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イット
児玉ヒロキ
CONTENTS
序章 あとにのこったものは
第一章 そして、少年は出会った
第二章 だから、こんなんで
第三章 今からっ
第四章 よし!
第五章 そして、さいは投げられる
第六章 敵と味方と
第七章 あっちもこっちも
第八章 これからっ
第九章 おもい
第十章 しんい
第十一章 せかい
第十二章 一斗
終章 最後に……。
あとがき
奥付
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序章 あとにのこったものは
秋月一斗《あきづきいっと》十四歳。
心身ともに極めて健康。
……なんていったら、はっきりいって大うそになる。
百四十センチに満たない身長は、いくら成長期にあるといっても低すぎる。
体重も三十キロ代後半を、かろうじてキープしていた。
もうすぐ中学三年にもなろうとしているのに、未だに小学生に間違われる。
何かやろうとすると、すぐにネを上げてしまうやわな体。
少しばかりきつい運動が続けば、簡単に亀裂の入ってしまうモロイ骨。
骨ばっかりで構成されているかのように見える体に、かろうじてくっついている筋肉は、もうこれ以上ないっていうくらい軟弱に育っていた。
ついでとばかりに、病弱だったりなんかする。
一斗の肉体に自慢できるような部分なんて、はっきりいって微塵《みじん》もなかった。
どうも母親に原因があって、そうなったらしいのだけれど。
しかし、まぁそんな昔のことなんて、はっきりいって今の一斗にはどうでもよかった。
でも、そんな一斗がどうにかここまで成長できたのは、間違いなく祖母のおかげだ。
名を鈴架舞音《すずかまいね》といった。
一斗の両親は幼い時に行方不明になっていて、はたして生きているのか死んでいるのかすらもわからない。
そんな状態だから、一斗の面倒を見てくれることができたのは祖母しかいなかったのだ。
ふしぎな女性だった。
市街地のど真ん中。
乱立するビルディング。
そのビルとビルの間。
人が一人どうにか通れるような隙間《すきま》を潜《くぐ》り抜けたところに、祖母の住む家があった。
入り口の正面に、小さな古ぼけた鳥居がある家。
神社だった。
とてもご利益なんてありそうもない、小さくて誰からも忘れさられた神社。
祖母はそこに住み、巫女《みこ》をやっていた。
美しい女性だった。
それだけでなく、凛《りん》として気品がある。
六十歳を過ぎてなお、三十代の若さと美貌《びぼう》を保っていた。
一斗はその場所で彼女に育てられた。
だから両親が失踪《しっそう》した後も、一斗はいたってまともな生活を送ることができた。
ただ一つ不思議なのは、一斗が物心ついた頃から教わってきた一つの言語。
英語ではない、フランス語でもましてや日本語でもない不思議な言葉。
その言葉を話すことができるのは、世界中に自分と一斗しかいないと言っていた。
文字も教わった。
一斗と祖母以外には、誰も使うことのない文字。
そんなものになんの意味があるのか、一斗にはまるでわからなかった。
でも、こんな誰からも忘れさられたような場所に住む、誰からもかえりみられることのない二人にはお以合いかもしれない……。
一斗は、そんなことを考えたりもしたのだけれど。
それ以外にも、一斗が祖母から受け継いだものもある。
それはバラバラになっている、ジグソーパズルのピース。
ただしそれは形あるものではなくて、様々な情報の断片のことだ。
一斗はそれを物心ついた頃から、祖母から与えられて玩具の代わりに弄《もてあそ》んでいた。
そんな祖母と孫の二人の暮らしは、唐突に終わりを告げる。
祖母の突然の死によって。
後に残されたのは利用価値ゼロで買い手のつかない土地と、古ぼけた神社。
そして祖母舞音《まいね》が育てた、おもいっきり健康不良児の秋月一斗だけだった。
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第一章 そして、少年は出会った
「そっちはどうだ?」
「ハア、ハア……。こっちにはいなかったぜ!」
表がさわがしい。
「くそっ! いったいどこへ隠れやがった?」
その様子を窺《うかが》いながら、秋月一斗は悩んでいた。
どうすべきか?
あの様子を見るかぎり、お話し合いでことはすみそうにもない。
とりあえずこうなってしまった理由を考えてみることにする。
思い当たるようなことといったら……。
かつあげされたときに、本人のサイフから抜き取っていたお金をさし出したことがバレたのだろうか?
あるいは、いじめられたときに手っ取り早く大金をかせぐことができるよって、ネット詐欺のやり方を教え、そのまま速攻で警察にタレこんだことがバレたのだろうか?
それとも、彼らの仲間が少年Iに暴行を加えているところを克明に隠し撮りした動画を、とある放送局に売りつけたことがばれたのだろうか?
ちなみに隠し撮りしたのも少年Iも一斗だから、やらせと言えなくもない。
でも、あれをやった後一カ月くらいべッドから起き上がれなかったのだから、さすがにこれは痛みわけだろう。
あるいは……。
はっきりいって心当たりが多すぎた。
どれもうまくやったつもりだったのに。
少しでも話を聞く気があれば、一斗にはその場をどうとでも乗りきる自信はあったのだけれど。
あの感じからしたら見つかったとたんに、ギッタギタにされかねない。
となれば、打つ手はひとつ。
“ほとぼりがさめるまで、かくれとくしかないね、これは”
といっても、いつまでもここにいるわけにはいかない。なにしろここは……。
「おい秋月。いつまでいるつもりだ? いい加減帰りたいんだけどな、わたしは」
そう言ったのは、教師生活五年の若松教諭。
ちなみにここは生活指導室で、若松教諭は生活指導の担任だった。
たぶん今のところここは、校内で一番安全な場所だろう。
若松教諭が帰るまでは。
それにしても外の連中はしつこい。こんだけ捜して見つからないんだから、とっととあきらめればいいのに……。
これだから、単純バカな連中は始末におえない。
なんてことを、一斗は考えてる。
手は打ってあるから、そのうちいなくなる予定であったのだが……。
「まぁ先生、そんなにあわてなくったって。どうです? 人生について、ご一緒に語り合いませんか?」
今帰られると、一斗の健康上、あまりうれしくない状況に陥りかねない。
だからとりあえず、そんなことを言ってみる。
「うーむ、どうも熱はないみたいだが……。早く帰ってゆっくり休んだほうがいいと思うぞ、先生は」
一斗の額に手を当てて若松教諭が言った。
なんだか、妙な具合に勘違いされてしまったようだ。
それならば。
「じつは、ぜひ先生に聞いてほしいことがあったんです……」
一斗は何かとても重大なことを告白するみたいに、もじもじしながらそう言った。
決め手は目だ。
ちょっとうるませて、下から見上げるようにして訴える。
「うおっ? ど、ど、ど、ど、どういうつもりだ? 秋月?」
若松教諭は、一気に入り口のドア付近にまでとびのいた。
「い、い、いけないぞ、せ、せ、せんせいはこれでも妻子ある身だ! だ、だ、だんじて、そのような不純な行為などに身をまかせるわけにはいかんのだ!」
ひどく動揺したように――あるいは怯《おび》えたようにそう言うと、
「じゃあ、わたしは帰るぞ! 誰がなんといったって、断固として帰るからな!」
と言いながら、生活指導室から出てってしまう。
なんだ、なんだ?
一瞬あっけにとられて、入り口のドアを一斗が見ていると。
ガラッ。
少しドアが開いた。
若松教諭が、顔だけを少しのぞかせて。
「先生は受け止めてやれんが、おまえならきっといい人が見つかる。……つよく、生きるんだぞ」
そう言い残すと、ドアが閉まった。
一斗は、考える。
なんだったんだ? いまの?
こんなはずじゃなかったのに。
一体何が悪かったのだろう?
この技は、おばさん達に使ったら絶大な威力を発揮したというのに。
「それにしても……」
これからのことだ。
もしものときの保険は、なにかひどい勘違いをしたまま、一斗を置いて帰ってしまった。
「このままここにいたって、ジリ貧だな」
誰に言うでもなく、一斗がつぶやく。
一斗の打った手は、たぶん効果は絶大だけど、でも効力がいつ現れるのかが皆目わからないっていうところに問題があった。
若松教諭が帰ってしまった以上、ここにいたところで自分の身がやばくなるだけだ。
とりあえず外の様子でも見てみようと、ドアに手をかけたそのとき。
ガラッ。
突然ドアが開く。
「ういっ?」
「どわぁっ!」
一斗は、びびった。
人が立っている。
度胸はあるけど、心臓の強くない一斗はへたりこみそうなくらい驚いていた。
でも、相手も驚いている。
体格が良く、一斗の倍くらいはありそうなやつだった。
そいつのことを、一斗はよく知っている。
クラスメイトの高田仁一。
でも、なんだって、よりによってこいつがここにいる?
一斗の口元が、小さくひきつった。
「なんだよ……秋月じゃねぇか? 脅《おど》かすんじゃねぇよ!」
高田が言った。
はっきりと、大きな声で。
最悪である。
一斗は自分の口に指を当てて、だまれって合図を送るけど。
「おっ? なんだぁ? その合図は……。わかったぞ! 俺にだまってほしいんだな? ようし、わかった! そういうことならまかせておけ! 秋月のために俺はしっかりとだまっててやるよ!」
やっぱり大声ではっきりと約束してくれた……。
なんて、ありがたいやつなんだろう。
一斗はおもわずその友情に、涙が流れそうになる。
もちろん、嬉し涙などではないけど。
どたどたどた。
足音が聞こえる。
「いたぞ! こっちだ!」
声までしっかりと聞こえる。
廊下の両側からやってくるみたいだ。
ここは校舎の一階、窓からなら脱出することが可能である。
でもやめとくことにする。
どーせすぐに追いつかれてしまう。
自慢じゃないけど短距離走なら、一斗は小学生が相手でも、とても勝てる気がしなかった。
あるいは奇跡が起こったとして、小学一、二年生にだったらなんとかいい勝負ができるかも……。
と、まぁそういうレベルである。
ダメ元でやってみる……価値すらない。
となれば後残っている手段は、自分の口先だけであった。
覚悟を決めることにする。
天をあおぐ気持ちで天井を見上げた。
するとハエの死体が、天井にへばりついているのが見えた。
なんだか一斗は、暗澹《あんたん》たる気持ちになってしまう。
「おおお、おい秋月! いいい、一体なんだってんだ?」
高田が入り口につっ立ったまま、一人で騒いでいる。
校内の不良連中が血相変えて走ってくるのだから、そうなるのも当然かもしれない。
「これは忠告だけどな、高田。早くそこをどいた方がいいと思うぞ」
なんてオレってお人好しなんだと思いながら、一斗は一応忠告してやるが。
「てめぇ、そこをどきやがれ!」
いきなり数人がかりで突き飛ばされ、高田は廊下の壁に頭をぶつけて気絶してしまった。
どうやら一斗の忠告は、あまり役に立たなかったらしい。
「やぁ、君たち。ぼくにどういった御用かな?」
震える足で立ちながら、堂々と一斗が言った。
それに対する返答は……。
ぼかっ!
右の頬が鳴った。
左ストレートだった。
その一発で、一斗はあっさりと床に沈んだ。
後は五人、いや六人はいたかもしれない。
その少年達に好き勝手に蹴《け》られていた。
とりあえず、体を丸めて急所だけはかばう。
自分の話を聞かなかったのは、やっぱりこいつらにも学習機能が備わっているってことなのだろうか?
などと思いながら。
そのうち目の前に、お花畑が見えてきた。
なんだかほんのりと気持ちよくなってきて、そのまま一斗の意識は遠のいた……。
空には月が輝いている。
まんまるいお月様だった。
犬の遠吠えがどこかから聞こえてきて、哀愁なんかかもしだしていたりする。
「う〜ん」
一斗がうめいていた。
一歩踏み出すたびに、体中が悲鳴をあげている。
それでもひたすらに歩いた。
千里の道も一歩から……。
そんな言葉を思い浮かべながら、自宅へと向かって。
まぁ、学校からせいぜい五百メートルくらいしか離れてないけど……。
「う〜ん」
またうめいた。
さっきから、一歩踏み出すたびにそんな声をあげている。
でも、辺りには誰もいないし、たっぷりとうめくことができる。
一斗としては、好きでうめいているわけではないのだろうが。
「あいつらも、ギッタギタにされてる頃だな……」
つぶやくように、一斗が言った。
そうなるように、一斗が手を打ってある。
連中が上のやつらに納めている上納金。
それをちょろまかしていることをチクッたのだ。証拠付きで。
そのやり方をつぶさに指導したのは一斗だったのだから、しごく簡単なことであった。
自分のことをボロボロにしてくれた連中が、同じようにボロボロにされているだろうという推測は、幾分か一斗の気分を晴れさせてくれた。
でも、痛みはぜんぜんやわらがなかったけど……。
それにしても、一斗がお花畑で死んだはずのお祖母さんとお別れをしてこっちの世界に戻ってきたとき、高田仁一の姿がなかったのは正直ほっとした。
たぶん意識を取り戻した後、一斗のことをほったらかしにして逃げ出したのだろう。
薄情なやつである。
けれど一斗にとっては、はっきりいってありがたかった。
こんな状況で、顔を見なければならないとしたら……。
考えただけでも、うんざりするからだ。
一斗は、
「う〜ん」
「う〜ん」
とうめきながら、なんとか家の前まで辿り着くことができた。
明かりの消えたビルの、薄暗い隙間を通り抜けて我が家に向かう。
お月様は天頂付近にさしかかり、めずらしく家を青白く照らし出していた。
ビルの間にある古ぼけた神社だけど、改めてこうして見るとなんとなく荘厳《そうごん》な感じがするから不思議だ。
しばらく、そうやって見ていたけれど。
「う〜ん」
体が痛んできた。
立っているだけでも、しんどくなってきている。
このままここで倒れるのも、少々間抜けである。
一斗はさっさと家に入って、布団にもぐりこんで寝てしまうことにする。
ちなみに布団は、ばあさんが死んでからこっち、ずっと敷きっぱなしにしてあるので、こういった時には実に便利だった。
うめきながら玄関に向かって一斗が歩いてゆくと、ちょっとした異変に気付く。
家の正面にある鳥居が、月の光を受けてきらきらと輝いて見えたのだ。
古ぼけた鳥居。
ばあちゃんが死んだ後は、まったく手入れなんてしてなくて、汚らしさに磨きがかかっていた鳥居なのに。
前に踏み出したのは、まぁそんなこともあるさ。なんて軽いノリ。
今の一斗にとって、ゆっくり休みたいっていう思いがすべてだった。
だから、くぐり抜けた。
特にためらったりもせず、迷うこともなく無造作に。
そして、世界は変わった。
ガシャ、バキン、キン、ドシュ。
ウワーッ! ヤァーッ!
ドドドドド!
いろんな音が聞こえてくる。
辺り中そこかしこから。
ここは一体どこなんだろう?
鳥居をくぐり抜けただけだったはずなのに……。
ゆっくりとお休みするはずだった家はなくなっているし、林の中だし、昼間だし、おまけにどうやらこのご近所は、戦場になっているみたいだった。
ヒューッ。ザクッ。
一斗の足下に細くて長いものが突き刺さった。
お尻のところに白いはねが取りつけてある。
「どうやら流れ矢ってやつみたいだね。ははっ……」
一斗はとりあえずそう言って笑ってみた。
かなりひきつった笑いだった。
まずは、辺りの様子を見回してみることにする。
今一斗が立っている場所は、周りから少し高い位置にあるらしくて、周囲の景色がよく見える。
正面右手の方では、団体さんが重そうな甲冑《かっちゅう》をガシャガシャ鳴らしながら派手に斬り合いをやっている。
その中には、お馬さんに乗ってる人たちも交じっていた。
大声でなにやらわめきちらしているけど、雑音が多すぎてうまく聞き取れない。
さらにその向こう側から、これも重そうな甲冑に身を包んだ人たちがガシャガシャと早足でやってくるのが見えた。
甲冑の種類は二種類あって、それぞれ灰色と黒。
どうも一斗の見る限り黒の方が余力を持って攻め立てていて、灰色の方が必死で応戦することでどうにか五分に持ちこたえてるといった感じだった。
どうやら黒の方は増援が来てるみたいだし、灰色の方が総崩れになるのも時間の問題のような気がする。
その必死で戦っている灰色の兵達の後方を、四頭立ての馬車が走りぬけてくる。
灰色の甲冑と白銀の甲冑を着込んだ騎士が二人で、馬車を先導していた。
たぶんあの馬車を守るために彼らはみんな戦っているのだろう。
それは普段、あんまり見かけることのなさそうな光景である。
でも、まぁそんなことは一斗にとってはどうでもいいことだった。
問題なのは、その馬車の進行方向に一斗がいるらしいってこと。
このままだと、あの馬車に踏み潰されてしまうかも……。
この状況では、一斗がいるからって止まってくれるかどうかわからない。
っていうか、自分だったら止まらないだろう。
一斗はそう判断する。
と、なれば一刻も早く移動しなければ……。
「ふひゃあっ!」
気の抜ける気合とともに足を動かそうとするけど……。
「うぃ〜っ!」
激痛が走っただけで一歩も動かせない。
どうやら一斗の貧弱な肉体は、もう限界だったらしい。
う〜ん、短い人生だったなぁと一斗がなにやら達観していたりすると。
ちょっとした変化が訪れた。
たぶんそれは、一斗にとってこれまでの人生の中で最高の幸運だったかもしれない。
白銀の甲冑を着た騎士が、一気に馬の速力を上げて抜け出してきたのだ。
一斗の姿を目にとめて、何者であるのかを確認するためなのだろう。
木々が立ち並ぶ林の中を、まるで草原でも走っているかのように駆け抜けてくる。
目の前で手綱を引き、馬を一瞬で停止させた。
もう、まったくみごとというしかないような腕だ。
「少年! お前はこのようなところで何をしている!」
誰何《すいか》される。
当然日本語ではない。だけど一斗にははっきりとわかる言葉。
それは秘密の言葉だった。
一斗のばあさんと、一斗の二人しか知らなかったはずの言葉。
なんで? とは思ったけれど、このさい気にしないことにする。
「いや〜っ、動けなくって……。よかったら、乗せていってくれません?」
とりあえず言ってみた。
その騎士がどんな人物であれ、このまま戦場をうろうろしているよりはましだろう。
今のところたのめるような相手といったら、その騎士くらいしかいないし……。
「どうやら怪我をしているようだな、少年。事情は後で聞くとして、今はともに来るがよかろう」
フェイスガードを上げて、そう言った騎士の顔。
そこにあったのはアイスブルーの瞳を持った、女の人の顔。
それはもう、無茶苦茶美しかった。
天使が鎧《よろい》を纏《まと》っている。
そんな感じに思える。
神様が引き合わせてくれたのだ。
これこそ、約束された出会いだったのだ!
などと、一斗は勝手に運命を感じてたりなんかする。
そうしてる間に一斗は、左の二の腕を掴《つか》まれて一気に馬上へと引き上げられた。
軽々と自分の前に一斗を運び、馬に跨《また》がらせる。
「少年。ろくなものを食べていないようだな。軽すぎる」
一斗にそう漏らしておいてその女性は馬頭をめぐらすと、後方から馬車が追いついてくるのをじっと待つ。
できれば後ろの方に乗せてもらって、力いっぱい抱きしめたかったなぁ。
などと一斗が不埒《ふらち》なことを考えていると。
一斗は黒い兵達の動きがおかしいことに気付く。
確か増援があったはずなのに、わずかずつ引いているのだ。
「ユンフ殿!」
灰色の甲冑に身を包んだ騎士が近づきながら叫ぶ。やたらとでかい体をしている。
フェイスガードは上げてあり、髭面《ひげづら》のむさっくるしい顔が剥《む》き出しになっていた。
よくまぁあんなのを兜の中に押し込めていて、自分自身で窒息しないものだと一斗は非常に失礼な関心のしかたをしている。
「そこの者はいかがなされた?」
やたらとうろんげな視線を一斗に向け、いたってまっとうな質問をする。
「迷い猫のようだ。ほうっておくのも後味が悪いので拾った。気にするな」
どうやら一斗は猫扱いされていたらしい。
「ならよろしいのですが。乗騎の負担になりませぬかな?」
まるで轟雷《ごうらい》のように響く声で、そのむさっくるしい顔のおっちゃんが聞く。
「猫の子と変わらぬ。帯剣ほどの負担にもなるまい」
ユンフと呼ばれた女騎士は、軽くそう答えた。
う〜ん。猫の子か……。
どうやら、男扱いなどされていないみたいだった。
なんだか、複雑な思いの一斗だった。
そうこうしてるうちに馬車が追いついてきた。
「いくぞ、グリフ伯!」
短く麗《うるわ》しのユンフ様が合図を送ると。
「わかり申した!」
グリフ伯も返事を返し馬の腹を蹴る。
一斗を乗せたユンフも馬を早駆けさせる。
「ち、ちょいまち。お姉さん!」
あわてて一斗が言うと。
「どうした? 尻の具合でも悪いのか?」
顔を確認することができないからわからないけれど、どうも冗談でそう言ったわけではないようだ。
まぁ一斗にとって、今はそんなことはどうでもいい。
「このまま行くのって、まずいよ!」
叫ぶように一斗が言う。
鎧のガシャガシャという音がうるさいから、そうするしかない。
「なぜか?」
短くユンフが尋ねると。
「この先には兵が伏せてある。たぶん、林を抜けたすぐの辺り」
一斗がどなりかえす。
あんまり丈夫ではない一斗の喉《のど》は、早くも痛くなってきた。
「見てきたのか? いや、たぶんと言った。推測か? と、なればどうしてわかる?」
とくに怒鳴ってるわけでもないのに、ユンフの美しい声はきちんと一斗にとどいてくる。
「あの兵の動きを見てれば気づくさ! 彼らの狙いはその馬車のようだ。あの兵はこの馬車の護衛をできるだけ手薄にすることにある。だったら、この先に伏兵がいるって考えるのが普通でしょう?」
一斗がそう言った瞬間だった。
ユンフが右手を天に向けて差し上げ。
「止まれ!」
一言大きな声で叫ぶ。
すると馬を走らせていたグリフ伯と、護衛していた馬車が急停止した。
「どうなされた、ユンフ殿!」
そう尋ねたのはグリフ伯。
「この先には兵が伏せてあるらしい」
ユンフが手短に答えると。
「なに? どうしてそれが?」
ユンフと似たようなことを尋ねる。
「マゼフ部隊の兵の動きがおかしいらしい。伯はどうみる?」
言われたグリフ伯が、視線を元来た場所に向けると。
「ううむ。そう言われれば、確かに……」
どうやら一斗と同じことに気づいたようだ。
「で、あろう」
ユンフも同意した。
でも、一斗は……。
「ちょいまち、悠長に話してないで手を打たなきゃ」
はっきり言って、あせっていた。
自分で自分の身を守れない一斗としては、彼らと運命を共にしなきゃならない。
打つべき手が残ってないならともかく、今は違う。
「きさま、ユンフ殿に拾われた身で、よけいな差し出口をきくものではない!」
そうがなりたてたのはグリフ伯だった。
「ほう? ではどういう手を打てばよいというのか? 少年」
ユンフはグリフ伯の言葉を無視して尋ねる。
「まず馬車はこのまま走らせて。ただしゆっくりと。そして、林の切れ目に着いたら絶対に外へは出ないこと……」
一斗は自分の策を一気にまくしたてる。
ユンフはその間だまってそれを検討しているみたいだった。
そして、ユンフが黙って聞いている以上、グリフ伯も黙っているしかないようだ。
表情から察するに、かなり不満がたまっているようなのだけれど。
その様子は、一斗にとってそれなりに楽しい見ものだった。
もちろんそんなことなど、微塵も表情に出したりはしなかったけれど。
一斗が最後まで説明を終えた後、ユンフが初めて口を開く。
「なるほど、言われて見ればそれしか手はなさそうだ。だが一つ問題があるように思えるのだが?」
どうやらユンフは気づいたようだ。
この超美人のお姉さんは、かなり頭がいい。
一斗はグリフ伯が聞いたら、激怒しそうなことを考える。
「そう、このままじゃあの部隊を使えない。だから彼らに増援を送る」
貧弱な胸を張って一斗が答える。
「やはり小僧の浅知恵よ! そのような戦力があればこうまで我らも苦しまぬわ! ユンフ殿、これ以上こやつのいうことを聞く必要はないですぞ!」
グリフ伯が吼《ほ》えるように言った。
だけど、
「で、少年。その増援とは?」
こんなさなかなのに、ユンフはどことなく楽しそうにそうたずねる。
「もちろんお姉さんと、この僕のことさ!」
一斗はきっぱりと言い切った。
「ほう? わたしとおぬしで増援か?」
もう、ユンフは楽しそうな様子をかくそうとはしなかった。
口元には、はっきりと笑みが浮かんでいる。
もっとも一斗には、それを見ることはできなかったが。
「もちろん! 僕がいるかぎり絶対大丈夫。間違いない!」
一斗は、我ながら偉そうなこと言ってるなぁと思いながらそう言った。
まぁ、今のところ一斗がやるしかないってことは、はっきりしてるのだからしかたないし……。
「わかった。おぬしを信じるとしよう」
ユンフは決断を下したようだ。
「ではグリフ伯、打ち合わせどおりこのまま進んでくれ。ただし、ゆっくりとな」
そう言い残すとユンフは、
「少年。しっかり掴まっていろ!」
一斗にそう声を掛け、一気に駆け始める。
さっきまでとは比較にならない振動が、一斗を襲う。
馬の首に掴まってるだけで精一杯。
でも一番しんどかったのは、ちょっとでも油断すると痛みのために意識がとびそうになることだった。
一斗はかなり長い時間、しがみついてたような気がしたが。
「よく耐えた、少年!」
たった一言の賞賛。
でも、一斗はそれだけで力が戻るような気がした。
もちろん、気力のみだけど。
「さぁ、指示を!」
猛《たけ》る馬を抑えるために馬首をめぐらせながら、ユンフが言った。
「まず、騎兵だけに指示を出して。後方に引くように」
理由は言わなかった。
だけど、
「わかった」
短くユンフは答えて。
「ベック、シィッタ、ニーフェルフ……」
戦場の後方を駆け抜けながら、次々と騎士の名を呼び手を振ってさがるように指示を出す。
「ユンフ様! 一体なにごとです?」
指示どおりに、一旦《いったん》後方に引いた騎士達の中の一人が聞いてくる。
「すぐに陣を敷いて! もうすぐ敵が引く。それに併せてこちらも歩兵を引くから、その時相手を一気に押し込んでほしい!」
答えたのは一斗。
「なんです? その少年は?」
そう聞いた騎士も若いが、それでも一斗に比べたら十分大人だ。
だから、不審そうにそう言ったのも当然だろう。
「ことが終わったら説明する。わたしの指示だと思ってくれ!」
ユンフがフォローする。
「で、ですが」
なおも言いたてようとするその若い騎士に、
「復唱はどうした! ニーフェルフ卿!」
そうユンフが言った。
もう、それ以上の質問は認めないぞ、と。
「わ、わかりました。ただいまより陣を張り、ご指示どおり待機いたします!」
そういってニーフェルフ卿は馬首をめぐらすと、集まってきた騎士達に向かって立て続けに指示を出し始めた。
心の中でどう思っていようと、それが行動に影響を及ぼすようなことはないみたいだ。
「次はどうする?」
ユンフが自分の乗馬をゆっくりと歩かせながら、尋ねる。
目の前では未だに斬り合いが行われている。
正直その様子を見ていると一斗はむかついたけれど、でもそれはあばらが痛んでるせいかもしれない。
いや、たぶんそうだろう。
一斗はそう思うことにした。
今は……。
そのときだった。
黒色の甲冑に身を包んだ相手の兵士の後方に、あわただしい動きが見えた。
「兵を左右に分けられる?」
一斗が聞くと。
「むろん」
すぐに返事がかえってくる。
「じゃあ、オレが合図をしたらやってみせて!」
「わかった」
ユンフは短く答え、そのままだまる。
一斗の集中を、さまたげないように。
かならず敵はここで引くはずだ。
その確信はあった。
敵の目的がこちらの兵力を、足止めするつもりだってことはわかっている。
押しすぎたら敵は引いてしまうかもしれない。
それに、あの馬車が罠《わな》にかかったと知れば、その時点で多大の犠牲をはらっても、撤退を行うだろう。
おそらく敵の指揮官は、そう考えて指揮を執っているはずだ。
だから、相手はあんな行動に出ている。
戦力的には向こうが有利なのに、こちらの兵に押されているかのように振る舞っているのは、その後への布石のはずだ。
一気に総崩れになったように見せかけるための。
追走を始めてしまった兵は、簡単には止まれなくなる。
ましてや、撤退などまず不可能だろう。
そして、その間に前方に伏せてあった兵が目標をしとめる。
それが一斗の読みだった。
だから、一斗はそれを利用しようとしていた。
そのためにはタイミングが重要になる。
相手が引き始めるその瞬間を、確実にとらえなければならない。
こちらの歩兵がひきこまれてしまったら、敵の策にはまってしまう。
かといって早すぎたら、逆撃をくらってよけいな犠牲を出してしまう。
緊張していた。
たぶん、これほど緊張したのは生まれて初めてだろう。
じっとりと全身が汗ばんでいた。
全身にまとわりついている痛みもあるけど、それ以上にプレッシャーを感じていた。
周り中、戦《いくさ》の喧騒に包まれているのに、まるでそのことを感じない。
注目しているのは、相手の後方。
その兵の動き。
そして……。
あれほど激しく動き続けていた、敵後方の動きがピタッと止まった。
「今だ! お姉さん、指示を!」
そう一斗が叫んだとき、ユンフは答えることはしなかった。
剣を抜くと天に掲げ、軍の中央付近に馬を駆けこませながら大音声《だいおんじょう》で叫ぶ。
「展開! ここより、左翼と右翼に展開せよ!」
訓練の行き届いた兵達は、その指示に従い左右に展開し始める。
「ねぇさん、騎士の投入を!」
一斗の指示。
「承知!」
ユンフは、短く答えておいて。
「騎士隊、突撃せよ!」
敵に真っ直ぐ剣を向けて叫んだ。
ウォォォォ!
ときの声を上げて騎士達が突き進んでゆく。
その正面には敗戦をよそおって兵を引き始めた敵がいる。
林の中では小回りのきかない騎士の方が不利。
ただし、それは同兵力で相対《あいたい》している場合のこと。
ましてや、ふりとはいえ撤退を開始したばかりの歩兵部隊に、騎士を受け止めるだけの力はなかった。
斧《おの》が打ち込まれた木の幹のように、敵部隊が分断されてゆく。
そのまま、片翼にこちらの歩兵部隊を投入すれば本当の勝利へと導くことも可能だろうけれど……。
「さぁ、ねぇさん! 歩兵をさがらせるんだ!」
一斗の目的は、あくまでこちら側の兵力をなるべくそこなうことなく撤退させることだった。
だったらその機会は、敵の兵達が完全に混乱している今しかない。
「全軍撤退せよ!」
ユンフは言葉を選ばなかった。
それだけに簡潔で、しかも間違いようのない指示。
「さぁこれで兵力がととのった。いそいで追いつこう!」
それから約三十分後。
林の端。
歩兵部隊は馬車を取り巻いて、しっかりとした陣を敷いていた。
さらに、それぞれが斜め上方に盾《たて》をかかげている。
一斗の指示によるものだった。
その時一斗は、世界がぐるぐるしてることに気づいた。
どうやら、そろそろ限界が近づいてるみたいだ。
かなりのダメージを受けてる上に、初めての乗馬で体中が悲鳴をあげている。
おそらくあばら骨のうちの二、三本は、骨が折れているのではないかと推察していた。
一斗の場合馴れてはいるけど、痛いものは痛い。
ただ、今起きてられるのはその痛みのおかげともいえなくもない。
まぁ本人は、たまらないだろうが。
「歩兵部隊、前進!」
布陣の確認を終えたユンフが、声高《こわだか》に号令を出す。
馬車を中央に置いた歩兵部隊が、一斉に前進を始めた。
ただし、騎士のみはこの場にとどめられる。
「お答えくだされ、ユンフ殿! わしにはさっぱりわからん。この奇妙な陣立てに一体どういう意味があると申されるのか?」
がなりたてたのはグリフ伯。
あいかわらず怒っているみたいだった。
よく疲れないもんだなぁ、と一斗は感心している。
「さぁ? わたしに聞かれてもな? もう兵は動き出しておるし、見ておればわかろう?」
ユンフの口調は真剣そうだったけど、どうやらグリフ伯のことをからかってるみたいだった。
「そうは申されても、ユンフ殿!」
まだ何か言いたさそうにしていたけど。
ヒュン。
何かが風を切る音が聞こえた。
すぐにその音は数を増す。
十や二十ではない。
雨のように降り注ぐ数の矢。
「敵の位置が掴めた。敵の兵力はほとんどが弓兵である。矢が途切れたのを見計らって一気に押しつぶせ!」
ユンフが最後の号令を出した。
もちろん、事前に一斗が計略を話していたのだ。
おおっ!!!
騎士達は思い思いに声をあげた。
歩兵達にびっちりと周りを囲まれ、盾をもって塞《ふさ》がれていては、どれほど矢を射掛けようがまったく効果はあがらない。
なのに矢を射つづけなければならないのは、矢がとぎれればそのまま押しつぶされてしまうことを承知しているからであろう。
でも、矢の数は無限ではありえない。
しばらくすると、尽きるときがやってきた。
それを見計らって、林の中から騎士部隊がおどりでる。
敵の弓兵部隊は身を隠すために塹壕《ざんごう》を掘り、そこから矢を射掛けていた。
しかし、今はそれが命取りとなった。
馬上用の長いスピアを抱えた騎士たちに、塹壕に潜んだままの弓兵達は、逃げ出すことすらできずに、次々と斃《たお》されてゆく。
本来なら馬車に乗った人物と、少数の護衛だけを相手にすればいい簡単な役目だったはずなのに。
その思いは、弓兵達すべてに共通する思いであったろう。
彼らは、その不条理をもたらしたのが、たった一人の少年であることを知らない。
「どうやらうまくいったみたいだね。そろそろ騎士で後方をかためたほうがいいよ」
一斗は敵の弓兵部隊に抵抗するだけの力がなくなったと判断して、次の指示を出す。
ユンフがそれに従って鞍《くら》にかけてあったスピアをはずして天にかかげた。
それを見た騎士達は、事前に指示されていたとおりに行動を起こし、歩兵のつくる陣の後方へと集合した。
すると、ちょうどそのとき林の端に敵の歩兵部隊がやってくるのが見えた。
「敵部隊です!」
後方にいた騎士の一人が大声で叫ぶ。
「なんと! 応戦せねばなりませんぞ!」
グリフ伯はまだ血がたぎっているらしい。
一斗は小さく頭を振った。
難儀《なんぎ》な人だ。
そう思った。
まぁ嫌いじゃないけどね。
とも思った。
でも、なんにもわかってないのもかわいそうだから、説明だけはしておくことにする。
「あの兵は、まず追ってこないよ」
一斗が言うと。
「なぜだ? 戦力的にはまだ向こうのほうが多いのだぞ?」
グリフ伯がいきなり頭ごなしに否定せずに、そう尋ねてきたのは少しは一斗のことを認めたのかもしれない。
「もう、決着がついたからさ。彼らの今回の作戦行動は失敗した。これ以上やったって戦力を消耗するだけに終わる可能性が高いからね。……そんなの無駄でしょう?」
そういう具合に一斗が聞くと。
「う〜む。確かに、そういわれれば……」
グリフ伯はうなるしかなかった。
「それに、ここで戦うことになったら。僕がいるかぎり、楽勝で勝てるさ」
その言葉は、さっきまでなら単なる大言《たいげん》壮語としか聞こえなかったことだろう。
でも、今は……。
「で、あろうな。わたしも、そう思うぞ。まだ気は抜けんが、直接の戦闘は、とりあえず終わったと考えてよかろう」
ユンフはあっさりと認めた上で、その会話に終止符を打つ。
「それでは少年、貴公に紹介したいお方がいる。付き合ってもらおう」
一斗はそれがあの馬車に乗っている人物だということは、すぐに想像がついた。
かなり興味がある。
ユンフほどではなくても、美しくて愛らしいお姫様なんかだったりしたらうれしいよなぁ。
そして、お礼にちゅーなんてされたりなんかして……。
一人で勝手にちょっと危ない世界に入ってると。
「着いたぞ」
いきなり現実の世界に引き戻されてしまった。
まずユンフが馬から降りて、次に一斗を抱えおろす。
嫌になるくらい、一斗は軽々とあつかわれていた。
ちょうど正面に馬車のドアがある。
そのドアの窓は弓矢防止の板が下ろされていて、中を見ることはできなかった。
「さぁ、頭をさげて、お待ち申し上げろ」
なんか偉そうに、そう言ったのはグリフ伯だった。
「なんで? 僕には関係ないじゃん」
わけがわからなかったし、見ず知らずの人間に頭をさげたくもなかった。
だから、わざと反抗的にそう言う。
「き、きさま! なんという無礼! ここにおわすお方を一体どなたとこころえる!」
一斗は思わずその後に続けて、先のふくしょーぐん……って言いたくなってしまう。
「まって、グリフ伯」
声が聞こえた。
馬車の中から。
美しい声。
それと一緒にドアが開いた。
中から現れたのは、美しい人。
艶《つや》やかに流れる漆黒《しっこく》の髪と瞳。
たぶん美しさだけだったら、ユンフをも超えているだろう。
でもそれは、少年だった。
一斗より少し年上の。
「わたしはクーリフォン=レフ=コウ。よかったら、君の名前を聞かせてほしい」
微笑を浮かべながらその少年が言った。
今までに一斗が見たこともないくらい、優しい微笑みだった。
「ぼ、ぼ、僕の名前? あ、秋月……、秋月一斗」
なぜか緊張してる一斗。
ちょっとあぶないかもしれない。
「アキスキ……イット?」
その少年が口にした一斗の名前。
発音はちょっと違う気がしたけど、でもいいかもしれない。
なんか、高貴な香りがそこはかとなくただようような……。
まぁ、気のせいには違いないけれど。
「イットでいいよ」
「わかった、そう呼ばせてもらおう。では、私のこともコウと呼んでほしい」
周りがその言葉にざわめきだした。
一斗にはそのわけが、だいたい察しがついたけど気づかないふりをする。
「わかった。これからは、ダチ同士ってことだな」
「ダチ?」
「友達のことさ。これからよろしくな」
今度は少し間があった。
「……ともだち。そうか、ダチか。ではイットはわたしの初めてのダチだ。わたしのほうこそ、よろしくたのむ」
なにかをかみしめるように、コウが言った。
コウは馬車から降りて、一斗に向かって歩いてゆく。
一斗はそれを迎えるために手を伸ばそうとするけど。
「ふぁれ?」
なんか、間抜けな声が聞こえた。
聞き覚えのある声だと思った。
「イット!」
耳元で声がする。
「しっかりしろ、イット!」
コウの声だった。
「らいしょうふ、らいしょうふ」
また間抜けな声がした。
どうやら、それは一斗自身の声らしかった。
一斗は急におかしくなって少し笑った。
そして、それが限界だった。
「どうしたのだ? だいじょうぶなのか?」
ユンフの腕に抱きとめられて、ぐったりとしている一斗を見てコウが心配そうに尋ねる。
「だいじょうぶ、気を失っただけのようです。王子」
それを聞いたコウは、あからさまなくらいほっとしてみせた。
「そうか、よかった……。初めて出会ったダチと別れるには、あまりに早すぎるからな」
そして、コウは頭を下げる。
自分の臣下にたいして。
「わたしのダチをよろしくたのむ」
それを見たユンフは、
「御意」
とだけ答えた。
そして、自分の腕の中で眠るあまりに軽すぎる少年を見て、ユンフは心の中でつぶやいた。
“どうやらわたしが拾ったのは、虎の子だったらしい。おまけに王子の心まで掴んでしまったようだ。神々のご意志とやらを信じてしまいたくなるな、まったく”
ハセム暦九五四年六の月三の日。
秋月一斗はクーリフォン=レフ=コウと出会った。
このとき、一斗のことを知っている者は誰もおらず、コウもまたセイリアン王国の第三位王位継承者にしか過ぎない。
だけど、戦乱に明け暮れるこの大陸は、この日確かに歴史の転換点を迎えたのである。
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第二章 だから、こんなんで
「うい〜っ」
一斗がうめいている。
「はい、もう少しで終わりますよ!」
にこやかに看護婦さんが言った。
「ふぎ〜〜〜っ」
一斗は倍くらいの声でうめいた。
「はい、だいじょうぶですよ〜」
よりいっそう優しそうな声で看護婦さんが言う。
でも、彼女の両手に込められた力は微塵もゆるがない。
だから、
「ふぎ〜〜〜っ」
一斗としてはやっぱり叫ぶしかなかった。
なにか、自分が悪いことをしたのだろうか?
思い当たることなら……山ほどあった。
先週看護婦さんのお尻を、なでなでしたのがまずかったのか?
それとも、一昨日倒れるふりをして胸の弾力を確かめたのがまずかったのか?
でも、一斗はけが人のはずだ。
それも、肋骨が三本折れていて、左腕の上腕部にはひびが入っていた。
両足は馴れない馬にまたがったために、こすれて炎症を起こしている。
歩くときは蟹股《がにまた》だった。
もっとも炎症や骨折はだいぶ治ってきていて、普通に暮らすぶんにはどうということはなかった。
でも蟹股は、いつの間にか癖《くせ》になっていた。
たぶん後遺症というやつだろう。
それはともかくとして、一斗は治療の名を借りた虐待――一斗はそう思っている――を悲鳴をあげながら耐え忍び、やさしそうに微笑む看護婦さんに喜んで別れを告げる。
もちろんその間際に、看護婦さんのお尻に別れの挨拶《あいさつ》をすることは忘れなかった。
一斗がこっち側に帰って来てから、ひと月がたっていた。
本当は向こうで治療をうけられるとよかったのだけれど、ただでさえこちらに比べれば遥《はる》かに医療技術は劣っている。
そこへもってきて、彼らは撤退の途中だった。
まともな治療はうけられない。
体中の痛みはしびれに変わりつつあったし、息をするのが非常に苦痛に感じられた。
一斗はマジで死ぬなこりゃ、と思った。
「魔法か何かでパァーッと治して」
とコウにたのんだら、
「そんな都合のいいものなんてない」
と言われてしまった。
だからとりあえず帰ることにしたのだ。
そのさい問題になったことがある。
もちろん帰り方がわからない……なんていう、ベタなおちじゃない。
なんといっても、一斗自身が体験したことなのだ。
ジグソーパズルのピースはすべて揃っている。一斗はそれをただ組み合わせればいい。
答えに辿り着くのは、そう難しいことではなかった。
だから、問題になっていたのは、コウの軍勢のこと。
この世界の状況を詳しく聞き、コウが置かれた立場を判断した。
その上で地図を見せてもらって、考える。
それで出た結論が……。
もう一箇所、兵が伏せられているだろうっていうこと。
コウの軍にとっては致命的となりうる場所に、だ。
地図を見たとたん、すぐに予測できた。
谷の狭間《はざま》を通り抜け、その先が開けた原野。
兵を伏せておいて、包囲殲滅《せんめつ》するには理想的な場所。
こんなとこ通るくらいなら、あらかじめ降参しといた方がよっぽどマシな作戦というものだろう。
でもそれも今の状況では、十年物のコーヒー牛乳をがぶ飲みするのと大差ない。
自殺行為ってやつだ。
敵はコウの軍を、コウを含めて全滅させたいのであって、別に勝利したいわけではないのだから。
一斗にしてみれば、のこのこ敵の罠の真っ只中にまで送り出されてしまったこと自体に、文句をつけたいところだけど……。
まぁ、今更そんな愚痴を言ったってなんの役にも立たないから、とりあえず生き残る方法を伝えておいた。
コウの軍にとっての利点は、あまりに敵に有利過ぎる地形のために、敵のとる作戦が非常に限られてくるであろう、ということ。
敵の兵力、配置、行動がほぼ予測できる。これは、一斗にとって非常に有利な条件だ。
ただし、相手がこちらの行動を予測して手を打っていれば話は別だけれど。
それは一斗クラスの人間が敵方にもいるってことで、その場合……。
ジ・エンド。
お手上げである。
その場に一斗がいれば、どうとでもできる自信はあった。
けど、そこまで行き着く前に、一斗の貧弱な肉体は滅びてしまうであろう。
はっきりいって、そこまでは面倒見きれないってこと。
でもまぁ、大丈夫だろうと一斗は思っている。
自分が敵方の指揮官なら、それ以前に間違いなく殲滅していたであろうから。
だから、コウに対してはそこら辺りを正直に話しておいた。
そのうえで、自分の考えた作戦を伝える。ただしその作戦に関してはユンフにも伝えておいた。
実際に現場で指揮をとるのは、ユンフになるわけだから当然だ。
作戦を伝えた後コウからは、
「わたしは、一流の詐欺師とダチになったのだな」
と言われ、ユンフからは、
「戦術というよりは、大規模なぺてんと称すべきであろうな。それだけに引っかかったときの敵の顔が見たいものだが……」
という評価をうけた。
果たしてこの評価がほめられたといえるのかどうかは、はなはだ疑問だが、まぁ一斗としてはそう受け取っておくことにする。
気分の問題だった。
とりあえずそこまでやっておいて、一斗はこっちの世界に戻ってきたのだ。
戻ってきた後、一斗が最初にとった行動は救急車を呼ぶことだった。
歩いて病院へ行くのはしんどかったし、実際かなりヤバイ状態だったのも確かだった。
そのとき運んでくれた救急隊員に、さんざん不平と不満をぶちまけて、思いっきりイヤな顔をされたことは言うまでもない。
そのまま一斗は入院することになる。
でも、暇にしていたわけではない。
こっちの世界を留守してから、すでに三日が過ぎていた。
しなきゃならないことは、いくらもあった。
特に治療費と慰謝料をふんだくるのは、絶対にやらなくてはならないことだ。
せっかく痛い思いをしたのだから、有効に利用すべきだろう。
まず最初に連中の居場所を突き止める。
それは簡単だった。
某公立病院に担ぎ込まれて、そのまま入院していた。
かなりひどい状態らしく、ベッドの上から一歩も動けないということであった。
それを確認して、一斗はひと安心する。
これで当面は逃げられる心配はなくなったからだ。
次に弁護士に連絡を取る。
それはとても親切な弁護士で、ちょっとした秘密を黙っている代わりに、一斗の交渉代理人となってくれることをこころよく引き受けてくれた。
もちろん無償で、だ。
刑事告訴するつもりはまったくなかったし、民事で訴えるつもりもまるでなかった。
彼らに更生してほしいわけではなかったから、手っとり早く示談ですませられればそれでいい。
ようは、金さえ手に入ればいいってことである。
彼らの家庭環境はきっちり調べてあったから、いくらまでなら示談に応じることができるのか見当はついていた。
もちろん弁護士にはそこらへんは、ちゃんと話してある。
ギリギリまで追い詰める必要はない。
それくらいの交渉なら、一斗にだって十分にできたけど、これは脅しだった。
弁護士という現実の力をちらつかせることで、脅すのだ。
もちろん脅すのは親の方だ。
連中がこれでびびるくらいの頭をもっていたなら、そもそもチンピラまがいのパシリなんてやってはいないだろう。
でも、支払おうとしなかったら……。
まぁそれについては、あんまり心配していない。
かりにも弁護士なのだから、きっちりやってくれるはずだ。
そうでなくては、弁護士をやめなくてはならなくなる。
一斗がそうする。
そうやって、臨時収入のための手続きをすませると、一斗はそのまま退院した。
医者がしてもいいといったからではなく、一斗が退院したかったからだ。
自主退院というやつだった。
するべきことがあった。
病院内ではかたのつかないことで、しかも急ぎだった。
ただ、きれいな看護婦のおねーさんたちのボヨヨ〜ンな胸――ポヨンなのもあったけど――とさよならしなくてはならなかったのは、ちょっとさみしかったけど……。
退院してから、真っ先に高田仁一を呼び出した。
一斗に貸しがある……と、高田が思っているからそれを利用させてもらうことにしたのだ。
すぐに一斗はそのことを、ひどく後悔することになるのだが……。
「よう、元気か?」
会うなり高田がそうのたまわった。
「そう、見える?」
一斗は念のためにそう尋ねてみる。
ちなみに、そのとき一斗は胸部と左上腕部をギプスで固められていて、歩くときには思いっきり蟹股だった。
「いや、りっぱに怪我人に見えるよ」
高田は、しっかりと保証してくれた。
「……そりゃぁよかった。もしかしたら、元気そうに見えたのかと思って少し心配したよ」
とりあえず確認がすんだところで、
「ちょっと、やってほしいことがあるんだけど」
一斗はさっそくきりだす。
「なんでも言ってくれ。俺にできることなら、どんなことでもする!」
高田が力強くそう言った。
実のところ、それは結構むずかしい注文だったりする。
高田にできることという条件が付くとなると、かなりその範囲が限定されてくるからだ。
でも、今回だけはおそらく大丈夫だろう……、と一斗は判断していた。
それでもまだ、少しは不安だったりするけれど。
しかしまぁ小学生だってやれるようなことだ、いくらなんでも……とそう思い直して、
「それじゃ、ついてきて」
一斗が言うと。
「おう!」
高田が元気よく答える。
その元気のよさに、一斗は微妙にむかついた。
一斗が連れていったのはビルの屋上。
自分の家の南側に建っているビルである。
東と西のビルはインテリジェントビルなので勝手に入り込むことはできない。
(もちろん、一斗がその気になれば話は別だが……)
「うぉ〜、たっかいなぁ!」
うれしそうに高田が言った。
「ビルの屋上だからね……」
当然である。
「三十階だぜ、三十階!」
そう言いながら、高田が手すりから身を乗り出している。
「二十八階だよ」
一斗がつっこむと。
「四捨五入すれば同じだって。それに、三十階のほうが高いだろ?」
はしゃぎながら高田が言った。
ビルの階数をさば読んで、何かいいことあるのだろうか?
一斗には理解できなかった。
もっとも、理解したいなんて、思わなかったけれど……。
とりあえず高田の趣味につっこみを入れる、などという蛙の背泳ぎなみにむなしい――それはそれですごいかも――ことはやめて本題に入ることにした。
「あれを見て」
一斗がそう言って指差したのは、自分の家である神社だった。
「なんだありゃ? きったねぇ家だなぁ」
高田が遠慮なく言った。
「そうかい? 素直なご意見いたみいるよ」
どことなく人生の悲哀を感じたりしながら、一斗が答える。
「だけど、今見るのはそこじゃない。その家の少し先に鳥居が見えるでしょ?」
「おう、ばっちり見えるぞ。こう見えても視力は二・〇だまかせとけ!」
高田が自慢した。
「そうかい、そりゃよかったね……」
なげやり気味に言った後。
「それじゃ五時二十五分になったら、あの鳥居をこいつで写してほしい」
そういって一斗は腕にしっかりと抱えていたデジタル・ビデオカメラを渡す。
高田はものめずらしそうに、ぐりぐりといろんな角度から眺め回した後、
「おお、これはミコンのイチガンレフとみた!」
とのたまわった。
デジタルビデオカメラをどういった角度から見れば、そんなものに見えるのか非常に不思議に思ったが、コメントはあえて差し控える。
言ったところで一体なんになる? 高田《こいつ》相手に?
