霊界物語 第一二巻 霊主体従 亥の巻
出口王仁三郎
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●テキスト中に現れる記号について
《》……ルビ
|……ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)天地|剖判《ぼうはん》の
[#]……入力者注
【】……傍点が振られている文字列
(例)【ヒ】は火なり
●シフトJISコードに無い文字は他の文字に置き換え、そのことをWebサイトに「相違点」として記した。
●底本
『霊界物語 第十二巻』愛善世界社
1995(平成07)年04月02日 第一刷発行
※現代では差別的表現と見なされる箇所もあるが修正はせずにすべて底本通りにした。
※図表などのレイアウトは完全に再現できるわけではないので適宜変更した。
※詳細な凡例は次のウェブサイト内に掲載してある。
http://www.onisavulo.jp/
※作成者…『王仁三郎ドット・ジェイピー』
2004年12月20日作成
2008年06月23日修正
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●目次
|序文《じよぶん》
|凡例《はんれい》
|総説歌《そうせつか》
第一篇 |天岩戸開《あまのいはとびらき》(一)
第一章 |正神邪霊《せいしんじやれい》〔四九七〕
第二章 |直会宴《なほらひのえん》〔四九八〕
第三章 |蚊取別《かとりわけ》〔四九九〕
第四章 |初蚊斧《はつかふ》〔五〇〇〕
第五章 |初貫徹《はつくわんてつ》〔五〇一〕
第六章 |招待《せうたい》〔五〇二〕
第七章 |覚醒《かくせい》〔五〇三〕
第二篇 |天岩戸開《あまのいはとびらき》(二)
第八章 |思出《おもひで》の|歌《うた》〔五〇四〕
第九章 |正夢《まさゆめ》〔五〇五〕
第一〇章 |深夜《しんや》の|琴《こと》〔五〇六〕
第一一章 |十二支《じふにし》〔五〇七〕
第一二章 |化身《けしん》〔五〇八〕
第一三章 |秋月滝《あきづきのたき》〔五〇九〕
第一四章 |大蛇ケ原《をろちがはら》〔五一〇〕
第一五章 |宣直《のりなほ》し〔五一一〕
第一六章 |国武丸《くにたけまる》〔五一二〕
第三篇 |天岩戸開《あまのいはとびらき》(三)
第一七章 |雲《くも》の|戸開《とびらき》〔五一三〕
第一八章 |水牛《すゐぎう》〔五一四〕
第一九章 |呉《くれ》の|海原《うなばら》〔五一五〕
第二〇章 |救《すく》ひ|舟《ぶね》〔五一六〕
第二一章 |立花嶋《たちばなじま》〔五一七〕
第二二章 |一嶋《ひとつじま》|攻撃《こうげき》〔五一八〕
第二三章 |短兵急《たんぺいきふ》〔五一九〕
第二四章 |言霊《ことたま》の|徳《とく》〔五二〇〕
第二五章 |琴平丸《ことひらまる》〔五二一〕
第二六章 |秋月《しうげつ》|皎々《かうかう》〔五二二〕
第二七章 |航空船《かうくうせん》〔五二三〕
第四篇 |古事記《こじき》|略解《りやくかい》
第二八章 |三柱《みはしら》の|貴子《みこ》〔五二四〕
第二九章 |子生《こうみ》の|誓《ちかひ》〔五二五〕
第三〇章 |天《あま》の|岩戸《いはと》〔五二六〕
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|序文《じよぶん》
|教祖《けうそ》|御筆先《おふでさき》と|霊界物語《れいかいものがたり》に|就《つい》て、|少《すこ》しく|所感《しよかん》を|述《の》べて|置《お》きます。
|抑《そもそ》も|教祖《けうそ》の|手《て》を|通《とほ》して|書《か》かれた|筆先《ふでさき》は、|到底《たうてい》|現代人《げんだいじん》の|智識《ちしき》や|学力《がくりよく》で|之《これ》を|解釈《かいしやく》する|事《こと》は|出来《でき》ぬものであります。|如何《いかん》となれば、|筆先《ふでさき》は|教祖《けうそ》が|霊眼《れいがん》に|映《えい》じた|瞬間《しゆんかん》の|過現未《くわげんみ》の|現象《げんしやう》や、|又《また》は|神々《かみがみ》の|言霊《ことたま》の|断片《だんぺん》を|惟神的《かむながらてき》に|録《ろく》したものですから、|一言一句《いちごんいつく》と|雖《いへど》もその|言語《げんご》の|出所《しゆつしよ》と|時《とき》と|位置《ゐち》とを|霊眼《れいがん》を|開《ひら》いて|洞観《どうくわん》せなくては、|其《その》|真相《しんさう》は|判《わか》るものではありませぬ。|之《これ》を|今日《こんにち》の|演劇《えんげき》に|譬《たとへ》て|見《み》れば、|艮《うしとら》の|金神《こんじん》の|筆先《ふでさき》の|名《な》の|許《もと》に、|塩谷《えんや》|判官《はんぐわん》|高貞《たかさだ》の|言語《げんご》もあれば、|高野《かうの》|師直《もろなほ》、|大星《おほほし》|由良之介《ゆらのすけ》、|大野《おほの》|九太夫《くだゆふ》、|千崎《せんざき》|弥五郎《やごらう》、|早野《はやの》|勘平《かんぺい》、お|軽《かる》、|大野《おほの》|定九郎《さだくらう》、|加古川《かこがは》|本蔵《ほんざう》、|桃井《もものゐ》|若狭之介《わかさのすけ》などの|役者《やくしや》が|各自《かくじ》に|台詞《せりふ》を|使《つか》ふのを、|由良之介《ゆらのすけ》は|由良之介《ゆらのすけ》|一人《ひとり》に|対《たい》する|台詞《せりふ》、|九太夫《くだゆふ》は|九太夫《くだゆふ》|一人《ひとり》のみの|台詞《せりふ》を|集《あつ》めたのが、|教祖《けうそ》の|筆先《ふでさき》であります。|所謂《いはゆる》|芝居《しばゐ》の|下稽古《したげいこ》の|時《とき》に、|各役者《かくやくしや》が|自分《じぶん》の|扮《ふん》すべき|役目《やくめ》の|台詞《せりふ》のみを|読《よ》み|覚《おぼ》ゆるための|抜書《ぬきがき》のやうなものであります。|故《ゆゑ》に、|実際《じつさい》の|霊界《れいかい》にある|神劇《しんげき》を|目撃《もくげき》したものでなければ、|筆先《ふでさき》を|批評《ひへう》する|事《こと》は|出来《でき》ませぬ。|例《たと》へば|大星《おほほし》|由良之介《ゆらのすけ》の|台詞《せりふ》の|筆先《ふでさき》を|見《み》れば、|実《じつ》に|感心《かんしん》も|為《な》し|忠臣《ちうしん》|義士《ぎし》の|模範《もはん》とする|事《こと》も|出来《でき》ますが、|之《これ》に|反《はん》して|九太夫《くだゆふ》の|台詞《せりふ》を|記《しる》した|筆先《ふでさき》を|見《み》る|時《とき》は、|実《じつ》に|嘔吐《おうど》を|催《もよほ》す|而已《のみ》ならず、|実《じつ》に|怪《け》しからぬ|筆先《ふでさき》に|見《み》えるのであります。|故《ゆゑ》に|神様《かみさま》は、|三千世界《さんぜんせかい》の|大芝居《おほしばゐ》であるぞよと、|筆先《ふでさき》に|書《か》いて|居《ゐ》られます。|其《その》|各自《かくじ》の|台詞書《せりふがき》を|集《あつ》めて、|一《ひと》つの|芝居《しばゐ》を|仕組《しぐ》むのが|緯《よこ》の|役《やく》であります。|故《ゆゑ》に|霊界物語《れいかいものがたり》は|筆先《ふでさき》の|断片的《だんぺんてき》なるに|反《はん》し、|忠臣蔵《ちうしんぐら》の|全脚本《ぜんきやくほん》とも|云《い》ふべきものであります。|筆先《ふでさき》の|中《なか》にも、|智恵《ちゑ》や|学《がく》では|此《この》|筆先《ふでさき》は|到底《たうてい》|判《わか》るもので|無《な》い、|因縁《いんねん》の|霊魂《みたま》に|神界《しんかい》の|実地《じつち》が|見《み》せてあるから、|其《その》|者《もの》と|直《なほ》とでなければ|筆先《ふでさき》の|精神《せいしん》は|判《わか》らぬぞよ、と|記《しる》してあるのを|見《み》ても|判《わか》りませう。|又《また》|時《とき》と|処《ところ》と|位置《ゐち》とに|因《よ》りて、|筆先《ふでさき》の|文句《もんく》に|異同《いどう》あるのも|当然《たうぜん》である。|軽々《かるがる》しく|筆先《ふでさき》は|人間《にんげん》の|論評《ろんぺう》すべきものではありませぬ。|筆先《ふでさき》は|決《けつ》して|純然《じゆんぜん》たる|教典《けうてん》ではありませぬ。
|要《えう》するに、|太古《たいこ》の|神々《かみがみ》の|活動《くわつどう》を|始《はじ》め、|現在《げんざい》|未来《みらい》の|神界《しんかい》の|活劇《くわつげき》を、|断片的《だんぺんてき》に|示《しめ》した|台詞《せりふ》|書《が》きに|過《す》ぎませぬ。|之《これ》を|一《ひと》つに|取《とり》まつめてその|真相《しんさう》を|劇化《げきくわ》して、|完全《くわんぜん》に|世人《せじん》に|示《しめ》す|様《やう》にするのが|霊界物語《れいかいものがたり》|編纂《へんさん》の|大使命《だいしめい》なのであります。|右様《みぎやう》の|性質《せいしつ》の|筆先《ふでさき》を|一所《いつしよ》に|集《あつ》めて、|神劇《しんげき》の|真相《しんさう》を|世《よ》に|発表《はつぺう》せむと|努力《どりよく》する|緯役《よこやく》の|苦心《くしん》をも|覚《さと》らずに、|緯役《よこやく》が|完全《くわんぜん》な|筆先《ふでさき》をワヤに|作《つく》りかへたなぞと|批評《ひひやう》する|人《ひと》は、|筆先《ふでさき》の|真《しん》の|価値《かち》なり|又《また》|神《かみ》の|御意志《ごいし》を|以《もつ》て、|自分《じぶん》の|意志《いし》と|同一《どういつ》に|見做《みな》した|人々《ひとびと》の|誤《あやま》りであります。|教祖《けうそ》の|書《か》かれた|筆先《ふでさき》(|台詞書《せりふがき》)の|九太夫《くだゆう》の|巻《まき》を|見《み》た|人《ひと》は、キツト|艮《うしとら》の|金神《こんじん》の|教《をしへ》は|悪《あく》であると|云《い》ふであらう。|由良之介《ゆらのすけ》の|台詞書《せりふがき》を|見《み》た|人《ひと》は、|定《さだ》めて|艮《うしとら》の|金神《こんじん》の|教《をしへ》を|立派《りつぱ》な|結構《けつこう》な|教《をしへ》であると|云《い》ふでありませう。この|台詞書《せりふがき》を|整理《せいり》して|立派《りつぱ》な|神劇《しんげき》を|組立《くみた》てた|上《うへ》、|始《はじ》めて|平民《へいみん》|教育《けういく》の|芝居《しばゐ》ともなり、バイブルともなるのであります。|九太夫《くだゆう》|一人《いちにん》の|台詞《せりふ》を|見《み》たり、|由良之介《ゆらのすけ》|一人《ひとり》の|台詞書《せりふがき》のみを|見《み》て、|善《ぜん》だの|悪《あく》だの|忠《ちう》だの|不忠《ふちう》だのと|批評《ひひやう》するのは、|批評《ひひやう》する|人《ひと》が|間違《まちが》つて|居《ゐ》るのであります。|故《ゆゑ》に|緯役《よこやく》は|大正《たいしやう》|十年《じふねん》|旧《きう》|九月《くぐわつ》|十八日《じふはちにち》、|教祖《けうそ》の|神霊《しんれい》の|御請求《ごせいきう》に|由《よ》つて、|病躯《びやうく》を|忍《しの》び|臥床《ぐわしやう》の|儘《まま》|霊界物語《れいかいものがたり》を|口述《こうじゆつ》することと|致《いた》しました。|然《しか》るに|霊界物語《れいかいものがたり》は|簡明《かんめい》を|欠《か》くとか、|冗長《じようちやう》にして|捕捉《ほそく》する|事《こと》が|出来《でき》ないとか、|複雑《ふくざつ》|之《これ》を|読《よ》むの|煩《はん》に|堪《た》へないとか、|神劇《しんげき》としても|俗化《ぞくくわ》して|居《ゐ》て|神威《しんゐ》を|冒涜《ばうとく》するものだとか、|甚《はなは》だしきは|緯役《よこやく》の|精神《せいしん》そのものの|発露《はつろ》だとか、|種々雑多《しゆじゆざつた》の|小言《こごと》を|聞《き》きますが、|緯役《よこやく》として|霊界物語《れいかいものがたり》を|口述《こうじゆつ》し|始《はじ》めたのは、|今迄《いままで》の|信徒《しんと》の|方々《かたがた》が|筆先《ふでさき》の|台詞書《せりふがき》|而《しか》も|九太夫《くだゆう》の|台詞《せりふ》を|真《まこと》の|神《かみ》の|教《をしへ》の|如《ごと》く|軽信《けいしん》された|結果《けつくわ》、|昨春《さくしゆん》の|様《やう》な|事件《じけん》を|突発《とつぱつ》する|様《やう》になつたのだから、|過失《くわしつ》を|再《ふたた》びせざらしめむとして、|病中《びやうちう》を|忍《しの》び|本物語《ほんものがたり》を|著述《ちよじゆつ》する|事《こと》に|成《な》つたのであります。|決《けつ》して|道楽《だうらく》や|物好《ものず》きでコンナ|事《こと》が|出来《でき》ませうか。
|馬琴《ばきん》は|二十八《にじふはち》|年間《ねんかん》を|費《つひや》して|八犬伝《はつけんでん》を|作《つく》りました。この|霊界物語《れいかいものがたり》は、|僅《わづ》かに|一年《いちねん》|足《た》らずの|間《あひだ》にて|口述《こうじゆつ》|日数《につすう》は|百五十日《ひやくごじふにち》、|而《しか》も|八犬伝《はつけんでん》の|三倍《さんばい》を|超過《てうくわ》して|居《ゐ》る|大部《たいぶ》なものであります。|何《いづ》れも|人間《にんげん》の|頭脳《づなう》の|産物《さんぶつ》でない|事《こと》は、|少《すこ》し|著述《ちよじゆつ》に|経験《けいけん》ある|文士《ぶんし》なれば|一目瞭然《いちもくれうぜん》たるべきものだと|考《かんが》へます。|又《また》|中《なか》には、|霊界物語《れいかいものがたり》は|神幽現《しんいうげん》|三界《さんかい》の|歴史《れきし》であつて、|家庭《かてい》の|宝典《ほうてん》たる|教化的《けうくわてき》|価値《かち》なきものだと|云《い》つて|居《ゐ》る|布教師《ふけうし》があるさうですが、|未《ま》だ|霊界物語《れいかいものがたり》を|読了《どくれう》せないからの|誤《あやま》りであります。|第一巻《だいいつくわん》より|第四巻《だいよんくわん》|迄《まで》|位《ぐらゐ》を|読《よ》むだ|人《ひと》は、|教訓的《けうくんてき》よりも|歴史的《れきしてき》|方面《はうめん》の|多《おほ》いものと|思惟《しゐ》されるのは|寧《むし》ろ|当然《たうぜん》だろうと|思《おも》ひます。|併《しか》し|霊界物語《れいかいものがたり》は|歴史《れきし》でもあり、|教訓《けうくん》でもあり、|教祖《けうそ》の|筆先《ふでさき》の|解説書《かいせつしよ》であり、|確言書《かくげんしよ》であり、|大神劇《だいしんげき》の|脚本《きやくほん》であります。この|物語《ものがたり》に|依《よ》らなければ、|教祖《けうそ》の|筆先《ふでさき》の|断片的《だんぺんてき》(|台詞書《せりふがき》)のみにては、|到底《たうてい》|神界《しんかい》の|御経綸《ごけいりん》と|御意志《ごいし》は|判《わか》るものでは|無《な》いのであります。
|霊界物語《れいかいものがたり》の|文句《もんく》の|中《なか》に、|一旦《いつたん》|帰幽《きいう》した|神人《しんじん》が|時代《じだい》|不相応《ふさうおう》の|後世《こうせい》まで|生《い》きて|居《ゐ》て|種々《しゆじゆ》の|活動《くわつどう》をしたり、|又《また》ヱルサレムの|都《みやこ》が|現今《げんこん》の|小亜細亜《せうアジア》の|土耳古《トルコ》であつたりするなどは、|現代人《げんだいじん》の|尤《もつと》も|疑《うたが》ひの|種《たね》を|蒔《ま》くものと|予期《よき》して|居《ゐ》ます。|併《しか》し|何《なに》を|謂《い》つても|数十万年前《すふじふまんねんぜん》の|物語《ものがたり》であり、|又《また》|霊界《れいかい》を|主《しゆ》として|口述《こうじゆつ》したのですから、|不審《ふしん》の|点《てん》は|沢山《たくさん》にあるでせう。|口述者《こうじゆつしや》|自身《じしん》に|於《おい》ても|不審《ふしん》、|不可解《ふかかい》の|点《てん》は|沢山《たくさん》ありませう。|筆先《ふでさき》と|霊界物語《れいかいものがたり》とは|経緯不離《けいゐふり》の|関係《くわんけい》にある|事《こと》を|考《かんが》へて|貰《もら》ひたい。また|今《いま》まで|発表《はつぺう》した|神諭《しんゆ》は、|由良之介《ゆらのすけ》や|千崎《せんざき》|弥五郎《やごらう》の|台詞《せりふ》のみを|教訓《けうくん》として|発表《はつぺう》したものであります。たまに|九太夫《くだゆふ》の|台詞《せりふ》のやうに|人《ひと》に|依《よ》つて|感《かん》じられる|点《てん》がある|様《やう》なのは、|其《その》|人《ひと》が|神劇《しんげき》の|全体《ぜんたい》を|見《み》て|居《ゐ》ないから|起《おこ》る|誤解《ごかい》であります。|由良之介《ゆらのすけ》でも|七段目《しちだんめ》の|茶屋場《ちややば》あたりでは、|一寸《ちよつと》|見《み》ると|九太夫式《くだゆふしき》の|言辞《げんじ》を|弄《ろう》してゐる。されど|彼《かれ》の|心中《しんちう》は|決《けつ》して|悪《あく》ではない。|緯役《よこやく》として|今《いま》まで|発表《はつぺう》した|神諭《しんゆ》を、|九太夫式《くだゆふしき》の|点《てん》がある|様《やう》に|解《かい》するのは、|霊界《れいかい》の|真相《しんさう》が|解《わか》らないからであります。|何《いづ》れも|緯役《よこやく》として|解決《かいけつ》の|着《つ》かない|様《やう》なものや、|悪言的《あくげんてき》の|筆先《ふでさき》は|決《けつ》して|発表《はつぺう》はして|居《ゐ》ませぬ。|精神《せいしん》のゆがみたる|人《ひと》が|見《み》たら|悪《わる》く|見《み》えるであらうが、|緯役《よこやく》として|神界《しんかい》の|実地《じつち》に|触《ふ》れ|根拠《こんきよ》ある|点《てん》のみを|選抜《せんばつ》して|神諭《しんゆ》とした|迄《まで》であります。|悪《わる》く|見《み》ゆるのは|神霊《しんれい》の|活劇《くわつげき》を|見《み》ないからであります。|故《ゆゑ》にその|蒙《もう》を|啓《ひら》くために、|本書《ほんしよ》を|発表《はつぺう》する|事《こと》となつたのであります。
|中《なか》には『|筆先《ふでさき》は|一字《いちじ》も|直《なほ》すことは|成《な》らぬぞよ』とあるのを|楯《たて》に|採《と》り、|緯役《よこやく》が|直《なほ》したのが|不都合《ふつがふ》だと|謂《い》つて|居《ゐ》る|人《ひと》がある。|是《これ》も|一《いち》を|聞《き》いて|二《に》を|知《し》らぬ|人《ひと》の|誤《あやま》りである。|変性女子《へんじやうによし》は|緯役《よこやく》だから|書《か》き|放題《はうだい》に|出口直《でぐちなほ》に|書《か》かしてあるから、|女子《によし》がよく|調《しら》べて|直《なほ》して|出《だ》して|下《くだ》さいと|示《しめ》してある。|是《これ》が|緯役《よこやく》としての|使命《しめい》である。『|一字《いちじ》も|直《なほ》す|事《こと》は|成《な》らぬぞよ』と|示《しめ》されたる|意義《いぎ》は、|変性女子《へんじやうによし》|以下《いか》の|当時《たうじ》の|筆記者《ひつきしや》に|対《たい》して|示《しめ》された|筆先《ふでさき》の|詞《ことば》である。|之《これ》と|混同《こんどう》して|緯役《よこやく》を|云々《うんうん》するのは|少《すこ》し|早計《さうけい》でありませう。
|凡例《はんれい》
一、|本巻《ほんくわん》の|巻尾《くわんび》に|収《をさ》められたる『|古事記《こじき》|略解《りやくかい》』は、|大正《たいしやう》|九年《くねん》|十月《じふぐわつ》|十五日《じふごにち》|東京《とうきやう》|婦人会《ふじんくわい》|発会式《はつくわいしき》の|席上《せきじやう》において、|瑞月《ずゐげつ》|聖師《せいし》が|御講演《ごかうえん》になつたもので『|天《あま》の|岩戸開《いはとびらき》』と|題《だい》して、|大正《たいしやう》|九年《くねん》の『|神霊界《しんれいかい》』|十一月号《じふいちぐわつごう》に|発表《はうぺう》されたものです。
一、|本巻《ほんくわん》の|口絵《くちゑ》『|蓄音器《ちくおんき》|吹込中《ふきこみちう》の|瑞月《ずゐげつ》|聖師《せいし》』に|就《つい》ての|詳《くは》しい|事《こと》は|第八章《だいはつしやう》の『|思出《おもひで》の|歌《うた》』を|参照《さんせう》して|下《くだ》さい。
大正十一年九月
編者
|総説歌《そうせつか》
|葦原《あしはら》の|瑞穂《みづほ》の|国《くに》の|中津国《なかつくに》  その|真秀良場《まほらば》や|青垣《あをがき》の
|山《やま》を|四方《しはう》にめぐらして  |流《なが》れも|清《きよ》き|小雲川《こくもがは》
|淵瀬《ふちせ》と|変《かは》る|世《よ》の|中《なか》は  めぐりめぐりて|二十四年《はたよとせ》
|地《ち》の|高天原《たかあまはら》も|治《をさ》まりて  |鬼《おに》の|姿《すがた》もみずのえの
|大蛇《をろち》|探女《さぐめ》も|戌《いぬ》の|春《はる》  |干支《えと》もめぐりて|如月《きさらぎ》の
|今日《けふ》の|八日《やうか》は|三《み》めぐりの  |月日《つきひ》の|車《くるま》|後《あと》にして
|梅《うめ》が|香《か》|薫《かを》る|月《つき》の|空《そら》  |高《たか》く|輝《かがや》く|瑞月《ずゐげつ》は
|八重黒雲《やへくろくも》につつまれて  |浮世《うきよ》のなやみ|覚《さと》りたる
|神《かみ》のめぐみの|幸《さち》はひて  |心《こころ》の|岩戸《いはと》|開《ひら》きつつ
|明《あく》れば|二月《にぐわつ》|九《ここの》つの  |日《ひ》は|西山《せいざん》に|傾《かたむ》きて
|月《つき》|照《て》る|夜半《よは》の|独寝《ひとりね》の  |夢《ゆめ》を|破《やぶ》りし|芙蓉山《ふようざん》
|神《かみ》の|使《つかひ》の|現《あら》みたま  |五六七《みろく》の|御代《みよ》を|松岡《まつをか》の
|使《つかひ》の|神《かみ》に|誘《いざな》はれ  |千歳《ちとせ》の|松《まつ》の|繁《しげ》り|合《あ》ふ
|堅磐《かきは》|常盤《ときは》の|巌窟《がんくつ》に  さしこもらひて|天地《あめつち》の
|神《かみ》の|教《をしへ》を|受継《うけつぎ》し  |名《な》も|高熊《たかくま》の|岩《いは》の|前《まへ》
|天津御空《あまつみそら》に|月照《つきてる》の  |神《かみ》はわが|身《み》を|照《てら》しつつ
|鎮魂《みたましづめ》や|帰神《かむがかり》  |審神《さには》の|道《みち》も|授《さづ》けられ
|現界《うつつ》、|神界《かみのよ》、|幽界《かくりよ》を  |産土神《うぶすながみ》に|伴《ともな》はれ
|須弥仙山《しゆみせんざん》に|攀《よ》ぢ|登《のぼ》り  |宇宙《うちう》の|外《そと》に|身《み》を|置《お》きて
|過去《くわこ》と|未来《みらい》と|現在《げんざい》の  |世《よ》の|状況《ありさま》を|悟《さと》りたる
|十二《じふに》の|干支《えと》も|三廻《みめぐ》りの  いよいよ|今日《けふ》は|村肝《むらきも》の
|心《こころ》|洗《あら》ひて|霊界《れいかい》の  |奇《く》しき|尊《たふと》き|語《かた》り|言《ごと》
|十二《じふに》の|干支《えと》に|因《ちな》みたる  |十二《じふに》の|巻《まき》の|筆始《ふではじ》め
|【松】《まつ》の|大本《おほもと》|神《かみ》の|【村】《むら》  |弥【仙】《みせん》の|山《やま》を|仰《あふ》ぎつつ(松村仙造)
|天地【造】化《てんちざうくわ》の|物語《ものがた》り  |月《つき》は|【外山】《とやま》の|頂《いただき》に(外山豊二)
|【豊二】《とよに》かがやき|【岩田】《いはた》かく  |夜《よ》も|【久方】《ひさかた》の|【太】御空《おほみそら》(岩田久太郎)
|隈《くま》|無《な》く|照《て》れる|【谷村】《たにむら》や  |【藤津久子】《ふじつひさこ》や|【高木氏】《たかきうぢ》(谷村真友・藤津久子・高木鉄男)
|【中野祝子】《なかのときこ》や|【武郷氏】《たけさとし》  |【真】《まこと》の|【友】《とも》の|寄《よ》り|合《あ》ひて(中野祝子・同武郷)
|神世《かみよ》に|進《すす》む|【加藤】《かとう》|時代《じだい》  |【新】月《しんげつ》|空《そら》に|【明】《あき》らけき(加藤新明)
|梅《うめ》の|花《はな》|咲《さ》く|今日《けふ》の|春《はる》  めぐりめぐりて|【北村】《きたむら》の(北村隆光)
|神《かみ》の|稜威《みいづ》は|【隆光】《たかひか》る  |本宮【山】《ほんぐうやま》の|【上】下《うへした》に(山上郁太郎)
|百花千華《ももはなちばな》|馥【郁】《ふくいく》と  |咲《さ》き|匂《にほ》ひたる|【太】元《おほもと》の
|神《かみ》の|教《をしへ》の|名【西】負《なにしお》ふ  |本宮【村】《ほんぐうむら》の|真秀良場《まほらば》に(西村徳治)
|神《かみ》の|御徳《みとく》もいやちこに  |清《きよ》く|治《をさ》まる|五六七《みろく》の|世《よ》
|松《まつ》の|常磐《ときは》の|心《こころ》もて  |神《かみ》の|教《をしへ》を|説《と》き|啓《ひら》く
|【松雲閣】《しよううんかく》の|奥《おく》の|間《ま》に  |厳《いづ》の|御魂《みたま》の|開《ひら》きたる(|松雲閣《しよううんかく》)
|神世《かみよ》を|経《たて》の|御教言《みのりごと》  うまらに|委曲《つばら》に|説《と》き|別《わ》くる
|錦《にしき》の|機《はた》の|緯糸《よこいと》の  |横《よこ》たはりつつ|緯《よこ》の|役《やく》
つとむる|今日《けふ》ぞ|芽出度《めでた》けれ。
大正十一壬戌年三月六日 旧二月八日
於松雲閣 王仁
第一篇 |天岩戸開《あまのいはとびらき》(一)
第一章 |正神邪霊《せいしんじやれい》〔四九七〕
|高天原《たかあまはら》の|神司《かむづかさ》  |神伊邪諾《かむいざなぎ》の|大神《おほかみ》の
|任《よさ》しのままに|海原《うなばら》に  |漂《ただよ》う|国《くに》を|治《をさ》めむと
|速須佐之男《はやすさのを》の|大神《おほかみ》は  |千々《ちぢ》に|心《こころ》を|悩《なや》ませつ
|御霊《みたま》|幸《さちは》ひましまして  |天津御空《あまつみそら》に|月照彦《つきてるひこ》の
|神《かみ》の|命《みこと》や|足真彦《だるまひこ》  |教《をしへ》を|四方《よも》に|弘子彦《ひろやすひこ》の
|神《かみ》の|命《みこと》を|遣《つか》はして  |大海原《おほうなばら》に|群集《うごなは》る
|百《もも》の|神人《かみびと》|言向《ことむ》けて  |直日《なほひ》の|道《みち》を|諭《さと》せども
まつらふ|神《かみ》は|少名彦《すくなひこ》  |豊国姫《とよくにひめ》の|活動《はたらき》も
|大海原《おほうなばら》の|潮沫《しほなは》と  なりて|消《き》え|行《ゆ》く|浅猿《あさま》しさ
|八束《やつか》の|髯《ひげ》は|胸先《むねさき》に  |長《なが》き|年月《としつき》|世《よ》を|憂《うれ》ひ
|神《かみ》を|思《おも》ひて|泣《な》き|給《たま》ふ  |荒《あら》|振《ぶ》る|神《かみ》の|訪《おとな》ひは
|五月蠅《さばへ》の|如《ごと》く|皆《みな》|湧《わ》きて  |万《よろづ》の|妖《わざは》ひ|悉《ことごと》く
むらがり|起《おこ》り|青山《あをやま》は  |枯山《かれやま》の|如《ごと》|泣《な》き|涸《から》し
|海河《うみかは》ことごと|泣《な》き|干《ほ》しぬ  |国治立《くにはるたち》の|大神《おほかみ》の
|心《こころ》を|千々《ちぢ》に|砕《くだ》かせつ  |固《かた》め|給《たま》ひし|海原《うなばら》の
|国《くに》の|八十国《やそくに》|八十島《やそしま》は  |日《ひ》の|出神《でのかみ》や|木《こ》の|花姫《はなひめ》の
|神《かみ》の|命《みこと》の|活動《はたらき》に  |一度《いちど》は|聖《きよ》く|平《たひら》けく
|浦安国《うらやすくに》と|治《をさ》まりて  |神人《かみびと》|歓《ゑら》ぎ|楽《たの》しみし
その|祥代《あらたよ》も|夢《ゆめ》の|間《ま》の  |夢《ゆめ》と|消《き》え|果《は》て|醜神《しこがみ》の
|伊猛《いたけ》り|狂《くる》ふ|世《よ》となりて  |天足《あだる》の|彦《ひこ》や|胞場姫《えばひめ》の
|魂《たま》より|出《い》でし|曲津神《まがつかみ》  |八岐大蛇《やまたをろち》や|曲狐《まがきつね》
|醜《しこ》の|枉鬼《まがおに》|八十曲津《やそまがつ》  |天《あめ》の|下《した》をば|縦横《たてよこ》に
|荒《すさ》び|疎《うと》びて|常暗《とこやみ》の  |世《よ》とは|復《ふたた》びなりにけり
|神素盞嗚《かむすさのを》の|大神《おほかみ》は  |地教《ちけう》の|山《やま》を|後《あと》にして
|魔神《まがみ》の|巣喰《すく》ふコーカスの  |峰《みね》に|現《あら》はれましまして
|正《ただ》しき|神《かみ》を|招集《よびつど》へ  |両刃《もろは》の|剣《つるぎ》|抜《ぬ》き|持《も》たし
|枉《まが》|言向《ことむ》けて|天《あめ》の|下《した》を  |浦安国《うらやすくに》と|平《たひ》らけく
|造《つく》り|成《な》さむと|思召《おぼしめ》し  |千座《ちくら》の|置戸《おきど》を|負《お》はせつつ
|世人《よびと》を|救《すく》ふ|瑞霊《みづみたま》  |深《ふか》き|恵《めぐ》みを|白瀬川《しらせがは》
|一《ひ》|二《ふ》|三《み》|四《よ》|五《いつ》つ|六《む》つの|瀑布《たき》  |心筑紫《こころつくし》や|豊《とよ》の|国《くに》
|磐樟彦《いはくすひこ》の|珍《うづ》の|御子《みこ》  |高光彦《たかてるひこ》や|玉光彦《たまてるひこ》
|国光彦《くにてるひこ》に|言依《ことよ》さし  |清《きよ》めますこそ|尊《たふと》けれ。
|常世彦《とこよひこ》の|後身《こうしん》なるウラル|彦《ひこ》は、|八岐大蛇《やまたをろち》の|霊《れい》に|憑依《ひようい》されて、|自《みづか》ら|盤古神王《ばんこしんわう》と|詐《いつは》りウラル|山《さん》に|立籠《たてこも》り|天《あめ》が|下《した》|四方《よも》の|国《くに》を|体主霊従《たいしゆれいじう》の|教《をしへ》に|帰順《きじゆん》せしめむとし、|百方《ひやつぱう》|心力《しんりよく》を|尽《つく》しつつあれども、ウラル|山《さん》に|接近《せつきん》せる|大江山《たいかうざん》に|鬼武彦《おにたけひこ》|数多《あまた》の|眷族《けんぞく》を|引伴《ひきつ》れて、|固《かた》く|守《まも》り|居《を》れば|流石《さすが》の|邪神《じやしん》も、|跋扈跳梁《ばつこてうりやう》するに|由《よし》なく、|一方《いつぱう》|常世姫《とこよひめ》の|後身《こうしん》ウラル|姫《ひめ》は|大気津姫《おほげつひめ》と|現《あら》はれて、アーメニアの|野《の》に|神都《しんと》を|開《ひら》き、|東西《とうざい》|相応《あひおう》じて|体主霊従《たいしゆれいじう》の|神策《しんさく》を|行《おこな》はむと、|数多《あまた》の|魔神《まがみ》を|使役《しえき》して|筑紫《つくし》の|島《しま》を|蹂躙《じうりん》し、|瀬戸《せと》の|海《うみ》、|呉《くれ》の|海《うみ》を|根拠《こんきよ》と|定《さだ》め、|縦横無尽《じうわうむじん》に|活躍《くわつやく》せむとしたるも、エルサレムの|旧都《きうと》に|在《あ》る|橄欖山《かんらんざん》(|一名《いちめい》|黄金山《わうごんざん》)|下《か》に|埴安彦神《はにやすひこのかみ》、|埴安姫神《はにやすひめのかみ》|現《あら》はれ|給《たま》ひて、|天教《てんけう》、|地教《ちけう》の|両山《りやうざん》と|共《とも》に|相《あひ》|呼応《こおう》し|麻柱《あななひ》の|教《をしへ》を|以《もつ》て|清《きよ》き|言霊《ことたま》を|詔《の》らせ|給《たま》へば、|流石《さすが》の|曲神《まがかみ》も|進退《しんたい》|維《こ》れ|谷《きは》まり、|第二《だいに》の|策源地《さくげんち》としてコーカス|山《ざん》に|根拠《こんきよ》を|定《さだ》めたりしが、|又《また》もや|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》の|為《ため》に|追《お》ひ|払《はら》はれ、|今《いま》は|殆《ほとん》ど|策《さく》の|施《ほどこ》す|所《ところ》なく、アーメニアの|都《みやこ》を|捨《す》て、|八百万《やほよろづ》の|曲神《まがかみ》は|四方《しはう》|八方《はつぱう》に|散乱《さんらん》し、|筑紫《つくし》の|島《しま》を|初《はじ》め|高砂島《たかさごじま》、|常世《とこよ》の|島《しま》、|豊秋津島《とよあきつしま》、|竜宮島《りゆうぐうじま》|等《とう》に|死物狂《しにものぐる》ひとなつて、|悪逆無道《あくぎやくぶだう》の|限《かぎ》りを|尽《つく》すこそ|歎《うた》てけれ。
|地上《ちじやう》は|復《ふたた》び|妖気《えうき》に|充《みた》され、|天日《てんじつ》|暗《くら》く、|邪気《じやき》|発生《はつせい》して|草木《さうもく》|色《いろ》を|失《うしな》ひ、|闘争《とうさう》|所々《しよしよ》に|起《おこ》り、|悪病《あくびやう》|蔓延《まんえん》し|復《ふたた》び|常世《とこよ》の|闇《やみ》と|一変《いつぺん》して、|諸神《しよしん》、|諸人《しよじん》の|泣《な》き|叫《さけ》ぶ|声《こゑ》は、|天地《てんち》に|充満《じうまん》するに|至《いた》れり。|然《しか》るに|悪神等《あくがみら》は、アーメニアを|死守《ししゆ》して|勢《いきほ》ひ|侮《あなど》るべからず、ウラル|山《さん》|又《また》|看過《かんくわ》すべからざる|形勢《けいせい》にあり。|変幻出没《へんげんしゆつぼつ》|極《きは》まり|無《な》き|魔神《まがみ》の|活躍《くわつやく》は、|日《ひ》に|月《つき》に|猛烈《まうれつ》となり|収拾《しうしふ》すべからざる|惨状《さんじやう》を|呈《てい》するに|至《いた》りたれば、|神素盞嗚大神《かむすさのをのおほかみ》は|大《おほい》に|之《これ》を|憂《うれ》ひ|給《たま》ひて、|母神《ははがみ》の|在《ま》します|月界《よみのくに》に|還《かへ》らむかとまで、|心《こころ》を|痛《いた》め|給《たま》ひつつありける。
あゝ|此《こ》の|闇黒《あんこく》の|世《よ》は|如何《いか》にして、|再《ふたた》び|元《もと》の|理想《りさう》の|神世《かみよ》に|復《かへ》るべき|道《みち》のあるべきや|心許《こころもと》なき|次第《しだい》なりける。
(大正一一・三・六 旧二・八 外山豊二録)
第二章 |直会宴《なほらひのえん》〔四九八〕
|千歳《ちとせ》の|老松《らうしよう》|雲表《うんぺう》に  |聳《そび》えて|高《たか》き|万寿山《まんじゆざん》
|堅磐《かきは》|常盤《ときは》の|松《まつ》の|世《よ》を  |知《しら》す|磐樟彦《いはくすひこ》の|神《かみ》
|花《はな》は|紅《くれなゐ》|葉《は》は|緑《みどり》  |花《はな》の|都《みやこ》の|緑《みどり》の|流《なが》れ
フサの|国《くに》をば|後《あと》にして  |聖地《せいち》を|越《こ》えて|茲《ここ》に|兄弟《きやうだい》|三人《さんにん》は
|住江《すみのえ》の|国《くに》を|跋渉《ばつせふ》し  イホの|都《みやこ》ものり|越《こ》えて
|愈《いよいよ》|筑紫《つくし》の|島《しま》に|着《つ》く  |心《こころ》つくしの|益良男《ますらを》が
|純世《すみよ》の|姫《ひめ》の|鎮《しづ》まりし  |其《その》|国魂《くにたま》を|清《きよ》めむと
|神《かみ》の|教《をしへ》を|白瀬川《しらせがは》  |一《ひ》|二《ふ》|三《み》|四《よ》|五《いつ》つ|六《む》つの|滝《たき》
|水音《みなおと》|高《たか》き|宣伝歌《せんでんか》  |歌《うた》ひ|歌《うた》ひて|進《すす》み|行《ゆ》く。
|高光彦《たかてるひこ》、|玉光彦《たまてるひこ》、|国光彦《くにてるひこ》の|三人《さんにん》は、イホの|都《みやこ》に|宣伝歌《せんでんか》を|歌《うた》ひながら|進《すす》み|行《ゆ》くのであつた。
|日《ひ》は|黄昏《たそが》れて|長《なが》き|春日《はるひ》の|旅《たび》に|疲《つか》れたる|三人《さんにん》は、とある|森林《しんりん》に|蓑《みの》を|敷《し》き、|露《つゆ》を|凌《しの》ぎ、|一夜《いちや》を|明《あ》かしけり。
|此処《ここ》には|小《ちひ》さき|国魂神《くにたまがみ》の|祠《ほこら》あり。|三人《さんにん》は|祠《ほこら》の|後《うしろ》に|身《み》を|横《よこ》たへ|眠《ねむ》つて|居《ゐ》ると、|夜半《よは》と|覚《おぼ》しき|頃《ころ》|大勢《おほぜい》の|人声《ひとごゑ》|聞《きこ》え|来《き》たり。|三人《さんにん》はこの|声《こゑ》に|目《め》を|醒《さ》まし、|耳《みみ》を|傾《かたむ》け、|其《その》|話《はなし》を|私《ひそ》かに|聞《き》き|居《ゐ》る。|群集《ぐんしふ》の|中《なか》より|一人《ひとり》の|男《をとこ》が|選《えら》ばれたるが、|祠《ほこら》の|前《まへ》に|立《た》ち|現《あら》はれ|灯火《とうくわ》を|献《けん》じ、|神酒《みき》を|捧《ささ》げ|何事《なにごと》か|祈願《きぐわん》を|籠《こ》め|終《をは》つて|直会《なほらひ》の|宴《えん》に|移《うつ》りしと|見《み》え、|人々《ひとびと》の|声《こゑ》は|刻々《こくこく》に|高《たか》くなり、|歌《うた》ふもの、|飲《の》むもの、|踊《をど》るもの、|泣《な》く、|笑《わら》ふ、|怒《いか》る、|種々《しゆじゆ》|様々《さまざま》の|活劇《くわつげき》が|演《えん》ぜられつつありける。
|三人《さんにん》は|祠《ほこら》の|蔭《かげ》より|床《ゆか》しげに|人々《ひとびと》の|話《はなし》を、|耳《みみ》を|澄《す》まし、|息《いき》を|殺《ころ》して|窺《うかが》ひ|居《ゐ》る。
|甲《かふ》『ヨウ、|酋長《しうちやう》さま、|御苦労《ごくらう》さまでしたが|神様《かみさま》は|何《なん》と|御告《おつ》げがありましたか』
|酋長《しうちやう》『|有《あ》つたでもなし、|無《な》かつたでもなし。マアマア|皆《みな》の|者《もの》が|心《こころ》を|一《ひと》つにして|善《ぜん》と|悪《あく》とを|弁《わきま》へ、|善《ぜん》の|方《はう》へ|進《すす》むより|仕方《しかた》がないなア』
|乙《おつ》『|膳飽《ぜんあく》と|云《い》つたつて、|此《この》|頃《ごろ》の|様《やう》に|百日《ひやくにち》|許《ばか》り|日天様《につてんさま》の|御顔《おかほ》もろくに|見《み》えず、お|月様《つきさま》は|曇《くも》り|勝《が》ちで|夜《よる》は|殆《ほと》ンど|真《しん》の|闇《やみ》、|昼《ひる》と|云《い》つた|処《ところ》が|今《いま》までの|朧月夜《おぼろつきよ》の|様《やう》なものだ。これでは|五穀《ごこく》も|実《みの》らず|果物《くだもの》は|皆《みな》|虫《むし》が|入《い》つて|食《く》へる|様《やう》になるまでにバタリと|地《ち》に|落《お》ちる。|病気《びやうき》は|彼方《あちら》|此方《こちら》に|起《おこ》る。|大勢《おほぜい》の|人間《にんげん》の|食《た》べる|米《こめ》はなし、|果物《くだもの》はなし、どうして|膳《ぜん》に|飽《あ》く|事《こと》が|出来《でき》るものか』
|甲《かふ》『オイ、|貴様《きさま》は|間違《まちが》つてゐるよ。|善《ぜん》と|云《い》へば|正直《しやうぢき》な|心《こころ》を|持《も》つて|神様《かみさま》を|敬《うやま》ひ、|我《わが》|身《み》を|捨《す》てても|人《ひと》の|為《た》めになる|事《こと》をするのだ。|悪《あく》といへばそれの|反対《はんたい》だよ』
|乙《おつ》『そんな|事《こと》は|三歳児《みつご》でも|知《し》つてるワイ。|善《よ》い|事《こと》をすれば|其《その》|時《とき》から|気分《きぶん》が|良《よ》くなる。|悪《わる》い|事《こと》をすれば|何《なん》となしに|気分《きぶん》が|悪《わる》い。|何物《なにもの》かに|叱《しか》られる|様《やう》な|心持《こころも》ちになつて|来《く》る。|然《しか》し|乍《なが》ら|肝腎《かんじん》の|生命《いのち》の|親《おや》の|食物《くひもの》がなくて、|可愛《かあい》い|女房《にようばう》や|子《こ》が、|骨《ほね》と|皮《かは》とに|痩衰《やせおとろ》へ|渇命《かつめい》に|及《およ》ばうとして|居《ゐ》るのに、これを|見乍《みなが》ら|何《ど》うして|人《ひと》の|事《こと》|処《どころ》か。どうしてもかうしても|利己主義《われよし》になるのは|止《や》むを|得《え》ぬぢやないか』
|甲《かふ》『そこを|辛抱《しんばう》して、|人《ひと》を|助《たす》けるのだ。それでなければ|善《ぜん》と|云《い》ふ|事《こと》が|出来《でき》ぬよ』
|乙《おつ》『さう|偉《えら》さうに|理窟《りくつ》を|云《い》ふのなら、|貴様《きさま》の|家《うち》の|倉《くら》をあけて|町中《まちぢう》の|者《もの》に|其《その》|米《こめ》を|施《ほどこ》してやつたらどうだい。|言《い》ふべくして|行《おこな》ふべからざる|善《ぜん》は|偽善《ぎぜん》だ。|貴様《きさま》は|飢《う》ゑた|味《あぢ》を|知《し》らぬからそんな|気楽《きらく》な|理窟《りくつ》や|大平楽《たいへいらく》を|並《なら》べるのだ。どうだ|善《ぜん》と|悪《あく》とが|解《わか》つたか』
|一同《いちどう》『|賛成々々《さんせいさんせい》。|初公《はつこう》の|云《い》ふ|通《とほ》りだ。|神様《かみさま》のお|言葉《ことば》|通《どほ》り|善悪《ぜんあく》を|立別《たてわ》けて|困《こま》つた|者《もの》を|助《たす》ける|様《やう》に、|春公《はるこう》さまの|倉《くら》を|開《あ》けて|町中《まちぢう》の|者《もの》に|善《ぜん》の|鑑《かがみ》を|出《だ》して|貰《もら》はうかい』
|春公《はるこう》『イヤ、|俺《おれ》も|皆《みな》の|者《もの》を|助《たす》けてやりたいと|思《おも》うて、|三杯《さんばい》|食《く》ふ|処《ところ》は|二杯《にはい》にして|貯《た》めてあるのだ。|然《しか》し|乍《なが》らこれは【まさか】の|時《とき》に|助《たす》ける|為《た》めだ。|未《ま》だ|俺《おれ》の|処《ところ》の|米《こめ》を|出《だ》して|町中《まちぢう》へ|分配《ぶんぱい》する|時期《じき》ではない。|今《いま》|出《だ》してやると、|誰《たれ》も|彼《かれ》も|宜《よ》い|気《き》になつて|毎日《まいにち》|日日《ひにち》|飲《の》み|食《く》ひに|耽《ふけ》り、|終《しま》ひには|喧嘩《けんくわ》|計《ばか》りする|様《やう》になつて、お|天道様《てんだうさま》に|冥加《みやうが》が|悪《わる》いから、|反《かへ》つて|善《ぜん》が|悪《あく》になると|俺《おれ》も|困《こま》るから、マアマア|働《はたら》ける|丈《だ》けは|働《はたら》いて、|愈《いよいよ》|世界《せかい》が|真暗《まつくら》がりになる|様《やう》な|事《こと》が|出《で》て|来《き》た|其《その》|時《とき》こそ、|世《よ》の|中《なか》は|相身《あひみ》|互《たがひ》ぢや。お|前達《まへたち》が|勝手《かつて》に|倉《くら》をあけて|食《く》ふ|様《やう》にする』
|丙《へい》『それも|一《ひと》つの|理窟《りくつ》だが|持《も》つとる|奴《やつ》は|穢《きたな》いものだ。|何《なん》の|彼《か》のと|理窟《りくつ》を|付《つ》けて|出《だ》し|惜《をし》みをするものだ。|末《すゑ》の|百《ひやく》より|今《いま》の|五十《ごじふ》と|云《い》ふ|事《こと》もある。|先《さき》になつて|善《ぜん》をするより|善《ぜん》は|急《いそ》げだ。|今《いま》の|内《うち》に|倉《くら》を|開《あ》け|放《はな》して|町中《まちぢう》を|助《たす》けたら、どれ|丈《だ》け|春公《はるこう》さまの|光《ひかり》が|輝《かがや》くか|知《し》れまい。ナア|春《はる》さま、|悪《わる》い|事《こと》は|云《い》はぬ、|人気《にんき》の|立《た》つた|時《とき》にホツ|放《ぽ》り|出《だ》すのだぜ。それがお|前《まへ》の|身《み》の|為《た》めだよ』
|春公《はるこう》『|皆《みな》の|人《ひと》|達《たち》、よう|考《かんが》へて|見《み》てくれ。|斯《こ》う|百日《ひやくにち》|余《あま》りも|日《ひ》は|照《て》らず、|闇《やみ》の|夜《よ》は|続《つづ》く。|山《やま》の|木《き》は|枯《か》れる、|毎日々々《まいにちまいにち》|地響《ぢひび》きはする、|病人《びやうにん》は|沢山《たくさん》|出来《でき》る、|先《さき》が|案《あん》じられて|仕方《しかた》がないぢやないか。|今《いま》の|間《うち》は、|木《き》の|葉《は》でも|根《ね》でも、|草《くさ》でも|噛《か》んで|生命《いのち》を|繋《つな》いで|置《お》くのだ。|木《き》の|葉《は》は|枯《か》れ、|地《ち》の|上《うへ》に|何一《なにひと》つ|食《く》ふ|物《もの》がなくなつた|時《とき》に|初《はじ》めて|倉《くら》をあけて、|米《こめ》や|麦《むぎ》や、|粟《あは》、|黍《きび》、|稗《ひえ》などを|搗《つ》いて|各自《めいめい》が|粥《かゆ》にでもして、|世界《せかい》の|大峠《おほたうげ》を|凌《しの》ぐ|様《やう》にしなくては|心細《こころぼそ》いからな』
|丁《てい》『|木《き》を|食《く》への、|草《くさ》を|食《く》へのと|余《あま》り|人間《にんげん》を|莫迦《ばか》にして|呉《く》れるな。|虫《むし》か|牛馬《ぎうば》か|何《な》ンぞの|様《やう》に|人間《にんげん》が|木《き》や|草《くさ》を|食《く》はれるものなら|誰《たれ》も|働《はたら》きはしない。ヘン、|余《あま》り|莫迦《ばか》にするな』
|春公《はるこう》『お|前達《まへたち》は、|難儀《なんぎ》だ!|困《こま》る!と|口々《くちぐち》に|悔《くや》んで|居《ゐ》るけれど、|毎日《まいにち》|酒《さけ》を|飲《の》み、|米《こめ》が|美味《うま》い、|味《あぢ》ないと|小言《こごと》|云《い》つてる|間《あひだ》は|駄目《だめ》だよ』
|初公《はつこう》『そンな|理窟《りくつ》は|止《や》めにして|不言実行《ふげんじつかう》が|大切《たいせつ》だ。|有《あ》る|者《もの》は|無《な》い|様《やう》な|顔《かほ》をするし、|無《な》い|者《もの》は|有《あ》る|様《やう》な|顔《かほ》をしたい|世《よ》の|中《なか》だ。|兎《と》も|角《かく》|酋長《しうちやう》さまに|明瞭《はつきり》と|神様《かみさま》に|伺《うかが》つて|貰《もら》つて、|春公《はるこう》の|倉《くら》を|開《あ》けたが|宜《よ》いか|開《あ》けぬがよいか|判断《はんだん》して|貰《もら》はう。モシモシ|酋長《しうちやう》さま、もう|一度《いちど》|神様《かみさま》に|右《みぎ》の|事《こと》を|伺《うかが》つて|下《くだ》さいな』
|酋長《しうちやう》『|神《かみ》の|言葉《ことば》に|二言《にごん》はない。|善悪《ぜんあく》をよく|弁《わきま》へて|正直《しやうぢき》にするが|一番《いちばん》だ』
|乙《おつ》『|酋長様《しうちやうさま》は|三五教《あななひけう》ですか、よう|善《ぜん》とか|悪《あく》とか|仰有《おつしや》いますな』
|酋長《しうちやう》『さうだ、|俺《おれ》は|三五教《あななひけう》だ。|此《こ》のイホの|人間《にんげん》は|八分《はちぶ》までウラル|教《けう》だから|秘《かく》して|居《を》つたが、もう|斯《か》うなつては|神様《かみさま》に|対《たい》して|畏《おそ》れ|多《おほ》いから、|明瞭《はつきり》と|三五教《あななひけう》だと|言明《げんめい》して|置《お》く。お|前達《まへたち》が|毎日《まいにち》|日日《ひにち》ウラル|教《けう》に|呆《はう》けて|仕事《しごと》もせずに|酒《さけ》|計《ばか》り|飲《の》んで、|利己主義《われよし》を|行《や》つて|世《よ》の|中《なか》を|曇《くも》らすものだから、|地《ち》の|上《うへ》は|一面《いちめん》に|邪気《じやき》が|発生《はつせい》し、|山《やま》は|枯《か》れる|河《かは》は|干《ひ》る、|五穀《ごこく》は|実《みの》らず|果物《くだもの》は|熟《じゆく》さず、|日月《じつげつ》の|光《ひかり》も|黒雲《くろくも》につつまれて|皆《みな》|見《み》えぬ|様《やう》な|世《よ》の|中《なか》になつて|了《しま》ふたのだ。それでもまだ|改心《かいしん》が|出来《でき》ねば、どんな|事《こと》が|出《で》て|来《く》るか|分《わか》つたものぢやない。ちつとは|俺《おれ》の|云《い》ふ|事《こと》も|聞《き》いて|貰《もら》ひたい。お|前達《まへたち》の|為《ため》だ。|酋長《しうちやう》は|床《とこ》の|置物《おきもの》だとか|云《い》つて、|何時《いつ》も|俺《おれ》を|莫迦《ばか》|扱《あつか》ひして|聞《き》いて|呉《く》れぬものだから、|天地《てんち》の|神様《かみさま》が|吾々《われわれ》を|戒《いまし》める|為《た》めにこんな|常闇《とこやみ》の|世界《せかい》を|現《あら》はしなさつたのだ。もう|今日《けふ》|限《かぎ》り|今《いま》までの|悪《わる》い|精神《せいしん》を|立替《たてか》へて|善《ぜん》に|立帰《たちかへ》りますと|此《この》|神前《しんぜん》で|誓《ちか》つてくれ』
|初公《はつこう》『ヨシ|分《わか》つた。|酋長《しうちやう》と|春公《はるこう》とは|腹《はら》を|合《あは》せて|神様《かみさま》を|楯《たて》に、|自分《じぶん》|計《ばか》り|安楽《あんらく》に|暮《くら》して、|俺達《おれたち》の|苦《くる》しむのを|高見《たかみ》から|見物《けんぶつ》すると|云《い》ふ|悪《わる》い|量見《りやうけん》だナ。オイ|皆《みな》の|奴《やつ》、|酋長《しうちやう》と|春公《はるこう》の|首《くび》ツ|玉《たま》を|抜《ぬ》くのだ。ヤイヤイ|酒《さけ》に|喰《くら》ひ|酔《よ》うて、|吠《ほえ》たり|笑《わら》つたりして|居《を》る|場合《ばあひ》ぢやないぞ。|俺達《おれたち》の|一身上《いつしんじやう》に|関《くわん》する|大問題《だいもんだい》だぞ』
と|呶鳴《どな》り|付《つ》ける。|一同《いちどう》は|初公《はつこう》の|号令《がうれい》の|下《もと》に|立《た》ち|上《あが》り、|酋長《しうちやう》と|春公《はるこう》を|目《め》がけて|各自《てんで》に|棍棒《こんぼう》を|打《う》ち|振《ふ》り|乍《なが》ら、|四方《しはう》|八方《はつぱう》より|酒《さけ》の|機嫌《きげん》で|打《う》つて|掛《かか》る。|嗚呼《ああ》この|結果《けつくわ》は|如何《いか》に|治《をさ》まらむとするか。
(大正一一・三・六 旧二・八 藤津久子録)
第三章 |蚊取別《かとりわけ》〔四九九〕
イホの|都《みやこ》の|町《まち》|外《はづ》れ、|国魂《くにたま》の|祠《ほこら》の|森《もり》に|集《あつ》まりたる|群集《ぐんしふ》は、|直会《なほらひ》の|神酒《みき》に|酔《よ》ひ、|終《つひ》に|酋長《しうちやう》および|春公《はるこう》に|向《むか》つて、|棍棒《こんぼう》を|振《ふ》つて|四方《しはう》より|飛《と》びかからむとする|其《その》|時《とき》しも、|闇《やみ》を|透《す》かして|宣伝歌《せんでんか》|聞《きこ》え|来《き》たる。
『|神《かみ》が|表《おもて》に|現《あら》はれて  |善《ぜん》と|悪《あく》とを|立別《たてわ》ける
|此《この》|世《よ》を|造《つく》りし|神直日《かむなほひ》  |心《こころ》も|広《ひろ》き|大直日《おほなほひ》
|唯《ただ》|何事《なにごと》も|人《ひと》の|世《よ》は  |直日《なほひ》に|見直《みなほ》せ|聞《き》き|直《なほ》せ
|身《み》の|過《あやまち》は|宣《の》り|直《なほ》せ』
と|声《こゑ》も|朗《ほがら》かに|唄《うた》ひながら、|群集《ぐんしふ》の|中《なか》に|悠々《いういう》として|進《すす》み|来《く》る|一人《ひとり》の|宣伝使《せんでんし》、|篝火《かがりび》に|照《てら》されて、|茹章魚《ゆでだこ》の|様《やう》な|赭《あか》い|顔《かほ》に|禿頭《はげあたま》、|腰《こし》つき|可笑《をか》しく|其《その》|前《まへ》に|現《あら》はれ、|又《また》もや|以前《いぜん》の|宣伝歌《せんでんか》を|繰返《くりかへ》すのであつた。|初公《はつこう》は|大《おほい》に|怒《いか》り、
|初公《はつこう》『コラ、|何処《どこ》の|奴《やつ》か|知《し》らぬが、|善《ぜん》も|悪《あく》も|有《あ》つたものかい。|章魚《たこ》の|様《やう》な|面付《つらつき》しやがつて|何《なん》だツ。|折角《せつかく》の|我々《われわれ》の|面白《おもしろ》い|酒宴《さかもり》に|茶々《ちやちや》|入《い》れるのか。サア、マ|一遍《いつぺん》|吐《ほざ》いて|見《み》ろ、|量見《りやうけん》ならぬぞ』
と|右《みぎ》の|肩《かた》を|無理《むり》に|聳《そび》やかし、|凹目《おちめ》をギロつかせ、ヒヨロリ、ヒヨロリと|宣伝使《せんでんし》の|前《まへ》に|現《あらは》れ、ウンと|許《ばか》りに|突《つ》き|当《あた》つた。|宣伝使《せんでんし》は|体《たい》を|躱《かは》し、
|宣伝使《せんでんし》『ヤア、お|前《まへ》さんは|此《この》|町《まち》のお|方《かた》と|見《み》えるが、お|酒《さけ》は|余《あま》り|上《あが》らぬが|良《よ》からう』
|初公《はつこう》『ナヽ|何《なん》だツ。お|酒《さけ》を|上《あが》ろと|上《あが》るまいと、|放《ほ》つときやがれ。|何《なに》も|貴様《きさま》の|酒《さけ》を|飲《の》むだのでもなし、|俺《おれ》の|酒《さけ》を|俺《おれ》が|勝手《かつて》に|飲《の》むだのだ。|此《この》|辛《から》い|時節《じせつ》に、|自分《じぶん》の|酒《さけ》|迄《まで》かれこれ|云《い》はれてたまるかい。|貴様《きさま》は|何処《どこ》の|馬鹿者《ばかもの》だ。オイオイ|皆《みな》の|奴《やつ》、|此奴《こいつ》は|三五教《あななひけう》だぞ。|酋長《しうちやう》も|春公《はるこう》も|同腹《どうはら》だ。|二人《ふたり》|叩《たた》くも|三人《さんにん》|叩《たた》くも|同《おな》じ|事《こと》だ。|此奴《こいつ》が|親分《おやぶん》らしい。|是《これ》から|先《さき》へ、|畳《たた》ンだ、|畳《たた》ンだ』
|宣伝使《せんでんし》『|朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも  |月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも
|仮令《たとへ》|大地《だいち》は|沈《しづ》むとも  |誠《まこと》の|力《ちから》は|世《よ》を|救《すく》ふ
|救《すく》ひの|神《かみ》の|御教《みをしへ》に  |心《こころ》を|覚《さま》せ|目《め》を|醒《さま》せ
|黒雲《くろくも》|四方《よも》に|塞《ふさ》がりて  |黒白《あやめ》も|分《わか》ぬ|闇《やみ》の|夜《よ》に
|人《ひと》の|心《こころ》を|照《てら》さむと  |神《かみ》の|御言《みこと》を|畏《かしこ》みて
|朝《あさ》な|夕《ゆふ》なに|山河《やまかは》を  |渡《わた》りて|此処《ここ》にイホの|森《もり》
|人声《ひとごゑ》|高《たか》しと|来《き》て|見《み》れば  |初《はじ》めて|会《あ》つた|初彦《はつひこ》が
|酒《さけ》の|機嫌《きげん》で|熱《ねつ》を|吹《ふ》く  |吹《ふ》くは|吹《ふ》くは|法螺《ほら》の|貝《かひ》
|二百十日《にひやくとをか》ぢやなけれども  |吹《ふ》いたる|後《あと》は|良《よ》くないぞ
|早《はや》く|静《しづ》まれ|風《かぜ》の|神《かみ》  |弱《よわ》い|奴《やつ》ぢやと|附《つ》け|込《こ》みて
|肩臂《かたひぢ》|怒《いか》らす|可笑《をか》しさよ  |酒《さけ》を|飲《の》むのはよけれども
|酒《さけ》に|飲《の》まれた|初公《はつこう》の  その|足附《あしつき》は|何事《なにごと》ぞ
|恰《あたか》も|家鴨《ひる》の|火事《くわじ》|見舞《みまひ》  |腰《こし》はフナフナ|目《め》クルクル
|今《いま》に|心《こころ》を|直《なほ》さねば  |天地《てんち》は|暗《くら》く|揺《ゆ》り|動《うご》き
|五穀《ごこく》|実《みの》らず|果物《くだもの》も  |残《のこ》らず|虫《むし》に|落《おと》されて
|眩暈《めまひ》が|来《く》るは|目《ま》の|当《あた》り  |頭《あたま》を|土《つち》に|足上《あしうへ》に
のたくり|苦《くるし》む|憐《あは》れさを  |誠《まこと》の|神《かみ》は|見捨《みす》て|兼《か》ね
コーカス|山《ざん》に|現《あらは》れて  |此《この》|世《よ》を|照《てら》す|朝日子《あさひこ》の
|日《ひ》の|出神《でのかみ》の|御教《みをしへ》を  |天地《あめつち》|四方《よも》に|宣《の》べ|玉《たま》ふ
アヽ|人々《ひとびと》よ|人々《ひとびと》よ  |一日《ひとひ》も|早《はや》く|速《すむや》けく
|酒《さけ》に|腐《くさ》りし|腸《はらわた》を  |天《あめ》の|真奈井《まなゐ》の|玉水《たまみづ》に
|洗《あら》つて|神《かみ》の|御為《おんため》に  |誠《まこと》を|尽《つく》せ|皆《みな》|尽《つく》せ
|三五教《あななひけう》は|世《よ》を|救《すく》ふ  |救《すく》ひの|船《ふね》は|今《いま》|此処《ここ》に
|我《われ》も|昔《むかし》は|自在天《じざいてん》  |大国彦《おほくにひこ》に|使《つか》はれて
あらぬ|罪《つみ》をば|作《つく》りたる  |曲津《まがつ》の|神《かみ》の|住《すみ》の|家《いへ》
|腸《はら》を|腐《くさ》らす|酒《さけ》|好《この》み  |瓢《ひさご》を|腰《こし》にブラ|下《さ》げて
ウラルの|教《をしへ》を|開《ひら》きつつ  |生血《なまち》を|絞《しぼ》りし|蚊取別《かとりわけ》
わけて|尊《たふと》き|朝日子《あさひこ》の  |日《ひ》の|出神《でのかみ》に|救《すく》はれて
|心《こころ》も|魂《たま》も|澄《す》み|渡《わた》り  |筑紫《つくし》の|島《しま》の|守《まも》り|神《がみ》
|純世《すみよ》の|姫《ひめ》の|神使《かむづかひ》  |悪《あく》を|退《しりぞ》け|善《ぜん》に|附《つ》き
|身《み》の|罪科《つみとが》を|天地《あめつち》に  |謝罪《あやま》り|悔《く》いて|元津祖《もとつおや》
|神《かみ》の|賜《たま》ひし|真心《まごころ》に  |一日《ひとひ》も|早《はや》く|帰《かへ》れかし
|畏《かしこ》き|神《かみ》の|御教《みをしへ》は  |水《みづ》を|洩《も》らさぬ|三五教《あななひけう》
あな|有難《ありがた》や|尊《たふと》しと  |共《とも》に|手《て》を|拍《う》ち|皇神《すめかみ》を
|称《たた》へまつれよ|百人《ももびと》よ』
|初公《はつこう》『|何《なん》だ、ベラベラと|気楽《きらく》さうに、|訳《わけ》も|分《わか》らぬ|事《こと》を|吐《ほざ》きやがつて、それほど|酒《さけ》が|喰《くら》ひたいのか、|喰《くら》ひたければ|此処《ここ》に|燗冷《かんざま》しがある。|是《これ》でも|一杯《いつぱい》|喰《くら》つて、もう|一切《ひとき》り|歌《うた》つて|呉《く》れ。|貴様《きさま》の|姿《すがた》は|気《き》に|入《い》らぬが、|声《こゑ》と|歌《うた》が|気《き》に|入《い》つた。サア、この|燗冷《かんざま》しでもグツと|飲《の》むで、もう|一切《ひとき》り|歌《うた》つたり|歌《うた》つたり』
|蚊取別《かとりわけ》『イヤ、|私《わたくし》は|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》、|神様《かみさま》の|神酒《おみき》は|戴《いただ》きますが、|皆様《みなさま》の|飲《の》みふるした|余《あま》り|酒《ざけ》は、|平《ひら》に|御免《ごめん》を|蒙《かうむ》ります』
|初公《はつこう》『ナヽ|何《なに》を|吐《ぬか》しやがるのだ。ド|乞食《こじき》|奴《め》が、|贅沢《ぜいたく》を|云《い》ふな。|貴様《きさま》の|様《やう》な|贅沢《ぜいたく》な|奴《やつ》が、|此《この》|世《よ》の|中《なか》にうろつくものだから、|春公《はるこう》の|奴《やつ》、|沢山《たくさん》に|米《こめ》や|酒《さけ》を|倉《くら》にウンと|持《も》つて|居《ゐ》やがつて、まだ|御前《おまへ》らは|贅沢《ぜいたく》なとか、|世《よ》の|中《なか》が|其処《そこ》まで|行詰《ゆきつ》まつて|居《を》らぬから、|倉《くら》を|開《ひら》くは|早《はや》いとか|吐《ほざ》きやがるのだ。|悪《わる》い|智慧《ちゑ》をつけよつて、|量見《りやうけん》ならぬぞ』
|蚊取別《かとりわけ》『それは|大変《たいへん》な|間違《まちがひ》です。|我々《われわれ》は|贅沢《ぜいたく》を|戒《いまし》めに|歩《ある》いて|居《を》るもの、|聞《き》き|違《ちが》つて|貰《もら》つては|困《こま》りますよ』
|群集《ぐんしふ》の|中《なか》より|又《また》もや|一人《ひとり》の|泥酔者《よひどれ》が、|行歩蹣跚《かうほまんさん》として|此《この》|場《ば》に|現《あらは》れ|来《きた》り、
|男《をとこ》『コラコラ、|初公《はつこう》、コンナ|奴《やつ》に|相手《あひて》になつて|居《を》るものだから、|肝腎《かんじん》の|酋長《しうちやう》や|春公《はるこう》の|奴《やつ》、|知《し》らぬ|間《ま》に|逃《に》げて|仕舞《しま》ひよつたぢやないか』
|初公《はつこう》『ヨウさうだ。|風《かぜ》を|喰《くら》つて|逃《に》げ|失《う》せたか。イヤ、ナニ、|彼奴《あいつ》の|家《うち》へこれから|押《お》しかけて|行《い》かう。|小《ちひ》さくなつて、|倉《くら》の|中《なか》へ|逃込《にげこ》むで、|鼠《ねずみ》の|様《やう》に|俵《たはら》に|喰《く》ひ|附《つ》いて|居《ゐ》やがるだらう。サアサア|是《これ》から|春公《はるこう》|征伐《せいばつ》だ。|酋長《しうちやう》も|巻添《まきぞへ》だ』
|蚊取別《かとりわけ》|声《こゑ》を|張《は》り|上《あ》げて、
『ヤア、|皆《みな》の|方々《かたがた》しばらく|御待《おま》ちなされ。|我々《われわれ》が|申上《まをしあ》げたい|事《こと》がある。キツト|悪《わる》い|事《こと》は|云《い》はぬ。|御聞《おきき》きになつたが|皆様《みなさま》の|為《ため》だらう』
|初公《はつこう》『エー、|何《なに》を|愚図々々《ぐづぐづ》|云《い》やがるのだ。|此《この》|棒《ぼう》で|貴様《きさま》の|頭《どたま》を|蚊取別《かんとりわけ》と|胴突《どうづ》いてやらうか、|貴様《きさま》は|燗冷《かんざま》しは|嫌《きら》ひだと|吐《ほざ》きやがつた。|何《なん》ぼ|燗取酒《かんとりざけ》でも、こンな|処《とこ》で|立派《りつぱ》な|燗酒《かんざけ》が|飲《の》めると|思《おも》ふか。|冷酒《ひやざけ》でも|結構《けつこう》だのに、|何《なに》を|不足《ふそく》さうに|愚図々々《ぐづぐづ》|云《い》ふのだい。オイオイ|皆《みな》の|連中《れんちう》、|行《ゆ》け|行《ゆ》け、|春公《はるこう》の|家《うち》へ』
|蚊取別《かとりわけ》は|声《こゑ》も|涼《すず》しく|天《あま》の|数歌《かずうた》を|歌《うた》ひ、|最後《さいご》にウンと|群集《ぐんしふ》に|向《むか》つて|霊《れい》を|送《おく》つた。|初公《はつこう》、|斧公《をのこう》の|二人《ふたり》は|化石《くわせき》の|様《やう》になつて、|其《その》|場《ば》でピタリと|倒《たふ》れた。|群集《ぐんしふ》は|口《くち》を|開《あ》けたまま、|手《て》を|振《ふ》り|上《あ》げたまま、|足《あし》を|踏《ふ》んばつたまま、|立《たち》かけたまま、|千種万態《せんしゆばんたい》、|化石《くわせき》の|様《やう》になつて、|目《め》ばかりギロギロと|動《うご》かし|居《ゐ》る。|此《この》|時《とき》|祠《ほこら》の|後《うしろ》より、
『|神《かみ》が|表《おもて》に|現《あら》はれて  |善《ぜん》と|悪《あく》とを|立《た》て|別《わけ》る
|家《いへ》を|破《やぶ》るも|酒《さけ》のため  |喧嘩《けんくわ》をするも|酒《さけ》のため
|泣《な》くも|怒《おこ》るも|酒《さけ》の|為《ため》  |酒《さけ》|程《ほど》|悪《わる》い|奴《やつ》は|無《な》い
|蚊取《かとり》の|別《わけ》の|宣伝使《せんでんし》  |今《いま》や|此《この》|場《ば》に|現《あらは》れて
|酒《さけ》に|狂《くる》へる|里人《さとびと》を  |各々《おのもおのも》に|霊《たま》|縛《しば》り
アヽ|勇《いさ》ましや|勇《いさ》ましや  |神《かみ》の|力《ちから》はまのあたり
|四辺《あたり》|輝《かがや》く|篝火《かがりび》に  |照《てら》して|見《み》れば|三五《あななひ》の
|神《かみ》の|教《をしへ》を|伝《つた》へ|行《ゆ》く  |雄々《をを》しき|姿《すがた》の|一人旅《ひとりたび》
|心《こころ》も|堅《かた》き|磐樟彦《いはくすひこ》の  |神《かみ》の|命《みこと》の|三柱《みはしら》|御子《みこ》の
|高光彦《たかてるひこ》や|玉光彦《たまてるひこ》  |国光彦《くにてるひこ》の|宣伝使《せんでんし》
|君《きみ》の|勲《いさを》を|覗《すか》し|見《み》て  |心《こころ》の|底《そこ》より|愛《め》でまつる
アヽ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |御霊《みたま》|幸《さちは》ひましませよ』
と|歌《うた》ひ|乍《なが》ら|三人《さんにん》の|宣伝使《せんでんし》は|蚊取別《かとりわけ》の|前《まへ》へ|粛々《しゆくしゆく》として|現《あらは》れ|来《き》たる。
(大正一一・三・六 旧二・八 岩田久太郎録)
第四章 |初蚊斧《はつかふ》〔五〇〇〕
|三柱《みはしら》の|宣伝使《せんでんし》は|蚊取別《かとりわけ》の|立《た》てる|前《まへ》に|現《あらは》れ、
|高光彦《たかてるひこ》『ヤ、これはこれは|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》|蚊取別《かとりわけ》|様《さま》とやら、|初《はじ》めてお|目《め》にかかります。|御高名《ごかうめい》は|父《ちち》から|承《うけたま》はりました。|神様《かみさま》の|御引合《おひきあは》せ、|思《おも》はぬ|所《ところ》でお|目《め》にかかりました』
|蚊取別《かとりわけ》『ヤア、|貴神《あなた》|等《がた》が|万寿山《まんじゆざん》の|磐樟彦命《いはくすひこのみこと》の|御子《おこ》|達《たち》ですか。|神国《しんこく》の|為《ため》に|御苦労《ごくらう》で|御座《ござ》います。あなた|方《がた》は|是《これ》から|何《いづ》れの|方面《はうめん》にお|越《こ》しのお|考《かんが》へですか』
『ハイ|我々《われわれ》はイホの|都《みやこ》を|越《こ》えて、|筑紫島《つくしじま》、|豊《とよ》の|国《くに》の|白瀬川《しらせがは》の|滝《たき》に|魔神《まがみ》が|潜《ひそ》むで|災害《わざはひ》をなすと|聞《き》き、|言向和《ことむけやは》す|為《ため》に|参《まゐ》る|途中《とちう》で|御座《ござ》います』
|蚊取別《かとりわけ》『それは|結構《けつこう》ですナ。|白瀬川《しらせがは》には|六箇《ろくこ》の|大瀑布《だいばくふ》があつて、そこには|悪竜《あくりう》|悪蛇《あくだ》が|棲処《すみか》を|構《かま》へ、|八頭八尾《やつがしらやつを》の|大蛇《をろち》と|気脈《きみやく》を|通《つう》じて、|此《この》|通《とほ》り|天《てん》を|曇《くも》らせ、|地《ち》を|汚《けが》して|居《を》るといふ|事《こと》、|私《わたし》も|一旦《いつたん》|黄金山《わうごんざん》に|帰《かへ》り、|附近《ふきん》の|地《ち》を|宣伝《せんでん》して|居《ゐ》ましたが、|今度《こんど》は|長駆《ちやうく》して|白瀬川《しらせがは》の|魔神《まがみ》を|退治《たいぢ》る|積《つも》りで、|此処《ここ》|迄《まで》やつて|来《き》た|途中《とちう》、|見《み》れば、|前方《ぜんぱう》に|炬火《たいまつ》の|光《ひかり》、|人《ひと》の|叫《さけ》び|声《ごゑ》、|合点《がつてん》|行《ゆ》かずと|宣伝歌《せんでんか》を|歌《うた》ひながら|走《はし》つて|来《き》て|見《み》れば、|豈《あに》|図《はか》らむや、|御覧《ごらん》の|通《とほ》り|立派《りつぱ》な|人形《にんぎやう》の|陳列会《ちんれつくわい》、|何処《どこ》の|技師《ぎし》が|作《つく》つたものか|知《し》りませぬが、よくも|出来《でき》たものです。おまけに|此《この》|人形《にんぎやう》は|別《べつ》に|仕掛《しかけ》はない|様《やう》ですが、|目《め》の|玉《たま》を|動《うご》かし、|涙《なみだ》をこぼし、つひ|最前《さいぜん》までは、|酒《さけ》を|喰《く》ふ|法螺《ほら》をふく、|歌《うた》を|唄《うた》ふといふ|妙《めう》な|人形《にんぎやう》です』
|三人《さんにん》『アハヽヽヽ』
|蚊取別《かとりわけ》『|皆《みな》さまどうでせう。|一々《いちいち》この|人形《にんぎやう》に|魂《たましひ》を|入《い》れて、ものを|言《い》はせ、|立派《りつぱ》に|立働《たちはたら》く|様《やう》にやつて|見《み》ませうか。きつと|三五教《あななひけう》の|教《をしへ》に|帰順《きじゆん》する|様《やう》になるでせう』
|高光彦《たかてるひこ》『|我々《われわれ》は|万寿山《まんじゆざん》を|立出《たちい》てより、まだ|一回《いつくわい》も|宣伝《せんでん》を|試《こころ》みた|事《こと》はありませぬ。|何分《なにぶん》にも|沙漠《さばく》や|野原《のはら》ばかりを|渡《わた》つて|来《き》たものですから………』
|蚊取別《かとりわけ》『|私《わたし》が|一寸《ちよつと》|手本《てほん》を|出《だ》しますから|手伝《てつだ》つて|下《くだ》さい』
といひ|乍《なが》ら、|化石《くわせき》の|様《やう》になつた|人々《ひとびと》の|前《まへ》に|坐《すわ》り|込《こ》み、
『サアサア|人形《にんぎやう》さま、お|前《まへ》は|目《め》ばかり|動《うご》かして|居《を》るが、|今《いま》|口《くち》を|動《うご》く|様《やう》にしてやる。|私《わし》の|言《い》ふ|通《とほ》りに|云《い》ふのだよ……ウンよしよし、|承知《しようち》か、|頷《うなづ》いて|居《を》るナ……|神《かみ》が|表《おもて》に|現《あら》はれて』
|初《はつ》、|口《くち》をモジヤモジヤさせ|乍《なが》ら、
|初公《はつこう》『カメカオモテテニアラワワレテ』
|蚊取別《かとりわけ》『モツト|確乎《しつかり》|言《い》はぬか。サアも|一遍《いつぺん》|言《い》うた』
|初公《はつこう》『カ……カ……|敵《かな》わぬ、カニして|下《くだ》さい。|必《かなら》ず|必《かなら》ず|心《こころ》を|直《なほ》します』
|蚊取別《かとりわけ》『ヨシ、それは|分《わか》つたが、|神《かみ》が|表《おもて》に|現《あら》はれてを|歌《うた》へ』
|初《はつ》は、
『|神《かみ》が|表《おもて》に|現《あら》はれて  |善《ぜん》と|悪《あく》とを|立別《たてわけ》る
|此《この》|世《よ》を|造《つく》りし|神直日《かむなほひ》  |心《こころ》も|広《ひろ》き|大直日《おほなほひ》
ただ|何事《なにごと》も|人《ひと》の|世《よ》は  |直日《なほひ》に|見直《みなほ》せ|聞直《ききなほ》せ
|身《み》の|過《あやま》ちは|宣《の》り|直《なほ》せ  |蚊取《かとり》の|別《わけ》の|神《かみ》さまよ
|聞《き》けばお|前《まへ》も|其《その》|昔《むかし》  |良《よ》くもない|事《こと》|沢山《やつと》して
|悪神《あくがみ》さまと|歌《うた》はれて  |今《いま》は|偉《えら》そに|其処《そこ》ら|中《ぢう》
|牛《うし》から|馬《うま》に|乗《の》り|替《か》へて  |善《ぜん》ぢや|悪《あく》ぢやと|言《い》ひ|歩《ある》く
ホンに|世界《せかい》は|広《ひろ》いもの  わしも|昔《むかし》は|自在天《じざいてん》
|神《かみ》に|仕《つか》へた|悪神《あくがみ》ぢや  |其《その》|時《とき》お|前《まへ》は|猩々《しやうじやう》の
|様《やう》にガブガブ|酒《さけ》|喰《くら》ひ  |人《ひと》を|泣《な》かした|奴《やつ》なれど
どうした|風《かぜ》の|吹《ふ》き|廻《まは》し  |今《いま》は|立派《りつぱ》な|宣伝使《せんでんし》
|心《こころ》の|色《いろ》は|変《かは》れども  やつぱり|変《かは》らぬ|其《その》|姿《すがた》
|茹蛸《ゆでだこ》みた|様《よ》な|姿《すがた》して  |人《ひと》を|教《をし》へて|歩《ある》くとは
それやマア|何《なん》とした|事《こと》か  ホンに|世界《せかい》は|広《ひろ》いもの』
|蚊取別《かとりわけ》『コラコラ|何《なに》を|言《い》ふのだ。|昔《むかし》は|昔《むかし》、|改心《かいしん》すれば|其《その》|日《ひ》から|善《ぜん》の|神《かみ》だ。|口《くち》だけ|自由《じいう》にして|遣《や》れば、|直《すぐ》にそれだから………|貴様《きさま》も|容易《ようい》に|改心《かいしん》は|出来相《でけさう》にもない。マア|改心《かいしん》の|出来《でけ》るまで、|百年《ひやくねん》でも|千年《せんねん》でも|固《かた》くなつて|鯱《しやち》こばつて|居《を》るが|宜《い》いワイ』
|初公《はつこう》『お|前《まへ》も|昔《むかし》|馴染《なじみ》だ。つひ|心安《こころやす》いものだから|言《い》つたのだ。そんな|意地《いぢ》の|悪《わる》い|事《こと》|言《い》はずに、|身体《からだ》を|旧《もと》の|通《とほ》りにせむかい|蚊取別《かとりわけ》』
『アハヽ、どこまでも|負惜《まけをし》みの|強《つよ》い|奴《やつ》だナア』
