現《あら》はれ|出《い》でし|神人《しんじん》は
|厳霊《いづのみたま》の|大神《おほかみ》の |第四《だいし》の|御子《みこ》と|現《あ》れませる
【|活津彦根《いくつひこね》】の|大御神《おほみかみ》 |吾《われ》は|魔神《まがみ》と|怪《あや》しみて
|争《あらそ》ふ|折《をり》しも|大神《おほかみ》は |吾等《われら》が|不明《ふめい》を|笑《わら》ひつつ
|天空《てんくう》|目蒐《めが》けて|帰《かへ》ります |又《また》もや|怪《あや》しき|物蔭《ものかげ》に
|眼《め》をみはりつつ|窺《うかが》へば 【|松代《まつよ》】の|姫《ひめ》や【|照妙《てるたへ》】|姫《ひめ》の
|貴《うづ》の|命《みこと》は|可憐《いぢ》らしく |高手《たかて》や|小手《こて》に|縛《しば》られて
|口《くち》には|堅《かた》き|猿轡《さるぐつわ》 |合点《がてん》|行《ゆ》かずと|玉串《たまぐし》を
|取《と》るより|早《はや》く|打《う》ち|振《ふ》れば |魔神《まがみ》は|神威《しんゐ》に|恐《おそ》れけむ
|又《また》もや|泡《あわ》と|消《き》え|失《う》せぬ |路傍《ろばう》の|厳《いはほ》に|腰《こし》を|掛《か》け
|息《いき》を|安《やす》らふ|折柄《をりから》に |駒《こま》の|蹄《ひづめ》の|戞々《かつかつ》と
|音《おと》|勇《いさ》ましく|進《すす》み|来《く》る |又《また》もや|曲津《まがつ》の|奸計《かんけい》と
|心《こころ》を|配《くば》る|折《をり》からに |思《おも》ひがけなき【|梅彦《うめひこ》】や
【|音彦《おとひこ》】【|駒彦《こまひこ》】|六人《ろくにん》の |三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》
|心《こころ》も|勇《いさ》み|栄《さか》えつつ |轡《くつわ》を|並《なら》べて|山奥《やまおく》に
|進《すす》む|折《をり》しも|八千尋《やちひろ》の 【つと】|行《ゆ》き|当《あた》る|谷《たに》の|川《かは》
|川幅《かははば》|広《ひろ》く|橋《はし》もなく |行《ゆ》き|悩《なや》みたる|折柄《をりから》に
|運命《うんめい》|天《てん》に|任《まか》せつつ |一鞭《ひとむち》あてて|飛《と》び|越《こ》ゆる
|此処《ここ》に|佇《たたず》む|荒男《あらをとこ》 |此《この》|勢《いきほひ》に|辟易《へきえき》し
|山奥《やまおく》|指《さ》して|逃《に》げ|帰《かへ》る |後《あと》|振《ふ》り|返《かへ》り|眺《なが》むれば
|谷《たに》と|見《み》えしは|薄原《すすきばら》 |又《また》もや|魔神《まがみ》の|計略《けいりやく》に
かかりて|心《こころ》|痛《いた》めしか |嗚呼《ああ》|恥《はづ》かしも|恥《はづ》かしも
|眼《まなこ》|暗《くら》みし|宣伝使《せんでんし》 |確《しか》と|腹帯《はらおび》|締《し》め|直《なほ》し
|心《こころ》の|駒《こま》に|鞭打《むちう》ちて |息《いき》せき|切《き》つて|二里《にり》|三里《さんり》
|要心《えうじん》|堅固《けんご》の|大門《おほもん》に ピタリと|当《あた》つた|七人《しちにん》は
|暫《しば》し|思案《しあん》に|暮《く》れけるが |茲《ここ》に【|鷹彦《たかひこ》】|宣伝使《せんでんし》
|早速《さつそく》の|早業《はやわざ》|霊鷹《れいよう》と |変《へん》じて|中空《ちうくう》|翔廻《かけめぐ》り
|敵状《てきじやう》|残《のこ》らず|視察《しさつ》して |再《ふたた》び|此処《ここ》に|舞《ま》ひ|下《くだ》り
さしもに|固《かた》き|大門《おほもん》を |苦《く》もなく|左右《さいう》に|押《お》し|開《ひら》く
|吾等《われら》|一行《いつかう》|七人《しちにん》は |勇気《ゆうき》を|起《おこ》して|前進《ぜんしん》し
|城砦《じようさい》|目蒐《めが》けて|近《ちか》よれば |魔神《まがみ》の|軍勢《ぐんぜい》は|進《すす》み|行《ゆ》く
|道《みち》の|左右《さいう》に|堵列《とれつ》して |袖手《しうしゆ》|傍観《ばうくわん》その|様《さま》は
|心《こころ》|得難《えがた》きシーンなり |又《また》もや|来《きた》る|十六《じふろく》の
|天女《てんによ》に|擬《まが》ふ|姫神《ひめがみ》は |吾等《われら》の|一行《いつかう》を|慇懃《いんぎん》に
|奥殿《おくでん》|指《さ》して|誘《さそ》ひ|行《ゆ》く |怪《あや》しみながら|来《き》て|見《み》れば
|山野河海《さんやかかい》の|珍肴《ちんかう》は |処《ところ》|狭《せま》きまで|並《なら》べられ
|木実《このみ》の|酒《さけ》も|沢々《さはさは》に |供《そな》へ|足《た》らはす|此《この》|場面《ばめん》
|鬼雲彦《おにくもひこ》の|大統領《だいとうりやう》 |忽《たちま》ち|此《この》|場《ば》に|現《あら》はれて
|表裏《へうり》の|合《あは》ぬ|神《かみ》の|宣《の》り いと|賢《さか》しげに|述《の》べ|立《た》つる
|如何《いかが》はしけむ|城内《じやうない》の |勇将《ゆうしやう》|猛卒《まうそつ》|忽《たちま》ちに
|顔色《かほいろ》|変《へん》じ|黒血《くろち》|吐《は》き |悶《もだ》え|苦《くる》しむ|訝《いぶ》かしさ
|吾《われ》も|毒酒《どくしゆ》に|酔《よ》ひしれて |苦《くる》しきさまを|装《よそほ》ひつ
|七転八倒《しちてんばつたう》するうちに |鬼雲彦《おにくもひこ》の|統領《とうりやう》は
|仕《し》|済《す》ましたりと|出《い》で|来《きた》る |神《かみ》の|賜《たま》ひし|玉串《たまぐし》を
そつと|取《と》り|出《だ》し|左右左《さいうさ》と |魔神《まがみ》に|向《むか》つて|打振《うちふ》れば
|鬼雲彦《おにくもひこ》や|妻神《つまがみ》は |黒雲《くろくも》|起《おこ》し|風《かぜ》に|乗《の》り
|雨《あめ》に|紛《まぎ》れて|逃《に》げて|行《ゆ》く |四四十六《ししじふろく》の|花《はな》の|春《はる》
|未《ま》ださきやらぬ|乙女子《おとめご》の |蕾《つぼみ》の|唇《くちびる》|開《ひら》きつつ
|一伍一什《いちぶしじふ》の|物語《ものがたり》 |聞《き》いて|胸《むね》をば|撫《な》で|下《おろ》し
|神《かみ》の|恵《めぐみ》を|嬉《うれ》しみて |善言美辞《ぜんげんびし》の|神嘉言《かむよごと》
|唱《とな》ふる|折《をり》しも|大空《おほぞら》に |微妙《びめう》の|音楽《おんがく》|鳴《な》り|渡《わた》り
|芳香《はうかう》|四辺《しへん》を|包《つつ》むよと |思《おも》ふ|間《ま》もなく|現《あら》はれし
|妙音《めうおん》|菩薩《ぼさつ》の|御姿《おんすがた》 |天地《てんち》に|響《ひび》く|言霊《ことたま》の
その|勲功《いさをし》ぞ|尊《たふと》けれ その|勲功《いさをし》ぞ|畏《かしこ》けれ』
と|歌《うた》ひ|終《をは》つて|元《もと》の|座《ざ》につきぬ。
|茲《ここ》に|太玉命《ふとたまのみこと》は|愛子姫《あいこひめ》、|浅子姫《あさこひめ》を|留《とど》めて|侍女《じじよ》となし、|顕恩郷《けんおんきやう》の|無事《ぶじ》|平穏《へいおん》に|復《ふく》するまで|蹕《ひつ》を|留《とど》むるる|事《こと》となつた。|城内《じやうない》の|勇将《ゆうしやう》|猛卒《まうそつ》も|太玉命《ふとたまのみこと》の|神力《しんりき》に|服《ふく》し、|忠実《ちうじつ》に|三五教《あななひけう》を|奉《ほう》じ|茲《ここ》にメソポタミヤの|楽土《らくど》は、エデンの|花園《はなぞの》と|相俟《あひま》つて、|再《ふたた》び|元《もと》の|天国《てんごく》を|形成《かたちづく》る|事《こと》となりにける。
バラモン|教《けう》を|守護《しゆご》する|邪神《じやしん》を|始《はじ》め、|其《そ》の|宣伝使《せんでんし》は|遠《とほ》くペルシヤに|渡《わた》り、|印度《いんど》に|向《むか》つて|教線《けうせん》を|拡充《くわくじゆう》する|事《こと》となり、|岩彦《いはひこ》、|梅彦《うめひこ》、|音彦《おとひこ》、|駒彦《こまひこ》、|鷹彦《たかひこ》の|宣伝使《せんでんし》を|始《はじ》め、|幾代姫《いくよひめ》、|五十子姫《いそこひめ》、|梅子姫《うめこひめ》、|英子姫《ひでこひめ》、|菊子姫《きくこひめ》その|他《た》|一同《いちどう》の|女性《ぢよせい》は、|顕恩郷《けんおんきやう》を|去《さ》つて|四方《しはう》に、|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》となつて|出発《しゆつぱつ》する|事《こと》となりにける。
(大正一一・四・一 旧三・五 加藤明子録)
第五章 |五天狗《ごてんぐ》〔五七二〕
|天津御空《あまつみそら》はドンヨリと|薄墨《うすずみ》を|流《なが》せし|如《ごと》き|光景《くわうけい》に|引換《ひきか》へ、|青葉《あをば》|茂《しげ》れる|大野原《おほのはら》を|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》、|治《をさ》まる|御世《みよ》も|安彦《やすひこ》や、|栄《さか》え|久《ひさ》しき|松《まつ》の|五六七《みろく》の|国彦《くにひこ》や、|聖《きよ》き|教《をしへ》の|道彦《みちひこ》は、|口《くち》から|先《さき》に|生《うま》れたる|百舌彦《もずひこ》、|田加彦《たかひこ》|伴《ともな》ひて、とある|川辺《かはべ》に|着《つ》きにけり。
|安彦《やすひこ》『ヨー|又《また》|此処《ここ》は|一途《いちづ》の|川《かは》だ。|此《この》|前《まへ》に|来《き》た|時《とき》は、|大変《たいへん》に|清潔《せいけつ》な|水《みづ》が|淙々《そうそう》として|流《なが》れてゐたが、|夕立《ゆふだち》もせないのに|今日《けふ》は|又《また》|如何《どう》した|拍子《へうし》の|瓢箪《へうたん》やら、|素敵《すてき》|滅法界《めつぽふかい》な|泥水《どろみづ》だ。|此《こ》の|川《かは》を|少《すこ》しく|上《のぼ》れば|松並木《まつなみき》があつて、|其《そ》の|根下《ねもと》に|二間《ふたま》|造《づく》りの|瓦葺《かはらぶき》きの|立派《りつぱ》な|婆《ばば》の|館《やかた》がある|筈《はず》だ。のう|道彦《みちひこ》、|貴様《きさま》も|未《ま》だ|記憶《きおく》に|残《のこ》つて|居《ゐ》るだらう』
|道彦《みちひこ》『|夢《ゆめ》だつたか|幻《まぼろし》だつたか|判然《はつきり》せないが、|二人《ふたり》の|婆《ばば》が、|鋭《と》ぎすましたる|出刃庖丁《でばばうちやう》を|振上《ふりあ》げて、|前後左右《ぜんごさいう》より|斬《き》つてかかりよつた|時《とき》のシーンは、|今《いま》|思《おも》ひ|出《だ》しても|慄《ぞつ》とするよ。|移《うつ》り|替《か》はるは|浮世《うきよ》の|習《なら》ひ、|此《こ》の|清潔《せいけつ》な|一途《いちづ》の|川《かは》でさへも、|泥川《どろがは》と|変化《へんくわ》した|今日《こんにち》だから|彼《あ》の|鬼婆《おにばば》だつて、さう|何時迄《いつまで》も|同《おな》じ|所《ところ》に|固着《こちやく》してゐる|筈《はず》はなからう。|遠《とほ》の|昔《むかし》に|磨滅《まめつ》して|了《しま》つて|影《かげ》も|止《とど》めず、|訪《おとな》ふ|者《もの》は|川風《かはかぜ》の|音《おと》、|波《なみ》の|響《ひびき》|位《ぐらゐ》なものだらうよ。さう|心配《しんぱい》するには|及《およ》ばぬさア』
|安彦《やすひこ》『|誰《たれ》が|心配《しんぱい》をして|居《ゐ》るものか。|今度《こんど》は|彼《あ》の|婆《ばば》が|居《を》つたら、|一《ひと》つ|掛合《かけあ》つて|見《み》ようと|思《おも》うのだ。なア|国彦《くにひこ》、お|前《まへ》は|未《ま》だ|経験《けいけん》が|無《な》いから、|非常《ひじやう》に|恐《おそ》ろしい|鬼婆《おにばば》だと|思《おも》うであらうが、それはそれは|素敵《すてき》|滅法界《めつぽふかい》な|美人《びじん》だよ。|花《はな》の|顔色《かんばせ》、|月《つき》の|眉《まゆ》、スノーの|膚《はだへ》、|言《い》ふに|言《い》はれぬ|逸物《いつぶつ》だ。|年《とし》は|寄《よ》つたと|言《い》つても|未《ま》だ|残《のこ》りの|色香《いろか》も|失《う》せない|姥桜《うばざくら》、|手折《たお》る|可《べ》き|価《あたひ》は|確《たしか》にアリソの|海《うみ》だ。|深《ふか》い|契《ちぎり》を|結《むす》び|昆布《こぶ》、|俺《わし》とお|前《まへ》と|二人《ふたり》の|仲《なか》は、|二世《にせ》も|三世《さんせ》も|先《さき》の|世《よ》かけて、|一途《いちづ》の|川《かは》の|涸《か》れる|迄《まで》、たとへ|大地《だいち》は|沈《しづ》むとも……とノロケテ、|現《うつつ》を|脱《ぬ》かすやうな|別嬪《べつぴん》だ。|安彦《やすひこ》、|道彦《みちひこ》の|両人《りやうにん》が|仲人《なかうど》をして|一《ひと》つ|合衾《がふきん》の|式《しき》を|挙《あ》げさしてやりたいものだよ』
|国彦《くにひこ》『|莫迦《ばか》にするない、モウ|忘《わす》れたか。|俺《おれ》も|貴様《きさま》と|一所《いつしよ》に|探険《たんけん》したではないか。|俺《おれ》だつて|未《ま》だ|三十男《さんじふをとこ》の|花《はな》の|盛《さか》りだ。|散《ち》りかかつた|姥桜《うばざくら》を|女房《にようばう》にせよとは、あまり|男《をとこ》を|軽蔑《けいべつ》するにも|程《ほど》がある。|男《をとこ》が|四十《しじふ》で|女《をんな》が|三十《さんじふ》ならば、|些《ちつ》とはハーモニーも|取《と》れるであらうが、|十《とほ》|余《あま》りも|老《お》うとると|云《い》ふ|様《やう》な|女房《にようばう》は|御免《ごめん》だよ。|女《をんな》|旱《ひで》りも|無《な》い|世《よ》の|中《なか》に、あまり|冷笑《ひやか》して|呉《く》れるない。アヽ|何《なん》となく|身体中《からだぢう》がぞうぞうして|来《き》た。|何《ど》うやら|娑婆《しやば》の|空気《くうき》とは|見当《けんたう》が|違《ちが》ふやうだ。|一体《いつたい》|此処《ここ》は|何国《なにくに》の|何《なん》と|云《い》ふ|所《ところ》だらう』
|安彦《やすひこ》『エデンの|河《かは》の|渡場《わたしば》で|船《ふね》を|濁流《だくりう》に|流《なが》して、|河中《かはなか》に|衝立《つつた》つた|岩石《がんせき》に|船《ふね》を|打当《ぶちあ》て、|木葉微塵《こつぱみぢん》に|砕《くだ》いた|結果《けつくわ》、|濁流《だくりう》|漲《みなぎ》る|水底《みなそこ》に|暫時《しばし》|蟄居《ちつきよ》したと|思《おも》つたら、|何時《いつ》の|間《ま》にかコンナ|大野ケ原《おほのがはら》を|横断《わうだん》し、|又《また》もや|一途《いちづ》の|川《かは》の|岸辺《きしべ》に|着《つ》いたのだ。|吾々《われわれ》|一同《いちどう》は|一旦《いつたん》|土左衛門《どざゑもん》となつて、|冥途《めいど》の|旅《たび》を|今《いま》やつてゐるのだ。|四辺《あたり》の|状況《じやうきやう》が|違《ちが》ふのも|当然《あたりまへ》だよ』
|国彦《くにひこ》『|困《こま》つたことだなア。|併《しか》し|好《い》い|死時《しにどき》だ。|可愛《かあい》い|女房《にようばう》も|無《な》ければ|子《こ》もなし、|別《べつ》に|娑婆《しやば》に|執着心《しふちやくしん》も|無《な》いのだから、|何《ど》うだ|一《ひと》つ|奮発《ふんぱつ》して|幽冥界《いうめいかい》を|跋渉《ばつせふ》し、|宣伝歌《せんでんか》でも|歌《うた》つて|三途《せうづ》の|川《かは》の|鬼婆《おにばば》や、|数多《あまた》の|鬼共《おにども》を|片端《かたつぱし》から|言向和《ことむけやは》し、|聴《き》かぬ|奴《やつ》は|笠《かさ》の|台《だい》を|縦横無尽《じうわうむじん》にチヨン|斬《き》つて、|地獄《ぢごく》|開設《かいせつ》|以来《いらい》のクーデターを|開始《かいし》してやらうではないか。エーンアーン』
|安彦《やすひこ》『|猛烈《まうれつ》な|勢《いきほひ》だなア、|併《しか》し|乍《なが》ら|今《いま》から|喇叭《ラツパ》を|吹《ふ》くと、|先《さき》へ|往《い》つてから|原料《げんれう》が|欠乏《けつぼう》して|了《しま》うよ』
|国彦《くにひこ》『ナーニ|旧《もと》は|与太彦《よたひこ》と|云《い》つた|此《この》|方《はう》だ。|俺《おれ》の|言《い》つたことは|決《けつ》してノンセンスでは|無《な》い。|深遠《しんゑん》|微妙《びめう》の|意味《いみ》が|含《ふく》んでゐるのだ。マア|細工《さいく》は|粒々《りうりう》|仕上《しあ》げを|見《み》て|下《くだ》されよ。|開《あ》いた|口《くち》が|閉《すぼ》まらぬ、|牛糞《うしぐそ》が|天下《てんか》をとるのは|今度《こんど》のことであるぞよ。|世界《せかい》の|人民《じんみん》|改心《かいしん》|致《いた》されよだ』
|安彦《やすひこ》『|又《また》|汽笛《きてき》を|吹《ふ》き|出《だ》しよつた。コンナ|奴《やつ》と|道連《みちづ》れになると|騒《さわ》がしくて|烏《からす》も|燕《つばめ》も|雀《すずめ》も|百舌鳥《もず》も、みな|逃《に》げて|了《しま》ひよるから、|幽界《いうかい》|旅行《りよかう》も|面白《おもしろ》く|無《な》いワイ。|好《い》い|加減《かげん》に|沈黙《ちんもく》せぬかい』
|国彦《くにひこ》『|乃木《のぎ》|将軍《しやうぐん》の|猛烈《まうれつ》なる|攻撃《こうげき》に|会《あ》ひ、|南山《なんざん》の|砲台《はうだい》は|漸《やうや》く|沈黙《ちんもく》したが、|二百三高地《にひやくさんかうち》の|与太彦《よたひこ》|砲台《はうだい》は|仲々《なかなか》|以《もつ》て|容易《ようい》に|沈黙《ちんもく》せない。|一度《いちど》|生命《いのち》をステツセルの|吾々《われわれ》、|旅順口《りよじゆんこう》の|片顋《かたあご》がむしられようとも、さう【やす】やすと|休戦《きうせん》の|喇叭《ラツパ》は|吹《ふ》かないから、|其《そ》の|積《つも》りで|貴様達《きさまたち》も|吾輩《わがはい》に|従軍《じゆうぐん》するのだ。|一途《いちづ》の|川《かは》の|二人《ふたり》|婆《ばば》の|館《やかた》まで|突貫々々《とつくわんとつくわん》。|全隊《ぜんたい》|進《すす》め、|一《いち》|二《に》|三《さん》|四《し》|五《ご》』
と|自分《じぶん》|一人《ひとり》、|人員《じんゐん》を|数《かぞ》へ|乍《なが》らコムパスに|油《あぶら》をかけて、|急足《きふそく》|滑車《くわつしや》を|走《はし》らせた。|安彦《やすひこ》、|道彦《みちひこ》、|田加彦《たかひこ》、|百舌彦《もずひこ》は|一斉《いつせい》に|手《て》を|揚《あ》げ、|声《こゑ》を|限《かぎ》りに、
|四人《よにん》『オーイオーイ』
と|呼《よ》び|止《と》める。|国彦《くにひこ》は|耳《みみ》にもかけず|尻《しり》ひつからげて、トントンと|驀地《まつしぐら》に|婆《ばば》の|館《やかた》を|指《さ》して|走《はし》り|行《ゆ》く。|勢《いきほひ》|余《あま》つて|半丁《はんちやう》ばかり|通《とほ》り|越《こ》して|了《しま》ひ
『ヨー|国彦《くにひこ》サンの|御威光《ごゐくわう》に|恐《おそ》れてか、|一途《いちづ》の|川《かは》の|二人《ふたり》|婆《ばば》も|共《とも》に|何処《いづこ》とも|無《な》く|煙散霧消《えんさんむせう》の|大惨事《だいさんじ》とけつかるワイ。それにつけても|安彦《やすひこ》、|道彦《みちひこ》その|他《た》の|足弱《あしよわ》|共《ども》、|何《なに》を|愚図《ぐづ》|愚図《ぐづ》してゐるのだらうか。|大方《おほかた》|此《この》|風《かぜ》に|吹《ふ》き|飛《と》ばされて、|夏《なつ》の|蚊《か》が|夕立《ゆふだち》に|逢《あ》うたやうに|木《こ》の|葉《は》の|裏《うら》に、しがみついてゐよるのだらう。アヽ|弱虫《よわむし》だなア』
と|得意《とくい》になつて、モノログを|囀《さへづ》つてゐる。|此《この》|声《こゑ》を|聞《き》いてか、|松《まつ》の|根下《ねもと》の|小屋《こや》の|中《なか》より|渋紙《しぶかみ》のやうな|手《て》を|出《だ》し、|皺枯《しわが》れ|声《ごゑ》を|出《だ》して、
『オーイ オーイ』
と|招《まね》く|婆《ばば》の|声《こゑ》、
|国彦《くにひこ》『ヤーあまり|馬力《ばりき》をかけ|過《す》ぎたので、|婆《ばば》の|家《いへ》を|見落《みおと》したと|見《み》えるワイ。ナアンダ、|安彦《やすひこ》の|言《い》つたのとは|余程《よつぽど》|年《とし》の|寄《よ》つた|穢《きたな》い|婆《ばば》だ。|大方《おほかた》|彼奴《あいつ》の|娘《むすめ》の|中婆《ちうばば》のことだらう。ナンデモ|二人《ふたり》の|婆《ばば》だと|云《い》ふから|一人《ひとり》の|方《はう》は|若《わか》い|奴《やつ》に|違《ちが》ひない。どうれ、|首実検《くびじつけん》と|出掛《でか》けてやらうかい』
と|又《また》もやテクテクと|松《まつ》の|下《した》の|川縁《かはべり》の|小屋《こや》を|指《さ》して|引返《ひきかへ》し|来《き》たり、|門口《かどぐち》を|三《み》つ|四《よ》つ|打叩《うちたた》き|乍《なが》ら、
|国彦《くにひこ》『|吾《われ》こそは|音《おと》に|名高《なだか》き|与太彦《よたひこ》ドツコイ|国彦《くにひこ》の|宣伝使《せんでんし》、|眼《まなこ》|涼《すず》しく|眉《まゆ》|秀《ひい》で、|鼻筋《はなすぢ》|通《とほ》り|口元《くちもと》|凛《りん》として|苦味《にがみ》を|帯《お》び、|英気《えいき》に|充《み》ちたる|古今無双《ここんむさう》のヒーロー|豪傑《がうけつ》、|一途《いちづ》の|川《かは》の|渡守《わたしもり》を|致《いた》す|鬼婆《おにばば》の|娘《むすめ》の|中婆《ちうばば》、|天下《てんか》の|人民《じんみん》を|救《たす》け、|幽界《いうかい》の|身魂《みたま》を|救《すく》ふ|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》だ。|何時迄《いつまで》も|斯様《こん》な|所《ところ》に|燻《くすぼ》つて|霜《しも》|枯《か》れ|近《ちか》き|無味乾燥《むみかんさう》なる|生活《せいくわつ》を|致《いた》すより、|国彦《くにひこ》サンと|手《て》に|手《て》を|握《と》つて|死出《しで》|三途《せうづ》は|申《まを》すにおよばす、|地獄《ぢごく》の|釜《かま》のドン|底《ぞこ》|迄《まで》|探険《たんけん》と|出掛《でか》けたら|如何《どう》だ。|併《しか》し|乍《なが》ら|中婆《ちうばば》の|四十女《しじふをんな》に|限《かぎ》るぞ。|皺《しわ》くちや|婆《ばば》は|真平《まつぴら》|御免《ごめん》だ』
と|妙《めう》な|手振《てぶ》り、|足《あし》つきし|乍《なが》ら|戸《と》の|外《そと》に|踊《をど》つて|居《を》る。|中《なか》より|十七八歳《じふしちはつさい》の|優《やさ》しき|女《をんな》の|声《こゑ》、
『|何《いづ》れの|方《かた》かは|存《ぞん》じませぬが、|能《よ》くマアこの|茅屋《あばらや》を|御訪《おたづ》ね|下《くだ》さいました。|御供《おとも》の|衆《しう》がございませう、|何卒《どうぞ》|一度《いちど》に|御這入《おはい》り|下《くだ》さいませ』
|国彦《くにひこ》『イヤーナンダ。この|茅屋《あばらや》を|能《よ》う|御訪《おたづ》ね|下《くだ》さいましたナンテ、|四十女《しじふをんな》どころか、|十七八歳《じふしちはつさい》の|優《やさ》しい|鈴虫《すずむし》のやうな、|味《あぢ》はひのある|玉《たま》の|御声《おんこゑ》、これだから|旅《たび》はよいもの、|辛《つら》いもの、|辛《つら》いと|思《おも》へばコンナ|好《い》いことがある。それに|就《つい》て|迷惑千万《めいわくせんばん》なのは、|安彦《やすひこ》、|道彦《みちひこ》|其《その》|他《た》の|道連《みちづ》れだ。|声《こゑ》の|色《いろ》から|考《かんが》へても、|古今無双《ここんむさう》の|逸物《いつぶつ》と|見《み》える。|美人《びじん》か、お|多福《かめ》か、|婆《ばば》か、|娘《むすめ》かと|云《い》ふことは|声《こゑ》の|色《いろ》に|現《あら》はれてゐるものだ』
と|呟《つぶや》き|乍《なが》ら、|武者窓《むしやまど》からソツと|窃《ぬす》むやうに|覗《のぞ》いて|見《み》た。|娘《むすめ》は|濡《ぬ》れ|烏《がらす》のやうな|髪《かみ》を|結《ゆ》ひ|窓《まど》の|方《はう》を|背《せ》にしてゐるから、その|容貌《ようばう》はしかとは|分《わか》らぬが、|其《そ》の|姿勢《しせい》の|何処《どこ》となく|優美《いうび》なるに|肝《きも》を|潰《つぶ》し、
『アーア|成《な》るは|嫌《いや》なり、|思《おも》ふは|成《な》らずだ。|冥途《めいど》へ|来《き》てもコンナ|奴《やつ》が|居《ゐ》るのならば、|娑婆《しやば》よりも|幾何《いくら》か|楽《たのし》みだ。|娑婆《しやば》に|居《を》つた|時《とき》には、お|多福《かめ》の|奴《やつ》に|肘鉄《ひぢてつ》の|乱射《らんしや》に|会《あ》ひ|男《をとこ》を|下《さ》げて|自暴腹《やけつぱら》になり、|終《つひ》には|宣伝使《せんでんし》にまでなつたが、|冥途《めいど》と|云《い》ふ|所《ところ》は、ナントしたマア|好《よ》い|所《ところ》だらう。|夢《ゆめ》ではあるまいか……アー|矢張《やつぱ》り|夢《ゆめ》でも|現《うつつ》でも|無《な》い、|擬《まが》ふ|方《かた》なき|美人《びじん》の|姿《すがた》、コンナ|女《をんな》をスウヰートハートとするのは、|男《をとこ》として|別《べつ》に|恥《は》づることは|無《な》い。|先方《むかふ》の|奴《やつ》|屹度《きつと》|俺《おれ》の|顔《かほ》を|見《み》て|目《め》を|細《ほそ》くしよつて、|此《こ》の|国彦《くにひこ》サンにラブするは|請合《うけあ》ひの|西瓜《すいくわ》だ。|皆《みな》の|奴《やつ》が|出《で》て|来《く》るまでに|一《ひと》つ|交渉《かうせふ》をやつて|見《み》ようかナア』
|安彦《やすひこ》、|道彦《みちひこ》|外《ほか》|二人《ふたり》は、|国彦《くにひこ》の|後《あと》を|追《お》うて|走《はし》り|来《き》たりしが、|其辺《そこら》は|何《なん》となく|俄《にはか》に|暗《くら》くなり、ナンダか|途《みち》の|真中《まんなか》に|横《よこた》はる|影《かげ》がある。
|安彦《やすひこ》『オイオイ|三人《さんにん》の|連中《れんぢう》、ナンダか|此処《ここ》に|妙《めう》な|者《もの》が|横《よこた》はつてゐる。どうだ|一《ひと》つ|貴様《きさま》の|金剛杖《こんがうづゑ》を|貸《か》して|呉《く》れ。こづいて|見《み》るから』
と|言《い》ひ|乍《なが》ら、|俄《にはか》|造《つく》りの|節《ふし》だらけの|杖《つゑ》を|百舌彦《もずひこ》の|手《て》より|引奪《ひつたく》り、|力《ちから》を|籠《こ》めて|乱打《らんだ》する。
|国彦《くにひこ》『アイタヽヽアイタヽヽ|痛《いた》いワイ|痛《いた》いワイ、|貴様《きさま》は|可愛《かあい》らしい|娘《むすめ》に|似合《にあ》はぬ|酷《ひど》い|奴《やつ》だ。ソンナ|節《ふし》だらけの|杖《つゑ》を|以《もつ》て|此《この》|色男《いろをとこ》を|打擲《ちやうちやく》するとは|何事《なにごと》だ。コリヤ|婆《ばば》、|貴様《きさま》も|一《ひと》つ|挨拶《あいさつ》をせぬかい。|娘《むすめ》に|斯様《かやう》な|乱暴《らんばう》を|働《はたら》かして|置《お》いて、|親《おや》の|役《やく》が|済《す》むか。これでも|一途《いちづ》の|川《かは》の|渡守《わたしもり》か』
|安彦《やすひこ》『オイオイ|国公《くにこう》、ナンダ、|此《この》|闇黒《くらがり》に|横《よこ》になりよつて、ナニ|寝言《ねごと》を|言《い》つて|居《ゐ》るのだ、しつかりせぬかい』
|国彦《くにひこ》『ヤー|貴様《きさま》は|安彦《やすひこ》ぢやないか、|娘《むすめ》の|癖《くせ》に|俺《おれ》を|打擲《ちやうちやく》しよつた。|貴様《きさま》|一《ひと》つ|仇《かたき》を|討《う》つてくれないか』
|安彦《やすひこ》『|莫迦《ばか》、|恍《とぼ》けない』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら|二《ふた》つ|三《み》つ|背中《せなか》をウンと|言《い》ふほど|叩《たた》きつける。|国彦《くにひこ》は|漸《やうや》く|起《お》き|上《あが》り、
|国彦《くにひこ》『アーア|妙《めう》だ、|冥途《めいど》へ|来《き》てからでも|夢《ゆめ》を|見《み》るものかなア』
|安彦《やすひこ》『|定《きま》つたことだ。|世《よ》の|諺《ことわざ》にも|幽冥《いうめい》に|夢見《ゆめみ》る|心地《ここち》と|云《い》ふことがある。ワハヽヽヽ』
|小屋《こや》の|中《なか》より|婆《ばば》の|声《こゑ》、
|婆《ばば》『コラコラ|此《この》|前《まへ》に|出《で》てうせた|二人《ふたり》の|耄碌《まうろく》、|出刄《でば》の|合戦《かつせん》が|未《ま》だ|残《のこ》つて|居《ゐ》るぞ、サア|此処《ここ》で|引返《ひきかへ》して|尋常《じんじやう》に|勝負《しようぶ》を|致《いた》せ』
|安彦《やすひこ》『オー|貴様《きさま》はホシホシ|婆《ばば》だな。|蛙《かはづ》の|日干《ひぼし》のやうな|面《つら》をしよつて、|何時迄《いつまで》も|何時迄《いつまで》も|此《こ》の|茅屋《あばらや》に|腐《くさ》り|鰯《いわし》が|網《あみ》に|附《つ》いたやうに|平太張《へたば》りついてゐよるのか、|粘着性《ねんちやくせい》の|強《つよ》い|婆《ばば》だな』
|婆《ばば》『|定《きま》つたことだい、|粘着性《ねんちやくせい》が|強《つよ》い|婆《ばば》だよ。|貴様《きさま》もモー|此処《ここ》へ|黐桶《とりもちをけ》に|足《あし》を|突込《つつこ》んだやうなものだ。|黐《とりもち》に|蝿《はへ》がとまつたも|同然《どうぜん》、|一寸《いつすん》でも|動《うご》けるなら、サア|動《うご》いて|見《み》よ。|今《いま》|貴様等《きさまたち》の|身体《からだ》に|電気《でんき》をかけてやるから』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら、|柱《はしら》に|装置《さうち》せる|握手《とつて》をグイグイと|押《お》した。|五人《ごにん》は|適度《てきど》に|間隔《かんかく》を|置《お》いて|円形《ゑんけい》を|画《えが》き、クルクルと|舞《ま》ひ|乍《なが》ら、|陸地《りくち》を|離《はな》れて|次第々々《しだいしだい》に|中空《ちうくう》に|昇《のぼ》り|行《ゆ》く。
|国彦《くにひこ》『ヤー|文明《ぶんめい》の|利器《りき》と|云《い》ふ|悪戯者《いたづらもの》がコンナ|所《ところ》まで|跋扈《ばつこ》しよつて、|亡者《まうじや》の|身体《からだ》を|中天《ちうてん》に|捲《ま》き|揚《あ》げるとは|面白《おもしろ》い。ヤイ|婆《ばば》の|奴《やつ》、モツトモツトハンドルを|押《お》して、|俺《おれ》を|此《この》|儘《まま》|天国《てんごく》まで|上《あ》げるのだよ。|無形《むけい》の|空中《くうちう》エレベーター|式《しき》だ。|面白《おもしろ》い|面白《おもしろ》い、|天国《てんごく》へ|往《い》つたら|貴様《きさま》の|功《こう》に|免《めん》じ、|蓮《はす》の|台《うてな》に|半座《はんざ》を|分《わ》けて|待《ま》つてゐてやらう。|併《しか》し|乍《なが》ら|皺《しわ》くちや|婆《ばば》は|此《この》|限《かぎ》りに|非《あら》ずだ。|若《わか》い|奴《やつ》|若《わか》い|奴《やつ》』
と|呶鳴《どな》り|乍《なが》ら、|次第々々《しだいしだい》に|中空《ちうくう》に|捲《ま》き|揚《あ》げられた。|天上《てんじやう》に|捲《ま》き|揚《あ》げられたる|五人《ごにん》の|男《をとこ》は|上空《じやうくう》の|烈風《れつぷう》に|煽《あふ》られ|空気《くうき》|稀薄《きはく》のため、|殆《ほとん》ど|息《いき》も|絶《た》えなむ|許《ばか》りの|苦痛《くつう》を|感《かん》じた。|五人《ごにん》は|一時《いつとき》に|声《こゑ》を|振《ふ》り|絞《しぼ》り、
『オーイオーイ、|一途《いちづ》の|川《かは》の|婆《ば》アサン、ヤーイ、マア|一度《いちど》|元《もと》の|場所《ばしよ》に|降《おろ》して|呉《く》れ。オーイオーイ』
と|叫《さけ》んで|居《を》る。|婆《ばば》の|声《こゑ》は|蚯蚓《みみづ》の|泣《な》くやうに|幽《かす》かに|聞《きこ》えて|来《き》た。
|婆《ばば》『|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》|及《およ》び|二人《ふたり》の|馬鹿者《ばかもの》|共《ども》、|胴体《どうたい》|無《な》しの|烏賊《いか》|上《のぼ》り、|宣伝使《せんでんし》たるの|貫目《くわんめ》は|全然《さつぱり》ゼロだ。|元《もと》の|所《ところ》にをり|度《た》くばモー|少《すこ》し|汝《なんぢ》が|身魂《みたま》に|重味《おもみ》を|附《つ》けよ。さすれば|自然《しぜん》に|元《もと》の|所《ところ》に|下《くだ》り|来《く》るだらう。|塵《ちり》|芥《あくた》の|如《ごと》き|軽々《かるがる》しき|薄片《うすつぺら》な|魂《たましひ》を|以《もつ》て|大地《だいち》を|闊歩《くわつぽ》するとは|分《ぶん》に|過《す》ぎたる|汝《なんぢ》の|振舞《ふるまひ》、|蚊《か》、|蜻蛉《とんぼ》にも|均《ひと》しき|蝿虫《はへむし》|奴《め》|等《ら》、|今《いま》レコード|破《やぶ》りの|大風《おほかぜ》が|吹《ふ》くぞ、|風《かぜ》のまにまに|太平洋《たいへいやう》か|印度洋《いんどやう》の【ごもく】となつて|鱶《ふか》の|餌食《ゑじき》になつたがよからう。アハヽヽヽ、オホヽヽヽ』
と|千切《ちぎ》れ|千切《ちぎ》れに|半《なか》ば|毀損《きそん》した|遠距離《ゑんきより》|電話《でんわ》のやうに|聞《きこ》えて|来《き》た。|五人《ごにん》は|風《かぜ》の|波《なみ》に|漂《ただよ》ひ|乍《なが》ら|互《たがひ》に|堅《かた》く|手《て》を|握《にぎ》り、|右《みぎ》に|左《ひだり》に|上《うへ》に|下《した》に|縦《たて》になり|横《よこ》になり、|頭《かしら》が|下《した》になり|上《うへ》になりしつつ、ふわりふわりと|何処《いづこ》ともなく|風《かぜ》のまにまに|散《ち》り|行《ゆ》く。
|忽《たちま》ち|空中《くうちう》に|電光《でんくわう》|閃《ひらめ》き|雷鳴《らいめい》|轟《とどろ》き|渡《わた》ると|見《み》るまに、|電気《でんき》に|打《う》たれた|如《ごと》く|五人《ごにん》は|手《て》を|繋《つな》いだ|儘《まま》、|鳥《とり》も|通《かよ》はぬ|山中《さんちう》に|矢《や》を|射《い》る|如《ごと》く|一直線《いつちよくせん》に|落下《らくか》するのであつた。フツト|気《き》が|附《つ》けば|高山《かうざん》と|高山《かうざん》の|谷間《たにま》を|流《なが》るる|細谷川《ほそたにがは》の|細砂《まいごみ》の|上《うへ》に、|五人《ごにん》は|枕《まくら》を|列《なら》べて|横《よこた》はつてゐたのである。
これは|妙音《めうおん》|菩薩《ぼさつ》がエデンの|河《かは》の|河下《かはしも》にて|漁夫《れうし》と|変《へん》じ、|五人《ごにん》の|男《をとこ》を|網《あみ》を|以《もつ》て|救《すく》ひ|上《あ》げ、|息《いき》を|吹《ふ》きかけコーカス|山《ざん》の|大天狗《だいてんぐ》をして|空中《くうちう》に|引掴《ひつつか》み、メソポタミヤの|北野《きたの》|山中《さんちう》に|誘《いざな》ひ|来《きた》り、|谷川《たにがは》の|砂《すな》の|上《うへ》にどつかと|下《お》ろして|自《みづか》らは|密《ひそか》にコーカス|山《ざん》に|立帰《たちかへ》つたのである。
|嗚呼《ああ》|奇《くし》びなる|哉《かな》、|神《かみ》のはたらき、
|嗚呼《ああ》|有難《ありがた》き|哉《かな》、|大神《おほかみ》の|救《すく》ひよ。
(大正一一・四・一 旧三・五 外山豊二録)
第六章 |北山川《きたやまがは》〔五七三〕
|誠《まこと》を|教《をし》ふる|四方《よも》の|国《くに》 |広道別《ひろみちわけ》の|宣伝使《せんでんし》
|太玉命《ふとたまのみこと》に|従《したが》ひて ハムの|一族《いちぞく》|婆羅門《ばらもん》の
|教《をしへ》を|築《きづ》き|立《た》て|籠《こも》る |顕恩城《けんおんじやう》に|向《むか》はむと
エデンの|河《かは》の|渡《わた》し|場《ば》に |来《きた》る|折《をり》しも|枉神《まがかみ》の
|篠《しの》つく|征矢《そや》に|悩《なや》まされ |或《あるひ》は|倒《たふ》れ|又《また》|溺《おぼ》れ
|木葉微塵《こつぱみぢん》に|船《ふね》は|割《わ》れ |一同《いちどう》エデンの|河底《かはぞこ》に
|沈《しづ》みつ|浮《う》きつ|河下《かはしも》の |巌《いはほ》の|間《あひだ》に|挟《はさ》まれて
|露《つゆ》の|玉《たま》の|緒《を》|縡《ことぎ》れし |其《その》|折柄《をりから》に|何処《どこ》よりか
|微妙《びめう》の|音楽《おんがく》|聞《きこ》えきて |救《すく》ひの|網《あみ》を|下《おろ》しつつ
|妙音《めうおん》|菩薩《ぼさつ》の|御守《みまも》りに |生命《いのち》|拾《ひろ》ひし|五人連《ごにんづ》れ
|忽《たちま》ち|来《きた》るコーカス|山《ざん》の |神《かみ》の|使《つか》ひの|鷹津神《たかつかみ》
|小脇《こわき》に|抱《かか》へ|中空《ちうくう》を |東《ひがし》を|指《さ》して|翔《かけ》り|行《ゆ》く
|安彦《やすひこ》、|国彦《くにひこ》、|道彦《みちひこ》や |百舌彦《もずひこ》|田加彦《たかひこ》|五人連《ごにんづ》れ
|神《かみ》に|救《すく》はれ|北山《きたやま》の |千尋《ちひろ》の|谷間《たにま》の|砂原《すなはら》に
|投《な》げ|下《おろ》されて|目《め》を|醒《さ》まし |一途《いちづ》の|川《かは》に|向《むか》ひたる
|夢《ゆめ》の|思《おも》ひ|出《で》|恐《おそ》ろしく |身慄《みぶる》ひし|乍《なが》ら|起上《おきあが》り
|四方《よも》の|景色《けしき》を|眺《なが》むれば |此《こ》はそも|如何《いか》に|此《こ》は|如何《いか》に
|山《やま》と|山《やま》とに|包《つつ》まれし |細谷川《ほそたにがは》の|川《かは》の|辺《べ》に
|枕《まくら》を|並《なら》べて|睡《ねむ》るこそ |実《げ》に|訝《いぶ》かしの|限《かぎ》りなり
|実《げ》にも|不思議《ふしぎ》の|極《きは》みなり。
|国彦《くにひこ》『アーア|恐《おそ》ろしい|事《こと》だつた。|胆玉《きもたま》がすつての|事《こと》で|洋行《やうかう》する|処《ところ》だつたよ。マアマア|御蔭様《おかげさま》で|何《ど》うやら|無事《ぶじ》|着陸《ちやくりく》した|様《やう》な|塩梅《あんばい》だ。|能《よ》う|不思議《ふしぎ》な|事《こと》があればあるもの、エデンの|河《かは》を|渡《わた》る|時《とき》に|肝腎《かんじん》のスクリウを|押《お》し|流《なが》し、|乗《の》つたる|船《ふね》は|波《なみ》にまかせ、|生《いき》た|心地《ここち》も|無《な》く|生命《いのち》からがら|神言《かみごと》を|奏上《そうじやう》する|間《ま》もなく、|無残《むざん》や|吾船《わがふね》は|激流《げきりう》の|中《なか》に|立《た》てる|大岩石《だいがんせき》に|向《むか》つて|大衝突《だいしようとつ》を|試《こころ》み|脆《もろ》くも|木《こ》つ|葉《ぱ》|微塵《みじん》の|厄《やく》に|遭《あ》ひ、|太玉命《ふとたまのみこと》の|宣伝使《せんでんし》を|始《はじ》め|吾々《われわれ》|一同《いちどう》は|水《みづ》の|藻屑《もくづ》となつたと|思《おも》へば|際涯《はてし》もなき|草野《くさの》の|原《はら》を|五人連《ごにんづ》れ、テクテク|彷徨《さまよ》ひつつ|濁流《だくりう》|漲《みなぎ》る|辺《ほとり》にやつと|到着《たうちやく》し、|怪《あや》しき|婆《ばば》の|妙《めう》な|器械《きかい》に|操《あやつ》られ、|木《こ》の|葉《は》の|如《ごと》く|天上《てんじやう》|高《たか》く|捲《ま》き|上《あ》げられ、|生命《いのち》も|今《いま》や|絶《た》えむとする|折《をり》しも|大空《たいくう》に|轟《とどろ》く|雷《いかづち》の|声《こゑ》、|稲妻《いなづま》の|光《ひかり》に|打《う》たれて|地上《ちじやう》に|真逆様《まつさかさま》に|墜落《つゐらく》し、|骨《ほね》も|身《み》も|木《こ》つ|葉《ぱ》|微塵《みじん》になつたかと|思《おも》ひきや、|不思議《ふしぎ》にも|生命《いのち》を|助《たす》かつたは|全《まつた》く|大神様《おほかみさま》の|御守護《ごしゆご》だ。|何《なに》しても|不思議《ふしぎ》な|事《こと》だ、|吾々《われわれ》は|飽迄《あくまで》も|生命《いのち》のつづく|限《かぎ》りお|道《みち》の|為《ため》に|驀進《ばくしん》せなくてはならないなア』
|安彦《やすひこ》『|何《なん》とも|知《し》れぬ|吾々《われわれ》の|境遇《きやうぐう》、|夢《ゆめ》に|夢見《ゆめみ》る|心地《ここち》がして|現界《げんかい》に|居《を》るのか、|幽界《いうかい》に|居《を》るのかまだ|判然《はつきり》と|確信《かくしん》がつかぬ|哩《わい》、ヤイ|道彦《みちひこ》サン、お|前《まへ》は|如何《どう》|思《おも》ふか、|矢張《やつぱり》|冥土《めいど》の|旅《たび》をやつて|居《を》るのではあるまいかなア』
|道彦《みちひこ》『サア|斯《こ》うなつて|来《き》ては|薩張《さつぱ》り|見当《けんたう》が|付《つ》かない。|現幽《げんいう》|混淆《こんかう》、|判然《はんぜん》と|区劃《くくわく》がついてゐないのだからお|前《まへ》の|考《かんが》へも|決《けつ》して|馬鹿《ばか》げた|事《こと》とは|断定《だんてい》|出来《でき》ないなア』
|百舌彦《もずひこ》『モシモシ|宣伝使《せんでんし》|様《さま》、|彼処《あすこ》に|生《な》つて|居《を》る|香具《かぐ》の|木《こ》の|実《み》を|一《ひと》つ|採《と》つて|食《く》つて|見《み》ませう。|幽界《いうかい》の|果実《このみ》は|総《すべ》て|苦味《にがみ》があると|言《い》ふ|事《こと》ですから、|若《も》しも|苦《にが》かつたら|矢張《やつぱ》り|幽界《いうかい》でせうし、|酢《す》つぱかつたら|矢張《やつぱ》り|現界《げんかい》でせう。|私《わたくし》が|一《ひと》つ|木登《きのぼ》りをして|採《と》つて|来《き》ませうか』
|国彦《くにひこ》『それは|良《い》い|考《かんが》へだ、|早《はや》く|登《のぼ》つて|採《と》つて|見《み》て|呉《く》れ。|然《しか》し|乍《なが》ら|比較的《ひかくてき》|大木《たいぼく》だ。|枝《えだ》も|高《たか》いなり|用心《ようじん》して|登《のぼ》らないと、|今《いま》の|夢《ゆめ》の|様《やう》に|空中滑走《くうちうくわつそう》を|演《えん》じて|樹下《じゆか》の|岩石《がんせき》に|頭蓋骨《づがいこつ》を|衝突《しようとつ》させ、|又《また》もや|幽界《いうかい》の|行脚《あんぎや》をする|様《やう》な|事《こと》ではつまらないから|十分《じふぶん》に|気《き》をつけて|呉《く》れ|給《たま》へ』
|百舌彦《もずひこ》『|私《わたくし》は|顕恩郷《けんおんきやう》に|於《おい》ても|猿《さる》の|百舌公《もずこう》と|言《い》はれた|位《くらゐ》|木登《きのぼ》りの|名人《めいじん》ですから、|決《けつ》して|決《けつ》して|御心配《ごしんぱい》はして|下《くだ》さいますな』
と|言《い》ふより|早《はや》く|猿《さる》の|如《ごと》くに|大木《たいぼく》の|枝《えだ》|高《たか》く|登《のぼ》り|行《ゆ》く。|田加彦《たかひこ》は|樹下《じゆか》に|立寄《たちよ》り、
『オーイ、|百舌彦《もずひこ》、どうだ。|酸《す》つぱいか、|苦《にが》いか、|甘《あま》いか、どちらだ』
|百舌彦《もずひこ》は【むし】つて|皮《かは》を|剥《む》き、グツと|頬張《ほほば》り|又《また》【むし】つては|皮《かは》を|剥《む》き、|咽喉《のど》をならせ|乍《なが》ら|眼《め》を|細《ほそ》くして|肩《かた》をすくめて|食《く》つて|居《を》る。さうして|皮《かは》を|掴《つか》んでは、|樹下《じゆか》に|口《くち》を|開《あ》けてポカンとして|見上《みあ》げてゐる|田加彦《たかひこ》の|顔《かほ》を|目蒐《めが》けて|打《う》ちつける。
|田加彦《たかひこ》『オーイ、|百舌公《もずこう》、どうだ、|味《あぢ》は、……|早《はや》く|返答《へんたふ》せぬかい』
|百舌彦《もずひこ》『|八釜《やかま》しい|哩《わい》、|二十《にじふ》や|三十《さんじふ》|食《く》つたつて|味《あぢ》が|分《わか》るかい。|酸《す》いか、|甘《あま》いか、|苦《にが》いか、|三《み》つの|中《うち》だ。|坂《さか》の|下《した》の|子供《こども》ぢやないが、お|上《あが》り|遊《あそ》ばすのを|悠然《ゆつくり》と|見《み》て|御座《ござ》れ。アヽ|酸《す》い|事《こと》も|無《な》い、|甘《あま》い|事《こと》もない、|苦《にが》い|事《こと》もない|哩《わい》。|何《なん》だか|言《い》ふに|言《い》はれぬ|味《あぢ》がする、アヽ|生《いき》とればこそコンナ|美味《おい》しい|物《もの》が|沢山《たくさん》に|頂《いただ》けるのだ。オイ|田加公《たかこう》、|貴様《きさま》も|一《ひと》つ|登《のぼ》つて|食《く》つたら|如何《どう》だ』
|田加彦《たかひこ》『|俺《おれ》は|貴様《きさま》の|知《し》る|如《ごと》く|身《み》が|重《おも》くつて|木登《きのぼ》りは|出来《でき》ないのだ。|屋根《やね》|葺《ふ》きの|手伝《てつだひ》と|木登《きのぼ》りする|奴《やつ》は|馬鹿《ばか》の|中《なか》の|大関《おほぜき》と|言《い》ふ|事《こと》だ。オイ|馬鹿《ばか》の|大関《おほぜき》、|一《ひと》つ|美味相《うまさう》な|奴《やつ》を|落《おと》さぬかい』
|百舌彦《もずひこ》『|仲々《なかなか》|一寸《ちよつと》|落《おと》さぬ|哩《わい》、|落《おと》したら|最後《さいご》、|貴様《きさま》が|皆《みな》|拾《ひろ》つて|食《く》つて|仕舞《しま》ふから|落《おと》し|損《ぞん》だ。それ|程《ほど》|欲《ほ》しけりや|猿蟹《さるかに》|合戦《がつせん》ぢやないが、|瘡蓋《かさぶた》のカンカンの|石《いし》の|様《やう》な|奴《やつ》を|落《おと》して|与《や》らうか』
と|云《い》ふより|早《はや》く|田加彦《たかひこ》の|頭《かしら》を|目蒐《めが》けてピシヤツと|打《う》ちつける。|田加彦《たかひこ》は|烈火《れつくわ》の|如《ごと》く|憤《いきどほ》り|手頃《てごろ》の|石《いし》を|拾《ひろ》つて|樹上《じゆじやう》|目蒐《めが》けて|速射砲的《そくしやはうてき》に|打《う》ちつける。|百舌彦《もずひこ》は|青《あを》き|果実《このみ》を【むし】つて|田加彦《たかひこ》|目蒐《めが》けて|打《う》ちつける、|此《この》|場《ば》に|一場《いちぢやう》の|戦闘《せんとう》は|開始《かいし》された。|百舌彦《もずひこ》は|飛《と》び|来《く》る|石《いし》を|右《みぎ》に|賺《す》かし|左《ひだり》に|賺《す》かし、|樹上《じゆじやう》を|猿《ましら》の|如《ごと》く|駆廻《かけまは》り|足《あし》|踏《ふ》み|外《はづ》しスツテンドウ…………、|田加彦《たかひこ》が|頭《かしら》の|上《うへ》に|真逆様《まつさかさま》に|唸《うな》りを|立《た》てて|落下《らくか》した。|田加彦《たかひこ》はヤツと|一声《いつせい》、|体《たい》を|躱《かは》した|途端《とたん》に|蛙《かへる》をぶつつけた|様《やう》に|百舌彦《もずひこ》は|大地《だいち》に|大《だい》の|字《じ》になつてウンと|一声《ひとこゑ》、|手足《てあし》を|伸《の》ばしビリビリビリ、|眼《め》の|玉《たま》はくるくるくる、|一言《ひとこと》も|発《はつ》せず、フンのびて|仕舞《しま》つた。
|安彦《やすひこ》『ヤア|大変《たいへん》だ、|酸《す》いとも|苦《にが》いとも|判断《はんだん》のつかぬ|中《うち》に|落命《らくめい》されては|吾々《われわれ》も|益々《ますます》|方向《はうかう》に|苦《くる》しむ|訳《わけ》だ。|何《なん》とかして|甦《よみがへ》らせ|確《たしか》な|答《こたへ》を|聞《き》き|度《た》いものだ。オイ|田加彦《たかひこ》、|百舌彦《もずひこ》は|貴様《きさま》が|殺《ころ》した|様《やう》なものだ、|此《この》|責任《せきにん》は|貴様《きさま》にあるぞ。|何《なん》とか|工夫《くふう》を|致《いた》さぬかい』
|田加彦《たかひこ》『|鷹《たか》も|百舌《もず》も|一所《いつしよ》には|寄《よ》せぬぞよと|神様《かみさま》が|仰有《おつしや》ります。|私《わたくし》は|田加彦《たかひこ》、|到底《たうてい》|百舌《もず》の|世話《せわ》は|出来《でき》ませぬ』
|安彦《やすひこ》『|何《なに》を|愚図々々《ぐづぐづ》|言《い》つてるのだ、|早《はや》く|水《みづ》でも|呑《の》まして|与《や》れ、|死《し》んだら|如何《どう》|致《いた》すか』
|田加彦《たかひこ》『|一旦《いつたん》|吾々《われわれ》|一同《いちどう》は|死《し》んだのですから|滅多《めつた》に|死《し》ぬ|様《やう》な|事《こと》はありますまい。|死《し》んだ|奴《やつ》の|昼寝《ひるね》でせう、マア|悠然《ゆつくり》|目《め》の|醒《さ》める|処《ところ》まで|放《ほ》つといたら|如何《どう》でせうか。|大分《だいぶん》に|百舌公《もずこう》も|空中《くうちう》|飛行《ひかう》の|疲労《くたびれ》が|出《で》て|居《を》るから、マアマア|大目《おほめ》に|見《み》てやつて|下《くだ》さいな』
|道彦《みちひこ》『ヤア|国彦《くにひこ》サン、|安彦《やすひこ》サン、どうも|吾々《われわれ》は|未《ま》だ|現界《げんかい》の|人間《にんげん》らしい、|百舌公《もずこう》を|此《この》|儘《まま》にして|置《お》けば|本当《ほんたう》に|死《し》んで|仕舞《しま》ひます。|何卒《どうか》|一同《いちどう》|揃《そろ》うて|神言《かみごと》を|奏上《そうじやう》してやつて|下《くだ》さいな』
|三人《さんにん》は|異口同音《いくどうおん》に|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》し|始《はじ》めた。|百舌彦《もずひこ》は|忽《たちま》ち|身体《しんたい》|振動《しんどう》し、|大口《おほぐち》を|開《あ》けて、
『アヽヽ』
と|声《こゑ》|張《は》り|上《あ》げ、|中風《ちうぶう》|病《や》みの|様《やう》に|涎《よだれ》をダラダラ|流《なが》しかけムクムクと|身体《からだ》を|動《うご》かし|始《はじ》めた。
|安彦《やすひこ》『ヤアヤアもう|此方《こつち》の|者《もの》だ、|生命《いのち》|丈《だけ》は|大丈夫《だいぢやうぶ》だ』
|百舌彦《もずひこ》は|忽《たちま》ち|四《よ》つ|這《ば》ひになり、ヒン ヒン ヒンと|馬《うま》の|様《やう》な|嘶《いなな》きを|連発《れんぱつ》し|乍《なが》ら|足《あし》を|以《もつ》て|河砂《かはすな》を|足掻《あしがき》し、ムクムクと|這《は》ひ|出《だ》した。
|田加彦《たかひこ》『ヤア|此奴《こいつ》|一旦《いつたん》|死《し》によつて|馬《うま》に|生《うま》れて|来《き》よつたナ。|大善《だいぜん》|大悪《だいあく》に|中有《ちうう》は|無《な》いと|言《い》ふ|事《こと》だが|如何《いか》にも|此奴《こいつ》は|常《つね》から|大悪人《だいあくにん》だつた。|中有《ちうう》なしに|忽《たちま》ち|畜生道《ちくしやうだう》へ|早変《はやがは》り、|否《いな》|生《うま》れ|代《かは》り、|俺《おれ》も|今迄《いままで》|永《なが》らく|交際《つきあ》つた|誼《よしみ》で|此奴《こいつ》の|馬《うま》に|跨《またが》つて|与《や》れば|因業《いんごう》が|満《み》ちて|再《ふたた》び|人間《にんげん》に|生《うま》れて|来《く》るだらう。サア|百舌彦《もずひこ》の|四《よ》つ|足《あし》、|貴様《きさま》は|余《よ》つ|程《ぽど》|幸福者《しあわせもの》だ。|労役《らうえき》に|服《ふく》する|畜生《ちくしやう》も|沢山《たくさん》あるのに、|勿体《もつたい》なくも|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》の|御供《おんとも》、|田加彦《たかひこ》サンを|乗《の》せて|歩《ある》くとは|何《なん》たる|幸福者《しあわせもの》ぞ、サア|駆出《かけだ》せ|駆出《かけだ》せ』
|百舌彦《もずひこ》『ヒンヒンヒン』
|田加彦《たかひこ》『ヤア|此奴《こいつ》は|本式《ほんしき》だ、|馬《うま》にしては|少《すこ》し|背《せ》が|低《ひく》いから|乗《の》り|心地《ここち》が|悪《わる》い。|然《しか》し|乍《なが》ら|資金《もとで》|要《い》らずの|小馬《こうま》だから|辛抱《しんばう》するかい』
と|云《い》ひつつ|百舌彦《もずひこ》の|背《せ》に|跨《またが》つたまま、|有《あ》りあふ|木片《きぎれ》を|以《もつ》て|鞭《むち》に|代《か》へ|無性《むしやう》|矢鱈《やたら》に|鞭《むちう》つた。|忽《たちま》ち|百舌彦《もずひこ》は|身体《しんたい》|膨張《ばうちよう》し、|象《ざう》の|如《ごと》き|巨大《きよだい》なる|人面獣体《じんめんじうたい》の|怪《あや》しき|獣《けだもの》となつて|仕舞《しま》つた。
|田加彦《たかひこ》『ヤア|三人《さんにん》の|宣伝使《せんでんし》|様《さま》、|御覧《ごらん》の|通《とほ》り|顔《かほ》は|人間《にんげん》、|胴体《どうたい》は|象《ざう》の|様《やう》な|大《おほ》きな|脚《あし》の|太《ふと》い|馬《うま》が|出来《でき》ました、|皆《みな》サン|御一緒《ごいつしよ》にお|乗《の》りになつては|如何《いかが》ですか。|昔《むかし》エデンの|園《その》で|此《この》|世《よ》の|造物主《つくりぬし》の|大神様《おほかみさま》がアダムとエバとの|二人《ふたり》の|男女《だんぢよ》にこの|果物《このみ》を|食《く》ふなと|警《いまし》められた。それも|聞《き》かずにエバの|奴《やつ》、|餓虎《がこ》の|勢《いきほひ》でムシヤムシヤと|採《と》つて|食《く》ひ、ハズバンドのアダムに|迄《まで》|勧《すす》め|食《くら》はして|遂《つひ》に|神罰《しんばつ》に|触《ふ》れ、|其《その》|邪気《じやき》は|凝《こ》つて|八頭八尾《やつがしらやつを》の|大蛇《をろち》となり、|金毛九尾《きんまうきうび》の|悪狐《あくこ》となり|天下《てんか》に|横行《わうかう》する|様《やう》になつたと|云《い》ふ|事《こと》だ。|罰《ばつ》は|覿面《てきめん》、|百舌公《もずこう》の|奴《やつ》、|此《この》|結構《けつこう》な|果実《このみ》を|唯一人《ただひとり》|吾物顔《わがものがほ》に|人《ひと》にも|呉《く》れず|食《くら》つた|酬《むく》い、|樹上《じゆじやう》より|顛落《てんらく》して|生命《いのち》を|失《うしな》ひ、|忽《たちま》ち|畜生道《ちくしやうだう》に|陥《おちい》りコンナ|怪体《けたい》な|人獣《にんじう》となつて|仕舞《しま》つた。|皆《みな》サン、|袖《そで》|振《ふ》り|合《あ》ふも|他生《たしやう》の|縁《えん》だ、|此奴《こいつ》の|罪亡《つみほろ》ぼしの|為《た》めに|乗《の》つてやつて|下《くだ》さいな』
|百舌彦《もずひこ》の|身体《からだ》は|忽《たちま》ちウ、ウ、ウと|唸《うな》り|始《はじ》めた。
|田加彦《たかひこ》『エー|静《しづ》かにせぬかい、あまり|唸《うな》りよるので|貴様《きさま》の|身体中《からだぢう》がビリビリ|震《ふる》うて、|俺《おれ》の|尻《しり》まで|擽《こそば》ゆくなつて|来《き》た。|八釜《やかま》しう|吐《ぬか》すと|尻《しり》を|叩《たた》くぞ』
と|木片《きぎれ》を|以《もつ》てピシヤリピシヤリと|打《う》ち|叩《たた》く。|人象《にんざう》は|上下《じやうげ》に|運動《うんどう》を|始《はじ》めた。|初《はじ》めの|間《あひだ》は|四五尺《しごしやく》の|間《あひだ》を|上下《じやうげ》しつつあつたが|遂《つひ》には|七八間《しちはつけん》の|中空《ちうくう》を|昇降《しやうかう》し、|上下左右《じやうげさいう》に|躍《をど》り|始《はじ》めた。|其《その》|震動《しんどう》に|跳飛《はねと》ばされて|田加彦《たかひこ》は|以前《いぜん》の|香具《かぐ》の|木《き》の|枝《えだ》に|噬《しが》み|付《つ》き|顛落《てんらく》を|免《まぬが》れた。|人象《にんざう》の|姿《すがた》は|忽《たちま》ち|容積《ようせき》を|減《げん》じ|以前《いぜん》の|百舌彦《もずひこ》の|姿《すがた》に|還元《くわんげん》して|仕舞《しま》つた。
|百舌彦《もずひこ》『アハヽヽヽ、オイ|田加彦《たかひこ》、どうだ、|酸《す》いか、|甘《あま》いか、|苦《にが》いか、|返答《へんたふ》せぬかい』
|田加彦《たかひこ》『ナヽヽヽ、|何《なに》を|吐《ぬか》しよるのだ。|酸《す》いも、|甘《あま》いも|苦《にが》いもあつたものかい。|俺《おれ》をコンナ|甚《ひど》い|辛《つら》い|目《め》に|会《あ》はせよつて、こら、|俺《おれ》が|死《し》んだら|化《ば》けて|出《で》てやるからさう|思《おも》へ、ヒユー、ドロ ドロ ドロぢやぞ』
|百舌彦《もずひこ》は|目《め》を|剥《む》き|舌《した》をペロリと|出《だ》して、
『|御縁《ごえん》があつたら|又《また》お|願《ねがひ》|致《いた》します、サア サア サア|三人《さんにん》の|宣伝使《せんでんし》|様《さま》、|彼奴《あいつ》をああして|香具《かぐ》の|木《こ》の|実《み》に|預《あづか》けて|置《お》けば|死《し》ぬ|迄《まで》|大丈夫《だいぢやうぶ》です。|皆《みな》サン|一時《いちじ》も|早《はや》く|此《この》|場《ば》を|立《た》ち|去《さ》り|宣伝《せんでん》に|向《むか》ひませう』
|安彦《やすひこ》『アハヽヽヽ』
|国彦《くにひこ》『オホヽヽヽ』
|道彦《みちひこ》『ヤア|百舌彦《もずひこ》、|貴様《きさま》は|化物《ばけもの》だ、|妙《めう》な|病気《びやうき》を|持《も》つてるな。|然《しか》し|乍《なが》ら|田加彦《たかひこ》をあの|儘《まま》に|放擲《うつちやつ》て|置《お》く|訳《わけ》にはゆくまい、|之《これ》は|貴様《きさま》の|責仕《せきにん》だからソツと|樹下《じゆか》に|下《おろ》して|連《つ》れて|行《ゆ》くが|宜《よ》からう』
|田加彦《たかひこ》『モシモシ|道彦《みちひこ》サン|有《あ》り|難《がた》う|御座《ござ》います、|能《よ》う|言《い》つて|下《くだ》さいました。|人情《にんじやう》|知《し》らずの|安彦《やすひこ》、|国彦《くにひこ》の|宣伝使《せんでんし》、|百舌彦《もずひこ》の|馬鹿野郎《ばかやらう》、|永《なが》らく|御心配《ごしんぱい》を|掛《か》けました、|大《おほ》きに|憚《はばか》り|様《さま》』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら|猿《さる》の|如《ごと》く|樹上《じゆじやう》よりスラスラスラと|下《くだ》つて|来《き》た。|四人《よにん》|一度《いちど》に、
|一同《いちどう》『アハヽヽヽ』
と|転《こ》けて|笑《わら》ふ。|田加彦《たかひこ》は|百舌彦《もずひこ》の|尻《しり》をクレリと|引《ひ》ん|捲《まく》り、
『コラ、|屁放《へこ》き|馬《うま》、|能《よ》く|此《この》|方《はう》を|馬鹿《ばか》にしよつたな』
|百舌彦《もずひこ》は『|何《なに》ツ』と|云《い》ひ|乍《なが》ら|矢庭《やには》に|拳骨《げんこつ》を|固《かた》めて|田加彦《たかひこ》の|頭《あたま》を|続《つづ》け|打《う》ちにポカポカとやつた。|田加彦《たかひこ》は|烈火《れつくわ》の|如《ごと》く|又《また》もや|拳《こぶし》を|固《かた》めて|骨《ほね》も|挫《くだ》けと|打下《うちおろ》す。|此《この》|時《とき》|遅《おそ》く|彼時《かのとき》|早《はや》く、|百舌彦《もずひこ》は|細《ほそ》くなつて|雑草《ざつさう》|茂《しげ》れる|田圃道《たんぼみち》を|一目散《いちもくさん》に|駆《か》け|出《だ》す。|田加彦《たかひこ》は、
『おのれ|百舌彦《もずひこ》、|卑怯《ひけふ》|未練《みれん》な、|逃《に》がしてならうか』
と|尻《しり》ひつからげ|後《あと》を|追《お》つかけ、|雲《くも》を|霞《かすみ》と|彼方《かなた》を|指《さ》して|姿《すがた》を|隠《かく》して|了《しま》つた。
|安彦《やすひこ》『ヤア、|面白《おもしろ》き|活劇《くわつげき》を|見物《けんぶつ》した。|然《しか》し|乍《なが》ら|此《この》|儘《まま》にして|居《を》れば|二人《ふたり》の|奴《やつ》、|如何《どん》な|事《こと》をするかも|知《し》れない。|国彦《くにひこ》、|道彦《みちひこ》|殿《どの》、|一時《いちじ》も|早《はや》く|後《あと》|追《お》つかけて|彼《かれ》の|所在《ありか》を|探《さが》しませう』
と|安彦《やすひこ》は|慌《あはただ》しく|先《さき》に|立《た》つて|駆出《かけだ》せば、|二人《ふたり》も|続《つづ》いて|跡《あと》を|追《お》ひ|行《ゆ》く。
(大正一一・四・一 旧三・五 北村隆光録)
第七章 |釣瓶攻《つるべぜめ》〔五七四〕
|百舌公《もずこう》、|田加公《たかこう》は、|汗《あせ》をタラタラ|流《なが》し|乍《なが》ら、|蛙《かわづ》の|行列《ぎやうれつ》|向《むか》う|見《み》ずと|云《い》ふ|大速力《だいそくりよく》を|以《もつ》て、|細《ほそ》き|田圃路《たんぼみち》をマラソン|競走《きやうそう》|的《てき》に|進行《しんかう》して|行《ゆ》く。
|行《ゆ》く|事《こと》|十数丁《じふすうちやう》、|忽《たちま》ち|前途《ぜんと》に|突当《つきあた》つた|石像《せきざう》の|姿《すがた》、|百舌公《もずこう》は|此《この》|石像《せきざう》に|現《うつつ》を|抜《ぬ》かして|見惚《みと》れて|居《ゐ》る。|後《あと》より|追付《おひつ》いた|田加彦《たかひこ》は、|矢庭《やには》に|拳骨《げんこつ》を|固《かた》めてポカポカポカと|擲《なぐ》り|付《つ》ける。|石地蔵《いしぢざう》は|一尺《いつしやく》|有余《いうよ》の|長《なが》き|舌《した》をノロノロと|吐《は》き|出《だ》し、|目《め》を|白黒《しろくろ》と|剥《む》いたまま、|一尺《いつしやく》|許《ばか》りも|前《まへ》に|突《つ》き|出《だ》し、|鼻《はな》をムケムケさせて|居《ゐ》る。|田加彦《たかひこ》は|又《また》もや|現《うつつ》をぬかして、|異様《いやう》の|石像《せきざう》を|見詰《みつ》めて|居《ゐ》た。|百舌彦《もずひこ》は|又《また》もや|拳骨《げんこつ》を|固《かた》めて、|田加彦《たかひこ》の|横面《よこづら》をポカポカとやる。
|田加彦《たかひこ》『アイタタ、もう|是《こ》れで|借金《しやくきん》|済《な》しが|済《す》んで|居《ゐ》る|筈《はず》だのに、|又《また》|二《ふた》つも|擲《なぐ》りよつて|仕方《しかた》のない|奴《やつ》だ。|待《ま》て|待《ま》て|今《いま》に|返報《へんぱう》がやしをしてやらう』
と|捻鉢巻《ねぢはちまき》となり、|拳《こぶし》を|握《にぎ》つて|打《う》つてかかるを、|百舌彦《もずひこ》はヒラリと|体《たい》をかはし、
『ヤア|田加彦《たかひこ》、モウ|返金《へんきん》は|仕《し》て|要《い》らない。|利息《りそく》も|免除《めんぢよ》して|遣《や》る』
と|逃《に》げ|廻《まは》る。|田加彦《たかひこ》は、
『ナニ、|貴様《きさま》に|借金《しやくきん》して|返《かへ》さずに|男《をとこ》が|立《た》つかい。ドツサリ|利子《りし》を|附《つ》けて、|返《かへ》してやらう』
と|追《お》ひかける。|百舌公《もずこう》は|石像《せきざう》の|周囲《ぐるり》を|逃《にげ》まはる、|田加彦《たかひこ》は|追《お》ひかけまはる。|殆《ほとん》ど|石像《せきざう》を|中心《ちうしん》に|巡《めぐ》る|事《こと》|数十回《すうじつくわい》、|遂《つひ》には|両人《りやうにん》とも|目《め》をまわし、|山《やま》も|野《の》も|一時《いつとき》にモーターの|如《ごと》くに|廻転《くわいてん》し|始《はじ》めた。|二人《ふたり》は|大地《だいち》にしがみ|付《つ》き、
『ア、|地震《ぢしん》だ|地震《ぢしん》だ、|天変《てんぺん》だ』
とわめいて|居《を》る。|此《この》|場《ば》に|現《あら》はれた|四五人《しごにん》の|荒男《あらをとこ》、|手早《てばや》く|二人《ふたり》を|後手《うしろで》に|縛《しば》り|上《あ》げ、|肩《かた》に|綱《つな》をひつかけ、ドンドンドンドンと、|草《くさ》|生《は》え|茂《しげ》る|畔路《あぜみち》を|林《はやし》の|中《なか》に|駆《か》けて|行《ゆ》く。|二人《ふたり》は|引《ひ》きずられ|乍《なが》ら、
『ア、|天変《てんぺん》だ、|地妖《ちえう》だ。|天《てん》が|地《ち》となり、|地《ち》が|天《てん》となる』
と|言《い》ひ|乍《なが》ら、|縛《しば》られたる|事《こと》に|気付《きづ》かず、わめきつつ、|数百丈《すうひやくぢやう》の|滝《たき》の|下《した》に|引《ひ》きずられて|行《い》つた。|四五人《しごにん》の|荒《あら》くれ|男《をとこ》は、|忽《たちま》ち|滝水《たきみづ》を|汲《く》み|来《きた》つて、|二人《ふたり》を|仰向《あふむ》けに|寝《ね》させ、|目《め》|鼻《はな》|口《くち》の|区別《くべつ》なく|滝《たき》の|如《ごと》くに|注《そそ》ぎかけた。|二人《ふたり》は|苦《くる》しさに|眩暈《めまひ》も|止《と》まり、