ただ疲れるだけだ。
「とにかく、時間がきたらあの鳥居を写してくれるだけでいい。このボタンを押せば録画されるからね」
扱うボタンは一つだった。
ピントは勝手に合うし、これなら間違いようはないはずだ。
でも……、
「いいか? あの鳥居だからね? わかってるよね?」
一応念を入れておく。
「おお、まかせとけって! 心配する必要はないぞ!」
高田から心配する必要がないと言われたとたん、一斗は理由《わけ》のない不安に襲われる。
それでも、もう時間がない。
時計を見ると予定の時刻まで七分を切っていた。
「いいね? ちゃんとたのんだよ!」
言い残すと、一斗は後を振り返ることなく階段へと向けて急いだ。
「おう、まかせとけ!」
という声が聞こえてきて、一斗の心をさらに不安にさせてくれた。
それは、もっとも高く天頂付近に月が差し掛かる時刻。
そして、鳥居の正面から月を窺うことのできる時間。
ビルの狭間に埋もれたこの場所では、それはほんのわずかの時間でしかない。
その時刻ははっきりと計算によって割り出すことができる。
データは簡単に揃《そろ》えることができたし、答えはプログラムに従ってコンピュータがはじき出すからだ。
条件のすべては正確に把握できる。
当然のことながら、二つの世界を行き来することに、問題となるようなことはなかった。
ある一定の状況の下で、ある特定の条件を満たせば同じことが起きる。
道具とは……システムとはそういうものである。
そうでなければ、単なる欠陥商品だ。使い物になんてならない。
一斗にとって必要なのは、このシステムの原理をある程度把握しておくことだった。
このシステムは、あっちの世界にとってはもちろんだが、こちらの世界においてもオーバーテクノロジーである。
どういった基礎理論によってこのシステムが創造されているのか、それがわかればこれを生み出した文明がもちうる技術のレベルを推測することは、そう難しくはない。
今後このレベルの技術を所有する相手が――敵味方を問わず――介入してきたときに、一斗の判断材料として重要な役割を果たすことになる。
高田にたのんだ遠距離の俯瞰《ふかん》する位置から撮影した映像は、そのためにかなり貴重な資料となろう。
しかも今回の場合、条件が整うのが昼間であるというのもポイントが高い。
腕時計の秒針を見てタイミングを計り、鳥居の下を潜り抜ける。
鳥居が白い輝きを放った。
ドン!
「うぎゅっ!」
一斗は転がった。
突き飛ばされたのだ。
後ろから。
運の悪いことに、そこは石畳だった。
完全に治りきってない体が悲鳴をあげた。
「邪魔だこのガキ! ぼけっとつったってんじゃねぇ!」
やたらとがたいのいいオニィさんが、一言そう吐き捨てて振り返ることもなく立ち去っていった。
石畳の上はかなりザラついていたけれど、ほんのりと冷たくて気持ちよかったりもした。
一斗が出現した場所は、どこかの都市にある大通りで人や馬車が盛んに行き来している。
ちょっと石畳が恋しかったりもしたけど、轢《ひ》かれて踏まれてのし人間にはなりたくないので一斗は立ち上がる。
突然現れて突き飛ばされて石畳に寝っころがって、周りに迷惑を振りまいていた一斗だったけれど、誰からもきっぱりと無視されていた。
もちろん、一斗のことを気づいた人もたくさんいただろうけど、そこのところはまったく都会らしい反応だった。
なんだかなぁっていう気もしたが、でもまぁ今はありがたい反応ではある。
一斗が今立っている大通りは幅が五十メートルほどもあり、両側にはいろんな店が立ち並んでいた。
そして大通りのずっと先。
小高くなった丘の上全体を覆い尽くすように、城が建てられていた。
中央部には天守閣のような塔を持つ建物があった。
たぶんそれが元来の城だったのだろう。
その周りに張り巡らされた白い城郭は、じつに壮麗な意匠がほどこされている。
それは単なる城ではなく、王宮というべきだろう。
中を見ることはできないが、あれだけ膨大な広さだ、様々な庭園や建築物があるのだろうと推測される。
実際の守備力としてはほとんど役にたたないだろうけど、この国の象徴としては間違いなく絶大な威力を持っている。
ただそれだけにあの中では間違いなく、様々な人間達による謀略が繰り広げられているに違いない。
そして、その中心人物となるのは、一斗のダチのクーリフォン=レフ=コウであろう。
まず間違いなく生きて帰ってこれないはずの人間が帰ってきたとき、果たしてどれくらいの人間が悲嘆にくれただろうか?
そのことを考え、一斗は笑っていた。
「ふふひゃっひゃっ」
そんな笑い声を漏らしながら、大通りの真ん中でつっ立ってる一斗の周りだけ、なぜだか人が寄り付かないのは無理もないと言えた。
一斗は気色の悪い笑い声を洩らしながら、時計を確認する。
「ひゃひゃひゃ?」
いつの間にか、五分の時が過ぎていた。
やばい、することがあった。
首に掛けていた紐《ひも》をたぐる。
するときったない袋が服の中から出てきた。
その中の物を取り出す。
非常に薄いカード状の金属。
銀色に輝いている。
金属でありながら、ゴムと同等の弾力性を持ち、自在に曲げたり伸ばしたりすることができる。
同時にダイヤモンド以上の硬度を併せ持ち、表面には傷を付けることもできない。
そういうことは、成分分析を行ったさいに簡単にわかったことであった。
わざわざ専門の研究機関に依頼して、現在最高の検証を試みたのである。
だが、その結果このカードを構成する物質に関しては、未知の物質であるということ以外今のところわからなかった。
基礎となる理論のレベルが違うのだから、それは最初から想像がついていたことである。まぁ、それに関しては別な方向からのアプローチを考えている。
これが、システム全体の中で端末の役割を果たすものであろうということはすでに実証できている。
だったら、何もこれだけにとらわれる必要はない、ということになる。
それはともかく、今はやるべきことがあった。
時間が差し迫っている。
まずそいつを手のひらに置き、青い空に浮かんでいる月に向ける。
すると、カード状の金属は白い光を放ち始め、光は一斗を包み込む。
その直後、いきなり周りの光景が変化した。
薄暗い、狭っ苦しい場所に。
一斗は今、自分の家の正面に立っていた。
それから、急いで高田のいるビルに向かった。
「撮れた?」
一斗は高田の顔を見るなり、そう尋ねる。
「おお、ばっちりだ。それよっか、なんか光ってたぞ? ありゃなんだったんだよ?」
一応、高田でも気にはなるらしい。
「気にしなくていいよ、どうせ君にはわかりっこないから」
一斗はあっさりと答える。
「なるほど、そりゃそうだな」
高田はしっかりうなずいていた。
どうやら、自覚はしてるらしい。あるいは開き直っているのか?
どっちでもいいけど。
一斗は、あっさりと結論を出すと、
「じゃあ、後は適当に帰ってね」
デジタル・ビデオカメラをひったくるように受け取り、そう言って高田に別れを告げる。
「なんだ? こんなんでいいのか?」
拍子抜けしたように高田が言った。
「あんまり危険は冒したくないからね。これ以上君にたのむのはやめとくよ」
そう言い残すと、一斗はなんだか釈然としない表情をしている高田を、そのままほったらかしてビルを降りる。
さすがに、ビルを降りることくらい自分でできるはずだ。
もっとも、そのまま屋上に住み着いてもらっても、一斗にとってはまるで問題ないことであった。
屋外生活者が一人くらい増えたところで、誰も気にもしないだろう。
腕時計を見ると、かなりやばい。
もうすぐ月がビルにかかる。そうなれば、しばらくは向こうに行けなくなる。
だから走った。
蟹股で走った。
たとえ歩く速度と変わんなくても走った。
とりあえず走った。
「とどけぇーーーっ!」
気合を入れて、鳥居へ飛び込む。
ぐきっ。
左の足首がなんだかいやな音をたてる。
どてっ。
派手に倒れた。
前のめりだった。
でもビデオカメラだけは死守しようと、頭の上に抱えていた。
だから必然的に一斗は、顔面から石畳の上に突っ込んだ。
痛い。
もう、半端じゃなく痛い。
涙があふれた。
ついでに鼻血もあふれた。
生ぬるい鼻血溜まりの中で、一斗は気を失っていた。
「よう、気ぃついたか?」
男の声がする。
「えっ? ここは?」
暗転はいきなりだった。
「安宿の中さ。にぃちゃん」
安宿……確かにその形容詞がぴったりとくる光景だった。
薄汚いしみや卑猥《ひわい》な落書きが、部屋の壁のいたるところにあった。
一斗が寝ているのはそんな汚い部屋の、床の上だったりする。
声をかけてきた男は、ベッドの端に腰掛けていた。
全身鍛えぬかれた、鋼《はがね》のような肉体をしているのが服の上からでもはっきりとわかる。
その男が助けて一斗をここに運んだのだろう。
一斗の三倍くらいはありそうな肉厚をもち、百九十センチ以上の長身をもった、むせかえりそうなくらい男らしい男。
一斗は、その男に抱きかかえられている自分の姿を想像しただけで……。
「うっ……」
気分が悪くなった。
「どうした? まだどっか痛むか?」
男が聞いてくる。
一斗はそれには答えず、
「あんたが僕をここへ?」
そう尋ねかえす。
「あん? 他に誰がいるってんだ?」
はぁーっ。
一斗が一つ大きなため息をついて、
「いや、気にしないで、ちょっと気分が悪くなっただけだから……」
そう、これがきれいなおねぇちゃんなら……。
「とりあえず、お礼を言っとくよ、ありがとう」
めずらしく一斗がお礼なんか言ったりする。
けっこう落ち込んだらしい。
「いいってことよ。目の前でああもみごとに倒れられたんじゃな。なんかほっとくのも哀れでなぁ……」
ほんとに同情の籠もった視線で、一斗のことを見ていた。
一体どういうふうに一斗のことを思っているのだろうか?
「まぁなんだ……。世の中いろんな人間がいるんだし、ちょっとくらい……いやけっこう変わってたってそう悲観することもないさ。生きてればいいこともあるってもんさ」
腕組みをして、そんな人生論を男はしたり顔で語ったりなんかする。
どうやら一斗を、励ましてくれているつもりらしかった。
はっきり言って、よけいなお世話というやつである。
「あんたの名前、教えてくんない?」
強引に一斗が話題を変える。これ以上わけのわからない同情をされていては、なんだか自分がみじめに思えてくる。
「おいおい、いきなりあんた呼ばわりかよ? 最近のガキはしつけがなってねぇなぁ。かりにも俺は恩人だろ?」
男はなんだか説教を始めた。
「そりゃごめん、感謝するよ。僕の名前は一斗。で、おじさんの名前は?」
とても簡単に一斗が感謝すると、男はなんだか頬《ほお》の辺りを引きつらせていた。
「お、俺はまだ二十九だ。三十まではまだ半年以上もある。まだまだ若・者・なんだよ!」
若者ってところを強調するあたりが十分にじじくさいと思うのだが、あえて一斗はコメントを差し控えることにした。
こう見えても、一斗にだってやさしいところも少しはあるのだ。
「うん、わかったよおじさん。おじさんは十分に若いよ。だから、おじさんの名前を教えてよ」
一斗が言った。まぁ、一斗のやさしさなんてこんなもんだろう。
「イヴァンだよ……。ったくひでぇもん拾ってきちまったなぁ……」
腕を組み頭を左右に振りながら、男……イヴァンがため息のようにそう言った。
「イヴァン、あんた傭兵《ようへい》になりに来たんだろ?」
一斗はそんな様子なんて、まるで気にすることなくそう尋ねる。
「ああそうだが……。なんでわかった? おりゃ言ってねぇだろ?」
ちょっと驚いたようにイヴァンが聞くと。
「あれと、あれと、あれ……」
一斗は面倒くさそうにそう指差しただけだった。
ちなみに指差したものは、使い古された甲冑《アーマー》と、使い込まれた幅広の剣《ブロード=ソード》と、うん年ものの異臭を漂わせていそうな擦り切れたブーツだった。
「それだけでか? 剣士だったらよ、この国の軍にもいるだろ?」
イヴァンがなんだか少し得意げにそう突っ込みを入れる。
ちょっと大人気なかったりする。
でも、一斗はニィっと笑いながら、
「あんまし、見得をはらなくってもいいよ。生きていれば、そのうちいいこともあるって」
そう言った。
これは、あきらかにさっきのお礼のつもりだろう。
結局、一斗のほうがもっと大人気なかったりする。
「わ、わかったよ。おりゃ、どうせしがない傭兵さ。下っ端の、剣を振り回すだけしか能のない貧乏剣士だよ。いいさ、いいさ。おれなんて、おれなんて……」
イヴァンはいじけてしまった。
指でのの字なんて書いている、ちょっとアブナイ感じのイヴァンを見て、一斗はなんだか楽しそうに笑った。
ほとんど、いじめっこである。
すっきりした――自分だけ――ところで一斗は、また話題を変える。
「ところでさ、イヴァンって強いの?」
その一言を聞いたイヴァン。
「ん? 俺が強いかって? もちろんさ、ハンパじゃなく強いぜ」
いきなり復活をとげた。
誇らしげに、胸なんか張っている。
「へぇ〜、強いんだ? でも、貧乏なんだね?」
子供っぽい無邪気さをよそおって、一斗が尋ねた。
これはもう、まったくの確信犯である。
「うう……。そうなんだ……。いくら働いたって、いっつも手柄が隊長のものになってて……。俺はいっつも一番下っ端で……。どうせ、どうせ、おれなんて、おれなんて……」
また、イヴァンがいじけ始める。
でも、今度はいじめるのが目的ではなかったので、一斗はとっとと先を続ける。
ただ、イヴァンがいじけてるその姿を見て、十分楽しんでいる様子ではあったが。
「普通の兵士なら、何人くらい相手にできる?」
その一言で、イヴァンはまたいきなりの復活を果たした。
まるでできの悪いRPGのザコキャラみたいだ。倒しても倒してもかならず復活してくる。
それも一瞬のうちに……。
「百人くらいなら、余裕でいけるぞ!」
イヴァンは、いばってそんなことを言った。
その様子を見た一斗は、少しだけイヴァンのことをあわれに思った。
これが、四、五人ならすごい剣士だと思っただろう。十人ならほら吹き剣士か剣聖のどちらかだと思うことだろう。
でも、百人だ……。
普通の人間なら、こう判断するだろう。
こいつは、頭のいかれた剣士だと……。
ただ、一斗の判断は少し違った。
あちこちに血痕の跡の残る古びた鎧。かなり使い込まれた剣。決して近づきたくない汚れきったブーツ。
それらはすべてかなり長い間、イヴァンが傭兵をやってることを示している。
百人くらいを余裕で相手にできる……なんて思い込んでいるいかれた人間は、絶対に長生きはできない。もちろん、そんな非常識な人間が本当にいれば話は別だが。
そして、イヴァンがそんな非常識な人間であることを一斗は確信していた。
だからこそ、あわれだと思ったのだ。
手柄にしても、一人で百人は多すぎる。たぶん目の前でそれを見せられた人間だって信じられないだろう。ましてや、報告だけ受ける人間は、はなっから報告した人間の正気を疑う。
もしイヴァンの指揮官となった人間がいたとしたなら、こう判断するに違いない。
このことは、黙っていよう……と。
必然的に手柄は、イヴァンが所属する隊のものとなり、その隊を指揮していた隊長のものとなる。
それで隊長さんは出世していって、イヴァンはいつまでたっても下っ端のままという図式ができあがるわけだ。
でもイヴァンはそのことにぜーんぜん気づいてないから、ますます頑張る。
非常識な戦果が上がれば上がるほどイヴァンの上官は報告しづらくなり、ますますイヴァンは出世から遠のいていくことになる。
こうして、めでたくイヴァンが貧乏生活を続けていくための悪循環ができあがったわけだ。
「ねぇ、イヴァン。僕と組まない?」
一斗が妙にやさしげな声で話しかける。
「な、なんだ? 急にどうした?」
イヴァンの方も、少し驚いたようだ。
「僕が、あんたを歴史の表舞台に立たせてやるよ。イヴァンの名を歴史に刻み込んでやる。……どう? 僕についてこない?」
やがてこの時のできごとを、多くの人々が繰り返し語り尽くすことになる。
それは歴史の研究家だったり、英雄譚《えいゆうたん》をこよなく愛する人々だったり様々だったけれど、誰もが一様《いちよう》にこのことだけは同じ意見を持つことだろう。
たった一つの選択が、その後の運命を決めてしまうことがある。
一人の人間の人生だけでなく、その後の世界の歴史そのものに大きく影響を与えてしまう選択が。
このときのイヴァンの選択は、間違いなく、そういった選択だったのだと……。
「いきなり、歴史かよ? おめぇ……イットとか言ったな。いかれてるぜ、実際よ。まったく、つくづく変わったもん拾っちまったなぁ。……しゃあねぇな、いまさら放り出すのも後味悪りぃし……いいぜ、付き合ってやるさ。まぁ、今んとこ、ひまだしな」
イヴァンはけっこう気軽にそう言った。
あんまり深くは考えない性質《たち》らしい。
こうして、運命の選択はなされたのである。
ちなみに、イヴァンのことを英雄視する人々にとって、理由の一つが“ひまだから”というのははなはだ納得しがたいらしく、現在編纂が進められている記録からは、抹消あるいは改竄《かいざん》されている例がよく見かけられる。
そんなイヴァンの運命の選択をろくに聞きもしないで、がさごそ手元でやっていた一斗。
ガ、ガカガ、ガ〜〜〜ン!
それは、一斗の心の中に響き渡った音だった。
さしずめ、タイトルにすれば『運命の叫び』というところか。
ようするに一斗がビデオカメラに映された映像を見ただけのことなのだけど。
「おお! なんだぁ? すっげぇもん持ってるなぁ? 人の目玉が動いてるじゃねぇか! こいつがなんなのか気になってたんだけどよ、人の目玉の絵が動く機械だったんだなぁ! 初めて見たぜ! しかも、本物そっくりたぁすげぇや!」
液晶ディスプレイに映し出された映像を覗《のぞ》き込みながら、イヴァンがひどく驚いていた。
もちろんビデオカメラは目玉を映すための機械などではない。
絶対にない。
断固としてない。
っていうか、あってはならない。
ただ、高田が使ったために、そういう機械になってしまったのだ。
おそらく普通は信じられないことだけど、レンズをファインダーと勘違いして一生懸命覗き込んだのではないだろうか?
想像するだけで、ほんっとにうんざりすることだけど……。
甘く見ていたのだ、高田を。
あの世間から隔絶した天然さを。
もしかしたら、高田こそが自分の終生の天敵となるのでは……。
というちょっとおっかない考えが、一斗の頭の中をよぎったりする。
「なぁ……ところで、人の目玉の絵を動かしてなんの役に立つんだ?」
イヴァンの一言が、一斗にとどめをさした。
「……さぁ、ね。ぜひとも、僕が知りたいね……」
さすがの一斗も、それだけ言うのがせいぜいだった。
「あんまし他人の趣味にけちつけたかねぇけどよ。……まぁ、その……なんだぁ……目玉を眺めて喜ぶってのは、ちょっとばかし褒《ほ》められた趣味とは思えねぇぞ……おりゃあ……」
言いづらそうに、はっきりとイヴァンがそう評価してくれる。
一斗は、ビデオカメラのスイッチをプチッと切ると、いきなり立ち上がる。
「さぁ、行くよイヴァン」
一斗は一切目玉のことに関して触れなかった。記憶の中から抹消してしまうことに決めたのだ。
「行くって? どこへ?」
イヴァンが聞いた。
「運命の場所さ」
それが、一斗の答えだった。
そこは、豪奢《ごうしゃ》な部屋だった。
絢爛《けんらん》さの中に、歴史の重さが潜んでいる。
贅沢《ぜいたく》ではあるけど、それ以上に重厚さを感じさせられる部屋だった。
だが、その部屋の中は明かりはあるというのに、隅ごとに底知れぬ闇が潜んでいるように感じられる。
「言い訳を聞かせてもらおうか?」
この部屋の主がそう言った。
「い、いえ……あの、た、確かに計略どおりに、事態は進んだはずなのですが……。決して、あのお方が生きてお戻りになられるはずなど……」
そう言ったのは、髪が極限まで後退しきった初老の男だった。
たいして暑くもないのにやたらと汗ばんでいる。
「ほう? 冗談のつもりか? 面白いことを言う。それとも最近の死人は、自分の足で歩くようになったのか?」
むしろやさしげにすら聞こえる声で、この部屋の主が言った。
「も、も、も、申し訳ございません……。い、い、いくつにも張り巡らした罠は、ぜ、ぜ、ぜ、絶対にうちやぶることなど不可能なはずでして……」
するともう一人の男はますます恐縮して、しどろもどろになって言い訳を試みる。
でも結局はさっきと同じことを言葉を言い換えて繰り返しただけに過ぎず、ろくな言い訳になっていない。
「ふん、結局何が起こったのかすらも、見当がついとらんということか……」
男の醜態を冷ややかに見つめながら、この部屋の主が言った。
「ま、ま、まったく申し訳ございません。ど、ど、どうかごかんべんを、偉大なる我が主よ。なにとぞ、なにとぞご慈悲を!」
男は見ぐるしいほど卑屈に許しを乞うた。相手の足にとりすがり、靴でも舐《な》めかねない勢いだ。
「ふん……それで次の手は打ったのであろうな?」
部屋の主は、男の言い分など歯牙にも掛けなかった。
「はっ、それはもう。次こそはかならずやご期待にそえるよう、身命を賭《と》して働く所存にございます」
許されたと勘違いしたのか、男は急に元気になってそう言った。
「こうなった以上、少々強引な手段を使ってもかまわん。確実にあれをしとめるのだぞ、わかっておろうな?」
その言葉に、男は深々とこうべを垂れると、
「もちろんでごさいます。このギブリ、一命に代えましてもかならず成功してごらんにいれます」
そういった。
「……退出してかまわん」
その言葉にもう一度ギブリと名乗った男は深々と頭を下げて、部屋を出てゆく。
主以外いなくなったはずの部屋の中は、いきなり闇に包まれた。
部屋の隅に潜んでいたそれこそが、この部屋の本当の姿とでもいうように。
同時に、闇の中に潜む気配がする。
「ギブリの作戦が失敗したのを確認したあと、始末しろ。もう少し、使える男かと思ったが所詮小物よ」
主が独り言のようにそう言った。
「御意。ですが、あの男は失敗すると?」
どこからともなく、男の声が聞こえた。
「むろんだ、先の計略はこのわしが考えたものよ。絶対に確実に誰でも遂行できる作戦であった。その計略をあの者にさずけ、実行させた。なのに失敗した。おそらく、相当頭の切れる軍師があやつの下についたのであろう。その者の正体を突き止める必要がある。ギブリにはそのための捨て駒になってもらう」
部屋の主がそう言うと、
「御意」
今一度声が聞こえて、あとはそのまま沈黙が部屋の中を支配した。
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第三章 今からっ
厨房《ちゅうぼう》の一角。
そこがコウの縄張りだった。
どうにか立ち上がることを覚えて、これから冒険の旅へと旅立とうとするたびにコウの目論見はあえなく阻止されることになった。
厨房の中に置いてあるものは、どれもがコウにとってはとても興味深いしろもので、おおむねコウの注意を惹《ひ》き付けずにはいられなかった。
もちろんコウとしては、そんな面白そうなもので遊ぶことをためらったりするような理由なんてどこにも見当たらなかった。
でも、レンおばさんとしてはよく焼けたフライパンや、よく切れそうな包丁とかでコウが遊ぶことに関してとても寛大にはなれないらしく、コウがそういったものに近づくたびにあっさりと阻止《そし》してしまう。
コウがどれほどうまいこと近づいても、それらの品物に手を触れるよりも早く襟元を掴まれて、空中でプラプラゆれていることになる。
でもそれはそれでコウとしてはとっても楽しいことで、レンおばさんの綺麗だけど力強い手で掴みあげられてプラプラと揺れるたびに、きゃっきゃっと声をあげて喜んでいた。
もっともそんなことくらいで、コウの探究心を押しとどめることなんてできやしない。
飽くことのない好奇心を満足させるべく、コウはくりかえし挑み続ける。
でも、どんなにコウが不屈の闘志をもって挑んでも、レンおばさんの断固たる意思の前ではあえなく空中でプラプラするしかなかった。
それから少し時が過ぎ、言葉を覚え始めて熱い鍋やよく切れる包丁が実はあぶないものだっていうことに気づき始めた頃、コウの興味の対象は他のものにも向けられるようになっていた。
とくにコウの心を惹いたのは、毎日厨房いっぱいにならべられる彩り豊かな品物たち。
とてもおいしそうな香りを漂わせて、コウの心とお腹を魅了していた。
コウとしてはそれらの品々が放つ誘惑に抵抗する必要性なんて、それこそ微塵も感じなかったから、それらを手に取ることをためらったりはしなかった。
でもレンおばさんはそのことに関しても、あんまり寛大にはなれないらしくコウの目論見はことごとく阻《はば》まれてしまった。
さらにしばらくして、コウがやっていたことは、つまみ喰いって言って、それって実はいけないことなんだという知恵をつけ始めた頃から、今度はいかにレンおばさんを出し抜くかを考えるようになった。
レンおばさんは厨房で働いているいろんな人達に様々な指示を出しながら、休むことなく動き続けている。
その死角を探して挑戦をするのだ。
でもその挑戦が成功を収めることはほとんどなく、極めて困難な挑戦だったと言わざるをえない。
たいがいの場合、いつの間にかレンおばさんに首根っこを押さえつけられてしまっていた。
それでもまれに、なんとか料理の一品を手にすることに成功を収めることがある。
それはコウにとって勝利の瞬間だった。
うまうまな逸品を口に入れ、コウは勝利の味をかみしめながら飲み下すのだ。
もっともその直後、破壊力ばつぐんの一撃がコウの頭に落ちてくることになるのだけれど。
厨房での仕事が終わると、コウはお屋敷の片隅にある小さな部屋に、レンおばさんと一緒に帰った。
おばさんは帰るとコウに文字というものを教えてくれた。
コウとしては他にも色々と知りたいことがあり、少なくともその中には文字というものは含まれていなかった。
レンおばさんは知りたいことを自分で見つけだすためだ、と言ってコウに対して一切の拒否権をあたえたりはしなかった。
でもコウは自分が知りたいことを、もっと手軽に知る方法を知っていた。
厨房にはおばさんの手足になってお仕事をする人達がいっぱいいたし、そういった人達に『どうして?』と尋ねれば、大抵の場合すぐに教えてくれた。
でもレンおばさんだけは違っていた。
コウが、
「なに?」とか「どうして?」とか尋ねると。
レンおばさんは決まって言うのだ。
「あなたはどう思うの?」
と。
もちろんわからないから聞いたのだ、返す答えは適当なものになる。でたらめと言ってもいい。
レンおばさんは、さらにコウに尋ねる。
「どうしてそう思ったの?」
と。
いつの間にか尋ねたはずのコウの方が、尋ねられる側になっていた。
コウとしてはなんだか割り切れない気持ちになったけど、うまく言葉にすることができなかった。
だからそういう時にコウがとる行動は、その場からてけてけと駆けだして、一番手近にいたおじさんをつかまえ、まったく同じ質問をするというものだった。
もちろんその理由まできちんと聞いた。
そしてもういちどレンおばさんのところまでてけてけと駆けて戻ってきて、レンおばさんの質問に答えてあげた。
するとおばさんの質問はさらに増える。
「なぜそれが、本当のことだってわかるの?」
と。
コウとしては、聞いたことをそのまま伝えただけだった。そんなこと聞かれても困ってしまう。
だから結局はこう答えるしかなかった。
「おじちゃんがそう言ったから」
だと。
でも、それはレンおばさんを満足させる答えではなかったらしく、さらに質問は続く。
「どうしておじちゃんの言うことが、本当のことだってわかるの?」
コウは考えた。一生懸命考えた。
考えてるうちにわけがわからなくなって、とっても悲しくなった。
だから泣いた。
それでも考えた。
レンおばさんは、泣いてるコウをほったらかしにして仕事に戻った。
一人で泣いてると、そのうちなんで泣いてるのかわからなくなってきて泣きやんだ。でも答えはやっぱり見つからない。
だからコウは、今度は別のおじちゃんに聞いてみることにした。
さっきと同じ質問をしてみる。すると不思議なことにちょっと答えが違った。さらに別なおじちゃんに聞いてみたら、やっぱり少し違うことを教えてくれた。
コウは本当にわけがわからなくなってしまう。
さすがにこの事態は、いささかコウにとって手に余るものだった。
だからレンおばさんに泣きつく。
「わかんないよ……」
二人して部屋に戻った後、幼い瞳をうるうるさせてコウが訴える。
「なにが?」
コウを膝の上に抱き上げて、レンおばさんがそう聞いた。
「だって、みんなお話が違うんだもん」
すこし怒ったようにコウが言うと、
「ふ〜ん? それで?」
レンおばさんはまた質問する側だった。
「それでじゃないやい! 誰のお話がほんとかわかんないもん!」
さすがにコウも怒ったらしい。
するとレンおばさんは、やさしくコウの体をあやすようにたたきながらコウに語り始める。
「それでいいの。それが当たり前なのよ、コウ」
そんなこと言われても、コウにはわからなかった。
頭の中にはただ、?マークがたくさんならんだだけだ。
「コウは、いろんなお話を聞いた。でも、そのお話がみんな違った。だからわからなくなってしまった……そうでしょ?」
それならわかる。
まさしくそのとおりだったからだ。
コウはおばさんにうなずいた。
「誰か一人のおじちゃんのお話を信じるか、それともみんなのお話を信じなくて、コウが自分で答えを探すのか……。コウは選ばなくてはいけないの」
それもわかった。でも納得はできない。
だってそれは、コウはもっともっと考えなくてはならないってことだから。
「いい、コウ。誰かを信じる、何かを信じるっていうことはとっても責任のいることなの。特に誰かを信じるってことは、ね」
おばさんの言うことが難しくなってきた。
責任とか言われても、コウの理解の範疇《はんちゅう》を超えている。
でも、レンおばさんはそのまま話を続ける。
「もし誰かを信じると決めたら、絶対に信じたことをその人のせいにしてはだめ。たとえその人から剣を突きたてられても、あなたが信じたことはあなたの責任なの」
幼いコウには、その言葉の意味は半分もわからなかったけど、でもとても大切なことなんだということがわかった。
だから、
「じゃあ、ぼく、レンおばさんのことはしんじてもいいの?」
コウがそう聞くと。
「なぜわたしに聞くの? 信じるか信じないかはコウが自分で決めなくてはならないのよ」
おばさんがちょっと突き放したようにそう言った。
でも、コウとしては答えは決まっている。
「ぼく、レンおばさんをしんじる!」
コウの言葉にレンおばさんは美しい顔に、最上級の微笑みを浮かべて、
「わたしもコウのことを信じているわ。今までも、これからも」
そう言った。
コウはその言葉に、とってもうれしくなってしまった。
「殿下、そろそろ到着いたします」
馬車の外から声がした。
美しい女性の声。
ユンフである。
「ありがとう。君達にも苦労させた」
コウがねぎらいの言葉をかける。
もうすでに王都に入り、王宮を目の前にしていた。
「ありがとうございます。でもまぁ、虎口《ここう》を逃れて蛇達の巣穴に舞い戻ってきただけのことですから、手放しで喜ぶことができないのがつらいところですが……」
ユンフは長い旅の終わりだというのに、とくに感慨にふける様子もなくそう答える。
「なんていうか……ユンフは手厳しい」
苦笑を浮かべながら、コウがそう言うと。
「そうですか? 最近は婉曲《えんきょく》な表現というものを覚えましたので、それなりに抑えたつもりなのですが」
というのが、ユンフの返答だった。
今ので抑えた表現というのなら、抑えてない表現というのはどういったものなのだろう?
ちょっと怖かったので、コウはあえて尋ねなかった。
「ほう? あれは……どうやらお出迎えのようですね、殿下」
そう聞いてコウは少しとまどった。
なにしろ和平交渉に出かけたはずのコウは、なんの交渉もできないままに帰還した。
しかも五千の兵が、帰ったときには三千になっていた。とても誇らしい凱旋《がいせん》などとは言えない。
そのことを恥じるつもりはないにしても、自慢になるようなことではないのも確かなこと。
そこのところは、王政府も承知してるはずなのだけど。
でもコウが悩んでいたのは、わずかな時間のことだった。
すぐに出迎えっていうのが、誰のことだか見当がついたからだ。
馬車の引き戸を開けると、前方にコウが想像したとおりの出迎えの人物が見えた。
毛並みのいい栗毛の馬にまたがり、剣士ふうのいでたちをした美しい少女。
ユンフと以たような格好だけれど、見た目はまるで違う。
ユンフの姿は、そうしていることがとても自然で、男のような格好はしていても女性としての美しさを微塵もそこなうものではない。
さりげなく耳につけてあるアクセサリーや、鎧の衣装にも自分に一番よく合っているものを選んである。
戦場にあっても、それだけの配慮ができるだけの余裕がユンフにはあった。
でもその少女はことさら飾り気のない男物の服を着て、アクセサリーは一切身につけてはいなかった。
その姿は到底自然になど見えず、かなり無理をしているなっていうのが、彼女を見た人が一様にいだく感想だろう。
「兄さま、よくぞご無事でお戻りになられました」
駒を近づけて来た少女が、コウに向けて出迎えの挨拶をする。
声が微妙に震えていて、颯爽《さっそう》としているとはとてもいかないところが、可愛かったりするのだが。
コウが馬車の扉を開けると、少女は手綱をユンフにあずけてとび込んでくる。
少女の名はクーリフォン=トウマ=ユウリ。セイリアン王国の第三王位継承権を持つ姫君である。
「ただいまユウリ。でも、よくわかったね」
ユウリを抱きとめながらコウがそう聞くと。
「先触れで城にお入りになられたグリフ伯が、知らせてくださいましたの」
と答えをかえす。
「なるほど、そうだったか」
コウはそんな指示は出していない。グリフ伯の心遣いだった。見かけによらず、こういった細かい気遣いをする男なのだ。
「でも兄さまはひどいですわ。わたくしになんのお話もされずにお出かけになられるなんて。兄さまをお助けするために、ユウリはたくさん修行をしてまいりましたのに」
コウの大半の女性より美しくやさしげな瞳を、まっすぐに覗き込みながらユウリが言った。
コウとしては苦笑を浮かべるほかなかった。だからこそ、ユウリとは会わずに出たのだから。
ユウリは剣の腕に秀でていて、すでにコウと互角かあるいはそれ以上かもしれない。
コウ自身もそれなりにすぐれた剣客であったから、少女であるユウリの資質が抜きんでたものであることは十分に承知していた。
だからといって、和平交渉とはいっても背後になにやらきな臭い動きが感じられる。今回のような役目に、妹であるユウリを同行させるなどできようはずがない。
そしてその不安は的中して、あと一歩というところで最悪の事態になりかけたのだ。
コウ自身としては、自分のとった行動をまったく後悔などしてはいなかった。
「今回はこうして無事に帰ってこられたんだし、それで許してほしい」
ようやくユウリの力のこもった抱擁から解放されたコウが、そう許しを求めた。
後悔してないことと、可愛い妹を怒らせたこととは別物だからだ。
「いいですわ。でも何があったのか聞かせていただけますわね? ここのところ耳に入ってくるお話は、どれもろくでもないものばかりで……。ユウリはもう兄さまのことが心配で心配でたまらなかったんですの。こうして兄さまを手でつかまえていましても、まだ不安でたまらないのです」
ユウリはコウの右手にすがりつくようにして、両手でその身にかきいだいている。
コウは少し迷った後、真実を伝えることにした。
下手なごまかしは、さらに妹を不安がらせるだけだと判断したからだ。
「スメルナ帝国との和平交渉。そのために、帝都ラシュクに向かっていた……」
コウがそう語り始める。
なんの障害もなくラシュクのすぐ近く……つまりスメルナの一番奥深くにまで、わずか五千の兵とともに入り込んだとき突然の襲撃を受けた。
「なんて卑怯《ひきょう》な! スメルナの連中、許せないですわ! ユウリがいつかきっと思い知らせてやります!」
義憤にかられる妹を、コウは「まぁまぁ」となだめて、続きを話す。
そのときの襲撃はユンフやグリフ伯の働きでどうにか切り抜けることができたけれど、かなりの犠牲を出してしまうことになった。
五千の兵が三千になっていた。なんと、この襲撃で四割近くの兵を失ってしまったのである。
コウは和平交渉をあきらめ、そのまま帰還することを選択せざるをえなかった。
ところが敵はその帰路にも伏兵を配し、コウとコウの率いる部隊の殲滅を図っていたのである。
「な、なんということを……。では兄さまが無事に戻られたのは、ユンフさまやグリフ伯のおかげなのですね? なんと礼をしてよいか……それに兵達にも……」
ユウリはあまりの展開に絶句しながらも、謝意の言葉をつぶやく。
でも、
「いや、そうじゃない。私達が助かったのは援軍があったからなんだ。私達だけだったら、間達いなく殲滅させられてしまっていただろう」
と言いながらコウは首を横に振った。
「まあ、それではその援軍を率いていらした方が、兄さまを救ってくだされたんですのね?」
というユウリの言葉に、コウはふたたび首を振って答えをかえす。
「いや率いたりはしてないよ。なにせ援軍っていうのは一人だったからね」
その言葉にユウリは一瞬我が耳を疑った。
「お、お一人……ですの? ……もしかして、それってとてつもなくお強い勇者さまですの?」
それがユウリの出した結論だった。
普通の馬の倍はありそうな駿馬《しゅんめ》にまたがり、長大な剣で周り中の敵をなぎ倒す。口元には涼しげな微笑みが浮かび、整った顔に清涼感を与えていたりする。
そんな勇者の姿がユウリの頭の中には浮かんでいたのだ。
「たぶん、それって違うよ」
なぜかコウは笑いながら、ユウリの想像を否定する。
「駿馬をお持ちではないんですか?」
勇者さまとはいっても、そんなことだってあるだろう。
「たぶん持ってないだろうね。ユンフの前に抱きかかえられて馬にまたがったのが、生まれて始めて馬に乗った体験だったと言っていたから。……そういえば、ひどい股ずれになったってボヤいてたなぁ」
その答えは、ユウリにとって、ちょっとした衝撃だった。
馬に乗ったことがないだなんて、まるで何の訓練も受けたことのない平民のようではないか。
「では、馬に乗らなくっても、とんでもなくお強い方なのですか?」
ユウリが恐々《こわごわ》っていう感じで聞くと。
「う〜ん。たぶん一対一でユウリと戦えば、まず間違いなくユウリが勝つだろうね。もっとも、まともに戦って彼に負けることのできる相手がいるかどうか……これまで剣を持ったことはないんだとか言ってたし……」
ユウリはコウの話を聞いてるうちに、だんだん頭が痛くなってきた。
「兄さまのお話を聞けば聞くほど、その方はとんでもなく頼りなさそうに聞こえますわ」
ユウリとしては未《いま》だ半信半疑っていうとこだったのだけど。
「そうだね。彼くらい頼りなさそうな人物はそうそういないだろうね」
コウがそう保証してくれた。
「それでは少しも援軍にはなってないではありませんか! もしかして、ユウリのことをからかっているのですか、兄さま!?」
少し声が大きくなる。ちょっと怒ったのかもしれない。
「まさか? 私はほんとのことを言っただけだよ」
そう言ったコウの口元には笑みが浮かんでいた。ユウリはめざとくそれを見つける。
「やっぱり本当はユウリのことをからかわれていらしたのですね? でなくてはそのような方が、援軍などであるはずがありませんわ」
今度はすねたようにユウリが言った。
コウはその言葉に微笑みだけで答えて、そのまま先を続ける。
敵の伏兵の襲撃を受けたときのこと。敵の策にのせられてしまい、コウは敵中で味方の兵と切り離されてしまったこと。
敵の追撃から逃れるためだけど、コウの向かう先にはすでに兵が配されていたのだ。
「なんという……」
ユウリはこうして実際にコウの無事な姿を見ているにもかかわらず、その状況の困難さを想い胸をつまらせる。
「それで……それでどうなったのですか? 兄さま」
不安にかられながらも、ユウリは先をうながさずにはいられなかった。
「そこに彼が現れたんだ」
「その頼りない援軍ですの?」
ユウリにはいまひとつ納得がいかなかった。なんだってそんな男が援軍になるのだろう? なにしろ一人で馬に乗ることもできず、聞けばろくに剣も扱えないような男なのだ。
そんな考えが、めいっぱい表情に表れていたのだろう。
「そんな顔しないで、姫様。人には向き不向きがあるというだけだから。実際こうやって帰ってこれたのは間違いなく彼のおかげだしね」
なだめるようにそう言うと。
「子供扱いしないでください! こう見えましてもその辺の殿方より、剣の扱いには自信がありますの!」
ユウリがむくれてみせる。こういったところが子供っぽかったりするのだけど、でもこういう部分を見せるのが自分だけだということもコウは十分に承知している。
「そうだね。ユウリは強いよ。でもあの時必要だったのはそういった強さではなかったんだ。敵の策略を逆手にとり、味方の損害を極力少なくして敵に追撃不可能なくらいの逆撃を与えつつ撤退を完了させる。それが彼のしたことだった」
それを聞いたユウリは目を見張った。
まるで手品かなにかのように聞こえたからだ。
でも、それで話は終わりではなかった。
「とりあえずその場はそれで切り抜けた。でも、まだ帰路の途中には敵兵が伏されていた。もちろんそのことを見破ったのも彼だった」
「ま、まだあったのですか?」
信じられないといった感じでユウリが聞く。
「そう。最後の罠。そして、これこそが敵の仕掛けた最大の罠だったんだ」
コウが表情を殺してそう言った。
ユウリの喉が小さく鳴った。
緊張しているのが傍目《はため》にもわかる。
「……それで、どうなったんですの?」
レグレスタ街道。
カルファ山脈の中心部を貫く細く長い道。その先にはシシュタリカ草原……セイリアン王国の領土が広がっている。
そこに敵兵が伏兵として配置されていた。
「ま、まさか……だってそこは我が国の領土ではありませんか! いくらなんでもそんなこと……駐留軍もいるはずでしょうに……」
「そう、本来ならね。でもその時はなぜかたまたま、駐留軍はファイハンツ侯の下で歓待をうけていたんだ」
その陰になにがあるのか……コウはあえて触れなかった。
「そう、ですの……」
ユウリにも十分心当たりがあるので、あえて触れるようなことはしない。
「でも、そうなれば兄さまにはとんでもなく不利になる。あの場所こそ、セイリアン王国とスメルナ帝国が百年にも及んで争いを続けてきた原因になっているのですから……」
レグレスタ街道を抜けた先、セイリアン王国側にはシシュタリカ草原が、スメルナ帝国側にはイルアンタ荒野が広がっている。共に大規模な兵をたやすく展開させることができ、代わりにレグレスタ街道を軍が通り抜けた先には敵の包囲が待ち受けていることを意味していた。
どちら側が攻め込むにしても、相当の損害を覚悟しなくてはならない。
二つの国が交戦状態に入って百年の間に、何度も繰り返されてきたことだ。
そのたびに確実に五桁にのぼる数の将兵の命を奪い、その地を血に染めてきている。
誰もが知っていることだった。
それだけにユウリには、兄が置かれた恐ろしいくらいに困難な状況が我がことのように理解できた。
敵に追われ、逃げ帰る先にいるはずの場所には味方はいず、代わりに敵の兵が待ち構えている。
しかも二つの国の歴史上、最悪の悲劇を生み出し続けてきた場所に……。
そのことがわかった段階で、絶望にくれても不思議ではない。
兄のことを想い、落ち込んでしまうユウリ。
それを見たコウは笑顔でこう言った。
「でもね、ユウリ。兵はいたけど、結局なんにも起こらなかったんだよ」
「えっ? それじゃ、戦闘は?」
なんだか狐につままれたような顔をして、ユウリが尋ねる。
「そう、戦闘は起きなかったんだ。たった三通の報告書によって、敵はシシュタリカ草原を離れ、本国へと帰還してしまった」
コウはいたずらっぽい微笑みを浮かべてユウリに聞く。
「その報告書に、なんて書いてあったのか聞きたくない?」
もちろん聞きたかった。その報告書に魔法がかけられていた……なんてことを言われても、今なら信じるかもしれない。
「ぜひ、お願いしますわ」
好奇心に瞳を輝かせるユウリに、コウは少しだけ同情した。
真実を知ったら、たぶん今とは違う感想をもつことだろう。
「一通目の内容は……」
“我、敵ニ完勝セリ。貴君ラノ役目ハ完了ス。タダチニ帰還スべシ”
「二通目は……」
“我、敵ノ反撃ヲ受ケテコレ以上ノ戦闘ヲ断念セリ。貴君ラハ作戦ノ継続ヲサレタシ”
「っていう内容の報告書を、敵の連絡兵をよそおわせて送った」
そう言ったコウに、ユウリはいまひとつ納得しかねる様子で、
「なんだか、まるで反対の内容ですのね……。それで、三通目の内容って何でしたの?」
そう聞くと。
「さあ? なんだったんだろうね?」
まるで他人事《ひとごと》みたいにコウは答えた。
「兄さま! なんだか兄さまお人が悪くなられましたわ! ユウリのことを、からかったりして楽しいですの?」
またユウリの機嫌をそこねたらしい。
「本当に知らないんだ。その手紙を書いたのも持っていったのも敵兵だからね」
そうコウが話すと、ユウリは。
「兄さまごめんなさい。うたがうようなこと言ったりして……」
すぐにしょんぼりしてあやまった。
「でもなぜですの? 敵の連絡兵をわざわざ通すくらいなら、敵にこちらの偽造文書を渡したところで無意味でしょうに?」
そういうユウリの疑問はもっともだった。
でも、
「そう思うだろうね、普通は。自分も最初彼から話を聞いたときそう思った。でも、彼の本当の狙いは別のところにあったんだ」
コウはまだ結論を話さない。
どうやら演出のつもりらしい。
ユウリはそれに引き込まれるようにして、生唾《なまつば》を飲み込み身を乗り出してきた。
「自分たちの部隊は近くにある村をいくつか回り、そこで現金のすべてを食料に換えた。和平交渉に使うはずだったつもりの資金が大量にあったからね、半年くらいは兵たちがたらふく食べていけるだけの食料が手に入ったよ」
でも、コウはまるで話をそらすように別のことを話し始めた。
「?????」
ユウリは話の変化についてゆけなくてとまどっている。
「こちらが送り出した連絡兵にはそのことを報告しておくように言い渡してある。そして、敵の本物の連絡兵も同じことを報告したはずだ。かなり派手にやったから、それこそ懇切丁寧に逐一《ちくいち》報告したはずさ」
「?????」
ユウリはまだとまどっている。一体、兄さまは何が言いたいのか?
