霊界物語 第三巻 霊主体従 寅の巻
出口王仁三郎
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●テキスト中に現れる記号について
《》……ルビ
|……ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)天地|剖判《ぼうはん》の
[#]……入力者注
【】……傍点が振られている文字列
(例)【ヒ】は火なり
●シフトJISコードに無い文字は他の文字に置き換え、そのことをWebサイトに「相違点」として記した。
●底本
『霊界物語 第三巻』愛善世界社
1993(平成05)年04月04日 第一刷発行
※現代では差別的表現と見なされる箇所もあるが修正はせずにすべて底本通りにした。
※図表などのレイアウトは完全に再現できるわけではないので適宜変更した。
※詳細な凡例は次のウェブサイト内に掲載してある。
http://www.onisavulo.jp/
※作成者…『王仁三郎ドット・ジェイピー』
2004年04月24日作成
2008年06月23日修正
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●目次
|序文《じよぶん》
凡例
総説
第一篇 |国魂《くにたま》の|配置《はいち》
第一章 |神々《かみがみ》の|任命《にんめい》〔一〇一〕
第二章 |八王神《やつわうじん》の|守護《しゆご》〔一〇二〕
第二篇 |新高山《にひたかやま》
第三章 |渓間《けいかん》の|悲劇《ひげき》〔一〇三〕
第四章 |鶴《つる》の|首《くび》〔一〇四〕
第三篇 ロツキー|山《ざん》
第五章 |不審《ふしん》の|使神《ししん》〔一〇五〕
第六章 |籠《かご》の|鳥《とり》〔一〇六〕
第七章 |諷詩《ふうし》の|徳《とく》〔一〇七〕
第八章 |従神司《じゆうしん》の|殊勲《しゆくん》〔一〇八〕
第四篇 |鬼城山《きじやうざん》
第九章 |弁者《べんしや》と|弁者《べんしや》〔一〇九〕
第一〇章 |無分別《むふんべつ》〔一一〇〕
第一一章 |裸体《らたい》の|道中《だうちう》〔一一一〕
第一二章 |信仰《しんかう》の|力《ちから》〔一一二〕
第一三章 |嫉妬《しつと》の|報《むくい》〔一一三〕
第一四章 |霊系《れいけい》の|抜擢《ばつてき》〔一一四〕
第五篇 |万寿山《まんじゆざん》
第一五章 |神世《しんせい》の|移写《いしや》〔一一五〕
第一六章 |玉ノ井《たまのゐ》の|宮《みや》〔一一六〕
第一七章 |岩窟《がんくつ》の|修業《しうげふ》〔一一七〕
第一八章 |神霊《しんれい》の|遷座《せんざ》〔一一八〕
第六篇 |青雲山《せいうんざん》
第一九章 |楠《くす》の|根元《ねもと》〔一一九〕
第二〇章 |晴天《せいてん》|白日《はくじつ》〔一二〇〕
第二一章 |狐《きつね》の|尻尾《しつぽ》〔一二一〕
第二二章 |神前《しんぜん》の|審判《しんぱん》〔一二二〕
第七篇 |崑崙山《こんろんざん》
第二三章 |鶴《つる》の|一声《ひとこゑ》〔一二三〕
第二四章 |蛸間山《たこまやま》の|黒雲《くろくも》〔一二四〕
第二五章 |邪神《じやしん》の|滅亡《めつぼう》〔一二五〕
第二六章 |大蛇《をろち》の|長橋《ながはし》〔一二六〕
第八篇 |神界《しんかい》の|変動《へんどう》
第二七章 |不意《ふい》の|昇天《しようてん》〔一二七〕
第二八章 |苦心《くしん》|惨憺《さんたん》〔一二八〕
第二九章 |男波《をなみ》|女波《めなみ》〔一二九〕
第三〇章 |抱擁帰一《はうようきいつ》〔一三〇〕
第三一章 |竜神《りうじん》の|瀑布《ばくふ》〔一三一〕
第三二章 |破軍《はぐん》の|剣《つるぎ》〔一三二〕
第九篇 |隠神《いんしん》の|活動《くわつどう》
第三三章 |巴形《ともゑがた》の|斑紋《はんもん》〔一三三〕
第三四章 |旭日昇天《きよくじつしようてん》〔一三四〕
第三五章 |宝《たから》の|埋換《うめかへ》〔一三五〕
第三六章 |唖者《おし》の|叫《さけ》び〔一三六〕
第三七章 |天女《てんによ》の|舞曲《ぶきよく》〔一三七〕
第三八章 |四十八滝《しじふはちたき》〔一三八〕
第三九章 |乗合舟《のりあひぶね》〔一三九〕
第一〇篇 |神政《しんせい》の|破壊《はくわい》
第四〇章 |国《くに》の|広宮《ひろみや》〔一四〇〕
第四一章 |二神《にしん》の|帰城《きじやう》〔一四一〕
第四二章 |常世《とこよ》|会議《くわいぎ》〔一四二〕
第四三章 |配所《はいしよ》の|月《つき》〔一四三〕
第一一篇 |新規《しんき》|蒔直《まきなほ》し
第四四章 |可賀天下《かかてんか》〔一四四〕
第四五章 |猿猴《ゑんこう》と|渋柿《しぶがき》〔一四五〕
第四六章 |探湯《くがたち》の|神事《しんじ》〔一四六〕
第四七章 |夫婦《ふうふ》の|大道《だいだう》〔一四七〕
第四八章 |常夜《とこよ》の|闇《やみ》〔一四八〕
第四九章 |袖手《しうしゆ》|傍観《ばうくわん》〔一四九〕
第一二篇 |霊力体《れいりよくたい》
第五〇章 |安息日《あんそくび》〔一五〇〕
附録 岩井温泉紀行歌
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|序文《じよぶん》
|艮《うしとら》の|金神《こんじん》|出現《しゆつげん》|以後《いご》|三十年《さんじふねん》の|立替《たてかへ》は、いよいよ|明治《めいぢ》|五十五年《ごじふごねん》、すなはち|大正《たいしやう》の|十一年《じふいちねん》、|三千世界《さんぜんせかい》|一度《いちど》に|開《ひら》く|梅《うめ》の|花《はな》の|機運《きうん》に|到達《たうたつ》したのである。つぎに|坤《ひつじさる》の|金神《こんじん》|出現《しゆつげん》|以後《いご》|二十五年《にじふごねん》、|桃李《たうり》もの|言《い》はずして|桃李《たうり》ものとなりし|神《かみ》の|教示《けうじ》も、いよいよ|開《ひら》く|桃《もも》の|春《はる》、|五十二歳《ごじふにさい》の|暁《あかつき》に、|月《つき》の|光《ひかり》に|照《て》らされて、|霊界《れいかい》|探険《たんけん》|物語《ものがた》り、ももの|千草《ちぐさ》も、|百鳥《ももどり》も、|百《もも》の|言問《ことと》ひ|言止《ことや》めて、|三月三日《みつきみつか》|五月五日《いつつきいつか》の|神《かみ》の|経綸《けいりん》を|詳細《しやうさい》に、|悟《さと》る|神代《かみよ》の|魁《さきがけ》となつたのも、まつたく|時《とき》の|力《ちから》といふべきである。|明治《めいぢ》|三十三年《さんじふさんねん》|九月《くぐわつ》|八日《やうか》の|神筆《しんぴつ》に、
『|出口《でぐち》|直《なほ》は|三千世界《さんぜんせかい》の|根本《こんぽん》の|因縁《いんねん》から|末《さき》の|世《よ》のことまで|書《か》かす|御役《おんやく》なり、それを|細《こま》かう|説《と》いて|聞《き》かせるのが|海潮《かいてう》の|役《やく》であるから、|一番《いちばん》に|男子《なんし》が|現《あら》はれて、|次《つぎ》に|女子《によし》が|表《あら》はれたら、|大本《おほもと》の|中《なか》の|役員《やくゐん》も、あまり|思《おも》ひが|違《ちが》ふてをりたと|申《まを》して、きりきり|舞《まひ》をいたして|喜《よろこ》ぶ|人《ひと》と、きりきり|舞《まひ》をして|苦《くる》しむ|人《ひと》と、|力一杯《ちからいつぱい》われの|目的《もくてき》のために、|男子《なんし》|女子《によし》を|悪《わる》くまをすものとができるぞよ。|神《かみ》を|突込《つきこ》みておいて、|我《が》で|開《ひら》いて、まだ|悪《わる》く|申《まを》してあるく、|取次《とりつぎ》がたくさんにできるぞよ。|云々《うんぬん》』
|大本《おほもと》の|筆先《ふでさき》は、どうしても|男子《なんし》|女子《によし》でなければ|真解《しんかい》することはできぬのは|神示《しんじ》のとほりである。しかるに|各自《かくじ》の|守護神《しゆごじん》の|御都合《ごつがふ》の|悪《わる》いことがあると、「|女子《によし》の|筆先《ふでさき》は|審神《さには》をせなそのままとつてはいかぬ」と|申《まを》す|守護神《しゆごじん》が|現《あら》はれてくる、|困《こま》つたものだ。|九月《くぐわつ》|八日《やうか》にいよいよ|神示《しんじ》のとほり|女子《によし》の|役《やく》となり、|隠退《いんたい》して|霊界《れいかい》の|消息《せうそく》を|口述《こうじゆつ》するや、またまた|途中《とちゆう》の|鼻高《はなだか》がゴテゴテ|蔭《かげ》で|申《まを》し|出《だ》したのである。|女子《によし》の|帰神《きしん》の|筆《ふで》を|審神《さには》する|立派《りつぱ》な|方《かた》が|沢山《たくさん》できて、|神様《かみさま》も|御満足《ごまんぞく》でありませう。
また、|明治《めいぢ》|五十五年《ごじふごねん》の|三月三日《みつきみつか》|五月五日《いつつきいつか》といふ|神《かみ》の|抽象的《ちうしやうてき》|教示《けうじ》にたいして、|五十五年《ごじふごねん》は|大正《たいしやう》|十一年《じふいちねん》に|相当《さうたう》するから、|今年《ことし》は|女子《によし》の|御魂《みたま》にたいして|肉体的《にくたいてき》|結構《けつこう》があるとか、|大本《おほもと》の|神《かみ》の|経綸《しぐみ》について|花々《はなばな》しきことが|出現《しゆつげん》するかのやうに|期待《きたい》してをる|審神者《さには》があるやうにきく。されど、|神《かみ》の|御心《みこころ》と|人間《にんげん》の|心《こころ》とは、|天地霄壌《てんちせうじやう》の|相違《さうゐ》があるから、|人間《にんげん》の|智慧《ちゑ》や|考《かんが》へでは、たうてい、その|真相《しんさう》は|判《わか》るものでない。|五十五年《ごじふごねん》といふことは、|明治《めいぢ》|二十五年《にじふごねん》から|三十年間《さんじふねんかん》の|神界《しんかい》|経綸《けいりん》の|表面《へうめん》に|具体的《ぐたいてき》にあらはれる|年《とし》のいひである。
|三月三日《みつきみつか》とは|三《み》ツの|御魂《みたま》なる|月《つき》の|大神《おほかみ》の|示顕《じけん》が、|天地人《てんちじん》|三体《さんたい》に|輝《かがや》きわたる|日《ひ》といふことである。|日《ひ》は「カ」と|読《よ》む、「カ」はかがやくといふことである。|今《いま》まで|三十年間《さんじふねんかん》|男子《なんし》の|筆先《ふでさき》の|真意《しんい》が|充分《じゆうぶん》に|了解《れうかい》され、また|従道《じゆうだう》|二十五年《にじふごねん》に|相当《さうたう》する|女子《によし》の|御魂《みたま》の|光《ひかり》が、そろそろ|現《あら》はれることを|暗示《あんじ》された|神諭《しんゆ》である。|二十五年間《にじふごねんかん》、|周囲《しうゐ》の|障壁物《しやうへきぶつ》にさまたげられた|女子《によし》の|御魂《みたま》の|神界《しんかい》|経綸《けいりん》の|解釈《かいしやく》も、やや|真面目《まじめ》になつて|耳《みみ》をかたむくる|人《ひと》が|出現《しゆつげん》するのを、「|女子《によし》にとりて|結構《けつこう》な|日《ひ》である」と|示《しめ》されたものである。あたかも|暗黒《あんこく》の|天地《てんち》に、|日月《じつげつ》の|東天《とうてん》を|出《い》でて|万界《ばんかい》を|照《て》らすがごとき|瑞祥《ずゐしやう》を、|五月五日《いつつきいつか》といふのである。|五《いつ》は|言霊学上《ことたまがくじやう》「|出《イツ》」であつて、|五月五日《いつつきいつか》は|出月出日《いつつきいつか》の|意味《いみ》である。|二十五年《にじふごねん》の|天津風《あまつかぜ》、いま|吹《ふ》きそめて|経緯《たてよこ》の、|神《かみ》の|教示《けうじ》も|明《あき》らけく、|治《おさ》まる|御代《みよ》の|五十五年《ごじふごねん》(|出神出念《しゆつしんしゆつねん》)、いよいよ|神徳《しんとく》|出現《しゆつげん》して、|神慮《しんりよ》の|深遠《しんゑん》なるを|宇宙《うちう》に|現《げん》【|出《しゆつ》】すべき|時運《じうん》にむかふことを|慶賀《けいが》されたる|神示《しんじ》であります。
|月光《げつくわう》|世《よ》に|出《い》でて|万界《ばんかい》の|暗《やみ》を|照破《せうは》す、これ|言霊学上《げんれいがくじやう》の|五月五日《いつつきいつか》となるのであつて、けつして|暦学上《れきがくじやう》の|月日《つきひ》でないことは|明白《めいはく》である。|三月三日《さんぐわつみつか》と|五月五日《ごぐわついつか》に、|変《かは》つたことがなければ|信仰《しんかう》をやめるといふ|無明《むみやう》|暗黒《あんこく》の|雲《くも》が、|遠近《をちこち》の|天地《てんち》を|包《つつ》むでゐるやうに|思《おも》はれましたから、|一寸《ちよつと》|略解《りやくかい》をほどこしておきました。これでもまた|女子《によし》の|御魂《みたま》の|言《げん》は|審神《さには》をせなくてはいかぬと、|唱《とな》ふる|豪《えら》い|人々《ひとびと》が|出現《しゆつげん》するかもしれませぬ。これが|暗黒《あんこく》の|世《よ》の|中《なか》といふのでせう。
|神諭《しんゆ》に「|女子《によし》にとりて|結構《けつこう》な|日《ひ》である」|云々《うんぬん》は|微々《びび》たる|五尺《ごしやく》の|肉体《にくたい》にたいしての|言《げん》ではない。|神霊《しんれい》そのものの|大目的《だいもくてき》の|開《ひら》き|初《はじ》むるを|慶賀《けいが》されたる|意味《いみ》であることを|了解《れうかい》すべきである。|千座《ちくら》の|置戸《おきど》は、|瑞《みづ》の|御魂《みたま》の|天賦的《てんぷてき》|神業《しんげふ》たることを|承知《しようち》してもらひたい。
|霊界《れいかい》|物語《ものがたり》を|読《よ》ンで、|初《はじ》めて|今日《こんにち》までの|神諭《しんゆ》の|解釈《かいしやく》にたいする|疑雲《ぎうん》は|一掃《いつさう》され、|心天《しんてん》たちまち|晴明《せいめい》の|日月《じつげつ》をうかべ、|霊体力《れいたいりよく》に|光輝《くわうき》をそへ|歓喜《くわんき》と|了解《れうかい》の|日月《じつげつ》|出現《しゆつげん》していはゆる|三月三日《みつきみつか》|五月五日《いつつきいつか》の|瑞祥《ずゐしやう》を|神人《しんじん》ともに|祝《しゆく》することになるのである。
|五月五日《ごぐわついつか》は|男子《なんし》の|祝日《しゆくじつ》、|菖蒲《しやうぶ》の|節句《せつく》である。|三月三日《さんぐわつみつか》は|女子《によし》の|祝日《しゆくじつ》で、|桃《もも》の|節句《せつく》である。|女子《によし》の|御魂《みたま》|聖地《せいち》に|出現《しゆつげん》してより|二十五年《にじふごねん》の|間《あひだ》|桃李《たうり》|物《もの》|言《い》はず|自《おのづか》ら|蹊《けい》をなせしもの、ここに|目出度《めでた》く|世《よ》にあらはれて|苦《く》、|集《しふ》、|滅《めつ》、|道《だう》を|説《と》き、|道《だう》、|法《はふ》、|礼《れい》、|節《せつ》をはなばなしく|開示《かいじ》することとなつたのも、|神界《しんかい》|経綸《けいりん》の|神業《しんげふ》|成就《じやうじゆ》の|曙光《しよくわう》をみとめ、|旭光照破《きよくくわうせうは》の|瑞祥《ずゐしやう》にむかつたので、|神人界《しんじんかい》のともに|祝福《しゆくふく》すべき|年《とし》であります。
○
この|物語《ものがたり》のうちに|大自在天《だいじざいてん》とあるは、|神典《しんてん》にいはゆる、|大国主之神《おほくにぬしのかみ》の|御事《おんこと》であつて、|大国彦命《おほくにひこのみこと》、|八千矛神《やちほこのかみ》、|大己貴命《おほなむちのみこと》、|葦原醜男神《あしはらしこをのかみ》、|宇都志国魂神《うつしくにたまのかみ》などの|御名《みな》を|有《いう》したまひ、|武力《ぶりよく》|絶倫《ぜつりん》の|神《かみ》にましまして|国平矛《くにむけのほこ》を|天孫《てんそん》にたてまつり、|君臣《くんしん》の|大義《たいぎ》を|明《あき》らかにし、|忠誠《ちうせい》の|道《みち》を|克《よ》く|守《まも》りたまふた|神《かみ》であります。|本物語《ほんものがたり》にては|大自在天《だいじざいてん》、または|常世神王《とこよしんわう》と|申《まを》しあげてあります。
|大自在天《だいじざいてん》とは|仏典《ぶつてん》にある|仏《ほとけ》の|名《な》であるが、|神界《しんかい》にては|大国主神《おほくにぬしのかみ》|様《さま》の|御事《おんこと》であります。この|神《かみ》は|八代矛《やちほこ》の|威力《ゐりよく》をふるつて、|天下《てんか》を|治《をさ》めたまうた|英雄神《えいゆうしん》である。|皇祖《くわうそ》の|神《かみ》は、|平和《へいわ》の|象徴《しやうちやう》たる|璽《たま》と、|智慧《ちゑ》の|表徴《へうちやう》たる|鏡《かがみ》とをもつて、|世《よ》を|治《をさ》めたまふのが|御神意《ごしんい》である。
また|盤古大神《ばんこだいじん》|塩長彦《しほながひこ》は|一名《いちめい》|潮沫彦《しほなわひこ》と|申《まを》し|上《あ》げる、|善良《ぜんりやう》なる|神《かみ》にましますことは、|前篇《ぜんぺん》に|述《の》べたとほりであります。この|神《かみ》を|奉戴《ほうたい》して|荒《あら》ぶる|神人等《かみがみ》が|色々《いろいろ》の|計画《けいくわく》をたて、|神界《しんかい》に|活動《くわつどう》して|国治立命《くにはるたちのみこと》の|神政《しんせい》に|対抗《たいかう》し、|種々《しゆじゆ》の|波瀾《はらん》をまきおこしたことはすでに|述《の》べたとほりである。そこでこの|世界《せかい》を|救《すく》ふべく、|諾冊《なぎなみ》|二神《にしん》がわが|国土《こくど》を|中心《ちうしん》として|天降《あまくだ》りまし、|修理固成《しうりこせい》の|神業《しんげふ》を|励《はげ》ませたまふこととなつた、ありがたき|物語《ものがたり》は|篇《へん》を|逐《お》うて|判明《はんめい》することであらうと|思《おも》ひます。|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》
大正十一年一月三日
王仁識
凡例
[#この凡例は八幡版では掲載されていない]
一、|本巻《ほんくわん》はその|前半《ぜんはん》を|亀岡《かめをか》の|瑞翔閣《ずゐしやうかく》において|口述《こうじゆつ》|筆録《ひつろく》せしめられ、|後半《こうはん》は|綾部《あやべ》|竜宮館《りゆうぐうやかた》において|完成《くわんせい》されたものであります。|恒定《かうてい》|筆録者《ひつろくしや》の|内《うち》、|谷口《たにぐち》|正治《まさはる》|氏《し》が|第二巻《だいにくわん》|完了《かんれう》とともに、|出口《でぐち》|教祖《けうそ》|詳伝《しやうでん》|編集《へんしふ》の|任《にん》にあたることとなり、|霊界《れいかい》|物語《ものがたり》に|関係《くわんけい》せざるにいたりましたことを、|筆録者《ひつろくしや》|一同《いちどう》|遺憾《ゐかん》に|思《おも》ひますとともに、|前巻《ぜんくわん》まで|筆録《ひつろく》されし|労《らう》を|多謝《たしや》する|次第《しだい》であります。
一、|第一巻《だいいつくわん》に|国治立命《くにはるたちのみこと》、|盤古大神《ばんこだいじん》、|大自在天《だいじざいてん》の|各派《かくは》が、|三《み》つ|巴《どもえ》となつて|悪戦苦闘《あくせんくとう》をつづけ、|神界《しんかい》を|混乱《こんらん》せしめたる|記録《きろく》を|読《よ》み、|盤古大神《ばんこだいじん》および|大自在天《だいじざいてん》につきその|真相《しんさう》を|識《し》らむとする|人々《ひとびと》のために、ちよつと|説明《せつめい》を|加《くは》へておきたいと|思《おも》ひます。
|盤古大神《ばんこだいじん》とか、|盤古神王《ばんこしんわう》とか、また|盤古真王《ばんこしんわう》といふのは、|平田《ひらた》|篤胤《あつたね》|翁《をう》の|赤県太古伝成文《もろこしたいこでんせいぶん》といふ|著書《ちよしよ》の、|盤古真王記《ばんこしんわうき》に、
『|古昔《こせき》|天地《てんち》|未《いま》だ|分《わか》れず、|渾沌《こんとん》として|鶏子《けいし》の|如《ごと》し。|盤古《ばんこ》|氏《し》|其《そ》の|中《なか》に|生《しやう》ず。|九万八千歳《きうまんはつせんざい》にして|天地《てんち》|開闢《かいびやく》せり。|清軽《せいけい》のものは|上《あが》つて|天《てん》となり、|濁重《だくぢう》のものは|下《くだ》つて|地《ち》となる。|盤古《ばんこ》|其《そ》の|中《なか》に|在《あ》り。|一日《いちにち》に|九変《きうへん》して、|天《てん》に|於《おい》ては|神《かみ》に、|地《ち》に|於《おい》ては|聖《せい》なり。|天《てん》|日《ひ》に|高《たか》きこと|一丈《いちぢやう》、|地《ち》|日《ひ》に|厚《あつ》きこと|一丈《いちぢやう》、|盤古《ばんこ》|日《ひ》に|長《ちやう》ずること|一丈《いちぢやう》、|此《かく》の|如《ごと》きこと|九万八千歳《きうまんはつせんざい》、|天《てん》|極《きは》めて|高《たか》く、|地《ち》|極《きは》めて|邃《ふか》く、|盤古《ばんこ》|極《きは》めて|長《ちやう》ぜり。|数《すう》は|一《いち》に|起《おこ》りて|三《さん》に|立《た》ち、|五《ご》に|於《おい》て|成《な》り、|七《なな》に|於《おい》て|盛《さか》りに、|九《く》に|於《おい》て|処《しよ》す。
|盤古《ばんこ》|氏《し》|夫妻《ふさい》は|陰陽《いんやう》の|始《はじ》めなり。|大荒《たいくわう》に|生《しやう》じて|其《そ》の|初《はじ》めを|知《し》ること|莫《な》し。|蓋《けだ》し|陶鎔《たうよう》|造化《ざうくわ》の|主《しゆ》にして、|天地《てんち》|万物《ばんぶつ》の|祖《そ》なり。|乃《すなは》ち|元始《げんし》|天王《てんわう》、|大元《だいげん》|聖母《せいぼ》は|是《こ》れなり。|盤古《ばんこ》|氏《し》の|後《のち》に|三皇《さんくわう》あり、これ|天地人《てんちじん》の|始《はじ》めなり』
とあるごとく、「|支那《しな》」の|人民《じんみん》が|天王《てんわう》|聖母《せいぼ》として|尊崇《そんすう》するところのものが|盤古大神《ばんこだいじん》であります。
さうして|盤古大神《ばんこだいじん》は|体主霊従《たいしゆれいじゆう》(われよし)で、|国常立尊《くにとこたちのみこと》は|霊主体従《れいしゆたいじゆう》(ひのもと)であります。しかし|本書《ほんしよ》には|神名《しんめい》を|国治立命《くにはるたちのみこと》と|申《まを》し|上《あ》げてあります。
つぎに|大自在天《だいじざいてん》は、|力主体霊《りよくしゆたいれい》(つよいものがち)であつて、|仏典《ぶつてん》によりますと|波羅門教徒《ばらもんけうと》は、この|神《かみ》は|世界《せかい》|万物《ばんぶつ》の|造物主《ざうぶつしゆ》であり、また|世界《せかい》の|本体《ほんたい》であり、この|神《かみ》の|支配《しはい》のままに|吾人《ごじん》|苦楽《くらく》の|果報《くわはう》が|割《わ》り|当《あて》らるるのであるといつて、あらむ|限《かぎ》りの|崇拝《すうはい》の|的《まと》としてをるのであります。ところが|仏教《ぶつけう》が|起《おこ》つてから|後《のち》といふものは、|大自在天神《だいじざいてんじん》と|命名《めいめい》されて、やうやく|第六天《だいろくてん》の|統治者《とうぢしや》として、きはめて|平凡《へいぼん》な|取扱《とりあつか》ひを|受《う》くるものとなつたのです。
一、|次《つぎ》に|常世《とこよ》の|国《くに》について|一言《いちごん》しておきます。「|稽古要略《けいこえうりやく》」といふ|書物《しよもつ》に、
『|少彦名神《すくなひこなのかみ》、|粟茎《あはくき》(|方船《はこふね》のこと)に|乗《の》りて、|常世《とこよ》の|国《くに》に|渡《わた》りき。|按《あん》ずるに|常世《とこよ》の|国《くに》とは|本神仙《もとしんせん》の|幽境《いうきやう》をいふ。|因《よ》つて|以《もつ》て|海外《かいぐわい》の|絶域《ぜつゐき》、|人《ひと》|到《いた》り|易《やす》からざる|地《ち》を|称《しよう》す』
とありますから、|日本《にほん》からいへば|海外《かいぐわい》の|絶域《ぜつゐき》たる|亜米利加《アメリカ》は|常世《とこよ》の|国《くに》となりますが、|亜米利加《アメリカ》からいへば|日本《にほん》が|常世《とこよ》の|国《くに》となるわけです。ゆゑに|霊界《れいかい》|物語《ものがたり》と|古文書《こぶんしよ》と|比較《ひかく》|研究《けんきう》して|見《み》ることが|肝要《かんえう》だと|思《おも》ひます。
大正十一年一月廿九日
竜宮館に於て 識す
総説
|天地剖判《てんちぼうはん》して|大地《だいち》、|日《ひ》、|月《つき》、|星辰《せいしん》|現《あら》はれ、|地上《ちじやう》には|樹草《じゆさう》、|人類《じんるゐ》、|獣《けだもの》、|鳥《とり》、|魚《うを》、|虫《むし》を|発生《はつせい》せしめ、|各自《かくじ》|分掌《ぶんしやう》の|神《かみ》を|定《さだ》めてこれを|守護《しゆご》せしめたまひける。
|大神《おほかみ》は|人体《じんたい》の|元祖神《ぐわんそしん》として|天足彦《あだるひこ》、|胞場姫《えばひめ》を|生《う》みたまひ、|天《あめ》の|益人《ますひと》の|種《たね》と|成《な》したまひたり。しかるに|天足彦《あだるひこ》は|胞場姫《えばひめ》のために|神勅《しんちよく》にそむきて|霊主体従《れいしゆたいじゆう》の|本義《ほんぎ》を|忘《わす》れ、つひに|体主霊従《ちえ》の|果実《このみ》を|食《しよく》し、|霊性《れいせい》たちまち|悪化《あくくわ》して|子孫《しそん》に|悪念《あくねん》を|遺《のこ》したるのみならず、|邪念《じやねん》はおのづから|凝《こ》つて|八頭八尾《やつがしらやつを》の|大蛇《をろち》と|変《へん》じ、あるひは|金毛九尾《きんまうきうび》の|悪狐《あくこ》と|化《くわ》し、|六面八臂《ろくめんはつぴ》の|魔鬼《まき》となり、|世界《せかい》を|混乱《こんらん》|紛擾《ふんぜう》せしめ、|国治立大神《くにはるたちのおほかみ》、|国直姫命《くになほひめのみこと》、|大八洲彦命《おほやしまひこのみこと》|以下《いか》の|諸神《しよしん》を|根《ね》の|国《くに》に|隠退《いんたい》せしめ、|盤古大神《ばんこだいじん》(|塩長彦《しほながひこ》)を|奉《ほう》じて|国治立大神《くにはるたちのおほかみ》の|聖職《せいしよく》に|代《かは》らしめ、|塩長姫《しほながひめ》をして|国直姫命《くになほひめのみこと》の|職《しよく》をおそはしめ、|八王大神《やつわうだいじん》(|常世彦《とこよひこ》)をして|大八洲彦命《おほやしまひこのみこと》の|職《しよく》を|司《つかさど》らしめ、|常世姫《とこよひめ》をして|豊国姫命《とよくにひめのみこと》にかはらしめ、|和光同塵的《わくわうどうじんてき》|神策《しんさく》を|布《し》き、|一時《いちじ》を|糊塗《こと》して、|大国彦《おほくにひこ》と|結託《けつたく》し、|世界《せかい》を|物質《ぶつしつ》|主義《しゆぎ》に|悪化《あくくわ》し、|優勝劣敗《いうしやうれつぱい》、|弱肉強食《じやくにくきやうしよく》の|端《たん》を|開《ひら》き、つひには|収拾《しうしふ》すべからざる|悪逆無道《あくぎやくむだう》の|暗黒界《あんこくかい》と|化《くわ》せしめ、その|惨状《さんじやう》|目《め》もあてられぬ|光景《くわうけい》となりたれば、|天《てん》の|三体《さんたい》の|大神《おほかみ》も|坐視《ざし》するに|忍《しの》びず、ここに|末法濁世《まつぱふぢよくせ》の|代《よ》を|短縮《たんしゆく》して|再《ふたた》び|国治立命《くにはるたちのみこと》の|出現《しゆつげん》を|命《めい》じたまひ、|完全無欠《くわんぜんむけつ》の|理想《りさう》の|神世《かみよ》の|出現《しゆつげん》せむとする|次第《しだい》を|略述《りやくじゆつ》せるものなれども、|製本上《せいほんじやう》の|都合《つがふ》により|本巻《ほんくわん》は、|国大立命《くにひろたちのみこと》および|金勝要神《きんかつかねのかみ》、|大将軍《たいしやうぐん》|沢田彦命《さはだひこのみこと》の|隠退《いんたい》さるるまでの|霊界《れいかい》の|消息《せうそく》を|伝《つた》ふることとせり。ゆゑにこの|霊界《れいかい》|物語《ものがたり》は、あたかも|大海《たいかい》の|一滴《いつてき》、|九牛《きうぎう》の|一毛《いちまう》にもおよばず、|無限絶対《むげんぜつたい》、|無始無終《むしむしう》の|霊界《れいかい》の|一部《いちぶ》の|物語《ものがたり》なれば、これをもつて|霊界《れいかい》の|全況《ぜんきやう》となすは|誤《あやま》りなり。|願《ねが》はくはこの|書《しよ》をもつて|霊界《れいかい》|一部《いちぶ》の|消息《せうそく》を|探知《たんち》し、|霊主体従《れいしゆたいじゆう》の|身魂《みたま》に|立《た》ちかへり、|世界《せかい》|万国《ばんこく》のために|弥勒《みろく》の|神業《しんげふ》に|奉仕《ほうし》されむことを|懇望《こんまう》する|次第《しだい》なり。|数千年間《すうせんねんかん》の|歴史上《れきしじやう》の|事実《じじつ》のみ|研究《けんきう》さるる|現代《げんだい》の|人士《じんし》は、この|物語《ものがたり》を|読《よ》みて|或《ある》ひは|怪乱狂暴《くわいらんきやうばう》|取《と》るにたらざる|痴人《ちじん》の|夢物語《ゆめものがたり》と|嘲笑《てうせう》し、|牽強附会《けんきやうふくわい》の|言《げん》となさむは、むしろ|当然《たうぜん》の|理《り》といふべし。|神諭《しんゆ》に|曰《いは》く、
『|世《よ》の|元《もと》の|誠《まこと》の|生神《いきがみ》が、|時節《じせつ》きたりてこの|世《よ》に|現《あら》はれ、|因縁《いんねん》ある|身魂《みたま》にうつりて|太古《むかし》から|言《い》ひおきにも、|書《か》きおきにもなきことを、|筆《ふで》と|口《くち》とで|世界《せかい》へ|知《し》らすのであるから、|世界《せかい》の|人民《じんみん》が|疑《うたが》ふて|真実《まこと》にいたさぬのは、もつとものことであるぞよ|云々《うんぬん》』
と|示《しめ》されあり。また、
『この|神《かみ》の|申《まを》すことは、|因縁《いんねん》の|身魂《みたま》でないと、|到底《たうてい》|腹《はら》へは|這入《はい》らぬぞよ』
と|示《しめ》されあり。ゆゑに|神縁《しんえん》|深《ふか》き|人士《じんし》にあらざれば、|断《だん》じて|信《しん》じ|難《がた》からむ。
|要《えう》は、|単《たん》に|一片《いつぺん》の|小説《せうせつ》と|見《み》なしたまふも|不可《ふか》なく、また|痴人《ちじん》の|夢物語《ゆめものがたり》として|読《よ》まるるも|可《か》なり。ただ|天地《てんち》の|大神《おほかみ》たちの|天地修理固成《てんちしうりこせい》の|容易《ようい》ならざる|御艱難《ごかんなん》と|御苦心《ごくしん》の|径路《けいろ》を|拝察《はいさつ》したてまつり、かつ|洪大無辺《こうだいむへん》の|神恩《しんおん》に|報《むく》ひたてまつり、|人生《じんせい》の|本分《ほんぶん》を|全《まつた》ふしうる|人士《じんし》の|一人《ひとり》にても|出現《しゆつげん》するにいたらば、|口述者《こうじゆつしや》にとりて、|望外《ばうぐわい》の|欣幸《きんかう》とするところなり。|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》
大正十一年一月 王仁識
第一篇 |国魂《くにたま》の|配置《はいち》
第一章 |神々《かみがみ》の|任命《にんめい》〔一〇一〕
|国治立命《くにはるたちのみこと》は、|無限絶対《むげんぜつたい》の|大神力《だいしんりき》を|発揮《はつき》し、まづ|大地《だいち》を|創造《さうざう》したまひぬ。この|時《とき》|清《きよ》き|軽《かる》きものは|日月星辰《じつげつせいしん》となり、|重《おも》く|濁《にご》れるものは|大地《だいち》と|別《わか》れたり。しかしてここに|陰陽《いんやう》|二神《にしん》の|夫婦《ふうふ》が|生《うま》れたるが、|男《をとこ》を|天足彦《あだるひこ》といひ、|婦《をんな》を|胞場姫《えばひめ》といふ。
しかるに|物《もの》には|表裏《へうり》あり、|善悪《ぜんあく》あり、|陰陽《いんやう》あり、|火水《くわすゐ》ありて|初《はじ》めて|万物《ばんぶつ》を|形成《けいせい》さるるは|自然《しぜん》の|理法《りはふ》なり。このとき|宇宙間《うちうかん》に|存在《そんざい》する|邪気《じやき》|凝《こ》つて|妖魅《えうみ》を|現出《げんしゆつ》し、|霊主体従《ひのもと》の|神木《しんぼく》に、|体主霊従《ちゑ》の|果実《このみ》を|結《むす》ぶにいたりけり。ここに|神《かみ》は、
『この|果実《このみ》を|喰《く》ふべからず』
と|女神《によしん》に|命《めい》じたまひしを、|女神《めがみ》は|神命《しんめい》を|奉《ほう》ぜず、みづから|採《と》つてこれを|食《しよく》し、つぎに|夫神《をつとがみ》にまでもすすめ|食《く》はしめたりける。これより|地上《ちじやう》の|世界《せかい》は|体主霊従《たいしゆれいじゆう》にかたむき、|種々《しゆじゆ》の|罪悪《ざいあく》は|漸次《ぜんじ》|発生《はつせい》し、|邪悪《じやあく》の|気《き》|凝《こ》つて|八頭八尾《やつがしらやつを》の|悪竜《あくりゆう》となり、|金毛九尾《きんまうきうび》の|悪狐《あくこ》となり、|六面八臂《ろくめんはつぴ》の|邪神《じやしん》、|妖気《えうき》の|霊怪《れいくわい》|天地《てんち》のあひだに|発生《はつせい》するにいたりける。これより|天地《てんち》の|間《あひだ》には、|罪悪《ざいあく》さかんに|行《おこな》はれ、|天地《てんち》|混沌《こんとん》として|紛乱《ふんらん》に|紛乱《ふんらん》をかさね、|世《よ》は|常闇《とこやみ》となり、ほとンど|拾収《しふしう》すべからざる|状態《じやうたい》となりにける。
ここに|国治立命《くにはるたちのみこと》は、|豊国姫命《とよくにひめのみこと》を|補佐神《ほさがみ》とし、|八百万《やほよろづ》の|神《かみ》とともに、|千辛万苦《せんしんばんく》をなめたまひ、つひに|天道別命《あまぢわけのみこと》(モウゼ)とともに|天地《てんち》の|律法《りつぱう》を|制定《せいてい》せられたり。その|律法《りつぱう》は|前巻《ぜんくわん》に|述《の》べたるごとく、|内面的《ないめんてき》には、
|省《かへり》みる
|恥《はづ》る
|悔《く》ゆる
|畏《おそ》る
|覚《さと》る
の|五ケ条《ごかぜう》であり、|外面的《ぐわいめんてき》には、
|第一《だいいち》、|夫婦《ふうふ》の|道《みち》を|厳守《げんしゆ》し、|一夫一婦《いつぷいつぷ》たるべきこと
|第二《だいに》、|神《かみ》を|敬《うやま》ひ、|長上《ちやうじやう》を|尊《たふと》み、|博《ひろ》く|万物《ばんぶつ》を|愛《あい》すること
|第三《だいさん》、たがひに|嫉《ねた》み、|謗《そし》り、|詐《いつは》り、|盗《ぬす》み、|殺《ころ》すなどの|悪事《あくじ》を|為《な》すべからざること
|右《みぎ》の|大要《たいえう》を|示《しめ》され、その|他《た》|百般《ひやくぱん》の|事物《じぶつ》について、|細密《さいみつ》なる|律法《りつぱう》が|設《まう》けられたりける。ここにおいて、まづこれを|地上《ちじやう》におこなひ、|天上《てんじやう》にもこれを|行《おこな》はむとし、|三体《さんたい》の|大神《おほかみ》に|認許《にんきよ》を|受《う》け、これを|天地《てんち》に|施行《しかう》さるることとはなりける。
ここに|三体《さんたい》の|大神《おほかみ》、|国治立命《くにはるたちのみこと》は|天地《てんち》|合体《がつたい》して|世《よ》を|治《をさ》むべく、|天地間《てんちかん》を|往来《わうらい》して、|神命《しんめい》の|戒律《かいりつ》を|天上《てんじやう》|地上《ちじやう》に|宣布《せんぷ》すべく、|管掌《くわんしやう》の|神《かみ》を|定《さだ》めたまひけり。
さて|国治立命《くにはるたちのみこと》は、|天上《てんじやう》の|三体《さんたい》の|神《かみ》の|命《めい》により、|太陽界《たいやうかい》に|使神《ししん》となり、|日天使《につてんし》|国治立命《くにはるたちのみこと》と|称《しよう》され、|豊国姫命《とよくにひめのみこと》は|月天使《がつてんし》|国大立命《くにひろたちのみこと》と|名《な》づけられ、|日天使《につてんし》の|神業《しんげふ》を|国直姫命《くになほひめのみこと》に、|月天使《がつてんし》の|神業《しんげふ》を|豊国姫命《とよくにひめのみこと》に|委任《ゐにん》され、|天道別命《あまぢわけのみこと》は|現界《げんかい》の|諸神《しよしん》に|律法《りつぱう》を|宣伝《せんでん》する|聖職《せいしよく》とならせたまひたり。
|神《かみ》は|天地《てんち》の|律法《りつぱう》を|天上《てんじやう》|地上《ちじやう》にあまねく|拡充《くわくじゆう》すべく、|十六柱《じふろくはしら》の|神司《かみ》を|霊主体従《ひのもと》の|天使《てんし》として|重《おも》く|任命《にんめい》せられたり。|十六《じふろく》|天使《てんし》の|名《な》は、|大八洲彦命《おほやしまひこのみこと》、|言霊別命《ことたまわけのみこと》、|神国別命《かみくにわけのみこと》、|大足彦《おほだるひこ》、|花森彦《はなもりひこ》、|磐樟彦《いはくすひこ》、|元照別《もとてるわけ》、|道貫彦《みちつらひこ》、|貴治彦《たかはるひこ》、|有国彦《ありくにひこ》、|真鉄彦《まがねひこ》、|磐玉彦《いはたまひこ》、|斎代彦《ときよひこ》、|吾妻別《あづまわけ》、|神澄彦《かむずみひこ》、|高山彦《たかやまひこ》にして|大八洲彦命《おほやしまひこのみこと》は|天使《てんし》の|長《ちやう》となり、|十六《じふろく》|天使《てんし》を|指揮《しき》さるることとなりにけり。
|以上《いじやう》の|十六《じふろく》|天使《てんし》は、|天上《てんじやう》|地上《ちじやう》を|往復《わうふく》し、|天地《てんち》の|律法《りつぱう》を|宇宙間《うちうかん》に|宣伝《せんでん》したまひ、|一時《いちじ》は|天地《てんち》ともに|太平《たいへい》に|治《おさ》まり、|大神《おほかみ》の|理想《りさう》の|世《よ》は|完全《くわんぜん》に|樹立《じゆりつ》されたりしが、たちまち|地《ち》の|各所《かくしよ》より、|邪神《じやしん》|勃興《ぼつこう》して|世《よ》はふたたび|混乱《こんらん》の|巷《ちまた》と|悪化《あくくわ》せむとぞしたりける。
ここに|国治立命《くにはるたちのみこと》は、シオン|山《ざん》に|鎮祭《ちんさい》せる|十二個《じふにこ》の|玉《たま》を|大地《だいち》の|各所《かくしよ》に|配置《はいち》し、これを|国魂《くにたま》の|神《かみ》となし、|八頭神《やつがしらがみ》を|任命《にんめい》さるることとなりたり。
(大正一〇・一一・一三 旧一〇・一四 栗原七蔵録)
第二章 |八王神《やつわうじん》の|守護《しゆご》〔一〇二〕
|日天使《につてんし》|国治立命《くにはるたちのみこと》は、シオン|山《ざん》に|鎮祭《ちんさい》せる|十二《じふに》の|玉《たま》を|世界《せかい》の|各所《かくしよ》に|配置《はいち》し、もつて|国魂《くにたま》の|神《かみ》と|定《さだ》められ、|新高山《にひたかやま》には|青色《せいしよく》の|玉《たま》を|鎮《しづ》め、|高国別《たかくにわけ》、|高国姫《たかくにひめ》の|二神《にしん》をして、これを|永遠《ゑいゑん》に|守《まも》らしめたまひけり。
つぎに|万寿山《まんじゆざん》には|赤色《せきしよく》の|玉《たま》を|鎮《しづ》め、|瑞穂別《みづほわけ》、|瑞穂姫《みづほひめ》をしてこれを|守護《しゆご》せしめ、またローマに|白色《はくしよく》の|玉《たま》を|鎮《しづ》め、|朝照彦《あさてるひこ》、|朝照姫《あさてるひめ》をしてこれを|守護《しゆご》せしめ、モスコーに|黒色《こくしよく》の|玉《たま》を|鎮《しづ》め、|夕日別《ゆふひわけ》、|夕照姫《ゆふてるひめ》をしてこれを|守護《しゆご》せしめ、ロツキー|山《ざん》に|紺色《こんいろ》の|玉《たま》を|鎮《しづ》め、|靖国別《やすくにわけ》、|靖国姫《やすくにひめ》をしてこれを|守護《しゆご》せしめ、つぎに|鬼城山《きじやうざん》に|灰色《はひいろ》の|玉《たま》を|鎮《しづ》め、|元照彦《もとてるひこ》、|元照姫《もとてるひめ》をしてこれを|守護《しゆご》せしめ、また|長白山《ちやうはくざん》に|白色《はくしよく》の|玉《たま》を|鎮《しづ》め、|磐長彦《いはながひこ》、|玉代姫《たまよひめ》をしてこれを|守護《しゆご》せしめ、コンロン|山《ざん》に|紅色《こうしよく》の|玉《たま》を|鎮《しづ》め、|大島彦《おほしまひこ》、|大島姫《おほしまひめ》をしてこれを|守護《しゆご》せしめ、|天山《てんざん》に|黄色《きいろ》の|玉《たま》を|鎮《しづ》め、|谷山彦《たにやまひこ》、|谷山姫《たにやまひめ》をしてこれを|守護《しゆご》せしめ、つぎに|金色《きんしよく》の|玉《たま》を|青雲山《せいうんざん》に|鎮《しづ》め、|吾妻彦《あづまひこ》、|吾妻姫《あづまひめ》をしてこれを|守護《しゆご》せしめ、ヒマラヤ|山《さん》に|銀色《ぎんしよく》の|玉《たま》を|鎮《しづ》め、ヒマラヤ|彦《ひこ》、ヒマラヤ|姫《ひめ》をしてこれを|守護《しゆご》せしめ、タコマ|山《やま》に|銅色《どうしよく》の|玉《たま》を|鎮《しづ》め、|国玉別《くにたまわけ》、|国玉姫《くにたまひめ》をして、これを|永遠《ゑいゑん》に|守護《しゆご》せしめたまひける。この|十二《じふに》の|玉《たま》の|守護神《しゆごじん》を|称《しよう》して、|八頭《やつがしら》の|神《かみ》といふ。
さて|国治立命《くにはるたちのみこと》は|十二《じふに》の|玉《たま》を|鎮《しづ》め、|八頭《やつがしら》の|国魂《くにたま》を|任命《にんめい》し、つぎに|八王《やつわう》の|神《かみ》を|配置《はいち》したまひぬ。すなはち|新高山《にひたかやま》には|花森彦《はなもりひこ》をして|主権《しゆけん》を|握《にぎ》らしめ、|万寿山《まんじゆざん》には|磐樟彦《いはくすひこ》、ローマには|元照別《もとてるわけ》、モスコーには|道貫彦《みちつらひこ》、ロツキー|山《ざん》には|貴治彦《たかはるひこ》、|鬼城山《きじやうざん》には|真鉄彦《まがねひこ》、|長白山《ちやうはくざん》には|有国彦《ありくにひこ》、コンロン|山《ざん》に|磐玉彦《いはたまひこ》、|天山《てんざん》には|斎代彦《ときよひこ》、|青雲山《せいうんざん》には|神澄彦《かむずみひこ》、ヒマラヤ|山《さん》には|高山彦《たかやまひこ》、タコマ|山《やま》には|吾妻別《あづまわけ》の|十二《じふに》|神将《しんしやう》を|配置《はいち》して|王《わう》となし、|各主権《かくしゆけん》を|握《にぎ》らしめたまひぬ。これを|八王《やつわう》の|神《かみ》といふ。この|八王八頭《やつわうやつがしら》の|神司《かみがみ》は、もとより|至善《しぜん》|至美《しび》にして|天則《てんそく》を|厳守《げんしゆ》しゐたりしが、|天地《てんち》の|邪気《じやき》より|現《あら》はれいでたる|八頭八尾《やつがしらやつを》の|悪竜《あくりゆう》と|金毛九尾《きんまうきうび》の|悪狐《あくこ》と、|六面八臂《ろくめんはつぴ》の|悪鬼《あくき》の|邪霊《じやれい》のために、|月《つき》かはり|星《ほし》うつるにしたがひ、|漸次《ぜんじ》|神《かみ》の|国《くに》は|穢《けが》され、つひには|天則《てんそく》|違反《ゐはん》の|行動《かうどう》をとるのやむを|得《え》ざるに|立《た》ちいたり、ここに|世《よ》はますます|混濁《こんだく》し、つひには|国治立命《くにはるたちのみこと》|御退隠《ごたいいん》のやむを|得《え》ざるにいたらしめたる|繁雑《はんざつ》なる|経緯《いきさつ》は、|章《しやう》をおうて|略述《りやくじゆつ》することとすべし。
(大正一〇・一一・一三 旧一〇・一四 河津雄録)
(序〜第二章 昭和一〇・一・一五 於新居浜 王仁校正)
第二篇 |新高山《にひたかやま》
第三章 |渓間《けいかん》の|悲劇《ひげき》〔一〇三〕
|新高山《にひたかやま》は|花森彦《はなもりひこ》|統裁《とうさい》のもとに、|高国別《たかくにわけ》、|高国姫《たかくにひめ》が|天地《てんち》の|律法《りつぱう》を|厳守《げんしゆ》し、|高砂島《たかさごじま》|一帯《いつたい》の|諸神《しよしん》を|至治太平《しぢたいへい》に|治《をさ》めゐたりしが、たまたま|高国姫《たかくにひめ》は|谷間《たにま》に|下《くだ》りて|清泉《せいせん》を|汲《く》まむとし、|断崕《だんがい》より|過《あやま》つて|足《あし》を|踏《ふ》み|外《はづ》し、|谷間《たにま》に|転落《てんらく》し、|神事不省《しんじふせい》に|陥《おちい》りければ、|侍者《じしや》らは|大《おほ》いに|驚《おどろ》きて、これを|救《すく》ひあげむと|百方《ひやつぱう》|手《て》をつくしたれども|断崕《だんがい》|高《たか》く、|渓流《けいりう》はげしく、いかんとも|救助《きうじよ》の|道《みち》なく、|侍者《じしや》は|驚《おどろ》きあはてこれの|顛末《てんまつ》を|詳細《しやうさい》に|高国別《たかくにわけ》に|報告《はうこく》せしより、|急報《きふはう》を|聞《き》きし|夫《をつと》は、たちまち|顔色《がんしよく》|蒼白《さうはく》となり、とるものも|取《と》りあへず、|職服《しよくふく》のまま|現場《げんば》にかけつけたりける。
|高国姫《たかくにひめ》は|渓間《たにま》の|激流《げきりう》におちいり、|激浪《げきらう》につつまれて、|浮《う》きつ|沈《しづ》みつ|悶《もだ》え|苦《くる》しみ|救《すく》ひを|呼《よ》びゐたり。その|声《こゑ》は|次第《しだい》に|細《ほそ》りゆきて、つひには|虫《むし》の|音《ね》のごとく|衰《おとろ》へきたりぬ。いかに|救《すく》はむとするも|断巌《だんがん》|絶壁《ぜつぺき》に|隔《へだ》てられ|救助《きうじよ》の|道《みち》なく、ただ|手《て》をつかねて|神司《かみがみ》らは、あれよあれよと|絶叫《ぜつけう》するばかり、|傍観《ばうかん》するより|外《ほか》に|方法《はうはふ》とてはあらざりにける。
ここに|高国姫《たかくにひめ》の|侍者《じしや》に|玉手姫《たまてひめ》といふ|容色《ようしよく》|優《すぐ》れたる|女性《によしやう》ありしが、|玉手姫《たまてひめ》は、
『|主神《しゆしん》の|一大事《いちだいじ》、|吾《われ》は|生命《せいめい》に|替《か》へて|救《すく》ひまつらむ』
といふより|早《はや》く|着衣《ちやくい》を|脱《ぬ》ぎすて、|数百丈《すうひやくぢやう》の|谷間《たにま》を|目《め》がけ、|急転《きふてん》|直下《ちよくか》、|高国姫《たかくにひめ》の|溺《おぽ》れ|苦《くる》しむ|前《まへ》に|飛下《とびくだ》り、|高国姫《たかくにひめ》を|小脇《こわき》にかかへ、|辛《から》うじて|渓流《けいりう》はるかの|下流《かりう》に|泳《およ》ぎつきこれを|救《すく》ひあげたり。|高国別《たかくにわけ》|夫妻《ふさい》の|喜悦《きえつ》と|感謝《かんしや》はたとふるに|物《もの》もなく、|玉手姫《たまてひめ》は|高国姫《たかくにひめ》の|生命《いのち》の|親《おや》として|優遇《いうぐう》され、つひに|玉手姫《たまてひめ》は|二神司《にしん》の|寵愛《ちようあい》ふかき|神司《しんし》となりぬ。
|高国別《たかくにわけ》、|高国姫《たかくにひめ》|二神《にしん》は、|玉手姫《たまてひめ》の|奇智《きち》と|才略《さいりやく》と|忠勇心《ちうゆうしん》に|深《ふか》く|信頼《しんらい》し、|城中《じやうちう》のこと|一切《いつさい》は、|玉手姫《たまてひめ》のほとんど|指揮《しき》を|待《ま》たざれば|何事《なにごと》も|決定《けつてい》せざるまでに、|漸次《ぜんじ》|権勢《けんせい》を|張《は》るにいたりける。
ここに|新高山《にひたかやま》を|中心《ちうしん》とする|高砂島《たかさごじま》は、|玉手姫《たまてひめ》の|水《みづ》ももらさぬ|経綸《けいりん》によつて|大《おほ》いに|治《をさ》まり、よく|天地《てんち》の|律法《りつぱう》を|厳守《げんしゆ》し、|上下一致《しやうかいつち》して|神政《しんせい》の|模範《もはん》となり、|国《くに》の|誉《ほまれ》も|高砂《たかさご》の、|千歳《ちとせ》の|松《まつ》の|永久《とこしへ》に、|治《おさ》まる|御代《みよ》と|思《おも》ひきや、|高国姫《たかくにひめ》は|渓流《けいりう》に|落《お》ちたるとき、|身体《しんたい》の|一部《いちぶ》に|障害《しやうがい》をきたし、それが|原因《げんいん》となりて|大病《たいびやう》を|発《はつ》し、|病床《びやうしやう》に|呻吟《しんぎん》し、|身体《しんたい》は|日《ひ》に|衰《おとろ》へゆくばかりなりける。
ここに|高国別《たかくにわけ》は、|高国姫《たかくにひめ》の|寵愛《ちようあい》ふかき|玉手姫《たまてひめ》をして、|昼夜《ちうや》|看護《かんご》に|尽力《じんりよく》せしめたるに、|玉手姫《たまてひめ》の|周到《しうたう》なる|看護《かんご》も|何《なん》の|効《かう》なく、|病《やまひ》は|日々《にちにち》|重《おも》りゆくのみなりける。ここに|花森彦《はなもりひこ》は|高国別《たかくにわけ》を|近《ちか》く|招《まね》き、|玉手姫《たまてひめ》を|一時《いちじ》も|早《はや》く|追放《つゐはう》すべく|厳命《げんめい》せられたるにぞ、|高国別《たかくにわけ》は|天使《てんし》の|命《めい》をいぶかり、|腑《ふ》におちぬていにて|言葉《ことば》|静《しづか》に、
『かれ|玉手姫《たまてひめ》は|忠勇無比《ちうゆうむひ》にして|真心《まごころ》より|懇切《こんせつ》なる|神司《かみ》なり。|高国姫《たかくにひめ》の|危急《ききふ》を|救《すく》ひたるもまた|玉手姫《たまてひめ》なり。|多《おほ》くの|侍者《じしや》ありといへども、|玉手姫《たまてひめ》のごとき|忠実《ちうじつ》なる|者《もの》は|外《ほか》に|一柱《ひとはしら》もなし。しかるに|天使《てんし》は|何《なに》をもつて|玉手姫《たまてひめ》を|追《お》ひだせと|命《めい》じたまふか』
と|反問《はんもん》したりけれど、|花森彦《はなもりひこ》は、
『|今《いま》は|何事《なにごと》も|語《かた》るべき|時期《じき》にあらず、ただ|吾《わが》|命《めい》を|遵奉《じゆんぽう》せば|足《た》れり』
と、|鶴《つる》の|一声《ひとこゑ》を|残《のこ》して|殿内《でんない》ふかく|足早《あしばや》に|進《すす》みいりぬ。しかして|高国別《たかくにわけ》は|妻《つま》および|玉手姫《たまてひめ》にむかつて、|花森彦《はなもりひこ》の|厳命《げんめい》の|次第《しだい》を|物語《ものがたり》れば、|高国姫《たかくにひめ》は|重《おも》き|病《やまひ》の|頭《あたま》をもたげながら、|驚《おどろ》きの|眼《め》を|見《み》はり、
『わが|生命《せいめい》は|玉手姫《たまてひめ》のために|救《すく》はれ、|今《いま》また|懇切《こんせつ》なる|看護《かんご》を|受《う》く、|妾《わらは》にとつて|命《いのち》の|親《おや》なり。たとへ|天使《てんし》の|厳命《げんめい》なりといへども、かかる|没義道《もぎだう》なる|命《めい》には|従《したが》ひがたし』
と|非常《ひじやう》に|天使《てんし》を|恨《うら》み|興奮《こうふん》の|結果《けつくわ》つひに|上天《しやうてん》したりける。|高国別《たかくにわけ》は|妻《つま》の|憤死《ふんし》を|見《み》て|大《おほ》いに|悲《かな》しみ、かつ|花森彦《はなもりひこ》を|深《ふか》く|恨《うら》むにいたれり。
ここに|玉手姫《たまてひめ》は|高国別《たかくにわけ》の|心中《しんちゆう》を|察《さつ》し、|熱涙《ねつるゐ》をうかべ、|花森彦《はなもりひこ》の|無情《むじやう》|冷酷《れいこく》を|怒《いか》り、|高国別《たかくにわけ》をして|信書《しんしよ》を|認《したた》め|天使《てんし》に|捧呈《ほうてい》せしめける。その|文意《ぶんい》は、
『|高国姫《たかくにひめ》は|天使《てんし》の|冷酷《れいこく》なる|命令《めいれい》を|恨《うら》み|憤死《ふんし》いたしたり。また|玉手姫《たまてひめ》は|誠意《せいい》を|疑《うたが》はれ、かつ|放逐《はうちく》の|命《めい》をうけたるを|大《おほ》いに|憤慨《ふんがい》せり。|我《われ》はいかに|天使《てんし》の|命《めい》なりとて|盲従《まうじゆう》するに|忍《しの》びず、|実《じつ》に|貴神《きしん》を|恨《うら》みまつる』
と|云《い》ふの|意味《いみ》なりし。|花森彦《はなもりひこ》はこれを|披見《ひけん》してただちに|高国別《たかくにわけ》にたいし、|天則《てんそく》|違反《ゐはん》の|由《よし》を|懇諭《こんゆ》し、かつ、
『|根《ね》の|国《くに》にいたるべし』
と|厳命《げんめい》したりける。|高国別《たかくにわけ》は|天使《てんし》の|神通力《じんつうりき》を|知《し》らず、ただ|単《たん》に|無情《むじやう》|冷酷《れいこく》の|処置《しよち》とのみ|思惟《しゐ》し、|自暴自棄《じばうじき》となりて、|花森彦《はなもりひこ》の|無道《むだう》を|天使長《てんしちやう》|大八洲彦命《おほやしまひこのみこと》に|進言《しんげん》せむとしたりける。
(大正一〇・一一・一三 旧一〇・一四 加藤明子録)
第四章 |鶴《つる》の|首《くび》〔一〇四〕
|高国別《たかくにわけ》は|妻《つま》に|先《さき》だたれ、|心《こころ》さびしく|新高山《にひたかやま》の|城中《じやうちう》にあつて、|神業《しんげふ》に|奉仕《ほうし》しつつありけれども、|花森彦《はなもりひこ》の|神意《しんい》を|了解《れうかい》せず、|心中《しんちゆう》に|不平《ふへい》を|抱《いだ》きゐたりける。|玉手姫《たまてひめ》は|高国別《たかくにわけ》の|常《つね》に|怏々《おうおう》として|楽《たのし》まず、|不平無聊《ふへいむれう》に|日《ひ》を|送《おく》りつつあるを|慰撫《ゐぶ》し、つひに|命《みこと》の|絶対的《ぜつたいてき》|信任《しんにん》を|得《う》るにいたり、ここに|第二《だいに》の|妻《つま》と|昇進《しようしん》したりける。|玉手姫《たまてひめ》はその|実《じつ》は|常世姫《とこよひめ》の|間者《かんじや》にして、|高国姫《たかくにひめ》を|谷間《たにま》に|落《おと》して|苦《くる》しましめたるも、また|重病《ぢうびやう》におちいらしめたるも、|玉手姫《たまてひめ》のひきゆる|悪魔《あくま》の|暗中飛躍的《あんちうひやくてき》|悪計《あくけい》なりき。|花森彦《はなもりひこ》はさすがに|名智《めいち》の|神将《しんしやう》なればよくこれを|察知《さつち》し、|高国別《たかくにわけ》にむかつて、|玉手姫《たまてひめ》を|追出《おひだ》すべく|厳命《げんめい》されたり。されど|高国別《たかくにわけ》は|玉手姫《たまてひめ》を|少《すこ》しも|疑《うたが》はず、|深《ふか》く|信任《しんにん》して|天使《てんし》の|厳命《げんめい》を|無情《むじやう》|冷酷《れいこく》と|恨《うら》み、かつ|猥《みだり》に|怒《いか》ることは、|天地《てんち》の|律法《りつぱう》|違反《ゐはん》なるをもつて、これが|処罰《しよばつ》を|命《めい》ぜられたりしなり。
|高国別《たかくにわけ》は|玉手姫《たまてひめ》と|夫婦《ふうふ》になり、ひそかに|天使長《てんしちよう》|大八洲彦命《おほやしまひこのみこと》に|向《むか》つて|信書《しんしよ》をたてまつり、|花森彦《はなもりひこ》の|横暴《わうばう》かぎりなき|処置《しよち》を、|口《くち》をきはめて|進言《しんげん》したり。|大八洲彦命《おほやしまひこのみこと》はただちに|言霊別命《ことたまわけのみこと》をして|新高山《にひたかやま》に|急行《きふかう》せしめ、|精密《せいみつ》なる|調査《てうさ》を|命《めい》じたまひぬ。|言霊別命《ことたまわけのみこと》はここに|花森彦《はなもりひこ》、|高国別《たかくにわけ》、|玉手姫《たまてひめ》を|命《みこと》の|前《まへ》に|来《きた》らしめ、|審判《しんぱん》を|開始《かいし》されけるが、|花森彦《はなもりひこ》は|言霊別命《ことたまわけのみこと》にむかひ、|高国別《たかくにわけ》|夫妻《ふさい》が|玉手姫《たまてひめ》の|悪計《あくけい》にかかりをることを|詳細《しやうさい》に|述《の》べたり。このとき|玉手姫《たまてひめ》は|涙《なみだ》を|流《なが》して|泣《な》き|伏《ふ》し、|言霊別命《ことたまわけのみこと》にむかつて、|花森彦《はなもりひこ》の|無情《むじやう》をうつたへ、かつ|自分《じぶん》の|誠意《せいい》の|貫徹《くわんてつ》せざることを|言葉《ことば》たくみに|進言《しんげん》したりける。
ここに|花森彦《はなもりひこ》は|高国別《たかくにわけ》の|天地《てんち》の|律法《りつぱう》に|違反《ゐはん》し、かつ|玉手姫《たまてひめ》を|妻《つま》とせる|不法《ふはふ》の|行為《かうゐ》を|述《の》べたてたるに、|高国別《たかくにわけ》はうやうやしく|言霊別命《ことたまわけのみこと》にむかつていふ。
『|我《われ》は|不幸《ふかう》にして|高国姫《たかくにひめ》に|死別《しにわか》れ、|神務《しんむ》を|輔佐《ほさ》する|者《もの》なく、|実《じつ》に|煩悶《はんもん》|苦悩《くなう》せしに、|忠実《ちうじつ》なる|玉手姫《たまてひめ》は|陰《いん》に|陽《やう》に|我《わ》が|神業《しんげふ》を|輔佐《ほさ》し|功績《こうせき》もつとも|顕著《けんちよ》にして、この|高砂島《たかさごじま》においては|彼《かれ》にまさる|完全《くわんぜん》なる|輔助者《ほじよしや》なし。いかに|一夫一婦《いつぷいつぷ》の|律法《りつぱう》あればとて、|我《われ》はすでに|妻《つま》を|失《うしな》ひ|孤独《こどく》となれり。|故《ゆゑ》にここに|諸神司《しよしん》に|信任《しんにん》あつき|玉手姫《たまてひめ》を|登用《とうよう》して、|妻《つま》となすに|何《なん》の|不可《ふか》かこれあらむ。|一夫一婦《いつぷいつぷ》は|天地《てんち》|律法《りつぱう》の|精神《せいしん》ならずや』
と|口《くち》をきはめて|進言《しんげん》したりければ、|言霊別命《ことたまわけのみこと》は、
『|汝《なんぢ》のいふところ|一理《いちり》なきにあらざれども、|本嶋《ほんたう》の|主権者《しゆけんしや》たる|花森彦《はなもりひこ》の|認許《にんきよ》を|受《う》けずして、|独断的《どくだんてき》にかかる|一大事《いちだいじ》を|決行《けつかう》するは|道理《だうり》に|反《はん》するものなり。|今後《こんご》は|主権者《しゆけんしや》の|認許《にんきよ》をえて|何事《なにごと》も|決行《けつかう》すべし』
と|厳命《げんめい》したまへば、|高国別《たかくにわけ》はいふ。
『|貴神《きしん》の|厳命《げんめい》は|実《じつ》にもつとも|千万《せんばん》なれども、|本嶋《ほんたう》の|主権者《しゆけんしや》たる|花森彦《はなもりひこ》はすでに|天則《てんそく》に|違反《ゐはん》し、|延《ひ》いて|稚桜姫命《わかざくらひめのみこと》を|幽界《いうかい》に|降《くだ》したてまつりたる|無道《むだう》の|神司《かみ》なり。|我《われ》いかに|天地《てんち》を|畏《おそ》れ|長上《ちやうじやう》を|尊《たふと》べとの|律法《りつぱう》ありといへども、かかる|不徳不義《ふとくふぎ》なる|天使《てんし》の|命《めい》を|聞《き》くに|堪《た》へむや。|君《きみ》|君《きみ》たらずンば|臣《しん》|臣《しん》たらず、|願《ねが》はくは|公明正大《こうめいせいだい》なる|御裁断《ごさいだん》を|乞《こ》ひ|奉《たてまつ》る』
と|涙《なみだ》を|流《なが》して|陳弁《ちんべん》するにぞ、|言霊別命《ことたまわけのみこと》は|高国別《たかくにわけ》にむかつて、
『|花森彦《はなもりひこ》の|罪《つみ》は|律法《りつぱう》|制定前《せいていぜん》の|罪《つみ》にして、|国治立命《くにはるたちのみこと》のすでに|恩赦《おんしや》されしは|汝《なんぢ》も|知《し》るところならむ。しかるに|汝《なんぢ》|律法《りつぱう》|制定後《せいていご》、|八頭《やつがしら》の|神《かみ》となり、|国魂《くにたま》の|神《かみ》に|仕《つか》へながら、|邪神《じやしん》のために|誤《あやま》られて|最愛《さいあい》の|妻《つま》を|失《うしな》ひ、|玉手姫《たまてひめ》の|容色《ようしよく》に|迷《まよ》ひ、かつ|長上《ちやうじやう》の|命《めい》を|奉《ほう》ぜず。これに|越《こ》えたる|律法《りつぱう》|破壊者《はくわいしや》はなし』
と|宣示《せんじ》したまひ、
『|高国別《たかくにわけ》にしてなほ|迷夢《めいむ》を|醒《さま》さざれば|是非《ぜひ》なし』
といひつつ|神殿《しんでん》より|青色《せいしよく》の|玉《たま》を|取《と》りだし、|玉手姫《たまてひめ》の|面上《めんじやう》を|射照《いてら》したまへば、|今《いま》まで|玉《たま》を|欺《あざむ》く|姫《ひめ》の|姿《すがた》はたちまち|悪狐《あくこ》と|変《へん》じ、|雲《くも》を|翔《かけ》りて|空中《くうちゆう》|高《たか》く|西天《せいてん》に|姿《すがた》を|隠《かく》しける。|高国別《たかくにわけ》はここに|初《はじ》めて|花森彦《はなもりひこ》の|明察《めいさつ》に|驚《おどろ》き、|今《いま》までの|無礼《ぶれい》を|涙《なみだ》とともに|陳謝《ちんしや》したりければ、|言霊別命《ことたまわけのみこと》は|深《ふか》く|将来《しやうらい》を|戒《いまし》め、……|何事《なにごと》も|主権者《しゆけんしや》の|命《めい》を|奉《ほう》じ、|神政《しんせい》に|奉仕《ほうし》せよ……と|厳命《げんめい》し、かつ……|委細《ゐさい》を|大八洲彦命《おほやしまひこのみこと》に|報告《はうこく》し、|何分《なにぶん》の|沙汰《さた》あるまで|謹慎《きんしん》を|表《へう》しをるべし……と|地《ち》の|高天原《たかあまはら》に|帰還《きくわん》し、|一伍一什《いちぶしじふ》を|天使長《てんしちやう》に|奏上《そうじやう》したまひける。|審議《しんぎ》の|結果《けつくわ》|高国別《たかくにわけ》に|厳《きび》しく|注意《ちうい》をあたへ、|今回《こんくわい》の|失敗《しつぱい》の|罪《つみ》は|問《と》はざることとなりにけり。
しかるに|常世姫《とこよひめ》|一派《いつぱ》の|悪魔《あくま》は、|千変万化《せんぺんばんくわ》の|悪計《あくけい》をめぐらし、つひには|高国別《たかくにわけ》をおとしいれ、|蒙古別《もうこわけ》をしてその|地位《ちゐ》に|代《かは》らしめ、|花森彦《はなもりひこ》を|新高山《にひたかやま》の|西南方《せいなんぱう》に|押込《おしこ》めたりければ、さしも|平和《へいわ》の|高砂島《たかさごじま》は|大半《たいはん》|常世姫《とこよひめ》の|部下《ぶか》の|占領《せんりやう》するところとなりける。されど|花森彦《はなもりひこ》の|至粋《しすゐ》|至純《しじゆん》の|霊魂《みたま》は|永《なが》く|本嶋《ほんたう》にとどまり、|青色《せいしよく》の|玉《たま》とともにこの|島《しま》に|永久《とこしへ》に|隠《かく》されにける。|花森彦《はなもりひこ》の|子孫《しそん》も|今《いま》に|儼存《げんぞん》して|勇猛義烈《ゆうまうぎれつ》の|神民《しんみん》となり、|神《かみ》の|御魂《みたま》を|維持《ゐじ》しつつ|弥勒神政《みろくしんせい》の|出現《しゆつげん》を|鶴首《くわくしゆ》して|霊《たま》を|研《みが》きて|待《まち》おれりといふ。
(大正一〇・一一・一三 旧一〇・一四 土井靖都録)
第三篇 ロツキー|山《ざん》
第五章 |不審《ふしん》の|使神《ししん》〔一〇五〕
ロツキー|山《ざん》は|紺色《こんいろ》の|玉《たま》を、|荘厳《さうごん》なる|神殿《しんでん》を|建立《こんりふ》して|鎮祭《ちんさい》され、|貴治彦《たかはるひこ》|八王神《やつわうじん》となり、|靖国別《やすくにわけ》|八頭神《やつがしらがみ》となり、|律法《りつぱう》を|遵守《じゆんしゆ》して、きはめて|平穏《へいおん》に|神事《しんじ》、|神政《しんせい》は|行《おこな》はれけり。
ある|時《とき》、|靖国姫《やすくにひめ》の|居間《ゐま》の|扉《と》を、ひそかに|叩《たた》く|者《もの》あり。|靖国姫《やすくにひめ》は|侍女《じぢよ》とともに|扉《とびら》を|開《ひら》き、
『かかる|深夜《しんや》に|戸《と》を|叩《たた》くは|何者《なにもの》ぞ』
と|問《と》ひただせば、|声《こゑ》に|応《おう》じて、
『|私《わたくし》は|地《ち》の|高天原《たかあまはら》なる|国直姫命《くになほひめのみこと》の|密使《みつし》にして、|小島彦《をじまひこ》と|申《まを》す|者《もの》なり』
(|附言《ふげん》、|小島彦《をじまひこ》と|称《しよう》するは|実《じつ》は|偽名《ぎめい》にて、|常世彦《とこよひこ》の|間者《かんじや》、|玉醜別《たましこわけ》といふ|曲者《くせもの》なりける)
|靖国姫《やすくにひめ》は|小島彦《をじまひこ》に|一面識《いちめんしき》もなければその|真偽《しんぎ》を|知《し》らず、|国直姫命《くになほひめのみこと》の|急使《きふし》と|聞《き》きて|大《おほ》いに|驚《おどろ》き、
『かかる|夜陰《やいん》にひそかに|来《きた》りたまふは、|地《ち》の|高天原《たかあまはら》に|何事《なにごと》か|急変《きふへん》おこりしならむ。まづわが|居間《ゐま》に』
と|小島彦《をじまひこ》を|引入《ひきい》れ、その|用務《ようむ》をあわただしく|息《いき》をはづませ|問《と》ひかくれば、|小島彦《をじまひこ》は|声《こゑ》を|低《ひく》ふし|四辺《あたり》に|眼《め》を|配《くば》り、かつ|畏《おそ》れながら、
『|隣神《りんしん》を|遠《とほ》ざけたまへ』
と|仔細《しさい》ありげなり。
|靖国姫《やすくにひめ》はその|言《げん》のごとく|隣神《りんしん》を|遠《とほ》ざけ、|小島彦《をじまひこ》としづかに|対座《たいざ》したり。|小島彦《をじまひこ》は|声《こゑ》を|低《ひく》ふしていふ、
『|地《ち》の|高天原《たかあまはら》には|大変事《たいへんじ》|出来《しゆつたい》し、|天使長《てんしちやう》|大八洲彦命《おほやしまひこのみこと》は、|八王大神《やつわうだいじん》|部下《ぶか》の|神《かみ》の|悪辣《あくらつ》なる|計略《けいりやく》におちいり、つひに|上天《しようてん》せり。その|他《た》の|天使《てんし》は|善後策《ぜんごさく》につき|協議中《けふぎちう》にして、|一歩《いつぽ》も|外出《ぐわいしゆつ》することを|得《え》ず。|上《うへ》を|下《した》への|大騒《おほさわ》ぎなれば、|我《われ》をして|天使《てんし》|代理《だいり》として|遣《つか》はしたまふ。ゆゑに|我《わ》が|言《げん》は|国直姫命《くになほひめのみこと》の|神言《しんげん》にして、|天使《てんし》の|言《げん》も|同様《どうやう》なり。|一時《いちじ》も|早《はや》く|靖国別《やすくにわけ》に|貴下《きか》より|伝言《でんごん》せられたし』
と|顔色《がんしよく》を|変《へん》じていひければ、|靖国姫《やすくにひめ》はそのまま|使者《ししや》をわが|居間《ゐま》に|待《ま》たせおき、|靖国別《やすくにわけ》の|寝殿《しんでん》にいたり、|密使《みつし》の|次第《しだい》を|逐一《ちくいち》|進言《しんげん》したりけり。|靖国別《やすくにわけ》は|大《おほ》いに|驚《おどろ》きしばらく|双手《もろて》を|組《く》ンで|思案《しあん》の|体《てい》なりし。たちまち|座《ざ》を|立《た》つて、|貴治彦《たかはるひこ》の|御殿《ごでん》に|参向《さんかう》し、|密使《みつし》の|次第《しだい》を|逐一《ちくいち》|奏上《そうじやう》したりける。
|貴治彦《たかはるひこ》はこれを|聞《き》きて|大《おほ》いに|訝《いぶ》かり、
『|国直姫命《くになほひめのみこと》の|密使《みつし》ならば、|第一着《だいいちちやく》に|吾《わ》れに|伝《つた》へらるべきはずなり。しかるに|如何《いか》なる|変事《へんじ》ありとて|吾《わ》れを|差《さ》しおき、しかも|女性《ぢよせい》の|居間《ゐま》をたたき、かかる|一大事《いちだいじ》を|報告《はうこく》すべき|理由《りいう》なし。|想《おも》ふに|反逆《はんぎやく》を|企《くはだ》つる|者《もの》の|奸手段《かんしゆだん》なるべし。|汝《なんぢ》らはすみやかに、その|密使《みつし》を|我《わ》が|前《まへ》にともなひ|来《きた》れ。|我《われ》は|彼《かれ》に|会《あ》ひ|実否《じつぴ》を|調査《てうさ》せむ』
と|言葉《ことば》を|残《のこ》して|殿中《でんちう》に|進《すす》み|入《い》りける。
|靖国別《やすくにわけ》は|命《めい》を|奉《ほう》じ、|小島彦《をじまひこ》を|伴《とも》なひひそかに|殿中《でんちう》に|伺候《しこう》し、|貴治彦《たかはるひこ》にむかつて|謁《えつ》を|乞《こ》ひしに、|命《みこと》は|小島彦《をじまひこ》にむかつて|密使《みつし》の|次第《しだい》を|詳細《しやうさい》に|訊問《じんもん》したりける。|小島彦《をじまひこ》は|低頭平身《ていとうへいしん》して|言葉《ことば》たくみに、|前述《ぜんじゆつ》の|次第《しだい》を|奏上《そうじやう》し、|一時《いちじ》もはやく|貴治彦《たかはるひこ》の|地《ち》の|高天原《たかあまはら》へのぼられることを|懇請《こんせい》し、かついふ。
『|徒《いたづら》に|躊躇《ちうちよ》|逡巡《しゆんじゆん》して|時《とき》を|移《うつ》さば|一層《いつそう》|大事変《だいじへん》を|惹起《じやくき》し、つひには|国直姫命《くになほひめのみこと》の|御身辺《ごしんぺん》も|危《あやふ》からむ。|大神《おほかみ》の|一大事《いちだいじ》、|早《はや》くこの|場《ば》を|立《た》つて、|吾《われ》らとともに|地《ち》の|高天原《たかあまはら》へ|参向《さんかう》されたし』
と|進言《しんげん》せる。
|折《をり》からたちまち|城下《じやうか》におこる|鬨《とき》の|声《こゑ》。|命《みこと》は|急《いそ》ぎ|勾欄《こうらん》にのぼり|山下《さんか》はるかに|見渡《みわた》せば、|夜陰《やいん》のため|確《たし》かにそれと|判別《はんべつ》はつかざれども、|立《た》ちならぶ|無数《むすう》の|高張《たかはり》は、|十曜《とえう》の|神紋《しんもん》|記《しる》されありき。ただごとならじと|元《もと》の|座《ざ》にかへり、|靖国別《やすくにわけ》に|何事《なにごと》か|耳語《じご》したまひける。|矢叫《やさけ》びの|声《こゑ》、|鬨《とき》の|声《こゑ》、|次第《しだい》に|近《ちか》づききたる。そのとき|地《ち》の|高天原《たかあまはら》の|従神司《じゆうしん》|豊彦《とよひこ》(|実《じつ》は|常世姫《とこよひめ》の|間者《かんじや》)は|軽装《けいさう》のまま|走《はし》りきたり|階下《かいか》に|平伏《へいふく》し、
『|恐《おそ》れながら|八王《やつわう》の|神《かみ》に|注進《ちうしん》し|奉《たてまつ》る。|地《ち》の|高天原《たかあまはら》はほとんど|破壊《はくわい》の|運命《うんめい》に|逢着《ほうちやく》し、|国治立命《くにはるたちのみこと》は|行衛《ゆくへ》|不明《ふめい》となり、|大混乱《だいこんらん》|状態《じやうたい》におちいり、|収拾《しうしふ》すべからざる|惨状《さんじやう》なり。|国直姫命《くになほひめのみこと》は|従者《じゆうしや》をしたがへ|小島彦《をじまひこ》の|跡《あと》を|追《お》ひ、ただ|今《いま》|出御《しゆつぎよ》|相《あひ》なりたり。|相当《さうたう》の|礼《れい》をつくして|諸神司《しよしん》をして|城門《じやうもん》に|奉迎《ほうげい》せしめたまへ』
とあはただしく|奏上《そうじやう》したるにぞ、|命《みこと》は|寝耳《ねみみ》に|水《みづ》の|注進《ちうしん》にしばし|茫然《ばうぜん》としてゐたりしが、ただちに|靖国別《やすくにわけ》に|命《めい》じて|城内《じやうない》の|諸神司《しよしん》に|非常《ひじやう》|召集《せうしふ》を|命《めい》じ、|国直姫命《くになほひめのみこと》を|城門《じやうもん》に|迎《むか》へたてまつるの|準備《じゆんび》に|着手《ちやくしゆ》されたりける。
|命《みこと》の|命令一下《めいれいいつか》とともに、|諸神《しよしん》は|各自《かくじ》|礼装《れいさう》をととのへ、|城門《じやうもん》に|奉迎《ほうげい》したり。
ここに|国直姫命《くになほひめのみこと》は|諸神司《しよしん》とともに|悠然《いうぜん》として|入《い》りきたり、|慇懃《いんぎん》に|挨拶《あいさつ》を|述《の》べ、|地《ち》の|高天原《たかあまはら》の|惨状《さんじやう》を|物語《ものがた》られける。ここに|国直姫命《くになほひめのみこと》の|命令《めいれい》を|奉《ほう》じて|貴治彦《たかはるひこ》、|靖国別《やすくにわけ》は|少数《せうすう》の|神軍《しんぐん》をひきゐ、|地《ち》の|高天原《たかあまはら》へ|応援《おうゑん》のため|参向《さんかう》することに|決《けつ》したり。
