玉鏡
出口王仁三郎
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●テキスト中に現れる記号について
《》……ルビ
|……ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)天地|剖判《ぼうはん》の
【】……傍点が振られている文字列
(例)【ヒ】は火なり
※現代では差別的表現と見なされる箇所もあるが修正はせずにすべて底本通りにした。
※詳細な凡例は次のウェブサイト内に掲載してある。
http://www.onisavulo.jp/
※作成者…『王仁三郎ドット・ジェイピー』
(連絡先 oni_oni_oni@a.memail.jp)
2004年04月01日作成
2007年09月07日修正
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「咳唾珠を成す」といふ語がありますが、出口聖師が折にふれ時に応じて話される一言一句は正にそれであります。
本書は聖師の説話の断片がそのまま埋もれてしまふことを恐れて、主として故加藤明子女史が書きとめておき、昭和五年十月号より同九年四月号に至る「神の国」誌上に発表したのを集めたものであります。女史が生前本書を編纂して出版する運びになつてゐたのでありますが、昨年七月逝去されたために中絶してゐたのを、今度聖師の御校閲を経て出版されることになつたのであります。本書は必ず万人にとつて此上もない霊性の糧となるべきものであると信じます。
昭和十年三月 編者
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[462]
皇道と公道
|王仁《わたし》は『皇道大意』の中で「皇道大本は皇祖皇宗の御遺訓を皇国固有の|言霊学《げんれいがく》の上より、はたまた大本開祖二十七年間の神諭の御精神より真解を施し、我が国民をして皇道の|大本《たいほん》を知悉せしめむとする惟神の|霊府《れいふ》にして、直ちに皇道実現実行の首府と云はむは|非《ひ》なり。いかんとならば、皇道の御実現御実行なる神業は、|畏《かしこ》くも|一天万乗《いつてんばんじやう》の至尊の御天職に|坐《ま》しますが故なり」と書いておいたが、皇道大本は皇道を真解して国民に知らしめる|教庭《けうてい》なのである。
そして、皇道は公道に通じ、天が下を安らけく知ろしめす天皇の|御道《おみち》を始め、宗教、倫理、科学、実業等一切の根本原理を説く教へである。教育勅語に示されてあるやうに「古今ニ|通《つう》シテ|謬《アヤマ》ラス、これヲ中外ニ施シテ|悖《モト》ラ」ざる道が皇道である。
それで、皇道大本は天津|日嗣《ひつぎ》天皇の|御稜威《みいづ》を発揚し宣布し、かつ日本精神を実践|躬行《きうかう》するところである。
政治は天津|日嗣《ひつぎ》天皇の御天職に|坐《ま》しまし、|司《つかさ》は天皇の委任をうけて政治をとつてゐるのであつて、上と下との中を執りもつてゐるのが|中執臣《なかとりおみ》であるが、そのヤリ方が下手なのである。祝詞の中に「|大御前《おほみまへ》のこと|白《まを》さしめ給ひ」とあるが、|大御前《おほみまへ》のこととは政治のことである。
[463]
皇道と王道の区別
王道は単に政治一方のことをさすに反し、皇道は三種の神器で国を治めることで、政治、教育、宗教一切を包含した一つの権威である。そしてこれを単に大和民族のみの専有とせず、世界の|主師親《しゆししん》として|皇上《くわうじやう》陛下を仰ぐのが皇道の真諦である。「|皇《くわう》」は|白王《はくわう》と書く、百の字から一をとつたのが白で、|九十九《くじふく》の|数《すう》を現はす。|九十九《くじふく》は|数《すう》の終りである。|九十九《くじふく》になつて長寿を祝ふときには|白寿《はくじゆ》の祝ひといふが、|九十九《くじふく》王は王の|極《きよく》で普通の王ではない。
同じ王でも蒙古の王の如きは我が国の郡長級で、到る所に王がある。むかし、釈迦は|浄飯王《じやうぼんのう》の太子だつたといふが、この王も矢張り印度の郡長格だ。そして|悉多《しつた》太子はその長男といふ意味で、今でも蒙古へ行くと長男のことを太子というてゐる。
[464]
国体と政体
日本は国体|即《そく》政体の国である。外国には政体があつて国体がないからしばしば主権者がかはるのである。【国体】は|頭《かしら》が天子様であつて、四肢五体が臣民である。いはば神の造つた一つの神人格である。これに反して政体は|頭《かしら》の主権者が、人間の造つた|魂《たましひ》のないロボツトにすぎない、だから|生命《せいめい》がない。故に機械が一つ狂へば手も足も動かすことが出来ない。
現代の政治家、学者たちは、生きた神人格者の日本の国体にロボツトをかぶせて文明のやりかたと誇つてゐるのだから始末にをへない。たうとう我が神国を外国に近いものにしてしまつたのだ。今後は国民が|衷心《ちうしん》から覚醒して、かぶさつたロボツトをとりのぞき、国体の精華を発揮せねばならぬと思ふ。
[465]
国家の権威
教育勅語に「|克《よ》ク|忠《ちう》ニ|克《よ》ク孝ニ」と陛下は|勅《みことのり》を|降《くだ》されてある。こんな権威のあることを|勅《みことのり》される国は世界いづれの国にもあるまい。日本のみである。皇道の本義を真解せざる者には判らないし、民主的の思想を持てる外国人は|唖然《あぜん》とするであらう。皇威の尊厳にして、|炳乎《へいこ》たる所が判るまい。また日本は一団の国家である。国が一家を為してゐる。外国は国家といへぬ。ただ国である。それから仏教でも、キリスト教、その他|既成教《きせいけう》の経典には「国」といふ文字が無いのもあれば、あつてもまた僅少であるのもある。大本の神諭の中には「日本の国」といふ文字や「神の国」といふ文字がすこぶる沢山ある。いかに国といふ観念が強く入れてあるかといふことが判る。即ち大本の教へは国家的思想が経典の基礎を為してゐるといつてもよい。
[466]
大和魂と軍部
「戦争があるとか無いとか、また景気は好くなるとか好くならぬとか、新聞や雑誌または単行本によつて人々が迷うて居りますが」と聞く人があるが、結論は既にきまつてゐる。|瑞《みづ》の神歌によつて神示されてゐる通りぢや。何も迷ふことは無い、断乎としていつたらよいのぢや。よくなるやうでも、それは一時の現象かまたは策謀によるものであつて、次第に悪く迫る|道程《だうてい》に過ぎない。|八岐《やまた》の|大蛇《をろち》の迫り来たつてただ一つ残された国、|奇稲田姫《くしなだひめ》なる日本を|併呑《へいどん》せむとすることは|免《まぬが》れ得ぬことになつてゐる。いろいろの宣伝や迷論に迷うては取り返しのつかぬことになる。|一路《いちろ》神示のままに|邁進《まいしん》することぢや。大和魂の精神は大本教団を除けばただ軍部その他の国民の少数者にのみ残つてゐる有様である。それで満州事変においても、軍部には来たるべき皇国の将来がある程度判つてゐるから断乎としてその精神が発動したのぢや。利害得失に|汲々《きふきふ》たる一般の国民には世界の動きは判らない。国民の眼は利害得失のみに小さく働いてゐるのである。その点になると、軍部は生活的の不安が無いから目のつけ所が違ふ。世界のことも比較的に判りまた精神も曇つて居らないので、大和魂が発動して来るのぢや。
[467]
天津神と国津神
天津神と申すのは、|現世《うつしよ》で例へていへば、官につかへたるもの、天皇陛下の|臣《しん》、宰相、大臣、地方官、貴族院議員といつたやうなもので、天照大御神様に従つて、天から|降《くだ》られた神様のことである。だから祝詞にも「天津神は天の磐戸を|推披《おしひら》きて、|天《あめ》の|八重雲《やへくも》を|伊頭《いづ》の|千別《ちわ》きに|千別《ちわ》きて|所聞《きこし》召さむ」とある。また国津神といふのは、自治団体の代表、国民の代表、衆議院議員などに匹敵するもので、国に居つた神、即ち土着の神様である。祝詞に「国津神は|高山《たかやま》の末|短山《ひきやま》の末に|上《のぼ》り|坐《ま》して、|高山《たかやま》の|伊保理《いほり》|短山《ひきやま》の|伊保理《いほり》を|掻《かき》分けて|所聞《きこし》召さむ云々」の|詞《ことば》が証明してゐる。|八王《やつわう》|八頭《やつがしら》は皆、山に|居《きよ》を占めて居られたのである。
[468]
紋所
我が日本国は古来祖先の遺風を尊重し、祖霊を祭祀し祖先の名声を|汚《けが》すまいと子孫は日夜謹慎しまたその家の名を伝へむとする|淳良《じゆんりやう》な風習を持つてゐる。故に各々その家の|印《しるし》の紋所を最も尊重し屋根瓦に提灯にその他の器具等にも家の紋を付けてゐる。特に礼服として羽織や晴着に三つ紋五つ紋等を染め抜いて家系を表示する国の風習が今にも行はれてゐる。さてこの紋については|源平藤橘《げんぺいとうきつ》その他の家々、いづれもときの陛下より賜りしものもあり、中世以降はときの宰相または大名等より貰つて家の紋所としたのもあるが、紋の|外廓《ぐわいくわく》を○をもつて囲んだのは、一部分を除いて大抵は|主家《しゆか》より許されたとか別家したとかの|印《しるし》であつて、直系に対する傍系または臣家の証示である。しかし近古以来はその制も乱れて各自心のままに訂正したのも多いやうだから、一概にさう決定するわけにも行かない。
[469]
教育について
子弟の教育は義務教育を終へたら沢山だ、それで立派に一人前の人となれる。その|後《あと》はそれぞれ専門の教育を施したらよい。専門教育も学校などに入るより、むしろ実地経験をつませたがよい。今の中等教育などは、あれもこれもと余り沢山な課目を課し過ぎて、どれも中途半端で物の役に立たぬ。それに|生齧《なまかじ》りながら、いろんなことを知つてゐるのでかへつて悪く、目的を定めても、うまく行かぬとすぐかへてしまふ。商売をやつてゐてもうまく行かぬと、私は中学校時代英語が上手であつたから、一つ通訳になつて見ようと職業替へをし、またその通訳がうまく行かぬと、むしろ画家になつて見ようかと、つつきかじりの癖はどこまでも|禍《わざは》ひして、つひに何物をも掴み得ずして、いつしか|劣敗者《れつぱいしや》の|群《むれ》に取り残されてしまふのである。点滴石を|穿《うが》つの|譬《たとへ》で、能力の劣つたものでも専門的に長くやつてをれば、年月を重ぬるに|随《したが》つて熟練の|効《かう》は顕はれて、天晴れの腕前になるものである。滅多に生活に困るやうなことはない。なまじひ種々のことを知つてゐるのは害多くして|効《かう》が少ない。社会がこんなに生活難に苦しむやうになるのは、教育制度の罪が|与《あづか》つてその大半の責めを負ふべきである。学校にしてからが、田舎の町村に不似合な広大なる校舎を建築してゐるが、教育費ばかりが|徒《いたづ》らに|嵩《かさ》んで負担に苦しんでゐる町村が多い。少し考へたらよからう。
[470]
|泥金《どろがね》の日本人
日本人種は元来人種中最上のものなのだが、今は嘘つきで根性が悪く、全く|泥金《どろがね》になつてしまつてゐる。だが満州事変のやうな国家的一大事があると、もともと表面が泥にぬられてゐるだけだから、直ぐ|地金《ぢがね》が出て大和魂に立ちかへり、慰問袋なども盛んに送るが、しばらくするとまた元の通りになつてしまふ。すつかり泥によごれきつてしまつてゐるからである。
[471]
天産自給
日本は充分天産自給の出来る国なのである。然し外国の物を使つてゐては出来ぬ。日本の物だけ使はな出来ぬ。国によつては天産自給の出来ぬ国もあるが、日本には何でもあるから出来るのである。
|今日《こんにち》までは和光同塵の時代であつたから、貿易も仕方なかつたが、満州国も独立した以上もう貿易の必要はない。
[472]
放任主義の教育について
|王仁《わたし》が子供の教育には放任主義をとれといふのは、今日の児童教育があまり干渉がひど過ぎるから、その反動としていふので、矢張り放任の中に干渉があり、干渉の中に放任があらねばならない。親が子供に、物を貰つても直ぐ両手を重ねてお礼をいふことを教へるが、あれなども乞食根性を強ひるやうなものであつて|王仁《わたし》は大嫌ひだ。余り親が子供に干渉し過ぎてゐるのである。
今、大本式の教育を受けた子供を世間で悪くいふのは善悪に対する標準が違ふからで、本当は親の干渉を受けすぎないで|暢《の》び|暢《の》びしたのがいい。年頃になれば礼儀などはひとりでに覚えるから、余り干渉してはいけない。
[473]
日本と外国の神がかり
日本の神がかりを調べると動物霊の実例が多いにも拘はらず、外国には一向動物霊の神がかりがないのは変に思はれるが、これは動物霊が祖霊に化けてゐるのを看破することが出来ぬからである。祖霊が人に|憑《うつ》る場合には動物霊を使ふものである。祖霊はその場に来てをつても力がないので、多く動物を使ふのである。
[474]
|金《きん》再禁と日本
|昨年《さくねん》政府が|金《きん》の再禁を断行したが、それでよかつた。もしあれがあのまま三ケ月続いてゐたら、日本の金貨は外国に流出して、日本は経済的に破滅するところだつた。全く政変あつて日本が救はれたかたちだ。
[475]
経済と会計
今の政治家のやつてゐることは皆間違ひだらけである。緊縮政策といふのは、当然|一石《いつこく》の|籾《もみ》の|種《たね》を蒔いて然るべき地所に、五斗の|種《たね》をしか蒔かないといふ政策だ。
また積極政策といふのは、|一石《いつこく》しか|種《たね》を蒔き得ないところに、前後周囲の考へもなく、|川原《かはら》や石の見さかへもなく、無茶苦茶に|一石《いつこく》五斗の|種《たね》を蒔くといふやり方だ。あれではどちらにしても助からない。今の政治家や学者は経済学といふことを知らない。最も正しい方法は、|一石《いつこく》の|種《たね》を蒔くところに|一石《いつこく》蒔いて、そのすべてを|稔《みの》らし効果を得ることなのだ。これが本当の経済である。それに皆気が付かないで経済と会計とを混同して考へ、金銭の収支ばかりに頭を悩ませてゐる。収入が不足だとて、その|額《がく》を公債や増税によつて収支の数字を合はせようとする。単に収支の決算くらゐだつたら、別に政治家や経済学者でなくても、店の番頭で結構出来ることなのだ。
[476]
仏教は無神論
仏教は無神無霊魂説である。見よ、|如雲如煙《にようんによえん》といふのが釈迦の教へではないか。釈迦といふ人は階級打破を説いた、一切の平等を説いた、現今でいふ社会主義者である。我も人なり彼も人なりといふのが彼の主張である。また釈迦には数多の愛人があつた。女人禁制といふのは、ある特別な人に対しての訓戒である、一般の人に対してのことではない。釈迦の極楽といふのは男女|相《あひ》逢ふことなのである。無論、その主張が無神無霊魂であるから、死後の極楽地獄なんか説いてはない。これらの説は後世の人がくつつけたものである。
|印度教《いんどけう》にも仏教にも耶蘇教にも祖先崇拝といふことはないのであるが、日本に渡来した仏教は神道を採り入れて祖先を|弔《とむら》ふことを初めたのだ。この|一事《いちじ》が仏教の|生命《せいめい》を|今日《こんにち》まで持ちこたへて来た利口なやり方である。|耶蘇《やそ》は阿呆だ、祖先崇拝の我が国民性を無視して祖先を祭り|弔《とむら》ふことをしないから弘まらぬのである。
[477]
金銀為本の政策
金銀為本の政策の間違つてゐることを、|王仁《わたし》は長年叫びつづけて来たが、|何人《なんぴと》も相手にはしてくれなかつた。しかし現代のやうにハタと行きづまつて来て、初めて少々夢が醒めかけたやうである。金銀為本に換ふる|御稜威《みいづ》為本政策なるものが、古事記中巻|仲哀《ちうあい》天皇の段に詳しく示されてゐるのだが、古事記は予言書であるから、|言霊学《げんれいがく》の鍵をもつてこれを読まなければ、その|蘊奥《うんのう》なる神意を悟ることが出来ぬのである。
現代の如く経済と会計とを混同して、|有《う》を無にすることばかり考へて、無から|有《う》を出す方法を知らない経済学者に、どうして非常時日本を背負つて立つことが出来ようか、思へば|寒心《かんしん》の至りに堪へない。
[478]
|敬老尊師《けいらうそんし》
五倫五常の道の|廃《すた》れた支那でさへも、|敬老尊師《けいらうそんし》の道は残つてゐる。いはんや|君子国《くんしこく》たる日本においてをやだ。然るに、この美風が衰へきつてしまつてゐるのは実に歎かはしい次第である。他人でありながら、親にもまして自分を教育して下さるのは先生だから、師はどこまでも大切にせねばならぬ。|忠信孝悌《ちうしんかうてい》の道が|廃《すた》れてどうして人間の道が立つものか、立替立直しが出来るものか。|王仁《わたし》は残されたる唯一の恩師長沢先生を親よりも大切に思つてゐる。先生もお年を|召《め》してゐらつしやるから、御達者なうちに天恩郷や綾部の状況もお目にかけたし、|嵐山《あらしやま》の花も御案内したい。|近々《きんきん》|王仁《わたし》自身でお迎へに行くつもりである。|王仁《わたし》は恋人に対しても同様な考へをもつてゐる。次から次へと移つてゆく友愛結婚なんかとは反対に、若いとき一度でも交渉のあつた|女《ひと》は永久に忘れぬ。その|女《ひと》が死んだらその子供のために尽くしてやる。|王仁《わたし》の命のある間は墓参りもしてやる。それが本当の人情ではないか。この点、|頭山《とうやま》|翁《をう》も同意見で、|馴染《なじ》んだ|女《ひと》の墓参りを今もすると話して居られた。
[479]
天国と現代
現代は最も悪い時代だと思つてゐるものがあるが、さうではないのである。試みに明治維新|前《ぜん》の状態を|観《み》よ、生殺与奪の権は三百諸侯の手に握られ、|讒《ざん》するものあれば、事実の有無を問はず、直ちに手打ちにするやうなことも少なくなかつた。現行法律には不備の点が無いとは云へないが、とも角も三審制度を取つて、調べた上にも調べて貰ふことが出来るのはいかに有難いことか分からぬのである。山賊や|雲助輩《くもすけはい》が横行して、わづかな旅行にも命がけで出かけなければならなかつたその頃に比べ、警察制度の行き届きたる現代はどんなに幸福であるか、これもまた比較にならない。|草鞋《わらぢ》|脚絆《きやはん》に身を固め、箱根の山くらゐを天下の|嶮《けん》として行き|難《なや》んだ当時に比べて、汽車中に|安坐《あんざ》して、五十三次をも夢の|間《ま》に乗り越すことの出来ることを思へば、全く隔世の感があるではないか。その他衣食住のそれぞれが皆非常なる進歩をして、天国の|相《さう》をそなへつつあるのは結構なことである。これ全く明治大聖帝の御恩徳によるもので、世相は明治維新を一転機として天国化しつつあるのである。殺人強盗などの記事が新聞紙上に頻繁に現はるるを見て、現今の世の中が一番|地獄相《ぢごくさう》を顕はしてゐるとするものがあるけれど、それは誤りで、昔は通信報道の機関が不完全で、驚くべき種々の出来事も報道せられなかつたのである。辻斬りなどが方々にあつて、人間の首があちこちにころがつてをることなど珍しくなかつたのである。神諭に今が末法の一番悪い世であると仰せられてあるのは、人心のゆるまないやうに教へられた言葉である。
[480]
|法三章《ほふさんしやう》
太古よく世の中が治まつてゐた時代は、|無為《むゐ》にして化すといふ状態であつた。少しく世が乱れかけてから法律といふものが出来たのであるが、|法三章《ほふさんしやう》というて、三ケ条あれば世は治まつたものである。だんだんと世の中が難しくなつて来て法律の条文が増え、今日の如く厚つぽい書籍とさへなるに至つたのは歎かはしいことである。|真《しん》の|法三章《ほふさんしやう》といふのは三大学則のことである。即ち
一、天地の真象を観察して|真神《しんしん》の|体《たい》を思考すべし
一、万有の|運化《うんくわ》の|毫差《がうさ》なきを見て|真神《しんしん》の力を思考すべし
一、|活物《くわつぶつ》の|心性《しんせい》を覚悟して|真神《しんしん》の霊魂を思考すべし
の|三則《さんそく》である。
[481]
三大民族
太古、世界には三大民族があつた。即ちセム族、ハム族、ヤヘツト族である。セムの|言霊《ことたま》はスとなり、ハムの|言霊《ことたま》はフとなり、ヤヘツトの|言霊《ことたま》はヨとなる。故にスの|言霊《ことたま》に該当する民族が、神の選民といふことになり、日本人、朝鮮人、満州人、蒙古人、コーカス人等である。ユダヤ人もセム族に属する。次がハム族で支那人、印度人または|小亜細亜《せうあじあ》やヨーロツパの一部にゐる民族である。ヨの民族即ちヤヘツト族といふのはアフリカ等にゐる|黒人族《こくじんぞく》である。しかし現在は各民族共ことごとく混血してゐるのであつて、日本人の中にもハム族等の血が多数に混入してゐる。また欧米人の中にはハム族とヤヘツト族とが混血したのがある。イスラエルの流れといふことがあるが、イは発声音で、スラエの|言霊《ことたま》はセとなるが故に、イセ(伊勢)の流れといふことになる、即ちセム族のことである。
[482]
高い鼻
セム族は太古においては鼻が高かつた。それが|土蜘蛛族《つちぐもぞく》(日本に古くより住んでゐた|土族《どぞく》)と混血したので、次第に鼻が低くなつて了つた。外国人は今でも鼻が高く非常に発達してゐるから、物の匂ひをかぐことを好み、かつ嗅覚が強い。故に香水等の匂ひ物を多く使用するのである。しかし香水は情欲を起こし易く、その欲念を益々|昂進《かうしん》せしめるものである。
[483]
食糧問題
今年(昭和五年)は豊作とあつて、政府でも余剰の米の処分について頭をなやまして居られるやうであるが、沢山だというても全国民がわづかに二ケ月食べ余すぐらゐなものである。|備荒《びくわう》貯蓄の必要はないのであらうか。今年豊作だというて来年もさうとは限らない。|殊《こと》に豊作の年は稲が土地の養分を十分に吸収し尽くすから、翌年は余程肥料をやらねば収穫が少ない道理である。大本神諭に「猫の額ほどの所にも食べ物を植ゑよ、お土からあがるものを大切にせよ」とあるが、為政者は余程考へねばならぬ問題である。
[484]
皇道と王道
皇道は絶対にして対立するものなし。故に天子に姓なし、天祖をもつて父母とし給ふ。王道は対立的にして、仁政を布き民を安んじて初めて王位を全う得るものである。皇道と王道とは根本的に相違がある。
[485]
支那といふ国
支那といふ国は個人主義の国で到底一致団結などといふことは出来ぬ国である。これを譬ふればあたかもザクザクとした砂のやうなもので、どんなに沢山の量があつても、固めて一団とすることは不可能である。ただ強い袋に入れて縛つて置けば、その力によつて固まつてゐる。支那を統治するものは、この国民性を度外してはならぬ。
[486]
日本と|孟子《もうし》
|孟子《もうし》の説は義を説いて「|君《きみ》|君《きみ》たらずんば、|臣《しん》|臣《しん》たらず」といふやうな説を唱へたので、日本の国体に合はぬため、神様のお気に入らず、|孟子《もうし》の書籍が日本へ輸入せられむとしたとき、それを載せた船が三度まで|覆没《ふくぼつ》してゐるのである。日本は尊い皇道のある国である。
[487]
波は水の表面だけの動揺であつて、|狂乱怒涛《きやうらんどたう》の|荒《すさ》び立つときでも下の方は静かなものである。故に水の皮と書いて波とよむのである。今の世の有様を見てゐると狂ひ立つ波のやうなものである、文明も波の文明である。少しも深い底の心に触れてゐないのである。波浪に乗つて立ち騒いでゐるのが今の識者といふものである。政治も芸術も教育も皆波の政治であり、波の芸術であり、波の文化である。近頃|王仁《わたし》に|出廬《しゆつろ》を促す人も少なくないが、|王仁《わたし》は波浪上の舞踏はいやである。誰かの歌に
底ひなき淵やはさわぐ山川の
浅き瀬にこそ|仇浪《あだなみ》は立て
といふのがあるねえ。現代人に望むらくは総てのことに|深味《ふかみ》があつて欲しい。
[488]
三種の神器
|天津教《あまつけう》の|武内家《たけのうちけ》に三種の神器があらはれ、これを皇室に奉献するといつて騒いでゐたやうであるが、今日の人々の浅慮無知もまたはなはだしい。元来日本の国体上、三種の神器は皇室にあるのが本当であつて、|肇国《てうこく》の初めより万世一系の皇統天津|日嗣《ひつぎ》の陛下が天祖大神を奉斎し、三種の神器の御威徳によつて天ケ下を知し召される|神定《かむさだ》めなのである。これが即ち皇道であり惟神の|大道《だいだう》である。だから古来、国司や酋長らはこの儀に神習ひ、この日本神国の国体を重んじて必ず神を|斎《まつ》り、|璽《じ》|鏡《きやう》|剣《けん》を作り神殿に奉安して、それぞれ|祭事《まつりごと》に奉仕したのである。|今日《こんにち》も|尚《なほ》神社や教会などはこの三種の神器を御神体として|神祭《かみまつ》りをしてゐる。|武内家《たけのうちけ》にあらはれたといふのは、とりも直さず|武内家《たけのうちけ》の祖先が|神祭《かみまつ》りをするときに用ひたものであつて、断じて皇室のものではない。もしそれが本当なら由々しい大問題である。日本神国の国風を知らぬから、そんな間違つたことを平気で言ひ出すのである。要するに吾らは皇国皇道から考へても、あれは|武内家《たけのうちけ》の祖先が祭典に用ひたものと推定するより他考へやうがない。
[489]
戦争と支那
日米間には既に外交に軍縮に、その他武力によらざる戦争が開始されてゐる。露支国交回復の裏面にも米国があつたといふやうに、|老獪《らうくわい》なる手段によつて、いろいろな間接的戦争が継続される。今では直接に戦ふといふやうな腹はない、もつとも米国民が気違ひになれば別であるけれども。しかしながら一九三五年後においては判らぬ。とも角も支那問題を中心にして起きて来るものである。一体支那といふ国は気候も良い、人口もある。その他のことにおいても列国が目をつけるのは当然であつて、日本といふものが無かつたならば、すでにすでに列国の侵略するところとなつてゐるのである。ゆゑに今後においても、支那に手を|入《い》れる国はみな日本といふものが目の上の|瘤《こぶ》といふやうになるから、余程の注意をせなくてはならぬ。
[490]
飛行機
神界より見られた飛行機は、大体現在のやうなものであるが、墜落せぬやうになり、かつ操縦技術なども自由自在にならぬといけない。今後においては大切なもので、|神代《かみよ》の交通機関に船などとともに重大なる役割を持つたものである。
[491]
審判は近づいた
「|神世《かみよ》になれば神厳しく人民穏やかになるぞよ」と御神諭にあるが、近頃神様は非常に厳格になられつつあるのが|王仁《わたし》に感ぜられて来る。もはや見直し聞き直しの時代は過ぎ去らむとしてゐる。善悪の総決算期が近づいて来たのだ。今までのやうなだらしないことでは許されぬときになつた。|王仁《わたし》は子供のときから地獄耳だといはれて来たが、|一度《ひとたび》|王仁《わたし》の耳に|入《い》れた以上、何もかも|細大《さいだい》漏らさず記憶してゐる。|殊《こと》に大正十年以前のことをよく記憶してゐる。神に背き、神を見捨て、神を|鰹節《かつをぶし》とし、神を|冒涜《ばうとく》した人たちの行く末を思ふと、気の毒に堪へられないので、|王仁《わたし》は|今日《けふ》まで忍び難きを忍び、許し難きを許し、最善の努力を払つてそれらの人々の改心を促して来たが、もはや忍ばれぬやうになつて来た。皆もその心したらよからう。
[492]
新つの世
大地は|日々《にちにち》に傾斜運動をすると共に、また一年に四度の中傾斜運動をなし、一年に一度大傾斜運動をなし、六十年目に大々傾斜運動をなし、三百六十年目に大々々傾斜運動をなし、三千六百年目に大々々々傾斜運動をするのである。
故に|桑田《さうでん》変じて海となるくらゐのことではなく、海が山になつたり、山が海になつたりする。|高山《かうざん》の頂きから貝の化石が出たりするのも、これらの傾斜運動によつて大地は常に変動しつつあるのを示すものである。
鳴門の水が、大地の中心に向つて注ぎつつあるといふことをも知らぬ人が多からう。富士山の爆発によつて、相模の国が出来、武蔵との間がつながつたのである。|天城山《あまぎさん》の爆発によつて、伊豆一帯の地が持ち上がつた。|蛭《ひる》ケ|小島《こじま》も湯ケ島も、もとは皆島であつたのでこの名が残つてゐるのである。
地文学も天文学も、|否《いな》それのみならず、政治学も、経済学も、教育学も|等々《とうとう》、諸種の学説が皆ひつくりかへるときが来るのである。神諭に「何もかも新つにしてしまふぞよ」とあるのがそれである。
世の立替立直しといふのは大望とあるが、すこぶる大規模なものであつて、殆ど人智の想像の範囲を絶してゐるものである。
[493]
武器を持たぬ神軍
昭和青年を結成したのは政治的野心があるのではない。皇道の本義と人類愛善の根本義によつて、あるひは国家のため、あるひは国防のために団体的に行動し舎身活躍するもので、平和のための神軍といふ意義によるものである。故に武器なども持たない。ただ団体的行動をなすには充分訓練して置かなくては役に立たないので、訓練を|喧《やかま》しういつてゐるのである。
[494]
満州と|宣統帝《せんとうてい》
満州にいよいよ新国家が樹立されて|宣統帝《せんとうてい》が立たれたが、満州には、どうしても|宣統帝《せんとうてい》を立てねばならない関係になつてゐる。これで|王仁《わたし》の年来の|素志《そし》が達せられたのだ。もちろん今後いろいろ紆余曲折があることは予想される。
[495]
人間の創造
神は、この宇宙を修理固成されるとき、先づ樹木を造り、それから人を造られたのである。人間は木から生まれさせられたのである。その|後《のち》|獣《けだもの》、|鳥《とり》、|魚《さかな》、虫の順序にお造りになつた。虫のごときは、|今日《こんにち》といへどもなほ木から【わか】して造られることがある。
いかなる島にでも人類が住んでゐるといふことは、神が|諸処《しよしよ》において木から人を造られたからである。神が土をもつて人間を造られたといふのは、神が先づ土をかためて木を生やし、それから人間を造られたのであつて、直接土から造られたといふのではない。土から木を生やし、木から人間を造られた、その間でも何百万年かかつてゐる。
[496]
女は神の傑作
神様は、すべての物を創造したまひしが、そのうち一番の傑作は女の肉体である。曲線美の柔らかい肉体、次が男の肉体、次が馬である。動物の中では馬が一番よく出来てゐるのである。それだから神様に馬はつきもので、何処のお宮にも|神馬《しんめ》といふものがゐるのである。
[497]
日本人種
|生蕃《せいばん》も|馬来《マレイ》人種も首とり人種である。日本人も|首級《しゆきふ》をとつて|主君《しゆくん》に捧ぐるのをもつて非常な手柄としてゐた。然しこれらは皆|馬来《マレイ》系なのである。古代においてこの|馬来《マレイ》系と|高加策《コーカス》系(素盞嗚尊の御系統)とが一緒になつて現在の日本人の容貌がつくり出されてゐる。歴史にある土蜘蛛人種といふのは|馬来《マレイ》系の人種をいふので、これは唇が厚い。|穴居《けつきよ》時代即ち土の中に篭もつて生活した【土ごもり】から土蜘蛛と転訛したのである。
[498]
宗教心
既成宗教は|王仁《わたし》も嫌ひであるが、だというて宗教を否定することは出来ない。
人間は本来宗教心といふものがあるので、|平生《へいぜい》神様は無いと主張する人たちでも、いざ大地震なぞとなると、誰でも神様の|御名《みな》を呼んでお救ひを求めるものである。
[499]
成功したる講演
講演が終はつて、パチパチと拍手喝采を受けるやうでは、その講演は決して成功したのでは無い。真剣に考へさせらるるとき、深く|己《おの》が|魂《たましひ》を|揺《ゆる》がすやうな|衝動《シヨツク》を与へられた場合には、拍手などする気になるものではない。神様の道を伝へて盛んなる拍手をうけるやうでは、まだ相手の心を根底から動かし得なかつたものと承知せねばならぬ。聴衆水を打つたるが如く|粛《しゆく》として声なく、終はつた|後《あと》もしばらくはボンヤリして為すところを知らず、全く感にたへたる有様になし得たとき、初めてその講演は成功したものといふを得るであらう。
[500]
忍術
霊界物語の中にも少し書いておいたが、忍術といふことは忍耐の術である。身には一丈くらゐの手拭ひと鋭利な|鎧通《よろひどほ》しを持つて、あるときは一週間くらゐ、屋根裏や水の中に飲食もせず咳払いもせずに潜み忍んでをるやうなこともある。かねて|五色《ごしき》の|布《きれ》を用意し、|白壁《しろかべ》にむかふときには白い布をはつて身をかくすのである。また四十里くらゐ一夜のうちに|歩《あゆ》くこともある。それには|歩《あゆ》き方があるのであつて、一方の肩に|二貫目《にくわんめ》くらゐの重さのものをつけて横歩きに|軽杖《かるづゑ》を持つて大地を蹴るやうにして歩くのである。横歩きは肩で風を切つて二間くらゐを三歩くらゐで歩く、|踵《きびす》がそれに都合よく出来てゐるのである。忍術をやるものは、ならした|鼠《ねずみ》を二三匹|懐《ふところ》に入れて、寝室を襲うたときにはその|鼠《ねずみ》を出して暴れさせ、よく寝入つてゐるか|否《いな》かを調べるのである。とにかく忍術は陰険なやり方で武術のうちでも|賎《いやし》しめられたものである。
[501]
猛獣と愛
世に猛獣使ひといふものがある。猛獣を猫の如くあしらふには、それを馴らすに種々の手段、方法が行はれる。だけれど、もしここに|些《いささか》の恐怖を感ずることなく絶対愛を注ぎ得る人がありとすれば、その人は何らの手段方法を用ひずして、容易に猛獣をも手馴づけ得るであらう。仁愛は世に一番強いものである。故に愛をもつて対すれば、いかなるものも従つて来るものである。猛獣などと愛の交流を行ふには【目】によつてするのである。万有愛の心を目に物いはせて【ぢつ】と見つめてをれば、|猛《たけ》り立つた猛獣もやがてだんだん|柔《やさ》しい目になり、つづいてその態度も全く柔順になり人間の思ふままになるものである。然し多くの人は恐怖と嫌悪とのため心が縮かんでしまつて、その余裕が無いから駄目である。|獣《けだもの》は正直であるから、【こちら】が愛に充たされて居りさへすれば、きつと受け入れるものである。