「三通とも違う内容の報告書と三人とも同じ内容の証言。もしユウリが敵の司令官だったらどちらを信じる?」
「もちろん証言のほうですわ。……でも、なんでそんな手のこんだことを……」
ユウリはしばらく考えて、ある一つの結論を導き出した。
「そうか、そういうことでしたの。その報告から導き出される結論は、敵が長期戦にそなえようとしているということ……。つまり敵の司令官にそう思い込ませるのが狙いだったのですね? そして、報告書……あるいは指令書の内容をわざと不確かなものにして、独自の判断で動かざるを得ない状況に追い込んだ……」
そう、援軍の彼は確かにたった三通の報告書で最後の敵の司令官を追い込んだのだ。
敵側のシナリオはこうだった。
自分たちは絶対的に有利な場所で待ち構え、現れたところを殲滅する。
それはほとんど一方的な戦いになるはずだった。
でも、自国側の出口で同じことを自分たちが殲滅するはずだった敵がしかけようとしている。
しかも、長期戦に備えて兵糧の準備もおこたりなく。
計画どおりならば、長期戦の備えはしていなかったはずだ。当然そうなれば彼らは先に兵糧が尽きてしまう。そうなれば、戦う以前に自滅する。
でも今なら。
敵の包囲ができていない今なら、無事にイルアンタ荒野を抜けることが可能であった……。
そんな敵の司令官の考えが、手に取るように想像できた。
ていうか、この状況に置かれたら他にとるべき道はないように思われる。
「そう、そのとおり。敵は一気にレグレスタ街道を抜けてそのまま僕らの目の前を駆け抜けていったよ。後は、敵のいなくなったシシュタリカ草原を抜けて帰ってきたんだ」
ようやく、コウ達の苦難に満ちた旅も終焉《しゅうえん》を迎えたわけだ。
まぁ、いささかあっけない幕切れではあったにしても。
「さぎ……ですね……」
つぶやくようにユウリが言った。
「んっ? なに?」
うまく聞き取れなかったコウがもう一度聞き返す。
「まるでペテン師です」
今度ははっきりとそう言った。
どうやら、あまりお気にめさなかったらしい。
「でも、彼がいたからこうして帰ってこれたのだけどね?」
そのコウの言葉にユウリは……。
「わかってますわ。それだからこそ、くやしいのです……」
「んっ?」
今度はコウが頭をひねる番のようだ。
「そうだ、そのペテン師のお方はどこにいらっしゃいますの? ぜひ、お礼を言わせていただきたいですわ」
なんだかとっても怒ったようにユウリが言うと。
「いないよ、この作戦を教えてくれた後すぐに帰ったからね」
その言葉にユウリは耳を疑った。
「な、なんですって? 帰った、とそう言われるのですか?」
「たぶん、そうだと思う……。あのときはいきなり消えたから」
「む、無責任な! なんて、無責任な! ご自分で考えた策を最後まで見届けることなく、ほったらかしにして逃げてしまうなんて! 兄さまそんな人間を信用してはいけません! 兄さまはこのユウリがかならずお守りしてみせます!」
どうやら、ユウリにとって一斗の印象は最悪のものとなってしまったみたいだった。
「まいったなぁ。私の唯一のダチなんだけど……」
頭をかきながら、ほんとに困ったようにコウが言った。
「それに、『僕が一番必要なときにまた会いにくるよ』とか言ってたし……。逃げたっていうことじゃないんだと思うのだけど……」
でも、ユウリはかたくなだった。
「いいえ、信用できませんわ。一度逃げた者はまた逃げるに決まってますわ。それにそんな戦士でもない男のことなど私は信用いたしません。兄さまもそのようなやからを信用しましては、きっと裏切られるに決まっております!」
どうやらユウリの根底にあるのは嫉妬のようであるらしかった。
兄さまを守ったのが自分でなく、どこの誰とも知れない男。しかもろくに剣すら扱えないような。
コウはそのことに気づいたけれど、あえて指摘するようなことはしない。
代わりにこう言った。
「いいかいユウリ。私が信用した人間が私を裏切ることは絶対にできないんだよ」
ユウリはとまどう。彼女の常識からしたらそんなことなんてありえないからだ。
「そんなこと、あるはずないですわ。裏切る人間なんてそこかしこにいますもの」
そう、ユウリも王家の人間だった。
宮廷に繰り広げられる様々な謀略劇を、いやというほど見せつけられて育ってきている。
どれほど純粋に見えても、それが王家に生まれた者の定めと言えた。
「それでも、さ。それでも私のことを裏切ることは絶対にできない。私が信じた人間が目の前で毒を水に入れて飲めと勧めたら、私は喜んでそれを飲み干す。私が信じることをやめない限り絶対に裏切ることはできない。そして、私は信じることをやめることは決してない。だから私を裏切ることは誰にもできない。どう? けっこう簡単なことだろう?」
さすがに、ユウリは絶句した。
「……そ、それって詭弁《きべん》ですわ。そんなことできるはずが……」
そんなユウリの言葉に、
「なぜ? けっこう簡単だと思うんだが。……もっともダチは私のことを変人だって言ってたな。まぁ、あっちもあっちでかなりの変人だったから、おあいこかもしれないな……」
なにか、感慨深そうにコウがそう言った。
そんなコウを見て、ユウリは改めてこう思うのだ。
“兄さまは、絶対にあたしが守らなくては”と。
そのために、その変人をこれ以上兄さまに近づけまいともユウリは心に誓った。
「そろそろ、サイラス門にさしかかります」
そう声がした。
ユンフだった。
短いくつろぎの時は過ぎ、
「蛇達の巣穴に戻ってきたな……」
コウが少し憂鬱そうに言った。
「蛇達の巣穴ですか? 兄さまが考えられたのですか?」
すこし意外そうにユウリが聞くと。
「いや、ユンフだよ」
とコウが答える。
「なるほど……」
ユウリは妙に納得してしまった。
その頃一斗は、生活指導室に呼び出しをくらっていた。
「さぁ、どういうことなのか説明していただこうかしら?」
教師にしておくにはもったいないほどの美貌と、ナイスバデイを持ったおねぇさんが言った。
目の前にはテスト用紙が並んでいる。
そのほぼ半数の解答欄には丸印が付いていた。
「えっと……。いつもと大して変わらない点数だと思うんですが」
いつも良くも悪くもない点数をとっていた。
目立たないこと。
それを一斗は常日頃から心がけている。
当然、平均的な点数をとるということもその中の一環だ。
「そうよねぇ。確かに、いつもと変わらない点数よねぇ」
教師のおねぇさんは、なんだか妙に色っぽい声で言った。
「はは……」
一斗はなんだか少し力なく笑った。
教師のおねぇさんの色気たっぷりの笑顔が、ちょっとおっかなかったりする。
「あなたに渡したテスト用紙だけ、実は違うものなの。……とっくに気づいてるんでしょ?」
おねぇさんの唇に塗られたルージュが妙に眩《まぶ》しい。
まるで血の色みたいだ。
「え〜、ぼくとしましては、これから前向きに善処いたします所存でありまして。以後努力いたします……。というわけで失礼いたしますです」
いきなり国会答弁をやって、勝手に退出しようとした一斗。
ぎゅっ。
腕を掴まれた。
それだけで動けなくなる。
もちろん、振りほどくなんて不可能だ。
なにしろ力で一斗に負ける人間なんて、そうそういやしない。
「まぁそんなにあわてないで。もう少し、ゆっくりしていきなさい」
もちろんそれは強制だ。一斗には選択の余地がない。
放してくれないんだから、しかたがない。
「わかりました……。一応僕ってけが人なもんで、お手柔らかにたのみますよ」
ため息をつきながら一斗は再び向き直る。
どうせ逃げられっこないし、このおねぇさんは簡単にはあきらめてくれそうもない。
「うれしいわ、秋月君。やっと先生とお話ししてくれる気になったのね?」
その言葉だけを聞けば、しごくまっとうな教師に思えるけど、でもあまりに色気があり過ぎる。
「戌井《いぬい》先生、最近女子に評判悪いですよ。……もっとも男子の人気の方は、うなぎ登りみたいですけど」
もちろん一斗もこのおねぇさんのことは嫌いではない……遠目で見ている分には。
正直彼女くらい妖《あや》しさいっぱいの教師もめずらしい。うさんくさいと言い換えてもいいくらいだ。
でも、うさんくさいことなら一斗も引けをとらないだろうけれど……。
「まぁ、それは光栄だわ。女の嫉妬と男の視線を一身に集める……。女の理想だと思わない? 秋月くん?」
一体なにをしに、学校に来ているのだろう?
この女《ひと》って……。
一斗は、内心そうつぶやいていた。
でもまぁ、そこのとこをあんまり深く追求すると、一斗の場合我が身に還ってきたりする。
「そうですね。先生はすごいです。誰も先生の魅力には勝てっこないです」
まったく気の入らない声で、一斗がほめちぎる。
「ありがとう。でも、君に先生の魅力がわかってもらえてないようなのが、少し哀しいわ」
妖しさいっぱいに微笑みながら、戌井先生が続ける。
「でもね、今日はそんなお話をするために来てもらったんじゃないのよ。……ちゃんと説明してもらえるわよね?」
戌井先生の舌が唇の上をすべっていった。
なんだか喰われちゃいそうだな、なんて不謹慎なことを思いながら一斗が口を開く。
「先生のご想像におまかせします……っていうのはダメ?」
一応最後のあがきをしてみるが……。
「ダメ」
の一言が返ってきただけだった。
「やっぱし……」
実際のところ、普段なら考えられないようなヘマをやらかしたのだ。
そのことに気づいたのは、なんと答案用紙を渡した後だった。
一斗のやっていた試験問題だけ、他の生徒のものとはまったく別物だったのだ。
しかもその内容っていうのが……。
「これって、大学入試の二次試験の問題よ。二問を九十分で解くように作ってあるの。なのに君って全五十問中二十六問を解いてしまっているわ。しかも試験時間内の四十五分間でね。言っとくけどカンニングした……なんてつまらない言い訳は通らないわよ」
それはもっとだ。
他の生徒とは問題が違うから写せないし、参考書や問題集を眺めながら一問四十五分かかる問題を、二十六問も解くなんてのは不可能だ。
「ちなみにあたしでも四十五分じゃ、せいぜい十問くらいしか解けないわ」
とどめをさされた。
でも、十問解くのだって十分普通じゃないと思うのだけど……。
一斗としてはそう突っ込みたいところだけど、やめておくことにする。
そういうのを墓穴を掘るっていうのだ。それに、墓穴ならもう十分に掘っている。
「まぐれ……っていっても通らないでしょうね?」
戌井先生の口の端がつりあがった。
ちょっと怖い。
やっぱりダメみたいだ。
「ただ目立ちたくなかっただけなんですけどねぇ」
一斗が白状した。
あのとき、わざわざ戌井先生が一人一人答案用紙を配って回ったあの時。
ノーブラだった。
胸の谷間がスーツの間からこぼれていた。
教室の男子の目が釘付けになっていた。
もちろん一斗もその中の一人だった。
当然、答案用紙をろくに見てなかった。だからろくに考えることもなく、ほとんど条件反射で解いてしまったのだ。
一斗が本能に負けた瞬間だった。
もっとも一斗の場合、本能には負けっぱなしだったりするのだけれど……。
「そう……目立ちたくないの……。秋月くん、君って何か隠してるでしょ?」
いきなり戌井先生が言った。
もちろん、隠していることばかりだ。
「さぁ? ちょっと心当たりがありすぎて、見当がつかないんですけど」
これもいつものことだった。
「あたしがお付き合いしてる男性の中の一人に、弁護士さんがいるの。その人からあなたのことを聞いたのよ」
なるほど、そっち経由で目をつけられたってわけか……。
一斗は納得する。
「それで、ぼくに何をしてほしいと?」
単刀直入に言った。駆け引きしながらっていうのも捨てがたいけど、今はちょっと時間がなかった。
あっちの世界に用がある。
行ける時間が限られていて、いつでもっていうわけにはいかないのがつらいところだ。
「あら? けっこうせっかちなのね? あのひとから聞いてたのとは少し違うわね……。それとも、何か用事でもあるのかしら?」
けっこう鋭い。
まさに大人の女性って感じだった。
「いやだなぁ先生。単に先生の前から逃げだしたいだけですよ。頭っからバリバリ食べられちゃいそうなんで」
一斗も一斗でそんなことをシレッとして言う。
「ふふっ。やっぱり君って楽しいわ。……どう、あたしとお付き合いしない?」
このおねぇちゃんには、教師の倫理とかモラルとかいうものがないのかもしれない。
「はは……。いくらなんでもそれって怖すぎるんで、やめときます。他に僕のできることでしたらなんなりと」
「あら、それは残念ねぇ。仕方ないから代わりのお願いをしてあげるわ」
そう言いながら、戌井先生は胸元の谷間から何かを取り出そうとし始める。
もちろんその様子を生唾を飲みながら、スーツの中身を透視しそうな勢いで一斗が眺めていたのはいうまでもない。
「はい、これよ。これをあなたに調べてほしいの」
取り出されたものを見たとたん、スーツの中身は気にならなくなった。
それは、弾力性を持ったカード状の金属。
銀色に輝いている。
一斗もそれと同じものを持っている。
間違いなくそれは、あっちの世界への鍵だった。
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第四章 よし!
「ったくおりゃあこんなとこで、一体何やってんのかねぇ」
イヴァンがぼやいた。
もう何度ぼやいたかわからない。
永遠の謎《なぞ》だった。
ただ確かなことは、一昨日の夜からぼやき続けているっていうこと。
このままいけば、ぼやきの達人になれそうな気がしてきていた。
イヴァンとしては、あんまりうれしくはないが。
実際のところ茂みの中でこそこそと生息していれば、そのうち芋虫にでもなったような気がしてきたりもしよう。
人によってはネズミになったりもするらしいが、イヴァンはねずみが苦手なので芋虫だ。
ただしイヴァンの名誉のために断っておくが、決して芋虫が好きというわけではない。
たんに気分の問題だった。
「はぁ〜っ。やっと夕方かよ」
茂みの中から赤くなった空を見上げる。
なんだか、人生の悲哀をひしひしと感じていた。
カース大通りで一斗を拾った。
まぁ、そこまではよかった。感覚的には捨て猫を拾ったのとあまり変わらなかったからだ。
究極に弱々しかったし、イヴァンにしてみれば手荷物が一つ増えたくらいのものだった。
でも、この手荷物は口をきいた。それもとんでもなく能弁だった。
イヴァンがどうあがいてみても、ずるずると相手のペースに巻き込まれてしまうくらいに。
なんだか、悪い夢でも見ているような気がしてくる。
強さにかけては、誰にもひけはとらない。
イヴァンはそう自負しているし実際そのとおりなのだけど、不幸なことにイヴァン自身の役にはあんまり立っていなかった。
傭兵の仕事を求めてこの国にやってきたのだけれど、実際それほど傭兵稼業が好きなわけでもない。
ただ剣の技以外に、これといって才能がないからやっているだけのことだ。
もちろん、修行は毎日欠かさずきっちりやっている。物心ついたときから続けているから、食事をするのと大差なく、そうすることがイヴァンにとって普通だった。
特に好きだとか嫌いだとかいう感覚もない。
ふらふらと傭兵稼業を続けてきて、気が付いたらもうじき二十代が終わろうとしていた。
家庭はおろか、今のところ彼女すらいない。
もちろん何人かとお付き合いをしたことはあるのだけど、みんな他の男と結婚してしまっていた。
けっこう見た目が良く、がたいも剣の腕も並外れている。でも、とことん生活力に欠けていた。
イヴァンは遊ぶ相手としては、ちょうど手頃だったのだ。
まぁ早い話、もてあそばれたってことだ。
他人から見ても、あまりろくな人生を歩んでいるとは言いかねた。
……そして止《とど》めに、一斗を拾ってしまった。
イヴァンが赤く染まった空を見上げて、悲哀にくれたりなんかするのもうなずける。
「あいつが言うのがほんとなら、もうそろそろのはずなんだが……」
この茂みの中で生息を始めて、じきにまる二日がたとうとしていた。
気の早い星がいくつか空に瞬き始めた頃。
「あれか?」
周りには貴族の屋敷が立ち並ぶ通りの向こう側から、一台の馬車が近づいてくるのが見えた。ちなみに今イヴァンがいる茂みも、どこかの貴族の敷地のようである。
貴族の馬車にしてはひどく地味で、長距離を移動するための実用本位の馬車のようだ。
ただその前と後ろを、いかにも実戦馴れした様子の騎士がそれぞれ二騎ずつ護衛しており、中に乗っているのが身分のある人物なのだと思わせる。
「護衛つきか?」
運命の場所とか言ってここに連れてきたとき、一斗はこう言っていた。
「明後日の夕方、ここでえらいさんの馬車が襲撃されるから、あぶなくなったら助けてね」
と。
それだけだった。
「で、助ける相手って誰だ?」
と聞くと。
「助けたらわかるでしょ? 別に聞くまでもないって」
と言われた。
まぁ、そんなものなのかなぁってイヴァンは納得する。
でもせめて、どうして二日もこんなところにいなきゃならないのかくらいは、教えてほしいところであった。
で、聞いたら。
「わかるでしょ? 今からいたほうがいいって」
と言われた。
もちろん、イヴァンにわかるはずなどなかった。
それで本人はどうしたかっていうと、
「そんじゃ、後よろしく!」
とか言って、どこかに消えていった。
イヴァンは無責任という言葉の意味を、たっぷりと実感したのだった。
少し様子を見ている間に、馬車は敵に挟まれてしまっていた。
前方と後方、それぞれ五十騎ずつ。
身元がわかるような装備はしていなかったが、おそらくどこかの正規兵だろう。
なにしろ、装備がみんな一緒だ。
すぐにわかる。
正直、貴族という生き物は、あんまり好きではなかったが、
「ほっとくってのもなぁ……」
しかたなさそうにイヴァンがぼやく。
そのとき。
「タリオ、フォン、ジックこちらに来い。前方に切り抜ける」
そう指示を出しながら、馬首をめぐらす美しい騎影。
「こ、これはぜひ助けねぇと!」
急にやる気になったイヴァン。
そのノリで茂みの中から身を乗り出す。
「だれだ!?」
美しき女騎士から誰何されるイヴァン。
「ま、まってくれ。おれは……うぁっ!」
みなまで言う前に、いきなり斬りつけられた。
「見てのとおりこちらは立てこんでいる。用があるなら、後日にしてもらおう」
言う前に斬りつけるか? 普通?
そう考えながら、イヴァンはその美しい女騎士のことを、あぶない女騎士へと修正する。
「は、はなしくらい……うひゃっ!」
変な声をあげながら、イヴァンがとびのく。目の前を剣先が掠めていった。
どうやらとりつくしまもない、という言葉を実践するつもりのようであった。
「まて、ユンフ!」
そう言って、三度切りかかろうとしていたユンフを止めたのはコウだった。
「このような怪しげな男、早々に始末しておけばあと腐れなくてよろしいと思いますが、殿下?」
平然と、そう言ったのはユンフ。
それを聞いたイヴァンは引きつった笑みを浮かべながら心の中で、ユンフのことをあぶない女騎士から、とってもあぶない女騎士へと修正した。
「私に心当たりがある……」
そう言って、コウは馬車から飛び降りるとイヴァンのそばまで歩いてくる。
まるで、敵にかこまれているとは思えない優雅さで。
「兄さま! あぶのうございます!」
そういって後を追いかけてきたのは、これもまた目を見張るような美少女だった。
もちろんコウにべったりの、ユウリである。
手にはすでに抜き身の剣を持ち、コウの前に急いで回り込もうとしている。
どうやら、コウのことを守ろうとしているらしい。
「そこの者、何者か?」
剣を突きつけながら、貴族らしい言葉で誰何する。
構えはきれいだし、すじはよさそうだけど足が僅《わず》かに震えている。
おそらく実戦の経験はないのだろう。その様子がとっても微笑ましい。
人の顔を見たとたんいきなり斬りつけてくるような女とくらべたら、それこそ天使のように見える。
「イヴァンってんだ、お嬢ちゃん」
微笑みを浮かべながら、イヴァンが言った。
「わ、わ、わたしは剣士だ! ばかにするな!」
なんだか、イヴァンの発言が気に障ったらしく、いきなり怒りだした。
「ユウリ」
おだやかにコウが言うと、ユウリはふくれたまま黙る。
「こういう状況なので手短ですまないが、礼を言っておく。ありがとう」
コウが頭を下げる。
正直いってイヴァンは驚いた。
こんな貴族なんて見たことなかったからだ。
こんなとき普通の貴族ならこういうのだ。
「われを守らせてやろう」
と。
えらそうではあるが、それが貴族というものだ。
間違っても傭兵ふぜいにお礼なんて言わないし、ましてや頭など下げるわけはない。
かなり変わり者の貴族だ、とイヴァンは思った。
でも、決して不快ではない。
「ああ、俺は貴族さまへの口の利き方なんて知らないからよ、無礼になったら許してほしいんだけどよ……。あんたのことは気に入ったよ。まぁ、よろしくな」
イヴァンが答える。
誰が聞いても無礼としか言いようのないセリフだった。
もっとも、コウだけは違う意見を持ったらしく、
「こちらこそよろしく、イヴァン」
なんだかうれしそうにそう言った。
「殿下、そろそろお支度を」
敵との距離がかなり狭まっていた。
周りを囲みながら、慎重に近づいてきている。
絶対に隙をつくらず、確実に包囲をするつもりなのだろう。
誰一人逃がさない。
その意思がひしひしと伝わってくる。
状況はかなり悪い。
五対百という数の差を考えれば、どうしてもそうなる。
というか、ほとんど絶望的といってもいいくらいだ。
でも、誰一人あきらめている様子はない。
「兄さまは、絶対にわたくしがお守りします!」
美少女が強気で言うと、
「あまり無理しないように。けがでもするとつまらないからね」
コウが笑って言った。
この状況で無理するな、なんていうほうが無理なような気もするが……。
馬車から馬を解き、コウとユウリが跨《またが》った。
馬車はこの場に放棄する。
足の遅い馬車で、この場を切り抜けるのは困難であろうと判断したのである。
「イヴァンは乗らないのか?」
馬上からコウが聞くと、
「ああ、邪魔になるからな」
そうイヴァンが答える。
コウとしては、一体何が邪魔になるのかひどく理解に苦しむところだけど、あえて尋ねることはしなかった。
どうせ、すぐにわかることだからだ。
「それじゃ、行こうか」
まるでピクニックにでも出かけるみたいに、コウが宣言すると。
「御意」
ユンフが短く答え、
「目にものみせてやりますわ!」
ユウリが強気で宣言し、
「「「お供いたします」」」
タリオ、フォン、ジックの三人がなぜかハモり、
「それじゃお先!」
といって、イヴァンはいきなり駆け出した。
結論から言えば、包囲しようとしたのがまずかったのだ。
確かに人数的には多数対少数である。
そのまま押し包めば、目標を殲滅できる。
そのこと自体は間違いではない。
セオリーどおりの選択であろう。
ただし、剣の一振りで二、三人の兵士をまとめて斬り伏せることのできるような、非常識な人間がいなければの話だ。
イヴァンが突入した後、ものの十数秒で包囲には穴が開いてしまう。
後続のコウ、ユンフ、ユウリ、他の三人が到着したときには、どんな人間でも楽々通れる人にやさしい包囲網になっていた。
「怪しい奴だとは思ったが、変態だとは思わなかったぞ」
包囲網を通過しながら、ユンフがそんなことを言った。
「だ、誰が変態だ?」
押し寄せてきた敵を、四人ほどまとめて斬り伏せながらイヴァンが抗議する。
四人のメイル(鎧)や剣はなんの役にも立っていなかった。
「むろんおぬしのことだ」
ユンフが立て続けに弓を射掛けながら言いきった。
「お、おれのどこが変態なんだ?」
イヴァンにしてみれば、しごく当然の抗議だった。
ちなみに、今度は二人だった。
「そういうところが、変態であろう?」
ユンフはイヴァンの様子を見ながら弓を放つ。
放たれた弓は、すべて敵のメイルの隙間へと吸い込まれている。
「じ、冗談じゃねぇぞ? 俺はいたって普通の男だぜ。変態よばわりされる覚えなんてねぇ」
背後から斬りかかってきた敵を処理しながら、イヴァンは強力に抗議を続ける。
「なんだ? 自覚症状がないとはあわれだな」
などと答えるユンフは、イヴァンを迂回《うかい》して前に回り込もうとしていた敵を、立て続けに弓矢で始末していた。
「俺はまともだ。自覚症状なんてあるわきゃねぇ!」
イヴァンの抗議は続く。ここで変態を認めるわけにはいかないから当然だ。
今度は、記録更新の六人だった。
「ならば教えておこう。変態というのは……正常ではない者のことを指すのだ」
ちょっと間が空いたのは、矢をまとめて五本放ったからだ。
「まてよ、おい! 俺のどこが正常と違うってんだ!」
「普通の人間は、相手を甲冑《アーマー》ごと斬り伏せたりはせんぞ。あまつさえ、受け止めた剣ごと斬り捨てるなぞ、立派に変態であろう」
「ば、馬鹿いえ。こりゃあ、ちょっとしたコツがあるんだ。それさえつかみゃあ誰だって……」
などと懸命に言い募るイヴァンだったが、ユンフは、
「ふっ。苦しいな……」
鼻で笑った。
「そ、そういうあんたはどうなんだよ? さっきから見てるが、あんただって十分変態じゃねぇか」
イヴァンにくらべれば控えめではあるけれど、それでも相当な数の敵をしとめている。
包囲に穴を開けたのはイヴァン、しかしその穴を押し広げたのは間違いなくユンフだろう。
「感違いするな。わたしのは洗練された技術というものだ。おぬしのような変態的な技と一緒にしてもらいたくはないな」
そう言いながら放った矢が、敵の弓の弦を切りさいた。
それを見たイヴァンは断固として言い返したくなった。
いや、言い返さなくては気がすまない!
「俺が変態だったらあんたは…………」
勢いよく言いかけたけど、そこで詰まってしまう。
どうやら何も考えてなかったらしい。
「ほう? 変態でなければ、何だというのだ?」
しっかりユンフがつっ込みを入れてくる。
「………………」
イヴァンは答えられない。
「何なのだ?」
なおもユンフがつっ込む。
「……ほ、星が綺麗だなぁ」
夕暮れの赤はほぼ消えかけ、東の空には無数の星々が瞬き始めている。
みごとなまでの、現実逃避であった。
その様子を見たユンフは、その鮮やかな美貌に微笑みを浮かべて小さくつぶやく。
「ちともろいが、いいものを見つけた」
その様子は、子供がお気に入りの玩具を手に入れたときのようにも見えた。
で、その玩具はというと……。
「ほんとに、星が綺麗だなぁ……」
まだ、そんなことを言っていた。
「もろいな……」
闇の中でそうつぶやく者があった。
「もう少しくらいは、ものの役に立つかと思ったのだが……」
作戦も何もない。
ただ単に待ち伏せして人数に任せて押し包む。
さらにその人数も百人という、なんとも中途半端な人数だ。
後に残された死体の始末をどうつけるつもりなのか。
これだけの人数だ、誰にも知られずにというわけにもいくまい。
無為、無策、無能と三拍子そろっている。
それだけでなく、後のことを考えるともう有害というしかない。
冬場でも汗を拭《ぬぐ》い続ける、でっぷりと太った姿を思い出して決意する。
“今夜中に始末しておこう”と。
でも、少しは哀れまないでもない。
手にした矢を見る。
近づき過ぎないように、遠方で様子を窺っていた。
そこにこの矢が飛んで来たのだ。
放ったのはユンフ。
自分の気配を感じたのかもしれない。
ただ問題なのは、普通の弓の射程から優に倍以上の距離があった。
これだけの距離と正確すぎる狙いのために、避けるのはそう難しくはなかったが。
「世の中には、恐ろしい女がいる」
闇の中で、そうつぶやいた。
敵の包囲をめでたく突破したコウ達。
(実際には崩壊させたに等しかったが……)
「兄さま、なぜここに?」
ユウリが尋ねる。
というのも無理はなく、そこはコウの屋敷ではなく別の場所だったからだ。
「あんなこともあったし、一応用心しとこうと思ってね」
コウがそう言ったとき、中から人が出て来た。
「おお、殿下! よくぞご無事でおいで下さいました!」
屋敷内から辺りに響き渡るような大声で、そう言いながら姿を現したのはグリフ=シタッド伯爵である。
「伯爵、今夜一晩世話になる。よろしくたのむ」
コウが頭を下げると。
「何を水臭いことをおっしゃる、殿下。ご自分の屋敷だと思ってくつろいでくだされ」
グリフ伯が、全員を中へと案内しながらそう言った。
「ほぇ〜。これが貴族様のお屋敷かぁ?」
めずらしそうにそんな感想を漏らしたのは、当然イヴァンだった。
「おぬし、もの欲しげにあちこち見回しておると、盗賊に間違われるぞ?」
すかさずつっ込んだのはユンフだ。
「誰が盗賊だ? 誰が?」
イヴァンが文句をつけようとすると。
「言ってよいのか? 本当に?」
ユンフのその言葉で、イヴァンは黙り込んだ。
「グリフ伯。まるでわたし達が来ることがわかっていたみたいですのね?」
そう不思議そうに尋ねたのは、ユウリだった。
「イット殿の指示でしてな、姫様。すでにお食事の仕度もととのっておりますぞ」
そう言えばおいしそうな香りが漂っている。
グリフ伯がごつい髭づらの見かけからは、想像もつかないような洗練された動作で食堂のドアを開け、一同を中へとまねく。
一番最後から食堂へ入ろうとしていたユンフが、いったん立ち止まって戦友に尋ねる。
「屋敷の者達の姿が見当たらぬようだが、どうした?」
本来なら今グリフ伯がやるようなことは、執事かドアボーイがやるべきことだった。
「ここしばらくの間、暇を出し申した。彼の指示でしてな。詳しいことは直接聞いてくだされ」
手短にグリフ伯が言うと、ユンフはうなずいて食堂の内へと足を踏み入れる。
と、そこにはすごい光景が繰り広げられていた。
みめ麗しい美少女が、やせ過ぎの少年をノックアウトしたところだった。
「ユウリなんということをするんだ……大丈夫か? イット!」
そういってダチを助け起こしたのはコウ。
でも返事はなかった。
正確に表現するのなら、できなかったと言うべきだろう。
一斗は白目をむいて、みごとに気絶していたからだ。
そういうわけで、一同は食事をとりながら一斗の回復を待つことにした。
食卓に並んだ彩り豊かな料理の数々は、どれもなじみのないものばかりで、その一品一品が絶妙な味わいをもっていた。
しかも不思議なことに、濃厚な味のものが主なのに、いくら食べても腹にもたれることがなく、それどころか食べる前よりも調子よく感じられるくらいだ。
「んめぇ、んめぇ」
イヴァンは何も考えずに、ひたすら料理をかっくらっている。
「ほんと、おいしいですわ。でも見たことのないものばかり……。あっ、これもおいしいですわ兄さま!」
といって、小皿に料理を取り分け、兄の分世話をやきながら食事を続けるユウリ。
「「「…………」」」
ユンフの部下の三人は身分ある人達との同席で、一言も発することができずに食事を続けている。
はたして味がわかっているのかどうか、甚だ疑わしい。
で、ユンフはグリフ伯相手に、
「使用人もなしに、よくこれほどの料理が作れたものだな、グリフ伯」
という疑問をぶつけてみた。
「わしも最初は驚いたのですがな、これはすべてイット殿が作られたのだ、ユンフ殿」
とグリフ伯が答える。
「ほう!?」
少し驚いたようにユンフ。
ユウリは何か苦いものでも食べたかのような表情になった。
「一体どういった料理なのだ? これは?」
ユンフが聞くと、意外なところから答えがあった。
「薬膳《やくぜん》料理と呼ばれているもの……。料理ではあるけど、そのまま薬ともなっている」
コウだった。
一同の関心がコウに集まった。
ただし、イヴァンだけはひたすら食べ続けるのをやめなかったが……。
「薬……ですか? これが?」
そう言いながらグリフ伯が手元の料理に目を落とす。
彼の知識では、薬というものは苦く、到底味わって食そうという気になれるようなしろものではなかったからだ。
「なんとも、驚きましたな。めずらしい料理だとは言っておりましたが、まさか、そのようなものだとは……」
とか言いながら、グリフ伯の手元の料理を見つめる目つきが変わっていた。
なんだか、急にありがたそうな感じになっている。
「ふんっ! とても信じられませんわ、兄さま。本当は、毒でも入っているのでありませんの!?」
いきなりフォークを置き、少しばかり怒ったようにユウリが言った。
「ユウリ、わかっているのだろう? 今のは言い過ぎだ」
おだやかな、それでもユウリの反論を許さない断固とした口調でコウがたしなめる。
「……ごめんなさい……」
小さくポソッと呟くようにユウリがあやまった。
「あやまる相手が違うけど……。まぁ、イットは気にしないだろう……気絶してるし……」
けっこうアバウトなコウだったりする。
「でも兄さま。わたくしは何処も悪いところなんてないですわ! 薬なんて……大きなお世話です!」
この件に関しては、あくまでユウリは反抗的だった。
でも、コウはおだやかに説明をする。
「これは一日の疲れや苦痛を癒し、次の日を最高の体調で迎えるためのものなんだ。材料の選択によっては病の予防とか、様々な効用をもたらすこともできる」
「し、しかし兄さま! あたくしは疲れてなんかいませんわ!」
と言い張るユウリにコウは、
「ユウリがね、明日の朝目覚めたときすっきりと目覚められたら、この料理の効用があったということだよ」
とやさしく言った。
「む〜〜〜っ……」
ユウリはまだ何か言ってやりたそうにしていたけど、何も考えつかなかったらしい。
そのまま食事を再開する。
なんだかんだ文句はつけたが、料理自体は気に入ったらしい。
「でも、なかなかお詳しいですな、殿下。やはり宮廷ではこのような料理が、頻繁に出たりするのですかな?」
ユウリとの話が一段落したのを見計らって、グリフ伯がコウに尋ねる。
「まさか。薬膳料理のことは誰も知らないはずだ。また、知っていたにしても誰も手をつけようとはしないだろう。あすこで出すには地味過ぎる」
笑いながらコウが答えた。
「地味……ですかな……確かに」
グリフ伯は宮廷での宴席に招かれた時のことを思い出す。
会場に所狭しと並べられた料理は、どれもが一品一品綺麗に飾りつけられ、手をつけるのが憚《はばから》れるようなものばかりだ。
味付けは濃厚だがすっきりとした目の前の料理と違い、個性を主張して後々まで舌の上に残るものが多い。
だから思ったほどは食べられず、さらに食べたい者は、いったんもどしてからまた料理を食べ始める。
そもそも料理に対する基本的な考え方が違っているのだ。
確かに言われてみればこのような料理が、宮廷で受け入れられる余地はなさそうだ。
でも、だとすると……。
「殿下は、一体どこでこの料理を召し上がられたのですかな?」
グリフ伯が尋ねる。
素朴な質問だった。
すると、一瞬だけどコウはなんだかつらそうな表情を見せる。
もっともすぐにまた、微笑みを浮かべたが。
「レンおばさん……私の養母だった人が得意としていた料理だった。お屋敷で特別な行事が行われるときに、どこからか材料を見つけてきては作っていたんだよ」
そういうコウの口調には、どこか懐かしむような響きが含まれていた。
「ご養母様が……」
グリフ伯は続きの言葉を呑《の》み込んだ。
コウの経歴ならある程度は知っていた。
コウは元々王家の人間として育てられたのではない。
市井《しせい》にいるところを内政府の調査で発見され、第三王位継承者として認定されたのだ。
ところがそのときすでに、第三王位継承者として妹であるユウリが認定されてしまっていたから、第三王位継承者が二人という奇妙な継承権ができあがってしまうこととなった……。
それで、結局コウは養母とは引き離されることになってしまう。
その日コウは、ちょうど十歳の誕生日だったらしい。
二人でお祝いをしていたのかもしれない。
そんなときに母とも慕う人から引き離されるつらさは、相当なものだっただろう。
それも、本人の意思などまるで関係なくだ。
みんなの口が重くなってしまう。
一人をのぞいて……。
「おぬし、よく食うな」
ユンフが尋ねる。
むろん、イヴァンに向かってだ。
「ああ、次はいつこんなうまいもん食えるかわからねぇからな」
そう言いながら、料理を手当たり次第口に運んでいる。
「だがイット殿が作ったということだぞ? おぬし、面識があるのであろう?」
ユンフは暗に一斗に作ってもらったら、とそう言っているのだが……。
イヴァンは近くのソファでひっくり返っている一斗を見て、
「いらんことをたのんだら後が怖いからな、今のうちに食えるだけ食っとくよ」
そう言ってまた料理にかぶりついた。
「で、さっきから気になってたんだが……あんたら何者なんだい?」
かぶりつきながら、イヴァンはそんなことを聞いた。
「なんと! イヴァン殿はまだ聞いてはおられんのか!?」
驚いたのはグリフ伯。
まぁそれはそうだろう。
初対面の人間が、なんの挨拶もなしに人の屋敷に上がりこみ、あまつさえ飯をかっくらっているなどとは想像もしないはずだ。
「やっと聞く気になったか? このまま代名詞で呼ばれ続けるのかと不安になっておったぞ」
ユンフがセリフにスパイスを効かせてそう言った。
「ちょっと忘れてただけじゃねぇかよ……」
などとイヴァンが言い訳するけど……、
「ほう? 言い訳のつもりか? 言っておくが、おぬしのそれは言い訳にはなっておらんぞ。いいところ、だだをこねた……というところであろう」
ユンフは一刀のもとにきりすてる。
「わ、わかったよ。俺が悪かった、反省してる。だから、かんべんして教えてくれよ」
イヴァンはちょっと弱気になった。
するとユンフは少し顔をしかめて、
「なにを勘違いしておる。それでは私がおぬしをいじめているみたいではないか。私は事実を指摘しただけにすぎぬ」
そう言った。
でもこの件に関しては、他の者たちはユンフに賛成しかねるはずだ。
そして、少しばかりイヴァンに同情することだろう。
「私の名はカウノ=ユンフ。万騎長を務めている」
まずユンフは自分から名乗った。
「次にこちらがグリフ=シタッド伯爵。軍では同じく万騎長を務めている」
次にグリフを紹介すると、
「イヴァン殿のことはイット殿からすでに聞かされておる。千騎に匹敵するほどの武将とか……実に頼もしいかぎりですな。今後ともなにとぞよろしくお願い申す」
グリフ伯はうれしそうにそう自己紹介した。
しかし、千騎に匹敵するなどとは……。
一斗は一体どういう説明をしたのだろうか?
ちょっと気になるイヴァンだった。
でも、イヴァンはあることで忙しかったので、
「よろしく」
の一言ですませてしまった。
さすがにこれは、グリフ伯も少し顔をしかめた。
「そこの三人が私の部下で、タリオ、フォン、ジックという。それぞれ千騎長を務めている」
まとめて紹介されてしまった三人、
「「「よろしくであります!」」」
仲良くハモって敬礼する。
ふざけたことにイヴァンは、軽く左手を上げただけで挨拶に代える。
右手はスプーンを持っていた。
この三人より、スプーンの中身を優先したのだろう。
「この方がクーリフォン=トウマ=ユウリ様。我が国の姫君にあらせられる」
と、ユンフがユウリを紹介すると、
「へぇ〜、あんたお姫様だったんだ! 世の中にはあんたのような美人のお姫さんも、本当にいるもんだねぇ! 改めて……俺、イヴァンって言うんだ、よろしくお姫様!」
などと身を乗り出さんばかりにして挨拶する。
先ほどの三人とは、極端に対応が違った。
「お姫様って言うのはよしてください。こう見えても、わたくし騎士……ですの、イヴァン殿!」
そうユウリが言った。
ちなみに……の部分には見習いと入るのだが、小さすぎて誰にも聞こえない。
「へぇ? でも、ユンフは姫様とか言ってたぜ?」
めざとく聞き覚えていたらしい。
「だ、だってあれはユンフが……」
少し弱々しく言いかけると、
「姫君は姫君でありましょう? 騎士としてはまだ見習いに過ぎない以上、他に呼びようもないと思いますが?」
ユンフが言った。
丁寧ではあるけど、かなり厳しい。
まさに歯に衣着せぬとは、このセリフのことではないだろうか。
「……そうですわ、ユンフ……」
強気の姫君がしおれてしまう。
ユンフはユウリにとって師匠であり、憧れの目標でもあった。
騎士を志したのには、兄さまをお守りするという目的もあったが、ユンフの存在も大きかった。
美しい女騎士が男の騎士達の尊敬を集め、それを束ねて指揮する姿がユウリの心を捕らえてしまっていたのだ。
そのときから、口には出さないにしてもユンフはユウリの目標となった。
「じゃあ、ユウリ様ってのはどうだい?」
そうイヴァンが妥協案を出すと……、
「えっ? そ、それは……!?」
ユウリが驚いたような声を上げる。
驚いたのはユウリだけではなかった。
グリフ伯は口にフォークを持っていく途中で固まっていた。
ユンフはなにやら目を細めて鋭い視線を放った。
タリオ、フォン、ジックの三人は少し脅えたような視線を向けている。
唯一穏やかに事態を見守っていたのは、コウだけだろう。
というのも、王族の名前のラストネームには特別な意味が込められている。
ファーストネームは姓であり、この場合王家の名前である。
セカンドネームは字《あざな》であり、同時に系譜を示すものでもある。
通常他人が呼びかけるときには、これを使う。だからユウリの場合はトウマ姫となるわけだ。
ラストネームは名を示す。ユウリ個人に付けられた固有の名であり、よほど親しい人間しかそれを呼ぶことは許されない。だから、王家の人間ならば王族のみと許可を与えられた一部の者のみに許された特権となるのだ。
「……わかりました、あなたにその名で呼ぶことを許しましょう」
考えた末、ユウリはそう結論を出す。
「おう、じゃあこれからよろしくな、ユウリ姫さん」
気軽に返事を返すイヴァンは、どれほどの栄誉が与えられたのか気づいているようには見えなかった。
「さんはよけいですわ、イヴァン殿。イヴァン殿さんとか言ったらおかしいでしょう?」
めずらしくユウリが穏やかに訂正する。
「おっ? そりゃそうだ、これから気をつけるよユウリ姫」
やっぱり気楽にイヴァンが返事をした。
わかってないことの強みだろうか?
……いや、この男のガサツさなら一緒だな。
内心で、そんな結論を出したのはユンフだった。
「てぇことはだよ、あんたは王子さまってわけだ。一目で普通の貴族じゃねぇとはわかったけどよ、まさか王子さまだったとはなぁ」
ユンフの紹介も待たずにイヴァンはコウに話しかける。
とんでもなく無礼者だった。
普通ならそのまま牢屋にぶち込まれても不思議ではないだろう。
でも、相手はコウだった。
「私の名前はクーリフォン=レフ=コウ。コウと呼んでくれればよい」
いきなり名を呼ぶことを許可してしまう。
「コウ王子か? いや……みんな殿下とか言ってたからコウ殿下だな……。よろしくな、コウ殿下」
どこまでも気楽にイヴァンは挨拶する。
「よろしく、イヴァン。……ところで、挨拶も一通りすんだところで本題に入りたいのだが……」
なにしろ、コウ達は暗殺されようとしたのだ。
どう考えても、それこそが本題だろう。
決して、おいしい料理を手当たりしだいに食い散らすことではない。
「わたしが見てみましょう」
そういってユンフが席を立つ。
もちろん、ソファで伸びている一斗の様子を見るためだ。
軽く叩いても、ゆさぶってみても起きる気配はない。
「だめのようですね、殿下」
ユンフが報告する。
「ありゃあ、キレーに決まってたからなぁ、右ストレート。こう、内側からえぐりこむようにして……」
そこでスプーンを置いて身振りでイヴァンが実演しながら、
「こんな具合にこめかみに入ったんだ。そんなに簡単にゃあ起きらんねぇだろう」
と解説する。
それを聞いてコウは、
「そうか……しかたないな……イット抜きでというわけにはいかないだろう……今日はこのまま休むことにしよう」
そう結論を出した。
「だ、だって……無責任にもこんなところで……」
弁解を始めようとするユウリ。
一斗をいきなりKOしたことに責任を感じているのか……。
「私達のために料理を作っていたのだろう?」
そうコウが聞くと。
「でも……でも私達ばかりを危険にさらして……」
とユウリが弁解を重ねる。
「イットがいたところで、正直お荷物になっていただけだろう。でも彼は代わりにイヴァンを寄越してくれた……。それではダメかな……ユウリ?」
尋ねるかたちはとっていたけれど、それは教え諭《さと》す言葉だった。
かつて養母が彼にそうしたように……。
「……だめじゃないです……兄さま……」
ユウリが小さくそう言った。
本当は、わかっていたのだ。
ただ、認めたくなかっただけ……。
「じゃあ、イットが目覚めたらそう言ってあげるといい」
そのコウの言葉にユウリは小さくうなずいた。
結局のところ、ユウリが謝る機会は永遠に失われてしまうことになった。
その日一斗が目覚めることはなかった。
そして目覚めたときには、あまりに綺麗に決まりすぎた右ストレートのおかげで、殴られた時の記憶がスコーンと抜け落ちてしまっていたからだった。
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第五章 そして、さいは投げられる
正直、信じられない。
ユウリはそう思った。
転ぶこと自体は理解できる。
立っているものが倒れる。いたってありふれた現象である。
それに、ユウリだって転ぶこともある。
ただ、そこは廊下だった。
丹念に磨き上げられ、埃《ほこり》一つないような廊下だった。
とても歩きやすい。
そもそも歩きにくい廊下があったとしたら、すでに廊下とは呼べまい。
もちろんゴミなんて落ちてるわけないし、穴が開いていたりするはずもない。
なのに、こけた。
いきなり、こけた。
突然何かにつまずいたのだ。
問題なのは、その何かがどこにも見当たらないことだった。
それも一度ではない。
ユウリが見ている間だけでも、三回はこけた。
ユウリには、到底理解できないことだった。
頼りになるとかならないとか、そういう以前の問題だろう。
口先だけの、ろくに鍛えもせずにやたらと自慢だけはしたがる。
そんな貴族の男たちを、ユウリは立場上たくさん知っている。
でも、ここまで酷《ひど》い運動音痴は見たことなかった。
そもそも、これでどうやって今まで生き延びてきたのか、それが不思議だった。
正直、信じられない。
というのが、ユウリの感想なのだ。
でも、一番の問題なら他にある。
そんなユウリの理解の範疇を超えたような生き物を、グリフ伯やユンフや、なによりコウ兄さままでもが信じているということだった。
とにかく、見ていればいるほどそのダメさ加減が目に付く。
ある種、悲惨なような気もしないではないが、でもコウ兄さまをたぶらかすような人間に同情なんてする必要があるとは思えなかった。
なんで、気づかないのだろう。
これほど頼りなさそうな男なんて、そうそういるはずないのに。
ためしにユウリがユンフにそう尋ねてみると、
「そうでしょうな、姫様。あれを頼りなさそうなどというのは、あまりに控えめにすぎましょう。頼りないが服を着て歩いている……そのくらいの表現が適切というものでしょう」
意外にもそんなコメントをした。
でも、そのコメントには続きがあった。
「でも、あれが敵に回れば最悪の敵となるでしょうな、姫様。こけた拍子に頭でもぶつけて、この世から旅立つことを真剣に祈りたくなることでしょう」
ユウリとしては、その意見にはとても同意しかねる。
ユンフのように並外れて強力な騎士ならともかく、あの男を倒すことは大して難しいとは思えない。
そこらで遊んでいる男の子を連れてきたら、その子でさえ、ものの数分で殴り倒してしまうことは請け合ってもいい。
確認はしてないけど、確信はあった。
ユウリの目から見て、一斗の貧弱さはそれだけ際立ったものだった。
まぁ実際には手応えとして実感しているのだけど、それはある事情からなかったことになっている……というかしてしまった。
一体一斗の何をそんなに恐れているのか、どうしても理解できない。
それは兄さまからは色々と聞いてはいるけれど……。
「一体何やっているの? あなた?」
思わず声をかけてしまう。無視しようと思った。でも、いきなり目の前でパタっとこけられてしまうと、さすがに耐えられなかった。
「いやぁ、ユウリちゃん。朝から綺麗だね」
へらっと笑いながら一斗が答える。
「なんだか、ひんやりとして気持ちいいよね?」
同意を求めるけど、
「あいにく、廊下の寝心地には興味がないの」
ユウリはきっぱりとそう言った。
「それよりさっさと起きたらどう? あなたの趣味はともかく、通行の邪魔になるわ」
「そりゃそうだね。すぐまた感触なら確かめられるし……」
とか言いながら、一斗が立ち上がった。
「一つ言っていい?」
ユウリは決心する。
どうせこのさいだ、言いたいことを言ってしまうことにした。
「なんなりと、お姫様」
おじぎをしながら一斗がそんなことを言った。
でもどうしてだろう。
お姫様なんて、みんなが言ってるのに。ユウリちゃんなんて、不敬極まりない呼び方をされてるのに。一斗からお姫様呼ばわりされると、その何倍もムカつくのは。
「……あなた、もっと体を鍛えなさい。あなたの体力のなさは半端じゃないわ。異常って言ったほうがいいくらいよ」
怒りに耐えながらユウリは言ってやる。
ほんとうに、少しは鍛えてもらわないと安心して殴ることもできやしない。
などと、けっこう危ないユウリだった。
「体なら十分に鍛えてるよ、お姫様」
そんなことを一斗が言っている。
寝ぼけているのだろうか? とユウリは一瞬考えた。
「……どこを?」
ユウリが短く尋ねると。
「ここ、とか……」
そう言って、一斗が体のあちこちにできた青痣《あおあざ》を見せてくれる。
それを見せられたユウリは断固として言ってやる。
「そういうのは、鍛えてるって言わないのよ!」
そんなものを鍛えてるなどとみとめたら、軍はけが人の集まりと化してしまうだろう。
「なるほど、僕もそんな気がしてたんだ。お姫様」
一斗が言った。
笑いながら言った。
からかっているのか?