|初公《はつこう》『|弱《よわ》くて|此《この》|世《よ》が|渡《わた》れるか。|負惜《まけをし》みなつと|強《つよ》くなければ、|優勝劣敗《いうしようれつぱい》|弱肉強食《じやくにくきやうしよく》の|此《この》|世《よ》の|中《なか》が|渡《わた》れるものか。|善《ぜん》ぢや|善《ぜん》ぢや|世《よ》の|為《ため》だ、|国《くに》の|為《ため》ぢや、|人《ひと》の|為《ため》には|身命《しんめい》を|賭《と》してナンて|吐《ぬ》かす|奴《やつ》は、みんな|偽善者《きぜんしや》だ。|俺《おれ》は|斯《こ》う|見《み》えても、|悪《あく》にも|強《つよ》ければ|善《ぜん》にも|強《つよ》いのだ。|併《しか》し|乍《なが》らどうしたものか、|悪《あく》は|行《や》りたくない。|町《まち》の|奴《やつ》が|可愛相《かあいさう》だから、|厭《いや》でも|応《おう》でも|悪《あく》の|仮面《かめん》を|被《かぶ》つて|憎《にく》まれ|者《もの》になつて、|酋長《しうちやう》や|物持《ものもち》の|春公《はるこう》に|掛合《かけあ》つて|見《み》たのだ。|世間《せけん》の|奴《やつ》は|善《ぜん》に|見《み》せて|悪《あく》を|行《や》る、|俺《おれ》は|悪《あく》に|見《み》せて|善《ぜん》を|行《おこな》ふのだ。|蚊取別《かとりわけ》、お|前《まへ》も|取分《とりわ》けて|抜目《ぬけめ》のない|男《をとこ》だつた。|常世会議《とこよくわいぎ》では|一寸《ちよつと》|失敗《しくじ》りよつたが、しかし|宣伝使《せんでんし》の|仮面《かめん》を|被《かぶ》つて|相《あひ》|変《かは》らず|悪《わる》い|事《こと》を|行《や》つとるのだらう。|顔《かほ》も|知《し》らぬ|宣伝使《せんでんし》なら、|叮寧《ていねい》に|頼《たの》みもし、|謝罪《あやまり》もするが、|何分《なにぶん》お|前《まへ》の|素性《すじやう》を|百《ひやく》も|承知《しようち》、|万《まん》も|合点《がつてん》して|居《を》る|俺《おれ》としては、チヤンチヤラ|可笑《おか》しいて、|真面目《まじめ》に|改心《かいしん》するなぞと|言《い》はれたものかい。そんな|悪戯《いたづら》をせずに|早《はや》く|霊縛《れいばく》を|解《と》け』
|蚊取別《かとりわけ》『|解《と》いてやるが、|解《と》いたらモウ|喋《しやべ》らぬか。|三人《さんにん》の|若《わか》い|宣伝使《せんでんし》の|前《まへ》で、|昔《むかし》の|棚卸《たなおろ》しをやられると|面目玉《めんぼくだま》を|潰《つぶ》して|了《しま》ふ。どうだ、|何《なに》も|言《い》はぬと|誓《ちか》ふか』
|初公《はつこう》『チガフかチガハヌか、そら|知《し》らぬが、|記憶《きおく》にある|事《こと》は、|俺《おれ》が|言《い》ふまいと|思《おも》つても、|腹《はら》の|中《なか》から|言《い》うて|来《く》るのだから|仕方《しかた》がないワ。|一寸先《いつすんさき》の|事《こと》は|分《わか》らぬから、|堅《かた》い|約束《やくそく》は|出来《でけ》ぬワイ。|俺《おれ》の|身体《からだ》が|自由《じいう》になつたら、|虫《むし》の|居所《ゐどころ》に|依《よ》つては、お|前《まへ》の|薬鑵頭《やくわんあたま》をブン|擲《なぐ》るかも|知《し》れぬ、|其《その》|時《とき》は|其《その》|時《とき》の|事《こと》だ』
|蚊取別《かとりわけ》『イヤア|面白《おもしろ》い。|貴様《きさま》|見《み》かけに|寄《よ》らぬ|正直《しやうぢき》な|奴《やつ》だ。|中々《なかなか》よく|身魂《みたま》が|研《みが》けて|居《を》るワイ』
|初公《はつこう》『ハヽヽヽヽ、さうだらう。|大勢《おほぜい》の|代《かは》りになつて、|名誉《めいよ》も、|生命《いのち》も、|何《なに》も|投出《なげだ》して、|此《この》イホの|都《みやこ》でも|威勢《ゐせい》の|高《たか》い|酋長《しうちやう》や、|物持《ものもち》の|春公《はるこう》に|掛合《かけあ》うて|居《を》る|位《くらゐ》だから、|何《いづ》れ|明日《あす》|位《くらゐ》には|酋長《しうちやう》の|奴《やつ》、|沢山《たくさん》な|家来《けらい》を|連《つ》れて|俺《おれ》を|召捕《めしと》りに|来《く》るのは、|印判《はんこ》で|押《お》した|様《やう》なものだよ』
|蚊取別《かとりわけ》は、
『サア、これから|霊縛《れいばく》を|解《と》いてやる』
といひ|乍《なが》ら、
『ウン』
と|一声《ひとこゑ》。|初公《はつこう》は|旧《もと》の|身体《からだ》に|復《ふく》し、
『ヤア、|有難《ありがた》う。|蚊取別《かとりわけ》|大明神《だいみやうじん》、よつぽどお|前《まへ》は|御神徳《ごしんとく》を|貰《もら》うたなア。|私《わし》もこれ|丈《だけ》の|神力《しんりき》があれば、|酋長《しうちやう》の|三人《さんにん》や|五人《ごにん》|位《ぐらゐ》ウーンと|霊《れい》をかけて、|対方《むかふ》をウンと|堅《たて》に|首《くび》を|振《ふ》らしてやるのだけれどナア』
|蚊取別《かとりわけ》『そンな|事《こと》は|何《なん》でもないワ、|俺《おれ》がするのぢやない。|神様《かみさま》のお|力《ちから》だ。|俺《おれ》の|背後《うしろ》には|結構《けつこう》な|神様《かみさま》が|守護《しゆご》して|御座《ござ》るのだ』
|初公《はつこう》『アヽさうか、|偉《えら》いものだナア。|併《しか》し|俺《おれ》だけ|自由《じいう》になつたが、|他《ほか》の|者《もの》は|気《き》の|毒《どく》だ。|一《ひと》つ|皆《みな》にそのウンを|行《や》つて|呉《く》れぬか』
|蚊取別《かとりわけ》『お|前《まへ》が|俺《おれ》の|行《や》つた|様《やう》に|手《て》を|組《く》んで、|皆《みんな》の|者《もの》にウンと|一声《ひとこゑ》かけて|見《み》よ。|忽《たちま》ち|旧《もと》の|通《とほ》りになるのは|請合《うけあひ》だ。|併《しか》し|神力《しんりき》が|現《あら》はれても、お|前《まへ》の|力《ちから》だと|思《おも》つたら|違《ちが》ふぞ。|九分九厘《くぶくりん》まで|神様《かみさま》のお|力《ちから》だから、さう|心得《こころえ》ろ』
|初公《はつこう》『|行《や》つても|可《よ》からうかな。|私《わし》の|様《よ》な|素人《しろうと》がウンを|行《や》つても|利《き》くだらうか』
|蚊取別《かとりわけ》『それが|悪《わる》いのだ。|自分《じぶん》が|行《や》ると|思《おも》ふから|間違《まちが》ふのだ。お|前《まへ》は|唯《ただ》|神様《かみさま》の|機械《からくり》になる|丈《だけ》だ。サア|手《て》を|組《く》むで|一同《いちどう》に|向《む》かつてウンと|行《や》つて|試《み》い』
|初公《はつこう》は|不安《ふあん》の|念《ねん》に|駆《か》られ|乍《なが》ら、|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》を|二回《にくわい》|心細《こころぼそ》げに|唱《とな》へて、|大勢《おほぜい》に|向《むか》ひ、ウンと|鎮魂術《ちんこんじゆつ》を|行《おこな》ふ。|不思議《ふしぎ》にも|一同《いちどう》は|旧《もと》の|姿《すがた》に|立復《たちかへ》り|四人《よにん》の|宣伝使《せんでんし》の|前《まへ》に|走《はし》り|来《きた》り、|跪《ひざまづ》いて|涙《なみだ》を|流《なが》し|合掌《がつしやう》し|居《ゐ》たりけり。
『ヤア|皆《みな》さま、|安心《あんしん》なされ、この|初公《はつこう》が|御神力《ごしんりき》を|頂《いただ》いたらこんなものだ。モウモウ|明日《あした》の|事《こと》は|心配《しんぱい》するに|及《およ》ばぬ。|今日《けふ》の|事《こと》は|今日《けふ》|一生懸命《いつしやうけんめい》に|働《はたら》いて、|取越苦労《とりこしくらう》をせぬ|様《やう》にするのだ。マアマア|揃《そろ》うて|神様《かみさま》にお|礼《れい》を|申上《まをしあ》げようかい。|酋長《しうちやう》や|春公《はるこう》は|逃《に》げて|了《しま》つたが、|何《いづ》れ|捕手《とりて》が|来《く》るだろう。|来《き》たつて|構《かま》はぬ。この|初公《はつこう》が|一寸《ちよつと》|手《て》を|組《く》んでただ|一声《ひとこゑ》、ウンとやれば、|何《なん》の|事《こと》はない。ウンもスンも|言《い》はずに|往生《わうじやう》するのだ。ナンと|神様《かみさま》は|偉《えら》いものだらう』
|高光彦《たかてるひこ》『ヤア|何事《なにごと》も|神様《かみさま》のお|蔭《かげ》です。どうだ|初《はつ》さま、|是《これ》から|酋長《しうちやう》や|春《はる》さまを|言向和《ことむけや》はしておいて、|白瀬川《しらせがは》の|悪魔《あくま》|退治《たいぢ》と|出《で》かけたらどうだ。お|前《まへ》のウンの|試《ため》し|時《どき》だ』
|初公《はつこう》『イヤ|有難《ありがた》う、|私《わたし》は|神力《しんりき》はないが|神様《かみさま》の|神力《しんりき》で|天晴《あつぱ》れ|悪神《あくがみ》を|言向《ことむ》けて|見《み》ませう』
|群集《ぐんしふ》の|中《なか》より|現《あら》はれたる|斧公《をのこう》は|顔《かほ》をあげて、
『ヤア|初《はつ》さまよ、お|前《まへ》は|本当《ほんたう》に|偉《えら》い|奴《やつ》だ、よう|変《かは》つたものだナ。|昔《むかし》は|悪《わる》い|男《をとこ》だつたが、|義侠心《ぎけふしん》に|富《と》んだ|人《ひと》だと|町中《まちぢう》の|評判《ひやうばん》だよ。どうぞ|俺《おれ》にも|其《その》ウンを|教《をし》へて|貰《もら》うて|呉《く》れぬか。お|前《まへ》が|宣伝使《せんでんし》のお|伴《とも》をして|此《この》|町《まち》を|立退《たちの》くとなると、|後《あと》が|寂《さび》しいからのう』
|初公《はつこう》『それもそうだ…………モシモシ、|蚊取別《かとりわけ》の|宣伝使《せんでんし》|様《さま》、|此《この》|斧公《おのこう》にも|許《ゆる》してやつて|下《くだ》さいナ』
|蚊取別《かとりわけ》『|私《わたし》が|許《ゆる》すのぢやない。|三五教《あななひけう》の|教《をしへ》が|有難《ありがた》いといふ|事《こと》が|分《わか》れば、|神様《かみさま》が|直接《ちよくせつ》に|御神徳《ごしんとく》を|授《さづ》けて|下《くだ》さるのだ。モシモシ|斧《をの》さまとやら、|神様《かみさま》は【おの】ぞみ|次第《しだい》、【おの】おの|身魂《みたま》|相応《さうおう》の|御用《ごよう》を|仰付《おほせつ》けられるのだから、|十分《じふぶん》に|魂《たま》を|研《みが》きなさい。|初《はつ》さまが|此《この》|町《まち》に|居《を》るとお|前達《まへたち》は|気《き》を|許《ゆる》してもたれる|気《き》になるから|可《い》かない。|初《はつ》さまが|此《この》|町《まち》を|立去《たちさ》つたが|最後《さいご》、|皆《みんな》の|心《こころ》が|引締《ひきしま》り、|人《ひと》を|杖《つゑ》に|突《つ》くといふ|依頼心《いらいしん》がなくなつて|了《しま》ふ。さうすれば|力《ちから》と|頼《たの》むのは|神様《かみさま》ばかりだ。そこにならぬと|御神力《ごしんりき》は|与《あた》へて|下《くだ》さらぬ。マア|安心《あんしん》して|大神様《おほかみさま》を|信仰《しんかう》しなさい。|天下《てんか》の|宣伝使《せんでんし》は|決《けつ》して|嘘《うそ》や|掛値《かけね》は|言《い》はぬ。お|前《まへ》さまは|初公《はつこう》さまの|代《かは》りになつて、|町《まち》の|者《もの》|等《ら》を|守《まも》つてやつて|下《くだ》さい』
|斧公《おのこう》『|有難《ありがた》う|御座《ござ》います。|何分《なにぶん》|宜《よろ》しく……』
と|頭《かしら》を|地《ち》に|着《つ》け|涕泣《ていきふ》し|居《ゐ》る。いよいよ|四人《よにん》の|宣伝使《せんでんし》は|初公《はつこう》を|伴《ともな》ひ、|酋長《しうちやう》の|館《やかた》を|指《さ》して|進《すす》み|行《ゆ》く。
(大正一一・三・六 旧二・八 松村真澄録)
第五章 |初貫徹《はつくわんてつ》〔五〇一〕
|天地《あめつち》の|神《かみ》の|稜威《みいづ》も|高光彦《たかてるひこ》の  |神《かみ》の|命《みこと》や|神直日《かむなほひ》
|玉光彦《たまてるひこ》の|宣伝使《せんでんし》  |大海原《おほうなばら》の|国光彦《くにてるひこ》の
|神《かみ》の|命《みこと》や|蚊取別《かとりわけ》  |初《はじ》めて|三人《みたり》、|四人《よつたり》の
|教《をしへ》|伝《つた》ふる|神司《かむづかさ》  |初公《はつこう》|一人《ひとり》を|伴《とも》なひて
イホの|都《みやこ》と|聞《きこ》えたる  |十握《とつか》の|剣《つるぎ》、エジプトの
|夏山彦《なつやまひこ》の|酋長《しうちやう》が  |館《やかた》を|指《さ》して|出《い》でて|行《ゆ》く
|春《はる》とは|言《い》へど|天津日《あまつひ》の  |光《ひかり》|無《な》ければ|庭前《にはさき》の
|花《はな》も|開《ひら》かず|木《き》の|緑《みどり》  |色《いろ》も|褪《あ》せたる|寂《さび》しさに
|不安《ふあん》の|雲《くも》は|内外《うちそと》を  |包《つつ》むが|如《ごと》く|見《み》えにけり。
|一行《いつかう》|五人《ごにん》は|宣伝歌《せんでんか》を|歌《うた》ひ|乍《なが》ら|門前《もんぜん》に|進《すす》み|来《き》たり。
|初公《はつこう》『オイ、|夏山彦《なつやまひこ》の|門番《もんばん》、|宣伝使《せんでんし》の|御出《おい》でだ。|早《はや》く|此《この》|門《もん》を|開《ひら》いて|呉《く》れ』
この|声《こゑ》に|門番《もんばん》は|中《うち》より、
『|朝《あさ》|早《はや》うから、|碌《ろく》に|夜《よ》も|明《あ》けて|居《を》らぬのに、|門《もん》を|開《ひら》けとは|何処《どこ》の|奴《やつ》だい。|規則《きそく》を|知《し》らぬか。この|門《もん》は|明《あ》け|八《や》つにならぬと、|明《あ》けぬのだぞ』
|初公《はつこう》『コラ、|寝《ね》|呆《とぼ》け|奴《やつ》め、|明《あ》け|八《や》つと|言《い》ふ|事《こと》があるか、|明《あ》け|六《む》つだ。|貴様《きさま》は|何時《いつ》も|八《や》つ|時《どき》までグウグウ|寝《ね》て|居《ゐ》るのだらう。そンな|事《こと》で|門番《もんばん》が|勤《つと》まるか』
|門番《もんばん》『|矢釜《やかま》しう|言《い》ふない。|俺《おれ》の|目《め》は|未《ま》だ|引《ひ》き|明《あ》けにならぬのだい』
|初公《はつこう》『|夜《よ》が|明《あ》けて|居《ゐ》るのに、グウグウ|八兵衛《はちべゑ》と|寝《ね》る|奴《やつ》があるかい』
|門番《もんばん》『|眠《ねむ》たいから|目《め》を【|明《あ》け|六《む》】つかしいのだよ』
|初公《はつこう》『|六《む》つかしい|理窟《りくつ》を|言《い》はずに|早《はや》く|開《あ》けぬかい』
|門番《もんばん》『お|日《ひ》さまもお|上《あが》りなさらぬのに、|門《もん》を|開《あ》けると|言《い》ふ|事《こと》があるか。|百日《ひやくにち》ばかりお|日様《ひさま》は|拝《をが》めた|事《こと》が|無《な》い。|日輪様《にちりんさま》でも|雲《くも》の|布団《ふとん》を|被《かぶ》つて|悠乎《ゆつくり》|寝《やす》んで|御座《ござ》るのに、|人間《にんげん》がバタバタとしたつて|何《なん》になるか。|天地《てんち》を|以《もつ》て|教《をしへ》となし、|日月《じつげつ》を|以《もつ》て|経《きやう》とするのだ。お|日《ひ》さまの|寝《やす》むで|御座《ござ》る|間《あひだ》は|寝《ね》むが|当然《あたりまへ》だ』
|初公《はつこう》『エー|矢釜《やかま》しい、|開《あ》けぬか。|初《はつ》さまを|知《し》らぬか』
|門番《もんばん》『|誰《たれ》かと|思《おも》へば|権太郎《ごんたらう》の|初公《はつこう》だな。そんなら|仕方《しかた》が|無《な》い、|初門《はつもん》を|開《ひら》いてやらうかい』
|初公《はつこう》『【|初物《はつもの》】|喰《く》ふと|七十五日《しちじふごにち》|長生《ながいき》するのだ。|貴様《きさま》も|果報門《くわはうもん》だ、|仕合《しあは》せ|門《もん》だ、|偉《えら》い|門《もん》だ、|怠《なま》けた|門《もん》だ、|困《こま》つた|門《もん》だ、|仕方《しかた》の|無《な》い|門《もん》だ、|土倒《どたふ》し|門《もん》だ。|厄介門《やつかいもん》だ』
|門番《もんばん》『コラ|初公《はつこう》、そンな|事《こと》を|言《い》ひよると、|開《あ》ける|事《こと》はやめたぞ』
|初公《はつこう》『すつた、【もん】だと|小理窟《こりくつ》を|吐《ぬ》かさずに|開《あ》けれや|良《よ》し、|開《あ》けな|開《あ》けぬでも|良《よ》いワイ、|俺《おれ》が|叩《たた》き|割《わ》つて|這入《はい》つてやるわ』
|高光彦《たかてるひこ》『コレコレ|初《はつ》さま、|詔《の》り|直《なほ》しだ』
|初公《はつこう》『エー、ヘー【|詔《の》】り|直《なほ》す|処《どころ》か、グズグズ|言《い》つて|開《あ》けないなら、|此《この》|門《もん》を|向《むか》ふへ|乗《の》り|越《こ》えて、|門番《もんばん》の|背中《せなか》に|馬《うま》|乗《の》りとなつて、ハイハイドウドウだ。|馬《うま》の|合《あ》うた|者《もの》|同士《どうし》、|旅《たび》をするのは【|同道《どうだう》】だが、|馬《うま》の|合《あ》はぬ|奴《やつ》を|馬《うま》にして、|尻《しり》を|叩《たた》いて【|堂々《だうだう》】と|館《やかた》の|中《なか》へ|進入《しんにふ》するのですワ』
|蚊取別《かとりわけ》『アハヽヽヽハア、|此奴《こいつ》、|初公《はつこう》、|掘出《ほりだ》し【もん】だ。|中々《なかなか》|面白《おもしろ》い|事《こと》を|言《い》ひよる』
|初公《はつこう》『【ほり】|出《だ》し【もん】とは|非道《ひど》いぢやないか。|俺《おれ》だけ|門《もん》から|放《ほ》り|出《だ》すと|言《い》ふのか。|之《これ》から|初《はつ》さまが|初門《はつもん》を|開《ひら》いて【ほり】|入《い》り|大根《だいこん》ぢや、|風呂《ふろ》|吹《ふ》き|門《もん》だ』
と|言《い》ひ|乍《なが》ら|握《にぎ》り|拳《こぶし》を|堅《かた》めて|門扉《もんぴ》を|無性《むしやう》|矢鱈《やたら》に|打《う》ち|殴《なぐ》る。|中《なか》より|又《また》もや|一人《ひとり》の|門番《もんばん》|現《あら》はれて、
『オイ、|貫公《くわんこう》、|貴様《きさま》は|夜《よ》も|明《あ》けぬのに、|何《なに》をカンカンと|吐《ほざ》いてけつかる』
|貫公《くわんこう》『|誰《たれ》かと|思《おも》へば|鉄《てつ》か、|貴様《きさま》もよう|寝《ね》る|奴《やつ》だナア。|然《しか》し|初公《はつこう》の|奴《やつ》めが|何《なん》だか、|四五人《しごにん》の|宣伝使《せんでんし》を|連《つ》れて|来《き》よつて|此《この》|門《もん》を|開《ひら》けと、|俺《おれ》の|名《な》ぢやないが、|【疳】声《かんごゑ》を|出《だ》しよつて、|門《もん》を【カンカン】|叩《たた》いて|居《ゐ》よるのだ。|俺《おれ》は|何《なん》と|言《い》つたつて|此《この》|門《もん》は|開《あ》【かん】|開《あ》かんと|頑張《ぐわんば》つて|居《を》る|処《ところ》だ。|貴様《きさま》は|堅《かた》い|名《な》だから、|一《ひと》つ|初公《はつこう》が|門《もん》を|叩《たた》き|破《やぶ》りよつた|時《とき》には|鉄槌《てつつゐ》を|下《くだ》すか、|鉄拳《てつけん》を|喰《くら》はすのだよ。|貫《くわん》と|鉄《てつ》と|寄《よ》つて、|彼奴等《あいつら》の|目的《もくてき》を|貫徹《くわんてつ》ささぬ|様《やう》にするのだぞ』
|斯《か》く|言《い》ふ|間《うち》、|傍《かたへ》の|塀《へい》を|乗《の》り|越《こ》えて|飛鳥《ひてう》の|如《ごと》く|初公《はつこう》は|飛《と》び|込《こ》むで|来《き》た。
|初公《はつこう》『オイオイ、|貴様等《きさまら》はよほど|意地《いぢ》の|悪《わる》い|奴《やつ》だナ、|何故《なぜ》|開《あ》けないのか』
|貫公《くわんこう》『ハイハイ、|開《あ》けます|開《あ》けます、|勘弁《かんべん》して|下《くだ》さい』
|鉄公《てつこう》『【てつ】|頭《とう》【てつ】|尾《び》|誠《まこと》に|以《もつ》て|悪《わる》う|御座《ござ》いました』
|初公《はつこう》『|早《はや》く|開《あ》けぬかい』
|二人《ふたり》はブツブツ|小声《こごゑ》に|呟《つぶや》き|乍《なが》ら|閂《かんぬき》を|取《と》り|外《はづ》し、|門扉《もんぴ》を|左右《さいう》に|開《ひら》き、
|貫公《くわんこう》『ヤ、|誰方《どなた》か|知《し》りませぬが、|門《もん》は|開《あ》けましたが|這入《はい》つて|貰《もら》ふ|事《こと》は|出来《でき》ませぬ。|一寸《ちよつと》|御主人《ごしゆじん》に|伺《うかが》つて|来《く》るまで、|此処《ここ》に|待《ま》つて|居《ゐ》て|下《くだ》さい』
|蚊取別《かとりわけ》『|何《なん》と|念《ねん》の|入《い》つた|門番《もんばん》だナ。ア、|仕方《しかた》がない、|早《はや》く|問《と》うて|来《き》てくれ。|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》、|而《しか》も|色《いろ》の|白《しろ》い|立派《りつぱ》な|蚊取別《かとりわけ》と|言《い》ふ|宣伝使《せんでんし》が|特《とく》に|目立《めだ》つて|御立派《ごりつぱ》だ、|面会《めんくわい》がしたいと|仰有《おつしや》るから|如何《どう》|致《いた》しませうと|伺《うかが》うて|来《く》るのだぞ』
|貫公《くわんこう》『ヨシ、|分《わか》つた』
と|言《い》ひ|乍《なが》ら|尻《しり》を|振《ふ》りつつ|奥《おく》へ|進《すす》み|入《い》る。
|貫公《くわんこう》『モシモシ|御主人様《ごしゆじんさま》、ただいま|門前《もんぜん》に|宣伝使《せんでんし》が|現《あら》はれました。|案内教《あんないけう》だとか、|新内教《しんないけう》だとか、|金《かね》ない|教《けう》だとか、|穴無《あなな》い|教《けう》だとか、|何《なん》でもないの|付《つ》く|宣伝使《せんでんし》が、しかも|四人《しにん》ですよ』
|夏山彦《なつやまひこ》『|困《こま》るな、|死人《しにん》の|亡者《まうじや》を|俺《おれ》んとこの|門前《もんぜん》に|持《も》つて|来《こ》られては、|朝《あさ》つぱらから|縁起《えんぎ》が|悪《わる》い』
|貫公《くわんこう》『|亡者《まうじや》とか|行者《ぎやうじや》とか|言《い》ふ|奴《やつ》が|門口《かどぐち》に|立《た》つて|居《ゐ》て、|大《おほ》きな|眼《め》を|剥《む》いた|色《いろ》の|白《しろ》い|墓取別《はかとりわけ》がやつて|来《き》ました』
|夏山彦《なつやまひこ》『ますますもつて|怪《け》しからぬ。|箒《はうき》でも|持《も》つてよく|後《あと》を|清《きよ》め、|箱《はこ》に|入《い》れて、|墓《はか》へ|厚《あつ》く|葬《はうむ》つてやれ』
|貫公《くわんこう》『それでもなかなか|強《つよ》|相《さう》な|奴《やつ》で、|私《わたし》らの|梃子《てこ》には|合《あ》ひませぬ。|高張《たかは》りぢやとか、|火《ひ》の|玉《たま》ぢやとか、|国光《くにてる》ぢやとか、|難《むづ》かしい|名《な》のついた|亡者《まうじや》ですぜ。|夏山彦《なつやまひこ》に|面会《めんくわい》がしたいと、【ゆふ】、ゆふ、ゆふ|礼儀《れいぎ》|知《し》らずです』
|夏山彦《なつやまひこ》『|幽霊《いうれい》にしては|余程《よほど》しつかりした|奴《やつ》だな』
|貫公《くわんこう》『イーエ、|幽霊《いうれい》どころか、|大変《たいへん》|強《つよ》い|奴《やつ》です。|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》だとか|言《い》つて|門《もん》の|外《そと》に|御主人様《ごしゆじんさま》のお|許《ゆる》しを|待《ま》つて|居《ゐ》るのです、|箒《はうき》を|持《も》つて|掃《は》き|出《だ》しませうか』
|夏山彦《なつやまひこ》『お|前《まへ》の|言《い》ふ|事《こと》は、|何《なに》が|何《なん》だか、チツトも|分《わか》らぬ。|鉄公《てつこう》を|呼《よ》んで|来《き》てくれ』
|貫公《くわんこう》『|鉄《てつ》を|呼《よ》んで|来《く》れば|二人《ふたり》で|意味《いみ》が|良《よ》く【|貫《くわん》てつ】|致《いた》しますだらう』
|夏山彦《なつやまひこ》『|馬鹿《ばか》』
|貫公《くわんこう》『|何《なん》だか|手強《てごわ》い|奴《やつ》だから、|御主人様《ごしゆじんさま》|一寸《ちよつと》|来《き》て|下《くだ》さらぬか』
『アヽ|弱《よわ》い|門番《もんばん》だ。|仕方《しかた》が|無《な》い、|行《い》つて|見《み》よう』
と|言《い》ひながら|夏山彦《なつやまひこ》は|衣紋《えもん》を|整《ととの》へ|悠々《いういう》として|門前《もんぜん》に|現《あら》はれ|来《きた》り、|宣伝使《せんでんし》を|見《み》るより|両手《りやうて》をついて、
『ヤア、|貴方《あなた》は|昨夜《さくや》|御目《おんめ》に|懸《かか》つた|宣伝使《せんでんし》|様《さま》、よう|訪《たづ》ねて|来《き》て|下《くだ》さいました。|貴方《あなた》のお|蔭《かげ》で|危《あやふ》い|処《ところ》を|助《たす》かりました。サアどうぞ|奥《おく》へお|這入《はい》り|下《くだ》さいませ』
|四人《よにん》の|宣伝使《せんでんし》は、|叮嚀《ていねい》に|答礼《たふれい》をしながら|夏山彦《なつやまひこ》の|案内《あんない》につれ、|奥深《おくふか》く|姿《すがた》を|隠《かく》しける。
|貫公《くわんこう》『|今《いま》のは|何《なん》だい。|内《うち》の|大将《たいしやう》|奴《め》がペコペコと|恐《こは》|相《さう》に|高《たか》い|頭《あたま》を|下《さ》げて|安売《やすうり》をしやがつて「サア|御案内《ごあんない》を|申《まを》しませう」なんて、|一体《いつたい》|全体《ぜんたい》|貫《くわん》ちやんも|勘考《かんかう》がつかなくなつて|来《き》たワイ』
|鉄公《てつこう》『【つかん】もあるものか、|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》に|定《きま》つて|居《ゐ》るわ。|貴様《きさま》は|此処《ここ》の|主人《しゆじん》を|何《なん》と|思《おも》つて|居《ゐ》る、|立派《りつぱ》な|三五教《あななひけう》の|信者《しんじや》ぢやぞ』
|貫公《くわんこう》『|馬鹿《ばか》|言《い》へ、ウラル|教《けう》だよ』
|鉄公《てつこう》『それだから|貴様《きさま》いつまでも|門番《もんばん》をさされるのだよ』
|貫公《くわんこう》『|門番々々《もんばんもんばん》て|偉相《えらさう》に|言《い》ふな。|貴様《きさま》も|門番《もんばん》ぢやないか』
|初公《はつこう》『アハヽヽヽヽ、|三五教《あななひけう》の|新宣伝使《しんせんでんし》、|初彦《はつひこ》さまとは|俺《おれ》の|事《こと》だぞ。ぐづぐづ|言《い》うとウーンぢやぞ、ウーンと|気張《きば》つてやらうか』
|貫公《くわんこう》『ウーンと|気張《きば》るなンて、|汚《きたな》い|事《こと》を|言《い》ふな。|貴様《きさま》はな、|一《ひと》つ|奮発《ふんぱつ》せいと|言《い》へば|雪隠穴《せつちんあな》を|跨《また》げて|尻《しり》を|捲《まく》るといふ|代物《しろもの》だし、ちつと|世間《せけん》を|見《み》て|来《こ》いと|言《い》へば、|屋根《やね》に|梯子《はしご》をさして|棟《むね》まで|上《あが》つてキリキリ|舞《まひ》をして、|其処等《そこら》を|口《くち》と|目《め》とを|一緒《いつしよ》に|開《あ》けて|一廉《いつかど》|世間《せけん》を|見《み》た|様《やう》な|面《つら》をする|連中《れんちう》だから、|碌《ろく》な|事《こと》ア|言《い》やしない。|貴様《きさま》がウンならば|俺《おれ》はプンぢやぞ』
と|片足《かたあし》あげてプンとやる。
|鉄公《てつこう》『アハヽヽヽハア、「|炬燵《こたつ》から|猫《ねこ》も|呆《あき》れて|飛《と》んで|出《で》る」といふ|奴《やつ》だナ。|鼬《いたち》の|親方《おやかた》|奴《め》が。オイ、サアサア、するならジツとしとれ』
|貫公《くわんこう》『|出《で》もの、|腫《は》れもの、|処《ところ》|嫌《きら》はずだ。|平和《へいわ》|文武《ぶんぶ》の|神《かみ》、アー|臭大明神《くさだいみやうじん》、|御神体《ごしんたい》は|風《かぜ》の|神《かみ》ぢや。|有難《ありがた》く|頂戴《ちやうだい》せい』
|初公《はつこう》『ヤア、|貴様《きさま》の|屁放《へつぴ》り|虫《むし》にかかりあつて|居《ゐ》たので、|肝腎《かんじん》の|宣伝使《せんでんし》に|後《おく》れて|仕舞《しま》つた。サア|大変《たいへん》だ』
と|尻《しり》ひつからげ|奥《おく》をさして|走《はし》り|行《ゆ》く。
|二人《ふたり》の|門番《もんばん》『アヽ、|【怪】体《けつたい》な|空《そら》ぢやないか。そして|今日《けふ》はまた|【怪】体《けつたい》な|日《ひ》だ。|日《ひ》だと|言《い》つてもお|日様《ひさま》の|姿《すがた》も|拝《をが》めないとすれば、やつぱり|夜《よる》だ。|【怪】体《けつたい》な|夜《よる》だ』
サツと|一陣《いちじん》の|暴風《ばうふう》|吹《ふ》き|来《きた》るよと|見《み》る|間《ま》に、|電光《でんくわう》|天《てん》に|閃《ひらめ》き、|雷鳴《らいめい》はげしく|轟《とどろ》き|渡《わた》り、|二人《ふたり》はたちまち|臍《へそ》を|押《おさ》へて|其《その》|場《ば》にドツと|尻餅《しりもち》をつき、ブルブル|震《ふる》え|居《ゐ》る。
(大正一一・三・六 旧二・八 北村隆光録)
第六章 |招待《せうたい》〔五〇二〕
|四人《よにん》の|宣伝使《せんでんし》は|夏山彦《なつやまひこ》の|案内《あんない》に|連《つ》れ|奥《おく》の|間《ま》に|請《せう》ぜられ、|間《ま》もなく|鄭重《ていちよう》なる|馳走《ちそう》は|運《はこ》ばれた。|夏山彦《なつやまひこ》は|恭《うやうや》しく|一同《いちどう》の|前《まへ》に|現《あら》はれ|来《き》たり、
『|貴方《あなた》がたは|我《わ》が|信《しん》ずる|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》|様《さま》、かかる|見苦《みぐる》しき|荒家《あばらや》を、よくもお|訪《たづ》ね|下《くだ》さいました。|何卒《なにとぞ》ゆつくりと|御飯《ごはん》を|召《め》し|上《あが》つて、お|話《はなし》を|聞《き》かして|下《くだ》さいませ』
|蚊取別《かとりわけ》『ヤアこれはこれは、|思《おも》ひがけなき|御馳走《ごちそう》、|恐《おそ》れ|入《い》つてござる。その|恐《おそ》れ|入《い》つた|序《ついで》には|昨夜《さくや》の|国魂《くにたま》の|森《もり》の|騒動《さうだう》、|貴方《あなた》も|随分《ずゐぶん》|恐《おそ》れ|入《い》つたやうな|為体《ていたらく》で|尻《しり》に|帆《ほ》をかけ、サツサと|四十八手《しじふはつて》の|奥《おく》の|手《て》を|出《だ》してお|帰《かへ》りになりましたな。ああいふ|乱暴《らんばう》な|酒《さけ》の|酔《ゑひ》を|相手《あひて》にしても|結《つま》りませぬ。サツサと|逃《に》げるが|一番《いちばん》|賢《かしこ》いやり|方《かた》「|負《まけ》てのく|人《ひと》を|弱《よわ》しと|思《おも》ふなよ、|智慧《ちゑ》の|力《ちから》の|強《つよ》ければなり」だ。アハヽヽヽヽ』
|夏山彦《なつやまひこ》『|昨夜《さくや》は|町内《ちやうない》の|者《もの》が、あまり|御陽気《ごやうき》が|悪《わる》いので、|難儀《なんぎ》を|致《いた》して|居《を》りますので、これは|何《なに》かお|天道様《てんだうさま》のお|叱《しか》りを|受《う》けて|居《ゐ》るのであらうと|思《おも》ひ、お|神酒《みき》に|事《こと》|寄《よ》せて、|国魂《くにたま》の|宮様《みやさま》にお|参《まゐ》りをさし、|少《すこ》しでも|敬神《けいしん》の|念《ねん》を|起《おこ》させようと|思《おも》つて|俄《にはか》に|布令《ふれい》を|廻《まは》し、この|町《まち》の|富豪《ふがう》|春公《はるこう》と|云《い》ふ|男《をとこ》に|酒《さけ》を|献納《けんなふ》させて|祭典《さいてん》を|営《いとな》みました。|今《いま》の|人間《にんげん》は|神様《かみさま》に|参《まゐ》れと|云《い》うたところが、|参《まゐ》るものは|一人《ひとり》もありませぬ。|酒《さけ》が|呑《の》まれると|云《い》ふので|皆《みな》やつて|来《き》たのですよ。|本当《ほんたう》に|困《こま》つたものです。|皆《みな》|八岐《やまた》の|大蛇《をろち》とか、|金毛九尾《きんまうきうび》の|狐《きつね》とかの|悪神《あくがみ》の|捕虜《とりこ》となつて|仕舞《しま》つて|居《を》るのですから、|始末《しまつ》に|了《を》へないのです。|酒《さけ》を|飲《の》めば|管《くだ》を|巻《ま》く|熱《ねつ》を|吹《ふ》く、|怒《おこ》る、|暴《あば》れる、|喧嘩《けんくわ》をする、いやもう|酋長《しうちやう》の|役《やく》も|骨《ほね》の|折《を》れたものです』
|高光彦《たかてるひこ》『これだけ|悪魔《あくま》の|蔓《はびこ》る|世《よ》の|中《なか》にもかかはらず、|酋長《しうちやう》の|貴方《あなた》が|神様《かみさま》を|信仰《しんかう》されると|云《い》ふ|事《こと》を|聞《き》きまして|余程《よほど》|我々《われわれ》も|心強《こころづよ》くなりました。こんな|常闇《とこやみ》の|世《よ》の|中《なか》になつて|来《き》たら|到底《たうてい》|人間《にんげん》の|力《ちから》でどうする|事《こと》も|出来《でき》ませぬ。|神様《かみさま》のお|力《ちから》を|借《か》りるより|道《みち》はありますまい』
|夏山彦《なつやまひこ》『|仰《あふ》せの|通《とほ》りです。しかし|困《こま》つた|事《こと》には|筑紫《つくし》の|島《しま》の|豊《とよ》の|国《くに》を|流《なが》れる|白瀬川《しらせがは》の|六《む》つの|滝《たき》に|大変《たいへん》な|悪魔《あくま》が|現《あら》はれて、|其処《そこ》から|黒雲《くろくも》を|起《おこ》し|妖気《えうき》を|立《た》て、|数多《あまた》の|人民《じんみん》を|苦《くる》しめます。どうかして|之《これ》を|言向《ことむ》け|和《やは》したいものですが、|我々《われわれ》の|力《ちから》には|到底《たうてい》およばないと|断念《だんねん》して、|一日《いちにち》も|早《はや》く|神力《しんりき》の|強《つよ》い|宣伝使《せんでんし》がお|出《いで》になつて|言向《ことむ》け|和《やはら》して|下《くだ》さるやうと、|朝《あさ》な|夕《ゆふ》な|神様《かみさま》に|祈《いの》つて|居《ゐ》ました。その|甲斐《かひ》あつて|今日《けふ》は|結構《けつこう》な|宣伝使《せんでんし》が、しかも|四人《よにん》|連《づ》れ、この|荒家《あばらや》にお|越《こ》し|下《くだ》さつたのは、|全《まつた》く|神様《かみさま》の|尊《たふと》き|御恵《おめぐ》み』
と|言《い》ひながら|落涙《らくるゐ》に|咽《むせ》ぶ。
|高光彦《たかてるひこ》『ともかく|悪魔《あくま》|退治《たいぢ》の|前祝《まへいは》ひとして|一同《いちどう》|打《う》ち|揃《そろ》うて|宣伝歌《せんでんか》を|歌《うた》ひませう。サアサア|蚊取別《かとりわけ》さま|貴方《あなた》から|歌《うた》つて|下《くだ》さい』
|蚊取別《かとりわけ》『よろしい、あまり|私《わたくし》の|声《こゑ》は|聞《きこ》え|過《すぎ》るので|悪魔《あくま》が|滝《たき》から|逃《に》げると|困《こま》るから、まづ|三等《さんとう》|位《くらゐ》な|声《こゑ》を|出《だ》して|歌《うた》つて|見《み》ませう。|貴方《あなた》がたは|本当《ほんたう》の|私《わたくし》の|言霊《ことたま》を|聞《き》いた|事《こと》はありますまいが、|上中下《じやうちうげ》|三段《さんだん》の|言霊《ことたま》の|遣《つか》ひ|分《わ》け、マア|一番《いちばん》お|安価《やすい》ところで|願《ねが》ひませうかい。アハヽヽヽヽ』
と|一人《ひとり》|笑《わら》ひながら|元気《げんき》よく|立《た》ち|上《あが》り、|少《すこ》し|低《ひく》い|声《こゑ》で、
『|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》  |高光《たかてる》、|玉光《たまてる》、|国光《くにてる》の
|神《かみ》の|司《つかさ》や|蚊取別《かとりわけ》  |三人《みたり》|四人《よつたり》|四柱《よはしら》の
|此《この》|世《よ》の|柱《はしら》と|現《あら》はれた  |神力《しんりき》|強《つよ》い|宣伝使《せんでんし》
|中《なか》に|取《と》り|分《わ》け|蚊取別《かとりわけ》  |神《かみ》の|命《みこと》は|天《あめ》が|下《した》
|四方《よも》の|国々《くにぐに》かけ|廻《めぐ》る  |神《かみ》の|司《つかさ》に|擢《ぬき》んでて
|姿《すがた》も|優《すぐ》れた|黒《くろ》い|顔《かほ》  |頭《あたま》も|優《すぐ》れてよく|光《ひか》る
こんな|顔《かほ》でも|女房《にようばう》は  |人並《ひとなみ》|優《すぐ》れて|美《うつく》しい
|天女《てんによ》のやうな|祝姫《はふりひめ》』
|高光彦《たかてるひこ》『モシモシ|蚊取別《かとりわけ》さま、そんな|宣伝歌《せんでんか》がありますか、|奥《おく》さまのお|惚《のろ》けは|止《や》めて|貰《もら》ひませうかい』
|蚊取別《かとりわけ》『ヤア、あまり|堅苦《かたくる》しい|事《こと》を|云《い》ふと|肩《かた》が|凝《こ》る。マア|一寸《ちよつと》お|愛想《あいさう》に|白瀬川《しらせがは》の|悪魔《あくま》を|誤魔化《ごまくわ》すために|歌《うた》つて|見《み》たのです。|肝腎要《かんじんかなめ》の|宣伝歌《せんでんか》は|正念場《しやうねんば》にならぬと|出《だ》せませぬ。それよりも|高光《たかてる》さま、|貴方《あなた》も|飛《と》び|切《き》り|上等《じやうとう》の|言霊《ことたま》を|出《だ》して|歌《うた》つて|下《くだ》さいナ』
|初公《はつこう》は、【ヌツ】と|此《この》|場《ば》に|現《あら》はれ|来《きた》り、
|初公《はつこう》『ヤア|皆《みな》さま、|遅刻《ちこく》|致《いた》しました。|遅刻《ちこく》した|罰金《ばつきん》に【ホヤホヤ】の|宣伝使《せんでんし》に|一《ひと》つ|歌《うた》はして|下《くだ》さいませぬか』
|高光彦《たかてるひこ》『ヤアよい|処《ところ》へ|助《たす》け|船《ぶね》が|来《き》た。|初《はつ》さまどうぞ|頼《たの》みます』
|初公《はつこう》『|宣伝歌《せんでんか》も|今日《けふ》が|本当《ほんたう》の|初《はつ》ですから|彼方《あちら》へ【はつ】れ|此方《こちら》へ【はつ】れ【はつ】はつするやうな|事《こと》を|言《い》ふかも|知《し》れませぬ。|膳《ぜん》もつて|椀《わん》もつて|箸《はし》もつてお|断《ことわ》り|申《まを》して|置《お》きます』
|蚊取別《かとりわけ》『コラコラ|脱線《だつせん》するな。|直《すぐ》に|喰《く》ふ|事《こと》を|云《い》ふから|困《こま》る。ちと|真面目《まじめ》にならぬか』
|初公《はつこう》『ハイハイ、|確《たしか》に|承知《しようち》|仕《つかまつ》りまして|御座《ござ》いますで|御座《ござ》いまするで|御座《ござ》います』
|蚊取別《かとりわけ》『アハヽヽヽ、まする、ますると、ますます|可笑《おか》しい|胡魔《ごま》する|男《をとこ》だなア』
|初公《はつこう》『|初《はつ》にお|聞《き》きに|達《たつ》しまする|宣伝歌《せんでんか》の|儀《ぎ》は、まづもつて|左《さ》の|通《とほ》りで|御座《ござ》いまする。』
『イホの|都《みやこ》の|主宰神《つかさがみ》  |夏山彦《なつやまひこ》の|酋長《しうちやう》は
|人《ひと》の|頭《あたま》を|春公《はるこう》と  |共《とも》に|参《まゐ》つた|神《かみ》の|前《まへ》
|鰌《どぜう》のやうに|人《ひと》を|見《み》て  |酒《さけ》で|殺《ころ》そと|甘《うま》くない
|酒《さけ》をどつさり|持《も》つて|来《き》て  |飲《の》めよ|騒《さわ》げよ|歌《うた》へよ|舞《ま》へよ
|酔《よ》うて|管《くだ》まけ|改心《かいしん》せいと  |何《なに》を|云《い》ふやら|分《わか》らない
|町《まち》の|奴等《やつら》は|業《ごふ》|煮《に》やし  |泣《な》くやら|笑《わら》ふやら|怒《おこ》るやら
|飛《と》んだり|跳《は》ねたり|舞《ま》ひ|狂《くる》ひ  |酔《ゑひ》が|廻《まは》つてそろそろと
|人《ひと》の|頭《あたま》を|春公《はるこう》に  お|米《こめ》を|出《だ》せと|強請《ねだ》つたら
|何《なん》ぢやかんぢやと|頭《かぶり》ふる  |此処《ここ》へ|出《で》て|来《き》た|蚊取別《かとりわけ》
|渋《しぶ》【かみ】さまのやうな|顔《かほ》  |服装《なり》に|似合《にあは》ぬよい|声《こゑ》で
|歌《うた》を|歌《うた》つて|面白《おもしろ》く  |両手《りやうて》を|組《く》むで|指先《ゆびさき》で
ウンと|一声《ひとこゑ》|初《はつ》さまも  |町《まち》の|奴等《やつら》も|一時《いつとき》に
|化石《くわせき》のやうな|霊《たま》|縛《しば》り  これや|耐《たま》らぬと|各自《めいめい》が
|目《め》をむき|鼻《はな》をむくひまに  |夏山彦《なつやまひこ》の|酋長《しうちやう》や
|春公《はるこう》の|奴《やつ》が|飛《と》んで|逃《に》げ  サア|仕舞《しま》つたと|思《おも》ふうち
この|三人《さんにん》が|現《あら》はれて  ウンとも|云《い》はず|蚊取別《かとりわけ》
|皆《みな》の|体《からだ》をぐにやぐにやに  |旧《もと》へ|返《かへ》して|呉《く》れた|故《ゆゑ》
|此《この》|初《はつ》さまも|驚《おどろ》いて  |四人《よにん》の|方《かた》の|供《とも》となり
|漸《やうや》う|此処《ここ》へやつて|来《き》た  サアこれからはこれからは
|神《かみ》の|神力《しんりき》|身《み》に|受《う》けて  |白瀬《しらせ》の|川《かは》の|六《む》つ|滝《だき》に
|障《さや》る|魔神《まがみ》を|悉《ことごと》く  |天地《てんち》の|神《かみ》の|言霊《ことたま》に
|伊吹《いぶき》|払《はら》うて|世《よ》の|中《なか》の  |曇《くも》りや|塵《ちり》を|掃《は》き|清《きよ》め
|天《あま》の|岩戸《いはと》を|押開《おしひら》き  いかい|手柄《てがら》をたててやろ
これが|初公《はつこう》の|第一《だいいち》の  |後前《あとさき》にない|楽《たの》しみぢや
|神《かみ》が|表《おもて》に|現《あら》はれて  |善《ぜん》と|悪《あく》とを|立《た》て|別《わ》ける
|此《この》|世《よ》を|造《つく》りし|神直日《かむなほひ》  |御霊《みたま》も|広《ひろ》き|大直日《おほなほひ》
|直日《なほひ》の|神《かみ》の|御教《みをしへ》を  |如何《いか》なる|悪《あく》の|曲神《まがかみ》も
|聞《き》いたら|往生《わうじやう》せにや|止《や》まぬ  サアこれからはこれからは
|吹《ふ》いて|吹《ふ》いて|吹《ふ》き|捲《まく》り  |天地《てんち》を|清《きよ》めて|神《かみ》の|世《よ》に
|初《はじ》めて|澄《す》ます|初《はつ》さまの  |行末《ゆくすゑ》こそは|頼《たの》もしい
|行末《ゆくすゑ》こそは|頼《たの》もしい  |七十五米《しちじふごメートル》の|風《かぜ》じやもの』
|一同《いちどう》は|初公《はつこう》の|手《て》つきの|可笑《をか》しさに|腹《はら》を|抱《かか》へて|笑《わら》ひこける。
|宣伝使《せんでんし》|一行《いつかう》は|初公《はつこう》を|従《したが》へ、|夏山彦《なつやまひこ》に|別《わか》れを|告《つ》げ、|白瀬川《しらせがは》の|一《いち》の|滝《たき》さして|勢《いきほひ》|込《こ》んで|進《すす》み|行《ゆ》く。
(大正一一・三・六 旧二・八 加藤明子録)
第七章 |覚醒《かくせい》〔五〇三〕
|四人《よにん》の|宣伝使《せんでんし》は|初公《はつこう》を|従《したが》へ、イホの|都《みやこ》を|後《あと》にして|七十五声《しちじふごせい》の|言霊《ことたま》の、スエズの|地峡《ちけふ》を|打渡《うちわた》り、|神《かみ》の|教《をしへ》を|四方《よも》の|国《くに》、|青人草《あをひとぐさ》に|白瀬川《しらせがは》、|一《いち》の|瀑布《ばくふ》の|間近《まぢか》き|山《やま》に|着《つ》きにけり。|只《ただ》さへ|暗《くら》き|春《はる》の|日《ひ》は|愈《いよいよ》|暮《く》れて|咫尺《しせき》を|弁《べん》ぜぬ|真《しん》の|暗《やみ》なり。|虎《とら》、|狼《おほかみ》、|獅子《しし》の|咆哮《ほうこう》する|声《こゑ》は|谿《たに》の|木魂《こだま》を|響《ひび》かして|次第々々《しだいしだい》に|近《ちか》づき|来《きた》る。
|蚊取別《かとりわけ》『サア、かうなつては|足許《あしもと》も|真暗《まつくら》がりだ。|明日《みやうにち》は|大決戦《だいけつせん》をやらねばならぬから、|此《この》|木蔭《こかげ》で、ゆつくりと|休息《きうそく》をして|元気《げんき》を|養《やしな》ふ|事《こと》としようかな』
|一同《いちどう》は|首肯《うなづ》きながら|暗《やみ》の|木蔭《こかげ》に|腰《こし》を|下《おろ》し、|蓑《みの》を|敷《し》きて|横《よこた》はつた。|四人《よにん》の|宣伝使《せんでんし》は|昼《ひる》の|歩行《ほかう》に|労疲《くたび》れて、|何《いづ》れも|雷《らい》の|如《ごと》き|鼾《いびき》をかいて|寝《ね》て|居《ゐ》る。|猛獣《まうじう》の|声《こゑ》はますます|激《はげ》しくなつた。|初公《はつこう》は|耐《たま》らず|蚊取別《かとりわけ》を|揺《ゆす》つて、
|初公《はつこう》『モシ|蚊取別《かとりわけ》さま、|起《お》きて|下《くだ》さらぬか。だんだん|変《へん》な|声《こゑ》が|聞《きこ》えて|来《く》るから』
|蚊取別《かとりわけ》『アーア、やかましい、|貴様《きさま》|恐《こは》いのだらう。|強《つよ》さうなことを|云《い》つても|実地《じつち》に|臨《のぞ》むと|正体《しやうたい》が|現《あら》はれるナア。|斯《こ》ういふ|時《とき》に|大声《おほごゑ》で|宣伝歌《せんでんか》を|歌《うた》へば|好《よ》いのだよ。しかし|大《おほ》きな|声《こゑ》だと|俺達《おれたち》の|安眠《あんみん》の|妨害《ばうがい》になるから、|貴様《きさま》|一人《ひとり》|口《くち》の|中《うち》で|宣伝歌《せんでんか》を|歌《うた》つて|居《を》れ。|足下《あしもと》に|何《なに》が|来《き》ても|噛《か》みはしない。|八釜敷《やかまし》う|言《い》ふな、もう|戌《いぬ》の|刻《こく》だから』
|初公《はつこう》『|偉《えら》いお|邪魔《じやま》をしますなア。マアゆつくり|休《やす》んで|下《くだ》さい。アーこれからこの|初《はつ》さまが|宣伝歌《せんでんか》で|猛獣《まうじう》の|千匹《せんびき》|万匹《まんびき》は、ウンと|吹《ふ》き|飛《と》ばすのだ。しかし|大《おほ》きな|声《こゑ》を|出《だ》すなと|云《い》つても、|猛獣《まうじう》の|奴《やつ》|短兵《たんぺい》|急《きふ》に|襲撃《しふげき》した|時《とき》には、|力《ちから》いつぱい|大声《おほごゑ》を|出《だ》すからそれ|丈《だ》け|承知《しようち》して|居《を》つてもらひます』
|蚊取別《かとりわけ》『ヨシヨシ、|承知《しようち》した。|貴様《きさま》もいい|加減《かげん》に|寝《やす》まぬか』
|初公《はつこう》『やすめと|云《い》つたつて、|目《め》がさえて|寝《やす》まれはしない』
|蚊取別《かとりわけ》『|此《こ》の|日《ひ》の|長《なが》い|夜《よる》の|短《みじか》いのに、ぐづぐづして|居《を》ると|夜《よ》が|明《あ》ける。マア|寝《やす》まして|貰《もら》はうかい』
と|又《また》もやゴロンと|横《よこ》になり、|雷《かみなり》の|如《ごと》き|鼾《いびき》をかく。|猛獣《まうじう》の|声《こゑ》は|山岳《さんがく》も|揺《ゆる》ぐ|許《ばか》りに|猛烈《まうれつ》になつて|来《き》た。|初公《はつこう》は|独言《ひとりごと》。
『アヽ|何《なん》と、|宣伝使《せんでんし》と|云《い》ふものは|肝玉《きもたま》の|太《ふと》いものだなア。|向《むか》ふの|瀑《たき》には|大蛇《をろち》の|悪魔《あくま》が|居《ゐ》る、|猛獣《まうじう》が|唸《うな》り|立《た》ててやつて|来《く》る。それにも|拘《かかは》らず、|安閑《あんかん》として|高鼾《たかいびき》をかいて|居《ゐ》るとは|呆《あき》れたものだ。ヤー|俺《おれ》も|一《ひと》つ|肝《きも》を|放《ほ》り|出《だ》してやらう、|恐《こは》いと|思《おも》ふから|恐《こは》いのだ。なーにチツト|荒《あら》い|風《かぜ》が|吹《ふ》いて|居《ゐ》ると|思《おも》へばいい。|獅子《しし》でも|虎《とら》でも、|狼《おほかみ》でもいくらなつと|唸《うな》れ。サヽ|俺《わし》も|寝《ね》よう』
と|肱《ひぢ》を|枕《まくら》に|横《よこた》はる。|又《また》もや|初公《はつこう》は|起《お》き|上《あが》り、
『ヤー、どうしても|寝《ね》られぬ。|何《な》んでも|此奴《こいつ》は|大蛇《をろち》の|奴《やつ》が、|魅入《みい》れて|居《ゐ》やがるのかも|知《し》れぬぞ。|決心《けつしん》した|以上《いじやう》は|恐《こは》くも|何《な》んともないから|寝《ね》られぬ|道理《だうり》がないのだ。|目《め》もいい|加減《かげん》に|疲労《くたび》れて|居《を》る。アヽ|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》、|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》。どうぞ|私《わたくし》に|命《いのち》が|惜《をし》いと|云《い》ふ|執着心《しふちやくしん》から|放《はな》さして|下《くだ》さいませ。|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》』
|蚊取別《かとりわけ》『アヽ|折角《せつかく》|寝《ね》たと|思《おも》へば|耳《みみ》のそばで|八釜敷《やかまし》う|云《い》ふものだから|又《また》|目《め》が|開《あ》いた。|早《はや》く|寝《ね》ぬかい』
と|又《また》もやグレンと|横《よこ》になりて|高鼾《たかいびき》をかく。
|初公《はつこう》『なんと|妙《めう》な|男《をとこ》だ、もう|寝《ね》て|了《しま》つた。エーこの|闇《やみ》の|夜《よ》にアタ|淋《さび》しい。チヨツ、ジツとして|居《を》れるかい。|何《なん》ぞ|其処《そこ》らに|落《お》ちて|居《を》らぬかなア』
と|言《い》ひながら|四《よ》つ|這《ば》ひになりてそこらを|掻《か》き|捜《さが》す。|忽《たちま》ち|手《て》に|触《ふ》れたのは、|麻《あさ》の|繩《なは》である。
『ヤアこいつは|麻《あさ》の|繩《なは》だ。|誰《たれ》がこんな|所《ところ》に|落《おと》して|置《お》きよつたのか。|而《しか》も|新《あたら》しい|奴《やつ》だ。オーこれで|蚊取別《かとりわけ》の|髪毛《かみげ》を|縛《くく》り、|八方《はつぱう》に|別《わ》けて|木《き》に|繋《つな》いで|置《お》いてやらう。|余《あま》り|叱《しか》りよるから|業腹《ごふばら》だ』
とそつと|蚊取別《かとりわけ》の|鬢髪《びんぱつ》をさぐり、
『ヤーしまつた。ハアこいつは|禿蛸《はげたこ》|土瓶《どびん》|天窓《あたま》だ。
「|禿頭《はげあたま》|前《まへ》にとりゐはなけれども |奥《おく》にしよんぼり|髪《かみ》がまします」
か、アヽこいつを|繋《つな》いでやれ。しかしこんなに|薄《うす》い|毛《け》は|抜《ぬ》けると|困《こま》るから、|腰《こし》のまはりをグツトしめて、|四方《しはう》|八方《はつぱう》の|木《き》の|株《かぶ》に|繋《つな》いで|置《お》いてやらう。さうしてワイワイと|云《い》つて|目《め》を|覚《さ》ましてやると|面白《おもしろ》からう。さうなとして|夜《よ》を|明《あ》かさな|辛抱《しんばう》も|出来《でき》たものぢやないワ』
と|云《い》ひながら|蚊取別《かとりわけ》の|腰《こし》の|廻《まは》りに|繩《なは》を|持《も》つて|行《ゆ》く。
『イヨー、よう|寝《ね》て|居《ゐ》やがる。|偉《えら》さうにほざいても|寝《ね》た|時《とき》は、|仕様《しやう》もないものだなア。|科人《とがにん》か|何《なん》ぞの|様《やう》に|繩付《なはつき》にせられよつて、|白河夜船《しらかはよぶね》を|漕《こ》いで|居《ゐ》る。アヽさうだ|夜船《よぶね》の|綱《つな》だ』
と|腰《こし》を|今《いま》や|縛《しば》らむとする|時《とき》、|蚊取別《かとりわけ》は
『ウーン』
と|寝返《ねがへ》りを|打《う》つ。
『ヤア、びつくりした。|起《お》きたかと|思《おも》つたら、なんだ|寝返《ねがへ》りを|打《う》ちよつたのだナつ』
|又《また》もや|括《くく》らうとする。|蚊取別《かとりわけ》は、|見当《けんたう》さだめて|横《よこ》つ|面《つら》を、ビシヤビシヤとなぐる。|初公《はつこう》は|驚《おどろ》いて、
『ナヽ|何《なに》をするのだイ』
|蚊取別《かとりわけ》『|悪《わる》い|事《こと》は|出来《でき》ぬものだな』
『コイツは|失敗《しま》つた。|蚊取別《かとりわけ》さま、|起《お》きて|居《を》つたのか』
|蚊取別《かとりわけ》『きまつた|事《こと》だよ。|一目《ひとめ》も|寝《ね》はしないよ、|貴様《きさま》の|独語《ひとりごと》は|皆《みな》|聞《き》いて|居《を》る。|馬鹿《ばか》な|奴《やつ》ぢやなア』
|初公《はつこう》『アハヽヽヽヽ』
|蚊取別《かとりわけ》『ワハヽヽヽヽ』
|高光彦《たかてるひこ》は|目《め》を|覚《さ》まし、
『この|真夜中《まよなか》に|大《おほ》きな|声《こゑ》で|何《なに》が|可笑《をか》しいのですか』
|蚊取別《かとりわけ》『イヤもう|初公《はつこう》の|奴《やつ》つたら、|吾々《われわれ》の|寝《ね》とる|間《ま》に|何処《どこ》からか|繩《なは》を|探《さが》して|来《き》よつて、|四人《よにん》の|体躯《からだ》を|一々《いちいち》|縛《しば》つて|木《き》の|株《かぶ》に|括《くく》りよつたのですよ。|貴方《あなた》がたも|何処《どつ》か|括《くく》られて|居《ゐ》ませう』
|高光彦《たかてるひこ》『たとへ|体躯《からだ》の|二箇所《にかしよ》|三箇所《さんかしよ》|括《くく》られても、|自由《じいう》の|精神《せいしん》は|括《くく》られて|居《ゐ》ないから|大丈夫《だいぢやうぶ》ですよ。アハヽヽヽ』
と|笑《わら》ふ|折《をり》しも、|頭上《づじやう》|俄《にはか》に|赤《あか》く|紅《べに》の|如《ごと》くに|深林《しんりん》を|照《て》らすものがある。この|光《ひかり》に|対岸《たいがん》の|白瀬川《しらせがは》の|一《いち》の|瀑布《たき》は、|白竜《はくりう》の|幾十《いくじふ》ともなく|体《たい》を|揃《そろ》へて|天《てん》に|昇《のぼ》り|行《ゆ》く|如《ごと》くに|見《み》えて|来《き》た。
|蚊取別《かとりわけ》『ヤア|瀑《たき》が|見《み》える、|大変《たいへん》|猛烈《まうれつ》な|光《ひかり》だ。|妖怪変化《えうくわいへんげ》の|怪光《くわいくわう》であらうか、イヤイヤさうではなからう。|日《ひ》の|出神《でのかみ》の|一《ひと》つ|火《び》かも|知《し》れぬ』
と|云《い》うて|居《を》る|其《その》|前《まへ》に|忽然《こつぜん》と|現《あら》はれた|一柱《ひとはしら》の|立派《りつぱ》な|神《かみ》がある。|蚊取別《かとりわけ》は|一目《ひとめ》|見《み》るより|大地《だいち》に|平伏《ひれふ》し、
『ヤア、これは|日《ひ》の|出神《でのかみ》|様《さま》、よくもお|出《いで》|下《くだ》さいました。サアもうこれで|大丈夫《だいぢやうぶ》だ』
|日《ひ》の|出神《でのかみ》『お|前達《まへたち》は|此処《ここ》を|何処《どこ》だと|思《おも》うて|居《を》るか』
|蚊取別《かとりわけ》『ハイ、|白瀬川《しらせがは》のほとり、|一《いち》の|瀑布《たき》の|前《まへ》だと|思《おも》つて|居《を》ります』
|日《ひ》の|出神《でのかみ》『それは|大間違《おほまちが》ひだ。|高山《かうざん》の|如《ごと》く|見《み》せて|居《ゐ》るのは、|世界《せかい》|第一《だいいち》の|大蛇《をろち》の|背《せな》だ、|大地《だいち》を|放《はな》れて|中空《ちうくう》に|舞《ま》ひ|上《あが》つて|雲《くも》の|中《なか》に|這入《はい》つて|居《ゐ》るのだぞ』
|蚊取別《かとりわけ》『それでも、イホの|都《みやこ》からトントンと|歩《ある》いて|此処《ここ》までやつて|来《き》たのです。|確《たしか》に|山《やま》だと|思《おも》ひますが』
|日《ひ》の|出神《でのかみ》『サアそれが|誑《だま》されて|居《ゐ》るのだ。|余《あま》り|鎮魂《ちんこん》が|好《よ》くきくと|思《おも》つて、|知《し》らず|知《し》らずの|間《あひだ》に|慢心《まんしん》するものだから、こんな|目《め》に|逢《あ》ふのだ。お|前《まへ》が|昨日《きのふ》|訪問《はうもん》した|夏山彦《なつやまひこ》の|家《いへ》を|何《な》んと|思《おも》つて|居《ゐ》る、あれは|大蛇《をろち》の|尾《を》であつた。その|尾《を》の|上《うへ》に|気楽《きらく》に|乗《の》せられて|歌《うた》を|歌《うた》つたり|色々《いろいろ》のものを|喰《く》はされて|御馳走《ごちそう》だと|思《おも》つて|居《ゐ》たのだ』
|蚊取別《かとりわけ》は|頭《あたま》を|掻《か》きながら、
『ハテ、|合点《がつてん》が|行《ゆ》かぬ。|何《なん》の|事《こと》だ。|確《たし》かに|夏山彦《なつやまひこ》の|館《やかた》だつたになア』
|日《ひ》の|出神《でのかみ》『それが|違《ちが》ふのだ。|一寸《ちよつと》|袖《そで》を|目《め》にあてて|覗《のぞ》いて|見《み》よ』
|蚊取別《かとりわけ》その|他《た》の|四人《よにん》は|袖《そで》を|目《め》に|当《あ》て、|四辺《あたり》を|見《み》ればコハソモ|如何《いか》に、|幾十里《いくじふり》とも|知《し》れぬ、|大蛇《をろち》の|背《せ》に|乗《の》せられ|遥《はる》かに|高《たか》き|空中《くうちう》に|舞上《まひあが》り、|其《その》|尾《を》は|今《いま》や|地上《ちじやう》を|放《はな》れむとする|時《とき》である。
|蚊取別《かとりわけ》『ヤア、コリヤ|大変《たいへん》だ。|余《あま》り|慢心《まんしん》して|天《てん》まで|上《のぼ》り|詰《つ》めて、|真《ま》つ|逆様《さかさま》に|落《お》ちて|木葉微塵《こつぱみぢん》になる|所《ところ》だつた。モシモシ|日《ひ》の|出神《でのかみ》|様《さま》、|我々《われわれ》は|此《この》|大蛇《をろち》の|山《やま》を|否《いな》|背《せな》を|伝《つた》うて|地上《ちじやう》に|降《お》ります。これより|上《うへ》に|昇《のぼ》らない|様《やう》に|守《まも》つて|下《くだ》さい』
|日《ひ》の|出神《でのかみ》は|黙《だま》つて|俯《うつ》むく。|一同《いちどう》は|一生懸命《いつしやうけんめい》に|大蛇《をろち》の|背《せな》を|走《はし》りながら|地上《ちじやう》|目《め》がけて|降《くだ》つて|行《ゆ》く。|漸《やうや》く|尾《を》の|端《はし》に|着《つ》いた。|尾《を》は|既《すで》に|地上《ちじやう》を|離《はな》れる|事《こと》|七八間《しちはちけん》、
|蚊取別《かとりわけ》『ヤア|皆《みな》さま|大変《たいへん》だ。|地上《ちじやう》までは|七八間《しちはちけん》も|距離《きより》がある。どうしよう、もう|少《すこ》し|尾《を》を|下《さ》げてくれぬものかいなア。ヤアヤア、|滅茶《めつちや》|矢鱈《やたら》に|尾《を》を|振《ふ》り|居《を》る。ヤアヤア|大蛇《をろち》に|振落《ふりおと》されるわ|振落《ふりおと》されるわ』
|高光彦《たかてるひこ》『だんだん|高《たか》くなる|一方《いつぱう》です。また|天《てん》に|上《あ》げられ、|中途《ちうと》から|放《ほう》られては|大変《たいへん》です。サアみな|手《て》をつないで|飛下《とびお》りませう。ヤア、もう|十間《じつけん》です|十間《じつけん》です。これぢや|天《てん》にもつかず、|地《ち》にもつかず、サアサア|五人《ごにん》は|手《て》をつないだ|手《て》をつないだ』
と|云《い》つた|儘《まま》、|命《いのち》からがら|山《やま》の|頂上《いただき》|目《め》がけて|飛《と》び|降《お》りた。
|途端《とたん》に|驚《おどろ》き|霊《れい》より|覚《さ》めて|見《み》れば、|十四日《じふよつか》の|月《つき》は|高熊山《たかくまやま》の|中天《ちうてん》に|輝《かがや》き、|王仁《おに》の|身《み》は|巌窟《がんくつ》の|前《まへ》に|仰向《あふむ》けに|倒《たふ》れ|居《ゐ》たりける。
(大正一一・三・六 旧二・八 谷村真友録)
第二篇 |天岩戸開《あまのいはとびらき》(二)
第八章 |思出《おもひで》の|歌《うた》〔五〇四〕
|月日《つきひ》の|駒《こま》の|関《せき》も|無《な》く  |豊《ゆたか》にめぐり|如月《きさらぎ》の
|上九日《かみここのか》の|今日《けふ》の|日《ひ》は  |稜威《みいづ》も|高《たか》き|高熊山《たかくまやま》の
|神《かみ》の|巌窟《いはや》に|誘《いざな》はれ  |五六七《みろく》の|御代《みよ》を|松岡《まつをか》の
|九山八海《はちす》の|山《やま》の|御使《おんつかひ》  |月《つき》|早《はや》|西《にし》に|傾《かたむ》きて
|風《かぜ》も|静《しづ》まり|水《みづ》さへも  |子《ね》の|正刻《しやうこく》に|賤《しづ》の|家《や》を
そつと|立出《たちい》で|道《みち》の|奥《く》の  |人《ひと》に|知《し》られぬ|神国《かみくに》の
|花《はな》を|手折《たを》りし|今日《けふ》の|日《ひ》は  |二十五年《にじふごねん》の|時津風《ときつかぜ》
|厳《いづ》の|御魂《みたま》や|瑞御魂《みづみたま》  |教《をしへ》の|光《ひかり》|隈《くま》もなく
|清《きよ》く|流《なが》るる|小雲川《こくもがは》  |常磐《ときは》の|松《まつ》|生《お》ふ|川《かは》の|辺《べ》に
|聳《そそ》り|立《た》ちたる【|松雲閣《しよううんかく》】  いよいよ|十二《じふに》の|物語《ものがたり》
|聖《きよ》き|神代《かみよ》の|消息《おとづれ》を  |音無瀬川《おとなせがは》の|川《かは》の|瀬《せ》に
|流《なが》すが|如《ごと》くすくすくと  |滑《すべ》り|出《い》でたる【|蓄音器《ちくおんき》】
|瑞《みづ》の|御魂《みたま》の|開《ひら》け|口《ぐち》  |梅《うめ》を|尋《たづ》ねて|鳥《とり》が|啼《な》く
|東《あづま》の|遠《とほ》き|都《みやこ》より  |瑞霊《ずゐれい》|輝《かがや》く【|三光堂《さんくわうだう》】
【|松《まつ》】の|大【本】《おほもと》|【常】久《とことは》に  |【三】五《さんご》の|月《つき》の|御教《みをしへ》は(松本常三郎)
|円満《ゑんまん》|清【朗】《せいらう》|比《たぐ》ひ|無《な》く  |綾《あや》の|錦《にしき》の【|服部《はたおり》】の(服部静夫)
【|静夫《しづを》】の|大人《うし》の|計《はから》ひに  【|谷《たに》】の|戸《と》|開《あ》けて|鶯《うぐひす》の(谷広賢)
|声《こゑ》も|長閑《のどか》に|世《よ》を|歌《うた》ふ  【|広《ひろ》】き【|賢《かしこ》】き|道《みち》の|教《のり》
|神【野】出【口】《かみのでぐち》の【|岩《いは》】の|上《へ》に  |栄《さか》え【|吉《よろ》】しき|千代《ちよ》の【|松《まつ》】(野口岩吉)
【|本《もと》】の|教《をしへ》の|神【直】日《かむなほひ》  【|枝《えだ》】も|鳴《な》らさぬ|神《かみ》の|風《かぜ》(松本直枝)
|海《うみ》の|内【外】《うちと》に|極《きは》みなく  【|山《やま》】は【|豊二《ゆたかに》】|芽含《めぐ》みつつ(外山豊二)
|花《はな》|咲《さ》く|春《はる》も【|北村《きたむら》】の  |天津御空《あまつみそら》に【|隆光《たかひか》】る(北村隆光)
|聖《ひぢり》の|御代《みよ》を【|松村《まつむら》】や  |弥【仙】《みせん》の|山《やま》に|現《あら》はれし(松村仙造)
|木《こ》の|花姫《はなひめ》の|御教《みをしへ》を  |【造】次顛沛《ざうじてんぱい》|村肝《むらきも》の
|心《こころ》に|加《か》けて【|藤《とう》】つ|代《よ》の  |神代《かみよ》を【|明《あか》】す|物語《ものがたり》(加藤明)
【|藤《ふぢ》】の|御山《みやま》の|高【津】神《たかつかみ》  |教《をしへ》の|道《みち》を|永【久】《とことは》に(藤津久)
|伝《つた》へむものと|【中】津国《なかつくに》  |【野】立《のだち》の|彦《ひこ》や|野立姫《のだちひめ》(中野祝)
|聖《きよ》き|教《をしへ》の|太【祝】詞《ふとのりと》  |宣《の》る|言霊《ことたま》は【|山《やま》】の【|上《うへ》】(山上郁太郎)
【|谷《たに》】の|底《そこ》まで|押《お》しつつむ  |【村】雲《むらくも》|四方《よも》に|吹《ふ》き|払《はら》ひ(谷村真友)
【|真《まこと》】の|道《みち》の|教《のり》の【|友《とも》】  |心《こころ》の|華《はな》も|馥【郁】《ふくいく》と
|皇大神《すめおほかみ》の|伝《つた》へ【|太郎《たらう》】  |日本心《やまとごころ》の|雄心《をごころ》は
|清《きよ》く|空《むな》しき|仇言《あだごと》を  |一人《ひとり》も【|岩田《いはた》】の【|久太郎《きうたらう》】(岩田久太郎)
|宣《の》る|言霊《ことたま》は|命毛《いのちげ》の  |筆《ふで》に|任《まか》せて|記《しる》し|行《ゆ》く
|今日《けふ》の|生日《いくひ》ぞ|尊《たふと》けれ  なんの|辛《かのと》の|酉《とり》の|年《とし》
|神《かみ》の|御声《みこゑ》を|菊月《きくづき》の  |中《なか》の|八日《やうか》に|神懸《かむがか》り
|神《かみ》の|出口《でぐち》の|口《くち》|開《ひら》き  |誠《まこと》|一《ひと》つの|霊界《れいかい》の
|奇《く》しき|神代《かみよ》の|物語《ものがたり》  |二《ふた》つの|巻《まき》の|口演《こうえん》を
うまらに|委曲《つばら》に|宣《の》り|了《を》へて  |闇夜《やみよ》も|秋《あき》の|神祭《かむまつ》り
|事《こと》なく|済《す》みて|万代《よろづよ》の  |基《もとい》|芽出度《めでた》き|瑞祥《ずゐしやう》の
やかたに|到《いた》り|名《な》も|高《たか》き  |高熊山《たかくまやま》に|百人《ももびと》を
|伴《ともな》ひ|参《まゐ》り|岩屋戸《いはやど》の  |貴《うづ》の|稜威《みいづ》を|称《たた》へつつ
|神《かみ》の|集《あつ》まる|宮垣内《みやがいち》  わが|故郷《ふるさと》を|訪《おとづ》れて
|産土神《うぶすながみ》を|伏《ふ》し|拝《をが》み  |名《な》さへ|芽出度《めでた》き|亀岡《かめをか》の
|教《をしへ》の|園《その》に|立帰《たちかへ》り  |言葉《ことば》の|華《はな》の|開《ひら》け|口《ぐち》
|瑞《みづ》の|身魂《みたま》に|因《ちな》みたる  |三《み》つの|巻《まき》をば|半《なかば》まで
|録《しる》して|帰《かへ》る|竜宮館《たつやかた》  |黄金閣《わうごんかく》に|向《むか》ひたる
|教主殿《けうしゆやかた》に|三柱《みはしら》の  |教《をしへ》の|御子《みこ》に|筆《ふで》とらせ
|本宮山《ほんぐうやま》や|四尾山《よつをざん》  |峰《みね》の|嵐《あらし》に|吹《ふ》かれつつ
|吹《ふ》きも|吹《ふ》いたり|四《よ》つの|巻《まき》  いつかは|尽《つ》きぬ|物語《ものがたり》
|五《いづ》の|御魂《みたま》の|五《い》つの|巻《まき》  |端緒《いとぐち》|開《あ》けて|言霊《ことたま》の
|速《はや》き|車《くるま》に|身《み》を|任《まか》せ  |千代《ちよ》を|岩井《いはゐ》の|温泉場《をんせんば》
|神《かみ》の|恵《めぐ》みも|暖《あたた》かに  |廻《めぐ》る【こまや】の|三階《さんがい》に
|五六七《みろく》の|居間《ゐま》を|陣取《ぢんど》りて  |五《いつ》も|変《かは》らぬ|六《むつ》まじく
|六《むつ》びて|語《かた》る|六《む》つの|巻《まき》  |師走《しはす》|三十日《みそか》になりぬれば
|心《こころ》の|駒《こま》のせくままに  |足並《あしなみ》|早《はや》き|汽車《きしや》の|上《うへ》
|綾《あや》の|高天《たかま》に|恙《つつが》なく  |帰《かへ》りて|述《の》ぶる|七《なな》つ|巻《まき》
|錦水亭《きんすゐてい》に|横《よこ》たはり  |四日《よつか》の|間《うち》に|述《の》べ|終《を》へて
|壬戌《みづのえいぬ》の|節分《せつぶん》の  |祭《まつり》もここに|恙《つつが》なく
|年《とし》を|重《かさ》ねて|瑞祥《ずゐしやう》の  |再《ふたた》び|館《やかた》の|人《ひと》となり
|祭《まつり》すませて|高熊《たかくま》の  |峰《みね》に|二百《にひやく》と|五十人《ごじふにん》
|誘《いざな》ひ|詣《もう》で|神徳《しんとく》の  |花《はな》|開《ひら》くなる|八《や》つの|巻《まき》
|九《ここの》つの|巻《まき》、|十《とう》の|巻《まき》  |半《なかば》ならずに|引返《ひきかへ》し
|綾《あや》の|高天《たかま》の|教主殿《けうしゆでん》  |奥《おく》の|一間《ひとま》に|横《よこ》たはり
|漸《やうや》く|胸《むね》も|十《たり》の|巻《まき》  |芽出度《めでた》く|編《あ》みて|並松《なみまつ》の
|松雲閣《しよううんかく》に|立帰《たちかへ》り  |七日《なのか》の|夕《ゆふべ》|十一《じふいち》の
|巻物語《まきものがた》り|相《あひ》|済《す》みて  |思《おも》ひ|出《で》|深《ふか》き|如月《きさらぎ》の
|八日《やうか》いよいよ|十《とを》あまり  |二《ふた》つの|巻《まき》に|取《とり》かかる
|斯《かか》る|尊《たふと》き|神《かみ》の|代《よ》の  その|有様《ありさま》の|万分一《まんぶいち》
|一々《いちいち》|筆《ふで》に|書《か》きとめて  |今日《けふ》の|生日《いくひ》を|祝《いは》ひつつ
|世人《よびと》の|為《ため》に|録《しる》すなり  アヽ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ  アヽ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ
(大正一一・三・七 旧二・九 外山豊二録)
第九章 |正夢《まさゆめ》〔五〇五〕
|常夜《とこよ》ゆく|暗《やみ》を|晴《は》らして|皇神《すめかみ》の  |珍《うづ》の|御子《みこ》たち|助《たす》けむと
|稜威《みいづ》も|高《たか》き|高光彦《たかてるひこ》や  |神《かみ》より|受《う》けし|伊都能売《いづのめ》の
|玉光彦《たまてるひこ》の|玉《たま》も|照《て》り  |大海原《おほうなばら》に|漂《ただよ》ひて
|海月《くらげ》なす|国光彦《くにてるひこ》の  みづの|身魂《みたま》の|三柱《みはしら》は
イホの|都《みやこ》の|町《まち》はづれ  |老樹《らうじゆ》|茂《しげ》れる|森《もり》の|下《した》
|露《つゆ》を|厭《いと》ひて|仮枕《かりまくら》  |国魂神《くにたまがみ》を|祀《まつ》りたる
|祠《ほこら》の|後《うしろ》に|身《み》を|隠《かく》し  まどろむ|折《をり》しも|何処《どこ》よりか
|集《あつ》まり|来《きた》る|人《ひと》の|影《かげ》  |神灯《みあかし》|神酒《みき》を|奉《たてまつ》り
|常夜《とこよ》の|様《さま》を|歎《なげ》きたる  イホの|都《みやこ》の|酋長《しうちやう》が
|世人《よびと》|助《たす》くる|手段《てだて》さへ  |夏山彦《なつやまひこ》の|神司《かむづかさ》
|神《かみ》の|御前《みまへ》に|太祝詞《ふとのりと》  |唱《とな》ふる|声《こゑ》もいと|清《きよ》く
|心《こころ》の|闇《やみ》も|春公《はるこう》の  |倉《くら》あけ|渡《わた》し|食物《おしもの》を
|神《かみ》に|誓《ちか》ひて|夫《そ》れぞれに  |配《まくば》り|与《あた》へ|饑渇《うゑかわ》き
|救《すく》ふはいとど|易《やす》けれど  |霊《みたま》の|餌《ゑば》と|充《あ》つるべき
|教《をしへ》の|餌《ゑば》に|苦《くるし》みつ  |神《かみ》の|御前《みまへ》に|諸人《もろびと》を
|集《あつ》めて|諭《さと》す|神《かみ》の|教《のり》  |食物《をしもの》|着物《きもの》|住《す》む|家《いへ》と
|酒《さけ》より|外《ほか》に|心《こころ》なき  |醜《しこ》の|身魂《みたま》を|如何《いか》にして
|神《かみ》を|敬《うやま》ひ|長上《ちやうじやう》に  |尊《たふと》び|仕《つか》へ|真心《まごころ》の
|本霊《もとつみたま》にことごとく  |立直《たてなほ》さしめ|天地《あめつち》の
|神《かみ》の|御子《みこ》たる|務《つとめ》をば  |各《おの》も|各《おの》もに|尽《つく》させて
|神《かみ》の|怒《いかり》も|淡雪《あはゆき》の  |溶《と》けて|嬉《うれ》しき|春《はる》の|日《ひ》の
|花《はな》|咲《さ》き|匂《にほ》ひ|百鳥《ももどり》の  |歌《うた》ふ|嬉《うれ》しき|神《かみ》の|代《よ》の
|日月《じつげつ》|空《そら》に|輝《かがや》きて  |鬼《おに》も|探女《さぐめ》もナイル|河《がは》
|滝《たき》に|洗《あら》ひしその|如《ごと》く  |清《きよ》めむものと|酋長《しうちやう》が
|心筑紫《こころつくし》の|白瀬川《しらせがは》  |世人《よびと》を|思《おも》ふ|真心《まごころ》の
|涙《なみだ》は|滝《たき》の|如《ごと》くなり  |夢《ゆめ》か|現《うつつ》|蚊取別《かとりわ》けて
|言霊《ことたま》|清《きよ》き|宣伝歌《せんでんか》  |暗《やみ》を|透《すか》して|鳴《な》り|渡《わた》る
|時《とき》しもあれや|初公《はつこう》が  |醜《しこ》の|雄健《をたけ》び|踏《ふみ》たけび
|狂《くる》ふ|折《をり》しも|宣伝使《せんでんし》  |双手《もろて》を|組《く》みし|言霊《ことたま》の
|其《その》|一声《ひとこゑ》に|肝《きも》|打《う》たれ  |魂《たま》|研《みが》かれて|各《おのおの》が
|恵《めぐ》みも|深《ふか》き|皇神《すめかみ》の  |心《こころ》を|悟《さと》り|服従《まつろ》ひし
その|嬉《うれ》しさに|胸《むね》|躍《をど》り  |心《こころ》|勇《いさ》みて|四柱《よはしら》の