[502]
|勇往《ゆうわう》|邁進《まいしん》
|勇往《ゆうわう》|邁進《まいしん》、やりかけたら決して後へ引かぬといふのが|王仁《わたし》のモツトーである。道を行くにしても、一旦取つた道はかへぬ、後がへりをして他の方の道を取つたが遙かに近道であるにしても、矢張り|王仁《わたし》は一旦取つた道を行くのである。だから役員にしても任命した以上、|王仁《わたし》の方から取りかへたことはただの一度もない。それでなくては安んじて仕事をして行くことが出来ない。常に腰掛け的気分で仕事をするから成績があがらぬ。どこにも人事の異動が近頃はげしいやうであるが、|王仁《わたし》の思ひとは裏はらである。しかしながら今の人間は恩に馴れてよい気になる人が多いのだから、また止むを得ないかも知れない。
日本国は万世一系の天皇陛下を戴く尊い国柄であるが、日本臣民もまた同じく万世一系で、いや次ぎ次ぎに栄えゆきて、子、孫、曾孫とつづくのが目出度いのである。外国は禅譲、放伐、自由、協和、共産等の政体、日本は万世一系の大家族主義の国体である。
何か過失があると、すぐ逐ひ出してしまうて新しい人にかへるといふ思想、やり方は面白くない。これは外来思想である。やり方が悪くばよく言ひ聞かせて、改めさすやうにするのが家族主義のやり方である。
[503]
正直者日本
日本人は、個人としては権謀術数を弄してなかなか食へないが、さて国際問題となると馬鹿正直で|駆引《かけひき》など一向知らないで、思ふがままに外国から翻弄されてゐる。
これに反して外国人は、個人としては信用のある正直な人が多いが、|一度《ひとたび》国際問題となるや、あらゆる策を弄して国権の伸長を計る。日本と全く行き方が反対である。
[504]
不断の用意
|王仁《わたし》は他に宿泊する場合、必ずその家に|入《い》ると一番に家の様子を調べておく。非常口がどこにあるか、二階などに寝るときは窓の下はどうなつてをるか、|一朝《いつてう》ことが起こつたときにはどの方面からどういふ方法で逃れるかを、チヤンと見定め考へて、それから悠々座につくのだ。少しもそんな様子が見えぬといふのか、様子に出して調べるやうなことではアカンな。東から風が吹くときの火災に処して、この家としてはどう逃れるか、西のときにはどうするか、地震の場合にはいかになど、あらゆる場面を|咄嗟《とつさ》の間に決めてしまつておくのだ。自分の荷物がどこにあるかを忘れるやうでは到底駄目だ。|手提鞄《てさげかばん》の置場所などをかねて|喧《やかま》しくいふのは、間髪を容れざる瞬間に持ち出さねばならぬから、始終手許におけといふのである。
[505]
手の働き
|今日《こんにち》では人を数へるのに人口といつて口をもつて数へるが、昔は手をもつて数へてをつた。|今日《こんにち》でもある人をやり【手】などといふ。また人の無いことを【手】が足らないとか、【手】がないとかいつてゐるのである。
[506]
理智と感情
「感情は盲目である。冷静な理智がそれを監督するのでなかつたら、どんな所まで走つてゆくか分からぬ。感情にのみよつてことをする人は必ず家をやぶり身を滅ぼす」かういふ意味の論文を|王仁《わたし》は十四五歳の頃朝日新聞で読んだことがある。筆者は|宇都宮筑波野《うつのみやつくばの》と名乗つてゐた。|王仁《わたし》はこの論文がひどく気に入つて、そしてまたいたく動かされたものである。人は決して感情によつてことをしてはならない。必ず冷静な理智と相談してやらねばならないといふことは真理である。|王仁《わたし》は事業のために初恋を捨てた。それは実に堪へ難いものであつた。五十幾歳の最近まで思ひ出すと骨がうづいて来る。しかしながら|王仁《わたし》には重大なる使命があることをその頃からおぼろげにも知つてゐたので、事業と恋との岐路に立つて|王仁《わたし》は冷静なる理智の命ずるままに恋を捨てて、ひたすら仕事に猛進したのである。今の|王仁《わたし》は大神業といふものがある。この大神業遂行のためには、妻子を捨てることもさらさら|厭《いと》はぬのである。何物を捨てるのも|厭《いと》はぬのである。誰でも神業の前には総てを犠牲にする覚悟がなくてはならない。|情《じやう》において忍びないことは幾らもあるが、それを押し切る強い意志と聡明なる理智とがなくてはならぬ。
[507]
愛の力
|王仁《わたし》は牛乳屋をやつてかういふ経験を得た。牛乳を沢山搾取しようと思ふなら、牛を可愛がることである。可愛がつてやると牛は安心して喜ぶから乳が沢山出て来る。|王仁《わたし》は牛を可愛がつてやつたものだから、牛が慕うて|王仁《わたし》が行く所へ皆寄つて来て、|王仁《わたし》の体をゲタゲタ舐めたものだ。だから、|王仁《わたし》の労働服はいつもピカピカ光つてゐた。そのかはり他の人の搾るのよりも余程沢山とれた。
[508]
熱するといふこと
熱心といふことはよいことであるけれど、あまり物に熱すると物事は成就せぬ。|盛夏《せいか》の頃には|国華《こくくわ》たる桜花は咲かぬ。寒熱の度がその|宜《よろ》しきを得たるとき、|爛漫《らんまん》たる桜花が咲くことをよく考へるがよい。熱すればあつくなる、あつければ水をかけて冷ややさねばならぬ。宣伝するにも余り熱心すぎるとかへつて効果がない、ほどほどにせねばならぬ。|王仁《わたし》はかつて真つ向から神様のことを説いたことはない。けれどだんだん皆が信者になる。一時にあまり熱しすぎると、折角育つべきものを焼き尽くしてしまひ、あるひは直ぐ熱がさめて冷たくなる。そのやうなやり方では物は育たぬ。
[509]
個性
その人の全体をなす所の個性は、信仰による智慧によつてのみ矯正せらるるものである。信仰による智慧でなければ決して個性はなをるものではない。個性は霊界にも残つて行くもので、個性を洗練し養成するのが人間の肉体生活である。
仏教は個性を無視した霊魂不滅論である。例へば|莨《たばこ》を|燻《くゆ》らせば煙となり灰となつて、その|莨《たばこ》は何処かに残つてゐるといふのが仏教の不滅論である。これは個性を無視したものであるから真理ではない。
[510]
無我の境
|真《しん》の無我の境といふのは人間としてあるものではない。無我のやうな感じを起こすことはある。それはある事業に没頭して、それに一生懸命になつてをれば、他の仕事に対しては無我の境に|入《い》ることになる。しかし夢中になつてをるその仕事に対しては、決して無我ではない。精神統一といふが、これ又言ふべくして|出来得《できう》べきことではない。祝詞を奏上しながらもいろいろなことを思ひ浮かぶるのが本当である。鎮魂といふのは「離遊の|運魂《うんこん》を招いて|身体《しんたい》の中府に鎮める」ことであるから、いろいろの雑念が集まり来たるが当然である。その雑念は|罪障《ざいしやう》に対する回想や希望となつて現はれて来るもので、それを想ふのは、別に悪いことではない。
[511]
|隻手《せきしゆ》の声
禅学でいふ|隻手《せきしゆ》の声といふのは、あつて出さぬ潜む声を示したもので、両手あつてこそ音を出すことが出来るのである。左の手から【タ】の|音《おん》、右の手から【カ】の|音《おん》が出る。|高御産霊神《たかみむすびのかみ》、|神御産霊神《かむみむすびのかみ》である。かくして両手を|拍《う》てば【タカ】と発するのである。|隻手《せきしゆ》の声は【タカ】の|音《おん》をもつてゐるだけで聞こえぬ声である。また無理に|隻手《せきしゆ》の声を出さうと思へば、右手でも左手でもよい。頬をピシヤリと打つがよい、必ず|隻手《せきしゆ》の声がする。
[512]
|魂《たましひ》の入れ替へ
人間は誰でも毎日|魂《たましひ》を入れ替へてもらつてゐる。そのために善悪の|言心行《げんしんかう》となつて現はれる。改心慢心は|魂《たましひ》の|入《い》れ替はつてゐる証拠である。
[513]
祟り
昔亀岡のある家の主人が代々四十二歳になると死んだ。何かの祟りであらうと心を悩ましてゐた。あるとき一人の修験者がやつて来て、そのことを他家で聞いて、その家を尋ねて行つた。そしてその修験者が「貴方の家は、何時も御主人が四十二歳になると亡くなりますね」といつた。その家の主人は「どうしてそれが分りますか」といへば、修験者は「|法力《ほふりき》で判るのだ」と答へた。主人は是非長生きしたいと言うて相談した。修験者はそれには八百万の神仏を供養せねばならぬ。そのためにはあらゆる日本の神社仏閣を巡拝せねばならぬから、その旅費を出せといつたので主人は快く承諾した。そして修験者は何か書いて封じて、お|呪禁《まじなひ》といつて高い所に掛けて置いた。その主人は九十歳くらゐまで長生きし、そのまた息子もそれほど長生きした。その|後《のち》その孫に当る人が、近所にも短命な人があるので、人助けだと思つて彼のお|呪禁《まじなひ》にどんなことが書いてあるかと思つて、お|詫《わび》をしながら恐る恐る開いて見た。すると中には「本来無東西、何処有南北迷故三界城、悟故十方空」と書いてあつた。つまり悟るも迷ふも|心《こころ》一つ、祟るも祟らぬも|心《こころ》一つとの意味である。そしても一つの紙には「祟らば祟れ|家主《いへぬし》に」と書いてあつた。これを見た家の主人はびつくりして、ウンといつて死んで了つたといふ話がある。つまり神経を起こしたのである。世の中はまづザツトこんなものだ。
[514]
迷信
干支、|九星《きうせい》、家相、人相、手相、骨相など決して当てになるものではない。こんなに色々の種類があつて一致せないことを見ただけでも、すでに確実性がない証拠である。よく艮に便所を設けてはいかぬといふが、艮は太陽の上るところであるから、きれいにして置いた方がよいといふだけで便所などは成るべく目にたたぬ所に設ける方がよろしい。然し|造作《ざうさく》の都合でかかる迷信に囚はれてはいけない。|年廻《としまは》りや月日が悪いなどと気にするやうでは、すでにその迷信に征服せられてゐるのであるから、悪く現れて来るやうになる。この広い天地に|生《せい》を享けて、自分から日の吉凶を気にして、自らを束縛して窮屈に渡世するほど馬鹿らしいことはない。|王仁《わたし》は|今日《けふ》までいつも世間で|年廻《としまは》りが悪いといふ年ほど結構な仕事が出来てゐる。月も日もその通りである。
[515]
祖先の命日と死
祖先の命日などによく人が死ぬものだが、これは|悪霊《あくれい》になつた祖先の霊がひつぱりに来るのである。ひつぱりに来るやうな霊はもちろん天国へなど行つてはゐない。天国にゐる霊は、天界の仕事が忙しいので、特別の場合以外は子孫を守りきつてゐるものではない。もちろん天国に昇れない祖霊などに子孫を守護する力などはない。それ故、どうしても祖霊を|復祭《ふくさい》し、神界に復活するやうにしなければならぬ。
[516]
|瓢《ふくべ》と水の|藻《も》
今日の世の中は火の神の活躍時代である。電気でも、蒸気でも、今日の交通機関、軍器等一切火の力によつて出来てゐる。
|秋葉《あきば》神社の御神体である|瓢《ふくべ》は水を汲むもので、火を消すために用ひるのである。水の|藻《も》と|瓢《ふくべ》とで火を消すのである。水の|藻《も》は水底に生えて居つて、人の目につかぬものである。つまり表面に立つての活動ではない。とも角、古事記の解釈は今日のところ、スリ|硝子《がらす》を|透《とほ》して見るごとく、ぼんやりとしか説かれないのである。
[517]
樹木
太古、日本には|雑木《ざふき》ばかり生えてゐたので、素盞嗚尊が朝鮮より、桧、松、杉、|槙《まき》等の|種子《たね》を持つて帰られて植ゑられたのが、現在のやうに繁殖したのである。
[518]
シオン運動とモーゼの裏十戒
シオン運動と大本とは決して同一のものではない。またモーゼの裏十戒などといふが、そんなものは怪しいものだ。
[519]
ヨハネ伝
今日の牧師に一番惜しむべきは、ヨハネ伝福音書の第一章が真解出来ぬ所にある。「|太初《はじめ》に|道《ことば》あり、|道《ことば》は神と|偕《とも》にあり、|道《ことば》は即ち神なり」とあるが、言葉即ち道は充ち満つるの意味で高天原のことである。この天地は|言霊《ことたま》の幸はふ国で言葉は即ち神である。祝詞や祈りの|言霊《ことたま》によつて、よい神が現はれるのである。声の澄んだ人ほど|魂《みたま》はよい。
[520]
爆弾三勇士
身をもつて鉄条網を爆破した爆弾三勇士はもちろん天国に行つてゐる。肉体は四散したが、一時間もかかれば霊身は元通りになる。|大君《おほきみ》のため国家のため善と信じてやつたことだから、その想念において天国に復活し得るのである。
かくして死んだ人は霊界に|入《い》つて|軍《いくさ》の神となり、いよいよますます|君国《くんこく》のため活動するやうになる。また霊界にかかる勇士が増加すれば、その守護をうけて現界の軍人もいよいよ活発なる行動をとるやうになる。
|真《しん》に善と信じてやれば天国に行けるし、悪いと承知しながら悪いことをやれば、|自《おのづか》ら地獄に墜ちざるを得ない。
[521]
弘法大師
弘法様、お大師様といつて、弘法大師を余程偉い坊さんかのやうに思つてゐる人が沢山あるが、弘法はそんな偉僧でも傑僧でも決してなかつた。今でも各地に弘法にまつはる奇蹟や伝説が残されてあるが、あれは後世の人たちの作りごとに過ぎない。結局、|後人《こうじん》が弘法をまつり上げて偉くしてしまつたのである。
[522]
|仏足頂礼《ぶつそくちやうらい》
釈迦が|成道《じやうだう》して山を出で、父|浄飯王《じやうばんわう》に会見したとき、王は|仏足《ぶつそく》を頂いて|礼拝《らいはい》したと記されてゐるが、それは実際に親への孝行であつて、永年の修行によつて得た霊徳を父に贈与する最もよい方法であつたのである。元来霊気は四肢の指先において最も多く放射するものである。特に足の指先が一番多く霊を放射するのであるから、釈迦が足を父の|額《ひたひ》につけて、先づ一番に父に霊徳を|頒《わか》たんとしたのである。満【|足《ぞく》】したといひ、【足】らふといひ、円満具【|足《そく》】といひ、皆足の字がつくのはこの理由から来るのである。
[523]
かみなが(髪長)
かみながとは僧侶の異称である。日本は神国であつて、かみなしといふことを忌むところからさういふのでこれは|斎宮《いつきのみや》の|忌詞《いみことば》である。
[524]
そめがみ(染紙)
そめがみとは仏教の経文のことである。由来経文は|色紙《いろがみ》に書いたところからさういふのでこれも|斎宮《いつきのみや》の|忌詞《いみことば》である。
[525]
|八十平甕《やそひらか》
俗にカワラケまたはオヒラといふ|八十平甕《やそひらか》は、素盞嗚尊様が信州の|皆神山《みなかみやま》の土によつて|創製《さうせい》されたものである。今なほ神様に素焼を用ふるのはこの流れを汲むものである。|八十平甕《やそひらか》を素焼といふのは素盞嗚尊様の|素《す》といふことであり、|素《す》とはモトといふことである。
人間の素性、素直、素顔、素ツ破抜く、|素町人《すちやうにん》、素つ裸の初めに|素《す》のつくのは、皆これに基づくのである。
[526]
寺といふ|言霊《ことたま》は、照らす、照らし合はすといふ意味である。昔は坊さんが専ら戸籍や教育の方面を受け持つてゐた関係上、一度他国へでも行くときには、一々坊さんの許可を得、宗旨帳即ち現今の護照を持つて関所を通過したものである。今の坊さんは葬式専門のやうになつてゐるから、寺といへば皆死んだ人の行く所とばかり思つてゐるが、死んでゆく所は墓である。寺はまた死んだ霊魂を照らして極楽へ救うてやる所である。
今の日本の神社は古代の寺のやうなものである。
[527]
出雲言葉
出雲の言葉は、今では出雲地方独特のものとされて一般にさげすまれ|嘲《あざけ》られてゐるが、これが|神代《かみよ》の言葉を多分に含んでゐる。霊界物語第四巻に|神代《かみよ》言葉として示して置いたものに、よく似た所のあることを悟ることが出来るであらう。コーカス民族であつたものが勢力を拡大して彼らの言葉を、正しきものとして使用するやうになつたため、出雲言葉が次第に衰へて了つて今日のやうになつたのである。
[528]
原始時代の貴重品
人智の|未《いま》だ進まなかつた原始時代には、鉱石は沢山あつても鍛冶屋が無かつたから、|天《あめ》の|目一《まひと》つの神様が一人コツコツと、|香具山《かぐやま》の|真鉄《まがね》や|銅《あかがね》を掘り出して、鏡を打ち、|剣《つるぎ》を鍛へられたのである。故にその頃、|菜刀《ながたな》のやうな|剣《つるぎ》でも、男子の攻防の武器として尊重されたのである。女は美の権化と言はれ、生まれながらに自然の美が備はつてゐるが、昔といへども現代の如く時代相応に化粧をほどこし装ひをこらしたものである。然し高貴の人を除く他、化粧するに鏡は用ひなかつた。鏡はただ国の|宝物《はうもつ》として存在したのである。鏡は女の|魂《たましひ》などと言ふのは、後世に至つて出来た言葉である。
また|勾玉《まがたま》は、男女共に首に飾り、腕に巻き、腰に|纏《まと》ひて、もゆらにとりゆるがして美を添へたものである。然し現代の如き宝石類ではなく、自然に穴が出来た石を連ねたものである。
[529]
|行《ぎやう》
昔名僧|智識《ちしき》が、|旱天《かんてん》に雨を乞ふため、七日七夜の|行《ぎやう》をしたとか、また何かの祈願のため、|三七日《さんしちにち》の|行《ぎやう》をしたとかいふが、それは何度も度数を重ねることによりて霊力の充実をはかるのである。頼りない話である。
[530]
火渡りの道
火がドンドン燃えてゐる中を、平気で渡つて行くのはずいぶん熱いやうに思はれるけれど、それは歩きやうによるのである。松、杉を燃やして炭火となつた所に、清めるといつて塩を|撒《ま》いた跡を歩いてもさう熱くない。ただ火の中に入るときと出るときは、空気との接触が多いから熱いので早く歩かねばならぬ。手に|苦塩《にがり》を充分つけて、焼けた火箸をしごいてもたいした火傷はしない。然しその火箸は鉄に限るのであつて、|真鍮《しんちう》ではいけない。
[531]
|比礼《ひれ》
鎮魂に関する|十種《とくさ》の|神宝《かむだから》の中に、蜂の|比礼《ひれ》、|大蛇《をろち》の|比礼《ひれ》、|品々物《くさぐさもの》の|比礼《ひれ》といふのがある。|比礼《ひれ》といふのは、あの水兵帽の後ろについてゐるビラビラしたリボンのやうなものであつて、|大蛇《をろち》の|比礼《ひれ》は|大蛇《をろち》を払ふもの、蜂の|比礼《ひれ》は蜂を払ふもの、|品々物《くさぐさもの》の|比礼《ひれ》は総てのものを払ふもので要するに|御幣《ごへい》見たやうなものである。
[532]
托鉢と巡礼
仏教の托鉢は印度の乞食の真似である。仕事もしないで、あんなことをやつてゐるのは宗教の害毒である。キリスト教徒のエルサレムの巡礼なども同じである。日本神国にはふさわしいものではない。
[533]
|黄金閣《わうごんかく》の|瓢箪《へうたん》
|黄金閣上《わうごんかくじやう》の|瓢箪《へうたん》は|日月星《じつげつせい》を表はしたものである。日は一番下の|膨《ふく》らみ、月は中段の丸味、星は口のところにあたるのである。
[534]
マリヤ観音
|月宮殿《げつきうでん》の境内にある観音はマリヤ観音といひ、|輪王姫《りんのうひめ》の霊である。|輪王《りんのう》といふのはマリヤと同意義である。
[535]
|紙雛様《かみびなさま》と兜
|王仁《わたし》は昭和六年の春頃からお雛様と五月節句の兜の絵をしきりに|描《か》いた。兜は戦争が始まるといふ神様の謎のお示しであつて、お雛様は満州に|溥儀《ふぎ》執政の立たれる謎の予告である。|男雛《をとこびな》さんは今までの型をやぶつて袖をちよつと折つて|女雛様《をんなびなさま》を抱擁してゐる姿である。日満の関係を予告された神様の謎である。私はこれを【エロ】|雛様《びなさま》と名づけたが、そこにも神様の謎がある。日満の抱容帰一をエロ関係に象徴せられたのである。
[536]
君子は豹変す
「君子は豹変す」といふ言葉があるが、|豹《へう》といふ|獣《けだもの》は獲物が近づいて来るまで、極めて静かに、極めて柔和に猫のやうにしてゐるから、親しみ易く近づき易いが、いよいよ接近して来たとき、突如として攻勢に出る、全く態度一変するのである。これを豹変といふのである。
[537]
女性の功徳
仏法が|今日《こんにち》まで命脈を保つて来たのは、観音があつたお陰である。キリスト教が|今日《こんにち》まで伝はつてゐるのも、マリヤといふ女性があるからであり、神道においても天照大神あるために続いてゐるのである。
大本においては|金勝要之神《きんかつかねのかみ》、|木花咲耶姫《このはなさくやひめ》が出現されてゐる。すべて美人の女神ありしために既成宗教も|今日《こんにち》まで存してゐるのである。
[538]
ナヒモフ号の金塊
ナヒモフ号の金塊引き揚げに関して、世間が大分騒いでゐるやうだが、あの金塊といふのは確かに有ることはあるのである。
|昨夜《さくや》(昭和八年三月一日)|王仁《わたし》はわざわざ霊体をもつて実地見聞に行つて来た。遮断されたる一室に積み重ねられた箱の中に、|燦爛《さんらん》たる光を放つて、それが現存するのであるが、そのとき|王仁《わたし》はそれと同時にいと恐ろしい光景を見せられた。
船と運命を共にした人たちの亡霊が|我利坊子《がりばうし》となつてその金塊を守つてゐる。責任観念と執着との一念凝つた亡霊の姿は見るも凄まじい状態であり、霊体をもつて覗きに行つた|王仁《わたし》の姿を見ると、|猜疑《さいぎ》と嫉妬の|眼《まなこ》を見張り憤然と迫つて来た。|王仁《わたし》は急いでそこを立ち退いたが、彼らはあくまで追撃して来た。
あの金塊がもし完全に引き揚げられたとしても、その後の悶着は恐るべき状態であらう。奪ひ合ひのため、血を流すやうな惨事も起こつて来るであらうし、幾多の犯罪も構成されて、監獄へ入る者もあらう。霊的のことを知らぬ世間は呑気なもので、ただ利欲のために目を光らせてをるのであるが、引き揚げた金塊は彼ら露国の将士の亡霊を|弔《とむら》ふためや慈善事業等に使用されるべきもので、彼らの意志に反して勝手に使用などしようものなら、どんな凶事が|出来《しゆつたい》せぬとも限らぬ。
神様はそれが、死者の墓を|発《あば》いて指輪をとり、入れ歯の|金《きん》をとるに等しい行為だと申されてゐる。
|王仁《わたし》はただ覗きに行つただけでその夜ひどい苦しみにあつた。
[539]
湖水
湖水といふのは噴火口に水の溜つたものである。だから琵琶湖でも、|芦《あし》の|湖《こ》でも、皆噴火口に溜つた水である。噴火口で無いものは池といひ、沼といひ、|潟《かた》などと称する。大きいから湖水といふのではないのである。
[540]
亀ノ瀬の地質
大阪府下亀ノ瀬付近一帯は|地辷《ぢすべ》りで有名になつたが、あの辺は|太古《むかし》は海だつたところである。今でも地底に空虚の所があり、従つて地盤が柔らかくゆるんでゐるから、それで今度のやうに陥没や|地辷《ぢすべ》りをするやうになつたのである。今のうちこそ徐々に|地辷《ぢすべ》りしてゐるが、やがて一度に陥没する|惧《おそ》れがある。この事件については、昭和六年の二月号の『神の国』誌で
西東その方角はわからねど
気をつけてゐよ大和国人
といふ歌を発表して予め警告しておいたはずである。然しこんなことは亀ノ瀬だけではなしに、今後世界の各地に、|殊《こと》に日本にも沢山出てくるものと思はなくてはならない。
[541]
猛犬シーゴー
犬と狼の混血児がシーゴーである。本当のシーゴーは高価でなかなか手に入らぬ。普通シーゴーというてゐるのは、シーゴーの子即ち狼の孫に当る犬である。交尾期が来ると狼の|雄《をす》の方から出て来たり犬の|雌《めす》の方からいつたりする。然しその時期がすむと職務を全うしようとして犬は、牛、馬、羊などを守り、もし狼が襲ふやうなことがあれば一生懸命これを守り噛みつきもする。
[542]
比叡山
比叡山は【|冷《ひ》え|山《ざん》】の意である。それで比叡山からが山陰道に属するので、亀岡は山陽道の気候である。支那の|叡山《えいざん》に似てゐるから、それに比して比叡山と名づけたといふ一説もある。
[543]
強がる人
弱い人に限つて肩など|怒《いか》らして強がるものである。彼はもはやあるたけの力をそこに集めてゐるのであるから、力が尽きてゐて、一つ突きとばせばすぐ倒れるし、また|大喝《たいかつ》|一声《いつせい》すれば直ちにくづをれてしまふものである。少しも力を|入《い》れず、いつもぐにやぐにやしてゐる|奴《やつ》は一番おそろしい。どれだけ力が出て来るか分からないから。
[544]
数字の頭
|大祥殿《たいしやうでん》の|衝立《ついたて》に「四海五湖龍世界十州三島鶴乾坤」と書いたが、これを見て、四つの海とは何と何とであるか、五つの湖とはどれどれであるかなどと尋ねる人がある。あれはもちろん特定の|山野河海《さんやかかい》を示したものではない。とかく今日の人間は計算的の頭ばかりがよく働く。今の学者も裁判所もあまり数字にとらはれすぎる。
[545]
|舎利《しやり》
|舎利《しやり》といふのは骨ではない。玉のやうなもので、必ずしも信仰なくとも徳のある人には出来るものである。徳によつて一つ二つあるものもあれば、二十三十と出る人もある。多い人は|身体《からだ》を手で撫でても分かる。
精神的に一生懸命働くものに出来るのであつて、精神の凝結したものといふことが出来る。人によつて顔や|喉《のど》に出来るものであるが、手を使ふ人は手に、足を使ふ人は足に出来るのが普通である。
[546]
|武家人《むかで》
|江州《がうしう》|三上山《みかみやま》は|一名《いちめい》むかで山と言つてゐる。そして|蜈蚣《むかで》が|七巻半《ななまきはん》してゐたのを、|俵藤太秀郷《たはらとうたひでさと》がこれを平らげたといふ伝説があるが、|蜈蚣《むかで》といふのは、|武家人《むかで》といふ意味で、|武家人《ぶけにん》のことであり当時の|軍人《いくさびと》のことである。沢山の人を使用するときには、あの家は手が多いとか、あの人は【やり手】ぢやとか、手が無いとかいふ如く、手といふ意味は人のことである。その|武家人《むかで》が「|七巻半《ななまきはん》」してゐるといふことは、すこぶる沢山に、|十重《とへ》にも|廿重《はたへ》にもするほどゐたといふ意味である。
[547]
|葛《くず》の葉の|子別《こわか》れ
狐が恩義に報ゆるため、仮に人間の女と身を変じ、夫婦の|契《ちぎり》を結び、子までなしたる仲なれど、|情《なさけ》なや秘したる身の素性を|見露《みあら》はされ、
恋しくば尋ね来て見よ|和泉《いづみ》なる
|信田《しのだ》の森のうらみ|葛《くず》の葉
と一首の歌を書き残して元の古巣に逃げ帰つたといふ、哀れにもグロテスクな物語は、誰知らぬもののない有名な話であるが、|葛《くず》の葉と名乗る女は決して狐の|変化《へんげ》では無いのであつて、実は○○の娘なのである。差別思想のはなはだしい時代の出来事なので、狐といふことにしてしまたのである。
[548]
|児島《こじま》|高徳《たかのり》
|児島《こじま》|高徳《たかのり》の事蹟といふものは、どうもハツキリせないので、|重野《しげの》博士によつて抹殺の|厄《やく》に会つたこともある。実在の人であつたことは間違ひのないことであるが、外来人であつた故につひに世に|顧《かへり》みられなかつたことを感じさせられる。
[549]
|月宮殿《げつきうでん》の仁王様
|櫛岩窓《くしいはまど》の神、|豊岩窓《とよいはまど》の神の|二神《にしん》即ち|月宮殿《げつきうでん》の仁王様といふは、|天真坊《てんまばう》、|天道坊《てんだうばう》である。熊本に在つて、とうから天恩郷に来たいと願つてゐたので、たまたま熊本に行つた|寿賀麿《すがまる》にかかつたものだから、彼は長い間病気になつてしまつた。願ひ叶つて天恩郷に来ることになつてから|寿賀麿《すがまる》の病気はケロリと治つてしまつた。熊本にゐたときは難しい顔の仁王様であつたが、|月宮殿《げつきうでん》に納まつてから、ニコニコ顔に変じたと皆がいふ、さうのやうだ。|王仁《わたし》はこの仁王様のことはとうから知つてゐた。これまで何度も出て来たのだ。初めてかかつて来たときは|王仁《わたし》も病気した。それは|王仁《わたし》が横須賀に行つたときのことで、元来|天真坊《てんまばう》、|天道坊《てんだうばう》の|二神《にしん》は、長く外国に行つて居られたもので、軍艦榛名に搭乗して帰つて来られたものである。
[550]
水も漏らさぬ経綸
大望、大望と御神諭にある艮の金神様、三千年あまりての御経綸の幕も切つて落とさるる時機は次第に近づきつつあるのであるが、この大神業は人間の想像の範囲を脱した目覚ましいものだと考へらるる。「このことを知りたものが世界にたつた一人ある。知らすと出口直でもあまりの驚きと嬉しさとに【つい】口外するによつて知らせてない」と申されてゐる……。
|王仁《わたし》はかつてわづか|金《きん》五十銭をもつて|金竜殿《きんりうでん》建築に着手したのであるが、|周山《しうざん》の山奥でふと得たヒントは|王仁《わたし》をしてミロク殿、|黄金閣《わうごんかく》と、次へ次への建築を成就さす動機となつた。|王仁《わたし》が山の|辺《へ》に立つて一服してゐると、|樵男《きこり》たちが杉の丸太を|伐《き》り出して|筏《いかだ》とすべく下へ下へと流してゐる。流すといつてもチヨロチヨロとした細い渓流で、太い|箸《はし》を流すにやつとくらゐの水量である。どうして太い丸木を流す力などあるもので無い。そこで見てゐると、|樵男《きこり》たちはその渓流に一つの|堰《せき》を造つた。だんだんと水が溜つて|杉丸太《すぎまるた》を|泛《うか》べるによい量となると、やがて材木を転がし込む。そして一度に水を切つて落とすと、|迸《ほとばし》る|水勢《すゐせい》によつて丸太は勢ひよく流れ出す。かくて一本二本と流し、かなりの|数《すう》に達したとき、また第二の|堰《せき》を切つて落とす。かくの如きものを度重ねてつひに本流にと流し出し、そこで|筏《いかだ》に組んで悠々たる|大河《おほかは》へと運び出す。|箸《はし》を流すにも足らぬチヨロチヨロ流れも、【溜めて】置いて【切つて落とす】ときは|優《いう》に大きな材木を流し出す力となる。これだ、|王仁《わたし》はかうしたことに教へられて、彼のかなり大きな建造もまた他の多くの仕事も易々とやつて来た。
だがさうした仕事は艮の金神国常立尊様の御経綸に比較すると、実に|千万牛《せんまんぎう》の|一毛《いちまう》にも|値《あたひ》せぬことである。【一度あつて二度無い仕組】とたびたび神諭に出てゐるが、例へば三千年かかつて溜めた大きな湖水のやうなもので、いよいよ切つて落とさるるといふことになると、その勢ひの猛烈さは想像の他にあるでは無いか。しかも一度切つて落とされたら最後、溜めるのにまた三千年かからねばならぬわけである。だから一度あつて二度無い仕組と申さるるので、この水溜りたるや、ちよつとも漏らされぬ仕組、即ち【水も漏らさぬ仕組】なのである。
三千年というても実数の三千年では無い、何十万年といふ遠き|神代《かみよ》の昔からの|経綸《しぐみ》であるといふことは、たびたび神諭や霊界物語によつて示されてゐる通りである。大本の神業は日に月に進展して、今や全世界にその福音が宣べ伝へられつつあつて、その偉大なる仕事は世人の注目の焦点となつてゐる。だが、それも|御経綸《おしぐみ》のほんの一部にしか過ぎないので、此処に水溜りがあるといふことを知らすためのほんの漏らし水である。
神様の御仕事の広大無辺なることは人間に分かるものでは無いのであるから、彼れこれ理屈をいはずに、神様に従つて信仰を励むが一等である。
太平洋の中央には深い溝が|穿《うが》たれてゐて大きな|烏賊《いか》が住んでゐるが、その|烏賊《いか》の大きさは直径が三里もあるのである。足の長さは一里にあまり、時々水面に浮かび出て大なる漁船などを足でからんでグツと引き込んでしまひ、悠々海底に沈んで御馳走にありつくのである。|海竜《かいりう》が現はれたなどといふのは、実はこの|烏賊《いか》の足なのである。かういふことを聞いても世人はなかなか信用すまいが、事実である。古事記の|八岐大蛇《やまたをろち》の|項《かう》を読んで見ると
「その眼は|酸漿《ほほづき》の如くに|紅《あか》く、身一つにして頭と尾は八つに|岐《わか》れ、身には【|苔《こけ》】、【桧】、【杉】の木など生ひ茂り、長さ|谿八谷《たにやたに》、山の|尾八尾《をやを》に亘り、その腹はことごとくに常に血|爛《ただ》れたり云々」
とあるが、背に木の生えた動物なんか少なくないので、大地は生き物であると昔からいふが、大きな陸地だと思うてその上に生まれ、その上に住み、その上を耕し、しかしてその上に墳墓を築いてゐると、実は一つの大きな動物の|背《せな》の上であつたといふ、お伽噺のやうなことが事実となつて現はれて来ないとも限らない。いや実際さういふ動物が何千年もねむつたやうにじつとしてゐて、一つの大きな島だと思はれてゐる動物がをるのである。人間の頭にわいた|虱《しらみ》はそこを安住の地としてそこで生き、子を生み、子孫永久の繁殖を願うてゐる。それが人間といふ一動物の肉体の一部分であると考へないと同じことである。かういふ大きな動物が動き出したら、それこそ大変である。世の切り替へのときには、どういふことが起こつて来るかも分からないのである。
[551]
世の大峠と信仰
神様は人間を神に似せて造り給うた。然るに国祖御隠退以後の世界は、|八頭《やつがしら》|八尾《やつを》の|大蛇《をろち》や|金狐《きんこ》の|悪霊《あくれい》、|六面八臂《ろくめんはつぴ》の邪鬼のすさびに犯されて、だんだんと神様と離れて悪魔に近い人間になつてしまつた。人道日に|廃《すた》れ、世のため人のため、国のためなど考ふるものはなく、ひたすらに私利私欲にのみ|耽《ふけ》る世の中になつてしまつた。このままで進んでいつたならば、世界も人類も滅亡するより他は無い。これはどうしてもここに一大転換が来て、全人類が回れ右を断乎として行はなければならないことになるのである。悪魔を離れて神様に向はなければならないときが来る。かかる転換の|期《き》に当つて、人類はかなり重大なる苦しみ|艱《なや》みの上に立たせらるることは必然である。日常神を信じ神に従ふ大本の信者の上にも同じ|艱《なや》みは落ち来たるのである。大本信者のみが独りこの苦しみを|脱《のが》れて、特別の場面に置かるるやうな虫のいい考へをしてゐたものも往々にして昔はあつたが、さういふわけには行かぬ。ただ|真《しん》の信仰にあるものは、かかる際神様にお|縋《すが》りすることの出来る強みをもつてゐる。そして常に教へられつつあつたことによつて、先がいかになり行くかの見当をつけることが出来る。この二つの信念のため、ただ自己をのみ信ずる無神無霊魂者より、遙かに|容易《たやす》くこの難関を切りぬけることが出来るのである。