「……いいわ……わたし…………てやる……」
ユウリの声が怒りのためにかすれている。
「ん? なんていったの? お姫様?」
一斗が聞いた。
他人の運命なら平気で予測してみせるくせに、どうして自分のこととなると……。
「わたしが朝練で鍛えてやるって言ったのよ」
ユウリは自分の気持ちを抑えるように、精一杯押し殺した声で言った。
その声が震えていて、ちょっとおっかなかったりする。
「誰を?」
とぼけたような、一斗の質問。
ユウリは右手の人差し指で、一斗の胸の辺りをつっついて、
「このひとよ」
そう言ってやった。
「へっ?」
一斗は自分を指差す。
「そう、あなたをわたしが、せめて人並みになるように鍛えてあげるわ!」
ユウリの決意の程がありありと伝わってくる、そんな言葉だった。
でも、
「そりゃ無駄だって」
即答する一斗。
「なんで? やってみなければわからないでしょ?」
もっともな、ユウリの言葉。
「だって、疲れるし……」
と、一斗。
「当たり前でしょ? そうでなけでば、鍛えていることにならないわ」
いたって、そのとおりであろう。
「そういえば、蟹股なんだ」
一斗の答えは、苦しい。
「何か関係あるの?」
一言で処理された。
「……朝、弱いんだ……」
言い訳も弱い。
「わたしが、ちゃんとたたき起こしてあげるわ」
ユウリが宣言する。
「わたしの朝練の時に、あなたも一緒にやるの。いい、これは決定事項よ!」
一斗が下手な言い訳を考えつくよりも先に、ユウリが最後通牒《さいごつうちょう》を突きつけた。
「……はぁ〜〜〜っ」
とても深いため息を一斗がつく。
「何か言いたそうね?」
勝者の慈悲深さを見せて、ユウリが聞くと。
「そのあまりにお美しいお姿を見ていたら、思わずため息が出てしまうのですよ、姫様」
深々とへたくそなお辞儀をしながら、一斗がそんなことを言う。
ムカついた。
むちゃくちゃムカついた。
姫様っていう言葉を聞いたとたん、このままあの世に送ってやろうかと思った。
でもユウリは、なんとか思いとどまる。正直誰かに褒めてもらいたい、そんな気がしたくらいだった。
「いいこと、イット」
一斗の胸倉をつかんで、顔を触れんばかりに近づけ睨《にら》みつける。
歯を剥き出しにしてるのと、押し殺した声がおっかないけど、ちょっとうれしそうな一斗だったりもする。
ちなみにこれがユンフだったなら……一斗は、その場で死んだふりをしていたことだろう。
「もう一度でも、あたしのことを姫様なんて呼んでごらんなさい……」
ユウリのおでこが、一斗のおでこにくっついた。
視線が直接突き刺さる。
「あなたのその舌を、引っこ抜いてやるから」
さすがに怖かった。
「…………」
一斗は黙って何度もうなずく。何かしゃべったら、そのまま噛みつかれそうな気がしたからだ。
根性なしの一斗であった。
でも、少しばかりはおいしい思いをしたのも本当のところだけど……。
「ふん、いいわ。それより、どこに行くつもり?」
いきなり呼び止められる一斗。
「いや、もう終わりでしょ?」
「何言ってるの? 今言ったばかりでしょう? 朝練をするわよ」
「へっ? それって、明日からじゃ……」
「こういうことは、早く始めた方がそれだけ早く効果があるの。それなら、今から始めた方が一番効率的でしょう?」
それはそのとおりなんだけど、一斗としては……、
「こ、心の準備ってものが……」
とか言いたくなる。実際言ってるし。
「そんなの始めてからになさい、イット。もっとも始めてしまえば、そんなこと、気にもならなくなるでしょうけど」
そんな無茶な……。
というのは、一斗の心の叫びであった。
もちろん口には出さない。それくらいの分別ならあった。
で、代わりに、
「でも、ひめ……ユウリちゃんは確か朝練終わったでしょ?」
あぶなく姫様って言いそうになった。
でもユウリの強烈な視線がそれを許さなかったけど……。
「それが、あなたの朝練に何の関係があるの?」
不動の意思だった。
何が何でも一斗のことを鍛えるつもりらしい。
そのさい、一斗の気持を考慮するつもりなんて微塵もなさそうだ。
「さあ、いくわよ」
ユウリが歩き出す。
もちろん、一斗の腕を掴んでいる。
当然の結果として、一斗はずるずると引きずられてゆくことになった。
「少し聞いてよいか?」
ユンフの言葉に、一斗がひらひらと手を振る。
「おぬし、なんでそんなにボロボロになっておるのだ?」
一斗が口を開きかけるが、それよりも早く答えたのはユウリだった。
「わたしが鍛えて差し上げたのです」
ユンフは黙ってほう、という顔をする。
「……だって、あまりに酷すぎるんですもの」
こころなしか、少し声が弱い。
「それで、少しは効果があったのですかな?」
体中ほぼまんべんなく裂傷や青痣をつくっている一斗を見ながら、ユンフが尋ねる。
「ま、まだ始めたばかりなのです。そのうち、かならず成果は出ます!」
ユウリはあくまで強気で言い切った。
「できれば、死ぬ前にたのむよ」
イスの上から立ち上がることすらできないでいる一斗が、まぜっかえすように言った。
すぐにユウリの強烈な視線が一斗に突き刺さる。
一斗は視線をそらし、天井に向かってぶつぶつ言った。
ユンフはその二人を面白そうに眺めた後。
「剣も鍛え方を間違えるとかえって脆《もろ》くなってしまいます。鍛えるにしても、その人なりの鍛え方がありましょう。……あまり、やり過ぎぬことですな」
そう忠告する。
「で、でも……わたしはこの者のためを思って……」
そう言い訳をしようとしたのだろうけど、少し声が弱い。
もちろん一斗にとっては、“大きなお世話”というやつなのだが。
「まぁ、とりあえず生きて話せるようですから、会議には出られるでしょう。それでは、円卓の間にイット殿をつれてきてください、姫様」
ユンフが出した結論は、ユウリにとって非常に不本意なものだった。
「な、なんでわたしがイットなんかを!」
つい口をついて出てしまう言葉。
「それなら、誰かにご命じなされますかな? そこな者を連れて行け、と。どこかの貴族みたいに?」
それがユンフの反応だった。
ユウリにしてみれば、これほど痛烈な批判はない。この世の中で、ぬくぬくと本人は何の努力もせずに、一方的に搾取することで安穏に暮らしている貴族ほどユウリが嫌っているものはないからだ。
そんなものと一緒にされるのは、絶対にごめんだった。
だから、
「……わたしが、連れていきます」
ユウリとしては、それ以外の答えはなかった。
「こりゃまたバッちくなったなぁ、おい」
楽しそうに声をかけたのはイヴァンだった。
「なんでも、まともな男になれるそうなんだけどね」
他人事みたいに答えたのは一斗。
「へぇ? おりゃまた拷問でも受けたのかって思ったぜ」
「まぁ、気分的にはそんな感じだったよ」
一斗は否定しなかった。
円卓の隣の席から、ユウリが睨み付けている。
「まぁなんだ、長生きできることを祈ってるぜ」
そんなセリフを残すと、イヴァンはとっとと自分の席につく。
薄情な男であった。
「それでは始めようか」
コウが宣言する。
もちろん、コウをはじめみんな円卓の席についていた。
「それではイット、たのむ」
すぐに一斗に後をたくす。
自分の出番を、コウはそっけないくらいに割り切っている。
自分を飾ることなんて一切しないし、またその必要もみとめてはいない。
コウが佞臣《ねいしん》と呼ばれる貴族たちに疎《うと》まれるのは、そういうところなのだろう。
もっともコウは、そんなことなどになんの痛痒《つうよう》も感じてはいないようだが。
「出遅れた」
いきなり一斗がそんなことを言った。
もちろん、他のみんなにはなんのことだか見当がつかない。
「すみませぬが、イット殿。おっしゃってることの意味がわからぬのだが……」
まじめにそう尋ねたのは、髭面のグリフ伯。
「ほんとはね、先日襲撃された夜のうちに、テグリ子爵の身柄を押さえてしまうつもりだったんだ」
今回コウの襲撃を計画した首謀者とされたのが、テグリ子爵だった。
ところがその翌日になって、自殺体として発見されていた。
遺書らしきものが発見され、それに自分がユーリフォン=レフ=コウの暗殺を計画したという記述があったために、テグリ子爵の首謀者説がほぼ確定することになってしまった。
「では、彼が計画を企てたことを知っていた、とそう申されるのですかな?」
グリフ伯が驚いたように尋ねると。
「当たり前でしょ? じゃなきゃ、イヴァンをあんなとこに待たせとけるわけないって」
一斗は意外そうな感じでそんなことを言う。
「でも、不思議だよねぇ? なんで、ぼくは寝てしまったんだろ? 寝たような記憶なんて、どこにもないのになぁ?」
などと一斗が、昨日のことを思い出してそう言うと。
「そ、そんなこと今は関係ないでしょう? それに過ぎたことだし、あんまり気にする必要はないわ、イット。誰にでも失敗はあることだし!」
なんだかあせったように、ユウリが言った。
もちろん一斗以外の視線を集めた。
その視線はとても温かいものとは言いかねたが、ユウリは懸命に無視をする。
「へぇ? どうしたの? 急にやさしくなっちゃって?」
心底不思議そうに、一斗が聞くと。
「わ、わたしはいつだってやさしいわ! そそ、それより、先を続けなさい!」
さらにあせったように、ユウリが言った。
一斗としてはなにをそんなにあせっているのか、非常に気になったりもしたのだけれど、
「ま、それもそうだね……」
と一斗は結論を下した。
ユウリがホッと胸をなでおろしたのは、言うまでもない。
でも、それほど一斗にあやまるのが嫌なのだろうか……。
コウは小さく首をふり、グリフ伯は硬い表情で押し黙り、ユンフは無表情を保ち、イヴァンは声を押し殺して笑っていた。
「まぁとにかく先の戦いは痛みわけってとこだね。それで、とりあえず今後のことなんだけど……」
一斗が言いかけたときだった。
「ちょいまち、それより先に俺の立場をはっきりさせといてくんない?」
イヴァンが口をはさむ。
「居心地悪いってかさ。なんか、落ち着かないんだよな、実際」
まぁそれは当然だろう。
長いこと傭兵暮らしを続けてきたわけだし、当然そこには契約が発生する。
落ち着かなくても無理はない。
「ん〜〜。独立近衛騎兵師団隊長……とかどう?」
ちょっとだけ考えて一斗が言った。
「おおっ! なんかよさそうな響きじゃねぇか!」
いままで、下っ端でしかなかったイヴァンとしてはなんだかとても偉くなったような気がした。
でも……。
「はて? そのような騎士団はありましたかな?」
などとグリフ伯が疑問の声を上げると。
「あるわけないよ、だって今できたばかりだからね」
イットがあっさり認めると。
「今、考えたってことか?」
イヴァンが確認する。
「あたり」
一斗の返事は、いたって簡潔だった。
「適当にでっちあげたってことか?」
イヴァンが重ねて聞くと。
「そうともいうね」
一斗は軽く答える。
「おまえね。そういう大人をからかうようなマネはよくないよ?」
そういうイヴァンの声はどっか疲れたような感じだった。
「心外だなぁ。立場を……とかいうからさ、決めてあげただけでしょ? からかうだなんて、人聞きわるいよなぁ」
「でもよ、そんな役職ってねぇんだろ?」
「そうみたいだね」
「そうみたいだねって……。質問の答えになってねぇって思うのは俺だけか?」
そういったイヴァンの疑問は当然だろう。
「まだわからない? イヴァンの立場はこれからできるんだって。やってもらうことは山ほどあるしさ、自由に動いてもらえなくなると不便なんだよね、実際」
どうやら一斗はイヴァンを、都合よくこき使うつもりらしい。
「山ほどあるのか?」
なんかいやそうな顔をして、イヴァンが言った。
「そう、やまほど」
なんか楽しそうに、一斗が答える。
「それで独立なんとか……ってか?」
「そう、独立歩兵騎士団隊長」
「なんか、さっきと違うぞ? それに歩兵騎士って一体どんな騎士だよ?」
イヴァンは、自分が馬の上で足踏みしている姿を想像してみる。
とっても間抜けな姿であった。
「まぁ、似たようなものでしょ? 気分の問題だしさ? それにタイチョーなんだからいいんじゃない?」
もう、はっきりいっていい加減の見本のようなセリフだった。
なのに、
「そんなものか? まぁ、タイチョーだしな……」
イヴァンはどうやら納得してしまったらしい。
そのやり取りを見ていた各人の反応は様々だった。
グリフ伯はいまひとつ理解しかねるような感じで、ユウリは最初からそっぽを向いていて、ユンフは声こそ立てなかったがあからさまに笑っていた。
そしてコウだけは、なんだか同情するような視線をイヴァンに向けていた。
「ついでに言っとくけど、ぼくも似たような立場だからね。これから話すことはあくまで忠告で、どうするか決めるのはコウだ。わかってるとは思うけど、すべての責任はコウが負わなくてはならない」
一斗がなにげなく言ったセリフ。それは、とても重要なセリフだった。
円卓についているみんなが当然のように頷《うなず》いた。
一人を除いて。
「無責任よ、イット! あなたって、ほんっと無責任!」
そう非難したのは、当然ユウリだった。
ユウリにしてみれば、一斗が責任のすべてをコウに押し付けようとして責任逃れをしているようにしか見えなかったのだ。
「そう見える?」
一斗が聞くと。
「どこからどう見たって、そうとしか見えないわよ!」
ユウリがキッパリと答えた。
「ユウリって厳しいねぇ。それに、ちょっとおっかないしなぁ」
「わたしがおっかないですって? あなたがそうさせてるんじゃない!」
ユウリは、もう無性に腹が立ってきた。
「おっしいなぁ。そんなに可愛いのに……」
「わ、わ、わたしが、か、か、かわいいですって? ひ、ひ、ひとをからかうのもいい加減にしなさい! 卑しい身分の分際で!」
綺麗だといわれるのは普通だった。でも可愛いと言われるのは初めての経験だった。
だから動揺した。
その動揺が決して言ってはならないセリフを紡ぎだしてしまった。
ユウリはハッとして、自分の口元を押さえる。
でも、いったんこぼれてしまった言葉は二度と戻ることはない。
それは、兄さまが最も嫌う言葉だった。
生まれや育ち、それに身分で人を判断する。
そんな人間をコウ兄さまは軽蔑し、哀れんですらいた。
いつもユウリに言っていたのだ、
“本当に卑しいのは彼らなんだよ。自身のことを高貴だなどと平気で言い放つ人たちの心こそ、真に卑しむべきなんだと私は思う”
と。
よく知っていたはずなのに……。
「なに、暗くなってんのさ、お姫様」
気楽に言ったのは一斗。
「わ、わたしは……」
動揺していて、ユウリはうまく言葉を紡げない。
「言っとくけど、可愛いっていったのは本気だよ。まぁ、それ以上におっかないけどね」
一斗はユウリに言われたことなんて、まるで気にしてなかった。
そもそもそんなことを気に病むような神経なんて、持ち合わせていないっていうのが正解だろう。
だから当然、ユウリが何で落ち込んでいるのかなんてわかるはずもない。
「か、かわいいって……からかってるわけじゃない……? だったら、わたしは……」
ユウリは、より一層落ち込んでしまう。
「ユウリ……ユウリがイットと話すときは、他の誰とも違うって気づいている?」
唐突にそう話し始めたのはコウだった。
「兄さま? ……いえ……とくに意識してはいませんけど……?」
コウ兄さまが、一体何を言いたいのか掴みあぐねながらユウリが答える。
「違うんだよ、ユウリ。たぶんイットは、君の中で初めて出会った本当の意味で対等の相手のはずだ。大事なのはそこのところで、言葉の行き違いは言葉で取り消せばいい。あやまりなさい、ユウリ」
あくまでもおだやかで、でも確かな重みを持った言葉だった。
ユウリはうなずき、
「イ、イット……あの……」
ごめんなさいと言おうとしたときだった。
「何か知らないけど、まぁ気にするなって。ダチじゃない」
一斗がいきなり許してしまう。
結局今度もまた、ユウリはあやまることはできなかった。
「それより、今からコウに選んでもらわなくちゃならないことがある」
一斗の顔から笑みが消えていた。
それまでの軽く調子が良くていい加減な一斗からは、想像がつかないくらい真剣な表情だった。
円卓上に緊張がはしる。
ユウリも一斗が見せた表情に、思わず引き込まれ息を呑む。
「君の夢をかなえるためには、今二つの選択肢がある。一つは、この国を取ること……」
それはわかる、誰もが真っ先に考えつくことだから。
でも、あと一つの選択肢というのは一体?
「もう一つはスメルナ帝国を取ること」
正直その言葉にみんなが絶句した。
正気とは思えない。
百年だ。
百年もの長きにわたって、セイリアンとスメルナは戦いを続けてきた。
その間に数百万もの将兵たちの命を奪いつづけ、未だに終焉の兆しすら見せていない。
今では、そんなことが可能だとは誰も思っていないだろう。
そういうお題目を唱えて出兵は繰り返されてはいるけど、指揮する将軍はおろか兵卒にいたるまで信じている者がいるかどうか怪しいものだ。
なのに言い放った。
一斗は。
スメルナ帝国を取る……と。
誰もが絶句する中、コウだけは目を閉じて何かを考えていた。
「それぞれのメリットとデメリットを教えてほしい」
目を閉じたままコウが口を開く。
「もちろん……。セイリアンを取ること……これは大して難しくない。コウより上位の人間を排除すればいいだけの話だからね。その後の継承もうまくいくだろう。これが、最大のメリット……かな。デメリットはその後の対処が難しくなる。現行の身分制度の全面撤廃とそれにともなう新制度の樹立。内乱をともなうくらいの覚悟は必要だろうね」
一斗は恐ろしい予測をサラっと言ってのける。
でも、言っていないこともあった。排除する人間の中にはユウリも含まれるということ。
そんなことくらい、コウならわかっていることだ。今、わざわざ指摘する必要もないだろう。
「次にスメルナを取る選択肢なんだけど、さすがにこれは厳しい。もちろん相手の軍に勝利することもなんだけど、なんてったってコウは国内に敵をつくりすぎてる。そういった連中が足を引っ張るのを排除しつつスメルナを打ち破らなくてはならない。当然両面作戦をとらなくちゃならないから、始めてしまえばほとんど綱渡り状態になる。ぼくでもけっこうしんどい対応をしなくちゃならないだろうね、実際。まぁ、それがデメリットってことだね」
とか言いながら、一斗の表情に変化はない。
ただ聞いていただけならば、さほど厳しいっていうようには聞こえないだろう。
でも、内容の方はほとんど不可能だと言っているように等しいと思えたのだけれど。
「メリットの方は、たぶんすぐわかると思うけど、さっきと逆。いったんスメルナを取ってしまえば、後はほとんど好き勝手にやれるはずだよ。一番警戒しなきゃならないのは、ゲリラ組織をつくられることなんだけど、一気に改革を進めてしまえば大した抵抗勢力にはならないだろうし、そもそも僕がそんな組織をつくらせたりはしない。だからコウはそんなことは心配する必要なんてないんだけどね。……これがメリット……」
一通りの説明を終えた一斗が、最後に一言だけ付け加える。
「どうする?」
と。
コウは静かに目を開けて、ぽりぽりと頭を掻《か》いた。
「……まいったな。イットはもうわかってるんだろ?」
静かにコウが言った。
「もちろん……。でも、君の口から言うべきだ。これって、コウの戦いなんだからね」
一斗が突き放すように言う。
「そうだ、な……」
コウは大きく深呼吸すると、その胸に秘めていた野望を吐き出す。
「私はスメルナ帝国を打ち滅ぼし、新たな国を建国したい。どうか、私についてきてほしい」
もちろんその言葉に異を唱える者など、この場にいるはずもなかった。
「よくぞご決心くださいました、コウ様。不肖このグリフ=シタッド、地獄の底までもお供させていただきますぞ!」
かなり古臭い言い回しで言ったのはグリフ伯。
少しばかり涙ぐんでいる。
「もちろん、このわたしも兄さまの剣となって戦います!」
そう答えたのはユウリ。彼女はその言葉どおり、後に剣姫と呼ばれることになる。
本人が、そう呼ばれたいかどうかは別として。
「コウ様の夢に、相乗りさせていただきましょう」
ユンフはそう言って軽く頭を下げただけだった。
これは、ユンフらしい言い方ではある。
「いまいち、ピンとこねぇんだけどよ。まぁ、よろしくたのまぁ」
結局最後までわかってなかったイヴァンは、とことん気楽にそう言った。
でも、この時点で一体誰が予想しえただろう。イヴァンこそが、この世界で初めての大統領になるなどと……。
「まぁ、妥当な選択だね。すでに打ってある計画のいくつかが、無駄にならなくてすんでよかったよ」
一斗が頃合いを見計らってそう締めくくろうとした。
けど、
「で、あなたはどうするのよ? イット」
ユウリはしっかり突っ込んでくる。
で、一斗の返事は、
「僕って、コウのダチだよ? どうするかなんて、はなっから決まってるじゃん」
それだけだった。
そこは、人の目で見通せる限界に挑もうとでもいうくらいに、わずかな明かりだけが存在する部屋であった。
ただどこを見ても、ランプもロウソクも見つけることはできず、窓というものもその部屋には存在してはいない。
わずかばかりに存在するその明かりが、一体どこからやってくるのかは見当もつかない。
それに、この部屋の中の住人が、本当に欲しているのは明かりではなく闇であるようにも窺える。
その薄暗い闇に生息するのは、あまりに年経《ふ》りて黒々と澱《よど》んでさえ感じられる一人の老人であった。
「スメルナ側での対応はどうなっておる?」
薄暗い闇の中に沈み込もうとでもいうかのように、ことさら低い声で老人がそう尋ねる。
「現在も協議されているようですが、未だに結論は得ていないもようです」
老人よりもさらに深き闇に溶け込んだ男の声が、どこからともなく聞こえる。
「で、ぬしはどういう手を打つ?」
その問いかけに、男は応えた。
「セイリアン政府への働きかけは、すでに済んでおります。たとえスメルナ政府が無能者ぞろいでも、十分に対応できましょう。このことが呼び水となり、抗争が激化するようなら僥倖《ぎょうこう》か、と」
答えた男の声には、感情というものは見受けられなかったが、それでもどことなく嘲笑《ちょうしょう》するかのような響きは感じられた。
「今回、スメルナ側への介入はあえてする必要はないか……。そうだな、今回は大規模な侵攻にはならんからな」
老人の声には、どことなく疲れたような響きが含まれている。
「百年似たようなことを繰り返してきたのだ、今更どうなるものでもあるまい」
長い長い時の中で生じてきた経験則。それが、老人の口をついて出てきたのであろう。
会話はそれを最後に、老人もまた深い闇の中へと沈み込んでいった。
それからひと月後。
セイリアン王国でスメルナ帝国への派兵が決定する。
名目は前回の和平使節団襲撃への報復というものだった。
その指揮をとるのは、第三王位継承者であり使節団の代表でもあったクーリフォン=レフ=コウである。
一見妥当な選択のようにも見えるが、与えられた戦力は半個師団に過ぎず、うがった見方をする者にとっては、政治的配慮による派兵であるというものが通説となっていた。
結局この派兵こそがスメルナ帝国とセイリアン王国という、二つの国の命運を決定付けることとなる。
でも、そのことを予測しえたものは、この時点ではコウとコウに付き従う者達、それとその運命を描いた張本人である一斗だけであった。
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第六章 敵と味方と
心底うんざりしていた。
もう二時間以上もかけているというのに、未だになんの結論も出ていない。
この会議に出席している者の中には、堂々と居眠りをこいている者もいる。
その代表者はスメルナ帝国皇帝サイヴェルド=グラド五世=バーラ。
ただし、これは居眠りとはいいかねるかもしれない。
背もたれを目一杯後ろに倒し、高らかにいびきをかきながら熟睡していらっしゃった。
当然決定権を持つ者がこの有様では会議なんて進むはずはなく、あーだこーだとお互いに好き勝手なことを言い合いながら、一向に決着がつく気配はなかった。
そんな茶番を二時間も眺めている。おまけにカゼル自身がその当事者であるのだから、なおさらうんざりしてもこようというものだ。
「ジーナ殿下。いかがお考えでしょうか?」
いきなり話を振られた。
カゼルのフルネームは、サイヴェルド=ジーナ=カゼル。
今派手ないびきをかいている、スメルナ皇帝の嫡子《ちゃくし》。
そうカゼルは、いまいましいことにこの国の皇子であった。
「全兵力をただちにこの帝都に集め、敵の襲撃にそなえるべきである」
まじめそうな顔をつくって、カゼルがそう言ってやる。
すると、この場にいた全員が一斉に苦笑を浮かべる。
中にはあからさまに、馬鹿にしたような表情を浮かべる者もいた。
「レグレスタ街道を抜けたといっても、敵はたかだか五千に過ぎません。なにもそこまでせずとも、いかようにもなりましょう」
そう諭すように言ったのは、スメルナ帝国の将軍を務めるファルト=アギであった。スメルナの全兵力といったら五十万にも上る。いくらなんでも、大げさすぎるとそう諭したのだ。
「それに、これはまだ機密事項ですが、あなたのご存じないところで、我々スメルナ帝国にとって有益な話もあります」
そう言った後、ファルト将軍は後ろに控えていた副官に向かって目で合図を送る。
すると、副官は即座に動き、カゼルに対して一枚の書面を差し出した。
軽く目を通すと、新開発された連射式弩《いしゆみ》三千丁の売買契約書であった。
国家予算のおよそ一割にも上る額が提示されている。
取引相手は商人ギルドであった。
「それだけの新兵器があれば、万が一敵の軍が押し寄せてきたところで、恐るるに足りますまい。これでわかりましたかな?」
自信に満ちたファルト将軍は、そう結論を下した。
それを聞き、カゼルも一つの結論を下す。
こいつらは、事態をまったく把握できてはいないと。
武器があったところで、それを配備して訓練を施すまでにどれくらいの時間がかかると思っているのか?
しかも、ここにきて急にこんな新兵器を出してくるという、商人ギルドの動きを怪しいとは思わないのか?
まぁ、それに関しては、怪しいと思うと都合の悪い事情があるのだろうが。
裏ではほとんどの貴族たちが、商人ギルドと癒着して多大な謝礼金を受け取っているはずである。
この新兵器にしても、その予算のうちのいくらかは、ファルト将軍の懐に入ることになるだろう。
こういう状況であるのだから、これ以上説得を続けたところで無駄であろう。
だから、カゼルは少し肩をすくめただけでそれに答える。
するとファルト将軍は形式的に頭を下げ、また元の結論の出ない議論を再開した。
もちろん、その中でカゼルの意見が反映されることなどなかった。
その様子を見ながらカゼルは内心、この国も長くないだろうと確信を深めていた。
どうやらこの国の主導者達の頭の中は、皇帝も含め綿菓子ででもできているらしい。
今度の相手はスメルナ帝国やセイリアン王国が百年かけてやれなかったことを、あっさりとやってみせた。
難攻不落だったはずの自然の要害を、やすやすと通過してみせたのだ。
それも、二度も。まるで自分の庭を横切るかのように。
五千という寡兵でありながら、彼らはその兵力を未だに保《たも》ったままだった。
それがどういうことなのかを、未だに理解していない。あるいは、しようとはしない。
敵方にはそれだけのことを、自然に思えるくらいに容易《たやす》くやってみせる軍師がついている。
天才。たぶんそう呼んでも差し支えなかろう。
そんな敵にたいして、時を与えるということの恐ろしさがわかっていない。
ダヘル公領をあっさりと抜かれてから、コウ王子の率いる進攻軍の行方は杳《よう》としてつかめてはいなかった。
寡兵とはいっても五千というのは大変な数である。
それが、消えた。
どういう手を使ったのかはわからないが、問題なのはなぜ姿を消す必要があったのかなのである。
それに彼らの戦略的な目標がどこにあるのか、それが一番重要だろう。
そして、カゼルは帝都攻略にあると踏んでいた。
というか、それ以外に考えつかなかったのである。
遊兵をつくらず、帝都を固めていればそのうち敵は姿を現す。そこをたたけばいい。
カゼルの言ったことは、そういう意味であった。
でも、スメルナの重鎮と呼ばれる武官や文官が顔を並べているこの議場で、そのことを看破しえた者は一人としていない。
軍を束ねるべき将軍ですらそうなのだ。
議題に上っているのも、この事態の責任が誰にありどうやってそれをとるのか、というのが主たる目的になっていた。
ひいては、先日秘密裏に行われたコウ王子に対する襲撃作戦の責任の所在についてもそれに含まれている。
同じことを一昨日は確か四時間かけ、昨日は六時間も話し合い、そして今日はもう二時間目だ。なのに未だに結論は出ていない。
誰もが責任を逃れるために、全力を尽くしていた。この国自体に危機が迫っているというのにだ。
カゼルがうんざりするのも、無理はないというものだろう。
でも正直なところカゼルにとっては、この国の命運がどうなろうがどうでもよかった。
帝国がこのまま滅亡しても、カゼルとしては一向にさしつかえない。
自分がこの国の皇帝になる前に滅んでくれたなら、いっそせいせいするだろう。
中原の覇権争いにも参加できずにくすぶっているような辺境の国。
毎年のように繰り返されるセイリアン王国との戦闘は、もはや定例と化し犠牲者の数だけを累々と蓄積してゆくに過ぎない。
そんな国の皇子として生まれたこと自体、呪《のろ》いたくなる。
貴族や官僚などのあからさまな追従の言葉を聞いていても、不快感ばかりがつのる。
もし義姉《あね》の存在がなかったなら、とうにこんな国など出奔していたはずだ。
そう今だってこんな茶番に付き合っているのも、それが義姉の運命に関わってくると思うからこそだった。
リンカ=マイネ。カゼルの乳母の娘。三カ月だけ先に生まれた義姉。
だから義姉と血のつながりはない。でもほとんど双子のように育ってきたし、その関係を今後もくずしたくはなかった。
マイネは生まれつき目が不自由で、今はカゼルの身の回りの世話をしてもらっている。
カゼルの屋敷内では、普通の人間と変わることがないくらい自由に動くことができた。
もっとも屋敷とはいっても、部屋数は四つしかなく皇子としてどころか普通の貴族の家としても、あまりに質素過ぎる建物だった。
当然周りの佞臣どもはもっと大きな屋敷に住むことを薦めたが、カゼルはその薦めを一蹴する。
屋敷内のことはすべてマイネが一人で管理して、だからこそ目の見えないマイネでも普通の人間同様に動き回ることができた。これ以上大きな屋敷に移ったらとてもそうはいかなくなるし、ましてや城になど移ったら確実にマイネの居場所はなくなる。
いつかは……そう、マイネに愛する男性ができれば、別れなくてはならないときがやってくる。
その日が訪れるまでは、今の質素だけど充実した暮らしを守る必要がカゼルにはあったのである。
カゼルは強い。
この国の誰も太刀打ちできないだろう、と言われるくらいに。
それほどの力を持てばそれを使いたくなる。
その欲求は日を追うごとに増してきている。
国を捨て名を捨てる。様々な強者《つわもの》と出会い剣を交《まじ》えるために。
できるだけ強く強力な相手に出会うこと、自分の技と力を限界まで使い切らなくては生き残ることすらおぼつかないような敵。
その結果生き残るにしても、あるいは死んでゆくにしてもかまわない。
そういう生き方こそが、カゼルの望みだった。
そんな欲求を押しとどめる唯一のものが、マイネの存在であった。
カゼルは一振《ひとふ》りの剣さえあれば、どのようなところでも生きてゆける。
狩りをし草を食《は》み洞穴をねぐらとする。
山の中でそんな獣のような暮らしをしながら、ひと月近くも修行を続けることはよくあることだった。
そのことに苦痛を感じたことは一度たりともない。それよりも、石に囲まれた城の中にいることのほうが、よっぽど苦痛を感じる。
生理的に合わないのだ。
貴族どもは陰でカゼルのことを野良皇子とか野獣皇子などと呼んで、蔑《さげす》み嘲笑していることを知っている。
だが別にカゼルが気にすることはなかった。
その言葉は自分にぴったりだと本気でそう思っていたからだ。
だが、マイネは違う。
家事全般をこなすために、それなりの力はもっているがカゼルのような暮らしはできない。
たとえ目が見えたにしても、それは無理だろう。
目の見えないマイネを置いて出奔することはできない。でもマイネを共に連れてゆくことなど、なおさらできるはずがなかった。
だから、カゼルは未だにこの国の皇子として、縛り付けられていなくてはならなかったのである。
そして、皇子である限りそのための義務と責任というやつが、不本意ながらものしかかってくるのである。
その結果がこれだった。
終わりが一向に見えてこない無為の時間。
カゼルはついに腹を括《くく》る。
この国のためになど働くのはまっぴらだ、とそう思ってきたが、このままではマイネの身に危険が及ぶ可能性が出てくる。
こうなったらもう自分で動くしかない、とそう決断を下す。
「将軍、私に五千の兵をあずけてくれないか?」
カゼルはフェルト将軍にそう話しかけていた。
マイネは洗濯物を干していた。
山ほどあるそのほとんどが、男物の服である。
とても大きくマイネだったら二人分くらい、すっぽりと入りそうなくらいに大きな服だ。
それが、何着もある。
その持ち主は、暇さえあればどこでも修行を始めるためすぐに汚してしまうのだ。
でもだからといって洗濯物をマイネに押し付けるわけではない。
というよりまったく逆で、ほうっておけばたとえ一年でも着替えようとはしないだろう。
身分的には自分が仕える主である。
でも、ずっと双子の兄弟のようにして育ってきたし、三カ月間だけ年長の義姉としてはそんなマネを許すわけにはいかなかった。
だから、カゼルが帰宅するたびにかならず洗いたての服を持ってゆき、めんどくさがる義弟の服を半ば強制的に着替えさせるのだ。
この屋敷にいる限り、絶対にみっともない格好をさせるわけにはいかない。
他の貴族たちが皇子である義弟《おとうと》のことを、なんと呼んでいるのか知っている。
そういった連中の嘲笑の種を、わざわざ提供してやる必要などない。
それが自分の使命なんだ、とマイネはそう思っていた。
最愛の義弟にみっともない格好など、させておけるはずがないではないか。
どの貴族達の屋敷より小さくとも、マイネの管理するこの屋敷は隅々まで手入れが行き届いていた。
チリはもちろん、隅々まできちんと磨き上げられ、誰にもまねできないくらい、見事に手入れされている。
この屋敷に招き入れられて、不快に感じる人間はおそらく一人としていないはずだ。
マイネには、そういうことに対する天賦《てんぷ》の才能があるのかもしれない。
たとえ目が見えないというハンデがあるにしてもだ。
最後の一枚を干し終えたとき、背後に人の気配を感じた。
溢《あふ》れんばかりの熱量を全身にまとわりつかせている。
そのすべてが強烈に漢《おとこ》のにおいを発していた。
マイネにとって一番身近な存在であり、誰よりも大切な存在でもある。
「まあ、いつからいたの? カゼル?」
マイネのみに許された名前で呼びかける。
「たった今来たところさ」
カゼルがそう答える。
それは小さなうそ。
野生の動物でさえ、カゼルに近寄られても気づかない。マイネに気づかれないままそこにいることくらい、造作もないだろう。
たぶん、マイネの仕事が終わるまでそこで待っていたのだ。
でも、
「ちょうどよかったわ、今すんだとこなの。お昼、食べるでしょ?」
マイネは気づかないふりをした。
カゼルはマイネの仕事に手を貸すようなことは決してしない。
目が見えないから……という理由で助けたこともない。ましてやそんなことを口に出したことは、生まれてから一度もない。
二人はともに育ち、カゼルが剣の修行に明け暮れるようになるまではいつも一緒にいた。二人はいつでも対等の関係であったし、二人だけでいるときは今でもそうだ。
この家にいる限り目が見えないということは、マイネにとってなんの障害にもならない。下手に手を出されるとかえって手間がかかってしまう。
でもだからといって、マイネのことを気遣っていないというわけではない。
第一この屋敷を建てさせたのもカゼルだった。
宮廷に出入りするような職人ではなく、市中から自分の気に入った腕の良い職人を集めてきて造らせたのだ。
そのさい通常の倍近い時をかけ、細かいところまでカゼルが指示をして造らせた。
家の中はどこも段差をなくしてあったし、扉も押し入れにいたるまですべて引き戸が使われている。食器棚やタンスのような収納スペースは、すべてマイネの手の届く下の方に配置されていた。
そういった隅々にまで心配りのなされた家は、どれほど贅をつくした屋敷よりもマイネにとって贅沢極まりない家だったのである。
最近は年の半分も帰ってこなくても……いや、だからこそこの屋敷を一番気持ちよくカゼルを迎えることのできるように、いつでも管理して整えておかなくてはならない。
マイネはそのことを、ある種使命のように考えていた。
出迎えるときも自然に、出て行ったときと何ら変わりなくいつものように迎え入れる。それは、口に出したことはないけれど、双子のように育ってきた二人の間で交わされた約束事のようなものでもあった。
「さぁ、召し上がれ」
大皿に山のように盛った料理をテーブルの上に、マイネがドンと載せる。
「おう」
短くカゼルが答える。
それは見事な食いっぷりだった。
あれほどたくさんあった料理が、あっという間になくなってゆく。
料理を作っていて、この瞬間が一番マイネは好きだった。
どれほど苦労しても、カゼルがうまそうに食べているのを感じるといっぺんに報われる。
「どう? 満足した?」
一通り食べ終わったのを感じ取ると、カゼルに尋ねる。
足りないようなら、今度は少し軽めのものを作るつもりだった。
「いや、これから出かける。これくらいでやめておこう」
そう、カゼルが答える。
「今度は長くなるの?」
たった今帰ってきたばかりなのに……。
さすがにマイネの美しい顔が曇った。
「わからない。……正直どうなるかは、敵次第なんでな。ただ簡単にはいかんだろう」
というカゼルの言葉。
「敵? あなたが出なくてはならないの?」
カゼルが国のため、という理由では戦わないことを知っている。
彼が剣を手にするのは修行のときと、強い相手を見つけたとき、それにマイネのためだけだ。
ということは、この帝都に危機が迫っているということ。
「わからん。正直敵がどんな手を打ってくるのか想像もできん。ただ、このまま黙って見てても埒《らち》が明かんのでな、俺が出ることにした」
それを聞いてマイネは少し不安になった。
普段寡黙で無口だけど、いつも不動の自信を身につけていた。
そのカゼルが少し弱気になっている、とそう感じられたのだ。
「だいじょうぶ、あなたなら! 最強の剣士なのでしょ?」
元気付けようと、マイネがそんなふうに言った。
「最強の剣士か……そうありたいと願ってはいるが、な……。しかし、今度ばかりはそれではだめだろう。いくら俺でも剣の届かん敵は斬ることができん」
カゼルは自分の力を過大評価することはない。でも過小に評価することもない。
いつも冷静に相手と自分との力を推し量る。自然の中で獣たち相手に暮らし、修行を続けるためにはそういう冷徹な判断ができなくてはならないからだ。それができないようでは、容易に死に結びつく。
そのカゼルが難色を示している。安易な元気付けなど役には立たない。
それでも、
「だいじょうぶよ! だいじょうぶ! あなたなら、カゼル!」
マイネはそう言いつのった。
理解していることと、人の感情は別物だから。
「……そう、だな。最悪ここを捨てることになるだろうが……まぁ、どうとでもなるか……。そのときは、俺とくるか?」
開き直ったように、カゼルが聞くと。
「もちろんよ」
マイネの返事に迷いはなかった。
「でも、それほどの相手なの?」
マイネは確認しておくことにする。
カゼルをこれほどまでに不安にさせている相手というのを、知っておきたかったから。
「もし中原で働くような機会があれば、大陸の国々を一つに纏めることができるやもしれん」
その言葉は短かかったけれど、マイネを驚かせるには十分過ぎるものだった。
「ま、まさかいくらなんでも、そこまでは言いすぎなんじゃ?」
大陸には現在二十以上もの国々が存在し、覇権をかけて戦いをくり広げている。
その中でも大陸中央部に、巨大な草原と海とも呼べるくらい大きな湖が点在する肥沃な土地が広がる場所があった。
そこを中原と呼び、大国どうしがその支配権を競い合っていたのである。
スメルナ帝国やセイリアン王国は中原から遠く離れた大陸の東のはずれに位置する辺境国家にすぎず、二国間の争いが大陸の歴史に対して影響を及ぼしたことなどこれまでなかった。
容易に百万規模の兵力が動員され、多くの名だたる軍師達が権謀術数をくり広げている。
そこでの争いというのは、スメルナ帝国とセイリアン王国の二国間での争いとは桁が違う。
それを一つに纏めるほどの実力となると、尋常ならざるものがある。
「あくまで可能性に過ぎんが、その程度の実力はあると見て対処した方がいいと思っている」
カゼルは恐ろしいことを、当然のように言った。
「では、お城の方達はさぞあわてておいででしょう?」
とのマイネの言葉に、カゼルは首を振る。
「いや……喉元に剣を突きつけられるまでは気づくまい」
味方に対する評価は極めて冷ややかだった。
「でも、カゼルがいるのでしょう? だったら何も心配いらないわ」
そう言ったマイネだったけど、内心では不安を感じていた。
それでも、そんなことなど微塵も感じさせるわけにはいかない。
「そうだな。この暮らしを守らないとならんからな」
その答えに、マイネがうなずく。
でも、心の中にはチリチリとした痛みがあった。
カゼルは隠しているつもりだろうけど、義弟の本当の望みを知っている。
この国を離れ、剣一本を頼りに世界中を渡り歩きたい……。
それが、カゼルの真の望み。
そんなことなどマイネはとうに気づいている。この暮らしを誰よりも一番守りたがっているのは自分自身……マイネなのだから。
カゼルがいったん旅立ってしまえば、もう二度とこの場所に帰ってくることはないだろう。
さっきは“ともに来るか?”との問いに頷いてみせたけれど、そんなことなど自分には不可能だということは、マイネ自身が一番よくわかっていた。おそらくカゼルにもわかっているはずだ。
せめて、別れのときまでは、そんな夢にすがっておきたい、そんな願い。
こんな辺境の一国家の皇子として燻《くすぶ》っているには、カゼルの翼は余りに強く大きすぎる。
いったん羽ばたいてしまえば、マイネには決してついてゆくことなどできはしないだろう。
そして、そのときはもう目の前に迫っていた。
今はもう、そのことが確信できていた。
これほどの強敵を前にして、もう立ち止まることなどできようはずがない。
でも、運命は二人を意外な方向へと導くことになる。
そしてその運命は、すぐ近くにいたりした。
「ほんとにここかぁ?」
イヴァンが今いるのは、とある屋敷の玄関前。
そこは普通の民家と区別がつかないくらい、小さな屋敷だった。
まぁ、ここまで小さいと屋敷と呼ぶこと自体、非常に抵抗があったりするのだけれど。
「ごめんくださぁ〜い!」
イヴァンが叫ぶように言った。
中の方から返事をする声が聞こえる。
女性の声だった。それも美しい。
急にイヴァンがそわそわし始める。
そして、自分の服装のチェックを始めた。
急いでチェックをすませて、最後に髪の毛を一生懸命撫《な》で付けている。
傍目から見ると、そんなことをしたところで、なんの変化もなかったりする。
「いやぁ。最近まともな女と話してないから、緊張するぜ」
ユンフ辺りが聞いたら、丸一日は嫌味を聞かされ続けそうな独り言を言った。
頬の筋肉が思いっきり緩んでいるところを見ると、よっぽど楽しみにしているのだろう。
玄関の奥に人の気配が近づいてくる。高まる期待、ドキドキが心地よい。
向こう側で扉に手がかかった。
扉がゆっくりと開かれてゆく。
人づてに聞いていた、たおやかでとても美しいこの屋敷の住人のこと。
イヴァンの妄想をたっぷり含んだ胸の高鳴りが、この瞬間ピークに達した。
「あんた誰だい?」
イヴァンの表情が、一瞬の内に固まった。
そこに立っていたのは筋肉の塊。
たおやかさなんて、どこを探してみてもかけらもない。
美しさなんて、どこをどう捻じ曲げてみたところで微塵も感じられなかった。
目の前でひらひらと何かが揺れている。
それは、巨大な掌だった。
「おい、だいじょうぶか?」
心配そうだけど、おもいっきり不審そうな声がした。
こめかみを押さえながら、イヴァンは小さく頭を振る。
「あ、ああ……すまない、ちょっとショッキングな出来事があったもんで」
どうにかイヴァンは、立ち直ることができたようだ。
「何があったか知らんが、元気を出すことだ。……で、なんの用件だ?」
筋肉の塊に同情された後、用件を聞かれる。
「用件?」
なぜか、戸惑うイヴァン。
「どうした? 用があったから来たのではないのか?」
質問をする声が、“こいつアブナイやつなんじゃないのか?”っていう感じだった。
「そうそう! 確か美人のおねぇちゃんが……」
言いかけて、ふと言葉がとぎれる。
そうだったのか? 本当の用件は別のことだったのではないか?
そう、頭の中に疑問の声が渦巻いていた。
「美人のおねぇちゃんが? どうした?」
どうやら、ますます“アブナイやつ”の評価が高まっているみたいだ。
「………………」
イヴァンは考え中。
用件とは、そんなに難しいことなのだったのだろうか?
「………………」
イヴァンを出迎えた男も、黙ってその様子を見ている。
それにしても――全身筋肉の塊のような男二人が黙ったまま、じっと向かい合っている姿は――とても恐ろしくもおぞましい光景であった。
「おっ、そうだ!」
ついに、その光景が終結を迎える。
「ジーナ皇子とかいうやつに、こいつを渡しにきたんだ」
そう言って、懐から二通の手紙を取り出す。
ちなみに、美人のおねぇちゃんとはなんの関係もない。
どうやら美人のおねぇちゃんがいると聞かされた瞬間に、目的がすり替わってしまったらしい。
少々羨《うらや》ましい気もする思考回路だった。
「ふむ、俺にかこつけてマイネに会うつもりだったか……なら、悪いことをしたな」
イヴァンのあまりに単純すぎる思考回路は、一瞬のうちに読まれてしまっていた。
「ははは、照れるぜ」
なぜか意味不明に照れたりした後イヴァンは、ようやく大切なことに気づいた。
「えっ? じゃああんたが皇子サマだってのか?」
イヴァンとほぼ互角の長身。でも肉厚ならば、イヴァンをしのいでいる。どう見たって皇子という雰囲気など存在しない。
めずらしく、まともなことで驚くイヴァンだった。
「見えぬか?」
カゼルが短く聞くと。
「ああ、見えねぇな。きっぱりと見えねぇ。俺が保証してやらぁ」
イヴァンはそう言いきった。おまけに、保証付きであった。
「ふっはははは! そうか、見えぬか! くくくっはははははは!」
いきなり大声で笑い出したカゼル。
今度は、イヴァンが“なんか、アブネェやつだな”との感想をいだく番だった。
ひとしきり笑った後。
「まぁ入れ」
カゼルはまるで旧友にそうするかのように、いきなり肩を抱き屋敷の中へとイヴァンを招き入れる。
「ところで、名を聞いておこう。俺の名は――たぶん知っておろうが――サイヴェルド=ジーナ=カゼル。……カゼルと呼んでくれ」
カゼルは名をなのる。今までにマイネにしか呼ぶことを許したことのない名を。
「おりゃイヴァンってんだ。よろしくな、カゼルさんよ」
相変わらず無礼きわまりない挨拶をイヴァンがする。
でも、それがカゼルはかなり気に入ったらしく、
「ああ、こちらこそよろしくたのむ」
そういって、組んだイヴァンの肩をばんばんと叩いた。
そのさい、イヴァンが痛さに顔をしかめたのはいうまでもない。
「どうしたの、カゼル?」
そう言いながら、家の奥のほうから顔を出したのはマイネであった。
カゼルの楽しそうな笑い声を耳にして気になったのだろう。
「あら? お客さま?」
イヴァンに気づいたようだ。
その瞬間、それまでのイヴァンの態度が一変する。
「ぼ、ぼ、ぼくはイ、イ、イヴァンと申します。お、お、お嬢様!」
指先までピンと伸ばしていた。直立不動の姿勢というやつだった。
おまけに何を緊張してるのか、やたらとどもりまくる。見苦しいことこの上ない。
「あら? まぁお嬢さまだなんて……。わたし皇子の身の回りのお世話をしている、リンカ=マイネといいます。皇子とは幼い頃より親しくしておりますけど、身分なんてありませんし……。どうぞ、もっと気楽にしてくださいな、イヴァンさま」
やさしくそう微笑みかけられると、もうだめだった。
イヴァンはへろへろ状態に陥り、まともに話せなくなる。
「お、お、お、お嬢さままさまさま、リリリリリンカささまままさまさまよよよよろしくしくしくくく」
どうもどこかが壊れてしまったようだ。
カゼルがイヴァンをテーブルにつかせ、マイネは二人のためにお茶と菓子を用意する。
それから二度ほどお茶を注ぎ足した頃、
「リ、リンカお嬢さま。ぼ、ぼくイ、イヴァンといいます。よ、よろしくです」
ようやくイヴァンが挨拶に成功を収める。
「こちらこそよろしく、イヴァンさま。でも、お嬢さまはおよしになってくださいな。それに、マイネと呼んでくださいましね」
にこやかに微笑みながらマイネが言う。
どうやら、マイネもイヴァンのことが気に入ったらしい。
「は、はい! マ、マ、マ、マ、マ」
イヴァンがまた壊れた。
「マ・イ・ネ・です」
やさしくマイネが助けてくれる。
「マ、マイネ、さん……」
ようやくイヴァンが、その名を口にした。
なんとも疲れる男だった。
「はい、イヴァンさま。……ところで、今日はどういったご用件でお見えになられたのです? まさか、わたくしにお会いにこられたわけではないのでしょう?」
冗談交じりのマイネの問いに、
「あ、あ、あの、そ、そ、そ、それは……」
イヴァンが必死で答えようとする。
そこに、
「こいつを俺に届けに来たらしいのだが……」
カゼルが割り込んだ。放っておいたら一日くらいはかかりそうだ。
「どうやらそれは口実で、本当はマイネに会いにきたらしい」
あっさりとカゼルに看破される。
もっとも、わからないほうがどうかしている。
「さて、せっかく届けてもらったものだ。見させてもらおう」
カゼルがそう言うと、マイネは軽く会釈をして部屋を退出した。
これから先は自分が邪魔になると判断したのだ。
とくに合図とかあったわけではなく、自分の立場をわきまえているだけのことだ。
ただイヴァンは、未練がましくその後ろ姿を眺めていたけど。
カゼルが手にした封書には、封蝋《ふうろう》で封印がほどこされていた。
封蝋の判に用いられていたのは……。
「ほう、セイリアン王家の密書か……」
腰から大型のナイフを取り出し切り開く。
中には美しい書体で綴《つづ》られた短い文面が記されてあった。
それに簡単に目を通した後、
「ふむ、セイリアンの王子とはかなりの変わり者のようだな」
そう感想を漏らす。
「まあ、そうだな、俺もあんたに会うまではそう思ってたよ」
マイネがいなくなったとたん、態度が豹変《ひょうへん》するイヴァン。
曲がりなりにもカゼルは皇子である。普通はどう考えても逆のような気がするが……。
まぁイヴァンだし、そんなものだろう。
「ほう? 戦争をしている敵国の皇子に、帝都攻略の方法を教えてくれるような王子ほど、変わり者ではないつもりだが?」
不思議そうに、カゼルが言う。
「えっ? なんだって?」
今、とっても奇妙なことを聞いたような気がした。
だから、イヴァンは思わずそう聞き返す。
「この手紙の中には、この帝都を攻略する方法が簡単に書いてある。しかも、この俺に手伝ってほしいとも書いてあるぞ」
イヴァンはちょっと眩暈《めまい》がした。
コウのことは、あの面子《メンツ》の中では一番まともだと思っていたのだが、どうやら考えを改める必要がありそうだ。
「わ、悪かった……。コウ王子もあんたと同じくらいの変わり者だよ」
詫《わ》びを入れるイヴァン。
でも、あまり謝罪になってないようであるが。
「気にするな。変わり者なら、おまえだってひけはとらんさ、イヴァン」
カゼルは謝罪を受け入れた……というより、元気づけたつもりだろうか。
「そうか? はは、なんか照れるな」
なぜイヴァンがそこで照れたのかは、余人には判断つきかねよう。
「さて、次を見てみるか……」
カゼルはもう一通の手紙に目を通すことにする。
その封書には封印は施されていない。
ただ、糊でくっつけてあるだけだ。
たいした内容ではないのだろうか?