あまたの|諸神《しよしん》|将卒《しやうそつ》は|靖国姫《やすくにひめ》を|守護《しゆご》し、ロツキー|山《ざん》の|城中《じやうちう》にとどまり、しばらく|形勢《けいせい》を|観望《くわんばう》することとはなりける。
これよりさきに|貴治彦《たかはるひこ》は、|国彦《くにひこ》をひそかに|地《ち》の|高天原《たかあまはら》につかはし、|実否《じつぴ》を|糺《ただ》さしめ、かつ|小島彦《をじまひこ》の|密使《みつし》の|真偽《しんぎ》を|調査《てうさ》せしめゐたりしなり。
|大八洲彦命《おほやしまひこのみこと》は|国彦《くにひこ》の|言《げん》を|聞《き》いておほいに|驚《おどろ》き、
『|地《ち》の|高天原《たかあまはら》はかくのごとく|平穏《へいおん》|無事《ぶじ》なるに、かかる|密使《みつし》をだすべき|理由《りいう》なし。|察《さつ》するところ|邪神《じやしん》の|奸策《かんさく》ならむ。このままに|捨《す》ておかば、ロツキー|山《ざん》は、いかなる|運命《うんめい》に|逢着《ほうちやく》するや|計《はか》りがたし』
と、|言霊別命《ことたまわけのみこと》に、|国彦《くにひこ》を|添《そ》へ、あまたの|従神《じゆうしん》とともに、ロツキー|山《ざん》に|急《いそ》ぎ|出発《しゆつぱつ》せしめられたるぞ|畏《かし》こけれ。
(大正一〇・一一・一四 旧一〇・一五 栗原七蔵録)
第六章 |籠《かご》の|鳥《とり》〔一〇六〕
|国直姫命《くになほひめのみこと》は|靖国姫《やすくにひめ》とともにロツキー|山《ざん》の|諸神《しよしん》|将卒《しやうそつ》を|集《あつ》め、|高天原《たかあまはら》の|惨状《さんじやう》を|物語《ものがた》り、かつ、……|我《われ》は|天《てん》の|御三体《ごさんたい》の|大神《おほかみ》の|命《めい》を|奉《ほう》じ、ロツキー|山《ざん》に|地《ち》の|高天原《たかあまはら》を|建設《けんせつ》し、|国治立命《くにはるたちのみこと》を|迎《むか》へたてまつり、|天地《てんち》の|律法《りつぱう》を|厳守《げんしゆ》し、もつて|至善《しぜん》|至美《しび》なるミロクの|神政《しんせい》を|布《し》かむとす。|汝《なんぢ》ら|諸神《しよしん》|将卒《しやうそつ》|心《こころ》を|合《あは》せ|我《わ》が|命《めい》を|奉《ほう》じ、|力《ちから》を|一《いつ》にして、もつて|神政《しんせい》|成就《じやうじゆ》のために|努力《どりよく》せよ……と|宣示《せんじ》したり。
|諸神《しよしん》|将卒《しやうそつ》は|一点《いつてん》の|疑《うたが》ひもなく、この|宣示《せんじ》を|遵守《じゆんしゆ》し、ますます|結束《けつそく》を|固《かた》くし、|各城門《かくじやうもん》には|勇猛《ゆうまう》なる|神将《しんしやう》を|配置《はいち》し、|固《かた》くこれを|守《まも》らしめたり。このとき|東天《とうてん》をとどろかし、|天《あま》の|磐船《いはぶね》に|乗《の》りてきたる|神《かみ》あり、|靖国別《やすくにわけ》に|面談《めんだん》せむと、|眉目清秀《びもくせいしう》|威厳《ゐげん》|犯《をか》すべからざる|言霊別命《ことたまわけのみこと》がこの|場《ば》に|現《あら》はれたまひける。|東門《ひがしもん》の|神将《しんしやう》|玉国別《たまくにわけ》は、この|旨《むね》を|国直姫命《くになほひめのみこと》に|奏上《そうじやう》しければ、|命《みこと》はただちに|大広間《おほひろま》に|諸神将《しよしんしよう》を|集《あつ》め、|列座《れつざ》せる|中央《ちうあう》に|言霊別命《ことたまわけのみこと》を|招《まね》き、その|来意《らいい》を|尋《たづ》ねける。
ここに|言霊別命《ことたまわけのみこと》は、
『|貴治彦《たかはるひこ》の|使者《ししや》|国彦《くにひこ》の|進言《しんげん》により、|高天原《たかあまはら》の|混乱《こんらん》|状態《じやうたい》に|陥《おちい》り、|国直姫命《くになほひめのみこと》は|身《み》をもつて|免《まぬが》れ、|大八洲彦命《おほやしまひこのみこと》は|昇天《しようてん》し、|国治立命《くにはるたちのみこと》は|行衛《ゆくへ》|不明《ふめい》となりたまひたりとの|密使《みつし》ロツキー|山《ざん》に|来《きた》れりと|聞《き》き、|不審《ふしん》にたへず、|事《こと》の|実否《じつぴ》を|調査《てうさ》せむために、|我《われ》は|大八洲彦命《おほやしまひこのみこと》の|使神《ししん》として|出向《しゆつかう》せり。|今日《こんにち》の|地《ち》の|高天原《たかあまはら》はきはめて|平穏《へいおん》|無事《ぶじ》なり。したがつて|国治立命《くにはるたちのみこと》をはじめ、|国直姫命《くになほひめのみこと》、|大八洲彦命《おほやしまひこのみこと》はすこぶる|健全《けんぜん》にして|神務《しんむ》に|鞅掌《あうしやう》せられ、|天地《てんち》の|律法《りつぱう》は|完全《くわんぜん》に|行《おこな》はれつつあり。しかるに|何者《なにもの》の|奸策《かんさく》にや、|当城《たうじやう》にむけ|虚偽《きよぎ》の|密告《みつこく》をなし|当山《たうざん》を|攪乱《かくらん》せむとはする、|貴下《きか》は|何者《なにもの》なるぞ』
と|国直姫命《くになほひめのみこと》にむかつて|詰問《きつもん》せり。このとき|国直姫命《くになほひめのみこと》は|容色《ようしよく》をあらため|威儀《ゐぎ》を|正《ただ》し、
『|汝《なんぢ》|言霊別命《ことたまわけのみこと》と|自称《じしよう》するも|我《われ》はこれを|信《しん》ぜず。|現《げん》に|国直姫命《くになほひめのみこと》は|我《われ》なるぞ。しかるに|国直姫命《くになほひめのみこと》|高天原《たかあまはら》にあり、|大八洲彦命《おほやしまひこのみこと》も|健全《けんぜん》に|神務《しんむ》に|従事《じゆうじ》せりとは|虚偽《きよぎ》もまた|甚《はなは》だしからずや、|汝《なんぢ》は「|詐《いつは》るなかれ」といふ|天地《てんち》の|律法《りつぱう》を|破《やぶ》りたる|邪神《じやしん》なり、|国直姫命《くになほひめのみこと》あに|二柱《ふたはしら》あらむや』
と|色《いろ》をなして|言《い》ひ|放《はな》ちけるにぞ、ここに|諸神将《しよしんしよう》は、……|我《われ》らをいつはる|不届至極《ふとどきしごく》の|邪神《じやしん》、|贋《にせ》|言霊別命《ことたまわけのみこと》を|厳罰《げんばつ》に|処《しよ》せむ……と、いふより|早《はや》く|目《め》と|目《め》を|見合《みあは》せ、ただちに|立《た》つて|命《みこと》を|後手《うしろで》に|縛《しば》りあげ、|口《くち》に|猿轡《さるぐつわ》をはませ、|神卒《しんそつ》をして|泥《どろ》|深《ふか》き|堀《ほり》の|中《なか》に|投棄《とうき》し、|凱歌《がいか》を|奏《そう》しふたたび|国直姫命《くになほひめのみこと》の|御前《ごぜん》に|出《い》で|鼻高々《はなたかだか》とこの|顛末《てんまつ》を|奏上《そうじやう》したり。|国直姫命《くになほひめのみこと》は|賞詞《しやうし》を|賜《たま》はるかと|思《おも》ひきや、……|汝《なんぢ》らは『|殺《ころ》すなかれ』との|天則《てんそく》に|違反《ゐはん》せり。すみやかに|根《ね》の|国《くに》に|退去《たいきよ》を|命《めい》ず……と|厳《おごそ》かに|言《い》ひわたしければ、|案《あん》に|相違《さうゐ》の|神司《かみがみ》らは|梟《ふくろ》の|夜食《やしよく》に|外《はづ》れたるごとき|不平面《ふへいづら》にて、|神将《しんしやう》に|引立《ひきた》てられ|牢獄《らうごく》に|投《な》げ|込《こ》まれける。|一方《いつぱう》|言霊別命《ことたまわけのみこと》は|辛《から》うじて|泥中《でいちう》より|這《は》ひ|上《あが》りしところを|番卒《ばんそつ》に|見《み》つけられ、|高手小手《たかてこて》に|縛《いまし》められて|牢獄《らうごく》に|投《な》げこまれ、|無限《むげん》の|苦痛《くつう》をなめたまひける。
|折《をり》しもどこともなく|微妙《びめう》の|音楽《おんがく》|聞《きこ》え、|紺碧《こんぺき》の|蒼空《さうくう》より|五色《ごしき》の|雲《くも》に|乗《の》り、あまたの|神将《しんしやう》をしたがへ|十曜《とえう》の|神旗《しんき》を|幾十《いくじふ》ともなく|押《お》したてて、ロツキー|山《ざん》にむかつて|下《くだ》りきたる、|栄光《ゑいくわう》と|権威《けんゐ》の|具《そな》はれる|大神《おほかみ》|現《あら》はれましぬ。|国直姫命《くになほひめのみこと》は|恭敬礼拝《きようけいれいはい》|拍手《はくしゆ》してこれを|迎《むか》へ、……|国治立命《くにはるたちのみこと》|様《さま》|御苦労《ごくろう》に|存《ぞん》じ|奉《たてまつ》る……と|大声《おほごゑ》に|奏上《そうじやう》したれば、あまたの|神司《かみがみ》は|命《みこと》の|声《こゑ》を|聞《き》くと|斉《ひと》しく|恭敬礼拝《きようけいれいはい》|低頭平身《ていとうへいしん》、|礼《れい》の|限《かぎ》りをつくして|奉迎《ほうげい》し、|歓喜《くわんき》の|涙《なみだ》にくれにける。
ここに|国直姫命《くになほひめのみこと》は|国治立命《くにはるたちのみこと》を|奥殿《おくでん》に|案内《あんない》し|奉《たてまつ》り、かつ|諸神司《しよしん》を|集《あつ》めて|地《ち》の|高天原《たかあまはら》を|天《てん》の|大神《おほかみ》の|命《めい》により、ロツキー|山《ざん》に|遷《うつ》されしことを|宣示《せんじ》しける。|諸神《しよしん》|将卒《しやうそつ》は|欣喜雀躍《きんきじやくやく》|手《て》の|舞《ま》ひ|足《あし》の|踏《ふ》むところを|知《し》らざりし。|時《とき》しも|天《あま》の|鳥船《とりぶね》に|乗《の》りて、|地《ち》の|高天原《たかあまはら》より|八王神《やつわうじん》なる|貴治彦《たかはるひこ》、|八頭神《やつがしらがみ》なる|靖国別《やすくにわけ》|帰《かへ》りきたり、|東門《ひがしもん》に|降下《かうか》し、|番卒《ばんそつ》にむかつて|開門《かいもん》を|命《めい》じたり。|番卒《ばんそつ》はおほいに|驚《おどろ》き、|唯々《ゐゐ》として|門《もん》を|開《ひら》き|二神将《にしんしやう》を|通《とほ》したり。|二神将《にしんしやう》はただちに|奥殿《おくでん》に|気色《けしき》をかへて|進《すす》み|入《い》り、|靖国姫《やすくにひめ》を|一間《ひとま》に|招《まね》き、|高天原《たかあまはら》の|実況《じつきやう》を|物語《ものがた》り、かつ、|当山《たうざん》に|逃《に》げきたりしといふ|国治立命《くにはるたちのみこと》は、その|実《じつ》|常世姫《とこよひめ》の|部下《ぶか》の|邪神《じやしん》なりと|語《かた》れば、|靖国姫《やすくにひめ》はおほいに|驚《おどろ》き、かつ、その|真偽《しんぎ》に|迷《まよ》はざるを|得《え》ざりける。
ここに|貴治彦《たかはるひこ》、|靖国別《やすくにわけ》は|城内《じやうない》の|諸神司《しよしん》を|集《あつ》め、|地《ち》の|高天原《たかあまはら》の|実況《じつきやう》を|伝達《でんたつ》せむとし|城内《じやうない》|一般《いつぱん》に|令《れい》を|発《はつ》したるに、|偽《にせ》|国直姫命《くになほひめのみこと》は|陰謀《いんぼう》の|露見《ろけん》せむことを|恐《おそ》れ、みづからも|諸神将《しよしんしよう》に|令《れい》を|発《はつ》し、|大広前《おほひろまへ》に|集《あつ》まらしめける。|諸神《しよしん》|将卒《しやうそつ》は|一柱《ひとはしら》として|国直姫命《くになほひめのみこと》を|偽神《ぎしん》と|信《しん》ずる|者《もの》なく、かつ|偽《にせ》の|国治立命《くにはるたちのみこと》を|一層《いつそう》|深《ふか》く|信頼《しんらい》しゐたりける。このとき|貴治彦《たかはるひこ》、|靖国別《やすくにわけ》は|正座《しやうざ》になほり、|偽《にせ》の|国直姫《くになほひめ》にむかつて、|貴治彦《たかはるひこ》は、
『|汝《なんぢ》はいづれより|来《きた》りし|邪神《じやしん》なるか、|有体《ありてい》に|白状《はくじやう》せよ。|返答《へんたふ》|次第《しだい》によりては|容赦《ようしや》はならじ』
と|双方《さうはう》より|詰《つ》めかけけるを、|国直姫命《くになほひめのみこと》はカラカラとうち|笑《わら》ひ、
『|汝《なんぢ》は|主神《しゆしん》にむかつて|無礼《ぶれい》の|雑言《ざふごん》、「|長上《ちやうじやう》を|敬《うやま》へ」との|律法《りつぱう》を|破《やぶ》る|反逆者《はんぎやくしや》ならずや。また|汝《なんぢ》は|地《ち》の|高天原《たかあまはら》にいたりてその|惨状《さんじやう》を|見《み》きはめ|帰《かへ》りしにもかかはらず、|吾《われ》にむかつて|何《いづ》れの|邪神《じやしん》ぞと|口《くち》をきはめて|罵《ののし》るは、これはまた|律法《りつぱう》|違反《ゐはん》に|非《あら》ずや。|我《われ》はただちに|奥殿《おくでん》に|入《い》り、|国治立命《くにはるたちのみこと》に|汝《なんぢ》が|無礼《ぶれい》の|次第《しだい》を|逐一《ちくいち》|奏上《そうじやう》し|奉《たてまつ》らむ、しばらく|控《ひか》へよ』
と、|足音《あしおと》|荒《あら》く|奥殿《おくでん》に|急《いそ》ぎ|進入《しんにふ》したりしが、|城内《じやうない》の|諸神将《しよしんしよう》はこの|光景《くわうけい》を|見《み》てやや|不審《ふしん》の|雲《くも》に|包《つつ》まれゐたり。|貴治彦《たかはるひこ》、|靖国別《やすくにわけ》は|怒《いかり》|心頭《しんとう》に|達《たつ》し、|二神司《にしん》は|共《とも》に|刀《かたな》の|柄《つか》に|手《て》をかけ、|国直姫命《くになほひめのみこと》を|一刀《いつたう》の|下《もと》に|切《き》り|付《つ》けむと|決心《けつしん》したりしが、たちまち|天地《てんち》の|律法《りつぱう》を|思《おも》ひ|出《だ》し……「|怒《いか》る|勿《なか》れ、|殺《ころ》す|勿《なか》れ」いま|我《われ》|短慮《たんりよ》を|起《おこ》しなばみづから|天則《てんそく》を|破《やぶ》る|者《もの》なり、ああ|如何《いか》にせむ……と|思案《しあん》にくるるをりしも、|奥殿《おくでん》より|国治立命《くにはるたちのみこと》あまたの|侍神《じしん》を|従《したが》へ、|悠然《いうぜん》と|立《た》ち|現《あら》はれ、
『|国治立命《くにはるたちのみこと》これに|在《あ》り、|汝《なんぢ》|何《なに》ゆゑなれば|天地《てんち》の|大命《たいめい》を|拝持《はいぢ》する|国直姫命《くになほひめのみこと》にむかつて|暴言《ばうげん》を|吐《は》くや、|汝《なんぢ》は|天地《てんち》の|律法《りつぱう》を|破壊《はくわい》する|邪神《じやしん》なり、|一時《いちじ》も|早《はや》くこの|場《ば》を|立去《たちさ》れ。|万一《まんいち》|吾《わ》が|言《げん》に|違背《ゐはい》せば、やむを|得《え》ず|汝《なんぢ》ら|二人《ふたり》を、|根《ね》の|国《くに》に|退去《たいきよ》を|命《めい》ず』
と、|言辞《ことば》おごそかに|伝《つた》へければ、|城内《じやうない》の|諸神《しよしん》|将卒《しやうそつ》はいづれも|真正《しんせい》の|国治立命《くにはるたちのみこと》と|信《しん》じ、この|二人《ふたり》を|天則《てんそく》|違反者《ゐはんしや》となして、ロツキー|山《ざん》を|退去《たいきよ》せしめたりける。ここに|貴治彦《たかはるひこ》はモスコーに|逃《のが》れ、|蟄居《ちつきよ》して|時期《じき》を|待《ま》つこととなりぬ。また|靖国別《やすくにわけ》|夫婦《ふうふ》は|何処《いづく》ともなく|落《お》ちのび、|行衛《ゆくへ》|不明《ふめい》となれり。
|附言《ふげん》 この|国治立命《くにはるたちのみこと》といふは|六面八臂《ろくめんはつぴ》の|邪鬼《じやき》の|変化《へんげ》にして、|国直姫命《くになほひめのみこと》は|常世姫《とこよひめ》の|部下《ぶか》|醜玉姫《しこたまひめ》なり。かくしてロツキー|山《ざん》は|悪魔《あくま》の|手《て》におちいり、|諸神《しよしん》|将卒《しやうそつ》は、その|邪神《じやしん》たることを|覚《さと》る|者《もの》なく、ここに|偽《にせ》|高天原《たかあまはら》はある|時期《じき》まで、|建設《けんせつ》されゐたりしなり。
(大正一〇・一一・一四 旧一〇・一五 河津雄録)
第七章 |諷詩《ふうし》の|徳《とく》〔一〇七〕
|大八洲彦命《おほやしまひこのみこと》は、ロツキー|山《ざん》は|悪神《あくがみ》のために|根底《こんてい》より|覆《くつが》へされ、|貴治彦《たかはるひこ》、|靖国別《やすくにわけ》|夫妻《ふさい》のいづこともなく|逃亡《たうばう》し、かつ|言霊別命《ことたまわけのみこと》は|敵《てき》のために|捕《とら》はれ、|牢獄《らうごく》につながれ|呻吟《しんぎん》せることを|知《し》り、ここに|諸神司《しよしん》を|集《あつ》めて、ロツキー|山《ざん》を|回復《くわいふく》し、|言霊別命《ことたまわけのみこと》を|救《すく》ひ|出《だ》さむことを|協議《けふぎ》したまひぬ。|諸神司《しよしん》は|鳩首《きうしゆ》|謀議《ぼうぎ》の|結果《けつくわ》、|神軍《しんぐん》をおこしてロツキー|山《ざん》を|一挙《いつきよ》に|奪還《だつくわん》するは、さまで|難事《なんじ》にあらざれども、|言霊別命《ことたまわけのみこと》の|身辺《しんぺん》にかへつて|危険《きけん》の|迫《せま》らむことを|慮《おもんばか》り、|表面《へうめん》これを|攻撃《こうげき》することを|躊躇《ちうちよ》したまひぬ。
ここに|言霊別命《ことたまわけのみこと》の|侍者《じしや》に、|忠勇《ちうゆう》|義烈《ぎれつ》の|誉《ほまれ》|高《たか》き|言代別《ことしろわけ》といふ|者《もの》ありき。|言代別《ことしろわけ》は|恐《おそ》るおそる|諸神将《しよしんしよう》の|前《まへ》に|出《い》で、
『|我《われ》つらつら|考《かんが》ふるに、ロツキー|山《ざん》の|攻撃《こうげき》に|先《さき》だち、|言霊別命《ことたまわけのみこと》を|救《すく》ひださざれば、|命《みこと》は|人質《ひとじち》|同様《どうやう》なれば、|魔軍《まぐん》は|危急《ききふ》におちいりたる|場合《ばあひ》、|命《みこと》を|殺害《さつがい》したてまつるは|必定《ひつぢやう》なり。|我《われ》は「|偽《いつは》るなかれ」の|厳《きび》しき|律法《りつぱう》を|破《やぶ》りみづから|犠牲《ぎせい》となりて、|我《わ》が|主《しゆ》を|救《すく》ひたてまつらむとす。|幸《さいはひ》にこの|大任《たいにん》を|我《われ》に|許《ゆる》したまへ』
と|誠心《まごころ》おもてに|表《あら》はして|嘆願《たんぐわん》したりければ、|大八洲彦命《おほやしまひこのみこと》は|打《う》ちうなづき、
『|汝《なんぢ》は|主《しゆ》を|救《すく》はむとして|敵《てき》を|偽《いつは》らむとする|行為《かうゐ》は、|元来《ぐわんらい》|忠良《ちうりやう》の|真情《まごころ》よりいでたるものなれば|決《けつ》して|罪《つみ》とならざるべし。すみやかにロツキー|山《ざん》にいたりて|言霊別命《ことたまわけのみこと》を|救《すく》ひだせよ』
と|命《めい》じたまひぬ。|言代別《ことしろわけ》はおほいに|悦《よろこ》び|天《てん》にも|昇《のぼ》る|心地《ここち》して、ただちにロツキー|山《ざん》にむかひける。|言代別《ことしろわけ》は|円《まる》き|石《いし》に|金鍍金《きんめつき》をほどこし、|如意宝珠《によいほつしゆ》の|珠《たま》を|偽造《ぎざう》して|懐中《くわいちう》に|深《ふか》く|秘蔵《ひざう》し、ロツキー|山《ざん》の|南門《なんもん》に|現《あら》はれ、
『|国直姫命《くになほひめのみこと》に|奉《たてまつ》るべき|珍宝《ちんぽう》あり。|拝謁《はいえつ》を|乞《こ》ひたし。|願《ねが》はくば|貴下《きか》らの|斡旋《あつせん》によりこの|由《よし》を|奏上《そうじやう》されむことを』
と、|言葉《ことば》たくみに|頼《たの》みこみけるを、|番卒《ばんそつ》はいふ。
『|果《はた》して|貴下《きか》が|如意《によい》|宝珠《ほつしゆ》の|珠《たま》を|所持《しよぢ》さるるならば、|我《われ》らに|一目《ひとめ》|拝観《はいくわん》せしめよ。|珠《たま》の|有無《うむ》をたしかめざるにおいては、|軽々《かるがる》しく|奏上《そうじやう》することを|得《え》ず』
とてやや|難色《なんしよく》ありければ|言代別《ことしろわけ》は、
『|貴下《きか》の|仰《おほ》せ|実《げ》に|尤《もつと》もなり』
とて|懐《ふところ》をひらき、|金色燦然《きんしよくさんぜん》たる|珠《たま》の|一部《いちぶ》を|現《あら》はし|見《み》せたるに、|番卒《ばんそつ》はこれを|上級《じやうきふ》の|神司《かみ》に|伝《つた》へ、|漸次《ぜんじ》|国直姫命《くになほひめのみこと》にこの|次第《しだい》を|奏上《そうじやう》したりける。|国直姫命《くになほひめのみこと》は、
『ロツキー|山《ざん》には|未《いま》だ|如意宝珠《によいほつしゆ》の|珠《たま》なきを|憾《うら》みとす。しかるに|天運《てんうん》|循環《じゆんかん》してここに|珍宝《ちんぽう》の|手《て》に|入《い》るは、いよいよ|願望《ぐわんばう》|成就《じやうじゆ》の|時期《じき》|到来《たうらい》せしならむ。すみやかに|言代別《ことしろわけ》を|我《わ》が|前《まへ》によびきたれ』
といそいそとして|命令《めいれい》したり。かくて|言代別《ことしろわけ》はしばらくして|城内《じやうない》の|神司《かみがみ》にみちびかれ、|国直姫命《くになほひめのみこと》の|前《まへ》に|現《あら》はれ|一礼《いちれい》の|後《のち》、|懐中《くわいちゆう》より|珠《たま》を|取出《とりだ》し|八足《やたり》の|机上《きじやう》にうやうやしく|安置《あんち》し、
『|吾《われ》こそは|高白山《かうはくざん》の|麓《ふもと》に|住《す》む|言代別《ことしろわけ》といふ|者《もの》なり。いまや|当山《たうざん》に|国治立大神《くにはるたちのおほかみ》|現《あら》はれたまふと|聞《き》きて|歓喜《くわんき》にたへず。|吾《われ》は|往古《わうこ》より|家《いへ》に|伝《つた》はる|如意宝珠《によいほつしゆ》の|珠《たま》を|持参《ぢさん》し、これを|大神《おほかみ》に|奉《たてまつ》り、もつて|神業《しんげふ》に|参加《さんか》せむと|欲《ほつ》し、|遠《とほ》き|山河《さんか》を|越《こ》えてここに|参《まゐ》のぼりたり』
と|言葉《ことば》をつくして|奏上《そうじやう》したるに、|国直姫命《くになほひめのみこと》はおほいに|悦《よろこ》び、その|珠《たま》を|手《て》にとり|熟視《じゆくし》して|満面《まんめん》|笑《ゑみ》を|含《ふく》み、
『|実《げ》に|稀代《きたい》の|珍宝《ちんぽう》なり。|汝《なんぢ》はこの|珠《たま》を|奉《たてまつ》りし|功《こう》により、いかなる|望《のぞ》みなりとも|叶《かな》へつかはさむ』
と|宣言《せんげん》せり。|言代別《ことしろわけ》は|頓首《とんしゆ》|再拝《さいはい》、|喜色《きしよく》|満面《まんめん》にあふれ、
『|実《げ》に|有難《ありがた》き|大神《おほかみ》の|御仰《おんおほ》せ、|御恩《ごおん》は|海山《うみやま》に|代《か》へがたし。|願《ねが》はくば|卑《いや》しき|吾《われ》をして|牢獄《らうごく》の|番卒《ばんそつ》たらしめたまへ、これに|過《す》ぎたるよろこびはなし』
と|願《ねが》ひけるに、|国直姫命《くになほひめのみこと》は|少《すこ》しく|首《かうべ》をかたむけ、
『|心得《こころえ》ぬ|汝《なんぢ》が|望《のぞ》み、かかる|麗《うるは》しき|世界《せかい》の|珍宝《ちんぽう》を|奉《まつ》りたる|功労者《こうらうしや》でありながら、|何《なに》を|苦《くる》しみてかかる|卑《いや》しき|職《しよく》を|求《もと》むるや』
と|反問《はんもん》するを、|言代別《ことしろわけ》はただちに|言葉《ことば》を|反《かへ》していふ。
『|諺《ことわざ》にも|喬木《けうぼく》よく|風《かぜ》にあたり、|出《で》る|杭《くひ》は|打《う》たれ、|高《たか》きに|昇《のぼ》る|者《もの》は、|地《ち》に|落《お》つることありと|聞《き》きおよぶ。|吾《われ》は|役目《やくめ》の|高下《かうげ》を|望《のぞ》まず、ただ|誠心《せいしん》|誠意《せいい》|大神《おほかみ》に|仕《つか》へ、|神業《しんげふ》の|一端《いつたん》に|加《くは》へたまはばこれに|過《す》ぎたる|幸《さいはひ》なし。それとも|吾《わ》が|技倆《ぎりよう》を|大神《おほかみ》において|認《みと》めたまはば、|其《そ》のとき|相当《さうたう》の|地位《ちゐ》を|与《あた》へたまふべし。|急《きふ》に|上職《じやうしよく》をたまはるより|漸次《ぜんじ》に|重《おも》く|用《もち》ゐさせたまはば、|吾《わ》が|一身《いつしん》にとりてもつとも|安全《あんぜん》ならむ』
との|言《げん》に、|国直姫命《くになほひめのみこと》は|言代別《ことしろわけ》の|名利《めいり》を|求《もと》めず、|寡欲恬淡《くわよくてんたん》なるに|感激《かんげき》し、ただちにその|乞《こ》ひを|容《い》れて|牢獄《らうごく》の|番卒《ばんそつ》|仲間《なかま》に|加《くは》へけり。|言代別《ことしろわけ》は|日夜《にちや》|番卒《ばんそつ》として|忠実《ちうじつ》に|奉務《ほうむ》し、|心《こころ》ひそかに|言霊別命《ことたまわけのみこと》の|繋《つな》がれたる|牢獄《らうごく》を|探《さぐ》りゐたりける。|言霊別命《ことたまわけのみこと》は|頭髪《とうはつ》|長《なが》く|背後《はいご》に|伸《の》び、|髭《ひげ》は|胸先《むなさき》に|垂《た》れ、|顔色憔悴《がんしよくせうすい》して、ほとんど|見擬《みまが》ふばかりの|姿《すがた》と|変《へん》じゐたまへば、|言代別《ことしろわけ》は|命《みこと》の|御姿《おすがた》を|認《みと》めること|容易《ようい》ならざりける。
あるとき|国治立命《くにはるたちのみこと》|出現《しゆつげん》の|祝《いは》ひとして、ロツキー|山《ざん》の|城内《じやうない》に|祝宴《しゆくえん》を|張《は》られ、また|獄卒《ごくそつ》|一般《いつぱん》は|獄前《ごくぜん》において|祝意《しゆくい》を|表《へう》するため、|酒宴《しゆえん》を|催《もよほ》しける。|獄卒《ごくそつ》は|珍《めづら》しき|酒肴《しゆかう》に|酔《よ》ひ、あるひは|舞《ま》ひ、あるひはうたひ、|踊《をど》りて|立騒《たちさわ》ぎけり。|中《なか》に|言代別《ことしろわけ》は|立《た》ちて|歌《うた》をうたひ、|踊《をど》りはじめたり。その|歌《うた》は、
|昔《むかし》の|昔《むかし》のさる|昔《むかし》 |猿《さる》が|三疋《さんびき》|飛《と》ンできて
|鬼《おに》に|遂《お》はれて|二疋《にひき》は|逃《に》げた。 |残《のこ》りの|一疋《いつぴき》|捕《とら》まへられて
いまは|鬼《おに》らの|玩弄《おもちや》とせられ |暗《くら》い|穴《あな》へとほりこまれ
|消息《たより》せうにも|言伝《ことづて》しよにも いまは|詮《せん》なしただ|一言《いちごん》の
|言霊別《ことたまわけ》の|神代《かみしろ》と |現《あら》はれいでし|言代別《ことしろわけ》の
わけて|苦《くる》しき|暗《やみ》の|夜半《よは》 |高天原《たかあまはら》より|降《くだ》りきて
お|猿《さる》の|命《いのち》を|助《たす》けむと |思《おも》ふ|手段《てだて》は|有明《ありあけ》の
|十五《じふご》の|月《つき》のまンまるい |光《ひかり》をあてに|飛《と》ンで|出《で》よ。
|猿《さる》が|餅搗《もちつ》きや、|兎《うさぎ》がまぜる。 まぜる|兎《うさぎ》が|言代別《ことしろわけ》よ。
|今年《ことし》や|豊年《ほうねん》|満作《まんさく》ぢや。 |心持《こころもち》よき|望月《もちづき》の
|光《ひかり》とともに|飛《と》ンで|出《で》よ。 |光《ひかり》とともに|飛《と》ンで|出《で》よ。
よいとさのよいとさ さつさとぬけ|出《で》て|東《ひがし》へ|走《はし》れ。
|東《ひがし》に|羊《ひつじ》が|千疋《せんびき》をつて |猿《さる》をかかへて|飛《と》ンでゆく。
よいとさのよいとさ。
と|節《ふし》|面白《おもしろ》くみづから|謡《うた》ひみづから|踊《をど》り|狂《くる》ふにぞ、あまたの|番卒《ばんそつ》は|何《なん》の|意味《いみ》なるやを|知《し》らず、ただ|面白《おもしろ》き|歌《うた》とのみ|思《おも》ひて|笑《わら》ふばかりなりける。|言霊別命《ことたまわけのみこと》はこの|歌《うた》を|聞《き》きて|言代別《ことしろわけ》の|我《われ》を|救《すく》ひ|出《だ》さむために|番卒《ばんそつ》となり、|合図《あひづ》の|歌《うた》をうたひしものと|大《おほ》いによろこび、|十五夜《じふごや》の|月《つき》を|待《ま》ちゐたまひぬ。|昼《ひる》きたり|夜《よる》|去《さ》りて、つひには|仲秋《ちゆうしう》の|月《つき》の|夜《よ》となりぬ。|国直姫命《くになほひめのみこと》|以下《いか》の|曲人《まがびと》は、|高台《たかだい》に|昇《のぼ》り|月見《つきみ》の|宴《えん》を|催《もよほ》しゐたれば、|番卒《ばんそつ》もまた|一所《いつしよ》に|集《あつ》まりて|月見《つきみ》の|宴《えん》を|開《ひら》き、|酒《さけ》に|酔《よ》ひくるひ|面白《おもしろ》き|歌《うた》をうたひて|余念《よねん》なくたわむれゐたりけり。このとき|言代別《ことしろわけ》は、ふたたび|以前《いぜん》の|歌《うた》をうたひ|牢獄《らうごく》を|見廻《みまは》りぬ。ある|牢獄《らうごく》の|中《なか》より|小声《こごゑ》にて、
『|言代別《ことしろわけ》』
と|呼《よ》ぶ|声《こゑ》あり。|疑《うたが》ひもなく|聞《き》きおぼえたる|主《しゆ》の|声《こゑ》なるに、|言代別《ことしろわけ》は|大《おほ》いによろこび、ただちに|戸《と》をひらき|縛《いましめ》を|解《と》き、やつれたる|言霊別命《ことたまわけのみこと》を|背《せ》に|負《お》ひ、|東門《とうもん》|指《さ》して|逃《に》げ|出《だ》したり。
|外《そと》には|言霊別命《ことたまわけのみこと》の|部下《ぶか》の|神卒《しんそつ》あまた|現《あら》はれきたり、|命《みこと》を|天磐船《あまのいはふね》に|乗《の》せ、|天空《てんくう》|高《たか》くロツキー|山《ざん》を|後《あと》に、|地《ち》の|高天原《たかあまはら》へ|無事《ぶじ》|帰還《きくわん》したりける。|言代別《ことしろわけ》は|何喰《なにく》はぬ|顔《かほ》にて|牢獄《らうごく》の|戸《と》を|閉《と》ぢ、もとのごとく|酒宴《しゆえん》の|場《ば》に|現《あら》はれ、あまたの|番卒《ばんそつ》とともに|酒《さけ》に|酔《よ》ひ|踊《をど》り|狂《くる》ひゐたり。|後《あと》に|残《のこ》りし|言代別《ことしろわけ》は|後日《ごじつ》いかなる|活動《くわつどう》をなすか、|趣味《しゆみ》ある|問題《もんだい》と|云《い》ふべし。
(大正一〇・一一・一四 旧一〇・一五 土井靖都録)
第八章 |従神司《じゆうしん》の|殊勲《しゆくん》〔一〇八〕
|望《もち》の|夜《よ》の|月影《つきかげ》とともに、|言霊別命《ことたまわけのみこと》の|姿《すがた》は|牢獄《らうごく》より|消《き》え|去《さ》りにけり。されど|言代別《ことしろわけ》の|監守《かんしゆ》する|獄舎《ごくしや》にあらざれば、|言代別《ことしろわけ》には|何《なに》の|咎《とがめ》もなかりき。|言代別《ことしろわけ》は|漸次《ぜんじ》|重用《ぢうよう》されて、つひには|国直姫命《くになほひめのみこと》の|参謀《さんぼう》となりぬ。これよりロツキー|山《ざん》の|城内《じやうない》はほとんど|言代別《ことしろわけ》の|意志《いし》のままに|一切《いつさい》の|事物《じぶつ》は|処理《しより》さるることとなりける。
|話《はなし》はかはつて、|地《ち》の|高天原《たかあまはら》においては、|大八洲彦命《おほやしまひこのみこと》|以下《いか》の|諸神将《しよしんしよう》は、|言霊別命《ことたまわけのみこと》の|帰還《きくわん》により|一切《いつさい》の|情勢《じやうせい》を|知悉《ちしつ》し、このままに|放任《はうにん》せば|国治立命《くにはるたちのみこと》と|偽称《ぎしよう》する|常熊彦《つねくまひこ》、および|国直姫命《くになほひめのみこと》と|偽称《ぎしよう》する|醜玉姫《しこたまひめ》らの、いかなる|奸策《かんさく》をめぐらし、つひには|各地《かくち》の|八王八頭神司《やつわうやつがしらがみ》を|籠絡《ろうらく》し、|地《ち》の|高天原《たかあまはら》の|神政《しんせい》を|転覆《てんぷく》せむとするやも|計《はか》りがたし、|躊躇《ちうちよ》していたづらに|時日《じじつ》を|移《うつ》さば、|遂《つひ》に|斧鉞《ふゑつ》を|用《もち》ふるも|及《およ》ばざるにいたらむ。よろしく|二葉《ふたば》の|内《うち》に|刈《か》りとるに|如《し》かずと、ここに|天使《てんし》|大足彦《おほだるひこ》をして|諸神《しよしん》|将卒《しやうそつ》を|引率《いんそつ》しロツキー|山《ざん》に|向《むか》はしめ、|東西南北《とうざいなんぽく》の|各門《かくもん》より|一挙《いつきよ》にこれを|攻《せ》め|落《お》とし、|邪神《じやしん》を|膺懲《ようちよう》し、|天地《てんち》の|律法《りつぱう》を|説《と》き|諭《さと》し、|心底《しんてい》より|悔悟《くわいご》せしめむと、|衆議《しうぎ》|一決《いつけつ》したりければ、ここに|大足彦《おほだるひこ》は|諸神《しよしん》|将卒《しやうそつ》を|引率《いんそつ》し、|天磐樟船《あまのいはくすぶね》を|連《つら》ねて、|天空《てんくう》を|翔《かけ》り、ロツキー|山《ざん》にむかひ|勇《いさ》ましく|進発《しんぱつ》したりける。
|大足彦《おほだるひこ》の|部将《ぶしやう》、|足世彦《たるよひこ》は|東門《ひがしもん》より、|足永彦《たるながひこ》は|西門《にしもん》より、|大照彦《おほてるひこ》は|南門《みなみもん》より、|大嶋別《おほしまわけ》は|北門《きたもん》より、|一斉《いつせい》に|鬨《とき》をつくつてロツキー|城《じやう》に|攻《せ》めよせたる。|時《とき》しもあれや|一天《いつてん》|墨《すみ》を|流《なが》せしごとく、|月《つき》の|光《ひかり》も|星《ほし》の|輝《かがや》きもなく、|咫尺《しせき》を|弁《べん》ぜざるにいたりたり。にはかに|騒《さわ》ぐ|鶏《とり》の|羽音《はおと》に|国直姫命《くになほひめのみこと》は|驚《おどろ》き|目《め》をさまし、
『|言代別《ことしろわけ》は|何《いづ》れにあるや、|敵軍《てきぐん》にはかに|押《お》しよせたり。|諸神司《しよしん》はすみやかに|各門《かくもん》の|守備《しゆび》につけよ』
と|大声《おほごゑ》に|呼《よ》ばはりけるにぞ、|魔軍《まぐん》の|諸神将《しよしんしよう》は、|国直姫命《くになほひめのみこと》の|声《こゑ》を|目《め》あてに、|大広前《おほひろまへ》に|駈《か》け|集《あつ》まりぬ。|城内《じやうない》の|参謀《さんぼう》|兼《けん》|総指揮官《そうしきくわん》たる|言代別《ことしろわけ》は、|何故《なにゆゑ》かすこしも|姿《すがた》を|現《あら》はさざりき。|諸神将《しよしんしよう》は|統率者《とうそつしや》を|失《うしな》ひ|周章狼狽《しうしやうらうばい》なすところを|知《し》らず。|大足彦《おほだるひこ》の|率《ひき》ゐる|神将《しんしやう》は|堀《ほり》を|越《こ》え、|壁《かべ》を|破《やぶ》り、|門戸《もんこ》を|破壊《はくわい》し、|破竹《はちく》の|勢《いきほひ》をもつて|本城《ほんじやう》に|進撃《しんげき》せり。
このとき|言代別《ことしろわけ》は|血相《けつさう》かへて|何処《いづく》よりともなく|走《はし》りきたり、
『|事態《じたい》|容易《ようい》ならず、|国直姫命《くになほひめのみこと》は|奥殿《おくでん》に|入《い》り|国治立命《くにはるたちのみこと》の|身辺《しんぺん》を|守護《しゆご》したまへ、|我《われ》はこれより、|寄《よ》せくる|数万《すうまん》の|敵軍《てきぐん》にむかひ、|六韜三略《りくとうさんりやく》の|兵法《へいはふ》をもつて|敵軍《てきぐん》を|千変万化《せんぺんばんくわ》にかけ|悩《なや》まし、|一柱《ひとはしら》ものこさず|濠《ほり》の|藻屑《もくづ》となし、|御神慮《ごしんりよ》を|慰《なぐさ》め|奉《たてまつ》らむ。|諸神将《しよしんしよう》は|我《われ》にしたがひ|防禦《ばうぎよ》に|従事《じゆうじ》せよ』
と|言葉《ことば》おごそかに|令《れい》を|下《くだ》し、みづから|東門《ひがしもん》に|向《むか》ひぬ。
|東門《ひがしもん》には|大足彦《おほだるひこ》、|足世彦《たるよひこ》とともに|侵入《しんにふ》せむとする|真最中《まつさいちゆう》なりき。|言代別《ことしろわけ》は|大足彦《おほだるひこ》にむかひ、
『|我《われ》は|言霊別命《ことたまわけのみこと》の|従者《じゆうしや》|言代別《ことしろわけ》なり、|国《くに》の|真澄《ますみ》の|鏡《かがみ》を|出《いだ》してロツキー|城《じやう》を|照《てら》させたまへ』
と|呼《よ》ばはりぬ。このとき|城内《じやうない》の|諸神将《しよしんしよう》は、|言代別《ことしろわけ》の|指揮《しき》のもとに|残《のこ》らず|東門《ひがしもん》に|集《あつ》まりゐたるが、|大足彦《おほだるひこ》は、|国《くに》の|真澄《ますみ》の|鏡《かがみ》を|取《と》りだし、|敵軍《てきぐん》に|向《むか》つて|射照《いてら》したるに、|城内《じやうない》の|神軍《しんぐん》の|六分《ろくぶ》までは、|邪鬼《じやき》、|悪狐《あくこ》、|悪蛇《あくじや》の|正体《しやうたい》をあらはし、|鏡《かがみ》の|威徳《ゐとく》に|照《てら》されて、|旭《あさひ》に|霜《しも》の|消《き》ゆるがごとく|煙散霧消《えんさんむせう》したり。|言代別《ことしろわけ》は|大足彦《おほだるひこ》の|先頭《せんとう》に|立《た》ち、|常熊彦《つねくまひこ》、|醜玉姫《しこたまひめ》の|奥殿《おくでん》に|進《すす》みいり、|戸《と》の|外《そと》より|大音声《だいおんじやう》にて、
『|我《われ》いま|如意宝珠《によいほつしゆ》の|玉《たま》を|取《と》りいだし|敵軍《てきぐん》を|照《てら》すやいなや、|敵《てき》は|玉《たま》の|威徳《ゐとく》にちぢみあがり、|蜘蛛《くも》の|子《こ》を|散《ち》らすがごとく|四方《しはう》に|散乱《さんらん》して、もはや|城内《じやうない》には|敵《てき》の|片影《へんえい》をも|認《みと》めず、かくなる|上《うへ》はいつまでも|奥殿《おくでん》に|忍《しの》ばせたまふに|及《およ》ばず、この|戸《と》を|早《はや》く|開《ひら》かせたまへ』
と|呼《よ》ばはりぬ。|国治立命《くにはるたちのみこと》、|国直姫命《くになほひめのみこと》の|偽神《にせがみ》は|言代別《ことしろわけ》の|言葉《ことば》を|聞《き》きおほいに|安堵《あんど》し、たちまち|内《うち》より|戸《と》を|開《ひら》きたるを、|大足彦《おほだるひこ》はただちに|奥殿《おくでん》に|進入《しんにふ》し、|国《くに》の|真澄《ますみ》の|鏡《かがみ》を|懐中《くわいちゆう》より|取《と》りいだし、|二人《ふたり》に|向《むか》つて|射照《いてら》しはじむるや、たちまち|六面八臂《ろくめんはつぴ》の|邪鬼《じやき》と|変《へん》じ、|金毛九尾《きんまうきうび》の|悪狐《あくこ》と|化《くわ》し、|魔神《ましん》の|正体《しやうたい》をあらはし、|常世城《とこよじやう》|目《め》がけて|黒雲《こくうん》に|乗《じやう》じ|雲《くも》を|霞《かすみ》と|逃《に》げ|去《さ》りぬ。|幸《さいはひ》にロツキー|山《ざん》の|紺色《こんいろ》の|玉《たま》は、|魔軍《まぐん》に|汚《けが》されず、|厳粛《げんしゆく》に|鎮祭《ちんさい》せられありける。
ここに|大足彦《おほだるひこ》は|言代別《ことしろわけ》の|忠勇《ちうゆう》|義烈《ぎれつ》を|賞《しやう》し、|言代別《ことしろわけ》に|命《みこと》の|名《な》を|与《あた》へて|言代別命《ことしろわけのみこと》と|称《しよう》せしめロツキー|山《ざん》の|主権者《しゆけんしや》となし、|八王神《やつわうがみ》の|列《れつ》に|加《くは》へられける。つぎに|東門《ひがしもん》の|武将《ぶしやう》|足世彦《たるよひこ》に|命《みこと》の|名《な》を|与《あた》へ|足世彦命《たるよひこのみこと》と|称《しよう》せしめ|八頭《やつがしら》の|列《れつ》に|加《くは》へたまひ、つぎに|足永彦《たるながひこ》、|大照彦《おほてるひこ》、|大嶋別《おほしまわけ》をのこし、ロツキー|城《じやう》の|部将《ぶしやう》として|留《とど》めおき、みづからは|少数《せうすう》の|神軍《しんぐん》とともに|天《あま》の|磐船《いはぶね》に|乗《の》り、|無事《ぶじ》|高天原《たかあまはら》に|凱旋《がいせん》せられたりと|思《おも》ふとたんに、|冷《つめ》たき|水《みづ》の|一二滴《いちにてき》、|襟首《えりくび》に|何処《いづこ》からともなく|落《お》ちきたり、|驚《おどろ》いて|正気《しやうき》に|復《かへ》れば、|身《み》は|高熊《たかくま》の|霊窟《れいくつ》の|入口《いりぐち》に|両手《りやうて》を|組《く》み|端坐《たんざ》したまま、|鎮魂《ちんこん》の|姿勢《しせい》を|取《と》りて|居《ゐ》たりける。
(大正一〇・一一・一四 旧一〇・一五 加藤明子録)
第四篇 |鬼城山《きじやうざん》
第九章 |弁者《べんしや》と|弁者《べんしや》〔一〇九〕
|寒風《かんぷう》|吹《ふ》き|荒《すさ》み、|牡丹餅雪《ぼたもちゆき》さへ|降《ふ》りきたる|高熊山《たかくまやま》の|巌窟《がんくつ》の|入口《いりぐち》に、|霊縛《れいばく》を|受《う》け、|身動《みうご》きならぬ|苦《くる》しさに、|二時間《にじかん》ばかりを|費《つひ》やせしと|思《おも》ふころ、またもや|王仁《おに》は|霊界《れいかい》に|逍遥《せうえう》したりける。
たちまち|巌壁《がんぺき》に|紫紺色《しこんいろ》の|雲《くも》の|戸帳《とばり》がおろされ、|中《なか》より|荘重《さうちよう》なる|大神《おほかみ》の|御声《みこゑ》|聞《き》こゆると|同時《どうじ》に、|紫紺色《しこんしよく》の|雲《くも》の|戸帳《とばり》は|自然《しぜん》にまきあげられ、|正面《しやうめん》には、えもいはれぬ|荘厳《さうごん》なる|宝座《ほうざ》が|設《まう》けられ、あまたの|天使《てんし》を|従《したが》へて|国治立命《くにはるたちのみこと》、|国直姫命《くになほひめのみこと》と|共《とも》に|中央《ちうあう》に|着座《りやくざ》され、ふたたび|神界《しんかい》|探険《たんけん》の|厳命《げんめい》を|降《くだ》したまひしが、|宝座《ほうざ》は|忽然《こつぜん》として|消《き》え|去《さ》りし|刹那《せつな》に、|自分《じぶん》はある|高山《かうざん》の|頂《いただき》に|登《のぼ》り、|鬼城山《きじやうざん》におこれる|種々《しゆじゆ》の|経緯《いきさつ》を|見《み》るとはなしに、|見聞《けんぶん》しゐたりける。
|鬼城山《きじやうざん》には|灰色《はひいろ》の|玉《たま》を|鎮祭《ちんさい》し、|真鉄彦《まがねひこ》を|八王神《やつわうじん》となし、|元照彦《もとてるひこ》を|八頭神《やつがしらがみ》となし、|真鉄姫《まがねひめ》、|元照姫《もとてるひめ》を|八王八頭神《やつわうやつがしらがみ》の|妻《つま》として、|永遠《ゑいゑん》に|守護《しゆご》せしむることに|決定《けつてい》されたり。しかるに|鬼城山《きじやうざん》にはすでに|棒振彦《ぼうふりひこ》の|変名《へんめい》なる|美山彦《みやまひこ》、|高虎姫《たかとらひめ》の|変名《へんめい》なる|国照姫《くにてるひめ》ら、|常世姫《とこよひめ》の|権威《けんゐ》を|笠《かさ》にきて|傍若無人《ばうじやくぶじん》の|挙動《ふるまひ》|多《おほ》く、|加《くは》ふるに|杵築姫《きつきひめ》、|清熊《きよくま》、|猿世彦《さるよひこ》、|駒山彦《こまやまひこ》らの|邪神《じやしん》とともに|武威《ぶゐ》を|輝《かがや》かし、|容易《ようい》に|国治立命《くにはるたちのみこと》の|神命《しんめい》を|奉《ほう》ぜず、かつ|律法《りつぱう》を|遵守《じゆんしゆ》せず、|地《ち》の|高天原《たかあまはら》より|八王八頭《やつわうやつがしら》の|神司《かみ》の|赴任《ふにん》をさまたげ、|魔神《ましん》を|集《あつ》めてあくまで|対抗《たいかう》しつつありしなり。
ここに|大八洲彦命《おほやしまひこのみこと》は|諸神将《しよしんしよう》をあつめ、|美山彦《みやまひこ》の|罪状《ざいじやう》にたいし、
『|天地《てんち》の|律法《りつぱう》|御制定《ごせいてい》により|従前《じゆうぜん》の|罪悪《ざいあく》を|大赦《たいしや》せられたれば、この|際《さい》|本心《ほんしん》に|立《た》ち|帰《かへ》らせ、|神業《しんげふ》に|参加《さんか》せしめなば|如何《いかん》』
と|提議《ていぎ》されたり。|諸神将《しよしんしよう》は|天使長《てんしちやう》の|御意見《ごいけん》に|賛成《さんせい》したてまつらむと、|満場《まんぢやう》|一致《いつち》をもつて|命《みこと》の|提議《ていぎ》を|可決《かけつ》したり。されど|邪智《じやち》ふかき|美山彦《みやまひこ》|以下《いか》の|曲人《まがびと》らの|一筋繩《ひとすぢなは》にては|到底《たうてい》|城《しろ》を|追《お》ひがたきを|知《し》り、|竜宮城《りゆうぐうじやう》の|侍女《じぢよ》にして|弁舌《べんぜつ》に|巧《たく》みなる|口子姫《くちこひめ》をつかはし、|神意《しんい》を|伝達《でんたつ》し、すみやかに|大神《おほかみ》に|帰順《きじゆん》せしむべく|旨《むね》を|含《ふく》めて|鬼城山《きじやうざん》に|遣《つか》はしたまひける。
|口子姫《くちこひめ》は|照妙《てるたへ》のうるはしき|衣《ころも》を|着《き》かざり、|二柱《ふたはしら》の|侍女《じぢよ》をともなひ、|鬼城山《きじやうざん》にいたり、|美山彦《みやまひこ》をはじめ|国照姫《くにてるひめ》に|面接《めんせつ》を|申込《まをしこ》みたり。|美山彦《みやまひこ》らは、|口子姫《くちこひめ》を|奥《おく》の|間《ま》にみちびき|来意《らいい》を|尋《たづ》ねたるに、|口子姫《くちこひめ》は|一礼《いちれい》して|後《のち》おもむろにいふ。
『このたび|天地《てんち》の|律法《りつぱう》|地《ち》の|高天原《たかあまはら》において|制定《せいてい》され、|世界《せかい》の|各所《かくしよ》に|十二《じふに》の|国魂《くにたま》を|鎮祭《ちんさい》し、|八王八頭《やつわうやつがしら》の|神司《かみ》を|任命《にんめい》したまひたり。しかして|鬼城山《きじやうざん》は|真鉄彦《まがねひこ》、|真鉄姫《まがねひめ》、|元照彦《もとてるひこ》、|元照姫《もとてるひめ》の|主宰《しゆさい》のもとに|於《お》かるることに|決定《けつてい》されたり。|汝《なんぢ》はすみやかにこの|神命《しんめい》を|拝受《はいじゆ》し、|鬼城山《きじやうざん》の|城塞《じやうさい》を|明《あ》けわたし、|地《ち》の|高天原《たかあまはら》に|参上《まゐのぼ》りて|神務《しんむ》に|奉仕《ほうし》されよ。|以上《いじやう》は|天使長《てんしちやう》|大八洲彦命《おほやしまひこのみこと》の|直命《ぢきめい》なり』
と|淀《よど》みなく|申渡《まをしわた》しけるに、|国照姫《くにてるひめ》は、|膝《ひざ》をすすめてその|処置《しよち》の|不当《ふたう》なるを|罵《ののし》り、かつ|懸河《けんが》の|弁舌《べんぜつ》をふるひて|滔々《たうたう》と|弁駁《べんばく》につとめたり。されど|口子姫《くちこひめ》は|名題《なだい》の|弁舌者《べんぜつしや》なれば、|負《まけ》ず、|劣《おと》らず|布留那《ふるな》の|弁《べん》をふるひて、|神命《しんめい》の|冒《をか》すべからざる|理由《りいう》を|極力《きよくりよく》|弁明《べんめい》したりけれども、|国照姫《くにてるひめ》もさすがの|悪漢《しれもの》、|口子姫《くちこひめ》が|一言《ひとこと》|述《の》ぶればまた|一言《ひとこと》、たがひに|舌鉾《ぜつぽう》|火花《ひばな》を|散《ち》らし|鎬《しのぎ》を|削《けづ》り、|弁論《べんろん》はてしもなく、|寝食《しんしよく》を|忘《わす》れて|七日七夜《なぬかななよ》を|費《つひ》やしけるが、|布留那《ふるな》の|弁者《べんしや》|口子姫《くちこひめ》も、つひに|国照姫《くにてるひめ》の|舌鉾《ぜつぽう》に|突《つ》き|破《やぶ》られて|兜《かぶと》を|脱《ぬ》ぎ、|国照姫《くにてるひめ》の|幕下《ばくか》となり、|地《ち》の|高天原《たかあまはら》に|三年《さんねん》を|経《ふ》るも|復命《ふくめい》せざるのみならず、その|身《み》は|鬼城山《きじやうざん》の|美山彦《みやまひこ》に|重用《ぢうよう》され、|高天原《たかあまはら》に|一時《いちじ》は|反旗《はんき》を|翻《ひるがへ》すにいたりける。
|大八洲彦命《おほやしまひこのみこと》はふたたび|諸神将《しよしんしよう》を|集《あつ》めていふ。
『|鬼城山《きじやうざん》に|遣《つか》はせし|口子姫《くちこひめ》は|三年《さんねん》を|経《ふ》るもいまだ|復命《ふくめい》せざるのみか、もろくも|国照姫《くにてるひめ》の|侫弁《ねいべん》に|肝《きも》をぬかれ、いまや|鬼城山《きじやうざん》の|重臣《ぢうしん》となり、|反旗《はんき》を|翻《ひるがへ》さむとせりと|聞《き》く。|鬼城山《きじやうざん》の|美山彦《みやまひこ》|一派《いつぱ》にたいし|膺懲《ようちよう》の|神軍《しんぐん》をむけ、|一挙《いつきよ》にこれを|討滅《たうめつ》せむは|容易《ようい》の|業《わざ》なれども|如何《いかん》せむ、|天地《てんち》の|律法《りつぱう》は|厳然《げんぜん》として|日月《じつげつ》のごとく、|毫末《がうまつ》も|犯《をか》すべからず、|諸神《しよしん》の|御意見《ごいけん》|承《うけたまは》りたし』
と|諸神司《しよしん》に|対《たい》しはかりたまひける。ここに|天使《てんし》|神国別命《かみくにわけのみこと》すすみいで、
『|天地《てんち》の|律法《りつぱう》は「|殺《ころ》す|勿《なか》れ」とあり、|仁慈《じんじ》をもつて|万物《ばんぶつ》に|対《たい》するは、|大神《おほかみ》の|御神慮《ごしんりよ》にして、かつ|律法《りつぱう》の|示《しめ》すところなり。|大神《おほかみ》は|禽獣虫魚《きんじうちうぎよ》にいたるまで、|広《ひろ》く|万物《ばんぶつ》を|愛《あい》せよと|宣《のたま》ひ、かつ|律法《りつぱう》に|定《さだ》めおかれたり。|彼《かれ》らはいかに|猛悪《まうあく》の|神《かみ》なりといへども、|一方《いつぱう》の|頭領《とうりやう》と|仰《あふ》がるるにおいておや。|望《のぞ》むらくは|再《ふたた》び|使《つかひ》をつかはして|大神《おほかみ》の|神慮《しんりよ》を|懇切《こんせつ》に|説《と》き|示《しめ》し、|大義名分《たいぎめいぶん》を|悟《さと》らせなば、つひに|心底《しんてい》より|帰順《きじゆん》するにいたらむ。よろしく|吾妻別《あづまわけ》の|一子《いつし》|須賀彦《すがひこ》を|遣《つか》はしたまへ』
と|進言《しんげん》しければ、|天使長《てんしちやう》はこの|言《げん》を|容《い》れ、|須賀彦《すがひこ》を|第二《だいに》の|使者《ししや》として、|鬼城山《きじやうざん》に|派遣《はけん》したまひける。
(大正一〇・一一・一五 旧一〇・一六 森良仁録)
第一〇章 |無分別《むふんべつ》〔一一〇〕
|天使長《てんしちやう》|大八洲彦命《おほやしまひこのみこと》の|命《めい》により、|須賀彦《すがひこ》は|第二《だいに》の|使者《ししや》として、|伴《とも》をも|連《つ》れずただ|一騎《いつき》|竜馬《りうめ》にまたがり|蹄《ひづめ》の|音《おと》|高《たか》く、|鬼城山《きじやうざん》にむかひて|出馬《しゆつば》したりけり。|須賀彦《すがひこ》は、|容貌《ようばう》うるはしく|眉目清秀《びもくせいしう》にして、あくまで|色《いろ》|白《しろ》く|肌《はだ》|滑《なめ》らかにしてあたかも|天女《てんによ》の|再来《さいらい》かと|疑《うたが》はるるばかりの|美男子《びだんし》なりけり。
|須賀彦《すがひこ》は|鬼城山《きじやうざん》の|城門《じやうもん》を|何《な》ンの|憚《はばか》る|色《いろ》もなく、|竜馬《りうめ》に|鞭《むち》うち|奥《おく》ふかく|侵入《しんにふ》し、|玄関先《げんくわんさき》に|馬《うま》をすて|奥殿《おくでん》に|進《すす》みいり、|大音声《だいおんじやう》をあげていふ。
『|我《われ》こそは、|地《ち》の|高天原《たかあまはら》を|司《つかさど》りたまふ|国治立命《くにはるたちのみこと》、|天使長《てんしちやう》|大八洲彦命《おほやしまひこのみこと》の|直使《ちよくし》として|出馬《しゆつば》せり、|言《い》ひ|渡《わた》すべき|仔細《しさい》あり。|美山彦《みやまひこ》はあらざるか、|国照姫《くにてるひめ》は|何処《いづこ》ぞ。すみやかに|我《わ》が|眼前《がんぜん》にまかり|出《い》で、|直使《ちよくし》の|命《めい》を|承《うけたまは》れ』
と|呼《よ》ばはりし。その|言霊《ことたま》の|力《ちから》は、|実《じつ》に|雷鳴《らいめい》のごとく|轟《とどろ》きわたり|何《なん》となくすさまじき|中《なか》にも|優《やさ》しみありき。|美山彦《みやまひこ》は|須賀彦《すがひこ》の|言霊《ことたま》にのまれ、やや|恐怖《きようふ》の|念《ねん》にかられて|躊躇逡巡《ちうちよしゆんじゆん》の|色《いろ》|見《み》えにける。
この|時《とき》|国照姫《くにてるひめ》は|一室《いつしつ》より|走《はし》りいで、|須賀彦《すがひこ》の|容姿《ようし》|端麗《たんれい》にして、どことなく|権威《けんゐ》に|充《み》てるその|態度《たいど》に|荒肝《あらぎも》をひしがれ、|何《なん》の|言葉《ことば》もなく|頭《かしら》を|垂《た》れて|黙視《もくし》するのみなりしが、|又《また》もや|静《しづか》に|入《い》りきたる|女性《ぢよせい》あり。|須賀彦《すがひこ》は|一目《ひとめ》|見《み》るよりハツタと|睨《にら》み、
『|反逆《はんぎやく》|不忠《ふちう》の|口子姫《くちこひめ》、|見《み》るもけがらはし、|片時《かたとき》も|早《はや》くこの|場《ば》を|立《た》ち|去《さ》れよ』
とにらみつけられ、|口子姫《くちこひめ》は|恨《うら》めしげに|須賀彦《すがひこ》の|顔《かほ》を|見《み》あげ、|袖《そで》をもつてしたたる|涙《なみだ》をふきながら|四辺《あたり》に|眼《め》を|配《くば》り、わが|胸《むね》を|押《おさ》へ、|何事《なにごと》か|口《くち》には|出《いだ》さざれど|秘密《ひみつ》のこもれることを|暗示《あんじ》する|様子《やうす》なりける。
|美山彦《みやまひこ》の|一女《いちぢよ》に|小桜姫《こざくらひめ》といふ|絶世《ぜつせい》の|美《うつく》しき|若《わか》き|女性《ぢよせい》あり。この|小桜姫《こざくらひめ》は|最前《さいぜん》よりの|須賀彦《すがひこ》の|容貌《ようばう》|端麗《たんれい》なるを、|戸《と》の|陰《かげ》より|垣間見《かいまみ》つつ|心臓《しんざう》に|劇《はげ》しき|波《なみ》を|打《う》たせゐたるが、つひに|耐《た》へかねて|顔《かほ》を|赤《あか》らめながら|戸《と》を|押《お》しひらき、|静々《しづしづ》と|須賀彦《すがひこ》の|立《た》てる|前《まへ》にはづかしげに|両手《りやうて》をつき、|慇懃《いんぎん》に|述《の》ぶる|挨拶《あいさつ》も|口《くち》ごもるそのしほらしさ。
|小桜姫《こざくらひめ》は|思《おも》ひきつて|面《おもて》をもたぐるその|刹那《せつな》、|須賀彦《すがひこ》とたがひに|視線《しせん》は|合致《がつち》せり。いづれ|劣《おと》らぬ|花紅葉《はなもみぢ》、|色香《いろか》|争《あらそ》ふ|美人《びじん》と|美人《びじん》、|両者《りやうしや》の|眼《め》は|何事《なにごと》かを|物語《ものがた》るやうに|見《み》へにける。このとき|美山彦《みやまひこ》、|国照姫《くにてるひめ》、|口子姫《くちこひめ》はその|場《ば》に|現《あら》はれ、|山海《さんかい》の|珍味《ちんみ》をもちだし|須賀彦《すがひこ》を|丁寧《ていねい》に|饗応《きやうおう》し、ここに|五人《ごにん》の|神司《しんし》は|互《たが》ひに|打《う》ちとけ|談話《だんわ》を|交換《かうくわん》したりける。
|須賀彦《すがひこ》はおもむろに|使者《ししや》のおもむきを|伝《つた》へ、|美山彦《みやまひこ》の|返答《へんたふ》を|促《うなが》しければ、|美山彦《みやまひこ》は、
『|使者《ししや》のおもむき、たしかに|拝承《はいしよう》し|奉《たてまつ》る。しかしながら、|城内《じやうない》の|諸神司《しよしん》をあつめ|一《ひと》まづ|協議《けふぎ》を|遂《と》ぐるまで、|数日《すうじつ》の|猶予《いうよ》を|与《あた》へたまはずや』
と|顔《かほ》をやや|左方《さはう》にかたむけ、|須賀彦《すがひこ》の|返答《へんたふ》いかにとその|顔《かほ》を|見上《みあ》げたり。|須賀彦《すがひこ》はその|請求《こひ》を|許《ゆる》し、|数日《すうじつ》|城内《じやうない》に|滞在《たいざい》し|返事《へんじ》を|待《ま》ちゐたり。|国照姫《くにてるひめ》は|小桜姫《こざくらひめ》に|命《めい》じ、|須賀彦《すがひこ》の|身辺《しんぺん》に|侍《じ》せしめ|用務《ようむ》を|便《べん》ぜしめける。
|遠《とほ》きやうでも|近《ちか》く、|難《がた》きに|似《に》て|易《やす》きは|男女《だんぢよ》の|道《みち》とかや。ここに|須賀彦《すがひこ》、|小桜姫《こざくらひめ》は|人目《ひとめ》の|関《せき》を|破《やぶ》りて|割無《わりな》き|仲《なか》となり|終《をは》りぬ。この|様子《やうす》をうかがひ|知《し》りたる|国照姫《くにてるひめ》、|口子姫《くちこひめ》はおほいに|喜《よろこ》び、|須賀彦《すがひこ》をとどめて|婿《むこ》となさむと|思《おも》ひ、|種々《しゆじゆ》|心《こころ》を|配《くば》りゐたりける。
それより|須賀彦《すがひこ》と|小桜姫《こざくらひめ》は|両親《りやうしん》の|黙認《もくにん》のもとに|夫婦《ふうふ》きどりになり、|緊要《たいせつ》なる|大神《おほかみ》の|使命《しめい》を|忘却《ばうきやく》するにいたりけるぞ|歎《うた》てけれ。|須賀彦《すがひこ》は|小桜姫《こざくらひめ》に|魂《たましひ》をうばはれ|日夜《にちや》|姫《ひめ》を|相手《あひて》に|淫酒《いんしゆ》にふけり、あまたの|城内《じやうない》の|神司《しんし》とともに|花見《はなみ》の|宴《えん》を|催《もよほ》したるに、|諸神司《しよしん》は|酒《さけ》に|酔《よ》ひつぶれ、かつ|庭前《ていぜん》にいまを|盛《さか》りと|咲《さ》き|香《にほ》ふ|桜木《さくらぎ》の|下《した》に、あるひは|謡《うた》ひあるひは|舞《ま》ひ、|鐘《かね》や|太鼓《たいこ》の|拍子《へうし》に|乗《の》つて|踊《をど》りくるひ、かつ|須賀彦《すがひこ》の|手《て》をとり、「|貴下《きか》も|謡《うた》ひたまへ、|舞《ま》ひたまへ」と、|諸手《もろで》をとつて|大桜木《おほさくらぎ》の|下《した》に|誘《さそ》ひ、|春風《しゆんぷう》に|散《ち》る|花吹雪《はなふぶき》を|浴《あ》びつつ|愉快気《ゆくわいげ》に、|須賀彦《すがひこ》は|酒《さけ》の|威力《ちから》を|借《か》りてうたひ|出《だ》しけり。その|意味《いみ》の|大要《たいえう》を、|今様式《いまやうしき》にここに|挙《あ》ぐれば|左《さ》の|意味《いみ》の|籠《こも》れる|歌《うた》なりける。
『|花《はな》の|顔色《かんばせ》|月《つき》の|眉《まゆ》 |富士《ふじ》の|額《ひたひ》に|雪《ゆき》の|肌《はだ》
|天津乙女《あまつをとめ》の|再来《さいらい》か |小野《をの》の|小町《こまち》か|照手《てるて》の|姫《ひめ》か
ネルソンバテーか|万竜《まんりう》か |欣々《きんきん》|女史《ぢよし》か|楊貴妃《やうきひ》か
|褒似《ほうじ》の|姫《ひめ》か|難波江《なにはえ》の よしもあしきも|判《わ》きかぬる
|富田屋《とんだや》|八千代《やちよ》も|丸跣《まるはだし》 |年《とし》は|二八《にはち》か|二九《にく》からぬ
|小桜姫《こざくらひめ》の|微笑《ほほゑみ》は |天下《てんか》の|城《しろ》も|傾《かたむ》けむ
|鬼神《おに》もおそるる|幽庁《いうちやう》の |閻魔《えんま》も【よだれ】を|流《なが》すらむ
|優《みや》び|姿《すがた》は|海棠《かいだう》の |雨《あめ》の|湿《うる》ほふごとくなり
かかる|美人《びじん》がまたと|世《よ》に |三千世界《さんぜんせかい》にあるものか
|有明月《ありあけづき》のまるまると |背《せ》は|高《たか》からず|低《ひく》からず
|一度《いちど》にひらく|紅梅《こうばい》の |露《つゆ》に|綻《ほころ》ぶ|姿《すがた》かや
|口《くち》より|見《み》する|歯《は》の|光《ひかり》 |光明姫《くわうみやうひめ》か|衣通姫《そとほりひめ》の
|美《うま》し|命《みこと》の|再生《さいせい》か すずしき|声《こゑ》は|鈴虫《すずむし》か
さては|弥生《やよひ》の|鶯《うぐひす》か |松《まつ》の|神代《かみよ》に|遇《あ》ふよりも
|小桜姫《こざくらひめ》ともろともに |仲《なか》も|吉野《よしの》の|山《やま》ふかく
|竹《たけ》の|柱《はしら》に|茅《かや》の|屋根《やね》 |虎《とら》|狼《おほかみ》の|住家《すみか》をも
なぞか|厭《いと》はむ|糸桜《いとざくら》 |夜半《よは》の|嵐《あらし》に|散《ち》るとても
|散《ち》らぬ|両人《ふたり》の|恋衣《こひごろも》 |恋《こひ》に|上下《じやうげ》の|隔《へだ》てなし
|隔《へだ》てないのが|恋《こひ》の|道《みち》 |隔《へだ》てないのが|恋《こひ》の|道《みち》
|心《こころ》|須賀彦《すがひこ》|須賀々々《すがすが》と |八雲《やくも》の|琴《こと》の|須賀掻《すがかき》も
シヤツチン シヤツチン シヤツチンチン シヤツチン シヤツチン シヤツチンチン』
と|二弦《にげん》の|琴《こと》を|弾《だん》じながら、あたりかまはず|土堤《どて》を|切《き》らして|踊《をど》り|狂《くる》ふ。
かくして|須賀彦《すがひこ》は、つひに|恋《こひ》の|虜《とりこ》となり、|地《ち》の|高天原《たかあまはら》への|復命《ふくめい》をなさず、|敵城《てきじやう》の|養子婿《やうしむこ》となりすまして|不義《ふぎ》の|臣《しん》とはなりにける。|楽《たの》しき|鴛鴦《をしどり》の|契《ちぎり》もつかのま、いづこよりとも|知《し》らず|白羽《しらは》の|矢《や》は|飛《と》び|来《きた》りて|須賀彦《すがひこ》の|胸《むね》を|貫《つら》ぬきたれば、あはれ|悶死《もんし》を|遂《と》げにけり。あゝ、|実《じつ》に|慎《つつし》むべきは|男女《だんぢよ》の|道《みち》にこそあれ。
(大正一〇・一一・一五 旧一〇・一六 有田九皐録)
第一一章 |裸体《らたい》の|道中《だうちう》〔一一一〕
ここに|国直姫命《くになほひめのみこと》、|大八洲彦命《おほやしまひこのみこと》は、|国治立命《くにはるたちのみこと》の|命《めい》を|奉《ほう》じ、|口子姫《くちこひめ》を|使者《ししや》として、|鬼城山《きじやうざん》に|遣《つか》はしたまへども、|口子姫《くちこひめ》は|国照姫《くにてるひめ》に|言向《ことむけ》|和合《やは》され、|三年《さんねん》になるも|復命《ふくめい》せず、よつてさらに|須賀彦《すがひこ》をつかはし、|神命《しんめい》を|伝《つた》へしめたまへども、これまた、|小桜姫《こざくらひめ》の|容色《ようしよく》に|迷《まよ》ひて|命《めい》に|背《そむ》き、|美山彦《みやまひこ》の|養子《やうし》となりてこれ|又《また》|三年《みとせ》にいたるも|復命《ふくめい》せず、|何《いづ》れの|神《かみ》を|遣《つか》はして、これを|言向和合《ことむけやは》さむやと、|国直姫命《くになほひめのみこと》は、|諸神《しよしん》を|集《あつ》めて|言問《ことと》はせたまひける。
ここに|諸神司《しよしん》|協議《けふぎ》の|結果《けつくわ》は、|天使《てんし》|言霊別命《ことたまわけのみこと》を|使神《ししん》として|派遣《はけん》することに|決定《けつてい》したれば、|命《みこと》は、ただちに|命《めい》を|奉《ほう》じ、|村幸彦《むらさちひこ》をしたがへ|鬼城山《きじやうざん》にいたり、|美山彦《みやまひこ》に、|大神《おほかみ》の|大命《たいめい》を、いと|厳《おごそ》かに|申《まを》し|渡《わた》されたり。
|美山彦《みやまひこ》、|国照姫《くにてるひめ》は、|数度《すうど》の|戦闘《せんとう》にうち|破《やぶ》られ、|千載《せんざい》の|怨恨《うらみ》をいだける|敵将《てきしやう》、|言霊別命《ことたまわけのみこと》の|直使《ちよくし》と|聞《き》き、おほいに|怒《いか》り、|平素《へいそ》の|鬱憤《うつぷん》を|晴《は》らすは、|今《いま》この|時《とき》なりと、さあらぬ|体《てい》に|装《よそほ》ひ、|懐中《くわいちう》に|兇器《きようき》をのみ、わざと|恭《うやうや》しく|他意《たい》なきふうを|装《よそほ》ひ、|命《みこと》に|海山河野《うみやまかはぬ》の|珍物《うましもの》をもつてつくりたる|食膳《しよくぜん》を|奉《たてまつ》り、|甘《あま》き|酒《さけ》をすすめむと|言《い》ひながら、|国照姫《くにてるひめ》はひそかに|口子姫《くちこひめ》をわが|居間《ゐま》に|招《まね》き、|毒酒《どくしゆ》をすすめることを|小声《こごゑ》に|命令《めいれい》したり。|口子姫《くちこひめ》は、|今《いま》は|鬼城山《きじやうざん》の|使臣《ししん》として|重《おも》く|用《もち》ひられつつあれども、なんとして|天使《てんし》|言霊別命《ことたまわけのみこと》に|毒酒《どくしゆ》をすすめ|奉《たてまつ》るに|忍《しの》びむやと、|心《こころ》は|矢竹《やたけ》に|焦燥《いらだ》てども、|傍《かたはら》に|国照姫《くにてるひめ》の|目《め》を|瞠《は》り、|眼《まなこ》をすゑて、その|動静《どうせい》を|窺《うかが》ひつつあれば、いかんともなすに|由《よし》なく、やむを|得《え》ず、|酒《さけ》に|毒《どく》を|混入《こんにふ》したりける。
この|時《とき》|同《おな》じ|形《かたち》したる|二個《にこ》の|甕《かめ》に|酒《さけ》を|盛《も》り、|一個《いつこ》は|毒《どく》の|入《い》らざる|清酒《せいしゆ》を|盛《も》り、|国照姫《くにてるひめ》は、|頭髪《とうはつ》|一筋《ひとすぢ》を|抜《ぬ》きて|酒甕《さけがめ》を|縛《しば》り、|毒酒《どくしゆ》の|印《しるし》とせり。|二本《にほん》の|酒甕《さけがめ》は|命《みこと》の|前《まへ》に|据《す》ゑられたり。ここに|言霊別命《ことたまわけのみこと》、|美山彦《みやまひこ》は|晩餐《ばんさん》をともにすることとなりぬ。|口子姫《くちこひめ》は、|件《くだん》の|頭髪《とうはつ》をとり|外《はづ》し、|清酒《せいしゆ》の|甕《かめ》に|括《くく》りつけ、|素知《そし》らぬ|体《てい》を|装《よそほ》ひゐたりける。
|晩餐《ばんさん》には|国照姫《くにてるひめ》、|口子姫《くちこひめ》あらはれて、|酌婦《しやくふ》の|用《よう》をつとめたるが、|国照姫《くにてるひめ》は、|頭髪《とうはつ》を|括《くく》りたる|甕《かめ》をとり、これを|言霊別命《ことたまわけのみこと》に|勧《すす》めたり。また|口子姫《くちこひめ》は|印《しるし》なき|甕《かめ》をとりて、|美山彦《みやまひこ》にすすめ、つぎに|国照姫《くにてるひめ》にもこれを|勧《すす》めける。あまたの|侍女《じぢよ》は|酒杯《しゆはい》のあひだを|往来《わうらい》し、|歌舞音曲《かぶおんきよく》を|奏《かな》でてこの|宴《えん》を|賑《にぎは》しぬ。|酒《さけ》はおひおひと|進《すす》むにしたがつて|酔《ゑひ》がまはりぬ。このとき|美山彦《みやまひこ》は、にはかに|胸《むね》|苦《くる》しとて|席《せき》をはづし、|言霊別命《ことたまわけのみこと》に|無礼《ぶれい》を|陳謝《ちんしや》しつつ、|酔歩蹣跚《すゐほまんさん》として|寝所《しんじよ》に|入《い》り、まもなく|頭痛《づつう》をおこし、|腹《はら》を|痛《いた》め、|咽喉《のど》よりは|盛《さか》ンに|黒血《くろち》を|吐《は》き、|七顛八倒《しちてんはつたう》|苦《くる》しみける。|侍臣《じしん》は|驚《おどろ》き、|水《みづ》よ|薬《くすり》よと|周章狼狽《あわてふためき》、|上《うへ》を|下《した》への|大騒《おほさわ》ぎとなりける。|時《とき》しも|国照姫《くにてるひめ》はまたもや|頭痛《づつう》を|発《はつ》し、|腹《はら》を|痛《いた》め、これまた|七顛八倒《しちてんはつたう》|苦《くる》しみて|黒血《くろち》を|吐《は》きその|場《ば》に|打《う》ち|倒《たふ》れたり。|言霊別命《ことたまわけのみこと》はこれを|見《み》て|大《おほ》いに|驚《おどろ》き、|国照姫《くにてるひめ》の|介抱《かいはう》に|余念《よねん》なかりける。
|口子姫《くちこひめ》は、|言霊別命《ことたまわけのみこと》にむかひ|目《め》くばせしながら、|美山彦《みやまひこ》の|寝所《しんじよ》にかけつけ、|介抱《かいはう》に|従事《じゆうじ》したりしが、|幸《さいはひ》にも、|毒酒《どくしゆ》の|量《りやう》は|少《すく》なかりしためか、|数日《すうじつ》の|後《のち》|夫婦《ふうふ》は|恢復《くわいふく》を|見《み》るにいたりける。|言霊別命《ことたまわけのみこと》は、|吾身《わがみ》を|毒害《どくがい》せむとし|過《あやま》つて|夫婦《ふうふ》が、|毒酒《どくしゆ》を|飲《の》みたるその|顛末《てんまつ》を|毫《がう》も|知《し》らず、また|口子姫《くちこひめ》の|反《かへ》り|忠義《ちうぎ》の|所為《しよゐ》なることをも|知《し》らずにゐたりしなり。
|美山彦《みやまひこ》は、ここに|新《あたら》しき|湯槽《ゆぶね》を|造《つく》り、なみなみと|溢《あふ》るるばかり|湯《ゆ》を|沸《わか》し、まづ|言霊別命《ことたまわけのみこと》を|賓客《ひんきやく》として、|第一着《だいいちちやく》に|入浴《にふよく》を|勧《すす》めけるが、|口子姫《くちこひめ》は、|言霊別命《ことたまわけのみこと》に|何《なに》ごとか|私語《ささやき》つつ|一間《ひとま》に|入《い》りて|衣服《いふく》を|脱《ぬ》ぎ、これを|言霊別命《ことたまわけのみこと》に|着《ちやく》せしめ、みづから|言霊別命《ことたまわけのみこと》の|衣裳《いしやう》を|身《み》に|着《ちやく》し、|悠々《いういう》として|湯殿《ゆどの》に|入《い》りぬ。
この|時《とき》、|国照姫《くにてるひめ》は|男神《おとこがみ》の|浴殿《よくでん》に|入《い》りしことをたしかめ、ただちに|美山彦《みやまひこ》に|急告《きふこく》したれば、|美山彦《みやまひこ》は|時《とき》をはからひ、|大身《おほみ》の|鎗《やり》を|提《ひつさ》げ|浴殿《よくでん》に|入《い》るや、たちまち|魂消《たまぎ》る|女《をんな》の|叫《さけ》び|声《ごゑ》。よくよく|見《み》れば|思《おも》ひきや、わが|寵臣《ちようしん》の|口子姫《くちこひめ》ならむとは、|驚《おどろ》きあわてこれを|援《たす》けむと|駈《か》けより|見《み》れば、|湯槽《ゆぶね》の|湯《ゆ》は、|赤色《せきしよく》に|変《へん》じ、|口子姫《くちこひめ》の|身体《しんたい》は|強直《きやうちよく》したるまま|朱《あけ》に|染《そま》りて|絶命《ぜつめい》しゐたりける。
ここに|美山彦《みやまひこ》は、……|言霊別命《ことたまわけのみこと》をとり|逃《のが》せしか|残念《ざんねん》|至極《しごく》なり、たとへ|鬼神《きじん》の|勇《ゆう》ありて|天《てん》を|翔《かけ》り、|地《ち》を|潜《くぐ》るとも、|要害《えうがい》きびしきこの|城内《じやうない》を|遁《のが》るべき|手段《てだて》なし、あくまで|探《さが》し|索《もと》めて、|多年《たねん》の|怨《うら》みを|晴《は》らさむ……と、あまたの|従臣《じゆうしん》に|命《めい》を|下《くだ》し、|血眼《ちまなこ》となりて|城内《じやうない》くまなく|捜索《さうさく》しける。このとき|城門《じやうもん》を|走《はし》り|出《いで》むとする|女性《ぢよせい》あり。|清熊《きよくま》は|怪《あや》しみてあとより|追《お》ひすがり、|背後《はいご》より|襟筋《えりすぢ》|目《め》がけて|無手《むんづ》とつかめば、|女神《めがみ》に|変装《へんさう》せる|言霊別命《ことたまわけのみこと》は|手早《てばや》く|衣《ころも》を|脱《ぬ》ぎ|捨《す》てて|裸体《はだか》となり、|城《しろ》の|堀《ほり》にザンブとばかり|飛《と》び|込《こ》みたまひ、|清熊《きよくま》の|手《て》には、|口子姫《くちこひめ》の|着衣《ちやくい》が|残《のこ》れるのみ。|言霊別命《ことたまわけのみこと》は、|水底《すゐてい》を|潜《もぐ》り、|向《むか》ふ|岸《きし》につき、|辛《から》うじて|命《いのち》を|拾《ひろ》ひたまひぬ。|命《みこと》はそれより|裸体《らたい》のまま、|鬼城山《きじやうざん》の|城塞《じやうさい》を|後《あと》にして、|韋駄天《ゐだてん》|走《ばし》りに、|北《きた》へ|北《きた》へと|落《お》ち|延《の》びたまひぬ。