人間の力をのみ頼みて生活しつつある人々が、|人力《じんりよく》をもつていかんともすることの出来ない事実に遭遇するとき、その|艱《なや》みや名状すべからざるものがあらう。
人間は造られたるものである。造り主たる神様の御意志にしたがつて行動してさへをれば、間違ひないのである。来たらむとする大峠に際し、信仰無き人々をそぞろに気の毒に思ふ。
[552]
現はれかけたミロク様
今やミロクの大神様は地平線上に現はれ給うて、|早《は》や肩のあたりまでを出されてゐるのである。腕のあたりまでお出ましにならねば、本当のお働きは出来ぬのである。腕は力の象徴である。
[553]
神への恋愛
信仰は恋慕の心であるといふことは|予《かね》て霊界物語その他で示されてゐるが、その恋慕の程度のいかに切実なるものあるかを多くの人は知らない。これを一つの理想くらゐに考へてゐるのだから駄目である。そんなものでは無い。|渾身《こんしん》の真心を捧げて神様に溶け入るとき、それは相愛の男女の抱擁に幾十倍するか分からぬほどの心からなる幸福を享受するのである。天消地滅どころのものでは無い。実際筆や言葉ではいひ現はすことが出来ない|底《てい》のものである。思うても見よ、相手は至純至美なる神様である。純潔なる処女を形容して天女のやうだとよく人がいふが、どうしてどうして比較にも何にもなつたものでは無い。|現世《うつしよ》の美と天界の美とは標準が違ふ。|一度《ひとたび》天人、天女の|相貌《さうばう》に接したものは、現界に於けるどんな美人を見ても美男を見ても、美しいとは感じられない。それはあたかも太陽の前の電灯のやうなものである。また美女の形容に、竜宮の乙姫様に|金覆輪《きんぷくりん》をかけたやうな美人などといふが、天人界に比ぶれば、竜宮界の美女たちはその気品において遠く及ばないものがある。天人界は実に実に美しいものである。再びいふが、信仰の極致、神様に溶け入るときの心境は、言語に絶した至善、至美、至貴なるものである。その心境を味ははねば徹底したる信仰とは未だいひ得ないのである。
[554]
身魂磨き
大本に来て修行してゐると、年を経るに従つて、だんだん何も分からなくなるし、そして|吾《われ》も|他人《ひと》もの醜さが目について、現界に活動してゐたときよりも遙かに汚く、悪くなつたやうな気持ちがするといふものがあるが、それはそのはずである。なぜなれば神様が一生懸命、|各自《めいめい》の身魂を磨いて下さつてゐるからである。
彼の|研師《とぎし》が|剣《けん》を|研《と》ぐ様を見よ、|砥石《といし》にかけて練磨するとドロドロの汚物が出て来る。|剣《つるぎ》そのものもまた汚物に|汚《よご》れて全く光を失うてゐる。だが磨き上がつて|研師《とぎし》がサツと水を掛けると、三尺の|秋水明《しうすゐめい》|晃々《くわうくわう》として鉄をも断つべき名剣となるのである。その如く、皆も身魂磨きが終はつて、サツと神様から水をかけて頂くと、自分では思ひもかけぬ働きが出来るやうになつて来る。水をかけて頂かねば何も出来はせぬ、せいぜい磨いて頂くほど結構である。
[555]
差し添への|種《たね》
お筆先に
|灯火《ともしび》の消ゆる世の中今なるぞ
さし|添《ぞ》へ到すたねぞ恋しき
とあるのは、|法灯《ほふとう》|将《まさ》に減せむとするときに当つて、油を差しそへてそれを生かす|種《たね》が欲しいといふことで、【たね】はまた|種油《たねあぶら》に通ずる。バイブルにアブラハムとあるのは油の|王《きみ》といふ意味で、油は即ちアブラに通じ、ハムは|汗《ハム》である、また|藩《ハム》である。
[556]
|盤古《ばんこ》について
|盤古《ばんこ》は支那の祖先神で、支那においては日本の国常立尊に相当する神様である。この神様は元来良い神様なのだが、|贋盤古《にせばんこ》が出て悪を働いたので、|盤古《ばんこ》まで|悪神《あくがみ》のやうに思はれるやうになつたのである。
昔、|四方《しかた》|春蔵《はるざう》に|憑《うつ》つてゐたのなどは|贋盤古《にせばんこ》の方である。
[557]
|天書《てんしよ》
|天書《てんしよ》とは星のことである。|天書《てんしよ》を読めば来たるべき世の推移が分かる。今の世は星がだんだん|下《さが》つた如く見ゆる、そして光を失つてゐる。人の心が|正《まさ》にそれである。星と人とは相対関係がある。だから有為の|材《ざい》の会合などのことを諸星集まるといふのである。|月宮殿《げつきうでん》のあの石畳は|王仁《わたし》が寝て|空《そら》を眺め、|天書《てんしよ》の意を悟るために予め造つておいたのだ。読む方法を教へよといふのか。それは難しい。第六感、第七感以上の働く人でなくては分からぬ。人事上に起こつて来ることなどは皆|天書《てんしよ》に書いてあるから前から分かつてゐる。|王仁《わたし》はこの|天書《てんしよ》を読むことが一番楽しみだ。
[558]
神がかり
|正神《せいしん》が|来格《らいかく》されるときは前額部に暖か味を感ずる。背後から来る霊は邪霊である。邪霊が来るときはゾツと寒気を催す。祖霊でも地獄におちたものが来るときは冷たい感じがするものである。
[559]
神様と味はひ
書は|言《げん》を|竭《つく》す能はず、|言《げん》は意を|竭《つく》す能はず、意は|真《しん》を|竭《つく》す能はずといふことがある。意に|竭《つく》す能はざるところに神の権威があり、また真理がある。神は説明することは出来ぬ。あたかもボタ餅がうまいといつても、どんなに|甘《うま》いといふことは、|味《あぢは》はぬ人に説明することが出来ないやうなものである。
[560]
ハルナ
『霊界物語』に出てゐるハルナといふのは、印度のボンベーのことである。|言霊《ことたま》でいへばハルは東、ナは地である。
[561]
「ム」大陸は|黄泉島《よもつじま》
去る頃の大阪毎日新聞に、イギリス人チヤーチ・ワード氏の長年の研究によつて最近驚くべき大平洋の秘密が白日にさらけ出された。それは人類文明の発祥地は大平洋の真ん中で「ム」と名付ける大きな大陸が横たはつてゐたが、今から一万三千年前、六千四百万人の|生命《せいめい》を載せたまま噴火と津波のため海底に陥没してしまつた。そしてここから|伝播《でんぱ》したのがインドの、エヂプトの、マヤの、インカの文明である。……中略……ム大陸は東西五千マイル、南北三千マイル、ハワイ島が北方の、タヒチ島、マインガイア島あたりが南方の、イースター島は東方の、ラドロン島は西方の残骸なのである。……下略……とあるのは霊界物語中に示された|黄泉島《よもつじま》のことである。
第九巻総説歌に
−前略−
大平洋の真ん中に
縦が二千と七百|浬《り》
横が三千一百|浬《り》
|黄泉《よもつ》の島や竜宮城
−下略−
とあるのがそれである。また第十二巻「航空船」といふ章には沈没の有様が書かれてある。
[562]
神といふ言葉
神は|隠身《かくれみ》、|幽身《かくりみ》の意で、また【かもす】、【むすびの】意でもある。
すべて万物は|氤〓《いんうん》|醇化《じゆんくわ》のはたらきによつて出来るので、|〓醸《うんじやう》さるることによつて|黴《かび》が生え|黴菌《ばいきん》が生ずるやうなものである。
神といふ字は、元来|衣偏《ころもへん》に申を書くのが本当である。申は|金《きん》を意味する、即ち神といふ字は|金衣《きんい》を着てゐられることである。
|佛《ほとけ》といふ字は「人に|非《あらず》」と書いてあつて、凡人にすぐれた|覚者《かくしや》の意である。また|佛《ほとけ》の意味は解ける、即ち解脱したことをいふのである。今日の|佛《ほとけ》は全く|人偏《にんべん》に|弗《どる》となつてしまつてゐる。
[563]
信じきること
神の教へをする道場は|八衢《やちまた》である。ここで神の話を聞いて神の国に昇ることになる。神による心は即ち天国である。天国は意志想念の世界であるから、たとへ間違つて居つても信じきつてをれば、その信じた所に|魂《みたま》が行くから、それ相当の天国に行くことが出来る。どんな教へを聞いても、本当かどうかと疑ひ迷うて居つては、天国に|赴《おもむ》くことは出来ない。浅い信仰や間違つた信仰を持つた人は、霊界に行つて初めてそれと気がつくのである。いかに徹底した教へを聞いても、何処かに腑に落ちぬ所がありながら信仰してゐるのでは、死後|八衢《やちまた》に|赴《おもむ》き、また迷信でも一生懸命であれば、それ相応の天国に行く。そして天国に行けば、自分のゐる団体だけが天国と思ひ、他に大小幾多の団体があることを知らない。
神に対する智慧証覚の程度によつて、多数の団体があることは霊界物語に示してある通りであつて、同じ団体にをる人の中で、智慧証覚がすすめば、上の階級の団体から迎へに来てそこに|赴《おもむ》き、かくてズンズン向上の道を辿るのである。
[564]
取違ひの信仰
信仰は全く自由なものだ。神の道では取違ひと慢心とが一番恐ろしい。取違ひしてゐると神の目からは間違ひきつたことでも、自分は正しい信仰だと思つて進んで行き、他からの忠言も戒めも聞かない。そして行く所まで行つてつひに|衝《つ》き当つて鼻を打つてヤツト気がつく。そして|後《あと》を振り返つて初めて背後の光明を見て驚き|正道《せいだう》に立ち帰るのである。
とも角間違つてゐても神から離れぬことが大切である。やがては必ず自分から気がつくことがある。間違つてゐるからといつて矢鱈に攻撃しても詰まらない。実は皆誰でも取違ひのないものはない。今日の所、まだ本当に分かつたものは一人もないのだ。
[565]
全身の奉仕
神の御用に立たむとするものはその全身を奉仕すべきである。|一技一能《いちぎいちのう》だけを神に使はれるといふのでは不充分である。耳だけあるひは舌だけ天国に|赴《おもむ》いたのではいけない。本当の誠、愛善の心さへあれば神のまにまに使はれるのである。
[566]
修理固成の仕事
大本は今日の既成宗教のやうにただ人心の改造だけが仕事ではない。それだけなら容易なことである。生きた誠の宗教といふものはそんなものではない。大本の|生命《せいめい》は立替立直しである。しかも立替即ち破壊は悪魔がするのだ。|大本神《おほもとがみ》の仕事は建設にある。艮の金神は修理固成の神である。|大本人《おほもとじん》はその覚悟でどこまでも修理固成の仕事に当らねばならぬ。それには誠と人の力即ち団結力によらねばならぬ。そのためには是非とも明るい愛善の心を養ふことが必要である。さうでなくては成就しない。
[567]
|大乗《だいじよう》と|小乗《せうじよう》
大本の教へは|大乗《だいじよう》の教へであるが、|大乗教《だいじようけう》ばかりでは人を救ふことは出来ない。例へば風呂を沸かして入れてやると皆が非常に愉快な気持になるが、然し風呂を沸かすには、それに先だつて|薪炭《しんたん》を|調《ととの》へねば入浴の愉快が永続しない。この|薪炭《しんたん》を|調《ととの》へる|小乗教《せうじようけう》の働きをもせなければならないから、|王仁《わたし》はこれから|小乗《せうじよう》に下つて働く。
[568]
惟神|霊魂幸倍坐世《たまちはへませ》
神様の|御心《みこころ》のまにまに|霊《みたま》の善くなるやうお願ひしますといふので、神様に対する祈りの言葉である。それを祖霊の前でいふのは、祖霊に祈つてゐるのではなくて、祖霊のために大神様に祖霊が幸はふやうにと祈るのである。
[569]
|大本人《おほもとじん》の守護
何処にゐても、大本信者は一見して直ぐそれと判るとの話であるが、それは他の人とは違つて目が光つてゐるからである。つまり御神徳をいただいてゐるので、どこかに腹がしつかりした所があるためである。
××教は狸が多く守護してゐるし△△教は多く狐が守護してゐるといはれるが、成程と思ふ。大本の信者はどちらかといへば多く竜神または金神の系統が多く守護して居られる。他の教会ではお祭りの後などで|大酒《たいしゆ》をあふるものであるが、大本ではそれが殆どない。大本の信仰に入つて|大酒《たいしゆ》がやまるのである。|王仁《わたし》が酒を飲まないから、それで|大本人《おほもとじん》は余り酒を飲まない。
|王仁《わたし》が酒が飲めぬから、酒飲みのお客に対して、ツイうつかりして満足させることが出来ないのを遺憾に思ふ。
[570]
師匠を杖につくな
よく大本の信者が、ある人を連れて|王仁《わたし》に引き合はせ、そして信仰に|入《い》れようと努むることがある。つまり|王仁《わたし》に会はせさへすれば信仰に入るといふので、|王仁《わたし》の忙しい体といふことを承知しながら時間を徒費させられることがある。自分で信仰に導くことが出来ずに、|王仁《わたし》の力を借りようといふことは「師匠を杖につくな」といふ神の戒めを知らないからである。
[571]
出産率と救ひ
近年世界人口の激増する|所以《ゆゑん》のものは、今や世は二度目の天の岩戸開きに直面せむとして、|中有界《ちううかい》以下の諸霊は、神の限りなき大慈大悲によつて現界へ再修業のため出されて来るからである。かるが故に、今この時に当つて|生《せい》を現代に享けたるものは、神恩の広大無辺なるを感謝し、ひたすらに身魂磨きに没頭精進して、|御救《みすく》ひの手に|縋《すが》りて天国に|入《い》らむことを|希《こひねが》はねばならぬのである。
[572]
開祖様のお歌
灯し火のきゆる世の中今なるぞ
差し添へいたす|種《たね》ぞ恋しき
これは皆の知る通り開祖様のお歌である。|王仁《わたし》はこのお歌を歌碑として亀岡の天恩郷に建てたいと思つてゐる。「差し添へ致す|種《たね》」といふのは|王仁《わたし》のことである。また
ひぐらしの|啼《な》く声聞けばつきの世に
なるは淋しき日の出まつぞよ
といふお歌もある。【自由律】のお歌である。|日暮《ひぐらし》の|啼《な》く声といふのは、その日|暮《ぐら》しの人民即ち|細民《さいみん》のことである。|啼《な》く声聞けばつきのよになるは淋しき云々といふのは、|細民《さいみん》が生活に追はれて悲鳴をあげることをさすので、つきのよは尽きの世で|澆季《げうき》末法の世をさすので、この淋しさから早く日の出をまつといふのである。
[573]
|死獅子《しじし》と|生鼠《いきねづみ》
死んだ獅子よりも生きた|鼠《ねずみ》の方がどのくらゐ働きがあるか分からぬ。百獣の王といへども死んでは何の力をも持ち得ない。小さい|鼠《ねずみ》でも生きてゐるものは、どんな働きをするか分からぬ。世人はこの道理を考へないから駄目である。この世においては生きた人間くらゐ尊いものは無い。神様は生きた人間をもつてその経綸を実行しようとして居られるので、死んだ人を使はうとはして居られない。我が大本においても開祖様は偉いお方に相違ないが、今は生きてゐる|王仁《わたし》の方が働きがあるのである。|王仁《わたし》が帰幽すれば、|後《あと》を継ぐ日出麿の方が|王仁《わたし》よりも働きがある道理である。
総て生きてゐるものでなくては働きが出来ないでは無いか。それだのに開祖様が生前からおつしやつてゐらつしやつたから、さうせなくてはならぬというて、|王仁《わたし》のいふことを用ひぬ頑迷固陋の役員があつたために、どのくらゐ神業の妨害となつてゐるか分からない。世は時々刻々に進展して行く。それに適応して進んで行くのでなかつたら、進歩も向上も発展も無いことになる。故に神様はその時代をリードすべく、適当なる人をこの世に|降《くだ》して、その経綸を遂行したまふのである。この道理をよく悟らねばならぬ。
[574]
世は持ち切りにさせぬ
地球一日の傾斜を小傾斜といひ、一年の傾斜を中傾斜といひ、六十年振りの傾斜を大傾斜といひ、三千六百年振りのを大々々傾斜といふ。この大々々傾斜の大変化の影響をうけて、気候が変はる。従つてすべてのものが変はつて来るので、寒い所が暑く、暑い所が寒くなつて世が変はるのである。神諭に「世は持ち切りには致させんぞよ」とあるのはこの意味である。
[575]
神諭の九分九厘
神諭にある九分九厘といふのは戦争のことのみでない。あらゆることに起こつてくるので、一厘でひつくりかへすのであるから、人間でいへば千人対一人の割合になる。これが千騎一騎の働きである。「東京に攻めかけるぞよ」ともあるが、もし悪魔が東京に攻めかけて首都危ふきそのときは|君《きみ》の|御為《おんた》め国のため、男も女も|老《おい》も若きも十曜の神旗押し立てて懸命に活動せねばならぬ。
[576]
水の御恩
旧十二月三十一日即ち大晦日は、お水の御恩を返すべき日である。それで|殊《こと》に夜になつたらお水を決して粗末にしてはならぬ。また徹夜するのが本当である。
[577]
|小三災《せうさんさい》
末法の世に起こる|小三災《せうさんさい》といふのは|飢《き》、|病《びやう》、|戦《せん》であるが、|飢《き》といふのは食糧の欠乏とのみ取つてはならぬ。経済上の飢饉もある。病気といふのも、単に体が病むと解するのは誤りである。思想的の病気もこのうちに入るので、皇道の|正中《せいちう》を歩むのが健康者であつて、左傾だの右傾だのといふのは思想上の病人である。特に赤い思想などは|膏肓《かうこう》に|入《い》つた大病人である。|戦《いくさ》も兵器をもつての|戦《いくさ》の意味だけではない。政戦、商戦|等々《とうとう》種々ある。議員選挙においても、あの人に是非出て貰はねばならぬと選挙人の方から懇望するのがあたりまへで、候補名乗りをあげて|逐鹿場裡《ちくろくぢやうり》に|鏑《しのぎ》を削るのは即ち戦争である。名誉餓鬼、屈従外道等によつて善い政治は出来ない。
|大三災《だいさんさい》の|風《ふう》、|水《すゐ》、|火《くわ》についてはいふまい。ただこれは|人力《じんりよく》のいかんともすることが出来ない天然現象である。ひたすら神様に祈つて惨禍の少しにても少なからむことを|希《こひねが》はねばならぬ。【|火《くわ》】といふのは火事だけのことではない、大地火を噴く地震のことである。
[578]
なづな七草
昔から「なづな七草|唐土《たうど》の|鳥《とり》が渡らぬさきに云々」といふ歌がある。これは|唐土《たうど》の|鳥《とり》即ち外国の飛行機から|毒瓦斯《どくがす》を投下するそのときに、【なづな】七草を食べてをれば|毒瓦斯《どくがす》にあたらぬといふ予言警告である。
なづなといふのは冬青々としたもので、松葉でも|葱《ねぎ》でも皆薬となるものである。七草は|七種《ななくさ》の意である。
[579]
愛善会の調査局について
人類愛善会総本部に調査局といふものが設置されたが、一体に信者は時事問題に対して頭が働かない、それでは活動が出来ぬ。今後においては、良く社会万般の問題について、相当の批判力を持つやうにせなくてはならぬ。今日の政党の如きも、改造の機会に到達してゐる通り、一切の国内、国際等の問題に対しても知つてゐなくては、世間に遅れて了ふ。
[580]
|素尊《すそん》の神業
一体素盞嗚尊は大国主命に日本をまかされて、御自身は朝鮮(ソシモリ)の国に天降り給ひ、あるいはコーカス|山《ざん》に|降《くだ》り給ひて、亜細亜を平定され治められてゐた。もつとも大国主命が治められた国は今の滋賀県より西であつて、それより東は天照大神様の治め給ふ地であつた。ただし北海道は違ふ。大国主命に対して国譲りのことがあつたのは、その滋賀以西を譲れとの勅命であつたのである。故に素盞嗚尊の神業は|大亜細亜《だいアジア》に在ることを思はねばならぬ。|王仁《わたし》が先年、蒙古入りを為したのも、太古の因縁によるもので、今問題になりつつある亜細亜問題といふものは、|自《おのづか》ら天運循環し来たる神業の現はれであるといつても良い。
[581]
亜細亜大陸と|素尊《すそん》の御職掌
神典にいふ葦原の国とは、スエズ運河以東の亜細亜大陸をいふのである。ゆゑにその神典の意味からいひ、また太古の歴史からいへば日本国である。三韓のことを「根の|堅州国《かたすくに》」ともいふ。|新羅《しらぎ》、|高麗《こま》、|百済《くだら》、ミマナ等のことであるが、これには今の蒙古あたりは全部包含されてゐたのである。
また出雲の国に出雲朝廷といふものがあつて、すべてを統治されて居つたのである。一体この亜細亜即ち葦原は伊邪那美尊様が領有されてゐたのであつて、|黄泉国《よもつくに》といふのは、印度、支那、トルキスタン、大平洋中の「ム」|国《こく》等の全部を総称してゐた。それが伊邪那美尊様がかくれ給うたのち素盞嗚尊様が継承されたのであつたので、その|後《のち》は亜細亜は素盞嗚尊様の知し召し給ふ国となつたのである。素盞嗚といふ|言霊《ことたま》は、世界といふ意味にもなる。また武勇の意味もあり、大海原といふ意義もある如く、その御神名が既に御職掌を表はしてゐる。それで素盞嗚尊様の御神業は亜細亜の大陸にある。しかしながら日の本の国が立派に確立されなくてはいけない。自分が蒙古に入つたのも、また紅卍字会と握手したのも、皆意義のあることで、大神業の今後にあることを思ふべきである。
『昭和』の雑誌に次のやうな歌を出して置いた。充分考へて見るべきである。
亜細亜とは葦原の意義あし原は
我が日の本の国名なりけり
満蒙支那|神代《かみよ》の日本の領土なり
とり返すべきときいたりつつ
大蒙古は昔の日本の領地なり
回復するは|今人《こんじん》の義務
ときは今我が国民は建国の
|皇謨《くわうぼ》により活動すべき|秋《とき》
和光同塵政策をとりし我が国は
|旗幟《きし》を鮮明にすべきときなり
[582]
|素尊《すそん》と|稚姫岐美命《わかひめぎみのみこと》
|神世《かみよ》の昔素盞嗚尊様と|稚姫岐美命《わかひめぎみのみこと》様との間にエロ関係があつた。|大日〓尊《おほひるめのみこと》様がこれをさとられて、天津罪を犯したものとして|生木《なまき》を|割《さ》くやうにして、遥々|高麗《こま》の国へ|稚姫岐美命《わかひめぎみのみこと》様を追ひやられた。
風の|朝《あした》雨の|夕《ゆふべ》、|天教山《てんけうざん》を遠く離れた異郷にあつて、|尊《みこと》恋しさに泣き明す|姫命《ひめのみこと》は思ひに堪へかねて、|烏《からす》の|羽裏《はねうら》に|恋文《こひぶみ》を|認《したた》め、この切なる思ひの願はくは途中妨げらるることなく|尊《みこと》様の|御手《みて》に|入《い》れかしと祈りを篭めて|烏《からす》を放つた。|烏《からす》の|羽裏《はねうら》に|文《ふみ》を書いたのは、黒に|墨《すみ》、誰が見てもちよつと分からぬやうにと用意周到なるお考へからであつた。
|烏《からす》は玄海の荒浪をこえ、中国の山また山を遙か下界に眺めつつ息をも休めず、飛びに飛んで伊勢の国まで辿りついたのである。このとき|烏《からす》はもう極度に疲れてしまつて、あはれ|稚姫岐美命《わかひめぎみのみこと》の燃ゆる|恋情《おもひ》を永久に秘めて、その地で死んでしまつたのである。
今のお|烏《からす》神社のあるところがその地なのである。だからお|烏《からす》神社の御神体は、この|烏《からす》の羽根だといふ説がある。
こなた、今日か明日かと|尊《みこと》様の御返事を待ち佗びた|姫命《ひめのみこと》は、いつまでたつても|烏《からす》が|復命《ふくめい》しないので、つひに意を決して|自転倒島《おのころじま》へと渡り給うたのである。しかしながら何処までもこの恋は呪はれて、丁度高天原においての素盞嗚尊様もおもひは同じ|恋衣《こひごろも》、朝鮮からの便りが一向ないので痛く心をなやませたまひ、|姫命《ひめのみこと》にあつて積る思ひを晴らさむと、つひに自ら朝鮮に下られたのである。ああしかし|尊《みこと》が|壇山《だんざん》に到着されたときは、|姫命《ひめのみこと》の影も姿も見えなかつた。行き違ひになつたのである。
かくて|稚姫岐美命《わかひめぎみのみこと》はつひに紀州の和歌の浦で|神去《かむさ》りましたのである。|玉津島明神《たまつしまみやうじん》、これが|稚姫岐美命《わかひめぎみのみこと》様をお祀り申し上げたものである。
[583]
|稲羽《いなば》の|白兎《しろうさぎ》
大国主命が兄|八十神《やそがみ》の|供《とも》となりて|稲羽《いなば》(|因幡《いなば》)の国に向ふときに、|気多之前《けたのさき》において|裸《はだか》の兎が居つた。|八十神《やそがみ》はその兎に向ひ、海に浴して風の吹く|高山《かうざん》の尾の|上《へ》に伏せというたので、正直にも兎は言はるるままにした所が、塩の乾くにつれて皮がことごとく風に吹きさかれて痛みに堪へず泣いてゐた。そこへ大国主命が通りかかつてその|由《よし》を聞き、大いに哀れと|思召《おぼしめ》していろいろと教へられたといふことは古事記にもあり、日本の伝説としてもよく人々の語り草となつてゐるし、また鳥取県下には|白兎《はくと》神社といつて|白兎《しろうさぎ》を祀つた宮まであるが、この兎といふのはその人の名前であつて、馬とか鹿とかいふ名前があるやうに、|白兎《しろうさぎ》といふ名前を持つた人であつたのである。即ちその一族は|淤岐《おき》の島から渡つて来た小民族の一団であつて、中の首長が|白兎《しろうさぎ》といふ名前を持つてゐたのである。それが海の|鰐《わに》を|欺《あざむ》き、ために|怒《いか》りにふれて毛を皆むしり取られたといふのは、|鰐《わに》とは当時の海上を根拠としてゐた民族のやうなもので、極端に言へば海賊の一団といつても良い。それを|欺《あざむ》いたので、一切の掠奪に遭つたので|患《わづら》ひ泣き悲しんでゐたのである。
[584]
|八岐大蛇《やまたをろち》
|八岐《やまた》の|大蛇《をろち》といふことは、その当時に於ける大豪族の意味であつて、八人の大将株がゐたから|八岐《やまた》といふのぢや。また|大蛇《をろち》といふ意味は、|言霊上《ことたまぢやう》おそろしいの意が転訛したので、【おとろしい】とか、【おろちい】といふのも同じことである。そして尾とは、八人の大将株に引率されてゐる多数の部下の意味で、よく沢山の人が隊伍を作つて行くときは、長蛇の如しとか、長蛇の陣を作るとかいふ。それが人数が多ければ多いだけ長い。故に|大蛇《をろち》の如くに見える。また悪い者を鬼か|蛇《ぢや》かといふことがあるやうに、|蛇《ぢや》の文字が使用されてゐる。素盞嗚尊は印度のボンベイよりその|八岐大蛇《やまたをろち》、即ち大豪族の大部隊を追つかけられて、|長年月《ちやうねんげつ》を経られ、各地において|小《せう》【をろち】を退治られつつ、|伯耆《ほうき》の|大山《だいせん》に逃げ込んで割拠してゐた大豪族をつひに退治られた。即ち征討されたのぢや。また|日野川《ひのかは》といふのは血の川とも言つて、退治した|大蛇《をろち》の、あまりに大部隊であつたため、川水が血の色に染まつたといふのでこの名称が起きた。|尾八尾《をやを》、|谿八谷《たにやたに》といふのは、その|大山《だいせん》地帯に、広範囲に群居したことをいふので、山の尾にも、谷々にも、|一《いつ》パイになつてゐたといふ意味で、その部下の|数《すう》の多きを表現したものである。
[585]
「酒」と「|剣《つるぎ》」について
古事記に素盞嗚尊が出雲の国、|肥《ひ》の|河上《かはかみ》において|足名椎《あしなづち》、|手名椎《てなづち》の神に逢はれて、|高志《こし》の|八俣《やまた》の|大蛇《をろち》を退治られるときに、|櫛名田比女《くしなだひめ》を「|湯津爪櫛《ゆづつまぐし》に取り成して云々」と書いてあるのは、|同姫《どうひめ》を高い木の枝に登らして置いたといふのである。即ち木にとり掛けて|大蛇《をろち》の出で来たるを待たれたといふ意味である。
また「|八塩折《やしほをり》の酒を|醸《か》み」とあるのは八つの|酒樽《さかだる》を作つたのであるが、その酒を作るのは、今日のやうな酒造法によつたものではない。米を人の口でよく噛みこなして、それを樽の中に吐き入れて置く。もつともその噛んで吐き|入《い》れるのはホンの少しで良い。それが|種《たね》となつて樽の中の米が次第に醗酵して酒が|醸《かも》されて行くのである。人間の【つばき】が一つの醗酵素となるのである。
またいよいよ|大蛇《をろち》がその酒を呑み、酔ひ伏して来たので、|御佩《みはか》せる|十挙《とつか》の|剣《つるぎ》を抜きて切り|放《はふ》り給ふといふことが出てゐるが、この太古においては、|剣《つるぎ》といふものは、後世のやうに常人に至るまで|佩《はい》しては居らなかつた。その時代の最高権威者とか、また軍国に譬ふるならば、その軍国の首長となるべき者のみが所持してゐたので、他の者は|棒《ぼう》のやうなものを武器として居つた。それだからその|剣《つるぎ》に対抗するときには、到底勝ち目が無いのである。|剣《つるぎ》を持てる者に打ち向うて争ふことは自分の滅亡を招来するので、|剣《つるぎ》を持てる者に対しては絶対の服従であつた。即ち|剣《つるぎ》の威徳に服するといふことになる。世が進むにつれて鍛冶が普及されたので、|後《のち》には|剣《つるぎ》を誰でも所持するやうになつた。しかし太古は左様でなかつたので、|剣《つるぎ》を持つ者に絶対の威徳があつた。故にこれを持つ者が首長でありまたときの覇者となるのであり、ことごとくを平定することが出来たのである。|今日《こんにち》は|剣《つるぎ》を持つてゐても、それだけではいけぬ。武器といふ意味に解釈して、他国を威服するやうな国防の軍器が一切完備しなければならぬ。その軍器の威徳によつて神国に襲来する|八岐《やまた》の|大蛇《をろち》は切り払はねばならない。またまつろはざる国々があれば|服《まつ》ろはさせねばならないのであるから、いやが上にも軍器と軍備を整備せなくてはならないのである。
[586]
日本武尊
日本武尊は、その御霊性は|瑞《みづ》の|御霊《みたま》の|分霊《ぶんれい》であつた。そして|英邁《えいまい》|勇武《ゆうぶ》にましましたため、その|御徳《おんとく》にまつろふ者が多かつた。それでときの|帝《みかど》は|尊《みこと》の武勇をめでさせられて|鼠賊《そぞく》征討のために全国に使ひせしめられた。|尊《みこと》は文字通り|真《まこと》に席のあたたまるときなく、あるひは東に、あるひは|西国《さいこく》へと、つぎつぎに勅命が発せられたので、まつたく征討の犠牲といふ一生を終始されたのである。即ち|瑞《みづ》の|御霊《みたま》の御霊性そのままの天賦的使命に終はられたのである。
[587]
三段の型
|男島《をしま》|女島《めしま》に艮の金神様が落ちて居られたので、坤なる|神島《かみしま》には坤の金神様が落ちて居られたと言ふことになるが、北海道の別院のある|芦別山《あしわけやま》にはまた艮の金神が落ちて居られたといひ、その坤なる喜界ケ島の方には坤の金神が落ちて居られたと言ひ、何だかわけが判らないといふが、これは皆真実でまた型である。綾部からいへば|男島《をしま》|女島《めしま》と|神島《かみしま》、日本からいへば北海道と喜界ケ島、世界からいへば日本が艮で西のエルサレムが坤である。三段の型のあることを取違ひしてはならぬ。
[588]
男女の道
伊邪那岐、伊邪那美命が御子生みの|神業《かむわざ》において、先づ伊邪那美命より「あなにやしえー男」と言葉を掛け給うた。そして生まれた神が|蛭子《ひるこ》の神で、神の中に|入《い》れられず、流し捨てられた。これは女は受動的、男は能動的の意味を教訓されたもので、女より先に男に声を掛けるものではない、男に従ふべきものである。今頃の女には、女より男に恋愛を申し込んだり、手紙を出したりするが、それは間違つてゐて天則違反である。もしさうしたことに依つて夫婦となり子供が出来ても良い子は出来ぬ。また女で、さうしたことを何とも思はぬ女であつたら、その腹から生まれる子は|蛭子《ひるこ》の例によつても、罪を犯すやうな、いはゆる不幸な子が出来るものである。故に天といふは男、地といふは女とされて、天地と文字までその意味に使用され|地天《ちてん》とはいはぬ。|日月《じつげつ》もその通りである。ただ陰陽の場合に、なぜ|陽陰《やういん》といはぬかと思ふかも知れぬが、これは現界においては月の神の支配権内に包まれて、多分にその守護を受けるので、その意味で尊んだ言葉として陰陽といふのである。
[589]
|艮坤《けんこん》|二神《にしん》の|御歌《おうた》
北海の旅路はろけし吾は今
|出羽《では》の|大野《おほのお》の雨ききてをり
これは先年|王仁《わたし》が|出羽《では》の国を旅行中、|鳥海山《てうかいざん》の下をよぎりたるとき、突如坤の金神様が神懸られて詠じたまうた|御歌《おうた》である。坤の金神様は|西海《せいかい》の果てなる喜界ケ島に御隠退遊ばされて、佗びしい月日を送つておいでになつたが|夫神《をつとがみ》恋しさの|情《じやう》に堪へ兼ねて、遥々と艮の金神様を尋ねて|鳥海山《てうかいざん》まで来られたのであるが、|夫神《をつとがみ》のいます北海道の地は|白雲《はくうん》|漠々《ばくばく》として|何処《いづこ》の|空《そら》とも見えわかぬ、またよしや首尾よく尋ねおほせても、あの厳格な|夫神様《をつとがみさま》のこと、恐らくは会うては下さるまい、とつおいつ御思案の末ここから引きかへさうと決心され、|鳥海山《てうかいざん》にお登りなされて遥かに遥かに|芦別《あしわけ》の山を偲ばれたのである。日本武尊が|碓井峠《うすゐたうげ》より|妃《ひ》|弟橘姫《おとたちばなひめ》を追懐された故事にも|勝《まさ》りて、涙ぐましい|御事《おんこと》であつた。故に|往昔《わうせき》|鳥海山《てうかいざん》はトオミ(|遠見《とほみ》)の山といつてゐたのであるが、後世|鳥海《とりうみ》に転訛したのである。たまたま|王仁《わたし》がその地を過ぎたので神懸らせ給うて当時の御心情を詠ませられたのである。
|芦別《あしわけ》の山は悲しも勇ましも
|神代《かみよ》ながらのよそほひにして
これは艮の金神様が同じく|王仁《わたし》に神懸らせたもうての|御歌《おうた》である。北海別院の歌碑にこの歌が記されるのである。
