月鏡
出口王仁三郎
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●テキスト中に現れる記号について
《》……ルビ
|……ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)天地|剖判《ぼうはん》の
【】……傍点が振られている文字列
(例)【ヒ】は火なり
※現代では差別的表現と見なされる箇所もあるが修正はせずにすべて底本通りにした。
※詳細な凡例は次のウェブサイト内に掲載してある。
http://www.onisavulo.jp/
※作成者…『王仁三郎ドット・ジェイピー』
(連絡先 oni_oni_oni@a.memail.jp)
2004年04月01日作成
2006年03月03日修正
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大空高く、清くかかれる月鏡、かげ円にして光ますますさやかなり、照し出すや森羅万象地上の蒼生ここに初めて命あり、栄あり、仰ぐ尊き貴の御姿。畏こけれど、石の上、神代の戸張かきわけて、神の出口の物語、溢るる生命の真清水うけて、うつし出でたる一管の筆、そはいと細く拙なけれど、苦集滅道の真諦は、各自が智慧証覚、意志想念のまにまに取り入れ給ひて、心の雲も晴れやかに、上る高天の神国の、その懸け橋としもしたまへかしと、一向祈りまつりつつ、かくは誌し侍るになん。あなかしこ。
昭和五年旧九月八日 加藤明子
凡例
一、本書は前編『水鏡』に次いで昭和三年十一月号より昭和五年九月号にいたる『神の国』誌に掲載されたるものを全部収録したものであります。
一、末尾の『十和田湖の神秘』は特に本書のために出口聖師が最近自ら筆を執つて書かれたもので何れへも未だ発表せられないものであります。
昭和五年旧九月八日 編者
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[250]
女の型
お嬢さん育ちの娘とは、大部分|富家《ふうか》の|女《むすめ》で、繁雑な世相を知らず、辛酸を|嘗《な》めたこともなく、何のための人生なるかを|識《し》らず、云はば温室に育てられた草花である。ときの変遷推移と正比例な女であつて、機を見るの能力も無く、活動する技量もない、毒にも薬にもならぬ、至つて平々凡々で、趣味もかへつて低級である。そのくせ芝居見物、遊芸、音楽、|他出《たしゆつ》、買ひ物等が好きであつて、気分だけは大変ハイカラで、何々会会員になりたがる気分は充分に持つてゐる。また新聞や雑誌なんかで褒めて欲しい気分は、デモ政治屋成金物語と同一である。年を取つてもアマエルこと非常なもので、|気随《きずゐ》|気儘《きまま》で始末の付かぬものである。|早婚《さうこん》する女だけに、一度それが遅れたときは良からぬ噂に|上《のぼ》り、幸福なやうな不幸なやうな、いはゆる人間として無意味な女である。今回の旅行(東北旅行)によつて、自分はこの感を深くし、かつ娘の親として大いに考へさせられたのである。
次に世間体の張りたい女がある。官吏や公吏の娘に多い。いはゆる認識の欲望が至極発達したやうで空威張をしたがる、そして無性矢鱈に令嬢ぶりたがる。頻りに高潔ぶつて節操などの議論と来たら、いはゆる理想を楯に振り回し強烈に審議する。常に張り気なだけ一度その度を失ふものならたちまち神経衰弱に陥つて了ふ。かかる種類の女は、理想と現実とが、常に衝突しがちであるからである。貧弱な家庭の女としては大いに適するかも知れぬ。家計の切り盛りの比較的巧妙な点を経験から得てゐるので、妻君としてはかへつて好成績を上ぐるものである。養成一つでずいぶん役にも立ち働きも出来る。そして気概に富んでゐるのである。
[251]
日本人目覚めよ
オイツケンがどういつた、マルクスがこういつたのと、個々の人々の|抱《いだ》いた思想について、深くこれを究めることは専門家の仕事であつて、すべての人間が専門家同様の研究を重ねんとするのは無理である。普通の吾々などは、各学者の学説を通観しただけで常識的の頭を作らねばならぬ、少なくとも一瞥しただけでその取捨選択を誤らないだけの常識を、持つて居らねばならぬ。政治の経過においても政治的歴史から見ても、大抵わかることで西洋諸国には古来幾回かの人種の大移動を繰り返して来た。前の人種を|後《あと》の人種が全滅する、優等人種が出てこれに代はり転滅戦に次ぐに全滅戦をもつて|今日《こんにち》に至つたので、残虐の継続が|今日《こんにち》を築き上げたものと見られる。そして西洋思想は実にここから生まれてゐる。
地上の|草木《さうもく》を知らうとするなら、先づもつてその土地を充分に調べて見なくてはならぬ。然るに日本人にして、日本を知らないものがある。日本に生まれ日本に育ちながら、日本の歴史、日本人の習慣性等については全くこれを知らうとさへ努めるもののなき現代である。日本人の言葉と言へば浅薄なもの、西洋人のいふことなれば、必ずそれが真理であるやうに、早呑み込みするやうになつて了つては始末に困る次第である。日本の刀剣についてさへ|独逸《ドイツ》に聞かなければ判らぬなどは沙汰の限りである。特に今日の|青《わか》い連中の読み物はすべて西洋のもの、語る所もまた西洋のもので、日本は昨日まで未開野蛮国であつたのだ、西洋の御陰で文明国になつたのだと思つてゐる。しかもこれらの連中は自他共に知識階級と称して怪しまない。こんなことでは日本の神国も前途はなはだ|寒心《かんしん》の至りである。先づこの迷信を打破することに努め、日本人には日本固有の|真《しん》の文明を知悉せしむることが刻下の急務である。吾々|大本人《おほもとじん》が現代人から迷妄と罵られ山カンと嘲笑されながらも、人類社会のため国家国民のために昼夜不断の活動を続けてゐるのも、国家の前途を|憂《うれ》ふるの余りに外ならないのである。
[252]
|親作《おやさく》|子作《こさく》
|親作《おやさく》に対する|子作《こさく》であるのにこれを小作と書くなどは、明治初年頃の学者の不用意で西洋かぶれが窺はれてはなはだ面白くない感を与へる。物件的賃貸借だ、親でも無い子でも無いと解釈するからつひに小作争議のやうなものが流行するのだ。日本の|親作《おやさく》|子作《こさく》は、西洋のやうに物件的賃貸借で始まつたもので無いのだが、ちよつとした簡単な文字の相違がやがて大なる観念の相違となつて来るものである。どふかして日本|農本国《のうほんこく》は親子の関係にいつまでも円満にありたいものである。
[253]
無二の真理教
現代日本人|殊《こと》に知識階級として自他共に認められてゐる人間は、十中の八九までも西洋心酔者で、日本は未開国だ、西洋には|真《しん》の文明がある、故に日本の教へはすべて駄目だ、日本人は低能だと考へてゐる。これに反して吾々|大本人《おほもとじん》は、日本は|真《しん》の文明国であり世界の宗主国である、世界を教導し、世界人類に|真《しん》の文明を教ふべき神国だと確信してゐる。故に我が大本は一切万事西洋崇拝の日本の現状に反し、我が国体の尊厳と|千古不磨《せんこふま》の大真理あることを西洋各国の民に教ふべく、宣伝使を派して、彼らの未開の偽文明国人に対して真理を説き、福音を宣べ、霊肉共に天国に救ふべく|真《しん》の文明を鼓吹してゐるのだ。今日の日本人のいづれの階級を問はず政治に、宗教に、芸術に、経済に、日本人として外人に教へてゐるものは一人も無いではないか。これを見ても|吾《わが》大本の世界唯一無二の真理教であることが証明されるであらふ。
[254]
謝恩と犠牲心
自分は自分のために生まれ、自分自身のために存在するのだ、報恩謝徳などとはもつての他だ、と威張つたことを言ふものが多くなつて来たやうだが、これらは実に幼稚な思想であつて、少しく考へて見れば直ぐに解ることである。吾人の|今日《こんにち》此処に存在し得るのは、神様と祖先の|賜《たまもの》である、また日本の存在するのも日本の祖先の神々の|賜《たまもの》である。日本神道は総て祖先崇拝の教へであるがこれはいかなる知識階級でも|柾《ま》げることの出来ぬ真理を含んでゐる。謝恩の念があつて始めて犠牲心が起こり|没我心《ぼつがしん》が起こるのだ。動物でさへも恩を知るではないか、西洋の社会学者でさへ犠牲と|没我心《ぼつがしん》、この二つが無ければ社会は進化しないと言つてゐる。自分を犠牲にすること、自己を没却すること、この二つのものは神道の教義の教ふる所であつて、親が子を愛し子が親に孝を尽くすのは、人間自然惟神の慣性であり|常道《じやうだう》である。
[255]
現代の日本人
|日本魂《やまとだましひ》のちやきちやき、裸一貫の荒男、世界経綸の当路者と称する現代の日本の男子には情ないかな勇気と根気を欠き、第一に信仰心なく、仁義なく、自負心強く、自重心なく、男子の|気魄《きはく》と実行力を欠き、かつ|狷介《けんかい》にして人を容れず、自己の|小主観《せうしゆくわん》をもつてことを律する故に、|志《こころざし》と違ふ場合多く、なほかつこれを反省せず、|神人《しんじん》万物に対して感謝の念なく、怠惰にして朝寝を好み陰徳陽徳を欠き、人情薄くして大器晩成的の力無く、|軽佻浮薄《けいちようふはく》にして剛健の気骨なく、道徳観念絶無にして意気地なし。また青年に特有の|気魄《きはく》と奮闘心を欠き、後進を指導する度量なく、正義公道を解せず、ただ眼先のことのみに心をくばりて、思慮浅く、不真面目にして、排他心強く、かつ偏狭なり。平素女性の如く|脂粉《しふん》に|浮身《うきみ》をやつすことのみ知りて、新進気鋭の勇気なく、かくして神の建て玉ひし日本神州の国家を傷つけつつあるものは、現代の日本人、|殊《こと》に男子はその最たるものである。ああ一日も早く一刻も速やかに我が大本の教理を|普《あまね》く同胞に伝達し、もつて祖先の給ひし|日本魂《やまとだましひ》を振り起こさしめ、世界統一の神業に奉仕せしめたきものである。
日に月に|日本魂《やまとだましひ》の消えて行く
世を|活《い》かさむと伊都能売の神
[256]
|霊止《ひと》と人間
人は|霊止《ひと》であつて、天地経綸の司宰者であるが、人間は天地の経綸を行ふことは出来ない、人間は天地経綸の一機関である。
[257]
仏教の女性観
仏教の|玉耶経《ぎよくやきやう》には、女人の不利なる地位が詳細に並べ立ててあつて、これを女の十悪といつてゐる。女子は出世してもその両親に喜ばれない。|牝《め》ンだの|粕《かす》だとか、尼ツチヨだとか、種々の侮蔑的言葉をもつて遇せられ、女子を三人持てば家の|棟《むね》を落とすとか、女子と|小人《せうじん》養ひ難しだとかいつて馬鹿にされる。その二には養育しても少し|間《ま》に合ふやうになれば|身代《しんだい》の|瘠《や》せるほど荷物を拵へて他家へ|遣《や》つて了ひ、厄介物扱ひされる。そして女は|三界無宅《さんがいむたく》なぞと軽侮される。その三には気が小さくて人を畏れる。|人中《ひとなか》に出てどんなに立派なことを説いても直ちに女の|言《げん》として相手にされない。その四には父母は教育と嫁入りについて始終心配が絶えず、沢山な荷物まで持たせてやりながら、不調法者をよろしくと言つて嫁入り先の人々に頭を下げる。その村の犬にさへ遠慮するやうな気持になつて居らねば、娘が憎まれるといふ心配から、父母は女子よりも男子の出生を喜ぶ。その五は恋しき父母に別れ、懐しい郷里を去つて|門火《かどび》に追ひ出され、一旦|嫁《か》した上は死んでも両親の家に帰ることはならぬと言ひ渡され、一人も親友の無い所へ追ひやられる。その六は|嫁《か》した家の|舅《しうと》|姑《しうとめ》や、|小姑《こじうと》を始め、近所や、|嫁《か》した家の親族にまで機嫌を取つて心配し、人の|顔色《かほいろ》ばかり|視《み》てゐなくては一日も勤まらぬ。その七は妊娠の|苦《く》、出産の心配があり、一度子を産めば、容色|頓《とみ》におとろへ、夫の愛にどうかすると変異を|生《しやう》ぜしむる|憂《うれひ》がある。その八は少し娘らしくなると厳重なる父母の監視を受け、外出さへ自由に出来ぬ。その九は|嫁《か》して夫に制せられ、無理解な夫になると|婢《しもべ》の如くに遇する。それでも小言一つ言ふことは出来ぬ。その十は老いては子や孫に|呵責《かしやく》せられ、生涯自由を得ないものと説いてある。然し今日の覚醒めた女は、かかる十悪の仏説に耳を傾けるやうな正直な女は無いから男子たるもの骨の折れることである。
十悪の不利益を持つ女性をば
救ふは伊都能売神の|御教《みをしへ》
女性てふものに生まれし不利益を
救ふは伊都能売神の|御心《みこころ》
[258]
日本人と悲劇
日本人は概して悲劇を好む、故に浄瑠璃などは殆ど悲劇的である。日本人は本来|性情《せいじやう》が極めて陽気であるにより、かへつて反対に悲劇を好むのである。昔は花見、|紅葉見《もみぢみ》と同じやうに、|枯野見《かれのみ》、虫聞き、鹿聞きなどの行事があつて、淋しい枯野を見て限りなき感興を覚えるなども、日本人が極めて陽気なる反映である。西洋人などは反対に性質が陰気であるから、陽気な音楽や、ダンスなどを好むのである。
[259]
海岸線と山岳
国が広いというて富んだ国とはいへない。海岸線の長い国、即ち海岸に凹凸の多い国は漁業などが多いから、大いに|富《とみ》を得られる、日本の国は狭いけれど、海岸線が非常に延長してゐるから領海が多く大層広い国となる。また|富《とみ》と海岸線の延長とは、常に正比例するものであるから日本はまた富める国である。山岳の多い国もまた広い国富める国であつて、山岳を平面積に直すと非常なる|広袤《くわうぼう》を有することになり、産出物もまた多大の価格に|値《あたひ》することになるから、|富《とみ》と山岳との関係も、海岸線のそれの如く正比例して増進するものである。海を領し山を領することの極めて多い日本国は、小さい国であつてもその実は極めて広い国、富める国である。実に一千二十億円の財産国である。
[260]
書画をかく秘訣
字を書くときには成るべく筆を使はないやうにし、絵を|描《か》くときは反対に筆を虐使する、これが書画をかく秘訣である。
[261]
|四日月《よかづき》を三日月と見る二日酔
神様の御経綸の進展をちよつとも知らぬ○○の如き人を詠んだのがこの句である。既に四日の月が出てゐるのに酔つ払つて、三日月だと思うてをるのだから、|中一日《なかいちにち》を寝過ごしてしまつたわけである。私のそばに居つて何もかも見ていながら私のやつてゐる仕事を知らないやうな連中が多いので、神様もやりきれないだらう。
[262]
不毛の地
不毛の地といふのは荒地のことでなく、物を植ゑても出来ない土地のことである。禿げ頭に毛が生えないやうに、耕して見ても植ゑて見ても、一向植物が成長しない地である。いかに面積が広い国であつても、さういふ土地では仕方がない、至る所|草木《さうもく》の繁茂する日本の国は実に恵まれたる国である。
[263]
歴史談片
百人一首の最初の歌、かの有名なる
秋の田の刈穂の|庵《いほ》のとまを荒み
わが|衣手《ころもで》は|露《つゆ》にぬれつつ
といふのがある。|天智《てんち》天皇のお歌といふことは三才の童児も知つてゐるが当時天皇は政変のため難を逃れて那須野をさまよはれた。いと|畏《かしこ》きことながら、行き暮れて宿りたまふ|御《み》よすがも無く|御痛《おいた》ましきことながら野宿のやむを得ざるに立ち到られたそのときのお歌である。刈穂の稲のかけわたしたる下にて|露《つゆ》にぬれつつ一夜を過ごさせたまふた。稲のとまは荒くて|露《つゆ》を防ぎまゐらすに足らなかつたのである。|後醍醐《ごだいご》の|帝《みかど》が、|笠置《かさぎ》の山の松の|下露《したつゆ》、|花山院《くわざんゐん》の石の枕にたぐひていとかしこき|御製《ぎよせい》である。
|西行法師《さいぎやうほふし》といふ人は、大層歌の上手のやうに人は思つてゐるが、大変下手な歌の詠み手であつた。詠んで出しても選に入らぬので、月を眺めつつ痛く歎息した歌が、かの有名な、
|歎《なげ》けとて月やは物を思はする
かこち|顔《がほ》なる我が涙かな
の歌である。それが思ひもかけず百人一首の選に入つたのである。それからだんだん上手になつた。百人一首の歌でも最も重きを置かれてをるものは
この度はぬさも取りあへず|手向山《たむけやま》
もみぢの|錦《にしき》神のまにまに
といふ|管家《くわんけ》の歌だ。
|山陰《やまかげ》中納言は丹波の国、桐の庄に住んで居られたので後裔遂に【桐村】を名乗らるるやうになつたのである。即ち開祖様(大本)の御実家の祖である。
|本宮山《ほんぐうやま》はもと本居山と書きホンゴ|山《ざん》と称へられてゐた。そして豊受大神様を御祭り申し上げてあつたのであるが、それが後世|比沼《ひぬ》の|真奈井《まなゐ》にお移りになつたのである。
開祖様の母上は足利尊氏の系統をひいて居られる、尊氏といふ人は舞鶴線の|梅迫駅《うめざこえき》の付近七百石といふ所に生まれたので、|初産湯《うぶゆ》の|井《ゐ》といふのが残つてゐる。
亀岡|在《ざい》に篠村八幡宮といふのがある、足利尊氏が願をかけて武運の長久を祈つた神様で、この神様が尊氏を勝たしたといふかどで、他の神様はどんどん昇格しても、この八幡様だけはいつまでたつても一向昇格せぬ。
七福神のお一柱、昆沙門天といふ|方《かた》は|武甕槌《たけぬかづち》の神様のことである。
[264]
エルバンド式とモールバンド式
今や世界は|挙《こぞ》つて戦乱の|巷《ちまた》と化してしまつた。ただその形式が|真《しん》に武器を取つて戦ふ戦争であるか、|算盤《そろばん》をもつて戦ふ経済戦であるか、権謀術数をもつて|鎬《しのぎ》を削る政戦であるかの【差異】だ。支那の如きは何かといふとすぐ武器に訴ふる戦争──モールバンド式であるが日本には一層陰険なエルバンド式の政戦が絶え間なく行はるるのは歎かはしい現象である。
[265]
|大黒主《おほくろぬし》と|八岐大蛇《やまたのをろち》
|大黒主《おほくろぬし》は月の国の都ハルナを|三五教《あななひけう》の宣伝使のために追はれ、再び日本に逃げ来たり、|夜見《よみ》が|浜《はま》なる境港より上陸し、|大山《だいせん》にひそんだのである。素盞嗚命はこれを追跡して|安来港《やすぎこう》に上陸したまひ、いはゆる|大蛇《をろち》退治を遊ばされたのであるが、|大黒主《おほくろぬし》は|大山《だいせん》において|八岐大蛇《やまたのをろち》の正体を現はしたのである。後世|大蛇《をろち》のことを池の|主《ぬし》とか、山の|主《ぬし》とか呼んで|主《ぬし》の字をつけるのは、【|大黒主《おほくろぬし》】の|主《ぬし》より来たるものである。
[266]
島根県
鳥取県と島根県はもとは一つ国であつた。【島根】は大和島根の意味で、神界の一経綸地である。この地に|神пsしんしう》別院の出来るのも因縁あることである。
[267]
誕生の種々
大神様が地上に|体《たい》をもつて現はれたまふ場合を【降誕】と申し上げる。天人の|霊子《れいし》が下つて生るる場合を【生誕】といひ、中有界より再び人間に生まるるもの即ちお出直しを【再生】といひ動物より輪廻して人間にあるひは人間から動物に再生するものを【|転生《てんしやう》】といふのである。
[268]
犠牲
既成宗教は、犠牲といふことを推奨して最高の道義的行為なりとしてをるが、犠牲即ちイケニヘなるものは、実は正しいことでは無いのである。身を殺して仁を成すなど、己れを捨てて人を助くることは実際出来得るものではない。教育勅語に、|恭倹《きようけん》己れを|持《ぢ》し、博愛|衆《しう》に及ぼすと宣らせられ給うてゐる如く、人は神の子、神の|生宮《いきみや》で、言ひ換ゆれば人は神であるから、神を敬ふ如く人を敬ひ、また己れを敬ふのが本当である。自分を全ふせずして人を助くることは出来ないではないか。神であつても、犠牲を喜ぶやうな神は正しい神では無い。日本の神様は決して犠牲を喜ばれない。
[269]
三菩薩
|勢至菩薩《せいしぼさつ》は愛善を象徴し、|普賢菩薩《ふげんぼさつ》は意志想念を、|文殊菩薩《もんじゆぼさつ》は智慧証覚を象徴してゐる。これら諸菩薩が、獅子に乗りあるひは、虎、象などに乗つて居らるるのも、矢つ張り象徴的事象であつて獅子、虎は手におへない|猛者連《もされん》、象は|鼻高連《はなたかれん》を意味し、さういふ|輩《やから》の上に乗つて制御せらるるといふ意味である。
[270]
|懺悔《ざんげ》
|懺悔《ざんげ》すれば罪が消えるというて、既成宗教では|懺悔《ざんげ》をもつて教への眼目としてゐる。また|二灯園《にとうゑん》とか|三灯園《さんとうゑん》とかでは、|懺悔《ざんげ》の生活を|標語《モツトー》としてゐるやうであるが、人前に|懺悔《ざんげ》するときはかへつて罪を造るものである。何となれば、人は神の分霊分身であるから、自分の恥を人の前に曝露するは神を|辱《はづ》かしむるものであつて、|真《しん》の神様には喜ばれないのである。ただし神様の前に|懺悔《ざんげ》することはよいが、牧師や僧侶や人の前で自分の非事非行を|曝《さら》すといふことは、最も慎むべきことである。総て何事でも、流水の如く絶えず流れ去つて|日々《ひび》に新たなものであるから、既に過ぎ去つたことをまた新たに現在に持ち出すことは、宇宙の真理に逆行するものである。いわんや信仰境涯にある人は、|日々《にちにち》祓ひ給へ清め給へと願つて、過去の罪悪は一切消えてをるのであるから、|懺悔《ざんげ》の要なきはもちろんである。また他人の非行旧悪を摘発非難してはならぬ。人はただ刹那刹那に最善を尽くしてをればよいのである。取越苦労過越苦労のいけないのはこのためである。
[271]
神の作品
宇宙万有を造られた|真神《しんしん》の作品のうちで、最も繊細|緻密《ちみつ》霊妙を極めた|最上乗《さいじやうじよう》のものは人間である。人間においても、|脳髄《なうずゐ》と肉体の曲線美とはその代表点ともいふべきものであつて、万物これに比すべきものは無いのである。そして|脳髄《なうずゐ》は男の方が優れて居り、曲線美は女の方が|勝《まさ》つてをる。
いかなる芸術家といへども、完全に神の作品を|描出《べうしゆつ》または|模塑《もそ》することの不可能であることはいふまでも無い。例へば|技神《ぎしん》に|入《い》つた画家が人物や動植物などを|描《か》くにしても、ただその|視得《みう》る部分と動作の刹那のすがたを平面的にしか写すことが出来ないのである。これを思ふと|画《ゑ》を|描《か》くことが|厭《いや》になつて了ふ。それで自分は、せめて霊だけなりと入れて|活《い》きた|画《ゑ》にしようと思ひ、満身の霊を込めて体で|描《か》くからいはゆる|一気呵成《いつきかせい》の|運筆《うんぴつ》となるのである。
[272]
舎身活躍
ここにいふ|舎《しや》は家であつて、衣食住の完備して一家の|斉《ととの》ふたる意義である。そこで舎身活躍とは、他の厄介にならず独立独歩して活動するといふことであつて、身を捨てて活躍するといふ意味ではないのである。|尚《なほ》|約《つづ》めて言へば、軍人には軍人の服装があり、農家には農家の服装ある如く軍人は軍人らしく農家は農家らしく、商人は商人らしく、労働者は労働者らしく、それぞれ、それらしき身の構へをして活動するといふことである。
[273]
万機公論に決すべし
五ケ条の|御誓文《ごせいもん》の中に「万機公論に決すべし」と宣らせ給うた御聖言がある。公論とは決して多数者の議論ではない。多数者の議論はいはゆる衆論または多数論である。公論はどこまでも公論であつてたとへ一人または少数者の議論といへども、公明正大にしてその至誠天に通ずるほどの議論を指して公論といふのである。然るに現今の議会などは多数決をもつて|上乗《じやうじよう》のものとなし、それを公論と心得てをるからたまらない。世の中は古今東西を問はず、賢者が少なくて愚者が多い、故に多数論は衆愚論である。かういふことでは、いつになつても天下に公道は行はれない。識者の中には、今日の衆愚政治の惨状を憂慮するのあまり英雄待望論を|著《あらは》したり、英雄生活を希求する傾向を生じて来てゐるのも、自然の成り行きだと思ふ。教育勅語の中に「国を|肇《はじ》むること|宏遠《くわうゑん》に徳を|樹《た》つること|深厚《しんこう》なり」と宣らせられてある。我が国は天地|開闢《かいびやく》の初めに当つて天祖、|統《とう》を垂れ、皇祖、国を開き、|天壌《てんじやう》無窮の国体をお開きになつたのであつて、わづかに三千年や五千年の新しい国家ではない。遠く紀元を百三十万年の昔に発してをるのである。また「徳を|樹《た》つること|深厚《しんこう》なり」と宣らせたまふたのは、道学者のいふやうな、浅薄な道徳の徳ではない。徳とは、万世一系の皇祖をさし、|大君《おほぎみ》が|高御座《たかみくら》にのぼらせたまひて、神聖|不可犯《ふかはん》の|御稜威《みいづ》を輝かせたまふ云ひである。我が国は陛下の|御稜威《みいづ》によつて国は|開《ひら》け|且《かつ》治まり、民は安らかに|業《げふ》を楽しむことが出来るのである。故に|徳主法従《とくしゆほふじう》の神国といふのである。
[274]
知識を世界に求む
明治大帝が下したまへる五ケ条の|御誓文《ごせいもん》の中に「知識を世界にもとめ、大いに綱紀を振起すべし」とのらせたまへる御聖言を、現在の学者はその真相を|解《かい》し得ずして地球上一切の文明国の知識を求め、あるひは輸入し、研究すればよいことのやうに思つて得々としてゐるのは、我が国体上実に歎かはしいことである。我が国は皇祖皇宗のたてたまひたる万世一系の天立君主国であつて、国民は総て陛下の|赤子《せきし》であり、皇室は国民の本家であり、国民の聖主であり師であり親にましまして、某帝国の帝王の如く人民の代表ではない。外国の国を|樹《た》つるや共和、専制あり、禅譲放伐あり、勢ひを|得《う》れば|君《きみ》となり、勢ひを失へば|臣《しん》となるが如き変転動揺|常《つね》なき国家とは実に|天壌《てんじやう》の差異があるのである。いかに文明国とはいへ、かくの如き国体または政体を有する国家に行はるる思想や、知識をもつてしては絶対に、|天壌《てんじやう》無窮の皇紀を振起し|奉《まつ》ることは不可能である。先づ知識を世界に求めといふ聖言を、慎重に考慮せなくてはならない。世界とは全地球上の国々をさすのでは決してない。世界といふ語は、世界経綸の神書たる我が国家の宝典、古事記、日本書紀等の神書をささせたまうたものと恐察さるるのである。|今日《こんにち》現に少女世界だとか、婦女世界、冒険世界、武侠世界、実業の世界などいふ雑誌が盛んに発行せられてをるではないか。婦人世界といふのは婦人の読書あるひは読本といふ意味である。さうでなければ国体の違ふ文明国の知識をもつていかにして我が国の万世一系の皇紀を振起することが出来ようか、大学の博士たちも教育家もこの点に十二分の注意を払つて貰ひたいものである。
[275]
|克《よ》く|忠《ちう》|克《よ》く孝
次に「|克《よ》く|忠《ちう》に|克《よ》く孝に」と宣らせたまうたお言葉に注意せなくてはならぬ。例へば官吏がその職務に誠実なるのも、商店の番頭が主人のために誠実に立ち回るのも|忠《ちう》ではあるが、|真《しん》の|忠《ちう》なるものは報酬もなく、勲等も階位も|欲《ほつ》せずただ我が皇室のために|赤心《せきしん》を尽くし、人に知られんことを求めない、いはゆる|麻柱《あななひ》の|大道《だいだう》であつて、ここに始めて|克《よ》く|忠《ちう》に|克《よ》く孝にといふ意味が湧いて来るのである。
[276]
無作の詩
詩を作らうと思ふ心が詩を殺し、|画《ゑ》を|描《か》かうと思ふ心が|画《ゑ》を殺すものである。無作の詩人と無筆の画人こそ|真《しん》に詩人であり、画伯である。海の声、山の姿も|神《かむ》ながらにして詩となり|画《ゑ》となるのが本物である。
[277]
|魂《たましひ》の大きさ
|怒声《どせい》と悲鳴とが|魂《たましひ》の長さと幅である以上は、幅の分からぬ人間こそ|真《しん》の人間であり神の子である。
[278]
過去の失敗
自分の過去を深夜静かに省みると、一代の大失敗は、大正日日新聞社の買収と、経営について、いづれも|素人連《しろうとれん》に任せ切つたことであつた。しかしながら、|今日《こんにち》になつて考へて見ると、それは神様の大なる経綸の一部であり、大本にとつて大発展の|曙光《しよくわう》を発揮する唯一の予備条件たる極めて小さい不幸に外ならなかつたのである。世の中のすべてのことは皆さうである。末法だ、|澆季《げうき》だ、乱世だと、|拗《すね》たり、恨んだり、|怒《おこ》つたり、泣いたり、|喚《わめ》いたりしてをるが、さうした人は、何時の世に出て来てもさうした人である。自分は大正日日の負債数十万円の請求に、攻めつけられた際も、平然として第二の計画に取りかかり天恩郷を築き上げた。入蒙の際敵の陣中に進入し、死刑場に引き出されたときも余り心配にもならなかつた。何事も一切を神に任せ切つてゐたからである。すべてこの世を呪ふやうな人間に決して天国も浄土も在るべきはずがない、我々の踏み出す一歩々々のその刹那に、永遠無窮の世界が含まれてをるからだ。いかなる難関が押し寄せようとも、神に在る身は、いつも円満で安楽で平気である。恐ろしく思はれるのは、その恐ろしさに勝つ有難さの篭もつてゐる証拠である。一昼夜の間にも、夜明けもあれば日没もある、一年の間にも春夏秋冬がある。夜明けばかりが幸福で日没が不幸とも限らない、昼は元より結構であるが、夜もまた馴染んで見ると悪くないものである。
[279]
捨てることは正しく掴むこと
|白隠《はくいん》禅師が、一日法華経を読んで、内容空虚、ただお|伽話《とぎばなし》の一種として投げ棄てなかつたならば、一生法華経を信ずる時機は来なかつたであらう。自分だつてその通りだ、教祖のお筆先に対して、穴だらけだというて一旦これを捨て、官幣社の神職にならなかつたら、お筆先の|真《しん》の光明が分からない、五里霧中に彷徨してその取捨に迷つて一生を送つたかも知れない。これから考へても捨てるといふことは、正しく掴むことであらねばならぬ。最も|大切《だいじ》なものは、何によらず一旦|放擲《なげう》たなければ、より以上の大なるものは得られない。深い悩みが無限の|慰藉《ゐしや》を|齎《もた》らし、寂しさを他にして慰めは無く、悲しみを|厭《いと》うて喜びは来たらぬ。貧乏したお陰で壮健になり、長命するものも沢山ある。
[280]
人間と現世
人間は幽界から現界ヘアク抜きのために送られて来たものだとの説を|真《しん》なりとするならば、そのアク(悪)さへ抜けたら、幽界または神界へ引き取られるはずだから、いつまでも長生きしてをる人間は、アク抜けがしないために壮健なのだと思つたら、|吾《われ》ながら、|吾身《わがみ》が|浅間敷《あさまし》くなつて来るだらう、しかしながら人間は決して現界ヘアク抜きのために生まれて来たのではない、神が天地経綸の司宰者または使用者として、現世へ出したものである以上は、一日も長く生きて、|一事《ひとこと》にても多く神の御用を勤めねばならぬものである。朝夕の天津祝詞や、|神言《かみごと》はその日その日の|罪科《ざいくわ》、過ちを祓ひ清めて天来そのままの神の子、神の宮として神界に奉仕すると共に、現界においても人間生存上大々的に活動すべきものである。
[281]
安全な代物
|五日一水《いつかいちすゐ》、|十日一石《とをかいちこく》といふが、|三年一文《さんねんいちもん》、|一生一言《いちしやういちごん》に|万行《まんかう》を含むものは、神の|生宮《いきみや》であり、|真《しん》の予言者であり、雄弁家である。|万巻《まんぐわん》の書を腹に詰め込んだ、|紙虫《かみむし》学者の多くは|一事《いちじ》に貧しいものである。また|万言《まんげん》をたづぬる人間は、|一行《いちかう》を修め得ぬ人間に決まつてをる。全体、文字を書いたり、文句を|捻繰《ひねく》るやうな人間や、口の達者な人間に恐ろしいものはない。思つたことを書いて了ひ、また言つて了へば、頭脳は空虚になるからだ、実に安全な代物である。そこにいかなる表現も、自己を現さずにはおかない。その言葉が|真信《しんしん》を裏書きするのも不思議では無い。嘘は元より嘘であるが、真実を語つても一度口から|外《そと》へ出したら、それはもう真実そのものでは無く、真実の影である。平仮名を七字づつに切つて、いろはにほへ【と】、ちりぬるをわ【か】、よたれそつね【な】、らむうゐのお【く】、やまけふこえ【て】、あさきゆめみ【し】、ゑひもせ【す】の「す」を加へた|圏点《けんてん》の「とがなくてしす」といつたのは、赤穂四十七士に対する|徂徠《そらい》の評語であるといふのは、「いろは」を弘法大師の作だといふにも|勝《まさ》つた大嘘であるが、「説かなくて死す」は「|咎《とが》無くて死す」たることは当然だ。説きさへしなければ、|咎《とが》は無いからである。しかし言葉は要らぬと言ふことすらが、言葉でないと言へない。文字無用論も、また字によらねば書くことが出来ぬ。実行の|黙鳥《もくてう》は、|言文《げんぶん》の翼によらねば、飛びさうにも無いが、|一管《いつくわん》の笛で衆生も済度さるれば、一篇の民謡に国の興亡も覚られる。|邵康節《せうかうせつ》は|杜鵑《ほととぎす》の|一声《ひとこゑ》に、|宋《そう》の転覆を直覚したといふ。歌ふか黙するか、この二つの間にちよつとでも理屈がはさまると地獄に堕ちる「|黙指無声《もくしむせい》」の達磨と|唯説弥陀本願《ゆゐせつみだほんぐわん》の|羅什《らじふ》は、異体同心ではないか。それに歌へども踊らずといふけれども、現代人は唄はなければ踊らない、|己《おの》が腹から湧くので無いからである。踊らずに居られなくなつて踊るのではないからである。作れども知らず、それでこそ|真《しん》の|作物《さくぶつ》といふべきである。人間が意識してやることにろくなものはない。人為とは破壊の別名である。作らしめられたもののみが、生きてをるのである。こう考へて見ると現代は破壊の多い時節であると思ふ。人間は子供を造り得ない癖に、子供を精神的または形体的に殺すものが多い。自分から小供の精神を殺して置きながら、その罪を何ものにか、塗りつけるものばかりになつた現代である。
[282]
人の面貌
人の面貌は心の索引であつて、人の性格と経歴の説明図である。実に円満な無邪気な顔の所有者なれば、いかなる多弁な人間も、|相《あい》対してゐると物を言ふことを忘れしめられるにも拘はらず、かへつて総てを語り得たやうな、満足を感ぜしめらるるものである。
[283]
堪忍
「堪忍のなる堪忍は誰もする、成らぬ堪忍するが堪忍」と|忍《にん》の徳を賞讃したものであつた。自分も幼時は能く、両親たちから言ひ聞かされたものである。しかし堪忍といふのは、仏教でいふ|持戒忍辱《ぢかいにんにく》の意味をはき違へたものであらう。|厭《いや》でも我慢するといふのでは、本当の|戒《いましめ》を保つたものでは無い。その内心に|苦《く》といふものがあつては、得度は出来ぬと同時に、心的衛生には叶はない。お腹が|空《す》いても|飢《ひも》じう無いと我慢する、妻君が姦通しても我慢する、飢ゑ死にしても我慢する、堪忍するが堪忍だといつて、年中苦しい腹を抱へて、蒼い顔をしてゐると腹の中に不平の|塊《かたまり》が出来るわけだ。|陶宮《たうきう》の|道歌《だうか》に「堪忍の和合はほんの|上直《うはなほ》し、|真《しん》の和合は打ち明かす腹」といふのがある。昔から堪忍といふことを道徳修養の一つと、世間では思つてゐるが、これは余り感心した修養法ではない。特に古来用ゐられた堪忍なる語は、強者の弱者に対する教へであつて、弱者の不満不平に対し常にこの筆法をもつて、こと|勿《なか》れ主義をとらしめて来たものだ。強者は一向に堪忍する所無く、弱者のみ堪忍しろと教へて来たのであつた。人間を卑屈に陥らしめ、無気力ならしめたのもこの堪忍の二字の中毒であつた。従来のいはゆる道徳なるものには、この種のものがはなはだ多いのである。金光教祖が、頭上から小便をひりかけられて、温かいお|湿《しめ》りさまが|降《ふ》つたといつたと称して、その教師などは非常に教祖の堪忍力を崇敬してゐるが、これは大変な誤りで、忍耐と卑屈とを混同した、弱者の道徳である。バイブルに「人もし汝の左の頬を打たば右の頬もまた突き出してこれを打たしめよ」と示してゐるのも|今日《こんにち》より見れば、|否《いな》自分の目から見れば、大変なる間違ひで、無気力をすべての人間に教へたものと思ふのである。自分はあくまでもかくの如き、堪忍説を採らず、力のあらん限り、抵抗を続けて来た。そして祖神の|任《よ》さし玉へる神業にはつはつながら奉仕しつつ来たのである。
[284]
信教の自由