|寒気《かんき》はますます|烈《はげ》しく|歯《は》の|根《ね》も|合《あ》はぬ|苦《くる》しさをこらへて、とある|荒廃家《あばらや》に|逃《に》げこみ、|老人《らうじん》|夫婦《ふうふ》の|厚意《こうい》により、|垢《あか》つき|破《やぶ》れたる|衣《ころも》を|与《あた》へられ、ホツと|一息《ひといき》つきながら、なほも|一目散《いちもくさん》に|北方《ほつぱう》さして|逃《に》げ|出《だ》したまへば、はるか|後方《こうはう》より、|声《こゑ》を|限《かぎ》りに|呼《よ》ぶものあり。ふりかへり|見《み》れば、まがふ|方《かた》なき|従臣《じゆうしん》|村幸彦《むらさちひこ》なり。|命《みこと》は|彼《かれ》に|神策《しんさく》を|授《さづ》け、ふたたびこの|場《ば》を|引返《ひきかへ》して、|鬼城山《きじやうざん》の|偵察《ていさつ》に|向《むか》はしめたまひける。|村幸彦《むらさちひこ》は|今後《こんご》はたして、いかなる|活動《くわつどう》をなすならむか。
(大正一〇・一一・一五 旧一〇・一六 栗原七蔵録)
(第三章〜第一一章 昭和一〇・一・一五 於今治市吉忠旅館 王仁校正)
第一二章 |信仰《しんかう》の|力《ちから》〔一一二〕
ここに|村幸彦《むらさちひこ》は|言霊別命《ことたまわけのみこと》の|内命《ないめい》により、ふたたび|鬼城山《きじやうざん》にとつて|返《かへ》し、|城内外《じやうないぐわい》の|偵察《ていさつ》に|苦心《くしん》しゐたり。あるとき|猿世彦《さるよひこ》、|清熊《きよくま》らの|一行《いつかう》に|城外《じやうぐわい》において|出会《しゆつくわい》したり。|清熊《きよくま》は|村幸彦《むらさちひこ》の|姿《すがた》を|見《み》るなり|直《ただ》ちに|従臣《じゆうしん》らに|命《めい》じ、|四方《しはう》より|包囲《はうゐ》して|難《なん》なくこれを|捕縛《ほばく》せしめ、|直《ただ》ちに|城内《じやうない》に|連《つ》れ|帰《かへ》り、|言霊別命《ことたまわけのみこと》の|所在《ありか》をきびしく|訊問《じんもん》したりける。|村幸彦《むらさちひこ》は|空《そら》とぼけて、
『|言霊別命《ことたまわけのみこと》は|城内《じやうない》にましまさむ。|汝《なんぢ》らは|何《なに》を|狼狽《らうばい》して|吾《われ》に|向《むか》つてかかる|奇問《きもん》を|発《はつ》し、かつ|吾《われ》らを|捕縛《ほばく》せしや、|思《おも》ふに|汝《なんぢ》らは|酒興《しゆきよう》のあまり、|滑稽《こつけい》にも|我《われ》を|愚弄《ぐろう》する|心算《しんざん》ならむか。いやしくも|天使《てんし》|言霊別命《ことたまわけのみこと》の|従臣《じゆうしん》なり。いかに|卑怯《ひけふ》|未練《みれん》の|命《みこと》なりとて、|何《なに》を|苦《くる》しみて|城内《じやうない》をひそかに|脱出《だつしゆつ》するの|要《えう》あらむや、|囈語《じやうだん》もほどほどにせられよ』
と|大口《おほぐち》を|開《あ》けてからからと|打笑《うちわら》ひける。|城内《じやうない》の|魔神《ましん》どもは|真剣《しんけん》になり、たちまち|憤怒《ふんど》の|色《いろ》を|現《あら》はし、|口々《くちぐち》に|罵《ののし》りつつ|執念深《しふねんぶか》くも、
『|命《みこと》の|所在《ありか》を|汝《なんぢ》は|知《し》るならむ、|逐一《ちくいち》|白状《はくじやう》におよべ』
とたたみかけて|厳《きび》しく|訊問《じんもん》の|矢《や》を|放《はな》ちしが、|村幸彦《むらさちひこ》は|神色自若《しんしよくじじやく》として|何《なん》の|怖《おそ》るるところなく、ますます|空《そら》とぼけて|笑《わら》ひくづれける。
|魔神《ましん》どもは、
『かかる|狂人《きちがひ》を|相手《あひて》とするはあたかも|暖簾《のれん》と|腕押《うでお》しをなすがごとし。エエ|面倒《めんだう》なり、|此奴《こやつ》の|衣類《いるゐ》を|脱《ぬ》がせ、|冷水《ひやみづ》を|頭上《あたま》より|浴《あ》びせかけ、|逆上《のぼせ》を|下《さ》げやらむ』
といふより|早《はや》く|寄《よ》つてたかつて|真裸《まつぱだか》となし、|氷《こほり》の|張《は》りつめたる|池端《いけばた》に|連《つ》れゆき、|氷《こほり》を|打《う》ち|破《やぶ》り、|池中《ちちゆう》に|陥《おとしい》れ、|頭上《づじやう》よりは|長柄《ながえ》の|柄杓《ひしやく》をもつて|幾千杯《いくせんばい》ともなく、|水《みづ》を|代《かは》るがはる|浴《あ》びせかけたり。
|村幸彦《むらさちひこ》は|心中《しんちゆう》に|深《ふか》く|神《かみ》を|念《ねん》じ、|小声《こごゑ》になりて|天津祝詞《あまつのりと》をしきりに|奏上《そうじやう》しつつ、たちまち|身体《しんたい》|冷《ひ》え、|凍《こご》え|死《し》するかと|思《おも》ひきや、|村幸彦《むらさちひこ》の|身体《しんたい》よりは|濛々《もうもう》と|湯煙《ゆけぷり》たち|昇《のぼ》り、|少《すこ》しも|寒気《かんき》を|感《かん》ぜず、|悠々《いういう》として|湯《ゆ》に|入《い》りしごとき|愉快《ゆくわい》にみちたる|顔色《かほいろ》に|微笑《びせう》をうかべ、
『ヤイ|魔神《ましん》、|湯《ゆ》が|熱《あつ》いぞ、も|少《すこ》し|水《みづ》をくれないか』
と|大声《おほごゑ》に|笑《わら》ひける。|魔神《ましん》どもは|一体《いつたい》|合点《がつてん》ゆかず、かかる|厳寒《げんかん》の|空《そら》に|投込《なげこ》まれその|上《うへ》|幾千杯《いくせんばい》とも|限《かぎ》りなき|寒水《かんすゐ》を|頭上《づじやう》より|浴《あ》びせかけられ、|神色自若《しんしよくじじやく》として、|何《なん》の|苦痛《くつう》も|感《かん》ぜざるのみか|剰《あまつ》さへ……この|湯《ゆ》は|熱《あつ》い、も|少《すこ》し|水《みづ》をくれ……とは|正気《しやうき》の|沙汰《さた》にあらざるべし。かかる|大狂人《おほきちがひ》をいつまでも|池中《ちちう》に|投《とう》じて|苦《くる》しめむとするも|何《なん》の|益《えき》なしと、つひに|村幸彦《むらさちひこ》を|救《すく》ひ|上《あ》げたりしが、|村幸彦《むらさちひこ》の|身体《しんたい》よりは|盛《さか》ンに|湯煙《ゆけぶり》たち|上《あが》りけり。これまつたく|村幸彦《むらさちひこ》が|信仰《しんかう》の|力《ちから》と、|国治立命《くにはるたちのみこと》の|厚《あつ》き|神助《しんじよ》によるものなりけり。
|美山彦《みやまひこ》、|国照姫《くにてるひめ》はこの|奇瑞《きずゐ》を|訝《いぶ》かり、このたびは|赤裸《はだか》のまま|北風《きたかぜ》|吹《ふ》き|荒《すさ》ぶ|廊下《らうか》の|柱《はしら》に|村幸彦《むらさちひこ》を|縛《しば》りつけ、|寄《よ》り|集《たか》りて|嘲笑罵詈《てうせうばり》をきはめ、かつ、
『|汝《なんぢ》は|大狂乱《おほきちがひ》の|大馬鹿者《おほばかもの》ぞ。|見《み》かけによらぬ|土間助《どますけ》よ』
といひつつ|竹箒《たけばうき》をあまた|携《たづさ》へきたり、|四方《しはう》|八方《はつぱう》より|頭《あたま》といはず|顔《かほ》といはず|身体《しんたい》|一面《いちめん》を、あるひは|打《う》ち|或《ある》ひは|突《つ》き、つひには|竹箒《たけばうき》の|柄《え》にて|頭部《とうぶ》を|幾百千《いくひやくせん》ともなくなぐりつけたり。されど|村幸彦《むらさちひこ》は|何《なん》の|苦痛《くつう》も|感《かん》ぜず、|平然《へいぜん》として|笑《ゑみ》を|含《ふく》み、
『|鬼城山《きじやうざん》の|魔神《ましん》どもの|腕力《わんりよく》の|弱《よわ》さよ』
と|腮《あご》をしやくりて|嘲笑《てうせう》したりける。ここに|美山彦《みやまひこ》は|烈火《れつくわ》のごとく|憤《いきどほ》り、
『|然《しか》らば|吾《われ》らの|力《ちから》を|現《あら》はしくれむ。|従臣《じゆうしん》どもは|各自《かくじ》|鉄棒《てつぼう》を|携《たづさ》へきたつて、|彼《かれ》が|面上《めんじやう》を|力《ちから》にまかせて|打《う》ちすゑ|粉砕《ふんさい》せよ』
と|命《めい》ずれば、|鶴《つる》の|一声《ひとこゑ》|従臣《じゆうしん》どもはたちまち|鉄棒《てつぼう》かざして|現《あら》はれ、|前後《ぜんご》|左右《さいう》より|村幸彦《むらさちひこ》を|力《ちから》かぎりに|頭部《とうぶ》|面部《めんぶ》の|嫌《きら》ひなく|打《う》ちすゑたり。されど|村幸彦《むらさちひこ》は|心中《しんちゆう》|深《ふか》く|神《かみ》を|念《ねん》じ、|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》しつつありしためか、さしも|烈《はげ》しき|鉄棒《てつぼう》の|乱打《らんだ》も|鎧袖《がいしう》|一触《いつしよく》の|感《かん》じもなく、|口《くち》をきはめて|魔神《ましん》どもの|非力《ひりよく》を|嘲笑《てうせう》したり。|彼《かれ》らはますます|怒《いか》り、つひには|面上《めんじやう》|目《め》がけて、|各自《かくじ》に|痰唾《たんつば》を|吐《は》きかけ|辱《はづかしめ》むとしたるに、いかがはしけむ、いづれの|痰唾《たんつば》も|村幸彦《むらさちひこ》の|面上《めんじやう》にいたらず|中空《ちうそら》に|飛《と》びあがり、たちまち|落下《らくか》して|各自《かくじ》の|面上《めんじやう》に、|数十倍《すうじふばい》の|量《りやう》と|数十倍《すうじふばい》の|汚穢《をえ》とを|増《ま》して|滝《たき》のごとくに|降《ふ》りきたりぬ。
|美山彦《みやまひこ》はおのれの|吐《は》き|出《だ》したる|痰唾《たんつば》に|祟《たた》られ、|面部《めんぶ》|一面《いちめん》に|布海苔《ふのり》を|浴《あ》びたるごとく、|青白《あをじろ》き|瓜実顔《うりざねがほ》は、たちまち|紙雛《かみびな》をなめて|吐《は》きだしたるごとき|滑稽《こつけい》なる|顔貌《がんばう》とはなりにける。
|美山彦《みやまひこ》はますます|怒《いか》り|大刀《だいたう》を|抜《ぬ》きはなち、|村幸彦《むらさちひこ》に|切《き》つてかかれども、|村幸彦《むらさちひこ》の|身体《しんたい》は|石地蔵《いしぢざう》のごとく、|切《き》れども|突《つ》けども|何《なん》の|答《こた》へもなく、|剣《つるぎ》は|曲《まが》り|刃《は》は|欠《こぼ》れ、たちまち|鋸《のこぎり》の|刃《は》のごとくなりにける。こんどは|美山彦《みやまひこ》|奥《おく》に|入《い》り、ねぢ|鉢巻《はちまき》に|赤褌《あかふんどし》、|袴《はかま》の|股立《ももだち》|高《たか》くからげ、|大身《おほみ》の|鎗《やり》をしごきながら、|村幸彦《むらさちひこ》の|胸先《むなさき》|目《め》がけて「エヽ」と|一声《いつせい》、|電光石火《でんくわうせきくわ》の|勢《いきほひ》をもつて|突込《つきこ》みしが、いかがはしけむ、|鎗《やり》の|穂先《ほさき》は|葱《ねぎ》の|葉《は》のごとく|脆《もろ》くも|曲《まが》り、|美山彦《みやまひこ》は|空《そら》を|突《つ》いて、ひよろひよろと|数十間《すうじつけん》ばかり|前方《ぜんぱう》に|走《はし》り、どつとばかりに|倒《たふ》れける。このとき|高手小手《たかてこて》に|縛《いましめ》られたる|太《ふと》き|麻繩《あさなは》を|見《み》て|村幸彦《むらさちひこ》はからからとうち|笑《わら》ひ、
『かかる|腐《くさ》れ|繩《なは》を|吾《われ》にかけて|何《なん》とする。いらざる|戯事《じやれごと》をすな。|鼻屎《はなくそ》にて|的《まと》を|張《は》りしごとき|汝《なんぢ》らの|計画《けいくわく》、|実《じつ》に|失笑《しつせう》に|値《あたひ》す』
といひも|終《をは》らず、「エヽ」の|一声《いつせい》、さしもの|強《つよ》き|太繩《ふとなは》もばらばらに|寸断《すんだん》されたり。この|様子《やうす》を|最前《さいぜん》より|窺《うかが》ひゐたる|須賀彦《すがひこ》、|小桜姫《こざくらひめ》は|走《はし》りきたつて|両手《りやうて》をつき、|村幸彦《むらさちひこ》にむかつて、
『|貴下《きか》は|如何《いか》なる|尊《たつと》き|強《つよ》き|神人《しんじん》にましますぞや。|吾《われ》らはここに|前非《ぜんぴ》を|悔《く》ひ、|真情《まごころ》より|反逆《はんぎやく》の|罪《つみ》を|謝《しや》し|奉《たてまつ》る』
と|畏《おそ》るおそる|述《の》べたてたり。|傍《そば》にありし|美山彦《みやまひこ》、|国照姫《くにてるひめ》は|声《こゑ》をはなつて|号泣《がうきふ》し、|神徳《しんとく》の|威大《ゐだい》なるに|感《かん》じ、|夢《ゆめ》のさめたるごとく|始《はじ》めて|本心《ほんしん》に|立《た》ち|帰《かへ》り、|大八洲彦命《おほやしまひこのみこと》の|直命《ちよくめい》を|奉《ほう》じ、|鬼城山《きじやうざん》をこころよく|開《あ》け|渡《わた》し、|一同《いちどう》は|従臣《じゆうしん》を|率《ひき》ゐて|地《ち》の|高天原《たかあまはら》に|参向《さんかう》し、|帰順《きじゆん》の|意《い》を|表《へう》し、|犬馬《けんば》の|労《らう》を|執《と》らむことを|誓《ちか》ひける。
ここに|目出度《めでたく》|鬼城山《きじやうざん》は|真鉄彦《まがねひこ》、|八王神《やつわうじん》となつて、|灰色《はひいろ》の|玉《たま》を|瑞《みづ》の|御舎《みあらか》|仕《つか》へまつりて|恭《うやうや》しく|鎮祭《ちんさい》し、|元照彦《もとてるひこ》は|八頭神《やつがしらがみ》となり、|真鉄姫《まがねひめ》、|元照姫《もとてるひめ》は|共《とも》に|城内《じやうない》にとどまり、|夫《をつと》の|補佐《ほさ》を|勤《つと》むることとなりける。
|天地《てんち》の|律法《りつぱう》はもつとも|厳重《げんぢう》にして|毫末《がうまつ》も|犯《をか》すべからざるものとはいへども、|発根《ほつごん》より|改心《かいしん》と|認《みと》められたる|時《とき》は|直《ただ》ちにこれを|許《ゆる》さるるものなり。|実《じつ》に|改心《かいしん》にまさる|結構《けつこう》は|無《な》かるべし。|現《げん》に|悪逆無道《あくぎやくぶだう》の|極《きは》みをつくしたる|美山彦《みやまひこ》、|国照姫《くにてるひめ》の|罪《つみ》を|赦《ゆる》し、|地《ち》の|高天原《たかあまはら》の|神業《しんげふ》に|参加《さんか》せしめたまひしは、|大神《おほかみ》が|無限《むげん》の|御仁慈《ごじんじ》の|発露《はつろ》といふべし。
(大正一〇・一一・一五 旧一〇・一六 土井靖都録)
第一三章 |嫉妬《しつと》の|報《むくい》〔一一三〕
|長白山《ちやうはくざん》には|白色《はくしよく》の|玉《たま》を、|荘厳《さうごん》なる|神殿《しんでん》を|造営《ざうえい》してこれに|鎮祭《ちんさい》し、|国魂《くにたま》の|神《かみ》の|御神体《ごしんたい》となし、|八王神《やつわうじん》は|有国彦《ありくにひこ》これに|任《にん》ぜられ、|妻《つま》の|有国姫《ありくにひめ》|神業《しんげふ》を|輔佐《ほさ》することとなりぬ。|八頭神《やつがしらがみ》には|磐長彦《いはながひこ》|任命《にんめい》せられ、|磐長姫《いはながひめ》は|妻《つま》となり、|内助《ないじよ》|輔佐《ほさ》の|役《やく》を|勤《つと》めゐたりける。
しかるに|磐長姫《いはながひめ》は、その|性質《せいしつ》|獰猛《だうまう》|邪悪《じやあく》にして、かつ|嫉妬心《しつとしん》の|深《ふか》き|女性《ぢよせい》なりき。|常《つね》に|夫《をつと》の|行動《かうどう》を|疑《うたが》ひ、|何事《なにごと》にもいちいち|反対的《はんたいてき》|行動《かうどう》をとり、|夫《をつと》が|東《ひがし》へゆかむとすれば、|西《にし》へゆくといひ、|山《やま》へゆかむといへば、|川《かは》へゆくといひ、|常《つね》に|夫婦《ふうふ》の|間《あひだ》に|波瀾《はらん》が|絶《た》えざりしが、|磐長姫《いはながひめ》の|頭髪《とうはつ》は、|実《じつ》に|見事《みごと》なるものにして、その|色沢《いろつや》は|漆《うるし》のごとくあくまでも|黒《くろ》く、ひいて|地上《ちじやう》に|垂《た》るるほどなりし。|磐長姫《いはながひめ》はある|時《とき》ただ|一人《ひとり》|深山《しんざん》にわけ|入《い》り、|白布《しらぬの》の|滝《たき》に|身《み》をうたれ、|夫《をつと》の|我意《わがい》に|従《したが》はむことを|祈願《きぐわん》したり。
|百日百夜《ひやくにちひやくよ》|強烈《きやうれつ》なる|滝《たき》にうたれ、|見《み》るも|凄《すさま》じき|血相《けつさう》にて、|祈願《きぐわん》をこめゐたるをりしも、|山上《さんじやう》より|騒《さわ》がしき|足音《あしおと》|聞《きこ》え、|樹木《じゆもく》を|吹《ふ》き|倒《たふ》し、|岩石《がんせき》を|飛《と》ばし、|姫《ひめ》のかかれる|滝《たき》の|上《うへ》にも、あまたの|岩石《がんせき》|降《くだ》り|来《き》たりたれども、|姫《ひめ》はこれにも|屈《くつ》せず、|一心不乱《いつしんふらん》に、|長髪《ちやうはつ》をふり|乱《みだ》し、|祈願《きぐわん》を|籠《こ》めつつありぬ。そこへ|忽然《こつぜん》として|白狐《びやくこ》の|姿《すがた》|現《あら》はれ、|姫《ひめ》にむかつて、
『|我《われ》は|常世国《とこよのくに》の|守護神《しゆごじん》なり。|汝《なんぢ》の|熱心《ねつしん》なる|願《ねが》ひにより、|今《いま》より|汝《なんぢ》の|肉体《にくたい》を|守護《しゆご》すべし』
といふかと|見《み》れば|姿《すがた》は|消《き》えて、ただ|滝《たき》の|水《みづ》のはげしく|落《お》つる|音《おと》のみ|聞《きこ》えけり。
それより|磐長姫《いはながひめ》の|黒漆《こくしつ》の|頭髪《とうはつ》は、にはかに|純白色《じゆんぱくしよく》に|変《へん》じ、|眼《まなこ》は|釣《つ》りあがり、|唇《くちびる》は|突出《つきいだ》し、|容貌《ようばう》たちまち|一変《いつぺん》するにいたりけり。
|磐長姫《いはながひめ》は、|我《われ》は|白狐《びやくこ》の|守護《しゆご》により、|夫《をつと》の|驕慢《けうまん》を|矯《ため》なほし、|夫婦《ふうふ》|和合《わがふ》の|目的《もくてき》を|達《たつ》することと|確信《かくしん》し、|欣然《きんぜん》として|長白山《ちやうはくざん》にかへりきたれり。
さて|磐長彦《いはながひこ》をはじめ、あまたの|神司《かみがみ》は|姫《ひめ》の|俄然《がぜん》|白髪《はくはつ》となり、かつ|面貌《めんばう》の|凄《すご》くなりたるに|驚《おどろ》きぬ。それより|姫《ひめ》は|性質《せいしつ》ますます|獰猛《だうまう》となり、|日夜《にちや》|従者《じゆうしや》をしたがへて|山野《さんや》に|入《い》り、|兎《うさぎ》、|猪《しし》、|山鳥《やまどり》なぞを|狩立《かりた》て|無上《むじやう》の|楽《たのし》みとなし|居《ゐ》たりければ、|夫《をつと》はこれを|固《かた》く|戒《いまし》めて|曰《いは》く、
『|天地《てんち》の|律法《りつぱう》を|厳守《げんしゆ》して、すべての|生物《せいぶつ》を|断《だん》じて|殺《ころ》すべからず』
とおごそかに|訓諭《くんゆ》しける。されど|白毛《はくまう》の|悪狐《あくこ》に|憑《つ》かれたる|姫《ひめ》は、|夫《をつと》の|訓諭《くんゆ》を、|東風吹《こちふ》く|風《かぜ》と|聞《き》き|流《なが》し、ますます|殺生《せつしやう》をつづけ、つひには|我《わ》が|意《い》に|少《すこ》しにても|逆《さか》らふ|従者《じゆうしや》は、|片《かた》つ|端《ぱし》より|斬《き》り|殺《ころ》し、|生血《いきち》を|啜《すす》りて|無上《むじやう》の|快楽《くわいらく》となし、|悪逆《あくぎやく》の|行為《かうゐ》|日《ひ》に|日《ひ》に|増長《ぞうちよう》し、|従者《じゆうしや》も|恐《おそ》れて|近《ちか》づくものなきにいたりたり。
このこと|八王神《やつわうじん》なる|有国彦《ありくにひこ》の|耳《みみ》に|入《い》り、|唐山彦《からやまひこ》をして|厳《きび》しき|訓戒《くんかい》を|伝達《でんたつ》せしめられたるに、|磐長姫《いはながひめ》は|声《こゑ》を|放《はな》つて|号泣《がうきふ》し、|夫《をつと》の|無情《むじやう》を|陳弁《ちんべん》し、かつ、
『|妾《わらは》は|天地《てんち》の|律法《りつぱう》を|厳守《げんしゆ》し、|虱《しらみ》|一匹《いつぴき》といへども|殺《ころ》したることなし。その|証拠《しようこ》には|妾《わらは》が|着衣《ちやくい》を|検《あらた》められよ』
といひつつ、|下着《したぎ》を|脱《ぬ》いで|唐山彦《からやまひこ》の|面前《めんぜん》に|差出《さしだ》したり。|唐山彦《からやまひこ》は、その|下着《したぎ》を|見《み》ておほいに|驚《おどろ》きぬ。よく|見《み》れば|下着《したぎ》には、ほとんど|隙間《すきま》なきほどに、|粟《あは》のごとく|虱《しらみ》|鈴生《すずなり》になりゐたればなり。|唐山彦《からやまひこ》はこれを|見《み》て、|同情《どうじやう》の|涙《なみだ》にくれ、
『|貴女《きぢよ》の|御心中《ごしんちう》|察《さつ》するにあまりあり。かくのごとく|虱《しらみ》にいたるまで、|仁慈《じんじ》の|情《じやう》をもつて|助《たす》けたまふ。|今《いま》は|疑《うたが》ふところなし。この|由《よし》ただちに|八王神《やつわうがみ》に|達《たつ》し|奉《たてまつ》らむ』
と|袂《たもと》を|別《わか》ち|帰《かへ》りゆく。あとに|磐長姫《いはながひめ》は|長《なが》き|舌《した》をだし、いやらしき|微笑《ほほゑみ》を|浮《う》かべてけり。
|有国彦《ありくにひこ》は、|唐山彦《からやまひこ》の|復命《ふくめい》の|次第《しだい》を|詳細《しやうさい》に|聴《き》きをはり、ただちに|磐長彦《いはながひこ》を|召《め》して、
『|事実《じじつ》の|詳細《しやうさい》をつつまず、|隠《かく》さず|奏上《そうじやう》せよ』
と|厳命《げんめい》しければ、|磐長彦《いはながひこ》は|事実《じじつ》をもつて|答弁《たふべん》したり。されど|有国彦《ありくにひこ》は|頭《かうべ》をかたむけ|半信半疑《はんしんはんぎ》の|面色《おももち》にて、|命《みこと》の|顔色《がんしよく》を|熟視《じゆくし》されつつありき。このとき|磐長姫《いはながひめ》は、|夫《をつと》の|後《あと》を|追《お》ひ|出《い》できたり|有国彦《ありくにひこ》にむかつて、|涙《なみだ》とともに、|言葉《ことば》たくみに|我身《わがみ》の|無実《むじつ》を|陳弁《ちんべん》したりける。
ここに|夫婦《ふうふ》|二人《ふたり》の|争論《そうろん》は|開《ひら》かれけるが、|姫《ひめ》は|口角泡《こうかくあわ》をとばし、|舌端《ぜつたん》|火《ひ》をはき、|両眼《りやうがん》はますます|釣《つ》りあがり、|口《くち》は|耳元《みみもと》まで|割《さ》け、|見《み》るも|凄《すさま》じき|形相《ぎやうさう》となりける。|有国彦《ありくにひこ》はこの|光景《くわうけい》を|見《み》てただちに|奥殿《おくでん》にいり、|白色《はくしよく》の|国玉《くにたま》を|取《と》りだし、その|玉《たま》を|両手《りやうて》に|捧《ささ》げ、|磐長姫《いはながひめ》|目《め》がけて、|伊吹《いぶき》の|神業《かむわざ》を|修《しう》したまへば、その|身体《しんたい》より、たちまち|白毛《はくまう》の|悪狐《あくこ》|現《あら》はれいで、|空中《くうちゆう》を|翔《かけ》りて、たちまち|西天《せいてん》に|姿《すがた》を|没《ぼつ》したりける。
ここに|磐長姫《いはながひめ》は|大《おほ》いに|愧《は》ぢ、この|場《ば》を|一目散《いちもくさん》に|逃《に》げだし|大川《おほかは》に|身《み》を|投《とう》じ、|終焉《しゆうえん》を|遂《と》げたり。しかして|磐長姫《いはながひめ》の|霊魂《れいこん》は|化《くわ》して|無数《むすう》の|緑白色《りよくはくしよく》の|鴨《かも》となり、|水上《すいじやう》に|浮《う》きつ|沈《しづ》みつ|日《ひ》を|送《おく》ることとなりぬ。これよりこの|川《かは》を|鴨緑江《あふりよくかう》となんいふとかや。
(大正一〇・一一・一六 旧一〇・一七 栗原七蔵録)
(第一二章〜第一三章 昭和一〇・一・一六 於みどり丸船室 王仁校正)
第一四章 |霊系《れいけい》の|抜擢《ばつてき》〔一一四〕
|磐長彦《いはながひこ》は|独身《ひとりみ》となり、|神務《しんむ》を|管掌《くわんしやう》しゐたり。しかるに|内助者《ないじよしや》たるべき|妻《つま》に|死別後《しべつご》は|内政上《ないせいじやう》すべての|事《こと》につき|不便《ふべん》を|感《かん》じ、ここに|忠実《ちうじつ》|無比《むひ》なる|侍女《じぢよ》|玉姫《たまひめ》を|挙用《きよよう》して|正妻《せいさい》となさむとし、|諸神司《しよしん》をあつめてその|意見《いけん》を|聴取《ちやうしゆ》したりしが、|諸神司《しよしん》は|磐長彦《いはながひこ》の|孤独《こどく》|不遇《ふぐう》の|生活《せいくわつ》を|見《み》ておほいに|同情《どうじやう》の|意《い》を|表《へう》し、|玉姫《たまひめ》を|正妻《せいさい》となすべきことを|満場《まんぢやう》|一致《いつち》をもつて|賛成《さんせい》したりける。|磐長彦《いはながひこ》は|満足《まんぞく》の|体《てい》にてただちに|八王神《やつわうじん》の|御殿《ごてん》に|参候《さんこう》し、|玉姫《たまひめ》を|正妻《せいさい》とすべきことの|許可《きよか》を|奏請《そうせい》したるに、|有国彦《ありくにひこ》は|一身上《いつしんじやう》の|一大事《いちだいじ》なれば、|自分《じぶん》|単独《たんどく》にては|決《けつ》しかねしより、この|旨《むね》を|書面《しよめん》に|認《したた》め|使者《ししや》を|地《ち》の|高天原《たかあまはら》につかはし、|天使長《てんしちやう》|大八洲彦命《おほやしまひこのみこと》の|裁決《さいけつ》を|請《こ》ひたまひけり。
|大八洲彦命《おほやしまひこのみこと》はただちに|言霊別命《ことたまわけのみこと》、|神国別命《かみくにわけのみこと》、|大足彦《おほだるひこ》を|大広前《おほひろまへ》に|集《あつ》め、|磐長彦《いはながひこ》の|婚儀《こんぎ》につきその|可否《かひ》を|討議《たうぎ》せむとし、ここに|天使《てんし》|会議《くわいぎ》を|開《ひら》かれたりける。
いよいよ|天使《てんし》|会議《くわいぎ》は|開《ひら》かれぬ。|大八洲彦命《おほやしまひこのみこと》は|立《た》つて|磐長姫《いはながひめ》の|平素《へいそ》の|行跡《ぎやうせき》より|変死《へんし》の|際《さい》にいたるまでの|種々《しゆじゆ》の|経緯《いきさつ》を|詳細《しやうさい》に|説明《せつめい》し、かつ……|侍女《じぢよ》の|玉姫《たまひめ》を|入《い》れてその|正妻《せいさい》となすべきことの|可否《かひ》を|審議《しんぎ》されたしと、|長白山《ちやうはくざん》の|八王神《やつわうじん》|有国彦《ありくにひこ》より|奏請《そうせい》し|来《きた》れり。|願《ねが》はくは|諸天使《しよてんし》の|慎重《しんちよう》なる|審議《しんぎ》を|望《のぞ》む……と、|宣言《せんげん》して|座《ざ》に|着《つ》きたまひぬ。ここに|言霊別命《ことたまわけのみこと》は、
『|磐長彦《いはながひこ》の|妻帯《さいたい》はやむを|得《え》ざる|次第《しだい》なれば、ただちに|承認《しようにん》を|与《あた》ふべきものと|思意《しい》す。|一時《いちじ》も|早《はや》くこれを|正妻《せいさい》となし、|長白山《ちやうはくざん》の|安全《あんぜん》を|計《はか》りたし』
と|述《の》べ|立《た》てたり。
|大足彦《おほだるひこ》は|座《ざ》を|立《た》つて|顔色《かほいろ》を|変《か》へ、|言霊別命《ことたまわけのみこと》の|説《せつ》を|極力《きよくりよく》|反駁《はんばく》していふ。
『|天地《てんち》の|律法《りつぱう》は|一夫一婦《いつぷいつぷ》の|道《みち》をきびしく|戒《いまし》めあり。しかるに|後妻《ごさい》を|迎《むか》ふるは|律法《りつぱう》に|違反《ゐはん》するものにして、|悪例《あくれい》を|後日《ごじつ》に|遺《のこ》すものなれば、|断乎《だんこ》として|許《ゆる》すべからず。|体主霊従《たいしゆれいじゆう》の|行動《かうどう》は|上《かみ》に|長《ちやう》たるものの|最《もつと》も|慎《つつし》むべきことならずや、|上《かみ》のなすところ|下《しも》これに|従《したが》ふ、|上流《じやうりう》|濁《にご》れば|必《かなら》ず|下流《かりう》|濁《にご》るは|自然《しぜん》の|道理《だうり》なり』
と|言葉《ことば》はげしく|反対《はんたい》の|意《い》を|表示《へうじ》したりけるに、|言霊別命《ことたまわけのみこと》はただちに|起立《きりつ》し、
『|実《じつ》に|心得《こころえ》ぬ|貴下《きか》のお|言葉《ことば》かな。ただ|今《いま》|体主霊従《たいしゆれいじゆう》の|行為《かうゐ》と|言《い》はれしが、|吾《われ》は|第二《だいに》の|正妻《せいさい》を|迎《むか》ふるをもつて|律法《りつぱう》|違反《ゐはん》となし、または|体主霊従《たいしゆれいじゆう》の|行為《かうゐ》とみなすを|得《え》ず。|如何《いかん》となれば|磐長姫《いはながひめ》は|夫《をつと》にたいし|根本的《こんぽんてき》にその|霊系《れいけい》を|異《こと》にしをれば、|常《つね》に|円満《ゑんまん》を|欠《か》き、|風波《ふうは》の|絶《た》えざるは|当然《たうぜん》なり。この|夫妻《ふさい》はもとより|恰好《かつかう》の|縁《えん》に|非《あら》ずして、|霊系《れいけい》を|無視《むし》し|体系《たいけい》を|重《おも》ンじたるに|起因《きいん》するものなり。|霊系《れいけい》の|合致《がつち》せざる|者《もの》と|者《もの》とを|夫婦《ふうふ》となし、|外観《ぐわいくわん》の|体裁《ていさい》に|重《おも》きをおくは|実《じつ》に|霊系《れいけい》を|無視《むし》したるものなり。|今《いま》やこの|過《あやま》ちを|去《さ》り、|霊系《れいけい》の|等《ひと》しき|玉姫《たまひめ》を|入《い》れて|正妻《せいさい》たらしめむとするは、|体《たい》を|軽《かる》ンじ|霊《れい》を|重《おも》ンずる|天地《てんち》の|法則《はふそく》に|適《かな》ひ、|霊主体従《れいしゆたいじゆう》の|本義《ほんぎ》に|帰《かへ》りたるものなり。ゆゑに|我《われ》は|断《だん》じて|体主霊従《たいしゆれいじゆう》の|行為《かうゐ》と|断《だん》ずること|能《あた》はず』
と|述《の》べたて|席《せき》に|着《つ》きたまへば、|大足彦《おほだるひこ》は|再《ふたた》び|立《た》ちあがり、
『|言霊別命《ことたまわけのみこと》の|仰《あふ》せは|一理《いちり》あるに|似《に》たれども、いま|一応《いちおう》|熟考《じゆくかう》を|乞《こ》ひたし。いかに|霊主体従《れいしゆたいじゆう》をもつて|天地《てんち》の|法則《はふそく》なりとはいへ、|現在《げんざい》|卑《いや》しき|侍女《じぢよ》を|挙用《きよよう》して、|一国《いつこく》を|司《つかさど》る|八頭神《やつがしらがみ》の|正妻《せいさい》たらしめむとするは、|神界《しんかい》の|秩序《ちつじよ》を|紊《みだ》すものにして、あたかも|提灯《ちやうちん》に|釣鐘《つりがね》、|均衡《きんかう》の|取《と》れざること|最《もつと》もはなはだし、かくのごとき|不均衡《ふきんかう》の|結婚《けつこん》を|許《ゆる》すといへども、たちまち|軽重《けいちよう》の|度《ど》を|失《しつ》し、|早晩《さうばん》|顛覆破鏡《てんぷくはきやう》の|悲《ひ》を|見《み》るは|必然《ひつぜん》なり、かかる|一大事《いちだいじ》を|軽々《かるがる》しく|聴許《ちやうきよ》せむとするは、あへて|天地《てんち》の|律法《りつぱう》を|軽《かる》んじ|神意《しんい》を|冒涜《ばうとく》する|無法《むはふ》の|行為《かうゐ》なり』
と|極言《きよくげん》したり。|言霊別命《ことたまわけのみこと》は|三度《みたび》|立《た》つて|口《くち》を|開《ひら》き、
『|心得《こころえ》ぬ|大足彦《おほだるひこ》のお|言葉《ことば》かな。|卑《いや》しき|侍女《じぢよ》をして|八頭神《やつがしらがみ》の|妻《つま》となすは|不均衡《ふきんかう》なりとか、|神界《しんかい》の|秩序《ちつじよ》を|紊《みだ》すものなりとか、|仰《おほ》せられたれども、そのお|言葉《ことば》こそ|体主霊従《たいしゆれいじゆう》のはなはだしきものなり。いかに|卑《いや》しき|侍女《じぢよ》なりとて、その|霊性《れいせい》において|美《うるは》しく|高貴《かうき》ならば、たとへ|形体《けいたい》の|上《うへ》において|卑《いや》しき|職《しよく》にありとも、その|精神《せいしん》にして|立派《りつぱ》ならば、|霊主体従《れいしゆたいじゆう》の|本義《ほんぎ》よりみて|之《これ》を|否定《ひてい》すべきものに|非《あら》ず。いたづらに|門閥的《もんばつてき》|旧思想《きうしさう》を|墨守《ぼくしゆ》し、いらざる|体面論《たいめんろん》を|主張《しゆちやう》さるるはかへつて|神慮《しんりよ》に|背《そむ》き、|律法《りつぱう》の|精神《せいしん》をわきまへざる|頑冥固陋《ぐわんめいころう》の|旧思想《きうしさう》なり。かかる|所論《しよろん》はほとんど|歯牙《しが》にかくるに|足《た》らず』
と|気色《けしき》ばみて|陳弁《ちんべん》したり。
ここに、|大足彦《おほだるひこ》は|三度《みたび》|立《た》つてこの|説《せつ》を|駁《ばく》し、たがひに|熱火《ねつくわ》のごとく|論難《ろんなん》|攻撃《こうげき》いつ|果《は》つべしとも|見《み》へざりしを、このとき|神国別命《かみくにわけのみこと》は|立《た》つて、
『|両神司《りやうしん》の|所説《しよせつ》いづれを|聞《き》くも|一理《いちり》あり。しかるに|霊主体従《れいしゆたいじゆう》および|体主霊従《たいしゆれいじゆう》の|本義《ほんぎ》については、われは|言霊別命《ことたまわけのみこと》に|賛成《さんせい》す。|諸天使《しよてんし》すみやかに|玉姫《たまひめ》を|正妻《せいさい》に|入《い》るることの|許可《きよか》を|与《あた》へられむ|事《こと》を|希望《きばう》す』
と|主張《しゆちやう》したまひける。
ここに|大八洲彦命《おほやしまひこのみこと》は|多数《たすう》の|意見《いけん》を|容《い》れ、|磐長彦《いはながひこ》の|妻《つま》に|玉姫《たまひめ》を|入《い》れるることの|決定《けつてい》を|与《あた》へ、|目出度《めでた》く|天使《てんし》|会議《くわいぎ》は|終了《しうれう》を|告《つ》げたり。|元来《ぐわんらい》|玉姫《たまひめ》は|忠実《ちうじつ》なる|女性《ぢよせい》にして|磐長姫《いはながひめ》の|寵児《ちようじ》なりける。いよいよ|玉姫《たまひめ》は|玉代姫《たまよひめ》と|改名《かいめい》し、|磐長彦《いはながひこ》の|妻《つま》となり|内助《ないじよ》の|功《こう》もつとも|多《おほ》く、|長白山《ちやうはくざん》は|無事《ぶじ》|泰平《たいへい》に|治《をさ》まりにける。
(大正一〇・一一・一六 旧一〇・一七 加藤明子録)
第五篇 |万寿山《まんじゆざん》
第一五章 |神世《しんせい》の|移写《いしや》〔一一五〕
|万寿山《まんじゆざん》には|八王神《やつわうじん》として|磐樟彦《いはくすひこ》、|磐樟姫《いはくすひめ》の|夫妻《ふさい》|居住《きよぢう》し、|赤色《せきしよく》の|玉《たま》を|荘厳《さうごん》なる|神殿《しんでん》に|鎮祭《ちんさい》し、|瑞穂別《みづほわけ》|八頭神《やつがしらがみ》となり、|瑞穂姫《みづほひめ》|妻《つま》となりて|内助《ないじよ》の|功《こう》もつとも|多《おほ》く、|天地《てんち》の|律法《りつぱう》は|完全《くわんぜん》におこなはれ、|神人《しんじん》|一致《いつち》して|至治太平《しちたいへい》の|神世《かみよ》はおごそかに|樹立《じゆりつ》され、|加《くは》ふるに|忠実《ちうじつ》|無比《むひ》なる|大川彦《おほかはひこ》、|清川彦《きよかはひこ》、|常立彦《とこたちひこ》、|守国別《もりくにわけ》、その|他《た》の|諸神司《しよしん》は|綺羅星《きらほし》のごとく|集《あつ》まり、|地《ち》の|高天原《たかあまはら》につぐの|聖場《せいぢやう》となつた。
|万寿山《まんじゆざん》の|神殿《しんでん》は|月宮殿《げつきうでん》と|称《とな》へられ、|赤玉《あかだま》の|精魂《せいこん》|幸《さち》はひたまひて、|神人《しんじん》の|心《こころ》は|赤誠丹心《せきせいたんしん》よく|神《かみ》に|仕《つか》へ、|長上《ちやうじやう》を|尊《たふと》み|下《した》を|憐《あわれ》み、|各自《かくじ》の|顔《かほ》はいつも|春《はる》のごとく、|心《こころ》は|常《つね》に|洋々《やうやう》として|海《うみ》のごとく、|満山《まんざん》の|紅葉《もみぢ》は|黄紅赤緋《わうこうせきひ》|色《いろ》を|競《きそ》ひ、|春《はる》は|紅《くれなゐ》の|梅《うめ》、|香《にほ》ひ|芳《かん》ばしき|白梅《はくばい》|樹々《きぎ》の|間《あひだ》に|点々《てんてん》し、|蒼々《さうさう》たる|常磐《ときは》の|松《まつ》は、|紅葉《もみぢ》のあひだに|天《てん》を|摩《ま》して|栄《さか》え、|千年《ちとせ》の|鶴《つる》は|樹上《じゆじやう》に|巣《す》を|組《く》み|神政《しんせい》の|万寿《まんじゆ》を|謳《うた》ふ。|城廓《じやうくわく》を|廻《めぐ》れる|池《いけ》の|清泉《せいせん》には|万代《まんだい》の|亀《かめ》、|幾千万《いくせんまん》とも|限《かぎ》りなく、|神世《しんせい》を|寿《ことほ》ぎ、|右往左往《うわうさわう》に|遊《あそ》びたはむるその|光景《くわうけい》は、|五六七《みろく》|神教《しんけう》|成就後《じやうじゆご》の|神代《かみよ》の|移写《いしや》とも|称《しよう》すべき|瑞祥《ずゐしやう》なりける。かかる|目出度《めでた》き|万寿山《まんじゆざん》は、|実《じつ》は|霊鷲山《れいしうざん》の|神霊《しんれい》|三ツ葉彦命《みつばひこのみこと》の|内面的《ないめんてき》|輔佐《ほさ》の|神徳《しんとく》の|功《こう》、あづかつて|力《ちから》ありしが|故《ゆゑ》なりといふ。
ここに|万寿山《まんじゆざん》の|八王《やつわう》、|八頭《やつがしら》の|神司《かみ》をはじめ、|部下《ぶか》の|諸神司《しよしん》は|霊鷲山《れいしうざん》をもつて|第二《だいに》の|高天原《たかあまはら》と|崇《あが》め、|三ツ葉彦命《みつばひこのみこと》の|神《かみ》|跡《あと》を|慕《した》ひて|神人《しんじん》|修業《しうげふ》の|聖場《せいぢやう》と|定《さだ》め、|美《うるは》しき|神殿《しんでん》を|山下《さんか》の|玉《たま》の|井《ゐ》の|邑《むら》に|造営《ざうえい》し、|坤金神《ひつじさるのこんじん》|豊国姫命《とよくにひめのみこと》の|安居所《やすゐどころ》となし|奉仕《ほうし》せむとし、ここに|荘厳《さうごん》なる|大神殿《だいしんでん》を|宮柱太敷立《みやばしらふとしきた》て、|高天原《たかあまはら》に|千木《ちぎ》|高《たか》|知《し》りて|日《ひ》の|大神《おほかみ》、|月《つき》の|大神《おほかみ》、|玉照姫命《たまてるひめのみこと》、|国治立命《くにはるたちのみこと》|鎮座《ちんざ》したまひて|洪大無辺《こうだいむへん》の|神徳《しんとく》は|四方《よも》に|輝《かがや》き、|地《ち》の|高天原《たかあまはら》と|相《あひ》まつて|神界《しんかい》|経綸《けいりん》の|大聖場《だいせいぢやう》となりぬ。これを|玉ノ井《たまのゐ》の|宮《みや》といふ。
|玉ノ井《たまのゐ》の|宮《みや》は|真道姫《まみちひめ》|真心《まごころ》をもつて|大神《おほかみ》に|仕《つか》へ、かつ|霊鷲山《れいしうざん》に|日夜《にちや》かよひて|神慮《しんりよ》を|伺《うかが》ひ、つひに|三ツ星《みつぼし》の|神霊《しんれい》に|感《かん》じて|三ツ葉彦命《みつばひこのみこと》を|生《う》み、これを|地《ち》の|高天原《たかあまはら》の|国治立命《くにはるたちのみこと》に|献《けん》じ|奉《たてまつ》り、|神政《しんせい》|維新《ゐしん》の|神柱《かむばしら》となさしめたまひける。|三ツ葉彦命《みつばひこのみこと》は、|天《てん》の|三ツ星《みつぼし》の|精魂《せいこん》の|幸《さち》はひによりて|地上《ちじやう》に|降《くだ》り、|真道姫《まみちひめ》の|体《たい》に|宿《やど》りて|玉ノ井《たまのゐ》の|邑《むら》に|現《あら》はれける。|玉ノ井《たまのゐ》の|邑《むら》には|玉ノ井《たまのゐ》の|湖《みづうみ》といふ|清泉《せいせん》をたたへたる|湖水《こすゐ》あり、この|湖水《こすゐ》は|神界《しんかい》|経綸上《けいりんじやう》|必要《ひつえう》の|神泉《しんせん》なれば、|自在天《じざいてん》の|一派《いつぱ》は、この|湖水《こすゐ》を|占領《せんりやう》せむと|百方《ひやつぱう》|手《て》をつくし、つひに|三ツ葉彦命《みつばひこのみこと》と|争《あらそ》ひけるが、|結局《けつきよく》は|目的《もくてき》を|達《たつ》するを|得《え》ずして|退却《たいきやく》したりしなり。
|自在天《じざいてん》の|一派《いつぱ》なる|蟹雲別《かにくもわけ》、|牛雲別《うしくもわけ》、|種熊別《たねくまわけ》、|蚊取別《かとりわけ》、|玉取彦《たまとりひこ》らは、|一斉《いつせい》に|玉ノ井《たまのゐ》の|湖水《こすゐ》に|押寄《おしよ》せきたり、あまたの|魔神《ましん》をして|前後《ぜんご》|左右《さいう》より|取《と》り|巻《ま》き、|第一着《だいいちちやく》に|玉ノ井《たまのゐ》の|宮《みや》を|破壊《はくわい》し|真道姫《まみちひめ》を|捕《とら》へむとしたりしが、|三ツ葉彦命《みつばひこのみこと》の|神威《しんゐ》に|恐《おそ》れて|遁走《とんさう》し、|二度《ふたたび》|押《お》し|寄《よ》せ|初志《しよし》を|達《たつ》すべく|奮闘《ふんとう》せし|顛末《てんまつ》は、|次席《じせき》に|於《おい》て|略述《りやくじゆつ》せむとす。
(大正一〇・一一・一七 旧一〇・一八 加藤明子録)
(第一四章〜第一五章 昭和一〇・一・一六 於みどり丸船室 王仁校正)
第一六章 |玉ノ井《たまのゐ》の|宮《みや》〔一一六〕
|玉ノ井《たまのゐ》の|邑《むら》は、|玉ノ井《たまのゐ》の|湖《みづうみ》の|中央《ちうあう》に|浮《う》かべる|清《きよ》き|一《ひと》つ|島《じま》なり。|玉ノ井湖《たまのゐこ》の|水《みづ》は|深《ふか》く|清《きよ》く、|常《つね》に|紺碧《こんぺき》の|波《なみ》|漂《ただよ》ひ、|金銀色《きんぎんしよく》の|諸善竜神《しよぜんりゆうじん》の|安住所《あんぢゆうしよ》なりと|伝《つた》ふ。|湖《みづうみ》の|外《そと》は、|大小《だいせう》|高低《かうてい》、|千変万化《せんぺんばんくわ》の|霊山《れいざん》をもつて|囲《めぐ》らされ、|万寿山《まんじゆざん》は|東方《とうはう》に|位《くらゐ》し、|霊鷲山《れいしうざん》は|西方《せいはう》に|位《くらゐ》し、その|他《た》の|山々《やまやま》には|諸々《もろもろ》の|神《かみ》|鎮《しづ》まり、|春《はる》は|諸々《もろもろ》の|花《はな》|咲《さ》きみだれ、|山《やま》は|雲《くも》か|霞《かすみ》かと|疑《うたが》はるるばかり。|夏《なつ》は|新緑《しんりよく》|諸山《しよざん》に|栄《さか》え、|老松《らうしよう》|処々《ところどころ》に|点綴《てんてつ》し|得《え》もいはれぬ|風景《ふうけい》なり。|秋《あき》は|諸山《しよざん》|錦《にしき》の|衣《ころも》を|織《お》り、|冬《ふゆ》は|満山《まんざん》|銀色《ぎんしよく》に|変《へん》じ、|霊鳥《れいてう》は|四季《しき》ともに|悠々《いういう》として|舞《ま》ひ|遊《あそ》び、|山々《やまやま》の|谷《たに》を|流《なが》るる|大河小川《おほかはをがは》の|水《みづ》|清《きよ》く、|玉ノ井《たまのゐ》の|湖水《こすゐ》に|潺々《せんせん》として|注《そそ》ぎをれり。
|国治立命《くにはるたちのみこと》は|世界《せかい》の|中心《ちうしん》に|地《ち》の|高天原《たかあまはら》を|建設《けんせつ》し、|今《いま》また|東方《とうはう》の|霊地《れいち》を|選《えら》み、この|地点《ちてん》を|第二《だいに》の|高天原《たかあまはら》となし、|東西《とうざい》|相《あひ》|応《おう》じて、|陰陽《いんやう》のごとく、|日月《じつげつ》のごとく、|経《たて》と|緯《よこ》との|神策《しんさく》を|定《さだ》められたるなり。|常世姫《とこよひめ》は|地《ち》の|高天原《たかあまはら》なる|蓮華台《れんげだい》および|竜宮城《りゆうぐうじやう》を|占領《せんりやう》せむとして、|千変万化《せんぺんばんくわ》の|奸策《かんさく》を|弄《ろう》し、|苦心《くしん》|焦慮《せうりよ》すれども、|神威《しんゐ》|赫々《かくかく》として|冒《をか》すべからざるに|落胆《らくたん》し、|第二《だいに》の|経綸《けいりん》なる|玉ノ井《たまのゐ》の|湖《みづうみ》を|占領《せんりやう》せむとし、|大自在天《だいじざいてん》にその|意《い》を|通《つう》じ、|東西《とうざい》|呼応《こおう》して|大神《おほかみ》の|経綸《けいりん》を|破壊《はくわい》し、|盤古大神《ばんこだいじん》の|神政《しんせい》に|覆《くつが》へさむと|焦心《せうしん》せり。
|万寿山《まんじゆざん》は|第二《だいに》の|地《ち》の|高天原《たかあまはら》に|擬《ぎ》すべき|霊地《れいち》にして、|玉ノ井《たまのゐ》の|邑《むら》は|竜宮城《りゆうぐうじやう》に|比《ひ》すべき|大切《たいせつ》なる|霊地《れいち》なり。ゆゑに|万寿山《まんじゆざん》を|占領《せんりやう》するに|先《さき》だち、|玉ノ井湖《たまのゐこ》を|占領《せんりやう》するの|必要《ひつえう》|起《おこ》りしなり。|玉ノ井湖《たまのゐこ》は|前述《ぜんじゆつ》のごとく|四方《しはう》|霊山《れいざん》に|囲《かこ》まれ、|神司《かみがみ》の|守護《しゆご》|強《つよ》く|容易《ようい》にこれを|突破《とつぱ》すること|能《あた》はざる|要害《えうがい》|堅固《けんご》の|霊地《れいち》なり。
ここに|大自在天《だいじざいてん》の|部下《ぶか》|蟹雲別《かにくもわけ》は、あまたの|神卒《しんそつ》をことごとく|蟹《かに》と|化《くわ》せしめ、|東南《とうなん》の|山々《やまやま》の|谷《たに》をつたひて|玉の井湖《たまのゐこ》に|這《は》ひ|込《こ》みきたり、また|牛雲別《うしぐもわけ》は、|数万《すうまん》の|部下《ぶか》を|残《のこ》らず|牛《うし》に|変化《へんくわ》せしめ、|東北《とうほく》の|山々《やまやま》の|谷《たに》をつたひて|湖水《こすゐ》に|近寄《ちかよ》り|来《き》たり、また|蚊取別《かとりわけ》は|数万《すうまん》の|魔《ま》を|幾百万《いくひやくまん》の|蚊軍《ぶんぐん》と|化《くわ》せしめ、|西南《せいなん》より|山々《やまやま》の|谷《たに》をつたひて|玉ノ井《たまのゐ》の|邑《むら》にすすましめ、|玉取別《たまとりわけ》は|数万《すうまん》の|魔《ま》を、|残《のこ》らず|瑪瑙《めなう》の|玉《たま》と|化《くわ》せしめ、|西北《せいほく》の|山《やま》の|頂《いただき》に|登《のぼ》り、|玉ノ井《たまのゐ》の|邑《むら》を|目《め》がけて|雨《あめ》のごとく|降《ふ》り|下《くだ》らしめたりける。あまたの|蟹《かに》はたちまち|悪竜《あくりゆう》と|変《へん》じ|湖水《こすゐ》に|飛《と》び|込《こ》みしが、ここに|湖水《こすゐ》の|諸善竜神《しよぜんりゆうじん》と|悪竜《あくりう》とは、|巨浪《きよらう》を|起《おこ》し、|飛沫《ひまつ》を|天《てん》に|高《たか》く|飛《と》ばし、|死力《しりよく》をつくして|争《あらそ》ひ、さしもに|清《きよ》き|紺碧《こんぺき》の|湖水《こすゐ》の|水《みづ》もまたたくうちに|赤色《せきしよく》と|変《へん》じ、|得《え》もいはれぬ|血腥《ちなまぐさ》き|風《かぜ》は|四方《しはう》に|吹《ふ》きまくりける。|一方《いつぱう》|牛雲別《うしぐもわけ》の|部下《ぶか》は、たちまち|水牛《すゐぎう》と|変《へん》じ|湖水《こすゐ》に|飛《と》びいり|蟹雲別《かにくもわけ》に|加勢《かせい》し、|戦闘《せんとう》はますます|激烈《げきれつ》となり、|湖水《こすゐ》はすでに|敵軍《てきぐん》のために、|占領《せんりやう》されむとしたりけり。
ここに|真道姫《まみちひめ》は|玉ノ井《たまのゐ》の|宮《みや》に、|敵軍《てきぐん》|降伏《かうふく》の|祈願《きぐわん》をこめられしが、|三ツ葉彦命《みつばひこのみこと》は|旗輝彦《はたてるひこ》、|久方彦《ひさかたひこ》を|部将《ぶしやう》とし、|湖水《こすゐ》の|敵軍《てきぐん》に|向《むか》つて|天津祝詞《あまつのりと》を|奏《そう》し、|金色《こんじき》の|大幣《おほぬさ》を|打《う》ち|振《ふ》り|打《う》ち|振《ふ》りおほいに|敵《てき》を|悩《なや》ましゐたる。|時《とき》しも|西北《せいほく》の|高山《たかやま》より|石玉《せきぎよく》の|雨《あめ》しきりに|降《ふ》りそそぎ、|味方《みかた》の|神軍《しんぐん》の|頭上《づじやう》を|目《め》がけて|打《う》ち|悩《なや》ましたり。|西南《せいなん》の|敵軍《てきぐん》は、|億兆《おくてう》|無数《むすう》の|巨大《きよだい》なる|蚊群《ぶんぐん》となりて、|味方《みかた》の|身体《しんたい》に|迫《せま》り、その|声《こゑ》は|暴風《ばうふう》の|荒《あ》れ|狂《くる》ふがごとく、|咫尺《しせき》を|弁《べん》ぜざるばかり|立塞《たちふさ》がり、|暗黒《あんこく》|無明《むみやう》の|天地《てんち》と|化《くわ》しぬ。|三ツ葉彦命《みつばひこのみこと》は|天《てん》にむかつて|救援《きうゑん》の|神軍《しんぐん》を|遣《つか》はされむことを|祈願《きぐわん》しけるに、たちまち|天上《てんじやう》の|三ツ星《みつぼし》より|東雲別命《しののめわけのみこと》、|白雲別命《しらくもわけのみこと》、|青雲別命《あをくもわけのみこと》の|三柱《みはしら》の|軍神《ぐんしん》、|雲《くも》に|乗《の》りて|万寿山《まんじゆざん》に|降《お》りきたり、|大地《だいち》を|踏《ふ》みたて、|三柱《みはしら》|一度《いちど》に|雄健《をたけ》びしたまへば、|玉ノ井《たまのゐ》の|湖水《こすゐ》の|水《みづ》は|一滴《いつてき》も|残《のこ》らず|中空《ちうくう》に|舞《ま》ひのぼり、|遠《とほ》く|東西《とうざい》に|分《わか》れて|降《くだ》りきたり、|一大《いちだい》|湖水《こすゐ》を|現出《げんしゆつ》したり。このとき|石玉《せきぎよく》も、|蚊軍《かぐん》も、|共《とも》に|湖水《こすゐ》の|水《みづ》に|浚《さら》はれて|中天《ちうてん》に|舞《ま》ひのぼり、|影《かげ》を|潜《ひそ》めけり。
|東《ひがし》に|分《わか》れし|湖水《こすゐ》の|水《みづ》は|地上《ちじやう》に|停留《ていりう》してふたたび|湖水《こすゐ》を|形成《けいせい》したり。これを|牛《うし》の|湖水《こすゐ》といふ。|今日《こんにち》の|地理学上《ちりがくじやう》の|裏海《りかい》にして、また|西《にし》に|分《わか》れ|降《くだ》りて|湖水《こすゐ》を|形成《けいせい》したるを、|唐《から》の|湖《うみ》といふ。|現今《げんこん》|地理学上《ちりがくじやう》の|黒海《こくかい》なり。ここに|東雲別命《しののめわけのみこと》、|青雲別命《あをくもわけのみこと》、|白雲別命《しらくもわけのみこと》は、|湖水《こすゐ》を|清《きよ》め、|新《あたら》しき|清泉《せいせん》を|湛《たた》へられ、|永遠《ゑいゑん》に|玉ノ井《たまのゐ》の|湖《みづうみ》の|守護神《しゆごじん》となり、|白竜《はくりう》と|変化《へんくわ》したまひぬ。かくして|三ツ葉彦命《みつばひこのみこと》とともに|神政《しんせい》|成就《じやうじゆ》ミロクの|世《よ》を|待《ま》たせたまひける。
(大正一〇・一一・一七 旧一〇・一八 河津雄録)
第一七章 |岩窟《がんくつ》の|修業《しうげふ》〔一一七〕
|万寿山《まんじゆざん》は|前述《ぜんじゆつ》のごとく、|神界《しんかい》の|経綸上《けいりんじやう》もつとも|重要《ぢうえう》なる|地点《ちてん》なれば、これを|主管《しゆくわん》する|八王神《やつわうじん》は|他《た》の|天使《てんし》|八王神《やつわうじん》に|比《ひ》してもつとも|神徳《しんとく》|勝《すぐ》れ、かつ|神界《しんかい》、|幽界《いうかい》の|大勢《たいせい》を|弁知《べんち》し、|大神《おほかみ》の|神慮《しんりよ》を|洞察《どうさつ》せざるべからずとし、|八王神《やつわうじん》なる|磐樟彦《いはくすひこ》は、|単独《たんどく》にて|万寿山城《まんじゆざんじやう》をひそかに|出城《しゆつじやう》し、|霊鷲山《れいしうざん》の|大岩窟《だいがんくつ》にいたりて|百日百夜《ひやくにちひやくや》、すべての|飲食《いんしよく》を|断《た》ち、|世染《せぜん》をまぬがれ|一意専心《いちいせんしん》に|霊的《れいてき》|修業《しうげふ》をはげみ、つひに|三ツ葉彦命《みつばひこのみこと》の|神霊《しんれい》に|感合《かんがふ》し、|三界《さんかい》の|真相《しんさう》をきはめ、|天晴《あつぱ》れ|万寿山城《まんじゆざんじやう》の|王《わう》たるの|資格《しかく》を|具有《ぐいう》するにいたりける。
|磐樟彦《いはくすひこ》は、|霊鷲山《れいしうざん》の|大岩窟《だいがんくつ》を|深《ふか》く|探究《たんきう》したるに、|数百千《すうひやくせん》とも|限《かぎ》りなき|小岩窟《せうがんくつ》ありて、|大岩窟《だいがんくつ》の|中《なか》の|左右《さいう》に|散在《さんざい》して、それぞれ|受持《うけもち》の|神《かみ》|守護《しゆご》されつつありき。この|岩窟《がんくつ》はいはゆる|宇宙《うちう》の|縮図《しゆくづ》にして、|山河《さんが》あり、|海洋《かいやう》あり、|種々《しゆじゆ》|雑多《ざつた》の|草木《さうもく》|繁茂《はんも》し、|禽獣虫魚《きんじうちうぎよ》の|類《たぐひ》にいたるまで|森羅万象《しんらばんしやう》ことごとくその|所《ところ》を|得《え》て、|地上《ちじやう》の|神国《しんこく》|形成《けいせい》されありぬ。
|三ツ葉彦命《みつばひこのみこと》の|霊媒《れいばい》の|神力《しんりき》により、|数十里《すうじふり》に|渉《わた》れる|大岩窟《だいがんくつ》の|磐戸《いはと》を|開《ひら》き、|現《あら》はれいでたる|気品《きひん》|高《たか》き|美《うつく》しき|女神《によしん》は、|数多《あまた》の|侍女《じぢよ》とともに|出《い》できたり、|磐樟彦《いわくすひこ》に|向《むか》ひ|軽《かる》く|目礼《もくれい》しながら、
『|汝《なんぢ》は|神界《しんかい》のために|昼夜《ちうや》|間断《かんだん》なく|神業《しんげふ》に|従事《じゆうじ》して|余念《よねん》なく、|加《くは》ふるに|百日百夜《ひやくにちひやくや》の|苦行《くぎやう》をなめ、|身体《しんたい》やつれ、|痩《やせ》おとろへ、|歩行《ほかう》も|自由《じいう》ならざるに、どの|神司《しんし》も|恐《おそ》れて|近付《ちかづ》きしことなき、この|岩窟《がんくつ》の|神仙境《しんせんきやう》にきたりしこと、|感《かん》ずるにあまりあり。|妾《わらは》はいま、|汝《なんぢ》の|熱心《ねつしん》なる|信仰《しんかう》と|誠実《せいじつ》なる|赤心《せきしん》を|賞《めで》でて、|奥《おく》の|神境《しんきやう》に|誘《さそ》ひ、|坤《ひつじさる》の|大神《おほかみ》|豊国姫命《とよくにひめのみこと》の|御精霊体《ごせいれいたい》なる|照国《てるくに》の|御魂《みたま》を|親《した》しく|拝《はい》せしめむとす。すみやかに|妾《わらは》が|後《あと》にしたがひきたれ』
といひつつ、|岩窟《がんくつ》の|奥深《おくふか》く|進《すす》みける。|磐樟彦《いわくすひこ》は|女神《によしん》の|跡《あと》をたどりて、|心《こころ》も|勇《いさ》みつつ|前進《ぜんしん》したりしが、はるか|前方《ぜんぱう》にあたりて、|眼《め》も|眩《まばゆ》きばかりの|鮮麗《せんれい》なる|五色《ごしき》の|円光《えんくわう》を|認《みと》め、|両手《りやうて》をもつて|我《わが》|面《おも》をおほひながら|恐《おそ》るおそる|近付《ちかづ》きける。|女神《によしん》はハタと|立留《たちとど》まり、あと|振《ふり》かへり|命《みこと》にむかひ、
『|汝《なんぢ》の|修業《しうげふ》はいよいよ|完成《くわんせい》したり。ただちに|両手《りやうて》をのぞき|肉眼《にくがん》のまま、|御神体《ごしんたい》なる|照国《てるくに》の|御魂《みたま》を|拝《はい》されよ。この|御魂《みたま》をつつしみ|拝《はい》せば|三千世界《さんぜんせかい》の|一切《いつさい》の|過去《くわこ》と、|現世《げんせ》と、|未来《みらい》の|区別《くべつ》なく|手《て》に|取《と》るごとく|明瞭《めいれう》にして、|二度目《にどめ》の|天《あま》の|岩戸開《いはとびら》きの|神業《しんげふ》に|参加《さんか》し、|天地《てんち》に|代《かは》る|大偉功《だいゐこう》を|万世《ばんせい》に|建《た》て、|五六七《みろく》の|神政《しんせい》の|太柱《ふとばしら》とならせたまはむ。|神界《しんかい》の|状勢《じやうせい》は、この|御魂《みたま》によりて|伺《うかが》ふときは、|必然《ひつぜん》|一度《いちど》は|天地《てんち》の|律法《りつぱう》|破壊《はくわい》され、|国治立命《くにはるたちのみこと》は|根《ね》の|国《くに》に|御隠退《ごいんたい》のやむなきに|立《たち》いたりたまひ、|坤《ひつじさる》の|金神《こんじん》|豊国姫命《とよくにひめのみこと》もともに|一度《いちど》に|御退隠《ごたいいん》あるべし。しかしてその|後《ご》に|盤古大神《ばんこだいじん》|現《あら》はれ、|一旦《いつたん》は|花々《はなばな》しき|神世《かみよ》となり、たちまち|不義《ふぎ》の|行動《かうどう》|天下《てんか》に|充《み》ち、わづかに|数十年《すうじふねん》を|経《へ》て|盤古《ばんこ》の|神政《しんせい》は|転覆《てんぷく》し、ここに|始《はじ》めて|完全無欠《くわんぜんむけつ》の|五六七《みろく》の|神政《しんせい》は|樹立《じゆりつ》さるるにいたるべし。|汝《なんぢ》は|妾《わらは》が|言《げん》を|疑《うたが》はず、|万古末代《まんごまつだい》|心《こころ》に|深《ふか》く|秘《ひ》めて|天《てん》の|時《とき》のいたるを|待《ま》たれよ。|神《かみ》の|道《みち》にも|盛衰《せいすい》あり、また|顕晦《けんくわい》あり。|今後《こんご》の|神界《しんかい》はますます|波瀾《はらん》|曲折《きよくせつ》に|富《と》む。|焦慮《あせ》らず、|急《いそ》がず、|恐《おそ》れず、|神徳《しんとく》を|修《おさ》めて|一陽来復《いちやうらいふく》の|春《はる》のきたるを|待《ま》たれよ』
と|懇《ねんごろ》に|説《と》き|諭《さと》したまひて、たちまちその|気高《けだか》き|美《うつく》しき|女神《によしん》の|神姿《しんし》は|消《き》えたまひける。
|磐樟彦《いわくすひこ》は|天《てん》を|拝《はい》し、|地《ち》を|拝《はい》し、|感謝《かんしや》の|祝詞《のりと》をうやうやしく|奏上《そうじやう》したまふや、|今《いま》まで|光《ひかり》の|玉《たま》と|見《み》えたる|照国《てるくに》の|御魂《みたま》は|崇高《すうかう》なる|女神《によしん》と|化《くわ》し、|命《みこと》の|手《て》をとり、|紫雲《しうん》の|扉《とびら》をおし|明《あ》け、|宝座《ほうざ》の|許《もと》に|導《みちび》きたまひける。
|夢《ゆめ》か、|現《うつつ》か、|幻《まぼろし》か。|疑雲《ぎうん》に|包《つつ》まれゐたるをりしも、|寒風《かんぷう》さつと|吹《ふ》ききたつて、|肌《はだ》を|刺《さ》す|一刹那《いちせつな》、|王仁《おに》の|身《み》は|高熊山《たかくまやま》の|岩窟《がんくつ》の|奥《おく》に、|端座《たんざ》しゐたりける。
(大正一〇・一一・一七 旧一〇・一八 土井靖都録)
第一八章 |神霊《しんれい》の|遷座《せんざ》〔一一八〕
|霊鷲山《れいしうざん》は|磐樟彦《いはくすひこ》が|修業《しうげふ》の|霊場《れいぢやう》にして、|天神地祇《てんじんちぎ》の|中《なか》にてももつとも|先見《せんけん》の|明《めい》ある|神々《かみがみ》のひそみて|時《とき》を|待《ま》ちたまふ|神仙境《しんせんきやう》なれば、|等閑《とうかん》に|附《ふ》すべき|所《ところ》にあらずとし、|磐樟彦《いわくすひこ》は|諸神司《しよしん》と|議《はか》り|霊窟《れいくつ》のほとりに|大宮柱《おほみやばしら》|太敷《ふとし》く|造営《ざうえい》し、|神人《かみがみ》らの|修業所《しうげふしよ》として|鄭重《ていちよう》に|設備《せつび》をほどこし、|三《み》ツ|巴《どもゑ》の|神紋《しんもん》は、|社殿《しやでん》の|棟《むね》に|燦然《さんぜん》として|朝日《あさひ》に|輝《かがや》き、|夕日《ゆふひ》に|照《て》り|映《は》えじつに|壮観《さうくわん》をきはめたりける。|満山《まんざん》ことごとく|常磐《ときは》の|老松《らうしよう》をもつて|覆《おほ》はれ、|得《え》もいはれぬ|神々《かうがう》しさなり。|社殿《しやでん》の|境内《けいだい》には|千年《ちとせ》の|老松《らうしやう》、|杉《すぎ》、|桧《ひのき》、|楓《かへで》、|雑木《ざつぼく》|苔《こけ》|生《む》して|中天《ちうてん》|高《たか》く|聳《そび》えたち、|諸鳥《しよてう》の|囀《さへづ》る|声《こゑ》はあたかも|天女《てんによ》のきたりて|音楽《おんがく》を|奏《そう》するかと|疑《うたが》はるるばかりなりける。
ここにいよいよ|社殿《しやでん》は|完全《くわんぜん》に|建《た》て|上《あ》げられたり。|八王神《やつわうじん》|磐樟彦《いはくすひこ》、|磐樟姫《いはくすひめ》をはじめ、|八頭神《やつがしらがみ》なる|瑞穂別《みづほわけ》、|瑞穂姫《みづほひめ》は|神霊《しんれい》|鎮祭《ちんさい》のため|神衣《しんい》を|着《ちやく》し、|参拝《さんぱい》さるることとなりけり。
|祭官《さいくわん》としては、|神世彦《かみよひこ》|斎主《さいしゆ》となり、|守国彦《もりくにひこ》|副斎主《ふくさいしゆ》となり、|大川彦《おほかはひこ》は|祓戸主《はらひどぬし》となり、|国清彦《くにきよひこ》は|後取《しどり》を|奉仕《ほうし》し、|清川彦《きよかはひこ》は|神饌長《しんせんちやう》となり、|常立別《とこたちわけ》は|神饌副長《しんせんふくちやう》を|奉仕《ほうし》し、|供物《くもつ》は|海山河野《うみやまかはぬ》の|種々《くさぐさ》の|珍《めづ》らしきものを|横山《よこやま》なして|献《たてまつ》られける。|神饌《しんせん》のなかに|鴨《かも》、|山鳥《やまどり》、|猪《ゐのしし》、|海魚《うみうを》、|川魚《かはうを》|等《とう》あまた|八足《やたり》の|机代《つくゑしろ》に|盛《も》られあり。ここに|旗照彦《はたてるひこ》、|久方彦《ひさかたひこ》はこの|供物《くもつ》を|一見《いつけん》して、
『|穢《けが》らはしき|物《もの》を|神前《しんぜん》に|献《たてまつ》るは|何《なん》の|故《ゆゑ》ぞ。|神《かみ》は|清浄《せいじやう》を|喜《よろこ》び|汚穢《をくわい》を|嫌《きら》はせたまふ。しかるにかくのごとき|禽獣《きんじう》や|魚類《ぎよるい》の|肉《にく》を|献《たてまつ》り、|机上《きじやう》や|神殿《しんでん》を|汚《けが》し|神慮《しんりよ》を|怒《いか》らせ、|加《くは》ふるに|博《ひろ》く|万物《ばんぶつ》を|愛《あい》せよとの、|天地《てんち》の|律法《りつぱう》を|侵害《しんがい》し|生物《いきもの》を|殺《ころ》して|神饌《しんせん》に|供《きよう》するは、|何《なん》たる|心得《こころえ》|違《ちが》ひぞ。|神《かみ》は|律法《りつぱう》を|定《さだ》めて|殺生《せつしやう》を|固《かた》く|禁《きん》じたまへり。|神威《しんゐ》を|冒涜《ばうとく》するの|罪《つみ》|軽《かる》からず。すみやかにこの|神饌《しんせん》を|撤回《てつくわい》し|清浄無穢《せいじやうむくわい》の|神饌《しんせん》に|改《あらた》めよ』
と|二神司《にしん》は|肩《かた》をゆすりながら|顔色《がんしよく》|赤《あか》く|気色《けしき》ばみて|述《の》べ|立《た》てたり。これを|聞《き》くより|清川彦《きよかはひこ》、|常立別《とこたちわけ》は|容《かたち》をあらため|襟《えり》を|正《ただ》し、|二神司《にしん》に|向《むか》つていふ。
『|貴下《きか》らは|今《いま》|吾《われ》らが|献《たてまつ》らむとする|神饌《しんせん》にたいして|色々《いろいろ》と|故障《こしやう》をいれたまふは|心得《こころえ》ぬことどもなり。いはンやかかる|芽出度《めでた》き|大神《おほかみ》|遷座《せんざ》の|席《せき》においてをや。せつかく|選《え》りに|選《え》り、|清《きよ》めし|上《うへ》にも|清《きよ》め|千辛万苦《せんしんばんく》の|結果《けつくわ》、|山野河海《さんやかかい》をあさりて|漸《やうや》く|集《あつ》め|得《え》たる|宇豆《うづ》の|神饌《しんせん》を、|汚穢《をくわい》の|供物《くもつ》なればすみやかに|撤回《てつくわい》せよとの|貴下《きか》の|暴言《ばうげん》、|実《じつ》に|呆然《ばうぜん》たらざるをえず。|貴下《きか》らは|祓戸《はらひど》の|行事《ぎやうじ》を|何《な》ンと|心得《こころえ》らるるや。|恭《うやうや》しく|祓戸《はらひど》の|神《かみ》の|降臨《かうりん》を|仰《あふ》ぎ|奉《たてまつ》り、|清《きよ》きが|上《うへ》にも|清《きよ》き|神饌《しんせん》なり。|万一《まんいち》これをも|汚穢《をくわい》の|供物《くもつ》なりとせば、|祓戸《はらひど》の|神《かみ》の|御降臨《ごかうりん》は|一切《いつさい》|無意義《むいぎ》にして、ただ|単《たん》に|形式《けいしき》のみに|終《をは》らむ。|吾《われ》らは|大神《おほかみ》の|祭典《さいてん》に|奉仕《ほうし》せむとする|以上《いじやう》は、つねに|霊主体従《れいしゆたいじゆう》の|法則《はふそく》により|赤誠《せきせい》をこめて|奉仕《ほうし》す。いづくンぞ|形式的《けいしきてき》に|祓戸《はらひど》の|神業《しんげふ》を|奉仕《ほうし》し、|体主霊従《たいしゆれいじゆう》の|逆事《さかごと》に|習《なら》はンや。つつしンで|二神司《にしん》の|御熟考《ごじゆくかう》を|請《こ》ひ|奉《まつ》る』
と|顔色《かほいろ》をやはらげながら|陳弁《ちんべん》したりしに、|旗照彦《はたてるひこ》、|久方彦《ひさかたひこ》は|直《ただ》ちに|反対《はんたい》していふ。
『|貴下《きか》の|言《げん》は|一応《いちおう》もつともらしく|聞《きこ》ゆれども、すべて|大神《おほかみ》は|仁慈《じんじ》をもつて|神《かみ》の|御心《みこころ》となし、|博《ひろ》く|万物《ばんぶつ》を|愛育《あいいく》したまふ。しかるにその|広《ひろ》き|厚《あつ》き|大御心《おほみこころ》を|無視《むし》し、|神《かみ》の|愛《あい》によりて|成《な》り|出《い》でたる|生物《せいぶつ》を|殺《ころ》し、|天地《てんち》の|律法《りつぱう》を|破壊《はくわい》し、|大罪《だいざい》を|犯《をか》しながら、なほもこれを|大神《おほかみ》の|清《きよ》き|神饌《しんせん》に|供《きよう》せむとするは|何事《なにごと》ぞ。|仁慈《じんじ》の|神《かみ》の|大御心《おほみこころ》を|無視《むし》したる|暴逆無道《ばうぎやくむだう》の|挙動《きよどう》にして、これに|勝《すぐ》れる|無礼《ぶれい》の|行為《かうゐ》はなかるべし。|是非々々《ぜひぜひ》この|供物《くもつ》は|瞬時《しゆんじ》も|早《はや》く|撤回《てつくわい》されたし。|貴下《きか》は|強情《がうじやう》をはり|神饌長《しんせんちやう》の|職《しよく》をもつて、このままにして|吾《われ》らの|言《げん》を|容《い》れず、|汚穢《をくわい》に|充《み》ちたる|祭事《さいじ》を|敢行《かんかう》さるるにおいては、|我《われ》らはただ|今《いま》かぎり|折角《せつかく》の|御盛典《ごせいてん》に|列《れつ》すること|能《あた》はず』
|吾意《わがい》を|固執《こしつ》して|動《うご》く|色《いろ》なく、|清川彦《きよかはひこ》、|常立別《とこたちわけ》は|大《おほ》いに|当惑《たうわく》しつつありしが、|双方《さうはう》の|論争《ろんそう》を|聞《き》きかねたる|斎主《さいしゆ》|神世彦《かみよひこ》は、
『|諸神司《しよしん》|暫時《ざんじ》|論争《ろんそう》を|中止《ちゆうし》したまへ。|我《われ》いま|大神《おほかみ》の|神慮《しんりよ》を|奉伺《ほうし》し|神示《しんじ》をえて|正邪《せいじや》を|決《けつ》すべし』
と、ただちに|件《くだん》の|大岩窟《だいがんくつ》に|白《しろ》き|祭服《さいふく》のまま|進《すす》み|入《い》り|神《かみ》の|教示《けうじ》を|乞《こ》ひ、ふたたび|祭場《さいじやう》にかへりて|神教《しんけう》を|恭《うやうや》しく|諸神《しよしん》に|伝《つた》へたり。|神教《しんけう》はきはめて|簡単《かんたん》にして|要《えう》を|得《え》たものなりき。すなはちその|教示《けうじ》は、
『|神《かみ》は|一切《いつさい》の|万物《ばんぶつ》を|愛《あい》す。|神《かみ》の|前《まへ》に|犠牲《ぎせい》とさるる|一切《いつさい》の|生物《せいぶつ》は|幸《さいはひ》なるかな。そは|一《ひとつ》の|罪悪《ざいあく》を|消滅《せうめつ》し、|新《あたら》しき|神国《しんこく》に|生《うま》れ|出《い》づればなり』
との|理義《りぎ》|明白《めいはく》なる|神示《しんじ》なりける。|双方《さうはう》の|争論《そうろん》はこの|神示《しんじ》を|尊重《そんちよう》し、うやうやしく|祭典《さいてん》を|完了《かんれう》し、|天地《てんち》にとどろく|言霊《ことたま》の|祝詞《のりと》に|四方《よも》の|神人《しんじん》|集《あつ》まりきたりて、|荘厳《さうごん》|無比《むひ》の|遷座祭《せんざさい》の|式《しき》は|執行《しつかう》されたりけり。
(大正一〇・一一・一七 旧一〇・一八 栗原七蔵録)
(第一六章〜第一八章 昭和一〇・一・一六 於みどり丸船室 王仁校正)
第六篇 |青雲山《せいうんざん》
第一九章 |楠《くす》の|根元《ねもと》〔一一九〕
|青雲山《せいうんざん》は、|八王神《やつわうじん》として|神澄彦《かむずみひこ》|任《にん》ぜられ、|神澄姫《かむずみひめ》|妻《つま》となり、|吾妻彦《あづまひこ》は|八頭神《やつがしらがみ》となり、|吾妻姫《あづまひめ》はその|妻《つま》となりたまひて、|青雲山《せいうんざん》|一帯《いつたい》の|神政《しんせい》を|司《つかさど》ることと|定《さだ》まりにける。
|青雲山《せいうんざん》には|国魂《くにたま》として、|黄金《こがね》の|玉《たま》を|祭《まつ》るべく、|盛《さか》ンに|土木《どぼく》を|起《おこ》して、|荘厳《さうごん》|無比《むひ》なる|宮殿《きうでん》の|建立《こんりふ》に|着手《ちやくしゆ》されたり。この|宮殿《きうでん》を|黄金《こがね》の|宮《みや》といふ。|宮殿《きうでん》の|竣工《しゆんこう》するまで、|玉守彦《たまもりひこ》をして|大切《たいせつ》にこの|宝玉《ほうぎよく》を|保護《ほご》せしめたまひぬ。
この|黄金《こがね》の|玉《たま》は、|十二個《じふにこ》の|国魂《くにたま》のうちにても、もつとも|大切《たいせつ》なる|国魂《くにたま》なり。|八王大神《やつわうだいじん》|一名《いちめい》|常世彦《とこよひこ》は、いかにもしてこの|玉《たま》を|手《て》に|入《い》れむとし、|部下《ぶか》の|邪神《じやしん》、|国足彦《くにたるひこ》、|醜熊《しこくま》、|玉取彦《たまとりひこ》に|内命《ないめい》を|下《くだ》し、つねに|玉守彦《たまもりひこ》の|保護《ほご》せる|国魂《くにたま》を|手《て》に|入《い》れむと、|手《て》を|替《か》へ|品《しな》を|代《か》へ、つけ|狙《ねら》ひゐたりける。
|玉守彦《たまもりひこ》は、|大切《たいせつ》なるこの|宝玉《ほうぎよく》を|敵《てき》に|奪《うば》はれむことを|恐《おそ》れ、ひそかに|同形《どうけい》の|石玉《せきぎよく》を|造《つく》り、これに|金鍍金《きんめつき》を|施《ほどこ》し、|真正《しんせい》の|玉《たま》には|墨《すみ》を|塗《ぬ》りて|黒玉《くろたま》となしゐたるを、|玉守彦《たまもりひこ》の|妻《つま》|玉守姫《たまもりひめ》はこの|様子《やうす》をうかがひ|知《し》り、|玉守彦《たまもりひこ》に|向《むか》つてその|不都合《ふつがふ》を|責《せ》め、かつ|偽玉《にせだま》を|造《つく》りたる|理由《りいう》を|尋《たづ》ねてやまざれば、|玉守彦《たまもりひこ》はやむを|得《え》ずして|答《こた》ふるやう、