[590]
国生み神生みの神業
良い植物の|種《たね》からはよい植物が出来、雑草からは雑草しか出来ない。しかして雑草は何ら肥料を与へなくとも、どんどん繁茂しゆくものであるが、もしも良い|草木《さうもく》が少なく、雑草|雑木《ざふき》ばかりが多かつたならば、土地は荒廃してゆくばかりである。人間もその通り、体質の悪い性質のよくない人間ばかりが世の中に|蔓《はびこ》つては、世の中は悪化するより他ないのである。徳川氏は自己の勢力を日本全国に植ゑつけむとして沢山の|妻妾《さいせふ》を|蓄《たくは》へ、子孫を諸侯に配置して万代不易の基礎を堅めようとした。これは自己中心、自己愛の政策から来てゐるのであつて良いこととはいへないが、ユーゼニツクスの法則そのままに、|神代《かみよ》の昔においては|主《ス》の大神様の御命令によりいはゆる国生みなる国土経営の神業と共に、神生みなる神業があつて、経営せられたる国土に主人を配置せられたのである。霊肉共に優秀なる選ばれたる|男神様《をがみさま》が諸国を回り、諸所の選まれたる|細女《くわしめ》、|賢女《さかしめ》に見逢ひて|御子《みこ》を生まれたもので、祝詞に「国魂の神を生み、産土の神を|任《ま》けたまふ」とあるのがそれである。
かくて善い神様のよい|胤《たね》が世界中に|間配《まくば》らるれば、世界の国土は良くなつて行くのであるし、悪魔の|胤《たね》が広がれば、神に|抗《そむ》かふ人が多くなつて、世界には争闘が絶えないやうになる道理である。
|神代《かみよ》のある時代、この御子生みの神柱として選まれた神様は、素盞嗚の神様と大国主の神様だけであつた。この神々様は国魂神を生むべく、諸国を|経廻《へめぐ》られた。|八人乙女《やたりおとめ》といふのも、この神業によつて誕生せられた神である。大国主の神様がこの神業のため出で立たす折り、|妻神《つまがみ》|須勢理姫《すせりひめ》が嫉妬せられて離縁騒ぎが持ち上がり、おしまひには|須勢理姫《すせりひめ》がこの神業を理解せられて心持ちよく|夫神《をつとがみ》と和合したもふ|件《くだり》が古事記に現はれてゐる。
|八千矛《やちほこ》の 神の|命《みこと》や
|吾《あ》が大国主 |汝《な》こそは |男《を》にいませば
打ち見る 島のさきざき
かき見る |磯《いそ》の|岬《さき》落ちず
わか草の 妻持たせらめ
|吾《あ》はもよ |女《め》にしあれば
|汝《な》を|置《き》て |男《を》はなし
|汝《な》を|置《き》て |夫《つま》はなし (下略)
即ち歌の意味は、背の|君《きみ》は男にましませば、到る所で沢山の美しい妻をお持ちになりませう、|妾《わたし》は女ですから、貴方の他に夫があらうはずはありませぬ云々といふので、この|須勢理姫《すせりひめ》の譲歩によつて、大国主の神の御機嫌も直り、|御仲《おんなか》|睦《むつ》まじくならせ給うたのである。
大国主の神は、|宗像《むなかた》の|奥津宮《おくつみや》の|多紀理媛《たぎりひめ》にお|娶《あ》ひになつて、|阿遅〓高日子根《あぢしきたかひこね》の神と|高姫《たかひめ》の|命《みこと》をお生みになり、|神屋楯姫《かむやたてひめ》の|命《みこと》にお|娶《あ》ひになつて、|事代主《ことしろぬし》の神を生み、また|八島牟遅能神《やしまむぢのかみ》の|女《むすめ》、|鳥耳《とりみみ》の神に|娶《あ》つて|鳥鳴海《とりなるみ》の神を生みたまうたとある。一夫多妻であるが、これは前いふ通り大国主の神の御系統が広がらねばならなかつたからである。
もし人過つて、天の使命でないのに、自己の情欲にかられて妻の他に他の女に|娶《あ》ふならば、それこそは罪悪である。考へても見るがよい、自分が本当に優秀なる体格の持ち主であり、同時に明晰な頭脳の持ち主であるとの自信がないのに、どんどん子孫を殖やして行くことが、何ら社会を益せないといふことは火を|睹《み》るよりも明らかではないか。
神命を受けられた神様の御子孫が国魂神として、依さしの国を支配せらるることになれば、神様の|御裔《みすゑ》であるから、国民は国魂の神様に文句なしに従ふのである。いはゆる天下一家の春である。これでこそ世は平和に幸福に治まつてゆくのである。
[591]
元の|生神《いきがみ》
神諭に「いよいよとなると肉体そのままの元の|生神《いきがみ》が現はれてお手伝ひをなさる」といふ意味のことが示されてある。竜体その他いろいろの姿をもつて、元の昔から生き通しの神様が厳存され活動されるのである。即ち神諭に示されてあるごとく、この度の大神業は|霊《みたま》の神だけでは成就できない大望なのである。開祖様がかつて神様に「元の昔から生き通しの神様のお姿を見せて頂きたい」と願はれたら、神様は「一目見てもびつくりする」と申されたことがある。
[592]
五男三女神の働き
古事記は十二段の解き方があると示したことがあるが、|今日《こんにち》はまだ|真《しん》の解説をなすべき時節ではない。
五男三女の神といふが、その神の働きは|今日《こんにち》でも|尚《なほ》あるのであつて、|天菩比《あめのほひ》の|命《みこと》は|血染《ちぞめ》|焼尽《せうじん》の神である。今日の満州、上海の事件などはこの神の御活動である。|正勝吾勝勝速日天の忍穂耳《まさかあかつかちはやひあめのおしほみみ》の|命《みこと》は戦争に勝つ神様で、|今日《こんにち》でも矢張り働いてをられるといふことはハツキリ判る。次に|熊野久須昆《くまのくすび》の|命《みこと》といふのは飛行機の神で、これも|今日《こんにち》現はれてゐられることは明らかである。
また三女神の働きといふのは、愛善運動のごときをいふのである。
[593]
変性男子、変性女子
仏教では女人の身をもつては成仏は出来ぬといふので、変性男子として|魂《みたま》を男にして極楽に救つてやるといつてゐる。また変性女子といふのは男を女の|魂《みたま》にするので、仏教でいへば大層悪いことになる。大本では、変性男子といふのは|女体《ぢよたい》|男霊《だんれい》のことであり、変性女子といふのは|男体《だんたい》|女霊《ぢよれい》のことである。かかる人は一般にもある。そのうち特に代表して開祖を変性男子、|厳《いづ》の|御魂《みたま》といひ、|王仁《わたし》を変性女子、|瑞《みづ》の|御魂《みたま》といつてある。
|王仁《わたし》は男で性が女であるが、髪の毛が濃く長くて多く、髭が少なく、|身体《からだ》が柔らかで乳房が大きいところなど、肉体までが女に似てゐる。変性男子は心のうちは優しいが、|外面《がいめん》は恐いのであり、変性女子はこれに反して、表面は優しいが内心は厳格である。人を|懐《なつ》かしめまた大きい仕事をするのには|男体女霊《だんたいぢよれい》でなくては出来ない。変性男子を|厳《いづ》の|御魂《みたま》といひ、変性女子を|瑞《みづ》の|御魂《みたま》といふが、|瑞《みづ》の|御魂《みたま》といふのは|三五《みいつ》の|魂《みたま》といふことである。つまり伊都能売の|魂《みたま》といふのと同じい。|能売《のめ》といふのはノは水、メは|女《め》の意である。
[594]
|武《ぶ》の神
信州諏訪神社の祭神は、【たけみなかた】|神《のかみ》と言つて、大国主命の長男で、ずいぶん剛勇の神であつた。たまたま大国主命の国譲りの|後《のち》に、信州諏訪に鎮め祀られて、|武《ぶ》の神としてあがめられてゐるのであるが、戦争が起こる頃になると必ず出動される。皆も知つてゐるやうに、|諏訪大神《すはだいじん》には非常に大きい|四本《しほん》の柱に依つて【しめ】がされてある。ところが日清戦争、日露戦争|前《ぜん》には、この|四本《しほん》の【しめ】の柱の|内《うち》、二本が倒れて了つた。それは神界より|武神《ぶしん》の出動を示されたものである。|昨年《さくねん》(昭和六年)の正月、丁度|王仁《わたし》が北陸地方を旅行してゐたら、今度は|四本《しほん》とも倒れて了つた。それから秋の満州事変が起きた。まだこの事変色々と変形して問題が複雑になつてゐるので|四本《しほん》も柱が倒れてゐることから察しても、今後の想像がつくと思ふ。この|武神《ぶしん》は|八百八光《はつぴやくやくわう》の眷属を従へられて活動されるのである。
[595]
蓑笠の起原
高天原を|退《やら》はれ給ひ、|流浪《さすらひ》の旅に|上《のぼ》らせ給うた素盞嗚尊様は、風の|朝《あした》雨の|夕《ゆふべ》、昨日は東|今日《けふ》は西、あて|途《ど》もなく世界各地を足に任して|御歩《おある》きになる、何処に行つても誰一人として、|宿《と》めてくれる人もなく、|憩《やす》ましてくれる家もなかつたので、|雨露《うろ》を防ぐために、蓑笠を自ら作らせ給うて、山に|寝《い》ね、野に伏し、果てしも知らぬ旅のお|傷《いた》はしい御姿であつた。
太古は|五風十雨《ごふうじうう》といつて十日目に雨が|降《ふ》り五日目に風が吹き、少しも変はることなく、いと穏やかに世は治まつてゐたのであるが、上記の如く|素尊《すそん》に迫害を加へ|奉《たてまつ》つて以来、その天罰によつて今日の如く|大風《おほかぜ》や|大雨《おほあめ》がときならぬときに起こり、冬雷が鳴つたり、春の終りに雪が|降《ふ》つたりするやうな|乱調子《らんてうし》を呈するに至つたのである。
[596]
回り金神
回り金神とかヒメ金神とかいふのは、易者のこしらへた神である。世間で|八百八《はつぴやくや》【|光《くわう》】の金神といふのは、|八百八《はつぴやくや》【|狐《こ》】の金神と書くのである。
大本でいふ艮の金神とか坤の金神とかいふのは、かういふ金神の意味とは全く違ふ。
[597]
|無間《むげん》の|鐘《かね》
|無間《むげん》の|鐘《かね》を叩くといふことは、間断なく|鐘《かね》を叩き続けることで、|早鐘《はやがね》を叩くよりも数十倍の速さで叩かなくては、|無間《むげん》の|鐘《かね》を叩くといふことにならぬ。またこの意味には霊的の意義がある。|王仁《わたし》が綾部へ初めて行つたときにお筆先に「|無間《むげん》の|鐘《かね》を掘りだして云々」とあるので、何処に左様な|鐘《かね》が有るかと聞いたら、教祖は即座に「|無間《むげん》の|鐘《かね》はあんたのことぢや」といはれた。二代はこれを聞いて「道理で先生はいつも矢釜しう怒鳴りつづけられるのぢや」といつて笑つてゐたが、今日の|王仁《わたし》の仕事を見、また|王仁《わたし》の使命を悟つたら判るやうに、霊的にも体的にも、間断なく鳴りなり渡るといふ有様ぢや。誠に文字通りに|無間《むげん》の|鐘《かね》である。
[598]
|神庭《しんてい》会議
旧七月六日の晩より七月十二日に亘り、綾部の|本宮《ほんぐう》坪の内にて行はるる祭典は最も大切なる|神事《しんじ》にて、この一週間は、御三体の大神様を初め|奉《まつ》り八百万の神々様が御集会なされて、一年中に於ける世界の経綸をお定めになるのである。即ち地上の規則を地の高天原でお定めなさるのであるから、|謹《つつし》み慎んで人民の願ひ|事《ごと》など決して、してはならないのである。
[599]
再び|七夕祭《たなばたさい》について
旧七月六日の晩から同十二日にかけて挙行される|七夕祭《たなばたさい》は、神々様が地の高天原に|神集《かむつど》ひに集はれて一ケ年中の経綸について|神議《しんぎ》せらるる大切なる|神事《しんじ》であることはかつても話したが、十二日の晩になると|王仁《わたし》がその決定せられたる|神事《しんじ》を承はつて、そのプログラム通り、一年間の御経綸を遂行する役に使はるるのである。神苑内の沢山の建物についても、御神策のまにまに建造してゐるのであるが、|昨年《さくねん》の神声碑のやうに、造つて長年用意をさせられてゐたのを急に建てよと命令せらるる場合もあつて、あの|碑《ひ》の建つときは容易ならざることが起こると|予《かね》てお前たちにいふておいたが、満州事変は|碑《ひ》が建つとすぐ、即ち昭和六年の九月十八日に突如として起こつたのである。ただ困るのは神様が急がれても人間界がそれほどに急いでくれぬので、|板挟《いたばさ》みになつて|王仁《わたし》は苦労する。|王仁《わたし》はまた神策のまにまに動いてゐるので、|我意《がい》を少しも加へてゐないのだから、役員信者はそのつもりでゐて貰はねばならぬ。この度の御神業は人間の想像を|逞《たくま》しうし得るやうな範囲のものでないのだから、柔順に|王仁《わたし》の指揮に従つて欲しいものである。
[600]
鼻の世の中
今までは口と筆の世の中であつたが、もはや鼻の世の中になつた。神素盞嗚の大神様の御活動期に入つたのである。尖端を行くといふ言葉が流行するが、尖端は即ち顔の中で一番高い【ハナ】の意味であつて、|素尊《すそん》は鼻に成りませる神様である。おしやべりを|止《や》めて、よく嗅ぎわける世の中、先方の鼻息を考へる世の中、鼻高が鼻を低うする世の中、高い鼻が削られて目がつく世の中になるのである。昔から【目鼻がつく】といふ|諺《ことわざ》があるが、これから鼻がつく世の中になるのである。目がつくといふのは人々の心の目があく世の中をいふので、目鼻がついた世即ちミロクの世の中である。鼻はまた進歩発展の意を表はす。
[601]
艮の金神様と支那
道院に現はれ給ふ神様が国常立尊の出現であるといふ見地から、艮の金神は出口直でなくては懸からぬといふ神諭に矛盾を感ずるといふ人があるが、少しも矛盾はない。支那では【艮の金神】としては現はれて居られない。|至聖先天老祖《しせいせんてんらうそ》として顕現して居られるので、艮の金神の名においては、絶対に大本開祖の他には懸かられぬのである。
[602]
|瓢型《ひさごがた》の墳墓
|瓢型《ひさごがた》の墳墓は上古のものであつて、伊諾那美命の|御墳墓《ごふんぼ》がそれである。|命《みこと》は火の|御子《みこ》を御産みになつて|神去《かむさ》りました。昔は|瓢《ひさご》に水を入れて火を消す器具としてゐたのである。それで火を消すといふ意味で、|命《みこと》の墳墓を|瓢型《ひさごがた》としたのである。|神武《じんむ》天皇以後のものは、前平後円のものである。|秋葉神社《あきばさん》の御神体は|瓢《ひさご》であるのも火を消す意味である。
[603]
憑依霊と聖地
|安生館《あんせいくわん》に来て、どうもせぬのにぶるぶる|慄《ふる》うて発動をするものが時々あるが、あれは長く体内に潜んで|禍《わざはひ》をしてゐた憑依霊が、聖地に来て|赫灼《かくしやく》たる神霊に照らされて|居耐《ゐたたま》らなくなつて発動して来るのである。さういふ霊に対しては、大神様にお願ひして、
「許してやるから早くこの肉体から出よ」
と叱つてやつたらよい。|天恩郷《ここ》へ来る者は誰でも本当はさうなるのだが、|王仁《わたし》がじつと押さへてゐるのだ。それで|王仁《わたし》は気張りつめてゐなくてはならないから|身体《からだ》が苦しいのだ。もしそれを|放《ほ》つて置いたら、誰も彼もが発動してたちまち大本の名を|汚《けが》すやうなことになる。実際は自分の体内にゐるものが発動するのであるけれど、さうとは思はないで、わけの分からぬ人たちは大本へ来ると発狂するなどといひ出すからなあ。
往年|上谷《うへたに》の|修行場《しうぎやうじやう》では種々の霊が出て来て大騒ぎをしたが、今でも|放《ほ》つて置けば同じ現象が起こるのである。
[604]
ときを告ぐる|鶏《にはとり》
|鶏《にはとり》がときをつぐるのは|雌《めす》に|使嗾《しそう》せらるるによるのである。
[605]
|蛭子《ひるこ》の神
エベス、|大黒《だいこく》といつて福の神とあがめてゐるが、そのエベスといふのは|蛭子《ひるこ》の神のことである。伊邪那岐、伊邪那美|二神《にしん》が、御子生みの|神業《かむわざ》のときに、伊邪那美命が先づ言葉を掛け給うた。そのときに生まれたのが|蛭子《ひるこ》の神で、これは天地|顛倒《てんたふ》の神業であつたため、|蛭《ひる》のやうに骨なしで、グニヤグニヤであつた。故に|御子《みこ》の列に|入《い》れられず、|葦舟《あしふね》に乗せ流し捨てられた。それが今の兵庫県西の宮に流れ着いたので、|漁夫《ぎよふ》たちがこれを拾ひ祀つた。それで西の宮の|蛭子《えべす》といふ言葉が出た。しかしグニヤグニヤの神で|蛭《ひる》のやうであつたので、現在、出雲の|美保《みほ》の|関《せき》に祀つてある言代主命をも合はせ祀つたのである。それが|後《のち》に至つてエベスは言代主命と思はれるやうになつた。
[606]
|鶏《にはとり》の|宵鳴《よひな》き
昔から|鶏《にはとり》が|宵鳴《よひな》きをするのは非常なる凶兆だとせられ、これを聞いた人の身の上または一家には一大変事が起こるなどと伝へられ、今でもそれをはなはだしく気に病む人があるが、それは|和鶏《ちやぼ》のみのゐた昔の時代のことである。今の|鶏《にはとり》は|洋鶏《やうけい》またはその雑種であるから、本当のときを作らないのである。|亜米利加種《アメリカしゆ》なれば日本の日の|暮《くれ》は向うの夜明けに当るのだから、彼らはその国の伝統によりときを作つて|宵鳴《よひな》きをするのである。凶兆でも何でもない。これはひとり|鶏《にはとり》にのみ限らないので、犬でも猫でも牛でも馬でも今は殆ど雑種で、固有の日本種は尽きなむとしてゐる。人間界においても大和魂の持ち主がだんだん少なくなつて、|邪《よこさ》の道、悪思想の|蔓《はびこ》る世の中になつてしまつた。歎かわしき世相である。
[607]
爪を|剪《き》るとき
日が暮れてからは爪をとつてはならぬ。これは素盞嗚尊様が|千座《ちくら》の|置戸《おきど》を負うて手足の爪を抜かれ給うたのが日が暮れてからであつたためである。ただ小指の爪は|剪《き》つてはならぬ。よく支那人が小指の爪を長く延ばす習慣を持つてゐるがこれには意味がある。小指の爪の|剪《き》つた後から病魔が入るやうなことがあれば|生命《せいめい》にも関する。小指の爪から|悪霊《あくれい》が入らぬやうにせねばならぬ。
[608]
月は母体
今の学者たちは何も知つてゐないが、その中でも天文学者が一番物を知らぬ。あの月の|面《おも》に見ゆる|凹凸面《あふとつめん》について、学者は噴火口の跡だなどと種々の説を主張してをるが何も分かつてゐない。あの黒く見えてをるのは星を生み出した穴の跡である。星も人間と同じく生まれたときは小さくつても、だんだんと成長するのである。月より大きな星があつても何も不思議は無い。親よりも大きな子がいくらでもあるぢやないか、それと同じ道理である。
星のうちではオリオンの三つ星が一番に生まれたので、これは月の総領である。星の母が月であつて、父が太陽である。|水火《いき》を合はせて、つぎつぎに星を生んでいつたので、それで星即ち|火水《ほし》と呼ばるるのである。
太陽系に属する星は皆月から生まれたのである。故にお月様を母神といひ、またミロク様ともいふのである。
月は西から出て東に回り、右から左へと回る。太陽は左より右に回るのである。回るというても、太陽と地球は傾斜運動をするだけで、お月様だけが運行してゐるのである。月のみに軌道があるわけである。月は三十日で地球を一周し、太陽は一日で一周する。一周といへども、傾斜運動の程度によつて一周する如く見ゆるのである。
[609]
琴の初め
|一絃琴《いちげんきん》、|二絃琴《にげんきん》、|十三絃琴《じふさんげんきん》の|箏《しよう》の琴と、だんだんいろんな琴が出来上がつたが、その初まりといふのは、矢張り素盞嗚尊様であつて、|尊様《みことさま》が御機嫌の悪いとき、|櫛名田姫《くしなだひめ》様が矢じりをもつて弓の|弦《つる》をピンピンと鳴らしてお慰め申し上げたので、これが|一絃琴《いちげんきん》の初まりである。
[610]
大宇宙
大宇宙といへば、世人皆大きな世界といふ意味に承知してゐるやうであるが、さうでは無い。宇宙は大の字の形をしてゐるので、それで大宇宙といふのである。大の字はまた人間の形である。頭があり、両手両足があり、胴がある形だ。|更生館《かうせいくわん》は新たに生まれたことを記念するために大の字の形に造つたのである。
艮の金神様は、そのお筆先において|生神《いきがみ》であるといふことを常に申されてゐる。これは宇宙そのものが生き物であるといふことを申されてゐるので、開祖様がかつて「一度大神様のお姿を拝みたうございます」と申し上げられると「そなたの姿が|此方《わし》の姿であるわい」とおつしやつた。さうしてまた「本当の姿は|青雲笠《あをくもかさ》着て耳が隠れぬわい」と仰せられた。これは人体的に顕現せらるる場合と、御本体とを区別して申されたので、御本体即ち大国常立尊としては宇宙とその広がりを等しうせらるるわけである。実際生きて居られて、そのお姿即ち大宇宙の姿も人体と同じ形である。無論人間の肉眼をもつてしても、またいかなる精巧なる望遠鏡をもつてしても決して|見得《みう》るものではないのである。これをたとへれば、象の足にとまつた|蟻《あり》が決して象全体の形を|見得《みえ》ぬと同じことである。たとへどんな遠方に離れてこれを見てもつひにその全部の姿を|見得《みえ》ぬであらう。毛の中に潜り込んだ|蟻《あり》などは大密林に遭遇し、行けども行けども平地に出られないといふふうにも思ふだらう。大宇宙は生きてゐる、大の字即ち人の形をして生きてゐる。頭もあれば、手も足もあれば、目もある。だがそれは人の想像に絶したものである。象の|比喩《たとへ》でもつて推理して考へて見たらよい。
[611]
神示の宇宙
『霊界物語』に神示の宇宙として示してあることは、決して今日の学者に分からせむがためではない。幾百年後の智者学者のために書き残して置くのである。|王仁《わたし》のいふ地平説は、決して扁平な方形をいふのではない。例へば餅の如き形をいふのである。月は大地を一周するが、太陽も地球もただ傾斜運動をするだけで、同じ所を動かないものである。その傾斜にも大傾斜、中傾斜、小傾斜がある。六十年目に大傾斜するのであつて、そのために気候も変化する。最近の気候の変化はラヂオなどの影響ばかりではない。
月は西から出て東に回り、一ケ月で一周する。天体のことは傘をひろげて回して見れば分り易い。
[612]
宇宙の声音
この大宇宙には、アオウエイの|五大父音《ごだいふおん》が鳴りなりて鳴りやまず不断に轟いてゐる。そしてこの|父音《ふおん》より発する七十五声の音響は種々様々に|相《あひ》|交錯《かうさく》して、音楽の如く、|鳥《とり》の声の如く、|秋野《あきの》にすだく虫の|音《ね》の如く微妙の音声を絶えず放つてゐる。この微妙の音声は、天地進展の響きであつて、これによつて森羅万象一切が生育発達を遂げてゐるのである。|言霊《ことたま》の幸はふ国、|言霊《ことたま》の|天照《あまて》る国、|言霊《ことたま》の助くる国などといふ言葉は日本のみのことでなく、天地森羅万象一切の進展的活動に対して称へたる言葉である。|大声《たいせい》|裡耳《じり》に|入《い》らずといつて人間の聴覚力には限度があつて余り大なる音響もまた微細なる音響も聞きとることが出来ないのであるが、|言霊《ことたま》の|大道《だいだう》に通じた人の耳には|五大父音《ごだいふおん》を始め森羅万象より発する七十五声の微妙の音声を聞くことが出来得るのである。
大本開祖はいつも宇宙万有の微妙の声を聞いてその|天造力《てんざうりよく》の偉大さを|讃歎《さんたん》されてゐた。然し老齢のため耳鳴りがしたのとは全然わけが違ふのである。人間の聴覚力は風雨|雷霆《らいてい》の音や|禽獣虫魚《きんじうちうぎよ》のなく声、人間同士の言語または器物より発する音楽の他、宇宙の声音は聞きとることが出来ないので、|王仁《わたし》が宇宙の声を常に聴くといつても容易に信ずることは出来ないのを遺憾に思ふ次第である。
[613]
宇宙の声
「道」は充ち満つるの意である。この宇宙には|言霊《ことたま》が充ち満ちてゐる。即ち一つの機械でも動かせば非常なる音響を発するごとくに、この宇宙も大旋廻してゐるから、非常な大音響を何時も発してゐる。即ちアオウエイの|五大父音《ごだいふおん》が鳴り鳴りて鳴り|止《や》まずにゐるのである。
音響もまた言葉の一種である。意識的に発するのが言葉であり、無意識に発するのが音響である。とにかく、言葉は「道」であり「神」である。
[614]
人の体は小宇宙
人間の|身体《からだ》は小宇宙であるから、森羅万象が皆体内にある。山も川も林も森も、見よ縮図せられたる細胞の美しさを。
[615]
人体と水
人間はその霊を日の大神様よりうけ、その|体《たい》を月の大神|瑞《みづ》の|御魂《みたま》よりうけてゐる。故にその|体《たい》の大部分は水であつて、五分の一しか実質はないものである。即ち二十貫目の体重ある人なれば、四貫目だけがその実質なのである。
[616]
天津祝詞と|五大父音《ごだいふおん》
宇宙にはアオウエイの|五大父音《ごだいふおん》が間断なくなり響いてゐるが、人々が発する正しからざる|言霊《ことたま》によつてはこれが濁るのであるから、常に天津祝詞を奏上して音律の調節を行ふのである。
[617]
|言霊学《げんれいがく》
|言霊学《げんれいがく》の|中興《ちうこう》の祖中村|孝道《かうだう》の|言霊学《げんれいがく》は|一言一義《いちげんいちぎ》に近いもので覚えやすい。|大石凝《おほいしごり》|真寿美《ますみ》になつては|一言多義《いちげんたぎ》になつた。本当の|言霊学《げんれいがく》を用ひたのは弘法大師くらゐのもので、|真言《しんごん》といふのは|言霊《ことたま》のことである。弘法大師は「ア」が元で一切は「ア」から現はれたといふので、|阿字《あじ》本義を提唱したが、実際は|◎《ス》「ス」から出て来たものである。
[618]
「|君《きみ》」の意味
「|君《きみ》」といふのはイザナ【キ】とイザナ【ミ】のお二人で|君《きみ》となるのである。また神「カミ」の|霊《たま》がへしは【キ】であり、【ミ】はマニの|霊《たま》がへしである。つまり【キミ】とは神の【マニマニ】といふことで、日本の|君《きみ》は神を祭つてゐらつしやるのである。外国の|君《きみ》とは|趣《おもむ》きが違ふ。
[619]
たまがへしの二三種
富士はたまがへし【ひ】となる。即ち富士山といふのは火の山の義である。また|霊《ひ》の山の義である。
【キウ】は【ク】にかへる。シユウはスにかへる。九州のことをクスといふのはこの理由である。
【イソ】の|館《やかた》といふのは【イミゾノ】(斎苑)のかへしで、イミのかへし【イ】、ソノのかへし【ソ】である。
イスラエルのかへしは【イセ】となる。スラエのかへしが【セ】であるから、それで、伊勢がイスラエルに当るといふのである。ルは|助辞《じよじ》である。
霊界物語中にあるワツクスは|和吉《わきち》、イルは|宇吉《うきち》、サールは|宗吉《そうきち》といふ意味になる。
トルマン|国《ごく》はツマといふことになる、即ち|秀妻《ほづま》の国である。ビクトリヤはたまがへし【ブタ】となる、即ち支那にあたる。
[620]
新年|勅題《ちよくだい》について
アカツキの【ツ】は|助辞《じよじ》である。あたかも天津神の|津《つ》といふやうなものである。【キ】は|気《いき》である。【アカ】は明けと同じで【ケ】と【カ】はあたかも酒を【サカ】といふやうに同意味である。即ちアカツキといふのは陽気が今明くなりかけてをることである。アカツキはよい意味に用ひる。成功した|暁《あかつき》とはいふが失敗した|暁《あかつき》とはいはない。
トリは|言霊《ことたま》からいうと、【ス】である。ホトトギ【ス】、ウグヒ【ス】、【ス】ズメ、カラ【ス】といふやうなものである。ウグヒ【ス】のことをウグヒドリとはいはない。なほスズメ、ツバメの【メ】といふのは、メ即ち女の意味故、やさしいことをいひ現はしてゐる。
コエは「心の|柄《え》」といふことである。心だけでは表現出来ないので|柄《え》がいる。ココロの|魂反《たまがへ》しは【コ】である。物質から出て来るのは声でなく音である。声と音とは違ふ。アイウエオは声であり、|有《う》にして|無《む》、無にして|有《う》なる天の声である。
音は「|緒止《をと》」といふことであり、|魂《たま》の|緒《を》の|止《とどま》る意味である。音をきいてハツと心を|止《と》める、それが|緒止《をと》即ち音である。
カキクケコは音である。カンカン、キンキンといふやうな音である。
サシスセソも音である。風にゆれる笹のササササといふ音のやうなものである。タチツテトも音である。三味線のツンテントンといふやうなものである。
ナニヌネノは声であり、ハヒフへホは無形の声で、声と音の中間のもので、風のやうなものである。マミムメモ、ヤイユエヨは声であり、ラリルレロは音である。ガラガラ、ゴロゴロ、ギリギリ、バラバラといふやうに、語尾につく濁音である。ワヰウヱヲは声である。
また、ア行は天の声であり、ワ行は地の声であり、ヤ行は人の声である。びつくりしたときは思はず「アワヤ」といふのは、天地人皆びつくりしたといふ意で、太閤記十段目の「アワヤと見やる|表口《おもてぐち》云々」とある如き例である。
[621]
声の順序
声にも順序がある。|今日《こんにち》ではアイウエオ、カキクケコといふが本来はアオウエイ、カコクケキといふべきである。ア列は|天位《てんゐ》であるから上を向いて声を出す。オ列ウ列エ列イ列の順序で次第に下を向いて声を出す。|鶏《にはとり》がコケコウコーと鳴くときに首を上下に振るのもその順序に従つて振るのである。アハハハ、オホホホ、ウフフフ等と笑ふときもアンアンオンオンなどと泣くときも、この声を出す態度はきまつてゐる。アオウエイをアイウエオといふやうになつたのは|安倍《あべ》|晴明《せいめい》の頃からである。
[622]
仮名づかひ
国語そのものは昔から変はつてはゐない。しかし現在の用語は非常に乱れてゐて、仮名づかひなども将来改めらるべき問題であり、漢字なども制限せなければならぬ。
もともと日本は|一言《ひとこと》でラチのあく国で、開祖様のお筆先に「じんりき【しや】」を「じんりき【さ】」、「へんじよう【によ】し」を「へんじよう【の】し」と書かれてあるが、これは|言霊学上《げんれいがくじやう》から言つても正しいものである。
例へば外国とか関東とかいふのは一般に「ぐわいこく」「くわんとう」と仮名を振るが「がいこく」「かんとう」と書くのが本当である。
[623]
「いざざく」と「いただく」
開祖様のお筆先に「頂く」といふべき意味の所を「いざざく」と書かれてあるが、これは決して間違ひではなく、|言霊学上《げんれいがくじやう》から言つても両者の間に明らかな区別があるのである。
「いざざく」の【い】は|発語《はつご》で「ざざく」は捧ぐの意であり、目上の人より物を頂戴する場合に押し戴く意味を表はしたものである。「いただく」は叩く、即ち同輩より物を貰うた場合に手を|拍《う》つて喜びの意を表はす場合をさしていふのである。
[624]
ア行とヤ行
片仮名のア行とヤ行とは間違ひやすいが、ア行は、ア、イ、ウ、エ、オの如く皆|画《くわく》が離れて居り、ヤ行はイ、エといふふうにくつついてゐるので、チヤンと区別があるのである。今は何もかも目茶苦茶になつてゐるが、今度の物語(天祥地瑞)からこの活字を|鋳造《ちうざう》して改めることにした。
[625]
天地への義務で生きてゐる
|歯痛《しつう》で苦しんでゐる|王仁《わたし》に向つて「聖師様でも御自分の|歯痛《しつう》を直すことはお出来にならないのですか」と問ふ人がある。大本信者に病人が絶えない限り、|王仁《わたし》の病はなをらぬのだ、とかつてもいうて、書物にも出てゐるはずだのに、読んでは居らぬのかしら。|王仁《わたし》は神の大なる使命を負うて生まれて来てゐる。霊を|千別《ちわ》きに|千別《ちわ》きて病人その他の救済に活動を続けてゐるのだ、いはば|王仁《わたし》の霊体はバラバラになつてゐるのだ。だから始終苦しみ通しである。|病者《びやうしや》はよく|王仁《わたし》の姿を見るといふが、それが霊魂を|千別《ちわ》きに|千別《ちわ》きてゐる証拠だ。|王仁《わたし》は極めて健康であるから体がもつのであるけれど、お前たちなら三日ももつことでない。だから|王仁《わたし》は始終病気でない病気で寝床も|敷放《しきはな》しである。神の道に入つてから、いひ換へれば救済の神業に使はれだしてから、楽な日とては一日もない。いや長い年月の間にたつた三日あつた。そのとき二代が生きるか死ぬかの苦しみをした。|王仁《わたし》の代理をしてゐたのだ。|王仁《わたし》はこんな苦しい世をのがれて、早く天界へ帰りたいと思ふ。ただ天地への責任観念、強い義務観念から、かうして生きてゐるのだ。
[626]
三十六相と|八十八種好《はじふはつしゆかう》
お釈迦さんは三十二相揃つて居られた。|王仁《わたし》は三十六相揃うてゐる。お釈迦さんは|八十種好《はちじふしゆかう》であつたが|王仁《わたし》は|八十八種好《はじふはつしゆかう》である。|王仁《わたし》の|身体《からだ》は全く他の人の|身体《からだ》とは違ふ。|髯《ひげ》が少なくて髪が多いのも女の性であることの一つである。こんなに肥えてゐても肩が張つてはゐない。皮膚の色、胸板、|臍《へそ》、腹みな他の人間と違うてゐる。背の高さもチヤンと決まつているのである。
|王仁《わたし》には他の人と脈の|搏《う》ち|方《かた》も違ひ|灸《きう》や薬も他の人と同じわけには行かぬ。|王仁《わたし》の|前額《ぜんがく》の|髪毛《かみ》だけが白いのも他の人と違つた|相《さう》の一つであるといつた|相者《さうじや》がある。
[627]
掛軸について
掛軸は何時も何時も同じものを掛けておくものではない。|王仁《わたし》のやつた観音像など何時行つても掛けてをる家があるが、第一それではじきに汚くなつてしまふし、|表装《へうさう》もくづれて来る。平常は他なのをかけておいて、お祭りか何かのときに掛けるとよいのだ。それで他のを替はりにやつてあるのだ。|軸物《ぢくもの》をしまふときには、表よりも裏に気をつけてよく【ハタキ】をかけておかぬと、巻くと表が|汚《よご》れる。
[628]
宣信徒よ