『ヤア|助《たす》けて|助《たす》けて』
と|泣《な》き|出《だ》すを|大《だい》の|男《をとこ》は|声《こゑ》を|荒《あら》らげ、|両人《りやうにん》に|向《むか》ひ、
『|其《その》|方《はう》はエデンの|河《かは》の|関守《せきもり》を|致《いた》せし|百舌彦《もずひこ》、|田加彦《たかひこ》の|両人《りやうにん》であらう。|此《この》|方《はう》は|鬼雲彦《おにくもひこ》の|家来《けらい》、|鳶彦《とびひこ》であるぞ、|吾《わが》|面《つら》をトツクリ|見《み》よ』
と、ズズ|黒《ぐろ》い|顔《かほ》をヌツと|突出《つきだ》し、|目《め》を|剥《む》いて|見《み》せる。
|百舌彦《もずひこ》『ヤア|貴様《きさま》は|鳶彦《とびひこ》だな、|何時《いつ》の|間《ま》にコンナ|所《とこ》へ|来《き》よつたのだ。|俺《おれ》の|縛《いましめ》を|解《と》いて|呉《く》れぬかい、|石地蔵《いしぢざう》の|奴《やつ》、|失敬《しつけい》|千万《せんばん》な、|吾々《われわれ》|両人《りやうにん》を|後手《うしろで》に|縛《しば》りよつて、コンナ|所《とこ》へ|吹飛《ふきと》ばしよつたのだ。|友達《ともだち》の|好誼《よしみ》だ、グヅグヅ|致《いた》さずに|早《はや》く|吾々《われわれ》の|縄《なは》を|解《と》かぬかい』
|鳶彦《とびひこ》『ナニ|愚図々々《ぐづぐづ》|言《い》うのだ、|貴様《きさま》は|三五教《あななひけう》に|寝返《ねがへ》りを|打《う》ち、|遂《つひ》には|神罰《しんばつ》の|為《ため》、エデン|河《がは》の|藻屑《もくづ》となつた|其《その》|方《はう》ではないか。|憎《にく》まれ|子《ご》|世《よ》に|覇張《はば》るとかや、|又《また》もノソノソ|娑婆《しやば》に|甦《よみがへ》つて|来《き》よつて、|再《ふたた》び|三五教《あななひけう》を|開《ひら》かうと|致《いた》すのか、……|待《ま》て|待《ま》て|此《この》|方《はう》にも|一《ひと》つの|考《かんが》へがある。……サア|是《これ》からバラモン|教《けう》の|最《もつと》も|厳《きび》しき|修行《しうぎやう》を|為《さ》して|遣《や》らう。|霊主体従《れいしゆたいじゆう》の|極致《きよくち》を|尽《つく》し、|貴様《きさま》の|肉体《にくたい》を、|散《ち》り|散《ぢ》りバラバラに|致《いた》して、|霊《みたま》|丈《だけ》は|天国《てんごく》に|救《すく》うてやらう、|有難《ありがた》く|思《おも》へ』
と|縛《いまし》めを|解《と》き、|滝壷《たきつぼ》へ|押込《おしこ》まうとした。|百舌彦《もずひこ》は|作《つく》り|声《ごゑ》をし|乍《なが》ら、
『アー|恨《うら》めしやな、|吾《わ》れこそはバラモン|教《けう》の|信者《しんじや》となり、エデンの|河《かは》の|関守《せきもり》を|勤《つと》めて|居《ゐ》たが、|思《おも》ひの|外《ほか》に|神力《しんりき》の|強《つよ》い|肝《きも》の|太玉命《ふとたまのみこと》が|三人《さんにん》の|勇士《ゆうし》を|伴《つ》れて、ニユーと|其《その》|場《ば》に|現《あら》はれた。|俺《おれ》は|計略《けいりやく》を|以《もつ》て|四人《よにん》の|宣伝使《せんでんし》を|河《かは》の|中《なか》に|葬《ほうむ》つてやらうと|思《おも》うたが、ハーテ|恨《うら》めしやなア、ウ|恨《うら》めしやなア、|事《こと》|志《こころざし》と|違《ちが》ひ|〓《いすか》の|嘴《はし》の、|船《ふね》は|忽《たちま》ち|木葉微塵《こつぱみぢん》、|俺《おれ》はエデンの|河《かは》の|藻屑《もくづ》となつて|此《この》|世《よ》へ|迷《まよ》うて|来《き》たワイ、ヤイ|鳶彦《とびひこ》の|奴《やつ》、|貴様《きさま》も|霊主体従《れいしゆたいじゆう》の|教《をしへ》を|奉《ほう》ずる|代物《しろもの》、|汝《なんぢ》が|生首《なまくび》をひつこ|抜《ぬ》き、|冥途《めいど》へ|伴《つ》れて|酔《よ》つてやらうか、ホーホーホーホーホー、|恨《うら》めしやなア』
|田加彦《たかひこ》は、|手《て》を|前《まへ》にニユツと|下《さ》げ、|舌《した》をペロリと|出《だ》し、|右《みぎ》の|手《て》を|前《まへ》に|突出《つきだ》し、
『ヒユードロドロドロドロ、|恨《うら》めしやなア………』
|鳶彦《とびひこ》『ヤイヤイ|貴様達《きさまたち》|何《なん》だ、|生《い》きて|居《を》る|間《うち》から|結構《けつこう》なバラモン|教《けう》を|棄《す》てて、|三五教《あななひけう》に|迷《まよ》う|娑婆《しやば》の|幽霊《いうれい》だと|思《おも》つて|居《ゐ》たが、ヤツパリ|死《し》んでも|又《また》|迷《まよ》うのか、|此処《ここ》はバラモン|教《けう》の|修行場《しうぎやうば》だ、|亡者《まうじや》の|来《く》る|所《ところ》でない。|一時《いつとき》も|早《はや》く|姿《すがた》を|隠《かく》せ、|消《き》えて|了《しま》へ、アタ|厭《いや》らしい、シーツシーツシーツ』
|百舌彦《もずひこ》『|恨《うら》めしやなア、|鳶彦《とびひこ》の|生首《なまくび》が|欲《ほ》しいワイ』
|田加彦《たかひこ》『|冥途《めいど》の|土産《みやげ》に|鳶彦《とびひこ》の|御首《みしるし》|頂戴《ちやうだい》|仕《つかまつ》らむ。ホーイホーイホー』
と|蟷螂《かまきり》の|様《やう》な|手附《てつき》をして、|稍《やや》|後方《うしろ》に|体《たい》を|反《そ》り|乍《なが》ら|空中《くうちう》を|掻《か》く。
|鳶彦《とびひこ》『ヤア|此奴《こいつ》は|半死半生《はんしはんしやう》の|化物《ばけもの》だ、|幽霊《いうれい》にしては|立派《りつぱ》な|足《あし》がある。|此奴《こいつ》ア|偽《にせ》|幽霊《いうれい》かも|知《し》れないぞ、オイ|家来《けらい》|共《ども》、|此奴《こいつ》を|縛《しば》れ』
|百《も》、|田《た》『ヤア|待《ま》つた|待《ま》つた、|幽霊《いうれい》を|縛《しば》る|奴《やつ》が|何処《どこ》にあるか。チツト|量見《りやうけん》が|違《ちが》ひはせぬかのう、ホーホーホーホーイ』
|鳶彦《とびひこ》『エー|量見違《りやうけんちがひ》も|糞《くそ》もあつたものかい、モウ|斯《こ》うなつては、どこ|迄《まで》も|了見《れうけん》ならぬのだ』
と|言《い》ひ|乍《なが》ら、|二人《ふたり》の|帯《おび》に|大《おほ》き|綱《つな》をシツカと|結《むす》び|付《つ》けた。
|鳶彦《とびひこ》『サアもう|大丈夫《だいぢやうぶ》だ、ハンドルを|廻《まは》せ』
|四五人《しごにん》の|家来《けらい》は『ハツ』と|答《こた》へて、|修行用《しうぎやうよう》のハンドルをクルクルと|繰《く》り|始《はじ》めた。|井戸《ゐど》の|釣瓶《つるべ》の|如《や》うに、|一人《ひとり》は|頭上《づじやう》に|高《たか》く|舞上《まひあが》る。|一人《ひとり》は|滝壷《たきつぼ》にドブンと|落《お》ち|込《こ》む。|今度《こんど》は|反対《あべこべ》に、|上《うへ》の|奴《やつ》が|下《した》の|滝壷《たきつぼ》に|落《お》ち、|交《かは》る|交《がは》る|数十回《すうじつくわい》、|上《あ》げては|下《お》ろし|上《あ》げては|下《お》ろし、|井戸《ゐど》の|釣瓶《つるべ》の|如《ごと》く、|上《のぼ》り|下《くだ》りの|道中《だうちう》|最《もつと》も|雑踏《ざつたふ》を|極《きは》め、お|蔭《かげ》|参《まゐ》りの|伊勢《いせ》|道中《だうちう》の|光景《くわうけい》|其《その》|儘《まま》である。|二人《ふたり》は|息《いき》も|殆《ほとん》ど|絶《た》え、|真青《まつさを》になつて|九死一生《きうしいつしやう》の|憂目《うきめ》に|会《あ》うて|居《ゐ》る。|此《この》|時《とき》|涼《すず》しき|宣伝歌《せんでんか》が|聞《きこ》えて|来《き》た。|鳶彦《とびひこ》は|四五人《しごにん》の|家来《けらい》と|共《とも》に|一目散《いちもくさん》に、|山奥《やまおく》|指《さ》して|姿《すがた》を|隠《かく》したり。|安彦《やすひこ》、|国彦《くにひこ》、|道彦《みちひこ》は|何気《なにげ》なく|滝《たき》の|音《おと》を|知辺《しるべ》に|此《この》|場《ば》に|現《あらは》れ|来《きた》り、|百舌彦《もずひこ》が|滝壷《たきつぼ》の|中空《ちうくう》にひつかかり|居《を》るを|見《み》て|打驚《うちおどろ》き、
『ヤア|此奴《こいつ》は|大変《たいへん》だ、|一時《いちじ》も|早《はや》く|助《たす》けてやらねばなるまい』
と|矢庭《やには》に|両刃《もろは》の|剣《つるぎ》を|抜《ぬ》いて|綱《つな》をブチ|切《き》つた。|忽《たちま》ち|百舌彦《もずひこ》は|滝壷《たきつぼ》にドブンと|落《お》ち|込《こ》んだ。|安彦《やすひこ》は|赤裸《まつぱだか》となり、|滝壷《たきつぼ》に|飛込《とびこ》んで、|百舌彦《もずひこ》の|足《あし》を|握《にぎ》り、ひつ|張《ぱ》り|上《あ》げた。|又《また》も|一人《ひとり》の|田加彦《たかひこ》の|頭髪《とうはつ》は|水面《すゐめん》に|現《あら》はれて|居《ゐ》る。|再《ふたた》び|滝壷《たきつぼ》に|飛込《とびこ》みさま、|頭髪《とうはつ》を|握《にぎ》つて|救《すく》ひあげた。|二人共《ふたりとも》|多量《たくさん》の|水《みづ》を|呑《の》み、|息《いき》も|絶《た》え|絶《だ》えになつて|居《ゐ》る。
|安彦《やすひこ》『アヽ|能《よ》う|水《みづ》に|縁《えん》のある|男《をとこ》だナア、|何《なん》とかして|水《みづ》を|吐《は》かしてやらうかい。まだビコビコと|動《うご》いて|居《を》るから、|今《いま》の|間《うち》なら|助《たす》かるだらう』
|国彦《くにひこ》『|大変《たいへん》に|沢山《たくさん》に|水《みづ》の|御馳走《ごちそう》を|頂《いただ》きよつたと|見《み》えて、|腹《はら》は|太鼓《たいこ》の|様《やう》だ。|一《ひと》つ|此《この》|双刃《もろは》の|剣《けん》で、|腹袋《はらぶくろ》を|破《やぶ》つて|水《みづ》を|出《だ》してやらうか』
|道彦《みちひこ》『|馬鹿《ばか》を|言《い》うな、ソンナ|事《こと》したら、それこそ|縡切《ことき》れて|了《しま》うよ』
|国彦《くにひこ》『|縡切《ことき》れるか、|縡切《ことき》れぬか、ソンナ|事《こと》は|吾々《われわれ》の|関《くわん》する|所《ところ》にあらずだ。|生《い》きるも|死《し》ぬるも|神《かみ》の|御心《みこころ》だ。|神《かみ》が|生《い》かさうと|思《おも》へば|生《い》かして|下《くだ》さる。|吾々《われわれ》はどうなつとして|水《みづ》さへ|出《だ》せば|良《い》いのじやないか、アハヽヽヽ』
|安彦《やすひこ》『|洒落《しやれ》|所《どころ》かい、|九死一生《きうしいつしやう》の|場合《ばあひ》だ。|此《この》|両人《りやうにん》を|見殺《みごろし》にする|訳《わけ》にも|行《ゆ》くまい。|吾々《われわれ》|宣伝使《せんでんし》は|敵《てき》でも|助《たす》けねばならぬ|職掌柄《しよくしやうがら》だ。どうしたら|宜《よ》からうかな』
|道彦《みちひこ》『どうも|斯《こ》うも|仕方《しかた》があるものか、|吾々《われわれ》は|天津祝詞《あまつのりと》の|言霊《ことたま》を|奏上《そうじやう》して、|神助《しんじよ》を|仰《あふ》ぐより|外《ほか》に|道《みち》はない』
|安《やす》、|国《くに》『ア、さうだつたナア。|余《あま》りの|事《こと》に|周章狼狼《しうしやうらうばい》、|肝腎《かんじん》の|言霊《ことたま》の|奏上《そうじやう》を|忘《わす》れて|居《ゐ》たワイ』
と|言《い》ひ|乍《なが》ら、|滝水《たきみづ》に|口《くち》を|漱《すす》ぎ、|手《て》を|洗《あら》ひ、|拍手《はくしゆ》|再拝《さいはい》、|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》し、|天《あま》の|数歌《かずうた》を|声《こゑ》もスガスガしく|歌《うた》ひ|了《をは》つた。|二人《ふたり》は|忽《たちま》ち|水《みづ》を|吐《は》き|出《だ》し、ムクムクと|起《お》きあがり、|附近《あたり》キヨロキヨロ|見廻《みまは》し|乍《なが》ら、|三人《さんにん》の|此《この》|場《ば》に|在《あ》るに|驚《おどろ》き、
『ヤア|宣伝使《せんでんし》|様《さま》、|能《よ》う|来《き》て|下《くだ》されました。バラモン|教《けう》の|鳶彦《とびひこ》の|奴《やつ》にスツテの|事《こと》で|代用《かけがひ》の|無《な》い|生命《いのち》を|奪《と》られる|所《ところ》でした。アヽ|有難《ありがた》い|有難《ありがた》い、|生命《いのち》の|親《おや》の|安彦《やすひこ》サン、|国彦《くにひこ》、|道彦《みちひこ》の|生神様《いきがみさま》……』
と|両人《りやうにん》は|大地《だいち》に|鰭伏《ひれふ》して、|涙《なみだ》を|滝《たき》の|如《ごと》くに|流《なが》し|感謝《かんしや》する。|此《この》|時《とき》|何処《いづく》ともなく|美妙《びめう》の|音楽《おんがく》|響《ひび》き|渡《わた》り、|妙音《めうおん》|菩薩《ぼさつ》の|冥護《みやうご》|有《あ》り|有《あ》りと|伺《うかが》はれける。|五人《ごにん》は|又《また》もや|手《て》を|拍《う》ち、|妙音《めうおん》|菩薩《ぼさつ》の|恩恵《おんけい》を|感謝《かんしや》した。
|是《これ》より|五人《ごにん》は|又《また》もや|道《みち》を|転《てん》じて|広野《くわうや》を|渉《わた》り、|東南《とうなん》|指《さ》して|足《あし》を|速《はや》めた。|行《ゆ》く|事《こと》|数百丁《すうひやくちやう》にして、|十数軒《じふすうけん》の|小《ちい》さき|家《いへ》の|建《た》ち|並《なら》ぶ|村落《そんらく》に|出《で》た。この|村落《そんらく》の|中《うち》に|巍然《ぎぜん》として|聳《そび》えたる|大厦高楼《たいかかうろう》がある。|五人《ごにん》の|宣伝使《せんでんし》は|此《この》|館《やかた》を|目標《めあて》に|足《あし》を|速《はや》め|門前《もんぜん》に|佇《たたず》めば、|琴《こと》の|音《ね》|幽《かす》かに|聞《きこ》え、|何処《どこ》となく|覚《おぼ》えのある|女《をんな》の|笑《わら》ひ|声《ごゑ》、|門外《もんぐわい》に|千切《ちぎ》れ|千切《ちぎ》れに|漏《も》れ|来《き》たる。|安彦《やすひこ》、|道彦《みちひこ》は|首《くび》を|傾《かたむ》け、
『ハテナア』
(大正一一・四・一 旧三・五 松村真澄録)
第八章 ウラナイ|教《けう》〔五七五〕
|安彦《やすひこ》、|国彦《くにひこ》、|道彦《みちひこ》の|宣伝使《せんでんし》を|始《はじ》め、|田加彦《たかひこ》、|百舌彦《もずひこ》の|五人《ごにん》は、|此《この》|広《ひろ》き|館《やかた》の|門前《もんぜん》に|佇《たたず》み|内部《ないぶ》の|様子《やうす》を|耳《みみ》を|澄《す》ませて|聞《き》き|居《ゐ》たり。
フト|表門《おもてもん》を|眺《なが》むれば、|風雨《ふうう》に|曝《さら》された|標札《へうさつ》に|幽《かすか》に『ウラナイ|教《けう》の|本部《おほもと》』と|神代文字《じんだいもじ》にて|記《しる》されてある。|安彦《やすひこ》は|覚束《おぼつか》なげに|半《なかば》|剥《は》げたる|文字《もじ》を|読《よ》み、
『ヤア|此奴《こいつ》は、ウラル|教《けう》と|三五教《あななひけう》を|合併《がつぺい》した|変則的《へんそくてき》|神教《しんけう》の|本山《ほんざん》と|見《み》える|哩《わい》、それにしても|最前《さいぜん》の|女《をんな》の|声《こゑ》、|何《なん》となく|聞《き》き|覚《おぼ》えのある|感《かん》じがする。ハテなア、オー|百舌彦《もずひこ》、|田加彦《たかひこ》、|汝《なんぢ》はそつと|此《この》|塀《へい》を|乗《の》り|越《こ》え、|中《なか》の|様子《やうす》を|探《さぐ》り|吾等《われら》の|前《まへ》に|報告《はうこく》して|呉《く》れ』
|百舌彦《もずひこ》、|田加彦《たかひこ》は|嬉《うれ》し|気《げ》に|打《う》ち|諾《うなづ》き、|木伝《こづた》ふ|猿《さる》か、|小蟹《ささがに》の|蜘蛛《くも》の|振舞《ふるまひ》|逸早《いちはや》く、ヒラリと|塀《へい》を|飛越《とびこ》えて、|庭先《にはさき》の|木《き》の|茂《しげ》みに|姿《すがた》を|隠《かく》し、|様子《やうす》を|窺《うかが》ひつつありき。
ウラナイ|教《けう》の|教主《けうしゆ》と|見《み》えて、ぼつてり|肥《こえ》た|婆《ばば》|一人《ひとり》、|雑水桶《ざふづをけ》に|氷《こほり》のはつたやうな|眼《め》をキヨロつかせながら|中央《ちうあう》に|控《ひか》へて|居《ゐ》る。|七八人《しちはちにん》の|宣伝使《せんでんし》らしき|男女《だんぢよ》は、|孰《いづ》れも|白内障《はくないしやう》か、|黒内障《こくないしやう》を|病《や》んだ|盲人《まうじん》の|如《ごと》く、|表面《へうめん》|眼《まなこ》はキロキロと|光《ひか》りながら、|何《なに》も|見《み》えぬと|見《み》えて|手探《てさぐ》りして|巨大《きよだい》なる|丼鉢《どんぶりばち》に|麦飯《むぎめし》|薯蕷汁《とろろじる》を|多量《どつさり》に|盛《も》り、ツルリツルリと|吸《す》うて|居《ゐ》る。|二人《ふたり》の|薬鑵頭《やくわんあたま》の|禿爺《はげおやぢ》は、|頻《しき》りに|摺鉢《すりばち》に|山《やま》の|薯《いも》を|摺《す》つて|居《ゐ》る。これも|何《ど》うやら|盲人《めくら》らしく|手探《てさぐ》りしつつ|働《はたら》いて|居《を》る。|二人《ふたり》は|此《この》|光景《くわうけい》を|見《み》やり、
『オイ|百舌公《もずこう》、|此処《ここ》の|奴《やつ》は|何奴《どいつ》も|此奴《こいつ》も|皆《みな》|盲人《めくら》ばかりだと|見《み》える。|大《おほ》きな|丼鉢《どんぶりばち》に|麦飯《むぎめし》|薯蕷汁《とろろじる》をズルズルと|啜《すす》つて|居《を》るぢやないか、|俺達《おれたち》も|之《これ》を|見《み》ると|俄《にはか》に|胃《ゐ》の|腑《ふ》の|格納庫《かくなふこ》が|空虚《くうきよ》を|訴《うつた》へ|出《だ》したよ。どうだ、|盲《めくら》を|幸《さひは》ひにそつと|一杯《いつぱい》|頂戴《ちやうだい》して|来《き》ようぢやないか』
|百舌彦《もずひこ》は、
『ソイツは|面白《おもしろ》からう』
と|言《い》ひながら、のそりのそりと|足音《あしおと》を|忍《しの》ばせ|一同《いちどう》の|前《まへ》に|現《あら》はれ、|素知《そし》らぬ|顔《かほ》して|控《ひか》へて|居《を》る。|禿爺《はげおやぢ》は|丼鉢《どんぶりばち》に|麦飯《むぎめし》|薯蕷汁《とろろじる》を|盛《も》り、
『サアサアお|代《かは》りが|出来《でき》ました、|高姫《たかひめ》サン』
とニウツと|突《つ》き|出《だ》す。|高姫《たかひめ》と|云《い》ふ|中年増《ちうどしま》のお|多福《たふく》|婆《ばば》は|機械《きかい》|人形《にんぎやう》のやうに|両手《りやうて》を|前《まへ》にさし|出《だ》した。|折《をり》も|折《をり》|百舌彦《もずひこ》の|面前《めんぜん》に|突《つ》き|出《だ》した|丼鉢《どんぶりばち》を|百舌彦《もずひこ》は|作《つく》り|声《ごゑ》をしながら、
『ハイ、これは|御馳走様《ごちそうさん》、もう|一杯《いつぱい》|下《くだ》さいな』
|爺《おやぢ》は|丼鉢《どんぶりばち》を|百舌彦《もずひこ》に|渡《わた》し、
『よう|上《あが》る|高姫《たかひめ》サンぢや』
と|小声《こごゑ》に|呟《つぶや》きながら|又《また》|探《さぐ》り|探《さぐ》り|台所《だいどころ》の|方《はう》に|帰《かへ》り|往《ゆ》き、|一生懸命《いつしやうけんめい》に|薯《いも》を|摺《す》つて|居《ゐ》る。
|高姫《たかひめ》『コレ|松助《まつすけ》、|何処《どこ》に|置《お》いたのだえ、|早《はや》く|此方《こちら》へ|渡《わた》して|呉《く》れないか』
|松助《まつすけ》は|耳《みみ》|遠《とほ》く|盲《めくら》と|来《き》て|居《ゐ》るから、|何《なん》の|容赦《ようしや》もなく|一生懸命《いつしやうけんめい》に|鼻《はな》を|啜《すす》りつつ|薯《いも》を|摺《す》つて|居《ゐ》る。|彼方《あちら》にも|此方《こちら》にも【ミヅバナ】を|啜《すす》るやうな|声《こゑ》が、ずうずうと|聞《きこ》えて|居《ゐ》る。
|百舌彦《もずひこ》、|田加彦《たかひこ》は、|丼鉢《どんぶりばち》の|両方《りやうはう》より|噛《か》みつくやうに|腹《はら》が|滅《へ》つたまま、ツルツルと|非常《ひじやう》な|吸引力《きふいんりよく》で、|蟇蛙《ひきがへる》が|鼬《いたち》を|引《ひ》くやうに|大口《おほぐち》|開《あ》けて|呑《の》み|込《こ》んだ。|此《この》|時《とき》|松助《まつすけ》は|又《また》|探《さぐ》り|探《さぐ》り|麦飯《むぎめし》に|薯蕷汁《とろろじる》を|掛《かけ》た|大丼鉢《おほどんぶりばち》を、|足許《あしもと》|覚束《おぼつか》なげに、|川水《かはみづ》の|中《なか》を|歩《ある》くやうな|体裁《ていさい》で、
『サアサア|高姫《たかひめ》サン、お|代《かは》りが|出来《でき》ました』
|田加彦《たかひこ》は|又《また》もや|作《つく》り|声《ごゑ》をして、
『アア|松助《まつすけ》、|御苦労《ごくらう》であつた。もう|一杯《いつぱい》お|代《かは》りを|頼《たの》むよ』
『ハイハイ、もう|薯《いも》の【へた】ばかりじやが、それでも|宜《よろ》しければお|上《あが》りなさいませ』
と|面《つら》|膨《ふく》らし、|部屋《へや》に|引返《ひきかへ》す。|高姫《たかひめ》は、
『コラコラ|松助《まつすけ》、|未《ま》だ|持《も》つて|来《こ》ぬか、|何処《どこ》へ|置《お》いたのだい』
|田加彦《たかひこ》、|百舌彦《もずひこ》は|矢庭《やには》に|一杯《いつぱい》を|平《たひら》げた。|傍《そば》に|十数人《じふすうにん》の|盲人《めくら》は、|丼鉢《どんぶりばち》を|前《まへ》に|据《す》ゑ、|一口《ひとくち》|食《く》つては|下《した》に|置《お》き|楽《たの》しんで|居《を》る。
|百舌彦《もずひこ》は|甲《かふ》の|丼鉢《どんぶりばち》をソツと|乙《おつ》の|前《まへ》に|置《お》き、|乙《おつ》の|丼鉢《どんぶりばち》を|丙《へい》の|前《まへ》に|置《お》き、|丙《へい》の|丼鉢《どんぶりばち》を|高姫《たかひめ》の|前《まへ》にソツと|据《す》ゑた。
|甲《かふ》『まだ|半分《はんぶん》|余《あま》りはあつた|積《つも》りだに|何時《いつ》の|間《ま》に|此様《こんな》に|滅《へ》つて|仕舞《しま》つたらう、オイ|貴様《きさま》|俺《おれ》のを|一緒《いつしよ》に|平《たひら》げて|仕舞《しま》つたな』
|乙《おつ》『|馬鹿《ばか》を|云《い》ふな、|俺《おれ》の|丼鉢《どんぶりばち》を|何処《どこ》かへやりよつたのだ。|自分《じぶん》は|一人前《いちにんまへ》|平《たひら》げて|置《お》いて|未《ま》だ|他人《ひと》のまで|取《と》つて|食《く》うとは、|余《あんま》りぢやないか』
と|互《たがひ》に|盲人《めくら》|同志《どうし》の|喧嘩《けんくわ》が|始《はじ》まつた。|十数人《じふすうにん》の|盲人《めくら》は、|取《と》られては|一大事《いちだいじ》と|丼鉢《どんぶりばち》を|堅《かた》く|握《にぎ》り、|下《した》にも|置《お》かず、ツルツルズルズルと|吸《す》うて|居《ゐ》る。|田加彦《たかひこ》は、|火鉢《ひばち》の|灰《はい》を|掴《つか》んで、|盲人《めくら》の|丼鉢《どんぶりばち》に|一摘《ひとつま》みづつソツと|配《くば》つて|廻《まは》つた。
『ヤア|何《な》んだ、この|丼鉢《どんぶりばち》の………|俄《にはか》に|薯蕷汁《とろろじる》の|味《あぢ》が|変《かは》つたやうだ。|他人《ひと》が|盲人《めくら》だと|思《おも》つて|馬鹿《ばか》にしよるナ、|誰《たれ》か|灰《はい》を|入《い》れよつたわい』
|百舌彦《もずひこ》『【ハイハイ】、|左様々々《さやうさやう》』
|高姫《たかひめ》『ヤヽ、|誰《たれ》か|声《こゑ》の|違《ちが》ふ|奴《やつ》が|来《き》て|居《ゐ》るらしい、オイ|皆《みな》の|者《もの》|気《き》をつけよ、|何《なん》だか|最前《さいぜん》から|怪《あや》しいと|思《おも》つて|居《ゐ》た。|俺《わし》は|最前《さいぜん》から|盲人《めくら》の|真似《まね》をして|居《を》れば、|何処《どこ》の|奴《やつ》か|知《し》らぬが、|二人《ふたり》のヒヨツトコ|野郎《やらう》|奴《め》、|要《い》らぬ|悪戯《いたづら》をしよつた。サアもう|了見《れうけん》ならぬ、|家《うち》の|爺《おやぢ》が|酷《きつ》い|肺病《はいびやう》で、|此処《ここ》に|薯蕷汁《とろろじる》によう|似《に》た|痰《たん》が|一杯《いつぱい》|蓄《たくは》へてある。|之《これ》を|食《くら》つてサツサと|出《で》て|失《う》せ』
|百舌《もず》と|田加《たか》は|頭《あたま》を|掻《か》きながら、
『ヤア、そいつは|御免《ごめん》だ』
|高姫《たかひめ》『|御免《ごめん》も|糞《くそ》もあつたものか、ヤアヤア|長助《ちやうすけ》、|伴助《はんすけ》、|二人《ふたり》の|者《もの》を|縛《しば》つて|了《しま》へ』
『|畏《かしこ》まつた』
と|次《つぎ》の|間《ま》より、|現《あら》はれ|出《い》でたる|大《だい》の|男《をとこ》、|出刃庖丁《でばぼうちやう》を|振《ふ》り|翳《かざ》し、|二人《ふたり》に|向《むか》つて|迫《せま》り|来《く》る。|高姫《たかひめ》も|眉《まゆ》を|逆立《さかだ》て、|出刃庖丁《でばぼうちやう》を|逆手《さかて》に|持《も》ち、|三方《さんぱう》より|二人《ふたり》に|向《むか》つて|斬《き》つてかかる。|百舌彦《もずひこ》、|田加彦《たかひこ》は|丼鉢《どんぶりばち》を|頭《あたま》に|被《かぶ》りトントントンと|表《おもて》を|指《さ》して|逃出《にげだ》す。|百舌彦《もずひこ》の|被《かぶ》つた|丼鉢《どんぶりばち》には|爺《おやぢ》の|吐《は》いた|痰《たん》が|一杯《いつぱい》|盛《も》つてあつた。|頭《あたま》から|痰《たん》を|一《いつ》ぱい|浴《あ》びたまま、スタスタと|表《おもて》を|指《さ》して|駆《か》け|出《だ》す。|二人《ふたり》の|荒男《あらをとこ》は|大股《おほまた》に|踏《ふ》ん|張《ば》りながら|二人《ふたり》の|後《あと》を|追《お》ひかけ|来《きた》り、|澪《こぼ》れた|痰《たん》に【つるり】と|辷《すべ》つて、スツテンドウと|仰向《あふむ》けに|倒《たふ》れた。
|高姫《たかひめ》は|出刃《でば》を|振《ふ》り|翳《かざ》しながら|表《おもて》に|駆《か》け|出《い》で、|二人《ふたり》の|荒男《あらをとこ》に|躓《つまづ》き、バタリと|転《こ》けた|機《はづみ》に|長助《ちやうすけ》の|腹《はら》の|上《うへ》に|出刃《でば》を|突《つ》き|立《た》て、|長助《ちやうすけ》はウンと|一声《いつせい》|七転八倒《しちてんばつたふ》、のた|打《う》ち|廻《まは》る。|忽《たちま》ち|館《やかた》の|中《うち》は|大騒動《おほさうどう》が【おつ】|始《ぱじ》まりける。
|田加彦《たかひこ》、|百舌彦《もずひこ》は|一生懸命《いつしやうけんめい》に|駆《か》け|出《だ》し、|道端《みちばた》の|溜《たま》り|池《いけ》にザンブと|飛込《とびこ》み、|痰《たん》を|洗《あら》ひ|落《おと》さうとした。|此《この》|水溜《みづため》は|数多《あまた》の|魚《うを》が|囲《かこ》うてある。|鼬《いたち》や|川獺《かはをそ》の|襲来《しふらい》を|防《ふせ》ぐために|柚《ゆ》の|木《き》の|針《はり》だらけの|枝《えだ》が|一面《いちめん》に|投《な》げ|込《こ》んであつた。|二人《ふたり》はそれとも|知《し》らず|真裸《まつぱだか》となつて|飛込《とびこ》み|柚《ゆ》の|木《き》の|針《はり》に|刺《さ》されて|身体《からだ》|一面《いちめん》に|穴《あな》だらけとなり|辛《から》うじて|這《は》ひ|上《あが》りメソメソ|泣《な》き|出《だ》してゐる。
|婆《ばば》は|眉《まゆ》を|逆立《さかだ》て|二本《にほん》の|角《つの》を|一寸《いつすん》|許《ばか》り|髪《かみ》の|間《あひだ》より|現《あら》はしながら|此《この》|場《ば》に|現《あら》はれた。|二人《ふたり》が|姿《すがた》を|見《み》て|心地《ここち》よげに|打《う》ち|笑《わら》ひ、|蹌跟《よろめ》く|機《はづみ》に|又《また》もや|池《いけ》の|中《なか》にザンブと|斗《ばか》り|落《お》ち|込《こ》み、
『アイタタアイタタ』
と|婆々《ばば》が|悶《もだ》え|苦《くる》しむ|可笑《おか》しさ、|二人《ふたり》は|真裸《まつぱだか》のまま、
『|態《ざま》ア|見《み》やがれ』
と|云《い》ひつつ|足《あし》を【ちが】ちがさせ|田圃道《たんぼみち》を|走《はし》つて|往《ゆ》く。|安彦《やすひこ》、|国彦《くにひこ》、|道彦《みちひこ》の|三人《さんにん》は|素知《そし》らぬ|顔《かほ》して|宣伝歌《せんでんか》を|歌《うた》ひつつこの|池《いけ》の|傍《かたはら》を|通《とほ》り|過《す》ぎむとするや、|池《いけ》の|中《なか》より|高姫《たかひめ》は|掌《て》を|合《あは》し、|頻《しき》りに|助《たす》けを|呼《よ》んで|居《ゐ》る。|三人《さんにん》の|宣伝使《せんでんし》は|気《き》の|毒《どく》さに|耐《た》へ|兼《か》ね、|漸《やうや》くにして|高姫《たかひめ》を|救《すく》ひあげた。|高姫《たかひめ》は|大《おほい》に|喜《よろこ》び|三人《さんにん》に|向《むか》つて|救命《きうめい》の|大恩《たいおん》を|感謝《かんしや》したりける。
|此《この》|時《とき》|逃《に》げ|去《さ》つた|百舌《もず》、|田加《たか》|二人《ふたり》の|男《をとこ》は|真裸《まつぱだか》の|儘《まま》|慄《ふる》ひ|慄《ふる》ひ|此《この》|場《ば》に|現《あら》はれ|来《きた》り、
『モシモシ|宣伝使《せんでんし》|様《さま》、|寒《さむ》くつて|耐《たま》りませぬワ、|何《ど》うぞウラナイ|教《けう》の|婆《ば》アサンに|適当《てきたう》な|着物《きもの》を|貰《もら》つて|下《くだ》さいな。ナア|婆《ば》アサン、お|前《まへ》も|宣伝使《せんでんし》のお|蔭《かげ》で|命拾《いのちびろ》ひをしたのだから|着物《きもの》|位《ぐらゐ》|進上《しんじやう》なさつても|安《やす》いものだらう』
|安彦《やすひこ》『ヤア|吾々《われわれ》は|着物《きもの》の|如《ごと》きものは|必要《ひつえう》が|御座《ござ》らぬ。|平《ひら》にお|断《ことわ》り|申《まを》します』
|国《くに》、|道《みち》『|吾々《われわれ》も|同様《どうやう》、|衣服《いふく》なんか|必要《ひつえう》が|御座《ござ》らぬ』
|百舌彦《もずひこ》『エヽ|気《き》の|利《き》かぬ|宣伝使《せんでんし》だな、|此処《ここ》に|二人《ふたり》も|着物《きもの》の|要《い》る|御方《おかた》が|御座《ござ》るのが|目《め》につきませぬかい』
|道彦《みちひこ》『|吾々《われわれ》はウラナイ|教《けう》の|信者《しんじや》になつたと|見《み》え、|薩張《さつぱり》|明盲人《あきめくら》になつて|仕舞《しま》つたよ。アハヽヽヽヽ』
|高姫《たかひめ》『お|前等《まへら》は、ノソノソと|吾《わ》が|座敷《ざしき》に|這《は》ひ|込《こ》み、|薯蕷汁《とろろ》を|二三杯《にさんばい》もソツと|横領《わうりやう》して|喰《く》ひ、|其《その》|上《うへ》|大勢《おほぜい》の|盲人《めくら》を|附《つ》け|込《こ》み、|薯蕷汁《とろろ》の|中《なか》に|灰《はい》を|掴《つま》んで|入《い》れた|不届《ふとど》きの|奴《やつ》ぢや、|着物《きもの》をやる|処《どころ》ぢやないが、|併《しか》し|生命《いのち》を|救《たす》けてもらつた|其《その》お|礼《れい》として、|長公《ちやうこう》、|伴公《はんこう》の|死人《しにん》の|着物《きもの》を|呉《く》れてやらうか』
|道彦《みちひこ》『これやこれや、|貴様等《きさまら》|二人《ふたり》は|薯蕷汁《とろろ》を|盗《ぬす》み|食《く》つたのか』
|百舌彦《もずひこ》『ハイ、【トロロウ】をやりました。|其《その》|代《かは》り|酷《ひど》い|目《め》に|遭《あ》つ【たん】ぢや、|汚《きたな》い|物《もの》を|頭《あたま》に|被《かぶ》つ【たん】ぢや。|盲人《めくら》を|瞞《だま》して|薯蕷汁《とろろ》を|多量《どつさり》|食《く》つ【たん】じや、それから|長公《ちやうこう》|伴公《はんこう》に|追《お》ひかけられて【タンタンタン】と|一生懸命《いつしやうけんめい》|逃《に》げたんじや。|門口《かどぐち》で|長公《ちやうこう》|伴公《はんこう》が|転倒《ひつくりかへ》つ【たん】ぢや、|其処《そこ》へ|婆《ばば》が|飛《と》んで|来《き》て|転《こ》け【たん】ぢや、|倒《こ》けた|拍子《へうし》に|長公《ちやうこう》のどん|腹《ばら》を|突《つ》い【たん】ぢや、|二人《ふたり》は|一生懸命《いつしやうけんめい》、|痰《たん》の|体《からだ》を|清《きよ》めんと|溜池《ためいけ》に|矢庭《やには》に|飛込《とびこ》ん【たん】ぢや、|柚《ゆ》の|針《はり》に|身体《からだ》を|突《つ》かれて|痛《いた》かつ【たん】ぢや、【たんたん】と|立派《りつぱ》な|着物《きもの》を|頂戴《ちやうだい》|致《いた》し|度《た》いもんぢや、なア|田加《たか》【たん】』
|道彦《みちひこ》は|吹《ふ》き|出《だ》し、
『アハヽヽヽ、|身魂《みたま》の|汚《きたな》い|奴《やつ》ぢやなア、|貴様《きさま》は|之《これ》から|改心《かいしん》を|致《いた》してウラナイ|教《けう》の|盲人《めくら》|仲間《なかま》に|入《い》れて|貰《もら》うと|都合《つがふ》がよからう。モシモシお|婆《ば》アサン|此等《これら》|二人《ふたり》は|三五教《あななひけう》の|教理《けうり》は|到底《たうてい》|高遠《かうゑん》にして|体得《たいとく》する|事《こと》は|出来《でき》ませぬ、|善《ぜん》とも|悪《あく》とも|愚《おろか》とも|訳《わけ》の|分《わか》らぬ|半《はん》ドロ|的《てき》の|人間《にんげん》ですから、ウラナイ|教《けう》の|宣伝使《せんでんし》にでもお|使《つか》ひ|下《くだ》さらば|最《もつと》も|適任《てきにん》でせう』
|婆《ばば》『それはそれは|誠《まこと》に|有難《ありがた》い|御仰《おんあふ》せ、ウラナイ|教《けう》の|宣伝使《せんでんし》には|至極《しごく》|適当《てきたう》の|人物《じんぶつ》、|幾何《いくら》で|売《う》つて|下《くだ》さいますか』
|道彦《みちひこ》『サア、ほんの|残《のこ》り|者《もの》の|未成品《みせいひん》もので|御座《ござ》いますから、|無料《ただ》にまけて|置《お》きます。|米《こめ》や|麦《むぎ》を|食《た》べさして|貰《もら》うと|胃《ゐ》を|損《そこ》ねますから、|身魂《みたま》|相当《さうたう》に|鰌《どぢやう》や|蛙《かわづ》で|飼《か》うてやつて|下《くだ》さい、アハヽヽヽ』
|婆《ばば》『オホヽヽヽ』
(大正一一・四・一 旧三・五 加藤明子録)
第九章 |薯蕷汁《とろろじる》〔五七六〕
|千早《ちはや》|振《ふ》る|遠《とほ》き|神代《かみよ》のその|始《はじ》め、|神《かみ》の|教《をしへ》に|背《そむ》きたる、|天足《あだる》|彦《ひこ》や|胞場姫《えばひめ》の、|醜《しこ》の|身魂《みたま》の|凝結《ぎようけつ》し、|八岐大蛇《やまたをろち》や、|金毛九尾《きんまうきうび》|白面《はくめん》の|悪狐《あくこ》となつて、|天地《てんち》の|水火《いき》を|曇《くも》らせつ、|常世《とこよ》の|国《くに》に|現《あら》はれし、|常世《とこよ》|彦《ひこ》や|常世姫《とこよひめ》、|盤古大神《ばんこだいじん》の|体《からだ》に|宿《やど》りて|世《よ》を|乱《みだ》し、|一度《いちど》は|神《かみ》の|御教《みをしへ》に、|服《まつろ》ひ|奉《まつ》り|真心《まごころ》に、|立帰《たちかへ》りしも|束《つか》の|間《ま》の、いや|次々《つぎつぎ》に|伝《つた》はりて、ウラル|彦《ひこ》やウラル|姫《ひめ》の、|又《また》もや|体《からだ》に|宿《やど》りつつ、|天地《てんち》を|乱《みだ》す|曲業《まがわざ》の、|力《ちから》も|失《う》せて|常世《とこよ》|国《くに》、|島《しま》の|八十島《やそしま》|八十国《やそくに》の|深山《みやま》の|奥《おく》に|立籠《たてこも》り、|人《ひと》の|身魂《みたま》を|宿《やど》として、バラモン|教《けう》やウラナイの、|教《をしへ》を|樹《た》てて|北山《きたやま》の、|鳥《とり》も|通《かよ》はぬ|山奥《やまおく》に、|数多《あまた》の|魔神《まがみ》を|呼《よ》び|集《つど》へ、ウラナイ|教《けう》と|銘《めい》|打《う》つて、|又《また》もや|国《くに》を|乱《みだ》し|行《ゆ》く、|其《そ》の|曲業《まがわざ》ぞ|由々《ゆゆ》しけれ。
|館《やかた》の|主《あるじ》|高姫《たかひめ》は、|安彦《やすひこ》、|国彦《くにひこ》、|道彦《みちひこ》の|宣伝使《せんでんし》に|危難《きなん》を|救《すく》はれ、|感謝《かんしや》の|意《い》を|表《あら》はし|館《やかた》に|迎《むか》へ|入《い》れて、|鄭重《ていちよう》に|饗応《きやうおう》せむと|強《しひ》て|一行《いつかう》を|迎《むか》へ|入《い》れた。
|一行《いつかう》|五人《ごにん》は|美《うる》はしき|一室《ひとま》に|招《せう》ぜられ、|手足《てあし》を|伸《の》ばし|悠々《いういう》として|寛《くつろ》いでゐる。|高姫《たかひめ》は|此《こ》の|場《ば》に|現《あら》はれ、
『コレハコレハ|三人《さんにん》の|宣伝使《せんでんし》|様《さま》、|能《よ》うマア|危《あやふ》き|所《ところ》を|御救《おたす》け|下《くだ》さいました。これと|云《い》ふも|全《まつた》く|妾《わたし》が|日頃《ひごろ》|信仰《しんかう》するウラナイ|教《けう》の|御本尊《ごほんぞん》|大自在天《だいじざいてん》|様《さま》の|御引合《おひきあは》せでございませう。|神様《かみさま》は|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》に|憑依《のりうつ》つて、|妾《わらは》の|危難《きなん》を|御救《おすく》ひ|下《くだ》さつたのです。|謂《ゐ》はば|貴方等《あなたがた》は|神《かみ》の|御道具《おだうぐ》に|御使《おつか》はれなさつただけのもの、|貴方《あなた》の|奥《おく》には|大自在天《だいじざいてん》|様《さま》が|御鎮《おしづ》まりでございます。|誠《まこと》に|以《もつ》て|御道具《おだうぐ》|御苦労《ごくらう》でございました。|何《なに》もございませぬが|悠々《いういう》と|御《お》あがり|下《くだ》さいませ』
と|言《い》ひ|棄《す》てて|徐々《しづしづ》と|次《つぎ》の|間《ま》に|姿《すがた》を|隠《かく》した。
|国彦《くにひこ》『ナンダ、|怪体《けつたい》な|挨拶《あいさつ》じやないか。われわれは|三五教《あななひけう》の|教理《けうり》に|依《よ》つて、|敵《てき》を|敵《てき》と|致《いた》さず|生命《いのち》を|的《まと》に|危険《きけん》を|冒《をか》して|救《すく》つてやつたのだ。それに|何《なん》ぞや、|大自在天《だいじざいてん》の|御道具《おだうぐ》に|使《つか》はれなさつたなぞと、|減《へら》ず|口《ぐち》を|叩《たた》きよつて|何《ど》うも|宗旨《しうし》|根性《こんじやう》と|云《い》ふものは、|何処迄《どこまで》も|抜《ぬ》けぬものとみえるワイ』
|道彦《みちひこ》『マアマア|何《ど》うでも|好《い》いぢやないか。|彼奴《あいつ》を|片端《かたつぱし》から|三五教《あななひけう》に|兜《かぶと》を|脱《ぬ》がしさへすれば|好《い》いのだ。|何《なん》でも|好《い》いから|言《い》はすだけ|言《い》はして|置《お》けば、|腹《はら》の|底《そこ》が|自然《しぜん》に|解《わか》つて|来《く》る。さう|言葉尻《ことばじり》を|捉《とら》へて、ゴテゴテ|言《い》ふものでは|無《な》い。|洋々《やうやう》たる|海《うみ》の|如《ごと》き|寛容心《くわんようしん》を|以《もつ》て|衆生済度《しうじやうさいど》に|掛《かか》らねば、|彼《あ》れ|位《くらゐ》なことに|目《め》に|角《かど》を|立《た》てて|鼻息《はないき》を|喘《はづ》ますやうなことでは、|到底《たうてい》|宣伝使《せんでんし》どころか、|信者《しんじや》たるの|価値《かち》さへもないと|云《い》つても|然《しか》りだよ』
|斯《か》く|話《はな》す|折《をり》しも|以前《いぜん》の|高姫《たかひめ》は、|縁《ふち》の|欠《か》けたる|丼鉢《どんぶりばち》に|麦飯《むぎめし》を|盛《も》り、|粘々《ねばねば》したものをドロリとかけ、|三人《さんにん》の|小間使《こまづかひ》に|持《も》たせて|入《い》り|来《きた》り、
『コレハコレハ|皆《みな》サン、ご|苦労《くらう》でございました。|山家《やまが》のこととて|何《なに》か|御構《おかま》ひを|致《いた》さねばなりませぬが、|麦飯《むぎめし》に|薯蕷汁《とろろ》が|出来《でき》ました。これなりとドツサリ|御《お》あがり|下《くだ》さい。|俄《にはか》の|客来《きやくらい》で|沢山《たくさん》の|鉢《はち》の|中《なか》から|探《さが》しましたが、|縁《ふち》の|欠《か》けたのは|漸《やうや》く|三《み》つよりございませぬ。|二人《ふたり》の|御供《みとも》は|最前《さいぜん》ソツとあがれとも|音《おと》はぬのに、|喜三郎《きさぶろう》をなさいましたから、どうぞ|辛抱《しんばう》して|下《くだ》さいませ。|貴方等《あなたがた》に|出《だ》すやうな|器《うつは》は|漸《やうや》う|三《み》つ|見《み》つかりました。|後《あと》は|立派《りつぱ》な|完全《くわんぜん》|無欠《むけつ》の|器《うつは》ばつかりでございます。この|様《やう》に|見《み》えても|痰《たん》なぞは|滅多《めつた》に|混入《こんにふ》してゐる|気遣《きづか》ひはございませぬ。どうぞタント タント|御《お》あがり|下《くだ》さいませ。オホヽヽヽヽ』
と|厭《いや》らしき|笑《わら》ひと|共《とも》に、|白《しろ》い|出歯《でば》をニユツと|出《だ》し、のそりのそりと|又《また》もや|元《もと》の|居室《ゐま》に|姿《すがた》を|隠《かく》しける。
|国彦《くにひこ》『われわれを|飽《あ》く|迄《まで》|侮辱《ぶじよく》しよる|怪《け》しからぬ|奴《やつ》だ。|恰《まる》で|一途《いちづ》の|川《かは》の|二人《ふたり》|婆《ばば》のやうな|面《つら》をしよつて、モー|堪忍袋《かんにんぶくろ》の|緒《を》が|切《き》れた』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら、|丼鉢《どんぶりばち》の|麦飯《むぎめし》【とろろ】を|座敷《ざしき》|一面《いちめん》に|投《な》げつける。|座敷《ざしき》はヌルヌルと【とろろ】の|泥田《どろた》のやうになつて|了《しま》つた。
|又《また》もや|二人分《ふたりぶん》の|丼鉢《どんぶりばち》を|次《つぎ》の|室《ま》に|投《な》げ|付《つ》け、|次《つぎ》の|室《ま》も|亦《また》【とろろ】の|泥田《どろた》となつた。
|国彦《くにひこ》『さアこれで|溜飲《りういん》が|下《さが》つた。|婆《ばば》の|奴《やつ》|滑《すべ》り|倒《こ》けよると|一層《ひとしほ》|御愛嬌《ごあいけう》だがナア』
|安彦《やすひこ》『オイ|国彦《くにひこ》、|貴様《きさま》は|乱暴《らんばう》な|奴《やつ》だナア。|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》が|喧嘩《けんくわ》を|買《か》うと|云《い》ふことがあるものか、|如何《いか》なる|強敵《きやうてき》に|向《むか》つても|飽《あ》く|迄《まで》|無抵抗《むていかう》|主義《しゆぎ》で、|誠《まこと》で|勝《か》つのだよ。ナント|云《い》ふ|情無《なさけな》いことをして|呉《く》れるのだ。|今日《けふ》|限《かぎ》り|破門《はもん》を|致《いた》すから、さう|心得《こころえ》ろ』
|国彦《くにひこ》『それだから|三五教《あななひけう》は|腰抜《こしぬ》け|教《けう》だと|云《い》ふのだよ。|貴様《きさま》の|方《はう》から|破門《はもん》する|迄《まで》に、こちらの|方《はう》から|国交《こくかう》|断絶《だんぜつ》だ』
と|自暴糞《やけくそ》になり、|捻鉢巻《ねぢはちまき》となつてドンドンと|四股《しこ》を|踏《ふ》み|鳴《な》らし、|荒《あ》れ|狂《くる》ふ|此《こ》の|物音《ものおと》に|驚《おどろ》いて、|高姫《たかひめ》を|始《はじ》め|数人《すうにん》の|男女《だんぢよ》|此《この》|場《ば》に|現《あら》はれ、
|高姫《たかひめ》『コレハコレハ|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》|様《さま》、|誠《まこと》に|御立派《ごりつぱ》な|御教理《ごけうり》には|感心《かんしん》|致《いた》しました。|口《くち》では|立派《りつぱ》なことを|仰有《おつしや》るが、|其《そ》の|行《おこな》ひは|一層《ひとしほ》|見上《みあ》げたもの、|人《ひと》の|座敷《ざしき》に|泊《とま》り|乍《なが》ら、|吾々《われわれ》|一同《いちどう》が|心《こころ》を|籠《こ》めた|御馳走《ごちそう》を|座敷《ざしき》|一面《いちめん》に|撒《ま》き|散《ち》らし|襖《ふすま》を|蹴倒《けたふ》し、|障子《しやうじ》の|骨《ほね》を|折《を》り、イヤもう|乱暴狼藉《らんばうろうぜき》、|実《じつ》に|立派《りつぱ》な|御教理《ごけうり》には、ウラナイ|教《けう》の|吾々《われわれ》も、あまり|感心《かんしん》の|度《ど》が|過《す》ぎてアフンと|致《いた》します。|開《あ》いた|口《くち》が|閉《すぼ》まりませぬ。|三五教《あななひけう》の|御教《みをしへ》|通《どほ》り|手《て》も|足《あし》も|踏込《ふみこ》む|所《ところ》がございませぬ。オホヽヽヽヽ。コレコレ|皆《みな》の|者《もの》ども、この|宣伝使《せんでんし》|様《さま》の|立派《りつぱ》な|御教《みをしへ》をお|前達《まへたち》は、|能《よ》く|腹《はら》へ|入《い》れて|置《お》くがよいぞや』
もう|一人《ひとり》の|婆《ばば》は|口《くち》を|尖《とが》らし、
『コリヤお|前達《まへたち》は|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》だと|云《い》つて|偉《えら》さうに|天下《てんか》を|股《また》にかけて|歩《ある》く|代物《しろもの》だらう。|大方《おほかた》|三五教《あななひけう》は|斯《こ》んな|行《おこな》ひの|悪《わる》い|宗教《しうけう》だと|思《おも》つて|居《を》つた。やつぱり|人《ひと》の|風評《うはさ》は|疑《うたが》はれぬワイ。|屹度《きつと》|変性女子《へんじやうによし》の|世《よ》の|乱《みだ》れたやり|方《かた》を|見倣《みなら》うて、|其処中《そこらぢう》を【とろろ】ドツコイ|泥《どろ》だらけに|穢《けが》して|歩《ある》く|悪《あく》の|御用《ごよう》だらう。|素盞嗚命《すさのをのみこと》は|天《あま》の|岩戸《いはと》を|閉《し》める|役《やく》だと|云《い》ふことだが、|悪《あく》も|其処《そこ》まで|徹底《てつてい》すれば|反《かへ》つて|面白《おもしろ》い。このウラナイ|教《けう》は|斯《こ》う|見《み》えても|立派《りつぱ》なものだぞ。|変性男子《へんじやうなんし》の|生枠《きつすゐ》の|教《をしへ》を|守《まも》つとるのだぞ。|三五教《あななひけう》も|初《はじ》めは|変性男子《へんじやうなんし》の|教《をしへ》で|立派《りつぱ》なものだつたが、|素盞嗚命《すさのをのみこと》の|身魂《みたま》の|憑《うつ》つた|肉体《にくたい》が|出《で》て|来《き》て、|人《ひと》の|苦労《くらう》で|徳《とく》を|取《と》らうとしよつて、|変性男子《へんじやうなんし》を|押込《おしこ》めて|世《よ》の|乱《みだ》れた|行《や》り|方《かた》の、|女子《によし》の|教《をしへ》が|覇張《はば》るものだから|三五教《あななひけう》もコンナ|悪《あく》の|教《をしへ》になつて|了《しま》つたのだ。|三五教《あななひけう》の|奴《やつ》は|二《ふた》つ|目《め》には、ウラル|教《けう》が|何《ど》うだのバラモン|教《けう》が|悪《あく》だのと、お|題目《だいもく》のやうに|仰有《おつしや》るけれど、|今《いま》の|宣伝使《せんでんし》の|行《おこな》ひは|何《ど》うぢやな。これでも|善《ぜん》の|立派《りつぱ》な|教《をしへ》と|云《い》ふのかい。この|高姫《たかひめ》も|元《もと》は|変性男子《へんじやうなんし》の|御血筋《おちすぢ》の|肉体《にくたい》だ、|日《ひ》の|出神《でのかみ》の|生宮《いきみや》ぢや。|竜宮《りうぐう》の|乙姫《おとひめ》さまもチヨコチヨコ|御出《おい》でになつて、|体主霊従国《がいこく》の|悪神《あくがみ》の|仕組《しぐみ》を、すつかりと|握《にぎ》つてござるのぢや。|変性女子《へんじやうによし》と|云《い》ふ|奴《やつ》は|胴体《どうたい》|無《な》しの|烏賊《いか》|上《のぼ》り、|三文《さんもん》の|大神楽《だいかぐら》のやうに|頤太《あごた》ばつかり|発達《はつたつ》しよつて、|鰐《わに》のやうな|口《くち》を|開《あ》けて、|其方此方《そちらこちら》の|有象無象《うざうむざう》を|噛《か》んだり、|吐《は》いたりする|大化物《おほばけもの》だ。お|前達《まへたち》は|其《そ》の|大化物《おほばけもの》を|神様《かみさま》だと|思《おも》つて|戴《いただ》いて|居《ゐ》る|小化物《こばけもの》ならよいが、|小馬鹿者《こばかもの》の|薄馬鹿者《うすばかもの》だよ。これからちつとウラナイ|教《けう》の|教《をしへ》を|聴《き》きなさい。|身《み》の|行《おこな》ひを|換《か》へて|誠《まこと》|水晶《すゐしやう》のやり|方《かた》に|立替《たてか》へねば|何時《いつ》まで|経《た》つても|五六七《みろく》の|世《よ》は|来《き》はせぬぞえ』
|国彦《くにひこ》『エーエ、ツベコベと|能《よ》う|八釜敷《やかまし》く|吐《ぬか》す|婆《ばば》だな。|貴様《きさま》は|偉《えら》さうにツベコベと|小理窟《こりくつ》を|並《なら》べよるが、|人《ひと》を|招待《せうたい》するに|欠《か》けた|穢《きたな》い|鉢《はち》を|選《えら》んで|出《だ》すと|云《い》ふことがあるかい。これが|抑《そもそ》も|貴様《きさま》の|方《はう》から|俺《おれ》を|焚《た》きつけにかかつてゐよるのだ。|三五教《あななひけう》だつて、いらはぬ|蜂《はち》はささぬぞ、|釣鐘《つりがね》も|叩《たた》くものが|無《な》ければ|音《おと》なしいものだ、|春秋《しゆんじう》の|筆法《ひつぱふ》で|言《い》へば、|貴様《きさま》が|丼鉢《どんぶりばち》を|投《な》げたのだ。イヤ|大自在天《だいじざいてん》がやつたのだ。|俺《おれ》は|大自在天《だいじざいてん》の|道具《だうぐ》に|使《つか》はれたのだ。|此処《ここ》の|大将《たいしやう》が|最前《さいぜん》さう|云《い》つたぢやないか。ナント|大自在天《だいじざいてん》と|云《い》ふ|神《かみ》は|乱暴《らんばう》な|神《かみ》だなア。ウラナイ|教《けう》はコンナ|悪魔《あくま》の|乱暴《らんばう》な|神《かみ》を|御本尊《ごほんぞん》にして|居《ゐ》るのか|苟《いやし》くも|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》は、|至粋《しすゐ》|至純《しじゆん》の|身魂《みたま》の|持主《もちぬし》だぞ』
|高姫《たかひめ》『オホヽヽヽ、|至粋《しすゐ》|至純《しじゆん》の|身魂《みたま》の|持主《もちぬし》の|為《な》さること|哩《わい》のー。|自分《じぶん》のした|責任《せきにん》を、|勿体無《もつたいな》い、|大自在天《だいじざいてん》|様《さま》に|塗《ぬ》りつけて、それで|自分《じぶん》は|知《し》らぬ|顔《かほ》の|半兵衛《はんべゑ》をきめこんでゐるのか。|都合《つがう》の|好《い》い|教理《けうり》だなア』
|国彦《くにひこ》『われわれの|魂《たましひ》は|水晶魂《すゐしやうだま》だ。|真澄《ますみ》の|鏡《かがみ》も|同様《どうやう》だ。それだからウラナイ|教《けう》の|悪《あく》がすつかり|此方《こちら》の|鏡《かがみ》に|映《うつ》つて|居《ゐ》るのだ。アーア|水晶《すゐしやう》の|身魂《みたま》も|辛《つら》いものだワイ。アハヽヽヽ』
|黒姫《くろひめ》『|団子《だんご》|理窟《りくつ》をこねる|日《ひ》には|際限《さいげん》が|無《な》い。|兎《と》も|角《かく》|行《おこな》ひが|一等《いつとう》だ。|立派《りつぱ》な|御座敷《おざしき》の|真《ま》ん|中《なか》に|主人《しゆじん》の|好意《かうい》で|出《だ》した|麦飯《むぎめし》【とろろ】を|打《ぶ》ち|開《あ》けるとは|沙汰《さた》の|限《かぎ》り、やつぱり|悪《あく》の|性来《しやうらい》は|何《ど》うしても|現《あら》はれるものぢや。ソンナ|馬鹿《ばか》な|教《をしへ》の|宣伝使《せんでんし》になるよりも、|一《ひと》つ|改心《かいしん》してウラナイ|教《けう》になつたら|如何《どう》だい。|誠《まこと》の|変性男子《へんじやうなんし》の|教《をしへ》は|此《こ》の|高姫《たかひめ》さまと、|黒姫《くろひめ》がチヤント|要《かなめ》を|握《にぎ》つてゐるのだよ。|昔《むかし》の|神代《かみよ》の|根本《こんぽん》の|身魂《みたま》の|因縁《いんねん》から、|人民《じんみん》の|大先祖《だいせんぞ》のことから|又《また》|万劫末代《まんがふまつだい》のこと、|根《ね》の|国《くに》、|底《そこ》の|国《くに》、なにも|彼《か》も|知《し》つて|知《し》つて|知《し》り|抜《ぬ》いた|世界《せかい》で、たつた|一人《ひとり》の|日《ひ》の|出神《でのかみ》の|生宮《いきみや》ぢや。この|黒姫《くろひめ》は|竜宮《りうぐう》の|乙姫《おとひめ》の|守護《しゆご》だぞ。|艮《うしとら》の|金神《こんじん》|様《さま》も|元《もと》は|此処《ここ》から|現《あら》はれたのだ。|本《もと》が|大事《だいじ》ぢや。「|本《もと》|断《き》れて|末《すゑ》|続《つづ》くとは|思《おも》ふなよ。|本《もと》ありての|枝《えだ》もあれば、|末《すゑ》もあるぞよ」と|三五教《あななひけう》は|教《をし》へて|居《ゐ》るぢやないか。その|根本《こんぽん》の|本《もと》の|本《もと》の|大本《おほもと》は、|此《この》|日《ひ》の|出神《でのかみ》がグツト|握《にぎ》つて|居《ゐ》るのぢや。|神《かみ》の|奥《おく》には|奥《おく》があるぞ。|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》のやうに|理窟《りくつ》ばかり|言《い》つてこの|頃《ごろ》|流行《はや》る|学《がく》の|力《ちから》を|以《もつ》て、|神《かみ》の|因縁《いんねん》を|説《と》かうと|思《おも》つても、それは|駄目《だめ》ぢや。|千年《せんねん》|万年《まんねん》|経《た》つたとて|誠《まこと》の|神《かみ》の|因縁《いんねん》が|判《わか》つて|堪《たま》るものか。|誠《まこと》の|神《かみ》の|御用《ごよう》が|致《いた》し|度《た》くば、ウラナイ|教《けう》に|改心《かいしん》して|随《したが》うがよかろう』
|国彦《くにひこ》『|婆《ば》アサン、|大《おほ》きに|御心配《ごしんぱい》かけました。この|国彦《くにひこ》は|三五教《あななひけう》でも|無《な》ければ、ウラル|教《けう》でもない、ウラナイ|教《けう》では|尚更《なほさら》ないのだ。あまり|三五教《あななひけう》の|悪《わる》いことばつかり|仰有《おつしや》ると、ウラナイ|教《けう》の|化《ば》けの|皮《かは》が|現《あら》はれるぞえ。|左様《さやう》なら、モシモシ|三五教《あななひけう》の|二人《ふたり》の|宣伝使《せんでんし》サン|御悠《ごゆつ》くりと|下《くだ》らぬ|説教《せつけう》でも|聴《き》かして|貰《もら》つて、|眉毛《まゆげ》を|読《よ》まれ、|尻《しり》の|毛《け》が|一本《いつぽん》も|無《な》いとこ|迄《まで》|抜《ぬ》かれなさるがよろしからう。コラ|二人《ふたり》の|皺苦茶《しわくちや》|婆《ばば》、|用心《ようじん》せーよ。|何処《どこ》に|何《なに》が|破裂《はれつ》|致《いた》さうやら|判《わか》らぬぞよ』
と|尻《しり》をクリツと|捲《まく》つて|裏門《うらもん》から、|一発《いつぱつ》|破裂《はれつ》させ|乍《なが》ら|何処《いづく》とも|無《な》く|姿《すがた》を|隠《かく》して|了《しま》つた。
|道彦《みちひこ》『アハヽヽヽ』
|安彦《やすひこ》『アーア|道彦《みちひこ》サン、|彼様《あんな》|乞食《こじき》を|伴《つ》れて|来《く》るものだから、|薩張《さつぱ》り|三五教《あななひけう》と|混同《こんどう》されて|偉《えら》い|迷惑《めいわく》をした。これから|迂濶《うつかり》と|何《なん》でも|無《な》い|者《もの》を|連《つ》れて|歩《ある》くものぢやない』
|道彦《みちひこ》『アヽ|左様《さやう》ですな、モシモシ|高姫《たかひめ》サン、|黒姫《くろひめ》サン、|三五教《あななひけう》には|彼《あ》の|様《やう》な|宣伝使《せんでんし》は、|一人《ひとり》も|居《を》りませぬよ。|彼《あ》の|男《をとこ》は|途中《とちう》から|道案内《みちあんない》に|伴《つ》れて|来《き》たのですから、|好《い》い|気《き》になつて|宣伝使《せんでんし》|気取《きど》りでアンナことを|言《い》つたのですよ。アハヽヽヽ』
|黒姫《くろひめ》『|神様《かみさま》の|宣伝使《せんでんし》は|嘘《うそ》は|言《い》はぬもの、|誠《まこと》|一《ひと》つの|教《をしへ》を|樹《た》てるのは、|此《こ》のウラナイ|教《けう》。|三五教《あななひけう》は|矢張《やつぱ》り|嘘《うそ》をつきますなア。|彼《あ》の|男《をとこ》は|元《もと》は|与太彦《よたひこ》と|云《い》うて、|貴方等《あなたがた》と|一緒《いつしよ》に|宣伝《せんでん》に|歩《ある》いて|居《を》つた|人《ひと》でせう。|違《ちが》ひますかな』
『サア』
『サア|返答《へんたふ》は』
『サアそれはマアマアマア|彼奴《あいつ》は|俄《にはか》に|気《き》が|違《ちが》つたのですよ。それだからアンナ|脱線《だつせん》した|行《おこな》ひをやるのですワ。アハヽヽヽ』
|黒姫《くろひめ》『|能《よ》う|嘘《うそ》をつく|人《ひと》だナ。|今《いま》お|前《まへ》サンは|道《みち》|案内《あんない》に|途中《とちう》から|雇《やと》うて|来《き》たと|云《い》つたぢやないか。それだから|三五教《あななひけう》は|駄目《だめ》、ウラナイ|教《けう》が|誠《まこと》の|教《をしへ》と|云《い》ふのだ』
|安彦《やすひこ》『|一体《いつたい》|此処《ここ》の|館《やかた》には|盲人《めくら》ばつかり|居《を》りますな』
と|話《はなし》を|態《わざ》と|横《よこ》へ|転《てん》じた。
|黒姫《くろひめ》『|誠《まこと》の|教《をしへ》を|聴《き》かうと|思《おも》へば、|目《め》が|開《あ》いて|居《を》つては|小理窟《こりくつ》が|多《おほ》くつて|仕様《しやう》がないから、みな|盲目《めくら》や|聾《つんぼ》ばかり|寄《よ》せてあるのだ。|見《み》ざる、|聞《き》かざると|言《い》うて、|盲目《めくら》|聾《つんぼ》|程《ほど》よいものは|無《な》い。|此処《ここ》へ|来《く》る|奴《やつ》は、みな|此《この》|高姫《たかひめ》サンと|黒姫《くろひめ》が|耳《みみ》の|鼓膜《こまく》を|破《やぶ》り、|眼《め》の|球《たま》を|抜《ぬ》いて、|世間《せけん》の|事《こと》がなにも|解《わか》らぬやうに、|神一筋《かみひとすぢ》になるやうにしてあるのだ。お|前《まへ》も|怪体《けつたい》な|目《め》をウラナイ|教《けう》に、すつくり|御供《おそな》へしなさい。さうしたら|本当《ほんたう》の|安心《あんしん》が|出来《でき》るぢやらう。|昔《むかし》|竜宮城《りうぐうじやう》に|仕《つか》へて|居《を》つた|小島別《こじまわけ》は、|盲目《めくら》であつたお|蔭《かげ》で、|結構《けつこう》な|国魂《くにたま》の|神《かみ》となつて|神《かみ》の|教《をしへ》を|筑紫《つくし》の|島《しま》でやつて|居《ゐ》るといふことだ。|目《め》の|明《あ》いた|奴《やつ》に|碌《ろく》な|奴《やつ》が|居《ゐ》るものかい。|盲目《めくら》|千人《せんにん》に|目明《めあ》き|一人《ひとり》の|世《よ》の|中《なか》に、|十目《じふもく》の|視《み》る|所《ところ》|十指《じつし》の|指《ゆび》さす|所《ところ》、|大勢《おほぜい》の|盲目《めくら》の|方《はう》に|附《つ》くのが|誠《まこと》だ。サア、これからウラナイ|教《けう》に|帰順《きじゆん》さしてやらう』
と|高姫《たかひめ》、|黒姫《くろひめ》の|二人《ふたり》は、|出刃庖丁《でばぼうちやう》をひらめかし、|安彦《やすひこ》、|道彦《みちひこ》の|眼球《がんきう》|目蒐《めが》けて|突《つ》いてかかる。|二人《ふたり》は、
『コリヤ|大変《たいへん》』
と|逃《に》げ|出《だ》す|途端《とたん》に、|座敷《ざしき》|一面《いちめん》の【とろろ】|汁《じる》に|足《あし》を、|辷《すべ》らして、スツテンドウと|仰向《あふむ》けになつた。
|二人《ふたり》の|婆《ばば》も、【とろろ】に|足《あし》を|滑《すべ》らし、|仰向《あふむ》けにドツと|倒《たふ》れた。|婆《ばば》の|持《も》つた|出刃庖丁《でばぼうちやう》は|道彦《みちひこ》の|眼《め》の|四五寸《しごすん》|側《そば》に|光《ひか》つてゐる。
|道彦《みちひこ》、|安彦《やすひこ》は|一生懸命《いつしやうけんめい》|逃《に》げ|出《だ》さうとすれど、ヌルヌルと|足《あし》が|滑《すべ》つて|同《おな》じ|所《ところ》にジタバタやつてゐる。|百舌彦《もずひこ》、|田加彦《たかひこ》は|一室《ひとま》から|飛《と》んで|出《で》て、
『コラコラ|婆《ばば》の|癖《くせ》に|手荒《てあら》いことを|致《いた》すな。その|出刃《でば》|渡《わた》せ』
と|矢庭《やには》に|引捉《ひつとら》へむとして、|又《また》もやズルリと|滑《すべ》り、|二人《ふたり》は|尻餅《しりもち》|搗《つ》いた|途端《とたん》に、|道彦《みちひこ》の|顔《かほ》の|上《うへ》に|臀《しり》をドツカと|下《お》ろした。その|痛《いた》さに|気《き》が|付《つ》けば|王仁《おに》は、|宮垣内《みやがいち》の|茅屋《ばうをく》に|法華《ほつけ》|坊主《ばうず》の|数珠《じゆず》に|頭《あたま》をしばかれ|居《ゐ》たりける。
(大正一一・四・二 旧三・六 外山豊二録)
(昭和一〇・三・二〇 於彰化支部 王仁校正)
第一〇章 |神楽舞《かぐらまひ》〔五七七〕
|神素盞嗚尊《かむすさのをのみこと》の|治食《しろしめ》す|大海原《おほうなばら》の|国々《くにぐに》|島々《しまじま》は、|国治立尊《くにはるたちのみこと》、|野立彦《のだちひこ》の|神《かみ》と|現《あら》はれて、|埴安彦命《はにやすひこのみこと》に|神言《かむごと》|依《よ》さし、|黄金山下《わうごんさんか》に|現《あら》はれて|三五教《あななひけう》を|開《ひら》き|給《たま》ひ、|豊国姫尊《とよくにひめのみこと》は|野立姫神《のだちひめのかみ》と|現《あら》はれ、|神素盞嗚尊《かむすさのをのみこと》の|水火《いき》を|合《あは》して、|埴安姫命《はにやすひめのみこと》となり、|三五教《あななひけう》を|経緯《たてよこ》より|天下《てんか》に|宣伝《せんでん》し、|神人《しんじん》|皆《みな》|其《その》|徳《とく》に|悦服《えつぷく》し、|天《あめ》が|下《した》|四方《よも》の|国《くに》は|一時《いちじ》は|無事《ぶじ》|泰平《たいへい》の|神国《かみくに》と|治《をさ》まりけるが、|天足彦《あだるひこ》、|胞場姫《えばひめ》の|霊《みたま》の|邪気《じやき》より|現《あら》はれ|出《いで》でたる、|八頭八尾《やつがしらやつを》の|大蛇《をろち》を|始《はじ》め、|金狐《きんこ》、|悪鬼《あくき》|諸々《もろもろ》の|醜女《しこめ》、|探女《さぐめ》は|油《あぶら》の|浸潤《しんじゆん》するが|如《ごと》く、|忍《しの》び|忍《しの》びに|天下《てんか》に|拡《ひろ》がり、|邪悪《じやあく》|充《み》ち、|荒《あら》ぶる|神《かみ》の|訪《おとの》ふ|声《こゑ》は、|山岳《さんがく》も|揺《ゆる》ぐ|許《ばか》り、|河海《かはうみ》|殆《ほとん》ど|涸《か》れなむとす。
|神素盞嗚大神《かむすさのをのおほかみ》は、|大海原《おほうなばら》の|国《くに》を|治《おさ》めかね、|熱《あつ》き|涙《なみだ》に|咽《むせ》ばせ|給《たま》ふ|折《をり》しも、|御父神《おんちちがみ》なる|神伊邪諾大神《かむいざなぎのおほかみ》、|尊《みこと》の|前《まへ》に|現《あら》はれ|給《たま》ひ、
『|爾《なんじ》は|何故《なにゆゑ》に|吾《わ》が|依《よ》させる|国《くに》を|守《まも》らず、|且《かつ》|女々《めめ》しくも|泣《な》きつるか』
と|言葉《ことば》|鋭《するど》く|問《と》はせ|給《たま》ひければ、|神素盞嗚大神《かむすさのをのおほかみ》は、