ナイフで切り開き中身を取り出す。
そこには無茶苦茶汚い字で、こう書かれていた。
『こいつ強いよ。思いっきり楽しんでね。――イットより』
カゼルはその署名に関しては、心当たりがなかった。
でも、思い当たる人物ならいる。
「おまえらの軍師は、イットという名なのか?」
カゼルが試しに聞いてみると。
「おう。コウ王子やあんたも十分変わり者だが、やつはその倍くらいは変わってるぞ」
イヴァンは自信を持ってそう答えた。
「だいたい小僧のくせにやたらとエラソーだし、虚弱体質のくせに人のこと苛めて喜ぶ変態野郎さ」
一斗が聞いてないと思って、言いたい放題である。
もっともこの時口止めをしておかなかったために一斗に漏れて、後悔ということの意味をたっぷりと実感させられることになるのだが。
それはまた、別の話だ。
「なるほどな、このような手紙を書くだけの人物ではあるな……」
カゼルは納得していた。
「で、なんて書いてるんだい? あいつ?」
イヴァンが聞いた。
カゼルが楽しそうに笑っていたから、気になったらしい。
手に持っていた一斗からの手紙を、黙ってイヴァンに手渡す。
するとイヴァンの表情が、何か苦いものでも飲んだかのような感じになった。
「なんだよ、こいつぁ?」
その表情が面白かったのか、カゼルが笑う。
「ハハハ……ということだ。どうだ、俺と手合わせをしてはもらえるかな?」
もちろん、会った瞬間からイヴァンの実力が相当なものだとは思っていた。
ただ、ここまであからさまにけしかけられるまで、遠慮をしていたのだ。
でも、イヴァンはちょっと考えた後。
「……いや、やめとくよ。まだ、メシ食ってなくってよ、腹減ってんだわ、俺」
あっさり断る。
イヴァンにとっては、食欲の方が遥かに優先事項であった。
「なんだ? それなら食っていくか?」
とのカゼルの提案に、
「おっ? メシ食わしてくれんの? そいつぁ、ありがてぇ!」
イヴァンはあっさりとびついた。
どうやら、イヴァンの脳みその中には、遠慮という言葉は入っていないらしい。
「では一緒に食おう」
そう言って、カゼルは食卓にイヴァンを案内する。
もちろん、当然なことだが……そこにはマイネがいる。
おかげで、イヴァンはまともに食べたような気がしなかった。
でも、それは気がしなかっただけで、実際には相当大量に食らいまくっていたのだが……。
カゼルのために蓄えていた食材を、すべて食べ尽くすくらいに……。
「うっ……」
そんな声を出しながら、ゆっくりとイヴァンが立ち上がる。
いきなり動いたら、口から出てしまうことは確実だろう。
イヴァンにとっては、そんなもったいないことはできない。
こんなにうまいものなんて、めったに食べる機会などなかったし、ましてやマイネが作ったものなのだ。たとえ死んでも出すわけにはいかない。
なんだか、悲壮さすら漂わせるイヴァンの姿であった。
「おい、だいじょうぶか?」
カゼルが心配そうに聞く。
するとイヴァンは手を振ってそれに答えた。
別に横着したわけではなくて、口を開いたら本当に出てきてしまいそうだったからだ。
そのまま玄関へとイヴァンが向かってゆく。
「なんだ? 帰るのか?」
またイヴァンが手を振った。
どうやら、そうらしい。
「とりあえず、指定された店には行くと伝えておいてくれ」
そう後ろから声を掛けると、イヴァンは振り返らずに手を振って答え、そのまま帰っていった。
かなり足元がふらついている。
帰り着くまでは、そうとう時間がかかりそうだった。
まぁ、それまでの間にもどしてしまわなければの話だけれど。
「気持ちのいい男《ひと》だったわね、カゼル」
二人になった後、マイネが言った。
「そうだな。確かにあれは気持ちのよい漢だな」
カゼルが同意する。でも、
「まぁ、いささか変わった漢ではあったが……」
しっかり追加もあった。
「ついに、最後まで触れなかったしな……」
そうカゼルが言いかけた後を、マイネがひきとるように続ける。
「あたしの目のことに、ね。気づかなかったわけではないんでしょうけど……大したことではないって思ってる感じだったわね。あれは」
なぜかマイネのその言葉が楽しそうだった。
「どうした? ほれたか?」
カゼルが少しからかうようにそう言うと。
「どうかしら? それより、カゼルの方が彼のこと気に入ったのではなくって?」
マイネもやっぱりからかうように、そう切りかえした。
でも、内心では確信していた。イヴァンと義弟の絆《きずな》がより深いものになることを。
「……そうだな。長い付き合いにはなりそうだ、な」
カゼルはそんなふうに答えた。
でも、その言葉は現実のものとなる。
この日出会った二人の漢は、それぞれに大陸の歴史に深く関わってゆくことになるのだ。
「ところで、もう出かけなくていいの?」
マイネが聞くと。
「もう、その必要はなくなったんでな」
カゼルが答えた。
そう、イヴァンという運命の登場により、二人の未来は想像もしていなかった方角へと導かれることになったのである。
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第七章 あっちもこっちも
「ちょっと、なにやってるの?」
腰に両手を当てて、一斗の方を睨みつけている恐ろしそうな美少女が言った。
もちろん、ユウリのことである。
「見てわかんない?」
地面にべったりと座り込んだまま、一斗が答える。
「わかるわよ、それくらい! わたしが聞いてんのは、なんで座り込んでるかってことよ!」
綺麗な顔いっぱいに、いらだちをにじませている。
「だからさ、見ればわかるでしょ?」
また、一斗がそう答えた。
ユウリの愛らしい――見た目は――頬がピクンとひきつった。
マジ切れしそうになってる感じだ。
「あなたね……いい? わたしはそのわ・け・を聞いてるのよ。ど・う・し・て・そこに座ったままなのか、わたしは知りたいの!」
今度は子供にもわかりそうなくらい、丁寧に質問する。
もっとも子供だったら、とうに泣きだしていることだろう。
おっかなさが、どんどんパワーアップしてるからだ。
ちなみに今は、二人きりで特訓中であった。
ユウリと一斗は王都に残っていて、あれやこれやいろんな怪しげな工作をやっていた。
もっとも怪しいのは一斗だけで、ユウリはその手伝いをしていただけなのだけど。
で、コウやユンフの面々がいないということもあり、ユウリの特訓は日を追うごとに熱心さを増してきていた。
スクワットのような基礎訓練は、初日の倍くらいになっている。
もっともそれでも、まだユウリのやっている半分にも満たないのだけれど。
「だから、ほら」
そう言って一斗が指さしたのは足。
「ほらって、あなた……」
言いかけて、ユウリの声がいきなり変わった。
「ど、どうしたの? その足!」
驚いたのも無理もない。
一斗の左足が、脛《すね》の辺りで奇妙な方向に曲がっていた。
「折れちゃってるみたいだね……」
他人事みたいに一斗が言った。
汗がたらたら流れているのは、どうやら運動のせいばかりではなさそうだ。
「な、なんてこと……」
ユウリは言葉がうまく出せない。
かなりのショックを受けている。
「あのさ、ユウリ。棒とか紐とか、持ってきてくんない?」
どことなく、かすれた声で一斗が頼む。
顔色も急速に悪くなり始めていた。
「紐と棒って……?」
ユウリが聞き返す。
頭が混乱しているらしく、一斗が何を言っているのかうまく理解できないみたいだった。
「ここんとこに棒を当ててさ、こことここを紐でぎゅってね……」
身振りで一斗が説明する。
「わ、わかったわ……」
理解した後のユウリの行動は早かった。
自分の腰から剣を外し、鞘《さや》を利用して棒の代わりにした。
紐の代わりには腰帯を二つに切って利用した。
「ちょっと、まっててね……」
一斗はユウリから受け取った棒と紐、それに上の服を脱いだ当て布で自分の折れた足を器用に固定する。
「とりあえず、これでいいっかな……」
汗が引いて体温が急速に落ち始めている。
一斗の顔色は、今でははっきりとそうわかるくらいに悪くなっていた。
でも、一斗自身はあまり慌てた様子はない。
むしろショックなのは、ユウリの方が大きいようだ。
「だ、だいじょうぶ? ……痛くないの?」
普段からは想像できないくらい、気弱そうな声で聞く。
いつもこんな感じだったら、ユウリ=ファンクラブが結成されても不思議ではないだろう。
「もちろん痛いよ。どのくらい痛いのか、説明してあげようか? きっとわかってもらえないと思うけどね」
当たり前であった。
でも、これだけ軽い口がたたけるのなら、やせ我慢もたいしたものだろう。
「それよかさ、肩貸してくんない?」
イットがユウリに助けを求める。さすがにこのままでは、一人じゃ立てないからだ。
情けないところだが、一人で立てないのは物理的な問題であって、やせ我慢が通用するようなことではない。
でもユウリは肩なんて貸さなかった。
いきなり抱き上げたのである。
両手ですくい上げるようにして。
「うあっ? 何すんのさ? 恥ずかしいって!」
一斗が文句をつける。
「恥ずかしいくらい我慢しなさい!」
口ではそんなことを言ったユウリだけど、内心ゾクッとしていた。
ある程度は予想してはいたけれど……。
軽い。
軽すぎる。
とても生身の人間を抱えているような気がしない。
このまま落としたら、そのままばらばらに砕けてしまいそうだった。
「でも、なんだってこんなことに……」
普通にスクワットをしてただけだ。危険な訓練をしてたわけじゃない。なのに、いきなりこれだ。ユウリじゃなくても言いたくもなる。
「疲労骨折ってやつなんだよな、これって」
ユウリの腕の中で、一斗がしたり顔して解説を始めた。
「なによ? それ?」
もちろんそれで、ユウリにわかるわけない。
「針金とかをさ、こういう具合にコキコキ曲げてくと、ポキって折れちゃうでしょ?」
そう言いながら、一斗は両手をうにうにと動かしてみせる。
「知ってるわ。でも、それとなんの関係があるの?」
いぶかしそうにユウリ。
「それと同じことが起きちゃったんだよね。僕の足で」
一斗がそんなことを言った。
「そんな……まさか……あの程度の運動で? あの程度なら誰だって……」
ユウリは半信半疑だ。そんな話聞いたことないし、それに普段の一斗が一斗だから容易には信じられないという気持ちもはたらく。
「ほんっと、冗談みたいでしょ? ちょっと鍛えるくらいで、骨が折れちゃうなんて」
ちょっと間を置いて、
「これがホントの、骨折り損のくたびれ儲《もう》けって、ね」
一斗が言った。
我ながら会心のギャグだと思った。ここで笑わなきゃもう笑うとこないぞ、みたいなノリだった。
でも、かなり寒いギャグであった。
当然そのギャグは、ユウリにはまったく通じない。
「あんたね……。いつもは文句ばっかつけてるのに、こんなときだけ強がんないでよ!」
肩が少し震えている、怒っているのか?
「もう、折れちゃったことだし……このさい前向きにだね……」
一斗が言い訳を始めようとしたら、
「わたしのせいだ……。こんなに壊れやすいって知らなかったから……」
ユウリは聞いちゃいなかった。おまけに思考が、おもいっきり後ろ向きになっている。
その頬を美しい雫《しずく》が、ひとすじつたう。
「いゃぁ〜ごめん。ホントはさ、ちょっと期待してたんだ」
いきなり一斗が詫びを入れる。
さすがにギャグは、通用しそうもないことを悟ったのだろう。
言う前に気づけよ、という話なのだが……。
「期待してた?」
ユウリが意外そうに尋ねる。一斗は何を言いたいのか? それがわからなかった。
「そう、期待してた。今度は大丈夫かなって。普通くらいにはなれるんじゃないかって……。いつだって同じ結果にしかならないのに、ね」
そう言って、一斗が笑う。
「ははは。だからさ大丈夫、気にする必要ないって。いつものことだし、さ」
という一斗の言い訳じみたセリフ。
ただし、説得力というものがカケラもない。
体中から脂汗が滲《にじ》み出してたし、顔色は真っ青だし、とどめに声が震えてた。
こんなんで大丈夫などといわれたところで、信じる人間がいるものか。
「……いつもの……」
ユウリは少し目を閉じると、何かを吹っ切るように小さく頭を振る。
「そう、ね……。うん、あんたが悪い! こんな大事なこと、わたしに黙ってたんだから! 罰として、ずっとあんたにくっついててやるから! 覚悟なさい、イット!」
表面上はいつもの強さを取り戻し、ユウリはそう宣言する。
一斗の強がりに付き合ってあげることにしたのだ。時々男という生き物は、こういうつまらないやせ我慢をすることがあるということを知っている。
どんなにひ弱そうに見えたところで、しょせん一斗もそういう生き物なのだ。だったらユウリとしても、女としてそういったことを大目に見てやるくらいの寛大さはある。
ただし、ほっておけばこりもせず、今回のような馬鹿なまねを繰り返しかねない生き物である、ということもユウリはとうに気づいていた。
これからは、そんなことをしないよう、きちんと見ておいてあげなくてはならない。
「お、お手柔らかにね……」
そう言った一斗の頬の辺りが微妙に引きつっているのは、なにも痛みのせいばかりではないだろう。
「じゃあ、とりあえず部屋に連れていってあげる。それから医者を呼びましょう」
ユウリが断固として言った。
「あ、あのさ……。肩、貸してくれるだけでいいんだけど……」
一斗は控えめに言ってみる。
「なにか言った?」
ユウリが冷たく言うと。
「な、なんでもないです……」
もちろんもう一度言い直すような勇気なんて、一斗にあるはずはなかった。
こうして一斗は、本物のお姫様から、お姫様だっこをされて運ばれるという、あまりに貴重すぎる体験をすることになった。
このことを、生涯記憶の奥底に封印しておこうと思う一斗だった。
でも、まぁ無駄なことだけど。
封印したのは一斗だけで、ユウリの方は平気でそのことを話しまくったし、だいいちユウリからお姫様だっこをされるのだって、これが最初の一回目というに過ぎなかったからだ。
そして運ばれる最中、これからも何度となく聞かされることになるセリフを聞かされていた。
「ばかよ。あんたってほんっとに、ばか!」
なんだか時間がたつに連れ、やたらと怒りが増してきてるらしい。
「ぜったいにばかだわ。ったく、救いようがないばかよ!」
やたらと馬鹿を連発している。
怒りというよりは、いきどおっているのかもしれない。
でもその両手に込められる力は強く、それでいて繊細なものだった。
卵を大切に扱うみたいに。でも、それより遥かに慎重に。
「そう何度もばかばか言われるとさ……。ほんとにそんな気がしてきちゃうんだけど……」
せいぜい控えめに一斗が抗議すると。
「黙ってなさいよ、ばか!」
それがユウリの答えだった。
もちろん一斗が姫様のおおせに逆らうだけの勇気がなかったのは、言うまでもない。
「じゃ、しばらく大人しくしていること……。いいわね?」
一斗をベッドに寝かせると、ユウリがそう念押しする。
「だいじょうぶだって、歩けないんだからね」
一斗が軽く請け合った。なにしろそのとおりなのだから、誰はばかることもない。
「約束よ? いいわね?」
それでも、扉の前でもう一度念押しするユウリ。
「信用ないなぁ。だいじょうぶだって!」
一斗も、もう一度軽く請け合った。
なおも心配そうな視線を送った後、ユウリは部屋を出てドアを閉める。
そのすぐ後だった……。
「うぐぐぐっ……。いってぇー、いってぇー、いてぇぇぇー」
部屋の中でそううめきながら、ベッドの上でのたうつ一斗がいた。
ユウリには隠していたけど、痛んでいるのは折れた足だけではない。
まだ完全には治りきっていないあばら骨や、ギプスが――自主的に――取れたばかりの腕も悲鳴をあげている。
ユウリの前では強がってみせたけど、ここまでボロボロになってしまったらさすがに限界だろう。
うめき声は次第に悲鳴のようになってゆく。
今なら誰もいないし、思う存分うめくことができる。っていうか、それしかできなかったのだけれど。
あっちの世界に帰れば、痛み止めを処方してもらうこともできる。
でも、今はダメだ。
この王都でやらなくてはならないことが残っていた。自分を餌《えさ》にして釣り上げなくてはならない相手がいる。
今はどうしてもここを離れるわけにはいかなかった。
だからせいぜいこうやって、誰もいないうちにうめいているしかないのである。
「うひぃぃぃ、うぐぁぁぁっ!!」
一斗は安心して、思いっきりうめいていた。
でも……。
部屋の外……。
ドアを一枚隔てた向こう側。
そこには、ユウリがいた。
背中をドアにぴったりと付けて、両手で顔を覆っている。
その手のひらは濡れていた。
扉を閉めた後、なぜか直ぐには離れることができなかった。
そしたら中から小さなうめき声が聞こえてきた。
それはだんだん大きくなり、すぐに悲鳴へと変わった。
それほどの痛みを耐えていたのだろう。
あの戦いのとき、“一斗は死にかけていた”と兄さまは言っていた。ユンフも同じことを言っていた。でも、ユウリが初めて会ったときには、そんなふうには全然見えなかった。
そこまで重症の人間が、そんなに短期間で治るはずない。だとすれば、そのことを隠していたのだろう。普段は言わなくてもいいようなことを平気で言うくせに、肝心なことは何一つ話さない。
今度のことだって、こうして足を骨折しなければおそらく気づくことはなかったはずだ。
それがなぜかユウリには哀しかった。
少しまともな運動をしただけで、たやすく壊れてしまう一斗。
そんな一斗を自分だけに預けて、兄さまは行ってしまった……。
せめて……せめてユンフくらいは、一斗のためにここに残しておいてほしかった。
ユウリはたぶん生まれて初めて、兄のことを恨めしいと思った。
たとえそれがすべて、一斗の構想から生まれたものだとしても、だ。
一斗なんて、まるで自分自身のことをわかってないのに……。
誰かが、代わりに考えてあげなくてはならないのに……。
早く医者を呼びに行かなくては……。
そう頭ではわかっているのに、なかなかドアの前から離れられないユウリ。
涙が振り払えない。ここから離れる勇気が湧《わ》いてこない。
強いと思っていた。でも、こんなに弱かったのか……自分は……。
そんなユウリに行動を起こすきっかけをつくったのは、一人のメイドであった。
全員を解雇した後、わずかに雇いなおしたうちの一人。
ユウリより二つほど年上のはずだ。
「ひ、姫様!」
なんだかとても慌てている。
ユウリは急いで涙を拭う。
泣いているところを他人に見せるわけにはいかない。
「どうしたのです?」
ユウリがドアの前から早足で離れながら、そう尋ねる。
「お、お客さまが!」
そのまま早足で歩くユウリに追いすがりながら、メイドがそう言った。
「客? それで、どうしてあわてているのです?」
訝《いぶか》しげにユウリが聞くと。
「そ、それが……。とても大勢で、みなさん武装しておいでなのです!」
メイドが答える。
もちろんユウリには、いきなり武装をして押しかけてくるような客などに心当たりはない。
それも曲がりなりにも、第三王位継承権を持つこの国の王女に対して、そんな無粋なことをするような客などにはなおさら心当たりはなかった。
たぶん一斗なら、すぐにわかるのだろうけど今の一斗に伝える気はさらさらなかった。
「わたしが応対します。あなたは下がっていなさい」
ユウリがそう言うと、メイドはあからさまにほっとした様子で離れていった。
そのままこの屋敷から逃げ出しても不思議ではないだろう。
なにしろ、そういう人間をわざわざ探して働かせていたのだから。
たぶん一斗は、こういう事態が起こることをあらかじめ予測しておいたのだろう。
でも、一斗の思惑がどうであれユウリは自分がやるべきことをやるだけだ。
剣と腰帯を取り玄関へと向かう。
「これはこれはお美しい姫君には、ご機嫌うるわしゅうございます」
いきなり宮廷の作法に則《のっと》った礼をされた。
見た目はそれなりに顔立ちの整った、いかにも偉そうな感じのする男である。
その男のことをユウリはとてもよく知っている。
一番とまではいかなくても、世界で二番目くらいには嫌いな男であった。
「タシト兄さま、これは一体なんのマネです? ここはわたしの屋敷です。武装した兵などと一緒に乗り込むなど非常識にもほどがありましょう!」
ユウリが言い放つ。
そう、この男こそはこの国の第一位王位継承者であるクーリフォン=タシト=クラン。
一応血は繋《つな》がっているものの半分だけで、母が違うこともあり兄弟とはいえあまり会う機会もない。会ってもそれぞれの価値観があまりに違うために、ろくに口をきこうとも思わなかった。
だから同じ兄弟でありながら、タシトのことを名であるクランと呼んだことは一度もない。でもそれはタシトの方も同じである。
そこら辺りは、お互いさまというところだろう。
「それも時と場合によるのですよ、姫君」
あくまで慇懃《いんぎん》にタシトが言った。
おそらく余裕をみせつけているつもりなのだろう。姫君などと呼ぶのも、ユウリがそう言われることを嫌っていることを知っていて言っている。
相変わらずいやらしい男だと、ユウリは確信を深めた。
「そちらの一方的な時と場合など、こちらには関係ありません。すぐにおひきとりください」
ユウリは、わけなど聞かずにそう言った。
もっとも聞く必要など感じなかったが。
「ほう? そんな口をきいていいのかな? 反逆者レフ=コウの協力者を貴様がかくまっていることなど、とうにわかっているんだぞ」
タシトの慇懃さの仮面はすぐに剥《は》がれ、高圧的な態度になる。
もともと自分の血統による権力くらいしか、自慢できるものがない男である。腹芸ができるほど器用な人間ではなかった。
「反逆者ですって? コウ兄さまが? そのような言いがかりなどで人を陥《おとしい》れようなどと、見苦しいだけです! 兄上!」
決め付けるように、ユウリが言ってやる。
すると、
「い、いいがかりなどではないわっ! ちゃんと証人がいるのだぞ!」
と声を荒立ててタシトが言った。かなり頭に血が昇っている様子だ。
「証人とは誰のことです!?」
ユウリが聞き返すと。
「そ、それは……い、色々だ! そ、そんなことはどうでもいいだろう!? とにかくそういう噂がある! さぁわかったら、早く罪人をこちらに引き渡すのだ!」
タシトはほとんど苦し紛れの理論を展開する。
でもこれがユウリの怒りをかった。
「うわさ? うわさですって? あなたはたかが噂でこんな馬鹿げたマネをなさったというの? その頭の中には一体なにがつまっているの? 他人に迷惑をかけることしかできないものなら、とっておしまいなさい!」
まるで遠慮というものがなかった。どうも一斗と出会ってからこっち、少々キャラに変化が見られるようであった。
「うっ……。かまわん、おまえたちこの屋敷の中をしらみつぶしに捜せ! どうせこの中にいるのはわかっているのだ!」
タシトは自分が引き連れて来ていた部下達に、そう指示を出す。
どうやらユウリを言いまかすのは不可能だと見て、実力行使に出ることにしたらしい。
どうせなら最初からそうしておけばよさそうなものを……。
妙にいきがったあげくタシトが得たものといえば、せいぜい部下たちの失笑くらいのものだろう。
「ならん! わが屋敷での勝手な振る舞いは絶対に許さんぞ!」
ユウリが大音声でそう呼ばわった。
それだけで、動き始めた兵たちの足が止まる。
「どうしてもというなら、このわたしが相手になる! まずは兄上、あなたからだ!」
たたみかけるように言いながら、タシトに向けて詰め寄るユウリ。
「き、きさま……。て、抵抗する気か? そ、そんなことをすれば、おまえとてただではすまんぞ! おまえも、反逆罪に問われることになるぞ!」
詰め寄られたタシトは思わずあとずさりをしながら、そう脅しをかけようとする。
もちろん、ユウリが黙ってうなずくはずがない。
「兄上、言葉はきちんと使うものだ。わたしは勝手に押し入ってきた賊を、当然の権利をもって追い払おうとしているだけだ。それのどこが反逆罪になるというのだ?」
ユウリはもはや敬語を使うこともやめていた。セリフ自体には容赦というものがなくなってきている。到底一国の王女たるものの言葉とは思えない。
どうやらこれは、周りの悪影響を受けているのかもしれない。
「わ、わたしは……王命を受けて来たのだ! は、反逆者レフ=コウの協力者を捕らえよとの父上の仰せに従ったまでのことだ!」
タシトは自分の行動をそう言って正当化しようとするが。
「王命? それは密命の間違いではないのか、兄上? かりにもここは王位継承権を有するものの屋敷だ。なんぴとたりとも勝手に押し入ってよいはずがなかろう? それをするというなら、王が王命を出し元老議会が承認した令状があるはずだ? なぜ、それを出さぬのだ、兄上? それは、この行為が他人に知られてはまずいものだからではないのか?」
ユウリはさらに詰め寄りながら、そうたたみかける。
「うっ……」
タシトは答えられない。でもその沈黙こそが、ユウリの発言が真実であることを雄弁に物語っている。
「どうした、兄上? なぜ答えぬ?」
もちろん、ユウリのその質問にタシトが答えられるわけがない。
もう、ここにいたってはタシトにとって、実力行使に出る以外に道はなくなっていた。
「……かまわん、こいつから始末しろ! どうせ、後で始末するつもりだったのだ。ここで始末したところで、大差あるまい」
タシトの言葉とともに一斉に剣が抜かれる。
「尻尾《しっぽ》を出したな、兄上!」
そう言いながら、ユウリは後ろに跳びすさり剣を抜き放つ。
背後には一斗のいる部屋へと通じる通路がある。
誰一人として、ここを通すつもりはない。
多いといってもタシトを含めて六人。
イヴァン辺りなら、一振りか二振りでケリがついてしまう数である。
ユウリでは一気にけりを付けることは不可能だとしても、すべてこの場で倒してみせる。
もちろん本当のところは、実戦経験のないユウリにわかるはずがない。
必死でそう、思い込もうとしていただけだ。
やれるかどうかではなくて、やらなくてはならないからだ。
自分がやられてしまったら、もう一斗を守る者はいない。
一斗が自分自身の身を守れるだなんて、そんな夢のようなことなどユウリは期待してはいない。
「さぁ、最初に死にたいのは誰だ?」
剣を構えてユウリが言った。
それに応えたのは二人の兵士。
同時に襲い掛かるつもりのようだ。
それをユウリは汚いなどとは思わない。むしろそれが当然だろう。
彼らは騎士ではなく兵士だ。命令を最も効率的に遂行するための手段を用いているに過ぎない。
ユウリは慎重に仕掛けるタイミングを計っていた。わざわざ同時に襲ってくるのを待つ必要なんてないからだ。
左の兵士の方がわずかに動きが早い。そちらに仕掛ける。そう判断を下す。
そして、動こうとしたそのときだった。
「まって!」
声がする。
それを聞いてユウリは背筋が凍りついた。
「イット? なんで、こんなところに!?」
振り返らずともわかる。
一斗の声だ。間違うはずがない。
足を骨折して、ろくに身動きもできない状態なのにどうやってこんなところに?
でも、一番問題なのは、この場で一斗をかばいながらどこまで戦えるのかということ。
そう、一斗を守れなくてはこの戦い自体に、なんの意味もなくなる。
けれど一斗は、何も恐れた様子はない。
「戦う必要なんてないんだ、ユウリ。もう、勝負はついてるから」
落ち着いた声で、一斗がそう言った。
もちろんなんのことを言っているのか、ユウリにはわからない。
「よくわかっているではないか! では、大人しく死ね!」
そう応えたのはタシトだった。どうやら一斗の言葉を、あきらめの意味に捉えたようだ。
もちろん、一斗のことを知らないからこそ言えるセリフだ。
「なにか勘違いしてるみたいだね、にぃちゃん。終わりって言ったのは、あんたとあんたに今回のことを命じた張本人のことさ」
一斗が言うけれど、もちろんそんなことなどタシトが信じるはずない。
「命乞いのつもりか? しょせんは下賤の者、レフのやつには似合いというものよ!」
そういって、タシトは勝ち誇ったように笑った。
「一応忠告はしとくけど、あんたら早いとこ逃げた方がいいよ。もうじき来ると思うからさ」
そう言ってイットも笑ってみせる。けれど顔がひきつっていて、どう見てもまぬけな感じがするのがいただけない。
カッコをつけたつもりだろうけど、しょせん一斗がヒーローになろうなどというのは高望みのしすぎというものである。
まぁ幸いなことに、この場にそんなことを気にかけるような人間はいなかった。
「ふん? 第一位の王位継承者たるこのわたしが、なぜ逃げねばならんのだ? そのような戯言《ざれごと》、誰が信じる?」
タシトはあからさまに見下したようにそう言った。
「下賎の者の愚かしい狂言に、これ以上付き合ってられるか。さぁ早く二人を始末するのだ!」
一斗の登場でいったん足の止まっていた兵士たちが再び進みだす。
「まいったね……。間抜け相手じゃ話にならないや。こうなったら、とりあえず逃げとこう……わたっ!」
一斗はそう言うなり、いきなりユウリの背中に抱きついた。もっともけっこう身長差があるので、抱きつくというよりへばりつくと言う方が的確な表現かもしれない。
ちなみにセリフの最後にくっついた音声は、一斗が技を繰り出したのではなく足が痛かっただけだ。
ようするに、単なる悲鳴である。
「は、離れて! イット!」
一斗にへばりつかれたユウリが慌てた。自分から仕掛けようとしていた、その寸前にへばりつかれたのだから当然だろう。
それを見た兵たちが一斉に切り込んでくる。タシトの配下にしておくにはもったいないくらい、優秀な兵たちである。
でも……。
「時間だ……」
一斗がそう言った直後、その手の中で何かが輝いた。
「なに!?」
驚きの声をあげたのはタシトだった。
兵たちの剣が、むなしく空を切るのを目撃したのだから……。
切るべき相手は、目の前から消え失せていた。
周り中をビルに囲まれた貧相な神社。
その鳥居の前に一人の女性が立っていた。
はたちかそこらにしか見えないのに、ひどく妖艶《ようえん》な雰囲気を漂わせる女性。
一斗の通う中学に務めている、とっても妖しい女教師。
戌井先生だった。
いささか、先生と呼ぶことに抵抗があるにしてもそうなのだ。
彼女はこんなところで一体なにをしてるのか?
ビルの谷間にある誰からも顧《かえり》みられることのない、ありていに言ってしまえば、ショボイこんな場所で彼氏との待ち合わせをしてるとも思えない。
でも、見る限りでは誰かを待っているという感じはするから、案外そうなのかもしれない。
戌井先生が教師としてはもちろん、人間としてもかなり変わっているということは、全校生徒がよく知っていることだった。
彼女に限っていえば、こんな場所をデートスポットに選択しても不思議ではないかもしれない。
けれど、さすがに今度はそれとは違ったようだ。
鳥居が輝きだしたとき、彼女がこうつぶやいたからだ。
「やっと帰ってきたわね、一斗くん」
と。
鳥居の輝きが消えたとき、そこには二人の人間が立っていた。
もちろんユウリと、ユウリにへばりついている一斗である。
めったにないことだけど、一斗は予想を超えた事態に驚くことになる。
「い、戌井先生? なんでここに?」
いるのかと。
「あら、つれないわね、秋月君。もちろん、あなたを待ってたんじゃない」
そう言って戌井先生が嫣然《えんぜん》と微笑んだ。
一斗が本当に驚くのはこの直後のことである。
それは、次に続く二人の会話。
「お、おかあさま? ど、どうして、おかあさまが?」
ユウリも驚きの声をあげる。
「あらユウリちゃん? 久しいわね……どう、コウ君とはうまくやってる?」
戌井先生は今更気づいたように言った。ユウリのほうが近くにいるのに……。
とことん同性には興味がないのだろうか?
たとえそれが、実の娘であったとしても。
「い、いったいどうなってるの? おかあさま……」
ユウリの方は完全に混乱している。
それも無理もないだろう。
敵に斬りつけられた直後いきなり見知らぬ場所にいて、そこには長いこと会っていなかった母親がいたのだから。
でもそれは一斗も似たようなものだった。
ここに戌井先生がいるのは、まだ納得できるとしても……。
まさか子持ちだったなんて……。
それも自分と同年代の子供がいるだなんて……。
一斗の受けた衝撃は、かなり深そうだった。
いささか驚くべきポイントが、ずれているような気がしないでもないが。
「話は後。一斗君ボロボロになってるみたいだし、先に病院に連れていってからにしましょう」
もちろん、ユウリはその意見に賛成だった。
「ち、ちょっとユウリちゃん!」
イットが驚きの声を上げる。っていうか、抗議のつもりだった。
原因はお姫様だっこにである。
「しかたないでしょ? わたしがしなければ、おかあさまが同じことをするわ。イットはともかく、そんなのわたしは絶対にイヤよ!」
どうやらこういったことに関して、一斗の意見が通りそうな見込みは今後もなさそうだった。
それにしても、この母子もなにか色々と問題がありそうな感じなのだが……。
その頃ユウリの屋敷に取り残された形になってしまったタシト。
目的の相手が消えてしまっては、それ以上なにをすることもできない。
だから、結局なんの成果もあげられずに兵たちを引き連れ、すごすごと屋敷を出てゆこうとしたときだった。
外を見て愕然《がくぜん》とすることになる。
屋敷の周りを数百もの兵が取り囲んでいた。
「一体なにごとか? これは?」
こんなことなど、タシトは聞かされていない。
すると一人の部隊長と思《おぼ》しき人物が進み出てくる。
「タシト=クラン。貴様は内政府審査委員会と元老議会により、第一位王位継承権が剥奪された。それと今回の暴挙を含め様々な嫌疑が掛かっている。大人しく一緒に来ていただこう」
令状をタシトに突きつけながら、部隊長が説明した。
「な、なにをばかな? そんな馬鹿げたこと、みとめられるか! 俺は王子だぞ、あ、後で父上に言ってきさまら全員処刑してやる!」
タシトがわめくが、部隊長はいささかも動じなかった。
「ふん。好きにするがいい。身分が剥奪されたのは貴様だけではない。きさまの父はすでに王でもなんでもなく、たんなる罪人でしかない。第二位の継承者だったきさまの弟も同じだ。今王位にあらせられるのは、現在スメルナへ親征しておられるレフ王陛下だ。レフ王陛下が貴様のことを助けてくれるなどとは、いくらなんでも期待してはおらんだろう?」
そういう言葉には、嘲《あざけ》りの色がそこかしこに塗りこまれている。
「みとめん! 俺はそんなこと、絶対にみとめんぞ! 俺は王子だ、王子なんだ!」
タシトのわめき声が辺りに虚しく響く。
どうやら、現在自分の置かれた立場を理解するよりも、失われた栄光にすがりつく道を選んだようだ。
それを見て部隊長は、
「連れて行け」
そう短くうんざりしたような声で、部下に指示を出した。
その様子をつぶさに観察している者がいた。
昼間だというのに、ただ木のそばに立っているだけでも、まるで闇の中にでも紛れ込んでいるかのように、その存在を感じさせぬ男であった。
見えていないというわけでは決してない。ただその男を目にとめた人間は、まるで木の枝でも見ているかのように、注意を払うことなくその視線を逸らすのだ。
「見事な手並みだが……いささか、過ぎるな……。いずれは、向こうの力を持ち込むかと思っていたのだが……。このままでは……」
男は、口の中でそうつぶやいていたが、その先を口にするより先に、木の脇から男の姿が消えていた。
そこにいた男は、誰に知られることもないままに、そこからいなくなった。
一方国境を隔てた向こう側。
スメルナ帝国ではクーリフォン=レフ=コウの指揮の下、帝都攻略が開始されようとしていた。
時にハセム暦九四五年の十月十日の日。
このときまだコウは自分がすでに王に即位しているとは知らなかったが、この戦いが王としての初戦となるのである。
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第八章 これからっ
ドンドン亭といえば、最近では評判の店になっていた。
味の方はともかく、なんといっても量が多い。他の店の倍はある上安かった。
何がなんでもたらふく食いたい人間にとっては、まさに理想的な店である。
昼時ともなれば腹をすかせた人間達が、たくさん押しかけてくる。当然とても品の良い店とはいいかねたし、そもそもこの店に来るような人間がマナーなどを気にかけたりするはずがない。
典型的な地域に根付いた庶民のための店であり、人々の評判を集めていた。
でもこの店が歴史に名を残すことになるなどと予測しえた人間は、まず絶対といっていいほどいないだろう。たぶんどれほど豊かな妄想癖の持ち主であろうと、そんなことは無理というものだ。
もちろん、その当事者は別として、だ。
今、店の一番奥のテーブルでは、ドンドン亭の将来とスメルナ帝国の未来を左右することになる密会が堂々と行われていた。
「それで主要なところは、すべておさえられるか?」
そう尋ねたのはコウ。
「たぶんなんとかなるでしょう。まぁ、いくつかの不安材料はありますが」
答えたのはユンフ。
「不安材料というと?」
少し気になった様子でコウが聞く。
「一つは、こいつでしょうな」
そう答えながらユンフが向けた視線の先には、イヴァンがいた。
目の前にあるてんこ盛りになった食い物を、ひたすらかっ食らっている。
「んっ?」
なにやら不思議そうに、イヴァンがユンフを見る。
でも食べるのをやめないのはさすがだった。
「他には?」
コウはそれをサラッと無視した。
どうやらイヴァンの扱いになれたらしい。
「一番はカゼル皇子の動向でしょう。一応イットの指示どおりにはしましたが……」
ユンフが言葉を濁すと。
「……会っただけだからねぇ」
後を受けてコウが答える。
三日ほど前、この店のこの場所でコウとカゼルは会っていた。
どこの店のなんという料理がおいしかった。
それがその時交わされた会話の全容である。
はっきり言って、肝心なこととはなんの関係もなかった。
「イットも『とりあえず会っとけば?』みたいなこと言ってたし……。なんとかなるんじゃないかな?」
コウが結構気楽に請け合った。
「カゼル皇子次第では、作戦が成功してもコウ様の御身があやうくなりかねませんが?」
懐疑的な言葉をユンフが投げつける。
ただし本当に心配してるのかどうかは、ユンフを特徴付けている飄々《ひょうひょう》とした美貌からはまるで読み取れない。
「まぁその時は……」
言いかけたコウの言葉に、
「『オレの力はその程度だったということだ、ウッファッファッファッ!』なんてノリだろ? オレもさ、一度言ってみたかったんだよな、そんなセリフ」
いきなり、イヴァンが割り込んできた。
見れば目の前の皿が空になっている。お代わりがくるまで暇なのだろう。
「いや、できるだけ早く逃げないと、と言おうとしたんだけど……」
コウが少し困ったように苦笑を浮かべながら、
「あまり、潔くとか玉砕とかいうのは趣味じゃないもんでね」
そう答えた。
で、話に割り込んできた張本人はといえば。
「おっ、きたきた!」
新しく運ばれて来た料理に、気を取られてる。
「次はこいつとこいつ」
運んで来たおねぇちゃんに、追加の注文も忘れない。お品書きの上から順番に注文しているところを見ると、どうやらメニューの完全制覇を狙っているらしい。
当然ながら、コウの話は聞いてないようだ。
「わかりました、ではイットの立てた計画どおりに進めましょう」
そう答えたのはユンフ。
イヴァンとコウの会話は、なかったことになっている。
そのときだった。
一人の男が三人の席に近づいてきた。
年の頃は中年くらいで、でっぷりとした恰幅《かっぷく》の良い男である。
「どないですかいな、この店は?」
三人に人懐っこそうな笑みを振りまきながら、その男が聞いてくる。
「それは、人の数を見れば十分だと思いますが?」
手振りで自分の横の空いている席を示しながら、コウも笑顔で応じる。
「ははは、さよでんな。……失礼」
男は空いた席にすわる。
「ほんま、イットはんからこの店の話聞いたときには、どっか頭の具合がおかしいんとちゃうかと思いましたんですけどな」
男は大袈裟に肩をすくめてみせた。
「それで、よくやってみる気になりましたね?」
コウが聞くと。
「それがけったいなことに、いつの間にかわても話しに乗り気になってもうてましてな。ま、後はずるずるですわ」
そう言って、男はわざとらしく顔をしかめてみせた。
「少し聞いていいかな?」
コウはめずらしく好奇心を露《あらわ》にしてそう言った。
「もちろんですわ。いうなれば、わてらは運命共同体ってもんですさかい。なんでも聞いたってくんなはれや」
いかにも人のよさそうな笑みを浮かべて男が言った。
「これだけの量のものを、他の店より安い値段で出して、やっていけるものなんですか?」
そう尋ねるコウの瞳が、本当に楽しそうに輝いている。
「そりゃご奉仕や。より多くの人に喜んでもらうためのご奉仕なんですわ」
男はさっきとはうって変わって、情けなさそうな表情をつくりそんなことを言う。
でも、
「なんてのは、正味のとこ建前《たてまえ》なんですねん」
声をひそめて、男は身を乗りだす。
「ここだけの話にしといてほしいんですけどな、量が倍ってとこがミソなんですわ」
いかにももったいをつけるように、男が話を切る。
どうやら大袈裟なのが趣味らしい。
「たくさん仕入れれば、やすうに買うことができる。もちろん、それだけじゃ儲けは薄うなる。せやけど、それ以上にお客はんに来てもろたらええんや。安うに買《こ》うて、ぎょうさん売る。それが基本なんですわ」
最初ひそめていたはずの声が、最後には普通の大きさになっている。
「あんさんらと今度のこと、あんじょうできたらセイリアンにも店造らせてもらうつもりや。そんときはよろしゅうたのんますわ」
基本的にこの男に密談とかは、向いていないのかもしれない。
近くを通った人間が振り向くくらいに大きな声で話していた。
そんなのを密談って言い張るのは、タバスコをケチャップだと言い張るのと同じくらい無理がある。
「なるほど、でもそれはイットの頭から出たものなのですよね?」
との言葉に男は、
「いやぁ、そこんとこ言わはると、めっちゃ痛いでんな。せやけど、実際金出したのはわてらやさかいに、権利よこせっちゅうてもあきまへんで? それにイットはんからは好きにしてええ言われてますねん。儲けもぜーんぶわてらのもんやと言わはったんや。ほんまでっせ?」
なにやら必死に力説している。
「もちろんですとも。少し確認しておきたかっただけですよ」
安心させるようにコウが言うと。
「ふあ〜。心臓止まりそうになりましたがな。おどかすのはなしにしとくんなはれ。ほんま、たのんますわ」
やっぱり力の限り安心してみせる。
「ぜひ頑張ってください。応援してますよ」
当たりさわりのない言葉をコウがかけると。
「ほんま、おおきに。あんさん、ええひとですな。わてもそれなりに力にならせてもらいますわ」
また人のよさそうな笑顔を浮かべて、男がそんなことを言っている。
どうやら他人に協力するときだけは、控えめになるようだ。
でも、コウは彼が利用されているということを確信していた。
なにせ、一斗がなんのメリットもなしに慈善事業なんてするはずがない。
損得抜きで一斗が誰かのために働くのを見たことがない。
唯一例外といっていいのは、ダチと呼んだコウのためだけである。
本人にすら気づかれることなく利用するのなんて、一斗ならたやすいだろう。
だからコウですら例外ではないのかもしれないけれど、ただコウとしてはどうしてもそうは思えなかった。
でも、そうだとしてもコウとしてはそれはそれで一向にかまわなかったけれど。
ただ、この男が自分の今後の運命が一斗の掌に乗せられいるのだということに、気づいてないのが少しばかり哀れではあった。
もっとも、わざわざそのことを教えてあげるようなことはしなかったけど。
そもそも、この男がそれを望むとも思えなかった。これから先、一斗のアイデアによってもたらされることになるであろう利益を、否定しなければならなくなるからだ。
実際この男は一斗に付き合いつづけることで、膨大な財産を手に入れることになる。
クライボン=クライ。
やがてその名は、大陸全土で聞かれることになる。
ドンドン亭は大陸の主要都市にはかならずある定番の食堂となり、それを足がかりとしてクライボン家は単なる商家から大陸初の企業へと成長をとげるのである。
それと同時期に大陸の歴史は新たなる段階へと進むことになるのだけれど、それはまた別の話である。もっとも、その陰には常に一斗の存在が見え隠れするのだけれど、最後まで一斗自身が正面に立つことはなかった。
「では、クライボンさん。お頼みしていたこと、大丈夫ですね?」
自分の思いなど一切表面に出すことなく、コウが尋ねる。
「もちろんですがな。……しっかし、イットはんもえげつないこと考えはるで。こないなことされたら、帝都はいっぺんにわややがな」
その男……クライボン=クライは、大げさに身をすくめてみせながらそんなことを言った。
でも、その言葉はめずらしく誇張などではなかった、ということが実証されることになる。
「では計画から抜けられますか?」
コウが短く聞くと。
「じょ、冗談やおまへんで! いまさらそないなことできまっかぃな! 今度のことにいくらつぎ込んどるとおもてまんのや? そないなことしたら、首くくらにゃなりまへんがな! しゃれになりまへんで!」
クライボン=クライは大声でわめく。
店内の人間が驚いてこっちを見ていたけど、どうやら気にならない様子だ。
それと、当然ながら計画から降りるような気も、断固としてなさそうだ。
「まぁまぁクライボンさん、落ち着いて。確認しただけですので。それでは、計画どおりにということでかまいませんね?」
というコウの言葉に。
「もちろんでんがな……。帝都はともかく、わては感謝してまんがな。こないなチャンスはめったにあるようなもんちゃいまっからな。だいいちギルド連中に一泡ふかせられるっちゅうのんが、楽しおますがな」
百年に及ぶ戦争が生んだものの一つ。それが商人ギルドだった。
一部の武器商人たちによる強力な談合。それによって、スメルナ帝国は高価な武器を言い値で買わされることになり、そのつけはすべて臣民が負担することになる。
それによって得られた利益により、貴族とのつながりを深めた商人ギルドは新興の商家の台頭を規制することで自分の利益を守り続けてきた。
商人を志す者にとり、商人ギルドが快いものになるはずがないのである。
「おい、あんた。一言いっていいか?」
それまで、まったく話を無視していたイヴァンが珍しくまじめな顔をして口を開く。
「なんでっか? イヴァンはん……でおましたな?」
クライボンも、それにつられるように神妙な顔つきになって答える。
「この店のメニュー増やしたほうがいいぜ? ちっとばっかし張り合いってもんがねぇからよ」
どうやら、この店のメニュー制覇を成し遂げたらしい。
「はぁ……。ものたりない……でっか?」
クライボン=クライは、いまひとつ言ってる意味がわからないって感じだった。
まあそれも無理ないだろう。人のおごりだと思ったとたん、いきなりメニューにあるもん全部食おうなどと志す人間はめったにいないからだ。
「クライボン殿、あまり気になされぬことだ。こいつの頭は胃袋でできておるのでな、常人には理解できなくて当然であろう」
今まで黙視し続けていたユンフが口をはさむ。
それは一般人に向けられた優しさだった。
「なんだよ? ひっでぇなぁ? そんな言い方されたら、オレが常人じゃねぇみてぇじゃねぇかよ」
自覚症状のないイヴァンとしては、当然抗議する。
「イヴァン、おぬし言葉の使い方を間違っておるぞ。常人とはまともな人のことをさすのだ。おぬしのどこがまともだというのだ?」
相変わらずユンフの美しい唇からこぼれるのは、たっぷりと毒を含んだ言葉である。
「お、おまえなんか、おまえなんかきらいだ……」
もちろんイヴァンにできることといえば、せいぜいすねることくらいしかなかった。
「それは残念。わたしはおぬしのことが好きなのだがな。言っておくが、友情などではないぞ」
あまりに自然なセリフ。
でも、それは……。
「なんだよ? 冗談キツいぜ、まったく。オレをもてあそんで、楽しいのかよ? どうせオレなんてオレなんて……」
イヴァンはすねた上に、落ち込んだようだ。
「冗談扱いとはひどいな。これでもかなりの決意をもって告白したつもりなのだが」
どうやらあれが、ユンフにとっての告白だったらしい。
「えっ? えええっ?」
驚きの声をあげたイヴァン。何を言われたのか理解できていないようだ。
「ま、そういうことで後はよろしくたのむぞ」
そう言ってユンフが席を立つ。
「わるいね、イヴァン」
何か礼を言って、コウも席を立った。
「ほなイヴァンはん、毎度おおきに」
最後にクライボン=クライも席を立つ。
後に残されたのはイヴァンだけ。
「そ、それってどういう意味だよ!?」
あわててその後を追って、店の外に出ようとする。
すると、背後から愛らしい声が聞こえた。
「お客さん、お勘定お願いします」
給仕の女の子の笑顔がまぶしい。
イヴァンはそのとき初めて、自分の行為を後悔したのだった。
例によって会議は長引いていた。
皇帝は玉座で安眠していたし、閣僚をつとめる貴族達は予算の配分をめぐって熱き論争をくり広げている。
もちろんカゼルにとっては、まるで関係のない話し合いである。
それでもこの会議に出席しているのは、ちょっとした義理を果たすためだった。
適当な頃合をみて、発言しておくつもりだった。けど、時間がたつほど急速にやる気が失せてきた。
もともと少量しかないやる気が、今はもう底をつきかけている。
そもそもこんな連中のために、何かをするというのは罪悪感すら感じる。たとえ義理を果たすためだとはいえ、だ。
カゼルは、このまま帰ってしまおうか真剣になやんでいたときだった。意外な人物が口を開いた。
「みなの者静粛に。今から余の皇子の方から話がある」
皇帝サイヴェルド=グラド五世=バーラその人である。
それまで熟睡してたと思っていた人物の突然の発言に、その場の空気が凍りつく。何か珍しい生き物でも見ているような視線が集まる。めったに公式の場で口を開くことはなく、開いたにしても『よきに計らえ』の一言くらいで、まともな発言をすることはまずなかった。
ここに今いる人間の中で、『よきに計らえ』以外の言葉を聞いた者はほとんどいない。さすがに、皇子であるカゼルは皇帝のボキャブラリに、後二つ三つのバリエーションが存在していることを知ってはいた。
今回のことは、そのカゼルにしてみても予想外の出来事であったのだ。
だがせっかくの機会を逃すほど、カゼルの頭は鈍くない。
「現在、クーリフォン=レフ=コウによる帝都攻略が進行している」
いきなりカゼルが告げる。
そのセリフはみなの失笑を買った。
「はて? どうやら年のせいか、私は今奇妙な発言を聞いたような気がしたのですが?」
そう聞いたのは、内務大臣をつとめるズィライド=ハン=フェルフ公爵である。
「聞き間違いではない。現在すでに帝都攻略は進行中である。早く手を打たねば手遅れになるぞ」
そのカゼルのセリフに。
「確か、以前もそのようなお言葉をお聞きした記憶がございますな。しかもそのときは自ら出兵を取り決めておきながら、直前になって取りやめておられる。おお、勘違いなされないでいただきたい。なにしろ……」
ここでズィライド公爵は大仰《おおぎょう》に議会の面々を見渡して、たっぷりと間をとった後、
「肝心の敵が何処にもいなかったのですから、戦いようがないというものです」
したり顔をしてそんなセリフをくっつけた。
それを聞いた議会の面子の中には、顔を歪《ゆが》めて必死で笑いを堪《こら》えていた者も多数いたし、中には堪えきれずに小さく噴き出した者もいた。
もちろん大笑いをされたところで、カゼルが怒ったりするはずはないのだが。
ただ、一抹の寂寥感《せきりょうかん》は感じていた。自分が亡国の皇子を演じようとしていることを確信していたからだ。そして、この連中に待ち構えている未来が決して楽しいものになるなどとは思えなかった。
「状況が変化した。それに応じて打つ手も変えなくてはならない」
応答がどうなるのかたやすく想像がつくだけに、カゼルの声も自然と熱のないものになっていくのは避けられないところだ。
「ほほう? 状況が変化したというのは、敵がわが国からとうに逃げ去っていたということですかな? それとも、ありもしない敵の攻撃のことをさすのですかな?」
その答えは、ほぼカゼルの想像どおりだった。
彼らにとっての敵襲とは、純粋に武力によるものだけをさすのである。
カゼルにしたところで、この件に関しては偉そうなことは言えないと思っている。
クーリフォン=レフ=コウがイヴァンに託して持たせた手紙を読んでいなければ、こんな帝都攻略法が存在しているなどと想像すらしていなかっただろう。
「卿らがどう思おうと勝手だが、現在の職を失いたくなければ早めに手を打つことだ」
一応この国の皇子として生を受けた義理を果たすためだけに、そう忠告をする。
「ジーナ皇子、ご乱心されましたか? 生まれついての身分を、職などといわれるとは。我らが地位は生まれる前から保証されたもの、下賤の者共と一緒になされるなどとは……」
あきれたような声をあげたのは、財務大臣のリグターク=デル=フォートである。
それ以外の連中も、みなそれに同意したかのようにうなずいていた。
皇子であるカゼルに対して、乱心呼ばわりしたことをとがめるような人間は誰もいない。
もっともとがめる気がないのは、カゼルも同様なのだが。
「その保証しているものがなくなれば、そんなこと言っておられんと思うのだが……」
言いかけて、カゼルはそのことの虚しさに気づいた。
指摘してわかるようであれば、そんなことを平然と言うはずがないからだ。
「まぁ、後は好きにするさ。とりあえず義理は果たした」
そう言い残して、席を立とうとしたときだった。
非常にあわてた様子で、一人の男が議場へ飛び込んできた。その男は、まっすぐデル財務官の近くへと駆け寄ってゆく。
なにやら、ひそひそと耳打ちした。
その様子を見て、カゼルは小さくつぶやく。
「始まったな……」
事態は次の段階へと移行した。
デル財務大臣が口を開く。
報告をした使者に向けて。
「そのようなことくらいで……ここを何処だと思っておる? さがっておれ、気のきかんやつめ!」
その声にはあからさまなくらいに、いらだちが滲んでいる。
使者の男は頭を深々と下げると、議場を退出していった。
「これは、お騒がせしてしまいましたな。いや、なんとも、いたらない部下で申し訳ない」
そう言いながらデル財務大臣は別段頭を下げるでもなく、軽く肩をすくめてみせる。
その様子に興味をそそられたように、ズィライド内務大臣が質問をする。
「参考までに伺っておきたいのだが、卿の部下の報告とはどのような内容だったのですかな?」
あわただしく議場に報告のために訪れた部下を、デル財務大臣は一蹴《いっしゅう》するように追い払った。それがズィライド内務大臣以外の閣僚の関心も集めている様子で、皆の注目が一斉にデル財務大臣の下に集まっていた。
デル財務大臣は別段あわてる様子もなく、
「本当にたいしたことではないのですよ。帝都内での食料が急激に値上がりしてるというだけのことでして」
と言って肩をすくめる。
「ふむ。確かにそれで困るのは、身分のない貧乏人のみ。確かに取るに足るものではないですな」
ズィライド内務大臣もしたり顔をして、腕を組みながら頷いている。
「そのようなことより、我らにはもっと重要な議題があったのではないですか?」
官僚クラスの貴族の中からそんな声が上がった。
すると、次々とそれに賛同する声が続く。
「それでは、次の議題に移るとしよう」
カゼルの発言に関しても、まとめて切り捨てるつもりのようだ。
カゼルは、もうこれ以上何も話すつもりはなくなっていた。
今のやり取りを聞いて、彼らにはこのままこの国の支配者の座を降りてもらった方がよいと判断したからだ。
本来自分のものでない権益を享受しておきながら、その権益を支えている者のためには一切働くつもりがない。自分で自分の足元を掘り進んでいながら、やがてそこに落ちてしまうであろうことにすら気づかない愚か者たち。
自分達だけで落ちていってくれるのならば、まだ救いようもあるのだけれど、この連中ではそうもいくまい。
正直今度のことは、天の配慮かもしれない。
コウ達……正確にいえば、一斗という名の軍師がしかけた帝都攻略では、カゼルが動かない限りまず人の血が流されることはないだろう。
だが、たとえ動いたにしても、確実に権力の委譲は行われることになるはずだ。
その後に樹立される新たな国家がどうなるにしても、今よりも酷いものになるとはどうしても思えない。
百年にもわたって続いてきた戦争……。国を疲弊させ、多くの若い男達の血を吸い上げつづけてきた戦争……。
それは、一部の商人と貴族達の権益を守るためだけに繰り返されてきたものであった。
その醜悪な共生関係は、スメルナ帝国だけでなくセイリアン王国側にも存在していた。
両国の和平を図り、それを現実のものとしかねないほどの実力を有した存在……クーリフォン=レフ=コウの存在は両国どちらの権力者にとってみても、決して容認できるものではなかったのである。
それが先の暗殺まがいの襲撃につながり、この連中は醜態を演じることとなった。
まるで救いようのない支配者ども。
その中の一員であるということが、カゼルにとってどれほど厭《いと》わしいものであることか……。
なんにしても、それもじきに終わるだろう。
今となっては、打てる手は一つしかない。
レフ=コウを探し出し、倒す。
そうすれば、あっさりとケリがつくはずだ。
優秀な人材がレフ=コウの下には数多く集まっているようだが、代わりを務められるのは、カゼルの見るところ一斗と言う名の軍師くらいだろう。
残念なことに直接会う機会はなかったが、それでも周りの反応を見ていればわかる。
レフ=コウと同等の求心力をもち、しかも稀代の頭脳を有している。今は軍師をやっているが、むしろその資質は政治家向きだと思える。
ただ、カゼルの見るところ一斗には一つ欠けているものがあった。
強大な権力者になるための資質を、信じられないくらいハイレベルで備えていながら、たった一つ欠けているもののために、一斗は決してレフ=コウの代わりを務めることはできないだろう。
気概。
あるいは、野心と言い換えてもいいかもしれない。
覇者たらんとするものの資質。
それに欠けているように感じられる。
以前、義姉に対して洩らしたことがあったが、あれほどの抜きんでた才能の持ち主ならば、中原に行けば天下をとることすら不可能とは思えない。
大陸の国々を一つに纏めるためには、どれほどの力を蓄えようが辺境ではだめなのである。
本国と敵国との距離は、圧倒的な障害となってその前に立ちはだかることだろう。
強大な兵力を蓄えれば蓄えるほど、その障害はより巨大なものとなってゆく。
だからこそ覇権を目指す者はみな、中原を目指すのだ。
そんなことくらい、一斗ほどの人物ならば容易に理解しているはずだ。
中原にあるうちのいずれかの国へと赴かず、レフ=コウの下へと留まっている事実そのものが一斗の野心の希薄さを物語っている。
つまり、レフ=コウが死んでしまえば一斗の戦う理由そのものが消滅してしまうことになる。
復讐戦くらいはするかもしれないが、やってもそこまでだろう。
ただし、その選択肢も今となってはありえない。
すでにカゼルはレフ=コウと会い、話をしているからだ。その直後、イヴァンと真剣でこそなかったが手合わせもしている。
レフ=コウは気持ちの良い漢だった。
戦場でならともかく、それ以外の場所で斬ることはできないだろう。
少なくとも国のため、などという理由でそんなことをするつもりはない。
イヴァンの方は想像を超えていた。
強いであろうことは、初めて会ったときには想像がついていた。
ただその技は、カゼルにとって未知のものだった。
たちすじは奔放に躍り、常に変化をしつづける。ひとつをかわしたからといって、絶対に安心できないのである。
まるでふわふわと空に浮かぶ、雲のような剣だった。
対するにカゼルの剣はすべての攻撃を堅牢にうけとめ、相手の隙をとらえ一撃でしとめるものだ。
まるで対照的な剣であった。
イヴァンの剣は人を相手に、カゼルの剣は自然の中で獣を相手にそれぞれ磨かれてきた、という違いがこの差を生んだのだろう。
いずれが上なのか……結局決着はつくことなく、手合わせは終わってしまう。
楽しかった。
自分が身に付けた、すべての技と力をぶつけても、相手もそれに応じた技を繰り出してくる。
こちらもそれに応じて更なる技を繰り出す。
技が決まっても、すぐに立ち上がりまた戦いは再開される。
双方とも、常人を遥かに超えた体力と肉体を持った漢である。
戦いは、すぐに数えるのも困難なほどの回数に達してしまう。
夢中になってしまった。
その瞬間の業《わざ》をどう繰り出すか?