|神《かみ》の|命《みこと》の|宣伝使《せんでんし》  |初《はじ》めて|会《あ》ひし|初公《はつこう》を
|伴《ともな》ひ|進《すす》む|闇《やみ》の|路《みち》  |四方《よも》に|塞《ふさ》がる|村雲《むらくも》の
|空《そら》も|愈《いよいよ》|春公《はるこう》や  |青葉《あをば》も|茂《しげ》る|夏山彦《なつやまひこ》の
|館《やかた》を|指《さ》して|出《いで》て|行《ゆ》く  |途中《とちう》|睡気《ねむけ》を|催《もよほ》して
ここに|五人《ごにん》の|一行《いつかう》は  |露《つゆ》をも|置《お》かぬ|草《くさ》の|上《うへ》
|腰《こし》|打掛《うちか》けて|憩《いこ》ふうち  |何時《いつ》か|睡魔《すゐま》に|襲《おそ》はれて
|脆《もろ》くも|此処《ここ》に|横《よこた》はり  |夜《よ》の|更《ふ》け|行《ゆ》くも|白瀬川《しらせがは》
ナイルの|滝《たき》の|森林《しんりん》に  |黎明《よあけ》を|待《ま》ちて|秋月《あきづき》の
|滝《たき》の|魔神《まがみ》を|一々《いちいち》に  |六《む》つの|滝《たき》まで|清《きよ》めむと
|暗《やみ》の|木下《こした》に|憩《いこ》ふ|折《をり》  |一《ひと》つ|火《び》|忽《たちま》ち|現《あら》はれて
|一行《いつかう》|五人《ごにん》が|心《こころ》をば  |照《てら》させ|給《たま》ふ|夢《ゆめ》の|跡《あと》
|大蛇《をろち》の|背《せな》より|飛下《とびお》りて  |腰《こし》を|抜《ぬ》かせし|束《つか》の|間《ま》に
つかつか|来《きた》る|夏山彦《なつやまひこ》が  |率《ひき》ゆる|人数《にんず》の|足音《あしおと》は
いと|高々《たかだか》と|聞《きこ》え|来《く》る。
|蚊取別《かとりわけ》『ヤア、エライ|恐《おそ》ろしい|夢《ゆめ》を|見《み》たものだナア。|余《あんま》り|知《し》らず|識《し》らずの|間《あひだ》に|慢心《まんしん》して、|大蛇《をろち》の|背中《せなか》に|乗《の》せられ、|雲《くも》の|上《うへ》まで|引張《ひつぱ》り|上《あ》げられて|了《しま》つて|居《ゐ》た。|盲《めくら》|蛇《へび》に|怖《を》ぢずと|云《い》ふ|事《こと》があるが、|本当《ほんたう》に|目明《めあき》の|積《つも》りで、|我《われ》こそは|天下《てんか》の|宣伝使《せんでんし》、|世界《せかい》の|盲《めくら》|聾《つんぼ》の|目《め》をあけてやらうナンテ|偉《えら》さうに|言《い》つて|歩《ある》いて|居《を》つたが、エライ|怖《こは》い|夢《ゆめ》を|見《み》たものだ。コリヤきつと|霊夢《れいむ》であらう、アーア|慢心《まんしん》はし|易《やす》いものだナア。|慢心《まんしん》は|大怪我《おほけが》の|本《もと》だと、|何時《いつ》も|口癖《くちぐせ》の|様《やう》に|云《い》ひながら、|箕売《みう》り|笠《かさ》でひると|云《い》うたとへは|自分等《じぶんら》の|事《こと》だ。|人《ひと》が|悪《わる》いとか|馬鹿《ばか》だとか|思《おも》うてゐると|皆《みんな》|自分《じぶん》のことだ、これから|一《ひと》つ|魂《たましひ》の|焼直《やきなほ》しをして|掛《かか》らねばならぬワイ。|吁《あゝ》|神様《かみさま》|有難《ありがた》う|御座《ござ》います。|能《よ》く|気《き》をつけて|下《くだ》さいました』
|高光彦《たかてるひこ》『|蚊取別《かとりわけ》さま、どんな|夢《ゆめ》を|御覧《ごらん》になりました。|我々《われわれ》も|恐《おそ》ろしい|夢《ゆめ》を|見《み》ました。|四方《しはう》|八方《はつぱう》|真暗《まつくら》がりで、|秋月《あきづき》の|滝《たき》の|前《まへ》だと|思《おも》へば、|大蛇《をろち》の|背《せ》に|乗《の》せられて、エライ|所《とこ》へ|鰻上《うなぎのぼ》りではなうて|蛇上《へびのぼ》りに|上《のぼ》つて【きつい】|戒《いまし》めに|遭《あ》ひ、|中天《ちうてん》から|飛《と》びおりて、|腰《こし》をぬかし|本当《ほんたう》に|妙《めう》な|夢《ゆめ》を|見《み》ましたよ』
|蚊取別《かとりわけ》『ハア、|我々《われわれ》の|夢《ゆめ》と|同一《どういつ》ですワ』
と|声《こゑ》をかすませ、|首《くび》を|捻《ひね》る。|玉光彦《たまてるひこ》、|国光彦《くにてるひこ》、|初公《はつこう》も|異口同音《いくどうおん》に、
『|私《わたし》も|其《その》|通《とほ》りそのとおり』
と|胸《むね》を|轟《とどろ》かせ|乍《なが》ら、|小声《こごゑ》になつて|首《くび》を|頻《しき》りに|傾《かたむ》けて|居《を》る。|折柄《をりから》の|物音《ものおと》に|前方《ぜんぱう》を|見《み》れば、|提灯《ちやうちん》の|光《ひかり》|瞬《またた》き、|数十人《すうじふにん》の|人声《ひとごゑ》|此方《こなた》に|向《むか》つて|進《すす》み|来《きた》る。
|初公《はつこう》『あの|提灯《ちやうちん》の|印《しるし》は|丸《まる》に|十《じふ》、たしかに|夏山彦《なつやまひこ》の|酋長《しうちやう》が|手下《てした》の|者共《ものども》、|愈《いよいよ》|初公《はつこう》さまを|召捕《めしとり》に|来《き》よつたな。ヨーシ、|今迄《いままで》の|初公《はつこう》さまと|思《おも》つて|居《ゐ》るか、あまり|我《われ》は、|偉《えら》い|偉《えら》いと|思《おも》うて|居《を》るとスコタン|喰《く》うぞよ。|足許《あしもと》は|真暗《まつくら》がり、|闇《やみ》に|烏《からす》のまつ|黒々助《くろくろすけ》、|夏山彦《なつやまひこ》の|家来《けらい》の|奴《やつ》|共《ども》、|片《かた》つ|端《ぱし》から「ウウーン、ウーン」と|阿吽《あうん》の|言霊《ことたま》、|開《ひら》くや|否《いな》や|四方《しはう》|八方《はつぱう》に、|蜘蛛《くも》の|子《こ》を|散《ち》らすが|如《ごと》く、チリチリバツト、|花《はな》に|嵐《あらし》の|其《その》|如《ごと》く、|皆《みな》|散《ち》り|散《ち》りに|逃《に》げて|行《ゆ》く………』
|蚊取別《かとりわけ》『コラコラ、|何《なに》|寝《ね》|呆《とぼ》けてるのだ。あまりウーンに|慢心《まんしん》をすると、|今《いま》の|様《やう》な|怖《こは》い|夢《ゆめ》を|見《み》せられて、お|警告《いましめ》を|受《う》けるのだぞ。ウーンも|好《よ》い|加減《かげん》に|使《つか》つて………|乱用《らんよう》するとまた|夢《ゆめ》を|見《み》せられるぞ』
『モシ|蚊取別《かとりわけ》さま、あれは|夢《ゆめ》だが、|今《いま》そこへ|来《く》るのは|現実《げんじつ》ですよ』
|蚊取別《かとりわけ》『|幻術《げんじゆつ》でも、|妖術《えうじゆつ》でも、|神術《しんじゆつ》でも|無暗《むやみ》に|使《つか》ふものぢやないよ』
|初公《はつこう》『それでも、|短兵《たんぺい》|急《きふ》に|押《お》しよせて|来《き》た、この|敵《てき》にムザムザと|虜《とりこ》にしられようものなら、それこそ|最早《もはや》ウーンの|尽《つき》だ。|運《うん》の|尽《つ》きる|迄《まで》|一《ひと》つ、ウンウンを|行《や》つて|行《や》つて|行《や》り|倒《たふ》し、|運《うん》を|一時《いちじ》に|決《けつ》せむだ。サア|来《こ》い|勝負《しようぶ》………』
|高光彦《たかてるひこ》『アハヽヽヽ』
|初公《はつこう》『|笑《わら》う|所《どころ》か|大変《たいへん》ですぜ。あの|提灯《ちやうちん》を|御覧《ごらん》、|丸《まる》に|十《じふ》だ』
|高光彦《たかてるひこ》『|丸《まる》に|十《じふ》なら|結構《けつこう》ぢやありませぬか、|三五教《あななひけう》の|裏紋《うらもん》だからな』
|初公《はつこう》『|裏紋教《うらもんけう》でも、|表教《おもてけう》でも、|大本《おほもと》でも、かうなつては|最早《もはや》|百年目《ひやくねんめ》、|自由《じいう》|行動《かうどう》と|出《で》ますから、あなた|方《がた》|四人《しにん》の|御方《おかた》はジツトして、この|初公《はつこう》のハツ|人芸《にんげい》を|御覧《ごらん》なさい。|一人《ひとり》でハツ|人《にん》ぢや、|初夢《はつゆめ》の|初功名《はつこうみやう》、|神力《しんりき》ハツ|展《てん》の|初舞台《はつぶたい》だ』
|蚊取別《かとりわけ》『コラコラ、さうハツやぐものぢや|無《な》い、ハツかしい|事《こと》が|後《あと》になりて|出《で》て|来《く》るぞよ。|神《かみ》の|申《まを》す|間《うち》に|聞《き》かぬと、|我《が》で|致《いた》したら|失敗《しくじ》るぞよ』
|斯《か》かる|所《ところ》へ|早《はや》くも|夏山彦《なつやまひこ》の|一隊《いつたい》は|徐々《しづしづ》と|現《あら》はれ|来《き》たる。
|初公《はつこう》『ヤア、|寄《よ》せたり|寄《よ》せやがつたりな。|我《わ》れこそはイホの|都《みやこ》に|隠《かく》れなき|初公《はつこう》さまだ。|召捕《めしと》るなら|美事《みごと》|召捕《めしと》つて|見《み》よ。|小癪《こしやく》に|構《かま》ふ|汝等《なんぢら》が|振舞《ふるまひ》、【|儘《まま》】になるなら、|麦飯《むぎめし》、|稗飯《ひえめし》、|粟飯《あはめし》、|五《ご》もく|飯《めし》、|米《こめ》の|飯《めし》、サア|勝手《かつて》にメシ|取《と》つて|見《み》よ』
|蚊取別《かとりわけ》『アハヽヽヽ』
|三人《さんにん》『ワツハヽヽヽ』
|群衆中《ぐんしうちう》より|立派《りつぱ》な|姿《すがた》をした|二人《ふたり》の|男《をとこ》、|蚊取別《かとりわけ》の|前《まへ》に|悠々《いういう》と|現《あら》はれ、
『ヤ、あなたは|蚊取別《かとりわけ》の|宣伝使《せんでんし》|様《さま》、………|御一同様《ごいちどうさま》、|私等《わたしら》は|夏山彦《なつやまひこ》、|春彦《はるひこ》でございます。どうか|此《この》|駕籠《かご》に|御召《おめ》し|下《くだ》さいまして|我々《われわれ》が|矮屋《わいをく》に|一夜《いちや》|御逗留《ごとうりう》を|御願《おねがひ》|申《まを》したく、|態々《わざわざ》|御迎《おむか》へに|参《まゐ》りました』
|初公《はつこう》『ヤア、ナーンだ、|天《てん》が|地《ち》となり、|地《ち》が|天《てん》となる、|変《かは》れば|変《かは》る|世《よ》の|中《なか》だ。オイオイ|其《その》|駕籠《かご》は|大蛇《をろち》の|背中《せなか》とは|違《ちが》ふか』
|夏山彦《なつやまひこ》『ヤア、お|前《まへ》は|初公《はつこう》か、|我々《われわれ》は|蚊取別《かとりわけ》その|他《た》|三人《さんにん》の|宣伝使《せんでんし》|様《さま》に|御挨拶《ごあいさつ》|申上《まをしあ》げて|居《ゐ》るのだ。|横間《よこあひ》から|喧《やかま》しう|申《まを》さずに、|暫《しばら》く|待《ま》つて|居《ゐ》て|呉《く》れ』
|初公《はつこう》『ヨーシ|承知《しようち》した。|併《しか》し|駕籠《かご》は|四台《よんだい》よりないぢやないか、|初公《はつこう》さまの|駕籠《かご》は|後《あと》から|来《く》るのかい』
|春彦《はるひこ》『|生憎《あひにく》|四台《しだい》よりありませぬので|一台《いちだい》………』
|初公《はつこう》『オイオイ、|四台《しだい》よりない?………|何《なん》と|情《なさけ》なきシダイなりけりだ。|一《いち》【だい】のテレ|臭《くさ》い|恥《はぢ》|曝《さら》しだワイウフヽヽヽ』
|蚊取別《かとりわけ》『|折角《せつかく》の|思召《おぼしめし》|無《む》にするも|何《なん》となく|心許《こころもと》なく|思《おも》ひますが、|我々《われわれ》はさ|様《やう》な|贅沢《ぜいたく》な|駕籠《かご》などに|乗《の》ることは|出来《でき》ませぬ』
|初公《はつこう》『ヤア|今《いま》あまり|調子《てうし》に|乗《の》つて、ウンウン|気張《きば》ると|云《い》つて、ウンが|増長《ぞうちよう》して|高《たか》い|高《たか》いコクウンの|中《なか》までおつぽり|上《あ》げられ、スツテンドウと|地上《ちじやう》に|真逆様《まつさかさま》に|墜《お》ちて、|腰《こし》を|折《を》つた|夢《ゆめ》を|見《み》よつたものだから………そんな|俄《にはか》に|殊勝《しゆしよう》らしい|事《こと》を|仰《あふ》せられるのだ。|恰度《ちやうど》それならそれで|都合《つがふ》が|良《よ》いわ。|三人《さんにん》の|宣伝使《せんでんし》|様《さま》と|此《この》|初公《はつこう》さまと|四人《よつたり》|乗《の》せて|貰《もら》はう』
|玉光彦《たまてるひこ》『|私《わたし》は|駕籠《かご》は|平《ひら》に|御免《ごめん》|蒙《かうむ》ります』
|国光彦《くにてるひこ》『|我々《われわれ》もその|通《とほ》り』
|初公《はつこう》『|拙者《せつしや》も|同様《どうやう》、|駕籠《かご》は|平《ひら》にお|断《ことわ》り|申《まを》す』
|群衆《ぐんしう》の|中《なか》より、
『コラ|初公《はつこう》、|貴様《きさま》がお|断《ことわ》り|所《どころ》か、|頼《たの》んだつてコチラからお|断《ことわ》りだよ』
|夏山彦《なつやまひこ》『|折角《せつかく》の|志《こころざし》、どうぞお|召《め》し|下《くだ》さいませ』
|蚊取別《かとりわけ》『イヤ|又《また》|尾《を》の|先《さき》から|振落《ふりお》ちねばならぬと|困《こま》るから、|乗物《のりもの》は|平《ひら》にお|断《ことわ》り|申《まを》します』
|初公《はつこう》『モシモシ|蚊取別《かとりわけ》さま、どうやら|此処《ここ》も|大蛇《をろち》の|背《せな》ぢやあるまいか、|足許《あしもと》がツルツルするぢやないか。|夏山彦《なつやまひこ》の|宅《うち》で|御馳走《ごちそう》を|戴《いただ》いたと|思《おも》へば、|牛糞《うしぐそ》か|馬糞《うまぐそ》か、|訳《わけ》の|分《わか》らぬ|物《もの》を|食《く》はされて、|舌鼓《したづつみ》を|打《う》つた|夢《ゆめ》を|見《み》た|連中《れんちう》だから、この|夏山彦《なつやまひこ》も|夢《ゆめ》の|中《なか》ぢやあるまいかナア』
|蚊取別《かとりわけ》『|夢《ゆめ》でも|何《なん》でもよいぢやないか。|天《てん》は|暗《くら》く|月《つき》の|光《ひかり》は|無《な》く、|何《いづ》れ|悪魔《あくま》の|跋扈跳梁《ばつこてうりやう》する|世《よ》の|中《なか》だ。|斯《こ》う|暗黒《くらがり》になつて|来《く》ると、|誠《まこと》の|物《もの》は|一《ひと》つもないと|思《おも》つたら|落度《おちど》はない。マア|夢《ゆめ》でも|化物《ばけもの》でも|何《なん》でも|構《かま》はぬ。|刹那心《せつなしん》だ、|行《ゆ》く|所《とこ》|迄《まで》|行《ゆ》かうかい』
と|一行《いつかう》|五人《ごにん》は|夏山彦《なつやまひこ》|以下《いか》|群衆《ぐんしう》に|迎《むか》へられて、|今度《こんど》は|愈《いよいよ》|夢《ゆめ》でもない、|幻《まぼろし》でもない、|曲神《まがかみ》の|館《やかた》でもない、|正真正銘《しやうしんしやうめい》の|夏山彦《なつやまひこ》の|館《やかた》へ|着《つ》いたのである。
|正門《せいもん》は|左右《さいう》に|開放《あけはな》され、|門内《もんない》は|薄暗《うすぐら》けれど、|塵《ちり》|一本《いつぽん》なき|迄《まで》に|清《きよ》く|箒目《はうきめ》|正《ただ》しく、|掃除《さうぢ》が|行届《ゆきとど》いて|居《ゐ》る|様子《やうす》である。|表門《おもてもん》の|入口《いりぐち》より|一間巾《いつけんはば》|程《ほど》の|麗《うるは》しき|真砂《まさご》は|敷詰《しきつ》められ、|一行《いつかう》を|歓迎《くわんげい》した|酋長《しうちやう》の|真心《まごころ》は|此《この》|砂路《すなみち》にも|現《あら》はれ|居《ゐ》たりける。
|初公《はつこう》『ヤア|是《これ》は|一遍《いつぺん》|通《とほ》つた。|門《もん》と|云《い》ひ|門番《もんばん》の|貫公《くわんこう》、|徹公《てつこう》の|朧《おぼろ》ながらも|顔《かほ》と|言《い》ひ、|玄関《げんくわん》の|様子《やうす》、|一分一厘《いちぶいちりん》|間違《まちが》ひのない|仕組《しぐみ》だ。コラ|又《また》|夢《ゆめ》だらう、………オイオイ|蚊取別《かとりわけ》さま、|一寸《ちよつと》|私《わし》の|頬《ほほ》べた|捻《ひね》つて|見《み》て|呉《く》れぬか、|自分《じぶん》がひねつたのでは、|夢《ゆめ》か|夢《ゆめ》ぢやないか|明瞭《はつきり》せない………アイタヽヽヽあまり|酷《ひど》い|事《こと》すな、|鼻《はな》を|捻上《ねぢあ》げよつて………』
|蚊取別《かとりわけ》『|捻《ひね》つて|呉《く》れと|云《い》ふから、|註文《ちゆうもん》|通《どほ》り|捻《ひね》つてやつたのだ。|貴様《きさま》の|鼻《はな》はあまり|低《ひく》いのと|横《よこ》つチヨに|着《つ》いとるものだから、|頬辺《ほほべた》だと|思《おも》つて|捻《ひね》つたのだ。【はな】はなもつて|見当《けんたう》の|取《と》れぬ|面付《つらつき》だなア』
|初公《はつこう》『|本当《ほんたう》にさうだ、ケントウがとれぬワイ。|提灯《ちやうちん》は|取《と》れても、|軒灯《けんとう》は|高《たか》い|所《とこ》に|吊《つ》つてあるから、|俺《おれ》の|様《やう》な|背《せい》の|低《ひく》い|者《もの》では、|一寸《ちよつと》|取《と》り|難《にく》いなア』
|蚊取別《かとりわけ》『|今度《こんど》は|夢《ゆめ》ぢやない、|本当《ほんたう》だ』
|初公《はつこう》『|本当《ほんたう》か|嘘《うそ》か、|蚊取別《かとりわけ》さまのお|言葉《ことば》もあまり|当《あて》にはなりませぬワイ。|一《ひと》つ|此処《ここ》で|一《いち》か|八《ばち》かぢや、|真偽《しんぎ》を|確《たしか》めて|見《み》よう』
と|言《い》ひ|乍《なが》ら、|初公《はつこう》は|腕《うで》を|振《ふ》り、ドシドシと|奥《おく》の|間《ま》に|進《すす》み|入《い》り、
『ヤア、|拙者《それがし》は|今日《こんにち》|迄《まで》イホ|村《むら》の|侠客《けふかく》|権太郎《ごんたらう》の|初公《はつこう》と|云《い》つたは|世《よ》を|忍《しの》ぶ|仮《かり》の|名《な》、|元《もと》を|糺《ただ》せば|聖地《せいち》エルサレムに|於《おい》て、|行成彦《ゆきなりひこ》の|従神《じうしん》たりし|行平別命《ゆきひらわけのみこと》、|汝《なんぢ》|夏山彦《なつやまひこ》|八岐《やまた》の|大蛇《をろち》の|片腕《かたうで》となり、|白瀬川《しらせがは》の|大蛇《をろち》となり、|此《この》イホの|都《みやこ》に|尻尾《しつぽ》を|現《あら》はし、|我々《われわれ》に|立派《りつぱ》な|館《やかた》と|見《み》せかけ、|牛糞馬糞《うしぐそうまぐそ》を|馳走《ちそう》と|見《み》せかけて|食《く》はさうと|致《いた》す|其《その》|計略《けいりやく》は、|前《まへ》|以《もつ》て|承知《しようち》の|拙者《それがし》、サア|尋常《じんじやう》に|白状《はくじやう》|致《いた》せばよし、|白状《はくじやう》|致《いた》さぬに|於《おい》ては、|十握《とつか》の|宝剣《ほうけん》を|以《もつ》て|寸断《すんだん》にするぞ』
と|大音声《だいおんじやう》に|呼《よば》はつて|居《を》る。|夏山彦《なつやまひこ》は|此《この》|声《こゑ》に|驚《おどろ》きて|此《この》|場《ば》に|走《はし》り|来《きた》り、
『ヤア、|誰《たれ》かと|思《おも》へば|初公《はつこう》ぢやないか、|何《なん》だ|大《おほ》きな|声《こゑ》を|出《だ》して………』
|初公《はつこう》『|大《おほ》きな|声《こゑ》は|俺《おれ》の|地声《ぢごゑ》だ。|大蛇《をろち》の|化物《ばけもの》ツ』
|夏山彦《なつやまひこ》『モシモシ|宣伝使《せんでんし》|様《さま》、この|男《をとこ》はどうかして|居《を》るのでせうな』
|蚊取別《かとりわけ》『イヤどうもして|居《を》りませぬ。|一寸《ちよつと》|副守護神《ふくしゆごじん》が|乗《の》り|憑《うつ》つて、|訳《わけ》もない|事《こと》を|吐《ほ》ざくのですよ』
|初公《はつこう》『ナニ、|副守護神《ふくしゆごじん》だ!|馬鹿《ばか》にするない。フクはフクだが|世界《せかい》の|福《ふく》を|守護《しゆご》する|七福《しちふく》|守護神《しゆごじん》だぞ』
|蚊取別《かとりわけ》『|雑巾《ざふきん》|持《も》たしたらそこらをフク|守護神《しゆごじん》、|雪隠《せんち》へ|行《ゆ》つても、|碌《ろく》に|尻《しり》|丈《だけ》は|拭《ふ》かぬ|守護神《しゆごじん》、|法螺《ほら》ばつかり|吹《ふ》く|守護神《しゆごじん》だ。|蟹《かに》の|様《やう》に|泡《あわ》を|吹《ふ》く|守護神《しゆごじん》、|熱《ねつ》も|吹《ふ》く|守護神《しゆごじん》だ。アハヽヽ』
|夏山彦《なつやまひこ》『|御一同様《ごいちどうさま》、お|疲労《くたびれ》で|御座《ござ》いませう。どうぞ|緩《ゆつく》り、|日《ひ》の|出《で》の|頃《ころ》まで|未《ま》だ|夜《よ》が|御座《ござ》います。|此《この》|頃《ごろ》は|日《ひ》の|出《で》と|言《い》つても、|日輪様《にちりんさま》のお|姿《すがた》は|雲《くも》に|包《つつ》まれて|拝《をが》めませぬが、ここに|一《ひと》つ|灯《ひ》を|点《とも》して|置《お》きますから、ゆつくり|御飯《ごはん》でも|召上《めしあが》つて、|今晩《こんばん》はお|休《やす》み|下《くだ》さいませ。|明日《あす》ゆつくりお|目《め》にかかりませう』
|初公《はつこう》『それ|見《み》よ|蚊取別《かとりわけ》さま、|初公《はつこう》の|目《め》は|黒《くろ》いものだ、やつぱり|大蛇《をろち》の|背《せなか》だ。|日《ひ》の|出神《でのかみ》だとか|日《ひ》の|出《で》だとか、|一《ひと》つ|火《び》とか|言《い》うたぢやないか』
|蚊取別《かとりわけ》『|此奴《こいつ》まだ|夢《ゆめ》|見《み》てゐる、|困《こま》つた|奴《やつ》だナア』
とまた|鼻《はな》を|力《ちから》|限《かぎ》りに|捻《ね》ぢ|上《あ》げる。
|初公《はつこう》『イヽヽヽイツタイ、|蚊取別《かとりわけ》、フニヤ フニヤ フニヤ、ヘタイ ヘタイ ヘタイ ヘタイ、ハヤセ ハヤセ ハヤセ ハヤセ』
|蚊取別《かとりわけ》『アハヽヽヽ』
|初公《はつこう》『あまり|人《ひと》を|馬鹿《ばか》にすな。|此《この》|好《い》い|男《をとこ》つ|振《ぷり》を|鼻《はな》を|引延《ひきの》ばしよつて……|天狗《てんぐ》の|様《やう》になつたぢやないか』
|蚊取別《かとりわけ》『ヤ、|是《これ》で【へつこむだ】|鼻《はな》が|延《の》びて|調和《てうわ》が|取《と》れた。ハナの|都《みやこ》の|初花姫《はつはなひめ》の|様《やう》な、|立派《りつぱ》な|顔《かほ》になつたよ』
この|時《とき》|奥《おく》の|間《ま》より、|嚠喨《りうりやう》たる|一絃琴《いちげんきん》の|音《おと》|幽《かす》かに|聞《きこ》え、|女神《めがみ》の|歌《うた》ふ|声《こゑ》、|蚊取別《かとりわけ》の|耳《みみ》に|特《とく》に|浸《し》み|込《こ》む|様《やう》であつた。|蚊取別《かとりわけ》は|首《くび》を|傾《かたむ》け|乍《なが》ら|手《て》を|組《く》み、
|蚊取別《かとりわけ》『ハテなア』
(大正一一・三・九 旧二・一一 松村真澄録)
第一〇章 |深夜《しんや》の|琴《こと》〔五〇六〕
|夏山彦《なつやまひこ》は|一同《いちどう》に|向《むか》ひ、
『|最早《もはや》|夜《よ》も|深更《しんかう》に|及《およ》びましたれば、|緩《ゆる》りと|御寝《おやす》み|下《くだ》さいませ。また|明朝《みやうてう》、|緩々《ゆるゆる》と|御話《おはなし》を|承《うけたま》はりませう』
と|一同《いちどう》に|会釈《ゑしやく》し|一間《ひとま》に|姿《すがた》を|隠《かく》した。
|初公《はつこう》『|蚊取別《かとりわけ》さま、この|度《たび》は|夢《ゆめ》ぢやなからうなア。アイタヽヽヽ』
|蚊取別《かとりわけ》『アハヽヽヽ、|矢張《やつぱ》り|痛《いた》いか、|痛《いた》けりや|本当《ほんたう》だ。|安心《あんしん》して|寝《やす》むだら|宜《よ》からう』
|初公《はつこう》『あの|一絃琴《いちげんきん》の|音《ね》はどうだ。|小督《こごう》の|局《つぼね》が|居《を》るのぢやなからうかな。
「|峰《みね》の|嵐《あらし》か|松風《まつかぜ》か、|恋《こひ》しき|人《ひと》の|琴《こと》の|音《ね》か、|駒《こま》を|留《とど》めて|聞《き》くからに、|爪音《つまおと》しるき|想夫憐《さうふれん》」
と|云《い》つた|奴《やつ》だナア』
|蚊取別《かとりわけ》『|馬鹿《ばか》|云《い》ふな。|夫《そ》れは|何十万年《なんじふまんねん》|未来《みらい》の|世《よ》の|出来事《できごと》だ。|今《いま》は|天《あま》の|岩戸《いはと》|隠《がく》れの|神代《かみよ》だぞ』
|初公《はつこう》『|過去《くわこ》|現在《げんざい》|未来《みらい》を|一貫《いつくわん》し、|時間《じかん》|空間《くうかん》を|超越《てうゑつ》するのが|神界《しんかい》の|経綸《けいりん》ぢやないか。|己《おれ》が|斯《か》うして|夏山彦《なつやまひこ》の|館《やかた》に|一絃琴《いちげんきん》を|聞《き》いて|彼是《かれこれ》|噂《うはさ》して|居《ゐ》た|事《こと》を|何十万年《なんじふまんねん》の|未来《みらい》の|世《よ》の|狂人《きちがひ》が、|霊界物語《れいかいものがたり》だと|云《い》つて|喋《しや》べる|様《やう》になるのだ。|是《これ》も|神界《しんかい》の|仕組《しぐみ》だよ。さうだから、ちつとでも|今《いま》の|間《うち》に|善《よ》い|事《こと》をして|未来《みらい》の|人間《にんげん》に|持《も》て|囃《はや》される|様《やう》にならねば|困《こま》る。|天《あま》の|岩戸《いはと》|開《びら》きの|神業《しんげふ》に|奉仕《ほうし》するのは、|末代《まつだい》|名《な》の|残《のこ》る|事《こと》だ。それを|思《おも》うと|一分間《いつぷんかん》でも|無駄《むだ》に|光陰《くわういん》を|費《つひ》やすと|云《い》ふ|事《こと》は|出来《でき》ないワ』
|蚊取別《かとりわけ》『|喧《やかま》しう|云《い》はずに|寝《ね》る|時分《じぶん》には|寝《ね》るものだ。|最早《もはや》|子《ね》の|刻《こく》だ。|三人《さんにん》の|宣伝使《せんでんし》が|御疲《おくたび》れだから、|貴様《きさま》|一人《ひとり》|寝《ね》るのが|厭《いや》なら、|門《かど》へ|出《で》て|其辺《そこら》を|迂路付《うろつ》いて|来《こ》い』
|初公《はつこう》『|子《ね》の|刻《こく》だから|寝《ね》ると|云《い》ふのか、|妙《めう》なコヂツケだな』
|蚊取別《かとりわけ》『コヂ|付《つ》けでも|何《なん》でもない。|開闢《かいびやく》の|初《はじ》めから|定《き》まり|切《き》つた|言霊《ことたま》の|規則《きそく》だよ。|戌《いぬ》の|刻限《こくげん》は、|人間《にんげん》の【いぬる】|時《とき》だ。いぬるの|言霊《ことたま》は|寝《ね》るのだ。|亥《ゐ》の|刻限《こくげん》には【ゐ】と|云《い》うて|休《やす》む|時《とき》なのだ。【ゐ】も|又《また》|寝《ね》るのだ。|子《ね》の|刻《こく》には【ねる】ものだ。|戌《いぬ》|亥《ゐ》|子《ね》の|三時《さんとき》は|人間《にんげん》が|一日《いちにち》の|疲《つか》れをすつかり|休《やす》めて|華胥《くわしよ》の|国《くに》に|遊楽《いうらく》する|刻限《こくげん》だ、|即《すなは》ち|寝《ね》る|時《とき》だよ。|十分《じふぶん》|体《からだ》が|休《やす》まつて、【ウ】ー【シ】となると|明日《みやうにち》の|働《はたら》く|元気《げんき》が|身体《からだ》|一面《いちめん》に、【ウー】と|張《は》り|切《き》り【シー】と|緊《【し】ま》り、【ト】ーと|尖《【と】が》つて|芽《め》をふき、【ラ】ーと|左旋《させん》|運動《うんどう》を|起《おこ》す。それが|寅《【と】ら》の|刻《こく》だ。|丑寅《うしとら》の|刻《こく》に|元気《げんき》を|付《つ》けて、【ウ】ーと|太陽《たいやう》が|卯《【う】》の|方《はう》に|上《のぼ》る|時《とき》に|人間《にんげん》も|起《お》き|出《い》で、|日天様《につてんさま》を|拝《はい》し|顔《かほ》を|洗《あら》ひ|嗽《【う】が》ひをし、|身魂《みたま》を|清《きよ》めてそれから|飯《めし》を|食《く》ひ、|辰《【た】つ》の|刻《こく》が|来《く》れば|立《【た】》つて|働《はたら》く。|巳《【み】》の|刻《こく》が|来《く》れば、|霊魂《【み】たま》にも|体《からだ》にも、【み】が|入《い》つて|一日中《いちにちぢう》の|大活動《だいくわつどう》|時機《じき》となる。|午《うま》の|刻《こく》になれば|日天様《につてんさま》は|中天《ちうてん》に|上《のぼ》られ、|人間《にんげん》の|体《からだ》も|完全《【うま】ら》に|霊《れい》と|体《たい》との|活用《くわつよう》がウマク|行《おこな》はれるのだ。【|未《ひつじ》】になれば|火《【ひ】》の|辻《【つじ】》と|云《い》うて、|火《ひ》と|水《みづ》との|境目《さかひめ》だ。それから|段々《だんだん》|下《さが》ると|申《さる》の|刻《こく》、そこら|一面《いちめん》に|水気《すゐき》が|下《さが》つて|来《く》る。|酉《とり》の|刻《こく》になれば|一日《いちにち》の|仕事《しごと》を【|取《と》り】|纏《まつ》べて、|其辺中《そこらぢう》を|取片《【とり】かた》|付《づ》け、|御飯《ごはん》を【とり】|込《こ》んでまた|神様《かみさま》にお|礼《れい》を|申《まを》し、|皆《みな》|揃《そろ》うて|戌《いぬ》の|刻《こく》になると【いぬる】のだよ』
|初公《はつこう》『お|前《まへ》は|割《わり》とは|難《むつ》かしい|事《こと》を|知《し》つて|居《を》る|宣伝使《せんでんし》だねえ』
|蚊取別《かとりわけ》『|根《ね》ツから|葉《は》ツから|蕪《かぶら》から|菜種《なたね》|迄《まで》、|宇宙《うちう》|一切万事《いつさいばんじ》|万端《ばんたん》|解決《かいけつ》が|着《つ》かねば、|宣伝使《せんでんし》にはなれないのだよ。|牛《うし》の|尻《けつ》ぢやないが、|牛《もう》の|尻《しり》にならぬと|世界《せかい》を|助《たす》け|廻《まは》る|事《こと》は|出来《でき》ぬ。|兎《と》も|角《かく》|宣伝使《せんでんし》が|尤《もつと》も|慎《つつし》むべき|寅《とら》の|刻《こく》、オツトドツコイ、|虎《とら》の|巻《まき》は|何事《なにごと》も|省《かへりみ》ると|云《い》ふ|事《こと》が|一等《いつとう》だ、|卯《う》の|刻《こく》ではない、|己惚心《うぬぼれごころ》を|出《だ》してはならぬぞ。|自分《じぶん》は|足《た》らはぬ|者《もの》ぢや、|力《ちから》の|弱《よわ》い|者《もの》だ、|心《こころ》の|汚《けが》れた|者《もの》だ、|罪《つみ》の|塊《かたまり》だと、|始終《しじう》|心《こころ》に|恥《は》ぢ、|悔《く》い、|畏《おそ》れ、|覚《さと》り、|省《かへり》みる|様《やう》にならなくては|神様《かみさま》の|御用《ごよう》は|出来《でき》ない。【|辰《たつ》】と|緯《よこ》との|機《はた》の|仕組《しぐみ》、|神《かみ》の|因縁《いんねん》を|良《よ》く|諒解《りやうかい》し、|一方《いつぱう》に|偏《かたよ》らず、|其《その》|真《ま》ん|中《なか》の|道《みち》を|歩《あゆ》み、【|巳《み》】の|刻《こく》ではない、|身魂《【み】たま》を|磨《【み】が》き|身《【み】》を|慎《つつし》み、|身贔屓《【み】びいき》|身勝手《【み】がつて》は|捨《す》て|改《あらた》め、|猥《みだ》りに|人《ひと》を|審判《さば》かず、|心《こころ》は|穏《おだや》かに|春《はる》の|如《ごと》く、【|午《うま》】の|刻《こく》、|否《いな》【うま】く|調和《てうわ》を|取《と》つて|神《かみ》に|等《ひと》しき|言霊《ことたま》を|使《つか》ふのが|本当《ほんたう》の|神《かみ》の|使《つかひ》だよ』
|初公《はつこう》『|蚊取別《かとりわけ》さまの|御話《おはなし》で|大体《だいたい》【|甲子《きのえね》】(|昨日《きのふ》)から|随《つ》いて|歩《ある》いて、|漸《やうや》く|【十二】分《じふにぶん》の【|干支九《えとく》】(|会得《ゑとく》)が|出来《でけ》た。|然《しか》し|一絃琴《いちげんきん》の|音《ね》が|益々《ますます》|冴《さ》えて|来《き》たぢやないか。|寝《ね》よと|云《い》つたつて、|琴《こと》の【|音《ね》】に|耳《みみ》を|澄《す》まされ【|子《ね》】る|事《こと》は|出来《でき》はしない。【こと】の|外《ほか》|真夜中《まよなか》|過《すぎ》ての|一絃琴《いちげんきん》だ。|一言禁止《【いちげんきんし】》する|訳《わけ》には|行《ゆ》こうまいかな』
|蚊取別《かとりわけ》『ハテナ、あの|琴《こと》の|音《ね》はどうやら、|秘密《ひみつ》が|潜《ひそ》むで|居《を》るワイ。|此処《ここ》に|来《き》たのも|何《なに》か|神様《かみさま》の|一《ひと》つの|絃《つる》に|操《あやつ》られて|来《き》たのだらう』
|一絃琴《いちげんきん》の|音《ね》はピタリと|止《や》むだ。|高光彦《たかてるひこ》を|始《はじ》め|初公《はつこう》は|漸《やうや》く|眠《ねむ》りに|就《つ》いた。|蚊取別《かとりわけ》は|一絃琴《いちげんきん》の|耳《みみ》に|入《い》りしより|何《なん》となく|胸《むね》|騒《さわ》ぎ、|心《こころ》|落着《おちつ》かず|眠《ねむ》り|兼《か》ね|寝床《ねどこ》の|上《うへ》に|双手《もろで》を|組《く》むで|思案《しあん》に|暮《く》れて|居《ゐ》た。|又《また》もや|微《かすか》に|聞《きこ》ゆる|琴《こと》の|音《ね》、|微《かす》かに|歌《うた》ふ|声《こゑ》、|蚊取別《かとりわけ》は|眠《ねむ》られぬ|儘《まま》に、|琴《こと》の|爪音《つまおと》を|探《さぐ》りさぐり|近付《ちかづ》いて|襖《ふすま》の|外《そと》に|息《いき》を|殺《ころ》し|静《しづ》かに|聞《き》き|入《い》つた。|一室《ひとま》に|女《をんな》の|歌《うた》ふ|声《こゑ》、
『|世《よ》は|烏羽玉《うばたま》の|暗《くら》くして  |黒白《あやめ》もわかぬ|人心《ひとごころ》
|此《この》|世《よ》の|曲《まが》を|天地《あめつち》の  |神《かみ》の|伊吹《いぶ》きに|祝姫《はふりひめ》
|山《やま》の|尾《を》の|上《へ》や|川《かは》の|瀬《せ》に  |威猛《ゐたけ》り|狂《くる》ふ|曲神《まがかみ》を
|言向《ことむ》け|和《やは》し|宣《の》り|和《なご》め  |神《かみ》の|恵《めぐ》みを|四方《よも》の|国《くに》
|百人千人《ももびとちびと》に|白瀬川《しらせがは》  |言《こと》の|葉車《はぐるま》の|滝津瀬《たきつせ》と
|逸《はや》れど|曇《くも》る|世《よ》の|中《なか》は  |何《なん》の|効果《しるし》もナイル|河《がは》
|滝《たき》の|涙《なみだ》も|涸《か》れ|果《は》てて  |緑《みどり》の|色《いろ》も|褪《あ》せにけり
|夏山彦《なつやまひこ》の|神館《かむやかた》  |百日百夜《ももかももよ》のもてなしも
|早《はや》|秋月《あきづき》の|滝《たき》の|水《みづ》  |乾《かわ》くよしなき|今《いま》の|身《み》は
|生《い》きて|甲斐《かひ》なき|宣伝使《せんでんし》  |北光彦《きたてるひこ》の|媒介《なかだち》に
|蚊取《かとり》の|別《わけ》の|妻《つま》となり  |比翼連理《ひよくれんり》の|片袖《かたそで》も
|今《いま》は|湿《しめ》りて|濡衣《ぬれぎぬ》の  |乾《かわ》くよしなき|浅猿《あさま》しさ
シナイ|山《ざん》より|落《お》ちかかる  |秋月滝《あきづきたき》に|身《み》を|打《う》たれ
|醜《しこ》の|魔神《まがみ》にさやられて  |神《かみ》に|受《う》けたる|玉《たま》の|緒《を》の
|息《いき》も|絶《た》えなむ|時《とき》もあれ  |情《なさけ》も|深《ふか》き|夏山彦《なつやまひこ》の
|貴《うづ》の|命《みこと》に|助《たす》けられ  |病《いたづ》き|悩《なや》む|現身《うつそみ》を
これの|館《やかた》に|横《よこ》たへて  |朝《あさ》な|夕《ゆふ》なの|慈《いつくし》み
|身《み》も|健《すこや》かになりぬれば  |愈《いよいよ》|此《この》|家《や》を|立《た》ち|出《い》でて
|天《あめ》が|下《した》をば|駆巡《かけめぐ》り  |三五教《あななひけう》の|御教《みをしへ》に
|常夜《とこよ》の|暗《やみ》の|戸《と》をあけて  |荒《あら》|振《ぶ》る|神《かみ》や|醜神《しこがみ》の
|魂《たま》|照《てら》さむと|思《おも》ふ|間《うち》  |思《おも》ひがけなき|夏山彦《なつやまひこ》の
|貴《うづ》の|命《みこと》の|横恋慕《よこれんぼ》  |夫《をつと》ある|身《み》も|白瀬川《しらせがは》
|流《なが》す|浮名《うきな》の|恐《おそ》ろしく  |操《みさを》|破《やぶ》らぬ|祝姫《はふりひめ》
アヽさりながらさりながら  |世人《よびと》の|口《くち》の|怖《おそ》ろしく
|戸《と》もたてられぬ|我《わが》|思《おも》ひ  |義理《ぎり》と|情《なさけ》にほだされて
|操《みさを》の|松《まつ》も|萎《しを》れ|行《ゆ》く  |嗚呼《ああ》|如何《いか》にせむ|蚊取別《かとりわけ》
|夫《つま》の|命《みこと》が|此《この》|噂《うはさ》  |聞《きこ》し|召《め》しなば|如何《いか》にせむ
|夏山彦《なつやまひこ》は|名《な》にし|負《お》ふ  |心《こころ》|目出度《めでた》き|貴《うづ》の|司《きみ》
|神《かみ》ならぬ|身《み》の|祝姫《はふりひめ》  |夫《つま》|持《も》つ|吾《われ》と|知《し》らずして
|恋《こひ》の|小田巻《をだまき》|繰返《くりかへ》し  |返《かへ》し|重《かさ》ねて|朝夕《あさゆふ》に
|心《こころ》の|丈《たけ》を|割《わ》りなくも  |口説《くど》き|給《たま》ふぞ|悲《かな》しけれ
|此《こ》の|世《よ》を|造《つく》りし|神直日《かむなほひ》  |心《こころ》も|広《ひろ》き|大直日《おほなほひ》
|只《ただ》|何事《なにごと》も|人《ひと》の|世《よ》は  |直日《なほひ》に|見直《みなほ》し|聞《き》き|直《なほ》し
|世《よ》の|過《あやま》ちを|宣《の》り|直《なほ》す  |三五教《あななひけう》の|守《まも》り|神《がみ》
|百《もも》の|神《かみ》たち|我《わが》|胸《むね》の  |暗《くら》き|帳《とばり》を|引《ひ》きあけて
|心《こころ》を|晴《は》らせ|八重雲《やへくも》を  |伊吹《いぶ》き|祓《はら》ひて|日月《じつげつ》の
|光《ひかり》|照《て》らさせ|給《たま》へかし  |蚊取別《かとりわけ》てふ|背《せ》の|君《きみ》は
|今《いま》は|何処《いづこ》に|荒野原《あらのはら》  |独《ひと》り|苦《くる》しき|漂浪《さすらひ》の
|旅《たび》を|続《つづ》かせ|給《たま》ふらむ  |逢《あ》ひたさ|見《み》たさ|身《み》の|詰《つま》り
|只《ただ》|一言《ひとこと》の|言霊《ことたま》の  |夫《つま》の|命《みこと》に|通《かよ》へよや
|峰《みね》の|嵐《あらし》や|松風《まつかぜ》に  |寄《よ》せて|妾《わらは》が|琴《こと》の|音《ね》を
|夫《つま》の|命《みこと》に|送《おく》れかし  |夫《つま》の|命《みこと》に|送《おく》れかし』
と|静《しづ》かに|歌《うた》つて|居《ゐ》る。|蚊取別《かとりわけ》は|思《おも》はず、ウンウンと|溜息《ためいき》つきながら|足音《あしおと》|高《たか》く|我《わが》|居間《ゐま》に|立帰《たちかへ》り、|四人《よにん》と|共《とも》に|床《とこ》の|上《うへ》にコロリと|伏《ふ》し、|夜《よ》の|明《あ》くるを|今《いま》や|遅《おそ》しと|待《ま》ち|居《ゐ》たりける。
(大正一一・三・九 旧二・一一 藤津久子録)
第一一章 |十二支《じふにし》〔五〇七〕
|心《こころ》の|闇《やみ》を|照《てら》すなる  |三五教《あななひけう》の|神司《かむづかさ》
|祝《はふり》の|姫《ひめ》は|神《かみ》ならぬ  |夫《つま》の|命《みこと》の|次《つぎ》の|室《ま》に
|来《きた》りますとは|白瀬川《しらせがは》  |一絃琴《いちげんきん》に|村肝《むらきも》の
|心《こころ》の|糸《いと》を|繰返《くりかへ》し  |繰返《くりかへ》したる|小田巻《をだまき》の
|静心《しづごころ》なき|滝津瀬《たきつせ》の  |滝津《たきつ》|涙《なみだ》を|拭《ぬぐ》ひつつ
|便《たよ》りも|夏山彦《なつやまひこ》の|司《きみ》  |館《やかた》の|奥《おく》に|身《み》を|忍《しの》び
|忍《しの》び|泣《な》くこそあはれなれ  |虫《むし》が|知《し》らすか|夏山彦《なつやまひこ》の
|貴《うづ》の|命《みこと》も|何《なん》となく  シナイ|山《ざん》より|吹《ふ》き|下《おろ》す
|夜半《よは》の|嵐《あらし》に|村肝《むらきも》の  |心《こころ》の|空《そら》を|乱《みだ》されて
|縺《もつ》れかかりし|恋糸《こひいと》の  |解《と》く|由《よし》もなき|太息《ふといき》の
つくづく|思案《しあん》に|暮《く》れにける  |常闇《とこやみ》の|世《よ》とは|云《い》ひながら
|暁《あかつき》|告《つ》ぐる|鶏《とり》の|声《こゑ》  |四更五更《しかうごかう》と|明《あ》け|渡《わた》る
|渡《わた》る|浮世《うきよ》に|鬼《おに》はなし  とは|云《い》ふものの|今《いま》の|世《よ》は
|醜《しこ》の|波風《なみかぜ》|嵐《あらし》|吹《ふ》く  |誠《まこと》|明志《あかし》の|神人《かみびと》の
|尋《たづ》ね|来《きた》りし|今日《けふ》の|宵《よひ》  |心《こころ》にかかる|村雲《むらくも》を
|息吹《いぶ》き|払《はら》ひてスクスクと  |神《かみ》の|心《こころ》に|立《た》て|直《なほ》し
|魔風《まかぜ》|恋風《こひかぜ》|三五《あななひ》の  |神《かみ》の|教《をしへ》に|払《はら》はむと
ムツクと|起《お》きて|神《かみ》の|前《まへ》  |口《くち》を|漱《すす》いで|拍手《かしはで》の
|音《おと》も|畏《かしこ》く|太祝詞《ふとのりと》  |神《かみ》の|御前《みまへ》に|白《もう》しける。
|夏山彦《なつやまひこ》『|神《かみ》が|表《おもて》に|現《あら》はれて  |善《ぜん》と|悪《あく》とを|立《た》て|別《わ》ける
わけて|苦《くる》しき|恋《こひ》の|闇《やみ》  |善《よき》も|悪《あし》きも|知《し》りつれど
|諦《あきら》め|難《がた》き|恋糸《こひいと》の  |縺《もつ》れ|絡《から》みし|胸《むね》の|中《うち》
|打砕《うちくだ》かるる|想《おも》ひなり  アヽ|皇神《すめかみ》よ|皇神《すめかみ》よ
|一日《ひとひ》も|早《はや》く|片時《かたとき》も  |疾《と》く|速《すみやけ》く|我《わが》|胸《むね》に
|潜《ひそ》む|曲津《まがつ》を|取《と》り|除《の》けて  |心《こころ》|雄々《をを》しき|三五《あななひ》の
|神《かみ》の|柱《はしら》となさしめ|玉《たま》へ  アヽ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ  |霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ
|我《わが》|身《み》|一《ひと》つの|雲《くも》さへも  |霽《はら》し|能《あた》はぬ|夏山彦《なつやまひこ》の
|心《こころ》の|空《そら》は|時鳥《ほととぎす》  |五月《さつき》の|闇《やみ》に|包《つつ》まれて
|黒白《あやめ》も|分《わか》ずなりにけり  |八千八声《はつせんやこゑ》|万《よろ》づ|声《こゑ》
|血《ち》を|吐《は》く|思《おも》ひの|祝姫《はふりひめ》  |年《とし》にも|似合《にあ》はぬけなげさよ
|荒野《あれの》を|渡《わた》り|波《なみ》を|踏《ふ》み  |霜《しも》に|堪《た》へつつ|世《よ》の|為《ため》に
|教《をしへ》を|開《ひら》く|雄々《をを》しさに  |比《くら》べて|我《われ》は|彦神《ひこがみ》の
|玉《たま》の|御柱《みはしら》つれなくも  |涙《なみだ》に|暮《く》るる|腑甲斐《ふがひ》なさ
|情《なさけ》を|知《し》れる|夜嵐《よあらし》の  |吹《ふ》きて|我《わが》|身《み》の|恋雲《こひぐも》を
|清《きよ》く|晴《は》らせよ|逸《いち》|早《はや》く  |八重《やへ》に|積《つ》みし|恋雲《こひぐも》の
|暗《やみ》の|戸《と》|開《ひら》き|天津日《あまつひ》の  |光《ひかり》を|照《てら》せ|我《わが》|胸《むね》に
|光《ひかり》|輝《かがや》け|我《わが》|胸《むね》に  アヽ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|神《かみ》の|霊《みたま》の|幸《さちは》ひて  |心《こころ》の|悩《なや》み|胸《むね》の|闇《やみ》
|科戸《しなど》の|風《かぜ》に|吹《ふ》き|払《はら》ひ  |払《はら》ひ|清《きよ》めよ|天津神《あまつかみ》
|国津神《くにつかみ》|達《たち》|八百万《やほよろづ》  |塵《ちり》も|芥《あくた》も|祝姫《はふりひめ》
|心《こころ》なさけの|荒風《あらかぜ》を  |我《わが》|身《み》に|向《むか》つて|吹《ふ》き|荒《すさ》べ
|恋《こひ》の|縺《もつれ》を|吹《ふ》き|払《はら》へ  |恋《こひ》の|縺《もつれ》を|吹《ふ》きはらへ』
と|神前《しんぜん》に|祈願《きぐわん》を|籠《こ》め|述懐《じゆつくわい》を|述《の》べてゐる。|蚊取別《かとりわけ》は|又《また》もやこの|声《こゑ》を|聞《き》きつけ、|忍《しの》び|足《あし》に|次《つぎ》の|間《ま》に|潜《ひそ》むで|始終《しじゆう》を|聞《き》き|終《をは》り、|溜息《ためいき》をつきながら、|諸手《もろて》を|組《く》み、|暫《しば》し|思案《しあん》に|暮《く》れけるが、|軈《やが》て|得《え》も|云《い》はれぬ|爽快《さうくわい》なる|面色《おももち》に|変《かは》つて、|我《わが》|居間《ゐま》に|引返《ひきかへ》したり。
|月日《つきひ》の|影《かげ》さへも|見《み》えぬ|常闇《とこやみ》の|世《よ》と|云《い》ひ|乍《なが》ら、|夜《よ》は|漸《やうや》く|明《あ》け|放《はな》れたと|見《み》え、|咫尺《しせき》を|弁《べん》ぜざりし|四辺《あたり》はホンノリと|朧月夜《おぼろづきよ》の|如《ごと》く|明《あか》るくなりぬ。
|蚊取別《かとりわけ》『サアサア、どうやら|夜《よ》が|明《あ》けたやうです。|皆様《みなさん》お|目《め》を|覚《さま》されてはどうですか』
この|声《こゑ》に|驚《おどろ》いて|一同《いちどう》ムツクリと|起上《おきあが》り、
|玉光彦《たまてるひこ》『ヤア、|緩《ゆつ》くり|寝《やす》まして|貰《もら》ひました。どうやら|夜《よ》が|明《あ》けたやうですな。|昨晩《ゆうべ》は|妙《めう》な|夢《ゆめ》を|見《み》ましたよ』
|蚊取別《かとりわけ》『また|大蛇《をろち》の|背中《せなか》から|落《お》つこちたのでせう』
|玉光彦《たまてるひこ》『イエイエ|決《けつ》して|決《けつ》して。|目出度《めでた》い|夢《ゆめ》です。|何《なん》でもハと|云《い》ふ|字《じ》の|付《つ》く|美《うつく》しい|宣伝使《せんでんし》と、ナと|云《い》ふ|字《じ》の|付《つ》く|立派《りつぱ》な|男《をとこ》と|結婚《けつこん》をするし、カと|云《い》ふ|字《じ》のついた|宣伝使《せんでんし》が|大蛇《をろち》の|尾《を》から|大地《だいち》へ|向《むか》つて、|命《いのち》からがら|一足飛《いつそくとび》に|飛下《とびお》りた|様《やう》な|決断心《けつだんしん》を|以《もつ》て、|其《そ》のハの|字《じ》の|付《つ》いた|女《をんな》を|媒介《なかうど》をすると|云《い》ふ|夢《ゆめ》でしたよ』
|蚊取別《かとりわけ》『ハテなア』
と|首《くび》を|傾《かたむ》け|思案《しあん》に|沈《しづ》む。
|初公《はつこう》『モシモシ|蚊取別《かとりわけ》さま。|俺《おれ》が|寝真似《ねまね》をして|居《を》れば、|知《し》らぬかと|思《おも》つて、|盗人猫《ぬすとねこ》の|様《やう》に、|一絃琴《いちげんきん》の|音《おと》を|尋《たづ》ねて、|襖《ふすま》をスーと|開《あ》け|息《いき》を|殺《ころ》し、|右《みぎ》の|足《あし》からソロリ、|左《ひだり》の|足《あし》からソロリ、ソロリ ソロリ ソロリと|幽霊《いうれい》の|夜這人《よばひど》の|様《やう》に、|琴主《ことぬし》の|次《つぎ》の|間《ま》|迄《まで》|行《い》て|涎《よだれ》を|繰《く》つて|居《を》つたらう』
|蚊取別《かとりわけ》『お|前《まへ》は|油断《ゆだん》のならぬ|男《をとこ》だなア。そんな|夢《ゆめ》を|見《み》たのかい』
|初公《はつこう》『|夢《ゆめ》どころかい。|実《じつ》はお|前《まへ》が|行《ゆ》きよつたものだから、|俺《おれ》も|寝《ね》られぬので|闇《くら》がりまぎれに|足音《あしおと》を|便《たよ》りに|四《よ》つ|這《ばひ》になつて|従《つ》いて|行《い》つたのだ。|何《なん》でも|祝姫《はふりひめ》とか|云《い》つて|歌《うた》つて|居《を》つたよ。|襖《ふすま》の|向《むか》ふに|居《を》るのだから、|顔《かほ》は|拝《をが》めぬが、あの|声《こゑ》から|考《かんが》へて|見《み》ると、|余程《よほど》の|代物《しろもの》だ。|貴様《きさま》もあの|声《こゑ》を|聞《き》いては|寝《ね》られまいなア』
|蚊取別《かとりわけ》『ハヽヽヽヽ、|猫《ねこ》の|様《やう》に|四《よ》つ|這《ばひ》になりよつて|怪体《けたい》な|奴《やつ》ぢやナア』
|初公《はつこう》『|蚊取別《かとりわけ》さま、お|前《まへ》それ|切《き》りで|寝《ね》たのかい』
|蚊取別《かとりわけ》『マアマア、|寝《ね》たにして|置《お》かうかい』
|初公《はつこう》『|旨《うま》い|事《こと》を|云《い》ふな、|今度《こんど》はナの|字《じ》のついた|方《はう》へ、ノソリノソリと|四《よ》つ|這《ばひ》になつて、|頭《あたま》の|光《ひか》つた|化物《ばけもの》が|行《い》つただろう。その|後《あと》へコソリコソリと|立《た》つてついて|行《い》つたのが|此《この》|初《はつ》さまだ。|何《なん》でもここのナがハに|何《なん》やらしようと|思《おも》つて、|胸《むね》を|痛《いた》めて|居《を》るらしい。|面白《おもしろ》くもない|愁嘆場《しうたんば》を|二幕《ふたまく》も|聞《き》かされて|寝《ね》られたものぢやないワイ。|最前《さいぜん》から|十二支《じふにし》の|講釈《かうしやく》を、ベラベラと|教《をし》へて|呉《く》れたが、|俺《おれ》はその|時《とき》に|思《おも》ひ|出《だ》して、|可笑《をか》しくて|吹《ふ》き|出《だ》しさうになつたよ。【|子《ね》】の|刻《こく》に【|寝《ね》】るものだと|云《い》ふ|宣伝使《せんでんし》が、【|根《ね》】つから【|寝《ね》】もせず、【|牛《うし》】の|刻《こく》ぢやないが、【|牛《うし》】の|四《よ》つ|這《ばひ》になつて|涎《よだれ》を|繰《く》つて、ガサリガサリ|何《なん》の|状態《ざま》だい。|愚図々々《ぐづぐづ》して|居《を》ると、【|寅《とら》】の|刻《こく》で【|捉《とら》】まへられて、【|卯《う》】の|刻《こく》で【ウン】と|云《い》ふ|目《め》に|逢《あ》はされて、【|辰《たつ》】の|刻《こく》ぢやないが|宣伝使《せんでんし》の|顔《かほ》も【|立《た》つ】まいと、【|巳《み》】の|刻《こく》【|身《み》】の|程《ほど》|知《し》らずのヒヨツトコ|面《づら》が、|旨《うま》い|事《こと》を|考《かんが》へても、|向《むか》ふは|素敵《すてき》の|代物《しろもの》だ。さう【|未《ひつじ》】の|様《やう》に|温順《をとな》しく、ハイとは|云《い》はないぞ。【|申《さる》】の|刻《こく》の【|猿《さる》】の|尻笑《しりわら》ひか|知《し》らぬが|赤《あか》い|恥《はぢ》を|掻《か》いて、【|酉《とり》】の|刻《こく》ぢやないが、|【取】返《とりかへ》しのならぬ|縮尻《しくじり》をやつて、【|戌《いぬ》】の|刻《こく》の|【犬】突這《いぬつくばひ》になつて、【|亥《ゐ》】の|刻《こく》【イイ】|以後《【い】ご》はきつと|改心《かいしん》いたします、どうぞどうぞ|此《この》|御無礼《ごぶれい》は|神直日《かむなほひ》|大直日《おほなほひ》に、|見直《みなほ》し|聞《き》き|直《なほ》し|許《ゆる》して|下《くだ》さいまし。【|子《ね》】の|刻《こく》に【ネネ】|願《【ね】が》ひます、なんて|云《い》ふとこだつたよ』
|蚊取別《かとりわけ》『|貴様《きさま》はよく|真似《まね》をする|奴《やつ》だ。かう|云《い》ふ|事《こと》にかけたら|抜目《ぬけめ》の|無《な》い、|隅《すみ》にも|置《お》けぬ|男《をとこ》だなア』
|国光彦《くにてるひこ》『|私《わたし》も|妙《めう》な|夢《ゆめ》を|見《み》ました。|初《はつ》と|云《い》ふ|男《をとこ》とカと|云《い》ふ|男《をとこ》が、|牛《うし》になつたり、|馬子《まご》になつたり、|馬子《まご》になつたり、|牛《うし》になつたり、|暗《くら》い|処《とこ》を|四《よ》つ|這《ばひ》になつて|歩《ある》いて|居《ゐ》ましたぜ。|四《よ》つ|足《あし》や|牛馬《ぎうば》は|夜分《やぶん》にでも|目《め》が|見《み》えると|見《み》えますなア』
|蚊取別《かとりわけ》『アハヽヽヽ、|貴方《あなた》は|天眼通《てんがんつう》で|見《み》て|居《を》られましたのか』
|国光彦《くにてるひこ》『イヤ|夢《ゆめ》ですよ。しかし|乍《なが》ら|夢《ゆめ》は|正夢《まさゆめ》、きつと|今日《けふ》はこの|館《やかた》に|御目出度《おめでた》い|事《こと》が|出《で》て|来《く》るでせう。|朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも、|月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも、|変《かは》らぬものは|恋《こひ》の|道《みち》、|恋《こひ》に|上下《じやうげ》の|隔《へだ》てはない、きつと|比翼連理《ひよくれんり》|偕老同穴《かいらうどうけつ》と|云《い》ふ|様《やう》な|御慶事《ごけいじ》が|出《で》て|来《き》ませうよ』
|初公《はつこう》『これ|蚊取別《かとりわけ》さま、|今日《けふ》はえらう|沈《しづ》むでる|様《やう》だなア。お|前《まへ》の|日頃《ひごろ》|思《おも》つて|居《を》る|女《をんな》でも、|此処《ここ》へ|隠《かく》れて|居《ゐ》るのではないかなア』
|蚊取別《かとりわけ》『サア、|何《なん》とも|判《わか》らぬなア』
|初公《はつこう》『アハヽヽヽ、よく|自惚《うぬぼれ》たものだなア。|自分《じぶん》の|御面相《ごめんさう》とちつと|御相談《ごさうだん》なされませや』
かく|話《はな》す|折《をり》しも|襖《ふすま》をソツと|引開《ひきあ》け、|静《しづ》かに|入《い》り|来《きた》る|一人《ひとり》の|美人《びじん》、|蚊取別《かとりわけ》の|姿《すがた》を|見《み》るより、|美人《びじん》はハツと|驚《おどろ》き|涙《なみだ》を|流《なが》し、|膳部《ぜんぶ》を|其処《そこ》につき|出《だ》し|乍《なが》ら、|一言《ひとこと》も|得云《えい》はず、|恥《はづ》かし|気《げ》に|奥《おく》の|間《ま》に|立《た》ち|去《さ》りぬ。
|初公《はつこう》『モシモシ|蚊取別《かとりわけ》さま、あれが|例《れい》のハぢや、|思《おも》つたよりは|立派《りつぱ》な|奴《やつ》ぢやなア』
|蚊取別《かとりわけ》『ウムー、ウムー、さうだ、|牛《うし》は|牛《うし》|連《づ》れ、|馬《うま》は|馬《うま》|連《づ》れ、|月《つき》に|鼈《すつぽん》、|雪《ゆき》と|墨《すみ》、|提灯《ちやうちん》に|吊鐘《つりがね》、|釣《つ》り|合《あ》はぬは|不縁《ふえん》のもと、アハヽヽヽ』
|初公《はつこう》『|夜《よ》が|明《あ》けて|居《を》るのに|提灯《ちやうちん》も|月《つき》もあつたものかい、|訳《わけ》の|分《わか》らぬ|事《こと》を|云《い》ふ|男《をとこ》だなア。|併《しか》し|私《わし》だつたら、|幸《さいはひ》|女房《にようばう》もなし、|向《むか》ふさへ|承知《しようち》なら、|辛抱《しんばう》してやらぬ|事《こと》はない』
|高光彦《たかてるひこ》『アハヽヽヽ』
|蚊取別《かとりわけ》『アヽ、|私《わし》も|人生《じんせい》の|無常《むじやう》を|感《かん》じて|居《ゐ》る|一人《いちにん》だが、もうかうやつて|年《とし》を|取《と》り、|五十《ごじふ》の|坂《さか》が|見《み》えかけると、|無常《むじやう》どころか|無常迅速《むじやうじんそく》を|切《せつ》に|感《かん》ずる|様《やう》になつたよ』
|初公《はつこう》『|何《なに》が|無《む》【じやう】|件《けん》だ。お|前《まへ》の|方《はう》からは|彼《あ》んな|代物《しろもの》が|女房《にようばう》になると|云《い》へば|無条件《むでうけん》だらうが、|向《むか》ふの|方《はう》は|有条件《うでうけん》で、さう|迅速《じんそく》にハイハイとは|仰《おつ》しやらないぞ。|余《あん》まり|自惚《うぬぼれ》をせぬがよからう。だいぶんに|羨《けな》るうなつたと|見《み》えて、|悄気《しよげ》た|顔《かほ》をなされますなア』
この|時《とき》|襖《ふすま》をサラリと|開《あ》けて、|夏山彦《なつやまひこ》は|祝姫《はふりひめ》を|従《したが》へ|此《この》|場《ば》に|現《あら》はれ、
『ヤア|皆《みな》さま、|汚穢《むさくる》しい|家《うち》で…………、また|夜前《やぜん》は|何《なん》だか|寝苦《ねぐる》しき|陽気《やうき》で|御座《ござ》いました。|定《さだ》めてお|困《こま》りでしたでせう。マアゆるりと|御飯《ごはん》でも|御食《おあが》り|下《くだ》さいませ』
|初公《はつこう》『ヤア、|是《これ》だ|是《これ》だ。|皆《みな》さま|寛《ゆつく》りと|御飯《ごはん》でも|上《あが》りませうかい』
|此《この》|時《とき》|得《え》も|云《い》はれぬ|薫《かん》ばしき|香気《かうき》|俄《にはか》に|室内《しつない》に|充《み》ち、|何処《いづこ》ともなく|嚠喨《りうりやう》たる|糸竹管絃《しちくくわんげん》の|響《ひびき》|聞《きこ》え|来《き》たる。
(大正一一・三・九 旧二・一一 岩田久太郎録)
第一二章 |化身《けしん》〔五〇八〕
|夏山彦《なつやまひこ》と|共《とも》に|此《この》|場《ば》に|現《あら》はれた|祝姫《はふりひめ》は、|轟《とどろ》く|胸《むね》を|撫《な》で|擦《さす》り|乍《なが》ら、
|祝姫《はふりひめ》『これはこれは|御一同様《ごいちどうさま》、|御苦労様《ごくらうさま》で|御座《ござ》いました。|妾《わらは》は|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》|祝姫《はふりひめ》と|申《まを》すもの、|白瀬川《しらせがは》の|魔神《まがみ》を|言向和《ことむけやは》さむと|難処《なんしよ》を|伝《つた》ひ|漸《やうや》く|秋月《あきづき》の|滝《たき》に|着《つ》く|折《をり》しも、|魔神《まがみ》の|為《た》めに|悩《なや》まされ|生命《いのち》|危《あやふ》き|折柄《をりから》、イホの|酋長《しうちやう》|即《すなは》ち|此処《ここ》に|在《ま》します|夏山彦《なつやまひこ》|様《さま》に|助《たす》けられ|救《すく》はれて|当家《たうけ》にお|世話《せわ》となり、|漸《やうや》く|病労《いたつき》の|身《み》を|元《もと》に|復《かへ》し、これより|世《よ》の|為《た》めに|神様《かみさま》の|御用《ごよう》に|立《た》ち|出《い》でむと|思《おも》つて|居《ゐ》た|処《ところ》で|御座《ござ》います。アヽ|貴神《あなた》は|我《わが》|夫《つま》、|蚊取別《かとりわけ》の|宣伝使《せんでんし》、ようマア|御無事《ごぶじ》で|居《ゐ》て|下《くだ》さいました』
と|涙《なみだ》と|共《とも》に|語《かた》る。
|蚊取別《かとりわけ》は|儼然《げんぜん》として|容《かたち》を|更《あらた》め|襟《えり》を|正《ただ》し、|祝姫《はふりひめ》をグツと|睨《にら》み|乍《なが》ら、
『|今日《けふ》より|都合《つがふ》によつて|汝《なんぢ》を|離縁《りえん》する』
|祝姫《はふりひめ》『エ、それは|又《また》、|如何《どう》した|理由《わけ》』
|蚊取別《かとりわけ》『|我《われ》は|女房《にようばう》を|持《も》てぬ|因縁《いんねん》があるのだ。|夫《それ》|故《ゆゑ》|汝《なんぢ》と|結婚《けつこん》の|約《やく》を|結《むす》ぶは|結《むす》んだものの、|未《いま》だ|一度《いちど》も|枕《まくら》を|共《とも》にした|事《こと》は|無《な》い。|実《じつ》に|二人《ふたり》の|仲《なか》は|清浄《せいじやう》|潔白《けつぱく》、|汚《けが》しも|穢《けが》されもせぬ|仲《なか》、|今日《けふ》|限《かぎ》り|離縁《りえん》を|致《いた》す。|斯《か》くなる|上《うへ》は|従前《じうぜん》の|通《とほ》り|押《お》しも|押《お》されもせぬ|互《たがひ》に|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》だ。サア|祝姫《はふりひめ》さま、その|覚悟《かくご》で|交際《つきあ》つて|下《くだ》さい』
|祝姫《はふりひめ》『これは|心得《こころえ》ぬ|貴方《あなた》の|御言葉《おことば》、|妾《わらは》が|貞操《みさを》の|点《てん》について|何《なに》か|御心《おこころ》に|触《さ》へられたるには|非《あら》ざるか、|心許《こころもと》なし、|包《つつ》まず|隠《かく》さず|宣《の》らせ|玉《たま》へ』
と|涙《なみだ》を|袖《そで》に|拭《ぬぐ》ひつつ|其《その》|場《ば》にワツと|倒《たふ》れ|伏《ふ》しける。
|蚊取別《かとりわけ》『|祝姫《はふりひめ》|殿《どの》、|切《せつ》なるお|心《こころ》はお|察《さつ》しする。|貴女《あなた》の|潔白《けつぱく》なる|心《こころ》は|私《わたくし》は|十分《じふぶん》|諒解《りやうかい》して|居《ゐ》る。この|蚊取別《かとりわけ》は、もと|大自在天《だいじざいてん》の|臣下《しんか》たりし|蚊取別《かとりわけ》に|姿《すがた》を|変《へん》じ|居《を》れ|共《ども》、|実《じつ》は|贋物《にせもの》である。|我《われ》はある|尊《たふと》き|神《かみ》の|命《めい》を|受《う》け、|宣伝使《せんでんし》の|養成《やうせい》に|全力《ぜんりよく》を|注《そそ》いで|居《を》るもの、|実際《じつさい》の|処《ところ》を|言《い》へば|大化物《おほばけもの》だ。|安心《あんしん》して|何卒《どうか》|夏山彦《なつやまひこ》と|結婚《けつこん》して|下《くだ》さい』
|祝姫《はふりひめ》『エ、|貴神《あなた》は|何《いづ》れの|神様《かみさま》』
|蚊取別《かとりわけ》『それを|明《あ》かす|事《こと》|丈《だけ》は|待《ま》つて|貰《もら》ひ|度《た》い』
|初公《はつこう》『ヤア|蚊取別《かとりわけ》、なヽヽヽ|何《なん》だ、ばヽヽヽ|化物《ばけもの》|見《み》た|様《やう》な|男《をとこ》だな。|夜前《やぜん》お|前《まへ》が|忍《しの》び|足《あし》に|聞《き》きに|行《ゆ》きよつたのが、|不思議《ふしぎ》だと|思《おも》つて|居《を》つたら、|天《てん》にも|地《ち》にも|無《な》い|最愛《さいあい》の|女房《にようばう》だつたのだな。それは|無理《むり》もない、|尤《もつと》もだ。|然《しか》し|乍《なが》ら|今《いま》|聞《き》けば|一回《いつくわい》も|枕《まくら》を|並《なら》べた|事《こと》も|無《な》いと|言《い》ふ|事《こと》だが、|随分《ずゐぶん》|素気《すげ》ない|男《をとこ》だなア。さうして|夏山彦《なつやまひこ》の|酋長《しうちやう》の|女房《にようばう》になれとは|何《なに》が|何《なに》やら|訳《わけ》が|分《わか》らぬ。オイ、も|一遍《いつぺん》|俺《おれ》の|鼻《はな》を|捻《ねじ》つて|見《み》て|呉《く》れないか。|根《ね》つから|葉《は》つから|目《め》から|口《くち》から|鼻《はな》から|合点《がてん》の|虫《むし》が|承知《しようち》せぬワイ』
|蚊取別《かとりわけ》『アハヽヽヽヽ』
|高光彦《たかてるひこ》は|蚊取別《かとりわけ》の|顔《かほ》を|穴《あな》のあく|程《ほど》ながめ|乍《なが》ら、
『|貴神《あなた》は|初《はじ》めてお|目《め》にかかつた|時《とき》から、|何《なん》だか|不思議《ふしぎ》な|宣伝使《せんでんし》だと|思《おも》つてゐました。いやもう|感心《かんしん》|致《いた》しました。|夏山彦《なつやまひこ》さま、|蚊取別《かとりわけ》の|宣伝使《せんでんし》はこれや|屹度《きつと》|三十三相《さんじふさんさう》に|身《み》を|変《へん》じて|御座《ござ》る|神様《かみさま》ですよ、|仰《おほせ》の|通《とほ》り|祝姫《はふりひめ》さまと|御結婚《ごけつこん》を|遊《あそ》ばしませ。|神様《かみさま》の|結《むす》むだ|結構《けつこう》な|縁《えん》だから|祝姫《はふりひめ》さまも|決心《けつしん》をして、|此《この》|方《かた》の|仰有《おつしや》る|通《とほ》りなさるが|宜《よろ》しからう。|夏山彦《なつやまひこ》さまもよもや|嫌《きら》ひな|仲《なか》ではありますまい。|是《これ》で|貴神《あなた》の|心《こころ》の|暗《やみ》も|杜鵑《ほととぎす》もをさまりませう』
|夏山彦《なつやまひこ》『アヽ|勿体《もつたい》ない、|如何《どう》してどうして|祝姫《はふりひめ》さまを|女房《にようばう》に|持《も》つことが|出来《でき》ませうか。|今《いま》|承《うけたま》はれば|蚊取別《かとりわけ》の|宣伝使《せんでんし》の|奥《おく》さまとやら、|聞《き》いて|驚愕《びつくり》|致《いた》しました。|私《わたくし》の|今迄《いままで》の|心《こころ》を|打《う》ち|割《わ》つて|申《まを》せば、|初《はじ》めは|三五《あななひ》の|教《をしへ》に|帰依《きえ》し|次《つぎ》に|神様《かみさま》に|帰依《きえ》し、|遂《つひ》には|宣伝使《せんでんし》に|帰依《きえ》する|様《やう》になり、それが|重《かさ》なつて|恋《こひ》の|病《やまひ》におち、|煩悶《はんもん》|苦悩《くなう》を|続《つづ》けて|居《を》りました。|人民《じんみん》の|頭《かしら》となり|乍《なが》ら|実《じつ》にお|恥《はづか》しい|心《こころ》で|御座《ござ》います。|私《わたくし》も|因縁《いんねん》が|恐《おそ》ろしくなつて|来《き》ました。|何卒《どうぞ》このこと|計《ばか》りは|許《ゆる》して|下《くだ》さいませ、|今迄《いままで》の|恋愛心《れんあいしん》をスツカリ|捨《す》てて|仕舞《しま》ひますから』
|蚊取別《かとりわけ》『それはいけませぬ。|帰依《きえ》した|宣伝使《せんでんし》を|忘《わす》るれば|従《したが》つて|道《みち》を|忘《わす》れ、|神《かみ》を|忘《わす》れる|事《こと》になつて|来《く》る。|帰依心《きえしん》、|帰依道《きえだう》、|帰依師《きえし》だ。|凡《すべ》て|信仰《しんかう》は|恋慕《れんぼ》の|心《こころ》を|持《も》たねばならぬ。サアサ、|私《わたくし》がこれから|媒酌《なかうど》を|致《いた》しますから、|御心配《ごしんぱい》なく|結婚《けつこん》の|式《しき》を|一時《いちじ》も|早《はや》く|挙《あ》げて|下《くだ》さい。|神《かみ》が|許《ゆる》した|夫婦《ふうふ》の|縁《えん》、|誰《たれ》に|憚《はばか》る|事《こと》もない、|御両人《ごりやうにん》|共《とも》、|少《すこ》しも|蚊取別《かとりわけ》に|遠慮《ゑんりよ》して|貰《もら》つては|困《こま》る』
|玉光彦《たまてるひこ》『ヤア、これで|私《わたくし》の|夢《ゆめ》も|実現《じつげん》した。|矢張《やつぱり》|正夢《まさゆめ》であつたか』
|国光彦《くにてるひこ》『|不思議《ふしぎ》な|事《こと》ですな。|兄《にい》さまの|夢《ゆめ》に|迄《まで》チヤンと|分《わか》つて|居《ゐ》るのだから、これや|屹度《きつと》|神《かみ》の|許《ゆる》された|縁《えん》でせう。|御主人様《ごしゆじんさま》、|蚊取別《かとりわけ》の|神様《かみさま》の|仰《おつ》しやる|通《とほ》り、|素直《すなほ》に|結婚《けつこん》の|式《しき》を|挙《あ》げたが|宜《よろ》しからう』
|初公《はつこう》『イヤ、もう|昨晩《ゆうべ》の|夢《ゆめ》と|言《い》ひトンと|訳《わけ》が|分《わか》らぬ|様《やう》になつて|来《き》たワイ。|斯《こ》う|百日《ひやくにち》も|月日《つきひ》の|御光《おひかり》が|拝《をが》めぬ|様《やう》になつた|世《よ》の|中《なか》だから、|何《いづ》れ|種々《いろいろ》の|化物《ばけもの》が|現《あら》はれるのだらう。こいつは|矢張《やつぱり》|怪《あや》しいものだ』
|蚊取別《かとりわけ》の|媒酌《なかうど》によつて|此処《ここ》に|二人《ふたり》は|結婚《けつこん》の|式《しき》を|挙《あ》げ、|祝姫《はふりひめ》は|一行《いつかう》|五人《ごにん》と|共《とも》に|白瀬川《しらせがは》の|魔神《まがみ》を|言向和《ことむけやは》すべく、|館《やかた》を|後《あと》に|六人《ろくにん》|連《づ》れ|宣伝歌《せんでんか》を|歌《うた》ひ|乍《なが》ら、|朧月夜《おぼろづきよ》の|如《ごと》き|春《はる》の|日《ひ》をシナイ|山《ざん》の|山麓《さんろく》|指《さ》して|進《すす》み|行《ゆ》く。
(大正一一・三・九 旧二・一一 北村隆光録)
第一三章 |秋月滝《あきづきのたき》〔五〇九〕
|常夜《とこよ》|往《ゆ》く|暗《やみ》を|晴《は》らして|世《よ》の|中《なか》を、|清《きよ》めむよしもナイル|河《がは》、ウラルの|彦《ひこ》の|御教《みをしへ》に、|心《こころ》も|身《み》をも|蕩《とろ》かされ、|正《ただ》しき|業《わざ》もシナイ|山《ざん》、|木々《きぎ》の|繁《しげ》みに|隠《かく》ろいて、この|世《よ》を|乱《みだ》す|曲津神《まがつかみ》、|汚《けが》れを|流《なが》す|恐《おそろ》しさ、|空《そら》|照《て》り|渡《わた》る|秋月《あきづき》の、|滝《たき》さへ|濁《にご》る|泥《どろ》の|雨《あめ》、|降《ふ》り|来《く》るものは|泥《どろ》と|灰《はい》、|地《ち》に|堆高《うづたか》く|重《かさ》なりて、|足《あし》|踏《ふ》みなずむ|谷《たに》の|路《みち》、|灰《はひ》|降《ふ》る|後《あと》の|夏《なつ》の|日《ひ》に、|冷《つめ》たき|雪《ゆき》の|降《ふ》り|積《つも》り、|夏《なつ》にも|非《あら》ず|冬《ふゆ》ならず、|春日《はるひ》か|秋《あき》か【あや|四季《しき》】の、|順序《ついで》|乱《みだ》れて|常夜《とこよ》|行《ゆ》く、|神《かみ》の|恵《めぐ》みもいやちこに、|御空《みそら》|晴《は》らして|高光彦《たかてるひこ》や|国光彦《くにてるひこ》、|曲津《まがつ》の|身玉光彦《みたまてるひこ》や、|初花《はつはな》|開《ひら》く|祝姫《はふりひめ》、|蚊取《かとり》の|別《わけ》の|六人《むたり》|連《づ》れ、|谷間《たにま》を|指《さ》して|進《すす》み|行《ゆ》く。
|初公《はつこう》『ヨー、そつくりだ、|夢《ゆめ》に|見《み》た|通《とほ》りの|森林《しんりん》もあり、|滝《たき》もある。|然《しか》し|昼《ひる》とは|云《い》ひ|乍《なが》ら、ほの|暗《ぐら》い|世《よ》の|中《なか》に|滝《たき》ばかり|白《しろ》く|光《ひか》つて|居《を》る。|彼奴《あいつ》が|一《ひと》つの|曲者《くせもの》だよ。サアこれからあの|滝《たき》に|向《むか》つて|言霊《ことたま》でウンとやつて|見《み》よか』
|蚊取別《かとりわけ》『ソー|惶《あわ》てるものぢやない、|気《き》を|落《お》ち|着《つ》けて|緩《ゆつ》くりとかかる|事《こと》にしよう。|祝姫《はふりひめ》さまは|早《は》や|此《この》|滝《たき》に|経験《けいけん》があるのだから、|言《い》はば|今度《こんど》は|弔《とむら》ひ|戦《いくさ》だ、シツカリ|遣《や》るのだぜ』
|初公《はつこう》『|大分《だいぶ》に|暗《くら》くなつて|来《き》たワイ。|何処《どこ》か|此処《ここ》らに|麻《あさ》の|繩《なは》が|落《お》ちて|居《を》らぬかいな』
|蚊取別《かとりわけ》『|麻《あさ》の|繩《なは》が|落《お》ちて|居《を》れば|夢《ゆめ》が|実現《じつげん》するのだから、それこそ|又《また》もや|大蛇《をろち》の|背中《せなか》だ。ヤア|皆《みな》の|方々《かたがた》、|此処《ここ》には|秋月《あきづき》の|滝《たき》、|深雪《みゆき》の|滝《たき》、|橘《たちばな》の|滝《たき》、|高光《たかてる》の|滝《たき》、|玉光《たまてる》の|滝《たき》、|国光《くにてる》の|滝《たき》と|六《む》つの|大滝《おほたき》がある。それを|各々《おのおの》|手分《てわけ》けして、|一《ひと》つづつ|言向和《ことむけやは》す|事《こと》にしたらどうでせうなア』
|初公《はつこう》『モシモシ、|初《はつ》の|滝《たき》、|蚊取別《かとりわけ》の|滝《たき》はありませぬかいな』
|蚊取別《かとりわけ》『|沢山《たくさん》にある、|然《しか》しそんな|些細《ささい》な|滝《たき》は|数《かず》に|入《はい》つて|居《を》らぬのだよ。|余《あま》り|大《おほ》きくて|数《かず》に|入《はい》らぬのが|蚊取別《かとりわけ》の|滝《たき》、あまり|小《ちひ》さくて|数《かず》に|入《はい》らぬのが|初《はつ》の|滝《たき》と|云《い》ふのだよ』
|初公《はつこう》『|酷《ひど》いなア、|然《しか》し|六人《ろくにん》|一度《いちど》に|力《ちから》を|集《あつ》めて|秋月《あきづき》の|滝《たき》へ|突撃《とつげき》を|試《こころ》むる|事《こと》にしませうかい』
|斯《か》く|云《い》ふ|間《うち》|滝《たき》の|音《おと》はドードーと|刻々《こくこく》に|激《はげ》しく|聞《きこ》えて|来《く》る。|飛沫《ひまつ》は|四方《しはう》に|飛散《とびち》り、|折《をり》からの|風《かぜ》に|連《つ》れて|六人《ろくにん》の|佇《たたず》む|前《まへ》に|驟雨《しうう》の|如《ごと》く|落《お》ち|来《きた》る。
