TITLE : ガン病棟の九十九日
ガン病棟の九十九日 児玉 隆也
目次
ガン病棟の九十九日
さるのこしかけ
“天使”の報われぬ町
イシャとキシャの払いもどし
さるのこしかけ
*
手記(児玉正子)
闘病ノート
ガン病棟の九十九日
ガン病棟の九十九日
一本の電話
結婚して十二年になるが、妻が哭《な》くのはこれが三度めだった。
その夜、私の仕事に対して、ある賞をいただくことが決まったという報《しら》せの電話を受けていた妻は「ありがとうございます」と震え声で言ったまま絶句し、受話器を私に押しやると、台所に駆けこんで水道の蛇口をいっぱいに開いた。彼女は嗚咽《おえつ》を子供たちに気づかれまいとしているようにみえた。だが、いまになってわかるのだが、あのときの妻の神経は子供にはなく、私に嗚咽の意味を穿鑿《せんさく》されることの怖《おそ》れに集中していた。
私は、妻の涙が、あまりにも重苦しかった一日の終りに、思いがけぬ報せを聞いた戸惑いのせいだろうと考え、そのまま今日の昼間病院でもらった痛み止めのカプセルを服《の》んで眠った。夜なかになって、私は小便をしに起きた。放尿をしながら、もう「きのう」になったが、がんセンター病院の外来患者用トイレで見た落書きを思いだした。薄い水色に塗ったドアには、駅や公園の便所にもあるその種の稚拙な落書きにまじって、ひときわ大きな籠文字《こもりもじ》があった。
「神様、私の癌《がん》を治してください」
その横に別人の字で、
「齢をとったらもうだめだ」
と、か細く弱い筆圧で書かれていた。
そうだ、私は好奇心のあまり、いや、怖いもの見たさで、といった方が正確かもしれない、用を終えたのにわざわざ隣の便所にも入ってみたのだった。すると、あった。
「先生、早く薬を発見してください。お願いです、早く!」
ストーブのある部屋にまだ灯《あか》りが点《つ》いていて、妻が起きていた。私はふざけて言った。
「カミさま、私の癌を治してください」
見ると妻は、私の下着にフェルトペンで名前を書き入れていた。入院の準備のようだった。それだけのことに、私は無性に腹が立ち「おい、早く寝ろ」と怒鳴った。それから十二月の夜気に冷えた布団《ふとん》にもう一度もぐりこみ、「神様、私の癌を治してください」と書いた患者は、私のようにまだこれから幼い子を育てなければならない若さなのだろうか、それとも、もう子に背かれるほどの齢かさなのだろうかと考えたように思う。そしていい気なもので、怒鳴られて私を見上げた妻の眼の赤さを、寝不足だなと片づけたほどだから、私は思い遣《や》りのある夫ではない。
妻の赤く腫《は》れた目は、先刻の嗚咽の続きのようだった。あとで、ずーっとあとでわかったのだが、その日彼女は、私の右肺が「癌」に冒されていると、医師からはっきり聞いていた。そしてほとんどの癌患者の配偶者のケースと同じように、彼女は「癌は本人に告げるべきではない」という信仰に遵《したが》おうと覚悟を決めた。彼女が、あの時水道の栓をいっぱいに開いたのは、その日一日中、独りでこの訓《おし》えに忠実でいた緊張感と重圧感が、一本の電話で崩れたせいだった。
がんセンターに行ってください
禍福は糾《あざな》える縄のごとし、の一日は昨年十二月十一日のことだが、そいつはいきなりやって来たわけではない。
梅雨のころ、右の胸から肩胛骨《けんこうこつ》にかけて、激しい痛みが突きぬけた。こういう場合、多分ほとんどの人がそうするように、私は開業医を訪ねた。一軒めは家の近くにあり、医師一人で五つの診療科目を掲げ、待合室はいつも患者であふれている。二軒めはいつ行っても患者の姿を見たことがなく、医師は診察室で所在なげに詩集を読んでいた。その二軒が、神経痛だ、肝臓が疲れているねえ、ほう、血液中の尿酸の含有量が高いよ、いえ、写真を撮りましたが胸は正常です、首の骨がずれているから痛むのです……と、つまりは誤診をくりかえしている間に半歳がすぎ、冬になって血痰《けつたん》が出た。私は国立療養所東京病院を訪ねた。開業医があわてて、結核だろう、と言ったからだった。
「結核か。えらいことになったな」
と、私は傍らの妻に言った。診察してくださったI先生の奥さんと私の妻が知り合いということもあり、I先生は妻に向って「奥さん、結核ならいいですね、いまなら治せるんですよ。奥さん結核ならいいですね」と、何度もくり返された。私と妻は、この病院に来るまで、結核と考えただけで暗澹《あんたん》とした思いでいたが、I先生の言葉を聞いているうちに、夏の日の雨雲のように広がるある怯《おび》えを抑えきれなくなった。
〈これは癌かもしれないぞ〉
実をいえば、私は開業医に通っている間に何度か、この痛みは肺癌によるものではないか、と訊《き》いたことがある。たまたま読んだ新聞の医学記事に書かれていた症状と〈似ている!〉と思ったからだった。だがその疑いは医師に一笑され、そのままになっていた。
それから三日後のことだった。I先生は私たち夫婦を別室に招き入れて、
「まあお掛けください」
と言い、レントゲン写真をライトビューワーに挟《はさ》んだ。
見ると、右肺の鎖骨の下が、肋骨《ろつこつ》三本分にまたがって楕円形《だえんけい》に白く抉《えぐ》れていた。I先生は、一呼吸おいた。それからきわめて事務的な口調で、それでいて「事務的」を粧《よそお》う辛さをにじませて、さり気なく言った。
「結核菌が出ませんでした。明日、すぐに癌研かがんセンターに行ってください」
そして、あした私が訪ねるだろう癌病院の医師に渡すようにと、検査の結果を書いた紙を封筒に入れていた。
「癌だというのではないのですよ。最悪の場合からチェックしておく方が安心ですから」という先生の声が、何枚もの鼓膜の向うから聞えてくるようで、それは二通りに聞えた。私のなかの素直なこころは〈それもそうだ〉と言ったし、芽生えはじめた猜疑心《さいぎしん》は〈ほうれ見ろ、ものの本に書いてあるとおりではないか。こんなセリフを何かで読んだことがあるぞ〉と執拗《しつよう》にくり返した。じっさい、猜疑心というものは底なし沼のようだ。部屋を出て廊下を歩きながら、私はいま貰った封筒が糊《のり》づけされていないことに気がついた。なぜ封をしないのだろう。ははあわざと安心させるためだ、と思ってしまい、中身を見ると血液がどうの、と書いてあった。「どうの」の部分は横文字と数字で、私にわかるわけがなく、まるで呪文《じゆもん》のようだった。
大きなレントゲン写真の袋をかかえて病院を出ると、花壇の葉牡丹《はぼたん》の暗い赤紫色が、氷雨に濡れていた。あと二十日もすれば正月だというのに、何てことだ。
ほとんどがノイローゼですよ
翌日、私と妻は早起きをした。家からがんセンターまで、二時間はかかるだろう。私は一人で訪ねてもよかったのだが、背中の痛みはしょっちゅう撫《な》でてもらっている方がらくだし、それよりも、なぜか癌病院というところは、独りで行くにはふさわしくない病院のように思えた。医者は「あなたは癌です」とは言うまい。「あなたのご主人は癌です」と言うというではないか。
それにしても待合室は何という患者の多さだろう。がんセンターのロビーの、およそ二十脚ほどの赤いソファーは人で埋まっていた。
順番が来て、私は医師と向いあった。医師は、私が持参した結核病院からのあの“呪文”を無表情に見ると問診をはじめた。ひと通り聞き終ると、短冊型の検査用紙に、ボールペンでつぎつぎに書きこみはじめ、その間黙ったままだった。私は沈黙が気づまりで、さっきからの医師のことばに関西訛《なま》りを嗅《か》ぎとって「先生お国は? 私は――県です」と言ってしまったが、そのとたんにむらむらと自分に腹を立てた。医師に阿《おもね》る必要などこれっぽっちもない。いったいおまえは、何を期待しているのだ。どうやら私は、医師の背中に見え隠れして、じっと私を窺《うかが》っている癌におべっかを使ったようだった。そして腹をたてた。医師と郷里が同じだからといって、私の癌(もしそうだとして!)が消えてなくなるものではあるまい。
私は、先刻から訊きたかったことを、おずおずと訊いた。「この病院で検査を受けた人の何割が癌ですか」すると医師は「ほとんどがノイローゼですよ」と答えたが、ボールペンの手は休めず、視線は検査用紙に落ちたままだった。
「検査がたくさんありますから、とりあえずこれを受けて来てください。その間にこちらの方に残りの検査を説明しておきます」と医師は言った。私はまず処置室で二十CC分採血され、血液検査で耳の血を取り、レントゲン室で写真を撮り、廊下とんびで結構いそがしかった。その間、妻は医師と向いあっていた。癌をめぐるストーリーにはつきものの「あとになってわかったことだが」という断り書きをここでもしなければならないのだが、私はそれからのことを、およそ四カ月後になって無理やり妻から聞いた。それによると、妻はその日すぐに結果が出るものと思っていたので、こわくてこわくてならなかった。妻の怯えは、病院の自動ドアを開けた時から徐々にボルテージを高めていたようだ。ドアが開くと、すぐに目に入る色彩があった。フラワーショップの華やぎと、正面の柱に貼《は》られたポスターの色だった。癌の検診を恐れずに受けよう、という啓蒙《けいもう》のためのポスターなのだが、一面に赤紫色のインクで印刷され、近づいてみると、癌細胞のある臓器の拡大写真だった。妻はその色が怖くて、それからの病院通いの百日は、柱の脇を目を伏せて通ることになった。
本山でもガンは禁句
さて、彼女はいま、私が居ない部屋で医師と向いあっていた。すると医師が、
「あなたはどういう立場の人ですか」
と訊いた。妻はとっさに〈これは、何かある〉と感じ、「患者の妻です」と答えてから「あの……」と訊いたのだそうだ。あの……主人はやっぱりそうでしょうか?
医師は、七〇パーセントその疑いが濃いが、あとの三〇パーセントについては検査してみないとわかりませんと答えた。そして看護婦に、ベッドの空くのを待っている入院希望者が今日は何人かと訊《たず》ね、ゼロだという答えに、ほう珍しい、こんなことはめったにないことですよと言いながら、「入院手続をとりますか? その方がいいと思いますが」と助言してくれた。妻は頷《うなず》きながらクスンと鼻をすすり、私が部屋へもどってくるといけないので、何気ない風に化けた。検査が終って、私は妻からその話を持ちだされ、またしても怒鳴った。私の言い分は「まだはっきりしないのに、なぜ入院手続をとるか」というものだった。妻は困りはてたようだ。すると、窓口の女性が「必ずしもここは癌の人だけじゃありませんよ」と言った。私はそのひとことで、毎日片道二時間あまりもかけて検査に通うのも大変だし、これから次々に受けねばならない検査は相当きついものだと聞かされていたので、一応申込むだけ申込んでおくか、という気持になった。妻は、ホッとしたようだった。
奇妙なことだが、この日病院で交した会話の中に、癌という言葉は、ほとんど省略されていた。医師は「七〇パーセント(癌の)疑いがある」。私は「まだ(癌だと)決まったわけじゃない」。妻は「あの……やっぱりそうなのでしょうか」といったが、癌の本山に来て癌を禁句にする神経は、私だけではなかったようだ。後に「癌患者」となって病棟に入ると、仲間たちは「この病気」と呼んでいた。
ともかくも、足早の冬の日が暮れて、私はすっかり疲れたが、(またしても今にして思えば)妻はもっと疲れていた。なにしろ、家への帰り道、私は「ノイローゼがほとんどですよ」を口に出してくり返すことができたが、妻は「七〇パーセント疑いが濃い」を反芻《はんすう》しながら、口に出せない辛さをかかえていた。妻はその夜、もっと辛くなった。
私は背中の痛みを、ご贔屓《ひいき》の北島三郎が歌っているテレビでごまかしている間に、妻は、あるだけの十円玉をもってさり気なく家を出、商店街の公衆電話で、例の結核病院のI先生のお宅に電話をし、今日のがんセンターの一部始終を話した。そして、実はこの間からのお口ぶりで何かあるような気がしておりました、私、覚悟ができていますから本当のことを教えてください、と問いつめた。I先生は、電話口で黙ったのち、声を変えて、「奥さん、しっかりしてくださいよ」と言った。妻は、「はい」と答えると、先生はまた、「奥さん、しっかりしてくださいよ。大丈夫ですか」と、三度同じ言葉をくり返され、妻はそのたびに「はい」と答えて、何枚めかの十円玉を投じた。するとI先生は、
「実は、ぼくの方の検査ではっきり出ていました。ご主人は癌です」
とおっしゃった。「七〇パーセント」が一〇〇パーセントになった。妻は、しばらく何も言えなかった。I先生は続けて、稀《まれ》には精密検査をしてみると癌ではなかったというケースもあるから「奥さん、絶望してはいけませんよ」とおっしゃった。妻は礼を言って電話を切り、まだ子供たちに晩ごはんを食べさせていなかったことに気づいて唐揚げ用の肉を買って帰り、滾《たぎ》った油に何度か涙を落した。
それからしばらくして、妻はまたI先生に電話をした。癌ときまったのなら、他の病気の患者さんの多い病院でお世話になる方がいいように思う。今ならまだ主人を何とかごまかせると思いますので、という相談だった。
I先生は、いつもの優しさに似ず厳しい声で答えられたそうだ。いま移すとかえって不自然だ。がんセンターの検査が終った時点にしないとご主人は気づきますよ。
「それから、私の方でお引受けするのはいいが、ただしご本人が病院を変ることを納得しなければ、できません」
妻の一日は、そんな一日であった。
彼女は私や子供たちが眠ったあとで、私の下着にフェルトペンで名を書きながら〈たくさん書かずにすめばいいな〉と念じていた。たくさん書かねばならないようでは、入院が長くなるのだった。入院が長くなれば、多分死に近づくだろう。私はそうとは知らず、小便に起きて言ったものだ。
「カミ様、私の癌を治してください」
パジャマ一着あれば
通院で検査を受けている間に、ベッドが空いたという報せがあった。十二月も半ばをすぎていた。
入院の日の朝、ランドセルを背負って畑中の一本道を歩いていく二人の娘の後ろ姿が、〈いつの間にあんなに大きくなったのだろう〉と私を驚かせた。まだおしめのとれない息子だけが、両親と外出できるというのではしゃいでいた。実をいえば、私も少しはしゃいでいた。入院という初めての体験に、ちょっと昂奮《こうふん》していたようだ。私はこの時もまだ検査が終るまでの入院だと信じていたし、一日のうち一時間は〈癌かな?〉と思い、残りの二十三時間は〈まさか、この若さで〉とたかをくくっていた。テンノウヘイカやキシシンスケがあの齢で癌にもならずにつやつやしているのに、なんで私が先に癌になるんだ、などと、ほんとうにそう思っていたが、あれはどういうロジックなのだろう。
がんセンターは、運河の向うにあった。だから、橋がかかっていた。私はこんな橋をどこかで見たな、そうか網走だ、とおかしくなった。網走刑務所の正門に通じる道にも橋があって、こちらはシャバ、向うはムショ。囚人たちは橋の中ほどで立ち止まり、川面《かわも》に己《おの》が姿を写してシャバと別れを告げるといわれているそうだが。癌病棟への橋は、癌患者を写すには水面から高すぎ、運河の水は汚れすぎていた。
私の入る病棟は七病棟だった。入院案内書によれば「内科、放射線科(胸部)」であった。エレベーターは三階で停まり、私と妻は、おそるおそる降りた。病棟はひどく暗く、廊下を行き交う看護婦の白衣や、患者のパジャマが、深い海の底でほの白く動く魚のように見えた。だが、病院生活に慣れてみると、光度はべつに暗くもなく、まして白衣が深海魚のように動くなどという感覚はあり得なかった。多分、私の神経がそうさせたのだろう。
私と妻は病室に案内された。二人部屋で、誰も寝ていない部屋だった。鉄枠《てつわく》の白い塗料がところどころ剥《は》げたベッドは、シーツだけが糊がきいていて、たった今取り替えたばかりのようだった。私は、不意に、〈このベッドに寝ていた人は、死んだ〉と思った。それは確信に近いものだが、根拠を問われると答えようがなかった。あとになって、やっぱり私の根拠のない確信は当っていたようだ。私の見たかぎり、患者が危篤状態になると、同室の患者は他の部屋に移されるようだった。従って、死ぬと、部屋はベッドが二つ同時に空くのだった。遺体が霊安室に運ばれると、看護婦は、たった今「遺族」と呼ばれるようになった家族の涙や、いやそれ以前に、死を覚《さと》った患者の涙や、注射の汚点《しみ》を吸いこんだシーツを取り替え、新しい患者を迎えるようだった。だから私は、入院した日にさり気なく「部屋を移っていただくこともありますのでそのおつもりで」と言われている。
その、多分きのうか、おとといか、一人の癌患者が息を引きとったであろう窓際のベッドに腰をおろし、妻と私は顔を見合せた。おい、何もすることがないよ、困ったな。これからずーっとこうなのだろうか。そうだ、パジャマに着替えるか。考えてみれば、ここはパジャマ一着あれば暮せる所なんだ。去年の春につくったチェックのスーツも、札幌の地下街で釧路行きの夜汽車に乗る前に買った皮のジャンパーも、なんにも要らないんだ。靴も要らない。一日中スリッパでペタペタと音をたてて歩くか寝ている、そういう所に来たんだよな。
信仰はおもちですか
私は新しいパジャマに着替えた。それからボクサーのようなガウンを着た。入学式の日に新しい服を着せられた小学生のようで照れくさく、妻の顔を見て笑った。妻は少し歪《ゆが》んだ顔で笑って「似合うわよ」といった。
「おい、もう帰っていいよ」
「いいかしら」
「うんいいよ。どうせ検査はそう長くはかからないだろうし」
すると妻は「あまり楽観しないでね」と、前よりも顔を歪めた。息子が、おしめに包まれた尻を家鴨《あひる》のように振り、「バイバァーイ」と言った。妻はエレベーターの中から、「がんばってね」と言った。
病室に帰って、私は改めて窓から外を見た。部屋は外来診療棟と治療棟にはさまれた中庭に面していて、景色といえば窓枠ばかりだ。向いの棟の屋上に、遠くで建築中のビルのクレーンがゆっくりと動いているのが、ただ一つの動線だった。十二月の空は青かったが、窓枠で四角くひきちぎられた空だった。首を捩《ねじ》ると、主の居ないベッドだった。私はどんな患者が入って来るのか心配になった。私にわかっていることといえば、女ではないということだけだった。
そんなことを考えていると、看護婦がやって来た。彼女はまだ若かった。二十一、二歳に見える。こんなに若いのに、彼女は新入りの患者にこんな質問をし、それは彼女の趣味ではなく、この癌病院の習慣に準じているようだった。つまり、彼女の仕事だった。
趣味は何ですか? ご自分の性格をどう思いますか? 親族の死因は? 癌でなくなった方はいますか? この病院へ入院されて、どんな心境ですか?
もちろん彼女はいきなりこう訊くわけではなく、最初は例によって病歴だった。それから食べものの好き嫌い。つまり、無難な質問が、じわじわと癌に近づいてくる。
煙草は一日に何本吸っていましたか?