次の一瞬でどう受けるのか?
もちろん、頭で考えてやっているわけではない。
肉体がそれを識別し、反射的に動いていく。
その刹那《せつな》の時がすべてとなっていた。
そこには勝利とかいう概念すらも、介在するような余地はない。
結局どちらもが身動きすることすらまともにできなくなってしまい、手合わせは決着がついたからでなく続行が不可能という理由で終了したのである。
そのイヴァンが、レフ=コウの護衛をつとめている。
誇張ではなく、この国にカゼル自身を除いてイヴァンを倒せる人間はいない。
何人送り込もうと、おそらく一緒である。
かりにどこかへ追い込めたところで、その前に帝都が落ちてしまってはなんの意味もない。
最後の手段とは、カゼルがいて初めて有効な手段なのだ。
しかもカゼルにしてみたところで、確実にイヴァンを仕留められるという保証はどこにもないのである。
正直なところ、もうすでにチェックメイトがかけられているという気がしないでもない。
いや、おそらくはそうなのだろう。
今にして思えば、レフ=コウと会いイヴァンと手合わせをした時点で、すべては一斗という人物の書いたシナリオの上で動かされていたような気がする。
一斗という軍師の真に怖いところは、それをカゼルはわかっていながら、そのことを不快に感じていないというところなのである。
今度の帝都攻略に関してもそうだ。
おそらく最後の戦いは、この百年の中で最も死者の少ないものとなるだろう。
カゼルは立ち上がる。
予算の分配に紛糾する貴族達がカゼルを見たが、それはほんの一瞬注意をひいたに過ぎなかった。
皇帝は再び目をつむっている。
カゼルはそのまま一度も後を振り返ることなく、議場を立ち去った。
「この国をみとるのはわしがやる。行くがいい……息子よ……」
己が息子の超絶した才気を知ったとき、辺境の国の皇帝は決心した。
何もしないこと……。
老いた国とともに滅ぶこと……。
それが凡なる身の自分が、唯一息子にしてやれる贈り物。
その老帝のつぶやきは誰に顧みられることもなく、その決意は誰に知られることもなかった。
ただ後に、貧弱な肉体を持った軍師が彼の墓碑に“英雄の父”という一言を刻ませる。
もしかしたら、彼だけは理解していたのかもしれない。
老帝の想いを……。
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第九章 おもい
「どういうことだ、これは?」
闇の中で声を低く荒《あ》らげたのは、一人の老人であった。
「侵攻した部隊は、わずかに半個師団の戦力に過ぎないかと」
答える声は、いたって穏やかなものであった。
感情を感じさせぬほどに。
「そういうことを言っておるのではないわ。この事態を掌握できておるのかと聞いておる」
吐き捨てるように、老人が言った。
老いてはいるが、抑えながらも怒りを感じさせる声には、年月とともに蓄えた迫力が十分に備わっている。
「いちいちアリの動きに注意を払っている人間などいましょうや? ご心配いただかなくとも、あれしきの戦力で何ができましょう?」
老人の迫力にも、まるで動じることなくその男は、老人をなだめるようにそう言った。
「ふん、だといいがな。……戦線の拡大は望むところだが、どちらかの国が滅するような事態は避けねばならん。……一国では戦争はできんのだからな」
一瞬で老人は怒りを納めて、そう言った。
怒りは見せ掛けで、あえて釘を刺して見せたということなのだろう。
「御意……」
そう闇の中から聞こえてくる声は、やはり感情を伴わぬものであった。
老人の行為がどれほどの効果を与えたのかは、定かではない。
「ひとつ、ご確認を……」
男は、老人に向けて闇の中から問いかける。
「なんだ?」
老人は、疲れたような声でそう聞き返した。
「万が一にでも、この場所が知られるような事態になった暁には、アレを出そうと思っております……かまわないですな」
男の声に老人は、さらに疲れたような声で答える。
「……好きにしろ」
老人の言葉を受けて、男は闇の中でうなずいた。
「御意《ぎょい》……」
これが最後に聞こえた、男の声となった。
それから不完全な闇と、澱みのような老人だけがそこに存在し続けた。
現実としてユウリに今、できることはなかった。
もちろん心配している、ということは除いてだ。
「お母さま。イットは大丈夫なの?」
たえきれずにユウリがたずねる。
「たぶんね」
けっこう軽い調子で答えたのは妖艶な美女。
「た、たぶんですって? お母さま、あまりに無責任過ぎるわ!」
ユウリがかみつく。
「あら? 心配なの?」
気楽そうともとれる返事に。
「当たり前です! お母さまだって見たでしょ? イットのあの姿を!」
掴みかかりそうな感じで詰め寄った。
ほとんど逆上しかかっているのを、かろうじて残った理性で抑え込んでいる様子だ。
でも、それも無理もない。
見たこともない世界にやってきた。
乱立する巨大な建物。
馬なしで動く馬車。
行きかう人々の話す言葉は、微塵もわからない。
それだけでも、不安を感じるには十分なはずだ。
でも自分の腕の中に抱えていた不安に比べれば、たいしたことではない。
一斗の左足は熱いくらいに熱を帯び、張り裂けそうなくらいふくれあがっていた。
ユウリの腕の中で、一斗は意識を失う。その顔からは血の気が引き、唇は紫色になっている。
背中に感じた、凍りつくような感覚。
それは不安を通り越し、恐怖と表現したほうがふさわしい。
唯一の救いはしっかりと抱えた腕の中に、はっきりと一斗の体温を感じていたこと。
そうでなければ、ユウリはその場から一歩も動くことができなくなっていたかもしれない。
どうやってここまで辿り着いたのか、まるで覚えていなかった。
医者との応対は、すべて母がやった。
この世界のことは何もわからないし、言葉も話せない。他に選択肢はなかった。
一斗が腕の中から連れていかれる。
治療のためだと母が説明した。理性はそれをみとめたけど、ユウリの本能はそれを激しく拒絶する。
まるで子持ちの雌虎である。
今のユウリには、近づくだけでも危険だろう。
実際に、ユウリは母に噛《か》み付いた。
思いつくこと、自分の感じている不満をすべてぶつけるようにして。
そんなユウリを、冷たく突き放すように、母はまったく相手にしなかった。
一斗だったらどうにかできるのだろうか?
一斗なら……。
ユウリの心には、とてつもない不安がうずまいていた。
一斗は今手術中である。
そのことを、母親は告げていない。
この世界では戌井さゆりを名乗り、中学校の教諭をしている。
その名前が本名かどうか、いささか怪しい。
ユウリにとって彼女の名前は、イヌイ=トウマ=サユリ。
それだって、今となっては本名かどうか怪しいものだ。
実の娘だからといって、簡単に気を許せるような相手ではないような気がする。
基本的に隠し事が多すぎるのだ。
だから、一番ユウリが不安になっていたのは、そんな母親に一斗をあずけてしまったこと。
そうする以外にしかたがなかったとはわかっていても、不安が減じるはずがない。
なのに当の母親は、
「へぇ? 意外だったわね? あなた、あんなのがタイプなの?」
などとユウリの神経を逆なでするような質問をする。
「そ、そんなんじゃないわ! コウ兄さまが……コウ兄さまが心配するからよ!」
今はそんなことを言ってる場合じゃない、と思いつつも母の言葉をむきになって否定する。
それでも、ほんのりと顔を赤らめている辺り、照れているのがみえみえだ。
「へぇ? そうなの? じゃ、わたしがもらってもいいかしら? イット君……」
男どもを惑わす怪しい微笑みを浮かべて、サユリが挑発する。
「ダメ! 絶対にダメ! そんなの絶対に認められないわ!」
当然そんなこと、ユウリにしてみたら認められるはずがない。
「あら? ユウリちゃん、イット君のこと必要ないのでしょ? でも、わたしには必要なの」
サユリは穏やかに、ユウリを追い込んでゆく。
「そうよ。わたしには、必要なんてないわ」
ユウリにはそう答えるしかなかった。
だからといって、母の言い分を認めるわけにはいかない。
「でも、イットにはわたしが必要なの。だから、お母さまに渡すわけにはいかないわ!」
ちょっと無茶苦茶だったけど……それは、ユウリの覚悟だった。
「ふふっ。しかたないわね。とりあえず、ここはあなたに譲っておくわ」
不安をたっぷり残しつつサユリが譲歩する。
「それじゃ、ユウリ。覚悟しておきなさい」
いきなりそんなことを言われた。
理解できない。
何が言いたいのだろうか?
「なに、おっしゃってるの? お母さま」
ユウリとしては、当然の疑問だった。
「今終わったわ……。自分の目で確かめなさい、ユウリ」
手術中を示していた明かりが消えている。
オペ室の扉が開き、中から人が出てきた。
医者が近づいてきて、サユリの前で立ち止まる。
「手術は成功しました。……けど……」
医師は言葉を濁す。
「そう、やっぱりだめだったのね。ほんと、困った生徒だこと……うちの娘も含めてね……」
こちらの世界の言葉で交わされた会話。
当然、ユウリにはわからない。でも、それが不吉なものであることは十分に伝わっていた。
一斗に近づく。
体中に見たこともない、奇怪な器具が取り付けてあった。
今はそんなことなんて、気にならない。あるはずのものがなかった。それを見たから。
ユウリの時間が凍りつく。
開いた口から声が出せない。
一斗の体から欠けてしまったもの。
それは左足。
膝から下がなくなっている。
ユウリが鍛えようとした。一斗は普通になりたいと願った。
その代償がこれだった。
誰が考えても、少々高過ぎる代価と言わざるをえない。
母は覚悟をしておけと言っていた。でもこれをどう覚悟すればよいというのだろう?
ユウリは結局一斗が病室に運ばれるまで、何も話すことができなかった。
部屋の真ん中で立ちつくしているユウリ。
「ちょっとばっかし、歩きにくくなるらしいよ、ユウリ」
寝ているものとばかり思ってた一斗が、目を閉じたまま口を開く。
「気がついていたの?」
ユウリはちょっと驚いたみたいだった。
「ぼくがそうしてほしいって、頼んだからね」
「たのんだ? まさか……足を……」
ユウリのその言葉に、一斗が弱々しく笑う。
「ははっ、まさか。あんまり役に立たないものでも、それはないって。たのんだのは、こうやってユウリとすぐに話せるようにってことだよ」
そう、一斗は医師に全身麻酔ではなく、局部麻酔を使って手術をするようにたのんでいた。
「わたしと話す?」
意外な一斗の言葉。
話すって、一体なにを?
「どうせユウリのことだから、下らないことでうじうじ悩んでるんでしょ?」
茶化すように一斗が言った。
でも、ユウリに言えたのは、
「ごめん……」
絞《しぼ》り出すような言葉だけだった。
「やっぱり、ね。ユウリの足だったらともかく、ぼくの足だよ? どうせたいしたものでもないし、さ。気にすることないって」
気楽な調子でイットが言った。
それを聞いたユウリに、初めて激しい感情が生まれる。
「……気にすること、ない……ですって? たいしたものじゃない……ですって!?」
言いながら、ユウリの言葉は徐々に熱を帯びてくる。
「……いい加減になさいよ、イット……。こんなときにまで、何強がってんのよ! わたしを気遣ってでもいるつもり? いい? あたしは、あんたなんかに気遣ってもらうほど、落ちぶれちゃいないわ! 少しは、さ。少しくらいは、あたしに心を開きなさいよ! あんたになら、さ。あんたになら、どんなに責められてもこたえないわよ! そうやって、いつもいつも先に許されちゃうと、あたしちゃんと謝れないじゃないのよ! あんたがそんなだから、あたしは……」
ユウリの感情があふれた。
激しく一斗のことを責めながら、大きな透明な雫が美しい双眸《そうぼう》からとめどなく流れ落ちている。
とても頭のいい一斗。近いしい人には、とても細やかな気遣いを見せる。
なのに、誰にも心を開こうとしない。
こんなときにまで、真っ先にユウリのことを気遣ってみせた。
足を失ってつらくない人間がいるなどとは思えない。たとえそれが、一斗であるにしてもだ。
そんなことくらい、ユウリにだってわかる。
まったく、痛いくらいのやさしさだった。
その上もっと痛いのは、自分がユウリのことを気遣ってるってことすら隠そうとしたことだ。
そんなことをされたら、一体一斗のことは、誰が気遣ってあげればいいというのだろう?
もしここでユウリがそのことを言葉にしていたなら、一斗にたやすく言いくるめられてしまっていたはずだ。
でも、ユウリのとった行動は……、
「ちょ、ちょっとユウリ? ユウリ……」
一斗がめずらしく、困惑した声をあげる。
ベッドに横たわった一斗の頭を抱えて、自分の胸の中に抱きしめる。
抱きしめながら泣いていた。
涙が一斗の顔を濡らしてゆく。
さすがに一斗も、こんな事態は想定していなかった。
それに経験だってない。
たぶん生まれて初めて出くわした、一斗の手には負えない事態であった。
「ユウリ……」
言いかけた一斗の口をユウリがふさぐ。
「なんにも、言わないでよ。あんたに話されると、何も言えなくなるんだから」
なおも、もごもごと何かを言いかける一斗にユウリは、
「お願い。しばらく、このまま黙ってて……」
そういって、よりいっそう強く一斗を抱きしめた。
それから二人はしばらく、身動きすることも言葉を発することもせず、そのままの状態で時を過ごす。
そのとき二人の間には、どのような想いが交わされていたのだろう……。
「そろそろいい?」
いきなりドアが開かれた。
入って来たのはユウリの母サユリ。
「なに?」
短くそっと答えたのは、ユウリ。
「あら? イットくん、眠っているの?」
ユウリの腕の中で、一斗は安らかな寝息を立てている。
美しい少女の胸に抱かれて眠るなど、とんでもない贅沢者である。
まぁ、そのために足を一本捨てなくてはならないとしたなら、さほど羨ましいと思う者はいないだろうが。
「なんの用?」
短くユウリが聞く。
母に向けられた視線は鋭い。
もしユウリが獣なら、明らかに牙《きば》を剥いていただろう。
「どう? 少しは落ち着いた?」
その視線をさらっと受け流し、逆にサユリが聞く。
「元々落ち着いてるわ。そんなことより、わたしの質問に答えて」
ユウリはごまかされない。
これでも、ずっと一斗の傍らにいたのだ。
「どうやら、落ち着いたみたいね。それじゃ、あなたにこれを渡しとくわ」
そう言って手渡されたのは、紙を筒状に丸めたものだった。
ユウリがそれを広げて見ると、中に書かれていたのは詳細な地図。
「これは、大陸の地図……」
そう、サユリがユウリに渡したものは、ユウリ達のいる世界の地図であった。
その世界に住むユウリにとっては、決して珍しいものではなかったけれど……。
「ここまで精密な地図があるなんて……」
ユウリの知っている地図は、これに比べたら子供のお絵かきのようなものにしか見えない。
一目見ただけでわかるくらい、その緻密《ちみつ》さは歴然としたものだった。
「これは?」
ユウリが端的に聞いてみる。
「イットくんが起きたら渡しなさい。彼のお父さまの遺品よ」
意外な答えだった。
でも、少々意外過ぎる。
「なんでお母さまが?」
これをもっているのかと尋ねる。
「頼まれたのよ。彼のお母さまから」
その言葉がユウリの気をひく。
「イットのお母さまを知ってるの?」
一体このひとって、どういう人間なのか?
自分の母親に、得体の知れなさを感じるユウリ。
「あら? あなたも知ってるはずよ、ユウリ」
サユリがそんなことを言っているが、もちろんユウリに心当たりなんてない。
なにしろ、こんな奇怪な世界にやって来たのだって初めてなのだ。
ユウリは黙って首を振る。横に、だ。
口に出して言うのは、なんとなく悔《くや》しかった。
「レンよ」
口の端に笑みを貼り付けながら、サユリが言った。
口に出さなくても、ユウリはたっぷりと悔しさを味わった。
ほんとに、むかつく母である。
でも今は、素直に驚くべきだろう。
だって、その名前は本当によく知ってる人の名前だったから。
「レンって……。まさか、レンおばさまのこと?」
コウ兄さまを育てた女性の名前。
王宮にコウがこられたとき、彼女は王宮からの誘いを断り市井にとどまった。
でもコウはたまに誰にも内緒で会いにいっていたし、そのたびにユウリも一緒についていっていた。
だから、ユウリもレンおばさまのことは良く知っているのだ。
背の高い、とても美しい女性だった。
理想をそのまま形にしたような姿をした、そんな女性。
正直どのパーツをとってみても、一斗と一致するような部分が見当たらない。
唯一思い当たることといえば、レンおばさまがとても聡明な女性だったということだろうか。
ある意味ユウリも、レンおばさまに育てられたといってもいいかもしれない。
少なくとも、実の母親からはまともな教育を受けたような記憶がない。
ユウリが物心ついたときから、サユリが王宮にいることはまれだったし、最近ではほとんど行方不明状態であった。
それでも問題にならないのは、彼女が王妃ではなく寵姫《ちょうき》扱いになっているからで、王宮の誰もが彼女のことを持て余していた。
だから、行方不明という状況はどちらかというと大いに歓迎される事態だったのである。
もっとも、コウ兄さまだけはとっても残念がっていたが。
それはこのさい置いておくとして、問題なのはレンおばさまのこと……。
「そう。レンがイット君のお母さん。レンの名前を正確に書くと、ね」
そういいながら、サユリは手帳をとりだしそこに書き付ける。
それは、ユウリが見たこともない複雑な文字だった。
そこには、
『秋月蓮』
と書かれていた。
「なんて、書いてあるの?」
当然、ユウリに読めるはずがない。
「アキヅキ=レンって読むのよ。そしてこれが……」
その横に、サユリがもう一行別な文字を書き付ける。
『秋月一斗』
という文字だった。
「アキヅキ=イットよ。これが誰のことだかわかるでしょ?」
もちろんだ、言われるまでもない。
しかし、一斗に字があったなんて……。
そんなこと、一斗からは一言も聞いていない。
少しばかりムカついたユウリ。後で、一言いってやることにする。
でも、ショックはそれで終わったわけではない。
「で、これがあんたよ」
ユウリの鼻先にぶらさげられた手帳には、
『冬馬悠里』
と書かれていた。
「なによ、それ?」
思わず聞き返すユウリ。
「だから、あんたの名前はこう書くのよ」
母は平然と言った。
「そんなこと聞いてないわ。なんで、あたしの名前に、こんな文字があるのかを聞いているのよ!」
ユウリは目の前にぶらさげられた手帳をひったくると、サユリの目の前にそれを突きつけてそう言った。
「あなたって乱暴者ね、ユウリ。まったく、どんな育てられ方したんだか……」
サユリはそんなことを言ったあげく、困ったもんだと付け加える。
「なにを他人事みたいにおっしゃってるの? ……無責任の意味を辞書で引いたら、きっとお母さまの名前が載っているわ」
多分に毒を含んだセリフだけれど、ユウリとしてはそう言ってやらねば気がすまなかった。
「だから? それが、あなたが乱暴者だという事実となんの関係があるのかしら?」
真に無責任の見本のようなセリフを、サユリは吐いている。
それを聞いたユウリは、少々疲れたように首を振った。
世の中には、理解を超えた物事が存在するのだ。
ユウリの場合、たまたまそれが自分の母親だったというだけのこと……。
かなり割り切れないような思いは残るが。
「そんなことより、お母さま。なんで、こんな文字の名前があるの?」
ユウリはもう一度尋ねなおす。
母との虚しい会話は、もう十分だった。
「あたしが付けたからよ」
めずらしく、母の答えは簡潔にして明瞭だった。
もっとも簡潔すぎて、よくわからないけど……。
「付けたって? じゃあ、なぜわたしが知らないの? いえ、そもそもお母さま以外で、誰か知ってる人がいるの?」
ユウリの質問に、
「いるわけないでしょ? 教えたことないのに」
サユリが当然のように答えてくれた。
「お母さま……。誰も知らない……本人さえ知らないような名前に、一体どんな意味があるの?」
それは、ユウリでなくともぜひ知りたいところであろう。
「さぁ? なんの意味があるのかしら? あたしも知りたいわね?」
どうやら、サユリも知りたいらしい。
でも、それってかなり困ったことである。
少なくとも、その当人にとっては。
「もういいわ。お母さまと、まともに話そうと思ったわたしがバカだった……」
何度こんな思いを味わえばいいのだろう、とユウリが思いながらそう洩《も》らすと。
「なにを悩んでいるのか知らないけど、元気を出しなさい。あなたがバカだってことには、賛成してあげるから」
とサユリが優しく言ってくれた。
もしかして、なぐさめているつもりなのだろうか?
もしそうだとしたら、これ以上なぐさめる気が起きないくらい、徹底的に思い知らせてやろうかしら……。
などとユウリは密かに決意を固めつつあった。
確かに、乱暴者っていう表現はかなり的確な表現と言わざるをえないようだ。
本人には自覚がないようではあるけど。
「以前から疑問に思ってたことがあるの……。本当に、わたしはセイリアン王家の王女なのかってこと……。お父さまに親しみを感じたことは一度もないし、王宮にいても苦痛しか感じたことはなかった。コウ兄さまが来てくださる前は、まるで魔宮の中にいたような気分だったわ」
ユウリはキッパリと話の内容を変えた。
これでもサユリとの付き合いは生まれて以来、望むと望まないとにかかわらず、ずっと続いている。
それなりの対処方法というものは身につけていた。
「あら? まだそんなことを言ってるの?」
サユリはあきれたっていう顔をしている。
「どうでもいいから、きちんと教えて。お母さま」
内心のムカつきを必死で抑えながら、ユウリが尋ねる。
「まったく……。イットくんにくっついてて、一体何を見てたんだか……」
今度は、やれやれって顔をしている。
「お・し・え・て・く・だ・さ・い。お・か・あ・さ・ま!!!」
ユウリは本気でムカついていた。
「しかたないわね。あなたのその、できそこないの頭でもわかるように、わたしが説明してあげるわ」
えらそうにサユリが言った。
「……」
ユウリは、もう口を開く気にもなれない。
当然ながら、サユリはそんなの全然気にしない。
「もちろん、あなたはあの男とは血は繋がっていない。でも、間違いなく王女よ。あなたが王女らしくないっていうのや、乱暴者だってことは単にあなたの資質の問題ね。でも、イットくんがこっちに来たってことは、あなた今頃は第一位の王位継承者になってるはずよ」
その話を聞いてユウリの混乱は、さらに増す。
「わたしが第一位王位継承者? どうして? それじゃ、お兄さまは?」
立て続けに聞く。
「すでに王に即位してるはずよ。だから当然、あなたが第一位王位継承権を持ったっていうわけ」
「でも、なぜ……? 父……いえ、王は一体……?」
ユウリにはその理由がわからない。
「あのひとは殺されたの。彼の正室と一緒にね」
お母さまが何かとんでもないことを言っている。
それはわかった。
でも、心がついていかない。
ユウリは返事をすることもできず、ただ聞いている。
「あのひとは、王国から商人ギルドを引き離そうとしたの。スメルナ帝国との和平を成立させ、商人ギルドの力を大幅に制限する。あの人はそれを後少しで成功させるところだったわ……」
めずらしく……本当にめずらしく、サユリは言葉をつまらせる。
「だから、殺されたのよ。やつらに」
そう言って、少しの間ひとみを閉じた。
母のまぶたの裏には、一体何が映っているのだろうか……。
「現王は、ギルドの傀儡《かいらい》。あなたとコウが王位継承権を持っているのは、野《や》にあなたたちを置いておくより手の届く場所で監視しておくほうがいいと判断したからよ」
そう言ったサユリは、もういつもと何も変わらない。
「じゃあ、お兄さまを襲ってた相手って……。タシト兄さま達じゃなかった……?」
ユウリはそう思っていた。何かにつけて、上の兄二人はコウ兄さまを貶《おとし》めようとしていた。
一番コウ兄さまを嫌っているのは彼らのはずだった。
「まさか? あの連中に、そんな力はないわ。できたとしても、せいぜい嫌がらせくらいのものよ。まして、スメルナ帝国に働きかけるなんてことできると思う?」
確かにそこのところで引っかかっていたのだ。
言われるまでもなく、そこまであの二人の兄や現王に力があるとは思えない。
権力を振り回すのは好きでも、まともに使いこなすことなどできないのだ。
でも、すべてのシナリオを描いたのが商人ギルドならうなずける。
ギルドを束《たば》ねるのはジグント=ロウグ。一体何歳になるのかわからないような老人である。
名前だけは知っていても、その顔を見た者はほとんどいない。
もちろんユウリも面識はない。
「じゃあ、イットは……」
言いかけたユウリの後をうけたのはサユリ。
「そう。あっちに行ってすぐに、そのことを見抜いていたみたいね」
そのこともまた、一斗は一言も話してはくれなかった。
もちろんユウリのことを気遣って、というのはわかる。
わかるけど、そんなのはあんまりだ。
一斗はユウリのことを気遣うくせに、ユウリが一斗のことを気遣おうとすることを許してはくれないのだから。
あまりに不公平ではないか。
ユウリは後で一斗に言ってやることのリストに、そのことも付け加えておくことにした。
「現王を失脚させること自体は、イットくんなら難しくなかったでしょうね」
サユリは怖いことをサラっと言った。
「でもそれは、商人ギルドに対して宣戦布告をするに等しいことだわ。セイリアンとスメルナを陰から操ってきた支配者が、黙って見ているとは思えないもの……」
もっと怖いこともサラっと言う。
「そ、それじゃまたお兄さまが狙われるということ?」
実の父は殺されたと言っていた。
初めて聞かされた父のことなど実感が湧きようがないけど、でも同じことがコウに起こるとしたら話は違う。
「もちろん、そうなるわね。でも、まず心配ないはずよ。どうせ、イットくんのことだから手を打ってあるはずよ。あなたには、思い当たることないの?」
そう言われてユウリは理解する。
イヴァンもユンフも強力な武将はすべてコウ兄さまとともに、スメルナへの進攻作戦に同行していってしまった。
その結果、今一斗の身を守れるのはユウリだけしかいない。
それもまた、一斗の読みだったのだろう。
でも、一斗は気づいているのだろうか?
コウ兄さまが助かっても、一斗自身が死んでしまったらなんの意味もないのだということを。
たとえ一斗自身はそれを受け入れようとも、ユウリは絶対にみとめない。
また新たに、言ってやることのリストに追加された。
「とりあえず、一通りわかったわ」
ユウリの頭の中には、一斗の見ていたものがなんなのか見えていた。
たぶんすべてではないのだろうけど。
「商人ギルドを完全に追い詰めるために、イットはスメルナとセイリアンの同時攻略を選択したのね。しかも、追い詰められたことが最後まで相手にわからないように、コウ兄さまを王位に就けるための工作はすべて一人でやった……。わたしも手伝いはしたけど、結局今までわからなかったし……」
そう言いながら、ユウリは自嘲の笑みを浮かべる。
自分がやったことといえば、一斗の片足をもぎ取ったということくらい……。
もはや自分にできることといえば、一斗のためにそのことを気にしていないフリをしていることだけだろう。
後は決心するしかない。
一斗が自分を必要とする限り何処までもついてゆくのだと……。
今ならわかる。
本来なら、一斗は自分などには手の届かないような高みに上ってゆく漢だ。
それは、本人が望むかどうかに関わりなくそうなる。
それについてゆくために与えられた自分の翼はあまりに小さい。
でも、それでも彼の杖くらいにならなれるのではないだろうか?
否、ならなくてはいけない。
それはユウリが一生をかけて貫き通すことになった決意であり、初めて一斗のことを漢として意識した瞬間でもあった。
「どうやら、腹は決まったようね」
母の言葉にユウリは黙ってうなずく。
「じゃあ、わたしは消えるわ。とりあえず、役目は果たしたようだから」
そういうと、サユリは病室を出てゆこうとする。
その背中に向けて、ユウリが問いかける。
「まって、お母さま。この世界って一体なんなの?」
サユリは最後の質問には振り返らずに、
「その地図をイットくんに見せなさい。彼なら、それですべてがわかるはずよ。後は、彼に聞けばいい……」
そう言い残して病室を後にした。
残されたユウリは、サユリが出ていった後に向けて軽く礼をする。
その後、手にした地図を大切そうに服の中にしまうと、一斗を刺激しないように細心の注意を払ってその手をやさしく握りしめた。
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第十章 しんい
寒々とした風が吹きぬけてゆく。
でもそれは風が冷たいからという理由だけでなく、今見ている光景がそう感じさせているのかもしれない。
人々が行き交うことのなくなった道。
商品が置かれていない商店。
道端に打ち捨てられたままになっている荷馬車。
つい半年ほど前までは、日々の生活にいそしむ人たちで溢れていたとは信じがたいような光景がそこにあった。
人の住まなくなった都市というものが、いかに侘《わび》しく寒々しいものか……。
そのことを、いやでも見せ付けてくれる。
「ここまでやっちまうと……なんだかなぁ……」
馬上で頭を掻きながらそうボヤいたのはイヴァン。
「ほう? おぬしでも、常人のような感想をいだくことがあるのだな?」
轡《くつわ》を並べて馬を歩かせながら、そんなコメントを入れたのはユンフである。
「おめぇ、なんだってそうオレを、変人扱いしたがるんだよ?」
ユンフのコメントに抗議するイヴァン。
するとユンフは心底不思議そうに、
「なんだ? ちがうのか?」
と尋ね返した。
「だから、何度も言ってるけどよ。おりゃあ、常人の見本のような男だぜ? 常人教室のセンセーだってできらぁ」
とイヴァンが自信一杯に答える。
無論、根拠の方は定かではないのだが。
「ふむ。案外それはいい考えかもしれぬな……」
ユンフが、少し考え込むような仕草をしてみせる。
意外な返答にイヴァンは少し驚いた。そして、少しばかりうれしくなる。
ようやく自分が普通の人間なのだと、ユンフに認めてもらうことができたのかと思ったからだ。
これまでの、根気よく続けてきた説得が、ついにその実をみのらせたのだろうかと、イヴァンは喜んだ。
その続きを聞くまでは……。
「こういう大人になってはいけない、という見本があるのだから、なにかと教育に便利であろう」
それを聞いたイヴァンは、
「お、おぼえてやがれ!」
という捨て台詞《ぜりふ》を残すと、ユンフのそばから逃げ出した。
「ふふっ。かわいいものだな……」
ユンフは本当に楽しそうに笑っていた。
はっきり言って、ユンフはいぢめっ子であった。
「もう少し、緊張感というものを自覚していただきたいものですな」
その様子を後方で見ながら、苦々しい面持ちでそう言ったのはグリフ伯。
「私としては、彼らが緊張するような場面には、あまり遭遇したくはないのだけどね」
おだやかに、グリフ伯の意見にそう応じたのはコウだった。
後方には、騎兵のみで構成された五千の軍勢が続いている。
彼らが今いるのはスメルナの帝都であり、本来なら昼間から堂々と敵国の軍隊が闊歩《かっぽ》していいような場所ではなかった。
というよりも、常識としてあってはならない光景である。
明らかに今、普通ではないことが起こっている。
「それはそのとおりなのですが……。これから歴史的な瞬間に立ち会うのだと思えば、やはりそれなりのですな……」
グリフ伯がなにやら、いかめしい顔をして常識を力説しようとしたときだった。
前方から白旗を押し立てた騎兵が、こちらに早駆けでやってくるのが見えた。
「どうやら、使者が来たようだね。グリフ、続きは後ほど聞かせてもらうよ」
コウが言った。
言ったけれど、本気で続きを聞こうと思っているわけではなかった。
ふさわしい言葉で表現すれば、リップサービスということになる。
「いたしかたありませんな……それでは、またのちほど」
そう言ってグリフ伯は引き下がる。
もちろん、のちほどと言ったのは百パーセント本気である。
冗談やリップサービスが通用する相手ではないということである。
もっともそのときになれば、コウはまた別の理由を見つけるつもりであった。
「クーリフォン陛下! お目通りをお願いいたします! クーリフォン陛下!」
白旗を持った使者が、声高に呼ばわった。
コウの目の前で。
どうやら、コウのことには気づいていないらしい。
さすがに敵国の国王が、従軍する軍の先頭付近をのこのこ歩いているなどとは誰も想像しえないだろう。
コウは軽く馬に鞭《むち》をくれると、その使者の正面に自分の方から近づいてゆく。
左右からは、ユンフとイヴァンがすぐに寄せてきた。
たとえ敵の軍に囲まれていようと、この二人がいれば安心できる。
とくにイヴァンの武力は、万夫に匹敵する。
「あなたは、サイベルト皇帝の使者ですね?」
コウが尋ねると。
「然《しか》り! 自分はスメルナ近衛騎士団所属アフレド=ナギアと申す! 至急、クーリフォン陛下にお取り次ぎ願いたい!」
近くにいるのにもかかわらず、使者は耳が痛くなるくらいの声で呼ばわった。
うるさいけれど、使者としてはこれが正解である。
中央にいるはずの敵の司令官に声が届けば、それだけ門前払いをされる可能性が減ることになる。
もっとも、今のように目の前に目的の人物がいる場合、ただうるさいだけなのだが。
「その必要はないよ。いま、君の目の前にいるからね」
これがイットかユンフ辺りなら、たぶん色々とからかって遊ぶのだろうけど、コウはそこまで人は悪くない。
「こ、これはご無礼申し上げました! な、なにとぞご容赦のほどを!」
馬から、転げ落ちるようにして飛び降り、両膝《ひざ》をついて使者は頭を下げる。
しかしこれは、さすがに不可抗力というものだろう。
「謝るのはどうでもいいから、とりあえず馬に乗ってくれない? こっちにも都合があるし……」
コウはそんなことを平気で言う。
こんな王はあまりいないだろう。
そもそも、こんな王がそうそういたら周りがたまらない。
「じゃあ、馬を進めながら聞くから、用件を話してみて」
まるで、知り合いにでも話しかけるようにコウがいう。
「こほん」
せき払いをすると、スメルナの使者は気を取り直して話を始める。
「えーっ、クーリフォン陛下におかれましては、このたびのセイリアン国王のご襲名、まことに恐悦至極《きょうえつしごく》に存じます。わがスメルナ皇帝サイヴェルド=グラド五世=バーラはこのたびの襲名……」
形式どおり使者が言上《ごんじょう》しかけたとき。
「ごめん、そこのところは言ったことにして、本題に入ってほしいんだけど」
コウがいきなり話の腰を折る。
嫌がらせをしたつもりはなく、結果として嫌がらせになってしまってるだけだ。
「い、言ったことって……」
アフレド=ナギアと名乗った使者も、かなり対応に苦慮していた。
いっそ、同情したくなるくらいだ。
「そう。いま、私たちしか聞いてないし、言いたいこともわかってることだし……ね?」
ね……とか同意を求められても、アフレド=ナギアとしては困ってしまう。
表情が固まっていた。
使者となったからには、それなりの覚悟はしてきたはずだ。
ただ、その覚悟の中に“変わった王様の相手”という項目は含まれていなかったのであろう。
まったく、お気の毒というしかない。
「わ、わかりました……それではこれを……」
腹をくくったのだろう。ガントレットを手から取ると、指からリングを外してコウの方へ指し示す。
何かの紋章が刻まれているみたいだけど、この距離では確認できない。
「わかっているから、いいよ」
コウはろくに確認もせず、手を振ってそれをしまうよう促した。
「そ、そうですか?」
腹をくくったはずのアフレド=ナギアは、半ば絶句しながらそう答えるしかなかった。
目の前の王相手に腹をくくるのは、なかなか容易ではないようだ。
「で?」
コウが聞く。
「えっ? なんでしょう……陛下?」
聞かれた方はとまどった。
当たり前である。一言どころか一文字だ。
これで理解できるのは、一斗くらいのものだろう。
「サイヴェルド帝からあずかっている伝言を、聞かせてほしいのだけれど」
いたって当たり前のことを聞くように、コウが言った。
「な、なんで知っていらっしゃる……」
またも、アフレド=ナギアが絶句した。
「さぁ? 私も知りたいところだけどね。でも、時間がおしい。早く教えて」
別にごまかしたわけではなく、元ネタは一斗だった。
コウが知っているわけがない。
「わが陛下は、クーリフォン陛下と内密にお会いしたい。そう申しております……」
アフレド=ナギアはどうにか精神を立て直すと、口頭で伝える。
「敗帝たる身で勝手な申し出、まことにすまないとも……」
その言葉を口にしたとき、使者を務めた男の肩が震えていた。
一斗の計略により、この国の秩序は根底から変化を迎えようとしていた。
三百年にわたりスメルナを治め続けてきたサイヴェルト皇朝。
その終焉のときが近づいている。
彼の想いがいかほどのものか……。
察するに余りあるだろう。
でも、だからといってコウには、それに付き合うだけの余裕はなかった。
なぜなら……。
「それじゃ、いこうか?」
コウがそう言うと、イヴァンは軽く手を上げて答え、ユンフは頭をかすかに下げて返答とした。
「えっ? えっ? えっ?」
わけがわかってないのは、アフレド=ナギアのみ。
「できれば、先触れに立ってくれたらありがたいんだけど?」
それを聞いたアフレド=ナギア。
「ま、まさか今から……すぐに、こられると……?」
自信なさそうに言った。
どうやら自分で言っておきながら、半信半疑のようだ。
まぁ、無理もない……というより、それが常識的な反応だろう。
ただ今度だけは、コウを責めることはできない。
なぜなら、それは一斗の指示だったからだ。
もしサイヴェルド皇帯からの使者が一人で来たら、すぐに会いにいかなくてはならない。
その時を逃がしたら、会うことのできる機会は永遠に失われてしまうだろう……。
それが一斗の推測。
その会見を演出するために、今度の策略を仕組んだのだと言っていた。
でも例によって一斗は詳しい説明なんてせずに、行けばわかるの一言ですませていた。
だからなんでかっていうことになると、コウ達にもよくわかっていないのである。
アフレド=ナギアに唯一幸運なことがあるとしたら、そこら辺りの事情を知らないということだろう。
知れば精神が錯乱しそうになること間違いなしだ。
しかしまぁ、いまさら知ったところでもう遅い。
「そのとおり……。では、よろしく」
そのセリフの直後、
「ハイッ!」
コウが馬に鞭を入れる。
「ヤッ!」
ユンフと、
「ほいっ」
イヴアンも後に続いて馬を走らせる。
最後にアフレド=ナギアも、
「あっ!」
一瞬とまどった後、
「ハッッッ!」
馬に鞭を入れた。
コウはみなの先頭に立って馬を走らせながら、記憶を反芻《はんすう》させていた。
今まさに、一つの国が滅びの刻《とき》を迎えようとしている。
その様を現実として目の前に見せられると、ある種の感慨をどうしても堪えることができない。
あの日、一斗はコウに向かってこう聞いたのだ。
「他の誰でもない、君の手で一つの国を滅亡させるんだ。……覚悟はいい?」
その問いに対して、コウは頷いた。
力強くでもなく、弱々しくもなく、ただはっきりとした意思を込めて。
そんなコウに向かって、覚悟を求める。
「僕はセイリアンに残って、君を王座につける。そして、君はセイリアン最後の王となる」
今度は少し間を置いて、一斗はもう一度覚悟を求めた。
「……覚悟はいい?」
そう、一斗が滅ぼそうとしているのは、スメルナ帝国だけではなかったのだ。
コウはその言葉に、やはりはっきりと自分の意思を込めて頷いた。
それが、コウと一斗の二人の別れの挨拶となる。
一斗を妹ユウリに託し、スメルナ帝国への進軍を開始した。
レグレスタ街道の攻略、その後の計略。
すべての計画は、性格がいささか捻《ひね》くれていて、かなりひ弱な肉体を持った一人の少年によって、立案されたものであった。
「イット殿の立てる計略は、失敗することをも前提にしてますからな。それを、最初に突きつけられますと、私らのような凡人には応えますわい」
とは、グリフ伯の弁である。
「アレの良くないところは、成功したその先の現実までをも、先に推測してしまうことでしょうな」
とは、ユンフの弁であった。
どちらも、一斗の持つ透徹した厳しさについて言及しているものであった。
人は成功を目指し、そのことを喜びとする。
だからこそ、今をがんばることができるのだが、一斗はその先の喜べない現実をもはっきりと提示してみせるのである。
その上で、覚悟を問うてくるのだから、これはかなり厳しいやり方と言わざるを得ないだろう。
でもコウはそれでかまわないと思っている。それを押してなお先に進むべき道を示すのは、コウの役割であるからだ。
一斗の問うた覚悟の中にはそれも含まれていることは、おそらく間違いないであろうから。
レグレスタ街道を抜ける手前で、まず最初にそれが試された。
その手前で半個師団しかない兵力を更に半分に分けた。
一方はレグレスタ街道を越えてスメルナ帝国へと入るために、そしてもう片方はこの地に留まるために。
そのことは、事前には知らされてはおらず、その場で兵士達に告げられた。
当然ながら、残留組へと組み込まれた兵達からは、不満の声が上がる。
自分達は戦の準備を整え、コウのために働くことを決意してここまで従ってきた。
それなのに、こんなところに自分らを捨ててゆくのか、と彼らは訴えた。
とくに先のスメルナからの脱出行に付き従っていた者は、血涙さえ流さんばかりにして訴えてきた。
最後までコウと共にあらんことを、最大の誉《ほまれ》としてきた男達である。
どれほどの褒章をその目の前に積み上げたところで、頷くべき首は持ってはいない。
そんな彼らを、コウは説得する必要があった。
これは一斗の立てた計画を完遂するためには、どうしても必要なものであったからだ。
だが、コウが取った行動は理を尽くして説得することではなかった。
「すまない」
ただそう言って、自分に付き従うことができなくなった兵達に向けて、ただ頭を下げた。
どれほど理を説いたところで、彼らの感情が納得することはない、とコウは知っていたからだ。
この男達の誇りとはそういうものであるからだ。
ただひたすら頭を下げるコウに対して、残留組に編入されてしまった兵達は涙を堪えながらこの地に留まることを決意した。
半分になった部隊は残留組から馬を受けとり、騎乗している馬の他にもう一頭の馬を従える。
これで、レグレスタ街道を抜ける準備が整った。その先には、言うまでもなくイルアンタ荒野が広がっている。
街道の中ほどには、セイリアン王国軍とスメルナ帝国軍の斥候《せっこう》がそれぞれ駐留していて、相手国の部隊がこの街道を抜けるのを監視していた。
この街道を一万の兵が抜けるためには、およそ六日が必要となる。
その先のイルアンタ荒野に布陣を済ませるのに、更に一日。
その間に、駐留した斥候は単騎で早駆けをして、敵襲があったことを報告するまでに一日。
報告を受けたスメルナ帝国軍の駐留軍が、レグレスタ街道の出口に布陣を終えるまでに四日もあれば十分である。
二日の余裕を持ってスメルナ帝国軍は、セイリアン王国軍を迎え撃つことが可能となる。
それは、逆の立場でも同じことだ。
それを覆そうと、両国はことさら多くの戦力を送り込み、突破を図ろうとしてきた。
結果百年もの間、数多《あまた》の兵たちの屍《しかばね》をその地に生産し続けてきたのだ。
コウは自分が、その歴史を塗り替えることになるであろうことを、はっきりと意識していた。
隊列の中央から、先頭に立つユンフに向けて合図を送る。
「遅れた者は置いてゆく! 続け!」
ユンフが先頭に立ち号令を発する。
長く伸びた隊列を組みながら、コウの軍勢はそれぞれの騎兵が、一頭ずつの馬を引き連れたままレグレスタ街道へと進入する。
そしてそのまま、一気に馬で街道を駆け抜ける。
かかった時は僅かに半日。
イルアンタ荒野へと一騎の脱落者もなく進入を果たしたコウの軍勢は、そこで余備の馬に装備を移し乗り換える。
最初から乗り潰す覚悟で、レグレスタ街道を一気に駆け抜けたのである。
それまで乗ってきた馬はその場で解き放ち、そのままイルアンタ荒野を駆け抜ける。
ただし、もうそれほど急ぐ必要はなかった。
スメルナ帝国の駐留軍が到着するまでにはこの段階では、まだ三日以上の開きがあったのだから。
百年に及ぶ戦いの歴史の中で、初めて一滴の血も流れることなく、スメルナ帝国領内にセイリアン王国軍が進攻を果たした瞬間であった。
イルアンタ荒野を過ぎたところで、コウの率いる部隊はいったんすべての軍備を解除する。
鎧やその他、ありとあらゆる軍備をだ。解除した装備はすべて売却した。
そのために尽力してくれたのが、クライボン=クライという商人であった。
「あんさんでっか? セイリアン王国の王子さんっていうのんは?」
それが、初対面での最初の挨拶であった。
いかにも商人という風情の、かっぷくが良すぎる男で、コウがうなずくと同時に膨れたお腹をゆすりながら話しかけてきた。
「イットはんから聞いてまんがな、あんさんらのこと。あんじょうしたるさかいに、大船に乗った気でいなはれ」
胡散臭いほどに、自信たっぷりにその男はそう言った。
「よろしく頼む」
少々ひき気味に、コウがそう言うとクライボン=クライは楽しそうに笑いながら、軍の装備すべての処分を引き受けてくれた。
それだけでなくクライボン=クライが経営するドンドン亭を隠れ蓑に、スメルナ帝国内で活動するための支援もしてくれる手はずにもなっていた。
これで、スメルナ帝国を滅亡へと導くための準備は整った。
すぐに各工作部隊へと様変わりした部隊は、膨大な額の予算を持って、スメルナ各地の農家へと散っていった。
多額の現金を提示して、一気に農家で食料を買い上げる。
年々膨らんでゆく納税額にあえいでいた農家は、この話に飛びついた。
それまで、商人ギルドと領主により、ただ同然の安値で買い叩かれてきたのだ。
その僅かばかりの金額の中から、多額の納税を負担しなくてはならなかった。
一様に、農家は借金にまみれていたが、逃げ出そうにもその元手となるものすらなかった。
そこに、それまで見たこともないような金額を提示されたのである。
飛びつかないわけはなかった。
売れるものはすべて叩き売った。
その上で、料金の一部として提示された、セイリアン王国での宅地も保障され、せっかく手に入れた現金をそれまでの借金やいまいましい税金に取られなくてすむ目処《めど》も付いた。
こうして大量の食料の確保と、多数の農民の流民の発生が始まったのである。
同時に、都市部では食料の価格が急騰し始めた。
食料の大部分はコウの部隊が押さえており、流通を制限している。
その結果、食料が不足し価格が急騰するのは、自然の成り行きと言えた。
相場より高く買っていたのだが、そこで食料を売ると、その何倍もの値段で売れた。
だが、それでも出荷数量を制限しているので、価格は下がらず急騰し続ける。
食料だけは、どんな人間であろうとないですまされるものではない。
コウの手持ちの軍資金は、目減りするどころかたちどころに膨らんでいった。
「こりゃあ、たまりまへんなぁ。笑いが止まりまへんで」
そう言って一人で大喜びしていたのは、クライボン=クライである。
彼が経営するドンドン亭は作戦にともなって、スメルナからセイリアンへと拠点を移さなくてはならなかったが、独自に大量に買い込んでいた食糧は膨大な額の利益を生んでいたのである。
そういうところは、商人の鏡と言うべきだろう。
また、そういう人物だからこそ、一斗はこの男を選んだのではないだろうかとコウは考えていた。
ただ、コウは自身の心情は極めて複雑なものがあった。
この作戦のターゲットとなるのは、人々の暮らしである。それを根底から破壊しようというのだ、承知していたことであり、覚悟をしていたとはいえ、なまなかなことで割り切れるものではない。
どんなにコウが思い悩もうが、動き始めた計略は、谷底に岩が転がり落ちてゆくように加速度的に進んでゆく。
一斗が言っていた。
この計略をコウに話してくれたその時に。
「いったん始まってしまったら、もう誰にも止められなくなるよ。……たぶん、スメルナという国が滅ぶその日まで」
もうすでに、巨大な裂け目は存在していたのだ。
そこへ向けて、コウたちはスメルナ帝国を押し出してやった。
ひとたび始まったその動きを、押し留《とど》めることができる者はいないだろう。
おそらく一斗という、稀有《けう》な存在を除けば。だが、一斗はスメルナ帝国にはいないのだ。
「覚悟はしたつもりだったのだけど……。現実っていうものは、厳しいものだね、イット」
コウは自分の心の中で幾度、年下の親友に向かってそうつぶやいたことだろう。
急速に進んでゆく農民の流出。そしてその流れは、都市部にも波及してゆく。
その動きは際限なく高騰してゆく食料を、入手できなくなった低所得者層から始まった。
ひと月分の給金で、三日分の食料がどうにか購入できる程度にしかならない。
すぐにわずかばかりの蓄えは底を尽き、飢饉《ききん》の時のような状態に陥った。
そこに救いの手を差し出すかのように、幾分かの食料を提供してセイリアン王国への移住を誘う者達が現れた。
もちろんそれは、コウの部隊が膨大に膨らんだ資金を元に、人を雇い裏から動かしていたのである。
当然ながらその誘いに、否と答えられる者はいなかった。
否定は飢え死にすることと等しいのだから。
その動きが始まってしまえば、農民の流出よりも加速度的に進んだ。
飢えている人間に待ったはきかない。
そんな中で、あの事件は起きたのである。
スメルナ帝国の滅亡を、決定付けることになった事件であった。
後に『ウルト公爵の悲劇』として歴史に記録されることになる。
「どうやら自分の足の下の土を、掘り抜こうとしている間抜けが現れたようですぞ、陛下」
それが、コウが最初に聞いた報告であった。
もちろん、この歯に衣着せぬ言葉の主はユンフである。
「くわしく教えて」
コウは馴れた感じで、そう聞き返す。
するとユンフは、その美貌に苦々しげな笑みを浮かべて答える。
「ウルト公爵がカーゼサルに向けて、派兵を決めました」
それを聞いて、さすがにコウは驚きを隠せなかった。
カーゼサルはウルト公爵領内最大の都市で、スメルナ帝国内においても五指に入るほど大きな都市であった。
信じられないことに、ウルト公爵は己の民に対して兵を起こそうとしているのである。
正気の沙汰とは思えない事態であった。
それを聞いたコウは、すぐに動くことを決意する。
「カーセザル付近の都市にいる者達を、すべてカーセザルに向かわせて。それと、僕も動こう。ユンフもついて来てくれるよね?」
それに対するユンフの答えは、簡潔だった。
「すでに、準備は整っています」
コウは、すべては時間との勝負であることを知っていた。
迅速かつ秘密裏に、舞台を整える。
そのための計略は、あらかじめ一斗がコウに託した作戦指揮概略の中に書かれていた。
考え付くあらゆる事態を想定していて、その中の一つとしてこの事態もまた盛り込まれていたのである。
それもこの事態を招く可能性として、ウルト公爵が一番可能性が高いと予測されていた。
一斗がすごいと言うべきなのか、それともウルト公爵があまりに愚か過ぎるというべきなのか。
そんなことは、この時のコウ達にとってはどうでもいいことだったのだが……。
まずコウ達は二手に分かれて、ウルト公爵の差し向けた軍隊が、都市を封鎖して包囲を完了するのを待った。
そのうえで行動を開始する。
すでにカーセザル内部で活動していた部隊は、市民に対して食料の保証と安全を請け合っていた。
現地で雇っていた人員を総動員して、それを実行していく。
元々ウルト公爵がカーセザルの民衆を殺戮《さつりく》するために、軍隊を派遣するという噂は流しておいた。
そこに本当に軍隊がやってきて、都市を包囲してしまったのだ。
都市内にいる人々の恐怖は想像を絶するものがあった。
実際に、都市に潜入した部隊が一番気を使ったのは、計画前に雪崩《なだれ》のように、住民が脱出を図らないように押し留めることだったのである。
そのために、都市の中央にある公園に食料を用意させ、住民を一箇所に集めた。
そこでコウが民衆に向かって、演説をしたのである。
この状況を切り抜けるための方法と、そしてその後の彼らの進むべき道を示すために。
「この都市の外にいる軍隊は、あなた方を皆殺しにするためにやってきました。それがいかなる理由によるものか知っている方はいらっしゃいますか?」
いきなり衝撃的な事実を告げ、それを問いかけるという形でコウは人々に向けて語り始めた。
それに、民衆の中から答えを返すことの出来た人間はいなかった。
いかなる事態であれ、一つの都市の住人を皆殺しにしなければならない理由など、想像できるものではない。
「……そう、答えられなくて当然です。これは、たった一人の人間の狂気によるものだからです。今、この国を見捨てようという人間は後を絶ちません。その人間は自分の所有物が自分の意に反する行動を取るのが我慢できなかった。だからその腹いせに、あなたたちを皆殺しにして憂さ晴らしをしようと考えたのです」
断定的で扇動的な言葉を使い。そして、アグレッシブに腕や上半身を動かして人々の注目を集める。
「考えてみてください、領主の気分次第であなた方を殺してしまってかまわないものでしょうか!?」
その言葉と同時に、公園のあちこちから違うという声が沸き起こり、それは一気に全体に広がった。
コウが腕を掲げると、大気全体を震わせていた声が一瞬でやんだ。
「そう、断じて違います! あなた方の命も、そしてあなた方の未来もあなた方自身の物でなければなりません!」
その言葉を発した後、その場にいた人々の目はただ一人……コウの一挙手一投足にのみ注がれていた。
「ウルトなどという常識の欠片《かけら》もない一個人に、あなたがたの大切な命をくれてやる必要はありません! これから私の指示に従ってください。そうすれば、全員無事にこの都市から逃げ出すことが必ずできます! さぁ、みんなで共に新天地へと旅立とうではありませんか!」
その瞬間、歓声が怒号のように沸き起こった。
民衆はこの瞬間、コウに付き従うことを盲目的に選択していたのだ。
アジテーション。
この技術のことを、一斗はそう言っていた。
演説するための舞台。観衆の中には、真っ先に同意の声を上げるための人員を配置しておく。
コウの言葉遣いも、手の動作表情の作り方、顔の向きからすべてにおいて詳しく書かれたメモを一斗から受け取っていた。
だが、直接レクチャーを受けたわけではないので、わからない部分はほとんどコウのオリジナルになっている。
それでも、十分以上の効果を上げることができた。
民衆はパニックを起こすことなく、コウの指示に従うことを決めたのだから。
一方、別行動をとっていたユンフの方は、ウルト公軍の中で密かに活動を始めていた。
内部の士官に多数内通者をつくっていたのだ。
これは、ウルト公軍だけでなくスメルナ帝国軍すべてにおいて共通である。
様々な便宜を金銭で図るという体質は、商人ギルドとスメルナ帝国の癒着が慢性化しているために培われていた、という土壌があったのである。
高級士官ともなれば、そのことを当然の権利として受け止める者も少なくはなかった。
そういう状況であったから、ユンフの進入はしごくすんなりといった。
すでに渡りの付いていた将校に会い、交渉を行ってゆく。
内容はこうだ。
この軍から抜け出した者には、食料と金銭を保障する。しかもこれから先、剣や鎧等の邪魔になりそうな装備一式も買い取ることを申し入れる。
さらに将官には、部下を説得してくれた場合その人数に応じて、謝礼を払うという条件もつけた。
この条件に加えて、兵士達の中にはカーセザル出身者の兵士も多数存在した。
彼らの家族はカーセザルで暮らしている。その家族を殺しに向かおうとしているのだ。
またそうでない者にとっても、一夜明ければ自分と同郷の人々の殺戮に赴《おもむ》かねばならない。
そして、その行為を実行するのは他ならぬ自分自身なのだ。
いくら領主の命令だからといっても、忸怩《じくじ》たる思いに駆られていることは間違いなかった。
元々、この派遣軍には離反者が現れるための要素がたっぷりと存在したのである。
ただ彼らには、逃げ場がなかった――それが、思い込みであったとしても――のである。
そこにユンフがこの話を持ちかけた。逃げ出すための食料と、資金を用意して。
野営の準備が済み、日が落ちると同時にウルト公軍の崩壊は速やかに始まった。
闇に紛れて、次々とカーセザルに向けて脱走してゆく。
本来ならば上官が逃亡を企てる者を阻止するものなのだが、この場合その上官がこぞって逃亡の手助けをしているのだ。
歯止めなんてかかるはずがない。
夜半を過ぎる頃には、野営のかがり火の中に兵士の姿はなかった。
人の気配があるのは、野営地の中央にあるひときわ豪奢なテントのみ。
野営地には消えかけのかがり火と、無人のテントが長く連なっていた。
姿を消した兵士たちは、都市の入り口のところで待つコウの息のかかった商人に兵装一式を渡し、幾ばくかの金と食料を受け取った。
身軽になった元兵士らは、都市の中央へと移動して市民と合流する。
大部分の元兵士が合流したところで、コウの合図と共に一つの都市の市民とそれを滅ぼすために派遣された兵士達による、前代未聞の脱出劇が始まった。
コウの役目はここでお仕舞いである。後は、コウが正面に立たなくともその流れが止まることはない。
結局この『ウルト公爵の悲劇』がスメルナ帝国の命運を決定付けることになった。
スメルナ帝国の領民は、自分達を支配している者に対して失望すると同時に、彼らを押しとどめる力が支配者達には存在しないことを知ったのである。
まずきっかけとなったウルト公爵領から、領民の姿が消えた。
これでもう、ウルト公爵に逆らう者はいなくなった。
そして、彼は仕える者のいない公爵となり、『ウルト公爵の悲劇』という言葉は愚か者の末路を暗示する言葉となったのである。
『ウルト公爵の悲劇』はカーセザルに留まらなくなった。
スメルナ全土の都市部にも波及し、それは帝都ラシュクにも及んだのである。
このまま残れば殺されるか餓えて死ぬ。どちらの運命を辿るにしても、明るい未来像とはとても言えないだろう。
そして、彼らを迎え入れるべき場所は、一斗が用意している。
一斗のことだ、ほぼ完全な形で準備を整えていることだろう。
そのことに関して、コウは微塵も疑問を抱いてはいない。
王都を発《た》つ前に、一枚の委任状を一斗に託してきた。
王命による全権委任状である。もちろん、署名はクーリフォン=レフ=コウの名によって。
「君が言うから書いたけど、これは紙くずと一緒だよ」
コウがそう言ったのは、それは第三王位継承者の署名に過ぎないという意味でだった。
現王と兄二人、そして同位の継承者であるユウリの存在がなくなってしまわないかぎり、有効にはならない。
でも、一斗は人の悪そうな笑みを浮かべて答える。
「それでは、邪魔な方達には、早々に表舞台からご退場願いましょう」
そう言いながら、一枚の書状をコウに手渡した。
それは報告書で、そこに書かれていたのはコウとユウリの父母に関するものであった。
そこに書かれていたことを纏めると、こんなものであった。
コウとユウリの父は、先代の王だった。
二人は同じ父と違う母を持つ異母兄妹である。
一方、それまで実の兄弟だと思ってきた上二人の王子とは、他人であった。
一斗の報告には、さらに衝撃的な真実も記載されていた。
コウの両親は、暗殺されていた。
王の身でありながら、敵国スメルナに対して自国の情報を売っていたとの嫌疑を掛けられていた最中の出来事だった。
だから、その罪を悔いた二人が、仲良く自害した……ということにされたらしい。
そのことがはっきりと断定できないのは、父王の記録自体が抹消されていたからだ。
実行したのは、王位任命権を有する元老院。
前代未聞の王の不祥事を、そもそもなかったことにしようとしたのだろう。
皮肉なことに、そのことがコウやユウリの命を救うこととなった。
二人に与えられた王位継承権は低くなり、結果として二人の危険性もまた低くなったと父王を暗殺した何者かが判断したのだ。
だがそれもコウが王室に復帰し、和平交渉を進めた結果それが現実味を帯びてきたことで、コウもまた脅威と見なされることになったのだ。
それで、コウは命を狙われ続けてついには、スメルナ軍を利用して謀殺してしまおうという計略へと繋がってゆくことになる。
「墓穴っていうのは、入ってみるまで、案外気づかないものなのかもね」
一斗の言葉に、コウは深く頷いた。
そう、そのおかげで一斗と出会った。
コウの運命だけでなく、二つの国の運命はその時大きく変動したのだ。
書状を読んでいるコウに向かって、一斗は二つのことを告げる。
まず一つは元老院に働きかけて、現王と二人の王子を排斥してコウを王位につける。
その上で、今度は元老院を閉鎖すると。
果たしてそんなことが本当にできるのか?