『われ、|大神《おほかみ》の|勅《みことのり》を|奉《ほう》じ、|昼夜《ちうや》|孜々《しし》として|神政《しんせい》に|心力《しんりよく》を|尽《つく》すと|雖《いへど》も、|地上《ちじやう》の|悪魔《あくま》|盛《さかん》にして、|容易《ようい》に|帰順《きじゆん》せしむ|可《べか》らず。|到底《たうてい》|吾等《われら》の|非力《ひりよく》を|以《もつ》て、|大海原《おほうなばら》の|国《くに》を|治《おさ》むべきにあらず、|吾《われ》は|是《これ》より|根《ね》の|堅洲国《かたすのくに》に|至《いた》らむ』
と|答《こた》へ|給《たま》ひぬ。|此《この》|時《とき》|父《ちち》|伊邪諾大神《いざなぎのおほかみ》は、
『|然《しか》らば|汝《なんぢ》が|心《こころ》の|儘《まま》にせよ、この|国《くに》には|住《す》む|勿《なか》れ』
と|言葉《ことば》|厳《きび》しく|詔《の》らせ|給《たま》ひぬ。|茲《ここ》に|素盞嗚尊《すさのをのみこと》は|已《や》むを|得《え》ず、|母《はは》の|坐《ま》します|根《ね》の|堅洲国《かたすくに》に|至《いた》らむと|思《おも》はし、|天教山《てんけうざん》の|高天原《たかあまはら》に|坐《まし》ます|姉《あね》の|大神《おほかみ》に|暇乞《いとまご》ひをなし、|根《ね》の|堅洲国《かたすくに》に|至《いた》らむと、|雲霧《くもきり》|押分《おしわ》けて、|天教山《てんけうざん》に|上《のぼ》らせ|給《たま》ふ。その|勢《いきほひ》|当《あた》るべくもあらざる|如《ごと》く|見《み》えければ、|御姉《おんあね》の|大神《おほかみ》は、いたく|驚《おどろ》かせ|給《たま》ひ、
『|吾《あ》が|弟神《おとうとがみ》の|此処《ここ》に|上《のぼ》り|来《き》ませるは、|必《かなら》ず|美《うる》はしき|心《こころ》ならざらめ、|此《この》|高天原《たかあまはら》を|奪《うば》はむとの|汚《きたな》き|心《こころ》を|持《も》たせ|給《たま》ふならむ』
と|部下《ぶか》の|神々《かみがみ》に|命《めい》じ、|軍備《ぐんび》を|整《ととの》へ、|防戦《ばうせん》の|用意《ようい》に|掛《かか》らせ|給《たま》ひける。
|神素盞嗚尊《かむすさのをのみこと》は、|姉大神《あねおほかみ》の|斯《か》くも|深《ふか》き|猜疑心《さいぎしん》に|包《つつ》まれ|給《たま》うとは|夢《ゆめ》にも|知《し》らず、コーカス|山《さん》を|立出《たちい》でて、|天磐船《あまのいはふね》に|乗《の》り、|天空《てんくう》を|翔《かけ》りて、|天教山《てんけうざん》に|下《くだ》らせ|給《たま》ふ|時《とき》、|姉《あね》の|大神《おほかみ》は|伊都《いづ》の|竹鞆《たかとも》を|取佩《とりを》ばして、|弓腹《ゆはら》|振立《ふりた》て、|堅庭《かたには》に|現《あら》はれ|給《たま》ひ、|淡雪《あはゆき》の|如《ごと》く、|土石《つちいし》を|蹶散《くひち》らし、|勢《いきほひ》|猛《たけ》く|弟神《おとうとがみ》に|向《むか》ひ、|高天原《たかあまはら》を|占領《せんりやう》するの|野心《やしん》ある|事《こと》を|厳《きび》しく|詰問《きつもん》されたりける。
|茲《ここ》に|神素盞嗚尊《かむすさのをのみこと》は、|案《あん》に|相違《さうゐ》の|顔色《おももち》にて|答《こた》へ|給《たま》ふよう、
『|吾《わ》れは、|貴神《きしん》の|思《おぼ》さるるが|如《ごと》き|汚《きたな》き|心《こころ》は|露《つゆ》だにもなし、|父大神《ちちおほかみ》の|御言《みこと》もちて、|吾《わが》|泣《な》く|有様《ありさま》を|言問《ことと》はせ|給《たま》ふが|故《ゆゑ》に、|応《こた》へ|難《つら》くて、|吾《わ》れは|母《はは》の|坐《ま》します|根《ね》の|堅洲国《かたすのくに》に|行《ゆ》かむと|思《おも》ふ、|恋《こひ》しさの|余《あま》り|泣《な》くなりと|答《こた》ふれば、|父大神《ちちおほかみ》は、|然《しか》らば|汝《なんぢ》が|心《こころ》の|儘《まま》にせよと|仰《あふ》せあり。|母《はは》の|国《くに》に|行《ゆ》かむとするに|先《さき》だち、|姉大神《あねおほかみ》に|一目《ひとめ》|遭《あ》ひまつらむと|思《おも》ひてこそ|上《のぼ》り|来《き》つれ、|決《けつ》して|怪《あや》しき|心《こころ》なし。|願《ねが》はくば|姉《あね》の|大神《おほかみ》よ、|吾《あ》が|心《こころ》の|清《きよ》き|事《こと》を|悟《さと》り|給《たま》へ』
と|涙《なみだ》と|共《とも》に|答《こた》へ|給《たま》ひぬ。
|茲《ここ》に|姉《あね》|大神《おほかみ》は、
『|然《しか》らば|汝《なんぢ》が|心《こころ》の|清《きよ》き|事《こと》、|何《なに》を|以《もつ》て|証明《あかし》せむ』
と|詰《なじ》り|給《たま》へば、|弟神《おとうとがみ》は、
『|吾《あ》が|持《も》てる|十握《とつか》の|剣《つるぎ》を|姉《あね》の|命《みこと》に|奉《たてまつ》らむ、|姉《あね》の|命《みこと》は|御身《おんみ》にまかせる|八尺《やさか》の|曲玉《まがたま》を|吾《われ》にわたさせ|給《たま》へ』
と|請《こ》ひ|給《たま》へば、|姉大神《あねおほかみ》も|諾《うなづ》かせ|給《たま》ひて、|玉《たま》と|剣《つるぎ》の|交換《とりかはし》の|神業《かむわざ》を|始《はじ》め|給《たま》ひ、|天《あま》の|安河《やすかは》を|中《なか》に|置《お》き|各《おの》も|各《おの》も|天《あま》の|真名井《まなゐ》に|振《ふ》り|滌《すす》ぎ、|佐賀美《さがみ》にかみて|吹《ふ》き|棄《う》ち|給《たま》へば、|素盞嗚尊《すさのをのみこと》の|神実《かむざね》なる|十握《とつか》の|剣《つるぎ》より|三柱《みはしら》の|女神《めがみ》|現《あら》はれ|給《たま》ひ、|姉大神《あねおほかみ》の|纒《まか》せる|八尺《やさか》の|曲玉《まがたま》より|五柱《いつはしら》の|男神《をがみ》|現《あら》はれ|給《たま》へば、ここに|神素盞嗚大神《かむすさのをのおほかみ》の|清《きよ》く、|若《わか》く、|優《やさ》しき|御心《みこころ》|現《あら》はれ|玉《たま》へり。|姉《あね》|大神《おほかみ》は|始《はじ》めて|覚《さと》り、
『|此《この》|三柱《みはしら》の|女神《めがみ》は、|汝《なんぢ》が|霊《みたま》より|現《あ》れませるやさしき|瑞《みづ》の|霊《みたま》なり。また|五柱《いつはしら》の|男神《をがみ》は、あが|霊《みたま》より|生《あ》れませる|雄々《をを》しき|男神《をがみ》なり』
と|了解《ことわ》け|給《たま》ひぬ。
ここに|姉大神《あねおほかみ》の|疑《うたがひ》は|全《まつた》く|晴《は》れたれども、|未《いま》だ|晴《は》れやらぬは、|神素盞嗚大神《かむすさのをのおほかみ》に|仕《つか》へまつれる|八十猛《やそたける》の|神々《かみがみ》の|御心《みこころ》なりき。|吁《ああ》、|八十猛《やそたける》の|神《かみ》の|無謀《むぼう》なる|振舞《ふるまひ》に|依《よ》りて、|天照大御神《あまてらすおほみかみ》は、|天《あま》の|岩戸《いはと》の|奥深《おくふか》く|隠《かく》れ|給《たま》ひ、|再《ふたた》び|六合《りくがふ》|暗黒《あんこく》となり、|昼夜《ちうや》|咫尺《しせき》を|弁《べん》ぜず、|万妖《ばんえう》|悉《ことごと》く|起《おこ》り、|草《くさ》の|片葉《かきは》に|至《いた》る|迄《まで》、|言問《ことと》ひさやぐ|悪魔《あくま》の|世《よ》を|現出《げんしゆつ》したりける。|茲《ここ》に|高天原《たかあまはら》に|坐《ま》します、|思慮《しりよ》|分別《ふんべつ》|最《もつと》も|深《ふか》き|神《かみ》と|聞《きこ》えたる、|金勝要《きんかつかね》の|大神《おほかみ》の|分霊《わけみたま》|思兼神《おもひかねのかみ》は、|八百万神《やほよろづのかみ》を|天《あま》の|安《やす》の|河原辺《かはらべ》に、|神集《かむつど》へに|集《つど》へ、|神議《かむはか》りに|議《はか》りて、|再《ふたた》び|日《ひ》の|大神《おほかみ》の|御出現《ごしゆつげん》を|請《こ》ひ|奉《まつ》る|其《その》|神業《かむわざ》を|行《おこな》はせ|玉《たま》ひける。
|三五教《あななひけう》の|道《みち》を|伝《つた》へたりし|数多《あまた》の|宣伝使《せんでんし》は、|天《あま》の|安《やす》の|河原《かはら》に|集《あつ》まり|来《きた》り、|尚《なほ》も|進《すす》んで|天教山《てんけうざん》の|天《あま》の|岩戸《いはと》の|前《まへ》に|現《あら》はれ|給《たま》ひ、|五伴男《いつともを》の|神《かみ》、|八十伴男《やそともを》の|神《かみ》を|始《はじ》め|八百万《やほよろづ》の|神達《かみたち》、|天津《あまつ》|神籬《ひもろぎ》を|立《た》て、|真榊《まさかき》を|囲《めぐ》らし、|鏡《かがみ》、|玉《たま》、|剣《つるぎ》を|飾《かざ》り、|出雲姫命《いづもひめのみこと》は|天《あめ》の|鈿女命《うづめのみこと》と|現《あら》はれて、|岩戸《いはと》の|前《まへ》に|桶伏《をけふ》せて、|一《ひと》|二《ふた》|三《み》|四《よ》|五《いつ》|六《むゆ》|七《なな》|八《や》|九《ここの》|十《たり》との|天《あま》の|数歌《かずうた》うたひ|上《あ》げ、|舞《ま》ひ|狂《くる》ひ|給《たま》ひし|其《その》|可笑《おか》しさに、|八百万《やほよろづ》の|神《かみ》は|思《おも》はず|吹《ふ》き|出《だ》し、|常暗《とこやみ》の|世《よ》の|苦《くる》しさも|忘《わす》れて、|笑《わら》ひ|興《きよう》じ|給《たま》へば、|天照大神《あまてらすおほかみ》も|岩戸《いはと》を|細目《ほそめ》に|押開《おしひら》き|給《たま》ふ|折《をり》しも、|手力男神《たぢからをのかみ》は|岩戸《いはと》を|開《ひら》き|御手《おんて》を|取《と》りて|引出《ひきだ》しまつり、|六合《りくがふ》の|内《うち》、|再《ふたた》び|清明《せいめい》に|輝《かがや》きわたる|事《こと》を|得《え》たり。ここに|八百万《やほよろづ》の|神《かみ》は|此《この》|度《たび》の|事変《じへん》を|以《もつ》て|神素盞嗚尊《かむすさのをのみこと》の|罪《つみ》に|帰《き》し、|手足《てあし》の|爪《つめ》まで|抜《ぬ》き|取《と》りて、|高天原《たかあまはら》を|神退《かむやら》ひに|退《やら》ひ|給《たま》ひしなり。|是《これ》より|神素盞嗚大神《かむすさのをのおほかみ》は、|今迄《いままで》|海原《うなばら》の|主宰神《しゆさいしん》たる|顕要《けんえう》の|地位《ちゐ》を|棄《す》て、|心《こころ》も|細《ほそ》き|一人旅《ひとりたび》、|国《くに》の|八十国《やそくに》、|島《しま》の|八十島《やそしま》にわだかまり、|世人《よびと》を|損《そこな》ふ|八岐大蛇《やまたをろち》の|悪神《あくがみ》や、|金狐《きんこ》、|悪鬼《あくき》の|征服《せいふく》に|向《むか》はせ|給《たま》ひける。|嗚呼《ああ》、|今後《こんご》の|素盞嗚大神《すさのをのおほかみ》の|御身《おんみ》、は|如何《いか》になり|行《ゆ》くならむか。
(大正一一・四・二 旧三・六 松村真澄録)
第二篇 |古事記《こじき》|言霊解《ことたまかい》
第一一章 |大蛇《をろち》|退治《たいぢ》の|段《だん》〔五七八〕
『|故《かれ》、|退《やら》はれて、|出雲《いづも》の|国《くに》の|肥河上《ひのかはかみ》なる|鳥髪《とりかみ》の|地《ところ》に|降《くだ》りましき』(|古事記《こじき》の|大蛇《をろち》|退治《たいぢ》の|段《だん》)
|出雲国《いづものくに》は|何処諸《いづくも》の|国《くに》と|云《い》ふ|意義《こと》で、|地球上《ちきうじやう》|一切《いつさい》の|国土《こくど》である。|肥河上《ひのかはかみ》は、|万世一系《ばんせいいつけい》の|皇統《くわうとう》を|保《たも》ちて、|幽顕《いうけん》|一致《いつち》、|神徳《しんとく》|無窮《むきう》にして|皇朝《くわうてう》の|光《ひか》り|晴《は》れ|渡《わた》り、|弘《ひろま》り、|極《きは》まり、|気形《きけい》|透明《とうめい》にして|天体《てんたい》|地体《ちたい》を|霊的《れいてき》に|保有《ほいう》し、|支障《ししやう》なく|神人《しんじん》|充満《じゆうまん》し、|以《もつ》て|協心《けふしん》|戮力《りくりよく》し、|完全《くわんぜん》|無欠《むけつ》の|神政《しんせい》を|樹立《じゆりつ》する|至聖《しせい》|至厳《しげん》|至美《しび》|至清《しせい》の|日本国《にほんこく》といふ|事《こと》なり。
|鳥髪《とりかみ》の|地《ところ》とは、|十《たり》の|神《かみ》の|顕現地《けんげんち》と|云《い》ふ|事《こと》にして、|厳《いづ》の|御魂《みたま》、|瑞《みづ》の|御魂《みたま》が|経《たて》と|緯《よこ》との|神業《しんげふ》に|従事《じゆうじ》し、|天地《てんち》を|修斎《しうさい》し|玉《たま》ふ|神聖《しんせい》の|経綸地《けいりんち》といふことなり。|要《えう》するに|世界《せかい》を|大改良《だいかいりやう》せむ|為《た》めに|素盞嗚尊《すさのをのみこと》は|普《あまね》く|天下《てんか》を|経歴《けいれき》し、|終《つひ》に|地質学上《ちしつがくじやう》の|中心《ちうしん》なる|日本国《にほんこく》の|地《ち》の|高天原《たかあまはら》なる|至聖地《しせいち》に|降臨《かうりん》し|玉《たま》ひたるなり。|明治《めいぢ》|三十一年《さんじふいちねん》の|秋《あき》|八月《はちぐわつ》に、|瑞《みづ》の|御魂《みたま》の|神代《かむしろ》として|高座山《たかくらやま》より|神退《かむやら》ひに|退《やら》はれて|綾部《あやべ》の|聖地《せいち》に|降《くだ》りたるは、|即《すなは》ち|素盞嗚尊《すさのをのみこと》が、|一人《ひとり》の|選《えら》まれたる|神主《かむぬし》に|憑依《ひようい》し|給《たま》ひて、|神世開祖《よはね》の|出現地《しゆつげんち》に|参上《まゐのぼ》りて|神《かみ》の|経綸地《けいりんち》たることを|感知《かんち》されたるも|同様《どうやう》の|意味《いみ》なり。|古事記《こじき》の|預言《よげん》は|古今《ここん》|一貫《いつくわん》、|毫末《がうまつ》も|変異《へんい》なく、|且《か》つ|謬《あやま》りなき|事《こと》を|実証《じつしよう》し|得《う》るなり。
『|此《この》|時《をり》しも|箸《はし》|其《そ》の|河《かは》より|流《なが》れ|下《くだ》りき』
【ハシ】の|霊返《たまかへ》しは【ヒ】なり。【ヒ】は|大慈《だいじ》|大悲《だいひ》の|極《きは》みなり。【ハシ】の|霊返《たまかへ》しの【ヒ】なるもの、【ヒノカハカミ】より|流《なが》れ|来《き》たると|云《い》ふ|明文《めいぶん》は|実《じつ》に|深遠《しんゑん》なる|意義《いぎ》の|包含《はうがん》されあるものなり。|又《また》|箸《はし》は|凡《すべ》てを|一方《いつぱう》に|渡《わた》す|活用《くわつよう》あるものにして、|川《かは》に|架《か》する|橋《はし》も、|食物《しよくもつ》を|口内《こうない》へ|渡《わた》す|箸《はし》も【ハシ】の|意味《いみ》に|於《おい》ては|同一《どういつ》なり。|悪《あく》を|去《さ》り|善《ぜん》に|遷《うつ》らしむる|神《かみ》の|教《をしへ》の【ハシ】なり。|暗黒《あんこく》|社会《しやくわい》をして|光明《くわうみやう》|社会《しやくわい》に|改善《かいぜん》せしむる|神教《しんけう》も【ハシ】なり。|故《ゆゑ》に|御神諭《ごしんゆ》にも、|綾部《あやべ》の|大本《おほもと》は|世界《せかい》の|大橋《おほはし》であるから、|此《この》|大橋《おほはし》を|渡《わた》らねば、|何《なに》も|分《わか》りは|致《いた》さむぞよ|云々《うんぬん》とあるも、|改過遷善《かいくわせんぜん》、|立替《たてかへ》|立直《たてなほ》しの|神教《しんけう》の|意味《いみ》なり。その|箸《はし》は|肥《ひ》の|河《かは》より|流《なが》れ|下《くだ》りきとは、|斯《かか》る|立派《りつぱ》な|蒼生《さうせい》|救済《きうさい》の|神教《しんけう》も、|邪神《じやしん》の|為《ため》に|情無《なさけな》くも|流《なが》し|捨《す》てられ、|日《ひ》に|日《ひ》に|神威《しんゐ》を|降《おと》しゆく|事《こと》の|意味《いみ》なり。|是《これ》を|大本《おほもと》の|出来事《できごと》に|徴《ちよう》して|見《み》るに、|去《さ》る|明治《めいぢ》|三十一年《さんじふいちねん》に|瑞《みづ》の|御魂《みたま》の|神代《かむしろ》として|十神《とりかみ》の|聖地《せいち》に|降《くだ》りたる|神柱《かむばしら》を、|某《ぼう》|教会《けうくわい》や|信者《しんじや》が|中《なか》を|遮《さへぎ》り、|以《もつ》て|厳《いづ》の|御魂《みたま》、|瑞《みづ》の|御魂《みたま》の|合致的《がつちてき》|神業《しんげふ》を|妨害《ばうがい》し、|瑞霊《ずゐれい》の|神代《かむしろ》を|追返《おひかへ》し、|彼等《かれら》の|徒党《とたう》が|教祖《けうそ》を|看板《かんばん》として|至厳《しげん》|至重《しちよう》なる|神教《しんけう》を|潜《ひそ》め|隠《かく》し、|某《ぼう》|教会《けうくわい》を|開設《かいせつ》したる|如《ごと》き|状態《じやうたい》を|指《さ》して『ハシ|其《そ》の|河《かは》より|流《なが》れ|下《くだ》りき』といふなり。
『|於是《ここに》|須佐之男命《すさのをのみこと》|其《そ》の|河上《かはかみ》に|人《ひと》|有《あ》りけりとおもほして|尋《たづ》ね|上《のぼ》りて|往《いで》まししかば|老夫《おきな》と|老女《おみな》と|二人《ふたり》|在《あ》りて|童女《おとめ》を|中《なか》に|置《お》きて|泣《な》くなり』
|茲《ここ》に|顕幽《けんいう》|両界《りやうかい》の|救世主《きうせいしゆ》たる|須佐之男命《すさのをのみこと》は、|肥《ひ》の|河上《かはかみ》なる|日本国《にほんこく》の|中心《ちうしん》、|地《ち》の|高天原《たかあまはら》に|神人《しんじん》|現《あら》はれ、|世界《せかい》|経綸《けいりん》の|本源地《ほんげんち》|有《あ》りと|御考《おかんが》へになり|尋《たづ》ねて|御上《おあが》りありしが、|変性男子《へんじやうなんし》の|身魂《みたま》|現《あら》はれて、|国家《こくか》の|騒乱《じようらん》|状態《じやうたい》を|治《をさ》めむと|血涙《けつるい》を|吐《は》き|乍《なが》ら|昼夜《ちうや》の|区別《くべつ》なく、|世人《せじん》を|教戒《けうかい》しつつありしなり。|二人《ふたり》といふ|事《こと》は、|艮《うしとら》の|金神《こんじん》|様《さま》の|男子《なんし》の|御魂《みたま》と、|教祖《けうそ》|出口《でぐち》|直子《なほこ》|刀自《とじ》の|女子《によし》の|身魂《みたま》とが|一《ひと》つに|合体《がつたい》して|神業《しんげふ》に|従事《じゆうじ》し|玉《たま》へると|同《おな》じ|意義《いぎ》なり。【ヒト】とは|霊《れい》の|帰宿《きしゆく》する|意義《いぎ》で|人《ひと》の|肉体《にくたい》に|宇宙《うちう》の|神霊《しんれい》|憑宿《ひようしゆく》して|天地《てんち》の|経綸《けいりん》を|遂行《すゐかう》し|玉《たま》ふ、|神《かみ》の|生宮《いきみや》の|意《い》なり。|老夫《おきな》と|老女《おみな》と|二人《ふたり》とあるは|女姿男霊《によしだんれい》の|神人《しんじん》、|出口《でぐち》|教祖《けうそ》の|如《ごと》き|神人《しんじん》を|意味《いみ》するなり。
『|童女《おとめ》を|中《なか》に|置《お》きて|泣《なく》なり』とは【オトメ】は|男《を》と|女《め》の|意味《いみ》にして、|世界中《せかいぢう》の|老若男女《らうにやくなんによ》を|云《い》ふ。|又《また》|老《お》と|若《め》ともなり、|現在《げんざい》の|世界《せかい》の|人民《じんみん》を|称《しよう》して|老若《おとめ》|男女《をとめ》と|云《い》ふ。|霊界《れいかい》にては|国常立大神《くにとこたちのおほかみ》、|顕界《けんかい》にては|神世《しんせい》|開祖《かいそ》|出口《でぐち》|直子《なほこ》|刀自《とじ》の|老夫《おきな》と|老女《おみな》とが、|世界《せかい》の|人民《じんみん》の|身魂《みたま》の、|日《ひ》に|月《つき》に|邪神《じやしん》の|為《ため》に|汚《けが》され|亡《ほろ》ぼされむとするを|見《み》るに|忍《しの》びず、|手《て》を|尽《つく》して|足《あし》を|運《はこ》びて|救助《きうじよ》せむと|艱難辛苦《かんなんしんく》を|嘗《な》めさせられ、|天地《てんち》の|中《なか》に|立《た》ちて|号泣《がうきふ》し|給《たま》ふことを、|童女《おとめ》を|中《なか》に|置《お》きて|泣《な》くなりと|云《い》ふなり。
|亦《また》|神《かみ》の|御眼《おんめ》より|御覧《ごらん》ある|時《とき》は|世界《せかい》の|凡《すべ》ての|人間《にんげん》は、|神《かみ》の|童子《むすこ》なり|女子《むすめ》なり。|故《ゆゑ》に|世界《せかい》の|人民《じんみん》は|皆《みな》|神《かみ》の|童女《こども》なる|故《ゆゑ》、|人民《じんみん》の|親《おや》がその|生《う》みし|子《こ》を|思《おも》ふ|如《ごと》くに、|神《かみ》は|人民《じんみん》の|為《ため》に|昼夜《ちうや》|血《ち》を|吐《は》く|思《おも》ひを|致《いた》して|心配《しんぱい》を|致《いた》して|居《を》るぞよ、と|御神諭《ごしんゆ》に|示《しめ》させ|給《たま》へる|所以《ゆゑん》なり。|亦《また》【オトメ】の|言霊《ことたま》を|略解《りやくかい》する|時《とき》は、
【オ】は|親《おや》の|位《くらゐ》であり、|親子《しんし》|一如《いちによ》にして、|大地球《だいちきう》を|包《つつ》む|活用《くわつよう》であり。
【ト】は|十全治平《じふぜんぢへい》にして、|終始一貫《しうしいつくわん》の|活用《くわつよう》であり。
【メ】は|世《よ》を|透見《とうけん》し、|内《うち》に|勢力《せいりよく》を|蓄《たくは》へて|外面《ぐわいめん》に|露《あら》はさざる|意義《いぎ》なり。
|之《これ》を|約《つづ》むる|時《とき》は、|日本《にほん》|固有《こいう》の|日本魂《やまとだましひ》の|本能《ほんのう》にして、|花《はな》も|実《み》もある|神人《しんじん》の|意《い》なり。
『|汝等《いましたち》は|誰《た》ぞと|問《と》ひ|賜《たま》へば、|其《そ》の|老夫《おきな》|僕《あれ》は|国津神《くにつかみ》|大山津見神《おほやまづみのかみ》の|子《こ》なり、|僕《あ》が|名《な》は|足名椎《あしなづち》、|妻《め》が|名《な》は|手名椎《てなづち》、|女《むすめ》が|名《な》は|櫛名田比売《くしなだひめ》と|謂《まを》すと|答《まを》す』
|明治《めいぢ》|三十一年《さんじふいちねん》の|秋《あき》|瑞《みづ》の|御魂《みたま》の|神代《かむしろ》に|須佐之男神《すさのをのかみ》|神懸《かむがかり》したまひて|綾部《あやべ》の|地《ち》の|高天原《たかあまはら》に|降《くだ》りまし、|老夫《おきな》と|老女《おとめ》の|合体神《がつたいしん》なる|出口《でぐち》|教祖《けうそ》に|対面《たいめん》して|汝等《いましら》は|誰《たれ》ぞと|問《と》ひたまひし|時《とき》に、|厳《いづ》の|御魂《みたま》の|神代《かむしろ》なる|教祖《けうそ》の|口《くち》を|藉《か》りて|僕《あ》は|国津神《くにつかみ》の|中心神《ちうしんじん》にして|大山住《おほやまずみ》の|神《かみ》|也《なり》。|神《かみ》の|中《なか》の|神《かみ》にして|天津神《あまつかみ》の|足名椎《あしなづち》となり|手名椎《てなづち》となりて、|天《あめ》の|下《した》の【オトメ】を|平《たひら》かに|安《やす》らかに|守《まも》り|助《たす》けむとして、|七年《ななとせ》の|昔《むかし》より|肥《ひ》の|河上《かはかみ》に|御禊《みそぎ》の|神事《しんじ》を|仕《つか》へ|奉《まつ》れり。|又《また》この|肉体《にくたい》の|女《むすめ》の|名《な》は|櫛名田姫《くしみこ》と|申《まを》し、|本守護神《ほんしゆごじん》は|禁闕要《きんかつかね》の|大神《おほかみ》なりと|謂《まを》し|玉《たま》ひしは、|以上《いじやう》の|御本文《ごほんもん》の|実現《じつげん》なり。【クシナダ】の
【クシ】は|神智《しんち》|赫々《くわくくわく》として|万事《ばんじ》に|抜目《ぬけめ》なく|一切《いつさい》の|盤根錯節《ばんこんさくせつ》を|料理《れうり》し、|快刀乱麻《くわいたうらんま》を|断《た》つの|意義《いぎ》なり。
【ナ】は、|万物《ばんぶつ》を|兼《か》ね|統《す》べ、|能《よ》く|行届《ゆきとど》きたる|思《おも》ひ|兼《かね》の|神《かみ》の|活用《くわつよう》なり。
【ダ】は、|麻柱《あななひ》の|極府《きよくふ》にして|大造化《だいざうくわ》の|器《うつは》であり、|対偶力《たいぐうりよく》であり、|主従《しゆじゆう》|師弟《してい》|夫妻《ふさい》|等《とう》の|縁《えん》を|結《むす》ぶ|神《かみ》なり。
|要《えう》するに、|櫛名田姫《くしなだひめ》の|守護《しゆご》|厚《あつ》き|天壌無窮《てんじやうむきう》の|神国《しんこく》、|大日本国土《だいにほんこくど》の|国魂神《くにたまがみ》にして、|神諭《しんゆ》の|所謂《いはゆる》|大地《だいち》の|金神《こんじん》なり。
『|亦《また》、|汝《いまし》の|哭《なく》|由《ゆゑ》は|何《なん》ぞと|問《と》ひたまへば、|吾《あ》が|女《むすめ》は|八稚女《やおとめ》|在《あ》りき。|是《ここ》に|高志《こし》の|八岐遠呂智《やまたのをろち》なも、|年毎《としごと》に|来《き》て|喫《く》ふなる。|今《いま》その|来《き》ぬべき|時《とき》なるが|故《ゆゑ》に|泣《な》くと|答白《まを》す』
|以上《いじやう》の|御本文《ごほんもん》を|言霊学《ことたまがく》の|上《うへ》より|解約《かいやく》すると、|吾《わ》が|守護《しゆご》する|大地球上《だいちきうじやう》に|生息《せいそく》する、|息女《むすめ》|即《すなは》ち|男子《をのこ》や|女子《をみな》は、|八男《やを》と|女《め》と|云《い》つて、|種々《しゆじゆ》の|沢山《たくさん》な|神《かみ》の|御子《みこ》たる|人種《じんしゆ》|民族《みんぞく》が|有《あ》るが、|年《とし》と|共《とも》に|人民《じんみん》の|霊性《れいせい》は、|鬼《おに》|蛇《をろち》の|精神《せいしん》に|悪化《あくくわ》し|来《きた》り|至粋《しすゐ》|至醇《しじゆん》の|神《かみ》の|分霊《ぶんれい》を|喫《く》ひ|破《やぶ》られて|了《しま》つた。|高志《こし》の|八岐《やまた》の|遠呂智《をろち》と|云《い》ふ|悪神《わるがみ》の|口《くち》や|舌《した》の|剣《つるぎ》に|懸《かか》つて|歳月《としつき》と|共《とも》に|天《てん》を|畏《おそ》れず|地《ち》の|恩恵《めぐみ》を|忘《わす》れ、|不正無業《ふせいぶげふ》の|行動《かうどう》を|為《な》すものばかり、|人民《じんみん》の|八分《はちぶ》|迄《まで》は、|皆《みな》|悪神《あくがみ》の|容器《いれもの》に|為《さ》れて、|身体《からだ》も|霊魂《みたま》も、|酔生夢死《すゐせいむし》|体主霊従《たいしゆれいじう》に|落下《らくか》し、|猶《なほ》も|変《へん》じて|八岐《やまた》の|遠呂智《をろち》の|尾《を》となり|盲従《まうじゆう》を|続《つづ》けて、|天下《てんか》の|騒乱《じようらん》、|国家《こくか》の|滅亡《めつぼう》を|来《きた》しつつ、|最後《さいご》に|残《のこ》る|神国《しんこく》の|人民《じんみん》の|身魂《みたま》までも、|喫《く》ひ|破《やぶ》り|亡《ほろ》ぼさむとする|時機《じき》が|迫《せま》つて|来《き》たので|如何《いか》にしてか|此《こ》の|世界《せかい》の|惨状《さんじやう》を|救《すく》ひ|助《たす》け、|天津《あまつ》|大神《おほかみ》に|申上《まをしあ》げむと、|心《こころ》を|千々《ちぢ》に|砕《くだ》き|天下《てんか》|国家《こくか》の|前途《ぜんと》を|思《おも》ひはかりて、|泣《な》き|悲《かな》しむなりと|答《こた》へ|玉《たま》うたと|曰《い》ふことなり。
|高志《こし》といふ|意義《いぎ》は、|遠《とほ》き|海《うみ》を|越《こ》した|遠方《ゑんぱう》の|国《くに》であつて、|日本《にほん》からいへば|支那《しな》や|欧米《おうべい》|各国《かくこく》のことなり。|海外《かいぐわい》より|種々雑多《しゆじゆざつた》の|悪思想《あくしさう》が|渡来《とらい》する。|手《て》を|替《か》へ|品《しな》を|替《か》へて、|宗教《しうけう》なり、|政治《せいぢ》なり、|教育《けういく》なりが|盛《さか》んに|各時代《かくじだい》を|通《つう》じて、|侵入《しんにふ》して|来《きた》り|敬神《けいしん》|尊皇《そんのう》|報国《はうこく》の|至誠《しせい》を|惟神的《かむながらてき》に|具有《ぐいう》する、|日本魂《やまとだましひ》を|混乱《こんらん》し、|滅絶《めつぜつ》せしめつつある|状態《じやうたい》を|称《しよう》して、|高志《こし》の|八岐《やまた》の|遠呂智《をろち》の|喫《く》ふなると|云《い》ふなり。|亦《また》|外国《ぐわいこく》の|天地《てんち》は、|数千年来《すうせんねんらい》|此《この》|悪神《わるがみ》の|計画《けいくわく》に|誑《たぶ》らかされて、|上下《じやうか》|無限《むげん》の|混乱《こんらん》を|来《きた》し、|国家《こくか》を|亡《ほろ》ぼし|来《き》たりしが、|彼《かれ》|今猶《いまなほ》|其《その》|計画《けいくわく》を|盛《さか》んに|続行《ぞくかう》しつつ、|遂《つひ》に|日本《にほん》|神国《しんこく》の|土地《とち》まで|侵入《しんにふ》し、|天津神《あまつかみ》の|直裔《ちよくえい》なる|日本《やまと》オトメの|身魂《みたま》まで、|全部《ぜんぶ》|喫《く》ひ|殺《ころ》さむとする、それが|最近《さいきん》に|迫《せま》つて|居《ゐ》る、|只《ただ》|一《ひと》つ|神国《しんこく》|固有《こいう》の|日本魂《やまとだましひ》なるオトメが|後《あと》に|遺《のこ》つた|許《ばか》りである。|之《これ》を|悪神《あくがみ》の|大邪霊《だいじやれい》に|滅《ほろ》ぼされては、|折角《せつかく》|天祖《てんそ》|国祖《こくそ》の|開《ひら》き|玉《たま》へる|大地球《だいちきう》を|救《すく》ふ|事《こと》は|出来《でき》ない。どうかして|之《これ》を|助《たす》けたいと|思《おも》つて|艱難《かんなん》|辛苦《しんく》を|嘗《な》めて|居《を》るのである。|実《じつ》に|泣《な》くにも|泣《な》かれぬ、|天下《てんか》の|状態《じやうたい》であると|云《い》つて、|之《これ》を|根本的《こんぽんてき》に|救《すく》ふ|事《こと》は|出来《でき》ない。どうして|良《よ》いかと|途方《とはう》に|暮《く》れ、|天地《てんち》に|向《むか》つて|号泣《がうきふ》して|居《を》りますとの、|変性男子《へんじやうなんし》の|身魂《みたま》の|御答《おこた》へなりしなり。
『|其《そ》の|形《かたち》は|如何《いか》さまにかと|問《と》ひたまへば、|彼《それ》が|目《め》は|赤加賀知《あかかがち》なして、|身《み》|一《ひと》つに|頭《かしら》|八《や》つ|尾《を》|八《や》つあり。|亦《また》|其《そ》の|身《み》に|苔《こけ》、|及《およ》び|桧《ひ》、すぎ|生《お》ひ、|其《そ》の|長《なが》さ|渓《たに》|八谷《やたに》、|峡八尾《をやを》を|渡《わた》りて、|其《そ》の|腹《はら》を|見《み》れば、|悉《ことごと》に|常《いつも》|血《ち》|爛《ただ》れたりと|答白《まを》す。(|此《ここ》に|赤加賀知《あかかがち》といへるは、|今《いま》のほほづきなり)』
そこで|其《その》|形《かたち》は|如何《いか》さまにかと、|問《と》ひたまへばと|云《い》ふ|意義《こころ》は、|八岐《やまた》の|遠呂智《をろち》なす|悪思想《あくしさう》の|影響《えいきやう》は|如何《いか》なる|状態《じやうたい》に|形《あら》はれ|居《を》るやとの|須佐之男命《すさのをのみこと》の|御尋《おたづ》ねなり。
そこで|変性男子《へんじやうなんし》の|身魂《みたま》なる|老夫《おきな》と|老女《おとめ》は、|彼《かれ》|悪神《わるがみ》の|経綸《けいりん》の|事実上《じじつじやう》に|顕現《けんげん》したる|大眼目《だいがんもく》は、|赤加賀知《あかかがち》なして|身《み》|一《ひと》つに、|頭《かしら》|八《や》つ|尾《を》|八《や》つありと|云《い》つて、|悪神《わるがみ》の|本体《ほんたい》は|一《ひと》つであるが、その|真意《しんい》を|汲《く》んで、|世界《せかい》|覆滅《ふくめつ》の|陰謀《いんぼう》に|参加《さんか》して|居《を》るものは、|八人《はちにん》の|頭株《あたまかぶ》であつて、|此《こ》の|八《や》つの|頭株《あたまかぶ》は、|全地球《ぜんちきう》の|何処《どこ》にも|大々的《だいだいてき》に|計画《けいくわく》を|進《すす》めてをるのである。|政治《せいぢ》に、|経済《けいざい》に、|教育《けういく》に、|宗教《しうけう》に、|実業《じつげふ》に、|思想上《しさうじやう》に、|其《その》|他《た》の|社会的《しやくわいてき》|事業《じげふ》に|対《たい》して|陰密《いんみつ》の|間《あひだ》に、|一切《いつさい》の|破壊《はくわい》を|企《くわだ》てて|居《ゐ》るのである。|就《つい》ては、|尾《を》の|位地《ゐち》にある、|悪神《わるがみ》の|無数《むすう》の|配下等《はいから》が、|各方面《かくはうめん》に|盲動《まうどう》して|知《し》らず|識《し》らずに、|一人《いちにん》の|頭目《とうもく》と、|八《や》つの|頭《かしら》の|世界的《せかいてき》|大陰謀《だいいんぼう》に|参加《さんか》し、|終《つひ》には|既往《きわう》|五年《ごねん》に|亘《わた》つた|世界《せかい》の|大戦争《だいせんそう》などを|惹起《じやくき》せしめ、|清《しん》|露《ろ》|其《その》|他《た》の|主権者《しゆけんしや》を|亡《ほろ》ぼし、|労働者《らうどうしや》を|煽動《せんどう》して、|所在《あらゆる》|世界《せかい》の|各方面《かくはうめん》に、|大惑乱《だいわくらん》を|起《おこ》しつつあるのである。|赤加賀知《あかかがち》とは|砲煙弾雨《はうえんだんう》、|血河死山《けつかしざん》の|惨状《さんじやう》や、|赤化《せきくわ》|運動《うんどう》の|実現《じつげん》である。|実《じつ》に|現代《げんだい》は|八岐《やまた》の|大蛇《をろち》が、いよいよ|赤加賀知《あかかがち》の|大眼玉《おほめだま》をムキ|出《だ》した|所《ところ》であり、|既《すで》に|世界中《せかいぢう》の|七《なな》【オトメ】を|喫《く》ひ|殺《ころ》し、|今《いま》や|最後《さいご》に|肥《ひ》の|河《かは》なる、|日本《にほん》までも|現界《げんかい》|幽界《いうかい》|一時《いちじ》に|喫《く》はむとしつつある|処《ところ》である。|要《えう》するに|八《や》つ|頭《がしら》とは、|英《えい》とか、|米《べい》とか、|露《ろ》とか、|仏《ふつ》とか、|独《どく》とか、|伊《い》とかの|強国《きやうこく》に|潜伏《せんぷく》せる、|現代的《げんだいてき》|大勢力《だいせいりよく》の|有《あ》る、|巨魁《きよくわい》の|意味《いみ》であり、|八《や》つ|尾《を》とは、|頭《かしら》に|盲従《まうじゆう》せる|数多《あまた》の|部下《ぶか》の|意《い》である。|頭《かしら》も|尾《を》も|寸断《すんだん》せなくては|成《な》らぬ|時機《じき》となりつつあるなり。
『|亦《また》|其《その》|身《み》に|苔《こけ》|及《およ》び|桧《ひ》すぎ|生《お》ひ、|其《その》|長《なが》さ、|渓八谷《たにやたに》、|峡八尾《をやを》を|渡《わた》りて|其《そ》の|腹《はら》を|見《み》れば、|悉《ことごと》に|常《いつ》も|血《ち》|爛《ただ》れりと|答白《まを》す』といふ|意味《いみ》は|地球上《ちきうじやう》の|各国《かくこく》は|皆《みな》この|悪神《あくがみ》|蛇神《だしん》の|為《ため》に、|山《やま》の|奥《おく》も|水《みづ》の|末《すゑ》も|暴《あら》され、|不穏《ふおん》の|状態《じやうたい》に|陥《おちい》り、|終《つひ》には|尼港《にかう》|事件《じけん》の|如《ごと》く、|暉春《こんしゆん》|事件《じけん》の|如《ごと》く、|染血《せんけつ》|虐殺《ぎやくさつ》の|憂目《うきめ》に|人類《じんるゐ》が|遇《あ》つて、|苦悶《くもん》して|居《ゐ》ることの|形容《けいよう》である。また|苔《こけ》と|云《い》ふ|事《こと》は、|世界《せかい》|各国《かくこく》の|下層民《かそうみん》の|事《こと》であり|桧《ひ》と|云《い》ふ|事《こと》は|上流《じやうりう》|社会《しやくわい》の|人民《じんみん》であり、【すぎ】と|云《い》ふ|事《こと》は|国家《こくか》の|中堅《ちうけん》たる|中流《ちうりう》|社会《しやくわい》である。|要《えう》するに|上中下《じやうちうげ》の|三流《さんりう》の|人民《じんみん》が|常《つね》に|不安《ふあん》の|念《ねん》に|駆《か》られて|居《を》る|事《こと》であつて、|実《じつ》に|六親眷属《ろくしんけんぞく》|相《あひ》|争《あらそ》ひ、|郷閭《きやうりよ》|相《あひ》|鬩《せめ》ぎ|戦《たたか》ふ、|悲惨《ひさん》なる|世界《せかい》の|現状《げんじやう》を|明答《めいたふ》されたといふ|事《こと》である。|御神諭《ごしんゆ》に、『|今《いま》の|人民《じんみん》は|外国《ぐわいこく》の、|悪神《あくがみ》の|頭《かしら》と|眷属《けんぞく》とに、|神《かみ》から|貰《もら》うた|結構《けつこう》な|肉体《にくたい》と|御魂《みたま》を|自由自在《じいうじざい》に|汚《けが》されて|了《しま》うて、|畜生《ちくしやう》|餓鬼《がき》の|性来《しやうらい》になりて|居《を》るから、|慾《よく》に|掛《か》けたら、|親《おや》とでも|兄弟《きやうだい》とでも、|公事《くじ》を|致《いた》すやうな|悪魔《あくま》の|世《よ》になりて|居《を》るが、|是《これ》では|世《よ》は|続《つづ》いては|行《ゆ》かぬから、|天《てん》からは|御三体《ごさんたい》の|大神様《おほかみさま》がお|降《くだ》り|遊《あそ》ばすなり、|地《ち》からは、|国常立尊《くにとこたちのみこと》が|変性男子《へんじやうなんし》と|現《あら》はれて、|新《さら》つの|世《よ》に|立替《たてかへ》|立直《たてなほ》して、|松《まつ》の|五六七《みろく》の|世《よ》に|致《いた》して、|世界《せかい》の|人民《じんみん》を|歓《よろこ》ばし、|万劫末代《まんごまつだい》|勇《いさ》んで|暮《くら》す|神国《しんこく》の|世《よ》に|替《か》へて|了《しま》はねばならぬから、|艮《うしとら》の|金神《こんじん》は、|三千年《さんぜんねん》の|間《あひだ》|長《なが》い|経綸《しぐみ》を|致《いた》して、|時節《じせつ》を|待《ま》ちて|居《を》りたぞよ。|八《や》つ|尾《を》|八《や》つ|頭《かしら》の|守護神《しゆごじん》を、|今度《こんど》はさつぱり|往生《わうじやう》いたさすぞよ』|云々《うんぬん》と|明示《めいじ》されてあるのも、|要《えう》はこの|御本文《ごほんぶん》の|大精神《だいせいしん》に|合致《がつち》して|居《ゐ》る|一大《いちだい》|事実《じじつ》である。
『|爾《かれ》、|速須佐之男命《はやすさのをのみこと》、|其《そ》の|老夫《おきな》に|是《これ》|汝《いまし》の|女《むすめ》ならば、|吾《われ》に|奉《たてまつ》らむやと|詔《の》たまふに、|恐《かしこ》けれど|御名《みな》を|覚《さと》らずと|答白《まを》せば、|吾《あ》は|天照大御神《あまてらすおほみかみ》の|同母男《いろを》なり。|故《かれ》|今《いま》|天《あめ》より|降《くだ》り|坐《まし》つと|答《こた》へたまひき。|爾《ここ》に|足名椎《あしなづち》、|手名椎《てなづち》、|然坐《しかま》さば|恐《かしこ》し|立奉《たてまつ》らむと|白《まを》しき』
|右《みぎ》|御本文《ごほんもん》の|老夫《おきな》にとあるは|艮《うしとら》の|金神《こんじん》|国常立尊《くにとこたちのみこと》|神霊《しんれい》に|対《たい》しての|御言《みこと》である。また|足名椎《あしなづち》|手名椎神《てなづちのかみ》と|並《なら》び|称《しよう》せるは、|肉体《にくたい》は|出口《でぐち》|直子《なほこ》であつて|手名椎《てなづち》の|神《かみ》であり|霊魂《みたま》は|国常立尊《くにとこたちのみこと》の|足名椎《あしなづち》の|意《い》である。
|茲《ここ》に|天《あめ》より|降《くだ》り|給《たま》へる|須佐之男命《すさのをのみこと》は、|老夫《おきな》なる|国常立尊《くにとこたちのみこと》の|神霊《しんれい》に|対《たい》し|玉《たま》ひて、|是《これ》は|汝《いまし》の|守護《しゆご》し|愛育《あいいく》する|所《ところ》の、|至粋《しすゐ》|至醇《しじゆん》の|神《かみ》の|御子《みこ》たる|優《うるは》しき|人民《じんみん》であるなれば、|吾《あれ》に|是《こ》の|女《むすめ》の|如《ごと》き|可憐《かれん》なる|万民《ばんみん》の|救済《きうさい》を|一任《いちにん》せずやと、|御尋《おたづ》ねになつた|事《こと》である。そこで|国常立尊《くにとこたちのみこと》は|実《じつ》に|恐縮《きようしゆく》の|至《いた》りではありますが、|貴方《あなた》は|如何《いか》なる|地位《ちゐ》と、|御職掌《ごしよくしやう》の|在《ま》す|神《かみ》で|居《ゐ》らせらるるや。|御地位《おんちゐ》と|御職名《ごしよくめい》とを|覚《し》らない|以上《いじやう》は|御一任《ごいちにん》する|事《こと》は|出来《でき》ませぬと|白《まを》し|給《たま》ひければ、|大神《おほかみ》は|至極《しごく》|尤《もつと》もなる|御尋《おたづ》ねである。|然《さ》らば|吾《あ》が|名《な》を|申《まを》し|上《あ》げむ、|吾《あ》は|天津《あまつ》|高御座《たかみくら》に|鎮《しづ》まり|坐《ゐ》ます、|掛巻《かけまく》も|畏《かしこ》き|天照大御神《あまてらすおほみかみ》の|同母弟《どうばてい》であつて、|大海原《おほうなばら》を|知食《しろしめ》すべき|職掌《しよくしやう》である。されば|今《いま》|世界《せかい》の|目下《もくか》の|惨状《さんじやう》を|黙視《もくし》するに|忍《しの》びず、|万類《ばんるゐ》|救護《きうご》の|為《ため》に、|地上《ちじやう》に|降《くだ》り|来《き》たのである。|故《ゆゑ》に|国津神《くにつかみ》たる|汝《いまし》の|治《をさ》むる|万類《ばんるゐ》|万民《ばんみん》を|救《すく》はむが|為《ため》に、|吾《あれ》に|其《そ》の|職掌《しよくしやう》を|一任《いちにん》されよ|然《しか》らば|汝《いまし》と|共《とも》に|八岐《やまた》の|大蛇《をろち》の|害《がい》を|除《のぞ》いて|天下《てんか》を|安《やす》|国《くに》と|平《たひら》けく|進《すす》め|開《ひら》かむと|仰《あふ》せになつたのである。|茲《ここ》に|変性男子《へんじやうなんし》の|身魂《みたま》は、|大変《たいへん》に|畏《かしこ》み|歓《よろこ》び|玉《たま》うて、|左様《さやう》に|至尊《しそん》の|神様《かみさま》に|坐《まし》ますならば|吾《あが》|女《むすめ》なる|可憐《かれん》なる|人民《じんみん》を|貴神《あなた》に|御預《おあづ》け|申《まを》すと、|仰《あふ》せられたのである。|是《これ》は|去《さ》る|明治《めいぢ》|三十一年《さんじふいちねん》の|秋《あき》に|変性男子《へんじやうなんし》と|変性女子《へんじやうによし》との|身魂《みたま》が|二柱《ふたはしら》|揃《そろ》うて|神懸《かむがか》りがあつた|時《とき》の|御言《みこと》であつて、|実《じつ》に|重大《ぢうだい》なる|意義《いぎ》が|含《ふく》まれて|在《あ》るのである。|然《しか》し|乍《なが》ら|是《これ》は|神《かみ》と|神《かみ》との|問答《もんだふ》でありまして、|人間《にんげん》の|肉体上《にくたいじやう》に|関《くわん》する|問題《もんだい》ではないから、|読者《どくしや》に|誤解《ごかい》の|無《な》いやうに|御注意《ごちうい》|願《ねが》つておく|次第《しだい》である。
『|爾《かれ》|速須佐之男命《はやすさのをのみこと》、|乃《すなは》ち、|其《そ》の|童女《むすめ》を|湯津爪櫛《ゆつつまぐし》に|取成《とりな》して、|御角髪《みみづら》に|刺《さ》して、|其《そ》の|足名椎《あしなづち》、|手名椎神《てなづちのかみ》に|告《の》りたまはく、|汝等《いましたち》、|八塩折《やしほをり》の|酒《さけ》を|醸《か》み、|且《また》、|垣《かき》を|造《つく》り|迴《もとほ》し、その|垣《かき》に|八《や》つの|門《かど》を|造《つく》り、|門毎《かどごと》に|八《や》つの|棧敷《さじき》を|結《ゆ》ひ、その|棧敷《さじき》|毎《ごと》に|酒船《さかぶね》を|置《お》きて|船《ふね》|毎《ごと》にその|八塩折《やしほをり》の|酒《さけ》を|盛《も》りて、|待《ま》ちてよと、のりたまひき』
|湯津爪櫛《ゆつつまぐし》の|言霊《ことたま》を|略解《りやくかい》すれば、
【ユ】は、|天地《てんち》、|神人《しんじん》、|顕幽《けんいう》、|上下《じやうか》|一切《いつさい》を|真釣《まつり》|合《あは》せ、|国家《こくか》を|安寧《あんねい》に、|民心《みんしん》を|正直《しやうぢき》に|立直《たてなほ》す|大努力《だいどりよく》の|意《い》であり、
【ツ】は、|日《ひ》の|大神《おほかみ》の|御稜威《みいづ》を|信《しん》じ、|大金剛《だいこんがう》の|至誠心《しせいしん》を|振《ふ》り|起《おこ》し、|言心行《げんしんかう》|一致《いつち》の|貫徹《くわんてつ》を|期《き》し、|以《もつ》て|神霊《しんれい》の|極力《きよくりよく》を|発揮《はつき》するの|意《い》である。
【ツ】は、|生成化育《せいせいくわいく》の|大本《たいほん》|合致《がつち》し、|大決断力《だいけつだんりよく》を|発揮《はつき》し、|実相《じつさう》|真如《しんによ》の|神民《しんみん》たりとの|意《い》である。
【マ】は、|人種中《じんしゆちう》の|第一位《だいいちゐ》たる|資格《しかく》を|保《たも》ち、|胸中《きやうちう》|常《つね》に|明《あきら》かにして|無為《むゐ》|円満《ゑんまん》なる|意《い》である。
【グ】は、|暗愚《あんぐ》を|去《さ》つて|賢明《けんめい》に|帰《き》し、|万事《ばんじ》|神助《しんじよ》を|得《え》て|意《い》の|如《ごと》く|物事《ものごと》|成功《せいこう》するの|意《い》である。
【シ】は、|信仰《しんかう》|堅《かた》く、|敬神《けいしん》|尊皇《そんのう》|報国《はうこく》の|忠良《ちうりやう》なる|臣民《しんみん》の|基台《もとゐ》なりとの|意《い》である。
|以上《いじやう》の|六《ろく》|言霊《げんれい》を|総合《そうがふ》する|時《とき》は、|霊主体従《れいしゆたいじゆう》の|真《しん》の|日本魂《やまとだましひ》を|発揮《はつき》せる|神《かみ》の|御子《みこ》と|立直《たてなほ》し|玉《たま》ふ、|神《かみ》の|経綸《けいりん》を|進《すす》むると|謂《ゐ》ふことである。
|御角髪《みみづら》の|言霊《ことたま》を|略解《りやくかい》すれば、
【ミ】は、|形体《けいたい》|具足《ぐそく》|成就《じやうじゆ》して、|日本《にほん》|神国《しんこく》の|神民《しんみん》たる|位《くらゐ》を|各自《かくじ》に|顕《あら》はし|定《さだ》めて|真実《しんじつ》を|極《きは》め、|以《もつ》て|瑞《みづ》の|御魂《みたま》に|合一《がふいつ》する|意《い》である。
【ミ】は、|◎《す》の|御威徳《ごゐとく》を|明《あきら》かに|覚知《かくち》し、|惟神《かむながら》の|大道《だいだう》を|遵奉《じゆんぽう》し|実行《じつかう》し、|以《もつ》て|玲瓏《れいろう》たる|玉《たま》の|如《ごと》き|身魂《みたま》と|成《な》るの|意《い》である。
【ツ】は、|神《かみ》の|分身《ぶんしん》|分霊《ぶんれい》として|天壌無窮《てんじやうむきう》に|真《しん》の|生命《せいめい》を|保全《ほぜん》し、|肉体《にくたい》としては|君国《くんこく》を|守《まも》り、|霊体《れいたい》としては|神《かみ》と|人民《じんみん》とを|助《たす》け|守《まも》るの|意《い》である。
【ラ】は、|言心行《げんしんかう》の|三事《さんじ》|完全《くわんぜん》に|実現《じつげん》し、|本末一貫《ほんまついつくわん》、|霊主体従《れいしゆたいじゆう》の|臣民《しんみん》と|成《な》りて、|自由自在《じいうじざい》に|本能《ほんのう》を|発揮《はつき》するの|意《い》である。
|以上《いじやう》の|四《し》|言霊《げんれい》を|総合《そうがふ》する|時《とき》は、|愈《いよいよ》|日本魂《やまとだましひ》の|実言《じつげん》|実行者《じつかうしや》となりて、|其《そ》の|霊魂《みたま》は|神《かみ》の|御列《みつら》に|加《くは》はるべき|真《しん》の|御子《みこ》と|成《な》りたる|意《い》である。
|要《えう》するに、|瑞《みづ》の|霊魂《みたま》なる|速須佐之男命《はやすさのをのみこと》は、|二霊《にれい》|一体《いつたい》なる|神政開祖《いづのみたま》の|神人《しんじん》より、|男《を》と|女《め》の|守護《しゆご》と|化育《くわいく》とを|一任《いちにん》され|一大《いちだい》|金剛力《こんがうりき》を|発揮《はつき》して、|本来《ほんらい》の|日本魂《やまとだましひ》に|立替《たてか》へ|立直《たてなほ》し、|更《さら》に|進《すす》んで|其《そ》の|実行者《じつかうしや》とし|賜《たま》ふた|事《こと》を『|其《そ》の【オトメ】を【ユツツマグシ】に|取成《とりな》して|御角髪《みみづら》に|刺《さ》して』と|言《い》ふのである。
|斯《かく》の|如《ごと》く、|天下《てんか》の|万民《ばんみん》の|身魂《みたま》の|改良《かいりやう》を|遊《あそ》ばして、|足名椎《あしなづち》、|手名椎《てなづち》の|御魂《みたま》に|御渡《おわた》しになるに|就《つい》ては、|相当《さうたう》の|歳月《さいげつ》を|要《えう》したのである。|或《あるひ》は|神徳《しんとく》を|以《もつ》てし、|或《あるひ》は|物質力《ぶつしつりよく》を|以《もつ》てし、|或《あるひ》は|自然力《しぜんりよく》を|以《もつ》てし、|或《あるひ》は|教戒《けうかい》を|以《もつ》てし、|慈愛《じあい》を|以《もつ》てし、|種々《しゆじゆ》の|御苦辛《ごくしん》を|嘗《な》めさせ|玉《たま》ふ|其《その》|神恩《しんおん》を|忘《わす》れては|成《な》らぬのである。そこで|速須佐之男命《はやすさのをのみこと》は、|足名椎《あしなづち》|手名椎《てなづち》なる|変性男子《へんじやうなんし》の|霊魂《みたま》に|対《むか》つて|告《の》り|給《たま》ふた|御言葉《おことば》は|左《さ》の|通《とほ》りである。|幸《さひは》ひ|残《のこ》れる【オトメ】は|斯《かく》の|如《ごと》く、|湯津爪櫛《ゆつつまぐし》に|取成《とりな》し、|御角髪《みみづら》に|刺《さし》て|立派《りつぱ》に|日本魂《やまとだましひ》を|造《つく》り|上《あ》げたと|云《い》ふ|事《こと》は、|全《まつた》く|天津神《あまつかみ》の|御霊徳《ごれいとく》と、|吾《あが》|御魂《みたま》の|活動《くわつどう》と、|汝《なが》|命《みこと》の|至誠《しせい》の|賜《たまもの》であるから、|第一《だいいち》に|天地《あめつち》|八百万《やほよろづ》の|神《かみ》に、|精選《せいせん》した|立派《りつぱ》な|美味《びみ》なる、|所謂《いはゆる》|八塩折《やしほをり》の|神酒《みき》を|醸造《ぜうざう》し、|且《か》つ|汚穢《をくわい》を|防《ふせ》ぐ|為《ため》に|清《きよ》らかな|瑞垣《みづがき》を|四方《よも》に|作《つく》り|廻《まは》して、|其《そ》の|垣《かき》|毎《ごと》に|祭壇《さいだん》を|設《まう》け(|八《や》つ|門《かど》)て、|祭壇《さいだん》|毎《ごと》に|祝詞座《のりとざ》を|拵《こしら》へ、|酒《さけ》を|甕《みか》の|戸《へ》|高《たか》|知《し》り|甕《みか》の|腹《はら》|満《み》て|並《なら》べて|神々《かみがみ》に|報恩《はうおん》|謝徳《しやとく》の|本義《ほんぎ》を|尽《つく》すべく、|詔《の》りたまふたのである。|凡《すべ》て|酒《さけ》と|云《い》ふものは、|大神《おほかみ》に|献《たてまつ》る|時《とき》は、|第一《だいいち》に|御神慮《ごしんりよ》を|和《やはら》げ|勇《いさ》ませ|歓《よろこ》ばせ|奉《たてまつ》る|結構《けつこう》な|供《そな》へ|物《もの》であるが、|体主霊従的《たいしゆれいじうてき》の|人間《にんげん》が|之《これ》を|飲《の》むと|決《けつ》して|碌《ろく》な|事《こと》は|出来《でき》ないのである。|同《おな》じ|種類《しゆるゐ》の|酒《さけ》でも、|人間《にんげん》は|御魂《みたま》|相応《さうおう》に、|種々《しゆじゆ》の|反応《はんおう》を|来《きた》すものであつて、|悪霊《あくれい》の|憑《かか》つた|人間《にんげん》が|呑《の》めば|直《ただ》ちに|言語《げんご》や、|動作《どうさ》や|精神《せいしん》が|悪《あく》の|性来《しやうらい》を|現《あら》はし、|且《か》つ|酔《よ》ひ|且《か》つ|狂《くる》ひ|乱《みだ》れ|暴《あば》れるものである。|或《あるひ》は|泣《な》くもの、|笑《わら》ふもの、|怒《いか》るもの、|妙《めう》な|処《ところ》へ|行《ゆ》きたくなるものなぞ、|種々雑多《しゆじゆざつた》に|変化《へんげ》して、|身魂《みたま》の|本性《ほんしやう》は|現《あら》はし、|吐《はい》たり|倒《たふ》れたり|苦《くる》しみ|悶《もだ》えたりするものである。|常《つね》に|至誠《しせい》|至実《しじつ》の|人《ひと》にして、|心魂《しんこん》の|下津岩根《したついはね》に|安定《あんてい》したものは、|仮令《たとへ》|酒《さけ》を|常《つね》に|得《え》|呑《の》まぬ|人《ひと》でも、|少々《せうせう》|位《くらゐ》|時《とき》に|臨《のぞ》んで|戴《いただ》いた|所《ところ》が、|決《けつ》して|前後《ぜんご》|不覚《ふかく》になつたり、|倒《たふ》れたり|苦《くる》しんだり、|動作《どうさ》や|言舌《げんぜつ》や|精神《せいしん》の|変乱《へんらん》するもので|無《な》く、|心中《しんちう》|益々《ますます》|壮快《さうくわい》を|覚《おぼ》え、|笑《ゑ》み|栄《さか》え|勇気《ゆうき》を|増《ま》し、|神智《しんち》を|発揮《はつき》するものである。|故《ゆゑ》に|酒《さけ》は|神様《かみさま》に|献《たてまつ》る|所《ところ》の|清浄《せいじやう》なる|美酒《びしゆ》と|雖《いへど》も、|心《こころ》の|醜悪《しうあく》なるものが|呑《の》む|時《とき》は、|忽《たちま》ち|身魂《みたま》を|毒《どく》し|弱《よわ》らしむるものである。|同《おな》じ|酒《さけ》を|甲《かふ》は|一合《いちがふ》|呑《の》んで|酔《よ》ひ|潰《つぶ》れて|了《しま》ふかと|思《おも》へば、|乙《おつ》は|一升《いつしよう》|呑《の》んでも|酔《よ》はず、|丙《へい》は|三升《さんじよう》|位《くらゐ》|呑《の》まなくては|少《すこ》しも|酔《よ》うた|如《や》うな|心持《こころもち》がしないと、|云《い》ふ|区別《くべつ》の|附《つ》くのは、|乃《すなは》ち|身魂《みたま》の|性質《せいしつ》に|依《よ》りて|反応《はんおう》に|差異《さい》ある|事《こと》の|証《しよう》である。|甲《かふ》は|呑《の》んで|笑《わら》ひ、|乙《おつ》は|怒《いか》り、|丙《へい》は|泣《な》くと|云《い》ふ|如《や》うに、|同《おな》じ|味《あぢ》のある|同《おな》じ|種類《しゆるゐ》の|酒《さけ》でも、|区別《くべつ》の|附《つ》くと|云《い》ふのは、|実《じつ》に|不思議《ふしぎ》なもので、|是《これ》はどうしても|身《み》と|魂《たま》との|性来《しやうらい》|関係《くわんけい》に|依《よ》るものである。
『|故《かれ》、|告《の》りたまへる|随《まま》にして、|如此《かく》|設《まう》け|備《そな》へて|待《ま》つ|時《とき》に、|其《そ》の|八岐大蛇《やまたをろち》、|信《まこと》に|言《い》ひしが|如《ごと》|来《き》つ。|乃《すなは》ち、|船《ふね》|毎《ごと》に、|己々《おのもおのも》|頭《かしら》を|垂入《たれ》て、その|酒《さけ》を|飲《の》みき、|於是《ここに》、|飲《の》み|酔《ゑ》ひてみな|伏寝《ふしね》たり。|爾《すなは》ち|速須佐之男命《はやすさのをのみこと》、その|御佩《みはか》せる|十拳剣《とつかのつるぎ》を|抜《ぬ》きて、その|大蛇《をろち》を|切散《きりはふ》りたまひしかば|肥《ひ》の|河《かは》、|血《ち》に|変《かは》りて|流《なが》れき』
そこで|変性男子《へんじやうなんし》の|身魂《みたま》は|命《みこと》の|随々《まにまに》|芳醇《はうじゆん》なる|神酒《みき》を|造《つく》りて、|天地《てんち》の|神明《しんめい》を|招待《せうたい》し、|以《もつ》て|歓喜《くわんき》を|表《へう》し|賜《たま》ひ、|神恩《しんおん》を|感謝《かんしや》し|給《たま》うたのである。|八岐《やまた》の|大蛇《をろち》の|霊《れい》に|憑依《ひようい》された|数多《あまた》の|悪神《わるがみ》の|頭目《かしら》や|眷族《けんぞく》|共《ども》が|大神酒《おほみき》を|飲《の》んで|了《しま》つた。|丁度《ちやうど》|今日《こんにち》の|世《よ》の|中《なか》の|人間《にんげん》は、|酒《さけ》の|為《ため》に|腸《はらわた》までも|腐《くさ》らせ、|血液《けつえき》の|循環《じゆんくわん》を|悪《わる》くし、|頭《かしら》は|重《おも》くなり、フラフラとして|行歩《かうほ》も|自由《じいう》ならぬ、|地上《ちじやう》に|転倒《てんたふ》して|前後《ぜんご》も|弁知《べんち》せず、|醜婦《しうふ》に|戯《たはむ》れ|家《いへ》を|破《やぶ》り、|知識《ちしき》を|曇《くも》らせ、|不治《ふぢ》の|病《やまひ》を|起《おこ》して|悶《もだ》え|苦《くる》しんで|居《ゐ》るのは、|所謂《いはゆる》「|飲《の》み|酔《よ》ひて|皆《みな》|伏寝《ふしいね》たり」と|云《い》ふことである。|爾《ここ》に|於《おい》て|瑞《みづ》の|御霊《みたま》の|大神《おほかみ》は、|世界《せかい》|人民《じんみん》の|不行跡《ふぎやうせき》を|見《み》るに|忍《しの》びず、|神軍《しんぐん》を|起《おこ》して、|此《こ》の|悪鬼《あくき》|蛇神《だしん》の|憑依《ひようい》せる、|身魂《みたま》を|切《き》り|散《ち》らし、|亡《ほろ》ぼし|給《たま》うたのである。|十拳剣《とつかのつるぎ》を|抜《ぬ》きてと|云《い》ふ|事《こと》は|遠津神《とほつかみ》の|勅定《つるぎ》を|奉戴《ほうたい》して|破邪顕正《はじやけんせい》の|本能《ほんのう》を|発揮《はつき》し|給《たま》うたと|云《い》ふことである。そこで|肥《ひ》の|河《かは》なる|世界《せかい》の|祖国《そこく》|日《ひ》の|本《もと》の|上下一般《じやうかいつぱん》の|人民《じんみん》は、|心《こころ》から|改心《かいしん》をして、|血《ち》の|如《ごと》き|赤《あか》き|真心《まごころ》となり、|同《おな》じ|血族《けつぞく》の|如《ごと》く|世界《せかい》と|共《とも》に、|永遠無窮《えいゑんむきう》に|平和《へいわ》に|安穏《あんおん》に|天下《てんか》が|治《をさ》まつたと|云《い》ふ|事《こと》を「|肥《ひ》の|河《かは》|血《ち》に|変《な》りて|流《なが》れき」と|云《い》ふのである。|流《なが》れると|云《い》ふ|意義《いぎ》は|幾万世《いくばんせい》に|伝《つた》はる|事《こと》である。|古事記《こじき》の|序文《じよぶん》に、|後葉《こうえふ》に|流《つた》へんと|欲《ほつ》すとあるも、|同義《どうぎ》である。
『|故《かれ》|其《そ》の|中《なか》の|尾《を》を|切《き》りたまふ|時《とき》、|御刀《みはかし》の|刄《は》|毀《か》けき。|怪《あや》しと|思《おも》ほして、|御刀《みはかし》の|端《さき》もて|刺割《さしさ》きて|見《み》そなはししかば、|都牟刈之太刀《つむがりのたち》あり。|故《かれ》|此《この》|太刀《たち》を|取《と》らして、|怪異《あや》しき|物《もの》ぞと|思《おも》ほして|天照大御神《あまてらすおほみかみ》に|白《まを》し|上《あ》げたまひき。|是《これ》は|草薙太刀《くさなぎのたち》なり』
|中《なか》の|尾《を》と|云《い》ふ|事《こと》は、|葦原《あしはら》の|中津国《なかつくに》の|下層《かそう》|社会《しやくわい》の|臣民《しんみん》の|事《こと》である。|其《その》|臣民《しんみん》を|裁断《さいだん》して、|身魂《みたま》を|精細《せいさい》に|解剖《かいばう》|点検《てんけん》し|玉《たま》ふ|時《とき》に、|実《じつ》に|立派《りつぱ》な|金剛力《こんがうりき》の|神人《しんじん》を|認《みと》められた|状態《じやうたい》を|称《しよう》して、|御刀《みはかし》の|刄《は》|毀《か》けきと|云《い》ふのである。アヽ|実《じつ》に|予想外《よさうぐわい》の|立派《りつぱ》な|救世主《きうせいしゆ》の|身魂《みたま》が、|大蛇《をろち》の|中《なか》の|尾《を》なる|社会《しやくわい》の|下層《かそう》に|隠《かく》れ|居《を》るわい。|是《これ》は|一《ひと》つの|掘《ほ》り|出《だ》しものだと|謂《ゐ》つて、|感激《かんげき》されたことを、|怪《あや》しと|思《おも》ほしてと|云《い》ふのである。|御刀《みはかし》の|端《さき》もてと|云《い》ふ|事《こと》は、|天祖《てんそ》の|御遺訓《ごゐくん》の|光《ひかり》に|照《てら》し|見《み》てと|云《い》ふ|事《こと》である。
『|刺割《さしさ》きて|見《み》そなはししかば|都牟刈之太刀《つむがりのたち》あり』と|云《い》ふことは|今迄《いままで》の|点検《てんけん》|調査《てうさ》の|方針《はうしん》を|一変《いつぺん》し、|側面《そくめん》より|仔細《しさい》に|御審査《ごしんさ》になると、|四魂《しこん》|五情《ごじやう》の|活用《くわつよう》|全《まつた》き|大真人《だいしんじん》が、|中《なか》の|尾《を》なる|下層《かそう》|社会《しやくわい》の|一隅《いちぐう》に、|潜《ひそ》みつつあつたのを|初《はじ》めて|発見《はつけん》されたと|云《い》ふことである。|都牟刈之太刀《つむがりのたち》とは|言霊学上《げんれいがくじやう》より|解《かい》すれば|三千世界《さんぜんせかい》の|大救世主《だいきうせいしゆ》にして、|伊都能売《いづのめ》の|身魂《みたま》と|云《い》ふ|事《こと》である。|故《かれ》、|此《この》|太刀《たち》なる|大救世主《だいきうせいしゆ》の|霊魂《たま》を|取《と》り|立《た》て、|異数《いすう》の|真人《しんじん》なりと|驚歎《きやうたん》され、|直《ただ》ちに|天照大御神《あまてらすおほみかみ》|様《さま》、|及《およ》びその|表現神《へうげんしん》に|大切《たいせつ》なる|御神器《ごしんき》として、|奉献《ほうけん》されたのである。|凡《すべ》ての|青人草《あをひとぐさ》を|神風《かみかぜ》の|吹《ふ》きて|靡《なび》かす|如《ごと》く、|徳《とく》を|以《もつ》て|万民《ばんみん》を|悦服《えつぷく》せしむる|一大《いちだい》|真人《しんじん》、|日本国《にほんこく》の|柱石《ちうせき》にして|世界《せかい》|治平《ちへい》の|基《もとい》たるべき、|神器的《しんきてき》|真人《しんじん》を|称《しよう》して、|草薙剣《くさなぎのつるぎ》と|云《い》ふのである。|八岐大蛇《やまたをろち》の|暴狂《あれくる》ひて|万民《ばんみん》の|身魂《みたま》を|絶滅《ぜつめつ》せしめつつある|今日《こんにち》、|一日《いちにち》も|早《はや》く|草薙神剣《くさなぎのしんけん》の|活用《くわつよう》ある、|真徳《しんとく》の|大真人《だいしんじん》の|出現《しゆつげん》せむことを、|希望《きばう》する|次第《しだい》である。
また|草薙剣《くさなぎのつるぎ》とは、|我《われ》|日本《にほん》|全国《ぜんこく》の|別名《べつめい》である。この|神国《しんこく》を|背負《せお》つて|立《た》つ|処《ところ》の|真人《しんじん》は、|即《すなは》ち|草薙神剣《くさなぎのしんけん》の|霊魂《みたま》の|活用者《くわつようしや》である。
(大正九・一・一六 講演筆録 谷村真友)
第三篇 |神山霊水《しんざんれいすゐ》
第一二章 |一人旅《ひとりたび》〔五七九〕
|天津神達《あまつかみたち》|八百万《やほよろづ》 |国津神達《くにつかみたち》|八百万《やほよろづ》
|百《もも》の|罪咎《つみとが》|身《み》|一《ひと》つに |負《お》ひてしとしと|濡《ぬ》れ|鼠《ねずみ》
|猫《ねこ》に|追《お》はれし|心地《ここち》して |凩《こがらし》|荒《すさ》ぶ|冬《ふゆ》の|野《の》を
|母《はは》の|命《みこと》に|遇《あ》はむとて |出《いで》ます|姿《すがた》ぞ|不愍《いぢら》しき
|天《あま》の|岩戸《いはと》も|明放《あけはな》れ |一度《ひとたび》|清《きよ》き|神《かみ》の|代《よ》と
|輝《かがや》き|渡《わた》るひまもなく |天足《あだる》の|彦《ひこ》や|胞場姫《えばひめ》の
|醜《しこ》の|霊魂《みたま》の|荒《すさ》び|来《く》る |山《やま》の|尾上《をのへ》や|河《かは》の|瀬《せ》は
|風《かぜ》|腥《なまぐさ》く|土《つち》|腐《くさ》り |河《かは》は|濁水《だくすゐ》|満《み》ち|溢《あふ》れ
|雨《あめ》は|日《ひ》に|夜《よ》に|降《ふ》り|続《つづ》き |流《なが》れ|流《なが》れて|進《すす》む|身《み》の