日本帝国臣民は、帝国憲法第二十八条において、信教の自由を許されてをる以上は、いかなる宗教を信ずるも、信ぜざるも、信じさせるも、自由であり、教ふる、教へらるるもまた自由である。然るに今回議会に提出されてをる宗教団体法案の如きは、信教自由の精神に|悖《もと》り、国民の信仰を法律をもつて制縛せんとする悪法である。花井博士の問ひに対し当局大臣は、信教の自由を歴代の政府は結社を認めてゐないと答へて居らるるが、信教の結果は自然団体となり、結社となるは当然である。すべて法律なるものは、人の行為を制御するものであつて、形の上に現はれないものは、罪することは出来ない。ここに人ありて、心の内にある人を殺さんと思ひ、またはある人の財産を占領せんと思つてゐた所で、これが行為に顕はれず、心中深く|蔵《ざう》するにおいては、法律をもつてしてはいかんとも左右することは出来ない。これは宗教家に一任するか、神仏の心に任せるより他に|途《みち》は無いのである。憲法は吾人に対し、ただ心中に於ける信教の自由を許されたのでは無いことは、弁明を待たぬのである。教会所を建つるも、宣伝使を造るも、儀式を執行するも、自由なるべきはずである。心の中のみの信教自由なれば、憲法に制定する必要は無いではないか、宗団法なるものは、第一この点において大いなる錯誤がある、故に幾度提出しても通過せぬのは当然である。
[285]
信仰に|苔《こけ》が生えた
新しく信仰に入るものは、絶大の【おかげ】を頂き、永い信仰生活をしてゐるものは割りとは【おかげ】が立たぬとこぼすものがある。信仰もときをふるに従つて|苔《こけ》が生えるからである。信者はいふに及ばず、宣伝使といへども、たびたび|大祥殿《たいしやうでん》に来たつて修行の仕直しをせねばならぬのである。
[286]
意志想念のままなる天地
人間は天から|降《ふ》つたのか、それとも土から生まれたのか、天から|降《ふ》つたものなら、必ず天国へ昇り帰るはずだ、地から生まれたものなら再び地底に堕ちて行くだらう。生まれない先と、死んだ|後《のち》は最早人間ではない。人間を論ずるならば、人生で沢山だ、死なんがために生まれたものは死んだがよい。|寂滅為楽《じやくめつゐらく》の宗門の好きな人間なら誰にも遠慮は要らぬ、ドシドシ|寂滅《じやくめつ》して、|楽《らく》と為すがよい。アダム、イブを人間の祖先と信じ、祖先の罪を引つ被ることの好きな人間は、自分を罪の子として、何処までも謝罪し一生罪人で暮らし、十字架を負うたがよい、神の分身分霊と信じ神の子神の宮と自分を信ずるものは、何処までも永遠無窮の|生命《せいめい》を保ち、天国に復活して、第二の自分の世界に華やかに活動するがよい。人間はどうせ|裸体《はだか》で生まれて|裸体《はだか》で天国に復活するのだ、その|間《かん》の人間の|行路《かうろ》はなかなか面白いものだ。そこに人生の真価が在るのだ。永遠に生きんとするには、第一に信仰の力が要る、その力は神に依れる力が最も強く、その|言霊《ことたま》は大きくなくてはならぬ。人生に宗教のあるのはすべての|樹草《きぐさ》に花のあるやうなものだ。花が咲いてそして立派な実がみのるのである。いづれにしても信教は自由だ、意志想念のままになる天地だ、天国に|堕《お》つるも、昇るも、地獄に楽しむも苦しむも、自ら罪人となつて|歓《よろこ》ぶも、泣くも、意志の自由だ。人間は各自勝手に宗教を選択するがよい、それがいはゆる信教の自由といふものかも知れぬ。
[287]
謝恩の生活
天の不平は豪雨を|降《ふ》らして大洪水となし、風の不平は嵐を起こして総てを破壊し、地の不平は地震を起こしてもつて|乾坤《けんこん》を震動せしむるやうに思はれる。人間の不平は千様万態であるが、先づ生活問題から起こるのが多いやうだ。この不平を解する唯一の方法は、報恩謝徳の意義を了解するにある。仏教では、万象は皆仏陀であるといひ、大本では宇宙に於ける霊力体一切の万有は、神の本体であると説く。然り我らが極暑と闘つた|後《のち》の一滴の水は、いかに多大なる感謝の念を与へるか、風も草も木も総て吾人に幸福を与へてをる。米一粒が八十八回の労力を要して始めて人間の口に入ることに、思ひをいたすときは、吾人は四囲の総てに対して感謝せねばならぬ。報恩の念は吾人に幸福な人生の温情を教へてくれる。一個の日用品を買ふものはその品物にて便宜を得る、売り主は代価の|金《かね》で自己の欲望を満足することが出来、製造人は労銀にて自己生活の必需品を求むることが出来るのだ。然りとするならば以上の三者はいづれも対者に対して感謝せねばならぬことになる。
|近時《きんじ》矢釜しい労働問題にしても然りである。経営者は天然と労働者に対して感謝すべく、労働者に対しても相当に利益の分配をなすべきは、当然であると同時に、天然|否《いな》、神々の徳に対して感謝すべきである。また労働者は、経営者があつてこそ自己が生活し得ることを知つて、ただ自己の腕力万能心に囚はれず、そこに感謝の意を表すべきものである。かくの如くにして、両者が互ひに諒解し、始めて不平不満を去り、温かい生存を続くることが出来る。然るに現代には感謝報恩の念慮なき、利益一点張りの人間がままあるのは歎かはしい。兵庫あたりの某紡績工場の近隣に、火災が起こつたときに、多大の綿花が倉庫に在つたので|職工連《しよくこうれん》が万一を気遣つてどんどんと|他所《よそ》へ運び出してゐた。そこへ幹部の役員が出て来て、この|状《さま》を見るなり、火のやうになつて叱りつけた。そして「この綿花には十万円の保険がつけてあるから、他へ運ぶ必要は無い、焼けても原価に該当するだけの保険金が取れる、運搬すればそれだけの労銀が要る、いらぬ世話を焼くな」といつたとのことであるがこの役員どもは、どうして綿花が出来たかといふことを知らぬ冥加知らずである。そして多数者の労力を|反故《ほご》にするものである。代償の|金《かね》さへあれば、社会の損失を知らぬ、利己主義の人間である。なほこの綿花を焼失したなら、多くの人々が、寒さを防ぐ衣類が、出来なくなるといふ社会の人の幸福を、度外視したる悪魔の所為である。|滔々《たうたう》たる天下、殆どこれに|類《るゐ》する人々の多きは、|浩歎《かうたん》すべきである。天地の大恩自然界の殊恩を知らず、宗教心なき人間は総てかくの如き者である。|青砥《あをと》|藤綱《ふぢつな》は|滑川《なめりがは》に一銭の|金《かね》を落とし、五十銭の日当を与へて、川底を探らしめたといふ、かくの如きは天下の宝を将来に失ふことを恐れた謝恩心に外ならないのである。吾人は何処までも|青砥《あをと》|藤綱《ふぢつな》の|心事《しんじ》を学ばねばならぬ。
[288]
広大無辺の御神徳
太陽の照臨、陰陽の輝き、正邪清濁の別無き、|雨水《うすゐ》の|沛然《はいぜん》として|臻《いた》り|普《あまね》く万物を|潤《うるほ》し、空気の宇宙に充満して新陳代謝を行ひ、四季の風光|妙《たへ》にして、吾人に爽快の気を起こさしめ、|花卉《くわき》の美、果実の豊かなる、吾人に絶大なる快感|爽味《そうみ》を与へ、豊富なる|生動物《せいどうぶつ》の恩沢の大なる、|維《これ》|一《いつ》に天地神明の|恩頼《みたまのふゆ》にしていづれも|大本大神《おほもとおほかみ》の|賚《たまもの》といふべし。
一夜の風、一刻の雨能く天下を|風靡《ふうび》し|山海《さんかい》を|覆《くつが》へし、たちまちにして復旧さる。雷鳴の|轟々《がうがう》たる|後《のち》、|白雨《はくう》|沛然《はいぜん》として|臻《いた》り、|大空《たいくう》|晴々《せいせい》として|天日《てんじつ》の|暉《かがや》き渡る、|敏電火《びんでんくわ》の過ぐるが如き急速の変転これ皆神明の力の一部分の表現なり。自然界の目に見るもの、耳に聞くもの、身に触るるもの、五感ことごとく|深趣《しんしゆ》遠大快活ならざるはなし。
神は天を造り地を築き人を生み|山川草木《さんせんさうもく》を生じ万有を配布して|神代《かみよ》を永遠に建設すべく、その|蘊蓄《うんちく》せる無限の技巧と資源とを傾け、吾人に不断の恩恵を給ふのである。
神の|大仁大慈《たいじんたいじ》にして|天工《てんこう》の完備せる、到底人工的|一小技《いちせうぎ》の活動より成し得ざるを見れば、人は神の子神の宮、天地経綸の司宰といふの|言《げん》、いささか|僭越《せんゑつ》至極の感に打たれる。到底|天業《てんげふ》|神事《しんじ》の補佐たらんとせば、この|天恵美《てんけいび》の|安沢《あんたく》に神恩を礼讃し、神の造られし万物を|賞翫《しやうぐわん》すべきであるにも拘はらず、妄りに|天設《てんせつ》を|毀損《きそん》し、|些末《さまつ》なる人工|美技《びぎ》に|耽《ふけ》るべきではない。
[289]
宗教団とその教祖
宗教団体なるものは、|真《しん》に更生の経験を経た宗教的生活者のみの集団で、一個の社会的目標を持つた戦闘的国家である。故にすべての宗団はその勢力の増大せんことを好み、団員の増加を求むる一つの衝動を持つてをる。然るに、現今の既成宗教なるものは、殆ど|凋落《てうらく》の域に沈んで、何の生気も活躍も無く、|酔生夢死《すゐせいむし》の状態にて、わづかにその|余喘《よぜん》を保つてをるに過ぎない憐れな状態である。かくの如く今日の既成宗教の|凋落《てうらく》した原因は、無論その宗教の指導者、または宣伝者、僧侶、教職、牧師らの腐敗堕落怠慢にも由るものであるが、更に彼らを腐敗堕落せしめかつ怠慢に流れしめたる大根元は立教者たる教祖一人の宗教的信念の中に潜んでゐるやうである。彼らは神、または真如、または仏陀、または実在とその名称は種々変はるにしても、ある特定の神秘力の働くと働かぬのいかんに|帰《き》してゐるものである。基督教の信者は基督の一種のいやな|臭味《くさみ》があり、仏教は仏教のある|臭味《くさみ》があり、天理、金光、日蓮宗、いづれも一種異様の|臭味《くさみ》と、妙な癖があつて、いづれも教祖の神格に感染して今日の宗教的|凋落《てうらく》の悲運を招致したものとより考へられないのである。味噌の味噌臭きは|真《しん》の上等味噌でないと同様に、宗教家の宗教家臭い行り方が、今日の既成宗教に|禍《わざはい》して、見る影も無き、憐れな宗団に堕して了つたのである。吾々|大本人《おほもとじん》は、|前車《ぜんしや》の|覆《くつが》へるを見る|後車《こうしや》として自ら戒めなければならぬと思ふ。
[290]
忘れるといふこと
|古《いにしへ》の|寛仁大度《くわんじんたいど》の|君公《くんこう》はその臣下の過失に対し「今回に限つて何事も忘れて遣はす以後は必ず注意せよ」と言つてその罪を不問に付したのは神の如き仁慈をもつて臣下を愛撫したのである。すべて何事にても忘れるといふことは尊いことである。自分はいつも各地の信徒から電信や書状をもつて「ヤマイキトクカミサマヘオワビタノム」とかまたは「今一度|本復《ほんぷく》するやう|御願《おねがひ》|被下度《くだされたし》」とか申し来るもの引きも切らない状態であるが、自分はそのとき限りで全然忘れてをるのである。さうすると全快の|礼電《れいでん》が来たり、礼状が来るが、少しも覚えてゐない。自分が忘れず覚えて日夜祈願を凝らすやうでは決して依頼者の苦悩を救ふことは出来ぬ。忘れて|遣《や》ればこそ、また依頼者も病苦を忘れて快癒するに到るのである、と話してをる所へ明月が|訪《と》ひ来たり「聖師様に忘れられては困ります、信徒の中に私もをることだけは忘れないで覚えてゐて下さい。何だか心細くなります」といふ。そこで自分は「よろしい、あなたのそのサツクだけ忘れて上げやう」と笑つたら「どうぞ私の身の上を忘れずに守つて下さい」といつて帰つた。
忘れられることは|誰人《たれびと》もいやだと見えるが、モシも「覚えてゐやがれ」と捨て台詞でも残されたときは余りよい気がせぬものだのに、覚えて居つて下さいといふ明月も余り大悟徹底してゐないやうにも思はれた。
[291]
日本人の抱擁性
我が日本神州の国民は、古来、抱擁性に富んでゐた。そして固有の民族性に少しの動揺を来たさなかつたことは、世界の驚異とする所である。世界の文化をことごとく吸収して、同化し、精錬して更により以上美しきものとして、更にこれを世界に|頒与《はんよ》する所に、日本人の|生命《せいめい》があり、使命があるのである。然し横に世界文化を吸収してこれを精錬すればするほど、縦に民族性が深めらるべきはずだのに、現代の日本は外来文化の暴風に吹きつけられるほど、固有の民族性の特長を|喪《うしな》ひつつある状態は、あたかも根の枯れたる樹木に均しいものである。日本人は、日本人として決して何物によつても|冒《をか》されない、天賦固有の文化的精神を持つてをるはずである。それが外来文化の|浸蝕《しんしよく》によつて、失はれんとすることは、祖国の山河が黙視するに忍びざる所で無くてはならぬ。かくの如きときに際して、天災地変が|忽焉《こつえん》として起こり、国民に大なる警告と反省を促したことは、近代に始まつたことで無く、実に建国二千五百年の災変史の、黙示する所の大真理である。近くは|元和《げんわ》、|寛永《くわんえい》、|慶安《けいあん》、|元禄《げんろく》、|宝永《ほうえい》、|天明《てんめい》、|安政《あんせい》、大正に起こつた大地震と当時の世態人情との関係を回顧するも、けだし思ひ半ばに過ぐるものがあるではないか。
さて我が国の記録に存するもののみにても、大小一千有余の震災を数へることが出来る。その中でも最も大地震と称されてをるものが、百二十三回、鎌倉時代の如きは平均五年目ごとに大震災があつたのである。|覇府《はふ》時代には大小三十六回の震災があつた。しかも我が国の発展が、何時もこれらの地震に負ふ所が多いのも、不思議な現象である。奈良が滅び京都が衰へ、そして江戸が大いに興隆発展した歴史の過程を辿つて見れば、その|間《かん》の消息が能く能く窺はれる。全体我が国の文化その物は、全く地震から咲き出した花のやうにも思はれる。天神天祖、国祖神の我が国を見捨て玉はぬ限り、国民の生活が固定し、腐敗堕落の|極《きよく》に達した|度毎《たびごと》に、地震の浄火が|忽焉《こつえん》と見舞つて来て、一切の|汚穢《をゑ》を|洗滌《せんでう》するのは、神国の神国たる|所以《ゆゑん》である。古語に曰ふ「|小人《せうじん》をして天下を治めしむれば|天禄《てんろく》永く絶えん、国家混乱すれば、天災地妖到る」とあるのは自然と人生の一体たることを語つたものである。人間が堕落して|奢侈《しやし》|淫逸《いんいつ》に流れたとき、自然なる母は、その覚醒を促すために、諸種の災害を|降《くだ》し玉ふのであつてしかも地震はその極罰である。我が国に地震の多いのも神の|寵児《ちようじ》なるが故である。自然|否《いな》天神地祇の|恩寵《おんちよう》を|被《かうむ》ることの多いだけ、それだけにその|恩寵《おんちよう》に背いたときの懲罰は一層烈しい道理である。もし地震が起こらなければ、人震が|発《おこ》りてその|忿怒《ふんぬ》を漏らすに至る。近くは|天草《あまくさ》|四郎《しらう》や|由比《ゆひ》|民部之介《みんぶのすけ》、大塩平八郎乃至、西郷隆盛の如き皆この人震に属するものである。
[292]
至誠と徹底
いかなる仕事にても、完成せしめんとするには、至誠と徹底が必要である。天下を三分五厘でうかうかとしては、|真《しん》の成功は出来るものでは無い。不世出の大英雄ナポレオンが、あるとき、その頃名の知られた鍛冶工を招いて「汝我がためにいかなる銃丸も貫き得ざる|甲冑《かつちう》を造らば、|金《かね》一千万フランを払ひ与へん」と命じた。召集せられた三十余名の鍛冶工は、直ちに製作に取り掛り、七十余日間の|後《のち》、いづれもこれを製作して|君前《くんぜん》に持参した。さうして得意の色を満面に浮かべて、一千万フランを貰ふべく眼付きを据えて控へてゐた。そこへナポレオンが現はれ、何万といふ臣下の兵士を集めて「これを着て見よ、いづれの製作が完全なのか、一々これを試してみるのだ」と言つて短銃を|腰間《えうかん》から取り出して|起《た》つた。サアこうなると|君命《くんめい》は熱火も|辞《じ》せぬ、|身命《しんめい》は何時でも君主に捧ぐといつて、大いに忠臣振つていた何万の兵士どもは、|顔色《がんしよく》を変じて一人も|君前《くんぜん》に進み出る者は無い。三十余名の鍛冶工も、これに応ずるものが無い、一つ間違つたら一命は直ちに飛んで了ふのである。彼らは只々見えの良い物を製作して、一千万フランの|金《かね》が欲しいより他には念慮の無い者ばかりであつたのだ。ナポレオンは兵士の意気地無いのと、鍛冶工の自信の無いのに、火のやうになつて|怒《おこ》り出した。そこへ末席に控へてゐた、一人の青年鍛冶工が進み出で「私がその任に当りませう」と言つて、|従容《しようよう》として自分の製作した|甲冑《かつちう》を|環《めぐ》らした。それを幾万の兵士と、三十余名の鍛冶工は、いかになるものだらうかと、|瞳《ひとみ》を|円《まる》うして凝視してゐた。ナポレオンはピストルをもつて一発これに|中《あ》てた、銃丸は見事にはぢかれて、空中に飛散した。そこで再び兵士の|携《たづさ》ふる所の銃を取つて|射《い》た、矢張り貫くことが出来ない。ナポレオンは更に左右に命じて巨砲を|輓《ひ》き|来《きた》らしめ、これを試みんとした。傍らにをる人々は、手に汗を握つて恐る恐る見てゐた。ナポレオンが今や砲身を|開《ひら》かんとする刹那も、青年鍛冶工はなほ|従容《しようよう》として|顔色《がんしよく》も変へぬ、|彼《か》れ青年鍛冶工は、いかにせば|君王《くんわう》の身を|護《まも》るの|甲冑《かつちう》を製作し得るか、いかにもして、完全なる|甲冑《かつちう》を製作せんと、日夜寝食を忘れて、ただ|君王《くんわう》を思ふの忠誠心、彼が全身に充満し、誠心誠意、利害を離れて七十余日の丹誠を凝らし、製作に|勉励《べんれい》したのであつた。故にいかなる巨砲といへども、これを貫くこと能はず、といふ自分の製作に大なる自信を持つてゐたからである。そこでナポレオンは、彼が態度の厳然たるを見て、大いに感じ「|甲冑《かつちう》の堅きこと、汝の態度を見て知るべし、また試みるを要せず」と言つて三千万フランの賞金を与へたといふ逸話がある。この青年鍛冶工は、実にその作品に全生命を篭めてゐたのである。
人生は要するに一個の戦場であり、吾人の生活は真剣勝負である。|宜《よ》い加減に胡麻化して行けるべきものではないのである。
[293]
|慧春尼《ゑしゆんに》
足利時代に於ける、|禅林《ぜんりん》の傑物と称へられた|慧春尼《ゑしゆんに》は|尼僧《にそう》として数ふるに足るべき貞操の固い|尼僧《にそう》であつた。|慧春尼《ゑしゆんに》は、意志の弱いものと|侮蔑《ぶべつ》された当時の女のために、気を吐いたわけである。彼能く得度し得たるは、|花顔月眉《くわがんげつぴ》、|丈《たけ》なす黒髪を|吝気《をしげ》もなく切り捨てた所にある。彼は性欲なんか問題にしてゐなかつた。それでも相応に恋の迫害を受けた。彼は|赤裸々《せきらら》となつて陰部を開放するだけの勇気があつた。彼が|禅林《ぜんりん》に修するとき、某男僧から情交を要求されて、絶対に辞言に窮したる場合に、一策を案出して曰く「|妾《わたし》の為すことはいかなることにても為し玉ふか、それを能く為し、|妾《わたし》が言ふがままになるといふ御約束なれば、|妾《わたし》の|身体《からだ》は貴僧が意に従ふべし」といふ問題を提出した。ここに熱烈なる恋に燃え切つた男僧は、即座にこれを|諒《りやう》とし、いかなる場合に、いかなることにても、これに応ずべきを諾し、寸刻も彼|尼僧《にそう》が提出条件の速やかならんことを|希《こひねが》ひ、恋の成就と性欲の満足を|期《き》せんものと、満身ただそれより他に念とすべきものは無かつた。
さて、男僧が熱烈なる|生命《いのち》がけの恋の成就の|期《き》は到来した。|慧春尼《ゑしゆんに》は、いかなる問題を男僧の前に提出したかといへば、実に思ひ切り徹底した問題であつた。|慧春尼《ゑしゆんに》はある日|大法会《だいほふゑ》にて幾百の僧侶が、大本堂に集会した、|尼《に》はこのときこそはと、|赤裸体《まつぱだか》にて|万衆《ばんしう》の中に出で、陰部を開放して曰く「某男僧よ、願はくはこの|衆僧《しうそう》の眼前にて、只今|妾《わらは》が|身体《からだ》を貴僧に任せん、|積日《せきじつ》の欲望を達せられよ、自由に情欲を充たされよ」と|恥《は》づるの色なく平然として出でた。ときに某男僧は顔より火を発して、何処ともなく逃げさりたりとの逸話がある。これを見るもいかに彼が俗を脱してゐたかといふ消息が解る。そして女人の|慧春《ゑしゆん》は能く男と成り得たのである。
ここに、現代の新しい女と一時名を天下になした平塚|雷鳥《らいてう》が、|禅味《ぜんみ》を気取つて、前を|捲《まく》つて示すべからざるを示し、|南天棒《なんてんぼう》に|抱《だき》ついて接吻したなどは大いに見るべきものがあるとしてあつたに拘はらず、若い|燕《つばめ》と、水も|入《い》らない生活を送る人となつた。そして今では|児《こ》まで生んで俗化し最早処女では無くなつた。処女の美を捨てた彼は矢張り女であつた。現代の|尼僧《にそう》が|尼僧《にそう》たるに到つた経路は、千態万様到底純真なものは少ない。世を|捨鉢《すてばち》の者もあるだらうし、|悔恨《くわいこん》の|情《じやう》禁ずる能はずして遂に|剃髪《ていはつ》した者もあるだらう。煩悶悲痛人事の尽きざるを|感奮《かんぷん》して、この|境《きやう》に入つたものもあらう。然し彼らが一生を通じて、初心を貫くことが出来るかが、すこぶる疑問である。彼らが|山門《さんもん》において、|稚気満幅変《ちきまんぷくへん》な匂ひが鼻孔を|穿《うが》つを聞くは、なほ女を脱することの出来ない証拠である。彼らが激しく変はつた感情に支配されて|尼僧《にそう》となつて幾日ならず、能く|禅味《ぜんみ》を味はふことが出来ず、馬鹿馬鹿しいといつて、俗に|還《かへ》るものが往々あるを|観《み》ては、彼らが|心事《しんじ》を察するに余りありである。彼らは頭髪を切り捨てたりといへどもなほ、|臀肉《でんにく》を有す、彼らが得度の域に達せんと欲するならば、なほ|臀肉《でんにく》をも削らねばならぬ。到底|臀肉《でんにく》を有する|間《あいだ》は性欲を捨つること、決して|不可能事《ふかのうじ》に属するものである。
|天地《あめつち》の神の恵みを打ち忘れ
|仏《ほとけ》に仕ふる不徹底の尼
[294]
社会学の距離説
どんな立派な人間でも、一定の距離を置いて見なければ、矢張り一個の凡人である。夕陽に輝く美しい森も、その中に入つて見れば、つまらない|雑木《ざふき》が、前景に現はれて美しい森は消えてしまひ、富士の秀麗も、近く寄つて見れば、汚い|熔岩《ようがん》の|塊《かたまり》ばかりである。偉人も、聖人も、天才も、英雄も、一定の距離を取り去つてしまうと、|畢尭《ひつきやう》偉人でも英雄でも天才でも無くなつて了ふ。学者はこれを社会学の距離説とかいつてゐる。
[295]
神と共にある人
人間は神を信じ、神と共にありさへすれば、池辺の|杜若《かきつばた》や、山林の青葉が、自然に包まれてゐる如く、|長閑《のどか》にして安全なものである。然し世の中は、変化があるので、人生は面白い。彼の美しい|海棠《かいだう》の花だけを避けて、吹き|捲《まく》る暴風雨はない。いかなる苦痛の深淵に沈むとも、心に正しき信仰さへあれば、即ち根本に信を置いて、惟神の定めに任せてさへ行けば、そこに変はりの無い彩色があり音響がある。人生はいかなる難事に逢ふも恨まず、嘆かず、哀別も離苦も総てが花を打つ風雨と思へば良い。|富貴《ふうき》も、栄達も、貧窮も、総てがゆつたりとした春の気分で世に処するのが惟神の|大道《だいだう》である。何程あせつても、一日に人間の足では、百里は歩けぬものだ。学問や黄金の力でも、いかに偉大な政治家や大軍人の力でも、昨日を|今日《けふ》にすることは出来ぬ。また|今日《けふ》を|明日《あす》にすることも出来ぬ。ただ一秒の時間でも、自由に動かすことは出来ぬ。一滴の|露《つゆ》、眼に見えぬほどの小さい|生物《せいぶつ》でも、それを黄金の力では造れない、学問の力でも駄目である。こう考へて見ると、人間ほど小さい力の貧弱なものは無い。然し人間は一滴の|露《つゆ》さへ自力で作ることは出来ぬが、神を忘れ神に|反《そむ》いたときには、|憂愁《いうしう》と苦悩とをもつて、広い天地を覆ひ尽くすやうになる、その胸が幾個あつても、そのもの思ひを容れることが出来ないやうになつて来る。ああ、人間は一滴の|露《つゆ》、|一塊《いつくわい》の土さへ作る能力もなき癖に、天地に充満して、身の置き処の無いほど、大きい苦労を作ることが出来る。人間は苦労を作るために、決して生まれたのではない。人間は神の|生宮《いきみや》神の|御子《みこ》、天地経綸の使用者として、神の御用のために世に生まれて来たものである。惟神の心になつて何もかもことごとく、天地の神に打ち任せさへすれば、自然天地の恵みが惟神的にして、自然のままに行き渡るものである。然るに神に在らざる人間の|根蔕《こんたい》は、ともすれば揺らつき、動き出し自然の規定を、我から破つて、神を背にした道を踏むために、遂に神の恵みに離るるに至るのである。もし人間に、|樹草《きくさ》の如く確固たる根があつて、総てを天地に委して|優和《やさ》しい大自然の|懐《ふところ》に|抱《いだ》かれる余裕さへあれば、何時の世も、至幸至福で|長閑《のどか》で、悠々たる光陰を楽しく送ることが出来るやうになつてをる世界である。|牡丹《ぼたん》も、|杜若《かきつばた》も、または清い|翠《みどり》を見せる樹々も、|大風《たいふう》に揉まれ、|大雨《たいう》に打たれて、手足を|挫《くじ》かれるほどの憂き目は見ることはあつても、その|根蔕《こんたい》に、|些《いささか》の|揺《ゆる》ぎも見せぬ。此処は苦しいから、他の土地へ移らうとは考へない。|大風《たいふう》は何処へいつても吹き、|大雨《たいう》は何処へ行つても|降《ふ》る。美しい太陽は、|何国《いづこ》の|涯《はて》にも輝く。|今日《けふ》の暴風雨を、凌ぐだけの勇気さへ持てば、|明日《あす》の、|長閑《のど》かな歓楽に会ふことが出来ると覚悟して、天地に絶大の信を置く、そのために少しも動揺が無い。土地を替へても、所を変へても、会ふだけの苦難には会ひ、享けるだけの歓楽は享ける。|麻縄《あさなは》で縛られて、身の自由を|得《え》ようと|煩悶《もだ》へるのは、|応《やが》て自ら苦痛の淵に沈むものである。人間は一切を惟神に任せてをれば、実に世界は|安養《あんやう》浄土であり天国である。
|爛漫《らんまん》たる花の|香《か》に酔ふ春の光も、次第に薄らぎ、青葉の茂る夏となり、|木葉《このは》の散り敷く秋の淋しさを迎へ、雪の|降《ふ》る冬となつて、|万木《ばんぼく》|万草《ばんさう》|枯死《こし》の状態になるは、天地惟神の|大道《だいだう》である。香りの好い|釵《かんざし》の花を嬉しう|翳《かざ》した|天窓《あたま》の上に、|時雨《しぐれ》が|降《ふ》り、愛の記念の|指環《ゆびわ》を|穿《さ》した|白魚《しらうを》の手に落葉がする世の中だ。花の山が青葉の峰とたちまち代はり、青葉の峰は木枯しの谷となる。|辛《つら》い経験は、人生にとつて|免《まぬが》れ難き所である。然しながら、人間は決してこんな悲惨なものではなく、永遠の|生命《せいめい》と永遠の安楽とを与へられて世に生まれ、大なる神業をもつて、神の御用のために出て来たものであることを覚らねばならぬ。それはただ神を知ることに依つてのみ得らるる人生の特権である。
[296]
見る間に梅桃桜の花は、跡もなく散り失せて、春の女神は牡丹畑へ移つて行く。白|紅《くれない》紫の固い|蕾《つぼみ》が笑ひ|初《そ》めて、蝶の|翅《はね》に|香《にほ》ひを送る。葉桜になつた|嫩《やは》い若葉の|繁《しげ》みから、思ひ出したやうに|遅咲《おそざ》きの、お多福桜や天狗桜が散る。そして天国の移写たる夏が見舞ふ。夏は活動の時期であり、万物蘇生のシーズンである。夏の苦しい人間は、天国を知らない地獄的人間である。
[297]
惟神の心
すべて人間は常に心を平静に持ち、愛善の誠をもつて人の幸運を祈り、悲しかつたことや、|口惜《くちを》しかつたことは全然忘れて了ひ、楽しかりしことをのみ思ひ出し、世界人類に対して、誠をさへ|竭《つく》してをればそれで良いのである。これが惟神の心である、人生の努めである。
[298]
悪魔の世界
|吾《われ》かつて霊界にある夜誘はれて、幻怪なる|夢魔《むま》の世界に入つた。そのとき自分は無劫の|寂寥《せいれう》と恐怖に襲はれた。右も左も|真《しん》の闇で、面前も背後も|咫尺《しせき》を弁ぜざるばかりの暗黒裡に落ち込んだ。そして何となく寒さを感じ、戦慄|止《や》まずして非常に怖ろしい、頭の|頂辺《てつぺん》から脚の爪先まで|吾《わが》神経は、針のやうに尖つてゐる。闇の中から黒い翼を広げて、黙々として迫り来たる凄まじい物の息を感ずる。たしかに何物かが迫つて来る、地震、雷、火事、親爺よりも|海嘯《つなみ》よりも、噴火よりも恐ろしい怪物が、虚空を圧し、大地を踏み|躙《にじ》つて、今にも|吾《わが》身心に迫り来るかの如くに思はれて、|大蛇《をろち》に睨まれた|蛙《かはづ》、猫に|魅入《みい》られた|鼠《ねずみ》のやうに、自分の|身体《からだ》は|微動《びく》とも出来ない。|果然《くわぜん》真つ蒼な|剣《つるぎ》の如き光が闇を|劈《つんざ》いて、|吾《わが》目を|射貫《いとう》した。その光は次第にメラメラと周囲に燃え広がり、八方に飛び散らかつて、狂ひ初めた。さながら光の乱舞、火焔の活動で、何とも形容の出来ない|厭《いや》らしさであつた。そしてこの物凄い火焔の海に、蒼白い横目の|釣《つ》つた鬼と、赤黒い|巌《いはほ》のやうな鬼とが、灰紫に煮えくりかへる泥の中に絡み合ひ、|縺《もつ》れ合つてゐる。やがてその鬼が一つになつて、振り回される火縄のやうに、火焔の螺旋を|描《ゑが》きつつ、幾千台の飛行機が低空飛行をやつてゐるやうな、巨大な音を轟かせながら、天上めがけて昇つて行く、その幻怪さ、実に奇観であつた。真つ暗の|空《そら》は、たちまちその邪鬼を呑んで了つたが、やがて大きな真つ赤な口を|開《あ》けて、美しい|金色《こんじき》の星を吐き出した。一つ二つ三つ五つと、百千億と刻々|数《かず》を増す、|金色《こんじき》の星は|降《ふ》るわ|降《ふ》るわ、始めは|霰《あられ》のやうに、雨のやうに、果ては大飛瀑のやうに|降《ふ》つて来る。しかしその|星瀑《せいばく》の流るる大地はと見れば、白いとも白い、凝視すると一面の白骨で、自分も既に白骨を踏んでゐる。どちら向いても|髑髏《どくろ》の山、散乱したる手や足の骨からは、蒼白い|焔《ほのほ》がめらめらと、燃えに燃えて何ともいへぬ臭気が、|芬々《ふんふん》として鼻を|衝《つ》くのであつた。
自分はこんな幻怪なる世界から一刻も早く|脱《のが》れ出でんと、一生懸命に走り出した。足首が千切れるばかりに突つ走つた、しかし幾ら駆けても白骨の広野は際限が無く、疲れ切つて思はず打ち倒れたが、たちまち深い深い|渓河《たにがは》へ真つ逆様に落ち込んだ。河水はことごとく|腥《なまぐさ》い血であつた。自分は|逆巻《さかま》く血の波に翻弄されつつ、河下へ河下へと流されて、正気を|喪《うし》なつて了つた。その瞬間、何物かに|強《し》たたか五体を殴りつけられて、我に|復《かへ》つたが、雲|衝《つ》くばかりの、一大摩天楼が頭上にそびえ立つてゐるのであつた。そして自分は、その門柱に衝突した途端に、助かつたやうな心持ちになつた。自分は覚えずその|楼《ろう》へ飛び込んで、矢庭に玄関へ駆け上がつた、すると|目眩《まぶ》しいばかりの電灯、|否《いな》神の|大灯《だいとう》が、恐怖に|閉《とざ》されてゐた自分の|魂《たましひ》の|渓間《たにま》を、|皎々《こうこう》と照らしをるのであつた。ああ過去数十年の自分の幻影は、この恐ろしかつた夢の絵巻物となつて、今なほ時々自分の|魂《たましひ》に刺激を与へたり、|鞭撻《べんたつ》を加へてくれる。ああ惟神|霊魂幸倍坐世《たまちはへませ》。
[299]
人間といふ問題
人間とは何かといふ問題が、現代思潮に持ち上がつて来たやうであるが、今更人間を評論するも可笑しいやうでもあるが、|今日《こんにち》までの学者の評論が総て他のことのみに限られて、人間御自分のことは、お互ひに忘れられてゐたのも、可笑しいことであつた。古い言葉だが、灯台|下《もと》暗しとはこのことである。総て人間の世界は人間のもので無くてはならぬ。換言すれば人間は総て人間的生存でなければならぬ。何でも無い人間を万物の霊長だからといつて、無理矢理に祭壇に祭り上げたり、|殊《こと》に道学先生や、神主さんや、僧侶や、神道教師の間において、神さん振りを発揮したり、仏さん|染《じみ》た顔付きをして見せたりする。学校の教師は、|木石《ぼくせき》同様の取扱ひを受け、万々一性欲問題などを論議しようものなら、たちまち驚異の|眼《まなこ》をもつて上司からも、父兄からも睨まれるといふ状態である。しかし人間は、何処までも人間であつて、これを分析して見れば、あるひは神聖な所もある。あるひは貧欲な性分もあり、あるひは応分の野獣性も持つてゐる。故に人間は善だとか、悪だとかいふことは、既に議論の末である。学校の教師だとて、恋愛心もあるし|金《かね》も欲しい。女郎だとて、乞食だとて、信義を堅く守ることもある。神主、僧侶、牧師だとて、殺人行為が無いとも限らない。司法官や警官|方《がた》の中から、盗賊が出ないともいへぬ。人間には三分の|自惚《うぬぼれ》と、七分の|黴毒気《かさけ》の無いものは無いといふではないか。無産階級の人々が、野獣性に富んで有産階級の人々が神聖味が豊富だといふ筋合でもない。いづれを問はず、人間として|生《せい》を有するものは、以上の如き性分を含有してをる。ただその量において、多少の差は、ある|底《てい》の信仰や、修行によつて異なつてをる所があるくらゐのものである。
現行法律の上からは、人間から生まれたものを人間といふ断定の|下《もと》に人間を取扱つてゐる。それに人間と神とを、同一に取扱はうとするものがあるかと思へば、脱線した自由主義者や自然主義者の間においては、これを獣的に取扱はうとするものさへある。これらの人間はただ単に性欲満足、物質満足をもつて、人生は足るやうに思つてゐる|輩《やから》である。一体全体人間を主義などといふものの型に|箝《は》めようとするのが、そもそもの間違ひである。
大本は、人は神の子、神の宮と唱へてゐる。また神は万物普遍の霊にして、人は天地経綸の司宰なり。|神人《しんじん》合一して、ここに無限の権力を発揮すとか、また人は天界の基礎なり、天国は昇り易く、地獄は堕ち難しと云つてをるのは、普通一般のいはゆる人間ではない。人間界を超越した神の御用に立つ所の神柱のヒト(|霊止《ひと》)を指したものである。人と|獣《けもの》ととの中間に彷徨してをる縦はな横眼の者をさして人間と称しての、この論旨であると考へて貰ひたい。
[300]
学問も必要
明智光秀も太閤秀吉も共に学者であつた。二人共小さいときから学問をしたものだ。学問がなくてどうしてあんなに偉い仕事が出来るものか。秀吉の書いた字なんか立派なものである。学問なしにあんな字が書けるものではない。私も七つ頃から四書五経を習つた。|諸子百家《しよしひやくか》の書もよんだ、文章軌範なども精読したものだ。|楊子《やうし》とニイチエとは殆ど同じ思想だなあ。とにかく昔から名を現はした人たちはみんな相当の学問があつたのだ。
[301]
有難き現界
私は五六度死んだことがあるが、生きかへつてから|後《のち》も二週間くらゐはひどく|疲労《くたび》れたものである。元来|生《せい》の執着は神様より与へられたものであつて、結構なことである。三十才の|生命《せいめい》を神様より与へられてをる人が十五才にして自殺したとすると、十五年の間霊は迷うてゐるのである。しかのみならず霊界へ行けば総てが決まつてしまふから、人は現界にある内に十分働かして貰はねばならぬ。人生の目的は地上に天国をひらくためであるから、|魂《たましひ》を|汚《けが》さんやうにすることが一番大切なことである。|刀身《たうしん》がゆがむと元のさやに納まらないごとく、|魂《たましひ》が|汚《けが》れゆがむと元の天国にはをさまらぬ。人間に取つて一番大切なことは何といつても生きてゐるうちに死後の存在を確かめておくことである。死後の世界が分かると五倫五常が自然に行へる。|倫常《りんじやう》を破るといふことは自分の損になることがハツキリ分かるからである。人間は死後の世界を研究してから仕事をするがよい。私は人生問題になやんであるときは爆弾を|抱《いだ》いて死んでやろうかとさへ思つたことがある。神様の御恵みによつて何もかも知らして頂いて歓喜に満ちた生活に入ることが出来たのであるが、当時の悩み悶へ、苦しみ、|幾度《いくたび》か死を考へたことほどそれが痛切であつたのである。
[302]