他の人間が言った言葉ならば、いくらコウでも荒唐無稽《こうとうむけい》な話だと聞き流していたことだろう。
だが、それを口にしたのは一斗である。
その言葉は真実となると、コウは確信していた。
現在、コウの手元には複数の書状が存在する。
いずれもセイリアン王国政府からの書状で、最初のものはセイリアン元老院の名の下に発行されている。
セイリアン王位を継承した旨を記載したもの。
その後に続いて送られて来たのは、現政府の官僚並びに政務大臣の名簿であった。
みごとなまでに、前王支持者や有力貴族の面々は排除されていて、民間からの重用が目立った。
続く書状には、元老院の解散と制度の廃止が盛り込まれていた。
これは元老院側からとってみれば、明らかに裏切り行為ともとれるものであったが、もはや後の祭りであった。
軍部は新政権樹立以前に首脳陣の総入れ替えと再統合が行われ、元老院の圧力が届くことはなく、政府からも彼らの息のかかった勢力は一掃されてしまった。
立法府が元老院制度の撤廃と解散を決め、新政府はそれを速やかに実行した。
元老院側は何もできないままに、その地位と権力のすべてを剥奪される。
次に届いた書状の名義は、初めて見るセイリアン新政府の摂政の名において成されていた。
摂政となった人物の名前は、心当たりがあった。王都市民議会で市民側の取り纏めを行っていた人物である。
爵位を持たない一般市民からの抜擢《ばってき》で、それ以外の政務大臣も軒並《のきなみ》一般人が名を連ねていた。
一斗の描いた改革がこれまでの政府を根本的に覆すものであることが、届いた書状の名簿からだけでもはっきりと見てとることができる。
ただ、いかにも一斗らしいとコウが苦笑を浮かべたのは、その名簿の何処にも一斗の名が記載されていなかったためである。
コウは、一斗に聞いたことがある。
少しは自分自身の栄達とか、考えてみるつもりはないのかと。
すると、一斗はこう答えた。
「絵を見るのに、作者は関係ないでしょ?」
しごくあっさりした答えだった。
でも、一斗の価値観を明確に示す一言のように感じられる。
ただコウのような、非才の身とすれば、名画を描ける者の名を知っておきたいという欲求もあるのだ。
その人となりに少しでも触れてみたい、という欲求。
自分が描けなくとも、その作品を生み出した人に思いを馳せることで、自分もまた一緒に描いているような、そんな気にもなれるのだ。
だが、一斗はそういうことに関しても、一切考慮しない。
それがいいことかどうかの判断は、コウにもつかないけれど……あまり、他人には理解されそうもない生き方であるのは確かだろう。
ともかく、スメルナ帝国が変わっている間にセイリアン王国もまた激変していた。
セイリアン新政府はスメルナ難民の受け入れを正式に表明し、現在国家として全力で対応に当たっている。
コウ達の活動に関しては、一斗がすべてにおいて完璧にバックアップしてくれているのだ。
こうしてスメルナ帝国は、滅亡の時を迎えようとしている。
ただ一斗は言っていた。
「崩れ去ってしまった物は、もう元に戻すことはできない。でも、そこから新たな創造が、始まるはずだよ」
その時コウはこう聞いた。
「なんにも無くなってしまってもかい?」
すると、一斗は人の悪そうな笑みを浮かべて言った。
「希望を残しておくのさ。とびっきり、どぎついヤツをね」
その時のコウには、一体なんのことなのかよくわからなかったが、今ならば想像がつく。
でっぷりと太った、商魂たくましいあの男。
今度のことでも――儲けるためとはいえ――色々と尽力してもらっている。
クライボン=クライ。
たしかに、一斗の表現どおりの男であった。
今度のことで、クライボン=クライは巨万の富を手に入れた。
しかも、この男はそれではまだ満足していないようで、さらに儲けようと何やら企んでいる様子である。
ことが収まった後、この男が旗揚げすればスメルナ帝国の新生は始まる。
金に群がろうとするのは人の習性であり、自分も成功を収めたいと願う野心家は後を絶たない。
彼らがスメルナを再生させる足がかりとなるであろうと、一斗は予測していたのである。
だが一斗の狙いはそれだけではない。
「ついでに、商人ギルドには幕を引いてもらうつもりだから」
新たな形の商人。それがクライボン=クライ。
商人ギルドの扱う主力商品は武器である。
絶え間なく続いた戦争によって得られた利益は、途方もない額となっていた。
両国政府との繋がりも根深く、戦争そのものを支えてきたのが商人ギルドであったと言っても過言ではなかった。
一斗がその主力商品を無価値なものとした。
そこにクライボン=クライという新しいタイプの商人を利用して、その命脈を絶ってしまうつもりなのだ。
闇の中に深く沈んでいた澱《おり》を、一気に掻き出してしまうにはまたとない機会だと一斗は判断したのである。
ただ、コウにはそれが一斗の狙いのすべてだとは思えなかった。
「それだけかい?」
そう尋ねると、一斗は小さく肩を竦《すく》めただけだった。
コウもまた、それ以上そのことには触れなかった。
代わりに、コウが口にしたのは別の話だ。
「君の描く未来は、一体どんなだろうね」
それは本当にその答えが聞きたくて、言った言葉ではない。押し寄せる感慨が、そう言わしめた。
もちろんそのことは、一斗にはわかっていたはずだ。でも、その上で答える。
「君が生きていれば、見れるさ」
それを聞いて、コウは気づかれないように笑った。
いかにも一斗らしい気の使い方だと、そう思ったからだ。
素直に死ぬな、とそう言えないのだから。
そして今、コウはその時語った未来の中にいる。
生きて、現実にこの身をその中に置いているのだ。
コウたちは、歴史を大きく動かした。
二つの国はこれから先、まったく違う姿へと生まれ変わることになる。
そのことに対して、コウが感慨を覚えるのは当然といえたろう。
でも、まだ終わりではない……。
なすべきことは、まだそこにある。
「くそっ! なんたる失態か!」
老人は闇の中で独白する。
いつもそこに住み、陰から二つの国を動かしてきた老人。
名をジグント=ロウグといった。
豪奢なイスに身を沈め、険しい表情で闇をにらんでいた。
さらに深い闇の中には、一人の男が身をひそめている。
これまでずっと、老人の手足として働き続けてきた男である。
商人ギルド。
わずか半年前までは、確かに二つの国を支配していた。
なのに今、かれらの手足は確実にもぎ取られようとしている。
一斗。
その名をジグント=ロウグが知ったとき、商人ギルドの凋落《ちょうらく》は始まったのである。
自分の張った罠からコウを逃した。
鮮やかとしか言いようのない知略によって。
でも、そのことがジグント=ロウグの判断を誤まらせる。
優れた軍師である。
それが一斗に対して下した判断だった。
でも、それだけだ。
必要以上に恐れる必要はない。
なぜなら、戦争はすべて彼の手の中にあった。
軍師は所詮戦争の中でのみ、その才能を開花する。
だから一斗もまた、自分の手の中で踊る駒にすぎない……はずだった……。
そう、この瞬間ジグント=ロウグは人生最後で最大の過ちを犯したのだ。
戦争は、商人ギルドによってつくりあげられ、完全なる演出の下で掌握されていた。
どちらか一方に力が傾けば、もう片方に加担して戦争を有利に導く。
百年もの間そうやって、どちらも勝ちすぎない程度に戦争をコントロールしてきた。
バカな貴族達の代わりに、二つの国が滅びないよう導いていたのだ。
中には和平交渉を企てた愚か者がいたが、そういった者たちはすべて事前に排除した。
たとえそれが王であろうが、ロウグの権勢の前には無力であった。
そのこと自体が、この老人の判断を誤らせたのかもしれない……。
一斗の本質は、軍師などではなかった。
軍を、目的を達成するための道具としてしかとらえていない。
軍事的な勝利を得ることに、どれほどの価値観も見出してはいなかったのだ。
たとえ、それが眩《まばゆ》いばかりの才能であろうと、だ。
それは経済に対しても同じスタンスで、そのことにのめり込むことはない。
そのことに気づいたときには、すでに手遅れになっていた。
膨大な規模の人々の流出と、資本の消失……。
事態はともにロウグの手に負えるものではなくなっていた。
変化が、あまりに急速に起き過ぎた。
もはやコントロールすることなどできない。
もし、それが可能な存在がいるとしたなら一斗だけであろう。
自分の力は一斗には及ばない。
この時点ではもはや認めるしかない。
だが、しかし……。
「あれを使うぞ」
目を閉じて、老人が言った。
何かを吐き出すように。
「良い、ご決断をなさいました……」
これまで、なにごとであれ感情を感じさせなかった男が、微かに楽しそうに言った。
「このさい、しかたあるまい……」
そう言った老人の声は、ひどい疲れを感じさせた。
自分自身、巳の下した結論に苦悩を隠せない。
傍目にも、はっきりとそうわかる。
「では、そのように取り計らいます……」
闇の中で男が頭を下げる。
「万一ということもある。ラポの場所を知られる前にかたをつけろ」
老人の指示に男は、
「御意……」
そう答えて姿を消した。
「さすがに、生き過ぎたか……」
そうつぶやいた後、老人は深く闇の中に身を沈めて一言も話すことはなかった。
で、いろんなところを引っ掻き回した張本人はというと……。
「ちょっと、どこさわってんのよ!」
怒鳴られていた。
「いや、このそこはかとない出っ張りが……」
なにやら言い訳を試みる。
でも、
「ふざけたこと言ってんじゃないわよ!」
一蹴された。
ちなみに二人は、バイクの上にいる。
高田が持っていた中古の電動バイクを一斗が借りて、ユウリが運転している。
一斗は後部シートで、ユウリにしがみ付いている。
ただ、そのしがみ付き方にいささか問題があったようで、ユウリが抗議していたのだ。
「まったく、バカなことばっかりして落ちたらどうすんのよ!」
さらなる大声でユウリがどなる。
「だから、でっぱりがある方が掴みやすいかなぁ〜なんて……」
なおも未練がましそうに、答えたのは一斗。
ギュイィィン。
急加速!
「うあったたたた……。あ、あぶないなぁ! ユウリってば!」
あやうく後ろに転げ落ちそうになった一斗。
激しく抗議する。
「どう? 掴みやすかった?」
短くユウリが尋ねると。
「……ごめんなさい……」
一斗は素直に腰に手をまわした。
二人が今向かっているのは、郊外にある廃屋だった。
正確に言うなら、一斗がそこに用があるのでユウリが運んでいる。
「まったく、ちょっとは場所をわきまえなさいよ!」
バイクを先に降りて、一斗を軽々と抱き降ろしてやりながらユウリが文句をつける。
「えっ? ちゃんとわきまえてるって」
むしろ不思議そうな表情で一斗が言うと。
「どこが?」
ユウリの美しい顔に、危険な光が浮かんでる。
「ほかのとこじゃ、じっくりと感触を確かめられない……うぎゅっ!」
一斗が変な声を上げた。
ユウリの怒りの一撃が、一斗の頭を直撃したのだ。
その後ユウリは横を向いてぶつぶつ言った。
「まったく、肝心のことは言ってくれないのに……。そうすりゃ、わたしだって……」
「いたたた……。えっ? 何か言った?」
横で頭をすりすりしながら、一斗が言った。
「な、なんでもないわよ!」
今度はなぜか、ユウリがあわてている。
「んっ? ま、いいか……」
あっさり一斗は引き下がる。
“どうして、そこで引き下がるのよ!”
と言うのは、ユウリの心の声であった。
「じゃ、いこうか」
括り付けてあった松葉杖をバイクからはずし、一斗が言った。
ユウリの返事も待たずに、勝手に歩きだしている。
「ま、待ちなさいよ。イット!」
後をユウリが追いかける。
でも、言葉とは裏腹に口元には笑みが浮かんでいる。
ここまで回復するのに、結局半年もかかったのだ。
一番悪かった足を切断した後、結局三回手術をしなくてはならなかった。
内臓、胸骨、上腕骨である。
一度の手術に耐えられるだけの体力が、一斗にはなかったのである。
一通り手術が終わると、例によって一斗は自主退院をしようとした。
もちろん、そんなことなどユウリが許すはずがない。
一斗に教えてもらって、日常の会話に不自由しない程度にこちらの世界の言葉を覚えると、一斗の看病はユウリがつききっきりでやった。
そのおかげで、こちらの医療をいくらかなりとも学ぶことができ、同時に一斗がどれくらい危険な状態にあったのかということも知ることができたのである。
そして、ユウリは一斗の大丈夫という言葉くらい、アテにならない言葉はないということも学習した。
療養中にも大丈夫などと気楽そうに言っていて、取り返しがつかなくなる一歩手前であることがあったのだ。
こんなんで、信用しろというほうがどだい無理というものだろう。
こと健康に関しては、ユウリが一斗の言い分をみとめることなど断じてない。
こぶしで、小突いたときの表情。自分への触れ方。自分が触れたときの感触。
そういったことから客観的に判断する。
少しでもおかしいと思ったら、すぐ医師に連絡をとる。
普通ならどう見たって、過保護と言っていいだろう。
でも相手は一斗だ。油断なんてできやしない。
そんな厳しいユウリの目から見ても、一斗は順調に回復している。
ただ心配なのは……。
パタッ。
「イ“ッウゥゥゥ……」
地べたで一斗がうめいていた。
いきなりぽてっと、ひっくりかえったのだ。
ユウリが抱き起こす。
「馬鹿ね、まったく……」
そう言いながら、ユウリは一斗のズボンの裾《すそ》についた土をぽんぽんと払う。
まるでお母さんである。
「だから、こういうことするのやめない?」
一斗が抗議する。
さすがに恥ずかしいのだろう。
「だったら、転ばないように歩きなさいね」
ユウリは余裕で言ってのける。
でも、本当は一斗の体に怪我はないか……骨は大丈夫なのか、それを確かめたいのだ。
一斗からなんと思われようと、ましてや他人の目を気にして、馬鹿げたやせ我慢なんてさせるわけにはいかない。
ただ単に転んだからといって、安心できるような相手ではないのである。
一斗は。
そう、今一番心配なのはこのことであった。
一日に何度も、ぽてぽてとよく転ぶこと。
もう二カ月近くも松葉杖を使って歩行訓練を受けているのだけれど、一向に上達する気配がなかった。
本当に信じられないくらいの運動音痴ぶりである。
それはもう、表彰してあげたいくらいだ。
ただ、さすがに一日のうちに何度も倒れていると倒れるのが上達したらしく、以前より怪我をすることが少なくなっていた。
もっとも倒れ方がうまくなるよりも、倒れないように歩いてくれたほうがよっぽどうれしいのだけれど……。
ユウリの悩みは、尽きそうにもなかった。
二人が屋敷の中に足を踏み入れる。
昼間なので、さすがに真っ暗というわけではなかったけれど、それでもかなり薄暗く感じた。
電気が通ってないのだから、明かりを点けることはできない。
ユウリは懐中電灯を使って、二人の足元を照らす。
とても長い間、誰も足を踏み入れていなかったのだろう。
床がまともに見えないくらい、埃がうずたかく積もっている。
「ち、ちょっとユウリ、大丈夫だからさ……」
一斗が横からクレームをつける。
ユウリが横にピッタリとくっついて、腰にしっかりと手を回したからだ。
「ちょっとくらい我慢なさいよ……」
歩くたびに足元がギシギシ、鳴ってるし、こんなところで一斗に倒れられでもしたらどうなることか……。
ズリッ。
「うひゃっ!」
言ってるそばから一斗がこけそうになった。
もちろん、ユウリがしっかりと支えているから問題はない。
「どう? なんなら、掴みやすい場所でも掴んでみる? 倒れないかもしれないわよ?」
なにげない顔をして、ユウリがしれっと言うと。
「まいりました……」
一斗は降参した。
屋敷の一番奥に辿り着いたとき、結局一斗はユウリの腕の中にいた。
何歩か歩くたびにこけるもんだから、ユウリが抱き上げたのだ。
もちろん一斗に拒否権はない。
問答無用というやつである。
「さて……」
そう言いながら一斗は、ポケットから一枚のカードを取りだす。
サユリの持っていたあのカードの解析と、システム発動のメカニズムの解析を行った結果つくられた新たな発動キーである。
材質そのものは、チタンとアルミにセラミックスを使った複合合金となっているが、コアとなる部分は少しばかり裏技を使った。
量子効果が起きてしまうくらい微細なメカニズムに関しては、それに見合った工業技術がなければ、複製することは、不可能だからだ。
だから、メカニズムそのものをコピーするのではなく、ほぼ同じ効果をもたらす別のメカニズムを組み込んだのだ。
どうすれば、何が起こるのかはわかっているのだから、それほど難しい作業ではない。
ただし、オリジナルキーのような耐久性はまったくない。
できるだけ頑丈にはつくってあるけど、折れるし曲がる。
そうなったら、柔軟性なんてまったくないので一発で壊れる。
耐久性の代わりに、自在に操作ができるように、カードキーをプログラミングすることができた。
そうするために、一斗はオリジナルキーではなく、新たなカードキーをつくる必要があったのである。
そして、つくった目的とは……。
「さぁ、一万年ぶりに扉が開くよ」
一斗の言葉とともに闇に閉ざされていた屋敷の中に光が満ちた。
それは、鳥居が放つあの輝きに、とてもよく似ていた。
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第十一章 せかい
襲撃を受けていた。
「イヤッ!!!」
裂帛《れっぱく》の気合とともに、イヴァンが打ち込む。
ブロード=ソード(幅広の剣)がレイピア(細身の剣)のごとく踊る。
かけ値なしのイヴァンの全開モード。
しかし……。
「かわすかよ!」
すべて避けられる。
そして……。
「ちいいっ!」
連撃の途中で、イヴァンが強引に体勢を変える。
やばい!
そう感じた。
バシュッ!!!
たった今までイヴァンの体があった場所を、光の塊が通り過ぎた。
光の塊は、イヴァンの背後の建物を直線状になぎ払う。
無人だからいいようなものを、もしいたら多大な人的被害が出ていたことだろう。
でも、イヴァンはそれを気にも留めずに仕掛ける。
今の攻撃を繰り出した後、そいつはわずかに硬直した。
その隙を、イヴァンが見逃すはずがない。
突っ込む。
剣の間合いに入った瞬間、そいつが動きだす。
でも、イヴァンの剣はとどいていた。
斬るのではなく突いたのである。
ギンッ!!!
辺りに響く金属音。
「なんだ、こりゃあ?」
つぶやきながら、イヴァンが飛びのく。
バシュッ!!!
ふたたびイヴァンの体があった場所を光の塊が貫いた。
どうやら、そいつにはなんのダメージも与えられなかったようだ。
いかなる鎧をも切り裂くイヴァンの技が通用しない。
「かてぇ……」
つぶやくイヴァン。
その口元には楽しそうな笑みが浮かんでいる。
「こんなバケモンがいるなんて、世の中ってぇのは広いねぇ」
言いながら、イヴァンが間合いをふたたびつめた。
そいつが現れたのはセイリアン国王とスメルナ皇帝の会見が始まった直後。
帝宮の正門前に堂々と現れた。
青銅色の甲冑を着た重騎兵のようにも見える。
ただし、身長が三メートル近くもなければ。
門番をしていた兵達は、突然現れた異形の訪問者を警戒する。
でもそれはわずかな間。
そいつの胸部が開く。
光の塊。
彼らの守るべき門は一瞬で消えうせた。
そして彼らもそれに付き合った。
そいつが向かう先は、皇帝の居室。
行く手を阻むものはすべて消した。
塀だろうが壁だろうが人だろうがおかまいなく一瞬で消えうせた。
その中には皇帝の居室も含まれていた。
でも、そいつの動きは止まらない。
たった今できあがったばかりの新しい通路を通り、進みつづける。
目標をなんらかの方法で捕捉し続けている。
そういうことなのだろう。
宮廷に残ったわずかばかりの兵士が、駆けつけてきた。
弓を射掛け剣を振り槍で突き刺す。
兵士たちが一斉に攻撃する。
ほとんどいなくなったといっても、まだ百人以上いた。
でも、その攻撃のすべてはかわされる。
一見鈍重そうに見える巨体が、信じられないような速度で動いたからだ。
腕の一振りで、まとめて数人の兵士の頭が叩き潰され、足の一蹴りでそれより多くの兵の体が叩き潰される。
その場にいた兵たちは逃げ出す暇すら与えられないまま、全員殺されていた。
そこら中いたるところで肉塊を製造したそのバケモノは、再び前進を開始する。
兵たちは、ダメージを与えるどころか、何一つ抵抗することすらできなかった。
でもその犠牲によって、貴重な時間をコウたちにもたらすことになったのである。
そのときコウ達は地下にいた。
皇帝の居室の下に設けられた、密会用の別室である。
宮廷の住人の中でも、この場所を知っているのはほんの数人しかいない。
「なにごとじゃ?」
いきなり、どかんときた。
部屋全体を震わせる振動。調度品が倒れドアが衝撃で吹き飛んだ。
サイベルト皇帝が一番まともな反応をする。
いたって普通に驚いたのだ。
その衝撃に、コウはため息をついていたし、ユンフはまるで無反応だし、イヴァンにいたっては尻をボリボリかいていた。
これでは到底まともな反応とはいいかねよう。
ガタッとイスをならし、皇帝が立ち上がる。
「お待ちください陛下。イヴァンが上の様子を見に行ってくれるようです」
それを、コウがそう言って押しとどめる。
「えっ? オレ?」
と、イヴァン。
どうやら本気で気になっていなかったらしい。
さすがというより、あきれたという表現のほうがふさわしいだろう。
「わたしも一緒に……」
そう言ってユンフが頭を下げた。
「たのむ」
コウは、ユンフにそう言って軽くうなずいた。
そしてイヴァンはユンフに引きずられるように、強制的に上へと連れて行かれた。
「それでは陛下、続きをお聞かせください」
コウが平然とそう言った。
もしかしたら、一番すごいのはコウかも知れない。
サイヴェルト皇帝は、なぜか疲れたように頭を振ると、
「どうにも、そなたたちの行動は、いささか理解しかねるな……」
そう言った。
それがまっとうな反応というものだろう。
「それでも彼らは最高の人材ですよ」
コウの言葉には、何の臆面もてらいもなかった。
「その中にセイリアン国王は含まれておらぬのか?」
とサイヴェルト国王が聞くと。
「彼らほどではないと、そう自負しております」
はたしてそれは謙遜《けんそん》しているのか、一緒にするなと言いたいのか……。
微妙なところだろう。
「ふむ……」
老帝は小さくつぶやくと、
「では先ほどの続きだが……」
そう話し始める。
卑しくもスメルナの皇帝。
腹をくくれば落ち着いたものである。
「余はあやつの“ラポ”の場所を知っておる」
老帝はゆっくりと話した。
まるで長いこと胸の中にため込んできたモノを、静かに吐き出すように。
「余はそこでヤツの力を見せられた。誰もいない巨大な屋敷で、武具が自動的につくられるところを。巨大な人形《ひとがた》が光を吐き出して、家一つ分はありそうな巨石を消してしまうところを、な……」
その後老帝はそこで見せられたもののことを、コウに話して聞かせる。
勝手に開く扉、夜でも昼と変わらぬ部屋、様々な情報が映されている壁。
コウには想像もつかないようなことを話した後、
「あの男はそれを『カガク』と言っておった」
そう締めくくる。
「なぜ、それをあなたに?」
というコウの問いに対して。
「余だけではない。余の父もその父もまた、同じものを見せられておる。セイリアンでもまた同じはず……おぬし以外は、のう」
そしてもう一言付け加えた。
「おぬしなら、その理由はわかるであろう?」
その言葉に、コウは黙ってうなずく。
わからないはずがない。
圧倒的な力を持った人間。
それが、他者を思いどおりに動かしいたいと願ったとき。
たぶん、真っ先に思いつく行為だろう。
恫喝《どうかつ》。
人はその行為のことをそう呼んでいる。
コウがうなずくのを見て、老帝は最後に伝えるべきことを話す。
「南緯六九度〇〇分、東経三九度三五分……そこにラポがある。その数にどんな意味があるのかは知らんがな」
確かにコウにはわからなかった、でもわかるであろう人物には心当たりがある。
そう、一斗ならば……。
ちょうどそのとき。
上の様子を見に行っていたユンフが戻ってきた。
一人だ。
どうやら上で何かあったらしい。
「で?」
コウが聞く。
一文字だ。
「怪物が出現しました。今この上の建物は、そいつからの攻撃を受け消し飛びました」
いきなりユンフが説明を始める。
主《あるじ》と、いい勝負をしている。
「体長は、馬にまたがった騎兵と同じくらい。胸部から発する光は、すべてのものを消滅させます」
見たままを、ありのままにユンフが告げる。
「今は、別の怪物と戦っているところです。しばらくは、ここを動かないほうが賢明でしょう」
ユンフの言った片方の怪物には、王と皇帝は共に心当たりがあった。
一体はサイべルト皇帝の話の中に登場した人形の特徴と一致する。
では、もう一体の方の怪物とは……。
なぜ、怪物同士が戦っているのか……。
「なるほど……」
コウはうなずいた。
どうやらこの説明だけで、おおよその事情は呑み込めたらしい。
さすがに、変人たちの親玉というところであろうか。
だが……。
「いかなることか? 一体何が起こっておる?」
老帝には、それだけの説明では理解などできるはずがない。
それがまともな人間の反応であろう。
「今、上は危ないってことですよ」
コウが簡単に説明する。
ただ説明というにはあまりに簡単すぎる。
「それくらいはわかる。わしが知りたいのは、あの人形と戦っておる怪物のことだ」
老帝がきちんとした説明を要求する。
「名前はイヴァン。先ほどまで、この部屋にいた男ですよ」
とのコウの説明に、老帝は。
「なんと! あの人形と戦っておるというのか?」
当然ながら、驚く。
老帝が知る限り、人間に太刀打ちできるような代物ではなかったからだ。
その鎧にはいかなる武器も通用せず、どんな人間より早く動ける。
おまけにその武器の前には、如何《いか》なる守りも通用しない。
かつてそれを、間近で見せ付けられていたのだから。
「勝てぬ……。勝てるはずがあるまい……。ただの人間に……」
老帝が、深々と椅子に沈み込んだ。
そして……。
「貴公らはここから早々に逃げ出すがよい。あれの狙いは余のはず……。もはや余に思い残すことなどない……」
言葉を吐き出す。
ついにくるべき時がきた。
そう思い定めたのだろう。
いや、その決心は自分が帝位についたとき……あの男に、あれを見せられたときからしていたのかもしれない。
そんな老帝の様子を見ていたコウは。
「戦況は?」
ユンフに聞いてみる。
逃げるかどうかは、それからだ。
逃げるにしても、恐らく見逃してもらえるなどとは思ってはいなかったけれど……。
今となっては、コウの方がこの年老いた皇帝より、ターゲットとしての重要度は高いだろう。
そのくらいのことは容易に察しがつく。
「スピードはほぼ互角。パワーはあちらの方がだいぶ上。武器に至っては、比較にもなりませんね」
ユンフが忌憚《きたん》のなさ過ぎる意見を聞かせてくれる。
「では、イヴァンは負けるかもしれないと?」
コウが聞くと。
「いえ、勝つのはイヴァンです」
ユンフはきっぱりと言い切った。
「へえ? 聞いている限りじゃ、勝てる要素はなさそうだけど?」
まさしくコウの言うとおりだ。
今の説明じゃ、どう考えてもそうだろう。
「いえ、他の部分はどうであれ、イヴァンがアレに勝《まさ》っているものが一つだけあります」
一体なにが勝っているというのだろうか?
「なに、それ?」
身を乗り出してコウが聞く。
いささか、興味を引かれたらしい。
「強さです」
当然のように、ユンフが一言そう言った。
「なるほど」
コウがうなずいた。
どうやらそれで、納得したみたいである。
「なぜだ? なぜそうなる? すべてにおいて上をいかれておるというのに?」
老帝は、納得がいかない様子だ。
それに答えたのはコウ。
「これが戦いだからですよ、サイベルト陛下。力比べでも、武具の品評会でもない。戦闘《バトル》なのです」
コウだとて、一流クラスの剣士。
イヴァンには遠く及ばないにしても、そのくらいは理解できる……。
いや、肌で感じることができるのだ。
それはユンフも同じだろう。
だから平然としていられる。
「……余にはわからんよ……。貴公らが、勝つと思っているのなら……好きにするといい……」
そういって年老いた皇帝は、イスの中で静かに目を閉じた。
まるでその時を待っているかのように。
コウもまた、そんな皇帝に黙って軽く頭を下げる。
そして、ユンフに向き直り、
「ところで、助けにいかなくていいのか?」
そう聞いた。
「この美貌が失われては、世界にとって多大な損失というものでしょう」
ユンフは肩をすくめて、そんなことを言っている。
「まぁ、それは認めるけどね……」
コウとしては、苦笑するしかない。
「それに、あの男はわたしに子供を生ませて、ともに育てる義務があります。このようなところで、終わったりはしません。それなりに元気もつけておきましたし……」
それを聞いたコウは、イヴァンのことが少し気の毒に感じられた。
一体どんな元気付けられ方をしたものか……。
そして現在、ユンフから元気付けられた男は……。
「くっ! ここもダメかよ!」
苦戦していた。
剣が通らない。
つなぎ目を狙ってもダメ。
それだけでなく、隙間のような場所はことごとくためした。
でも、ダメ。
ことごとくはじかれる。
剣の先は欠けて丸くなってきている。
刃はあちこち欠けまくっていた。
ボロボロである。
中古で叩き売っても、はたして引き取ってくれるかどうか……。
「ったく、冗談じゃねぇぜ」
右から来た攻撃をかわしながら、イヴァンがボヤいた。
人形の手が引かれるのに合わせて突っ込む。
足元に潜りこむようにして、脇を狙い剣を突き上げる。
パリッ。
妙な音がした。
剣の先が、少し折れた。
「まいったね……。こりゃ……」
はね上がってくるそいつの足を、さらに前に踏み込んでかわす。
敵の反対側に、すり抜けたのだ。
もちろん、そちら側は無防備。
「どっせいっ!」
妙な気合とともに、イヴァンが肩を当てる。
同時に軸足を引っ掛けた。
ズウンッ。
重たい地響きとともに、そいつが倒れる。
「あんた、ダイエットした方がいいぜ?」
いらんことを言いながら、イヴァンが全体重をかけた攻撃を仕掛ける。
狙ったのは首。
そこに、小さな亀裂を見つけたのだ。今の衝撃でできたらしい。
敵の右手が動く。
落下してくるイヴァンを払いのけようと。
でも、
「こっちが先だね」
イヴァンの言葉どおり、剣の方が先に届きそいつの首を貫いた。
『グオオオオンッ』
そいつが悲しげな声をあげる。
「いい子だから早く寝てくれよ……」
イヴァンはそう言うと、遠慮なく剣を思いっきりひねった。
バチッ!
そいつの首筋から火花が飛び散る。
ついに首が胴体から切り離された。
「疲れたぜ、まったく……」
めずらしく、イヴァンが息を荒らげている。
そいつの上から飛び降りると、背を向けて皇帝の居室……があった場所に向けて歩き出す。
が……。
ウィーーーン。
背後から、何か聞こえてくる。
「そんなん、ありかぁ?」
イヴァンとしては、天を仰ぎたい気持ちになった。
予備動作なしで、右にかわす。
イヴァンが立っていた場所を、光が貫いた。
「まったく、夢の中にも出てきそうだね、こりゃ」
イヴァンがそうボヤくのも無理もない。
首なしの人形が、平然と立っていたからだ。
おまけにさっきとまるで変わらない攻撃を、イヴァンにしかけてきた。
やたらとすばやい攻撃と、一撃で人間をミンチにできるパワーは見事なまでに健在だった。
ただ、イヴァンからの攻撃に対する反応はいく分遅くなっていて、ほとんどかわせなくなっていたけど……。
でもそれは、決定的な違いとは到底いいかねた。
相変わらずイヴァンの攻撃は通用しなかったし、肝心の剣はボロボロでまともに使えるようなしろものじゃなくなっている。
このまま何回当てようが、どうにかできるような相手ではない。
「これじゃ、倍だな、倍」
さっきユンフがイヴァンを戦いに送り出したときに言ったのだ。
勝って帰ってきたら、うまいものを作ってやると。
いっぺんに元気が出た。
ユンフはああしていながら、料理の腕は相当なものだった。
もっとも、一斗に作ったものと比べたら少し落ちるけど、そこのところは内緒であった。
でもこれでは、とてもではないが普通の量では足りそうにもない。
だから倍にしてもらう。
イヴァンが剣を振ると、ヤツは後ろにはねた。
間合いができる。
人形の胸部が一瞬で開き、光の束が形成される。
「くる!」
イヴァンはわざと一瞬だけ間をおいて、前方に突っ込む。
バシュッ!
「あぢぃ……」
髪の毛を焦がしながら、イヴァンは人形の真下に潜り込んでいた。
光が去り、胸部がしまる。
でも、閉まりきることはできなかった。
ザシュッ!
剣が突き刺さる音。
ジュオッ!
何かが蒸発する音。
そして……。
バチバチバチバチッ!
そいつの胸から火花が飛び散り、全身が痙攣《けいれん》を始める。
しばらくそれが続いた後……。
ボンッ!