|蓑《みの》もなければ|笠《かさ》もなく とある|家路《いへぢ》に|立《た》ち|寄《よ》りて
|一夜《いちや》の|宿《やど》を|訪《おとな》へば はつと|答《こた》へて|出《い》で|来《きた》る
|荒《あら》くれ|男《をとこ》の|顔《かほ》みれば こは|抑《そ》も|如何《いか》にこは|如何《いか》に
|鬼雲彦《おにくもひこ》の|夫婦《めをと》づれ |地教《ちけう》の|山《やま》の|山《やま》の|下《した》
|奇石怪巌《きせきくわいがん》|立《た》ち|並《なら》ぶ |谷《たに》の|辺《ほとり》に|細々《ほそぼそ》と
|立《た》つる|煙《けぶり》も|幽《かす》かなる |奥《おく》に|聞《きこ》ゆる|唸《うな》り|声《ごゑ》
|神素盞嗚《かむすさのを》の|大神《おほかみ》は |物《もの》をも|云《い》はず|戸《と》を|開《ひら》き
つかつか|立《た》ち|寄《よ》り|見給《みたま》へば |八岐大蛇《やまたをろち》の|蜿蜒《えんえん》と
|室《しつ》|一面《いちめん》に|蟠《わだか》まり |赤《あか》き|血潮《ちしほ》は|全身《ぜんしん》に
|洫《にじ》み|渉《わた》りて|凄《すさま》じく |命《みこと》を|見《み》るより|驚愕《きやうがく》し
|忽《たちま》ち|毒気《どくき》を|吹《ふ》きかくる |鬼雲彦《おにくもひこ》と|思《おも》ひしは
|全《まつた》く|大蛇《をろち》の|化身《けしん》にて |鬼雲姫《おにくもひめ》と|思《おも》ひしは
|大蛇《をろち》に|従《したが》ふ|金毛《きんまう》の |白面九尾《はくめんきうび》の|古狐《ふるぎつね》
|裏口《うらぐち》あけてトントンと |後《あと》|振《ふ》り|返《かへ》り|振《ふ》り|返《かへ》り
|深山《みやま》をさして|逃《に》げて|往《ゆ》く |神素盞嗚《かむすさのを》の|大神《おほかみ》は
|天津祝詞《あまつのりと》の|太祝詞《ふとのりと》 |声《こゑ》|爽《さはや》かに|宣《の》りあげて
この|曲津霊《まがつひ》を|言霊《ことたま》の |御息《みいき》に|和《なご》め|助《たす》けむと
|心《こころ》を|籠《こ》めて|数歌《かずうた》の |一《ひと》|二《ふた》|三《み》|四《よ》|五《い》つ|六《む》つ
|七《なな》|八《や》|九《ここの》|十《たり》の|数《かず》 |百《もも》|千《ち》|万《よろづ》の|言霊《ことたま》に
さしもに|太《ふと》き|八《や》つ|岐《また》の |大蛇《をろち》も|煙《けぶり》と|消《き》えて|行《ゆ》く
あゝ|訝《いぶ》かしと|大神《おほかみ》は |眼《まなこ》を|据《す》ゑて|見《み》たまへば
|家《いへ》と|見《み》えしは|草野原《くさのはら》 |跡方《あとかた》もなき|虫《むし》の|声《こゑ》
|不審《ふしん》の|雲《くも》に|蔽《おほ》はれつ |地教《ちけう》の|山《やま》を|目標《めあて》とし
|息《いき》もせきせき|登《のぼ》ります |折柄《をりから》|吹《ふ》き|来《く》る|山颪《やまおろし》
|八握《やつか》の|髯《ひげ》のぼうぼうと |風《かぜ》に|吹《ふ》かれて|散《ち》り|果《は》つる
|木々《きぎ》の|梢《こづゑ》の|紅葉《もみぢば》も |命《みこと》が|赤《あか》き|誠心《まことごころ》を
|照《て》らしあかすぞ|殊勝《しゆしよう》なる。
|素盞嗚尊《すさのをのみこと》は、|地教山《ちけうざん》の|中腹《ちうふく》なる|道《みち》の|辺《べ》の|巌《いはほ》に|腰《こし》|打《う》ち|掛《か》け、|高天原《たかあまはら》に|於《お》ける|磐戸隠《いはとがく》れの|顛末《てんまつ》を|追懐《つゐくわい》し、|無念《むねん》の|涙《なみだ》にくれ|居《ゐ》たまふ|時《とき》こそあれ、|忽《たちま》ち|山上《さんじやう》より|岩石《がんせき》も|割《わ》るるばかりの|音響《おんきやう》|陸続《りくぞく》として|聞《きこ》え|来《きた》る。
|怪《あや》しの|物音《ものおと》は|刻々《こくこく》に|近《ちか》づき|来《き》たる。|素盞嗚尊《すさのをのみこと》は|又《また》もや|大蛇《をろち》の|悪神《あくがみ》|襲来《しふらい》せるかと、ツト|立《た》ち|上《あが》り、|剣《つるぎ》の|握《つか》に|手《て》をかけて|身構《みがま》へしつつ|待《ま》ち|居《ゐ》たまへば、|雲《くも》|突《つ》く|許《ばか》りの|大男《おほをとこ》|四五十人《しごじふにん》の|手下《てした》と|共《とも》に、|尊《みこと》の|前《まへ》に|大手《おほて》を|拡《ひろ》げて|立《た》ち|塞《ふさ》がり、
『ヤア、|其《その》|方《はう》は|天教山《てんけうざん》の|高天原《たかあまはら》に|於《おい》て、|天《あま》の|岩戸《いはと》に、|皇大神《すめおほかみ》を|閉《と》ぢ|込《こ》めまつりたる|悪魔《あくま》の|張本《ちやうほん》、|建速素盞嗚尊《たけはやすさのをのみこと》ならむ。|一寸《いつすん》たりともこの|山《やま》に|登《のぼ》る|事《こと》|罷《まか》りならぬ』
と|呶鳴《どな》りつくるを、|尊《みこと》は|言葉《ことば》|優《やさ》しく、
『|吾《われ》は|汝《なんぢ》が|言《い》ふ|如《ごと》く、|高天原《たかあまはら》を|神退《かむやら》ひに|退《やら》はれたる、|素盞嗚尊《すさのをのみこと》なり。さりながらこの|地教《ちけう》の|山《やま》には、|吾母《わがはは》の|永久《とこしへ》に|鎮《しづ》まり|居《ゐ》ませば、|一度《いちど》|拝顔《はいがん》を|得《え》て、|身《み》の|進退《しんたい》を|決《けつ》せむと|思《おも》ひ、|遥々《はるばる》|此処《ここ》に|来《きた》れるものぞ。|汝《なんぢ》|物《もの》の|哀《あは》れを|知《し》るならば、|一度《いちど》は|此《この》|道《みち》を|開《ひら》きて、|吾《われ》を|母《はは》に|会《あ》はせかし』
と|下《した》から|出《いづ》ればつけ|上《あが》り、|大《だい》の|男《をとこ》は|鼻息《はないき》|荒《あら》く|仁王《にわう》の|如《ごと》き|腕《うで》をニウツと|前《まへ》に|出《だ》し、
『|男子《だんし》の|言葉《ことば》に|二言《にごん》は|無《な》いぞ、|罷《まか》りならぬと|云《い》へば|絶対《ぜつたい》に|罷《まか》りならぬ。|仮令《たとへ》|天地《てんち》は|上下《うへした》にかへるとも、ミロクの|世《よ》が|来《く》るとも、いつかな、いつかな、|吾々《われわれ》が|守護《しゆご》する|限《かぎ》りは、|一分一寸《いちぶいつすん》たりとも|当山《たうざん》に|登《のぼ》る|事《こと》は|許《ゆる》さぬ。たつて|登山《とざん》せむと|思《おも》はば|此《この》|方《はう》の|腕《うで》を|捻《ね》ぢて|登《のぼ》れ、|此《この》|方《はう》は|天教山《てんけうざん》に|坐《ま》し|在《ま》す|大神《おほかみ》の|命《めい》を|奉《ほう》じ、|素盞嗚尊《すさのをのみこと》|万一《まんいち》|此《この》|山《やま》に|登《のぼ》り|来《きた》らば|都牟刈《つむがり》の|太刀《たち》をもつて|斬《き》りはふれ、との|厳《きび》しき|御仰《おんあふ》せ、|万々一《まんまんいち》|其《その》|方《はう》を|此《この》|岩《いは》より|一歩《いつぽ》たりとも|登《のぼ》すが|最後《さいご》、|吾々《われわれ》|一族《いちぞく》は|天地間《てんちかん》に|居《ゐ》る|事《こと》は|出来《でき》ないのだ。|汝《なんぢ》も|元《もと》は|葦原《あしはら》の|国《くに》の|主宰《しゆさい》ならずや、|物《もの》の|道理《だうり》も|分《わか》つて|居《を》らう、|下《さが》れ|下《さが》れ、|一時《いちじ》も|早《はや》く|此《この》|場《ば》を|立《た》ち|去《さ》らぬか』
『アヽ|是非《ぜひ》に|及《およ》ばぬ、|然《しか》らば|汝《なんぢ》の|勝手《かつて》に|邪魔《じやま》ひろげ、|吾《われ》は|母《はは》に|面会《めんくわい》のため、【たつて】|登山《とざん》|致《いた》す』
と|群《むら》がる|人々《ひとびと》の|中《なか》を|悠然《いうぜん》として|登《のぼ》り|往《ゆ》かむとしたまふを、|大《だい》の|男《をとこ》は【ぐつ】と|猿臂《えんぴ》を|延《の》ばし、
『コラコラコラ、|俺《おれ》を|誰方《どなた》と|思《おも》うて|居《ゐ》るか、|実《じつ》の|事《こと》を|白状《はくじやう》すれば、バラモン|教《けう》の|大棟梁《だいとうりやう》、|鬼雲彦《おにくもひこ》のお|脇立《わきだち》と|聞《きこ》えたる、|鬼掴《おにつかみ》なるぞ』
と|云《い》ひながら|尊《みこと》の|胸倉《むなぐら》を【ぐつ】と|取《と》りぬ。|尊《みこと》はエヽ|面倒《めんだう》と|云《い》ひながら、|片足《かたあし》をあげて【ポン】と|蹴《け》り|玉《たま》ひし|拍子《へうし》に、|鬼掴《おにつかみ》の|体《からだ》は|四五間《しごけん》ばかり|空中滑走《くうちうくわつそう》をしながら|片辺《かたへ》の|林《はやし》の|中《なか》に、ドスンと|倒《たふ》れさまに|着陸《ちやくりく》し、|頭蓋骨《づがいこつ》を|打《う》つてウンウンと|唸《うな》り|居《ゐ》る。|尊《みこと》は|委細《ゐさい》|構《かま》はず|大手《おほて》を|振《ふ》つて|急坂《きふはん》をとぼとぼ|登《のぼ》りたまへば、|数多《あまた》の|家来《けらい》は|此《この》|勢《いきほひ》に|辟易《へきえき》し、|蜘蛛《くも》の|子《こ》を|散《ち》らすが|如《ごと》く|四辺《あたり》の|森林《しんりん》に|姿《すがた》を|隠《かく》したりけり。
|尊《みこと》は|猶《なほ》も|足《あし》を|速《はや》めて|急坂《きふはん》を|登《のぼ》りたまふ|時《とき》しもあれ、|傍《かたはら》の|木《き》の|茂《しげ》みより、|又《また》ツト|頭《かしら》を|出《だ》したる|滅法界《めつぽふかい》|巨大《きよだい》なる|大蛇《だいじや》の|姿《すがた》|路上《ろじやう》に|横《よこた》はり、|尊《みこと》の|通路《つうろ》を|妨《さまた》げて|動《うご》かず。
|尊《みこと》は|大蛇《をろち》に|遮《さへぎ》られ、|稍《やや》|当惑《たうわく》の|体《てい》にて|暫《しば》し|思案《しあん》に|暮《く》れたまふ|時《とき》、|山上《さんじやう》より|嚠喨《りうりやう》たる|音楽《おんがく》|響《ひび》き|来《きた》り、|数多《あまた》の|美《うる》はしき|神人《しんじん》|列《れつ》を|正《ただ》し|此《この》|場《ば》に|現《あら》はれ|給《たま》ひ、|中《なか》に|優《すぐ》れて|高尚《かうしやう》|優美《いうび》なる|一柱《ひとはしら》の|女神《めがみ》は、|素盞嗚尊《すさのをのみこと》に|向《むか》ひ、
『ヤヨ、|愛《あい》らしき|素盞嗚尊《すさのをのみこと》よ、|妾《わらは》は|汝《なんぢ》が|母《はは》|伊邪冊命《いざなみのみこと》なるぞ、|汝《なんぢ》が|心《こころ》の|清《きよ》き|事《こと》は|高天原《たかあまはら》に|日月《じつげつ》の|如《ごと》く|照《て》り|輝《かがや》けり。さりながら|大八洲国《おほやしまくに》になり|出《い》づる、|数多《あまた》の|神人《しんじん》の|罪《つみ》|汚《けが》れを|救《すく》ふは|汝《なんぢ》の|天賦《てんぷ》の|職責《しよくせき》なれば、|千座《ちくら》の|置戸《おきど》を|負《お》ひて|洽《あまね》く|世界《せかい》を|遍歴《へんれき》し、|所在《あらゆる》|艱難辛苦《かんなんしんく》を|嘗《な》め、|天地《てんち》に|蟠《わだか》まる|鬼《おに》、|大蛇《をろち》、|悪狐《あくこ》、|醜女《しこめ》、|曲津見《まがつみ》の|心《こころ》を|清《きよ》め、|善《ぜん》を|助《たす》け|悪《あく》を|和《なご》め、|八岐《やまた》の|大蛇《をろち》を|十握《とつか》の|剣《つるぎ》をもつて|切《き》りはふり、|彼《かれ》が|所持《しよぢ》せる|叢雲《むらくも》の|剣《つるぎ》を|得《え》て|天教山《てんけうざん》に|坐《ま》し|在《ま》す|天照大神《あまてらすおほかみ》に|奉《たてまつ》るまでは、|唯今《ただいま》|限《かぎ》り|妾《わらは》は|汝《なんぢ》が|母《はは》に|非《あら》ず、|汝《なんぢ》|又《また》|妾《わらは》が|子《こ》に|非《あら》ず、|片時《かたとき》も|早《はや》く|当山《たうざん》を|去《さ》れよ、|再《ふたた》び|汝《なんぢ》に|会《あ》ふ|事《こと》あらむ、|曲津《まがつ》の|猛《たけ》び|狂《くる》ふ|葦原《あしはら》の|国《くに》、|随分《ずゐぶん》|心《こころ》を|配《くば》らせられよ』
と|宣《の》らせ|給《たま》ふと|見《み》れば、|姿《すがた》は|煙《けぶり》と|消《き》えて|後《あと》には|地教山《ちけうざん》の|峰《みね》|吹《ふ》き|渡《わた》る|松風《まつかぜ》の|音《おと》のみにして、|道《みち》に|障碍《さや》りたる|大蛇《をろち》の|影《かげ》も|何時《いつ》しか|見《み》えずなりぬ。
|素盞嗚尊《すさのをのみこと》は|止《や》むを|得《え》ず|此処《ここ》より|踵《きびす》をかへし、|急坂《きふはん》を|下《くだ》らせたまへば、|以前《いぜん》の|男《をとこ》、|鬼掴《おにつかみ》は|大地《たいち》に|平伏《ひれふ》し|尊《みこと》に|向《むか》つて|帰順《きじゆん》の|意《い》を|表《へう》し、
『|私《わたくし》は|実《じつ》を|申《まを》せば|鬼雲彦《おにくもひこ》の|家来《けらい》とは|偽《いつは》り、|高天原《たかあまはら》の|或《ある》|尊《たふと》き|神様《かみさま》より|内命《ないめい》を|受《う》け、|貴神《きしん》の|当山《たうざん》に|登《のぼ》らせたまふを|道《みち》にて|遮断《しやだん》せよとの|厳命《げんめい》を|頂《いただ》きしもの、|嗚呼《あゝ》|併《しか》しながら|此《この》|度《たび》の|天《あま》の|岩戸《いはと》の|変《へん》は|貴神《きしん》の|罪《つみ》に|非《あら》ず、|罪《つみ》は|却《かへ》つて|天津神《あまつかみ》の|方《はう》にあり、|何《いづ》れの|神《かみ》も|御心中《ごしんちう》|御察《おさつ》し|申《まを》|上《あ》げ|居《ゐ》る|方々《かたがた》のみ。|吾《われ》は|之《これ》より|心《こころ》を|改《あらた》め|貴神《きしん》の|境遇《きやうぐう》に|満腔《まんこう》の|同情《どうじやう》を|表《へう》し|奉《たてまつ》り|労苦《らうく》を|共《とも》にせむと|欲《ほ》す、|何卒々々《なにとぞなにとぞ》|世界《せかい》|万民《ばんみん》の|為《ため》に|吾《わ》が|願《ねがひ》を|許《ゆる》させ|給《たま》へ』
と|誠心《せいしん》|表《おもて》に|現《あら》はれ|涙《なみだ》を|流《なが》して|歎願《たんぐわん》したりける。|尊《みこと》は、
『|其《その》|方《はう》は|頭《かしら》の|傷《きず》は|如何《いかが》なせしや』
と|尋《たづ》ね|玉《たま》ふに、|鬼掴《おにつかみ》は|畏《かしこ》みながら、
『ハイ、お|蔭様《かげさま》にて|思《おも》はず|知《し》らず、|神素盞嗚《かむすさのを》の|大神様《おほかみさま》と|御名《おんな》を|称《たた》へまつりし|其《その》|刹那《せつな》より、さしも|激烈《げきれつ》なる|痛《いた》みも|忘《わす》れたる|如《ごと》くに|止《と》まり、|割《わ》れたる|頭《あたま》も|元《もと》の|如《ごと》くに|全快《ぜんくわい》|致《いた》したり。|瑞霊《みづのみたま》の|御神徳《ごしんとく》には|恐《おそ》れ|入《い》り|奉《たてまつ》る』
と|両手《りやうて》を|合《あは》して|涙《なみだ》をホロホロ|流《なが》し|居《ゐ》る。|素盞嗚尊《すさのをのみこと》は|大《おほい》に|喜《よろこ》びたまひ、
『|吾《わ》れ、|高天原《たかあまはら》を|退《やら》はれしより、|時雨《しぐれ》の|中《なか》の|一人旅《ひとりたび》、|実《じつ》に|淋《さび》しい|思《おも》ひを|致《いた》したるが、|世《よ》の|中《なか》は|妙《めう》なものかな、|一人《ひとり》の|同情者《どうじやうしや》を|得《え》たり。いざ|之《これ》より|汝《なんぢ》と|吾《われ》とは|生《うみ》の|兄弟《きやうだい》となりて|大八洲《おほやしま》の|国《くに》に|蟠《わだか》まる|悪魔《あくま》を|滅《ほろぼ》し、|万民《ばんみん》を|救《すく》ひ|天下《てんか》に|吾等《われら》が|至誠《しせい》を|現《あら》はさむ、|鬼掴《おにつかみ》|来《きた》れ』
と|先《さき》に|立《た》ち、|柴笛《しばふえ》を|吹《ふ》きながら|足《あし》を|速《はや》めて|何処《いづこ》ともなく|天《あま》の|数歌《かずうた》を|歌《うた》ひつつ、|西南《せいなん》|指《さ》して|進《すす》みたまふ。
(大正一一・四・二 旧三・六 加藤明子録)
(昭和一〇・三・二〇 於彰化神聖会支部 王仁校正)
第一三章 |神女《しんぢよ》|出現《しゆつげん》〔五八〇〕
|神素盞嗚《かむすさのを》の|大神《おほかみ》は |天《あま》の|岩戸《いはと》の|変《へん》に|依《よ》り
|百千万《ももちよろづ》の|罪《つみ》|咎《とが》を |其《その》|身《み》|一《ひと》つに|引受《ひきう》けて
|千座《ちくら》|置戸《おきど》の|艱難辛苦《かんなんしんく》 |神《かみ》の|御運《みうん》も|葦原《あしはら》の
|瑞穂《みづほ》の|国《くに》を|此処彼処《ここかしこ》 |漂《さすら》ひの|旅《たび》に|出立《いでた》ち|給《たま》ひしより
|今《いま》まで|影《かげ》を|潜《ひそ》めたる |八岐大蛇《やまたをろち》や|金毛九尾《きんまうきうび》
|醜《しこ》の|曲鬼《まがおに》|遠近《をちこち》に |又《また》もや|頭《かしら》を|擡《もた》げつつ
|此《この》|世《よ》を|紊《みだ》すウラル|教《けう》 バラモン|教《けう》やウラナイの
|教《をしへ》の|道《みち》の|人々《ひとびと》の |肉《にく》の|宮居《みやゐ》を|宿《やど》となし
|以前《いぜん》に|勝《まさ》る|悪逆無道《あくぎやくぶだう》 |世人《よびと》の|心《こころ》は|悉《ことごと》く
ねぢけ|曲《まが》りて|一柱《ひとはしら》 |誠《まこと》を|守《まも》る|者《もの》も|無《な》く
|世《よ》は|日《ひ》に|月《つき》に|曇《くも》り|行《ゆ》く |遠近《をちこち》の|山《やま》の|伊保理《いほり》や|川《かは》の|瀬《せ》に
|伊猛《いたけ》り|狂《くる》ふ|曲神《まがかみ》の |声《こゑ》は|嵐《あらし》か|雷《いかづち》か
|譬《たと》ふる|由《よし》も|地震《なゐふる》の |一時《いちじ》に|轟《とどろ》く|騒《さわ》がしさ
|山川《やまかは》どよみ|草木《くさき》|枯《か》れ |非時《ときじく》|雨《あめ》は|降《ふ》り|頻《しき》り
|風《かぜ》|荒《あら》らぎて|家《いへ》を|倒《たふ》し |木々《きぎ》の|梢《こづゑ》は|裂《さ》き|折《お》られ
|木《こ》の|葉《は》は|破《やぶ》れて|鋸《のこぎり》の |歯《は》を|見《み》る|如《ごと》くなりにけり。
|神素盞嗚《かむすさのを》の|大神《おほかみ》は、|神代《かみよ》に|於《お》ける|武勇絶倫《ぶゆうぜつりん》の|英勇《えいゆう》にして、|仁慈《じんじ》の|権化《ごんげ》とも|称《たた》ふべき、|瑞霊《みづのみたま》の|雄々《をを》しき|姿《すがた》、|漆《うるし》の|如《ごと》き|黒髪《くろかみ》を|長《なが》く|背後《はいご》に|垂《た》れ|給《たま》ひ、|秩序《ちつじよ》|整然《せいぜん》たる|鼻下《びか》の|八字鬚《はちじひげ》、|下頤《したあご》の|御鬚《おんひげ》は、|瑠璃光《るりくわう》の|如《ごと》く|麗《うるは》しく、|長《なが》く|胸先《むなさき》に|垂《た》れ|給《たま》ひ、|雨《あめ》に|浴《よく》し|風《かぜ》に|梳《くしけづ》り、|山《やま》と|山《やま》とに|囲《かこ》まれし、|西蔵国《チベツトこく》に|出《い》で|給《たま》ふ。
|地教山《ちけうざん》に|現《あら》はれて、|一度《いちど》は|尊《みこと》の|登山《とざん》を|塞《ふさ》ぎ|奉《まつ》りし|鬼掴《おにつかみ》は、|昔《むかし》ペテロの|都《みやこ》に|在《あ》りて、|道貴彦《みちたかひこ》の|弟《おとうと》と|生《うま》れたる|高国別《たかくにわけ》の|後身《こうしん》、|幾度《いくたび》か|顕幽《けんいう》|二界《にかい》に|出没《しゆつぼつ》し、|又《また》も|身魂《みたま》は|神界《しんかい》の、|高天原《たかあまはら》に|現《あら》はれて、|天《あま》の|岩戸《いはと》の|大変《たいへん》に|差加《さしくは》はりし|剛《がう》の|者《もの》、|神素盞嗚《かむすさのを》の|大神《おほかみ》の、|清《きよ》き|御心《みこころ》|推《を》しはかり、|義侠《ぎけふ》に|富《と》める|逸男《はやりを》の、いかで|此《この》|儘《まま》|過《す》ごすべき、|天教山《てんけうざん》に|坐《ま》しませる、|皇大神《すめおほかみ》の|御言《みこと》もて、|地教《ちけう》の|山《やま》に|立《た》ち|向《むか》ひ、|一度《いちど》は|神命《しんめい》もだし|難《がた》く、|瑞《みづ》の|霊《みたま》の|大神《おほかみ》に、|刃向《はむか》ひまつり、|尊《みこと》の|登山《とざん》を|悩《なや》まさむとしたりしが、|心《こころ》の|奥《おく》は|裏表《うらおもて》、|神素盞嗚《かむすさのを》の|大神《おほかみ》を、|心《こころ》の|限《かぎ》り|身《み》の|限《かぎ》り、|助《たす》け|奉《まつ》らむものをとて、|地教《ちけう》の|山《やま》に|夫《そ》れとなく、|尊《みこと》の|登《のぼ》り|来《き》ませるを、|今《いま》か|今《いま》かと|待《ま》ち|居《ゐ》たる、|其《その》|御心《みこころ》ぞ|尊《たふと》けれ。
|神素盞嗚《かむすさのを》の|大神《おほかみ》は、|高国別《たかくにわけ》を|伴《とも》なひて、|地教《ちけう》の|山《やま》を|後《あと》にして、|青垣山《あをがきやま》を|繞《めぐ》らせる、|豊葦原《とよあしはら》の|秘密国《ひみつくに》、|凩《こがらし》|荒《すさ》び|雪《ゆき》|深《ふか》き、ラサフの|都《みやこ》に|差掛《さしかか》る、|斯《か》かる|例《ためし》は|昔《むかし》より、まだ|荒風《あらかぜ》のすさぶ|野《の》を、|神《かみ》を|力《ちから》に|誠《まこと》を|杖《つゑ》に、|心《こころ》の|駒《こま》の|嘶《いなな》きに、|勇《いさ》み|進《すす》んで|出《い》でて|行《ゆ》く。|一天《いつてん》|俄《にはか》に|掻《か》き|曇《くも》り、|灰色《はいいろ》の|空《そら》ドンヨリと、|包《つつ》む|折《をり》しも|降《ふ》り|来《きた》る、|激《はげ》しき|雪《ゆき》に|二柱《ふたはしら》、とある|藁屋《わらや》に|駆《か》け|込《こ》みて、|一夜《いちや》の|宿《やど》を|請《こ》ひ|給《たま》ふ。
|素盞嗚尊《すさのをのみこと》は|門口《かどぐち》に|立《た》ち、|声《こゑ》も|静《しづか》に、
『|吾々《われわれ》は|漂《さすら》ひの|旅《たび》を|致《いた》す|二人連《ふたりづれ》、|雪《ゆき》に|閉《とざ》され|日《ひ》は|暮果《くれは》て、|行手《ゆくて》に|困《こま》り、|困難《こんなん》を|致《いた》す|者《もの》|何卒《なにとぞ》お|慈悲《じひ》に|一夜《いちや》の|宿《やど》を|許《ゆる》せかし』
と|訪《おとな》ひ|給《たま》へば、
『アイ』
と|答《こた》へて|一人《ひとり》の|浦若《うらわか》き|娘《むすめ》、|門口《かどぐち》に|立《た》ち|現《あら》はれ、
『これはこれは|旅《たび》のお|方《かた》|様《さま》、さぞ|雪《ゆき》にお|困《こま》りで|御座《ござ》いましたでせう。みすぼらしい|茅屋《あばらや》なれど、|奥《おく》には|相当《さうたう》の|広《ひろ》き|居室《ゐま》も|御座《ござ》いますれば、どうぞ|御寛《ごゆる》りと|御休息《ごきうそく》を|願《ねが》ひます』
|尊《みこと》は、
『アヽ|世界《せかい》に|鬼《おに》はないもの……|夫《そ》れは|千万《せんばん》|忝《かたじけ》ない、|御言葉《おことば》にあまえ、|今晩《こんばん》はお|世話《せわ》になりませう』
『どうぞ、そうなさつて|下《くだ》さいませ、|奥《おく》へ|御案内《ごあんない》|致《いた》しませう』
と|娘《むすめ》は|淑《しと》やかに、|足許《あしもと》|優《やさ》しく|奥《おく》の|一室《ひとま》に|二人《ふたり》を|導《みちび》き|行《ゆ》く。|二人《ふたり》は|娘《むすめ》の|案内《あんない》に|連《つ》れ、|奥《おく》の|一室《ひとま》の|囲炉裡《ゐろり》の|前《まへ》に|安坐《あんざ》して、|手《て》をあぶりつつ、ヒソヒソと|話《はなし》に|耽《ふけ》り|給《たま》ふ。|此《この》|時《とき》|主人《しゆじん》らしき|男《をとこ》|揉手《もみて》をし|乍《なが》ら|此《この》|場《ば》に|現《あら》はれ、|二人《ふたり》に|向《むか》つて|叮嚀《ていねい》に|会釈《ゑしやく》し、
『これはこれは|旅《たび》の|御方様《おかたさま》、|能《よ》くも|此《この》|茅屋《あばらや》に|御逗留《ごとうりう》|下《くだ》さいました。|何分《なにぶん》|焚物《たきもの》の|不自由《ふじゆう》な|所《ところ》にて、|嘸《さぞ》お|困《こま》りで|御座《ござ》いませう』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら、|黎牛《やく》の|糞《ふん》の|乾《かわ》きたるを|籠《かご》に|盛《も》りて、|囲炉裡《ゐろり》に|焚《く》べ、|室《しつ》を|暖《あたた》めるのであつた。|此《この》|地方《ちはう》は|四面《しめん》|高山《かうざん》に|包《つつ》まれたる、|世界《せかい》の|秘密国《ひみつこく》にして、|交通《かうつう》|不便《ふべん》の|土地《とち》なれば、|他国人《たこくじん》の|入国《にふこく》を|許《ゆる》さざる|所《ところ》である。されど|高天原《たかあまはら》の|大事変《だいじへん》より、|人心《じんしん》|大《おほい》に|軟化《なんくわ》し、|稍《やや》|世界《せかい》|同胞《どうはう》|主義《しゆぎ》に|傾《かたむ》きたる|折柄《をりから》なれば、|他国人《たこくじん》の|入《い》り|来《きた》るを、|今《いま》は|反対《はんたい》に|歓迎《くわんげい》し、|物珍《ものめづ》らしがりて、|部落《ぶらく》の|老若男女《らうにやくなんによ》|先《さき》を|争《あらそ》ひ|訪《たづ》ね|来《きた》り、|面白《おもしろ》き|話《はなし》を|聴聞《ちやうもん》せむとするのである。|平素《へいそ》の|燃料《ねんれう》は|麦藁《むぎわら》|又《また》は|黎牛《やく》の|糞《ふん》を|乾《かわ》かせて|用《もち》ゐ、|麦《むぎ》を|炒《い》りて|粉末《こな》とし、|食料《しよくれう》として|居《ゐ》る。|一時《ひととき》|晴《は》るれば、|一時《ひととき》|雪《ゆき》|霰《あられ》|降《ふ》り|来《きた》り、|天候《てんこう》|常《つね》に|定《さだ》まらざる|土地《とち》である。|世界《せかい》に|於《お》ける|大高地《だいかうち》なれば、|穀物《こくもつ》も|余《あま》り|豊熟《ほうじゆく》ならず、|豊作《ほうさく》の|年《とし》と|雖《いへど》も、|例《たと》へば|五升《ごしよう》の|麦種《むぎだね》を|蒔《ま》いて、|一斗《いつと》の|収穫《しうくわく》を|得《う》れば、|是《これ》を|以《もつ》て|豊作《ほうさく》となす|位《くらゐ》な|所《ところ》である。この|家《や》の|主人《あるじ》の|名《な》はカナンと|云《い》ふ。カナンは|炒麦《いりむぎ》の|粉《こ》を|木《き》の|椀《わん》に|盛《も》り、|茶《ちや》を|沸《わ》かせ|持《も》ち|来《きた》り|両手《りやうて》をつき、
『お|二人《ふたり》のお|方《かた》、|御存《ごぞん》じの|通《とほ》り|不便《ふべん》の|土地《とち》、|他国《たこく》の|方《かた》に|差上《さしあ》ぐる|様《やう》な|物《もの》は|御座《ござ》いませぬが、|此《こ》れが|吾々《われわれ》の|国《くに》にては、|最良《さいりやう》の|馳走《ちそう》で|御座《ござ》いますれば、ゆるゆる|召《め》しあがり|下《くだ》さいませ』
と|言《い》ひ|棄《す》てて|一室《ひとま》に|姿《すがた》を|隠《かく》したり。|二人《ふたり》は|麦《むぎ》の|炒粉《いりこ》に|茶《ちや》を|注《そそ》ぎ、|匙《さじ》もて|捏《こ》ね|乍《なが》ら|食事《しよくじ》せる|最中《さいちう》に、|五人《ごにん》の|美《うつく》しき|娘《むすめ》この|場《ば》に|立現《たちあら》はれ、|叮嚀《ていねい》に|両手《りやうて》をついて|辞儀《じぎ》をなし、|一度《いちど》に|立《た》つて|歌《うた》を|歌《うた》ひ|且《かつ》|舞《ま》ひ、|二人《ふたり》の|旅《たび》の|疲《つか》れを|慰《なぐさ》めむと|努《つと》むる|様子《やうす》なり。
『ヤア|各方《おのおのがた》、|遅《おそ》がけに|参《まゐ》り、|御邪魔《おじやま》を|致《いた》した|上《うへ》、|結構《けつこう》な|馳走《ちそう》に|預《あづか》り、|実《じつ》に|満足《まんぞく》の|至《いた》りである。|汝等《なんぢら》は|此《この》|家《や》の|娘《むすめ》なりや』
と|言葉《ことば》も|終《をは》らざるに、|年長《としかさ》の|娘《むすめ》、
『ハイ|妾《わたし》は|此《この》|家《や》の|主人《あるじ》カナンの|妻《つま》で|御座《ござ》います。|此処《ここ》に|居《を》りまする|女《をんな》は、|皆《みな》|妾《わたし》の|姉妹《きやうだい》|何《いづ》れもカナンの|妻《つま》となつて|楽《たの》しき|月日《つきひ》を|送《おく》る|者《もの》、|併《しか》し|乍《なが》ら|高天原《たかあまはら》より|神素盞嗚《かむすさのを》の|大神様《おほかみさま》、|千座《ちくら》の|置戸《おきど》を|負《お》はせ|給《たま》ひ、|何処《いづく》ともなく|落《お》ち|行《ゆ》き|給《たま》ひしより、|今迄《いままで》|平穏《へいおん》|無事《ぶじ》なりし|此《この》|秘密郷《ひみつきやう》に、ウラナイ|教《けう》の|魔神《まがみ》|侵入《しんにふ》し|来《きた》り、|古来《こらい》の|風俗《ふうぞく》を|攪乱《かくらん》し、|人心《じんしん》|恟々《きようきよう》として|安《やす》き|心《こころ》|無《な》き|折柄《をりから》、|又《また》もやバラモン|教《けう》の|邪神《じやしん》、|潮《うしほ》の|如《ごと》く|押寄《おしよ》せ|来《きた》り、|今《いま》や|国内《こくない》は|恰《あたか》も|修羅《しゆら》の|巷《ちまた》の|惨状《さんじやう》で|御座《ござ》います。|神素盞嗚《かむすさのを》の|大神《おほかみ》が|此《この》|大地《だいち》の|御主宰《おんつかさ》と|現《あら》はれましたる|世《よ》は、|此《この》|秘密郷《ひみつきやう》も|実《じつ》に|天国《てんごく》|楽土《らくど》の|様《やう》なもので|御座《ござ》いましたが、|大神様《おほかみさま》がお|隠《かく》れ|以来《いらい》と|云《い》ふものは、|俄《にはか》に|国外《こくぐわい》より|諸々《もろもろ》の|悪神《あくがみ》|入《い》り|来《きた》つて、|種々《しゆじゆ》の|変異《へんい》をなし、|此《この》|儘《まま》に|放任《はうにん》せば、|忽《たちま》ち|地獄道《ぢごくだう》を|現出《げんしゆつ》するやも|計《はか》り|難《がた》しと、|国人《くにびと》の|心《こころ》ある|者《もの》は、|再《ふたた》び|大神《おほかみ》の|出現《しゆつげん》を|希《こひねが》ひ、|茶《ちや》|断《た》ち|塩《しほ》|断《た》ち|火《ひ》の|物《もの》|断《た》ちを|致《いた》し、|天《てん》に|祈願《きぐわん》を|籠《こ》めて|居《を》ります。|夫故《それゆゑ》ここ|一月《ひとつき》|許《ばか》りは、|吾々《われわれ》は|総《すべ》ての|飲食《いんしよく》を|断《た》ち、|日夜《にちや》|祈願《きぐわん》を|凝《こ》らし、|善根《ぜんこん》を|励《はげ》み|居《を》りまする|様《やう》の|次第《しだい》、|御相手《おあひて》も|仕《つかまつ》らず、|御無礼《ごぶれい》の|段《だん》は、|右様《みぎやう》の|次第《しだい》なれば、|何《なに》とぞ|悪《あし》からず|御見直《おんみなほ》して|下《くだ》さいませ、|一同《いちどう》の|姉妹《きやうだい》に|代《かは》りて|御願《おねが》ひ|致《いた》します』
|素盞嗚尊《すさのをのみこと》は|双手《もろて》を|組《く》み、|両眼《りやうがん》より|涙《なみだ》をホロホロと|落《おと》し、|黙然《もくねん》として|吐息《といき》をつき|給《たま》ふ。
|高国別《たかくにわけ》『アヽ|実《じつ》に|感心《かんしん》だ、|有難《ありがた》い|有難《ありがた》い。|汝等《なんぢら》|国人《くにびと》が|憧憬《どうけい》する、|神素盞嗚《かむすさのを》の|大神様《おほかみさま》は、|即《すなは》ち|此処《ここ》に……|否《いな》……やがて|此《この》|国《くに》に|御降臨《ごかうりん》|遊《あそ》ばして、|汝等《なんぢら》が|望《のぞ》みを|叶《かな》へさして|下《くだ》さるであらう、|必《かなら》ず|心配《しんぱい》されなよ』
『|妾《わたし》はカナンの|妻《つま》カエンと|申《まを》す|者《もの》、どうぞ|宜《よろ》しくお|願《ねが》ひ|致《いた》します。|十日《とをか》も|二十日《はつか》も、|百日《ひやくにち》も、|永《なが》く|御逗留《ごとうりう》を|願《ねが》ひます。|何分《なにぶん》|此《この》|国《くに》は|食物《しよくもつ》の|穫《と》れない|国《くに》で|御座《ござ》いまするから、|家《いへ》を|増加《ふや》す|事《こと》は|出来《でき》ませぬので、|此《この》|通《とほ》り|一戸《いつこ》の|内《うち》に|家内《かない》が|沢山《たくさん》|居《を》るので|御座《ござ》います。|吾《わが》|夫《をつと》は|妾《わたし》が|兄《あに》で|御座《ござ》います』
|高国別《たかくにわけ》『さうすると、|此《この》|国《くに》は|一夫多妻《いつぷたさい》|主義《しゆぎ》だな』
『ハイハイ、|已《や》むを|得《え》ず、|妾《わたし》の|家庭《かてい》は|一夫多妻《いつぷたさい》、|家《いへ》に|依《よ》りては|多夫一妻《たふいつさい》の|所《ところ》も|御座《ござ》います』
|高国別《たかくにわけ》『ハテナア、モルモン|宗《しう》の|様《やう》だワイ』
『ホヽヽヽヽ……|夜《よ》も|早《はや》|深更《しんかう》に|及《およ》びました、どうぞ|御寛《ごゆる》りと|御就寝《おやす》み|下《くだ》さいませ』
と|五人《ごにん》は|一度《いちど》に|挨拶《あいさつ》をし|乍《なが》ら、|次《つぎ》の|室《ま》に|姿《すがた》を|隠《かく》したり。
|尊《みこと》『|高国別《たかくにわけ》|殿《どの》、|今晩《こんばん》はゆるりと|寝《やす》まして|貰《もら》はうかい』
|高国別《たかくにわけ》『|有難《ありがた》う|御座《ござ》います』
と|傍《かたはら》の|物入《ものいれ》より|獣《けだもの》の|皮《かは》を|取《と》り|出《だ》し、|之《こ》れを|敷《し》き、|幾枚《いくまい》も|幾枚《いくまい》も|重《かさ》ねて、|二人《ふたり》は|安々《やすやす》と|寝《しん》に|就《つ》き|玉《たま》ひける。
|此《この》|国《くに》の|風俗《ふうぞく》は、|戸数《こすう》を|増加《ふや》す|事《こと》を|互《たがひ》に|戒《いまし》めて|居《を》る。|例《たと》へば|六人《ろくにん》の|兄弟《きやうだい》があつて、|其《その》|中《うち》の|一人《ひとり》が|男《をとこ》であれば、|此《この》|男《をとこ》を|夫《をつと》とし、|決《けつ》して|他家《たけ》へ|縁付《えんづき》はせないのである。|又《また》|一戸《いつこ》の|家《うち》に|五人《ごにん》の|男《をとこ》があり、|一人《ひとり》の|娘《むすめ》の|出来《でき》た|時《とき》は、|五人《ごにん》の|夫《をつと》に|一人《ひとり》の|妻《つま》といふ|不文律《ふぶんりつ》が|行《おこな》はれて|居《ゐ》る。|夫《そ》れ|故《ゆゑ》|男子《だんし》|許《ばか》り|生《うま》れたる|時《とき》、|或《あるひ》は|女子《ぢよし》|許《ばか》り|生《うま》れたる|時《とき》は、|此《この》|家《いへ》の|血統《けつとう》は|絶《た》えて|了《しま》ふといふ|不便《ふべん》があるのである。|茲《ここ》に|素盞嗚尊《すさのをのみこと》は、|此《この》|惨状《さんじやう》を|見《み》るに|忍《しの》びず、|他家《たけ》と|縁組《えんぐみ》をすることを|許《ゆる》された。|是《こ》れより|素盞嗚神《すさのをのかみ》を|縁結《えんむす》びの|神《かみ》と|賞讃《たた》へ、|此《この》|国《くに》にてはイドムの|神《かみ》として、|国人《くにびと》が|尊敬《そんけい》する|様《やう》になつた。
|素盞嗚尊《すさのをのみこと》は、|男女《だんぢよ》の|囁《ささや》き|声《ごゑ》にフト|目《め》を|醒《さ》まし、|耳《みみ》を|澄《すま》して|聞《き》き|給《たま》へば、|何事《なにごと》か|祈《いの》りの|声《こゑ》である。|尊《みこと》は|高国別《たかくにわけ》の|肩《かた》をゆすり|乍《なが》ら、
|尊《みこと》『ヤア|高国別《たかくにわけ》、|目《め》を|醒《さま》されよ。|何《なん》だか|怪《あや》しき|人《ひと》の|祈《いの》り|声《ごゑ》』
と|言葉《ことば》|終《をは》らぬに、|高国別《たかくにわけ》はパツと|跳起《はねお》き、
『|如何《いか》にも|大勢《おほぜい》の|声《こゑ》で|御座《ござ》います。|最前《さいぜん》も|此《この》|家《や》の|女房《にようばう》カエンとやらの|話《はなし》に、|茶《ちや》|断《た》ち、|塩《しほ》|断《た》ちを|致《いた》し、|素盞嗚尊《すさのをのみこと》の|再出現《さいしゆつげん》を|祈《いの》つて|居《を》るとか|聞《き》きましたが、|大方《おほかた》ソンナ|事《こと》ではありますまいか』
|尊《みこと》『|吾《われ》は|此《この》|室《ま》に|於《おい》て|休息《きうそく》|致《いた》し|居《を》れば、|汝《なんぢ》はこれより|事《こと》の|実否《じつぴ》を|調《しら》べ|来《きた》れよ』
|高国別《たかくにわけ》『|承知《しようち》|致《いた》しました』
と|此《この》|場《ば》を|立《た》つて、|忍《しの》び|足《あし》に|声《こゑ》する|方《かた》に|進《すす》み|行《ゆ》く。|見《み》れば|数十《すうじふ》の|男女《だんぢよ》、|真裸《まつぱだか》の|儘《まま》、|庭前《ていぜん》の|野原《のはら》に|両手《りやうて》を|合《あは》せ|蹲踞《しやが》み|乍《なが》ら、|力《ちから》なき|声《こゑ》を|振絞《ふりしぼ》り、|何事《なにごと》か|一心不乱《いつしんふらん》に|祈願《きぐわん》をこめ、やがて|一人《ひとり》の|男《をとこ》、|大麻《おほぬさ》を|打振《うちふ》り|乍《なが》ら|神懸《かむがかり》|状態《じやうたい》となつて、|驀地《まつしぐら》に|西北《せいほく》|指《さ》して|駆《か》け|出《だ》したり。|数多《あまた》の|男女《だんぢよ》はわれ|遅《おく》れじと|一生懸命《いつしやうけんめい》に|追跡《つゐせき》する。されど|永《なが》らくの|断食《だんじき》に|身体《しんたい》|弱《よわ》り、|転《こ》けつ|輾《まろ》びつ|其《その》|後《あと》を|追《お》ひ|行《ゆ》く。|高国別《たかくにわけ》はその|状況《じやうきやう》を|瞬《またた》きもせず|打眺《うちなが》めて|居《ゐ》たが、|知《し》らず|識《し》らず|自分《じぶん》も|歩《あゆ》み|出《だ》し、|引《ひ》きずらるる|如《ごと》き|心地《ここち》して、|大勢《おほぜい》の|後《あと》に|忍《しの》び|忍《しの》び|従《したが》ひ|行《ゆ》く。|遥《はるか》|前方《ぜんぱう》に|当《あた》りて|枯芝《かれしば》の|盛《も》りたる|如《ごと》き|小《ちい》さき|饅頭形《まんじうがた》の|丘《をか》が|見《み》えて|居《ゐ》る。|麻《ぬさ》|振《ふ》りつつ|先《さき》に|進《すす》んだ|男《をとこ》は|小丘《こをか》の|上《うへ》に|突《つ》つ|立《た》ち、|何事《なにごと》か|叫《さけ》び|乍《なが》ら、|麻《ぬさ》を|前後左右《ぜんごさいう》に|打振《うちふ》り|打振《うちふ》り|狂気《きやうき》の|如《ごと》く|踊《をど》り|廻《まは》り、|飛《と》びあがり|跳《はね》まはり、キヤツ キヤツと|怪《あや》しき|声《こゑ》を|立《た》てて|居《を》る。|数十人《すうじふにん》の|老若男女《らうにやくなんによ》は|同《おな》じく|小丘《こをか》の|上《うへ》に|駆《か》けあがり、これ|亦《また》|先《さき》の|男《をとこ》と|同様《どうやう》|踊《をど》りまはり|跳廻《はねまは》る。|高国別《たかくにわけ》は|原野《げんや》の|草《くさ》に|身《み》を|隠《かく》し、|其《その》|怪《あや》しき|祈祷《きたう》を|息《いき》を|殺《ころ》して|見《み》つめて|居《ゐ》た。|暫《しばら》くあつて|麻《ぬさ》|持《も》つた|男《をとこ》は、|小丘《こをか》の|彼方《あなた》に|忽《たちま》ち|姿《すがた》を|隠《かく》した。|続《つづ》いて|数多《あまた》の|男女《だんぢよ》は|一人《ひとり》|減《へ》り|二人《ふたり》|減《へ》り、|三人《さんにん》、|五人《ごにん》と|数《かず》を|減《げん》じ、|終《つひ》には|唯一人《ただひとり》の|麗《うるは》しき|女《をんな》を|残《のこ》して、|残《のこ》らず|姿《すがた》を|没《ぼつ》して|了《しま》つた。
|高国別《たかくにわけ》『ハテ、|不思議《ふしぎ》な|事《こと》があればあるものだ。あれ|丈《だけ》け|大勢《おほぜい》の|老若男女《らうにやくなんによ》が、|何処《どこ》へ|往《い》つたか、|見渡《みわた》す|限《かぎ》り|目《め》を|遮《さへぎ》る|物《もの》なき|此《この》|広原《くわうげん》に、|煙《けぶり》の|如《ごと》く|消《き》え|失《う》せるとは|合点《がてん》の|行《ゆ》かぬことだ。まさか|大地《だいち》に|吸収《きふしう》されて|粉末《こな》になつたのでもあるまい』
と|独《ひとり》ごち|乍《なが》ら、|前後左右《ぜんごさいう》に|心《こころ》を|配《くば》り、|一足々々《ひとあしひとあし》|進《すす》み|行《ゆ》く。|一人《ひとり》の|娘《むすめ》は|小丘《こをか》の|上《うへ》に|双手《もろて》を|組《く》み、|稍《やや》|伏目勝《ふしめがち》に|無言《むごん》の|儘《まま》|俯《うつ》むいて|居《ゐ》る。|高国別《たかくにわけ》はつかつかと|進《すす》み、
『|何《いづ》れの|女中《ぢよちう》か|知《し》りませぬが、|先程《さきほど》|物蔭《ものかげ》にて|窺《うかが》へば、|幣束《へいそく》を|持《も》てる|男《をとこ》の|後《あと》より|数十人《すうじふにん》の|男女《だんぢよ》、|此《この》|小丘《こをか》を|目《め》がけて|駆《か》け|上《のぼ》り、|前後左右《ぜんごさいう》に|踊《をど》り|狂《くる》ふよと|見《み》る|間《ま》に、|忽《たちま》ち|姿《すがた》は|消《き》え|失《う》せて|了《しま》つた。あなたは|其《その》|中《うち》の|一人《ひとり》らしく|思《おも》はるるが|如何《いか》なる|次第《しだい》なるか、|詳細《しやうさい》に………お|構《かま》ひなくば|物語《ものがた》られたし。|吾《われ》は|天下《てんか》を|救《すく》ふ|神《かみ》の|使《つかい》………』
と|問《と》ひかけたるに、|女《をんな》は|其《その》|声《こゑ》に|驚《おどろ》いて|高国別《たかくにわけ》の|顔《かほ》を|打見守《うちみまも》り、|首《くび》を|左右《さいう》に|振《ふ》つて|何《なん》の|応答《いらへ》もせざりける。|高国別《たかくにわけ》は|已《や》むを|得《え》ず、|自《みづか》ら|小丘《こをか》に|駆《か》け|上《のぼ》り、|附近《あたり》を|一々《いちいち》|点検《てんけん》すれ|共《ども》、|別《べつ》に|穴《あな》らしきものもなければ、|人《ひと》の|倒《たふ》れたる|姿《すがた》も|見《み》えぬ。|虫《むし》の|声《こゑ》さへ|聞《きこ》えない。|高国別《たかくにわけ》は、
『ハテ|訝《いぶ》かしや』
と|丘上《きうじやう》に【どつか】と|坐《ざ》し、|双手《もろて》を|組《く》んで|思案《しあん》に|暮《く》れ|居《ゐ》たり。|此《この》|時《とき》、|以前《いぜん》の|女《をんな》は、|突然《とつぜん》|高国別《たかくにわけ》の|首《くび》に|細紐《ほそひも》をひつかけ、|背中《せなか》|合《あは》せに|負《お》ひ|乍《なが》ら、トントントンと|元《もと》|来《き》し|路《みち》へ|走《はし》り|出《だ》す。|高国別《たかくにわけ》は|喉《のど》を|締《し》められ、|息《いき》も|絶《た》え|絶《た》えに、|手足《てあし》を|藻掻《もが》きつつ|負《お》はれて|行《ゆ》く。|大《だい》の|男《をとこ》が|命懸《いのちがけ》の|大藻掻《おほもが》きに|屁古垂《へこた》れたと|見《み》え、|女《をんな》は|一二丁《いちにちやう》|来《き》たと|思《おも》ふ|時《とき》、|石《いし》に|躓《つまづ》き、|脆《もろ》くも|其《その》|場《ば》に|倒《たふ》れた。|途端《とたん》に|女《をんな》は|細紐《ほそひも》を|放《はな》す、|高国別《たかくにわけ》はヒラリと|身返《みかへ》りし|起上《おきあが》り、|女《をんな》の|素首《そつくび》をグツと|握《にぎ》つて、
『コラ|汝《なんぢ》は|大胆不敵《だいたんふてき》の|曲者《くせもの》、|容赦《ようしや》はならぬぞ』
と|蠑螺《さざえ》の|如《ごと》き|拳骨《げんこつ》を|固《かた》めて、|骨《ほね》も|砕《くだ》けよと|許《ばか》り、|打下《うちおろ》ろさむとする|形勢《けいせい》を|示《しめ》す。|併《しか》し|高国別《たかくにわけ》の|心《こころ》の|中《なか》は、|決《けつ》して|此《この》|孱弱《かよわ》き|女《をんな》を|打擲《ちやうちやく》する|心《こころ》は、|毫末《がうまつ》もなかつた。|唯《ただ》|勢《いきほひ》を|示《しめ》して|事実《じじつ》を|白状《はくじやう》せしめむ|策略《さくりやく》であつた。
|女《をんな》は、
『ホヽヽヽヽ、あのマア|恐《おそ》ろしいお|顔《かほ》わいなア。ソンナ|怖《こわ》い|顔《かほ》をなされますと、|此《この》|西蔵《チベツト》の|国《くに》は|女房《にようばう》になる|者《もの》が|御座《ござ》いませぬよ。あのマアお【むつ】かしい|顔《かほ》……ホヽヽヽ』
『アハヽヽヽ、ナント|大胆至極《だいたんしごく》な|女《をんな》もあればあるものだなア』
『オホヽヽヽヽ、|何程《なにほど》|怖《こわ》い|顔《かほ》をなさつて、|拳《こぶし》を|固《かた》め、|妾《わたし》を|打《う》つ|様《やう》な|形勢《けいせい》をお|示《しめ》しになつても、あなたの|腹《はら》の|中《なか》はさうではありますまい。|何《なに》を|言《い》うても、|一方《いつぱう》は|孱弱《かよわ》き|女《をんな》|一方《いつぱう》は|鬼《おに》をも|挫《ひし》ぐ|荒男《あらをとこ》の|英雄《えいゆう》|豪傑《がうけつ》、どうして|繊弱《かよわ》き|女《をんな》が、………|馬鹿《ばか》らしくも|打擲《ちやうちやく》が|出来《でき》ませう』
とニタリと、|高国別《たかくにわけ》の|顔《かほ》を|打《うち》まもる。
『ナント|妙《めう》な|女《をんな》だ。………コラ|女《をんな》、|此《この》|方《はう》はソンナ|優《やさ》しい|女《をんな》の|腐《くさ》つた|様《やう》な|男《をとこ》でないぞ、|鬼雲彦《おにくもひこ》の|一《いち》の|家来《けらい》の|鬼掴《おにつかみ》とは|俺《おれ》の|事《こと》だ。|頭《あたま》からかぶつて|喰《く》てやらうか……』
『ホヽヽヽヽ、|夫《そ》れ|程《ほど》|偉《えら》い|鬼掴《おにつかみ》なら、|何故《なぜ》|妾《わらは》に|油断《ゆだん》をして、|細紐《ほそひも》に|喉《のど》を|締《し》められたのか。それや|全《まつた》く|偽《いつは》り、お|前《まへ》は|高天原《たかあまはら》から|下《くだ》り|来《き》たれる|高国別《たかくにわけ》であらうがなア』
『イヤ|拙者《せつしや》は|決《けつ》して|左様《さやう》な|者《もの》では|御座《ござ》らぬ。|悪逆無道《あくぎやくぶだう》のバラモン|教《けう》の|悪神《あくがみ》だ。この|方《はう》が|此《この》|国《くに》に|現《あら》はれた|以上《いじやう》は、|何奴《どいつ》も|此奴《こいつ》も、|片《かた》つ|端《ぱし》から|雁首《がんくび》を|引抜《ひきぬ》いて、|御大将《おんたいしやう》|鬼雲彦《おにくもひこ》や、|八岐大蛇《やまたをろち》の|神《かみ》に|御馳走《ごちそう》を|献上《けんじやう》するのだ』
『ホヽヽヽヽ、|置《お》かんせいなア、これ|高《たか》サン』
と|肩《かた》をポンと|叩《たた》く。
『オイ|馬鹿《ばか》にするな。|金毛九尾《きんまうきうび》のお|化《ばけ》|奴《め》が|色《いろ》で|迷《まよ》はす|浅漬《あさづけ》|茄子《なすび》、|何程《なにほど》|巧言令色《かうげんれいしよく》の|限《かぎ》りを|尽《つく》し、|吾《われ》を|誑惑《けうわく》せむとするも、|女《をんな》にかけては|無関係《むくわんけい》、|没交渉《ぼつかうせう》の|拙者《それがし》だ。|女色《ぢよしよく》に|迷《まよ》うて、どうして|此《この》|悪《あく》の|道《みち》が|弘《ひろ》まらうかい。グズグズ|吐《ぬか》すと|股《また》から|引裂《ひきさ》いてやらうか』
『サアサア|股《また》からなつと、|首《くび》からなりと、あなたに|任《まか》せた|此《この》|体《からだ》、|一寸刻《いつすんきざみ》か|五分試《ごぶだめ》し、|焚《た》いて|喰《く》はうと、|焼《や》いて|喰《く》はうと、あなたの|御勝手《ごかつて》、|妾《わらは》は|夫《そ》れが|満足《まんぞく》で|御座《ござ》んす。ホヽヽヽヽ』
『|益々《ますます》|分《わか》らぬ|奴《やつ》だ。エー、|怪《け》つ|体《たい》の|悪《わる》い、|此《この》|広野ケ原《ひろのがはら》で|幸《さひは》ひ|人《ひと》が|居《ゐ》ないから|好《い》いものの、|天《てん》|知《し》る|地《ち》|知《し》る|吾《われ》も|知《し》るだ。|七尺《しちしやく》|八寸《はつすん》の|荒男《あらをとこ》が、|六尺《ろくしやく》|足《た》らずの|繊弱《かよわ》き|女《をんな》に|口説《くど》かれて、グズグズ|致《いた》して|居《ゐ》るのは、|実《じつ》に|何《なん》とも|慚愧汗顔《ざんきかんがん》の|至《いた》りだ………オイ|女《をんな》|其方《そなた》は|一体《いつたい》|全体《ぜんたい》|何者《なにもの》だ。|早《はや》く|化《ばけ》の|皮《かは》を|現《あら》はさぬか』
『ホヽヽヽヽ、|妾《わらは》はあの|天教《てんけう》………|否々《いやいや》やつぱり|化物《ばけもの》の|女《をんな》で|御座《ござ》います』
『アハア、さうか、|貴様《きさま》はやつぱり、|癲狂院《てんきやうゐん》|代物《しろもの》だな。コンナキ|印《じるし》に|暇《ひま》を|潰《つぶ》して|居《を》つては|尊様《みことさま》に|対《たい》して|申訳《まをしわけ》がない………オイ|女《をんな》、|貴様《きさま》ゆつくりと、|夢《ゆめ》でも|見《み》て、|独言《ひとりごと》を|言《い》つて|居《を》るが|宜《よ》からう』
と|踵《きびす》を|返《かへ》し、|小丘《こをか》を|指《さ》して|進《すす》み|行《ゆ》かむとす。|以前《いぜん》の|女《をんな》|又《また》もや|細紐《ほそひも》をパツとふりかけた|途端《とたん》に、|足《あし》をさらへられて、|大《だい》の|男《をとこ》はドスンと|大地《だいち》に|倒《たふ》れた。
『アイタヽ、エーエーまた|引《ひ》つかけよつた。|馬鹿《ばか》にするない、モウ|了見《れうけん》ならぬぞ』
『ホヽヽヽヽ、|高国別《たかくにわけ》の|弱《よわ》い|事《こと》わいのう、アイタタとは、そら|何《なん》とした|又《また》|弱音《よわね》を|吹《ふ》きやしやんす。ひつかけ|戻《もど》しの|仕組《しぐみ》ぢやぞい。|神《かみ》が|綱《つな》を|掛《か》けたら、|逃《に》げやうと|言《い》つても|逃《にが》しはせぬ、アイタタとは|誰《たれ》に|会《あ》ひたいのだエ、|神素盞嗚《かむすさのを》の|大神《おほかみ》にか………』
『エーやつぱり|此奴《こいつ》ア|金毛九尾《きんまうきうび》の|化狐《ばけきつね》だ。|何《なに》もかも|皆《みな》|知《し》つてゐよる、サアもう|勘忍袋《かんにんぶくろ》の|緒《を》が|切《き》れた、………ヤア|女《をんな》、|此《この》|高《たか》サンが|首途《かどで》の|血祭《ちまつり》だ、|覚悟《かくご》を|致《いた》せ……』
『ホヽヽヽヽ、あの|言霊《ことたま》でなア』
『エー|言霊《ことたま》もあつたものかい、|高《たか》サンの|腕力《わんりよく》で|荒料理《あられうり》だ、|覚悟《かくご》を|致《いた》せ』
『ホヽヽヽヽ、|妾《わらは》は|数万年《すうまんねん》の|昔《むかし》より、|磐石《ばんじやく》の|如《ごと》き|覚悟《かくご》を|定《き》めて|居《を》りますよ。あのソワソワしい|高《たか》サンの|振舞《ふるまひ》、わしや|可笑《おか》しい、ホヽヽヽヽ』
『エー|邪魔《じやま》|臭《くさ》い、コンナ|奴《やつ》に|相手《あひて》になつて|居《を》つたら、|日《ひ》が|暮《く》れるワイ。|兎《と》に|角《かく》|怪《あや》しき|彼《か》の|小丘《こをか》、|一伍一什《いちぶしじふ》を|取調《とりしら》べて|尊様《みことさま》へ|報告《はうこく》を|致《いた》さねばなるまい、|尊《みこと》におかせられても、さぞやお|待兼《まちかね》であらう。エー|此《この》|綱《つな》を|此奴《こいつ》に|持《も》たして|置《お》けば、|又《また》もやひつかけ|戻《もど》しに|遭《あ》はしよるかも|知《し》れない』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら、|細紐《ほそひも》をクルクルと|手繰《たぐ》つて、|懐《ふところ》に|捩《ね》ぢ|込《こ》まうとする。
『ホヽヽヽヽ、|広野ケ原《ひろのがはら》で|七尺《しちしやく》|八寸《はつすん》の|泥棒《どろばう》が|現《あら》はれた、ナントまあ|甲斐性《かひしやう》のない|泥棒《どろばう》だこと、|女《をんな》の|腰紐《こしひも》を|奪《うば》つて|帰《かへ》る|様《やう》な|泥棒《どろばう》にロクな|奴《やつ》はない』
『エー|面倒《めんだう》|臭《くさ》い、|今度《こんど》は|真剣《しんけん》だ、|股《また》から|引裂《ひきさ》いてやらう………ヤイ|女《をんな》、|俺《おれ》が|怒《おこ》つたら、|本真剣《ほんしんけん》だ』
『オホヽヽヽヽ、|其《その》|本真剣《ほんしんけん》も|怪《あや》しいものだ、|細紐《ほそひも》|一本《いつぽん》で|貴重《きちよう》な|女《をんな》の|生命《いのち》を|取《と》らうとする|腰抜《こしぬけ》|泥棒《どろばう》………|美事《みごと》|取《と》るなら|取《と》つて|見《み》よ。|妾《わらは》もサル|者《もの》、|此《この》|細腕《ほそうで》の|続《つづ》く|限《かぎ》り、|力《ちから》の|限《かぎ》り、お|相手《あひて》になりませう』
『アハヽヽヽ、|一寸《ちよつと》やりよるな、…………アーア、|女子《ぢよし》と|小人《せうじん》は|養《やしな》ひ|難《がた》しだ。ヤア|何処《どこ》のお|女中《ぢよちう》か|知《し》らぬが、|観客《くわんきやく》の|無《な》い|芝居《しばゐ》は|根《ね》つからはづまない。モウ|此処《ここ》らで|幕切《まくぎ》れと|致《いた》して|二人《ふたり》|手《て》に|手《て》を|取《と》つて、|二世《にせ》や|三世《さんせ》はまだ|愚《おろか》、|五六七《みろく》の|世《よ》までも、|生死《せいし》を|共《とも》に、|死出《しで》も|三途《さんづ》も、|駱駝《らくだ》の|道伴《みちづ》れ、|鴛鴦《おし》の|衾《ふすま》の|睦《むつ》み|合《あ》ひと|云《い》ふ|段取《だんどり》だ。サアサア|最早《もはや》|平和《へいわ》|克復《こくふく》だ。あなにやしエー|乙女《おとめ》、チヤツとおじや』
と|目《め》を|細《ほそ》くし、|舌《した》をペロリと|出《だ》して、|腰付《こしつき》|怪《あや》しく|手《て》を|差《さ》し|延《の》ばせば、|女《をんな》は|三十《さんじつ》|珊《サンチ》の|榴弾《りうだん》を|撃《う》つたる|如《ごと》く、
『マア|好《す》かんたらしいお|方《かた》』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら、|肱鉄砲《ひぢでつぱう》を|二三発《にさんぱつ》|乱射《らんしや》したり。
『アイタヽ、|益々《ますます》|合点《がてん》の|行《ゆ》かぬ|剛《がう》の|女《をんな》、|古今無双《ここんむさう》のヒーロー|豪傑《がうけつ》、|高国別《たかくにわけ》も|半分《はんぶん》|許《ばか》り|感服《かんぷく》|仕《つかまつ》つた』
『ホヽヽ、|自我心《じがしん》の|強《つよ》い|高国別《たかくにわけ》、|半分《はんぶん》|感服《かんぷく》とはそりや|何《なん》の|囈語《たわごと》』
『イヤもう|全部《ぜんぶ》|感服《かんぷく》|仕《つかまつ》つた。|金毛九尾《きんまうきうび》|白面《はくめん》の|悪狐《あくこ》と|云《い》ふ|奴《やつ》は|実《じつ》に|巧《たくみ》なものだ。それ|位《くらゐ》の|力量《りきりやう》がなくては、|到底《たうてい》|此《この》|秘密郷《ひみつきやう》を|蹂躙《じうりん》する|事《こと》は|出来《でき》ないワイ。|何《なに》は|兎《と》も|有《あ》れ|是《これ》から|貴様《きさま》の|気《き》に|入《い》らぬ|彼《か》の|土饅頭《どまんじう》の|探険《たんけん》だ』
と|大股《おほまた》にノソリノソリと|駆出《かけだ》したり。
|女《をんな》は(|義太夫調《ぎだいふてう》)
『マアマア、|待《ま》つて|下《くだ》さいませ。|折角《せつかく》|顔《かほ》|見《み》た|甲斐《かひ》も|無《な》う、モウ|別《わか》るるとは|曲《きよく》がない。お|前《まへ》に|会《あ》ひたさ、|顔《かほ》|見《み》たさ、|死《し》なば|諸共《もろとも》|死出《しで》|三途《さんづ》、|神々様《かみがみさま》に|願《ぐわん》をかけ、|先《さき》へ|廻《まは》つてお|前《まへ》の|行衛《ゆくゑ》、お|前《まへ》の|来《く》るのを|待《ま》つて|居《ゐ》た|妾《わらは》が|思《おも》ひ、|物《もの》の|憐《あは》れを|知《し》らぬ|男《をとこ》は、|人間《にんげん》ではあるまい、|妾《わらは》が|切《せつ》なき|思《おも》ひを|推量《すいりやう》して|下《くだ》さんせ』
『アーア|馬鹿《ばか》にしよる、|斯《こ》うして|何時《いつ》までも|暇《ひま》|取《と》らせ、|其《その》|間《ま》に|数十人《すうじふにん》の|老若男女《らうにやくなんによ》を|計略《けいりやく》を|以《もつ》て|虐殺《ぎやくさつ》するの|計画《たくみ》であらう。………エー|邪魔《じやま》ひろぐな』
と|女《をんな》を|蹴飛《けと》ばし、|踏《ふ》み|散《ち》らし、|韋駄天走《ゐだてんばし》りに|進《すす》み|行《ゆ》く。
『オーイオーイ、|高《たか》サン|待《ま》つた』
『エー|待《ま》つも、|待《ま》つたもあるものか、|貴様《きさま》、|勝手《かつて》に|何《なん》なとほざけ』
と|一足々々《ひとあしひとあし》|小丘《こをか》の|周囲《まはり》を|四股《しこ》|踏《ふ》み|乍《なが》ら|歩《あゆ》み|出《だ》した。|忽《たちま》ちバサリと|大地《だいち》は|凹《くぼ》んで|四五間《しごけん》|地《ち》の|底《そこ》ヘズルズルズルと|落《お》ち|込《こ》んだ。|以前《いぜん》の|女《をんな》は|落込《おちこ》んだ|穴《あな》の|口《くち》より、|下《した》を|覗《のぞ》いて、
『ヤア|高《たか》サンか|感心々々《かんしんかんしん》 ホヽヽヽヽ』
と|笑《わら》つて|居《ゐ》る、|高国別《たかくにわけ》の|身《み》の|上《うへ》は|果《はた》して|如何《いか》なるであらうか。
(大正一一・四・三 旧三・七 松村真澄録)
第一四章 |奇《くし》の|岩窟《がんくつ》〔五八一〕
|高国別《たかくにわけ》はドサリと|陥穽《おとしあな》に|落《お》ち|込《こ》んだ。|以前《いぜん》の|女《をんな》、|又《また》もや|追掛《おひかけ》|来《きた》り、
『ホヽヽヽヽ』
と|笑《わら》ひ|乍《なが》ら、|何時《いつ》の|間《ま》にか|金線《きんせん》を|吊《つ》り|下《お》ろし、|高国別《たかくにわけ》の|腮《あご》に|引《ひ》つかけ、|振釣瓶《ふりつるべ》を|手繰《たぐ》る|様《やう》にプリンプリンと|引《ひ》き|上《あ》げる。|高国別《たかくにわけ》は|喉《のど》|締《し》め|上《あ》げられ、|又《また》もや|旧《もと》の|穴《あな》の|口《くち》に|上《あが》つて|来《き》た。
『ホヽヽヽヽ、あのマア|蒼《あを》いお|顔《かほ》』
|高国別《たかくにわけ》『エー、|又《また》しても|又《また》しても、|能《よ》く|悪戯《いたづら》をする|女《をんな》だなア。|繊弱《かよわ》き|女《をんな》の|分際《ぶんざい》として|荒男《あらをとこ》の|腮《あご》に|綱《つな》を|掛《か》け、|引《ひ》き|上《あげ》るとは|不届千万《ふとどきせんばん》な、|飽迄《あくまで》も|図々《づうづう》しい|奴《やつ》だ。|見《み》た|割《わ》りとは|力《ちから》の|強《つよ》い|女《をんな》だなア』
『オホヽヽヽ、|何処《どこ》までも|執着心《しふちやくしん》の|綱《つな》は|離《はな》れませぬよ。|此《この》|者《もの》と|見込《みこ》みを|付《つ》けて|神《かみ》が|綱《つな》を|掛《か》けたら|放《はな》さぬぞよ、|引掛《ひつかけ》|戻《もど》しの|此《この》|仕組《しぐみ》、|開《あ》いた|口《くち》が|閉《すぼ》まるまいがな』
『|人《ひと》の|腮太《あごた》に|堅《かた》い|堅《かた》い|金線《きんせん》を|引掛《ひきか》けよつて|開《あ》いた|口《くち》が|閉《すぼ》んで|仕舞《しま》つた|哩《わい》、コウ|之《これ》|見《み》よコンナ|型《かた》がつきよつた』
『|喉《のど》の|型《かた》はついたが|妾《わたし》の【かた】は、|如何《どう》してつけて|下《くだ》さる』
『エー、|五月蝿《うるさ》い|奴《やつ》だ、【かた】をつけるも、つけぬも|有《あ》つたものかい。|貴様《きさま》と|俺《おれ》とは|夫婦《ふうふ》でも|無《な》ければ|味方《みかた》でも|無《な》い、|又《また》|不倶戴天《ふぐたいてん》の|敵《かたき》でも|無《な》いのだ。あまりチヨツカイを|出《だ》すと|将来《しやうらい》の|為《た》めにならぬぞ』
『|貴方《あなた》、ちつと|見方《みかた》が|違《ちが》ひは|致《いた》しませぬか、|堅《かた》き|誠《まこと》の|心《こころ》を|以《もつ》て|飽迄《あくまで》も|神《かみ》の|道《みち》を|進《すす》まねばなりますまい。|軽挙妄動《けいきよもうどう》を|慎《つつし》み|慎重《しんちよう》の|態度《たいど》を|以《もつ》て|神《かみ》の|道《みち》に|仕《つか》ふるが|貴方《あなた》のお|役《やく》』
『エー|味方《みかた》が|違《ちが》ふの、|敵《かたき》が|違《ちが》ふのと、あた|八釜《やかま》しい|哩《わい》、|一体《いつたい》|貴様《きさま》は|何者《なにもの》だ、|如何《どう》も|腑《ふ》に|落《お》ちぬ|代物《しろもの》だなア』
『|妾《わらは》は|腑《ふ》に|落《お》ちぬ|代物《しろもの》か|知《し》りませぬが、|貴方《あなた》は|穴《あな》に|落《お》ちる|代物《しろもの》だ。ホヽヽヽ、|一寸《ちよつと》|当《あ》てて|御覧《ごらん》、|妾《わらは》の|正体《しやうたい》が|分《わか》らぬ|様《やう》な|事《こと》で、|如何《どう》して|此《この》|地底《ちてい》の|岩窟《がんくつ》が|探険《たんけん》|出来《でき》ませうか。|第一着手《だいいちちやくしゆ》として|妾《わらは》の|素性《すじやう》を|能《よ》く|審神《さには》して|下《くだ》さい』
『|吁《あゝ》、|邪魔臭《じやまくさ》いな、お|前《まへ》の|方《はう》から「|妾《わらは》は|何々《なになに》の|何々《なになに》じや」と|自白《じはく》せぬかい。さうしたら|此《この》|方《はう》が|正《せい》か|邪《じや》か、|真《しん》か|偽《ぎ》かと|言《い》ふ|事《こと》を|審神《さには》して|与《や》るのだ』
『ホヽヽヽヽ、デモ|審神者《さには》の、|探《さぐ》り|審神者《さには》の、ヘボ|審神者《さには》サン、|妾《わらは》のネームを|聞《き》かねば|審神《さには》が|出来《でき》ませぬか、|貴方《あなた》には|神様《かみさま》の|御守護《ごしゆご》は|零《ゼロ》ですな』
『|何《なん》だ、|審神者《さには》には|審神者《さには》としての|権能《けんのう》があるのだ、|人《ひと》に|物《もの》を|尋《たづ》ねるのに|何故《なぜ》|自分《じぶん》のネームを|名告《なの》らないのか、「|妾《わらは》は|何《なに》か|当《あ》てて|御覧《ごらん》」ナンテ、まるで|十字街《じふじがい》に|立《たつ》てる|旅人《たびびと》が「|俺《わし》は|何方《どちら》へ|行《ゆ》くか|知《し》つてますか」と|尋《たづ》ねる|様《やう》なものだ。ソンナ|理窟《りくつ》が|何処《どこ》にあるかい、|早《はや》く|名告《なの》らないか』
『ホヽヽヽヽ、お|前《まへ》サンは|丁度《ちやうど》「|私《わたし》の|行《ゆ》く|処《ところ》は|何処《どこ》で|御座《ござ》います」と、|人《ひと》に|訊《たづ》ねる|様《やう》な|審神者《さには》だ。ソンナ|審神者《さには》が|如何《どう》して|地底《ちてい》の|岩窟《がんくつ》が|探険《たんけん》|出来《でき》ませうぞ。|妾《わらは》の|素性《すじやう》がはつきり|分《わか》る|迄《まで》、|千遍《せんべん》でも|万遍《まんべん》でも|綱《つな》を|掛《か》けて|引掛《ひつかけ》|戻《もど》しをしますから|覚悟《かくご》をなさいませ、ホヽヽヽ』