それからさっきの質問になり、最後の質問が、このまだ娘っぽい看護婦の口から発せられるには、重大すぎた。彼女はこう言ったのだ。「信仰はおもちですか」
その瞬間、私の中のあらゆる神経の中から、猜疑心だけが、ものすごい勢いで噴出した。そして、私の体中の神経が漏電し、医師や看護婦の一言に確実にショートし始めた。
私は「いえ、別に。信仰はありません」と答えながら〈そうか、死ぬ時の用意か〉と思った。じっさい、癌病棟は、猜疑心に満ちていた。それはもう宿命というしかない。癌患者の心の安寧は、この猜疑心をどう突き破るかにかかっていると、私は後になって気がついた。
看護婦が出て行き、私はまた独りになった。隣のベッドの患者は、今日は入りそうにない。四角い空を眺めて夜を待った。白いものがふわ、ふわ、と空に舞い、視界から消えた。よく見ると、鳩の胸の羽毛だった。アナウンスが二つあり、夕方のそれは、
「外来患者さんにお知らせいたします。本日十六時、ニッサンビルに爆弾をしかけたという連絡が築地署よりありました。新橋演舞場方面には近寄らないようご注意下さい」
という「外界」からの声だった。
夜になって、もう一つ聞えた。
「――さんの、ご遺族の方……」
と呼び出していた。今日も、少くとも一人、亡くなったらしい。私は改めて〈ここは間違いなく癌病棟なのだ〉と思った。
この日は、月、水、金の男子入浴日に当っていたので、早い風呂に入ることができた。二人も入ればきゅうくつな湯船の中から大きな声が聞えてき、初老の患者が「キョウトポントチョーニフルユキモオー」と気持よさそうに歌っていた。私は「――さんの遺族の方」と「お座敷小唄」が同居する癌病棟にあっけにとられ、この人は癌なのだろうか、と疑った。
初老の人は、見慣れぬ顔の私に気づいて話しかけてきた。
「あなたは、どこ? 肺ですか?」「ハイ」
「私は胃です。胃は早ければイイんですよ」
と、語呂合せのような会話をし、「じゃ、お先に」と上るのだった。どうやら私は、とても不思議な所へやって来たようだ。死が日常化している一方で、信じられないのんきさがある。
ワカメの味噌汁、少しの漬物、魚の角煮少々、じゃが芋ときゅうりのサラダ、の夕食が終ると、がんセンターの長い長い最初の夜が来た。私は、そういう夜が、この先九十九夜も続くことになるとは想像もしなかった。
遠くへ退院……
それからの百日を、日を追って克明に誌す紙幅はないが、どんな日も、癌病棟の朝は六時に明ける。看護婦が検温と脈搏《みやくはく》を数え、前日の大小便の回数を記録していくと、一日が始まる。私は、どんなに長い夜もかならず明けるものだと、当りまえのことに気づいてひどく感心した。私の夜が長かったのには理由があった。きのう、癌病棟で最初に聞いた患者同士の会話のせいだった。七病棟には、記録室の斜め前の廊下にスプリングのくたびれた長椅子が一脚あって、喫煙所になっている。私は人恋しくなって出かけていった。すると、パジャマの具合や、看護婦との親しさから見て、病院にだいぶ長いと思われる男が話していたのだ。
「あの部屋の人、退院したの?」
「ウン、退院」
「近く? 遠く?」
「遠く」
「そう。遠くへ退院しちゃったのか」
「今月、これで三人めだよね」
「いや、もっと多いさ。あの部屋だけで四人はいるよ」
シクラメンの赤い鉢花を見やりながら、廊下の二人はこともなげだった。私は「遠くへ退院」が「黄泉《よみ》の国への退院」――散文的に言えば、「死」で、これで三人死んだね、いやもっとたくさん死んだよ、という話だと、容易に想像できた。「遠くへ退院」という言い方は、病棟に受け継がれた知恵なのだろう。
私は新入りの礼として、私の症状を話して会話に入れてもらった。すると、テレビのクイントリックスそっくりの患者が「へえー、それじゃあんたは重症だ。リンパ腺《せん》の腫れるのは悪性の癌ですよ」と言った。私はあまり直截《ちよくせつ》で面喰い「まだ検査中なんですよ。癌だと決まったわけではない」と答えた。クイントリックス氏は怒りだし「親切で言ってやったんじゃないか。リンパ腺が腫れりゃあ癌なんだよ」と言って部屋に戻った。私は、あの人はどこが悪いんでしょうか? と訊ねると「あの人はね、からだ中のリンパ腺が腫れているんですよ」ということだった。
別の老人が、熱心に言い寄って来た。
「あなた、私はね、どこも悪くはないんですよ。癌なんかじゃないんですよ。こんな病院に居る必要はないんです」とくり返したが、他の人の話によると、老人は新しい患者が来るたびに「私は癌じゃないんですよ」と話しかけて、もう病院に長いそうだ。
私が眠れなかったのは、背中の痛みもさることながら、こういう会話の刺激が強すぎたせいだろう。看護婦は、昨夜、自分の患者が眠らずにいたなと、ちゃんと知っていた。
私は、思いきって、という感じでリンパ腺のことを訊いた。それは勇気の要ることだった。看護婦が「ええそうですよ。リンパ腺が腫れるのは悪性の癌です」などと(たとえそうだとしても)答えるはずがないのだから、ほんとうは“勇気”など、ちっとも要らない、「お早よう」と言うほどの気軽さでいいはずだのに、この病棟ではとても勇気が要るのだった。案の定彼女は「風邪をひいてもリンパ腺は腫れるのですよ。そんなに悪いことばかり考えるものじゃないですよ」と言った。すると私は、〈そうれ見ろ、クイントリックスめ!〉という気になり、そのあとで〈いや看護婦が本当のことを言うわけがない。ここは癌病棟だぞ〉と考えこんでしまう。
私のなかの「誰か」
もっとも、猜疑心も時には勇み足をするので、例の「信仰をお持ちですか?」がそうだった。〈ああ、死ぬときの準備か〉と神経がショートした数日後、看護婦に訊いた。看護婦の話によると、ええ、なかにはもう死期を悟って、牧師さんを呼んでほしいとおっしゃる方もありますが、それよりも宗派によっては大きな音をたててお祈りなさって同室の患者さんとトラブルが起きることもありますので、あらかじめ訊いておくのです、ということだった。そのかぎりでは実務的な質問だったわけで、私は〈なーんだ〉と安心するのだが、またあとになって、九州大学の心療内科が「生存癌患者と信仰の関係」を発表したという噂《うわさ》を聞くと、やっぱりなあ……と思い悩むという具合だった。癌病棟の患者の神経の針は、いつも極端から極端に振れ、主治医や婦長は、その針の振れ方をさり気なく観察しながら、患者と接していた。
主治医はS先生といった。先生は学生時代にレントゲン写真を誤診され、二年間を棒に振った体験から「日本一のレントゲン写真のよみ手になってやろうと思ったんですよ」と言われた。S先生は診察で、両脇の下を強く押えて「はい、結構です」と言うのだった。私は、ミスター・クイントリックス・リンパ腺を思い出して、〈先生は、リンパ腺を気にしているな〉と不安だった。
私には一つの期待があった。通院検査中に、直径五・五センチまで腫れあがった頸《くび》すじのリンパ節に針を突きたてて、リンパ液を採られた時、これで癌かどうかがわかるという意味のことを言われていた。検査の結果は一週間後に出るという。そこで私は勝手な想像をしていた。一週間といえば二十日すぎだ。ある朝、S先生がメガネをきらきらさせて入って来られ、「おめでとう、癌ではなかったですよ。もうこの病院で治療する必要はありません。いいクリスマスになりましたね」と言ってくれるはずだ――。
その一週間が過ぎたが、先生はいつもと変りがなかったばかりか、ある日、この先だんだんつらい検査になって来るが、検査が終るまで待っていても損だから「もう治療を始めます」と言われた。私は、よろしくお願いします、と言ったものの不安だった。とうとう癌病院に組み込まれてしまったか、という思いであった。翌日から坐薬が出た。あとでわかったが、抗癌剤《こうがんざい》だった。私はなるようになれ、という気持でいた。
待ち兼ねていた“戦友”が入って来たのは、その少し前のことだった。歯科医のKさんは六十をすぎており、別の病院で気管支鏡の検査を受けている最中に、あまりの苦しさに失神してかつぎこまれたのだった。Kさんは歩ける状態になく、酸素吸入を受けていた。例によって看護婦が訊いたが「病気になって、いまどんな心境ですか」という問いに「ザ・ン・ネ・ン・デ・ス」と肺腑《はいふ》からしぼり出すように答えていた。数日たって、Kさんは少し落着いた。そして「戦争で中国大陸を駆けまわったというのに。あの時は脚も体も強かった」と、聞かせるでもなく言った。六十余歳の“戦友”が来てから、病室は賑《にぎ》やかになった。といっても、華やかな賑わいではない。老いの奏でる音は概して醜悪でありもの哀《がな》しかったが、「生命」が傍らにあるというだけで妙な賑わいをみせていた。Kさんが部屋で演じてみせる音は、まず、咳《せき》と呼吸音。息を吸うとき、ゼーゼーという音が納豆のように粘っこく尾をひき、地獄の底から這《は》い上ってくるようだった。時々、放屁《ほうひ》の音がまじり、大きな声を伴った欠伸《あくび》が部屋中に倦怠感《けんたいかん》を漂わせた。食事が終ると、茶でゴボゴボと口を洗う音、それからチュ、チュッと歯を吸う音、しびんにほとばしる小便の音、そして高らかないびきで一日が終る。
私は病棟の老人たちを見ているうちに「同病相憐《あわ》れむ」という言葉は美しすぎる、と思った。私のいら立った神経では「同病目を背ける」というのが、正直な実感だった。そして、あの齢までは生きたくないが「神様、せめてあと二十年ほどの生命《いのち》を下さい」と言ってしまう。癌病棟に入ってみると、十年という歳月が、気の遠くなるようなとしつきに思える。健康でいる時は「十年しか生きられない」のだろうが、ベッドで、四角くちぎれた空をゆっくりと落ちていく鳩の羽毛を眺めていると「十年も生きられる」という思いに変るのだった。そして、六十代の患者が二人寄ると、きまって語り合うことになるあの感懐を、私は聞くことになる。彼らは必ずこう言った。
「若いときは戦争で、戦争が終ってからは子供を育てるのに苦労して、孫ができたと思ったらこのざまだ。せめてあと十年は生かして楽をさせて欲しいねえ」
「ほんとうに」
私は老人たちの「せめてあと十年」を聞きながら、〈この人たちの十年をこっちへ下さい。私にはまだこれから大きくしなければならない子供がいるのです〉と「誰か」に願っていた。そんな私は、まるで、「蜘蛛《くも》の糸」の、一番上を這い上っている男のようだ。私のなかの「誰か」は、その後、次第に影を大きくしていくことになった。
肺血管造影検査は、上膊部《じようはくぶ》の動脈を切開し、そこから造影剤を流しこんで撮影する検査である。撮影が終り、切開部分を縫いながら「忘年会続きでくたびれちゃった」としゃべっている医師の声を、私はずいぶん遠い世界のできごとのように聞いた。だが、癌病棟にもクリスマスはちゃんとやって来るのであって、記録室の前に小さなクリスマスツリーが飾られた。
来年も西洋のお経を
がんセンターのクリスマスイヴは十二月二十三日だった。遠くから、クリスマスキャロルが聴こえて来、歌声はやがて階段の吹抜けをゆっくりと昇って来た。廊下の電灯が消えて、記録室と病室から洩れる明りの間を、白衣の群れが近づいて来る。医師や看護婦達が自主的に編成したキャンドル・サービスだった。暗くした癌病棟に聖歌が響き、いつもは薬をいっぱいに乗せて廊下を行くトレー車に、今夜はロウソクがいっぱいで、みんなゆらゆらと瞬いていた。看護婦が、一本ずつ患者に配り、さあ、いっしょに歌いましょうよ、と言った。
歩ける患者は歩いて、車椅子の患者は車で集まって来た。ロウソクの灯りが、病棟の廊下や天井に車椅子の巨大な影をつくり、患者がいっしょに歌うたびに、吐く息で灯が揺れて影もゆらいだ。歩くことも車椅子に座ることもできなくなった重症の患者は、病室のドアを開けてもらい、近寄り遠ざかる歌声に耳を傾けていた。
聖歌隊は歌いながら八病棟の方へ移動し、淡い光の波が、年末の癌病棟をひどく感傷的にした。さっきから、聖歌を聴きながら「ナマンダブ、ナマンダブ」と合掌していた車椅子の老婆が「来年も生きて西洋のお経を聴けるでしょうか」と言ったが、誰も笑わなかった。しばらくたって、それはずいぶん間のぬけたしばらくだったが、誰かが「大丈夫だよ、おばあちゃん。来年は家で正月だよ」と声をかけ、患者たちはそれぞれの病室にもどった。
その日、七病棟では看護婦たちが自費でクリスマスカードを買い、手わけしてメッセージを書きこんでは、患者の一人一人に配ってくれた。私のカードにはブレヒトの詩が書かれていた。
九回裏逆転満塁ホーマー……
検査は段々につらくなった。いま思えば、それはもう「癌か、癌でないか」の検査から「どういう性質の癌か」を調べていたのだが、私はあい変らずまだ望みを持っていた。
年末年始は、よほどの重症患者でないかぎり、家で正月を過すことになっているようで、私も外泊することになった。それならば、外泊の前にどうしても確かめておきたいことがある。いったい私は、癌なのかどうか。
S先生に訊こうとしたが、病室で正座してでは怖ろしすぎた。それにこっちがかしこまれば、先生だってしゃべりにくいだろう。そこで、折よく廊下で行き合った日に、〈いまだ!〉という感じで、立ち話の気楽さを装って訊いた。たしか「ねえ先生、ぼくは癌なんでしょうかねえ」と言ってみたようだ。先生は、先生の趣味の音楽でいえば、八分休止符ぐらいの間をあけて〈えい、言っちまえ!〉という感じで答えた。「あなたが訊きたいなら言いましょう。はっきり言えば、いまのところその疑いが濃い」そしてもう一度「はっきり言えば、ね」と言った。
で、私の方だが。
こんなとき、たしか「地面に吸いこまれるような」気持であったり「目の前がまっ暗に」なったりするはずだが、これはいったいどういうわけだろう。そんな気がしないのだった。
まるで他人ごとのようで「へえー、そうかね」といった按配《あんばい》だった。
S先生は重ねて「この病院から出て行けば病気を置いて行けるというならともかく、病気はどこへ行ってもついていくのだから、それよりどう治すか、どう闘うかを考えましょう」と言う。そこで私は、訊きついでに訊いたが、「先生、癌というのは死亡宣告と同じですか」とは、ずいぶん直截な質問だ。するとS先生は、「――さん、もしそうなら、ぼくは辛くてこの病院に十年も勤めておられない」
と、初めて笑った。私もいっしょに笑おうとしたが、あまりうまく笑えなかった。とんでもないクリスマスプレゼントをもらってしまったものだ。だが待て待て、年が明けると、きつい検査が二つある。その結果で、九回裏逆転満塁ホームランということだってあるんだから、と、私はまだそう思っていた。とはいうものの、その思いは以前にくらべて〈おれは癌だ〉という声にずいぶん大きく侵蝕《しんしよく》されている。
春の蛇
その夜、私は猫を見た。こいつの声を、私は一度だけ聞いたことがある。戦友のKさんが入って来て間もなくのころだったが、深夜、注射針の落ちる音でも聞きとれそうに静まった癌病棟の廊下を、息を殺すように、ごろごろと通るストレッチャーの音がした。おそらく看護婦は静かに押しているのだが、なにしろ戦前は「海軍病院」と呼ばれていた時代ものの建物なので、廊下のリノリウムがつぎはぎだらけで、どうしても音がする。車の音は遠くから徐々に近づいて来、私たちの病室の前を通って、病棟のはずれのエレベーターの方に消えた。するとKさんが、暗闇の中から低い声で「死ンダ。霊安室ヘ運バレタ」と言った。
それからまたしばらくして、遠くで赤ん坊の泣き声がした。闇の中で、Kさんの息づかいがする。あれは、起きている呼吸だ。彼も眠らずに、赤ん坊の声を聴いている。泣き声はゆっくりと近くなった。だが不思議なことに足音も寝台車の音もしなかった。すると不意にKさんが、
「猫ダ」
と言った。
「…………」
猫だった。「足音もない」のは道理だった。猫が鳴きながら、深夜の癌病棟の廊下を徘徊《はいかい》しているのだった。猫は、そのまま私たちの部屋の前を通り、さっき遺体(であろう)が通った霊安室へのエレベーターの前あたりまで行くと、扉が閉まっていたとみえてまた戻って来、そのまま八病棟の方へ遠のいた。私たちは闇の中で、お互いに深い息を吐いた。私は、別棟の研究室から癌を移植された猫が檻《おり》を破って逃げたのか、と思った。翌朝、私は久しく寄りつかなかった例の喫煙所へ行った。「夜なかに猫の声がしました」「猫? ああ居るんですよ」
話では、三、四匹いるという人あり、いや、十何匹いるんだよという人もあり、諸説紛々であったが「がんセンターの猫」であることには違いない。ただし、猫たちは、厚生省直轄のこの国立病院で飼育されているわけではなく、勝手に入りこんでいるらしい。彼らは朝になるとこの病院から隊伍を組んで築地の魚市場へ新鮮な魚を食べに出動する。なんでも子猫を従えた家族もいるらしい。ご帰還は、ほぼ夕方の六時から七時の間で、そのころになると患者たちの食べ残した残飯が地下の栄養室のあたりに出るので腹をいっぱいにし、暖房のきいた廊下や階段の踊り場で快適な睡眠をとるのだと聞いている。
私が猫を見たのはその夜のことだった。「正直に言って疑いが濃い」と言われたのが、時間がたつにつれてこたえ、深夜何度も小便に立った。そして、まだ未練を捨てきれないでいる煙草を吸いに、暗い廊下を行った。すると、淡い電灯の下に、灰色のものが蹲《うずくま》っており、よく見ると猫だった。猫は、私をじっと見た。猫は廊下の左右に並んでひそとしている病室の、闇の底のベッドに横たわっているどの人間よりも太っていた。どう見ても、こいつは癌なんかでなさそうだ。
そのころ、私の手足の指は第一関節から先が腫れてふくれあがり、濃いセピア色に変り、爪はいやな紫色になった。互いちがいにして横から見ると、指先は蛇の鎌首のように見えた。酸素がまわらなくなっているからだそうだ。私は、今日も生野菜をもち、二時間かかってジュースをしぼりに来てくれた妻に手をひらひらさせて「おい、蛇だ。蛇が棲《す》みついた。蛇が十匹だ」と言った。それから「やっぱり癌らしい」と言った。すると妻は、ぶるっと身震いをし「今年の春の蛇……」と言った。私は、「変なことを言うな」と妻を叱ったが、内心は穏やかでない。
私はこの春、一メートルほどの長さの蛇を殺していた。啓蟄《けいちつ》のころのある日、木箱のスコップをとろうとした娘が箱の底でとぐろを巻き、鎌首をもたげている蛇を見つけた。爬虫《はちゆう》類が恐《こわ》い私は、こういう時はつかんで酒を飲ませて放してやる等という言い伝えどおりにできようはずがない。えいやっとばかり箱にふたをし、空地に運んで灯油をかけ、火をつけた。蛇は炎の間から、黒こげになった首をのぞかせ、尾はまだ動いていた。
妻はその蛇を思い出し、私の指先に棲みついたように感じたらしい。私は、正月の外泊で家に帰った。そして蛇を埋めた穴を掘り起し、清めの酒を注ごうと思い、空地に出た。そうすれば、私の癌はなおるのだ。だが蛇の穴は新しく建った家の土台の下になっていた。
外泊の間、私が体を動かしたのはその時だけで、あとは寝て暮した。なにしろ、体重が減っていたし、脚は驚くほど細くなっていた。正月の間、私は日がな一日、十本の指を見て暮した。私は〈ひょっとしたら、死ぬかもしれない〉という突然の怯《おび》えに責められた。こうしている間にも病気が進行しているのだと思うと、気が気ではない。本棚にたまたまあった癌ウイルスに関する本を開くと、吉川英治氏の死に方が書いてあった。氏の癌は胃から胆嚢《たんのう》、胆嚢から膵臓《すいぞう》、さらに左の乳と転移をして肺にきた。肺癌はリンパ腺へと転移し、神経を圧迫して「手が抜けるように痛み」、それから頸部《けいぶ》に移って首をしめ、失神を何度もくり返したのち、言葉も出ず字も書けず、最期は脳癌で亡くなった、とある。
私の「神経痛」はこれだったのかと思うと、一刻も早くがんセンターに帰りたくなった。帰って「患者」になりたい。私の診療カードとカルテの表紙には、一八四五九四という数字が記入されている。数字はがんセンター開設以来の患者の通し番号だった。
私は、がんセンターの、十八万四千五百九十四人めの患者なのだ。
苦しい検査の間
年が明けて病院へ帰ると、気管支造影検査だった。あらかじめ「つらい検査だけれど、がんばってくださいよ」と言われていたので「死ぬよりましでしょう」と答えると、看護婦が「やった人は皆さん、死んだ方がいいとおっしゃいます」と笑った。それも道理で、一粒の米や一滴の茶を間違って飲んだだけでも咳込んでしまう気管支に、麻酔をかけて(これがまた一苦痛だが)管を通し、造影剤を注ぎこんでは角度を変えて写真を撮る。
私はそのころ、自分が癌だと思いこむようにつとめていた。だから、この苦しい検査は、肺癌患者がどうしても受けなければならない洗礼なのだと考えた。洗礼を受けた患者たちが、後日、管をつっこまれて液を流しこまれている小一時間の間、あの苦痛を柔らげるためにあなたは何を考えていたかと、話しあったことがある。
――戦争だな。戦地の苦しさにくらべりゃあ、なんだこんなものと思っていたよ。
――ぼくは子供の顔だ。
――チクショウ、チクショウと思っていた。
その話の終りに、中年の患者が声を落し「私はね、本当のことを言うと、家内のアソコを思い出していましたよ」と言ったが、妙にリアリティに満ちていてせつない。
毎週火曜日は回診日でもあった。目の前でやりとりされる主治医師同士の会話を、患者は毛穴までも聴覚にして、聞き洩らすまいとする。だが、所詮《しよせん》わかるわけがなく、ざるで水を汲《く》むはかなさに似ていた。回診のあとで医師たちが記録室に集り、自分の患者のレントゲン写真を示しながら症状や治療方針を説明し、意見を交換する。そのとき患者は、記録室のあたりをできるだけゆっくりと歩きながら、拡大されたレントゲン写真を、あれはおれの臓器ではないか、と盗み見しては何かを知ろうとするが、何も知ることができず、もう自分の生命を、完全に他人の手に預けてしまったのだという思いを強めるだけであった。
人目がなくなると
私の治療方針は、決まっているようだった。主治医のS先生から「手術が可能なので、年が明けたら外科病棟に移ることにしましょう」と言われていた。そこまで言われていながら、私は、自分が癌なのかどうかを、まだ知りたがっていた。癌だと思いこむようにはしていたが、考えてみればまだ一度も、医師から「あなたは癌です」と宣告されていない。宣告されていないいじょう、残された一縷《いちる》の望みまで断ちきるほど、私は強くはないのだった。そのころ妻は、私の振幅の激しい日々にふりまわされて、疲労しきっていた。彼女は、病院に来るとまず婦長に会い「主人は今日、何か変った様子がありましたか」とたずね「今日は不機嫌よ。昼間咳がひどかったのよ」と教えられたりする。それから病室の入口に立つと一度深呼吸をし、遠慮がちにコツ、コツと叩き、半開きにしたドアの間から私の表情を盗み見て、はじめて全身を現わすという具合だった。妻は私を観察し、私はそんな妻を観察するという、まるで尻を嗅《か》ぎあう犬のようだった。
癌患者の妻は、激しく疲れるものだ。知っていることも言えない、顔に出せない、癌のガの字にも怯えて暮さねばならない。彼女は、私が癌であることを、私の姉と実家の母親、そして、三年前に夫を喉頭癌《こうとうがん》でなくした親友の三人に打ちあけた。だがあまりの重圧感に、彼女は喘《あえ》いだようだ。いつか私は、彼女を怒鳴りつけたことがある。私が外科へ移って手術を受けると決まったとき、妻が先生を部屋に訪ねた。戻ってくると「叱られちゃった」と言った。手術をしないで済まないでしょうか、と訊いたらしい。すると先生が大声で「手術ができることを喜んでもらわなきゃ困る。だから、私は、女は嫌いなんです。何もわかっちゃいないんだから」と叱られた。
「へえー、それは痛快だ。さすがはS先生だ」と私はご機嫌だった。「で、それからどんな話を聞いた?」「それだけよ」
私はとたんに暴君になった。どうしてそれだけで帰って来た、医者というものは患者には何も言わないものなのだ。だからお前を行かせたのではないか。お前は自分の夫が癌か癌でないかを知りたくないのか、「えっ、どうしておれの病気をもっと詳しく訊かなかったんだ」と荒れる。妻は黙っているが、実は毎日のように婦長に「どうでしょうか、主人は癌と気づきましたか」と訊《たず》ねていた。
「今日、○○さんと××さんから電話があったわ」。その電話を、あいまいに答えたと、また怒った。「がんセンターに入院しておりますと、なぜはっきり答えないんだ。せっかく訊ねてくれているのに失礼じゃないか」と、杓子《しやくし》定規に考える。そのころ、もう時間がたちすぎて「検査のために入院しています」が通じなくなっていた。妻は自分では癌だとわかっていても、できることならそう思いたくない。だが、応答している間に、深い淵《ふち》にどんどん落ちこんでいくようで怖くてならなかった。彼女はある時期、電話ノイローゼのようになってしまった。
妻の苦しさはまた、子供に父親が癌という病気だと教えられないことだった。迷惑をかける病気でもないのに、癌が世間から声をひそめて語られるのはなぜなのだろう。多分、死の影が色濃いからだろう。妻はその癌をとりまく気配を敏感に察知していたようだ。癌研付属病院長であった故田崎勇三博士が歯肉癌で亡くなったあと、発表された氏の遺言状に、こういう数行があった。「病名は慢性歯齦膜炎《しぎんまくえん》とし、癌と発表しないこと。これはいまだ幼少な二人の女児の将来を考慮しての親心である(すなわち結婚の時の障害などになることを恐れるあまりの老婆心からでもある)」
癌の権威で、しかも科学者にしてこの遺言だから、私の妻の怯えをあながち嗤《わら》うわけにもいくまい。
と、私が書いているこんなことは、晩春の陽射しを浴びる紫の蘇芳《すおう》や深紅の木瓜《ぼけ》の花が見え、飼犬の声の聞えてくる部屋で生きているから言えるのであって、そのときの私は、木枯が窓をうつ癌病棟の住人であったから、神経はささくれていた。妻はそんな私の詰《なじ》り声に、人目がなくなるとよく泣いたのよと、あとになって話した。
「どこで泣いたんだ」
「病院で、ずいぶん泣いてたのよ」
彼女はがんセンターのなかで、夕刻になると人の気配がなくなる場所をいつの間にか探し出していて「いつも耳鼻科の前の廊下のソファーで泣いてたのよ」と言った。家に帰ると、子供たちが眠ったあとがその時間であったらしい。親は子に知られていないつもりでいたが、子はちゃんと知っていて、母親が病院へ出かけたあと、小学校四年と二年の娘と、おしめをつけた息子の幼い姉妹が、冷えた夕飯のおかずを黙って食べてくれた。子供たちは、近所の友だちと遊ばなくなった。遊びに行くと「お父さんの病気」を訊ねられるから、とてもいやなのだった。
足の細いあの人
外科病棟のベッドがまだ空かないらしく、内科で暮すうちに、とうとう三〇一号室の「あの人」が死んだ。一月十七日のことだった。私は、一度も「あの人」の顔を見ていない。三〇一号室は、私の部屋と廊下を隔てて向いあっていた。点滴注射や配膳や重症患者のレントゲン撮影の時など、しまりの悪いドアが開きっ放しになることがあった。そのたびに、冬の欅《けやき》の梢《こずえ》のように細い「あの人」の両の脚が見えるのだった。腰から上は、間じきりの衝立《ついた》てで隠れて見えないが、名札から男だということだけはわかった。寝巻きをめくって、看護婦に蒸しタオルで拭われているその人の脚は、ほんとうに葉を落した欅の梢のようだった。
もう動けなくなっている「あの人」は、脚を――肉がないので「骨を」といった方が正確だ――ベッドの上で組んでいたが、看護婦が二人がかりで組みかえさせるとき、折れはしないかと、こちらの病室から見ていて案じられた。あの足は、もう終ろうとしているこの人の一生で、何万歩歩いた足なのだろう。同室の患者が部屋を移ったので〈ああ、そろそろだな〉と思っていると、二日めの深夜に亡くなった。なぜか死ぬときは、きまって深夜か早暁だ。起きてみると、もう名札ははずされ、ひょっとすると体温が残っているかもしれない「あの人」のベッドに、朝のオレンジ色の光りが射していた。私は「あの人」の顔を見ぬままだったが、いまも何かのはずみに“脚だけの知人”を思い出してならない。