『この|黄金《こがね》の|玉《たま》は|天下《てんか》|稀代《きだい》の|珍品《ちんぴん》にして、|再《ふたた》び|吾《われ》らの|手《て》に|入《い》るべきものに|非《あら》ず。われこの|玉《たま》の|保管《ほくわん》を|命《めい》ぜられしを|幸《さいは》ひ、|同形《どうけい》の|偽玉《にせだま》を|造《つく》り、これを|宮殿《きうでん》|竣工《しゆんこう》の|上《うへ》、|殿内《でんない》|深《ふか》く|納《をさ》め、|真正《しんせい》の|玉《たま》はわが|家《いへ》に|匿《かく》しおき|後日《ごじつ》この|玉《たま》の|徳《とく》によりて、|吾《われ》ら|夫婦《ふうふ》は、|青雲山《せいうんざん》の|八王神《やつわうじん》となり、|一世《いつせい》の|栄華《えいぐわ》を|極《きは》めむと|思《おも》ふゆゑに、|吾《われ》は|偽玉《にせだま》を|造《つく》りたり』
といひつつ|玉守姫《たまもりひめ》の|顔《かほ》をのぞき|見《み》しに、|玉守姫《たまもりひめ》は|喜色《きしよく》|満面《まんめん》にあふれ、おほいに|夫《をつと》の|智略《ちりやく》を|誉《ほ》め|立《た》てにける。
|玉守彦《たまもりひこ》は、|智慧《ちゑ》|浅《あさ》く、|口《くち》|軽《かる》く、|嫉妬《しつと》|深《ふか》き|妻《つま》の|玉守姫《たまもりひめ》に、|秘密《ひみつ》を|看破《かんぱ》されしことを|憂《うれ》ひ、|終日《しうじつ》|終夜《しゆうや》|頭《かうべ》を|垂《た》れ、|腕《うで》を|組《く》み、|溜息《ためいき》をつき|思案《しあん》にくれける。|女《をんな》は|嫉妬《しつと》のために|大事《だいじ》を|洩《も》らすことあり、いかにせば|妻《つま》を|詐《いつは》り、この|秘密《ひみつ》の|漏洩《ろうえい》を|防《ふせ》がむかと|苦心《くしん》|焦慮《せうりよ》したる|結果《けつくわ》、ここに|玉守彦《たまもりひこ》は、|真偽《しんぎ》|二個《にこ》の|玉《たま》を|玉守姫《たまもりひめ》に|預《あづ》けおき、
『|我《われ》は|数日間《すうじつかん》|山中《さんちゆう》を|跋渉《ばつせふ》し、|真宝玉《しんはうぎよく》の|匿《かく》し|場《ば》を|探《さが》し|来《きた》らむ。|汝《なんぢ》は|大切《たいせつ》にこの|宝玉《ほうぎよく》を|片時《かたとき》も|目《め》|放《はな》さず|堅《かた》く|守《まも》るべし。この|玉《たま》は|吾《われ》ら|夫婦《ふうふ》の|栄達《えいたつ》の|種《たね》なり』
と、まづ|名利慾《めいりよく》をもつて|玉守姫《たまもりひめ》を|欺《あざむ》き、|自分《じぶん》は|山《やま》に|入《い》りて|兎《うさぎ》を|擒《いけど》り、また|海《うみ》にいたりて|鮭《さけ》を|捕《とら》へ、|夜中《よなか》ひそかに|宝珠山《ほうじゆさん》にわけ|入《い》り、|広《ひろ》き|谷川《たにがは》の|瀬《せ》に|兎《うさぎ》を|笊《ざる》に|容《い》れ|浅瀬《あさせ》に|浸《ひた》し|置《お》き、|八尾《はちび》の|鮭《さけ》を|大樹《だいじゆ》の|枝《えだ》につるし、|何喰《なにく》はぬ|顔《かほ》にて|数日《すうじつ》の|後《のち》わが|家《や》に|帰《かへ》り、|玉守姫《たまもりひめ》に、|適当《てきたう》なる|匿《かく》し|場所《ばしよ》を|探《さが》し|得《え》たることを、|喜《よろこ》び|勇《いさ》み|報告《はうこく》したりける。|玉守姫《たまもりひめ》はおほいに|喜《よろこ》び、
『|善《ぜん》は|急《いそ》げといふことあり。|一時《いちじ》も|早《はや》く、この|黒《くろ》き|黄金《こがね》の|宝玉《ほうぎよく》を|匿《かく》しおかむ』
と|玉守彦《たまもりひこ》の|袖《そで》をひきて、そはそはしき|態度《たいど》を|現《あら》はし|急《せ》き|立《た》てたり。|玉守彦《たまもりひこ》は、
『しからば|明朝《みやうてう》|未明《みめい》に|吾《わ》が|家《や》を|出《い》で、|汝《なんぢ》とともに|宝珠山《ほうじゆさん》にゆかむ』
と|答《こた》へ、その|夜《よ》は|夫婦《ふうふ》ともに|安眠《あんみん》し、|早朝《さうてう》|黒《くろ》き|玉《たま》を|携《たづさ》へ|山《やま》|深《ふか》くわけ|入《い》りける。|途中《とちゆう》かなり|広《ひろ》き|谷川《たにがは》の|流《なが》れあり。|二人《ふたり》は|浅瀬《あさせ》を|選《えら》びて|渡《わた》りはじめ、|川《かは》の|中《なか》ほどにいたりし|時《とき》、バサバサと|音《おと》するものあり。|玉守姫《たまもりひめ》は|耳《みみ》|敏《さと》くこれを|聴《き》きつけ、|眼《まなこ》を|上流《じやうりう》に|転《てん》じ|見《み》るに、|川中《かはなか》には|一個《いつこ》の|笊《ざる》が|浅瀬《あさせ》にかかり|動《うご》きゐたり。|夫婦《ふうふ》は|不思議《ふしぎ》にたへずと|近《ちか》より、|笊《ざる》の|蓋《ふた》を|明《あ》け|見《み》れば|不思議《ふしぎ》や、|中《なか》には|兎《うさぎ》が|二匹《にひき》|動《うご》きゐたり。|玉守姫《たまもりひめ》は|玉守彦《たまもりひこ》にむかひ、
『これは|実《じつ》に|珍《めづら》しき|獲物《えもの》なり。|天《てん》の|与《あた》へならむ。|幸先《さいさき》よし』
と|笊《ざる》と|共《とも》にこれを|拾《ひろ》ひて、なほも|山奥《やまおく》|深《ふか》くわけ|入《い》りにける。
|鬱蒼《うつさう》たる|老松《らうしやう》は|天《てん》をおほひ、|昼《ひる》なほ|暗《くら》きまでに|繁《しげ》りゐる。その|樹下《じゆか》に|夫婦《ふうふ》は|横臥《わうぐわ》して|息《いき》を|休《やす》めゐたりしが、|玉守姫《たまもりひめ》はフト|空《そら》を|仰《あふ》ぎ|見《み》るとたんに、
『ヤー|不思議《ふしぎ》』
と|絶叫《ぜつけう》したり。|玉守彦《たまもりひこ》は|素知《そし》らぬ|顔《かほ》にて、
『|不思議《ふしぎ》とは|何事《なにごと》ぞ』
と|言《い》ひも|終《をは》らざるに、|玉守姫《たまもりひめ》は|頭上《づじやう》の|松《まつ》の|梢《こづゑ》を|指《さ》さし、
『この|松《まつ》には|沢山《たくさん》の|鮭《さけ》の|魚《うを》|生《な》りをれり』
といふ。|玉守彦《たまもりひこ》はいかにも|不思議《ふしぎ》|千万《せんばん》とあきれ|顔《がほ》に|答《こた》へ、ただちにその|木《き》にのぼり、|鮭《さけ》を|一々《いちいち》|樹《き》の|枝《えだ》より【むしり】|取《と》りぬ。|夫婦《ふうふ》は|鮭《さけ》と|兎《うさぎ》を|重《おも》たげに|担《にな》ひ、なほも|山《やま》|深《ふか》くわけ|入《い》り、|楠《くす》の|大木《たいぼく》の|根元《ねもと》に|玉《たま》を|埋《うづ》めて|帰《かへ》り|来《き》たりける。
ここに|夫婦《ふうふ》は|兎《うさぎ》と|鮭《さけ》を|料理《れうり》して、|祝《いは》ひの|酒《さけ》を|飲《の》み、|雪隠《せつちん》にて|饅頭《まんぢゆう》|喰《くら》ひしごとき|素知《そし》らぬ|顔《かほ》にて|日八十日《ひやそか》、|夜八十夜《よるやそよ》を|過《すご》したりける。
(大正一〇・一一・一八 旧一〇・一九 栗原七蔵録)
第二〇章 |晴天《せいてん》|白日《はくじつ》〔一二〇〕
|青雲山上《せいうんざんじやう》の|黄金《こがね》の|宮《みや》は|竣工《しゆんこう》を|告《つ》げ、いよいよ|国魂《くにたま》として、|黄金《わうごん》の|宝玉《ほうぎよく》を|鎮祭《ちんさい》することとはなりぬ。|神澄彦《かむずみひこ》は|玉守彦《たまもりひこ》を|招《まね》き、
『さきに|保管《ほくわん》を|命《めい》じたる|宝玉《ほうぎよく》を|持参《ぢさん》せよ』
と|命《めい》ずれば|玉守彦《たまもりひこ》は、|預《あづ》かりし|玉《たま》を|恭《うやうや》しく|奉持《はうぢ》してこれを|奉《たてまつ》り、|荘厳《さうごん》なる|儀式《ぎしき》の|下《もと》に|国魂《くにたま》は|祀《まつ》られけり。ここに|玉守彦《たまもりひこ》は、|黄金《こがね》の|宮《みや》の|司《つかさ》となり、|厳重《げんぢう》に|守護《しゆご》することとなりぬ。
|玉守彦《たまもりひこ》の|侍女《じぢよ》に|良姫《よしひめ》なるものあり。つねに|玉守彦《たまもりひこ》|夫妻《ふさい》に|忠実《ちうじつ》に|仕《つか》へ、とくに|玉守彦《たまもりひこ》には|信任《しんにん》もつとも|深《ふか》ければ|玉守彦《たまもりひこ》は、|何事《なにごと》も|良姫《よしひめ》に|相談《さうだん》するを|常《つね》とせり。|玉守姫《たまもりひめ》は|夫《をつと》の|良姫《よしひめ》を|深《ふか》く|信《しん》ずるを|見《み》て、|嫉妬心《しつとしん》をおこし、|自暴自棄《じばうじき》となりて、|日夜《にちや》|飲酒《いんしゆ》にふけり、|隣人《りんじん》を|集《あつ》め|踊《をど》り|狂《くる》ひ、ややもすれば|酒気《しゆき》に|乗《じやう》じて、|夫《をつと》の|秘密《ひみつ》を|口《くち》ばしるのみならず、|玉守彦《たまもりひこ》と|良姫《よしひめ》の|間《あひだ》には|汚《きたな》き|関係《くわんけい》あるがごとく|言《い》ひふらしける。
|玉守彦《たまもりひこ》は、|妻《つま》の|日夜《にちや》の|放埒《はうらつ》を|見《み》るに|忍《しの》びず|厳《きび》しく|訓戒《くんかい》を|加《くは》へたるに、|玉守姫《たまもりひめ》はたちまち|眉《まゆ》を|逆立《さかだ》て|目《め》を|瞋《いか》らせ、|顔色《がんしよく》するどく、|狂気《きやうき》のごとくなりて、|玉守彦《たまもりひこ》にむかひ、
『|貴下《きか》は|平素《へいそ》|妾《わらは》を|疎《うと》んじ、|侍女《じぢよ》の|良姫《よしひめ》を|寵愛《ちようあい》し、|妾《わらは》に|侮辱《ぶじよく》を|与《あた》ふ。もはや|堪忍袋《かんにんぶくろ》の|緒《を》も|切《き》れたれば、|妾《わらは》はこれより|八王神《やつわうじん》の|御前《みまへ》に|出《い》で、|夫《をつと》の|隠謀《いんぼう》の|次第《しだい》を|逐一《ちくいち》|訴《うつた》へ|奉《たてまつ》らむ』
といふより|早《はや》く|家《いへ》を|飛《と》びだし、|八王神《やつわうじん》の|御前《みまへ》に|夫《をつと》の|罪《つみ》を|残《のこ》らず|奏聞《そうもん》したりける。|奏聞《そうもん》の|次第《しだい》は、
『|玉守彦《たまもりひこ》は|大切《たいせつ》なる|黄金《こがね》の|宝玉《ほうぎよく》を|預《あづ》かりながら、この|玉《たま》を|吾物《わがもの》にせむと|謀《はか》り、|真《まこと》の|宝玉《ほうぎよく》には|黒《くろ》く|墨《すみ》をぬり、|別《べつ》に|同形《どうけい》の|石《いし》の|玉《たま》を|作《つく》り、これに|金鍍金《きんめつき》をかけ、|真《まこと》の|玉《たま》は|宝珠山《ほうじゆさん》の|奥《おく》|深《ふか》くこれを|埋《うづ》め、|擬玉《にせだま》を|差出《さしだ》して|黄金《こがね》の|宮《みや》に|祀《まつ》り、|後日《ごじつ》|時《とき》を|得《え》て|真《しん》の|宝玉《ほうぎよく》を|取《と》りだし、|玉《たま》の|神力《しんりき》によりて|青雲山《せいうんざん》の|城塞《じやうさい》を|乗取《のりと》り、|八王《やつわう》、|八頭《やつがしら》の|神《かみ》を|放逐《はうちく》し、おのれとつて|代《かは》り|八王神《やつわうじん》とならむと、|不軌《ふき》を|謀《はか》りつつあり。|夫《をつと》ながらも|実《じつ》に|恐《おそ》ろしき|悪逆無道《あくぎやくぶだう》の|者《もの》なり。すみやかに|捕《とら》へて|獄《ごく》に|投《とう》じ、|国《くに》の|害《がい》を|除《のぞ》かせたまへ』
と|嫉妬《しつと》の|炎《ほのほ》すさまじく、|身《み》をゆすりて|泣《な》きつ|訴《うつた》へにけり。ここに|八王神《やつわうじん》|神澄彦《かむずみひこ》は、|八頭神《やつがしらがみ》|吾妻彦《あづまひこ》を|招《まね》きて、|玉守姫《たまもりひめ》の|訴《うつた》への|次第《しだい》を|物語《ものがた》り、ただちに|玉守彦《たまもりひこ》を|召《め》し|捕《とら》へしめたり。
|玉守彦《たまもりひこ》は|妻《つま》の|玉守姫《たまもりひめ》とともに、|吾妻彦《あづまひこ》の|前《まへ》に|呼《よ》び|出《だ》され、きびしき|訊問《じんもん》を|受《う》けたるが、|玉守彦《たまもりひこ》は、|言葉《ことば》さはやかにその|無実《むじつ》を|陳弁《ちんべん》し、かつ、
『|玉守姫《たまもりひめ》は|嫉妬《しつと》ふかく、|今《いま》は|狂者《きやうしや》となれり、かならず|彼《かれ》がごとき|狂者《きやうしや》の|言《げん》を|信《しん》じたまふなかれ。|至誠《しせい》は|天《てん》に|通《つう》ず。|願《ねが》はくば|天地《てんち》の|大神《おほかみ》も|吾《わ》が|赤誠《せきせい》を|照覧《せうらん》あれ』
と|天《てん》を|拝《はい》し|地《ち》を|拝《はい》し、|涕泣《ていきふ》して|訴《うつた》へたり。このとき|玉守姫《たまもりひめ》は|首《くび》を|左右《さいう》に|振《ふ》り|吾妻彦《あづまひこ》にむかひ、
『|玉守彦《たまもりひこ》は|大胆不敵《だいたんふてき》の|曲者《くせもの》なり。|彼《かれ》はたしかに|国魂《くにたま》を|宝珠山《ほうじゆさん》に|埋《うづ》め、この|黄金《こがね》の|宮《みや》の|国魂《くにたま》は|擬玉《にせだま》を|祀《まつ》りをれり。その|証拠《しようこ》は|現在《げんざい》|妻《つま》の|妾《わらは》とともに|山中《さんちゆう》に|匿《かく》しおきたり。|何時《なんどき》にてもその|所在《ありか》をお|知《し》らせ|申《まを》さむ』
とあわただしく|苛《いら》ち|気味《ぎみ》に|奏上《そうじやう》するにぞ、|玉守彦《たまもりひこ》は|言辞《ことば》を|荒《あら》らげて、|妻《つま》にむかひ、
『|女《をんな》の|姦《かし》ましき|要《い》らざる|讒言《ざんげん》、いまに|天地《てんち》の|神罰《しんばつ》はたちどころに|到《いた》らむ、|慎《つつし》めよ』
と|睨《ね》めつけたるに、|玉守姫《たまもりひめ》は|躍気《やくき》となり、
『|夫《をつと》は|何《なに》を|呆《はう》け|顔《がほ》に|弁解《べんかい》するや。|宝珠山《ほうじゆさん》の|谷《たに》を|渡《わた》るとき、|川《かは》の|中《なか》にて|二匹《にひき》の|兎《うさぎ》を|生捕《いけどり》にし、また|宝珠山《ほうじゆさん》の|松《まつ》の|大木《たいぼく》に|大《おほ》いなる|鮭《さけ》の|生《な》りをりたるを|妾《わらは》が|見《み》つけ、|夫《をつと》と|共《とも》にこれを【むしり】|帰《かへ》りて、その|夜《よ》|兎《うさぎ》と|鮭《さけ》を|料理《れうり》し、|祝酒《いはひざけ》を|飲《の》みしことをよもや|忘《わす》れたまふまじ。そのとき|宝珠山《ほうじゆさん》に|玉《たま》を|埋《うづ》めおきたるを|忘《わす》れたるか』
と|烈火《れつくわ》のごとくなりて|述《の》べ|立《た》つる。|玉守彦《たまもりひこ》は|吾妻彦《あづまひこ》にむかひ、
『ただ|今《いま》お|聞《き》きおよびのとほり、|妻《つま》の|玉守姫《たまもりひめ》は|発狂《はつきやう》し、|取《とり》とめなきことを|述《の》べたて|候《さふらふ》。|彼《かれ》がごとき|狂人《きやうじん》の|言《げん》は|御採用《ごさいよう》なからむことを|乞《こ》ひまつる』
と|奏上《そうじやう》せるに、|吾妻彦《あづまひこ》は|玉守姫《たまもりひめ》の|狂者《きやうしや》たることを|知《し》り、ここに|玉守彦《たまもりひこ》の|疑《うたが》ひは|全《まつた》く|晴《は》れ、|許《ゆる》されて|家《いへ》に|帰《かへ》りぬ。
|八王大神《やつわうだいじん》|常世彦《とこよひこ》は、|黄金《こがね》の|宮《みや》の|国魂《くにたま》を|奪《うば》はむとし、|部下《ぶか》の|国足彦《くにたるひこ》、|醜熊《しこぐま》、|玉取彦《たまとりひこ》に|命《めい》じ、|種々《しゆじゆ》の|奸策《かんさく》を|授《さづ》けたり。ある|日《ひ》のこと|国足彦《くにたるひこ》らは|夜陰《やいん》に|乗《じやう》じ、|黄金《こがね》の|宮《みや》に|入《い》り|国魂《くにたま》を|首尾《しゆび》よく|盗《ぬす》み、|遠《とほ》く|常世《とこよ》の|国《くに》へ|逃《に》げ|帰《かへ》りたり。|八王神《やつわうじん》|神澄彦《かむずみひこ》は|国魂《くにたま》を|拝《はい》せむと|諸神司《しよしん》をしたがへ|神殿《しんでん》に|進《すす》み|入《い》りしに、|神前《しんぜん》の|堅牢《けんらう》なる|錠前《ぢやうまへ》は|捻切《ねぢき》られ、|肝腎《かんじん》の|国魂《くにたま》は|紛失《ふんしつ》しゐたりける。
『|八王大神《やつわうだいじん》の|部下《ぶか》|国足彦《くにたるひこ》、|醜熊《しこくま》、|玉取彦《たまとりひこ》、|玉《たま》を|取《と》つて|常世《とこよ》の|国《くに》に|立帰《たちかへ》る。|藻脱《もぬけ》の|空《から》の|宮《みや》の|神徳《しんとく》|弥顕著《いやちこ》ならむアハヽヽヽ』
と|認《したた》めありぬ。|八王神《やつわうじん》は|顔色《がんしよく》|青《あを》ざめ、
『|吾《われ》は|貴重《きちよう》なる|国魂《くにたま》の|守護《しゆご》を|命《めい》ぜられながら、|今《いま》これを|敵《てき》に|奪取《だつしゆ》され、|大神《おほかみ》にたいして|謝《しや》すべき|辞《ことば》なし。この|玉《たま》なきときは|八王《やつわう》の|聖職《せいしよく》を|奪《うば》はれ、かつ|重《おも》き|罪《つみ》に|問《と》はれむ。いかがはせむか』
と|歎《なげ》きたまふをりしも、|玉守彦《たまもりひこ》はすすみ|出《い》で、
『|八王神《やつわうじん》よ、|必《かなら》ず|神慮《しんりよ》を|悩《なや》ましたまふこと|勿《なか》れ。|我《われ》は|宝玉《ほうぎよく》の|保護《ほご》を|命《めい》ぜられてより、|今日《こんにち》あることを|前知《ぜんち》し、|擬玉《にせだま》を|作《つく》りて|奉斎《ほうさい》し、|真正《しんせい》の|国魂《くにたま》の|宝玉《ほうぎよく》は、|宝珠山《ほうじゆさん》の|奥《おく》|深《ふか》く|楠樹《くすのき》の|下《もと》に|大切《たいせつ》に|埋《うづ》め|置《お》きたり。|直《ただ》ちにこれを|掘出《ほりだ》して|更《あらた》めて|鎮祭《ちんさい》したまへ』
と|誠《まこと》を|色《いろ》に|現《あら》はして|奏上《そうじやう》したり。|神澄彦《かむずみひこ》はおほいに|喜《よろこ》び、ただちに|玉守彦《たまもりひこ》を|先頭《せんとう》に、あまたの|神司《かみがみ》を|遣《つか》はし、|白木《しらき》の|輿《こし》を|作《つく》りて|宝玉《ほうぎよく》を|納《をさ》め、|青雲山《せいうんざん》に|奉迎《ほうげい》せしめ、ここにあらためて|立派《りつぱ》なる|遷座式《せんざしき》を|挙行《きよかう》し、|玉守彦《たまもりひこ》は|疑《うたが》ひ|解《と》けて|晴天白日《せいてんはくじつ》となり、かつその|注意《ちうい》|周到《しうたう》なる|行動《かうどう》を|激賞《げきしやう》され、|重《おも》く|用《もち》ゐらるることとなり、|天下《てんか》に|盛名《せいめい》を|馳《は》せにけり。
(大正一〇・一一・一八 旧一〇・一九 河津雄録)
(第一九章〜第二〇章 昭和一〇・一・一六 於別府・亀の井旅館 王仁校正)
第二一章 |狐《きつね》の|尻尾《しつぽ》〔一二一〕
ヒマラヤ|山《さん》には|純銀《じゆんぎん》の|玉《たま》をその|国魂《くにたま》とし、|白銀《しろがね》の|宮《みや》に|恭《うやうや》しく|鎮祭《ちんさい》し、|高山彦《たかやまひこ》は|八王神《やつわうじん》に|任《にん》ぜられ、|高山姫《たかやまひめ》は|妻《つま》となりて|神業《しんげふ》を|輔佐《ほさ》し、ヒマラヤ|彦《ひこ》は、|八頭神《やつがしらがみ》となり、ヒマラヤ|姫《ひめ》を|妻《つま》とし、|神政《しんせい》を|監掌《かんしやう》し、|一時《いちじ》よく|上下《じやうげ》ともに|治《をさ》まりける。|白銀《しろがね》の|宮《みや》には|玉国別《たまくにわけ》が|宮司《ぐうじ》として|恭《うやうや》しく|奉仕《ほうし》したり。
ここに|八王大神《やつわうだいじん》|常世彦《とこよひこ》は、|部下《ぶか》の|武寅彦《たけとらひこ》、|武寅姫《たけとらひめ》および|猛依別《たけよりわけ》に|命《めい》じ、|種々《しゆじゆ》の|秘策《ひさく》を|授《さづ》けて、この|国玉《くにたま》を|奪取《だつしゆ》せしめむとしゐたりけり。|武寅彦《たけとらひこ》は|毎日毎夜《まいにちまいや》|宮詣《みやまう》でにことよせ、|昼夜《ちうや》|間断《かんだん》なくつけ|狙《ねら》ひゐたれば、|玉国別《たまくにわけ》は|武寅彦《たけとらひこ》らの|行動《かうどう》を|訝《いぶ》かり、ひそかに|同形《どうけい》|同色《どうしよく》の|擬玉《にせだま》を|造《つく》り、これを|神殿《しんでん》に|鎮祭《ちんさい》しおきたり。|武寅彦《たけとらひこ》らは|玉国別《たまくにわけ》の|妻《つま》なる|国香姫《くにかひめ》に、|種々《しゆじゆ》の|手段《しゆだん》をもつて|近《ちか》づき、|珍《めづ》らしきものを|与《あた》へ、|巧言令色《こうげんれいしよく》いたらざるなく、やうやくにして|国香姫《くにかひめ》を|薬籠中《やくろうちう》のものとなしにける。しかして|武寅彦《たけとらひこ》は、ある|日《ひ》|国香姫《くにかひめ》にむかひ、
『|貴女《きぢよ》にして|白銀《しろがね》の|宮《みや》に|鎮《しづ》まれる|純銀《じゆんぎん》の|国魂《くにたま》を、|夫《をつと》|玉国別《たまくにわけ》に|奪《うば》はしめ、これを|常世国《とこよのくに》の|八王大神《やつわうだいじん》に|献《けん》じなば、|汝《なんぢ》|夫婦《ふうふ》をヒマラヤ|山《さん》の|八王神《やつわうじん》に|任《にん》じたまふべし。|他神《たしん》の|幕下《ばくか》にいつまでも、|唯々諾々《ゐゐだくだく》として|神妙《しんめう》に|仕《つか》ふるも、|悪《あし》きことには|非《あら》ざれども、かの|庭前《にはさき》の|小松《こまつ》を|見《み》られよ、|大木《たいぼく》の|蔭《かげ》に|立《た》てる|小松《こまつ》はいつまでも|幹《みき》|細《ほそ》く|葉《は》|薄《うす》く|日蔭《ひかげ》の|境遇《きやうぐう》に|甘《あま》ンじ、|幾年《いくねん》を|経《へ》るも|立派《りつぱ》に|成長《せいちやう》する|時期《じき》なし。しかるに|同《おな》じ|時《とき》に|植《う》ゑられたる|小松《こまつ》も、|大木《たいぼく》の|蔭《かげ》に|隠《かく》れざる|松《まつ》は、|年《とし》とともに|成長《せいちやう》し、|幹《みき》|強《つよ》く|枝《えだ》|繁《しげ》り、|衝天《しようてん》の|勢《いきほひ》を|有《いう》するに|非《あら》ずや。|貴下《きか》はかくの|如《ごと》き、|不利益《ふりえき》なる|地位《ちゐ》に|甘《あま》ンずるよりも、|人《ひと》は|一代《いちだい》、|名《な》は|末代《まつだい》といふ|諺《ことわざ》あり。このさい|奮起《ふんき》して|純銀《じゆんぎん》の|玉《たま》を|奪《うば》ひとり、|身《み》の|栄達《えいたつ》を|計《はか》られよ』
と|口《くち》をきはめて|巧妙《かうめう》に|説得《せつとく》したりければ、|国香姫《くにかひめ》は|幾度《いくたび》も|頭《あたま》を|縦《たて》にふり、|肩《かた》をゆすり、|会心《くわいしん》の|笑《ゑみ》をもらし、|武寅彦《たけとらひこ》にむかつて|夫《をつと》の|玉国別《たまくにわけ》をしてその|目的《もくてき》を|達《たつ》せしむることを|予約《よやく》したりけり。
ここに|国香姫《くにかひめ》は|曲人《まがびと》の|甘言《かんげん》に|惑《まど》はされ、|夫《をつと》|玉国別《たまくにわけ》にむかひ|種々《しゆじゆ》|言葉《ことば》をつくして、|国魂《くにたま》を|盗《ぬす》み|取《と》らしめむとしたれども、|玉国別《たまくにわけ》は|天地《てんち》の|律法《りつぱう》を|厳守《げんしゆ》せる|正義《せいぎ》の|神司《しんし》なれば、|国香姫《くにかひめ》の|言《げん》を|聴《き》いておほいに|怒《いか》り、ただ|一言《いちごん》の|下《もと》に|叱責《しつせき》したるが、たちまち「|省《かへり》みよ」といふ|律法《りつぱふ》を|思《おも》ひ|出《だ》し、にはかに|笑顔《ゑがほ》をつくりていふ。
『これには|深《ふか》き|仔細《しさい》のあることならむ。|吾《われ》は|最愛《さいあい》なる|汝《なんぢ》のために|玉《たま》を|盗《ぬす》みだし、|夫婦《ふうふ》|諸共《もろとも》|一度《いちど》に|出世《しゆつせ》をなさむ』
と、わざと|嬉《うれ》しげに|答《こた》へたり。|国香姫《くにかひめ》は|夫《をつと》の|逐一《ちくいち》|承諾《しようだく》せることを、|武寅彦《たけとらひこ》に|急《いそ》ぎ|報告《はうこく》したり。ここに|武寅彦《たけとらひこ》は|願望《ぐわんばう》|成就《じやうじゆ》の|時《とき》こそ|来《きた》れり、|八王大神《やつわうだいじん》の|賞賜《しやうし》に|預《あづ》からむものと、|身《み》も|心《こころ》も|飛《と》びたつばかり、|勇《いさ》み|進《すす》みて|夜半《よは》、|玉国別《たまくにわけ》の|館《やかた》を|訪《おとづ》れにける。
|玉国別《たまくにわけ》は|喜《よろこ》ンで、これを|迎《むか》へ、|山海《さんかい》の|珍味《ちんみ》|佳肴《かかう》をもつて|饗応《きやうおう》し、|丑満《うしみつ》の|頃《ころ》、|武寅彦《たけとらひこ》らをともなひ|白銀《しろがね》の|宮《みや》に|詣《まう》で、|自分《じぶん》は|黄金《こがね》の|鍵《かぎ》をもつて|社《やしろ》の|錠《ぢやう》をはづし、|扉《とびら》をひらき|大《だい》なる|麻《あさ》の|袋《ふくろ》に|擬玉《にせだま》をつつみ|持《も》ちだし、ふたたび|扉《とびら》を|閉《と》ぢ、|武寅彦《たけとらひこ》にむかつていふ。
『|首尾《しゆび》よく|国魂《くにたま》は|手《て》に|入《い》れり。|一時《いちじ》も|早《はや》くこの|場《ば》を|立《た》ち|去《さ》り、|玉《たま》の|湖《みづうみ》の|畔《ほとり》にいたりてこれを|渡《わた》すべし。|長居《ながゐ》は|発覚《はつかく》の|恐《おそ》れあり』
とみづから|先《さき》に|立《た》ち、|夜陰《やいん》に|紛《まぎ》れて|玉《たま》の|湖《みづうみ》の|畔《ほとり》に|出《で》たりける。
このとき|玉国別《たまくにわけ》は|武寅彦《たけとらひこ》|外《ほか》|二人《ふたり》にむかひ|笑《わら》つていふ。
『|貴下《きか》らは|実《じつ》によく|巧妙《かうめう》に|化《ば》けさせたまへども、|如何《いかん》せむ、|背後《はいご》に|白《しろ》き|狐《きつね》の|尻尾《しつぽ》の|見《み》ゆるは|不都合《ふつがふ》ならずや。|吾《われ》は|実《じつ》にヒマラヤ|山《さん》に|住《す》む|年《とし》|経《へ》たる|大狸《おほだぬき》なれども、|貴下《きか》らのごとく|少《すこ》しも|尾《を》を|見《み》せしことなし』
といひつつ|武寅彦《たけとらひこ》らの|顔《かほ》を|穴《あな》のあくほど|覗《のぞ》き|見《み》るにぞ、|三人《さんにん》は、|玉国別《たまくにわけ》の|言葉《ことば》に|感歎《かんたん》していふ。
『われは|貴下《きか》の|見《み》らるるごとく、|常世国《とこよのくに》の|白狐《びやくこ》なり。しかるにいま|貴下《きか》にその|正体《しやうたい》を|看破《かんぱ》せられたるは、|実《じつ》に|慚愧《ざんき》のいたりなり。|貴下《きか》は|何《なに》ゆゑに|尻尾《しつぽ》の|見《み》えざるや』
と|訝《いぶ》かり|問《と》ふにぞ、|玉国別《たまくにわけ》はここぞとばかり|肩《かた》をゆすり、|鼻《はな》ぴこつかせ、|得意《とくい》|満面《まんめん》の|体《てい》にて、
『さればとよ。|我《われ》は|純銀《じゆんぎん》の|玉《たま》を|近《ちか》く|守《まも》りをれば、その|玉《たま》の|徳《とく》によりて|天地《てんち》の|間《あひだ》にいかなる|貴《たか》き|神《かみ》も|我《わ》が|正体《しやうたい》を|見《み》きはむるものなし。|貴下《きか》らもこの|玉《たま》に|一度《いちど》|手《て》を|触《ふ》れたまひなば、|我《われ》らのごとくよく|化《ば》け|果《おほ》さるべし』
と|笑《わら》ひつついふ。|武寅彦《たけとらひこ》は|矢《や》も|楯《たて》もたまらず、
『われにこの|玉《たま》を|持《も》たせたまはずや』
と|羨《うらや》まし|気《げ》に|顔《かほ》をのぞき、|玉国別《たまくにわけ》の|首《くび》はいづれにふれるやを|凝視《ぎやうし》しをる。|玉国別《たまくにわけ》はたちまち|首《くび》を|左右《さいう》にふり、
『なかなかもつて|滅相千万《めつさうせんばん》、この|玉《たま》は|常世国《とこよのくに》の|八王大神《やつわうだいじん》に|奉《たてまつ》るまでは|他見《たけん》は|許《ゆる》されぬ』
ときつぱりと|刎《は》ねつけたりければ、|武寅彦《たけとらひこ》らは|両手《りやうて》を|合《あは》せ、
『|常世国《とこよのくに》まで|帰《かへ》る|道《みち》はなかなか|長《なが》し。|万一《まんいち》|途中《とちゆう》にて|我《わ》が|尻尾《しつぽ》を|他神《たしん》に|発見《はつけん》せられなば|身《み》の|一大事《いちだいじ》なり。お|慈悲《じひ》にただ|一度《いちど》わが|手《て》に|触《ふ》れさせたまへ』
と|歎願《たんぐわん》するを、|玉国別《たまくにわけ》はわざと|不承不承《ふしやうぶしやう》に、
『|然《しか》らば|望《のぞ》みを|叶《かな》へさせむ。|三人《さんにん》とも|一度《いちど》に|白狐《びやくこ》の|全正体《ぜんしやうたい》をあらはし、この|麻袋《あさぶくろ》に|飛《と》び|込《こ》み、おのおの|自由《じいう》に|手《て》を|触《ふ》れられよ』
と|言《い》ひ|放《はな》てば、ここに|三人《さんにん》ともたちまち|白狐《びやくこ》と|変《へん》じ、|先《さき》を|争《あらそ》ひて|布袋《ふくろ》に|飛《と》び|込《こ》みにけり。|玉国別《たまくにわけ》は、|手早《てばや》く|袋《ふくろ》の|口《くち》を|締《し》め、
『サア|悪神《わるがみ》ども|思《おも》ひ|知《し》つたか。|狐《きつね》の|七化《ななば》け、|如何《いか》にたくみに|化《ば》けるとも、|狸《たぬき》の|八化《やば》けには|叶《かな》ふまじ』
といひつつ|袋《ふくろ》を|大地《だいち》に|幾度《いくど》となく|抛《な》げつくれば、|白狐《びやくこ》は|痛《いた》さに|堪《た》へかね|苦《くる》しき|悲《かな》しき|声《こゑ》をあげて|救《すく》ひを|求《もと》めける。|玉国別《たまくにわけ》は、
『|邪神《じやしん》の|眷属《けんぞく》|馬鹿狐《ばかぎつね》、|容赦《ようしや》はならぬ』
といひつつ|袋《ふくろ》に|重《おも》き|石《いし》を|縛《しば》りつけ、|玉《たま》の|湖《みづうみ》の|深淵《ふかみ》へどつとばかりに|投《な》げ|込《こ》みにける。たちまち|湖水《こすゐ》は|左右《さいう》にひらき|波浪《なみ》たち|騒《さわ》ぎ、|擬玉《にせだま》も|狐《きつね》と|共《とも》に、ブクブクと|音《おと》をたてて|湖水《こすゐ》の|底《そこ》|深《ふか》く|沈没《ちんぼつ》したりける。このこと|常世彦《とこよひこ》の|耳《みみ》に|入《い》り、|純銀《じゆんぎん》の|国魂《くにたま》は|玉《たま》の|湖《みづうみ》の|底《そこ》|深《ふか》く、|白狐《びやくこ》と|共《とも》に|沈《しづ》めるものと|確信《かくしん》されたりければ、これより|白銀《しろがね》の|宮《みや》の|国魂《くにたま》を|奪《うば》はむとする|計画《たくみ》は、あとを|絶《た》ちにける。
(大正一〇・一一・一八 旧一〇・一九 加藤明子録)
第二二章 |神前《しんぜん》の|審判《しんぱん》〔一二二〕
|天山《てんざん》には|黄色《きいろ》の|玉《たま》を|祀《まつ》り、|宮殿《きうでん》を|造営《ざうえい》してこれを|鎮祭《ちんさい》し、|埴安《はにやす》の|宮《みや》と|名《な》づけられたり。|斎代彦《ときよひこ》を|八王神《やつわうじん》とし、|妻神《つまがみ》|斎代姫《ときよひめ》をして|神業《しんげふ》を|輔佐《ほさ》せしめ、|谷山彦《たにやまひこ》を|八頭神《やつがしらがみ》となし、|谷山姫《たにやまひめ》をして|神政《しんせい》を|輔助《ほじよ》せしめられける。|谷山姫《たにやまひめ》は|嫉妬《しつと》|猜疑《さいぎ》の|念《ねん》ふかく、|斎代姫《ときよひめ》の|命令《めいれい》をきくことを|非常《ひじやう》に|不快《ふくわい》に|感《かん》じゐたり。|夫婦《ふうふ》は、つねに|犬猿《けんゑん》のごとく、たがひに|嫉視反目《しつしはんもく》をつづけ、それがために|天山《てんざん》|城内《じやうない》の|神政《しんせい》は、つねに|紛擾《ふんぜう》|絶《た》えざりける。
ここに|八王大神《やつわうだいじん》は、|部下《ぶか》の|邪神《じやしん》|荒国彦《あらくにひこ》を|谷山彦《たにやまひこ》の|肉体《にくたい》に|憑依《ひようい》せしめ、また|荒国姫《あらくにひめ》といふ|邪神《じやしん》を|谷山姫《たにやまひめ》に|憑依《ひようい》せしめたり。これより|谷山彦《たにやまひこ》|夫妻《ふさい》の|性行《せいかう》は|俄然《がぜん》|一変《いつぺん》し、|斎代彦《ときよひこ》|夫妻《ふさい》をしりぞけ、みづから|八王神《やつわうじん》たらむことを|企《くはだ》てける。|斯《か》くのごとく|悪心《あくしん》を|起《おこ》したるは|全《まつた》く|憑霊《ひようれい》の|所為《しよゐ》なり。ここに|谷山彦《たにやまひこ》は|妻《つま》の|使嗾《しそう》により、|埴安《はにやす》の|宮司《ぐうじ》|国代彦《くによひこ》、|国代姫《くによひめ》の|夫婦《ふうふ》を|手《て》に|入《い》れ、|国魂《くにたま》を|盗《ぬす》ましめ、|八王神《やつわうじん》の|身《み》に|失策《しつさく》を|招《まね》かしめ、その|目的《もくてき》を|達《たつ》せむとし、|種々《しゆじゆ》の|手段《しゆだん》をめぐらしゐたりける。
しかるに|宮司《ぐうじ》の|国代彦《くによひこ》は|正義《せいぎ》の|神司《かみ》なれば、|容易《ようい》にその|心《こころ》を|動《うご》かすべからざるを|悟《さと》り、|妻《つま》の|国代姫《くによひめ》を|甘言《かんげん》をもつて|説《せつ》|得《え》せむと|計《はか》りぬ。|国代姫《くによひめ》は|谷山彦《たにやまひこ》|夫妻《ふさい》に|招《まね》かれけるが、|谷山彦《たにやまひこ》はいふ、
『|汝《なんぢ》の|弁舌《べんぜつ》をもつて|夫《をつと》|国代彦《くによひこ》の|心《こころ》を|動《うご》かし、|国魂《くにたま》を|盗《ぬす》み|出《いだ》さしめなば、|吾《われ》はただちに|八王神《やつわうじん》の|位《くらゐ》に|上《のぼ》り、|汝《なんぢ》ら|夫妻《ふさい》を|八頭神《やつがしらがみ》の|地位《ちゐ》に|据《す》ゑむ』
と|言葉《ことば》たくみに|説《と》き|立《た》てたり。|国代姫《くによひめ》はその|成功《せいこう》を|危《あや》ぶみ、かつ|天地《てんち》の|律法《りつぱう》に|背《そむ》く|由《よし》を|述《の》べ、これを|謝絶《しやぜつ》せむとするとき、|何心《なにごころ》なく|夫《をつと》の|国代彦《くによひこ》はこの|場《ば》に|現《あら》はれ|来《きた》りぬ。|谷山彦《たにやまひこ》は|国代彦《くによひこ》にむかひて|前述《ぜんじゆつ》の|謀計《ぼうけい》を|打明《うちあ》けたるに、|国代彦《くによひこ》は|一《いち》も|二《に》もなく|賛成《さんせい》の|意《い》を|表《へう》しけり。|国代姫《くによひめ》は|夫《をつと》の|言《げん》に|驚《おどろ》き、|涙《なみだ》とともにその|悪行《あくぎやう》を|止《と》めむとて|泣《な》きて|諫言《かんげん》したりけれども、|国代彦《くによひこ》は|決心《けつしん》の|色《いろ》を|面《おもて》に|現《あら》はし、|今《いま》この|場《ば》において|谷山彦《たにやまひこ》の|意見《いけん》に|反対《はんたい》を|表《へう》せむか、いかなる|危害《きがい》の|身辺《しんぺん》に|及《およ》ばむも|計《はか》り|難《がた》しと、わざと|空惚《そらとぼ》けていふ、
『|我《われ》は|天則《てんそく》|違反《ゐはん》の|行為《かうゐ》ならむと|察《さつ》すれども、|諺《ことわざ》にも|勝《か》てば|善神《ぜんしん》、|敗《まけ》れば|邪神《じやしん》といふことあり。|吾《わ》が|出世《しゆつせ》|栄達《えいたつ》の|道《みち》を|開《ひら》かせたまふならば、よろこンで|貴下《きか》の|命《めい》を|奉《ほう》ぜむ』
と|即答《そくたふ》したりける。
|谷山彦《たにやまひこ》|夫妻《ふさい》は|大《おほ》いに|喜《よろこ》び、|埴安《はにやす》の|宮《みや》の|祭典《さいてん》をおこなひ、これを|潮《しほ》に|宮司《ぐうじ》|国代彦《くによひこ》をして|玉《たま》を|盗《ぬす》み|出《だ》さしめむとしたりければ、|国代彦《くによひこ》は|同形《どうけい》|同色《どうしよく》の|偽玉《にせだま》を|造《つく》り、|深《ふか》く|懐《ふところ》に|秘《ひ》めて|祭典《さいてん》に|列《れつ》し、みづから|鍵《かぎ》を|出《だ》して|宮《みや》の|扉《とびら》を|開《ひら》き|種々《くさぐさ》の|供物《くもつ》を|献《けん》じ、ひそかに|偽玉《にせだま》を|谷山彦《たにやまひこ》に|手渡《てわた》ししたるに、|谷山彦《たにやまひこ》は|素知《そし》らぬ|顔《かほ》を|装《よそほ》ひ、これを|懐中《くわいちう》に|秘《ひ》しゐたりけり。|祭典《さいてん》は|無事《ぶじ》に|終了《しうれう》し、|八王神《やつわうじん》|斎代彦《ときよひこ》、|斎代姫《ときよひめ》も|列席《れつせき》し、|直会《なほらひ》の|宴《えん》は|盛《さか》ンに|開《ひら》かれ、|八百万神司《やほよろづがみ》は|神酒《みき》に|酔《よ》ひ、|歌《うた》をうたひ、|踊《をど》り|狂《くる》ふ。このとき|国代彦《くによひこ》はたちて|歌《うた》をうたひ、しきりに|踊《をど》りはじめけり。その|歌《うた》は、
『|時世時節《ときよじせつ》は|怖《こわ》いもの |深山《みやま》を|越《こ》えて|谷《たに》|越《こ》えて
|常世《とこよ》の|国《くに》の|涯《はて》の|涯《はて》 |黄《き》が|気《き》でならぬ|玉《たま》の|守《も》り。
|時世時節《ときよじせつ》は|怖《こわ》いもの |谷《たに》は|変《へん》じて|山《やま》となり
|山《やま》は|代《かは》つて|谷《たに》となる |変《かは》れば|変《かは》る|世《よ》の|中《なか》よ。
|頭《かしら》は|今《いま》に|尻尾《しつぽ》となり |尻尾《しつぽ》は|転《ころ》げて|谷底《たにぞこ》へ
|落《お》ちて|苦《くる》しむ|眼前《まのあたり》 |何《なん》の|用捨《ようしや》も|荒国彦《あらくにひこ》の
|霊《たま》の|憑《かか》りし|谷《たに》と|山《やま》 どこの|国代《くによ》か|知《し》らねども
|木々《きぎ》(|黄々《きぎ》)の|木魂《こだま》に|響《ひび》くなり。 |埴安宮《はにやすみや》の|玉《たま》|欲《ほつ》しと
|谷《たに》と|山《やま》から|攻《せ》めてくる |谷《たに》と|山《やま》から|狙《ねら》ひをる。
|照《て》る|日《ひ》の|影《かげ》は|清《きよ》くとも |雲霧《くもきり》たつは|山《やま》の|谷《たに》
|虎《とら》|狼《おほかみ》も|隠《かく》れすむ |気《き》をつけ|守《まも》る|国世彦《くによひこ》
|玉《たま》は|日《ひ》に|夜《よ》に|曇《くも》るなり。 |曇《くも》る|玉《たま》こそ|替玉《かへだま》よ』
といつて|面白《おもしろ》く|踊《をど》り|狂《くる》ふ。ここに|八王神《やつわうじん》|斎代彦《ときよひこ》はこの|歌《うた》を|聴《き》き、|谷山彦《たにやまひこ》の|謀叛《ぼうはん》を|悟《さと》り、ただちに|夫妻《ふさい》を|捕《とら》へて|厳《きび》しく|詰問《きつもん》したり。|谷山彦《たにやまひこ》は|答《こた》ふるに|実《じつ》をもつてせり。
ここに|斎代彦《ときよひこ》は|谷山彦《たにやまひこ》|夫妻《ふさい》の|職《しよく》を|免《めん》じ、|国代彦《くによひこ》、|国代姫《くによひめ》をして|八頭神《やつがしらがみ》の|後《あと》を|襲《おそ》はしめむと|宣言《せんげん》せり。この|時《とき》|謙譲《けんじやう》の|徳《とく》|高《たか》き|国代彦《くによひこ》|夫妻《ふさい》は、
『|命《みこと》の|大命《たいめい》|実《じつ》に|有《あ》りがたく、|身《み》にあまる|光栄《くわうえい》なれど、われはかかる|聖職《せいしよく》に|任《にん》ぜらるるの|資格《しかく》なし。|願《ねが》はくば|以前《いぜん》のごとく|宮司《ぐうじ》たらしめられたし。|谷山彦《たにやまひこ》|夫妻《ふさい》は|思《おも》ふに|元《もと》よりかかる|悪事《あくじ》を|企《くはだ》つるごとき|邪神《じやしん》にはあらず。|悪霊《あくれい》の|憑依《ひようい》によつてかかる|無道《ぶだう》の|行動《かうどう》に|出《い》でられしならむ。すみやかに|神前《しんぜん》にともなひゆきて|厳粛《げんしゆく》なる|審神《さには》を|奉仕《ほうし》し、その|上《うへ》にて|裁断《さいだん》あらむことを』
と|涙《なみだ》を|流《なが》し|赤心《せきしん》|面《おもて》にあふれて|奏上《そうじやう》したりける。|斎代彦《ときよひこ》は|打《う》ちうなづき、|直《ただ》ちに|二人《ふたり》の|審神《さには》を|開始《かいし》されけるに、たちまち|二神《にしん》は|上下《じやうげ》|左右《さいう》に|身体《しんたい》|震動《しんどう》し、|邪神《じやしん》|荒国彦《あらくにひこ》は|谷山彦《たにやまひこ》の|体内《たいない》より、|荒国姫《あらくにひめ》は|谷山姫《たにやまひめ》の|体内《たいない》より、|神威《しんゐ》に|畏《おそ》れて|脱出《だつしゆつ》し、|悪狐《あくこ》の|正体《しやうたい》を|現《あら》はし、|常世《とこよ》の|国《くに》にむかつて|雲《くも》を|霞《かすみ》と|逃《に》げ|去《さ》りにけり。
|邪神《じやしん》の|脱《ぬ》け|出《い》でたる|後《あと》の|谷山彦《たにやまひこ》|夫妻《ふさい》は、|夢《ゆめ》から|醒《さ》めたるごとく|前非《ぜんぴ》を|悔《く》い、かつ|邪神《じやしん》の|謀計《ぼうけい》の|恐《おそ》ろしきを|悟《さと》り、それより|心《こころ》をあらため、|神々《かみがみ》を|篤《あつ》く|信《しん》じ、|元《もと》の|誠心《まごころ》に|立《た》ちかへりけり。|斎代彦《ときよひこ》は|今《いま》までの|谷山彦《たにやまひこ》|夫妻《ふさい》の|行動《かうどう》は、まつたく|邪神《じやしん》|憑依《ひようい》の|結果《けつくわ》となし、その|罪《つみ》を|赦《ゆる》し、|元《もと》のごとく|八頭神《やつがしらがみ》の|聖職《せいしよく》に|就《つ》かしめたりける。
(大正一〇・一一・一八 旧一〇・一九 土井靖都録)
第七篇 |崑崙山《こんろんざん》
第二三章 |鶴《つる》の|一声《ひとこゑ》〔一二三〕
|崑崙山《こんろんざん》には|紅色《こうしよく》の|国魂《くにたま》を、|紅能宮《くれなゐのみや》を|造営《ざうえい》して|鄭重《ていちやう》に|鎮祭《ちんさい》され、|八王神《やつわうじん》には|磐玉彦《いはたまひこ》を|任《にん》じ、|妻《つま》|磐玉姫《いはたまひめ》は|神務《しんむ》を|輔佐《ほさ》し、|八頭神《やつがしらがみ》は|大島彦《おほしまひこ》が|任《にん》ぜられ、|大島姫《おほしまひめ》|妻《つま》として|神政《しんせい》を|内助《ないじよ》し、|紅能宮《くれなゐのみや》の|司《つかさ》には|明世彦《はるよひこ》、|明世姫《はるよひめ》の|二神《にしん》|奉仕《ほうし》し、|崑崙山《こんろんざん》|一帯《いつたい》の|地方《ちはう》は、きはめて|太平《たいへい》|無事《ぶじ》に|治《をさ》まりゐたりける。
|磐玉彦《いはたまひこ》は|名利《めいり》に|薄《うす》く、かつ|忠誠《ちゆうせい》|無比《むひ》にして、|一切《いつさい》の|宝玉《ほうぎよく》、|珍品《ちんぴん》を|地《ち》の|高天原《たかあまはら》に|献納《けんなふ》し、|自己《じこ》を|薄《うす》くし、|下《しも》を|憐《あはれ》み、|善政《ぜんせい》を|布《し》きたまひて、|四辺《しへん》よく|治《をさ》まり、|鼓腹撃壌《こふくげきじやう》して|神人《しんじん》その|業《げふ》を|楽《たのし》み、|小弥勒《せうみろく》の|神政《しんせい》は|樹立《じゆりつ》されたる|姿《すがた》なり。ために|天上《てんじやう》の|日月《じつげつ》は|清《きよ》く|晴《は》れわたり、|蒼空《さうくう》|一点《いつてん》の|妖気《えうき》をとどめず、|五風十雨《ごふうじふう》の|順序《じゆんじよ》ととのひ、|地《ち》には|蒼々《さうさう》として|樹草《じゆさう》|繁茂《はんも》し、|五穀《ごこく》ゆたかに、|鳥《とり》|啼《な》き|花《はな》|笑《わら》ひ、|四季《しき》ともに|春陽《しゆんやう》の|気《き》|充《み》ちて、|世界《せかい》|第一《だいいち》の|楽土《らくど》と|羨望《せんばう》さるるにいたりける。
|磐玉彦《いはたまひこ》は、
『|天下《てんか》|克《よ》く|治《をさ》まり、|神人《しんじん》みづから|田《た》を|耕《たがや》して|食《しよく》し、|井《ゐ》を|穿《うが》つて|飲《の》み、|室《しつ》に|憤怨《ふんえん》の|声《こゑ》なく、|神人《しんじん》|和楽《わらく》の|色《いろ》あり。かかる|瑞祥《ずゐしやう》の|世《よ》には、|天地《てんち》の|律法《りつぱう》も|徒《いたづら》に|空文《くうぶん》と|化《くわ》し、|八王神《やつわうじん》の|聖職《せいしよく》もまた|無用《むよう》の|長物《ちやうぶつ》たるに|似《に》たり。|日夜《にちや》|無事《ぶじ》に|苦《くる》しみつつ|高位《かうゐ》にあるは、|天地《てんち》に|対《たい》し|何《な》ンとなく|心愧《こころはづ》かしさに|堪《た》へず。すみやかに|八王神《やつわうじん》の|聖職《せいしよく》を|辞退《じたい》して|下《しも》に|降《くだ》り、|神人《しんじん》とともに|神業《しんげふ》を|楽《たのし》まむ』
と|決意《けつい》し、ひそかに|八頭神《やつがしらがみ》|大島彦《おほしまひこ》を|招《まね》き、その|意《い》を|告《つ》げたまひける。
|大島彦《おほしまひこ》はこの|言《げん》を|聞《き》きておほいに|驚《おどろ》き、|暫時《ざんじ》|黙然《もくねん》として|何《なん》の|答弁《たふべん》もなく、|八王神《やつわうじん》の|顔《かほ》を|眺《なが》めつつありしが、たちまち|首《くび》を|左右《さいう》に|振《ふ》り|涙《なみだ》を|流《なが》して|諫《いさ》めていふ。
『|崑崙山《こんろんざん》|一帯《いつたい》の|今日《こんにち》の|至治太平《しちたいへい》なる|祥運《しやううん》は、|貴神司《きしん》の|神徳《しんとく》の|致《いた》すところにして、|我《われ》らをはじめ|下《しも》|万神《ばんしん》|万民《ばんみん》の|貴神司《きしん》を|慕《した》ひたてまつりて、|感謝《かんしや》|措《お》く|能《あた》はざるところなり。しかるに|貴神司《きしん》にして|聖位《せいゐ》を|捨《す》て、|野《や》に|下《くだ》らせたまへば、いづれの|神司《しんし》か、よくこの|国土《こくど》を|治《をさ》むべき。|上《かみ》を|敬《うやま》ひ|下《しも》を|愛撫《あいぶ》し、もつて|社稷《しやしよく》を|安全《あんぜん》に|保《たも》つは|聖者《せいじや》の|天賦的《てんぷてき》|聖職《せいしよく》なり。|願《ねが》はくば|大慈《だいじ》|大悲《だいひ》の|聖徳《せいとく》によりて、なにとぞ|退位《たいゐ》の|儀《ぎ》は、|断念《だんねん》させたまへ』
と|声涙《せいるい》|交々《こもごも》|下《くだ》つて、|諫言《かんげん》よく|努《つと》めけるに、|磐玉彦《いはたまひこ》は|答《こた》へて、
『|我《われ》は|八王神《やつわうじん》として、|高天原《たかあまはら》の|大神《おほかみ》より|重職《ぢうしよく》を|忝《かたじけ》なうし、|何《なん》の|功労《こうらう》もつくさず、|日夜《にちや》|神恩《しんおん》の|深《ふか》きを|思《おも》ふごとに、|慙愧《ざんき》の|念《ねん》|胸《むね》に|迫《せま》りて|苦《くる》しく、|一日《いちじつ》として|心《こころ》を|安《やす》んずることあたはず。|下《しも》|神人《しんじん》は|日夜《にちや》|営々兀々《えいえいこつこつ》として|神業《しんげふ》に|奉仕《ほうし》し、|汗油《あせあぶら》をしぼりて|勤勉《きんべん》|神業《しんげふ》を|励《はげ》むなる|世《よ》に、|吾《われ》はいたづらに|雲《くも》|深《ふか》く|殿中《でんちう》にありて|安逸《あんいつ》の|生《せい》を|送《おく》り、|何《なん》の|活動《くわつどう》をもなさず、|曠職《くわうしよく》いたづらに|光陰《くわういん》を|消《せう》するは、|天地《てんち》の|大神《おほかみ》に|対《たい》したてまつり|恐懼《きやうく》にたへず。|今日《こんにち》の|至治泰平《しぢたいへい》は、|要《えう》するに|貴下《きか》らが|誠実《せいじつ》と|苦心《くしん》の|賜《たまもの》なり。すみやかに|吾《われ》の|思望《しばう》を|許《ゆる》し、|貴下《きか》は|直《ただ》ちに|八王神《やつわうじん》の|位《くらゐ》に|昇《のぼ》りて|神務《しんむ》を|主管《しゆくわん》されたし。|吾《われ》はこれより|夫妻《ふさい》ともに|山野《さんや》に|隠《かく》れ、|修験者《しうげんじや》となりて|神明《しんめい》に|祈《いの》り、|神政《しんせい》の|万歳《ばんざい》を|守《まも》らむ。|男子《だんし》たるもの|一度《いちど》|決心《けつしん》したるうへは、いかなる|諫言《かんげん》も|拒止《きよし》も|耳《みみ》にはいり|難《がた》し』
と|決心《けつしん》の|色《いろ》|面《おもて》に|現《あら》はれ|容易《ようい》に|動《うご》かすべからず。|大島彦《おほしまひこ》も、|平素《へいそ》|寡慾《くわよく》にして|恬淡《てんたん》|水《みづ》のごとき|八王神《やつわうじん》なれば、|如何《いかん》ともするに|由《よし》なく、ただ|黙然《もくねん》として|深《ふか》き|憂《うれひ》に|沈《しづ》みゐたりしが、ヤヽありて|大島彦《おほしまひこ》は|口《くち》をひらき、
『|貴神司《きしん》の|潔白《けつぱく》なる|御神慮《ごしんりよ》は、|神人《しんじん》ともに|常《つね》に|歎賞《たんしやう》おかざるところ、|今更《いまさら》いかに|諫《いさ》めたてまつるとも、|初志《しよし》を|翻《ひるがへ》させ|給《たま》ふことなからむ。されど|貴神司《きしん》の|身魂《みたま》は|貴神司《きしん》の|単独《たんどく》に|処置《しよち》さるべき|軽々《かるがる》しきものに|非《あら》ず、|遠《とほ》き|神世《かみよ》の|因縁《いんねん》によりて|上下《じやうげ》の|名分《めいぶん》|定《さだ》まり、|天地《てんち》の|大神《おほかみ》の|優渥《いうあく》なる|御委任《ごゐにん》に|出《い》づるものなれば、|吾《われ》らはこれより|直《ただ》ちに|地《ち》の|高天原《たかあまはら》に|参上《まゐあ》がり|神示《しんじ》を|蒙《かうむ》りしうへ、その|結果《けつくわ》を|詳《くは》しく|奏上《そうじやう》せむ。|何《なに》はともあれ、それまでは|何事《なにごと》も|吾《われ》らに|一任《いちにん》あらむことを』
と|力《ちから》をこめて|歎願《たんぐわん》したりしに、|磐玉彦《いはたまひこ》は、
『|貴下《きか》の|言《げん》|道理《だうり》にかなへり、|万事《ばんじ》は|一任《いちにん》すべし。よきやうに|計《はか》らひくれよ』
と|言《げん》を|残《のこ》して|奥《おく》|深《ふか》く|姿《すがた》をかくしたまひける。
|大島彦《おほしまひこ》はただちに|天《あま》の|磐船《いはふね》に|乗《の》り、|従者《じゆうしや》をともなひ|空中《くうちゆう》|風《かぜ》をきつて|竜宮城《りゆうぐうじやう》に|到着《たうちやく》し、|大八洲彦命《おほやしまひこのみこと》に|謁《えつ》をこひ、|八王神《やつわうじん》の|退隠《たいいん》の|件《けん》につき、|裁断《さいだん》を|下《くだ》されむことを|奏請《そうせい》したりける。ここに|大八洲彦命《おほやしまひこのみこと》は、すぐさま|地《ち》の|高天原《たかあまはら》の|大宮《おほみや》にいたりて|国直姫命《くになほひめのみこと》に|拝謁《はいえつ》し、|前述《ぜんじゆつ》の|次第《しだい》を|逐一《ちくいち》|奏上《そうじやう》し、|神勅《しんちよく》の|降下《かうか》を|願《ねが》ひしに、|国直姫命《くになほひめのみこと》は|衣服《いふく》を|更《あらた》め、|身体《しんたい》を|清《きよ》め、|大神殿《だいしんでん》に|進《すす》みいり、|恭《うやうや》しく|神勅《しんちよく》を|乞《こ》ひたまひ、|大八洲彦命《おほやしまひこのみこと》を|近《ちか》く|召《め》し、|容姿《ようし》をあらため|厳《おごそ》かに|神示《しんじ》のおもむきを|伝達《でんたつ》されたり。その|神示《しんじ》の|大要《たいえう》は、
『|磐玉彦《いはたまひこ》は|遠《とほ》き|神代《かみよ》よりの|御魂《みたま》の|因縁《いんねん》によりて、|崑崙山《こんろんざん》に|八王神《やつわうじん》の|聖職《せいしよく》を|拝《はい》するは|動《うご》かすべからざる|神界《しんかい》の|一定不変《いつていふへん》の|経綸《けいりん》なり。|君《きみ》は|万古《ばんこ》|君《きみ》たるべく、|臣《しん》はまた|万古末代《まんごまつだい》|臣《しん》たるべし。|王《わう》にして|臣《しん》となり、あるひは|下賤《げせん》の|地位《ちゐ》に|降《くだ》り、|臣《しん》にしてたちまち|王《わう》の|位《くらゐ》に|進《すす》むごときは、|天地《てんち》の|真理《しんり》に|違反《ゐはん》し、かつ|大神《おほかみ》の|御神慮《ごしんりよ》を|無視《むし》するものなり。|神勅《しんちよく》|一度《ひとたび》|出《いで》てはふたたびこれを|更改《かうかい》すべからず。|神《かみ》の|一言《いちげん》は|日月《じつげつ》のごとく|明《あき》らかにして|一毫《いちがう》も|犯《をか》すべからず。かつ|名位《めいゐ》は|神《かみ》の|賦与《ふよ》する|正慾《せいよく》にして、|長者《ちやうじや》たるものの|欠《か》くべからざる|栄誉《えいよ》なり。|磐玉彦《いはたまひこ》いかなればかかる|明瞭《めいれう》なる|問題《もんだい》を|提出《ていしゆつ》して、|大神《おほかみ》の|御神慮《ごしんりよ》を|悩《なや》ませ|奉《たてまつ》るぞ。たとへ|生《い》くるも|死《し》するもみな|大神《おほかみ》の|御心《みこころ》のままなり。|一時《ひととき》も|早《はや》く|片時《かたとき》もすみやかに|神慮《しんりよ》を|反省《はんせい》し、もつて|神勅《しんちよく》のまにまに|八王神《やつわうじん》の|聖職《せいしよく》を|奉仕《ほうし》し、|今後《こんご》ふたたびかかる|問題《もんだい》を|提出《ていしゆつ》し|神慮《しんりよ》を|煩《わづら》はすこと|勿《なか》れ』
との|厳命《げんめい》なりける。
|大八洲彦命《おほやしまひこのみこと》は|神示《しんじ》を|拝《はい》し、|恭《うやうや》しく|礼《れい》を|述《の》べ、|大島彦《おほしまひこ》を|近《ちか》く|招《まね》きて、|神示《しんじ》を|詳細《しやうさい》に|諭達《ゆたつ》したまへり。
|大島彦《おほしまひこ》はおほいに|歓《よろこ》び|急《いそ》ぎ|崑崙山《こんろんざん》に|飛還《ひくわん》し、|八王神《やつわうじん》に|一切《いつさい》の|神示《しんじ》を|恭《うやうや》しく|復命《ふくめい》|奏上《そうじやう》したりけり。|素《もと》より|正義《せいぎ》|純直《じゆんちよく》の|八王神《やつわうじん》は、|神勅《しんちよく》を|重《おも》ンじ|前非《ぜんぴ》を|悔《く》い、ふたたび|元《もと》の|聖職《せいしよく》につき、その|後《ご》|数百年《すうひやくねん》のあひだは、|実《じつ》に|至治《しぢ》|至楽《しらく》、|泰平《たいへい》の|聖代《せいだい》は|継続《けいぞく》されたり。|神命《しんめい》の|犯《をか》すべからざるは、これにても|窺《うかが》ひ|知《し》らるべし。
(大正一〇・一一・二〇 旧一〇・二一 出口瑞月録)
(第二一章〜二三章 昭和一〇・一・一六 於亀の井旅館 王仁校正)
第二四章 |蛸間山《たこまやま》の|黒雲《くろくも》〔一二四〕
|蛸間山《たこまやま》には|銅色《どうしよく》の|国玉《くにたま》を|鎮祭《ちんさい》し、|吾妻別《あづまわけ》を|八王神《やつわうじん》に|任《にん》じ|神務《しんむ》を|主管《しゆくわん》せしめ、|妻《つま》には|吾妻姫《あづまひめ》を|娶《めあ》はし|内面的《ないめんてき》|輔佐《ほさ》を|命《めい》じ、|国玉別《くにたまわけ》を|八頭神《やつがしらがみ》に|任《にん》じ|国玉姫《くにたまひめ》を|妻《つま》として|神政《しんせい》を|輔助《ほじよ》せしめられ、|駒世彦《こまよひこ》を|宮司《ぐうじ》となし|駒世姫《こまよひめ》をして|祭事《さいじ》に|従事《じゆうじ》せしめられたりしなり。しかるにこの|蛸間山《たこまやま》には、かねて|地《ち》の|高天原《たかあまはら》より、|言霊別命《ことたまわけのみこと》|神命《しんめい》を|奉《ほう》じて|国魂《くにたま》の|神《かみ》を|鎮祭《ちんさい》し、|荘厳《さうごん》なる|宮殿《きうでん》まで|建立《こんりふ》しあれば、つまり|二個《にこ》の|国魂《くにたま》を|並《なら》べ、|祭祀《さいし》さるることとなりぬ。ここに|二《ふた》つの|国魂《くにたま》の|霊《れい》|現《あら》はれて|互《たが》ひに|主権《しゆけん》を|争《あらそ》ひたまへば、|蛸間山《たこまやま》は|常《つね》に|風雲《ふううん》たちこめ、|時《とき》に|暴風《ばうふう》|吹《ふ》きおこり|強雨《がうう》|降《ふ》りそそぎ|樹木《じゆもく》を|倒《たふ》し、|河川《かせん》の|堤防《ていばう》を|破壊《はくわい》し、|濁水《だくすゐ》|地上《ちじやう》に|氾濫《はんらん》して|神人《しんじん》その|堵《と》に|安《やす》ンずること|能《あた》はず、|神人《かみがみ》の|嫉視反目《しつしはんもく》は|日《ひ》に|月《つき》に|激烈《げきれつ》の|度《ど》を|加《くは》へ、|東天《とうてん》より|西天《せいてん》にむかつて|真黒《しんこく》の|雲橋《くもばし》かかりて|天地《てんち》は|為《ため》に|暗黒《あんこく》となり|咫尺《しせき》を|弁《べん》ぜず。ここをもつて|常夜《とこよ》ゆく|万《よろづ》の|妖《わざはひ》ことごとく|起《おこ》り、|国土《こくど》|間断《かんだん》なく|震動《しんどう》し、|草《くさ》の|片葉《かきは》にいたるまで|言問《ことと》ふ|無道《ぶだう》の|社会《しやくわい》を|現出《げんしゆつ》し、|所々《ところどころ》に|大火《たいくわ》あり|大洪水《だいこうずゐ》あり|疫病《えきびやう》|蔓延《まんえん》して|神人《しんじん》まさに|滅亡《めつぼう》せむとし、また|銅能宮《どうのみや》は|日夜《にちや》|震動《しんどう》して|妖気《えうき》を|吐《は》き、|国魂《くにたま》の|宮《みや》また|同時《どうじ》に|大音響《だいおんきやう》を|発《はつ》して|百雷《ひやくらい》の|一時《いちじ》に|轟《とどろ》くかと|疑《うたが》はるるばかり|凶兆《きようてう》しきりにいたり、|神人《しんじん》ともに|心《こころ》|安《やす》からず、|戦々兢々《せんせんけうけう》として|纔《はづか》に|日《ひ》を|送《おく》る|状態《じやうたい》を|馴致《じゆんち》したりける。
|国魂《くにたま》の|神《かみ》よりしてすでに|斯《か》くのごとく|互《たが》ひに|主権《しゆけん》を|争《あらそ》ひ、ほとンど|寧日《ねいじつ》なきの|有様《ありさま》なりければ、その|霊精《れいせい》また|一《いち》は|八王神《やつわうじん》に|憑依《ひようい》し、|一《いち》は|八頭神《やつがしらがみ》に|憑《かか》りてつねに|狂暴《きやうばう》の|行為《かうゐ》|多《おほ》く、ことに|八頭神《やつがしらがみ》には|前《まへ》の|国魂神《くにたまがみ》|憑依《ひようい》して、|八王神《やつわうじん》の|命令《めいれい》に|一々《いちいち》|反抗《はんかう》し、たがひに|権利《けんり》を|主張《しゆちやう》して|相《あひ》|譲《ゆづ》らず、|犬猿《けんゑん》もただならず|氷炭《ひようたん》|相容《あひい》れず、|混乱《こんらん》|紛糾《ふんきう》ますます|甚《はなは》だしく、|神人《しんじん》|塗炭《とたん》の|厄《やく》に|苦《くる》しみ、|荒《あら》ぶる|神人《かみがみ》の|言騒《ことさわ》ぐその|声《こゑ》は、|五月蠅《さばえ》のごとく|群《むら》がりおこりて|修羅道《しゆらだう》を|現出《げんしゆつ》し、|動乱《どうらん》|止《や》むことなく|饑饉《ききん》|相次《あひつ》ぎ、|虎狼《こらう》、|豺狼《さいらう》、|毒蛇《どくじや》、|悪鬼《あくき》、|妖怪《えうくわい》なぞの|邪霊《じやれい》は|地上《ちじやう》に|充《み》ち|満《み》ちたり。このことただちに|国祖《こくそ》の|御耳《おんみみ》に|入《い》り、|国直姫命《くになほひめのみこと》の|口《くち》をかりて、|大八洲彦命《おほやしまひこのみこと》に|神教《しんけう》を|伝《つた》へしめたまひける。
|国祖《こくそ》の|御神教《ごしんけう》の|大要《たいえう》は、
『|天《てん》に|二日《にじつ》なく|地《ち》に|二王《にわう》なきは|天地《てんち》の|神則《しんそく》なり。|汝《なんぢ》らさきに|蛸間山《たこまやま》に|国魂《くにたま》の|神《かみ》を|鎮祭《ちんさい》しおきながら、|国魂神《くにたまがみ》には|何《なん》の|通告《つうこく》もなさず、|新《あらた》に|同《おな》じ|神山《かみやま》に|二個《にこ》の|国玉《くにたま》を|奉斎《ほうさい》せるは、おのづから|秩序《ちつじよ》を|紊乱《ぶんらん》し|争乱《そうらん》の|種《たね》をまくものなり。|彼《かれ》ら|八王神《やつわうじん》|八頭神《やつがしらがみ》は|名利《めいり》にふけりて|争《あらそ》ひ|憎《にく》み、たがひに|怒《いか》りて|天下《てんか》を|騒擾《さうぜう》せしむるの|罪《つみ》|軽《かる》からずといへども、|要《えう》するに|一所《いつしよ》の|霊山《れいざん》に|二体《にたい》の|国魂《くにたま》を|鎮《しづ》めたる|失敗《しつぱい》の|結果《けつくわ》にして、ただちに|二神《にしん》を|懲戒《ちようかい》すべきに|非《あら》ず、このたびの|出来事《できごと》はすべて|汝《なんぢ》らの|一大《いちだい》|責任《せきにん》なるぞ。|神《かみ》は|神直日《かむなほひ》|大直日《おほなほひ》に|見直《みなほ》し|詔《の》り|直《なほ》し、もつて|今回《こんくわい》はその|罪《つみ》を|問《と》はざるべし。|一日《いちにち》も|早《はや》く|改言改過《かいげんかいくわ》の|実《じつ》をあげ、|蛸間山《たこまやま》を|境《さかひ》として|国土《こくど》を|南北《なんぽく》に|両分《りやうぶん》し、その|持場《もちば》を|決定《けつてい》し、|騒乱《さうらん》を|鎮定《ちんてい》し|国祖《こくそ》の|大神《おほかみ》に|復命《ふくめい》せよ』
とおごそかに|宣《の》りたまひける。
|大八洲彦命《おほやしまひこのみこと》は|恐懼《きようく》|措《お》くところを|知《し》らず、みづからの|不明《ふめい》|不徳《ふとく》を|謝《しや》し、|大足彦《おほだるひこ》とともに|蛸間山《たこまやま》に|向《むか》つて|出発《しゆつぱつ》したまひけり。
|大八洲彦命《おほやしまひこのみこと》は|八王神《やつわうじん》に、|大足彦《おほだるひこ》は|八頭神《やつがしらがみ》にむかつて|神示《しんじ》を|説《と》き|諭《さと》し|神恩《しんおん》の|忝《かたじけ》なく|尊《たつと》きことを|慇懃《いんぎん》に|宣《の》り|伝《つた》へける。|八王神《やつわうじん》はただちに|天使長《てんしちやう》の|懇篤《こんとく》なる|説示《せつじ》を|承《うけたまは》り、|翻然《ほんぜん》として|前非《ぜんぴ》を|悟《さと》り、かつ|国魂《くにたま》の|神《かみ》のもつとも|恐《おそ》るべき|威力《ゐりよく》に|感《かん》じ、|正心《せいしん》|誠意《せいい》をもつて|神業《しんげふ》に|厚《あつ》く|奉仕《ほうし》し、かつ|如何《いか》なる|神勅《しんちよく》なりとも、|今日《こんにち》かぎり|断《だん》じて|違背《ゐはい》せじと、|心底《しんてい》より|誓約《せいやく》をなしたりにける。
これに|引替《ひきか》へ、|大足彦《おほだるひこ》は|八頭神《やつがしらがみ》なる|国玉別《くにたまわけ》にむかひ|順逆《じゆんぎやく》の|道《みち》を|説《と》き、|神《かみ》の|威徳《ゐとく》をさとし|言辞《ことば》を|竭《つく》して|説示《せつじ》したるが、|国玉別《くにたまわけ》は|天使《てんし》の|教示《けうじ》を|聞《き》くやたちまち|顔色《がんしよく》|獰猛《だうまう》の|相《さう》をあらはし、|口《くち》をきはめて|反抗《はんかう》し|容易《ようい》に|屈伏《くつぷく》せず、ほとンど|捨鉢《すてばち》となりて|天使《てんし》|大足彦《おほだるひこ》の|面上《めんじやう》に|噛《か》みつかむとせるを、|大足彦《おほだるひこ》は、|心得《こころえ》たりと|両手《りやうて》の|指《ゆび》を|交叉《かうさ》し|鎮魂《ちんこん》の|姿勢《しせい》をとり、ウーと|一声《いつせい》|発《ひら》くその|言霊《ことたま》に、|国玉別《くにたまわけ》は|地上《ちじやう》に|仰天《ぎやうてん》し|倒《たふ》れ|伏《ふ》し、|口中《こうちう》よりは|多量《たりやう》の|泡沫《あは》を|吐《は》きだし|悶《もだ》え|苦《くる》しみけり。|天使《てんし》はなほも|一声《いつせい》|言霊《ことたま》の|矢《や》を|放《はな》つや、|八頭神《やつがしらがみ》の|体内《たいない》よりは、にはかに|黒煙《こくえん》|立《た》ちのぼるよと|見《み》るまに、|金毛八尾《きんまうはちぴ》の|悪狐《あくこ》の|姿《すがた》|現《あら》はれ、|雲《くも》をかすみと|西《にし》の|空《そら》めがけて|逃失《にげう》せにけり。
|国魂神《くにたまがみ》の|嫉妬的《しつとてき》|発動《はつどう》の|狂態《きやうたい》を|洞察《どうさつ》したる|常世国《とこよのくに》の|邪神《じやしん》は、|貪《どん》・|瞋《しん》・|痴《ち》の|迷《まよひ》につけ|入《い》り、たちまち|憑依《ひようい》の|目的《もくてき》を|達《たつ》し、|進《すす》ンで|八王神《やつわうじん》を|倒《たふ》し、|八頭神《やつがしらがみ》を|失墜《しつつゐ》せしめ、|蛸間山《たこまやま》を|攪乱《かくらん》せむとしゐたりしが、|八頭神《やつがしらがみ》は|始《はじ》めて|覚醒《かくせい》し、|天使《てんし》にむかつて|以前《いぜん》の|無礼《ぶれい》を|謝《しや》し、|我《わ》が|精神《せいしん》|空弱《くうじやく》にして|意志《いし》|強《つよ》からず、つひに|邪神《じやしん》の|容器《ようき》となり、|神《かみ》を|無視《むし》し|長上《ちやうじやう》を|侮蔑《ぶべつ》し、|天地《てんち》の|律法《りつぱう》を|破《やぶ》りたる|大罪《だいざい》を|悔《く》い、|低頭平身《ていとうへいしん》|罪《つみ》に|処《しよ》せられむことを|願《ねが》ひけり。|大足彦《おほだるひこ》は、
『|国魂《くにたま》の|神《かみ》ある|上《うへ》に|重《かさ》ねて|再《ふたた》び、|国魂《くにたま》の|神《かみ》を|斎《まつ》りたるは|天使長《てんしちやう》|以下《いか》の|経綸《けいりん》を|誤《あやま》りたる|結果《けつくわ》なれば、その|責任《せきにん》は|吾《われ》らも|同様《どうやう》なり。されど|仁慈《じんじ》ふかき|大神《おほかみ》は、この|度《たび》の|事件《じけん》に|関《くわん》しては|寛大《くわんだい》なる|大御心《おほみこころ》をもつて、|神直日《かむなほひ》|大直日《おほなほひ》に|見直《みなほ》し|聞《き》き|直《なほ》し|詔《の》り|直《なほ》したまひて、|吾《われ》らがたがひの|大罪《だいざい》を|忘《わす》れさせたまひたり。|心安《こころやす》く|思召《おぼしめ》されよ』
と|満面《まんめん》|笑《ゑみ》をうかべて|宣《の》り|聞《き》かせたるに、|国玉別《くにたまわけ》は|神恩《しんおん》の|尊《たふと》く|忝《かたじけ》なさに|涙《なみだ》を|滝《たき》のごとく|流《なが》し、|衷心《ちうしん》より|改悛《かいしゆん》の|情《じやう》をあらはし、|八王神《やつわうじん》に|忠実《ちうじつ》に|仕《つか》へける。それより|天地《てんち》|和順《わじゆん》し|上下《じやうげ》よく|治《をさ》まりて、|松《まつ》の|神代《かみよ》の|常永《とことは》に|時津風《ときつかぜ》|枝《えだ》も|鳴《な》らさぬ|聖代《せいだい》を|招来《せうらい》したりける。
|今《いま》まで|天空《てんくう》に|橋状《けうじやう》をなして|横《よこ》たはりし|黒雲《こくうん》は、|次第《しだい》に|散乱《さんらん》して|拭《ぬぐ》ふがごとく、|天《てん》|明《あき》らけく|地《ち》|清《きよ》く、|神人《しんじん》|和楽《わらく》の|極楽《ごくらく》|浄土《じやうど》を|現出《げんしゆつ》したるぞ|目出度《めでた》けれ。これより|二個《にこ》の|国魂《くにたま》を|南北《なんぽく》に|分《わか》ち|祭《まつ》られ、|国土《こくど》を|二分《にぶん》して、|北方《ほつぱう》は|八王神《やつわうじん》|吾妻別《あづまわけ》これを|主管《しゆくわん》し、|南方《なんぱう》は|八頭神《やつがしらがみ》|国玉別《くにたまわけ》これを|主管《しゆくわん》することとなりぬ。|君主的《くんしゆてき》|神政《しんせい》の|神界《しんかい》の|経綸《けいりん》も、ここにいよいよ|民主的《みんしゆてき》|神政《しんせい》の|端《たん》を|啓《ひら》かれたるぞ|是非《ぜひ》なけれ。
(大正一〇・一一・二〇 旧一〇・二一 午後八時東の天より西の天に向つて一条の怪しき黒雲横たはり、天を南北に区劃し、天地暗憺たる時、竜宮館において、加藤明子録)
第二五章 |邪神《じやしん》の|滅亡《めつぼう》〔一二五〕
|吾妻別《あづまわけ》、|吾妻姫《あづまひめ》|二人《ふたり》の|間《あひだ》に、|月世姫《つきよひめ》、|月照姫《つきてるひめ》、|五月姫《さつきひめ》の|三人《さんにん》の|娘《むすめ》|生《うま》れたり。|長女《ちやうぢよ》の|月世姫《つきよひめ》は、その|性質《せいしつ》|粗暴《そばう》にして|常《つね》に|邪神《じやしん》の|群《むれ》に|出入《しゆつにふ》し、|邪神《じやしん》と|結託《けつたく》して、|蛸間山《たこまやま》を|混乱《こんらん》|紛擾《ふんぜう》せしむることにのみ|全力《ぜんりよく》を|集注《しふちう》しゐたりけるが、|吾妻別《あづまわけ》の|重臣《ぢうしん》たる|日出彦《ひのでひこ》は、|平素《へいそ》|月世姫《つきよひめ》の|行動《かうどう》ますます|暴逆《ばうぎやく》の|度《ど》を|加《くは》へ、|非事醜行《ひじしうかう》|止《や》まざるを|歎《なげ》き、|涙《なみだ》をふるつてしばしばこれを|諫《いさ》めたれども、|月世姫《つきよひめ》は|一言半句《いちごんはんく》も|耳《みみ》をかさず、つひには|日出彦《ひのでひこ》を|讒訴《ざんそ》してこれを|排除《はいじよ》せむとくはだて、|百方《ひやつぱう》|手段《しゆだん》をつくして|蛸間山城《たこまさんじやう》の|神人《かみがみ》を|籠絡《ろうらく》し、|市守姫《いちもりひめ》、|畑野彦《はたのひこ》、|田長彦《たながひこ》、|国平別《くにひらわけ》、|竹代彦《たけよひこ》らを|股肱《ここう》の|臣《しん》となし、|昼夜《ちうや》|謀計《ぼうけい》をめぐらし、|日出彦《ひのでひこ》に|失敗《しつぱい》を|来《きた》さしめむとし、ここに|芳香姫《よしかひめ》といふ|美《うる》はしき|女性《によしよう》に|策《さく》を|授《さづ》けて、|日出彦《ひのでひこ》を|陥《おとし》いれむとしたりけり。
|日出彦《ひのでひこ》は|八王神《やつわうじん》の|命《めい》を|奉《ほう》じて、|竜宮城《りゆうぐうじやう》に|使《つか》ひせむとする|時《とき》、|芳香姫《よしかひめ》は|門《もん》に|立《たち》ふさがり|日出彦《ひのでひこ》の|袖《そで》をひきてこれをとどめ、かつその|顔色《かほいろ》を|熟視《じゆくし》していふ。
『|貴下《きか》は|何故《なにゆゑ》に|妾《わらは》を|平素《へいそ》|詐《いつは》りたまひしや、|残念々々《ざんねんざんねん》』
と|身《み》をふるはし、|声《こゑ》をくもらせ|涕泣《ていきふ》する。|日出彦《ひのでひこ》は|芳香姫《よしかひめ》の|言《げん》、|少《すこ》しも|合点《がつてん》ゆかず、ただ|呆然《ばうぜん》として|芳香姫《よしかひめ》の|様子《やうす》を|怪《あや》しみ|眺《なが》めゐたるのみ。
|芳香姫《よしかひめ》はたちまち|日出彦《ひのでひこ》に|抱《いだ》きつき、
『|無情《むじやう》|非道《ひだう》のわが|夫《をつと》よ。しらじらしきその|御様子《ごやうす》。アヽ|妾《わらは》は|今《いま》まで|貴下《きか》の|玩弄物《おもちや》とされゐたるか。|死《し》なば|諸共《もろとも》|死出《しで》の|山《やま》、|三途《さんづ》の|川《かは》もともどもに|渡《わた》らむものと|誓《ちか》ひし|仲《なか》をも|顧《かへり》みず、|竜宮城《りゆうぐうじやう》に|御使《おつか》ひの|旅出《たびで》に、ただ|一言《いちごん》の|御相談《ごさうだん》もなく|妾《わらは》を|捨《す》て、はるばると|出行《いでゆ》きたまふは|余《あま》りの|無情《むじやう》。アヽ|残念《ざんねん》や、|口惜《くちをし》や』