『アーア「|進退《しんたい》|維《こ》れ|谷《きは》まる」とは|茲《ここ》の|事《こと》だ、|黐桶《とりもちをけ》へ|足《あし》をつツ|込《こ》んだ|様《やう》な|者《もの》だ、|困《こま》つたな。オイオイ|女《をんな》、|良《い》い|加減《かげん》に|洒落《しやれ》て|置《お》いたら|如何《どう》だ、|神界《しんかい》の|御経綸《ごけいりん》の|妨害《ばうがい》|致《いた》すと|為《た》めにならぬぞ。|如何《どう》だ、|神界《しんかい》へ|汝《なんぢ》の|罪《つみ》を|奏上《そうじやう》|致《いた》さうか』
『|何《なん》と|言《い》つても|放《はな》しはせぬ、いや|一寸《ちよつと》も|動《うご》かしはせぬ、|動《うご》くなら|動《うご》いて|御覧《ごら》うじ、ホヽヽヽヽ』
『アーア、|仕方《しかた》が|無《な》いなア、いやもう|何《いづ》れの|神《かみ》か|知《し》りませぬが、トコトン|往生《わうじやう》|致《いた》しました。|何卒《どうぞ》|今迄《いままで》の|御無礼《ごぶれい》、お|気障《きざはり》は|千万《せんばん》|御座《ござ》いませうとも、|広《ひろ》き|厚《あつ》き|大御心《おほみこころ》に|見直《みなほ》し|聞直《ききなほ》し|下《くだ》さいまして|御勘弁《ごかんべん》を|願《ねが》ひます。|鼻《はな》の|高国別《たかくにわけ》も|斯《こ》うなつちや|台《だい》なしだ、|此《この》|鼻《はな》は|薩張《さつぱ》り|常世城《とこよじやう》の|鷹取別《たかとりわけ》ぢやないがベシヤベシヤだ』
『ホヽヽヽヽ、|此鼻々々《このはなこのはな》、|不細工屋姫《ぶさいくやひめ》の|低国別《ひくくにわけ》サン、|合点《がてん》がゆきましたか』
『オヽヽ、いつたいつた、いやもう、ずんと|合点《がてん》がいつた|哩《わい》』
『ソンナラ|当《あ》てて|御覧《ごらん》』
『マアマア|矢《や》つ|張《ぱり》|女《をんな》ぢや。|怪体《けつたい》な|訳《わけ》の|分《わか》らぬ|女神《めがみ》だな』
『|妾《わたし》のネームは|何《なん》と|申《まを》しますか』
『サア|何《なん》と|申《まを》して|好《よ》いやら、|一向《いつかう》|合点《がてん》がゆかぬ、|大方《おほかた》お|前《まへ》サンはジユピターの|神《かみ》であらう』
|女《をんな》は|首《くび》を|左右《さいう》に|振《ふ》り、
『|違《ちが》う|違《ちが》う』
『ソンナラ、ジユピターの|神《かみ》のシスターだらう』
『|違《ちが》う|違《ちが》う』
『アポロの|女神《めがみ》か、アテーナの|女神《めがみ》か、あてなア、|合点《がてん》の|往《ゆ》かぬ|事《こと》だ』
『お|前《まへ》も|余《よ》つ|程《ぽど》アポーロ(|阿呆《あほう》)の|男神《をがみ》だよ、オホヽヽヽ』
『アヽ|斯《こ》うなると|天下《てんか》の|審神者《さには》は|並《なみ》や|大抵《たいてい》では|無《な》い|哩《わい》』
『さうさ、|俄《にはか》|信心《しんじん》の|俄《にはか》|審神者《さには》では|此《この》|女神《めがみ》の|正体《しやうたい》は|分《わか》りますまい』
と|鼻《はな》をチヨンと|抑《おさ》へて|見《み》せた。|高国別《たかくにわけ》は|忽《たちま》ち|大地《だいち》に|平伏《へいふく》し、
『|之《これ》は|之《これ》は|御無礼《ごぶれい》を|致《いた》しました。いやもう|梅花《ばいくわ》の|春陽《しゆんやう》に|会《あ》うて|一度《いちど》にパツと|開《ひら》く|如《ごと》く|爛漫《らんまん》たる|桜花《おうくわ》の|如《ごと》く|心《こころ》の|暗《やみ》は|開《ひら》けました。|貴神《あなた》は|天教山《てんけうざん》に|坐《ま》します|木花姫《このはなひめ》の|命《みこと》|様《さま》』
と|両手《りやうて》を|合《あは》せて|拝跪《はいき》する。|忽《たちま》ち|空中《くうちう》に|微妙《びめう》の|音楽《おんがく》|聞《きこ》え、|馥郁《ふくいく》たる|梅花《ばいくわ》の|香《にほひ》、|鼻《はな》に|迫《せま》るよと|見《み》る|間《ま》に|如何《いかが》はしけむ、|女神《めがみ》の|姿《すがた》は|煙《けぶり》と|消《き》えて、|野路《のぢ》を|吹《ふ》き|渡《わた》る|風《かぜ》に|雪《ゆき》さへ|交《まじ》つてちらつき|初《はじ》めた。
|此《この》|時《とき》|捩鉢巻《ねじはちまき》、|襷《たすき》|十文字《じふもんじ》に|綾《あや》どり、|息《いき》せききつて|此《この》|場《ば》に|現《あら》はれた|一人《ひとり》の|男《をとこ》、|大地《だいち》にピタリと|頭《かしら》を|下《さ》げ、
『もうしもうし、|高国別《たかくにわけ》の|神様《かみさま》、カナンの|家《うち》に|御逗留《ごとうりう》|遊《あそ》ばす|立派《りつぱ》なお|方《かた》から、|大事変《だいじへん》が|突発《とつぱつ》したから|貴神様《あなたさま》を|呼《よ》んで|来《こ》いと|仰《あふ》せられました。サア|一時《いちじ》も|早《はや》く|私《わたし》の|後《あと》についてお|帰《かへ》り|下《くだ》さいませ。タヽヽ|大変《たいへん》な|事《こと》が|出来《でき》ました』
『ナニ、|須佐之男之尊《すさのをのみこと》|様《さま》が|某《それがし》に|帰《かへ》れと|仰有《おつしや》つたか、はて、|合点《がてん》の|往《ゆ》かぬ|事《こと》だワイ』
と|双手《もろて》を|組《く》んで|小丘《こをか》の|上《うへ》に|端坐《たんざ》した|儘《まま》|考《かんが》へ|込《こ》んで|居《ゐ》る。|地底《ちてい》よりは|何者《なにもの》の|声《こゑ》とも|知《し》らぬ、
『ヤアヤア、|高国別《たかくにわけ》、|何《なに》を|愚図々々《ぐづぐづ》|致《いた》して|居《ゐ》る、|早《はや》く|地底《ちてい》の|岩窟《がんくつ》へ|這入《はい》つて|来《こ》ないか、|岩窟内《がんくつない》には|大惨事《だいさんじ》が|突発《とつぱつ》|致《いた》して|居《ゐ》るぞ。|人《ひと》を|救《すく》ふは|宣伝使《せんでんし》の|役《やく》だ、|数十人《すうじふにん》の|生霊《いきりやう》をみすみす|見殺《みごろ》しに|致《いた》すか』
と|呶鳴《どな》り|声《ごゑ》が|聞《きこ》えて|来《き》た。
|男《をとこ》は、
『もしもし|高国別《たかくにわけ》サン、|大神《おほかみ》の|御命令《ごめいれい》で|御座《ござ》います、サアサア|早《はや》く|御越《おこ》し|下《くだ》さいませ。|神様《かみさま》の|御命令《ごめいれい》には|一時《いちじ》も|早《はや》く|立帰《たちかへ》れ、|愚図々々《ぐづぐづ》|致《いた》さば|主従《しゆじゆう》の|縁《えん》をきるとの|厳《きび》しき|御仰《おんあふ》せ、サア|早《はや》くお|越《こ》し|下《くだ》さい』
|地底《ちてい》の|岩窟《がんくつ》より、
『ヤア|高国別《たかくにわけ》、|汝《なんぢ》は|数十人《すうじふにん》の|生霊《せいれい》を|見殺《みごろ》しに|致《いた》す|所存《しよぞん》か、|宣伝使《せんでんし》の|天職《てんしよく》を|何《なん》と|心得《こころえ》て|居《ゐ》る。|九死一生《きうしいつしやう》の|場合《ばあひ》だ、|一刻《いつこく》も|早《はや》く|岩窟《がんくつ》に|侵入《しんにふ》して|人命《じんめい》を|救《すく》へ』
『もしもし|何卒《どうぞ》|早《はや》くお|帰《かへ》り|下《くだ》さい、|大神様《おほかみさま》の|一大事《いちだいじ》』
『|大神様《おほかみさま》の|一大事《いちだいじ》とは|如何《いか》なる|事《こと》が|突発《とつぱつ》いたしたか、|詳細《まつぶさ》に|物語《ものがた》れよ』
|男《をとこ》は、
『|大神様《おほかみさま》には|数百人《すうひやくにん》のウラナイ|教《けう》の|魔神《まがみ》に|十重二十重《とへはたへ》に|取囲《とりかこ》まれ、|衆寡《しうくわ》|敵《てき》せず|御身辺《ごしんぺん》|刻々《こくこく》に|危機《きき》に|瀕《ひん》し|給《たま》ふ。|早《はや》く|早《はや》くお|帰《かへ》り|遊《あそ》ばせ、|時《とき》|遅《おく》れては|一大事《いちだいじ》、|必《かなら》ず|必《かなら》ず|躊躇《ちうちよ》|逡巡《しゆんじゆん》して|呑臍《どんぜい》の|悔《くい》を|貽《のこ》し|給《たま》ふな』
|地底《ちてい》の|岩窟《がんくつ》より、
『ヤアヤア|高国別《たかくにわけ》、|数十人《すうじふにん》の|生霊《いきりやう》を|見殺《みごろ》しに|致《いた》す|所存《しよぞん》か、|疾《と》く|来《きた》りて|可憐《かれん》なる|彼等《かれら》の|生命《いのち》を|救《すく》へ』
と|両方《りやうはう》より|絞木《しめぎ》にかかつた|高国別《たかくにわけ》はホツと|一息《ひといき》、|兎《と》やせん|斯《か》くや|詮術《せんすべ》もなくなく|涙《なみだ》に|暮《く》れて|居《ゐ》る。|忠《ちう》と|仁《じん》との|板挟《いたばさ》みになつた|高国別《たかくにわけ》は|忠《ちう》ならむとすれば|仁《じん》ならず、|仁《じん》ならむとすれば|忠《ちう》ならず、|心《こころ》は|宙《ちう》に|岡《をか》の|上《うへ》、|双手《もろて》を|組《く》んで|深《ふか》き|思案《しあん》に|沈《しづ》み|居《ゐ》る。|地底《ちてい》の|岩窟《がんくつ》よりは|阿鼻叫喚《あびけうくわん》の|声《こゑ》、|益々《ますます》|烈《はげ》しく|手《て》にとる|如《ごと》く|耳朶《じだ》をうつた。
『アヽ|如何《いか》にせむ、|彼方《あちら》たてれば|此方《こちら》がたたぬ、|此方《こちら》たてれば|彼方《あちら》がたたぬ、|両方《りやうはう》たつれば|身《み》がたたぬ』
と|両刃《もろは》の|剣《けん》を|執《と》るより|早《はや》く|両肌《もろはだ》を|脱《ぬ》いで、|左《ひだり》の|脇腹《わきばら》にグツと|突《つ》き|立《た》てむとする|折《をり》しもあれ、|忽然《こつぜん》として|此《この》|場《ば》に|現《あら》はれたる|以前《いぜん》の|女神《めがみ》、|忽《たちま》ち|高国別《たかくにわけ》が|右手《みぎて》をグツト|抑《おさ》へて|動《うご》かさず。|高国別《たかくにわけ》は|身《み》を|藻掻《もが》き|手《て》を|振《ふ》り|放《はな》ち、|又《また》もや|両刃《もろは》の|剣《つるぎ》を|我《わが》|脇腹《わきばら》に|突《つ》き|立《た》てむとする|折《をり》しも、|以前《いぜん》の|女神《めがみ》は|飛鳥《ひてう》の|如《ごと》く|飛《と》びかかり、|両刃《もろは》の|剣《つるぎ》を|手早《てばや》くもぎ|取《と》り|声《こゑ》|厳《おごそ》かに、
『|汝《なんぢ》は|忠《ちう》と|仁《じん》との|分水嶺《ぶんすゐれい》に|立《た》ち|其《その》|去就《きよしう》に|迷《まよ》ひ、|今《いま》や|自《みづか》ら|身《み》を|殺《ころ》さむとせしは|不覚《ふかく》の|至《いた》りなり、|先《ま》づ|先《ま》づ|心《こころ》を|落付《おちつ》けよ。|神須佐之男《かむすさのを》の|大神《おほかみ》は|御安泰《ごあんたい》に|坐《ま》しますぞ、|汝《なんぢ》が|真心《まごころ》を|試《ため》さむ|為《た》め、|木花姫之命《このはなひめのみこと》|身《み》を|変《へん》じて|迎《むか》への|男《をとこ》となり、|所存《しよぞん》の|臍《ほぞ》を|固《かた》めしめむとなしたる|神業《かむわざ》なり。|須佐之男尊《すさのをのみこと》は|神変《しんぺん》|不思議《ふしぎ》の|神力《しんりき》|在《おは》しませば|心慮《しんりよ》を|煩《わづら》はすに|及《およ》ばず、|一時《いちじ》も|早《はや》く|地底《ちてい》の|岩窟《がんくつ》に|落《お》ちて、|魔神《まがみ》に|悩《なや》まされつつある|数多《あまた》の|生霊《せいれい》を|救《すく》へ』
と|言葉《ことば》|終《をは》ると|共《とも》に|女神《めがみ》の|姿《すがた》も|男《をとこ》の|影《かげ》も|煙《けぶり》の|如《ごと》く|消《き》え|失《う》せた。|高国別《たかくにわけ》は|地底《ちてい》の|岩窟《がんくつ》|目蒐《めが》けて|身《み》を|躍《をど》らしヒラリと|飛《と》び|込《こ》んだ。|岩窟《がんくつ》は|意外《いぐわい》に|広《ひろ》く|幾十丁《いくじつちやう》ともなく|前方《ぜんぱう》に|開展《かいてん》して|居《ゐ》る。|高国別《たかくにわけ》は|足《あし》を|速《はや》め|神歌《しんか》を|歌《うた》ひ|乍《なが》ら|先《さき》へ|先《さき》へと|進《すす》んで|行《ゆ》く。
(大正一一・四・三 旧三・七 北村隆光録)
第一五章 |山《やま》の|神《かみ》〔五八二〕
|此《この》|世《よ》を|澄《すま》す|素盞嗚《すさのを》の |神《かみ》の|命《みこと》に|従《したが》ひて
|御稜威《みいづ》も|高《たか》き|高国別《たかくにわけ》は |奇《くし》の|岩窟《いはや》に|陥《おちい》りし
|老若男女《らうにやくなんによ》の|生命《せいめい》を |一人《ひとり》も|残《のこ》さず|助《たす》けむと
|地底《ちてい》の|洞《ほら》に|飛《と》び|込《こ》みて |神《かみ》に|願《ねがひ》をかけまくも
|雄々《をを》しき|姿《すがた》すたすたと |声《こゑ》する|方《はう》を|辿《たど》りつつ
|往《ゆ》き|当《あた》りたる|岩《いは》の|戸《と》に |又《また》もや|両手《りやうて》を|組《く》みながら
|進退《しんたい》|茲《ここ》に|谷《きは》まりて |暫《しば》し|思案《しあん》に|暮《く》れ|居《ゐ》たる。
|時《とき》しもあれや|何処《いづこ》よりか、|閃光《せんくわう》|輝《かがや》き|高国別《たかくにわけ》が|前《まへ》に|火玉《ひだま》となりて|進《すす》み|来《く》るものあり。
|高国別《たかくにわけ》は|剣《つるぎ》の|把《つか》に|手《て》をかけて、|寄《よ》らば|斬《き》らむと|身構《みがま》へす。|巨大《きよだい》なる|火《ひ》の|玉《たま》は、|高国別《たかくにわけ》が|四五間《しごけん》|前《まへ》に|万雷《ばんらい》の|一時《いちじ》に|落《お》つるが|如《ごと》き|音響《おんきやう》と|共《とも》に|落下《らくか》し、|白煙《はくえん》となつて|四辺《あたり》を|包《つつ》み|咫尺《しせき》を|弁《べん》ぜざる|靄《もや》の|中《なか》、|高国別《たかくにわけ》は【きつ】と|腹《はら》を|据《す》ゑ|臍下丹田《さいかたんでん》に|息《いき》を|詰《つ》め、|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》しければ、|今迄《いままで》|咫尺《しせき》を|弁《べん》ぜざりし|猛煙《まうえん》は|拭《ぬぐ》ふがごとく|消《き》え|失《う》せて、|優美《いうび》なる|一人《ひとり》の|女神《めがみ》、|莞爾《くわんじ》として|佇立《ちよりつ》して|居《ゐ》たまふ。
|高国別《たかくにわけ》は、
『ヤア|汝《なんぢ》は|何者《なにもの》なるぞ、|察《さつ》する|所《ところ》|此《この》|岩窟《がんくつ》に|蟠《わだか》まる|金毛九尾《きんまうきうび》の|悪狐《あくこ》の|眷属《けんぞく》ならむ、|吾《あ》が|両刃《もろは》の|長剣《ちやうけん》に|斬《き》り|捨《す》てむ』
と|云《い》ふより|早《はや》く|剣光《けんくわう》|閃《ひらめ》く|電《いなづま》の|早業《はやわざ》、|斬《き》つてかかれば|女神《めがみ》は|中空《ちうくう》に|舞《ま》ひ|上《あが》り、|飛鳥《ひてう》の|如《ごと》く|右《みぎ》に|左《ひだり》に|上《うへ》に|下《した》に|体《たい》を|躱《かは》し、|遂《つひ》には|又《また》もや|以前《いぜん》の|火弾《くわだん》と|化《くわ》し、|唸《うな》りを|立《た》てて|岩窟《いはや》の|内《うち》を|矢《や》を|射《い》る|如《ごと》く|逃《に》げ|去《さ》りにける。
|油断《ゆだん》はならじと|高国別《たかくにわけ》は|附近《あたり》キヨロキヨロ|見廻《みまは》す|折《をり》しも、|身《み》の|丈《たけ》|一丈《いちぢやう》|五六尺《ごろくしやく》もあらむと|思《おも》はる|大男《おほをとこ》、|異様《いやう》の|獣《けもの》を|引《ひ》きつれながら|此《この》|場《ば》に|現《あら》はれ、|高国別《たかくにわけ》に|一寸《ちよつと》|会釈《ゑしやく》したり。|高国別《たかくにわけ》は|又《また》もや|魔神《まがみ》の|襲来《しふらい》ならむと|眼《め》を|配《くば》り|身構《みがま》へする。|大《だい》の|男《をとこ》は|大口《おほぐち》|開《あ》けて|高笑《たかわら》ひ、
『アハヽヽヽヽ、|汝《なんぢ》は|高天原《たかあまはら》より|下《くだ》り|来《きた》れる|俄造《にはかづく》りの|似非《えせ》|審神者《さには》、|吾《わが》|正体《しやうたい》を|見届《みとど》けよ』
と|鏡《かがみ》の|如《ごと》き|眼《め》を|見開《みひら》き、【かつ】と|睨《ね》めつけたり。|高国別《たかくにわけ》は|両手《りやうて》を|組《く》み、|鎮魂《ちんこん》の|姿勢《しせい》を|取《と》り、ウンと|一声《ひとこゑ》|言霊《ことたま》を|発射《はつしや》したるに、|大《だい》の|男《をとこ》は|忽《たちま》ち|体《たい》を|変《へん》じ|優美《いうび》なる|女神《めがみ》となりぬ。
|高国別《たかくにわけ》は、
『|千変万化《せんぺんばんくわ》の|悪神《あくがみ》の|悪戯《いたづら》、|今《いま》に|正体《しやうたい》を|現《あら》はして|呉《く》れむ』
と|両刃《もろは》の|長剣《ちやうけん》を|閃《ひらめ》かし、|女神《めがみ》に|向《むか》つて|骨《ほね》も|通《とほ》れとばかり|突《つ》きかかる。|女神《めがみ》は|手早《てばや》く|体《たい》をヒラリと|躱《かは》した|途端《とたん》、|勢《いきほひ》|余《あま》つて|高国別《たかくにわけ》は|岩窟《がんくつ》の|中《なか》の|隧道《すゐだう》を、トントントン、と|七八間《しちはちけん》|許《ばか》り|行《ゆ》き|過《すご》し、|底《そこ》ひも|知《し》れぬ|陥穽《おとしあな》に|真逆《まつさか》さまに|転落《てんらく》し、|高国別《たかくにわけ》は|其《その》|儘《まま》|息《いき》|絶《た》え、|最早《もはや》|此《この》|世《よ》の|人《ひと》にはあらざりけり。
|高国別《たかくにわけ》は|唯一人《ただひとり》、|天《てん》|青《あを》く|山《やま》|清《きよ》く|百花爛漫《ひやくくわらんまん》たる|原野《げんや》を|神言《かみごと》を|奏上《そうじやう》しながら|何処《どこ》を|当《あて》ともなく、|足《あし》の|動《うご》くままに|身《み》を|任《まか》せ|進《すす》み|行《ゆ》く。
|前方《ぜんぱう》に|屹立《きつりつ》する|雲《くも》の|衣《ころも》を|半《なかば》|被《かぶ》りたる|高山《かうざん》が|見《み》えて|来《き》た。|高国別《たかくにわけ》は|山《やま》に|引《ひつ》つけらるる|如《ごと》き|心地《ここち》して、|足《あし》に|任《まか》せて|進《すす》み|行《ゆ》く。パタリと|行《ゆ》き|当《あた》つた|峻坂《しゆんぱん》、|仰《あふ》ぎ|見《み》れば|鮮花色《せんくわしよく》の|男女《だんぢよ》の|群《むれ》|四五人《しごにん》、|何事《なにごと》か|面白《おもしろ》|可笑《おか》しく|囁《ささや》きながら、|此方《こなた》に|向《むか》つて|悠々《いういう》と|進《すす》み|来《きた》る。|高国別《たかくにわけ》は|両手《りやうて》を|組《く》んで|独言《ひとりごと》、
『アヽ|吾《われ》は|素盞嗚尊《すさのをのみこと》の|大神《おほかみ》の|御伴《おとも》|仕《つか》へまつり、カナンが|一家《いつか》に|休息《きうそく》し|給《たま》ふ|尊《みこと》の|命《めい》によつて|諸人《しよにん》の|後《あと》を|追《お》ひ、|不思議《ふしぎ》の|岩窟《いはや》に|忍《しの》び|入《い》りしと|思《おも》ひきや、|天空《てんくう》|快濶《くわいくわつ》|一点《いつてん》の|雲霧風塵《うんむふうぢん》もなき|大原野《だいげんや》を|渡《わた》り、|今《いま》|又《また》|此《この》|山口《やまぐち》に|来《きた》るこそ|合点《がてん》がゆかぬことである|哩《わい》』
と|後《あと》|振返《ふりかへ》り|四方《しはう》の|光景《くわうけい》を|眺《なが》めて|思案《しあん》に|暮《く》れて|居《ゐ》る。|五人《ごにん》の|男女《だんぢよ》は|此処《ここ》に|現《あら》はれて|一斉《いつせい》に|恭《うやうや》しく|目礼《もくれい》しながら、
『|貴下《きか》は|高国別《たかくにわけ》の|宣伝使《せんでんし》、|活津彦根神《いくつひこねのかみ》に|在《おは》さずや、|吾等《われら》は|神伊邪諾大神《かむいざなぎのおほかみ》の|使者《ししや》として|貴下《きか》を|迎《むか》への|為《ため》に|罷越《まかりこし》たり、イザイザ|御案内《ごあんない》|申《まを》さむ』
と|先《さき》に|立《た》つて|進《すす》み|行《ゆ》く。|高国別《たかくにわけ》は|何心《なにごころ》なく、いそいそと|五人《ごにん》の|後《あと》に|従《したが》ひ|急坂《きふはん》を|登《のぼ》り|行《ゆ》く。|漸《やうや》う|坂《さか》の|絶頂《ぜつちやう》に|達《たつ》した。|二男三女《になんさんぢよ》の|神人《しんじん》は|口《くち》を|揃《そろ》へて、
『これはこれは|高国別《たかくにわけ》|様《さま》、お|疲《つか》れで|御座《ござ》いませう。|此処《ここ》は|珍《うづ》の|峠《たうげ》の|絶頂《ぜつちやう》、|先《ま》づ|御休息《ごきうそく》|下《くだ》さいませ』
|高国別《たかくにわけ》は、
『アヽ|思《おも》ひも|寄《よ》らぬ|一人旅《ひとりたび》、|何《なん》となく|此《この》|麗《うるは》しき|山野《さんや》を|跋渉《ばつせふ》するにも|話相手《はなしあひて》もなく|稍《やや》|寂寥《せきれう》を|感《かん》じて|居《ゐ》ました。|然《しか》るに|此《この》|坂《さか》の|下《した》より|麗《うるは》しき|貴方等《あなたら》の|御迎《おむか》へ、|一円《いちゑん》|合点《がてん》が|参《まゐ》り|申《まを》さず、|珍《うづ》の|峠《たうげ》とは|何国《なにくに》の|山《やま》で|御座《ござ》るか』
|五人《ごにん》は、
『ハイ』
と|云《い》つたまま、ニコニコと|笑《わら》つて|答《こた》へぬ。|折《をり》しも|得《え》も|云《い》はれぬ|涼《すず》しき|風《かぜ》|徐《おもむろ》に|吹《ふ》き|来《きた》り、|高国別《たかくにわけ》の|顔《かほ》を|撫《な》で|颯々《さつさつ》たる|声《こゑ》を|立《た》て、|幅広《はばひろ》の|木葉《このは》を|翻《ひるがへ》しながら|過《す》ぎて|行《ゆ》く。
『オー|恰《まる》で|天国《てんごく》|浄土《じやうど》のやうな|心持《こころもち》が|致《いた》す、|百鳥《ももどり》は|空《そら》に|謡《うた》ひ|百花爛漫《ひやくくわらんまん》として|咲《さ》き|乱《みだ》れ、|風《かぜ》は|清《きよ》く|香《かん》ばしく、|幽《かす》かに|聞《きこ》ゆる|微妙《びめう》の|音楽《おんがく》、|曇《くも》り|果《は》てたる|葦原《あしはら》の|国《くに》にもかかる|麗《うるは》しき|郷土《きやうど》のあるか、アヽ|心持《こころもち》よや』
と|芝生《しばふ》の|上《うへ》にどつかと|坐《ざ》し、|言葉《ことば》|涼《すず》しく|一同《いちどう》に|向《むか》ひ、
『|合点《がてん》の|行《ゆ》かぬ|今日《けふ》の|旅行《りよかう》、|貴方等《あなたら》は|何《いづ》れの|神《かみ》に|坐《ま》し|在《ま》すか、|名乗《なの》らせたまへ』
|一人《ひとり》の|男《をとこ》は|恭《うやうや》しく、
『|私《わたくし》は|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》たりし|亀彦《かめひこ》で|御座《ござ》います。これなる|女《をんな》は|菊子姫《きくこひめ》と|申《まを》し、|神素盞嗚《かむすさのを》の|大神《おほかみ》の|第六《だいろく》の|御娘《おんむすめ》、|今《いま》は|大神《おほかみ》の|御心《みこころ》により|千代《ちよ》も|変《かは》らぬ|宿《やど》の|妻《つま》、|此処《ここ》は|地底《ちてい》の|国《くに》の|天国《てんごく》、|珍《うづ》の|峠《たうげ》で|御座《ござ》います』
『アヽ、|貴方《あなた》は|音《おと》に|名高《なだか》い|亀彦《かめひこ》の|宣伝使《せんでんし》、|貴方《あなた》は|大神《おほかみ》の|御娘《おんむすめ》|菊子姫《きくこひめ》|様《さま》か、|思《おも》はぬ|処《ところ》でお|目《め》に|懸《かか》りました。してして|父《ちち》|素盞嗚《すさのを》の|大神《おほかみ》は|今《いま》|何処《いづ》くに|在《おはしま》すか、|聞《き》かま|欲《ほ》しう|存《ぞん》じます』
|菊子姫《きくこひめ》は|涙《なみだ》をはらはらと|払《はら》ひながら、
『|申《まを》すも|詮《せん》なき|事《こと》ながら、|父《ちち》|大神《おほかみ》は|天地《てんち》|諸神人《しよしんじん》のために、|千座《ちくら》の|置戸《おきど》を|負《お》はせたまひ|今《いま》は|味気《あぢき》なき|漂泊《さすらひ》の|一人旅《ひとりたび》、|何処《いづく》の|果《はた》に|在《おは》すらむ、せめては|其《その》|御消息《ごせうそく》なりとも|聞《き》かま|欲《ほ》し』
と|涙《なみだ》ぐみ|芝生《しばふ》の|上《うへ》に|泣《な》き|伏《ふ》しにけり。
|梅彦《うめひこ》は、
『これはこれは|菊子姫《きくこひめ》|殿《どの》、|此処《ここ》は|地底《ちてい》の|天国《てんごく》で|御座《ござ》る。|天国《てんごく》に|涙《なみだ》は|禁物《きんもつ》、|歓喜《くわんき》の|花《はな》の|開《ひら》くパラダイスで|御座《ござ》るぞ。いや|高国別《たかくにわけ》|様《さま》、|吾々《われわれ》は|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》たりし|梅彦《うめひこ》と|申《まを》す|者《もの》、これなる|妻《つま》は|菊子姫《きくこひめ》の|姉《あね》|幾代姫《いくよひめ》で|御座《ござ》います。|大神《おほかみ》の|内命《ないめい》に|依《よ》つて|夫婦《ふうふ》の|約《やく》を|結《むす》びました。|此《この》|後《ご》|宜敷《よろし》くお|願《ねが》ひ|致《いた》します』
『アヽ|左様《さやう》で|御座《ござ》つたか、|思《おも》ひも|寄《よ》らぬ|不思議《ふしぎ》の|対面《たいめん》、|全《まつた》く|大神様《おほかみさま》のお|引《ひ》き|合《あは》せ、アヽ|有難《ありがた》し。|斯《か》くも|麗《うるは》しき|山上《さんじやう》にて|大神《おほかみ》の|姫御子《ひめみこ》に|御目《おめ》に|掛《かか》る|事《こと》|望外《ばうぐわい》の|仕合《しあは》せで|御座《ござ》る』
『|貴神《あなた》はペテロの|都《みやこ》に|於《おい》て|驍名《げうめい》|隠《かく》れなき|御神様《おんかみさま》、|幾度《いくたび》か|生死《せいし》を|往来《ゆきき》|遊《あそ》ばされ、|此処《ここ》に|活津彦根神《いくつひこねのかみ》と|現《あら》はれ|給《たま》ひし|天下無双《てんかむさう》の|忠勇義烈《ちうゆうぎれつ》の|神様《かみさま》と|承《うけたま》はる。|天《あめ》の|太玉命《ふとたまのみこと》の|仲介《なかだち》により、|素盞嗚《すさのを》の|大神《おほかみ》の|御許《おゆる》しを|得《え》て|第一《だいいち》の|御子《みこ》たる、|此《この》|愛子姫《あいこひめ》|様《さま》を|貴下《きか》の|妻《つま》と|神定《かむさだ》めさせ|給《たま》へば、|今《いま》より|愛子姫《あいこひめ》|様《さま》を|妻《つま》となし、|神国《しんこく》のためにお|尽《つく》し|下《くだ》されば|有難《ありがた》う|存《ぞん》じます。|貴方《あなた》にお|渡《わた》し|申《まを》す|迄《まで》|吾等《われら》は|日夜《にちや》の|気懸《きがか》り、|之《これ》にて|吾《わが》|願望《ぐわんばう》も|成就《じやうじゆ》|致《いた》しました』
と|梅彦《うめひこ》は|心《こころ》|落《お》ち|付《つ》きし|様子《やうす》なり。
『これはこれは、|音《おと》に|名高《なだか》き|高国別《たかくにわけ》|様《さま》、|夫《をつと》となり|妻《つま》となるも|神《かみ》の|結《むす》びたまひし|身魂《みたま》の|因縁《いんねん》、|千代《ちよ》も|八千代《やちよ》も|妾《わらは》と|共《とも》に、|手《て》を|携《たづさ》へて|神業《しんげふ》に|尽《つく》させたまへ』
と|顔《かほ》に|紅葉《もみぢ》を|散《ち》らしつつ|優《やさ》しき|手《て》を|膝《ひざ》にあて|語《かた》り|出《いづ》るは|愛子姫《あいこひめ》なり。|高国別《たかくにわけ》は、|夢《ゆめ》か|現《うつつ》か|幻《まぼろし》か|合点《がてん》|行《ゆ》かぬと、|暫《しば》し|茫然《ばうぜん》として|大空《おほぞら》|打《う》ち|仰《あふ》ぎ|思案《しあん》に|暮《く》れ|居《ゐ》たり。
|梅彦《うめひこ》はモドかしがり、
『|高国別《たかくにわけ》|様《さま》、|何《なに》を|御思案《ごしあん》なさいます、|何事《なにごと》も|結《むす》びの|神《かみ》の|御定《おんさだ》め、|直《ただち》に|御承諾《ごしようだく》なさいませ』
『アヽ、|有難《ありがた》し|有難《ありがた》し、|思《おも》ひも|寄《よ》らぬ|山上《さんじやう》の|見合《みあ》ひ、|山《やま》の|神様《かみさま》の|御仲介《おなかだち》、|草《くさ》の|筵《むしろ》に|雲《くも》の|天井《てんじやう》、|風《かぜ》の|音楽《おんがく》に|木々《きぎ》の|木《こ》の|葉《は》の|舞《ま》ひ|踊《をど》り、イヤもう|有難《ありがた》う|承知《しようち》|仕《つかまつ》りました』
と|高国別《たかくにわけ》は|笑顔《ゑがほ》をもつて|迎《むか》へゐる。これより|世俗《せぞく》は|妻《つま》を|山《やま》の|神《かみ》と|云《い》ふのである。|愛子姫《あいこひめ》は|立《た》ち|上《あが》り、|高国別《たかくにわけ》に|向《むか》つて、|南方《なんぱう》の|諸山《しよざん》を|圧《あつ》してそそり|立《た》てる|高山《たかやま》を|指《ゆび》さし、
『|雲《くも》の|彼方《かなた》の|黄金《こがね》の|山《やま》は|我等《われら》が|永久《とこしへ》の|故郷《ふるさと》、いざいざ|御一同《ごいちどう》|進《すす》みませう』
と|先《さき》に|立《た》つて|急坂《きふはん》を|南《みなみ》に|下《くだ》る。|一同《いちどう》は|一歩《いつぽ》|一歩《いつぽ》|力《ちから》を|入《い》れながらアブト|式《しき》|流《りう》に|坂《さか》を|下《くだ》り|行《ゆ》く。|雲表《うんぺう》に|屹立《きつりつ》せる|彼方《かなた》の|遠《とほ》き|高山《たかやま》の|山頂《さんちやう》に|何時《いつ》の|間《ま》にやら|達《たつ》してゐた。|三夫婦《みふうふ》は|山頂《さんちやう》に|衝立《つつた》ち|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》するや、|山《やま》を|包《つつ》みし|五色《ごしき》の|雲《くも》は|扉《とびら》を|開《ひら》きし|如《ごと》く、|颯《さつ》と|左右《さいう》に|開《ひら》けた。|目《め》の|届《とど》かぬ|許《ばか》りの|青野原《あをのはら》、|白《しろ》き、|赤《あか》き、|青《あを》き、|黄色《きいろ》き、|紫色《むらさきいろ》の|三重《みへ》|五重《いつへ》|十重《とへ》|二十重《はたへ》の|塔《たふ》は、|眼下《がんか》の|青野《あをの》が|原《はら》の|部落《ぶらく》の|中《なか》に|幾百《いくひやく》ともなく|屹立《きつりつ》し、|其《その》|絶景《ぜつけい》|譬《たと》ふるに|物《もの》なく、|遠《とほ》く|目《め》を|放《はな》てば|紺碧《こんぺき》の|波《なみ》を|湛《たた》へたる|大海原《おほうなばら》、|浪《なみ》|静《しづか》に|純白《じゆんぱく》の|真帆《まほ》|片帆《かたほ》、|右往左往《うわうさわう》に|走《はし》り|行《ゆ》くさま、|画伯《ぐわはく》の|手《て》に|成《な》れる|一幅《いつぷく》の|大画帳《だいぐわちやう》の|如《ごと》く、|時《とき》の|移《うつ》るも|忘《わす》れて|一同《いちどう》は|絶景《ぜつけい》を|見守《みまも》つて|居《ゐ》た。|此《この》|時《とき》|山頂《さんちやう》の|麗《うるは》しき|祠《ほこら》の|中《なか》より、|黄金《わうごん》の|扉《とびら》を|開《ひら》き|現《あら》はれ|出《い》でたる|一柱《ひとはしら》の|女神《めがみ》、|二人《ふたり》の|侍女《じぢよ》を|伴《ともな》ひ|悠々《いういう》と|六人《ろくにん》が|前《まへ》に|現《あら》はれて、
『|妾《わらは》は|木花姫《このはなひめ》なり、|汝等《なんぢら》は|忠勇義烈《ちうゆうぎれつ》|至仁《しじん》|至愛《しあい》の|神人《かみ》なれば、|汝《なんぢ》が|永久《とこしへ》に|住《す》むべき|国《くに》は|此《この》|聖域《せいゐき》なり。|併《しか》しながら|未《ま》だ|現界《げんかい》に|於《おい》て|勤《つと》むべき|事《こと》あれば、|再《ふたた》び|現界《げんかい》に|引《ひ》き|返《かへ》されよ。|今後《こんご》は|心《こころ》を|緩《ゆる》ませ|玉《たま》ふな。|体主霊従《たいしゆれいじう》の|魔風《まかぜ》に|誘《さそ》はれなば、|再《ふたた》び|此処《ここ》に|来《きた》る|事《こと》|能《あた》はざるべし、|今《いま》より|速《すみや》かに|現界《げんかい》に|帰《かへ》り|給《たま》へ』
と|優美《いうび》にして|荘重《さうちよう》なる|言葉《ことば》を|残《のこ》し、|黄金《わうごん》の|扉《とびら》を|閉《と》ぢて、|侍女《じぢよ》と|共《とも》に|又《また》もや|祠《ほこら》の|中《うち》に|姿《すがた》を|隠《かく》したまうた。
|忽《たちま》ち|四辺《しへん》|暗黒《あんこく》となり、|身体《しんたい》に|寒冷《かんれい》を|覚《おぼ》ゆると|見《み》る|間《ま》に|甦《よみがへ》り|見《み》れば、|高国別《たかくにわけ》は|岩窟内《がんくつない》の|深《ふか》き|井戸《ゐど》の|底《そこ》に|倒《たふ》れ|居《ゐ》たるなり。
『アヽ|夢《ゆめ》であつたか、|併《しか》し|乍《なが》ら|吾《われ》を|活津彦根《いくつひこね》と|仰《あふ》せられしは|不審《ふしん》の|一《ひと》つ、|吾身《わがみ》の|守護神《しゆごじん》を|知《し》らずして|憖《なまじひ》に|審神《さには》を|行《おこな》ひしため、|大神《おほかみ》の|御仁慈《ごじんじ》によつて|教《をし》へたまひしか、アヽ|有難《ありがた》し|有難《ありがた》し』
と、|合掌《がつしやう》し|声《こゑ》も|涼《すず》しく|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》したりける。フト|空《そら》を|仰《あふ》ぎ|見《み》れば|窟《あな》の|周囲《まわり》に|麗《うるは》しき|二男三女《になんさんぢよ》の|夢《ゆめ》に|見《み》し|神人《しんじん》が|立《た》ち|現《あら》はれ、|井底《せいてい》を|覗《のぞ》きて|何事《なにごと》か|囁《ささや》き|居《ゐ》るあり。|高国別《たかくにわけ》は|夢《ゆめ》に|夢見《ゆめみ》る|心地《ここち》して、|又《また》もや|両手《りやうて》を|組《く》み|心《こころ》の|縺《もつ》れを|手繰《たぐ》り|居《を》る。|稍《やや》ありて|高国別《たかくにわけ》は|井底《せいてい》より|空《そら》を|仰《あふ》ぎながら、
『もしもし|亀彦《かめひこ》|様《さま》、|梅彦《うめひこ》|様《さま》、その|他《た》|三人《さんにん》の|女性様《めがみさま》、|私《わたくし》は|高国別《たかくにわけ》で|御座《ござ》います。|人《ひと》の|命《いのち》を|救《すく》はむために、|地中《ちちう》の|岩窟《いはや》に|忍《しの》び|入《い》り、|過《あやま》つてかかる|古井戸《ふるゐど》の|底《そこ》に|陥《お》ちました。|何《なん》とかして|私《わたくし》をお|救《すく》ひ|下《くだ》さいますまいか』
『ヤア|噂《うはさ》に|聞《き》き|及《およ》ぶ|高国別《たかくにわけ》|様《さま》か、それは|嘸《さぞ》お|困《こま》りでせう、|何《なん》とか|一《ひと》つ|工夫《くふう》をしてお|救《すく》ひ|申《まを》さねばなりませぬ。|併《しか》し|乍《なが》ら|斯《かか》る|岩窟《いはや》の|中《なか》にある|古井戸《ふるゐど》には|階段《かいだん》があるものです。この|亀彦《かめひこ》も|一度《いちど》フサの|国《くに》の|醜《しこ》の|岩窟《いはや》の|古井戸《ふるゐど》に|陥《お》ち|込《こ》んだ|時《とき》、|如何《いかが》はせむかと|心《こころ》を|痛《いた》めましたが、フト|傍《かたはら》を|見《み》れば|階段《かいだん》が|刻《きざ》まれてありました。よくよく|調《しら》べなさいませ』
『|有難《ありがた》う|御座《ござ》います、|少《すこ》しの|手《て》がかりも|足《あし》がかりも|御座《ござ》いませぬ。|恰度《ちやうど》|竹筒《たけづつ》の|中《なか》に|落《お》ちたやうなものです』
|梅彦《うめひこ》は、
『アヽ、|困《こま》つたな、|吾々《われわれ》も|一度《いちど》|古井戸《ふるゐど》に|陥《お》ちた|経験《けいけん》があるが、|階段《かいだん》がないとは|意外《いぐわい》だ、|何《なん》とか|工夫《くふう》をせねばなりますまい。|亀彦《かめひこ》サン、|貴方《あなた》の|褌《まはし》と|帯《おび》を|外《はづ》して|下《くだ》さい、|吾々《われわれ》も|帯《おび》と|褌《まはし》とを|解《と》きます。これを|繋《つな》いで|井底《せいてい》に|釣《つ》り|下《くだ》しませう』
と|云《い》ひつつ、くるくると|帯《おび》を|解《と》き、|褌《まはし》を|外《はづ》し|手早《てばや》く|繋《つな》いだ。|亀彦《かめひこ》も|同《おな》じく|帯《おび》と|褌《まはし》を|取《と》り|外《はづ》し、|手早《てばや》く|繋《つな》ぎ|合《あは》せ|井戸《ゐど》に|下《さ》げ|降《おろ》して|見《み》た。
|梅彦《うめひこ》は、
『モシモシ、|高国別《たかくにわけ》|様《さま》、この|帯《おび》にお|掴《つか》まり|下《くだ》さい』
『イヤ、|有難《ありがた》う、|折角《せつかく》の|思召《おぼしめし》ながらどうも|届《とど》きませぬ。|加《くは》ふるに|怪《あや》しき|臭気《しうき》が|致《いた》します』
|梅彦《うめひこ》は、
『アヽ、|何《なん》と|云《い》ふ【まわし】の|悪《わる》い|事《こと》だらう。エヽ|仕方《しかた》がない、|三人《さんにん》のお|女中《ぢよちう》、|貴女方《あなたがた》の|帯《おび》を|解《ほど》いて|下《くだ》さいませ』
|愛子姫《あいこひめ》『ハイ、|如何《どう》|致《いた》しませう。|菊子《きくこ》さま、|幾代《いくよ》さま』
|二女《にじよ》『さうですなア、|吾《わたし》|裸体《はだか》になるのは|恥《はづ》かしいワ』
|梅彦《うめひこ》『|恥《はづ》かしいの|何《なん》のと|云《い》つてゐる|所《どころ》か、|人命《じんめい》に|係《かか》はる|大事《だいじ》だ。サアサアコンナ|時《とき》には|恥《はぢ》も|糞《くそ》もあつたものでない、|帯《おび》をお|解《と》きなさい』
|愛子姫《あいこひめ》『それでも|余《あま》り|残酷《ざんこく》ですワ』
|亀彦《かめひこ》『これこれ|愛子姫《あいこひめ》さま、|何《なに》を|仰有《おつしや》るのだ、|貴女《あなた》こそ|残酷《ざんこく》だ。|高国別《たかくにわけ》|様《さま》が|危急《ききふ》|存亡《そんばう》の|場合《ばあひ》、サアサア、キリキリとお|解《と》きなさい。もしもし|高国別《たかくにわけ》さま、|何《ど》うも|仕方《しかた》がありませぬ、|吾々《われわれ》が|帯《おび》を|解《と》き|褌《まはし》を|解《と》き、|三人《さんにん》の|女神《めがみ》の|帯《おび》を|繋《つな》ぎ|合《あは》して、|今《いま》|垂下《すゐか》|致《いた》しますからね、|少々《せうせう》|臭《くさ》くても|御辛抱《ごしんばう》|下《くだ》さいませ、|女《をんな》の|匂《にほ》ひと|云《い》ふものは|却《かへ》つて|床《ゆか》しいものですよ、アハヽヽヽ』
|高国別《たかくにわけ》『|夫《それ》|計《ばか》りは|御免《ごめん》|蒙《かうむ》り|度《た》い、ヤア|神様《かみさま》の|宿《やど》り|給《たま》ふ|頭《あたま》の|上《うへ》で、ソンナ|物《もの》をべらべらさして|貰《もら》つては|有難《ありがた》|迷惑《めいわく》だ。どうぞ|早《はや》く|手繰《たぐ》り|上《あ》げて|下《くだ》さい』
|亀彦《かめひこ》『エヽ、|無理《むり》|計《ばか》り|云《い》ふ|神様《かみさま》だな、|此《この》|場《ば》に|及《およ》んでどうも|仕方《しかた》がありませぬワ。|些《ちつ》とは|鼻《はな》を|摘《つま》んで|御辛抱《ごしんばう》なさいませ。|異性《いせい》の|匂《にほ》ひは|却《かへ》つてよいものですよ』
|高国別《たかくにわけ》『アハヽヽヽ、ヤア|皆《みな》さま、|御心配《ごしんぱい》をかけました。|何《ど》うやら|梯子《はしご》が|刻《きざ》まれてあるやうに|思《おも》ひます』
|亀彦《かめひこ》『アハヽヽヽ、|矢張《やつぱ》り|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》は|洒落《しやれ》が|上手《じやうず》だなア、|此処迄《ここまで》|洒落《しやれ》ると、|洒落《しやれ》も|徹底《てつてい》して|面白《おもしろ》い。もしもし|三人《さんにん》の|姫御前《ひめごぜん》、|御安心《ごあんしん》なさいませ、|帯《おび》を|解《と》くのだけは|赦《ゆる》して|上《あ》げませう』
|三女《さんぢよ》『ホヽヽヽ、|誰《たれ》が|帯《おび》ども|解《ほど》きますものか、|帯《おび》を|解《と》く|時間《じかん》にはも|些《ちつ》と|早《はや》いぢやありませぬか、ホヽヽヽヽ』
|亀彦《かめひこ》『また|貴女方《あなたがた》も|洒落《しやれ》るのか、モシモシ|高国別《たかくにわけ》さま、|早《はや》くお|上《あが》りなさらぬか』
|高国別《たかくにわけ》『アヽ|矢張《やつぱ》り|間違《まちが》ひだつた、|些《ちつ》とも|手係《てがか》りがありませぬワ。|誠《まこと》に|済《す》みませぬが|私《わたくし》の|一命《いちめい》を|助《たす》けると|思召《おぼしめ》し、どうぞお|慈悲《じひ》に|三人《さんにん》の|女性様《めがみさま》の|帯《おび》を|解《と》いて、|繋《つな》ぎ|合《あは》して|助《たす》けて|下《くだ》さい、お|願《ねが》ひぢやお|願《ねが》ひぢや』
|亀彦《かめひこ》『エヽ、|何《なん》だ|矢張《やつぱ》り|虚言《うそ》だつたか、これは|仕方《しかた》がない。サアサア|三人《さんにん》の|女性様《めがみさま》、ちつと|時間《じかん》は|早《はや》いが|夫《をつと》の|云《い》ふ|事《こと》だ、|女房《にようばう》が|聞《き》かぬと|云《い》ふ|事《こと》があるものか、|早《はや》く|解《と》いたり、|解《と》いたり。エヽ|何《なに》、|恥《はづ》かしいと。|何《なに》が|恥《はづ》かしい、|水《みづ》も|漏《も》らさぬ|夫婦仲《めをとなか》ぢやないか』
|菊子姫《きくこひめ》『それでも|姉《ねえ》さまに|恥《はづ》かしいワ』
|亀彦《かめひこ》『|何《なに》、|姉《ねえ》さまのお|婿《むこ》さまを|助《たす》けるのだ。ソンナ|遠慮《ゑんりよ》が|要《い》るものか』
|愛子姫《あいこひめ》『ホヽヽヽヽ、エヽ|仕方《しかた》がありませぬ、|妾《わたし》が|率先《そつせん》して|模範《もはん》を|示《しめ》しませう』
と|帯《おび》を|解《と》きかける。|井戸《ゐど》の|底《そこ》より|陽気《やうき》な|声《こゑ》で、|鼻歌《はなうた》を|謡《うた》ひながら、トン、トンと|上《あが》つて|来《く》る。
|高国別《たかくにわけ》『ヤア|皆様《みなさま》、|種々《いろいろ》と|御心配《ごしんぱい》をかけました。お|蔭《かげ》で|梯子段《はしごだん》が|俄《にはか》に|出来《でき》ました。|兎《と》も|角《かく》|咄嗟《とつさ》の|場合《ばあひ》|急造《きふざう》したものですから、|実《じつ》に【やにこい】ものです。アハヽヽヽ』
|梅《うめ》、|亀《かめ》『|何《なん》だ、|裸体《はだか》になり|損《そん》をしたワイ』
|高国別《たかくにわけ》『|人間《にんげん》は|生《うま》れ|赤子《あかご》にならねば|神様《かみさま》の|御神徳《ごしんとく》は|頂《いただ》けませぬよ、|赤子《あかご》の|時《とき》には|裸体《はだか》で|生《うま》れたのだもの、アハヽヽヽ』
|高国別《たかくにわけ》は|拍手《かしはで》を|打《う》ち|合掌《がつしやう》しながら|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》し|始《はじ》めた。|一同《いちどう》は|声《こゑ》を|揃《そろ》へて|合唱《がつしやう》する、|其《その》|声音《せいおん》|朗々《らうらう》としてさしもに|広《ひろ》き|岩窟《いはや》に|響《ひび》き|渡《わた》り、|天地開明《てんちかいめい》の|気分《きぶん》|漂《ただよ》ふ。
|愛子姫《あいこひめ》『|貴方《あなた》は|父《ちち》の|許《ゆる》せし|吾《わが》|夫《をつと》、|活津彦根《いくつひこね》の|神様《かみさま》、ようマア|無事《ぶじ》で|居《ゐ》て|下《くだ》さいました』
|高国別《たかくにわけ》『ヤア|合点《がてん》の|行《ゆ》かぬ|事《こと》もあればあるものだなア、お|前《まへ》が|珍《うづ》の|峠《たうげ》でお|目《め》にかかつた|山《やま》の|神《かみ》さまだなア。ヤア|有難《ありがた》い|有難《ありがた》い、|三夫婦《みふうふ》|揃《そろ》うた|瑞霊《みづのみたま》の|夫婦《ふうふ》|連《づ》れ、|二三《にさん》が|六人《ろくにん》|手《て》を|携《たづさ》へて|睦《むつ》まじく、|此処《ここ》で|結婚《けつこん》の|式《しき》を|挙《あ》げませうか』
|亀彦《かめひこ》『|結婚《けつこん》の|式《しき》を|挙《あ》げやうと|云《い》つた|所《ところ》が、|此《この》|様《やう》な|岩窟《いはや》の|中《なか》、|何《ど》うする|事《こと》も|出来《でき》ないぢやありませぬか』
|高国別《たかくにわけ》『イヤ、|御霊《みたま》と|御霊《みたま》の|結婚《けつこん》、|心《こころ》の|盃《さかづき》の|取《と》り|替《か》はし、|千代《ちよ》も|八千代《やちよ》も|末長《すゑなが》く、|睦《むつ》びて|進《すす》む|六人連《むたりづれ》、|栄《さかえ》の|花《はな》を|三夫婦《みふうふ》が、|天地人《てんちじん》|揃《そろ》うて|岩窟《いはや》の|探険《たんけん》、|三《み》つの|御霊《みたま》の|父《ちち》|大神《おほかみ》の|御引合《おひきあは》せ、アヽ|有難《ありがた》し|有難《ありがた》し、|目出度《めでた》し|目出度《めでた》し、|一度《いちど》に|開《ひら》く|梅彦《うめひこ》さま、|万代《よろづよ》|祝《いは》ふ|亀彦《かめひこ》さま、|嬉《うれ》しき|便《たよ》りを|菊子姫《きくこひめ》、|幾代《いくよ》|変《かは》らぬ|幾代姫《いくよひめ》、|神《かみ》の|恵《めぐみ》の|愛子姫《あいこひめ》、|睦《むつ》び|合《あ》うたる|三夫婦《みふうふ》が、|身魂《みたま》の|行末《ゆくすゑ》こそは|楽《たの》しけれ』
といそいそ|神歌《しんか》を|謡《うた》ひながら、|又《また》もや|奥《おく》へ|奥《おく》へと|進《すす》み|行《ゆ》く。
(大正一一・四・三 旧三・七 加藤明子録)
(昭和一〇・三・二三 於花蓮港分院 王仁校正)
第一六章 |水上《すゐじやう》の|影《かげ》〔五八三〕
|三男三女《さんなんさんぢよ》は|神歌《しんか》を|謡《うた》ひ|乍《なが》ら、|潔《いさぎよ》く|前進《ぜんしん》する。|又《また》もやトンと|行当《ゆきあた》つた|岩壁《がんぺき》、
|高国別《たかくにわけ》『ヤア|又《また》しても|岸壁《がんぺき》だ、|如何《いか》に|一切《いつさい》|万事《ばんじ》|行詰《ゆきつま》りの|世《よ》の|中《なか》だと|云《い》つても、|此処《ここ》まで|行詰《ゆきつま》りの|風《かぜ》が|吹《ふ》いて|来《き》て|居《を》るのか。|吾々《われわれ》は|誠《まこと》の|神力《しんりき》を|以《もつ》て|此《この》|岩戸《いはと》を|開《ひら》き、|行詰《ゆきつま》りの|世《よ》を|開《ひら》かねばなるまい。|先《ま》づ|先《ま》づ|休息《きうそく》の|上《うへ》、ゆつくりと|相談《さうだん》|致《いた》しませう』
|亀彦《かめひこ》『|臨時《りんじ》|議会《ぎくわい》の|開会《かいくわい》はどうでせう』
|梅彦《うめひこ》『アハヽヽヽ、|議会《ぎくわい》と|聞《き》けば、|醜《しこ》の|岩窟《いはや》を|連想《れんさう》せずには|居《を》られない。|歴史《れきし》は|繰返《くりかへ》すとかや、|一《ひと》つゆるりと|秘密会《ひみつくわい》でも|開催《かいさい》しませう』
と|頃合《ころあひ》の|岩《いは》の|上《うへ》に|腰打掛《こしうちか》けた。|三人《さんにん》の|女性《ぢよせい》も|同《おな》じく|腰《こし》|打《う》かけ、
『アーア、|有難《ありがた》い|有難《ありがた》い、マア|此処《ここ》でゆつくりと|休《やす》まして|戴《いただ》きませう』
|高国別《たかくにわけ》『エー、あなた|方《がた》|御一同《ごいちどう》はどうして|此《この》|岩窟《いはや》にお|這入《はい》りになりましたか』
|亀彦《かめひこ》『|吾々《われわれ》は|神素盞嗚《かむすさのを》の|大神《おほかみ》が|地教山《ちけうざん》を|越《こ》え|此《この》|西蔵《チベツト》の|秘密郷《ひみつきやう》にお|出《い》で|遊《あそ》ばしたと|聞《き》き、|取《と》る|物《もの》も|取《と》り|敢《あへ》ず、お|後《あと》を|慕《した》つて|進《すす》み|来《きた》る|折《をり》しも、|小《ちい》さき|雑草《ざつさう》の|丘《をか》の|前《まへ》に|突当《つきあた》り、|五人《ごにん》は|息《いき》を|休《やす》むる|折《をり》しもあれ、|何処《いづく》よりともなく|一人《ひとり》の|女神《めがみ》|現《あら》はれ|来《きた》り、「|此《この》|地底《ちてい》の|岩窟《がんくつ》には、|活津彦根命《いくつひこねのみこと》|御探険《ごたんけん》あれば、|汝等《なんぢら》は|急《いそ》ぎお|跡《あと》を|慕《した》へ」との|一言《いちごん》を|残《のこ》し、その|儘《まま》|姿《すがた》は|消《き》えさせ|給《たま》うた。|傍《かたはら》を|見《み》れば|暗《くら》き|穴《あな》、ハテ|訝《いぶ》かしやと|覗《のぞ》き|居《を》る|際《さい》、|地盤《ぢばん》はガタリと|陥落《かんらく》し、|七八間《しちはちけん》も|地中《ちちう》に|落込《おちこ》んだと|思《おも》へば、|此《この》|岩窟《がんくつ》、……それより|吾々《われわれ》|一同《いちどう》はこの|岩窟内《がんくつない》を|神歌《しんか》を|謡《うた》ひつつ、|探《さぐ》り|来《きた》る|折《をり》しも、|道《みち》に|当《あた》つた|古井戸《ふるゐど》、フト|見《み》れば|何《なに》か|怪《あや》しの|物影《ものかげ》、|合点《がてん》|行《ゆ》かぬと|思《おも》ふ|折《をり》、|井戸《ゐど》の|底《そこ》より|貴下《きか》の|声《こゑ》、……と|云《い》ふ|様《やう》な|来歴《らいれき》で|御座《ござ》いましたよ』
|高国別《たかくにわけ》『アヽそれは|結構《けつこう》でございました。|実《じつ》は|吾々《われわれ》が|彼《か》の|井戸《ゐど》に|陥《おちい》りし|刹那《せつな》、|失心《しつしん》|致《いた》したと|見《み》え、|広大《くわうだい》なる|原野《げんや》を|通過《つうくわ》し、|高山《たかやま》の|頂《いただ》きに|登《のぼ》りつめ、|五人《ごにん》の|男女《だんぢよ》に|巡《めぐ》り|会《あ》ひしと|思《おも》へば、ハツト|気《き》が|付《つ》き、|空《そら》を|仰《あふ》ぐ|途端《とたん》に、|貴下《きか》ら|一行《いつかう》のお|姿《すがた》………イヤもう|実《じつ》に|不思議千万《ふしぎせんばん》な|事《こと》で|御座《ござ》います』
|梅彦《うめひこ》『|吾々《われわれ》は|昨夜《さくや》の|夢《ゆめ》に、|貴下《きか》にお|目《め》にかかりましたが、|本日《ほんじつ》|只今《ただいま》この|岩窟内《がんくつない》に|斯《こ》うして|休息《きうそく》して|居《を》る|有様《ありさま》が、ありありと|目《め》に|附《つ》きました。|実《じつ》に|現幽《げんいう》|一致《いつち》、|此《この》|世《よ》と|云《い》ふ|所《ところ》は|不思議《ふしぎ》な|所《ところ》ですな』
|俄《にはか》に|何処《どこ》ともなく、|阿鼻叫喚《あびけうくわん》の|声《こゑ》、|響《ひび》きわたる。|高国別《たかくにわけ》はツト|立《た》ち|上《あが》り、
『ヤア|皆《みな》さま、|何《なに》か|此《この》|岩窟内《がんくつない》には|変事《へんじ》が|起《おこ》つて|居《ゐ》ますよ。サアサア|早《はや》く|早《はや》く|探険《たんけん》と|出《で》かけませうかい』
と|云《い》ひつつ、|岩壁《がんぺき》を|力《ちから》に|任《まか》せてグツと|押《お》した。|岩《いは》の|戸《と》はパツと|開《ひら》いた。|見《み》れば|数十人《すうじふにん》の|老若男女《らうにやくなんによ》、|何《いづ》れも|高手《たかて》|小手《こて》に|縛《いま》しめられ、|中央《ちうあう》に|朱《しゆ》の|如《ごと》き|赤《あか》き|面《つら》した|鬼神《きしん》|四五人《しごにん》、|鉄棒《てつぼう》を|提《ひつさ》げ、|足《あし》の|先《さき》にてポンポンと|男女《だんぢよ》を|蹴《け》り|苦《くる》しめて|居《を》る。
|高国別《たかくにわけ》『ヤア|各方《おのおのがた》、|此処《ここ》は|冥土《めいど》の|地獄《ぢごく》の|様《やう》だ。ヤア|何《いづ》れも|方《がた》、|飛込《とびこ》んで|救《すく》うてやりませう』
と|身《み》を|躍《をど》らして|先《さき》に|立《た》つた。|五人《ごにん》はあとに|引《ひ》つ|添《そ》ひ、|声《こゑ》を|揃《そろ》へて|言霊《ことたま》を|奏上《そうじやう》する。|鬼《おに》の|姿《すがた》は|追々《おひおひ》に|影《かげ》うすく、|遂《つひ》には|煙《けぶり》の|如《ごと》くなつて|消《き》え|失《う》せたり。|数多《あまた》の|老若男女《らうにやくなんによ》の|姿《すがた》を|見《み》れば、|高手《たかて》|小手《こて》に|縛《いまし》められ|居《ゐ》たりと|見《み》えしは、|幻《まぼろし》なりしか、|各自《てんで》に|双手《もろて》を|合《あは》せ、|岩窟《いはや》の|前《まへ》に|端坐《たんざ》して、
|一同《いちどう》『|神素盞嗚《かむすさのを》の|大神《おほかみ》、|一時《いちじ》も|早《はや》く|地上《ちじやう》に|現《あら》はれ|給《たま》ひて、|吾等《われら》を|救《すく》ひ|給《たま》へ』
と|一生懸命《いつしやうけんめい》、|側目《わきめ》もふらず|拝《をが》んで|居《を》るのであつた。|六人《ろくにん》の|姿《すがた》を|見《み》るより、|一同《いちどう》の|老若男女《らうにやくなんによ》は、|此方《こなた》に|向《む》き|直《なほ》り、|合掌《がつしやう》し|乍《なが》ら、
『ヤア|有難《ありがた》し|有難《ありがた》し、|勿体《もつたい》なし、あなた|様《さま》は|神素盞嗚《かむすさのを》の|大神《おほかみ》の|御眷属《ごけんぞく》|様《やう》ならむ』
と|嬉《うれ》し|涙《なみだ》に|咽《むせ》ぶ。
|高国別《たかくにわけ》『ヤア|最前《さいぜん》より|様子《やうす》を|聞《き》けば、|汝等《なんぢら》|一同《いちどう》の|者《もの》、|神素盞嗚《かむすさのを》の|大神《おほかみ》の|御出現《ごしゆつげん》を|祈《いの》り|居《を》る|有様《ありさま》、|汝《なんぢ》の|至誠《しせい》は|天《てん》に|通《つう》じ、|只今《ただいま》カナンの|家《うち》に|尊《みこと》は|御逗留《ごとうりう》|遊《あそ》ばすぞ。|一時《いちじ》も|早《はや》く|此《この》|岩窟《がんくつ》を|立出《たちい》で、|仁慈《じんじ》の|大神《おほかみ》の|尊顔《そんがん》を|拝《はい》せよ』
と|宣示《せんじ》したれば、|一同《いちどう》は|此《この》|言葉《ことば》を|聞《き》いて|大《おほい》に|喜《よろこ》び、
『ヤア|大神《おほかみ》の|御再臨《ごさいりん》、|有難《ありがた》し|辱《かたじけ》なし』
と|嬉《うれ》し|腰《ごし》を|脱《ぬ》かし、のたくり|廻《まは》り、|歓《ゑら》ぎ|喜《よろこ》ぶ。|高国別《たかくにわけ》は|一同《いちどう》に|向《むか》ひ、|天《あま》の|数歌《かずうた》を|称《とな》ふれば、|今迄《いままで》|痩衰《やせおとろ》へたる|数十人《すうじふにん》の|老若男女《らうにやくなんによ》は、|俄《にはか》に|肉付《にくづ》き、|顔色《がんしよく》|麗《うるは》しく、|元気《げんき》|恢復《くわいふく》し、|忽《たちま》ちムクムクと|立《た》ち|上《あが》り、|手《て》を|拍《う》つて、|前後左右《ぜんごさいう》に|踊《をど》り|狂《くる》ひ、|大神《おほかみ》の|再臨《さいりん》を|心《こころ》の|底《そこ》より|感謝《かんしや》する。|而《しかし》て|一同《いちどう》はイソイソとして、|大麻《おほぬさ》を|持《も》てる|男《をとこ》を|先頭《せんとう》にゾロゾロと|帰《かへ》り|行《ゆ》く。|後《あと》|見送《みおく》つて|高国別《たかくにわけ》は、
『アヽ|可愛《かあい》らしい|者《もの》だ。これ|丈《だけ》の|善男善女《ぜんなんぜんによ》が|心《こころ》を|一《ひと》つにして、|信仰《しんかう》を|励《はげ》むのを|見《み》れば、|何《なん》とも|彼《か》とも|知《し》れぬ|良《い》い|心持《こころも》ちがする。|尊《みこと》に|於《お》かせられても、|嘸《さぞ》|御満足《ごまんぞく》に|思召《おぼしめ》すであらう。|嗚呼《ああ》、|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》』
|高国別《たかくにわけ》|一行《いつかう》は、|奥《おく》へ|奥《おく》へと|進《すす》み|行《ゆ》く。|日《ひ》は|西山《せいざん》に|没《ぼつ》せしと|見《み》え、|岩窟《がんくつ》の|中《なか》は|俄《にはか》に|暗《くら》くなつて|来《き》た。|六人《ろくにん》は|探《さぐ》り|探《さぐ》り|進《すす》み|行《ゆ》くにぞ、|傍《かたはら》に|怪《あや》しき|呻声《うめきごゑ》が|聞《きこ》えゐる。|耳《みみ》ざとくも、|愛子姫《あいこひめ》は|其《その》|声《こゑ》を|聞《き》き、
『もしもし|皆《みな》さま、|何《なん》だか|怪《あや》しき|声《こゑ》が|聞《きこ》えるではありませぬか』
|亀彦《かめひこ》『ヤアそれは、あなたの|神経《しんけい》でせう。|岩窟《がんくつ》の|中《なか》は|音響《おんきやう》のこもるものですから、|大方《おほかた》|最前《さいぜん》の|祝詞《のりと》の|声《こゑ》が|内耳《ないじ》|深《ふか》く|潜伏《せんぷく》し、|反響《はんきやう》|運動《うんどう》を|開始《かいし》して|居《を》るのでせう』
|愛子姫《あいこひめ》『イエイエ|祝詞《のりと》の|声《こゑ》ではありませぬ、|苦悶《くもん》を|訴《うつた》ふる、しかも|女《をんな》の|声《こゑ》、|悪神《あくがみ》の|巣窟《そうくつ》たる|此《この》|岩窟《いはや》、|如何《いか》なる|惨事《さんじ》の|行《おこな》はれ|居《を》るやも|図《はか》られませぬ。|皆《みな》さま|一同《いちどう》に|立止《たちど》まり、|耳《みみ》を|澄《す》ませて|聞《き》いて|下《くだ》さい。|世界《せかい》を|救《すく》ふ|神《かみ》の|使《つかひ》の|吾々《われわれ》、|苦悶《くもん》の|声《こゑ》を|聞《き》き|逃《のが》し、ムザムザと|通過《つうくわ》も|出来《でき》かねます』
|亀彦《かめひこ》『ヤア|如何《いか》にも|苦《くる》しさうな|声《こゑ》だ。もしもし|高国別《たかくにわけ》|様《さま》、|暗《くら》さは|暗《くら》し、|余《あま》り|軽々《かるがる》しく|進《すす》むよりも、|一《ひと》つ|此《この》|声《こゑ》を|探《さぐ》り|当《あ》てませうか』
|高国別《たかくにわけ》『ホンに|如何《いか》にも|妙《めう》な|声《こゑ》が|致《いた》しますな』
と|言《い》ひつつ、|傍《かたはら》の|岩壁《がんぺき》をグツと|押《お》した|途端《とたん》に、|不思議《ふしぎ》や、|岩《いは》の|戸《と》は|案外《あんぐわい》に|軽《かる》くパツと|開《ひら》いた。|能《よ》く|能《よ》く|見《み》れば、|白《しろ》き|影《かげ》、|岩窟内《がんくつない》に|横《よこ》たはり|苦《くる》しさうに|唸《うな》つて|居《ゐ》る。
|亀彦《かめひこ》『ヤア|怪《あや》しいぞ|怪《あや》しいぞ、|此《この》|暗《くら》がりに、|何《なん》だか|削《けづ》りたての|材木《ざいもく》の|様《やう》な|者《もの》が|唸《うな》つて|居《ゐ》る。これは|大方《おほかた》、|白蛇《はくじや》であらう』
|梅彦《うめひこ》『|白蛇《はくじや》にしては、|太《ふと》さの|割《わり》に|余《あま》りに|丈《たけ》が|短《みじか》いではありませぬか』
|亀彦《かめひこ》『|白蛇《はくじや》の|奴《やつ》、どつかで|半身《はんしん》|切《き》られて|来《き》て、|九死一生《きうしいつしやう》|苦悶《くもん》の|態《てい》と|云《い》ふ|場面《ばめん》だらう。……オイオイ|白蛇《はくじや》の|先生《せんせい》、どうしたどうした』
|白《しろ》き|影《かげ》『アーア|恨《うら》めしやなア、|妾《わらは》は|姫君様《ひめぎみさま》の|御後《おんあと》を|慕《した》ひ、|此処《ここ》まで|来《く》るは|来《き》たものの、ウラナイ|教《けう》の|曲津神《まがつかみ》、|蠑〓別《いもりわけ》が|計略《けいりやく》にかかり、|手足《てあし》を|縛《しば》られ、|岩窟《いはや》の|中《なか》へ|押込《おしこ》まれ、|逃《のが》れ|出《い》づる|方策《てだて》もなし、アヽ|何《なん》とせう、|恨《うら》めしやなア』
|亀彦《かめひこ》『ヨウ|大蛇《をろち》だと|思《おも》へば、|何《なん》だか|分《わか》らぬ|事《こと》をほざいて|居《ゐ》るワ。もしもし|高国別《たかくにわけ》|様《さま》、|一寸《ちよつと》|調《しら》べて|下《くだ》さいな』
『イヤあなた|御苦労《ごくらう》|乍《なが》ら|一寸《ちよつと》|探《さぐ》つて|見《み》て|下《くだ》さい、どうやら|人間《にんげん》らしう|御座《ござ》いますよ』
|亀彦《かめひこ》『|滅相《めつさう》な、あた|嫌《いや》らしい、|此《この》|暗《くら》がりに、コンナ|白《しろ》い|者《もの》が、どうしてなぶられませうか……オイ|梅《うめ》サン、お|前《まへ》は|平素《へいそ》より|大胆《だいたん》な|男《をとこ》だ。|一《ひと》つ|此処《ここ》らで|侠気《をとこぎ》を|出《だ》して、|幾代姫《いくよひめ》|様《さま》に|英雄振《えいゆうぶり》をお|目《め》にかけたらどうだ』
|梅彦《うめひこ》『イヤ|吾々《われわれ》も|吾々《われわれ》だが、|亀彦《かめひこ》サンも|亀彦《かめひこ》サンだ。|菊子姫《きくこひめ》|様《さま》に|英雄振《えいゆうぶり》をお|見《み》せになつたらどうでせう、|余《あま》り|厚《あつ》かましう|致《いた》すのも|御無礼《ごぶれい》で|御座《ござ》る。あなたには|先取権《せんしゆけん》が|御座《ござ》る、どうぞ|御遠慮《ごゑんりよ》なく、とつくりと、|頭《あたま》から|足《あし》の|先《さき》までお|調《しら》べなさいませ。|菊子姫《きくこひめ》|様《さま》の|手前《てまへ》も|御座《ござ》いまするぞ』
|亀彦《かめひこ》『アーア、|偉《えら》い|所《ところ》へ|尻平《しつぺい》を|持《も》つて|来《こ》られたものだ。ナニ、|材木《ざいもく》が|動《うご》いて|居《を》るのだと|思《おも》へば|良《い》い、……コラコラ|材木《ざいもく》、その|方《はう》は|何者《なにもの》だ』
|白《しろ》き|影《かげ》『アヽ|恨《うら》めしや』
|亀彦《かめひこ》『ナヽ|何《なん》だ、ウラナイ|教《けう》か、|幽霊《いうれい》か、|何《なん》だか|知《し》らぬが、|材木《ざいもく》の|幽霊《いうれい》は|昔《むかし》から|聞《き》いた|事《こと》はないワイ。|素盞嗚《すさのを》の|大神《おほかみ》が|御退隠《ごたいいん》|遊《あそ》ばしてより、|山川草木《さんせんさうもく》に|至《いた》る|迄《まで》、|言問《ことと》うと|云《い》ふ|事《こと》だが、やつぱりこの|材木《ざいもく》も|其《その》|選《せん》に|漏《も》れないと|見《み》えて、|何《なん》だか|言問《ことと》ひをやつてゐる、……コラ|材木《ざいもく》、|起《お》きぬか|起《お》きぬか』
|梅彦《うめひこ》は、|白《しろ》き|影《かげ》を|目当《めあて》に、スウツと|撫《な》でまわし、
|梅彦《うめひこ》『ヤアこれは|人間《にんげん》だ、しかも|肌《はだ》の|柔《やはら》かき|美人《びじん》と|見《み》える、|高手《たかて》|小手《こて》に|縛《いまし》められて|居《を》る。おほかた|悪神《わるがみ》の|奴《やつ》に|虐《しへた》[#ママ]げられて、|此《この》|岩窟《いはや》に|幽閉《いうへい》されたのであらう』