その夜、どの病室も電気が点《つ》いているのに、三〇一号室だけがまっ暗で、翌日、シーツは新しくなり、新しい患者が、新しいパジャマを着て横になっていた。去年の師走の、私のように。
翌々日、また死んだ。今度は早暁だった。女の悲鳴に似た哭《な》き声がし、叩きつけるようなハイヒールの音が駆けこんだ。妻なのか、姉なのか。しばらくして洗面に起きると死者のニュースは(別に珍しくはないのだが)もう伝わっていて、三〇二号室だということだ。へたなもじり方をすれば、
棺一つ 行かぬ日はなし 癌病棟の冬
という日々だった。
私はどうやらだいぶ参っているらしい。このころ気がついたのだが、ベッドに仰臥《ぎようが》してぞっとした。横向きに寝て、何気なく脚を重ねると、膝《ひざ》の骨と骨が「コポッ」という感触でまるで腕を重ねるように合わさった。肉が削《そ》げてしまっている。当然のことで、体重を計ると、健康時には六十四キロだったのが、五十キロになっていた。私は〈「あの人」の脚だ、あの人の脚と同じだ〉と震えた。そして、いま死んでしまうと、子供たちには私と、妻には死んだ私の母と同じ苦さを味わわせることになるな、「それはまずいや」と声に出した。私の父は、私が八歳のときに死んだ。「だから、やっぱりがんばらなければ」と、私はのろのろとパンツを脱いだ。例の抗癌剤《こうがんざい》の坐薬を挿入《そうにゆう》するために。しかし、なんという痛さだろう。坐薬を使い始めて一と月だが、朝夕二度使っている間に、ここ数年おとなしかった痔《じ》が出て、その痛いこと。私は、この薬を挿入しなければ癌には勝てないのだと言いきかせるのだが、痔の痛みの方が直截《ちよくせつ》で「癌なんて痔にくらべりゃあ、どうってことはない」と変な錯覚を起させた。
「前門の癌、コーモンの痔」と洒落《しやれ》てはみたが、ついに悲鳴をあげて薬を投げた。
「癌なんて何だ。怖くなんかねえや」
だがその強がりは、一夜で消えた。どこかの部屋でまた死んだ、という立話が聞えてきたからだった。それから“打率”の高い日が続いたせいもある。“打率”というのは私の勝手な呼び方で、要するに私は毎朝、地下の売店で買った新聞を、まず死亡欄から見る癖がいつとはなしについていた。その日の訃報《ふほう》のうち癌で亡くなった人が、四人中二人なら打率五割ということになる。あの新聞の片隅の小さな活字の中に、癌という字がない朝(そんな日は滅多にないのだが)は、いい一日が過せそうだった。七割五分もの高率の日は、早く明日になってほしい――。
新しい戦友たち
「昨日撮った写真では、影が半分くらいに小さくなっていますよ」と、S先生がこともなげに言った。一月二十一日の回診のときだった。私は耳を疑った。〈とすると、癌ではないのかな〉と、神経はすぐに短絡するのだ。
「リンパ腺《せん》も小さくなったでしょう。薬がよく効いている」そのうちに婦長が「おめでとう、明日外科へ移れますよ」と報《しら》せに来てくれた。私は「おめでとう」という言葉の手ざわりを何度も味わった。そういえば、わが家の今年の正月は、子供たちでさえこのことばを遠慮していたようだった。
しばらくすると、婦長が一人の医師と部屋に入って来た。外科病棟で私を診て下さる主治医のO先生だった。O先生は視線が合うと、にこっ、と笑い「私が診せていただきます、どうぞよろしく」と首を斜めに会釈された。私は〈あっ、いい先生だ〉と思った。それは動物的な嗅覚《きゆうかく》でしかないが、私の職業上の経験から、かなり信頼できる。
翌日、気管支鏡の検査があった。
がんセンターで開発されたファイバースコープは、よその病院にくらべるとうんと楽だという評判だったが、それは比較の問題であって、肺に鏡を入れられている間、苦しくないといえば痩《や》せがまんだ。その上、鉗子《かんし》で肺の癌細胞をつかみ出されて、咳《せき》をすると血だらけだ。検査が終って、車椅子で運ばれ、新しい病室のドアを開けた。外科病棟、つまり三病棟二〇六号室が、これから暮す部屋だった。部屋に入ると、顔が三つ、いっせいに私を見た。新しい戦友たちだった。Kさんは浅草のハンコ屋さんで七十歳に近い。Sさんは川向うの鉄工所の職長で六十三歳。Aさんはアルプスの麓《ふもと》の都市で、従業員を十人ほど使っている不動産業だった。
主治医のO先生は「どうです、いい部屋でしょう。みんないい人たちですよ」と私の様子を見に来られた。入れ替りに、今までの主治医だったS先生が「移りましたね。がんばってください」と言ってこられた。私は有難くて胸がつまり、急に咳きこむと、痰《たん》は血にまみれていた。
私はこの部屋を、とても好きになれそうだった。奥に長い四人部屋で、窓からの眺めに「風景」があった。まず見おろすと、汚い中庭だった。給水管がむき出しで、コンクリートの庭はところどころ剥《は》がれている。だが、木があった。黒い二本の幹は八重桜で、窓から身をのり出すとプラタナスが見えた。目の下あたりに沈丁花《じんちようげ》。木々はまだ芽吹いてはいなかったが、生きものの懐しみを与えてくれた。そして、枝に葉が一枚もなくて有難い。もし一葉でも残っていたら、O・ヘンリーの短編のように、私はまた暗示を求めていただろう。
この窓は、正真正銘の生きものを見せてくれた。にんげんたち、だった。正面の建物は病棟で、白い外壁はうす汚れていた。こういう雨ざらしの白さをどこかで見たことがある。佐伯祐三だったか、それともユトリロのキャンバスだったか。病棟の窓々に、人間がいた。死にかかっていても人間だ。癌に棲《す》みつかれていても人間だ。私は向うの窓に向ってオーイと叫びたくなった。それからまだ嬉しいことがあった。まえの病室とちがって、この部屋には一日のうちの何時間か、太陽が射しこんだ。これでもう、私は見舞いにもらった小さな鉢植の福寿草を枯らしはしないかと、心配せずにすむ。せっかく芽を出したこの花を、開かせてやらないままに死なせると、癌に負けそうな気がしてならなかった。私は夕食が終ると、久しぶりに幸せな思いでベッドにもぐりこんだ。
と、鳴き声が聞えてきた。猫だ。猫が魚市場から帰ってきた。この中庭は、猫たちが朝夕通る道だった。
砂袋の重み
またしても、癌、だが、どうしてこうこだわるのだろう。もう訊《き》くまいと思いながら、私はO先生に「癌ですか」と訊いた。先生は、次に予定されているBAIの結果でわかると言い「安心して下さい、ぼくはごまかしても顔に出るから正直に言いますよ」と笑った。私は〈いよいよだな〉と思った。
BAIとは「栄養血管に病巣ができると血流が増えるのを利用して、栄養動脈から薬剤を注入し、患部に集中的に薬を分布させる」治療法だそうだ。私は裸になって手術着を着せられ、ストレッチャーに横たわって、地下室まで運ばれた。それから目隠しをされる。太腿《ふともも》の上、右脇腹の動脈を切り、切り口から血管にパイプを通すのだが、そいつはゴニョ、ゴニョ、という感触で腰から腹、腹から胸へと体の中を這《は》い上って来た。やがていくつかの検査ののちに、薬が注ぎこまれはじめた。看護婦が、三十秒単位で注入時間を読みあげる。私は目隠しをされている不自由さから、いつとはなしに〈どうしてこんな情ないことになったのだろう〉と今までのいきさつをふりかえっていた。動脈の切り口を、パイプがはずれないようにか、あるいは血の噴出を押えるためか、誰かの指が痛いほど押えつけている。で「神様、私の癌を治してください」の大きな字を思いだした時だった。O先生の声がした。O先生は、
「――さん、これは効くと思いますよ。楽しみにしていいですよ」とおっしゃった。私にはその自信に満ちた声が、天からの声のように思えた。「ありがとうございます」と答えながら、もう、この検査と治療が終ったあとで「私は癌ですか」と訊くのをやめようと思った。すると、気持がとてもらくになった。憑《つ》きものが落ちたようだ。看護婦の声は九分三十秒で止まった。O先生の「もう二十五ミリやりましょう」と若いドクターに指示する声が聞えた。やがてまた、あの看護婦のよく通る声が「三十秒……一分です……一分三十秒です……」と始まった。私は〈秒読みのマドンナ〉と命名した。傷口の縫合が終り、目隠しがとれて拝んだ私の秒読みのマドンナは、なかなかの美人だった。
病室に運ばれると、切開した動脈の部分に、一キロの砂袋を三時間乗せて寝ていなければならなかった。夕方になって妻がやって来、「どうでしたか?」と訊くので、本当は麻酔が効いていて痛くはないのだが「すげえんだぞ、何しろ動脈の中をパイプが肺までニョゴニョゴ入ってくるのがわかるんだぞ」と答え、「見ろ、この砂袋」と、少し手柄顔をしてみせた。私は、徐々にトンネルの出口に近づいているようだ。
生きるだけ生きるさ
それにしても、癌病棟のなんという勝負の早さだろう。いや“勝”は、少くとも五年先にも生きていてこそだが、負けていく人の死は加速度的に早い。同じ年の瀬に入院し、談笑しあい、一刻の笑いがと切れたあとに襲ってくる〈そうだ、私は癌だった〉という凍るような恐怖感を共有しあった×号室の胃癌さんが、「もういけないらしい、あと十日だろうという話だ」となると、ここは現代の戦場のように思えてならない。
私の新しい“戦友”について。
浅草のハンコ職人のK老人は、手術後三週間で退院した。
入れ替りに「ごめん下さいまし」と、腰をかがめて入って来たUさんは、六十四歳だといったが、齢の割りにふけていた。おかみさんがいっしょで「なんだ、窓際のベッドじゃないのか。ま、父ちゃん俳句でも作んなよ」と言った。Uさんはあとで「うちのかあちゃんは五黄《ごおう》の寅《とら》だからきついのです」と言った。雑貨品の小売商。シベリアの収容所から遅く還って遅く子供を作り、二人とも今年で大学を出るから「やれやれ、もういいや」という安堵感《あんどかん》と「あと十年は生かしてもらわないと割りにアワない」という思いが交錯している。U老人は、五日に一度くらいの割合で何度も同じ話をした。「私の兄さんが五十三。父さんが五十三、姉さんが五十三、みんな五十三歳で肝硬変で死んだから、あんたア、私は五十三を通りこした時、やれやれと思ったものですよ」
夕食を食べ終ると、Uさんは入れ歯をはずしてベッドに置くのだ。それから病院のプラスチックの汁椀にコトリと入れ、なみなみと茶を注ぐのだ。それからあの音が始まり、やがて部屋中を制圧する。チャカチャカ、チャカ。箸《はし》で入れ歯を表にし裏返しにし、何度も椀の中で洗う音だ。それからその洗った茶を、ズズーッと音をたてて吸い、底に残った入れ歯をカポッとはめ、歯をチュ、チュとひとしきり吸い終ると――がんセンター二〇六号室はこれから長い夜だ。
四人が思い思いのテレビ番組を、時間つぶしに見ていると九時だ。看護婦が「お変りありませんね。おやすみなさい」と言ってくれ、ああ、今日も一日終ったか。
しばらくすると消灯後の部屋の暗がりから突然、「ヒョッ、ヒョッ。ハハハハ」と声高の笑い声がし、これは鉄工所のS職長がラジオにイヤホーンをつけて落語を聴いているのだ。闇の中で、「かわいそうだねえ。なんとかならないものかねえ」とつぶやく時は、Sさんは哀《かな》しい浪花《なにわ》節《ぶし》を聴いているはずだ。カシャ、カシャという音は、口淋しいので罐《かん》からドロップをとり出す音だ。そのうちにイヤホーンをつけたまま寝息が聞えて来、夜中になると「ワアー」と絶叫し、悪い夢にうなされている。Sさんのうわ言はしょっ中だが、夢の中では決して笑わず、いつも怯《おび》えている。手術の前夜は、三度絶叫した。Aさんと私が、暗がりの中でそれを聴いている。
Aさんのおかげで、私は精神的にずいぶん助けられた。Aさんは二度めの発病だった。一年前に地元の大学病院の、放射線治療で治したはずだった。疑ってはいたが、癌だとは思いたくなかった。退院後日がたって、病気への神経が遠のいたころ、身内の人が、癌だったと不用意に洩らした。そこで一度に気力を失い、Aさんは奥さんが困らないようにと遺書めいた書類をつくった。ささやかな事業をしているが借金は一文もない。お前の知らない貸金はどこそこにいくらある、四人の子供の将来のために、財産をこう使え。
それから、小さな会社を自分がいなくてもやっていけるように権限委譲をし、奥さんに配当金が入るようにし、日本中の海と渓流で釣をしようと長い旅に出た。二カ月めに旅先の五島列島で血を吐き、一回めの発病からちょうど一年めの再発だった。周囲の人が、もう一度この前治療をした大学病院へ入れと勧めたが、いやだ、東京にがんセンターというところがあるらしいが、入るならそこに入ると言って、一人でやって来た。奥さんは、ほんとうはそうしてほしかったのだが「癌」ということばを言い出しにくくて悶々《もんもん》としていたので、夫の勇気に本当は降りない肩の荷が、少しばかり降りたような気がした。
私は、そんなAさんの“実戦”体験にずいぶん救われている。Aさんは、私が沈んでいるとよく言ってくれたものだ。
「――さん、生きるだけ生きるさ。私は今度ここを出たら、伝説でも信仰でも何でもいい、この病気にいいと言われるものは何でもやってみる。それで駄目だったら、車の排気ガスでも吸うさ。あれは気持よくいけるらしいよ。さあ、屋上へでも行きましょうや」
だが、そのAさんが、寝静まった病室のベッドに起き上り、合掌した両手を額にあてたまま塑像のように動かぬ黒い影を、私は何度も見た。眠ったふりをして――。
それは多分、「この病気になるのが、二十年早かった。女房子供に申し訳なくてならない」と、二人でしんみりし合った日の夜に多かったはずだ。
早朝の“回診”
そんな四人が、いつも連れだっていた。Uさんは途中で患者の立場から見ると謎《なぞ》めいた退院をさせられて通院治療になったので、代りに私と同じ齢のAさんが、他の病院からまわって来た。
ともかくも、いつも四人だった。若くて美人で心優しい看護婦たちに、六時の検温で起されると、戦友たちはこぶ茶で梅干をしゃぶり(癌にいいそうだと誰かが言ったので!)「会長! 行きましょう!」と号令をかける。鉄工所の職長のS六十老に「会長」という仇名《あだな》を献じたのは私で、大手術のあとSさんの咳が以前とすっかり表情を変えてしまい「オッホン、オッホーン」と聴こえるからだった。それは、がんセンターの屋上から見える外界のビルの中でも、大層立派なニッサンビルの会長室あたりから聴こえてくるにふさわしい風格の咳だった。だから、「会長」と呼ぶことにした。
で、私たちは早朝“回診”に出る。会長は手術後のせいもあって、肩を落し下を向いて歩く。すると会長よりも二週間ほど先に手術をしたAさんが「会長! がんセンターに金は落ちてないよッ。胸をはって、上を向いてッ」と励ます。途中のロビーで、食道癌の老人が合流し、そのうちに「私もつれて行ってよ」と乳癌の中年女性が加わる。私たちは屋上まで上り、深呼吸をする。南を見ると、魚市場の賑《にぎ》わいだ。北を見ると高速道路はもう車が流れている。西を見ると新幹線がゆっくりと速度を加えはじめている。
ああ、みんなもう働いている、と、毎日同じ感懐を誰かが口にしてしまう。私は小学生の時に読んだ『君たちはどう生きるか』という本の一節を思いだしてしまう。コペル君という少年が、おじさんに連れられてデパートの屋上から下を見、「ご覧、人間が蟻《あり》のようだ。みんなさまざまに生きている」と教えられる。私はいま屋上に立って「どう生きるか」を考えるのだが、それはコペル君のように哲学をではなく、生理にかかわる生き方をまず模索しなければならない。癌で死んだ高見順ではないが「魂よ、おまえの言葉より食道の行為のほうが私には貴重なのだ」。私はTO BE OR NOT TO BEと、深遠にして悠長なことは言っておられない。私の「生き方」は、白米をやめて玄米食にし、肉の代りに野菜を食べ、毎日梅干を二つしゃぶり、のどが乾くと紅茶きのこを飲み、どうしても酒を飲まねば眠れない夜は、ウイスキーをやめてワインを少々……という「生きのび方」である。「どう生きるか」は、まず血液を弱アルカリにする努力で、哲学はそのはるか彼方《かなた》の借景になった。
屋上の、私たちは太陽に柏手《かしわで》を打ち、太陽に向って長い合掌をする。病気の前の私には考えられない行為だが、私の中で日ごとに大きくなっている「何か」がそうさせてしまい、「ありがとうございました。きのうは無事でした。今日も一日平穏でありますように」と誰かに言っている。ひょっとすると、これが神様というものかもしれない。
気やすくガンを引合いに出すな
合掌が終ると、みんなはやれやれと明るい顔になり、一週間前に手術で乳房を取られた乳癌女史と、これから食道を取られる食道癌老人が「サノ」「ヨーイヨイ」と声をかわして民謡を踊るのを、いよっご両人、とひやかして降りた。早朝の散歩には、もう少しコースがあった。私たちはそれから、外来診療棟を一巡するのだ。外来のロビーには、八時半からの診察受付を待って、まだ七時だというのにもうあの赤いソファーの半分が人で埋まっていた。ソファーの人びとは、病棟の方から出てきたパジャマ姿の私たちを見ると、癌患者への怯えのまじった好奇心を顕《あらわ》にし、視線が合うとあわてて「いえ、なんでもありません」という表情をつくろう。だからといって、私たちには、それを怒る資格はない。
数カ月前、外来患者としてこのソファーに座っていた私は、奥の棟から出てくる病人をそういう表情で見ていたはずだった。
癌患者を見る人々の怯えには、ずいぶん誤解があるようだ。怯えの本質はおそらく「必ず死ぬ人」を見る怖さなのかもしれない。背中に死神を眺めているようでもある。例えば最近読んだ黒岩重吾氏の随筆に「といっても、癌にでもなれば、私が幾ら従容《しようよう》と死にたい、と思っていても苦痛にのたうちながら死ななければならない。現在、私が一番恐れているのは癌である」という一節があったが――。黒岩さん、私も私の戦友もまだ生きています。
美濃部都知事の三選出馬声明の一文は、おぞましいかぎりだった。「(私は)なりふりかまわず戦列に復帰いたします。ファシズムは、がんと同じであって、だれの目にもわかるようになったときは、もう手の施しようがありません」という文章を病室で読んだ日、私は、「そう気やすくガン、ガンと引合いに出してくれるな!」と怒鳴り、何事かと驚いた隣のベッドのAさんに、あとから理由をいうしまつだった。
NHKの園芸番組で、バラの苗木を説明していた先生が一本の根を示して「根頭ガン病種にかかっているから」と、苗木のまま捨てた。アナウンサーは「ああ、ガンですか」と言ったままだった。私は「なぜ悪い根だけ切って、残りの根で苗を生かせてやれないのですか」と訊いてほしかった。こういう思いは、流行語でいえば「弱者」の感情なのだろうが、人は弱者になってみないと「救済」の「され方」がわからないものだ。そういう私たちに、最初にお世話になった七病棟の美人婦長が話してくれたことがあった。
「癌といっても、いろんな種類のガンがあるのよ。早ければ治るものもあり、運の悪いものもあるの。ね、癌という字は、とても怖《おそ》ろしく見えるでしょう? だからここでは、“がん”と書いているんです。“がん”だと“癌”よりもちょっとやさしくて安心できるでしょう? 治るがんも入るものね。がんばるのよ、男でしょう。私の父なんかもう五年も生きてるわ」
患者への心づかい
水飴《みずあめ》のように粘って糸をひき、きらっと光る痰と唾がひんぱんに出はじめた。O先生は「それでいいんです。BAIが効いてきたんですよ」と、予定のことのように言われた。戦友たちが、それぞれの検査を受けに部屋を出、私ひとりが、冬と早春の間の陽の匂いを貪《むさぼ》るように吸いこんでいる昼下りのことだった。O先生が入って来られ、例のニコッ、のあとでおっしゃった。
「手術をしないで治療しようと思うんです。あなたの病気には、BAIと放射線がよく効くと思いますよ。どうでしょう」
私は、先生にいっさいお任せしますと答えたが、ほうら、またサイギシンというやつが鎌首をもたげた。内科から外科へ移る時に、「おめでとう」「手術ができるのを喜ばなきゃ」と言われている。その手術をしないということは、私は手術ができないほど悪いか、しても無駄か、どちらなのか。
すると別の声が言った。〈癌は早期発見をして手術をしないと助からないといわれている。だけどレントゲン写真ではよくなっているんだから、これはひょっとすると癌じゃないかもしれないよ〉
そこで、私はI婦長にさりげなくカマをかけたのだ。吸入室の前の廊下で行きあった時「ぼくのは発見が早い方ですか?」と訊いた。私はここでもまた、嘘でもいいから甘い答えを期待していた。答えには二通りあるはずだ。その一「早い……って、何のこと? あら、そんなこと考えてたんですか、苦労性の人ね」。その二(間髪を入れず)「早いわ。とても早かったのよ」というはずだ。
だが、婦長はしばらく考えていて「早い方じゃないかしらねえ」と答えた。私は愕然《がくぜん》とした。それから転移の可能性を訊き、病室に帰ったが、ぶざまにもベッドにもぐりこんだ。二時の検温にやって来た看護婦がどうしたんですか? といぶかり、婦長に報告したとみえる。婦長は部屋に来、「ごめんなさいね、私はあなたを傷つけてしまったようね」と辛そうに話しかけた。「でもね――さん、私はあなたがこの病院を選んでここで検査や治療を受ける以上は、それを前提に闘ってくれると思ったのよ。それにあなたには、それができる体力と精神力があるはずよ」
私は、無性に恥ずかしかった。三十八にもなって、なんて甘ちゃんだ。まるで親の関心をひこうと、拗《す》ねてみせる子供と変りはしない。おい起きろ。起きて言え。「はいわかりました。私は癌であります。当病院十八万四千五百九十四人めの患者であります。患者精神にのっとりがんばって闘病することを、誓います」と言え。
私のちょっとした表情の変化を認めたのは、まだ二十歳をすぎて間もない看護婦だ。そして彼女はすぐに婦長に伝えた。職務とはいえ、この病院の看護婦たちは、この若さで死生観のるつぼの中に身を置き、勤務が終るとやっと与えられている一DKの宿舎に帰り、ストレスを発散させるためには不十分な給料で働いている。いまここに居て心配気な婦長は、その娘たちを預かって、それからこういう甘えん坊の患者だ。
私は婦長の言葉のとおりだと思った。ここは「がんセンター」なのだ。年間十三万人を超える死者を出し、病死者の五人に一人の原因となっている癌の、唯一の国立専門病院なのだ。それでいてベッドは四百床余りしかない。運河の橋の向うには、この病院のベッドの空くのを待ち兼ねている患者が数えきれない。その貴重なベッドを占めている以上、私は癌であって何の不思議もない。
私は〈なあーんだ〉と思った。心の底から、とはこういう気持なのだろう。〈なあーんだ。ここは癌病院だった。癌病院だから癌患者〉〈要するに「死ぬまで生きる」ってことだ。癌でなくても河豚《ふぐ》にあたって死ぬこともあれば、三菱重工ビルの前を通りかかって死ぬこともある〉……とご遺族には非礼だが、そんな考え方になった。
T・K生、三十八歳よ、魯迅《ろじん》の「わが失恋」のように、いっそ戯れてみようではないか。
いとしい人は 御殿の奥、
あいに行きたし 自動車はなし、
頭を振って 豚のような涙。
賜わりものは 薔薇《ばら》の花、
お返しは何? やまかがし。
さてこそ構うてもくださらぬ、
なぜか知らぬが――勝手にしろ。
患者も苦労なら医師も苦労で、そういえば、O先生が私の「癌でしょうか」の問いにうまく答えられたことがある。「癌を癌ではないと誤診するよりも、癌ではないものを癌だと誤診する方が安全ですね」と、あの時はしてやられた。
私は婦長に「すみませんでした」と言いたいのだが照れ臭いので、その代りに「婦長さんも案外デリケートなんだなあ」と言った。「ぼくはそんなこと気にしていませんよ」。そして、心のうちでこの人に感謝した。いやこの人だけではない。がんセンターには、職員たちの患者に対する心づかいが各所に感じられた。たとえばレントゲン室の、あの機械を抱いて立つちょうど目の高さには、美しい睡蓮の花のピンアップ写真がとめてあった。肺機能検査室の、いちばん長く時間のかかる検査台に座ると、目の前の壁では、可愛い子猫が手毬《てまり》と遊んでいて、患者の苦痛をそらしてくれる。一日の食費予算がたった三百二十円で、調理場は節分に豆、お節句に紅白の餅菓子を添えてくれる。
血統書つき
それから二週間ほどたって、見なれぬ薬が配られた。変哲もない容器に入った濃い茶色の液体だ。飲んでみると、椎茸《しいたけ》のような味がした。一月末の癌の国際シンポジウムで発表され、このところ新聞や週刊誌が“第四の薬”として大きなスペースで取り上げているサルノコシカケから抽出した、PSKだった。PSKは、まだ実験段階で臨床効果を手さぐりしている。その薬がまわってきたわけだが、私は今度はもう大丈夫だった。Aさんに見せて、「これで血統書つきの癌患者になった」と笑ったはずだ。するとAさんが今度は悩むのだった。あなたは物書きだから大切に生かしておかねばならない。自分は田舎の小企業のおやじだから、どうってことはない。だから自分には新しい薬が出ないのかな……。
私はあわてて「とんでもない。こういう試験段階の薬を使わねばならないほど、悪いってことでしょう」と言ったが、Aさんも私も、それぞれに半分の冗談と、半分の不安が交錯していた。もうやめよう。癌病棟のこういう心理状態は、書けば際限がない。
節分の日、夕食の小皿に豆が添えられた。Aさんは病室で「福ワアー内、癌ワアー外」と左手で豆を撒《ま》いた。私の娘は学校の作文に「鬼が家から出ていって、福が家の中へはいってきて、お父さんの病気をなおしてくれるといいなあと思いました」と書いていた。私は、妻が節分の豆を子供たちに与えるのを忘れなかったことに感謝した。妻は、私がとうとう完全に癌だと察知し、最後まですがっていた針穴写真機の細い光線のような望みを断ち切ったと知って、ほっとしたそうだ。あとになって言うのだが、なぜほっとしたかといえば、私が〈何クソ、と思ってくれるのではないか〉ということだった。そして、彼女なりに種々雑多な本を読んで立てた食生活のプログラムに、気むずかしい私が協力してくれるのではないか、という嬉しさだった。
さて、その節分の日から、放射線治療が始まった。リニア・アクセラレータ、略してリニアクと呼ばれる高圧X線照射の機械は、地下室にあった。最初の日、もう既に何度か照射をされたとみえ、片方の目が腫《は》れあがって痛々しい小児癌の坊やが、小児病棟からママの押す乳母車に乗せられて来るのに出会った。坊やは放射線科に通じる廊下まで来ると「ママ、この道はいや、この道はいや」と泣き、母親は辛そうであった。
患部にあわせてあらかじめマジックでつけられた照射野は、広く大きかった。胸に一面、鎖骨を横ぎって頸《くび》すじに一面。金属製の寝台に仰向けに寝ると、技師は照射管の鉛の部分を調節し、照射野に合わせる。それから重い鉄製のドアをガチャンと閉めて出て行き、私は厚いコンクリートの壁の部屋に一人だ。やがて巨大な機械が低く唸《うな》り、豆ランプが点《とも》り、ピーッという音がすると、いま、一回二百レントゲンの放射線が私の体をつき抜けているはずだ。
ソルジェニーツィンの『ガン病棟』によると、それはこう描写されている。
露出されている腹部の皮膚の細胞をつきぬけ、皮下脂肪をつきぬけ、所有者自身も名称を知らぬさまざまな器官をつきぬけ、腫瘍《しゆよう》の本体をつきぬけ、胃腸をつきぬけ、動脈や静脈を流れる血液をつきぬけ、リンパ液をつきぬけ、細胞をつきぬけ、脊柱《せきちゆう》その他の骨をつきぬけ、ふたたび背中の皮下脂肪と血管と上皮をつきぬけ、それから寝台の板をつきぬけ、厚さ四センチの床板をつきぬけ、セメントをつきぬけ、コンクリートをつきぬけ、更に土台の石材をつきぬけて、遂には大地そのものへと、厳しいX線は流れた。(「新潮文庫」版 小笠原豊樹訳)