と|歯《は》をくひしばり、|大地《だいち》にドツと|打《う》ち|伏《ふ》し、|声《こゑ》をかぎりに|泣《な》き|叫《さけ》びける。
|日出彦《ひのでひこ》は|藪《やぶ》から|棒《ぼう》の|出来事《できごと》に、|月世姫《つきよひめ》|一派《いつぱ》の|奸計《かんけい》とは|知《し》らず、
『|芳香姫《よしかひめ》は|発狂《はつきやう》せしか、|不憫《ふびん》の|者《もの》よ』
といひつつも、|直《ただ》ちに|手《て》をとり|抱《いだ》きおこし|労《いた》はり|介抱《かいはう》せむとする|折《をり》しも、|時《とき》を|待《ま》ちゐたる|月世姫《つきよひめ》は、|市守姫《いちもりひめ》、|畑野彦《はたのひこ》、|田長彦《たながひこ》、|国平別《くにひらわけ》、|竹代彦《たけよひこ》らの|一味《いちみ》と|共《とも》にその|場《ば》に|現《あら》はれ、
『|天地《てんち》の|律法《りつぱう》を|破《やぶ》れる|不義《ふぎ》もの、|日出彦《ひのでひこ》を|縛《しば》れよ』
と|下知《げち》の|声《こゑ》とともに、|田長彦《たながひこ》らは|何《なん》の|容赦《ようしや》もなく|荒繩《あらなは》おつとり、|手足《てあし》をしばりて|八王神《やつわうじん》の|御前《みまへ》にまかりいで、
『|天地《てんち》の|律法《りつぱう》を|破《やぶ》り、|芳香姫《よしかひめ》を|玩弄《ぐわんろう》せし|曲者《くせもの》|捕《とら》へたり。かかる|曲者《くせもの》を|城内《じやうない》に|止《とど》めおくは、|風儀《ふうぎ》を|乱《みだ》し|秩序《ちつじよ》を|破《やぶ》るの|恐《おそ》れあるのみならず、|八王神《やつわうじん》の|御名《おんな》の|汚《けが》れなり。すみやかに|厳罰《げんばつ》に|処《ところ》し、|当城《たうじやう》を|追放《つゐはう》し|禍根《くわこん》を|絶《た》ちたまへ。|証拠《しようこ》は|吾《われ》ら|数名《すうめい》の|実地《じつち》|目撃《もくげき》せるところなり』
と|言辞《ことば》たくみに|無実《むじつ》の|奏上《そうじやう》をなしたりしが、|日出彦《ひのでひこ》は、|神色自若《しんしよくじじやく》として|恐《おそ》るる|心《こころ》なく、
『ただただ|賢明《けんめい》なる|八王神《やつわうじん》の|御裁断《ごさいだん》を|請《こ》ひ|奉《たてまつ》る』
と|言《い》ひしまま、|一言《いちごん》も|発《はつ》せざりける。
|八王神《やつわうじん》は、|黙然《もくぜん》としてこの|訴《うつた》へを|聞《き》きつつありしが、|何《なん》の|言葉《ことば》もなく、ツト|立《た》ちて|宮殿《きうでん》の|奥《おく》|深《ふか》く|入《い》りたまひ、ただちに|神前《しんぜん》に|端坐《たんざ》して|神教《しんけう》を|請《こ》ひたまひ、|日出彦《ひのでひこ》、|月世姫《つきよひめ》その|他《た》|一同《いちどう》を|召《め》し|出《だ》し|列《れつ》を|作《つく》らしめ、|日出彦《ひのでひこ》にむかつて|叮嚀《ていねい》に|言葉《ことば》をかけ、|吾《わ》が|長女《ちやうぢよ》|月世姫《つきよひめ》の|不都合《ふつがふ》きはまる|行動《かうどう》を|謝《しや》し、かつ、|懇《ねんご》ろにこれを|慰撫《ゐぶ》したまひ、|月世姫《つきよひめ》に|向《むか》つて|今後《こんご》を|戒《いまし》め、その|他《た》の|神人《かみがみ》にも|厳《きび》しく|訓戒《くんかい》したまひ、ここにいよいよ|神示《しんじ》によりて|日出彦《ひのでひこ》の|疑《うたが》ひは|氷解《ひようかい》され、|正邪《せいじや》の|判断《はんだん》は、|日月《じつげつ》のごとく|明《あき》らかとなりにける。
|日出彦《ひのでひこ》は|無実《むじつ》の|疑《うたが》ひ、まつたく|神《かみ》の|明白《めいはく》なる|教示《けうじ》によりて|晴《は》れわたりたれば、|天地《てんち》にむかつて|拝謝《はいしや》し、|急《いそ》ぎ|竜宮城《りゆうぐうじやう》さして|出発《しゆつぱつ》したりける。
|月世姫《つきよひめ》は|謀計《ぼうけい》のガラリはづれたるに|失望《しつばう》し、いかにもして|初志《しよし》を|達《たつ》せむと、|蛸間《たこま》の|滝《たき》に|芳香姫《よしかひめ》をともなひ、|悪竜《あくりう》の|神《かみ》に|七日七夜《なぬかななよ》|祈願《きぐわん》を|籠《こ》めけるが、|芳香姫《よしかひめ》は|忽然《こつぜん》として|六面八臂《ろくめんはつぴ》の|邪鬼《じやき》と|変《へん》じ、|中空《ちうくう》に|駆《か》けのぼるよと|見《み》るまに、|東北《とうほく》の|天《てん》に|怪《あや》しき|雲塊《うんくわい》あらはれ、たちまち|西北《せいほく》の|空《そら》にむかつて|延長《えんちやう》し、|昼夜《ちうや》を|弁《べん》ぜざる|常暗《とこやみ》の|空《そら》となり、あまたの|黒竜《こくりう》は|月世姫《つきよひめ》の|頭上《づじやう》|目《め》がけて|降《くだ》りきたり、|盛《さか》ンに|毒気《どくき》を|吹《ふ》きかけ、|火炎《くわえん》の|舌《した》を|出《だ》して|月世姫《つきよひめ》を|喰《く》ひ|殺《ころ》さむとす。このとき|月世姫《つきよひめ》は|声《こゑ》をあげていふ。
『|汝《なんぢ》は|芳香姫《よしかひめ》の|変化《へんげ》にあらずや。|妾《わらは》の|汝《なんぢ》に|命《めい》ずるところは、|妾《わらは》を|苦《くる》しめよとには|非《あら》ず。|日出彦《ひのでひこ》を|悩《なや》ませ|滅亡《めつぼう》せしめむがためなり。|何《なに》をまちがへてかかる|反対的《はんたいてき》|行動《かうどう》をとるや』
と|絶叫《ぜつけう》したりしに、その|時《とき》|黒雲《こくうん》の|間《あひだ》より|声《こゑ》ありて、
『|汝《なんぢ》は|実《じつ》に|悪逆無道《あくぎやくぶだう》なり。|芳香姫《よしかひめ》は|今《いま》や|悪竜《あくりう》となりて|汝《なんぢ》を|滅《ほろ》ぼさむとす。|他《ひと》を|呪《のろ》はば|穴《あな》|二《ふた》つ、|自己《おのれ》に|出《いづ》るものは|自己《おのれ》に|還《かへ》る。|天《てん》の|賞罰《しやうばつ》は、|寸毫《すんがう》もたがふことなし、|思《おも》ひ|知《し》れや』
と|言葉《ことば》の|下《した》より|鎗《やり》の|穂尖《ほさき》は|雨《あめ》の|降《ふ》るがごとく、|危険《きけん》|身《み》にせまりて|寸毫《すんがう》も|免《のが》るるの|余地《よち》なかりけるが、|辛《から》うじてわが|居室《きよしつ》に|逃《に》げいりホツト|一息《ひといき》つぐ|間《ま》もなく、|家《いへ》の|四隅《しぐう》より|毒竜《どくりう》あまた|出現《しゆつげん》して|瞬《またた》くうちに|火炎《くわえん》と|化《くわ》し、|烟《けむり》は|身辺《しんぺん》をつつみ、|猛火炎々《まうくわえんえん》として|天《てん》に|冲《ちゆう》し、|月世姫《つきよひめ》は|黒焦《くろこげ》となりて|敢《あえ》なくも|亡《ほろ》びける。|今《いま》まで|稍《やや》さえたる|月世姫《つきよひめ》も、|神《かみ》の|懲罰《ちようばつ》によりて|暗路《やみぢ》をたどり|幽界《いうかい》のふたたび|刑罰《けいばつ》を|受《う》くるの|破目《はめ》に|陥《おちい》りしなり。アヽ|天地《てんち》に|依怙《えこ》なし、|善《ぜん》を|助《たす》け|悪《あく》を|亡《ほろ》ぼし、|世界《せかい》の|神人《しんじん》を|戒《いまし》めたまふこと、|実《じつ》に|明鏡《めいきやう》の|物《もの》を|写《うつ》して|余蘊《ようん》なきがごとし。|慎《つつし》むべきは|悪事《あくじ》にして、|恐《おそ》るべきは|天地《てんち》|神明《しんめい》の|大道《だいだう》なり。|神《かみ》はかかる|暗黒《あんこく》|無道《ぶだう》の|世《よ》に|出現《しゆつげん》して、|神《しん》、|幽《いう》、|現《げん》の|三界《さんがい》の|立替《たてかへ》|立直《たてなほ》しの|神業《しんげふ》を|開始《かいし》し、|真善美《しんぜんび》の|天国《てんごく》を|地上《ちじやう》に|樹立《じゆりつ》したまはむとす。|神《かみ》の|国《くに》に|生《うま》れ、|神《かみ》の|国《くに》の|粟《あは》を|食《は》む|神《かみ》の|子孫《しそん》たる|吾人《ごじん》は、つつしみて|神業《しんげふ》に|奉仕《ほうし》し、|神恩《しんおん》に|報《むく》いたてまつるべき|責任《せきにん》の|重大《ぢゆうだい》なるを|深《ふか》く|自覚《じかく》すべきなり。
(大正一〇・一一・二〇 旧一〇・二一 外山豊二録)
(第二四章〜第二五章 昭和一〇・一・一六 於亀の井旅館 王仁校正)
第二六章 |大蛇《をろち》の|長橋《ながはし》〔一二六〕
モスコーには、|黒色《こくしよく》の|玉《たま》を|安置《あんち》し、これを|烏羽玉《うばたま》の|宮《みや》といふ。|道貫彦《みちつらひこ》を|八王神《やつわうじん》となし、|道貫姫《みちつらひめ》を|妻《つま》として|神務《しんむ》を|輔佐《ほさ》せしめ、|夕日別《ゆふひわけ》を|八頭神《やつがしらがみ》とし、|夕照姫《ゆふてるひめ》を|妻《つま》として|神政《しんせい》を|輔翼《ほよく》せしめたまへり。
|夕照姫《ゆふてるひめ》は|常《つね》に|気《き》の|勝《か》ちたる|女性《ぢよせい》にして、したがつて|肉体《にくたい》|甚《はなは》だ|弱《よわ》く、|常《つね》に|病魔《びやうま》の|襲《おそ》ふところとなりゐたり。その|病魔《びやうま》は|八頭八尾《やつがしらやつを》の|大蛇《をろち》の|眷族《けんぞく》|大蛇姫《をろちひめ》といふ|邪霊《じやれい》ありて、|憑依《ひようい》し、|姫《ひめ》の|身体《しんたい》を|苦《くる》しめゐたり。これがために|夕照姫《ゆふてるひめ》はつひに|重態《ぢうたい》におちいり、|危篤《きとく》に|瀕《ひん》しければ、|夕日別《ゆふひわけ》は|枕頭《ちんとう》をはなれず|親《した》しく|看護《かんご》に|手《て》をつくしたり。|従《したが》つて|夫婦《ふうふ》の|仲《なか》はきはめて|親密《しんみつ》なりける。|夕照姫《ゆふてるひめ》は|臨終《りんじゆう》にさいし、|夕日別《ゆふひわけ》にむかひ、
『|妾《わらは》が|死後《しご》はかならず|後妻《ごさい》を|納《い》れたまふなかれ』
と|遺言《ゆゐごん》せむとし、|言《い》ひだしかねて|煩悶《はんもん》し、|連日《れんじつ》|連夜《れんや》|夫《をつと》の|顔《かほ》を|凝視《みつめ》てゐたりける。|夕照姫《ゆふてるひめ》は、|吾《わ》が|死後《しご》において|夫《をつと》の|後妻《ごさい》を|娶《めと》るを|嫉《ねた》ましきことに|思《おも》ひ、その|一念《いちねん》|執着《しふちやく》のため、|臨終《りんじゆう》の|息《いき》を|引《ひ》きとりかねゐたりけるより、|夕日別《ゆふひわけ》はつひにその|心中《しんちゆう》を|察知《さつち》し、|妻《つま》にむかひて、
『|汝《なんぢ》は|吾《われ》に|心《こころ》を|残《のこ》すことなく|神界《しんかい》にいたるべし。|汝《なんぢ》の|昇天後《しようてんご》、|吾《われ》は|断《だん》じて|後妻《ごさい》を|納《い》れじ、|安心《あんしん》せよ』
と|約《やく》したりければ、|夕照姫《ゆふてるひめ》は|満面《まんめん》|笑《ゑみ》をふくみ|眠《ねむ》るがごとく|絶息《ぜつそく》したりける。
かくて|夕日別《ゆふひわけ》は|多《おほ》くの|年《とし》を|経《へ》たるが、|老年《らうねん》におよび|淋《さび》しくなりしより、|後妻《ごさい》を|娶《めと》らむとするの|心《こころ》を|抱《いだ》きける。|部下《ぶか》の|神人《かみがみ》は、|命《みこと》の|老《おい》て|寂寥《せきれう》を|嘆《なげ》きたまふを|気《き》の|毒《どく》に|思《おも》ひ、|後妻《ごさい》を|娶《めと》られむことを|勧《すす》めけるに|命《みこと》はおほいに|喜《よろこ》び、|夕照姫《ゆふてるひめ》との|約束《やくそく》を|無視《むし》して、|八王神《やつわうじん》|道貫彦《みちつらひこ》の|娘《むすめ》なる|夕凪姫《ゆふなぎひめ》を|娶《めと》りける。
|夕日別《ゆふひわけ》はそれより|元気《げんき》とみに|回復《くわいふく》し、|領内《りやうない》の|巡視《じゆんし》に、あまたの|従者《じゆうしや》をしたがへ|出張《しゆつちやう》さるることしばしばなりき。|夕凪姫《ゆふなぎひめ》はいつも|奥殿《おくでん》に|居住《きよぢう》して|外出《ぐわいしゆつ》せざりけるが、ある|時《とき》、たちまち|天上《てんじやう》より|黒雲《こくうん》に|乗《の》りて|降《くだ》りきたる|容貌《ようばう》|醜悪《しうあく》なる|鬼女《きぢよ》あり。|薙刀《なぎなた》をひつさげ、|夕凪姫《ゆふなぎひめ》の|前《まへ》に|現《あら》はれて、
『|妾《わらは》こそは|夕照姫《ゆふてるひめ》なり。|夫《をつと》は、|妾《わらは》が|臨終《りんじゆう》のときの|堅《かた》き|約束《やくそく》を|破《やぶ》り、|汝《なんぢ》を|納《い》れて|後妻《ごさい》としたり。|妾《わらは》は|夫《をつと》にたいして|恨《うらみ》を|晴《は》らさむと|日夜《にちや》つけねらへども、|神力強盛《しんりききやうせい》にしていかんともすること|能《あた》はず。よつて、その|片割《かたわれ》なる|汝《なんぢ》と|雌雄《しゆう》を|決《けつ》せむ。|尋常《じんじやう》に|勝負《しようぶ》あれ』
と|呼《よ》ばはりけるに、|夕凪姫《ゆふなぎひめ》も|元来《ぐわんらい》|勝気《かちき》の|女性《ぢよせい》なれば、|少《すこ》しも|怖《おそ》れず、ただちに|立《た》つて|長押《なげし》に|懸《か》けし|薙刀《なぎなた》を|取《と》るより|早《はや》く|立《た》ちむかひける。かくして|互《たが》ひに|火花《ひばな》を|散《ち》らし、|秘術《ひじゆつ》をつくして|戦《たたか》ひけれども|容易《ようい》に|勝負《しようぶ》はつかず、|鶏鳴《けいめい》とともに|夕照姫《ゆふてるひめ》は、ふたたび|黒雲《こくうん》にのり|中空《ちうくう》に|影《かげ》を|没《ぼつ》したりける。|夫《をつと》の|不在中《ふざいちゆう》は、|毎夜《まいよ》|時刻《じこく》を|定《さだ》めて|現《あら》はれきたり、たがひに|薙刀《なぎなた》をもつて|勝負《しようぶ》を|争《あらそ》ひゐたるをもつて、|一間《ひとま》のうちは|天井裏《てんじやううら》、|柱《はしら》、|畳《たたみ》、|襖《ふすま》の|区別《くべつ》なく、|薙刀《なぎなた》の|創痕《きずあと》ばかりとなりける。されども|夕凪姫《ゆふなぎひめ》は|深《ふか》くこれを|秘《ひ》して|何人《なにびと》にも|漏《も》らさざりけり。
|夕日別《ゆふひわけ》は|領内《りやうない》の|巡視《じゆんし》を|終《を》へ、|帰城《きじやう》して|夕凪姫《ゆふなぎひめ》の|奥殿《おくでん》に|入《い》り、|居室《きよしつ》の|刀痕《かたなあと》を|見《み》ておほいに|怪《あや》しみ、その|理由《りいう》を|尋《たづ》ねける。|夕凪姫《ゆふなぎひめ》はやむを|得《え》ず|有《あ》りし|次第《しだい》をもれなく|物語《ものがた》りしに、|夫《をつと》はこれを|聞《き》きておほいに|驚《おどろ》き、ただちに|烏羽玉宮《うばたまのみや》にいたり、|祈願《きぐわん》を|凝《こ》らし、かつ|宮司《ぐうじ》|高国別《たかくにわけ》をもつて|神勅《しんちよく》を|奏請《そうせい》したりける。
ときに|巫子《みこ》あり、にはかに|身体《しんたい》|震動《しんどう》し、|大地《だいち》にバツタと|倒《たふ》れ、|起《おき》あがりてはまた|倒《たふ》れ、|大声《おほごゑ》を|放《はな》つて|泣《な》き|叫《さけ》び、|夕日別《ゆふひわけ》の|面上《めんじやう》を|穴《あな》のあくばかりに、|怨恨《えんこん》に|燃《も》ゆる|嫌《いや》らしき|目《め》をもつて|睨《にら》みつけ、
『|汝《なんぢ》|夕日別《ゆふひわけ》は、|妾《わらは》との|約束《やくそく》を|破《やぶ》り、|夕凪姫《ゆふなぎひめ》を|後妻《ごさい》にいれたり。ただ|今《いま》、|目《め》に|物《もの》|見《み》せむ』
と|矢庭《やには》に|飛《と》びかかり、|命《みこと》の|首《くび》に|手《て》をかけ、|生首《いきくび》を|引《ひ》き|抜《ぬ》かむと|猛《たけ》りくるふその|有様《ありさま》は、|身《み》の|毛《け》もよだつばかりなりける。
|夕日別《ゆふひわけ》は|如何《いかん》ともするよしなく、ただ|違約《ゐやく》の|罪《つみ》を|謝《しや》し、かつ、
『|夕凪姫《ゆふなぎひめ》を|離縁《りえん》して|汝《なんぢ》の|霊《れい》を|慰《なぐさ》め、|冥福《めいふく》を|祈《いの》るべければ、|今回《こんくわい》は|許《ゆる》せよ』
といひけるに、|巫女《みこ》はふたたび|口《くち》を|切《き》りて、
『しからば|妾《わらは》が|要求《えうきう》すべきことあり、|第一《だいいち》にその|要求《えうきう》を|容《い》れたまふか』
と|念《ねん》を|押《お》したり。|夕日別《ゆふひわけ》は|震慄《しんりつ》しながら、
『|何事《なにごと》にても|我《わ》が|力《ちから》のおよぶ|範囲《はんゐ》のことならば|汝《なんぢ》の|要求《えうきう》に|応《おう》ずべし』
と|言葉《ことば》も|切《き》れぎれに|息《いき》をはづませて|答《こた》へける。|巫女《みこ》はやや|顔色《がんしよく》をやはらげ、
『|然《しか》らばモスコーの|長橋《ながはし》の|袂《たもと》に、|今宵《こよひ》|丑満《うしみつ》の|時《とき》を|期《き》して、|三万匹《さんまんびき》の|蛙《かへる》を|捕《とら》へ、|笊籠《ざるかご》に|納《をさ》めて|汝《なんぢ》みづから|持《も》ちきたれ』
といふを、|夕日別《ゆふひわけ》は|恐怖《きようふ》のあまり|一《いち》も|二《に》もなくこれを|承諾《しようだく》して|館《やかた》に|帰《かへ》り、|即時《そくじ》に|数多《あまた》の|神卒《しんそつ》に|命《めい》じ、|山野《さんや》にいでて|蛙《かへる》を|捕獲《ほくわく》せしめたれど、|蛙《かへる》は|漸《やうや》く|三百匹《さんびやくぴき》より|集《あつ》まらず、|夕照姫《ゆふてるひめ》の|要求《えうきう》の|百分《ひやくぶん》の|一《いち》を|得《え》たるに|過《す》ぎざりける。ここに|夕日別《ゆふひわけ》はやむを|得《え》ずあまたの【なめくじ】を|捕《とら》へてこれを|底積《そこづみ》となし、|蛙《かへる》をもつて|上側《うはかは》をつつみ、|侍神《じしん》をして|丑満《うしみつ》の|刻《こく》を|期《き》し、|長橋《ながはし》の|袂《たもと》に|持《も》ち|運《はこ》ばしめける。
たちまち|天上《てんじやう》より|黒雲《こくうん》に|乗《の》りくる|鬼女《きぢよ》あり。|侍者《じしや》は|驚《おどろ》きその|場《ば》に|打《う》ち|倒《たふ》れむとするとき、|鬼女《きぢよ》はこれを|助《たす》けおこし|侍者《じしや》にむかひて、
『|夕日別《ゆふひわけ》は|何故《なにゆゑ》|来《きた》りたまはざりしや』
と|問《と》ひければ、|侍者《じしや》は|答《こた》へて、
『|命《みこと》は|数十万《すうじふまん》の【なめくじ】を|室《しつ》の|四周《ししう》に|集《あつ》め、その|中《なか》に|安座《あんざ》して|出《い》でたまはず、|夕凪姫《ゆふなぎひめ》と|相《あひ》|擁《よう》して|楽《たの》しみゐたまへり』
と|答《こた》へたるに、|鬼女《きぢよ》はたちまち|忿怒《ふんど》の|色《いろ》を|現《あら》はし、|見《み》る|見《み》る|黒《くろ》き|大蛇《をろち》の|姿《すがた》となり、|蛙《かへる》の|入《い》れある|笊《ざる》に|頭《あたま》を|投《な》げ|入《い》れ、|一口《ひとくち》に|喰《く》ひつくしたるが、たちまち【なめくじ】の|毒《どく》にあてられ、|大蛇《をろち》の|身体《しんたい》は|見《み》るまに|溶解《ようかい》|消滅《せうめつ》して|跡《あと》には|骨《ほね》のみを|残《のこ》し、|夕照姫《ゆふてるひめ》の|怨霊《おんりやう》はここにまつたく|滅尽《めつじん》したりける。
|夕凪姫《ゆふなぎひめ》は、それより|先妻《せんさい》|同様《どうやう》の|病《やまひ》を|発《はつ》し、|帰幽《きいう》してその|霊魂《れいこん》は|大蛇《をろち》と|化《くわ》し、|長橋《ながはし》の|守護神《しゆごじん》となりにける。これを「|大蛇《をろち》の|長橋《ながばし》」と|称《とな》ふ。
(大正一〇・一一・二八 旧一〇・二九 加藤明子録)
第八篇 |神界《しんかい》の|変動《へんどう》
第二七章 |不意《ふい》の|昇天《しようてん》〔一二七〕
|天地《てんち》の|律法《りつぱう》|御制定《ごせいてい》とともに|各山《かくざん》|各地《かくち》の|守護神《しゆごじん》は、いづれも|更迭《かうてつ》を|命《めい》ぜられける。その|中《なか》に|高白山《かうはくざん》や|長高山《ちやうかうざん》のごとく|以前《いぜん》のままに|守護神《しゆごじん》としてとどまり、|神務《しんむ》を|奉仕《ほうし》する|神司《かみがみ》もありける。ただ|重要《ぢうえう》なる|地域《ちゐき》にかぎり|十二柱《じふにはしら》の|八王神《やつわうじん》と|八頭神《やつがしらがみ》らを|配置《はいち》したまへり。ローマは|神界《しんかい》|経綸上《けいりんじやう》もつとも|大切《たいせつ》なる|地域《ちゐき》なるより、|神界《しんかい》にてもことに|有力《いうりよく》なる|神人《かみがみ》をして|守護《しゆご》せしめられたり。ローマの|都《みやこ》には|白色《はくしよく》の|国魂《くにたま》を|祭《まつ》りこれを|白玉《しらたま》の|宮《みや》と|名《な》づけ、また|白波《しらなみ》の|宮《みや》とも|称《とな》へけり。|元照別《もとてるわけ》を|八王神《やつわうじん》に|任《にん》じ|元照姫《もとてるひめ》を|妻《つま》として|神務《しんむ》を|輔佐《ほさ》し、|朝照彦《あさてるひこ》は|八頭神《やつがしらがみ》を|命《めい》ぜられ|朝照姫《あさてるひめ》を|妻《つま》として|神政《しんせい》を|補助《ほじよ》せしめ、|水口別《みづぐちわけ》、|大依別《おほよりわけ》を|部将《ぶしやう》とし|盛《さか》ンに|経綸《けいりん》をおこなひ、|神徳《しんとく》|隆々《りうりう》として|旭日昇天《きよくじつしようてん》の|勢《いきほひ》なりけり。
このとき|山口別《やまぐちわけ》といふ|者《もの》あり、ローマを|占領《せんりやう》せむことを|企《くはだ》てゐたり。|彼《かれ》は|鬼雲別《おにくもわけ》、|蚊取別《かとりわけ》らの|魔《ま》を|奉《ほう》じて|羅馬城《ローマじやう》を|顛覆《てんぷく》しここに|大根拠《だいこんきよ》をかまへ、|漸次《ぜんじ》に|進《すす》ンで|竜宮城《りゆうぐうじやう》を|奪取《だつしゆ》し、つひに|地《ち》の|高天原《たかあまはら》をも|占領《せんりやう》せむと|企《くはだ》て、|常世《とこよ》の|国《くに》の|八王大神《やつわうだいじん》なる|常世彦《とこよひこ》を|首領《しゆりやう》として、あまたの|邪神《じやしん》とともに|四方《しはう》|八方《はつぱう》より|全力《ぜんりよく》をつくしてローマに|攻《せ》め|寄《よ》せけり。|元照別《もとてるわけ》は|朝照彦《あさてるひこ》とともに|地《ち》の|高天原《たかあまはら》に|急使《きふし》を|馳《は》せて、|救援軍《きうゑんぐん》を|送《おく》られむことを|請《こ》ひ|来《きた》りぬ。
|地《ち》の|高天原《たかあまはら》においては|国直姫命《くになほひめのみこと》、|大八洲彦命《おほやしまひこのみこと》、|真澄姫《ますみひめ》|協議《けふぎ》の|結果《けつくわ》、|大足彦《おほだるひこ》に|道貴彦《みちたかひこ》を|副《そ》へてローマの|救援《きうゑん》に|向《むか》はしめられたり。しかるにローマは|地《ち》の|高天原《たかあまはら》および|万寿山《まんじゆざん》と|相《あひ》|並《なら》びて、|神界《しんかい》の|経綸上《けいりんじやう》、その|大半《たいはん》はここに|根拠《こんきよ》を|据《す》ゑざるべからざる|要所《えうしよ》なり。
|大足彦《おほだるひこ》は|八王神《やつわうじん》|元照別《もとてるわけ》、|八頭神《やつがしらがみ》|朝照彦《あさてるひこ》ら、|各地《かくち》に|配置《はいち》されたる|十一柱《じふいちはしら》の|八王神《やつわうじん》をここに|集《あつ》め、|十二《じふに》の|八頭神《やつがしらがみ》に|国魂《くにたま》の|守護《しゆご》を|一時《いちじ》|委任《ゐにん》することと|定《さだ》め、|十一《じふいち》の|八王神《やつわうじん》はあまたの|神将《しんしやう》|神卒《しんそつ》を|引《ひき》つれローマにあつまり、|八王大神《やつわうだいじん》の|魔軍《まぐん》にむかつて、あるひは|攻《せ》め|或《ある》ひは|防《ふせ》ぎ|全力《ぜんりよく》を|傾注《けいちう》し、|一時《いちじ》は|非常《ひじやう》なる|勢力《せいりよく》にて、さすがの|八王大神《やつわうだいじん》の|全力《ぜんりよく》をつくしたる|攻撃軍《こうげきぐん》も|敵《てき》しかね、|旗色《はたいろ》|俄《にはか》にさびしくなりきたりて、やや|小康《せうかう》を|得《え》たるローマの|聖都《せいと》は、|八王神《やつわうじん》おのおの|心《こころ》をゆるめ、|難《なん》を|避《さ》け|安《やす》きに|移《うつ》らむとする|萠《きざ》しを|馴致《じゆんち》したりける。
ここに|十二《じふに》の|八王神《やつわうじん》はたがひに|嫉視反目《しつしはんもく》して|同志討《どうしう》ちをはじめたる。この|虚《きよ》に|乗《じやう》じて|常世彦《とこよひこ》の|魔軍《まぐん》は、|醜女《しこめ》、|探女《さぐめ》を|深《ふか》く|城内《じやうない》に|入《い》らしめ、|内部《ないぶ》より|土崩瓦潰《どほうぐわくわい》せしめむと|全力《ぜんりよく》を|傾注《けいちう》したり。|八王神《やつわうじん》|各自《かくじ》の|嫉視反目《しつしはんもく》はおひおひ|激《はげ》しく、あたかも|洪水《こうずゐ》の|堤《つつみ》を|崩《くづ》すごとく、さすがの|大足彦《おほだるひこ》、|道貴彦《みちたかひこ》も、これを|鎮定《ちんてい》するの|手段《しゆだん》|尽《つ》きたりにける。
かくして|八王神《やつわうじん》はローマに|集《あつ》まり、|争闘《そうとう》につぐに|争闘《そうとう》をもつてし、|許多《きよた》の|年月《としつき》を|経過《けいくわ》したり。|七王《ななわう》も|八王《やわう》も|協心戮力《けふしんりくりよく》もつて|敵《てき》を|亡《ほろ》ぼさむとしたる|計画《けいくわく》は、かへつて|失敗《しつぱい》の|大原因《だいげんいん》となり、そのあひだに|大国彦《おほくにひこ》、|常世彦《とこよひこ》の|両派《りやうは》の|魔軍《まぐん》は、|八頭神《やつがしらがみ》を|使嗾《しそう》して|八王神《やつわうじん》にたいし|反旗《はんき》を|揚《あ》げしめ、|独立《どくりつ》を|計《はか》ることとなりぬ。これぞ|世界《せかい》の|国々《くにぐに》の|分立《ぶんりつ》|割拠《かつきよ》する|端緒《たんちよ》となりける。
ローマ|城《じやう》は|内部《ないぶ》の|暗闘《あんとう》と|探女《さぐめ》の|陰密的《いんみつてき》|活躍《くわつやく》に|加《くは》へて、|外部《ぐわいぶ》よりふたたび|常世彦《とこよひこ》の|部下《ぶか》の|山口別《やまぐちわけ》らの|総攻撃《そうこうげき》にあひ、つひに|支《ささ》へがたき|状態《じやうたい》に|陥《おちい》りぬ。|大足彦《おほだるひこ》は|天《あま》の|鳥船《とりふね》にのり|夜陰《やいん》に|乗《じやう》じてひそかに|竜宮城《りゆうぐうじやう》へ|帰還《きくわん》し、ローマの|窮状《きゆうじやう》を|逐一《ちくいち》|国直姫命《くになほひめのみこと》に|進言《しんげん》したり。そのとき|何処《いづこ》より|出《い》で|来《きた》りけむ、|常世姫《とこよひめ》は|大足彦《おほだるひこ》の|前《まへ》にあらはれ、ローマ|守備《しゆび》の|粗漏《そろう》きはまれる|施設《しせつ》を|口《くち》をきはめて|罵倒《ばたふ》し、かつ……|速《すみ》やかに|大足彦《おほだるひこ》を|排除《はいじよ》されたし……と|国直姫命《くになほひめのみこと》に|進言《しんげん》したり。|国直姫命《くになほひめのみこと》は|何故《なにゆゑ》かこの|解決《かいけつ》を|与《あた》へず、ただちに|雲《くも》を|起《おこ》し|天《てん》へ|上《あが》りたまひける。
|常世姫《とこよひめ》は|時期《じき》|到来《たうらい》とひそかに|喜《よろこ》びつつ、|国直姫命《くになほひめのみこと》の|遺言《ゆゐごん》なりと|偽《いつは》り、|魔我彦《まがひこ》、|魔我姫《まがひめ》をして|神務《しんむ》と|神政《しんせい》を|行《おこな》はしめ、みづから|国直姫命《くになほひめのみこと》の|地位《ちゐ》に|就《つ》かむと|企《くはだ》てゐたりける。
(大正一〇・一一・二八 旧一〇・二九 桜井重雄録)
第二八章 |苦心《くしん》|惨憺《さんたん》〔一二八〕
|竜宮城《りゆうぐうじやう》の|従臣《じゆうしん》|與彦《ともひこ》、|田依彦《たよりひこ》、|與若《ともわか》、|木糸姫《こいとひめ》、|竜国別《たつくにわけ》、|三国別《みくにわけ》、|高杉別《たかすぎわけ》らの|役員等《かみがみら》は、|国直姫命《くになほひめのみこと》の|上天後《しやうてんご》、その|去就《きよしう》に|迷《まよ》ひつつありける。
そこへ|常世姫《とこよひめ》は、|種々《しゆじゆ》の|手段《しゆだん》をめぐらしてこれらの|神司《かみがみ》を|自己《じこ》の|部下《ぶか》に|引入《ひきい》れ、|大八洲彦命《おほやしまひこのみこと》、|神国別命《かみくにわけのみこと》、|大足彦《おほだるひこ》に|極力《きよくりよく》|反対《はんたい》の|行動《かうどう》を|執《と》るにいたれり。
|一方《いつぱう》ローマ|城内《じやうない》にては、|四分五裂《しぶんごれつ》の|窮状《きゆうじやう》を|曝露《ばくろ》し、|外部《ぐわいぶ》よりは|八王大神《やつわうだいじん》|常世彦《とこよひこ》の|強力《きやうりよく》なる|魔軍《まぐん》に|包囲《はうゐ》され、ほとンど|落城《らくじやう》せむとするの|光景《くわうけい》なりき。|言霊別命《ことたまわけのみこと》は|天《あま》の|鳥船《とりぶね》に|乗《の》り、|急遽《きふきよ》ローマにむかひ|直《ただ》ちに|入城《にふじやう》したりしが、|十二《じふに》の|八王神《やつわうじん》は、|言霊別命《ことたまわけのみこと》の|不意《ふい》の|来城《らいじやう》にほとンど|狼狽《らうばい》の|体《てい》なりき。ここに|言霊別命《ことたまわけのみこと》は|城内《じやうない》の|諸神将《しよしんしよう》をあつめて|統一《とういつ》をはかり、ふたたび|勢力《せいりよく》を|盛返《もりかへ》し、|協力《けふりよく》|一致《いつち》の|積極的《せつきよくてき》|行動《かうどう》をとりければ、|八王大神《やつわうだいじん》の|魔軍《まぐん》は、その|勢力《せいりよく》に|辟易《へきえき》して|退却《たいきやく》し、|遠方《ゑんぱう》よりこれを|包囲《はうゐ》|監視《かんし》しつつあるのみなりけり。
さて|地《ち》の|高天原《たかあまはら》は、|常世姫《とこよひめ》の|横暴《わうばう》きはまる|行動《かうどう》に、|諸神司《しよしん》は|遠《とほ》く|四方《しはう》に|散乱《さんらん》し、|常世姫《とこよひめ》の|目《め》の|上《うへ》の|瘤《こぶ》はほとンど|払《はら》はれけり。|常世姫《とこよひめ》は、|内《うち》は|竜宮城《りゆうぐうじやう》を|攪乱《かくらん》せしめ、|魔我彦《まがひこ》、|魔我姫《まがひめ》、|美山彦《みやまひこ》、|国照姫《くにてるひめ》をして|大国彦《おほくにひこ》に|通《つう》じ、|大国彦《おほくにひこ》をして|外部《ぐわいぶ》より|竜宮城《りゆうぐうじやう》および|地《ち》の|高天原《たかあまはら》を|攻撃《こうげき》せしめたり。|大国彦《おほくにひこ》は|松代別《まつよわけ》、|国代別《くによわけ》を|部将《ぶしやう》とし、あまたの|魔軍《まぐん》を|熊《くま》と|化《くわ》し、|不意《ふい》にこれを|襲《おそ》ひ、つひに|城内《じやうない》くまなく|探索《たんさく》して|大足彦《おほだるひこ》を|捕《とら》へ、|凱歌《がいか》を|奏《そう》して|帰陣《きぢん》せり。あとに|常世姫《とこよひめ》は、ほとンど|竜宮城《りゆうぐうじやう》の|主宰者《しゆさいしや》となり、|地《ち》の|高天原《たかあまはら》をも|蹂躙《じうりん》せむと、|着々《ちやくちやく》として|歩《ほ》を|進《すす》めつつあり。
このとき|大八洲彦命《おほやしまひこのみこと》、|真澄姫《ますみひめ》、|言霊姫《ことたまひめ》、|広国別《ひろくにわけ》、|広宮彦《ひろみやひこ》、|照代姫《てるよひめ》の|部将《ぶしやう》は、|地《ち》の|高天原《たかあまはら》を|厳守《げんしゆ》して、|魔軍《まぐん》に|一指《いつし》をもつけさせざりけり。されど|常世姫《とこよひめ》は|執拗《しつえう》にも、|高杉別《たかすぎわけ》、|與彦《ともひこ》、|與若《ともわか》、|魔我彦《まがひこ》、|魔我姫《まがひめ》などを|煽動《せんどう》して|地《ち》の|高天原《たかあまはら》の|一角《いつかく》を|崩壊《ほうくわい》せむとし、ほぼその|目的《もくてき》を|達《たつ》せむとしたり。
○
このときローマに|破《やぶ》れ、|一時《いちじ》|退却《たいきやく》したる|常世彦《とこよひこ》は、|到底《たうてい》ローマの|容易《ようい》に|陥落《かんらく》せざるを|知《し》り|鬼雲別《おにくもわけ》、|蚊取別《かとりわけ》らをして、|大国彦《おほくにひこ》の|力《ちから》を|借《か》り、これを|鏖滅《おうめつ》せむと|図《はか》りぬ。|大国彦《おほくにひこ》はただちに|承諾《しようだく》し、|数多《あまた》の|魔軍《まぐん》を|二人《ふたり》に|与《あた》へ、|常世彦《とこよひこ》と|共《とも》に|三方《さんぱう》よりローマ|城《じやう》を|包囲《はうゐ》|攻撃《こうげき》したりける。
このとき|万寿山城《まんじゆざんじやう》をのぞく|十一《じふいち》の|八王神《やつわうじん》はほとンど|遁走《とんそう》し、|以下《いか》の|神卒《しんそつ》は|四方《しはう》に|散乱《さんらん》したり。|言霊別命《ことたまわけのみこと》は|敵《てき》の|猛烈《まうれつ》なる|攻撃《こうげき》にすこしも【ひるむ】|色《いろ》なく|力戦奮闘《りきせんふんとう》をつづけたまふ。しかるに|火弾《くわだん》は|空《むな》しく、|弓《ゆみ》は|折《を》れ、|矢《や》は|尽《つ》き、|敵《てき》のために|捕《とら》はれ|俘虜《ふりよ》となり、つひに|常世《とこよ》の|国《くに》に|送《おく》られける。
|言霊姫《ことたまひめ》は、|言霊別命《ことたまわけのみこと》の|常世城《とこよじやう》に|囚《とら》はれしを|憂《うれ》ひ、|大神《おほかみ》に|祈願《きぐわん》されつつありし。
をりしも|常世姫《とこよひめ》は|魔我彦《まがひこ》、|魔我姫《まがひめ》をともなひ、|言霊姫《ことたまひめ》の|祈《いの》れる|前《まへ》に|意気《いき》|揚々《やうやう》として|現《あら》はれきたり、やや|軽侮《けいぶ》の|色《いろ》を|面色《めんしよく》に|現《あら》はしていふ。
『|汝《なんぢ》は|言霊別命《ことたまわけのみこと》を|救《すく》はむとする|心《こころ》なきや。|汝《なんぢ》の|決心《けつしん》|次第《しだい》にて、|夫《をつと》の|難《なん》を|救《すく》はむ』
と|心《こころ》あり|気《げ》に|口《くち》を|切《き》りぬ。|言霊姫《ことたまひめ》はよろこびて、
『いかにせば|夫《をつと》を|救《すく》ふ|途《みち》ありや』
と|反問《はんもん》しけるに、|魔我姫《まがひめ》はここぞと|言《い》はむばかりの|顔《かほ》つきにて、|肩《かた》をいからせながら、
『|貴女《あなた》は|竜宮城《りゆうぐうじやう》を|明《あ》け|渡《わた》し、|大島彦《おほしまひこ》|以下《いか》の|神司《かみがみ》を|率《ひき》ゐて、|万寿山《まんじゆざん》に|転居《てんきよ》すべし。しからば|妾《わらは》はその|改心《かいしん》の|賞《しやう》として、|常世城《とこよじやう》にます|八王大神《やつわうだいじん》|常世彦《とこよひこ》に|歎願《たんぐわん》し、|言霊別命《ことたまわけのみこと》を|救《すく》ひ|与《あた》へむ』
と|得意然《とくいぜん》としていふ。
ここに|言霊姫《ことたまひめ》はその|去就《きよしう》に|迷《まよ》はざるを|得《え》ざりけるが、|魔我彦《まがひこ》、|魔我姫《まがひめ》は、|口《くち》をそろへて|言霊姫《ことたまひめ》の|決心《けつしん》をうながすべく、|弁《べん》にまかせて|説《と》きつけたれば、|憂《うれ》ひに|沈《しづ》みたる|言霊姫《ことたまひめ》はつひに|魔我姫《まがひめ》の|言《げん》にしたがひ、|竜宮城《りゆうぐうじやう》を|開放《かいはう》し|万寿山《まんじゆざん》に|遁《のが》れむと|決心《けつしん》を|定《さだ》め、あまたの|従者《じゆうしや》にその|意《い》を|伝《つた》へしめむとしたりける。
このとき|国若姫《くにわかひめ》、|広国別《ひろくにわけ》らの|神将《しんしやう》は、|極力《きよくりよく》これを|諫止《かんし》し、かつ|大神《おほかみ》に|祈《いの》り|神力《しんりき》をえて、つひに|常世姫《とこよひめ》|一派《いつぱ》の|鬼神《きしん》をやうやく|退場《たいぢやう》せしめける。|常世姫《とこよひめ》は、ただちに|常世《とこよ》の|国《くに》に|馳《は》せ|帰《かへ》り、|戦備《せんび》をととのへ|再《ふたた》び|捲土重来《けんどぢうらい》の|期《き》を|待《ま》ちつつありける。
(大正一〇・一一・二八 旧一〇・二九 外山豊二録)
(第二六章〜第二八章 昭和一〇・一・一七 於亀の井旅館 王仁校正)
第二九章 |男波《をなみ》|女波《めなみ》〔一二九〕
モスコーの|八王神《やつわうじん》|道貫彦《みちつらひこ》は、ローマに|召集《せうしふ》されて|多年《たねん》の|間《あひだ》|不在《ふざい》なりき。|妻《つま》の|道貫姫《みちつらひめ》は|子《こ》に|甘《あま》かりしため、その|長女《ちやうぢよ》|春日姫《かすがひめ》は|父《ちち》の|不在《ふざい》に|心《こころ》をゆるめ|放縦《はうじう》|堕落《だらく》ますます|激《はげ》しく、|神司《かみがみ》らの|指弾《しだん》する|行動《かうどう》をつねに|平気《へいき》にて|演《えん》じゐたり。されど|母人《ははびと》は、|子《こ》の|愛《あい》に|眼《まなこ》くらみて|春日姫《かすがひめ》のあらぬ|日々《にちにち》の|行動《かうどう》|如何《いかん》を|少《すこ》しも|気《き》づかざりける。|春日姫《かすがひめ》は|眉《まゆ》|長《なが》く|眼《め》|涼《すず》しく、|口許《くちもと》しまりて|色《いろ》|白《しろ》く、|膚《はだへ》やはらかく、あたかも|桜花《あうくわ》の|時《とき》をえて|咲初《さきそ》めたるごとき|容姿《ようし》を|持《も》てりき。
|八王大神《やつわうだいじん》の|従臣《じゆうしん》に|竹倉別《たけくらわけ》といふ|若者《わかもの》ありき。|竹倉別《たけくらわけ》は|水色《みづいろ》の|烏帽子《ゑぼし》|狩衣《かりぎぬ》を|着《ちやく》し、|烏羽玉《うばたま》の|宮《みや》に|参拝《さんぱい》したるに、|春日姫《かすがひめ》は|盛装《せいさう》をこらし|侍女《じぢよ》の|春姫《はるひめ》とともに、|神前《しんぜん》に|参拝《さんぱい》ををはり|階段《かいだん》を|下《くだ》らむとするや、みづからわが|衣《ころも》の|裳《すそ》を|踏《ふ》み|階段《かいだん》より|真逆《まつさか》さまに|顛倒《てんたう》せむとしたり。このとき|階段《かいだん》を|上《のぼ》りくる|竹倉別《たけくらわけ》は、|春日姫《かすがひめ》の|体《たい》をささへ|危《あやふ》く|厄難《やくなん》を|救《すく》ひければ、|春日姫《かすがひめ》の|感謝《かんしや》は|一通《ひととほ》りの|歓《よろこ》びではなく、|何《なに》か|深《ふか》き|印象《いんしやう》を|胸底《むなそこ》にとどめける。|春日姫《かすがひめ》は|春姫《はるひめ》に|手《て》をひかれて|階段《かいだん》を|下《くだ》り、あと|振返《ふりかへ》りつつ|竹倉別《たけくらわけ》の|階段《かいだん》を|上《のぼ》りゆくを|流目《ながしめ》に|見惚《みと》れゐたりしが、これより|春日姫《かすがひめ》は|何《なに》ゆゑか、ただちに|病《やまひ》の|床《とこ》に|呻吟《しんぎん》する|身《み》とはなりける。
|諸神司《しよしん》はこれを|憂《うれ》ひて|大神《おほかみ》に|祈《いの》り、|医薬《いやく》を|与《あた》へなど|色々《いろいろ》と|手《て》をつくせども、|春日姫《かすがひめ》の|病《やまひ》にたいしては|何《なん》の|効果《かうくわ》もなかりける。|母《はは》の|道貫姫《みちつらひめ》は|姫《ひめ》の|日夜《にちや》に|弱《よわ》りゆく|姿《すがた》をながめて、|夜《よ》も|日《ひ》も、たまらず|煩悶《はんもん》|苦悩《くなう》しつつ、あたかも|掌中《しやうちう》の|玉《たま》を|失《うしな》ひしごとく、|落胆《らくたん》|失望《しつばう》の|極《きよく》に|達《たつ》しゐたり。
|道貫姫《みちつらひめ》は|春姫《はるひめ》をひそかに|招《まね》き、
『|汝《なんぢ》はつねに|春日姫《かすがひめ》の|側《そば》|近《ちか》く|仕《つか》ふる|者《もの》なれば、|姫《ひめ》の|意中《いちう》をよく|察《さつ》しゐるならむ。|姫《ひめ》のこの|度《たび》の|重病《ぢうびやう》につきては、|何《なに》か|思《おも》ひあたることなきや』
と|耳《みみ》に|口《くち》よせひそかに|問《と》ひかけたるが、|春姫《はるひめ》は|春日姫《かすがひめ》の|病因《びやういん》はほぼ|察知《さつち》してゐたれども、|恐《おそ》れて|口外《こうぐわい》することをはばかり、
『くはしく|探《さぐ》りて|後日《ごじつ》|申《まを》しあげむ』
とやうやくその|場《ば》を|立去《たちさ》り、|春日姫《かすがひめ》にむかひ、
『|烏羽玉《うばたま》の|宮《みや》に|参拝《さんぱい》のをり、|竹倉別《たけくらわけ》に|危難《きなん》を|救《すく》はれ、それより|発病《はつびやう》したまひしは、|神《かみ》も|薬《くすり》もきかぬ|御病気《ごびやうき》には|非《あら》ずや』
とおそるおそる|尋《たづ》ねけるに、|春日姫《かすがひめ》は|袖《そで》にて|顔《かほ》をおほひながら|頭《あたま》をかたむけ、やや|覚束《おぼつか》なき|声《こゑ》にてただ|一言《いちごん》、
『|然《しか》り』
と|答《こた》へ、そのまま|夜具《やぐ》をひきかぶり|息《いき》をはづませ、|病体《びやうたい》を|左右《さいう》にゆすりてもがき、かつ|啜《すす》り|泣《なき》さへ|聞《きこ》へけり。|春姫《はるひめ》は|春日姫《かすがひめ》にむかひ、
『|主《しゆ》のためならば、たとへ|身《み》は|天律《てんりつ》を|破《やぶ》るとも、|妾《わらは》は|律法《りつぱう》の|犠牲《ぎせい》となりて|目的《もくてき》|願望《ぐわんばう》を|達《たつ》し|参《まゐ》らせむ』
と|決心《けつしん》の|色《いろ》をしめし、しばしの|暇《いとま》を|乞《こ》ひこの|場《ば》を|立去《たちさ》り、ただちに|竹倉別《たけくらわけ》の|家《いへ》を|訪《おとづ》れた。
|竹倉別《たけくらわけ》は|明《あ》けても|暮《く》れても、|烏《からす》の|鳴《な》かぬ|日《ひ》はあつても、|春姫《はるひめ》を|思《おも》はぬ|間《ま》は|瞬時《しゆんじ》もなきまでに|懸想《けさう》しゐたりしが、|今《いま》その|当《たう》の|女性《ぢよせい》に|不意《ふい》の|訪問《はうもん》をうけて|胸《むね》ををどらせ、|肩《かた》を|上《あ》げ|下《さ》げしつつ|顔《かほ》をあからめ、|用《よう》もなきに|前後《ぜんご》|左右《さいう》に|室内《しつない》を|駈《か》けまはり、|晴天《せいてん》の|霹靂《へきれき》|頭上《づじやう》にはげしく|落下《らくか》せむとする|時《とき》の|態度《たいど》そのままなりける。|春姫《はるひめ》は|落付顔《おちつきがほ》に|竹倉別《たけくらわけ》の|手《て》をとり、
『|何事《なにごと》の|出来《しゆつたい》せしか|知《し》らざれども、まづ、しばらく|落《おち》つかせたまへ』
と|肩《かた》を|撫《な》で、|胸《むね》をさすりてその|場《ば》に|端坐《たんざ》せしめたるに、|竹倉別《たけくらわけ》はあたかも|酢《す》に|酔《よ》ひしごとく、|骨《ほね》までぐなぐなになりし|心地《ここち》して、|何《なん》となく|落《お》つかぬ|風情《ふぜい》なりき。|春姫《はるひめ》は|耳《みみ》に|口《くち》|寄《よ》せ、あたりをはばかりながら、
『|春日姫《かすがひめ》は|汝《なんぢ》に|心《こころ》をよせ、ために|病床《びやうしやう》に|臥《ふ》したまふ。|貴下《きか》は|主《しゆ》を|助《たす》くるために|春日姫《かすがひめ》の|夫《をつと》となりたまはずや』
と|私語《ささや》けば、|竹倉別《たけくらわけ》は|狐《きつね》につままれたるごとき|面持《おももち》にて、ただ|茫然《ばうぜん》として|春姫《はるひめ》の|面《かほ》を|穴《あな》のあくほどうちながめ|両眼《りやうがん》よりは|熱《あつ》き|涙《なみだ》ほとばしりける。|春姫《はるひめ》は|竹倉別《たけくらわけ》の|心中《しんちゆう》を|知《し》らず、その|態度《たいど》に|焦慮《もどかし》がり|百方《ひやつぱう》|弁《べん》をつくして、|春日姫《かすがひめ》の|意《い》に|従《したが》はしめむとしきりに|勧《すす》めてやまざりける。|竹倉別《たけくらわけ》ははづかしさうに、
『|貴下《きか》のお|勧《すす》めを|承諾《しようだく》するに|先《さき》だち、|一《ひと》つの|願《ねが》ひあり』
とて|狩衣《かりぎぬ》の|袖《そで》に|面《おもて》をつつみ、|息《いき》をはづませ|肩《かた》まで|動揺《どうえう》させたり。|春姫《はるひめ》は、
『|貴下《きか》の|願《ねがひ》とはいかなることぞ。か|弱《よわ》き|女《をんな》の|身《み》に|叶《かな》ふことならば、|何事《なにごと》にても|身命《しんめい》にかへて|応《おう》じたてまつらむ』
といふ。このとき|竹倉別《たけくらわけ》を|訪《たづ》ねて|若彦《わかひこ》といふ|麗《うるは》しき|若者《わかもの》、|烏帽子《ゑぼし》|直垂《ひたたれ》を|着用《ちやくよう》しながら|這入《はい》りきたり。|若彦《わかひこ》は、|春姫《はるひめ》の|寝《ね》ても|覚《さ》めても|忘《わす》れられぬ|若者《わかもの》なりき。|春姫《はるひめ》の|血《ち》は|燃《も》えたちぬ。|若彦《わかひこ》はこの|場《ば》の|光景《くわうけい》を|見《み》ていぶかり|無言《むごん》のまま、|直立《ちよくりつ》|不動《ふどう》の|姿勢《しせい》を|取《と》りゐたり。
|竹倉別《たけくらわけ》は|春姫《はるひめ》に|心《こころ》|奪《うば》はれ、|若彦《わかひこ》の|入《い》りきたりてわが|前《まへ》に|立《た》てることさへ|少《すこ》しも|気《き》づかず、|顔《かほ》の|紐《ひも》を|解《と》きてしきりに|春姫《はるひめ》に|向《むか》ひ|思《おも》ひのたけを、ちぎれちぎれに|口説《くど》きたてたり。|春姫《はるひめ》は、|若彦《わかひこ》の|前《まへ》にて|思《おも》ひもよらぬ|竹倉別《たけくらわけ》に|口説《くど》きたてられ、|痛《いた》さ|痒《かゆ》さの|板《いた》ばさみとなりて、|心中《しんちう》|悶々《もんもん》の|情《じやう》にたへざりけり。|若彦《わかひこ》は|竹倉別《たけくらわけ》の|家《いへ》にひそかに|春姫《はるひめ》の|来《きた》りゐるを|見《み》て、なンとなく|不快《ふくわい》の|念《ねん》をおこし、たちまち|顔色《かほいろ》を|変《へん》じて|物《もの》をも|言《い》はず|立去《たちさ》りにける。この|時《とき》の|春姫《はるひめ》の|胸《むね》は|剣《つるぎ》を|呑《の》むよりも|苦《くる》しかりしならむ。
|春姫《はるひめ》はわが|心《こころ》にもなき|主命《しゆめい》によりての|訪問《はうもん》を|若彦《わかひこ》に|認《みと》められ、|若彦《わかひこ》の|顔色《かほいろ》のただならぬに|煩悶《はんもん》し、いまは|自暴自棄《じばうじき》となりにける。されど|主《しゆ》の|命《めい》は|重《おも》く|千言万語《せんげんばんご》をつくして|竹倉別《たけくらわけ》を|納得《なつとく》させ、|春日姫《かすがひめ》の|夫《をつと》たることを|承諾《しようだく》させたりける。
|春姫《はるひめ》は|竹倉別《たけくらわけ》をともなひ、|春日姫《かすがひめ》の|館《やかた》に|導《みちび》きぬ。それより|竹倉別《たけくらわけ》は|春日姫《かすがひめ》の|親切《しんせつ》にほだされて、つひには|春姫《はるひめ》を|一時《いちじ》の|夢《ゆめ》と|忘《わす》るることとなりぬ。|若彦《わかひこ》はまた|春姫《はるひめ》に|心《こころ》を|深《ふか》く|寄《よ》せゐたりしところ、|春姫《はるひめ》のひとり|竹倉別《たけくらわけ》を|訪問《はうもん》せるを|認《みと》めてより|大《おほ》いに|竹倉別《たけくらわけ》を|恨《うら》み、いかにもして|春日姫《かすがひめ》との|間《あひだ》を|割《さ》き、|鬱憤《うつぷん》を|晴《はら》さむと|日夜《にちや》|計画《けいくわく》しゐたり。
あゝ|竹倉別《たけくらわけ》、|春日姫《かすがひめ》の|間《あひだ》は|如何《いか》になりゆくならむか。
(大正一〇・一一・二九 旧一一・一 谷村真友録)
第三〇章 |抱擁帰一《はうようきいつ》〔一三〇〕
|春日姫《かすがひめ》と|竹倉別《たけくらわけ》は|琴瑟《きんしつ》|相《あひ》|和《わ》し、|春《はる》の|日《ひ》の|洋々《やうやう》たるごとく|楽《たのし》き|日《ひ》を|送《おく》りゐたり。|道貫姫《みちつらひめ》も|子《こ》の|可愛《かあい》さにひかれて、これを|黙許《もくきよ》せり。|若彦《わかひこ》は|鷹住別《たかすみわけ》にしたがひ|烏羽玉《うばたま》の|宮《みや》にふたたび|参拝《さんぱい》したりしが、|春日姫《かすがひめ》は|春姫《はるひめ》をしたがへて|参拝《さんぱい》ををはり、|階段《かいだん》を|下《くだ》りきたりけるが、|若彦《わかひこ》と|春姫《はるひめ》との|視線《しせん》は|稲妻《いなづま》のごとく|互《たが》ひに|閃《ひらめ》きぬ。|春日姫《かすがひめ》は|目《め》ざとくこれを|見《み》てやや|嫉妬《しつと》の|念《ねん》|起《おこ》り|来《きた》りしが、|若彦《わかひこ》は|春姫《はるひめ》の|自分《じぶん》に|対《たい》する|心情《しんじやう》を|察知《さつち》し、ただちに|春姫《はるひめ》にたいして|異様《いやう》の|視線《しせん》を|発射《はつしや》せり。|春姫《はるひめ》は|黙然《もくねん》として|若彦《わかひこ》の|面《おもて》を|恥《はづ》かし|気《げ》に|打《う》ち|見守《みまも》りける。この|様子《やうす》を|目前《もくぜん》に|立《た》ちてながめゐたりし|春日姫《かすがひめ》は、ますます|嫉妬《しつと》の|焔《ほのほ》を|燃《も》やさざるを|得《え》ざりける。
|神品骨柄《しんぴんこつがら》において、|竹倉別《たけくらわけ》に|倍《ばい》せる|鷹住別《たかすみわけ》は、|正装《せいさう》のまま|笑顔《ゑがほ》をつくりて|春日姫《かすがひめ》の|前《まへ》に|大手《おほて》を|拡《ひろ》げて|立《た》ちふさがりければ、|春日姫《かすがひめ》は|前後《ぜんご》の|分別《ふんべつ》もなく|鷹住別《たかすみわけ》に|涼《すず》しき|眼《め》をむけたりける。|二人《ふたり》はこれより|相《あひ》|信《しん》じ|相《あひ》|和《わ》し、|水《みづ》も|洩《も》らさぬ|親密《しんみつ》なる|交際《かうさい》をはじめたりける。
それ|以後《いご》、|春日姫《かすがひめ》の|竹倉別《たけくらわけ》にたいする|態度《たいど》はうつて|変《かは》り|冷淡《れいたん》となりぬ。|竹倉別《たけくらわけ》は|鷹住別《たかすみわけ》、|春日姫《かすがひめ》のきはめて|親密《しんみつ》なる|関係《くわんけい》を|探知《たんち》し、おほいに|憤《いきどほ》り、あまたの|従者《じゆうしや》を|引《ひ》きつれ、|夜陰《やいん》に|乗《じやう》じて|鷹住別《たかすみわけ》の|住居《ぢうきよ》を|襲《おそ》ひ|仇《あだ》を|報《むく》いむとしたりければ、|鷹住別《たかすみわけ》は|不意《ふい》の|襲撃《しふげき》に|驚《おどろ》き、|大道別《おほみちわけ》に|急使《きふし》を|馳《は》せ|救援《きうゑん》を|請《こ》ひにける。
ここに|大道別《おほみちわけ》は|仲裁《ちゆうさい》の|労《らう》をとらむとただ|一人《ひとり》、|館《やかた》を|立《た》ちいで|鷹住別《たかすみわけ》の|住居《ぢうきよ》にいたり、|邸外《ていぐわい》を|包囲《はうゐ》せる|竹倉別《たけくらわけ》に|向《むか》つてすみやかに|退散《たいさん》すべく|厳命《げんめい》したりける。このとき、|鷹住別《たかすみわけ》、|若彦《わかひこ》は|竹倉別《たけくらわけ》の|部下《ぶか》の|者《もの》どもに|身辺《しんぺん》を|取《と》りかこまれ、いかんともする|道《みち》なかりける。|竹倉別《たけくらわけ》は|大道別《おほみちわけ》の|厳命《げんめい》に|少《すこ》しく|躊躇逡巡《ちうちよしゆんじゆん》の|体《てい》なりき。されど、|逸《はや》り|切《き》りたる|部下《ぶか》の|者共《ものども》は|水《みづ》の|出《で》ばなの|勢《いきほひ》とどめがたく、|鬨《とき》をあげて……|鷹住別《たかすみわけ》、|若彦《わかひこ》を|滅《ほろ》ぼせ……と|叫《さけ》び|続《つづ》けてやまざりにけり。
|大道別《おほみちわけ》は|天《てん》にむかつて、|天津祝詞《あまつのりと》を|言霊《ことたま》すずしく|奏上《そうじやう》したるに、たちまち|破軍星《はぐんせい》の|精霊《せいれい》なる|武満彦命《たけみつひこのみこと》|天上《てんじやう》より|降《くだ》りきたり、|竹倉別《たけくらわけ》の|頭上《づじやう》へ|猛烈《まうれつ》なる|霊剣《れいけん》を|雨《あめ》のごとく|投下《とうか》したまひければ、|竹倉別《たけくらわけ》はたちまち|色《いろ》|蒼《あを》ざめ、|合掌《がつしやう》して|武満彦命《たけみつひこのみこと》にわが|行動《かうどう》の|不穏《ふおん》なる|罪《つみ》を|陳謝《ちんしや》しけり。|武満彦命《たけみつひこのみこと》はただちに|紫雲《しうん》に|乗《じやう》じ|天《てん》に|帰《かへ》らせたまひたり。
ここに|大道別《おほみちわけ》は|両者《りやうしや》|和睦《わぼく》の|宴《えん》を|開《ひら》かむとし、|大蛇《をろち》の|長橋《ながばし》のほとりに|建《た》てる|広殿《ひろどの》に|招待《せうたい》し、かつ|相《あひ》たがひに|春日姫《かすがひめ》との|手《て》を|断然《だんぜん》きることを|堅《かた》く|約《やく》し、|歓《くわん》をつくして|宴席《えんせき》を|各自《かくじ》|思《おも》ひおもひに|退場《たいぢやう》したりけり。
|大道別《おほみちわけ》は|鷹住別《たかすみわけ》、|若彦《わかひこ》とともに|紅葉山《こうえふざん》の|麓《ふもと》まで|帰《かへ》るをりしも、|鬱蒼《うつさう》たる|森林《しんりん》の|中《なか》より|何者《なにもの》とも|知《し》れず|数十《すうじふ》の|黒影《くろかげ》あらはれきたり、|大道別《おほみちわけ》をはじめ|鷹住別《たかすみわけ》、|若彦《わかひこ》の|手《て》をとり|足《あし》をしばり、|太《ふと》き|綱《つな》をこれに|結《むす》びて|大道《だいだう》を|引《ひき》ずりゆくものあり。これぞ|竹倉別《たけくらわけ》|以下《いか》の|従者《じゆうしや》どもの|不逞《ふてい》の|所為《しよゐ》なりける。
このとき、|紅葉山上《こうえふさんじやう》より|数限《かずかぎ》りなき|岩石《がんせき》、|竹倉別《たけくらわけ》の|群《むれ》に|向《むか》つて|落下《らくか》し、|数名《すうめい》の|従者《じゆうしや》を|傷《きず》つけたりしが、これはローマにありし|若彦《わかひこ》の|兄《あに》|勝彦《かつひこ》が、|弟《おとうと》の|危急《ききふ》を|救《すく》はむとして、|竹倉別《たけくらわけ》の|謀計《ぼうけい》を|前知《ぜんち》し、この|山上《さんじやう》に|待《ま》ち|構《かま》へゐたりしなりける。|竹倉別《たけくらわけ》は|勝彦《かつひこ》の|勇気《ゆうき》に|辟易《へきえき》し、|部下《ぶか》を|捨《す》てて|八王大神《やつわうだいじん》の|下《もと》に|走《はし》り、ついにその|部将《ぶしやう》となりぬ。それより|鷹住別《たかすみわけ》、|春日姫《かすがひめ》の|得意《とくい》|時代《じだい》とはなりける。|若彦《わかひこ》はつひに|春姫《はるひめ》の|夫《をつと》となり|烏羽玉《うばたま》の|宮《みや》に|忠実《ちうじつ》に|奉仕《ほうし》したりける。
|春日姫《かすがひめ》と|鷹住別《たかすみわけ》のあひだは|蜜《みつ》のごとき|関係《くわんけい》の|結《むす》ばれたるが、|春姫《はるひめ》は|即興歌《そくきようか》を|作《つく》りてこれを|祝《しゆく》しける。その|歌《うた》、
『|春《はる》の|弥生《やよひ》の|暁《あかつき》か |四方《よも》の|山辺《やまべ》は|陽炎《かげろふ》の
きらめき|渡《わた》り|春風《はるかぜ》に ほころぶ|梅《うめ》の|香《かんば》しさ
|梢《こずゑ》に|来鳴《きな》く|鶯《うぐひす》の |谷《たに》の|戸《と》|明《あ》けてホーホケキヨー
ホーホケキヨーと|経《きやう》を|読《よ》む |坊主《ぼうず》の|愛《あい》する|今日《けふ》(経)の|春《はる》
|霞《かすみ》の|衣《ころも》|身《み》にまとふ |四方《しはう》の|山々《やまやま》|春姫《はるひめ》の
|青《あを》きみけしをまつぶさに とりよそひたる|長閑《のどか》さよ
|風《かぜ》も|長閑《のどか》な|君《きみ》が|春《はる》 |春日《かすが》の|森《もり》の|常磐木《ときはぎ》は
|千年《ちとせ》の|色《いろ》を|染《そ》めなして |桜《さくら》は|笑《わら》ひ|紅葉《もみぢば》は
|若《わか》き|面《おもて》を|赤《あか》らめつ |差招《さしまね》くなり|君《きみ》が|代《よ》の
|春《はる》の|陽気《やうき》の|春日姫《かすがひめ》 |松《まつ》に|千歳《ちとせ》の|鷹住別《たかすみわけ》や
|神《かみ》の|許《ゆる》せし|妹《いも》と|背《せ》の |中《なか》を|隔《へだ》つる|竹倉別《たけくらわけ》も
|今《いま》は|別《わか》れて|常世《とこよ》|往《ゆ》く |世《よ》は|烏羽玉《うばたま》の|暗《くら》くとも
|光《ひか》りかがやく|玉椿《たまつばき》 |八千代《やちよ》の|春《はる》はいつまでも
|花《はな》は|散《ち》らざれどこまでも |色《いろ》はあせざれ|常永《とことは》に
ウラルの|嵐《あらし》|強《つよ》くとも |君《きみ》には|神風《しんぷう》|福《ふく》の|神《かみ》
|八千代《やちよ》の|椿《つばき》|優曇華《うどんげ》の |花《はな》|咲《さ》く|春《はる》や|春日姫《かすがひめ》
ほまれはますます|高殿《たかどの》に |登《のぼ》りて|見晴《みは》らす|天《あま》の|原《はら》
ふりさけ|見《み》れば|三笠山《みかさやま》 |峰《みね》より|昇《のぼ》る|望《もち》の|夜《よ》の
|清《きよ》き|月影《つきかげ》|欠《か》くるなく |円《まる》き|涼《すず》しき|家庭内《やにはうち》
|園《その》の|白梅《しらうめ》くれなゐの |梅《うめ》の|薫《かを》りといつまでも
|失《う》せずにあれよどこまでも |五六七《みろく》の|代《よ》までかをれかし
|一時《いちじ》|千金《せんきん》|花《はな》の|春《はる》 |老《お》いず|死《まか》らず|幾千代《いくちよ》も
|操《みさを》をかへぬ|庭《には》の|松《まつ》 |千代《ちよ》の|緑《みどり》の|蒼々《あをあを》と
|栄《さか》ゆるごとく|永遠《えいゑん》に |変《かは》りたまふな|春日姫《かすがひめ》
|世《よ》は|烏羽玉《うばたま》の|暗《くら》くとも |二人《ふたり》のなかは|紅葉《もみぢば》の
|赤《あか》きえにしを|結《むす》び|昆布《こぶ》 |胸《むね》の|奥山《おくやま》|鹿《しか》ぞなき
|木々《きぎ》の|木《こ》の|葉《は》を|木枯《こがらし》に |吹《ふ》き|散《ち》る|淋《さび》しき|世《よ》ありとも
|偕老同穴《かいらうどうけつ》むつまじく |月日《つきひ》をおくれ|春日姫《かすがひめ》
|四方《よも》の|山々《やまやま》|紅葉《もみぢ》して |佐保姫《さほひめ》|錦《にしき》|織《お》るとても
|霞《かすみ》の|衣《ころも》とことはに |紅葉山下《こうえふさんか》に|安々《やすやす》と
|楽《たのし》き|御世《みよ》を|送《おく》らるる その|瑞祥《ずゐしやう》に|因《ちな》みたる
|陽気《やうき》|目出度《めでた》き|春姫《はるひめ》の |心《こころ》はいつも|若彦《わかひこ》や
|栄《さか》ゆる|心《こころ》をとこしへに つづかせたまへ|春日姫《かすがひめ》
|鷹住別《たかすみわけ》といつまでも』
かくのごとく|春姫《はるひめ》の|祝《いは》ひし|歌《うた》も|春《はる》の|夜《よ》の|短《みじか》き|夢《ゆめ》と|消《き》え|失《う》せて、|春日姫《かすがひめ》はつひに|破鏡《はきやう》の|悲《かな》しみを|味《あぢ》はふこととなり、|発狂《はつきやう》して|暴狂《あれくる》ひ|自暴自棄《じばうじき》に|陥《おちい》りにける。
この|春日姫《かすがひめ》ははたして|何《なに》ものぞ。
(大正一〇・一一・二九 旧一一・一 桜井重雄録)
第三一章 |竜神《りうじん》の|瀑布《ばくふ》〔一三一〕
|長《なが》らくローマに|足《あし》を|留《とど》めたる|八王神《やつわうじん》|道貫彦《みちつらひこ》は、ローマの|没落《ぼつらく》とともに、モスコーを|気《き》づかひ、あまたの|敵軍《てきぐん》を|突破《とつぱ》してやうやく|帰城《きじやう》し、|道貫姫《みちつらひめ》とともに|長物語《ながものがた》りに|夜《よ》を|徹《てつ》したりける。
しかるに|道貫彦《みちつらひこ》はわが|不在中《ふざいちゆう》、|春日姫《かすがひめ》の|鷹住別《たかすみわけ》と|夫婦《ふうふ》となりしことを|大《おほ》いに|怒《いか》り、かかる|一身上《いつしんじやう》の|大問題《だいもんだい》を|父《ちち》にも|母《はは》にも|計《はか》らず、|決行《けつかう》したる|春日姫《かすがひめ》も|不都合《ふつがふ》なれども、|第一《だいいち》|母《はは》たる|道貫姫《みちつらひめ》の|行《ゆ》き|届《とど》かざる|行為《かうゐ》を|怒《いか》り、|道貫姫《みちつらひめ》には|別殿《べつでん》を|造《つく》りてこれに|蟄居《ちつきよ》せしめ、|鷹住別《たかすみわけ》と|春日姫《かすがひめ》のあひだを|生木《なまき》を|割《さ》くごとく、|無残《むざん》にも|夜半《よは》の|嵐《あらし》の|物凄《ものすご》く、|常世国《とこよのくに》にむかつて|鷹住別《たかすみわけ》を|神退《かむやら》ひに|退《やら》はれにける。
|春日姫《かすがひめ》は、|海洋万里《かいやうばんり》の|孤島《こたう》にただ|一柱《ひとはしら》とりのこされし|心地《ここち》して、|連日《れんじつ》|連夜《れんや》|泣《な》き|暮《くら》したる。その|結果《けつくわ》、つひに|心魂《しんこん》に|異状《いじやう》を|呈《てい》し、|狂乱《きやうらん》となり、|行《ゆ》きあふ|人《ひと》ごとに|形相《ぎやうさう》を|変《へん》じ|眼《め》を|見《み》はりて、
『|鷹住別《たかすみわけ》、|々々々《たかすみわけ》』
と|叫《さけ》び|狂《くる》ふ。ここに|竹友別《たけともわけ》、|畠照彦《はたてるひこ》は、いかにもして|春日姫《かすがひめ》の|病《やまひ》を|癒《なほ》さむとし、|遠近《をちこち》の|高山《かうざん》に|分《わ》け|入《い》り|瀑布《ばくふ》に|身《み》を|浸《ひた》し、あるひは|断食《だんじき》をなして|祈願《きぐわん》を|籠《こ》めたれども、|病気《びやうき》はおひおひ|重《おも》くなるばかりなりける。
あるとき|畠照彦《はたてるひこ》、|竹友別《たけともわけ》はゆくりなくも|天道山《てんだうざん》に|分《わ》け|入《い》りしが、ここには「|竜神《りうじん》の|滝《たき》」といふがありて、|山頂《さんちやう》より|落下《らくか》する|水勢《すゐせい》は|百雷《ひやくらい》の|一度《いちど》に|轟《とどろ》くがごとく、|水煙《みづけぶり》|濛々《もうもう》として|立《た》ち|上《のぼ》り、|実《じつ》にすさまじき|深山幽谷《しんざんいうこく》なりける。
ここに|二人《ふたり》は、|七日七夜《なぬかななよ》|精神《せいしん》をこめて|祈願《きぐわん》したりしが、その|時《とき》|馬《うま》の|蹄《ひづめ》の|音《おと》|〓々《かつかつ》と|山上《さんじやう》より|聞《きこ》えて、|六面八臂《ろくめんはつぴ》の|鬼神《きじん》あらはれ|二人《ふたり》にむかひ、
『|春日姫《かすがひめ》の|病気《びやうき》は、この|瀑布《ばくふ》に|一ケ月《いつかげつ》|打《う》たれなば|全快《ぜんくわい》せむ』
と|告《つ》げ、そのまま|姿《すがた》は|煙雲《えんうん》のごとく|消《き》え|失《う》せけり。|二人《ふたり》は|天《てん》にも|上《のぼ》る|心地《ここち》して|急《いそ》ぎモスコーに|帰《かへ》り、|平玉彦《ひらたまひこ》とはかり|春日姫《かすがひめ》をひそかに|誘《さそ》ひ、|天道山《てんだうざん》の|瀑布《ばくふ》に|連《つ》れ|行《ゆ》かむとしたるに、|大道別《おほみちわけ》はこれを|探知《たんち》し、|直《ただ》ちにこれを|厳禁《げんきん》したるに、|畠照彦《はたてるひこ》、|竹友別《たけともわけ》は|顔色《がんしよく》をかへ|大道別《おほみちわけ》にむかつて、
『|心得《こころえ》ぬ|貴下《きか》の|仰《おほ》せなるかな。|貴下《きか》は|八王神《やつわうじん》に|仕《つか》へまつる|侍従長《じじゆうちやう》の|顕職《けんしよく》にありながら、|毫末《がうまつ》も|忠良《ちうりやう》の|志《こころざし》なし。われは|身命《しんめい》を|捨《す》て、|八王神《やつわうじん》|夫婦《ふうふ》の|心痛《しんつう》を|助《たす》けまつらむ|忠義《ちうぎ》の|心《こころ》より|出《い》でたるなり。|数月《すうげつ》のあひだ、|食《しよく》を|断《た》ち、あるひは|深山《しんざん》に|分《わ》け|入《い》り、|瀑布《ばくふ》に|投《とう》じあらゆる|艱難辛苦《かんなんしんく》を|嘗《な》め、その|報《むく》いによつて|神《かみ》の|命《めい》を|受《う》け、|春日姫《かすがひめ》を|救《すく》ひまつらむとす。しかるに|厳禁《げんきん》すとは|何事《なにごと》ぞ。いかに|長上《ちやうじやう》の|言《げん》なればとて、かかる|不忠不義《ふちゆうふぎ》の|言《げん》に|服従《ふくじゆう》すること|能《あた》はず』
と|云《い》ひ|放《はな》ち、ひそかに|春日姫《かすがひめ》を|鶴舞姫《つるまひひめ》と|仮名《かめい》し、ここに|主従《しゆじゆう》|三人《さんにん》は|天道山《てんだうざん》の|大瀑布《だいばくふ》の|下《した》に|進《すす》み|入《い》りにける。
|道貫彦《みちつらひこ》は、|平玉彦《ひらたまひこ》|以下《いか》|二人《ふたり》の|赤誠《せきせい》を|非常《ひじやう》に|感謝《かんしや》されたりといふ。ここに|大道別《おほみちわけ》は|守高彦《もりたかひこ》を|瀑布《ばくふ》に|遣《つか》はし、すみやかに|春日姫《かすがひめ》をともなひ|帰《かへ》るべく|命令《めいれい》を|伝《つた》へしめたれば、|守高彦《もりたかひこ》は、|天道山《てんだうざん》の|瀑布《ばくふ》にいたり|窺《うかが》ひみれば、|平玉彦《ひらたまひこ》|以下《いか》の|人々《ひとびと》は|春日姫《かすがひめ》の|鶴舞姫《つるまひひめ》を|傍《かたはら》の|石《いし》の|上《うへ》に|横臥《わうぐわ》せしめ、|代《かは》るがはる|瀑布《ばくふ》に|打《う》たれ、|真裸《まつぱだか》のまま|春日姫《かすがひめ》の|身体《しんたい》にむかつて|指《ゆび》を|組《く》み、|鎮魂《ちんこん》の|姿勢《しせい》をとり|汗《あせ》を|滝水《たきみづ》と|流《なが》して、【ウーウー】と|呻《うな》りゐたり。|守高彦《もりたかひこ》はこの|体《てい》を|見《み》てあきれ|果《は》て、つひには|抱腹絶倒《はうふくぜつたう》のあまり、|自分《じぶん》も|気《き》が|変《へん》になりきたりぬ。そのとき|鶴舞姫《つるまひひめ》は、
『|竹友別《たけともわけ》、|々々々《たけともわけ》』
と|連呼《れんこ》しけるが、|竹友別《たけともわけ》は|唯々諾々《ゐゐだくだく》として|滝壺《たきつぼ》より|這《は》ひあがり、|鶴舞姫《つるまひひめ》の|前《まへ》に|畏《おそ》るおそる|跪坐《きざ》しける。|鶴舞姫《つるまひひめ》はいやらしき|笑《ゑみ》をうかべて、
『|貴下《きか》は|恋《こひ》しき|鷹住別《たかすみわけ》に|非《あら》ずや』
と|力《ちから》のかぎり|手首《てくび》を|握《にぎ》りたり。|強力《がうりき》の|鶴舞姫《つるまひひめ》に|手首《てくび》を|握《にぎ》られたる|竹友別《たけともわけ》はみるみる|顔色《がんしよく》|青褪《あをざ》め、その|場《ば》に|打《う》ち|倒《たふ》れたり。|畠照彦《はたてるひこ》は|驚《おどろ》きて|滝壺《たきつぼ》より|這《は》ひあがり|滝水《たきみづ》を|口《くち》に|含《ふく》み、|竹友別《たけともわけ》の|面上《めんじやう》を|目《め》がけて|息吹《いぶ》き|放《はな》ちけるに、|竹友別《たけともわけ》やうやくして|正気《しやうき》づきぬ。されど|鶴舞姫《つるまひひめ》は|堅《かた》く|手《て》を|握《にぎ》りて|放《はな》さねば、|竹友別《たけともわけ》は|耳菟《みみづく》のごとき|円《まる》き|目《め》を|白黒《しろくろ》とむき|出《だ》し、|一言《いちごん》も|発《はつ》しえず|悶《もだ》え|苦《くる》しみにけり。|時《とき》しもあれ|守高彦《もりたかひこ》は、やにはに|鶴舞姫《つるまひひめ》の|横面《よこづら》|目《め》がけて|拳固《げんこ》を|加《くは》へたるが、そのはずみに|鶴舞姫《つるまひひめ》は|滝壺《たきつぼ》へ|落《お》ち|込《こ》みたり。|三人《さんにん》は|驚《おどろ》きて|鶴舞姫《つるまひひめ》を|滝壺《たきつぼ》より|救《すく》ひあげ、|守高彦《もりたかひこ》の|手足《てあし》に|搦《から》みつき、
『|汝《なんぢ》は|不忠不義《ふちゆうふぎ》の|悪人《あくにん》よ。|主《しゆ》にたいして|無礼《ぶれい》の|段《だん》その|罪《つみ》もつとも|重《おも》し、|目《め》に|物《もの》|見《み》せてくれむ』
と、|三人《さんにん》|一度《いちど》に|有《あ》りあふ|岩《いは》を|手《て》に|持《も》ち、|守高彦《もりたかひこ》の|身体《しんたい》を|処《ところ》かまはず|打《う》ち|据《す》ゑける。|守高彦《もりたかひこ》は|四《よ》つ|這《ばひ》となり、|笑《わら》ひながら、
『もう、それでよいか』
と|嘲笑《てうせう》したるに、|三人《さんにん》はますます|怒《いか》り、|岩《いは》を|持《も》つて|打《う》てども|擲《なぐ》れども、|不死身《ふじみ》の|守高彦《もりたかひこ》は|平然《へいぜん》たり。|何《なに》はともあれ、|一時《いちじ》もはやくこの|様子《やうす》を|大道別《おほみちわけ》に|報告《はうこく》し、あまたの|神司《かみがみ》を|引《ひ》き|連《つ》れきたりて|三人《さんにん》をしばり、|春日姫《かすがひめ》を|連《つ》れ|帰《かへ》らむと|心《こころ》を|定《さだ》め、|守高彦《もりたかひこ》は|一目散《いちもくさん》にモスコーに|走《はし》り|帰《かへ》り、この|次第《しだい》を|大道別《おほみちわけ》に|奏上《そうじやう》したりける。
|大道別《おほみちわけ》は|大石別《おほいしわけ》を|守高彦《もりたかひこ》にそへ、あまたの|神司《かみがみ》をひきゐて|天道山《てんだうざん》の|瀑布《ばくふ》にむかひ、
『|鶴舞姫《つるまひひめ》|以下《いか》|諸神司《しよしん》を|残《のこ》らず|打《う》ち|殺《ころ》し|帰《かへ》るべし』
と|命令《めいれい》したり。|大石別《おほいしわけ》、|守高彦《もりたかひこ》は|案《あん》に|相違《さうゐ》の|顔色《がんしよく》にて、
『|畏《おそ》れおほくも|主《しゆ》の|御娘《おんむすめ》を、|従臣《じゆうしん》の|分際《ぶんざい》として、|打《う》ち|殺《ころ》し|帰《かへ》れとはその|意《い》を|得《え》ず。|貴下《きか》もまた|常世国《とこよのくに》の|邪神《じやしん》に|憑依《ひようい》されて、かくのごとき|暴言《ばうげん》を|吐《は》かるるならむ。|決《けつ》して|決《けつ》して|貴下《きか》の|本心《ほんしん》より|出《いで》し|言《げん》には|非《あら》ざるべし』
と|言《い》ひつつ、|大石別《おほいしわけ》、|守高彦《もりたかひこ》は|前後《ぜんご》より|手《て》を|組《く》み|合《あは》せ、【ウーウー】と|一生懸命《いつしやうけんめい》に|霊力《れいりよく》をこめ|鎮魂《ちんこん》の|姿勢《しせい》を|取《と》りける。|大道別《おほみちわけ》は|吹《ふ》きだし、|腹《はら》をかかへてその|場《ば》に|打《う》ち|伏《ふ》し、