と|言《い》ひ|乍《なが》ら、スラスラと|縛《いましめ》を|解《と》いた。|白《しろ》き|影《かげ》はスツクと|立《た》ちあがり、|懐剣《くわいけん》|逆手《さかて》に|持《も》つより|早《はや》く、
『ヤア、ウラナイ|教《けう》の|悪神《あくがみ》、|蠑〓別《いもりわけ》の|手下《てした》の|者共《ものども》、モウ|斯《こ》うなる|上《うへ》は、|妾《わらは》が|死物狂《しにものぐる》ひ|覚悟《かくご》を|致《いた》せ』
と|六人《ろくにん》のほのかな|影《かげ》を|目当《めあて》に|短刀《たんたう》をピカつかせ|乍《なが》ら、|前後左右《ぜんごさいう》に|暴《あば》れ|狂《くる》ふ。
|亀彦《かめひこ》『ヤア|待《ま》つた|待《ま》つた、|吾々《われわれ》は|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》だよ』
『ナニツ、|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》とは、まつかな|偽《いつは》り、|浅子姫《あさこひめ》が|死物狂《しにものぐる》ひの|車輪《しやりん》の|働《はたら》き、|思《おも》ひ|知《し》れよ』
と|飛鳥《ひてう》の|如《ごと》くに|飛《と》び|廻《まは》る。
|高国別《たかくにわけ》『ヤア|汝《なんぢ》|浅子姫《あさこひめ》とは、|顕恩郷《けんおんきやう》に|現《あら》はれたる|愛子姫《あいこひめ》の|腰元《こしもと》ならずや。|吾《われ》は|愛子姫《あいこひめ》の|夫《をつと》|高国別《たかくにわけ》なるぞ』
|浅子姫《あさこひめ》『|執念深《しふねんぶか》き|悪魔《あくま》の|計略《けいりやく》、|其《その》|手《て》に|乗《の》つて|堪《たま》らうか、|浅子姫《あさこひめ》が|手練《しゆれん》の|早業《はやわざ》、|思《おも》ひ|知《し》れよ』
と|又《また》もや|短刀《たんたう》を|暗《やみ》に|閃《ひらめ》かし|暴狂《あれくる》ふ。|愛子姫《あいこひめ》は、
『そなたは|浅子姫《あさこひめ》に|非《あら》ずや、|先《ま》づ|先《ま》づ|静《しづ》まりなさい、|愛子姫《あいこひめ》に|間違《まちがひ》|御座《ござ》らぬ』
|浅子姫《あさこひめ》『ヤアさう|仰有《おつしや》るお|声《こゑ》は、|正《まさ》しく|愛子姫《あいこひめ》|様《さま》』
|愛子姫《あいこひめ》『そなたは|擬《まが》ふ|方《かた》なき|浅子姫《あさこひめ》の|声《こゑ》、|夜目《よめ》にもそれと|知《し》らるる|其《その》|方《はう》の|姿《すがた》、|嬉《うれ》しや|嬉《うれ》しや、|思《おも》はぬ|所《ところ》で|会《あ》ひました』
|浅子姫《あさこひめ》は|稍《やや》|落着《おちつ》きたる|声《こゑ》にてハアハアと|息《いき》をはづませ|乍《なが》ら、
『そ、そ、そう|仰有《おつしや》るあなたは|擬《まが》ふ|方《かた》なき|愛子姫《あいこひめ》|様《さま》、お|懐《なつか》しう|御座《ござ》います』
とワツと|許《ばか》りに|其《その》|場《ば》に|泣《な》き|伏《ふ》しぬ。|此《この》|時《とき》|何処《いづく》よりともなく、|一道《いちだう》の|光明《くわうみやう》サツと|輝《かがや》き|渡《わた》り、|一同《いちどう》の|顔《かほ》は|昼《ひる》の|如《ごと》く|明《あきら》かになり|来《き》たりぬ。
|浅子姫《あさこひめ》『これはこれは|何《いづ》れも|様《さま》、|不思議《ふしぎ》な|所《ところ》でお|目《め》にかかりました、|能《よ》うマア|危《あやふ》き|所《ところ》をお|助《たす》け|下《くだ》さいました。|是《こ》れと|云《い》ふも、|全《まつた》く|木花姫《このはなひめ》の|御守護《ごしゆご》の|厚《あつ》き|所《ところ》』
と|合掌《がつしやう》し、|後《あと》は|一言《ひとこと》も|得《え》|言《い》はず、|嬉《うれ》し|涙《なみだ》に|掻《か》き|曇《くも》るのみ。|勇《いさ》みを|附《つ》けんと|高国別《たかくにわけ》は、|浅子姫《あさこひめ》の|背中《せなか》を、|平手《ひらて》に|三《み》つ|四《よ》つ|打《う》ち|乍《なが》ら、
『|浅子姫《あさこひめ》|殿《どの》、しつかりなさいませ。|是《これ》には|深《ふか》き|様子《やうす》|有《あ》らむ。|吾々《われわれ》も|此《この》|先《さき》に|於《おい》て、|大《おほい》に|覚悟《かくご》せなくてはなりませぬ。あなたを|斯《か》くの|如《ごと》く|岩窟《いはや》に|押込《おしこ》めし|以上《いじやう》は、|当《たう》|岩窟《いはや》には|数多《あまた》の|悪神《わるがみ》の|巣窟《そうくつ》あらむ、|此処《ここ》に|立到《たちいた》られし|仔細《しさい》を|詳《つぶ》さに|物語《ものがた》られよ』
と|声《こゑ》を|励《はげ》まして|問《と》ひかくれば、|浅子姫《あさこひめ》はハツと|心《こころ》を|取直《とりなほ》し、
『|是《こ》れには|深《ふか》き|仔細《しさい》が|御座《ござ》いまする、|一先《ひとま》づ|妾《わらは》が|物語《ものがたり》お|聞《き》き|下《くだ》さいませ。|天《あめ》の|太玉命《ふとたまのみこと》、|顕恩郷《けんおんきやう》に|現《あら》はれ|給《たま》ひ、バラモン|教《けう》の|大棟梁《だいとうりやう》|鬼雲彦《おにくもひこ》を|神退《かむやら》ひにやらひ|給《たま》ひ、|妾《わらは》は|愛子姫《あいこひめ》|様《さま》と|共《とも》に、|顕恩城《けんおんじやう》を|守護《しゆご》しまつる|折《をり》しも、|天照大神《あまてらすおほかみ》|様《さま》、|天《あま》の|岩戸《いはと》に|隠《かく》れ|給《たま》ひしより、|太玉命《ふとたまのみこと》は|急遽《きふきよ》、|天教山《てんけうざん》に|登《のぼ》らせ|給《たま》ひ、その|不在中《ふざいちう》、|愛子姫《あいこひめ》|様《さま》と|妾《わらは》は|城内《じやうない》を|守《まも》る|折《をり》しも|咫尺暗澹《しせきあんたん》として|昼夜《ちうや》を|弁《べん》ぜず、|荒振神《あらぶるかみ》は|五月蝿《さばへ》の|如《ごと》く|群《むら》がり|起《おこ》り、|鬼雲彦《おにくもひこ》は|又《また》もや|現《あら》はれ|来《きた》りて、|暗《やみ》に|紛《まぎ》れて|暴威《ばうゐ》を|逞《たくま》しうし、|妾《わらは》|主従《しゆじゆう》は|生命《いのち》も|危《あやふ》き|所《ところ》、|闇《やみ》に|紛《まぎ》れて|城内《じやうない》を|逃《のが》れ|出《い》で、エデンの|河《かは》を|生命《いのち》からがら|打渡《うちわた》り、|何《なん》の|目的《あてど》も|時《とき》の|途《みち》、|進《すす》み|行《ゆ》く|折《をり》しも、|暗《やみ》を|照《てら》して|現《あら》はれ|来《き》たる|日《ひ》の|出神《でのかみ》にめぐり|会《あ》ひ、|愛子姫《あいこひめ》|様《さま》、|菊子姫《きくこひめ》|様《さま》、|幾代姫《いくよひめ》|様《さま》は、|神素盞嗚尊《かむすさのをのみこと》の|御後《おあと》を|慕《した》ひ、|西蔵《チベツト》に|難《なん》を|遁《のが》れさせ|給《たま》ひしと|聞《き》くより、|妾《わらは》は|岸子姫《きしこひめ》、|岩子姫《いはこひめ》と|共《とも》に、|夜《よ》を|日《ひ》に|継《つ》いで、|山野《さんや》を|渉《わた》り、|大河《おほかは》を|越《こ》え、|漸《やうや》くラサフの|都《みやこ》に|来《き》て|見《み》れば、|姫君様《ひめぎみさま》に|奇《くし》の|岩窟《がんくつ》にて|面会《めんくわい》を|得《え》させむと、|木花姫《このはなひめ》の|夢《ゆめ》のお|告《つ》げ、|妾《わらは》|三人《さんにん》は|勇《いさ》み|進《すす》んで、|小高《こだか》き|丘《をか》の|入口《いりくち》より、|岩窟《いはや》に|進《すす》み|来《きた》る|折《をり》しも、ウラナイ|教《けう》の|曲神《まがかみ》|蠑〓別《いもりわけ》、|幾十《いくじふ》ともなく|数多《あまた》の|邪神《じやしん》を|引《ひ》き|連《つ》れ、|妾《わらは》|三人《さんにん》を|前後左右《ぜんごさいう》に|取囲《とりかこ》み、|後手《うしろで》に|縛《しば》り|上《あ》げ、|此《この》|岩窟《いはや》に|押込《おしこ》めたり。|嗚呼《ああ》、|岸子姫《きしこひめ》、|岩子姫《いはこひめ》は、|如何《いかが》なりしぞ、|心許《こころもと》なや』
と|又《また》もや|涙《なみだ》の|袖《そで》を|絞《しぼ》る。
|高国別《たかくにわけ》『これにて|略《ほぼ》|様子《やうす》は|判然《はんぜん》|致《いた》しました。……ヤア|一同《いちどう》の|方々《かたがた》、|岸子姫《きしこひめ》、|岩子姫《いはこひめ》の|身《み》の|上《うへ》|心許《こころもと》なく|御座《ござ》れば、|急《いそ》ぎ|在処《ありか》を|尋《たづ》ね、|救《すく》ひ|出《だ》さねばなりますまい』
『|然《しか》らば|進《すす》みませう』
と、|一同《いちどう》は|四辺《あたり》に|耳《みみ》を|欹《そばだ》て、|目《め》を|配《くば》り|乍《なが》ら、|急《いそ》ぎもせず、|遅《おく》れもせずと|云《い》ふ|足許《あしもと》にて、|奥深《おくふか》く|進《すす》み|行《ゆ》く。|隧道《すゐだう》は|俄《にはか》に|前方《ぜんぱう》|低《ひく》く、|板《いた》を|立《た》てたる|如《ごと》き|急坂《きふはん》になつて|来《き》た。|一行《いつかう》|七人《しちにん》は、|一足《ひとあし》|一足《ひとあし》|力《ちから》を|入《い》れ|乍《なが》ら、アブト|式《しき》|然《ぜん》と、|坂路《さかみち》の|隧道《すゐだう》を|下《くだ》つて|行《ゆ》く。|行《ゆ》く|事《こと》|七八丁《しちはつちやう》と|覚《おぼ》しき|所《ところ》に、|比較的《ひかくてき》|広《ひろ》き|水溜《みづたま》りがある。|薄暗《うすぐら》がりに|透《す》かし|見《み》れば、|何《なん》だか|水面《すゐめん》に|人《ひと》の|首《くび》の|様《やう》なものが|漂《ただよ》うて|居《ゐ》る。|亀彦《かめひこ》は|目《め》ざとくもこれに|目《め》を|注《そそ》ぎ、
|亀彦《かめひこ》『ヤア|此奴《こいつ》ア|又《また》、|変挺《へんてこ》だ。|岩窟《いはや》の|中《なか》に|池《いけ》があると|思《おも》へば、|円《まる》い|顔《かほ》の|様《やう》な|物《もの》が|浮《う》いて|居《ゐ》る、|鴛鴦《おしどり》にしては|少《すこ》しく|大《おほ》きいやうだ。ヤア|目鼻《めはな》が|付《つ》いて|居《ゐ》る。|悪神《あくがみ》の|奴《やつ》、|酒《さけ》に|喰《くら》ひ|酔《よ》つて、|瓢箪《へうたん》に|目鼻《めはな》をつけ、|此《この》|池《いけ》に|放《ほ》り|込《こ》みよつたのではあるまいか。|瓢箪《へうたん》ばかりが|浮物《うきもの》か、|俺《おれ》の|心《こころ》も|浮《う》いて|来《き》た。サアサア|浮《う》いたり|浮《う》いたりだ、アハヽヽヽヽ』
|梅彦《うめひこ》『|亀《かめ》サン、あれを|能《よ》く|御覧《ごらん》なさい、|女《をんな》の|首《くび》ですよ。ナンダか、つぶやいて|居《ゐ》るぢやありませぬか』
|幾代姫《いくよひめ》『ヤア|彼《あ》の|顔《かほ》は、|岩子姫《いはこひめ》、|岸子姫《きしこひめ》ではなからうか』
|亀彦《かめひこ》『エー|何《なに》を|仰有《おつしや》います、|鴨《かも》かナンゾの|様《やう》に、|女《をんな》が|首《くび》ばつかりになつて、|池《いけ》の|中《なか》に|浮《う》いて|居《ゐ》ると|云《い》ふ|事《こと》がありませうか。あなたは|視神経《ししんけい》の|作用《さよう》が、どうか|変調《へんてう》を|来《きた》して|居《を》るのでせう。|腐《くさ》り|縄《なは》を|見《み》て|蛇《へび》と|思《おも》つて|驚《おどろ》いたり、|木《き》の|欠杭《かつくひ》を|見《み》て|化物《ばけもの》と|思《おも》ふ|事《こと》が|往々《まま》|有《あ》るものです。マアマア|気《き》を|附《つ》けてください、|変視《へんし》、|幻視《げんし》、|妄視《ばうし》の|精神《せいしん》|作用《さよう》でせう、コンナ|所《ところ》に|棲息《せいそく》する|者《もの》は、キツト|河童《かつぱ》か、|鰐《わに》か、まかり|間違《まちが》へば|人魚《にんぎよ》ですよ。|人魚《にんぎよ》と|云《い》ふ|奴《やつ》は、|能《よ》く|人間《にんげん》に|似《に》て|居《を》るものだ、それで、|人《ひと》の|形《かたち》をした|翫弄具《おもちや》を|人形《にんぎやう》サンと|云《い》ふのだ。アハヽヽヽヽ』
|池《いけ》の|中《なか》より|女《をんな》の|首《くび》、|苦《くる》しき|声《こゑ》を|絞《しぼ》り|乍《なが》ら、
『ヤア、あなたは|幾代姫《いくよひめ》|様《さま》、|菊子姫《きくこひめ》|様《さま》、|愛子姫《あいこひめ》|様《さま》では|御座《ござ》いませぬか。|夜目《よめ》にはしかと|分《わか》りませぬが、お|姿《すがた》が|能《よ》く|似《に》て|居《を》ります。|妾《わらは》は|悪神《あくがみ》に|捉《とら》へられ、|手足《てあし》を|縛《しば》られ、|重《おも》き|石錨《いしいかり》をつけられて|苦《くるし》んで|居《を》ります、|岩子姫《いはこひめ》、|岸子姫《きしこひめ》の|両人《りやうにん》で|御座《ござ》います。どうぞお|助《たす》けくださいませ』
|亀彦《かめひこ》『ヤア|金毛九尾《きんまうきうび》の|同類《どうるゐ》|奴《め》、|馬鹿《ばか》にするない、|何程《なにほど》|化《ばけ》たつて、モウ|駄目《だめ》だ。|手《て》を|替《か》へ|品《しな》を|換《か》へ、|結局《けつきよく》の|果《はて》には|池《いけ》の|中《なか》に|姿《すがた》を|現《あら》はし、|吾等《われら》を|水中《すゐちう》に|引込《ひきこ》まむとの|水《みづ》も|洩《も》らさぬ………|否《いな》|水責《みづぜ》めの|汝《なんぢ》の|計略《けいりやく》、|其《その》|手《て》に|乗《の》つて|堪《たま》らうかい』
|岩子姫《いはこひめ》『イエイエ、|決《けつ》して|決《けつ》して|妖怪《えうくわい》|変化《へんげ》では|御座《ござ》いませぬ、どうぞお|助《たす》け|下《くだ》さいませ』
|亀彦《かめひこ》『もしもし|高国別《たかくにわけ》|様《さま》、どうでせう、|彼奴《あいつ》は|本物《ほんもの》でせうか。|偽物《にせもの》の|能《よ》く|流行《りうかう》する|時節《じせつ》ですから、ウツカリと|油断《ゆだん》はなりませぬぜ、………コラコラ|化《ばけ》の|奴《やつ》、|新意匠《しんいしやう》をこらし、レツテルを|替《か》へて、|厄雑物《やくざもの》を|突付《つきつ》けても|其《その》|手《て》には|乗《の》らぬぞ、|意匠登録法《いしやうとうろくはふ》|違反《ゐはん》で|告発《こくはつ》をしてやらうか』
|高国別《たかくにわけ》『アハヽヽヽ、|何《なに》は|兎《と》もあれ、|亀彦《かめひこ》サン、|高国別《たかくにわけ》の|厳命《げんめい》だ、あなた|真裸《まつぱだか》となつて|救《すく》うて|来《き》て|下《くだ》さい。|高国別《たかくにわけ》が|神《かみ》に|代《かは》つて|命令《めいれい》を|致《いた》します』
|亀彦《かめひこ》『|滅相《めつさう》な、どうしてどうして、|是《これ》ばつかりは|真《ま》つ|平《ぴら》|御免《ごめん》、アーメン|素麺《そうめん》、トコロテン、ステテコテンのテンテコテン、テンデ|話《はなし》になりませぬワイ、テンと|合点《がてん》がゆきませぬ、|是《こ》ればつかりは|平《ひら》に|御断《おことわ》り|申《まを》す。|斯《か》く|申《まを》すは|決《けつ》して|亀彦《かめひこ》の|肉体《にくたい》では|御座《ござ》らぬ。|亀彦《かめひこ》が|守護神《しゆごじん》の|申《まを》す|事《こと》で|御座《ござ》る』
|梅彦《うめひこ》『アハヽヽヽ、|巧《うま》い|事《こと》を|言《い》ひよるワイ、|融通《ゆうづう》の|利《き》く|副守護神《ふくしゆごじん》だ、|斯《こ》うなると|副守《ふくしゆ》|先生《せんせい》も|重宝《ちようほう》なものだなア』
|亀彦《かめひこ》『|亀彦《かめひこ》の|守護神《しゆごじん》が、|神素盞嗚《かむすさのを》の|大神《おほかみ》の|命《めい》に|依《よ》つて、|梅彦《うめひこ》に|厳命《げんめい》する………|梅彦《うめひこ》、|速《すみや》かに|真裸《まつぱだか》となり、|水中《すゐちう》にザンブと|許《ばか》り|飛込《とびこ》んで、|二人《ふたり》の|妖怪《えうくわい》を|救《すく》ひ|来《きた》れ。|万々一《まんまんいち》、|彼《かれ》にして|大蛇《だいじや》の|変化《へんげ》なれば、|汝《なんぢ》は|一呑《ひとの》みに|蛇腹《じやふく》に|葬《ほうむ》られむ。|然《しか》る|時《とき》は、|汝《なんぢ》が|霊《みたま》を|引抜《ひきぬ》き、|至美《しび》|至楽《しらく》の|天国《てんごく》に|救《すく》ひ、|百味《ひやくみ》の|飲食《おんじき》を|与《あた》へ|遣《つか》はす、ゆめゆめ|疑《うたが》ふ|事《こと》|勿《なか》れ』
|梅彦《うめひこ》『ウンウンウン』
|亀彦《かめひこ》『コラコラ、|偽神懸《にせかむがかり》は|厳禁《げんきん》するぞ、|亀《かめ》サンの|審神《さには》を|暗《くら》まさうと|思《おも》つても、|天眼通《てんがんつう》、|天耳通《てんじつう》、|宿命通《しゆくめいつう》、|自他心通《じたしんつう》、|感通《かんつう》、|漏尽通《ろうじんつう》の|六大《ろくだい》|神通力《しんつうりき》を|具備《ぐび》せる、|古今無双《ここんむさう》の|審神者《さには》のティーチヤーに|向《むか》つて、|誤魔化《ごまくわ》しは|利《き》かぬぞ、|速《すみや》かに|飛込《とびこ》め』
|池中《ちちう》に|浮《う》かべる|二《ふた》つの|首《くび》は、|苦痛《くつう》を|忘《わす》れて、|思《おも》はず、『ホヽヽヽヽ』と|笑《わら》ひ|出《だ》せば、
|亀彦《かめひこ》『それ|見《み》たか、|俺《おれ》の|天眼通《てんがんつう》はコンナものだ。|此《この》|寒《さむ》いのに|池《いけ》の|中《なか》に|投《ほ》り|込《こ》まれ、|人間《にんげん》なら、|何《なに》|気楽《きらく》さうに|笑《わら》ふものか、とうとう|化物《ばけもの》の|正体《しやうたい》を|現《あら》はしよつた。アツハヽヽヽ』
|幾代姫《いくよひめ》『|亀彦《かめひこ》|様《さま》、|梅彦《うめひこ》|様《さま》、あなたは|分《わか》らぬお|方《かた》ですな、………アーアコンナ|方《かた》を|二世《にせ》の|夫《をつと》に|持《も》つたと|思《おも》へば|恥《はづ》かしいワ』
|亀彦《かめひこ》『コレコレ|嬶左衛門《かかざゑもん》|殿《どの》、|何《なん》と|御意《ぎよい》|召《め》さる。|親子《おやこ》は|一世《いつせ》、|夫婦《ふうふ》は|二世《にせ》で|御座《ござ》るぞ』
|二女《にじよ》『|夫婦《ふうふ》|二世《にせ》と|云《い》ふ|掟《をきて》を|幸《さひは》ひ、あなたの|様《やう》な、|臆病神《おくびやうがみ》との|契《ちぎり》を|解《と》き、|第二《だいに》の|夫《をつと》を|持《も》ちませう。ネー|愛子姫《あいこひめ》|様《さま》、|決《けつ》して|天則《てんそく》|違反《ゐはん》では|御座《ござ》いますまい』
|亀彦《かめひこ》、|梅彦《うめひこ》、|両手《りやうて》を|拡《ひろ》げて、
『アヽ|待《ま》つた|待《ま》つた、|如何《いか》に|女権《ぢよけん》|拡張《くわくちやう》の|世《よ》の|中《なか》ぢやとて、|姫御前《ひめごぜん》の|有《あ》られもない|其《その》|暴言《ばうげん》、これだから、|新《あたら》しい|女《をんな》を|女房《にようばう》に|持《も》つのは|困《こま》ると|言《い》ふのだ。エー|仕方《しかた》がない、|俺《おれ》も|男《をとこ》だ………サア|梅《うめ》サン………ヤア|亀《かめ》サン………|一《ひ》イ|二《ふ》ウ|三《みつ》ツだ』
と|云《い》ふより|早《はや》く、|真裸《まつぱだか》となり、ザンブと|飛込《とびこ》んだ。
『ヤア|比較的《ひかくてき》|浅《あさ》い|池《いけ》だワイ………オイオイ|二《ふた》つの|生首《なまくび》、かぶりついちや|不可《いかん》よ、|俺《おれ》|一人《ひとり》ではない、|俺《おれ》には|彼《あ》の|通《とほ》り|立派《りつぱ》な|奥方《おくがた》がお|二人《ふたり》も|随《つ》いて|御座《ござ》るのだ。|一度《いちど》|死《し》んだから|二度《にど》とは|死《し》なないから、|吾々《われわれ》は|生命《いのち》|位《ぐらゐ》は|何《なん》ともないが、|後《あと》に|残《のこ》つた|菊子姫《きくこひめ》、|幾代姫《いくよひめ》の|悲歎《ひたん》の|程《ほど》が|思《おも》い|遣《や》られる……コラコラ|助《たす》けてやるから|生命《いのち》の|恩人《おんじん》だと|思《おも》つて、かぶり|付《つ》いてはならぬぞ』
と|言《い》ひつつ、コワゴワ|頭髪《とうはつ》をグツと|握《にぎ》り|締《し》めた。
|岩子姫《いはこひめ》『アイタタ、|痛《いた》う|御座《ござ》んす、どうぞ、|妾《わらは》の|腰《こし》の|辺《あたり》を|探《さぐ》つて|見《み》て|下《くだ》さい』
|亀彦《かめひこ》『|女《をんな》の|分際《ぶんざい》としてあられもない|事《こと》を|言《い》ふな、|立派《りつぱ》な|奥様《おくさま》が|大《おほ》きな|目《め》を|剥《む》いて|監督《かんとく》をして|御座《ござ》るぞ、|腰《こし》のあたりを|触《いら》つて|堪《たま》るものかい』
|岸子姫《きしこひめ》『イエイエ、|腰《こし》の|辺《あた》りに、|可《か》なり|大《おほ》きい|紐《ひも》で|大《おほ》きい|石《いし》が|縛《しば》りつけて|御座《ござ》います。|三《みつ》つも|四《よつ》つも、|重《おも》い|石《いし》に|繋《つな》がれて|居《ゐ》ます、どうぞ|其《その》|綱《つな》を|切《き》つて|助《たす》けて|下《くだ》さい』
|亀彦《かめひこ》『アーア、|偉《えら》い|事《こと》になつて|来《き》たワイ、|神《かみ》が|綱《つな》を|掛《かけ》たら|放《はな》さぬぞよ、アハヽヽヽ』
|岩子姫《いはこひめ》『|冗談《じやうだん》|仰有《おつしや》らずに、どうぞ|真面目《まじめ》にほどいて|下《くだ》さい』
|二人《ふたり》は|水中《すゐちう》に|手《て》を|下《おろ》し、|腰《こし》のあたりを|探《さぐ》つて|見《み》て、
『ヤア|甚《えら》い|事《こと》を|行《や》つて|居《ゐ》る……やつぱり|鱗《うろこ》でもなければ、|羽《はね》でもない、|人間《にんげん》の|肌《はだ》だ』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら、ほどかむとすれど、|綱《つな》は|膨《ふく》れてどうする|事《こと》も|出来《でき》ぬ。
『アーア|仕方《しかた》がない』
と|再《ふたた》び|岸《きし》に|這《は》ひ|上《あが》り、|双刃《もろは》の|剣《つるぎ》を|口《くち》に|啣《くは》へ、バサバサと|飛込《とびこ》み、プツツと|綱《つな》を|切《き》り、|二人《ふたり》を|肩《かた》にひつ|担《かつ》ぎ|乍《なが》ら|上《あが》つて|来《き》た。|高国別《たかくにわけ》および|三人《さんにん》の|女性《ぢよせい》は、
『アーア|結構《けつこう》|結構《けつこう》、|好《い》い|所《ところ》で|助《たす》かつたものだ』
|浅子姫《あさこひめ》『|岩子《いはこ》さま、|岸子《きしこ》さま、あなたは|酷《えら》い|目《め》に|会《あ》ひましたな、|妾《わらは》も|御主人様《ごしゆじんさま》に|救《すく》はれました……アヽ|結構《けつこう》|結構《けつこう》、これと|云《い》ふも、|大神様《おほかみさま》の|全《まつた》く|御守護《ごしゆご》で|御座《ござ》いませう』
と|浅子姫《あさこひめ》は、|今更《いまさら》の|如《ごと》く|嬉《うれ》し|涙《なみだ》に|暮《く》れて|水面《すゐめん》に|向《むか》つて|合掌《がつしやう》しゐたりける。
(大正一一・四・三 旧三・七 松村真澄録)
(昭和一〇・三・二三 於花蓮港支部 王仁校正)
第一七章 |窟《いはや》の|酒宴《しゆえん》〔五八四〕
|四面《しめん》|岩壁《がんぺき》を|以《もつ》て|包《つつ》まれたる|広《ひろ》き|館《やかた》の|内《うち》には|糸竹管絃《しちくくわんげん》の|響《ひびき》|爽《さはや》かに、|飲《の》めよ、|騒《さわ》げの|大乱舞《だいらんぶ》が|行《おこな》はれて|居《ゐ》る。ずつと|見渡《みわた》せば|中央《ちうあう》に|黎牛《やく》の|皮《かは》を|幾枚《いくまい》とも|無《な》く|積《つ》み|重《かさ》ね、|其《その》|上《うへ》に|見《み》るも|憎《にく》さうなる|面構《つらがま》への|蠑〓別《いもりわけ》は|数多《あまた》の|男女《だんぢよ》に|酌《しやく》をさせ|乍《なが》ら、|墨《すみ》の|様《やう》な|黒《くろ》き|酒《さけ》をグビリグビリと|傾《かたむ》けて|居《ゐ》る。|数十人《すうじふにん》の|男女《だんぢよ》は|何《いづ》れも|一癖《ひとくせ》あるらしき|面構《つらがま》へ、【けい】を|敲《たた》く、|笛《ふえ》を|吹《ふ》く、|弓弦《ゆみづる》を|弾《だん》ずる、|石《いし》と|石《いし》とを|打《う》ち|乍《なが》ら|真裸《まつぱだか》の|儘《まま》|踊《をど》り|狂《くる》うて|居《ゐ》る、|恰《あたか》も|百鬼昼行《ひやくきちうかう》の|有様《ありさま》である。
|蠑〓別《いもりわけ》『ヤア|大変《たいへん》に|酔《ゑい》がまわつた。|如何《どう》だ、|皆《みな》の|者共《ものども》、|一《ひと》つ|何《なに》か|面白《おもしろ》い|芸当《げいたう》をやつて|呉《く》れないか』
|黒姫《くろひめ》『さアさア|皆《みな》サン、これから|須佐之男尊《すさのをのみこと》|征伐《せいばつ》の|芝居《しばゐ》をやりませう。|丁《ちよ》ン|助《すけ》サン、お|前《まへ》が|須佐之男尊《すさのをのみこと》になるのだよ、|黒姫《くろひめ》がお|前《まへ》の|髭《ひげ》を【むし】る|役《やく》、|高姫《たかひめ》さまは|手足《てあし》の|爪《つめ》を|脱《ぬ》く|役《やく》だよ』
|丁《ちよ》ン|助《すけ》『エーエ、|滅相《めつさう》な、|誰《たれ》がソンナ|役《やく》になりませうか、|爪《つめ》を|抜《ぬ》かれる|様《やう》な|悪《わる》い|事《こと》は|根《ね》つからした|覚《おぼ》えが|御座《ござ》いませぬ』
|黒姫《くろひめ》『|吐《ぬか》すな|吐《ぬか》すな、|貴様《きさま》は|爪《つめ》に|火《ひ》を|点《とぼ》して|吝《けち》な|事《こと》|許《ばか》り|考《かんが》へ、|人《ひと》を|苦《くる》しめる|奴《やつ》だ、|鷹《たか》の|様《やう》に|爪《つめ》の|長《なが》い|代物《しろもの》だ、|喰《く》ひつめ|者《もの》だ、|如何《どう》でも|斯《こ》うでも|此《この》|婆《ばば》がつめかけて|抜《ぬ》いてやらねば|措《を》くものかいヤイ』
|丁《ちよ》ン|助《すけ》『|爪《つめ》の|長《なが》いのは、それやお|前《まへ》サンの|事《こと》だないか。|一途《いちづ》の|川辺《かはべ》で|往来《わうらい》の|旅人《たびびと》を|嚇《おどか》して|肝腎《かんじん》の|身魂《みたま》を|引《ひ》きぬく|慾婆《よくば》アサンだ。お|前《まへ》サンから|爪《つめ》を|抜《ぬ》きなさい』
|黒姫《くろひめ》『|能《よ》うツベコベと|理窟《りくつ》を|言《い》ふ|丁《ちよ》ン|助《すけ》だナア、エーエ|憎《にく》らしい、|頬辺《ほつぺた》なと|抓《つ》めつてやらうか』
と|鷹《たか》の|様《やう》な|鋭利《えいり》な|爪《つめ》で|丁《ちよ》ン|助《すけ》の|頬《ほほ》をグツト|捻《ねぢ》る。
『イヽヽヽ|痛《いた》い|哩《わい》|痛《いた》い|哩《わい》、|放《はな》サンかい』
|黒姫《くろひめ》『|放《はな》さぬ|放《はな》さぬ、|神《かみ》が|爪《つめ》を|掛《かけ》たら、いつかないつかな|放《はな》しはせぬぞ。|話《はな》すのは|庚申《かうしん》|待《ま》ちの|晩《ばん》だ、|人《ひと》の|難儀《なんぎ》は|見《み》ざる、|聞《き》かざる、|言《い》はざるの|苦労人《くらうにん》の|黒姫《くろひめ》だ。|尻《けつ》なつと|喰《くら》ふとけ、|苦労《くらう》|知《し》らずの|真黒々助《まつくろくろすけ》の|丁《ちよ》ン|助《すけ》|奴《め》が』
|丁《ちよ》ン|助《すけ》『ヤアヤア、|婆《ば》アサン、ヒヽヽヽひどい|哩《わい》、ソヽヽヽそれや|余《あんま》りぢや、|頬辺《ほうぺた》がチヽヽヽちぎれる|哩《わい》』
|黒姫《くろひめ》『チヽヽヽちつとは|痛《いた》からう、【|血《ち》】の|出《で》るとこ|迄《まで》、いや|頬《ほう》が【ち】ぎれるとこ|迄《まで》、いつかないつかな|放《はな》しやせぬぞや。【チ】ン【チ】クリンの【チ】ンピラ|奴《やつこ》、【ち】つとは|正念《しやうねん》が|行《い》つたか、|貴様《きさま》は|又《また》してもウラナイ|教《けう》の|裏《うら》をかく|奴《やつ》ぢや。|今《いま》にひよつとして|三五教《あななひけう》の|奴《やつ》が|出《で》て|来《き》よつたならば、|直《すぐ》に|黒《くろ》い|黒《くろ》い|燕《つばめ》の|様《やう》に|燕返《つばめがへ》しの|早業《はやわざ》をやる|代物《しろもの》だ。この|黒姫《くろひめ》が|黒《くろ》い|目《め》でグツと|睨《にら》んだら|違《ちが》ひはせぬぞや』
|丁《ちよ》ン|助《すけ》『もしもし|高姫《たかひめ》さま、ちつと|挨拶《あいさつ》して|下《くだ》さいな』
|高姫《たかひめ》『マアマア|十万億土《じふまんおくど》の|成敗《せいばい》の|事《こと》|思《おも》へば|磯《いそ》の|様《やう》なものだ。お|前《まへ》の|将来《しやうらい》のためだよ、もつともつと|黒姫《くろひめ》さま、|首《くび》の|脱《ぬ》ける|処《ところ》まで|捻《ひね》つてやりなさい、アーア|一人《ひとり》の|男《をとこ》を|悪《あく》の|道《みち》に|引《ひ》き|入《い》れ|様《やう》と|思《おも》へば|骨《ほね》の|折《を》れる|事《こと》だワイ。もしもし|大広木《おほひろき》|正宗《まさむね》さま、|何《なに》して|御座《ござ》る、|酒《さけ》ばつかり【あふ】つて|居《を》らずに、ちつとお|前《まへ》さまも|此《この》|丁《ちよ》ン|助《すけ》の|成敗《せいばい》をなさつたが|宜《よ》からうにナア』
|丁《ちよ》ン|助《すけ》『もうもうもう、|改心《かいしん》|致《いた》します、|之《これ》からは|善《ぜん》の【ぜ】の|字《じ》も|申《まを》しませぬ、|飽迄《あくまで》も|悪《あく》を|立《た》て|通《とほ》します』
|高姫《たかひめ》『これこれ|丁《ちよ》ン|助《すけ》、|何《なに》を|言《い》ふのだ、|善一筋《ぜんひとすぢ》のウラナイ|教《けう》の|教《をしへ》ぢやぞい』
|丁《ちよ》ン|助《すけ》『ソヽヽヽそのウラナイ|教《けう》だから|裏《うら》を|言《い》つて|居《を》るのだ。|悪《あく》と|言《い》へば|善《ぜん》、|善《ぜん》と|言《い》へば|悪《あく》ぢやがなア』
|黒姫《くろひめ》『はて|扨《さ》て|合点《がてん》の|悪《わる》い|男《をとこ》ぢや、|底《そこ》には|底《そこ》がある、|奥《おく》には|奥《おく》がある、|裏《うら》には|裏《うら》がある。エーエ、もうもう|手《て》が|倦《だる》うなつて|来《き》た、モウこれで|勘《こら》へてやらう。いやまだまだ|膏《あぶら》をとらねばならぬが、|婆《ばば》の|手《て》が|続《つづ》かぬから|一寸《ちよつと》|一服《いつぷく》ぢや、エヘヽヽヽ』
|丁《ちよ》ン|助《すけ》『|何《なに》が|何《なん》だか|皆《みな》サンの|仰有《おつしや》る|事《こと》は|一寸《ちよつと》も|訳《わけ》が|分《わか》りませぬワ。|善《ぜん》をすればお|気《き》に|入《い》るのやら、|悪《あく》がお|気《き》に|入《い》るのやら、|薩張《さつぱ》り|訳《わけ》が|分《わか》らなくなつて|来《き》た。|善《ぜん》なら|善《ぜん》、|悪《あく》なら|悪《あく》と、はつきり|言《い》つて|下《くだ》さい、どちらへでも|私《わたし》はつきます』
|高姫《たかひめ》『|善《ぜん》とも|悪《あく》とも|分《わか》らぬのが|神《かみ》の|教《をしへ》ぢや。|人間《にんげん》の|分際《ぶんざい》として、さう|善悪《ぜんあく》がはつきりと|分《わか》つて|堪《たま》るものかい。|何事《なにごと》も|高姫《たかひめ》の|仰有《おつしや》る|通《とほ》りに、ヘイヘイ、ハイハイと|盲目《めくら》|滅法《めつぱふ》に|盲従《まうじゆう》すれば|良《い》いのだよ』
|丁《ちよ》ン|助《すけ》『アーア|又《また》しても|又《また》しても、|人《ひと》の|顔《かほ》を|抓《つめ》つたり|殴《なぐ》つたり、|爪《つめ》を|抜《ぬ》いたりせねば|改心《かいしん》さす|事《こと》が|出来《でき》ぬのか、そこになるとアナヽ、アヽヽヽ、|何《なん》ぢやつた、|忘《わす》れた|忘《わす》れた。【あ】ないでも、【あ】なでも【あ】つたら|隠《かく》れ|度《た》い|様《やう》な|気《き》がします|哩《わい》。【あ】な|恐《おそ》ろしや、【あ】な|有難《ありがた》や、【あ】な|苦《くる》しや、【あ】な|痛《いた》やなア』
|黒姫《くろひめ》『|矢《や》つ|張《ぱり》|貴様《きさま》は|三五教《あななひけう》に|未練《みれん》があるな、よしよしこれから|須佐之男尊《すさのをのみこと》ぢやないが、|頭《あたま》の|毛《け》も|髭《ひげ》も|爪《つめ》も|一本《いつぽん》も|無《な》い|様《やう》に|抜《ぬ》いてやらう。これこれ|久助《きうすけ》、|釘抜《くぎぬき》を|持《も》つて|来《こ》い』
|久助《きうすけ》『|釘抜《くぎぬき》は|此《この》|館《やかた》には|一《ひと》つも|御座《ござ》いませぬ、|如何《いかが》|致《いた》しませう』
|黒姫《くろひめ》『アヽそうか、|釘抜《くぎぬき》は|無《な》いか、それでは|仕方《しかた》がない。これこれ|丁《ちよ》ン|助《すけ》、|貴様《きさま》は|余《よ》つ|程《ぽど》|幸福者《しあわせもの》だ、|之《これ》と|言《い》ふも|神様《かみさま》の|御慈悲《おじひ》ぢや、ウラナイ|教《けう》の|神様《かみさま》の|御恩《ごおん》を|夢《ゆめ》にも|忘《わす》れてはならぬぞよ』
|蠑〓別《いもりわけ》はグタグタに|酔《よ》ひ|潰《つぶ》れ、
『オイオイ|皆《みな》の|奴《やつ》、|何《なに》か|面白《おもしろ》い|芸当《げいたう》をして|見《み》せぬか、|折角《せつかく》|飲《の》んだ|酒《さけ》が|沈《しづ》んで|仕舞《しま》ふ、ちつと|浮《う》かして|呉《く》れ、|瓢箪《へうたん》ばかりが|浮物《うきもの》ぢやあるまい、|偶《たま》には|人間《にんげん》の|心《こころ》も|浮《う》かさねばならぬ、それだから|此《この》|世《よ》を|浮世《うきよ》と|言《い》ふのだ』
|黒姫《くろひめ》『アヽ|其《その》|瓢箪《へうたん》で|思《おも》ひ|出《だ》した、|水《みづ》の|中《なか》に|浮《う》かして|置《お》いた|二人《ふたり》の|女《をんな》、|誰《たれ》か|行《い》つて|浚《さら》へて|来《こ》い、|此処《ここ》で|一《ひと》つ|面白《おもしろ》い|芸当《げいたう》をさして|楽《たの》しまう』
|蠑〓別《いもりわけ》『アハヽヽヽ、|妙案々々《めうあんめうあん》、|面白《おもしろ》い|面白《おもしろ》い、サアサ|皆《みな》の|者共《ものども》、|二人《ふたり》の|奴《やつ》を|引摺《ひきずり》|上《あ》げて|此《この》|場《ば》へ|連《つ》れて|来《こ》い』
|黒姫《くろひめ》『こら|丁《ちよ》ン|助《すけ》、|其《その》|方《はう》は|爪《つめ》|抜《ぬ》きの|成敗《せいばい》を|許《ゆる》してやる、|其《その》|代《かは》りに|二人《ふたり》の|女《をんな》を|引摺《ひきずり》|上《あ》げて|此《この》|場《ば》へ|連《つ》れて|来《こ》い』
|丁《ちよ》ン|助《すけ》『はい、|畏《かしこ》まつて|御座《ござ》います、|然《しか》し|乍《なが》ら|私《わたし》|一人《ひとり》では|到底《たうてい》|手《て》にあひませぬ、|誰《たれ》か|助太刀《すけだち》を|貸《か》して|下《くだ》さいませ、|一人《ひとり》づつ|担《かつ》げて|連《つ》れて|参《まゐ》ります』
|黒姫《くろひめ》『|久助《きうすけ》、|貴様《きさま》は|丁《ちよ》ン|助《すけ》の|後《あと》から|跟《つ》いて、サア|早《はや》く|引《ひ》き|上《あ》げて|来《こ》い』
『|畏《かしこ》まりました』
と|二人《ふたり》は|表《おもて》の|石門《いしもん》を|開《ひら》くや|否《いな》や|尻《しり》|端折《はしを》つて|池《いけ》の|辺《ほとり》を|指《さ》して|一生懸命《いつしやうけんめい》に|走《はし》つて|来《き》た。|見《み》れば|池《いけ》の|辺《ほとり》に|三男六女《さんなんろくぢよ》の|神人《しんじん》が|立《た》つてゐる。
|丁《ちよ》ン|助《すけ》『オイオイ|久公《きうこう》、|貴様《きさま》|先《さき》へ|行《ゆ》かぬかい』
|久助《きうすけ》『|何《なに》、|俺《おれ》は|貴様《きさま》の|助太刀《すけだち》だ、|言《い》はば|代理《だいり》ぢや。|貴様《きさま》が|先《さき》へ|行《い》つて|縮尻《しくじ》つたら|其《その》|控《ひか》へに|俺《おれ》が|出《で》るのだ、|先陣《せんぢん》は|貴様《きさま》だ、|早《はや》う|行《ゆ》かぬかい』
と、|尻《しり》をトンと|押《お》す|拍子《へうし》に|丁《ちよ》ン|助《すけ》はトンと|尻餅《しりもち》を|搗《つ》く、
『アイタヽ、ナヽヽヽ|何《なに》をしやがるのだい、アーア、もう|腰《こし》が|抜《ぬ》けた。|貴様《きさま》が|弱腰《よわごし》を|無理《むり》に|突《つ》いたものだから、|腰《こし》の|蝶番《てふつがい》が|折《を》れて|仕舞《しま》つたよ、|貴様《きさま》が|代理《だいり》するのだ。サアサ|行《ゆ》け|行《ゆ》け』
|久助《きうすけ》『|触《さわ》り|三百《さんびやく》とは|貴様《きさま》の|事《こと》だ、なまくらな、|起《おき》んかい。|一寸《ちよつと》|押《お》した|位《くらゐ》で|腰《こし》の|枢《くろろ》が|外《はづ》れる|奴《やつ》が|何処《どこ》にあるか』
|丁《ちよ》ン|助《すけ》『それでも|抜《ぬ》けたら|仕方《しかた》が|無《な》い、|嘘《うそ》と|思《おも》ふなら|俺《おれ》を|歩《ある》かして|見《み》い、|一寸《ちよつと》も|歩《ある》けやせぬぞ』
|久助《きうすけ》『エーエ、|腰抜《こしぬ》け|野郎《やらう》だな』
|丁《ちよ》ン|助《すけ》『オヽヽヽ|俺《おれ》は|腰抜《こしぬ》け|野郎《やらう》だ、それだから|貴様《きさま》|行《ゆ》けと|言《い》ふのだ』
|久助《きうすけ》『|俺《おれ》も|何《なん》だか|急《きふ》に|足《あし》が|抜《ぬ》けた|様《やう》だ、|膝坊主《ひざぼうず》|奴《め》が|危《あぶ》ない|危《あぶ》ないと|吐《ぬか》しよる』
|丁《ちよ》ン|助《すけ》『|何《なん》だ、|乞食《こじき》の|正月《しやうぐわつ》の|様《やう》に「|餅《もち》|無《な》い|餅《もち》|無《な》い」ナンテ、|団子理屈《だんごりくつ》を|垂《た》れない、サアサ|行《い》け|行《い》け、|俺《おれ》は|絶対《ぜつたい》に|腰《こし》が|抜《ぬ》けた。もう|一足《ひとあし》も|歩《ある》けぬ、|貴様《きさま》|胆玉《きもだま》を|放《ほ》り|出《だ》してあの|池《いけ》を|覗《のぞ》きなつとして|来《こ》い、|帰《かへ》つて|申訳《まをしわけ》が|無《な》いぞ』
|亀彦《かめひこ》は|二人《ふたり》の|姿《すがた》を|見《み》てツカツカと|間近《まぢか》に|進《すす》み、
『ヤア|其《その》|方《はう》は|悪神《あくがみ》の|眷属《けんぞく》、|能《よ》くも|三人《さんにん》の|女《をんな》を|苦《くる》しめよつたナア、サア|返報《へんぱう》がへしだ。|股《また》から|引裂《ひきさ》き|頭《あたま》から|塩《しほ》をつけて|齧《かぶ》つて|喰《く》つてやらうか』
と|呶鳴《どな》りつけた。|二人《ふたり》はキアツと|声《こゑ》を|立《た》て|腰《こし》の|抜《ぬ》けたと|言《い》つた|丁《ちよ》ン|助《すけ》は|真先《まつさき》に|韋駄天走《ゐだてんばし》りに、|雲《くも》を|霞《かすみ》と|逃《に》げ|去《さ》つた。
|話《はなし》|変《かは》つて|蠑〓別《いもりわけ》は、
『アーア、|何《なん》だか|今日《けふ》は|心《こころ》の|沈《しづ》む|日《ひ》だ。|皆《みな》の|奴共《やつども》、|何奴《どいつ》も|此奴《こいつ》も|芸《げい》|無《な》し|猿《ざる》の|唐変木《たうへんぼく》|許《ばか》りだな、|一《ひと》つ|面白《おもしろ》い|事《こと》をやつて|見《み》せぬか、アーア|頭痛《づつう》がする』
|高姫《たかひめ》『これも|何《なに》かの|御都合《ごつがふ》で|御座《ござ》いませう、さう、おなげき|遊《あそ》ばすには|及《およ》びませぬ、|日《ひ》の|出《で》の|神《かみ》の|生宮《いきみや》が|一《ひと》つ|踊《をど》つてお|目《め》に|掛《か》けませう』
と|高姫《たかひめ》はお|多福《たふく》|面《づら》をニユツと|出《だ》し、|山車尻《だんじり》をプリツプリツと|振《ふ》り|乍《なが》ら、|怪《あや》しき|腰付《こしつき》で|踊《をど》り|始《はじ》めた。|此《この》|時《とき》|慌《あはただ》しく|息《いき》せききつて|丁《ちよ》ン|助《すけ》、|久助《きうすけ》は|此《この》|場《ば》に|走《はし》り|来《きた》り、
『タヽヽヽ|大変《たいへん》で|御座《ござ》います』
と|言《い》つたきり、|丁《ちよん》|久《きう》|二人《ふたり》は|息《いき》を|喘《はづ》ませて|此《この》|場《ば》にドツと|倒《たふ》れたり。
|黒姫《くろひめ》『|大変《たいへん》とは|何事《なにごと》ぞ、|二人《ふたり》の|女《をんな》は|如何《どう》|致《いた》した』
|久助《きうすけ》『ドヽヽヽ|如何《どう》も|斯《こ》うもありませぬ、タヽヽヽ|大変々々《たいへんたいへん》、|大変《たいへん》と|言《い》へば|矢《や》つ|張《ぱ》り|大変《たいへん》で|御座《ござ》います』
|黒姫《くろひめ》『こら、|久助《きうすけ》、|丁《ちよ》ン|助《すけ》、しつかり|致《いた》さぬか、|何《なに》が|大変《たいへん》だ』
|丁《ちよ》ン|助《すけ》『いやもう、タヽヽヽ|大変《たいへん》で|御座《ござ》います、|大変《たいへん》と|申《まを》すより|申《まを》し|上《あ》げる|言葉《ことば》も|無《な》かりけり、アーン、アンアンアン、オーン、オンオンオン』
|黒姫《くろひめ》『エー|腑甲斐《ふがひ》|無《な》い|奴《やつ》だ、|又《また》|歩《ある》きもつて|夢《ゆめ》を|見《み》よつたのだらう、|臆病《おくびやう》な|奴《やつ》だ、しつかり|致《いた》さぬか』
とキユーと|鼻《はな》を|捻《ねぢ》る。
|丁《ちよ》ン|助《すけ》『イヽヽヽ|痛《いた》い、|勘忍《かんにん》|勘忍《かんにん》』
|黒姫《くろひめ》『サア、しつかりと|申《まを》さぬか、|様子《やうす》は|如何《いか》に』
|丁《ちよ》ン|助《すけ》『ヨヽヽヽ|様子《やうす》も|何《なん》にもあつたものか、ヨヽヽヽ|用心《ようじん》なさいませ、|酔《よ》つぱらつて|居《ゐ》るどこの|騒《さわ》ぎぢやありませぬぞ、アヽヽヽ|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》、|大《おほ》きな|男《をとこ》が|三人《さんにん》とアルマの|様《やう》な|別嬪《べつぴん》が|而《しか》も|六人《ろくにん》、どうで、ロヽヽヽ|碌《ろく》な|事《こと》は|御座《ござ》いませぬ|哩《わい》』
|黒姫《くろひめ》『|貴様《きさま》の|言《い》ふ|事《こと》は|何《なに》が|何《なん》だか、【テン】と|分《わか》らぬ、こらこら|久助《きうすけ》、|様子《やうす》は|如何《どう》だ。|女《をんな》は|何処《どこ》に|居《ゐ》る。』
|久助《きうすけ》『|女《をんな》どころの|騒《さわ》ぎですかい、たつた|今《いま》、|貴方等《あなたがた》の|頸《くび》は|胴《どう》を|離《はな》れますよ、|何卒《どうぞ》しつかりと|用意《ようい》をして|下《くだ》さい』
|高姫《たかひめ》『お|前達《まへたち》は|何《なに》を|狼狽《うろた》へ|騒《さわ》ぐのだ、|昔《むかし》の|昔《むかし》のさる|昔《むかし》の|根《こ》つ|本《ぽん》の|天地《てんち》の|始《はじ》まりから、|何《なに》も|彼《か》も|調《しら》べて|調《しら》べて|調《しら》べ|上《あ》げた|此《この》|方《はう》ぢや、|仮令《たとへ》|百億万《ひやくおくまん》の|敵《てき》|押《お》し|寄《よ》せ|来《きた》るとも、|此《この》|高姫《たかひめ》のあらむ|限《かぎ》りは|大丈夫《だいぢやうぶ》だ、しつかり|致《いた》さぬか。してして|女《をんな》は|何《なん》と|致《いた》した』
|此《この》|時《とき》|門前《もんぜん》に|勇壮《ゆうさう》なる|宣伝歌《せんでんか》の|声《こゑ》、|四辺《あたり》を|轟《とどろ》かし|響《ひび》き|来《き》たりぬ。
|高姫《たかひめ》、|黒姫《くろひめ》、|蠑〓別《いもりわけ》を|始《はじ》め、|一同《いちどう》は|俄《にはか》に|頭《かしら》|痛《いた》み|胸《むね》は|引裂《ひきさ》く|許《ばか》り|苦《くる》しくなつて、|其《その》|場《ば》にドツと|倒《たふ》れたり。アヽ|此《この》|結末《けつまつ》は|如何《いかが》なり|行《ゆ》くならむか。
(大正一一・四・三 旧三・七 北村隆光録)
(昭和一〇・三・二四 於台湾蘇澳駅 王仁校正)
第一八章 |婆々勇《ばばいさみ》〔五八五〕
|高姫《たかひめ》、|黒姫《くろひめ》、|蠑〓別《いもりわけ》を|始《はじ》め、|一座《いちざ》の|者共《ものども》は|折《をり》から|聞《きこ》ゆる|宣伝歌《せんでんか》の|声《こゑ》に|頭《あたま》を|痛《いた》め、|胸《むね》を|苦《くる》しめ、|七転八倒《しちてんばつたう》、|中《なか》には|黒血《くろち》を|吐《は》いて|悶《もだ》え|苦《くる》しむ|者《もの》もあつた。|宣伝歌《せんでんか》は|館《やかた》の|四隅《しぐう》より|刻一刻《こくいつこく》と|峻烈《しゆんれつ》に|聞《きこ》え|来《き》たる。
|黒姫《くろひめ》『コレコレ|蠑〓別《いもりわけ》サン、|高姫《たかひめ》サン、|静《しづか》になさらぬか、|丁《ちよ》ン|助《すけ》、|久助《きうすけ》|其《その》|他《た》の|面々《めんめん》、|千騎一騎《せんきいつき》の|此《この》|場合《ばあひ》、|気《き》を|確《しつか》り|持《も》ち|直《なほ》し、|力限《ちからかぎ》りに|神政《しんせい》|成就《じやうじゆ》の|為《た》め|活動《くわつどう》をするのだよ、|何《なに》を|愚図々々《ぐづぐづ》キヨロキヨロ|間誤々々《まごまご》するのだい。これ|位《くらゐ》の|事《こと》が|苦《くる》しいやうなことで、|何《ど》うして、ウラナイ|教《けう》が|拡《ひろ》まるか、|転《こ》けても|砂《すな》なりと|掴《つか》むのだ、|只《ただ》では|起《お》きぬと|云《い》ふ|執着心《しふちやくしん》が|無《な》くては、|何《ど》うして|何《ど》うして|此《この》|大望《たいもう》が|成就《じやうじゆ》するものか。|変性女子《へんじやうによし》の|霊《たま》や|肉体《にくたい》を|散《ち》り|散《ち》り【ばら】ばらに|致《いた》して|血《ち》を|啜《すす》り、|骨《ほね》を|臼《うす》に|搗《つ》いて|粉《こな》となし、|筋《すぢ》を|集《あつ》めて|衣物《きもの》に|織《お》り、|血《ち》は|酒《さけ》にして|呑《の》み、|毛《け》は|縄《なは》に|綯《な》ひ、|再《ふたた》び|此《この》|世《よ》に|出《で》て|来《こ》ぬやうに|致《いた》すのがウラナイ|教《けう》の|御宗旨《ごしうし》だ。|折角《せつかく》|今迄《いままで》|骨《ほね》を|折《お》つて|天《あま》の|磐戸《いはと》|隠《がく》れの|騒動《さうだう》がおつ|始《はじ》まる|所《ところ》|迄《まで》|旨《うま》く|漕《こ》ぎつけ、|心地《ここち》よや|素盞嗚尊《すさのをのみこと》は|罪《つみ》もないのに|高天原《たかあまはら》を|放逐《はうちく》され、|今《いま》は|淋《さび》しき|漂浪《さすらひ》の|一人旅《ひとりたび》、|奴乞食《どこじき》のやうになつて、|翼《つばさ》|剥《は》がれし|裸鳥《はだかどり》、これから|吾々《われわれ》の|天下《てんか》だ。|此《この》|場《ば》に|及《およ》んで|何《なに》を|愚図々々《ぐづぐづ》メソメソ|騒《さわ》ぐのだ。|高姫《たかひめ》さま|貴女《あなた》も|日《ひ》の|出神《でのかみ》と|名乗《なの》つた|以上《いじやう》は、|何処迄《どこまで》も|邪《じや》が|非《ひ》でも|日《ひ》の|出神《でのかみ》で|通《とほ》さにやなるまい。|憚《はばか》りながら|此《この》|黒姫《くろひめ》は|何処々々迄《どこどこまで》も|竜宮《りうぐう》の|乙姫《おとひめ》でやり|通《とほ》すのだ。|蠑〓別《いもりわけ》さまは|飽《あく》までも|大広木《おほひろき》|正宗《まさむね》で|行《ゆ》く|処《ところ》|迄《まで》|遣《や》り|通《とほ》し、|万々一《まんまんいち》|中途《ちうと》で|肉体《にくたい》が|斃《たふ》れても、|百遍《ひやつぺん》でも|千遍《せんべん》でも|生《うま》れ|替《か》はつて|此《この》|大望《たいもう》を|成就《じやうじゆ》させねばなりませぬぞ。エーエー|腰《こし》の|弱《よわ》い|方々《かたがた》だ。この|黒姫《くろひめ》も|気《き》の|揉《も》める|事《こと》だワイ、サアサア、シヤンと|気《き》を|持《も》ち|直《なほ》し、|大望《たいもう》|一途《いちづ》に|立《た》て|通《とほ》す|覚悟《かくご》が|肝腎《かんじん》ぢや。|中途《ちうと》で|屁古垂《へこた》れる|位《くらゐ》なら、|初《はじめ》からコンナ|謀反《むほん》は|起《おこ》さぬがよい。|此《この》|黒姫《くろひめ》が|千変万化《せんぺんばんくわ》の|妙術《めうじゆつ》をもつて、|瑞《みづ》の|霊《みたま》の|素盞嗚《すさのを》の|神《かみ》がもしも|此処《ここ》へやつて|来《き》たなら、|乞食《こじき》の|虱《しらみ》だ、|口《くち》で|殺《ころ》して|仕舞《しま》ふ。|海《うみ》に|千年《せんねん》、|山《やま》に|千年《せんねん》、|河《かは》に|千年《せんねん》の|苦労《くらう》を|致《いた》した|黒姫《くろひめ》ぢや。|高姫《たかひめ》さま、|蠑〓別《いもりわけ》さま、お|前《まへ》は|未《ま》だ|未《ま》だ|苦労《くらう》が|足《た》らぬ、|苦労《くらう》なしに|誠《まこと》の|花《はな》は|咲《さ》かぬぞや。これこれ|丁《ちよ》ン|助《すけ》、|久助《きうすけ》|何《なに》をベソベソ|吠面《ほえづら》かわくのだ、|些《ちつ》と|確《しつか》り|致《いた》さぬと|此《この》|黒姫《くろひめ》さまの|拳骨《げんこつ》がお|見舞《みまひ》|申《まを》すぞ。|何《なん》だ|宣伝歌《せんでんか》が|恐《おそ》ろしいやうな|事《こと》で、|何《ど》うならうかい、|女《をんな》の|一心《いつしん》|岩《いは》でも|突《つ》き|貫《ぬ》く、|無茶《むちや》でも|突《つ》き|貫《ぬ》かねば|此《この》|婆《ばば》の|顔《かほ》が|立《た》たぬ、|何《ど》うしてウラル|彦《ひこ》の|神《かみ》に|申訳《まをしわけ》が|立《た》つか、|鬼雲彦《おにくもひこ》に|合《あ》はす|顔《かほ》があるまいぞ。エーエー、|腰抜《こしぬけ》ばかりだなア。コレコレ|高姫《たかひめ》さま|確《しつか》りせぬかいなア、|此《この》|黒姫《くろひめ》がお|前《まへ》の|傍《そば》について|居《ゐ》なかつたら、お|前《まへ》さまは【とう】の|昔《むかし》に|素盞嗚尊《すさのをのみこと》に|骨《ほね》も|筋《すぢ》も|抜《ぬ》かれて|仕舞《しま》ひ、|今頃《いまごろ》は|茹蛸《ゆでだこ》のやうになつて|居《ゐ》るお|方《かた》だ。|大将《たいしやう》は|看板《かんばん》とは|云《い》ふものの、これや|又《また》|滅相《めつさう》|弱《よわ》い|看板《かんばん》ぢやナア』
|此《この》|時《とき》|宣伝歌《せんでんか》は|益々《ますます》|激《はげ》しく、|館《やかた》の|四辺《しへん》より|響《ひび》いて|来《く》る。|高姫《たかひめ》と|蠑〓別《いもりわけ》は|逆上《ぎやくじやう》したか、|互《たがひ》に|目《め》を|怒《いか》らし|牙《きば》を|剥《む》き|猿《さる》の|喧嘩《けんくわ》のやうに、|噛《か》むやら|掻《か》くやら【むし】るやら、キヤツ、キヤツと【キン】キリ|声《ごゑ》を|出《だ》して、|上《うへ》になり|下《した》になり、|組《く》んづ|組《く》まれつ|黒姫《くろひめ》の|言葉《ことば》も|耳《みみ》に|入《い》らぬ|体《てい》にて|掴《つか》み|合《あひ》を|始《はじ》めて|居《を》る。|並居《なみゐ》る|数多《あまた》の|者共《ものども》は|互《たがひ》に|鉄拳《てつけん》を|振《ふ》り|上《あ》げ、|彼我《ひが》の|区別《くべつ》なく|入《い》り|乱《みだ》れて|打《う》つ、|蹴《け》る、|擲《なぐ》る、|呶鳴《どな》る、|泣《な》く、|喚《わめ》く、|忽《たちま》ち|阿鼻叫喚《あびけうくわん》|修羅《しゆら》の|衢《ちまた》と|化《くわ》して|仕舞《しま》つた。
|黒姫《くろひめ》は|懐剣《くわいけん》を|逆手《さかて》に|持《も》ち|表《おもて》を|指《さ》して|韋駄天走《ゐだてんばし》り、|表門《おもてもん》を|開《ひら》くや|否《いな》や、|高国別《たかくにわけ》|以下《いか》|勇士《ゆうし》|一行《いつかう》の|姿《すがた》に|肝《きも》を|潰《つぶ》し、アツと|其《その》|場《ば》に|腰《こし》を|抜《ぬ》かし、|蟹《かに》のやうな|泡《あわ》を|吹《ふ》き、|目玉《めだま》を|二三寸《にさんずん》ばかり|前《まへ》に|飛《と》び|出《だ》させ、|口《くち》を【ポカン】と|開《あ》けたまま、|一言《いちごん》も|発《はつ》し|得《え》ず、|開《あ》いた|口《くち》が|閉《すぼ》まらぬ|其《その》|為体《ていたらく》の|可笑《おか》しさ、|一同《いちどう》は|思《おも》はず|吹《ふ》き|出《だ》し、
『ワハヽヽヽ、オホヽヽヽ』
(大正一一・四・三 旧三・七 加藤明子録)
第四篇 |神行霊歩《しんかうれいほ》
第一九章 |第一《だいいち》|天国《てんごく》〔五八六〕
|久方《ひさかた》の|高天原《たかあまはら》の|岩窟《いはやど》も |開《ひら》けてここに|天地《あめつち》の
|百《もも》の|神達《かみたち》|勇《いさ》み|立《た》ち あな|面白《おもしろ》やあなさやけおけ
|天《あま》の|数歌《かずうた》|賑《にぎ》はしく |言葉《ことば》の|花《はな》の|開《ひら》け|口《ぐち》
|常夜《とこよ》の|闇《やみ》は|晴《は》れぬれど まだ|晴《は》れやらぬ|胸《むね》の|内《うち》
|神素盞嗚《かむすさのを》の|大神《おほかみ》は |天地《あめつち》|百《もも》の|神人《しんじん》の
|百千万《ももちよろづ》の|罪咎《つみとが》を |御身《おんみ》|一《ひと》つに|贖《あがな》ひつ
|情《つれ》なき|嵐《あらし》の|吹《ふ》くままに |千座《ちくら》の|置戸《おきど》を|負《お》ひ|給《たま》ひ
|高天原《たかあまはら》を|後《あと》にして |天《あめ》の|真名井《まなゐ》を|打渡《うちわた》り
|唐土山《もろこしやま》や|韓《から》の|原《はら》 |印度《つき》の|国《くに》をば|打過《うちす》ぎて
|秘密《ひみつ》の|国《くに》と|聞《きこ》えたる |高山《かうざん》|四方《よも》に|繞《めぐ》らせる
|由緒《ゆいしよ》も|深《ふか》き|西蔵《チベツト》の |山野《やまの》|村々《むらむら》|悉《ことごと》く
|太《ふと》き|御稜威《みいづ》を|輝《かがや》かし |猶《なほ》も|進《すす》みてフサの|国《くに》
タールの|都《みやこ》を|打過《うちす》ぎて |雲《くも》を|圧《あつ》して|聳《そそ》り|立《た》つ
|百《もも》の|山々《やまやま》|此処彼処《ここかしこ》 ウブスナ|山《やま》の|山脈《さんみやく》に
かかる|手前《てまへ》の|河鹿山《かじかやま》 |世《よ》の|荒風《あらかぜ》に|揉《も》まれつつ
|足《あし》もいそいそ|上《のぼ》りまし ウブスナ|山《やま》の|山《やま》の|上《へ》に
|四方《よも》の|景色《けしき》の|美《うる》はしき |清《きよ》き|所《ところ》を|選《えら》みつつ
|八尋《やひろ》の|殿《との》を|建《た》て|給《たま》ひ |千代《ちよ》の|住家《すみか》と|定《さだ》めつつ
|此《この》|世《よ》を|忍《しの》ぶ|佗住居《わびずまゐ》 |黒雲《くろくも》|四方《よも》に|叢《むら》がりて
|黒白《あやめ》も|分《わ》かぬ|世《よ》の|中《なか》に |神《かみ》の|稜威《みいづ》もいや|高《たか》く
ひそかに|四方《よも》を|照《てら》します その|神徳《しんとく》を|慕《した》ひつつ
|忍《しの》び|忍《しの》びに|遠近《をちこち》の |山《やま》の|尾《を》の|上《へ》や|川《かは》の|瀬《せ》に
|現《あ》れます|正《ただ》しき|神人《しんじん》は |吾《われ》も|吾《われ》もと|争《あらそ》ひつ
|尋《たづ》ね|来《き》ますぞ|尊《たふと》けれ。
|瑞霊《みづのみたま》の|元津祖《もとつおや》、|豊国姫《とよくにひめ》の|神《かみ》の|分霊《わけみたま》、|昔《むかし》は|聖地《せいち》エルサレムに|幸魂《さちみたま》の|神《かみ》として|現《あら》はれ|給《たま》へる|言霊別命《ことたまわけのみこと》は、|国治立《くにはるたち》の|大神《おほかみ》の|御退隠《ごたいいん》に|先立《さきだ》ち、|千座《ちくら》の|置戸《おきど》を|負《お》ひて、|一旦《いつたん》|幽界《かくりよ》に|出《い》でまし|少名彦《すくなひこ》の|神《かみ》と|改《あらた》めて、|常世《とこよ》の|国《くに》を|永久《とこしへ》に|守《まも》り|給《たま》ひけるが、|瑞霊《みづのみたま》の|本津祖《もとつおや》、|神素盞嗚《かむすさのを》の|大神《おほかみ》の、|高天原《たかあまはら》を|退《やら》はれて、|豊葦原《とよあしはら》の|国々《くにぐに》を、|心《こころ》|寂《さび》しき|漂泊《さすらひ》の、|旅路《たびぢ》に|上《のぼ》らせ|給《たま》ひしと、|聞《き》くより|心《こころ》も|安《やす》からず、|再《ふたた》び|此《この》|世《よ》に|現《あら》はれて、|賤《いや》しき|人《ひと》の|腹《はら》を|籍《か》り、|言依別命《ことよりわけのみこと》となり、|森鷹彦《もりたかひこ》の|霊《みたま》の|流裔《ながれ》、|玉彦《たまひこ》を|御伴《みとも》の|神《かみ》と|定《さだ》めつつ、|常世《とこよ》の|国《くに》を|厳彦《いづひこ》や、|世人《よびと》を|救《すく》ふ|楠彦《くすひこ》の、|三人《みたり》の|神《かみ》を|従《したが》へて、|波路《なみぢ》|遥《はる》かに|太平《たいへい》の、|海《うみ》を|渡《わた》りて|月《つき》の|国《くに》、フルの|港《みなと》に|上陸《じやうりく》し、|印度《つき》の|御国《みくに》を|乗《の》り|越《こ》えて、|歩《あゆ》みに|悩《なや》むフサの|国《くに》、タールの|都《みやこ》に|出《い》で|給《たま》ふ。
|吾勝命《あかつのみこと》は、フサの|国《くに》の|首府《しゆふ》タールの|都《みやこ》に、|日《ひ》の|出別神《でわけのかみ》と|現《あら》はれて、|神政《しんせい》を|執《と》り|行《おこな》はせ|給《たま》ひつつありき。|言依別命《ことよりわけのみこと》はタールの|都《みやこ》の|日《ひ》の|出別神《でわけのかみ》に|面会《めんくわい》し、|神素盞嗚《かむすさのを》の|大神《おほかみ》のお|隠宅《かくれが》を|教《をし》へられ、|喜《よろこ》び|勇《いさ》んで、|玉彦《たまひこ》、|厳彦《いづひこ》、|楠彦《くすひこ》と|共《とも》に|駒《こま》に|跨《またが》り、|河鹿峠《かじかたうげ》を|越《こ》えさせ|給《たま》ふ。|意外《いぐわい》の|峻坂《しゆんぱん》|難路《なんろ》に、|流石《さすが》の|駿馬《しゆんめ》も|進《すす》みかね、|幾度《いくたび》となく|駒《こま》の|転倒《てんたう》せむとする|危険《きけん》を|冒《をか》して、|徐々《しづしづ》と|山頂《さんちやう》|目《め》がけて|進《すす》ませ|給《たま》ふ。
この|地《ち》|一帯《いつたい》の|山脈《さんみやく》は、|風《かぜ》|烈《はげ》しく、|寒熱《かんねつ》|不順《ふじゆん》にして、|百《もも》の|草木《さうもく》の|生育《せいいく》|悪《あ》しく、|見渡《みわた》す|限《かぎ》り|屹立《きつりつ》せる|岩山《いはやま》、|禿山《はげやま》、|此処彼処《ここかしこ》に|起伏《きふく》し、|眺望《てうばう》としては|天下《てんか》の|絶景《ぜつけい》なり。
|神素盞嗚《かむすさのを》の|大神《おほかみ》は、ウブスナ|山脈《さんみやく》の|頂上《ちやうじやう》|斎苑《いそ》の|高原《かうげん》に|宮殿《きうでん》を|造《つく》り、|四方《よも》の|神人《しんじん》を|言向和《ことむけやは》し|給《たま》はむと、|千種万様《せんしゆばんやう》に|御姿《みすがた》を|変《へん》じ、|此《この》|宮殿《きうでん》を|本拠《ほんきよ》と|定《さだ》め、|八十猛神《やそたけるのかみ》をして|固《かた》く|守《まも》らしめ、|自《みづか》らは|表面《へうめん》|罪人《ざいにん》の|名《な》を|負《お》ひ|給《たま》ひて、|大八洲国《おほやしまのくに》に|蟠《わだか》まる|大蛇《をろち》、|悪鬼《あくき》、|醜《しこ》の|神々《かみがみ》を|根絶《こんぜつ》せむと|心《こころ》を|砕《くだ》き|身《み》を|苦《くる》しめ、|変幻出没《へんげんしゆつぼつ》|極《きは》まり|無《な》く、|斯《か》くして|御国《みくに》を|守《まも》らせ|玉《たま》ひつつありき。|言依別命《ことよりわけのみこと》は|尊《みこと》に|拝謁《はいえつ》し|大御心《おほみこころ》を|慰《なぐさ》めむと、|尊《みこと》を|思《おも》ふ|真心《まごころ》より|遥々《はるばる》|此処《ここ》に|百千万《ひやくせんまん》の|艱苦《かんく》を|冒《をか》し、|訪《たづ》ね|来《きた》り|給《たま》ひける。|河鹿峠《かじかたうげ》を|乗《の》り|越《こ》えて|再《ふたた》び|平野《へいや》を|渉《わた》り、ウブスナ|山脈《さんみやく》に|掛《かか》るが|順路《じゆんろ》なり。|言依別《ことよりわけ》の|一行《いつかう》は、|板《いた》を|立《た》てたる|如《ごと》き|急坂《きふはん》を|駒《こま》に|跨《またが》り|四人連《よにんづれ》、ハイ、ハイハイと|手綱《たづな》|引締《ひきし》め|下《くだ》らせ|給《たま》ふ|折柄《をりから》に、|俄《にはか》に|吹来《ふきく》るレコード|破《やぶ》りの|山嵐《やまあらし》に|煽《あふ》られて、|馬《うま》|諸共《もろとも》に|河鹿峠《かじかたうげ》の|千仭《せんじん》の|谷間《たにま》に、|脆《もろ》くも|墜落《つゐらく》し|給《たま》ひ、|数多《あまた》の|傷《きず》を|負《お》はせ|給《たま》ひ、|茲《ここ》に|一行《いつかう》|四人連《よにんづれ》、|河鹿峠《かじかたうげ》の|谷底《たにそこ》に、|痛手《いたで》に|悩《なや》み|坤吟《しんぎん》し|給《たま》ふこそ|果敢《はか》なけれ。
|此《この》|谷間《たにま》は|河鹿《かじか》の|名所《めいしよ》なり。|河鹿《かじか》の|声《こゑ》は|遠近《をちこち》に|床《ゆか》しく、|恰《あたか》も|金鈴《きんれい》を|振《ふ》るが|如《ごと》く、|琴《こと》を|弾《だん》ずるが|如《ごと》く、|美妙《びめう》の|音楽《おんがく》を|天人《てんにん》|天女《てんによ》の|来《きた》りて|奏《かな》づるかと|疑《うたが》ふ|許《ばか》りの|雅趣《がしゆ》に|充《み》ち|居《ゐ》るなり。|言依別《ことよりわけ》|一行《いつかう》は|谷水《たにみづ》を|掬《すく》ひ、|河鹿《かじか》の|声《こゑ》を|聞《き》き|乍《なが》ら、|心《こころ》ゆく|迄《まで》|渇《かは》きし|喉《のど》を|癒《い》やさむとガブガブ|嚥下《えんか》し|給《たま》へば、|何時《いつ》とはなしに|玉《たま》の|緒《を》の|行衛《ゆくゑ》は|何処《いづく》と|白浪《しらなみ》の|谷《たに》の|水音《みなおと》|諸共《もろとも》に、|河鹿《かじか》の|声《こゑ》に|送《おく》られて|消《き》え|失《う》せ|給《たま》ふぞ|悲《かな》しけれ。
|夢《ゆめ》とも|分《わ》かず、|現《うつつ》とも|弁《わきま》へ|兼《か》ねし|旅《たび》の|空《そら》、|言依別命《ことよりわけのみこと》の|一行《いつかう》は、|涼《すず》しき|河鹿《かじか》の|声《こゑ》に|送《おく》られて|夢路《ゆめぢ》を|辿《たど》る|心持《こころもち》、|風《かぜ》に|吹《ふ》かるる|木《こ》の|葉《は》の|如《ごと》く、|地《つち》を|離《はな》れて|中空《ちうくう》を|五色《ごしき》の|雲《くも》に|包《つつ》まれつ、|東《ひがし》を|指《さ》して|風《かぜ》のまにまに|出《い》で|給《たま》ふ。
とある|高山《かうざん》の|麓《ふもと》の|風景《ふうけい》|最《もつと》も|佳《よ》き|大河《おほかは》の|辺《ほとり》に、|一行《いつかう》の|姿《すがた》は|何時《いつ》の|間《ま》にか|下《お》ろされ|居《ゐ》たり。
|言依別《ことよりわけ》『オー|玉彦《たまひこ》、|神素盞嗚《かむすさのを》の|大神《おほかみ》の|御舎《みあらか》は、どの|方面《はうめん》に|当《あた》らうかなア。|此処《ここ》は|河鹿峠《かじかたうげ》の|山麓《さんろく》、|河鹿河《かじかがは》の|岸辺《きしべ》と|見《み》える。|暴風《ばうふう》に|吹捲《ふきまく》られ、|吾等《われら》は|脆《もろ》くも|此《この》|山麓《さんろく》に|吹散《ふきち》らされ、|何《なん》となく|一種《いつしゆ》|不可思議《ふかしぎ》な|心持《こころもち》になつて|来《き》たが、|汝等《なんぢら》はどう|考《かんが》へるか』