|初公《はつこう》『サア|大変《たいへん》だ。|滝《たき》の|奴《やつ》、|祝姫《はふりひめ》に|秋波《しうは》でなくて|激波《げきは》、|激沫《げきまつ》を|飛《と》ばして、チヨイチヨイとお|顔《かほ》を|舐《なめ》ると|云《い》ふ|洒落《しやれ》だナア』
|蚊取別《かとりわけ》『|滝《たき》が|来《き》たのぢやない、|此方《こちら》より|進《すす》むだぢやないか、ソラ、ここは|滝《たき》の|前《まへ》だよ』
|初公《はつこう》『ヤア|此奴《こいつ》は|不思議《ふしぎ》、|歩《ある》きもせぬのに|七八町《しちはつちやう》もある|処《ところ》をどうして|此処《ここ》まで|来《き》たのだらうか』
|蚊取別《かとりわけ》『|極《きま》つた|事《こと》よ、|大蛇《をろち》の|背中《せなか》に|乗《の》せられて|来《き》たのだもの。|貴様《きさま》|一寸《ちよつと》|前《まへ》を|見《み》よ、|鎌首《かまくび》を|立《た》てて|居《ゐ》るぢやないか』
|初公《はつこう》『ヤア|愈《いよいよ》|怪《あや》しいぞ、|迷宮《めいきう》に|入《い》つた。どうやら|蚊取別《かとりわけ》もかうなつて|来《く》ると|怪《あや》しいものだ。|神蚊《かみ【か】》|悪魔蚊《あくま【か】》、|本当蚊《ほんたう【か】》|嘘蚊《うそ【か】》、お|化蚊《ばけ【か】》|本物蚊《ほんもの【か】》、|蚊々々《【かかか】》|烏蚊《【か】らす【か】》|鳶蚊《とび【か】》、|天狗蚊《てんぐ【か】》|大蛇蚊《をろち【か】》、|取別《とりわけ》|訳《わけ》が|分《わか》らぬぢやない|蚊《【か】》い』
|斯《か》く|言《い》ふ|間《うち》|谷間《たにま》に|立《た》てる|見上《みあ》ぐる|許《ばか》りの|大岩石《だいがんせき》はガラガラと|音《おと》して、|六人《ろくにん》の|頭上《づじやう》に|落《お》ちかからうとする。
|初公《はつこう》『サア|蚊取別《かとりわけ》さま、|宣伝歌《せんでんか》だ|宣伝歌《せんでんか》だ、|愚図々々《ぐづぐづ》して|居《ゐ》ると|岩《いは》に|押《お》し|潰《つぶ》されてしまうワ』
|蚊取別《かとりわけ》『あれは|岩《いは》ではない、|滝《たき》の|水烟《みづけむり》だ。|早《は》や|曲津神《まがつかみ》に|瞞《だま》されて|居《ゐ》るな』
|滝《たき》の|音《おと》は|刻々《こくこく》に|高《たか》く|轟《とどろ》いて|来《く》る。|初公《はつこう》は|一生懸命《いつしやうけんめい》|汗《あせ》を|滝《たき》と|流《なが》しながら|神言《かみごと》を|奏上《そうじやう》し、|薄暗《うすぐら》き|滝《たき》の|畔《ほとり》は|忽《たちま》ち|紅《あか》くなつて|来《き》た。|見《み》れば|滝《たき》の|中《なか》より|巨大《きよだい》なる|火《ひ》の|玉《たま》が、スウスウと|滝《たき》を|目蒐《めが》けて|昇《のぼ》り|行《ゆ》く。
|初公《はつこう》『ヤア|出《で》やがつた|赤玉《あかだま》|奴《め》が。|初《はつ》さまの|御鎮魂《ごちんこん》にウンと|火《ひ》の|玉《たま》を|消《け》して|遣《や》らうか。ヤア|待《ま》て|待《ま》て|彼奴《あいつ》が|居《を》るとそこらが|明《あか》くて|丁度《ちやうど》|灯《あかり》の|代《かは》りになるから|放《ほ》つといてやらうかナア』
|巨大《きよだい》な|火《ひ》の|玉《たま》は、ブスリと|消《き》えた。|四辺《あたり》は|真暗闇《まつくらやみ》である。
|初公《はつこう》『ヤア|蚊取別《かとりわけ》さま、|祝姫《はふりひめ》さま、|真闇《まつくら》になつた、|宣伝歌《せんでんか》を|歌《うた》つて|下《くだ》さい』
|滝《たき》の|音《おと》は|益々《ますます》|高《たか》く|聞《きこ》える。
|初公《はつこう》『サヽ|蚊取別《かとりわけ》さま、|宣伝歌《せんでんか》を|力《ちから》|一杯《いつぱい》|一生懸命《いつしやうけんめい》|歌《うた》ひませう。|何《な》んだ|返事《へんじ》をせぬのか、ハハア、|余《あま》り|滝《たき》の|音《おと》が|高《たか》くて|聞《きこ》えぬのだらう』
と|云《い》ひながら|両手《りやうて》を|組《く》み、|一生懸命《いつしやうけんめい》に|滝壺《たきつぼ》に|向《むか》つて|宣伝歌《せんでんか》を|歌《うた》つた。
|初公《はつこう》『|朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも  |月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも
たとへ|天地《てんち》は|暗《くら》くとも  |白瀬《しらせ》の|川《かは》の|滝《たき》に|住《す》む
|此《こ》の|曲津見《まがつみ》を|言霊《ことたま》の  |貴《うづ》の|剣《つるぎ》を|抜《ぬ》き|持《も》ちて
|切《き》り|屠《ほふ》らずに|置《お》く|可《べ》き|蚊《【か】》  |取別神《【とりわけ】かみ》の|御化身《おんけしん》
|瑞《みづ》の|御魂《みたま》の|御光《みひかり》に  |岩戸《いはと》こめたる|雲霧《くもきり》を
|伊吹《いぶ》きに|払《はら》ふ|祝姫《はふりひめ》  |赤《あか》い|火《ひ》の|玉《たま》|飛《と》び|出《だ》して
|高光彦《たかてるひこ》か|玉光《たまてる》か  |広国《ひろくに》|光《て》らす|宣伝使《せんでんし》
|睦《むつ》び|合《あ》うたる|神柱《かむばしら》  |厳《いづ》の|雄健《をたけ》び|踏《ふ》み|健《たけ》び
|厳《いづ》のころびを|振《ふ》り|起《お》こし  |曲《まが》を|悉《ことごと》|言向《ことむ》けて
|四方《よも》に|塞《ふさ》がる|村雲《むらくも》を  |晴《は》らして|日《ひ》の|出《で》の|世《よ》となさむ
|此《この》|世《よ》を|造《つく》りし|神直日《かむなほひ》  |心《こころ》も|広《ひろ》き|大直日《おほなほひ》
|直日《なほひ》に|見直《みなほ》し|宣《の》り|直《なほ》す  |行平別《ゆきひらわけ》の|言霊《ことたま》に
|敵《てき》する|神《かみ》はあらざらむ  |天《あま》の|岩戸《いはと》も|秋月《あきづき》の
|滝《たき》の|音《おと》さへ|鎮《しづ》まりて  |枝《えだ》も|鳴《な》らさぬ|神《かみ》の|御代《みよ》
ナイルの|河《かは》も|純世姫《すみよひめ》  |心《こころ》を|尽《つく》しの|島ケ根《しまがね》に
|太《ふと》き|稜威《みいづ》を|阿弗利加《アフリカ》や  |広《ひろ》き|原野《はらぬ》に|蟠《わだか》まる
|曲《まが》|言向《ことむ》けて|初国《はつくに》を  |開《ひら》く|行平別《ゆきひらわけ》の|神《かみ》
アヽ|曲神《まがかみ》よ、|曲神《まがかみ》よ  |神《かみ》の|御言《みこと》にまつろひて
ナイルの|河《かは》の|滝水《たきみづ》に  |心《こころ》を|洗《あら》へよ|清《きよ》めよや』
と|歌《うた》ひ|終《をは》れば、|不思議《ふしぎ》や|今《いま》まで|暗黒《あんこく》なりし|谷間《たにま》は|夜《よ》の|明《あ》けたる|如《ごと》く、|天津御空《あまつみそら》には、|雲《くも》を|分《わ》けてほのかに|日《ひ》の|光《ひか》り|現《あら》はれ|来《きた》りければ、|初公《はつこう》は|欣喜《きんき》|雀躍《じやくやく》の|余《あま》り、|後《あと》|振《ふ》り|返《かへ》り、
『モシ|蚊取別《かとりわけ》|様《さま》』
と|言《い》ひつつ|傍《かたはら》を|見《み》れば|宣伝使《せんでんし》の|影《かげ》は|一柱《ひとはしら》も|見《み》えずなりにける。
|初公《はつこう》『ハテ|不思議《ふしぎ》だ、|何《なん》の|事《こと》だか|訳《わけ》が|分《わか》らぬ。|然《しか》し|乍《なが》ら|久《ひさ》し|振《ぶり》で|天《あま》の|岩戸《いはと》が|開《ひら》けたと|見《み》えて、かすかながらも|日輪様《にちりんさま》のお|顔《かほ》を|拝《をが》むだ。アヽ|有難《ありがた》いありがたい|天津《あまつ》|祝詞《のりと》を|上《あ》げませう』
(大正一一・三・九 旧二・一一 谷村真友録)
第一四章 |大蛇ケ原《をろちがはら》〔五一〇〕
|有為転変《うゐてんべん》の|世《よ》の|習《なら》ひ  |淵瀬《ふちせ》と|変《かは》る|人《ひと》の|身《み》は
|栄枯盛衰《えいこせいすゐ》|会者定離《ゑしやぢやうり》  |浮世《うきよ》の|風《かぜ》に|操《あやつ》られ
|高天原《たかあまはら》の|天使長《てんしちやう》  その|神政《しんせい》を|輔翼《ほよく》する
|行成彦《ゆきなりひこ》の|伴神《ともがみ》と  |仕《つか》へて|其《その》|名《な》を|内外《うちそと》に
|轟《とどろ》かしたる|行平別《ゆきひらわけ》の  |神《かみ》の|命《みこと》はイホの|国《くに》
|花《はな》の|都《みやこ》に|現《あら》はれて  |卑《いや》しき|人《ひと》の|群《むれ》に|入《い》り
|弱《よわ》きを|救《すく》ふ|侠客《をとこだて》  |名《な》も|初公《はつこう》と|改《あらた》めて
|花《はな》|咲《さ》く|春《はる》を|待《ま》つ|間《うち》に  |世《よ》は|常暗《とこやみ》となり|果《は》てて
|春夏秋《はるなつあき》の|別《わか》ちなく  |悪魔《あくま》は|日々《ひび》にふゆの|空《そら》
|心《こころ》さむしく|世《よ》を|渡《わた》る  |身《み》の|果《はて》こそは|哀《あはれ》なり
|月日《つきひ》は|廻《めぐ》る|時津風《ときつかぜ》  |神《かみ》の|伊吹《いぶき》に|払《はら》はれて
|心《こころ》も|勇《いさ》む|宣伝使《せんでんし》  |五人《ごにん》の|後《あと》に|従《したが》ひて
|夜《よ》も|秋月《あきづき》の|滝《たき》の|音《ね》に  |曲《まが》|言向《ことむ》けて|唯《ただ》|一人《ひとり》
|神《かみ》の|御稜威《みいづ》を|称《たた》へつつ  |深雪《みゆき》の|滝《たき》に|立《た》ち|向《むか》ふ。
|初公《はつこう》の|行平別《ゆきひらわけ》は、|荊棘《けいきよく》|茂《しげ》る|谷道《たにみち》を、|尋《たづ》ね|尋《たづ》ねて|瀑布《たき》を|目当《めあ》てに|下《くだ》り|行《ゆ》く。|瀑布《ばくふ》の|前《まへ》には|数十人《すうじふにん》の|人声《ひとごゑ》、|見《み》れば|蚊取別《かとりわけ》、|祝姫《はふりひめ》その|他《た》の|宣伝使《せんでんし》を|口《くち》に|啣《くわ》へながら、|蜒々《えんえん》たる|大蛇《をろち》は|鎌首《かまくび》を|立《た》て|此方《こなた》に|向《むか》つて|進《すす》み|来《く》る。
|数十人《すうじふにん》の|人々《ひとびと》はこの|光景《くわうけい》を|見《み》て、|手《て》を|打《う》ち|心地《ここち》よげに|立《た》ち|騒《さわ》いで|居《ゐ》る。|初公《はつこう》は|之《これ》を|見《み》るより|怒《いか》り|心頭《しんとう》に|達《たつ》し、
『につくき|大蛇《をろち》の|悪魔《あくま》、|五人《ごにん》の|宣伝使《せんでんし》を|呑《の》み|食《くら》はむとするか、|待《ま》て|待《ま》て|我《わが》|真心《まごころ》の|言霊《ことたま》の|剣《つるぎ》に|亡《ほろ》ぼし|呉《く》れむ』
と|宣伝歌《せんでんか》を|歌《うた》はむとすれば、|口《くち》|塞《ふさ》がり|痺《しび》れてピリツとも|動《うご》かなくなつて|居《を》る。|身体《からだ》は|見《み》る|見《み》る|硬直《かうちよく》して|自由《じいう》に|動《うご》く|事《こと》さへ|出来《でき》なくなつて|来《き》た。
|行平別《ゆきひらわけ》は|身体《からだ》を|縛《しば》られ|口《くち》を|鎖《とざ》され、どうする|事《こと》も|出来《でき》ず、|力《ちから》と|頼《たの》む|五人《ごにん》の|宣伝使《せんでんし》は、|見《み》る|見《み》る|大蛇《をろち》に|呑《の》まれて|了《しま》つた。|大蛇《をろち》は|行平別《ゆきひらわけ》に|向《むか》つて、
|大蛇《をろち》『ヤア|彼処《あそこ》に、もう|一人《ひとり》の|片割《かたわ》れが|居《を》る。これも|序《ついで》に|呑《の》むでやらうか』
と|云《い》ひながら|大口《おほぐち》を|開《あ》けて、|今《いま》や|一口《ひとくち》に|食《くら》はむとする|勢《いきほひ》である。|行平別《ゆきひらわけ》は|心《こころ》の|中《うち》で|神言《かみごと》を|奏上《そうじやう》しながら……どうなとなれよ、|神々《かみがみ》に|任《まか》した|此《この》|体《からだ》、|呑《の》むなら|呑《の》めよ……と|口《くち》には|得《え》|云《い》はねど|顔色《がんしよく》に|現《あら》はして|居《ゐ》る。|心《こころ》では|一生懸命《いつしやうけんめい》|祝詞《のりと》を|奏上《そうじやう》するや、|不思議《ふしぎ》に|発声《はつせい》の|自由《じいう》を|得《え》た。
『ヤア|大蛇《をろち》の|奴《やつ》、|貴様《きさま》は|怪《け》しからぬ|奴《やつ》だ。|五人《ごにん》の|宣伝使《せんでんし》を、|今《いま》|見《み》て|居《を》れば、|一口《ひとくち》に|呑《の》んで|了《しま》ひよつたな。ヨシ|俺《おれ》が|貴様《きさま》の|腹《はら》の|中《なか》に|這入《はい》つて、|大蛇《をろち》|身中《しんちゆう》の|神《かみ》となつて|平《たひら》げてやらう。サア|足《あし》から|呑《の》むか、|頭《あたま》から|呑《の》むか、お|望《のぞ》み|次第《しだい》だ』
|大蛇《をろち》は|一丈《いちぢやう》ばかりの|岐《また》になつた|舌《した》をペロペロと|出《だ》し、|行平別《ゆきひらわけ》を|舌《した》の|先《さき》に|巻《ま》いてグツと|呑《の》み|込《こ》むで|了《しま》つた。
『ヤア、たうとう|俺《おれ》を|呑《の》むで|了《しま》ひよつたナ。|随分《ずゐぶん》|暗《くら》い|穴《あな》だ。|五人《ごにん》の|宣伝使《せんでんし》は|何処《どこ》|迄《まで》|行《い》つて|居《を》るのか|知《し》ら。|大分《だいぶん》に|来《き》た|積《つも》りだがねつから|其処辺《そこら》に|声《こゑ》がせぬ。|随分《ずゐぶん》|大《おほ》きな|大蛇《をろち》だ。この|間《あひだ》|夢《ゆめ》に|見《み》た|奴《やつ》かも|知《し》れぬぞ、この|儘《まま》|雲《くも》を|起《おこ》して|俺達《おれたち》を|呑《の》むだまま|天《てん》に|舞《ま》ひ|上《あが》るのか|知《し》ら。|何《なに》|構《かま》ふものか|舞《ま》ひ|上《あが》つたつて|腹《はら》の|中《なか》だ、|落《お》ちる|心配《しんぱい》はない、また|地《ち》から|天《てん》におつこちた|者《もの》もない、マア|緩《ゆつ》くり|宣伝歌《せんでんか》でも|歌《うた》つてやらうかい』
と、|真暗《まつくら》がりの|大蛇《をろち》の|腹《はら》を|四股《しこ》|踏《ふ》み|進《すす》んで|行《ゆ》く。
『ヤア|大分《だいぶ》にジクジクして|居《を》るぞ。|大蛇《をろち》の|小便袋《せうべんぶくろ》を|踏《ふ》むだのぢやなからうかなア』
|遥《はるか》|向《むか》ふの|方《はう》に|少《すこ》し|光《ひか》る|物《もの》がある。
『サアこれからあの|光《ひかり》を|目蒐《めが》けて、どんどんと|行平別《ゆきひらわけ》だ』
と|云《い》ひながら|足《あし》を|速《はや》めた。|何《なん》だか|黒《くろ》き|頭《あたま》が|見《み》える。
『ヤア|此奴《こいつ》ア|子持《こもち》だな、|大蛇《をろち》の|卵《たまご》だらう』
と|立止《たちとどま》つて|思案《しあん》をして|居《を》る、|闇《くらがり》より|蚊取別《かとりわけ》の|声《こゑ》として、
『ヤア|初公《はつこう》さま|甚《えろ》う|遅《おそ》かつたねえ』
『ヤア|蚊取別《かとりわけ》さまか、|秋月《あきづき》の|滝《たき》で|魔神《ましん》を|言向《ことむ》け|和《やは》して|居《ゐ》る|間《うち》にお|前《まへ》さまも|腹《はら》の|悪《わる》い、|五人《ごにん》|一度《いちど》に【どろん】と|消《き》えて、|初《はつ》さま|一人《ひとり》をほつときぼりにして、|余《あんま》り|酷《ひど》いぢやないか、|五人《ごにん》が|五人《ごにん》ながら|揃《そろ》うて【|五人情《ごにんじよう》】の|薄《うす》いお|方《かた》だ。|私《わたくし》|一人《いちにん》にするとは|余《あんま》りだよ』
|蚊取別《かとりわけ》『イヤ、|秋月《あきづき》の|滝《たき》はお|前《まへ》に【|一任《いちにん》】したのだから、それで|当然《あたりまへ》だ。|我々《われわれ》の|精神《せいしん》を【|誤認《ごにん》】されては|困《こま》るよ』
|行平別《ゆきひらわけ》『エヽ【|六人《ろくにん》】でも|無《な》い|事《こと》を|仰有《おつしや》りますな。|併《しか》し|此処《ここ》は|大蛇《をろち》のトンネルですか、イヤ|祝姫《はふりひめ》|様《さま》も|万寿山《まんじゆざん》の|宣伝使《せんでんし》も|其処《そこ》に|居《を》られますか。どうです|怪我《けが》はありませぬか』
|祝姫《はふりひめ》『|別《べつ》に、お|蔭《かげ》で|怪我《けが》もせず、|谷道《たにみち》を|越《こ》えて|此処《ここ》|迄《まで》やつて|来《き》ました。どうも|暗《くら》い|事《こと》ですなア、|軈《やが》て|深雪《みゆき》の|滝《たき》に|間《ま》もありますまいから、|此処《ここ》で|一服《いつぷく》|揃《そろ》うてして|居《ゐ》ますのよ』
|高光彦《たかてるひこ》『ヤア|初《はつ》さま、|御苦労《ごくらう》でしたなア、マア|緩《ゆつ》くり|一服《いつぷく》|致《いた》しませうかい』
|行平別《ゆきひらわけ》『さう|気楽《きらく》な|事《こと》も|云《い》うて|居《を》られますまい、|此処《ここ》は|大蛇《をろち》のトンネルぢやありませぬか。|今《いま》|貴方方《あなたがた》|五人《ごにん》が|大蛇《をろち》に|呑《の》まれて|居《ゐ》たのを|見《み》ましたので、|何《なん》くそ、この|行平別《ゆきひらわけ》の|言霊《ことたま》によつて、|大蛇《をろち》を|征服《せいふく》してやらむものと、|深雪《みゆき》の|滝《たき》に|進《すす》み|入《い》つたところ、|大蛇《をろち》の|奴《やつ》、|又《また》もや|我《われ》を|大《おほ》きな|長《なが》い|舌《した》の|先《さき》でペロリと|舐《なめ》て|喉坂峠《のどさかたうげ》をごろごろ、|漸《やうや》く|細頸道《ほそくびみち》を|探《さぐ》り|探《さぐ》りて|大野腹《おほのはら》にやつて|来《き》て|見《み》れば、|貴方方《あなたがた》の|私語声《ささやきごゑ》、|一体《いつたい》この|大蛇《をろち》と|云《い》ふ|奴《やつ》よほど|太《ふと》い|奴《やつ》ですなア。どうでせう、|六人《ろくにん》が|力《ちから》を|合《あは》せて|横《よこ》つ|腹《ぱら》に|穴《あな》でも|開《あ》けて|出《で》てやりませうか』
|蚊取別《かとりわけ》『オイオイ、|初公《はつこう》さまお|前《まへ》|何《なに》を|呆《とぼ》けて|居《を》るのだ。ここはシナイ|山《ざん》の|麓《ふもと》の|秋月《あきづき》の|滝《たき》の|二三町《にさんちやう》|下手《しもて》だよ』
と|云《い》はれて|初公《はつこう》は、|目《め》を|擦《こす》り|四辺《あたり》を|見《み》れば、こは|抑《そも》|如何《いか》に|水音《みなおと》|滔々《たうたう》として|白瀬川《しらせがは》が|布《ぬの》を|晒《さら》したる|如《ごと》く|流《なが》れて|居《ゐ》る。
|行平別《ゆきひらわけ》『ヤアまた|大蛇《をろち》の|奴《やつ》、|魅《つま》みよつたなア、|油断《ゆだん》も|隙《すき》もあつたものぢやないワ、|岩《いは》も|木《き》も|草《くさ》も|皆《みな》|化《ば》けて|化《ば》けて|化《ば》けさがしよるワ。その|筈《はず》だ。|最前《さいぜん》も|云《い》つたなア、|我《われ》は|大化物《おほばけもの》だと、|大方《おほかた》|蚊取別《かとりわけ》が|目《め》を|眩《くら》ますのだろう』
|此《この》|時《とき》|山岳《さんがく》も|崩《くづ》るるばかりの|物音《ものおと》|凄《すご》く、|見上《みあ》ぐる|許《ばか》りの|大岩石《だいがんせき》は|風《かぜ》に|吹《ふ》かれて|散《ち》る|木葉《このは》の|如《ごと》く、|天《てん》に|舞《ま》ひ|上《あが》り|地上《ちじやう》に|向《むか》つて、ドスンドスンと|音《おと》を|立《た》てて|雨《あめ》や|霰《あられ》と|降《ふ》り|来《きた》る。|一行《いつかう》|六人《ろくにん》は|空《そら》を|仰《あふ》ぎながら、|岩《いは》に|打《う》たれじと|前後左右《ぜんごさいう》に|躰《たい》をかはし、|汗《あせ》を|流《なが》して|飛《と》び|廻《まは》る|事《こと》|殆《ほとん》ど|一時《ひととき》ばかり、|遂《つひ》には|足《あし》|疲《つか》れ|目《め》|眩《くら》み|千仭《せんじん》の|谷間《たにま》にズデンドウと|顛落《てんらく》した。ハツと|思《おも》ふその|途端《とたん》|目《め》を|開《ひら》けば、|高熊山《たかくまやま》の|巌窟《がんくつ》の|前《まへ》、|十四夜《いざよひ》の|月《つき》は|早《はや》くも|弥仙山《みせんざん》の|頂《いただき》に|姿《すがた》を|隠《かく》さむとする|真夜中《まよなか》|頃《ごろ》なりき。
(大正一一・三・九 旧二・一一 加藤明子録)
第一五章 |宣直《のりなほ》し〔五一一〕
|峰《みね》の|嵐《あらし》や|松風《まつかぜ》の|音《おと》  |高熊山《たかくまやま》の|岩《いは》の|前《まへ》
|霊《れい》より|覚《さ》めし|瑞月《ずゐげつ》は  |神《かみ》の|使《つかひ》に|十四夜《いざよひ》の
|御空《みそら》を|仰《あふ》ぎ|眺《なが》むれば  |星《ほし》の|瞬《またた》きやうやうに
|霞《かす》みて|月《つき》も|弥仙山《みせんざん》  |峰《みね》の|後《うしろ》にかくろひて
|鶏鳴《けいめい》|間《ま》もなき|朝嵐《あさあらし》  |冷《つめ》たき|風《かぜ》に|吹《ふ》かれつつ
|又《また》もや|霊《みたま》は|悠々《いういう》と  |果《はて》しもあらぬ|神界《しんかい》の
|方《かた》へと|息《いき》せき|進《すす》み|行《ゆ》く  |水音《みなおと》|高《たか》きナイル|河《がは》
|春《はる》の|初《はじめ》と|言《い》ひ|乍《なが》ら  |名《な》は|秋月《あきづき》の|大瀑布《だいばくふ》
|八岐大蛇《やまたをろち》の|片割《かたわれ》なる  |醜《しこ》の|大蛇《をろち》を|言向《ことむ》けて
|此《この》|世《よ》の|曲《まが》を|祝姫《はふりひめ》  |蚊取《かとり》の|別《わけ》や|三光《さんくわう》の
|神《かみ》の|使《つか》ひの|宣伝使《せんでんし》  |高熊《たかくま》ならぬ|高光彦《たかてるひこ》
|神《かみ》の|霊《みたま》の|玉光彦《たまてるひこ》  |御稜威《みいづ》も|高《たか》き|国光彦《くにてるひこ》
|風《かぜ》にちらつく|行平別《ゆきひらわけ》の  |茲《ここ》に|六人《むたり》の|神司《かむづかさ》
|深雪《みゆき》の|滝《たき》の|曲神《まがかみ》を  |善言美詞《みやびことば》の|神言《かみごと》に
|吹《ふ》き|払《はら》はむと|進《すす》み|行《ゆ》く  |夢《ゆめ》の|中《なか》なる|物語《ものがたり》。
|行平別《ゆきひらわけ》『サア|今度《こんど》は|深雪《みゆき》の|滝《たき》だ。|皆《みな》さま|一緒《いつしよ》に|前後左右《ぜんごさいう》より|言霊《ことたま》を|以《もつ》て|攻《せ》め|掛《かけ》ませうか、また|秋月《あきづき》の|滝《たき》の|様《やう》に|私《わたし》|一人《いちにん》に|一任《いちにん》されては|困《こま》りますよ』
|蚊取別《かとりわけ》『イヤ、|深雪《みゆき》の|滝《たき》は|一人《ひとり》で|結構《けつこう》だ。|行平別《ゆきひらわけ》の|宣伝使《せんでんし》に|頼《たの》むでおかう。|祝姫《はふりひめ》さま、あなたの|弔《とむら》ひ|合戦《がつせん》も|是《これ》で|帳消《ちやうけし》だ。|今後《こんご》は|夏山彦《なつやまひこ》の|奥《おく》さまだから、|今迄《いままで》の|様《やう》に|天下《てんか》を|自由自在《じいうじざい》に|濶歩《くわつぽ》する|事《こと》は|出来《でき》ない。|夫唱婦随《ふしやうふずゐ》の|天則《てんそく》に|従《したが》つて|家庭《かてい》を|守《まも》らねばならぬ。|人《ひと》は|一代《いちだい》|名《な》は|末代《まつだい》、|夏山彦《なつやまひこ》の|奥《おく》さまは、|秋月《あきづき》の|滝《たき》の|悪魔《あくま》を|退治《たいぢ》に|往《い》つて|悪神《あくがみ》の|為《ため》に|苦《くるし》められ、|大失敗《だいしつぱい》を|演《えん》じ、|夏山彦《なつやまひこ》に|助《たす》けられ、その|情《なさけ》に|絆《ほだ》されて|夫婦《ふうふ》になつた、|宣伝使《せんでんし》を|失敗《しくじ》つた、|有終《いうしう》の|美《び》を|全《まつた》うする|事《こと》が|出来《でき》なかつたと、|末代《まつだい》の|語草《かたりぐさ》になつては|詰《つま》らないから|結婚《けつこん》をされた|後《あと》ではあれども、|宣伝使《せんでんし》の|務《つと》めを|全《まつた》うさせたい|為《ため》に、|秋月《あきづき》の|滝《たき》にあなたを|連《つ》れて|来《き》たのだ。|最早《もはや》|秋月《あきづき》の|滝《たき》の|征服《せいふく》も|無事《ぶじ》に|片付《かたづ》いた|以上《いじやう》は、|宣伝使《せんでんし》としての|責任《せきにん》も、|完全《くわんぜん》に|果《はた》されたと|云《い》ふものだ。サア|是《これ》から|夏山彦《なつやまひこ》の|館《やかた》に|帰《かへ》り、|賢妻良母《けんさいりやうぼ》となつて、イホの|都《みやこ》に|善政《ぜんせい》を|布《し》く|夫《をつと》の|神業《しんげふ》を|内助《ないじよ》するのだ。|最早《もはや》|宣伝使《せんでんし》の|役《やく》も|神界《しんかい》より|免除《めんぢよ》された。サアサア|早《はや》く|還《かへ》りませう』
|祝姫《はふりひめ》『|折角《せつかく》|秋月《あきづき》の|滝《たき》|迄《まで》|来《き》たのですから、モウ|私《わたくし》も|宣伝使《せんでんし》の|年《ねん》の|明《あき》、|花々《はなばな》しく|残《のこ》りの|滝《たき》の|魔神《まがみ》を|征伐《せいばつ》する|迄《まで》|待《ま》つて|下《くだ》さいますまいか』
|蚊取別《かとりわけ》『それはいけませぬ、|何事《なにごと》も|八分《はちぶ》といふ|所《ところ》が|良《よ》いのだ。|十分《じふぶん》|手柄《てがら》をしてやらうと|思《おも》へば、|却《かへつ》て|失敗《しつぱい》の|基《もと》となる。たとへ|失敗《しつぱい》せずとも、|白瀬川《しらせがは》の|悪魔《あくま》は|全部《ぜんぶ》|我々《われわれ》が|征服《せいふく》したのだと|云《い》ふ|慢心《まんしん》が|起《おこ》るから|其《その》|慢心《まんしん》が|貴女《あなた》の|婦徳《ふとく》を|傷《きず》つける|基《もと》となるから、これで|打切《うちきり》にするが|宜《よろ》しい』
|行平別《ゆきひらわけ》『さうだなア、|蚊取別《かとりわけ》の|仰有《おつしや》る|通《とほ》りだ。|祝姫《はふりひめ》さま、|此《この》|方《かた》は|斯《こ》う|見《み》えても、|普通《あたりまへ》の|宣伝使《せんでんし》ではない、|天教山《てんけうざん》より|現《あら》はれたる|尊《たふと》い|天使《てんし》に|間違《まちがひ》ない、|天使《てんし》の|命令《めいれい》だ。|素直《すなほ》にお|聞《きき》なさるが|良《よ》からう』
|祝姫《はふりひめ》『アヽ|仕方《しかた》がありませぬ、|今迄《いままで》は|山野河海《さんやかかい》を|跋渉《ばつせふ》し、|種々《いろいろ》の|苦心《くしん》|惨怛《さんたん》たる|辛《つら》い|目《め》も|味《あぢ》はひ、また|愉快《ゆくわい》な|事《こと》にも|会《あ》つて|来《き》ましたが、|今日《けふ》から|最早《もはや》|宣伝使《せんでんし》が|出来《でき》ないかと|思《おも》へば|何《なん》だか|心残《こころのこ》りがある|様《やう》です。|矢張《やつぱ》り|妾《わたし》は|温《あたたか》き|家庭《かてい》に|蟄居《ちつきよ》して|安楽《あんらく》に|暮《くら》すよりも、|貴神《あなた》|方《がた》と|共《とも》に|命懸《いのちがけ》の|苦労《くらう》をする|方《はう》が、|何程《なにほど》|愉快《ゆくわい》だか|分《わか》りませぬ。アヽどうして|男《をとこ》に|生《うま》れて|来《こ》なかつただらう』
|蚊取別《かとりわけ》『|執着心《しふちやくしん》をサラリと|抛《ほ》つて、|夏山彦《なつやまひこ》の|奥様《おくさま》となり、|三五教《あななひけう》の|神《かみ》を|尊敬《そんけい》し、|且《かつ》その|教《をしへ》を|管轄下《くわんかつか》の|人民《じんみん》に|懇切《こんせつ》に|説《と》き|諭《さと》して|神業《しんげふ》を|助《たす》けなさい。サア|私《わたくし》が|送《おく》つて|上《あ》げませう。|目《め》を|塞《ふさ》ぎなさい、|途中《とちう》に|目《め》を|開《あ》けると|大変《たいへん》ですから、|蚊取別《かとりわけ》がサア|目《め》を|開《あ》けなさいと|云《い》ふ|迄《まで》|開《あ》けてはなりませぬよ』
|祝姫《はふりひめ》『ハイ』
と|答《こた》へて|従順《すなを》に|瞑目《めいもく》する。この|時《とき》|何処《どこ》ともなく|四辺《あたり》を|照《てら》す|大火光《だいくわくわう》が|現《あら》はれ|来《き》たり、|一行《いつかう》の|頭上《づじやう》を|四五回《しごくわい》ブウブウと|音《おと》を|立《た》てて|循環《じゆんかん》し、|轟然《がうぜん》たる|大音響《だいおんきやう》と|共《とも》に、|白煙《はくえん》となつて|消《き》え|失《う》せた。|見《み》れば|蚊取別《かとりわけ》、|祝姫《はふりひめ》の|姿《すがた》は|最早《もはや》この|場《ば》に|見《み》えずなりにける。
|附言《ふげん》
|夫婦《ふうふ》となるべき|霊《みたま》、|親子《おやこ》となるべき|霊魂《みたま》、|主従《しうじう》|師弟《してい》となるべき|身魂《みたま》は、|固《もと》より|一定不変《いつていふへん》のものである。|併《しか》し|乍《なが》ら|世《よ》の|中《なか》の|義理《ぎり》とか、|何《なん》とか|種々《いろいろ》の|事情《じじやう》の|為《ため》に|已《や》むを|得《え》ず、|不相応《ふさうおう》の|身魂《みたま》と|結婚《けつこん》をしたり、|師弟《してい》の|約《やく》を|結《むす》んだりする|事《こと》がある。|但《ただ》し|霊《みたま》と|霊《みたま》との|因縁《いんねん》なき|時《とき》は、|中途《ちうと》にして|破《やぶ》れるものである。|蚊取別《かとりわけ》の|天使《てんし》は、|祝姫《はふりひめ》の|霊《みたま》の|夫婦《ふうふ》に|巡《めぐ》り|会《あ》ふまで、|他《た》の|異《ことな》りたる|霊《みたま》と|結婚《けつこん》をなし、|天分《てんぶん》|使命《しめい》を|中途《ちうと》にして|過《あやま》たむ|事《こと》を|恐《おそ》れ、|種々《いろいろ》と|工夫《くふう》を|凝《こ》らし、|一旦《いつたん》|自分《じぶん》の|妻神《つまがみ》と|名付《なづ》け、|時機《じき》の|来《く》るのを|待《ま》たせつつあつたのは、|神《かみ》の|大慈《だいじ》|大悲《だいひ》の|御守護《ごしゆご》であつた。|故《ゆゑ》に|人《ひと》は|結婚《けつこん》に|先立《さきだ》ち、|産土《うぶすな》の|神《かみ》の|認許《にんきよ》を|受《う》け|神示《しんじ》を|蒙《かうむ》つた|上《うへ》にて|結婚《けつこん》せざれば、|地位《ちゐ》|財産《ざいさん》|名望《めいばう》|義理《ぎり》|人情《にんじやう》|恋愛《れんあい》|等《とう》の|体主霊従的《たいしゆれいじうてき》|境遇《きやうぐう》に|支配《しはい》されて、|一生《いつしやう》|不愉快《ふゆくわい》なる|夫婦《ふうふ》の|生涯《しやうがい》を|送《おく》る|様《やう》な|事《こと》が|出来《でき》てはならぬから、|人倫《じんりん》の|大本《たいほん》たる|夫婦《ふうふ》の|道《みち》は、|神《かみ》の|許《ゆる》しを|受《う》け、|妄《みだ》りに|軽々《かるがる》しく|結婚《けつこん》してはならないものである。|中《なか》には|二度目《にどめ》の|妻《つま》、|所謂《いはゆる》|二世《にせい》の|妻《つま》を|持《も》たねばならぬ|様《やう》な|場合《ばあひ》があるが、これは|第一世《だいいつせい》の|妻《つま》と|霊《れい》が|合《あ》はなかつたり、|或《あるひ》は|合《あ》つてゐても|肉体《にくたい》が|霊《れい》に|添《そ》はずして、|夭死《えうし》したりするものである。|併《しか》し|乍《なが》ら|愛情《あいじやう》と|言《い》ひ、|家庭《かてい》の|切廻《きりまは》しと|云《い》ひ、どうしても|第一世《だいいつせい》の|妻《つま》に|比《くら》ぶれば、|第二世《だいにせい》の|妻《つま》は|劣《おと》つて|居《ゐ》るものである。|要《えう》するに、|二世《にせい》の|妻《つま》は、|妻《つま》といふ|名《な》はあつても、|大抵《たいてい》は|一世《いつせい》の|妻《つま》の|代理《だいり》たるべき|者《もの》であるからである。また|中《なか》には|第一世《だいいつせい》の|妻《つま》より|二世《にせい》の|妻《つま》の|方《はう》が、|何《なに》かに|付《つ》けて|優《まさ》つたのもある。それは|第一世《だいいつせい》の|妻《つま》は|夫婦《ふうふ》の|霊《れい》が|合《あ》うて|居《ゐ》なかつたので、|第二世《だいにせい》の|妻《つま》が|本当《ほんたう》の|霊《れい》の|合《あ》うた|夫婦《ふうふ》の|場合《ばあひ》である。|二回《にくわい》とも|霊《れい》の|合《あ》はぬ|夫婦《ふうふ》となり、|中途《ちうと》にしてどちらかが|欠《か》げ、|第三回目《だいさんくわいめ》に|霊《れい》の|合《あ》うた|者《もの》が|発見《はつけん》されても、|最早《もはや》|三世《さんせい》の|妻《つま》は|持《も》つ|事《こと》が|出来《でき》ないのが、|神界《しんかい》の|不文律《ふぶんりつ》である。
|祝姫《はふりひめ》も|斯《かか》る|過失《あやまち》に|陥《おちい》らざる|様《やう》と|蚊取別《かとりわけ》の|天使《てんし》は、|今日《こんにち》まで|姫《ひめ》の|身辺《しんぺん》を|保護《ほご》すべく|夫婦《ふうふ》の|名《な》を|附《ふ》して|居《ゐ》たのである。
|蚊取別《かとりわけ》|祝姫《はふりひめ》は、|白煙《はくえん》となつて|此《この》|場《ば》に|姿《すがた》を|隠《かく》した|跡《あと》に|四人《よにん》は|茫然《ばうぜん》として|白煙《はくえん》|立上《たちあが》る|雲《くも》の|彼方《あなた》を|見《み》て、|感歎《かんたん》|稍《やや》|久《ひさ》しうし、
|高光彦《たかてるひこ》『ヤア|今《いま》まで|蚊取別《かとりわけ》の|宣伝使《せんでんし》は|変《かは》つた|人《ひと》だと|思《おも》つて|居《ゐ》たが、|神様《かみさま》と|云《い》ふものは|実《じつ》に|何処《どこ》までも|行届《ゆきとど》いたものだナア。|唯《ただ》|一人《ひとり》の|祝姫《はふりひめ》の|一生《いつしやう》を|守《まも》るべく、|種々《いろいろ》の|手段《しゆだん》を|以《もつ》て|操縦《さうじう》された|其《その》|御神業《ごしんげふ》、|小《ちひ》さい|事《こと》にも|大《おほ》きい|事《こと》にも|気《き》のつくものだ。|我々《われわれ》も|細心《さいしん》の|注意《ちうい》を|払《はら》つて|世《よ》の|中《なか》に|立《た》たねばならぬ。|况《ま》して|今日《こんにち》の|如《ごと》き|常暗《とこやみ》の|世《よ》の|中《なか》に、|蚊取別《かとりわけ》の|様《やう》な|人《ひと》は|目薬《めぐすり》にしたいと|思《おも》つてもあるものでない。サア|之《これ》から|我々《われわれ》も|知《し》らず|知《し》らずの|慢心《まんしん》を|省《かへり》みて|本当《ほんたう》の|神心《かみごころ》にならねば、|五《いつ》つの|滝《たき》の|曲神《まがかみ》を|征服《せいふく》どころか|却《かへつ》て|征服《せいふく》されて|了《しま》はねばならぬ。アー|何《なん》だか|蚊取別《かとりわけ》さまの|帰《かへ》られた|後《あと》は、|鳥《とり》も|通《かよ》はぬ|離島《はなれじま》に|唯《ただ》|一人《ひとり》|棄《す》てられた|様《やう》な|心持《こころもち》になつて|来《き》た』
|玉光彦《たまてるひこ》『さうですナ、|各自《めいめい》に|腹帯《はらおび》を|締《し》めて|掛《かか》らねばなりませぬ。|人《ひと》は|背水《はいすゐ》の|陣《ぢん》を|張《は》らねば|何事《なにごと》も|成功《せいこう》しませぬ。|勇断果決《ゆうだんくわけつ》、|獅子奮迅《ししふんじん》の|勢《いきほひ》を|以《もつ》て、|先《ま》づ|自分《じぶん》の|霊《れい》に|憑依《ひようい》せる|悪魔《あくま》を|追出《おひだ》し、|清浄《せいじやう》|潔白《けつぱく》の|霊《れい》になつた|上《うへ》|悪魔《あくま》を|征服《せいふく》する|資格《しかく》が|初《はじめ》て|出来《でき》るのだ。|大瀑布《だいばくふ》に|悪魔《あくま》が|居《ゐ》ると|思《おも》へば、|豈《あに》|図《はか》らむや、|自分《じぶん》の|心《こころ》の|奥《おく》に|白瀬川《しらせがは》の|大瀑布《だいばくふ》が|懸《かか》り、そこに|大蛇《をろち》の|悪魔《あくま》が|巣《す》ぐうて|居《を》るのだ。|身外《しんぐわい》の|敵《てき》は|容易《ようい》に|征服《せいふく》|出来《でき》るが|心内《しんない》の|敵《てき》は|退治《たいぢ》が|出来《でき》|難《にく》い。|先《ま》づ|深雪《みゆき》の|滝《たき》の|悪魔《あくま》に|突撃《とつげき》するまでに、|各自《めいめい》の|悪魔《あくま》を|征服《せいふく》し、|或《あるひ》は|帰順《きじゆん》せしめて|後《のち》に|掛《かか》りませうか』
|高光彦《たかてるひこ》『アーさうだ。|悪魔《あくま》に|対《むか》ふのは、|恰度《ちやうど》|的《まと》に|向《むか》つて|弓《ゆみ》を|射《い》る|様《やう》なものだ。|弓《ゆみ》を|射《い》る|者《もの》は|其《その》|身《み》を|正《ただ》しうして、|一分一厘《いちぶいちりん》の|隙間《すきま》もなく、|阿吽《あうん》の|呼吸《いき》の|合《あ》つた|時《とき》|始《はじ》めて、|弓《ゆみ》を|満月《まんげつ》の|如《ごと》くに|引絞《ひきしぼ》り、|私《わたくし》の|心《こころ》を|加《くは》へず|秋《あき》の|木《こ》の|葉《は》の|風《かぜ》もなきに、|自然《しぜん》に|落《お》つるが|如《ごと》き|無我《むが》|無心《むしん》の|境《きやう》に|入《い》りて、|自然《しぜん》に|矢《や》が|弦《つる》を|離《はな》れる。さすれば|其《その》|矢《や》は|的《まと》の|中心《ちうしん》に|当《あた》る|様《やう》なものだ。|先《ま》づ|己《おのれ》の|霊《れい》を|正《ただ》しうするのが|肝腎《かんじん》だ』
|国光彦《くにてるひこ》『|敵《てき》は|本能寺《ほんのうじ》にあり、|我《わが》|身《み》の|敵《てき》は|我《わが》|心《こころ》に|潜《ひそ》む。|心《こころ》の|敵《てき》を|滅《ほろぼ》せば、|如何《いか》に|常暗《とこやみ》の|世《よ》の|中《なか》とは|云《い》へ、|我《われ》に|取《と》りては|悪魔《あくま》も|大蛇《をろち》もナイル|河《がは》、|尊《たふと》き|神代《かみよ》を|深雪《みゆき》の|滝《たき》、|速河《はやかは》の|瀬《せ》に|失《さすら》ひ|流《なが》す、|神司《かむつかさ》|麻柱《あななひ》の|宣伝使《せんでんし》、|深雪《みゆき》の|滝《たき》に|向《むか》ふに|先立《さきだ》ちて|先《ま》づ|自己《じこ》の|霊《れい》の|洗濯《せんたく》にかかりませう』
|行平別《ゆきひらわけ》『アヽ、|万寿山《まんじゆざん》の|御兄弟《ごきやうだい》の|深刻《しんこく》なるお|話《はなし》に|依《よ》りて、|私《わたくし》の|心《こころ》の|岩戸《いはと》も、サラリと|開《ひら》けました。アレ|御覧《ごらん》なさいませ、|天津御空《あまつみそら》には|喜悦《よろこび》の|太陽《たいやう》|晃々《くわうくわう》として|輝《かがや》き|始《はじ》めました。これ|果《はた》して|何《なん》の|祥瑞《しやうずゐ》でせうか』
|高光彦《たかてるひこ》『|世《よ》の|中《なか》に|鬼《おに》も|大蛇《をろち》も|悪魔《あくま》も|有《あ》るものでない、ある|様《やう》に|見《み》えるのだ。|各自《めいめい》の|心《こころ》に|誠《まこと》の|月日《じつげつ》が|照《て》り|輝《かがや》き、|神《かみ》の|慈愛《じあい》の|心《こころ》の|鏡《かがみ》に|映《うつ》つたならば、|天地《てんち》|清明《せいめい》|安養《あんやう》|浄土《じやうど》、サアサア|皆《みな》さま、|打揃《うちそろ》うて|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》|致《いた》しませう』
|四人《よにん》は|茲《ここ》に|端坐《たんざ》し、|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》し|終《をは》つて|宣伝歌《せんでんか》を|高唱《かうしやう》する。
『|神《かみ》が|表《おもて》に|現《あら》はれて  |善《ぜん》と|悪《あく》とを|立別《たてわ》ける
|善悪不二《ぜんあくふじ》の|神《かみ》の|道《みち》  |善《ぜん》を|思《おも》へば|善《ぜん》となり
|悪《あく》を|思《おも》へば|悪《あく》となる  |舌《した》の|剣《つるぎ》の|切先《きつさき》に
|鬼《おに》も|悪魔《あくま》も|曲霊《まがつひ》も  |先《さき》を|争《あらそ》ひ|出《い》で|来《きた》る
この|世《よ》|曇《くも》るも|舌《した》の|為《ため》  |争《あらそ》ひ|起《おこ》るも|舌《した》のため
|敵《てき》に|悩《なや》むも|舌《した》のため  この|世《よ》を|照《てら》すも|舌《した》の|為《ため》
|人《ひと》を|救《すく》ふも|舌《した》のため  |天国《てんごく》|浄土《じやうど》も|舌《した》の|為《ため》
|地獄《ぢごく》|極楽《ごくらく》|舌《した》のため  |世《よ》のことごとは|押並《おしな》べて
|舌《した》の|毒《どく》より|湧《わ》き|出《い》づる  |舌《した》の|奥《おく》には|心《こころ》あり
|鬼《おに》が|出《い》づるも|心《こころ》から  |大蛇《をろち》|探女《さぐめ》も|心《こころ》から
|神《かみ》も|仏《ほとけ》も|心《こころ》から  |心《こころ》の|持様《もちやう》|唯《ただ》|一《ひと》つ
|心《こころ》に|花《はな》の|開《ひら》くとき  |天地《あめつち》|四方《よも》に|花《はな》|開《ひら》く
|心《こころ》に|凩《こがらし》|荒《すさ》ぶとき  |世界《せかい》に|凩《こがらし》|吹《ふ》きまくる
|人《ひと》を|殺《ころ》すも|村肝《むらきも》の  |心《こころ》の|呼吸《いき》の|舌《した》の|先《さき》
|人《ひと》を|救《すく》ふも|舌《した》の|先《さき》  |神《かみ》となるのも|舌《した》の|先《さき》
|鬼《おに》となるのも|舌《した》の|先《さき》  |人《ひと》は|第一《だいいち》|言霊《ことたま》の
|天《あま》の|瓊矛《ぬぼこ》と|称《たた》へたる  |舌《した》の|剣《つるぎ》を|慎《つつし》みて
|慈愛《じあい》の|鞘《さや》によく|納《をさ》め  |妄《みだ》りに|抜《ぬ》くな|放《はな》つなよ
|善言美詞《ぜんげんびし》の|神嘉言《かむよごと》  |使《つか》ふは|舌《した》の|役目《やくめ》ぞや
|善言美詞《ぜんげんびし》は|天地《あめつち》の  |醜《しこ》の|悪魔《あくま》を|吹《ふ》き|払《はら》ふ
|生言霊《いくことたま》の|剣《つるぎ》ぞや  アヽ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》|言霊《ことたま》の  |舌《した》の|剣《つるぎ》を|穏《おだや》かに
|使《つか》はせ|給《たま》へ|天津神《あまつかみ》  |国津神《くにつかみ》たち|百《もも》の|神《かみ》
|神代《かみよ》を|開《ひら》く|言霊《ことたま》の  |清《きよ》き|御水火《みいき》に|曲津見《まがつみ》の
|醜《しこ》の|霊《みたま》は|消《き》え|失《う》せむ  |此《この》|世《よ》を|造《つく》りし|神直日《かむなほひ》
|心《こころ》も|広《ひろ》き|大直日《おほなほひ》  |唯《ただ》|何事《なにごと》も|人《ひと》の|世《よ》は
|直日《なほひ》に|見直《みなほ》せ|聞直《ききなほ》せ  |身《み》の|過《あやま》ちは|詔《の》り|直《なほ》せ』
と|歌《うた》ひ|終《をは》るや、|百日百夜《ひやくにちひやくや》|暗黒《あんこく》に|鎖《とざ》されたる|天地《てんち》は、|茲《ここ》に|豁然《かつぜん》として|夜《よ》の|明《あ》けたる|如《ごと》く、|日《ひ》は|晃々《くわうくわう》として|天《てん》に|輝《かがや》き、|今迄《いままで》|騒然《さうぜん》たる|瀑布《ばくふ》の|響《ひびき》はピタリと|止《と》まり、|虎《とら》|狼《おほかみ》|獅子《しし》|大蛇《をろち》|鬼《おに》の|叫《さけ》びも|瞬《またた》く|間《うち》、|若葉《わかば》を|渡《わた》る|春風《しゆんぷう》の|響《ひびき》とこそはなりにける。
(大正一一・三・一〇 旧二・一二 松村真澄録)
第一六章 |国武丸《くにたけまる》〔五一二〕
|天《てん》に|月日《つきひ》の|光《ひかり》なく、|地《ち》に|村雲《むらくも》ふさがりて、|奇《く》しき|神代《かみよ》も|呉《くれ》の|海《うみ》、|国武丸《くにたけまる》に|帆《ほ》を|揚《あ》げて|水夫《かこ》の|操《あやつ》る|櫂《かい》の|音《おと》は、|波《なみ》に|蛇紋《じやもん》を|画《えが》きつつ、コーカス|山《ざん》の|麓《ふもと》を|指《さ》して|進《すす》み|行《ゆ》く。
|風《かぜ》も|無《な》く、|油《あぶら》を|流《なが》したやうな|静《しづ》かな、|淋《さびし》みのある|海面《かいめん》を|船脚《ふなあし》|遅《おそ》く、|波《なみ》|掻《か》き|分《わ》けて|北東《ほくとう》|指《さ》して|進《すす》む。|此《こ》の|海上《かいじやう》に|漂《ただよ》ふこと|旬日《じゆんじつ》、|数十人《すうじふにん》の|船客《せんきやく》は|四方山《よもやま》の|話《はなし》に|耽《ふけ》り|居《ゐ》るのみ。
|甲《かふ》『|斯《こ》う|毎日《まいにち》|日日《ひにち》|天《てん》は|曇《くも》り、|地《ち》は|言《い》ふに|言《い》はれぬ|鼻《はな》も【むし】られるやうな|臭気《しうき》がして|来《く》る。|若《わか》い|者《もん》の|頭《あたま》までが|白髪《しらが》になる。|年《とし》も|寄《よ》らぬに|禿頭《はげあたま》が|彼方《あちら》にも|此方《こちら》にも|殖《ふ》ゑて|来《く》る。|五穀《ごこく》は|実《みの》らず、|果物《くだもの》は|熟《じゆく》せず、|病気《びやうき》は|起《おこ》る、|獅子《しし》や、|虎《とら》や、|狼《おほかみ》や|大蛇《をろち》は|所々《ところどころ》に|現《あら》はれて|人《ひと》を|害《がい》する、|困《こま》つた|世《よ》の|中《なか》になつたものだナア。|斯《こ》うなつて|来《く》ると|人間《にんげん》も|弱《よわ》いものだ。|吾々《われわれ》を|救《すく》ふ|誠《まこと》の|神様《かみさま》が|果《はた》して|世《よ》の|中《なか》に|御一柱《おひとり》でもあるとすれば、|斯《こ》んな|世《よ》の|中《なか》を|一日《いちにち》も|早《はや》く|立替《たてか》へて|下《くだ》さりさうなものだな』
|乙《おつ》『それや|神様《かみさま》は|屹度《きつと》|有《あ》るよ。|誠《まこと》の|神様《かみさま》は|広《ひろ》い|世界《せかい》に|唯《ただ》|一柱《ひとはしら》より|無《な》いのだ。|何程《なにほど》|偉《えら》い|神《かみ》さまだとて|一柱《ひとり》では、さう|隅《すみ》から|隅《すみ》まで|手《て》が|廻《まは》りさうなことは|無《な》いぢやないか。|神様《かみさま》が|一方《いつぱう》で|救《たす》け|持《もつ》て|往《ゆ》かつしやる|後《あと》から、|又《また》|悪魔《あくま》がドンドンと|魅入《みい》つて|往《ゆ》くのだから|仕方《しかた》が|無《な》い。|各自《めいめい》に|心得《こころえ》て|魂《たま》を|研《みが》くより|仕様《しやう》がないわ。さう|神《かみ》さまばかりに|凭《もた》れて|居《を》つても|自分《じぶん》から|改心《かいしん》せなくては、|神様《かみさま》がお|出《いで》になつても、アー|斯《こ》んな|穢《けが》れた|奴《やつ》は|屑《くづ》の|方《はう》に|入《い》れてやれと|云《い》つて、|屑籠《くづかご》の|中《なか》へ|投《ほ》り|込《こ》まれて|了《しま》ふかも|知《し》れない。|他力《たりき》|信神《しんじん》も|結構《けつこう》だが、|他力《たりき》の|中《なか》に|自力《じりき》|信神《しんじん》が|無《な》ければならぬよ』
|丙《へい》『|自力《じりき》で|救《たす》かるのなれば|別《べつ》に|神様《かみさま》は|無《な》くても|好《い》いぢやないか』
|乙《おつ》『|自力《じりき》の|中《なか》に|他力《たりき》が|有《あ》り、|他力《たりき》の|中《なか》に|自力《じりき》が|有《あ》る。|神様《かみさま》と|人間《にんげん》とは|持《もち》つ|持《もた》れつ|呼吸《いき》が|合《あは》ねば、|御神徳《ごしんとく》は|現《あら》はれて|来《こ》ぬのだ。|人間《にんげん》は|神様《かみさま》に|救《たす》けられて|世《よ》の|中《なか》に|活躍《くわつやく》し、|神《かみ》は|人間《にんげん》に|敬《うやま》はれて|御神徳《ごしんとく》を|現《あら》はし|給《たま》ふのだ。|毎日《まいにち》|手《て》を|束《つか》[#ママ]ねて|他力《たりき》ばかりを|待《ま》つて|居《ゐ》た|所《ところ》でさう|易々《やすやす》と|棚《たな》から|牡丹餅《ぼたもち》が|落《お》ちて|来《く》る|様《やう》な|訳《わけ》には|行《ゆ》かない。|人間《にんげん》は|尽《つく》す|可《べ》き|道《みち》を|尽《つく》し、|心《こころ》を|尽《つく》し、|身《み》を|尽《つく》し、もう|是《これ》で|自分《じぶん》の|力《ちから》の|尽《つく》しやうが|無《な》いと|云《い》ふ|所《ところ》まで|行《い》つたとこで、|神様《かみさま》が|力《ちから》を|添《そ》へて|下《くだ》さるのだ。|偸安姑息《とうあんこそく》|自分《じぶん》|許《ばか》り|為《す》べき|事《こと》もせず|楽《らく》な|方《はう》へ|楽《らく》な|方《はう》へと、|身勝手《みがつて》なことばかり|考《かんが》へて|居《ゐ》る|奴《やつ》に、|神《かみ》さまだつてナニ|護《まも》つて|下《くだ》さるものか。これ|丈《だ》け|世《よ》の|中《なか》が|曇《くも》つて|来《き》たのも、【みんな】|神様《かみさま》の|所行《わざ》ぢやない。|吾々《われわれ》|人間《にんげん》の|心得《こころえ》が|悪《わる》いからだ。|互《たがひ》に|憎《にく》み、|妬《ねた》み、|怨《うら》み、|譏《そし》り、|怒《いか》り、|呪《のろ》ひ、|瞋恚《しんい》の|焔《ほむら》を|燃《もや》して|悪魔道《あくまだう》のやうに、|優勝劣敗《いうしようれつぱい》、|弱肉強食《じやくにくきやうしよく》の|悪心《あくしん》|悪行《あくぎやう》が|天地《てんち》を|包《つつ》むで、|自然《しぜん》に|斯《こ》んな|日月《じつげつ》の|光《ひかり》も|見《み》えぬ|暗黒界《あんこくかい》が|現《あら》はれたのだ。|詮《つま》り|人間《にんげん》の|口《くち》から|吹《ふ》く|邪気《じやき》が|凝《こ》つたのだよ。|何《ど》うしても|是《これ》は|善言美詞《ぜんげんびし》の|言霊《ことたま》を|以《もつ》て|直日《なほひ》に|見直《みなほ》し|聞《き》き|直《なほ》し|宣《の》り|直《なほ》し|天津神言《あまつかみごと》の|伊吹《いぶ》きに|依《よつ》て、この|天地《てんち》の|妖雲《えううん》を|払《はら》ひ|清《きよ》めねば、|天日《てんじつ》の|光《ひかり》を|仰《あふ》ぐことは|何時《いつ》までも|出来《でき》ぬ。|雨《あめ》も|降《ふ》らず、|風《かぜ》も|無《な》し、|地上《ちじやう》に|邪気《じやき》は|蔓延《まんえん》する。|一体《いつたい》お|前《まへ》たちは|此《こ》の|世界《せかい》は|何《ど》うなると|思《おも》つてゐるのか』
|甲《かふ》『|何《ど》うなるつたつて、|何《ど》うも|仕方《しかた》が|無《な》いぢやないか。|一人《ひとり》や|二人《ふたり》の|言霊《ことたま》を|清《きよ》くした|所《ところ》で|大海《たいかい》の|一滴《いつてき》、|何《なん》の|役《やく》に|立《た》つものか。|神様《かみさま》でさへも|御一柱《おひとり》で|手《て》が|廻《まは》らぬのに、|况《ま》して|人間《にんげん》の|分際《ぶんざい》で|一人《ひとり》や、|半分《はんぶん》、|何程《なにほど》|清《きよ》い|言霊《ことたま》を|使《つか》つた|所《ところ》で|何《なん》の|足《たし》にもなりはせぬぢやないか』
|乙《おつ》『|人間《にんげん》は|神様《かみさま》の|容器《いれもの》だ。|神様《かみさま》が|人間《にんげん》の|身体《からだ》に|入《はい》つて|下《くだ》さらば、その|身魂《みたま》は|日月《じつげつ》の|如《ごと》く|輝《かがや》いて、|斯《こ》んな|暗黒《あんこく》な|世《よ》の|中《なか》でも|薩張《さつぱり》すつかりと|浄《きよ》まつて|了《しま》ふのだが、|何《なに》を|言《い》つても|吾々《われわれ》の|肉体《にくたい》には|醜《しこ》の|曲津《まがつ》が|巣《す》を|組《く》んで|居《ゐ》るから、|神様《かみさま》が|入《はい》つて|下《くだ》さる|隙《すき》が|無《な》いのだよ。|一日《いちにち》も|早《はや》く|心《こころ》の|曲津《まがつ》を|投《ほ》り|出《だ》して、|真如《しんによ》の|日月《じつげつ》を|心《こころ》の|天《てん》に|輝《かがや》かすやうにならなくては|駄目《だめ》だ。|塵《ちり》|芥《あくた》の|溜《たま》つた|座敷《ざしき》には、|貴《たつと》いお|客《きやく》さんは|据《す》ゑることは|出来《でき》ない。マアマア|身魂《みたま》の|掃除《さうぢ》が|一等《いつとう》だな』
|甲《かふ》『この|呉《くれ》の|海《うみ》には|大変《たいへん》な|竜神《りうじん》さまが、この|頃《ごろ》|現《あら》はれたと|云《い》ふことだよ。その|竜神《りうじん》が|現《あら》はれた|風評《うわさ》の|立《た》つた|頃《ころ》から、|斯《こ》うして|天地《てんち》が|真暗気《まつくろけ》になつたぢやないか』
|乙《おつ》『|勿体《もつたい》ないことを|云《い》ふな。この|呉《くれ》の|海《うみ》は、|昔《むかし》は|玉《たま》の|井《ゐ》の|湖《みづうみ》と|云《い》ふ|水晶《すゐしやう》の|湖水《こすゐ》があつて、そこに|沢山《たくさん》の|諸善竜神様《しよぜんりうじんさま》がお|住居《すまゐ》をしてござつたのだ。その|時代《じだい》は|此《この》|辺《あた》りは|世界《せかい》の|楽土《らくど》と|言《い》はれた|所《ところ》であつたが、その|玉《たま》の|井《ゐ》の|湖《みづうみ》を|占領《せんりやう》せむとして、|大自在天《だいじざいてん》の|部下《ぶか》なる|牛雲別《うしくもわけ》、|蟹雲別《かにくもわけ》と|云《い》ふ|悪神《わるがみ》が、|攻《せ》めよせ|来《き》たり、|竜神《りうじん》さまと|鬼神《おにがみ》との|戦《たたか》ひがあつて、その|時《とき》に|玉《たま》の|井《ゐ》の|湖水《こすゐ》は|天《てん》へ|舞《ま》ひ|上《あが》り、|二《ふた》つに|分《わか》れて|出来《でき》たのがこの|呉《くれ》の|海《うみ》と、|琵琶《びは》の|湖《うみ》だよ。さう|云《い》ふ|因縁《いんねん》の|有《あ》る|此《こ》の|海《うみ》に|何《ど》うして|悪神《あくがみ》さまが|住居《すまゐ》を|為《な》さるものかい。|余《あんま》り|人間《にんげん》が|悪賢《わるかしこ》うなつて|悪《あく》が|盛《さか》んになつたが|為《ため》に、|地上《ちじやう》の|諸善神《しよぜんしん》は|残《のこ》らず|天《てん》へ|昇《のぼ》られ、|竜神《りうじん》さまは|何《いづ》れも|海《うみ》の|底《そこ》、|即《すなは》ち|竜宮《りうぐう》の|底《そこ》へ、|身《み》を|潜《ひそ》め|給《たま》うたのだ。この|地上《ちじやう》には、|誠《まこと》の|神様《かみさま》は【みんな】|愛想《あいさう》をつかし|見捨《みす》てて|或《あるひ》は|天《てん》に|昇《のぼ》り、|或《あるひ》は|海《うみ》の|底《そこ》に|入《い》らるるやうになつたものだから、|恐《こは》い|者《もの》|無《な》しの|悪魔《あくま》が|横行《わうかう》|濶歩《くわつぽ》するやうになつたのだよ』
|甲《かふ》『|神様《かみさま》は|全能《ぜんのう》ぢやとか、|愛《あい》だとか|言《い》ふぢやないか。|真《しん》に|吾々《われわれ》を|愛《あい》し|給《たま》ふならば、|何故《なぜ》|飽迄《あくまで》も|保護《ほご》をして|下《くだ》さらぬのだ。|斯《か》うなつて|見《み》ると|神《かみ》の|慈愛《じあい》も|疑《うたが》はざるを|得《え》ぬではないか。|要《えう》するに|神《かみ》と|云《い》ふものは|美《うつく》しい、|綺麗《きれい》なばかりで|実力《じつりよく》の|無《な》いものと|見《み》える。|心《こころ》|穢《きたな》き|悪魔《あくま》の|跋扈《ばつこ》に|耐《た》へ|兼《か》ねて|天《てん》へ|避《さ》けたり、|海《うみ》の|底《そこ》へ|隠《かく》れるとは、なんと|神様《かみさま》も|不甲斐《ふがひ》|無《な》いものだナア。|吾々《われわれ》|人間《にんげん》でさへも|斯《か》うして|地上《ちじやう》に|依然《いぜん》と|辛抱《しんばう》してゐるぢやないか』
|乙《おつ》『|莫迦《ばか》を|云《い》ふな。「|人《ひと》|盛《さかん》なれば|天《てん》に|勝《か》ち、|天《てん》|定《さだ》まつて|人《ひと》を|制《せい》す」と|曰《い》ふことがある。|何程《なにほど》|神様《かみさま》が|人間《にんげん》を|照《てら》してやらうと|思召《おぼしめ》しても、|鏡《かがみ》が|曇《くも》つて|居《ゐ》るから|神様《かみさま》の|御神力《ごしんりき》が|映《うつ》る|途《みち》が|無《な》いのだ。|濁《にご》つた|泥《どろ》の|池《いけ》には|清《きよ》き|月《つき》の|影《かげ》は|映《うつ》らぬ。|曇《くも》つた|鏡《かがみ》には|姿《すがた》は|映《うつ》らない、|神様《かみさま》は|清浄《せいじやう》|潔白《けつぱく》、|光《ひかり》だから|斯《こ》う|云《い》ふ|汚《きたな》い|人間《にんげん》には|御《お》うつりなさらうと|思《おも》つてもうつることが|出来《でき》ないのだよ』
|甲《かふ》『|其処《そこ》が|神《かみ》さまぢやないか。|吾々《われわれ》の|魂《たま》が|曇《くも》つて|居《を》れば、|何《なん》とかして|勝手《かつて》に|磨《みが》いて、うつればよささうなものぢやないか。|魂《たま》を|研《みが》け、|磨《みが》いた|者《もの》には、うつつてやらう、|護《まも》つてやらう、|救《たす》けてやらう、|磨《みが》けぬ|者《もの》には、うつらぬ、|護《まも》つてはやらぬ、|救《たす》けぬと|云《い》ふのでは|別《べつ》に|吾々《われわれ》と|異《かは》つたことは|無《な》いぢやないか。|吾々《われわれ》でも|色《いろ》の|白《しろ》い、|年《とし》の|若《わか》い、|綺麗《きれい》な|別嬪《べつぴん》には|不知不識《しらずしらず》に|目《め》がうつり、|心《こころ》がうつり、|気分《きぶん》がよくなるし、|穢《きたな》いお|多福面《かめづら》の|色《いろ》の|黒《くろ》い、【どて】|南瓜《かぼちや》のやうな|奴《やつ》には、|何《なん》となしに|心持《こころもち》が|悪《わる》くつて、そよそよと|吹《ふ》いて|来《く》る|風《かぜ》も|厭《いや》と|云《い》ふやうな|気《き》になる。|其処《そこ》が|人間《にんげん》の|心《こころ》だ。|仕方《しかた》が|無《な》いが|世界《せかい》の|人民《じんみん》は|皆《みな》|我《わ》が|児《こ》だと|仰有《おつしや》る|神《かみ》の|親心《おやごころ》から|見《み》たなれば、|極道《ごくだう》の|児《こ》や|不具《ふぐ》の|児《こ》は、|親《おや》の|心《こころ》としてなほ|可愛《かあい》がつて|呉《く》れさうなものぢやないか。|之《これ》を|考《かんが》へると|余程《よつぽど》|吾々《われわれ》の|方《はう》が|慈悲心《じひしん》が|深《ふか》いやうだワイ』
|乙《おつ》『よう|理窟《りくつ》を|云《い》ふ|奴《やつ》だな。|神界《しんかい》の|事《こと》は|人間界《にんげんかい》の|理窟《りくつ》で|解《わか》るものかい。|至大無外《しだいむぐわい》、|至小無内《しせうむない》、|千変万化《せんぺんばんくわ》の|神様《かみさま》の|御働《おはたら》き、そんな|人間《にんげん》を|標準《へうじゆん》としての|屁理窟《へりくつ》を|言《い》つたつて、|神様《かみさま》の|大慈《だいじ》|大悲《だいひ》の|大御心《おほみこころ》が|解《わか》るものかい。|各自《めいめい》に|身魂《みたま》を|研《みが》くが|一等《いつとう》だ』
|甲《かふ》『さうすると|此《こ》の|海《うみ》にござる|竜神《りうじん》さまは、|善《ぜん》の|神《かみ》と|云《い》ふのか。|善《ぜん》の|神《かみ》なら|一寸《ちよつと》|姿《すがた》を|現《あら》はして|吾々《われわれ》に|安心《あんしん》をさして|下《くだ》さつてもよかりさうなものだのにナア』
|乙《おつ》『|何時《なんどき》でも|現《あら》はして|下《くだ》さるよ。|斯《こ》んなことは|神様《かみさま》の|自由自在《じいうじざい》だ。|併《しか》し|乍《なが》ら|吾々《われわれ》のやうな|穢《むさ》|苦《くる》しい|身魂《みたま》の|人間《にんげん》が、|竜神《りうじん》さまの|頭《あたま》の|上《うへ》を|斯《こ》うして|船《ふね》に|乗《の》つて|穢《けが》して|渡《わた》つて|居《ゐ》るのだから、|何《なん》とも|知《し》れないよ。マゴマゴすると|大変《たいへん》な|御立腹《ごりつぷく》を|受《う》けて|荒波《あらなみ》が|立《た》つて、|船《ふね》と|一緒《いつしよ》に|竜宮《りうぐう》|行《ゆ》きをせにやならぬかも|分《わか》らぬぞよ』
|甲《かふ》『たとへ|船《ふね》が【ひつくりかへつて】も、|竜宮《りうぐう》へ|往《ゆ》けるならば|結構《けつこう》ぢやないか。|神様《かみさま》ばかり|清《きよ》らかな|天《てん》や、|海《うみ》の|底《そこ》へ|入《はい》つて|地上《ちじやう》の|人間《にんげん》を|斯《こ》んな|悪魔《あくま》の|中《なか》に|放《ほ》つたらかして|置《お》くとは、【ちつと】|量見《りやうけん》が|解《わか》り|兼《かね》る。|竜宮《りうぐう》へ|遣《や》つて|貰《もら》つて|俺《おれ》は|一《ひと》つ|神様《かみさま》と|談判《だんぱん》をして|地上《ちじやう》の|人間《にんげん》を|守《まも》つて|貰《もら》ふやうにしたいのだ』
|乙《おつ》『|何程《なにほど》|結構《けつこう》な|竜宮《りうぐう》へ|往《い》つた|所《ところ》で、|自分《じぶん》の|心《こころ》の|鏡《かがみ》が|曇《くも》つて|居《を》れば、|美《うつく》しいことはないわ、|鬼《おに》や、|大蛇《をろち》や、|醜女《しこめ》、|探女《さぐめ》が|四方《しはう》|八方《はつぱう》から|取囲《とりかこ》むで|苦《くる》しめに|来《く》るだけのものだよ。|心《こころ》|相応《さうおう》に|神様《かみさま》は|現《あら》はれ|給《たま》ふのだ。そこが|千変万化《せんぺんばんくわ》の|神《かみ》の|御働《おはたら》きだよ』
|斯《か》く|話《はな》す|折《をり》しも|俄《にはか》に|一陣《いちぢん》の|颶風《ぐふう》|颯《さつ》と|吹《ふ》き|起《おこ》つて|船《ふね》をキリキリ|廻《まは》し、|山岳《さんがく》の|如《ごと》き|浪《なみ》を|立《た》て|数十人《すうじふにん》の|生命《いのち》を|乗《の》せたる|国武丸《くにたけまる》は、|今《いま》や|海中《かいちう》に|没《ぼつ》せむとするの|光景《くわうけい》とはなりにける。
(大正一一・三・一〇 旧二・一二 外山豊二録)
第三篇 |天岩戸開《あまのいはとびらき》(三)
第一七章 |雲《くも》の|戸開《とびらき》〔五一三〕
|日《ひ》も|早《は》や|呉《くれ》の|海原《うなばら》は、|颶風《ぐふう》|頻《しき》りに|至《いた》り、|浪《なみ》は|山岳《さんがく》の|如《ごと》くに|立《た》ち|狂《くる》ひ、さしも|堅固《けんご》なる|国武丸《くにたけまる》も、|今《いま》や|水中《すゐちう》に|沈《しづ》まむとする|一刹那《いちせつな》、|船《ふね》の|一隅《いちぐう》より|声《ごゑ》も|涼《すず》しく|闇《やみ》を|透《とう》して|宣伝歌《せんでんか》は|聞《きこ》え|来《き》たりぬ。
『|神《かみ》が|表《おもて》に|現《あら》はれて  |善《ぜん》と|悪《あく》とを|立別《たてわ》ける
|倫理《りんり》|道徳《だうとく》|地《ち》を|払《はら》ひ  |醜《しこ》の|魔風《まかぜ》は|吹《ふ》き|荒《すさ》び
|鬼《おに》や|大蛇《をろち》や|曲津霊《まがつひ》の  |伊猛《いたけ》り|叫《さけ》ぶ|百声《ももごゑ》は
|山《やま》の|尾《を》の|上《へ》や|川《かは》の|瀬《せ》や  |大野が原《おほのがはら》や|海原《うなばら》に
|皆《みな》|湧《わ》き|充《み》ちて|物凄《ものすご》く  |世《よ》は|常暗《とこやみ》となりにけり
|荒《すさ》び|果《は》てたる|世《よ》の|中《なか》に  |澄《すみ》きりませる|天地《あめつち》の
|正《ただ》しき|神《かみ》は|悉《ことごと》く  |御空《みそら》も|高《たか》く|帰《かへ》り|坐《ま》し
|地上《ちじやう》を|護《まも》る|竜神《たつがみ》は  |海底《うなぞこ》|深《ふか》く|隠《かく》ろひて
|大海原《おほうなばら》に|漂《ただよ》へる  |百八十国《ももやそくに》や|八十《やそ》の|島《しま》
|今《いま》や|悪魔《あくま》の|世《よ》となりて  |万《よろづ》の|禍《わざはひ》むらがりつ
ウラルの|山《やま》の|山颪《やまおろし》  コーカス|山《ざん》の|神風《かみかぜ》も
|一《ひと》つになりて|呉《くれ》の|海《うみ》  |善《ぜん》と|悪《あく》との|戦《たたか》ひの
|巡《めぐ》り|合《あ》ふたる|旋風《つむじかぜ》  |罪《つみ》を|乗《の》せたる|此《この》|船《ふね》は
|醜《しこ》の|魔風《まかぜ》に|煽《あふ》られて  |瞬《またた》く|間《うち》に|覆《くつが》へり
|底《そこ》の|藻屑《もくず》とならむとす  |此《この》|世《よ》を|造《つく》りし|神直日《かむなほひ》
|心《こころ》も|広《ひろ》き|大直日《おほなほひ》  |直日《なほひ》に|見直《みなほ》し|聞直《ききなほ》し
|醜《しこ》の|囁《ささや》き|平《たひら》けく  |詔《の》り|直《なほ》しませ|呉《くれ》の|海《うみ》
|永久《とは》に|鎮《しづ》まる|橘姫《たちばなひめ》の  |神《かみ》の|命《みこと》の|荒魂《あらみたま》
|救《すく》はせ|給《たま》へ|速《すむ》やけく  |心《こころ》は|堅《かた》き|石凝姥《いしこりどめ》の
|神《かみ》の|命《みこと》の|宣伝使《せんでんし》  |今《いま》|吹《ふ》き|荒《すさ》ぶ|時津風《ときつかぜ》は
|心《こころ》のもつれを|時置師《ときおかし》  |神《かみ》の|命《みこと》の|神司《かむづかさ》
|四方《よも》を|廻《めぐ》りて|今《いま》|此処《ここ》に  |国武丸《くにたけまる》の|上《うへ》に|在《あ》り
|神須佐之男《かむすさのを》の|大神《おほかみ》の  |貴《うづ》の|御子《おんこ》と|生《あ》れませる
|橘姫《たちばなひめ》よ|神国《かみくに》を  |思《おも》ふ|誠《まこと》の|真心《まごころ》を
|救《すく》へや|救《すく》へ|百人《ももびと》も  |共《とも》に|救《すく》へや|浪《なみ》の|上《うへ》
|並々《なみなみ》ならぬ|吾《あが》|願《ねが》ひ  |心《こころ》|平《たひら》に|安《やす》らかに
|天津《あまつ》|祝詞《のりと》を|聞《きこ》し|召《め》せ  |高天原《たかあまはら》に|神《かみ》|集《つど》ふ
|神漏岐《かむろぎ》|神漏美《かむろみ》|二柱《ふたはしら》の  |大御言《おほみこと》もて|皇御祖《すめみおや》
|神伊邪那岐《かむいざなぎ》の|大御神《おほみかみ》  |筑紫《つくし》の|日向《ひむか》の|橘《たちばな》の
おどの|阿波岐《あはぎ》が|原《はら》に|坐《ま》し  |禊《みそ》ぎ|払《はら》ひし|其《その》|時《とき》に
|鳴《な》り|出《い》でませる|四柱《よはしら》の  |祓戸神《はらひどがみ》の|神御霊《かむみたま》
|幸《さちは》ひまして|許々多久《ここたく》の  |罪《つみ》や|穢《けが》れを|速川《はやかは》の
|瀬《せ》に|流《なが》すごと|科戸辺《しなどべ》の  |風《かぜ》にて|伊吹《いぶ》き|払《はら》ふごと
|天津神《あまつかみ》|等《たち》|国津神《くにつかみ》  |八百万神《やほよろづかみ》|諸共《もろとも》に
|小男鹿《さをしか》の|耳《みみ》|振《ふ》り|立《た》てて  |聞《きこ》し|召《め》さへと|詔《の》り|白《まを》す
|此《この》|世《よ》を|造《つく》りし|大本《おほもと》の  |皇大神《すめおほかみ》よ|願《ねが》はくは
|国武丸《くにたけまる》の|人々《ひとびと》を  |大御心《おほみこころ》に|見直《みなほ》して
|救《すく》はせ|賜《たま》へ|惟神《かむながら》  |御霊《みたま》|幸《さち》はひ|坐《ま》し|坐《ま》せよ
|一《ひと》|二《ふた》|三《み》|四《よ》|五《いつ》つ|六《む》つ  |七《なな》|八《やつ》|九《ここの》つ|十《たり》|百《もも》|千《ち》
|万《よろづ》の|神《かみ》の|御恵《みめぐ》みに  |万《よろづ》の|罪《つみ》を|払《はら》ひ|坐《ま》せ
|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》  |石凝姥《いしこりどめ》の|神司《かむづかさ》
|畏《かしこ》み|畏《かしこ》み|願《ね》ぎ|奉《まつ》る』
と|歌《うた》ひ|終《をは》るや、さしも|激《はげ》しき|暴風《ばうふう》も、|忽《たちま》ち|凪《な》いで、|呉《くれ》の|海面《かいめん》は、|殆《ほとん》ど|畳《たた》の|上《うへ》を|滑《すべ》つて|行《ゆ》くやうになつて|来《き》た。|天津御空《あまつみそら》には|皎々《かうかう》たる|満月《まんげつ》の|光《ひかり》、|東天《とうてん》に|輝《かがや》き|初《はじ》め、|船中《せんちう》の|一同《いちどう》は|甦《よみがへ》りたる|如《ごと》き|心地《ここち》して、|思《おも》はず|月《つき》に|向《むか》つて|喜《よろこ》びの|声《こゑ》を|放《はな》ち|合掌《がつしやう》して|感泣《かんきふ》せり。
|得《え》も|言《い》はれぬ|馥郁《ふくいく》たる|香気《かうき》|四方《よも》に|充《み》ち、|嚠喨《りうりやう》たる|音楽《おんがく》|聞《きこ》え、|頻《しき》りに|降《ふ》り|来《く》る|花《はな》の|雨《あめ》、|仰《あふ》ぎ|見《み》れば|中空《ちうくう》に、|天《あま》の|羽衣《はごろも》|翻《ひるが》へしつつ、
『アナ|面白《おもしろ》や|面白《おもしろ》や  アナ、さやけしや|天津空《あまつそら》
|四方《よも》の|国土《くぬち》も|治《をさ》まりて  |醜《しこ》の|波風《なみかぜ》|静《しづ》まりぬ
|神《かみ》を|敬《うやま》ひ|君《きみ》を|尊《たふと》び  |夫《をつと》は|妻《つま》を|慈《いつく》しみ
|妻《つま》は|夫《をつと》に|服従《まつろ》ひて  |夫婦《ふうふ》の|仲《なか》も|睦《むつ》まじく
|子《こ》はまた|親《おや》を|敬《うやま》ひて  |兄弟《きやうだい》|親《した》しみ|相《あひ》|助《たす》け
|親《した》しき|友《とも》の|寄《よ》り|合《あ》ひて  |誠《まこと》を|尽《つく》す|神《かみ》の|代《よ》は
|天津御神《あまつみかみ》の|治《しら》すなる  |高天原《たかあまはら》の|神《かみ》の|国《くに》
|黄金山下《わうごんざんか》に|生《あ》れませる  |埴安彦《はにやすひこ》や|姫神《ひめがみ》の
|教《をし》へ|給《たま》へる|三五《あななひ》の  |誠《まこと》も|高《たか》き|天教山《てんけうざん》の
|空《そら》に|匂《にほ》へる|木《こ》の|花姫《はなひめ》  |千代《ちよ》に|八千代《やちよ》に|咲《さ》く|花《はな》の
|栄《さか》え|目出度《めでた》き|地教山《ちけうざん》  |光《ひかり》となりて|現《あ》れませる
|神須佐之男《かむすさのを》の|大御神《おほみかみ》  |瑞《みづ》の|御魂《みたま》と|現《あら》はれて
コーカス|山《ざん》の|神《かみ》の|宮《みや》に  |国治立《くにはるたち》の|大神《おほかみ》や
|金勝要《きんかつかね》の|大神《おほかみ》の  |御魂《みたま》を|祝《ことほ》ぎ|祭《まつ》らせて
|曲《まが》|切《き》り|払《はら》ふ|都牟刈《つむがり》の  |両刃《もろは》の|太刀《たち》の|神実《かむざね》に
|天《あめ》と|地《つち》とに|塞《ふさ》がれる  |八重棚雲《やへたなぐも》を|切《き》り|払《はら》ひ
|払《はら》ひ|給《たま》へば|天《あま》の|原《はら》  |大海原《おほうなばら》も|明《あき》らけく
|光《ひか》り|輝《かがや》く|朝日子《あさひこ》の  |日《ひ》の|出《で》の|御代《みよ》と|生《い》くるなり
|嗚呼《ああ》|石凝姥《いしこりどめ》の|宣伝使《せんでんし》  コーカス|山《ざん》の|神徳《しんとく》も
|雲井《くもゐ》に|高《たか》く|光彦《てるひこ》や  |厳《いづ》の|御魂《みたま》の|玉光彦《たまてるひこ》
|国光彦《くにてるひこ》の|神司《かむづかさ》  |行平別《ゆきひらわけ》や|時置師《ときおかし》
|睦《むつ》び|合《あ》ふたる|六人連《むたりづれ》  よく|聞《きこ》し|召《め》せ|平《たひ》らけく