梅で開いて松でをさめる
梅で開いて松で治める。竹は外国の守護といふ意味は、梅は教へ、松は政治、竹は|武《ぶ》を意味するもので、|武《ぶ》は国を害するといふので害国といふことになる。それを|穿《は》き違ひして竹を嫌ふといふのは可笑しなことである。竹は古来|四君子《しくんし》の中の一つとして|崇《あが》められてゐて、|坦懐《たんくわい》にしてしかも|節《ふし》があつてしつかりしてゐる、悪いことは少しもない。皆が取り違ひして竹を嫌ふので三代がわざとに竹を植ゑてその中に|掬水荘《きくすゐさう》を建てて住んでゐるのである。
[303]
地租委譲問題
地租委譲問題は地方分権制度でマツソンの仕組である。|細民《さいみん》いぢめのやり方であつて、国運はいよいよ危ふくなるばかりである。貴族院が反対するのも無理はない、第一神様は世界統一を企てて居られる、日本も昔から殆ど統一したことがなく群雄割拠から織田、豊臣、徳川の世を経て、明治大帝に至つて初めて完全に日本統一が出来上がつたので、この型を世界にうつすのが本当であるのに、反対に地租委譲なんかをやらうといふのは間違つてをる。本当のことをいふと、全世界もまた一度も統一せられたことがないので、月の国が七千余国であるばかりではなく、世界も七千余国であつて、神様の|思召《おぼしめし》によつてそれがだんだん統一されつつあるので、今は余程統一せられたところである。
[304]
不戦条約
不戦条約か。結婚の当日夫婦で取り交す|睦言《むつごと》と同じものだ。千代に八千代に末かけて水も漏らさぬ|盟《ちか》ひ|言《ごと》も、お互ひの誠意の程度いかんによつて、どう変はつて行くやら、分かつたものでは無い。
[305]
|細矛千足《くわしほこちたる》の国
精鋭なる武器の整つてゐる国が|細矛千足《くわしほこちたる》の国である。我が国に世界無比の|堅艦《けんかん》陸奥だの長門だのと言ふ軍艦を持つてゐることは人意を強うするに足る。覇道を一旦布いて|後《のち》王道を布かねばならぬほど世は乱れ切つてゐる。戦争でもつて、一旦は神州日|出《いづ》る国の武威を世界に示さねばならぬことが来るかも知れない。しかして|後《のち》愛善の誠を世界にいたさば、|真《しん》の平和と幸福とを招来することがけだし左程の難事でもあるまい。
[306]
短い言語
いふこと、語ることはなるべく少ないがよい。|簡明《かんめい》、これが談話の|上乗《じやうぜう》なるものである。|加役《かやく》が多いとそれだけ効力が薄くなる、利き目が少なくなる。人を説くにしても一番大事なことを少しいうたらそれでよいので、長くしつこくいへばいふほどよくない結果を生むものである。
[307]
|言霊《ことたま》奏上について
大正八年以来、たびたび|言霊《ことたま》奏上といふことを皆でやつたことがあるが、あれは練習であつて、この度|皆神山《みなかみやま》で奏上したのが、|真《しん》の|生言霊《いくことたま》の発射であつた。|今日《こんにち》以後皆は|言霊《ことたま》将軍となるのである。そもそも|言霊《ことたま》は地上七十五尺の高地より発するのが本当であつて、それが一旦地上に下り、地にこだまして更に天に向つて開き広がつて行くのである。高い所に登りさへすればよいと思ふは間違つてゐる。
|天霊《てんれい》の聖地に似たる|松代《まつしろ》の
|皆神山《みなかみやま》に|言霊《ことたま》をのる
十八丁|坂《さか》を|上《のぼ》りて十八の
|生言霊《いくことたま》を|四方《よも》にのりけり
[308]
性欲の問題
性欲には正淫と邪淫との別がある。よし正当の婚姻をした夫婦でも、その性的生活が複雑であつて、天地自然の理法に違反した性交を遂行するやうなことがあると、|逆児《さかご》などが出来るのであるから、慎まねばならぬ。また妻が妊娠したことが確実となつた|暁《あかつき》には、断然性的関係を|止《よ》さねばならぬ。出産後七十五日間は最も慎むべき時期で、この期間に性の交渉があると|年子《としご》が生まれる。女の病気はさうしたことから起こる場合が多い。私の母はこの点を非常に厳格に守つたさうで、先年|食傷《しよくしやう》で病気したことがあるきり、若いときから一度も寝たことはない。|産《さん》なんかも極めて軽く、私が生まれたときは夕食中産気がついたので、母は寝床をのべようとするや否やもう生まれてしまつたさうである。
子供が生まれたときは誰でも頭が長いものだから、格好を直してやるとよい、丸い頭が一番よいのである。生まれるとき親の苦痛も大きいが、子の苦痛は一層大きいのである。
性欲といふものは最後まであるもので、人生の春は生涯つづくものである。さういふみづみづしい心でなくては、天国に入ることが出来ない。天国は春から夏へつづくのである。人間は常に若々しい三十ぐらゐの想念でなくてはならぬ。
[309]
秘密
秘密の秘の字は【必】ず【示】すとかいてある。隠すことを意味するのでは無い、秘密をいうて聞かせるので、人は安心する。そして本当の秘密が保たれて行く。私にはいはゆる秘密といふものは無い。だけれど神様から固く|止《と》められた霊界物語は、二十四年間|真《しん》の秘密を保つて来た。神様がかつて「直(大本開祖)にさへいはれぬ。お前より他世界にいうて聞かすものが無いのだ」と仰せられたことがあつた。
[310]
学と神力の力|競《くら》べ
一時間に|絵短冊《ゑたんざく》の千枚も私が|描《か》くのを人は信じまいが、お前たち|明光社《めいくわうしや》の人々、毎日のやうに実地を見聞してゐるものには疑ひは無いだらう。四百頁(四六判)近い霊界物語を二日乃至三日に口述するのも、習つたことのない絵が書けるのも|楽焼《らくやき》が出来るのも、皆神様が私を使うて学力と神力との力|競《くら》べをして居られるのである。大本神諭に「神が表に現はれて、神力と学との力|競《くら》べを致すぞよ、学の世はもう済みたぞよ、神には勝てんぞよ」とあるを|証《あか》しせんがためである。
[311]
軍備撤廃問題
軍備縮小はよいが、軍備撤廃は断じて不可である。ミロクの世といへども軍備はあるので、これは一日も|弛《ゆるがせ》にすべからざるものである。もしこれを撤廃すればまた直ぐに悪の|蔓《はびこ》る世になるので、いつの世になつても|弥陀《みだ》の|利剣《りけん》は必要である。|剣《つるぎ》は三種の神宝の中の随一である、|璽《たま》も鏡も後ろに|剣《つるぎ》なくては完全にその使命を遂行することが出来ない。鏡は教へであつてこれを梅に配し、|璽《たま》は政治であつて、まつりごとといふ意味よりしてこれを松に配す。|剣《つるぎ》は武力であつてこれを竹に配す。この三つのものはどの一つを欠いでもならない。松、竹、梅と世に目出度きものの表象とするのはこの理由によるのである。天照大神様の|御霊《みたま》は|璽《たま》と鏡、素盞嗚の大神様の|御霊《みたま》は|剣《つるぎ》であらせらるる。
[312]
偽善者
偽善のマスクを被つて聖人振り、世を|欺《あざむ》く奴ほど|気障《きざ》なものは無い。その人の分身たる子供がやがて不良性を発揮してその偽善のマスクを引き剥ぐものである。子は|未生《みせい》以前の親……云はば|生命《いのち》の親であつて、人はその子に依つて親たり得るのである。子は親を生まんがために、|否《いな》|不倶戴天《ふぐたいてん》の仇敵同士を地獄の|劫火《がふくわ》も焼く能はざる恩愛の|絆《きづな》に繋いで、親子たらしめんがために、世界の両極に掛けはなれた男子と女子を、天上の光明をも遮断する性欲の|鎖《くさり》で縛りつけられる。
[313]
宗教より芸術へ
私はかつて、芸術は宗教の母なりと云つたことがある。しかしその芸術といふのは、今日の社会に行はるる如きものを云つたのでは無い。造化の偉大なる力によつて造られたる、天地間の森羅万象を含む神の大芸術をいふのである。私は子たる宗教を育てんがために、永年微力を尽くしたが、子はどうやら育ち上がつたらしいので、この方面は子に譲り、昭和三年三月三日から、親たる芸術を育てんと努力しつつあるのである。|明光社《めいくわうしや》を設けて、|歌道《かだう》を奨励し、大衆芸術たる|冠句《くわんく》を高調し、絵を|描《か》き文字を書き、|楽焼《らくやき》をなし、ときに|高座《かうざ》に|上《のぼ》つて浄瑠璃を語り、盆踊りの音頭をさへも自らとつてをるのである。神の|真《しん》の芸術をこの|土《ど》の上に樹立することが、私の大いなる仕事の一つである。
[314]
年を若くすること
年を若くしてくれと、菓子でもねだる気で頼む人があるが、なかなか容易にさういふことが出来るものでは無いのである。私が頼まれて止むを得ず発する言葉では、要するに駄目なので、私の方から自然に発する言葉、即ち神の言葉でなくては効果は無いのである。そもそも年齢を若くするといふのは、年齢を継ぎ足して長生きさして上げることで、今六十歳|定命《じやうみやう》の人に二十年の歳をつぎ足して上げると、その人が八十才になつたときが六十才になる勘定だから、要するに二十年若くなり長生きするわけである。私が年齢をつぎ足すには、|定命《じやうみやう》を全ふせずして、たとへば、自殺して死んだ人の余つた年齢を与へるのであるが、これがまたなかなかむづかしいことで、もし悪人の余つた年齢をつぐと、知らぬ|間《ま》にその人が悪化してしまふから、善人でなくてはいけないので、はなはだむつかしい。先日|頭山《とうやま》|翁《をう》の年齢を若くして四十八歳にしてあげた。翁は大層喜んで、それから誰に遇うても四十八歳だといふといふて居られた。
[315]
精力と精液
精液が、全身に満ち充ちてをるときは、人間は精力旺盛である。必要以上の精液が満ち溢るるとき初めて排泄の必要が起こるのであつて、不足を感ずるやうな場合には断じて性的行為をなしてはならないのである。世人多くは精液なるものを生殖に関する局部的のものと思惟して、これが全身的のものたるを知らざるの結果、往々節度なき性的行為をなして|生命《せいめい》を短縮し、あるひは身心衰弱疲労して、ことに堪へざるの惨状を惹起するに至るは、悲しむべき現象である。いはんや|強《しひ》て性行為をなさんとして人工的に性欲を助長せしめ、精液を浪費するが如きは、全く我が|生命《いのち》を削るやうなものである。慎まねばならぬ。彼の肺病の如きも不治の病と称せらるれども、中年の者を犯さず、よしやまた犯したりとも|斃《たふ》るるにいたるもの少なく、青年にして一朝この病に犯されんか十中の八九は必ず|斃《たふ》るるといふ現象も、この精液排泄の関係によるものにして、全身を保持するにすら足らざる精液即ち精力を浪費する傾向、老、中年者に比して多きによるものである。また青年の|該病《がいびやう》に犯さるる率多きも精液|濫費《らんぴ》に起因する結果である。精液は精力の|素《もと》、全身に充満してこれに活力を与ふるものにして、その過剰はもつて、生殖に|填充《てんじう》せらるるものたることを知らねばならぬ。
女子においても精液は全身に充満し、その過剰は月経によつて調節せられつつあるから、月経閉止後は精液の充実によつて、多くは肥満する傾向がある。
附記
近来性の問題については余程学術的に研究せられつつあるやうですが、今までは黄表紙的に取り扱はれて、神聖なるこの問題に関しては真面目に論議せられたものがない、神諭にも、世の乱れは|夫婦《めをと》の道からといふ意味のことが示されて居ります。この道は人の全生活に及ぼす大切なる問題であるにも拘はらず、今まで示されなかつたのを今回教示せられたのです。この|御神教《みのり》を|基《もと》として性の問題を面真目に考へさして頂きたいと存じます。
[316]
最後の真理
大本の教へは最後において示された所の真理である。今までの総ての宗教は、教へに欠陥があればこそ、この地の上に神様の|思召《おぼしめし》の天国が現出しないで、かへつて地獄状態が現出してゐるので無いか。然るにこの大神示を説く人々が、ともすれば既成宗教を例証にひくことの多きに過ぐるは無用のことである。今までのものは真理でない、説くに及ばぬ。我らは神示されたる、最後の真理を力説したらよいのである。
[317]
上になりたい人
なんでもかでも、人の上になりたがる人の多い世の中だ。上になりたい人はならしてやつたらよいのである。要は実力の問題だ、実力が無くて上になつてゐても永くは続かぬ。上になりたがる人はただもうそれだけの人間である。
[318]
壇訓(フーチ)について
「|灯台下《とうだいもと》は真つ暗がり、|遠国《ゑんごく》からわかりて来てアフンと致すことが|出来《しゆつたい》するぞよ」と神諭にはあるが、今回支那紅卍字会諸氏の渡日によつて、全くこの感を深うする次第である。大本神諭を疑つて、開祖御自身の肉体的産物であると思惟する人も、二人によつて自動的に書かれるフーチを見ては、思ひ半ばに過ぐるものがあるであらうと思ふ。開祖は元来無筆であられた、故にその書たるや、自己の意志を加へようが無いのであるから、神様の思ふが|任《まま》になるのである。フーチに於ける|沙木《さぼく》と殆ど同じく、ただ神様の|思召《おぼしめし》のまにまに手をお貸しせられたに過ぎないことが頷かるるであらう。フーチの場合の|沙木《さぼく》は、無機物であつて、電流に対しても不導体であるし、|把手《はしゆ》たる二人の人は二人であるが故に全く自己の意志想念を没却してゐて、この場合無機物と同じ働きをする、で神様の御意志といふものが何らの【こだはり】を受けずして|沙壇《さだん》に現はれて来るのである。|沙木《さぼく》の中央を握つて居られる神様の|御手《みて》が、私の眼には明らかに拝される、皆には見えぬのであらうか。
負うた子に教へられて浅瀬を渡るといふ|諺《ことわざ》があるが、まことに日本の人々は壇訓に絶対服従する紅卍字会の諸氏が敬虔なる態度より、学ぶ所が多いことであらうと思ふ。私は支那に行つて益々この感を深うした。ああ大本の信徒諸氏が神意に絶対服従すること、紅卍字諸氏の如くならば、神業の進展|刮目《くわつもく》して見るべきものがあるであらうに、ああ。
附記
今回神戸において初めて壇訓の|開《ひら》かるるにあたり、聖師様もそれに臨まれました。最初は観音菩薩が出現せられて壇訓を賜り、次いで老祖の神が御出現になりました。もちろんこのことは|後《のち》に至つて壇訓を拝して分かつたことなので、その場合私共にはどんな神様がお出ましになつてゐるのか少しも分りませんでしたが、壇訓中、聖師様の態度が急にかはられまして一層|謹厳《きんげん》となられ、頭をさげて|拝跪《はいき》されました。そのとき老祖の大神様が御出現になつたのださうでして「大神様(国祖国常立尊)がお出ましになり、お胸から上のお姿がよく拝めたによつて、御挨拶を申し上げたのである」と仰せになりました。壇訓に現はれた文字によればそのとき、各教主、|教宗《けうそう》、並びに諸天、聖神、仙仏は三千大千世界の諸菩薩、|摩訶薩《まかさつ》、|諸比丘《しよびく》、|諸比丘尼《しよびくに》、|優婆塞《うばそく》、|優婆夷《うばい》を率ゐ、均しく|駕《かご》に|扈《こ》して前駆し来たり壇に|恭侍《きようじ》す、と記されてゐました。
[319]
エト読み込みの歌
この度の|金《きん》解禁はよけれども
緊縮風におそはれて
不景気|日々《ひび》に重なりつ
【|巳《み》】は身で通る|裸体坊《はだかんばう》
いろはたとへのその通り
指折りまつは【午】の春
うまい話はないものか
紙食ふ【未】はありながら
【申】も枝からおちる世だ
【酉】こし苦労取違ひ
安々【戌】る家もなく
【亥】づみに落ちた|金槌《かなづち》か
頭上がらぬこの時節
【|子《ね》】んが年中泡吹いて
【丑】と見しよはいつまでも
つづかざらめと【寅】の巻
経済学者が【|卯《う》】のみして
種々の経綸【辰】の年
【|巳《み》】ごとな政治がして欲しい
[320]
動物愛護について
一切のものは輪廻転生の理によつて形を現はしてをる。動物は畜生道に堕ちた霊がそこに現はれてをる、故に動物は向上して人間に生まれかはらうとの希望をもつてをるものである。愛護されてをる動物、虐使されてゐる動物、一見はなはだ不公平の如く見えるが、虐使されつつある動物は、その修行を経ねば向上することが出来ないやうに出来てをるのであるから、人間がことさらに愛護すると言ふことになれば、修行が完成せられないで、死後再び動物界に生まれ来て、修行の仕直しをせねばならぬことになる。故に形から見れば愛護であつても、その霊性から考へると一種の虐待になる。今日の世の中は動物愛護よりも、神の|生宮《いきみや》たる人間で畜生道に堕ちやうとする危険のものが沢山あるから、この方を救うてやることが、より急務である。動物愛護会などは形に囚はれたる偽善である。いかんとなれば多くの人はそれを食ひ物にしようとしてをるから。
[321]
|易《えき》
孔子の教へは現世的のものであるが、晩年に至りて孔子自身もはなはだ物足りなくなつて、天に問ふやうになつた。|周易《しうえき》即ちこれである。孔子が|易《えき》によりて方針を決めるやうになつたことは、即ち宗教心が出来たので、|周易《しうえき》をこしらへたことに依つて、孔子の名は残つたのであつて、これなかりせば孔子といふものは残つてはゐまい。
天津金木は七十五声の運用であり、|天津菅曽《あまつすがそ》は七十五本を運用して天意を伺ふのである。|易《えき》は五十本のうち一本をぬき四十九本の運用であつて二十六本だけ足らぬわけである。ただし、|金木《かなぎ》にしろ|周易《しうえき》にしろ過渡時代の物で|神代《かみよ》の遺物としてのみ価値あるものである。今は皆肉の宮に納まつてをるから、その必要はないのである。
[322]
軍縮問題
英、米は国が大きい、日本は国が小さいといふので、国の大小に応じて比率問題といふのが起こつてゐる。こんな馬鹿馬鹿しい議論はない。大人は大きいから五本の指が必要だが、|小人《こども》は小さいから三本でよい、二本は切つてしまへといふのと同じ議論だ。国は小さくても、小さい相応な完全な軍備といふものが要るのである、|小人《こども》にも五本の指は必要ではないか。
[323]
小さいこと
小さいことで、人の全体は窺はるるものである。障子|襖《ふすま》の|開《あ》け閉ぢ一つ見ても、今の人たちに本当の閉め方の出来る人は一人もないというてもよい、だから総てのことは|粗相《そさう》だらけである。立秋以後は決して扇で人を煽ぐものでもなく、|団扇《うちは》など出すべきものではない。いくら暑くてもさういふことはしてはならないのであるが、このことを心得てゐるものは一人もなく、私が暑いといふと、冬でも扇をもつてバタバタとあふぐ、昔から人に捨てらるることを秋の扇といふではないか。手紙を開封さしてみても下の方を切つたり、横を破つたりする、封筒は一番上を切るのが法で、下の方を切るやうな人があつたら、物事一つも成就せず、底抜けになつてしまふ。客に行つた場合焼き物の|肴《さかな》などは肩のところへ少し|箸《はし》をつくべきもので、全体をむしやむしや食べるべきものでない、いくら美味だからと言つて漬物の再請求などすべきものでもない。
私に対する取扱ひかただつて、どこへ行つても全く非常識で困る。【神の場】と、【人の場】とをハツキリ区別して貰はねばならぬ。大本の信徒たちからは私は特別扱ひにさるべき位置にあるかも知れないが、信者以外の人たちに対しては、何らさういふことはなく、単なる出口王仁三郎に過ぎない。然るに|朝野《てうや》の名士たちと|伍《ご》するときにあたつても、私にだけは特別に大きな布団をもつて来てみたり、高いお|膳《ぜん》を据えて見たりする。かういふ場合私は【てれくさくて】|居耐《ゐた》まらぬ感がする。人の場にあるときは人間並に扱つて欲しい、神様扱ひは困る。人として私が活動してゐるとき、宣伝帽子を被つて訪問されたりするのも困る。私は|小乗《せうじよう》より|大乗《だいじよう》に進み、|大乗《だいじよう》より更に|小乗《せうじよう》に帰つて来て、これから人間的仕事に従事するのである。そのとき、そのときの私の仕事に順応して皆も活動して欲しいと思ふ。総ての人が極めて常識円満であること、これが大本の教へである。昔は、仲々融通の利いた人が大本に入つてから【いや】に固くなつて、|鉛《なまり》の天神様のやうに|鯱《しやち》こばつてしまふのを私は見た。こんなことは神様の|思召《おぼしめし》に叶はぬ。|寛厳《くわんげん》よろしきを得た|真人《しんじん》となつて欲しいと思ふ。
[324]
|善言美詞《ぜんげんびし》は対者による
|善言美詞《ぜんげんびし》は対者によることであつて、|車夫《しやふ》が同士に対しては|車夫《しやふ》の言葉、ちよつと聞いてはなはだ|悪言暴語《あくげんばうご》のやうな言葉でもそれが|善言美詞《ぜんげんびし》であるし、地位名望のある人たちの間にはそれ相当の美しい言葉が交はされねばならぬ。
「未だ生きてけつかるのか、米が高くて困るぞ、よう」といふと「やあ、|手前《てめい》もまだ生きてゐたのか」これは私が荷車をひいてゐた時代にこれらの社会において互ひに取りかはさるる言葉であつた。労働者たちの間の|善言美詞《ぜんげんびし》である。かうした|暴《あら》い言葉の底にひそむ、友を思ふの|情《じやう》は互ひに充分に|相《あい》通じ了解されるのである。もしこれらの人が切口上や、丁寧な言葉を使ひ出したら敵意を含んでゐるのである。舌の|下《もと》には心ありとの神歌の如く、要は心の問題で、敬愛の心から出る言葉は、表現はまづくとも、|善言美辞《ぜんげんびじ》となつて表はるるもので、この心なくて美辞を使ふとそれは|阿諛《あゆ》|諂佞《てんねい》となり、|欺言《ぎげん》、|詐語《さご》となる。
[325]
淋しいといふこと
私は昔から淋しいと思つたことが無い。心細く淋しいといふ感が起こるのは、霊性に塞がつてをる部分があるのである。囚はれてゐるからである。何物にも囚はれない自由|豁達《かつたつ》な心でをれば決して淋しいものでは無い。囚はるる心には|悪霊《あくれい》がやがて感応して来る。例へば人間が縛られてをると、小さな蚊に刺されても、それを打ち払ふ力がなくて、大なる苦痛を感ずるのと同じである。両手が|空《あ》いてをれば打ち払ふのにも手間暇はいらぬのである。囚はれた心はちよつとした|悪霊《あくれい》にも苦しめられて、それを打ち払ふことが出来ない、あまり小さいことに囚はれてゐると、人間はだんだん心が小さくなつて終りには気が変になるやうなことにもなる。囚はれない、執着しない、大きな心に淋しみなんか湧いて来るもので無い。人の|悪口《わるぐち》など恐がるやうでは駄目だ、大きなものには大きな影がさす、出る|杭《くひ》は打たれる、じつとしてさへをれば人にかれこれ言はれることは無いけれど、問題にせられるくらゐの人でなければ駄目だ。霊性の一部が塞がつてゐる人は、霊界物語を読まぬからだ。重要なる神様の御用を承はつてをる人は、ことさら物語を拝読して置かぬと霊性が塞がつてをつては、本当の御用は出来ない。
[326]
|空相《くうさう》と実相
|竜樹菩薩《りうじゆぼさつ》は|空《くう》を説いた。|空《くう》と言ふのは神または霊と言ふことである。目に見えず、耳に聞こえぬ世界であるから|空《くう》と言ふのである。|空相《くうさう》は実相を生む、霊より物質が生まれて来ることを意味する。無より有を生ずるといふのも同じ意味で、神が総ての|根元《こんげん》でありそれより森羅万象を生ずるのである。霊が先であり|体《たい》が後である。家を建てようと思ふ思ひは外的に見て|空《くう》である。けれどもその思ひの中には、ちやんと立派な建造物が出来上がつてゐるのである、それがやがて設計図となつて具体化する。更に木材の|蒐集《しうしふ》となり組み立てとなり、遂に実際の|大廈《たいか》|高楼《かうろう》が現出する。|空相《くうさう》が実相を生み、無より有が生じたのである。
真如実相といふ意を聞くのか。真如は神、|仏《ほとけ》、絶対無限の力を言ふのであるから、前と同じ意味である。実相は物質的意味である。
[327]
刑法改正問題
|有婦姦《いうふかん》処罰、死刑廃止等の問題が、来たる議会に提出せられんとするやうだが、それは結構なことである。女子だけに|有夫姦《いうふかん》の制裁があるのは可哀想である。これは男女を通じて同じであるべきであると思ふ。死刑を廃止することも至極結構なことで、悪いことをしても、死刑にすると言ふのはあまりに可愛さうなことである。人手にかかつて殺されると言ふのも、多少の不注意から来るので、足らぬ所があるからである。殺した人ばかりの罪とは言へない。それは人を殺したからと言うて死刑に処すると、その人の霊がまた人にかかつて人を殺さしめ、死刑になるやうなことを仕出かすので、かう言ふことを繰り返して居つては仕方がない。元来刑法の目的は|遷善改悟《せんぜんかいご》にあるので、復讐的であつてはならない、殺してしまつては改善の余地が無くなるではないか。人を殺したから殺してしまうといふのは、復讐的で愛善の精神に背反するもので実によろしくないと思ふ。
[328]
二大祖神
芸術、宗教、政治、恋愛さう言ふ方面は素盞嗚大神様より始まり、工業、農業の初まりは天照大神様より始まつてゐる。歌は「出雲八重垣」に始まり、陶器は|皆神山《みなかみやま》の|八甕《やつがめ》に初まつたのは人皆の知つてゐる通りである。天照大神様は始終|機《はた》を織つて居られたが、人文の祖神と実業の祖神は、|神代《かみよ》の昔からちやんと分かつてゐたのである。
[329]
|三摩地《さんまち》
|不退転信《ふたいてんしん》、絶対服従信、|仏心《ぶつしん》、無我心、清浄心、菩提心、|日本魂《やまとだましひ》、これを|三摩地《さんまち》と言ふのである。
[330]
普通選挙
普通選挙は衆愚政治である。我が国の国体には合はない。普通選挙が行はるる間は|真《しん》の政治は行はれない。理屈から言へば国民の思想を代表するものとなつてゐるが、実際から言ふと|寡頭《くわとう》政治と同じである。理想と実際とは違ふものである。二大政党などを|樹《た》てずに、一国一党で行く政治が望ましい。
[331]
|当相即道《たうさうそくだう》
|当相即道《たうさうそくだう》と言ふのは相応のことである。【らしく】することである。宗教家は宗教家らしく、政治家は政治家らしくその他、士、農、工、商は士、農、工、商とそれぞれ【らしく】働くことである。
[332]
玉は王の王、キミのキミと言ふことである。将棋にも|ゝ《ちよぼ》をうつた王と、ただの王と二つある。
[333]
宗教|即《そく》芸術
芸術|即《そく》宗教、宗教|即《そく》政治、現代を征服し得ざるものは|真《しん》の宗教に非ず。
道は|単一無雑《たんいつむざつ》にして万古不易なり。
宗教は|時所位《じしよゐ》に|因《よ》り、宗祖に|因《よ》りて、多少の変異あり。
[334]
大本格言
人間の意志想念は老いてますます盛ん也。
意志想念の存する限り死後の生活は必ずあるものと信ずべし。
人間の|真《しん》の|生命《せいめい》は顕幽を通じて不老不死也、現実界においては絶対の善もなく絶対の悪もなし。
[335]
|大画《だいぐわ》|揮毫《きがう》について
前代未聞の水墨大達磨を|描《ゑが》きたる体験
一、調子の外れることは意外の意外はなはだし。
二、肉細なれば貧弱に見ゆ。
三、肉太にても矢張り貧弱を感ず。
四、|一筆描《いつぴつが》きの本意として一線一点にも、有つてもよし、無くても好しと見るべき無用の筆は、|一筆描《いつぴつが》きとして働きの真価なし。ここにおいて、|一筆描《いつぴつがき》無二の大作品としては実に体験家以外に到底判るものにあらざるを断言して|憚《はばか》らず。また仮に試みたる|画師《ぐわし》のあるべきも、容易に成功し得ざりしなるべし。
これを貧弱に流れず、権威ある|剛健作《がうけんさく》に近づかさんには、
第一全身の気合を固め、線を引くに|一分《いちぶ》刻みごとに腕の力を押し込むること。
急転直下|脱兎《だつと》の気合なるべきこと。
腕で|描《か》くといふよりも体力にて|描《ゑが》き、|殊《こと》に開眼の一点はカハセミの|魚《うを》をねらつて飛び込むときの気分を要す。|一投墨《いちとうぼく》の|真諦《しんてい》この|辺《へん》に存するなり。
いかに肉太の筆を用ゆるもただの勇気は紙上に|上走《うはばし》り、決して剛健の力と権威は紙上に|躍如《やくじよ》たらず。要は|一刀《いつたう》|艮《とど》めを刺す場合の意気と気合を必要とす。
快心の作に近づきて苦心体得上ここに告白するものなり。
[336]
霊的神業
私の仕事は段々殖えて来る一方で、一々分所支部巡視などにかかつて居られないのである。今後はさういふ場合なるべく|一所《ひとところ》に集まつて居つて貰つて欲しい。私が是非共行かねばならぬ所といふのは、彼の十和田湖の|男装坊《なんさうばう》の如く、数千年来私の来るのを待つて、自分の願ひを聞いて貰はうと思つてゐる霊が諸所方々にあるから、そこだけには是非行つて聞いてやらねばならぬ。他の人ではいくら霊覚があつても、霊の方で本当のことを言はぬから困る。霊媒を通じてかれこれ言ふのは皆よい加減のことで、かう言つたら私が出て来てくれやせんかと思つて、【お|坐《ざ》なり】を並べてゐるのである。私にでなければ本音を吐かぬのである。また解脱もようせぬのである。どんな|辺鄙《へんぴ》の支部へでも行つて上げたいのは私の心であるけれども、かう言ふ霊界に関する神業が忙しいのであるから、その辺をよく理解して「あの支部へ来て自分の支部に来てくれぬ」などとあまり無理を言はないやうにして欲しいものである。霊的因縁の深い地とさうで無い所とあるのだからなあ──。
[337]
模型を歩む
私は明治三十一年二月、|高熊山《たかくまやま》修行中、重要なる世界の各地を皆見せて貰つたが、その有様はかうである。神使に導かれてある大きな|室《しつ》に入つて行くと、今|弥勒殿《みろくでん》にかかげてあるやうな、大きな地図がかかつてゐる。神使はある地点を指さして、そこは、某地点であるといふことを示される。次に他の|室《しつ》へ導かれて入つて行くと、その地点の大きな模型が備へつけられてある。神使は一々詳しく説明して下さつた。だから私はその地点を踏まないでも、実際行つたと同じやうに知つてゐるのである。前にも言うた通り、第一番に|天教山《てんけうざん》の富士山、次に信州の|皆神山《みなかみやま》、それから次々諸所方々へつれて行かれたのであるが、飛騨の山奥などには前人未到の神秘境がある。一度はそこへも行かなければなるまいと思つてゐる。今でも必要があつてこの地点を見たいと思ふ場合にはさつと地図がかかり、模型が出て来る。模型と言うても実際歩くことが出来るほど大きなものである。
このお話を承はつて思ひ起こすことがあります。年月日をハツキリ記憶いたしませんが、東京上野公園で博覧会が開かれて居つたときのことです。
霊界物語筆録者や|近侍《きんじ》たちが数人よつて博覧会のことを話し合つてゐました。誰かが「行つて見たいなあ」と申してゐるのを聞きつけて奥から出て来られた聖師は「行つてもつまらんぜ、私は三度ばかり行つて来たが、見るべきものは無かつた。それに建築が粗雑で、高い塔などは少しひどい風が吹けば引つくりかへつてしまふやうな危なかしいものである」と申されましたので一座は顔を見合はせ思はず笑ひ出しました。足一歩も、綾部、亀岡を出られないで、三度行つて来た、塔が危険だなぞといくら聖師様でもをかしい、とは言ひ出さないが、各自心の底にはかういふ思ひが浮かんでゐたのでせう。もちろん霊眼で見られることは百も千も承知してゐる連中ですが、それでも透視したとは言はれずに行つて来たと言ふこのお言葉が異様に響いたからです。今模型云々のお話を承はつて、成程聖師様は実際に模型を霊体で歩かれたのだなあ、と存じました。それから間もなく東京の新聞は、|大風《たいふう》起こりこの高い塔が壊れたことを報道いたしました。また聖師は霊界の出来事と現界の出来事と混同して話されるのではないかと思ふことがごくたまにはありますので「それこの間こんなことがあつたではないか」と申されても誰も知らぬことが往々あります。
[338]
宗教の母
私が、宗教が芸術を生むのではなく芸術は宗教の母であると|喝破《かつぱ》したのは、今の人のいふ芸術のことでは無いのである。【造化の芸術】を指していうたのである。【|日月《じつげつ》を師とする造化の芸術】の言ひである。現代人のいうてゐる芸術ならば、宗教は芸術の母なりといふ言葉が適してゐる。
[339]
神功皇后様と現はれる
お筆先に「艮の金神大国常立尊が神功皇后様と出て参る時節が近よりたぞよ。このことが|天晴《あつぱ》れ表に現はれると世界一度に動くぞよ、もう水も漏らさぬ|経綸《しぐみ》が致してあるぞよ」とあることは艮の金神国常立尊の【世界的進出の経綸】を申されたものである。即ち神功皇后様が三韓征伐を遊ばされた如くといふ意味、また神功皇后様【として】現はれて来るぞといふ意である。また「神功皇后様は昔は大将でありたが、今度はお伴であるぞ」といふ意味の筆先があるが、あれはことの大小を比較して示されたもので、彼の神功皇后の三韓征伐に比べては事件の広がりが非常に大きいといふ意味である。
[340]
|国栖《くず》を集めよ
お筆先に示されてゐる【くづ】を集めて|錦《にしき》の|機《はた》を織るといふ意味を曲解して、大本には|屑御魂《くずみたま》ばかり集まつて来る、その|屑《くず》を集めて立派な|機《はた》に織り上げるのが御神業であるなどといふものがあるが、さうでは無い。【くづ】といふのは|国柄《くず》を集めるといふので、|国主《くす》(栖)を集めること、国魂、因縁の|御魂《みたま》を集めるといふことである。糸は【ゆかり】の意味である。換言すれば、因縁のある国魂を引き寄せて神業完成を|期《き》するといふことである。
[341]
系といふ文字
系といふ字を分解すれば一と糸とに分れる。|一《ひと》すぢの糸といふことで、すぢの立つてゐるのをいふ、即ち縦糸である。糸とかいた場合はいろいろの糸を意味する。
[342]
|天帯《てんたい》
弁財天や、天女たちの周囲にある帯の如き|布帛《ふはく》は|天帯《てんたい》というて飛行の|要具《えうぐ》である。天人はこの帯に乗つて飛行するのである。もちろん|天帯《てんたい》といふのは象徴的の言葉で、霊線のことである、霊線をつたうて飛行するの|謂《いひ》である。
[343]
ガンヂー
ガンヂーの運動か? やり方が下手だ、時期を見るの|明《めい》が無い、ああした運動はまだ三年ばかり早きに過ぎてゐる。また統率者が自分で|矢面《やおもて》に立つのも策の得たるものでない、何しろ敵はあらゆる武器をもつた大自在天であるのだから。
[344]
|大乗教《だいじようけう》と|小乗教《せうじようけう》
|大聖《たいせい》を乗せて彼岸に渡す|法《のり》を|大乗教《だいじようけう》といひ、|小人《せうじん》を乗せて彼岸に渡す|法《のり》を|小乗教《せうじようけう》といふのである。
信仰は宗教の主体である。信仰が無ければ宗教は無い。宗教の|大乗《だいじよう》は恋愛である、恋愛の終局点は○○である。|小乗教《せうじようけう》は恋愛を否定し、かつ厳戒する。
人は天地の|妙体《めうたい》であり、また天国地獄の開設者である。心に天国なきものは、死後また天国なし。
心に地獄なきものは、死後また地獄なし。
人は自ら神を造り、鬼を造る。感謝の念は天国の鍵である。
我常に神仏を恐れず、|小人《せうじん》を恐る。
男性は女性の|魂《たましひ》に生き、女性は男性の|魂《たましひ》に生きる。
聖者もまた|木石《ぼくせき》にあらず、性に生き、性に死する。
念とは二人の心である。二人の心和合して天地生ずる、天地の|体《たい》は夫婦である。
大悟徹底すれば、宇宙間|一物《いちぶつ》として心身に|障《さは》るものは無い。
威張り得るときに威張るは|小人《せうじん》である。|真《しん》の力量あるものは、努めてその力を隠さんとし、少しく力あるものはその力を世に顕はさんと努むるものである。
書画も|神《しん》に|入《い》るまで上達すれば、かきたく無い、半熟の間は多くかいて世に示したく思ふものである。
脅喝的教理をもつて、|法城《ほふじやう》を保たんとする宗教は、これ|真《しん》の邪宗である。人を心底より笑はしむるは|真《しん》の|神教《しんけう》である。
現代の既成宗教はすべて脅喝的であり、打算的である。神仏の心は|大空《たいくう》の如く|大海《たいかい》の如し。愛善の心は神である、仏陀である。
山林に|隠棲《いんせい》し、湯水を断ち、あるひは断食を行ふものは|小乗教《せうじようけう》の行者である。難行苦行を|強《し》ゆるものは|邪神教《しやしんけう》である。
いかなることにも驚かないのは、|大人《たいじん》である。自由の天地に苦しむものは、|小人《せうじん》である。|大人《たいじん》は|小事《せうじ》に慎み、|小人《せうじん》は大事を聞いて恐れる。