だが、この「巨大な量子の弾丸による猛烈な射撃」は、患者には痛くも痒《かゆ》くもない。照射されている時間は僅かで、二分もあれば量子の弾丸は、私を背と胸の両側から突きぬけて終えた。幸いなことに、積算数量一千レントゲンを超えたころから始まるはずの体の変調も、私には大したことはなく、食道のつかえと、一時間の午睡で回復する程度の倦怠感《けんたいかん》にとどまった。私は自分の体力が次第に回復しているのを感じた。この間まではそんな気にもならなかったのに、猛烈に音楽に飢えた。放射線科の廊下には、順番を待っている患者のためにいつもFM放送を流していた。治療の呼び出しが来るころには、たいていクラシック音楽をやっており、もしここへ通う二十五回の間に、スメタナの『モルダウ』が聴ければ再発しないで平均寿命まで生きられる、と、手前勝手なおまじないをしたが、モルダウの旋律は聴こえてこなかった。でも、もう私は、あまりがっかりせずにすんだ。
長い墓標の列
何度めかの治療のとき、異様なものに気がついた。それを異様――と見るのはむしろ私の異様かもしれないが、書類用の大きなキャビネットだった。その限りでは、異様でも何でもない。キャビネットの沢山ある抽《ひ》き出しには、番号がついていた。最初の札は「〜一〇八、〇〇〇」それからの抽き出しは順番に番号がせばまり、数千番ずつの増え方だった。抽き出しの中には、ぎっしりとレントゲン写真がつまっていた。だから、最初の抽き出しは、この病院の最初の一号患者から十万八千人めの癌患者だと推測された。以後、段々と数の増え方が減るのは研究や技術が進んで一人の患者の検査の仕方が、それだけ多角的になったために、収容できる人数が少いのだろう。
これは墓場だ。長い墓標の列だ。ペラペラのレントゲン写真に写し出された肺、胃、腸、骨、脳は、反乱を起した癌組織と闘って敗れた人びとの資料という名の墓標だ。私は灰色のスチールキャビネットを眺めているうちにそう思った。そして、私は、まだ“資料”になりたくないと思った。
そんな病的な神経が一方にあり、一方で、私の肉体は健康をとりもどしている。私は入院以来三カ月になろうとするが、目醒《めざ》めた時の勃起《ぼつき》がもう久しくなかった。三月の初めのことだった。どの記録室の前にも小さな雛《ひな》人形が飾られていた。放射線科の廊下は、シュトラウスのワルツが聴こえていた。三歳ぐらいのおかっぱの女の子を連れた若い母親がいた。女の子は、これから放射線を照射されるようで、若いママの彼女は、小児癌の愛児を抱いて、音楽にあわせてワルツのステップを踏んだ。
子供はキャッキャと声をたてて笑い、ママはもう一度ターンをした。彼女の春らしい淡いブラウンのスカートが揺れ、形のいい脚だった。私は不意に、ずいぶん忘れていた感情に襲われ、それから癌の子を抱いた母親にそんな思いを覚えたことに、罪めいた気持を味わった。
それからまたしばらくして、私は夢精をした。夢の中で、私の精液は虹《にじ》のように弧を描いて天井まで届いた。私の相手の女性は、死んだ母の顔だった。下着を替えるために起きると、廊下が慌《あわただ》しかった。ひそかに“布袋《ほてい》さん”と呼んでいた二××室の太った患者がいま死んだ。五年間再発のくり返しで病院を出たり入ったりし、全身十一カ所を切った上での戦死だと聞いた。奥さんが、看護婦の胸に顔を埋めて哭いていた。
放射線治療が終ろうとするころ、見てはならないものを見た。放射線科のO先生のノートの私の欄に「浸潤あり」と書かれていた。限局性のものだけならいいが、浸潤があると厄介だと、癌の本で読んでいたので、正直いって「これはいかん」と力が萎《な》えた。先生にそれを言うと「エンゲル係数の低い人間は困る」と笑われた。「田舎のおっさんやおばはんが、医者には信じられないような奇跡的な回復をすることがある。なまじ小賢《こざか》しい知識をもった人間は、知識の破片ゆえに思い悩んで病を助長させるのです。何も知らない人は、ハイハイと医師を信じ、もっと大きな力を信じて言われるままに薬を飲み、三度の食事をきちんととる。だから医師の処方を超えた回復を見せるのです」
「おめでとう」はまだ早い
南風が吹きはじめ、消灯時刻の九時になると枕もとまで霧笛が届くようになった。
春の岬《みさき》 旅のをはりの鴎《かもめ》どり 浮きつつ遠く なりにけるかも
と、三好達治を想いだし、春だ、春だと少し昂《たか》ぶる。中庭の沈丁花の蕾《つぼみ》がはちきれそうだ。外出の許可をもらって、三カ月ぶりに街を歩くと、新橋演舞場の裏の采女《うねめ》橋のたもとの柳が芽吹いていた。銀座は歩行者天国の日で、歩いていると人に酔いそうだ。私は気が変になった。こんなにたくさんの人間がみんな健康で、私一人が病人だなんて、どうして信じられようか。誰か私のように、病人はいませんか? 癌でなくてもいいのです。
明日の月曜日からの一週間で放射線は五千レントゲンになる。すると、あのいやな内視鏡を胸の中につっこまれて、私の肺の焼け具合が、ミディアムかウェルダンかを覗《のぞ》かれる。
「ね、もう一度のぞかせてよね」とO先生が言うので「いいですよ、その代り、私があと何年生きられると思っていらっしゃるか、先生の胸のうちを覗かせてほしいものです」と言ってみた。先生は「そりゃ、無理だ」と笑った。数日後、先生は私の肺の中を覗きながら「おう、よく焼けている」と、まるでステーキを前にしたコックであった。
私の治療は、放射線と並行して、二度めのBAIで峠を越えたようだ。あの太ももの上の動脈から入ったパイプが、腰を過ぎ腹を通り、胸まで上ってきた。やがて、秒読みが始まり、薬が注ぎこまれはじめた。私は目隠しをされて、いつかフィルムで見た肺癌の細胞を網膜の裏に見ている。
癌たちは、なめくじのような形をしたり、〓《えい》のようなひし形になったり、千変万化していた。いまその奴らに、私の肺動脈をさかのぼって来たパイプの筒先から、ベトナムの枯葉作戦のように薬が撒かれ、癌たちはのたうち、なめくじも死ね、〓も死ね、みんな死ね――と念じたが、一介の物書きの修辞のように、癌は甘くはない。
リンパ節の剔出《てきしゆつ》手術が終ろうとするころ、耳もとでO先生の声がした。「(切開部を)縫う糸ですが、ナイロンと絹糸とどっちが好きですかア」のんびりとした声が嬉しかった。私は赤い絹糸でやって下さいと頼んだが、赤は血の色と紛らわしいので「じゃあ黒にしましょうかア」ということになった。
その日から一週間たった日のことだった。O先生が入って来られ「来週の好きな日を選んでください」と言われた。あらかじめそのあたりだろうとは知らされていたが、改めて言われると、こみ上げるものがあった。先生は「退院の日」を選べと言っている。私は嬉しいのだが、ほんとうはもっと嬉しいはずだと思っていた。なぜ叫びだすような喜びがないのだろう。何かが欠けていた。「おめでとう」という言葉がないではないか。「おめでとう、退院です。好きな日を選んでください」なら、私はもっと躍り上るような喜びを感じるだろう。だが、それは無理なのだ。癌病棟に「おめでとう」は、まだ早いのだ。再発や転移という可能性があるかぎり「おめでとう」はお預けだ。だからだろう、O先生は雑談のついでに「まあ、この先五年間、私とつきあってください」とおっしゃった。癌は五年間再発しなければ、現代の医学では一応治癒《ちゆ》とみなされている。だから私の退院は、一種の保護観察処分付き仮釈放で、刑期満了ではない。この先私は「五年生存組」という“人種”の仲間入りをすることが、とりあえずの生存目標になった。「五年生存組」か、なんと、侘《わび》しい。おそらくこの先、腹が痛むといっては癌、頭が重いといっては癌――の転移ではないかと、薄氷を踏む思いの五年間(うまく生きれば)であろう。
だがその五年を無事に過ぎたとき、私はふりかえって、私の人生の中で実は生きている気のしなかった五年間が、もっとも密度濃く「生きていた」歳月に変るだろうという予感がする。
気がかりな患者たち
癌病棟の一室で、主治医のO先生や若いK先生は、私の肺の音を聴くとき「よし」「よーし」と言いながら聴診器を移動させていた。それは、自分に言いきかせる声でもあった。今の私は、花の色、風のそよぎにも、〈ひょっとしたら来年は見られないかもしれないから〉充分に味わっておこうと、欲深なものだ。よし、今日も終った、よし、今日もこれから一日ある、の「よし」が、私の生活の“栄養動脈”になるなら、私はむしろ癌に感謝せねばなるまい。癌を呪《のろ》うか、癌に謝するか、それはまだお預けである。
退院の朝、Aさんが「お別れだね」と言った。「いい天気で何よりだ」
病室の黄色いカーテンをひくと、あの白壁の病棟は、もう起きていた。二十四個ある窓々に、いつもの患者がいつもの朝を見せていた。三階の左から三つめの窓の中年の男は、昨日と同じようにベッドの上で体操をしている。もう少しすると、東を向いて合掌するはずだ。右へ二つ飛んだ窓から、いつもこっちの窓を見てはグレープフルーツらしきものを持って手を振る若い女は、髪を梳《す》いている。あ、気がついた。お早よう、退院なんだ、さようなら。その一階下の窓のおばあさんは、ベッドに正座して長いお経だ。隣の隣の窓は、鳩に餌《えさ》をやる女。左へ移って八重桜の梢《こずえ》がじゃまな窓の男は、やっぱりあのトランジスタラジオのような機械を首から吊《つる》している。なんでも、体内に栄養剤を送りこむ機械だとかいっていた。一階の右から二つめの窓の、寝たきりの老人に、点滴注射がもう始まったが、針がなかなか入らずに苦労している様子だ。ああ、あれは腕かと思ったが、脚か。ずいぶん細くなった。その隣の窓は、カーテンを閉じたままだ。昨日まで開いていたが。
がんセンターの窓という窓は、窓の数だけの人間の生き死にを写しているようだ。まだ若い伝道師の場合、癌が進行しすぎて手術ができなかった。牧師は死の間際に、自分は死ぬのではない、天国に召されていって復活するのだと言いながらも、病室の壁一面に聖書のことばを書いて貼《は》っていた。死の訪れをその壁のことばで守っている、まるで耳なし芳一のようだった。牧師は「目を閉じれば敗《ま》けだ」といって、寝ようとしない。I婦長が「おやすみいただきたい」と何度も説いたが、眠ると次の日に目が覚めないのではないかという不安が、彼を眠らせなかった。結局、目のうしろの筋肉が衰えて、牧師は目を閉じる皮が足りない、という感じで、見開いたままこと切れた。
七病棟の婦長は、後に挨拶に行った私に、こんな話を聞かせてくれた。
腎臓《じんぞう》がだめになり、機械で生きている闘病者がいたの。どんなに辛かったといって、一日に許される水分は、コップにこれっぽっちなの。でも、その人は頑張り、頑張りぬいて最後に「もう疲れた。自分で死を選ぶ」と言ったわ。そして「もういいんです。食べたいものを食べて死にたい」と言って、食べたの。そして、翌《あく》る日、彼は死んだわ。彼は前の夜、最期の晩餐《ばんさん》に何を食べたと思う? ラーメンよ。一杯のラーメンで、彼は死を選んだの。「それにくらべると、癌は早いわ」と婦長は言い、口をつぐんだ。
退院する私に気がかりでならない患者がいた。二カ月ほど前に風呂で会った人だった。私と同じ齢かっこうで、湯から上ると、大きなメスの跡があった。肺を全部とった上で放射線をかけたという。「明日退院です。嬉しくて」「そうですか、どうぞお大事に」と言い交して別れた。彼は個室に入っていたうえに、美しい奥さんがいつも付き添っていたので、癌病棟には不釣合な華やぎをみせていた。
それから一と月半ほどたって、まぎれもなくあの美しい奥さんが、ベテランのS看護婦の胸にすがって、廊下で泣いていた。私たちは訝《いぶか》って、S看護婦に事情を訊いたが、彼女は「つらいことを言わさないで」と、それ以上の言葉を避けた。自然に知れたところによると、脳に再発したのだそうだ。私は、わずか二カ月もたたずに! と身震いした。「もう今度は助からないだろう」という噂《うわさ》の中で、奥さんは毎日のように衣裳《いしよう》をとり替えていた。どのスカートも裾まで長く、色鮮かで、患者たちは「ホテルと間違えてるんじゃないかね」と、眉をひそめた。
私が退院した日は、ここまでで、この先の話は、およそ一と月後のことになる。
通院日だったので、私は懐しいあの病棟を訪ねた。見ると“あの奥さん”の部屋が空いていた。
〈死んだ……〉
今朝だったそうだ。看護助手のおばさんがそれを教えてくれた。「ホテルのような洋服を着る」きれいな奥さんは、もう覚悟をしていたようで、ある時おばさんに話したところでは、夫は某大学病院の医局員だった。夫の母親も医師で、息子が今度は助からないことを知っている。そこで、姑《しゆうとめ》は嫁に頼んだのだそうだ。「せめて息子には、あなたの美しい姿を毎日眺めさせて、死なせてやりたい。あんな若い人生の最期に、看病やつれしてなりふりかまわないあなたの姿を見ながら死なせるのは、可哀そうすぎる。だからお願い、あなたは、あの子のためにいつも美しく着飾ってやってほしい」
「ホテルにいるような」奥さんは、そんな姿をしている自分を、患者や家族たちが、どんな視線で見ているかを知っているけれど、「いいのよ、私は」と言っていたそうだ。
白髪が舞った
死の話ばかりを書いてしまった。誤解を招くといけないので、今日――退院の日に、O先生から聞いた数字を書いておく。それを書くことは、私自身を勇気づけることでもあるので。
肺癌の場合、五年前の治癒率は六〇パーセントだそうだ。五年後、つまり私や戦友の場合の予想治癒率は、七二パーセントだろうという。数字の上では、私は、生きる確率の方が、死より高いのだ。だが、こればかりは、私は神さまにおまかせしよう。癌を病む前と後で、私の中に明らかに変った点が一つあり、それは神様という言葉を知ったことだ。
私は、初めてこの病院の患者になった日のトイレの落書きの主はどうしただろうと、何かのひょうしに考えてしまう。
「神様、私の癌を治してください」と書いた癌患者の生命に、“神様”はどんな匙《さじ》加減をお与えになったのだろう。とりあえずは、今日で見おさめになる向いの病棟を見ながら、私は〈いい病院だった〉と思った。
「――さん、猫だよ。ほら、あそこ」
とAさんが指さした。
見ると、もう顔なじみになった何匹かのうちの三毛猫が、陽だまりの中で長々と寝そべっていた。私は、せめて私がこの部屋を出て行く時まで、そのまま眠っていてくれないかと猫に願った。だが猫は、よっこらしょと起きると、背すじを弓のように反《そ》らし、周囲を睥睨《へいげい》した。彼女は「さあて、どこへ行こうかしら」と思案しているようだった。それから、満開の沈丁花の花の下を通って、やっぱり市場の方へ出ていった。
私がそのまま眠っていてほしいと願ったのは、猫の目醒めて、歩きだす姿が、まるで私のからだの中の癌細胞のように思えるからだった。あの猫のように、むっくりと起き上り、さあどこへ移ろうかと、たった二十三秒で躯《からだ》をかけめぐる血液にのって、からだのあちこちを闊歩《かつぽ》されては、かなわない。私は彼女が消えた病院の角を見ながら、あいかわらず縁起をかついでいる自分に気がついた。これじゃあ、まかされた神様もお困りだろう。
今日は回診日でもあった。時間が来て、O先生はいつもの笑顔で「これから退院です」と回診の先生に説明した。先生は「長い間ご苦労さまでした。よく頑張りましたね、ご苦労さまでした」とおっしゃった。私は〈ああ、いい言葉だな〉と聞いていた。この言葉を、もうすぐやって来る妻に、照れ臭いけれども言ってやらねばなるまい。部屋を出る私に、戦友たちが言ってくれた。
「もう、二度と帰ってくるんじゃないよッ」
私はふり返って、「お互いに」と答えた。
病院を出ると、私と妻はまっすぐに家へ帰らずに寄り道をした。私はなぜか小粋《こいき》な替《かえ》上衣《うわぎ》を作りたかったのだ。顔見知りの洋服屋を久しぶりに訪ねると、寸法をとっていた主人が「おやせになりましたね、ご病気でしたか?」と言った。
「ええ、癌をやっちゃって」
と答えると、テーラー氏は、
「またそんなご冗談を」と笑った。
外へ出ると、さっきから目にとめていたらしく、妻が、私の頭に白髪がある、
「病院に入る前はなかったのに」
と抜きとって見せた。私は、まだ蛇が棲《す》んでいる指にはさんで、思いっきり強く吹いた。白髪はとたんに見えなくなり、私があのちぎれた四角い窓からいつも眺めていた鳩の羽毛のように、ゆったりと宙に舞って見せてはくれなかった。
さるのこしかけ
“天使”の報われぬ町
癌《がん》を患って、ひと冬を築地《つきじ》の国立がんセンター病院で暮らした。交錯するくさぐさの思いをくぐりぬけて、ある種の腹をすえてしまうと、私にとって癌病棟は奇妙な精神的安臥《あんが》を与えてくれる病院になった。いい主治医に恵まれたこと、看護婦たちのひたむきな働きぶりなどがその理由の一つである。
看護婦たちは若く、白衣に対する病人のセンチメンタリズムを差し引いても、十分に美人だった。私がお世話になった三病棟(外科)の場合、彼女たちの三分の二が経験一年から二年だというから、二十二、三歳である。娘たちはその若さで、生と死のせめぎあいのただなかで働いている。
病気であるから死があるのは当然だが、癌というやつは、私の場合でいえば、ある期間、人間を猜疑心《さいぎしん》の権化のようにした。すべての神経が漏電しており、医師、看護婦、患者のひとことに確実にショートした。たとえば、入院したその日、真新しいパジャマ姿が、どこかおどおどとした患者に、ハタチを過ぎたばかりの娘たちは、いくつかの職務上の質問をしなければならないのだった。こんなふうに――、
「信仰はお持ちですか?」
すると、私は〈ああ、これは死んだ時の準備か〉と考えてしまうのだった。だから癌病棟の看護婦は、患者と家族の心療領域にも目くばりをせねばならないようだった。私は百日の間に、自分の娘か孫ほどの年齢の看護婦の胸に、顔を埋めて泣いている家族(時には遺族)と、その肩を抱いている彼女たちの光景を、一度ならず見てしまった。
二十四時間が人間の死生観にかかわる職場に働いて、給与は仕事の密度の割に恵まれていない。彼女たちがもし、白衣をマキシのドレスに着替え、厚化粧をし、むかし海軍病院であったこの時代ものの病院を出、澱《よど》んだ運河にかかる橋を渡って五分も歩けば銀座で、夜のギンザには今の何倍もの収入になり、一見おもしろおかしい職場がいくつもあるのだが、娘たちはそっちへは歩かずに、一日三交代の勤務が終わると、くたくたになって同じ敷地の古びた宿舎に帰る。宿舎は、公務員でありながら公務員宿舎に入れず、名ばかりの一DKをやっとあてがわれている。そんな環境だから、日常生活の気分転換はとてもむずかしいようで、I婦長は、娘たちのストレスが他産業の女性労働者にくらべて、かなり激しいものがあると心を痛めておられた。
彼女たちは、だれもが訛《なまり》をもっている。私の知るかぎり東京の高校を終えて看護婦になった人は稀《まれ》で、故郷を聞いてみると奄美《あまみ》大島や越後《えちご》だったりした。東京の高校を出た娘たちは、看護学校よりも、週休二日制の大会社を選ぶようだ。東京という町は、どうやらいちばんつらい部分を、東京からはほど遠い風土が育ててくれた人間に支えられていながら、口をぬぐって「東京に住むと(癌病院があるから)寿命が五年のびる」という神話をつくりだしているようだ。
しかし実際には、東京都は他県に遅れて、自前の癌センターをもっていなかった。そんなやさきのこの四月、都立駒込病院が国内最大の癌病院に衣替えしたというニュースは、病院の設備、とりわけコンピューターによる運用を誇っていたが、残念なことに人間への投資が強調された様子はない。私は、癌患者の絶望感や猜疑心は、一億円のコンピューターよりも、一人のすぐれた看護婦によって救われると実感しているのだが。
東京に自前の病院はできたが、おそらく自前の看護婦は育つまい。医療にかぎらず、東京は、いつも、つらい仕事をしてくれる若年・婦人労働者を、安い借り賃で他県から拝借してこと足る傲慢《ごうまん》な町だ。
癌病棟の長い長い夜が始まる消灯時刻の九時になると、南風の吹く日は驚くほどの大きさで、霧笛が耳もとに届くのだった。病んで初めて、東京にも港があったんだと気がついた。
春の岬《みさき》 旅のをはりの鴎《かもめ》どり 浮きつつ遠く なりにけるかも
三好達治を思い出させてくれた癌病棟を出て、百日ぶりに見た東京の町々には“青空バッジ氏”や“日の丸バッジ氏”が白々しく、せっかくの“旅のをはりの鴎どり”は、たちまち消えてしまった。彼らの投げかける微笑に対する白々しさは、この先「五年生存組」というわびしいことばの群れに入ることが、とりあえず私の生きる目標になってしまった、その虚無感によるものだけではない。
イシャとキシャの払いもどし
〈まさか〉と思うことがやっぱり起こるもので、私の病気は癌だった。
「余は如何《いか》にして肺癌患者になりしか」というあたりを思いだしてみると、開業医二軒の誤診で、かなり危ない橋を渡っている。
昨年の梅雨があけようとするころだった。突然、右肩胛骨《けんこうこつ》のあたりに痛みを感じ、咳《せき》をすると胸から背なかに突きぬける。職業上、肩こりのひどいものか神経痛かなぐらいの気持ちで、近くのX医院を訪ねた。X医院は、内科、小児科、胃腸科、放射線科、理学療法科の看板を掲げ、郊外の大きな団地と私鉄の分譲住宅街にはさまれた地の利を得て、待合室はいつも患者で満員だった。ただし、看板の診療科目ごとに専門医師がいるわけではなく、一人の医師が何もかも診ていた。
そのX医師は「というわけで、神経痛のような気がしますが」という私の“申告”を聞くと、ふむふむと頷《うなず》き、「そうです、神経痛でしょう」と簡単に断を下した。私は診断があっけなさすぎるので、念のために胸のレントゲン写真を撮ってほしいと頼んだ。結果は、胸には異常がない、首の骨が一ミリほどずれていてそれが神経を圧迫している、ついてはわが医院の誇るカイロなにがし療法で治るから通院するように、ただし保険はきかないので心得おかれよ、とのことだった。
看板の「理学療法」とはこれで、カイロなにがしは早くいえばマッサージまたは指圧の一種である。私は一度だけかかったが、釈然としないものがあって医院を変えた。
二軒めのY医院は都心にあり、神経科と内科の看板を掲げている。ここはX医院とは対照的で、待合室に患者のいたためしがない。Y医師にいわせると、待合室に患者があふれているような開業医に、良心的な診療ができるわけはないのだそうだ。患者に真剣にとりくもうとすると、常時十五人までが医師の気力と体力の限界で、だから見てください、このとおりの貧乏暮しだが、キミ、私はこれでいいのです、これこそ開業医の良心なのです――ということだった。
Y医師の診察は、先のX医師にくらべるとはるかに丁寧で論理的で、触診と血液検査の結果はやはり「神経痛。ひと月で治る」ということだった。そのうちに本来なら顕《あら》われるはずの治療効果が顕われず、首をひねって、キミ、肝臓が疲労している、これのせいで治りが遅いのです、というわけで薬が増えた。それでも思わしくなく、今度は、わかった、血液中の尿酸の含有量が高いのです、というわけでまた薬が増えた。そのうちに咳が激しくなった。そこで風邪薬が増えた。
そのころ、朝日新聞が連載している「がん、どこまで治るか」が、たまたま肺癌をとりあげていた。私は何気なく読んでいるうちに、自分の体に思い当る節が多く、Y医師に「神経痛ではなくて肺癌ではないですか」と訊《き》いた。Y医師は「デリケートな人は困るな」と笑いながら採血し、数日後「血液検査の結果、肺癌ではありません」という返事をくれた。だが、十一月になって血痰《けつたん》が出た。さすがに医師は「レントゲンを撮ろう」と言った。撮ってみると、右上葉部に玉子大の影があった。医師は「結核だな」と断言し「三日に一度注射に通えば治してみせるよ」と言った。
私はたった一枚の平面写真で即座に結核だと診断されたのが不安で、それなら断層写真を撮ってもらおうと結核の専門病院を訪ねた。病院からはあらかじめ、最初のX医院で六カ月前に撮ったレントゲン写真を借りてきてほしいと言われていた。病院の医師はそれを眺め「ひどいな」とつぶやいた。「写真の技術も幼稚だし、こんなにはっきり出ている影をどうして何ともないと診断したのだろう」
数日後、病院の医師は私を別室に招じ、言いにくそうに告げた。「検査の結果、結核菌が出ていません。すぐにがんセンターか癌研に行ってください」
そして私は、がんセンターのカルテ番号一八四五九四番の入院患者になり、見舞客に対して表面は楽天を装いながら、独りになると抗ガン剤の坐薬を挿入《そうにゆう》する痛みと、死者の出た部屋の暗さに怯《おび》えるのだった。
それにしても、何てことだ。もしあのままX医院のカイロなにがしやY医院の結核の治療をそのまま受けていたら、私の妻子の五月の連休は「おとうさん(つまり私)のお墓参り」でいそがしかったろう。
家の近くの待合室に患者のあふれている医者もダメ、あふれさせないでいる遠くの“名医”もダメでは、困ったものだ。彼らに適切な病名診断を下す能力と設備まで求めないが、せめて〓自分にははっきりわからない。だから〓どこでどういう診察を受けることを勧めるという指示をする機能を果してもらいたいのだが、患者には医師の能力を見きわめる手だてがないからなお困る。いっそのこと、厚生省は毎年医師の能力試験をし、その結果をヨーロッパのホテルのように看板にランキング表示をするか。そして優秀な開業医だけは、現状のままの恵まれた税率を認めるが、成績が下るにつれて我ら一般人なみの税率を味わってもらう。いや、それよりも患者の側で中ピ連あたりのご助力を願って「医師の診断能力を診断する連合会」でも作り、地域住民の体験による医師の能力判定カルテを掲示するか。
折から税金の申告期だった。妻が誤診をした二軒の医院に領収書をもらいに行き「領収書代千円です」と言われて帰って来た。私は「誤診で何の役にもたたなかった六ヵ月間の薬代を返せと言ってこい」と妻に命じたが、妻は「お医者さんにそんなこと言えない」といった。そこで私は「新幹線だって遅れたら特急料を払いもどすのだぞ。イシャもキシャも同じようなものだ」と答えたが、そんはヘタな駄《だ》洒落《じやれ》でも口にしていないことには、癌はやはり怖《おそ》ろしくてならない、ということのようだった。
さるのこしかけ
夫《つま》孝行
パンタロンジーンズを買った。
駅の近くのその店に、私は一度だけ入ってひどく屈辱的な体験をしている。だって、脚の長さで釣り合いをとると胴まわりはまるで漏斗《じようご》のようにはちきれてぶざまだし、腰に合わせると裾は袴《はかま》だ。それ以来私は、店の前を通るたびに、若さを装う年齢はもう過ぎたのだといささか伏し目がちであった。
癌細胞に棲《す》みつかれてから、私はずいぶん贅肉《ぜいにく》がとれた。心のぜい肉を削《そ》ぎ落とすと、「要は死ぬまで生きるってことだ」というきわめて明解なことわりにたどりつき、肉体のそれはウエストが十センチもひきしまった。(つまり、痩《や》せた)
で、日曜日のことだった。退院後、はじめて遠出の散歩に出かけた。都心から西へ二十キロほど入ったこのあたりは、まだ武蔵野が残っていて、バスが新緑の欅《けやき》並木のトンネルを通りぬけるとあの屈辱の店があるのだった。私は小学生の娘をつれて店に入り「ジーンズをください。うん、もちろんパンタロン!」といった。そして例の脱色したやつを試着室ではいた。
見よ、我は昨日《きのう》の我ならなくに――。
すると娘が「お父さん、かっこいいよ」といった。それはあながちお世辞とは思えず、なるほど鏡の中の癌患者は颯爽《さつそう》としてみえた。私はその場で裾をつめてもらい、こころもち外股《そとまた》に歩いて欅のトンネルの下を帰った。
翌日、ジーンズのシャツを買った。若い店員が「これは裾をパンツの外へわざと出したまま着ると、かっこいいのです」と教えてくれて、私はそうした。そのまた翌日、幅広のベルトを買った。できあがった姿で歩いていると「へえー?! 四十の手習いですか」と呆《あき》れられた(筆者注・私は三十八歳になったばかりである)。妻は、子供が三人もあるのよ、お父さん恥ずかしくないの? といった。私は、いつ“保釈”が取り消されるかわからないのだ、生命《いのち》のタイムアップの笛がいつ鳴るかもしれないのだから――と答えようとしたが、その言葉は喉《のど》もとでつっかえ、「おれはもうテレている時間なんてないんだよ」といっていた。