|王仁《わたし》は長い年月、宣伝使や信者のために神様の教へを宣べ伝へて来た。七十二巻の霊界物語を初め、|王仁文庫《わにぶんこ》、道の大本、道の栞、毎月々の神の国、真如の光、昭和、|明光《めいくわう》|等々《とうとう》出来得る限り神様の|御旨《みむね》を伝へてをるのである。歌集『|東《あづま》の光』が一冊あつても十分道は説けるのである。他の宗教を見よ。宗祖の現はした根本教義といふものは、本当にわづかなものである。○○教や○○教や○○教などのお|神楽歌《かぐらうた》だとか、何ケ条とかいう教義、これを印刷物としてどのくらゐの量があるのか。それでも彼らの布教師などは、その僅少な教義をもつて布教してゐる。|王仁《わたし》はあらゆる方面に亘つて、書きに書いてをるのであるが、月々の雑誌にまだ書いてくれくれとせがんで来る。一体大本信者はさうした点において贅沢である。それも十分それを読んで、消化してゆくのならよいけれど、ろくに読みもしないで次から次へと書くことを要求する。もし皆が本当に読んでをるなら、皆の働きが【も|些《すこ》】し違つて来なければならないはずである。|王仁《わたし》が天からどういふ使命をもたされてをるかといふことが十分解つてをれば、その使命を果たさすやうに一致協力後押しをしてくれるが本当ではないか。金棒をもたぬ【おに】のやうな有様では何の働きも出来ぬ。悪魔の活躍は日に日に猛烈になつて来る。|君国《くんこく》のために、人類のために、最善を尽くしたいと、|王仁《わたし》は【もがい】てをれど、皆は呑気である。神書の読みようが足らぬから、|王仁《わたし》の使命と仕事に理解がない。霊界物語の続きを早く出してくれとの請求があるが、いくら出しても、読みようが足らないで、神意が理解出来ないやうなことでは、神様が出して下さらぬ。せつせと読み、御神意を理解し、その|思召《おぼしめし》に添ふやうに【働き】をせなくてはならぬ。
編者附記──『|東《あづま》の光』の自序には|左《さ》の通り記されてゐます。
本歌集『|東《あづま》の光』は大本信徒のために、折りにふれときに臨んで示したる【|道歌体《だうかたい》】の|作歌《さくか》にして、単行本、神霊界、神の国、昭和青年等に発表した断片を(中略)|吾《わ》が歌集の中に加へ発刊することにしました。(下略)
[629]
天恩郷が好きな理由
綾部は思ひ出が悪い、長い間【ひどい】目に遇つて来たから……。それは神様の御経綸であるけれど、残つた苦しみの思ひ出は【にがい】。故郷の|穴太《あなを》の|里《さと》も同様な感じがする。此処でもひどい目にあつて|苦《にが》い経験を|嘗《な》めさせられた。天恩郷には、かうした苦しみの思ひ出がないばかりでなく、|王仁《わたし》が独力で思ふがままに建設したのだから一番朗らかだ。亀岡は郷里|穴太《あなを》に近いから好きだといふやうな理由は少しもない。ここには何ら嫌な思ひ出が無いからである。
[630]
大槻|鹿造《しかざう》と|王仁《わたし》
開祖様の長女|米子《よねこ》さんは大槻|鹿造《しかざう》の妻であつた。|鹿造《しかざう》は綾部の|無頼漢《ならずもの》の親分であつた。|王仁《わたし》が綾部に来て澄子と結婚すると、|錆刀《さびがたな》をおつ取つてやつて来て「こら、貴様は何処の牛の骨か馬の骨か知らないが、俺が長女の|婿《むこ》だ。一体全体|嫁《よめ》に貰つたのか|婿《むこ》に来たのか、どちらだ」と刀をつき立てて|雄叫《をたけ》びする。「そんなことはどちらか知らぬわい、だがお前は喧嘩を買ひに来たのかい、それなら相手にならう」と|両肌《もろはだ》ぬいで坐り直したら「ウン、申し分が気に入つた、若ざうに似合はぬいい度胸だ、|俺《わし》は帰る」というて帰つて行つた。|爾来《じらい》|王仁《わたし》のためにはずいぶんよくしてくれたものである。
[631]
面会者は|辛《つら》い
世間的にいかに名誉や地位や財産があつても、|王仁《わたし》として是非会はねばならぬ人と、少しも会ひたくない人とがある。その区別もわからずに無闇に面会させられるのが一番つらい。|殊《こと》に「この人が信仰に入つたならば結構な御用が出来ますから」などといふ人がある。|王仁《わたし》はそんなことをきくとむかつ腹がたつて仕方がない。
霊界物語にも書いておいたやうに、極悪地獄には最も智慧証覚のすぐれた第一|霊国《れいごく》の宣伝使が行つて神様のお話をすることになつてゐる。それはよい加減の宣伝使では|動《やや》もすると邪悪に負けるからである。総て天国の人が一時身を落として|八衢《やちまた》または地獄に|赴《おもむ》き、再び天国の地位にかへることは非常に苦痛なことである。
|王仁《わたし》は沢山の面会者に一度に会ふときはずいぶん|辛《つら》い思ひをする。その大勢の中には信仰の厚い人もあればうすい人もある。また全然|王仁《わたし》乃至大本に無理解な人もある。|王仁《わたし》はそれらの総ての人に、なるべく満足を与へたいと思うて努めるので、|王仁《わたし》の霊魂はとても苦しむ。
面会者とせずただ途中その他で会ふのなれば、こちらは神として会ふのではないから、少しも苦しくもなければ差し支へもない。
[632]
聖賢では出来ぬ
お筆先の中にも「今度の御用は肉体をもつた神に非ざれば成就せぬ」と示されてある。どんな聖賢でも人間であつてはこの度の御用は出来にくい、神の座に直らなければ出来ぬ大望である。
[633]
明従せよ
|王仁《わたし》は|盲目《めくら》ではない、先のことがわかつてゐる。将来のことが見えぬ人は、ただ素直に|王仁《わたし》について来たらよい。ただ|王仁《わたし》に明従してをればそれでよい。
[634]
開祖様の御昇天
開祖様御昇天のことを|王仁《わたし》は神様から承はつて二年前から知つてゐた。それで|貴賓館《きひんくわん》の名において|教祖殿《けうそでん》を造つて置いた。当時|金《かね》が無くて困つてゐたので、開祖様は大層御心配なされたので、八畳の間一杯に取つておいた金銀貨を積みあげてお目にかけたら、これで安心したというて大層お喜びなされた。十年事件以来みな出してしまつたが、開祖様は御安心なされて御昇天になつたのであつた。
[635]
開祖様をおんぶする
開祖様は誰をでもよく可愛がられたが、特に|王仁《わたし》を一番可愛がられた。もちろん|王仁《わたし》も開祖様を尊び|大切《だいじ》にしたが、開祖様は自分の子よりも|王仁《わたし》を可愛がられたものである。
|謹厳《きんげん》で|謙譲《けんじやう》な開祖様は、他人に【おんぶ】されるなどといふことは、決してなさらなかつたが、年をとられてからは、|王仁《わたし》にだけは月夜の晩などよく【おんぶ】された。
右に関して、編者申す。
大正七年聖師様の次男|相生《あひおひ》様が亡くなられたとき、その葬儀を見送るため、聖師様が開祖様を【おんぶ】して、今の西門から|弥勒殿《みろくでん》に行く坂道のあたりを行かれるお姿を|宇知麿《うちまる》様──当時の|佐賀《さが》|伊佐男《いさを》さんも見られたことがあるさうです。
[636]
|男装坊《なんさうばう》の再生
月鏡、十和田湖の神秘を読んだものは誰も知つてゐる如く、湖の|主《ぬし》が昇天のとき、|王仁《わたし》に約束した言葉がある。「再生のときは大本に生まれて参ります」と。……元来は|王仁《わたし》の子となつて生まれるはずであつたが、それが出来なかつたので、|八重野《やへの》が生まして貰つた|和明《やすあき》がそれである。十和田の竜神の再生であるから、十和田の|和《わ》をとり|明《あき》は日と月で神を表はすつもりでかく命名したのである。|王仁《わたし》をばかり慕つて、父親はそつちのけで聖師様聖師様とつけ|纏《まと》ふ。霊の因縁は不思議なものである。
編者申す、「月鏡十和田湖の神秘」には、|左《さ》の通り示されてあります。
前略、かくて|男装坊《なんさうばう》は|三熊野《みくまの》|三神《さんじん》、別けて|神素盞嗚尊《かんすさのをのみこと》の神示によつて弥勒の出現を待ちつつありしが、天運ここに循環して昭和三年の秋、|四山《しざん》の|紅葉《もみぢ》今や|錦《にしき》を織らむとする頃、|神素盞嗚尊《かんすさのをのみこと》の神示によりてここに|瑞《みづ》の|魂《みたま》十和田湖畔に来たり、弥勒出現の神示を宣りしより|男装坊《なんさうばう》は|欣喜雀躍《きんきじやくやく》、風雨雷鳴地震を一度に起こして|徴証《ちようしよう》を示しつつ、その英霊は天に昇りたり。それより再び現界人の腹を|藉《か》りて生まれ、男性となりて弥勒神政の神業に奉仕することとはなりぬ。ああ神界経綸の深遠にして宏大なる到底人心小智の窺知し得る限りにあらず、|畏《かしこ》しとも|畏《かしこ》き次第にこそ。
惟神|霊魂幸倍坐世《たまちはへませ》。
[637]
直美と|操《みさを》
直美(|直日《なほひ》の長女)は開祖様の生まれ変はりであつて、その御性質をスツクリうけついで厳格である。かつて二代が|直日《なほひ》の衣服を着たことがある。さうするとお母さんの着物だから、お母様にかへしてというて聞かないのだ。|他《ひと》のものと自分のものとを、ゴツチヤにするやうなことは開祖様の大変お嫌ひなことであつた。開祖様はまた煙草がお好きであつたが、直美も子供のくせにそれが好きだ。
|操《みさを》は|一二三《ひふみ》の生まれ変はりであるから、よう似てゐる。|王仁《わたし》は何度も生まれかはつて来てをる。印度にも生まれたことがある。あらゆる境遇を経て来た。
[638]
生まれ変はり
|竜《りう》から生まれかはつたのはよい方であるが、|獣《けだもの》から生まれ変はつて来た人たちには何のことも出来はしない。
[639]
皇国|阿闍梨《あじやり》
その昔|洛外《らくぐわい》比叡山において皇国|阿闍梨《あじやり》と|法然上人《ほふねんしやうにん》とが問答した結果、皇国|阿闍梨《あじやり》は【みろく】出現の聖代に遇はむものと思つたが、|人身《じんしん》にては長命がむづかしいからといつて、|遠州《ゑんしう》桜ケ池に身を投じて|蛇身《じやしん》と変じ、その時期を待つたといふ伝説が残つてゐる。その|阿闍梨《あじやり》は既に|今日《こんにち》大本に出現してゐる。お筆先にも示してある通りである。
[640]
亀山城
見たか見て来たか亀山の城は、西に傾く北による
といふ|俚謡《りえう》があるが、これはこの城がつひに大本即ち綾部のものになるといふ神様の予言で、現在の如く大本のものとなつてしまつた。西北は綾部の方面であるが、また一方に西は|穴太《あなを》をさし、北は綾部をさしてもゐるのである。大工の棟梁はこの|謡言《えうげん》を|苦《く》に病んで、|鑿《のみ》を口にくはへ|堀《ほり》に飛び込んで死んでしまつた。霊魂化して|大鯰《おほなまづ》と変じ|堀主《ほりぬし》になつたといひ伝へられてゐる。
明治の初年|堀《ほり》を干したときに、この|鯰《なまづ》が現はれたさうで、|生擒《いけど》りしたらその大きさ|長持《ながもち》に一ぱいであつた。珍しいと京都にもつて行き見世物にしようとしたら、途中で死んでしまつて目的を果たさなかつた。可哀さうにこの棟梁、この謎を自分もさう誤信したのである。
亀岡はもと亀山というてゐたのであるが、廃藩置県の際亀岡と改称されたのである。
明智光秀は築城の名人で、ここ亀山城は天下|五城《ごじやう》の一つであつたから、その築城法も実際驚くべき堅固のものである。
地固めをするのにどのくらゐ念が|入《い》つてをるかを|王仁《わたし》はその跡を掘つて見て感心させられた。亀岡の某氏が|城跡《じやうせき》を買ひ、その石を売つてつひに多額納税者にまでなつたのだから、当時石はすつかり取つてしまはれて、何も無いやうになつてゐた。あの|形原《かたはら》神社にのこつてゐる大きな|屏風石《びやうぶいし》は、城の潰れた記念として、何日も何日もかかつて士族たちがあそこに引つぱつていつて建てたので、世に|涙石《なみだいし》と称へられてゐるのである。
|王仁《わたし》がこの|城跡《じやうせき》を買うたときは|一石《いつせき》をもとどめぬ一面の林であつたが、大正十四年の春この地を拓き、地を掘るに従つて、あの巨大な石が皆出て来たのである。前の持ち主も実際案外に考へられたであらう。
光秀はこの沢山の石を|法貴谷《ほふきだに》や|鹿谷《ろくや》、太田、|金岐《かなげ》等の山々から運んだので、諸大名の名を刻んだものが往々あることより見れば、彼の勢力は想像外に偉大であつたやうである。またそれを運ぶに当つては、地に竹を敷きその上を|木馬《もくば》に石を積むで辷らし|蒐《あつ》めたものだが、それでも重い石であると|滞《とどこほ》つて動かないこともたびたびあつたといふことである。すると監督の|侍《さむらひ》が【いきなり】刀を抜いて|先《さ》きだつ一人を斬る。さうすると疲れ切つた人夫たちは【ハツ】と緊張して、更に新たなる力をもつて押す。かくのごとくにして器械もないのに、あのやうな大きな石が運ばれたのだ。|墓石《ぼせき》などをも勝手にもつて来て|埋《う》め|草《ぐさ》とした、ずゐぶん無理なこともしてある。
|王仁《わたし》が来てこれら諸霊をも慰め清めたので、今はかうした心地よいところとなつた。昔からこの地に住むと皆崇りをうけるので、藩主松平侯さへも、|外《そと》に住んで城内には、|入《い》られなかつたものである。
|幼《いとけ》なき頃は|雲間《くもま》に天守閣
|白壁《しらかべ》|映《は》えしをなつかしみけり
|旧城趾《きうじやうし》おちたる|瓦《かはら》の|片《きれ》あつめ
城の形をつくりて遊びぬ
この歌は天恩郷に立つ歌碑の一つである。|涙石《なみだいし》を記念とした人々も亀山の更生を見て大層喜んでゐて下さるさうである。
[641]
|生身天満宮《いきみてんまんぐう》
|園部《そのべ》の郊外に|生身天満宮《いきみてんまんぐう》と称へる日本最初の天満宮がある。元来|園部《そのべ》の地は|菅公《くわんこう》と因縁深く、|菅家《くわんけ》代々の|知行所《ちぎやうしよ》で|小麦山《こむぎやま》(|旧城跡《きうじやうせき》)に邸宅があり、|劇寺子屋《げきてらこや》で有名な|武部《たけべ》|源蔵《げんざう》も同じく|園部《そのべ》の人で、|菅公《くわんこう》|配流《はいる》の|節《せつ》、八男慶能|君《ぎみ》養育の内命をうけて|幼君《えうくん》を伴ひ|園部《そのべ》に帰つたのである。然るに幼き慶能|君《ぎみ》が父を慕ふ様子のいぢらしく、自らも敬慕の|情《じやう》やみがたく、手づから一つの木像を彫刻しこれを公と仰ぎ邸内に|小祠《せうし》を建設してその木像を安置し、これを|生祠《いきほこら》と名づけて奉仕したのである。|延喜《えんぎ》三年二月二十五日太宰府の|配所《はいしよ》にて公は|薨去《こうきよ》せられたので|生祠《いきほこら》を|霊廟《れいべう》と改めた。次いで|天暦《てんれき》元年京都北野に公の|尊霊《そんれい》を鎮祭し、天満宮の神号を賜ふに至つて諸国の由緒ある地にも|社《やしろ》を立てて祭祀すべき|旨《むね》|公達《こうたつ》あり、よつて天満宮として改めてこの|生身《いきみ》の像を|神体《しんたい》として祀つた我が国最初の天満宮である。|武部《たけべ》|源蔵《げんざう》の子孫|相次《あひつい》で現今の神官で三十四代続いてゐる。|王仁《わたし》は若いときついその付近で獣医学を研究してゐたので知つてゐるのだが、他国ではあまり知られてゐない事実である。
[642]
老人を友達に
|王仁《わたし》は子供のときから老人の友が多かつた。いや老人を友としたのだ。つまり彼らから、経験から来た知識といふものを吸収しようと思つたからである。老人といふものは四十年五十年の経験によつて種々のことを知つてゐる。そしてまたその老人は親たちから種々のことを聞かして貰つてゐるのだから、のべにして百年間の経験知識を蓄蔵してゐるのだ。吾らに取つてよい知識の供給者ではないか。自分と同じ年輩のものを友として彼らから何が得らるるであらうか。ただ|悪戯《いたづら》や遊びを一緒にするだけのものである。老人を友達に持つことは|王仁《わたし》が処世法の一つであつた。
[643]
玉の井
|穴太《あなを》の|王仁《わたし》が実家の西南隅にある池、即ち|久兵衛池《きうべゑいけ》を玉の井だと思つてゐる人が多いが、さうではないので、本当の玉の井といふのは、家の直ぐそばにある井戸のことである。形が|円《まる》いので玉の井といふのである。|王仁《わたし》が|産湯《うぶゆ》を使つた井戸のことである。|清水《せいすゐ》|滾々《こんこん》と湧いて|盡《つ》くることがない。
しかし東京にも玉の井といふ地名があつてあまり評判のよく無い所だが、玉の井の名が何だか妙に感じられてならぬのだ。
[644]
初対面
|王仁《わたし》と開祖様と初対面の有様を問ふのか、歌集に出てゐるであろう。何、神秘方面のことを聞かせといふのか、別に変はつたことはないが開祖様は初対面のとき、|王仁《わたし》をじつと御覧なされて「わかつてゐるでせう」と申された。|王仁《わたし》は「わかつてゐます」と答へた。ただそれだけである。その|後《あと》のことは歌集に出てゐるとほりだ。
[645]
最初の信者
|王仁《わたし》にとつて最初の信者は、先日帰幽した|佐伯村《さへきむら》の|大石《おほいし》|友治郎《ともぢらう》さんだ。|王仁《わたし》は|高熊山《たかくまやま》修業後、神業に従事せむとして一生懸命に親戚知己を説いたが、非難攻撃ばかりで、誰も信じてくれるものが無かつた。|王仁《わたし》は静岡県|清水《しみづ》なる|霊学《れいがく》の|大家《たいか》長沢先生を訪れむとして旅費に困り、到底理解してくれないだらうと思ひながら大石さんに話すと、二言といはず賛成して「行きなさい、貴方のいふことは確かだ」というてすぐ耳を揃へて|金《かね》を貸してくれた。以来一度も|王仁《わたし》の行動を疑はず批判せず、あくまで|王仁《わたし》を信じてくれて|今日《こんにち》までに及んでゐた。|王仁《わたし》は深くこれを徳としてゐる。故に百日祭を|期《き》として彼を|宣霊社《せんれいしや》に祭り、宣伝使の待遇をすることにした。この人が|王仁《わたし》の最初の信者であり、|真《しん》の知己である。あの時代においてよくあそこまで|王仁《わたし》を理解してくれたと感謝してゐる。皆が知つてゐる通り、|王仁《わたし》が|亀岡《ここ》に来てからは始終訪ねて来てくれ、珍しい物でもあれば、早く|王仁《わたし》に食べさせようと、八十四歳の高齢をもつて、一里余の道をコツコツ歩いて持つて来てくれたものである。今年に|入《い》つて|慈母《はは》を無くしこの人を失つたので、|王仁《わたし》は淋しい。
[646]
|故郷人《こきやうじん》
英雄は|故郷《ふるさと》の知人を恐るといふ|諺《ことわざ》が支那にある。何でもかまはずベラベラやるからだ。が|王仁《わたし》は故郷の知人が少しも恐くない。彼らがいはむと欲する前に自分のやつたことは何もかも【さらけ】出して書いておいたから、何をいはれても一向差し支へない。神様は自己暴露の戦術を用ゐられるよ。
編者申す。ときは|御生母《ごせいぼ》三十日祭の折柄、|直会《なほらひ》のせつTさんといふ御労働時代の旧友が、当時の有様を辺りかまはず【さらけ】出した折りのお話である。だが
物ごころさとりはじめて夜遊びに
|赤毛布《あかげつと》肩にかけて出でたり
二人|坐《ざ》す夜辻に人の気配して
おどろき毛布捨てて逃げたり
などのお歌を先に拝見してゐる吾らは、Tさんの話をただ面白しと聞いたばかりであつた。
[647]
|巡笏《じゆんしやく》とプログラム
|王仁《わたし》は旅行に|先《さきだ》つてプログラムを作つて出されることが一番嫌ひだ。神命のまにまに|王仁《わたし》は動きたいのだ。プログラムを作つて|王仁《わたし》の行動を支配するのは、|王仁《わたし》を【宣伝使扱ひ】にするものである。また地方の有力者であるから会つて下さいとか、富豪であるからお会ひ下さいとかいふ申し出をする人々がある。有力者なら何が有難いのだ。財産家なら何が尊いのだ。有力者や財産に仕へようとするサモシイ心を|放《ほ》かして貰ひたい。|真《しん》に道を求むる人、神業参加を心から|希《こひねが》ふ人になら上下貧富の区別はない、|王仁《わたし》は喜んで会ふ。単に有力者、富豪の故をもつてしては、|王仁《わたし》はお断りだ。
[648]
|食物《しよくもつ》
|王仁《わたし》は近頃になつて一層菜食主義になつた。|魚《うを》なども大概嫌ひになつた。それでもうまく料理して原形がないやうにしてあればよいが、頭や尾がついたそのままの姿を見ると、むごたらしくて、一度に食欲がなくなつてしまふ。切つても血の出ない野菜食に限る。
[649]
面会
面会といふことは|王仁《わたし》にとつて一番苦痛な仕事である。信者ならさほどでもないが未信者は沢山の霊を一緒につれて来るので、とても苦しくてやりきれない。お前らは肉眼で見るだけだから|王仁《わたし》のこの苦痛に同情が無い。未信者といへどもサツパリとしてゐる人もあるのでお前たちにはその見分けがつかぬのだから、|王仁《わたし》の気持のままにしてくれないと困る。旅から旅へと|身体《からだ》がつかれ切つてやつと宿につくと、すぐこちらのことは少しも考へないで、帰る汽車の時間がどうとか、かうとかいふ理由で面会を強ひらるるくらゐ嫌なことはない。自分の都合さへよければ、|王仁《わたし》のことはどうでもよいのか。かういふ想念が一層|王仁《わたし》を苦しめて旅行はしたくない。
[650]
旅行と|入湯《にふたう》、食事
旅行して宿につくと直ぐお湯にお召し下さいと何度でも催促をうけるが、|王仁《わたし》は着いてから三十分間を置かねば湯にも入らず、食事もせないのである。湯に入つてから三十分置かねば食事はとらない。食事と入浴の|間《あいだ》は必ず三十分おくべきで、これが大切なる|養生法《やうじやうほふ》である。宿に着いていきなり湯に入るのは体のためにはなはだよくない。血を落ちつけるために三十分の時間をおかねばならぬ。今の人は何もかも無茶苦茶だから、早く老衰し短命なのである。|王仁《わたし》はこの点厳格に守つてゐる。
[651]
瑞穂神霊
神勅が下つたので|穴太《あなを》の|郷《さと》は|瑞泉郷《ずゐせんきやう》と命名せられ|宮垣内《みやがいち》の跡は|瑞泉苑《ずゐせんゑん》と名づけられ、そこに「瑞穂神霊」の|四字《よじ》を記されたる|大石碑《だいせきひ》が建つのである。玉の井の水に育まれたる瑞穂の稲は全国中最も|秀《ひい》でたるものにて、|灘《なだ》の|生《き》一本は、この米によつて醸造せらるるのであるが、今後|瑞泉苑《ずゐせんゑん》の神業として、この瑞穂の|種《たね》が全国の信者に頒布せらるるのである。このことは|神代《かみよ》の昔よりの約束事であつて|穴穂《あなほ》(後世|穴太《あなを》と転訛す)の地名のよつて来たるところである。
大本の歴史を|繙《ひもと》くものは誰もが知つてゐる如く|雄略《ゆうりやく》天皇の二十二年|戊午《つちのえうま》の年、天皇の|御夢《おんゆめ》により豊受大神様が伊勢の山田にお|遷《うつ》りになるとき、途中上田家の|庭内《ていない》即ち|宮垣《みやがき》の|里《さと》がその|御旅所《おたびしよ》に選まれ、上田家の一族(聖師の祖先)は喜び勇んで|鄭重《ていちよう》に|斎《いつ》きかしづきしが、そのとき御神霊に御供へせし|荒稲《あらいね》の|種子《たね》が、|欅《けやき》の老木の腐つた穴へ落ち|零《こぼ》れ、それから苗が出たのを日夜に育てた所ずんずんと伸び、その稲に|美《うる》はしき瑞穂を結びたれば、ときの|里庄《りしやう》が|正《まさ》しく神の大御心と仰ぎ|奉《まつ》つて、所在の|良田《りやうでん》に蒔きつけ、|千本《せんぼん》といふ名をつけて|四方《しはう》へ植ゑ広めたのが|穴穂《あなほ》の|里《さと》の名の起こつた始まりである。最初は|穴穂《あなほ》と書いたのが|後《のち》に|穴生《あなふ》となり、|穴尾《あなを》となり、更に今の|穴太《あなを》となつたので|西国《さいこく》二十一番の札所、|菩提山《ぼだいざい》|穴太寺《あなをでら》の|院主《ゐんじゆ》は代々今に至るまで、|穴穂《あなほ》の姓を名乗つてゐるのであるが、その|穴太《あなを》の|瑞泉苑《ずゐせんゑん》より|種子《たね》の|頒《わか》たれるといふことは有意義なことである。
[652]
米の意味
米は|小目《こめ》の意で、目の形に似てゐるからそれで|小目《こめ》と云ひ出したのである。またヨネといふは目は夜寝るからであり、イネといふのは目が|寝《いね》るからの名称で古事記に示されてある。米の味は|穴太産《あなをさん》が全国一である。|灘酒《なだしゆ》の原料は|穴太米《あなをまい》である。|安生館《あんせいくわん》の|飯《めし》が美味いといふ評判ださうだが、全国一の米を使つてゐるからである。
[653]
命ぜられて咲いた桜
去年のこと、|王仁《わたし》がお多福桜に咲けと命じたら一日のうちに咲いた。だがそれは既に咲く季節であつたからわけなく咲いたのである。もしこれが寒いときででもあつたならば、咲くことは咲くがそのかはりその木はそれで|枯死《こし》してしまふのである。
[654]
|雄蟇《ひき》と|雌蟇《ふく》
|雄蟇《ひき》は幸ひを引きつける。|雌蟇《ふく》は災ひを吹き飛ばすとて、|商家《しやうか》では客引きに祀る。|王仁《わたし》が霊を入れてやると非常に繁昌するとかで、よく頼まれたものである。
[655]
天眼通について
|王仁《わたし》の霊眼を二六時中見えてをるもののやうに誤解してゐる者があるが、それは違つてゐる。現界の事物だけ見て居つても沢山なのに、霊界まで始終見えて耐まるものでは無い。ただ|王仁《わたし》が何処を見たい、|彼処《かしこ》のことを知りたいと思ふとき、神様は何時でも見せて下さるのである。例へば今お前の履歴を知りたいと思へば、それと同時にお前の後ろに当つて、活動写真の如く一代記が現はれて来るのである。それだから|王仁《わたし》は別段人の経歴なんか聞く必要がないのである。初めての訪問者などが一生懸命に誇張して自己紹介をしてゐると、その後ろに全く反対現象が現はれて来るときなんか、|王仁《わたし》はをかしくて思はず失笑することがある。|王仁《わたし》を|瞞《だま》さうとするのは無理である。が|王仁《わたし》はさうした努力をしてゐる人を見ると気の毒になつて来るので、しばらくの間|瞞《だま》されてゐて【やる】のである。その人が自然に悟るまでな……。あるときにさもさも善人らしく自己紹介をやつてゐる人の後ろに、殺人の場面がありやかに現はれて来たのにはちよつと驚かされた。だが心の鬼にせめられると見えて、その人は着かず離れずといふ程度ではあるが、信仰に入つて以来、神様を一生懸命拝んでゐるやうだ。やがて罪の|贖《あがな》ひが出来たときは立派な人として更生するであらう。|王仁《わたし》の霊眼は活動写真といふよりもトーキーの方だな、声も聞こえてゐるのだから。名所旧蹟などへ御案内しませうなどいはれると、【おつきあひ】に行かぬこともないけれど、ベツドの上に横たはつて見てゐる方が便利である。またお前たちの行動は、守護神さんが報告に来られるから、霊眼で見るまでもなく、よう知つてゐる。
[656]
|海潮《かいてう》
|王仁《わたし》は若いとき|海潮《かいてう》といふ名をつけた。静まつてゐるときはいと静かになだらかだが、|一朝《いつてう》|浪《なみ》立つときは|狂瀾怒涛《きやうらんどたう》を起こす。そして平素は限りない|魚族《うろくづ》をその中に養うてゐる。
[657]
自己暴露
|白魚《しらうを》の手を握りたるそのせつな
ほとばしり出づるエネルギーかな
といふ歌を発表すると、自分の知らないうちに|甲論乙駁《かふろんおつばく》の喧嘩が|他所《よそ》の新聞で始まつてゐた。怪しからぬといふ者、それでこそ本当の宗教家であるといふ者、|賑《にぎや》かなことである。それはいづれともあれ、|王仁《わたし》は今後もどしどし自己暴露をやつて何でも書くつもりである。それで嫌ならやめたらいい。臭い物に|蓋《ふた》をしておいて聖人君子ぶつてゐる偽善者には|王仁《わたし》はとてもなれない。だが真如の光誌の回顧歌集は|偽《いつは》らざる告白であるけれど、各歌壇や|明光《めいくわう》にのせてある|恋歌《れんか》は仮想的のものである。誰でもそこにゐる人をつかまへて、それをモデルにして詠むだけのものである。一つや二つ本当のものが無いとも限らないけれど……皆の人も知らぬ顔をしてをるけれど、|王仁《わたし》の歌には思ひ当る|節《ふし》が多からうと思ふ。
[658]
霊眼
湯ケ島温泉にゐて、百三十五ケ所の新名所を霊眼で見たまま、歌に詠んで置いた。ある名所の|茶店《ちやみせ》には朝日煙草が三個しかなかつたのも見えたし、宿屋の看板から電話の有無まで見えて来る。霊眼で見てゐると、実物を見てゐるよりも遙かに美しく見える。あたかもつまらぬ|雪隠《せつちん》小屋でも写真で見れば美しく見えると同じ道理である。|王仁《わたし》の眼は空間的に遠近を問はないだけではなく、時間的にも時代を|遡《さかのぼ》つて昔のことも見えるし、またこれから先のことも見える。それでなくては皆を指導するわけには行かぬ。一寸先のことも見えぬのだから、お前たちは小理屈をいはずに|黙言《だま》つて|盲目滅法《めくらめつぽふ》に|従《つ》いて|来《く》ればよいのである。
[659]
上田家の姓
上田家の先祖が藤原姓を名乗つてゐる時代は大和に住んでゐた。その|後《のち》、信州の上田に移つたので、そのために上田姓を名乗つたやうでもあるが、何分|王仁《わたし》の小さひとき実家火災の折り、系図その他すべてを|灰燼《くわいじん》に|帰《き》したので確かなことは分からない。
[660]
外国人の祈り声
|王仁《わたし》がちよつと仕事の手を休めると、諸所方々からいろいろの願ひや祈りの声が聞こえて|王仁《わたし》の|身体《からだ》が苦しくなることは既に言つた通りであるが、この頃は外国人の声が沢山交じつて聞こえて来る。あまり一度に多数なので誰の声か聞きとれないやうになつた。
[661]
惚れられる人
女から惚れられぬ男、男から惚れられぬ女、いづれもさういふ人々には何の仕事も出来るものではない。男からも、女からも、老人からも、子供からも惚れられるやうな人間であつて、初めて天下にわが志すところのものを、成し遂げ得らるるのである。「今頃の男は女からすこし|秋波《しうは》を送れば、すぐデレデレして来る」といふのか。|王仁《わたし》がいうてゐるのは、さうした技巧を弄して強ひて惹きつけるものの言ひではない。男が惚れるやうな男、女が惚れるやうな女のことである。「|桃李《たうり》物いはず下|自《おのづか》ら|径《みち》をなす」といふやうな惚れられ方でなくては駄目である。惚れられる秘訣? 愛善が徹底すればよいのである。自分のことよりも相手の幸福を思つてやる心だ。愛するもののためには自分の幸福を犠牲にするといふ心だ。|王仁《わたし》は初めてあつた人でも、話を聞いてゐるうちにその人の将来まで心配してやる心になる。|王仁《わたし》はいつも他人のことばかり思つて、自分のことはちつとも思つてゐない。だからまた他人が|王仁《わたし》のことを思ひ、|王仁《わたし》を愛してくれる。|王仁《わたし》はまた、わが愛人に他の愛人が出来た場合にもそのことに対して極めて寛大である。本当に人を愛するならば、愛するものが幸福にあることを心の底から祈るのが|真《しん》の愛である。他に走つたからというて、|嫉《ねた》み|妬《そね》むのならば、それは自己の愛である。相手を愛してゐたのではなくて、自分の愛欲を満足さすために愛人を犠牲にしてゐたに過ぎない。|王仁《わたし》の目から見れば、近代の恋愛は|真《しん》の恋愛ではない、偏狭なる自己愛の固まりだ。かういふ【かたくな】な心で、どうして愛が徹底するものか。惚れられる秘訣、ただ相手の幸福をのみ祈る愛善の心だ、そしてまたその実際化だ。
[662]
米の|三度作《さんどさく》
我が国現今の農業は実に幼稚でありかつ不経済極まるものである。一ケ年に二回|米作《べいさく》の取れる国は四国の土佐ぐらゐである。台湾にては二回は取れるが、|雨水《うすゐ》の都合にては台南州あたりは一ケ年に三回の収穫がある。しかしながら|地味《ちみ》の余り良からぬため、二回または三回の年収穫といへども内地の一回の収穫に均しいので、要するに内地に比して労力を多く要する次第であつて、計算上余り羨望すべきではない。然し土佐以外の内地において一年に二回または三回の|米作《べいさく》を取ることを自分は発見し、二三年以前より大本農園において試作してゐるが、二回収穫にて|優《いう》に|五石《ごこく》(|一段歩《いつたんぶ》)以上を取ることを実験し得たのであるが、本年よりは更に方法を改め三回作を試むるの計画である。我が国の|古《いにしへ》は人口も少なく|耕田《かうでん》も沢山要らなかつたので、年中水の手の良い|窪田《くぼた》のみを選んで|籾種《もみだね》を|田面《でんめん》に撒き、それを成育させてゐたのが、人口の増加すると共に、原野を開き|米田《べいでん》とするに至つたが、|窪田《くぼた》の他には水の手が悪しく、かつまた麦等の|冬季作《とうきさく》もやらねばならぬやうになり、稲の苗の植付け時までの便宜上、|苗代《なはしろ》を設けこれに|籾《もみ》を八十八夜即ち五月一日前後をもつて|籾種《もみだね》を蒔き苗を育て、|五月雨《さみだれ》の時節を待つて実れる麦を刈り、その跡に|稲苗《いねなへ》を水を湛へて|挿《さ》すこととなつたのであるが、水の手の良い|窪田《くぼた》ならば|籾種《もみだね》のまま蒔いた方が苗の発育も良く、秋の|稔《みの》りも|随《したが》つて良好である。先づ四月下旬頃に|早稲《わせ》の|籾《もみ》を蒔き八月頃に刈り入れると、夏の最中とて稲の切り跡の株から青々と勢ひよき芽を出し直ちに成育して実を結ぶのである。そして二回目には一回目の苗の間に|苗代《なはしろ》の苗をうつして植ゑ付けると、普通の一回作の稔ると同時に刈り取るやうになるものである。
[663]
|吾子《わがこ》の死
永年大本の信仰をしてゐる信者の子供が、一年のうちに二人まで国替へをしたにつき、何か神様に御無礼があつて、お咎めを|蒙《かうむ》つてゐるのではあるまいかと、たづねて来たものがあるが、決してさうではない。
元来霊界に生るるものは、どうしても一度現界に生まれて来なければならない。これが神定の手続きである。神命によつて現界に生まれ、神命によつて霊界に|入《い》る。霊体不二、|生死一如《せいしいちによ》の真諦が分かつてをれば少しも|歎《なげ》くに足らないのである。生まれて来たものは手続きを|了《れう》して霊界に|入《い》り、神命のまにまに御用をなし、生みて育てたものは、そのことによつて神業奉仕をしたことになる。子供を死なしたことによつて信仰がぐらつくやうな人には、こんな神業奉仕は苦痛であらうが、徹底すればこれも結構な御用である。お咎めをうけるどころではない。|王仁《わたし》も三人まで子供を失つてゐる。