[345]
支那道院奉唱呪文略解
|免《ミエン》|因《イン》|咒《チヨウ》
|先《シエン》|天《チエン》|〓《オン》|〓《ラ》|昔《シ》|静《チン》|〓《ニ》
|先《シエン》 中心
|天《チエン》 |金剛力《こんがうりき》
|〓《オン》 生まれ|出《いづ》る
|〓《ラ》 無量寿
|昔《シ》 |出入《しゆつにふ》の息
|静《チン》 実相真如
|〓《ニ》 粘着離れ去る
これを約すれば、先天老祖無量寿をもつて出世し、実相真如の|水火《すゐくわ》の|呼吸《いき》を|人群物類《じんぐんぶつるゐ》に与へて粘着の|因《いん》を|離去《りきよ》しもつて|六根《ろつこん》清浄の社会を生じ給ふ意義なり。
要するに執着心と|罪障《ざいしやう》の消滅を根本的に実行し給ふ意義なり。
|化《ホワ》|劫《チエ》|咒《チヨウ》
|雲《ユン》|天《チエン》|多《ト》|婆《ボ》|夜《イエ》|怛《ダン》|〓《ト》
|雲《ユン》 天の結びの姿
|天《チエン》 |金剛力《こんがうりき》
|多《ト》 皆治むる
|婆《ボ》 |万里一貫《ばんりいつくわん》 |血柄《ちから》の色
|夜《イエ》 |矢《や》也、|焼《やき》也
|怛《ダン》 突き直し打ち込む
|〓《ト》 形の|本元《ほんげん》
これを約すれば、先天老祖|産霊《むすび》の|金剛力《こんがうりき》をもつて、霊力体の活機を万里に一貫し、乱れを治め、|夜見《よみ》の邪神悪鬼を焼き払ひ、急速に神力を全地上に打ち込み根本の土台より突き直し|本元《ほんげん》の太古神政を行ひ、|人群物類《じんぐんぶつるゐ》を安息せしめ給ふ意義なり。
要は神政復古治国安民の祥代を樹立せんとの神諭なり。
右は奉天道院に於ける啓示であつて旧三月九日(神示の出た日)より、五十日間毎日(正午最もよし)五百回づつ、即ち千遍唱へるやうにとのお示しであつた。余程重大なる神示に相違ないが、意味を解することが出来ないので、最高幹部が寄り合つて評議の結果、これは出口聖師(|尋仁《ぢんじん》)にお尋ねするがよからうといふことになり、西川|那華秀《なかひで》氏を介して大本井上|主理《しゆり》の所へお願ひの取次を依頼して来たのに対する略解であります。全文を一見せらるると、直ちに筆を取つてかくの如く書かれたので、|言霊学《げんれいがく》をもつて解釈せられたのでございます。
[346]
日本は世界の|胞胎《えな》
日本は世界の|胞胎《えな》に当つて居つて、世界の地形は日本のそれと相似形をしてゐるといふことはたびたび話したことである。即ち日本は|五大島《ごだいたう》からなり、世界は五大州からなつてをり、その地形もそつくりそのままである。九州は|阿弗利加《あふりか》に、四国は豪州に、北海道は北米に、台湾は南米に、本州は欧亜の大陸にそれぞれ相当してゐる。紀伊の国はアラビヤに、琵琶湖は|裏海《りかい》に、大阪湾は黒海に、伊勢の海はアラビヤ海に、駿河湾はベンガル湾に、津軽海峡はベーリング海峡に、土佐湾はオーストラリア|大湾《たいわん》に、能登半島はスカンヂナビヤの半島に、瀬戸内海は地中海に、関門海峡はヂブラルタルの海峡に相当する。これらはほんの一部分を示したに過ぎないが地名を|言霊学《げんれいがく》で調べて見ると、小さな町や村に至るまで皆同じである。日本国内では鹿児島県の大島がまた日本の縮図であつて、総てが相似形をしてゐる。またそれらの土地に起こる種々の出来事も、相応の形をとつて起こるのである。単に土地のみでは無い、人の体もまた相応してゐるので五臓六腑は五大州に同じやうな形をしてゐるのである。
あのネーブルといふ果物がある。エボの所に大きな|臍《へそ》があつてむいて見ると同じやうな形をしてゐる、あたかも小日本が大日本(世界全体)と相似形をしてゐるのと同様である。不思議なことには、このネーブルは、日本に移植されるといつの間にか|臍《へそ》が無くなつてしまふ。心なきネーブルさへも、日本が世界の|親国《おやぐに》であるといふことを知つてゐて、日本へ帰ると日本、外国の区別は要らぬとばかりに、|臍《へそ》をなくして世界統一の形を示す。神紋はネーブルを横に切つた切り口の形だと私は神様から聞いてゐる。日本といふ国は不思議な尊い国である。
前述、相似の形に於ける世界と日本は今少し詳しく示されて居りますが、段々と詳細に示して頂けることと存じますから、後日再び記させて頂きます。
[347]
無題(|俚謡《りえう》)
|酸《す》いも|甘《あま》いも知つたる人がむいて食はした|夏蜜柑《なつみかん》。
銀行破綻や不景気風で節季の|債鬼《さいき》を吹き散らす。
大根役者が田舎へ回りカボチヤ畑で|嫁《よめ》|菜《な》つむ。
花と月との天恩郷に|炎《ほのほ》冷やかす雪の肌。
花は|花明山《かめやま》お月は綾部雪のすみ|家《か》は富士の山。
天の橋立|襷《たすき》にかけて|今日《けふ》も舞鶴|波鼓《なみつづみ》。
鶴と亀との二つの山を|永久《とは》にてらして【月】は【すむ】。
[348]
角帽の階級打破
皇典講究所にゐたわづかの間、餓鬼大将となつて太いステツキをつき諸所の寺の門前で仏教攻撃の演説をやつてゐると、坊さんたちが|怒《おこ》つて妨害をする。大学生が角帽の下から、青二才がといはぬばかりに、|倣然《がうぜん》と冷眼に|睨《ね》めて通る。若気の至りで|癪《しやく》に触つて堪らず、被つてゐた帽子をぬぎ捨て、|捩鉢巻《ねぢはちまき》で、意気|軒昂《けんかう》熱弁を振るつて見たが、あまりよい体裁でもないので、いつそ角帽をかぶつてやらうと思ひ、先生なんかそつちのけにして、皆を集めて動議を出すと、皆賛成した。実は賛成も何もあつたもんでは無く命令的にやつたので、角帽を買ひ、|徽章屋《きしやうや》に|国学《こくがく》と|刻《ほ》つた|徽章《きしやう》を造らせちよつと見れば大学生そのままの姿となつて、さて|又候《またぞろ》|大道《だいだう》演説を始めてゐると、××へちよつと来いと引つばられた。「大学生でもないのになぜ角帽を被るか」といふから「大学生でなければ角帽は被れないといふ法律がありますか」といつた|限《き》りとうとうやり通して了つた。角帽階級打破の第一人者だ、ハハハハハ、若いときには、背に冷汗が出るやうなことを平気でやつたものだ。
[349]
何よりも楽しみ
私は幸ひなことに、老母が八十三才といふ高齢を保つて壮者を凌ぐ健康で今もゐてくれるが、また私が中年御世話になつた、静岡県三保神社の神官であられる長沢|雄楯《かつたて》先生と、当時皇典講究所の所長であられた|阿知和《あちわ》|安彦《やすひこ》先生が、御健康で今長崎諏訪神社の宮司とし奉仕してをられることだ。長沢先生は余程年をとつて居られる、また|阿知和《あちわ》先生には、過日何十年振りにか長崎でお目にかかり、また先日上京の|序《ついで》をもつて天恩郷を御訪ね下さつた。私には別に何の道楽も、楽しみも無い。かうして旧い先生|方《がた》が壮健にして居られるのを見ることが何よりの楽しみである。
[350]
碁盤を買うた
宗教博覧会の売店に碁盤が出てゐたので買うて持つて来た。私が碁盤を買うたといふことは、|碁客《ごかく》に取つては大なる福音で、天下晴れて|碁《ご》がうてるといふ気分を喚起することになるかも知れないが、私は依然として|碁《ご》は嫌ひである。決して打つためでは無い、一つはお客様へのお愛想、また一つには時間浪費の好きな人によつて、私の貴い時間の浪費させらるるのを防ぐための一つの|防禦《ばうぎよ》砲台にするためである。
私には時間が大切である、|碁《ご》を打つて楽しむやうなときは少しも無い、ときに他の人の二三時間が私にとつては二三年に相当することがある。私には神様から仰せつかつてゐる経綸といふものがあるので、ほんの二三時間ですからと他の人はいふが、その二三時間の間に流星|光底《くわうてい》長蛇を|逸《いつ》すの悔いを招いて神様に申し訳の無いことが出来ると、私はほんとうに苦しい。そりや比較的ゆつくりした時間を|偶《たま》に持つときもあるけれど……だから私はいつも思ふ、私の行動だけは、私の自由意志に任して欲しいと。皆さん|方《がた》が好意をもつて方々へ案内して下さるその|誠心《まごころ》は全く嬉しいけれど、|実《じつ》のことをいへば、吉野の桜も、|耶馬渓《やばけい》の|勝《しよう》も私はゐながらにして、霊眼で見てゐる方が楽なのである。それでもみんなは見度からうと思つて……。|碁《ご》もその通り好きな人に取つては矢張り天国気分であらうから|偶《たま》にはそれもよからう。小さな小供は一生懸命大人の真似をして布団を巻いて負んぶしては母親をまねたり、犬に乗りブリキのサーベルをさげて大将軍を気取つて見たりするが、逆さまに大人は小供の真似をして石を積んだり、こはしたりしてよろこんでゐる。面白いなあ──。
[351]
|探湯《くがたち》の釜
霊界物語第三篇に、|探湯《くがたち》の|神事《しんじ》といふことを示されてあるが、さうした場合のその|探湯《くがたち》の|神事《しんじ》に使用せられたのが、この釜である。とて岡山県|和気郡《わけぐん》熊山の山頂、|戒壇前《かいだんまへ》の社務所にあつた半ばこはれた|古鉄釜《ふるてつがま》を示された。この釜は|一名《いちめい》地獄極楽の釜といひ、また|鳴動釜《めいどうがま》ともいふのである。神の審判によつて、|黒白《こくびやく》を|定《さだ》むる器であるから、かかる名があるのである。珍しいもので天下の|宝物《はうもつ》である、大切に保存せなくてはならぬ。岡山県の|吉備《きび》神社には、有名な、釜の鳴動によつて吉凶を判ずるといふ|神事《しんじ》があるが、あながち|吉備《きび》神社のお釜にのみ限つたことはない。ある仕方によれば鳴るやうになつてゐるので、これは科学的に説明がつくのである。この釜もまたさういふことにも使はれたものである。
私はかかる変はつた何か分からぬものを見るとき、その初めには何か分からないのだが、見てゐるうちに腹の中から霊感が湧いて来て分かるのである、この釜も珍しいと見てゐるうちに、霊感に入つたので判明した。私はいつもこんなふうになつていろんなことが判るのだ。
附記
霊界物語第三巻四六章には、|真心彦命《まうらひこのみこと》と、|春子姫《はるこひめ》とが、情的関係の疑ひを受け言ひとくすべも無く、困つてゐる所へ、|稚桜姫《わかざくらひめ》が降臨せられ|春子姫《はるこひめ》に神懸られて、左記の神示を給はつたことが書かれて居ります。
「|宜《よろ》しく|探湯《くがたち》の|神事《しんじ》を行ひ、その|虚実《きよじつ》を試みよ。神界にてはこの正邪と|虚実《きよじつ》とは判明せり、|然《さ》れど地上の|諸神《しよしん》は疑惑の念深くして|心魂《しんこん》濁りをれば容易に疑ひを晴らすの道なし。故に|探湯《くがたち》の|神事《しんじ》を行ひもつて身の疑ひを晴らすべし。正しきものは、神徳を与へてこれを保護すべければ、いかなる熱湯の中に手を投ずるとも少しの火傷をも|為《な》さざるべし。これに反して、|汚《けが》れたる行為ありしときは、たちまちにして手に|大火傷《おほやけど》をなし、汝の手直ちに破れただれて大苦痛を覚ゆべし」と、即ち二人は神示の通り|衆目《しうもく》監視の前にて、その神示を行つたが、二人共何らの故障も起こらなかつたので疑念が全く晴れて|皆々《みなみな》その潔白を賞讃した。といふ意味のことが記されて居ります。(この釜もさうしたことに使用されまた|鳴動釜《めいどうがま》としても用ひられたのださうであります)
[352]
輪廻転生
およそ天地間の|生物《せいぶつ》は、輪廻転生の法則を辿らないものは無い。|蚕《かひこ》が|蛹《さなぎ》となり孵化して蝶となり産卵するのも、ガツト虫が|蛹《さなぎ》となり、|糞虫《くそむし》が孵化して蝿となり、|瀬虫《せむし》が孵化して|蜻蛉《とんぼ》となり、|豌豆《ゑんどう》が|蛹《さなぎ》となり羽を生やして空中をかけり、麦が蝶と変じ、米は|穀象虫《こくざうむし》と変化し、栗の木から|栗虫《くりむし》が沸き、|椢《くぬぎ》のあまはだから|甲虫《かぶとむし》が発生するなどは、いづれも輪廻転生の道をたどつてゐるのである。
ある老人の話に、|田舎寺《ゐなかでら》の高い|梁《はり》の上に雀が巣を組んで|雛《ひな》をかへしてゐたところ、|蛇《へび》がその|雛《ひな》を呑まんとして、寺の柱を這ひ上がり、巣に近よらんとして、地上に転落し、庭石に頭をぶつつけて|脆《もろ》くも死んでしまつた。それを|寺男《てらをとこ》が、竹の先に|挟《はさ》んで裏の|竹藪《たけやぶ》へ捨てておいた。四五日経つて、雀の|雛《ひな》がけたたましく鳴き叫ぶので、|寺男《てらをとこ》が|訝《いぶか》りながら近よつて調べて見ると、数万の|赤蟻《あかあり》が列をなし、柱から屋根裏を伝うて雀の巣に|入《い》り、|雛《ひな》の体をとりまいてゐる。|蟻《あり》の列を辿つて行つて見ると裏の|藪《やぶ》の中に、縄を渡したやうに|赤蟻《あかあり》が続いてゐた。その出発点をしらべて見ると、四五日|以前《まへ》に捨てた|蛇《へび》の死骸が残らず|赤蟻《あかあり》に変化してゐたといふ。
執念深い|蛇《へび》の|魂《たましひ》が凝り固まつて|赤蟻《あかあり》と変じ、生前の目的を達せんとしたのである。実に恐ろしいものは|魂《たましひ》のはたらきである。
またその|爺《ぢい》さんの話に
ある夕暮、|鼬《いたち》と|蟇《がま》とが睨み合つてゐたが、|蟇《がま》は三四間もある距離から、|鼬《いたち》の血を残らず吸ひ取つてしまつたので|鼬《いたち》はその場に|斃《たふ》れてしまつた。さうすると、|蟇《がま》の|奴《やつ》のそりのそりと|鼬《いたち》の死骸のそばへ這ひ寄つて、足を|咥《くは》へ雑草の中へ隠してしまつた。それから四五日経つと、|鼬《いたち》の死骸が残らず|蛆《うぢ》となつてゐた。それを執念深い|蟇《がま》の|奴《やつ》、またもやのそりのそりと夕暮近く這ひよつて、一匹も残らず、その|蛆《うじ》をぱくついてしまつたと言ふ。
かくの如く|生《せい》あるものは必ず|転生《てんしやう》し、かつその|魂《たましひ》は恐るべき魔力を持つてゐることが悟られる。いはんや人間の霊魂においては、一層その力が発揮され、輪廻転生の道を辿つて、あるひは|蛇《へび》と変じ|牛馬《ぎうば》となり、犬猫となり生前の恨みを報いんとする恐ろしきものである。
犬に噛まれたり、馬に|蹴《け》られたり、牛に突かれたりして、命を捨つる者、皆それぞれの恨まるベき原因を持つてゐるので、自業自得と言ふべきである。
神様は愛善の徳に満ち給ふが故に、いかなる悪人といへども罪し給ふやうなことはないが、人間の怨霊くらゐ恐ろしいものは無い。故に人間は人間に対し、仮にも恨まれるやうなことはしてならぬ。どこまでも愛と善とをもつて地上一切に対すべきである。人間の怨霊が、猛獣|毒蛇《どくじや》となり、その人に|仇《あだ》を報いたり、あるひは牛となつて恨みの人を突き殺したりして、|禍《わざはい》を加ふるのであつて、神様が直接に罰を|蒙《かうむ》らせらるるやうなことは全然ないものである。
仁慈無限の神様は、総ての人間が、私利私欲の念より|相《あい》争ひ、|相《あい》殺し、恨み恨まれ|修羅《しうら》、餓鬼、畜生道に|堕行《おちゆ》く惨状を憐れみ給うて、至善至愛の惟神の|大道《だいだう》を智慧暗き人間に諭してその苦しみを救はんがために、神柱をこの地上に|降《くだ》し、誠の道を説かせ給ふのであつて、実に有難き大御心である。
[353]
音頭と|言霊《ことたま》
亀岡地方の郷土芸術としての浄瑠璃崩しの音頭は、実際のことをいふと、この地方の人だけが本当の|言霊《ことたま》を発し得るので、他国の人が何程稽古をしても、真似は出来るが|真《しん》の音律に叶ふ音頭はとれないのである。この地方というても、|亀岡町《かめをかちやう》、|穴太《あなを》(|曽我部村《そがべむら》)、大井(|並川村《なみかはむら》)の三地点を結びつける三角形線内だけで、この三角形の一辺はいづれも三十六丁あつて、山岳の有様から土地の具合ひが自然にさういふふうに出来てゐる。|八木《やぎ》に行くともう駄目である。この三地点が|三巴《みつどもゑ》となつて居つて、その間が生粋の|言霊《ことたま》の国であつて、また日本一の|佳良《かりやう》な米が出る所である。約十万石の米しか出ないが、この米が池田伊丹の酒の原料となるのである。|穴太《あなを》の|里《さと》は|穴穂《あなほ》の|里《さと》と書いた、アは|言霊学上《げんれいがくじやう》、天を意味し、ナは|天位《てんゐ》にある人、ホは|秀《ほ》、|霊《ほ》の意であつて、あな|霊《ほ》の|里《さと》の意味である。日の出の神の生まれるところである。亀岡はもと亀山といつてゐたのであるが、カは輝く、|目見《まみ》える、顕現等の|言霊《ことたま》、マは円満具足の意、大井のオは治まる、ホは|秀《ほ》、|井《ゐ》は人の息の意、人間の|言霊《げんれい》ををさめるの意である。かういふ|言霊《ことたま》の地であるからその土地に|生《せい》を享けた人は自然に叶ふ|言霊《ことたま》が出るのである。
天地|結《けつ》|水《すゐ》|火《くわ》
天アオウエイ
カコクケキ
サソスセシ
タトソテチ
ナノヌネニ
ハホフヘヒ
マモムメミ
|人《じん》ヤヨユエイ
ラロルレリ
地ワヲウヱヰ
天津祝詞にしても
タカアマハラは共に|天位《てんゐ》に属する故に高く、カミツマリのミは|火位《くわゐ》にて一番低く、ツは|結《けつ》の|中位《ちうゐ》に属し、マはまた|天位《てんゐ》にて高く、スは|中位《ちうゐ》に属するが如くかういふふうに自然に七十五声の高低が出来てゐるのでそれに叶ふやうに称ふるを|言霊《ことたま》に叶つた謡ひ方といふのである。縦の列も、天地人の順序に配列されてゐるからその心持ちで謡はなければならぬ、本当の|言霊《ことたま》に叶はせうと思へば難しいものである。以上の表は本調子に相当するものであつて、トン、ツン、テエン、チンと響く従来の五十音図は二上がり、三下りなどに相当するもので、チン、ツン、テン、トンとなる。
ガギグゲゴバビブベボなどを濁音といふけれど|言霊学上《げんれいがくじやう》ではあれを濁音とはいはぬ、|重音《ぢゆうおん》といふのである、チチ(父)のチチであるからヂヂ、ハハ(母)のハハであるからババといふので、父の父、母の母と重なつて来るから|重音《ぢゆうおん》である。イザナギの|尊《みこと》イザナミの|尊《みこと》と同じやうな字を書くのは間違ひで、イザナギの方のイは|天位《てんゐ》のイで、ノIの間は離して書きイザナミのイはヤ行|人位《じんゐ》のイであるからつけて書くのが本当である。ナは神、キは男、ミは女であるから、夫婦合はせてキミといふのである。今は誰をでもキミ、キミと呼んでゐるが独身者はキミとはいへないのである。
ノアの洪水といふことがある、ノは水の|言霊《ことたま》、アは天の|言霊《ことたま》、ノア(|水天《すゐてん》)は即ち|水《みづ》高しの意でありまた|水《みづ》余るといふ意味にてノア即ち洪水である。
カシコミ、カシコミも申すといふがカは火、シは水、コは火、ミは水の|言霊《ことたま》であるから、|火水《くわすゐ》、|火水《くわすゐ》、即ちカミ、カミといふ意である。
ハニカムといふのも恥神と書いて、神様に対して恥づかしいといふ意である。
[354]
ミロクの世と物質文明
ミロクの世になれば寝ながらにして地の中を通ることが出来、|空《そら》をも、また水中をも通ることが出来るというてあるが、寝ながら通る地中といふのは地下鉄道のことで、寝ながら通る|空《そら》といふのは飛行機、飛行船のこと、水の中を通るといふのは潜水艦のことであつて、今がその予言の出て来た時代なのである。また蒙古には、|黒蛇《くろへび》が世界中を取り巻き、牛や馬が物いふときに|成吉斯汗《ジンギスカン》が再誕して我が国土を救うといふ予言があるが、それも現代のことである、即ち|黒蛇《くろへび》とは鉄道のことであり、|牛馬《ぎうば》がものいふといふのは、人間がひどく堕落して、|狐狸《こり》|牛馬《ぎうば》などの容器になつて来ることをいうたものである。
[355]
宗祖とその死
釈迦没後五百年にして仏法は台頭して来た。キリスト教はイエス没後三百年にして台頭して来たのでその死の当時は共に気の毒なほど勢力が無かつたものである。我が国のある一二の新宗教についても某教祖はその昇天のときほんのわづかの信者で|葬《とむらい》をすましたまた某教祖の如き一層ひどかつた。大本開祖の葬儀の如きはけだし|稀《まれ》に見る盛んなものであつたのである。
[356]
仏典について
仏教には五戒十戒などいふことがあるが、それは釈迦が信者の一人一人についての|戒《いましめ》であつたのであるが、それが遂に一般的のものとなつてしまつたのである。たとへば、|大酒《たいしゆ》の癖があるものに対してはそれを戒められ、|色欲《しきよく》で身を過つやうな弟子に向つてはまたそれを戒められたのである。これを普遍的なものとして、誰にでも|強《し》ゆるやうになつたのは間違つてゐる。釈迦の説かれた経文は、|阿含部《あごんぶ》のみである。弟子たちが勝手に|如是我聞《によぜがもん》を主張したのが|一切経《いつさいけう》である。村上|専精《せんせい》博士が|大乗《だいじよう》|非仏論《ひぶつろん》を称へたのは誠に至当のことである。
[357]
霊媒
霊媒などになる人を、身魂が磨けてゐるから霊覚がある、などと思うてゐる人がだいぶんあるやうであるが、決してさうでは無い、意志が弱いから、霊に左右せらるるのである。霊の方では使ひやすいから使ふので、かうした人間にはたいした仕事は出来無い、確りしてゐて、しかも霊覚があるといふやうな偉人は、滅多に出るものではない。大抵意志薄弱で、一生涯|憑霊《ひようれい》に支配されて、|真《しん》の自我といふものの確立がない、情ない状態で終はつてしまふのである。霊媒になるやうな人は、ちよつと人がよいやうで、さうしてどこかにぬけた所がある。しまひには悪いことを仕出かし|勝《がち》である。命も短いものである。
[358]
|心霊《しんれい》現象と|兇党界《きやうたうかい》
|心霊《しんれい》現象として現はれる諸現象のうちその物理的のものは全然、|兇党界《きやうたうかい》に属する霊の働きである。日本に於ける|兇党界《きやうたうかい》の大将は、|筑波山《つくばさん》の|山本《さんもと》|五郎衛門《ごらうゑもん》で、世界的の大将は|大黒主《おほくろぬし》である。|兇党界《きやうたうかい》と交渉をもつやうな仕事をしてゐると、遂に|兇党界《きやうたうかい》におちてしまふやうになるから用心せねばならぬ。他の霊的現象も皆媒介の守護霊の仕事である。
|兇党界《きやうたうかい》に属する霊は、|足部《そくぶ》または|背部《はいぶ》などより肉体に這入り込み、|善霊《ぜんれい》は眉間より入るのである。
本能の中心は|臍下丹田《さいかたんでん》にある、昔は腹があるとか、腹が大きいとかいうて人をほめてゐたものだが、だんだんと胸が確かだといふやうになり、今は頭がよい人といふやうになつてしまつた。
[359]
霊肉脱離
霊肉脱離の状態は、|善霊《ぜんれい》の場合は頭から脱け出し、次に胴体、手足と順次に脱け出して霊体を形づくり全部|脱離《だつり》したとき、|矗《すつ》くと立ち上がる、そのとき現在までの肉体に|相《あい》対してそれを見守りつつすこしも怪しまぬ、他人を見るやうな態度になつてゐる。|悪霊《あくれい》の場合には足から一番に脱離を初め胴、手、頭と順々に離れて来て最後に頭が分離するや否や霊体はするすると辷つて、奈落の底に堕ちて行くのである。
[360]
物語拝読について
|大祥殿《たいしやうでん》で毎日霊界物語を拝読さしてゐるのに|傚《なら》つて地方の支部、分所においても|夕拝後《ゆふはいご》拝読をしたらよいので、それを実行せねば教へは広まらぬ。私はそのため|大祥殿《たいしやうでん》で、手本を出してあるのであるが、地方がこれに|傚《なら》はぬのは歎かはしい現象である。毎日三味線を入れて拝読してをればどしどし広まつて行くものを|偶《たま》に|月次祭《つきなみさい》の後でやるくらゐのことではあかん。もつとも|眥《みな》が少し稽古をして上手に読まなければ駄目である。
[361]
|北山《きたやま》の|火竜《くわりう》
日の出の神の肉体は○○○であるといふことを、問ふのか、あの神諭「変性男子の|上天《しやうてん》までに発表したいと思うたなれど…(中略)…モウ|大門《おほもん》も経綸の形だけ出来たから、変性女子の手で知らすぞよ、|八木《やぎ》の|北山《きたやま》に|火竜《くわりう》となつて実地の姿が見せて在るぞよ」といふのは、開祖様が○○|後《ご》、初めて|八木《やぎ》に来られたときに霊眼で|火竜《くわりう》の姿を見られたことがある。そのことを神様がおつしやられたので、かういふ人が用意せられてあるといふことを|火竜《くわりう》と現はして、実地に見せてあつたらうがといふ意である。私の綾部に行かない前のことである。
[362]
|准宣伝使《じゆんせんでんし》
|准宣伝使《じゆんせんでんし》が現界においては最上級の宣伝使である。それ以上の宣伝使になると、現界、霊界兼務で活動することになるので、寝てゐても霊界の宣伝に活動してゐるのである。
[363]
|鈿女《うずめ》物語
石器時代の|信пsしんしう》|安曇野《あずみの》は一面の|沼地《ぬまち》であつた。その当時、|安曇野《あずみの》の一角に高く聳えてゐた|有明山《ありあけやま》には、恐ろしき山賊の|群《むれ》が棲んでゐた。(また|八面《はちめん》|大王《だいわう》との説もある)天の岩戸を切り|開《ひら》いた|手力男命《たぢからをのみこと》の後裔に、一人の美しい姫があつた。この姫の名を|鈿女姫《うずめひめ》といふ。姫は何と思つたか、父母を棄てて家出をした。それで両親たちは、姫の行方について|各々《おのおの》心当りの方面を探して見たが、容易に判らなかつた。そのうちに|何処《いづこ》からともなく、姫は|信пsしんしう》の|有明山《ありあけやま》にゐるとの噂が故郷にパツト広まつた。早速姫の行方を探らうと、近親者数名は遥々|信路《しんしうぢ》を尋ねたが目的の|有明山《ありあけやま》には姫は見へないで、|有明山《ありあけやま》の|程近《ほどちか》くで姫は病死したとのことが、風の便りに耳に入つた。それが今日の|鈿女屋敷《うずめやしき》付近である。姫が|松川村《まつかはむら》で倒れるまでには、また|左《さ》のやうな伝説が残つてゐる。
故郷を去つた姫は、あてどもなく諸国を彷徨して何時か|信路《しんしうぢ》に足を踏み|入《い》れ、|有明山《ありあけやま》の|麓《ふもと》に姿を現はした。そして|有明山《ありあけやま》に棲む、前記の山賊どもに発見されて了つた。山賊は姫の|色香《いろか》に迷ひ、岩窟に導いて自由になれとせがんだが、姫は|頑《ぐわん》として応じなかつた。山賊は踊りが大好物であつた。ある日のこと姫に向つて踊りが出来るかと|質《ただ》した。姫は|心《こころ》能く承諾を与へた、そして姫の踊りは|堂《だう》に|入《い》つたものであつた。ある夜のこと、毎晩の通り山賊は姫の踊りを懇望した。しかしその夜に限つて岩窟の|外《そと》で踊れと命じた。姫の踊りで山賊の一味は全部酔つて了つてウトウトとして|寝《しん》に|就《つ》いた。姫はこのときとばかり逃げ出して身を|脱《のが》れた。|後刻《ごこく》になつて姫が逃げたと判つて、|有明山《ありあけやま》の一帯は大騒ぎとなつた。姫は逃げることはどうやら逃げ延びたが、|藪原《やぶはら》の中を、所きらはず逃げ回つたので、至る所に|生傷《なまきず》を負うた。これが|因《もと》となつて姫は遂に世を去つた。村人は姫の死んだ所に|小祠《ほこら》を建てその霊を|鄭重《ていちよう》に祀つた。そこを通称|鈿女屋敷《うずめやしき》と呼んでゐる。|里人《さとびと》は記紀天岩戸開きの|天鈿女命《あめのうずめのみこと》なりといつてゐる。
[364]
ああ既成宗教
人類の祖先と称するアダム、イヴが神様の禁制の智慧の|果実《このみ》を、神意に|反《そむ》いて採食した罪悪の報いによつて、その子孫たる世界の人類は|開闢《かいびやく》の始めより|今日《こんにち》に至るまで、祖先の罪悪の血を受けてゐるので、残らず|大罪人《だいざいにん》、いはゆる罪の子として生まれて来てゐるから、地獄にその霊魂を落とされ、消えぬ火に焼かれて無限の苦悩を味はふべきものである、その惨状を全智全能にして絶対の権威に|坐《まし》まし無限愛なる神は|甚《い》たく憐れませ玉ひて、最愛の独り|子《ご》たるイエスを現世に|降《くだ》し十字架に|釘付《くぎつ》けてこれを殺し、キリストの名によつて天帝に祈願するもののみこれを天国に再生せしめ給ふと説くのが既成宗教キリスト各派の教理である。
以上の如き教理は数千年以前の人智|蒙昧《もうまい》なる野蛮時代においては、多少の|脅嚇《けふくわく》も胡麻化しも効力があつたであらうが、現代の如く不完全ながらも、科学の進歩に向ひつつある時代には|何人《なんぴと》といへども常識を|具《そな》へたる者に信ずる者の無いのは当然過ぎるほど当然の帰結である。
精神上に大なる欠陥ある者か、|癲狂《てんきやう》痴呆の|徒《と》にあらざる限りは、これを信ずることは出来ないはずである。誠に思へ、現今の如き矛盾と欠陥の多い自己愛のみの社会に生まれた現行刑法即ち神ならぬ凡人の造つた法律でさへも、祖先または父母兄弟が大罪を犯したとしても、その子孫または|弟妹《ていまい》にまで罪を科するといふような不合理は施行しないのである。いはんや全智全能であつて、愛の本体とも称する神が、祖先の罪を何十万年末の子孫にまで及ぼし、これを地獄に投ずべき理由は無いはずだ。万々一左様な分からず屋の神ありとすればそれは世界の大魔神であつて吾々人類の|赦《ゆる》すべからざる敵としてこの宇宙から|宜《よろ》しく放逐すべきである。
然るに、現代の立派な紳士と言はるる人の中にも、こんな不合理な不徹底な教理、|否《いな》|狂理《きやうり》を信じ、かかる|没分暁漢《わからずや》の|魔神《まがみ》に憐れみを乞ひ、|赦《ゆる》されんことを祈り、安心立命を得んとするは、木によりて|魚《うを》を求めんとするにもまさつた愚劣さであり卑怯さである。
文化の進んだ二十世紀の現代には、既にすでに大部分の人民より捨てられてゐるのは当然である。既成仏教もまた、キリスト的の|脅嚇《けふくわく》や胡麻化しがあつて、これとても既にすでに宗教としての価値は認められない。仏教の|大乗部《だいじようぶ》は別として、|小乗部《せうじようぶ》の教理なぞは|婆々《ばば》、|嬶《かか》だましの|世迷言《よまいごと》である。数千年以前の人智未開の世に適した宗教の教理を、|今日《こんにち》に施行せんとするのは、|三冬《さんとう》厳寒の頃に用ゐた|綿入着物《わたいれ》を土用|三伏《さんぷく》の|酷暑《こくしよ》の時代に着用せよと教ゆると同様にして、愚の|骨頂《こつちやう》である。
かかる教理を、臆面もなくまことしやかに説いてゐるその野呂さ、迂愚さと言つたら、到底論ずるの価値さへもなきものである。
かくして既成宗教の各派は日に日に破産して行くのである。滅亡の淵に向つて直進しつつあるのである。
[365]
キリストの再来
|猶太国《ゆだやのくに》のナザレに生まれた大工の子キリストが降誕してから既に一千九百三十年を経過した。その教理は殆ど全世界に遍満した。然るに、キリストによつて世界の平和と人類の幸福を来たしたといふことは未だ聞かない。かへつて反対に世界人類を|誑惑《きやうわく》し、十字軍を起こさしめて血の歴史を|遺《のこ》し、または政治の|先棒《さきぼう》に利用されただけである。|諺《ことわざ》にも宣教師の後ろに大砲ありとまで云つてゐるではないか。またある学者は宗教は阿片なりと|喝破《かつぱ》してゐるが、実に至言である。不徹底な|脅嚇的《けふくわくてき》教理に|眩惑《げんわく》されて、全世界の人類は恐るべからざるものを恐れ、頼りて益なきものに頼り恐怖心をそそり、|無気力者《むきりよくしや》となり、自由楽天的世界を|悪土《あくど》と思はしめ、かへつて人類をして不安の域に導いたのみである。先年欧州に起こつた世界戦争に対しても、これを防止するの権威も信用もなく、|袖手《しうしゆ》傍観を余儀なくされて了つたぢやないか。かくの如きキリストが、幾百万人再生したつて何の役に立つものか、かへつて世界を|迷矇《めいまう》の域に|陥《おとしい》れるより他に道はないであらう。
世界の救世主であり、神の子または人の子と自称するものが、|国事犯《こくじはん》に問はれ、十字架上に|悶死《もんし》して、|吾《わ》れ世に勝てりもあつたものではない。キリストとは世を救ふもの、油をそそぐ者の|謂《ゐひ》でありとすれば、現代の宗教家の称ふるナザレのイエス、キリストの如きは、実に救世主の名を|僭《せん》したる真理の賊であるといひたくなるのである。
自分の云ふキリストとはそんなつまらぬ貧弱なものではない。霊肉共に安心立命させ、人類の生活に向つて、も少し活動力のあるものである。|大本人《おほもとじん》の中には自分をナザレのイエス、キリストに|擬《ぎ》するものがままあるやうだが、実に迷惑千万である。
自分がかつて霊界物語に説いたキリストとナザレのイエスとは全然別人であることをここに言明しておく。
[366]
|日月《じつげつ》模様の|浴衣《ゆかた》
天恩郷で|日月《じつげつ》模様の|浴衣《ゆかた》を着て踊つてゐるのを見てお日様やお月様を|浴衣《ゆかた》に着てをどるといふのは敬神団体として面白くない、といふ人があつたと聞くが、それは物の道理をよく知らない者の申し分である。|日月《じつげつ》は森羅万象を照らしたまふ、いと高き雲の上にも|賤《しづ》が|伏屋《ふせや》にも同じ光と熱と水とを与へたまふ、頭は照らすが足の方は照らさぬといふやうなことはない、その月日のお陰を頂くといふ意味から月日を黒いかげで現はし雲を配置したのである。決して敬意を失はぬのみか、愛善の徳を身に浴びて活躍しやうといふのである、神様のお徳にそひたいといふ心である。とかく既成宗教は神様を敬するのはよいがこれを恐れて近づかないやうにする傾きがあるが、それは間違つてゐる。神様は我らの親様であるから、これを敬すると共に親しんで行かねばならぬ、神を敬し神を理解し神を愛すといふ三つの条件を忘れると偏つた教へになつてしまふものである。
[367]
松と|雑木《ざふき》
松は|神木《しんぼく》であるから、昔は山の頂上三分ばかりの所しか生えなかつたものである。その次の場所に竹が生へ、その下位に梅が生え、かういふ順序で山一面が|蔽《おほ》はれ、|雑木《ざふき》は、山の|裾《すそ》のみに生えて、上の方には生えなかつたものであるが、|肥料《こえ》がないので土地がだんだん痩せて来るに従つて下へ下へと生え出して、つひに人家のある所まで生えるやうになつたのである。山は元来、御神体であるから神聖なものである。
[368]
|春日《かすが》の鹿の由来
天の岩戸開きの昔、|天之児屋根命《あめのこやねのみこと》が|雄鹿《をしか》の肩の骨を焼いて|卜《ぼく》をせられた。それを|鹿卜《かぼく》といふので、|亀卜《きぼく》と同じく、骨が焼かれて生ずる割れ目によつて吉凶|禍福《くわふく》を判ずるのである。その故事によつて|春日《かすが》では鹿を飼ふのであつて、神様が鹿にお乗りになるために飼つてあるなどといふことは、よい加減のことである。
[369]
細胞
現今の学説では、人体を構成する細胞は成人において約四百兆というてゐるが、神示によれば四億兆あるのである。人間は宇宙の最も完全なる縮図であるが、大宇宙に包含されてゐる森羅万象一切の総数は四億兆あるから、人間はその縮図としてやはり四億兆の細胞から成り立つてゐるのである。
学者のいはゆる細胞は、更に|真細胞《しんさいばう》ともいふべき極微の細胞の集団から出来てゐるものである。また細胞核と称するものも同じく|真細胞《しんさいばう》の集合体であつて、いはゆる細胞を統一栄養してゐるものであり、この細胞核の中心にある仁と名づくるものも同様、核を統一してゐるところの|根本体《こんぽんたい》である。かかる理由により全身の細胞は、宇宙と同様四億兆となるのである。
[370]
釈迦と|提婆《だいば》