ジーンズの私は、どうやら周囲の人の目には奇矯にうつるらしい。そういう視線を感じると、ついこの間まで暮らしていた癌病棟の、あの若く美しい奥さんを思いだし、結局は私自身の痛みになって返ってくる。
花の季節に癌病棟で死んだ“彼”(としか名を知らない)は、私と同じかもう少し若かったろう。入浴日にいっしょになったが「明日退院です。生きて出られるなんて」と嬉しそうだった。それからわずかひと月半後のある日、患者の間で噂《うわさ》になった。夫が退院したはずの彼女が、
「廊下で看護婦の胸にすがって泣いていたよ」
「うん、おれも見たよ」
というのだ。個室に仰臥《ぎようが》したまま姿を見せない“彼”の病状は自然に知れたのだが、脳に転移したのだそうだ。私たちは彼が妻と二人で幼い女の子の手をひいて、あんなに元気に退院していった日からまだ数十日だというのに、“彼”の体内で臓器をかえて暴れはじめた癌という病気の猛々《たけだけ》しさに身震いをした。そしてそれを語りあう恐ろしさを逸《そ》らそうと、“彼”の美しい妻に話題をふり向けるのだが、概してあまりかんばしからぬ視線であった。
彼女は私たちが「もう助からないだろう」と無責任に交わす低い声のなかで、しゃんと背すじを伸ばしていた。髪をアップにした彼女の項《うなじ》から背にかけての線の美しさは夫の最初の入院のときから人目をひいていたので、二度めの入院が一層話題になった。彼女はきまってマキシのスカートを着ていたので、看護疲れをした家族やパジャマ姿で肩を落とした人びとの群れにあって、周囲を圧倒する華やかさが眩《まぶ》しすぎた。
患者たちは「きょうはスカートを三度替えた」「朝は赤、昼は黄、夜は青だった」「まさか、交通信号じゃあるまいし」と笑いあい、「ここはホテルのロビーじゃないんだから」「亭主が死ぬか生きるかというときに、よくスカートにまで気がまわるもんだ」と眉をひそめた。しばらくして私は退院した。それからひと月もたったろうか。懐かしい病棟を訪ねると“彼”の名札がはずれていて「今朝亡くなった」と聞かされた。
顔見知りの患者のUさんの話では、朝の五時ごろだったらしい。医師や家族の出入りが激しくて、開け放たれた病室から彼女の「――ちゃん、がんばって」と夫の名を呼ぶ絶叫が何度も聞こえたそうだ。Uさんはその日を思いだし「人間でも金でも品物でも、減る、というのはいやなものだ」といった。それからさらにひと月後、今度はそういっていたUさんが、死んだ。Uさんは生前、こうもいっていた。「だんなが死んだ日も、あの奥さんはやっぱり裾の長いきれいなスカートだったよ」
その理由を教えてくれたのは看護助手のおばさんだった。おばさんの話では、“彼”は大学病院の若い医師で、彼の母親は息子が今度は助からないことを知っていて、嫁である彼女に頼んだそうよ、と次のように話してくれた。
それでね、お義母《かあ》さんがあのお嫁さんにいったんだって。お願いがあります、せめてあなたのいちばん美しい姿をあの子の目の底に焼きつけて死なせてやりたいの。あんなに若くてあなたや幼い子を遺して死んでいくなんて、あの子は心残りが多くてかわいそうすぎるわ。だからせめて看病やつれした姿を息子に見せないでほしい。そんな気にはなれなくて辛いだろうけれど、毎日お化粧をきちんとして、あの子が(ああ妻はきれいだな)と思いながら死んでいけるようにしてやってちょうだい。私が毎日新しい服を届けるわ、あなたはただ着てくださればいいの……と、あの人はお姑さんから頼まれたんだって。
おばさんは「こんなのを夫孝行というのかねえ」とつぶやき、「あの奥さんはね、ほかの患者や家族たちからどんなふうに視られているかわかっているけれど、私はもういいのよといってたよ」というのだった。
私はあのいつも首をしゃんと立てていた彼女が「――ちゃん、がんばって」と、死の床の夫に叫んだ日のマキシのスカートは何色だったのだろうかと思った。おそらく、死者を送るには華やかすぎる色あいが、早暁の乳色の光が斜めに射しこむ病棟の長い廊下を霊安室に向かって行ったことだろう。
そんな彼女に眉をひそめた非礼を詫《わ》びようにも手だてがない。その気になれば方法はあるのだが、私のこういう負い目は軽くしない方がいいのだろうと思っている。癌病棟は、どこのだれとも知らぬ人生との、ほんの一瞬の交差にしては重すぎる記憶に満ちていた。
今日もジーンズの上下を着ながら“ホテルのロビーにいるような奥さん”を想い出してならない。だが、生きているとは身勝手で、したたかで、彼女に感じたうしろめたさはかき消えて、どうせのことなら完全盛装にしようと、若者たちがはいているパンタロン用の底の高い靴を買いに街に出た。そして、靴屋の店先で、しばしの逡巡《しゆんじゆん》ののちに、手ぶらで帰って来た。
私があの靴を臆せずにはこうと思うと、あと二、三度は癌病棟で暮らさなければ無理なようだ。
日めくり
“仮釈放中”の身は、些細《ささい》なことで嬉しがったり沈んだりするもので、この間読んだ記事はひどく気になった。
「壮快」という雑誌に「キミ、ガン細胞は毎日できているのだ」という座談会がのっており、その中の国立がんセンター研究所疫学部長・平山雄氏の発言は、私を絶望的にさせた。氏は、
「どんなに早く発見して、どんなにいろいろな治療方法を試みても、五年後にはどうしたって死んでしまうというようなガンもあります」
と語ったあと、それはどういう種類の癌かという司会者の質問に答えてこう言っておられた。
「たとえば肺ガン。なかでも小細胞ガンという特別のガンなんか、そうです」
この文脈にしたがえば、私は五年後にはかならず死んでいる。なぜなら私は「たとえば肺ガン」だからだ。私にかぎらず、肺を冒されて治療を受け、退院後のリハビリテーションに励んでいる人びとも、かつて暮らした癌病棟の記憶がしだいに遠ざかるほどに生きる自信をもちはじめた人も、そんなだれもがいっせいに、ドアに星の印を貼《は》られたヒトラーのもとのユダヤ人のように、死亡宣告を受けたことになる。
私はこんなにはっきりと死を断定されたのははじめてなので、困った、困った、こわい、こわい、と思った。五年後にはもうこの世にいないのだとはっきりしているのなら、いまのうちにしておかなければならないことがたくさんある。まず妻子の生活だ。
五年たつと妻は四十歳になっているから、いくら昨今の銀座ホステスには姥桜《うばざくら》が多いからといって、四十の子持ちルーキーじゃあ食えまい。いまからそのときの算段を冗談ぬきで考えておかねばならない。
本はどうしよう。入院中、ひょっとしたら死ぬかもしれないと不意の怯えに襲われたときも同じことを考えたと思うが、売ってもいい本、絶対に手をつけてはいけない本と、仕分けをしておいてやらねば妻は困るだろう。それから友人のクドウ君とヤマシタ君とミナミさんの結婚のお祝いをまだしていないが、来月結婚するタカハシ君のもあわせてきちんとしなければ……と、そんなことを考えて落ち着かなかった。落ち着かなさの理由は、実は一方で私が必死になってひろい集めた知識の断片と、あまりに違いすぎることにあった。
肺癌の五年後の予想治癒率は七二パーセントだと聞いているし、現に五年以上生きている人も私の周りに一人や二人ではない。ではあの人たちは喜ぶべき誤診で、実は癌ではなかったのか。
私はその知識の破片を握りしめて落ち着きをとりもどそうとしたが、発言者の権威と、断定された文脈の前には、無惨に歯こぼれがした。
癌病棟を出てからの私は、なぜか日めくりが性にあった。一カ月単位や、まして一枚の紙に一年分を印刷したカレンダーは、健康な身には数カ月、一年先が“ある”という確信にもとづいて便利だが、怯えをもって生きる人間には、行儀よく並んだ日にちを表す数字と数字の間に、渡ればくずれ落ちかねない吊《つ》り橋が見えるのだった。
だから私は、一日が終われば一日をはぎ取って捨て、その下から今日という日が現れて始まってくれるあの昔ふうの日めくりに、生の手ざわりを感じて好きだった。私はその日めくりのような思いで生きているものだから、こんな落ち着かなさを明日まで、いや「どうしたって死んでしまう五年後」まで持ち続けるのはまっぴらだと思った。そこで交通ストのさなかを、のこのこと確認に行った。すると「たとえば肺ガン。なかでも小細胞ガン……」は、これでは肺癌はすべて五年以内に死ぬ、なかでも小細胞癌はもはや論外、手のつけられない癌と解釈するのも無理はなく、あきらかに文章がずさんだとのことだった。正確を期すなら「たとえば肺ガンのなかでも小細胞ガン(は五年間生きられない)」でなければならないということであった。
私は、自分がその小細胞癌というやつかどうかはしらないが、荷が軽くなった。文章の「。《ピリオド》」と「の」の、たった一文字に神経がカギ裂きされる私の状態が病的なのかもしれぬが、いやな日めくりだった。
日めくりの一枚一枚は実に多彩で、そんなことがあってから一週間後の今日は、いいことがあった。
病み上がり きょうはどこまで行ったやら、という感じで、あてもなく歩くことを日課にしていると、奇妙なものを拾うことがある。退院後ちょうど五十日めの今日は、亀を拾った。
櫟《くぬぎ》と椎《しい》とえごの木の林で、つれている犬が小便をしようと片足をあげた(が、こいつはいつも照準を誤って自分の前足にひっかけてしまう)。とたんに、草むらに向かって吠えた。見ると亀が落ちていた。落ちていた、というのも変だが、落ちていた。頭も手足もひっこめた亀はそうみえた。甲羅の長さは十五センチほどで石亀というやつだ。甲羅は水色のクレヨンのあとがついているところをみると、どこかの子供に飼われているのが逃げてきたらしい。私は亀をポケットに入れて帰った。わが家の婦長は、
「まあ! 縁起がいいわ、病気を治しに来てくれたのかもしれないわ」
と喜んだ。実は私も、鶴は千年亀は万年を連想してそう思っていたのだが――えい、言っちゃえ――別の連想もあった。そうでしょう、こいつが頭を長々と伸ばしてみたまえ。あっちの方のリハビリテーションを退院後は貝原益軒先生の養生訓よりももっと節制している(そもそもあまり好きではないもので)のに、わが家の婦長さんの中の、妻の部分が目ざめては困る。だが婦長はそんな気配もなく喜んでいた。
私は物置から古い金魚鉢をとり出し、砂利を敷いて亀の棲家《すみか》をつくってやった。それから「めでたいお客だ。酒を飲ませよう」というわけで、湯のみになみなみと注ぎ、亀の鼻先に置いた。すると亀は頭を出したので、酒の中に首の半分ぐらいまで入れてやった。そのときはじめて発見したのだが、亀も目を白黒させる。私は「おーい、飲んだ飲んだ」と歓声をあげ、ついでに「お相伴をさせていただきます」とこれは小声でいってぐいと呑んだ。
約半年間、一滴の酒も入っていない体は、むかし黒沢明がつくった映画「どん底」で、藤原釜足が演じた酔いどれを思わせた。彼は、巻き舌で「ゴローロップにしみわたらぁ」と言っていたが、漢字で書くと五臓《ぞう》六腑《ぷ》に、滲《し》みた、滲みた。
亀を口実にした盗み酒はたちまち婦長に露見して、私は「昼寝!」と威張って布団《ふとん》にもぐりこんだ。夕方になって子供が、
「大変大変、お父さん、亀が酔っぱらってるよ」
と起こしに来たので、まさかあ、亀の千鳥足なんてはじめてだ、蟹《かに》みたいに横這《よこば》いでもしているのかというと、
「だって、甲羅が赤いよ」
と口をとがらせた。どれどれへえー? と起きてみると、亀の甲羅は夕陽を浴びていた。
放生の亀
先週の、散歩の途中に拾った亀を、やっぱり放してやろうということになった。
妻が友人から教わってきたのだが、
「甲羅に願いごとを書いて放してやると、亀が苦しみを背負っていってくれるんですって」
とのことだった。私は、おもしろいなと思った。そんなことで病気から逃げられるとは信じないけれど、患ってからというもの、妙にものごとをおもしろがる性癖が以前よりも強くなっている。たぶん、何かにつけて欲が深くなったということなのだろう。ひょっとするとうんと短くなってしまっているかもしれない私の残り時間に、理屈の埒外《らちがい》のものや無駄なおこないをもちこむことで余裕を感じようという本能に被虐的な快感を味わっているのかもしれない。
で、私は亀を膝《ひざ》に乗せ、何と書こうかと思案した。
「神様、私の癌を治して下さい」と書いてあったのは、がんセンターの外来患者用トイレのドアだったが、あれをはじめて見た日の逐一はできることなら思いだしたくない。私はあれこれ考えたあげく「再発と転移から救って下さい」と書いた。そして腹の方に、日付とイニシアルを書いた。
亀はその間おとなしくしていた。はじめて気がついたが、右手の小指の爪が剥《は》がれてぶらさがっており、それは、花を落とした房に一つ二つ残ってこれから種になろうとしている藤の花のようだった。
亀をもち、妻をつれて、平林寺《へいりんじ》へ出かけた。山門前の茶店の庭に、朴《ほお》の大樹が三本あった。
(未完、絶筆)
手記
児玉正子
(児玉隆也夫人)
「ガンの患者学」を
庭で九官鳥が、ひとりでおしゃべりしている。うぐいすを真似たり、朝昼晩の挨拶をいっぺんにやってみたり、陽が沈むまでいつも大騒ぎをしている。
九官鳥がしゃべるたびに、ふと今のは誰だろうと耳を澄ませてしまう。みんなで言葉をおしえたために、子供たちのは高く、夫のは低く、音程を変えてしゃべるのだ。今の鳴き声は夫が教えたにちがいない。しかしあんな声だったろうか。もっと低くゆっくりではなかったか。そんなことを思う時、夫がいないということがどういうことか、よく理解できるように思う。
去年、思えばガンに蝕《むしば》まれていくさなかに「淋しき越山会の女王」を書き、その半年後に「ガン病棟の九十九日」を書かなくてはならなかった夫は、「ガンの患者学」を書き残すのが望みだった。退院してから間もない突然の死が、その夢を奪ってしまった。
夫が闘い、敗れた軌跡を、忘れないうちに記しておくことに心は動いた。たとえそれが、「ガン病棟の九十九日」をほんの僅かに補うにすぎなくとも、夫の望みの何百分の一かは果すことができるように思えたからだ。
木の芽どきに変調が
夫の躰《からだ》に初めて変調の兆があらわれたのは去年の木の芽どきだった。
木の芽どきという覚え方をしているのは、ちょうど庭の梨の木に新芽が顔を出しはじめた頃だったからだ。夫は、動物と植物とを問わず、生きているものが好きだった。犬や鳥や鯉を飼い、庭に草木を植え、その手入れをするのが愉しみだった。庭の葡萄で自家製の葡萄酒をつくるのを心待ちにしていたりした。
梨の木に緑の芽が出たとき、果樹は虫に弱いとかで、ある日殺虫剤を散布した。少し重さのある噴霧器を肩に、夫は熱心にかけてまわった。その日はそれほどでもなかったが、翌日から肩が痛いと言い続けた。その時、普段の肩こりならばもう治っているはずなのにずいぶん長いな、と私は妙な気がした。
夫の肩こりは昔からのことだが、光文社をやめてフリーのライターになってからは一層ひどくなった。一時間近く揉《も》まされることも毎度のことだった。
しかしその時の肩の痛みは、普段の肩こりと違っているようだった。もちろん、それは今思い返せばということであり、気にはなったが深く考えなかった。後に、躰が変だと気がついたのはいつ頃かと医者に質問されるたびに、夫は梅雨頃と答えていた。夫が梅雨時に固執したのは恐《こわ》かったからだと思う。たぶん自分でもわかっていた。ただ、木の芽時を認めれば、あまりにも以前から悪かったということを認めなくてはならない。それは同時に病気が深刻化しているということだ。それを認めたくなかった。今まで努力してやっと手に入れた様ざまなものを喪《うしな》うのが恐かったのだと思う。
昨昭和四十九年四月末のゴールデン・ウィークに、一家五人で旅行した時は、まだ充分に元気だった。館山まで泊りがけでドライブしたのだが、往復とも夫が運転した。それは実に久し振りの家族旅行だった。フリーになったのが昭和四十七年。
「フリーになれば好きな仕事だけして、夏は一カ月くらい子供と遊んで……」
と言っていたが、現実には光文社時代以上に休みはとれなくなってしまった。
ようやくやりくりして出かけた館山への家族旅行の最中も、しかし、夫は四六時中ぼんやり考えごとをして愉しまなかった。仕事のことを考えているのがわかるためか、子供たちもはしゃぎまわらなかった。
五月になって、今度は痰《たん》が出はじめた。それでも「今年の風邪はしつこい」と、風邪薬を飲んでいた。
梅雨に入って、肩の痛みはひどくなった。心配すると、「肩が痛くなるのは物書きの宿命だ」と言って私を安心させようとした。ちょうどその頃、宮田輝を“庶民の神様”ととらえ、「ふるさとの歌まつり」を、小規模の天皇巡行にたとえた「元祖“ふるさと人間”宮田輝」(『文藝春秋』49年8月号)を書いていたが、原稿を収めたあと一区切りつけて、近くの医者に行った。神経痛ではないかとおよその見当はつけていたが、それでも右肩の痛みがほうっておけないくらいに苦しくなったので、見てもらおうと決心したらしい。
神経痛と誤診
七月一日、近くの開業医でレントゲンを撮ってもらったところ、首の骨が少しズレていてそのために右肩の神経を圧迫する、そういう種類の神経痛と診断された。咳《せき》がでて肺の上が痛いということで一番怖《おそ》れていたのは肺病だったが、胸は心配ないということで一応安心した。週に一回、カイロプラクティックというマッサージの先生が来るので、その治療を受けてみるとよいということになった。実際やってみると、馬のりになって曲がっているものを逆にするような、ひどく苦しいものだったらしい。肩の痛みはますますひどくなる。
そんなことをしている時、神経痛のいい医者がいることを思い出した。私の友人が話してくれたのだが、その家のおばあさんが横になってもいられないほどの神経痛だったのを、五回注射しただけでウソみたいに治した先生がいるというのだ。面倒臭がる夫を無理に連れていった。それが七月の中旬だった。
その神経内科のK先生の医院は、人づてに知った人が訪ねるという感じのいつも閑散としたところだった。行くといつも詩集を拡げたり外国語を勉強していたりする。そんな先生を夫は面白がっていた様子で、後に他の綜合《そうごう》病院で検査しなおそうと提案した時も、
「お前がすすめたからあそこに通っているのに、コロコロそんなに変えられるか」
と怒られたほどだ。結果的には、十二月中旬にがんセンターでガンとわかるまで誤診に誤診を重ねられるわけだから、ここに連れてきた私にも責任の一端はあると思う。
K先生は血液を採り検査した結果、やはり神経痛と判断した。血液中の尿酸値が高く、関節などに尿酸がたまる、その部分から痛みが発するというような説明だった。薬をもらい、通っているうちに、少し状態はよくなってきた。しかしそれも一時的で偶然のものだったようだ。
八月、北海道の積丹《しやこたん》半島へ取材に出かけた。
鰊《にしん》御殿の盛衰を書き下しで描くためのものだった。何度も足を運び、あとは真冬に一度行けば書けそうだと言っていた。その時も、あれほど水の好きな人が殆ど海で泳がなかったらしい。十分も水に入っていられなかったという。おかしいと私が言うと、夕方で遅かったからだと話を切りあげてしまった。
やがていくつかの仕事と並行して「淋しき越山会の女王」の取材が始まった。
肩の痛みは抜けないままに、仕事の渦の中に突進して行った。二週間に一度はそれでもK先生のところへ通っていた。ある日、『朝日新聞』の「ガン、どこまで治るか」という記事を見て、肺ガンと自分の症状とがあまりにもよく似ているので、電話でK先生に訊《たず》ねたところ、一笑に付されてしまった。ガンでなければ安心と思ったものの、咳が止まらないのがなんとなく恐ろしかった。
肩を揉んでいる時、夫に“首”ができているのにびっくりした。夫は胸が厚く、肩が盛り上がり、顎《あご》からすぐ肩になってしまうような太目の体型だった。その夫に、スッと首筋が通っていたのだ。それほどやせてしまっていた。脱毛が激しかったのも危険のシグナルだったのだろう。
綜合病院で検査してみたらと何度も言ったが、
「そんな暇のないのは、見ればわかるだろ」
と激しく怒られた。夫には自分の躰に対する過信があった。過信と言ってはかわいそうかもしれない。三十代の働き盛りの男なら、誰にもある“自分の躰だけは……”という根拠のない期待。しかし、夫は実に健康だった。虫歯もなく、大病ひとつせず、医師からは弾力性のあるいい肌をしていると讃《ほ》められるくらいだった。そして、実際、夏から秋にかけては、一日ゆっくり躰の検査をしている余裕がなかった。傍で見ていても恐いくらいに忙しかった。その危さはフリーのライターの宿命のようなものだったかもしれない。そして、夫の性格がそれに輪をかけた。
フリーになった直後、夫がしみじみとした口調で言ったことがある。
「仕事があるということだけで幸せなんだよ。中には、机の上の原稿用紙で紙飛行機を作って飛ばし、ぼんやり眼で追っているしかできない人だっているんだからね」
どんな仕事でも手を抜くことができない人だった。生活を維持するために無署名の原稿も書いていたが、もう少し手を抜かないと大変だとお友達が言うくらい、懸命に書いていた。どんなに忙しくても原稿は受けようとした。一度断わった雑誌が、再び注文を出してくれると、どんなことをしても引き受けようとした。
「一度断わったのに、もう一度児玉隆也に仕事をくれるということは大変なことだ。もし、今度断わったら、永久に注文は来なくなる」
躰をはってやりたい
独立して二年目に『文藝春秋』から初めて注文が来た。
そのときの仕事が「若き哲学徒はなぜ救命ボートを拒んだか」(『文藝春秋』昭和48年6月号)だった。評判がよかったのか次々に『文春』から仕事をいただいた。懸命に夫は取り組んでいたが、一方で悩んでもいた。周囲から児玉は仕事を選《え》り好みしているという声が入ってくる。それも今まで世話になった人からだったりする。どこどこの仕事しかしない。そんなことを言われるのが辛かったらしい。
そんなことから仕事の量は益々《ますます》増えていった。月の三分の一以上は地方に取材のために出かけ、家に居る時も眠る時間を削って書いていた。
女学校時代の友人が、三十代で家を建てしかも好きな仕事をしている夫を見て、うらやましいと私に言ったことがある。それを話すと、
「当り前だ、サラリーマンのように正味五、六時間しか働かない人の三倍は働いているんだ、それくらいの報酬があってもいいだろ」
強い口調でそう言った。
『文藝春秋』十一月号の「淋しき越山会の女王」を書いている時にも痛みは増していたはずだが、私たちにはこぼさなかった。はじめこのデータは「田中角栄研究」の一資料として組み込まれる予定だったが、夫は熱っぽく自分にやらせてほしいと望んだらしい。
「フリーになって三年目、躰を張ってやってみたい」
夫には珍しい科白《せりふ》を吐いたという。それだけに際どい仕事をしているらしいことは窺《うかが》えたが、それがどれ程の事件を引き起こすか、私にはわからなかった。夫にも予測はつきかねただろう。外見的には、それを書いてどう変わったということもないが、毎朝五時半頃、郵便受けに落ちる微《かす》かな新聞配達の音でパッと眼を覚まし、待ち兼ねたように新聞を拡げ、むさぼるように急展開する“田中金脈問題”の記事を読んでいた。
夫はさらにやせた。
「でも、角栄さんが七キロやせてるんだから、俺が四キロやせても当然さ」
などと屁《へ》理屈をこねて自分自身を納得させていた。田中角栄自身に対して、夫はあまり敵意は持っていなかったように思う。どこから耳にしたのか、あれを読んだ角栄さん自身が、よくかけていると讃めていたというのをきいて安心しているようだった。
「今までの、よくぞここまでという“今太閤《いまたいこう》論”とも非道の成り上がり者という“悪党論”ともちがって、自分をよく理解してくれている、と言っているらしい」
秋の終り頃、イタイイタイ病の取材に北陸へ行った。帰ってくると「俺もイタイイタイ病かもしれない」と冗談まじりに呟《つぶや》いた。
十一月に入って、血痰を吐いた。しかし、それを誰にも知らせなかった。
たぶん結核でしょう
十一月の末に、また数回、血痰が出た。それまでどこかが少し炎症を起こしたのだろうくらいに甘く考えていたのが、どこかへ吹き飛んでしまった。驚いてK先生に相談すると、大方、気管支炎だろうという。夫は納得できなかったらしく、無理にレントゲンを撮ってもらった。
K先生は、紹介してくれた私の友人に、
「ガンだの結核だの、児玉さんは神経質すぎる」
とこぼしていたらしい。
しかし、レントゲンには大きな影が出ていた。その影を見て、K先生は、たぶん結核でしょうと診断した。夫は、その場でどうしたものかK先生に相談してみた。夫はそれほどK先生を信頼しきっていた。
結核は法定伝染病で本当は隔離して療養しなくてはならないが、今はいい薬も出来ているので私が治してあげよう、三日に一度かよいなさい、と言われた。
私は夫の口から結核ときいただけでショックだった。夕飯の仕度をしながらひとりでメソメソしていた。だがメソメソばかりもしていられない。夫は通院でなおすという。私は反対だった。子供たちに伝染《うつ》ることが心配だった。すると、夫は激しく怒った。子供を三人も抱えて、一年以上も療養所に入ったら、生活はいったいどうするんだ、それに、フリーのライターは名前を忘れられたらおしまいだ……。
私には子供の方が心配だった。仕事は完全に躰が元に戻ってからでも遅くない。ぜひ入院してほしかった。
「俺の仕事がどうなってもいいのか」
腹を立てて、書斎にとじこもってしまったが、夜遅く居間に姿を現わし、そんなに心配ならI先生に相談してみろと言ってくれた。I先生は国立療養所東京病院の医師で、私は奥様と知り合いだったのだ。
翌日、さっそくいらっしゃいといわれた。東京病院へ向うあいだ、これからの何年かを思うと暗澹《あんたん》たる気分で、結核、結核と呟いていた。I先生は七月一日に撮った写真を見ながら難しい顔をした。そして、
「結核ならいいんですよ、結核ならいいんですけどね」
と繰り返した。
検査の合間に食器や寝具の消毒はどうしたらよいのか、先生に質《ただ》した。すると、そんなことは気にしなくていい、と簡単に言う。K先生は、日光だの熱湯だのクレゾールだのについて細かく教えてくれたのにどうしたことだろう、と奇妙に思った。しかし、その時は「菌が出ない種類の結核かしら」と馬鹿なことを言い合っていた。
検査が終って家に帰ってくると、I先生のひとつの動作、ひとつの言葉に次第に別の意味が隠されていることに気がつき始めた。
不安になって、婦人雑誌の附録の医学書を二冊読んだ。読んでますます不安になった。二日後、検査のための痰を届けたついでに、思い切ってI先生に訊ねた。
「ガンではないのでしょうか?」
先生は答えてくれなかった。風土病とか雑菌とかの例をあげて、必ずしもガンとは言えないことを納得させようとした。
結核ときいただけで眼の前が暗くなったのに、もしガンだとしたら……。その日はそのまま家に帰る気がせず、近くに住んでいる友人を訪ねた。顔を見るなり、私はワッと泣き出した。
来るべきものが来た
翌日、夫と二人で東京病院に出かけた。外科ともう一人、計三人の先生が専門語で、難しそうな話をした揚句、I先生に別室に呼ばれた。私はいよいよ言われるなと恐れた。本格的な検査をここでしてもよいが、最悪の場合を考えて、チェックした方がよりよい、がんセンターか癌研《がんけん》で見てもらいなさい、もし何でもなければそれにこしたことはないのだから。そう言われた。夫は結核と信じこんでいるので、なるほどそんなものか、最悪のものからチェックするのかと納得し、ガンではないかと疑いさえしなかった。だが私の不安は際限なく拡がり出した。