[664]
再生
|王仁《わたし》には男の子が二人あつたが、いづれも帰幽してしまつた。長男は|六合大《くにひろ》というてゐたのだが、|葬《はふ》りに当り|王仁《わたし》は遺骸に向つてよくいひ聞かした。
「大本は男の子は育たぬのであるから、今度は女の子に生まれてお出で」
と、すると、満一年を経過したその月、その日に今の|尚江《ひさえ》が生まれたのである。時刻も少しも違はぬ。彼が三歳のとき|負《おぶ》つて|六合大《くにひろ》を祭つてあるところにつれて行くと、突如背中から
「此処には私を祭つてあるのだ、私は|六合大《くにひろ》さんの生まれ替はりぢや」
と叫び出したので、|王仁《わたし》もゾツとした。
[665]
祝詞は一人で
天津祝詞、|神言《かみごと》など、|王仁《わたし》は一人であげたい、大勢の人と一緒に上げると|言霊《ことたま》を濁されて嫌だ。
[666]
写真も一人で
写真も|王仁《わたし》は一人で写したい。皆と一緒に写すことを神様が大層嫌はれるので、写真をうつすのが|王仁《わたし》は一番嫌ひだ。何かしら腹立たしくなつて来る。一人で撮るときはさう嫌でもないがな。
[667]
ある人が|花鳥草木《くわてうさうもく》などを配することなしに、四季の月を|描《ゑが》いてくれと画家に頼んだら、さういふ月はとても|描《ゑが》けないと断つたといふが、何もさう難しいことでは無い。春の月は|朧《おぼろ》の月、夏の月は|水気《すゐき》を含んでゐるので水中の月、秋の月は|冴《さ》えて高く、冬の月は鋭く尖つてゐる。その意を|描《ゑが》けばよいのである。
[668]
七福神
七福神は神のあらゆる美徳をあつめたものである。
これまでの|大黒《だいこく》は|仏《ほとけ》の|大黒天《だいこくてん》のことで、|大黒主《おほくろぬし》のことである。本当は|素尊《すそん》の|御子《みこ》大国主命のことである。|大国《だいこく》が|槌《つち》をもつてゐるのは土地開発の意味である。
|恵比須《ゑびす》が|鯛《たひ》を抱へてゐるのは、国体保護の意味である。
|寿老人《じゆらうじん》は長寿を表はしたものである。
|福禄寿《ふくろくじゆ》は長者をあらはし、人を支配するのである。頭の長いのは|頭《かしら》の象徴である。
|布袋《ほてい》は太つ腹で杖をもつてゐるのは、人を指揮することを意味してゐる。
|弁天《べんてん》は芸術の神である。それで|琵琶《びは》をもつてゐる。
|毘沙門《びしやもん》は武力を表はしたものである。
[669]
玉串
玉串は神様に|衣《きぬ》を|献《たてまつ》るの型である。すべて霊界に於ける事象は現界において型をせねばならぬので、玉串を捧げて型さへすれば、霊界では想念の延長で、立派ないろいろの色の|絹《きぬ》と変じて、神様の|御衣《ぎよい》となるのである。松の|梢《こずゑ》につけて|献《たてまつ》るのであるが、その松はまた想念の延長によりて立派な材木となり、神界の家屋建築に用ひらるるのである。
このやうに現界で型をすれば、霊界ではいくらでも延長するのであるが、型がなければどうすることも出来ない。だから祖霊様にでも常にお供へ物をすれば、祖霊様は肩身が広い。多くの人に|頒《わか》つて「晴れ」をせらるることはかつて話した通りである。
[670]
|神饌《しんせん》について
元来|神饌物《しんせんもの》は、|同殿同床《どうでんどうしやう》の制で、煮たものを差し上げるのが本義であるが、一々さうするの用意が出来ないので、生で差し上げるやうになつたのである。生で上げますから、御自由に御料理をして下さいといふ意で、水から、お塩までお供へしてあるのである。
[671]
|紅葉《もみぢ》と歌
島根別院の|赤山山上《あかやまさんじやう》に建てられたる歌碑には|左《さ》の歌をしるした。
|赤山《あかやま》の|紅葉《もみぢ》にはゆる|夕津陽《ゆふつひ》の
影黒々と庭を|描《ゑが》けり
不思議なことにはそれ以来青い種類の|紅葉《もみぢ》が、|真紅《しんく》になつて秋ごとを美しく飾つてゐる。|紅葉《もみぢ》も歌には感ずると見える。
[672]
光る宝石と曲津
ダイヤモンドの如き光|眩《まばゆ》き宝石をもつて|身体《からだ》を装飾するのは、|曲神《まがかみ》のやり方を真似てゐるのである。元来|正神《せいしん》は総てスの|言霊《ことたま》より生まれたる、さまざまの声の|水火《いき》より|生《あ》れませる神にましませば、全身ことごとく光に輝き、その光彩|妙《たへ》にして何らの装飾を要されないに反し、|曲神《まがかみ》は|身体《しんたい》曇りに満ちて|穢《きたな》いので種々の宝玉を全身に付着し、光に包まれ|正神《せいしん》の真似をしてゐるものである。
孔雀と|烏《からす》のたとへの如く、|烏《からす》が孔雀の|美《うる》はしい翼を|羨《うらや》み、その|落羽根《おちばね》を拾ひ、我が翼の間にはさみ置きて、他の|鳥《とり》にその美を誇るが如く、曲津神は競ひて宝玉を集め、その|輩《やから》に誇らむとするものである。故に|曲神《まがかみ》の強いものほど、数多の宝玉を身につけてゐるのである。霊体一致の原理によつて今日の社会状態を見てゐると、成程と頷かるるのである。貴婦人、令嬢など身分のある人はまだしも、いかがはしい職業を持つ婦人たちまでがダイヤモンドの光に憧れて、|千金《せんきん》を惜しまず競ひ|購《あがな》ひ装身の具となすは|唾棄《だき》すべき|業《わざ》である。それも全身をダイヤモンドの光にて包むならばまだしも、ただ一局部に小さく光るものをつけて得々として誇るが如きは|卑《いや》しむべきことである。
太古の神々は光なき天然の石をみがきて、|五百津御須麻琉《いほつみすまる》の|珠《たま》をつくり、首飾り、腕飾り、または腰の辺りの飾りとなし給ひしが、ダイヤモンドの如き光を放つものを身に帯ぶることを|卑《いや》しめられたのである。なぜなれば前述の如く、神の御身体はすべて光にましませば、光の宝玉を身に|纏《まと》ふときは、神御自身の光の弱きを示す理由となつて、他の神々に|卑《いや》しめらるるを忌み嫌はせたまふのである。
愛善の徳に満ち、|信真《しんしん》の光添はば、身に宝石を付着せずとも幾層倍の光を全身に|漲《みなぎ》らせ、知らず知らずの間に尊敬せらるるものである。|王仁《わたし》は婦人などの指または首のあたりに|鏤《ちりば》めたる種々の宝石の鈍き光を眺めつつ浅ましさを感ずる。
[673]
不退転
強くなければいかぬ、対外策は押しの一手でなくてはいけない。いつでも内閣の腰の弱いときに戦争は起こつてゐる。自ら|侮《あなど》つてしかして|後《のち》人これを|侮《あなど》るのである。強い国民、強い政府、強い外交、これでなくては一九三五年六年の非常時日本は救はれない。
[674]
非常時の人物
非常時日本には【経綸のあるぼんやり】した大人物が欲しいが、無経綸な小さい賢い人ばかり多くて困つたものだ。衆愚政治ではもはや駄目だ。経綸のある非凡なる大人物によつてリードせらるるのでなければ日本も危ない。
[675]
遠大なる準備
すべてのものは遠大なる考へのもとに準備せられなくてはならない。物事は準備の時代に六十年を要する。|欅《けやき》は|大木《たいぼく》になるものとはいへ、今年|種《たね》を蒔いて来年それを得るわけにはいかない。春蒔いた|種《たね》は秋でなくては収穫を得られない。だから|種《たね》を蒔くことを早くせねばならない。艮の金神様は三千年の|経綸《しぐみ》がしてあるから、出かけたらバタバタと片を付けるとおつしやつてゐるが物事は準備が肝要である。また考へるといふこと、|省《かへりみ》るといふこともトツプを切るまでの仕事ぢや。いよいよやりかけたらあくまでそれを断行せねばならない。出発点を離れてから更に考へなほすなどのこと、|王仁《わたし》は断じてしたことはない。|王仁《わたし》は十分案を練つて、いざ出かけたら一歩も後へはひかぬ|性質《たち》だが、世にはよい加減に考へて、さて出かけて|後《のち》、あれでも行かぬ、これでもゆかぬ、と考へたり引つ込んだりする人が多いが、|王仁《わたし》はそんなことは嫌だ。
[676]
|兇党界《きやうたうかい》と人間
|兇党界《きやうたうかい》の霊とたびたび交渉をもつと離れることが出来なくなつてしまひ、|終《しま》ひには兇霊は修行とか何とかいうて、人間を山の奥などに|誘《おび》き出し、殺してしまふのが落ちである。
伏見に滝本|春海《しゆんかい》といふ行者があつて、朝の十時頃から三時頃まで病人の祈祷などをして|金《かね》を儲けるが、それが済むとその|金《かね》をもつて方々の飲食店に物を食べに行く。|天麩羅《てんぷら》、|蕎麦《そば》、寿司、|汁粉《しるこ》と、あらゆるものを食べて食べて儲けただけの|金《かね》を使つてしまはねば|止《や》まぬので、どんなにおそくなつても、これだけの行事を済まさねば、|腹中《ふくちう》の霊が承知しないのであつた。気の毒にも彼は全く兇霊の|容器《いれもの》であつた。|金《かね》を儲けさすのは、春海の肉体を使用して自分からの欲望を満足させむがためであるのだ。三十年|前《ぜん》の話で、そのとき五十歳ぐらゐであつて、もう|疾《と》うに故人となつたが、|兇党界《きやうたうかい》の霊と交渉をもつ人へのよい戒めであると思ふ。
[677]
|生命《いのち》は同年
三つ子も老人も|生命《いのち》の上からいへば同年である。|老少不定《らうせうふぢやう》、どちらが先に|逝《ゆ》くか分かつたものではない。若返りたいのならば、年の勘定を|止《や》めるのが一番だ。あまり年齢のことを気にかけるから益々年が寄るのだ。
[678]
太陽も月も霊体
太陽も月も霊体であつて透明体である。大地(地球)のみが物質であつて、本体である。太陽も月も大地の付属物である。
[679]
|公卿《くげ》と|熊襲《くまそ》
|公卿《くげ》たちは|智謀《ちぼう》に富む、そして静かに|温順《おとな》しい。これは大和民族の特徴である。|熊襲族《くまそぞく》はいはゆる|隼人《はやと》で勇敢であるが乱暴である。|熊襲族《くまそぞく》は立替に使はるべき種族であつて、統一は矢張りおとなしい大和民族でなければ出来ぬ。
[680]
霊的小説
|王仁《わたし》が若いとき村の古老から聞かされた話であるが、御維新前|穴太《あなを》の隣村|犬甘野《いぬかんの》といふ所にお末と呼ぶ女があつた。|穴太村《あなをむら》の徳さんといふ若人と熱烈な恋に陥つて内縁の夫婦関係を結んでゐたのであつたが、身分の釣り合ひとか親戚の関係とかいふことから、女の親たちが|生木《なまき》を引き裂くやうに引き放して|犬甘野《いぬかんの》にやつてしまつたのである。泣く泣く思はぬ人の妻となつたお末もつひに母となつて一人の子を持つに至つたが、不幸にしてほどなく夫は病を得て|不帰《ふき》の客となつてしまつた。
さなきだに忘れ得ぬ恋人徳さんのことが、かういふ身分となつて一層思ひ出されてならなかつた。彼女はつひに意を決して、徳さんと恋の復活を遂げたのであるが、家には|姑《しうとめ》や子供もゐること、自由に逢ふことも出来ないので、燃ゆる|恋火《れんくわ》は身を焼く如く堪へ切れず、人静まつて|後《のち》夜な夜な家を脱け出し、二里半からの道を|穴太《あなを》なる徳さんの|許《もと》へと通うた。途中には|法貴谷《ほふきだに》、|明智戻《あけちもどり》などいふ恐ろしい山里があつて、狼が盛んに出没するのである。恋に狂うたお末はかかる恐ろしき|山路《やまみち》をも意とせず、雨のふる夜も風の夜も通ひつめたのであるが、身の危険を怖れて途中からすつかり|鬼女《きぢよ》の姿に変装して顔は絵の具を塗つて口は耳まで裂け、頭に三徳をのせて|蝋燭《らふそく》を立て、|鋏《はさみ》、|釘抜《くぎぬき》などをつるし、胸には鏡をかけ、長い白い帯を|曳《ひ》いてゐた。さすがの狼もこの姿に|辟易《へきえき》して|敢《あへ》て彼女に迫らうとは|為《し》なかつた。
雨風激しいある夜のことである。徳さんは、こんな暴風雨にも彼女はあの|山坂《やまさか》を越してゐるであらう、いとしのものよ、せめては途中まで迎へに行つてやらうと、|犬飼《いぬかひ》の墓場の|辺《へん》までいつたところ、真夜中に世にも恐ろしい|鬼女《きぢよ》に出会つてしまつたので、|魂《たましひ》も身に添はないが、小屋に隠れて見てゐると|蝋燭《らふそく》に照らされた女の顔がどうもお末に似てゐるので、眼を定めてよくよく見ると、|擬《まが》ふ|方《かた》なき彼女であつた。彼は|冷水《れいすゐ》を頭上よりぶつかけられた心地して、急ぎ逃げ帰り、戸を固く|鎖《とざ》して彼女を拒んだ。かくとは知らぬお末は、同じ|犬飼《いぬかひ》の墓場の小屋で変装を解いて恋人の家に急いだが、叩けど押せどつひに|開《あ》けてはくれなかつた。恋人の心変はりにがつかりしてしまつてふらふらと帰つて来た。再び変装する勇気もなく、彼女はトボトボとしてそのまま山里を辿つたのであるが、普通の姿をした女をどうして|見逃《みのが》さう、|群《むれ》がり迫つた狼のために、彼お末はつひに食ひ殺されてしまつて、翌日は|生々《なまなま》しい骨や頭髪のみが散乱されてゐたのみであつた。その後徳さんは何度も妻を迎へたが、お末の|怨霊《をんりやう》に悩まされ皆死んでいつた。
[681]
獅子を|御《ぎよ》する|文珠《もんじゆ》
|王仁《わたし》が世間的評判のよくない人に接近すると、御親切な人たちが非常に気に病んで、ああいふ人にはお近づきにならない方がようございますと忠告してくれるが、悪人ならばなほのこと、|王仁《わたし》はさうした人に接近して救済の手を伸ばさなくてはならぬ使命をもつてゐるのだ。また自分がその人を制御し得ないからというて、どこまでも悪人扱ひをすることは間違ひである。
制御し得る人の手にかかれば、昨日の悪漢は変じて忠実なる神の|僕《しもべ》ともなるものである。いかなる|駻馬《かんば》も、騎手によつては柔順なること羊の如くなるものである。|文珠菩薩《もんじゆぼさつ》や|勢至菩薩《せいしぼさつ》や|普賢菩薩《ふげんぼさつ》などは、獅子や虎や象などに乗り、泰然自若としてこれを制御して居られる。|観世音菩薩《くわんぜおんぼさつ》に至つては竜神をさへ制御して居らるるではないか。悪人を恐れて近づかなかつたら、いつの日にか彼らを改心せしめ、またこれを使用することが出来るか。
「あいつは|古狸《ふるだぬき》だからずいぶん御用心をなさいませ」などと忠告してくれる人もあるが、|古狸《ふるだぬき》の一匹や二匹が何だ。そんなものが手にをへぬやうなことで、世間に立つて何が出来るものか。
狐狸獅子虎狼|赤熊《あかぐま》も
|三六神政《みろくしんせい》の|先駆《せんく》と用ゐむ
|邪津見《まがつみ》の|伊猛《いたけ》り狂ふ現代は
猛獣使ひて鎮めむと思ふ
[682]
愛善紙百万部
愛善新聞もいよいよ七十万部を突破したやうである。|諸子《しよし》の|一方《ひとかた》ならぬ努力を|王仁《わたし》ははなはだ|多《た》とするものであるが、これはどうしても百万部にせなければならぬのである。百万部といふことは経済上の見地よりするのでは決してないので、神諭に「これだけ知らしたら神に落度はもうあるまいがな」とあるので、百万部出たら、日本全国津々浦々まで、神様の|思召《おぼしめし》が一通り行き渡るので、これが神様の最後に示さるる|御仁慈《ごじんじ》である。売れるとか売れないとかいふことに拘はらず、日本全国に読まれなければならぬのであるから、全員今一層の努力を要望する。かういふ尊い使命であるから、新聞売る人は立派な神の宣伝使である。各員この使命を自覚して、自ら|卑《いや》しうすることなく、世人の一人でも多くがこの神の救ひの|綱《つな》に救ひあげられるやうに努むべきである。
[683]
|細心豪胆《さいしんがうたん》
えらい世の中になつて来るぞ。御神諭にある通り余程腹帯を締めて居らぬと切り抜けられないときが来るぞ。|肝魂《きもだま》が確りしてゐなくては、どうにもかうにもならぬときが来る。|細心豪胆《さいしんがうたん》の人でなくては物の役に立たぬときになつた。
[684]
|筑波山《つくばさん》の|悪霊《あくれい》
|筑波山《つくばさん》は|兇党界《きやうたうかい》の大将|山本《さんもと》|五郎右衛門《ごらうゑもん》が本拠であることはたびたび話した通りである。|平太郎《たひらのたらう》によつて封じ込まれて|柔順《をとな》しくなつてはをるのであるが、それでもあの山に登ると憑依されて狂態を演ずるやうになる。丹波の|大江山《おほえやま》も|悪霊《あくれい》の本拠であるから登つてはいけない。押して登れば憑依される。
[685]
寝顔と性質
寝顔を見れば、その人の性質がわかる。善人はいかにも穏やかなよい顔をしてゐるし、悪人は醜い顔をしてゐる。目をあけて眠る人は罪人である。常に人に狙はれてゐるから、守護神が寝ずに見張つてゐるのである。
[686]
|改神《かいしん》|慢神《まんしん》
神諭に「かいしん」「まんしん」といふ文字が所々にあるが、改心、慢心とかくのではなく|改神《かいしん》、|慢神《まんしん》とかくのが本当である。心を改めるといふ意味ではなく、今まで|仏《ほとけ》などを信じてゐたのを、神の道に改めるといふのである。|慢神《まんしん》といふのは神をみだすといふので、それが悪いと仰せられるのである。
[687]
梅で開いて
梅で開いて松で治める、竹は外国の守護である、といふ神諭の一つの意味は、梅は教へ、松は政治である。竹は|武《ぶ》を意味する。武器はもと竹で造つた。弓がそれであり、竹槍がそれである。武器を用ひなくてはならぬやうでは悪い、といふ意味である。
[688]
|食物《しよくもつ》と性格
|魚《うを》は智的|食物《しよくもつ》、野菜は仁的|食物《しよくもつ》、米は勇的|食物《しよくもつ》で、その食する所に従つて性格にも変化を来たすものである。
[689]
地平説について
霊界物語第四巻『神示の宇宙』に述べてある地平説について、合点がゆかぬと首をひねる人が多いとか、もつともな話である。今の学者の頭では分からぬのは無理もない。あれは後日の学者のために書いておいたのである。科学がウンと進歩し、余程明晰な頭の持ち主でなくては分からぬのである。豚に与ふる真珠とまでにはあらねど、今の学者にはなかなか分からぬ。強ひて説明するにも及ばぬ。
[690]
進化論
進化論のいふが如き、人間は決して猿から進化したものではない。初めから神は、人は人、猿は猿として造られたものである。
動物が進化して人間になるといふこと即ち輪廻転生の理によつて、動物が人間になるといふのは、霊界において進化して、人間の性をもつて生るるのである。『霊界物語』の中には一国の有力者を動物化して示した所もある。
[691]
太陽の黒点
今年(昭和七年)の暖かいのは太陽に黒点が出来たからだといふ学者があるやうだが、さうではない。大地が熱してゐるからである。大地が熱して暖かいから、それが黒点となつて太陽面に表はれてゐるのである。つまり黒点が出来たから暖かいのでなくて、暖かいから黒点が出来たのである。総てこれは大地が元である。一般に太陽が大地より非常に熱いもののやうに思はれ、地上の熱は太陽のみから来るやうに思はれてゐるが、実は大地が元で熱いのである。太陽も|素《もと》より熱いことは熱いが、大体元は大地から反射した熱であつて、その熱が高まり過ぎて燃えてゐるのである。太陽が大地より熱く、大地の熱は太陽のみから来るものなら、太陽に近い上の方ほど──|高山《かうざん》ほど暖かいはずだが、事実はこれに反して大地に近い所ほど熱いのである。大地の熱はそのまま、または太陽と反射し合つて空気の濃度に従つて空気中に篭もるのである。故に空気の稀薄になる所ほど熱度は低下するのである。これは富士山の如き|高山《かうざん》に登ればよく判る、上へ登るほど空気が稀薄になる、それで高いほど寒くなる。要するに大地が余り暖かなのでその熱が太陽面に反射し灼熱して、ひどい所は|赤色《せきしよく》を呈して燃えてゐるのであつて、その赤い部分が黒点に見えるのである。すべて赤は黒く見えるもので、写真に|赤色《せきしよく》が黒く|映《うつ》つて見えるのも同じ理である。
[692]
十ケ月暦
来たる十月(昭和六年)ゼネバにおいて開催される国際連盟に提出すべき改暦案問題については、我が国においても|後《おく》れ|馳《ば》せに余程議論が沸騰して来たやうである。|王仁《わたし》はこの改暦についてはとうから一つの案をもつてゐるので、明治三十一年にその大意は既に発表して置いた。国際連盟が持つ三案中、第一、第二は十二ケ月案にして、第三案は十三ケ月案であるが、|王仁《わたし》のは全然これらと異なる十ケ月案である。先づ一ケ月を三十五日と決める。これを週に割り当てると五週となる。第三案の如くこれで曜日は永遠に確定するわけである。
神の道からいふと、|三五《さんご》即ちあななひ教に因縁をもつ。|三五教《あななひけう》は天地惟神の|大道《だいだう》である。三十六日目は、ミロクの教へであるから、この日は週に加へず祭日とする。隔月に三十七日目をもつわけであるが、その日は|閑日《かんじつ》と称して言論自由の日とする。あたかも霊界物語中にある笑ひの座の如く、その日はいかなる人がいかなる言論をなすとも自由であつて、何らの制裁をも受けないことにする。
四年ごとに一日の|閏日《じゆんじつ》をもつが、それは一年の終りに加ふることにする。そして節分の翌日即ち立春の日を一月元旦とするのである。祭日は一月を第一祭日、二月を第二祭日といふが如く順次に称ふ。|閑日《かんじつ》も第一|閑日《かんじつ》、第二|閑日《かんじつ》と順に称ふるのである。十ケ月に分けるのは十は|数《すう》の上においても形の上においても神の象徴であり、緯度と経度の関係からみても十字形である。キリスト教は十字架、仏教は|卍《まんじ》であつて十字に皆因縁をもつてゐる。
十三ケ月案は恐らく大多数をもつて確定案となるであらう。そして世界は|挙《こぞ》つて一度はこの暦法によることとなるであらうが、これは長くは続かぬで、やがて神示の|王仁《わたし》の案即ちこの十ケ月暦となるのに決まつてゐる。彼の有名なる童謡、
「お月さんなんぼ十三七つ、そりやまだ若いな、お雲にかくれていにたいばかり、いにたけりやお帰り、帰りのみちに油一升こぼして、|白絽《しろろ》の犬と|黒絽《くろろ》の犬がさつぱりねぶつた。その犬どうした、太鼓の皮に張つた、その太鼓どうした、あちらの宮でもドンドンドン、こちらの宮でもドンドンドン」
といふのがあるが、これがこの改暦案の予言なのである。【お月さんなんぼ十三七つ】といふのは第三案が十三ケ月案で、しかも七日たる週を|基《もと》として出来てゐるといふことなのである。
【そりやまだ若いな】といふのは、それはまだ考へが若いといふので幼稚な案であるといふことである。
【お雲にかくれていにたいばかり】といふのは、かういふ案は撤回して欲しいといふのである。
【いにたけりやお帰り、帰りのみちに油一升こぼして、|白絽《しろろ》の犬と|黒絽《くろろ》の犬がさつぱりねぶつた】といふのは、撤回すべきものは撤回したがよいが、油をこぼして、さつぱり改暦は|明《めい》を失つて|暗雲《あんうん》となつてしまひ、白色人種も有色人種も即ち世界中の人が五里霧中に彷徨するやうな有様になるといふことである。【その犬どうした】といふのは、それから世界の人たちがどうなつたかといふので、【太鼓の皮に張つた】といふのが、太鼓は月の形即ち|三五《さんご》十五夜の姿であつて、我が大本の十ケ月暦、一ケ月三十五日案の出現となるといふ意なのである。
【あちらの宮でもドンドンドン、こちらの宮でもドンドンドン】といふのは、ドンは|十《とを》といふので|十々々《とをとをとを》で、最後にはあちこち即ち世界中がこの|暦《こよみ》を使ふやうになるといふ謎なのである。
あれだけ伝統的に十三の|数《すう》を嫌ふ欧米人が、十三ケ月案に賛成するといふのも面白い現象ではないか。
[693]
春秋の気候について
春季は雪の|降《ふ》る度ごとに、雨の|降《ふ》る度ごとに陽気が暖かくなり、秋季はこれに反して、雨ごとに気候が寒冷に向ふものである。春は|地気《ちき》天に昇り、秋は天気地に|入《い》る季節だからである。
[694]
気温と風の吹き方
風は大体春は東から、夏は南から、秋は西から、冬は北から吹くものである。そして大抵一週間で子丑寅卯辰巳といふ方角の順または逆に|一《ひと》まはりするが、遅いときは一巡に三ケ月もかかることもあり、早いときは三日くらゐで一巡りすることもある。そんなときには気温に変動が起こるのである。この頃は北西の風で春になると艮から東になる。
それから|空《そら》の雲行きが上の方と下の方と違ふときがある。そのやうなときはきつと気温や風向きが変はる。|晴天《ひより》のときは上の雲の動く方向に風が変はるものである。また星の飛ぶ方向によつて翌日の風向きを知ることも出来る。これはかつて発表した通りである。
[695]
近年の暖かさ
世界を挙げて年々時候が|凌《しの》ぎよくなつて来た。全体を通じて暖かくなつて来たのである。それは大地の熱が強くなつたためで、各地に火山の爆発が多くなつて来たのでも分かる。昔は丹波地方でも五六尺の雪が積ることは珍しくはなかつた。然るに近年は多く積もつても一尺くらゐのものだ。つまり|今日《こんにち》までの世界の時候は神の御理想より寒かつたのである。
[696]
気温の調節
今年(昭和七年)は本当に暖かい。今年の冬の暖かさは格別だが、大体それは最近ラヂオや電信電話等を盛んに使用するからである。ラヂオや電信電話等によつて気温は伝はつて行くものである。即ちそれらは気温を運ぶのである。南の暖かい方から北へ暖気が運ばれ寒い北からは暑い南方へ寒気が送られるのである。のみならず一度それらが発せられるとその波紋は地上全体に拡大するから同時にこれに運ばれて気温も世界的に|廻《めぐ》り|廻《めぐ》つて平均され緩和されるわけである。
昔は寒暑共にずいぶんひどかつたが、この理によつて大体近年非常に気候がよくなつた。みろくの世が近づきこの種の使用応用が増すにつれて、次第に気温までが|引均《ひきな》らされて良くなるのである。お筆先にも「みろくの世が来たら御陽気までも変はる」とお示しになつてあるし、大本祝詞にも「暑さ寒さも|和《やは》らかに」とある如く陽気までが次第に|調《ととの》ひつつあるのである。ドエライ寒い所や暑い所はだんだんなくなる。ひとり気温ばかりでなく、何から何まで|運否《うんぷ》なく|引均《ひきな》らされて良くなるのが神示のいはゆる立替である。
[697]
大本は型の出る所
「大本に在りたことは皆世界にある、即ち大本は型をする所である」といふ神諭のあることは皆がよく知つてゐるところである。故によい型をよい型をと出すようにせねばならぬのであるが、さうばかりも行かぬのは誠に残念なことである。大本は全く正義の団体であるにも拘はらず常に疑ひの妙な目をもつて見られてゐる。大正十年に起こつた大本事件の如きは、当時いくら誠意の陳述をしても、それが全く受け入れられないで、あたかも大本は横紙破りでもする如く、すべてが取られて行つた。今世界に対する日本の立場が全く大本のそれと同じで、正義の主張が一つも通らぬのである。松岡全権のあの正々堂々の議論に対しても、あたかも横紙破りの主張を日本がしてゐるやうに世界各国が誤認して、日本の言ひ分が一つも通らなかつたのである。しかし最後は大本が|天恩《てんおん》に浴し、公訴権の消滅によつて全く青天白日、元の白紙状態にかへつた如く世界から日本の正義を認められる日がやがては来るであらうけれど、その間、日本はかなりの苦痛を|嘗《な》めさせらるることであらう。大本は七年間迫害と攻撃の|渦《うづ》の中に隠忍自重して来たのである。日本も最後にはきつとよくなるのであるから隠忍せねばならぬ。
[698]
歌よむ人には悪人がない。歌よまぬ人は油断がならぬ。ただ現代の歌人は力といふものがない。とかくデリケートな心の持ち主で偏狭で、消極的で、女性的で、嫉妬深い傾向があるが、大本の歌人は御神徳を頂くから力が出て来る。|王仁《わたし》は芸術は宗教の母なりと主張してゐるのだ。|言霊《ことたま》の幸はふ国、神様は歌を|奉《たてまつ》るのが、|海河山野《うみかはやまぬの》|種々《くさぐさ》の|供物《くもつ》よりも一番お気に入るのである。皆は子の宗教宣伝には熱心であるが、親の芸術を忘れ勝ちである。これではいけぬ。歌を詠まぬものはいかなる力のある人であらうとも、断じて神業の第一線には立てぬ。そのつもりで各自勉強するがよい。忙しい【から】とか、下手だ【から】だとか、上手によめ【たら】だの、その【から】や【たら】が一番いけない。まづくてもだんだん詠んでをればよく詠めるやうになるものである。神徳は努力の上に加はるのである。
【|明光《めいくわう》】は月日の光に相応する。月日の光をうけぬものが、どうして神業に使へるものか。また|王仁《わたし》が皆に|明光《めいくわう》に|出詠《しゆつえい》するやうにといふのは、その歌によつて皆の心の動きを見てよくしてやらうと思ふからである。
[699]
明るいのが歌
和歌即ち【うた】は敷島の道で|風雅《みやび》の|芸《わざ》である。気分がよいときは心から歌が出る。それで歌はサラツとした気分よいものでなくてはならぬ。泣くときは歌へないものである。然るにこの頃の歌壇の歌は、生活を詠むのだといつて、ジメジメとして瀕死の病人の泣きごとのやうなことばかりを詠んでゐる。それは本当の和歌ではない。
|王仁《わたし》が主宰してゐる|明光《めいくわう》の歌はいづれも明るい。信仰によつて活動してゐるものの歌であるからである。今の歌壇の人は、明るい|明光《めいくわう》の歌の気分を諒解することが出来ずに嘘のやうに思つてゐる。それは|地獄魂《ぢごくみたま》と|天国魂《てんごくみたま》とは心の置き所が違つてゐるからだ。心にもないことが歌へるものぢやない。とも角床の間にでも掛けておかうといふやうな歌は今日の歌壇人の歌には殆どない。
[700]
伊勢物語と和歌
|和歌《うた》を詠むものは伊勢物語をよく読まねばならぬ。伊勢物語は万葉集、古今集などよりも歌人にとつては重要視せなくてはならぬものである。
[701]
|明光《めいくわう》
芸術の府を|明光社《めいくわうしや》といつてゐるが、|明光《めいくわう》といふのは、明智光秀の姓名の|頭字《かしらじ》をとつたものである。武将であると共に大いに|文事《ぶんじ》を|解《かい》してゐた明智光秀の居城の跡に起こした芸術であるから|明光《めいくわう》と名づけたのである。
[702]
歌人
歌を作る人は沢山あるが、歌人といふものは遺憾ながら今の日本に一人も見当たらぬ。頭を|捻《ひね》つてもつてわづかの|佳作《かさく》を|得《う》れば、世人はこれを歌人というて尊敬を払うてゐるが、そんなのは歌人でも何でもない。|言々《げんげん》|句々《くく》、皆歌になるといふのが|真《しん》の歌人である。|苦吟《くぎん》するやうでは歌人たるの価値がない。
人多く名歌を作らむと志す故に苦しむので、|王仁《わたし》のは|出《い》づるがまま、上手下手に頓着なく歌にして行くので、悪かつたというて作り直すやうなことは決してしない。やり直す暇があればも一つ作つた方がよい。|王仁《わたし》は神様の進展主義を奉じてゐる。何事にも後戻りは断じてしない方針で、歌でも絵でもこの主義でやつて行く。|汝等《おまへら》は上手に作らうといふことばかり考へて拘泥するからいけないのだ。下手でも何でもどんどん作つてをれば、やがて上手になるのである。
[703]
絵と|墨《すみ》
|黒色《こくしよく》は色の王であつて、いろいろの原色を合はしたものである。濃淡自由自在であるから、百種にでも二百種にでも溶かすことが出来る。|墨絵《すみゑ》が何というても一番である。|墨《すみ》が少しでも入ると絵は引き立つて来る。|墨筆《すみふで》で青をつかふと|殊《こと》によいものである。
[704]
風を|描《か》く
風を|描《か》かねば絵にはならぬものである。元来風といふものは|七五三《しちごさん》に吹くのであるから、絵を|描《か》くときにこの呼吸を忘れないやうにすれば、きつと立派な作品が出来る。例へば|松原《まつばら》を|描《か》くとして、最初の松は七の風をうけてゐる所、次は五の風をうけてゐる所、次は三の風をうけてゐる所と|描《か》き分けるのである。|浪《なみ》も同じく|七五三《しちごさん》に動くのであるから、その勢ひを見せて|描《か》くのである。天地はすべて一定のリズムによつて躍動してをるのだから、そのことが分からねば、|傑《すぐ》れた作品は得られない。|盲滅法《めくらめつぽふ》に美しい絵をかいて見たところで、死んだ絵であると人を動かすことは出来ないものである。
[705]
|睛《ひとみ》を|入《い》れる画法
|王仁《わたし》は人物をかいて、いよいよ眼の|睛《ひとみ》を|入《い》れるといふ段になると、|常《つね》のときには決してやらないのである。|旭《あさひ》の昇る時刻にねらひを定めて、ただ一つき、とんと打つのである。さうせねば生々とした眼にはならぬ。
[706]
血液と絵
血液の動きから作品が出来るから、|我意《がい》を加へず、自然のままに筆を運ばせて行けば、人物をかけば自分の顔に似て来るものである。また|吾子《わがこ》の顔に似るものである。
[707]
|礬水《どうさ》びきの|絹本《けんぽん》
|絹本《けんぽん》に絵を|描《か》くときは、普通の画家は必ず|礬水《どうさ》をひく。それは|礬水《どうさ》をひかないと|墨《すみ》や絵の具がにじむからである。しかし|王仁《わたし》は決してそれをせない。せなくてもにじまないからである。
|絹本《けんぽん》は六百年ほど保存出来るものなのだが、|礬水《どうさ》をひくと百五十年ほどしか完全に保つことが出来ない。その上|礬水《どうさ》をひくと、直ぐ地の色がやけて赤くなるものである。
[708]
悠々自適
英雄|閑日月《かんじつげつ》ありといつて、いかに重大事に直面しても悠々歌を詠むくらゐの余裕がなくてはならぬ。常に|風流心《ふうりうしん》があればことに慌てぬものだ。和歌は大和魂を練る最も穏健な方法である。和歌をやれば胴がすわつて来る。
[709]
|作歌《さくか》の法