|吾《われ》は|木《こ》の|花姫《はなひめ》の|神《かみ》  |厳《いづ》の|御魂《みたま》の|分《わ》け|霊《みたま》
ハザマの|国《くに》の|春山彦《はるやまひこ》の  |貴《うづ》の|命《みこと》や|夏姫《なつひめ》の
|珍《うづ》の|娘《むすめ》と|生《うま》れ|逢《あ》ひ  |皇大神《すめおほかみ》の|御為《おんた》めに
|此《この》|世《よ》を|照《て》らす|三柱《みはしら》の  |中《なか》の|一人《ひとり》の|橘姫《たちばなひめ》よ
|底《そこ》ひも|知《し》れぬ|呉《くれ》の|海《うみ》の  |司《つかさ》の|神《かみ》と|任《ま》けられて
|常磐《ときは》に|護《まも》る|吾《われ》なるぞ  |心《こころ》を|浄《きよ》め|身《み》を|清《きよ》め
|罪《つみ》や|穢《けが》れを|橘《たちばな》の  |島《しま》に|一度《いちど》は|船《ふね》|寄《よ》せて
|吾《わが》|言霊《ことたま》を|聞《き》けよかし  |畏《かしこ》き|神《かみ》の|御教《みをしへ》を
|四方《よも》に|伝《つた》ふる|神司《かむづかさ》  |小《ちひ》さき|事《こと》に|囚《とら》はれず
|虚空《こくう》の|外《そと》に|身《み》を|置《お》きて  |神代《かみよ》|幽世《かくりよ》|現世《うつしよ》の
|奇《く》しき|有様《ありさま》|明《あき》らめて  |世人《よびと》を|救《すく》ふ|皇神《すめかみ》の
|太《ふと》き|柱《はしら》となれよかし』
と|優美《いうび》なる|歌《うた》|天空《てんくう》に|聞《きこ》え|終《をは》ると|共《とも》に、|今迄《いままで》|舞《ま》ひ|狂《くる》ひたる、|天津乙女《あまつをとめ》の|姿《すがた》は|煙《けむり》の|如《ごと》く|消《き》え|失《う》せ、|紺碧《こんぺき》の|空《そら》には|三五《さんご》の|明月《めいげつ》|皎々《かうかう》として|海面《かいめん》を|照《てら》し|給《たま》ふ。
(大正一一・三・一〇 旧二・一二 谷村真友録)
第一八章 |水牛《すゐぎう》〔五一四〕
|今《いま》まで|暗黒《あんこく》に|包《つつ》まれたる|天地《てんち》は、|忽然《こつぜん》として|現《あら》はれ|出《い》でたる|三五《さんご》の|月《つき》に|照《てら》されて、|明《あか》さも|明《あか》し|呉《くれ》の|海《うみ》の|遥《はるか》の|沖《おき》に|浮《うか》び|出《い》でたる|橘島《たちばなじま》を|眺《なが》めて、|船客《せんきやく》|一同《いちどう》は|船端《ふねばた》を|叩《たた》いて|歓呼《くわんこ》の|叫《さけ》びいや|高《たか》く、|沖《おき》の|鴎《かもめ》の|歌《うた》ふが|如《ごと》く、|喜《よろこ》び|勇《いさ》むで|島影《しまかげ》|目《め》がけて|進《すす》み|行《ゆ》く。|船頭《せんどう》は|声《こゑ》も|涼《すず》しく、|春風《はるかぜ》に|送《おく》られて|唄《うた》ひ|始《はじ》めたり。
『|海《うみ》の|底《そこ》には|竜宮《りうぐう》が|見《み》える  |天《あめ》と|地《つち》との|真釣《まつ》り|合《あ》ひ
|俺《おれ》も|竜宮《りうぐう》の|宝《たから》が|見《み》たい  |波《なみ》を|開《ひら》いて|呉《くれ》の|海《うみ》』
|船《ふね》の|一隅《いちぐう》より、|大男《おほをとこ》ヌツクと|立《た》つて、
『|月《つき》は|照《て》るとも|呉《くれ》の|海《うみ》  コーカス|山《ざん》の|彼方《あなた》より
|現《あら》はれ|来《きた》る|紫《むらさき》の  |雲《くも》を|迎《むか》へて|眺《なが》むれば
|黄金《こがね》の|玉《たま》か|白玉《しらたま》か  |天津乙女《あまつをとめ》の|雪《ゆき》の|肌《はだ》
|花《はな》の|姿《すがた》に|月《つき》の|眉《まゆ》  |橘姫《たちばなひめ》の|神司《かむづかさ》
|御供《みとも》の|神《かみ》を|従《したが》へて  |常夜《とこよ》の|闇《やみ》を|照《てら》さむと
|舞《ま》ひ|降《くだ》りたる|御姿《みすがた》は  |橘姫《たちばなひめ》か|深雪姫《みゆきひめ》
|隈《くま》なく|照《て》れる|秋月姫《あきづきひめ》の  |神《かみ》の|命《みこと》か|白雲《しらくも》の
|空《そら》|分《わ》け|上《のぼ》る|雄々《をを》しさよ  コーカス|山《ざん》に|舞《ま》ひ|上《のぼ》り
ウラルの|姫《ひめ》の|醜神《しこがみ》を  |言向《ことむ》け|和《や》はし|神《かみ》|祭《まつ》り
|仕《つか》へおほせて|下《くだ》り|来《く》る  |石凝姥《いしこりどめ》の|宣伝使《せんでんし》
|神伊邪那岐《かむいざなぎ》の|大神《おほかみ》の  |御帯《みおび》と|現《あ》れし|時置師《ときおかし》
|神《かみ》の|命《みこと》の|宣伝使《せんでんし》  |石凝姥《いしこりどめ》の|石《いし》よりも
|固《かた》く|腹帯《はらおび》|締《し》め|直《なほ》し  |時《とき》じく|襲《おそ》ふ|曲神《まがかみ》を
|山《やま》の|尾毎《をごと》に|追《お》ひ|払《はら》ひ  |川《かは》の|瀬《せ》|毎《ごと》に|吹《ふ》き|散《ち》らし
|祓《はらひ》|清《きよ》めて|呉《くれ》の|海《うみ》  |国武丸《くにたけまる》に|乗《の》り|込《こ》むで
|進《すす》む|折《をり》しも|和田津神《わだつかみ》  |醜《しこ》の|囁《ささや》き|曲言《まがこと》に
|怒《いか》らせ|給《たま》ひて|時津風《ときつかぜ》  |波《なみ》を|荒立《あらだ》て|旋風《つむじかぜ》
|船《ふね》|砕《くだ》かむとする|時《とき》に  |天教《てんけう》|地教《ちけう》や|黄金山《わうごんざん》に
|永久《とは》に|現《あ》れます|三五《あななひ》の  |神《かみ》の|命《みこと》の|開《ひら》きたる
いとも|尊《たふと》き|太祝詞《ふとのりと》  |心《こころ》|清《きよ》めて|宣《の》りつれば
|天津神《あまつかみ》たち|国津神《くにつかみ》  |大海原《おほうなばら》に|現《あ》れませる
|神《かみ》も|諾《うべな》ひ|給《たま》ひしか  |風《かぜ》も|鎮《しづ》まり|波《なみ》さへも
いと|穏《おだや》かに|治《をさ》まりぬ  |仰《あふ》げば|尊《たふと》き|神《かみ》の|島《しま》
|橘姫《たちばなひめ》の|守《まも》ります  その|神島《かみしま》も|目《ま》のあたり
|高《たか》く|輝《かがや》く|大空《おほぞら》の  |月《つき》に|心《こころ》を|任《まか》せつつ
|罪科《つみとが》|重《おも》き|諸人《もろびと》の  |汚《けが》れを|乗《の》せて|進《すす》み|行《ゆ》く
|祓戸《はらひど》|四柱《よはしら》|大御神《おほみかみ》  |祓《はら》はせ|給《たま》へ|現身《うつそみ》の
|罪《つみ》や|汚《けが》れや|魂《たま》の|垢《あか》  |赤《あか》き|心《こころ》を|皇神《すめかみ》の
|御前《みまへ》に|清《きよ》く|奉《たてまつ》り  |日《ひ》の|出神《でのかみ》の|一《ひと》つ|火《び》に
|習《なら》ひて|誠《まこと》の|献《ささ》げ|物《もの》  |仕《つか》へ|奉《まつ》らむ|今日《けふ》の|旅《たび》
|国武丸《くにたけまる》に|今《いま》|乗《の》れる  |百人《ももびと》、|千人《ちびと》、|万人《よろづびと》は
|恵《めぐ》みも|深《ふか》き|天地《あめつち》の  |神《かみ》の|心《こころ》を|嬉《うれ》しみて
|身《み》も|魂《たましひ》も|荒磯《あらいそ》の  |潮《しほ》に|清《きよ》めて|仕《つか》へよや
|凡《すべ》て|天地《てんち》の|大神《おほかみ》の  |誠《まこと》の|道《みち》に|叶《かな》ひなば
|只《ただ》|一口《ひとくち》の|言霊《ことたま》も  |神《かみ》は|諾《うべな》ひ|給《たま》ふべし
|祈《いの》れや|祈《いの》れ|諸人《もろびと》よ  |心《こころ》|一《ひと》つに|祈《いの》るべし
アヽ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |御霊《みたま》|幸《さちは》ひましませよ』
と|歌《うた》つて|元《もと》の|席《せき》に|着《つ》く。
|甲《かふ》『イヤお|蔭《かげ》で、|神様《かみさま》の|此《この》|世《よ》に|在《あ》ると|云《い》ふ|事《こと》が|明瞭《はつきり》して|来《き》た|様《やう》だ。|吾々《われわれ》は|彼《あ》の|時《とき》に、|宣伝使《せんでんし》が|祈《いの》つて|呉《く》れなかつたら、|今頃《いまごろ》は|魚腹《ぎよふく》に|葬《はうむ》られて|居《ゐ》る|処《ところ》だつた。|天《てん》からは|美《うる》はしい|女神様《めがみさん》が|沢山《たくさん》な|供《とも》を|連《つ》れて|現《あら》はれ、|何《なん》とも|知《し》れぬ|馨《かをり》の|高《たか》い|花《はな》を|降《ふ》らして|下《くだ》さつた。もう|此《こ》れ|限《かぎ》り|神様《かみさま》の|事《こと》は|俺《おれ》は|疑《うたが》はない。|神《かみ》は|無《な》いと|思《おも》へばある。|有《あ》ると|思《おも》へば|無《な》い。|兎《と》も|角《かく》、|心《こころ》の|誠《まこと》|一《ひと》つに|神《かみ》が|宿《やど》つて|下《くだ》さると|云《い》ふ|事《こと》|丈《だけ》は|承知《しようち》が|出来《でき》たよ』
|乙《おつ》『それだから、|己《おれ》が|何時《いつ》も|云《い》うて|居《ゐ》るのだ。|神《かみ》を|認《みと》める|迄《まで》のお|前《まへ》の|心《こころ》と、|神《かみ》を|認《みと》めてからのお|前《まへ》の|心《こころ》と、どれ|丈《だ》け|違《ちが》ふか』
|甲《かふ》『|何《なん》だか|今迄《いままで》は|此《こ》の|世《よ》の|中《なか》が|不安《ふあん》で、|向《むか》ふが|暗《くら》い|様《やう》で|何時《いつ》も|恟々《びくびく》として、|世間《せけん》を|怖《おそ》れ|人《ひと》を|疑《うたが》ひ、|遂《つひ》には|女房《にようばう》|迄《まで》|疑《うたが》つて、|修羅《しゆら》の|妄執《まうしふ》に|悩《なや》まされてゐたが、|今日《けふ》は|初《はじ》めて|世界晴《せかいば》れがした|様《やう》な|爽快《さうくわい》な|心《こころ》になつたよ。これと|云《い》ふのも|矢張《やつぱり》|吾々《われわれ》を|守《まも》り|給《たま》ふ、|大慈《だいじ》|大悲《だいひ》の|神様《かみさま》の|御恵《みめぐ》みは|云《い》ふも|更《さら》なり、|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》が|真心《まごころ》|籠《こ》めて、|天地《てんち》にお|祈《いの》り|下《くだ》さつたお|蔭《かげ》だナア』
|乙《おつ》『|今《いま》、|宣伝歌《せんでんか》を|歌《うた》はれたのは、お|前《まへ》|誰《たれ》だか|知《し》つてるか』
|甲《かふ》『|何《なん》だか|聞《き》いた|様《やう》な|声《こゑ》だが、|余《あんま》りよく|変《かは》つて|居《ゐ》るので|早速《さつそく》には|思《おも》ひ|出《だ》せない』
|乙《おつ》『あの|方《かた》は|何時《いつ》やら、|黒野ケ原《くろのがはら》の|孔雀姫《くじやくひめ》の|館《やかた》で|御目《おめ》に|掛《かか》つた|御方《おかた》ぢやないか』
|丙《へい》『さうださうだ、|捕手《とりて》に|向《むか》つた|時《とき》に|孔雀姫《くじやくひめ》の|館《やかた》で、|吾々《われわれ》|五人《ごにん》の|者《もの》が、|猫《ねこ》を|摘《つま》むだ|様《やう》に|提《ひつさ》げられ、どうなる|事《こと》かと|震々《ぶるぶる》|慄《ふる》つて|居《ゐ》た|所《ところ》、|酒《さけ》を|飲《の》まして|結構《けつこう》な|教《をしへ》を|聞《き》かして|呉《く》れた|宣伝使《せんでんし》だ。その|時《とき》|俺達《おれたち》が、|捕手《とりて》の|役《やく》は|厭《いや》になつたから|辞《や》めると|云《い》つたら「お|前達《まへたち》はそれが|天職《てんしよく》だから」と|仰有《おつしや》つた|方《かた》だ。|何《なん》と|悪《わる》い|事《こと》は|出来《でき》ぬものだなア。|世間《せけん》が|広《ひろ》いと|云《い》つても、|何処《どこ》で|出会《でつくわ》すか|分《わか》つたものぢやない。オイお|前達《まへたち》もお|礼《れい》|旁《かたがた》、コーカス|山《ざん》で|御無礼《ごぶれい》を|働《はたら》いた|事《こと》をお|詫《わ》びしようぢやないか』
|甲《かふ》『そいつは|一寸《ちよつと》|考《かんが》へ|物《もの》だぞ。|牛《うし》、|馬《うま》、|鹿《しか》、|虎《とら》の|四人《よにん》は|随分《ずゐぶん》|寝返《ねがへ》りを|打《う》つて、あつちに|付《つ》きこつちに|付《つ》き|余《あま》り|宜《よ》くない|事《こと》をやつてゐるから、|迂闊《うつかり》|名乗《なの》つて|出《で》ようものなら、|今度《こんど》こそ、どんな|目《め》に|逢《あ》ふか|分《わか》りやしない。マア|知《し》らぬ|顔《かほ》して|居《を》る|事《こと》だなア』
|丁《てい》『それでも|何《なん》だか|済《す》まぬ|様《やう》な|心持《こころもち》がする、|一視同仁《いちしどうじん》を|旨《むね》とする|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》|様《さま》がどうして|吾々《われわれ》を|苦《くる》しめる|様《やう》な|事《こと》をなさるものか。|従順《すなほ》に|名乗《なの》つて、お|詫《わ》びもし|御礼《おれい》も|申上《まをしあ》げたら|何《ど》うだ』
|甲《かふ》『お|前達《まへたち》はそれで|宜《よ》いが、この|牛公《うしこう》は|巌《いはや》の|中《なか》まで、|沢山《たくさん》な|宣伝使《せんでんし》を|引張《ひつぱり》|込《こ》むで|苦《くる》しめた、ウラル|姫《ひめ》の|捕手《とりて》の|頭《かしら》だつたから、|到底《たうてい》|俺《おれ》|丈《だ》けは|助《たす》かりつこはない。|貴様《きさま》|達《たち》が|名乗《なの》つて|出《で》ると|其《その》|序《ついで》に|俺《おれ》の|事《こと》が|現《あら》はれて|来《く》るから|俺《おれ》を|助《たす》けると|思《おも》つて|名乗《なの》るのは|見合《みあは》して|呉《く》れないか』
|乙《おつ》『そんな、|股倉《またぐら》に|何《なに》やらを|挟《はさ》むで|居《ゐ》る|様《やう》な|気味《きび》の|悪《わる》い|事《こと》が|出来《でき》るものかい。|此《この》|船《ふね》には|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》が|六人《ろくにん》も|乗《の》つて|厶《ござ》るぞ。|兎《と》も|角《かく》|従順《すなほ》に、|尾《を》を|掉《ふ》つて|此《この》|場《ば》を|逃《のが》れるのだ、|改心《かいしん》した|様《やう》な|顔《かほ》して|居《を》れば|宜《よ》いのだ。|然《しか》しながら|俺達《おれたち》は|心《こころ》の|底《そこ》から|改心《かいしん》して|居《ゐ》るのだが、どうしても|貴様《きさま》は|発根《ほつこん》の|改心《かいしん》が|出来《でき》ねば、|貴様《きさま》|丈《だ》けは|柔順《おとなし》うして|改心《かいしん》らしう|見《み》せて|居《を》れば|宜《よ》いぢやないか。|向《むか》ふの|方《はう》から、オイ、|其処《そこ》に|居《ゐ》るのは|牛《うし》、|馬《うま》、|鹿《しか》、|虎《とら》ぢやないかと|云《い》はれてからは|余《あんま》り|気《き》が|利《き》かぬぢやないか。お|月様《つきさま》が|御出《おで》ましになつて、|其処《そこ》らが|明《あか》くなり、|風《かぜ》が|止《や》むで|波《なみ》がをさまり、ヤレ|楽《らく》ぢやと|思《おも》へば|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》の|顔《かほ》がアリアリと|見《み》え|出《だ》した。こちらが|見《み》えると|同様《どうやう》に、|向《むか》ふも|俺達《おれたち》の|顔《かほ》が|透《す》きとほる|様《やう》に|見《み》えて|居《ゐ》るに|違《ちが》ひない。|嗚呼《ああ》|照《て》る|月《つき》も|恨《うら》めしいが|曇《くも》るのも|恨《うら》めしいだらうな、|牛公《うしこう》』
|牛公《うしこう》『マアマア|一寸《ちよつと》|思案《しあん》さして|呉《く》れ。|何《なん》だか|大勢《おほぜい》の|前《まへ》で、|謝罪《あやま》つたり|叱《しか》られたりするのは|見《み》つとも|宜《よ》くない。マア|行《ゆ》く|処《ところ》まで|行《い》かうぢやないか』
|丙《へい》『|貴様《きさま》は|淡白《あつさり》せぬ|物《もの》|臭《ぐさ》い|男《をとこ》だナア。|徳利《とくり》に|味噌《みそ》を|詰《つ》めて|逆《さか》に|振《ふ》つて|出《だ》す|様《やう》な|男《をとこ》だ。|綺麗《きれい》な|座敷《ざしき》の|真中《まんなか》で、|裃《かみしも》を|着《つ》けた|儘《まま》、|沢山《どつさり》|糞《くそ》を|垂《た》れて、|立《た》つにも|立《た》たれずと|云《い》ふ|体裁《ていさい》だ。|貴様《きさま》は|牛公《うしこう》だから、|最前《さいぜん》からグヅグヅ|云《い》つて、|謝罪《あやま》りに|行《ゆ》かうと|云《い》ふのにビクともせぬのは、|大方《おほかた》|股《また》に|牛糞《うしくそ》でも|挟《はさ》むで|居《ゐ》るのだらう。|体《てい》|好《よ》く、|余《あま》り|海《うみ》が|荒《あ》れて|怖《こは》かつたので|牛糞《うしくそ》が|出《で》たと|白状《はくじやう》せぬかい』
|牛公《うしこう》『|鹿公《しかこう》の|云《い》ふ|通《とほ》り、|大《おほ》きな|声《こゑ》では|云《い》へぬが、|実《じつ》は|動《うご》く|事《こと》が|出来《でき》ぬのだよ、|糞《くそ》|忌々《いまいま》しい』
かく|語《かた》る|折《をり》しも、|時置師《ときおかし》の|宣伝使《せんでんし》は、スツクと|立《た》つて|此方《こなた》に、|人《ひと》を|分《わ》けて|進《すす》み|来《きた》り、
『イヤ|牛公《うしこう》か、|随分《ずゐぶん》|貴様《きさま》は|悪《わる》い|奴《やつ》だ、|何《ど》うだ、|最前《さいぜん》の|嵐《あらし》は|何《ど》う|思《おも》つたか。|貴様《きさま》の|様《やう》な|悪人《あくにん》が|乗《の》つて|居《ゐ》るものだから、|竜神様《りうじんさん》が|御立腹《ごりつぷく》|遊《あそ》ばしたのだ。|俺《わし》がこれから|貴様《きさま》の|身体《からだ》の|悪魔《あくま》を、|引抜《ひきぬ》いてやらう』
『|何《なに》、|私《わたし》の|首《くび》を|引抜《ひきぬ》く。それはマア|待《ま》つて|下《くだ》さい』
『|否《いや》、|逢《あ》うた|時《とき》に|笠脱《かさぬ》げと|云《い》ふ|事《こと》がある。|時《とき》に|取《と》つての|時置師《ときおかし》の|荒料理《あられうり》だ、|其処《そこ》|動《うご》くな』
|乙《おつ》『オイ|牛公《うしこう》、|本当《ほんたう》に|動《うご》くな、|動《うご》くと|臭《くさ》いからな』
|時置師神《ときおかしのかみ》は|委細《ゐさい》|構《かま》はず、|牛公《うしこう》の|前《まへ》に|進《すす》むで|来《く》る。|牛公《うしこう》は、キヤアと|一声《ひとこゑ》|叫《さけ》び|乍《なが》ら|月《つき》|照《て》り|渡《わた》る|波《なみ》を|目《め》がけて、ザンブと|許《ばか》り|飛《と》び|込《こ》み、ブルブルブルと|音《おと》を|立《た》てて|黒《くろ》き|姿《すがた》は|後《あと》|白波《しらなみ》と|消《き》え|失《う》せにけり。
|折柄《をりから》の|順風《じゆんぷう》に|真帆《まほ》を|上《あ》げたる|国武丸《くにたけまる》は|何《なん》の|容赦《ようしや》もなく|此《この》|悲劇《ひげき》を|振《ふ》り|捨《す》てて|先《さき》へ|先《さき》へと|進行《しんかう》を|続《つづ》くる。
(大正一一・三・一〇 旧二・一二 藤津久子録)
第一九章 |呉《くれ》の|海原《うなばら》〔五一五〕
|時置師神《ときおかしのかみ》は|牛公《うしこう》の|投身《とうしん》したる|海面《かいめん》に|向《むか》ひて、|暗祈黙祷《あんきもくたう》しつつあつた。|暫《しばら》くあつて|満面《まんめん》に|笑《ゑみ》を|湛《たた》へ、|悠々《いういう》と|元《もと》の|席《せき》に|返《かへ》つて|行《ゆ》くのであつた。|馬公《うまこう》は|小声《こごゑ》になつて、
|馬公《うまこう》『オイ|鹿《しか》、|虎《とら》、どうだ。|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》でさへも、|牛公《うしこう》が|海《うみ》へ|飛込《とびこ》むだのを|見《み》て、|助《たす》けようともせず、|愉快《ゆくわい》さうに、ニタリニタリと|笑《わら》つて|居《を》つたぢやないか』
|鹿公《しかこう》『ウン、さうだのう、|偉《えら》さうに|人《ひと》を|助《たす》ける|宣伝使《せんでんし》だと|云《い》つた|処《ところ》で、|口《くち》|許《ばか》りだよ。どうでコンナ|世《よ》の|中《なか》になつて|来《く》れば……|誠《まこと》の|者《もの》は|薬《くすり》にする|程《ほど》も|無《な》い……と|云《い》ふ|神様《かみさま》の|教《をしへ》|通《どほ》りぢや。|大《おほ》きな|声《こゑ》で|喋《しやべ》つて|居《ゐ》ると、|又《また》どんな|目《め》に|逢《あ》はせられるか|知《し》れやしないぞ。|静《しづか》にせい、|静《しづか》にせい、|云《い》ひたけら|黙《だま》つてものを|云《い》ふのだよ』
|馬公《うまこう》『|黙《だま》つてものを|云《い》ふ|事《こと》が|出来《でき》るかい、|手品師《てじなし》でもあるまいし』
|虎公《とらこう》『|出来《でき》いでかい、そこが|以心伝心《いしんでんしん》だ。|目《め》は|口《くち》|程《ほど》にものを|云《い》ふと|云《い》ふ|事《こと》がある。|霊界物語《れいかいものがたり》にも|耳《みみ》で|見《み》て|目《め》で|聞《き》き|鼻《はな》で|物《もの》|食《く》うて|口《くち》で|嗅《か》がねば|神《かみ》は|分《わか》らぬ、と|出《で》て|居《を》るぢやないか』
|馬公《うまこう》『そんな|事《こと》はどうでも|良《よ》いわ。マア|静《しづか》にしようかい。オイオイ|時置師神《ときおかしのかみ》が|大《おほ》きな|目《め》をむいて、ギロギロと|見廻《みまは》し|出《だ》したぢやないか。どうやら|御鉢《おはち》が|廻《まは》りさうだぞ』
と|云《い》ひ|乍《なが》らクルクルと|帯《おび》を|解《ほど》きかける。
|鹿公《しかこう》『オイ|馬公《うまこう》、|貴様《きさま》|帯《おび》を|解《と》いてどうするつもりだ』
|馬公《うまこう》『|喧《やかま》し|云《い》ふない、|是《これ》には|秘密《ひみつ》があるのだ。|手廻《てまは》しだ』
|虎公《とらこう》『|手廻《てまは》して|何《なん》だい』
|馬公《うまこう》『|牛公《うしこう》の|様《やう》に|着物《きもの》を|着《き》たなりで、|飛《と》び|込《こ》むでもつまらぬから、|時置師神《ときおかしのかみ》が「コラツ」とやつて|来《き》よつたら、|俺《おれ》はチヤンと|御先《おさき》に|此《この》|帯《おび》|解《と》き|置《お》かしの|神様《かみさま》となつて、|真裸《まつぱだか》のまま|海《うみ》の|中《なか》へドブンだ。|貴様等《きさまら》も|用意《ようい》せ、|用意《ようい》を』
|時置師神《ときおかしのかみ》は|四辺《あたり》キヨロキヨロ|見廻《みまは》しながら、|三人《さんにん》の|囁《ささや》き|話《ばなし》を|聞《き》き、
『ヤアー、|久《ひさ》しく|逢《あ》はなかつた。|御前等《おまへら》は|牛公《うしこう》の|同役《どうやく》、ウラル|教《けう》の|目附《めつけ》の|馬《うま》、|鹿《しか》、|虎《とら》の|三人《さんにん》ぢやないか』
|虎公《とらこう》『【トラ】|違《ちが》ひます、【シカ】と|見《み》て|下《くだ》さいませ、|決《けつ》して【ウマ】い|事《こと》|人《ひと》を|詐《いつは》る|様《やう》な、|正直《しやうぢき》な|男《をとこ》ぢや|御座《ござ》いませぬ』
|時置師《ときおかし》『アハヽヽヽヽ、|其《その》|狼狽《うろた》へ|様《やう》は|何《なん》だ、|裸《はだか》になつて|居《を》るぢやないか』
|馬公《うまこう》『|裸《はだか》で|物《もの》は|落《おと》しませぬからなア。|肝腎《かんじん》の|一《ひと》つより|無《な》い|命《いのち》を|落《おと》しては|約《つま》らぬから、【まさか】の|時《とき》の|用意《ようい》に|裸《はだか》になつて|置《お》きませうかい。|烈《はげ》しい|時津風《ときつかぜ》が|吹《ふ》いて、|舟《ふね》が|覆《かへ》る|様《やう》な|事《こと》があつては|耐《たま》りませぬから』
|時置師《ときおかし》『|御前《おまへ》は|確《たしか》に|牛公《うしこう》の|連《つれ》だらう、|人間《にんげん》は|正直《しやうぢき》にするものだぞ』
|馬公《うまこう》『ハイハイ、ドウド|許《ゆる》して|下《くだ》さいませ。|正真《ほんま》の|事《こと》を|云《い》つたら|命《いのち》がありませぬわ。|今日《けふ》の|時節《じせつ》は、|真実《ほんと》の|事《こと》を|云《い》へば、|悪《わる》い|奴《やつ》ぢやと|云《い》つて、|酷《ひど》い|目《め》に|逢《あ》はされる|世《よ》の|中《なか》です。|嘘《うそ》が|宝《たから》となる|世《よ》の|中《なか》、|嘘《うそ》から|出《で》た|誠《まこと》、|誠《まこと》から|出《で》た|嘘《うそ》、|嘘《うそ》か|誠《まこと》か、|雨《あめ》か|風《かぜ》か、そこはそれ|好《よ》い|加減《かげん》に|操《あやつ》つて|渡《わた》るのが|当世《たうせい》の|遣《や》り|方《かた》、|決《けつ》して|決《けつ》して|此《この》|世《よ》の|中《なか》に|逆《さか》らう|様《やう》な、|悪《わる》い|人間《にんげん》ぢや|御座《ござ》いませぬ。|時世時節《ときよじせつ》に|従《したが》ふ|善《ぜん》の|遣《や》り|方《かた》、|時《とき》さまに|従《したが》ひます』
|時置師《ときおかし》『アハヽヽヽヽ、どこ|迄《まで》もウラル|教《けう》|主義《しゆぎ》だなア』
|鹿公《しかこう》『|斯様《かやう》|斯《か》う|斯《か》うシカジカの|因縁《いんねん》によつて、【しか】も|同《おな》じ|国武丸《くにたけまる》に|一蓮托生《いちれんたくしやう》、|袖《そで》|振《ふ》り|合《あ》ふも|他生《たしやう》の|縁《えん》、|躓《つまづ》く|石《いし》も|縁《えん》の|端《はし》、|団子《だんご》|食《く》ふのも|囲炉裡《ゐろり》の|框《かまち》』
|時置師《ときおかし》『コラコラ|何《なに》を|云《い》ふのだ、|貴様《きさま》の|云《い》ふ|事《こと》は|時々《ときどき》|脱線《だつせん》するから|困《こま》る』
|鹿公《しかこう》『|鹿《しか》り|鹿《しか》り、|時《とき》にとつての|時《とき》さんへの|御慰《おなぐさ》み、|時世時節《ときよじせつ》は|恐《こは》いもの、この|広《ひろ》い|世《よ》の|中《なか》、|一《ひと》つや|二《ふた》つ|悪《わる》い|事《こと》をしたつて、【まさか】|時《とき》さまに|遭遇《でつくわ》すとは|思《おも》はなかつた。アーアー|広《ひろ》い|様《やう》で|狭《せま》いは|此《この》|世《よ》の|中《なか》だ、まだまだ|狭《せま》いのは|舟《ふね》の|中《なか》、も|一《ひと》つ|狭《せま》いは|腹《はら》の|中《なか》』
|時置師《ときおかし》『ナカナカ|能《よ》う|囀《さへづ》る|奴《やつ》だなア』
|鹿公《しかこう》『|泣《な》く|鹿《しか》よりも|泣《な》かぬ|螢《ほたる》が|身《み》を|焦《こが》す』
|時置師《ときおかし》『【シカ】タの|無《な》い|奴《やつ》だ。|何《なん》だビリビリと|震《ふる》ひよつて』
|鹿公《しかこう》『|身体《からだ》に|憑《つ》いたる|曲津神《まがつかみ》を|震《ふる》ひ|落《おと》して|居《ゐ》るのですよ。どうぞもう|私《わたし》の|古《ふる》い|罪《つみ》は、|貴方《あなた》もさつぱりと、|是《これ》で|見直《みなほ》し|聞直《ききなほ》し、|都合《つがふ》がついたら、|他《ほか》の|船《ふね》にでも|乗《の》り|直《なほ》して|下《くだ》されば、|大変《たいへん》に|都合《つがふ》が|好《よ》いのだがなア』
|時置師《ときおかし》『|貴様《きさま》は|面白《おもしろ》い|奴《やつ》だ、イヤ|面黒《おもくろ》い|奴《やつ》だ。まるで|渋紙様《しぶかみさん》の|様《やう》な|男《をとこ》だ。|顔《かほ》に|渋味《しぶみ》があつて|一寸《ちよつと》|確《しつか》りした|目附役《めつけやく》、|捕手《とりて》の|役《やく》には|持《も》つて|来《こ》いだ』
|虎公《とらこう》『モシモシ|時様《ときさん》、|鹿公《しかこう》は|最前《さいぜん》から|随分《ずゐぶん》|云《い》うて|居《ゐ》ましたぜ。それはそれは|大変《たいへん》に|云《い》うてましたよ』
|時置師《ときおかし》『|何《なに》を|云《い》うて|居《ゐ》たのだ』
|鹿公《しかこう》『ユフユフ|自適《じてき》、|神様《かみさま》の|有難《ありがた》い|事《こと》を|云《い》うて|居《ゐ》たのです。さうして|三五教《あななひけう》は|結構《けつこう》な|教《をしへ》|立派《りつぱ》な|宣伝使《せんでんし》が|沢山《たくさん》ござる。|中《なか》にも|取《と》り|分《わ》けて|御慈悲《おじひ》|深《ぶか》い、|神力《しんりき》の|強《つよ》い、|男前《をとこまへ》のよい|活神《いきがみ》さまの|様《やう》な|宣伝使《せんでんし》と|云《い》うたら、マー|時《とき》さまの|時置師神《ときおかしのかみ》さまより|外《ほか》にはあるまい……と|云《い》うて|御賞《おほ》め|申《まを》して|居《を》つたのですよ』
|虎公《とらこう》『コラ|鹿公《しかこう》、ユフユフ|云《い》ふない。モシモシ|宣伝使《せんでんし》|様《さま》、|鹿公《しかこう》のは|嘘《うそ》から|出《で》た|誠《まこと》でなくて|誠《まこと》から|出《で》た|嘘《うそ》ですよ』
|鹿公《しかこう》『|構《かま》ふない、|虎《とら》の|野郎《やらう》、|貴様《きさま》は|余程《よつぽど》|卑怯《ひけふ》な|奴《やつ》だ。|俺等《おれら》|二人《ふたり》はどうなつても|好《よ》い、|貴様《きさま》|一人《ひとり》|助《たす》かりさへすれば|好《よ》いと|思《おも》ふのか。よし、それなら|俺《おれ》にも|考《かんが》へがある。モシモシ|宣伝使《せんでんし》|様《さま》、この|虎公《とらこう》と|云《い》ふ|奴《やつ》、コーカス|山《ざん》の|八王《やつこす》から|沢山《たくさん》の|手当《てあて》を|貰《もら》ひよつて、|実《じつ》の|処《ところ》は|貴方《あなた》の|後《あと》を|追従《つけ》て|来《き》よつたのです、|其《その》|証拠《しようこ》には|此奴《こいつ》|懐《ふところ》に|呑《の》んでますぜ』
|時置師《ときおかし》『|呑《の》んで|居《を》らうが|呑《の》んで|居《を》るまいが、どうでも|好《い》いぢやないか』
|虎公《とらこう》『モシモシ|宣伝使《せんでんし》|様《さま》、|私《わたくし》を|能《よ》く|了解《れうかい》して|下《くだ》さいませ』
|鹿公《しかこう》『|何《なに》を|吐《ぬか》しよるのだ。そりや|了解《れうかい》もして|下《くだ》さるだらう。|宣伝使《せんでんし》を|何々《なになに》しようと|思《おも》うて、|追従《つけ》|覘《ねろ》うて|居《を》る|悪《わる》い|奴《やつ》だから、|懐《ふところ》へ|呑《の》んで|居《ゐ》ると|云《い》う|事《こと》を、|御了解《ごれうかい》して|下《くだ》さるワイ。|蛙《かはず》は|口《くち》から、|匕首《あいくち》が|塞《ふさ》がらぬワイ』
かく|話《はな》す|折《をり》しも、|舟《ふね》の|前面《ぜんめん》に|見上《みあ》げる|許《ばか》りの|水柱《みづばしら》|立昇《たちのぼ》るよと|見《み》る|間《ま》に、|巨大《きよだい》なる|亀《かめ》の|背《せ》に|載《の》せられて、|牛公《うしこう》は|嬉《うれ》しさうに|海面《かいめん》に|浮《うか》むで|来《き》た。|馬《うま》、|鹿《しか》、|虎《とら》|一度《いちど》に、
『ヤアー|牛公《うしこう》が……|助《たす》かつた』
(大正一一・三・一〇 旧二・一二 岩田久太郎録)
第二〇章 |救《すく》ひ|舟《ぶね》〔五一六〕
|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》|時置師神《ときおかしのかみ》の|真心《まごころ》|籠《こ》めし|其《その》|祈《いの》りに、|海《わだ》の|神《かみ》も|感《かん》じ|給《たま》ひけむ、|巨大《きよだい》なる|大亀《おほがめ》となり、|海面《かいめん》に|浮《うか》ばせ|給《たま》うた。|牛公《うしこう》は|亀《かめ》の|背《せ》より|時置師神《ときおかしのかみ》に|向《むか》つて、|涙《なみだ》を|流《なが》しながら|合掌《がつしやう》する。
|時置師《ときおかし》『アヽ、|私《わたくし》のお|祈《いの》りも、|神様《かみさま》のお|告《つげ》の|通《とほ》り|効験《かうけん》が|顕《あら》はれて、|命《いのち》を|助《たす》けられ|帰《かへ》つて|来《き》た。サア|結構々々《けつこうけつこう》、|早《はや》く|此《この》|船《ふね》に|乗《の》つたり|乗《の》つたり』
|亀《かめ》は|船《ふね》に|向《むか》つて|近《ちか》づいて|来《く》る。|時置師神《ときおかしのかみ》は|右手《めて》をグツと|延《の》ばし、|牛公《うしこう》の|背《せな》を|猫《ねこ》を|掴《つか》むやうな|調子《てうし》にてグツと|掴《つか》むで|船中《せんちう》に|救《すく》ひ|上《あ》げた。ゴボンゴボンと|水音《みづおと》|立《た》てて|亀《かめ》は|海中《かいちう》に|姿《すがた》を|隠《かく》した。
|時置師《ときおかし》『|牛公《うしこう》さま、|竜宮《りうぐう》が|見度《みた》いと|云《い》つて|居《ゐ》たが、|見《み》られたかな』
|牛公《うしこう》『イヤ|牛々《もうもう》|見《み》られる|所《どころ》か|苦《くる》しくつて|苦《くる》しくつて、|二三遍《にさんぺん》も|息《いき》の|根《ね》が|断《き》れて|了《しま》ひました。さうすると|貴方様《あなたさま》が|海《うみ》の|底《そこ》へ|潜《くぐ》つて|来《き》て|私《わたくし》の|腰《こし》を|確《しつか》り|握《にぎ》り、|救《すく》ひ|上《あ》げて|下《くだ》さつたと|思《おも》へば|亀《かめ》の|背《せ》、こんな|有難《ありがた》い|事《こと》は|御座《ござ》いませぬ。モウ|牛《もう》|牛公《うしこう》も|今日《けふ》|限《かぎ》り|二本《にほん》の|角《つの》を|折《を》りまする』
|時置師《ときおかし》『|神様《かみさま》の|有難《ありがた》い|事《こと》が|分《わか》つたら|何《なに》より|結構《けつこう》だ。オー、そこな|鹿《しか》さま、|馬《うま》さま、|虎《とら》さま、お|前達《まへたち》も|一度《いちど》|竜宮《りうぐう》へ|往《い》つて|見《み》たらどうだ。|都合《つがふ》によつたら|又《また》|俺《おれ》が|助《たす》けに|往《い》つてやらうも|知《し》れぬが、それは|其《その》|時《とき》の|都合《つがふ》だ。|万一《まんいち》|俺《おれ》が|助《たす》けに|往《ゆ》かなくつても、|因縁《いんねん》と|思《おも》うて|諦《あきら》めるのだ。サア|牛《うし》の|次《つぎ》には|馬《うま》かな』
と、グツと|馬公《うまこう》の|方《はう》に|向《むか》つて|猿臂《えんび》を|延《の》ばす。
|馬公《うまこう》『ウマウマウマ|待《ま》つて|下《くだ》さいませ、それは|余《あんま》りで|御座《ござ》います。こんな|事《こと》があらうと|思《おも》つて、|人《ひと》の|嫌《いや》がる|目付役《めつけやく》や|捕手《とりて》の|役人《やくにん》をすつぱりと|今日《けふ》から|辞《や》めますと|云《い》つたのに、|貴方《あなた》はお|前《まへ》の|天職《てんしよく》だから|辞《や》めなと|仰有《おつしや》つたぢや|御座《ござ》いませぬか。それだから|私《わたくし》は|捕手《とりて》の|役《やく》をして|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》を|随分《ずゐぶん》|苦《くるし》めたのですが、かう|見《み》えても|従順《すなほ》な|男《をとこ》、|貴方《あなた》の|仰有《おつしや》る|通《とほ》り|固《かた》く|守《まも》つて|来《き》たものを、|今更《いまさら》|竜宮《りうぐう》へやるとは|胴慾《どうよく》だ。アンアンアン、オンオンオン』
|時置師《ときおかし》『アハヽア、|此奴《こいつ》は|妙《めう》な|馬《うま》だ。|世《よ》が|変《かは》れば|変《かは》るものだなア。ヒンヒンと|云《い》うて|嘶《な》く|馬《うま》は|沢山《たくさん》あるが、アンアンオンオンと|云《い》ふ|馬《うま》の|声《こゑ》は|聞《き》き|初《はじ》めだ。アハヽヽヽ、こんな|嘶声《なきごゑ》をする|馬《うま》は|面白《おもしろ》くないから、|今度《こんど》は|同《おな》じ|四《よ》つ|足《あし》の|鹿《しか》の|番《ばん》だ。|鹿《しか》はカイロと|啼《な》くさうだ。かう|見《み》えても|海《うみ》には|道《みち》がついて|居《ゐ》る。【|海路《かいろ》】があるのだ。|鹿《しか》なれば|海《うみ》の|中《なか》に|放《ほ》り|込《こ》むでも|滅多《めつた》に|困《こま》りはすまい。【カイロウ】と|思《おも》へば|直《す》ぐ|帰《かへ》れるから、|船《ふね》にさへも|櫂艪《かいろ》がついて|居《を》る。サア|鹿公《しかこう》、お|前《まへ》の|番《ばん》だぞ』
|鹿公《しかこう》『|馬《うま》は|海馬《かいば》と|云《い》つて|海《うみ》にでも|棲《す》むで|居《ゐ》ます。|虎《とら》は|千里《せんり》の|藪《やぶ》でも|飛《と》び|越《こ》えると|云《い》ふのですから、|竜宮行《りうぐうゆき》は|馬公《うまこう》か|虎公《とらこう》が|適任《てきにん》でせう。|鹿《しか》と|云《い》ふ|奴《やつ》は|山《やま》の|奥《おく》に|居《を》る|奴《やつ》で、|海《うみ》は|一向《いつかう》|不調法《ぶてうはふ》で|御座《ござ》います。さうして|今《いま》は|春《はる》で|御座《ござ》います。|春駒《はるこま》と|云《い》つて|馬《うま》の|時節《じせつ》、|筍《たけのこ》の|出《で》る|春先《はるさき》は|虎《とら》の|時節《じせつ》、|鹿《しか》は|秋《あき》が|時節《じせつ》、|秋《あき》まで|待《ま》つて|貰《もら》ひませう。|三五教《あななひけう》の|教《をしへ》にも、|時世時節《ときよじせつ》には|神《かみ》も|叶《かな》はぬと|仰有《おつしや》るぢや|御座《ござ》いませぬか。|竜宮行《りうぐうゆき》をする|者《もの》は【シカク】が|違《ちが》ひます』
|時置師《ときおかし》『アハヽヽ、|面白《おもしろ》い|面白《おもしろ》い、【しか】たがないなア、それなら|思《おも》ひ|切《き》つて|虎公《とらこう》かな』
|虎公《とらこう》『モシモシ、|私《わたくし》は|不適任《ふてきにん》です。|虎穴《こけつ》に|入《い》らずんば|虎児《こじ》を|獲《え》ずと|云《い》つて、|山《やま》に|穴《あな》を|掘《ほ》つて|穴《あな》の|中《なか》に【こけつ】いて|居《を》る|代物《しろもの》ですから、|竜宮行《りうぐうゆき》は|性《しやう》に|合《あ》ひませぬ。【ウミ】の|父上《ちちうへ》|母様《ははさま》は|何処《どこ》にどうして|御座《ござ》るやら、【こけつ】|輾《まろ》びつ|探《さが》して|見《み》れば、|人目《ひとめ》に|心《こころ》|奥山《おくやま》の、|巌窟《いはや》の|中《なか》の|佗住居《わびずまゐ》、どうぞ|許《ゆる》して|下《くだ》さいませ』
|時置師《ときおかし》『|遉《さすが》は|虎公《とらこう》だ。|名詮自称《みやうせんじしやう》、【とら】まへどころのない|事《こと》を|云《い》ふ|奴《やつ》だ。そんなら|竜宮行《りうぐうゆき》はこれで|免除《めんぢよ》してやらう。|其《その》|代《かは》りに|俺《おれ》について|来《く》るのだ』
|虎公《とらこう》『ハイハイ、|竜宮行《りうぐうゆき》さへ|止《や》めさせて|下《くだ》されば、|何処《どこ》へでもお|伴《とも》|致《いた》します』
|時置師《ときおかし》『|私《わし》の|云《い》ふ|事《こと》は|何《なん》でも|諾《き》くなア。|張子《はりこ》の|虎《とら》のやうに【まさか】の|時《とき》になつて|首《くび》を|横《よこ》に|振《ふ》りはせぬかな』
|虎公《とらこう》『トラ|御心配《ごしんぱい》|下《くだ》さいますな、|決《けつ》して|違背《ゐはい》は|致《いた》しませぬ』
|時置師《ときおかし》『これから|橘島《たちばなじま》へ|船《ふね》が|着《つ》いたら、あの|島《しま》には|大《おほ》きな|虎《とら》が|棲居《すまゐ》をして|居《ゐ》る|事《こと》は|聞《き》いて|居《ゐ》るだらうなア』
|虎公《とらこう》『【トラ】もう|昔《むかし》の|昔《むかし》のトラ|昔《むかし》から|聞《き》いて|居《を》ります』
|時置師《ときおかし》『トラ|昔《むかし》と|云《い》ふ|事《こと》があるか、|去《さる》|昔《むかし》だらう』
|虎公《とらこう》『|十二《じふに》の|干支《えと》の|寅《とら》の|裏《うら》は|申《さる》、|丑《うし》のうらは|未《ひつじ》だから|一寸《ちよつと》|表《おもて》の|方《はう》から|申上《まをしあ》げました』
|時置師《ときおかし》『|橘島《たちばなじま》の|虎《とら》の|穴《あな》には|大《おほ》きな|虎《とら》が|二匹《にひき》|棲居《すまゐ》をして|居《を》る。さうして|此《この》|頃《ごろ》|沢山《たくさん》の|児《こ》を|産《う》むで|居《を》ると|云《い》ふ|事《こと》だ。|其《その》|児《こ》を|捕《とら》まへに|行《ゆ》くのが|虎公《とらこう》の|役《やく》だ。|虎《とら》の|児《こ》と|虎公《とらこう》はいい|釣合《つりあひ》だ、|虎穴《こけつ》に|入《い》らずんば|虎児《こじ》を|獲《え》ず、どうだ|勤《つと》めるだらうなア』
|虎公《とらこう》『トラ、モー、ニヤン、です、シカと、ウマくやれませぬワ』
|月《つき》は|西海《せいかい》に|没《ぼつ》し、|久振《ひさしぶり》にて|東海《とうかい》の|浪《なみ》を|割《わ》つて|金色《こんじき》の|太陽《たいやう》|隆々《りうりう》と|昇《のぼ》り|来《きた》る。その|光景《くわうけい》は|得《え》も|云《い》はれぬ|爽快《さうくわい》と|畏敬《ゐけい》の|念《ねん》に|打《う》たれざるを|得《え》ざりしと|云《い》ふ。
|宣伝使《せんでんし》を|初《はじ》め|船中《せんちう》の|人々《ひとびと》は、この|太陽《たいやう》に|向《むか》つて|拍手《はくしゆ》|再拝《さいはい》、|口々《くちぐち》に|神恩《しんおん》を|感謝《かんしや》する|声《こゑ》|天《てん》にも|届《とど》くばかりなりける。
(大正一一・三・一〇 旧二・一二 加藤明子録)
第二一章 |立花嶋《たちばなじま》〔五一七〕
|高光彦《たかてるひこ》の|宣伝使《せんでんし》は|石凝姥《いしこりどめ》、|時置師《ときおかし》の|二人《ふたり》に|向《むか》ひ|慇懃《いんぎん》に|挨拶《あいさつ》を|述《の》べ、|朝日《あさひ》に|向《むか》つて|宣伝歌《せんでんか》を|歌《うた》ひ|始《はじ》めたり。
『|朝日《あさひ》は|光《ひか》る|月《つき》は|盈《み》つ  |大海原《おほうなばら》に|潮《しほ》は|満《み》つ
|潮満球《しほみつだま》や|潮干《しほひる》の  |大御宝《おほみたから》と|現《あら》はれて
|波《なみ》|押《お》し|分《わ》けて|昇《のぼ》る|日《ひ》の  |光《ひかり》は|清《きよ》く|赤玉《あかだま》の
|緒《を》さへ|光《ひか》りて|白玉《しろたま》の  |厳《いづ》と|瑞《みづ》との|其《その》|神姿《すがた》
|愈《いよいよ》|高《たか》く|美《うる》はしく  |豊栄《とよさか》|昇《のぼ》る|天《あま》の|原《はら》
コーカス|山《ざん》も|唯《ただ》ならず  |大海原《おほうなばら》に|漂《ただよ》へる
|四方《よも》の|国々《くにぐに》|島々《しまじま》は  |皆《みな》|明《あきら》けく|成《な》りにけり
|日《ひ》の|出神《でのかみ》の|一《ひと》つ|火《び》は  |天津御空《あまつみそら》や|国土《くにつち》に
|照《て》り|渡《わた》るなり|隈《くま》もなく  |清《きよ》き|神代《かみよ》の|守護神《まもりがみ》
|三五教《あななひけう》の|御教《みをしへ》を  |千代《ちよ》に|八千代《やちよ》に|橘《たちばな》の
|島《しま》に|在《ま》します|姫神《ひめがみ》の  |齢《よはひ》も|長《なが》き|竹生島《ちくぶしま》
|橘島《たちばなじま》と|名《な》を|変《か》へて  |呉《くれ》の|海原《うなばら》|照《てら》しつつ
|憂瀬《うきせ》に|落《お》ちて|苦《くる》しまむ  |百《もも》の|罪人《つみびと》|助《たす》け|行《ゆ》く
|神《かみ》の|尊《たふと》き|試錬《こころみ》に  |遭《あ》ひし|牛《うし》、|馬《うま》、|鹿《しか》、|虎《とら》の
ウラルの|神《かみ》の|目付役《めつけやく》  |心《こころ》の|嵐《あらし》も|浪《なみ》も|凪《な》ぎ
|今《いま》は|漸《やうや》く|静《しづ》の|海《うみ》  |波風《なみかぜ》|立《た》たぬ|歓喜《よろこび》に
|枉《まが》の|身魂《みたま》を|吹《ふ》き|払《はら》ふ  |旭日《あさひ》は|空《そら》に|高光彦《たかてるひこ》の
|貴《うづ》の|命《みこと》の|宣伝使《せんでんし》  |天津神《あまつかみ》より|賜《たま》ひてし
|玉光彦《たまてるひこ》の|神身魂《かむみたま》  |直日《なほひ》に|照《て》りて|顕国《うつしくに》
|有《あ》らむ|限《かぎ》りは|光彦《てるひこ》の  この|三柱《みはしら》の|宣伝使《せんでんし》
|国武丸《くにたけまる》に|乗《の》り|合《あ》ひて  |名乗《なの》り|合《あ》ひたる|十柱《とはしら》の
|珍《うづ》の|御子《みこ》こそ|尊《たふと》けれ  |畏《かしこ》き|神《かみ》の|御恵《みめぐみ》を
|一日《ひとひ》|片時《かたとき》|忘《わす》れなよ  |神《かみ》の|恵《めぐみ》を|忘《わす》れたる
|時《とき》こそ|曲《まが》の|襲《おそ》ふ|時《とき》  |身《み》に|過《あやま》ちの|出《いづ》る|時《とき》
|身《み》に|災《わざはひ》の|来《きた》る|時《とき》  |天《あめ》と|地《つち》との|神々《かみがみ》の
|深《ふか》き|恵《めぐみ》を|忘《わす》るるな  |神《かみ》に|次《つ》いでは|父母《ちちはは》の
|山《やま》より|高《たか》く|海《うみ》よりも  |深《ふか》き|恵《めぐみ》も|片時《かたとき》も
|忘《わす》れてならぬ|四柱《よはしら》の  |牛《うし》、|馬《うま》、|鹿《しか》、|虎《とら》|神《かみ》の|御子《みこ》
|朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも  |月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも
|仮令《たとへ》|曲津《まがつ》は|荒《すさ》ぶとも  |大地《だいち》は|泥《どろ》に|浸《ひた》るとも
|誠《まこと》の|力《ちから》は|世《よ》を|救《すく》ふ  |現界《うつしよ》、|幽界《かくりよ》、|神界《かみのよ》を
|通《とほ》して|我身《わがみ》を|常久《とことは》に  |救《すく》ふは|誠《まこと》の|道《みち》のみぞ
|誠《まこと》を|尽《つく》せ|何時迄《いつまで》も  |身魂《みたま》を|研《みが》け|常久《とことは》に
|朝《あさ》な|夕《ゆふ》なに|省《かへり》みて  |心《こころ》を|配《くば》れ|珍《うづ》の|御子《みこ》
アヽ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |御霊《みたま》|幸《さちは》ひましませよ
|御霊《みたま》|幸《さちは》ひましませよ』
と|歌《うた》ひ|終《をは》つて|旧《もと》の|席《せき》へ|復《かへ》り|合掌《がつしやう》する。
|船《ふね》は|漸《やうや》くにして|橘《たちばな》の|島《しま》に|安着《あんちやく》した。|六人《ろくにん》の|宣伝使《せんでんし》を|初《はじ》め|船中《せんちう》の|人々《ひとびと》は|一人《ひとり》も|残《のこ》らず|島《しま》に|上陸《じやうりく》した。
|牛公《うしこう》『ヤア|有難《ありがた》い|有難《ありがた》い、この|橘島丸《たちばなじままる》に|乗《の》つて|居《を》れば、どんな|風《かぜ》が|吹《ふ》いた|処《ところ》で|最早《もはや》|沈没《ちんぼつ》する|虞《おそれ》は|無《な》いわ。|仮令《たとへ》|天《てん》が|地《ち》となり|地《ち》が|天《てん》となり、|如何《いか》なる|暴風《ばうふう》|吹《ふ》き|来《きた》るとも、|岩《いは》より|堅《かた》い|此《この》|船《ふね》は|牛公《うしこう》の|腕《うで》の|様《やう》なものだ。オイ|馬鹿虎《ばかとら》、|何《なん》だ|青黒《あをぐろ》い|面《つら》をしよつて|鼻《はな》を|拭《ふ》かぬか、|醜《みつともな》い』
|馬公《うまこう》『チツト|風《かぜ》を|引《ひ》いたものだからナア』
|牛公《うしこう》『|風《かぜ》を|引《ひ》かなくても|貴様《きさま》の|鼻《はな》は|年中《ねんぢう》だ、|恰度《てうど》|下水鼻《げすゐばな》だ』
|時置師《ときおかし》『コラコラ、また|噪《はしや》ぎよるか。|此《この》|島《しま》は|無駄口《むだぐち》を|言《い》ふ|処《ところ》で|無《な》いぞ。|畏《おそ》れ|多《おほ》くも|須佐之男大神《すさのをのおほかみ》|様《さま》の|珍《うづ》の|三柱《みはしら》の|御子《みこ》、|剣《つるぎ》の|威徳《ゐとく》に|現《あら》はれ|給《たま》うた|橘姫《たちばなひめ》さまのお|鎮《しづ》まり|遊《あそ》ばす|神島《かみじま》だ。チツト|言霊《ことたま》を|慎《つつし》むだが|宜《よ》からう。|心得《こころえ》が|悪《わる》いと|又《また》|帰《かへ》りがけに|海《うみ》が|荒《あ》れるぞ』
|牛《うし》、|鹿《しか》、|馬《うま》、|虎《とら》の|四人《よにん》はハイハイと|畏《かしこ》まり、|力《ちから》|無《な》げに|俯向《うつむ》いて|居《ゐ》る。
|此《この》|島《しま》は|世界《せかい》|一切《いつさい》の|所有《あらゆる》|草木《さうもく》|繁茂《はんも》し、|稲《いね》|麦《むぎ》|豆《まめ》|粟《あは》|黍《きび》の|類《たぐひ》、|果物《くだもの》、|蔓物《つるもの》|総《すべ》て|自然《しぜん》に|出来《でき》て|居《ゐ》る|蓬莱《ほうらい》の|島《しま》である。|地上《ちじやう》の|山川草木《さんせんさうもく》は|涸《か》れ|干《ほ》し、|萎《しを》れて|生気《せいき》を|失《うしな》ひたるにも|拘《かか》はらず、|此《この》|島《しま》のみは|水々《みづみづ》しき|草木《さうもく》の|艶《つや》、|殊更《ことさら》|美《うる》はしく|味《あぢ》|良《よ》き|果物《くだもの》|枝《えだ》も|折《を》れむ|許《ばか》りに|実《みの》りつつあるのである。|何処《どこ》とも|無《な》く|糸竹管絃《しちくくわんげん》の|響《ひびき》|幽《かす》かに|聞《きこ》え、|百花《ももばな》|千花《ちばな》の|馥郁《ふくいく》たる|香気《かうき》は|人《ひと》の|心魂《しんこん》をして|清鮮《せいせん》ならしめ、|腸《はらわた》をも|洗《あら》ひ|去《さ》らるる|如《ごと》き|爽快《さうくわい》の|念《ねん》に|充《みた》さる。
|玉光彦《たまてるひこ》は|潮水《しほみづ》に|手《て》を|洗《あら》ひ|口《くち》を|漱《すす》ぎ|声《こゑ》|爽《さわや》かに|歌《うた》ふ。
『|天津御神《あまつみかみ》や|国津神《くにつかみ》  |選《えら》びに|選《えら》びし|此《この》|島《しま》は
|花《はな》も|非時《ときじく》|薫《かを》るなり  |薫《かを》りゆかしき|樹々《きぎ》の|実《み》は
|味《あぢ》も|殊更《ことさら》|美《うる》はしく  |色《いろ》|鮮《あざや》かに|光《ひか》るなり
|神《かみ》の|造《つく》りしパラダイス  |永久《とは》の|教《をしへ》の|花《はな》|咲《さ》きて
|斯《か》く|美《うる》はしき|珍《うづ》の|島《しま》  |高天《たかま》の|原《はら》と|開《ひら》けしか
|荒《すさ》び|果《は》てたる|荒野原《あれのはら》  |山川《やまかは》|越《こ》えて|今《いま》|此処《ここ》に
|波《なみ》を|渡《わた》りて|来《き》て|見《み》れば  |思《おも》ひも|寄《よ》らぬ|清《スガ》の|島《しま》
|大御恵《おほみめぐみ》は|目《ま》のあたり  |四辺《あたり》|輝《かがや》く|島山《しまやま》の
|橘姫《たちばなひめ》の|御神姿《おんすがた》  |鏡《かがみ》に|映《うつ》る|如《ごと》くなり
|高天原《たかあまはら》の|神《かみ》の|国《くに》  |高天原《たかあまはら》のパラダイス
|千代《ちよ》に|八千代《やちよ》に|此《この》|栄《さか》え  |変《かは》らざらまし|橘姫《たちばなひめ》の
|神《かみ》の|命《みこと》の|御舎《みあらか》と  |常磐《ときは》の|松《まつ》の|永久《とこしへ》に
|色《いろ》も|褪《あ》せざれ|葉《は》も|散《ち》るな  |神《かみ》の|守護《まもり》の|永久《とこしへ》に
|神《かみ》の|恩恵《めぐみ》の|常久《とことは》に』
と|歌《うた》つて|神《かみ》の|御徳《みとく》を|讃美《さんび》したりき。
|国光彦《くにてるひこ》は|又《また》もや|涼《すず》しき|声《こゑ》を|張《は》り|上《あ》げて、
『|雲井《くもゐ》の|空《そら》の|限《かぎ》りなく  |海《うみ》の|底《そこ》ひの|極《きは》みなく
|満《み》ち|足《た》らひたる|神《かみ》の|徳《とく》  |神《かみ》の|水火《いき》より|生《うま》れたる
|此《この》|神島《かみしま》に|来《き》て|見《み》れば  |百《もも》の|草木《くさき》は|生茂《おひしげ》り
|青人草《あをひとぐさ》の|非時《ときじく》に  |食《く》ひて|生《い》くべき|食物《たなつもの》
|百《もも》の|木《こ》の|実《み》も|豊《ゆた》やかに  |枝《えだ》も|撓《たわ》わに|実《みの》るなり
|天津日影《あまつひかげ》はいと|清《きよ》く  |波《なみ》また|清《きよ》き|呉《くれ》の|海《うみ》
|神《かみ》の|御子《みこ》たる|民草《たみぐさ》の  |心《こころ》の|色《いろ》の|清《きよ》ければ
|此《この》|島《しま》のみか|四方《よも》の|国《くに》  |何処《いづく》の|果《は》ても|天地《あめつち》の
|神《かみ》の|恵《めぐみ》に|潤《うるほ》ひて  |楽《たのし》み|尽《つ》きぬパラダイス
|神《かみ》の|心《こころ》を|慎《つつし》みて  |深《ふか》く|悟《さと》りて|三五《あななひ》の
|誠《まこと》の|教《をしへ》に|服《まつろ》へば  |御空《みそら》は|清《きよ》く|地《つち》|清《きよ》く
|波《なみ》|平《たひら》けく|山《やま》や|野《の》は  |何時《いつ》も|青々《あをあを》|松《まつ》|緑《みどり》
|松《まつ》の|神世《かみよ》の|常久《とことは》に  |栄《さか》えしものを|現身《うつそみ》の
ねぢけ|曲《まが》れる|人心《ひとごころ》  |日《ひ》に|夜《よ》に|天地《てんち》を|穢《けが》したる
|醜言霊《しこことたま》の|醜《しこ》の|呼吸《いき》  |草木《くさき》を|枯《か》らし|山河《やまかは》の
|水《みづ》まで|涸《か》らす|愚《おろか》さよ  |嗚呼《ああ》この|島《しま》を|鑑《かがみ》とし
|心《こころ》を|清《きよ》め|身《み》を|清《きよ》め  |四方《よも》の|国々《くにぐに》|皇神《すめかみ》の
|誠《まこと》の|道《みち》を|伝《つた》ふべし  |世《よ》は|常久《とことは》に|橘《たちばな》の
|姫《ひめ》の|命《みこと》の|知食《しろしめ》す  |橘島《たちばなじま》のいと|清《きよ》く
|波《なみ》も|静《しづ》まれ|四《よ》つの|海《うみ》  |魔神《まがみ》の|猛《たけ》ぶ|葦原《あしはら》の
|醜《しこ》の|醜草《しこぐさ》|薙払《なぎはら》ひ  |天《あま》の|岩戸《いはと》を|押《お》し|開《ひら》き
|天地《あめつち》|四方《よも》の|国々《くにぐに》を  |日《ひ》の|出国《でのくに》と|開《ひら》くべし
|嗚呼《ああ》|尊《たふと》しや|有難《ありがた》や  |神《かみ》の|恵《めぐ》みの|限《かぎ》りなく
|君《きみ》の|恵《めぐ》みの|極《きは》みなく  |親子《おやこ》|夫婦《ふうふ》は|睦《むつ》び|合《あ》ひ
|人《ひと》と|人《ひと》とは|親《したし》みて  |歓《ゑら》ぎて|暮《くら》す|神《かみ》の|国《くに》
|一度《いちど》に|開《ひら》く|白梅《しらうめ》の  |花《はな》の|薫《かをり》を|松竹《まつたけ》の
|清《きよ》き|操《みさを》も|変《かは》らざれ  |清《きよ》き|神世《かみよ》も|変《かは》らざれ
|堅磐《かきは》|常盤《ときは》の|松《まつ》|緑《みどり》  ミロクの|神《かみ》が|現《あら》はれて
|天津教《あまつをしへ》を|経緯《たてよこ》の  |綾《あや》と|錦《にしき》の|機《はた》|織《お》らす
アヽ|惟神《かむながら》|々々《かむながら》  |御霊《みたま》の|幸《さち》を|願《ねが》ふなり
|千代《ちよ》に|八千代《やちよ》に|常久《とことは》に  |千代《ちよ》に|八千代《やちよ》に|常久《とことは》に』
|行平別《ゆきひらわけ》は|大口《おほぐち》を|開《あ》けて|又《また》もや|歌《うた》ひ|始《はじ》めた。
『|山川《やまかは》どよみ|国土《くぬち》|揺《ゆ》り  |青垣山《あをがきやま》は|枯《か》れ|果《は》てて
|何処《どこ》も|彼処《かしこ》も|火《ひ》を|点《とぼ》す  |野辺《のべ》の|百草《ももくさ》|露《つゆ》も|無《な》く
|萎《しを》れ|返《かへ》りて|枯《か》るる|世《よ》に  |神《かみ》も|守《まも》つて|呉《くれ》の|海《うみ》
|唐紅《からくれなゐ》の|如《ごと》くなる  |枯野《かれの》の|原《はら》の|地《つち》の|上《うへ》
|露《つゆ》を|帯《お》びたる|緑葉《みどりば》は  |一《ひと》つも|無《な》しと|思《おも》ふたに
これやマア|何《なん》とした|事《こと》か  この|島《しま》だけは|青々《あをあを》と
|五穀《ごこく》は|稔《みの》り|木《き》は|栄《さか》え  |果物《くだもの》|熟《じゆく》して|甘《うま》さうな
|自然《しぜん》に|唾《つばき》が|湍《ほとばし》る  |一視同仁《いつしどうじん》|神様《かみさま》の
|心《こころ》に|似合《にあ》はぬ|何《なん》として  |此《この》|島《しま》だけは|幸《さち》|多《おほ》き
|思《おも》ひまはせば|廻《まは》す|程《ほど》  |腹《はら》が【たち】ばな|島《しま》の|山《やま》
|云《い》ひたい|理窟《りくつ》は|山々《やまやま》あれど  |心《こころ》|穢《きたな》き|人間《にんげん》の
|身《み》の|分際《ぶんざい》を|省《かへり》みて  |理窟《りくつ》を|言《い》ふのは|止《や》めにしよう
|人《ひと》さへ|住《す》まぬ|此《この》|島《しま》に  |米《こめ》が|実《みの》つて|何《なん》になる
|果物《くだもの》|熟《じゆく》して|何《なん》とする  |余《あま》りに|神《かみ》は|気《き》が|利《き》かぬ
サアこれからは|此《この》|方《はう》の  |生言霊《いくことたま》の|力《ちから》にて
|四方《よも》の|国々《くにぐに》|島々《しまじま》に  |緑《みどり》の|木草《きくさ》|珍《うづ》の|稲《いね》
|豊《とよ》の|果物《くだもの》|一々《いちいち》に  |移《うつ》して|世人《よびと》を|救《すく》ふべし
|橘島《たちばなじま》の|姫神《ひめがみ》よ  |行平別《ゆきひらわけ》の|言霊《ことたま》を
|〓怜《うまら》に|委曲《つばら》に|聞《き》こしめせ  |若《も》しも|諾《き》かれなそれでよい
|行平別《ゆきひらわけ》にも|腹《はら》がある  |聞《き》いた|印《しるし》にや|一時《いつとき》も
|早《はや》く|姿《すがた》を|変《か》へられよ  |此《この》|島山《しまやま》が|枯《か》れ|果《は》てて
|枯《か》れ|野《の》の|如《ごと》くなつたなら  |豊葦原《とよあしはら》の|国々《くにぐに》は
|皆《みな》|生々《いきいき》とするであらう  |橘姫《たちばなひめ》は|只《ただ》|一人《ひとり》
|栄《さか》えの|国《くに》に|安々《やすやす》と  |其《その》|日《ひ》を|暮《くら》し|四方国《よもくに》の
|青人草《あをひとぐさ》の|悩《なや》みをば  |他所《よそ》に|見《み》るのか|逸早《いちはや》く
|印《しるし》を|見《み》せよ|片時《かたとき》も  |疾《と》く|速《すみ》やけく|我《わが》|前《まへ》に』
と|大音声《だいおんじやう》に|呼《よばは》つた。|此《この》|時《とき》|何処《いづこ》ともなく|忽然《こつぜん》として|現《あら》はれたる|高尚《かうしやう》|優美《いうび》の|橘姫《たちばなひめ》は、|右《みぎ》の|手《て》に|稲穂《いなほ》を|持《も》ち、|左《ひだり》の|手《て》に|橙《だいだい》の|木実《このみ》を|携《たづさ》へて|来《きた》り、|天《あま》の|数歌《かずうた》|淑《しとや》かに|歌《うた》ひ|終《をは》つて|右《みぎ》の|手《て》の|稲《いね》を|天空《てんくう》|高《たか》く|放《ほ》り|上《あ》げ|給《たま》うた。|稲穂《いなほ》は|風《かぜ》のまにまに|四方《よも》に|散乱《さんらん》し|豊葦原《とよあしはら》の|瑞穂《みづほ》の|国《くに》を|実現《じつげん》する|事《こと》とはなりぬ。|左《ひだり》の|手《て》に|持《も》たせ|給《たま》ふ|木実《このみ》を|又《また》もや|中天《ちうてん》に|投《な》げ|上《あ》げ|給《たま》へば、|億兆《おくてう》|無数《むすう》の|果物《くだもの》となつて|四方《よも》に|散乱《さんらん》しければ、|豊葦原《とよあしはら》の|瑞穂国《みづほくに》の|食物《をしもの》|果物《くだもの》はこれより|良《よ》く|実《みの》り、|万民《ばんみん》|安堵《あんど》する|神世《かみよ》の|端緒《たんしよ》を|開《ひら》かれにける。これ|天《あま》の|岩戸《いはと》|開《びら》きの|一部《いちぶ》の|御神業《ごしんげふ》なり。
『|因《ちなみ》に|曰《い》ふ』|橘姫《たちばなひめ》は|三光《さんくわう》の|一人《ひとり》なる|国光彦《くにてるひこ》の|宣伝使《せんでんし》と|共《とも》に|夫婦《ふうふ》となり、この|嶋《しま》に|永遠《ゑいゑん》に|鎮《しづ》まりて|国土《こくど》|鎮護《ちんご》の|神《かみ》となつた。|天《あめ》の|真奈井《まなゐ》に|於《お》ける|日神《ひのかみ》との|誓約《うけひ》の|段《だん》に|現《あら》はれたる|三女神《さんによしん》の|中《なか》の|多岐都比売命《たきつひめのみこと》は|橘姫命《たちばなひめのみこと》の|後身《こうしん》なりと|知《し》るべし。
(大正一一・三・一〇 旧二・一二 北村隆光録)
第二二章 |一嶋《ひとつじま》|攻撃《こうげき》〔五一八〕
|大空《おほぞら》に|雲《くも》|立《た》ち|塞《ふさ》ぎ|海原《うなばら》に  |霧《きり》|立《た》ち|籠《こ》めて|四方《よも》の|国《くに》
|神《かみ》の|恵《めぐみ》の|露《つゆ》もなく  |山川草木《やまかはくさき》|泣《な》き|干《ほ》して
|黒白《あやめ》も|分《わ》かぬ|暗《やみ》の|夜《よ》を  |今《いま》や|照《てら》さむ|瀬戸《せと》の|海《うみ》
|百《もも》の|神《かみ》たち|百人《ももびと》を  |松《まつ》の|神代《かみよ》の|末《すゑ》|長《なが》く
|救《すく》はむために|素盞嗚《すさのを》の  |神《かみ》の|御言《みこと》を|畏《かしこ》みて
|思《おも》ひは|積《つも》る|深雪姫《みゆきひめ》  |解《と》くるよしなき|真心《まごころ》の
|誠《まこと》|一《ひと》つの|一《ひと》つ|島《じま》  |熱《あつ》き|涙《なみだ》の|多気理姫《たぎりひめ》
コーカス|山《ざん》に|現《あ》れませる  |十握《とつか》の|剣《つるぎ》の|威徳《ゐとく》にて
|雲霧《くもきり》|四方《よも》に|切《き》り|払《はら》ひ  |醜《しこ》の|曲津《まがつ》を|除《のぞ》かむと
|高杉別《たかすぎわけ》の|籠《こも》りたる  この|神島《かみしま》に|宮柱《みやばしら》
|太敷《ふとしき》|立《た》てて|世《よ》を|偲《しの》ぶ  |瑞霊《みづのみたま》の|深雪姫《みゆきひめ》
|吹《ふ》き|来《く》る|風《かぜ》も|腥《なまぐさ》く  |人馬《じんば》の|音《おと》は|絶間《たえま》なく
|矢叫《やさけ》びの|声《こゑ》|鬨《とき》の|声《こゑ》  |世《よ》は|騒《さわ》がしく|群鳥《むらどり》の
|群《む》れ|立《た》つばかり|沖《おき》つ|鳥《とり》  |沖《おき》の|鴎《かもめ》の|声《こゑ》さへも
いと|佗《わび》しげに|聞《きこ》ゆなり  ここは|名《な》に|負《お》ふサルジニヤ
|神《かみ》の|守《まも》りもアルプスの  |鋼《まがね》、|鉄《くろがね》|取《と》り|出《い》でて
|百《もも》の|兵器《つはもの》|造《つく》りつつ  |珍《うづ》の|御魂《みたま》と|仕《つか》へたる
|心《こころ》も|猛《たけ》き|兵士《つはもの》は  |雲《くも》の|如《ごと》くに|集《あつ》まれり。
コーカス|山《ざん》の|珍《うづ》の|宮《みや》に、|御巫子《みかんのこ》として|仕《つか》へたる、|月《つき》|雪《ゆき》|花《はな》の|姉妹《おとどひ》の|一人《ひとり》、|深雪姫《みゆきひめ》は、|尚武勇健《しやうぶゆうけん》の|気質《きしつ》に|富《と》み、|十握《とつか》の|剣《つるぎ》の|威徳《ゐとく》に|感《かん》じて、アルプス|山《さん》の|鋼鉄《まがね》を|掘出《ほりだ》し、|種々《しゆじゆ》の|武器《ぶき》を|造《つく》り|備《そな》へて、|国家《こくか》|鎮護《ちんご》の|神業《しんげふ》に|奉仕《ほうし》せむと、|天下《てんか》の|英雄《えいゆう》|豪傑《がうけつ》を|此《この》|島《しま》に|集《あつ》め、|悪魔《あくま》|征討《せいたう》の|準備《じゆんび》に|備《そな》へつつあつた。
|宮殿《きうでん》の|屋根《やね》は|千木《ちぎ》、|勝男木《かつをぎ》を|高《たか》く、|千木《ちぎ》の|先《さき》は|鋭利《えいり》なる|両刃《もろは》の|剣《つるぎ》を|以《もつ》て|造《つく》り、|勝男木《かつをぎ》もまた|両端《りやうたん》を|剣《つるぎ》の|如《ごと》く|尖《とが》らせ、|館《やかた》の|周囲《しうゐ》には|剣《つるぎ》の|垣《かき》を|繞《めぐ》らし、|曲津《まがつ》の|侵入《しんにふ》を|許《ゆる》さず|用心《ようじん》|堅固《けんご》の|金城鉄壁《きんじやうてつぺき》なりける。
|武勇《ぶゆう》の|神《かみ》は|先《さき》を|争《あらそ》うてこの|一《ひと》つ|島《じま》に|集《あつ》まり|来《きた》り、|天下《てんか》の|邪神《じやしん》を|掃蕩《さうたう》し、|遍《あまね》く|神人《しんじん》を|安堵《あんど》せしめむと|昼夜《ちうや》|間断《かんだん》なく|武術《ぶじゆつ》の|稽古《けいこ》に|余念《よねん》なく、|剣戟射御《けんげきしやぎよ》に|勤《いそし》む|声《こゑ》は|瀬戸《せと》の|海《うみ》を|越《こ》えて、|遠《とほ》く|天教山《てんけうざん》に|鎮《しづ》まります|撞《つき》の|御柱《みはしら》の|神《かみ》、|天照大神《あまてらすおほかみ》の|御許《おんもと》にも、|手《て》に|取《と》るが|如《ごと》く|轟《とどろ》き|渡《わた》りぬ。
|天照大御神《あまてらすおほみかみ》は、|善言美詞《ぜんげんびし》をもつて|世《よ》の|曲業《まがわざ》を、|見直《みなほ》し|聞《き》き|直《なほ》し|詔《の》り|直《なほ》すべき|天地《てんち》|惟神《かむながら》の|大道《だいだう》を|無視《むし》して、|殺伐《さつばつ》なる|武器《ぶき》を|造《つく》り|武芸《ぶげい》を|励《はげ》むは|弟神《おとうとがみ》|素盞嗚命《すさのをのみこと》の|高天原《たかあまはら》を|占領《せんりやう》せむとする、|汚《きたな》き|心《こころ》のあるならむと、|内心《ないしん》|日夜《にちや》|不快《ふくわい》の|念《ねん》に|駆《か》られ|給《たま》ひつつあらせられた。
|四五《しご》の|勇士《ゆうし》は|武術《ぶじゆつ》の|稽古《けいこ》を|終《をは》り、|眺望《てうばう》よき|一《ひと》つ|島《じま》の|山巓《さんてん》に|登《のぼ》り、|諸々《もろもろ》の|木実《このみ》を|漁《あさ》り、|瓢《ふくべ》の|酒《さけ》を|傾《かたむ》けながら|雑談《ざつだん》に|耽《ふけ》り|居《ゐ》る。
|甲《かふ》『|我々《われわれ》はかうして|昼夜《ちうや》の|区別《くべつ》なく|太刀打《たちうち》の|稽古《けいこ》、|槍《やり》の|稽古《けいこ》に|体《からだ》も|骨《ほね》もグダグダになつて|仕舞《しま》つた。|太刀《たち》と|槍《やり》との|稽古《けいこ》が|済《す》めば、また|弓《ゆみ》の|稽古《けいこ》、|馬《うま》|乗《の》りの|稽古《けいこ》をと|強《しひ》られるのだ。|敵《てき》も|無《な》いのに|此《この》|離島《はなれじま》で、これだけ|武芸《ぶげい》を|励《はげ》まされるのは|何《なん》のためだらう』
|乙《おつ》『|平和《へいわ》の|時《とき》に|武《ぶ》を|練《ね》るのが|武術《ぶじゆつ》の|奥義《おくぎ》だ。サア|戦争《せんそう》が|勃発《ぼつぱつ》したからと|云《い》つて、|俄《にはか》に|慌《あわ》てたところが、|何《なん》の|役《やく》にも|立《た》たない。|武士《ぶし》は|国《くに》を|護《まも》るものだ。|常《つね》から|武術《ぶじゆつ》の|鍛練《たんれん》が|必要《ひつえう》だから、それで|日々《にちにち》|稽古《けいこ》をさせられるのだよ』
|丙《へい》『かう|毎日《まいにち》|日日《ひにち》|空《そら》は|曇《くも》り、|地《ち》は|霧《きり》とも|靄《もや》とも|知《し》れぬ|物《もの》が|立《た》ち|籠《こ》めて、|一間先《いつけんさき》が|碌々《ろくろく》|見《み》えぬやうになつて|来《き》たのだから、|此《この》|世《よ》の|中《なか》が|物騒《ぶつそう》で、|安心《あんしん》して|暮《くら》されぬやうになつたので、|各自《めいめい》|護身《ごしん》のために、|大慈《だいじ》|大悲《だいひ》の|神様《かみさま》が|武術《ぶじゆつ》を|奨励《しやうれい》なさるのだよ』
|甲《かふ》『|三五教《あななひけう》の|教《をしへ》には……|神《かみ》は|言霊《ことたま》をもつて|言向《ことむ》け|和《やは》すのであるから、|武器《ぶき》をもつて|征伐《せいばつ》を|行《おこな》つたり、|侵略《しんりやく》したり、|他《た》の|国《くに》を|併呑《へいどん》するやうな|体主霊従的《たいしゆれいじうてき》の|教《をしへ》でない。|道義的《だうぎてき》に|世界《せかい》を|統一《とういつ》するのだ……と|仰《あふ》せられて|居《を》るではないか、|何《なに》を|苦《くる》しむで|武備《ぶび》を|整《ととの》へ、|平地《へいち》に|浪《なみ》を|起《おこ》すやうな|事《こと》をなさるのだらう。まるでウラル|教《けう》のやうぢやないか』
|乙《おつ》『さうだなア、|三五教《あななひけう》の|教理《けうり》とは|名実《めいじつ》|相《あひ》|反《はん》して|居《を》るやり|方《かた》だ。|大声《おほごゑ》では|言《い》はれぬが、これや|何《なん》でも|深雪姫《みゆきひめ》の|神様《かみさま》に|八岐《やまた》の|大蛇《をろち》か、|鬼《おに》が|憑《つ》いて|為《さ》せるのだらうよ』
|丙《へい》『|実際《じつさい》それだつたら|我々《われわれ》は|実《じつ》に|約《つま》らぬものだ。|一生懸命《いつしやうけんめい》|骨身《ほねみ》を|砕《くだ》くやうな|辛《つら》い|稽古《けいこ》をさせられて、|天則違反《てんそくゐはん》の|大罪《だいざい》を|重《かさ》ねるやうでは|約《つま》らぬじやないか』
|丁《てい》『|神様《かみさま》が|武《ぶ》を|練《ね》り、|数多《あまた》の|武器《ぶき》を|蓄《たくは》へ|給《たま》ふのは|変事《へんじ》に|際《さい》して|天下万民《てんかばんみん》を|救《すく》うためだよ。|大慈《だいじ》|大悲《だいひ》の|神様《かみさま》が|何《なに》しに|好《この》むで|殺伐《さつばつ》な|修業《しうげふ》を|遊《あそ》ばすものかい。|悪魔《あくま》は|剣《つるぎ》の|威徳《ゐとく》に|恐《おそ》れ、|武術《ぶじゆつ》の|徳《とく》によつて|心《こころ》を|改《あらた》め、|善道《ぜんだう》に|帰順《きじゆん》するものだ。|如何《いか》に|善言美詞《ぜんげんびし》の|言霊《ことたま》と|雖《いへど》も、|曇《くも》り|切《き》つたる|悪神《あくがみ》の|耳《みみ》には|入《はい》るものでない、そこで|神様《かみさま》が|大慈大悲心《だいじだいひしん》を|発揮《はつき》して、|眼《め》にものを|見《み》せて、|改心《かいしん》させると|云《い》ふお|経綸《しぐみ》だ。|素盞嗚命《すさのをのみこと》|様《さま》は|一寸《ちよつと》|見《み》たところでは、|実《じつ》に|恐《おそ》ろしい、|猛《たけ》しい|戦《いくさ》|好《ず》きの|神様《かみさま》のやうだが、|決《けつ》して|殺伐《さつばつ》な|事《こと》はお|好《この》みにはならぬ。それ|故《ゆゑ》に|此《この》|世《よ》に|愛想《あいさう》を|尽《つ》かして、|円満《ゑんまん》|具足《ぐそく》|温和《をんわ》なる|月《つき》の|大神《おほかみ》の|世界《せかい》へ|帰《かへ》り|度《た》いと|云《い》つて、|日夜《にちや》|御歎《おなげ》き|遊《あそ》ばし、|慈愛《じあい》の|涙《なみだ》に|暮《く》れて|居《を》られると、そこへ|御父神《おちちがみ》が|天《てん》よりお|降《くだ》りになつて、お|前《まへ》のやうな|気《き》の|弱《よわ》い|事《こと》ではどうして|此《この》|世《よ》が|治《をさ》まるか、|勇気絶倫《ゆうきぜつりん》の|汝《なんぢ》を|選《えら》むで、|悪魔《あくま》の|蔓《はびこ》る|海原《うなばら》の|国《くに》を|修理固成《しうりこせい》せよと|命令《めいれい》を|下《くだ》してあるに、その|女々《めめ》しいやり|方《かた》は|怪《け》しからぬ、と|云《い》つて|大変《たいへん》に|御立腹《ごりつぷく》|遊《あそ》ばしたので、|素盞嗚命《すさのをのみこと》|様《さま》は、|姉君《あねぎみ》の|天照大神《あまてらすおほかみ》にお|暇乞《いとまごひ》のために、|高天原《たかあまはら》にお|上《のぼ》りになつたと|云《い》ふ|事《こと》だ。|其《その》|御魂《みたま》を|受《う》け|継《つ》いだる|珍《うづ》の|御子《みこ》|深雪姫《みゆきひめ》|様《さま》は、|尚武勇健《しやうぶゆうけん》なる|女神《めがみ》に|在《ましま》す|故《ゆゑ》に【まさか】の|時《とき》の|用意《ようい》に|武《ぶ》を|練《ね》つて|居《を》らるるのであらうよ。|武術《ぶじゆつ》は|決《けつ》して|折伏《しやくふく》のためではない、|摂受《せつじゆ》のためだ。|悪魔《あくま》を|払《はら》ひ|万民《ばんみん》を|救《すく》ふ|真心《まごころ》から|出《い》でさせられた|御神策《ごしんさく》に|違《ちが》ひないワ』