基督が生前余り世間に歓待されなかつたやうに、釈迦も在世当時は極めて|惨《みぢ》めなものであつた。支那の孔子が|春秋《しゆんじう》時代において、|孟子《もうし》が戦国時代において不遇であつた以上に不遇であつたらしい。日本では日蓮、親鸞、乃至|道元《だうげん》などが悲運に終はつた如くであつた。|春秋《しゆんじう》戦国が|楊墨《やうぼく》の思想に抑圧された如く、平安朝が天台や|真言《しんごん》に魅せられてゐたやうに、釈迦の時代もウバニシヤド哲学の分裂、いはゆる九十六派の哲学が、各自に|鏑《しのぎ》を削つて戦つてゐた暗黒時代に、新しい信仰の灯明を掲げて人心の闇を照らした革命児が生まれて来たのは、|耆那教《じやいなけう》の始祖ジユナタブトラと釈迦であるが、いづれも|吠陀《ぼいだ》の根本精神を失つた、|婆羅門《ばらもん》の|死儀式《しぎしき》の排斥者であつたのだ。そしてジユナタブトラは、理性に目覚めた極端な|持戒者《ぢかいしや》で、しかも新進宗教の精彩を放つてゐるのに反し、|偏《へん》を捨てて中を|執《と》る、いはゆる|中道《ちうだう》実相主義、人間性を失はない範囲において精神の向上と肉体の発達を遂げ、かつ遂げしめんと|力《つと》めたのは釈迦であつた。そこで|持戒《ぢかい》を唯一の|生命《せいめい》としてゐるジユナタブトラが、|生臭《なまぐさ》坊主として釈迦を見くびつたのも当然であらう。もちろん釈迦は余りに人間的な感情家であつたに反し、ジユナタブトラは超人的であり、自力的であり学究的であつたのだ。ここにこの両極端を調和して、そこに新しい|生命《せいめい》を生み出さうとしたのは|提婆達多《だいばだつた》である。|提婆《だいば》は釈迦の凡人主義、人道主義は|首陀羅《プロレタリヤ》の|蹶起《けつき》に|疑倶《ぎぐ》不安の淵に沈んだ王者貴族の信頼を得るとしても、永遠の勝利は民族性に徹底せるジユナタブトラに帰する、少なくも理性と、|淫逸《いんいつ》と|相《あい》闘つてゐる印度の当時においては、さうでなければならぬと信じてゐた。さうして|提婆《だいば》は心に期した「吾は今如来の|許《もと》に到り大衆を|求索《きうさく》すべし、|仏《ぶつ》もし許さば|吾《われ》|将《まさ》に意に従うて、|舎利弗《しやりほつ》らを|教詔《けうせう》|勅使《ちよくし》すべし」と。即ち伯父なる釈迦の教壇に至りて曰ふ「願はくは如来よ、この大衆をもつて我に付属せよ、|吾《われ》|将《まさ》に種々に法を説いて、それを|調伏《てうふく》せしむべし」とて教壇を己れに譲り引退せよと迫つた。釈迦は|提婆《だいば》の智慧と勇気は認めたけれども、未だその徳の備はつてゐないのを見て「|舎利弗《しやりほつ》らは聡明|大智《だいち》にして、世の信服する所なるに、吾は|猶《な》ほ彼に大衆をもつて付属せず、いはんや汝の如き|痴人《ちにん》の|唾《つば》を|喰《くら》ふものをや」ときめつけた。然るに年壮気鋭の|提婆《だいば》は|客気《かくき》に任せて、釈迦の弟子五百人を誘ひ去り、盛んに釈迦の攻撃を試み出した。|本仏《ほんぶつ》、|新仏《しんぶつ》並び立つと言はれるまでに釈迦に対抗したけれども、釈迦は|提婆《だいば》を|愍《あはれ》むために、好意をもつてゐた|舎利弗《しやりほつ》と|目蓮《もくれん》を彼の教壇に遣はしたのである。然るに釈迦は説法中に、|瑞月《わたし》が霊界物語を口述するときのやうに、ゴロリと寝転ぶ癖があつて、疲れたときには弟子をして代はつて説法せしめた。それは信者にいはゆる|仏足頂礼《ぶつそくちやうらい》させるためばかりで無く、年も老つてゐるなり、疲労をしばし休めんためである。|目蓮《もくれん》や、|舎利弗《しやりほつ》などの弟子が釈迦の言つた教理を詳論細説して、女子や小児にまで解るやうに説明した。所が人間の好い|提婆《だいば》がまた釈迦のその態度を真似て、自己の言はんとする所を大略述べて、ゴロリと釈迦の真似を行つた。そして、|目蓮《もくれん》、|舎利弗《しやりほつ》に代はらせた。然しながら釈迦はいはゆる|臥禅《ぐわぜん》をしてゐたのだが、|磊落《らいらく》で無邪気な|提婆《だいば》は|鼾《いびき》をかいて寝込んで了つた。この光景を打ち眺めた|目蓮《もくれん》、|舎利弗《しやりほつ》はときこそ来たれと、口を極めて釈迦の功徳を賞讃し強調すると共に|提婆《だいば》を根こそぎこき下ろしたので、ここにまた浮き草の風に従ふ如く、|提婆《だいば》に奪はれた五百人の弟子を、易々と釈迦の教壇へ|伴《つ》れ帰つたために、たちまち|死地《しち》に陥つた|提婆《だいば》は、地団駄踏んで|憤《いきどほ》つた。彼は自分が釈迦に背いたのは釈迦に代はつてジユナタブトラの、|耆那教《じやいなけう》を打ち壊さなければ、釈迦の前途が危ふいと考へたからだ。吾は反抗をもつて与へんとするを、釈迦は|忍辱《にんにく》をもつて奪はんとする。吾は自らを|揣《し》らざるやも知れず、されど釈迦は来たるべき危険を覚らず、五百人の弟子を奪つたのも、釈迦を救はんがためであつた。然るにも拘はらず、自分をこんな酷い目に逢はさせるとは、伯父とも思へぬ酷い行り方だと深く恨んだ結果、平素仲の好かつた|阿闍世《あじやせ》を煽動して、その父|毘牟婆舎羅《ひむばしやら》を殺して王位を奪はしめ、|己《おのれ》もまた釈迦を殺して教団を奪ひ、|相《あい》|携《たづさ》へて天下の政教を|擅《ほしいまま》にせんとしたが、何処までも|天真《てんしん》|爛漫《らんまん》にして、小児のやうな|初心《うぶ》なる|提婆《だいば》は、釈迦を|猛象《まうざう》をして牙にて引き裂かしめようとしたり、低い所へ突き落とすやうな|児戯《じぎ》に|類《るゐ》した迫害を試みて、老熟せる釈迦に、かへつて愚弄されたので、遂には爪の間に毒薬を潜めて釈迦に飛び付き、引つ掻きむしつて、中毒せしめんとした。すると|陥穿《おとしあな》が設けられてあつたために、|提婆《だいば》は|俄破《がば》と地中に落ち込んだ。仏徒はこの出来事をば、大地たちまち割れて火を発し、|提婆《だいば》は|仏罰《ぶつばつ》で|阿鼻《あび》地獄へ堕ちたと誇つてゐるのである。
[371]
主人の居間
|主《しゆ》たる人のゐる場所は、絶対に他の人が入らないやうにせねばならぬ、さういふ|間《ま》を一室ちやんとしておかねばならぬことは、古事記にも出されてゐることである。
[372]
|嘘談家《きよだんか》協会
米国の、イリノイス州のバナに「|嘘談会《きよだんくわい》協会」と堂々と|銘打《めいう》つた嘘のつき比べ会が、|名士連《めいしれん》の間に生まれた、この協会の事業は、嘘や造り話を上手にやつて、会員相互に楽しむのが、目的である。そこで協会の役員に成りたいと思ふ者は、他の競争者と立ち会つて、|駄法螺《だぼら》や嘘の吐き比べをして、勝たなくてはならぬ。それで、一年に一回大会が開かれて、大々的に冒険談や怪談が行はれる。これは大会であるが、毎月一回|定会《ていくわい》があつて、役員は相手をとらへては、「オイちよつとやろうか」といつたふうで作り話や馬鹿話を聴いたり、語つたりして、楽しんでゐる。会員の中には、立派な紳士や実業家も混じつてゐて、遠方の人も加はつてゐるが、もちろん嘘をつくのは会員中に限つてゐる。クリスチヤン郡の州弁護士カール・ブレースといふ人はこの会の幹事であるが、この人が、幹事の|栄職《えいしよく》を勝ち得たのは、オクラハマ|砂原《さげん》の自動車旅行中、インド人の襲撃を受け、猛烈な奮闘をして四十人を|絞殺《しめころ》したといふ、真つ赤な嘘つぱちの冒険談であつた、といふことである。
[373]
三日で読め
霊界物語は神様が三日で造りあげられたのであるから、三日に一冊読み終はるのが神様の|御心《みこころ》に叶ふものである。故に|大祥殿《たいしやうでん》の拝読も、その通りにした、宣信徒各位なるべくこの方針でやつて貰ひたい。
[374]
家を建つる場所
家を建つるには、|草木《さうもく》の繁茂するところを選ばねばならぬ。さういふ場所でなければ発達せぬ、これ皆相応の理によるもので、|草木《さうもく》はまたその|主《しゆ》の徳に相応して生成化育を遂げるものである。|草木《さうもく》が繁茂せんやうな土地に家を建つれば、その家は段々と家運が衰ふるばかりである、心せねばならぬ。
[375]
ひきとふく
|蟇《がま》の|雄《をす》は【ひき】|蛙《がへる》というて人をひき寄せる、|雌《めす》は【ふく】|蛙《がへる》といつて悪い人を吹きとばす。【ひき】と【ふく】とを両方祀つておくと商売が繁昌するといつて、木や|金《かね》で作つて霊を入れてくれと昔はよく持つて来たものである。|雄《をす》はまたおんびきともいふのである。
[376]
|虻《あぶ》になつて
山崎といふ忍術の師匠が、あるとき|虻《あぶ》と身を変じて遠距離飛行をやり、ちよつと休憩せんと、壁にとまつたところ、左官が無意識にそれを塗り込んでしまつたので、危ふく息が絶えやうとしたのを必死となつて逃れ出たといふ話があるが、私も|虻《あぶ》に身を変じて、支部分所をくまなく回つたことがあるが、誰も知つてはゐまい。私がかういふ話をしても信じないかも知れないが、今は昔京都に土田|勝弘《かつひろ》といふ信者があつて、私が|虻《あぶ》に身を変ずる話をすると疑つて、そんなことなんぼなんでも出来はしますまいといふ。「よし、それでは帰りに三の宮(綾部より三里ばかりの地点)に一服してをれ、|虻《あぶ》となつて飛んで行きお前の|洋傘《こうもり》の周囲を|三辺《さんべん》回つてやる」というて置いた。土田はまさかと思ひながらも、もしやといふ気持もあつて注意しながら|桧山《ひのきやま》三の宮で休んでゐると、突如大きな|虻《あぶ》が飛んで来てブンブンと音たてながら|洋傘《こうもり》の周囲を三度勢ひよく飛行して、ずつと何処かへ行つてしまつた。土田はこの異変にびつくりして再び取つて返し、|真《まこと》に|畏《おそ》れ|入《い》りましたと挨拶に来た。神秘の|言霊《ことたま》を使へば|虻《あぶ》ぐらゐ何でもなく、どんなことでも出来るのである。昔の人は竜神を|言霊《ことたま》をもつて駆使したものだが、今はさかさまに竜神はおろか、|狐狸《こり》などにまで使はれてゐるのだから、万物の霊長もあはれそれら以下のものに堕落して、|言霊《ことたま》がとんと利かないやうになつてしまつた。
[377]
私は眼が悪い
私は眼が悪い。|平安石《へいあんせき》に祈れば近視眼、遠視眼共に治して頂けるのに、なぜ聖師様は老眼鏡をかけて居られますかと問ふ人がある、私は皆のかはりをしてゐるのである。お願ひすれば私の遠視などいつでも治るけれども、それでは他の人が助からぬ。私の悪いのは人を救はねばならぬからである。
[378]
命令を|肯《き》く|木石《ぼくせき》
石でも木でも、私が命じたままに神様の御用をつとめて、それぞれの活動を開始してゐる。|平安石《へいあんせき》や|大安石《だいあんせき》、|小安石《せうあんせき》、|御手代《みてしろ》の有様を見てもそれが分かるであらう、いはんや万物の霊長たる人間においておやだ。人間がいふことを聞かなければ、お咎めを|蒙《かうむ》るのはあたりまへである。私は神様の|思召《おぼしめし》をそのまま伝へてゐるのだから、私のいふことを聞いたらよいのだ。ちよつと考へたりしてももう駄目である。命じられたままその通りすればそれだけの|効《かう》がある。○○○に盗難事件が起こつたときにも、私は神様から聞いてゐるので、あの男は使つてはいけないというたが、でもあれは勤勉な忠実な男ですからどうか置いてやつて下さいといふ。仕方がないから、黙つてゐた。この上矢釜しくいうと、|襟度《きんど》が狭いとか何とか思ふのだから何も一遍実地経験したがよからうと思つて|放《ほ》つておいた。果たしてあの始末で大なる損害を受けたでは無いか。私は交際したことも無いので、どんな男か知らんのだけれど、神様がさういはれるのだから、その通りして欲しかつた。かういふふうで神様の|思召《おぼしめし》通りがなかなか行はれぬので、回り道ばかりして御神業が遅れることもたびたびある。人間はどんなに知識があつても、経験に富んでゐても、案外目先が利かぬでなあ、神様の仰せの通りするのが第一番である。
[379]
偉人|千家《せんけ》|尊愛《たかちか》
私が生まれてこのかた、この人はと尊敬の念をもつて接した人は前後たつた一人しか無い。|千家《せんけ》|尊愛《たかちか》その人である。もはや故人となつたが大きな器であつた。
[380]
|義経《よしつね》と蒙古
蒙古とは|古《いにしへ》の|高麗《こま》の国のことである。|百済《くだら》の国といふのは今の満州で、|新羅《しらぎ》、|任那《みまな》の両国を合したものが今の朝鮮の地である。これを三韓というたので、今の朝鮮を三韓だと思ふのは間違ひである。玄海灘には、|散島《さんたう》があつて、それを辿りつつ小さな船で日本から渡つたものである。|義経《よしつね》はこの道をとらないで北海道から渡つたのであるが、蒙古では|成吉斯汗《じんぎすかん》と名乗つて皇帝のくらゐについた。蒙古には百六王があつて|汗《かん》といふのが皇帝に相当するのである。蒙古にはまた面白い予言があつて、|成吉斯汗《じんぎすかん》起兵後六百六十六年にして蒙古救済の|聖雄《せいゆう》が現はれる、そのときは|黒鉄《こくてつ》の|蛇《へび》が世界を取り巻き、馬や牛がものをいひ、下駄の下を通る人間が出来るといふのである。|正《まさ》に現代であつて|黒鉄《こくてつ》の|蛇《へび》といふのは鉄道が世界を一周するといふこと、|牛馬《ぎうば》がものをいうとは神諭の「今の人間皆四つ足の|容器《いれもの》になりてをるぞよ」といふのに相当し、下駄の下を通る人といふのは|小人物《せうじんぶつ》を指すのである。また|成吉斯汗《じんぎすかん》の子孫母に|伴《つ》れられて日本に渡り、五十四才のとき蒙古に帰り来たつて滅び行かんとする故国を救うといふ予言もある。私の入蒙は丁度その年即ち五十四才にあたり、また|成吉斯汗《じんぎすかん》起兵後六百六十六年目に当つてゐるのである。かるが故に蒙古人は私を|成吉斯汗《じんぎすかん》即ち|義経《よしつね》の再来だと信じきつたのである。|義経《よしつね》はアフガニスタン、ベルヂスタンにも行き、遂に|甘粛《かんしゆく》にて死んだ。|元《げん》の|忽必烈《ふびらい》はその子孫である。|元《げん》といふのは【源】の|字音《じおん》から来るのである。
[381]
信濃国|皆神山《みなかみやま》
信濃の国|松代町《まつしろちやう》の郊外にある|皆神山《みなかみやま》は尊い|神山《しんざん》であつて、地質学上世界の山脈十字形をなせる地であり、世界の中心地点である。四囲は山が|十重《とへ》|二十重《はたへ》にとりかこんで、綾部、亀岡の地勢と少しも違はぬ|蓮華台《れんげだい》である。ただ綾部は【日本】の山脈十字形をなせる地で、これはまた世界的であるだけの違ひである。|大石凝《おおいしごり》|真素美《ますみ》|翁《をう》は、この地に帝都をおかれたなら万代不易の松の代を現出することが出来ると主張し、世界中心遷都論を唱へて|囹圄《れいご》の人となつた事実がある。|真素美《ますみ》|翁《をう》ばかりでなく他にもさういふ説を唱へた人があるが、最近飛行機が盛んになるにつれて東京は安全の地でないといふ見地から、信州遷都論が一時ある有志によつて伝へられたことがあるが、全くこの|皆神山《みなかみやま》は|蓮華《れんげ》の|心《しん》に当つてゐるのだから、|四方《しはう》の山々に砲台を据ゑつけてさへ置けば、いかなる飛行機をもつてしても襲ふことは出来ぬ安全地帯である。こんな要害のよい所は、世界中他にない。霊界物語にある|地教山《ちけうざん》はこの山である。素盞嗚命が高天原なる|天教山《てんけうざん》より下り、母神の|坐《まし》ますこの山にのぼりたまふた事実も、そつくりあの通り出て来たのである。私は明治三十一年|高熊山《たかくまやま》にて修行中、|神懸《かんがか》りになつて、一番につれて来られたのが|天教山《てんけうざん》の富士山と、この|皆神山《みなかみやま》とである。霊界で見た山はこれよりもずつと大きく美しかつたが、大体の形は今見るのと少しも違はぬ。|眼下《がんか》に見ゆる|大溝池《おほこうち》、あの形に型取つて|金竜海《きんりうかい》は造つたのだ。十五丁目から頂上までわづか三丁であるけれど、霊界で一里以上に見え、神界では百里以上に見えた。【世界十字に踏みならす】の御神諭も大いに味はふべきことである。|神代《じんだい》歴史にある地名は皆此処にある。天孫の降臨地といふのはここのことであつて、その昔の|天教山《てんけうざん》(今の富士山)は印度のヒマラヤ山(|地教山《ちけうざん》)の三倍以上の高さを持つてゐたことはかつて話しておいた。(霊界物語舎身活躍子の巻第一章参照)即ち|雲表《うんぺう》高く聳えてゐたので、ここを高天原というてゐたのである。その高地から|降《くだ》つて、この地に来られたのを天降られたといふのである。|邇々芸之命《ににぎのみこと》より|神武《じんむ》天皇までは実に百三十六万年の年月を経過してゐるのである。
この山は政治地理的にいへば、長野県|埴郡《はにぐん》|豊栄村《とよさかむら》に属し、御祭神は|熊野出速雄《くまのいづはやを》の神で、綾部の産土神と同じである。|往昔《わうせき》素盞嗚の尊がこの山で|比良加《ひらか》を焼かれたのが陶器の初めである。私も帰るとこれを記念に新しい|窯《かま》を築いて陶器を初めるのである。
|皆神山上《みなかみさんじやう》十五丁目の地点に腰を|卸《おろ》されて、|山上《さんじやう》の|垂訓《すゐくん》にも等しい教へを垂れられたとき、|日輪《にちりん》聖師の上に|御光《ごくわう》の|陽笠《ひがさ》をかざした如く、言語に絶した|崇厳《すうげん》な光景を現出したことを附記さして頂きます。なほ智慧証覚によつて思ひ思ひに取れる、神秘の神話は未だ発表の時期で無いと存じ略さして頂きます。
霊界物語によると|地教山《ちけうざん》はヒマラヤ山とありますが、日本にあることは皆世界にあるわけであります。
[382]
樹木や石は天気を知る
|樹《き》の葉から水が出たり、石がベトベトと濡れたりしたら、雨が降るのである。それは木や石が雨が降ることを予知して、自分が持つてゐる水を出すのである。石や木が乾き出したら晴天になる証拠で、また降雨のあるまで必要の水を吸ひ込んでしまふからである。石でも木でも霊妙不可思議な働きをもつてゐる。
[383]
|三子《さんし》の命名
日出麿は|日出《ひので》の神出口|清吉《せいきち》さんの生まれ替はりだからさう名づけたのである。|寿賀麿《すがまる》は|寿賀《すが》の宮即ち|神素盞嗚尊《かんすさのをのみこと》が、|櫛稲田姫《くしなだひめ》と住みたまひし|寿賀《すが》の宮の名を取つたので、この宮が|三十一文字《みそひともじ》の初まりであるから、|明光社《めいくわうしや》の社長としやうと思つて名づけたのである。|宇知麿《うちまる》は|内丸町《うちまるちやう》(天恩郷を意味す)に住むやうになるから、それでつけたのである。
[384]
河童
世に河童と|称《よ》んでゐるものは|鼬《いたち》の【ひね】たもので、河の中で血を吸うと世俗にいうてゐるのは、実は河の岸から血を吸うてゐるのである。
[385]
月欲しい
|斑鳩《いかるが》といふ|鳥《とり》がある。|月星日《つきほしひ》と鳴く。綾部の町は|何鹿郡《いかるがぐん》にある。|斑鳩《いかるが》が沢山すんでゐたのでそれが郡の名となつたので|何鹿《いかるが》は当て字である。|斑鳩《いかるが》は、月欲しい月欲しいと鳴いてゐたので、これは|瑞霊《みづのみたま》を迎へるといふ神様の謎であつたのだ。
[386]
百年の|生命《せいめい》
神様に、いつまで私は生きてゐるのでございますかと聞いたら、百までといはれたので、では今三十だから|後《あと》七十年ありますね、と聞いたらホホホホホと笑うて居られた。
[387]
浄瑠璃
浄瑠璃といふのは|善言美辞《ぜんげんびじ》のことである。|瑠璃《るり》を転ばすやうな声、といふ所から来てゐるのである。されば私は芸術奨励の一端として、それを自らやつてゐるのである。三味線に【のる】とか【のらぬ】とかいふけれど、元来三味線なるものは、息を継ぐ|間《ま》に弾いてゐるだけのものであつて、実際は要らぬもので、|言霊《ことたま》だけでよいのである。それだから私は構はぬのである。言葉の方から合はせて行くといふ法は無いのである。私は|節《ふし》は下手であるが、|言霊《ことたま》に叶つたやうに語つてゐるのである。嫌な地獄的な所になると、勝手に飛ばしてやるのであるから、私の三味線はなかなか弾き難いであらう。また母に【与】ふる【|薬湯《やくゆ》】などの文句は母に【捧ぐる】といふふうにその場で宣り直してゐる。アオウエイの順序が本調子であつて、アイウエオは二上がりまたは三下がりに相当する。五十音の正しき順序によつて、私は語つてゐるのである。
音頭となると|穴太《あなを》が一番であつて、本当の声が出るのはこの地方に限る。|八木《やぎ》より|鳥羽《とば》を越すと、本当の|音《おん》が出ない、|嵐山《あらしやま》一帯の山脈を向ふに越すともう駄目である。
[388]
人間と動物
動物には|五情《ごじやう》のうち、覚る、|畏《おそ》るの|二情《にじやう》しかはたらかぬ。|省《かへりみ》る、恥る、悔ゆるの|三情《さんじやう》は全然働かぬのである。だから|破廉恥《はれんち》なことを平気で行ふのである。人の心を覚つて用を|便《べん》じたり、叱られると恐いといふことは知つて逃げたりするがその他の|情《じやう》は働かぬ。人にしてもし|破廉恥心《はれんちしん》が無いならば動物と選ぶ所が無いではないか。
[389]
愛の独占
愛を独占しようと、恋人同志は痛切に|希《こひねが》ふのであるが、独占愛は三年しか続かぬものである。
[390]
|紅葉《もみぢ》に|楓《かへで》
赤い色の葉をもつた植物を【もみぢ】といひ、青いのを|楓《かへで》といふ。|紅葉《もみぢ》は照るといひ、|楓《かへで》は|映《は》ゆるといふ、|楓《かへで》は|蛙《かへる》の手に似てゐる。|蛙手木《かへるで》の転呼である。
[391]
樹木の育て方
桜は切ると木が痛む、だから|手折《たを》るのである。梅は切るとよくなる。|俚諺《りげん》に桜切る阿呆、梅切らん阿呆と言ふ言葉がある。桧は|幹《みき》の皮をむいてやると成長する、|木肌《きはだ》が赤いから火の木といふのである。またこの木は摩擦によつて火を発するから【ひの木】ともいふのであるが、あまり茂ると火事の起こる|憂《うれひ》がある。上の|荒皮《あらかは》を剥いでおくと、赤い|木肌《きはだ》が現はれて、青葉に照り|映《は》え、なかなか美観を添へるものであるし、また非常に成長を助けるものである。|荒皮《あらかは》を剥がずに放つて置くと|蟻《あり》が巣を作る恐れがある。そしてだんだん木が弱つて来る。過つて|白肌《しろはだ》まで剥いだやうな場合にはお土を塗りつけて置かねばならぬ。桧は|陽木《やうぼく》、杉は水を好く|陰木《いんぼく》である。|月宮殿《げつきうでん》の周囲に桧を植ゑたのは、月日を揃へるといふ意味である。また山桜などでも、|上皮《うはかは》を|剥《は》ぎ、|青皮《あをかは》だけにしておくとどんどん太る。空気と太陽とを直接にうけるからである。
[392]
|蟇目《ひきめ》の法
綾部、亀岡両聖地の建造物は皆|蟇目《ひきめ》の法によつて|天柱《てんちう》に繋いであるのである。であるから地震が揺れば自然と地上を離れて浮き上がり、風が吹けば地上に固定して動揺せぬ。かくて安全に保たれて行くのである。ミロク殿などは大きいからずいぶん繋ぐのに困難であつた。今度天恩郷に建てた|智照館《ちせうくわん》(写真館)は撮影上、どうのこうのと人間的の条件が多くて、私の命令通りにして無いから繋ぐのに非常に困難を感ずる。家の方向、位置など、皆この|天柱《てんちう》に繋ぐ便宜を考へて私が指揮命令するのだから、その通りにしてくれねばならぬ。人間はこういふ神秘な事実を知らないでゐて、かれこれと申し分が多いが困つたものである。この|蟇目《ひきめ》の法を修するには、深夜人のゐないときでなければならないので、繋いでゐる最中にもし人が通ると、それがために法が破れてしまふのである。だから私は深夜人の静まつて|後《のち》、この法を修するのであるから誰も知つてゐるものはない。また私が日本国中を隅から隅まで旅行するのは、一つはこの国土を|天柱《てんちう》に繋ぐためである。お前たちはそばに付いてゐても知つてはゐまい。綾部には|天《あめ》の|御柱《みはしら》が立ち、天恩郷には国の|御柱《みはしら》が立つてゐるのである。それで綾部の|本宮山《ほんぐうやま》を|鶴山《つるやま》といひ、天恩郷を亀山といふのであつて、鶴は天のもの、亀は地のものである。
昭和四年九月二日、筆者は|小恙《せうやう》ありて早く寝床に入つて居りました。夜も十時と覚しき頃、表で聖師様の|御声《おこゑ》がしましたので、急ぎ起き出でて戸を繰つて御挨拶のため|外《そと》に出ようと致しました。すると|厳《おごそか》なるお声で「出てはいけない」と仰せになりまして、|大祥《たいしやう》花壇の西北の隅、|祥明館《しやうめいくわん》のすぐ前で|棟《むね》を上げたばかりの|智照館《ちせうくわん》を睨んでキツと立つて居られました。そしてそのそばを通る人々に「そこへ来るな」と大きな声で命令されて居りましたが、通つてゐる人は何のことか分からず、ドギマギして、かへつて反対に聖師様と|智照館《ちせうくわん》との間をうろつきましたので、「そちらへ、そちらへ」と|叱咤《しつた》して居られました。しばらくしてまた|月照山《げつせうざん》の西側に立つて、南からジツト|智照館《ちせうくわん》を睨んで立つて居られました。かくの如きこと約二十分間、やがて|祥明館《せうめいくわん》で|少憩《せうけい》せられ「人が通つて|蟇目《ひきめ》の法が|汚《けが》され、破れてしまつた、矢張り深夜でなくては駄目だ、やり直しだ」と仰せられて上記のお話がありました。せられたことは分りませんが、|蟇目《ひきめ》の実地を目撃させて頂きましたので、此処に附記さして頂きます。
[393]
|隻履《せきり》の達磨
達磨没後、ある二人の若人が寄つてその死について話し合つてゐた。|甲《かふ》曰く「お前は達磨さんが死んだといふけれど、それは嘘ぢや、現に私は昨日会つたのだもの」といふ。|乙《おつ》はそれを否定して「そんなはずが無い、現に亡くなられてお葬式があつたぢやないか」といふ。|甲《かふ》は反抗して「それやさうだけれど私は昨日現に会つたのぢやから仕方が無いではないか、恐らく生き返つたのであらう、|草履《ざうり》の片つ方を杖の先にひつかけて歩いて居られたのだ」といふ「そんな|箆棒《べらばう》な話があるものでは無い」と|甲《かふ》と|乙《おつ》と互ひにいひ|募《つの》つて、果ては実地検証といふことになり、墓地まで押しかけていつて見ると、供へてあつた|藁草履《わらざうり》の片つ方が無い。はて不思議と墓をあばいて見ると、|主《ぬし》は|藻抜《もぬけ》の|殻《から》、|甲乙《かふおつ》目を見合はして「矢張り達磨さんは生きかへつたのである」と驚き合つたといふ、これが|隻履《せきり》の達磨といふ因縁である、達磨さんは実際甦生したのである。近頃私が|隻履《せきり》の達磨を|描《か》くのは、私の甦生を意味してゐるのである。お前は見たか、その後の達磨さんの活動振りを。|光照殿《くわうせうでん》に陳列しておいたあの絵をよく見ておくがよい。
[394]
|辻説法《つじぜつぽふ》
明治三十九年、皇典講究所へ入学した当時、私は野菜の車を引つぱつて、行商をして学資を得てゐたのだ。売れ残ると当時の先生のところへ持つていつて進上したものである。そうした暇にも私は演説が好きで方々へ出かけた。出かけたというても会場では無い。寺の門前や、人の集まる辻々に立つて|大獅子吼《だいししく》をやつたものだ。寺の門前に立つて大声で盛んに仏教の堕落、|売僧《まいす》の攻撃をやつたのだから、|人集《ひとだか》りがしてな、皆熱心に聞いたよ。太い太いステツキをついて|都大路《みやこおほぢ》を肩で風を切つて|横行闊歩《わうかうくわつぽ》したものだ。若気の至りの思想の偏狭は恥づかしいが、しかし元気はあつた。今の若い人たちは意気地がないのう。
筆者、|去月《きよげつ》長崎市の国幣中社諏訪神社に|賽《さい》し、宮司|阿知和《あちわ》|安彦《やすひこ》氏に面会す。氏は実に当時の皇典講究所主事たりし人なり。「出口聖師といふのは|王仁《おに》さんのことださうですね」と口を切り「車に大根や菜つ葉を積んで校門のそばに置いて|草鞋《わらぢ》|穿《ば》きで登校したものです。熱心に勉強しまた非常に弁論が好きで、自分で雄弁会などを起こし、|口角《こうかく》泡を飛ばして弁じたてたものです。温情のある人で|閑《ひま》があると私の小供を負つて|守《もり》をしてくれた。時々大根や|薩摩薯《さつまいも》などをソツと庭の隅において帰つた。あの人が今の出口王仁三郎聖師その人なのですかねえ、余りの出世振りで、私にはどうも同じ人とは信ぜられないくらゐであるが、雑誌の口絵を小供に見せて『この人を知つてゐるか』と聞きますと、皆が口を揃へて、『|王仁《おに》さんだ、|王仁《おに》さんだ』と申した」と感慨無量の|態《てい》でこのお話に裏書きをして居られました。
[395]
心配は毒
人間にとつて心配ほど毒なものは無い。心配は寿命を縮める。心配事が出て来ても総てを神様に奉納して心配せぬやうにする、これが長寿の秘訣だ。
[396]
小供になつて寝る
私は夜寝るとき、小供になつて寝る、小供になれば悪魔はよう襲はぬものである。
筆者申す。聖師様お|寝《やす》みのときは全く小供にかへられ「もうねんねする、ねんねんいうて」というてお|床《とこ》へお入りになりますと、当時七才ぐらゐの|尚江《ひさえ》様が|紅葉《もみぢ》のやうな手で、布団の上から叩きながら「ねんねんようねんねんよう」というて居られたのを、たびたびお見受けいたしました。近頃は「【ねたらう】、霊界物語を読んで」とおつしやつて、それを聞きつつ、普通|敷蒲団《しきぶとん》の三倍の広さのある|大蒲団《おほぶとん》の上を小供のやうに、ごろごろ転がりながらお|寝《やす》みになる場合が多うございます。お言葉も|一《ひと》ちゆ|二《ふた》ちゆ|三《みつ》ちゆなど小供の言葉を使はれますので、かかるとき大きな赤ちやんのやうだと噂申してをります。
[397]
年をほかした
私は今年から年を三十|放《ほ》かして二十九になつた。|飯《めし》はなんぼでも食へるし、今までにないくらゐ丈夫になつた、はち切れるほど元気旺盛だ、大いに活躍しよう。
[398]
大本と言ふ文字
大本といふ文字は、縦にも横にも分かつことが出来ぬ完全な字で、これには大いに理由のあることである。天理、金光、黒住、|耶蘇《やそ》、仏教等皆経にか緯にか判れるやうになつてゐる。天理の天は一と大とに別れ、理は王と|里《さと》とに別れ、黒住は里と火と人と|主《ぬし》とに別れてゐる。|耶蘇《やそ》も|仏《ほとけ》も同じである。
[399]
食用動物
【キ】の字のつく四つ足類は、食用とすることを許されてゐるのである。例へば、狸、狐、兎の如きものでまたたまがへしして【キ】になるものも許されるのである。【かも鹿】の如きがそれであつて、これらは神界の方で木即ち植物に宣り直してゐて下さるのである。鳥類でも|鴨《かも》、|雉《きじ》の如き皆【キ】にかへるので、|鶏《にはとり》をカシワと呼びならはしたのも柏の意味で木といふことになる。|牛馬《ぎうば》の肉は食用としてはいけない。
[400]
|呉《くれ》の海
霊界物語中に示されたる|呉《くれ》の海といふのは、|呉《くれ》の付近である。広島は往古一つの島であつて、今の広島から九州の|別府《べつぷ》の|辺《へん》まで陸続きになつてゐたのである。その以東を瀬戸の海といひ、以西を|呉《くれ》の|湖《うみ》というたのである。
[401]
アテナの神
ギリシヤ神話中に現はれたるアテナの神といふのは天照大神様のことで、アは(|天《あま》)テは(|照《てらす》)ナは十字即ち神である。アポロの神といふのは、天津日の神といふことで、アは(|天《あま》)ホは(|日《ほ》)ロは(|御子《みこ》)の意である。
[402]
|黄教《わうけう》|紅教《こうけう》
支那人は|黄色《わうしよく》と|赤色《せきしよく》とを特別に好むやうであるが、それは矢張り宗教関係から来てゐるので、支那のラマ教は|黄教《わうけう》、|紅教《こうけう》の宗派があつて、|今日《こんにち》は|黄教《わうけう》が盛んである。かうした関係から、黄、赤の色が愛好せらるるのである。総て赤を好むのは動物の天性である、小供や、牛がそれを証明してゐる。牛などは赤い布で装飾をしてやると非常に喜んで元気がよくなる。
[403]
老年と|身躾《みだしな》み
他人によい感じを起こさすやうに努めることは人間の礼儀である。若いときは|繕《つくろ》はないでも綺麗なものであるが、年取るに従つてだんだん汚くなつて行くのであるから、若い人よりも年とつた人の方が身だしなみの必要があるのである。西洋人が年とるほど若作りになるのも、一理あることで、とにかく人は年とるに従つて手入れをよくし、女なども薄化粧でもして、老衰から来る悪感をなるべく人に与へんやうにするのがよろしい。
[404]
自然に|描《か》ける絵
絵を|描《か》くに当つてどうも上手くゆかないでゆき詰まつてしまうと私は「誰か出て来い」と怒鳴る。さうするとすらすらと|描《か》けて行く、誰か出て来て|描《か》くのであらう。私の絵は私が|描《か》くのに相違ないけれど、私の工夫以上に自然によくなつて行く、絵が絵を|描《か》くのである。元来私は絵を上手に書こうなんと思つてはゐない、上手か下手かそんなことは知らない、惟神神のまにまに筆を下すのである。
[405]
睡眠と食事
人間は三時間ねむれば沢山である。それ以上眠れば、寝疲れでかへつて睡眠病を惹起する。今の人間は大抵睡眠病にかかつてゐる。食事も二食がよい。朝六時なれば晩も六時、七時なれば七時といふやうに十二時間おきにとるのがよい、三食になつたのは関ケ原の戦ひ以来のことである。労働者が三度四度食べるのは労働が食ふのである。一体人間は睡眠の時間、食事の量など一生涯のものはちやんと定められてゐるのである。だから私は年とつてから眠られるやうに、今のうちに少なくねむつておく。
[406]
絵について
|南画《なんぐわ》は詩を|主《しゆ》とし、詩で現はせないところを絵で補はうと試みてゐるのだから、絵としてはあつさりとしたものである。私の流儀は自ら称して|神代派《じんだいは》といつてをるが、|神素盞嗚尊《かんすさのをのみこと》を心に念ずるとき、ああした絵がかけるのである。絵画展覧会を見た人が、「一々描き方がかはつてゐて、一人の人がかいたとは思へない」と評したと聞くが、まことにその通りで、私の想念が|応挙《おうきよ》にあるときその画風が|応挙《おうきよ》と現はれ、|月樵《げつせう》を思ふとき、その筆法が|月樵流《げつせうりう》と出て来るので、私の想念次第で千種万態の画風が生ずるのであるから、一人の人が|描《か》いたと思へぬといふ評は、私の絵を知るものの|言《げん》である。一流一派に拘泥する必要は無いと思ふ。私は近頃|山水《さんすゐ》と漫画との調和を思ひ立ち、筆を執つて見たが、案外上手くいつて、ちよつと面白いものが出来た。これは恐らくレコードであらうと思ふ。そもそも芸術の祖神は、素盞嗚大神様であるから心中この大神を念ずるとき、絵画と言はず、陶器と言はず、|詩歌《しか》と言はずあらゆるものに独創が湧くのである。
[407]
|竜《りう》は耳が聞こえぬ
|竜《りう》の耳と書いて|聾《つんぼ》と読むが、|竜《りう》は耳が聞こえぬものである、|竜《りう》は神界に属してゐるから人間の言葉は通ぜぬ、神様の言葉でなくては聞こえぬのである。だから普通の人に風雨を|叱咤《しつた》する力は無い、神界に通ずる|言霊《ことたま》の持ち主のみが|竜《りう》に命令し、天然現象を自由にし得る権能をもつてをるのである。
[408]
|人神《にんしん》
顔面がビクビクと動くことがある。あれは|人神《にんしん》と称する霊の作用であつて、普通の場合「|人神《にんしん》そこ|退《の》け|灸《きゆう》据ゑる」と三度唱へるとそれで退散するが、善い神様がその人の体内に納まつて御用をしようと思つて来られる場合はなかなか治まらず、二三週間くらゐもビクビクやつてゐるが、それがすつかり静まつて来ると、その霊の活動が開始せられて来る。開祖様も|額《ひたひ》に来られた、唇に来られたとよく申されたが、私にもそんなことがよくある。
[409]
お給仕について
独身者などが、留守中神様のお給仕について困ると言ふのか、さうであらう。神様は心を受け玉ふのであるから、こちらの|誠心《まごころ》さへ届けばそれでよい。だから出る前に沢山お|米《よね》さんをお供へして、留守中のお給仕にあてる意味を奏上しておゆるしを願つておいたらそれでよろしい。
[410]
|五百津御統丸《いほつみすまる》の|珠《たま》