この頃、夫の肩の痛みは最悪になっていた。あまり苦しそうなのでさすると、苦痛のあまりうめいた。夜は頻繁《ひんぱん》に起こされたが何をしてあげることもできない。ただ傍にいてあげると、いくらか気分はまぎれるのか、それを望んだ。
がんセンターでリンパの腫《は》れを計られた時、あらためてその大きさに驚いてしまった。ガンでリンパが腫れたらおしまいだ、という何処《どこ》かで眼にした説を思い出した。
いくつもの検査カードに様々のことがチェックされる。検査のために夫はセンター内の地図を与えられて、いくつかの場所を巡らされた。それを待っていると、医者から不意に訊ねられた。
「患者との関係は?」
いよいよくると覚悟した。しかしなかなか言い出してくれない。待ち切れず、こちらから、「心配はないでしょうか」と訊ねた。
「七〇パーセントの可能性はある。しかしあとの三〇パーセントは検査をしてみなくてはわからない」
涙がでてとまらない。しかし、夫の戻ってくるまでにはシャンとしなければ気づかれてしまう。三〇パーセントは望みがあるのだと自分に言いきかせた。戻ってきた夫もそんな私の様子は気がつかなかったようだ。
家に着いて、夕飯の買物に出た。そして公衆電話からI先生に、その日の報告がてら電話を入れた。I先生にはすべてがわかっていると思えたし、もし本当にガンならがんセンターではなく東京病院に入院させてあげたかった。できるだけ夫には気づかせたくなかったからだ。本当のところを教えてもらいたかった。私の言い分を聞き終るとI先生は、
「しっかりするんですよ。しっかりするんですよ、しっかりするんですよ!」
と三回繰り返した。
その時、決定的に夫がガンであることを理解した。つい数時間前まであった“三〇パーセントの希望”すらないことを理解した。
暗い耐えがたい絶望感でしばらく呆然《ぼうぜん》とした。どうしてあんな元気で病気知らずの夫がよりによってガンにかからなくてはいけないのか! しかし、一方では、来るべきものが来た、と妙に納得するものもあった。
結婚した直後から小さいながら家を持ち、夫は雑誌記者として、生活するに充分なサラリーを家に入れてくれ、二女と一男に恵まれ、健康にも恵まれ、フリーになってからも今まで以上の収入を得ることができ、さらに新しく大きな家に移ることができた。――こんな幸せが果していつまで続くだろう、いつか、どんな形でか、不意にこの幸せが崩れるにちがいない。私には、心の片隅にその不安がいつもあった。順調すぎる、幸せすぎる、そんな気がしていた。だから、最終的に夫がガンだとわかった時には、“来た!”と思い、“これだったのか”と思った。
買物から帰って来て、台所で調理していても、どうしても涙がこぼれそうになる。だが耐えなくてはならない。ガン患者の妻が辛いとしたら、悲しみがあまりに救いがないほど大きいことによるのではなく、その悲しみを誰にもぶつけることができないという点にあるのだと思う。とりわけ、常ならばその悲しみを分ちあってくれるはずの夫には、ほんのわずかでも絶望的な思いを表わすことが許されない。
その日は十二月十一日だった。七月一日に近くの開業医でレントゲンを撮ってもらって以来、実に半年もの間、誤診に誤診を重ねられてきたことになる。
十二月十一日、この日はまた文藝春秋読者賞の発表の当日でもあった。
がんセンターへの往復で、かなり疲労していたはずなのに、仲々寝ようとしなかった。候補作となっている「淋しき越山会の女王」がどうなるか、心配でたまらなかったのだ。十時までに連絡がこなければきっと駄目なんだ、と私により自分に言いきかせるように言っていた。十時を少し回ったところで何の連絡もなかった。がっかりした様子で「さあ寝るか」と言っている時に、ベルが鳴った。私が受けると、
「おめでとうございます、決まりました」
という『文春』の方の声が飛び込んできた。胸がつまり、夫に受話器を渡すと、台所で私は泣いた。それまで張りつめていたものがプツンと切れた。泣いてはいけない、決して悲しんでる様子は見せまいという緊張が受賞のしらせで一挙に崩れた。泣いてもいい状態になった。妙な言い方だが、やっと安心して泣けたのだ。
私が子供たちの前で涙を見せたことはあまりない。私の泣く姿を見て、小学生の娘たちが心配した。ここ数日のあわただしい様子にただならぬものを感じていたのだろう。
「お母さん、どうして泣いてるの」
すると、電話を終えた夫が娘たちに言い聞かせた。
「涙を流すのは悲しい時ばかりではないんだよ。嬉し泣きというのもあるんだよ。今、お母さんはね、嬉しくて泣いているんだよ」
嬉し泣きをしているという夫の言葉が辛くて、また泣いた。
心理戦争がはじまる
十二月十六日、がんセンターに入院した。夫には検査のための入院ということになっていた。夫には絶対にガンだと知らせない決心をしていた。
しかし、病院へ向う車の中で、はしゃぎまわる息子の也一を膝《ひざ》の上でしっかり抱きしめ、じっと前を見ている姿など見ると、もしかしたら夫にはすべてわかっているのではないかと不安になった。
十一日の夜で、ガンかそうでないかという疑念から解き放たれはしたが、その日以後、夫はどこまで悟っているかという、新しく、なお一層やっかいな疑心暗鬼を背負い込んでしまった。
入院当初は、夫も検査さえ終れば、ガンではないという身の証《あかし》をたてて晴れて退院できる、と考えていたようだった。しかし、検査の結果も知らされず、
「検査で時間をいたずらに費やすより、治療をはじめましょう」
と言われるに及んで、自分の病気と病勢についての疑いが芽をもたげてきた。そして、私がどこまで知っているのか探り出そうとした。私が病室に見舞うたびに(もっともそれは殆ど毎日のことだったが)、私は夫がどこまで悟っているかを窺い、夫は私がどれほど知らされているか読もうとしてきた。もちろん、それはさり気なくであり、二人の間にガンという言葉が交されたことはただの一度もなかった。ガンという言葉を中心にして、その周囲を回りながら必死で相手の心の裡《うち》を読もうと努力していたのかもしれない。それは二人をひどく疲れさせた。
夫は神経の細かい人だったから、看護婦さん、医師、患者さんたちの、一言、一挙手一投足に喜んだり不安になったりしていたものと思う。今日は新聞の死亡欄にガン患者は少ないといっては安心し、検査の時の毎朝の吸入器がうまくいかないといっては悲観した。
私も同じだった。毎日かよう道筋で、電車の乗り継ぎがうまくいき、交差点の信号が青ばかりだったりすると、きっと今日はいいことがあるにちがいないと思えた。その逆だと足も重くなった。
次第に検査も辛くなっていき、それにつれて夫の苛立《いらだ》ちも激しくなった。行くと必ず小さないさかいをした。そのたびに隣のベッドの患者さんは、そっと手洗いに立ってくれた。原因はいつも仕事先のことだった。注文を下さる雑誌社に、私が入院中の病院を曖昧《あいまい》にしているのが気に入らなかった。がんセンターで検査中だとなぜはっきり言えないのか、と責めた。しかし、やがて検査中では済まなくなる。結果はどうでしたと訊《き》かれるだろう。その時、何と答えたらよいのか。
「お前は、俺のマネージャーじゃないんだぞ!」
ある日、そう怒鳴られた。旧知の間柄らしい方から仕事の依頼があった。それほど無理な仕事ではなかったが、ここしばらくは到底仕事は不可能だと思ったので、断わるような調子で応答した。それを夫に話すと、マネージャーのような真似はするな、女房が勝手にできるできないの判断などするものではない、今すぐ電話をかけて、主人に怒られてしまったからと先方にあやまれというのだった。自分が忘れ去られるのではないかという恐怖はかなりあったようだ。
“枇杷《びわ》の葉療法”で怒られる
病院へ通う道すがら親子連れに沢山ぶつかるのだが、私はそのたびに辛い思いをしていた。暮も押しせまった頃、ソニー・ビルの正面のデコレーションを二歳三カ月になる長男の也一に見せてやると喜ぶ、と夫が言い出した。「愛の泉」とかにコインを投げると美しい音がするという。しかし、夫はとても外出できる状態ではなかった。私は也一と歩きながら同じくらいの年齢の子を連れた親子を見ると、私たちは来年はこうやって歩くこともできないかもしれないと思えて、だらしなくも涙がこみあげてきそうになった。
私は、夫がガンであることは知っていたが、そして大分ひどいらしいことは推察できたが、お医者さまからは何も直接におしえられなかった。入院の日、病状を訊こうとしたが先生はスルリと体をかわして逃げてしまった。次の機会の時にも、自分の口からは何とも言えない、と逃げられてしまった。ただ、こうは言われた。
「一番いいのはやはり手術をすることです。それができない時は放射線を使う。あるいは化学療法で押えてから手術をするというのもある。いくつかある治療方針のどれが採用されるかで、判断してほしい」
結局、手術はできなかったのだから、病状はかなり悪かったのだろう。
暮から正月にかけて、十日余りの外泊が許された。それを迎えに行った日、先生にどうしても訊いておきたいことがあった。民間に伝わる治療法で“枇杷の葉療法”というのがある。夫の姉に勧められて、私も何でも試みてみよう、という気があったので、さっそくその講義を受けてきた。夫に話すと、いやだという。先生の許可を取ってこなければ絶対やらないという。仕方ないので相談すると、先生にはカチンときたようで、ピシッと言われてしまった。自分の方針に抵触するようなことはやめてほしい。枇杷の葉には少量だが砒素《ひそ》が入っている。そんなもので治るほど簡単なものではない。あなたの旦那さんは三期なんですよ。だいぶ進んでいる。
ガンには一期から四期まであって、もちろん四期が末期である。だいぶ進んでいるのは確かだったが、あとで分ったところでは三期ではなく、四期だった。
家に向う途中、枇杷の葉の件で先生に怒られた話をすると、夫は笑った。当然というのだ。そして、自分の病状はどうだといっていたか訊いてきた。それは答えようがなかった。枇杷の葉のことしか訊いてこなかったと嘘をつくとまた怒った。
「お前は自分の亭主の病気を詳しく知りたいと思わないのか、子供の具合が悪くて医者に行ったって、手当だけで安心して帰ってくるのか、なんで訊いてこないんだ」
その通りだが、だからといって、あなたは第何期のガンですとは答えられない。
放射線と化学療法で
今年の正月は暗かった。
縁起をかついで形どおりのお節料理は作ったものの、夫には食欲がなく、子供たちもひっそり過していた。笑い声すらも起こらなかった。
夫は咳と痰がひどくなっていた。「お父さん、大丈夫なの?」と私に訊かなくなった分だけ、子供達にも深刻なものに映りつつあった。
見舞がてらの年始客が来ると、夫はレントゲン写真を見せながら、
「どうもガンらしいんですよ」
と説明していた。その淡々とした調子に、とうとう悟ったんだな、それならそのように接しようと考えていると、またしばらくして夫の心が揺れ動いているのが見える。
イタイイタイ病の取材の時お世話になった朝日新聞社のNさんの慰めの言葉にすがりついて、何かの風土病かもしれないよな、雑菌が入ってこんな影を作っているのかもしれないな、とか言って一縷《いちる》の望みを捨て切れないようだった。
年が変わったら外科に移って手術をするということだった。ところが内視鏡で最後の検査をしてみると、どうもひどかったらしい。手術をしない方に傾いたが、“手術さえすれば”と私たちが思い込んでいるのを見て、とりあえず外科に移してくれた……というのが私の想像である。誰も何も教えてくれないから、勝手に推察するより仕方ない。外科に移ったもののなかなか手術をしてくれない。夫も私も不安だった。手術もできないくらい悪いのだろうか。
夫が私にその不安をぶつけて問い詰めるので、
「そんなに気になるのなら、自分で先生に訊いてみたら」
と言っておいた。夫は訊けなかったようだ。
O先生の話によれば、患者の中でも、男の患者は決して、直截《ちよくせつ》に「ガンですか」とは質問しないものらしい。遠まわりして探る。そのときも決して逃げ道のないような質問はしない。一方、女は、病室の三、四人がしめし合わせて、ひとりずつ「私は乳ガンですか」と順番に切り込んできたりするものらしい。夫も少しずつ探りをいれていたのだろう。
夫のガンは正式には低分化扁平《へんぺい》上皮ガンというもので、そういわれてもよく理解できないが、ガンも顔つきがそれぞれちがい、名はその特徴を現わしているものらしい。顔つきのちがいによって治療方針も変わってくる。
ガンの顔つきと手術をすることによる損得を計算した結果、放射線と化学療法でいくことが決定された。そこで、再度、外科から内科に移されそうになったらしい。
単に健康人は内科、外科というが、患者にとっては天国と地獄ほどの差異に映ってしまうらしい。患者たちからの耳学問によれば、外科から内科へはもう手の施しようのない人が入る。内科に移る人がいると、ああもうだめだと暗黙のうちに眼で語り合う。
夫はそれを知って、内科の婦長さんがベッドを空けて待っているというようなことをチラリと言った時、慌《あわ》てて断わったらしい。
「ぼくは、この外科が好きなんです」
あとできいてユーモラスに感じたが、夫は必死だったにちがいない。
早熟だった少年時代
夫は早熟で大人びた少年だったようだ。
昭和十二年に芦屋《あしや》で生まれ、同地で育った。幼くして父を喪い、経済的に苦しい少年時代を送った。新聞配達をはじめ様々なアルバイトをした。暮になれば餅つき、夏になれば甲子園のカチワリ売り。姉が早く嫁いだあと、母と二人で生活してきた。優等生だっただけに、全く自分の責任ではないお金のことでいやな目に会うのが辛かったらしい。
夫のバックボーンには、いつもこの時代の口惜しさがあったようだ。
遠足に行く。芦屋の大金持の息子がクラスメートに沢山いる。おやつの時間になって、そのひとりが見たこともないようなチョコレートを一口食べ、残りを湖へポイと捨てる。湖の底へゆらゆら沈んでいく破片を水の中に入って拾いたいのを、じっと我慢しながら見ている口惜しさ。
成人して、選挙のたびに入れる党がないとぼやきながら、やはり革新政党に入れていたのも、その当時の記憶と分ちがたく結びついているのではないだろうか。しかし、夫くらいの苦労は当時の日本なら珍しくなかった。私もぶかぶかの靴をはいて、兄のシャツをお下がりにもらっていた。しかし、私は夫のように強く口惜しさを抱きつづけていない。それは、ひとつに個性の差だろうし、ひとつは芦屋という町の特質だったかもしれない。
小さい頃から文章がうまかった。小学校を卒業するとき答辞を読んだ。それを聞いて父兄はほとんどすすり泣いたらしい。その文章は自分で書いたものだった。
「昔から、泣かせの文章は得意だったんだ」
そう言っていた。
大学は、早稲田の第二政経を選んだ。昼は真空ポンプの会社でアルバイトしながら、学校に通った。大学生活は決して楽しいものではなかったようだ。コッペパンと野菜炒《いた》めが食べられれば充分という、暗い大学生活だった。
子供には殆ど干渉しない夫が、娘たちにピアノだけは続けさせようとしたことと、三歳にもならない息子にラグビーボールを与え、
「お前は早稲田のラグビー部に入れ」
といっていたことから、逆に夫の大学生活を察することができる。
二十一歳の時、雑誌『世界』の8・15特集に応募し、「子から見た母」が入選した。これが直接の契機かどうかわからないが、大学を卒業するとマスコミ関係にすすむことを決意した。しかし、岩波書店、毎日新聞社、NHK、文藝春秋……みんな落とされてしまう。そして、しばらくアルバイトをしてた関係で、光文社の試験を受けた。
神吉さんが、ウチは二部学生を採った例がない、というと、夫が反論して、
「神吉さんの書いたどの文章を読んでも、その科白はでてこない」
と言った。それが神吉さんに気に入られて入社できたときいている。
夫は『女性自身』の仕事を嬉々としてやっていた。
夫と私が出会ったのは、『女性自身』の「職場のドレッサー」という記事が機縁だった。その頃、私は帝人の社長秘書をしていた。たぶんあの子は口が固そうだとかいう理由でひっぱられたのだと思う。実践女子学園を出たあと、受付と経理へ回ったあとのことだ。自分は平凡で、平凡な人生を送るものと思い込んでいた。ところが社長秘書をしばらくしているうちに、少しは人間を見る眼ができてきた。
出会ってすぐ、取材先へ向う青函《せいかん》連絡船の中で手紙を書いて送ってくれた。それが素敵な文章だった。さり気ない叙景の中に僅かに感情が盛られている。夫の文章の中でもっとも好きなものは、手紙かもしれない。
そして会って間もない頃、『世界』の論文を読まされた。寂しい人なんだなと思い込んでしまった。まだお金もない頃で、会うときはいつも一丁羅の背広、暑くなってもそれを着てくる。しかもとても黴《かび》臭かった。でもその臭いはなつかしく、今でも思い出せるような気がする。私は冗談にいつも「同情結婚よ」と言いつづけていた。
結婚する時に、多少無理して小さな家を買った。場所は奥狭山《おくさやま》の角栄団地だった。
やっと落ち着ける巣を見つけた鳥のように喜んだ。それ以後、わずかずつだが順調に生活の基盤を作りつつあったのだ……。
これまでに二度の涙
ガンと知らされた例の夜、私は泣くだけ泣くとさっぱりした。夫は、それを結婚して以来見る三度目の涙だと言った。「ガン病棟の九十九日」の冒頭にそう書いてある。
私はそれ以上泣いている。ただ、夫の眼には心から涙を流している私を見たのが三度目と思えたのだろう。
しかし、それが三度目だとしたら、その前の二度とはいつのことだろう。読んで以来、それが気になって仕方がなかった。
一度は、夫が『女性自身』の記者時代、「サリドマイド児」の特集を写真入りで精魂こめて作りあげたにもかかわらず世間から激しい批難を浴びた時、もう一度は義母《はは》が亡くなった時とある程度の見当はつくが、はっきりしない。何度も訊いてみようと思いながら、妙にためらいがあり、今度こそと思っているうちに、突然、夫は逝《い》ってしまった。
「サリドマイド児」の件ではひどいことになった。子供を見せ物にしてるとかで、朝、毎、読の三紙には叩かれるし、評論家のみなさんからも攻撃され、夫はたとえば秋山ちえ子さんなどには、読みもしないで、と腹を立てていたようだ。
その時、三島由紀夫さんが、
「『文藝春秋』とか『世界』とかの固い雑誌で同じことをやれば、英雄になれたのにな」
といってくださったときいている。
義母は、女手ひとつで戦争直後の荒波を子供二人を抱えて泳ぎ切った苦労人だった。夫の高校時代の恩師であるO先生が、「善なる人としかいいようのない人」とおっしゃる通り、人なつっこい無垢《むく》な優しい人だった。それは理解できたが、私とは微妙に生活感覚が合わないような気がした。今になれば、どうということもないのだが、私も若かった。
子供をひとり生んでから、夫が義母を呼びよせた。単純に関西人と関東人のちがいだったのか、嫁と姑《しゆうとめ》の宿命なのか、どうしてもしっくりいかなかった。どちらも懸命につくしているのだが、表面的なものはとりつくろえても、深い所ではうまくいかなかった。
越してきた翌日にもう隣近所に知り合いをつくりあがりこんでいる。それがいやだったり、また、息子が自分のことを書いてくれた『世界』の論文を一度ぽっきりの客にまで見せるのがたまらなかった。今思えば何でもないことなのに。むしろよく理解できる。
奥狭山から今の家に移る時も、義母は悲しがった。私たちは便利で広い家に移れるのが嬉しかったが、義母には義母の世界があることを考慮してあげられなかった。家は狭くとも、そこには慣れない東京に来てやっと作った老人のお友達がいた。義母は寂しがった。そんなことから少し情緒が不安定になってしまった。
夫がフリーになった時も、義母には内緒だった。会社をやめたときくだけで、心配で夜も眠れないような人だったからだ。
三年前に亡くなるまで努力してつくしてきたつもりだが、それは努力であって、心からのものかと問いつめられればどう答えてよいかわからない。夫もフリーになってからはゆっくり義母の話し相手にもなってあげられなかった。そんな中を義母は逝った。
死なれてみて、二人に悔いが残った。とりわけ私には、年々、申し訳ない思いが募ってきていた。
夫がガンだとわかった時、「来た!」と思ったのは、義母に悲しい思いをさせた当然の酬《むく》いなんだ、私は今その罰を受けているんだという思いもあった。
関西に住む夫の姉が、自分の信仰している会の先生と話してみないか、といわれたときも、義母だけでなく夫にも義姉にもすまなかったと思っていたので、素直に出かけた。
その方に「病気になったのも、夫婦の心がひとつになっていなかったからだ、これからは心をひとつに素直な気持で生きていけば病気は治る」といわれた。
それがすべてとは思わなかったが、私が我を張りすぎたのがいけないのだろうから、これからは、人がいいとすすめるものはなりふりかまわず、どんなことでもしてみよう。そう決心した。
内心は千々に乱れた
毎日、夫の病室に通った。大変だから一日おきでいいといわれたが、日に日に悪くなるような気がして居ても立ってもいられなかった。それに、毎日通うことでつぐないをしようとしていたのかもしれない。
私の友人に、やはり喉頭《こうとう》ガンで御主人を亡くされた人がいる。彼女は夫がガンだということを誰にもしらせなかった。ひとりにでも喋《しやべ》れば、必ず気配でわかってしまうというので、自分の胸の裡《うち》にしまい、二年間看病しつづけ、死の直前にやっと親と会社の社長さんにだけに話した。すごい精神力の人だった。
その彼女が夫のことを知ると、治るからなどという慰めのかわりに、
「一日一日大切に生きるのね」
と言った。
やがて、この言葉が、毎日夫のところへ通い、ジュースをしぼり、夕飯をつくる支えになった。
私は、毎日の電車の中で、民間療法の本を何十冊も読みまくった。懸命になっていると不安を忘れることができた。
がんセンターではじめて夫を診察したT先生は、夫が亡くなってから、
「児玉さんには三度びっくりさせられました」
とおっしゃっている。
最初はガンのひどさ、最後は事態の急変だったが、その中間に治療効果があまりに順調にあがったことを挙げている。
効果が出はじめたのは一月中旬。まず肩の痛みがなくなった。薬の副作用で下痢をしたり、痛みのぶり返しがあったものの、レントゲンに写る影が半分になっていた。リンパの腫《は》れが引いてきて、小さく三つの部分にわかれた。
下旬に外科に移りBAI(栄養動脈から薬剤を注入して患部に薬を分布する治療法)を施される。その時は、薬を注入している最中に、ガラスの向うで見ているはずの先生が飛んで来て、
「児玉さん、とても期待がもてそうですよ」
と言って下さったらしい。夫は、その日一日、機嫌がよかった。
その翌日、突然、電話がかかってきて、外泊できるからすぐ迎えに来いという声が、とてもシッカリしていたので驚いたほどだ。直観的にこれは、経過がいいなと思えた。
その夜は、久し振りにテレビを見て、家族全員が笑った記憶がある。実に、久し振りの笑いだった。
そして、さらにBAIが効いた。二月上旬には放射線治療がはじまった。
不安でないことはなかった。先生に訊《き》いても、「治療効果があがっています、治療方針どおりに運んでます」というばかりで、もしかしたら気休めで言ってるのではないだろうか、もう手の施しようがなくて見棄てられてるのではないだろうかと思いもした。
見舞い客へはガンらしいとわりに淡々と言っていたが、内心、千々に乱れていた。ところが、眼に見えてよくなったことと、抗ガン剤のPSKを出されるようになって、
「俺は血統書つきのガンだ」
と言えるようになった。はじめて耳にした時はドキッとしたが、半面、覚悟が決まってよかったとも思えた。この頃から一段と効果があがったらしい。
二度目のBAIが終ったあとで先生の部屋に行って、思い切って訊いてみた。手術ができなかったことが、ひっかかって仕方がなかったのだ。
「とにかくはかはいってます」
冷たいようだが、そして奥さんが訊きたいことはよくわかるが、今はそれしか言えないと突き放された。
「ただ、この病気には二通りの治療がある、ひとつは、もうダメで、命を少しでも伸ばす治療。もうひとつは、治すための治療。ご主人の場合は、ともかく治すための治療をしているんです」
ただ、夫の躰《からだ》を具体的に見ていると“ハカ”という意味がよく飲み込めた。
心理的にもいくらか落ち着いてきた。一番心配していた仕事のことも、『君はヒットラーを見たか』の手法を応用したインタヴューを中心にまとめた天皇論『君は天皇を見たか』(潮出版)や、ひとつの町の無名の兵士とその留守家族を写真を頼りに訪ね歩いた『一銭五厘たちの横丁』(晶文社)がうまいタイミングででて、しかも、色々な形で書評に取り上げられたりした。名前が忘れられるという不安もいくらか軽くなった。
馬鹿にならないお金
BAI、リンパ摘出とすべてが順調に行き、気がつくと退院ということになっていた。ただ、退院の意味がよくつかめなくて困惑した。全快とではなく、するべき治療はすべて終ったからというのでは不安になる。
その時、こう思った。あるいは思おうとした。
もう物ごとを深く、先の先まで考えるのはよそう。いつまで生きられるだの、どうだのと考えたところで仕方ない。誰にもわかりはしないんだ、お医者さんにしてもわからないからああいう言い方しかできないのだろう。病院でなければできない治療はしてもらったのだから、あとは通院と私の努力で頑張ればいいのだ。
ガンの退院は「おめでとうございます」の退院ではないから、その意味では妙に不安定な感じのものだ。それを、夫は“仮釈放”と呼んでいた。
ガンはお金がかかるときいていた。多少の貯えもアッという間に消えてしまうように思っていたが、実際はさほどでもなかった。医療費は一月三万円以上かからなかった。
少し細かく説明すると次のようになる。
保険の種類は国民健康保険、三割が自己負担だ。大部屋に入院して治療を受けて約二十五万円。請求されるのはその三割の七万五千円。しかし、「高額医療制度」のおかげで、一カ月一病院に入院して三万円を超える部分は、国庫が負担してくれることになっている。だから、地方公共団体に申請すると、その差額、例えば四万五千円は返還される。
しかし夫の場合がその三万円だけで済んだのには、いくつかの幸運があった。まず、部屋も薬も保険がきくものだったこと。次に、病状が悪化でなく良化したこと。悪化すれば、個人部屋に移り、看護の人をやとわなくてはならない、特別な薬を投与されるかもしれない。これはみな保険がきかない。保険がきかないものに対しては「高額医療制度」も適用されない。即座に数十万円はオーバーする。
ただ、医療費は三万で済んだが、それ以外のところで馬鹿にならないお金が出るのが、ガンという病気なのだろう。
医学でも治らないという頭があるので、よいキノコがあるといわれればお金の問題ではないと糸目をつけず買い、よい治療器があるといえば十万単位のお金も出してしまう。ガンという病気の魔性かもしれない。
すべて取材の対象
退院した翌日、何を思ったのか急に書斎の整理をはじめた。一日中、整理をしながら、これは貰ったもの、これは借りたものだから返さなくてはならない、などとさりげなく私に言い残しているふうだった。不吉に思って、よほどやめてほしいと言おうと思ったが、私の先走りだとかえって困るので、黙って手伝った。
後に夫が遺したノートの走り書きには、自分が最も死を間近に感じてならなかったのは、父母の墓参りをこのお彼岸にした時と、この本を整理した一日だった、と書かれている。
闘病記を書こうと決心したのも、この頃だった。病気が好転する兆があったので書いてもいいなと思った。もし下降する一方だったら夫の性格では書けなかった。よく、一日一日の状態を克明に日記体で記録してある闘病記があるが、そういう人はよほど精神力の強い人だ、自分はそういうことはできない、と言っていた。
闘病記を書く段になって、改めて夫は私から取材しようとした。以前から、物書きの女房は大変だ、可哀そうだ、と言っていた。