|甲《かふ》『お|前《まへ》はよく|詳《くは》しい|事《こと》を|知《し》つて|居《ゐ》るなア、|一体《いつたい》|何処《どこ》から|来《き》たのだ。|此《この》|道場《だうぢやう》へ|来《き》てから|未《ま》だ|間《ま》もないに、|武術《ぶじゆつ》は|中々《なかなか》|立派《りつぱ》なものだなア』
|丁《てい》『|俺《おれ》か、|俺《おれ》は|元《もと》は|百姓《ひやくしやう》だ。|御年村《みとせむら》の|虎公《とらこう》と|云《い》ふ|男《をとこ》だよ』
|甲《かふ》『ヤア、お|前《まへ》があの|名高《なだか》い|自称《じしよう》|艮《うしとら》の|金神《こんじん》だな、|道理《だうり》で|大《おほ》きな|男《をとこ》だと|思《おも》つたよ』
|虎公《とらこう》『アア、|確《たしか》に|夫《それ》とは|分《わか》らぬが、|何《なん》だか|館《やかた》は|騒動《さうだう》がおつ|始《ぱじ》まつたやうだ。サア|皆《みな》の|連中《れんちう》、|愚図々々《ぐづぐづ》しては|居《を》れない。|早《はや》く|館《やかた》へ|駆《か》けつけよう』
と|虎《とら》さまを|先頭《せんとう》に|一同《いちどう》は|丘《をか》を|下《くだ》り、|館《やかた》を|指《さ》して|一散走《いつさんばし》りに|駆《か》けり|行《ゆ》く。
(大正一一・三・一一 旧二・一三 加藤明子録)
第二三章 |短兵急《たんぺいきふ》〔五一九〕
|一《ひと》つ|島《じま》なる|深雪姫ケ館《みゆきひめがやかた》の|高楼《たかどの》より、|眼下《がんか》の|海面《かいめん》を|見渡《みわた》せば、|幾百千《いくひやくせん》とも|限《かぎ》りなき|軍船《いくさぶね》、|魚鱗《ぎよりん》の|備《そな》へ|堂々《だうだう》として|島《しま》を|目蒐《めが》けて|押寄《おしよ》せ|来《きた》る|物々《ものもの》しさ。|唯事《ただごと》ならじと|深雪姫《みゆきひめ》は|近侍《きんじ》の|老臣《らうしん》|高杉別《たかすぎわけ》を|近《ちか》く|招《まね》き|宣《の》り|玉《たま》ふ。
『|高杉別《たかすぎわけ》|殿《どの》、|妾《わらは》は|今《いま》|此《こ》の|高楼《たかどの》より|海面《かいめん》を|眺《なが》むれば、|此方《こなた》に|向《むか》つて|攻《せ》め|来《く》る|数多《あまた》の|兵船《ひやうせん》ウラル|彦《ひこ》の|魔軍《まぐん》か、|天教山《てんけうざん》に|現《あ》れませる|皇大神《すめおほかみ》の|神軍《しんぐん》か、|慥《たしか》に|見届《みとど》け|来《きた》られよ』
と|下知《げち》すれば、|高杉別《たかすぎわけ》は、
『|委細《ゐさい》|承知《しようち》|仕《つかまつ》りました。われは|是《これ》より|当山《たうざん》を|下《くだ》り、|事《こと》の|実否《じつぴ》を|糺《ただ》した|上《うへ》|直《ただち》に|報告《はうこく》|仕《つかまつ》るべし』
と|云《い》ふより|早《はや》く|馬《うま》に|跨《またが》り、|深雪ケ丘《みゆきがをか》を|浜辺《はまべ》に|向《むか》つて|戞々《かつかつ》と|下《くだ》り|行《ゆ》く。|深雪姫《みゆきひめ》は|又《また》もや|大国別《ひろくにわけ》を|近《ちか》く|招《まね》き、
『アイヤ|大国別《ひろくにわけ》|殿《どの》、|当山《たうざん》に|攻《せ》め|寄《よ》せ|来《きた》る|数多《あまた》の|軍勢《ぐんぜい》|唯事《ただこと》ならず。|仮令《たとへ》ウラル|彦《ひこ》の|魔軍《まぐん》にもせよ、|必《かなら》ず|武器《ぶき》を|以《もつ》て|之《これ》に|敵対《てきたい》すべからず、|善言美詞《ぜんげんびし》の|言霊《ことたま》を|以《もつ》て|曲《まが》を|言向《ことむ》け|和《やは》すは|神須佐之男《かむすさのを》の|命《みこと》の|大御心《おほみこころ》、この|館《やかた》には|数多《あまた》の|武器《ぶき》、|兵士《つはもの》、|充《み》ち|備《そな》へありと|雖《いへど》も、|決《けつ》して|敵《てき》を|殺戮《さつりく》する|目的《もくてき》に|非《あら》ず。|天下《てんか》の|神人《しんじん》が|心《こころ》に|潜《ひそ》む|曲津軍《まがついくさ》を、|剣《つるぎ》の|威徳《ゐとく》に|依《よ》つて|怯《お》ぢ|怖《おそ》れしめ|帰順《きじゆん》せしむるの|神器《しんき》なれば、|弓《ゆみ》は|袋《ふくろ》に、|剣《つるぎ》は|鞘《さや》に|納《をさ》まり|返《かへ》つて、|総《すべ》ての|敵《てき》に|臨《のぞ》むべく|部下《ぶか》の|将卒《しやうそつ》にも|此《この》|旨《むね》|厳《きび》しく|伝《つた》へられよ』
と|言《ことば》|厳《おごそ》かに|宣示《せんじ》された。
|大国別《ひろくにわけ》『|敵《てき》は|雲霞《うんか》の|如《ごと》く、|当山《たうざん》に|向《むか》つて|攻《せ》め|来《きた》り、|島人《しまびと》を|殺戮《さつりく》し、|民家《みんか》|山林《さんりん》を|焼《や》き|払《はら》ひ、|火《ひ》は|炎々《えんえん》として|最早《もはや》|館《やかた》の|間近《まぢか》く|燃《も》え|寄《よ》せたり。|日頃《ひごろ》|武術《ぶじゆつ》を|鍛《きた》へたるは|斯《かか》る|時《とき》の|用意《ようい》ならめ。|研《みが》き|置《お》いたる|弓矢《ゆみや》の|手前《てまへ》、|胆《きも》を|練《ね》りたる|将卒《しやうそつ》の|今《いま》や|武勇《ぶゆう》の|現《あら》はれ|時《どき》、この|時《とき》を|措《お》いて|何《いづ》れの|時《とき》か|戦《たたか》はむや。みすみす|敵《てき》に|焼《や》き|滅《ほろぼ》されむは|心《こころ》もとなし。|神《かみ》は|至仁《しじん》|至愛《しあい》に|坐《まし》ませども|時《とき》あつて|折伏《しやくふく》の|利剣《りけん》を|用《もち》ひ|給《たま》ふ。|况《いは》んや、コーカス|山《ざん》に|鎮《しづ》まり|給《たま》ふ、|十握《とつか》の|宝剣《ほうけん》の|御魂《みたま》の|威徳《ゐとく》に|成《な》り|在《ま》せる|貴神《きしん》に|於《おい》てをや。|血迷《ちまよ》ひ|給《たま》ひしか、|今《いま》|一度《いちど》|反省《はんせい》されむ|事《こと》を|希《こひねが》ひ|奉《たてまつ》る』
|深雪姫《みゆきひめ》『|剣《つるぎ》は|容易《ようい》に|用《もち》ふ|可《べか》らず。|剣《つるぎ》は|凶器《きやうき》なり。|凶《きやう》を|以《もつ》て|凶《きよう》に|当《あた》り、|暴《ばう》を|以《もつ》て|暴《ばう》に|報《むく》ゆるは|普通人《ふつうじん》の|行《おこな》ふ|手段《しゆだん》、|苟《いやし》くも|三五教《あななひけう》を|天下《てんか》に|宣伝《せんでん》する|天使《てんし》の|身《み》として、また|宣伝使《せんでんし》の|職《しよく》として、|善言美詞《ぜんげんびし》の|言霊《ことたま》を|閑却《かんきやく》し、|武《ぶ》を|以《もつ》て|武《ぶ》に|当《あた》るは|我《わ》が|心《こころ》の|許《ゆる》さざる|所《ところ》、ただ|何事《なにごと》も|至仁《しじん》|至愛《しあい》の|神《かみ》に|任《まか》せよ。|武《ぶ》を|尚《たつと》び|雄健《ゆうけん》を|尊重《そんちよう》すると|云《い》ふは、|構《かま》へなきの|構《かま》へ、|武器《ぶき》あつて|武器《ぶき》を|用《もち》ゐず、|武器《ぶき》|無《な》くして|武器《ぶき》を|用《もち》ゐ、|能《よ》く|堪忍《たへしの》び、|柔和《にうわ》を|以《もつ》て|狂暴《きやうばう》に|勝《か》ち、|善《ぜん》を|以《もつ》て|悪《あく》に|対《たい》し、|神《かみ》を|以《もつ》て|魔《ま》に|対《たい》す、|柔《じう》|能《よ》く|剛《がう》を|制《せい》するは|神軍《しんぐん》の|兵法《へいはふ》、|六韜三略《りくたうさんりやく》の|神策《しんさく》なり。|汝《なんぢ》|此《この》|主旨《しゆし》を|忘却《ばうきやく》する|勿《なか》れ。|吾《われ》はこれより|奥殿《おくでん》に|入《い》り、|大神《おほかみ》の|御前《おんまへ》に|神言《かみごと》を|奏上《そうじやう》し、|寄《よ》せ|来《く》る|敵《てき》を|言向《ことむ》け|和《やは》さむ。|一兵一卒《いつぺいいつそつ》の|端《はし》に|至《いた》る|迄《まで》、|今日《けふ》に|限《かぎ》り|武器《ぶき》を|持《も》たしむるべからず』
と|宣示《せんじ》し、|悠々《いういう》として|奥殿《おくでん》に|入《い》らむとなしたまふ。|大国別《ひろくにわけ》は、|深雪姫《みゆきひめ》の|袖《そで》を|控《ひか》へて、
『まづまづ|暫《しばら》くお|待《ま》ち|下《くだ》さいませ。|追《お》ひ|追《お》ひ|近《ちか》づく|矢叫《やさけ》びの|声《こゑ》、|如何《いか》に|善言美詞《みやび》の|神嘉言《かむよごと》を|以《もつ》て|言向《ことむ》け|和《やは》さむとすればとて、|暴力《ばうりよく》には|及《およ》び|難《がた》からむ。|吾《われ》はこれより|部下《ぶか》の|将卒《しやうそつ》を|励《はげ》まし、|寄《よ》せ|来《く》る|敵《てき》を|縦横無尽《じうわうむじん》に|斬《き》り|立《た》て、|薙払《なぎはら》ひ、|日頃《ひごろ》|鍛《きた》へし|武勇《ぶゆう》を|示《しめ》さむ。|此《この》|事《こと》|計《ばか》りは|強《た》つて|御許《おゆる》し|下《くだ》さいませ』
と|拳《こぶし》を|握《にぎ》り|身《み》を|震《ふる》はし、|雄健《をたけ》びしつつ|願《ねが》ひ|居《ゐ》る。|深雪姫《みゆきひめ》は|悠々《いういう》|迫《せま》らず、|悠長《いうちやう》なる|音調《おんてう》にて、
『|神《かみ》が|表《おもて》に|現《あら》はれて  |善《ぜん》と|悪《あく》とを|立別《たてわ》ける
|此《この》|世《よ》を|造《つく》りし|神直日《かむなほひ》  |心《こころ》も|広《ひろ》き|大直日《おほなほひ》
|只《ただ》|何事《なにごと》も|人《ひと》の|世《よ》は  |直日《なほひ》に|見直《みなほ》せ|聞《き》き|直《なほ》せ
|世《よ》の|曲言《まがこと》は|宣《の》り|直《なほ》せ  |正義《せいぎ》に|刃向《はむか》ふ|剣《つるぎ》なし
|誠《まこと》の|力《ちから》は|世《よ》を|救《すく》ふ  |神《かみ》を|力《ちから》に|三五《あななひ》の
|神《かみ》の|教《をしへ》を|杖《つゑ》として  |如何《いか》なる|敵《てき》の|来《きた》るとも
|神《かみ》の|嘉言《よごと》に|言向《ことむ》けて  |敵《てき》を|傷《きず》つく|事《こと》|勿《なか》れ
|神《かみ》は|汝《なんじ》と|倶《とも》にあり  |神《かみ》は|誠《まこと》を|立《た》て|徹《とほ》す
|誠《まこと》で|人《ひと》を|救《すく》ふべし  |今《いま》は|身魂《みたま》の|試《ため》し|時《どき》
|心《こころ》の|持方《もちかた》|一《ひと》つにて  |善《ぜん》も|忽《たちま》ち|悪《あく》となり
|悪《あく》も|忽《たちま》ち|善《ぜん》となる  |善悪正邪《ぜんあくせいじや》の|分水嶺《ぶんすゐれい》
|天《あめ》が|下《した》にはおしなべて  |敵《てき》も|味方《みかた》も|無《な》きものぞ
|味方《みかた》も|時《とき》に|敵《てき》となり  |敵《てき》も|味方《みかた》となり|変《かは》る
|只《ただ》|何事《なにごと》も|人《ひと》の|世《よ》は  |神《かみ》に|任《まか》せよ|悉《ことごと》く
|心《こころ》を|焦《いら》ちて|過失《あやま》つな  |神《かみ》は|汝《なんじ》と|倶《とも》に|住《す》む
|朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも  |月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも
|仮令《たとへ》|大地《だいち》は|沈《しづ》むとも  |此《この》|神島《かみしま》は|焼《や》けるとも
|神《かみ》は|必《かなら》ず|吾々《われわれ》が  |赤《あか》き|心《こころ》を|御覧《みそなは》し
|安《やす》きに|救《すく》ひ|給《たま》ふべし  |誠《まこと》|一《ひと》つの|玉鉾《たまぼこ》に
|寄《よ》せ|来《く》る|敵《てき》を|言向《ことむ》けて  |神《かみ》の|力《ちから》を|現《あら》はせよ
|神《かみ》の|穢威《みいづ》を|輝《かがや》かせ』
と|歌《うた》ひながら、|奥殿《おくでん》に|姿《すがた》を|隠《かく》させ|玉《たま》ふ。
|数万《すうまん》の|軍勢《ぐんぜい》は|全島《ぜんたう》に|火《ひ》を|放《はな》ち、|折《をり》からの|風《かぜ》に|煽《あふ》られて|黒煙《こくえん》|濛々《もうもう》として|四辺《あたり》を|包《つつ》み、|数多《あまた》の|将卒《しやうそつ》は|何《いづ》れも|雄猛《をたけ》びして、|防戦《ばうせん》の|命《めい》の|下《くだ》るを|今《いま》や|遅《おそ》しと|固唾《かたづ》を|呑《の》むで|控《ひか》へゐる。
|大国別《ひろくにわけ》は|双手《もろて》を|組《く》むで、|青息吐息《あをいきといき》、|如何《いかが》はせむと|思案《しあん》に|暮《く》るる|時《とき》しもあれ、|駒《こま》の|足音《あしおと》|戞々《かつかつ》と|走《は》せ|帰《かへ》りたる|高杉別《たかすぎわけ》はヒラリと|駒《こま》を|飛《と》び|下《お》りて、|大国別《ひろくにわけ》の|前《まへ》に|現《あら》はれ、
『ヤア|大国別《ひろくにわけ》|殿《どの》、|貴神《きしん》は|何故《なにゆゑ》|防戦《ばうせん》の|用意《ようい》をなさらぬか、|敵《てき》は|四方《しはう》より|数万騎《すうまんき》を|以《もつ》て|当山《たうざん》を|囲《かこ》み、|山林《さんりん》に|火《ひ》を|放《はな》ち|既《すで》に|当館《たうやかた》も|烏有《ういう》に|帰《き》せむとする|場合《ばあひ》、|何《なに》を|躊躇《ちうちよ》さるるや』
と|膝《ひざ》を|叩《たた》いて|呶鳴《どな》り|付《つ》けたるにぞ、|大国別《ひろくにわけ》は|何《なん》の|答《いらへ》もなく|双手《もろて》を|組《く》むだ|儘《まま》|俯《うつ》むき|涙《なみだ》さへ|腮辺《しへん》に|伝《つた》ふるを|見《み》て|取《と》つた|高杉別《たかすぎわけ》は|悖《もど》かしげに、
『エイ、|日頃《ひごろ》の|武勇《ぶゆう》にも|似《に》ず、|千騎一騎《せんきいつき》の|此《こ》の|場合《ばあひ》、|敵《てき》の|勢力《せいりよく》に|萎縮《ゐしゆく》して、|周章狼狽《しうしやうらうばい》の|余《あま》り、|憂苦《いうく》に|沈《しづ》む|卑怯《ひけふ》|未練《みれん》な|貴神《きしん》の|振舞《ふるまひ》、|最早《もはや》|斯《か》くなる|上《うへ》は、|貴神《きしん》に|相談《さうだん》するも|何《なん》の|益《えき》あらむや。|吾《わ》れはこれより|館《やかた》の|将卒《しやうそつ》を|率《ひき》ゐ、|此処《ここ》を|先途《せんど》と|一戦《いつせん》を|試《こころ》み、|勝敗《しようはい》を|一時《いちじ》に|決《けつ》せむ』
と|雄健《をたけ》びし|乍《なが》ら、スタスタと|此《この》|場《ば》を|立《た》つて|表《おもて》に|出《いで》むとするを、|大国別《ひろくにわけ》は|言葉《ことば》をかけ、
『ヤア|高杉別《たかすぎわけ》|殿《どの》、|貴下《きか》の|御意見《ごいけん》|御尤《ごもつと》も|千万《せんばん》、|吾《わ》れとても|当館《たうやかた》の|主宰神《しゆさいじん》、|闇々《やみやみ》|敵《てき》の|蹂躪《じうりん》に|任《まか》せ|袖手《しうしゆ》|傍観《ばうくわん》するに|忍《しの》びむや。さは|然《さ》り|乍《なが》ら、|至仁《しじん》|至愛《しあい》の|大神《おほかみ》が|天下《てんか》|救済《きうさい》の|御神慮《ごしんりよ》は|慎重《しんちよう》に|考慮《かうりよ》せざる|可《べ》からず。|貴神《きしん》|暫《しばら》く|熟考《じゆくかう》せられよ』
『|大国別《ひろくにわけ》|殿《どの》の|言葉《ことば》とも|覚《おぼ》えぬ。|卑怯《ひけふ》|未練《みれん》な|陳弁《ちんべん》、|貴神《きしん》は|本島《ほんたう》を|守《まも》り|給《たま》ふ|深雪姫《みゆきひめ》の|神《かみ》の|宰神《さいしん》ならずや。|斯《か》かる|卑怯《ひけふ》|未練《みれん》の|御心掛《おこころがけ》にて|闇々《やみやみ》|敵《てき》に|占領《せんりやう》されなば、|何《なに》を|以《もつ》て|深雪姫《みゆきひめ》の|神《かみ》に|言解《ことわ》けあるか。アレアレ|聞《き》かれよ、|山岳《さんがく》も|轟《とどろ》く|許《ばか》りの|敵《てき》の|叫《さけ》び|声《ごゑ》、|到底《たうてい》|貴神《きしん》の|賛成《さんせい》は|覚束《おぼつか》なければ、|吾《わ》れは|是《これ》より|単独《たんどく》にて|自由《じいう》|行動《かうどう》に|出《い》で、|本島《ほんたう》に|攻《せ》め|寄《よ》せ|来《き》たる|雲霞《うんか》の|如《ごと》き|大軍《たいぐん》を、|日頃《ひごろ》|鍛《きた》へし|武力《ぶりよく》を|以《もつ》て|鏖殺《おうさつ》せむ』
と|勢《いきほひ》|込《こ》んで|表《おもて》をさして|駆出《かけいだ》す。
『ヤアヤア|高杉別《たかすぎわけ》|殿《どの》、|暫《しばら》く|暫《しばら》くお|待《ま》ちあれ』
『|何《なに》ツ、|此《この》|期《ご》に|及《およ》むで|暫時《しばし》の|猶予《いうよ》がならうか、|勝《か》てば|官軍《くわんぐん》|負《ま》くれば|賊《ぞく》、|大国別《ひろくにわけ》|殿《どの》、|拙者《それがし》が|武勇《ぶゆう》を|御目《おんめ》に|掛《か》けむ』
と|云《い》ひ|捨《す》てて|表門《おもてもん》へと|駈出《かけい》だし、|部下《ぶか》の|将卒《しやうそつ》に|向《むか》つて、|戦闘《せんとう》|準備《じゆんび》を|命令《めいれい》せむとする|折《をり》しも、|深雪ケ丘《みゆきがをか》より|帰《かへ》り|来《きた》れる|手力男《たぢからを》の|神《かみ》は|此《この》|体《てい》を|見《み》て、
『ヤア、|大変《たいへん》に|面白《おもしろ》くなつて|来《き》ましたね。|一《ひと》つ|敵軍《てきぐん》の|行列《ぎやうれつ》を|緩《ゆつく》りと、|酒《さけ》でも|飲《の》むで|見物《けんぶつ》|致《いた》しませうか』
|高杉別《たかすぎわけ》『|汝《なんじ》は、|御年村《みとせむら》の|自称《じしよう》|丑寅《うしとら》の|金神《こんじん》|手力男《たぢからを》ではないか。かかる|危急《ききふ》|存亡《そんばう》の|場合《ばあひ》、|何《なに》を|悠々《いういう》として|気楽《きらく》さうに|構《かま》へて|居《ゐ》らるるや。|千騎一騎《せんきいつき》の|此《この》|場合《ばあひ》、|防戦《ばうせん》の|用意《ようい》をなされ』
『アハヽヽヽ、ヤア|面白《おもしろ》い|面白《おもしろ》い、|高杉別《たかすぎわけ》のその|狼狽《うろたへ》かた、イヤもう|臍《へそ》が|宿換《やどがへ》いたすワイ。アハヽヽヽ、マアマア|緩《ゆつく》り|落着《おちつ》いて|敵軍《てきぐん》の|襲撃《しふげき》を|見《み》てそれを|肴《さかな》に|一杯《いつぱい》やらうかい。ヤア|誰《たれ》も|彼《かれ》も|酒《さけ》だ|酒《さけ》だ、|殺伐《さつばつ》な|剣《つるぎ》や|槍《やり》や|弓《ゆみ》の|様《やう》な|物《もの》は|神様《かみさま》の|鎮《しづ》まり|給《たま》ふ|聖地《せいち》に|於《おい》て|用《もち》ふる|物《もの》ではない。|武器《ぶき》は|兇器《きようき》だ』
|高杉別《たかすぎわけ》はクワツと|怒《いか》り、
『|放縦《はうじう》|無責任《むせきにん》の|汝《なんぢ》の|言葉《ことば》、|門出《かどで》の|血祭《ちまつ》りにせむ』
と|一刀《いつたう》を|抜《ぬ》いて|真向《まつこう》より|斬《き》りかかる。|手力男神《たぢからをのかみ》は、|門柱《もんばしら》をグツと|引《ひ》き|抜《ぬ》き|頭上《づじやう》|高《たか》く|振《ふ》り|翳《かざ》し、|高杉別《たかすぎわけ》を|押《おさ》へ|付《つ》けた。
|高杉別《たかすぎわけ》『ヤア、|貴様《きさま》は|今《いま》まで|忠実《ちうじつ》なる|味方《みかた》と|見《み》せかけて、|内外《ないぐわい》|相《あひ》|呼応《こおう》して、|此《この》|聖地《せいち》を|占領《せんりやう》せむと|計画《けいくわく》しつつありし|曲者《くせもの》ならむ。たとへ|吾身《わがみ》は|殺《ころ》されて|帰幽《きいう》する|共《とも》、|我《わが》|誠忠《せいちう》|正義《せいぎ》の|霊魂《れいこん》は|地上《ちじやう》に|留《とど》まり、|汝《なんぢ》が|悪念《あくねん》を|懲《こら》さで|置《お》くべきか』
|手力男神《たぢからをのかみ》『アハヽヽヽヽ、モシモシ|高杉別《たかすぎわけ》|殿《どの》、|誤解《ごかい》されては|困《こま》りますよ』
と|云《い》ひながら|門柱《もんばしら》をサツと|取《と》り|除《の》けた。|高杉別《たかすぎわけ》はその|刹那《せつな》、|飛鳥《ひてう》の|如《ごと》く|飛《と》びかかつて、
『|反逆無道《はんぎやくぶだう》の|曲者《くせもの》|思《おも》ひ|知《し》れや』
と|云《い》つて、|手力男《たぢからを》の|脇腹《わきばら》|目蒐《めが》けて|突《つ》きかかる。|手力男《たぢからを》はヒラリと|体《たい》を|躱《かは》したる|途端《とたん》に、|高杉別《たかすぎわけ》は|狙《ねら》ひ|外《はづ》れて|勢《いきほひ》|余《あま》り、|七八間《しちはちけん》も|前方《ぜんぱう》にトントントントンと|走《はし》つて|抜刀《ぬきみ》の|儘《まま》ピタリと|倒《たふ》れた。
|黒煙《こくえん》は|益々《ますます》|館《やかた》を|包《つつ》み、|風《かぜ》に|煽《あふ》られて|全山《ぜんざん》|樹木《じゆもく》の|焼《や》ける|音《おと》、|攻《せ》め|寄《よ》せ|来《きた》る|人馬《じんば》の|物音《ものおと》、|刻々《こくこく》に|近付《ちかづき》|高《たか》まり|来《き》たりぬ。
(大正一一・三・一一 旧二・一三 藤津久子録)
第二四章 |言霊《ことたま》の|徳《とく》〔五二〇〕
|手力男神《たぢからをのかみ》は|正門《せいもん》に|現《あらは》れ、|儼然《げんぜん》として|敵軍《てきぐん》の|襲来《しふらい》を|心待《こころまち》に|待《ま》つて|居《を》る。
|天菩比命《あめのほひのみこと》は|数多《あまた》の|軍勢《ぐんぜい》を|引連《ひきつ》れ、|軍卒《ぐんそつ》は|手《て》に|手《て》に|松明《たいまつ》を|持《も》ち、|四辺《あたり》に|火《ひ》をつけ|焼《や》き|滅《ほろ》ぼしつつ|進《すす》み|来《く》る。|後《あと》よりは|一隊《いつたい》の|軍勢《ぐんぜい》、|血刀《ちがたな》を|振《ふる》つて|登《のぼ》り|来《く》る。その|光景《くわうけい》|恰《あたか》も|地獄道《ぢごくだう》の|如《ごと》く|思《おも》はれけり。
|菩比命《ほひのみこと》は|門前《もんぜん》に|現《あらは》れ、|手力男神《たぢからをのかみ》に|向《むか》ひて、
|菩比命《ほひのみこと》『オー、|汝《なんじ》は|何神《なにがみ》なるか、|速須佐之男《はやすさのを》の|悪逆無道《あくぎやくぶだう》なる|邪神《じやしん》に|従《したが》ふ|曲津神《まがつかみ》、|我《われ》は|天教山《てんけうざん》に|在《ま》します|撞《つき》の|御柱神《みはしらのかみ》の|神命《しんめい》を|奉《ほう》じ、|汝等《なんぢら》を|征伐《せいばつ》せむが|為《ため》に|立向《たちむか》うたり。|最早《もはや》この|嶋《しま》は|殆《ほとん》ど|焼《や》き|尽《つく》し、|汝等《なんぢら》が|部下《ぶか》の|将卒《しやうそつ》は、|大半《たいはん》|刃《やいば》の|錆《さび》と|消《き》え|失《う》せたれば、|最早《もはや》|抵抗《ていかう》するの|余力《よりよく》もなかるべし。イザ|尋常《じんじやう》に|此《この》|門《もん》を|開《ひら》き|降伏《かうふく》せよ』
と|馬上《ばじやう》に|跨《またが》つた|儘《まま》、|威丈高《ゐたけだか》に|呼《よば》はり|居《を》る。|手力男神《たぢからをのかみ》は|莞爾《くわんじ》として、|門《もん》を|左右《さいう》にサツと|開《ひら》き、
『サアサア、|門《もん》は|斯《かく》の|如《ごと》く|開放《かいはう》|致《いた》しました。|何卒《なにとぞ》|御自由《ごじいう》に|御這入《おはい》り|下《くだ》さいませ。|数多《あまた》の|軍卒《ぐんそつ》|等《たち》に|於《おい》ても、|嘸《さぞ》お|疲《つか》れで|御座《ござ》いませう。|是丈《これだけ》の|嶋《しま》に|火《ひ》を|放《はな》つて|焼《や》きなさるのも|並大抵《なみたいてい》の|御苦労《ごくらう》では|御座《ござ》いますまい。|御蔭《おかげ》でこの|嶋《しま》を|荒《あら》す|猛獣毒蛇《まうじうどくじや》も|殆《ほと》ンど|全滅《ぜんめつ》|致《いた》しました。お|腹《なか》が|空《す》いたでせう、|喉《のど》がお|乾《かわ》きでせう。|此処《ここ》に|沢山《たくさん》の|握《にぎ》り|飯《めし》、|酒《さけ》も|用意《ようい》がして|御座《ござ》います。|何万人《なんまんにん》のお|方《かた》が|御上《おあが》り|下《くだ》さつても|恥《はぢ》を|掻《か》きませぬ。どうぞ|緩《ゆる》りと|御上《おあが》り|下《くだ》さいませ。その|様《やう》に|恐《こは》い|顔《かほ》をして、|肩臂《かたひぢ》|怒《いか》らし、|固《かた》くなつて|居《を》られては|御肩《おかた》が|凝《こ》りませう。|我々《われわれ》は|善言美詞《ぜんげんびし》の|言霊《ことたま》を|以《もつ》て、|直日《なほひ》に|見直《みなほ》し|宣《の》り|直《なほ》す、|神須佐之男大神《かむすさのをのおほかみ》の|御神慮《ごしんりよ》を|奉戴《ほうたい》するもの、|決《けつ》して|決《けつ》して|酒《さけ》にも|飯《めし》にも|毒《どく》などは|入《い》れて|居《を》りませぬ、|御緩《ごゆる》りとお|召《め》し|上《あが》り|下《くだ》さいます|様《やう》に』
|菩比命《ほひのみこと》『ヤアー、|汝《なんぢ》は|百計《ひやくけい》|尽《つ》き、|毒《どく》を|以《もつ》て、|我等《われら》を|全滅《ぜんめつ》せむとの|巧《たくみ》であらう。その|手《て》は|食《く》はぬぞ』
『|是《これ》は|是《これ》は、|迷惑千万《めいわくせんばん》。|然《しか》らば|手力男《たぢからを》が|御毒見《おどくみ》を|致《いた》しませう』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら、|酒樽《さかだる》に|柄杓《ひしやく》を|突《つ》き|込《こ》み、|掬《すく》うては|二三杯《にさんばい》グツと|飲《の》み、|握《にぎ》り|飯《めし》を|矢庭《やには》に|五《いつ》つ|六《むつ》つ|頬張《ほほば》つて|見《み》せた。
『|然《しか》らば|暫《しばら》く|休息《きうそく》いたす。|今《いま》の|間《うち》に|館内《くわんない》の|者《もの》|共《ども》、|城《しろ》|明渡《あけわた》しの|準備《じゆんび》を|致《いた》せ』
『マアマア、さう|厳《きび》しく|仰《あふ》せられるに|及《およ》びませぬ。|同《おな》じ|天地《てんち》の|神《かみ》の|水火《いき》より|生《うま》れた|人間《にんげん》|同志《どうし》、|心《こころ》|一《ひと》つの|持様《もちやう》で|敵《てき》もなければ|味方《みかた》もない、|何《いづ》れも|神《かみ》の|水火《いき》より|生《うま》れた|我々《われわれ》、|天下《てんか》の|喜《よろこ》びも|天下《てんか》の|悲《かな》しみも|皆《みな》|一蓮托生《いちれんたくしやう》で|厶《ござ》る』
『|汝《なんぢ》はこの|場《ば》に|望《のぞ》んで|気楽《きらく》|千万《せんばん》な|事《こと》を|申《まを》す|奴《やつ》、|何《なに》か|深《ふか》い|秘密《ひみつ》が|包《つつ》まれてあるに|相違《さうゐ》なからう。|左様《さやう》な|事《こと》に|欺《あざむ》かるる|菩火《ほひ》ではないぞ』
『|手力男《たぢからを》の|秘密《ひみつ》と|申《まを》せば|七十五声《しちじふごせい》の|言霊《ことたま》、|美言美詞《みやび》の|神嘉言《かむよごと》の|威徳《ゐとく》に|依《よ》つて、|天地《てんち》|清明《せいめい》|国土《こくど》|安穏《あんをん》、|病《やまひ》|無《な》く|争《あらそ》ひ|無《な》く、|天下《てんか》|太平《たいへい》にこの|世《よ》を|治《をさ》める、|言霊《ことたま》の|秘密《ひみつ》より|外《ほか》には|何物《なにもの》も|御座《ござ》いませむ』
|高杉別《たかすぎわけ》はこの|場《ば》に|立現《たちあらは》れ、
『オー、|手力男《たぢからを》|殿《どの》、|唯今《ただいま》|奥殿《おくでん》に|進《すす》み|入《い》り、|深雪姫《みゆきひめ》の|御前《みまへ》に|致《いた》つて、|御神慮《ごしんりよ》を|伺《うかが》ひ|奉《たてまつ》るに、|瑞《みづ》の|御霊《みたま》の|御仰《おんあふ》せ、|言霊《ことたま》を|以《もつ》て|荒《あら》ぶる|神《かみ》を|言向《ことむ》け|和《やは》せとの|御戒《おいまし》め。イヤハヤ|貴神《きしん》の|遣《や》り|方《かた》には|高杉別《たかすぎわけ》も|感服《かんぷく》|致《いた》した。|大国別《ひろくにわけ》|様《さま》も|貴神《きしん》と|同様《どうやう》の|御意見《ごいけん》で|御座《ござ》る』
『|左様《さやう》で|御座《ござ》らう。オー、|菩比命《ほひのみこと》|様《さま》、|斯《かく》の|如《ごと》く|当館《たうやかた》は|表《おもて》は|武器《ぶき》を|以《もつ》て|飾《かざ》り、|勇敢《ゆうかん》|決死《けつし》の|武士《つはもの》も|数多《あまた》|養《やしな》ひ|居《を》れども、|御覧《ごらん》の|如《ごと》く、|貴神《きしん》が|獅子奮迅《ししふんじん》の|勢《いきほひ》を|以《もつ》て、|血染《ちぞめ》|焼尽《やきつく》しの|攻撃軍《こうげきぐん》に|向《むか》ひ、|悠揚《いうやう》せまらず|御覧《ごらん》の|如《ごと》く、|剣《つるぎ》は|鞘《さや》に|弓《ゆみ》は|袋《ふくろ》に|納《をさ》まり|返《かへ》つた|此《この》|場《ば》の|光景《くわうけい》、|刃《やいば》に|血《ち》|塗《ぬ》らずして|敵《てき》を|喜《よろこ》ばせ、|敵《てき》を|味方《みかた》と|見做《みな》して|取扱《とりあつか》ふは、|仁慈《じんじ》の|神《かみ》の|思召《おぼしめし》よくよく|大神《おほかみ》の|御誠意《ごせいい》を|御認識《ごにんしき》の|上《うへ》、|撞《つき》の|御柱《みはしら》の|大神《おほかみ》に|具《つぶ》さに|言上《ごんじやう》あらむ|事《こと》を|望《のぞ》みます』
『|案《あん》に|相違《さうゐ》の|貴神《きしん》らの|振舞《ふるまひ》、|今《いま》まで|逸《はや》り|切《き》つたる|勇気《ゆうき》も、|何処《どこ》やらへ|消《き》え|失《う》せた|様《やう》な|心地《ここち》で|御座《ござ》る。ヤアヤア|部下《ぶか》の|将卒《しやうそつ》|共《ども》、|菩比命《ほひのみこと》が|命令《めいれい》だ、|直《ただ》ちに|甲冑《かつちゆう》を|脱《ぬ》ぎ|捨《す》て、|武器《ぶき》を|放《はな》し、この|場《ば》に|一同《いちどう》|集《あつ》まつて|休息《きうそく》を|致《いた》せ』
|此《この》|一言《いちごん》に、|逸《はや》り|切《き》つたる|数多《あまた》の|将卒《しやうそつ》は、|武装《ぶさう》を|解《と》き、この|場《ば》に|喜々《きき》として|現《あらは》れ|来《きた》り、|酒《さけ》に|酔《ゑ》ひ|握《にぎ》り|飯《めし》に|腹《はら》を|膨《ふく》らせ、|歓喜《くわんき》を|尽《つく》して|踊《をど》り|舞《ま》ひ|修羅《しゆら》は|忽《たちま》ち|天国《てんごく》と|化《くわ》したり。
この|時《とき》|深雪姫命《みゆきひめのみこと》は|大国別《ひろくにわけ》に|導《みちび》かれ、|門内《もんない》の|広庭《ひろには》に、|数多《あまた》の|軍卒《ぐんそつ》|及《およ》び|部下《ぶか》|将卒《しやうそつ》の|他愛《たあい》もなく|酒《さけ》|酌《く》み|交《かは》し|喜《よろこ》び|戯《たはむ》るる|前《まへ》に|現《あらは》れ、|声《こゑ》も|涼《すず》しく|歌《うた》ひ|始《はじ》め|賜《たま》ふ。
『コーカス|山《ざん》に|現《あ》れませる  |瑞《みづ》の|御霊《みたま》の|御言《みこと》もて
|御山《みやま》を|遠《とほ》くサルヂニヤ  この|神嶋《かみしま》に|現《あらは》れて
|世《よ》の|有様《ありさま》を|深雪姫《みゆきひめ》  |八十《やそ》の|曲津《まがつ》の|猛《たけ》びをば
|鎮《しづ》めむ|為《ため》に|言霊《ことたま》の  |珍《うづ》の|息吹《いぶき》を|放《はな》てども
|曇《くも》り|切《き》つたる|曲津見《まがつみ》の  |服《まつ》らふ|由《よし》もなきままに
|神《かみ》の|御霊《みたま》の|現《あ》れませる  |十握《とつか》の|剣《つるぎ》を|数《かず》|多《おほ》く
|造《つく》りそなへて|世《よ》を|守《まも》る  |神《かみ》の|心《こころ》は|徒《いたづ》らに
|剣《つるぎ》を|以《もつ》て|世《よ》を|治《をさ》め  |弓矢《ゆみや》を|以《もつ》て|曲神《まがかみ》を
|言向《ことむ》け|和《やは》す|為《ため》ならず  |心《こころ》の|霊《たま》を|固《かた》めむと
|玉《たま》の|剣《つるぎ》を|打《う》たせつつ  |神世《かみよ》を|開《ひら》く|神業《かむわざ》を
|天教山《てんけうざん》に|現《あ》れませる  |撞《つき》の|御柱大神《みはしらおほかみ》は
いよいよ|怪《あや》しと|思召《おぼしめ》し  |深《ふか》くも|厭《いと》はせ|嫌《きら》ひまし
|菩比命《ほひのみこと》に|言任《ことま》けて  |此処《ここ》に|攻《せ》め|寄《よ》せ|玉《たま》ひしは
|我等《われら》が|心《こころ》を|白波《しらなみ》の  |瀬戸《せと》の|海《うみ》よりいや|深《ふか》く
|疑《うたが》ひ|玉《たま》ふ|験《しるし》なり  |七十五声《しちじふごせい》の|言霊《ことたま》に
|世《よ》の|悉《ことごと》は|何事《なにごと》も  |直日《なほひ》に|見直《みなほ》し|聞直《ききなほ》し
|言向《ことむけ》|和《やは》し|宣《の》り|直《なほ》す  |誠《まこと》|一《ひと》つの|一《ひと》つ|島《じま》
|天《あめ》の|真名井《まなゐ》にふり|滌《すす》ぎ  さ|嚼《がみ》に|嚼《か》みて|吹《ふ》き|棄《す》つる
|気吹《いぶき》の|狭霧《さぎり》に|生《うま》れたる  |我《われ》は|多紀理《たぎり》の|毘売神《ひめのかみ》
|心《こころ》|平《たひら》に|安《やす》らかに  |神須佐之男大神《かむすさのをのおほかみ》の
|赤《あか》き|心《こころ》を|真具《まつぶ》さに  |天《あめ》に|帰《かへ》りて|大神《おほかみ》の
|命《みこと》の|前《まへ》に|逸早《いちはや》く  |宣《の》らせたまへや|菩比《ほひ》の|神《かみ》
|朝日《あさひ》は|照《て》るとも|曇《くも》るとも  |月《つき》は|盈《み》つとも|虧《か》くるとも
|君《きみ》に|対《たい》して|村肝《むらきも》の  |穢《きたな》き|心《こころ》あるべきか
|天津御神《あまつみかみ》も|見《み》そなはせ  |国津御神《くにつみかみ》も|知《し》ろしめせ
|空《そら》に|輝《かがや》く|朝日子《あさひこ》の  |日《ひ》の|出神《でのかみ》の|一《ひと》つ|火《び》に
|照《てら》して|神《かみ》が|真心《まごころ》を  |高天原《たかあまはら》に|細《こま》やかに
|宣《の》らせ|玉《たま》へよ|菩比《ほひ》の|神《かみ》  |善《ぜん》と|悪《あく》とを|立別《たてわ》ける
|神《かみ》が|表《おもて》に|現《あらは》れて  |疑《うたが》ひ|深《ふか》き|空蝉《うつせみ》の
|心《こころ》の|闇《やみ》の|岩屋戸《いはやど》を  |開《ひら》かせ|玉《たま》へスクスクに
|唯《ただ》|何事《なにごと》も|人《ひと》の|世《よ》は  |直日《なほひ》に|見直《みなほ》し|聞直《ききなほ》し
|宣《の》り|直《なほ》しませ|天津神《あまつかみ》  |御空《みそら》も|清《きよ》く|天照《あまて》らす
|皇大神《すめおほかみ》の|御前《おんまへ》に  |謹《つつし》み|敬《うやま》ひ|畏《かし》こみて
|猛《たけ》く|雄々《をを》しく|現《あらは》れし  |十握《とつか》の|剣《つるぎ》は|姫神《ひめがみ》の
|神言《みこと》の|剣《つるぎ》いと|清《きよ》く  |光《ひか》り|輝《かがや》く|神御霊《かむみたま》
|瑞《みづ》の|御霊《みたま》を|大神《おほかみ》の  |御前《みまへ》に|捧《ささ》げ|奉《たてまつ》る』
と|歌《うた》ひ|了《をは》れば、|菩比命《ほひのみこと》は|思《おも》ひ|掛《がけ》|無《な》きこの|場《ば》の|光景《くわうけい》に|力《ちから》|脱《ぬ》け、|懺悔《ざんげ》の|念《ねん》に|堪《た》へ|兼《かね》て、さしもに|猛《たけ》き|勇将《ゆうしやう》も、|涙《なみだ》に|暮《く》るる|計《ばか》りなりける。
|忽《たちま》ち|天空《てんくう》を|轟《とどろ》かし、この|場《ば》に|舞《ま》ひ|降《くだ》る|巨大《きよだい》の|火光《くわくわう》、|彼我《ひが》|両軍《りやうぐん》の|頭上《づじやう》を、|前後左右《ぜんごさいう》に|音響《おんきやう》をたてて|廻転《くわいてん》し|始《はじ》めたり。|神々《かみがみ》は|一斉《いつせい》に|天《てん》を|仰《あふ》ぎ、この|光景《くわうけい》を|見詰《みつ》めつつあつた。|火光《くわくわう》はたちまち|変《へん》じて|麗《うるは》しき|男神《をとこがみ》となり、|空中《くうちう》に|佇立《ちよりつ》して|一同《いちどう》の|頭上《づじやう》を|瞰下《みくだ》し|玉《たま》ひつつありき。
この|神《かみ》は|伊弉諾命《いざなぎのみこと》の|珍《うづ》の|御子《みこ》|日《ひ》の|出神《でのかみ》であつた。|正邪《せいじや》|善悪《ぜんあく》の|証明《あかし》の|為《ため》に|天教山《てんけうざん》より|神勅《しんちよく》を|奉《ほう》じて、|降《くだ》り|玉《たま》うたのである。
|忽《たちま》ち|白煙《はくえん》となつて|中空《ちうくう》に|消《き》え|玉《たま》ひ、|後《あと》は|嚠喨《りうりやう》たる|音楽《おんがく》|聞《きこ》え、|次第々々《しだいしだい》に|音楽《おんがく》の|音《ね》も|遠《とほ》くなり|行《ゆ》きぬ。いよいよ|菩比命《ほひのみこと》の|降臨《かうりん》によつて、|須佐之男命《すさのをのみこと》の|麗《うるは》しき|御心《みこころ》|判明《はんめい》し、|命《みこと》は|直《ただち》に|高天原《たかあまはら》に|此《この》|由《よし》を|復命《ふくめい》さるる|事《こと》とはなりける。
(大正一一・三・一一 旧二・一三 岩田久太郎録)
第二五章 |琴平丸《ことひらまる》〔五二一〕
|高光彦《たかてるひこ》、|玉光彦《たまてるひこ》の|宣伝使《せんでんし》は|時置師神《ときおかしのかみ》と|共《とも》に|橘島《たちばなじま》を|立出《たちいで》て、|呉《くれ》の|港《みなと》に|上陸《じやうりく》し、|宣伝歌《せんでんか》を|歌《うた》ひながら、|天地《てんち》|暗澹《あんたん》たる|大野原《おほのはら》を|進《すす》み|進《すす》みて|琵琶《びは》の|湖《うみ》の|辺《ほとり》に|着《つ》きぬ。|折《をり》しも|浪《なみ》|高《たか》く|風《かぜ》|烈《はげ》しく|出船《でぶね》を|待《ま》つこと|七日七夜《なぬかななよ》の|久《ひさ》しきに|亘《わた》り、|船客《せんきやく》は|出船《でぶね》|待《ま》つ|間《ま》の|無駄話《むだばなし》に|耽《ふけ》り|居《ゐ》る。
|甲《かふ》『|随分《ずゐぶん》|困《こま》つた|世《よ》の|中《なか》になつたものぢやないか。この|琵琶《びは》の|湖《うみ》は|何時《いつ》も|穏《おだや》かな|湖面《こめん》で、|天女《てんによ》が|琵琶《びは》を|弾《だん》ずる|様《やう》な|浪音《なみおと》を|立《た》てて、|船《ふね》の|往来《ゆきき》をして|居《を》る|安全《あんぜん》|第一《だいいち》と|言《い》はれた|湖《うみ》だのにこの|頃《ごろ》の|湖《うみ》の|荒《あ》れ|様《やう》、|今日《けふ》で|五日《いつか》も|六日《むゆか》も|船《ふね》が|出《で》ないと|云《い》ふ|様《やう》な|事《こと》は、|昔《むかし》からあつた|事《こと》はない、どうしたものだらう』
|乙《おつ》『|定《きま》つた|事《こと》だ。|天《てん》も|暗《くら》く|地《ち》も|闇《くら》いこの|頃《ごろ》、|草木《さうもく》も|色《いろ》を|失《うしな》ひ、|悪魔《あくま》は|天下《てんか》に|横行《わうかう》|濶歩《くわつぽ》する|常暗《とこやみ》の|世《よ》の|中《なか》だ。|琵琶《びは》の|湖《うみ》だつてやつぱり|天地《てんち》の|間《あひだ》にあるのだもの、チツト|位《くらゐ》|荒《あ》れるのは|当然《あたりまへ》だよ。それよりも|瀬戸《せと》の|海《うみ》の|大戦《おほいくさ》があつた|事《こと》を|聞《き》いて|居《を》るか』
|甲《かふ》『イヤ|未《ま》だ|聞《き》いた|事《こと》はない。どんな|戦《たたかひ》があつたのだ』
|乙《おつ》『なンでも|大《おほ》きな|喧嘩《けんくわ》があつたと|云《い》ふ|事《こと》だ。|喧嘩《けんくわ》の|大《おほ》きなのは|戦《たたかひ》だ』
|甲《かふ》『そンな|事《こと》|言《い》つたつて、|訳《わけ》を|話《はな》さな|分《わか》るかい』
|乙《おつ》『|分《わか》るも|分《わか》らんもあるか、|戦《たたかひ》は|戦《たたかひ》だ。|貴様《きさま》が|何時《いつ》も|女房《にようばう》と|嫉妬《やきもち》|喧嘩《けんくわ》をするやうなものだ。|貴様《きさま》が|嬶《かかあ》の|横《よこ》つ|面《つら》をピシヤリと|擲《なぐ》る、|嬶《かかあ》が|怒《おこ》つて|貴様《きさま》の|腕《かいな》に|咬《かぶ》り|付《つ》く。「コラ|嬶《かか》、|何《なに》を|為《し》やがるのだ。|放《はな》さぬか、|放《はな》さなドタマをかち|割《わ》るぞ」と|拳骨《げんこつ》を|振《ふ》りあげる。|女房《にようばう》の|奴《やつ》、|腕《うで》にかぶりついた|儘《なり》で、オンオンと|泣声《なきごゑ》を|出《だ》して、「|殺《ころ》すなら|殺《ころ》せ、|殺《ころ》されても|此《この》|腕《うで》は|放《はな》さぬ」と|云《い》つて|一悶着《ひともんちやく》をやる。|隣《となり》の|八公《はちこう》が|出《で》て|来《き》て「コラコラ|鶴公《つるこう》、お|亀《かめ》さま、|何《なに》を|喧嘩《けんくわ》するのだ。|鶴《つる》は|千年《せんねん》|亀《かめ》は|万年《まんねん》、|夫婦《めをと》|喧嘩《げんくわ》は|犬《いぬ》も|喰《く》はぬ。|千年《せんねん》も|万年《まんねん》も|仲《なか》|好《よ》う|暮《くら》さなならぬ|夫婦《ふうふ》の|間柄《あひだがら》で、|何《なん》と|云《い》ふ|不心得《ふこころえ》な|事《こと》をするのだ」と|挨拶《あいさつ》に|出《で》る。さうすると|鶴公《つるこう》………|貴様《きさま》が「イヤ|八《はつ》さま、|放《ほ》つといて|下《くだ》さい。|此奴《こいつ》は|虫《むし》が|得心《とくしん》せぬ、|今日《けふ》|限《かぎ》り|暇《ひま》を|遣《や》るのだ」と|力味《りきみ》|返《かへ》る。|貴様《きさま》の|女房《にようばう》お|亀《かめ》の|奴《やつ》、|四這《よつばひ》になりよつて「モシモシ|八《はち》さま、|何卒《どうぞ》|放《ほ》つといて|下《くだ》さい。この|人《ひと》には|愛想《あいさう》が|尽《つ》きたのだ。|酒《さけ》を|喰《くら》ひ|博奕《ばくち》をうつ、すべた|女《をんな》の|尻《しり》を|追《おひ》かける。|一寸《ちよつと》も|取得《とりえ》の|無《な》いガラクタ|爺《おやぢ》だ。これが|幸《さいわひ》|妾《わたし》は|不縁《ふえん》にして|貰《もら》ひます。|今《いま》は|斯《か》うして|別《わか》れても、|三年先《さんねんさき》には|子供《こども》の|二人《ふたり》も|拵《こしら》へて、|立派《りつぱ》な|男《をとこ》と|手《て》を|引《ひ》いて、モウシモウシ|鶴《つる》さまへ、|三年前《さんねんまへ》にはエライお|世話《せわ》になりました。お|蔭《かげ》でこんな|結構《けつこう》な|夫《をつと》を|持《も》ち、|立派《りつぱ》な|良《よ》い|児《こ》が|出来《でき》ました。|阿呆《あほう》なおやぢに|連添《つれそ》うて|居《ゐ》ると、|妾《わたし》までが|阿呆《あほう》になる。|折角《せつかく》|子《こ》を|生《う》むでも、|間抜《まぬけ》た|面《つら》した|天保銭《てんぱうせん》のやうな|小忰《こせがれ》より|出来《でけ》やしない。ヨウ|別《わか》れて|下《くだ》さつた」と|言《い》つて|礼《れい》に|来《く》る|様《やう》なものだよ。|兎《と》も|角《かく》|夫婦《めをと》|喧嘩《げんくわ》だといふ|事《こと》だ。イヅとかミヅとか【いづ】も【みづ】|臭《くさ》い、|神様《かみさん》でさへも|戦《たたかひ》があつたと|云《い》ふことだよ』
|甲《かふ》『|貴様《きさま》の|云《い》ふ|事《こと》は、|黙《だま》つて|聞《き》いて|居《を》れば、|俺《おれ》ンとこの|事《こと》まで、|大勢《おほぜい》の|中《なか》に|曝《さら》け|出《だ》しよつて、|怪《け》しからぬ|奴《やつ》だナ』
|乙《おつ》『それでも|神島《かみじま》とか、お|亀島《かめじま》とか|云《い》ふ|島《しま》の|喧嘩《けんくわ》だもの、|何《いづ》れ|貴様《きさま》の|山《やま》の|神《かみ》と|喧嘩《けんくわ》したことを|連想《れんさう》せずには|居《を》れぬぢやないかい』
|丙《へい》『|貴様等《きさまら》は|良《い》い|加減《かげん》な|事《こと》を|聞囓《ききかぢ》つて、|大勢《おほぜい》の|中《なか》で|見《み》つともない。そンな|話《はなし》を|今時《いまどき》|知《し》らぬ|者《もの》があるかい』
|乙《おつ》『|偉《えら》さうに|言《い》うな、それなら|貴様《きさま》|逐一《ちくいち》|言《い》つてみい』
|丙《へい》『|目《め》から、|鼻《はな》から、|耳《みみ》から、|口《くち》まで|能《よ》う|抜《ぬ》けた|此《この》|方《はう》だ。|何《なに》も|彼《か》も|透《す》き|通《とほ》つた|新煙管《さらぎせる》のやうな|此《この》|方《はう》だよ』
|鶴公《つるこう》『さらぎせるテ|何《なん》だい』
|丙《へい》『【よう】|通《とほ》つた|男《をとこ》と|云《い》ふ|事《こと》だよ』
|鶴公《つるこう》『|何《なに》を|吐《ぬか》しよるのだい。サツパリ|新煙管《さらぎせる》なら、|詰《つま》らぬ|男《をとこ》と|言《い》ふ|事《こと》だらう。アハヽヽヽ』
|乙《おつ》『こンな|新煙管《さらぎせる》に|聞《き》いた|所《ところ》が、こつちが|詰《つま》らぬ。|誰《たれ》か|詳《くは》しい|事《こと》を|知《し》つて|居《ゐ》る|者《もの》が|在《あ》りさうなものだなア』
|丁《てい》『|万人《まんにん》の|中《うち》に|一人《ひとり》|位《くらゐ》はあるものだよ。|掃溜《はきだめ》にも|鶴《つる》が|降《お》りると|云《い》ふ|事《こと》があるから、|併《しか》し|此《この》|鶴《つる》さまは|嬶《かか》|取《と》られの|鶴《つる》さまだから|例外《れいぐわい》だよ』
|丙《へい》『それなら、その|掃溜《はきだめ》の|鶴《つる》と|云《い》ふのは|誰《たれ》のことだい』
|丁《てい》『|定《きま》つた|事《こと》だ、|大抵《たいてい》|顔《かほ》の|色《いろ》を|見《み》ても|分《わか》りさうなものじやないか。|口許《くちもと》の|凛《りん》とした、|目《め》の|涼《すず》やかな、|鼻筋《はなすぢ》の|通《とほ》つた|男《をとこ》だ』
と|自分《じぶん》の|鼻《はな》を|押《おさ》へ|乍《なが》ら、
|丁《てい》『|真面目《まじめ》に|云《い》ふから、|真面目《まじめ》に|聴《き》けよ。|抑《そもそ》もコーカス|山《ざん》には|大気津姫命《おほげつひめのみこと》と|云《い》ふお|尻《けつ》の|大《でか》い|神様《かみさま》があつた。その|神様《かみさま》が|多数《たくさん》の|八王《やつこす》とかビツコスとか|云《い》ふ|奴《やつ》を|沢山《たくさん》|寄《よ》せて、|何《なん》でも、|偉《えら》い|偉《えら》い|神様《かみさま》を|祀《まつ》つて|都《みやこ》を|拵《こしら》へて|居《を》つた|所《ところ》が、そこへ|松茸《まつたけ》とか|椎茸《しひたけ》とか|干瓢《かんぺう》とか|何《なん》でも|美味《うま》さうな|名《な》のつく|小便使《せうべんしい》が|遣《や》つて|来《き》て、|大尻姫《おほげつひめ》の|尻《けつ》ぢやないが、そこら|中《ぢう》に|小便《せうべん》やら|糞《ばば》を|放《ひつ》かけさがして、|流石《さすが》の|大尻姫《おほげつひめ》も|大尻《おほげつ》に|帆《ほ》をかけて、アーメニヤヘスタコラヨイヤサと|逃出《にげだ》したり。|後《あと》に|松茸《まつたけ》、|椎茸《しいたけ》、|干瓢《かんぺう》さまが|酒《さけ》の|燗《かん》を|須佐之男命《すさのをのみこと》とか|云《い》ふ、|酒《さけ》の|好《すき》な|神《かみ》さまを|祀《まつ》り|込《こ》むで、ツル……ギとかカメとかを|御神体《ごしんたい》にして|居《を》つた。さうして|月《つき》とか|鼈《すつぽん》とか、|花《はな》とか、|何《なん》ぢや|六《む》つかしい|女《をんな》の|神《かみ》がお|宮《みや》のお|給仕《きふじ》を|勤《つと》めて|居《ゐ》たが、|世《よ》が|段々《だんだん》|曇《くも》つて|来《き》たので、コーカス|山《ざん》も|厭《いや》になつたと|見《み》え、|三人《さんにん》の|娘神《むすめがみ》は、|巨《おほ》きな|大蛇《をろち》となつて、|雲《くも》を|起《おこ》して|天《てん》に|舞上《まひあが》り、|一疋《いつぴき》の|大蛇《をろち》は|呉《くれ》の|海《うみ》の|橘島《たちばなじま》に|巣《す》を|構《かま》へ、|綺麗《きれい》な|別嬪《べつぴん》に|化《ば》けて|居《を》ると|云《い》ふ|事《こと》、モ|一《ひと》つは|此《この》|琵琶《びは》の|湖《うみ》の|竹島《たけじま》に|大蛇《をろち》となつて|降《お》りて|来《き》たといふ|事《こと》だ。それからモ|一《ひと》つの|鼈《すつぽん》とか、|雪《ゆき》とか|云《い》ふ|女神《めがみ》は|是《これ》また|白蛇《しろへび》となつて、|瀬戸《せと》の|海《うみ》の|一《ひと》つ|島《じま》に|住居《ぢうきよ》をして、|素的《すてき》な|別嬪《べつぴん》と|現《あら》はれ、|多数《たくさん》の|家来《けらい》を|連《つ》れて|住《す》むで|居《を》つた。そこへ|天教山《てんけうざん》から|変性男子《へんじやうなんし》のお|使《つかひ》で、|天菩比命《あめのほひのみこと》とやらが、ドツサリと|強《つよ》そな|家来《けらい》を|連《つ》れて、サルヂニヤの|嶋《しま》を|攻《せ》め|囲《かこ》み、|火《ひ》をつけて|焼滅《やきほろぼ》して|了《しま》つたさうだ。ナント|偉《えら》い|事《こと》が|出来《でけ》たものじやないか』
|鶴公《つるこう》『|馬鹿《ばか》|云《い》ふな、サルヂニヤは|喧嘩《けんくわ》ぢやない、|男《をとこ》の|方《はう》は|喧嘩腰《けんくわごし》で、|乱暴《らんばう》な|事《こと》を|行《や》りよつたが、|女神《めがみ》の|方《はう》は|沢山《たくさん》な|御馳走《ごちそう》を|拵《こしら》へて、これはこれはよう|来《き》て|下《くだ》さいました。|何《なに》も|御座《ござ》いませぬがお|酒《さけ》なつと|充分《じうぶん》に|召《め》しあがれと|云《い》つて、|相手《あひて》にならなかつたのだ。|一方《いつぱう》が|相手《あひて》にならねば|喧嘩《けんくわ》ぢやない』
|丁《てい》『|理窟《りくつ》を|言《い》ふな、それでも|半分《はんぶん》|喧嘩《けんくわ》だ』
|鶴公《つるこう》『|男《をとこ》が|多数《たくさん》の|家来《けらい》を|連《つ》れて、|女《をんな》に|喧嘩《けんくわ》を|吹《ふ》きかけに|往《い》つても、|一方《いつぱう》が|相手《あひて》にならねば|間《ま》の|抜《ぬ》けたものだ。|暖簾《のれん》と|腕押《うでお》しするやうなもので、|力《ちから》の|抜《ぬ》けた|事《こと》だらう』
|斯《か》く|話《はな》す|傍《かたはら》に、|目《め》を|塞《ふさ》いで|静《しづか》に|聴《き》いて|居《ゐ》た|石凝姥神《いしこりどめのかみ》は、
『オー、|是《これ》は|大変《たいへん》だ、|道聴途説《だうちやうとせつ》とは|言《い》ひ|乍《なが》ら|匹夫《ひつぷ》の|言《げん》にも|信《しん》ずべき|事《こと》ありだ。いよいよ|厳霊《いづのみたま》と|瑞霊《みづのみたま》の|誓約《うけひ》が|始《はじ》まつたらしい、まさか|違《ちが》へば|天《あま》の|岩戸《いはと》|隠《がく》れにならうも|知《し》れない。ヤア|時置師神《ときおかしのかみ》|殿《どの》、|行平別《ゆきひらわけ》|殿《どの》、|此処《ここ》でお|別《わか》れ|申《まを》す。|我《われ》は|是《これ》よりアルプス|山《さん》に|上《のぼ》り|日《ひ》の|像《ざう》の|八咫鏡《やあたかがみ》を|鍛《う》たねばならぬ。|天《あめ》の|目一箇神《まひとつのかみ》も|大方《おほかた》|出《で》かけて|居《ゐ》るであらう。|貴神《きしん》は|是《これ》より|竹島《たけじま》に|渡《わた》つて、|秋月姫《あきづきひめ》の|安否《あんぴ》を|探《さぐ》り|給《たま》へ。さらば……』
と|云《い》ひ|棄《す》てて、|雲《くも》を|霞《かすみ》とアルプス|山《ざん》|目蒐《めが》けて|進《すす》み|行《ゆ》く。
|時置師《ときおかし》『ヤア、|石凝姥《いしこりどめ》の|宣伝使《せんでんし》も、|重大《ぢゆうだい》な|使命《しめい》を|帯《お》びて|居《を》られるのだから|仕方《しかた》がない。|何《なん》だか|此処《ここ》で|別《わか》れるのは、|物《もの》|足《た》らぬ|様《やう》だが、これも|御神業《ごしんげふ》の|一部《いちぶ》と|思《おも》へば|結構《けつこう》だ。サア|初《はつ》さま、|船《ふね》が|出《で》さうだ、|船《ふね》の|中《なか》で|又《また》ゆつくりと|話《はな》さうかい』
と|云《い》ひ|乍《なが》ら|船《ふね》に|向《むか》つて|進《すす》み|行《ゆ》く。|百数十人《ひやくすうじふにん》の|乗客《じやうきやく》は、|先《さき》を|争《あらそ》うて|琴平丸《ことひらまる》に|乗込《のりこ》んだ。|船《ふね》は|真帆《まほ》に|風《かぜ》を|孕《はら》ませ|乍《なが》ら、|凪《な》ぎ|渡《わた》つたる|湖原《うなばら》を、|船底《せんてい》に|浪《なみ》の|琴《こと》を|弾《だん》じつつ、|東北《とうほく》|指《さ》して|一目散《いちもくさん》に|辷《すべ》り|行《ゆ》く。
|船《ふね》の|一方《いつぱう》に|座《ざ》を|占《し》めたる|小賢《こざか》しき|四五人《しごにん》の|男《をとこ》、|車座《くるまざ》になつて|四方八方《よもやま》の|話《はなし》に|耽《ふけ》つて|居《ゐ》る。|時置師《ときおかし》、|行平別《ゆきひらわけ》の|宣伝使《せんでんし》も|何喰《なにく》はぬ|顔《かほ》にて、その|傍《そば》に|雑談《ざつだん》を|聴《き》き|居《ゐ》たり。
|甲《かふ》『この|間《あひだ》もあまり|世《よ》の|中《なか》が|悪《わる》くなつて|治《をさ》まらぬと|云《い》ふので、|善《い》い|神様《かみさま》は|皆《みな》|天《てん》に|上《のぼ》り、|竜宮《りうぐう》に|集《あつ》まり、|地上《ちじやう》は|魔神《まがみ》|計《ばか》りの|暗黒界《あんこくかい》、どうする|事《こと》も|出来《でき》なくなつたと|云《い》つて、コーカス|山《ざん》の|素盞嗚尊《すさのをのみこと》|様《さま》が|高天原《たかあまはら》とかへ、お|越《こ》し|遊《あそ》ばしてからと|云《い》ふものは、|彼方《あちら》にも|此方《こちら》にも、|地震《ぢしん》が|揺《ゆ》る、|海嘯《つなみ》が|起《おこ》る、|悪《わる》い|病《やまひ》は|蔓延《まんえん》する、|河《かは》は|干《ひ》る、|草木《くさき》は|枯《か》れる|五穀《ごこく》は|実《みの》らず、|大変《たいへん》な|事《こと》になつて|来《き》た。そこで|天《てん》の|高天原《たかあまはら》の|撞《つき》の|御柱《みはしら》の|神様《かみさま》が、|素盞嗚尊《すさのをのみこと》|様《さま》に|何《なん》でも|悪《わる》い|心《こころ》があるとか|言《い》つて、|大変《たいへん》|御立腹《ごりつぷく》なされ、|弓矢《ゆみや》を|用意《ようい》し、|剣《つるぎ》や|鉾《ほこ》を|設《ま》け|備《そな》へて、|素盞嗚尊《すさのをのみこと》|様《さま》を|討滅《うちほろぼ》さうとなさつたさうだ。そこで、|素盞嗚神《すさのをのかみ》さまは「|私《わたし》は|決《けつ》して|決《けつ》してその|様《やう》な|汚穢《きたな》い|卑劣《さも》しい|心《こころ》は|持《も》ちませぬ。モウ|此《この》|地《ち》の|上《うへ》が|厭《いや》になりましたから、|母神《ははがみ》の|御座《ござ》る|月《つき》の|国《くに》へ|帰《かへ》りたい。それ|迄《まで》に|姉神様《あねがみさま》に|一目《ひとめ》お|目《め》に|掛《かか》りたさに|来《き》たのだ」と|仰有《おつしや》つても、|姉神様《あねがみさま》はお|疑《うたがひ》が|深《ふか》うて、|容易《ようい》に|納得《なつとく》|遊《あそ》ばさず、たうとう、|安《やす》の|河原《かはら》(|太平洋《たいへいやう》)を|中《なか》において、|天《あめ》の|真名井《まなゐ》(|日本海《にほんかい》)に|霊審判《みたまあらため》とか|誓約《うけひ》とか|遊《あそ》ばすので、|此《この》|頃《ごろ》は|大変《たいへん》な|事《こと》だ。サルヂニヤの|一《ひと》つ|島《じま》に、|素盞嗚尊《すさのをのみこと》|様《さま》の|瑞霊《みづのみたま》の|一柱《ひとはしら》、|深雪姫《みゆきひめ》|様《さま》が|多紀理姫神《たぎりひめのかみ》となりて、この|世《よ》の|為《ため》に|神様《かみさま》をお|斎《まつ》り|遊《あそ》ばして|御座《ござ》つた|所《ところ》が、|姉神様《あねがみさま》はこれを|疑《うたが》ひ、|自分《じぶん》の|御珠《みたま》に|感《かん》じてお|生《うま》れになつた|天菩比命《あめのほひのみこと》とか|云《い》ふ|血染焼尽《ちぞめせうじん》の|神様《かみさま》を|遣《つか》はして、|全島《ぜんたう》を|焼滅《やきほろ》ぼし、|最後《さいご》になつて、|深雪姫《みゆきひめ》|様《さま》は|案《あん》に|相違《さうゐ》の|美《うつく》しき|瑞霊《みづのみたま》の|神様《かみさま》であつたと|云《い》ふ|事《こと》が|分《わか》り、アフンとして|帰《かへ》られたといふ|事《こと》だ。この|湖《うみ》の|竹《たけ》の|島《しま》にも、|秋月姫《あきづきひめ》と|言《い》ふ|瑞霊《みづのみたま》の|中《なか》の|一人《ひとり》の|綺麗《きれい》な|神様《かみさま》が|鎮《しづ》まつて|居《ゐ》られるのを|今度《こんど》は|天津彦根命《あまつひこねのみこと》と|云《い》ふ、|菩比命《ほひのみこと》の|弟神《おとうとがみ》が|現《あら》はれて、|竹《たけ》の|島《しま》の|宮殿《きうでん》を|破壊《はくわい》したり、|人民《じんみん》を|悪者《わるもの》と|見做《みな》し、|虱殺《しらみごろし》に|屠《ほふ》り|殺《ころ》すと|云《い》つて|行《い》かれたさうだ。|又《また》サルヂニヤの|深雪姫《みゆきひめ》|様《さま》のやうに|柔《やはら》かく|出《で》られて、アフンとして|帰《かへ》られるだらう』
|乙《おつ》『それは|妙《めう》な|事《こと》だなア、|神様《かみさま》でもそンな|酷《ひど》い|喧嘩《けんくわ》をなさるのか。さうすれば|我々《われわれ》が|夫婦《ふうふ》|喧嘩《げんくわ》をするのは|当然《あたりまへ》だなア。|一体《いつたい》この|辺《へん》は|何《ど》の|神様《かみさま》がお|守護《かま》ひ|遊《あそ》ばすのだ』
|甲《かふ》『きまつた|事《こと》だよ。|天《あめ》の|真名井《まなゐ》から|此方《こつち》の|大陸《たいりく》は|残《のこ》らず、|素盞嗚尊《すさのをのみこと》の|御支配《ごしはい》、|天教山《てんけうざん》の|自転倒島《おのころじま》から|常世国《とこよのくに》、|黄泉島《よもつじま》、|高砂島《たかさごじま》は|姉神様《あねがみさま》がお|構《かまひ》になつて|居《ゐ》るのだ。それにも|拘《かかは》らず、|姉神様《あねがみさま》は|地教山《ちけうざん》も、|黄金山《わうごんざん》も、コーカス|山《ざん》も|全部《みんな》|自分《じぶん》のものにしようと|遊《あそ》ばして、|種々《いろいろ》と|画策《くわくさく》をめぐらされるんだから、|弟神様《おとうとがみさま》も|姉《あね》に|敵対《てきたい》もならず、|進退《しんたい》|維《こ》れ|谷《きは》まつて|此《この》|地《ち》の|上《うへ》を|棄《す》てて|月《つき》の|世界《せかい》へ|行《ゆ》かうと|遊《あそ》ばし、|高天原《たかあまはら》に|上《のぼ》られて、|今《いま》や|誓約《うけひ》とかの|最中《さいちう》ださうぢや。|姉神様《あねがみさま》の|方《はう》には、|珠《たま》の|御徳《みとく》から|現《あら》はれた|立派《りつぱ》な|五柱《いつはしら》の|吾勝命《あかつのみこと》、|天菩比命《あめのほひのみこと》、|天津彦根命《あまつひこねのみこと》、|活津彦根命《いくつひこねのみこと》、|熊野久須毘命《くまのくすびのみこと》といふ、それはそれは|表面《うはべ》は|美《うつく》しい|女《をんな》の|様《やう》な|優《やさ》しい|神様《かみさま》で、|心《こころ》は|武勇絶倫《ぶゆうぜつりん》、|勇猛《ゆうまう》|突進《とつしん》、|殺戮《さつりく》|征伐《せいばつ》|等《とう》の|荒《あら》い|事《こと》を|為《な》さる|神様《かみさま》が|現《あら》はれて、|善《ぜん》と|悪《あく》との|立別《たてわけ》を、|天《あめ》の|真名井《まなゐ》で|御霊審判《みたましらべ》をして|御座《ござ》る|最中《さいちう》だと|云《い》ふ|事《こと》ぢや、|姉神様《あねがみさま》は|玉《たま》の|如《ごと》く|玲瓏《れいろう》として|透《す》き|通《とほ》り|愛《あい》の|女神《めがみ》の|様《やう》だが、その|肝腎《かんじん》の|御霊《みたま》から|現《あら》はれた|神様《かみさま》は、|変性男子《へんじやうなんし》の|霊《みたま》で、|随分《ずゐぶん》|烈《はげ》しい|我《が》の|強《つよ》い|神《かみ》さまだと|云《い》ふ|事《こと》だ。|弟神様《おとうとがみさま》の|方《はう》は、|見《み》るも|恐《おそ》ろしい|鋭利《えいり》な|十握《とつか》の|剣《つるぎ》の|霊《みたま》からお|生《うま》れになつたのだが、|仁慈《じんじ》|無限《むげん》の|女神様《めがみさま》で、|瑞霊《みづのみたま》といふ|事《こと》だ。|此処《ここ》で|天《あめ》の|安河原《やすかはら》を|中《なか》に|置《お》いて、|真名井《まなゐ》の|水《みづ》に|其《その》|玉《たま》と|剣《つるぎ》をふり|滌《すす》いで|善悪《ぜんあく》の|立別《たてわ》けが|出来《でけ》ると|云《い》ふ|事《こと》だよ。それだから、|三五教《あななひけう》が|昔《むかし》から、「|神《かみ》が|表《おもて》に|現《あら》はれて|善《ぜん》と|悪《あく》とを|立別《たてわ》ける、|此《この》|世《よ》を|造《つく》りし|神直日《かむなほひ》」とかナンとか|言《い》つて|居《ゐ》るのだ』
|時置師《ときおかし》『|一寸《ちよつと》|皆《みな》さまにお|尋《たづ》ね|致《いた》しますが、|御姉弟《ごきやうだい》の|神様《かみさま》が、|誓約《うけひ》なさると|云《い》ふ|事《こと》は、|何処《どこ》でお|聞《きき》になりましたか』
|甲《かふ》『イヤどこでも|聞《き》きませぬ、|何《なん》だか|最前《さいぜん》から|頭《あたま》が|重《おも》くなつたと|思《おも》へば|知《し》らず|識《し》らずに、|私《わたくし》の|口《くち》からあンな|事《こと》を|喋《しやべ》つたのですよ。|怪体《けたい》な|事《こと》があればあるものですなア』
|乙《おつ》『オイ|貴様《きさま》。|現《げん》に|貴様《きさま》の|口《くち》から|云《い》つたぢやないか。|何《なん》だ、しらじらしい。とぼけよつて、|正直《しやうぢき》な|貴様《きさま》に|似合《にあ》はぬ、|何故《なぜ》そンな|無責任《むせきにん》な|事《こと》を|言《い》ふのだ』
|甲《かふ》『それだと|言《い》つて|仕方《しかた》がないわ。|俺《おれ》の|心《こころ》にもない|事《こと》を|言《い》ふのだもの……』
|丙《へい》『モシモシお|客《きやく》さま、|此奴《こいつ》はこの|頃《ごろ》の|陽気《やうき》で、どうかして|居《を》ります。|何申《なにまを》すか|分《わか》りませぬから、どうぞ|取上《とりあ》げて|下《くだ》さいますな』
|時置師《ときおかし》『イヤ|結構《けつこう》です、|大変《たいへん》に|参考《さんかう》になりました。|全《まつた》く|此《この》|方《かた》が|言《い》はれたのでありますまい、|神様《かみさま》の|我々《われわれ》に|対《たい》するお|示《しめ》しでせう』
|丙《へい》『ヘーン、|貴方《あなた》も|一寸《ちよつと》、|云《い》うと|済《す》まぬが、どうかして|居《ゐ》やしませぬか。こンな|気違《きちがひ》の|言《い》ふ|事《こと》を|一《いち》も|二《に》もなく|鵜呑《うのみ》にして、あまり|軽卒《けいそつ》ではありますまいか』
|甲《かふ》『わしは|秋月姫命《あきづきひめみこと》の|使神《ししん》である。その|方《はう》は|我《わが》|言葉《ことば》を|気違《きちがひ》と|申《まを》したが、|尤《もつと》もだ。|汝《なんぢ》はウラル|教《けう》の|間諜《まはしもの》だから、|我《わが》|直言《ちよくげん》がきつく|耳《みみ》に|障《さは》ると|見《み》えるワイ』
|丙《へい》『コラ、|何《なに》を|呆《とぼ》けよるのだ、|良《よ》い|加減《かげん》に|馬鹿《ばか》な|真似《まね》をしておけ』
|斯《か》く|話《はな》す|折《をり》しも、|船《ふね》はチクチクと|竹《たけ》の|島《しま》に|近《ちか》づき|居《ゐ》る。|忽《たちま》ち|起《おこ》る|矢叫《やさけ》びの|声《こゑ》、|鬨《とき》の|声《こゑ》、|阿鼻叫喚《あびけうくわん》、|地獄《ぢごく》の|惨状《さんじやう》を|見《み》るが|如《ごと》き、|竹島《たけしま》の|磯端《いそばた》に|激烈《げきれつ》なる|惨劇《さんげき》が|演《えん》ぜられつつある|光景《くわうけい》、|手《て》に|取《と》る|如《ごと》く|見《み》え|来《き》たる。
(大正一一・三・一一 旧二・一三 松村真澄録)
第二六章 |秋月《しうげつ》|皎々《かうかう》〔五二二〕
|心《こころ》も|広《ひろ》き|琵琶《びは》の|湖《うみ》  |中《なか》に|漂《ただよ》ふ|竹《たけ》の|島《しま》
|神素盞嗚大神《かむすさのをのおほかみ》の  |瑞《みづ》の|御霊《みたま》と|現《あ》れませる
|十握剣《とつかつるぎ》の|分霊《わけみたま》  |秋月姫《あきづきひめ》の|神司《かむづかさ》は
|島《しま》の|頂上《いただき》を|搗《つ》き|固《かた》め  |珍《うづ》の|御舎《みあらか》|千木《ちぎ》|高《たか》く
|仕《つか》へ|奉《まつ》りて|皇神《すめかみ》の  |瑞《みづ》の|御霊《みたま》を|朝夕《あさゆふ》に
|斎《いつ》き|奉《まつ》らせ|天地《あめつち》に  |塞《ふさ》がる|四方《よも》の|村雲《むらくも》を
|払《はら》ひ|清《きよ》めて|麗《うるは》しき  |神《かみ》の|御稜威《みいづ》を|照《てら》さむと
|朝《あさ》な|夕《ゆふ》なに|真心《まごころ》を  |籠《こ》めて|祈願《いのり》の|神嘉言《かむよごと》
|市杵嶋姫《いちきしまひめ》|神司《かむつかさ》  |夜《よ》も|呉竹《くれたけ》の|宮《みや》の|奥《おく》に
|天津《あまつ》|祝詞《のりと》の|太祝詞《ふとのりと》  |宣《の》らせ|給《たま》へる|折《をり》もあれ
|眼下《がんか》に|響《ひび》く|鬨《とき》の|声《こゑ》  |沖《おき》の|嵐《あらし》か|波《なみ》の|音《ね》か
|穏《おだや》かならぬ|物音《ものおと》と  |足《あし》もいそいそ|高楼《たかどの》に
|上《のぼ》りて|真下《ました》を|眺《なが》むれば  |思《おも》ひも|掛《か》けぬ|戦士《いくさびと》
|雲霞《うんか》の|如《ごと》く|群《むら》がりて  |鋼鉄《まがね》の|鉾《ほこ》を|打振《うちふ》りつ
|島《しま》に|住《す》まへる|百人《ももびと》を  |当《あた》るを|幸《さいは》ひ|斬《き》りまくる
その|勢《いきほひ》に|辟易《へきえき》し  |右往左往《うわうさわう》に|逃《に》げ|惑《まど》ふ
その|惨状《さんじやう》は|中々《なかなか》に  |他所《よそ》の|見《み》る|目《め》も|憐《あは》れなり
|処狭《ところせ》きまで|茂《しげ》りたる  |小笹《をざさ》の|籔《やぶ》に|火《ひ》|放《はな》てば
|折《をり》から|吹《ふ》き|来《く》る|潮風《しほかぜ》に  |火《ひ》は|煽《あふ》られて|濛々《もうもう》と
|破竹《はちく》の|音《おと》も|騒《さわ》がしく  |宛然《さながら》|修羅《しゆら》の|戦場《せんぢやう》と
|忽《たちま》ち|変《かは》る|神《かみ》の|島《しま》  |見《み》るに|忍《しの》びぬ|次第《しだい》なり。
|秋月姫《あきづきひめ》は|立《た》ち|上《あが》り、
『ヤアヤア、|敵軍《てきぐん》|間近《まぢか》く|押寄《おしよ》せたり。|高倉別《たかくらわけ》はあらざるか、|竜山別《たつやまわけ》は|何処《いづこ》ぞ』
と|呼《よば》はる|声《こゑ》に、|高倉別《たかくらわけ》は|目《め》を|擦《こす》り|乍《なが》ら|忽《たちま》ちこの|場《ば》に|飛《と》むで|出《い》で、
『|只今《ただいま》お|召《め》しになつたのは|何《なん》の|御用《ごよう》で|御座《ござ》いますか』
|秋月姫《あきづきひめ》『|汝《なんじ》|高倉別《たかくらわけ》、|速《すみやか》に|高楼《たかどの》に|上《のぼ》り|相図《あひづ》の|鼓《つづみ》を|打《う》てよ』
ハツと|答《こた》へて、|高倉別《たかくらわけ》は|飛鳥《ひてう》の|如《ごと》く|高楼《たかどの》|目《め》がけて|馳上《はせのぼ》り、
『|神聖《しんせい》|無比《むひ》のこの|嶋《しま》に|向《むか》つて|攻《せ》め|来《きた》る|大軍《たいぐん》は|果《はた》して|何者《なにもの》ぞ。ウラル|姫《ひめ》の|部下《ぶか》の|魔軍《まぐん》か、|但《ただし》は|天教山《てんけうざん》の|神軍《しんぐん》か。|何《なに》は|兎《と》もあれ、|防禦《ふせぎ》の|用意《ようい》』
と|其《その》|儘《まま》ヒラリと|一足飛《いつそくと》び、
『ヤアヤア|竜山別《たつやまわけ》はあらざるか。|敵軍《てきぐん》|間近《まぢか》く|押寄《おしよ》せ|来《きた》り|乱暴狼藉《らんばうろうぜき》、|竹藪《たけやぶ》に|火《ひ》を|放《はな》つて|只《ただ》|一戦《いつせん》にこの|神嶋《かみしま》を|屠《ほふ》らむとする|憎《につく》き|計画《たくみ》と|覚《おぼ》えたり。ヤアヤア|諸人《もろびと》|共《ども》、|防禦《ふせぎ》の|用意《ようい》』
と|呼《よば》はれば、|竜山別《たつやまわけ》は|声《こゑ》に|応《おう》じてこの|場《ば》に|現《あら》はれ|来《きた》り、
『|思《おも》ひ|掛《が》けなき|敵《てき》の|襲撃《しふげき》、|敵《てき》は|何者《なにもの》なるや、|一先《ひとま》づ|偵察《ていさつ》|仕《つかまつ》らむ』
|高倉別《たかくらわけ》は|早《はや》く|行《ゆ》けよと|下知《げち》すれば、ハイと|答《こた》へて|竜山別《たつやまわけ》は、|栗毛《くりげ》の|馬《うま》に|跨《またが》り、|八十曲《やそまが》りの|坂道《さかみち》を|手綱《たづな》を|掻《か》い|繰《く》り、シトシトと|阪下《さかもと》さして|進《すす》み|行《ゆ》く。|高倉別《たかくらわけ》は|館《やかた》の|内《うち》の|人数《ひとかず》を|残《のこ》らず|招集《よびあつ》めたるに、|集《あつ》まるもの|男女《だんぢよ》|合《あは》せて|僅《わずか》に|四十八人《しじふはちにん》。