『|大石別《おほいしわけ》|腰《こし》を|揉《も》め、|守高彦《もりたかひこ》|足《あし》を|撫《な》でよ。あまりのをかしさに|腹《はら》も|腰《こし》もだるくて|置《お》き|処《どころ》なし』
とて|哄笑《こうせう》せり。|二人《ふたり》は|烈火《れつくわ》のごとく|憤《いきどほ》り、
『|不忠不義《ふちゆうふぎ》の|悪魔《あくま》の|張本《ちやうほん》、|天《てん》にかはりて|誅戮《ちうりく》せむ。|思《おも》ひ|知《し》れよ』
と|力自慢《ちからじまん》の|守高彦《もりたかひこ》は、|蠑螺《さざえ》のごとき|拳固《げんこ》をかためて|大道別《おほみちわけ》を|打《う》たんとしたるその|刹那《せつな》、|守高彦《もりたかひこ》の|腕《うで》は|銅像《どうざう》のごとく|手《て》を|振《ふ》り|上《あ》げしまま|少《すこ》しも|動《うご》かずなりにける。|大道別《おほみちわけ》は|二人《ふたり》にむかひ、
『|吾《われ》は|臣下《しんか》の|分際《ぶんざい》として|忠義《ちうぎ》の|道《みち》をわきまへざるに|非《あら》ず。|春日姫《かすがひめ》はすでに|鷹住別《たかすみわけ》と|手《て》をたづさへて|常世国《とこよのくに》にあり。しかるに|二人《ふたり》の|春日姫《かすがひめ》の|在《おは》すは|合点《がつてん》ゆかずと、|毎夜《まいよ》ひそかに|烏羽玉《うばたま》の|宮《みや》に|詣《まう》で、|神勅《しんちよく》を|請《こ》ひゐるをりしも|大神《おほかみ》|現《あら》はれたまひ、かれ|春日姫《かすがひめ》は|銀毛八尾《ぎんまうはつぴ》の|悪狐《あくこ》の|変身《へんしん》なり。その|証拠《しようこ》はかれの|足《あし》の|裏《うら》に|狐《きつね》の|形《かたち》したる|斑紋《はんもん》ありとの|神示《しんじ》なりしかば、|吾《われ》は|常《つね》に|注意《ちうい》しつつありしに、ある|機会《きくわい》にその|斑紋《はんもん》を|見届《みとど》けたり。ゆゑに|偽《いつは》りもなき|悪狐《あくこ》の|変化《へんげ》なれば、|汝《なんぢ》はすみやかに|天道山《てんだうざん》の|瀑布《ばくふ》にいたり、|姫《ひめ》もろともに|一度《いちど》に|打《う》ちとるか、さなくばこれを|生擒《いけど》りにして|帰《かへ》りきたるべし』
と|初《はじ》めて|心中《しんちう》を|打《う》ち|明《あ》けたりしに、|守高彦《もりたかひこ》はいづれが|真《しん》の|狐《きつね》なるや|合点《がつてん》ゆかず、ともかくも|春日姫《かすがひめ》の|足《あし》の|裏《うら》を|見《み》とどけての|上《うへ》|決《けつ》せむと、|大石別《おほいしわけ》もろとも|急《いそ》ぎ|竜神《りうじん》の|瀑布《ばくふ》に|進《すす》み|入《い》りにける。
(大正一〇・一一・二九 旧一一・一 加藤明子録)
(第二九章〜第三一章 昭和一〇・一・一七 於延岡市吉野屋旅館 王仁校正)
第三二章 |破軍《はぐん》の|剣《つるぎ》〔一三二〕
|大石別《おほいしわけ》、|守高彦《もりたかひこ》は、|大道別《おほみちわけ》の|言葉《ことば》の|実否《じつぴ》を|試《ため》さむと、|急《いそ》ぎ|天道山《てんだうざん》の|大瀑布《だいばくふ》に|諸神卒《しよしんそつ》とともに|駆《かけ》つけ|見《み》れば、|春日姫《かすがひめ》は|容姿《ようし》がらりと|変《へん》じ、にこやかに|微笑《びせう》しながら|二人《ふたり》にむかひ|遠路《ゑんろ》のところ|御迎《おむか》ひ|大儀《たいぎ》と、|実《げ》にすましゐたりける。|平玉彦《ひらたまひこ》は|得意《とくい》らしく|鼻《はな》を【ぴこつ】かせ、|右《みぎ》の|手《て》の|甲《かふ》にて|上下《じやうげ》の|唇《くちびる》を|左《ひだり》から|右《みぎ》へ|斜《ななめ》にこすりながら、
『|大石別《おほいしわけ》、|守高彦《もりたかひこ》』
と|言葉《ことば》|鋭《するど》く|呼《よ》びかければ、|二人《ふたり》はその|態度《たいど》に|憤然《ふんぜん》として|面《おもて》をふくらせ、
『|銀毛八尾《ぎんまうはちぴ》の|悪狐《あくこ》にしたがふ|平玉彦《ひらたまひこ》の|盲目《めくら》どもよ、|平玉蜘蛛《ひらたまぐも》となりて、|吾《わ》が|前《まへ》に|正体《しやうたい》をあらはせ』
と|叫《さけ》ぶや、|平玉彦《ひらたまひこ》は|怒《いか》りて、|汝《なんぢ》|無礼《ぶれい》ものと|言《い》ひながら|大石別《おほいしわけ》に|打《う》つてかからむとしたり。されど、|仁王《にわう》のごとき|強力無双《がうりきむさう》の|守高彦《もりたかひこ》の|両手《りやうて》に|拳骨《げんこつ》を|握《にぎ》りをるその|形相《ぎやうさう》のすさまじさに、やや|躊躇《ちうちよ》の|色《いろ》ありき。
|春日姫《かすがひめ》は|言葉《ことば》|優《やさ》しく、
『|大石別《おほいしわけ》、|守高彦《もりたかひこ》、|妾《わらは》はすでに|病気《びやうき》|全快《ぜんくわい》なしたれば、|最早《もはや》ここに|長居《ながゐ》するの|必要《ひつえう》なし。わが|本復《ほんぷく》の|祝《いは》ひにかへ、|平玉彦《ひらたまひこ》を|許《ゆる》せよ』
と|言葉《ことば》を|添《そ》へけるを、|大石別《おほいしわけ》は|守高彦《もりたかひこ》と|目《め》と|目《め》に|何事《なにごと》か|物言《ものい》はせながら、この|場《ば》を|無事《ぶじ》に|引返《ひきかへ》すこととなり、|春日姫《かすがひめ》は|神司《かみがみ》らに|送《おく》られて|賑々《にぎにぎ》しく|帰城《きじやう》したりける。
|道貫彦《みちつらひこ》は、|春日姫《かすがひめ》の|無事《ぶじ》|帰城《きじやう》せることをよろこび、|春日姫《かすがひめ》の|頼《たの》みを|容《い》れて|烏羽玉《うばたま》の|宮《みや》の|宮司《ぐうじ》に|任《にん》じける。|平玉彦《ひらたまひこ》、|大石別《おほいしわけ》|以下《いか》の|神司《かみがみ》は、これを|見《み》て|欣喜《きんき》のあまり|落涙《らくるい》しながら、|大道別《おほみちわけ》の|前《まへ》にすすみいで、
『|貴下《きか》は、|畏《おそ》れおほくも|八王神《やつわうじん》の|御娘《おんむすめ》|春日姫《かすがひめ》を、|銀毛八尾《ぎんまうはちぴ》の|悪狐《あくこ》といひ、かつ|御足《みあし》の|裏《うら》に|狐《きつね》の|斑紋《はんもん》ありといはれたり。されどかくのごとく|病気《びやうき》|全快《ぜんくわい》したまひ、|神聖《しんせい》なる|烏羽玉《うばたま》の|宮《みや》の|司《つかさ》とならせたまひ、|精神《せいしん》ここに|一変《いつぺん》して|至善《しぜん》|至美《しび》なる|神司《しんし》とならせたまひしに|非《あら》ずや。|貴下《きか》は|八王神《やつわうじん》にたいし|速《すみ》やかに|切腹《せつぷく》せらるべし。|卑怯《ひけふ》|未練《みれん》に|躊躇《ちうちよ》せば、われ|天《てん》にかはつて|貴下《きか》を|誅戮《ちうりく》せむ』
と|息《いき》まきながら|詰《つ》めよりにける。
|時《とき》しも|道貫彦《みちつらひこ》の|御召《おめし》なりとて、|春姫《はるひめ》は|言葉《ことば》おごそかに|大道別《おほみちわけ》を|差招《さしまね》きければ、|大道別《おほみちわけ》は|春姫《はるひめ》とともに|奥殿《おくでん》に|進《すす》み|入《い》りしに、|奥殿《おくでん》には|道貫彦《みちつらひこ》、|春日姫《かすがひめ》が|正座《しやうざ》にひかへ、|言葉《ことば》も|荒《あら》く、
『|汝《なんぢ》は|春日姫《かすがひめ》にたいする|無礼《ぶれい》の|罪《つみ》により、|天地《てんち》の|律法《りつぱう》に|照《て》らし|自殺《じさつ》を|申《まを》しつくる』
と|厳《おごそ》かに|言渡《いひわた》しける。|大道別《おほみちわけ》は|驚《おどろ》くかと|思《おも》ひのほか、|大口《おほぐち》あけて|打笑《うちわら》ひその|場《ば》に|倒《たふ》れ|伏《ふ》しぬ。しばしの|後《のち》、
『あゝ|暗《くら》い、|暗《くら》い』
と|呟《つぶや》きながら、|腰《こし》の|一刀《いつたう》を|抜《ぬ》くより|早《はや》く|電光石火《でんくわうせきくわ》|春日姫《かすがひめ》の|首《くび》は、|胴《どう》を|離《はな》れける。
このとき|道貫彦《みちつらひこ》は、|大声《おほごゑ》に|大道別《おほみちわけ》を|引捕《ひきとら》へよと|怒号《どがう》すれば、この|声《こゑ》に|驚《おどろ》いて|平玉彦《ひらたまひこ》、|大石別《おほいしわけ》、|畠照彦《はたてるひこ》、|竹友別《たけともわけ》その|他《た》の|神司《かみがみ》は|奥殿《おくでん》|目《め》がけて|走《はし》りいり、|前後《ぜんご》|左右《さいう》より|大道別《おほみちわけ》を|取《と》り|押《お》さへ、|高手小手《たかてこて》にしばり|上《あ》げたり。|大道別《おほみちわけ》は|心中《しんちう》に|天《てん》の|破軍星《はぐんせい》を|祈《いの》り、|国治立命《くにはるたちのみこと》の|救助《きうじよ》を|祈《いの》りければ、たちまち|百雷《ひやくらい》の|一時《いちじ》にとどろく|如《ごと》き|音響《おんきやう》とともに、|破軍星《はぐんせい》の|精魂《せいこん》たる|武満彦命《たけみつひこのみこと》|降《くだ》りきたり、|破軍《はぐん》の|剣《つるぎ》をもつて|空中《くうちゆう》を|切《き》り|捲《まく》りたまふにぞ、|今《いま》まで|春日姫《かすがひめ》と|思《おも》ひし|女性《ぢよせい》は、|銀毛八尾《ぎんまうはちぴ》の|悪狐《あくこ》と|化《くわ》し、そこに|斃死《へいし》しゐたりける。ここに|全《まつた》く|大道別《おほみちわけ》の|無辜《むじつ》は|晴《は》れ、かつ|道貫彦《みちつらひこ》は|非常《ひじやう》に|口《くち》をきはめて|大道別《おほみちわけ》の|天眼力《てんがんりき》を|感賞《かんしやう》したり。しかるに|大道別《おほみちわけ》は|春日姫《かすがひめ》の|悪狐《あくこ》の|首《くび》を|斬《き》り|捨《す》てたるさい、そのほとばしる|血《ち》の|一滴《いつてき》を|口《くち》に|呑《の》み、その|血《ち》は|身体《しんたい》|一面《いちめん》にひろがり、さしも|明察《めいさつ》にして|勇猛《ゆうまう》なりし|大道別《おほみちわけ》も|精神《せいしん》に|異状《いじやう》をきたし、|発狂者《はつきやうしや》となりにける。
これよりモスコーの|城《しろ》は、|常世姫《とこよひめ》の|駆使《くし》せる|金毛九尾《きんまうきうび》の|悪狐《あくこ》のために|蹂躙《じうりん》され、|道貫彦《みちつらひこ》、|夕日別《ゆふひわけ》の|夫妻《ふさい》は、つひに|城《しろ》を|捨《す》てて|万寿山《まんじゆざん》に|難《なん》を|避《さ》くることとはなりぬ。
|大道別《おほみちわけ》はそれより|世界《せかい》の|各地《かくち》を|漂浪《へうらう》し、ある|不可思議《ふかしぎ》の|出来事《できごと》より、|病気《びやうき》まつたく|癒《い》えたれども[#第三三章参照]、|命《みこと》は|依然《いぜん》として|発狂者《はつきやうしや》をよそほひ、かつ|聾者《ろうしや》となり、|馬鹿者《ばかもの》となりて|敵状《てきじやう》を|視察《しさつ》し、|最後《さいご》に|神政《しんせい》|成就《じやうじゆ》の|神業《しんげふ》にたいして|偉勲《ゐくん》を|立《た》てたるなり。|神機《しんき》|発揚《はつやう》の|神司《しんし》として|五六七《みろく》|神政《しんせい》の|基礎《きそ》となり、|国祖《こくそ》|再出現《さいしゆつげん》にさいし、とつぜん|地《ち》の|高天原《たかあまはら》に|顕現《けんげん》する|神人《しんじん》なり。|大道別《おほみちわけ》の|正体《しやうたい》ははたして|如何《いかん》。ただ|今後《こんご》に|徴《ちやう》せむのみ。
(大正一〇・一一・二九 旧一一・一 外山豊二録)
第九篇 |隠神《いんしん》の|活動《くわつどう》
第三三章 |巴形《ともゑがた》の|斑紋《はんもん》〔一三三〕
|大道別《おほみちわけ》は、|常世《とこよ》の|国《くに》の|邪神《じやしん》の|変化《へんげ》たる|春日姫《かすがひめ》を|亡《ほろ》ぼし、|偉勲《ゐくん》を|建《た》てたる|際《さい》、|邪神《じやしん》の|血液《けつえき》の|一滴《いつてき》|口中《こうちう》に|飛《と》び|入《い》り、ために|全身《ぜんしん》の|血液《けつえき》けがれて|聾唖《ろうあ》となり|痴呆《ちはう》となり、かつ|発狂者《はつきやうしや》となりてモスコーを|立出《たちい》で、|地上《ちじやう》の|各山各川《かくざんかくせん》を|漂浪《へうらう》し、|長年月《ちやうねんげつ》を|経《へ》て、|南高山《なんかうざん》の|深《ふか》き|谷間《たにま》に|迷《まよ》ひ|入《い》りける。
この|時《とき》いづこともなく、|巨大《きよだい》なる|呻《うめ》き|声《ごゑ》の|起《おこ》りしよと|思《おも》ふ|瞬間《しゆんかん》、|幾万《いくまん》ともかぎりなき|猛虎《まうこ》|現《あら》はれきたり、|大道別《おほみちわけ》に|前後《ぜんご》|左右《さいう》より|噛《か》みつききたる。|聾者《ろうしや》となりし|大道別《おほみちわけ》もこの|呻《うな》り|声《ごゑ》は、|透《す》きとほるごとく|耳《みみ》に|入《い》りければ、|心得《こころえ》たりと|大道別《おほみちわけ》は|噛《か》みつきたる|猛虎《まうこ》の|首筋《くびすぢ》を|引《ひき》つかみ|谷間《たにま》の|岩角《いはかど》に|打《う》ちつけ、これを|亡《ほろ》ぼすこと|数《かぞ》ふるにいとまなきほどなりき。|猛虎《まうこ》の|群《むれ》はますます|怒《いか》り|猛《たけ》り|狂《くる》ひ、|命《いのち》かぎりに|飛《と》びついてくるを、|大道別《おほみちわけ》は|縦横無尽《じゆうわうむじん》に|戦《たたか》ひけるが、つひに|心身《しんしん》ともに|大《おほ》いに|疲労《ひらう》を|感《かん》じ、|千仭《せんじん》の|谷間《たにま》へ|真逆様《まつさかさま》に|転倒《てんたう》し、|頭部《とうぶ》に|大負傷《だいふしやう》をなし、|多量《たりやう》に|出血《しゆつけつ》して、|谷間《たにま》に|失心《しつしん》のまま|横《よこ》たはりける。
|数万《すうまん》の|猛虎《まうこ》はそれと|同時《どうじ》に|掻《か》き|消《け》すごとく|姿《すがた》を|隠《かく》し、あとには|南高山《なんかうざん》の|松風《まつかぜ》と、|谷川《たにがは》の|激流《げきりう》の|音《おと》ばかりなりける。
|南高山《なんかうざん》の|山《やま》つづきなる|此方《こなた》の|高山《かうざん》の|奥《おく》に、|荒河《あらかは》の|宮《みや》といふ|社殿《しやでん》|建《た》ちをり、その|神名《しんめい》は|荒河明神《あらかはみやうじん》ととなへ、|年々《ねんねん》|地方《ちはう》の|神人《かみがみ》をして|犠牲《いけにえ》を|供《きよう》せしむるを、|慣例《くわんれい》となしをりける。|毎年《まいねん》|冬《ふゆ》のはじめに、|南高山《なんかうざん》|一帯《いつたい》の|神人《かみがみ》は|犠牲《いけにへ》をささげて|盛大《せいだい》なる|祭典《さいてん》を|執行《しつかう》することとなれり。|万一《まんいち》、|一回《いつくわい》にてもこの|祭典《さいてん》を|怠《おこた》りしときは、|南高山《なんかうざん》|一帯《いつたい》は|暴風《ばうふう》|吹《ふ》きおこり|猛雨《まうう》|降《ふ》りそそぎ、たちまち|大洪水《だいこうずゐ》をおこして、|神人《しんじん》|樹草《じゆさう》その|他《た》の|生物《せいぶつ》を|苦《くる》しむる|暴悪《ばうあく》|無比《むひ》の|神《かみ》なりける。
|南高山《なんかうざん》の|守神《しゆしん》|大島別《おほしまわけ》は、|一切《いつさい》の|危難《きなん》を|免《まぬが》れしめむがために、|毎年《まいねん》|犠牲《いけにへ》の|祭祀《さいし》を|怠《おこた》らず|執行《しつかう》されゐたりける。|大島別《おほしまわけ》の|子《こ》に|八島彦《やしまひこ》、|八島姫《やしまひめ》といふ|二人《ふたり》の|子女《しぢよ》ありき。|八島姫《やしまひめ》の|額《ひたひ》に、たちまち|巴形《ともゑがた》の|黒《くろ》き|斑点《はんてん》が|現《あら》はれたるが、|上下《じやうげ》|貴賤《きせん》の|区別《くべつ》なく、この|斑点《はんてん》の|現《あら》はれたる|者《もの》は、その|年《とし》の|祭典《さいてん》の|犠牲者《ぎせいしや》たるべき|運命《うんめい》の|定《さだ》まりしものとせられゐたり。
|大島別《おほしまわけ》、|大島姫《おほしまひめ》をはじめ|数多《あまた》の|神司《かみがみ》は、|八島姫《やしまひめ》の|額《ひたひ》の|斑点《はんてん》を|見《み》て、|悲歎《ひたん》やるかたなく、|部下《ぶか》の|神司《かみがみ》をあつめ|種々《しゆじゆ》|協議《けふぎ》の|結果《けつくわ》、その|身代《みがは》りを|立《た》てむと、|地方《ちはう》|一般《いつぱん》に|神司《かみがみ》を|派《は》して、|他《た》に|巴形《ともゑがた》の|斑紋《はんもん》ある|女《をんな》はなきやと、|昼夜《ちうや》|間断《かんだん》なく|山野河川《さんやかせん》を|捜索《さうさく》しつつありき。
|時《とき》しも、|南高山《なんかうざん》の|谷川《たにがは》を|渡《わた》るとき、|平素《へいそ》|清《きよ》けき|川水《かはみづ》は、|血液《けつえき》の|色《いろ》を|帯《お》びゐるを|認《みと》めたる|玉純彦《たますみひこ》、|高山彦《たかやまひこ》は、|流《なが》れの|変《かは》りたるを|訝《いぶ》かり、あまたの|神司《かみがみ》とともに|渓流《ながれ》をつたひ、|岩《いは》の|根《ね》、|木《き》の|根《ね》|踏《ふ》みさくみ|上《のぼ》りゆく。|谷川《たにがは》の|底《そこ》にあたりて、|何《なん》とも|知《し》れぬ|呻《うめ》き|声《ごゑ》|聞《きこ》えきたるにぞ、|諸神司《しよしん》は、|巌壁《がんぺき》をつたひ、|辛《から》うじて|谷底《たにぞこ》に|下《くだ》りみれば、|仁王《にわう》のごとき|容貌《ようばう》|骨格《こつかく》のたくましき|一人《ひとり》の|男子《だんし》が|岩角《いはかど》に|頭《あたま》をうち|出血《しゆつけつ》して、ほとんど|虫《むし》の|息《いき》となり|呻《うめ》きゐたりける。
|玉純彦《たますみひこ》は|直《ただ》ちに|谷水《たにみづ》を|掬《すく》ひ|来《きた》りて|口《くち》に|飲《の》ませ、かつ|伊吹《いぶ》きの|狭霧《さぎり》を|吹《ふ》きかけなど|種々《いろいろ》|介抱《かいはう》に|手《て》をつくしたる|結果《けつくわ》さいはひに|蘇生《そせい》し、|目《め》をギロギロとみはり、ものをもいはず|茫然《ばうぜん》として|神司《かみがみ》らの|顔《かほ》を|眺《なが》めゐたり。
|高山彦《たかやまひこ》は、この|男《をとこ》の|額《ひたひ》に|巴形《ともゑがた》の|斑紋《はんもん》|歴然《れきぜん》として|現《あら》はれをることを|目撃《もくげき》し、|欣喜雀躍《きんきじやくやく》しながら、|玉純彦《たますみひこ》の|耳《みみ》に|口《くち》をよせ、|何事《なにごと》をか|私語《ささや》きける。あまたの|従者《じゆうしや》の|顔《かほ》にも|何《なん》となく|晴《はれ》やかなる|気分《きぶん》のただよひ|見《み》えゐたるなり。
|大道別《おほみちわけ》は|神司《かみがみ》らに|誘《さそ》はれ、|南高山《なんかうざん》の|城塞《じやうさい》に|連《つ》れゆかれ、その|夜《よ》は|鄭重《ていちやう》なる|饗応《きやうおう》を|受《う》け、かつ|再生《さいせい》の|恩《おん》を|謝《しや》したりしが、この|時《とき》すでに|大道別《おほみちわけ》の|精神《せいしん》|状態《じやうたい》は、|出血《しゆつけつ》のため|改《あらた》まり、|耳《みみ》は|漸次《ぜんじ》|聞《きこ》えだし、|口《くち》はものをいふことを|得《え》、|視力《しりよく》はますます|正確《せいかく》になりゐたりける。
|大道別《おほみちわけ》は、モスコーを|出《いで》しより、|無我無中《むがむちう》に|幾千里《いくせんり》を|跋渉《ばつせふ》しつつありしが、|今《いま》この|南高山《なんかうざん》において|病気《びやうき》|恢復《くわいふく》したれば、|今《いま》の|吾《わ》が|身《み》は、その|身《み》のいづれの|地《ち》にあるやも|分《わか》らざりしなり。
|大道別《おほみちわけ》は|玉純彦《たますみひこ》にむかひ、
『ここの|地名《ちめい》は|何《なん》といふや、|吾《われ》は|永《なが》らく|病気《びやうき》のため|夢中《むちう》の|旅行《りよかう》をなし、|突然《とつぜん》|精神《せいしん》|状態《じやうたい》の|正気《しやうき》にかへりたる|際《さい》なれば、はじめて|生《うま》れ|出《いで》たるごとく、|何事《なにごと》も|分明《ぶんめい》せず』
と|云《い》ふにぞ、|玉純彦《たますみひこ》は、
『ここは|南高山《なんかうざん》の|城塞《じやうさい》なり』
と|答《こた》へけるにぞ、|大道別《おほみちわけ》はその|長途《ちやうと》の|旅行《りよかう》に、みづから|驚《おどろ》きゐたりける。
(大正一〇・一二・六 旧一一・八 栗原七蔵録)
(第三二章〜第三三章 昭和一〇・一・一七 於延岡市 王仁校正)
第三四章 |旭日昇天《きよくじつしようてん》〔一三四〕
ここに|大道別《おほみちわけ》は、|大島別《おほしまわけ》の|奥殿《おくでん》に|導《みちび》かれ、|山野海河《やまのうみかは》の|珍味《ちんみ》の|饗応《きやうおう》をふたたび|受《う》け、|終日《しうじつ》|終夜《しゆうや》うるはしき|女性《ぢよせい》の|舞曲《ぶきよく》を|見《み》せられ、|絲竹管絃《しちくくわんげん》の|音《ね》に|精神《せいしん》|恍惚《くわうこつ》として、|鼻唄《はなうた》|気分《きぶん》になりゐたりしが、|不思議《ふしぎ》や|八島姫《やしまひめ》の|巴形《ともゑがた》の|斑紋《はんもん》は|拭《ぬぐ》ふがごとく|消《き》え|去《さ》り、|大道別《おほみちわけ》の|斑紋《はんもん》はおひおひ|濃厚《のうこう》となりきたりぬ。
ここに|大島別《おほしまわけ》は|威儀《ゐぎ》を|正《ただ》し、|大道別《おほみちわけ》にむかひ、|八島姫《やしまひめ》のこの|度《たび》の|大難《だいなん》より、|大道別《おほみちわけ》の|渓間《けいかん》に|顛倒《てんたう》しほとンど|絶息《ぜつそく》しゐたるを|助《たす》けゐたるに、あにはからむや、その|面上《めんじやう》に|巴形《ともゑがた》の|斑紋《はんもん》あらはれ、|八島姫《やしまひめ》の|額《ひたひ》の|斑紋《はんもん》はしだいに|薄《うす》らぎ|消《き》え|失《う》せたる|次第《しだい》を|物語《ものがた》り、
『|汝《なんぢ》は|吾《わ》が|娘《むすめ》|八島姫《やしまひめ》の|身代《みがは》りとなりて、|荒河《あらかは》の|宮《みや》の|犠牲《ぎせい》たるべき|運命《うんめい》のもとにおかれたるものなり』
と|吐息《といき》をつきながら|涙《なみだ》を|流《なが》して|物語《ものがた》りけるにぞ、|大道別《おほみちわけ》は|少《すこ》しも|驚《おどろ》く|色《いろ》なく、|涼風《りやうふう》|面《おもて》を|吹《ふ》くごとき|平気《へいき》な|態度《たいど》にていふ。
『そは|実《じつ》に|面白《おもしろ》きことを|承《うけたまは》るものかな。|我《われ》はかかる|犠牲的《ぎせいてき》|行為《かうゐ》を|心底《しんてい》より|喜《よろこ》ぶ。そもそも|神《かみ》たるもの|犠牲《ぎせい》をたてまつらざれば、|怒《いか》りて|神人《しんじん》を|苦《くる》しますべき|理由《りいう》あるべからず。これまつたく|邪神《じやしん》の|所為《しよゐ》ならむ。|我《われ》かつて|竜神《りうじん》の|滝《たき》において|悪魔《あくま》を|見届《みとど》けたることあり、よき|研究《けんきう》|材料《ざいれう》なり。|謹《つつし》ンで|貴意《きい》に|応《おう》ぜむ』
と、こともなげにいひ|放《はな》ち|平然《へいぜん》として|酒《さけ》をのみゐたりけり。|大島別《おほしまわけ》|以下《いか》の|神司《かみがみ》らは、おほいに|喜《よろこ》び|感謝《かんしや》の|意《い》を|表《へう》し、ただちにその|準備《じゆんび》に|着手《ちやくしゆ》したりぬ。
いよいよ|期日《きじつ》は|迫《せま》り|来《きた》れり。|神司《かみがみ》らは|種々《しゆじゆ》の|供《そな》へ|物《もの》とともに、|大道別《おほみちわけ》を|柩《ひつぎ》に|入《い》れ|納《をさ》め、|山《やま》|深《ふか》く|分《わ》けいりて、|黄昏《たそがれ》ごろやうやく|荒河《あらかは》の|宮《みや》に|到着《たうちやく》し、|社前《しやぜん》に|柩《ひつぎ》ならびに|供《そな》へ|物《もの》を|安置《あんち》し、|一目散《いちもくさん》に|逃《に》げ|帰《かへ》りける。
|夜《よ》は|森々《しんしん》と|更《ふ》けわたり、|四辺《しへん》しづかにして、|水《みづ》さへ|音《おと》なく、|静《しづ》かにねむる|深更《しんかう》の|丑満時《うしみつどき》となりぬ。たちまち|社殿《しやでん》は|鳴動《めいどう》しはじめ、|数万《すうまん》の|虎《とら》|狼《おほかみ》が|一度《いちど》に|咆哮《はうかう》するごとき、|凄《すさま》じき|音響《おんきやう》|聞《きこ》え|来《きた》りぬ。
|大道別《おほみちわけ》は|何《なん》の|恐《おそ》るる|色《いろ》もなく、|柩《ひつぎ》の|中《なか》に|安坐《あんざ》して、|天津祝詞《あまつのりと》を|幾回《いくくわい》ともなく|繰返《くりかへ》し|奏上《そうじやう》しゐたるに、たちまち|神前《しんぜん》の|扉《とびら》は【ぎいぎいぎい】と|響《ひび》きわたりて、|眼《め》は|鏡《かがみ》の|如《ごと》く、|口《くち》は|耳《みみ》まで|引裂《ひきさ》け、|不恰好《ぶかつかう》に|曲《ゆが》める|鼻《はな》は|菊目石《あばたいし》を|括《くく》りつけしごとく、|牙《きば》は|剣《つるぎ》のごとく、|白髪《はくはつ》|背後《はいご》に|垂《た》れ|薄蝋色《うすらふいろ》の|角《つの》、|額《ひたひ》の|左右《さいう》に|突出《つきで》たる|異様《いやう》の|怪物《くわいぶつ》、|金棒《かなぼう》をひつさげて|柩《ひつぎ》の|前《まへ》に|現《あら》はれ、どんと|一突《ひとつ》き|地上《ちじやう》を|突《つ》けば、その|響《ひび》きに|柩《ひつぎ》は|二三尺《にさんじやく》も|地上《ちじやう》をはなれ|飛《と》び|上《あが》りける。さすがの|大道別《おほみちわけ》も、すこしは|案《あん》に|相違《さうゐ》の|面持《おももち》なりける。
|大道別《おほみちわけ》は|天津祝詞《あまつのりと》を|一生懸命《いつしやうけんめい》に、|汗《あせ》みどろになり|声《こゑ》をかぎりに|奏上《そうじやう》したるに、その|言霊《ことたま》の|響《ひび》きによりて、|柩《ひつぎ》は|自然《しぜん》に|四方《しはう》に|解体《かいたい》したれば、|大道別《おほみちわけ》はスツクと|立《た》ち|上《あが》りたり。|怪物《くわいぶつ》はその|勢《いきほひ》に|辟易《へきえき》して|二三歩《にさんぽ》|後方《こうはう》に|退《しりぞ》きし、その|隙間《すきま》を|見《み》すまし、|怪物《くわいぶつ》の|胸部《きようぶ》を|目《め》がけて|長刀《ちやうたう》を|突《つ》き|刺《さ》しけるに、|怪物《くわいぶつ》はキヤツと|一声《ひとこゑ》、|大地《だいち》にだうと|倒《たふ》れ|伏《ふ》し、もろくも|息《いき》は|絶《たえ》にける。|大道別《おほみちわけ》はそのままそこに|端坐《たんざ》して、|神前《しんぜん》の|神酒神饌《みきみけ》その|他《た》の|供《そな》へ|物《もの》を|仁王《にわう》のごとき|手《て》をもつて|之《これ》をつかみ、【むしやむしや】と|片《かた》つ|端《ぱし》から|残《のこ》らず|平《たひら》げにける。
しばらくあつて|天上《てんじやう》より|微妙《びめう》の|音楽《おんがく》|聞《きこ》え|来《き》たりぬ。|大道別《おほみちわけ》はその|音楽《おんがく》を|酒《さけ》の|肴《さかな》のごとく|思《おも》ひつつ、|神前《しんぜん》の|冷酒《れいしゆ》の|残《のこ》りを【がぶがぶ】と|呑《の》みはじめたる|時《とき》もあれ、たちまち|容色《ようしよく》|端麗《たんれい》にして|荘厳《さうごん》|無比《むひ》なる|女神《めがみ》は|数多《あまた》の|侍神《じしん》とともに|現《あら》はれたまひ、|言葉《ことば》しづかに、
『|妾《わらは》は|天《てん》の|高砂《たかさご》の|宮《みや》に|鎮《しづ》まる|国直姫命《くになほひめのみこと》なり。|汝《なんぢ》はこれより|吾《わ》が|命《めい》を|遵奉《じゆんぽう》し、|神界《しんかい》|経綸《けいりん》の|大業《たいげふ》を|完成《くわんせい》するまで、|地上《ちじやう》の|各地《かくち》をめぐり|悪神《あくがみ》の|陰謀《いんぼう》をさぐり、|逐一《ちくいち》これを|国治立命《くにはるたちのみこと》に|奏上《そうじやう》すべし。それまでは|汝《なんぢ》は|仮《かり》に|道彦《みちひこ》と|名乗《なの》り、かつ|聾唖《ろうあ》となり、|痴呆《ちはう》と|変《へん》じて|神業《しんげふ》に|従事《じゆうじ》せよ。|汝《なんぢ》には、|高倉《たかくら》、|旭《あさひ》|二柱《ふたはしら》の|白狐《びやくこ》をもつてこれを|保護《ほご》せしめむ。|使命《しめい》を|遂行《すゐかう》したる|上《うへ》は、|汝《なんぢ》は|琴平別命《ことひらわけのみこと》と|名《な》を|賜《たま》ひ、|竜宮《りゆうぐう》の|乙米姫命《おとよねひめのみこと》を|娶《めあ》はし、|神政《しんせい》|成就《じやうじゆ》の|殊勲者《しゆくんしや》として|四魂《しこん》の|神《かみ》の|中《うち》に|加《くは》へむ。|夢《ゆめ》|疑《うたが》ふなかれ』
と|言葉《ことば》|終《をは》るとともに、|国直姫命《くになほひめのみこと》|以下《いか》の|神司《かみがみ》らの|姿《すがた》は|消《き》え|失《う》せ、|東方《とうはう》の|山《やま》の|谷間《たにま》よりは|紫《むらさき》の|雲《くも》を|分《わ》けて|天津日《あまつひ》の|神《かみ》|豊栄昇《とよさかのぼ》りに|昇《のぼ》りたまひぬ。かたはらを|見《み》れば|象《ざう》のごとき|怪物《くわいぶつ》、|血《ち》にまみれて|横《よこ》たはりゐたり。これぞ|六面八臂《ろくめんはつぴ》の|邪鬼《じやき》の|眷族《けんぞく》なる|大狸《おほだぬき》なりける。
それ|以後《いご》|荒河《あらかは》の|宮《みや》は|焼《や》きすてられ、|南高山《なんかうざん》|一帯《いつたい》の|地方《ちはう》の|禍《わざはひ》は、|跡《あと》を|絶《た》つに|至《いた》りける。|玉純彦《たますみひこ》|以下《いか》の|神司《かみがみ》らは、|大島別《おほしまわけ》の|命《めい》により|数多《あまた》の|神司《かみがみ》を|引率《いんそつ》し、|荒河《あらかは》の|宮《みや》にいたり|見《み》れば、|大道別《おほみちわけ》は|平然《へいぜん》として|大狸《おほだぬき》の|横《よこ》に|安坐《あんざ》し、|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》しゐたるにぞ、|神司《かみがみ》らはかつ|驚《おどろ》きかつ|喜《よろこ》び、|大道別《おほみちわけ》とともに|南高山《なんかうざん》の|城内《じやうない》に|意気《いき》|揚々《やうやう》として|帰《かへ》り|来《きた》りける。|大道別《おほみちわけ》は|神司《かみがみ》らより|親《おや》のごとく|尊敬《そんけい》され、|優待《いうたい》されて|若干《そこばく》の|月日《つきひ》をここに|過《すご》したりける。
(大正一〇・一二・六 旧一一・八 加藤明子録)
第三五章 |宝《たから》の|埋換《うめかへ》〔一三五〕
|大道別《おほみちわけ》は|道彦《みちひこ》と|改名《かいめい》し、|南高山《なんかうざん》の|城内《じやうない》に|長《なが》くとどまり、|大島別《おほしまわけ》|夫妻《ふさい》の|非常《ひじやう》なる|信任《しんにん》を|受《う》け、|南高山《なんかうざん》の|八島姫《やしまひめ》を|娶《めあ》はせて、わが|身《み》の|後継者《こうけいしや》たらしめむとし、|大島別《おほしまわけ》みづから|道彦《みちひこ》に|向《むか》つてその|旨《むね》をうち|明《あか》し、しきりに|勧《すす》めて|止《や》まざりにける。
また|八島姫《やしまひめ》は|生命《いのち》の|恩人《おんじん》なる|上《うへ》、|道彦《みちひこ》の|英傑《えいけつ》なるに|心底《しんてい》より|心《こころ》をよせ、ぜひ|道彦《みちひこ》の|妻《つま》たらむことを|祈願《きぐわん》しつつありける。|道彦《みちひこ》は|親子《おやこ》の|日々《にちにち》の|親切《しんせつ》にほだされて、これを|素気《すげ》なく|辞退《じたい》するに|苦《くる》しみゐたりける。
あるとき|大島姫《おほしまひめ》は、|身体《しんたい》にはかに|震動《しんどう》しはじめ、|両手《りやうて》を|組《く》みしまま|上下《じやうげ》|左右《さいう》に|振《ふ》りまはし、|城内《じやうない》くまなく|駆《か》けめぐり、これを|静止《せいし》すること|困難《こんなん》をきはめたり。|大島別《おほしまわけ》は|大《おほ》いにこれを|憂慮《いうりよ》し、|地《ち》の|高天原《たかあまはら》にむかつて、|国治立命《くにはるたちのみこと》の|救助《きうじよ》を|祈願《きぐわん》せり。|道彦《みちひこ》はただちに|姫《ひめ》の|狂暴《きやうばう》を|取押《とりおさ》へむとして|後《あと》を|追《お》ひ、|表《おもて》の|階段《かいだん》の|上《うへ》にて|姫《ひめ》とともに|格闘《かくとう》をはじめける。
その|刹那《せつな》、|道彦《みちひこ》は|階段《かいだん》より|顛落《てんらく》して|頭部《とうぶ》を|負傷《ふしやう》し、|流血《りうけつ》|淋漓《りんり》|失神不省《しつしんふせい》の|態《てい》となりぬ。|大島姫《おほしまひめ》は|初《はじ》めて|口《くち》をきり、
『われは|南高山《なんかうざん》に|年古《としふる》くすむ|高倉《たかくら》といふ|白狐《びやくこ》なり。|道彦《みちひこ》はわが|頭首《かしら》をうち|滅《ほろ》ぼせしにより、その|仇《あだ》を|報《むく》ゆるために|姫《ひめ》の|体内《たいない》を|借《か》り、これを|階下《かいか》になげつけ、|傷口《きずぐち》より|毒血《どくち》を|注《そそ》ぎいれたれば、|彼《かれ》はたちまち|聾唖《ろうあ》となり、|痴呆《ちはう》となり、かつ|発狂《はつきやう》の|気味《きみ》を|有《いう》するにいたるは|火《ひ》をみるよりも|明《あき》らかなり。アヽ|嬉《うれ》しや、|喜《よろこ》ばしや』
と|肩《かた》を|前後《ぜんご》|左右《さいう》にゆすり、|足踏《あしふ》みして|愉快気《ゆくわいげ》に|哄笑《こうせう》するにぞ、|八島姫《やしまひめ》はおほいに|悲《かな》しみ、|道彦《みちひこ》を|抱《いだ》きおこし、|別殿《べつでん》にかつぎこみて|種々《しゆじゆ》|介抱《かいはう》に|手《て》をつくしたれども|道彦《みちひこ》の|容態《ようだい》すこしも|変《かは》らず、|八島姫《やしまひめ》の|言葉《ことば》にたいして|何《なん》の|反応《はんのう》もなく、ただただ【げらげら】と|涎《よだれ》をたらして|笑《わら》ふのみなりける。
|大島姫《おほしまひめ》はふたたび|身体《しんたい》を|前後《ぜんご》|左右《さいう》に|震動《しんどう》させながら、|大島別《おほしまわけ》にむかひ、
『われはもはや|道彦《みちひこ》を|術中《じゆつちう》に|陥《おとしい》れたれば、これに|憑依《ひようい》するの|必要《ひつえう》なし。イザこれより|常世城《とこよじやう》に|遁《に》げ|帰《かへ》らむ』
と|言《い》ふかとみれば、|大島姫《おほしまひめ》はバツタリ|殿中《でんちう》にうち|倒《たふ》れたり。|諸神司《しよしん》は|右往左往《うわうさわう》に|周章狼狽《しうしやうらうばい》して|水《みづ》よ|薬《くすり》よと|騒《さわ》ぎまはりしが、やうやくにして|大島姫《おほしまひめ》は|正気《しやうき》に|復《ふく》し、さもはづかしき|面色《おももち》にて|大島別《おほしまわけ》の|前《まへ》に|平伏《へいふく》し、|城中《じやうちう》を|騒《さわ》がせし|罪《つみ》を|拝謝《はいしや》したりける。ここに|道彦《みちひこ》は|真正《しんせい》の|聾唖《ろうあ》にして、かつ|痴呆《ちはう》にかかり、|全快《ぜんくわい》の|望《のぞ》みなきものと|一般《いつぱん》に|信《しん》ぜらるるにいたりけるぞ|口惜《くちを》しけれ。
|道彦《みちひこ》は|白狐《びやくこ》の|高倉《たかくら》と|旭《あさひ》の|二柱《ふたはしら》にみちびかれ、|南高山《なんかうざん》の|山頂《さんちやう》にある|数多《あまた》の|珍宝《ちんぽう》を|調査《てうさ》すべく|上《のぼ》りゆく。されど|痴呆《ちはう》と|思《おも》ひつめたる|神司《かみがみ》らは、|道彦《みちひこ》の|行動《かうどう》に|毫《がう》も|注意《ちうい》を|払《はら》はざりしは、|道彦《みちひこ》にとりて|非常《ひじやう》なる|幸福《さいはひ》なりける。
|道彦《みちひこ》は、|夜陰《やいん》に|乗《じやう》じ|白狐《びやくこ》の|案内《あんない》にて|山頂《さんちやう》に|登《のぼ》りみれば、|常世姫《とこよひめ》の|間者《かんじや》なる|高山彦《たかやまひこ》は、|山頂《さんちやう》の|土《つち》を|開掘《かいくつ》し、すでに|種々《しゆじゆ》の|珍宝《ちんぽう》を|奪《うば》ひ、|常世《とこよ》の|国《くに》に|帰《かへ》らむとして|同類《どうるゐ》とともに、あまたの|荷物《にもつ》をこしらへゐたる|最中《さいちゆう》なりき。そこへ|突然《とつぜん》|道彦《みちひこ》が|現《あら》はれきたりたれど、|高山彦《たかやまひこ》は、|痴呆《ちはう》にして|聾唖《ろうあ》なる|道彦《みちひこ》と|思《おも》ひ、|少《すこ》しも|懸念《けねん》せず|種々《しゆじゆ》の|宝《たから》を|掘出《ほりだ》し、かつ|貴重《きちよう》なる|宝物《たからもの》を|道彦《みちひこ》の|背《せ》に|負《お》はせ、|山《やま》を|下《くだ》らしめむとせり。|一味《いちみ》の|曲者《くせもの》はおのおの|宝《たから》を|背負《せお》ひ、|山《やま》を|下《くだ》りゆかむとするこの|時《とき》、|高倉《たかくら》、|旭《あさひ》の|白狐《びやくこ》はにはかに|千仭《せんじん》の|谷間《たにま》を|平地《へいち》と|見《み》せかけたれば、いづれも|平坦《へいたん》の|道路《みち》と|思《おも》ひ|誤《あやま》り、|残《のこ》らず|谷間《たにま》におちいり、|岩角《いはかど》に|傷《きず》つき、あるひは|渓流《けいりう》に|流《なが》され、ほとンど|曲者《くせもの》の|一隊《いつたい》は|全滅《ぜんめつ》しをはりしぞ|愉快《ゆくわい》なれ。
|高山彦《たかやまひこ》も|大負傷《だいふしやう》をなし、つひに|滅亡《めつぼう》せしかば、|道彦《みちひこ》は|白狐《びやくこ》に|導《みちび》かれ|谷間《たにま》に|下《くだ》りけるに、|不思議《ふしぎ》にも、その|谷間《たにま》は|自分《じぶん》のかつて|顛落《てんらく》したりし|同《おな》じ|箇所《かしよ》なりき[#第三三章参照]。すべての|宝《たから》は|皆《みな》この|谷底《たにぞこ》に|集《あつ》まりありければ、|白狐《びやくこ》の|指示《さししめ》すままにその|宝《たから》を|一所《ひとところ》にあつめ、|土《つち》を|掘《ほ》りてこれを|深《ふか》く|秘《ひ》め|蔵《かく》し、その|上《うへ》に|千引《ちびき》の|岩《いは》をもつて|覆《おほ》ひ、|何《なに》くはぬ|顔《かほ》にて|帰《かへ》り|来《き》たりける。
|南高山《なんかうざん》の|城内《じやうない》には、|高山彦《たかやまひこ》|以下《いか》のあまたの|神司《かみがみ》の|姿《すがた》|見《み》えざるに|不審《ふしん》をおこし、|四方《しはう》|八方《はつぱう》に|手配《てくば》りして、その|行方《ゆくへ》を|探《さが》しつつありしところへ|帰《かへ》り|来《き》たりし|道彦《みちひこ》の|衣類《いるゐ》には、|血《ち》が|一面《いちめん》に|附着《ふちやく》しゐたれば、|大島別《おほしまわけ》は、|道彦《みちひこ》の|衣類《いるゐ》の|血《ち》を|見《み》て、やや|不審《ふしん》を|抱《いだ》きつつありけるところへ、|数多《あまた》の|神司《かみがみ》は|高山彦《たかやまひこ》の|屍骸《なきがら》を|担《かつ》ぎ|帰《かへ》り|来《き》たりぬ。しかして|数多《あまた》の|神司《かみ》は|渓流《けいりう》に|落《お》ちて|苦《くる》しみ、ほとンど|全滅《ぜんめつ》せることを|委細《ゐさい》に|奏上《そうじやう》したりける。|時《とき》しも|高山彦《たかやまひこ》の|従臣《じゆうしん》なる|高彦《たかひこ》は、|危難《きなん》をまぬがれ|帰《かへ》り|来《きた》り、|道彦《みちひこ》のために|全部《ぜんぶ》|滅《ほろ》ぼされむとしたることを、|涙《なみだ》とともに|奏上《そうじやう》したりける。
|大島別《おほしまわけ》は|烈火《れつくわ》のごとく|憤《いきどほ》り、|長刀《ちやうたう》を|引抜《ひきぬ》き、|真向《まつかう》より|道彦《みちひこ》に|斬《き》りつけたるに、|道彦《みちひこ》はヒラリと|体《たい》をかはし、|手《て》をうつて|笑《わら》ひながら|後退《あとしざ》りしつつ、
『ここまで|御座《ござ》れ、|甘酒《あまざけ》のまそ』
と|踊《をど》りつつ|城門《じやうもん》をにげだしたり。|八島姫《やしまひめ》は|血相《けつさう》かへて|道彦《みちひこ》の|後《あと》を|追《お》ひつつ|門外《もんぐわい》に|出《い》づるや、たちまち|暗《やみ》にまぎれて|行方《ゆくへ》をくらましにける。
(大正一〇・一二・六 旧一一・八 外山豊二録)
(第三四章〜第三五章 昭和一〇・一・一八 於延岡市吉野家 王仁校正)
第三六章 |唖者《おし》の|叫《さけ》び〔一三六〕
|道彦《みちひこ》は|南高山《なんかうざん》の|城塞《じやうさい》を|脱出《だつしゆつ》し、|白狐《びやくこ》の|高倉《たかくら》に|守《まも》られて|何処《どこ》ともなく、|足《あし》にまかして|漂泊《さすらひ》の|旅《たび》をつづけたりしが、|高倉《たかくら》は|道彦《みちひこ》の|先《さき》に|立《た》ちて|導《みちび》きゆきぬ。
|八島姫《やしまひめ》は|道彦《みちひこ》の|後《あと》を|慕《した》ひて、|見《み》えつ|隠《かく》れつ|従《したが》ひゆく。されど|道彦《みちひこ》は|八島姫《やしまひめ》の|後《あと》より|呼《よ》びとどめる|声《こゑ》を、|聾者《つんぼ》の|真似《まね》をなして|少《すこ》しも|聞《きこ》えぬふりを|装《よそほ》ひ、ドンドンと|進《すす》みて|行《ゆ》く。|無論《むろん》|偽唖者《にせおし》となりし|身《み》は|一言《いちごん》も|発《はつ》せざりける。|八島姫《やしまひめ》はかよわき|足《あし》にて、けはしき|山坂《やまさか》を|幾《いく》つともなく、|昼夜《ちうや》を|分《わか》たず|跋渉《ばつせふ》せし|疲労《ひらう》によりて、ほとんど|息《いき》も|絶《た》えだえに|苦《くる》しみけるが、やうやくにして|長高山《ちやうかうざん》の|麓《ふもと》を|流《なが》るる|深《ふか》き|谷川《たにがは》のほとりに|着《つ》きぬ。|道彦《みちひこ》は|白狐《びやくこ》の|跡《あと》を|渡《わた》り、|浅瀬《あさせ》を|選《えら》びて|向《むか》ふ|岸《きし》にやつと|到着《たうちやく》し、|後《あと》を|振《ふ》りかへり|息《いき》を|休《やす》めゐたりける。
このとき、|八島姫《やしまひめ》は|命《いのち》からがら|対岸《たいがん》まで|追《お》ひかけきたり、この|谷川《たにがは》の|絶壁《ぜつぺき》に|立《た》ち、いかにして|渡《わた》らむやと|途方《とはう》にくれながら、|声《こゑ》をかぎりに|道彦《みちひこ》を|呼《よ》びとめたり。|道彦《みちひこ》は|表面《へうめん》|素知《そし》らぬ|顔《かほ》はなしゐるものの、|心《こころ》の|中《なか》には|八島姫《やしまひめ》の|心情《しんじやう》を|察知《さつち》し、|万斛《ばんこく》の|涙《なみだ》にむせびゐたるなりき。
されど|神命《しんめい》もだしがたく、|聾唖《ろうあ》を|装《よそほ》ひし|身《み》は|一言《ひとこと》の|慰安《ゐあん》も|与《あた》ふるの|自由《じいう》を|有《いう》せざりき。|対岸《たいがん》の|八島姫《やしまひめ》は、|天《てん》を|拝《はい》し|地《ち》に|伏《ふ》し、|慟哭《どうこく》やや|久《ひさ》しうし、ここに|決心《けつしん》の|色《いろ》を|浮《うか》べてたちまち|懐中《くわいちゆう》より|短刀《たんたう》を|取《と》り|出《だ》し、|天《てん》にむかつて|合掌《がつしやう》し、|吾《われ》と|吾《わ》が|咽喉《のど》を|突《つ》かむとする|一刹那《いちせつな》、|道彦《みちひこ》は|思《おも》はず、
『しばらく|待《ま》たれよ』
と|呼《よ》ばはりぬ。|姫《ひめ》は|声《こゑ》をしぼつて、
『|妾《わらは》が|一旦《いつたん》|夫《をつと》と|定《さだ》めたるは、|天地《てんち》の|間《あひだ》に|貴下《きか》を|措《お》きて|他《ほか》になし。|生《い》きて|恋路《こひぢ》の|闇《やみ》に|苦《くる》しみ|迷《まよ》はむよりは、いつそ|貴下《きか》の|御目《おんめ》の|前《まへ》にて|自殺《じさつ》を|遂《と》ぐるは、せめてもの|心《こころ》の|慰《なぐさ》めなり。かならず|止《とど》めたまふな』
とまたも|咽喉《のど》を|突《つ》かむとする|時《とき》、|白狐《びやくこ》はたちまち|姿《すがた》を|現《あら》はし、|八島姫《やしまひめ》の|持《も》てる|短刀《たんたう》を|力《ちから》かぎりに|打《う》ち|落《おと》したりしが、|姫《ひめ》はその|場《ば》にドツと|倒《たふ》れて|失心《しつしん》の|態《てい》なり。|道彦《みちひこ》はこの|惨状《さんじやう》を|見《み》るに|忍《しの》びず、ふたたび|谷川《たにがは》を|渡《わた》りきたりて、|谷水《たにみづ》を|口《くち》にふくませ|種々《しゆじゆ》|介抱《かいはう》の|結果《けつくわ》、|姫《ひめ》はやうやく|蘇生《そせい》するにいたりける。
|姫《ひめ》はやうやう|顔《かほ》をあげ、|涙《なみだ》をぬぐひながら|道彦《みちひこ》の|手《て》をかたく|握《にぎ》りしめ、|顔《かほ》を|赤《あか》らめ|胸肩《むねかた》ともに|波《なみ》をうたせ、たださめざめと|泣《な》くばかりなり。|道彦《みちひこ》は|親切《しんせつ》にこれをいたはり、かつ|我《わ》が|身《み》の|大神《おほかみ》より|一大《いちだい》|使命《しめい》を|拝《はい》し、|偽《いつは》つて|聾唖《ろうあ》となり|痴呆《ちはう》となり、|発狂者《はつきやうしや》を|装《よそほ》ひゐるその|苦痛《くつう》を|逐一《ちくいち》|述《の》べ|立《た》てたるに、|八島姫《やしまひめ》ははじめて|悟《さと》り、|吾《わ》が|身《み》の|不覚《ふかく》と|無智《むち》を|悔《く》い、|今《いま》までの|怪《あや》しき|心《こころ》をあらため、|何《なに》とぞ|今後《こんご》ともに|神業《しんげふ》に|参加《さんか》せしめよと、|赤誠《せきせい》をこめて|嘆願《たんぐわん》したりける。
|道彦《みちひこ》はただちに|天《てん》にむかつて|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》しけるに、たちまち|天上《てんじやう》より|二柱《ふたはしら》の|天使《てんし》|降《くだ》りきたり、|一柱《ひとはしら》は|道彦《みちひこ》にむかひ、|一柱《ひとはしら》は|八島姫《やしまひめ》にむかひ、|各自《かくじ》に|特種《とくしゆ》の|使命《しめい》を|伝《つた》へ、|固《かた》く|口外《こうぐわい》することを|禁《きん》じたまひぬ。この|天使《てんし》は|天《あま》の|高砂《たかさご》の|宮《みや》にます|国直姫命《くになほひめのみこと》の|使神《ししん》なりき。ゆゑに|道彦《みちひこ》は|八島姫《やしまひめ》の|使命《しめい》を|知《し》らず、|八島姫《やしまひめ》はまた|道彦《みちひこ》の|使命《しめい》のいかなるかを|知《し》らざりける。しかし|道彦《みちひこ》には|白狐《びやくこ》|高倉《たかくら》をしてこれを|守護《しゆご》せしめ、|八島姫《やしまひめ》には|白狐《びやくこ》|旭《あさひ》をしてこれを|守護《しゆご》せしめられたりける。
それより|八島姫《やしまひめ》は、|自己《じこ》の|美貌《びばう》を|楯《たて》に|悪魔《あくま》の|巣窟《さうくつ》に|入《い》りてすべての|計略《けいりやく》を|探知《たんち》し、|道彦《みちひこ》は|力強《ちからづよ》の|馬鹿《ばか》となりすまして、|悪神《あくがみ》らの|巣窟《さうくつ》を|探《さぐ》り、|種々《しゆじゆ》の|陰謀《いんぼう》を|覚知《かくち》して、これを|国直姫命《くになほひめのみこと》に|詳細《しやうさい》|奏上《そうじやう》することに|努《つと》めたり。
|道彦《みちひこ》、|八島姫《やしまひめ》は、|個々別々《ここべつべつ》に|身《み》を|窶《やつ》して|長高山《ちやうかうざん》の|城下《じやうか》に|進《すす》みいりぬ。|長高山《ちやうかうざん》は|忠孝両全《ちうかうりやうぜん》の|誉《ほまれ》|高《たか》かりし|清照彦《きよてるひこ》、|末世姫《すゑよひめ》の|二人《ふたり》が|主将《しゆしやう》として|守《まも》りゐたりけり。
しかるに、|美《うつく》しき|花《はな》は|風《かぜ》に|散《ち》りやすく、|良果《りやうくわ》は|虫《むし》に|侵《をか》されやすきがごとく、|長高山《ちやうかうざん》は|一時《いちじ》|天国《てんごく》|浄土《じやうど》の|現出《げんしゆつ》せしごとく|天下《てんか》|泰平《たいへい》に|治《をさ》まり、|風雨《ふうう》|和順《わじゆん》して|神人《しんじん》|鼓腹《こふく》の|楽《たの》しみに|馴《な》れ、あまたの|神人《かみがみ》は|少《すこ》しも|治世《ちせい》の|苦《くる》しみを|知《し》らざりける。|常世姫《とこよひめ》の|間者《かんじや》|土熊別《つちくまわけ》、|鬼丸《おにまる》は|善《ぜん》の|仮面《かめん》をかぶり|長高山《ちやうかうざん》に|現《あら》はれ、|城内《じやうない》の|神人《かみがみ》らを|絲竹管絃《しちくくわんげん》の|楽《たのし》みをもつて|籠絡《ろうらく》し、|日夜《にちや》|茗〓《めいえん》にふけらしめたれば、|長高山《ちやうかうざん》は|天下《てんか》|泰平《たいへい》の|波《なみ》にただよひ、|神人《しんじん》は|下《しも》の|苦《くる》しみを|知《し》らず、たがひに|自己《じこ》の|逸楽栄達《いつらくえいたつ》のみにふけり、|難《なん》を|避《さ》け|安《やす》きにつき、|天職《てんしよく》|責任《せきにん》を|解《かい》せず、|頤《あご》をもつて|下民人《しもたみびと》を|使役《しえき》し、|日《ひ》をおふて|驕慢心《けうまんしん》を|増長《ぞうちよう》せしめけり。|上《かみ》は|日夜《にちや》|絲竹管絃《しちくくわんげん》のひびきに|心魂《しんこん》をとろかし、|酒池肉林《しゆちにくりん》の|驕奢《けうしや》に|魂《たましひ》を|腐《くさ》らし、|宝《たから》を|湯水《ゆみづ》のごとく|濫費《らんぴ》し、|下級民人《かきふたみびと》の|惨苦《さんく》を|少《すこ》しも|思《おも》はざるにいたれり。これぞ|常世姫《とこよひめ》の|間者《かんじや》|土熊別《つちくまわけ》、|鬼丸《おにまる》らの|術中《じゆつちう》に|陥《おちい》らしめ、|長高山《ちやうかうざん》を|内部《ないぶ》より|崩潰《ほうくわい》せしめむとの|奸策《かんさく》なりける。|神人《しんじん》はつねに|美女《びぢよ》を|座《ざ》に|侍《はべ》らせ、|長夜《ちやうや》の|遊楽《いうらく》に|耽《ふけ》りゐたりけるが、あるとき|土熊別《つちくまわけ》は|酒《さけ》の|酔《ゑひ》をさますべく、|城外《じやうぐわい》にいでて|散歩《さんぽ》せるに、たちまち|前方《ぜんぱう》に|容色《ようしよく》ならぶものなき|美人《びじん》が|現《あら》はれける。この|美人《びじん》は|前述《ぜんじゆつ》の|八島姫《やしまひめ》なりける。
|八島姫《やしまひめ》は、|酔眼朦朧《すいがんもうろう》として|唄《うた》を|歌《うた》ひつつ|進《すす》みくる|土熊別《つちくまわけ》の|前《まへ》にいたり、にはかに|地上《ちじやう》に|俯伏《ひれふ》して|泣《な》き|苦《くる》しみはじめたり。|土熊別《つちくまわけ》はこれを|見《み》てただちに|抱《だ》きおこし、
『|貴女《あなた》はいづれの|女性《ぢよせい》にましますや。また|何用《なによう》ありてこの|城下《じやうか》へ|来《き》たられしや』
と|舌《した》もまはらぬ|言霊《ことたま》にて|問《と》ひかくれば、|姫《ひめ》はただうつむきて|泣《な》くばかりなり。|土熊別《つちくまわけ》はもどかしがり、しきりに|名《な》を|尋《たづ》ねけるを、|姫《ひめ》はただちに|顔《かほ》をあげ、|涙《なみだ》をぬぐひながら、
『|妾《わらは》は|天《てん》より|降《くだ》りたる|旭姫《あさひひめ》といふ|者《もの》なり。|長高山《ちやうかうざん》には|常《つね》に|絲竹管絃《しちくくわんげん》の|音《おと》|絶《た》えず、|日夜《にちや》|面白《おもしろ》き|舞曲《ぶきよく》を|演《えん》ぜらるると|聞《き》き、|雲路《くもぢ》を|分《わ》けてひそかにその|舞曲《ぶきよく》を|見《み》むと|降《くだ》りきたる|折《をり》しも、|烈風《れつぷう》のために|羽衣《はごろも》を|破《やぶ》られて|飛行《ひかう》|自由《じいう》ならず、|突然《とつぜん》|地上《ちじやう》に|墜落《つゐらく》して|大腿骨《だいたいこつ》を|打《う》ち、|痛苦《つうく》に|堪《た》へず|苦《くる》しみをれるなり』
と|真《まこと》しやかに|物語《ものがた》りければ、|土熊別《つちくまわけ》はやや|右《みぎ》の|肩《かた》をそばだて、|首《くび》を|左右《さいう》に|傾《かたむ》けながら、|旭姫《あさひひめ》の|顔《かほ》を|熟視《じゆくし》ししばらくは|無言《むごん》のまま|突《つ》つ|立《た》ちゐたり。このとき、|旭姫《あさひひめ》はニタニタと|笑《わら》ひはじめたり。しかして|姫《ひめ》は、
『あゝありがたし、|妾《わらは》の|苦痛《くつう》は|全《まつた》く|癒《い》えたり』
と|言《い》ひながらすつくと|立《たち》あがり|数十歩《すうじつぽ》|円《ゑん》をゑがいて|軽々《かるがる》しく|歩行《ほかう》して|見《み》せたるに、|土熊別《つちくまわけ》は|手《て》を|拍《う》ちて|喜《よろこ》び、ただちに|姫《ひめ》の|手《て》をたづさへ|城内《じやうない》の|酒宴《しゆえん》の|場《ば》に|導《みちび》きける。あまたの|美人《びじん》は|宴席《えんせき》にあれども、|旭姫《あさひひめ》の|容色《ようしよく》|端麗《たんれい》にしてその|風采《ふうさい》の|優雅《いうが》なるにおよぶ|者《もの》なかりける。ほとンど|姫《ひめ》は|万緑叢中《ばんりよくそうちう》|紅一点《こういつてん》の|観《くわん》あるにぞ、|神人《かみがみ》らは|手《て》を|拍《う》つて|喜《よろこ》びあいにける。
ここに|旭姫《あさひひめ》は|神司《かみがみ》らの|請《こ》ひをいれ、|天女《てんによ》の|舞《ま》ひを|演《えん》ずることとなりぬ。|拍手《はくしゆ》|喝采《かつさい》の|声《こゑ》は|城《しろ》の|内外《ないぐわい》に|轟《とどろ》きわたりける。
(大正一〇・一二・六 旧一一・八 桜井重雄録)
(第三六章 昭和一〇・一・一八 於延岡市 王仁校正)
第三七章 |天女《てんによ》の|舞曲《ぶきよく》〔一三七〕
|八咫《やあた》の|大広間《おほひろま》の|大酒宴《だいしゆえん》の|中《なか》に|立《た》ちて、|旭姫《あさひひめ》は|長袖《ちやうしう》いとしとやかに|舞《ま》ひつ|踊《をど》りつ、|口《くち》づから|歌《うた》ひはじめたり。その|歌《うた》、
『|朝日《あさひ》は|豊栄《とよさか》|昇《のぼ》りまし |神《かみ》の|光《ひかり》もいやちこに
|清照彦《きよてるひこ》のうしはげる |世《よ》は|永遠《とこしへ》に|長高《ちやうかう》の
|山《やま》の|草木《くさき》もかぐはしく |花《はな》は|咲《さ》けども|百鳥《ももとり》の
|声《こゑ》は|長閑《のどか》に|謳《うた》へども |月《つき》に|叢雲《むらくも》|花《はな》に|風《かぜ》
|常世《とこよ》の|国《くに》より|吹《ふ》きおくる |冷《つめ》たき|嵐《あらし》にさそはれて
|山《やま》のふもとや|谷底《たにそこ》の |木草《きくさ》は|倒《たふ》れ|花《はな》は|散《ち》り
|神人《しんじん》|一度《いちど》に|泣《な》き|叫《さけ》ぶ その|声《こゑ》|今《いま》に|長高《ちやうかう》の
|山《やま》の|尾《を》の|上《へ》を|轟《とどろ》かし |常世《とこよ》の|暗《やみ》の|世《よ》とならむ
|心《こころ》きよてる|彦《ひこ》の|神《かみ》 その|身《み》の|側《そば》に|気《き》をつけて
|角《つの》の|生《は》えたる|牛熊《うしくま》や |鬼丸《おにまる》|等《たち》がたはむれを
|真寸美《ますみ》の|鏡《かがみ》に|照《てら》し|見《み》よ あらしはやがて|吹《ふ》き|荒《すさ》み
|炎《ほのほ》は|今《いま》に|燃《も》え|上《あ》がる |清照彦《きよてるひこ》よ|気《き》をつけよ
|常世《とこよ》の|暗《やみ》となるなれば |長高山《ちやうかうざん》も|末世姫《すゑよひめ》
|末世澆季《まつせげうき》の|世《よ》をてらす |国直姫《くになほひめ》の|御使《おんつかひ》
|旭《あさひ》の|明神《みやうじん》これにあり |太刀《たち》|抜《ぬ》き|振《はら》ふは|今《いま》の|内《うち》
|角《つの》|折《を》りこらすはこの|砌《みぎり》 |大道別《おおみちわけ》や|八島姫《やしまひめ》
|後《うしろ》にひかへ|奉《たてまつ》る いそげよいそげいざ|急《いそ》げ
|一時《いちじ》の|猶予《いうよ》は|千歳《せんざい》の |悔《く》いを|残《のこ》さむささ|早《はや》く』
|清照彦《きよてるひこ》は|旭姫《あさひひめ》の|諷歌《ふうか》を|聞《き》くや、|侍臣《じしん》に|命《めい》じてその|場《ば》に|牛熊別《うしくまわけ》を|縛《ばく》せしめむとせしに、さすがの|牛熊別《うしくまわけ》も|大酒《たいしゆ》をすごせしため|身体《しんたい》|自由《じいう》ならず、やすやすと|部下《ぶか》の|神司《かみがみ》のために|前後《ぜんご》|左右《さいう》より|取《と》り|囲《かこ》まれ|縛《ばく》につきぬ。このとき|山下《さんか》に|聞《きこ》ゆる|鬨《とき》の|声《こゑ》。|清照彦《きよてるひこ》は|突《つ》つ|立《た》ち|上《あが》り、
『|反逆者《はんぎやくしや》の|襲来《しふらい》ならむ。|神将《かみがみ》らは|武装《ぶさう》を|整《ととの》へ|防戦《ばうせん》にむかへ』
と|下知《げち》すれども、|酒《さけ》に|酔《よ》ひつぶれて|正体《しやうたい》なく、ただただ|寝耳《ねみみ》に|水《みづ》の|恐怖心《きようふしん》にかられ、|右往左往《うわうさわう》に|城内《じやうない》を|奔《はし》りまはるのみ。|一人《ひとり》として|戦場《せんぢやう》にむかふ|勇者《ゆうしや》は|無《な》かりけり。
|時《とき》しも|鬼丸《おにまる》は、|陣頭《ぢんとう》に|立《た》ちあまたの|魔軍《まぐん》を|引率《いんそつ》し、|城内《じやうない》に|侵入《しんにふ》しきたり、
『|鬼丸《おにまる》これにあり、|清照彦命《きよてるひこのみこと》に|見参《げんざん》せむ。|吾《われ》こそは|常世国《とこよのくに》の|重臣《ぢうしん》にして、|鬼丸《おにまる》とは|世《よ》を|忍《しの》ぶ|仮《かり》の|名《な》、|実《じつ》は|八王大神《やつわうだいじん》の|密偵《みつてい》、|鷹虎別《たかとらわけ》なるぞ。|長高山《ちやうかうざん》を|占領《せんりやう》せむと|身《み》をやつし|牛熊別《うしくまわけ》としめし|合《あは》せ、|本城《ほんじやう》を|根底《こんてい》より|覆《くつが》へさむとの|吾《わ》が|計略《けいりやく》、|天運《てんうん》ここに|循環《じゆんかん》して、|日《ひ》ごろの|大望《たいもう》|成就《じやうじゆ》の|暁《あかつき》はきたれり。もはや|叶《かな》はぬ|清照彦《きよてるひこ》は、|本城《ほんじやう》を|開《あ》けわたし、|常世《とこよ》の|国《くに》に|従《したが》ふか、ただしはこの|場《ば》で|切腹《せつぷく》あるか。|返答《へんたふ》いかに』
と|阿修羅王《あしゆらわう》の|荒《あ》れたるごとく、|奥殿《おくでん》|目《め》がけて|攻《せ》めきたるを、|清照彦《きよてるひこ》、|末世姫《すゑよひめ》は、|強弓《がうきう》に|矢《や》を|番《つが》へ、|立《た》ち|出《い》でて|鷹虎別《たかとらわけ》にむかひ、|一矢《いつし》を|発《はな》たむとする|時《とき》しも、いかがはしけん、|弓弦《ゆみづる》はプツリと|断《た》ち|切《き》れて|双方《さうはう》とも|用《よう》をなさず、|進退《しんたい》きはまり|夫婦《ふうふ》は|最早《もはや》|切腹《せつぷく》の|余儀《よぎ》なきをりしも、|旭姫《あさひひめ》は|牛熊別《うしくまわけ》を|縛《いましめ》のまま、その|前《まへ》に|曳出《ひきだ》しきたり、|短刀《たんたう》を|牛熊別《うしくまわけ》の|胸《むね》に|擬《ぎ》し、|鬼丸《おにまる》にむかひ、
『|汝《なんぢ》|吾《わ》が|主《しゆ》にむかつて|危害《きがい》を|加《くは》へむとせば、|妾《わらは》はいま|汝《なんぢ》の|主《しゆ》を|刺殺《さしころ》さむ』
と|睨《ね》めつけたるにぞ、|鷹虎別《たかとらわけ》は|仁王立《にわうだ》ちとなりしまま|歯《は》がみをなし、|手《て》を|下《くだ》すによしなく|溜息《ためいき》つくをりしも、|表《おもて》の|方《かた》よりにはかに|聞《きこ》ゆる|数多《あまた》の|足音《あしおと》。|鬼丸《おにまる》はふと|後《うしろ》を|振返《ふりかへ》る|一刹那《いちせつな》、|旭姫《あさひひめ》は|短刀《たんたう》の|鞘《さや》を|払《はら》ふより|早《はや》く、|鬼丸《おにまる》の|胸《むね》につき|立《た》てしが、|鬼丸《おにまる》はアツと|一声《ひとこゑ》、その|場《ば》に|倒《たふ》れこときれにけり。
|山麓《さんろく》に|押《お》しよせたる|鬼丸《おにまる》の|部下《ぶか》をさんざんに|打《う》ち|悩《なや》ませ、|敵《てき》を|四方《しはう》に|散乱《さんらん》せしめ|勝《かち》に|乗《じやう》じて|山上《さんじやう》に|登《のぼ》り、|城内《じやうない》の|危急《ききふ》を|救《すく》はむとして|入《い》り|来《きた》れる|大道別《おほみちわけ》の|雄姿《ゆうし》は、|今《いま》この|場《ば》に|現《あら》はれ、|鐘《かね》のごとき|大声《おほごゑ》を|放《はな》ちて、|神助《しんじよ》の|次第《しだい》を|報知《はうち》したりける。
|旭姫《あさひひめ》はおほいに|悦《よろこ》び、|奥《おく》に|進《すす》み|入《い》りて|清照彦《きよてるひこ》、|末世姫《すゑよひめ》に|戦捷《せんせふ》の|次第《しだい》を|物語《ものがた》り、かつ|大道別《おほみちわけ》の|功績《こうせき》を|逐一《ちくいち》|物語《ものがた》りたり。|清照彦《きよてるひこ》はただちに|大道別《おほみちわけ》を|引見《いんけん》し、その|勲功《くんこう》を|感謝《かんしや》し、ただちにわが|地位《ちゐ》を|捨《す》てて|大道別《おほみちわけ》、|八島姫《やしまひめ》に|譲《ゆづ》り、かつ、
『|吾《われ》ら|夫妻《ふさい》は、|貴下《きか》の|従臣《じゆうしん》として|永《なが》く|奉仕《ほうし》せむ』
と|赤心《せきしん》を|面《おもて》に|表《あら》はして、しきりに|慫慂《しようよう》したりける。
|案《あん》に|相違《さうゐ》の|大道別《おほみちわけ》は、|大《おほ》いに|迷惑《めいわく》を|感《かん》じ、|直《ただ》ちに|偽《にせ》の|聾唖《ろうあ》を|装《よそほ》ひ、|痴呆《ちはう》を|真似《まね》て|清照彦《きよてるひこ》の|言《げん》を|馬耳東風《ばじとうふう》と|葬《はうむ》り|去《さ》りぬ。|旭姫《あさひひめ》は|口《くち》をきはめて|道彦《みちひこ》の|力量《りきりやう》のみ|徒《いたづら》に|強《つよ》くして、|治世《ちせい》の|能力《のうりよく》なき|痴呆者《ちはうしや》たる|事《こと》を|宣明《せんめい》したれば、|清照彦《きよてるひこ》は|止《や》むを|得《え》ずこれを|断念《だんねん》したりけり。
これより|清照彦《きよてるひこ》は、|領内《りやうない》の|正《ただ》しき|神人《かみがみ》を|下級《かきふ》より|選抜《せんばつ》し、|重任《ぢうにん》に|就《つ》かしめたりしより、その|後《ご》は|一回《いつくわい》の|紛擾《ふんぜう》もおこらず、|長高山《ちやうかうざん》はその|名《な》のごとく、|世《よ》は|長《なが》く|栄《さか》え|神徳《しんとく》は|高《たか》く|四方《よも》に|輝《かがや》きわたり、|常世《とこよ》の|邪神《じやしん》はつひにその|影《かげ》を|没《ぼつ》したりける。
|大道別《おほみちわけ》は|長高山《ちやうかうざん》を|煙《けぶり》のごとく|消《き》え|失《う》せ、|八島姫《やしまひめ》もまた|何時《いつ》のまにか、|姿《すがた》を|隠《かく》したりける。|雲《くも》のごとく|現《あら》はれ、|霞《かすみ》のごとく|消《き》え|去《さ》りし|二人《ふたり》の|神変不可測《しんぺんふかそく》の|行動《かうどう》、|高倉《たかくら》、|旭《あさひ》の|二白狐《にびやくこ》の|変現出没《へんげんしゆつぼつ》の|神妙《しんめう》|奇蹟《きせき》は、|今後《こんご》の|物語《ものがた》りによつて|判明《はんめい》するならむ。
(大正一〇・一二・七 旧一一・九 近藤貞二録)
第三八章 |四十八滝《しじふはちたき》〔一三八〕
|長高山《ちやうかうざん》の|城塞《じやうさい》より|煙《けむり》のごとく|消《き》え|失《う》せたる|道彦《みちひこ》は、|高倉《たかくら》のあとを|追《お》ふて、|遠《とほ》く|東北《とうほく》にすすみ、|氷《こほり》のはりつめたる|海峡《かいけふ》を|渡《わた》りて、アラスカの|高白山《かうはくざん》の|谷間《たにま》に|進《すす》みたりしが、すこしく|谷川《たにがは》の|上流《じやうりう》にあたりて|喧騒《けんさう》の|声《こゑ》|聞《きこ》え|来《き》たる。|道彦《みちひこ》はその|声《こゑ》をしるべに|谷川《たにがは》をどんどん|上《のぼ》りゆきみれば、|谷《たに》の|両側《りやうがは》はあたかも|鏡《かがみ》を|立《た》てたるごとく、|断巌《だんがん》|絶壁《ぜつぺき》の|一方《いつぱう》に、あまたの|人々《ひとびと》|寄《よ》り|集《あつ》まり、|右往左往《うわうさわう》に|声《こゑ》を|放《はな》ちて|騒《さわ》ぎゐたり。
|見《み》れば、|高白山《かうはくざん》の|主将《しゆしやう》|荒熊彦《あらくまひこ》は、|谷間《たにま》に|顛落《てんらく》して|大負傷《だいふしやう》をなし、|谷水《たにみづ》を|鮮血《せんけつ》にそめ|苦《くる》しみつつありしなり。
|神司《かみがみ》らはこれを|救《すく》はむとすれども、|名《な》におふ|断巌《だんがん》|絶壁《ぜつぺき》、いかんともすることあたはず|途方《とはう》にくれゐたりける。
このとき|白狐《びやくこ》の|高倉《たかくら》は、|金色《こんじき》の|槌《つち》と|変化《へんくわ》し、|絶壁《ぜつぺき》をうち|砕《くだ》き、|足《あし》のかかるべき|穴《あな》を|穿《うが》ちつつ|谷底《たにぞこ》に|下《くだ》り|行《ゆ》く。|道彦《みちひこ》は|傍《かたはら》なる|山林《さんりん》に|生茂《おひしげ》れる|藤葛《ふぢかづら》を|長《なが》く|結《むす》び、|谷川《たにがは》のほとりの|老木《らうぼく》の|根《ね》にその|一端《いつたん》を|結《むす》びつけ、みづからその|蔓《つる》を|谷底《たにぞこ》に|垂《た》れ、|高倉《たかくら》の|穿《うが》ちおきたる|巌壁《がんぺき》の|穴《あな》に|足《あし》をかけ、やうやく|谷底《たにぞこ》に|下《くだ》りつき、|荒熊彦《あらくまひこ》のかたはらに|寄《よ》りそひ、|水《みづ》を|口《くち》にふくみて|面上《めんじやう》に|吹《ふ》きかけ、かつ|天津祝詞《あまつのりと》を|奏上《そうじやう》し、|鎮魂《ちんこん》の|神術《かむわざ》をほどこし、やうやく|正気《しやうき》づき、|出血《しゆつけつ》もただちに|止《とま》りたれば、|右《みぎ》の|脇《わき》に|引抱《ひきかか》へ、|藤葛《ふぢかづら》を|左《ひだり》の|手《て》に|持《も》ち、|巌壁《がんぺき》の|穴《あな》に|足《あし》をかけ|上《のぼ》りきたりぬ。|神司《かみがみ》らの|喜《よろこ》びの|声《こゑ》、|感歎《かんたん》の|声《こゑ》は|天地《てんち》も|崩《くづ》るるばかりなり。|荒熊彦《あらくまひこ》は|道彦《みちひこ》を|命《いのち》の|親《おや》として|尊敬《そんけい》し|城内《じやうない》にともなひ|帰《かへ》り、|山海《さんかい》の|珍味《ちんみ》を|出《だ》して|饗応《きやうおう》し、|救命《きうめい》の|恩《おん》を|感謝《かんしや》したりける。
さて|荒熊彦《あらくまひこ》は|衆《しゆう》とともに、この|谷間《たにま》の|絶景《ぜつけい》を|眺《なが》めて|酒宴《しゆえん》を|催《もよほ》し、|興《きやう》に|乗《じやう》じて|踊《をど》り|狂《くる》ひ|眼《まなこ》くらンで、この|千仭《せんじん》の|谷間《たにま》に|顛落《てんらく》したりしなりけり。この|谷川《たにがは》は|四十八滝《しじふはちたき》と|称《しよう》し、いたる|所《ところ》に|奇岩《きがん》、|怪石《くわいせき》|散在《さんざい》して、|大小《だいせう》|四十八個《しじふはちこ》の|荘厳《さうごん》なる|瀑布《ばくふ》が|出現《しゆつげん》し、|風光絶佳《ふうくわうぜつか》の|遊覧所《いうらんしよ》となりゐたりけり。
|道彦《みちひこ》は|荒熊彦《あらくまひこ》の|信任《しんにん》を|得《え》、|聾唖痴呆《ろうあちはう》の|強力《がうりき》として|侍臣《じしん》のうちに|加《くは》へられ、つひには|炊事《すゐじ》の|用務《ようむ》を|命《めい》ぜられ、まめまめしく|奉仕《ほうし》しゐたり。
|高白山《かうはくざん》の|城内《じやうない》の|宰相《さいしやう》に、|八十熊別《やそくまわけ》といふ|徳望《とくばう》|高《たか》き|人《ひと》あり。この|人《ひと》は|常世姫《とこよひめ》の|間諜《かんてふ》にして、|古《ふる》くより|高白山《かうはくざん》に|謀計《ぼうけい》をもつて|忍《しの》び|入《い》り、|時《とき》をみて|高白山《かうはくざん》を|顛覆《てんぷく》せむと|企《くはだ》てゐたりける。
ここにローマの|戦《たたかひ》に|敗《やぶ》れ、|常世《とこよ》の|国《くに》に|送《おく》られたる|言霊別命《ことたまわけのみこと》は[#第二八章参照]、|中途《ちゆうと》にて、|言代別命《ことしろわけのみこと》のために|救《すく》はれ、|身《み》を|変《へん》じて|高白山《かうはくざん》にのがれ、|賓客《ひんきやく》として、|荘厳《さうごん》なる|別殿《べつでん》に|迎《むか》へられ、|時機《じき》を|待《ま》ちつつありしが、|八十熊別《やそくまわけ》は、|言霊別命《ことたまわけのみこと》の|素性《すじやう》を|探知《たんち》せむと、|探女《さぐめ》を|使役《しえき》して|常《つね》にその|行動《かうどう》を|注視《ちうし》せしめゐたり。|探女《さぐめ》の|名《な》を|月《つき》の|姫《ひめ》といふ。|月《つき》の|姫《ひめ》は|常《つね》に|八十熊別《やそくまわけ》の|命《めい》により、|言霊別命《ことたまわけのみこと》の|侍女《じぢよ》として、|表面《へうめん》まめまめしく|仕《つか》へゐたりぬ。
ある|夜《よ》、|言霊別命《ことたまわけのみこと》と|荒熊彦《あらくまひこ》の|密談《みつだん》を|立聴《たちぎ》きしてをり、ひそかにその|詳細《しやうさい》を|八十熊別《やそくまわけ》に|報告《はうこく》しければ、|八十熊別《やそくまわけ》は|月《つき》の|姫《ひめ》に|耳語《じご》して|何事《なにごと》か|命令《めいれい》を|下《くだ》しける。
|時《とき》に|八十熊別《やそくまわけ》は、|茶《ちや》の|湯《ゆ》の|饗応《きやうおう》に|言寄《ことよ》せて|荒熊彦《あらくまひこ》|夫妻《ふさい》を|招待《せうたい》し、かつ|賓客《ひんきやく》なる|玉照彦《たまてるひこ》を|招待《せうたい》したり。|玉照彦《たまてるひこ》は|言霊別命《ことたまわけのみこと》の|仮名《かりな》なり。|道彦《みちひこ》は|荒熊彦《あらくまひこ》の|侍者《じしや》として|宴席《えんせき》に|現《あら》はれしが、|彼《かれ》はただちに|炊事場《すゐじば》にいたり、|水《みづ》をくみ|茶《ちや》を|沸《わ》かすなど、まめまめしくたち|働《はたら》きける。