霊界物語を口述するやうな調子で|王仁《わたし》が和歌を詠むのならば、一ケ月一万五千首は楽なものだ。一日に五百首、それは何でもないことである。
歌を作らうと思へば、見た通りのことを一つ詠めばよい。何もかも一つの歌に|入《い》れようとするから苦心するものだ。初めて歌を作る人はあまり道具が多い。|推敲《すゐかう》すればかへつて悪くなることがある。歌はサラツとした方がよい。歌は巧みだけではいけぬ。末代に生きるものでなくては本当ではない。一首でもよい。こんな歌を残さなくてはいかぬ。
[710]
絵と独創
絵でも歌でも独創的のものでなくてはならぬ。帝展などで実に立派な作であつて入選しないものがあるのは、それが独創的でなく模倣の跡があるからである。絵が上手に|描《か》けても独創を独創をと行かなければならないから、画家の苦心がそこにある。生やさしいものではない。帝展などで出品を|墨《すみ》でぬられるやうな例もあるが、それは模倣を独創の如く装ふからであつて、芸術道徳から憤慨しての出来事であるから、さうせられても仕方が無いのだ。総てのものが行き詰まつて新機軸を出すに骨が折れることであらう。絵の中では裸体画くらゐむつかしいものは無い、力がぬけて絵にならぬ。先日|王仁《わたし》は相撲を見にいつた。実物を見ねば本当の絵は|描《か》けない。
[711]
書道
書は男の芸術であり絵は女の芸術である。書は絵に比ぶれば困難なること|数等《すうとう》である。絵のやうに胡麻化しは決してきかぬのであるから、百字もかいてそのうち二字か三字か本当の字が出来たら|上々《じやうじやう》である。
[712]
御玉串について
御玉串を差し上げるに|上書《うはがき》を連名ですることは神様に御無礼に当る。一人一人包んで丁寧にちやんと名を書いて差し上ぐべきもので、神様は非礼をうけ給はぬ。金銭の多少に|関《かか》はるのではない。ただ自分の|赤心《まごころ》を捧ぐればよいのである。長者の|万灯《まんとう》貧者の|一灯《いつとう》といふ|諺《ことわざ》がある。人各々身分相応にそのベストを尽くすべきものである。一円づつ出し合はして包むなどいふことは、その想念が既に正しくない。相談などすれば、いやでも出さねばならぬといふ不純な気持ちが混じてゐるから、神様は決してお受けにならない。また|実意《じつい》、丁寧、誠、親切、これが神の教へであるから、連名などいふことは、丁寧といふことにおいて欠けてをる。これまた神様のお気に召さぬのである。|本宮山《ほんぐうやま》のお宮を建てたときでも、不純な想念の混じてゐたお宮は取りこぼたれても、栗原さんが純な気持で一人で建てさして頂いた|神饌所《しんせんじよ》と|灯篭《とうろう》とだけは残されたではないか。神様は搾取や強奪は決してなさらぬ。総て神様に捧ぐるものは純な気持でなくてはならぬ。
[713]
守護神
大本において守護神を祀るのは、当人の精霊の|和魂《にぎみたま》と|幸魂《さちみたま》である。|荒魂《あらみたま》と|奇魂《くしみたま》は死んでから|新霊《あらみたま》として祀るのである。つまり、生前守護神名をいただき守護神を奉斎するのは、仏教でいへば生前戒名をもらひ位牌をこしらへて置くやうなものである。
各自の守護神は祖霊と同等に祀り二拍手すべきものである。
[714]
|他神《たしん》の守護
私は常に「上帝一霊四魂ヲもつテ|心《こころ》ヲ造リ、これヲ|活物《かつぶつ》ニ|賦《ふ》ス。|地主《ちしゆ》|三元《さんげん》|八力《はちりき》ヲもつテ|体《たい》ヲ造リ、これヲ万有ニ与フ。故ニその霊ヲ守ル者ハその|体《たい》、その|体《たい》ヲ守ル者ハその霊也。|他神《たしん》在ツテこれヲ守ルニ非ズ。即チ|天父《てんぷ》ノ|命《めい》永遠|不易《かわらず》」と説いてゐる。「|他神《たしん》在ツテこれヲ守ルニ非ズ」といふことは、自分の天賦の霊魂以外に他の神がかかつて守護するといふことはないといふのである。よく狐や狸が|憑《かか》つて守るといふけれども、それは守るのではなくて肉体を害するのである。祖霊さんが守つて下さるとかあるひは産土の神が守られるとかいふのは、自分の精霊が祖霊あるひは産土の神と|相《あひ》感応してさう思ふだけのことである。私の幼時、|囲炉裏《ゐろり》に落ちたときに|祖父《おぢい》さんが現はれて私を助けて下さつたといふのは、私の霊が|祖父《おぢい》さんと見せてゐるので、私が|祖父《おぢい》さんと感じて見てゐただけである。
|悪霊《あくれい》は人の空虚に入つて害悪を及ぼす。つまり滝に打たれたり、あるひは断食の修行などをすれば、肉体が衰弱して空虚が出来るから、そこに|悪霊《あくれい》が感応するのである。空虚があつては正しい人といふことは出来ない。四魂即ち天賦の|勇親愛智《ゆうしんあいち》を完全に働かすことが大切である。産土の神が守るといふのは、村長が村民の世話をするやうなもので、決して人間に直接産土の神が来たつて守るといふことはない。
[715]
愛の|分霊《ぶんれい》
現界においては一人の人を数人の異性が|相《あひ》愛し合ふと、多角関係となつて秩序が乱れて困るけれども、霊界においては愛といふ同じ心が一つになつてゐるから、一つも障害はない。愛と愛とが一つになり、霊と霊とが|相《あひ》合ふからである。神は|伊都《いづ》の|千別《ちわ》きに|千別《ちわ》きて聞こし召すといふやうに、幾多の人にその愛を分け与へられるのである。
[716]
神様と標準
標準をもつて神様を知らうとする者がある、迂愚の|極《きはみ》だ。標準がつくものは神ではない、見やうによつてどんなにでも変はるのが神様である。
[717]
宣伝使の階級
霊界には、宣伝使の階級といつてはも別にない。ただ霊界において宣伝使のことをエンゼル即ち天使といふだけであつて、第一、第二、第三の|霊国《れいごく》によつて宣伝使の智慧証覚が異なるだけである。
帰幽した人に「|贈《ぞう》宣伝使」とするが、この「|贈《ぞう》」によつて霊界の宣伝使となるのである。すべて地上が|本《もと》であるから、地上から宣伝使に任ぜられて霊界の宣伝使となるのである。
[718]
祝詞奏上
人間は往々にして無意識に祝詞を奏上することがある。さういふとき、祝詞が中途に止まると後が直ぐ出なくなるものである。機械的に祝詞を|奏《あ》げるのは全く|蝉《せみ》が|啼《な》いてゐるのと同じで、ただ|囀《さへづ》るだけのやうなものである。これでは本当の祝詞奏上にはならない。また本当の信仰といふことは出来得ないのである。祝詞はベンベンダラリと奏上するのもよくないが、駆け足で奏上するのもいけない。
[719]
三千年に実る桃
三千年に初めて実る桃といふのは、【艮の金神様のこと】である。しかしてその教へを聞いたものは天国に|入《い》ることを得るのである。桃の実の味、即ち神の道である。九千年に実る桃、六千年に実る桃とあるのは、第一天国、第二天国の比喩であつて、三千年の桃は即ち第三天国に相応するのである。
[720]
フルベユラ
病人にお取次する場合の|言霊《ことたま》は|一《ひと》、|二《ふた》、|三《み》、|四《よ》、|五《いつ》、|六《むゆ》、|七《なな》、|八《や》、|九《ここの》、|十《たり》、フルベユラ、フルベユラユラと称ふべきである。フルベユラといふことは、神を喜んで歓喜してゐる形である。
[721]
拍手
|拍手《かしはで》は神様を|讃仰《さんかう》する行為である。今日の|官国幣社《くわんこくへいしや》では御神前で|礼拝《らいはい》のとき、皆二拍手することになつてゐるが、大本は|四拍手《しはくしゆ》する。古い祝詞にも「|八平手《やひらで》を|拍《う》ち上げて──」といふことがある。|八平手《やひらで》といふのは即ち|四拍手《しはくしゆ》である。つまり大本は古式をそのまま採用してゐるのである。
大本では祖霊を拝む場合は二拍手する。これは大神様を拝むときよりも遠慮してゐるのである。また|新霊様《あらみたまさま》を拝むときは|一拍手《いちはくしゆ》するのが本当である。これは遠慮すると共に|哀悼《あいたう》の意をも含んでゐるのである。
拍手のうち方も余程慎重にせねばならぬ。ただポンポンと、あたかも主人が下僕を呼ぶやうなやり方は、神に対して御無礼となるのはもちろんである。
[722]
|神饌物《しんせんぶつ》
神様に|蛸《たこ》、|大蒜《にんにく》、|薤《らつきよう》などをお供へせないのは人間が忌むからである。
|蛸《たこ》のやうに骨のないものは|魚《うを》ではない、字の通り虫の一種であり、虫に|肖《に》たものである。また|大蒜《にんにく》、|薤《らつきよう》などは悪い。然し|黴菌《ばいきん》を殺し、良い菌を育てる効能をもつてゐるものである。
[723]
霊媒は短命
霊媒の物理的現象を起こす精力素(エクトプラズム)は精液の変形したるものである。そして外気にふるれば九分までは|汚《よご》れてその精気を失ふものであるから、再び|身体《しんたい》にかへつても駄目である。ああした実験をたびたびやるのはよくない、|生命《いのち》が短くなる。私は皆一通りやつたが、この原理が分かつたからやめたのだ。
[724]
霊界の親
霊界に行けば兄弟姉妹だけで親といふものはない。親は即ち神様である。そして夫婦は一体であり一心である。
[725]
霊界の宣伝使
霊界に於ける宣伝使は現界の宣伝使と違つて、愛善の徳に富んでゐるものが上級の宣伝使である。だから現界においての大宣伝使でも、霊界に|入《い》れば低いくらゐの宣伝使となり、また現界において下級の宣伝使でも、霊界では高いくらゐの宣伝使となるものもある。現界は何というても学理の世の中だから、さうした人が大宣伝使に任命さるるのである。霊界では理屈は一切ないから、前いふ通り愛善の徳に富んだものほど上級宣伝使となるのである。
[726]
|毒瓦斯《どくがす》と菜食
戦術もだんだんあくどくなつて、近頃はまた|毒瓦斯《どくがす》を盛んに使用するやうになつて来たが、日本のやうに菜食主義の国にあつては比較的その害は少ないので、日本人の皮膚は肉食国の欧米人に比して|毒瓦斯《どくがす》に対する抵抗力は非常に強いのであるから、左程恐るるには足らぬのである。昔から正月の七日の行事に|七草粥《ななくさがゆ》といふのがあつて「七草なづな、|唐土《たうど》の|鳥《とり》が、日本の国へ渡らぬ先に……」と|囃《はや》しながら七草をたたいて、それをもつて|粥《かゆ》を作り一家が食する習慣があるが、これは一方|食物《しよくもつ》の用意をせよとの神意であるけれど、また一方には菜食の必要を説かれたるもので、|唐土《たうど》の|鳥《とり》が渡らぬ先、即ち外国の飛行機の襲来に備ふるため、菜食して肉体的の抵抗力をつくつておけといふことなのである。かうした非常時に際して、|平常《へいぜい》から菜食してゐる人のより強さを十分知ることが出来るであらう。
[727]
天人と|悋気《りんき》
第一天国に住む天人たちは|真裸体《まつぱだか》であるといふことは霊界物語に書いてある通りである。ある人がその天人にも陰部があるかといふ問ひを発したことがあるが、霊体一致が真理であるから霊魂にももちろん陰部がある。ただ|八衢《やちまた》以下の霊界にゐる人々、特に|色欲界《しきよくかい》にをる人々のやうに発達してゐないだけのことである。|尚《なほ》|悋気《りんき》するのは陰部があるからである。|悋気《りんき》は性的満足を得ることによつて解消されるのである。
[728]
|笏《しやく》
|笏《しやく》は|身体《からだ》の|揖《かぢ》──恰好調子をとるためのものである。古くから日本にて用ひられたもので、仏教では如意に相当する。
昔は高貴の方に奏上するとき、その要項を紙に書いて裏面に貼つて置いたものである。また祭典の折りなども順序次第等を書きしるしておいたのである。
|笏《しやく》には、本来は|櫟《いちゐ》の木を用ひることになつてゐる、昔は|位山《くらゐやま》に出来たアララギで造つたものであつたが、アララギの|笏《しやく》は従一位以上の官位の人でなければ持たれなかつたので、アララギを|櫟《いちゐ》とゐふやうになつたのである。
[729]
宣伝使帽
宣伝使帽、あれはバケツ(|馬尻《ばけつ》)がかぶらせてあるのだ。|識者《ものしり》(|牛《もう》の尻)になつて慢心するといけないから……|馬尻《ばけつ》だから尾がこしらへてあらうがな。マホメツト信者はあの帽子を見ると黙礼してゆくよ。|土耳古帽《とるこぼう》に似てるからな。
[730]
左手右手
左といふのは|日足《ひた》るといふこと、右は|水極《みぎり》といふことなので、元来ひだり、みぎりとよむのが本当である。また左手をゆんでといふのは|弓手《ゆみて》の意味で弓をもつからである。|右手《めて》といふのはこれも弓をひくときのことで、右手はちようど右の目の下にくる、そして右の目で|的《まと》を覗き込むから目の方の手即ちめ手といふのである。
[731]
弓と|蟇目《ひきめ》の法
弓は忌み清めるの意よりその名が来てゐる。それで物の|怪《け》を払ふ場合に弓でもつて|蟇目《ひきめ》の法を行ふのである。|蟇目《ひきめ》といふのは、|蟇《がま》の巡り歩く通りに取り行はるるのであつて、|蟇《がま》といふものは一日に一回家屋敷の|周囲《ぐるり》を巡回して家を守るものである。
[732]
上棟式と|幣《へい》
上棟式のとき、|幣《へい》を切りお多福をつけるわけは、元来家そのものは陽性のものであるから、陰性の女を配して陰陽を合はすのである。倉の場合には福の神が入るといふ意味を表すのである。
[733]
三りんぼう
俗に三りんぼうといふ日に上棟式をすると家が倒れるといつて忌み嫌ふが、この日には|兇党界《きやうたうかい》の霊が何万と|群《むれ》をなして通行するので、その際ぶち壊して通るのである。故にこの日に上棟式をあげるといふことは避けたがよい。万一どうしても|上棟《じやうとう》せねばならぬ事情があるのならば、この|兇党界《きやうたうかい》の霊を追ひ払ふために、午前零時零分より始めてその日の午後十二時まで、即ち満一日中、|大麻《おほぬさ》で祓ひづめに祓うて居らねばならぬ。
[734]
妻としては
妻として、夫に他の愛人が出来るといふやうなことは忍び難い苦痛であらうが、かうした出来事は決して夫の本意から発するものではない。ちよつとしたはづみ、偶然の出来事から起こる過ちで、妻を捨ててまでといふやうなことを思つてゐる男は一人もない。【一夜妻】といふ言語に男の心は尽くされてゐる。然るに嫉妬深い女房は、かうした男の心を理解することが出来ないで、すぐ真つ黒に|妬《や》き立てるから騒ぎが大きくなつて、夫の方では思ひもかけぬ結果の離婚問題などを持ちあげるやうになるのだ。妻に、過ちを過ちとする|寛恕《くわんじよ》の心があれば、それは一家を平和に導き、自らの一生を本当に幸福にする|所以《ゆゑん》の道である。嫉妬深い女ほど気の毒なものはない。自分で自分を地獄のどん底につき落としてゐる。
[735]
温室をやめた理由
大分長い間温室において花を育ててゐた。それは天国の移写たる|聖場《せいぢやう》には、冬といへども花がなくてはならぬからであつた。だがガラスで囲つて|温湯《をんたう》で暖めてやらねばならぬやうな花、|外《そと》へ持ち出すとすぐ|萎《しを》れるやうな花は到底駄目である。|雪霜《せつさう》を|凌《しの》いでその中に|凛《りん》として咲くやうな花でなくては物の役に立たぬと思うて、断然温室栽培をやめることにしたのである。
[736]
水と火を食ふ
人間は常に水を飲み、火を食うて生きてゐる。物を煮るには必ず火と水とを要する。水の中にも火があり、火の中にも水が含まれてゐることはいふまでもないことである。
[737]
安心立命
安心立命とは、心を安め、命を立つるといふことである。心配すると脳が痛む、脳を痛め使つては安心が出来ぬ。心が安まらぬので|生命《いのち》を削る。心配ぐらゐ人間に取つて毒になるものは無いのである。彼の相場師などは、実に安心のときを一日だも持たぬのであるから、ああした仕事をしてゐる人は短命である。
[738]
霊と血
霊は血液を機関としてゐることは毎度いふ通りである。水死者などが死後数十時間を経過したる|後《のち》、父母兄弟など身寄りの者の来たるときは、鼻孔等より血液の流れ|出《い》づるものである。これは霊と霊との感応作用が起こるからである。
[739]
心と|魂《たましひ》
心は|勇親愛智《ゆうしんあいち》の働きである。善悪自由になるもので、|魂《たましひ》は霊主体従即ち善に働くものである。心が悪に作用したものが|悪霊《あくれい》である。
|五情《ごじやう》即ち|省《かへりみる》、|恥《はぢる》、|悔《くゆる》、|畏《おそる》、|覚《さとる》は霊魂中に含有してゐるものである。
[740]
血の色は心の色である。赤き心などと昔からいふが、赤血球は霊そのものであるというてもよい。心の変化は直ぐ血の色に影響するもので、|羞恥《しうち》の念が起こると一遍に|顔色《かほいろ》が赤くなり、心配事に遭遇すると蒼白色になる。その度ごとに血液は色を変ずるのである。ふとした出来事より悪漢が善心に立ち帰るといふことがあるが、そのときはパツと一度に血液が色を変ずるので、|面《おもて》が輝いて来るのである。
[741]
頭髪
髪に|魂《たましひ》があり、髪に心がある。頭髪は美の源泉であり女の|生命《いのち》である。女の美は頭髪にある。洗ひだての綺麗な髪を、【さつ】と垂らしてゐるのは一番人の心をひく。女の髪は、毛そのものが美しいのであるから、成るべく簡単に結んでおくが一番よいので、いろんな形を拵へるとそれだけ美が減ずるものである。昔から女の髪の毛で|大象《たいざう》をも繋ぎ留める力があるといふのはこの|理《わけ》である。よい髪を持ちながら、わざわざ縮らすのはよくない。髪は神への架け橋であるから、多くて長いのが結構である。相撲取りでも髪が長くなければ九分九厘といふ所で|負《まけ》を取る。美術家などが髪を長くすることは誠に理由のあることで、これでなければよい|想《さう》は浮かんで来ない。インスピレーシヨンといふのは神からの内流である。【頭髪】だけは毛といはずして【カミ】といふが神の毛の意味である。
[742]
空気のぬけた頭
|王仁《わたし》がいつも「空気ぬけの頭ばかりだ」と小言をいふのを、お前らは何と取つてゐるのか。空気は地上に充満して、しかも誰の目にも見えぬものである、即ちカミである。空気のぬけた頭といふのは、信仰の足らない人といふ意味である。信仰が足らぬから、することなすこと、皆|間《ま》がぬけるのである。
[743]
細胞と|毛孔《けあな》
人間は小天地である。人間は細胞の集団から出来てゐる。この地上に二十億の人口があれば一人の人間の細胞の顕著なるものは二十億あるのが普通である。世界の人口が殖えれば人間の細胞も増加する。また世界に不良分子が多くなれば、肉体組織にも不良分子が増加するわけである。人体はかかる微妙な感応性をもつてゐる。
また、人間の|身体《からだ》には十万の|毛孔《けあな》がある。毛の濃い人、うすい人などあるが、それは決して|毛孔《けあな》の多少によるものではない。一つの|毛孔《けあな》から一本の毛が出るものとは決まつてゐない。人によつては五本も六本も出てゐるのがある。
[744]
|怒《おこ》りと毒素
|怒《おこ》つたり怖れたりすると人間の体内に毒素が出るものである。その毒素の|香《にほ》ひを嗅ぐと敵愾心になつて来る。犬の嗅覚は特に敏感だから、直ぐそれを知つて|吠《ほ》えついて来る。泥棒などを犬が知るのはこの理由によるのである。誰にでも多少感じてはゐるのだけれど、明瞭に感じると感じないとの差がある。いかなる猛犬に遇つても、獅子虎の如き猛獣に対しても平気でゐたらよい。愛の心をもつて、一緒に眠るやうな気になれば決して害をしないものである。どんな動物でもさうである。いはんや人間においてをやで、愛の心をもつてさへをれば誰でもが愛してくれる。人間は虎や熊に遇へば怖れるであらう。がその下心にはあいつを上手く殺したら毛皮が何百円……とはや銭勘定をしてゐる。その敵意が早速毒素となつて感応してゆくから、牙をむいて飛びかかろうとする。小鳥などを見ても、どうして捕つてやらうかと、直ぐ人間といふものは敵愾心を持つからいけない。敵意をもつてことに処すれば万物皆敵になる。愛をもつて向へば皆味方となる。愛は絶対権威をもつものである。
[745]
|生命《せいめい》と歯
|生命《せいめい》と歯とは大なる関係をもつものである。|齢《れい》とかいて【よはひ】と読むが、歯は大切なもので一本の歯は十年の|生命《せいめい》に相当する。だからもし歯がぬけた場合には、すぐ入れ歯をせねばならぬ。人間は元来三百年の|生命《せいめい》を保つやうに出来てゐるものである。
[746]
歯を【よはひ】と読む。【よ】は世、即ち一代である。【はひ】は、栄え生ふるの意である。歯は実に|生命《せいめい》の|祖《おや》である。歯がなければ人間は痩せるものである。
ものの味は、舌によつて味ははれるかの如く思はれるが、実は歯と舌とによつて、噛み分けて味ははれるのである。|殊《こと》に俗に糸切歯と称する上下二本づつの歯は、智慧を|司《つかさ》どるもので最も大切である。
糸切歯を、糸を切るための歯かの如く思つてゐるが、さうではない。ことの|縺《もつ》れを解決する智慧の歯の意である。だからこれを抜きとることはよくない。
[747]
霊の姿
物心のつかない幼児のとき、|盲目《めくら》となつた者が成人して霊眼が|開《ひら》けたとき、霊眼で親の顔を見たいと思つても、親の肉体の顔は分からない。親の霊界に於ける顔ならば霊眼で知ることが出来る。そこに霊眼で見る世界と現界との区別があるのである。
[748]
雑念の盛んなる人
雑念の盛んなる人への神示は多く夢の形を取つて現はれる。覚醒したるときはラヂオの雑音の如く、雑念に妨害せられて内流が正確に伝はらない。で、神様は睡眠中を利用せられて夢でもつて内流を下されるのである。これを|霊夢《れいむ》といふのである。
[749]
|人魂《ひとだま》
人の死ぬときは青い火の玉が出る。これは|人魂《ひとだま》といつて見たものがよくある。生まれるときには赤い火の玉が入つて来る。|王仁《わたし》は見たことがある。もう生まれる生まれるといつても、この火の玉が入つて来ねば人は生まれはせぬ。そのとき精霊が初めて入つて来るのだ。
[750]
一日の修行
|朝《あした》に道を聞けば|夕《ゆふべ》に死すともかなり、といふことは霊界への道のことである。即ち霊界の消息に通ずれば、わが霊のゆくべき道がわかるので、これさへハツキリ分かつてをれば、いつ死んでもよいといふことなのである。もし霊界のことを少しも知らねばその人の行手にはただ暗黒があるばかりである。恐ろしいところに迷はねばならぬ。故に現界にをるときによく道を聞いておかねばならぬ。霊界百年の修行は現界一日の修行に|如《し》かず、といふ|諺《ことわざ》があるが、それはそのはずで、そのかはり霊界は長い。現実界の命は短いから同じである。猫でも犬でも|齢《よはひ》の短いものは早く子を生み早く死ぬ道理だから、霊界の百年は現界の一日にあたる。
[751]
棺も|旛《はた》も
棺も|旛《はた》も立つてから、といふ|諺《ことわざ》があるが、世間ではこれをよみそこねて、|雁《がん》も鳩もたつてしまつてからなどというてをる。さうではない。棺も|旛《はた》も立つてしまふといふことは死を意味するので、死んでからでは万事休すといふ意である。一日でも一時間でも|存《なが》らへて道を聞くべきである。さうしておけば霊界に|入《い》つてからどのくらゐ|楽《らく》か分からぬ。
[752]
人魚と若がへり法
昔から人魚を食べると年が寄らぬといひつたへてをるが、人魚といふのは、|上半身《かみはんしん》が人間で|下半身《しもはんしん》が|魚《うを》であると伝へてをるけれども、それはウソであつて一種の謎である。人魚といふのは【精虫】のことである。人体から出る動物であつて、|魚《うを》のやうな形をして精液の中を泳いでをるから、それで【人魚】というたので、人魚を食べれば年取らぬといふのは、活力素を体内に取り|入《い》れるから元気旺盛であるといふことになる。
しかし人魚たる活力素も、|父体《ふたい》の体質いかんによつてははなはだ貧弱なものもあるから一概にはいへない。
所がここに、植物であつて、人魚即ち精虫と少しも違はぬ成分を持つてをるものがある。それは|銀杏《いてふ》である。|銀杏《いてふ》は前世紀に属する植物であつて、その実は全部精虫をもつて充たされてをるのである。故にこれを食すれば人魚を食べると同様の効果を生ずる。これが若返りの秘訣である。取り立ての|銀杏実《ぎんなん》を【生で】食べるので、一日の量十個を越えざる範囲において食するのである。ただし|一冬《ひとふゆ》越しては効果が無いことになる。
また|銀杏樹《いてふじゆ》にさうした成分を含んでゐるのであるから、この|樹《き》で作られた|御手代《みてしろ》は若返りの御神徳が頂けるのである。
編者申す。因みに|銀杏樹《いてふじゆ》で作られた若返りの|御手代《みてしろ》には「若がへれ|弥《いや》若返れ若がへれ|公孫樹《いてふじゆ》のごと若やぐ|御手代《みてしろ》」との御神歌が記されてあります。
[753]
|食物《しよくもつ》
米は陽性のもので、これを常食すれば勇気が出る、そして陽気である。麦は陰性のものであるため、陰気になる傾向がある。くよくよしたり、いつも泣き言を並べたりするやうになるのはこのためである。野菜を食へば仁の心が養はれる。魚類を食へば智慧が湧く。故に魚類も月に一度や二度は必ず食はねばならない。米と野菜と魚類とで、智、仁、勇となる。肉食をする者には仁の心は少ない。故に野菜を常食とする日本人にして初めて愛善の心があり、外国人には|稀《まれ》である。肉といふものは一度、草や野菜等を食つて、その栄養素が肉となつたのであるからあまり栄養もない。そして肉に依つて養はれた細胞は弱い。日本人は米を食ひ、野菜を食ふから即ちまだ肉とならない栄養を摂るから、細胞が強い。毒ガスに対しても外国人は誠にモロイものであるが、日本人は比較的耐久力があり強い。また日本人の歯は臼歯といつて、米を噛みこなし易く出来てゐるが、肉食人においては臼歯がとがつてゐる。
[754]
寝ると水になる
坐つてゐると、寒くてもなかなか風を引くやうなことは無いが、横になつてちよつとでも寝ると、すぐ風を引くものである。これは体を横に倒すと水の形になるから|冷《ひえ》を感ずるのである。坐つてゐる場合は|火水《くわすゐ》の形、立つてゐる場合は火の形であるから、滅多に風を引くやうなことはない。それでちよつとでも横に寝る場合は布団をかけるのが安全である。
[755]
|鎌鼬《かまいたち》
道を歩いてをるとき、何物にもあたらないのに突然|倒《こ》けたり、足を怪我して出血するやうな場合がある。俗に|鎌鼬《かまいたち》といつて|鼬《いたち》が鎌で切るのだといつてゐるが、実は空気中に真空な所が出来てゐるので、その真空に遭遇したときである。この真空箇所はよく道の辻に出来るものである。それで道を通るときは、曲り角では|言霊《ことたま》を出して空気を動揺させるがよろしい。
[756]
道の|長千羽《ながちは》の神
丑の刻参りは頭に三徳を|冠《かぶ》り、その脚に三本の|蝋燭《らふそく》を立ててこれに火をつけ照らし、鏡を胸部にかけ、後ろには一丈二尺の長い|白布《はくふ》を|曳《ひ》いてゐる。この|白布《はくふ》は悪魔よけのためであつて、|絎《く》け帯や長い|白布《はくふ》を|曳《ひ》きずつてゐると悪魔はよう寄りつかない。故に狼などに襲はれたとき、帯を解いて垂れてをればその|禍《わざはひ》から逃れることが出来る。ただし|絎《く》け帯に限るので|三尺帯《さんしやくおび》では駄目である。これが古事記にある道の|長千羽《ながちは》の神である。また|襦袢《じゆばん》は|和豆良比能宇斯之神《わづらひのうしのかみ》といつて|白木綿《しろもめん》のものを着てゐるがよいのである。これを着ないと、いくら厚着をしても風邪を引く。また|褌《まはし》は|道俣神《ちまたのかみ》といつて大切なもので、悪魔は肛門から入つて来るのであるから、これをしつかり締めてをると悪魔や悪病にをかされない。これも|白木綿《しろもめん》の六尺がよいのである。
[757]
心配事
心配事があつても|放《ほ》かしてしまつたらよいのだ。|王仁《わたし》は難しい事件にぶつつかると、当面の問題だけ解決しておく。そしてその後はもう忘れてしまつてゐる。事件に関係してゐる人の顔を見るまでは、そのことに関しては思ひ出さぬのである。さうでなければ年が寄る。
[758]
|石女《うまずめ》
御子生みの神業は人間として重大なる御用であるが、子が出来ぬからというて、それが罪の結果であるなどと思ふのは間違ひである。それはただ単なる体の欠陥に過ぎない。石の上に|播《ま》かれた|種《たね》と同様で育たない。故にうまず|女《め》のことを【石】|女《め》といふのである。人は二人の子供を自分たち夫婦の代償として生んで育つべき義務があるのであるが、生まない人があるので、その代はりに多くの子供を生まされるのであつて、神諭に「自分が生んでも自分の子ではない。神の子の世話がさしてある」とあるのはその意味である。子のなき人は、最初に誰かが貰へというてくれた子が、自分の霊統の子なのであるから、それを貰ふがよい。|人間心《にんげんごころ》を出してあれが気に入らぬ、これが不足だというて、この最初のものを断ると、次にいうて来るのは、もはや自分の霊統の子ではないのであつて、他人の子を貰ふことになるのである。
[759]
天職と職業
人間の天職は人類共通のものであつて、神の子神の|生宮《いきみや》としての本分を全うすることである。しかし職業は決して神から決められたものではない。自ら自己の長所、才能等を考究して、自分に最も適当とするものに従事すべきである。
[760]
哺乳と変態性欲
哺乳に変態性欲を見る。女の子が相当の年になると、母親は乳を飲ますことを嫌ふが、男の子はいつまで飲んでも、喜んで飲ましてゐる。女の子はまた男親の乳を飲みたがるものである。
[761]
妊娠
妊娠中は|房事《ぼうじ》を慎まねばならぬといふことはかつて述べた通りであるが、これが不謹慎になると、胎児が精分をとられることになるから、どうしても不完全な子供が出来る。片輪の子供が生まれたり、阿呆の子が出来たり、あるひは病弱な子やひがみ根性の|児《こ》の出来るのは、妊娠中の|房事《ぼうじ》によるものである。
また成長して|掏摸《すり》、泥棒となるのも、これが原因をなすことが多い。だから昔から胎内教育といふことを非常に重要視してゐるのである。
[762]
食膳について
祝詞の中に「|海川山野《うみかはやまぬの》|種々《くさぐさ》の物を平らかに安らかに聞こし|召《め》して」とあるごとく、食膳の上の配置は、先づ向つて左向かうに海のもの即ち海魚類を、右向かうに河のものを、左手前に山のものを、右手前に野のものを、中央に種々のものを置くのが作法である。
[763]
米は食料となるまでに八十八回の手数がかかるのである。
[764]
玄米食
玄米食の効果のあることは、その文字から見ても分かる。白米と書いて|粕《かす》と読む、|糠《ぬか》は|米扁《こめへん》に|康《やす》とかくでは無いか。玄米を|煎《い》つて粉にして、ハツタイ粉として玄米パンを作つて食するのが一番よいのである。
[765]
酒の起原
支那では|夏《か》の|儀狄《ぎてき》が初めて酒を造つたというてゐるが、印度では|猩々《しやうじやう》が造り始めた。日本では雀が始めである。
|猩々《しやうじやう》が食ひ残しの|食物《しよくもつ》を岩穴等に貯へて置いたのに水がたまり、自然醗酵して酒になつたのが始まり、日本では雀が|食物《しよくもつ》を竹の切り株にためたのが醗酵して酒になつたのである。
噛んだのが始めであるから、酒を醸造することを|醸《かしむ》または|醸《かもす》といふのである。
[766]
扇、|団扇《うちは》
秋立つて|後《のち》、扇や|団扇《うちは》で人をあふぐものでは無いといふことはかつて話しておいたが、これは秋風を送るといふことになるのではなはだ面白くない。うち|扇《は》はまた【打つ】といふことにもなるので、立秋後は用ふべきものではないのである。それなのに|王仁《わたし》が|巡笏中《じゆんしやくちう》、どこへいつても少し暑いとすぐ|団扇《うちは》を持ち出してバタバタ|四方《しはう》から扇ぐ、玉鏡に書いてあつても一向読まないものと見える。自分で扇ぐのなら立秋後といへども一向差し支へないのである。もし人を扇ぐ必要があるならば|桧扇《ひあふぎ》を用ふべきである。|団扇《うちは》に至つては尊き人の前などにて使ふべきものではない。|団扇《うちは》の起こりは遊女高尾で有名な石井|常右衛門《つねゑもん》が【|彼《か》】の一件から相手に恨まれねらはれて、止むを得ずこれを斬つて江戸を立ちのき、三島まで落ちのび、三島明神の社殿で一夜を明かせし折り、盗賊のために|旅銀《りよぎん》を奪はれ無一物となり、あちらこちら流浪して歩くうち蚊にせめられ、竹をたたいてササラとしこれを追うたのが初まりで、晩年京都|深草《ふかくさ》のあたりの|佗住《わびずま》ひにこのことを思ひ出し、|団扇《うちは》を作つて売りそれを生活の|料《れう》としたもので、これが|深草《ふかくさ》|団扇《うちは》の初まりである。今は種々に改良せられて美しいものとはなつてゐるが、こんな来歴をもつもの。ごく打ちとけた【内輪】同志の間ならいざしらず、チヤンとした客の座敷などに持ち出すべきものではない。|有職故実《いうしよくこじつ》は知らないものばかりで、礼儀作法も乱れた現代だ。不愉快のことのみ多い。
[767]
干物の|炙《あぶ》り方
干物の|開《ひら》いたものを網にかけて焼くときは外側を|炙《あぶ》り、内側は|炙《あぶ》つてはいけない。その故は丸焼きするときは決して内側は火に当てないからである。また裏表を直接火に当てると味が|甚《ひど》く悪くなる。
次に|海苔《のり》を|炙《あぶ》つて食べるときも、両面から|炙《あぶ》ると|香気《かうき》が失せて味が悪い。
[768]
|焼肴《やきざかな》の|箸《はし》のつけ方