「お前が何をしていても取材の対象になってしまう。料理をしていても、子供の相手をしていても、書くための素材になってしまう。可哀そうだな」
それは妻である私に限ったことではなかったと思う。夫にとっては子供も友人も、旅もテレビも、趣味さえも素材だった。いや、だから趣味といえるものを持っていなかったのかもしれない。そして今度は自分自身さえ素材となった。
私に取材の矛先《ほこさき》を向けて来た時、はじめはいい加減な答え方をしていた。うっかり余計なことを喋っては大変だったからだ。しかし、そのうち夫の熱心さを見るに従って、私がつまらぬ嘘をついたおかげで、夫の闘病記そのものが陳腐になってはすまないと思い返し、いくつかのどうしても黙っていなければいけないこと以外、率直に話すことにした。その闘病記「ガン病棟の九十九日」は『文藝春秋』昭和五十年六月号に掲載された。
夫は、この雑誌が売れるようにと、マスコミのあらゆる知人に電話をして働きかけたらしい。もちろん、自分の書いたものを読んでもらいたかったのだろうが、それだけのスペースを割《さ》いてくれた雑誌が売れなくてはこまるという気持もあったのかもしれない。
「売れればいいが」
夫がそういっていたと聞いてあの時、嘘をつき通さなくてよかったと思った。それでもどうしても隠しおおさなければいけない嘘もあるにはあった。
夫に伝えられなかった言葉
夫の容体が好転しつつある頃、二軒の開業医に電話した。税金の申告に医療控除のための領収証が必要だったのだ。二軒とは、がんセンターに行くまでかかっていた医院だ。
家の近くの先生にまず電話すると、奥様が出てきた。用件を伝えると、
「大変ね、私も早く治るようにと、神様にお祈りしています」
と励ましてくれた。誤診をしてすまなかったという気持が感じられて、クリスチャンの奥様の言葉から暖かいものを受け取ることができた。
次にK先生に電話した。
半年もの長い間誤診をつづけられたという腹立たしさもあったが、
「結核なんかじゃない、大変な病気だったんですよ」
とだけ言った。すると、
「そうでしょう」
と相槌《あいづち》を打った。そんな言い方があるだろうか。それでも、ガンにいい治療法をアドバイスしてくれるかもしれないから、と思って訊《たず》ねると、
「現代の医学では、あれほどひどい影のものを治すことはできない」
ガックリするやら腹が立つやらで、口惜しかった。
「奥さんだから言いますけど、一年です。一年もちこたえれば、それはガンじゃないですよ。でもがんセンターというのは日本一です。そこで結果がでてるなら、もう絶対間違いない」
そんな言葉を、いくら闘病記のためとはいえ夫に伝えるわけにはいかなかった。
はじめ、私は「ガン病棟の九十九日」を書くのに反対だった。反対というより不安だったといった方がよい。このような形で一区切りつけることで、ガックリしてしまわないか、それが遺書になってしまわないか心配だったのだ。
希望と絶望と
毎日、少しずつ距離を伸ばす散歩を続けながら、構想を練っていたらしい。なかなか書き出せないで苦しんでいたようだったが、〆切の三日前からペンが流れ出した。
徹夜が何より躰をこわすもとだということは、夫自身がよく知っていた。しかし、その三日間は、徹夜とまではいかなかったが、かなりの時間、机に向いつづけた。
「絶対に徹夜はしないから、少し遅くまで仕事をしてもいいだろ」
私に気兼ねするようにそう言っていた。いつもなら、机の周りを資料だらけにして書くのだが、この時は一冊のノートと一冊の黒い手帳だけを傍に置くだけだった。心覚えの単語がひとつあるだけで、その挿話《そうわ》は完全に再現できるらしかった。
それも当然かもしれない。九十九日間というもの、夜も日もなく、身をもって体験し、取材しつづけたのだから。それだけに、発表してからの讃辞《さんじ》の一言一言がとても嬉しかったようだ。
「ガン病棟の九十九日」は、私も含めて、読者には快方へ向う、希望の書と受け取られた。しかし、何人かの人には、絶望の中の透明な諦念《ていねん》と感じ取られたらしい。夫のお友達のお医者様は、肉体的に危ないと感じ、恩師のO先生には、まるで特攻隊員の遺書のようだ、と思えた。
とにかく絶望のあとで、少しずつ、本当に少しずつ希望が見え始めていた。
最後の食事らしい食事
「ガン病棟の九十九日」を書き終えた四月下旬のある日、買物に誘われた。
「お前にも苦労をかけたから、何でも好きなものを買うといい」
久し振りに明るい気分になり、新宿の高層ビルのショッピング街で、洋服でも買ってもらうことにした。お昼になり、食事をその最上階のレストランですることになった。夫はメニューを見て、何にしたらいいのかなと途方に暮れたように呟《つぶや》いた。その頃、私は夫に対して徹底的な食餌《しよくじ》療法を施していた。自分ができることといえばそれくらいのことしかないという思いもあったが、またかなり効果があるような気もしていた。療法といっても、要するに血をアルカリに保っておくということに注意するだけだ。そのためのメニューを必死で考えた。肉類はよくない。肉好きの夫には辛かっただろうが、よく我慢してくれた。はじめから素直にというわけにはいかなかったが、大喧嘩《おおげんか》をした揚句、夫が折れてくれた。いさかいをして夫が書斎にこもってしまったが、夜になって出てきてボソッと言った。
「お前の言うことをハイハイと聴いていれば、家は円く治まるんだから……」
半分は照れ隠しだった。本当のところは、こんなに躰のことを思って考えているのに、と私には珍しく強硬に主張したので驚いたのかもしれない。ともかく、食事だけは私の信じる通りにした。そのレストランに入った時、夫が迷ったのもそれが理由だった。一応“婦長さん”に御機嫌うかがいをしてくれたのだ。せめて外に出た時くらい好きなものを食べさせてあげたくなって、
「食べたいものを食べましょう」
そう言うと嬉しそうにステーキを頼んだ。食べ終って、「ああ、久し振りに食事らしい食事をした」と笑った。
「月に一度くらいはこんな風に食べてもいいかなあ」
「たまにはいいわね」
私が答えると、気を兼ねるように、
「肉を食べる時は野菜をうんと食べるようにするからな」
と言った。
それが私たちとの、最後の“食事らしい食事”になってしまった。
夫に“また”はない
五月に入って、少し疲れが出たような気配があった。病み上がりというのに、あちらの出版社に挨拶したから、こちらの人にもという調子で人に会い続けた。私にも律儀すぎると思えた程だ。しかし、夫の几帳面《きちようめん》さは、性格の主柱のようなものだから、はたでいくら言ってもどうしようもない。取材費の清算をするときも、あまりの几帳面さに雑誌社の方が驚くくらいだった。
「ふつうの人はかなり雑にやるけど、児玉さんは一枚一枚、きちんと領収書を持ってくる。そればかりではなく、喫茶店やレストランなら、マッチのラベルをはがして添付してくるんですからね」
間もなく、肋骨《ろつこつ》の下の部分が、腹筋運動をしたあとのように突っ張る、と訴えるようになった。転移の不安や再発の恐れは常に抱いていたから、木曜日の定期診療の時に先生に相談した。すると先生はかなり怒ったそうだ。
「児玉さんは自分の躰を見つめすぎる。転移に対しては私が心配する。あなたはもっと眼を外に向けなさい」
翌週、やはり『週刊朝日』の「さるのこしかけ」の仕事で、少し無理をした。
その週の金曜日には、それでも二人で亀を放しに行った。散歩の途中で拾った亀を、その甲羅に願いを書いて逃がすと、その願いがかなうときいていたので、ガンという災いをその亀にしょっていってもらうことにしたのだ。
雨が上がった昼下り、近くの平林寺《へいりんじ》というお寺に行った。そこには放生池というのがあり、お酒(のかわりにワイン)を飲ませて、亀を放してあげた。それはとても小さな池で真中に弁天様があるというだけ。夫は池の端の泥に置いて、亀を放してあげたのだが、亀は首をこちらに向けてじっと動こうとしない。私達がいるから気になるのだろうと思って、離れたのだが、やはり、首をこちらに向けてやさしい眼でじっと見ている。
困ってしまい、夫が手で、静かに水の上に浮べると、やっと泳いでくれた。災いを背負って向う岸に向ってくれた。
ホッとして帰ろうとすると、お寺の出入口にお年寄りが二人いた。亀を放して来たことを話すと、よくそういう人がいるんだ、と言う。
「でもね、亀さん、あそこには放しても住みつかなくてね。よく死んで浮いてますよ」
いやなことを聞いてしまった。あの亀も浮いてしまうのだろうかと思うと、内心、暗い気持になるのを防げなかった。
行きも帰りも、夫がいつも散歩する辺りを通った。途中に道祖神がある。そこでしばらく休んで、夫が説明してくれるのに耳を傾けた。五月のやわらかな緑の上に雨上がりで、とても気持がよかった。近くには桐の花が咲いていた。
夫がいつも散歩するコースには、どこかに大きな桐の木があって、もっといっぱい花をつけているという。
「そこに行ってみないか」
夫に誘われたのだが、子供を置いてきているし、少しは桐の花を見られたから、またでいいわと断わってしまった。
今から思えば、夫に“また”はなかったのだ。何をするにも、何を見ても、これが最後かもしれないという気持を持っていたにちがいない。どうしてあの時私は断わってしまったのだろう。
事実がない限り書けない
最後の日曜日、夫は吉行淳之介さんのお宅にうかがって、楽しく過したらしい。帰って来てからも軽い昂奮《こうふん》状態にあった。どんな話をしたのか詳しく訊かなかったが、夜遅くまで書斎にこもって考えごとをしていた。これから先、どんな仕事をしていくべきか、思いめぐらせていたのかもしれない。
「小説」という言葉が頭にあったのかもしれない。
元気だったある日、私は何気なく訊いたことがある。
「いつか小説を書くようになるの」
無知な私は、物書きはいつか小説を書くものらしい、と思い込んでいたのだ。夫は少し困ったように、しかし真面目な顔をして、俺は小説が書けそうもない人間だ、と答えた。
「俺は、眼の前に事実がないかぎり、書けないんだ」
そういえば、と私にも思い当ることがあった。夫は、絵が巧みだった。中・高校時代に、何度も兵庫県下の賞をもらっている。天皇訪欧の取材の際も、パリの下街を上手にデッサンして帰って来た。だから、子供たちが私のところに絵を描いてくれとせがみにくると、みんな夫に押しつけようとする。ところが、夫は紙とクレヨンを手に考え込んでしまい、どうしても描けない、と言う。仕方がないので、私が、汽車とかリンゴとかお嫁さんとか言われるままに、下手な絵を描いていると、
「お前はよくそんな絵が描けるな」
と驚く。夫は眼の前の風景や静物は実に見事に描くのだけれど、子供達の頭の中にある気まぐれなイメージはうまく描けないようだった。長女が全く同じなのだ。先生が驚くような静物画を描いたかと思うと、空想の世界に遊ぶポスターなどはまるで駄目だったりする。
そんな夫が、退院してきてから熱心に見ていたテレビ番組がある。食事中はテレビを点《つ》けない習慣なのだが、それを破ってまで見ていた。その時は何とも思わなかったが、次の週も熱心に見ていたので、もしかしたらと思うようになった。テレビの内容が「小説作法」といったような番組だったからだ。
これからは躰を苛《いじ》めてする取材ができなくなる。少しずつ書くものを変えていかなくてはならない。さて、どうするか……。
吉行さんのお宅から帰った夜も、そんなことを考えていたのかもしれない。
その日のうちに逝《ゆ》くとは
翌朝、突然、夫に起こされた。トイレで二度も倒れたという。驚いて飛び起きた。聞けば、その夜はついに一睡もできず、眠り薬にとウィスキーを二口飲んだとたん、気持が悪くなり、トイレに駆け込んだ。そこで意識を失ってしまった。しばらくして気がつき、吐こうとしたとたん、再び倒れてしまった。気がついたのは便器の水に手を浸していた、その冷たさからだった。
ほんとうに驚いた。倒れる時にすりむいたのか顔に傷を作ってしまった。打ち所が悪ければと思うと恐ろしかった。O先生に連絡すると、一時的な貧血でしょうということだった。
私も、四日前に診てもらったばかりなので、それほど大事に到るとは思えなかった。肝臓が疲れているのかな、という程度にしか考えていなかった。夫は次第に弱ってきた。起きていられないまでになってしまった。しかも睡眠はとれない。
木曜日、一週間早いが診てみましょうということで、がんセンターに二人で行った。容体を診てとにかく入院させようということになったが、ベッドが空いてない。そこで古川橋病院に仮入院させることになった。
その時にも、病院から車へは自分で歩いたし、その日のうちに逝ってしまう人だとはどうしても思えなかった。でも、さすがに古川橋病院に着いたときはフラフラしていた。
夫の容体を診た先生は、とにかく眠らせることが第一で、食べ物を全く採っていないので点滴でもして、一週間もすれば収まるでしょう、とのことだった。
死ぬのかな……
夫も、眠れさえすればよくなると信じていたようで、注射を打ってもらいたがった。眠らせて下さい、泥のように眠らせて下さいと言った。あとになってその言葉がいつまでも耳に残った。しかし最初の一本は三十分、次は十五分しか保《も》たなかった。
「俺は何時間くらい眠った?」
十分と答えると意外そうな顔をした。ここにも後悔がある。あの時、嘘でもよいから何時間と答えてあげればよかった。そうすれば安心して、もう少し眠れたかもしれない。十分という意外さに、眠ることに焦らせてしまった。
点滴をされると苦しいらしく、もっと早くとか遅くとか注文をつけすぎた。先生も看護婦さんも、それにあきれてあまり来てくれなくなってしまった。
四時頃、トイレに行くと言い出した。便器でするのはいやだ、トイレに行くと無理を言った。意識もなにもはっきりしていた。
そのうちに、私は家のことが心配になり始めた。今日明日という重病人でもないという判断もあって、長い看護婦の経験がある兄嫁が来てくれたので、ひとまず家に戻ることにした。枕を欲しがっているので取ってくるというつもりもあった。
子供を母に預け、昼から食事もしないのを思い出し軽い食事をし、母と少しおしゃべりをして、古川橋病院に着いた……その直前に夫は息を引きとっていた。
シャーベットが食べたいというので買ってくると、おいしいおいしいと言って食べたらしい。私がいないので、何処《どこ》に行ったとさかんに気にし、
「死ぬのかな」
と心細気に呟いた。
苦しさのあまり、起き上がり、背中をさすってくれと頼んだ。その時来ていた私の弟に背を向けて、壁の方を向いた途端、コトンと息が切れ、弟の方に倒れかかった。慌《あわ》てて先生が心臓のマッサージをしたが、すでに瞳孔《どうこう》は開いてしまった。私が病室に入ったのは、そのときだった。
今となっては
夫の死顔は穏やかだった。
苦しみの表情もなく、ふつうに寝ているようだった。顔に手を触れると暖かい。どうしても信じられなかった。しかしともかく死んじゃったんだわ、死んじゃったんだわと自分を納得させようとした。
部屋に夫と私だけが残された。なにか叫べば聞こえるのではないか、眼を醒《さ》ましてくれるのではないか。私は夫の耳元で叫んだ。どうして、こんなに早く死んじゃったの。あなた。あなた!
しかし、夜中だから隣の人の迷惑になる、あまり取り乱してもとへんに冷静になってしまった。そうすると、今度は恐《こわ》くなってきた。だんだん冷たくなってくる。冷たくなってからはさわるのが怖ろしかった。
無我夢中で、義姉にもらったお経を二回も繰り返し唱えた。そのうちに少し落ち着いてきた。
夫の直接の死因は心タンポナーデ。それまで一度も聞いたことのない病名だった。心膜に転移したところから出血し心臓を圧迫したために、心臓の動きに異常をきたすことになった。そういうことだったらしい。タンポナーデが“詰る状態”のことを指す言葉だということは、あとで週刊誌で知ったほどだ。
後に、心タンポナーデは、応急措置を敏速にすれば、助かったかもしれないという話をきくが、今となってはこれでよかったと思っている。一時の急場をしのいでも転移が始まった以上、これからまた何年も悲惨な闘いをしなくてはならなかったろう。夫のことだから、きっと自分の状態を突きとめようとするだろう。あるいは突きとめてしまうかもしれない。その時のように心身ともにズタズタになることもなく、数日間のアッというような戦闘で逝くことができたのは、むしろ幸せだったかもしれない。
夫の死後、かつてがんセンターの、いわゆる戦友の奥様から親切な電話をいただいた。その中で印象的だったのは、その戦友の方が奥様にいつも口ぐせのように言っているという言葉だった。
「俺も児玉さんのように死にたい……」
夫の遺したものを
いったいそれがどんな折だったか忘れてしまったのだが、
「俺が死んだら、棺の中には自分の本を入れてもらえば充分だ」と夫は言っていた。もちろんガンになる前である。
言葉通り、『市のある町の旅』(サンケイ出版)『人間を生きている』(いんなあとりっぷ社)『君は天皇を見たか』『一銭五厘たちの横丁』と何冊かの『文藝春秋』を棺の中に入れた。死の旅に出て黄泉《よみ》の世界でも暮せるように、夏と冬の一番好きだった服を一揃《そろ》いずつ、花札とウィスキー、煙草も入れた。
煙草は退院してからも吸いたかったのだろうが、一生断ったと我慢してくれた。「ガン病棟の九十九日」を書いている時も、勝手がちがうらしく、手持ちぶさたで、あれほど甘い物の嫌いだった人が、子供たちのお菓子を机の上に持ち込んだりして苦労していた。煙草は本当に好きだった。
これもまるで元気な時、もしも自分が死んだらどうすると訊かれたことがある。まだ若いから再婚するわと冗談まじりに答えると、そういう冗談をいやがっておこったものだった。
「死んだあとは、まあ、どうしようといいが墓だけは守ってくれよな」
「也一という後継ぎもいることだしいいじゃない」
しかし、何気ない、元気なときのそんなやりとりが、不意に思い出されていま胸を刺す。
発病当時は、もし逝かれてしまったら、この家と土地を残してくれたのだし、本人も蔵書を売るだけでしばらく暮せると言っていたし、よほど苦しければ何もかも売り払っても……とタカをくくっていたが、いざ実際に残されてみると、そんなことが精神的に許容できることではないことに気がついた。夫の遺したものを、少くとも今の私には散逸させることはできない。
それにつけても、退院してから二カ月もしないうちに亡くなるとは、私も、夫も夢にも思わなかった。何かを言い遺すという暇もなかった。
あと五年生きればと念じたが
あと五年、もう五年、と二人して密《ひそ》かに念じていた。これは願望にすぎなかったが、いつしか不可能ではないと思えるようになっていた。あと五年は生きてくれそうな気がしていた。五年間再発しなければ、治ったと見なされる。五年間生き切れば……。そして五年過ぎれば、末子の一人息子である也一が八歳になる。也一が八歳になるまで俺は生きてもいいはずだという思いが、夫の心の底にはあったようだ。ふつう八歳という年齢に何の意味もない。しかし、夫には“八歳までは”と思う充分な理由があった。夫もまた八歳で父親を亡くしていたのだ。自分が幼くして父を亡くしたために、どれほど苦労しなければならなかったか、自分が死ねば也一にも同じ苦労をかけてしまう。あるいは也一も自分と同じ道を歩まねばならない宿命なのかもしれない。しかし、自分と也一に奇妙な運命の符合があるとすれば、あと五年は生きられるはずであった。也一は今年やっと三歳になるのだから。なんの合理性もない理由だったが、夫も私もそう思っていた。いや、思おうとしていたのかもしれない。
しかし、也一が三歳の誕生日を迎える前に、夫は逝ってしまった。
十一歳と八歳になる上の娘たちは、あと十年もすれば一人前になるだろう。しかし、也一が一人立ちするまでには二十年はかかるだろう。十年という年月にはどうにか立ち向えそうだが、二十年という長さに私は耐えられるだろうか。
弔問に来て下さる誰かれに、遺影を指さしながら、
「あれ、おとうさん、しんじゃったんだって」
と言っている也一を見るたびに、その二十年の長さを思って絶望的になることもないではない。
家の柱がいなくなっても、生活自体はさほど変わらないものだということに気がついた。夕方になれば帰宅し、日曜になれば子供と遊ぶという父親ではなかったから、子供たちもさほど寂しくないのかもしれない。
しかし外見的な生活では変化がないようでも、子供たちの心の中では変わったものもあるようだ。
長女の裕子は“父”という言葉のアレルギーになってしまった。父という言葉やそれに関《かか》わりそうなことから無意識に逃げようとする。だから父兄参観日に、わざわざ「お父さんが来てもいいんですか」と質問したクラスメートが、どうしても許せないらしい。「わざと意地悪してる」と言ってきかないのだ。
也一は電話ごっこで必ず「也一クンのおとうさん死んじゃったんだって」と言うようになった。
思い出だけでなく、その日その日の出来事の中に、思いもかけぬ角度から胸を刺されることがある。昨日、紫陽花《あじさい》が咲いたかと思うと今日は主のない座卓が届くといった具合なのだ。
紫陽花は、庭に植えたもののなかなか花が咲かなかった。夫は、どんな色の花が咲くか毎年愉しみにしていたが、紫陽花の季節の前に亡くなってしまった。死のその直後に、初めて庭の紫陽花は紫色の花を咲かせた。
長い間、書斎に置く座卓を欲しがっていた。何か賞をもらったらなどといっていたが、退院に際して気分を新たにしたかったのだろう、注文した。知人のお父様に隠居仕事の気まぐれに、気が向いたものだけ作るという方がいて、欅《けやき》の座卓を頼んでいた。それもまた、夫は見ることができなかった。
夫の死に対して、まったく悔いがないわけではない。丸山ワクチンも使ってみたかった。枇杷《びわ》の葉のこともあったので、なかなか先生に切り出せなかった。丸山ワクチンは肺ガンによいなどときいていたので、どうしても夫に使ってほしかった。それに、生のコンフリーの葉も飲ませたかった。一所懸命それを育てたが、到頭間に合わなかった。
悔いといえば、フリーのライターとなった三年間に、どうして全力疾走をするように仕事をしてしまったのだろうということがある。私たち妻子がいたからかもしれない。ぶらりと外国に飛び出す年少の人たちを見て、俺も一人だったらとよく言っていたそうだ。私たちがいるから、好まぬ仕事もしなくてはならなかったかもしれない。
しかし、「家庭があったからこそ、いい仕事ができた」という同業のライターの方の言葉を、今は信じよう。
あのように走って、登りつめるより、あの人の生き方はなかったのだ。
先日、次女の晴子が学校の遠足で平林寺に行った。平林寺は夫と二人で亀を放した放生池がある所だ。亀は住みつかず、死んだ亀がよく浮いているときいて、不吉な感じを持った。晴子が遠足から帰って話してくれたところによれば、池には亀がいたという。
それをきいて明るい気分になった。私たちが放した亀ではないだろうが、嬉しかった。子供たちに石でもぶつけられなかったかと心配すると、そんなことはなかったという。しかも、
「晴子の眼の前で、水の中をクルクル三回まわったよ」
というのだ。私は感動した。そして子供たちに言った。
「きっとその亀さん、お父さんの病気を治せないでごめんなさいって、あやまってたのかもしれないわね」
半分はこじつけだったが、残りの半分は私もそう信じたいような気がしたのだった。
闘病ノート
児玉隆也氏は、入院の昭和四十九年十二月十六日から、死の一週間前の翌年五月十六日まで、断続的に闘病の経緯をノートと手帳に記していた。この「闘病ノート」は、その二冊の記録を日記体にして一つにまとめたものである。本書収録にあたっては、個人名は原則としてイニシアルにした。また、読者に意味不明のものは〔 〕内にその意味をおぎなった。
新潮社出版部
12月16日(月)
晶文社S氏ゲラ〔『一銭五厘たちの横丁』の校正刷り〕とどけ
○看ゴ婦から質問
過去の病状
趣味
自分の性格
親族の死因
宗教はあるか
○病院案内
○昼めし
食パン 4切
バター 一かけら
リンゴ 1個
牛乳 1本
ゆで卵 1コ
○アナウンス
・○○さんのご遺族の方
・外来患者さんにおしらせします。本日16時ニッサンビルに爆弾をしかけたという連絡が築地署よりありました。新橋演舞場方面へは近寄らないで下さい。
○S先生
ぼくのプログラム(→おもしろい、取材と同じ)とS君のとちがう。
ぼくはSpeedyの方だから。
○風呂
京都ぽん斗町に降る雪もォ〜 おっさん
○晩めし
ワカメの味そ汁(半分)
つけもの ちょっぴり
鰹《かつお》の角煮 少し
じゃが芋 3コ キュウリとのサラダ
めし
(買ったもの) ミカン
新聞
洗面器
12月17日(火)晴
〈朝めし〉・ごはん・味そ汁
・オカラ・豆・ニンジンの煮物
・ナラ漬け 二切れ
☆Sさん(Piano)から鉢花
〈昼めし〉 きしめん
芋の煮こみ
リンゴ
☆ハロオー 宮城まり子さん
バラ
シクラメン
フランスで買ったコップ(『湿った空乾いた空』)
☆廊下の対話(患者3人)
この部屋の人、退院したの? )
ウン、退院。 )
近く? 遠く? )遠くへ退院
遠く。 )――死らしい
そう、遠くへ退院したの。 )
これで3人め。
・ヨーグルト
・プリン
・牛乳
・チーズ
・野菜ジュース
新聞、朝・夕
☆就寝前の廊下で
☆ありがたいなあ、我々の団体はどこへ行っても仲間がいるんだから。住所 TEL
(1人は12月20退院
1人は年末年始は帰っていいといわれた
↓
ということは、まだ帰ってはいけないことだからね。
☆よく病棟を知っている
○○は何号棟?
肺は3号。
2号は?
耳・鼻
☆リンパ腺《せん》のはれるのは悪性ですよ。
☆私の場合、肺の下から2―3ダメ。年内に手術して3カ月の生命。
But自覚症状ない。町医者。
血痰《けつたん》も出ない
食欲もある
↓
手術するはずが水がたまっていたのでできず、放射とテンテキでなおして、今はかげが全然ない。よかった。
☆仏教のはなし
☆レントゲン
息を吸ってェー
止めてー
動かずに
ハイ、ラクにして
☆リンパ腺のはれ 看ゴ婦に訊《き》く
リンパ腺というのは……
いわれると、そうかなと思う。
―カンゴ婦は齢のころ ハタチそこそこ
|もし大学へ行っていれば小便くさい小娘だし
|銀行の窓口で札束を勘定していても
|→そんなに悪いことばかり考えるもんじゃないですよ。
―“小娘”のひとことの重荷
||ほかにこれだけの説得力をもった職業があるかどうか。
| 白衣のせいか?
| こちらの心理状態か?
|→お酒は1合
(看ゴ婦)1合といったら……180tですか
☆変なカッコウの四角い空
☆鳩
12月18日(水)
肩痛く、2時間しか眠れず
朝 採血
検痰、検便
(朝めし)
ごはん
汁
煮物(ちくわ、にんじん)
梅干 一コ
牛乳
12月19日(木)
昨夜も痛くて眠れず。夜中、枕をかえてもらう。
しっぷ
空いたベッドに入院 大正4年生れの人
酸素吸入の人 茨城
12月24日(火)
( D、K、K、T。潮・M氏と助手
文春・S、S両氏
K氏の騒音
・痰・せき(ゼーゼーという音は、納豆の糸みたい)
・屁《へ》
・アクビ(大きな声でアーアーアー)
・いびき
・口を洗う時のゴボゴボペッ!
・小便の音
・歯をチュッチュッ吸う音
・お茶でゴボゴボする音
以上が部屋でくり返される。
夜中、うるさくて眠れない。
・これ食べませんか。
・うるさい。
○看ゴ室の角のトースター。朝6時 モチを焼く人
・どんな夜中でも誰かが喫煙所にいる
(廊下でS先生にガンですかと訊くと、はっきりいえば、いまのところその疑いが濃いとの返事。
(意外に他人ごとのように聞けた。
12月25日(水)
○昨夜、深夜、廊下に猫がうずくまって鳴いていた。ガン病棟の淡い電灯にてらされて。
○病院は残飯が多いので集まるそうだ。
築地に市場もあるし
3、4匹いるらしいね。
いや10何匹いるってよ。
1月7日(火)
気かん支造影
1月17日(金)
○301号死亡、枯木のような脚。
1月19日(日)
○石川達三『人物点描』 ガンという字の多いこと!