|八十熊別《やそくまわけ》の|侍者《じしや》は、|道彦《みちひこ》の|聾唖《ろうあ》と|痴呆《ちはう》とに|心《こころ》をゆるし、よろこびて|炊事《すゐじ》|一切《いつさい》をうち|任《まか》せける。|月《つき》の|姫《ひめ》は|客人《きやくじん》に|茶《ちや》をたて、これをすすめむとするとき、|懐中《くわいちゆう》よりひそかに|毒薬《どくやく》をとり|出《だ》し、|茶《ちや》の|湯《ゆ》に|投《とう》じたるを|道彦《みちひこ》は|素知《そし》らぬ|顔《かほ》にこれを|眺《なが》めゐたりける。|月《つき》の|姫《ひめ》はうやうやしく|茶《ちや》の|湯《ゆ》を|両手《りやうて》にささげ、|玉照彦《たまてるひこ》、|荒熊彦《あらくまひこ》らの|前《まへ》にすゑ、|一礼《いちれい》して|座《ざ》を|立《た》ちにける。
|道彦《みちひこ》はただちに|月《つき》の|姫《ひめ》を|強力《がうりき》に|任《まか》せてひきつかみ、|茶席《ちやせき》の|前《まへ》に|現《あら》はれ|出《い》で、|仰向《あふむけ》に|押《お》し|倒《たふ》し、その|茶《ちや》を|取《と》るより|早《はや》く、|月《つき》の|姫《ひめ》の|口《くち》に|無理《むり》やりに|飲《の》ませたり。
|月《つき》の|姫《ひめ》はたちまち|手足《てあし》をもがき、|黒血《くろち》を|吐《は》きことぎれにける。
|八十熊別《やそくまわけ》は|謀計《ぼうけい》の|暴露《ばくろ》せむことを|恐《おそ》れ、|合図《あひづ》の|磬盤《けいばん》を|打《う》つやいなや、どこともなく|数多《あまた》の|邪軍《じやぐん》|現《あら》はれ、|玉照彦《たまてるひこ》、|荒熊彦《あらくまひこ》らを|目《め》がけて|前後《ぜんご》|左右《さいう》より、|長刀《ちやうたう》を|抜《ぬ》き|放《はな》つて|切《き》り|込《こ》みぬ。このとき|道彦《みちひこ》は、|高倉《たかくら》の|妙術《めうじゆつ》により、|数百《すうひやく》の|道彦《みちひこ》となつて|現《あら》はれたれば、|八十熊別《やそくまわけ》の|味方《みかた》の|邪軍《じやぐん》は、|縦横無尽《じゆうわうむじん》に、|道彦《みちひこ》を|目《め》がけて|切《き》りこめども、いづれも|皆《みな》|空《くう》を|斬《き》り、|影《かげ》を|追《お》ひ、|勢《いきほひ》あまつて|階上《かいじやう》より|地上《ちじやう》に|顛落《てんらく》し、さんざんに|敗北《はいぼく》したりける。
|八十熊別《やそくまわけ》はこの|態《てい》を|見《み》て、|裏門《うらもん》よりのがれ|出《いで》むとするや|否《いな》や、|幾千丈《いくせんじやう》とも|限《かぎ》りなき|深《ふか》き|広《ひろ》き|池沼《いけぬま》にはかに|現出《げんしゆつ》して、|遁《のが》るるの|道《みち》なかりける。これは|高倉《たかくら》|白狐《びやくこ》の|謀計的《ぼうけいてき》|幻影《げんえい》なりける。
|八十熊別《やそくまわけ》はやむをえず、あとへ|引返《ひきかへ》すとたんに、|真正《しんせい》の|道彦《みちひこ》のために、|八《や》つ|割《ざき》にされ、ここに|高白山《かうはくざん》の|妖雲《えううん》はまつたく|晴《は》れわたり、|真如《しんによ》の|明月《めいげつ》は、|高《たか》く|中天《ちうてん》に|輝《かがや》きはじめたり。
|言霊別命《ことたまわけのみこと》は、|高白山《かうはくざん》の|主将《しゆしやう》となり、しばらく|地《ち》の|高天原《たかあまはら》の|神司《かみがみ》らにも|行衛《ゆくゑ》を|秘密《ひみつ》にしゐたまひける。
|荒熊彦《あらくまひこ》、|荒熊姫《あらくまひめ》は、|言霊別命《ことたまわけのみこと》に|一切《いつさい》を|譲《ゆづ》り、みづから|従臣《じゆうしん》となり|忠実《ちうじつ》に|奉仕《ほうし》したりしが、|道彦《みちひこ》の|姿《すがた》はまたもや|煙《けむり》と|消《き》えにける。
(大正一〇・一二・七 旧一一・九 栗原七蔵録)
第三九章 |乗合舟《のりあひぶね》〔一三九〕
|道彦《みちひこ》は|高白山《かうはくざん》を|出《い》でしより、|諸方《しよはう》を|遍歴《へんれき》し|艱難《かんなん》|辛苦《しんく》を|重《かさ》ねて、やうやく|常世国《とこよのくに》スペリオル|湖《こ》の|北岸《ほくがん》に|出《で》たり。ここに|船《ふね》を|傭《やと》ひ、ロツキー|山《ざん》に|向《むか》はむとしたり。|船中《せんちう》には|沢山《たくさん》の|神人《かみがみ》|乗《の》りゐたり。|八島姫《やしまひめ》もいつの|間《ま》にか、この|船《ふね》の|客《きやく》となり|居《ゐ》たりしが、|道彦《みちひこ》はわざと|空《そら》とぼけて、|素知《そし》らぬ|顔《かほ》をなしゐたり。|八島姫《やしまひめ》は|道彦《みちひこ》の|変《かは》りはてたる|姿《すがた》を|見《み》て、|少《すこ》しも|気付《きづ》かざりける。
この|時《とき》|船《ふね》の|舳先《へさき》よりすつくと|立《た》ちて、|八島姫《やしまひめ》の|傍《そば》に|近《ちか》づききたる|神人《かみ》あり、これは|南高山《なんかうざん》の|従臣《じゆうしん》|玉純彦《たますみひこ》なりき。|南高山《なんかうざん》は|八島姫《やしまひめ》の|出城《しゆつじやう》|以来《いらい》、|四方《しはう》|八方《はつぱう》に|神人《しんじん》を|派遣《はけん》して|姫《ひめ》の|行方《ゆくへ》を|探《さが》しゐたりしなり。|玉純彦《たますみひこ》は|八島姫《やしまひめ》にむかひ、|飛《とび》つくばかりの|声《こゑ》を|発《はつ》し、
『|貴女《あなた》は|八島姫《やしまひめ》にましまさずや』
といふ。|八島姫《やしまひめ》も|風采《ふうさい》|容貌《ようばう》ともに|激変《げきへん》して、ほとンど|真偽《しんぎ》を|判別《はんべつ》するに|苦《くる》しむくらゐなりしかば、|八島姫《やしまひめ》は|首《くび》を|左右《さいう》に|振《ふ》り、
『われは|旭姫《あさひひめ》といふ|常世城《とこよじやう》の|従臣《じゆうしん》にして、|南高山《なんかうざん》のものに|非《あら》ず、|見違《みちが》へたまふな』
と、つンとして|背《せ》を|向《む》けたるを|玉純彦《たますみひこ》は、どことなく|八島姫《やしまひめ》の|容貌《ようばう》に|似《に》たるを|訝《いぶ》かり、|姫《ひめ》の|前方《ぜんぱう》にまはりて|首《くび》を|左右《さいう》にかたむけ、|穴《あな》のあくばかり|千鳥《ちどり》のごとき|鋭《するど》き|目《め》を|見《み》はり、
『|如何《いか》にかくしたまふとも、|貴女《あなた》の|額《ひたひ》には|巴形《ともゑがた》の|斑点《はんてん》|今《いま》なほ|微《かすか》に|残《のこ》れり。われは|主命《しゆめい》により|貴女《あなた》を|尋《たづ》ねむとして、|櫛風沐雨《しつぷうもくう》、|東奔西走《とうほんせいさう》あらゆる|艱難《かんなん》をなめつくし、|今《いま》ここに|拝顔《はいがん》し|得《え》たるは、|天《てん》の|授《さづ》くる|時運《じうん》の|到来《たうらい》せしならむ。|袖《そで》|振《ふ》り|合《あ》ふも|他生《たしやう》の|縁《えん》といふ。|況《いは》ンや|天地《てんち》のあひだに|二柱《ふたはしら》と|無《な》き|主《しゆ》の|御子《みこ》においてをや。|今《いま》この|寒《さむ》き|湖《みづうみ》の|中《なか》に|一蓮托生《いちれんたくしやう》の|船客《せんきやく》となるも、かならず|国治立命《くにはるたちのみこと》の|御引《おひ》き|合《あは》せならむ、|是非々々《ぜひぜひ》、|名乗《なの》らせたまへ』
と、|涙《なみだ》を|流《なが》して|男《をとこ》|泣《な》きに|泣《な》く。
|八島姫《やしまひめ》は|名乗《なの》りたきは|山々《やまやま》なれども、|国直姫命《くになほひめのみこと》の|神命《しんめい》を|遂行《すゐかう》し、|地《ち》の|高天原《たかあまはら》に|復命《ふくめい》を|終《をは》るまで、なまじひに|名乗《なの》りをあげ、|神業《しんげふ》の|妨害《ばうがい》とならむことをおそれ、|断乎《だんこ》としてその|実《じつ》を|告《つ》げざりし。|八島姫《やしまひめ》の|胸中《きようちう》はじつに|熱鉄《ねつてつ》をのむ|心地《ここち》なり。|玉純彦《たますみひこ》はなほも|言葉《ことば》をついで、
『|貴女《あなた》はいかに|隠《かく》させたまふとも、|吾《われ》は|正《まさ》しく|八島姫《やしまひめ》と|拝察《はいさつ》したてまつる。|貴女《あなた》の|出城《しゆつじやう》されしより、|御父《おんちち》は|煩悶《はんもん》のあまり、|重《おも》き|病《やまひ》の|床《とこ》につかせたまひ、|御母《おんはは》また|逆臣《ぎやくしん》|豊彦《とよひこ》のために|弑《しい》せられ、|御父《おんちち》|大島別《おほしまわけ》は|老《お》いゆくとともに|世《よ》をはかなみ、ぜひ|一度《いちど》|八島姫《やしまひめ》に|面会《めんくわい》せざれば|死《し》すること|能《あた》はずと、|日夜《にちや》|悲嘆《ひたん》の|涙《なみだ》にくれたまふのみならず、|御兄《おんあに》|八島彦《やしまひこ》は、|瓢然《へうぜん》として|出城《しゆつじやう》されしまま、|行方《ゆくへ》|不明《ふめい》とならせ|給《たま》ふ。|海山《うみやま》の|大恩《たいおん》ある|御父《おんちち》の|難儀《なんぎ》をふりすて、わが|意中《いちう》の|道彦《みちひこ》の|後《あと》を|追《お》はせたまふは、|実《じつ》に|破倫《はりん》の|行為《かうゐ》にして|天則《てんそく》に|違反《ゐはん》するものに|非《あら》ずや』
と|言葉《ことば》をつくして|述《の》べたてける。
|姫《ひめ》の|胸中《きようちう》は|暗黒《あんこく》|無明《むみやう》の|雲《くも》にとざされにけり。ほどなく|船《ふね》は|南《みなみ》の|岸《きし》に|近《ちか》づきぬ。この|対話《たいわ》を|聞《き》きゐたる|道彦《みちひこ》は、はじめて|様子《やうす》を|知《し》り、いよいよ|八島姫《やしまひめ》なることを|悟《さと》り、つくづくその|面《おもて》を|見《み》れば、かすかに|巴形《ともゑがた》の|斑点《はんてん》を|認《みと》むることを|得《え》たり。
|船《ふね》はやうやく|岸《きし》に|着《つ》き、|神人《かみがみ》は|先《さき》を|争《あらそ》ふて|上陸《じやうりく》したり。|道彦《みちひこ》は|八島姫《やしまひめ》に|悟《さと》られじと|直《ただ》ちにその|姿《すがた》を|物陰《ものかげ》に|隠《かく》したるに、|玉純彦《たますみひこ》は|姫《ひめ》の|手《て》を|固《かた》く|取《と》りて|離《はな》さざりけり。
|八島姫《やしまひめ》は|進退《しんたい》きはまり、|国治立命《くにはるたちのみこと》の|神霊《しんれい》にむかひて、この|場《ば》を|無事《ぶじ》にのがれむことをと|祈願《きぐわん》したるに、たちまち|白色《はくしよく》の|玉《たま》|天《てん》より|下《くだ》り、|二人《ふたり》の|前《まへ》に|落下《らくか》し|白煙《はくえん》|濛々《もうもう》としてたち|昇《のぼ》り、|四辺《あたり》をつつみける。|玉純彦《たますみひこ》は|驚《おどろ》きて、|姫《ひめ》の|手《て》を|離《はな》したるを|幸《さいは》ひ、|姫《ひめ》は|白煙《はくえん》のなかを|一目散《いちもくさん》に|南方《なんぱう》さして|逃《に》げ|去《さ》りにける。
ややありて|白煙《はくえん》は|四方《しはう》に|散《ち》り、|後《あと》には|八島姫《やしまひめ》|地《ち》に|伏《ふ》して|泣《な》き|倒《たふ》れてゐたり。これは|白狐《びやくこ》|旭《あさひ》の|変化《へんげ》なりき。|玉純彦《たますみひこ》はふたたび|傍《かたはら》に|寄《よ》り、|千言万語《せんげんばんご》をつくして|帰城《きじやう》をすすめたれば、|姫《ひめ》はやうやう|納得《なつとく》して、|玉純彦《たますみひこ》とともに|帰城《きじやう》の|途《と》につきにける。
|数多《あまた》の|山河《さんか》を|跋渉《ばつせふ》し、やうやく|南高山《なんかうざん》の|城内《じやうない》にたち|帰《かへ》り、|八島姫《やしまひめ》は|久《ひさ》しぶりにて|父《ちち》に|面会《めんくわい》し、|無断《むだん》|出城《しゆつじやう》の|罪《つみ》を|謝《しや》したりしが、|父《ちち》はおほいに|喜《よろこ》び、かつ|玉純彦《たますみひこ》の|功績《こうせき》を|賞揚《しやうやう》し、|城内《じやうない》にはかに|春陽《しゆんやう》の|気《き》|満《み》ち|神人《かみがみ》らは|祝宴《しゆくえん》をひらいて|万歳《ばんざい》を|唱《とな》へ、|大島別《おほしまわけ》はここに|元気《げんき》|回復《くわいふく》して、|後日《ごじつ》|神政《しんせい》|成就《じやうじゆ》の|神業《しんげふ》に|参加《さんか》することとなりける。
|道彦《みちひこ》は|八島姫《やしまひめ》の|目《め》を|免《まぬ》がれ、|常世城《とこよじやう》に|入《い》り、|従僕《じゆうぼく》となり|遂《つひ》に|抜擢《ばつてき》せられて、|八王大神《やつわうだいじん》の|給仕役《きふじやく》となり、|総《すべ》ての|計画《けいくわく》を|探知《たんち》するを|得《え》たり。また|白狐《びやくこ》の|変化《へんげ》ならざる|八島姫《やしまひめ》も|同《おな》じく|常世城《とこよじやう》に|入《い》り、|常世姫《とこよひめ》の|侍女《じぢよ》となり、|一切《いつさい》の|邪神《じやしん》の|計画《けいくわく》を|探《さぐ》り、|地《ち》の|高天原《たかあまはら》に|復命《ふくめい》し、|偉勲《ゐくん》を|樹《た》つる|次第《しだい》は|後日《ごじつ》|明瞭《めいれう》となるべし。
(大正一〇・一二・七 旧一一・九 加藤明子録)
第一〇篇 |神政《しんせい》の|破壊《はくわい》
第四〇章 |国《くに》の|広宮《ひろみや》〔一四〇〕
|国直姫命《くになほひめのみこと》の|上天《しようてん》されしより、|地《ち》の|高天原《たかあまはら》も、|竜宮城《りゆうぐうじやう》も|綱紀《かうき》|紊乱《びんらん》して、|諸神司《しよしん》は|日夜《にちや》に|暗闘《あんとう》をつづけ、ほとんど|収拾《しうしふ》すべからざるに|立《たち》いたりぬ。ここに|大八洲彦命《おほやしまひこのみこと》、|神国別命《かみくにわけのみこと》は|国直姫命《くになほひめのみこと》の|神霊《しんれい》を|奉安《ほうあん》し、|神助《しんじよ》をえて|地《ち》の|高天原《たかあまはら》を|統治《とうぢ》せむことを|企《くはだ》てたまひぬ。
このとき|竜山別《たつやまわけ》、|広若《ひろわか》、|船木姫《ふなきひめ》らの|一派《いつぱ》は|神殿《しんでん》|造営《ざうえい》に|極力《きよくりよく》|反抗《はんかう》し、|竜山別《たつやまわけ》は|大八洲彦命《おほやしまひこのみこと》にむかひ、
『|国直姫命《くになほひめのみこと》は、すでに|上天《しやうてん》したまひたれば、|肉身《にくしん》ある|神《かみ》にあらず。|神《かみ》はすべて|霊《れい》にして、|形体《けいたい》なし。いたづらに|土木《どぼく》を|起《おこ》し、|神殿《しんでん》を|造営《ざうえい》するは、かへつて|天地《てんち》の|神慮《しんりよ》に|反《そむ》くものなり。|神《かみ》は|金石木草《きんせきぼくさう》をもつて|造《つく》りたる|社殿《しやでん》には|住《す》みたまはざるべし。|霊《れい》を|拝《はい》するには|霊《れい》をもつてせざるべからず。|神殿《しんでん》を|造《つく》りて、これに|拝跪《はいき》するごときは、いはゆる|偶像《ぐうざう》を|拝《はい》する|悪逆無道《あくぎやくぶだう》の|行為《かうゐ》にして|神慮《しんりよ》を|傷《きず》つくるものなり』
と|強弁《がうべん》したれば、|広若《ひろわか》、|船木姫《ふなきひめ》らも|手《て》をうつて、その|説《せつ》に|賛成《さんせい》の|意《い》を|表《へう》しける。
|大八洲彦命《おほやしまひこのみこと》は|憤然《ふんぜん》として|立上《たちあが》り、
『|貴下《きか》の|言《げん》|一応《いちおう》は|道理《だうり》のごとく|聞《きこ》ゆれども、|神《かみ》は|霊《れい》なりとしてこれを|放任《はうにん》し、いたづらに|天《てん》を|拝《はい》するは、|顕幽一致《けんいういつち》の|神術《かむわざ》に|相《あひ》|反《はん》するの|甚《はなは》だしきものなり。|神《かみ》は|絶対《ぜつたい》|無限《むげん》の|神霊《しんれい》にして、かつ|無形無声《むけいむせい》にましますは|真理《しんり》なれども、そは|宇宙《うちう》の|大元霊《だいげんれい》たる|天之御中主大神《あめのみなかぬしのおほかみ》の|御事《おんこと》にして、|一旦《いつたん》|肉身《にくしん》をもつて|地上《ちじやう》に|顕現《けんげん》されし|国直姫命《くになほひめのみこと》のごときは|幽神《いうしん》に|非《あら》ず。|今日《こんにち》は|顕《けん》の|幽神《いうしん》として|上天《しやうてん》したまへば、かならず|荘厳《さうごん》なる|宮殿《きうでん》を|造《つく》り、|神霊《しんれい》を|祭祀《さいし》し|神助《しんじよ》を|仰《あふ》がざるべからず』
と|宣言《せんげん》したまひければ、|神国別命《かみくにわけのみこと》は、|一《いち》も|二《に》もなく|大八洲彦命《おほやしまひこのみこと》の|説《せつ》に|賛成《さんせい》し、いよいよ|天《あま》の|原《はら》といふ|聖浄《せいじやう》の|地《ち》を|選《えら》み、|宮殿《きうでん》を|造営《ざうえい》することとなり、これを|国《くに》の|広宮《ひろみや》ととなへられける。
|国《くに》の|広宮《ひろみや》には、|宮司《みやつかさ》として|武直彦《たけなほひこ》、|玉国彦《たまくにひこ》が|奉仕《ほうし》することとなりぬ。|大八洲彦命《おほやしまひこのみこと》はあまたの|神司《かみがみ》とともに、|神霊《しんれい》|鎮祭《ちんさい》の|祭典《さいてん》を|執行《しつかう》されたりしが、その|場《ば》に|美山彦《みやまひこ》、|国照姫《くにてるひめ》、|竜山別《たつやまわけ》、|広若《ひろわか》、|船木姫《ふなきひめ》、|田糸姫《たいとひめ》などの|面々《めんめん》も、|不承不承《ふしようぶしよう》に|参列《さんれつ》しゐたりけり。
|神霊《しんれい》|鎮祭《ちんさい》の|儀式《ぎしき》をはるや、たちまち|神殿《しんでん》|鳴動《めいどう》して|扉《とびら》は|自然《しぜん》に|開《ひら》かれ、|殿内《でんない》よりは|強烈《きやうれつ》なる|光線《くわうせん》|矢《や》を|射《い》るごとく、|美山彦《みやまひこ》、|国照姫《くにてるひめ》、|広若《ひろわか》、|船木姫《ふなきひめ》、|田糸姫《たいとひめ》らの|面上《めんじやう》を|射照《いてら》したるに、|神威《しんゐ》におそれて|美山彦《みやまひこ》|以下《いか》の|面々《めんめん》は、その|場《ば》に|顛倒《てんたう》し、ふたたび|起《おき》あがり|手《て》をふり、|身体《しんたい》を|動揺《どうえう》させ、|怪《あや》しき|声《こゑ》をたてて|庭前《にはさき》を|狂気《きやうき》のごとく|飛《と》びまはりける。
しかして|美山彦《みやまひこ》|以下《いか》の|身体《しんたい》よりは|銀毛八尾《ぎんまうはちぴ》の|白狐《びやくこ》、|古狸《ふるだぬき》|等《とう》|数限《かずかぎ》りもなく|現《あら》はれ、たちまち|妖雲《えううん》を|捲《ま》きおこし、|雲《くも》に|隠《かく》れてどこともなく|散乱《さんらん》したりける。|国《くに》の|広宮《ひろみや》は、|天神地祇《てんじんちぎ》|諸神《しよしん》の|審神《さには》をなす|聖場《せいぢやう》と|定《さだ》まりてより、|美山彦《みやまひこ》、|国照姫《くにてるひめ》、|竜山別《たつやまわけ》は|呆然《ばうぜん》として|気抜《きぬ》けせしごとく、|神司《かみがみ》らの|前《まへ》をはづかしげにすごすごとして|竜宮城《りゆうぐうじやう》に|立《た》ちいたり、|第二《だいに》の|計画《けいくわく》をめぐらしにける。
(大正一〇・一二・七 旧一一・九 外山豊二録)
第四一章 |二神《にしん》の|帰城《きじやう》〔一四一〕
|美山彦《みやまひこ》、|国照姫《くにてるひめ》は、|天《あま》の|原《はら》なる|国《くに》の|広宮《ひろみや》の|建設《けんせつ》されしより、|邪鬼《じやき》、|悪狐《あくこ》の|憑霊《ひやうれい》|現《あら》はれ、|八百万《やほよろづ》の|神司《かみがみ》の|手前《てまへ》|面目《めんぼく》を|失《しつ》し、|竜山別《たつやまわけ》、|広若《ひろわか》、|船木姫《ふなきひめ》、|田糸姫《たいとひめ》、|猿若姫《さるわかひめ》らとひそかに|広若《ひろわか》の|館《やかた》に|集《あつ》まり、|地《ち》の|高天原《たかあまはら》をはじめ|竜宮城《りゆうぐうじやう》を|占領《せんりやう》せむことを|企《くはだ》てたるが、|到底《たうてい》その|力《ちから》のおよばざるを|悟《さと》りて、|大国彦《おほくにひこ》、|常世彦《とこよひこ》の|助力《じよりよく》を|求《もと》め、|第一《だいいち》に|国《くに》の|広宮《ひろみや》を|破壊《はくわい》し、|厳粛《げんしゆく》なる|神司《かみ》の|審判《しんぱん》を|廃止《はいし》せしめ、そのうへ|当初《たうしよ》の|目的《もくてき》たる|地《ち》の|高天原《たかあまはら》を|占領《せんりやう》せむとし、|四方《しはう》の|魔軍《まぐん》を|募《つの》り、かつ|大自在天《だいじざいてん》|大国彦《おほくにひこ》の|部下《ぶか》、|醜原彦《しこはらひこ》、|大鷹彦《おほたかひこ》、|中依別《なかよりわけ》、|藤高《ふぢたか》、|鷹取《たかとり》、|遠山《とほやま》その|他《た》の|暴悪《ばうあく》|非道《ひだう》の|曲神《まがかみ》の|率《ひき》ゐる|数万《すうまん》の|魔軍《まぐん》を、|天《あま》の|原《はら》にむかつて|攻《せ》めよせしめたり。
|宮司《ぐうじ》の|武直彦《たけなほひこ》、|玉国彦《たまくにひこ》をはじめ、|竜宮城《りゆうぐうじやう》の|従臣《じゆうしん》|佐倉彦《さくらひこ》、|白峰別《しらみねわけ》は|大八洲彦命《おほやしまひこのみこと》の|命《めい》によりて|極力《きよくりよく》|防戦《ばうせん》したれども、|暴悪《ばうあく》なる|魔軍《まぐん》はなんの|容赦《ようしや》もなく、|多数《たすう》の|権威《けんゐ》を|頼《たの》みてたちまちこれを|破壊《はくわい》し、|凱歌《がいか》をあげていういうと|引揚《ひきあ》げたりける。しかるに|美山彦《みやまひこ》、|国照姫《くにてるひめ》の|一派《いつぱ》は、この|残虐《ざんぎやく》を|自己《じこ》の|関知《くわんち》せざる|態《てい》によそほひ、なほも|依然《いぜん》として|竜宮城内《りゆうぐうじやうない》に|留《とど》まり、|言霊姫命《ことたまひめのみこと》、|真澄姫《ますみひめ》、|杉生彦《すぎふひこ》を|甘言《かんげん》をもつて|説《と》きつけ、|地《ち》の|高天原《たかあまはら》の|主宰者《しゆさいしや》なる|大八洲彦命《おほやしまひこのみこと》をはじめ、|神国別命《かみくにわけのみこと》その|他《た》の|重職《ぢうしよく》にある|神司《かみがみ》を|排除《はいじよ》し、|竜山別《たつやまわけ》をして|天使長《てんしちやう》の|職《しよく》に|代《かは》らしめむとしたりける。
されど|強直《きやうちよく》|無比《むひ》の|曙姫《あけぼのひめ》、|梅ケ香姫《うめがかひめ》、|玉若彦《たまわかひこ》、|豊日別《とよひわけ》の|若《わか》き|神人《かみがみ》のために|遮《さへぎ》られて、せつかくの|計画《けいくわく》も|九分九厘《くぶくりん》のところにて|一頓挫《いちとんざ》を|来《きた》したりけるが、あくまで|執拗《しつえう》なる|美山彦《みやまひこ》、|国照姫《くにてるひめ》、|船木姫《ふなきひめ》、|杵築姫《きつきひめ》らは、|弁舌《べんぜつ》たくみに|言霊姫命《ことたまひめのみこと》、|真澄姫《ますみひめ》を|利害得失《りがいとくしつ》をもつて|説《と》きつけ、
『|万々一《まんまんいち》|我《われ》らの|進言《しんげん》を|用《もち》ゐたまはざるにおいては、|大自在天《だいじざいてん》|大国彦《おほくにひこ》の|軍勢《ぐんぜい》は、|直《ただ》ちに|竜宮城《りゆうぐうじやう》へ|押寄《おしよ》せきたりて、|国《くに》の|広宮《ひろみや》のごとく|一挙《いつきよ》に|地《ち》の|高天原《たかあまはら》もろとも|破壊《はくわい》さるるのみならず、|大八洲彦命《おほやしまひこのみこと》|以下《いか》の|神司《かみがみ》は|残《のこ》らず|滅《ほろ》ぼされむ。|我《われ》らの|言《げん》を|採用《さいよう》し、|常世姫《とこよひめ》を|迎《むか》へたてまつり、かつ|竜山別《たつやまわけ》をして|天使長《てんしちやう》の|職《しよく》に|就《つ》かしめなば、|地《ち》の|高天原《たかあまはら》も|竜宮城《りゆうぐうじやう》も|安全《あんぜん》|無事《ぶじ》なるのみならず、|言霊別命《ことたまわけのみこと》、|大足彦《おほだるひこ》は|常世国《とこよのくに》より|解放《かいほう》の|歓《よろこ》びにあふは|必然《ひつぜん》なり。|真澄姫《ますみひめ》、|言霊姫《ことたまひめ》にして、|夫《をつと》の|危難《きなん》を|救《すく》ひ|本城《ほんじやう》を|永遠《ゑいゑん》に|保《たも》ち、|神徳《しんとく》を|四方《しはう》に|発揮《はつき》せむと|欲《ほつ》したまはば、|速《すみ》やかに|我《われ》らの|忠言《ちうげん》を|容《い》れられよ。|夢《ゆめ》にも|我《われ》らの|言《げん》を|否《いな》みたまふにおいては、|後日《ごじつ》のため|面白《おもしろ》からぬ|結果《けつくわ》を|招《まね》き、つひには|貴女《あなた》らの|御身《おんみ》の|上《うへ》にも|大事《だいじ》の|発生《はつせい》せむこと、|火《ひ》を|睹《み》るよりも|明白《めいはく》なり』
と|脅喝《けふかつ》したりければ、さすが|女人《によにん》の|心《こころ》よわく、|真澄姫《ますみひめ》、|言霊姫《ことたまひめ》は、その|賛否《さんぴ》に|迷《まよ》はざるを|得《え》ざりける。|曙姫《あけぼのひめ》、|梅ケ香姫《うめがかひめ》、|佐倉姫《さくらひめ》らの|女性《ぢよせい》は、いたつて|強剛《きやうがう》の|態度《たいど》をとり、|真澄姫《ますみひめ》、|言霊姫《ことたまひめ》にむかつて、
『|断《だん》じて|美山彦《みやまひこ》|一派《いつぱ》の|言《げん》に|耳《みみ》を|傾《かたむ》けたまふべからず』
と|進言《しんげん》したりけるに、|二人《ふたり》はやや|思案《しあん》にくれつつありき。そこへまたもや|国照姫《くにてるひめ》、|杵築姫《きつきひめ》、|船木姫《ふなきひめ》、|広若《ひろわか》らの|邪神《じやしん》|現《あら》はれ|来《き》たり、|二女《にぢよ》にむかひて、
『|如何《いか》にしても|吾《われ》らの|忠言《ちうげん》を|容《い》れて|諸神司《しよしん》を|放逐《はうちく》し、|竜山別《たつやまわけ》|以下《いか》の|神人《かみがみ》を|採用《さいよう》せざるときは、|災禍《さいくわ》たちまちいたりて|本城《ほんじやう》は|大国彦《おほくにひこ》の|部下《ぶか》に|亡《ほろ》ぼされ、|言霊別命《ことたまわけのみこと》、|大足彦《おほだるひこ》は|常世国《とこよのくに》の|刑《けい》に|処《しよ》せられ、|末代《まつだい》|帰還《きくわん》さるべき|機会《きくわい》なし。|一時《いちじ》も|早《はや》く|吾《われ》らの|言《げん》を|容《い》れて|大改革《だいかいかく》を|断行《だんかう》されよ』
と|前後《ぜんご》|左右《さいう》より|攻《せ》めよするをりしも、|竜宮城《りゆうぐうじやう》の|門外《もんぐわい》にはかに|騒《さわ》がしく、|諸神司《しよしん》の|歓呼《くわんこ》の|声《こゑ》、|鬨《とき》の|声《こゑ》、|百雷《ひやくらい》の|一時《いちじ》に|轟《とどろ》くごとく|聞《き》こえきたりぬ。これは|言霊別命《ことたまわけのみこと》が|神助《しんじよ》の|下《もと》に|常世国《とこよのくに》に|送《おく》らるる[#第二八章参照]|中途《ちゆうと》において、|従者《じゆうしや》|言代別命《ことしろわけのみこと》に|救《すく》はれ、|一《いつ》たん|高白山《かうはくざん》の|城主《じやうしゆ》となり|各地《かくち》をひそかに|巡視《じゆんし》し、|詳細《しやうさい》なる|偵察《ていさつ》を|了《を》へて|緑毛《りよくまう》の|大亀《おほがめ》にうち|乗《の》り、|大足彦《おほだるひこ》とともに|突然《とつぜん》|帰還《きくわん》したまひしなりき。
かくと|知《し》りたる|美山彦《みやまひこ》、|国照姫《くにてるひめ》、|杵築姫《きつきひめ》らの|邪神《じやしん》は、たちまち|周章狼狽《しうしやうらうばい》して|色《いろ》をうしなひ、|逃《に》ぐるにも|逃《に》げ|途《みち》なく、|梟《ふくろ》の|夜食《やしよく》に|外《はづ》れし|時《とき》のごとく|面《つら》ふくらしながら|二神司《にしん》を|迎《むか》へて、いやさうな、|気乗《きのり》のせぬ|声《こゑ》にて、
『よくもお|帰《かへ》りありしぞ、マアマア|御芽出度《おめでた》し』
と|義理一遍《ぎりいつぺん》の|冷淡《れいたん》きはまる|挨拶《あいさつ》をのべ、|早々《さうさう》わが|居室《きよしつ》に|立《た》ち|去《さ》りにけり。
あまたの|神司《かみがみ》は、|二神司《にしん》の|無事《ぶじ》に|帰還《きくわん》せられしを|心底《しんてい》より|欣喜《きんき》にたへず、|天《てん》を|拝《はい》し、あるひは|地《ち》を|拝《はい》し、|枯木《かれき》に|花《はな》の|咲《さ》きしがごとく|勇《いさ》み|立《た》ちにける。|二神司《にしん》はまづ|天《てん》の|三柱《みはしら》の|大神《おほかみ》に|無事《ぶじ》の|帰城《きじやう》を|感謝《かんしや》し、ついで|国治立命《くにはるたちのみこと》の|神前《しんぜん》に|拝跪《はいき》して|神恩《しんおん》の|深《ふか》きに|涙《なみだ》を|流《なが》し、|真澄姫《ますみひめ》をはじめ|留守中《るすちう》の|諸神司《しよしん》に、|永日《えいじつ》の|労苦《らうく》を|謝《しや》しをはりて、|蓮華台上《れんげだいじやう》の|聖地《せいち》にのぼり、|天神地祇《てんじんちぎ》、|八百万《やほよろづ》の|神々《かみがみ》に|感謝《かんしや》の|祝文《のりと》を|奏上《そうじやう》し、|衆《しう》に|守《まも》られて|城内《じやうない》|深《ふか》く|休息《きうそく》したまひける。
ややあつて|国照姫《くにてるひめ》、|杵築姫《きつきひめ》、|広若《ひろわか》は|二神司《にしん》の|前《まへ》に|現《あら》はれ、
『|妾《わらは》らは、|常世城《とこよじやう》に|捕《とら》はれ|獄中《ごくちう》に|呻吟《しんぎん》したまふことを|悲《かな》しみ、|同情《どうじやう》の|涙《なみだ》にたへず、よりて|妾《わらは》らは|種々《しゆじゆ》の|手続《てつづ》きを|求《もと》めて|大国彦《おほくにひこ》に|歎願《たんぐわん》し、かつ|常世彦《とこよひこ》のもとに|必死的《ひつしてき》|運動《うんどう》の|結果《けつくわ》、|貴神司《きしん》らは|今日《こんにち》|無事《ぶじ》に|帰還《きくわん》するを|得《え》たるは|御承知《ごしようち》のことならむ。|神明《しんめい》の|加護《かご》とはいひながら、その|大部分《だいぶぶん》は|妾《わらは》らが|犠牲的《ぎせいてき》|大運動《だいうんどう》のたまものなれば、|今後《こんご》は|妾《わらは》らの|忠言《ちうげん》を|容《い》れて、|大々的《だいだいてき》|改革《かいかく》を|断行《だんかう》したまへ。この|好機《かうき》を|逸《いつ》する|時《とき》は、|地《ち》の|高天原《たかあまはら》も|竜宮城《りゆうぐうじやう》も、|暗黒界《あんこくかい》と|変《へん》ぜむこと|明《あき》らかなり』
と|喋々《てふてふ》として|述《の》べ|立《た》つる。|二神司《にしん》は|国照姫《くにてるひめ》|以下《いか》の|邪神《じやしん》の、|見《み》えすきたる|虚言《きよげん》にあきれて、|言語《げんご》も|発《はつ》し|得《え》ざりける。すなわち|二神司《にしん》は|一旦《いつたん》ローマの|戦《たたか》ひに|破《やぶ》れて|捕《とら》はれたれど、|神《かみ》の|佑助《いうじよ》によつて|中途《ちゆうと》に|救《すく》はれ、|言霊別命《ことたまわけのみこと》は|一時《いちじ》|高白山《かうはくざん》に|隠《かく》れて|時《とき》を|待《ま》ち、それより|不思議《ふしぎ》にも|途中《とちゆう》|大足彦《おほだるひこ》に|会《くわい》し|相《あひ》|共《とも》に|天下《てんか》の|諸山《しよざん》を|歴視《れきし》し、|邪神《じやしん》の|奸計《かんけい》を|詳細《しやうさい》に|探求《たんきう》し|還《かへ》りたることを|告《つ》げ、かつ|国照姫《くにてるひめ》、|杵築姫《きつきひめ》らの|言葉《ことば》の|事実《じじつ》に|相《あひ》|反《はん》し、|全然《ぜんぜん》|虚構《きよこう》なる|旨《むね》を|素破抜《すつぱぬ》きたまひける。
|国照姫《くにてるひめ》|以下《いか》の|邪神《じやしん》らは、|二神司《にしん》の|言《げん》を|聞《き》きて|赤面《せきめん》するやと|思《おも》ひの|外《ほか》、|厚顔無恥《こうがんむち》なる|彼《かれ》ら|悪神《あくがみ》は、|少《すこ》しの|痛痒《つうよう》も|感《かん》ぜざるごとき|態度《たいど》をよそほひ、かへつて|二神司《にしん》の|言《げん》を|虚言《きよげん》と|言《い》ひはなちつつ、なほも|陰《いん》に|陽《やう》に|反抗的《はんかうてき》|態度《たいど》を|持続《ぢぞく》し、あるひは|大国彦《おほくにひこ》の|部神《ぶしん》に|通《つう》じ、あるひは|常世姫《とこよひめ》とはかり、|盛《さか》ンに|地《ち》の|高天原《たかあまはら》を|顛覆《てんぷく》せむと|焦慮《せうりよ》しつつ、|表《おもて》に|善人《ぜんにん》の|仮面《かめん》を|被《か》ぶり、|暗々裡《あんあんり》に|反逆的《はんぎやくてき》|活動《くわつどう》を|続《つづ》けたりける。
(大正一〇・一二・七 旧一一・九 桜井重雄録)
第四二章 |常世《とこよ》|会議《くわいぎ》〔一四二〕
|美山彦《みやまひこ》、|国照姫《くにてるひめ》らの|一派《いつぱ》は|暗々裡《あんあんり》に|大国彦《おほくにひこ》に|内通《ないつう》し、|言霊別命《ことたまわけのみこと》|以下《いか》を|窮地《きゆうち》におとしいれ、|地《ち》の|高天原《たかあまはら》を|神退《かむやら》ひに|退《やら》はむと、ここに|玉《たま》の|井《ゐ》の|湖《みづうみ》に|一敗地《いつぱいち》にまみれ|潰走《くわいそう》したる|牛雲別《うしくもわけ》、|蚊取別《かとりわけ》、|蟹雲別《かにくもわけ》を|先導《せんだう》に、|八十枉津《やそまがつ》なる|朝触《あさふれ》、|夕触《ゆふふれ》、|日触《ひふれ》、|言触《ことふれ》らをして|数百万《すうひやくまん》の|探女《さぐめ》を|天《あめ》の|下《した》|四方《よも》の|国々《くにぐに》のこる|隈《くま》なく|配置《はいち》し、もつて|言霊別命《ことたまわけのみこと》、|大足彦《おほだるひこ》の|悪評《あくひやう》を|宣伝《せんでん》せしめ、|蠑〓別《いもりわけ》、|播磨別《はりまわけ》らの|応援《おうゑん》をえて|各山《かくざん》|各地《かくち》の|八王神《やつわうじん》を|籠絡《ろうらく》せしめたり。|八王神《やつわうじん》、|八頭神《やつがしらがみ》はつひに|彼《かれ》らの|奸策《かんさく》におちいり、|漸次《ぜんじ》|言霊別命《ことたまわけのみこと》に|反抗《はんかう》の|態度《たいど》をとり、|各山《かくざん》|各地《かくち》の|八王八頭《やつわうやつがしら》を|常世城《とこよじやう》に|召集《せうしふ》し、|十二柱《じふにはしら》の|八王八頭《やつわうやつがしら》を|八王大神《やつわうだいじん》の|部下《ぶか》に|附属《ふぞく》せしめむとし、|一大《いちだい》|団結力《だんけつりよく》をつくつて|地《ち》の|高天原《たかあまはら》なる|大八洲彦命《おほやしまひこのみこと》を|排除《はいじよ》せむことを|鳩首《きうしゆ》|謀議《ぼうぎ》し|八王八頭《やつわうやつがしら》の|賛成《さんせい》をえたりける。|大八洲彦命《おほやしまひこのみこと》はこの|形勢《けいせい》を|見《み》て|事態《じたい》|容易《ようい》ならずとし、ここに|八嶋彦《やしまひこ》、|加賀彦《かがひこ》、|陸奥彦《むつひこ》を|使者《ししや》として|常世国《とこよのくに》に|遣《つか》はし、|一《いつ》たん|神界《しんかい》にて|定《さだ》められたる|天使長《てんしちやう》の|管轄《くわんかつ》をはなれ、|自由《じいう》に|八王八頭《やつわうやつがしら》の|連合《れんがふ》|団体《だんたい》を|造《つく》り、|大神《おほかみ》の|制定《せいてい》を|破《やぶ》るは、|天則《てんそく》|違反《ゐはん》のもつとも|甚《はなは》だしきものたることを|極力《きよくりよく》|言明《げんめい》せしめたり。
されど|最早《もはや》|常世彦《とこよひこ》は、|世界《せかい》の|八王八頭《やつわうやつがしら》をほとンど|悪辣《あくらつ》なる|手段《しゆだん》をもつて|言向《ことむ》け|従《したが》へたる|勢《いきほひ》にまかせ、|天使長《てんしちやう》|大八洲彦命《おほやしまひこのみこと》の|宣示《せんじ》を|馬耳東風《ばじとうふう》と|聞《き》き|流《なが》し、|自由《じいう》|権利論《けんりろん》を|強調《きやうちよう》して|八嶋彦《やしまひこ》、|加賀彦《かがひこ》、|陸奥彦《むつひこ》らの|使者《ししや》を|侮蔑《ぶべつ》し、かつ|全地上《ぜんちじやう》の|国魂《くにたま》の|一致《いつち》の|決議《けつぎ》をいまさら|改変《かいへん》するは、|道理《だうり》に|於《おい》て|宥《ゆる》すべからざる|悪逆無道《あくぎやくぶだう》の|処置《しよち》なり、と|一言《いちげん》に【はね】|付《つ》けたり。|使者《ししや》はほとンど|取《と》りつく|島《しま》も|泣《な》き|寝入《ねい》り、|波《なみ》にとられた|沖《おき》の|舟《ふね》、|悄然《せうぜん》として|帰城《きじやう》したりける。
その|中《なか》にも|万寿山《まんじゆざん》の|八王神《やつわうじん》|磐樟彦《いはくすひこ》の|一派《いつぱ》と、|天山《てんざん》の|八王神《やつわうじん》|斎代彦《ときよひこ》の|一派《いつぱ》の|神司《かみがみ》は、|天則《てんそく》を|重《おも》ンじ|苦節《くせつ》を|守《まも》り、|四面楚歌《しめんそか》の|中《なか》に|卓立《たくりつ》して、|上下《じやうげ》|一致《いつち》よく|永遠《ゑいゑん》に|神政《しんせい》を|支持《しぢ》しつつありき。
かくして|地《ち》の|高天原《たかあまはら》において|神定《かむさだ》めたまひし|十二《じふに》の|八王神《やつわうじん》は、|十王女《とをめ》まで|八頭八尾《やつがしらやつを》の|憑依《ひようい》せる|常世彦《とこよひこ》のために|併呑《へいどん》されをはりぬ。|手撫土《てなづち》(|艮《うしとら》の|金神《こんじん》)、|足撫土《あしなづち》(|坤《ひつじさる》の|金神《こんじん》)のひそかに|守《まも》りたまへる|十二《じふに》の|宝座《ほうざ》は、すでに|十座《じふざ》までも|失《うしな》はれける。|十二個《じふにこ》の|黄金水《わうごんすゐ》の|玉《たま》を|竹熊《たけくま》のために、|十個《じつこ》まで|占奪《せんだつ》されたると|同様《どうやう》の|惨事《さんじ》なり。|八王大神《やつわうだいじん》は|勝《かち》に|乗《じやう》じて、なほもこの|残《のこ》りの|二王《にわう》をその|幕下《ばくか》たらしめむとして、あらゆる|奸策《かんさく》を|施《ほどこ》したれど、この|八乙女《やをとめ》のみは、|国大立命《くにひろたちのみこと》のために|難《なん》を|免《まぬが》れたりけり。
この|次第《しだい》は|後日《ごじつ》に|詳《くは》しく|口述《こうじゆつ》すべし。ある|古書《こしよ》に|載《の》せたる|八乙女《やをとめ》といへるは|即《すなは》ち|八王《やを》と|女神《めがみ》の|意義《いぎ》なりといふ。
(大正一〇・一二・八 旧一一・一〇 谷村真友録)
第四三章 |配所《はいしよ》の|月《つき》〔一四三〕
|八王大神《やつわうだいじん》|常世彦《とこよひこ》は|十王《とわう》、|十頭《とがしら》の|神司《かみがみ》を|操縦《さうじう》し、あまたの|魔軍《まぐん》とともに|数百千《すうひやくせん》の|磐船《いはふね》に|乗《の》り、|天空《てんくう》をかすめて|黄金橋《こがねばし》の|上空《じやうくう》を|襲《おそ》ひ、|数百千万《すうひやくせんまん》とも|数限《かずかぎ》りなき|火弾《くわだん》を|投下《とうか》し、かつ|進《すす》ンで|竜宮城《りゆうぐうじやう》およびエルサレムの|上《うへ》に|進撃《しんげき》しきたり、ここにも|多数《たすう》の|火弾《くわだん》|毒弾《どくだん》などを、|雨霰《あめあられ》のごとくに|投《な》げつけたり。|大八洲彦命《おほやしまひこのみこと》、|神国別命《かみくにわけのみこと》、|大足彦《おほだるひこ》、|八島別《やしまわけ》は|城内《じやうない》の|神将《しんしやう》|神卒《しんそつ》を|指揮《しき》しつつ|盛《さか》ンに|防戦《ばうせん》に|努《つと》めける。|竜宮城《りゆうぐうじやう》よりも|数多《あまた》の|磐樟船《いはくすぶね》を|飛《と》ばして|大《おほ》いに|敵軍《てきぐん》を|悩《なや》ませたるが、しかも|一勝一敗《いつしよういつぱい》を|繰返《くりかへ》しつつ|戦《たたか》ひ|久《ひさ》しきにわたり、|竜宮城《りゆうぐうじやう》の|神軍《しんぐん》は|日夜《にちや》にその|数《すう》を|減《げん》じ、ほとんど|孤城落日《こじやうらくじつ》|無援《むゑん》の|窮地《きゆうち》に|陥《おちい》りにけり。
|大八洲彦命《おほやしまひこのみこと》は、もはや|如何《いか》に|神明《しんめい》の|加護《かご》と|神智《しんち》を|揮《ふる》ひ|神算鬼謀《しんさんきぼう》の|秘術《ひじゆつ》を|尽《つく》すといへども、|到底《たうてい》|勝算《しようさん》なきを|看破《かんぱ》し、|百計《ひやくけい》ここにつきて、つひに|国祖《こくそ》の|御前《みまへ》に|拝跪《はいき》し、|天《あま》の|真澄《ますみ》の|鏡《かがみ》をもつて|敵軍《てきぐん》を|防《ふせ》がむことを|奏請《そうせい》したりけるに、|国祖《こくそ》はおほいに|怒《いか》りたまひ、
『|汝《なんぢ》らは|天地《てんち》の|律法《りつぱう》をもつて|何《なに》ゆゑに|敵《てき》を|言向和《ことむけやは》し|悔改《くいあらた》めしめざるや、|進退《しんたい》これ|谷《きは》まりたりとて、いやしくも|天地《てんち》の|律法《りつぱう》を|制定《せいてい》され、|世界《せかい》を|至善《しぜん》の|道《みち》をもつて|教化《けうくわ》すべき|天使《てんし》の|職掌《しよくしやう》を|拝《はい》しながら、|敵《てき》の|暴力《ばうりよく》に|酬《むく》ゆるに|暴力《ばうりよく》をもつて|対抗《たいかう》せむとするは、|天使長《てんしちやう》より|神聖《しんせい》なる|律法《りつぱう》を|破《やぶ》るものにして、これに|過《す》ぎたる|罪科《ざいくわ》は|非《あら》ざるなり。あくまでも|忍耐《にんたい》に|忍耐《にんたい》を|重《かさ》ねて、|至誠《しせい》|一貫《いつくわん》もつて|極悪無道《ごくあくぶだう》の|人物《じんぶつ》を|心底《しんてい》より|悔改《くいあらた》めしめ、|天則《てんそく》の|犯《をか》すべからざるを|自覚《じかく》せしむべし。これ|善一筋《ぜんひとすじ》の|誠《まこと》の|教《をしへ》なれば、たとへ|如何《いか》なる|難局《なんきよく》に|立《た》つとも|断《だん》じて|真澄《ますみ》の|玉《たま》は|使用《しよう》すべからず。かつ、その|玉《たま》は|稚桜姫命《わかざくらひめのみこと》|幽界《いうかい》に|持《も》ちゆきたる|浄玻璃《じやうはり》の|神鏡《しんきやう》となりたれば、これを|戦闘《せんとう》のために|使用《しよう》すべきものに|非《あら》ず。|汝《なんぢ》らは|神《かみ》の|力《ちから》を|信《しん》じ、|至誠《しせい》を|天地《てんち》に|一貫《いつくわん》し、もつて|天津神《あまつかみ》の|御照覧《ごせうらん》にあづかるをもつて|主旨《しゆし》とし、|暴悪無道《ばうあくぶだう》の|敵軍《てきぐん》に|暴力《ばうりよく》をもつて|戦《たたか》ふを|止《や》めよ。|真《しん》の|神《かみ》の|心《こころ》は|宇宙《うちう》|万有《ばんいう》|一切《いつさい》を|平等《べうどう》に|愛護《あいご》す。ゆゑに|大神《おほかみ》の|眼《め》よりは|一視同仁《いちしどうじん》にして、いたづらに|争闘《そうとう》を|事《こと》とするは|神慮《しんりよ》に|背反《はいはん》するものなり。|断《だん》じて|武力《ぶりよく》に|訴《うつた》へなどして|解決《かいけつ》を|急《いそ》ぐなかれ。|何事《なにごと》も|天命《てんめい》の|然《しか》らしむるところにして、|惟神《かむながら》の|摂理《せつり》なり。ただただ|汝《なんぢ》らは、|天使《てんし》たるの|聖職《せいしよく》に|省《かへり》みて|広《ひろ》く|万物《ばんぶつ》を|愛《あい》し、|敵《てき》を|憎《にく》まず、|彼《かれ》らの|為《な》すがままに|放任《はうにん》せよ』
との|厳命《げんめい》なりける。
|天使長《てんしちやう》|大八洲彦命《おほやしまひこのみこと》は、|各天使《かくてんし》を|地《ち》の|高天原《たかあまはら》にあつめて|神勅《しんちよく》を|報告《はうこく》し、かつ|最高《さいかう》|会議《くわいぎ》は|開《ひら》かれたり。|天空《てんくう》には|敵《てき》の|磐船《いはふね》|雲霞《うんか》の|如《ごと》く|襲来《しふらい》し、|頭上《づじやう》に|火弾《くわだん》を|雨下《うか》し、|会議《くわいぎ》の|席上《せきじやう》にも|火弾《くわだん》|飛《と》びきたりて|神人《しんじん》を|傷《きず》つけ、|暗雲《あんうん》|天地《てんち》をこめて|咫尺《しせき》を|弁《べん》ぜざるにいたる。されど|国祖《こくそ》の|神勅《しんちよく》は|大地《だいち》よりも|重《おも》く、その|命《めい》は|儼乎《げんこ》として|動《うご》かすべからず。さりとて|神命《しんめい》を|奉《ほう》ぜむか、|味方《みかた》の|敗亡《はいばう》は|火《ひ》をみるよりも|明白《めいはく》なる|事実《じじつ》なり。|万一《まんいち》|神命《しんめい》に|背反《はいはん》せむか、|天則《てんそく》|破壊《はくわい》の|罪科《ざいくわ》を|犯《をか》さむ。アヽ|善《ぜん》の|道《みち》ほど|辛《つら》きものはなし、と|諸神司《しよしん》は|思案《しあん》にくれ、|溜息《ためいき》|吐息《といき》の|態《てい》なりける。
|竜宮城内《りゆうぐうじやうない》よりは|美山彦《みやまひこ》、|国照姫《くにてるひめ》、|杵築姫《きつきひめ》、|竜山別《たつやまわけ》らの|一派《いつぱ》は、|平素《へいそ》の|目的《もくてき》を|達《たつ》するは|今《いま》この|時《とき》と、|内外《ないぐわい》|相《あひ》|応《おう》じて|八王大神《やつわうだいじん》の|魔軍《まぐん》に|応援《おうゑん》し、|味方《みかた》は|四分五裂《しぶんごれつ》の|状勢《じやうせい》におちいり|収拾《しうしふ》すべからず、|進退《しんたい》いよいよ|谷《きは》まりたる|天使長《てんしちやう》|大八洲彦命《おほやしまひこのみこと》|以下《いか》の|天使《てんし》|神将《しんしやう》は、やむをえず|大神《おほかみ》の|禁《きん》を|破《やぶ》つて|破軍《はぐん》の|剣《つるぎ》を|抜《ぬ》き|放《はな》ち、|寄《よ》せくる|空中《くうちゆう》の|敵軍《てきぐん》|目《め》がけて|打《う》ち|振《ふ》るやいなや、|剣《つるぎ》の|尖《さき》より|不思議《ふしぎ》の|神光《しんくわう》あらはれ、|天地《てんち》|四方《しはう》に|雷鳴《らいめい》|電光《でんくわう》おこり、|疾風《しつぷう》|吹《ふ》き|荒《すさ》び|雨《あめ》の|降《くだ》るがごとく、|数百千《すうひやくせん》の|磐船《いはふね》は|一隻《いつせき》も|残《のこ》らず|地上《ちじやう》に|墜落《つゐらく》し、|敵軍《てきぐん》の|大半《たいはん》はほとんど|滅亡《めつぼう》したりける。
さしも|猛烈《まうれつ》なる|敵《てき》の|魔軍《まぐん》も、|大八洲彦命《おほやしまひこのみこと》|以下《いか》の|神司《かみがみ》らの|犠牲的《ぎせいてき》|英断《えいだん》と|破軍《はぐん》の|剣《つるぎ》の|威徳《ゐとく》をもつて、もろくも|潰滅《くわいめつ》したりける。|敵《てき》の|逃《に》げ|去《さ》りたる|跡《あと》の|地《ち》の|高天原《たかあまはら》および|竜宮城《りゆうぐうじやう》は、あたかも|大洪水《だいこうずゐ》の|引《ひ》きたる|跡《あと》のごとく、|大火《たいくわ》の|跡《あと》のごとき|惨澹《さんたん》たる|光景《くわうけい》なりき。|折《をり》しも|大風《たいふう》|吹《ふ》きすさび|強雨《がうう》|降《ふ》りそそぎて、すべての|汚穢物《をくわいぶつ》は|惟神的《かむながらてき》に|吹《ふ》き|散《ち》らされ、|大雨《たいう》|洪水《こうずゐ》となりて|大海《たいかい》に|流《なが》れ|去《さ》り、ふたたび|清浄《せいじやう》なる|聖地《せいち》|聖城《せいじやう》とはなりにける。
ここに|美山彦《みやまひこ》、|国照姫《くにてるひめ》の|一派《いつぱ》は、|国治立命《くにはるたちのみこと》の|御前《みまへ》にすすみいでて、
『このたびの|大八洲彦命《おほやしまひこのみこと》|以下《いか》の|天使《てんし》|神将《しんしやう》は、|厳格《げんかく》なる|大神《おほかみ》の|神勅《しんちよく》を|無視《むし》し、|厳禁《げんきん》を|犯《をか》して|破軍《はぐん》の|剣《つるぎ》を|採《と》り|出《だ》し、|寄《よ》せきたる|数多《あまた》の|敵軍《てきぐん》をさんざんに|攻《せ》めくるしめ、|暴力《ばうりよく》のあらむ|限《かぎ》りをつくし、|優勝劣敗《いうしやうれつぱい》|弱肉強食《じやくにくきやうしよく》の|戦法《せんぱふ》を|使用《しよう》し、|広《ひろ》く|万物《ばんぶつ》を|愛《あい》し|敵《てき》を|憎《にく》まず、|善一筋《ぜんひとすぢ》の|誠《まこと》をもつて|言向和《ことむけやは》さず、かつ「|殺《ころ》す|勿《なか》れ」の|律法《りつぱう》を|無視《むし》したる|悪逆無道《あくぎやくぶだう》の|罪《つみ》、|断《だん》じて|宥《ゆる》すべからず。|希《こひねが》はくば、かれ|天使長《てんしちやう》|以下《いか》の|職《しよく》を|解《と》き、|地《ち》の|高天原《たかあまはら》を|追放《つゐはう》し、|厳格《げんかく》なる|天地《てんち》の|律法《りつぱう》を|犯《をか》されざるやう、|何分《なにぶん》の|御処置《ごしよち》を|下《くだ》されむことを|願《ねが》ひたてまつる』
と|頭《あたま》をそろへ|律法《りつぱう》を|楯《たて》に、うやうやしく|奏上《そうじやう》したりける。
|地上《ちじやう》|霊界《れいかい》の|主権者《しゆけんしや》に|坐《ま》します|国祖《こくそ》の|大神《おほかみ》も、|律法《りつぱう》を|守《まも》り|天地《てんち》の|綱紀《かうき》を|保持《ほぢ》するの|必要上《ひつえうじやう》、いかにやむを|得《え》ざる|情実《じやうじつ》のためとはいへ、|天地《てんち》の|神《かみ》の|定《さだ》めたる|禁《きん》を|犯《をか》したる|以上《いじやう》は、これを|不問《ふもん》に|附《ふ》することあたはざる|破目《はめ》に|陥《おちい》りたまひ、|呑剣《どんけん》|断腸《だんちやう》の|思《おも》ひを|心中《しんちう》に|秘《ひ》め、|涙《なみだ》を|隠《かく》して|断然《だんぜん》|意《い》を|決《けつ》したまひ、|大八洲彦命《おほやしまひこのみこと》、|言霊別命《ことたまわけのみこと》、|神国別命《かみくにわけのみこと》、|大足彦《おほだるひこ》の|四天使《してんし》を|召《め》して|儼然《げんぜん》たる|態度《たいど》のもとに、|地《ち》の|高天原《たかあまはら》と|竜宮城《りゆうぐうじやう》を|退去《たいきよ》すべく|宣示《せんじ》し|給《たま》ひける。この|四天使《してんし》らは、|稚桜姫命《わかざくらひめのみこと》の|到《いた》りませる|幽庁《いうちやう》の|神《かみ》と|左遷《させん》さるる|規定《きてい》なりけるが、|貞操《ていさう》なる|真澄姫《ますみひめ》、|言霊姫《ことたまひめ》、|竜世姫《たつよひめ》らの|歎願《たんぐわん》|哀訴《あいそ》により、|大神《おほかみ》はその|情《じやう》をくみ|給《たま》ひて、その|罪《つみ》を|赦《ゆる》し、|万寿山《まんじゆざん》の|城《しろ》に|蟄居《ちつきよ》を|命《めい》ぜられ、|四神将《ししんしやう》はここに|配所《はいしよ》の|月《つき》をながめて、いくばくかの|星霜《せいさう》を|送《おく》りたまひける。
この|四神将《ししんしやう》は|元来《ぐわんらい》|国大立之命《くにひろたちのみこと》、|天神《てんしん》の|命《めい》を|奉《ほう》じて|大海原《おほうなばら》の|国《くに》を|知食《しろしめ》すべく、その|精霊魂《せいれいこん》を|分《わか》ちて|神界《しんかい》の|守護《しゆご》に|当《あた》らせたまひしものにして、
|大八洲彦命《おほやしまひこのみこと》は【|和魂《にぎみたま》】であり
|言霊別命《ことたまわけのみこと》は【|幸魂《さちみたま》】であり
また、
|大足彦命《おほだるひこのみこと》は【|荒魂《あらみたま》】であり
|神国別命《かみくにわけのみこと》は【|奇魂《くしみたま》】である。
アヽ|天使長《てんしちやう》|以下《いか》|三天使《さんてんし》の|重《おも》なる|神司《かみ》の|退却《たいきやく》されし|後《あと》の|地《ち》の|高天原《たかあまはら》および|竜宮城《りゆうぐうじやう》の|形勢《けいせい》は、いかにして|治《をさ》まり|行《ゆ》くならむ|乎《か》。
(大正一〇・一二・八 旧一一・一〇 近藤貞二録)
(第三七章〜第四三章 昭和一〇・一・一八 宮崎市神田橋旅館 王仁校正)
第一一篇 |新規《しんき》|蒔直《まきなほ》し
第四四章 |可賀天下《かかてんか》〔一四四〕
|大八洲彦命《おほやしまひこのみこと》|以下《いか》|天使《てんし》の|聖地《せいち》|退去《たいきよ》ののちは、|国治立命《くにはるたちのみこと》の|奏請《そうせい》により、|天上《てんじやう》より|高照姫命《たかてるひめのみこと》を|降《くだ》したまひて、これを|地《ち》の|高天原《たかあまはら》の|宰相神《さいしやうがみ》に|任《にん》じ、|天使長《てんしちやう》の|聖職《せいしよく》に|就《つ》かしめ、|真澄姫《ますみひめ》、|言霊姫《ことたまひめ》、|竜世姫《たつよひめ》をして|天使《てんし》の|聖職《せいしよく》につかしめたまひぬ。ここに|女神司《によしん》|四柱《よはしら》|相《あひ》|並《なら》びて|神務《しんむ》と|神政《しんせい》に|奉仕《ほうし》することとなり、|神々《かみがみ》の|心気《しんき》を|新《あらた》にすることを|得《え》たりけり。
|一《いつ》たん|常世彦《とこよひこ》の|威力《ゐりよく》に|圧《あつ》せられ、|八王《やつわう》|聯盟《れんめい》に|加《くは》はりゐたる|諸天使《しよてんし》は、|八頭神《やつがしらがみ》を|引連《ひきつ》れ|八王大神《やつわうだいじん》に|背《そむ》きてふたたび|高照姫命《たかてるひめのみこと》の|幕下《ばくか》となり、|前非《ぜんぴ》を|悔《く》い、ここに|目出度《めでた》く|帰順《きじゆん》することとなり、|聖地《せいち》の|神政《しんせい》はまつたく|復活《ふくくわつ》することを|得《え》たりき。|天使長《てんしちやう》|高照姫命《たかてるひめのみこと》は|国治立命《くにはるたちのみこと》の|神命《しんめい》を|奉《ほう》じ、|八王八頭《やつわうやつがしら》を|率《ひき》ゐて、|天地《てんち》の|律法《りつぱう》をあまねく|地上《ちじやう》の|世界《せかい》に|宣伝《せんでん》し、|一時《いちじ》は|飛《と》ぶ|鳥《とり》もおとすばかりの|大勢力《だいせいりよく》にして、|世界《せかい》の|各山《かくざん》|各所《かくしよ》には|天津祝詞《あまつのりと》の|声《こゑ》|充満《じゆうまん》し、|神人《しんじん》|動植物《どうしよくぶつ》はことごとくその|堵《と》に|安《やす》んじ、|実《じつ》に|天下《てんか》は|泰平《たいへい》に|治《をさ》まり、|邪神《じやしん》はおのおの|影《かげ》をひそめ|国土《こくど》|安穏《あんをん》にして、|天日《てんじつ》いよいよ|照《て》り|輝《かがや》き、|月光《げつくわう》|澄《す》みわたり|蒼空《さうくう》|一点《いつてん》の|妖気《えうき》なく、|実《じつ》に|完全無欠《くわんぜんむけつ》の|神世《しんせい》を|現出《げんしゆつ》せしめたれば、|世界《せかい》の|神人《しんじん》こぞつて|可賀天下《かかてんか》と|賞揚《しやうやう》するの|聖代《せいだい》とはなりける。
|竜宮城《りゆうぐうじやう》に|雲《くも》をしのぎて|聳立《しようりつ》せる、|三重《みへ》の|金殿《きんでん》より|顕国《うつしくに》の|御玉《みたま》の|神霊《しんれい》|発動《はつどう》して、|唸《うな》りを|発《はつ》し、ときどき|不可思議《ふかしぎ》なる|光輝《くわうき》を|発射《はつしや》して|邪悪神《じやあくしん》の|面《おもて》を|照《て》らしたまへば、|地《ち》の|高天原《たかあまはら》の|聖地《せいち》も|竜宮城《りゆうぐうじやう》の|聖城《せいじやう》も、|日《ひ》ましに|神威霊徳《しんゐれいとく》くははり、|金色《こんじき》の|鴉《からす》、|銀色《ぎんしよく》の|神鳩《しんきう》|嬉々《きき》として|中空《ちうくう》に|舞《ま》ひ|遊《あそ》び、|天男天女《てんなんてんによ》はつねに|四辺《しへん》を|囲繞《ゐぜう》して|太平《たいへい》の|音楽《おんがく》を|奏《そう》し、|五風十雨《ごふうじふう》|順《じゆん》をたがへず、|禾穀《くわこく》|豊穣《ほうじやう》して|神人《しんじん》その|業《げふ》を|楽《たの》しみ、|神界《しんかい》|理想《りさう》の|黄金世界《わうごんせかい》を|現出《げんしゆつ》するにいたり、|遠近《をちこち》の|邪神《じやしん》も|静謐《せいひつ》|帰順《きじゆん》をよそほひ、|野心《やしん》を|深《ふか》く|包《つつ》みて|現実的《げんじつてき》|暴動《ばうどう》を|慎《つつし》み、|天下《てんか》|一点《いつてん》の|妖雲《えううん》を|見《み》ざる|瑞祥《ずゐしやう》の|世《よ》とはなりにける。これは|万寿山《まんじゆざん》に|退去《たいきよ》されし|前天使長《ぜんてんしちやう》|以下《いか》の|日夜《にちや》の|専念的《せんねんてき》|祈念《きねん》の|力《ちから》によりて、その|精霊体《せいれいたい》に|活動《くわつどう》をおこし、|聖地《せいち》|聖域《せいゐき》の|霊徳《れいとく》を|発輝《はつき》したまひしが|故《ゆゑ》なり。されど|天使長《てんしちやう》|高照姫命《たかてるひめのみこと》|以下《いか》の|三天使《さんてんし》をはじめ|神将《しんしやう》|神卒《しんそつ》にいたるまで、|須佐之男大神《すさのをのおほかみ》の|昼夜《ちうや》の|御守護《ごしゆご》の|賜《たまもの》たることを|少《すこ》しも|覚《さと》らず、|天運《てんうん》の|循環《じゆんかん》と、|新天使《しんてんし》|以下《いか》の|神務《しんむ》と|神政《しんせい》の|完全無欠《くわんぜんむけつ》にして、|天地《てんち》|神明《しんめい》の|神慮《しんりよ》にかなひ|奉《まつ》れる|結果《けつくわ》ならむと、|心《こころ》おごりて、|顕国《うつしくに》の|御玉《みたま》の|守護《しゆご》と、|大八洲彦命《おほやしまひこのみこと》|以下《いか》の|専心《せんしん》|祈念《きねん》の|賜《たまもの》たることを|忘却《ばうきやく》し、つひには|女神司《によしん》のあさはかにも|驕慢心《けうまんしん》|増長《ぞうちよう》し、その|結果《けつくわ》は|天地《てんち》の|律法《りつぱう》まで|軽視《けいし》するにいたり、|神徳《しんとく》|日々《ひび》に|衰《おとろ》へ|各所《かくしよ》に|不平《ふへい》|不満《ふまん》の|声《こゑ》おこり、|漸次《ぜんじ》|日《ひ》を|追《お》ひ|月《つき》を|重《かさ》ぬるとともに、|可賀天下《かかてんか》の|神政《しんせい》を|呪《のろ》ふ|神々《かみがみ》|勃発《ぼつぱつ》するの|形勢《けいせい》を|馴致《じゆんち》したりける。
ここに|一旦《いつたん》|鉾《ほこ》をおさめ|帰順《きじゆん》をよそほひゐたる|八王大神《やつわうだいじん》|常世彦《とこよひこ》は、|常世姫《とこよひめ》と|再挙《さいきよ》をくはだて、|大国彦《おほくにひこ》と|計《はか》り、|世界《せかい》|各所《かくしよ》の|八王八頭《やつわうやつがしら》に、|八頭八尾《やつがしらやつを》の|大蛇《をろち》の|霊魂《みたま》を|憑依《ひようい》せしめ、その|女神司《によしん》には|金毛九尾《きんまうきうび》の|悪狐《あくこ》の|霊《れい》を|憑依《ひようい》せしめ、|部下《ぶか》の|神司《かみがみ》には|六面八臂《ろくめんはつぴ》の|邪鬼《じやき》や|眷属《けんぞく》を|憑依《ひようい》せしめて、|俄《にはか》に|反逆心《はんぎやくしん》を|発《はつ》せしめたり。|世界《せかい》の|神人《かみがみ》はまたもや|一時《いちじ》に|起《た》つて、|地《ち》の|高天原《たかあまはら》の|神政《しんせい》に|反抗的《はんかうてき》|態度《たいど》をあらはし、あまたの|神人《かみがみ》|魔軍《まぐん》と|変《へん》じて、|八王大神《やつわうだいじん》|指揮《しき》のもとに、まづ|諸山《しよざん》の|神軍《しんぐん》を|降《くだ》し、|勝《かち》に|乗《じやう》じて|聖地《せいち》にむかひ、|天《あま》の|磐船《いはふね》を|数百千《すうひやくせん》とも|限《かぎ》りなく|建造《けんざう》して|天空《てんくう》を|翔《かけ》り、|群《むれ》をなして|攻《せ》めよせ|来《きた》りぬ。|天使長《てんしちやう》|高照姫命《たかてるひめのみこと》は|周章狼狽《しうしやうらうばい》の|結果《けつくわ》、|神勅《しんちよく》を|請《こ》ふのいとまなく、ただちに|数百隻《すうひやくせき》の|天《あま》の|鳥船《とりふね》を|造《つく》り、|橄欖山《かんらんざん》より|敵《てき》にむかつて|攻入《せめい》り、|蒼空《さうくう》|高《たか》く|一大《いちだい》|激戦《げきせん》を|開始《かいし》し、|一勝一敗《いつしよういつぱい》たがひに|雌雄《しゆう》を|争《あらそ》ひ、ふたたび|聖地《せいち》は|紛乱《ふんらん》の|巷《ちまた》と|化《くわ》し|去《さ》りにける。|空中《くうちゆう》の|戦《たたか》ひは|夜《よ》を|日《ひ》につぎほとンど|一年《いちねん》|有余《いうよ》を|費《つひ》やしたり。|国祖《こくそ》|国治立命《くにはるたちのみこと》はまたもや|神勅《しんちよく》を|降《くだ》し、
『|天地《てんち》の|律法《りつぱう》を|遵奉《じゆんぽう》し|決《けつ》して|暴力《ばうりよく》をもつて|戦《たたか》ふべからず。|大慈《だいじ》|大悲《だいひ》の|親心《おやごころ》をもつて|敵《てき》を|言向和《ことむけや》はせ、|善一《ぜんひと》つの|大道《だいだう》に|教《をし》へ|導《みちび》くべし』
と|厳命《げんめい》されたれども、|高照姫命《たかてるひめのみこと》、|真澄姫《ますみひめ》、|言霊姫《ことたまひめ》、|竜世姫《たつよひめ》は、
『|今日《こんにち》の|場合《ばあひ》かかる|緩漫《くわんまん》なる|方法《はうはふ》をもつて|敵《てき》を|改心《かいしん》せしめむとするは、|実《じつ》に|無謀迂遠《むぼううゑん》の|策《さく》にして|到底《たうてい》|寸効《すんかう》なかるべし。いたづらに|宋襄《そうじやう》の|仁《じん》を|施《ほどこ》しかへつて|敵《てき》に|乗《じやう》ぜられ、|噬臍《ぜいせい》の|悔《くい》を|後日《ごじつ》にのこさむよりは、|強暴《きやうぼう》にたいするに|強暴《きやうぼう》をもつてし、|我《われ》らの|実力《じつりよく》を|示《しめ》して|敵《てき》を|全滅《ぜんめつ》せしめ、|後難《こうなん》を|絶《た》つに|如《し》かず。いかに|国祖《こくそ》の|神命《しんめい》なればとて、|危急《ききふ》|存亡《そんばう》の|場合《ばあひ》、|実力《じつりよく》なき|天地《てんち》の|律法《りつぱう》をふりかざして、なんの|効《かう》をか|為《な》さむや。|神勅《しんちよく》は、われらは|努《つと》めて|遵奉《じゆんぽう》せざるべからずといへども、それは|時《とき》と|位置《ゐち》とに|関《くわん》して|行《おこな》ふべきものなり。|急場《きふば》の|用《よう》に|立《た》つべきものにあらず』
と|四柱《よはしら》の|天使《てんし》はきはめて|強硬《きやうかう》なる|態度《たいど》を|持《ぢ》し、|神勅《しんちよく》を|鼻《はな》の|先《さき》にてあしらひゐたりけり。
|時《とき》しも|敵《てき》はますます|進《すす》ンで|聖地《せいち》の|上空《じやうくう》に|雲霞《うんか》のごとく|飛《と》びきたり、|天《てん》の|三柱宮《みはしらのみや》の|上《うへ》に|火弾《くわだん》を|無数《むすう》に|投《な》げつけたれば、たちまち|黒煙《こくえん》|濛々《もうもう》として|立《た》ちのぼり、さしも|荘厳《さうごん》を|極《きは》めたるエルサレムの|大神殿《だいしんでん》もたちまち|烏有《ういう》に|帰《き》したり。|時《とき》しも|火焔《くわえん》の|中《なか》より|巨大《きよだい》なる|神将《しんしやう》あらはれ、|味方《みかた》の|鳥船《とりふね》にうち|乗《の》り|敵《てき》の|神将《しんしやう》|醜原別《しこはらわけ》にむかつて|衝突《しようとつ》を|試《こころ》みたりければ、|醜原別《しこはらわけ》はもろくも|打《う》ち|落《おと》され、|火焔《くわえん》の|中《なか》につつまれ|苦悶《くもん》の|結果《けつくわ》つひに|焼死《せうし》したりける。|味方《みかた》の|神将《しんしやう》|神卒《しんそつ》は|手《て》を|打《う》ちてよろこび、|快哉《くわいさい》を|叫《さけ》びしが、その|声《こゑ》|天地《てんち》も|動《ゆる》ぐばかりなり。|言霊姫《ことたまひめ》は|又《また》もや|破軍《はぐん》の|剣《つるぎ》を|抜放《ぬきはな》ち、|敵《てき》の|魔軍《まぐん》にむかつて|前後《ぜんご》|左右《さいう》に|空中《くうちゆう》|目《め》がけて|打《う》ち|振《ふ》りしにぞ、|宝剣《ほうけん》の|威徳《ゐとく》ただちに|現《あら》はれたまひて、|敵《てき》の|将卒《しやうそつ》は|雨《あめ》のごとく|地上《ちじやう》に|落下《らくか》し、あるひは|火焔《くわえん》の|中《なか》に|墜落《つゐらく》して|黒焦《くろこげ》となり|滅亡《めつぼう》したり。|敵軍《てきぐん》の|将卒《しやうそつ》は|不意《ふい》を|打《う》たれて|一敗地《いつぱいち》にまみれ、|命《いのち》からがら|西天《せいてん》をかすめて|遠《とほ》く|姿《すがた》を|没《ぼつ》しける。|東北《とうほく》の|強風《きやうふう》|突如《とつじよ》として|吹《ふ》きおこり|聖地《せいち》|聖城《せいじやう》を|倒潰《たうくわい》し、|動植物《どうしよくぶつ》の|被害《ひがい》は|目《め》もあてられぬ|悲惨《ひさん》なる|光景《くわうけい》となりければ、|真澄姫《ますみひめ》、|竜世姫《たつよひめ》はおほいに|驚《おどろ》き、
『|妾《わらは》ら|神勅《しんちよく》|違反《ゐはん》の|行動《かうどう》を|執《と》りたるを|大神《おほかみ》の|赫怒《かくど》したまひて、かくのごとく|災害《さいがい》の|頻発《ひんぱつ》するならむ』
と、|天地《てんち》に|拝跪《はいき》して|謝罪《しやざい》し|天津祝詞《あまつのりと》を|一生懸命《いつしやうけんめい》に|奏上《そうじやう》したれども、|東北《とうほく》の|風《かぜ》はますます|強烈《きやうれつ》となり、|洪水《こうずゐ》|氾濫《はんらん》してつひには|竜宮城《りゆうぐうじやう》も|水中《すゐちゆう》に|没《ぼつ》せむとするに|到《いた》れり。|聖地《せいち》|聖城《せいじやう》の|神将《しんしやう》|神卒《しんそつ》は、|今《いま》さらのごとく|一斉《いつせい》に|天地《てんち》に|拝跪《はいき》して|救助《きうじよ》を|祈《いの》り|神言《かみごと》を|奏上《そうじやう》したれども、|天地《てんち》の|怒《いか》りは|容易《ようい》に|解《と》けず、|祝詞《のりと》を|奏上《そうじやう》すればするほど|風勢《ふうせい》は|刻々《こくこく》に|猛烈《まうれつ》の|度《ど》をくはへ、|雨《あめ》はいよいよ|繁《しげ》く|降《ふ》りきたり、|雷鳴《らいめい》は|天柱《てんちゆう》くじけ、|地維《ちゐ》|裂《さ》くるかと|疑《うたが》ふばかりの|大音響《だいおんきやう》すさまじく|轟《とどろ》きわたり、|電光《でんくわう》ひらめきわたりて|眼《め》を|開《ひら》くあたはず、|神人《かみがみ》らの|面色《めんしよく》は|土色《つちいろ》と|変《へん》じ、|息《いき》をこらして|地上《ちじやう》に|平伏《へいふく》するのみなりける。
(大正一〇・一二・八 旧一一・一〇 栗原七蔵録)
第四五章 |猿猴《ゑんこう》と|渋柿《しぶがき》〔一四五〕
|天使長《てんしちやう》|高照姫命《たかてるひめのみこと》|以下《いか》の|女天使《によてんし》は、|天地《てんち》の|激怒《げきど》に|狼狽《らうばい》し、ほとンど|為《な》すところを|知《し》らず、|部下《ぶか》の|神司《かみがみ》らは|残《のこ》らず|驚《おどろ》きのあまり|右往左往《うわうさわう》に|逃《に》げまはり、|或《ある》ひはつまづき|或《ある》ひは|失神《しつしん》し、【とかげ】の|欠伸《あくび》したるごとき|怪《あや》しき|顔《かほ》にて|呆《あき》れ|仰天《ぎやうてん》するもあり、|石亀《いしがめ》の|酒壺《さけつぼ》におちいりて|溺《おぼ》れし|時《とき》のごとき|顔付《かほつき》にて、じつに|見《み》るも|滑稽《こつけい》|至極《しごく》のいたりなりける。
|雷鳴《らいめい》は|容易《ようい》にやまざるのみならず、ますます|激烈《げきれつ》に|鳴《な》りとどろき、|東北《とうほく》の|強風《きやうふう》しきりに|吹《ふ》き|荒《すさ》み、|暗雲《あんうん》|天地《てんち》に|閉《とざ》してすさまじく、|常夜《とこよ》の|暗《やみ》のごとく|神人《しんじん》|戦慄《せんりつ》し、|禽獣虫族《きんじうちうぞく》にいたるまで、いづれも|地《ち》に|俯伏《ふふく》して|息《いき》をも|発《はつ》せざるの|惨状《さんじやう》を|現出《げんしゆつ》したるぞ|畏《かし》こけれ。また|四柱《よはしら》の|女天使《によてんし》は|自我心《じがしん》もつとも|強《つよ》くして、|神命《しんめい》さへも|抗拒《かうきよ》し|律法《りつぱう》を|破《やぶ》りたれば、|天地《てんち》の|大神《おほかみ》の|怒《いか》りに|触《ふ》れ、かかる|混乱《こんらん》|状態《じやうたい》に|陥《おちい》りたるぞ|是非《ぜひ》なき|次第《しだい》なりけり。
|待《ま》ちまうけたる|常世姫《とこよひめ》の|部下《ぶか》、|国照姫《くにてるひめ》、|杵築姫《きつきひめ》は、|平素《へいそ》の|願望《ぐわんばう》を|成就《じやうじゆ》するはこの|時《とき》を|逸《いつ》すべからずとし、|国治立命《くにはるたちのみこと》の|奥殿《おくでん》に|参向《さんかう》し、|高照姫命《たかてるひめのみこと》|以下《いか》の|女天使《によてんし》らの|神勅《しんちよく》を|無視《むし》し、|律法《りつぱう》に|違反《ゐはん》せる|罪科《ざいくわ》を|詳細《しやうさい》に|陳述《ちんじゆつ》し、すみやかに|四柱《よはしら》の|女天使《によてんし》の|職《しよく》を|免《めん》じ、|聖地《せいち》|聖城《せいじやう》を|追放《つゐはう》されたしと|進言《しんげん》したり。|神明《しんめい》に|依怙《えこ》なし、|大神《おほかみ》は|天地《てんち》の|律法《りつぱう》に|対《たい》し、|情《じやう》に|訴《うつた》へて|四天使《してんし》を|赦《ゆる》すわけにもゆかず、つひに|涙《なみだ》をのンで|四人《よにん》の|聖職《せいしよく》を|免《めん》じ、かつ|四人《よにん》に|対《たい》し、|改心《かいしん》のためとてエデンの|園《その》に|籠居《ろうきよ》を|厳命《げんめい》したまひける。
|四天使《してんし》は|神命《しんめい》と|律法《りつぱう》にたいしては|抗弁《かうべん》するの|余地《よち》なく、|唯々《ゐゐ》として|厳命《げんめい》を|拝受《はいじゆ》し、|命《めい》のまにまにエデンの|園《その》に|籠居《ろうきよ》の|憂目《うきめ》を|味《あぢ》はふの|止《や》むなきに|立《たち》いたりけり。
|四天使《してんし》の|追放《つゐはう》とともに、さしも|激烈《げきれつ》なりし|雷鳴《らいめい》も、|凄《すさま》じかりし|電火《でんくわ》も、|烈風強雨《れつぷうがうう》も、たちまち|鎮《をさ》まりて|清澄《せいちやう》なる|天地《てんち》と|化《くわ》し、|宇宙《うちう》は|夢《ゆめ》の|醒《さ》めたるごとき|光景《くわうけい》となりにける。