『ヤア|皆《みな》の|者《もの》|共《ども》、|雲霞《うんか》の|如《ごと》き|大軍《たいぐん》|本島《ほんたう》に|攻《せ》め|寄《よ》せたり。|斯《か》くなる|上《うへ》は|衆寡《しうくわ》|敵《てき》せず、|体《たい》を|以《もつ》て|体《たい》に|対《たい》し、|力《ちから》を|以《もつ》て|力《ちから》に|対《たい》する|時《とき》は|勝敗《しようはい》|已《すで》に|明々白々《めいめいはくはく》たり。|如《し》かず、|汝等《なんぢら》は|口《くち》を|清《きよ》め|手《て》を|洗《あら》ひ、|呉竹《くれたけ》の|宮《みや》の|前《まへ》に|致《いた》つて|恭《うやうや》しく|神言《かみごと》を|奏上《そうじやう》し、|宣伝歌《せんでんか》を|唱《とな》へて|神《かみ》の|守護《しゆご》を|受《う》け、|寄《よ》せ|来《く》る|敵《てき》を|言向《ことむ》け|和《やは》せよ。|我《われ》はこれより|奥《おく》に|進《すす》み|秋月姫《あきづきひめ》の|御身《おんみ》の|上《うへ》を|守護《しゆご》し|奉《たてまつ》らむ』
と|言《い》ひ|捨《す》て|奥殿《おくでん》|目《め》がけて|進《すす》み|入《い》る。|一同《いちどう》は|命《めい》の|如《ごと》く|身体《からだ》を|清《きよ》め|呉竹《くれたけ》の|宮《みや》の|前《まへ》に|端坐《たんざ》し|声《こゑ》も|朗《ほがら》かに|天津《あまつ》|祝詞《のりと》を|奏上《そうじやう》したりける。|秋月姫《あきづきひめ》は|高楼《たかどの》に|登《のぼ》り、|寄《よ》せ|来《く》る|敵《てき》に|打向《うちむか》ひ|悠々《いういう》|迫《せま》らざる|態度《たいど》を|以《もつ》て|声《こゑ》|淑《しとや》かに|天津《あまつ》|祝詞《のりと》の|神嘉言《かむよごと》を|奏上《そうじやう》し、|終《をは》つて|天地《てんち》に|向《むか》ひ|祈願《きぐわん》の|言葉《ことば》を|奏上《そうじやう》し|給《たま》ふ。
|秋月姫《あきづきひめ》『|仰《あふ》げば|高《たか》し|久方《ひさかた》の  |天津御空《あまつみそら》を|知食《しろしめ》す
|神伊邪那岐《かむいざなぎ》の|大御神《おほみかみ》  |大海原《おほうなばら》を|知食《しろしめ》す
|神伊邪那美《かむいざなみ》の|大御神《おほみかみ》  |神素盞嗚大神《かむすさのをのおほかみ》と
|現《あ》れ|出《い》でませる|大空《おほぞら》の  |光《ひかり》も|清《きよ》き|月照彦《つきてるひこ》の
|神《かみ》の|命《みこと》や|足真彦《だるまひこ》  |少名彦神《すくなひこがみ》、|弘子彦《ひろやすひこ》の
|神《かみ》の|霊《みたま》の|幸《さちは》ひに  |醜《しこ》の|軍《いくさ》を|言向《ことむ》けて
この|竹嶋《たけしま》に|寄来《よせきた》る  |百《もも》の|仇《あだ》をば|平《たひら》けく
いと|安《やす》らけく|鎮《しづ》めませ  |十握《とつか》の|剣《つるぎ》の|威徳《ゐとく》にて
|勢《いきほひ》|猛《たけ》り|進《すす》みくる  |荒《あら》ぶる|神《かみ》も|程々《ほどほど》に
|生言霊《いくことたま》の|御光《みひかり》に  |照《てら》し|給《たま》ひて|天《あめ》が|下《した》
|四方《よも》の|国《くに》には|仇《あだ》もなく  |穢《けが》れも|罪《つみ》も|枉事《まがこと》も
|薙払《なぎはら》へかし|神《かみ》の|風《かぜ》  |神《かみ》が|表《おもて》に|現《あら》はれて
|善《ぜん》と|悪《あく》とを|立別《たてわ》ける  |善《ぜん》を|助《たす》けて|悪神《あくがみ》を
|言向《ことむ》け|和《やは》す|神《かみ》の|道《みち》  |唯《ただ》|何事《なにごと》も|人《ひと》の|世《よ》は
|直日《なほひ》に|見直《みなほ》し|聞直《ききなほ》し  |世《よ》の|枉事《まがごと》は|詔《の》り|直《なほ》す
|誠《まこと》の|神《かみ》の|在《ま》しまさば  |嶋《しま》に|塞《ふさ》がる|村雲《むらくも》を
|霽《はら》して|誠《まこと》の|日月《じつげつ》を  |照《てら》させ|給《たま》へ|逸早《いちはや》く
|此《この》|世《よ》を|造《つく》りし|大本《おほもと》の  |皇大神《すめおほかみ》の|御前《おんまへ》に
|畏《かしこ》み|畏《かしこ》み|祈《ね》ぎ|奉《まつ》る』
と|歌《うた》ひ|終《をは》り、|高楼《たかどの》より|降《くだ》り|来《く》る|折《をり》しも、|高倉別《たかくらわけ》は|馬《うま》に|跨《またが》り|急《いそ》ぎ|館《やかた》に|立帰《たちかへ》り、
『|秋月姫神《あきづきひめのかみ》に|申《まを》し|上《あ》げます。|当山《たうざん》の|寄《よ》せ|手《て》はウラル|彦《ひこ》、ウラル|姫《ひめ》の|魔軍《まぐん》ならむと|思《おも》ひきや、|撞《つき》の|御柱大神《みはしらおほかみ》の|珍《うづ》の|御子《みこ》なる|五柱《いつはしら》の|一神《いちにん》、|天津彦根神《あまつひこねのかみ》、|鋼鉄《まがね》の|鉾《ほこ》を|打揮《うちふる》ひ|竹藪《たけやぶ》に|火《ひ》を|放《はな》ち、|狼狽《うろた》へ|騒《さわ》いで|逃《に》げ|廻《まは》る|嶋人《しまびと》を|一人々々《ひとりひとり》|引捕《ひきとら》へ、|見《み》るも|悲惨《ひさん》なその|振舞《ふるまひ》、|建物《たてもの》を|破壊《はくわい》し|生物《いきもの》を|屠戮《とりく》し|乱暴狼藉《らんばうろうぜき》|至《いた》らざる|無《な》く、|群《むら》がる|数万《すうまん》の|軍勢《ぐんぜい》に|対《たい》し、|味方《みかた》は|僅《わづか》に|老若男女《らうにやくなんによ》を|合《あは》して|四十余人《しじふよにん》、|人《ひと》|盛《さかん》なれば|天《てん》に|勝《か》つとやら、もう|斯《か》うなる|上《うへ》は|是非《ぜひ》に|及《およ》ばず|潔《いさぎよ》く|自刃《じじん》を|遂《と》げ、|名《な》も|無《な》き|敵《てき》の|奴輩《やつばら》に|殺《ころ》されむは|末代《まつだい》の|恥《はぢ》、|我《われ》より|冥途《めいど》の|魁《さきがけ》|仕《つかまつ》らむ』
と|早《はや》くも|両肌《もろはだ》を|脱《ぬ》ぎ、|短刀《たんたう》を|脇腹《わきばら》に|突《つ》き|立《た》てむとする|一刹那《いちせつな》|竜山別《たつやまわけ》は、|宙《ちう》を|飛《と》むでこの|場《ば》に|現《あら》はれ|来《きた》り、|高倉別《たかくらわけ》が|短刀《たんたう》を|矢庭《やには》に|引奪《ひつたく》り|声《こゑ》を|励《はげ》まして、
『ヤア|高倉別《たかくらわけ》|殿《どの》、|貴神《きしん》は|尊《たふと》き|神《かみ》に|仕《つか》ふる|神司《かむづかさ》、この|場《ば》に|及《およ》ンで|神《かみ》より|受《う》けし|貴重《きちよう》なる|生命《せいめい》を|自《みづか》ら|捨《す》てむとし|給《たま》ふは|何事《なにごと》ぞ。|今《いま》の|今迄《いままで》|全心全力《ぜんしんぜんりよく》をつくし、|力《ちから》およばずして|後《あと》に|運命《うんめい》を|天《てん》に|任《まか》さむのみ。|是《これ》|人《ひと》を|教《をし》ふる|我々《われわれ》の|採《と》るべき|道《みち》には|非《あら》ざるか。|少時《しばらく》|思《おも》ひとどまり|給《たま》へ。|善悪邪正《ぜんあくじやせい》を|鏡《かがみ》にかけし|如《ごと》く|明知《めいち》し|給《たま》ふ|誠《まこと》の|神《かみ》はいかで|吾等《われら》を|捨《す》て|給《たま》はむや。|自殺《じさつ》は|罪悪中《ざいあくちう》の|罪悪《ざいあく》なり。|貴神《きしん》は|何故《なにゆゑ》に|斯《か》かる|危急《ききふ》の|場合《ばあひ》に|臨《のぞ》みて|神《かみ》に|祈願《きぐわん》せざるや』
|高倉別《たかくらわけ》『アヽ|貴神《きしん》は|竜山別《たつやまわけ》|殿《どの》、|俄《にはか》の|敵《てき》の|襲来《しふらい》に|心《こころ》も|眩《くら》み|一身《いつしん》の|処置《しよち》に|迷《まよ》ひ、|神《かみ》を|忘《わす》れ|道《みち》を|忘《わす》れたるこそ|我《わが》|不覚《ふかく》、|恥《はづ》かしさの|限《かぎ》りなれ。|然《しか》らば|仰《あふ》せの|如《ごと》くこれより|高楼《たかどの》に|登《のぼ》り、|天地《てんち》の|神《かみ》に|祈願《きぐわん》を|凝《こ》らさむ』
と|悠々《いういう》として|高楼《たかどの》|目《め》がけて|登《のぼ》り|行《ゆ》く。
|天津彦根神《あまつひこねのかみ》は|数万《すうまん》の|神軍《しんぐん》を|率《ひき》ゐて|勝《かち》に|乗《じやう》じ|表門《おもてもん》に|迫《せま》り|来《き》たる。|館《やかた》の|老若男女《らうにやくなんによ》は|悲鳴《ひめい》をあげて|前後左右《ぜんごさいう》に|逃《に》げ|廻《まは》るにぞ|勝誇《かちほこ》つたる|神軍《しんぐん》は|潮《うしほ》の|如《ごと》くに|門内《もんない》に|乱《みだ》れ|入《い》る。|奥殿《おくでん》の|高楼《たかどの》には|荘厳《さうごん》なる|一絃琴《いちげんきん》の|音《ね》|爽《さはや》かに|天津《あまつ》|祝詞《のりと》の|声《こゑ》|清々《すがすが》しく|響《ひび》き|居《ゐ》る。|天津彦根神《あまつひこねのかみ》は|祝詞《のりと》の|声《こゑ》に|心《こころ》|和《やはら》ぎ|茫然《ばうぜん》として|耳《みみ》を|傾《かたむ》け|聞《き》き|入《い》りぬ。|暫《しばら》くにして|太刀《たち》、|弓矢《ゆみや》を|大地《だいち》に|投《な》げ|付《つ》け|両手《りやうて》を|拍《う》つて|共《とも》に|神言《かみごと》を|奏上《そうじやう》する|急変《きふへん》の|態度《たいど》に|数多《あまた》の|戦士《いくさびと》は、|大将軍《だいしやうぐん》のこの|挙動《きよどう》に|感染《かんせん》しけむ、|何《いづ》れも|武器《ぶき》を|捨《す》て|大地《だいち》に|端坐《たんざ》して|両手《もろで》を|拍《う》ち|天津《あまつ》|祝詞《のりと》を|声《こゑ》|高々《たかだか》と|奏上《そうじやう》する。
|時置師神《ときおかしのかみ》、|行平別神《ゆきひらわけのかみ》は|宣伝歌《せんでんか》を|歌《うた》ひながら|神軍《しんぐん》の|後方《こうはう》に|立《た》つて|面白《おもしろ》|可笑《をか》くし|手《て》を|振《ふ》り|足《あし》を|轟《とどろ》かし|歌《うた》ひ|舞《ま》ふ。|秋月姫《あきづきひめ》は|高倉別《たかくらわけ》、|竜山別《たつやまわけ》を|従《したが》へこの|場《ば》に|現《あら》はれ、|長袖《ちやうしう》しとやかに、
『とうとうたらりや、とうたらり、たらりやアたらり、とうたらり』
と|扇《あふぎ》を|開《ひら》いて|地《ち》|踏《ふ》み|鳴《な》らし|舞《ま》ひ|狂《くる》ひ|玉《たま》ふ。|高倉別《たかくらわけ》、|竜山別《たつやまわけ》を|初《はじ》め|神軍《しんぐん》の|大将《たいしやう》|天津彦根命《あまつひこねのみこと》、|時置師神《ときおかしのかみ》、|行平別神《ゆきひらわけのかみ》は|中央《ちうあう》に|現《あら》はれ、|秋月姫《あきづきひめ》と|諸共《もろとも》に|手拍子《てびやうし》|足拍子《あしびやうし》を|揃《そろ》へ、|敵味方《てきみかた》の|区別《くべつ》も|忘《わす》れて|狂《くる》ふが|如《ごと》く|踊《をど》り|廻《まは》る。
この|時《とき》|天上《てんじやう》に|群《むら》がれる|黒雲《くろくも》は|科戸《しなど》の|風《かぜ》に|吹《ふ》き|散《ち》りて、|天日《てんじつ》の|光《ひかり》|晃々《くわうくわう》と|輝《かがや》き|始《はじ》め|素盞嗚命《すさのをのみこと》の|疑《うたがひ》は|全《まつた》く|晴《は》れ|渡《わた》つた。|天津彦根神《あまつひこねのかみ》は|喜《よろこ》び|勇《いさ》むで|数多《あまた》の|将卒《しやうそつ》を|引連《ひきつ》れ、|琵琶《びは》の|湖《うみ》を|渡《わた》りて|天教山《てんけうざん》に|凱旋《がいせん》せり。|後《あと》に|残《のこ》りし|時置師神《ときおかしのかみ》、|行平別神《ゆきひらわけのかみ》は、|或《あるひ》は|殺《ころ》され|或《あるひ》は|負傷《ふしやう》に|悩《なや》む|嶋人《しまびと》に|一々《いちいち》|伊吹《いぶき》の|狭霧《さぎり》を|施《ほどこ》し、|死《し》したる|者《もの》を|生《い》かし|傷《きず》つける|者《もの》を|癒《い》やし、|焼《や》けたる|林《はやし》は|天《あま》の|数歌《かずうた》を|歌《うた》ひ|上《あ》げて|再《また》|旧《もと》の|如《ごと》く|青々《あをあを》と|緑《みどり》の|山《やま》に|化《くわ》せしめける。
|茲《ここ》にまた|高光彦《たかてるひこ》の|宣伝使《せんでんし》は|時置師神《ときおかしのかみ》、|行平別神《ゆきひらわけのかみ》と|共《とも》に|窃《ひそか》にこの|嶋《しま》に|現《あらは》れ|来《きた》り、|森林《しんりん》の|中《なか》に|身《み》を|潜《ひそ》めて|天《あま》の|数歌《かずうた》を|歌《うた》ひこの|惨状《さんじやう》を|平和《へいわ》に|治《をさ》めたる|勇神《ゆうしん》なり。|秋月姫《あきづきひめ》は|高光彦《たかてるひこ》と|結婚《けつこん》の|約《やく》を|結《むす》び、|永《なが》くこの|島《しま》に|留《とど》まりて|神業《しんげふ》に|参加《さんか》し|給《たま》ひぬ。|又《また》、|中《なか》の|弟《おとうと》|玉光彦《たまてるひこ》は|瀬戸《せと》の|海《うみ》の|一《ひと》つ|島《じま》なる|深雪姫《みゆきひめ》を|娶《めと》り、|万寿山《まんじゆざん》に|立《た》ち|帰《かへ》り|父《ちち》|磐樟彦神《いはくすひこのかみ》の|後継者《こうけいしや》となりて|永遠《ゑいゑん》に|神業《しんげふ》に|参加《さんか》し|給《たま》ひけるとなむ。
(大正一一・三・一一 旧二・一三 北村隆光録)
第二七章 |航空船《かうくうせん》〔五二三〕
ウラル|彦命《ひこのみこと》、ウラル|姫命《ひめのみこと》は|自《みづか》ら|盤古神王《ばんこしんわう》と|称《しよう》し、ウラル|山《さん》、アーメニヤの|二箇所《にかしよ》に|根拠《こんきよ》を|構《かま》へ、|第二《だいに》の|策源地《さくげんち》としてコーカス|山《ざん》に|都《みやこ》を|開《ひら》き、|権勢《けんせい》|双《なら》ぶ|者《もの》なき|勢《いきほひ》なりしが、|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》の|為《ため》に、コーカス|山《ざん》の|都《みやこ》を|追《お》はれ、|再《ふたた》びウラル|山《さん》、アーメニヤに|向《むか》つて|遁走《とんそう》し、|数多《あまた》の|魔神《まがみ》を|集《あつ》めて|捲土重来《けんどぢうらい》の|神策《しんさく》を|講《かう》じ|居《ゐ》たりき。|然《しか》るにアーメニヤに|近《ちか》きコーカス|山《ざん》に、|神素盞嗚命《かむすさのをのみこと》|武勇《ぶゆう》を|輝《かがや》かし、|天下《てんか》に|君臨《くんりん》し|給《たま》へば、|流石《さすが》の|魔神《まがみ》も|手《て》を|下《くだ》すに|由《よし》なく、|美山彦《みやまひこ》、|国照姫《くにてるひめ》をしてアーメニヤを|死守《ししゆ》せしめ、|自《みづか》ら|黄泉島《よもつじま》に|渡《わた》りて|第二《だいに》の|作戦《さくせん》|計画《けいくわく》を|廻《めぐ》らしつつありける。
ウラル|彦《ひこ》、ウラル|姫《ひめ》は、|元来《ぐわんらい》|純直《じゆんちよく》|至誠《しせい》の|神《かみ》であつたが、|美《うる》はしき|果実《くわじつ》には、|悪虫《あくちう》の|襲《おそ》ふが|如《ごと》く、|少《すこ》しの|心《こころ》の|油断《ゆだん》より|八岐《やまた》の|大蛇《をろち》、|悪狐《あくこ》、|悪鬼《あくき》の|憑依《ひようい》するところとなり、|是等《これら》の|悪神《あくがみ》に|使役《しえき》されて、|心《こころ》にもなき|邪道《じやだう》を|辿《たど》りつつ、|誠《まこと》の|神《かみ》に|向《むか》つて|叛旗《はんき》を|翻《ひるがへ》すに|至《いた》つたるなり。|美山彦《みやまひこ》も|一旦《いつたん》|月照彦命《つきてるひこのみこと》、|足真彦命《だるまひこのみこと》の|為《た》めに|言向《ことむ》け|和《やは》され|善道《ぜんだう》に|立返《たちかへ》りしが、|再《ふたた》び|邪神《じやしん》に|憑依《ひようい》され、|忽《たちま》ち|心魂《しんこん》くらみ|国照姫《くにてるひめ》の|言《げん》を|容《い》れて、|又《また》もやウラル|彦《ひこ》の|部下《ぶか》となり、|悪逆無道《あくぎやくぶだう》の|行為《かうゐ》を|専《もつぱ》らとするに|至《いた》りたるなり。
|茲《ここ》にアーメニヤの|神都《しんと》には、|表面《へうめん》|美山彦《みやまひこ》はウラル|彦命《ひこのみこと》と|称《しよう》し、|国照姫《くにてるひめ》はウラル|姫命《ひめのみこと》と|称《しよう》して|虚勢《きよせい》を|張《は》り、|数多《あまた》の|魔神《まがみ》を|集《あつ》めてこの|都《みやこ》を|死守《ししゆ》し、|黄泉島《よもつじま》と|相《あひ》|待《ま》つて|回天《くわいてん》の|事業《じげふ》を|起《おこ》さむと|企《くはだ》て|居《ゐ》たりき。
|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》、|祝部神《はふりべのかみ》は|月照彦神《つきてるひこのかみ》の|化身《けしん》と|共《とも》に、|黄金山《わうごんざん》を|立出《たちい》で|筑紫《つくし》の|国《くに》の【ヨル】の|港《みなと》を|船出《ふなで》して、|黄泉島《よもつじま》の|魔神《まがみ》を|剿討《さうたう》すべく|進《すす》み|行《ゆ》く。|此《この》|船《ふね》は|筑紫丸《つくしまる》と|名《な》づくる|大船《おほふね》なり。|筑紫丸《つくしまる》は|竜宮島《りゆうぐうじま》を|経《へ》て|黄泉島《よもつじま》に|沿《そ》ひ|常世《とこよ》の|国《くに》に|通《かよ》はむとするものなれば、|常世《とこよ》の|国《くに》に|渡《わた》る|船客《せんきやく》がその|大部分《だいぶぶん》を|占《し》め|居《ゐ》たり。|祝部神《はふりべのかみ》は|月照彦神《つきてるひこのかみ》と|共《とも》に、|筑紫丸《つくしまる》の|船客《せんきやく》となり、|数十日《すうじふにち》の|海路《うなぢ》を|続《つづ》くる。|海中《かいちう》には|種々《しゆじゆ》の|変異《へんい》|起《おこ》り、|島《しま》なき|所《ところ》に|島《しま》|現《あら》はれ、|或《あるひ》は|巨大《きよだい》なる|岩石《がんせき》|俄《にはか》に|海中《かいちう》に|出没《しゆつぼつ》して|天日《てんじつ》|暗《くら》く|月光《げつくわう》も|無《な》く、|風《かぜ》は|何《なん》となく|腥《なまぐさ》く、|得《え》も|言《い》はれぬ|不快《ふくわい》|極《きは》まる|航路《かうろ》なりける。|船中《せんちう》には|色々《いろいろ》の|雑談《ざつだん》が|例《れい》の|如《ごと》く|始《はじ》まり|来《き》たる。
|甲《かふ》『モシモシ|豊《とよ》さま、|貴方《あなた》は|何処《どこ》まで|行《ゆ》きますか、かう|海上《かいじやう》に|変異《へんい》が|続出《ぞくしゆつ》しては、|余《あま》り|遠乗《とほの》りも|危険《きけん》ですよ。|私《わたくし》も|常世《とこよ》の|国《くに》まで|参《まゐ》る|積《つも》りで|出《で》て|来《き》ましたが、この|調子《てうし》では|先《さき》が|険難《けんのん》でなりませぬ。|竜宮島《りうぐうじま》|迄《まで》|行《い》つたら|又《また》|次《つぎ》の|船《ふね》を|待《ま》つて|帰《かへ》る|事《こと》にしようと|思《おも》つて|居《ゐ》ますよ』
|豊《とよ》『さうですな、|貴方《あなた》は|常世国《とこよのくに》へ|何《なん》の|為《た》めにお|越《こ》しになるのですか』
|甲《かふ》『|実《じつ》は|家内《かない》も|小供《こども》も|一緒《いつしよ》に|乗《の》つて|居《ゐ》ますが、|私《わたくし》はコーカス|山《ざん》の|山麓《さんろく》の|琵琶《びは》の|湖《うみ》の|畔《ほとり》に|住《す》むもの、|何《なん》だか|世《よ》の|中《なか》が|変《へん》になつて|来《き》て|何《なん》とも|譬《たとへ》|方《かた》のなき|風《かぜ》が|日夜《にちや》|吹《ふ》き|巻《まく》り、|息《いき》がつまりさうになりますから、|遠《とほ》く|常世《とこよ》の|国《くに》へ|移住《いぢう》でもしたらよからうと|思《おも》つて|参《まゐ》りましたが、もう|斯《か》うなれば|何処《どこ》に|居《を》るも|世界中《せかいぢう》|同《おな》じ|事《こと》の|様《やう》に|思《おも》ひます』
|豊《とよ》『|常世《とこよ》の|国《くに》は|数千里《すうせんり》を|隔《へだ》てた、|海《うみ》の|向《むか》ふの|広《ひろ》い|国《くに》、そこまで|行《ゆ》けば|日《ひ》も|照《て》り|月《つき》も|輝《かがや》き、|立派《りつぱ》な|果物《くだもの》も|実《みの》り、|清鮮《せいせん》な|空気《くうき》も|流通《りうつう》して|居《を》るでせう。|私《わたくし》も|豊《とよ》の|国《くに》の|者《もの》ですが、|豊《とよ》の|国《くに》には|白瀬川《しらせがは》の|大瀑布《だいばくふ》があつて、|魔神《まがみ》が|棲居《すまゐ》を|致《いた》し、|日夜《にちや》|毒気《どくき》を|吐《は》き|人民《じんみん》は|残《のこ》らず|蒼白《あをじろ》い|顔《かほ》になつて、コロリコロリと|死《し》ぬもの|計《ばか》り、あまり|世《よ》の|中《なか》が|恐《おそ》ろしくなつたので、|黄泉島《よもつじま》か、もつと|足《あし》を|伸《の》ばして|常世《とこよ》の|島《す》へ|渡《わた》らうと|思《おも》つて、|一族《いちぞく》を|連《つ》れて|来《き》たのです。|何《なん》でも|黄泉島《よもつじま》が|此《この》|世《よ》の|境《さかひ》と|云《い》ふのですから、|黄泉島《よもつじま》に|渡《わた》れば|昔《むかし》のやうな|清《きよ》らかな|海《うみ》も、|島《しま》も|見《み》られませう』
|丙《へい》『|私《わたくし》も|常世《とこよ》の|国《くに》へ|遁《に》げて|行《ゆ》く|者《もの》ですが、|黄泉島《よもつじま》はこのごろ|大変《たいへん》な|地震《ぢしん》で、|日々《にちにち》|二三十間《にさんじつけん》づつ|地面《ちめん》が|沈没《ちんぼつ》しかかつて|居《を》るやうですな。|人《ひと》の|噂《うはさ》に|依《よ》れば、もう|六分《ろくぶ》|通《どほ》り|沈《しづ》むで|仕舞《しま》つたさうですよ』
|甲《かふ》『|黄泉島《よもつじま》でさへもさう|云《い》ふ|按配《あんばい》だから、|俄《にはか》に|海《うみ》の|中《なか》に|無《な》かつた|大《おほ》きな|島《しま》が|出来《でき》たり、|岩《いは》が|立《た》つたり、|大蛇《をろち》が|沢山《たくさん》に|游《およ》ぎ|廻《まは》るのは|当然《あたりまへ》でせう。|兎《と》も|角《かく》|怪《あや》しい|世《よ》の|中《なか》になつて|来《き》たものだ。かうなつて|来《く》ると|今《いま》まで|馬鹿《ばか》にして|聞《き》いて|居《ゐ》た、|三五教《あななひけう》の|教《をしへ》が|恋《こひ》しくなつて|来《く》る。たとへ|大地《だいち》は|沈《しづ》むとも|誠《まこと》の|神《かみ》は|世《よ》を|救《すく》ふとか|云《い》つて、|宣伝使《せんでんし》が|廻《まは》つて|来《き》ましたが、|我々《われわれ》は「|何《なに》、|馬鹿《ばか》な、|大地《だいち》が|沈《しづ》むなぞと、そンな|事《こと》があつたら、|日天様《につてんさま》が|西《にし》からお|出《で》ましになる」と|笑《わら》つて|居《ゐ》ましたが、この|頃《ごろ》は|西《にし》からどころか、|何処《どこ》からもお|昇《あが》りなさらず、|黄泉島《よもつじま》の|様《やう》な|大《おほ》きな|島《しま》まで|六分《ろくぶ》まで|沈《しづ》むとは、|本当《ほんたう》に|常世《とこよ》の|国《くに》だつて|我々《われわれ》のこの|船《ふね》が|着《つ》く|迄《まで》には、どうなつて|居《ゐ》るか|分《わか》つたものぢやない』
|昼《ひる》とも|夜《よる》とも|判別《はんべつ》のつかぬ|常暗《とこやみ》の|世《よ》の|海面《かいめん》、|船《ふね》は|海面《かいめん》に|出没《しゆつぼつ》する|大巌石《だいがんせき》を|右《みぎ》に|避《よ》け|左《ひだり》にすかし、|船脚《ふなあし》もゆるやかに|盲人《めくら》の|杖《つゑ》なくして|荒野《あれの》を|行《ゆ》く|如《ごと》き|有様《ありさま》、|波《なみ》のまにまに|浮《う》かび|行《ゆ》く|不安《ふあん》|至極《しごく》の|航路《かうろ》なりける。
|忽《たちま》ち|暴風《ばうふう》|吹《ふ》き|来《きた》り、|山岳《さんがく》の|如《ごと》き|波《なみ》|立《た》ち|来《きた》つて、|筑紫丸《つくしまる》を|呑《の》まむとする|危険《きけん》の|状態《じやうたい》に|陥《おちい》り、|船客《せんきやく》|一同《いちどう》は|互《たがひ》に|手《て》を|合《あは》せ|何事《なにごと》か|頻《しき》りに|小声《こごゑ》に|祈《いの》り、|祝部神《はふりべのかみ》は|立《た》つて|歌《うた》ひ|初《はじ》むる。
『|神《かみ》が|表《おもて》に|現《あら》はれて  |善《ぜん》と|悪《あく》とを|立別《たてわ》ける
|朝日《あさひ》は|隠《かく》れて|光《ひかり》なく  |月《つき》は|地《ち》に|落《お》ち|影《かげ》もなし
|大海原《おほうなばら》に|蟠《わだかま》る  |八岐大蛇《やまたをろち》や|醜神《しこがみ》の
|醜《しこ》の|猛《たけ》びを|皇神《すめかみ》の  |依《よ》さし|給《たま》へる|言霊《ことたま》に
|伊吹《いぶ》き|払《はら》へよ|四方《よも》の|国《くに》  |大海原《おほうなばら》の|醜神《しこがみ》も
|言向《ことむけ》|和《やは》す|三五《あななひ》の  |道《みち》を|伝《つた》ふる|宣伝使《せんでんし》
|世《よ》は|常暗《とこやみ》となるとても  |黄泉《よもつ》の|島《しま》は|沈《しづ》むとも
|常世《とこよ》の|国《くに》は|永遠《とことは》に  |波《なみ》の|随々《まにまに》|漂《ただよ》ひて
|天照《あまてら》します|大神《おほかみ》や  |国治立《くにはるたち》の|大神《おほかみ》の
|御霊《みたま》の|恩頼《ふゆ》を|蒙《かかぶ》らむ  |神素盞嗚大神《かむすさのをのおほかみ》の
|深《ふか》き|恵《めぐ》みを|白浪《しらなみ》の  |上《うへ》に|漂《ただよ》ふ|民草《たみぐさ》は
|黄泉《よもつ》の|島《しま》の|日《ひ》に|月《つき》に  |沈《しづ》むが|如《ごと》く|忽《たちま》ちに
|浮瀬《うきせ》に|落《お》ちて|苦《くる》しまむ  |嗚呼《ああ》|諸人《もろびと》よ|諸人《もろびと》よ
|神《かみ》の|教《をしへ》にまつろひて  |直霊《なほひ》の|御霊《みたま》|研《みが》き|上《あ》げ
|朝夕《あさゆふ》|神《かみ》の|御前《おんまへ》に  |祈《いの》れや|祈《いの》れ|善《よ》く|祈《いの》れ
|我《われ》はこの|世《よ》を|救《すく》ひ|行《ゆ》く  |三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》
|月照彦《つきてるひこ》の|守《まも》りにて  この|世《よ》の|曲《まが》を|祝部《はふりべ》の
|神《かみ》と|現《あらは》れ|黄泉島《よもつじま》  その|比良坂《ひらさか》にさやりてし
|八岐大蛇《やまたをろち》を|言向《ことむ》けて  この|世《よ》の|曲《まが》を|掃《は》き|清《きよ》め
|世人《よびと》を|助《たす》くる|神司《かむづかさ》  |神《かみ》が|表《おもて》に|現《あら》はれて
|善《ぜん》と|悪《あく》とを|立別《たてわ》ける  この|世《よ》を|造《つく》りし|神直日《かむなほひ》
|心《こころ》も|広《ひろ》き|大直日《おほなほひ》  |唯《ただ》|何事《なにごと》も|人《ひと》の|世《よ》は
|直日《なほひ》に|見直《みなほ》し|聞直《ききなほ》し  |身《み》の|過《あやま》ちは|詔直《のりなほ》せ
|神《かみ》は|汝《なんぢ》を|守《まも》るらむ  |嗚呼《ああ》|惟神《かむながら》|々々《かむながら》
|御霊《みたま》|幸《さち》はひましませよ』
|不思議《ふしぎ》や|暴風《ばうふう》は|俄《にはか》に|止《や》みて、|浪《なみ》|凪《な》ぎ|渡《わた》りし|間《ま》もあらず、|西北《せいほく》の|風《かぜ》またもや|吹《ふ》き|来《きた》つて|筑紫丸《つくしまる》は|矢《や》を|射《い》る|如《ごと》く|黄泉島《よもつじま》に|向《むか》つて|疾走《しつそう》せり。|予期《よき》に|反《はん》して|早《はや》くも|黄泉島《よもつじま》は|間近《まぢか》くなりぬ。|忽《たちま》ち|黄泉島《よもつじま》は|轟然《がうぜん》たる|音響《おんきやう》をたて、|見《み》る|見《み》る|海中《かいちう》に|沈《しづ》まむとする|恐《おそ》ろしさに、|船客《せんきやく》|一同《いちどう》はこの|光景《くわうけい》を|見《み》て、アレアレと|驚《おどろ》きの|目《め》を|〓《みは》る。
|祝部神《はふりべのかみ》『ヤア|船中《せんちう》の|方々《かたがた》、|吾々《われわれ》は|最前《さいぜん》|歌《うた》つた|如《ごと》く|三五教《あななひけう》の|宣伝使《せんでんし》、たとへ|黄泉島《よもつじま》は|沈《しづ》むとも、|言霊《ことたま》の|神力《しんりき》を|以《もつ》て、|再《ふたた》び|元《もと》の|如《ごと》く|海面《かいめん》に|浮《うか》ばせ|見《み》む、|信仰《しんかう》の|力《ちから》は|実《じつ》に|尊《たふと》きものである。|皆《みな》の|方々《かたがた》には|我《わ》が|祈《いの》りの|霊験《れいけん》を|見《み》て|心《こころ》を|改《あらた》められよ』
|甲《かふ》『|貴方《あなた》は|宣伝使《せんでんし》|様《さま》、|如何《いか》に|御力《おちから》があるとは|云《い》へ、あの|島《しま》が|浮《う》き|上《あが》りませうか、|若《も》しも|浮《う》き|上《あが》つたら|吾々《われわれ》は|三五教《あななひけう》に|一《いち》も|二《ふた》もなく|帰依《きえ》|致《いた》します。どうぞ|一《ひと》つ|浮《うか》して|見《み》て|下《くだ》さいませ』
|祝部神《はふりべのかみ》『|神力《しんりき》は|偉大《ゐだい》なものだ。サア|御覧《ごらん》』
と|云《い》ひながら|拍手《はくしゆ》をなし|天津《あまつ》|祝詞《のりと》を|奏上《そうじやう》し、|鎮魂《ちんこん》の|姿勢《しせい》をとり、|汗《あせ》をダラダラ|流《なが》して|一生懸命《いつしやうけんめい》に|霊《れい》を|送《おく》つて|居《ゐ》る。|黄泉島《よもつじま》は|益々《ますます》|巨大《きよだい》なる|音響《おんきやう》を|出《だ》し|速度《そくど》を|早《はや》め、|海中《かいちう》に|沈《しづ》み|行《ゆ》くのみなりける。
|祝部神《はふりべのかみ》『ヤア、こりや|神《かみ》さまが|聞《き》き|損《そこな》ひをなさつたナ。|今《いま》|一度《いちど》|願《ねが》つて|見《み》ませう』
とまたもや|一心不乱《いつしんふらん》に|祈《いの》りかけた。|黄泉島《よもつじま》は|何《なん》の|頓着《とんちやく》も|無《な》く、|刻々《こくこく》に|海中《かいちう》に|沈《しづ》み|行《ゆ》く。|船中《せんちう》の|人々《ひとびと》は|一斉《いつせい》にドツと|声《こゑ》を|上《あ》げて|嘲笑《てうせう》する。
|祝部神《はふりべのかみ》『オイ|皆《みな》のもの|謹慎《きんしん》をせぬか。お|前《まへ》たちの|量見《りやうけん》が|悪《わる》いものだから、|俺《おれ》の|鎮魂《ちんこん》がチツトも|利《き》かない。|皆《みな》|揃《そろ》つて|俺《おれ》が|神言《かみごと》を|奏上《そうじやう》するからその|後《あと》に|従《つ》いて|来《く》るのだ。|神様《かみさま》を|馬鹿《ばか》にして|居《を》ると、|思《おも》わぬとこへ|暗礁《あんせう》が|出来《でき》て、|船《ふね》が|覆《くつが》へつて|仕舞《しま》ふぞ。この|船《ふね》には|幸《さいは》ひに|月照彦神《つきてるひこのかみ》の|御守《おまも》り|厚《あつ》き|祝部《はふりべ》の|宣伝使《せんでんし》が|乗《の》つて|居《を》るものだから、どうなりと|浮《う》いて|居《ゐ》るのだ。|俺《おれ》が|黄泉島《よもつじま》に|上陸《じやうりく》したが|最後《さいご》この|船《ふね》は|危《あやふ》くなるぞ』
|乙《おつ》『|何《なん》とマア|小《ちひ》さい|男《をとこ》に|似《に》ず|大法螺《おほぼら》を|吹《ふ》く|奴《やつ》だなア。この|法螺《ほら》には|時化《しけ》の|神《かみ》も|吹《ふ》きまくられて|鎮《しづ》まつてしまふ。アレアレ|宣伝使《せんでんし》の|祈《いの》りは|利《き》き|過《す》ぎたと|見《み》えて、|黄泉島《よもつじま》は|益々《ますます》|鳴動《めいどう》|激《はげ》しく|急速度《きふそくど》を|以《もつ》て|沈《しづ》むぢやないか』
『|莫迦《ばか》を|云《い》ふな、|島《しま》が|沈《しづ》むのぢやない。|海嘯《つなみ》が|来《き》て|居《ゐ》るのだ。|波《なみ》が|高《たか》くなつて|居《を》るのを|気《き》が|付《つ》かぬか』
|甲《かふ》、|乙《おつ》『モシモシ|宣伝使《せんでんし》|様《さま》、この|広《ひろ》い|海《うみ》の|中《なか》、|盥《たらひ》か|何《なん》ぞの|様《やう》に|高《たか》くなつた、|低《ひく》くなつたと|云《い》ふ|見当《けんたう》はどうしてとれます。|成程《なるほど》|水《みづ》が|高《たか》くなれば|島《しま》は|沈《しづ》むやうに|見《み》えるのは|当然《あたりまへ》だ。|然《しか》し|俄《にはか》にかう|高《たか》くなる|道理《だうり》がないぢやありませぬか』
|祝部神《はふりべのかみ》は、
『|島《しま》が|沈《しづ》むか|波《なみ》が|高《たか》くなつたか、|二《ふた》つに|一《ひと》つだ。アハヽヽヽヽ』
と|気楽《きらく》さうに|笑《わら》つて|居《を》る。|船《ふね》は|漸《やうや》く|黄泉《よもつ》の|島《しま》|近《ちか》くになつた。
|祝部神《はふりべのかみ》『サア|船頭《せんどう》、|黄泉島《よもつじま》に|船《ふね》を|着《つ》けて|呉《く》れないか』
|船頭《せんどう》『メツサウもない。|刻々《こくこく》に|沈《しづ》むで|行《ゆ》くあの|島《しま》、どうして|船《ふね》が|着《つ》けられませう』
|祝部神《はふりべのかみ》は
『エーイ|気《き》の|弱《よわ》い|船頭《せんどう》だなア』
と|云《い》ひながら|神《かみ》を|念《ねん》じ|神言《かみごと》を|唱《とな》へつつ|身《み》を|躍《をど》らしてザンブと|許《ばか》り|海中《かいちう》に|飛《と》び|込《こ》み、|黄泉島《よもつじま》|目《め》がけて|游《およ》ぎ|行《ゆ》く。
|甲《かふ》、|乙《おつ》、|丙《へい》『ヤア、|法螺《ほら》を|吹《ふ》く|丈《だ》け|随分《ずゐぶん》|胆玉《きもだま》の|太《ふと》い|宣伝使《せんでんし》だ。|信仰《しんかう》の|力《ちから》と|云《い》ふものは、エライものだなア。アレ|丈《だ》け|一生懸命《いつしやうけんめい》に|島《しま》を|浮《う》かして|下《くだ》さいと|頼《たの》むのに、チヨツトも|聞《き》いて|下《くだ》さらぬ|神様《かみさま》を|信《しん》じて|未《ま》だ|信仰《しんかう》を|止《や》めず、|危険《きけん》|極《きは》まる|黄泉島《よもつじま》に|游《およ》いで|行《ゆ》くとはあきれたものだ。|生命《いのち》|知《し》らずと|云《い》ふのは、マアああいふ|人《ひと》の|事《こと》かい。ヤアヤア|偉《えら》い|速力《そくりよく》ぢや。たうとう|此《この》|長《なが》い|海面《かいめん》を|向《むか》ふへ|着《つ》いてしまつたよ』
|又《また》もや|颶風《ぐふう》|吹《ふ》き|来《きた》り|波《なみ》|高《たか》く|帆柱《ほばしら》を|折《を》り、|船《ふね》はいやらしき|物音《ものおと》を|立《た》てて、|今《いま》や|破壊《はくわい》せむとする。|船頭《せんどう》も|船客《せんきやく》も|一度《いちど》に|蚊《か》の|泣《な》く|如《ごと》く、|天《てん》に|哭《こく》し|地《ち》に|歎《なげ》き、|刻々《こくこく》|沈《しづ》み|行《ゆ》く|船《ふね》の|上《うへ》を|前後左右《ぜんごさいう》に|駆廻《かけまは》り、|狼狽《うろた》へ|騒《さわ》ぐ|有様《ありさま》は|目《め》もあてられぬ|悲惨《ひさん》の|光景《くわうけい》なりける。
|祝部神《はふりべのかみ》は|島陰《しまかげ》に|立《た》つて|言霊《ことたま》を|力《ちから》|限《かぎ》りに|宣《の》り|始《はじ》めたり。アーオーウーエーイの|声《こゑ》に|連《つ》れて、|今《いま》や|沈没《ちんぼつ》せむとする|筑紫丸《つくしまる》は、|何物《なにもの》かに|惹《ひ》かるる|如《ごと》く|急速力《きふそくりよく》を|以《もつ》て、|黄泉島《よもつじま》に|近《ちか》づき|来《き》たる。|祝部神《はふりべのかみ》は|又《また》もやアオウエイの|言霊《ことたま》を|宣《の》り|初《はじ》めければ、|不思議《ふしぎ》やほとんど|沈没《ちんぼつ》せむとする|船《ふね》は、ポカリと|水音《みづおと》|高《たか》く|浮上《うきあが》り、|何時《いつ》の|間《ま》にか|浸水《しんすゐ》せし|水《みづ》は|跡形《あとかた》もなく|除《のぞ》かれ|居《ゐ》たりける。
|祝部神《はふりべのかみ》『ヤア、|皆《みな》さま、|御神徳《ごしんとく》が|分《わか》つたかな』
|甲《かふ》|乙《おつ》|丙《へい》を|初《はじ》め|船客《せんきやく》|一同《いちどう》は|嬉《うれ》し|涙《なみだ》に|暮《く》れ|一言《いちごん》も|発《はつ》し|得《え》ず、|両手《りやうて》を|合《あは》せ|祝部神《はふりべのかみ》に|向《むか》つて|生神《いきがみ》の|意《い》を|表《へう》し|合掌《がつしやう》するのみなりき。|祝部神《はふりべのかみ》は|又《また》もやウンウンと|力《ちから》を|込《こ》めたるにぞ、ウの|声《こゑ》に|黄泉島《よもつじま》は|静々《しづしづ》と|浮《う》き|上《あが》り|始《はじ》めたり。|又《また》もやウヽヽの|声《こゑ》に|連《つ》れて|島《しま》はウヽヽと|浮《う》き|上《あが》りたり。
|祝部神《はふりべのかみ》『|皆《みな》の|人達《ひとたち》、この|島《しま》が|浮上《うきあが》ると|云《い》うた|時《とき》、|笑《わら》つただらう。どうだこれで|分《わか》つたか』
|甲《かふ》、|乙《おつ》、|丙《へい》『イヤモウ|確《たしか》に|分《わか》りました。|今迄《いままで》の|御無礼《ごぶれい》どうぞ|御赦《おゆる》し|下《くだ》さいませ』
『ヨシヨシ|分《わか》つたらそれで|可《よ》い、|神様《かみさま》の|御神徳《ごしんとく》を|忘《わす》れてはならぬぞ。サア|今《いま》の|間《うち》に|早《はや》く|常世《とこよ》の|国《くに》に|往《い》つたら|可《よ》からう。|愚図々々《ぐづぐづ》して|居《を》るとこの|島《しま》は|又《また》もや|沈没《ちんぼつ》の|恐《おそ》れがある。|曲津神《まがつかみ》の|棲《す》む|黄泉島《よもつじま》はどうしても、|海中《かいちう》に|沈《しづ》めてしまはねばならぬのだ。|何千里《なんぜんり》も|廻《まは》つた|此《この》|島《しま》、|一度《いちど》にドブンと|沈《しづ》ンだ|時《とき》は、この|海原《うなばら》でも|天《てん》に|冲《ちう》する|如《ごと》き|巨浪《きよらう》が|立《た》ち|上《あが》る。さすれば|如何《いか》に|堅固《けんご》な|大船《おほふね》でも|一《ひと》たまりもあるまい。サア|早《はや》くこの|島《しま》の|沈没《ちんぼつ》せぬ|間《うち》に|風《かぜ》を|送《おく》つてやるから、|常世《とこよ》の|国《くに》へ|向《むか》つて|走《はし》り|行《ゆ》け』
|東風《とうふう》|俄《にはか》に|吹《ふ》き|来《きた》つて|筑紫丸《つくしまる》は|帆《ほ》を|膨《ふく》らせながら|一瀉千里《いつしやせんり》の|勢《いきほひ》にて|波上《はじやう》を|滑《すべ》り|行《ゆ》く。|船中《せんちう》の|人々《ひとびと》は|黄泉島《よもつじま》の|祝部神《はふりべのかみ》に|別《わかれ》を|惜《をし》み、|手《て》を|拍《う》ち|笠《かさ》を|振《ふ》り|袖《そで》を|振《ふ》りなぞして|姿《すがた》の|見《み》えぬまで|名残《なご》りを|惜《をし》みけり。
|島《しま》の|曲津神《まがつかみ》は|祝部神《はふりべのかみ》の|言霊《ことたま》の|息《いき》に|恐《おそ》れて、|雲《くも》を|霞《かすみ》と|比良坂《ひらさか》さして|逃《に》げて|行《ゆ》く。|祝部神《はふりべのかみ》は|足《あし》を|早《はや》めて|飛鳥《ひてう》の|如《ごと》く、|黄泉比良坂《よもつひらさか》の|坂《さか》の|上《うへ》に|月照彦《つきてるひこ》の|冥護《めいご》の|下《もと》に|登《のぼ》り|行《ゆ》く。
|坂《さか》の|上《うへ》には、|日《ひ》の|出神《でのかみ》の|用《もち》ゐ|給《たま》ひし|千引《ちびき》の|岩《いは》がある。この|岩《いは》の|上《うへ》に|端坐《たんざ》して|神言《かみごと》を|奏上《そうじやう》する|折《をり》しも、|大音響《だいおんきやう》と|共《とも》にさしもに|広《ひろ》き|黄泉島《よもつじま》は|海中《かいちう》に|忽然《こつぜん》として|没《ぼつ》し、|残《のこ》るは|千引《ちびき》の|岩《いは》のみ。|折《をり》から|荒浪《あらなみ》は|千引《ちびき》の|岩《いは》を|洗《あら》ひ、|祝部神《はふりべのかみ》の|身体《しんたい》をも|今《いま》やさらはむとする|時《とき》、|天空《てんくう》を|轟《とどろ》かして|此処《ここ》に|降《くだ》り|来《きた》る|天《あま》の|磐樟船《いはくすぶね》あり。|見《み》れば|日《ひ》の|出神《でのかみ》の|遣《つか》はし|賜《たま》うたる|堅牢《けんらう》|無比《むひ》の|神船《かみぶね》にして、|正鹿山津見神《まさかやまづみのかみ》が|乗《の》つて|居《ゐ》られる。|祝部神《はふりべのかみ》は、
『ヤア|貴神《きしん》は|正鹿山津見神《まさかやまづみのかみ》』
『ヤア|貴神《きしん》は|祝部神《はふりべのかみ》で|御座《ござ》るか。サア|早《はや》くこの|御船《みふね》に|乗《の》らせ|給《たま》へ』
|祝部神《はふりべのかみ》は、
『|全《まつた》く|救《すく》ひの|船《ふね》だ、|有難《ありがた》し|忝《かたじけ》なし』
と|磐樟船《いはくすぶね》にヒラリと|身《み》を|托《たく》し、|中空《ちうくう》|高《たか》くかすめて|天教山《てんけうざん》を|目蒐《めが》け、|一瀉千里《いつしやせんり》の|勢《いきほひ》にて|天《てん》を|轟《とどろ》かしつつ|阿波岐原《あはぎはら》に|漸《やうや》く|降《くだ》り|着《つ》きにける。
|俄《にはか》に|聞《きこ》ゆる|松風《まつかぜ》の|音《おと》に|目《め》を|開《ひら》けば、|豈《あに》|図《はか》らむや、|十四日《じふよつか》の|月《つき》は|西山《せいざん》に|沈《しづ》み、|高熊山《たかくまやま》の|霧立《きりた》ち|昇《のぼ》る|巌窟《がんくつ》の|傍《かたはら》に|瑞月《ずゐげつ》の|身《み》は|端坐《たんざ》し|居《ゐ》たりける。
(大正一一・三・一一 旧二・一三 谷村真友録)
第四篇 |古事記《こじき》|略解《りやくかい》
第二八章 |三柱《みはしら》の|貴子《みこ》〔五二四〕
|神代《かみよ》の|太古《むかし》、|伊邪那岐命《いざなぎのみこと》よりお|産《うま》れ|遊《あそ》ばした|天照大御神《あまてらすおほみかみ》|様《さま》、この|神様《かみさま》は|日《ひ》の|大神様《おほかみさま》と|申上《まをしあ》げて、|本部《ほんぶ》|綾部《あやべ》に|御祀《おまつ》りしてあります|所《ところ》の|神様《かみさま》であります。このへんから|申上《まをしあ》げます。
|伊邪那岐命《いざなぎのみこと》が
『|筑紫《つくし》の|日向《ひむか》の|橘《たちばな》の|小戸《をど》の|阿波岐ケ原《あはぎがはら》に|於《おい》て|禊身《みそぎ》し|玉《たま》ふ|時《とき》、|左《ひだり》の|御目《おんめ》を|洗《あら》ひ|給《たま》ひて|成《な》りませる|神《かみ》の|御名《みな》は|天照大御神《あまてらすおほみかみ》、|次《つぎ》に|右《みぎり》の|御目《おんめ》を|洗《あら》ひ|給《たま》ひて|成《な》りませる|神《かみ》の|御名《みな》は|月読命《つきよみのみこと》』
といふことが|書《か》いて|御座《ござ》います。|目《め》といふものは|吾々《われわれ》|肉体《にくたい》から|申《まを》しますると、|右《みぎ》と|左《ひだり》と|両方《りやうはう》に|持《も》ちて|居《を》りまして|物《もの》を|視《み》るといふことの|上《うへ》に|最《もつと》も|大切《たいせつ》なものであります|計《ばか》りか、|眼《め》は|心《こころ》の|窓《まど》と|申《まを》します|位《ぐらゐ》|重要《ぢうえう》なもので|御座《ござ》います。|所《ところ》が|一歩《いつぽ》|進《すす》んで|考《かんが》へて|見《み》ますと、|総《すべ》てこの|宇宙間《うちうかん》に|形《かたち》を|持《も》つて|居《を》るものは|森羅万象《しんらばんしやう》|残《のこ》らず|目《め》すなはち|眼目《がんもく》といふものがなくてはならぬ。|実際《じつさい》|凡《あら》ゆるものに|眼目《がんもく》があると|云《い》ふ|事《こと》は|吾人《ごじん》は|常《つね》に|之《これ》を|認《みと》め|得《う》るのであります。|姿《すがた》こそ|人間《にんげん》のやうな|姿《すがた》ではないけれど、|他《た》の|動物《どうぶつ》に|於《おい》てもこの|眼《め》をもつて|居《を》ります。|禽獣虫魚《きんじうちうぎよ》|草木《さうもく》の|類《たぐひ》に|至《いた》るまで|此《この》|眼《め》のないものはありませぬ。また|一《ひと》つの|文章《ぶんしやう》を|読《よ》みましても、この|中《なか》にも|必《かなら》ず|眼目《がんもく》といふものがあります。|御勅語《ごちよくご》の|中《なか》にも|眼《め》があります。
『|皇祖皇宗《クワウソクワウソウ》|国《クニ》ヲ|肇《ハジ》ムルコト|宏遠《クワウエン》ニ|徳《トク》ヲ|樹《タ》ツルコト|深厚《シンコウ》ナリ、|汝《ナンジ》|臣民《シンミン》|克《ヨ》ク|忠《チユウ》ニ|克《ヨ》ク|孝《カウ》ニ』
これが|教育《けういく》|勅語《ちよくご》の|眼目《がんもく》であります。また|戊申詔書《ぼしんせうしよ》には、
『|淬励礪《サイレイ》ノ|誠《マコト》ヲ|輸《イタ》サバ|国運発展《コクウンハツテン》ノ|本《モト》|近《チカ》ク|斯《ココ》ニ|在《ア》リ』
これが|詰《つま》り|眼《め》になつて|居《を》る。その|通《とほ》り|初《はじ》め|天地《てんち》をお|造《つく》りになるに|当《あた》つても、この|宇宙《うちう》を|治《をさ》める|為《ため》にはどうしても、|眼《め》といふものが|必要《ひつえう》であるといふので、そこで|伊邪那岐命《いざなぎのみこと》は|天地《てんち》の|主《しゆ》をお|創《はじ》めになつたのであります。すなはち|伊邪那岐命《いざなぎのみこと》は、|先《ま》づ|天《てん》の|主《しゆ》をこしらへたい、この|霊界《れいかい》の|主宰者《しゆさいしや》をこしらへたいと|思召《おぼしめ》しになりまして|左《ひだり》の|目《め》を|洗《あら》ひ|給《たま》うた、この|左《ひだり》の|目《め》といふのは|日《ひ》であります。|太陽神《たいやうしん》であつて|上《うへ》である。|右《みぎ》の|目《め》といふのが|太陰神《たいいんしん》であつて|下《した》であります。|言霊《ことたま》の|天則《てんそく》から|申《まを》しますと|左《ひだり》は|男《をとこ》、|右《みぎ》は|女《をんな》と、これは|既《すで》に|神様《かみさま》の|御代《みよ》から|定《き》まつた|掟《おきて》である。|然《しか》るにこの|左《ひだり》の|目《め》を|洗《あら》うてお|生《うま》れになつたのが|日《ひ》の|大神《おほかみ》、|天照大御神《あまてらすおほみかみ》であつて、|右《みぎ》の|目《め》を|洗《あら》うてお|生《うま》れになつたのが|月読命《つきよみのみこと》、さうすると|目《め》からお|生《うま》れになつたのは、|変性男子《へんじやうなんし》|女子《によし》でありました。|左《ひだり》の|目《め》をお|洗《あら》ひになつて|直《す》ぐお|生《うま》れになつたのが|変性男子《へんじやうなんし》の|天照大御神《あまてらすおほみかみ》でありました。これで|詰《つま》り|左《ひだり》を|宇宙《うちう》|霊界《れいかい》とし、|右《みぎ》を|地球《ちきう》として、|天上天下《てんじやうてんか》の|君《きみ》をお|生《う》みになつた|訳《わけ》であります。
『|次《つぎ》に|御鼻《みはな》を|洗《あら》ひ|給《たま》ひしときに|成《な》りませる|神《かみ》の|御名《みな》は|建速須佐之男命《たけはやすさのをのみこと》』
【はな】は|初《はじ》めに|成《な》るの|意義《いぎ》で|即《すなは》ち|初《はじ》めである。|物質《ぶつしつ》の|元《もと》であります。|花《はな》が|咲《さ》いて|而《しか》して|後《あと》から|実《み》を|結《むす》びます。|人間《にんげん》の|身体《からだ》が|出来《でき》るにつきましても、|先《ま》づ|胎内《たいない》に|於《おい》て|人間《にんげん》の|形《かたち》の|出来《でき》る|初《はじ》めは|鼻《はな》である。それから|眼《め》が|出来《でき》る。|絵師《ゑし》が|人間《にんげん》の|絵《ゑ》を|描《か》きましても、その|輪廓《りんくわく》を|描《か》くのに|何《なに》より|先《さき》に|鼻《はな》を|描《ゑが》く、|鼻《はな》は|真中《まんなか》である。|鼻《はな》を|先《さき》へ|描《か》いて|然《しか》る|後《のち》に|目《め》を|描《か》き|口《くち》を|描《か》いてそこで|都合《つがふ》|好《よ》く|絵《ゑ》が|出来《でき》るのである。この|初《はじ》めて|出来《でき》た|統治《とうぢ》の|位地《ゐち》にお|立《た》ちになるのが|須佐之男命《すさのをのみこと》であります。|俗《ぞく》に|何《なん》でも|物《もの》の|完成《くわんせい》したことを|眼鼻《めはな》がついたと|申《まを》します。|神様《かみさま》も|此《この》|世界《せかい》をお|造《つく》りになつて、さうしてそこに|初《はじ》めて|眼鼻《めはな》をおつけになつたのであります。
『|此《この》|時《とき》|伊邪那岐命《いざなぎのみこと》|太《いた》く|歓喜《よろこば》して|詔《の》り|給《たま》はく』
|愈《いよいよ》|天地《てんち》が|完全《くわんぜん》に|出来《でき》たから、|神様《かみさま》は|非常《ひじやう》にお|喜《よろこ》びになつた。これまでに|神様《かみさま》は|随分《ずゐぶん》|沢山《たくさん》な|御子《おこ》|達《たち》をお|産《う》みになつて|居《を》りますが|衝立船戸《つきたつふなど》の|神様《かみさま》から|十二柱《じふにはしら》ありました。その|次《つぎ》に|三柱《みはしら》お|生《うま》れになつてをるので|都合《つがふ》|十五柱《じふごはしら》であります。|男神様《をとこがみさま》は|我《われ》はかやうに|沢山《たくさん》の|子《こ》を|産《う》むだが、しかし|今度《こんど》の|様《やう》な|眼鼻《めはな》になる|所《ところ》の|子《こ》は|初《はじ》めてである。
『|吾《われ》は|御子《みこ》|生《う》みて、|生《う》みの|果《はて》に|三柱《みはしら》の|貴子《うづのみこ》|得《え》たり』
と|仰《おほ》せられまして、やがて、
『|其《その》|御頸珠《みくびたま》の|玉《たま》の|緒《を》|母由良《もゆら》に|取《と》りゆらかして』
|即《すなは》ちむかしの|勾玉《まがたま》と|申《まを》したやうな、|高貴《かうき》な|人《ひと》が|飾《かざ》りとしてかけて|居《を》つた|頸珠《くびたま》であります。|丁度《ちやうど》|今《いま》で|申《まを》しますと|大勲位章《だいくんゐしやう》とか、|大綬章《だいじゆしやう》とか、|一等勲章《いつとうくんしやう》とか|云《い》ふ|意味《いみ》の、|曲玉《まがたま》のやうなのを|掛《か》けて|居《を》られたかと|思《おも》はれます。
そこでこの|玉《たま》を|自分《じぶん》からお|取《と》り|脱《はづ》しになつて|天照大御神《あまてらすおほみかみ》にお|渡《わた》しになつた。|母由良《もゆら》にとりゆらかしてといふことは|何《なん》でも|非常《ひじやう》に|喜《よろこ》んで|物《もの》を|渡《わた》すときには、|自然《しぜん》に|手《て》や|身体《からだ》が|揺《ゆ》れる。|一面《いちめん》から|云《い》へば|揺《ゆ》つて|渡《わた》す。|頂《いただ》くときにも|亦《また》|揺《ゆ》つて|頂《いただ》く、|今《いま》は|然《そ》う|云《い》ふやうなことでは|御座《ござ》いませぬけれども、|本当《ほんたう》に|嬉《うれ》しいときには|然《さ》うなつて|来《く》るのであります。さて|之《これ》を|揺《ゆ》りよい|音鳴《ねな》りをさせながら|天照大御神《あまてらすおほみかみ》に|賜《たま》ひまして|詔給《のりたま》はく、
『|汝《な》が|命《みこと》は|高天《たかあま》の|原《はら》を|知《し》らせ』
と|高天原《たかあまはら》を|主宰《しゆさい》せよと|仰《おふ》せになつて|珠《たま》をお|授《さづ》けになつたのであります。
『かれ|其《その》|御頸珠《みくびのたま》の|名《な》を|御倉板挙之神《みくらたなのかみ》と|申《まを》す』
この|御倉板挙之神《みくらたなのかみ》といふことは、|言霊学上《げんれいがくじやう》から|見《み》ても、|神様《かみさま》の|方《はう》で|申《まを》されまする|暦《こよみ》――この|世界《せかい》には|恒天暦《かうてんれき》、|太陽暦《たいやうれき》、|太陰暦《たいいんれき》の|三《み》つの|暦《こよみ》が|常《つね》に|運行《うんかう》|循環《じゆんかん》して|居《を》るのであります。で、この|御頸珠《みくびたま》をお|授《さづ》けになつたといふのは、|所謂《いはゆる》|御倉板挙之神《みくらたなのかみ》、|即《すなは》ち|恒天暦《かうてんれき》、|太陽暦《たいやうれき》、|太陰暦《たいいんれき》をお|授《さづ》けになつたのであります。
『|次《つぎ》に|月読命《つきよみのみこと》に|詔給《のりたま》はく「|汝《な》が|命《みこと》は|夜《よる》の|食国《をすくに》を|知《し》らせ」と|事依《ことよ》さし|給《たま》ひき』
|右《みぎ》の|眼《め》よりお|生《うま》れになつた|月読命《つきよみのみこと》に|夜《よる》の|主宰《しゆさい》をせよと|仰《あふ》せられた。|知《し》らせといふことは、|大事《だいじ》に|守護《まも》り|能《よ》く|治《をさ》めよといふ|意味《いみ》で、|太陰《たいいん》の|世界《せかい》を|主宰《しゆさい》せよと|仰有《おつしや》つた。|高天原《たかあまはら》は|全大宇宙《ぜんだいうちう》である。|夜《よる》の|食国《おすくに》は|昼《ひる》の|従《じう》である。それで|月読命《つきよみのみこと》はどこまでも|天照大御神《あまてらすおほみかみ》を|扶《たす》けて|宇宙《うちう》の|経綸《けいりん》に|当《あた》れと、|斯《こ》う|云《い》ふ|詔《みことのり》であります。
『|次《つぎ》に|建速須佐之男命《たけはやすさのをのみこと》に|詔給《のりたま》はく「|汝《な》が|命《みこと》は|海原《うなばら》を|知《し》らせ」と|事依《ことよ》さし|給《たま》ひき』
|須佐之男命《すさのをのみこと》は|鼻《はな》からお|生《うま》れになつた|方《かた》であります。|海原《うなばら》といふのは|此《この》|地球上《ちきうじやう》のことであります。|地球《ちきう》は|陸《りく》が|三分《さんぶん》の|一《いち》しかありませぬ、|三分《さんぶん》の|二《に》といふものは|海《うみ》であります。で|地球《ちきう》を|総称《そうしよう》して|大海原《おほうなばら》と|申《まを》すのであります。|斯《こ》うして|伊邪那岐命《いざなぎのみこと》|様《さま》は|深《ふか》いお|考《かんが》へから|夫々《それぞれ》|其《その》|知《し》ろしめす|所《ところ》を、|各々《おのおの》にお|分《わ》けになつて、|汝《なんぢ》は|高天原《たかあまはら》を、|汝《なんぢ》は|夜《よる》の|食国《おすくに》を、|汝《なんぢ》は|地球上《ちきうじやう》|即《すなは》ち|大海原《おほうなばら》を|知《し》ろしめせと、|御神勅《ごしんちよく》になつたのであります。|今日《こんにち》は|天照大御神《あまてらすおほみかみ》の|三代《さんだい》の|日子番能邇々芸命《ひこほのににぎのみこと》が、どうも|此《この》お|国《くに》が|治《をさ》まらぬといふので|天《てん》から|大神《おほかみ》の|神勅《しんちよく》を|奉《ほう》じて|御降臨《ごかうりん》になつて、|地球上《ちきうじやう》をお|治《をさ》め|遊《あそ》ばして、さうして|我《わが》皇室の御先祖となり、|其《その》|後《のち》万世一系に|此《この》国をお治めになつてあるのでありますが、それより|以前《いぜん》に|於《お》きましては、|古事記《こじき》によりますと|須佐之男神《すさのをのかみ》が|此《この》|国《くに》を|知召《しろしめ》されたといふことは|前《さき》の|大神《おほかみ》の|神勅《しんちよく》を|見《み》ても|明白《めいはく》な|事実《じじつ》であります。
『|故《かれ》|各々《おのおの》|依《よさ》し|給《たま》へる|御言《みこと》の|随《まま》に、|知《し》らしめす|中《うち》に、|速須佐之男命《はやすさのをのみこと》、|依《よ》さし|給《たま》へる|国《くに》を|知《し》らさずて、|八拳髯《やつかひげ》|胸前《むなさき》に|至《いた》るまで|啼《なき》いさちき』
|須佐之男命《すさのをのみこと》は|大神《おほかみ》の|仰《おほせ》に|随《したが》つて|地上《ちじやう》に|降臨《かうりん》|遊《あそ》ばされた。|地上《ちじやう》を|治《をさ》める|為《た》めに、お|降《くだ》りになりましたけれども、その|時《とき》この|地上《ちじやう》は|乱《みだ》れて|居《を》つて、|神代《かみよ》にも|丁度《ちやうど》|今日《こんにち》のやうな|世《よ》があつたものと|見《み》えます。で|今日《こんにち》のやうに|政治《せいぢ》であらうが、|宗教《しうけう》であらうが、|教育《けういく》であらうが、|何《なに》から|何《なん》まで|一切《いつさい》のものが|行《ゆ》き|詰《つま》つて|了《しま》うて、もう|行《ゆ》きも|戻《もど》りも|上《あ》げも|下《おろ》しも|出来《でき》ぬ|様《やう》になつて|居《を》つた。それで|須佐之男命《すさのをのみこと》|様《さま》は、この|世《よ》の|中《なか》を|安《やす》らけく|平《たひら》けく|治《をさ》めて|大神《おほかみ》を|安堵《あんど》させ|奉《たてまつ》る|事《こと》が|出来《でき》ないから|非常《ひじやう》にお|歎《なげ》きになつて、『|八拳髯《やつかひげ》|胸前《むなさき》に|至《いた》るまで』|長《なが》く|長《なが》く|髯《ひげ》が|延《の》びて|胸前《むなさき》の|所《ところ》まで|下《さが》つて|来《く》るまで|御心配《ごしんぱい》をなすつた。|人《ひと》といふものは|髯《ひげ》を|拵《こしら》へたり|髪《かみ》を|整《ととの》へたり、いろいろのことをして、|容貌《ようばう》を|整《ととの》へなくてはならぬけれども、|此《この》|国《くに》を|治《をさ》めようといふ|事《こと》に、|余《あま》り|御心配《ごしんぱい》を|遊《あそ》ばしたのでありますから、|知《し》らぬ|間《ま》にこの|髯《ひげ》が|八拳《やつか》に|長《なが》く|伸《の》びて|居《を》つたのであります。
『|泣《な》きいさちき』
といふのは、|世《よ》の|中《なか》の|一切《いつさい》|悉《ことごと》くのものが、もうどうしても、これから|進《すす》むで|行《ゆ》くとか、|開《ひら》けて|行《ゆ》くとか、どうしたらよいかといふ|方法《はうはふ》がない、|手《て》のつけやうがないといふまでに|非常《ひじやう》に|行《ゆ》き|詰《つま》つて|了《しま》つた|状態《じやうたい》を、お|歎《なげ》きになるさまに|形容《けいよう》したのであります。
『|其《その》|泣《な》き|給《たま》ふ|状《さま》は』
どういふ|工合《ぐあひ》であつたかといふと、
『|青山《あをやま》を|枯山《かれやま》なす|泣《な》き|枯《か》らし』
|今《いま》まで|山《やま》などの|草木《さうもく》が|青々《あをあを》と|生《お》ひ|繁《しげ》つて|居《ゐ》たのに、|世《よ》が|行《ゆ》き|詰《つま》つた|為《ため》に|枯《か》れて|了《しま》うた。|枯《か》らして|了《しま》うた。|山《やま》がすつかり|一変《いつぺん》して|枯山《かれやま》となつてしまうた。これは|今日《こんにち》の|状態《じやうたい》によつく|似《に》て|居《ゐ》るではありませぬか。|今《いま》まで|十年《じふねん》|計画《けいくわく》、|百年《ひやくねん》|計画《けいくわく》といふやうな|風《ふう》にいろいろな|事業《じげふ》が|企《くはだ》てられた。|何会社《なにくわいしや》が|立《た》つの、|或《あるひ》は|何事業《なにじげふ》が|起《おこ》されたと、|無茶苦茶《むちやくちや》に|四五年前《しごねんぜん》から|本年《ほんねん》の|春《はる》までは|偉《えら》い|勢《いきほひ》で、|好景気《かうけいき》を|謳歌《おうか》して、|青々《あをあを》とした|山《やま》の|如《ごと》くに|有頂天《うちやうてん》になつて|居《を》りましたが、|青山《あをやま》がいつまでも|天空《てんくう》につかへないが|如《ごと》くに、なんぼ|木《き》が|伸《の》びたつて|天《てん》につかへる|気遣《きづか》ひのないやうに、|一朝《いつてう》|行《ゆ》きつまれば|最早《もはや》さう|云《い》ふ|勢《いきほひ》はすつくり|枯《か》れて|了《しま》ふ。|今年《ことし》の|春《はる》からこの|方《かた》、|元《もと》も|子《こ》もなくなつて、|青山《あをやま》は|枯山《かれやま》になつた。どうしても|伸《の》びる|方法《はうはふ》もない、|火《ひ》の|消《き》えたるが|如《ごと》き|有様《ありさま》になつて|了《しま》つたのであります。
『|河海《かはうみ》は|悉《ことごと》に|泣《な》き|乾《ほ》しき』
|山《やま》が|枯山《かれやま》となつたと|同《おな》じく、|河《かは》も|海《うみ》も|悉《ことごと》く|乾《かわ》いて|了《しま》うて、|一滴《いつてき》の|水《みづ》もなくなつたといふのであります。|今日《こんにち》の|世《よ》の|中《なか》に|譬《たと》へて|申《まを》しますれば、|郵船《いうせん》|会社《くわいしや》とか、|商船《しやうせん》|会社《くわいしや》とか|其《その》|他《た》いろいろの|海運業《かいうんげふ》も|追々《おひおひ》と|仕事《しごと》がなくなつて|二進《につち》も|三進《さつち》も|行《ゆ》かなくなつた。すると|此《この》|海河《うみかは》の|労働《らうどう》|仕事《しごと》に|従事《じうじ》して|居《ゐ》るものは、|稼殖《かしよく》の|途《みち》のなくなるのは|勿論《もちろん》、|稼業《かげふ》に|離《はな》れる、|職《しよく》に|離《はな》れるといふことになつて|来《く》ると|一家《いつか》は|子供《こども》に|至《いた》るまで、|悉《ことごと》く|泣《な》き|乾《ほ》しになる。|最早《もは》や|食《く》ふ|道《みち》がないやうになると、もう|乾干《ひぼし》になるより|仕様《しやう》がない。|総《すべ》て|海《うみ》に|稼《かせ》いで|居《ゐ》る|者《もの》も、|河《かは》に|従事《じうじ》して|居《を》る|者《もの》も、|其《その》|他《た》|一切《いつさい》のことに|従事《じうじ》して|居《ゐ》る|者《もの》も、みんな|泣《な》き|乾《ほ》しになつて|了《しま》うたのである。
『|是《これ》を|以《もつ》て|悪神《あらぶるかみ》の|音《おと》なひ、|狭蠅《さばへ》なす|皆《みな》|沸《わ》き、|万《よろづ》の|物《もの》の|妖《わざはひ》|悉《ことごと》に|発《おこ》りき』
|神代《かみよ》に|於《おい》ても|世《よ》が|行《ゆ》き|詰《つま》つて|来《く》れば、そこにいろいろの|不祥《ふしやう》なる|事件《じけん》が|起《おこ》つて|来《き》たものと|見《み》えます。
|畏《かしこ》くも|明治《めいぢ》|天皇《てんわう》|陛下《へいか》が、
『|之《コレ》ヲ|古今《ココン》ニ|通《ツウ》ジテ|謬《アヤマ》ラズ|之《コレ》ヲ|中外《チユウグワイ》ニ|施《ホドコ》シテ|悖《モト》ラズ』
と|仰《あふ》せられましたやうに、|真理《しんり》といふものは|何《いづ》れの|時代《じだい》にも|適応《てきおう》するので|御座《ござ》います。|既《すで》に|古事記《こじき》の|明文《めいぶん》にある|所《ところ》で|御座《ござ》います。|今日《こんにち》の|状態《じやうたい》を|考《かんが》へて|見《み》れば、|丁度《ちやうど》|此《この》|岩戸《いはと》|開《びら》き|前《まへ》の|状態《じやうたい》と|克《よ》く|似《に》て|居《を》る。|世《よ》がどん|底《ぞこ》に|行《ゆ》き|詰《つま》つて|労働《らうどう》しようにも|仕事《しごと》がない、|仕事《しごと》がなければ|妻子《さいし》|眷族《けんぞく》を|養《やしな》ふことが|出来《でき》ない。|生活《せいくわつ》といふことが|出来《でき》なくなるとそこで|悪神《あらぶるかみ》の|音《おと》なひとなり、いろいろの|騒動《さうだう》が|起《おこ》つて|来《く》る、|人間《にんげん》の|心《こころ》が|荒《すさ》んで|来《く》る。|衣食《いしよく》|足《た》つて|礼節《れいせつ》を|知《し》る、|今《いま》まで|善《よ》い|魂《たましひ》を|持《も》つて|居《を》つたものも、だんだん|悪《わる》い|魂《たま》の|力《ちから》に|押《おさ》へられて|悪化《あくくわ》して|了《しま》ふ。|食《く》ふか|食《く》はぬか、|死《し》ぬか|生《い》きるか、|喰《く》うて|死《し》ぬか|食《く》はずに|死《し》ぬか、|斯《こ》う|云《い》ふ|苦《くる》しい|立場《たちば》になりますと、|人心《じんしん》は|日増《ひま》しに|悪化《あくくわ》して|善《よ》くないことが|往々《わうわう》|始《はじ》まる。|甚《はなは》だしきは|警察《けいさつ》へ|行《い》つて|御厄介《ごやくかい》になつた|方《はう》が|楽《らく》で、|養《やし》なつて|呉《く》れて|安全《あんぜん》だといふものが|出来《でき》る。|監獄《かんごく》に|入《い》れば|食《く》はして|呉《く》れる、|金銭《きんせん》はなくても|可《い》いといふ|具合《ぐあひ》に|自暴自棄的《じばうじきてき》に|悪神《あらぶるかみ》の|音《おと》なひが|始《はじ》まる。|此《この》|音《おと》なひといふのは、|神様《かみさま》の|御真意《ごしんい》に|背《そむ》いた|所《ところ》の、いろいろの|論説《ろんせつ》が|出《で》て|来《く》るといふので、あちらからも|此方《こちら》からも|異端《いたん》|邪説《じやせつ》が|叢《むらが》り|起《おこ》ることであります。|然《さ》うした|結果《けつくわ》が、うるさい|所《ところ》の|五月蠅《さばへ》のやうにブンブンブンといろいろの|事《こと》が|湧《わ》いて、
『|万《よろづ》の|物《もの》の|妖《わざはひ》|悉《ことごと》に|発《おこ》りき』
|一切《いつさい》のものに|災禍《さいくわ》が|起《おこ》つて|来《く》る。|外交《ぐわいかう》の|上《うへ》に|於《お》きましても、|内治《ないぢ》の|上《うへ》に|於《お》きましても、|商工業《しやうこうげふ》の|上《うへ》にも、|一切万事《いつさいばんじ》、|何《なに》も|彼《か》にも、|世《よ》の|中《なか》のありと|凡《あら》ゆるものに|向《むか》つて、みな|災禍《さいくわ》が|起《おこ》つて|来《く》るのであります。そこで|天《てん》から|伊邪那岐大神《いざなぎのおほかみ》が|之《これ》を|御覧《ごらん》になつて、
『|速須佐之男命《はやすさのをのみこと》に|詔給《のりたま》はく』
|仰有《おつしや》るのには、
『|何《なん》とかも、いましは、|事依《ことよ》させる|国《くに》を|治《しら》さずて|泣《な》きいさちる』
そなたは、|此《この》|大海原《おほうなばら》の|国《くに》を|治《をさ》めよと|言《い》うてあるのに、|何故《なにゆゑ》それを|治《をさ》めぬのか、|世《よ》の|中《なか》を|斯《か》う|云《い》ふ|難局《なんきよく》に|陥《おちい》らせたのか、|何《ど》うして|騒《さわ》がしい|世《よ》の|中《なか》として|了《しま》うたのか、と|大変《たいへん》にお|責《せめ》になつたのであります。すると|須佐之男命《すさのをのみこと》は、|誠《まこと》に|相《あひ》|済《す》まぬ|事《こと》であります。|兎《と》も|角《かく》これは|私《わたくし》に|力《ちから》が|足《た》らぬからであります。|私《わたくし》が|悪《わる》いのでありますとお|答《こた》へになつた。|併《しか》し|斯《か》うなつて|来《き》ては|如何《いか》なる|人《ひと》が|出《で》て|来《き》ても、|此《この》|時節《じせつ》には|敵《かな》はない。|治《をさ》まるときには|治《をさ》めなくても|治《をさ》まるが、|治《をさ》まらぬときに|之《これ》を|治《をさ》めるといふ|事《こと》は|難《むつ》かしいものであります。|人《ひと》|盛《さか》んなれば|天《てん》に|勝《か》ち、|天《てん》|定《さだ》まつて|人《ひと》を|制《せい》す、|悪運《あくうん》の|強《つよ》い|時《とき》には|如何《いか》なる|神《かみ》もこれを|何《ど》うも|斯《こ》うもする|事《こと》が|出来《でき》ない。|艮《うしとら》の|金神様《こんじんさま》も|此《この》|時節《じせつ》の|勢《いきほひ》には|敵《かな》はぬと|仰《あふ》せられて、それで|三千年間《さんぜんねんかん》あの|世《よ》に|隠《かく》れて、|今日《こんにち》の|神政《しんせい》|成就《じやうじゆ》の|時節《じせつ》を|待《ま》つて、|現在《げんざい》に|顕《あら》はれ|天《てん》の|大神様《おほかみさま》の|御命令《ごめいれい》を|奉《ほう》じて、|三千世界《さんぜんせかい》の|立替立直《たてかへたてなほ》しをなさらうといふのであります。|大神様《おほかみさま》でさへもさう|仰《あふ》せに|成《な》るのでありますから、|況《ま》して|須佐之男命《すさのをのみこと》が|大変《たいへん》に|行《ゆ》き|詰《つま》つた|地上《ちじやう》を|治《をさ》めようとなさつてもどうして|治《をさ》まらう|筈《はず》がありませう。|然《しか》らば|何故《なにゆゑ》|須佐之男命《すさのをのみこと》|御一人《おひとり》では|治《をさ》まらないのであるかと|申《まを》せば、それは|今日《こんにち》|文武《ぶんぶ》|百官《ひやくくわん》がありまして、|亦《ま》た|政党《せいたう》|政派《せいは》が|互《たがひ》に|相《あひ》|争《あらそ》ひ、|一方《いつぱう》が|斯《こ》うすれば|一方《いつぱう》が|苦情《くじやう》を|持《も》ち|出《だ》して|思《おも》ふやうにならぬ|如《ごと》く|前《まへ》に|申《まを》しましたやうに|既《すで》にいろいろの|神様《かみさま》|達《たち》が|沢山《たくさん》あつて、|其《その》|神々様《かみがみさま》が|各自《めいめい》に|天津神《あまつかみ》の|御心《みこころ》を|取《と》り|違《ちが》へて、|所謂《いはゆる》|体主霊従《たいしゆれいじう》に|陥《おちい》つて|居《を》られたので、|一人《ひとり》の|須佐之男命《すさのをのみこと》がどれ|程《ほど》|誠《まこと》の|途《みち》を|開《ひら》かうとなすつた|所《ところ》で、|更《さら》に|耳《みみ》に|入《い》れるものがない、|各自《めいめい》に|勝手《かつて》な|真似《まね》をなさる。|丁度《ちやうど》|強情《がうじやう》な|盲《めくら》と|聾《つんぼ》との|寄合《よりあひ》のやうであります。そこに|千仭《せんじん》の|谷《たに》があつても|盲《めくら》は|顛覆《ひつくりか》へるまでは|知《し》らぬ|顔《かほ》をしてをる。どれ|程《ほど》|雷《かみなり》が|鳴《な》つても|聾《つんぼ》は|足下《あしもと》に|落《お》ちるまでは|平気《へいき》である。それに|強情《がうじやう》を|張《は》つて|誰《たれ》が|何《なん》と|注意《ちゆうい》しても|聴《き》かない。|神代《かみよ》の|人《ひと》もそのやうに|体主霊従《たいしゆれいじう》で、どうしても|命《みこと》の|命令《めいれい》を|聴《き》かなかつた。それで|須佐之男命《すさのをのみこと》は、これは|取《と》りも|直《なほ》さず|自分《じぶん》の|責任《せきにん》である、|自分《じぶん》の|不徳《ふとく》の|致《いた》す|所《ところ》である、|到底《たうてい》|自分《じぶん》の|力《ちから》では|及《およ》ばないのであると、|自《みづか》らをお|責《せ》めになつて、
『あは|妣《はは》の|国《くに》、|根《ね》の|堅洲国《かたすくに》に|罷《まか》らんと|思《おも》ふが|故《ゆゑ》に|泣《な》く』
|私《わたし》はもうお|暇《いとま》を|頂《いただ》いて、|母《はは》の|国《くに》に|帰《かへ》らうと|仰《あふ》せられたのであります。|根《ね》の|堅洲国《かたすくに》と|申《まを》すのは|母神《ははがみ》の|伊邪那美命《いざなみのみこと》がおいでになつてゐる|所《ところ》であります。|尤《もつと》もこれまでの|或《あ》る|国学者《こくがくしや》|達《たち》は|根《ね》の|堅洲国《かたすのくに》といふのは|地下《ちか》の|国《くに》であると|云《い》つて|居《を》りますが、|併《しか》し|一番《いちばん》に|此《この》|伊邪那美命《いざなみのみこと》は|月読命《つきよみのみこと》と|同《おな》じく|月界《げつかい》に|御出《おい》でになつたのでありますから、|月界《げつかい》を|根《ね》の|堅洲国《かたすのくに》と|言《い》つたのであります。で|須佐之男命《すさのをのみこと》は|自分《じぶん》の|力《ちから》が|足《た》らないのである、|不徳《ふとく》の|致《いた》す|所《ところ》であるからして|自《みづか》ら|身《み》を|引《ひ》いて、|根《ね》の|堅洲《かたす》の|国《くに》へ|行《ゆ》かうと|仰有《おつしや》つて、|一言《いちごん》も|部下《ぶか》の|神々《かみがみ》の|不心得《ふこころえ》や、|其《その》|悪《わる》い|行状《ぎやうじやう》を|仰《あふ》せられなかつた。|如何《いか》にも|男《をとこ》らしい|潔白《けつぱく》なお|方《かた》で|御座《ござ》います。|所《ところ》が|伊邪那岐命《いざなぎのみこと》は|非常《ひじやう》に|御立腹《ごりつぷく》になつた。