|玉彦《たまひこ》『|仰《あふせ》の|如《ごと》く|河鹿峠《かじかたうげ》の|烈風《れつぷう》に|煽《あふ》られ、|千尋《ちひろ》の|谷間《たにま》へ|転落《てんらく》せしと|思《おも》ふ|間《ま》もなく、|風《かぜ》に|木《こ》の|葉《は》の|散《ち》る|如《ごと》き|心地《ここち》し、フワリフワリと|魂《たま》は|飛《と》んで|大空《おほぞら》|高《たか》く|東《ひがし》を|指《さ》して|進《すす》み|来《きた》りしよと|見《み》る|間《ま》に、|不思議《ふしぎ》や|吾等《われら》|一行《いつかう》の|身《み》は、|名《な》も|知《し》れぬ|山《やま》の|麓《ふもと》の|風光明媚《ふうくわうめいび》の|河縁《かはべり》に|進《すす》んで|来《き》たのです。|吾々《われわれ》が|熟《つらつ》ら|考《かんが》へまするに、|此処《ここ》は|決《けつ》して|河鹿峠《かじかたうげ》の|谷間《たにま》ではありますまい、|自転倒島《おのころじま》の|中心点《ちうしんてん》の|様《やう》に|思《おも》はれます』
|厳彦《いづひこ》『さうだ、|玉彦《たまひこ》の|言《い》ふ|通《とほ》り|合点《がてん》の|行《ゆ》かぬ|四辺《あたり》の|光景《くわうけい》、|現界《げんかい》とは|様子《やうす》が|大変《たいへん》に|違《ちが》つて|居《ゐ》る|様《やう》だ、|大方《おほかた》|此処《ここ》は|天国《てんごく》ではあるまいかいなア』
|楠彦《くすひこ》『たしかに|天国《てんごく》に|間違《まちがひ》ありませぬ、|迦陵頻迦《かりようびんが》の|数限《かずかぎ》りもなく、アレあの|通《とほり》に|舞狂《まひくる》ふ|有様《ありさま》、|吹《ふ》き|来《く》る|風《かぜ》は|美妙《びめう》の|音楽《おんがく》を|奏《そう》し、|空気《くうき》は|何《なん》となく|香《かん》ばしく|梅花《ばいくわ》の|香《かほ》りを|交《まじ》へ、|見《み》るもの|聞《き》く|物《もの》|一《いつ》として|快感《くわいかん》を|与《あた》へないものは|御座《ござ》いませぬ。……もしもし|言依別命《ことよりわけのみこと》|様《さま》、|御案《おあん》じなさいますな、あなたの|真心《まごころ》を|大神《おほかみ》は|御見《おみ》ぬき|遊《あそ》ばして、|斯《か》かる|天国《てんごく》に|導《みちび》き|下《くだ》さつたのでせう』
と|語《かた》る|折《をり》しも、|天空《てんくう》を|轟《とどろ》かして|一道《いちだう》の|光明《くわうみやう》と|共《とも》に|天《あま》の|磐船《いはふね》に|乗《の》りて|此《この》|場《ば》に|下《くだ》り|来《く》る|神人《しんじん》あり。|天《あま》の|磐船《いはふね》は|静《しづか》に|一行《いつかう》が|前《まへ》に|舞下《まひくだ》りぬ。|金銀珠玉《きんぎんしゆぎよく》、|瑠璃《るり》、|〓〓《しやこ》、|瑪瑙《めなう》、|真珠《しんじゆ》、|珊瑚《さんご》|等《とう》を|以《もつ》て|飾《かざ》られたる|立派《りつぱ》なる|御船《みふね》なりき。|翼《よく》を|見《み》れば|絹《きぬ》でもなければ、|毛《け》でもない、|一種《いつしゆ》|異様《いやう》の|柔《やはら》かき|且《かつ》|強《つよ》き|織物《おりもの》にて|造《つく》られてあり。|手《て》を|伸《の》べて|此《この》|翼《よく》をスウツと|撫《な》でる|刹那《せつな》に、|得《え》も|言《い》はれぬ|美妙《びめう》の|音響《おんきやう》が|発《はつ》するなり。|玉彦《たまひこ》は|右左《みぎひだり》に|翼《よく》に|張《は》り|詰《つ》めたる|織物《おりもの》を|撫《な》で|廻《まは》せば、|精巧《せいかう》なる|蓄音機《ちくおんき》の|円板《ゑんばん》の|如《ごと》く、|種々《しゆじゆ》の|美《うる》はしき|音響《おんきやう》|聞《きこ》え|来《く》る。|此《この》|時《とき》|磐船《いはふね》の|中《なか》より|現《あら》はれ|出《い》でたる|八人《はちにん》の|童子《どうじ》、|頭髪《とうはつ》は|赤《あか》くして|長《なが》く、|肩《かた》のあたりに|小《ちい》さき|翼《つばさ》あり、|歯《は》は|濡烏《ぬれがらす》の|如《ごと》く|黒《くろ》く|染《そ》め、|紅《べに》の|唇《くちびる》、|緑《みどり》|滴《したた》る|眼容《まなざし》、|桃色《ももいろ》の|頬《ほほ》に|無限《むげん》の|笑《ゑみ》を|湛《たた》へ|乍《なが》ら、|五六才《ごろくさい》と|覚《おぼ》しき|童子《どうじ》、|言依別命《ことよりわけのみこと》の|前《まへ》に|現《あら》はれ|来《きた》り、|細《ほそ》き|涼《すず》しき|声《こゑ》にて、
『|貴下《きか》は|瑞霊《みづのみたま》の|分霊《わけみたま》、|常世《とこよ》の|国《くに》に|生《あ》れましし|言依別命《ことよりわけのみこと》にましまさずや、|吾《われ》は|高天原《たかあまはら》より|大神《おほかみ》の|命《めい》を|奉《ほう》じ、お|迎《むか》へに|来《きた》りし|者《もの》、サ、サ、|早《はや》くこの|船《ふね》に|召《め》させ|給《たま》へ』
と|言葉《ことば》を|低《ひく》うし、|礼《れい》を|厚《あつ》くして|述《の》べ|立《た》つるにぞ、|命《みこと》は|何気《なにげ》なく|此《この》|美《うる》はしき|船《ふね》に|心《こころ》を|奪《うば》はれ、ツカツカと|側《そば》に|近付《ちかづ》き|給《たま》ふよと|見《み》る|間《ま》に、|磐船《いはふね》の|傍《かたはら》に|装置《さうち》せる|美《うる》はしき|翼《つばさ》、|命《みこと》の|身体《しんたい》を|包《つつ》みて|御船《みふね》の|中《なか》に|入《い》れ|奉《たてまつ》りけり。|忽《たちま》ち|美妙《びめう》の|音響《おんきやう》|轟《とどろ》き|渡《わた》ると|見《み》る|間《ま》に、|磐船《いはふね》は|地上《ちじやう》を|離《はな》れ、ゆるやかに|円《ゑん》を|描《ゑが》きつつ|空中《くうちう》に|上《のぼ》り|行《ゆ》く。|三人《さんにん》は|突然《とつぜん》の|此《この》|出来事《できごと》に|呆然《ばうぜん》として|空《そら》を|見上《みあ》ぐるのみなりき。|磐船《いはふね》は|空中《くうちう》|高《たか》く|舞上《まひあが》り、|船首《せんしゆ》を|転《てん》じ、|中空《ちうくう》に|帯《おび》の|如《ごと》き|火線《くわせん》を|印《しる》し|乍《なが》ら、|月《つき》の|光《ひかり》を|目当《めあて》に|悠々《いういう》と|進《すす》み、|遂《つひ》には|其《その》|姿《すがた》も|全《まつた》く|目《め》に|止《とま》らずなりにけり。
|玉彦《たまひこ》『|常世《とこよ》の|国《くに》から|遥々《はるばる》と、|塩《しほ》の|八百路《やほぢ》を|渡《わた》り、あらゆる|艱難《かんなん》と|戦《たたか》ひ、|雨風《あめかぜ》に|曝《さら》され、|汗《あせ》と|涙《なみだ》でフサの|都《みやこ》に|到着《たうちやく》し、|日《ひ》の|出別《でわけ》の|神様《かみさま》のお|情《なさけ》|深《ぶか》いお|詞《ことば》に、|旅《たび》の|疲《つか》れもスツカリ|忘《わす》れ|果《は》て、|河鹿峠《かじかたうげ》の|絶頂《ぜつちやう》に|辿《たど》り|着《つ》いて|四方《よも》の|風景《ふうけい》を|眺《なが》めた|時《とき》の|愉快《ゆくわい》さは、|何《なん》ともかとも|譬《たと》へ|方《かた》がなかつた。それより|板壁《いたかべ》の|如《ごと》き|峻坂《しゆんぱん》を|駒《こま》に|跨《またが》つて|下《くだ》つた|時《とき》の|心持《こころもち》は、|全然《まるきり》|地獄道《ぢごくだう》の|一足飛《いつそくとび》でもする|様《やう》な|煩悶《はんもん》と|驚異《きやうい》に|充《み》たされ、|心《こころ》の|中《なか》に|神言《かみごと》を|奏上《そうじやう》し、やがて|慕《した》ひ|奉《まつ》る|神素盞嗚尊《かむすさのをのみこと》|様《さま》に|拝謁《はいえつ》が|得《え》られる|事《こと》だと、|一歩《いつぽ》|一歩《いつぽ》|苦痛《くつう》を|忘《わす》れ|楽《たの》しみ|進《すす》む|折《をり》しも、|俄《にはか》に|吹《ふ》き|来《く》る|山嵐《やまあらし》に|煽《あふ》られ、|身《み》は|千仭《せんじん》の|谷間《たにま》に|落《お》ちて|粉砕《ふんさい》したと|思《おも》へば、|豈《あに》|図《はか》らむや|通力《つうりき》|自在《じざい》の|空中《くうちう》|飛行《ひかう》、|心《こころ》イソイソ|風雲《ふううん》に|任《まか》す|折《をり》しも、|思《おも》ひきや、|斯《か》かる|美《うる》はしき|川《かは》べりに|下《お》ろされた。どう|考《かんが》へても|此処《ここ》は|現界《げんかい》ではあるまい、ヤレ|嬉《うれ》しやと|思《おも》ふ|間《ま》もなく、|力《ちから》に|思《おも》ふ|言依別命《ことよりわけのみこと》は、|神《かみ》の|迎《むか》への|船《ふね》に|乗《の》りて、|中空《ちうくう》|高《たか》く|月《つき》の|御国《みくに》へ|御上《おのぼ》り|遊《あそ》ばした|時《とき》の|嬉《うれ》しき、|悲《かな》しき、|非喜《ひき》|交々《こもごも》|混《まじ》る|吾等《われら》が|胸《むね》の|中《うち》、アヽどうしたら|宜《よ》からうか』
|厳彦《いづひこ》『|何事《なにごと》も|神《かみ》のまにまにお|任《まか》せするより|仕方《しかた》がない、|言依別命《ことよりわけのみこと》|様《さま》は|荘厳《さうごん》|極《きは》まりなき|天国《てんごく》に|上《のぼ》られ、|大神《おほかみ》の|右《みぎ》に|座《ざ》し、|地上《ちじやう》の|経綸《けいりん》を|言問《ことと》はせ|給《たま》ふお|役《やく》と|見《み》える。|吾々《われわれ》は|最早《もはや》|言依別命《ことよりわけのみこと》|様《さま》の|事《こと》は|断念《だんねん》して、|足《あし》の|続《つづ》く|限《かぎ》り|進《すす》まうではないか、ナア|楠彦《くすひこ》サン』
|楠彦《くすひこ》『|左様《さやう》で|御座《ござ》います、それにつけても、|何《なん》とした|気分《きぶん》の|良《よ》い|所《ところ》でせう。|何《なん》だか|気《き》がイソイソとして|腰《こし》を|下《お》ろして|休《やす》む|気《き》にもなりませぬ、サア|早《はや》く|前進《ぜんしん》|致《いた》しませう』
と|先《さき》に|立《た》ちて|歩《あゆ》み|出《だ》した。|浅《あさ》き|広《ひろ》き|大河《おほかは》は|水晶《すゐしやう》の|水《みづ》ゆるやかに|流《なが》れて|居《ゐ》る。|三人《さんにん》は、
『アヽナント|綺麗《きれい》な|水《みづ》だナア、|是《こ》れが|生命《いのち》の|真清水《ましみづ》であらう。……どうでせう、|一杯《いつぱい》|手《て》に|掬《すく》つて|頂《いただ》きませうか。|身体《しんたい》の|各所《かくしよ》に|沢山《たくさん》の、|各自《めいめい》|傷《きず》を|負《お》うて|居《ゐ》ますれば、あの|河中《かはなか》に|浸《ひた》つて|見《み》れば、この|疼痛《いたみ》も|癒《い》えるかも|知《し》れませぬぜ』
と|堤《つつみ》をゆるゆる|下《くだ》り、|真裸《まつぱだか》となつて|河《かは》にザンブと|飛込《とびこ》んだ。|清《きよ》き|流《なが》れの|河水《かはみづ》は、|河底《かはぞこ》の|金銀色《きんぎんしよく》の|砂利《じやり》、|日光《につくわう》に|映《えい》じてきらめき|亘《わた》る|其《その》|美《うる》はしさ、|三人《さんにん》は|河《かは》の|中央《まんなか》にどつかと|坐《すわ》つた。|深《ふか》さは|坐《すわ》つて|乳《ちち》の|辺《あた》りまでよりない。|水《みづ》の|流《なが》れは|緩《ゆる》やかに、|冷《つめた》からず、【ぬる】からず、|水《みづ》は|名香《めいかう》を|薫《くん》ずるが|如《ごと》く、|味《あぢ》は|甘露《かんろ》の|如《ごと》く、|身体《しんたい》の|傷《きず》は|忽《たちま》ち|癒《い》えて、|肌《はだ》は|紫摩黄金《しまわうごん》の|色《いろ》と|変《へん》じ、|荒《あら》くれ|男《をとこ》の|肉体《にくたい》は|淡雪《あはゆき》の|如《ごと》く|柔《やはら》かく、|光《ひかり》を|放《はな》つに|至《いた》つた。|三人《さんにん》は|暫《しばら》くにして|此《この》|川《かは》を|上《あが》り、|衣服《いふく》を|着替《きか》へむとした。|不思議《ふしぎ》や|三人《さんにん》の|衣服《いふく》は|得《え》も|言《い》はれぬ|鮮花色《せんくわしよく》に|変《へん》じて|居《ゐ》る。
|玉彦《たまひこ》『ヤア|何時《いつ》の|間《ま》にか|吾輩《わがはい》の|御着衣《ごちやくい》を|失敬《しつけい》しよつたな』
と|其処《そこ》をウロウロと|探《さが》して|居《ゐ》る。
|楠彦《くすひこ》『オー|此処《ここ》に|綺麗《きれい》な|衣服《いふく》が|脱《ぬ》いである。|恰度《ちやうど》|三組《みくみ》だ、これを|着服《ちやくふく》したらどうだらうなア』
|厳彦《いづひこ》『ヤア|止《お》け|止《お》け、|是《こ》れは|天人《てんにん》の|羽衣《はごろも》だ。ウツカリコンナ|物《もの》を|着《き》やうものなら、それこそ|折角《せつかく》の|天国《てんごく》へ|来《き》た|喜悦《よろこび》は|忽《たちま》ち|変《へん》じて|地獄道《ぢごくだう》の|苦《くるし》みに|早替《はやがは》りするかも|知《し》れない、……エ|何事《なにごと》も|惟神《かむながら》に|任《まか》せて|裸《はだか》のまま|進《すす》む|事《こと》にせう。|風《かぜ》|暖《あたた》かく、|肌具合《はだぐあひ》は|良《よ》し、|此《この》|儘《まま》に|進《すす》まうではないか』
|玉彦《たまひこ》『ヨー|此《この》|着物《きもの》には、|何《なん》だか|印《しるし》が|附《つ》いて|居《ゐ》るぞ』
と|手《て》に|取上《とりあ》げ|眺《なが》むれば、|玉彦《たまひこ》の|衣《ころも》と|印《しるし》してある。
|玉彦《たまひこ》『ヤア|此《こ》れは|妙《めう》だ、|何時《いつ》の|間《ま》にか、|吾輩《わがはい》の|汗《あせ》に|滲《にじ》んだ|衣裳《いしやう》と、コンナ|新《あたら》しい|美《うる》はしい|衣裳《いしやう》と|交換《かうくわん》した|奴《やつ》があると|見《み》えるワイ、……ヨウヨウ|是《こ》れには、|楠彦《くすひこ》、|厳彦《いづひこ》と|印《しるし》してある、……|吁《あゝ》、|天国《てんごく》の|泥棒《どろばう》は|変《かは》つた|者《もの》だなア、サツパリ|娑婆《しやば》とは|逆様《さかさま》だ。|娑婆《しやば》に|居《ゐ》る|時《とき》には、|自分《じぶん》の|履《は》き|古《ふる》した|足駄《あしだ》と|他人《ひと》の|新《あたら》しい|足駄《あしだ》と、|黙《だま》つて|交換《かうくわん》する|奴《やつ》|許《ばか》りだが、|天国《てんごく》は|又《また》|趣《おもむき》が|違《ちが》うワイ』
|厳彦《いづひこ》『そら、そうだらうよ、|天国《てんごく》にはコンナ|汚《きたな》い|物《もの》は|珍《めづ》らしいから、|高天原《たかあまはら》の|徴古館《ちようこくわん》へでも|飾《かざ》る|積《つも》りで、|吾々《われわれ》が|河中《かちう》に|現《うつつ》をぬかしてる|間《ま》に、|泥棒《どろばう》が|取《と》つ|換《か》へこを|仕《し》よつたのだらう、|本当《ほんたう》に|油断《ゆだん》のならぬ|世《よ》の|中《なか》だ。|天国《てんごく》へ|来《き》てもやつぱり|元《もと》は|人間《にんげん》の|霊《れい》が|来《く》るのだから、|泥棒《どろばう》|根性《こんじやう》は|失《う》せぬと|見《み》えるワイ、アハヽヽヽ』
|楠彦《くすひこ》『ヤアナント|軽《かる》い|着物《きもの》だナア、|此《こ》れを|着《き》ると、|体《からだ》も|軽《かる》くなつて、|天《てん》へでも|自然《しぜん》に|舞上《まひあが》りさうだ。|身軽《みがる》になつたのは、|気分《きぶん》の|好《よ》いものだなア』
|玉彦《たまひこ》『|定《き》まつた|事《こと》だよ、|幽霊《いうれい》の|体《からだ》は|軽《かる》いものだ。|此《この》|美《うる》はしい|着物《きもの》を|着《き》たが|最後《さいご》、|現世《うつしよ》の|衣《きぬ》を|脱《ぬ》いで、|神界《しんかい》の|羽衣《はごろも》と|着替《きか》へたのだから、|再《ふたた》び|恋《こひ》しき|娑婆《しやば》へ|帰《かへ》れない|事《こと》は|請合《うけあひ》だ』
|厳彦《いづひこ》『|娑婆《しやば》だつて、|神界《しんかい》だつて|構《かま》はぬぢやないか、|兎《と》も|角《かく》、|神様《かみさま》の|為《ため》に|働《はたら》ける|丈《だけ》|働《はたら》けば、|吾々《われわれ》は|人生《じんせい》の|本分《ほんぶん》が|尽《つく》せるのだ。サアサア|行《ゆ》かう、……ヤア|体《からだ》も|足《あし》も|滅法界《めつぽふかい》に|軽《かる》くなつた。アア|気分《きぶん》も|何《なん》となく、|爽々《さやさや》として|来《き》た。|神言《かみごと》を|奏上《そうじやう》し|乍《なが》ら、|往《ゆ》く|所《とこ》まで|行《ゆ》かうかい』
と|厳彦《いづひこ》は|先《さき》に|立《た》つて|進《すす》み|出《だ》した。|前方《ぜんぱう》より|頭髪《とうはつ》|漆《うるし》の|如《ごと》く|黒《くろ》く、|光沢《くわうたく》|豊《ゆたか》に、|身《み》の|丈《たけ》は|六尺《ろくしやく》|許《ばか》り|眉目清秀《びもくせいしう》の|一《いち》|神人《しんじん》、|数多《あまた》の|美《うる》はしき|鳥《とり》を|数百羽《すうひやくぱ》|引《ひ》きつれ、|金《きん》の|杖《つゑ》を|持《も》つて|指揮《しき》し|乍《なが》ら|此方《こなた》に|向《むか》つて|進《すす》み|来《く》る。
|玉彦《たまひこ》『ヤ、|何《な》ンと|綺麗《きれい》な|鳥《とり》が|居《を》るではないか、|到底《たうてい》|現界《げんかい》では、|見《み》られない、|美《うる》はしいものだ』
かく|言《い》ふ|中《うち》、|件《くだん》の|男《をとこ》は|一足《ひとあし》|一足《ひとあし》|近付《ちかづ》き、|三人《さんにん》を|見《み》て、
『ヤアあなたは|高天原《たかあまはら》へ|御参詣《ごさんけい》ですか』
と|笑顔《ゑがほ》を|以《もつ》て、|言葉《ことば》|優《やさ》しく|問《と》ひかけた。
|三人《さんにん》は|声《こゑ》を|揃《そろ》へて、
『ハイ、|不思議《ふしぎ》の|事《こと》で、|吾々《われわれ》は|斯様《こん》な|立派《りつぱ》な|国《くに》へ|思《おも》はず|参《まゐ》りました。|高天原《たかあまはら》は|何方《どちら》を|指《さ》して|行《ゆ》けば|宜《よろ》しいでせうか』
|男《をとこ》『マア|急《いそ》ぐ|旅《たび》でもなし、この|美《うる》はしい|草《くさ》の|上《うへ》で、|皆《みな》サンゆつくりと|休息《きうそく》を|致《いた》しませうか、|吾々《われわれ》は|言依別《ことよりわけ》の|命様《みことさま》の|命《めい》に|依《よ》り、あなた|方《がた》|三人《さんにん》の|方《かた》をお|迎《むか》へに|参《まゐ》りました』
|玉彦《たまひこ》『エー、ナント|仰有《おつしや》います、|言依別命《ことよりわけのみこと》|様《さま》は、|最早《もはや》|高天原《たかあまはら》へお|着《つ》きになりましたか、それやマアどうした|事《こと》で、そう|早《はや》くお|着《つ》きになつたでせう……ハテ……|合点《がてん》の|行《ゆ》かぬ|事《こと》だワイ』
|男《をとこ》『|神界《しんかい》には|時間《じかん》|空間《くうかん》は|有《あ》りませぬ、|仮令《たとへ》|幾億万里《いくおくまんり》と|雖《いへど》も、|一息《ひといき》の|間《うち》に|往復《わうふく》が|出来《でき》ます、それが|即《すなは》ち|神界《しんかい》の|特長《とくちやう》で|御座《ござ》いませう。アハヽヽヽ』
|茲《ここ》に|四人《よにん》は|美《うる》はしき|花毛氈《はなまうせん》を|敷《し》き|詰《つ》めた|様《やう》な|河辺《かはべり》の|芝生《しばふ》に|腰《こし》うち|掛《か》け、|脚《あし》を|伸《の》ばして|種々《いろいろ》の|話《はなし》に|耽《ふけ》るのであつた。|風《かぜ》は|音調《おんてう》|淑《しと》やかなる|笛《ふえ》を|吹《ふ》いて、|河《かは》の|面《おも》をよぎつて|居《ゐ》る。|魚鱗《ぎよりん》の|波《なみ》は|金色《こんじき》の|光《ひかり》を|放《はな》ち、|風《かぜ》に|連《つ》れて|河下《かはしも》より|河上《かはかみ》に|流《なが》れ|行《ゆ》く|様《やう》に|見《み》えて|居《ゐ》る。|数多《あまた》の|美《うる》はしき|鳥《とり》を|熟視《じゆくし》すれば、|人《ひと》の|顔《かほ》に|翼《つばさ》の|生《は》えた【かつかう】|鳥《どり》の|様《やう》なものばかり、|妙《めう》な|声《こゑ》を|出《だ》して|呟《つぶや》き|出《だ》した。
|厳彦《いづひこ》『モシモシ|神界《しんかい》と|云《い》ふ|所《ところ》は、|総《すべて》の|物《もの》が|変《かは》つて|居《ゐ》ますな、|此《この》|鳥《とり》は|又《また》|何《なん》として|人間《にんげん》に|似《に》て|居《ゐ》るのでせうか』
|男《をとこ》『イヤ|是《こ》れは|人鳥《にんてう》と|言《い》ひます、|高天原《たかあまはら》の|玩弄物《おもちや》になつたり、|或《あるひ》はお|使《つかひ》をするものですが、もとはヤハリ|現界《げんかい》に|居《を》つて、|高《たか》い|所《ところ》へ|上《あが》つて|訳《わけ》の|分《わか》らぬことを|囀《さへづ》り、バカセだとか、|何《なん》とか|云《い》ふ|保護色《ほごしよく》や、|長《なが》い|嘴《くちばし》を|使《つか》つて|人間《にんげん》の|頭《あたま》をこついた|報《むく》いで、コンナ|者《もの》に|変化《へんくわ》して|了《しま》つたのですよ、|今年《こんねん》も|殆《ほとん》ど|三千八百羽《さんぜんはつぴやくぱ》|幽界《いうかい》から|輸入《ゆにふ》して|来《き》ました。みな|言語《げんご》は|明瞭《めいれう》ではありませぬが、|各自《めいめい》に|小賢《こざか》しい|事《こと》を|喋《しやべ》る|怪鳥《くわいてう》ですよ』
|厳彦《いづひこ》『そうすると|是《こ》れは|神界《しんかい》、|天国《てんごく》の|産物《さんぶつ》ではありませぬか』
|男《をとこ》『|無論《むろん》の|事《こと》、コンナ|畸形児的《きけいじてき》|鳥類《てうるゐ》は、|神界《しんかい》には|一羽《いちは》も|有《あ》りませぬ。|此《こ》れは|要《えう》するに|閻魔《えんま》の|庁《ちやう》より、|高天原《たかあまはら》には|珍《めづ》らしいと|云《い》つて、|神界《しんかい》のお|慰《なぐさ》みの|為《ため》に、|輸入《ゆにふ》されたものです、|言《い》はば、|舶来《はくらい》ですな。アハヽヽヽ』
|厳彦《いづひこ》『|兎《と》も|角《かく》も|妙《めう》なものだ、|此奴等《こいつら》は|娑婆《しやば》に|居《を》る|時《とき》には、|自由《じいう》|恋愛《れんあい》だとか、|共和《きようわ》だとか、|民衆《みんしう》だとか|何《なん》とか|言《い》つて、|沢山《たくさん》な|娑婆《しやば》の|亡者《まうじや》を|煽動《せんどう》した|何々長《なになにちやう》とか|云《い》ふ|怪鳥《くわいてう》でせう。|併《しか》し|此《この》|綺麗《きれい》な|天国《てんごく》|浄土《じやうど》に|糞《ふん》をひりさがされては、|又《また》もや|娑婆《しやば》の|様《やう》になりはしますまいかなア』
|男《をとこ》『イヤ|大丈夫《だいぢやうぶ》です、|此奴《こいつ》の|尻《しり》は|最早《もはや》|糞詰《ふんづま》りですから……|娑婆《しやば》に|居《を》る|時《とき》には、|何事《なにごと》も|知《し》つて|知《し》つて|尻《しり》|抜《ぬ》いた|様《やう》な|事《こと》を|言《い》つて、|長《なが》い|嘴《くちばし》を|振《ふ》りまはし、|囀《さへづ》つては|喰《く》つて|居《ゐ》ましたが、モウ|娑婆《しやば》でも|此《この》|嘴《くちばし》が|間《ま》に|合《あ》はなくなつて|口《くち》は|詰《つま》り、|尻《しり》は|塞《ふさ》がり、|行詰《ゆきつま》りの|悲境《ひきやう》に|陥《おちい》つてる|代物《しろもの》です。|娑婆《しやば》でもあまり|喰《く》へないので、|糞《ふん》をこく|種《たね》もなし、|清潔《きれい》なものですよ』
|厳彦《いづひこ》『ソンナ|話《はなし》を|聞《き》くと、|吾々《われわれ》も|生物識《なまものしり》の|聞噛《ききか》じり|学問《がくもん》をやつて|来《き》たが、コンナ|事《こと》になると|思《おも》へば、ガツクリして|胸《むね》も|学々《がくがく》|致《いた》しますワ、アハヽヽヽ』
|玉彦《たまひこ》『|一寸《ちよつと》|此《この》|鳥《とり》に|物言《ものい》はして|見《み》て|下《くだ》さいな』
|男《をとこ》『ナンダか|言語《げんご》が|通《つう》じ|難《がた》いから、|聞取《ききと》れますまい、|此奴《こいつ》は|金鳥《きんてう》と|云《い》ひ、|此奴《こいつ》は|銀鳥《ぎんてう》と|云《い》ひます。|娑婆《しやば》で、|椅子《いす》とか|云《い》ふ|木《き》に|巣《す》を|作《つく》り、|月給々々《げつきふげつきふ》と|鳴《な》いたり、ホーホー|俸給々々《ほうきふほうきふ》と|囀《さへづ》つて|居《を》つた|鳥《とり》ださうです。|此《この》|天国《てんごく》へ|輸入《ゆにふ》されてからと|云《い》ふものは、|何《なん》だか|鼠《ねずみ》の|病人《びやうにん》の|様《やう》にキウ|窮《きう》と|囀《さへづ》つて|居《ゐ》ます』
|数多《あまた》の|人鳥《にんてう》は、キウ|窮《きう》、クウ|苦々《くく》と|鳴《な》き|乍《なが》ら、|家鴨《あひる》の|様《やう》に|河《かは》にバサバサと|飛《と》び|込《こ》み|心地《ここち》よげに【かいつぶり】の|真似《まね》をして、|浮《う》きつ|沈《しづ》みつ|戯《たはむ》れて|居《ゐ》る。
|楠彦《くすひこ》『ナント|天国《てんごく》も|変《かは》つたものですな、|迦陵頻迦《かりようびんが》の|名鳥《めいてう》が|沢山《たくさん》|居《ゐ》ると|聞《き》きましたが、|其《その》|様《やう》な|鳥《とり》は|余《あま》り|見当《みあた》らないぢやありませぬか』
|男《をとこ》『|其《その》|鳥《とり》は|高天原《たかあまはら》を|中心《ちうしん》として、|十里《じふり》|四方《しはう》の|区域《くゐき》に|限《かぎ》つて|住《す》んで|居《ゐ》ます。|此《この》|辺《へん》は|要《えう》するに|準天国《じゆんてんごく》と|云《い》つても|宜《よ》い|様《やう》な|所《ところ》ですよ、まだまだ|此《この》|先《さき》へお|進《すす》みになれば、|立派《りつぱ》な|所《ところ》があります。……|私《わたくし》はウツカリとネームを|申上《まをしあ》げるのを|忘《わす》れて|居《ゐ》ましたが、|実《じつ》は|高天原《たかあまはら》の|使《つかひ》|松彦《まつひこ》と|申《まを》す|者《もの》、|昔《むかし》はヱルサレムに|於《おい》て、|言霊別命《ことたまわけのみこと》にお|仕《つか》へ|致《いた》した|事《こと》のある|言代別《ことしろわけ》で|御座《ござ》います』
|楠彦《くすひこ》『ヤア|昔語《むかしがたり》に|聞《き》いて|居《を》つた|言代別《ことしろわけ》はあなたの|事《こと》ですか、ヤアこれはこれは|妙《めう》な|所《ところ》でお|目《め》に|掛《か》かりました』
|松彦《まつひこ》『|然《しか》らば|御案内《ごあんない》|致《いた》しませう』
と|先《さき》に|立《た》つて|行《ゆ》かむとする。
|玉彦《たまひこ》『もしもし|松彦《まつひこ》|様《さま》、あの|沢山《たくさん》な|鳥《とり》は、|連《つ》れてお|帰《かへ》りになりませぬか』
|松彦《まつひこ》『|折角《せつかく》|閻魔《えんま》の|庁《ちやう》より|輸入《ゆにふ》されたものですが、|十里《じふり》|四方《しはう》の|内《うち》には|置《お》く|事《こと》が|出来《でき》ないと|大神様《おほかみさま》の|厳命《げんめい》に|依《よ》りて、|十里《じふり》|圏外《けんぐわい》に|送《おく》り|出《だ》して|来《き》ました。……あの|様《やう》な|鳥族《てうぞく》には|少《すこ》しも|執着心《しふちやくしん》はありませぬ、どうなつと|勝手《かつて》に|方針《はうしん》を|立《た》てるでせう』
と|足《あし》をはづませ、|飛鳥《ひてう》の|如《ごと》くに|進《すす》み|行《ゆ》く。|三人《さんにん》も|何《なん》となく|足許《あしもと》|軽《かる》く、|飛《と》び|立《た》つ|如《ごと》くに|追跡《つゐせき》する。|一時《ひととき》|許《ばか》り|歩《ある》いたと|思《おも》ふ|頃《ころ》、ピタリと|岸壁《がんぺき》に|行当《ゆきあた》つた。|此《この》|岩《いは》は|鏡《かがみ》の|岩《いは》と|云《い》つて、|浄玻璃《じやうはり》の|鏡《かがみ》の|如《ごと》くに|光《ひか》り|輝《かがや》き、|日光《につくわう》|鏡面《きやうめん》に|映《えい》じて、|得《え》も|云《い》はれぬ|美《うる》はしさ、|一行《いつかう》の|姿《すがた》は|鏡《かがみ》に|隈《くま》なく|映《うつ》つた。|見《み》れば|自分《じぶん》の|背後《うしろ》に|五色《ごしき》の|霊衣《れいい》|現《あら》はれ、|優美《いうび》にして、|気品《きひん》|高《たか》き|女神《めがみ》が|現《あら》はれて|居《ゐ》る。|三人《さんにん》は|思《おも》はず|合掌《がつしやう》した。
|松彦《まつひこ》『|此処《ここ》が|鏡《かがみ》の|岩《いは》です。|大抵《たいてい》の|者《もの》は|此処《ここ》へ|来《きた》りて、|後《あと》へ|引返《ひきかへ》す|者《もの》が|多《おほ》いですよ。|天国《てんごく》にも|上中下《じやうちうげ》と|三段《さんだん》の|区劃《くくわく》があります。|此《この》|鏡《かがみ》を|無事《ぶじ》に|通過《つうくわ》すれば、|最上《さいじやう》の|天国《てんごく》です。|此《この》|鏡《かがみ》さへ|突破《とつぱ》すれば、モウ|占《し》めたものです』
|玉彦《たまひこ》『アー、それは|有難《ありがた》う|御座《ござ》いました。|併《しか》し|乍《なが》ら|吾々《われわれ》は、|第二《だいに》の|天国《てんごく》を|何時《いつ》の|間《ま》に|通過《つうくわ》したのですか、まさか|途中《とちう》で|天国《てんごく》の|移転《いてん》と|云《い》ふ|様《やう》な|事《こと》もありますまいが……』
|松彦《まつひこ》『あなた|方《がた》は、|言依別命《ことよりわけのみこと》|様《さま》のお|蔭《かげ》に|依《よ》りて、|第三《だいさん》の|天国《てんごく》は|抜《ぬ》きにし、|第二《だいに》の|天国《てんごく》へ|直接《ちよくせつ》お|下《お》りになつたのです。|夫《そ》れも|第二《だいに》|天国《てんごく》の|殆《ほとん》ど|終点《しうてん》ですから、|大《たい》したものですお|喜《よろこ》びなさいませ』
|三人《さんにん》『|身分《みぶん》に|過《す》ぎたる|有難《ありがた》き|神様《かみさま》の|御待遇《ごたいぐう》、|恐縮《きようしゆく》の|至《いた》りだ、………|此《この》|鏡岩《かがみいは》をどうして|突破《とつぱ》すれば|可《い》いでせうか』
|松彦《まつひこ》『|是《これ》より|以内《いない》は|宮《みや》の|内《うち》、|此《この》|鏡岩《かがみいは》は|外囲《そとがこひ》です、これを|突破《とつぱ》しなくては、|最上《さいじやう》|天国《てんごく》へ|進《すす》む|事《こと》は|出来《でき》ませぬ。|神界《しんかい》に|於《おい》ても、|斯《こ》う|云《い》ふ|一《ひと》つの|苦《くる》しみがありますワイ。|吾々《われわれ》は|幾度《いくたび》も|此処《ここ》を|往復《わうふく》|致《いた》して|居《を》りますから、|勝手《かつて》も|分《わか》つて|居《を》りますが、あなた|方《がた》は|始《はじ》めての|事《こと》|各自《めいめい》に|心《こころ》をお|開《ひら》きになれば、|自然《しぜん》に|此《この》|鏡岩《かがみいは》の|通過《つうくわ》が|叶《かな》ひます。|神界《しんかい》の|厳《きび》しき|警告《いましめ》に|依《よ》りて、|此《この》|事《こと》ばかりは|御教《おをし》へ|申《まを》す|事《こと》は|出来《でき》ませぬ、|是《こ》れが|神界《しんかい》の|関門《くわんもん》、|霊《みたま》の|試金石《しきんせき》ですよ』
|三人《さんにん》は、
『ハテナア』
と|双手《もろて》を|組《く》み、|首《くび》を|項低《うなだれ》る。
(大正一一・四・四 旧三・八 松村真澄録)
第二〇章 |五十世紀《ごじつせいき》〔五八七〕
|松彦《まつひこ》の|天使《てんし》に|伴《ともな》はれた|一行《いつかう》|三人《さんにん》は、|鏡《かがみ》の|岩《いは》にピタリと|行当《ゆきあた》り、|如何《いか》にして|此《この》|関所《せきしよ》を|突破《とつぱ》せむかと|首《くび》を|傾《かたむ》けて、|胸《むね》に|問《と》ひ|心《こころ》に|掛《か》け、|首《くび》を|上下左右《じやうげさいう》に|静《しづ》かに|振《ふ》り|乍《なが》ら、やや|当惑《たうわく》の|体《てい》にて|幾何《いくばく》かの|時間《じかん》を|費《つひ》やしゐたり。
|玉彦《たまひこ》『|吾々《われわれ》は|現界《げんかい》に|於《おい》ても、|心《こころ》の|鏡《かがみ》が|曇《くも》つてゐる|為《ため》に、|万事《ばんじ》に|付《つ》け|往《ゆ》き|当《あた》り|勝《が》ちだ、|神界《しんかい》へ|来《き》ても|矢張《やつぱり》|往《ゆ》き|当《あた》る|身魂《みたま》の|性来《しやうらい》と|見《み》える|哩《わい》。アヽ、どうしたら|宜《よ》からうな。|見《み》す|見《み》す|引返《ひきかへ》す|訳《わけ》にも|往《ゆ》かず、|何《なん》とか|本守護神《ほんしゆごじん》も|好《よ》い|智慧《ちゑ》を|出《だ》して|呉《く》れさうなものだなア』
|松彦《まつひこ》『|貴方《あなた》はそれだから|不可《いかん》ないのですよ。|自分《じぶん》の|垢《あか》を|本守護神《ほんしゆごじん》に|塗付《ぬりつ》けるといふ|事《こと》がありますか』
|玉彦《たまひこ》『|吾々《われわれ》は|常《つね》に|聞《き》いて|居《を》ります。|本守護神《ほんしゆごじん》が|善《ぜん》であれば、|肉体《にくたい》もそれに|連《つ》れて|感化《かんくわ》され、|霊肉《れいにく》|共《とも》に|清浄《せいじやう》|潔白《けつぱく》になり|天国《てんごく》に|救《すく》はれると|云《い》ふ|事《こと》を|固《かた》く|信《しん》じてゐました。|斯《こ》う|九分九厘《くぶくりん》で|最上《さいじやう》|天国《てんごく》に|行《ゆ》けぬと|云《い》ふことは|吾々《われわれ》の|本守護神《ほんしゆごじん》もどうやら|怪《あや》しいものだ。コラコラ|本守護神《ほんしゆごじん》、|臍下丹田《さいかたんでん》から|出《で》て|来《き》て、|此《こ》の|肉《にく》の|宮《みや》を|何故《なぜ》|保護《ほご》をせないのか、それでは|本守護神《ほんしゆごじん》の|職責《しよくせき》が|尽《つく》せぬでは|無《な》いか。|肉体《にくたい》|天国《てんごく》へ|行《ゆ》けば|本守護神《ほんしゆごじん》もが|行《ゆ》ける|道理《だうり》だ。|別《べつ》に|玉彦《たまひこ》の|徳《とく》|許《ばか》りでない、|矢張《やつぱり》|本守護神《ほんしゆごじん》の|徳《とく》にもなるのだ。|何《なに》をグヅグヅして|居《を》るのかい』
と|握《にぎ》り|拳《こぶし》を|固《かた》めて|臍《へそ》の|辺《あたり》をポンポン|叩《たた》く。
|松彦《まつひこ》『アハヽヽヽ、|面白《おもしろ》い|面白《おもしろ》い』
|玉彦《たまひこ》『|之《これ》は|怪《け》しからぬ、|千思《せんし》|万慮《ばんりよ》を|尽《つく》し、|如何《いか》にして|此《この》|鉄壁《てつぺき》を|通過《つうくわ》せむかと|思案《しあん》にくるるのを|見《み》て、|可笑《おか》しさうに|吾々《われわれ》を|嘲笑《てうせう》なさるのか、|貴方《あなた》も|余程《よつぽど》|吝《けち》な|守護神《しゆごじん》が|伏在《ふくざい》して|居《ゐ》ますな』
|松彦《まつひこ》『|天国《てんごく》には|恨《うら》みも|無《な》ければ|悲《かな》しみも|無《な》い。|亦《また》|嘲《あざけ》りもありませぬ。|私《わたくし》の|笑《わら》つたのは|貴方《あなた》の|守護神《しゆごじん》が|私《わたくし》の|体《たい》を|籍《か》つて|言《い》はれたのですよ』
|玉彦《たまひこ》『さう|聞《き》けば、さうかも|知《し》れませぬな。これこれ|厳彦《いづひこ》サン、|楠彦《くすひこ》サン、|貴方《あなた》がたの|本守護神《ほんしゆごじん》は|何《なん》と|仰有《おつしや》いますかな』
|楠《くす》、|厳《いづ》『アア|未《いま》だに|何《なん》とも|御宣示《ごせんじ》がありませぬ。|茲《ここ》|暫《しば》らく|御沈黙《ごちんもく》の|為体《ていたらく》と|見《み》えます|哩《わい》。|斯《こ》うなると|実《じつ》に|恥《はづか》しいものだ。|吾々《われわれ》の|背後《はいご》には|立派《りつぱ》な|女神《めがみ》の|守護神《しゆごじん》が|鏡《かがみ》に|写《うつ》るのが|見《み》える、|有難《ありがた》い、|吾々《われわれ》は|何《なん》と|云《い》つても|矢張《やつぱり》|身魂《みたま》が|立派《りつぱ》だから、|守護神《しゆごじん》もあの|通《とほ》り|立派《りつぱ》なと|思《おも》う|刹那《せつな》、パツと|消《き》えて|了《しま》つて|後《あと》には|霊衣《れいい》さへ|見《み》えなくなつて|了《しま》つた。アヽ|心《こころ》の|油断《ゆだん》といふものは|恐《おそ》ろしいものだナア』
|松彦《まつひこ》『|貴方《あなた》がたは|何《なに》か|一《ひと》つ|落《おと》して|来《き》たものはありませぬか』
『|最早《もはや》|娑婆《しやば》の|執着心《しふちやくしん》を|捨《す》てた|以上《いじやう》は、|落《おと》すも|落《おと》さぬもありませぬワ。|強《た》つて|落《おと》したと|云《い》へば|執着心《しふちやくしん》|位《くらゐ》のものでせうよ』
|松彦《まつひこ》『イーエ、ソンナものぢやありませぬ。|貴方《あなた》がたに|取《と》つて、|高天原《たかあまはら》の|関門《くわんもん》を|通過《つうくわ》すれば|容易《ようい》に|通過《つうくわ》が|出来《でき》ます』
|玉彦《たまひこ》『コレコレ|楠《くす》サン、|厳《いづ》サン、お|前《まへ》たち|何《なに》か|落《おと》した|物《もの》が|思《おも》ひ|出《だ》せないか』
|厳彦《いづひこ》『オー|思《おも》ひ|出《だ》した。|河鹿峠《かじかたうげ》を|下《くだ》る|時《とき》に、|大切《たいせつ》な|馬《うま》|一匹《いつぴき》と|自分《じぶん》の|肉体《にくたい》を|一《ひと》つ|落《おと》して|来《き》た|様《やう》に|記憶《きおく》が|浮《うか》んで|来《く》る。|落《おと》したと|云《い》つたら、マアソンナ|物《もの》だらう。もしもし|松彦《まつひこ》サン、|馬《うま》の|死骸《しがい》や|人間《にんげん》の|死骸《しがい》を|拾《ひろ》つて|来《こ》なくては|此処《ここ》が|通過《つうくわ》|出来《でき》ないのですか』
|松彦《まつひこ》『さうです。|馬《うま》の|死骸《しがい》と|人間《にんげん》の|死骸《しがい》を|拾《ひろ》つて|来《き》なさい。さうすれば|容易《ようい》に|通過《つうくわ》が|出来《でき》ませう』
|玉彦《たまひこ》『|一寸《ちよつと》|待《ま》つて|下《くだ》さい。|貴方《あなた》の|仰有《おつしや》る|事《こと》は|少《すこ》し|脱線《だつせん》ぢやありますまいか。|斯《かく》の|如《ごと》き|四面玲瓏《しめんれいろう》たる|天国《てんごく》に|左様《さやう》な|穢苦《むさくる》しい|死骸《しがい》を|持《も》つて|来《き》てどうして|関門《くわんもん》が|通過《つうくわ》|出来《でき》ませうか。|清《きよ》きが|上《うへ》にも|清《きよ》き|天国《てんごく》に、|死《し》んだ|馬《うま》を|引《ひき》ずつて|来《き》た|処《ところ》で|乗《の》る|訳《わけ》にも|往《ゆ》かず、|一足《ひとあし》も|歩《ある》く|訳《わけ》にも|往《ゆ》くまいし、ハテ|訳《わけ》の|分《わか》らぬ|事《こと》を|仰有《おつしや》ります|哩《わい》』
|松彦《まつひこ》『サア|其《その》|落《おと》した|馬《うま》と|人間《にんげん》の|死骸《しがい》を|生《い》かしさへすれば、|立派《りつぱ》に|通過《つうくわ》が|出来《でき》るのだ。マア|一寸《ちよつと》|本守護神《ほんしゆごじん》と|篤《とつく》り|御相談《ごさうだん》をなさいませ。|私《わたくし》はそれまで|此処《ここ》に|待《ま》つて|居《ゐ》ます』
|玉彦《たまひこ》『ヤア|御忙《おいそが》しいのに|済《す》みませぬな』
|厳彦《いづひこ》(|横手《よこて》を|打《う》ち)『ヤア|分《わか》つた|分《わか》つた、|本守護神《ほんしゆごじん》の|囁《ささや》きに|依《よ》つて、|一切《いつさい》|万事《ばんじ》|解決《かいけつ》が|着《つ》いた。|馬《うま》を|落《おと》したと|云《い》ふ|事《こと》は、|心《こころ》の|駒《こま》の|手綱《たづな》が|緩《ゆる》んで|何処《どこ》かへ|逸走《いつそう》して|了《しま》つたと|云《い》ふ|事《こと》だつた。|死骸《しがい》を|落《おと》したと|云《い》ふ|事《こと》は|吾々《われわれ》の|身魂《みたま》が|天国《てんごく》の|美《うる》はしき|光景《くわうけい》に|憧憬《あこが》れ|魂《たましひ》を|宙《ちう》に|飛《と》ばして|了《しま》つたといふ|謎《なぞ》であつた。さうして|最《もつと》も|一《ひと》つ|大事《だいじ》なのは、|神界《しんかい》|旅行《りよかう》に|必要《ひつえう》なる|天津祝詞《あまつのりと》の|奏上《そうじやう》や|神言《かみごと》の|合奏《がつそう》であつた。|箕売《みうり》が|笠《かさ》で【ひる】とは|此《この》|事《こと》だ。|現界《げんかい》に|居《ゐ》る|時《とき》は|一生懸命《いつしやうけんめい》に、|宣伝歌《せんでんか》を|称《とな》へ、|天津祝詞《あまつのりと》の|言霊《ことたま》を|朝夕《あさゆふ》|奏上《そうじやう》したものだ。|其《その》|言霊《ことたま》の|奏上《そうじやう》も、|天国《てんごく》に|自分《じぶん》も|救《すく》はれ、|数多《あまた》の|人《ひと》を|救《すく》はむが|為《ため》であつた。|然《しか》るに|其《そ》の|目的《もくてき》たる|天国《てんごく》に|舞《ま》ひ|上《のぼ》り|乍《なが》ら、|肝腎《かんじん》の|宣伝使《せんでんし》の|身魂《みたま》を|何時《いつ》の|間《ま》にやら|遺失《ゐしつ》して|了《しま》ひ、|心《こころ》の|駒《こま》は|有頂天《うちやうてん》となつて|空中《くうちう》に|飛散《ひさん》して|了《しま》つて|居《ゐ》た。アヽ|天国《てんごく》と|云《い》ふ|処《ところ》は、|油断《ゆだん》のならぬ|処《ところ》だな、|結構《けつこう》な|処《ところ》の|気遣《きづか》ひの|処《ところ》で|怖《こわ》い|処《ところ》だ。サアサア|御一同様《ごいちどうさま》、|天津祝詞《あまつのりと》を|此《この》|鏡岩《かがみいは》に|向《むか》つて|奏上《そうじやう》|致《いた》しませう』
と|一同《いちどう》は|夜《よ》の|明《あ》けたる|心地《ここち》して、|勇《いさ》み|立《た》ち、|天津祝詞《あまつのりと》を|一心不乱《いつしんふらん》になつて|百度《ももたび》|計《ばか》り|奏上《そうじやう》した。|鏡《かがみ》の|岩《いは》は|自然《しぜん》と|左右《さいう》に|開《ひら》かれ、|坦々《たんたん》たる|花《はな》を|以《もつ》て|飾《かざ》られたる、|清《きよ》き|大道《だいだう》が|現《あら》はれて|来《き》た。|三人《さんにん》は|声《こゑ》を|揃《そろ》へて、
『ヤア|松彦《まつひこ》|様《さま》、|有難《ありがた》う|御座《ござ》いました。|御蔭様《おかげさま》で|難関《なんくわん》も|無事《ぶじ》に|通過《つうくわ》|致《いた》しました。|何分《なにぶん》に|馴《な》れぬ|神界《しんかい》の|旅行《りよかう》、|勝手《かつて》も|存《ぞん》じませぬから、|何《なん》とぞ|宜《よろ》しく|御世話《おせわ》|下《くだ》さいませ』
|松彦《まつひこ》『|否々《いやいや》、|貴方《あなた》の|事《こと》は|貴方《あなた》がおやりなさい。|現界《げんかい》に|於《おい》て|貴方《あなた》がたは、|常《つね》に、|人《ひと》を|杖《つゑ》に|突《つ》くな、|師匠《ししやう》を|便《たよ》りにするなと|云《い》つて|廻《まは》つて|居《を》られたでせう』
|三人《さんにん》は、
『アハヽヽヽ、|余《あま》り|好《い》い|景色《けしき》で|気分《きぶん》が|良《よ》くなつて|何《なに》も|彼《か》も|忘《わす》れて|了《しま》つた。さうすると|矢張《やつぱ》り|執着心《しふちやくしん》も|必要《ひつえう》だ』
|松彦《まつひこ》『それは|決《けつ》して|執着心《しふちやくしん》ではありませぬ。|貴方《あなた》がたの|身魂《みたま》を|守《まも》る|生命《いのち》の|綱《つな》ですよ。ヤア|急《いそ》いで|参《まゐ》りませう』
|向《むか》ふの|方《はう》より、|身《み》の|丈《たけ》|二尺《にしやく》ばかりの|男女《だんぢよ》|五人連《ごにんづれ》、|手《て》を|繋《つな》ぎ|乍《なが》ら、ヒヨロヒヨロと|此方《こなた》に|向《むか》つて|進《すす》み|来《きた》るあり。
|玉彦《たまひこ》『ヤア|小《ちい》さいお|方《かた》が|御出《おい》でたぞ。|此処《ここ》は|小人島《こびとじま》の|様《やう》だな。|天国《てんごく》にはコンナ|小《ちい》さい|人間《にんげん》が|住《す》まつて|居《を》るのですか。ナア|松彦《まつひこ》サン』
|松彦《まつひこ》『|何《なに》、|神界《しんかい》|許《ばか》りか、|現界《げんかい》も|此《この》|通《とほ》りですよ。|一番《いちばん》|図抜《づぬ》けて|大男《おほをとこ》と|云《い》はれるのが|三尺《さんしやく》|内外《ないぐわい》|一尺《いつしやく》|八寸《はつすん》もあれば|一人前《いちにんまへ》の|人間《にんげん》だ。|顕幽《けんいう》|一致《いつち》、|現界《げんかい》に|住《す》まつてゐる|人間《にんげん》の|霊体《れいたい》が|此《この》|高天原《たかあまはら》に|遊《あそ》びに|来《き》てゐるのだ。ああやつて|手《て》を|繋《つな》いで|歩《ある》かないと、|鶴《つる》が|出《で》て|来《き》て、|高《たか》い|処《ところ》へ|持《も》つて|上《あが》るから、|其《その》|難《なん》を|防《ふせ》ぐ|為《ため》、ああやつて|手《て》を|繋《つな》いで|歩《ある》いて|居《ゐ》るのだ』
|玉彦《たまひこ》『ハテ|益々《ますます》|合点《がてん》が|往《ゆ》かなくなつて|来《き》た。|吾々《われわれ》|三人《さんにん》は、|常世《とこよ》の|国《くに》を|振出《ふりだ》しに、|世界《せかい》|各国《かくこく》を|股《また》にかけ、|現界《げんかい》は|大抵《たいてい》|跋渉《ばつせふ》した|積《つも》りだが、|何程《なにほど》|小《ちい》さき|人間《にんげん》だと|云《い》つても|六尺《ろくしやく》より|低《ひく》い|男女《だんぢよ》は|無《な》かつた。|赤《あか》ん|坊《ばう》だつてあれ|位《くらゐ》の|背丈《せたけ》は、|現界《げんかい》の|人間《にんげん》なれば|持《も》つてゐますよ。|貴方《あなた》、|何《なに》かの|間違《まちが》ひではありますまいか』
|松彦《まつひこ》『|六尺《ろくしやく》|以上《いじやう》の|人間《にんげん》の|住《す》まつて|居《を》つたのは、|今《いま》より|殆《ほとん》ど|三十五万年《さんじふごまんねん》の|昔《むかし》の|事《こと》だ。|貴方《あなた》が|河鹿峠《かじかたうげ》で|帰幽《きいう》してからは、|最早《もはや》|三十五万年《さんじふごまんねん》を|経過《けいくわ》して|居《ゐ》るのだ。|現界《げんかい》は|二十世紀《にじつせいき》といふ、|魂《たましひ》の|小《ちい》さい|人間《にんげん》が|住《す》まつて|居《ゐ》た|時代《じだい》を|超過《てうくわ》し、|既《すで》に|三千年《さんぜんねん》|暮《く》れてゐる。|現界《げんかい》で|云《い》へば、キリストが|現《あら》はれてから|五十世紀《ごじつせいき》の|今日《こんにち》だ。|世《よ》は|漸次《だんだん》|開《ひら》けるに|伴《つ》れて、|地上《ちじやう》の|人間《にんげん》は|労苦《らうく》を|厭《いと》ひ、|歩《ある》くのにも|電車《でんしや》だとか、|自動車《じどうしや》、|汽車《きしや》、|風車《ふうしや》、|羽車《はぐるま》|等《など》に|乗《の》つて|天地間《てんちかん》を|往来《わうらい》し、|少《すこ》しも|手足《てあし》を|使《つか》はないものだから、|身体《しんたい》は|追《お》ひ|追《お》ひと|虚弱《きよじやく》になつて|最早《もはや》|五十世紀《ごじつせいき》の|今日《こんにち》では、コンナ|弱々《よわよわ》しい|人間《にんげん》になつて|了《しま》つたのだ。|併《しか》し|乍《なが》ら、|十九世紀《じふくせいき》の|終《をは》りから|二十世紀《にじつせいき》にかけて|芽《め》を|吹《ふ》き|出《だ》した、|三五教《あななひけう》の|教《をしへ》を|信《しん》じ|不言実行《ふげんじつかう》に|勉《つと》め、|労苦《らうく》を|楽《たの》しみとしてゐる|人間《にんげん》の|系統《けいとう》に|限《かぎ》つて、|夫《そ》れと|反対《はんたい》に|六尺《ろくしやく》|以上《いじやう》の|体躯《たいく》を|保《たも》ち、|現幽神界《げんいうしんかい》に|於《おい》て、|神《かみ》の|生宮《いきみや》として|活動《くわつどう》してゐるミロク|人種《じんしゆ》もありますよ』
|三人《さんにん》『|吾々《われわれ》は|昨夜《さくや》、|河鹿峠《かじかたうげ》で|落命《らくめい》したと|思《おも》つて|居《ゐ》るのに、|最早《もはや》|三十五万年《さんじふごまんねん》も|暮《く》れたのでせうか。|如何《いか》に|神界《しんかい》に|時間《じかん》が|無《な》いと|云《い》つても|之《これ》は|又《また》|余《あま》り|早《はや》いぢやありませぬか』
|松彦《まつひこ》『サアお|話《はなし》は|聖地《せいち》に|到着《たうちやく》の|上《うへ》ゆつくりと|致《いた》しませう。|神様《かみさま》がお|待兼《まちか》ね、ぼつぼつ|参《まゐ》りませう』
と|先《さき》に|立《た》つて|歩《あゆ》み|出《だ》した。|三人《さんにん》は|松彦《まつひこ》の|後《あと》にいそいそと|随《したが》ひ|行《ゆ》く。|忽《たちま》ち|眼前《がんぜん》に|展開《てんかい》せる|湖水《こすゐ》の|岸《きし》に|着《つ》いた。|金波《きんぱ》|銀波《ぎんぱ》|洋々《やうやう》として|魚鱗《ぎよりん》の|如《ごと》く|日光《につくわう》に|映《えい》じ、|其《その》|壮観《さうくわん》|譬《たと》ふるに|物《もの》なき|程《ほど》である。|七宝珠玉《しつぽうしゆぎよく》を|以《もつ》て|飾《かざ》られたる|目無堅間《めなしかたま》の|御船《みふね》は、|幾十艘《いくじつそう》とも|無《な》く|浮《うか》んでゐる。|松彦《まつひこ》は、|其《その》|中《うち》|最《もつと》も|美《うる》はしき、|新《あたら》しき|船《ふね》にヒラリと|飛《と》び|乗《の》り、|三人《さんにん》に|同乗《どうじやう》を|勧《すす》め、|自《みづか》ら|櫓《ろ》を|操《あやつ》り|乍《なが》ら、|西南《せいなん》を|指《さ》して|波上《はじやう》|豊《ゆたか》に|揺《ゆら》れ|行《ゆ》く。|湖面《こめん》は|日光《につくわう》|七色《しちしよく》の|波《なみ》を|以《もつ》て|彩《いろ》どられたる|如《ごと》き|波紋《はもん》を|描《ゑが》きつつ、|船唄《ふなうた》|勇《いさ》ましく|聖地《せいち》の|高天原《たかあまはら》を|指《さ》して、|勇《いさ》み|漕《こ》ぎ|行《ゆ》く。|波《なみ》の|彼方《あなた》に、|霞《かすみ》の|上《うへ》に|浮《う》いてゐる|黄金《わうごん》の|瓦《かはら》、|銀《ぎん》の|柱《はしら》、|真珠《しんじゆ》、|瑪瑙《めなう》、|珊瑚《さんご》、|瑠璃《るり》、|琥珀《こはく》、|〓〓《しやこ》|等《など》の|七宝《しつぽう》を|鏤《ちりば》めたる|金殿玉楼《きんでんぎよくろう》は|太陽《たいやう》の|光《ひかり》に|瞬《またた》きて、|六合《りくがふ》を|照《てら》す|許《ばか》りの|荘麗《さうれい》を|示《しめ》してゐる。|漸《やうや》くにして|船《ふね》は|一《ひと》つの|島《しま》に|着《つ》いた。|地上《ちじやう》|一面《いちめん》に|敷《し》かれたる|金銀《きんぎん》|真珠《しんじゆ》の|清庭《すがには》がある。|東《ひがし》の|門《もん》は|巨大《きよだい》なる|真珠《しんじゆ》を|以《もつ》て|固《かた》められ、|西《にし》には|瑪瑙《めなう》の|神門《しんもん》、|南《みなみ》は|瑠璃《るり》の|神門《しんもん》、|北《きた》には|〓〓《しやこ》の|神門《しんもん》を|以《もつ》て|囲《かこ》まれ、|東北《とうほく》には|白金《はくきん》の|門《もん》、|西南《せいなん》には|白銀《はくぎん》の|門《もん》、|西北《せいほく》には|黄金《わうごん》の|門《もん》、|東南《とうなん》には|瑪瑙《めなう》の|門《もん》を|造《つく》られ、|其《その》|他《た》に、|八《やつ》の|潜《くぐ》り|門《もん》は|各《おのおの》|珍《めづ》らしき|宝玉《ほうぎよく》を|鏤《ちりば》められ、|其《その》|壮観《さうくわん》|美麗《びれい》なる|事《こと》、|筆舌《ひつぜつ》の|能《よ》く|尽《つく》す|処《ところ》ではない。|松彦《まつひこ》は|先《ま》づ|東門《とうもん》より|三人《さんにん》を|伴《ともな》ひ、|静々《しづしづ》と|進《すす》み|入《い》る。|入口《いりくち》には|眉目《びもく》|美《うる》はしき|男女《だんぢよ》の|天使《てんし》、|満面《まんめん》に|笑《ゑみ》を|湛《たた》へて|一行《いつかう》を|歓迎《くわんげい》しつつありき。|松彦《まつひこ》は|是等《これら》の|美《うる》はしき|天使《てんし》に|目礼《もくれい》し|乍《なが》ら、|三人《さんにん》と|共《とも》に|奥《おく》へ|奥《おく》へと|進《すす》み|行《ゆ》く。
(大正一一・四・四 旧三・八 藤津久子録)
第二一章 |帰顕《きけん》〔五八八〕
|松彦《まつひこ》|一行《いつかう》は|金砂《きんさ》、|銀砂《ぎんさ》、|真珠《しんじゆ》を|一面《いちめん》に|敷《し》きつめたる|清庭《すがには》を|進《すす》む|折《をり》しも、|二三《にさん》の|従者《じゆうしや》を|伴《とも》なひ、|黄錦《わうきん》の|制服《せいふく》を|着《ちやく》したる|顔色《がんしよく》|美《うる》はしく、|姿《すがた》|何処《どこ》となく|優美《いうび》|高尚《かうしやう》なる|神人《しんじん》|現《あら》はれ|来《きた》り、|莞爾《くわんじ》として|松彦《まつひこ》に|向《むか》ひ、
『|松彦《まつひこ》|殿《どの》、|御苦労《ごくらう》なりしよ。|先《ま》づ|先《ま》づ|奥《おく》にて|休息《きうそく》あれ。オー|玉彦《たまひこ》、|厳彦《いづひこ》、|楠彦《くすひこ》|殿《どの》よくマア|御出《おい》で|下《くだ》さいました』
|三柱《みはしら》は|此《この》|声《こゑ》の|何《なん》とも|言《い》ひ|得《え》ぬ|温味《あたたかみ》あるにフト|顔《かほ》を|上《あ》ぐれば、|河《かは》の|辺《ほとり》にて|別《わか》れたる|言依別《ことよりわけ》の|命《みこと》なりける。
|三人《さんにん》は|驚《おどろ》き|乍《なが》ら、
『ヤア|貴神《あなた》は|言依別命《ことよりわけのみこと》|様《さま》』
と|言《い》つたきり、|嬉《うれ》し|涙《なみだ》をハラハラと|流《なが》してゐる。|言依別命《ことよりわけのみこと》は、
『|御一同《ごいちどう》|此方《こちら》へ|御出《おい》でなされ』
と|先《さき》に|立《た》ちて|歩《あゆ》み、|緩《ゆる》やかに|美《うる》はしき|宮殿《きうでん》の|階段《かいだん》を|上《のぼ》り|行《ゆ》く。
|一行《いつかう》は|恐《おそ》る|恐《おそ》る|後《あと》に|続《つづ》く。|美《うる》はしき|桧造《ひのきづく》りの|宮殿《きうでん》の|真中央《まんなか》に、|四人《よにん》は|据《す》ゑられた。|言依別命《ことよりわけのみこと》は|数多《あまた》の|美《うる》はしき|男女《だんぢよ》の|侍神《じしん》に|命《めい》じ、|玉杯《たまもひ》に|酒《さけ》を|盛《も》り、|珍《めづ》らしき|果物《このみ》を|添《そ》へて|差出《さしだ》し|勧《すす》むる。|一同《いちどう》は|意外《いぐわい》の|待遇《たいぐう》に|狂喜《きやうき》し、|身《み》の|措《を》き|所《どころ》も|知《し》らず、|何《なん》となく|心《こころ》いそいそとして|落着《おちつ》きかねし|風情《ふぜい》なり。
|寸時《しばらく》|休憩《きうけい》の|後《のち》、|言依別命《ことよりわけのみこと》は|三人《さんにん》を|伴《ともな》ひ、|木《き》の|香《か》|薫《かほ》れる|美《うる》はしき|廊下《らうか》を|伝《つた》ひて、|奥《おく》へ|奥《おく》へと|伴《ともな》ひ|行《ゆ》く。|言依別《ことよりわけ》は|拍手《はくしゆ》を|終《をは》り、|神言《かみごと》を|奏上《そうじやう》するや|錦《にしき》の|帳《とばり》をサツト|押開《おしひら》け|入《い》り|来《きた》る|白髪《はくはつ》の|老神《らうしん》、|莞爾《くわんじ》として|一同《いちどう》の|前《まへ》に|現《あら》はれ|給《たま》ひ、
『|汝《なんぢ》|言依別命《ことよりわけのみこと》|以下《いか》|三人《さんにん》の|神司《かむつかさ》、よくも|参《まゐ》りしよな。|汝《なんぢ》は|此《こ》の|高天原《たかあまはら》の|荘厳《さうごん》を|胸底《きようてい》|深《ふか》く|畳込《たたみこ》み、|聖地《せいち》の|状況《じやうきやう》を|十分《じふぶん》に|視察《しさつ》し、|数日《すうじつ》|此処《ここ》に|滞留《たいりう》して|聖地《せいち》の|空気《くうき》を|吸《す》ひ|身魂《みたま》を|清《きよ》め、|復《ふたた》び|現界《げんかい》に|現《あら》はれ、|汝《なんぢ》が|残《のこ》りの|使命《しめい》を|果《はた》し、|然《しか》して|後《のち》|改《あらた》めて|此処《ここ》へ|帰《かへ》り|来《こ》られよ。われこそは|国祖《こくそ》|国治立命《くにはるたちのみこと》なるぞ』
と|儼《げん》として|犯《をか》すべからざる|威容《ゐよう》に|笑《ゑみ》を|湛《たた》へ、|軽《かる》く|一礼《いちれい》して|奥殿《おくでん》に|入《い》らせ|給《たま》うた。
|言依別《ことよりわけ》|以下《いか》|三人《さんにん》は、|嬉《うれ》しさに|胸《むね》|塞《せま》り、|何《なん》の|応答《いらへ》も【なく】ばかり、|嬉《うれ》し|涙《なみだ》に|時《とき》の|移《うつ》るをも|知《し》らず|俯向《うつむ》きゐる。|又《また》もや|威厳《ゐげん》の|中《なか》に|温情《おんじやう》の|籠《こも》れる|声《こゑ》にて、
『|汝《なんぢ》|言依別命《ことよりわけのみこと》|並《ならび》に|玉彦命《たまひこのみこと》、|厳彦命《いづひこのみこと》、|楠彦命《くすひこのみこと》、|汝《なんぢ》が|至誠《しせい》は|地《ち》の|高天原《たかあまはら》に|通《つう》じたり。|悠々《いういう》|聖地《せいち》の|状況《じやうきやう》を|観覧《くわんらん》し、|復《ふたた》び|現界《げんかい》に|復帰《ふくき》して|汝《なんぢ》が|使命《しめい》を|果《はた》せし|上《うへ》、|改《あらた》めて|此処《ここ》に|帰《かへ》り|来《きた》れ。われこそは|豊国姫神《とよくにひめのかみ》の|分霊《わけみたま》|否《いな》|伊都能売《いづのめ》の|身魂《みたま》、|神素盞嗚《かむすさのを》なるぞ』
と|声《こゑ》も|涼《すず》しく|宣《の》らせ|給《たま》へば、|一同《いちどう》は|思《おも》はず、ハツと|頭《かしら》を|擡《もた》げ|御顔《おかほ》を|眺《なが》むれば、|三五《さんご》の|月《つき》の|御顔色《おんかんばせ》|譬《たと》ふるに|物《もの》|無《な》き|気高《けだか》さに、|又《また》もやハツと|頭《かしら》を|下《さ》ぐる|其《そ》の|刹那《せつな》、|微妙《びめう》の|言葉《ことば》につれて|徐々《しづしづ》と|奥殿《おくでん》に|入《い》らせ|給《たま》ふ|後姿《うしろすがた》を|遥《はるか》に|拝《はい》し|奉《たてまつ》り、|又《また》もや|恭敬《きようけい》|礼拝《れいはい》|感謝《かんしや》の|涙《なみだ》に|咽《むせ》びつつ、|祝詞《のりと》の|声《こゑ》も|嬉《うれ》し|涙《なみだ》に|湿《しめ》る|許《ばか》りなりき。
この|時《とき》|何処《いづこ》よりともなく|現《あら》はれ|来《きた》る|以前《いぜん》の|天使《てんし》|松彦《まつひこ》は、
|松彦《まつひこ》『ヤア|皆様《みなさま》、|結構《けつこう》でございました。|大神様《おほかみさま》の|命《めい》に|依《よ》つて、これから|神界《しんかい》の|一部《いちぶ》を|御案内《ごあんない》いたしませう。サア|御出《おい》でなさいませ』
と|御殿《ごてん》を|下《さが》り、スタスタと|進《すす》み|行《ゆ》く。|四人《よにん》は|松彦《まつひこ》の|後《あと》に|続《つづ》く。|松彦《まつひこ》は|十重《とへ》の|高楼《たかどの》に|四人《よにん》を|導《みちび》き、|四方《よも》の|風景《ふうけい》を|指《ゆび》さして|一々《いちいち》|説明《せつめい》を|与《あた》ふる。
|金銀《きんぎん》の|波《なみ》を|湛《たた》へたる|湖《みづうみ》は|四方《しはう》を|囲《かこ》み、|金銀《きんぎん》の|帆《ほ》を|張《は》りたる|五色《ごしき》の|船《ふね》は、|右往左往《うわうさわう》に|往来《わうらい》しつつありき。|遥《はるか》の|彼方《かなた》に|浮《う》かべる|如《ごと》く|見《み》ゆる|松《まつ》|生茂《おひしげ》る|一《ひと》つの|島《しま》を|示《しめ》し、|松彦《まつひこ》は、
『|彼《か》の|島《しま》は|三十八万年《さんじふはちまんねん》の|昔《むかし》、|顕恩郷《けんおんきやう》と|称《とな》へて|南天王《なんてんわう》の|守《まも》り|給《たま》ひし|楽園《らくゑん》でありました。|大地《だいち》の|傾斜《けいしや》|旧《もと》に|復《ふく》してより、|今《いま》は|御覧《ごらん》の|如《ごと》く|低地《ていち》は|残《のこ》らず|湖水《こすゐ》となり、|唯《ただ》|高山《かうざん》の|頂《いただ》きのみ|頭《あたま》を|現《あら》はし、|今《いま》は|国治立大神《くにはるたちのおほかみ》の|御安息場所《おやすみばしよ》となりました。|彼《あ》のきらきらと|輝《かがや》く|光《ひかり》は、|十曜《とえう》の|神紋《しんもん》でございます』
|言依別《ことよりわけ》『|三十八万年《さんじふはちまんねん》とは、それは|何時《いつ》から|計算《けいさん》しての|年数《ねんすう》でございますか』
|松彦《まつひこ》『|素盞嗚大神《すさのをのおほかみ》、|天《てん》の|高天原《たかあまはら》を|神退《かむやら》ひに|退《やら》はれ|給《たま》ひし|日《ひ》より|計算《けいさん》しての|年数《ねんすう》でございます』
|言依別《ことよりわけ》『アア|然《しか》らば|最早《もはや》|数十万年《すふじふまんねん》の|年月《ねんげつ》を|経《へ》たるか。はて|不思議千万《ふしぎせんばん》、|合点《がてん》の|行《ゆ》かぬことであるワイ』
|松彦《まつひこ》『|神界《しんかい》に|時間《じかん》はありませぬ。これも|現界《げんかい》より|見《み》ての|年数《ねんすう》です。アレアレ|四方《よも》を|御覧《ごらん》なさいませ。|尊《みこと》|御退隠《ごたいいん》|時代《じだい》は、|彼《あ》の|波《なみ》の|漂《ただよ》ふ|辺《あた》りは|残《のこ》らず|美《うる》はしき|山《やま》でございました。また|少《すこ》しく|東《ひがし》に|当《あた》つて|小《ちい》さき、|黒《くろ》き|影《かげ》の|見《み》えまするのは、|古《いにしへ》のシナイ|山《ざん》の|頂《いただき》でございます。|斯《か》くの|如《ごと》く|世態《せたい》は|一変《いつぺん》し、|陸地《りくち》は|大湖水《だいこすゐ》となり、|海《うみ》の|各所《かくしよ》に|新《あたら》しき|島嶼《たうしよ》が|続出《ぞくしゆつ》しました』
と|話《はな》す|折《をり》しも、|美《うる》はしき|羽翼《うよく》を|列《なら》べて|十四五《じふしご》の|鳥《とり》、|此《こ》の|十重《とへ》の|塔《たふ》に|〓《か》け|来《きた》り、|五人《ごにん》が|前《まへ》に|羽根《はね》を|休《やす》めける。
|見《み》れば|鳥《とり》と|見《み》しは|見誤《みあやま》りにて、|羽根《はね》の|生《は》へたる|小《ちい》さき|人間《にんげん》なりき。|松彦《まつひこ》は|一同《いちどう》に|向《むか》ひ、