エデンの|園《その》は、|東《ひがし》|北《きた》|西《にし》の|三方《さんぱう》|青山《せいざん》をもつて|囲《かこ》まれ、|南方《なんぱう》のみ|広《ひろ》く|展開《てんかい》して|一条《いちでう》の|大川《おほかわ》|清《きよ》く|流《なが》れ、|自然《しぜん》の|城壁《じやうへき》を|造《つく》られあり。|四人《よにん》はこの|一定《いつてい》の|場所《ばしよ》に|押込《おしこ》められ、|草木《さうもく》の|実《み》を|食用《しよくよう》に|供《きよう》しつつ|楽《たのし》からぬ|光陰《くわういん》を|送《おく》りけり。
エデンの|園《その》は、かつて|邪神《じやしん》の|棟梁《とうりやう》|竹熊《たけくま》の|割拠《かつきよ》せし|所《ところ》にして、|鬼熊《おにくま》のために|占領《せんりやう》せられしが、|鬼熊《おにくま》、|鬼姫《おにひめ》の|没落後《ぼつらくご》まつたく|竜宮城《りゆうぐうじやう》の|管下《くわんか》になりゐたりしところなり。
|因《ちなみ》に、|高照姫命《たかてるひめのみこと》は|金勝要《きんかつかね》の|神《かみ》の【|和魂《にぎみたま》】であり、
|真澄姫命《ますみひめのみこと》は【|幸魂《さちみたま》】であり、
|言霊姫命《ことたまひめのみこと》は【|荒魂《あらみたま》】であり、
|竜世姫命《たつよひめのみこと》は【|奇魂《くしみたま》】である。
|今《いま》まで|四魂合一《しこんがふいつ》して、|神業《しんげふ》に|奉仕《ほうし》されつつありしが、|自我心《じがしん》の|強烈《きやうれつ》なりしために、|聖地《せいち》|聖城《せいじやう》を|追放《つゐはう》され、さびしき|配所《はいしよ》の|月《つき》に|心《こころ》を|慰《なぐさ》め、|時《とき》を|待《ま》ちたまふの|止《や》むをえざるに|立《たち》いたりしは|実《じつ》に|残念《ざんねん》のいたりなりける。これについても|慎《つつし》むべきは、|自我心《じがしん》と|驕慢心《けうまんしん》なれ。|神諭《しんゆ》の|各所《かくしよ》に、
『|金勝要之神《きんかつかねのかみ》もあまり|自我心《じがしん》が|強《つよ》かつたゆゑに、|狭《せま》い|処《ところ》へ|押込《おしこ》められなさつたぞよ』
とあるも、この|消息《せうそく》を|漏《も》らされたるなり。
しかるに|金勝要《きんかつかね》の|神《かみ》は、|一旦《いつたん》|大地《だいち》|神界《しんかい》の|根神《こんじん》とまでなりたまひしに、|自我心《じがしん》の|頑強《ぐわんきやう》なりしため、エデンの|園《その》に|押《おし》こめられ、なほも|自我《じが》を|頑強《ぐわんきやう》に|張《は》りしため、つひには|地底《ちてい》の|醜《しこ》めき|穢《きた》なき|国《くに》に|墜落《つゐらく》し、|三千年《さんぜんねん》の|辛苦《しんく》をなめたまふに|至《いた》りしなり。
|美山彦《みやまひこ》、|国照姫《くにてるひめ》の|一派《いつぱ》は、|時運《じうん》の|到来《たうらい》をよろこびつつ、かならずや|後継《あとつぎ》の|天使長《てんしちやう》は、|常世彦《とこよひこ》に|新任《しんにん》され、|自分《じぶん》らの|一派《いつぱ》は|天使《てんし》の|聖職《せいしよく》を|命《めい》ぜらるるものと|期待《きたい》し、|肩《かた》を|怒《いか》らし|鼻《はな》をうごめかし、|得意《とくい》|頂点《ちやうてん》に|達《たつ》し、その|吉報《きつぱう》を|今《いま》か、いまかと|指《ゆび》をり|数《かぞ》へて|楽《たの》しみ|待《ま》ちゐたりける。
しかるに|豈計《あにはか》らむや、|後継《あとつぎ》の|神司《かみ》は|常世彦《とこよひこ》|一派《いつぱ》に|下《くだ》らずして、|天上《てんじやう》より|降《くだ》りきたれる|金神《こんじん》の|首領《しゆりやう》なる|沢田彦命《さはだひこのみこと》の|一派《いつぱ》に|降《くだ》りける。|沢田彦命《さはだひこのみこと》は|一名《いちめい》|大将軍《だいしやうぐん》と|諸神将《しよしんしよう》より|賞揚《しやうやう》されつつありし|英雄神《えいゆうしん》におはせり。
|常世彦《とこよひこ》の|一派《いつぱ》は、|案《あん》に|相違《さうゐ》し、|猿猴《ゑんこう》が|渋柿《しぶがき》を|口《くち》|一杯《いつぱい》に|含《ふく》みしごとく、|頬《ほほ》をふくらせ|渋面《じふめん》を|造《つく》りながら、|悄然《せうぜん》として|引下《ひきさ》がりたるその|状《さま》、|見《み》るも|気《き》の|毒《どく》なる|次第《しだい》なりける。
ここに|国治立命《くにはるたちのみこと》は|沢田彦命《さはだひこのみこと》を|天使長《てんしちやう》に|任《にん》じ、|妻《つま》|沢田姫命《さはだひめのみこと》を|輔佐神司《ほさしん》となし、|真心彦《うらひこ》を|天使《てんし》に|任《にん》じ、|妻《つま》の|事足姫《ことたるひめ》をして|神務《しんむ》を|輔佐《ほさ》せしめたまひける。
また|沢田彦命《さはだひこのみこと》の|従臣《じゆうしん》に、|八雲彦《やくもひこ》、|八雲姫《やくもひめ》の|夫婦《ふうふ》ありしが|抜擢《ばつてき》されて|用《もち》ひられ、また|真心彦《うらひこ》には|国比古《くにひこ》、|国比女《くにひめ》の|夫婦《ふうふ》および|百照彦《ももてるひこ》を|従臣《じゆうしん》として|奉仕《ほうし》せしめられたり。
|百照彦《ももてるひこ》は、|真心彦《うらひこ》のもつとも|寵愛《ちようあい》|深《ふか》かりし|者《もの》にして、|真心彦《うらひこ》は|霜《しも》の|朝《あした》、|月《つき》の|夕《ゆふべ》に|無聊《むれう》を|晴《は》らすためと、|百照彦《ももてるひこ》を|居室《きよしつ》に|招《まね》き、|種々《しゆじゆ》の|面白《おもしろ》き|物語《ものがたり》を|聞《き》きて|心《こころ》の|労《らう》を|慰《なぐさ》めゐたり。|百照彦《ももてるひこ》は、いかにして|主《しゆ》の|心労《しんらう》を|慰安《ゐあん》せむかと|常《つね》に|焦慮《せうりよ》しゐたれども、|主《しゆ》の|機嫌《きげん》とるべき|物語《ものがたり》も、もはや|種絶《たねぎ》れとなりにける。
いかにせば|良《よ》からむやと|我《わ》が|居間《ゐま》に|端座《たんざ》し、|双手《もろて》を|組《く》みて|吐息《といき》をもらし、|思案《しあん》に|沈《しづ》みてゐたるを、|妻《つま》なる|春子姫《はるこひめ》は|夫《をつと》の|近《ちか》ごろの|様子《やうす》をうかがひ、|夫《をつと》には|何《なに》か|一大事《いちだいじ》の|出来《しゆつたい》し、それがために|朝夕《てうせき》|苦慮《くりよ》をめぐらしたまふならむかと、|心《こころ》も|心《こころ》ならず、|思《おも》ひきりて|夫《をつと》にむかひ|言《い》ふやう、
『|近《ちか》ごろの|夫《をつと》の|様子《やうす》を|伺《うかが》ひまつるに、よほど|御心痛《ごしんつう》のていに|見受《みう》けたてまつる。|天地《てんち》の|間《あひだ》にかけがへなき|水《みづ》ももらさぬ|夫婦《ふうふ》のあひだに、なにの|遠慮《ゑんりよ》|懸念《けねん》のあるべきぞ、|苦楽《くらく》を|共《とも》にすべき|偕老同穴《かいらうどうけつ》の|契《ちぎり》を|結《むす》びたる|妻《つま》に、|心《こころ》の|苦衷《くちゆう》を|隠《かく》したまふは、|実《じつ》に|冷酷《れいこく》|無慈悲《むじひ》の|御仕打《おんしう》ち、|妾《わらは》はこれを|恨《うら》みまつる』
と|涙《なみだ》|片手《かたて》に|口説《くど》き|立《た》つれば、|百照彦《ももてるひこ》はやうやく|口《くち》を|開《ひら》き、
『|吾《われ》は|主《しゆ》の|仁慈《じんじ》と|恩徳《おんとく》の|深《ふか》きに|昼夜《ちうや》|感謝《かんしや》の|念《ねん》を|断《た》たず。しかるに|主《しゆ》|真心彦《うらひこ》は|神務《しんむ》の|繁忙《はんばう》に|心身《しんしん》を|疲労《ひらう》し、|日《ひ》をおひて|身体《しんたい》やつれ|弱《よわ》らせたまふを|見《み》るにつけ、|従臣《じゆうしん》の|身《み》として、これを|対岸《たいがん》の|火災視《くわさいし》するあたはず、いかにもして|主《しゆ》の|御心《みこころ》を|慰《なぐさ》め|奉《まつ》らむと|日々《ひび》|御側《おそば》に|侍《じ》し、|神務《しんむ》の|閑暇《かんか》には|面白《おもしろ》き|四方山《よもやま》の|物語《ものがたり》を|御聞《おきき》に|達《たつ》し、|御心《みこころ》を|幾分《いくぶん》か|慰《なぐさ》め|奉《まつ》りきたりしに、もはや|吾《われ》はめづらしき|物語《ものがたり》もつきたれば、|今後《こんご》はいかにして|御心《みこころ》を|慰《なぐさ》め|奉《まつ》らむと、とつおいつ|思案《しあん》にくるるなり』
と|語《かた》りて|太《ふと》き|吐息《といき》をつく。|春子姫《はるこひめ》は|何事《なにごと》か|期《き》するところあるもののごとく、|夫《をつと》にむかひ|笑顔《ゑがほ》をたたへ|見《み》せゐたりけり。
(大正一〇・一二・九 旧一一・一一 加藤明子録)
第四六章 |探湯《くがたち》の|神事《しんじ》〔一四六〕
|百照彦《ももてるひこ》は|黙然《もくぜん》として|春子姫《はるこひめ》の|面色《おももち》を|打見《うちみ》やりつつありしが、たちまち|膝《ひざ》を|前《すす》めて、
『|汝《なんぢ》の|愉快《ゆくわい》にみちしその|容貌《ようばう》、たしかに|妙案《めうあん》あらむ、はやく|吾《わ》がためにその|妙案《めうあん》を|物語《ものがた》れよ』
と|顔色《かほいろ》に|光《ひかり》をあらはし|勢《いきほひ》よく|問《と》ひければ、|春子姫《はるこひめ》はこたへていふ、
『|妾《わらは》は|元来《ぐわんらい》|芸《げい》|無《な》し|猿《ざる》の|不束者《ふつつかもの》なれども、ここに|一《ひと》つの|隠《かく》れたる|芸能《げいのう》あり。そは|天人《てんにん》の|舞曲《ぶきよく》にして、|天上《てんじやう》において|諸神《しよしん》の|讃歎《さんたん》やまざりし、|妾《わらは》が|独特《どくとく》の|芸能《げいのう》なり。|妾《わらは》もし|夫《をつと》の|許《ゆる》しを|得《え》ば、|夫《をつと》とともに|真心彦《うらひこ》の|御前《みまへ》において|一曲《いつきよく》を|演《えん》じまつらば、かならず|歓《よろこ》ばせたまはむ』
と|得意《とくい》|満面《まんめん》にあふれて|勇《いさ》ましげに|言《い》ふ。|百照彦《ももてるひこ》はおほいに|驚《おどろ》きて、
『アヽ|汝《なんぢ》は|何時《いつ》のまにか、かかる|芸能《げいのう》を|覚《おぼ》えたるか』
と|尋《たづ》ぬれば、|春子姫《はるこひめ》は、
『|妾《わらは》は|貴下《きか》のもとに|娶《めと》らるるまで、|高天原《たかあまはら》の|神殿《しんでん》に|奉仕《ほうし》し、|日夜《にちや》|舞曲《ぶきよく》を|奏《そう》し、|神歌《しんか》をうたひ、|大神《おほかみ》の|神慮《しんりよ》を|慰《なぐさ》め|奉《たてまつ》る|聖職《せいしよく》に|奉仕《ほうし》せしが、その|技《ぎ》はつひに|神《しん》に|入《い》り、|妙《めう》に|達《たつ》して、|天上《てんじやう》における|第一位《だいいちゐ》の|芸能者《げいのうしや》として、もてはやされしが、このたび|地《ち》の|高天原《たかあまはら》の|改革《かいかく》につき、|貴下《きか》は|真心彦《うらひこ》とともに|赴任《ふにん》さるるに|際《さい》し、|大神《おほかみ》の|命《めい》によりて|貴下《きか》の|妻《つま》と|定《さだ》められたり。されど、|貴下《きか》は|大神《おほかみ》の|御心《みこころ》のあるところを|毫《がう》も|知《し》りたまはず、ただ|単《たん》に|自《みづか》ら|選《えら》びて|妾《わらは》を|妻《つま》に|娶《めと》りしごとく|思召《おぼしめ》したまへども、|夫婦《ふうふ》の|縁《えん》は|決《けつ》して|独自《どくじ》の|意志《いし》のごとくになるべきものに|非《あら》ず。いづれも|大神《おほかみ》の|御許《おゆる》しありての|上《うへ》の|神議《かむはか》りのことなれば、|夫婦《ふうふ》の|道《みち》は|決《けつ》して|軽忽《けいこつ》に|附《ふ》すべきものにあらず。いづれも|皆《みな》|夫婦《ふうふ》たるべき|霊魂《みたま》の|因縁《いんねん》ありて、|神界《しんかい》より|授《さづ》けらるるものなり』
と|天地《てんち》の|因果《いんぐわ》を|説《と》き|示《しめ》し、|夫婦《ふうふ》の|道《みち》は|神聖《しんせい》にして|犯《をか》すべからざる|理由《りいう》を|諄々《じゆんじゆん》として|説《と》き|立《た》たり。
|百照彦《ももてるひこ》は|初《はじ》めて|妻《つま》の|素性《すじやう》を|知《し》り、かつ|神律《しんりつ》の|重《おも》ンずべきを|深《ふか》く|感得《かんとく》したりしが、|百照彦《ももてるひこ》はさらに|妻《つま》にむかひ、
『|汝《なんぢ》はさほどの|芸能《げいのう》を|有《いう》しながら、|現在《げんざい》|夫《をつと》たる|吾《われ》に|今日《こんにち》まで|何故《なにゆゑ》に|告《つ》げざりしや』
と|怪《あや》しみ|問《と》ふを、|春子姫《はるこひめ》はこたへて、
『|妾《わらは》は|貴下《きか》の|妻《つま》となりし|上《うへ》は、|妻《つま》たるの|務《つと》めを|全《まつた》うせば|足《た》る。いたづらに|芸能《げいのう》に|驕《おご》り|慢心《まんしん》に|長《ちやう》じ、つひには|夫《をつと》を|眼下《がんか》に|見下《みくだ》すごときことありては、|天地《てんち》の|律法《りつぱう》を|破《やぶ》る|大罪《だいざい》なれば、|夢《ゆめ》にも|芸能《げいのう》を|鼻《はな》にかけ|不貞《ふてい》の|妻《つま》と|笑《わら》はるるなかれとの、|父母《ふぼ》の|固《かた》き|教訓《けうくん》なれば、|今日《こんにち》まで|何事《なにごと》もつつしみて、|一度《いちど》も|口外《こうぐわい》せざりし|次第《しだい》なれども、|今日《こんにち》|夫《をつと》の|辛労《しんらう》を|傍観《ばうかん》するに|忍《しの》びず、この|時《とき》こそは|妾《わらは》が|得意《とくい》の|芸能《げいのう》を|輝《かがや》かし、|夫《をつと》を|輔佐《ほさ》し|奉《まつ》らむと|決意《けつい》したる|次第《しだい》なり。|諺《ことわざ》にも|芸《げい》は|身《み》を|助《たす》くるとかや、|妾《わらは》の|身《み》は|何《いづ》れになるも|問《と》ふところにあらざれども、|現在《げんざい》の|大切《たいせつ》なる|夫《をつと》の|神業《しんげふ》を|助《たす》け、なほ|殊恩《しゆおん》ある|主《しゆ》の|御神慮《ごしんりよ》を|慰《なぐさ》め|奉《まつ》ることを|得《え》ば、|妾《わらは》が|鍛錬《たんれん》したる|芸能《げいのう》の|功《こう》も、はじめて|光《ひかり》を|発《はつ》するものなれば、|女性《ぢよせい》の|差出口《さしでぐち》、|夫《をつと》にたいして|僣越至極《せんゑつしごく》の|所為《しよゐ》とは|存《ぞん》じながら、|夫《をつと》を|思《おも》ふ|一念《いちねん》にかられて、はづかしながら|妾《わらは》の|隠《かく》し|芸《げい》を|知《し》れることをふと|申上《まをしあ》げたるなり』
と|夫《をつと》の|前《まへ》に|両手《りやうて》をつき、|敬虔《けいけん》の|態度《たいど》をあらはし|物語《ものがた》りたり。
ここに|百照彦《ももてるひこ》は|妻《つま》を|伴《とも》なひ、|主《しゆ》|真心彦《うらひこ》の|館《やかた》に|参向《さんかう》し、|春子姫《はるこひめ》の|芸能《げいのう》のすぐれたることを|進言《しんげん》したりけるに、|命《みこと》はたちまち|顔色《がんしよく》をやはらげ、さも|愉快気《ゆくわいげ》に、
『|天地《てんち》|神明《しんめい》の|神慮《しんりよ》を|慰《なぐさ》め、|万物《ばんぶつ》を|歓《よろこ》ばしむるの|道《みち》は|歌舞音楽《かぶおんがく》に|如《し》くものはなし。|幸《さいは》ひにも|春子姫《はるこひめ》|芸術《げいじゆつ》に|妙《めう》をえたるは|何《なに》よりの|重宝《ちようほう》なり。|一度《いちど》|吾《わ》がために|一曲《いつきよく》を|演《えん》ぜよ』
と|言葉《ことば》もいそいそと|所望《しよもう》したりける。
|百照彦《ももてるひこ》は|主《しゆ》の|愉快《ゆくわい》さうなる|顔色《かほいろ》を|見《み》て、やつと|安堵《あんど》せしものの|如《ごと》く|胸《むね》をなでて|笑声《せうせい》を|作《つく》りける。
|春子姫《はるこひめ》は、|会心《くわいしん》の|笑《ゑ》みをもらしながら、|舞衣《ぶい》に|着替《きか》へ|長袖《ちやうしう》しとやかに|舞《ま》ひはじめしが、|実《じつ》に|春子姫《はるこひめ》の|言《い》へるごとく、その|技《ぎ》、|妙《めう》に|達《たつ》し|神《しん》に|入《い》り、|天地《てんち》|神明《しんめい》の|嘉賞《かしやう》したまふも|当然《たうぜん》なるべしと、|真心彦《うらひこ》をはじめ|百照彦《ももてるひこ》もただ|感《かん》にうたれて|恍惚《くわうこつ》たる|有様《ありさま》なりける。その|妙技《めうぎ》の|非凡《ひぼん》なるを|伝《つた》へ|聞《き》きて、|大将軍《だいしやうぐん》|沢田彦命《さはだひこのみこと》まで|臨席《りんせき》せられ、|真心彦《うらひこ》にむかひて、
『|貴下《きか》は|実《じつ》に|良《よ》き|従臣《じゆうしん》を|持《も》たせらる。|吾《われ》は|羨望《せんばう》の|念《ねん》にたへず』
と|言《い》ひながら、その|妙技《めうぎ》に|首《くび》を|傾《かたむ》けて|観覧《くわんらん》したまひける。|百照彦《ももてるひこ》、|春子姫《はるこひめ》はおほいに|面目《めんぼく》を|施《ほどこ》し、|主《しゆ》の|賞詞《しやうし》をうれしく|拝受《はいじゆ》して|厚《あつ》く|礼《れい》を|述《の》べ、|吾《わ》が|館《やかた》に|帰《かへ》りただちに|神前《しんぜん》に|神酒《みき》を|奉献《ほうけん》して、|感謝《かんしや》の|祝詞《のりと》を|奏上《そうじやう》したりける。
それより|天使《てんし》|真心彦《うらひこ》は、|春子姫《はるこひめ》の|舞曲《ぶきよく》の|優雅《いうが》なると、その|神格《しんかく》の|高尚《かうしやう》なるとに|心《こころ》をとろかし、|一《いち》にも|春子姫《はるこひめ》の|舞曲《ぶきよく》、|二《に》にも|姫《ひめ》の|音調《おんてう》と、|事《こと》あるごとに|二人《ふたり》を|招《まね》き|酒宴《しゆえん》をもよほし、つひには|神務《しんむ》を|捨《す》てて|絲竹管絃《しちくくわんげん》の|道《みち》にのみ|耽溺《たんでき》し、|真心彦《うらひこ》と|春子姫《はるこひめ》の|間《あひだ》に|面白《おもしろ》からぬ|風評《ふうへう》さへ|立《た》つにいたりける。
|真心彦《うらひこ》は|元来《ぐわんらい》|仁慈《じんじ》の|念《ねん》ふかく、かつ|多情多感《たじやうたかん》の|神司《かみ》なりけり。それゆゑ|外部《ぐわいぶ》の|風評《ふうへう》を|耳《みみ》にするや、|春子姫《はるこひめ》にたいする|同情《どうじやう》の|念《ねん》は|日《ひ》をおうて|昂《たか》まり、|悪《あ》しき|風評《ふうへう》はますます|油《あぶら》の|浸潤《しんじゆん》するがごとき|勢《いきほひ》にて|内外《ないぐわい》に|拡《ひろ》まりにけり。
このことたちまち|国治立命《くにはるたちのみこと》の|耳《みみ》に|入《い》りたるより、|命《みこと》はただちに|真心彦《うらひこ》を|召《め》しだして|厳《きび》しく|不義《ふぎ》の|行為《かうゐ》の|有無《うむ》を|詰問《きつもん》されたりしが、|真心彦《うらひこ》は|首《くび》を|左右《さいう》にふり、
『|吾《われ》いやしくも|聖地《せいち》の|重神司《ぢゆうしん》として、|天使《てんし》の|職《しよく》を|忝《かたじけ》なうし、|天地《てんち》の|律法《りつぱう》を|宣伝《せんでん》すべき|聖職《せいしよく》にあり。いかでか|斯《か》かる|忌《いま》はしき|行為《かうゐ》を|敢《あへ》てせむや。|天津神《あまつかみ》|国津神《くにつかみ》も、|吾《わ》が|心身《しんしん》の|潔白《けつぱく》を|照鑑《せうかん》ありて、わが|着《き》せられし|濡衣《ぬれぎぬ》を|干《ほ》させたまへ』
と|一心不乱《いつしんふらん》に|祈願《きぐわん》を|凝《こ》らしたり。そのとき|春子姫《はるこひめ》は|突然《とつぜん》|身体《しんたい》|激動《げきどう》して|憑神《ひようしん》|状態《じやうたい》となりぬ。これは|稚桜姫命《わかざくらひめのみこと》の|降臨《かうりん》なりける。|命《みこと》は|教《をし》へ|諭《さと》していはく、
『よろしく|探湯《くがたち》の|神事《しんじ》をおこなひ、その|虚実《きよじつ》を|試《こころ》みよ。|神界《しんかい》にてはこの|正邪《せいじや》と|虚実《きよじつ》は|判明《はんめい》せり。されど|地上《ちじやう》の|諸神人《しよしん》は、|疑惑《ぎわく》の|念《ねん》|深《ふか》くして|心魂《しんこん》|濁《にご》りをれば、|容易《ようい》に|疑《うたが》ひを|晴《は》らすの|道《みち》なし。ゆゑに|探湯《くがたち》の|神事《しんじ》を|行《おこ》なひ、もつて|身《み》の|疑《うたが》ひをはらすべし。|正《ただ》しきものは、|神徳《しんとく》を|与《あた》へてこれを|保護《ほご》すべければ、いかなる|熱湯《ねつたう》の|中《なか》に|手《て》を|投《とう》ずるとも、|少《すこ》しの|火傷《やけど》をもなさざるべし。これに|反《はん》して、|汚《けが》れたる|行為《かうゐ》ありし|時《とき》は、たちまちにして|手《て》に|大火傷《おほやけど》をなし、|汝《なんぢ》の|手《て》はただちに|破《やぶ》れただれて|大苦痛《だいくつう》を|覚《おぼ》ゆべし』
と|宣示《せんじ》されたり。
|真心彦《うらひこ》は、|喜《よろこ》びて|頓首《とんしゆ》したまひ、ただちに|探湯《くがたち》の|神事《しんじ》に|取《とり》かかりけり。|八百万《やほよろづ》の|神人《かみがみ》はその|虚実《きよじつ》を|試《ため》すべく|探湯《くがたち》の|斎場《さいぢやう》に|垣《かき》をつくり|片唾《かたづ》をのンで|見《み》ゐたりしが、|沸《わ》きかへる|熱湯《ねつたう》の|中《なか》に、|怖《お》ぢず|臆《おく》せず、|真心彦《うらひこ》は|天津神《あまつかみ》|国津神《くにつかみ》にむかつて|祈願《きぐわん》し、|泰然自若《たいぜんじじやく》として|手《て》を|浸《ひた》し|入《い》れたり。つづいて|春子姫《はるこひめ》も|同《おな》じく|手《て》を|浸《ひた》し、|久《ひさ》しきにわたるといへども、|二人《ふたり》ともに|何《なん》の|火傷《やけど》もなく、ここに|二人《ふたり》の|疑《うたが》ひはまつたく|払拭《ふつしき》されにける。|二人《ふたり》は|天地《てんち》にむかいて|神恩《しんおん》の|有難《ありがた》きを|謝《しや》し、|慟哭《どうこく》やや|久《ひさ》しうしぬ。|八百万《やほよろづ》の|神人《かみがみ》は|一斉《いつせい》に|手《て》をうつて、|二人《ふたり》の|潔白《けつぱく》を|賞讃《しやうさん》したりける。|国治立命《くにはるたちのみこと》は、|二人《ふたり》の|清浄《せいじやう》|無垢《むく》の|心性《しんせい》を|賞《しやう》し、かつ|種々《しゆじゆ》のありがたき|言葉《ことば》を|賜《たま》ひ、かつ|今後《こんご》は|神祭《しんさい》のほか|断《だん》じて|舞曲《ぶきよく》に|耽溺《たんでき》し、|絲竹管絃《しちくくわんげん》にのみ|心《こころ》を|奪《うば》はれ、|神務《しんむ》を|忘却《ばうきやく》するごとき|不心得《ふこころえ》あるべからず、と|厳《きび》しく|教《をし》へ|諭《さと》したまひ、|悠然《いうぜん》として|奥殿《おくでん》に|入《い》らせたまひける。
|真心彦《うらひこ》は|大《おほ》いに|愧《は》ぢ、
『|我《われ》は|大《おほ》いに|過《あやま》てり。|我《わ》が|悪《あ》しき|風評《ふうへう》の|高《たか》まりたるは、わが|不徳《ふとく》の|致《いた》すところなり。|聖地《せいち》の|重臣《ぢうしん》として、いかで|他人《たにん》に|臨《のぞ》み|得《え》むや』
と|直《ただ》ちに|国治立命《くにはるたちのみこと》の|御前《みまへ》にいたり、|天使《てんし》の|聖職《せいしよく》を|弊履《へいり》を|捨《す》つるがごとく|辞《じ》したりにけり。
(大正一〇・一二・九 旧一一・一一 外山豊二録)
第四七章 |夫婦《ふうふ》の|大道《だいだう》〔一四七〕
|真心彦《うらひこ》は|職《しよく》を|辞《じ》し、|固《かた》く|門戸《もんこ》を|閉《と》ざして|他人《たにん》との|接見《せつけん》を|断《た》ち、|謹慎《きんしん》の|意《い》を|表《へう》しつつありしが、つひにはその|精神《せいしん》に|異状《いじやう》を|呈《てい》し、|一間《ひとま》に|入《い》りて、ひそかに|短刀《たんたう》を|抜《ぬ》きはなち、
『|惟神《かむながら》|霊《たま》|幸倍《ちはへ》|坐世《ませ》』
と|神語《しんご》を|唱《とな》へ|自刃《じじん》して|帰幽《きいう》したりける。|妻《つま》|事足姫《ことたるひめ》をはじめ、|長子《ちやうし》|広宗彦《ひろむねひこ》、|次子《じし》|行成彦《ゆきなりひこ》の|悲歎《ひたん》と|驚《おどろ》きはたとふるにものなく、|七日七夜《なぬかななや》は|蚊《か》の|泣《な》くごとくなりけり。|八百万《やほよろづ》の|神人《かみがみ》も|涙《なみだ》の|雨《あめ》に|袖《そで》をしぼらぬはなく、|同情《どうじやう》の|念《ねん》はことごとく|清廉潔白《せいれんけつぱく》なる|真心彦《うらひこ》の|御魂《みたま》に|集《あつ》まりぬ。|八百万《やほよろづ》の|神人《かみがみ》は|命《みこと》の|生前《せいぜん》の|勲功《くんこう》を|賞揚《しやうやう》し、|長子《ちやうし》|広宗彦《ひろむねひこ》をして、|父《ちち》の|後《あと》を|襲《つ》ぐべく|神司《かみがみ》らは|一致《いつち》して、|国治立命《くにはるたちのみこと》に|願《ねが》ひ|出《い》でたり。
ここに|広宗彦《ひろむねひこ》は|仁慈《じんじ》をもつて|下万民《しもばんみん》に|臨《のぞ》みければ、|神界《しんかい》|現界《げんかい》は|実《じつ》に|無事《ぶじ》|泰平《たいへい》に|治《をさ》まり、したがつて|国治立命《くにはるたちのみこと》の|神世《かみよ》を|謳歌《おうか》する|声《こゑ》は|六合《りくがう》に|轟《とどろ》きわたりたり。|国治立命《くにはるたちのみこと》をはじめ、|地《ち》の|高天原《たかあまはら》の|神人《かみがみ》の|威勢《ゐせい》は|旭日昇天《きよくじつしようてん》のごとく|隆々《りうりう》として|四海《しかい》を|圧《あつ》するにいたり、|開闢《かいびやく》|以来《いらい》かくのごとくよく|治《をさ》まりし|神世《しんせい》は|空前絶後《くうぜんぜつご》の|聖代《せいだい》と|称《しよう》せられける。|要《えう》するに、|清廉《せいれん》にして|無慾《むよく》、かつ|仁慈《じんじ》|深《ふか》き|真心彦《うらひこ》の|血《ち》を|享《う》け|継《つ》ぎたる|広宗彦《ひろむねひこ》の|経綸《けいりん》よろしきを|得《え》たる|結果《けつくわ》なるべし。
ここに|真心彦《うらひこ》の|未亡人《みばうじん》なる|事足姫《ことたるひめ》は、|夫《をつと》の|心《こころ》を|察《さつ》せず、|数年《すうねん》を|経《へ》てつひに|夫《をつと》の|恩徳《おんとく》を|忘《わす》れ、|春永彦《はるながひこ》といふ|後《のち》の|夫《をつと》をもち、|夫婦《ふうふ》のあひだに|桃上彦《ももがみひこ》といふ|一柱《ひとはしら》の|男子《だんし》を|生《う》みけり。|桃上彦《ももがみひこ》はまた|仁慈《じんじ》ふかく|下《しも》の|神人《かみがみ》をあはれみ、かつ|上《かみ》にたいして|忠実《ちうじつ》|至誠《しせい》の|実《じつ》をあげ、|衆《しゆう》の|評判《ひやうばん》も|非常《ひじやう》に|好《よ》かりけるより、|兄《あに》の|広宗彦《ひろむねひこ》はおほいに|歓《よろこ》び、|自分《じぶん》の|副役《ふくやく》として|神務《しんむ》を|輔佐《ほさ》せしめたり。
|然《しか》るに|星《ほし》|移《うつ》り|月《つき》を|閲《けみ》するにしたがひ、|最初《さいしよ》きはめて|善良《ぜんりやう》なる|性質《せいしつ》の|桃上彦《ももがみひこ》も、つひに|常世国《とこよのくに》の|魔神《ましん》にその|心魂《しんこん》を|誑惑《けうわく》せられ、|漸次《ぜんじ》|悪化《あくくわ》|邪遷《じやせん》して|体主霊従《たいしゆれいじゆう》の|行動《かうどう》をなし、|上位《じやうゐ》の|命《めい》を|奉《ほう》ぜず、|他神人《たしん》の|迷惑《めいわく》も|心頭《しんとう》におかず、|自己《じこ》|本位《ほんゐ》を|旨《むね》とし、|驕慢心《けうまんしん》|日々《ひび》に|増長《ぞうちよう》して、つひには|兄《あに》の|地位《ちゐ》を|奪《うば》ひ、みづから|天使《てんし》の|位置《ゐち》に|昇《のぼ》り、|神政《しんせい》の|全権《ぜんけん》を|掌握《しやうあく》せむと|計《はか》り、ひたすら|下万民《しもばんみん》の|望《のぞ》みを|一身《いつしん》に|集中《しふちう》することのみに|砕心《さいしん》|焦慮《せうりよ》したりけり。それゆゑ|下万民《しもばんみん》の|桃上彦《ももがみひこ》にたいする|勢望《せいばう》は|一時《いちじ》は|非常《ひじやう》なるものにてありき。つひに|桃上彦《ももがみひこ》は|兄《あに》を|排斥《はいせき》し、みづからその|地位《ちゐ》につき|仁政《じんせい》を|世界《せかい》に|布《し》き、|大《おほ》いに|神政《しんせい》のために|心身《しんしん》を|傾注《けいちう》しける。|下々《しもじも》の|神人《かみがみ》も|最初《さいしよ》はその|仁政《じんせい》を|口《くち》をきはめて|謳歌《おうか》しつつありしが、つひにはその|恩《おん》になれて|余《あま》りに|有《あ》りがたく|思《おも》はざるにいたり、|放縦《はうじう》|安逸《あんいつ》の|生活《せいくわつ》をのみ|企《くはだ》て、|天地《てんち》の|律法《りつぱう》をもつて|無用《むよう》の|長物《ちやうぶつ》と|貶《へん》するにいたり、|聖地《せいち》の|重《おも》なる|神司《かみ》も|侍者《じしや》も|漸次《ぜんじ》|聖地《せいち》を|離《はな》れて|四方《しはう》に|各自《かくじ》|思《おも》ひおもひの|方面《はうめん》に|散乱《さんらん》したり。|而《しか》して|桃上彦《ももがみひこ》にむかいて|忠告《ちゆうこく》を|与《あた》ふる|神人《かみ》あらば|怒《いか》つてこれを|排除《はいじよ》し、かつ|罪《つみ》におとしいれ、|乱暴《らんばう》|狼藉《らうぜき》いたらざるなく、|瞬《またた》くうちに|聖地《せいち》は|冬《ふゆ》の|木草《きくさ》のごとき|荒涼《くわうりやう》たる|状況《じやうきやう》となり|了《をは》りける。これぞ|常世彦《とこよひこ》、|常世姫《とこよひめ》があまたの|邪神《じやしん》を|使役《しえき》して、|神政《しんせい》を|紊乱《ぶんらん》せしめ、|国治立命《くにはるたちのみこと》を|漸次《ぜんじ》|排除《はいじよ》する|前提《ぜんてい》として、|大樹《だいじゆ》を|伐《き》らむとせば|先《ま》づその|枝《えだ》を|伐《き》るの|戦法《せんぱふ》を|用《もち》ゐたるゆゑなり。|国治立命《くにはるたちのみこと》は|枝葉《えだは》をきられた|大樹《だいじゆ》のごとく、|手足《てあし》をもぎとられし|蟹《かに》のごとく、|二進《につち》も|三進《さつち》もならざるやうに|仕《し》むけられたまひて、|神《かみ》の|権威《けんゐ》はまつたく|地《ち》に|落《お》ちにける。これぞ|体主霊従《あく》の|大原因《だいげんいん》となり、|天地《てんち》の|律法《りつぱう》は|根底《こんてい》より|破壊《はくわい》さるるの|状態《じやうたい》を|馴致《じゆんち》したるなりき。
|事足姫《ことたるひめ》は、|空閨《くうけい》の|淋《さび》しさに|忍《しの》びきれず、|婦女《ふぢよ》のもつとも|大切《たいせつ》なる|貞節《ていせつ》を|破《やぶ》り、|後《のち》の|夫《をつと》をもちて|夫《をつと》の|霊《れい》にたいし|無礼《ぶれい》を|加《くは》へたるごとき、|体主霊従《たいしゆれいじゆう》の|精神《せいしん》より|生《うま》れいでたる|桃上彦《ももがみひこ》なりければ、|最初《さいしよ》の|間《あひだ》はきはめて|身《み》、|魂《たま》ともに|円満清朗《ゑんまんせいろう》にして、|申分《まをしぶん》なき|至誠《しせい》の|神人《かみ》なりしかども、|母《はは》の|天則《てんそく》を|破《やぶ》りたる、|不貞《ふてい》の|水火《いき》の|凝結《ぎようけつ》したる|胎内《たいない》を|借《か》りて|出生《しゆつしやう》したる|結果《けつくわ》、つひにはその|本性《ほんしやう》あらはれ、|放縦《はうじう》|驕慢《けうまん》の|精神《せいしん》|萠芽《はうが》せむとする、その|間隙《かんげき》に|乗《じやう》じて|邪神《じやしん》の|容器《ようき》と|不知不識《しらずしらず》のあひだに|化《な》りかはり、つひには|分外《ぶんぐわい》の|大野心《だいやしん》をおこし、あたら|大神《おほかみ》の|苦辛《くしん》して|修理固成《しうりこせい》されたる|天地《てんち》の|大経綸《だいけいりん》を、|根底《こんてい》より|破滅《はめつ》|顛覆《てんぷく》せしむるにいたりける。|神諭《しんゆ》に、
『|世《よ》の|乱《みだ》れる|原因《げんいん》は、|夫婦《ふうふ》の|道《みち》からであるぞよ』
と|示《しめ》されあるごとく、|夫婦《ふうふ》の|道《みち》ほど|大切《たいせつ》なもの|又《また》と|外《ほか》になかるべし。|国家《こくか》を|亡《ほろ》ぼすも、|一家《いつか》を|破《やぶ》るも、|一身《いつしん》を|害《そこな》ふも、みな|天地《てんち》の|律法《りつぱう》に|定《さだ》められたる|夫婦《ふうふ》の|大道《だいだう》を|踏《ふ》みあやまるよりきたるところの|災《わざはひ》なり。|神界《しんかい》の|神々《かみがみ》は|申《まを》すもさらなり、|地上《ちじやう》の|人類《じんるゐ》は|神《かみ》に|次《つ》ぐところの|結構《けつこう》なる|身魂《みたま》なるを|知《し》りて、|第一《だいいち》に|夫婦《ふうふ》の|関係《くわんけい》に|注意《ちうい》すべきものなり。
かくのごとく|事足姫《ことたるひめ》の|脱線的《だつせんてき》|不倫《ふりん》の|行為《かうゐ》より、ひいてはその|児《こ》の|精神《せいしん》に|大《だい》なる|影響《えいきやう》をおよぼし、つひには|神界《しんかい》も|混乱《こんらん》|紛糾《ふんきう》の|極《きよく》に|達《たつ》し、|現界《げんかい》の|人類《じんるゐ》にいたるまで、この|罪悪《ざいあく》に|感染《かんせん》し、|現代《げんだい》のごとく|邪悪《じやあく》|無道《ぶだう》の|社会《しやくわい》を|現出《げんしゆつ》するに|立《たち》いたりたるなり。
これを|思《おも》へば|神人《しんじん》ともに、|体主霊従《たいしゆれいじゆう》の|心行《しんかう》を|改《あらた》め、|根本《こんぽん》より|身魂《みたま》の|立替立直《たてかへたてなほ》しに|全力《ぜんりよく》をささげ、|霊主体従《れいしゆたいじゆう》の|天授《てんじゆ》の|大精神《だいせいしん》に|立《たち》かへり、|神《かみ》の|御子《みこ》たるの|天職《てんしよく》を|奉仕《ほうし》し、|毫末《がうまつ》といへども|体主霊従《たいしゆれいじゆう》に|堕《だ》するがごときことなきやう、たがひに|慎《つつし》み、|天地《てんち》の|律法《りつぱう》を|堅《かた》く|守《まも》らざるべからざるを|強《つよ》く|深《ふか》く|感《かん》ずる|次第《しだい》なり。
|天地《てんち》の|律法《りつぱう》を|破《やぶ》りて、|自由《じいう》|行動《かうどう》を|取《と》りたる|二神人《にしん》の|子《こ》と|生《うま》れたる|桃上彦《ももがみひこ》が、|大《だい》なる|野心《やしん》を|起《おこ》しその|目的《もくてき》を|達《たつ》せむため、|下《しも》の|神人《かみがみ》にたいして|人望《じんばう》を|買《か》はむとし、|八方《はつぱう》|美人《びじん》|主義《しゆぎ》を|発揮《はつき》したるために、かへつて|下々《しもじも》の|神人《かみがみ》より|軽侮《けいぶ》せられ、|愚弄《ぐろう》され、|綱紀《かうき》は|弛緩《ちくわん》し、|上《かみ》の|命《めい》ずるところ|下《しも》これを|用《もち》ゐざる|不規則《ふきそく》きはまる|社会《しやくわい》を|現出《げんしゆつ》せしめたるなり。|神界《しんかい》にては|桃上彦《ももがみひこ》を|大曲津神《おほまがつかみ》と|呼《よ》ばるるにいたりける。|神諭《しんゆ》に、
『|慢神《まんしん》と|誤解《ごかい》と|夫婦《ふうふ》の|道《みち》と|慾《よく》ほど|恐《こは》いものは|無《な》い』
と|示《しめ》されたるとほり、|桃上彦《ももがみひこ》の|失敗《しつぱい》を|処世上《しよせいじやう》の|手本《てほん》として、|神人《しんじん》ともに|日々《にちにち》の|行動《かうどう》を|慎《つつし》み、|天授《てんじゆ》の|精魂《せいこん》を|汚《けが》さざるやう|努力《どりよく》せざるべからず。また|桃上彦《ももがみひこ》は|八十猛彦《やそたけひこ》、|百猛彦《ももたけひこ》を|殊《こと》のほか|寵愛《ちようあい》し、|両人《りやうにん》を|頤使《いし》してますます|野心《やしん》をたくましうし、|神政《しんせい》をもち|荒《あら》したる|結果《けつくわ》は、|現界《げんかい》にもその|影響《えいきやう》|波及《はきふ》し、|持《も》ちも|降《おろ》しもならぬ|澆季《げうき》の|世《よ》を|招来《せうらい》したりしなり。
(大正一〇・一二・九 旧一一・一一 谷村真友録)
(第四四章〜第四七章 昭和一〇・一・一八 於宮崎市神田橋旅館 王仁校正)
第四八章 |常夜《とこよ》の|闇《やみ》〔一四八〕
|真心彦《うらひこ》の|帰幽《きいう》されし|後《のち》は、その|従者《じゆうしや》たる|国比古《くにひこ》の|行動《かうどう》|一変《いつぺん》し、|広宗彦《ひろむねひこ》の|命《めい》を|奉《ほう》ぜず、|利己的《りこてき》に|何事《なにごと》も|振舞《ふるま》ひ、いたづらに|権力《けんりよく》をふるひ、|事足姫《ことたるひめ》を|軽蔑《けいべつ》し、|自由《じいう》|行動《かうどう》をとりて|神人《かみがみ》を|籠絡《ろうらく》し、つひに|神界《しんかい》の|混乱《こんらん》を|来《き》たさしめたるも、|国比古《くにひこ》の|行為《かうゐ》の|不正《ふせい》なるに|基因《きいん》するもの|多大《ただい》なりけり。
この|国比古《くにひこ》と|国比女《くにひめ》|夫婦《ふうふ》のあひだに|真道知彦《まみちひこ》、|大森雪成彦《おほもりゆきなりひこ》、|梅ケ香彦《うめがかひこ》の|三柱《みはしら》の|男子《だんし》|生《うま》れたり。この|三人《さんにん》は、|両親《りやうしん》に|似合《にあは》ぬきはめて|厳正《げんせい》にして、|智仁勇《ちじんゆう》|兼備《けんび》|至誠《しせい》の|神人《しんじん》なりける。|三人《さんにん》は、|父母《ふぼ》の|不忠不義《ふちゆうふぎ》の|行動《かうどう》を|改《あらた》めしめむと、|交《かは》るがはる|涙《なみだ》をふるいて|道法礼節《だうはふれいせつ》を|説《と》き、|幾度《いくど》となく|諫言《かんげん》したれど、|父母《ふぼ》は|吾《わ》が|子《こ》の|諫言《かんげん》には|少《すこ》しも|耳《みみ》を|傾《かたむ》けむとはなさざりける。
|三人《さんにん》は|是非《ぜひ》なく、|父母《ふぼ》の|発菩提心《ほつぼだいしん》を|待《ま》つのやむを|得《え》ざるを|覚《さと》り、|五六七《みろく》|神政《しんせい》の|時《とき》まで|善道《ぜんだう》を|修《おさ》め、|天則《てんそく》を|遵守《じゆんしゆ》し、|二度目《にどめ》の|岩戸開《いはとびら》きの|神業《しんげふ》に|奉仕《ほうし》し、|抜群《ばつぐん》の|功名《こうみやう》|手柄《てがら》を|顕《あら》はし、|国治立命《くにはるたちのみこと》の|大神業《だいしんげふ》を|輔翼《ほよく》し、もつて|父母《ふぼ》の|罪《つみ》を|償《つぐな》はむと、|古《ふる》き|神代《かみよ》の|昔《むかし》より|現今《げんこん》にいたるまで、その|神魂《しんこん》は|生《い》きかはり|死《し》にかはり、|神界《しんかい》において|神政《しんせい》|成就《じやうじゆ》のため|一生懸命《いつしやうけんめい》の|大活動《だいくわつどう》を|今《いま》につづけゐるといふ。
|広宗彦《ひろむねひこ》は|桃上彦《ももがみひこ》の|傍若無人《ばうじやくぶじん》の|行動《かうどう》に|妨《さまた》げられて、|非常《ひじやう》に|困難《こんなん》の|地位《ちゐ》にたち、|筆紙口舌《ひつしこうぜつ》のつくしがたき|艱難《かんなん》|辛苦《しんく》を|嘗《な》めたりにけるが、|父《ちち》の|真心彦《うらひこ》は、|清廉潔白《せいれんけつぱく》の|心《こころ》より|悪評《あくひやう》を|世間《せけん》にたてられ|憤慨《ふんがい》の|結果《けつくわ》|職《しよく》を|退《しりぞ》き、つひには|帰幽《きいう》したるより、|父《ちち》の|光《ひかり》を|現《あら》はさむため|善道《ぜんだう》をおこなひ|律法《りつぱう》を|守《まも》り、|至誠《しせい》の|結晶力《けつしやうりよく》をもつて|天地《てんち》|神明《しんめい》の|稜威《みいづ》を|宇内《うだい》に|輝《かがや》かし、|森羅万象《しんらばんしやう》をしておのおのその|安住《あんぢう》の|所《ところ》を|得《え》せしめ、|父母《ふぼ》の|失敗《しつぱい》と|罪科《めぐり》をつぐなひ、その|神霊《しんれい》を|助《たす》けむとして、|現代《げんだい》にいたるまで|地上《ちじやう》の|各所《かくしよ》に|放浪《はうらう》し、|神政《しんせい》|成就《じやうじゆ》の|暁《あかつき》に|処《しよ》するため、|犠牲的《ぎせいてき》|艱苦《かんく》をなめつつありといふ。
|広宗彦《ひろむねひこ》は|至善《しぜん》|至愛《しあい》の|神人《かみ》なりけるが、|元来《ぐわんらい》|温柔《をんじう》なる|身魂《みたま》の|性質《せいしつ》として、|弟《おとうと》の|桃上彦《ももがみひこ》の|行動《かうどう》にたいして|厳戒《げんかい》することを|躊躇《ちうちよ》したり。そのゆゑは、|桃上彦《ももがみひこ》の|行動《かうどう》を|一言《ひとこと》にても|批評《ひへう》し|訓戒《くんかい》するときは、|継父《けいふ》たる|春永彦《はるながひこ》の|気色《きしよく》を|損《そん》することを|恐《おそ》れたるが|故《ゆゑ》なり。ゆゑに|桃上彦《ももがみひこ》の|悪行《あくかう》を|戒《いまし》め、|暴政《ばうせい》を|改《あらた》めしむること|能《あた》はざりしは、|命《みこと》にとつて|末代《まつだい》の|不覚《ふかく》にして、|終生《しゆうせい》の|大失敗《だいしつぱい》なりける。|神《かみ》の|道《みち》に|奉仕《ほうし》する|神人《しんじん》は、|右《みぎ》の|次第《しだい》をよく|了解《れうかい》し、|天則《てんそく》を|遵守《じゆんしゆ》し、|情義《じやうぎ》にからまれて|末代《まつだい》の|悔《くい》をのこさざるやう|注意《ちうい》すべきなり。
|桃上彦《ももがみひこ》の|体主霊従《たいしゆれいじゆう》|天則《てんそく》|違反《ゐはん》の|行動《かうどう》の|結果《けつくわ》は、|上《かみ》は|下《しも》に|押《おさ》へつけられ、|下《しも》はまた|世《よ》とともに|悪化《あくくわ》し、|慢神《まんしん》の|空気《くうき》は|天地《てんち》にみなぎり|溢《あふ》れ、|下《しも》はおひおひ|自己《じこ》|本位《ほんゐ》の|波《なみ》たち|騒《さわ》ぎ、|神人《かみがみ》の|階級《かいきふ》までも|根《ね》|元《もと》より|破壊《はくわい》せしめたり。|至誠《しせい》|一貫的《いつくわんてき》に|奉仕《ほうし》せる|善良《ぜんりやう》なる|神人《かみがみ》も、つひには|忍《しの》びかねておひおひに|退職《たいしよく》し、|神界《しんかい》の|神務《しんむ》は|如何《いかん》ともすること|能《あた》はざる|惨憺《さんたん》たる|形勢《けいせい》とはなりぬ。
|広宗彦《ひろむねひこ》は、|弟《おとうと》の|行成彦《ゆきなりひこ》と|力《ちから》をあはせ|心《こころ》を|一《いつ》にして、|天則《てんそく》を|厳守《げんしゆ》し、|善一筋《ぜんひとすぢ》の|模範《もはん》を|世界《せかい》に|示《しめ》し、|回天的《くわいてんてき》|神業《しんげふ》をおこして、|地上《ちじやう》の|神界《しんかい》を|根本《こんぽん》より|改造《かいざう》せむと|焦慮《せうりよ》したれども、|放縦《はうじう》と|怠慢《たいまん》と|逸楽《いつらく》のみを|希求《ききう》するにいたりたる|神人《かみがみ》は、|一柱《ひとはしら》としてその|神業《しんげふ》に|参加《さんか》するものなく、|神界《しんかい》はますます|混乱《こんらん》|紛糾《ふんきう》の|度《ど》を|加《くは》へ、|万妖億邪《ばんえうおくじや》|一度《いちど》に|突発《とつぱつ》して|収拾《しうしふ》すべからず、|常夜《とこよ》の|暗黒《あんこく》|世界《せかい》とたちまち|変《へん》ずるにいたりける。
|大将軍《だいしやうぐん》|天使長《てんしちやう》|沢田彦命《さはだひこのみこと》の|妻《つま》|沢田姫命《さはだひめのみこと》は、|出雲姫《いづもひめ》とともに、|神政《しんせい》の|紛乱《ふんらん》と|律法《りつぱう》の|破壊《はくわい》とをおほいに|煩慮《はんりよ》し、|心身《しんしん》を|傾注《けいちう》しつつ|神界《しんかい》|幽界《いうかい》|大改造《だいかいざう》の|神業《しんげふ》の|一端《いつたん》にも|奉仕《ほうし》せむと、|雄々《をを》しくも|女神《めがみ》の|身魂《みたま》をもつて、|神代《かみよ》より|今《いま》にいたるまで|久遠《くをん》の|歳月《さいげつ》を|一日《いちにち》のごとく、|筆紙口舌《ひつしこうぜつ》につくしがたき|大艱苦《だいかんく》をなめ、|必死《ひつし》の|活動《くわつどう》をつづけたまふという。
|三千世界《さんぜんせかい》|一度《いちど》に|開《ひら》き、|艮《うしとら》の|金神《こんじん》ふたたび|表《おもて》に|現《あら》はれて、|五六七《みろく》の|神業《しんげふ》を|開始《かいし》したまふ|時運《じうん》の|到来《たうらい》したる|今日《こんにち》なり。ゆゑに|今度《こんど》こそは、|苦労《くらう》の|結晶《けつしやう》の|花《はな》の|咲《さ》き|匂《にほ》ひ、うるはしき|実《み》を|結《むす》ぶ|神政《しんせい》の|世《よ》に|近《ちか》づけるものにして、|世界《せかい》は|神界《しんかい》|現界《げんかい》に|論《ろん》なく、|神人《しんじん》ともに|必死《ひつし》の|活動《くわつどう》をなし、|末代《まつだい》しほれぬ|生《い》き|花《ばな》を|咲《さ》かし、|神国《しんこく》のために|十分《じふぶん》の|努力《どりよく》を|励《はげ》まねばならぬ|時期《じき》に|迫《せま》りきたれるなり。
(大正一〇・一二・一〇 旧一一・一二 桜井重雄録)
第四九章 |袖手《しうしゆ》|傍観《ばうくわん》〔一四九〕
|沢田彦命《さはだひこのみこと》、|沢田姫命《さはだひめのみこと》|夫婦《ふうふ》のあひだに|生《うま》れたるは|杵築姫《きつきひめ》、|朝子姫《あさこひめ》、|猿子姫《さるこひめ》の|三女《さんぢよ》なりける。
|天地《てんち》の|律法《りつぱう》|破壊《はくわい》して|万妖《ばんよう》|一時《いちじ》に|発起《はつき》し、つひには|地《ち》の|高天原《たかあまはら》の|神政《しんせい》は、ほとンど|潰滅《くわいめつ》せむとしたるも、|沢田彦命《さはだひこのみこと》は|対岸《たいがん》の|火災《くわさい》を|傍観《ばうくわん》するごとき|態度《たいど》を|持《ぢ》し、|少《すこ》しも|神界《しんかい》のために|全力《ぜんりよく》を|傾注《けいちう》せざりける。ゆゑに|妻《つま》の|沢田姫命《さはだひめのみこと》は|躍起《やくき》となり、|夫《をつと》にむかつて、
『かかる|神界《しんかい》|一大事《いちだいじ》の|場合《ばあひ》に|際《さい》し、|神界《しんかい》のために、|奮発《ふんぱつ》|努力《どりよく》して|万妖《ばんえう》を|鎮定《ちんてい》し、|大神《おほかみ》の|神慮《しんりよ》を|安《やす》んじ、|下神人《しもしんじん》の|苦難《くなん》を|救《すく》ふは、|貴夫《あなた》の|双肩《さうけん》にかかる|大責任《だいせきにん》なり』
と|千言万語《せんげんばんご》をつくして|奮起《ふんき》をうながし、かつ|諫言《かんげん》し|給《たま》ひたるに、|沢田彦命《さはだひこのみこと》はその|諫言《かんげん》を|馬耳東風《ばじとうふう》と|聞《き》き|流《なが》したるのみならず、|無責任《むせきにん》にも|三人《さんにん》の|娘《むすめ》を|引連《ひきつ》れ、|妻《つま》を|地上《ちじやう》にのこして|空《くう》に|乗《の》り、ふたたび|天上《てんじやう》に|還《かへ》りける。|沢田姫命《さはだひめのみこと》は|夫子《ふし》に|生別《いきわか》れの|辛酸《しんさん》をなめ、あるにあられぬ|憂目《うきめ》を|味《あぢ》はひ|給《たま》ひて|悲歎《ひたん》やるかたなく、|天《てん》を|仰《あふ》ぎ|地《ち》に|俯《ふ》して、|夫《をつと》の|一日《いちにち》も|早《はや》く|天《てん》より|降《くだ》りて|混乱《こんらん》|紛糾《ふんきう》の|神政《しんせい》を|修理固成《しうりこせい》したまへと|一生懸命《いつしやうけんめい》に|歎願《たんぐわん》したり。されど|一徹《いつてつ》|短慮《たんりよ》なる|沢田彦命《さはだひこのみこと》は、|一旦《いつたん》|決心《けつしん》したる|以上《いじやう》は|初志《しよし》をまげずと|断然《だんぜん》【はね】つけにける。
ここに|広宗彦《ひろむねひこ》は、|沢田姫命《さはだひめのみこと》の|窮状《きゆうじやう》を|察《さつ》して|一方《いつぱう》の|力《ちから》となり、|神政《しんせい》を|輔佐《ほさ》せむと|弟《おとうと》の|行成彦《ゆきなりひこ》と|議《はか》り、|沢田姫命《さはだひめのみこと》にむかつて、
『|聖地《せいち》の|神政《しんせい》のかくまで|混乱《こんらん》|状態《じやうたい》に|陥《おちい》りたるについては、|吾々《われわれ》にも|大責任《だいせきにん》あれば、|袖手《しうしゆ》|傍観《ばうくわん》するに|忍《しの》びず、ゆゑに|今後《こんご》は|兄上《あにうへ》と|共《とも》に|神界《しんかい》のため|兄弟《きやうだい》|一致《いつち》して|神業《しんげふ》を|助《たす》け|奉《たてまつ》らむ』
と|誠実《せいじつ》を|表《おもて》に|現《あら》はし、|苦心《くしん》に|苦心《くしん》を|重《かさ》ね、|一時《いちじ》の|困難《こんなん》を|救《すく》ひたりける。
|沢田彦命《さはだひこのみこと》は|天上《てんじやう》に|昇《のぼ》りて、|自由《じいう》|自在《じざい》に|神界《しんかい》の|経綸《けいりん》を|成《な》さむと|焦慮《せうりよ》したりしが、|元来《ぐわんらい》|最愛《さいあい》の|妻《つま》の|至誠《しせい》のこもれる|諫言《かんげん》に|立腹《りつぷく》し、|地《ち》の|高天原《たかあまはら》の|混乱《こんらん》|状態《じやうたい》を|余所《よそ》に|見流《みなが》し、|難《なん》をさけ|安《やす》きにつき、|利己《りこ》の|目的《もくてき》を|達《たつ》することのみに|熱中《ねつちゆう》せる|無責任《むせきにん》にして、かつ|無慈悲《むじひ》なる|神人《しんじん》なれば、|犠牲的《ぎせいてき》|精神《せいしん》に|欠《か》けゐたるため、|何事《なにごと》も|志《こころざし》と|相《あひ》|反《はん》し、つひには|天《あめ》の|八衢《やちまた》に|現《あら》はれて、|猛悪《まうあく》なる|魔神《ましん》となり|了《をは》りける。
また|出雲姫《いづもひめ》は、|天地《てんち》の|律法《りつぱう》が|神人《かみがみ》の|怠慢《たいまん》によりて|破壊《はくわい》されたるを|憂《うれ》ひ、|善行《ぜんかう》をもつて|神人《かみがみ》に|模範《もはん》を|示《しめ》さむとの|義侠心《ぎけふしん》を|振《ふり》おこし、|神国《しんこく》|特有《とくいう》の|麻柱《あななひ》の|真柱《まはしら》を|建《た》てむと|百方《ひやつぱう》|焦慮《せうりよ》したまへども、|何分《なにぶん》にも|肝腎《かんじん》|要《かな》めの|大本元《だいほんげん》|破《やぶ》れけるにぞ、|回天《くわいてん》の|神業《しんげふ》はつひに|完成《くわんせい》にいたらざりける。
(大正一〇・一二・一〇 旧一一・一二 松村仙造録)
第一二篇 |霊力体《れいりよくたい》
第五〇章 |安息日《あんそくび》〔一五〇〕
|天地剖判《てんちばうはん》に|先《さき》だち、|宇宙《うちう》の|大元霊《だいげんれい》たる|無声無形《むせいむけい》の|一神《いつしん》ありけり。
これを|神典《しんてん》にては、|天之御中主大神《あめのみなかぬしのおほかみ》ととなへ|奉《たてまつ》り、|神界《しんかい》にては|大六合常立尊《おほくにとこたちのみこと》と|申《まを》す。|西洋《せいやう》にてはゴツドといひ、|仏教《ぶつけう》にては|阿弥陀如来《あみだによらい》といふ。|漢土《かんど》にては|古来《こらい》|天帝《てんてい》または|天主《てんしゆ》といふ。|吾々《われわれ》はきはめて|言語《げんご》のすくない|簡単《かんたん》な|御名《おんな》を|選《えら》んで、ここでは|天主《てんしゆ》ととなへ|奉《たてまつ》つて|述《の》ぶることにしたいと|思《おも》ふ。
|天主《てんしゆ》は、|過去《くわこ》|現在《げんざい》|未来《みらい》に|一貫《いつくわん》して|無限絶対《むげんぜつたい》|無始無終《むしむしう》の|大神霊《だいしんれい》にましまし、その|絶対《ぜつたい》の|霊威《れいゐ》を|発揮《はつき》して|宇宙《うちう》|万有《ばんいう》を|創造《さうざう》したまうた。
|大宇宙《だいうちう》の|太初《たいしよ》にあたつて、きはめて|不完全《ふくわんぜん》なる|霊素《れいそ》が|出現《しゆつげん》し、それが|漸次《ぜんじ》|発達《はつたつ》して|霊《れい》の|活用《くわつよう》を|発生《はつせい》するまでの|歳月《さいげつ》はほとんど|十億年《じふおくねん》を|費《つひや》してゐる。これを|神界《しんかい》においては、【ヒツカ】(|一日《ひつか》)といふ。つぎにその|霊《れい》の|発動力《はつどうりよく》たる|霊体《れいたい》(|幽体《いうたい》)なるものが|宇宙間《うちうかん》に|出現《しゆつげん》した。これを【チカラ】と|称《とな》へた。【チ】とは|霊《れい》または|火《ひ》の|意味《いみ》であり、【カラ】とは|元素《げんそ》の|意味《いみ》である。この|宇宙《うちう》に|元素《げんそ》の|活用《くわつよう》するにいたるまでの|歳月《さいげつ》は、また|十億年《じふおくねん》を|費《つひや》してゐる。この|十億年間《じふおくねんかん》を|神界《しんかい》において【フツカ】(|二日《ふつか》)といふ。
つぎにこの|元素《げんそ》に|霊気《れいき》|発生《はつせい》して、|現顕《げんけん》の|物体《ぶつたい》を|形成《けいせい》するにいたるまでの|歳月《さいげつ》は、また|大略《たいりやく》|十億年《じふおくねん》を|費《つひや》してゐる。この|十億年間《じふおくねんかん》の|霊体《れいたい》の|進歩《しんぽ》を|称《しよう》して【ミツカ】(|三日《みつか》)といふ。ここにいよいよ|霊《れい》、|力《りよく》、|体《たい》の|三大《さんだい》|勢力《せいりよく》|発揮《はつき》して、|無数《むすう》の|固形体《こけいたい》や|液体《えきたい》が|出現《しゆつげん》した。|太陽《たいやう》、|太陰《たいいん》、|大地《だいち》、|諸星《しよせい》の|発生《はつせい》はつぎの|十億年《じふおくねん》の|間《あひだ》の|歳月《さいげつ》を|費《つひや》してゐる。これを|神界《しんかい》にては【ヨツカ】(|四日《よつか》)といふ。
またつぎの|十億年間《じふおくねんかん》の|歳月《さいげつ》を|費《つひや》したる|神霊《しんれい》の|活動《くわつどう》|状態《じやうたい》を、|神界《しんかい》にては【イツカ】(|五日《いつか》)といふ。【イツ】は|稜威《みいづ》にして【カ】は|光輝《くわうき》の|意《い》である。この|五日《いつか》の|活動力《くわつどうりよく》によりて、|動植物《どうしよくぶつ》の|種《たね》|天地《てんち》の|間《あひだ》に|現出《げんしゆつ》した。いよいよ|五十億年間《ごじふおくねんかん》の|星霜《せいさう》を|経《へ》て|陰陽《いんやう》、|水火《すゐくわ》の|活用《くわつよう》あらはれ、|宇宙《うちう》|一切《いつさい》の|万物《ばんぶつ》に|水火《すゐくわ》の|活用《くわつよう》が|加《くは》はり、|森羅万象《しんらばんしやう》の|大根元《だいこんげん》が|確立《かくりつ》した。この|歳月《さいげつ》は|六億年《ろくおくねん》を|費《つひや》してゐる。この|六億年間《ろくおくねんかん》の|神霊《しんれい》の|活用《くわつよう》を【ムユカ】(|六日《むゆか》)といふ。
かくのごとくして|天主《てんしゆ》は|宇宙《うちう》|万有《ばんいう》|一切《いつさい》を【ムユカ】に|創造《さうざう》された。それより|天主《てんしゆ》は|一大《いちだい》|金剛力《こんがうりき》を|発揮《はつき》して、|世界《せかい》を|修理固成《しうりこせい》し、|完全無欠《くわんぜんむけつ》の|理想《りさう》|世界《せかい》いはゆる|五六七《みろく》の|神代《かみよ》、|松《まつ》の|世《よ》を|建設《けんせつ》さるるその|工程《こうてい》が|七千万年《しちせんまんねん》の|歳月《さいげつ》であつて、これを【ナナカ】(|七日《ななか》)といふ。【ナナ】とは|地成《なな》、|名成《なな》、|成就《なな》、|安息《なな》の|意《い》である。|七日《ななか》の|神霊《しんれい》の|活用《くわつよう》|完了《かんれう》の|暁《あかつき》にいたつて、|至善《しぜん》|至美《しび》|至真《ししん》の|宇宙《うちう》が|完成《くわんせい》さるる、|之《これ》を|安息日《ななか》といふ。
|安息日《ななか》の|七千万年間《しちせんまんねんかん》は|天主《てんしゆ》の|荒工事《あらこうじ》ををはつて、その|修理固成《しうりこせい》のために|活動《くわつどう》さるる|時代《じだい》であつて、|世人《せじん》のいふごとく|神《かみ》の|休息《きうそく》したまふ|意味《いみ》ではない。もしも|天主《てんしゆ》にして|一日《いちにち》はおろか|一分間《いつぷんかん》でもその|神業《しんげふ》を|休《やす》めたまふことがありとすれば、|宇宙《うちう》|一切《いつさい》の|万物《ばんぶつ》はたちまち|滅亡《めつぼう》してしまふからである。ゆゑにこの|安息日《あんそくび》は|人々《ひとびと》|神《かみ》の|洪恩《こうおん》を|感謝《かんしや》し、かつその|神徳《しんとく》を|讃美《さんび》すべく|祝《しゆく》すべき|日《ひ》である。
かくして|五十六億七千万年《ごじふろくおくしちせんまんねん》を|経《へ》て、|五六七《みろく》の|神政《しんせい》まつたく|成就《じやうじゆ》され、|天主《てんしゆ》の|経綸《けいりん》の|聖代《せいだい》がくるのである。しかるに|幸《さいは》ひなるかな、|五六七《みろく》の|歳月《さいげつ》もほとんど|満期《まんき》に|近《ちか》づいてをる。いよいよ|五六七《みろく》|神政《しんせい》|出現《しゆつげん》の|上《うへ》は、|完全無欠《くわんぜんむけつ》、|至善《しぜん》|至美《しび》の|世界《せかい》となり、|神人《しんじん》|和合《わがふ》して|永遠《ゑいゑん》|無窮《むきゆう》に|栄《さか》えゆくのである。ゆゑに|今日《こんにち》までの|世界《せかい》は|未完成《みくわんせい》|時代《じだい》であつた。ここに|天運《てんうん》|到来《たうらい》して、|神政《しんせい》の|開《ひら》かるる|時機《じき》となつた。|現代《げんだい》はその|過渡時代《くわとじだい》であるから、その|前程《ぜんてい》として|種々《しゆじゆ》の|事変《じへん》の|各所《かくしよ》に|突発《とつぱつ》するのも、|神界《しんかい》の|摂理上《せつりじやう》やむを|得《え》ざる|次第《しだい》であらうと|思《おも》う。
この|安息日《あんそくび》については|各教法家《かくけうはふか》の|所説《しよせつ》も、|古今東西《ここんとうざい》の|区別《くべつ》なく|論議《ろんぎ》されてをるが、|私《わたくし》は|世説《せせつ》の|如何《いかん》にかかはらず、|神示《しんじ》のままを|述《の》べたまでである。
(|附言《ふげん》)
|聖書《せいしよ》に、|神《かみ》は|六日《むゆか》に|世界《せかい》を|造《つく》り|了《を》へて、|七日目《ななかめ》は|安息《あんそく》せりといふ|神言《しんげん》がある。この|神言《かみごと》について|言霊《げんれい》|研究《けんきう》の|大要《たいえう》を|述《の》べてみやうと|思《おも》ふ。
【ナ】の|言霊《ことたま》は|宇宙《うちう》|万有《ばんいう》|一切《いつさい》を|兼《かね》て|統一《とういつ》するといふことである。|◎《ス》の|凝《こ》る|形《かたち》であり、|行届《ゆきとど》く|言霊《ことたま》であり、|天国《てんごく》の|経綸《けいりん》を|地上《ちじやう》に|移《うつ》すことともなり、|◎《ス》の|確定《かくてい》ともなり、|調理《てうり》となり|成就《じやうじゆ》となり、|水素《すゐそ》の|形《かたち》となり、|押《お》し|鎮《しづ》むる|言霊《ことたま》の|活用《くわつよう》ともなる。
|次《つぎ》の【ナ】も|同様《どうやう》の|意義《いぎ》の|活用《くわつよう》である。
【カ】の|言霊《ことたま》は、|燥《かは》かし|固《かた》むる|活用《くわつよう》となり、|晴《は》れて|見《み》ゆる|也《なり》、|一切《いつさい》の|物《もの》|発生《はつせい》の|神力《しんりき》となり、|光明《くわうみやう》となるの|活用《くわつよう》である。
【メ】の|言霊《ことたま》は、|世界《せかい》を|見《み》るの|活用《くわつよう》となり、|起《おこ》り|兆《そめ》となり、|本性《ほんせい》を|写《うつ》し、|女子《によし》を|生《う》み、|天《あま》の|岩戸《いはと》を|開《ひら》き、|草木《くさき》の|芽《め》となり、|眼目《がんもく》となるの|活用《くわつよう》である。
|以上《いじやう》の|言霊《ことたま》によりて、|神《かみ》は|七日目《ななかめ》に|安息《あんそく》したまふといふ|神語《しんご》は、|実《じつ》に|明瞭《めいれう》となつてくるのである。|要《えう》するに|宇宙《うちう》|万有《ばんいう》|一切《いつさい》の|生物《いきもの》にたいし、|神人《しんじん》、|樹草《じゆさう》、|禽獣《きんじう》、|鳥族《てうぞく》、|虫魚《ちうぎよ》の|区別《くべつ》なく、|各自《かくじ》その|所《ところ》に|安《やす》んじて、その|天職《てんしよく》に|奉仕《ほうし》する|聖代《せいだい》の|現《あら》はれである。
ゆゑに|七日《ななか》は|現代《げんだい》の|暦《こよみ》にいふ|日月火水木金土《じつげつくわすゐもくきんど》の|一週間《いつしうかん》の|日数《にちすう》の|意味《いみ》ではないことも|明白《めいはく》なる|事実《じじつ》であると|思《おも》ふ。
(大正一〇・一二・一〇 旧一一・一二 加藤明子録)
(第四八章〜第五〇章 昭和一〇・一・一九 早朝 於宮崎市神田橋旅館 王仁校正)
附録 岩井温泉紀行歌
瑞月作
岩井温泉紀行歌
【瑞の御魂】に|縁由《ゆかり》ある |壬戌《みづのえいぬ》の一月の
雪降りつもる銀世界 【黄金閣】をあとにして
八日午前の|巳《み》の刻に 身魂の垢を清めむと
【岩井温泉】さして行く 【湯浅】【篠原】【植芝】や
松の【大本】の【竹下氏】 恵みの風も【福島】の
【近藤】の湯治を送らむと 信仰かたき【石の宮】
家並は古く朽ちぬれど 名は【新町】の正中を
足並速き自動車に 揺られて【綾部】の駅につく
汽笛一声汽車の窓 記者の【外山】氏【加藤】女史
【西村徳治】を伴ひて 心も勇む【|石原《いさ》】の駅
煙をあとに【|初瀬《はせ》】の橋 飛びたつばかり進み行く
|科戸《しなど》の風の【福知山】 聞くも恐ろし【鬼ケ城】
見捨てて走る山間の 【上川口】や【下夜久野】
降り来る雪を突破して 安全守る【上夜久野】
【|梁瀬《やなせ》】を渡りゴウゴウと 輪音も高き【和田山】や
篠竹しげる【|養父《やぶ》】の駅 【|八鹿《やうか》】【江原】を打ち過ぎて
外山に包みし【豊岡】の 昇降客のいと多く
但馬名所の【玄武洞】 右手にながめて【城ノ崎】の
温泉場を振り返へり 【竹野】や【佐津】の駅も過ぎ
【日本海】をながむれば 雪雲とほく【香住】駅
山腹包む【|鎧《よろひ》】田の 雪つむ景色面白【久】
【谷】を埋むる白雪は 山陰寒気の表徴と
ながめて走る汽車の窓 煙草正宗菓子饅頭
お茶お茶弁当の売声に 空しき腹を満たすと【は】
【ま坂】思はぬまうけもの 車のすみに【居組】つつ
いよいよ汽車も|申《さる》の刻 【岩美】の駅に降りけり
【雪】より白き【お梅】さま 雲【井】の【上】の雪の空
緩【高梅】の田舎道 ホロの破れし自動車に
一行六人ぶるぶると 自身神也屁の車
廻る【駒屋】の温泉宿 【湯治々々】と【月】代の
一同夕餉も相済みて 腹もポンポコ【湯冠り】の
【ヤレヤレ】ヤレの拍子歌 いと面白き雪の庭
なが夜を茲に【明】しける 大正十年十二月
【|十《なか》】の二日の|未明《あさまだき》 新暦一月九日に
激しき吹雪降りすさみ 寒さに凍えた【瑞月】は
炬燵の中の侘住居 横に立ちつつ千早振
神世の奇しき【物語】 【外山】【加藤】【井上】氏
筆を揃へてかくの通り
○
来訪者名読込歌
|温泉《いでゆ》の神と現れませる 【出】雲に坐す|大己貴《おほなむち》(出口王仁三郎)
岩井の湯【口】細くとも 薬の【王】と聞えたる
神の【仁】慈の【三】ツ御魂 心地も日々に【朗】かに
病の根まで|断《き》り払ふ |効験《しるし》は岩美に名【西】負ふ(西村徳治)
田舎の【村】の湯の御【徳】 療【治】を加ねて藤くより(加藤明子)
【明】々つどひ遊び来る 男【子】と女子の宿りたる
これの駒屋の温泉は 【外】に又なき客の【山】(外山豊二)
【豊二】暮す玉の【井】の この【上】もなき御神徳(井上留五郎)
【留】る三階に【五郎】々々と ねころびながら霊界の
ありし昔の物語 【石】より堅き信仰の(石渡馨)
丹【波】に【馨】る神の道 |常磐堅磐《ときはかきは》の【岩】よりも(岩淵久男)
かたき誠の教の【淵】 汲取るものは【久】方の
天より降る変性【男】子 この世の峠や【嵯峨】の【根】に(嵯峨根民蔵)
さまよふ【民蔵】救はむと 誓ひ出ます神の世に
生れ【大野】は【只】ならじ 深き因縁の|著《いち》【次郎】く(大野只次郎)
【田】づね来て見よ神の【村】 天地を【兼太郎】大神の(田村兼太郎)
黄色の色や白梅の 【佐】和に【佐木】たる神の苑(佐々木清蔵)
【清】き【蔵】昔のそのままの 【紙】より白くすがすがし(紙本鉄蔵)
世の大【本】の金【鉄】の 身魂【蔵】めし万代の
【亀】のよはひの本宮【山】 二代教主にかかりたる(亀山金太郎)
【金】勝要の【太】み神 肌への色は山吹の
清【郎】比ぶるものもなき 景色も【藤】や【田】子の浦(藤田武寿)
よはひも今は【|武寿《たけとし》】の 【古】き昔を【田】どる【時】(古田時治)
【治】まる波路を加露ケ浜 【船】にて【越】え来し三保の関(船越英一)
【|英米須《えびす》】の神を祭りたる 山陰【一】の神霊地
稜威も【高嶋】あとに見て 浪路を進む【ゆか】しさよ(高嶋ゆか)
神の御魂を迎【遠藤】 綾部に居ます牛【虎】の(遠藤虎吉)
神の【吉】詞をかしこみて やうやう平田にたどりつき
田【植】の中の道【芝】を 神のま【盛】りに踏みて行く(植芝盛隆)
【降】々昇る旭影 【竹】はなけれど松梅の(竹下斯芸琉)
御杖を【下】げて道草の 【|斯芸琉《しげる》】野路を勇ぎよく
【東】の空の色【良】しと 【|俊《とし》】老いたまふ大教祖(東良俊)
【桑原】田原の【道】別けて 【喜】び一行幽世を(桑原道善)
【|知食《しろしめ》】します大社 栄ゆる【松】や神の【田】の(松田政治)
尊き【政治】を偲びつつ 苔むす【藤】のいと高く(藤松良寛)
からむ社の千代の【松】 心持【良】く胸【寛】く
進む【小林】神の森 【秀】づる【尾】の上の弥仙山(小林秀尾)
鶴山亀山右左 神威を【保】つ【一】の鳥居(小林保一)
【稲】田の姫の命をば 救ふて得たる【村】雲の(稲村寿美)
劔の光【寿美】渡り 須賀の宮居を建了へて
【横】暴無道の悪神の 【山】田の大蛇を斬|放《はふ》り(横山辰次郎)
ひの川上に【辰】雲の 光も殊にいち【次郎】く
神の功ぞ尊とけれ 諸【木】の【下】を潜りたる(木下泉三)
谷の【泉】も【|素鵞《そが》】の川 【三】山の【奥村芳】りつつ(奥村芳夫)
【夫】婦はここに八雲立 出雲八重垣つまごめに
八重垣作る八重垣の 誉れは今にコン【近藤】(近藤繁敏)
栄えて【繁】る長の【敏】 我日の本のあななひの
道を教へし大己貴 浦【安】国の【田】のもしく(安田武平)
【武】力絶倫|国【平】《くにむけ》の 鉾を|皇孫《みまご》に奉り
君の御尾前仕へなむ これの誓ひは万代も
【田賀】へじものと手を拍つて 青紫垣にかくれたる(田賀鉄蔵)
事代主の金【鉄】の 堅き御言【蔵】尊とけれ
すぎ【西】むかしの物語 神有【村】の老人に(西村菊蔵)
詳しく【菊蔵】ありがたき 地の高天【原】にあれませる(原祐蔵)
神の【|祐蔵《たすけぞ》】うれしみて 詣でし一行十五人
神【徳岡】さぬ皇神の 【重】き御命を拝しつつ(徳岡重光)
神の【光】を照さむと 藤き山路や【原】野越え(藤原勇造)
【勇】み来る【造】艮の 神の生宮直子刀自
社の【前】に【田】知よりて 祈る誠の【美千香】る(前田美千香)
この音づれを久方の 雲【井】の空や土の【上】に(井上敏弘)
いと【|敏《すみ》】やかに【弘】めかし 神の真【毛利】は【八】洲国(毛利八弥)
【弥】|常永《とこしへ》に伝はりて 栄え目出度瑞穂国
秋の足穂の御【田代】は 太田の神に神【習】ひ(田代習)
教の苗を植付ける 国常立大神の
【高木】勲を【寿】ぎて 【三】柱神の神の教(高木寿三郎)
【田中】も山も佐【嘉栄吉】し 五六七の御代に【住山】の(田中嘉栄吉)
人の心は【泰】平【蔵】 雲井の【上】も葦【原】も(住山泰蔵)
【熊蔵】なき迄【住】渡る 清けき富士の高【山】に(上原熊蔵)
金銀【竜】の【二】柱 世人を真【森田】すけむと(住山竜二)
御心【くま】らせ玉ひつつ 大【矢嶋】国栄え【ゆく】(森田くま)
|祥《めで》たき御代を【松】の世の 【浦】安国の|磯輪垣《しわがき》の(矢嶋ゆく)
【秀】妻の国【蔵】尊とけれ 元気も【吉田】の一行は(松浦秀蔵)
身魂【勝】れて【美】はしく 聖地を【西】にあとに見て(吉田勝美)
町や【山村】伝ひつつ 又【蔵】降り来る|五月雨《さみだれ》を(西村伝蔵)
おかして【伊佐】み【田】庭路の 福知へ帰り【喜一郎】(伊佐田喜一郎)
途上つはりの心地して 二代スミ子は澄渡る
|石原《いさ》の【小泉】すくひ上げ 教祖手づから清泉を(小泉熊彦)
口に|富《ふ》【熊】せ玉ひつつ 国武【彦】の真【森田】る(森田勘太郎)
綾の【勘】部の【太】元に 雨の【中尾】ば六月の(中尾豊弘)
四日に【豊】かに【弘】前に 神徳高く【山】の|如《ごと》(山本惣吉)
頭にいただき帰ります 大【本】役員【惣】一同
今日の|生日《いくひ》の【吉】き日をば 祝ひ【納】むる【吉】祥の(同納吉)
宴を【平木】て大神の 御【稜威】かしこ【美山川】の(平木稜威美)
|供物《くもつ》を献じ【石】の上 古き【太】初の皇神の(山川石太郎)
直なる【武】の【田】ぐひ【な】き 誉れ【を】今に伝へける(武田なを)
大正三年の春の頃 十三才の直霊嬢
瑞月柳月の三人が 出雲大社へ礼参り
其往きがけに岩美駅 馬車にゆられて晃陽の
やかたに再び逗留し いよいよ|三度《みたび》の入浴に
身魂の垢を洗ひつつ 五ツと|六《むゆ》との霊界の
昔語りを新らしく 天地宇宙の外に立ち
言葉も清くいさぎよく まはる駒屋の温泉場
心の垢をあらひつつ あらあらかくは|識《しる》しけり
皇道発祥の霊地日向国宮崎市の公会堂に於て昭和神聖会支部の発会式を盛大に挙行したる翌朝七時四十分、同市神田橋旅館の二階の間大淀河の名橋や清流を眺めつつ誌し置く。いよいよ霊主体従寅の巻の校正を終る。
(昭和一〇・一・一九早朝)
附言
明治三十四年旧五月十五日、教祖様|神勅《しんちよく》を受けて、|八雲立《やくもたつ》|出雲《いづも》の国の|天日隅《あめのひすみ》の|宮《みや》に御参拝の|節《せつ》、山陰道を徒歩し一行十五人、|岩井温泉《いはゐをんせん》|駒屋《こまや》に一泊せられ、帰路ふたたび|同家《どうけ》に宿泊されたる、大本にとつて|由縁《ゆかり》浅からざる温泉なり。瑞月は大正三年の春、三代|直霊《なほひ》、|梅田《うめだ》|信之《のぶゆき》氏とともに一泊したることあり。今回にて三度目の入浴なり。静養かたがた霊界物語の口述をなすも、神の|御仁恵《ごじんけい》と|歓《よろこ》びのあまり、筆記者および信者の訪問して色々と御世話下されし其の厚意を感謝するため、諸氏の|芳名《はうめい》を|読込《よみこ》み、|長歌《ちやうか》を作りて第三巻の|巻尾《くわんび》に|附《ふ》する事となしぬ。
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霊界物語 第三巻 霊主体従 寅の巻
終り