『|然《しか》らばみまし|此《この》|国《くに》にはな|住《す》みそ』
|其《その》|方《はう》のやうな|此《この》|海原《うなばら》を|治《をさ》める|力量《りきりやう》の|無《な》いものならば、|二度《にど》と|此《この》|国《くに》に|住《す》むではならぬ。|勝手《かつて》に|根《ね》の|堅洲国《かたすくに》へ|行《い》つたがよからう。|一時《いつとき》でも|居《を》つてはならぬぞとお|叱《しか》りになつたけれども、|伊邪那岐命《いざなぎのみこと》は|須佐之男命《すさのをのみこと》の|心中《しんちう》は|疾《と》くに|克《よ》く|御存知《ごぞんぢ》である。|自分《じぶん》の|子《こ》がどうして|此《この》|国《くに》を|治《をさ》める|事《こと》が|出来《でき》ないか、どうして|自分《じぶん》の|珍《うづ》の|児《こ》の|言《い》ふことを|万《よろづ》の|神々《かみがみ》が|聴《き》かぬか、|腹《はら》の|底《そこ》では|充分《じゆうぶん》に|御存知《ごぞんぢ》でありますが、それを|彼此《かれこれ》|仰有《おつしや》らない。|心《こころ》の|中《うち》には|千万無量《せんまんむりやう》のお|悲《かな》しみを|持《も》つて|居《を》られまするけれども、|他《ほか》に|多《おほ》くの|神々《かみがみ》に|傷《きず》をつけるといふことは|考《かんが》へ|物《もの》である。それで|須佐之男命《すさのをのみこと》に|刑罰《けいばつ》を|与《あた》へて|罪人《ざいにん》としたならば、その|他《た》の|八百万《やほよろづ》の|神《かみ》、これに|随《つ》いて|居《ゐ》る|所《ところ》の|神《かみ》|等《たち》はそれを|見《み》て|皆《みな》|改心《かいしん》するであらう、その|悪《わる》かつたことを|悟《さと》るであらうと|思召《おぼしめ》して|大神様《おほかみさま》は|自分《じぶん》の|子《こ》を|罰《ばつ》せられたのでありまして、|普通《ふつう》の|者《もの》の|出来《でき》|難《にく》いことで|御座《ござ》います。その|広大《くわうだい》なるお|情《なさけ》|深《ぶか》い|御心《みこころ》は、|誠《まこと》に|勿体《もつたい》ない|次第《しだい》でありませぬか。|此《この》|須佐之男命《すさのをのみこと》を|罪《つみ》に|問《と》うたならば、あれこそ|吾々《われわれ》の|為《た》めに|罪《つみ》せられたのである、|誠《まこと》に|済《す》まないことであるから、|吾々《われわれ》は|悔《く》い|改《あらた》めて|本当《ほんたう》の|政治《せいぢ》をしなければならぬ、|改心《かいしん》を|早《はや》く|致《いた》して|命《みこと》の|罪《つみ》を|赦《ゆる》されむ|事《こと》を|八百万《やほよろづ》の|神々《かみがみ》が|思《おも》ふであらうと|思召《おぼしめ》して|伊邪那岐命《いざなぎのみこと》は|此《この》|処置《しよち》をお|取《と》り|遊《あそ》ばしたのであるが、|矢張《やつぱり》|体主霊従《たいしゆれいじう》に|陥《おちい》られた|八百万《やほよろづ》の|神《かみ》|達《たち》は|容易《ようい》にそれがお|解《わか》りにならず、あれは|当然《たうぜん》である、|政治《せいぢ》の|主権《しゆけん》をあんな|者《もの》が|握《にぎ》つて|居《を》つては|国《くに》の|治《をさ》まらう|筈《はず》がない、あれが|居《ゐ》なくなれば|又《また》|善《よ》い|神様《かみさま》が|来《く》るに|違《ちが》ひない、|否《いな》|吾々《われわれ》の|力《ちから》で|充分《じうぶん》に|世《よ》を|治《をさ》めようといふやうな|頗《すこぶ》る|冷淡《れいたん》な|間違《まちが》つた|考《かんが》へを|有《も》つて|居《を》つたのであります。|寔《まこと》にこんな|世《よ》の|中《なか》を|治《をさ》めようとするには|並大抵《なみたいてい》の|事《こと》ではないので|御座《ござ》います。
(大正九・一〇・一五 講演筆録)
(大正一一・三・五再録 谷村真友録)
第二九章 |子生《こうみ》の|誓《ちかひ》〔五二五〕
そこで|須佐之男命《すさのをのみこと》がお|父《とう》さんの|伊邪那岐命《いざなぎのみこと》に|申上《まをしあ》げられましたのには、|然《しか》らば|私《わたくし》は|根《ね》の|堅洲国《かたすくに》に|参《まゐ》ります。|併《しか》しそれにつきましては、|高天原《たかあまはら》に|坐《ま》す|姉君《あねぎみ》の|天照大御神《あまてらすおほみかみ》に|一度《いちど》お|暇乞《いとまご》ひを|致《いた》して|参《まゐ》り|度《たい》と|存《ぞん》じます。|高天原《たかあまはら》に|上《のぼ》りますと|申《まを》されて、
『|乃《すなは》ち|天《あめ》に|参上《まゐのぼ》りますときに、|山川《やまかは》|悉《ことごと》く|動《どよ》み、|国土《くにつち》|皆《みな》|震《ゆ》りき』
|天《てん》にお|上《あが》りになるといふ|此《この》|天《あめ》は|大本《おほもと》で|言《い》へば|高天原《たかあまはら》で、|今日《こんにち》に|譬《たと》へて|見《み》たならば|国《くに》の|政治《せいぢ》の|中心《ちうしん》で|現代《げんだい》|日本《にほん》の|高天原《たかあまはら》は|東京《とうきやう》であります。|神界《しんかい》にも|政治《せいぢ》の|中心《ちうしん》が|高天原《たかあまはら》にあつたのは|当然《たうぜん》で|御座《ござ》います。そこでいよいよ|高天原《たかあまはら》に|上《のぼ》り|給《たま》はむとするとき|山《やま》も|川《かは》も|悉《ことごと》く|動《うご》いた。|国土《くにつち》|皆《みな》|震《ふる》ひ|出《だ》しました。|即《すなは》ち|物質界《ぶつしつかい》の|上《うへ》にも|精神界《せいしんかい》の|上《うへ》にも、|大地震《だいぢしん》があつたのであります。|併《しか》しこれは|形容《けいよう》であつて、|社会《しやくわい》|万民《ばんみん》|総《すべ》てのものが|今更《いまさら》のやうに|驚《おどろ》き、|国土《こくど》の|神々《かみがみ》が|一度《いちど》に|震駭《しんがい》した。|今日《こんにち》の|言葉《ことば》で|言《い》へば|内乱《ないらん》が|起《おこ》つたといふやうな|意味《いみ》で|非常《ひじやう》な|騒《さわ》ぎであります。|須佐之男命《すさのをのみこと》がこれから|根《ね》の|堅洲国《かたすくに》においでになるに|就《つい》ては、|今度《こんど》お|暇乞《いとまご》ひの|為《ため》に|高天原《たかあまはら》にお|上《あが》りになるといふので、|国中《くにぢう》|非常《ひじやう》な|大騒《おほさわ》ぎで、|終《つひ》に|騒乱《さうらん》が|起《おこ》つたのであります。|一方《いつぱう》|天照大御神《あまてらすおほみかみ》|様《さま》は、|今度《こんど》|須佐之男命《すさのをのみこと》が|天《てん》に|上《のぼ》るに|就《つい》て、|国中《くにぢう》|大騒《おほさわ》ぎであるといふことを|聞《きこ》し|召《め》されて、|大《おほ》いにお|驚《おどろ》きになつて、
『あが|汝兄《なせ》の|命《みこと》の|上《のぼ》り|来《き》ます|由《ゆゑ》は、|必《かなら》ず|美《うつく》しき|心《こころ》ならじ、|我《あ》が|国《くに》を|奪《うば》はむと|欲《おもほ》すにこそ』
と|詔《の》り|給《たま》うて|弟《おとうと》の|須佐之男命《すさのをのみこと》が|海原《うなばら》を|治《しら》さずして、|高天原《たかあまはら》に|上《のぼ》つて|来《く》るといふことであるが、これは|必《かなら》ず|美《うつく》しい|心《こころ》ではなからう。|我《わが》|此《この》|主宰《しゆさい》する|所《ところ》の|高天原《たかあまはら》を|占領《せんりやう》に|来《く》るのであらうと|仰《あふ》せになつて、
『|御髪《みかみ》を|解《と》き|御美髪《みみづら》に|纏《ま》かして』
|男《をとこ》の|髪《かみ》のやうに|結《むす》ひ|直《なほ》して|大丈夫《ますらを》の|装束《しやうぞく》をして|数多《あまた》の|部下《ぶか》を|整列《せいれつ》せしめ、|戦《たたか》ひの|用意《ようい》をなさつたのであります。|元来《ぐわんらい》|変性男子《へんじやうなんし》の|霊性《れいせい》はお|疑《うたがひ》が|深《ふか》いもので、わしの|国《くに》を|奪《と》りに|来《く》る、|或《あるひ》は|自分《じぶん》の|自由《じいう》にする|心算《つもり》であらう、|斯《こ》う|御心配《ごしんぱい》になつたのであります。|丁度《ちやうど》これに|似《に》たことが、|明治《めいぢ》|二十五年《にじふごねん》|以来《いらい》のお|筆先《ふでさき》に|非常《ひじやう》に|沢山《たくさん》|書《か》いてあります。|変性女子《へんじやうによし》が|高天原《たかあまはら》へ|来《き》て|潰《つぶ》して|了《しま》うと|云《い》つて、|変性女子《へんじやうによし》の|行動《かうどう》に|対《たい》して|非常《ひじやう》に|圧迫《あつぱく》を|加《くは》へられる。また|女子《によし》が|大本《おほもと》|全体《ぜんたい》を|破壊《つぶ》して|了《しま》うといふやうなことが、お|筆先《ふでさき》に|現《あらは》れて|居《を》ります。それで|教主《けうしゆ》|初《はじ》め|役員《やくゐん》|一同《いちどう》、|教祖《けうそ》の|教《をしへ》の|通《とほ》りに|此《この》|皇国《くわうこく》の|為《た》め、|霊主体従《れいしゆたいじゆう》の|神教《しんけう》を|説《と》いて|日夜《にちや》|務《つと》めて|居《ゐ》るので|御座《ござ》いますが、|併《しか》し|大本教祖《おほもとけうそ》も|変性男子《へんじやうなんし》の|霊魂《みたま》であつて|矢張《やつぱり》|疑《うたがひ》が|深《ふか》いといふ|点《てん》もあります。|天照大御神《あまてらすおほみかみ》|様《さま》は、|疑《うたが》ひ|深《ぶか》くも|弟《おとうと》の|美《うつく》しい|心《こころ》を、これは|悪《わる》い|心《こころ》を|以《もつ》て|来《き》たのではあるまいかとお|疑《うたがひ》になつたのであります。|教祖《けうそ》もさう|云《い》ふ|工合《ぐあひ》に|変性男子《へんじやうなんし》の|神界《しんかい》の|型《かた》が|出来《でき》て|居《ゐ》るのであります。さうして、
『|左右《さいう》の|御美髪《みみづら》にも|御鬘《おかづら》にも、|左右《ひだりみぎ》の|御手《みて》にも、|各《おのおの》|八坂《やさか》の|勾玉《まがたま》の|五百津《いほつ》の|御統真琉《みすまる》の|珠《たま》を|纏《ま》き|持《も》たして、|背《せ》には|千入《ちのり》の|靱《ゆぎ》を|負《お》ひ』
|矢筒《やつつ》や|弓《ゆみ》をお|持《も》ちになりて、
『|伊都《いづ》の|竹鞆《たけとも》を|取《と》り|佩《おは》して|弓腹《ゆはら》を|振《ふ》り|立《た》てて』
|弓《ゆみ》を|一生懸命《いつしやうけんめい》に、ギユツト|満月《まんげつ》の|如《ごと》く|引《ひ》き|絞《しぼ》つて、
『|堅庭《かたには》は|向股《むかもも》に|踏《ふ》みなづみ、|沫雪《あはゆき》なす|蹶《くえ》|散《ばらら》かして、|伊都《いづ》の|男健《をたけ》び|踏《ふ》み|健《たけ》びて|待《ま》ち|問《と》ひ|給《たま》はく』
|男健《をたけ》びといふのは、|角力《すもう》|取《と》りが|土俵《どへう》に|上《あが》つてドンドンと|四股《しこ》を|踏《ふ》んで、|全身《ぜんしん》の|勇気《ゆうき》を|出《だ》す|有様《ありさま》であつて、|弟《おとうと》が|軍勢《ぐんぜい》を|引《ひ》き|連《つ》れて|来《き》たならば|一撃《いちげき》の|下《もと》に|討《う》ち|亡《ほろ》ぼして|了《しま》うて|遣《や》らうと、|高天原《たかあまはら》の|軍勢《ぐんぜい》を|御呼《およ》び|集《あつ》めになつたのであります。
|如何《いか》にも|女神《めがみ》の|勇《いさ》ましさと、|偉《えら》い|勢《いきほひ》を|形容《けいよう》してあります。|弟《おとうと》の|須佐之男命《すさのをのみこと》が|上《のぼ》つて|来《く》るのは、|高天原《たかあまはら》を|攻《せ》め|落《おと》さうと|思《おも》つて|来《く》るのではないかと、|非常《ひじやう》に|御心配《ごしんぱい》になつてそれに|対《たい》する|用意《ようい》をしてお|待《ま》ちになつたのであります。|今日《こんにち》|世人《せじん》や|新聞《しんぶん》|雑誌《ざつし》|記者《きしや》や|既成《きせい》|宗教家《しうけうか》や|学者《がくしや》などが、|大本《おおもと》が|何《なに》か|妙《めう》なことを|考《かんが》へて|居《を》るのではあるまいかと、|変《へん》な|所《ところ》へ|気《き》を|廻《まは》して|居《ゐ》るのと|同《おな》じことであります。そこで、
『|何故《なぞ》|上来《のぼりき》ませると|問《と》ひ|給《たま》ひき』
|汝《な》は|海原《うなはら》を|治《をさ》めて|居《を》ればよいのである。|然《しか》るに|今頃《いまごろ》|何《なに》が|為《た》めに|高天原《たかあまはら》へ|出《で》て|来《き》たかとお|問《と》ひになつた。すると|須佐之男命《すさのをのみこと》が|答《こた》へられた。|私《わたくし》が|今《いま》|来《き》て|見《み》れば、|大変《たいへん》な|防備《ばうび》がしてある。|大変《たいへん》な|軍備《ぐんび》がして|有《あ》りますが、これは|私《わたくし》に|対《たい》する|備《そな》へでせうが、|私《わたくし》は|決《けつ》して|然《さ》う|云《い》ふ|穢《きたな》い|考《かんが》へは|持《も》つて|居《を》りませぬ。ただ|父君《ちちぎみ》|伊邪那岐命《いざなぎのみこと》が|何故《なにゆゑ》その|方《はう》は|泣《な》くかとお|尋《たづ》ねになりましたから、|実状《じつじやう》を|申上《まをしあ》げるのはどうも|辛《つら》う|御座《ござ》いますし、|親様《おやさま》に|心配《しんぱい》をかけるのは|畏《おそ》れ|多《おほ》いと|思《おも》つて、|私《わたくし》は|母《はは》の|国《くに》に|参《まゐ》らうと|思《おも》ひますと|申《まを》し|上《あ》げました|所《ところ》が、|父《ちち》の|大御神《おほみかみ》は|以《もつ》ての|外《ほか》のお|怒《いか》りで、|此《この》|国《くに》を|治《をさ》めるだけの|力《ちから》|無《な》きものなら、|勝手《かつて》に|行《ゆ》けと|仰有《おつしや》つて、|手足《てあし》の|爪《つめ》を|抜《ぬ》き、|鬚《ひげ》をぬき、|髪《かみ》の|毛《け》を|一本《いつぽん》もないやうに、こんな|風《ふう》にせられました。で|私《わたくし》はこれから|母《はは》の|国《くに》に|参《まゐ》りますといふことを|姉上《あねうへ》に|申上《まをしあ》げに|参《まゐ》つたのであります。|然《さ》うしますると|天照大御神《あまてらすおほみかみ》|様《さま》は、|果《はた》して|然《しか》らば、|汝《なんぢ》は|何《なに》によつてその|心《こころ》の|綺麗《きれい》なことを|証明《しようめい》するか、|証拠《しようこ》を|見《み》せて|貰《もら》ひ|度《た》いと|仰《おほ》せられた。そこで|須佐之男命《すさのをのみこと》は、
『|各《おのおの》|誓《ちか》ひて|御子《みこ》|生《う》まな』
|誓《ちか》ひといふことは、|誓約《せいやく》のことであります。|若《も》しも|私《わたくし》が|悪《わる》かつたならば|斯々《かくかく》、|善《よ》かつたならば|斯々《かくかく》といふ|誓《ちか》ひであります。
『|故爾《かれここ》に|各《おのおの》|天《あめ》の|安河《やすかは》を|中《なか》に|置《お》きて|誓《うけ》ふときに』
|天《あめ》の|安河《やすかは》といふのは、|非常《ひじやう》に|清浄《せいじやう》な|所《ところ》を|意味《いみ》するのであります。|総《すべ》て|河《かは》の|流《なが》れのやうに、|少《すこ》しも|滞《とどこほ》らない|留《とど》まらない|所《ところ》は|綺麗《きれい》であります。|物《もの》を|溜《ため》るといふことは|腐敗《ふはい》を|意味《いみ》します。この|綺麗《きれい》な|清《きよ》らかな、|公平《こうへい》|無私《むし》な|所《ところ》を、|天《あめ》の|安河《やすかは》といふのであります。それを|真中《まんなか》にして、|本当《ほんたう》の|公平《こうへい》|無私《むし》なる|鏡《かがみ》を|茲《ここ》に|立《た》てて、さうして|両方《りやうはう》から|誓約《せいやく》をせられました。どう|云《い》ふ|誓約《せいやく》であるかといふに、|須佐之男命《すさのをのみこと》は|十拳《とつか》の|剣《つるぎ》を|持《も》つて|居《を》られた。|剣《つるぎ》といふものは|男《をとこ》の|魂《たましひ》であります。|昔《むかし》から|我《わが》|国《くに》では|刀《かたな》を|武士《ぶし》の|魂《たましひ》|又《また》は|大和魂《やまとだましひ》と|申《まを》して|居《を》ります。|女《をんな》の|魂《たましひ》は|鏡《かがみ》であります。|乃《すなは》ちお|前《まへ》の|魂《たましひ》である|所《ところ》の|剣《つるぎ》を|渡《わた》せと|天照大御神《あまてらすおほみかみ》が|仰《あふ》せられたから、それをお|渡《わた》しになると、|天照大御神《あまてらすおほみかみ》は|三《み》つに|折《を》つて、
『|天《あめ》の|真名井《まなゐ》に|振《ふ》り|滌《すす》ぎてさ|嚼《が》みに|嚼《か》みて|吹《ふ》き|棄《う》つる|気吹《いぶき》の|狭霧《さぎり》に|成《な》りませる|神《かみ》の|御名《みな》は』
|第一番《だいいちばん》にお|生《うま》れになつた|神《かみ》は|多紀理姫命《たぎりひめのみこと》、|次《つぎ》に|市寸嶋比売命《いちきしまひめのみこと》、|次《つぎ》に|多気津姫命《たきつひめのみこと》の|三女神《さんによしん》で|現《げん》に|竹生嶋《ちくぶしま》に|祀《まつ》つてあります。|安芸《あき》の|宮嶋《みやじま》に|祀《まつ》つてありますのは|市杵島姫命《いちきしまひめのみこと》であります。|次《つぎ》に|多紀理姫命《たぎりひめのみこと》、|多岐津比売命《たきつひめのみこと》、この|三人《さんにん》の|女神《めがみ》がお|生《うま》れになつた。|今度《こんど》は|須佐之男命《すさのをのみこと》、この|神様《かみさま》は|非常《ひじやう》に|怖《こは》い、|絵《ゑ》で|見《み》る|鐘馗《しようき》さんみたいな|暴悪《ばうあく》|無類《むるゐ》の|神様《かみさま》のやうに|見《み》える、おまけに|剣《つるぎ》まで|佩《は》ひて|居《を》られる、その|剣《つるぎ》をお|調《しら》べになると、|三人《さんにん》の|綺麗《きれい》な|姫様《ひめさま》がお|生《うま》れになつて|居《ゐ》るのである。この|三女神《さんぢよしん》は|竹生島《ちくぶしま》その|他《た》の|神社《じんじや》に|祀《まつ》つてあります。|三女神《さんぢよしん》の|神名《しんめい》を|言霊上《ことたまじやう》より|解釈《かいしやく》すれば『|多紀理姫命《たぎりひめのみこと》は|尚武勇健《しやうぶゆうけん》の|神《かみ》』『|市寸島姫《いちきしまひめ》は|稜威《りようゐ》|直進《ちよくしん》、|正義《せいぎ》|純直《じゆんちよく》の|神《かみ》』『|多気津姫命《たきつひめのみこと》は|突進的《とつしんてき》|勢力《せいりよく》|迅速《じんそく》の|神様《かみさま》』で|是《これ》が|真正《しんせい》の|瑞《みづ》の|御魂《みたま》の|霊性《れいせい》であります。この|竹生島《ちくぶしま》とは|竹生《たけなり》と|書《か》きまして|昔《むかし》から|武器《ぶき》の|神様《かみさま》としてあります。|即《すなは》ち|武器《ぶき》といふのは、|竹《たけ》が|初《はじ》まりであつて、|先《ま》づ|竹槍《たけやり》を|造《つく》つた。そして|竹《たけ》で|箭《や》を|造《つく》り、|弓《ゆみ》を|拵《こしら》へることを|発明《はつめい》したといふやうな|工合《ぐあひ》に、|今《いま》の|武器《ぶき》の|初《はじ》めは|竹《たけ》であつた|故《ゆゑ》に|武《ぶ》の|字《じ》をタケと|読《よ》むのであります。そこで|今《いま》|建速須佐之男命《たけはやすさのをのみこと》の|持《も》つて|居《を》られました|剣《つるぎ》、つまり|須佐之男命《すさのをのみこと》|様《さま》の|御霊《みたま》である|所《ところ》の|刀《かたな》からは|三人《さんにん》の|姫神《ひめがみ》がお|生《うま》れになつた。|刀《かたな》を|持《も》つて|居《を》るから|建速《たけはや》と|申《まを》すとも|言《い》ひます。|多紀理比売《たぎりひめ》は|手切姫《たぎりひめ》で|斬《き》る。|多岐都比売《たきつひめ》は|手《て》で|突《つ》くといふ|意味《いみ》にもなります。|伊突姫《いつきひめ》も|突刺《つきさ》す|意味《いみ》である。すると|槍《やり》とか|剣《つるぎ》とかは|伊突《いつ》き、|手切《たぎ》り、|手断突《たきつ》の|働《はたら》きになつて|居《を》ります。|兎《と》に|角《かく》|立派《りつぱ》な|綺麗《きれい》な|極《ごく》|従順《じうじゆん》な|鏡《かがみ》の|如《ごと》き|姫神様《ひめがみさま》でありました。それで|之《こ》れを|瑞《みづ》の|霊《みたま》とも、|三人《みつ》の|霊《みたま》とも|申《まを》します。|三月三日《さんぐわつみつか》の|節句《せつく》を|女《をんな》の|節句《せつく》として|祝《いは》ひますのも|然《さ》う|云《い》ふ|所《ところ》から|出《で》て|居《を》ります。それから|今度《こんど》は|須佐之男命《すさのをのみこと》が|天照大御神《あまてらすおほみかみ》の|御用《おもち》ゐになつて|居《を》ります|珠《たま》、|平和《へいわ》の|象徴《しやうちやう》たる|所《ところ》の|飾《かざ》りの|八坂《やさか》の|勾瓊《まがたま》を|御受《おう》けになつて、|天《あま》の|真名井《まなゐ》の|綺麗《きれい》な|水《みづ》にお|滌《すす》ぎになつて、
『さがみにかみて|吹《ふ》き|棄《う》つる|気吹《いぶき》の|狭霧《さぎり》に|成《な》りませる|神《かみ》の|御名《みな》は』
|玉《たま》と|云《い》ふものは|元来《ぐわんらい》|清《きよ》く|美《うつく》しい|光《ひか》り|輝《かがや》く|真善美《しんぜんび》のものであつて、|刀《かたな》の|如《ごと》くに|斬《き》つたり|突《つ》いたりするものではありませぬ。|実《じつ》に|平和《へいわ》に|見《み》えるものであります。これは|左《ひだり》とか|右《みぎ》りとか|沢山《たくさん》ありますけれども|長《なが》くなりますから|委《くわ》しく|申上《まをしあ》げませぬ。|而《しか》して|気吹《いぶき》の|狭霧《さぎり》になりませるとありますのは、|此処《ここ》はつまり|鎮魂《ちんこん》であります。|初《はじ》め|先《ま》づ|鎮魂《ちんこん》して|各自《かくじ》の|霊《れい》を|調《しら》べるのであります。|吾々《われわれ》の|静坐《せいざ》|瞑目《めいもく》して|致《いた》して|居《を》ります|所《ところ》の|鎮魂《ちんこん》と|同《おな》じ|意味《いみ》であります。|如何《いか》なる|守護神《しゆごじん》が|現《あら》はれてゐるか、|霊魂《みたま》の|集中《しうちう》を|審《あらた》めて|見《み》るので|御座《ござ》います。そこでお|生《うま》れになりましたのが、|正勝吾勝勝速日天《まさかあかつかちはやひあめ》の|忍穂耳命《おしほみみのみこと》、|不撓不屈《ふたうふくつ》|勝利光栄《しようりくわうえい》の|神《かみ》、|次《つぎ》に|鎮魂《ちんこん》してお|生《うま》れになつたのが|天《あめ》の|菩卑能命《ほひのみこと》、|血染焼尽《ちぞめせうじん》の|神《かみ》。|次《つぎ》が|天津日子根《あまつひこね》の|命《みこと》、|破壊屠戮《とりく》の|神《かみ》。|次《つぎ》に|活津彦根命《いきつひこねのみこと》、|打撃《だげき》|攻撃《こうげき》|電撃《でんげき》の|神《かみ》。|次《つぎ》が|熊野久須毘命《くまぬくすびのみこと》、|両刃《もろは》|長剣《ちやうけん》の|神《かみ》。|都合《つがふ》|五柱《いつはしら》の|男《をとこ》の|命《みこと》がお|生《うま》れになつたのであります。|天照大御神《あまてらすおほみかみ》は|姿《すがた》は|女《をんな》である。|女《をんな》の|肉体《にくたい》をお|有《も》ちであつたので|御座《ござ》いますが、その|霊《れい》は|以上《いじやう》|述《の》べた|如《ごと》く|実《じつ》に|勇壮《ゆうさう》|無比《むひ》の|男神《だんしん》でありました。|鎮魂《ちんこん》の|結果《けつくわ》お|生《うま》れ|遊《あそ》ばしたのは|五柱《いつはしら》の|男《をとこ》の|神様《かみさま》の|霊性《れいせい》が|現《あら》はれた、それで|姿《すがた》は|女《をんな》であつて|男《をとこ》の|御霊《みたま》を|備《そな》へて|居《を》られますから、|天照大御神《あまてらすおほみかみ》を|変性男子《へんじやうなんし》と|申《まを》し、|厳《いづ》の|御魂《みたま》と|申《まを》し、|須佐之男命《すさのをのみこと》は|姿《すがた》は|男《をとこ》であつても|女《をんな》の|霊《れい》をおもちであつたから|変性女子《へんじやうによし》と|謂《い》ひ|瑞《みづ》の|御魂《みたま》といふので|御座《ござ》います。|而《しか》して|前《まへ》の|三女《みつ》の|霊《みたま》に|対《たい》して、この|五柱《いつはしら》の|命《みこと》を|五男《いつ》の|霊《みたま》とも|申《まを》します。|之《これ》を|仏教《ぶつけう》では|八大竜王《はちだいりうわう》と|唱《とな》へまして、|京都《きやうと》の|祇園《ぎをん》では|八王子《はちわうじ》というて|御祭《おまつ》りになつて|在《あ》ります。
|茲《ここ》で|初《はじ》めて|須佐之男命《すさのをのみこと》は|表面《へうめん》|怖《こは》い|暴逆《ばうぎやく》な|神様《かみさま》であるけれども|実《じつ》は|極《ご》く|優美《やさ》しい、|善《よ》い|心《こころ》の|神様《かみさま》であるといふことが|解《わか》り、これに|引《ひ》きかへ|天照大御神《あまてらすおほみかみ》は|極《ご》くお|優《やさ》しい、|鏡《かがみ》からぬけ|出《いで》たやうな|玲瓏《れいろう》たるお|方《かた》でありますけれども、|前《まへ》の|言霊解《ことたまかい》の|如《ごと》き|御霊《みたま》があつたのであります。
ここで|一《ひと》つよく|考《かんが》へなければならぬ|事《こと》は|天照大御神《あまてらすおほみかみ》のお|言葉《ことば》に、
『|言向《ことむ》け|和《や》はせ』
と|書《か》いてありますが、|言葉《ことば》を|以《もつ》て|世界《せかい》を|治《をさ》めよといふことになります。さうしますと|天照大御神《あまてらすおほみかみ》は|外交《ぐわいかう》の|難《むづか》しい|事《こと》について|御子孫《ごしそん》にお|示《しめ》しになつたのでありまして、どこまでも|此《この》|珠《たま》を|以《もつ》て|充分《じうぶん》に|平和《へいわ》を|旨《むね》として|治《をさ》めて|行《ゆ》かなくてはいかぬといふ|御心《おこころ》でありました。|然《しか》るに|須佐之男命《すさのをのみこと》は|根《ね》の|堅洲国《かたすのくに》へ|行《ゆ》くについても、|武備《ぶび》を|非常《ひじやう》に|盛《さか》んにして|軍艦《ぐんかん》を|沢山《たくさん》に|拵《こしら》へ、|大砲《たいはう》を|沢山《たくさん》|造《つく》るといふ、|所謂《いはゆる》|武装的《ぶさうてき》|平和《へいわ》のお|心《こころ》である。|斯《こ》う|考《かんが》へますと、|今《いま》の|外国《ぐわいこく》の|主義《しゆぎ》が|須佐之男命《すさのをのみこと》のと|同《おな》じである。|体主霊従《たいしゆれいじう》である。|天照大御神《あまてらすおほみかみ》は|日本国《にほんこく》になつて|居《を》るといつてもよいと|思《おも》ひます。|日本人《にほんじん》の|心《こころ》の|中《なか》には|武備《ぶび》がある。|大和魂《やまとだましひ》がある。けれども|表面《へうめん》には|武装《ぶさう》がないのである。いざといふ|場合《ばあひ》には|稜威《いづ》の|雄健《をたけ》び、|踏健《ふみたけ》びをしなくてはならぬがその|間《かん》には|常《つね》に|極《ご》く|平和《へいわ》に|落着《おちつ》いて|居《を》る。|然《しか》るに|外国《ぐわいこく》は|始終《しじう》|刀《かたな》を|有《もつ》てゐる。|外《そと》に|向《むか》つて|十拳《とつか》の|剣《つるぎ》を|握《にぎ》つてゐるけれども、|愈《いよいよ》|戦《たたか》ふとなれば、あちらは|三人《さんにん》の|女《をんな》の|神様《かみさま》であるのに|反《はん》して、|表面《へうめん》|弱《よわ》い|如《ごと》くに|見《み》えても|五人《ごにん》の|男《をとこ》の|神様《かみさま》の|霊性《れいせい》が|出《で》て|来《く》るのである。この|霊《れい》および|身魂《みたま》のことに|就《つい》てはお|筆先《ふでさき》にも|出《で》て|居《を》ります。|身魂《みたま》の|善悪《ぜんあく》を|改《あらた》めると|申《まを》されてあります。
『|是《ここ》に|天照大御神《あまてらすおほみかみ》、|須佐之男命《すさのをのみこと》に|告《の》り|給《たま》はく』
|後《あと》から|生《うま》れた|所《ところ》の|五柱《いつはしら》の|神《かみ》はわしの|有《も》つて|居《ゐ》る|珠《たま》から|出《で》て|来《き》たものであるから|自分《じぶん》の|子《こ》である。|所謂《いはゆる》|自分《じぶん》の|魂《たま》から|出《で》た|男神《なんしん》はみな|自分《じぶん》の|子《こ》である。それから|先刻《せんこく》|生《うま》れた|姫御児《ひめみこ》はその|種《たね》が|汝《なれ》が|魂《たま》|十拳《とつか》の|剣《つるぎ》から|出《で》たのだからこれは|汝《なんぢ》の|子《こ》であると|仰有《おつしや》つた。これで|身魂《みたま》の|立《た》て|分《わ》けが|出来《でき》た。|須佐之男命《すさのをのみこと》は|変性女子《へんじやうによし》で、|天照大御神《あまてらすおほみかみ》は|変性男子《へんじやうなんし》であるといふことが|明《あきら》かになつた。|所《ところ》が|須佐之男命《すさのをのみこと》は、|姉《あね》|天照大御神《あまてらすおほみかみ》は|今迄《いままで》は|私《わたくし》の|心《こころ》を|疑《うたが》うて|御座《ござ》つたが、これで|私《わたくし》の|清明《せいめい》|潔白《けつぱく》な|事《こと》は|証拠《しようこ》|立《だ》てられた。|私《わたくし》の|心《こころ》の|綺麗《きれい》な|事《こと》は|私《わたくし》の|魂《たましひ》から|生《うま》れた|手弱女《たをやめ》によつて|解《わか》りませう。あの|弱々《よわよわ》しい|女子《によし》では|戦《いくさ》をする|事《こと》は|出来《でき》ますまい。|斯《こ》う|考《かんが》へたならば|最前《さいぜん》あなたは、|私《わたくし》が|高天原《たかあまはら》を|奪《と》りに|来《き》たらうと|仰《おほせ》られたがあれは|間違《まちが》ひでせう。|私《わたくし》の|言《い》ふことが|本当《ほんたう》でせう。
『これによりて|言《まを》さば|自《おのづか》ら|我《われ》|勝《かち》ぬと|言《い》ひて、|勝《かち》さびに|天照大御神《あまてらすおほみかみ》の|営田《みつくだ》の|畔離《あはな》ち、|溝埋《みぞう》め、|亦《また》|其《そ》の|大嘗《おほにへ》|聞《きこ》し|召《め》す|殿《との》に|屎《くそ》まり|散《ち》らしき』
この|言葉《ことば》は|少《すくな》いけれども、この|意味《いみ》は、|当時《たうじ》|須佐之男命《すさのをのみこと》|様《さま》にも|尚《な》ほ|沢山《たくさん》の|臣下《しんか》が|在《あ》つた。|茲《ここ》に|須佐之男命《すさのをのみこと》に|反対《はんたい》するものと、|味方《みかた》するものとが|出来《でき》て|来《き》たので|迷《まよ》ひが|起《おこ》つたのであります。|須佐之男命《すさのをのみこと》がお|勝《かち》になつて、|増長《ぞうちよう》なさつたといふよりも|寧《むし》ろ、|私《わたくし》の|綺麗《きれい》な|心《こころ》は|解《わか》つた|筈《はず》である。|然《しか》るに|尚《なほ》|悪《わる》いと|仰《あふ》せになるのは|心地《ここち》が|悪《わる》い、|不快《ふくわい》であるといふので|終《つひ》に|自暴自棄《じばうじき》に|陥《おちい》つたのであります。やけくそを|起《おこ》した|結果《けつくわ》が、|田《た》の|畦《あぜ》を|壊《こは》したり、|溝《みぞ》を|埋《うづ》めたり、|御食事《おしよくじ》をなさる|所《ところ》へ|糞《くそ》をやり|散《ち》らして、いろいろ|乱暴《らんばう》のあらむ|限《かぎ》りを、|須佐之男命《すさのをのみこと》に|味方《みかた》する|系統《けいとう》の|者《もの》が|行《おこな》つたのであります。|天照大御神《あまてらすおほみかみ》は|此《この》|状態《じやうたい》を|御覧《ごらん》になり、|弟《おとうと》は|決《けつ》してあの|多量《たりやう》の|糞《くそ》をまいたりする|筈《はず》はない、|酒《さけ》に|酔《よ》つて|何《なに》か|吐《は》いたのであらう。|畔《あぜ》を|離《はな》ちたり、|溝《みぞ》を|埋《う》めるのは、|丁度《ちやうど》|今《いま》でいふ|耕地《かうち》|整理《せいり》のやうなもので、いらぬ|畔《あぜ》や|溝《みぞ》を|潰《つぶ》して|沢山《たくさん》|米《こめ》が|出来《でき》るようにする|為《た》めだらうと、|所謂《いはゆる》|直日《なほひ》に|見直《みなほ》し|詔《の》り|直《なほ》して、|一切《いつさい》のことを|総《すべ》て|善意《ぜんい》に|御解釈《ごかいしやく》されて|所謂《いはゆる》|詔《の》り|直《なほ》し|給《たま》うたのであります。|何《なん》でも|善《い》い|方《はう》に|解《かい》して|行《ゆ》けば|波瀾《はらん》は|少《すくな》いもので|御座《ござ》います。|天照大御神《あまてらすおほみかみ》も|善意《ぜんい》に|解《かい》して|居《を》られましたけれども、|御神意《ごしんい》を|悟《さと》らぬ|神等《かみたち》の|乱暴《らんばう》は|愈《いよいよ》|長《ちやう》じて|遣《や》り|方《かた》が|余《あま》りに|酷《ひど》くなる。|八百万《やほよろづ》の|神様《かみさま》|方《がた》がどうしてもお|鎮《しづ》まりがない。|世《よ》の|中《なか》が|大騒《おほさわ》ぎになつた。|彼方《あちら》でも|此方《こちら》でも|暴動《ばうどう》が|起《おこ》る。|無茶苦茶《むちやくちや》な|有様《ありさま》になつた。そのうちに、
『|天照大御神《あまてらすおほみかみ》、|忌服屋《いむはたや》に|坐《まし》まして、|神御衣《かむはた》|織《お》らしめ|給《たま》ふときに、|其《そ》の|服屋《はたや》の|頂《むね》を|穿《うが》ちて、|天《あめ》の|斑馬《ふちこま》を|逆剥《さかは》ぎに|剥《は》ぎて|堕《おと》し|入《い》るるときに、|天《あめ》の|御衣織女《みそおりめ》、|見驚《みおどろ》きて|梭《ひ》に|陰上《ほと》を|衝《つ》きて|死《みう》せき』
|斯《こ》う|云《い》ふ|事件《じけん》が|起《おこ》つたので|御座《ござ》います。ここで|機《はた》を|織《お》るといふことは、|世界《せかい》の|経綸《けいりん》といふことであります。|経《たて》と|緯《よこ》との|仕組《しぐみ》をして|頂《いただ》いて|居《を》つたのであります。すると|此《この》|経綸《けいりん》を|妨《さまた》げた。|天《あめ》の|斑馬《ふちこま》|暴《あば》れ|馬《うま》の|皮《かは》を|逆剥《さかはぎ》にして、|上《うへ》からどつと|放《はな》したので、|機《はた》を|織《お》つて|居《ゐ》た|稚比売《わかひめ》の|命《みこと》は|大変《たいへん》に|驚《おどろ》いた。|驚《おどろ》いた|途端《とたん》に|梭《をさ》に|秀処《ほと》を|刺《さ》し|亡《な》くなつてお|了《しま》ひになつたのであります。さあ|大変《たいへん》な|騒動《さうだう》になつて|来《き》た。
(大正九・一〇・一五 講演筆録)
(大正一一・三・六 旧二・八 谷村真友再録)
第三〇章 |天《あま》の|岩戸《いはと》〔五二六〕
|今迄《いままで》|耐《こら》へに|耐《こら》へておいでになつた|天照大御神《あまてらすおほみかみ》は、|余《あま》りの|事《こと》に|驚《おどろ》き|且《かつ》お|怒《いか》り|遊《あそ》ばして|是《これ》ではもう|堪《たま》らぬといふので、|天《あま》の|岩屋戸《いはやど》を|建《た》てて|直様《すぐさま》その|中《なか》にお|入《はい》りになり、|戸《と》を|堅《かた》く|閉《とざ》してお|籠《こも》りになつて|了《しま》つた。|是《これ》も|亦《また》|形容《けいよう》でありまして、|小《ちひ》さく|譬《たとへ》て|見《み》ますれば、この|東京市《とうきやうし》は|市長《しちやう》が|治《をさ》めて|居《を》る。|然《しか》るに|到底《たうてい》|私《わたくし》の|力《ちから》では|東京《とうきやう》は|治《をさ》まらない、|仕方《しかた》がないと|言《い》つて|辞職《じしよく》して|了《しま》ふ。|市役所《しやくしよ》に|出《で》て|来《こ》ない|様《やう》になる。|一国《いつこく》に|就《つい》て|言《い》へば|総理《そうり》|大臣《だいじん》が|私《わたくし》の|力《ちから》でこの|国《くに》は|治《をさ》まらないからと|言《い》つて|辞職《じしよく》して|了《しま》ふ。|一国《いつこく》にしても|一市《いちし》にしても、|主宰者《しゆさいしや》が|居《を》らぬでは|外《ほか》の|者《もの》にはどうする|事《こと》も|出来《でき》ないと|云《い》ふ|其《その》|人《ひと》に|辞職《じしよく》されて|了《しま》うたなら|其《その》|国《くに》なり|其《その》|市《し》なりはどうでせう。|詰《つま》り|此《この》|只今《ただいま》でいふ|辞職《じしよく》といふのが、|天《あま》の|岩屋戸《いはやど》へ|天照大御神《あまてらすおほみかみ》がお|籠《こも》りになつたと|同《おな》じ|様《やう》なことであります。
『|即《すなは》ち|高天原《たかあまはら》|皆《みな》|暗《くら》く|葦原《あしはら》の|中津国《なかつくに》|悉《ことごと》に|闇《くら》し』
|真暗闇《まつくらやみ》では|何《ど》うしようにも|方針《はうしん》がつかない、|葦原《あしはら》の|中津国《なかつくに》の|大政府《だいせいふ》が|仆《たほ》れた|為《ため》に|其《その》|所在地《しよざいち》たる|高天原《たかあまはら》を|初《はじ》め|全国《ぜんこく》が|火《ひ》の|消《き》えたる|如《ごと》くになつて|了《しま》つた。|下《しも》の|方《はう》の|者《もの》では|施政《しせい》の|方針《はうしん》は|分《わか》らない。どうもかうも|手《て》のつけ|様《やう》がない。
『|茲《ここ》に|万《よろづ》の|神《かみ》のおとなひは、|五月蠅《さばへ》なす|皆《みな》|湧《わ》き、|万《よろづ》の|妖《わざはひ》|悉《ことごと》に|発《おこ》りき』
|今度《こんど》はもう|昼《ひる》も|夜《よる》もない|真暗《まつくら》がりぢや。|斯《か》うなつて|来《く》ると|世《よ》の|中《なか》はどうなり|行《ゆ》くか、|丁度《ちやうど》|今日《こんにち》に|就《つい》て|考《かんが》へて|見《み》ると|面白《おもしろ》い。|政治《せいぢ》は|勿論《もちろん》|教育《けういく》も|経済《けいざい》も、|内治《ないぢ》も|外交《ぐわいかう》も|滅茶《めつちや》|苦茶《くちや》である。|一切《いつさい》|万事《ばんじ》|真暗《まつくら》がりの|世《よ》になつてゐる。どこにどうしようにも|見当《けんたう》がつかない。|斯《か》うなつて|来《く》ると、|此《これ》に|発《はつ》して|来《く》るのは|各《かく》|階級《かいきふ》の|風俗《ふうぞく》の|紊乱《びんらん》であります。|不良《ふりやう》|人民《じんみん》が|殖《ふ》ゑ|窃盗《せつたう》が|横行《わうかう》し、|強盗《がうたう》が|顔《かほ》を|出《だ》す、|神代《かみよ》に|於《おい》ても、|万《よろづ》の|妖《わざはひ》が|総《すべ》ての|事《こと》に、|彼方《あちら》にも|此方《こちら》にも|五月《ごぐわつ》の|蠅《はい》の|如《ごと》くに|発生《はつせい》して|来《き》たのである。|之《これ》を|天《あま》の|岩屋戸《いはやど》|隠《がく》れと|申《まを》すのでありますけれども、|今日《こんにち》の|世態《せたい》を|考《かんが》へますと、|恰《あたか》も|神代《かみよ》に|於《お》ける|岩屋戸《いはやど》の|閉《た》てられた|時《とき》と|同《おな》じやうに|思《おも》はれます。
『|是《これ》を|以《もつ》て|八百万《やほよろづ》の|神《かみ》』
はどうする|事《こと》も|出来《でき》ないから、
『|天《あめ》の|安河原《やすかはら》に|神集《かむつど》ひに|集《つど》ひて』
|相談《さうだん》をなされた。|之《これ》を|高天原《たかあまはら》|即《すなは》ち|天上《てんじやう》の|議場《ぎぢやう》に|集《あつ》まつたのだと|云《い》ふ|人《ひと》もあります。|平等《びやうどう》なる|神々様《かみがみさま》が、|物《もの》を|洗《あら》ふ、|流《なが》すと|云《い》ふ|意味《いみ》の|公平《こうへい》|無私《むし》なる|土地《とち》に|集《あつ》まつたのであります。|安《やす》ということは|安全《あんぜん》と|云《い》ふことで、この|安《やす》らかなる|地点《ちてん》|即《すなは》ち|風水火《ふうすゐくわ》なり|饑病戦《きびやうせん》なりその|他《た》|総《すべ》ての|禍災《くわさい》を|防《ふせ》ぐことの|出来《でき》る、|然《しか》も|何等《なんら》|圧迫《あつぱく》を|被《かうむ》ることのない|場所《ばしよ》であります。さうしてこの|清《きよ》らかな|場所《ばしよ》へは、|上下《じやうげ》|貴賤《きせん》の|区別《くべつ》なく|総《すべ》ての|人々《ひとびと》が、|国《くに》を|憂《うれ》ひ、|国家《こくか》を|救《すく》はなくてはならぬと|云《い》ふ、|潔《きよ》らかな|精神《せいしん》を|以《もつ》て|集《あつ》まつて|来《き》たのであります。
『|高御産巣日《たかみむすび》の|神《かみ》の|御子《みこ》、|思兼《おもひかね》の|神《かみ》に|思《おも》はしめて』
この|思兼《おもひかね》の|神《かみ》は|今日《こんにち》でいうと|枢密院《すうみつゐん》の|議長《ぎちやう》といふ|様《やう》な|役目《やくめ》であります。|一番《いちばん》|思慮《しりよ》の|深《ふか》い|人《ひと》、さうして|神《かみ》の|教《をしへ》を|受《う》けた|人《ひと》、この|人《ひと》に|天《あま》の|岩屋戸《いはやど》を|開《ひら》き|天下《てんか》を|救《すく》ふべき|方法《はうはふ》を|尋《たづ》ねまして、その|結果《けつくわ》、
『|常夜《とこよ》の|長鳴鳥《ながなきどり》を|集《つど》へて|鳴《な》かしめて』
|常夜《とこよ》といふのは|常闇《とこやみ》の|世《よ》の|事《こと》であります。|即《すなは》ち|永遠無窮《ゑいゑんむきう》に|日月《じつげつ》と|共《とも》に、|国事《こくじ》に|就《つい》て|憂《うれ》ひ|活動《くわつどう》をして|居《を》る|神《かみ》、|此等《これら》の|神《かみ》|等《たち》を|集《あつ》めて|泣《な》かせるといふのは|各自《めいめい》に|意見《いけん》を|吐《は》かせると|云《い》ふ|事《こと》である。その|結果《けつくわ》、
『|天《あめ》の|安《やす》の|河《かは》の|河上《かはかみ》の|天《あめ》の|堅石《かたいは》を|取《と》り、|天《あめ》の|金山《かなやま》の|鉄《かね》を|取《と》りて、|鍛人《かぬち》、|天津麻羅《あまつまら》を|求《ま》ぎて、|伊斯許理度売《いしこりどめ》の|命《みこと》に|科《おほ》せて|鏡《かがみ》を|作《つく》らしめ』
この|堅《かた》い|石《いは》を|取《と》るといふことは、|皇化《くわうくわ》|万世《ばんせい》|動《うご》かぬ|岩《いは》に|松《まつ》といふ、|天《てん》から|下《くだ》つた|所《ところ》の|教《をしへ》を|取《と》るといふことである。|天《あめ》の|金山《かなやま》の|鉄《かね》を|取《と》るといふことはどちらもカネである。|鍛人《かぬち》、これは|鍛冶屋《かぢや》といふ|意味《いみ》でありますけれども、|総《すべ》て|世《よ》を|治《をさ》めるに|必要《ひつえう》なる|道具《だうぐ》、|一切《いつさい》の|武器《ぶき》などを|拵《こしら》へたのであります。|次《つぎ》に|鏡《かがみ》を|造《つく》らしめる。|鏡《かがみ》は|人物《じんぶつ》の|反映《はんえい》である。|霊能《れいのう》の|反映《はんえい》である。|故《ゆゑ》に|歴代《れきだい》の|天皇《てんのう》は|之《これ》を|御祀《おまつ》りになつて|居《を》る。|鏡《かがみ》は|皇室《くわうしつ》の|宝物《ほうもつ》になつて|居《を》るのであります。|鏡《かがみ》は|神《かみ》であります。さうして|言霊《ことたま》であります。|言霊《ことたま》|七十五音《しちじふごおん》を|真澄《ますみ》の|鏡《かがみ》と|申《まを》します。|三種《さんしゆ》の|神器《しんき》の|一《ひとつ》を|八咫《やあた》の|鏡《かがみ》と|申《まを》すのは|即《すなは》ち|七十五声《しちじふごせい》の|言霊《ことたま》であります。それから|言霊《ことたま》が|日本人《にほんじん》のは|非常《ひじやう》に|円満清朗《ゑんまんせいろう》であるといふのは、|是《これ》は|日本《にほん》の|国《くに》に|金《きん》の|徳《とく》があるからであります。|地《ち》の|中《なか》に|金《きん》といふものが|多《おほ》い、|外国《ぐわいこく》と|違《ちが》うて|黄金《わうごん》の|精《せい》が|多《おほ》い。|故《ゆゑ》に|日本人《にほんじん》の|音声《おんせい》は|清《きよ》いのであります。|鳴物《なりもの》でも|金《きん》が|入《はい》つて|居《ゐ》ると|善《よ》い|音《ね》が|出《で》ます。|金《きん》の|多《おほ》いと|云《い》ふ|事《こと》の|為《ため》に|天《あめ》の|金山《かなやま》の|鉄《かね》を|取《と》りてと|出《で》て|居《を》るのであります。それから|伊斯許理度売命《いしこりどめのみこと》に|鏡《かがみ》を|作《つく》らしめるとは、|伊斯許理度売命《いしこりどめのみこと》の|伊《い》は|発音《はつおん》であつて、|斯許理《しこり》といふのは|熱中《ねつちゆう》することで、|一生懸命《いつしやうけんめい》に|国《くに》の|為《ため》に|奔走《ほんそう》する|神《かみ》、さういふ|神《かみ》を|寄《よ》せて|言霊《ことたま》の|鏡《かがみ》を|作《つく》らせたのであります。|次《つぎ》に、
『|珠《たま》を|作《つく》らしめ』
|又《また》
『|天《あま》の|香山《かぐやま》の|真男鹿《さをしか》』
の|角《つの》を|取《と》つて|占《うら》なはしめることになつた。|天《てん》の|香山《かぐやま》といふのは|鼻成山《はななすやま》と|云《い》ふ|意義《いぎ》で、|神人《しんじん》を|生《い》かす|山《やま》の|事《こと》であります。|此《この》
『|天《あま》の|香山《かぐやま》の|真男鹿《さをしか》の|肩《かた》を|打抜《うちぬ》きに|抜《ぬ》きて』
さうして|何《ど》ういふことをしたらよいか|神勅《しんちよく》を|乞《こ》はれたのであります。|今《いま》の|神占《おみくじ》は|殆《ほとん》どそんなことはありませぬが、|昔《むかし》は|鹿《しか》の|骨《ほね》を|火《ひ》に|焼《や》いて、その|割目《われめ》で|吉凶《きちきよう》を|占《うらな》うた。|実際《じつさい》|八百万《やほよろづ》の|神《かみ》が|集《あつ》まつて、|種々雑多《しゆじゆざつた》なことをして|国《くに》の|為《た》めにどうしたらよいかと|考《かんが》へた。|其《その》|中《うち》には|易《えき》を|見《み》る|神《かみ》もあつたので|御座《ござ》います。|易《えき》を|見《み》て|方針《はうしん》を|決《き》めたり、|其《その》|他《た》いろいろに|考《かんが》へ、|四方《しはう》|八方《はつぱう》から|考《かんが》へて|行《い》つた|結果《けつくわ》、そこで|初《はじ》めて、|岩屋戸《いはやど》を|開《ひら》くに|就《つい》ては|祭典《さいてん》をして|天神地祇《てんしんちぎ》を|祭《まつ》らなくてはいかぬといふことに|決《きま》つた。|先《ま》づ、
『|真賢木《まさかき》を、|根抜《ねこぢ》に|掘《こじ》て、|上枝《ほつえ》に|八咫《やさか》の|勾珠《まがたま》の、|五百津《いほつ》の|御統麻琉《みすまる》の|玉《たま》を|取《と》り|著《つ》け、|中枝《なかつえ》には、|八咫鏡《やあたかがみ》を|取《と》りかけ、|下枝《しづえ》に、|白丹寸手《しろにぎて》、|青丹寸手《あをにぎて》を|取《と》り|垂《し》でて』
つまりこれは|今日《こんにち》で|言《い》ふ|神楽《かぐら》であります。|伊勢《いせ》|神宮《じんぐう》では|昔《むかし》から|十二組《じふにくみ》の|大神楽《だいかぐら》がありますが、これは|岩屋戸《いはやど》|開《びら》きの|事《こと》をお|示《しめ》しになつて|居《を》るのであります。
|前《まへ》にも|申上《まをしあ》げましたやうに|現代《げんだい》の|世態《せたい》を|考《かんが》へますると|今日《こんにち》は|所謂《いはゆる》|世界《せかい》の|大神楽《だいかぐら》を|奏《そう》しなくてはならぬときであります。あのお|神楽《かぐら》のときに|出《で》て|参《まゐ》りまする|翁獅子《おきなじし》、あれは|既《すで》に|大《おほ》きなおそろしい|面《つら》をした|獅子《しし》を|被《かぶ》つて、|刀《かたな》を|口《くち》にくはへ|毛《け》を|下《た》らして|居《を》る。この|形《かたち》は|何《なん》であるか。|眼《め》は|金《きん》、|鼻《はな》の|孔《あな》も|金《きん》、|歯《は》も|金《きん》、|而《しか》も|其《その》|口《くち》を|動《うご》かして、|本当《ほんたう》に|恐《おそ》ろしいやうであるけれど、|真中《まんなか》には|人《ひと》が|入《はい》つて|操《あやつ》つて|居《を》るばかりか、|頭《あたま》の|方《はう》こそ|立派《りつぱ》だが|後《うしろ》の|方《はう》には|尾《を》も|何《なに》もない。だんだらの|条《すぢ》のやうなものが|入《はい》つてゐる|布《ぬの》に|過《す》ぎない。そこにも|人《ひと》が|隠《かく》れて|居《ゐ》て|前《まへ》の|者《もの》と|調子《てうし》を|合《あは》せて|操《あやつ》つて|居《ゐ》る。これが|獅子舞《ししまひ》の|真相《しんさう》であります。|所《ところ》で|今日《こんにち》の|世界《せかい》の|外交術《ぐわいかうじゆつ》は|皆《みな》この|獅子舞《ししまひ》であります。|表面《へうめん》は|非常《ひじやう》に|大《おほ》きないはゆる|獅子口《ししぐち》を|開《あ》けて、|今《いま》にも|噛《か》みつきさうにして、|怖《おそ》ろしいやうであるが、|中《なか》に|入《はい》つて|見《み》ると、|人《ひと》が|獅子《しし》の|口《くち》を|開《あ》けて|舞《ま》うてゐるのである。ちやうど|今日《こんにち》は|神楽《かぐら》をあげてゐるのである。それから|大神楽《だいかぐら》のときに|芸人《げいにん》が|鞠《まり》を|上《あ》げたり、|下《おろ》したりする。これは|霊《みたま》の|上《あが》り|下《さが》りを|示《しめ》して|居《を》るのである。また|一尺《いつしやく》|位《ぐらゐ》の|両端《りやうたん》に|布切《ぬのぎ》れの|付《つ》いた|妙《めう》な|棒《ぼう》のやうなものを|上《あ》げたり|下《おろ》したりする。これは|世《よ》の|中《なか》の|柱《はしら》が、|上《うへ》のものは|下敷《したじき》となり|下《した》のものは|上《うへ》になりて|行《ゆ》く、|即《すなは》ち|立替《たてかへ》をするといふことを|示《しめ》してあるのである。それから|盆《ぼん》の|上《うへ》や|傘《かさ》の|背《せ》に|一文銭《いちもんせん》を|転《ころ》がせて|一生懸命《いつしやうけんめい》きりきり|廻《まは》して|居《を》る。これは|何《なに》をして|居《を》るのであるかといふと、|今日《こんにち》の|世《よ》の|中《なか》は|金融《きんゆう》が|逼迫《ひつぱく》して、|一文《いちもん》の|金《かね》も|一生懸命《いつしやうけんめい》に|走《はし》り|廻《まは》つてゐる。|千円《せんゑん》の|財産《ざいさん》でもつて|一万円《いちまんゑん》も|二万円《にまんゑん》もの|仕事《しごと》をしてゐる。だから|一朝《いつてう》|経済界《けいざいかい》の|変調《へんてう》が|起《おこ》るとポツツリ|運転《うんてん》が|止《とま》つて|了《しま》ふ。そう|云《い》ふ|工合《ぐあひ》に|金融《きんゆう》が|切迫《せつぱく》してゐると|云《い》ふ|事《こと》を|表《あらは》してゐる。|次《つぎ》に|剣《つるぎ》の|舞《まひ》をやつて|居《を》る。|頭《あたま》を|地《ち》につけて|反《そ》り|身《み》になつて|一生懸命《いつしやうけんめい》にやつてゐる。これはいはゆる|危険《きけん》な|相互《さうご》|傷《きずつ》き|倒《たふ》れると|云《い》ふ|戦争《せんそう》をして|居《を》る|意味《いみ》である。それから|茶碗《ちやわん》に|水《みづ》をつぎ|込《こ》み|長《なが》い|細《ほそ》い|竹《たけ》の|先《さき》にのせて、|下《した》から|芸人《げいにん》がキリキリ|廻《まは》して|居《を》る。あの|通《とほ》り|危《あやふ》い。|茶碗《ちやわん》が|落《お》ちたらポカンと|割《わ》れる。|無論《むろん》|水《みづ》はこぼれる。|所《ところ》が|落《お》ちないのはこのキリキリ|廻《まは》して|居《を》る|竹《たけ》の|所《ところ》が|要《かなめ》であるからで、すなはち|要《かなめ》を|握《にぎ》つて|居《を》るからであります。|要《かなめ》と|云《い》ふものは|中心《ちうしん》である。いはゆる|神《かみ》であるからして|引《ひ》つくり|覆《かへ》らぬ。|又《また》おやまの|道中《だうちう》と|云《い》ふ|事《こと》をやりますが|神楽《かぐら》が|出来《でき》て、|獅子舞姿《ししまひすがた》でおやまの|道中《だうちう》をして|居《を》る|真似《まね》をする。ちやうど|今日《こんにち》の|世《よ》の|中《なか》の|様《やう》に|男《をとこ》の|頭《あたま》の|上《うへ》に|女《をんな》が|上《あが》つて|居《を》るやうな|工合《ぐあひ》になつて|居《を》る。それから|獅子《しし》の|後持《あともち》といふのがある。さうしておやまの|道中《だうちう》には|傘《がさ》をさして|妙《めう》な|獅子舞《ししまひ》を|致《いた》しますが、|今日《こんにち》の|世《よ》の|中《なか》に|於《お》きましても|男《をとこ》が|下《した》になり|女《をんな》が|上《うへ》になつて|之《これ》を|使《つか》つてるのと|同《おな》じ|事《こと》でありますが、またこの|獅子舞《ししまひ》は|達磨《だるま》|大師《だいし》の|真似《まね》をして|見《み》せる。|足《あし》を|下《した》にして|大《だい》の|字《じ》になつたり、|逆様《さかさま》にひつくり|返《かへ》つたりして|見《み》せる。|上《うへ》になつたり|下《した》になつたりキリキリ|舞《まひ》をしてゐる。|後持《あともち》が|大《だい》の|字《じ》になつて|見《み》せたり|逆様《さかさま》になつて|見《み》せたりする。|上《うへ》のも|大《だい》の|字《じ》、|中《なか》のも|大《だい》の|字《じ》、あとのも|大《だい》の|字《じ》|逆様《さかさま》ぢやと|申《まを》して|一生懸命《いつしやうけんめい》やつてゐる。|一方《いつぱう》では|大神楽《だいかぐら》の|親父《おやぢ》と|云《い》ふのがあつて、|片方《かたはう》で|芸人《げいにん》の|真似《まね》をしては|邪魔《じやま》をしたり、いらぬ|口《くち》を|叩《たた》いたりして、|頭《あたま》をポンと|敲《たた》かれたり、|突《つ》かれたりしてお|客《きやく》さまを|笑《わら》はせる。|笑《わら》はせる|丈《だけ》ならよいが|大変《たいへん》な|邪魔《じやま》をする。この|親父《おやぢ》は|唖《おし》や|聾《つんぼ》の|真似《まね》をして|舞《まひ》もせずに|邪魔《じやま》をする。|今日《こんにち》の|世《よ》の|中《なか》にもかう|云《い》ふ|獅子舞《ししまひ》の|親父《おやぢ》がゐる。|元老《げんらう》とか|何《なん》とか|言《い》うて、|若《わか》い|屈強《くつきやう》|盛《ざか》りの|者《もの》が|一生懸命《いつしやうけんめい》に|芸当《げいたう》をやつてゐる|所《ところ》へ|口嘴《くちばし》を|出《だ》したり、|邪魔《じやま》をしたりする、|時《とき》には|頭《あたま》をポンとやられる。さうして|一番《いちばん》しまひに|弐円《にゑん》なり|五円《ごゑん》なりの|金《かね》をせしめる、|芸《げい》をすませて、|親父《おやぢ》はアバババと|言《い》うて|帰《かへ》つてしまふ。このアバババは|言霊《ことたま》から|申《まを》しますと、|総《すべ》ての|物《もの》の|終《をは》り、|大船《おほふね》が|海上《かいじやう》で|沈没《ちんぼつ》をした|時《とき》や、|開《あ》いた|口《くち》が|閉《ふさ》がらぬ|様《やう》な|困《こま》つて|失望《しつばう》したとき、どうもこうも|出来《でき》ぬやうな|苦境《くきやう》に|陥《おちい》つてしまつたと|云《い》ふ|時《とき》の|表示《へうじ》であります。|兎《と》に|角《かく》、|今日《こんにち》の|世《よ》の|中《なか》は|大神楽《だいかぐら》を|廻《まは》して|居《を》る|時《とき》であります。|神代《かみよ》の|岩戸《いはと》|開《びら》きの|神楽《かぐら》と、|今日《こんにち》の|世《よ》の|神楽《かぐら》とは|余程《よほど》|変《かは》つて|居《を》りますけれども、その|大精神《だいせいしん》に|於《おい》ては|同一《どういつ》であります。
|神楽舞《かぐらまひ》の|時《とき》に|囃子《はやし》が|太鼓《たいこ》を|打《う》つのは|大砲《たいはう》や|小銃弾《せうじうだん》や|爆裂弾《ばくれつだん》の|響《ひび》き|渡《わた》る|形容《けいよう》であり|笛《ふえ》を|吹《ふ》くのはラツパを|吹《ふ》き|立《た》てる|形容《けいよう》であり、|銅鉢《どうばち》を|左右《さいう》の|手《て》に|持《も》つてチヤンチヤン|鳴《な》らし|立《た》てるのは、|世界《せかい》が|両方《りやうはう》に|別《わか》れて|互《たがひ》に|打合《うちあ》ふといふ|事《こと》の|暗示《あんじ》であります。
そこで、
『|天《あめ》の|宇受売命《うづめのみこと》、|天《あま》の|香山《かぐやま》の|天《あま》の|蘿《ひかげ》を、|手次《たすき》に|繋《か》けて、|天《あめ》の|真析《まさき》を|鬘《かづら》として、|天《あま》の|香山《かぐやま》の|小竹葉《ささば》を|手草《たぐさ》に|結《ゆ》ひて、|天《あま》の|岩屋戸《いはやど》に|空槽伏《うけふ》せて』
いろいろの|葉《は》を|頭《あたま》につけたり、|葛《かづら》を|襷《たすき》にかけたりして、|岩屋戸《いはやど》の|前《まへ》へ|行《い》つて、|起《お》きたり|逆様《さかさま》になつたり、|足拍子《あしびやうし》を|取《と》つてどんどんどんどんやつた。
『|踏《ふ》み|動響《とどろか》し、|神懸《かむがかり》して、|胸乳《むなちち》を|掻《か》き|出《い》で、|裳紐《もひも》を|陰上《ほと》に|押《お》し|垂《た》れき』
|岩屋戸《いはやど》を|開《ひら》く|為《ため》に、|宇受売《うづめ》の|命《みこと》が|起《お》きたり、|逆様《さかさま》になつたり、|一生懸命《いつしやうけんめい》に|神懸《かむがか》りをやつた。|神懸《かむがか》りに|就《つ》いてはここには|省略《しやうりやく》する。これはその|人《ひと》|一人《ひとり》の|事《こと》ではありませぬ。|宇受売《うづめ》と|云《い》ふのは、|女《をんな》の|事《こと》を|申《まを》しますが、|俗《ぞく》に|男女《をとこをんな》と|言《い》はれる|女《をんな》であつて、|男《をとこ》のやうな|強《つよ》い|人《ひと》をオスメまたはオスシと|言《い》ひます。これは|宇受売《うづめ》から|初《はじ》まつたのである。|女《をんな》は|女《をんな》らしくしなければならないので|御座《ござ》いますけれども、|然《しか》し|乍《なが》ら、|天《あま》の|岩屋戸《いはやど》の|閉《しま》つたと|言《い》ふ|様《やう》な|国《くに》の|大事《だいじ》の|際《さい》には、|女《をんな》だとて|女《をんな》らしくして|居《ゐ》られない|場合《ばあひ》があります。|男《をとこ》も|女《をんな》も|神様《かみさま》がなされました|様《やう》に|一生懸命《いつしやうけんめい》になつて|国事《こくじ》に|奔走《ほんそう》せなければならぬ。|総《すべ》て|女《をんな》と|云《い》ふ|者《もの》は|人《ひと》の|心《こころ》を|柔《やはら》げる|所《ところ》の|天職《てんしよく》を|有《も》つて|居《を》ります。|今《いま》|誰《たれ》も|彼《かれ》も、|皆《みな》の|者《もの》が|岩戸《いはと》|開《びら》きの|為《ため》に|心配《しんぱい》をしてゐる。|顔《かほ》をしかめて|考《かんが》へ|込《こ》んでゐるその|際《さい》に、|宇受売命《うづめのみこと》、すなはち|男勝《をとこまさ》りの|女《をんな》が|出《で》て|来《き》て、とんだり、|跳《は》ねたり、|腹匐《はらば》うたり、|面白《おもしろ》い|事《こと》をして|見《み》せたり、いはゆる|国家的《こくかてき》|大活動《だいくわつどう》をした|為《ため》に、
『かれ|高天原《たかあまはら》、|動《ゆす》りて|八百万《やほよろづ》の|神《かみ》、|共《とも》に|咲《わら》ひき』
|一度《いちど》にどつと|笑《わら》つた。|非常《ひじやう》に|元気《げんき》づいて|国家《こくか》の|一大《いちだい》|難局《なんきよく》を|談笑《だんせう》|快楽《くわいらく》の|中《うち》に|治《をさ》めて|了《しま》つたのであります。|現代《げんだい》に|於《おい》ても|女《をんな》の|方《かた》も|活動《くわつどう》して|下《くだ》されまして|岩屋戸《いはやど》の|開《ひら》く|様《やう》にせなければならぬと|存《ぞん》じます。|昔《むかし》もさうでありました。
『ここに、|天照大御神《あまてらすおほみかみ》、|怪《あや》しと|思《おも》ほして、|天《あま》の|岩屋戸《いはやど》を|細目《ほそめ》に|開《ひら》きて、|内《うち》より|告《の》り|給《たま》へるは』
|岩屋戸《いはやど》に|隠《かく》れてゐられました|大神様《おほかみさま》は、|今《いま》|私《わたくし》は|岩屋戸《いはやど》に|隠《かく》れて|了《しま》つた|以上《いじやう》は、|葦原《あしはら》の|中《なか》つ|国《くに》も、|天地《てんち》も|共《とも》に|真闇《まつくら》になつて、さぞ|神々《かみがみ》は|困《こま》つてゐるであらう、と|思《おも》ふに|何故《なにゆゑ》か|岩屋戸《いはやど》の|外《そと》で、|太鼓《たいこ》を|打《う》つ、|鐘《かね》を|叩《たた》く、|笛《ふえ》を|吹《ふ》く、どんどん|足拍子《あしびやうし》がする、|宇受売《うづめ》の|命《みこと》が|嬉《うれ》しさうに|噪《さわ》ぐ、|八百万《やほよろづ》の|神《かみ》たちが|一緒《いつしよ》になつてどつと|笑《わら》ひ|楽《あそ》ぶ。|余《あま》り|不思議《ふしぎ》に|思《おも》はれて|中《なか》から|仰《あふ》せになつた。
『|吾《あ》が|隠《かく》れますに|因《よ》りて、|天《あま》の|原《はら》|自《おのづか》ら|闇《くら》く、|葦原《あしはら》の|中津国《なかつくに》も|皆《みな》|闇《くら》けむと|思《おも》ふを、|何《など》て|天宇受売《あめのうづめ》は|楽《あそ》びし、|亦《また》|八百万《やほよろづ》の|神《かみ》、|諸々《もろもろ》|笑《もろもろわら》ふぞ』
|何故《なにゆゑ》そんなにをかしいか。すると|天宇受売命《あめのうづめのみこと》が、
『|汝《な》が|命《みこと》に|益《まさ》りて、|貴《たつと》き|神《かみ》|坐《いま》すが|故《ゆゑ》に、|歓咲《ゑら》ぎ|楽《あそ》ぶと|申《まを》しき』
|何《なん》でもその|国《くに》に|大国難《だいこくなん》が|出来《でき》たときは|皆《み》なの|顔色《がんしよく》は|変《かは》るものである。お|筆先《ふでさき》にも『|信仰《しんかう》がないと|正勝《まさか》のときには|大方《おほかた》|顔色《かほいろ》が|土《つち》のやうになるぞよ』とあります。|信仰《しんかう》が|出来《でき》て|神諭《しんゆ》の|精神《せいしん》が|解《わか》り|神《かみ》の|御心《みこころ》に|叶《かな》へばやれ|来《き》たそれ|来《き》たと、|勇《いさ》むで|大国難《だいこくなん》を|談笑《だんせう》|遊楽《いうらく》の|間《あひだ》に|処理《しより》する|事《こと》が|出来《でき》るのである。|私《わたくし》は|永年間《ながねんかん》|御神諭《ごしんゆ》を|拝《はい》し、かつ|御神意《ごしんい》を|少《すこ》し|許《ばか》り|了解《れうかい》さして|頂《いただ》いただけでも、|心中《しんちう》|平素《へいそ》に|安《やす》く|楽《たの》しき|思《おも》ひに|充《み》ち、|如何《いか》なる|難事《なんじ》に|出会《しゆつくわい》しても|左迄《さまで》|難事《なんじ》とも|思《おも》はず、|何事《なにごと》も|神《かみ》の|思召《おぼしめし》と|信《しん》じて、|人力《じんりよく》のあらむ|限《かぎ》りを|安々《やすやす》と|尽《つく》さして|頂《いただ》いて|居《を》ります。|凡《すべ》て|事業《じげふ》は|大事業《だいじげふ》だとか、|大難事《だいなんじ》だとか|思《おも》ふやうでは、|回天《くわいてん》の|神業《しんげふ》は|勤《つと》まらない。|三千世界《さんぜんせかい》の|立替立直《たてかへたてなほ》しに|対《たい》しても|夫《そ》れが|完成《くわんせい》は|浄瑠璃《じやうるり》|一切《ひとき》り|稽古《けいこ》する|位《くらゐ》により|思《おも》つて|居《を》らないのですから、|実《じつ》に|平気《へいき》の|平左《へいざ》で|日夜《にちや》|神業《しんげふ》に|面白《おもしろ》く|楽《たの》しく|奉仕《ほうし》して|居《を》ります。|然《さ》う|云《い》ふ|工合《ぐあひ》に、|総《すべ》ての|神様《かみさま》が|信仰《しんかう》の|下《もと》に、|喜《よろこ》び|勇《いさ》んで|元気《げんき》よく|活動《くわつどう》されたのであります。それで|何故《なにゆゑ》、|諸々《もろもろ》|笑《わら》ふぞとお|尋《たづ》ねになつた。そこで、あなたに|優《まさ》つた|偉《えら》い|神様《かみさま》がおいでになつたから|喜《よろこ》び|勇《いさ》んで|居《を》りますと|答《こた》へられた。
すでにその|前《まへ》に|天《あめ》の|児屋根命《こやねのみこと》、これは|祭祀《さいし》のことを|掌《つかさど》つた|神様《かみさま》、|後《のち》には|中臣《なかとみ》となつて|国政《こくせい》を|料理《れうり》した|藤原家《ふぢはらけ》の|先祖《せんぞ》であります。この|神様《かみさま》がその|時《とき》|天神地祇《てんしんちぎ》にお|供《そな》へをしたり、|太玉命《ふとたまのみこと》が|太玉串《ふとたまぐし》を|奉《たてまつ》つて|神勅《しんちよく》を|受《う》け、|一方《いつぱう》|占《うらなひ》の|道《みち》によつて、|万事《ばんじ》|万端《ばんたん》、ちやんと|手筈《てはづ》が|整《ととの》つてあつたので|御座《ござ》います。|所《ところ》へ|案《あん》の|如《ごと》く|天照大御神《あまてらすおほみかみ》|様《さま》は、
『|愈《いよいよ》|奇《あや》しと|思《おも》ほして』
そつと|細目《ほそめ》に|戸《と》をお|開《あ》けになつた。するとそれがパツと|鏡《かがみ》に|映《うつ》つたので、
『|天《あめ》の|手力男神《たぢからをのかみ》、|其《その》|手《て》を|取《と》りて|引《ひ》き|出《だ》しまつりき』
その|間《あひだ》に|布刀玉命《ふとたまのみこと》が|注連繩《しめなは》をその|後《あと》に|引《ひ》き|渡《わた》して、|此処《ここ》より|中《うち》にはもうお|入《はい》り|下《くだ》さいますなと|申《まを》した。これで|天地《てんち》は|照明《せうめい》になつた。この|鏡《かがみ》に|天照大御神《あまてらすおほみかみ》の|御姿《みすがた》が|映《うつ》つたとありますのは、つまりは|言霊《げんれい》で|御座《ござ》います。|八咫《やあた》の|鏡《かがみ》は|今《いま》は|器物《きぶつ》にして|祀《まつ》られて|天照大御神《あまてらすおほみかみ》の|御神体《ごしんたい》でありますが、|太古《たいこ》は|七十五声《しちじふごせい》の|言霊《ことたま》であります。|各々《めいめい》に|七十五声《しちじふごせい》を|揃《そろ》へて|来《き》た。すなはち|八百万《やほよろづ》の|誠《まこと》の|神《かみ》たちがよつて|来《き》て|言霊《ことたま》を|上《あ》げたから|岩屋戸《いはやど》が|開《あ》いたのであります。|天津神《あまつかみ》の|霊《れい》をこめたる|言霊《ことたま》によつて|再《ふたた》び|天上天下《てんじやうてんか》が|明《あきら》かになつたのであります。|決《けつ》して|鏡《かがみ》に|映《うつ》つたから|自分《じぶん》でのこのこ|御出《おで》ましになつたと|言《い》ふやうな|訳《わけ》ではありませぬ。つまり|献饌《けんせん》し|祝詞《のりと》を|上《あ》げて|鎮魂帰神《ちんこんきしん》の|霊法《れいはふ》に|合致《がつち》して、|一《ひと》つの|大《おほ》きな|言霊《ことたま》と|為《な》して|天照大御神《あまてらすおほみかみ》を、|見事《みごと》|言霊《ことたま》にお|寄《よ》せになつたのであります。それから|注連繩《しめなは》、これは|七五三《しめなは》と|書《か》きます。その|通《とほ》り、この|言霊《ことたま》と|云《い》ふものは|総《すべ》て|七五三《しちごさん》の|波《なみ》を|打《う》つて|行《ゆ》くものであります。さうして|注連繩《しめなは》を|引《ひ》き|渡《わた》してもう|一辺《いつぺん》|岩屋戸《いはやど》が|開《ひら》いた|以上《いじやう》は、|再《ふたた》び|此《これ》が|閉《ふさ》がらぬやうにと|申上《まをしあ》げた。
『かれ、|天照大御神《あまてらすおほみかみ》、|出《い》で|坐《ま》せる|時《とき》に、|高天原《たかあまはら》も|葦原《あしはら》の|中津国《なかつくに》も|自《おのづか》ら|照《て》り|明《あか》りき』
|言霊《ことたま》の|鏡《かがみ》に|天照大御神《あまてらすおほみかみ》の|御姿《おすがた》が|映《うつ》つて、|総《すべ》ての|災禍《さいくわ》はなくなり、|愈《いよいよ》|本当《ほんたう》のみろくの|世《よ》に|岩屋戸《いはやど》が|開《あ》いたのであります。そこで|岩屋戸《いはやど》|開《びら》きが|立派《りつぱ》に|終《をは》つて、|天地《てんち》|照明《せうめい》、|万神《ばんしん》|自《おのづか》ら|楽《たの》しむやうになつたけれども、|今度《こんど》は|岩屋戸《いはやど》を|閉《し》めさせた|発頭人《ほつとうにん》をどうかしなければならぬ。|天《てん》は|賞罰《しやうばつ》を|明《あきら》かにすとは|此処《ここ》で|御座《ござ》います。が|岩屋戸《いはやど》を|閉《し》めたものは|三人《さんにん》や|五人《ごにん》ではない、|殆《ほとん》ど|世界《せかい》|全体《ぜんたい》の|神々《かみがみ》が|閉《し》めるやうにしたのである。で|岩屋戸《いはやど》が|開《ひら》いたときに、|之《これ》を|罰《ばつ》しないでは|神《かみ》の|法《ほふ》に|逆《さか》らふのである。|併《しか》し|罪《つみ》するとすれば|総《すべ》ての|者《もの》を|罪《つみ》しなければならぬ。|総《すべ》てのものを|罰《ばつ》するとすれば、|世界《せかい》は|潰《つぶ》れて|了《しま》ふ。そこで|一《ひと》つの|贖罪者《とくざいしや》を|立《た》てねばならぬ。|総《すべ》てのものの|発頭人《ほつとうにん》である、|贖主《あがなひぬし》である。|仏教《ぶつけう》でも|基督教《キリストけう》でも|斯《か》う|云《い》ふので|御座《ござ》いますが、とにかく|他《た》の|総《すべ》ての|罪《つみ》ある|神《かみ》は|自分等《じぶんら》の|不善《ふぜん》なりし|行動《かうどう》を|顧《かへり》みず、|勿体《もつたい》なくも|大神《おほかみ》の|珍《うづ》の|御子《みこ》なる|建速須佐之男命《たけはやすさのをのみこと》|御一柱《おひとはしら》に|罪《つみ》を|負《お》はして、|鬚《ひげ》を|斬《き》り、|手足《てあし》の|爪《つめ》をも|抜《ぬ》き|取《と》りて|根《ね》の|堅洲国《かたすのくに》へ|追《お》ひ|退《の》けたのであります。|要《えう》するに|大本《おほもと》の|教《をしへ》は|変性男子《へんじやうなんし》と|変性女子《へんじやうによし》との|徳《とく》を|説《と》くのであります。|変性男子《へんじやうなんし》の|役目《やくめ》と|云《い》ふものは|総《すべ》て|世《よ》の|中《なか》が|治《をさ》まつたならば|余《あま》り|六ケ敷《むつかし》い|用《よう》は|無《な》い、|統治《とうぢ》さへ|遊《あそ》ばしたら|良《よ》いのであります。|之《これ》に|反《はん》して|変性女子《へんじやうによし》の|役《やく》はこの|世《よ》の|続《つづ》く|限《かぎ》り|罪人《ざいにん》の|為《た》めに|何処《どこ》までも|犠牲《ぎせい》になる|所《ところ》の|役《やく》をせねばならぬので|御座《ござ》います。|岩屋戸《いはやど》|開《びら》きに|就《つい》てはこれからさきに|申《まを》し|上《あ》げますと|尚《なほ》いろいろのことがありますけれども、|今日《けふ》はまづ|岩屋戸《いはやど》が|開《ひら》いて|結末《けつまつ》がついた|所《ところ》まで|申上《まをしあ》げておきます。
(大正九・一〇・一五 講演筆録)
(大正一一・三・七 旧二・九再録 高熊山御入山二十五年記念日 松村真澄 谷村真友録)
(昭和九・一二・九 王仁校正)
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霊界物語 第一二巻 霊主体従 亥の巻
終り