他家に招かれて|焼肴《やきざかな》を出されたときは、|海魚《うみうを》なれば|頭《かしら》を左に腹を客の前に据ゑてあり、|河魚《かはうを》なれば頭を左に背を前に据ゑる。これを故実に|海原《うなばら》(腹)|河瀬《かはせ》(背)といふ。そしてその焼き物に|箸《はし》をつけるときは包丁がたの入つてゐる首筋あたりをむしつて食べ、小さき干物なれば片側を食へばよい。裏返しして骨ばかりを残して食つて了ふのは「犬喰ひ」といつて|卑《いや》しさの限りである。主人が客に焼き物を出すとき「おむしり下さい」といふのはこの理由である。今の人はむしるどころか丸喰ひをする癖があつて見つともよくない。
[769]
|襖《ふすま》の|開《あ》け閉め
|襖《ふすま》の|開閉《あけしめ》のときに、よく|開《あ》けすぎたり、閉めすぎたりするが、これは|閾《しきゐ》を見て畳の合はせ目をもつて|測《はか》るか、あるひは|鴨居《かもゐ》の柱を標準にすれば|容易《たやす》いことである。|襖《ふすま》の|開閉《あけしめ》さへ完全に出来ず、これに気がつかないやうな者はどんな仕事をさせても成功|覚束《おぼつか》ない。
[770]
器物の|裏底《うらぞこ》
お|盆《ぼん》、|茶托《ちやたく》、その他何でも器の裏を磨くことは故実を知らぬ人のすることである。どんな貴い骨董品でも、裏を磨いたものは値段が非常に安い。これは素人が用ひた証拠であるからである。骨董を鑑賞する人々は必ず|裏底《うらぞこ》を見てそのまま置くものである。|裏底《うらぞこ》に作者の|魂《たましひ》が入り|銘《めい》がある。これは作者の顔にも相当するのである。裏を見れば作者の|魂《たましひ》や性格も分りまた度胸もわかるとさへいはれる。|楽焼《らくやき》なども裏を見れば|価値《ねうち》がわかるのである。
[771]
味のよい所
|鯛《たひ》には「猫知らず」といつて頭部に一番美味い所がある。高貴の人の馳走に、昔はその「猫知らず」の少しの肉を用ひたものである。
次に|鰈《かれひ》の一番味のいいところは周囲の|鰭《ひれ》である。|食道楽《しよくだうらく》に長じた人は、その|鰭《ひれ》を焦ががさないやうに焼いて【むし】つて食ひ中身には|箸《はし》をつけない。
|鶏《にはとり》や|山鳥《やまどり》の最も貴重な肉は肝臓である。
[772]
肉食の害
|獣《じう》、|鳥《てう》、|魚《きよ》などの肉は一旦|食物《しよくもつ》として消化されたものが肉となつたのであるから、それを摂取してもあまり益はない。獣肉を|嗜《たしな》むと情欲が|旺《さかん》になり、性質が獰猛になる。肉食する人は本当の慈悲の心はもたない。肉食を主とする外国人は親子の間でも情愛が|尠《すく》ない。例へば遺産があつても子には譲らずに伝道会社に寄付するといふやうなものである。
神に近づくときは肉食してはよくない。霊覚を妨げるものである。
[773]
智、仁、勇の|食物《しよくもつ》
|魚《うを》は智を養ふものである。野菜を食べると憐れみ深くなり、仁に相応し、米は勇に相応する。
[774]
キのつく動物
さきに、狐、狸、兎、|雉《きじ》などのキのつく動物は、食べても差し支へないといつたことがあるが、これらは有職故実においても|草木《さうもく》と見なしたものである。
|鶏《にはとり》をカシワといふのは柏の意である。
|鴨《かも》の|魂返《たまがへ》しはコである。即ち|木《こ》であるから食べてもかまはない。
[775]
|山椒《さんせう》の|樹《き》
唄ひながら|山椒《さんせう》を採ると、その|樹《き》は枯れるものである。|真《まこと》に不思議な|樹《き》である。
[776]
植木と主人
植木が枯れるのは、何か主人の身の上に災害の来るときなのであつて、主人の身代はりとなつて枯れるのである。主人の勢ひの盛んなるときは、その家の植木が皆勢ひがよい。植木一つ見ても一家の|栄枯盛衰《えいこせいすゐ》はわかるものである。
[777]
茶室
茶室は軍略上の都合もあるが、これは秀吉が、太閤でも、かういふ小さな家で満足してゐることを見せたもので、秀吉は自分から実践|躬行《きうかう》して見せたのである。昔の政治家はえらかつた。それを|後《のち》になつて、茶室は贅沢であるといふやうに解せられるに至つたのである。
[778]
庭石の配置
百万長者が|金《かね》にあかして作つたのだから、参考のために見ないかと人がいふので、某氏の庭園なるものを見た。成程素人目には立派に見えるだらうが、|王仁《わたし》の眼から見るとサツパリ成つてゐない。そもそも庭園の作り方は|言霊《げんれい》に合致しなくてはならぬものである。石を一つ並べるにしても、縦横、縦横といふふうに陰陽の配置を考へなくてはならぬ、|築山《つきやま》を築くなら、左は高く右は低くするやうにせねばならぬ。大本の庭園は、綾部にしても、天恩郷にしても、皆|王仁《わたし》が、|言霊《げんれい》に相応さして築いたものである。|一木《いちぼく》|一石《いつせき》といへども|忽《ゆるがせ》にしてはない。だが今の世の中には本当の|庭造師《にはつくりし》もなく、またこれを見るの|明《めい》ある者もない。
[779]
井戸の位置
ある地方では住宅の真ん中に井戸を掘るとよくないといふが、これも迷信である。家を建てるのに邪魔になるだけのことで、それ以外に差し支へはない。
[780]
|床《ゆか》の高さ
かつて述べたやうに、この地上三尺を離るれば既に天の区域に入るものである。だから普通の人間は地の上三尺以内の高さに|起臥《きぐわ》するが本当で、|大宮人《おほみやびと》や|天上人《てんじやうびと》は三尺以上のところに住むべきである。
一体人間は土を離れて住むことは出来ない。それとて余り土地に近く住まつては|湿《し》けるし、土地を高く離れて住めば|地気《ちき》に親しまぬことになる。故に|床《ゆか》は余り低くてもよくなければ、高すぎてもよろしくない。普通三尺以内にするがよい。
[781]
宅地と植樹
ある地方では宅地内に、|樹《き》によつて植ゑることを忌む所があるが、全く迷信である。
例へば、|葡萄《ぶだう》や柳はなり|下《さが》るといつて忌み、|柘榴《ざくろ》は破裂するので忌む。|蘇鉄《そてつ》はある地方では|大蛇《をろち》が棲むとか、|大蛇《をろち》が|憑《うつ》つてゐるとかいつて嫌ふ。また|蘇鉄《そてつ》は、|阻跌《そてつ》即ち【つまづく】のと語呂が合ふから忌むのである。
|枇杷《びは》は「|汝《われ》死ね、俺なる」というて死んでから|実《な》るというて嫌つたものである。|芭蕉《ばせう》はその葉が大きくても風のために破れてゐないものはないほどで、完全なものはない。この破れるといふことを忌むのである。|芭蕉《ばせう》はまた実がなれば直ぐそのあとは倒れるものである。従つて昔から寺などに植ゑて個人の家に植ゑなかつたものである。
[782]
他家の|鼠《ねづみ》
自分の家の|鼠《ねずみ》が悪いことをすれば、これをとつても良いが、|他《よそ》の|家《うち》へ行つて、そこの|鼠《ねずみ》を取り殺すと、いつとなくその家と不和になり喧嘩するやうなことになるものである。何もその人に対しその人の家に対して|悪戯《いたづら》をせぬのに、とられると、その|鼠《ねずみ》の霊が得心することが出来ず、|怨《うら》むからで、これはよくよく注意すべきことである。
[783]
梅と桜
梅は支那から渡つて来たものだといふ者があるが、さうではなく、昔から日本にあるのである。もつとも信濃梅、信濃柿といふのは支那から渡つて来たもので、支那の梅、支那の柿の意味である。
桜でも日本の桜は支那では咲かない。また土地の関係で京都から東へ行くと桜は白くなり西へ行くほど赤くなる。
[784]
菓子と|饅頭《まんぢゆう》
お筆先に「菓子|饅頭《まんぢゆう》を無うにいたすぞよ」と示されてあるが、さういふものは贅沢だからである。
昔、秀吉に【ぼた】餅を献上した者があつた。ところが秀吉は、こんな贅沢なものを国民が食べると国がつぶれて了ふといふので、陰暦十月の亥の日だけに【ぼた】餅を食べさせることにしたのである。
[785]
因縁の土地
あの地には昔からかういふ歴史があるから因縁の土地であるとかいうて、昔の歴史因縁ばかり調べて歩く人があつて、|王仁《わたし》の手許にもよくさうした書類が届くことがあるが、大本の神業にはそんな因縁なんか全く不必要である。お筆先にあらうがな。【古いことは一切用ひない】と、何もが新しくなるのだ、因縁も新しく造り出すのである。この度の働き次第で立派な|神館《かむやかた》でも出来たらその土地が即ち神様の因縁の土地になるので、古い土地の因縁なんか何にもならぬのである。
[786]
|油虫《あぶらむし》
|油虫《あぶらむし》は家運が衰へるやうな所には居らないものである。ある地方では|油虫《あぶらむし》を|黄金虫《こがねむし》といつて縁起を祝ふ所さへある。
[787]
朝顔
朝、朝顔の|蕊《しん》に水を一滴落としておくと花が終日もつものである。
[788]
猫は家につく
猫は家についてゐるもので、借家人が引つ越す場合は|放《はふ》つておけば家に残るものである。犬はこれに反し、人について何処までもゆくものである。これは猫は|鼠《ねずみ》によつて養はれ、犬は人によつて養はれるからである。
[789]
鏡餅
お正月のお|重餅《かさね》は|日月《じつげつ》夫婦にたとへたものである。|餅《もちひ》の鏡といふことで、鏡は|天照《あまてらす》|皇大神《すめおほかみ》の御神体である。即ちよき月日を送らしてもらふやうにとの意味である。今は色々の美味しいものがあるが、昔は餅と酒くらゐの御馳走はなかつたから、一番御馳走として供へたものである。
[790]
門松
松と竹はこの世で最も古いものである。松といふ字は|木偏《きへん》に|公《きみ》と書いてある。松は最高位の木で、|公《きみ》は|君《きみ》に通じ、万世一系の皇位に通ずる。竹は|細矛千足国《くはしほこちたるのくに》を表徴し、竹は|武《たけ》の意味である。昔は弓でも|矢《や》でも竹で造り、また|獣《けだもの》を獲るのも竹槍を用ひた。竹は殺伐であり、覇道を意味する。王道が行はれる所には武器は要らない。然し|今日《こんにち》は覇道も必要とする時代である。そもそも武器の徹底的撤廃はなかなか出来るものではない。
次に梅は人間生活の教へを意味する。以上のやうな種々な意味で正月に門松を立てたもので、昔は一本だけ立てたものである。
[791]
二本の門松
昔雪深き信濃国のある町で、日暮れに妙な行者がある一軒の家を訪れて一夜の宿を乞うた。その家では快く泊め、翌日|出立《しゆつたつ》のときに雪道の薬にもというて煎り豆を与へた。行者は大いに喜び、素性を明かして、「わしは|六面八臂《ろくめんはつぴ》の|厄神《やくがみ》で、本当の姿を現はせばびつくりなさるから、こんな人間の姿をしてゐますが、九万九億の眷属を持つてをる。そなたは親切な|方《かた》故、何事も心に叶ふやう守護さしてやらう。だからお前の家であるといふことがわかるやうに、その証拠に門松を二本立てなさい」といつて旅立つた。
その後誰も|彼《か》もその|厄神《やくがみ》の守護を受けるやうにと真似だしたといふ話がある。
[792]
|生松《いきまつ》
大本で門松を立てないのは、すでに幾らも植ゑてあるからである。神様にお供へするのも鉢植の|生松《いきまつ》の方がよい。松の鉢植を余分に用意して置いて時々取り替へたらよいのである。
[793]
倉と便所
倉は|乾《いぬゐ》(西北)、便所は|巽《たつみ》(東南)に建てるのが本当である。
[794]
|槙《まき》の木について
|古史成文《こしせいぶん》に出てをるごとく、|槙《まき》の木は太古素盞嗚尊が「|顕《うつ》しき|青人草《あをひとぐさ》のおきつしたへに伏するときまで云々」とあるので、これは人の死体を納める用途の木である。それでこの木を|庭前《にはさき》や、|門《もん》の入口などに植ゑると、その家はつひには没落または不幸なことになるのである。もし借家などをしてゐる者で、この木が庭などにあれば、|言霊《ことたま》で「|唐松《からまつ》」といつて宣り直して置く必要がある。|槙《まき》といふ言葉は「|魔来《まき》」といふ意味にもなるので注意すべきである。素盞嗚尊は尻の毛から生えた木というて居られるが、それは汚い木といふ意味なのである。
[795]
猫は魔の王
猫は魔の王であるから、家に猫を飼うておくと悪魔が来ない、猫を抱いて寝てをれば|魘《おそ》はれるやうなことはない。
[796]
|竹籔《たけやぶ》と悪魔
|孟宗竹《まうそうだけ》の他、竹を屋敷内に植ゑるのはよくない。|竹籔《たけやぶ》は悪魔の|棲処《すみか》である。|孟宗竹《まうそうだけ》は|畑《はた》に作るのであつて、|籔《やぶ》ではないから差し支へないのである。
[797]
艮の方角
艮の方角とは東北で太陽の昇る尊い方角であるから、家を建てるときなど、成るべく汚いものを建てないやう遠慮したがよい。もし建てなければならぬ場合や、また借家などで仕方のないときは、お祭りして神様にお願ひすればよい。
[798]
空中肥料
稲は空中の|食物《しよくもつ》を十分に食べさせねば充分の収穫はない。空中肥料を得るためには空気の流通をよくしてやることが必要である。
今の農事に志すもの、肥料のことを知つて空中肥料の最も大切なることをば知らない。だから|金《かね》が沢山要つて収支が|償《つぐな》はないやうなことが出来て来るのである。
[799]
再び花咲かぬ枝
一度咲いた枝には、決して再び花は咲かぬのである。新しい枝が出来てそれに花が咲く、木全体から見れば毎年一つ枝に花が咲くやうに見えるが、決してそんなわけのものでは無いのである。従つて果実も決して一つ枝に再びなることは無い、新しい枝に花さき実る、といふこの真理が分れば、果実が年ぎりをするといふ|弊《へい》は直ちに救ふことが出来るのである。即ち古い小枝を年々切つてやればよいので、さうすれば年々同じやうに実るのである。
[800]
|香具《かぐ》の|果実《このみ》
|香具《かぐ》の|果実《このみ》といふのは|橙《だいだい》のことである。|非時《ときじく》の|果実《このみ》といつて一年中いつでもあるものである。秋冬になれば熟して赤くなり、春になれば木になつたまま青くなる、そしてまた秋冬になれば赤くなる。年数を経たものは皮が厚くなつて酸味が少なくなる。|夏蜜柑《なつみかん》の如きも皮が厚くなればおいしくなるものである。
[801]
竹と|筍《たけのこ》
竹といふものは|親竹《おやだけ》を|伐《き》つて了へば、その根には親のやうな大きな竹は出来ない。そして同じ|親竹《おやだけ》の根には三年目に|筍《たけのこ》が出来、四年目には最早その根に|筍《たけのこ》は出来ない。それであるから竹には子丑寅等の年を記し置き、四年目以上の|親竹《おやだけ》から|伐《き》るやうにすればよい。二年三年の竹を|伐《き》つては損である。
[802]
竹と|豌豆《えんどう》
|竹籔《たけやぶ》の根をたやすのには|豌豆《えんどう》を植ゑるがよい。さうすれば竹の幽体までもなくなるものである。
[803]
竹と|蕎麦《そば》
|竹籔《たけやぶ》の近くに|蕎麦《そば》を植ゑると、その|蕎麦畠《そばばたけ》には直ぐ竹が根をはるやうになる。それで|竹籔《たけやぶ》にしようと思ふならば|籔《やぶ》の近くに|蕎麦《そば》を蒔くにかぎる。
[804]
|糸瓜《へちま》と|白水《しろみづ》
|糸瓜《へちま》には毎日|白水《しろみづ》を少しづつほどこすとよろしい、さうすると実は長くまた大きくなるものである。
[805]
|筍《たけのこ》と|鰯《いわし》
|竹籔《たけやぶ》に腐つた|鰯《いわし》をやることは肥料として一番よろしい。さうすると大きい|筍《たけのこ》が出る。
[806]
|松茸《まつたけ》
|松茸《まつたけ》といふものは清浄なものであるから、|人糞《じんぷん》の臭ひがする所には生えぬ。
[807]
|烏《からす》
|烏《からす》は|霊鳥《れいてう》である。|朝《あした》は東に向つて飛び、夕方には西に向ひ、真昼は南に向つて飛ぶ。
[808]
|魚《うを》を釣るとき
日暮前が一番|魚《うを》のつれるときだ。|魚《うを》は|明日《あす》の太陽が|上《のぼ》ることを思はない。日が暮れだすともう世が終りだ、これで|終《しま》ひだと思ふから、今食つて置かねばならないと、一生懸命に食ひついて来るのである。
[809]
|鰻《うなぎ》について
丹毒を病んだ人が|鰻《うなぎ》で撫でて御神徳を頂くことはかつて述べて置いた通りであるが、|鰻《うなぎ》を放つた|後《のち》は、生涯再びこれを食べないやうにせねばならぬ、食べるとまた丹毒が出て来る、|鰻《うなぎ》はそれでなくても食べない方がよいのである。いかんとなれば、この世を造り固めたのは|鰻《うなぎ》の姿の竜神である。大地|未《いま》だ固まらず、トロトロの泥海時代に、うねり、うねつて山を造り谷を造つたのである。|鱗《うろこ》もなく、|角《つの》もなく、青水晶のやうな体の竜体即ち|鰻《うなぎ》なのである。
[810]
信仰と病気
人間はどんなものでも精神の作用をうけないものはない。例へば、恥づかしい思ひをすると顔が赤くなるし、驚くと蒼白になり、|怒《おこ》ると黒くなり、またそれが烈しくなると青黒くなるものである。それは精神作用を現はしたもので、精神作用によつて血液の循環が|旺《さかん》にもなる。また病気の如きも精神作用によつて左右されるものである。従つて信仰があれば病気は治るものである。絶対無限の力を有し、愛にまします神様が助けて下さると信ずれば病気は治る。薬にたよるやうな精神では治りにくい。一般の人は肺病は不治の病だと思つて悲観してゐるが、神から見れば何でもない病気である。病気を気にして朝晩検温器を使用し、熱の|一上《いちじやう》|一下《いちげ》を気にするやうではかへつて病気を重らしめるものである。検温器は殺人器みたいなものだ。
すべては気の持ちやうである。例へば、梅干のことを考へただけでも酢つぱい気持になる。失望落胆すれば|身体《からだ》がえらいし、希望が出れば勢ひが強くなる。
病気のごときも、キリストのいつたごとく「汝の信仰汝を|癒《いや》せり」といふごとく、その人の信仰の力によつて病気が治るのであつて、治る人の力が大部分で、神の愛と和合して全快するのである。常日頃信用する人に触つて貰へば病気も治るが、信用してゐない人にお願ひして貰つても病気は治りにくいやうなものである。信用の強い人は、|王仁《わたし》の書いた短冊や雑誌などで撫でただけでも治る。全く信仰の力である。
精神力によつて|黴菌《ばいきん》も殺すことが出来る。もし病気が医者の力のみによつて治るものならば、医者が病気をするはずもなければ、また病院の裏門から死体が運び出されるやうなこともないはずである。今日の薬学で、確実に薬品の効力があるといふものはわづかにすぎない。
大本はウーピーの宗教として楽天主義を|尚《たふと》ぶのは、人の精神力を旺盛にせむがためである。そもそも病気には先天的のものと後天的のものとの二種類があり、しかも各々これに三種類あると称へられてゐる。第一はどうしても死ぬ病気、また放任しておいても治る病気。第二は生死は医者や信仰の力によつてどうにでも決定さるべきもの。第三は予後不良の病気である。
|王仁《わたし》もかつて医学を学んだことがあるが、医学を学ぶと|黴菌《ばいきん》や|塵《ちり》が非常に気になるやうになるもので、|生水《なまみづ》を飲むのも恐い感がおこるものである。
先天的の病といふのは親からの遺伝である。肺病は不治の病といはれるが、肺病は治らないことはない。信仰に徹底せないから治らないのである。人間は心配が一番悪い、|否《いな》心配即ち心配りをするのは結構であるが|心痛《しんつう》するからよくない。|今日《こんにち》では心配と|心痛《しんつう》とを混同して考へてゐる。心を痛めず笑つて暮らすやうにすると、誰でも百二三十歳までは生きられるものである。
[811]
服薬について
「薬といふものは一度飲んで利かねばいくら飲んだつて利くものではない。沢山飲んでをるうちに利いて来るなんて馬鹿なことはない、|山椒《さんせう》はいくら少量を食べても矢つ張り|辛《から》さを感ずる。利くものなら、一度で利く、利かぬものなら何度飲んでも利くものでない。副作用を伴ふだけである」と神様がおつしやつた。
[812]
七草の効用
|咳《せき》の病と鬼の|醜草《しこぐさ》
鬼の|醜草《しこぐさ》は|一名《いちめい》|十五夜花《じふごやばな》とも別称する、また|紫花《むらさきばな》ともいふ。その根を煎じて飲むと気管支|加答児《かたる》や肺病など|咳《せき》の発する病に利き目あり、その用量は一日に付き|一匁《いちもんめ》|五分《ごふん》から|五匁《ごもんめ》ぐらゐまで飲むなり。
|能善葛《のうぜんかづら》は|通経薬《つうけいやく》
|能善葛《のうぜんかづら》は有毒植物の一種なるが、この花を煎じたるものは|通経薬《つうけいやく》として一日に|三匁《さんもんめ》を用ふるなり。
下痢と|鶏頭《けいとう》
|鶏頭《けいとう》の花と実は下痢に良く利き、また|痔《ぢ》を持つ人にも利く。いづれも煎薬として用ふ。
慢性胃腸病と菊
菊、この草花には種々の種類あれども、薬用としては|長生殿種《ちやうせいでんしゆ》が最も|冠《くわん》たり。この花は慢性胃腸病に特効あり。一日分|一匁《いちもんめ》|五分《ごふん》乃至|五匁《ごもんめ》とす。蚊や|虻《あぶ》などに刺されて|痒《かゆ》いときに、菊の葉を塩にて揉み、塗り付けるときはたちまち|痒《かゆ》さが除去さる。
熱と|葛《くず》
|葛《くず》の根を乾燥して刻み、煎じて飲むときは熱を除去する|効《かう》あり。感冒またはその他の熱のある病気によく、一日の分量は|三匁《さんもんめ》乃至|八匁《はちもんめ》ぐらゐなり。
|疥癬《ひぜん》と|白粉花《おしろいばな》
|白粉花《おしろいばな》は葉をもみ潰して塗るときは|疥癬《ひぜん》などに特効を有す。またこの果実の|殻《から》を破ると白色の|白粉《おしろい》のやうなものが出る、これを|汗疣《あせも》にぬると効能あり。
|痰《たん》と|桔梗《ききやう》
|桔梗《ききやう》の根は|痰《たん》の妙薬なり、これを乾燥し刻みたるもの一日に約|三四匁《さんしもんめ》煎じて飲むなり。
梅毒と朝顔
朝顔は|種子《たね》を下剤として用ふ、用量は一日に|一匁《いちもんめ》乃至|三匁《さんもんめ》ぐらゐを煎じて飲むなり。梅毒またはたびたび腫れ物の出来る人は煎じて用ふるときは特効あるべし。
こしけと|女郎花《をみなへし》
|女郎花《をみなへし》を煎じて飲むときは鼻血または婦人のこしけに|効《かう》あり、一日に|一匁《いちもんめ》乃至|五匁《ごもんめ》を用ふ。
腹痛と|神輿草《みこしぐさ》
|神輿草《みこしぐさ》|一名《いちめい》「げんのしようこ」の葉や茎は下痢どめとし、または腹痛、発熱などに特効あり。土用の丑の日に採取してかげ|干《ぼし》にして貯へおくときは特に利き目あるなり。
以上列挙する薬草はいづれも皆煎薬なり。ただし煎薬の造り方は普通|水《みづ》一合|五勺《ごしやく》くらゐにそれぞれの花や根を入れて、とろ|火《び》にかけて約半分くらゐに煎じつめ、布にてこし一日に二回か三回飲用するなり。
[813]
|魚《うを》の中毒
|魚《うを》の中毒には、|新藁《にひわら》のシベを抜いて小さな|箒《ほうき》を作り、それをもつて|身体中《からだぢう》を撫で回し、火にくべて、|箒《ほうき》がパチパチと音を立てて燃えたら、きつと治るものである。
[814]
|痣《あざ》を治す
子供の|痣《あざ》には|白馬《しろうま》の|糞《ふん》を塗ればよくなるものである。日に二三度つけてやるといい。そして後で拭いてやるのである。
[815]
糖尿病の薬
糖尿病を治すには|今日《こんにち》まで殆ど薬といふものは発見されてゐない。一番いいのは桧の新芽の青いのを|六分《ろくぶ》、松の葉|四分《よんぶ》の割合で水に煎じて飲むがよい。塩もなにも|入《い》れずに煎じるのである。一週間ぐらゐは臭くて飲み難いがやがて馴れれば飲みよくなる。お茶の代はりに適度に飲んだらよい。肉食などするとかへつて悪い。
[816]
|胆石病《たんせきびやう》
|胆石病《たんせきびやう》はボレー(|牡蛎殻《かきがら》の粉)を普通粉薬を飲むくらゐづつ服用したら、少し長くはかかるが治る。それ以外に治療法はない。また気をつけて平素ボレーを服用してゐたら、この病気には|罹《かか》らないものである。
因みに|胆石病《たんせきびやう》とは|胆臓《たんざう》に石灰分の石が出来て、非常な痛みをおこす病気である。ときには医師から|胃痙攣《ゐけいれん》などと誤診されることがある。
[817]
|早漏《さうろう》の療法
|早漏《さうろう》は胃が弱いからである。|早漏《さうろう》には子が出来ない。これを治すには先づ胃を丈夫にしなければならない。が、|鉄剤《てつざい》を飲むのが一番よろしい。神経衰弱に原因するものだから、強壮剤を使用して、元気をつけることが肝要である。
[818]
血の道
女の血の道といふのは現代|医家《いか》の唱ふる神経痛のことであり、男の|疝気《せんき》といふのも同じく神経痛のことである。また男の|胃痙攣《ゐけいれん》は女の|癪《しやく》である。
血の道は解熱するか温めるより仕様がない。|身体《からだ》を冷やさぬやうにすることが大切である。
[819]
リウマチス
リウマチスのことを昔は痛風といつたものである。これは感冒のこじけたもので、熱があるために痛むのである。リウマチスの手当ては要するに風邪の手当てをすればよい。
[820]
脱腸
脱腸となるのは胃腸がわるいからである。かかる人は帯をしつかりしめて胃腸を丈夫にし、適度の運動をすることが必要である。
[821]
イボの薬
|無花果《いちじゆく》の青い実をちぎると乳白色の粘液が出て来る、それをつけるとよい。
[822]
目の薬
目の悪い人は|黒胡麻《くろごま》を|炒《い》つて、それを摺りつぶし、毎日|二《ふた》【さじ】づつ飲むと良い。またこの|黒胡麻《くろごま》は胃腸に非常に良くきくので、弱い人は毎日|二《ふた》【さじ】づつ食うと健康が保てる。
[823]
|香茸《かうたけ》と胃腸病
|香茸《かうたけ》を食するときは、胃腸を強健にならしめるもので、胃腸の悪い者や、不健康の者には結構である。強壮剤としての効用がある。
[824]
ジフテリヤの全治法
ジフテリヤに|罹《かか》つたとき、|咳《せき》の激しいときには、|茗荷《みやうが》の根を掘つて三四寸ばかり一度にシガムと、しばらくは|喉《のど》がひりひりするが、妙に全治するものである。
[825]
動脈硬化と|食物《しよくもつ》
動脈硬化症より免れむとする者は、断然肉食を|止《よ》して菜食に移らねばならぬ。魚類等もなるべくは、さけたがよい。|殊《こと》に|刺身《さしみ》の|類《るゐ》はよろしくない。たまにはアツサリした|河魚《かはうを》ぐらゐは食べてもよい。元来世人は肉類魚類には多大の滋養分があるやうに思うてゐるが、|真《しん》の滋養価は野菜が一番である。かなり大きい|鯛《たひ》と大きな大根一本と相応するくらゐなものである。
[826]
|条虫《さなだむし》駆除法
|条虫《さなだむし》を駆除するには、|柘榴《ざくろ》の|根皮《こんぴ》を煎じて一週間ばかり飲むとよい。この時は殆ど絶食同様で極少量の|食物《しよくもつ》を摂ることにせねばならぬ。そして|下《お》りかけたら全部|下《お》りてしまふまで辛抱して出してしまはねばならぬ、途中で切れると駄目である。
[827]
妊娠と授乳
妊娠したことが分かつたら、授乳は直ちにやめねばならぬ。飲ましても栄養価値がなく、弱い|小児《こども》なら、かへつて害があるものである。
[828]
|中耳炎《ちうじえん》の妙薬
|中耳炎《ちうじえん》にかかつたら|鮎《あゆ》の|腸《はらわた》を耳の中に入れてつけるとすぐ治る。ただし耳の|孔《あな》のことであるから、注意して後からよく取れるやうにして|入《い》れねばならぬ。また|鮎《あゆ》に病気を治してくれるやうによく念じて、つけるのであるから、生涯|鮎《あゆ》を食べぬやうにせねばならぬ。食べると再発する。|鮎《あゆ》の|腸《はらわた》のないときは|鰻《うなぎ》の|腸《はらわた》でもよい。この場合は三度ぐらゐつけねばならぬ。|鰻《うなぎ》を食べぬやうにすることも|鮎《あゆ》の場合と同様である。
[829]
|〓疽《へうそ》の妙薬
|蚯蚓《みみづ》をこづいて、|飯粒《めしつぶ》に混じてねり、患部に貼り置くとよい。|蝮《まむし》、ハブなど毒虫に|咬《か》まれたときもこの方法によつて治る。
[830]
お土
お土の有難いことは今更いふまでもないが、内臓諸病には、一旦これを煮て水に薄め服用するとどんな病気にでも利くのである。煮るとお土、お水、お火と御神徳を三つ一緒に頂くことになるから一層結構なのである。
[831]
柿の夢
柿の夢を見るときは病気になる。これを未然に防がむためには実際に柿を食べたらよい、病難より免るることが出来るものである。
[832]
肺炎の妙薬
|万年青《おもと》の根を|卸金《おろしがね》にておろし、足の裏に張りつけておくと、早く熱が分離して平癒する。
[833]
|多汗《たかん》
汗を多く出す人は健康者の証拠である。汗は出た方がよろしい。夏汗をかかぬ人は|身体《からだ》のどこかに故障のあるしるしである。
汗はすべてサラツとしてゐるものでなくてはならない。ネバネバした汗が出るのは病気の|故《せい》である。
[834]
|百日咳《ひやくにちぜき》
|百日咳《ひやくにちぜき》には|天蚕《てんさん》の|繭《まゆ》を黒焼きにして飲むがよろしい。
[835]
|鯛《たひ》の骨
|喉《のど》にあやまつて骨をたてることが往々にしてあるものであるが、他の|魚《うを》の骨ならかまはないが|鯛《たひ》の骨は容易に抜けないで腐つてゆくから、この|魚《うを》を食べるときには余程注意して、さうした|粗相《そさう》のないやうにせねばならぬ。
[836]
産後のために
|王仁《わたし》の|生母《はは》は、心掛けの良い人で、妊娠したといふことが判明すると同時に、毎日|炊《かし》ぐ米のうちから一握りづつをよけておいてこれを貯めておく。毎日のことであるから十ケ月の間にはかなり沢山の量となる。これを産後の食料に当てるのだ。産後の養生は女にとつて非常に大切なものであるといつてこの期間は農家の常食たる|麦飯《ばくはん》を食べず、上記|米飯《べいはん》を食べて悠々養生するのである。
経済的にもちよつとした心掛けによつて誰に迷惑を掛けるでもなく、ユツクリと保養が出来るのである。かうした心掛けをもつ|生母《はは》は婦人病等の悩みをかつて知らないで、八十六歳(昭和八年)の|今日《こんにち》まで壮者を凌ぐ強健さである。
[837]
薬二三種
|錦木《にしきぎ》を黒焼きにして粉にし、酒にとかして飲めば|棘《とげ》が抜ける。
【おばこ】を|蔭干《かげぼし》にして煎じて飲めば利尿剤になる。
|篭草《かごさう》の花を煎じて飲むと|淋病《りんびやう》の薬になる。
一つ|葉《ば》またはバランの葉を煎じて一年ばかり飲めば肺病が全治し、かつ心臓、肺臓の病に|罹《かか》らぬものだ。
[838]
色を白くする法
黒砂糖を煎じて薄い液として舐めてちよつと|甘《あま》いくらゐの程度にし、それをもつて日に数回顔を洗ふのである。だんだんと色が白くなつて来る。
[839]
梅干の効用
旅行を続けてゐると便秘に苦しむ人が多い。これは水質が変はるによつて起こるのである。毎日梅干を食べてゐると便通がよくなつて来て、かうした|憂《うれひ》はなくなる。
[840]
流行性感冒
本年(昭和九年)も大分流行性感冒がはやるやうであるが、戦争と流行性感冒とはつきものである。あれは霊の仕業である。近年満州事変、上海事件などで多くの戦死者を出したが、それに対して、|禊《みそぎ》の行事が行はれてゐない。|禊《みそぎ》の行事の大切なることは霊界物語に詳しく示して置いたが、昔はこの行事が厳格に行はれたから、戦争などで沢山の死者があつても地上は|時々《じじ》に清められて、流行性感冒の如き惨害から免るることを得たのであるが、今の人たちは霊界のことが一切分からず、|禊《みそぎ》の行事などのあることをすら知らぬ人たちのみなるが故に、邪気充満して地上は曇りに曇り、濁りに濁り、|爛《ただ》れに|爛《ただ》れて、目を|開《あ》けて見て居られぬ惨状を呈してゐるのである。気の毒にもかうした事情を知らぬ世間の人々は、医師や薬にのみ重きを置いて焦心焦慮してゐるのであるが、霊より来る病気を体的にのみ解せむとするは愚である。
|禊《みそぎ》の行事の偉大なる効果を知る人は凶事あるごとに常にこれを行ふべきである。さすれば一家は常に朗らかで滅多に病気などには|罹《かか》らぬものである。
[841]
|按摩《あんま》
|按摩《あんま》を始終とる人があるが、あれはよくない。ひどく肩が凝つたときなど、ちよつと揉むのはよいが、|按摩《あんま》にかかつて全身をたびたび揉むと癖になつてそれをやらないと血液がよく循環せぬやうになる。消化剤を飲むのもこれと同様で、さういふ癖をつけると、胃腸の消化力が鈍つて、何時も消化剤を必要とするやうになる。|一朝《いつてう》消化剤を得ることが出来ない場合に遭遇すると、たちまち病人になつてしまふ。平素から注意してさういふ習慣をつけないやうにせねばならぬ。
[842]
|喘息《ぜんそく》全治の法
|喘息《ぜんそく》の薬については前に示して置いたが、全治さすには|小豆飯《あづきめし》を三合ばかり炊いて、それに油揚一枚を添へて、深夜どこかにほかし、もう帰つて|来《く》なよと命じておくのである。
[843]
血の道
血の道といふと婦人病のやうに思うてゐる人が多いが、さうではない。元来血の道といふのは婦人の神経痛である。人体は|淋巴腺《りんぱせん》と血管とが神経に添うて全身に分布されてゐる。|淋巴管《りんぱくわん》は|水脈腺《すゐみやくせん》といひこの|腺《せん》に故障が起こつて神経を圧迫することによつて起こる痛みを|疝気《せんき》といひ、男性に起こる病気である。血液の循環が悪く血管に故障が起こつて神経を圧迫するによつて起こる痛みを血の道といふのである。故に|疝気《せんき》も血の道も共に神経痛で冷え込みから起こる場合が多い。適当の運動を取り保温に注意し、血液の循環をよくすれば治る。
[844]
火傷の薬
火傷した場合、リンゴの皮をむきて、みを擦りつけておくと直ぐになほる。
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玉鏡
終り