|五百津御統丸《いほつみすまる》の|珠《たま》と言ふのは、水晶、|珊瑚《さんご》、|紅玉《こうぎよく》、|瑠璃《るり》、|瑪瑙《めなう》、シヤコ、|翡翠《ひすゐ》、真珠、|黄玉《わうぎよく》、|管玉《くわんぎよく》、|曲玉《まがたま》などを集めて造りたるものにて、ミロク出現のとき装飾として、首にまかせ、耳づらに|纏《ま》かせ、腰にまかせたまふ|連珠《れんじゆ》の玉である。黄金の玉と霊界物語にあるは|金《きん》の玉にあらずして|黄色《わうしよく》の玉の|黄金色《わうごんしよく》に光りたるものを言ふのである。また皆の神々が玉の御用をせんと活動する所があるが、このミロクの御用に|奉《たてまつ》る玉のことであつて、神政成就の御用の玉である。この玉が寄つて来ねば、ミロク出現の|活舞台《くわつぶたい》は来ない。玉が集まればその準備が出来たことになる。玉は心を清浄にし、悪魔を防ぐものである。
[411]
|素尊《すそん》|御陵《ごりよう》
岡山県|和気郡《わけぐん》熊山の山頂にある|戒壇《かいだん》は、|神素盞嗚大神《かんすさのをのおほかみ》様の|御陵《ごりよう》である。|古昔《こせき》出雲の国と称せられたる地点は、近江の琵琶湖以西の総称であつて、素盞嗚大神様のうしはぎ給うた土地である。湖の以東は天照大神様の御領分であつた。この故に|誓約《うけひ》はその中央にある|天《あめ》の|真奈井《まなゐ》即ち琵琶湖で行はれたのである。出雲の国と言ふのは、いづくもの国の意にて、決して現今の島根県に限られたわけではないのである。素盞嗚大神様は|八頭《やつがしら》|八尾《やつを》の|大蛇《をろち》を御退治なされて|後《のち》、|櫛稲田姫《くしなだひめ》と|寿賀《すが》の宮に住まれた。|尊《みこと》百年の|後《のち》出雲の国のうち、最上清浄の地を選び、|御尊骸《ごそんがい》を納め|奉《たてまつ》つた。これ|備前国《びぜんのくに》|和気《わけ》の熊山である。|大蛇《をろち》を断られた|十握《とつか》の|剣《つるぎ》も同所に納まつてゐるのである。彼の日本書紀にある「素盞嗚尊の|蛇《じや》を断りたまへる|剣《つるぎ》は今|吉備《きび》の|神部《かんとものを》の|許《ところ》にあり、云々」とあるが熊山のことである。この|戒壇《かいだん》と称ふる|石壇《いしだん》は、考古学者も何とも鑑定がつかぬと言うてゐるさうであるが、そのはずである。
因みに熊山の|麓《ふもと》なる|伊部町《いんべちやう》は|伊部焼《いんべやき》の産地であるが、|大蛇《をろち》退治に使用されたる|酒甕《さかがめ》は即ちこの地で焼かれたものである。|伊部《いんべ》は|忌部《いみべ》の義であり、また|斎部《いつきべ》の意である。
筆者申す、昭和五年五月二十日旧歴四月二十二日聖師様は熊山に御登山になり|御陵《ごりよう》に|奠《てん》せられましたので、筆者も随行致しました、当時の記事を御参考のため掲載させて頂きます。
[412]
熊山にお伴して
加藤|明子《はるこ》
「私もいづれ行く」とのお言葉が事実となつて、昭和五年五月十七日の午後、私は聖師様随員北村|隆光《たかてる》氏より|左《さ》の|招電《せうでん》を受け取りました。
セイシサマ一九ヒゴ五ジヲカヤマニオタチヨリスグコイ、
発信局は福岡、さてはいよいよ問題の熊山御登山と気も勇み立ち、いそいそ岡山へと志す。
十九日は|払暁《ふつげう》より|空《そら》いと曇りて|天日《てんじつ》を見ず、お着きの五時|細雨《さいう》|頻《しき》りに|臻《いた》つて暗い天候であつた。|着岡《ちやくかう》された聖師様はステーシヨンにて新聞記者の問ひに答へて
「晴天であつたら登山するし、天候が今日の如く悪ければ|止《や》めて亀岡へ直行するつもりです」
と申されてゐた。そしてまた小さな声で「熊山登山はまだ一年ばかり早い」と|呟《つぶや》いて居られたので、|側聞《そくぶん》してこの度はあるひは駄目になるかも知れないと、晴れぬ思ひで一夜を過ごした。おひおひ集まる人々の中には遠く東京よりわざわざ|馳《は》せ参じた人もあつた。
県下の新聞は申すまでもなく、|大朝《だいてう》|大毎《だいまい》二大新聞が前々よりかなり書き立て、また新調の|駕篭《かご》、揃ひの|法被《はつぴ》がこれもかなり長い間待ち詫びてゐるので、どうか晴天にしたいものと願つた。
「駄目でせうか」
「この有様ではね」
浮かぬ顔をして皆がかう語り合つてゐる。
雨は益々|降《ふ》りしきる。そもそもこの度九州へ|御旅立《おたびだち》のみぎり、帰途は必ず熊山へ登るのだと申されてゐたのを、急に変更され「かかる重大なる|神事《しんじ》を他の帰りがけの|序《ついで》に遂行するのはよくないことである。帰つて出直してゆく」と申し出されたのであつた、だが──私は心ひそかにこの度の御登山を|神剣《しんけん》御発動の|神事《しんじ》、……
バイブルのいはゆる「大なるミカエル立ち上がれり」に相当する重大事と考へてゐたので、九州お出ましは当然なくてはならぬ、天津祝詞中の「筑紫の|日向《ひむか》の|橘《たちばな》の|小戸《をど》の|阿波岐原《あはぎがはら》に|御穢《みそぎ》祓ひ給ふ」といふ|祓戸《はらひど》行事にかなはせんがためであつて、きつと御登山になるに違ひないと独り|決《ぎ》めにしてゐた。北村随行に会つて聞いて見ると「岡山お立ち寄りのことは全然予定されてゐなかつた、福岡で突如として|命《めい》が下つたので驚いた」とのこと、しかし神界では既定のプログラムであつたに相違あるまい。
岡山に着いて見ると、熊本県|小国《をぐに》支部の高野|円太《ゑんた》氏が、ヒヨツクリ顔を出し「聖師様がついて来なはれ」とおつしやつたので随行して来ましたといふ。これも恐らく|祓戸《はらひど》の神様を御同行になつた型であらう、背の高い高野さんの後からついて行くと、何だか|大幣《おほぬさ》が歩いてゐるやうな気がしてをかしかつた。北村氏の話によれば、二十日間の御旅行中、短冊一枚も書かれなかつた、|未曽有《みぞう》のことであると。さもありなん、|祓戸《はらひど》行事の真最中であつたから従つて今日の雨も土地に対する|御禊《みそぎ》に相違ないと高をくくつて|寝《しん》につく。
明くれば二十日。午前三時より四時に亘つて|篠《しの》つくばかりの|大雨《おほあめ》、五時頃より雨は上がりたれ共、|暗雲《あんうん》低迷して晴間も見えない。御出発は八時十五分といふに……と皆が顔を見合はせて、心もとなさを交換してゐるのみである。然るに御起床の頃より一天俄かに晴れ初めて、またたくうちに全くの好天気になつてしまつた。一同勇み立つてお伴する。
九時三十分|満富駅《まんとみえき》着、片尾|邸《てい》に|御少憩《ごせうけい》の|後《のち》十時半と言ふに出発、五十町の道を突破して先頭は早くも十一時半頂上に着き、社務所に|少憩《せうけい》、一同待ち合はして零時半いよいよ祭典の式が初まる。
ああこの光景、またとない偉大なる|神事《しんじ》が今|将《まさ》に行はれんとしてゐるのである。古今東西、世界の人類がそもそも何十万年待ち焦がれたことの実現であらう。私は|身体中《からだぢう》を耳にして聖師様の|御《お》あげなさる御祭文を拝聴せうとあせつた。
「これの|戒壇《かいだん》に|永久《とことは》に鎮まり給ふ掛けまくも|綾《あや》に|畏《かしこ》き|主《す》の|大御神《おほみかみ》の|珍《うづ》の|大前《おほまへ》に|謹《つつし》み|敬《いやま》ひ|畏《かしこ》み|畏《かしこ》みも申さく」と、|玲瓏《れいろう》玉を転ばす如き|御声《おこゑ》が聞こえて来た。私は心臓の血が音を立てて高鳴るのを明らかに意識した。少し声をおとされて何かまた奏上されたやうであつたが聞き取れなかつた。
悲しいかな霊覚のない私には、このときにいかに荘厳なる光景が眼前に展開したのか、少しも知る|由《よし》がない。ただ私の想像力は、そこに|神代《かみよ》のままの御英姿をもつて、素盞嗚の大神様が|矗乎《すつく》と立ち上がられ|剣《けん》を|按《あん》じて微笑したまふ光景を造り上げてしまつたのである。
やがて大本祝詞を奏上せらるるに|相《あい》|和《わ》して、|九天《きうてん》にも通ぜよとばかり奏する祝詞の声は天地を震撼していと勇ましく響き渡つた。
五月の|空《そら》くまなく晴れて蒸せかへるやうな青葉若葉の匂ひ、|伽陵頻迦《がりようびんが》の声頻りに聞こえてこの世ながらの天国のさま。ボツと|上気《じやうき》して汗ばみたまふ師の|御前《みまへ》に手拭ひを捧げて「お目出度うございます」と申し上げると「ええ」と答へて頻りに汗をぬぐうて居られる。|卯月《うづき》八日のお釈迦様といふお姿。
お供への|小餅《こもち》を一々別けて下さつて式は終はつた。午後一時|行廚《かうちう》を食し、熊山神社に参拝、亀石、|新池《しんいけ》などを見られ終はつて熊山神社及び四五の|戒壇《かいだん》を巡拝され、四時半再び片尾|邸《てい》に|入《い》られ|少憩《せうけい》の|後《のち》、別院の敷地たるべき|向山《むかふやま》を検分され、七時二十四分発にて岡山に引き返し一泊せられた。
道々承はつたことどもを|左《さ》に……
あの|戒壇《かいだん》といふのは日本|五戒壇《ごかいだん》の一つと言ふのであるが、約千年ぐらゐを経過してゐるであらう、尊い聖跡の上に建てたものである。|経《きやう》の森と今一つの崩れたる|大戒壇《だいかいだん》とは共にその下に|素尊《すそん》の|御髪《おぐし》等を|埋《うづ》めてあるのである。|櫛稲田姫《くしなだひめ》の|陵《りよう》も同じく三つに別れてゐて、小さな|戒壇《かいだん》と言ふのがそれである。|戒壇《かいだん》のかくの如く崩壊してゐると言ふのは、仏法の戒律が無惨に破れてしまつてゐることを象徴してゐる。熊山は実に霊地である。名が|高熊山《たかくまやま》に似通つてゐるし、この山はここら辺りの|群山《ぐんざん》を圧して高いからその意味に於ける|高熊山《たかくまやま》である。|全山《ぜんざん》三つ葉|躑躅《つつじ》が生ひ茂つてゐるのも面白い。四国の|屋島《やしま》、|五剣山《ごけんざん》なども|指呼《しこ》の間にあり、|伯耆《ほうき》の|大山《だいせん》も見えると言ふではないか、此処は将来修行場にするとよいと思ふ。私は|駕篭《かご》であつたから楽なはずであるが、|急坂《きふはん》を|舁《か》つぎ上げられたのだからかなり【えら】かつた。|諸子《みんな》は徒歩だから一層えらかつたであらう、|今日《けふ》、|駕篭《かご》をかいでくれた人たちが着てゐたあの|法被《はつぴ》、あれがよい、ああいふ姿で登山して|戒壇《かいだん》を巡拝して歩くとかなりの|行《ぎやう》が出来る、崩れた|戒壇《かいだん》は積み直さねばなるまい、亀石は別にたいしたものでも無い、|新池《しんいけ》には|白竜《はくりう》が住んでゐて、赤と青との綺麗な玉をもつてゐる、青の方は|翡翠《ひすゐ》の如く、赤の方は|紅玉《こうぎよく》のやうな色をしてゐる。
弘法大師が|熊山《ここ》に霊場を置かうとしたのをやめて|高野山《かうやさん》にしたといふが、それはその地形が|蓮華台《れんげだい》をしてゐないからである。|向山《むかふやま》の方は|蓮華台《れんげだい》をしてその地が綾部によく似よつてゐる云々
まだ他にも承はつたことがありますけれど、それは実際が物語つてくれると存じます。
とも角も、遂に昭和五年五月二十日、旧歴四月二十二日といふ日をもつて、|神素盞嗚尊《かんすさのをのみこと》の永久に鎮まり給ひし|御陵《ごりよう》の前に立たれたのである。復活! |神剣《しんけん》の発動 !かういふ|叫声《けうせい》が|胸底《きようてい》から|湧出《ゆうしゆつ》して来る。日本も世界も大本もいよいよ|多事《たじ》となつて|来《き》さうな気がしてならぬ。近頃のお歌日記の中から
そろそろと世の大峠見え|初《そ》めて
立ち騒ぐなりしこのたぶれが
と言ふのを|見出《みいだ》して私の想像も|満更《まんざら》根底がないものでもないと思ふやうになりました。
学術上この|戒壇《かいだん》は日本|五戒壇《ごかいだん》の一つと称せられ、大和の|唐招提寺《たうしようていじ》、比叡山、|下野《しもつけ》の|薬師寺《やくしじ》、九州の|観音寺《くわんのんじ》と共に天下に有名なものださうで、ただその大きさにおいて他の四つに比して比較にならぬほど大きなもので、|戒壇《かいだん》としても普通のものでなく、|大乗《だいじよう》|戒壇《かいだん》であらうと考へらるるのであるが、沼田|頼輔《よりすけ》氏や上田|三平《さんぺい》博士らも何とも見当がつかなかつたといふことである。
|莫遮《さもあらばあれ》、この度の御登山によつて総てが判明したのは結構なことでありました。|向山《むかふうやま》は|本宮山《ほんぐうやま》といふよりもむしろ|神島《かみじま》にそつくりの形をしてゐて、|吉野川《よしのがは》がその|麓《ふもと》を流れてゐる有様は確かに|本宮山《ほんぐうやま》に似てゐます。「今までにたいした因縁の地ではないが、|汚《けが》されてゐないからよい」とのことでした。そしてまた「神様の|御気勘《ごきかん》に叶つたと見えて、|今日《けふ》の登山を無事に了することが出来た、もしさうでなかつたらこの好天気にはならなかつたであらう」とつけ加へられました。このお言葉から|推《お》して御神業は一年あまり進展したと考へてさしつかへあるまいと思ひます。この秋頃よりはエンヤラ巻いたの掛け声が熊山にも|向山《むかふうやま》にも盛んに起こることでせうし、また私たちも大急行で身魂研きにかからねばならないやうな気が致します。
[413]
噴火口と|蓮華台《れんげだい》
|本宮山《ほんぐうやま》、亀岡、|皆神山《みなかみやま》は共に噴火口の跡にあるので|蓮華台《れんげだい》をなしてゐるのである。これらの土地は噴火口中の中央にあつて、この部分のみが噴水せずしてただ膨張せしのみで縮んで了つたものである。故にそれが|蓮華《れんげ》の|心《しん》にあたる地形をなし島として残り上古その周囲、即ち噴火口全部に水を湛へて湖水であつたのである。|本宮山《ほんぐうやま》、|皆神山《みなかみやま》は数十万年前の噴火にかかり、亀岡は十万年ぐらゐ前に噴出したもので、水の上に浮き出て居つたから、|水上山《みなかみやま》の名称が起こつたのである。
[414]
お友達が欲しい
昔の友達の訪問を受けることは、私にとつて嬉しいことの一つである。「お行儀が悪くてときにはハラハラする」と言ふのか、それが私に取つては|真《しん》に嬉しいので、ああした無遠慮な言葉を使ひ、態度を取つてくれるので、私も上田喜三郎の昔にかへつて、シミジミと人間味を味はふことが出来るのである。
近頃は|穴太《あなを》の人たちまでが、聖師さん聖師さんと呼び初め、友達が一人二人と無くなつてしまつて心細い。私の友達には|車夫《しやふ》もあれば、|侠客《けふかく》もあるし、府県庁の役人もあるが、友達はいつまでも友達としておきたい。
[415]
久方の|空《そら》
|空《そら》の枕言葉を久方と言ふが、久方とは|瓢形《ひさごがた》といふ意味で、お日様とお月様をつなぎ合はすと|瓢箪《へうたん》のかたになるからさういふのである。
|黄金閣《わうごんかく》上の|瓢形《ひさごがた》はこの意味で造られてゐるのである。
[416]
ミロクの礼拝|惟神真道弥広大出口国直日主之命《かんながらまみちいやひろおほいつきくになほひぬしのみこと》
今の大本の礼拝、あれはミロクの拝み方と言ふので、|大本皇大御神《おほもとすめおほみかみ》守り給へ|幸倍《さちはへ》給へと二回|奉称《ほうしよう》し、次に|惟神真道弥広大出口国直霊主命《かんながらまみちいやひろおほいつきくになほひぬしのみこと》守り給へ|幸倍《さちはへ》給へと二回|奉称《ほうしよう》し、終りに惟神|霊魂幸倍坐世《たまちはへませ》と、二回唱へる、即ち三つの事柄を二回づつ称へるので|三六《みろく》になるのである。
[417]
再び日本刀について
日本刀が世界に|冠絶《くわんぜつ》する|所以《ゆゑん》は、モリブデン(|水鉛《すゐえん》)を混入して鍛へる秘法を早くから知つて居つたからである。二三十年|前《ぜん》から|独逸《ドイツ》あたりでこの秘密を発見して、精巧なる軍器を造り出してゐるが、日本においても秘密中の秘密として、|深山《しんざん》に入つて造つたので、天狗に教はつたなどと称し決して他人に教へなかつたものである。鉄も|雲《うん》、|因《いん》、|伯《はく》の|三国《さんごく》に限られたもので、この他から出たものでは、たとへモリブデンを混入してもさう立派なものは出来ない。この鉄があり、|水鉛《すゐえん》があるので|細矛千足《くわしほこちたる》の国の名に背かぬ逸品が出来たのである。|素尊《すそん》|斬蛇《ざんじや》の|十握《とつか》の|剣《つるぎ》は|長船《をさふね》では無いかと聞くが、それは違ふ、前いふ通り、|雲《うん》、|因《いん》、|伯《はく》|三国《さんごく》のうちに産する鉄でなければならないのだから、これは|長船《をさふね》で鍛へられたものではない。
[418]
美しい人
容貌の美しい人は、心も美しい。これは霊体不二の理によつてしかあるべきであるが、美しい人であつても心の修養が足らないと、悪魔に誘はれその|虜《とりこ》となり、|外面《げめん》|如《によ》菩薩内心|如《によ》夜叉の|悪女《あくぢよ》となつてしまつて、折角の|天恵《てんけい》を台なしにしてしまふのである。美しいと一口に言ふが、目鼻だちが|調《ととの》うてゐても、きめの荒い、毛のムジヤムジヤと生えてゐるやうなのは美しい人の中に入らぬ。きめの細かな人ほど霊が上等である。
[419]
天狗
天狗にも種々の階級があるが、人間界において責任を果たさず、|行《ぎやう》が成功しなかつたものが霊界に入つて|行《ぎやう》をしてゐるので、竜神と同じく|三寒《さんかん》|三熱《さんねつ》の苦しみを受けてゐるのである、地獄界の中に住するのではなく、肉体的精霊界に住するものである。|行《ぎやう》終はつて|後《のち》再び人間界に生まれて来るもので、それから人間界の|行《ぎやう》を完全に仕遂げたならば、天国へ入つて天人の列に加はることを得るのである。
[420]
|胆力《たんりよく》養成家
今は昔、|御嶽教《みたけけう》の主事に小野某といふ人があつて、|胆力《たんりよく》養成書と言ふ小冊子を発行し、|傲然《がうぜん》と、常に座布団を積み重ねてバイの|化物然《ばけものぜん》とかまへこみ、「たとへ|白刄《はくじん》、頭上に|閃《ひら》めくとも、絶壁、前に聳ゆとも大地震、洪水来たるとも、|胆力《たんりよく》さへあれば断じて驚くものにあらず」と豪語してゐた。そこで私は小野某に向ひ「あなたは、今言はるる通りの度胸が据はつてゐますか」と尋ねて見た所、「もちろんのことなり」と答へながら腕を組んで|鷹揚《おうやう》振りを見せてゐた。そこで私は次の間に|入《い》り、しばらくして|一刀《いつたう》を抜き放ちてをどりこんでやつた。さうすると|周章狼狽《しうしやうらうばい》|顔色《がんしよく》を変へブルブル震へながら六七間ばかりころげ、庭に落ち込み両手を合はして「許してくれ」と詫びたことがある。今から考へると若気の至りでいろんなことをやつたものだ。
またあるときのこと、私を刺す目的をもつて面会を求めて来た一人の若い男があつた。懐中に短刀を呑んで来てゐることがよく分かつてゐるので、私は火鉢に手を|翳《かざ》しながら、右手で火箸を|鉾《ほこ》に構へ、いざと言ふ場合にはあつ|灰《ばい》を跳ね飛ばして|防禦《ばうぎよ》しようと思ひつつ「|君《きみ》、人を刺さうと思ふものは余程|胆力《たんりよく》が据わつて居らねばならぬなア、自分の着物にゐる|蚤《のみ》でも|虱《しらみ》でも殺し尽くせないものだ。まして人間を殺すと言ふことは余程の|大胆者《だいたんもの》か、発狂者でなければ出来ない芸当だ」と言うてやると、急にビリビリ震ひ出して「どうも悪うございました、許して下さい」と言ひながら短刀を取り出して平謝りに謝つて、夜ふけて帰つた者もあつた。深い深い信仰を持つた善人ぐらゐ本当の|胆力《たんりよく》の据わつたものは無いのである。
[421]
|聖壇《せいだん》
霊界物語がなぜ出て来ないかと思つたら、神様が神格が違つて来たから「|聖壇《せいだん》の上でなければ口述が出来ない」とおつしやつた。筆録者も|斎戒沐浴《さいかいもくよく》、一定の衣装をつけて謹写することになるのである。
この|聖壇《せいだん》は、両聖地に据ゑられるので、綾の聖地においては|穹天閣《きうてんかく》、天恩郷にては|高天閣《かうてんかく》に備へつけらるるのである。壇は横巾三尺、縦五尺六寸七分、高さ三尺三寸、松及び桧材にて造られ、下の段には十文字の|梁《はり》を|入《い》れ中央に柱を立てて支持するやうにし、全体を|栗色《くりいろ》に塗る。上段は小さき|勾欄《こうらん》にて周囲をかこんだものである。
[422]
再び|素尊《すそん》|御陵《ごりよう》について
熊山において再び数個の|戒壇《かいだん》を発見したと言ふのか、さうであらう、さうでなければならぬはずである。全体素盞嗚尊様の|御陵《ごりよう》は、三つの|御霊《みたま》に因んで三個なければならぬので、|前発見《ぜんはつけん》のものを中心として恐らく三角形をなしてゐるであらうと思ふ。他の二つには|御髪《おくし》、|御爪《おつめ》などが納められてゐるのである。独り素盞嗚尊様に限らず、高貴なる地位にある人々は、毛髪等の一部を葬つて、そこに墓を築き、ありし世を偲ぶの|便宜《よすが》としたもので、人物が偉ければ偉いほどその墓は沢山あるものである。遺髪、爪などを得ることが出来ない場合は、その人の所持品例へば朝夕使つた|湯呑《ゆのみ》とか|硯《すずり》とか、さう言ふものまでも墓として祀り崇敬の誠を致したものである。|尚《なほ》さうしたものも得られない場合は、その人の居つた屋敷の土を取つて来て、かつては故人が|足跡《そくせき》を|印《いん》した懐しい思ひ出として、これを納めその上に墓を立てて祭つたのである。現代でも富豪などでは自分の|菩提寺《ぼだいじ》に墓を持ち、また|高野山《かうやさん》に|骨肉《こつにく》の一部を納めたる墓を持つてゐると同様である。天照大神様の|御陵《ごりよう》などと称するものが方々から現はれて来るのはかういふ理由である。
|櫛稲田姫《くしなだひめ》|御陵《ごりよう》もそこにあるのであるが、詳しいことは行つて見ねば判らぬ。
[423]
|梅花《ばいくわ》とその実
梅の花が咲いてバラバラと早く散つた年は沢山実を結ぶ。これに反して、花が|梢《こずゑ》にカスカスになつてひつついてゐる年は実のりの悪いものである。
[424]
身魂の因縁
私は女が断り無しに背後に回ると、ブルブルと震へて来る。たとへそれが小さな小供であつても同様だ、私の霊はかつて武将としてこの世に生まれ出てゐたことがある。元来あの本能寺の変のとき、信長は自殺して果てたと歴史には記されてゐるが、実際はさうでなく、ああした|不時《ふじ》の戦ひであつたため|防禦《ばうぎよ》の方法もつかず、万一|雑兵《ざふひやう》の手にでもかかつて死ぬやうなことがあつたならばそれこそ一代の名折れであるといふ|咄嗟《とつさ》の考へから、|阿野《あの》の|局《つぼね》が後ろから|薙刀《なぎなた》でものをも言はず|殺《あや》めたのである。そのときの記憶が甦つて来るのであらう、女が後ろに来ると反射的にブルブルとする。秀吉の身魂では無いかといふのか、さう秀吉であり、同時に家康であり、三つの|御魂《みたま》の活動をしてゐたのである、と神様に聞かされてゐる。
[425]
日本人の寿命
日本人の平均寿命は三十歳である。大学を卒業して間もなく死ぬものがあるのは、これはお土に親しまぬために起こるのである。
[426]
|躓《つまづ》く石
|躓《つまづ》く石も縁の|端《は》しといふ|諺《ことわざ》があるが、全くその通りであつて、敵となり味方となり、友となり|仇《あだ》となるもとにかく幾十万年か、限り無く永劫より永劫に続くときの流れの中に、同じ時代において|生《せい》をこの世に受け、また世界十七億の人口の中にあつて、同じ国に生まれるといふことさへも、|一方《ひとかた》ならぬ因縁であるのに、朝夕顔を合はせ、同じ|竃《かまど》の|飯《めし》を食うといふのは、そこに深い深い因縁があるからである。たとへ同じ時代に生まれ合はせてをつても、一度も顔を合はせること無くして死に行く人が、そも幾億万あるか分からない、これによつてこれを見ればほんの汽車の行きずりに一瞥を与へ合ふ人たちだつて、深い因縁を持つ身魂である。因縁なくして滅多にさうした機会にあふものでは無い、これを思へば人々はその因縁を尊重して、周囲の人と仲良く暮らさねばならぬ。いはんや振り分け|髪《がみ》の昔|馴《なじ》みは決して忘れ得ぬもの、私は境遇がいかに変化を|来《きた》さうとも、永久にこれらの人々を愛して行きたいのである、それが人情ではないか。
[427]
|同殿《どうでん》|同床《どうしやう》の儀
その昔、御神殿といふものは、|同殿《どうでん》|同床《どうしやう》の本義に|則《のつと》つて、屋内に設けられたもので、今日の如く別殿とするのは|唐制《たうせい》を模倣してから以後のことである。この度開祖様の|御像《ござう》を|本宮山上《ほんぐうさんじやう》、|穹天閣《きうてんかく》の私の|室《しつ》にお祭りして、私はそこで寝る。これで古来の通り、|同殿《どうでん》|同床《どうしやう》となつてはなはだ愉快である。二代の|室《しつ》は次の間にある。
[428]
和歌について
歌を詠む秘訣は【水の流るる】がごとく、【ただ安らかに】といふのにある。瀬がきつければかたへの水は逆流する。そんな歌の詠み方はいけない、安らかにそして落ち着く所へ落ちつけばよいのである。上手に詠まうと思ふから詠めないのである。また歌はどんな歌でもその底に|淡《あは》い恋心が流れてゐなければならないものである。
[429]
結び|昆布《こんぶ》(|結婚婦《むすびこんぶ》)
結婚式のとき結び|昆布《こんぶ》をつかふのは夫婦の縁を結び|昆布《こんぶ》といふ意で、また親子の縁を結ぶといふ意味であるからそれをつかつてよいが、|寿留女《するめ》はその意義によつて新郎新婦の間にのみ用ふべきもので、親子間の|盃《さかづき》の|肴《さかな》として使つてはならぬ。
[430]
|頭槌《くぶつつい》|石槌《いしつつい》
昭和五年四月十一日のこと、静岡の長沢|翁《をう》の紹介状をもつて|宗教博《しうけうはく》に|王仁《わたし》を訪ねて来た人がある。|白出《しらで》|柳助《りうすけ》氏といつて、考古学に趣味を持つてゐる人であるが、今を去ること約二十年|前《ぜん》、青森県|中津軽郡《なかつがるぐん》のある地点で、林道開墾の際発見したといふ珍しき石器一個を|携《たづさ》へ来たつて、私に鑑定をしてくれといふ、元来この石器は京都、東北、北海道の各帝国大学、並びに東京、京都の両博物館にて鑑定を|請《こ》うたが、何物か一向に分からず、|斯道《しだう》の専門家も絶えてこれを知らず、何処においていかなる民族が用ゐしものなるか、その用途も分からず、欧米各国に|徴《ちよう》するも、その類例さへも存せずといふのである。これをもつて、日本中唯一無二の逸品として学術界に珍重せられてゐる、といふのであつた。形は|裁《た》ち物包丁に似て長さ一尺余、|茶褐色《ちやかつしよく》の|滑《なめら》かな石質、上部は平面にして側面に溝あり、溝のつくる所に一個のイボの如きものあり下部は筒形をしてゐる。
これは|頭槌《くぶつつい》|石槌《いしつつい》といつて、太古帝王または神柱が|佩《を》びてゐたものである。武器ともなりまたは病気などを治す道具として使用したものである。その使用法は、イボをもつて敵の眉間を打つて倒したものである、だから敵を斬るのをうつといふことになつたのである。また上部の扁平なる部分は|熱灰《あつばい》につけて熱し、その溝のところを【ちりげ】より|脊柱《せきちう》に添うてあてて病気を治すので、たとへば|灸点《きうてん》の如き働きをなすのである。私が霊界物語を口述してゐる際、霊眼に映ずる昔の|主《おも》なる宣伝使は腰にこれをさしてゐるので、それに擬して私も宣伝使たちに|御手代《みてしろ》を渡しておいたのである。古事記中巻|神武《じんむ》天皇の一節
「かれその土蜘蛛を打たんとすることを明かせる歌
|忍坂《おさか》の |大室屋《おほむろや》に 人さわに |来《き》|入《い》り居り 人さわに |入《い》り居りとも |稜威稜威《みづみづ》し |久米《くめ》の子が 【|頭槌《くぶつつい》|石槌《いしつつい》】|以《も》ち |撃《う》ちてし|止《や》まむ みづみづし|久米《くめ》の子らが 【|頭槌《くぶつつい》】 【|石槌《いしつつい》】もち いまうたばよらし。
かく歌ひて刀を抜きて、もろともち打ち殺しつ。」
この歌の中にある|頭槌《くぶつつい》、|石槌《いしつつい》がそれである。大学あたりでは模造してもつて参考にしてゐるし、かつては天覧に供したこともあると|白出《しらで》氏はいうてゐるが、何分とも|稀代《きだい》の珍器たるを失はない。
聖師より|白出《しらで》氏に贈られし歌
|古《いにしへ》の|聖《ひじり》の|岐美《きみ》の|佩《はか》せましし
|今日《けふ》|頭槌《くぶつつい》|石槌《いしつつい》拝む
|千早振《ちはやふる》|神代《かみよ》のさまのしのばれぬ
|雄《ゆう》と仁との|石槌《いしつつい》みし
[431]
姓名
元来姓名を書くとき姓は大きく、名は小さく書くべきである。姓は祖先を現はし、名は自分を現はすのであるから、さうあるが当然である。
[432]
|不知火《しらぬひ》
|不知火《しらぬひ》といふのは、|海神《かいしん》の修せらるる祭典である。歴史にも無ければまた科学で幾ら研究しても分かるものでは無い、人間の知らぬ火であるから|不知火《しらぬひ》といふのである。
[433]
人に化けた狸
|福知山《ふくちやま》にての出来事であるが、開祖様が十七八歳の頃一人の背の高い大坊主が住んで托鉢をやつてゐた。五六年もその土地にゐたので誰もが人間だと思つてゐた。然るにある日のこと某|侍《さむらい》が彼と話しをしてゐるうち、耳が頻りに動くのでその故を問うと、風が吹くからだといふ、風が吹いて耳が動くとは怪しい、狸の|類《たぐひ》が化けてゐるのに相違ないとていきなり|抜手《ぬくて》も見せず斬りつけて殺してしまつた、そして|屍《しかばね》を|川原《かはら》に|曝《さら》しておいた、夜が明けると人間の姿であつた大坊主はダンダンと変はつてたうたう狸の姿になつてしまつた、開祖様も実地に見に行かれたさうで、時々そのことを話してをられた。
これと反対に本当の人間を狸と間違へた|例《ためし》もある。|園部《そのべ》に珍妙さんといふ尼さんが住んでゐた。小さな小供のやうな背をしておまけにビツコでヒヨクリヒヨクリと歩いてゐた、言葉つきなども小供のやうで明瞭を欠いてゐた、その後|園部《そのべ》を|後《あと》に|畑中《はたけなか》といふ所の|尼寺《あまでら》に移り住んでゐたが、ある夜のことお仏前にお灯明を捧げようと思ふと|生憎《あいにく》油が切れてゐたので、|徳利《とくり》をさげて買ひに出掛けた。話変はつてその頃新しくその村に赴任してきた駐在巡査が夜警に出ると、向ふから、小供とも大人とも分からぬやうな尼が|油徳利《あぶらどくり》をさげてやつて来る、怪しいと思つて|誰何《すゐか》すると、|畑中《はたけなか》の尼や、油を買ひに行くのやと|呂律《ろれつ》の回らぬ小供のやうな言葉で答へたので、何、|畑中《はたけなか》から油を買ひに行くと、人を馬鹿にするない、|化狸《ばけだぬき》めがと、サーベルの|鞘《さや》で|擲《なぐ》りつけると、キヤツと叫んで倒れてしまつた、巡査は狸だと信じ切つてゐたので翌日その話を隣人にすると、いやそれは全くの人間だとのこと、ビツクリしてその後の様子を聞いて見ると、尼さんは病床でウンウンと唸り続けてゐるとの話、びつくり敗亡……その後間もなくその巡査は転任になつたとの噂を聞いたことがある。
狸が人間に化けてゐるか、どうかといふことを見るためには、そばでマツチを|擦《す》つて見るとよい。狸なら毛がやけるから恐れて逃げる。また体を逆さまに撫でて見ても毛がモジヤモジヤと生えてゐるから分かるものである。
(以上は過日某新聞紙上に狸を夫と思うて同棲した女といふ記事が出てゐたのでかかることもあるものにやとお伺ひしたときのお話であります。)
[434]
|襟首《えりくび》
神の作りたまひたる|人間美《にんげんび》のうちで、|襟首《えりくび》こそはその随一である。美人の価値はこれで|定《さだ》まるので、顔の美醜で|定《さだ》まるものではない、|襟首《えりくび》は綺麗にしておくがよい。
|詑言《わびごと》をいふ女房の|襟《えり》に惚れ
詫びてゐる女房の|襟《えり》に惚れ直し
[435]
打算から
○○さんや××さんや四五人の人を|三朝《みささ》温泉に|入湯《にふたう》にやつた。少し体が弱いから丈夫にしてやらねばならぬと思つてネ…、長い間世間の攻撃や種々の迫害に打ち勝つて神の道に殉じて来た大本の宝であるから、|大切《だいじ》にしてやらねばならぬ。あまり勿体ないからとて固辞するから、何をいうてるのだ|私《わし》の大切な道具だから手入れをせうというのだ、|私《わし》は打算上からさうせうと思つてをるのだ、何も気兼ねすることは無い、というてやつたら、さう仰せらるれば、お言葉に甘えてやらせて頂きますといつて喜んで行つたよ。全く大本の宝だよ、よう辛抱して来た、散々|悪口《あくこう》をいはれながら……。人物は大切だ、これだけに養成せうと思へば並大抵のことでは無いからな、今頃|斃《たふ》れられては|私《わし》の損害になる。
[436]
四十八の夜中
婦人妊娠の限度は四十八才の夜中までとしてある。即ち満四十八才の夜の十二時まで受胎の可能性があるわけである、中には例外もあるけれど。
[437]
|人魂《ひとだま》
|人魂《ひとだま》のうち色の赤いのは|生霊《いきりやう》であり、色の青いのは|死霊《しりやう》である
[438]
|蕁麻疹《じんましん》の薬
|蕁麻疹《じんましん》や、その他腹に水が溜る病には、|辣韮《らつけう》を|一瓶《ひとびん》誰にも食べさせずに自分一人で食べると治る。
[439]
|茄子《なす》
|茄子《なす》には|仇花《あだばな》が無いといふが、その通りで、小さいときにどんどん取つてやると一本の木に千個からなるものである。
[440]
婦人病
子宮病、ことに婦人共通の疾患である|白帯下《こしけ》の療法としては、|水《みづ》一斗に塩五合の割合をもつて|温湯《をんたう》を造り、|坐浴《ざよく》をするがよい。|海女《あま》などが、水につかりながら、比較的婦人病にかからないのは、塩水につかつてゐるからである、|子宮後屈《しきうこうくつ》などの機質的のものは、手術でも薬用療法でも治らぬ。霊体一致の理によつて、|心《こころ》常に神に向ひ、神の光と熱とを受くるやうになれば、それらの病は全癒して、自然の通り位置正しく、どこにも欠陥がなくなる、人はただ神を信ずることによつてのみ、霊体とも完全にあり得るものである。
[441]
万病の妙薬
万病に利く薬は、|辣韮《らつけう》である。前にもちよつと話しておいたが、|辣韮《らつけう》は多量の酸素を含有してをつて、心臓、肺臓、胃腸、|腎臓《じんざう》、|脚気《かつけ》等あらゆる病気に特効があるその上に、血液を清浄にし循環をよくし、|水気《すゐき》をとる故に|水腫《みづはれ》の病に使用し、また利尿剤としても顕著な効能があるもので下熱剤としても、|収斂剤《いうれんざい》としても有効である。食時に際し、|副食物《ふくしよくぶつ》としてとつてゐるとかういふ病は|自《おのづか》ら全治するものである。要するに内臓一切の病気に利くのである。ただし一個の|瓶《びん》は一人の専有として、他の人に食べさせてはいけないのである。その理由は、多人数よつて|一瓶《ひとびん》を食するときは、霊がこもらぬからである。
[442]
たむしの薬
たむし、水かさ、ひぜんなどにはクレオソートをつけるとよい。
クレオソートをつけるとかなり|劇《はげ》しい痛みを感ずるものであるが、非常に効果がある、しかしながらひどく痛みを感ずるやうなれば、薄めて使用したがよろしい。京都分所の中村宣伝使は多年頑強に襲つてゐた顔面のタムシが一回のクレオソート塗布で全治した、然しかなりの痛みを感じ、一時は人前にも出られないやうな皮膚の色になつたが、三四日でそれがきれいに治つてしまつたと報告がありました。
[443]
便所の臭気どめ
桐の葉を便所に入れておくと虫が湧かない、臭気|止《と》めにもなる。
[444]
|痔《ぢ》の治療法
塩のにがりで患部を|洗滌《せんでう》するのである。ただしシミて痛みを感ずるものであるから、予め神様に、|酷《ひど》く痛まぬやうお願ひをして|後《あと》にするがよい、さうすると痛くなく楽に治る。
[445]
血止めの法について
半紙の右辺を、右手に持ち、左手に左辺を持ち、|一二《いんに》が二と称へて二つに折り、右の手にて持ち、次に|二二《ににん》が四と称へ上方より二つに折り、右手にて持ち、次に|二四《にし》が八と称へて、左より右に折り、そのまま場所に当てる、この際決して手を離してはならぬ。
筆者申す、最近のこと|筧《かけひ》宣伝使|剃刀《かみそり》にて顔を傷つけられし際、この法を実施せしに、たちまちにして出血止まりたれば大いに驚き合ひました。