1月21日(火)
○早暁、廊下で女の悲鳴に似た哭《な》き声一声。
走るハイヒールの音。302号室死亡。
昼すぎには新患
Y、T、Nさん、F夫妻
○昨日のレントゲンの結果、Shadow半分くらいになった。
○明日外科へ移る。おめでとう、と婦長さん。
1月22日(水)
○気管支鏡 ファイバー・スコープ
肺組織摘出
外科206号室へ移る O、K先生
4人部屋(A、S、K) 立木が2本見える
1月23日(木)
朝の7時からTVを見ている浅草のハンコ屋K
その娘と息子、病室でムシャムシャ。ドアパタン。
陰毛剃《そ》る 床屋の親父《おやじ》 キン玉まで 1000円 許せない
1月24日(金)
○BAI療法
太もものちょっと上腹側の動脈を切り、色鉛筆の芯《しん》の太いものほどのパイプを患部に直接通す。
造影剤注入で影像見ながら薬。
DrO これは利くと思いますよ。楽しみにしていていいですよ。(手術中に)天の声
後3sの砂袋をのせて4時間そのまま
1月25日(土)
水あめのようなタンとツバひんぱん
外泊
1月27日(月)
A氏明日〔今日の誤りか〕執刀。本当は明日の予定になっていた。
例の腰のイタイ男は左胸なので、(A氏は右)間違って左胸を開けられないかと心配して婦長に笑われている。
・M、O(TBS)
・O
・F(Y・L〔週刊「ヤングレディ」〕)
1月28日(火)
屋上で深呼吸。市場見ゆ。その向うに海。
カルテ番号184594
HのM 男と家出の報(土曜夜から)
U老人(73歳)シベリアから還って、遅く子供を作って、なんとか今年で大学を出すから、やれやれもういいや。
1月29日(水)
UVSS・あと10年はいかしてくれないとアワないよな。今迄《まで》一生懸命働いてさ。
(オレはあんた方の齢まででもいいさ、という気になる)
○O先生の奥さん、信仰の誘いを長々と。
○明日から坐薬再度使用とのこと。
1月30日(木)
外出 四丁目あたりまで。
柳の芽、沈丁花《じんちようげ》のつぼみふくらんでいる。
数十日ぶりのcoffee美味《うま》い。
横断歩道の信号にone tempo遅れる。
○A氏
1月31日(金)
レントゲン ずいぶんよくなっている由
レントゲン室の壁 白い水蓮の写真
肺機能室の壁 たわむれる小猫
○郷里へTELしているおばはん
検査のきびしいことから、一日の食事の内容まで。(おかずを全部読み上げている)10円玉を入れないものだから、切れるたびに……
2月1日(土)
外泊
2月3日(月)
放射線治療始まる。
節分、夕食に豆。
児玉・H家、計9(苦)をかむ〔節分の豆のこと〕
ソビエト帰りの老人
・食事終ると入歯カポッ。ねずみ泣き。茶で口をゆすぐ(大きな音)。大きなgas。
○婦長から入院の件、心配してくれる。
話している間にガンの確信。ちょっとがっくり。
2月4日(火)
立春/終日雨
諸君!・Kさん(大宅賞に司〔「司王国――飢餓時代のメルヘン」〕をノミネートしているとのこと)
2月5日(水)
205号室に奇人が入った由。
この病院に4度めの入院。病院ずれしていて、朝は3時になると窓をあけて、夜は5時になると寝る。同室の人、せんせんきょうきょう。ついに逃げだした。
2月6日(木)
・新潮社・Nさん
・K、O
・K、Mの友人(T?)
※夢精 天井まで2条のザーメン勢いよく虹《にじ》のように。吉原のトルコ
2月7日(金)
Uさんの主治医N先生
きのう息子さんが見えて容態を聞きに来たとき、挨拶もせずに腕組したまま。
叱りました、将来いい医者になろうとしているのだろうから。医者はそれでなくても人にとかく頭を下げられる職業なのでゴーマンになりやすい。いまからあれでは……。医学よりもまず礼儀を覚えてほしいと叱りました。
風呂上りにS氏「とまれ」(ともあれ)を聞いている間に風邪
↑
2月8日(土) |
|38の熱 しんどい
2月9日(日) |
Uさん ↓
兄さん53歳で死、女4、男6人の子を残して。
その10人の子を親代りになって育てた。
兄、父、姉みんな53歳で肝硬変。
53を通りこした時やれやれと思った。
2月10日(月)
Sさん手術
手術前夜(9日夜)、3度大きなウナされ声、一度は絶叫。前夜は睡眠薬をもらって眠るが。
○天皇や岸信介や○○や○○がガンにならずにあの齢まで生きているのが不思議でならない。
2月11日(火)
スピッツのじいさん(気管支)
「あんた入院してからどんどん悪くなるねえ、ウン」とやったそうだ。
(トイレのすっぱい匂い。
(昔のアメ屋のビンのようなガラス器に小便。ホルモン尿。
(入口 車椅子・手術室行きベッド
2月12日(水)
○新聞の死亡欄 死因を見るクセがついた。
今日は5人中2人ガン 打率4割
○患者じいさん
退院の日、老妻が迎えに来ているのに、いやだいやだでふとんにもぐりこんだ。ひがんじゃっている。ここに居ればいっさいタダ。家から通うと電車賃がいる。
大宅賞候補にノミネート通知(最終八編)
2月13日(木)
PSK使用開始
つまりは、もはや間違いなくガン。
――――――――――
|血統書つきのガン |
|おすみつきのガン |
|――――――――――|
2月14日(金)
○放射線の廊下
ロッカー10万台のカルテ(写真?)ずらり。
○○〜108000 吉川英治45番
池田勇人4500番
スピーカー クラシックいつも
(・放射線ピカソ(声がかすれている)
(・秒読みのマドンナ
(・てんてきピカソ
(・脈取りお伝
(・検温ベアトリ(ベアトリーチェ)
・床屋のおやじ ジョージハヤカワ
2月15日(土)
212号のほていさん死ぬ。5年間出たり入ったりで、全身11ヶ所切った。
泊りこんでいた奥さん、婦長の胸に顔を埋めて泣いている。
2月16日(日)
NHK園芸の時間
バラ“根頭ガン病種”これはガンです。こういうのは捨てましょう。(苗をポイ)
デパート、歩行者天国……こんなに沢山の人がみんな健康で、自分一人が病人とは信じられない。
2月17日(月)
○朝、洗面のあと
二人の老人、歯をチュッチュッやりながら、お茶を一口ごとにハアー、ハアーといって飲む。他愛のない話しをひとしきり。
2月19日(水)
・T、T カンパ365000円も届けてくれる
・K君夫妻
・Sさん内科へ移る。
○夜、救急車で急患
関西から新幹線で運ばれて、東京駅へ着いたらキトク。
2月20日(木)
M氏
2月21日(金)
2度目のBAI 9分30秒
○下の中庭で長々と寝そべっている猫、眠っている猫。
眠りから覚め、うーんと背伸びをして、さてどこへいくかなという表情。
体内のガン細胞よ、眠ったままでいてくれ。
猫のように目覚めるな。
○すずかけ 6本
八重桜 2本
沈丁花
2月22日(土)
いんなあとりっぷ O、Y、T
光労組 F、K、K
F
2月23日(日)
ノーベル Y氏
2月24日(月)
・文春 O氏
・新潮 S氏
「一銭五厘たちの横丁」up
○サルノコシカケについての問い合せ
どの地方の何の木にできていたか
○新しい入院患者(消灯時 ロビー タバコ)
20年早かった。この病気にかかるのが20年早かった。60歳20年后《ご》なら、ごく普通の病気になっているだろう。
ドイツ 切開して直接バーナーみたいなので放射線
放射線の先生「30回といったけど、25回でよさそうだよ。がんばれよ」
2月25日(火)
痔《じ》、ひどく苦しむ。
Y先生「ぼくも2年ほど前までひどくてね。手術中にでると(立ったままだから)ほんとにつらかった」
夜、初の南風にのって霧笛。
2月26日(水)
沈丁花のつぼみ、咲く。
・諸君 Kさん
・Oさん――アネモネの花
・司 Hさん
・TBS T
○五本の指に蛇が棲《す》んでいる。
○リニアック 40秒(1回のピー)
○老人 屁をしたあと、さも気持よさそうにあーという人種。
○食費 3食で520円(値上げになって)
○9時 晴海埠頭《ふとう》、霧笛。
2月27日(木)
イ病レポート〔「イタイイタイ病は幻の公害病か」〕国会でとりあげられる
ついてない人Uさん
〓気管支鏡 マスイをかけたら中止
〓手術 直前で中止
〓放射線 枠《わく》をきめたらしばらく見合せ
小野歯科→K
Y
U、T
Mさんの代理
2月28日(金)
F、Y(酵素)
治療=「人をみて法を説け」で、いちがいに手術がいいとはいえない。100人いれば100人の法。
夜の食事が終ったあとO先生来室。
今日のレントゲンではほとんど消えた由。来週の放射線終ると内視鏡リンパ手術→退院検査で3月3週目標とのうれしい通知。
|
3月1日(土) ↓
But 早暁ひどい咯血《かつけつ》
記録室の患者の名札のA、B、C、D
‖
動けるか動けないかの度合
○庭をへだてた向いの病棟
ベッドの上で合掌 経を読む 40がらみの女性
となりの窓の男の人 おどり場で分業・体操
3月2日(日)
入院患者
風呂屋の主人は病院でも、パジャマの袖と裾をまくっている。湯船の掃除をするみたいに。
3月3日(月)
○放射線の廊下
子供(患者)を抱いてワルツを踊る若い母親。
sexyなものを感じる。久しぶり。
○U氏、突如退院通知。
3月4日(火)
深更、例の救急車で入院して手術した人、死ぬ。
O、K先生、深夜にかけつけて、病室にとびこむ。
3月5日(水)
翌朝、いつもと全く同じ表情でオハヨウ! と回診。
○U氏すっきりせぬ退院
3月7日(金)
内視鏡2度め
・K
・Sさん(文春)
・O、M(TBS)
霧笛 夜9時
三好達治
春の終りのかもめどり……の詩を想い出す。
3月8日(土)
3月9日(日))外泊
Sさん、紅茶キノコの話し。
3月10日(月)
○朝7時 暖房の入る音 カン、コチ、カチ 水の流れる音 向いの病棟(ユトリロの白)
ひげを剃る人 経を読む人 分業をする人
○脳手術の姐御《あねご》
手術後歌いづめ。“薫ちゃんゴメンネ”だけ覚えている。軍艦マーチその他歌いっ放し。
家族がつめた。
Sさん車椅子
郷里へ電話。孫の声。夫妻涙。ロビーの健康な人笑う。
放射線25回終り マジックの枠消す
3月11日(火)
リンパ節手術
3月13日(木)
大宅賞out PM7・30 文春S氏から遠慮がちにTEL ただし、臼井吉見氏が「一銭五厘」を激賞とのこと。
outの連絡のあと
公衆電話で死者の家族「ごはんを炊いて、仏さまに、お箸《はし》を逆さに立てなさい」(子供に)ロビーで泣いている。
生きていることが、とりもなおさず賞だ。
妻、沈丁花の小枝持ち来る。
高知の朝市で買った一輪差し 唐三彩の女人立像 大和文華館
3月14日(金)
世事、無関心(みのべ・石原)
えーいチクショオー! という声。何かしらないが、チクショオーといいたくなる。
3月16日(日)
外泊
・犬小屋の手入れ
・庭の草のかたまりを見ていると、ガンのように思えてきて、ムキになって抜いた。手術の糸もまだとれないのに。
3月18日(火)
患者 板前さんは板前さん(腕時計を右に)
尼さんの上品な顔 頭髪をどうするのだろう
O君、週刊朝日のO氏
O先生から「来週の好きな日を選んで下さい」!
退院通知
夜 NHK Beethoven symphony #7
カール・ベーム80歳
3月19日(水)
I、S(新潮)
3月20日(木)
〈アナウンス〉
○おはようございます。ただいまより、テンテキ注射を行いますので、テンテキのある方は、お手洗をすませて、ベッドの上でお待ち下さい。
○午后7時 面会客お帰り下さい。
3月21日(金)
彼岸 墓参、来年も拝む方でいられるか――。
深夜 貨物列車の警笛
海鳴りのように聞えてくる高速道路のトラックの音
3月22日(土)
○朝8時 病院玄関の陽だまりから
(病院への橋の橋ゲタに運河の水のかげがゆらゆら
(労働者諸君の足早
(畜産会社のトラックが残飯を集めに来る
入院中、手帳に描いた向いの病棟
3月23日(日)
○弱者の感情は理くつではない
3月26日(水)
―――|退院|――― グリルで4人でお別れ食事 スパゲティサラダ
A、児玉、S、A
みんな何故《なぜ》か黙って食べた。
3月29日(土)
○朝歯をみがく時に血(舌のつけね)
○唇の色
○顔の肌の荒れ
○舌
○脇の下・上腕の痛み ○肩(後)
潮・S、M氏
3月30日(日)
M、O氏来宅。
3月31日(月)
がんセンター懐し。縁を切りたいところだのに、反面ホッとして居場所のいい所。――部落、非合法時代の共産党、少数時代の創価学会。
○平林寺まで歩く こぶしの大樹
K、Y来宅
4月1日(火)
文春T編集長、M、O氏
4月3日(木)
退院後最初の診察
記録室その他テレ臭い。
《白髪がある》
○Sさん退院
Sさんが泣いた。和服、雪駄、ハンカチ。
最後のオッホン(会長のせき)をして別れた。
おばあさんはパーマをあて、若づくりにしていた。Sさんは「若く見える、若く見える」といっていた。
○Sさん面会謝絶
あと50日と宣言された由。奥さんが屋上で話したという。もう子供になってしまって、チュウシャチュウシャといい続ける。てんてきの時はベッドの柵に手をしばりつける。そうしないと鼻のチューブも何も全部抜いてしまう。
○ドロップの缶の音 暗闇から
○一日に3度着替える奥さん
(KEIOの医者)
4月11日(金)
退院後二度めの外出
昨夜は、なぜか眠れなかった。
今日、「諸君!」に6枚の原稿をとどけ、文春O氏、新潮N、S氏に仕事で会うことを考えてのことらしい。
多分昂奮《こうふん》しているのだろう。昂奮は@仕事でなつかしい人々に会う A久しぶりに外出着(スーツ)を着て町を歩く ことの嬉しさによるものと思われる。
文春でうなぎ丼《どんぶり》をご馳走になった。退院后最初の銀シャリということになる。T編集長が小松左京氏と話していたが、わざわざ立って来られて、Report〔「ガン病棟の九十九日」〕を楽しみにしている由。
K常務に御礼の挨拶
Wさんはあの齢で、3年前に肺がんで肋骨《ろつこつ》までとっていまは元気との由。部数会議で文春6月号の企画内容を編集長から聞いた中に、児玉の「がんセンターの99日」があった。あまりムリをしなさんな。しばらくは(経済的に)大丈夫でしょう? とのこと。はい、おかげさまでと笑っておいた。
Nさん(新潮)
自分がタバコをやめてみると、人の吸う量の多さがわかる。
堀田善衞「ゴヤ」
ジャン〓ルイ・バロー「明日への贈物」
鈴木孝夫「閉された言語・日本語の世界」頂く。
あとから思い出してではなく、「現在」をメモしておくこと。児玉さんが自分でガンだと言っているからこんなことをいえるのだが、そういう機会はめったにない。素人の日記ではつまらないのであって、プロなんだから、プロの手で書かれたガンがない、綴ってほしい。
「プロの手によるガンレポート」
○西武で靴を買おうと思ったがやめた。女房といっしょに買おうという気になって。新しい靴で歩きたい。
終日、春の嵐。赤い砂塵《さじん》。空を焦す。桜、哀れ。
夕方、清セの駅をおりて咳《せき》少々。
NHK『あすへの記録』
リニアク 高FX線照射装置
○肺がん細胞 ダンスをしている。
なめくじになったり、魚のエイになったり。
第四の治療 免疫療法
リンパ球を飲みこんでしまったがん細胞
3週間後、細胞のカベを突き破って破裂する
BCG
(みんないろんな研究をしてくれている人たちだなあ、という思い。
◎(研究をしているではない。
( してくれていると感じるのだ。
4月12日(土)
文藝春秋に書くので、正子にあらためて聞いた。内容は別紙メモの通りだが、12月11日にすでにガンと知っていたとは思いがけなかった。ずいぶん泣いたという。つらかったことだろう。
市営住宅近くの農家の畑を家中で見に行った。一面の黄。水仙畑。黄の向うに赤紫色はつつじ。赤はボケ。遠くに柳の新緑。桜の桜色。欅《けやき》の淡い褐色。
玄米ごはんのおにぎりと味噌汁。干物をもって、草の上で食事をした。一人でサッカーの練習をしている青年がいる。いっしょに蹴《け》らせて下さい、といえなくなった。
晴子
〓入院中、也一にずいぶん当ったらしい。SさんのH子チャンとも全く遊ばず、家にとじこもったままだったらしい。退院と同時に明るくなり、H子ちゃんとも遊ぶようになった。
〓夕食の前、仏壇のお参りに行ったままなかなか帰って来ない。そっと見ると、仏壇の前で正座をしてマンガ本に読みふけっていた。
4月20日(日)
文春6月号 106枚を仕上げた。退院後、最初の大きな仕事。
「ガン病棟の九十九日」
T編集長が「文学」と評してくださった。
おそるおそるペンを握ったが、肩痛等の顕著な自覚症状はいまの所なし。疲労感はあるが、健康時の疲労感との質的な差は認め難い。午睡をしようとしても、文章が頭に浮んだりして眠れない。おそらく久しぶりの原稿執筆の昂《たかぶ》りのせいだろう。
○メモに忘れたこと
病院の食事
(節分――豆
(X'mas――ケーキのかけら
心やさしさ (お節句――紅白のモチ菓子
(祝日――小さな鯛《たい》
成人の日――お赤はん
夜、O先生から電話
奥さんの言うこと聞きやぁ
患者たち
○Sさん亡くなった。
霊安室にも入れず、すぐに郷里へ持って帰った。90何歳かの老父に見せる。
○KEIOの若い先生
17日朝死。脳へ転移。奥さんの衣裳《いしよう》、姑《しゆうとめ》が作ってもってくる。「息子はもう長くないのだから、あなたはせめて美しい妻の想い出を抱かせて死なせてやってほしい。人がどういおうと、あなたはいつも美しくしていてくれ」
○2F婦長 人工腎臓の人
長い闘病、水は1日コップ1杯
ガンは短い
「もう闘病に疲れた。自分で死を選ぶ。ぼくは食べたいものを食べる」。何を食べたか。
マキシムのステーキでもない。ラーメンを食べて死んだ。
一生機械といっしょに生きている。
○製麺業《せいめんぎよう》のAさん
82歳。戦争ばかししている間に気がついたら80を越えていた。80をすぎて、先生いまさら切ったり貼《は》ったりはよしましょうや。
病室で毎朝coffee。陽だまりに椅子。「日蓮」(孫の)悠々。前掛。背すじ伸びている。
○Kさん(食道)
Aさんとのからかい友達。バリ雑言の言い合い。
○家に帰るのがいやだとダダをこねた老人
背広に雪駄でアイサツに来た。家には老妻。迎えに来ているのにベッドにもぐりこんでイヤダ。ここならタダ。退院でもタダだよ。いや、電車賃がかかる。
Dr「ここは旅館じゃないんだから!」
ロビーで婦系図《おんなけいず》、ほととぎすを一席やっていた。
○スピッツのじいさん
自分で手術后の右脇の開いた寝巻。針をもって。見かねて看ゴ婦。独り暮し 78歳(?)手術后3日めに洗濯。看ゴ婦驚く。あの生命力。日露戦争に従軍した。秋山司令官といっしょ。――時代が合わない。
年金は全部部下にくれてやってる。自分は外国からの年金で食えるから。
○雪駄のボス
妻元婦長。夜6時から寝て朝3時。TV 4度入院。「また出戻ったよ」貫禄。背中両方。
○ベトナム海軍々人の妻とお母さん。
→配膳室のガスコンロ
○4F特別室 面会謝絶の札の数。
大仏次郎はどの部屋か。
○風呂場で見た片足だけの人
足の無い方の脇腹は芝生をはがしたようになっている。
妻が介添して入浴 だからいつも終り風呂の時刻
○Hパピイの話し
もう一つ穴あけてくれ。第二の人生をやる
○ロビーの電話
仏さまのごはん
お骨にして帰る
喪服
○江戸川の風呂屋の主人
パジャマの裾と袖めくって、いつも濡れたタイルの上を歩いているようなかっこう。
○板前
時計右手
○29歳の男の新患
死ぬー、おれは死ぬ、と大声でわめく。
○確率の話し
選民
○吸入の部屋と新患
吸入しながら聞く 新患と看ゴ婦の対話
○206号室前の廊下の花
浅野内匠頭《たくみのかみ》の辞世の歌
風さそう花よりもなお我はまた
春の名残りをいかにとやせん
ストレッチャーの上からじっと眺めて手術室入り。
4月21日(月)
病気の所を養っている動脈(栄養血管)そこに病気ができると血流が増える それを利用して栄養動脈から薬剤を注入すると患部の目的とする所に集中的に薬が分布する。
肺の場合気管し動脈
内径1ミリ
4月22日(火)
文春ゲラ手入れ
4月24日(木)
・買物
靴3足、ネクタイ2本 新宿住友ビル
4月26日(土)
O先生来宅
4月27日(日)
O・K・F各家族と駒沢公園。
O先生同伴
4月28日(月)
昨夜から文春VS週刊朝日で板ばさみ
I氏とO氏話合いで一応落着
ヤングUP
4月30日(水)
週刊朝日取材受け(アラスカ)
週刊朝日連載しろとのこと受ける
K君の父君と座卓の件
サイゴン陥落
逃げ出す政治・副大統領キ
キ夫人=十仁病院 整型
金ののべ棒と将軍 ↑
日本春の叙勲 |いつも逃げ出す人種
勲一等旭日大綬章《きよくじつだいじゆしよう》 ↓
政治家3人
東大教授、学長3人
しかるに古賀政男が勲三等瑞宝章《ずいほうしよう》とは何事か
Dのママ
卵巣ガン+骨に転移
コバルト40回 )O先生から手紙
7年間無事、もう転移の心配ない)
昨夜の「微笑」で不自然な点
〓医師の白衣に血がべっとり。手術のときはゴム引きの上っぱりをつけるはず。
〓紀州犬が久しぶり(60日ぶり)に帰宅した患者(高峰秀子)に全然甘えていない。セリフだけ よしよしそんなに嬉しいの……
5月2日(金)
昨日の通院
○KEIOのDr
コーチャン がんばってえー! 絶叫 朝5時 声が響いて耳について眠れない ロビーで患者が数人その声を聞いている(増えるのはいいが)何でも減るのはやなものだ
――――――――――――――――――
○赤いガウンの脳腫《のうしゆ》ようの女
おかしい。点滴全部抜いてしまう
――――――――――――――――――
○Vietnam
1と月 80万〜90万
母親はホテル住まい
母親 どこへTELするのか毎日泣いていた
解放戦線のころ
○小児病棟の母と子
夕方7時、子供を病室へ送っていったあと、母親はロビーで泣いている。
以上Uさんの話し
ジーンズを買った(通院の帰り)
パンタロンとシャツと也一のジーンズ。
ヒールの高いくつまではふみ切れない。
パンタロンのジーンズとシャツを着るような神経は入院以后
藤の花 圓通寺
桐の花 団地 )薄紫色
道祖神 宝暦、寛政、嘉永
5月4日(日)
NHK若い広場ビデオ撮り 五木氏
M14 104スタ
D、T(国民政治)
新宿 あかべこ
5月5日(月)
紫三題
○団地の桐の木に気がついたこと
木の幹が古木の風格(→82歳のAさん)をしている。ムロがあり、樹皮がめくれている。団地作りのために移植をする木としては珍しい。きっとここが雑木林か何かの時からあったものではないか。それを桐だと気がついて残した人はえらい。
熊ン蜂《ばち》が桐の花に遊んでいた。藤の花といいこの蜂は紫が好きらしい。
○圓通寺道の藤棚
廃屋の藤棚が満開だ。廃屋の軒の古い電球が藤の滝の中。
昔の交番や医者 藤の滝つぼ
○農家の垣根に紫のてっせん
てっせんの紫は夕闇の中で奇妙な光り方(浮び方)をする。
いつの間にかしのびよった人
水から上った女人 )のようなぞっとする風情《ふぜい》
週刊朝日のタイトル
がんの散歩
カルテ番号一八九四〇〇
がんも道ずれ
がんは道ずれ世は
がんも友ずれ
人間の体は約60兆個の細胞でできている。
○私は絶対に正面玄関から出ていくんだ
――赤いガウンの女性
乳ガン→脳腫よう→乳→脊髄《せきずい》
5月6日(火)
週刊朝日「ガン病棟の戦友たち」に驚く。全部一人称。約束がちがう。
5月7日(水)
新潮社ゲラ朱筆届け
講談社 Y・L〔「ヤングレディ」〕現代 W現〔「週刊現代」〕
38歳誕生日 ビールのうまさよ、うまさ
5月8日(木)
W文春 O氏
W朝日
5月9日(金)
左の胸から首すじに痛み。脇の下のリンパ、気になる。
雑誌壮快の対談に腹立しく、とはいえ非常に気になるので、ストライキ中をがんセンターに出かけた。
O先生
転移だ再発だの心配はぼくの方に預けて下さい。
雑誌の記事は文章がいけないのです。
Uさんはもう退院しましたか? と訊いたら、「亡くなりました」にがく然。先週の木曜日はあんなに元気だった。ただし、外来ロビーに座っている顔は青白くヒゲが目立った。一種の心筋コーソクらしい。中旬には退院だと言っていたが。
○桐の花
○机の話し
桐島洋子の手紙
新しい机を…… そのあとで♂とのことを知った 小生、ガンのあと、新しい机
○亀の話し
○11PMとその類の番組の話し
顔を見なくなった
田中角栄の時、鈴木武樹の11PMの発言
5月11日(日)
NHK放送
梶山季之香港《ホンコン》で死去
宮城まり子さんからTEL
吉行淳之介氏の文春読後感
今までのガンを書いたものの中でいちばん秀《すぐ》れている。高見順は病いを出ていない。児玉の方がいい。賞を希《のぞ》まないだろうが賞になる作品。猫と蛇 good。
5月12日(月)
W朝日
TBS
5月14日(水)
散歩
林、草むら、コロ〔児玉家の飼犬〕吠える
亀 縁起万年 逃げた亀返す
酒 超特級 びんの底 whisky glass 一杯分飲ませる 首をつっこんで目を白黒
ほんとは白く 飲んだ飲んだといって 人間が飲んだ
5月15日(木)
病院
朝日
新潮 I、A氏
光文社挨拶
5月16日(金)
○文春T編集長より有吉佐和子氏の激賞をメッセージ。
○亀を平林寺の池に離す。
この作品は昭和五十年九月新潮社より刊行され、
昭和五十五年十二月新潮文庫版が刊行された。
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ガン病棟の九十九日
発行 2002年4月5日
著者 児玉 隆也
発行者 佐藤隆信
発行所 株式会社新潮社
〒162-8711 東京都新宿区矢来町71
e-mail: old-info@shinchosha.co.jp
URL: http://www.webshincho.com
ISBN4-10-861179-9 C0893
(C)Masako Kodama 1975, Coded in Japan