『|彼《かれ》は|天地《てんち》の|間《あひだ》を|往来《わうらい》し、|神々《かみがみ》の|御言葉《おことば》を|伝《つた》ふる|使神《つかいがみ》であります。|地上《ちじやう》の|世界《せかい》は|炎熱《えんねつ》|甚《はなはだ》しく|相《あひ》|成《な》りたれば、|今《いま》は|罪《つみ》|軽《かる》き|神人《しんじん》は|残《のこ》らず、|日《ひ》の|御国《みくに》に|移住《いぢう》をすることになつてゐます。そのために|空中《くうちう》|郵便《ゆうびん》が|開始《かいし》され、つまり|彼《か》の|使《つかい》は|三十世紀《さんじつせいき》の|昔《むかし》に|於《お》ける|郵便配達夫《ゆうびんはいたつふ》の|役《やく》を|勤《つと》むるものでございますよ。|日《ひ》の|御国《みくに》に|御用《ごよう》がございますれば、|此処《ここ》で|手紙《てがみ》を|御書《おか》きなさいませ。この|十重《とへ》の|神殿《しんでん》は|謂《い》はば|天《てん》と|地《ち》との|文書《ぶんしよ》の|往復《わうふく》を|掌《つかさど》る|一等《いつとう》|郵便局《ゆうびんきよく》のやうなものです』
|言依別《ことよりわけ》『|吾々《われわれ》は|神代《かみよ》の|文字《もじ》は|知《し》つてゐますが、|今日《こんにち》の|時代《じだい》は|文字《もじ》も|大変《たいへん》|異《かは》つてゐませうね』
|松彦《まつひこ》『|昔《むかし》のやうに|今日《こんにち》の|時代《じだい》は、|毛筆《まうひつ》や、|鉛筆《えんぴつ》や、|万年筆《まんねんひつ》などの|必要《ひつえう》はありませぬ。|唯《ただ》|指先《ゆびさき》を|以《もつ》て|空中《くうちう》に|七十五声《しちじふごせい》の|文字《もじ》を|記《しる》せば、|配達夫《はいたつふ》は|直《ただち》に|配達《はいたつ》して|呉《く》れますよ。|私《わたくし》が|一《ひと》つ|手本《てほん》を|見《み》せませう。この|交通《かうつう》|機関《きくわん》は|廿一世紀《にじふいつせいき》の|初期《しよき》から|開始《かいし》されたのですよ』
と|右《みぎ》の|指《ゆび》を|以《もつ》て|空中《くうちう》に|七十五声《しちじふごせい》の|片仮名《かたかな》を|綴《つづ》りて、|一《ひと》つの|語《ご》を|作《つく》り、
『サア、これで|手紙《てがみ》が|書《か》けました。|文字《もじ》が|言語《げんご》を|発《はつ》する|時代《じだい》となつて|来《き》ました』
と|言《い》つて|笑《わら》つてゐる。|四人《よにん》は|耳《みみ》を|傾《かたむ》けて|珍《めづ》らしき|文字《もじ》の|声《こゑ》を|聞《き》かむと|努《つと》めける。|文字《もじ》の|声《こゑ》は|音楽《おんがく》の|如《ごと》く|聞《きこ》え|来《き》たりぬ。|其《そ》の|文面《ぶんめん》に|拠《よ》れば、
『|唯今《ただいま》|地《ち》の|高天原《たかあまはら》に|誠《まこと》の|神《かみ》の|教《をしへ》を|伝《つた》ふる|言依別命《ことよりわけのみこと》、|玉彦《たまひこ》、|厳彦《いづひこ》、|楠彦《くすひこ》の|四柱《よはしら》が|御出《おい》でになり、|国治立《くにはるたち》の|大神様《おほかみさま》、|又《また》|神素盞嗚《かむすさのを》の|大神様《おほかみさま》に|御対面《ごたいめん》|遊《あそ》ばされ、|唯今《ただいま》|十重《とへ》の|高楼《たかどの》に|御上《おあが》がりになつて、|四辺《あたり》の|景色《けしき》を|眺《なが》めてゐられます。|天《てん》の|高天原《たかあまはら》に|於《おい》て|此《こ》の|方々《かたがた》に|対《たい》して|御用《ごよう》がございますれば、|直《すぐ》に|御返事《ごへんじ》を|下《くだ》さいませ。|左様《さやう》なら』
と|明瞭《はつきり》と|聞《きこ》えて|来《き》た。|使《つかい》の|神《かみ》は|空中《くうちう》の|文字《もじ》をクルクルと|巻《ま》き|乍《なが》ら、|羽根《はね》の|間《あひだ》にはさみ、|天空《てんくう》|目蒐《めが》けて|電光石火《でんくわうせきくわ》の|如《ごと》く|飛《と》び|去《さ》りぬ。
|松彦《まつひこ》『|今《いま》に|御返事《ごへんじ》が|参《まゐ》りませうよ。|暫《しばら》く|四辺《あたり》の|景色《けしき》を|眺《なが》めて|御待《おま》ち|下《くだ》さいませ』
|三人《さんにん》は|驚《おどろ》きて、
『モシ|言依別《ことよりわけ》の|命《みこと》さま、|妙《めう》なものですなア。|随分《ずゐぶん》|世《よ》の|中《なか》も|開《ひら》けました。|二十世紀《にじつせいき》|時代《じだい》の|人間《にんげん》は|文明《ぶんめい》の|極致《きよくち》に|達《たつ》したとか、|神界《しんかい》の|秘密《ひみつ》を|探《さぐ》つたとか、|時代《じだい》を|征服《せいふく》したとか|言《い》うて|居《ゐ》た|時代《じだい》もありましたが、|今日《こんにち》になつて|見《み》れば|実《じつ》に|幼稚《えうち》なものですな』
と|話《はな》しゐる。|此《この》|時《とき》|以前《いぜん》の|使《つかい》は、|電《いなづま》の|如《ごと》く|此《この》|場《ば》に|降《くだ》り|来《き》たりぬ。|而《しか》して|松彦《まつひこ》に|空中《くうちう》|返書《へんしよ》を|手渡《てわた》し|乍《なが》ら、|又《また》もや|矢《や》を|射《い》る|如《ごと》く|東天《とうてん》|指《さ》して|翔《か》け|去《さ》りにける。|其《そ》の|文面《ぶんめん》に|曰《い》ふ。
『|天《てん》の|高天原《たかあまはら》より|返事《へんじ》を|致《いた》します。|唯今《ただいま》|御申越《おまをしこ》しの|言依別命《ことよりわけのみこと》|外《ほか》|三人《さんにん》は、|未《ま》だ|現界《げんかい》に|尽《つく》す|可《べ》き|神業《しんげふ》の|数多《あまた》あれば、|一度《いちど》|現界《げんかい》へ|御帰《おかへ》し|下《くだ》され|度《た》し。|時代《じだい》は|三十五万年《さんじふごまんねん》の|古《いにしへ》に|復《かへ》して、|河鹿峠《かじかたうげ》の|谷底《たにそこ》へ|帰顕《きけん》せしめられ|度《た》し。|右《みぎ》|御返事《ごへんじ》|申《まを》します。|地《ち》の|高天原《たかあまはら》の|消息《おとづれ》の|司《つかさ》|松彦《まつひこ》|殿《どの》』
と|空中《くうちう》|文字《もじ》の|返書《へんしよ》が|声《こゑ》を|発《はつ》して、|自然《しぜん》に|物語《ものがた》りゐる。
|玉彦《たまひこ》『アア|未来《みらい》の|世《よ》は|結構《けつこう》だナア。|吾々《われわれ》も|此《この》|儘《まま》|神界《しんかい》にゐたいものだが、アーア|三十五万年《さんじふごまんねん》の|未《ま》だ|苦労《くらう》を|済《す》まさねば、|此処《ここ》へ|来《く》ることは|出来《でき》ぬのかなア。アヽ|仕方《しかた》がありませぬ、|左様《さやう》なら、|松彦《まつひこ》|様《さま》、これから|御暇《おいとま》を|致《いた》します』
|松彦《まつひこ》は、
『|皆様《みなさま》、|暫《しば》らく|御待《おま》ち|下《くだ》さいませ。|空中《くうちう》|交通機《かうつうき》を|上《あ》げませう』
と|又《また》もや|指先《ゆびさき》にて|空中《くうちう》に、|何事《なにごと》か|記《しる》す|其《そ》の|刹那《せつな》、|金色《こんじき》|燦然《さんぜん》たる|鳥《とり》の|翼《つばさ》の|如《ごと》きもの|四組《よくみ》、|何処《いづこ》ともなく|此《この》|場《ば》に|降《くだ》り|来《き》たりぬ。
『サア|之《これ》を|御着《おつ》けなされ』
と|云《い》ふより|早《はや》く|自然的《しぜんてき》に|四人《よにん》の|肩《かた》の|辺《あた》りに、|金色《こんじき》の|翼《つばさ》はピタリと【くいつき】たり。|四人《よにん》は|一度《いちど》に、
『アアこれは|立派《りつぱ》だナア』
と|羽《は》ばたきを|試《こころ》むるや、|身《み》は|益々《ますます》|高《たか》く|空中《くうちう》に|飛《と》び|揚《あ》がり、|一瀉千里《いつしやせんり》の|勢《いきほひ》を|以《もつ》て|電波《でんぱ》よりも|早《はや》く、|西《にし》の|空《そら》を|目蒐《めが》けて|進《すす》み|行《ゆ》く。|眼下《がんか》に|横《よこ》たはる|四人《よにん》の|肉体《にくたい》、ハツと|見下《みおろ》す|途端《とたん》に|吾《われ》に|返《かへ》り|四辺《あたり》を|見《み》れば、|河鹿河《かじかがは》の|谷底《たにそこ》に|倒《たふ》れ|居《ゐ》たるなり。|乗《の》り|来《き》し|駒《こま》は|如何《いか》にと|見《み》れば、|無心《むしん》の|馬《うま》は|河辺《かはべり》の|青草《あをくさ》をグイグイと【むし】りゐたりける。
|言依別《ことよりわけ》『アア|暫《しばら》くの|間《あひだ》、|気《き》が|遠《とほ》くなつたと|思《おも》へば、|有《あ》り|難《がた》い、|高天原《たかあまはら》の|状況《じやうきやう》やら、|数十万年後《すうじふまんねんご》の|世界《せかい》の|状況《じやうきやう》を|見《み》せて|貰《もら》つた。これも|全《まつた》く|国治立尊《くにはるたちのみこと》、|神素盞嗚尊《かむすさのをのみこと》の|広《ひろ》き、|厚《あつ》き|御恵《みめぐ》みだ。サア|一同《いちどう》|此処《ここ》に|禊身《みそぎ》を|修《しう》し、|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》して、|潔《いさぎよ》く|大神《おほかみ》の|御隠退場《ごいんたいぢやう》に|参向《さんかう》|致《いた》しませう』
と|身《み》を|浄《きよ》め、|口《くち》を|嗽《そそ》ぎ|拍手《はくしゆ》の|声《こゑ》|勇《いさ》ましく、|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》し|終《をは》つて|又《また》もや|駒《こま》にヒラリと|跨《またが》り、|天馬《てんば》|空《くう》を|駆《か》ける|如《ごと》く、|身《み》も|軽々《かるがる》しく|坂道《さかみち》|指《さ》して、|道《みち》なき|小柴《こしば》の|山中《さんちう》を|一目散《いちもくさん》に|上《のぼ》り|行《ゆ》く。
(大正一一・四・四 旧三・八 外山豊二録)
第二二章 |和《わ》と|戦《せん》〔五八九〕
|言依別命《ことよりわけのみこと》は|不思議《ふしぎ》の|事《こと》より|神界《しんかい》を|探険《たんけん》し|再《ふたた》び|正気《しやうき》に|立《た》ち|復《かへ》り|給《たま》ひて、|玉彦《たまひこ》、|厳彦《いづひこ》、|楠彦《くすひこ》|諸共《もろとも》に、|駒《こま》に|鞭《むちう》ち【しと】しととウブスナ|山脈《さんみやく》を|神素盞嗚大神《かむすさのをのおほかみ》の|御舎《みあらか》|指《さ》して|進《すす》み|行《ゆ》く。
|山上《さんじやう》の|御舎《みあらか》は|何《いづ》れも|丸木柱《まるきばしら》を|以《もつ》て|造《つく》られありぬ。|用材《ようざい》は|桧《ひのき》、|杉《すぎ》、|松《まつ》、|樅《もみ》|其《その》|他《た》|種々《いろいろ》の|木《き》をあしらひ、|余《あま》り|広《ひろ》からず|狭《せま》からず|何《なん》とも|言《い》へぬ|風流《ふうりう》なる|草葺《わらぶき》の|屋根《やね》、|幾棟《いくむね》となく|立《た》ち|並《なら》び|居《ゐ》たり。|一行《いつかう》|四人《よにん》は|門前《もんぜん》に|到着《たうちやく》し、|馬《うま》をヒラリと|飛《と》び|下《お》りて|大音声《だいおんじやう》に、
『|頼《たの》まう|頼《たの》まう』
と|訪《おと》なへば、
『|応《オー》』
と|答《こた》へて|大《だい》の|男《をとこ》|三四人《さんよにん》、|門《もん》を|左右《さいう》にパツと|開《ひら》き、|四人《よにん》の|姿《すがた》を|見《み》るより、
『ヨー、これはこれは、|能《よ》く|入《い》らせられました。|只今《ただいま》|高天原《たかあまはら》よりの|急報《きふはう》に|依《よ》り|貴使等《あなたがた》|四人《よにん》|当邸《たうやしき》に|現《あら》はれますと|承《うけたま》はりお|待《ま》ち|申《まを》して|居《を》りました。サアサ|御這入《おはい》り|下《くだ》さいませ、|御案内《ごあんない》|致《いた》しませう。|私《わたくし》は|八十猛《やそたける》の|神《かみ》の|長《をさ》を|勤《つと》むるもの、|国武彦《くにたけひこ》と|申《まを》すもので|御座《ござ》います』
と|言《い》ひつつ|先《さき》に|立《た》つてドスンドスンと|地響《ぢひび》きさせ|乍《なが》ら|奥《おく》へ|奥《おく》へと|案内《あんない》したり。
|本宅《ほんたく》と|覚《おぼ》しき|館《やかた》の|玄関口《げんくわんぐち》に|佇《たたず》み、|国武彦《くにたけひこ》は、
『アア|八島主《やしまぬし》|様《さま》、|言依別命《ことよりわけのみこと》|御一行《ごいつかう》がお|出《い》でになりました』
と|言葉《ことば》|終《をは》ると|共《とも》に|玄関《げんくわん》の|襖《ふすま》はサラリと|開《ひら》かれたり。
|国武彦《くにたけひこ》『サアサアこれが|命様《みことさま》の|御本殿《ごほんでん》で|御座《ござ》います、|御遠慮《ごゑんりよ》なく|御上《おあが》り|下《くだ》さいませ』
と|案内《あんない》する。
『|然《しか》らば|御免《ごめん》』
と|一同《いちどう》は|奥《おく》へ|奥《おく》へと|進《すす》み入る。|容色《ようしよく》|麗《うるは》しき|二人《ふたり》の|美人《びじん》|此《この》|場《ば》に|現《あら》はれしを|能《よ》く|能《よ》く|見《み》れば|愛子姫《あいこひめ》、|幾代姫《いくよひめ》なりき。
|言依別《ことよりわけ》『アア|貴神《あなた》は|顕恩郷《けんおんきやう》に|坐《まし》ませし|尊《みこと》の|御娘子《おむすめご》、|愛子姫《あいこひめ》、|幾代姫《いくよひめ》|様《さま》では|御座《ござ》らぬか』
『ハイ、|左様《さやう》で|御座《ござ》います、|能《よ》くマアお|越《こ》し|下《くだ》さいました』
『|妾《わらは》は|仰《あふ》せの|如《ごと》く|幾代姫《いくよひめ》で|御座《ござ》います、|何卒《どうぞ》|御悠《ごゆつく》りと|御休息《ごきうそく》|下《くだ》さいませ。|妾《わらは》の|父《ちち》は|天下《てんか》|蒼生《さうせい》の|為《た》めに、ここ|十日《とをか》|許《ばか》り|以前《いぜん》に|館《やかた》を|立《た》ち|出《い》で、|常世《とこよ》の|国《くに》さして|行《ゆ》くと|申《まを》して|出《で》られました。|折角《せつかく》のお|訪《たづ》ねで|御座《ござ》いまするが|父《ちち》は|生憎《あひにく》の|不在《ふざい》なれども、|妾《わらは》が|兄《あに》|八島主《やしまぬし》|父《ちち》の|代理《だいり》として|留守《るす》を|致《いた》して|居《を》りますれば、|何卒《どうぞ》ゆるりとお|話《はな》し|下《くだ》さいます|様《やう》に』
|言依別《ことよりわけ》『アヽ|左様《さやう》で|御座《ござ》るか、|之《これ》は|惜《を》しい|事《こと》を|致《いた》した。イヤ|先程《さきほど》|御父上《おちちうへ》に|地《ち》の|高天原《たかあまはら》に|於《おい》て|拝顔《はいがん》を|得《え》ました』
|愛子姫《あいこひめ》、|幾代姫《いくよひめ》|一度《いちど》に、
『エ、|父《ちち》にお|会《あ》ひで|御座《ござ》いましたか、それは|何《いづ》れの|地方《ちはう》に|於《おい》て』
|言依別《ことよりわけ》『ハイ、|地《ち》の|高天原《たかあまはら》に|於《おい》て|三十五万年《さんじふごまんねん》の|未来《みらい》に|麗《うるは》しき|御尊顔《ごそんがん》を|拝《はい》しました』
『アヽ|左様《さやう》で|御座《ござ》いましたか、それはそれは|都合《つがふ》の|好《い》い|事《こと》で|御座《ござ》いましたナア。|父《ちち》は|何《なん》と|申《まを》しましたか』
|言依別《ことよりわけ》『イヤ|吾々《われわれ》には|未《いま》だ|現界《げんかい》に|於《おい》て|尽《つく》すべき|神務《しんむ》あれば、|三十五万年《さんじふごまんねん》の|昔《むかし》に|立《た》ち|復《かへ》り|現界的《げんかいてき》|神業《しんげふ》を|尽《つく》せよとの|御厳命《ごげんめい》で|御座《ござ》いましたよ。イヤもう|罪《つみ》の|深《ふか》い|吾々《われわれ》、|容易《ようい》に|高天原《たかあまはら》へ|参《まゐ》る|事《こと》は|出来《でき》ませぬ』
|玉彦《たまひこ》、|厳彦《いづひこ》、|楠彦《くすひこ》、|三人《さんにん》|一度《いちど》に、
『オー|貴女《あなた》は|神様《かみさま》の|御娘子《おむすめご》で|御座《ござ》いましたか、|私共《わたくしども》は|言依別《ことよりわけ》の|命様《みことさま》の|御供《おとも》|致《いた》すもの|常世《とこよ》の|国《くに》に|於《おい》て|生《うま》れましたる、はした|者《もの》に|御座《ござ》います。|何卒《どうぞ》|以後《いご》はお|見捨《みすて》なく|御昵懇《ごじつこん》に|御指導《ごしだう》を|願《ねが》ひ|上《あ》げ|奉《たてまつ》ります』
と|慇懃《いんぎん》に|挨拶《あいさつ》する。
『|御挨拶《ごあいさつ》は|却《かへつ》て|痛《いた》み|入《い》ります、|妾《わらは》は、たらはぬ|女《をんな》の|身《み》、|何卒《なにとぞ》|御見捨《おみすて》なく|何時々々迄《いついつまで》も|御昵懇《ごじつこん》に|願《ねが》ひ|度《た》う|御座《ござ》います』
と|頭《かしら》を|下《さ》ぐる。|此《この》|時《とき》、|眼《まなこ》|清《きよ》く|眉《まゆ》|秀《ひい》で|鼻筋《はなすぢ》|通《とほ》り|口許《くちもと》しまり|桃色《ももいろ》の|顔《かんばせ》、|鼻下《びか》の|八字髭《はちじひげ》|及《およ》び|下顎《かがく》の|垂髯《たれひげ》を|揉《も》みつつ|徐々《しづしづ》と|入《い》り|来《きた》り、|一行《いつかう》の|前《まへ》に|端坐《たんざ》し、|叮嚀《ていねい》に|会釈《ゑしやく》し|乍《なが》ら、
『|私《わたくし》は|八島主《やしまぬし》で|御座《ござ》います。|貴使《あなた》は|噂《うはさ》に|高《たか》き|言依別《ことよりわけ》の|命様《みことさま》、|遠路《ゑんろ》の|処《ところ》|遥々《はるばる》|能《よ》く|御越《おこ》し|下《くだ》さいました。|吾父《わがちち》が|在《おは》しましたならばどれ|程《ほど》|喜《よろこ》ぶ|事《こと》で|御座《ござ》いませう』
と|目《め》を|瞬《しばた》き、そつと|涙《なみだ》を|拭《ぬぐ》ふ。|一同《いちどう》は|何《なん》となく|八島主《やしまぬし》の|態度《たいど》につまされて|哀《あは》れを|催《もよほ》し|涙《なみだ》の|袖《そで》を|絞《しぼ》り|居《ゐ》る。|此《この》|時《とき》|菊子姫《きくこひめ》は|二人《ふたり》の|侍女《じぢよ》を|伴《ともな》ひ、
『|御一同様《ごいちどうさま》、|御飯《ごはん》の|用意《ようい》が|出来《でき》ました、|何卒《どうぞ》|此方《こちら》へ|御越《おこ》し|下《くだ》さいませ』
と|挨拶《あいさつ》する。|主人側《しゆじんがは》の|八島主《やしまぬし》を|始《はじ》め|四人《よにん》は|菊子姫《きくこひめ》の|後《あと》に|従《したが》つて|奥《おく》の|別室《べつま》に|進《すす》み|入《い》る。|別室《べつま》の|入口《いりぐち》には|亀彦《かめひこ》、|梅彦《うめひこ》、|愛子姫《あいこひめ》、|幾代姫《いくよひめ》の|四人《よにん》が|叮嚀《ていねい》に|端坐《たんざ》し|頭《かしら》を|下《さ》げ|一行《いつかう》を|迎《むか》へ|居《ゐ》る。ここに|一場《いちぢやう》の|晩餐会《ばんさんくわい》は|催《もよほ》され、|果実《このみ》の|酒《さけ》に|心《こころ》|勇《いさ》み|一同《いちどう》は|代《かは》る|代《がは》る|小声《こごゑ》に|謡《うた》を|唄《うた》ひ、|菊子姫《きくこひめ》は|長袖《ちやうしう》しとやかに|舞曲《ぶきよく》を|演《えん》じて|興《きよう》を|添《そ》へにける。
|日《ひ》は|漸《やうや》く|西《にし》に|没《かく》れて|夕暮《ゆふぐれ》|告《つ》ぐる|諸鳥《ももどり》の|声《こゑ》、|淋《さび》し|気《げ》に|聞《きこ》え|来《き》たる。|時《とき》しもあれ、|慌《あはただ》しく|此《この》|場《ば》に|現《あら》はれたる|八十猛《やそたける》の|神《かみ》は、
『|八島主《やしまぬし》の|命様《みことさま》に|申《まを》し|上《あ》げます、|只今《ただいま》バラモンの|大棟梁《だいとうりやう》|鬼雲彦《おにくもひこ》なるもの、|鬼掴《おにつかみ》を|先頭《せんとう》に|数多《あまた》の|魔軍《まぐん》を|引率《いんそつ》し、|当館《たうやかた》を|十重二十重《とへはたへ》に|取囲《とりかこ》み|雨《あめ》の|如《ごと》くに|矢《や》を|射《い》かけ、|又《また》|決死隊《けつしたい》と|見《み》えて|数百《すうひやく》の|荒武者男《あらむしやをとこ》、|長剣《ちやうけん》|長槍《ちやうさう》を|閃《ひらめ》かしドツと|許《ばか》りに|攻《せ》め|寄《よ》せました。|当館《たうやかた》の|猛将《まうしやう》|国武彦《くにたけひこ》は|館内《くわんない》の|味方《みかた》を|残《のこ》らず|寄《よ》せ|集《あつ》め、|防戦《ばうせん》に|力《ちから》を|尽《つく》して|居《を》りますれど、|敵《てき》の|勢《いきほひ》|刻々《こくこく》に|加《くは》はり|味方《みかた》は|僅《わづ》かに|二十有余人《にじふいうよにん》、|敵《てき》の|大軍《たいぐん》は|衆《しう》を|恃《たの》んで|鬨《とき》を|作《つく》り、|一《いち》の|館《やかた》、|二《に》の|館《やかた》、|三《さん》の|館《やかた》は|最早《もはや》|彼等《かれら》の|占領《せんりやう》する|処《ところ》となりました。|国武彦《くにたけひこ》は|群《むら》がる|敵《てき》に|長剣《ちやうけん》を|引《ひ》き|抜《ぬ》き|立《た》ち|向《むか》ひ、|縦横無尽《じうわうむじん》に|斬《き》りたて|薙《なぎ》たて|防《ふせ》ぎ|戦《たたか》へども、|敵《てき》は|眼《め》に|余《あま》る|大軍《たいぐん》、|勝敗《しようはい》の|数《かず》は|歴然《れきぜん》たるもの、|御主人様《ごしゆじんさま》、|此処《ここ》に|居《ゐ》まし|候《さふらふ》ては|御身《おんみ》の|一大事《いちだいじ》、|一時《いちじ》も|早《はや》く|裏門《うらもん》より|峰《みね》|伝《つた》ひにビワの|湖《うみ》に|逃《のが》れ|出《い》で、コーカス|山《ざん》に|忍《しの》ばせ|給《たま》へ、|敵《てき》は|間近《まぢか》く|押《お》し|寄《よ》せました。サアサ|早《はや》く|御用意《ごようい》あれ』
と|注進《ちうしん》するを、|八島主《やしまぬし》は|少《すこし》も|騒《さわ》がず、
『ホー、|汝《なんぢ》|八十猛《やそたける》の|神《かみ》、|能《よ》きに|取計《とりはか》らへよ、|吾《われ》は|遠来《ゑんらい》の|客《きやく》を|待遇《もてな》さねばならぬ。|汝《なんぢ》は|国武彦《くにたけひこ》と|共《とも》に|防戦《ばうせん》の|用意《ようい》を|致《いた》すが|宜《よ》からうぞ』
『これは|主人様《しゆじんさま》のお|言葉《ことば》では|御座《ござ》いまするが、|危機一髪《ききいつぱつ》の|此《この》|場合《ばあひ》、|左様《さやう》な|呑気《のんき》な|事《こと》を|申《まを》して|居《を》られませうか。|最早《もはや》|第三《だいさん》の|館《やかた》まで|敵《てき》に|占領《せんりやう》され、|又《また》|国武彦《くにたけひこ》は|身《み》に|数槍《すうさう》を|負《お》ひ|苦戦《くせん》の|最中《さいちう》で|御座《ござ》います。|味方《みかた》は|大半《たいはん》|討死《うちじに》|致《いた》した|様《やう》で|御座《ござ》います。|何卒《どうぞ》|一時《いちじ》も|早《はや》くお|客《きやく》さまと|共《とも》に|此《この》|場《ば》をお|逃《のが》れ|下《くだ》さいませ』
『アツハヽヽヽ、|面白《おもしろ》い|事《こと》が|出来《でき》たものだ、|御父《おんちち》の|留守《るす》を|窺《うかが》ひ、|弱身《よわみ》につけ|込《こ》む|風《かぜ》の|神《かみ》、|高《たか》が|知《し》れたる|鬼雲彦《おにくもひこ》の|軍勢《ぐんぜい》、|仮令《たとへ》|百万騎《ひやくまんき》、|千万騎《せんまんき》|一度《いちど》に|攻《せ》め|来《きた》るとも、|八島主《やしまぬし》が|一本《いつぽん》の|指先《ゆびさき》の|力《ちから》にて、|縦横無尽《じうわうむじん》にかけ|悩《なや》まし|一泡《ひとあわ》|吹《ふ》かせて|呉《く》れむ、|汝《なんぢ》は|表《おもて》に|駆《か》け|向《むか》ひ、|汝《なんぢ》としての|力限《ちからかぎ》りを|尽《つく》せよ。ヤアヤア|皆様《みなさま》、|敵軍《てきぐん》の|攻《せ》め|来《きた》り|騒《さわ》ぐ|有様《ありさま》を|酒《さけ》の|肴《さかな》と|致《いた》して、ゆるりと|飲《の》みませう、|時《とき》にとつての|一興《いつきよう》、|何《なに》もお|慰《なぐさ》みで|御座《ござ》います。|敵《てき》の|襲来《しふらい》なりと|見物《けんぶつ》して|御心《みこころ》を|慰《なぐさ》め|下《くだ》さいませ』
|言依別命《ことよりわけのみこと》は、
『アツハヽヽヽ、ヤア|面白《おもしろ》い|事《こと》が|出来《でき》ました、もう|少《すこ》し|近寄《ちかよ》つて|呉《く》れますれば|見物《けんぶつ》に|都合《つがふ》が|宜《よろ》しいが、|此処《ここ》は|確《たし》か|八《やつ》つ|目《め》の|御館《おやかた》、まだ|四棟《よむね》も|隔《へだ》てて|居《を》りますれば|先《ま》づ|先《ま》づ|安全《あんぜん》|地帯《ちたい》、|乍然《しかしながら》|一利《いちり》あれば|一害《いちがい》あり、|危険《きけん》な|目《め》に|遇《あ》はねば|面白《おもしろ》い|事《こと》は|見《み》られませぬ|哩《わい》、アハヽヽヽ』
|亀彦《かめひこ》、|梅彦《うめひこ》|肩《かた》を|怒《いか》らし|臂《ひぢ》を|張《は》り、|顔色《がんしよく》|物凄《ものすご》く|呼吸《いき》を|喘《はづ》ませ|乍《なが》ら、
『これはこれは|八島主《やしまぬし》|様《さま》、|言依別《ことよりわけ》|様《さま》、お|二方《ふたかた》は|狂気《きやうき》|召《め》されたか、|此《この》|場《ば》に|臨《のぞ》んで|何《なに》を|悠々《いういう》と、お|酒《さけ》どころの|騒《さわ》ぎぢや|御座《ござ》いますまい。サアサ|防戦《ばうせん》の|用意《ようい》をなさいませ。|吾々《われわれ》は|生命《いのち》を|的《まと》に|奮戦《ふんせん》|致《いた》し、|攻《せ》め|来《きた》る|奴輩《やつばら》を|片端《かたつぱし》より|斬《き》りたて|薙散《なぎち》らし、|一泡《ひとあわ》|吹《ふ》かせて|呉《く》れむ』
と|言《い》ふより|早《はや》く|長押《なげし》の|長刀《なぎなた》、|梅彦《うめひこ》はおつ|取《と》り|表《おもて》へ|出《い》でむとす。|亀彦《かめひこ》は|長剣《ちやうけん》を|引《ひ》き|抜《ぬ》き、|亦《また》もや|行《ゆ》かむとす。|愛子姫《あいこひめ》は|二人《ふたり》の|足《あし》にヒラリと|綱《つな》をかけ|後《うしろ》に|引《ひ》いた。|行《ゆ》かむとする|勢《いきほひ》に、|力《ちから》は|上半身《じやうはんしん》に|満《み》ち|下半身《しもはんしん》は|蝉《せみ》の|脱《ぬ》け|殻《がら》の|如《ごと》くなつた|足許《あしもと》を|引掛《ひつか》けられ、スツテンドウと|座敷《ざしき》の|真中《まんなか》にひつくり|覆《かへ》りける。
|亀彦《かめひこ》『|千騎一騎《せんきいつき》の|此《この》|場合《ばあひ》、|何《なに》を|悪戯《じやうだん》|遊《あそ》ばす、|猶予《いうよ》に|及《およ》ばば|御身《おんみ》の|一大事《いちだいじ》、サアサ|姫様達《ひめさまたち》は|一刻《いつこく》も|早《はや》く|裏門《うらもん》より|落《お》ちのびなさい。|菊子姫《きくこひめ》|殿《どの》、|幾代姫《いくよひめ》|殿《どの》、サアサア|早《はや》く|早《はや》く。|吾《われ》は|之《これ》より|表《おもて》に|駆《か》け|出《だ》し、|細腕《ほそうで》の|続《つづ》く|限《かぎ》り|奮戦《ふんせん》せむ』
と|又《また》もや|起《お》き|上《あが》り、|勢《いきほひ》こんで|表《おもて》に|行《ゆ》かむとす。
|八島主《やしまぬし》は|悠然《いうぜん》として、
『アハヽヽヽ、|皆様《みなさま》、|敵《てき》の|騒《さわ》ぎを|見《み》ずとも|味方《みかた》の|狂言《きやうげん》で|沢山《たくさん》で|御座《ござ》います|哩《わい》。ヤアヤア|亀彦《かめひこ》、|梅彦《うめひこ》|先《ま》づ|一杯《いつぱい》|召《め》し|上《あが》れ』
と|盃《さかづき》をつき|出《だ》す。|梅彦《うめひこ》はかぶりを|振《ふ》り|乍《なが》ら、
『エーエ、|又《また》しても|気楽《きらく》な|御主人様《ごしゆじんさま》、ソンナ|処《どころ》で|御座《ござ》いませうか、サアサ|早《はや》く|逃《にげ》るか|進《すす》むか、|二《ふた》つに|一《ひと》つの|間髪《かんぱつ》を|入《い》れざる|場合《ばあひ》で|御座《ござ》れば、|何《いづ》れへなりと|御覚悟《ごかくご》あつて|然《しか》るべし』
と|言《い》ひ|捨《す》てて|二人《ふたり》は|表《おもて》を|指《さ》して|韋駄天走《ゐだてんばし》りに|進《すす》み|行《ゆ》く。|最早《もはや》|敵《てき》は|第五《だいご》の|館《やかた》を|占領《せんりやう》し|第六《だいろく》に|向《むか》はむとする|時《とき》なりき。
|八十猛《やそたける》の|神《かみ》は|又《また》もや|血相《けつさう》を|変《か》へて|顔面《がんめん》に|血《ち》を|流《なが》し|乍《なが》ら|走《はし》り|来《きた》り、
『|申《まを》し|上《あ》げます、|最早《もはや》|敵《てき》は|第六《だいろく》の|館《やかた》に|迫《せま》りました、|勝敗《しようはい》の|数《すう》は|已《すで》に|決《けつ》す、|一時《いちじ》も|早《はや》く|御落《おお》ち|延《の》び|下《くだ》さいませ。|吾等《われら》は|生命《いのち》のつづく|限《かぎ》り|奮戦《ふんせん》し|相果《あひは》つる|覚悟《かくご》で|御座《ござ》います』
|八島主《やしまぬし》は|平然《へいぜん》として、
『ヤア|八十猛《やそたける》か、|御苦労《ごくらう》であつたのう、|先《ま》づ、ゆつくり|酒《さけ》でも|飲《の》んで|働《はたら》くが|宜《よ》からうよ』
|八十猛《やそたける》は|息《いき》を|喘《はづ》ませ|乍《なが》ら、
『ソヽヽヽそれは|何《なに》を|仰《おつ》しやります、|酒《さけ》どこの|騒《さわ》ぎですか、|国家《こくか》の|興亡《こうばう》|此《この》|瞬間《しゆんかん》に|迫《せま》る、|酒《さけ》も|喉《のど》が|通《とほ》りませぬ』
|言依別《ことよりわけ》『アハヽヽヽ、|八島主《やしまぬし》の|命様《みことさま》、|随分《ずゐぶん》|貴使《あなた》の|御家来《ごけらい》には|勇将《ゆうしやう》|猛卒《まうそつ》が|居《を》りますね、|勇将《ゆうしやう》の|下《もと》に|弱卒《じやくそつ》なし、イヤもう|感心《かんしん》|致《いた》しました』
『イヤ、さう|言《い》はれては|返《かへ》す|言葉《ことば》も|御座《ござ》いませぬ、|彼等《かれら》の|周章狼狽《しうしやうらうばい》の|醜態《しうたい》、お|目《め》に|懸《か》けまして|誠《まこと》に|恥《はぢ》|入《い》る|次第《しだい》で|御座《ござ》います。|吾々《われわれ》は|敵《てき》の|攻撃《こうげき》に|任《まか》せ|無抵抗《むていかう》|主義《しゆぎ》をとるもの、|元《もと》より|勝敗《しようはい》の|数《すう》は|歴然《れきぜん》たるものに|御座《ござ》いますれば、|何程《なにほど》|慌《あわて》た|処《ところ》で|結果《けつくわ》は|同《おな》じ|事《こと》ですよ、|先《ま》づは|刹那心《せつなしん》を|楽《たの》しみませう。|一刻《いつこく》|先《さき》は|分《わか》つたものぢやありませぬよ、アヽヽヽ』
|又《また》もや|酒《さけ》をグビリグビリと|飲《の》んで|居《ゐ》る。|日頃《ひごろ》|狼狽者《あわてもの》の|玉彦《たまひこ》、|厳彦《いづひこ》、|楠彦《くすひこ》も|神界《しんかい》|旅行《りよかう》の|経験《けいけん》を|得《え》てより|何《なん》となく|心《こころ》|落《お》ち|着《つ》きしと|見《み》え、|此《この》|騒動《さうだう》を|殆《ほと》んど|感知《かんち》せざるものの|如《ごと》く、|悠々《いういう》として|箸《はし》をとり、|贐《はなむけ》の|酒《さけ》に|舌鼓《したづつみ》を|打《う》ち|私《ひそ》かに|鼻唄《はなうた》を|謡《うた》つて|居《ゐ》る。|愛子姫《あいこひめ》は|一絃琴《いちげんきん》をとり|出《だ》し|声《こゑ》も|淑《しと》やかに|謡《うた》ひ|出《だ》した。
『|菊子姫《きくこひめ》さま、|幾代姫《いくよひめ》さま、|貴女《あなた》|一《ひと》つ|舞《ま》うて|下《くだ》さいな。|遠来《ゑんらい》の|御客様《おきやくさま》に|余《あま》り|殺風景《さつぷうけい》な|処《ところ》をお|目《め》に|懸《か》けて|済《す》まないから、|一《ひと》つ|花《はな》やかな|処《ところ》を|御覧《ごらん》に|入《い》れて|下《くだ》さい、|妾《わらは》が|謡《うた》ひませう』
|菊子姫《きくこひめ》、|幾代姫《いくよひめ》は、
『あい』
と|答《こた》へて|仕度《したく》にとりかかり|淑《しと》やかに|舞《ま》ひ|始《はじ》めたり。|表《おもて》は|修羅道《しゆらだう》の|戦《たたか》ひ。|奥《おく》の|一室《ひとま》は|悠々《いういう》たる|春《はる》の|花見《はなみ》の|如《ごと》く、|秋《あき》の|夜《よ》の|月見《つきみ》の|如《ごと》く|静《しづ》まりかへつて、|笑《わら》ひの|声《こゑ》|屋外《をくぐわい》に|洩《も》れ|居《ゐ》たり。
|鬼雲彦《おにくもひこ》は|血糊《ちのり》の|着《つ》いた|槍《やり》を|扱《しご》き|乍《なが》ら|阿修羅王《あしゆらわう》の|如《ごと》く|此《この》|場《ば》に|現《あら》はれ|来《きた》り、
『ヤア|斯《か》くなる|上《うへ》は|最早《もはや》|敵《かな》ふまい、サア|尋常《じんじやう》に|切腹《せつぷく》|致《いた》すか、|但《ただし》は|此《この》|方《はう》が|槍《やり》の|錆《さび》にして|与《や》らうか、サアサア|返答《へんたふ》は|如何《どう》じや』
と|息巻《いきま》いて|居《ゐ》る。|鬼雲彦《おにくもひこ》に|続《つづ》いて|鬼掴《おにつかみ》は|此《この》|場《ば》に|又《また》もや|現《あら》はれ|来《きた》り、
『さしも|豪傑《がうけつ》と|聞《きこ》えたる|八十猛《やそたける》、|国武彦《くにたけひこ》は|吾手《わがて》にかかつて|脆《もろ》くも|討死《うちじに》|致《いた》したれば、|最早《もはや》|叶《かな》はぬ|百年目《ひやくねんめ》、サア|尋常《じんじやう》に|切腹《せつぷく》|致《いた》すか、|但《ただし》は|此《この》|方《はう》が|手《て》を|下《くだ》さうか、サア|返答《へんたふ》|致《いた》せ』
|八島主《やしまぬし》『アツハヽヽヽ』
|言依別《ことよりわけ》『オツホヽヽヽ、|何《なん》と|面白《おもしろ》い|芸当《げいたう》では|御座《ござ》らぬか、|千両《せんりやう》|役者《やくしや》も|跣足《はだし》で|逃《に》げ|出《だ》します|哩《わい》、ワツハツハヽヽヽ』
|玉彦《たまひこ》『ヨー、|鬼雲彦《おにくもひこ》の|御大将《おんたいしやう》、バラモン|教《けう》は|随分《ずゐぶん》|強《つよ》い|方《かた》が|居《ゐ》ますな、|吾々《われわれ》は|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》、いや、とてもとても|貴方《あなた》のお|相手《あひて》は|余《あんま》り|馬鹿《ばか》らしうてなりませぬ|哩《わい》、アツハツハヽヽヽ』
|厳彦《いづひこ》『ヤア|鉛《なまり》で|造《つく》つた|仁王《にわう》の|様《やう》に|随分《ずゐぶん》|立派《りつぱ》なスタイルですな、ワツハヽヽヽ』
|楠彦《くすひこ》『ホー|立派《りつぱ》な|者《もの》だ、|節《ふし》くれ|立《た》つたり、|気張《きば》つたり、|閻魔《えんま》の|庁《ちやう》からやつて|来《き》たお|使《つかい》の|様《やう》だ。ヤア|酒《さけ》の|肴《さかな》に|面白《おもしろ》い|事《こと》を|見《み》せて|頂《いただ》きます|哩《わい》、ハツハヽヽヽ』
|愛子姫《あいこひめ》『オホヽヽヽ、あの|鬼雲彦《おにくもひこ》さまとやらの、|立派《りつぱ》のお|顔《かほ》わいな、|鬼掴《おにつかみ》サンのあの|気張《きば》り|様《やう》』
『ホヽヽヽ』
|鬼雲彦《おにくもひこ》、|座敷《ざしき》の|真中《まんなか》に|突立《つつた》ち|乍《なが》ら|団栗眼《どんぐりまなこ》をグリグリ|回転《くわいてん》させ、
『|此《この》|場《ば》に|及《およ》んで|何《なに》を|吐《ぬ》かす、|其《その》|方《はう》は|気《き》が|狂《くる》うたか、|哀《あは》れ|至極《しごく》の|者《もの》だ、ワツハツハヽヽヽ』
と|豪傑《がうけつ》|笑《わら》ひをする。|鬼雲彦《おにくもひこ》は|肩《かた》を|揺《ゆす》り|乍《なが》ら|又《また》もや、
『ワツハヽヽヽ、チエツヘヽヽヽ、|心地《ここち》|良《よ》やな、バラモン|教《けう》の|運《うん》の|開《ひら》け|口《ぐち》、|此《この》|館《やかた》が|手《て》に|入《い》るからは、|最早《もはや》|三五教《あななひけう》は|寂滅為楽《じやくめつゐらく》、|扨《さて》も|扨《さて》も、|憐《あは》れな|者《もの》だワイ、ワツハヽヽヽ』
と|無理《むり》に|肩《かた》をしやくり|豪傑《がうけつ》|笑《わら》ひを|続《つづ》けて|居《ゐ》る。|八島主命《やしまぬしのみこと》は|右《みぎ》の|食指《ひとさしゆび》をヌツと|前《まへ》に|突出《つきだ》し、
『ヤア|鬼雲彦《おにくもひこ》|一同《いちどう》の|者共《ものども》、|能《よ》つく|聞《き》け、|両刃《もろは》の|長剣《ちやうけん》の|神《かみ》の|生身魂《いくみたま》、|熊野楠日《くまのくすび》の|神《かみ》とは|吾事《わがこと》なるぞ、|八島主《やしまぬし》とは|此《この》|世《よ》を|忍《しの》ぶ|仮《かり》の|名《な》、サアサア|一時《いちじ》も|早《はや》く|改心《かいしん》|致《いた》すか、|返答《へんたふ》は|如何《どう》ぢや』
|鬼雲彦《おにくもひこ》、|大口《おほぐち》|開《あ》けて|高笑《たかわら》ひ、
『ワツハヽヽヽ、|吐《ぬ》かしたりな|吐《ぬ》かしたりな、|此《この》|期《ご》に|及《およ》んで|何《なん》の|繰言《くりごと》、|引《ひ》かれ|者《もの》の|小唄《こうた》とは|汝《なんぢ》の|事《こと》、エー|面倒《めんだう》だ、|片《かた》つ|端《ぱし》から|血祭《ちまつ》りに|致《いた》して|呉《く》れむ、ヤア|者共《ものども》、|之等《これら》|一座《いちざ》の|男女《なんによ》の|木《こ》つ|端《ぱ》|武者《むしや》を|討《う》ち|滅《ほろぼ》せよ』
と|下知《げち》すれば、
『ハツ』
と|答《こた》えて|四方《しはう》より|魔軍《まぐん》の|将卒《しやうそつ》|駆《か》け|集《あつ》まり|前後左右《ぜんごさいう》に|詰《つ》めかくる。|八島主《やしまぬし》は|右手《めて》を|伸《の》ばし、
『ウン』
と|一声《ひとこゑ》、|言霊《ことたま》の|力《ちから》に|鬼雲彦《おにくもひこ》|始《はじ》め|一同《いちどう》は|将棋倒《しやうぎだふ》しにバタバタと|其《その》|場《ば》に|倒《たふ》れ、|身体《しんたい》|硬直《かうちよく》して|石地蔵《いしぢざう》の|如《ごと》く|硬化《かうくわ》したり。
|八島主《やしまぬし》『ワツハヽヽヽ』
|言依別《ことよりわけ》『ヤア|面白《おもしろ》い|面白《おもしろ》い、|廃《よ》せば|良《い》いのに|入《い》らぬチヨツカイを|出《だ》しよつて、|此《この》|有様《ありさま》は|何事《なにごと》だ。サア|玉彦《たまひこ》、|厳彦《いづひこ》、|楠彦《くすひこ》、|汝等《なんぢら》は|彼等《かれら》に|向《むか》つて|宣伝《せんでん》を|致《いた》すが|良《よ》からう』
|三人《さんにん》は、
『ハア』
と|答《こた》へて|起《た》ち|上《あが》り、バツタリと|倒《たふ》れて|身動《みうご》きもならず|苦《くる》しめる|鬼雲彦《おにくもひこ》、|鬼掴《おにつかみ》の|前《まへ》に|突立《つつた》ち、
『アハヽヽヽ、アヽ|愉快《ゆくわい》な|事《こと》じや、|否《いや》|気《き》の|毒《どく》なものだな』
|三人《さんにん》は|頸《くび》から|上《うへ》の|霊縛《れいばく》を|解《と》いた。|鬼雲彦《おにくもひこ》、|鬼掴《おにつかみ》を|始《はじ》め|数多《あまた》の|勇将《ゆうしやう》|猛卒《まうそつ》は|頸《くび》|許《ばか》り|前後左右《ぜんごさいう》に|振《ふ》り|廻《まは》し、|何事《なにごと》か|頻《しき》りに|呟《つぶや》いて|居《ゐ》る。|此《この》|時《とき》|表《おもて》の|方《はう》より|国武彦《くにたけひこ》、|八十猛《やそたける》の|両人《りやうにん》|現《あら》はれ|来《きた》り、
『|御主人《ごしゆじん》に|申上《まをしあ》げます、|雲霞《うんか》の|如《ごと》き|大軍《たいぐん》に|味方《みかた》は|僅《わづか》|二十有余人《にじふいうよにん》、|暫時《しばし》は|挑《いど》み|戦《たたか》ひしが、|衆寡《しうくわ》|敵《てき》せず、|進退《しんたい》|維《これ》|谷《きは》まり|味方《みかた》の|敗亡《はいばう》|瞬時《しゆんじ》に|迫《せま》る|折《をり》から、|天《てん》の|一方《いつぱう》より|巨大《きよだい》の|火光《くわくわう》|降《くだ》り|来《きた》り、|敵《てき》の|軍中《ぐんちう》に|落下《らくか》するよと|見《み》れば、|思《おも》ひきや|日《ひ》の|出神《でのかみ》の|宣伝使《せんでんし》、|数多《あまた》の|神軍《しんぐん》を|引率《いんそつ》して|忽然《こつぜん》として|現《あら》はれ、|群《むら》がる|敵《てき》に|言霊《ことたま》の|爆弾《ばくだん》を|浴《あ》びせかけ|給《たま》へば、|敵《てき》は|獲物《えもの》を|大地《だいち》に|投《な》げ|捨《す》て「|頭《あたま》が|痛《いた》し、|胸《むね》|苦《くる》し」と|叫《さけ》び|乍《なが》ら|残《のこ》らず|大地《だいち》に|打倒《うちたふ》れ|身体《しんたい》|硬直《かうちよく》した|儘《まま》、|操《からく》り|人形《にんぎやう》の|如《ごと》くに|首《くび》を|打振《うちふ》る|可笑《おか》しさ、いやもう|結構《けつこう》な|御神徳《おかげ》を|戴《いただ》きました。ホー|此処《ここ》にも|大将株《たいしやうかぶ》が|倒《たふ》れて|居《を》りますね、これはしたり、|妙《めう》な|事《こと》もあればあるもので|御座《ござ》る|哩《わい》、アハヽヽヽ』
|言依別《ことよりわけ》『|吾々《われわれ》は|天下《てんか》|無敵《むてき》|主義《しゆぎ》を|標榜《へうぼう》するもの、|彼等《かれら》と|雖《いへど》も|矢張《やはり》|天地《てんち》の|神《かみ》の|御水火《みいき》より|現《あら》はれ|出《い》でたる|青人草《あをひとぐさ》、|一人《ひとり》でも|悩《なや》め|苦《くる》しむる|事《こと》は|法《はふ》の|許《ゆる》さぬ|処《ところ》、|万々一《まんまんいち》|敵軍《てきぐん》の|中《なか》に|於《おい》て|一人《ひとり》たりとも|負傷者《ふしやうしや》あらば|助《たす》けてやらねばなりますまい』
|八島主《やしまぬし》『|御尤《ごもつと》もで|御座《ござ》る、サア|御苦労《ごくらう》|乍《なが》ら|玉彦《たまひこ》|様《さま》、|貴方《あなた》|一人《ひとり》で|結構《けつこう》ですから|一度《いちど》|敵味方《てきみかた》の|負傷者《ふしやうしや》の|有無《うむ》を|調《しら》べて|下《くだ》さい』
|玉彦《たまひこ》は、
『|承知《しようち》|致《いた》しました』
と|早《はや》くも|起《た》つて|表《おもて》へ|駆《か》け|出《だ》し、|彼方《あなた》|此方《こなた》に|負傷《ふしやう》して|血《ち》を|流《なが》し|苦《くる》しむ|軍卒《ぐんそつ》を|片《かた》つ|端《ぱし》から|数歌《かずうた》を|謡《うた》ひ|乍《なが》ら、|残《のこ》らず|癒《い》やし|廻《まは》りぬ。|而《しか》して|玉彦《たまひこ》は|一同《いちどう》の|前《まへ》に|声《こゑ》を|張《は》り|上《あ》げて|宣伝歌《せんでんか》を|謡《うた》ひ|聞《き》かしけるに、|何《いづ》れも|歌《うた》の|耳《みみ》に|入《い》るや、|悪《あく》の|守護神《しゆごじん》の|頭《あたま》に|厳《きび》しく|応《こた》へしと|見《み》えて|益々《ますます》|苦悶《くもん》の|呻《うな》り|声《ごゑ》|高《たか》くなり|行《ゆ》く。|奥《おく》の|一室《ひとま》には|鬼雲彦《おにくもひこ》、|鬼掴《おにつかみ》|其《その》|他《た》の|猛将《まうしやう》|勇卒《ゆうそつ》に|向《むか》つて|厳彦《いづひこ》、|楠彦《くすひこ》は|宣伝歌《せんでんか》を|宣《の》り|聞《き》かしゐる。|鬼雲彦《おにくもひこ》は|此《この》|歌《うた》を|聞《き》くより|益々《ますます》|苦悶《くもん》し|始《はじ》め|流汗淋漓《りうかんりんり》、|青息吐息《あをいきといき》を|吹《ふ》き|立《た》て|目《め》を|剥《む》き|藻掻《もが》く|可笑《おか》しさ。
|言依別《ことよりわけ》『|如何《どう》しても|身魂《みたま》の|因縁《いんねん》と|言《い》ふものは|争《あらそ》はれぬものだナア。|何程《なにほど》|結構《けつこう》な|教《をしへ》を|聞《きか》してやつた|処《ところ》で、|身魂《みたま》があはねば|帰順《きじゆん》させる|事《こと》が|出来《でき》ぬと|見《み》える。|人《ひと》には|人《ひと》の|食《く》ふ|食物《しよくもつ》があり、|牛《うし》には|牛《うし》、|獅子《しし》には|獅子《しし》、|猫《ねこ》には|猫《ねこ》、|糞虫《くそむし》には|糞虫《くそむし》の|食糧《しよくりやう》が|惟神的《かむながらてき》に|定《きま》つてる|様《やう》に、|教《をしへ》の|餌《えば》も|其《その》|通《とほ》りだと|見《み》える。|人間《にんげん》の|食《く》ふべき|食物《しよくもつ》を|牛馬《ぎうば》に|与《あた》ふるのは|却《かへつ》て|彼等《かれら》を|苦《くる》しめる|様《やう》なものだ。|縁《えん》なき|衆生《しゆじやう》は|済度《さいど》し|難《がた》し、|悪神《あくがみ》は|悪神《あくがみ》|相当《さうたう》の|安心《あんしん》を|以《もつ》て|居《ゐ》るでせう、|何程《なにほど》|彼等《かれら》を|救《すく》ふてやり|度《た》いと|思《おも》うてもこれは|到底《たうてい》|駄目《だめ》でせうよ、|再《ふたた》び|敵《てき》たはぬ|様《やう》にして|帰《かへ》して|与《や》りませうかい』
|八島主《やしまぬし》『|貴使《あなた》の|御説《おせつ》、|御尤《ごもつと》もで|御座《ござ》る。|然《しか》らば|腰《こし》より|上《うへ》は|暫《しば》らく|元《もと》の|硬直《かうちよく》|状態《じやうたい》にして|置《お》いて|足《あし》のみ|自由《じいう》を|許《ゆる》して|与《や》りませう』
と|言《い》ひ|乍《なが》ら|八島主《やしまぬし》は|立《た》ち|上《あが》り|示指《ひとさしゆび》をグツと|前《まへ》に|差《さ》し|出《だ》し|空中《くうちう》に|円《ゑん》を|描《ゑが》いて、
『|半日《はんにち》の|間《あひだ》、|腰《こし》から|上《うへ》は|霊縛《れいばく》を|加《くは》ふ、|腰《こし》から|以下《いか》は|自由《じいう》を|許《ゆる》す』
との|声《こゑ》の|下《した》より|今迄《いままで》|氷柱《いてばしら》の|如《ごと》くなつて|居《ゐ》た|手足《てあし》は【く】の|字《じ》に|曲《まが》りムクムクと|起《た》つて、|首《くび》を|据《す》ゑたまま、|手《て》を|垂直《すゐちよく》したもの、|片手《かたて》を|振《ふ》り|上《あ》げたもの、|種々《しゆじゆ》|様々《さまざま》の|珍姿怪態《ちんしくわいたい》の|陳列場《ちんれつぢやう》を|開設《かいせつ》し、|一目散《いちもくさん》に|門外《もんぐわい》さして|先《さき》を|争《あらそ》ひ|逃《に》げ|出《だ》す。|玉彦《たまひこ》は|此《この》|態《てい》を|見《み》て|吹《ふ》き|出《だ》し、
『ヤア|此奴《こいつ》は|良《い》い|工夫《くふう》だ。オイ|数多《あまた》の|魔軍《まぐん》|共《ども》、|之《これ》より|一日《いちにち》の|間《あひだ》、|腰《こし》より|上《うへ》は|霊縛《れいばく》を|加《くは》へ|置《お》く、|腰《こし》より|下《した》は|汝等《なんぢら》が|勝手《かつて》たるべし、|許《ゆる》す』
と|云《い》ふ|言葉《ことば》の|下《もと》に|彼等《かれら》の|足《あし》は|動《うご》き|出《だ》したり。|一同《いちどう》は|足《あし》の|自由《じいう》となりしを|幸《さひは》ひ|腰《こし》から|上《うへ》は|材木《ざいもく》の|様《やう》にビクともせず、|足《あし》のみ|忙《いそが》しく|門外《もんぐわい》さしてウンともスンとも|得《え》|言《い》はず、コソコソと|此《この》|場《ば》を|逃《に》げ|去《さ》りにけり。
(大正一一・四・四 旧三・八 於錦水亭 北村隆光録)
第二三章 |八日《やうか》の|月《つき》〔五九〇〕
|言依別命《ことよりわけのみこと》は、|八島主《やしまぬし》の|天使《かみ》|其《その》|他《た》の|天使《かみ》と|別《わか》れを|告《つ》げ、|後日《ごじつ》の|面会《めんくわい》を|約《やく》したまひぬ。
|清《きよ》き|心《こころ》の|玉彦《たまひこ》や |月日《つきひ》の|影《かげ》は|叢雲《むらくも》を
|四方《よも》に|掻《か》き|分《わ》け|厳彦《いづひこ》や |神《かみ》の|御稜威《みいづ》も|弥《いや》|深《ふか》く
|高《たか》く|奇《くす》しき|楠彦《くすひこ》の |広《ひろ》き|恵《めぐみ》を|三人連《みたりづ》れ
|神素盞嗚《かむすさのを》の|大神《おほかみ》の |留守《るす》の|館《やかた》を|後《あと》にして
|千里《せんり》の|馬《うま》に|跨《また》がりつ |轡《くつわ》の|音《おと》も|勇《いさ》ましく
|手綱《たづな》|掻《か》い|繰《く》りシトシトと |瑞《みづ》の|御魂《みたま》の|三《み》つの|坂《さか》
|心《こころ》の|駒《こま》も|乗《の》る|駒《こま》も いと|勇《いさ》ましくシヤンシヤンと
|声《こゑ》も|涼《すず》しき|琵琶《びは》の|湖《うみ》 |浜辺《はまべ》を|指《さ》して|下《くだ》り|行《ゆ》く
|浪《なみ》も|長閑《のどか》な|海原《うなばら》を |駒《こま》|諸共《もろとも》に|船《ふね》の|中《なか》
|浪《なみ》を|分《わ》けてぞ|進《すす》みける |折《をり》から|吹《ふ》き|来《く》る|東南《とうなん》の
|風《かぜ》に|真帆《まほ》をば|掲《かか》げつつ |船脚《ふなあし》|早《はや》くコウカスの
|山《やま》の|麓《ふもと》へ|紀《き》の|港《みなと》 |此処《ここ》に|御船《みふね》を|横《よこ》たへて
|又《また》もや|駒《こま》に|打《う》ち|乗《の》りて さしもに|嶮《けは》しき|嶮道《けんだう》を
シヤンコ シヤンコと|登《のぼ》りつつ |君《きみ》の|便《たよ》りも|松代姫《まつよひめ》
|神《かみ》の|御前《みまへ》に|平伏《ひれふ》して |祈《いの》る|誠《まこと》も|麻柱《あななひ》の
|神《かみ》の|教《をしへ》の|宣伝使《せんでんし》 |言依別《ことよりわけ》を|始《はじ》めとし
|玉彦《たまひこ》|厳彦《いづひこ》|楠彦《くすひこ》の |三《み》つの|御魂《みたま》の|神司《かむつかさ》
|此《この》|場《ば》に|漸《やうや》く|現《あら》はれて |社《やしろ》の|前《まへ》の|常磐木《ときはぎ》に
|駒《こま》を|繋《つな》ぎて|静々《しづしづ》と |境内《けいだい》さして|進《すす》み|入《い》り
|四人《よにん》|一度《いちど》に|大前《おほまへ》に |頸根《うなね》つきぬき|畏《かしこ》まり
|打《う》つ|拍手《かしはで》の|音《ね》も|清《きよ》く |詔《の》る|言霊《ことたま》はさやさやと
|水《みづ》の|流《なが》るる|如《ごと》くなり |折《をり》しも|御前《みまへ》に|額《ぬか》づきて
|皇大神《すめおほかみ》の|身《み》の|上《うへ》を |守《まも》らせたまへ|国治立《くにはるたち》の
|神《かみ》の|命《みこと》の|大前《おほまへ》に |乞《こ》ひのみまつる|姫神《ひめがみ》の
|声《こゑ》も|涼《すず》しき|太祝詞《ふとのりと》 |清《すが》しく|言霊《ことたま》|宣《の》り|終《を》へて
|静々《しづしづ》|御階段《みはし》を|下《くだ》り|来《く》る |階下《かいか》を|見《み》ればこは|如何《いか》に
|誠《まこと》|一《ひと》つの|麻柱《あななひ》の |神《かみ》の|使《つかい》の|宣伝使《せんでんし》
|言依別《ことよりわけ》の|一行《いつかう》が |此《この》|場《ば》にあるに|心《こころ》づき
|慌《あは》てて|御階段《みはし》をかけ|下《くだ》り |四人《よにん》の|前《まへ》に|平伏《ひれふ》して
|神素盞嗚《かむすさのを》の|大神《おほかみ》の |御身《おんみ》の|上《うへ》は|如何《いか》にぞと
|問《と》ふ|言《こと》の|葉《は》も|涙声《なみだごゑ》 |心《こころ》の|闇《やみ》ぞ|哀《あは》れなる
|言依別《ことよりわけ》の|宣伝使《せんでんし》 |神素盞嗚《かむすさのを》の|大神《おほかみ》の
|其《その》|消息《せうそく》を|詳細《まつぶさ》に |包《つつ》まず|隠《かく》さず|宣《の》りつれば
|松代《まつよ》の|姫《ひめ》は|雀躍《こおど》りし |嗚呼《ああ》|有難《ありがた》し|有難《ありがた》し
|皇大神《すめおほかみ》の|御恵《みめぐみ》と |又《また》もや|御階段《みはし》を|駆《か》け|上《のぼ》り
|心《こころ》|静《しづ》めて|皇神《すめかみ》の |深《ふか》き|恵《めぐみ》を|嬉《うれ》しみて
|感謝《かんしや》するこそ|殊勝《しゆしよう》なれ |神《かみ》が|表《おもて》に|現《あら》はれて
|善《ぜん》と|悪《あく》とを|立《た》て|分《わ》ける |此《この》|世《よ》を|造《つく》りし|神直日《かむなほひ》
|心《こころ》も|広《ひろ》き|大直日《おほなほひ》 |唯《ただ》|何事《なにごと》も|現世《うつしよ》は
|直日《なほひ》に|見直《みなほ》せ|聞《き》き|直《なほ》せ |世《よ》の|曲事《まがこと》は|宣《の》り|直《なほ》す
|三五教《あななひけう》の|神《かみ》の|道《みち》 |四方《よも》の|国々《くにぐに》|照《て》り|渡《わた》る
|其《その》|功績《いさをし》ぞ|尊《たふと》けれ |古《ふる》き|神代《かみよ》の|物語《ものがたり》
|十五《じふご》の|巻《まき》を|述《の》べ|終《を》へし |大正《たいしやう》|壬《みづのゑ》|戌《いぬ》の|春《はる》
|陰暦《いんれき》|弥生《やよい》の|上《かみ》|八日《やをか》 |新《しん》の|四月《しげつ》の|上《かみ》|四日《よつか》
|神代《かみよ》を|明《あ》かす|言《こと》の|葉《は》も |五百九十《ごひやくくじふ》の|節《ふし》も|今《いま》
|緯機《よこはた》|織《おり》なす|瑞月《ずゐげつ》が |横《よこ》に|臥《ふ》しつつ|呉竹《くれたけ》の
|節《ふし》さへ|合《あ》はぬ|七五調《しちごてう》 |岩《いは》より|加藤《かとう》|村肝《むらきも》の
|心《こころ》|定《さだ》めて|千早振《ちはやふる》 |古《ふる》き|神代《かみよ》の|因縁《いんねん》を
|此処《ここ》に|新《あらた》に|説《と》き|明《あ》かす |今日《けふ》の|生日《いくひ》ぞ|尊《たふと》けれ
|今日《けふ》の|生日《いくひ》ぞ|目出《めで》たけれ。
(大正一一・四・四 旧三・八 加藤明子録)
(昭和一〇・三・二五 王仁校正)
|跋文《ばつぶん》
|神霊界《しんれいかい》の|状態《じやうたい》は |肉体人《にくたいじん》の|住居《ぢうきよ》せる
|世界《せかい》と|万事《ばんじ》|相《あひ》|似《に》たり |平野《へいや》|山岳《さんがく》|丘陵《きうりよう》や
|岩石《がんせき》|渓谷《けいこく》|水《みづ》に|火《ひ》に |草木《くさき》の|片葉《かきは》に|至《いた》るまで
|外形上《ぐわいけいじやう》より|見《み》る|時《とき》は |何等《なんら》|変《かは》りし|処《ところ》なし
されども|是等《これら》の|諸々《もろもろ》は |起源《きげん》を|一切《いつさい》|霊界《れいかい》に
|採《と》りたる|故《ゆゑ》に|天人《てんにん》や |精霊《せいれい》のみの|眼《め》に|入《い》りて
|肉体人《にくたいじん》の|見《み》るを|得《え》ず |形体的《けいたいてき》の|存在《そんざい》は
|自然的《しぜんてき》|起源《きげん》を|保有《ほいう》する |現界人《げんかいじん》のみ|之《これ》を|見《み》る
|顕幽《けんいう》|区別《くべつ》は|明《あきら》かに |神《かみ》の|立《た》てたる|法則《みのり》|也《なり》
それ|故《ゆゑ》|現世《げんせ》の|人々《ひとびと》は |霊界《れいかい》|事象《じしやう》を|見《み》るを|得《え》ず
|精霊界《せいれいかい》に|入《い》りし|時《とき》 |神《かみ》の|許《ゆる》しを|蒙《かうむ》りて
|詳《くは》しく|見聞《けんぶん》するものぞ |是《これ》に|反《はん》して|天人《てんにん》や
|精霊界《せいれいかい》に|入《い》りし|者《もの》は また|現界《げんかい》や|自然界《しぜんかい》
|事物《じぶつ》を|見《み》ること|不能《ふのう》なり |鎮魂《ちんこん》|帰神《きしん》の|妙法《めうはふ》に
よりて|人間《にんげん》の|体《たい》を|藉《か》り |憑依《ひようい》せし|時《とき》|漸《やうや》くに
|現界《げんかい》の|一部《いちぶ》を|見聞《けんぶん》し |人《ひと》に|対《たい》して|物語《ものがた》り
|為《な》し|遂《と》げらるるものぞかし |如何《いかん》となれば|肉体人《ひと》の|目《め》は
|形体界《けいたいかい》の|光明《くわうみやう》を |受《う》くるに|適《てき》し|天人《てんにん》や
|精霊《せいれい》の|眼《まなこ》は|天界《てんかい》の |光明《くわうみやう》を|受《う》くるに|適《てき》すべく
|造《つく》り|為《な》されし|為《ため》ぞかし |而《しか》も|両者《りやうしや》の|眼目《まなこ》より
|外面《ぐわいめん》|全《まつた》く|相似《あひに》たり |霊界《れいかい》の|性相《せいさう》|斯《こ》の|如《ごと》く
|造《つく》られたるを|自然界《しぜんかい》の |人《ひと》の|会得《ゑとく》し|能《あた》はざるは
|是《これ》また|止《や》むを|得《え》ざるべし |外感上《ぐわいかんじやう》の|人々《ひとびと》は
その|肉眼《にくがん》に|見《み》る|所《ところ》 |手足《てあし》の|触覚《しよくかく》|視覚《しかく》|等《とう》に
|取入《とりい》れ|得《え》らるるその|外《ほか》は |容易《ようい》に|信《しん》じ|得《え》ざるなり
|現界人《げんかいじん》は|斯《こ》の|如《ごと》き |事物《じぶつ》に|基《もと》づき|思考《しかう》する
|故《ゆゑ》に|全《まつた》くその|思想《しさう》 |物質的《ぶつしつてき》に|偏《かた》よりて
|霊的《れいてき》ならず|霊界《れいかい》と |現実界《げんじつかい》とのその|間《うち》に
|如上《によじやう》の|如《ごと》き|相似《さうじ》あれば |人《ひと》は|死《し》したる|後《のち》の|身《み》も
かつて|生《うま》れし|故郷《ふるさと》や |離《はな》れ|来《き》たりし|世《よ》の|中《なか》に
|尚《なほ》も|住居《ぢうきよ》する|者《もの》なりと |誰人《たれびと》とても|思《おも》ふ|可《べ》し
|此《こ》の|故《ゆゑ》|人《ひと》は|死《し》を|呼《よ》びて |是《これ》より|彼世《あのよ》の|霊界《れいかい》の
|相似《さうじ》の|国《くに》へ|往《ゆ》くと|謂《い》ふ。
○
|現実界《げんじつかい》を|後《あと》にして |精霊界《せいれいかい》に|移《うつ》る|時《とき》
その|状態《じやうたい》を|死《し》と|称《しよう》す |死《し》し|行《ゆ》くものは|一切《いつさい》の
|身魂《みたま》に|属《ぞく》せし|悉《ことごと》を |霊界《れいかい》さして|持《も》ちて|行《ゆ》く
|物質的《ぶつしつてき》の|形骸《けいがい》は |腐朽《ふきう》し|去《さ》れば|残《のこ》すなり
|死後《しご》の|生涯《しやうがい》に|入《い》れる|時《とき》 |現実界《げんじつかい》にありし|如《ごと》
|同《おな》じ|形《かたち》の|身体《しんたい》を |保《たも》ちて|何等《なんら》の|相違《さうゐ》なく
|打見《うちみ》る|所《ところ》|塵身《ぢんしん》と |霊身《れいしん》に|何等《なんら》の|区別《くべつ》なし
されど|其《その》|実《じつ》|身体《しんたい》は |既《すで》に|霊的《れいてき》|活動《くわつどう》し
|物質的《ぶつしつてき》の|事物《じぶつ》より |分離《ぶんり》し|純化《じゆんくわ》し|清《きよ》らけく
|霊的《れいてき》|事物《じぶつ》の|相接《あひせつ》し |相《あひ》|見《み》る|状態《さま》は|現界《げんかい》の
|相《あひ》|触《ふ》れ|相《あひ》|見《み》る|如《ごと》くなり |精霊界《せいれいかい》に|入《い》りし|後《ご》も
|凡《すべ》ての|人《ひと》は|現界《げんかい》に |保《たも》ちし|時《とき》の|肉体《にくたい》に
あるものの|如《ごと》|思《おも》ひ|詰《つ》め |我身《わがみ》のかつて|死去《しきよ》したる
その|消息《せうそく》を|忘《わす》るなり |精霊界《せいれいかい》に|入《い》りし|後《ご》も
|人《ひと》は|依然《いぜん》と|現界《げんかい》に ありて|感受《かんじゆ》せる|肉的《にくてき》や
|外的《ぐわいてき》|感覚《かんかく》|保有《ほいう》して |見《み》ること|聞《き》くこと|言《い》ふことも
|嗅《か》ぐこと|味《あぢ》はひ|触《ふ》るること |残《のこ》らず|現世《げんせ》の|如《ごと》くなり
|精霊界《せいれいかい》に|身《み》をおくも |名位寿富《めいゐじゆふう》の|願《ねが》ひあり
|思索《しさく》し|省《かへり》み|感動《かんどう》し |愛《あい》し|意識《いしき》し|学術《がくじゆつ》を
|好《この》みしものは|読書《どくしよ》もし |著述《ちよじゆつ》を|励《はげ》む|身魂《みたま》あり
|換言《くわんげん》すれば|死《し》と|言《い》ふは |此《これ》より|彼《かれ》に|移《うつ》るのみ
その|身《み》に|保《たも》てる|一切《いつさい》の |事物《じぶつ》を|到《いた》る|先々《さきざき》へ
|持《も》ち|行《ゆ》き|活躍《くわつやく》すれば|也《なり》 |故《ゆゑ》に|死《し》すると|言《い》ふことは
|物質的《ぶつしつてき》の|形体《けいたい》の |死滅《しめつ》をいふに|過《す》ぎずして
|自己《じこ》|本来《ほんらい》の|生命《せいめい》を |決《けつ》して|失《うしな》ふものならず
|再《ふたた》び|神《かみ》の|意志《いし》に|由《よ》り |現世《げんせ》に|生《うま》れ|来《く》る|時《とき》は
|以前《いぜん》の|記憶《きおく》の|一切《いつさい》は |忘却《ばうきやく》さるるものなれど
こは|刑罰《けいばつ》の|一種《いつしゆ》にて |如何《いかん》ともする|術《すべ》はなし
|一度《いちど》|霊界《れいかい》へ|復活《ふつくわつ》し またもや|娑婆《しやば》に|生《うま》るるは
|神霊界《しんれいかい》より|見《み》る|時《とき》は |凡《すべ》て|不幸《ふかう》の|身魂《みたま》なり
|人《ひと》は|現世《げんせ》に|在《あ》る|間《うち》に |五倫五常《ごりんごじやう》の|道《みち》を|踏《ふ》み
|神《かみ》を|敬《うやま》ひ|世《よ》を|救《すく》ひ |神《かみ》の|御子《みこ》たる|天職《てんしよく》を
|竭《つく》しおかねば|死《し》して|後《のち》 |中有界《ちううかい》に|踏《ふ》み|迷《まよ》ひ
|或《あるひ》は|根底《ねそこ》の|地獄道《ぢごくだう》 |種々《いろいろ》|雑多《ざつた》の|苦《くる》しみを
|受《う》くるものぞと|覚悟《かくご》して |真《まこと》の|神《かみ》を|信仰《しんかう》し
|善《ぜん》を|行《おこな》ひ|美《び》を|尽《つく》し |人《ひと》の|人《ひと》たる|本分《ほんぶん》を
|力限《ちからかぎ》りに|努《つと》めつつ |永遠無窮《えいゑんむきう》の|天国《てんごく》へ
|楽《たの》しく|上《のぼ》り|進《すす》み|行《ゆ》く |用意《ようい》を|怠《おこた》ること|勿《なか》れ
|顕幽《けんいう》|一致《いつち》|生死《せいし》|不二《ふじ》 |軽生重死《けいせいぢうし》も|道《みち》ならず
|重生軽死《ぢうせいけいし》|亦《また》|悪《わる》し |刹那々々《せつなせつな》に|身魂《しんこん》を
|研《みが》き|清《きよ》めて|神界《しんかい》と |現実界《げんじつかい》の|万物《ばんぶつ》の
|大経綸《だいけいりん》の|神業《しんげふ》に |尽《つく》せよ|尽《つく》せよ|惟神《かむながら》
|神《かみ》のまにまに|述《の》べておく
大正十一年十一月十七日
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霊界物語 第一五巻 如意宝珠 寅の巻
終り