[446]
|脾肝《ひかん》の虫の薬
|脾肝《ひかん》のむしといつて小供がかかる病気がある。私も小さいときそれに|罹《かか》つて長らく苦しんだが、それには【いぼがへる】の肉をつけ焼きにして食べるとよい。綺麗な|鶏《にはとり》の|笹身《ささみ》のやうな肉である。
[447]
肺病について
肺病になま|葱《ねぎ》が効能あることはかつて話しておいたが、それには一つの条件が伴ふので、その条件といふのは男女の交はりをたつことである。断つというても一生涯たつといふのではなく、病気のときだけで、全快した|後《あと》はもちろん差し支えないのであるが、その辛抱が出来ないでみすみす大切な命を失ふ者があるのは情ないことである。肺病の中でも|喀血《かくけつ》するのは一番性質のよいもので、悪いものを皆|咯《は》き出してしまふのであるから、性交さへ慎んだらきつと治るのである。
今は昔の話となつたが京都にNといふ男があつて、人妻であるTといふ女と通じて不都合のありたけを尽くす。Tは全く亭主を尻に敷いて、情夫と共にあれせい、これせいと命令を下すと、お人よしの亭主は|諾々《だくだく》としてその命令に服従するといふふうで、全くお話にならぬ。私が矢釜しういうて叱つてやると、そのときは神妙に改心するのであるが、しばらくすると、また|本《もと》の|木阿弥《もくあみ》、これは双方に夫婦の狐がついてゐたのである。Nは肺病にかかつてゐたので、「男女の交はりをたたぬと三年のうちに命が終はるからよせ」といふと、「仰せの通り三年にして命が終はつてもよろしい、好きなことをして死にとうございます、好きなことせんくらゐなら生きてゐても仕方がないのです」というて聞かなかつたので、とうとう死んでしまつた。狐の生活をしようといふのだから仕方がない、その狐がまたある人に憑依してしまつたのだが、その人は神の道にゐながら、性的生活に没頭してしまつて、人間の|能事《のうじ》|了《を》はれりといふ有様である。人間が肺病にかかると、とかく情欲が|昂進《かうしん》するもので、これを抑へ切る勇気が|為《な》いと到底助からぬのである。
[448]
再び血止めの法について
半紙の上を指にて、イロハニホヘ、と唱へつつ右回転に円を|描《ゑが》き押さへ、最後に【ト】と唱へて円の中央を人さし指でおさへ、その紙を出血部に当てると、直ちに止まる。
|瘡《きず》などを直すには、同様紙上を指にてイロハニホヘトチリヌルヲワカヨタレソツネナラムまで唱へながら前と同じく円形に押さへ、最後にウシ、ウシ、ウシ、と三遍唱へて、|瘡《きず》の上にその紙を当てるのである。
|腫物《しゆもつ》はまた、紙を|二分《にぶ》ぐらゐの巾に切り、|腫物《しゆもつ》の周囲を取り巻き、その紙の上に、南、南、南と沢山書いておけば痛みが止まり、だんだんと治つて来る。歯のうづくときも同様の処理で治る。|腫物《しゆもつ》の痕跡を取るには|同上《どうじやう》の形式に北、北、北と書くのである。古い痕跡は同じ形式で、中、中、中と書いておくのである。綺麗に取れてしまふ。
[449]
|腋臭《わきが》の根治法
ワキガを根治するには、お土を三週間つづけて塗付するのである。お土がすつかり|黴菌《ばいきん》を吸ひ取つてしまふので、臭気がなくなるのである。
[450]
|中風《ちうぶ》、|百日咳《ひやくにちぜき》、|喘息《ぜんそく》
|中風《ちうぶ》、|百日咳《ひやくにちぜき》、|喘息《ぜんそく》これらの病には殆ど薬はない。|百日咳《ひやくにちぜき》と|喘息《ぜんそく》には私の吸うた煙草の吸ひ残しを吸うて治つたといふ人が沢山あるが、……|中風《ちうぶ》は信仰の足らない所から起こるので、|身体《からだ》の一部分、あるひは殆ど全部を|悪霊《あくれい》に占領されてゐるのである。一生懸命に信仰するより他に方法は無い。だが|楽焼《らくやき》の|初窯《はつがま》の茶碗で茶を|喫《の》んでゐると、この病気に|罹《かか》らぬものである。
筆者申す、|初窯《はつがま》といふのは|楽焼《らくやき》の|窯《かま》を築いて最初に焼いたもので、|初窯《はつがま》は|数《かず》が少ないものであるから、|普通値《ふつうね》の十倍に|価《あたひ》するものださうです。この度|明光社《めいくわうしや》付属の第二|工場《こうば》で新たに|窯《かま》を築いて、聖師様御自作の|楽焼《らくやき》を焼かれましたが、その|初窯《はつがま》を|明光社員《めいくわうしやゐん》その他四五の人々に下げられました。これこそは、|中風《ちうぶ》予防の天来の福音、天下の名器と存じます。ちよつとお知らせ申し上げておきます。なほ|百日咳《ひやくにちぜき》、|喘息《ぜんそく》の方が聖師様おすひのこりの巻煙草を吸うて、お陰を頂かれ全癒された方は、枚挙に|遑《いとま》ないくらゐでございます。|百日咳《ひやくにちぜき》になやむお|児《こ》さんならば、お母さんが吸うて、その煙を吹きかけて上げらるるとよいのです。
[451]
肉食
止むを得ず豚の肉などを食べるときは、「四つ脚、四つ脚、四つ脚」というて食べる。済んでしまうと、「神様、神様」といふ。さうすれば、痛みかかつたお腹もすぐ治つてしまふ。
[452]
|太平柿《たいへいがき》の歌
お腹が膨れる病には、|国依別《くによりわけ》が詠んだ|太平柿《たいへいがき》の歌を拝読すると全癒する。(|海洋万里《かいやうばんり》、寅の巻、自二〇七頁至二四七頁参照)
|国依別《くによりわけ》
『竜神の柿食て|布袋《ほてい》になつチヤール
腹はたちまち【ヘース】なるらん。
柿とつて見ればヘースが当りまへ
腹ふくれチヤール道理わからぬ。
チヤール、ヘース、|国依別《くによりわけ》も諸共に
|天《あま》の【はら】から下りけるかな。
ハラハラと涙流して【はら】を撫で
柿を盗みた腹いせに遇ひ。
腹が立てども仕方なし
竜神腹を立てたのか
汝は横に長い|奴《やつ》
腹立て通しもならうまい
高天原にあれませる|百《もも》の神たち。
大海原にあれませる|速秋津姫神《はやあきつひめのかみ》。
【はら】の悩みを祓ひ玉へ清め玉へ。
ハラハラと|降《ふ》り来る雨に|空《そら》晴れて
|大蛇《をろち》の|空《そら》も澄み渡りけり』
と口から出任せの|腰折歌《こしをれうた》を詠ひながら、チヤール、ヘースの真ん中にチヨコナンと坐り、両人の|布袋腹《ほていばら》を両方の手で撫で回してゐる。|薄紙《うすがみ》を剥いだやうに二人の腹は|漸次《ぜんじ》容積を減じて来た。
|国依別《くによりわけ》
『それ見たか女房が撫でる【ふぐ】の腹
オツトドツコイ
それ見たか|国依《くにより》なでる柿つ【ぱら】
天津神国津神【はら】ひ玉へ清め玉へ
|高山《たかやま》の|伊保理《いほり》|短山《ひきやま》の|伊保理《いほり》
【かき】分けて聞こし|召《め》せよ
これが|盲《めくら》の柿のぞき
節季が来たぞ節季が来たぞ
【かき】出せ【かき】出せ
四月と二月の|死際《しにぎは》ではないぞ
今が二人の|生命《いのち》の瀬戸際
万劫末代生き通し
|皇大神《すめおほかみ》の守る身は
たとへ|大蛇《だいじや》の潜むとも
【|大蛇《だいじや》】あるまい二人連れ
ああ惟神惟神
|御霊《みたま》|幸《さち》はひましまして
チヤール、ヘースが苦しみを
|片時《へんじ》も早く救はせ玉へ
その|源《みなもと》を尋ぬれば
|国依別《くによりわけ》より出でしこと
罪は全く我が身にあれば
何とぞ早く両人の腹を【ひすぼらせ】
|旧《もと》の元気に|恢復《くわいふく》せしめ玉へ
ああ惟神|霊魂幸倍坐世《たまちはへませ》』
と一生懸命に汗みどろになつて祈念しながら両手にて両人の腹を撫で|下《おろ》した。神徳たちまち現はれ、二人は|半時《はんとき》余りの間に元の如くになつて了つた。四五の供人も|国依別《くによりわけ》の祈願によつてたちまち全快せしことを|感歎《かんたん》し、|各々《おのおの》口を揃へて、『|国依別《くによりわけ》の生神様』と合掌するのであつた。
[453]
ピアノ式|按摩《あんま》
肩や背中が凝つたときには指の先で打つのが一番効果があるもので、平手で揉んだり、握り|拳《こぶし》で叩くよりずつとよいのである、かうして|按摩《あんま》するとそこらあたりが|痒《かゆ》くなつて来る、これは血液の循環が速やかになつて来るからであつて、かくして大概の凝りは|直《ぢき》に治るものである。私はこれをピアノ式|按摩《あんま》と名づけてゐる。
[454]
|咳《せき》の妙薬
桐の花を|蔭干《かげぼし》にして、それをホイロにかけ粉にしてほんの一つまみ(|茶匙《ちやさじ》四分の一量)ぐらゐ飲めば直ちに止まるものである。|咳《せき》にはこれが妙薬である。
[455]
病気の薬
池に生ずる|菱《ひし》といふ|水草《みづくさ》を|蔓《つる》も葉も、実も一緒に取つて|蔭干《かげぼし》にしておいて煎じて飲むと|胃潰瘍《ゐかいよう》によくきく、また胃癌にも|卓効《たくかう》がある。
土用の丑の日に|摘《つ》んだ|蓬《よもぎ》を煎じて飲めばどんな重い|痔《ぢ》でも治る。
|青木葉《あをきば》を煎じて|猪口《ちよく》に一杯ぐらゐづつ飲み、またそれをもつて患部を【なで】ると大概な【リウマチス】は治る、ただしひどく慢性になつてゐるものには利かぬかも知れぬ。
|雁瘡《がんさう》には、灯明の【油のをり】をもつて、垣根を結んだ朽ち縄を焼いて灰としたものを溶き、それを患部に貼付すれば治る。
|中耳炎《ちうじえん》には薬はない、ひたすら神様にお|縋《すが》りするより他仕方が無いものである。
梨は病人の|食物《しよくもつ》として最も結構なもので、昔の|諺《ことわざ》に「夏の病人梨より食ひつく」といふのがあるが、食欲の無い病人には梨を与へると、それから食事を摂るやうになる。
|痳病《りんびやう》には|西瓜《すゐか》が妙薬である。
この神示の薬に依つて御神徳を頂き全癒された方は筆者宛て御通知を願ひたう存じます。
[456]
食ひ合はせについて
梅と|鰻《うなぎ》。|南瓜《かぼちや》と梅。共に食ひ合はせるといけない。梅、|鰻《うなぎ》、|南瓜《かぼちや》と三つを食ひ合はすと|壊血病《くわいけつびやう》を起こしたり、胃腸病を起こし一命にもかかはる。だからその一つを食べたら必ず二十四時間を経なければ他のものを食べてはならぬ。
[457]
|眼瞼《まぶた》に入つた塵
汽車で旅行する場合、ともすれば|煤煙《ばいえん》に交じつて|塵埃《ほこり》などが|眼瞼《まぶた》に入つて困ることがある、さういふ場合簡単にこれを治すには、もし|上眼瞼《うはまぶた》に|塵埃《ほこり》が入つたなら|上眼瞼《うはまぶた》を持ちあげて|下眼瞼《したまぶた》をその中に押し|入《い》れ静かに放すのである、下に入つた場合には|下眼瞼《したまぶた》を持ち上げて|上眼瞼《うへまぶた》をその中に押し込み静かに放つ、かくすれば|睫毛《まつげ》は小さなブラツシの働きをなして掃除をしてくれるので|塵埃《ほこり》はわけなく出る、人間の体はかくの如く微妙に神様が作つて居られるのである。
[458]
小判の効能
心臓病、肺病等の病気には小判を煎じて飲ましてやると|卓効《たくかう》があるものである、すべて|金《きん》は人間の体にはよいもので、歯の|金冠《きんくわん》なども知らず知らず|金気《かなけ》が体内に入つてよい結果をおよぼすものである。この理において純金ならば、何でもよいやうなものであるが、実際となるとやつぱり小判がよいので、小判にはそれだけのくらゐがあるのである。
[459]
田虫の妙薬
田虫、|銭虫《ぜにむし》などには|飯粒《めしつぶ》に|鰹節《かつをぶし》の|削《か》いたのをまぜ、ねつてつけるとよい、きれいに治る。
[460]
臭気どめその他
|鶏肉《けいにく》の嫌な臭気を消すには、料理をする前に濃く|曹達《そうだ》を溶かした水で洗うと臭気は去るものである。
火傷したときは直ぐにその局部に水を塗り付けた上、|熱灰《あつばい》をかけると痛みが去る。また|茹卵《ゆでたまご》の灰を火傷に貼ると直ぐに痛みが止まるものである。
|重炭酸《ぢゆうたんさん》|曹達《そうだ》を水にとかして風呂に|入《い》れると、プンと臭ふ汗じみた嫌な臭気がしなくなるものである。
|雪隠《せつちん》の臭気を消すには、桐の葉を二三枚投ずれば直ちに止まるものである。
|一石《いつこく》の濁水に|明礬《みやうばん》一握りを投入すればたちまち|清水《せいすゐ》となり飲料となる。
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十和田湖の神秘
東洋の日本国は到る所|山紫水明《さんしすゐめい》の点において西洋の|瑞西《スイス》と共に世界の双壁と推称されてゐる。日本は古来東海の|蓬莱島《ほうらいじま》と称へられただけあつて、|国中《こくちう》到る所に|名山《めいざん》があり、|幽谷《いうこく》があり、|大湖《たいこ》があり、大飛瀑があり、実に世界の公園の名に背かない風光がある。中に湖水として最も広大に最も名高きものは近江の琵琶湖、|言霊学上《げんれいがくじやう》、「|天《あめ》の|真奈井《まなゐ》」があり近江八景といつて支那|瀟湘《せうしやう》八景にならつた名勝がある。|芦《あし》の|湖《こ》、|中禅寺湖《ちうぜんじこ》、|猪苗代湖《いなはしろこ》、|支笏湖《ししやくこ》、|洞爺湖《どうやこ》、|阿寒湖《あかんこ》、十和田湖などがある、いづれも|文人《ぶんじん》|墨客《ぼくかく》に喜ばれてゐるものである。中にも風景|絶佳《ぜつか》にして深き神秘と伝説を有するものは十和田湖の右に|出《い》づるものは無いであらう。自分は今度東北地方宣伝の旅を続け、その途中青森県下その他近県の宣信徒に案内されて、日本唯一の|紫明境《しめいきやう》なる十和田の|勝景《しようけい》に接することを得ると共に、神界の御経綸の深遠微妙にして人心凡智の窺知し得ざる神秘を覚ることを得たのである。さて十和田湖の位置は、|裏日本《うらにほん》と|表日本《おもてにほん》とを縦断する|馬背《ばはい》の如き中央山脈の間に介在して、北方には|八甲田山《はつかふださん》、|磐木山《いはぎやま》など|巍々乎《ぎぎこ》として聳え立ち、南方遙かの|雲表《うんぺう》より|鳥海山《てうかいざん》、|岩手山《いはてざん》の二|高嶺《かうれい》が|下瞰《かかん》してゐるのである。十和田湖の水面の高さは海抜一千二百尺にして、その周囲の山々はこれより約二千尺以上の|高山《かうざん》をもつて|環繞《くわんげう》せられ、湖面は殆ど円形にして|牛角形《ぎうかくけい》と|馬蹄形《ばていけい》とを為せる二大半島が|湖心《こしん》に向つて約一里ばかり突出し、|御倉山《みくらやま》|御中山《みまかやま》など|神代《かみよ》の|神座《しんざ》や神名に因んだ奇勝絶景をもつて形造られてをる。湖中の岩壁や、|岩岬《がんこう》や、|島嶼《たうしよ》などの風致は実に日本八景の随一の名に背かないことを頷かれるのである。湖中の風景の絶妙なることは、一々ここに記すまでもなく東北日記に名所名所を詠んでおいたから、ここにはこれを省略して十和田湖の神秘に移ることにしようと思ふ。
十和田湖の伝説は各方面に点在してすこぶる範囲は広いが、自分はすべての伝説に拘はらないで、神界の|秘庫《ひこ》を開いてここに|忌憚《きたん》なく発表することとする。さて十和田の地名については|十湾田《とわだ》、|十曲田《とわだ》などの文字を宛てはめてゐるが、アイヌ語のトーワタラ(|岩間《いはま》の湖)ハツタラ(淵の義)が神秘的伝説中の主要人物、十和田湖を造つたといふ八郎(別名、|八太郎《はちたらう》、|八郎太郎《はちらうたらう》、八の太郎)が伝説の中心となつてをる。次に|開創《かいさう》鎮座せし藤原|男装坊《なんさうばう》も|南祖《なんそ》、|南宗《なんそう》、|南僧《なんそう》、|南曽《なんそう》、|南蔵《なんざう》等種々あるが、|今日《こんにち》普通に用ゐられてをる文字は|南祖《なんそ》である。然し|王仁《おに》は伝説の真相から考察して|男装坊《なんさうばう》を採用し、この神秘を書くことにする。
昔秋田県の|赤吉《とつこ》といふ所に|大日《だいにち》別当|了観《れうくわん》といふ|有徳《うとく》の|士《し》が住んでゐたが、たまたま心中に邪念の|萌《きざ》したときは|北沼《きたぬま》といふ沼に年古くから棲んでゐる|大蛇《をろち》の|主《ぬし》が|了観《れうくわん》の姿となつて妻の|許《もと》へそつと|通《かよ》つた。この|大蛇《をろち》の|主《ぬし》といふのは|神代《かみよ》の昔|神素盞嗚尊《かんすさのをのみこと》が|伯耆大山《はうきだいせん》即ち日の|川上山《かはかみやま》において|八岐《やまた》の|大蛇《をろち》を退治され、|大黒主《おほくろぬし》の|鬼雲別《おにくもわけ》以下を平定されたそのときの|八岐《やまた》の|大蛇《をろち》の霊魂が凝つて再び|大蛇《をろち》となり、|北沼《きたぬま》に永く潜んでゐたものであつた。間もなく|了観《れうくわん》の妻は妊娠し、やがて玉の如き男子を生み落としたが、あたかも出産の当日は|朝来《てうらい》天地|晦冥《くわいめい》大暴風雨起こり来たりて|大日堂《だいにちだう》も破れんばかりなりしといふ。|了観《れうくわん》はその恐ろしさに妻子を連れて|鹿角《かつぬ》へ逃げその男子を|久内《きうない》と名付けて|慈《いつく》しみ育てた。その後三代目の|久内《きうない》は|小豆沢《あづきざは》に|大日堂《だいにちだう》を建立したるも|身魂《しんこん》|蛇性《じやせい》のため|天日《てんじつ》を仰ぎ見ること能はず、別当になれない所から|草木村《くさきむら》といふ所の民家に代々|久内《きうない》と名乗つて子孫が暮らしてゐた、さてその九代目に当る|久内《きうない》の子、八郎が神秘伝説の主人公である。
日本一|勝地《しようち》|何処《いづこ》と人問はば
十和田の|湖《うみ》と|吾《わ》れは答へむ。
神国の八景の一と|推《お》されたる
|十和田湖岸《とわだこがん》の絶妙なるかな。
水面は海抜一千二百尺
十和田の湖の風致|妙《たへ》なり。
|磐木山《いはぎやま》|八甲田山《はつかふださん》|繞《めぐ》らして
神秘も深き十和田の|湖《うみ》かな。
我が国に|勝地《しようち》は数多ありながら
十和田の景色にまさるものなし。
|御倉山《みくらやま》|御中山《みまかやま》など神秘的
半島浮かぶ十和田の|湖《うみ》かな。
|水《みづ》青く山また青く|湖《うみ》広く
|水底《みなそこ》深き十和田の|勝《しよう》かな。
|男装坊《なんさうばう》|創開《さうかい》したる十和田湖の
百景いづれも神秘的なる。
八郎が|大蛇《をろち》と変じ造りしと
いふ十和田湖の|百《もも》の伝説。
素盞嗚の神の|言向《ことむ》け|和《やは》したる
|大蛇《をろち》の|霊《たま》は十和田に潜みぬ。
風雅なる人の|春秋《しゆんじう》訪ね来て
風光めづる十和田湖|美《うる》はし。
|了観《れうくわん》の妻の生みてし|男《を》の子こそ
|北沼《きたぬま》|大蛇《をろち》の|胤《たね》なりしなり。
天も地も|晦瞑《くわいめい》風雨荒れ狂ふ
中に生まれし|久内《きうない》は|蛇《じや》の子。
九代目の|久内《きうない》が生みし|男《を》の子こそ
十和田を造りし八郎なりけり。
藤原の|男装坊《なんさうばう》が八郎と
争ひ得たる十和田の|湖《うみ》かな。
|瑞御魂《みづみたま》神の|任《よ》さしの|神業《かむわざ》に
仕へ|奉《まつ》りし|男装坊《なんさうばう》かな。
八郎を迫ひ出したる|男装坊《なんさうばう》は
永く十和田の|主《ぬし》となりける。
何時の世にか、|青山緑峰《せいざんろくほう》に|四方《よも》を|繞《かこ》まれたる清澄なる一筋の清流を|抱《いだ》いて眠る農村の昔秋田県|鹿角郡《かつぬぐん》の東と南の|山峡《さんけふ》に草木といふ夢のやうな静寂な農村があつた。この村に父祖伝来住んでゐる|久内《きうない》夫婦の仲に儲けた男の子を八郎と名づけ、両親は蝶よ花よと|慈《いつく》しみ育むうちに八郎は早くも十八歳の春を迎ふることとなつた。八郎は天性の|偉丈夫《ゐぢやうぶ》で、母の腹から出生したとき既にすでに大人の面貌を|具《そな》へ一人で立ち歩きなどをしたのである。八郎が十八歳の春には身長六尺に余つて|大力《たいりき》無双|鬼神《きじん》を凌ぐ如き雄々しき若者であつたがまた一面には至つて|孝心《かうしん》深く村人より褒め称へられてゐた。八郎は持ち前の|強力《がうりき》を資本に毎日|深山《しんざん》を駆け回つて|樺《かば》の皮を剥いたり、|鳥獣《てうじう》を捕へては|市《いち》に|売捌《うりさば》き得たる|金《かね》にて貧しい|老親《らうしん》を慰めつつ細き一家の生計を支へてゐたのである。あるとき八郎は隣村なる|三治《さんじ》、|喜藤《きとう》といふ若者と三人連れにて遠く|樺《かば》の皮剥きに出掛けた。三人は|来満峠《きたみつたうげ》から|小国山《をぐにやま》を越へ遥々と|津久子森《つくねもり》、|赤倉《あかくら》、|尾国《をぐに》と三つの|大嶽《たいがく》に囲まれてゐる|奥入瀬《おくいりせ》の十和田へやつてきた、|往時《わうじ》の十和田は三つの|大嶽《たいがく》に|狭《せば》められた|渓谷《けいこく》で昼なほ暗き|緑樹《りよくじゆ》は|千古《せんこ》の色をただへその中を|玲瓏《れいろう》たる|一管《いつくわん》の清流が長く南より北へと延びてゐた。三人は|漸々《やうやう》此処へ辿りついたので流れの辺りに小屋をかけ交はり番に炊事を引き受けて昼夜|樺《かば》の皮を剥いて働き続けてゐた。
|草木村《くさきむら》|久内《きうない》|夫婦《めをと》のその中に
|大蛇《をろち》の|霊魂《みたま》八郎生まれし。
|奥入瀬《おくいりせ》清流渡り八郎は
|渓間《たにま》の|湖沼《こせう》に友と着きたり。
孝行の|誉《ほま》れ|四隣《しりん》に聞こへたる
八郎は|樺《かば》の皮|脱《は》ぎて|生《い》く。
|三治《さんじ》、|喜藤《きとう》二人の友と渓流を
渡りて十和田の近くに|仮寝《かりね》す。
|奥入瀬《おくいりせ》川の|辺《ほと》りに小屋造り
|鳥獣《てうじう》を狩り|樺《かば》の皮剥ぐ。
数日後のこと、その日は八郎が炊事番に当り、二人の出掛けたる跡にて水なりと汲みおかんとて岸辺に|徐々《じよじよ》下り行くに、清き流れの中に、|岩魚《いはな》が|三尾《さんびき》心地よげに遊泳してゐるのを見た。八郎は物珍らしげに|岩魚《いはな》を捕つて番小屋に帰つて来た、そして三人が|一尾《いつぴき》づつ食はんと焼いて友二人の帰りを待つてゐたが、その匂ひの溢れるばかりに|芳《かんば》しいのでとても堪らずちよつとつまんで少々ばかり口に|入《い》れたときの美味さ、八郎は遂に自分の分として|一尾《いつぴき》だけ食つて了つた。
清流に遊ぶ|岩魚《いはな》を|三尾《さんぴ》捕り
焼き付け見れば|芳味《はうみ》溢るる。
|芳《かん》ばしき匂ひに八郎たまり兼ね
自分の分とし|一尾《いつぴ》食らへり。
俺は未だこんな美味いものは口にしたことは一度も無いと彼はかすかに残る|口辺《くちべ》の|美味《うまさ》に酔ふた。|後《あと》に残れる|二尾《にひき》の|岩魚《いはな》は二人の友の分としてあつた。けれども八郎は辛抱が仕切れなくなつて何時の間にかとうとう残りの分|二尾《にひき》とも平らげて了つた。アツ了つたと思つたが|後《あと》の祭りでいかんとも|詮術《せんすべ》がなくなつた。八郎は二人の友に対して何となく済まないやうな気持を|抱《いだ》くのであつた。間もなく八郎は|咽喉《のど》が焼きつくやうに渇いて来た、口から烈火の|焔《ほのほ》が燃へ立つてとても依然として居られなく成つたので、傍らに汲んで来て置いた桶の|清水《せいすゐ》をゴクリゴクリと呑み干したが、また直ぐに|咽喉《のど》が渇いて来るので一杯二杯三杯四杯と飲み続けたが未だ|咽喉《のど》の渇きは|止《や》まづ|反《かへつ》て激しくなるばかりである。アア堪らない、死んで了ひさうだ、これはまた何としたことだらうと呻きながら|沢辺《さはべ》に駆け|下《おり》るや否や、いきなり|奔流《ほんりう》に口をつけた。そしてそのまま沢の水も尽きんばかりに飲んで飲んで飲み続け、丁度正午頃から、日没の頃ほひまで、|瞬間《すこし》も休まづ息もつがず飲みつづけて顔を上げたとき、清流に映じた自分の顔を眺めて思はずアツと倒るるばかり驚きの声を|揚《あ》げた。ああ無惨なるかな、手も足も樽の如く|肥《ふと》り、|眼《まなこ》の色ざしなど既にこの世のものでは無かつた。折りから山へ働きに行つてゐた二人は帰つて来て、この始末に|胆《きも》を潰すばかり|驚愕《きやうがく》して了つた。オオイ八郎八郎と二人が声を合はせて呼べば、その声にハツと気付いた八郎は|漸《やうや》くにして顔をあげ、恐ろしい形相で二人の友をじつと眺めてからやがて口を|開《ひら》いた。
八郎は|岩魚《いはな》の美味に堪へ切れず
二人の友の分まで食らへり。
|魚《うを》食ひし跡より|咽喉《のど》が渇き出し
矢庭に桶の|汲置《くみおき》|水《みづ》呑む。
桶の|水《みづ》幾ら飲みても飲み足らず
清き|渓流《ながれ》に口を|入《い》れたり。
正午より夕刻までも沢の|水《みづ》
飲み続けたり渇ける八郎。
渓流に写れる己れの姿見て
八郎倒れんばかりに驚く。
八郎の姿は最早|現《うつ》し世の
物とも見えぬ形相凄まじ。
手も足も樽の如くにはれ上がり
|二《ふ》タ目と見られぬあはれ八郎。
夕方に二人は小屋に立ち帰り
八郎の姿に|魂《たま》を消したり。
八郎は夕刻二人の友の帰つたのを見てしばし無言の|後《のち》やつと口を開き、お前たちは帰つて来たのかといへば二人はオイ八郎一体お前の姿は何だ。どうしてこうなつた。|浅間敷《あさまし》いことになつたの。さあ|住所《すみか》へ帰らうよ、と震へ声を押し沈めて言つたとき八郎は|腫《は》れあがつた目に一杯涙を浮かべて、もう俺はどこへも行くことは出来ない|身体《からだ》になつて了つたのだ。何といふ因果か知らぬが魔性になつた俺は寸時も水から離れられないのだ。これから俺は此処に|潟《がた》を造つて|主《ぬし》になるからお前たちは小屋から俺の笠を持つて家に残つて居られる親たちへこのことを話してくれろ。アア親たちはどんなに歎かれるだらうと両眼に夕立の雨を流して|嘆《たん》ずる声は|四囲《よも》の山々に反響してまたどうと|谺《こだま》するのであつた。かくては果てじと二人は、八郎よ俺たち二人はここで|永《なが》の別れをする。八郎よさらばと名残り惜し気に十和田を去つた。二人の立ち去る姿を見すましてから八郎は|尚《なほ》も水を飲み続けること三十四昼夜であつたが、八郎の姿は早くも|蛇身《じやしん》に変化し、やがて|十口《とくち》より流れ|入《い》る沢を|堰《せき》|止《と》めて|満々《まんまん》とした一大|碧湖《へきこ》を造り二十余丈の|大蛇《をろち》となつてざんぶとばかり水中に深く沈んで了つた。かくして十和田湖は八郎を|主《ぬし》として、年移り星変はり数千年の|星霜《せいさう》は過ぎた。永遠の静寂をもつて眠つてゐた一大|碧湖《へきこ》の沈黙は遂に|貞観《ていくわん》の頃となつて破らるるに至つたのである。
八郎は二人の友に涙もて
永き別れを告げて悲しむ。
両親の記念と笠を友に渡し
十和田の|湖《うみ》の|主《ぬし》となりけり。
八郎は|三十四夜《さんじふよや》の水を呑み続けて
遂に蛇体と変化す。
二十余丈|大蛇《をろち》となりて八郎は
十和田湖深く身を沈めたり。
|十口《じふこう》の流れをせきて|永久《とこしへ》の
|住所《すみか》十和田の|湖《うみ》を作れり。
数千年沈黙の幕破れけり
|貞観《ていくわん》|年中《ねんちう》|男装坊《なんさうばう》にて。
|貞観《ていくわん》十三年春四月、京都|綾小路《あやこうぢ》関白として名高い、藤原|是実《これさね》公は|讒者《ざんしや》の|毒舌《どくぜつ》に触れ最愛の妻子を伴ひ、桜花乱れ散る京都の春を|後《あと》に人づても無き|陸奥地方《みちのく》をさして放浪の旅行を続けらるることとなつた。一行総勢三十八人は奥州路を踏破し、やがて|気仙《きせん》の岡に辿りついてここに|仮《かり》の|舎殿《しやでん》を造営し、暫時の疲れを休められた。間もなく|是実《これさね》公他界せられ、その|嫡子《ちやくし》|是行《これゆき》公の|代《だい》となるや、元来|公家《くげ》の慣習として、何の営業も無く、貧苦|漸《やうや》く迫り来たりたるため、今は供人共も|各自《めいめい》に|業《げふ》を求めて各地に離散してしまひ、|是行《これゆき》公は止むを得ず、奥方のかよわき脚を急がせつつ、|仮《かり》の|舎殿《しやでん》を立ち出で、北方の|空《そら》を指して、落ち行き給ひし|状《さま》は、実にあはれなる次第であつた。かくて日を重ね、月を|閲《けみ》して|三ノ戸《さんのへ》郡の|糖部《あまべ》へ着かれ、何処か適当なる|住処《ぢゆうしよ》を求めんと、あちらこちら尋ね|歩行《ある》かれたが、一望|荒寥《くわうれう》とした|北地《ほくち》のこととて、人家稀薄依るべきものなく、村らしき村も見えず、困苦をなめながら、やがて|馬淵川《うまぶちがは》の辺りまでやつて来られたが渡るべき橋さへもなく、また船も無いので、途方に暮れながら夫婦は暫時|河面《かめん》を眺めて茫然たるばかりであつた。かくてはならじと二人は勇気を起こし川添ひに雑草を踏み分け三里ばかり|上《のぼ》りしと思ほしき頃、目前に二三十軒の人家が見えた。|是行《これゆき》公は|雀躍《こをどり》して、奥よ喜べ、人家が見へると慰めつつやがて霊験観音の|御堂《みだう》へと着かれた、そしてその夜は|御堂内《みだうない》に|入《い》りて足を休めまた|明日《あす》の旅路をつくづく思ひ悩みつつ、まんじりとも出来なかつたのである。
その翌日|是行《これゆき》公の|室《しつ》へ這入つて来た別当は威儀を正して「何処となく|床《ゆか》しき|御方《おんかた》に見え|候《さふらふ》も、いづれより御越しなるや、お構ひなくば大略の|御模様《おんもやう》お話し下されたし」と言葉もしとやかに述ぶる|状《さま》は、普通の別当とは見えず、必ずや由緒ある人の|裔《すえ》ならんと思はれた。|是行《これゆき》公は、「吾らは名もなき|落人《おちうど》なるが、|昨夜来《さくやらい》より手厚き御世話に|預《あづか》り、|御礼《おれい》の言葉も無し。願はくは|後々《のちのち》までも忘れぬため、苦しからずばこの霊験観音堂の由来をきかせ玉へ」と言葉を低うして|訊《たづ》ぬるに、彼の別当は|襟《えり》を正しながら、「さればに|候《さふらふ》、拙者は藤原の式部と申す者にて、そもそも|吾《わが》祖先は藤原|佐富《すけとみ》|治部卿《ぢぶきやう》と申す|公家《くげ》の|由《よし》にて|讒者《ざんしや》のため都より遥々此処に落ち、柴の|庵《いほり》を結びこの土地を拓きて住めるなり、現在にては百姓もおひおひ|相《あい》集まりかくの如く、一つの村を造りしものにて、この観音堂は村人が我が祖先を観音に祀りたるものにして、近郷の産土神にて|候《さふらふ》、さてまた|御身《おんみ》は都よりの|落人《おちうど》の|由《よし》、なぜかやうなる土地へとお越し遊ばされしや」と重ね重ねの問ひに|是行《これゆき》公は懐しげに、式部の顔を打ち眺め「あ、さては|貴公《きこう》は|吾《わが》一族なりしか、|吾《わが》祖先も藤原の姓、父上までは関白職なりしも、無実の罪に沈み、かく|流人《るにん》となりたり。只今承はれば|貴公《きこう》も藤原と聞く、系図なきや」と問はれて式部は早速大切に|蔵《をさ》めてあつた家の系図を取り出し、|披《ひら》き見るに|是行《これゆき》公は本家にて、式部は|末家筋《まつけすぢ》なれば、式部思はず|後《あと》に飛び去つて言ふには、「さてもさても不思議の御縁かな。これと申すも御先祖の御引き合せならむ。この上は此処に|御住居《おすまゐ》あらば、我らは家来同様にして、御世詁申すべし」とこれより|是行《これゆき》公と式部は兄弟の|契《ちぎり》を結び、|是行《これゆき》公は兄となつて、名を|宗善《そうぜん》に改め給うたのである。
|貞観《ていくわん》の昔関白|是実《これさね》公は
|讒者《ざんしや》のために都を落ちます。
|綾小路《あやこうぢ》関白として名高かりし
|是実《これさね》公の末路偲ばゆ。
妻や子や伴人三十八名と
みちのく指して落ち行く関白。
|桜花《さくらばな》春の名残りと乱れ散る
都を|後《あと》に落ち行くあはれさ。
みちのくの|気仙《けせん》の岡に辿りつき
|仮《かり》の|舎殿《しやでん》を営み住ませり。
|是実《これさね》公間も無く世をば去り玉ひ
|嫡子《ちやくし》|是行《これゆき》公の|代《よ》となる。
営みを知らぬは|公家《くげ》の|常《つね》として
貧苦日に日に迫り|来《き》にける。
伴人も貧苦のためにあちこちと
|業《わざ》を求めて乱れ散りける。
|是行《これゆき》公奥方伴ない家を出て
北の方さして進みたまへる。
|三ノ戸《さんのへ》の|郡《こほり》|糖部《あまべ》につきたまひ
一望百里の|荒野《くわうや》に迷へり。
|馬淵川《うまぶちがは》橋なきままに渡り得ず
|草村《くさむら》わけつつ三里余|上《のぼ》れり。
二三十戸人家の|棟《むね》の見え|初《そ》めて
夫婦は蘇生の喜びに泣く。
|是行《これゆき》公観音堂が目にとまり
ここに二人は一夜明かせり。
観音堂別当|室《しつ》に|入《い》り来たり
不思議の|邂逅《かいこう》に|歓《よろこ》び合へり。
別当は藤原式部その昔
祖先は関白職なりしなり。
|是行《これゆき》と式部はここに兄弟の
約を結びて永く住みけり。
|是行《これゆき》公名を|宗善《そうぜん》と改めて
この山奥に半生を送る。
ここに藤原|是行《これゆき》公の改名|宗善《そうぜん》は式部の|計《はか》らいによつて、|三ノ戸《さんのへ》郡|仁賀村《にがむら》を安住の地と定めて何不自由なく暮らしてゐたが、只々心に掛かるは|世継《よつぎ》の子の無いことであつた。アア子が欲しい欲しいと|嘆息《たんそく》の言葉を聞く度に奥方は秘かに思ふやう、もうこの上は神仏に祈願を篭めて|一子《いつし》を授からんものと|霊験堂《れいけんだう》の観音に|三七二十一日《さんしちにじふいちにち》の|参篭《さんろう》を為し、願はくは|妾《わらは》らこのままにしてこの土地に朽ち果つるとも、子の成人したる|暁《あかつき》は再び都へ帰参して、関白職を得るやうな器量ある男子を授け給へと一心不乱に祈つてゐるうち、丁度二十一日の満願の夜のこと、日夜の疲労に耐へ兼ね思はず神前にうとうととまどろめば、|何処《いづこ》ともなく偉大なる|神人《しんじん》の姿現はれて宣たまふやう、汝の願ひに任せ、|一子《いつし》を授けむ。されどもその子は必ず弥勒の出世を願ふべし、夢々疑ふ|勿《なか》れ、我は|瑞《みづ》の|御霊《みたま》|神素盞嗚尊《かんすさのをのみこと》なりとて|御手《みて》に持たせ給へる|金扇《きんせん》を奥方|玉子《たまこ》の|君《きみ》に授けてたちまちその|御姿《みすがた》は消へさせられた。夢よりさめたる奥方|玉子《たまこ》の|君《きみ》は、夫の|宗善《そうぜん》に夢の次第を|審《つぶ》さに告げられしが、間もなく|懐胎《くわいたい》の身となり月満ちて生まれ落ちたは玉のやうな男と思ひの他女の子であつた。夫婦はかつ喜びかつ女子なりしを惜しみつつ蝶よ花よと育みつつ七歳となつた。夫婦は男子なれば都に|還《かへ》りて再び藤原家を起こし、関白職を継がせんとした望みは|俄然《がぜん》|外《は》づれたれども、今の間に|男装《だんさう》をさせ、あくまでも男子として祖先の家名を再興させんものと、名を|南祖丸《なんそまる》と付けたのであるが、誰いふとなく女子が|男装《だんさう》してゐるのだ、それで|男装坊《なんさうばう》だと称ふるやうになつたのは是非なき|仕儀《しぎ》と言はねばならぬ。
然るに|生者必滅《せいしやひつめつ》|会者定離《ゑしやじやうり》のたとへにもれず、痛ましや|南祖丸《なんそまる》が七歳になつた|秋《とき》、母親の|玉子《たまこ》の|君《きみ》はふとした原因で病床に伏したる限り日夜病勢重るばかりで、最早|生命《せいめい》は|旦夕《たんせき》に迫つて来たので|南祖丸《なんそまる》を|枕辺《まくらべ》近く呼びよせて言ふ。
「お前は神の申し|子《ご》で母が|一子《いつし》を授からんと|霊験堂《れいけんだう》へ|三七日間《さんしちにちかん》|参篭《さんろう》せしとき、|瑞《みづ》の|御霊《みたま》|神素盞嗚神《かむすさのをのかみ》より、生まれたる子は弥勒の出生を願ふべしとの夢の|御告《おつ》げありたり。汝はこの母の亡き|後《のち》までもこのことばかりは忘るなよ」
と苦しき息の下から物語りして遂に帰らぬ旅に|赴《おもむ》いて了つたのである。
|仁賀村《にがむら》に|宗善《そうぜん》夫婦は不自由なく
安住したり式部の好意に。
|世継《よつ》ぎの子無きを悲しみ|宗善《そうぜん》の
妻は観音堂に篭もれり。
立派なる男子を生みて関白家
再興せんと日夜に祈れり。
素盞嗚の神が夢に夜現れて
子を授けんと宣らせ給へり。
|瑞御霊《みづみたま》授け給ひし|貴《うず》の子は
弥勒出生を願ふ女子なる。
月満ちて生まれたる子は|男装《だんさう》させ
名も|南祖丸《なんそまる》とつけて育む。
|南祖丸《なんそまる》七歳のとき母親は
神示を|南祖《なんそ》に告げて世を去る。
弥勒の世|来《きた》さんとして|素《す》の神は
|神子《みこ》をば女と生ませ玉へる。
|南祖丸《なんそまる》はじめ父の|宗善《そうぜん》、式部夫婦らが涙のうちに|野辺《のべ》の送りをやつと済ませた|後《のち》、父|宗善《そうぜん》は|熟々《つらつら》|南祖丸《なんそまる》を見るに年は幼けれども手習ひ学問に精を出しあたかも一を聞いて十を悟るの賢さ、これが真正の男子ならば成人の|後《のち》京都に|還《かへ》り祖先の名を顕はして|吾家《わがや》を関白家に|捻《ね》ぢ直す器量は十分であらう。しかしながら|生来《しやうらい》の|女子《をみなご》いかに骨格容貌の男子に似たりとて妻を|娶《めと》り子孫を生むこと不可能なり。乳児の頃より男子として養育したれば世人はこれを女子と知る者なかるべし。|如《し》かず|変生《へんしやう》|男子《なんし》の願ひを立てこのまま男子として世に|処《しよ》せしめ、神仏に仕へしめん。誠や|一子《いつし》出家すれば|九族《きうぞく》天に生ずとかや。亡き妻の願望によりて神より与へられたる子なれば家名再興の野心は、流水の如く捨て去り、僧となつて|吾《わが》妻の菩提を|弔《とむら》はしめんと決心の|臍《ほぞ》を固め、奥方の死より三日後、同郡|五戸《ごへ》|在《ざい》|七崎《ななさき》の観音別当|永福寺《えいふくじ》の|住僧《ぢゆうそう》なる徳望高き|月志法印《げつしほふいん》に頼みて弟子となし、その名も|南僧坊《なんそうばう》と呼び修行させることとはなつた。
|宗善《そうぜん》は|公家《くげ》再興の念を捨て
|南祖丸《なんそまる》をば出家となしたり。
|七崎《ななさき》の観音別当|月志法印《げつしほふいん》
|南祖丸《なんそまる》をば弟子とし教へし。
ここに力と頼みし妻を失ひ愛児|南祖丸《なんそまる》を|月志法印《げつしほふいん》に托した|宗善《そうぜん》は今は何をか楽しまんとて馬を数多|牧《ぼく》し老後を慰め暮らしてゐた。
然るに不可思議なることはいかなる|悍馬《かんま》も|宗善《そうぜん》の|厩《うまや》に|入《い》れば直ちに|悪癖《あくへき》が直り名馬と|化《な》るのを見て、|里人《さとびと》はいづれもこれを|奇《き》とし|宗善《そうぜん》の没後には|宗善《そうぜん》の霊を祀りて|一宇《いちう》を建立し|馬頭《ばとう》観音と称へその徳を偲んでゐるが、奥州南部地方の習慣として|馬頭《ばとう》観音を|蒼前《さうぜん》(|宗善《そうぜん》)と言ひ、また|宗善《そうぜん》は絵馬を|描《か》くことを楽しみとしてゐたので後世に至るまで絵馬を|御堂《みだう》へ奉納する風習が残つたのである。そして|永福寺《えいふくじ》へ弟子入りをした|南僧坊《なんそうばう》は日夜学問を|励《はげ》みその|明智《めいち》、非凡絶倫には|月志法印《げつしほふいん》も舌を|捲《ま》いて感嘆するのであつた。かくてその後数年を過ぎ|南僧坊《なんそうばう》はここに十三歳の春を迎ふるに到つた。
|円明鏡《ゑんみやうかがみ》の如き清らかな念仏修行、はらはらと散る|桜花《さくらばな》の|下《もと》に|南僧坊《なんそうばう》は瞑想に|耽《ふけ》つてゐた。|幽寂《いうじやく》の|鐘《かね》の|音《ね》は|止《や》んで夕暮近き頃、瞑想よりフト我に帰つて彼方の大空を眺め、亡き母が臨終の遺言をぢつと考へ込んだ。アア我が母上は|枕頭《ちんとう》に|吾《われ》を招き苦しき息の下から「弥勒の出世の大願を忘るる|勿《なか》れ」と言はれた。アア弥勒−弥勒出世の大願、しかしながら自力にてはとても叶ふべくも無い。これより吾は紀伊国熊野へ参詣して神力を祈りながら大願成就せんものと決心を固め師の|坊《ばう》|月志法印《げつしほふいん》へ熊野参詣の志望を申し出でたが、まだ|幼者《えうしや》だからとて許されなかつた。|南僧坊《なんそうばう》は今は是非なくある夜密かに|寺門《じもん》を抜け出し|七崎《ななさき》の村を|後《あと》に遥々紀伊路を指して出発してしまつた。
|宗善《そうぜん》は妻に別れて楽しまず
遂に|馬飼人《うまかひにん》となりけり。
|荒馬《あらうま》も|宗善《そうぜん》飼へばたちまちに
|良馬《りやうば》となるぞ不思議なりけり。
|宗善《そうぜん》の死後は|里人《さとびと》|宗善《そうぜん》を
観音堂建て祀り篭めたり。
|宗善《そうぜん》を|蒼前《さうぜん》|馬頭《ばとう》観音と
|斎《いつ》き祀れば|良馬《りやうば》生るる。
|宗善《そうぜん》は絵馬を好みて|描《か》きたれば
|後人《こうじん》|絵馬堂《ゑまだう》建てて祈れり。
|女身《によしん》とは言へど骨格|逞《たくま》しく
男子に劣らぬ風格ありけり。
|南僧坊《なんそうばう》母の遺言思ひ出し
弥勒出生の大願を立つ。
桜花散る|木蔭《こかげ》に座して瞑想に
|耽《ふけ》る|南祖《なんそ》は弥勒の世を待つ。
紀の国の熊野に詣で神力を
得んため師の|坊《ばう》に許しを乞ひたり。
歳はまだ十三の|坊《ばう》|幼若《えうじやく》の
故もて師の|坊《ばう》旅行許さず。
|南僧坊《なんそうばう》決心固く夜の|間《ま》に
|寺門《じもん》を抜けて紀州に向へり。
さて紀伊国|熊野山《くものやま》は|本地《ほんち》|弥陀《みだ》の薬師観音にして熊野|三社《さんしや》と言はれその霊験いやちこなりと伝へらるる|霊場地《れいぢやうち》であつて、|三社《さんしや》の御本体は、|瑞《みづ》の|霊《みたま》(|三《み》ツの|魂《みたま》)の神の変名である。|南僧坊《なんそうばう》は一ケ所の|御堂《みだう》に二十一ケ日づつ三ケ所に篭もつて断食をなし、日夜三度づつ、|水垢離《みづごり》を取つて精進潔斎し一心不乱になつて弥勒の御出世を祈るのであつた。丁度満願の夜半になつて、|南僧坊《なんそうばう》は不思議の|霊夢《れいむ》を|蒙《かうむ》つたので、それより諸国を|行脚《あんぎや》してすべての神仏に祈らんと熊野神社を|後《あと》に第一回の諸国巡礼を思ひ立つこととなつた。
|南僧坊《なんそうばう》熊野|三社《さんしや》に参詣し
三週三ケ所|水垢離《みづごり》を取る。
|瑞御魂《みづみたま》神の|夢告《むこく》を|蒙《かうむ》りて
諸国巡礼の旅する|南僧坊《なんそうばう》。
熊野|三社《さんしや》|弥陀《みだ》と薬師と観音は
三つの|御魂《みたま》の権現なりけり。
数十年修行を為せと|皇神《すめかみ》は
|男装坊《なんさうばう》(|南僧坊《なんそうばう》)に宣らせ玉へり。
神勅によつて熊野|三社《さんしや》を立ち出でた|男装坊《なんさうばう》は先づ|高野山《かうやさん》に登り大願成就を一心不乱に祈願し終はつて山麓に|来《き》かかると、|道傍《みちばた》の岩石に腰を下ろし休んでゐた一人の山伏がつかつかと|男装坊《なんさうばう》の前に進んで来た。見れば身長六尺余、柿色の法衣に|太刀《たち》を帯び金剛杖をついて威勢よく言葉も高らかに、「いかに|御坊《ごばう》修行は|法師《ほふし》の|業《げふ》と見受けたり。汝男子に扮すれども|吾《わが》|法力《ほふりき》をもつて観ずるに全く女人なり。女人禁制の霊山を犯しながら修行などとはもつての他の|不埒《ふらち》ならずや。必ずや|仏《ほとけ》の咎めによつて修行の|功《こう》|空《むな》しからん。万々一修行の|功《こう》ありとせば|吾《わが》前にてその|法力《ほふりき》を現すべし」と言葉を掛けられて|男装坊《なんさうばう》は暫時ぎよつとしたるが、直ちに心を取り直し満面笑みを湛へながら、「汝|吾《われ》に向つて女人なれば|不埒《ふらち》とは何事ぞ、衆生済度の誓願に男女の区別あるべきや。|吾《われ》に修行の|功《こう》いかんとは愚なり。三界の大導師|釈迦牟尼《しやかむに》如来でさへも|阿羅々《あらら》仙人に仕へてその本懐を遂げ玉ひしと聞く。いはんや凡俗の|拙僧《せつそう》|未《いま》だ修行中にて大悟徹底の域に達せず。|御身《おんみ》においてはまた修行の|功《こう》ありや」と|謙遜《けんそん》しつつも反問したとき、彼の山伏は鼻高々と答ふやう、「拙者はそもそも|大峰《おほみね》|葛城《かつらぎ》の|小角《せうかく》、吉野にては|金剛《こんがう》|蔵王《ざうわう》、熊野権現は|三所《さんしよ》その他山々|渓々《たにだに》にて極めし|法力《ほふりき》によつて|空《そら》飛ぶ|鳥《とり》も祈り落とし、死したる者も生かすこと自由なり。いざ汝と|法力《ほふりき》を行ひ較べん」
と詰めよるにぞ、|男装坊《なんさうばう》は静かに答へ、
「さらば貴殿の|法力《ほふりき》を見せ給へ」「|然《しか》らば|御目《おめ》に掛けん、驚くな」と山伏は腰に下げたる法螺の貝を取つて何やら呪文を唱ふると見えしが、たちまち|炎々《えんえん》たる火焔を貝の尻から吹き出してその火光の|四方《しはう》に輝く様は実に見事であつた。|男装坊《なんさうばう》は泰然自若として暫時打ち眺めゐたるが、やがてニツコと|微笑《ほほゑ》みながら静かに|九字《くじ》を切つて合掌するやたちまち猛烈なりし火焔は跡なく消え失せて了つた。山伏は最初の術の破れたるを悔やしがり、何を|小癪《こしやく》な今度こそは思ひ知らせんとばかり傍らの小高き所へ駆け上がりざま、|珠数《じゆず》も砕けよと押しもんで一心不乱に祈れば見る見る一天俄かに掻き曇りピユーピユーと|凄《すご》い風は彼方の山頂より吹き|下《お》りて一団の|黒雲《こくうん》|瞬《またた》く|間《ま》に広がり雪さへ交じへて物さみしい冬の景色と変はつて了つた。そのときに異様の怪物遠近より現はれ出で笑ふもの叫ぶものの声天地に鳴り轟きさも恐ろしき光景を現出した。|然《しか》れども|男装坊《なんさうばう》は少しも騒ぐ色なく、「さてもさても見事なる|御手《おて》の|内《うち》」と|賞《ほ》めそやしながら|真言《しんごん》|即《そく》|言霊《げんれい》の神器を用ゆれば、今までの物凄き光景はたちまち消滅して再び元の晴天にかへつた。
山伏はこれを見て、「恐れ|入《い》つたる|御手《おて》の|内《うち》、|愚僧《ぐそう》らの及ぶ所に非ず。御縁も在らばまたお目に懸からん」と|男装坊《なんさうばう》の|法力《ほふりき》に征服された山伏は丁寧に会釈を交はして|何処《いづこ》ともなく立ち去つて了つた。
かくて|男装坊《なんさうばう》は|高野《かうや》の山を下り紀州|尾由村《をよしむら》といふ所に差し掛かり|嘉茂《かも》といへる|有徳《うとく》の人の|許《もと》に一夜の宿を求めた。所がその夜主人が|男装坊《なんさうばう》の|居室《きよしつ》を訪ねて言ふよう、「実は私の妻が四年ばかり前から不思議の病気に犯され、遠近の行者を頼みて祈祷するも一向少しの効き目も無く誠に困り果ててゐる次第なれば何とぞ|御坊《ごばう》の|御法力《ごほふりき》をもつて御祈念給はりたし」と言葉を尽くして頼み込む様子に|男装坊《なんさうばう》は「してその御病気とは」と問へば「ハイ実は夜な夜な髪の中から|鳥《とり》の頭が無数に出でては|啼《な》き叫び、その|鳥《とり》の口へ|飯《めし》を押し込めばたちまち頭髪の中へ隠れるといふ奇病です。何といつても毎夜毎夜のことで妻は非常に|窶《やつ》れ果て|明日《あす》をも知れない有様、何とぞ御見届けの上御救ひ下されたし」と涙をはらはらと流して頼むのであつた。|男装坊《なんさうばう》は暫時小首を傾け考へてゐたが、「はて奇態なることを承はるものかな。何はともあれ|拙僧《せつそう》及ばずながらその正体を見届けし上祈念を為さん」と快く承諾した言葉に主人は|欣喜雀躍《きんきじやくやく》するのであつた。さてその夜|丑満《うしみつ》と|思《おぼ》しき頃になると案の如く病人の頭から数十羽の|鳥《とり》の頭が出て|啼《な》き叫ぶ様は実に気味の悪いほどである。|男装坊《なんさうばう》は病人の苦しむ様子を熟視した上、「さてもさても|不憫《ふびん》の者なるかな」と座敷の中央に壇を飾つて病人を北向きに直し、|高盛《たかもり》の|食《しよく》十三|盛《もり》、|五色《ごしき》の|幣《ぬさ》三十三本を切り立て|清水《せいすゐ》を|盥《たらひ》に汲んで、「足」といふ文字を書いた一寸|四方《しはう》の紙片を水に浮かべ、さて|衣《ころも》の袖を結んで肩に打ちかけ|珠数《じゆず》をさらさらと押しもんでしばらく祈ると見えしが不思議なるかな今まで七転八倒の苦しみに|呻吟《しんぎん》してゐた病人はたちまち元気付き頭の|鳥《とり》は一羽も残らず消え失せて了つた。「最早大丈夫明晩からは何事も無かるべし」と言へば主人を始め|並《なみ》ゐる|一統《いつとう》の人々は非常に喜んで礼を述べ勧めらるるままに一両日足を|停《とど》むることとはなつた。
果たしてその翌晩からは何事もなくなつたので|男装坊《なんさうばう》は|止《とど》むる家人に、「急ぎの旅なれば」と別れを告ぐるや主人は「名残り惜しきことながら最早是非もなし、|些少《させう》ながら」とて数々の|進物《しんもの》を贈らうとしたが、「|拙僧《せつそう》は身に深き願望あつて、諸国を回るもの一切施し物は受け難し。去りながら折角の|御厚志《ごこうし》を無にするも何とやら、また一つには病人より離れた|鳥《とり》どもはこのままにして置いてはさぞや迷ひをるならんも|心許《こころもと》なし、今一つの願ひあり、これより東に当つて一里ばかりの所にある|竹林《ちくりん》の中へ一つの|御堂《みだう》を建立し、|額《がく》に|鳥林寺《てうりんじ》と|銘《めい》を打ち給はらば幸ひなり」と言ひ残してから家人に再び別れを告げて道を急いだ。それより|男装坊《なんさうばう》は|二名《ふたな》の島へ渡り数々の奇瑞を現はし九州に渡つて筑紫の国を|普《あまね》く回り所々にて病人を救ひあるひは|御堂《みだう》を建立すること|数《かず》知れず再び本土に帰り熊野に詣で|三七日間《さんしちにちかん》の祈願を篭め第二回目の諸国|行脚《あんぎや》に出た。
|男装坊《なんさうばう》熊野を|後《あと》に紀伊の国
|高野《かうや》の山に詣でてぞ行く。
|高野山《かうやさん》下れば|麓《ふもと》の道の|傍《べ》に
山伏ありていどみ懸かれり。
|男装坊《なんさうばう》|山伏僧《やまぶしそう》の妖術を
残らず破れば山伏謝罪す。
|高野山《かうやさん》あとに|尾由《をよし》の村に|入《い》り
|嘉茂《かも》のやかたに|露《つゆ》の宿りす。
|嘉茂《かも》の妻奇病を救ひ寺を建て
急ぎ|二名《ふたな》の島に渡れり。
|二名島《ふたなしま》筑紫の島を|経巡《へめぐ》りて
奇蹟現はし衆生を救へり。
|男装坊《なんさうばう》再び熊野に引き返し
|三七日《さんしちにち》の荒行を為す。
|男装坊《なんさうばう》ここより二度目の国々の
|行脚《あんぎや》の旅に立ち出でにけり。
|男装坊《なんさうばう》は弥勒出世大願のために国々|里々《さとざと》津々浦々|遣《のこ》るくまなく修行しつつ十三才の頃より七十六歳に至るまで前後を通じて殆ど六十四年間休みなく歩き続けたがこの|間《かん》熊野|三社《さんしや》に|額《ぬかづ》きしこと三十二回に及んだ。そして丁度三十三回目の熊野詣でのとき|三七日《さんしちにち》社前に|通夜《つうや》した満願の夜思はずとろとろと社前に|微睡《びすゐ》した。と思ふと夢とも|現《うつ》つとも判らず|神素盞嗚神《かむすさのをのかみ》威容厳然たる|三柱《みはしら》の神を従へ現はれ給ひ|神々《かうがう》しいその中の|一柱神《ひとはしらがみ》が「いかに|男装坊《なんさうばう》、汝母に|孝信《かうしん》として弥勒の出世を願ふこと|不便《ふびん》なり。汝はこの|草鞋《わらぢ》を|穿《は》きこの杖の向くままに山々峰々をすべて巡るべし。この|草鞋《わらぢ》の断れたる所を汝の|住家《すみか》と思ひそこにて弥勒|三会《さんゑ》の|神人《しんじん》が出世を待つべし」と言ひ残し|神姿《しんし》はたちまち掻き消す如くに隠れ給ふた。|男装坊《なんさうばう》は夢より醒めて自分の|枕頭《ちんとう》を見れば鉄で造れる|草鞋《わらぢ》と|荊《いばら》の杖が一本置かれてあつた。|男装坊《なんさうばう》は蘇生歓喜の涙にむせびながら、「アア有難し有難し我が大願も成就せり」と百度千度社前に|額《ぬかづ》きて感謝を為し、「さらば熊野大神の神命に従ひ国々の山々峰々を|跋渉《ばつせふ》せん」と熊野|三社《さんしや》を始め日本全国の|高山《かうざん》|秀嶽《しうがく》殆ど|足跡《そくせき》を|印《いん》せざる所無きまでに到つたのである。
|男装坊《なんさうばう》前後六十四年間
休まず日本全土を巡りぬ。
熊野社に三十三回参詣し
鉄の|草鞋《わらぢ》と杖を貰へり。
|男装坊《なんさうばう》弥勒出世の大願の
成就したりと嬉し涙す。
|瑞御霊《みづみたま》|三柱神《みはしらがみ》と現はれて
|男装坊《なんさうばう》の|先途《せんと》を示さる。
それより|男装坊《なんさうばう》は日本全州の霊山霊地と名のつく箇所は残らず|巡錫《じゆんしやく》し|名山《めいざん》|巨刹《きよさつ》に足を|止《とど》めて道法礼節を説き、各地の|雲児水弟《うんじすゐてい》の|草庵《さうあん》を|訪《と》ひて法を教へかつ研究し、時々は病に悩めるを救ひ|不善者《ふぜんしや》に|改過遷善《かいくわせんぜん》の道を授けて功徳を積み|累《かさ》ねながら北方の天を望んで|行脚《あんぎや》の旅を十幾年間続けたるため、|鬚髯《しゆぜん》に|霜《しも》を交じゆる年配となり、幾十年振りにて故郷の|永福寺《えいふくじ》に帰つてみれば、悲しきかも恩師も両親も既にすでに他界せし|後《あと》にて、ただ|徒《いたづ》らに墓石に秋風が|咽《むせ》んでゐるのみであつた。
|男装坊《なんさうばう》は今更の如くに|諸行無常《しよぎやうむじやう》を感じ|己《おの》が不孝を|鳴謝《めいしや》し、|懇《ねんごろ》に菩提を|弔《とむら》ひまたもや熊野大神の|御誓言《ごせいごん》もあるところよりいつまでも故郷に脚を|停《とど》むるわけにもゆかなかつた。
日の本のあらゆる霊山霊場に
|巡錫《じゆんしやく》なして道を説きつつ。
|雲水《うんすゐ》の|徒《ともがら》などに|法《のり》の道
伝へ伝へて諸国に|行脚《あんぎや》す。
いたづきに悩める数多の人々を
救ひつ巡りし|男装坊《なんさうばう》かな。
数十年|行脚《あんぎや》終りてふる里に
帰れば恩師も父母も|坐《ゐ》まさず。
師の|坊《ばう》やたらちねの墓にしくしくと
|詣《まうで》て見れば|咽《むせ》ぶ秋風。
世の中の|諸行無常《しよぎやうむじやう》を今更に
感じて|師父《しふ》の菩提|弔《とむら》ふ。
|三熊野《みくまの》の神の誓ひを果たさむと
|男装坊《なんさうばう》は|故郷《ふるさと》を立つ。
陸奥の国人たちより|大蛇《をろち》が棲めりと怖れられ人の子一人近寄りしことの無き|赤倉山《あかくらやま》、|言分山《ことわけやま》、|八甲田山《はつかふださん》などへ登つて悪魔を|言向和《ことむけやは》さむと、またもやその年の晩秋風吹き|荒《すさ》ぶ山野を|行脚《あんぎや》の旅に立ち出づることとした。
|降《ふ》りに|降《ふ》りしく|紅葉《もみぢ》の雨を|菅《すげ》の|小笠《をがさ》に受け、積る|山路《やまぢ》の落葉を|鉄《かね》の|草鞋《わらぢ》に掻き分け悲しげに鳴く鹿の声を|遠近《をちこち》の山の尾の|上《へ》や|渓間《たにま》に聴きつつ西へ西へと道もなき|嶮山《けんざん》を|岩根《いはね》|木根《きね》踏みさくみつつ|深山《みやま》に別け|入《い》り、ある夜のこと岩窟内に一夜の|露《つゆ》の宿りせんものと|岩間《いはま》を漏れくる|灯火《ともしび》を便りに|荊棘《いばら》をはつはつ分けて辿りつき見ればコハそもいかに怪しとも怪し花に嘘つく妙齢の美人が現れて、|男装坊《なんさうばう》の|訪《と》ひくることを予期してゐたかのやうに満面に笑みを|湛《たた》えて座に|請《しやう》じ|入《い》れた。
「あな嬉しや懐しや、|御坊《ごばう》はその名を|男装坊《なんさうばう》とは申さざるや。|妾《わらは》は過ぐる年観相術に|妙《めう》を得たる行者の|言《げん》によりて、|妾《わらは》が前生にて|愛《いつ》くしみ|愛《いつく》しまれたる背の|君《きみ》たりし人は現代にも再生し|男装坊《なんさうばう》と名のり、諸国|行脚《あんぎや》の末今年の|今宵《こよひ》この|山中《さんちう》に来たらるべきを聴き知り、|幾歳《いくとせ》の前よりこの付近の|山中《さんちう》に|入《い》りて|貴坊《きばう》に再会すべき|今日《けふ》の|佳《よ》き日を指折り数へひたすらに待ち申す者なり。願はくは|妾《わらは》の願ひを容れて|今生《こんじやう》にて|妹背《いもせ》の契りを結び、我が身の背の|君《きみ》と成らせ給へ」と言ふにぞ、|男装坊《なんさうばう》は大いに驚き、「我が身は|三熊野《みくまの》の大神の御霊示によつて末に|主《ぬし》となるべき霊地を探査して難行苦業の旅を続くるもの故、いかに|御身《おんみ》の願ひなればとて、一身の安逸を|貪《むさぼ》るために大神への誓ひを破るわけにはゆかぬ。自分は実際|女身《によしん》の|男装者《だんさうしや》である」と、|懇々《こんこん》説示して心底よりあきらめさせようと努力はしたが、恋の闇路に迷つた女性は到底素直に聴き入るべき気配もなく、首を左右に振り涙をはらはらと流しながら「|御坊《ごばう》よたとへ|女身《によしん》なりとて出家なりとて同じく人間と生まれ給ひし上は|血潮《ちしほ》の体内に流れざる|理由《いはれ》なし。よしやよし|三熊野《みくまの》の大神への誓ひはあるとは言へ左様なる味気なき『枯木倚寒巌三冬無暖気』的な生涯を送られては人間として現世に生まれたる楽しみはいづれに有りや。|妾《わらは》が|庵《いほり》はかくの如き見るもいぶせき岩屋なれど、前生にありし|妹背《いもせ》の深き契りを|今生《こんじやう》に蘇へらせて|最《いと》も|愛《いと》しき|君《きみ》と|生活《なりはひ》を為すならば、たとへ木枯しすさぶ晩秋の|空《そら》も雪|降《ふ》り積もる|深山《みやま》の奥の隠れ|家《が》も|我家《わがや》のみは|春風駘蕩《しゆんぷうたいたう》として吹き来たり、暖気室内に充ち満ちて憂き世の移り変はりも|他所《よそ》に我が|家《や》のみは|永久《とこしへ》に春なるべきに。この憐れむべき女性の至誠が|木石《ぼくせき》ならぬ|肉身《にくしん》を持つ|御坊《ごばう》の胸には透徹せざるか。|愛《いと》しの|御坊《ごばう》よ、その神への誓ひとやらを|放擲《はうてき》して|妾《わらは》の|主人《あるじ》となりこの岩屋に永久に|留《とど》まり給へ」と|衣《ころも》の袖にまつはり付く様は殆ど|仏弟子《ぶつでし》|阿難《あなん》|尊者《そんじや》に恋せし|旃陀羅女《せんだらめ》の思ひもかくやとばかり|嬌態《けうたい》を造り|春怨《しゆんゑん》|綿々《めんめん》として泣き口説くのである。
|男装坊《なんさうばう》には夢にも知らぬ今の意外の出来事に当惑し、最初の間は手を|拱《こまね》いて黙然たりしが、我が|膝《ひざ》に泣き崩れ荒波立たせて悲しみなげく女性のしほらしき|艶容《えんよう》を見ては、|人性《にんしやう》を持ちて生まれ出でたる|男装坊《なんさうばう》、たとへ自分は|女体《によたい》とは云へ黙殺することは出来ない。|殊《こと》に愛の神仁の|仏《ほとけ》の化身なる|男装坊《なんさうばう》は人を憐れむ|情《じやう》の人一倍深い身にとつてはいかんともこれをすることが出来ない。過去数十年間の|己《おの》が修行を破る悪魔として気強く五臓の奥の間に押し込めて置いた愛の戒律の一念が朝日にあたる|露《つゆ》の如くに解け|初《そ》めて、遂には女性の|情《なさけ》にほだされ大神への誓ひを破らんとした一利那、たちまち脳裏に電光の如くに|閃《ひら》めき渡つたのは|今日《けふ》まで片時も忘れられなかつた|三熊野《みくまの》大神が御霊示のときの光景の荘厳さであつた。そこで|男装坊《なんさうばう》は此処にこのまま夜の明くるを待たば森羅万象を焼き尽くさねば|止《や》まぬ|底《てい》の女性の熱情にほだされ永年の望み、固くなりし信念も溶かされて遂には大神への誓ひを破り大罪を重ぬることになつて了ふ。女性には気の毒ではあるが一つ心を鬼とし|蛇《じや》と為して逃げ出すより他に|途《みち》も方法もなしと固く握り占めてゐる美女の手から|法衣《ほふえ》の袖を振り離し、泣き叫びつつ跡追つかけ来たる可憐な女性の声を|後《あと》に一目散に深き闇の|山中《さんちう》へ|生命《いのち》からがら逃げ込んで了ひやつと一息をつくのであつた。それよりまたもや幾日幾夜を重ねて上へ上へと登り詰め、ある山の頂きに登りて見れば意外にもかかる|深山《しんざん》の中にあるべしとも思はれぬ宏大なる湖水が目の前に展開してゐた。|男装坊《なんさうばう》は驚きかつ喜び湖面や四囲の山並の美しい風光に|見惚《みと》れてゐると、不思議なるかな足に|穿《うが》ちたる|鉄《かね》の|草鞋《わらぢ》の|緒《を》がふつつりと切れた。次に手に持つた|錫杖《しやくじやう》がたちまち三段に折れて見る見る木の葉の如く天に飛び上がり|大湖《たいこ》の水面に落ちて了つた。|男装坊《なんさうばう》は思ふやう、さては幾十年の間|夢寐《むび》にも忘れざりし|吾《わ》が成仏の地、永住の|棲家《すみか》とは此処のことであつたか。かかる風光|明媚《みやうび》なる|大湖《たいこ》が|吾《わ》が|棲家《すみか》とは|実《げ》に有難や|辱《かたじ》けなやと天を拝し地を拝し八百万の神々を|拝脆《はいき》し、それよりすぐさま湖畔に|降《くだ》りてこれを一周し|吾《わ》が意に満てる|休屋《やすみや》付近の浜辺に地を|相《さう》し、|笈《おひ》をおろして旅装を解き幾十年|未《いま》だかつて味ははなかつたところの|暢々《のびのび》した気分となり安堵の胸を撫でおろすのであつた。
|大蛇《をろち》すむ|八甲田山《はつかふださん》その他の
|深山《しんざん》|高峰《かうほう》探る|男装坊《なんさうばう》かな。
雨にそぼち|寒風《かんぷう》に吹かれて|男装坊《なんさうばう》は
修行のためにまた|行脚《あんぎや》なす。
くろかねの|草鞋《わらぢ》うがちて山川を
|跋渉《ばつせふ》修行の|男装坊《なんさうばう》かな。
|深山《しんざん》の|岩間《いはま》の陰の|灯影《ほかげ》見て
|訪《と》へば不思議や美女一人棲める。
|男装坊《なんさうばう》山の美人に恋されて
|神慮《しんりよ》を恐れ|夜暗《よやみ》に逃げ出す。
熱烈な美人の恋を跳ねつけて
また山に逃げたり|男装坊師《なんさうばうし》は。
|高山《かうざん》の尾の|上《へ》に立ちて十和田湖の
|水鏡《みづかがみ》見て驚きし|男装坊《なんさうばう》。
十和田湖の|畔《ほとり》に|鉄《かね》の|草鞋《わらぢ》はぷつときれ
|錫杖《しやくじやう》三段に折れて散りゆく。
三段に折れし|錫杖《しやくじやう》十和田湖の
水面さして落ち沈みたり。
十和田湖は|永久《とは》の|棲家《すみか》と|男装坊《なんさうばう》
思ひて心安らかになりぬ。
それより|男装坊《なんさうばう》は湖畔に立てる|巨巌《きよがん》|今篭森《いまごもりもり》の上に登りて七日七夜の間不眠|不食《ふじき》して座禅の|行《ぎやう》を修し一心不乱に天地神明に祈願を凝らし終はるや湖水に|入定《にふじやう》して十和田湖の|主《ぬし》となるべく決心し|御占場《おうらなひば》の湖辺に至り岸辺の|巌上《がんじやう》に|佇立《ちよりつ》してまたもや神明に祈願した。ときあたかも十五夜の|望月《もちづき》|団々《だんだん》|皎々《こうこう》たる明月は東天に昇りて湖上に月影を浮かべ|大空《たいくう》一片の雲もなく微風さへ起こらず水面は凍りつきたる如く静寂であつた。|男装坊《なんさうばう》は仰いでは天空に|冴《さ》ゆる月を眺め、|俯《ふ》しては湖上の月を眺め天地自然の美に|見惚《みと》れをることやや|暫《しば》し、やがて|入定《にふじやう》の時刻も近づいて来た。瞑目合掌して最後の祈願を捧げ今や湖水に|入定《にふじやう》せんとするとき、今まで静寂にして鏡の如く澄み切りし湖面俄かに荒浪立ち起こり円満具足の月輪の影|千々《ちぢ》に砕けて|四辺《しへん》に|銀蛇《ぎんだ》|金蛇《きんだ》の乱れ泳ぐかと思はるる折りもあれ不思議なるかもその波紋は次第次第に大きくなり遂には中の湖の辺りより|鼎《かなへ》の涌く如くに|洶涌《きようよう》しその中より猛然奮然として躍り出でたるはこの湖の|主《ぬし》として久しき以前より湖中に棲んでゐた八郎の化身の竜神である。頭上には巨大なる二本の|角《つの》を生じ口は耳まで裂け、|白刃《はくじん》の牙をむき出し|眼《まなこ》は鏡の如く|爛々《らんらん》と輝き幾十丈とも計り知られぬ|長躯《ちやうく》の中央をば大なる竜巻の天に|冲《ちう》したる如く湖上に起こし、|男装坊《なんさうばう》をハツタと睨み付け「ヤヨ|男装坊《なんさうばう》|克《よ》く聞け、この湖には八郎といふ先住の|主《ぬし》守りあるを知らぬか、我が身の位置を奪はんと狙ふ不届者、汝|身命《しんめい》の安全を願はば一刻も早くこの場を退却せよ」と天地も震動する|大音声《だいおんぜう》をあげて|叱咤《しつた》し牙をかみ鳴らし爪をむき出し、ただ|一呑《ひとの》みとばかり押し寄せ来たる。|男装坊《なんさうばう》は吾は戦ひを好むものにあらず、|三熊野《みくまの》大神の御啓示によつて|今日《けふ》より吾はこの湖の|主《ぬし》となるべし。神意に逆らはず穏やかに|吾《われ》に譲り渡し勇ぎよくこの地を去れ、と説き勧むれど|怒《いか》りに燃えたる八郎の竜神いかで耳を|藉《か》すべき、十和田湖の|主《ぬし》八郎の猛勇無比、精悍無双なるを知らざるか、この痩せ坊主め気の毒なれども我が牙をもつて汝が頭を噛み砕き、この鋭き爪にて汝の五体を引き裂かん。覚悟せよと怒鳴りながら飛びかかる。|男装坊《なんさうばう》も今は是非なく法術をもつてこれに対し、互ひに秘術の限りを尽くし戦へども相互の力譲らず不眠不休にて|相《あい》戦ふこと七日七夜に及び何時勝負の果つべくも思はれぬ状況であつた。
|男装坊《なんさうばう》月の清さに|憧憬《あこがれ》て
湖面にしばし|佇《たたず》み合掌す。
大神の霊示の|棲所《すみか》はこの|湖《うみ》と
|入定《にふじやう》せんため|湖《うみ》に|入《い》らんとす。
この|湖《うみ》の|主《ぬし》なる|八之太郎蛇《はちのたらうじや》は
|浪《なみ》荒ら立てて|怒《おこ》り出したる。
|男装坊《なんさうばう》は|吾《われ》が永住の|棲家《すみか》なり
早く去れよと|八蛇《はちだ》に迫る。
|八之太郎《はちのたらう》竜神|怒《いか》り|角《つの》立てて
|男装坊《なんさうばう》に噛み付き迫る。
|男装坊《なんさうばう》ひるまずあらゆる法術を
尽くして|大蛇《をろち》と挑み戦ふ。
天震ひ地は|動《ゆら》ぎつつ七日七夜
|竜虎《りうこ》の争ひ果つるときなし。
ここにおいて|男装坊《なんさうばう》は止むを得ず天上に|坐《ま》す|天《あま》の|川原《かはら》の|棚機姫《たなばたひめ》の霊力を乞ひ幾百千発の流星弾を貰ひ受けこれを爆弾となして敵に投げ付け、あるひは雷神を味方に引き入れ天地も破るるばかりの雷鳴を起こさしめ|大風《おほかぜ》を吹かせ豪雨を|降《ふ》らせ、幾千万本の稲妻を|槍《やり》となしたる獅子奮迅の勢ひにて挑み戦へば、八郎もとても叶はじとや思ひけむ、|暫《しば》しの間手に|印《いん》を結び呪文を唱へゐたりしが、たちまち湖中に沈み再び湖底から浮かび出たるその姿は恐ろしくも|一躯《いつく》にして八頭|十六腕《じふろくわん》の蛇体と変はり、八頭の口を八方に開き水晶の如く光る牙を噛み鳴らし|白刃《はくじん》の如く研ぎ磨いた十六本の|腕《かいな》の爪をば十六方に伸ばし|風車《かざぐるま》の如く振り回しつつ敵対奮戦するためにまたもその力|相《あい》|伯仲《はくちう》して譲らず、再び七日七夜不眠不休の活躍、何時勝負の決すべしとも予算がつかぬ状況である。
|男装坊《なんさうばう》思ふに我がためにかくの如く永く天地を騒がし|奉《まつ》るは天地神明に対して誠に|恐懼《きようく》に堪へぬ。今となつては止むを得ず神仏の力に|縋《すが》るより他に方法なしと|笈《おひ》の中より神書一巻、|神文《しんもん》一巻を取り出しこれを|恭《うやうや》しく頭上に高く掲げて神旗となし朝風に|靡《なび》かせ八郎の|大蛇《だいじや》に打ち向へば、ああ不可思議なるかな神書|神文《しんもん》の一字一字は残らず|弓箭《ゆみや》となりて抜け出し、激風に飛ぶ雨や|霰《あられ》の如く八郎に向つて飛びゆき眼口鼻耳といはず全身五体|寸隙《すんげき》の残るところなく刺さつて|深傷《ふかで》を負はせた。
八郎は勇気と|胆力《たんりよく》とにかけては天下無双の|剛者《ごうしや》なれども惜しいことには無学なりしため神書|神文《しんもん》の前に立つては|男装坊《なんさうばう》に対抗して|弁疏《べんそ》すべき方法を知らず、信仰力を欠いでゐたのでさすがに剛勇をもつて永年間この付近の神々や鬼仙等を畏服せしめゐたりし八郎の竜神も、この|重傷《おもで》に弱り果て今は再び|男装坊《なんさうばう》に向つて抵抗する気力もなく、腹を|空《そら》に現はして湖上に|長躯《ちやうく》を横たへ苦しげに|呻吟《しんぎん》するばかりとなつた。そのとき全身幾万の|瘡口《きずぐち》より|鮮血《せんけつ》雨の如くに流れて湖水に注ぎたちまちのうちに血の海たらしめたのであつた。ここに八郎は|男装坊《なんさうばう》に破れ|千秋《せんしう》の怨みをのんで十和田湖を逃げ出し|小国《をぐに》ケ|岳《だけ》、|来満山《きたみつやま》を経て更に川下へ落ちのび、|三戸郡下《さんのへぐんか》に入つてこの|辺《へん》一帯の盆地を沼となし十和田湖に劣らぬ|己《おの》が|棲家《すみか》を造らむとせしが、この地方は|男装坊《なんさうばう》の生ひ立ちしため|男装坊《なんさうばう》にとつて|縁故《えんこ》の深き土地なるがため、この付近の神々は一同協定結合して八郎を極力排斥することとなり、|四方《しはう》より巨石を投じて攻撃されたるため、八郎はゐたたまらずしてまたもやここを逃げ去り、山々を越えて|鹿角郡《かつぬぐん》に|入《い》り郡下一円を|大湖《たいこ》と化し、十和田湖よりも大きなる湖水を造り|徐《おもむ》ろに|男装坊《なんさうばう》に対し復讐の時機を待たむと企てしも、付近の神々や鬼仙などは十和田湖に於ける|男装坊《なんさうばう》と八郎の戦ひを|観望《くわんばう》して|男装坊《なんさうばう》の神の|法力《ほふりき》、遙かに八郎の怪力を凌ぐに余ることを知つてゐるため、今は八郎の|威令《ゐれい》も前の如くには行はれずこの付近の守護神なる|毛馬内《けばうち》の|月山《ぐわつさん》神社、|荒沢《あらざは》八幡宮、|万屋《よろづや》地蔵その他数千の神社の神々は|大湯《おほゆ》に集まりこれに|古川《ふるかは》|錦木《にしきぎ》の|機織姫《はたおりひめ》まで参加の結果、大会議を開き|男装坊《なんさうばう》の味方となり、八郎を排撃することと決し、|月山《ぐわつさん》の頂上に登りて|大石《たいせき》を|瓦礫《がれき》として投げ付けたるため、八郎はゐたたまらず|十二所《じふにしよ》|扇田《あふぎだ》の流れを下りて|寒風山《かんぷうざん》の陰に|一湖《いつこ》を造り、此処に永住の地を|見出《みいだ》したが八郎の名に因んで後世の人これを呼んで|八郎潟《はちらうがた》と称ふるに至れり。
かくて|男装坊《なんさうばう》は|三熊野《みくまの》|三神《さんしん》別けて|神素盞嗚尊《かんすさのをのみこと》の神示によりて弥勒の出現を待ちつつありしが、天運ここに循環して昭和三年の秋、|四山《しざん》の|紅葉《もみぢ》今や|錦《にしき》を織らむとする頃|神素盞嗚尊《かんすさのをのみこと》の神示によりてここに|瑞《みづ》の|魂《みたま》十和田湖畔に来たり、弥勒出現の神示を宣りしより|男装坊《なんさうばう》は|欣喜雀躍《きんきじやくやく》、風雨雷鳴地震を一度に起こして|徴証《ちようしよう》を示しつつその英霊は天に昇りたり。それより再び現界人の腹を|藉《か》りて生まれ男性となりて弥勒神政の神業に奉仕することとはなりぬ。
ああ神界の経綸の深遠にして宏大なる到底人心小智の窺知し得る限りにあらず。|畏《かしこ》しとも|畏《かしこ》き次第にこそ。
惟神|霊魂幸倍坐世《たまちはへませ》。
付言、|男装坊《なんさうばう》現世に再生し、弥勒の神業を継承して|常磐《ときは》に|堅磐《かきは》に|神代《かみよ》を樹立するの経綸や|出生《しゆつしやう》の経緯についてはこと神秘に属し、未だ発表を許されざるものあるを遺憾とするものであります。(完)
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月鏡
終り