胸から黒煙が上がった後、ついに動かなくなった。
「まいったねぇ……」
疲れたようにイヴァンが言った。
まわり中見渡せば、とっても見晴らしが良い光景が広がっている。
視界は良好、ほとんど遮るものがない。
帝宮はもとより、近くに建っていた建築物も、きれいさっぱりなくなっていた。
それはもう、見事というより他にない。
まぁ、人が住んでいないのと、中にあっためぼしいものはとっくに売られてなくなっているにしても……。
かなりの被害といういうべきだろう。
だが、イヴァンとしてはそんなことで悩んでいるのではない。
じっと見ているのは、手元に残った剣。
長さは元の半分。形状は実に複雑極まりなくなっている。
一度どろどろに溶けて、再び固まった結果だ。
切るための道具というよりは、どこかのヘボイ抽象彫刻家の作品といった感じである。
これで戦うよりは、腰に残った鞘で戦うほうがまだ現実的だろう。
もはやそれを、剣などと呼ぶことすらためらわれる。
「はぁ〜〜〜っ」
イヴァンがため息をつく。
それはそれは深いため息だった。
そう、イヴァンはお亡くなりになった剣をいたんでいるのだ。
もちろんイヴァンの持ち物だ、業物《わざもの》であるはずがない。
普通にショップで手に入れることができるものであった。
長年使っているけど、特に思い入れもない。
しょせん人を斬るための道具だ。こだわりを持とうとも思わない。
ただ……。
商売道具なのである。
こだわりを持とうが持つまいが、なくては困るのである。
ご飯が食べられなくなるのである。
解決方法はしごく簡単で、要は新しい剣を買えばいいことなのだけど……。
「まぁた、借金かよ……」
そう、先立つものがなかった。
安物なら、なんとかできるとしても戦闘のたびにダメになるようなしろものじゃ話にならない。
っていうか、お金がいくらあっても足りなくなる。
イヴァンの場合、切れ味とか使いやすさとか言う前に、とにかく頑丈さが必要だった。
だからあまり安物じゃだめなのである。
となると、今の所持金では足りそうもない。
イヴァン的には、かなりの苦境に立たされていたのだ。
足りない分はどうすればいいのか……。
借金しかない……。
借りている相手は、ユンフ。
そのこともあって、完璧に頭が上がらない。
いつか借金をすべて叩き返して……。
でも、そのためには……。
「何してやがんだよ、イットのやつぁ!」
イヴァンが悲鳴のような声を出す。
賃金が出てない。
コウの計らいで飯は食わせてもらってる。
でもそれは借金だ。ユンフから借りている。
コウの下で働いてはいるけど、その禄を食むつもりはない。
だから、報酬はもらっていない。
これは、イヴァンのこだわりだった。
自分は一斗を拾った、でもその日自分も一斗に拾われたのだ。
コウのために働いてはいても、一斗がコウの部下でないように自分もコウの部下ではない。
だから、一斗以外から報酬を受け取るわけにはいかない。
たとえそれが、セイリアン……今となってはスメルナをも併合した帝王たるクーリフォン=レフ=コウであろうとも。
はやいとこ帰ってきて、報酬を出してほしかった。
そうすりゃ新しい剣を買うことだってできるし、なによりご飯をたらふく食べることができる。
だからイヴァンこそが、今一番一斗の帰りを待ち焦がれている人間なのかもしれない。
なにしろ生活がかかっている。切実なのだ。
「うう……。とりあえず、こいつぁダメだな……」
名残《なごり》おしそうに、手の中の抽象彫刻を捨てる。
さすがに直して使うことは、あきらめたみたいだ。
そのとき……。
ゆらめく影が五つ……。
陽炎《かげろう》のように。
「おいおい、マジかよ……」
イヴァンが顔を引きつらせながら言った。
それは、人形の姿だった。
「なんなのよ、ここって?」
ユウリが聞いた。
二人が立っていたのは何もない白い部屋。
置いてあるものもないし、窓すらない。
受ける印象は、部屋というより箱の中って感じだ。
そこでユウリの質問。
「なんなのよ、ここって?」
と、なる。
「ライブラリ……図書館の一種だね」
一斗が答えると、
「図書館にしては、少々本が少なすぎるような気がするんだけど?」
ユウリが当然すぎる疑問を口にする。
「まぁ見てて……」
そういって、一斗が壁に触れると。
「え?」
ユウリが驚いた。
いきなり壁だったところに、無数の文字が映し出される。
それだけではない。ちょうど一斗の手元のところに、光のキーボードがふわっと浮かびあがる。
すぐに一斗の両腕が反応し、その上を指が躍るように動く。
「さぁ、封印されてた記録が開放されるよ」
一斗の指の動きが、さらに加速する。
いくつものIDとパスワードによって封印され、膨大なデータの海の底に沈んでいた映像が浮上してくる。
モニターに映し出された文字が消え、代わりにリアルな立体映像へと変化した。
夜のような暗い背景に浮かび上がるのは、青い球体。
それは、ユウリが初めて見る映像であった。
ユウリはそれを見て、とても美しいと思った。
「これが、現在の世界。青い場所が海。白く浮かんでいるのが雲。茶と緑をした場所が大地なんだ」
スクリーン上に矢印が現れて、一斗の説明した場所を指し示す。
「ちょうどこの辺りに、セイリアンとスメルナがある」
一斗の説明とともに矢印が移動した場所は、大地だと言った場所の一番右の端。
「わかるわ……。お母さまから渡された地図と、同じだもの……」
ユウリがそう答える。
その映像から目を放すことができないまま。
「これは、現時点の姿」
そういう一斗の言葉に、ユウリはさすがに疑問をいだく。
「な、なによそれ? こんなの、一体どこから見ているっていうのよ?」
この映像自体が信じられないようなものだけれど……。
でもこれを映すためには……。
世界全体が映るくらい、離れた場所から見ていることになる。
そんな場所なんて、どうしてもユウリには想像がつかない……。
なのに……。
「わかるはずだよ?」
一斗は言った。
少し微笑みを浮かべて。
ユウリは頭を振る。
「わかるわけない……。わたしの、想像を超えてるわ……」
かすれたようなユウリの言葉に、
「一番近い星……。夜に一番明るく輝き、太陽以外で昼でも唯一見ることのできる星……。そして、今は映像の中には映っていない星……」
一斗がさりげなくヒントを与える。
「ま、まさか?」
ユウリは気づいたようだ。
信じられないような事実に。
「そんな……そんなこと、ありうるはずが……」
ユウリは否定しようとする。
でも、できない。
すでにユウリの中では、その答えは疑問から確信に変わりつつあった。
「そうだよ。これは、月からの映像さ。……正確には、ムーンベースなんだけど、ね」
一斗がユウリの中で出した結論を保障する。
「一体誰が、どうやって?」
ユウリはこの地にやってきて、色々不思議なものを見た。
でも、すぐに馴れることができた。
どんなに不思議そうに見えるものでも、所詮それは道具に過ぎないんだとわかったから。
ある手順によって操作すれば、誰でも同じことができるようになる。
町の中を、当たり前のように走り回る自動車も、ユウリが一斗を乗せて走って来たバイクも、ただの道具に過ぎない。
つまり、人の手で生み出されたものだったのだ。
だとすれば、今見ているこの映像もまた、人の作った道具によって作り出されているはず……。
それはすなわち、そのための道具が月にあるということを意味している。
あの、空に輝く月に……。
一斗はその疑問には答えず、代わりにこう話を切り出す。
「この世界は、かつて別の名前で呼ばれていたんだ……」
それとともに一斗の指が動き、スクリーンの映像が変化する。
青い海と白い雲はそのままだけど、大地の形がまるで違う。
ユウリのよく知っている、大地が見当たらない。
海の方が大きいのは変わりないけど、大地の占める割合がだいぶ広い。
「これは?」
短くたずねると、
「同じ星だよ。形がだいぶ変わってるけどね」
一斗はそう答えた。
「ちなみにこれは、一万年前の映像。この頃この星は、地球と呼ばれていたんだ」
「チキュウ……」
ユウリは、その映像に見入ってしまう。
「ちなみに、今君たちがいる大地は、この頃はここにあったんだ」
矢印が動き、球体の一番下を指し示す。
白く彩られた大地が、そこにあった。
「これじゃわかりづらいから、衛星からの写真に切り替えるよ」
一斗がそう言ったとたん、スクリーン全体にどことなく見慣れた感じのする大地の写真が映し出された。
ただし、その色は茶色でも緑色でもなく、白。
一面真っ白な大地の姿。
「……氷?」
つぶやくようにユウリが言った。
「そのとおり。この当時、ここは南極大陸と呼ばれていた。これが、今住んでいる世界の姿さ」
一斗の説明が終わると、映像はまた月からのものに切り替わる。
「この映像が撮影されたのは……」
画面にいくつかの文字がかぶさった。
「西暦二一〇〇年ってある。今はもう使われなくなった年号だから、意味ないけどね」
さらに一斗のオペレーションが続く。
「肝心なのはこれからさ。人類に……いや、この星に何が起こったのか……。それが今から映し出されるよ……」
いつしか画面上の数字が、二一〇〇から二一〇二に変化している。
どうやら、二年ほど時間が進んだらしい。
でも、変化らしきものはそれだけで、特に変化というべきものは見当たらない。
「なによ? なんにも変わらない……」
じれたユウリが、そう言いかけたときだ。
突然、画面の左下に白い大きな塊が出現する。
それは、地球へと真っ直ぐ進み、一番大きな大地にぶつかった。
眩い光が発生する。
ぶつかった場所を中心に、波の波紋のようなものが周囲に向けて広がった。
「これは衝撃波。地上にあるあらゆる物を破壊する、空気の塊さ」
一斗がさりげなく解説を入れた。
「でも、まだこれで終わったわけじゃない……」
一斗の言うとおりだった。
その後、五つの塊が次々と衝突をくりかえす。
終わった後、大地の姿は大きく様変わりしていた。
それまであったいくつかの大陸はなくなり、一番下にあった南極大陸が中央寄りに移動していた。
色はまだ真っ白で、大地全土はすっぽりと氷に覆われている。
「これからしばらく、時間の進みを早くするよ」
そう一斗が言い終わると同時に、地球全土を雲が覆い始める。
雲は地球全土を覆い続けやがてそれが晴れたとき……。
そこに現れたのは……。
「わたしたちの大地……」
そう、それこそユウリが知っている大地の姿。
中央付近の氷をのぞき、半分以上大地が見えている。
「地軸がぶれて、今のこの位置で安定しつつある」
雲が覆ったときはまだ安定していなかった。
でも、それが晴れる時には、あるていど安定するようになっていた。
かつて南極大陸と呼ばれていた大地は、もはやその名称の意味を失ってしまった。
なぜなら、大陸中央部に赤道が通っていたからだ。
雲が晴れると同時に、中央付近に残っていた氷も溶けだし、そこにはいくつもの湖ができ上がってゆく。
「中原の誕生だ」
一斗の言葉に、もはやユウリには発する言葉が見つからない。
胸を締め付けるような思い。
神にしか許されないような、知識を手にしている……。
そんな思いが、どこかにあった。
でも、目の当たりにした真実の前ではその思いすらも、虚《むな》しいものだ。
一斗は……。
一斗はどんな思いで、この映像を見ているのだろう?
不思議とユウリが一番気になったことはそれだった。
でも、一斗を見ても普段の一斗となんにも変わらないように見える。
チビで、少し疲れた感じがして、どこかふざけていて……とても愛らしく、とてもいとしい……。
「ん? なに? ユウリ?」
いつの間にかじっと見つめてしまっていたらしい。
一斗が、不思議そうにユウリを見つめ返す。
「あ、あんたの顔って、いつも面白いわねって、そう思ったのよ!」
思わず言ってしまう。
言ってから、すぐに後悔したけれど。
これでもユウリには夢があるのだ。
何が何でも、一斗の方から先に告白させるのだ。
第三者の立場から見たら、とても険しそうな夢なのだけど……。
でも、今の発言の場合特に問題はなかった。
なぜかというと……。
「まぁぼくにだって、いいとこもあるってことだね」
一斗がうれしそうに言った。
どうやら、褒められたと思ったらしい。
内心、胸をなでおろすユウリだった。
「そ、それはともかく。あたしたちが今いる場所ってどこよ? 一斗の住んでた町なんて、この大陸のどこにもないはずよ?」
気をとり直して、ユウリが質問をぶつける。
「いい質問だね。じつはさっきから、それを検索してるとこだったんだ……」
一斗が答える。
スクリーンの右隅の方に、小さく別のスクリーンが浮かび上がってくる。
「おしっ。ビンゴ!」
矢印が、そのスクリーン上に移動した。
「ここだよ」
一斗の言葉とともに、スクリーンの映像が切り替わる。
地球を輪切りにしたような映像が、そこに映し出されていた。
「拡大する……」
球面付近に近い場所が、どんどん拡大されてゆく。
「なるほど……。そういうことだったのか……」
それを見た一斗が一人で納得している。
「ちゃんと、説明してよね?」
当然のようにユウリが言った。
時々世の中には一斗にしかわからないことがあるのだということを、自覚させてあげなくてはならない。
「惑星を輪切りにすると、三つの層に分けられるんだ。表面から地殻、マントル、地核ってね」
そう言いながら、一斗がスクリーン上の矢印を動かしてそれぞれの位置を指し示す。
「地殻はぼくらが普段、地面と言っているもの。マントルはその下にあってこの二つはともに岩でできてる。さらにその下にあるのが地核。鉄とかの金属が、熱でドロドロに溶けている場所なんだ」
簡単な説明をした後、
「そこにぼくの住んでいた町が浮いている」
そう締めくくる。
「えっ?」
ユウリは、いまひとつ理解できてない。
「地面をどんどん掘っていって、その距離がセイリアンから中原を越える辺になったくらいで、僕のい住んでいた町にいきつくはずさ」
なんだか、とんでもないことを一斗が言っている。
それは理解できた。
「そ、そんなに深く掘れるの?」
そう聞いてみる。
「掘れるわけがないって。だから、元々あった町をそこに移動させたんだろうけど……。どうやってかは聞かないでね。想像はつくけど、確信はないんだから」
一斗が簡単に答える。
「これがぼくの住む町。ぼくのふるさと。直径百キロくらいの完全に閉ざされた世界」
ユウリはその答えに、不自然さを感じた。
あの町には空があった。
夜には星が輝き、月だって昇る。
閉ざされた世界には、とても見えなかった。
「すべては作り物。世界が滅びを迎えた日、一番幸せだった時代を閉じ込めて、電脳によって管理させた町。一万年もの時を、あの町は装いを少しずつ変えながら、一切進歩することなく過ごしてきたんだ。そしてこれからも、たぶんずっと……」
ユウリが頭を振る。
「それじゃ、イットの住む世界って……」
「そう……遥か昔に滅びたはずの世界。そこにあるものは、幸せを維持するための作り物。真実の姿は、ユウリたちが住む大地にこそあるんだ……。だから、ぼくらの世界のものを持ち出すわけにはいかない。ぼくらは、しょせん亡霊のようなものだから、ね」
一斗が言い終えると、言い知れぬ沈黙があたりを支配する。
………………。
しばしの間《ま》を置いた後……。
「うあっ?」
一斗が声をあげる。
後ろから、いきなりユウリが抱き付いてきたからだ。
「イットは……。イットはここにいるよね?」
ユウリの体が震えている。
「まぁ、ね」
返事が軽い。
ユウリの腕に、さらなる力がこもる。
「い、いたいよ、ユウリ」
一斗が苦情を言っている。
でも、ユウリは聞かない。
「もうちょっと、がまんして……」
そして一言、怖くなくなるまで……と付け加えた。
さらに、それから時が過ぎ。
ユウリの体の震えが止まったとき。
「さあ、そろそろ行こう、ユウリ。もうここに来た目的は果たした。僕らの世界から、がらくたを持ち出した男がいる。決着をつけないといけない。それに、今頃イヴァンが困ってるはずなんだ。ぼくらの助けがいる」
一斗がそう言った。
その手にはいつの間にか、丸められた紙が握られている。
「イヴァンが?」
とユウリが聞くと、
「そう……。あっ、それと帰る前にそこを見てごらん、ユウリ」
そう言って一斗がキーボードを操作すると、壁だったところに窓が開く。
人の顔くらいの大きさをした、小さく丸い窓。
ユウリは一斗から言われるままに、その窓をのぞくと、そこから見えたものは……。
「あ、あれは……」
青く輝く星。
大きく美しい星。
スクリーンで見たものと同じもの。
でも、それはまるで違った。
なぜなら、それは……。
「ここは、スペースコロニーの一室。その窓から見えるものが、本物の地球だよ」
そう言いながら、一斗はポケットからカードキーを取り出す。
一斗がめずらしくこけることなく松葉杖を使いユウリのところまで歩いていって……。
「さあ、ワームホールを開くよ。帰るんだ、本当の世界に……」
その言葉を言い終える前に、ユウリが一斗を迎え入れた。
二人の体を白い光が包み込み、再び二人の体を別の場所へと運んでいった。
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第十二章 一斗
「どうしたもんかね、こりゃ……」
イヴァンが頭を掻きながらボヤイていた。
まあそれもしかたないだろう。
なにしろあれだけ苦戦した相手が、目の前には五体もいた。
「まったく、気前がいいねぇ」
戦力は自分一人、武器は得体の知れないものへと変わってしまっていた。
誰がどう考えたって、これは絶望的な状況というものではないだろうか?
少なくともそれが正常な人間の判断というものだろう。
ただし今この場にいる男の正常さには、自称という形容詞が付いていた。
他人が認めているわけではない。
「ま、なるようになるしかなんないだろうねぇ、こりゃ」
思いっきり他人事だった。
基本的に無責任な性分なのだろう。
イヴァンが動く。
武器は拳《こぶし》。当たれば痛い。
イヴァンが、だ。
人形が反応する。
「ちっ……」
舌打ちするイヴァン。
五体のうち、一体しか動かない。
あわよくば五体とも同時に、イヴァンの相手をしてくれるかも……。
などと、虫のいいことを考えていたのだけれど。
「ま、こっちから行くさ」
唯一反応した一体との間をつめようとする。
だが、向うからも来た。
「んっ?」
イヴァンは違和感を感じる。
敵からの攻撃。
前に出ながら左にかわす。
その後の地面がはじけた。
「せっかく馴れたってのによ……」
違和感は確信に変わる。
攻撃は光の塊ではなく、小さな金属の塊を無数に高速で打ち出すもの。
形は似ていても、明らかにタイプが違う。
あるていど間合いがつまったところで、ちょっかいをかけてみる。
足元を狙って蹴りを叩き込む。
あっさりとかわされた。
もちろん、それは予測していた。
イヴァンはそこからさらに加速する。
上に跳ねた。
跳ねながら首に腕をひっかけて、敵の背中に落ちる。
敵の巨体が倒れた。
「こちとら、後がないんでね」
敵の首が折れてたけど、ほっとく。
どうせ起きてくるのだ、付き合ってはいられない。
イヴァンが走る。
先行している四体を足止めする。それが目的。
勝てないのは目に見えている。
だから力の限り嫌がらせをしてやろうとしている。
イヴァンは、そんな男だった。
でも、意外なくらい楽に追いつくことができた。
なぜならそいつらは、すでに足止めされていたからだ。
やっているのは……。
「よう? こんなとこで会うたぁ、奇遇だねぇ」
イヴァンが緊張感のかけらもない挨拶をする。
「そうでもないさ。きさまに会いに来たんだからな」
二《ふた》振りの剣を巧みに操りながら、緊張感のない返事をしたのはカゼル。
「へぇ? 皇子さまがオレに?」
イヴァンが不思議そうに聞く。
聞きながら、イヴァンはひらめいた。
「まさか、おねぇさまがオレに会いたいとか?」
どうやらイヴァンのひらめきは、妄想と直結しているようだ。
「まずは、婚約おめでとうと言っておこう」
カゼルの返答はそれだった。
「な、なんで知ってる?」
なぜかあせるイヴァン。
「なに、聞いたのさ」
「誰に?」
「きさまの婚約相手からだ」
どうやらユンフが会いに行ってたらしい。
ちなみに今カゼルは、人形のうちの一体を、真っ二つにしたところであった。
「な、なんか言ってたか? アイツ……?」
イヴァンの声が弱い。
人形を前に平然としていられる男が……。
何かを恐れている様である。
「俺は知らん。女二人で話していたからな。それに割り込むほど、俺は無謀ではない」
同時に仕掛けられた敵の攻撃をかわしながら、カゼルが言った。
どうやら今やっていることは、無謀の範疇には入らないということらしい。
「まいったな……」
イヴァンはなにやら、がっくりと肩を落とした。
「落ち込んでいるところをすまんが、そろそろこっちを手伝ってもらえんか?」
同時に左右からきた敵の攻撃を、二振りの剣でがっちりと受け止めながらカゼルが要請する。
しかし……。人間か? こいつ?
などと、イヴァンは自分のことを棚にあげてそんな感想を思い浮かべる。
「わりぃな。オレ、今てぶらでね。あんまり役に立たねぇんだ」
イヴァンが気楽に言うと。
「うけとれ」
カゼルが後ろに跳ねながら、右手の剣を投げてよこす。
「なんだぁ?」
それを受け止めてイヴァンは驚く。
想像していたものより、遥かに軽い。
形態はブロード=ソードのように幅広の直剣だけど、重さは半分もないだろう。
鍔《つば》もないし、まるで玩具の剣みたいだ。
しかし、それ以上考える暇なんてなかった。
自分の背後にヤバイものを感じる。
当然よけた。
背後からの攻撃は逸れ、別の人形に攻撃が当たる。
でもダメージはなく、すべて高い音とともにはじかれただけだ。
どうやらあの武器は、純粋に対人用らしい。
「こいつが、おもちゃじゃねぇこと祈るぜ……」
最初の人形の時のような、強烈な攻撃を仕掛けてくる様子はなかった。
となれば、さっきと同じ攻略法は使えない。
ならば、正面から切り伏せるしかない。
間合いを詰める間に、また仕掛けてきた。
でも、楽勝でかわす。
狙いが正確さを欠いている。
さっきのイヴァンの攻撃で、頭が斜め上方を向いている。
たぶんそのせいだろう。
「器用だねぇ……」
などという、しょうもない感想を漏らしながら、イヴァンが突っ込む。
扇状に敵の攻撃がきた。
ピンポイントでは当たりそうもないから、やり方を変えたらしい。
でも、いまさら遅い。
イヴァンが跳ねる。
上にかわした時、そこは剣の間合い。
イヴァンが剣を振る。
体重をかけて、全力で。
「なんだ、こりゃ!」
下まで降りぬいたとき、思わず驚きの声をあげていた。
まるで手ごたえというものを感じない。
空振りか……と思ってしまうほどだ。
目の前の光景がなかったら、そう思ったかもしれない。
巨大な人形がゆっくりと倒れてゆく。
左右にわかれて。
反則的なほど簡単にケリがついてしまった……。
「なんか、出来のわりぃ冗談みてぇだねぇ……」
さっきまでのあの苦労は、一体なんだったのだろうか?
思わず人生について、考え込んでしまいそうな気になるイヴァンだった。
でも、さすがに今はそんな暇はない。
三体の人形から同時攻撃を仕掛けられ、カゼルが押し込まれていた。
仲間がいようがお構いなしに飛び道具がくる。
さすがに武器は無限にあるようではないらしく、常時撃ちっぱなしっということはない。
それでも、三体同時にそこかしこからくらうのだから、カゼルであろうと防戦一方にならざるをえないようであった。
「なんなのかねぇ……。この待遇の差は……」
イヴァンのときは、きっぱりと無視された。
なのにカゼルは総がかりだ。
ちょっぴり疎外感を感じるイヴァン……。
変わった男である。
「そんじゃ、サクっといきますか」
イヴァンが宣言し、突っ込む。
それに合わせて、カゼルも攻勢に転じた。
「で、用ってのは?」
不思議そうに、手にした剣を眺めながらイヴァンがそう聞いた。
足元には、人形がすべてバラバラになって転がっている。
サクッとはいかなかったけど、サクサクッくらいで片付けてしまったのだ。
「ああ。それなら、もうすんだ」
カゼルが言葉少なに答える。
「ん?」
イヴァンにとっては、わけがわからない。
「ま、いいけどよ……」
でも、すぐに引き下がる。
深く追求しないのは、そのほうがめんどくさくないからだ。
頭を使う必要もないし……。
「それよっか、これ返すぜ」
結局手にしてた剣に関する取り調べを断念して、カゼルに返そうとすると。
「とっておけ。それはお前のものだ」
それがカゼルの返事。
「まさか、オレにくれるのか?」
いくらイヴァンの頭でも、これがとんでもなく貴重な剣だってことくらいわかる。
おそらく大陸中の武器屋を探したって、こんな剣を手に入れることなどできないだろう。
「勘違いするな。オレはその剣をきさまに渡すように、イット殿から頼まれただけだ」
どうやらカゼルの用事とは、この剣をイヴァンに渡すことだったらしい。
「イ、イットのやつが来てるのか?」
イヴィンが驚いたように聞く。
「ああ。今頃レフ陛下と会っているはずだが」
カゼルの軽い答えに、
「なんだよ、そりゃ? おりゃ、後回しかよ?」
イヴァンがやりきれないっていうように声を上げる。
その様子を見たカゼルは、なぐさめるように、
「いや。単にのけものにしているだけだろう」
と、とどめを刺す。
イヴァンはだまって頭をかきむしった。
「やぁ」
コウは、いきなり挨拶をされた。
ちょうど、地上への階段を上っていたときに。
正面には一斗が立っていた。
その脇にはユウリが寄り添い、一斗を支えている。
「おひさしぶりです、お兄さま」
ユウリが挨拶をする。
まっすぐにコウを見て。おだやかに。
“変わったな……”
コウは、自分の妹からそんな印象をうける。
「やぁ」
コウもまた、返事をかえす。
ユウリに半ば抱えられるようにして、一斗が階段を下りてくる。
なぜそうしなければならないのか、その理由ならすぐにわかった。
左足の膝から下がなくなっている。
ただ、一斗から受ける印象は、出会ったときそのままで、少しも変わってはいなかった。
「なんか、たいへんそうだね。コウ」
すべてのシナリオを書いた張本人が、そんなことを言った。
「おたがいに、ね」
コウはコウでしれっとそう答える。
一斗は階段の二段ほど上の場所で止まる。
そこで、コウと視線の高さが同じになったから。
「で、今日は、なんの用かな?」
コウが尋ねると。
「もちろん、君に会うためだよ。それと、ユンフにおめでとうって言いたくて、ね」
コウの後ろから、老帝を抱えるようにして階段を上ってきていたユンフに向けて言葉をかける。
「それはすまないな。たて込んでいなければ、色々と話もあるのだが……」
めずらしく、ユンフはうれしさを露にしてそう言った。
「その者は?」
初めて会ったイットをいぶかしげに見ながら老帝が尋ねる。
「わたくしが、この国で拾った危険物です」
ユンフが答える。
でも、誰が聞いたところで説明としてはいささか不足気味であろう。
老帝は、目じりに深く皺の刻み込まれた目を細めてイットを見つめる。
少しの間を置いて……。
「おぬしが、イットか?」
そう尋ねた。
「お初にお目にかかります、ご老人」
一斗が頭を下げる。
でもそれは、先達に対する敬意を表したもの。
一斗は、老帝をすでに皇帝として扱っていなかった。
ま、もっともコウに対しても似たようなものなのだが……。
それを見た老帝は、少し微笑みをうかべる。
少しだけど、本当にうれしそうな微笑。
「余は、自分になんの力もないことを、呪っておった……。だが、こうしてみれば、それもまたよかったのかもしれぬ。新しい時代にふさわしい才能に、こうして後を託すことができるなら……」
老帝は目を閉じ、
「余の生きてきたことも、無駄ではなかったのかもしれぬ」
そう、締めくくった。
一斗は言葉は返さず、その言葉に対し黙って頭を下げた。
「で、わたしに用件ってなんだい?」
話を切り出したのはコウからだった。
一斗が時を惜しんでいるのはすぐにわかった。
でなければ、いきなりこんな形で現れたりはしない。
「これを、君に渡しとくよ」
そう言いながら、一斗が手にしたものをコウに差し出す。
紙を巻いた筒。
「これは?」
コウは、それを広げながら聞いた。
「宝の地図ってところだね」
一斗が答える。
それは、確かに地図だったけど……。
「また、ひどく大雑把な宝の地図だね……」
大陸の東側が載っている。
ほぼ半分だ。
これで宝探しをするとしたら、一生かかっても足りないだろう。
「赤く塗られているところがあるだろう?」
たしかにそのとおりだった。
セイリアンとスメルナにも、何箇所か赤く塗られている場所があった。
でも、それだけではない。
「黄色く塗られている場所もあるね」
コウが見たままを言う。
「赤いところは、ダイヤかルビーの鉱床。黄色いところには金鉱の場所をそれぞれ示している」
それが、一斗の答え。
確かに、これは宝の地図。でも、規模が違った。
宝箱を見つけて、それでおしまい……っていうわけにはいきそうもない。
「その場所を、早めに押さえといてね」
もちろんそれは、新国家としてのことだろう。
「それは、コウが自分でやること。絶対に他人にまかせないように。たとえ僕にだって、ね」
何か、理由があるのだろう。
「わかった」
一斗はそれしか語らなかったけど、コウは無条件でうなずいた。
人を信じたらどんなことがあっても信じる。
ましてや、一斗はダチである。理由を聞く必要性など感じない。
「それじゃ、聞かせて。ジグント=ロウグのラポがある場所」
今度は、一斗が尋ねる。
「南緯六九度〇〇分、東経三九度三五分」
コウは老帝から聞いたそのままを、一斗に伝えた。
コウにとっては意味不明な数字でも、一斗にとっては違うはずだと思った。
だから、頭に刻み付けている。
それを聞いた一斗は手元の紙筒を広げた。
それもやはり地図。
コウが見ても、見慣れた土地はどこにも見当たらない。
一体どこの地図なのだろう……。
などとコウが考えている間に、
「ショウワ……なるほど、昔の観測基地をラポに転用したんだ……」
一斗は結論に辿り着いていた。
「うん、わかった。これで、すべての材料がそろった。あとは、決着をつけにいく」
一斗が宣言する。
その言葉にコウは、
「まさか、一人で?」
思わずそう尋ね返す。
「もちろ……」
と一斗がなにやら口走る前に、
「もちろん、わたしと一緒にですわ、お兄さま」
ユウリが宣言する。
すると、一斗が、
「ええっ? せっかく、コウと会えたのに……」
なにやら言いかけるけど、後の方は聞き取れなくなってしまう。
ユウリが、それはそれは恐ろしそうな視線でにらみつけたからである。
この状況で、一斗に何ができるというのだろう?
一斗がおとなしく引き下がったのを見て、ユウリは再びさわやかな笑顔をコウに向ける。
「と、いうわけです、お兄さま。ゆっくりお話しできなくてごめんなさい」
そういって、頭を悠然と下げるユウリ。
とても典雅で、とても誇りに満ちている。
元々美しい少女だったのだけど、でももはや綺麗なだけではなくなった。
コウは確信する。
明らかに妹は変わった。
わずか、半年会わない間に。
妖精のような少女の衣を脱ぎ捨てて、両足をしっかりと地に付けた大人の女性へと生まれ変わっていた。
たぶん、決心したのだ。
あるいは、腹を決めたと言い換えてもいい。
一斗とともに、この先歩き続けるのだと……。
肝心の一斗は、どうやらそのことに気づいていないみたいなのが気になるが。
でも、あまりコウは心配してはいなかった。
心配してもどうなるようなことでもないし……。
「ところで、イヴァンには会わなくていいの?」
もう一つの心配事を聞いてみる。
「今は、ね。色々愚痴を聞かされそうだし……」
会わないってことらしい。
「とりあえず、伝言だけたのんどくよ」
どうやら、愚痴を聞くのはコウの役目になりそうだ。
「わかった」
コウはあっさりと承諾する。
「素直にコウに雇われろ。僕は金なんて出さない」
それが、一斗の頼んだ伝言だった。
「それでいいの?」
コウが尋ねる。
「君は、最高の部下を失うことになる」
コウの言葉に、一斗は肩をすくめて、
「僕にも都合というものがあるんでね」
そう答えただけだった。
「それじゃ、そろそろいく? イット?」
話が一段落ついたのを見計らって、ユウリが尋ねる。
「そうだね……」
軽く目をつむり、
「いこうか、ユウリ」
一斗が決断する。
「はい……」
短くユウリは答え、脇からしっかりと一斗を抱きかかえる。
一斗などよりも、遥かに力強い手で……。
コウ達の目の前で、二人の姿は光に包まれて消え去った。
「おぬしがイットだな?」
いきなり誰何された。
ろくに光の差すことのない、闇の中で。
「そう。で、あなたは、ジグント=ロウグ?」
一斗が答え、尋ね返す。
寄り添っていたユウリの手には、いつの間にか抜き身の剣が握られていた。
もうすでに臨戦態勢に入っている。
「そうだ。わしこそがジグント=ロウグ。二つの国の守護者である」
声は、イスの中から届いてきた。
ひからびたような老人が、その中にいる。
「いずれ、ここに来ることはわかっておった。死ぬがよい」
意外なほど、老人の声は高く響く。
しかし……。
「な、なんじゃ? どうしたことじゃ?」
まるで反応がなかった。
ひからびた老人は、あからさまにあせった声をあげている。
「無駄だよ。ここの電脳は、完全にぼくがハッキングしたからね」
一斗は、落ち着いてそう答える。
「くっ……。きさまは……きさまは、自分のしたことをわかっておるのか?」
責めるようなロウグの言葉に一斗は、
「もちろん」
いたって簡単にそう答えた。
「平和は、人を腐らせる……」
しわがれた、壁をひっかくような不快な声で老人が言った。
老人の視線が一斗をとらえている。
その目は、闇のように暗く深い。
「そうは思わんか?」
でも一斗は、その視線に対してなんの感情も抱かなかったようだ。
「さぁ? 死んで腐った人間なら見たことあるけど、あいにく平和で腐る人間なんて知らないんでね。もっとも、生きたまま腐った人間なら、僕の目の前にいるみたいだけどね」
めいっぱい毒の含まれた言葉が、一斗の口から放たれる。
「平和に馴れた人間は、己の欲望だけを追い求めるようになる。快楽だけを追い求め、その結果様々な悪が国中に蔓延《まんえん》するようになるのじゃ」
老人は、一斗の言葉には構うことなく話を続ける。
「規律を忘れ、道徳という概念は形骸化《けいがいか》し、正義は嘲笑の対象となる。そんな社会に一体なんの価値がある?」
老人の問いはさらに続く。
「なんの目標もなく、快楽のみを追い求めて生き続ける人間に、どんな価値があるというのじゃ?」
それは、問いかけの形はとっていても、老人から世界へと向けられた糾弾《きゅうだん》であった。
「だから、戦争?」
一斗は、老人の問かけには答えずそう尋ね返した。
「そうじゃ。戦争が続けば、いやおうなく人は規律正しく生きねばならん。戦いという目標があるかぎり、正義は敵を倒すことで示されるのじゃ」
老人の答えには、迷いというものが一切なかった。
「ぷっくくくっ、ははははは」
一斗が笑いだす。
思わず噴き出してしまった。
そんな感じで。
「きさま……何がおかしい!」
ロウグは、怒りを露にしてみせる。
でも、当然の反応と言えるだろう。
自分の信念を真剣に語っていた、それを笑われたのだから。
「いや、ごめん。笑うつもりはなかったんだけどね……、ちょっとこらえきれなくって、さ」
謝罪しながらも、一斗はまだくすくす笑っている。
その結果謝罪は、ロウグの怒りを煽《あお》っただけだった。
「き、きさまぁ……」
ロウグはそれ以上言葉も出せずに、ぎりぎりと歯噛みをしている。
一斗には、人の感情を逆撫でする天賦の才能があるのかもしれない。
まあ、とても褒められた才能とは言えないが。
「ただの干からびた老人かと思ったけど、意外と熱血してるんだね」
一斗のその言葉は、どう見てもケンカを売っているようにしか聞こえないセリフだった。
その直後、いきなり一斗の表情が変わる。
「知ってるよ……。調べたんだ、あなたのこと」
そう言った一斗の表情から、笑いが消えていた。
「知っておるじゃと?」
怒りを押し殺したような老人の声。
それでも気になるらしい。そう尋ねた。
「あなたの息子が殺人の罪で捕まった。でもそれは単なる冤罪《えんざい》。剣で斬られて死んだ人間の傍を、たまたま通りかかっただけだった。ただ、それだけで罪を着せられ、科人《とがにん》となった……」
そこまで言った後を、ロウグが続ける。
ひどく、疲れたような声で。
「何を言うても無駄じゃった……。役人どもにはろくに調べる気がなかった。返り血の一滴も浴びていないあいつが、なぜ人を斬っておるというのじゃ? 斬ったはずの剣も見つかっておらんというのに。本人がいて、どうして剣だけ隠す必要がある? 調べるまでもなく、おかしいと思うはずじゃ。なのに、やつらは自分らが楽をするためだけに、息子を……ホヴァを……犯人に仕立ておった……」
ロウグは、イスの中でがっくりとうなだれた。
どれほどの時を経ても、その痛みは和らぐことはなかったらしい。
「そして、あなたの息子は処刑された……。あなたは、やりきれない気持ちを抱えたまま旅に出て、ラポを見つけた……」
当然、言葉にできないような苦悩があったのだろうけれど、一斗は触れない。
触れたところで同情にしかならないし、老人がそんなものを必要としていないことはわかりきっていた。
「もちろん、ラポを見つけたのは偶然なんかじゃない。あなたは、誰かから知識を得た。その知識でラポを見つけ、動かした……違ってる?」
一斗が問いかける。
でもそれは、確認に近い。
「そのとおりじゃ。じゃが、どんなやつだったかは覚えておらん。どうでもよかったのじゃ、そんなことなど……。腐った国を変えるためなら、誰であろうがのう」
それは、間違いなくロウグの本心だった。
ロウグは考えたのだ。
なぜ息子が罪人として死ななくてはならなかったのか……。
無実の罪によって。
そして、それは社会そのものの構造に欠陥があるのだと、そう結論を出した。
変えなくてはならない、そう決心したところに、誰にも逆らえないような強力な力を手に入れた。
ロウグはその力を私利私欲のためではなく、純粋に社会そのものの悪を撲滅するために使った。
二度と悪がはびこることのないように、二つの国の国民を常に死と同居させたのだ。
規律を守らねば、死が待っている。
逃げ出すだけで、それは罪になる。
快楽を求めることはもちろん、自分の意見を主張することすら許されない。
戦争だった。
常に多くの犠牲者を強いることで、社会の腐敗を防ごうとしたのである。
ロウグは正義を行った。
二つの国を争わせ続けさせて。
それは、百年もの長きに及び、今にいたる……。
「戦争がなくなれば、また人は腐り始めるぞ? 堕落し、腐敗するのじゃ。それをもたらしたのは、きさまじゃ」
なおも、責めるようなロウグの言葉に一斗は、
「大きなお世話。うざったい。とってもめいわく。頭が腐ってんだろ、ばぁ〜か。……あなたに言いたいこと考えたんだけど、どれがいい?」
そんな言葉を返した。
さらに一言。
「でも、なんか、いまいちなんだよね」
などと、コメントを付け加える。
「きさま、ふざけておるのか?」
再びロウグは憤りを露にする。
「ふざけてる? 僕が?」
そう言いながら大げさに驚いてみせた後、一斗は。
「これでも、マジに怒ってるんだけどね」
と言ったけれど、少しもそんな様子には見えなかった。
せいぜい、ロウグをからかっているといったところか……。
「きさまのような若造に、なにがわかる? 真剣に、国の……民衆の行く末を案じたことなどないような人間に!」
ロウグはそう言うと、イスに沈み込んだまま一斗のことをねめつける。
横で一斗のことを支えているユウリは、その視線に圧倒されそうな気になった。
百年に及んで二つの国を実質的に支配し続けてきた老人の気迫は、常人のものとは比べようもないくらいすさまじいものである。
だが、一斗はいたって普通だった。
なんの気構えもなく、対抗するようなそぶりすら見せず、平然とそれを受け止めている。
「言っとくけど、民衆なんて人はいないよ。ましてや、国なんて人もいない。そこに暮らす人々が便宜上つくりあげただけのものさ」
一斗は静かに語った。
それまで、自分の中に秘めていたものを。
たぶん、そう言うと一斗は怒るだろうけど、今話していること……これから語ろうとしていることこそが、一斗の信念なのかもしれない……。
ユウリはそう感じていた。
「人の暮らしは時と場所で装いを変える。それに応じて国のほうを変えてあげればいい……。でも、あなたのやってきたことは逆だった。国に合わせて人を変えようとしたんだ。それでは、一部の支配できる権力を持った人たち以外、誰もが不幸になる。そんな国なんて、僕はいらない。あなたのような支配者もいらないんだ」
静かだけど、一斗はロウグのやってきたこと、そしてロウグ自身をきっぱりと否定した。
「だから、あなたにはそろそろ退場してほしい……。そんなものにしがみついてまで生き続けるの、つらいだけでしょ?」
その一斗の言葉にロウグは少なからず驚いたようだった。
「き、きさま知っておるのか?」
まさか、といった感じで尋ねる。
「もちろん。あなたのことは調べたからね。あなたの肉体の大部分がとうに壊死《えし》していて、今は延命装置によって生かされているってことくらいは、ね」
そう、そのことはユウリも知っていた。
ここに来る前、一斗から聞かされたからだ。
それに闇に目が慣れるにつれて、老人の体中のそこかしこから幾つもの管がイスに向かって伸びているのがはっきりと見えるようになっていた。
たぶんロウグが座っているイスこそが、その延命装置なのだろう。
単純に計算しても百数十歳にはなっているはずだ。
そんなに生きられる人間が、この世にいるはずがない。
そう、カガクの力を借りる以外は……。
「そうか……。確かに、わしはもう疲れた……」
そう言ったロウグには、もはや先ほどまでの迫力は微塵もなかった。
「やれることはすべてやった……。もはや、できることはない……。じゃが、ひとつだけおまえに聞きたい……」
一気に五十年は老け込んだ感じになってしまったロウグ。
声がそこでいったん途絶え、思い直したかのようにその先を続ける。
「わしが……。わしがやってきたことは、間違っておったのか?」
自分の正義を確信しながらも、たぶんその声は心の中のどこかにあり続けたのだろう。
今、初めて。
このとき初めて、それをロウグは言葉にした……。
「さあ? ぼくには、なんともいえないね。それぞれの時代に生きる人たちが、それぞれに決めてゆくはずさ。中には賛同する人もいるだろう、中にはぼくみたいにヤダっていう人もいるはずさ。その中の何が正しいかなんて、ぼくに決められはしないよ。だから、その質問には答えられない」
一斗は、まるで突き放すかのようにそう言い切った。
冷たいようだけど、ユウリにはわかる。
一斗が本当に言いたいことが。
一人一人の心の中にそれぞれの別の正義がある。それでもなお、それを貫こうとするのなら、その責任は自分自身で負えとそう言っているのだ。
だから、ロウグの抱えているその不安は、そのまま墓の中まで持っていけと……。
それは、ユウリには語ったことがないけど一斗自身が行動で示してきた。
そのことを否定はしないけど、だからといって全面的に賛成もできない。
……だって、そんなのあまりにつらすぎる……。
すべてのことを、一斗一人で背負い込むなんて、ユウリとしては断じて認めるわけにはいかない。
一斗が世界を変えてゆくように、ユウリは一斗の心を変えてゆくつもりだった。
「そうか……。そうだな……。わしがやってきたことは……」
ロウグの声は小さくなり、聞き取れなくなった。
生き過ぎた老人が、一体どういう思いにふけっているのか、もはや誰にも斟酌《しんしゃく》のしようがなくなった。
「まもなく、その延命装置の機能は徐々に低下していき停止します。あなたは、眠るように死ぬでしょう。……お疲れさまでした」
一斗は、初めて老人に対して敬語を使った。
そして、頭を下げる。
すると老人は一言、
「すまん」
とだけ答えた。
そのとき……。
「そうは、いきませんよ」
闇の中で声がした。
ユウリはすでに剣を構えている。
一斗にはわからなかったけど、すさまじい殺気が声より先にたたきつけられてきたのである。
「その老人に今退場されては、予定が狂ってしまいますからね」
闇の中に立っていたのは、老人の影となり忠実に仕え続けてきたはずの男だった。
「き、きさま……、なにを血迷った……?」
ロウグも、このなりゆきに驚いているようだ。
でも、
「やっと出てきたね、本当の黒幕が……」
一斗は驚いていないようだ。
「このまま会えないんじゃないかって、心配してたところだよ」
微笑すら浮かべて言った一斗のセリフに、
「やはりあなたは危険すぎます。ここで、始末しておきましょう」
男も、笑いながらそう答える。
それに応じたのはユウリ。
「できると思って? あたしは強いわよ?」
剣を構え、一斗の前に出る。
一斗を守るのは自分の役目。
ユウリにとってそれは、いたって当然のことである。
「おやおや、女性に守られて恥ずかしくはないのですか?」
揶揄《やゆ》するように男が言った。
一斗は何も言わずに、小さく肩をすくめただけ。
代わりに答えたのはユウリである。
「ばかね、あなた。わたしが戦うのは、イットが戦うのと同じこと。あたしが女だとか、関係あるはずないじゃない」
そう言って、ユウリは男の言葉を笑いとばした。
「しかたないですね。そうまでおっしゃるのなら、あなたを先に倒して彼を始末しましょう」
その言葉の直後、男は闇に溶け込んだ。
ギンッ!
左からきた攻撃を受けられたのは、半分は僥倖であった。
光が僅かばかり差し込んでいる、それが一瞬またたいたのだ。
「ヤッ!」
ユウリは受けると同時に切り返す。
剣先にかすかな手ごたえ。
浅い。
「やりますね」
男が後ろに跳ねながら、楽しそうにそう言った。
もちろん、ユウリがだまって見てるわけない。
すぐに跳ねる。
追撃。
シュッ……。
ユウリが体を強引によじる。
その脇をかすめて、小型のナイフが飛んでいった。
「あれを、かわしますか……」
男は、少し驚いたようだ。
「ならば、これならどうです?」
男の手には、左右四本ずつのナイフが握られていた。
僅かな時間差をおいて、交互に投げられる。
狙いが微妙にずれていた。
正確にくるのと、よける方を狙ったものと……。
ユウリに逃げ場はなかった。
ザシュッ!
「バ、バカナ……」
「あなた、男のくせにおしゃべりが過ぎるわ」
男の胸に突き刺さっていたのは、ユウリの剣。
根元まできっちり刺さっている。
でも、ユウリの両肩、左手の甲、右腕の上腕部、右の太ももにも男の投げたナイフがつき刺さっていた。
致命傷となるものだけを剣で払い、残りは突き刺さるにまかせて突っ込んだのである。
男はそのまま絶命し、床の上に派手な音をたてて倒れた。
それを見たユウリもまた、がっくりと膝を落とす。
「ごめん、なにも聞き出せなかった……」
苦しそうな息の下から、ユウリが謝罪する。
「気にしなくてもいいさ。それより、今度はぼくがユウリの看病をするからね、覚悟しておくように」
と言う一斗のセリフに、
「あら? どんな看病をしてくれるのかしら? とってもたのしみ……」
ユウリは弱くはあるけど、艶やかに笑った。
その微笑は、母親の浮かべるものによく似ていた。
「あやつは一体?」
声が聞こえた。
ロウグの声。
「あなたをここに導いたもの……。あなたをそのイスに縛り付けたもの……。そして、ここの施設を蘇《よみがえ》らせ、あなたを利用していたものです」
一斗が答える。
「そんなばかな……。あれは、ずっとわしに仕えて、わしのために働いてきた……」
ロウグは混乱しているようだった。
「いつからです?」
という短い問いに対して、ロウグは、
「そ、それは……初めから……」
そう答える。
答えながら、とんでもない矛盾に気づいた。
「な、なぜじゃ……。そういえば、なぜあやつは年をとらん? わしはこうして、老いさらばえてしまったというのに……」
なぜ、今まで……。
老人の頭の中は、さらに混乱する。
「彼のシリーズ名は、自立型有機人形・タイプS。通称スネーキングモール。戦略性の高い潜入工作に特化した人工生命体。あなたはこれの誘いに乗った時点で、これに対して疑問を持たないように細工されていたんですよ」
一斗が簡単に説明する。
「誰が、なんのために? 一体……」
ロウグの混乱は続く。
「さあ? 知るすべもありませんし……ね」
ユウリが倒した男の死体は、溶けてしまい、床をぬらしているだけだった。
「体内のバクテリアが、遺伝子ごと分解してしまいました。手がかりはもうどこにもありません」
死ぬことで、爆発的な繁殖が始まり細胞の一片たりとも残さず分解し、バクテリア自身もすべて死に絶える。
証拠を消すための手段としては、完璧といっていい。
「もう、そんなことはいいでしょう? そろそろ眠くなってくる頃だ。ゆっくりとお休みなさい……」
おだやかに、一斗が薦める。
「そうしよう……。わしは、もう疲れた……ほんとうに疲れた……」
ロウグは、決して離れることのできないイスの中で、ゆっくりと眠りに落ちていった。
二度と目覚めることのない眠りの中に……。
「さぁ、帰るよ。きみのことが心配だ。ユウリ……」
そういう一斗の表情には、本当に心配そうな表情が浮かんでいる。
「わたしを連れてきてよかったでしょ?」
ユウリが聞くと、
「でも、ぼく一人だったら、君は傷つかずにすんだんだ」
一斗は文句をつける。
「そして、あなたは死んで、わたしは一生泣いて暮らすのよ。……そんなの絶対にいや、考えるだけでもぞっとするわ」
その言葉に一斗が何か言おうとするけれど、それより先にユウリの震える指が口をふさぐ。
震えは、徐々に全身へと広がってきているみたいだ。
「聞いて、一斗。あなたは、とても大切なひと。もちろん、あたしにとってもだけど、この星にとっても……。だから、あんまり無茶はしないでね」
やさしいけど、その言葉はとても強い言葉。
一斗は、ただ黙ってうなずくしかなかった。
「よかった……」
そういって、ユウリは一斗の腕の中で意識を失う。
流れた血が、床と一斗の体を赤く染めている。
一斗がカードキーを取り出すと、二人の体は白い光に包まれた。
ハセム暦九五六年九の月一の日。
この日セイリアン王国とスメルナ帝国は正式に統合され、トウア連邦が設立される。
レフ=コウを中心に置いた中央集権国家で、特筆すべきなのは貴族を持たないことだった。
立法府として北院と南院の二つの議会を制定し、それぞれの議員は各地より選任された人物の中からレフ=コウが任命した。
コウの立場は終王とされ、一代かぎりの栄誉職とされた。
コウが死んだ後は、トウア連邦全土から選挙により選任される予定になっている。
それまでに類を見ないこの政治形態は、当然のことながらセイリアンに残っていた貴族や元老院の反発を招くはずだった。
でも、ちょうど一年前に始まった金貨銀貨等の貨幣本位から、政府が発行する紙幣本位への移り変わりの中で彼らの力は急速に衰えざるを得なかった。
彼らの抱え込んでいた通貨の価値が、急速に下落していったのである。
それは、新政府の手によって次々に見つけられた金鉱の発見によって、金そのものの価値が下がってしまったことも大きかった。
価値が揺れ動く金では、通貨として機能しえなくなったのである。
市場が、政府が常に一定の価値を保証してくれる紙幣に取って代わられるのは、当然といえた。
ほんの一握りの才覚のある貴族をのぞき、この流れについてゆくことはできなかった。
そして、才覚を露にした貴族は、貴族としての身分を自ら捨て去り、商人としての道をいち早く選んだのである。
こうして、トウア連邦は血なまぐさい革命を経ることなく、まったく新しい国家として大陸の歴史に登場することになる。
クーリフォン=レフ=コウは、クーリフォンの名を捨てレフ=コウを名乗った。
大陸の偉人列伝の中でも、レフ=コウの名は輝かしいものとなるであろう。
現在すでに老境の域に達し、終王としての立場にはいるものの、完全に政治の舞台からは身を引いている。
トウア連邦における政治の中心はレフ=コウの死を待つまでもなく、議会へと完全に移行していた。
もうその表舞台で輝くことはないにしても、おそらく歴史の続くかぎりその評価は変わることはないであろう。
イヴァンは逆にカウノの姓がくっついて、カウノ=イヴァンとなった。
若かりし日の彼こそが、歴史上最強の英雄だと主張する者も多い。
でもある者は、カウノの姓を与えることになった彼の妻こそが、真の最強だと主張する。
たぶん、その意見に一番強く賛同するのはイヴァン自身ではないだろうか?
もっとも、その話を一番最初に持ち出したのは、案外イヴァン本人かもしれない……。
カウノ=ユンフは子宝に恵まれた。
夫はいやになるほど子供が好きで、おまけに子供と同じくらい手間がかかった。
男の子が四人、女の子が四人、それにイヴァンが一人だ。
だから家にいる間は、外にいるときよりも遥かに忙しい毎日を送ることになった。
でも、だからといって偉人の中に加えられた彼女に、歴史が普通の女性としての評価を与えることはありえない。
なぜならば現在彼女は、大陸の歴史で初めてのファースト・レディ――そう、大統領夫人となっているのだから。
グリフ=シタッドは伯爵の権利をいち早く放棄し、レフ=コウの執事となった。
新たに発足された連邦軍の将軍として望まれたのだけれど、これを固辞しコウの下に留まることを望んだのである。
どうも、彼は、レフ=コウのことを自分の息子のように思っていたようである。
何かことがあれば、自分が真っ先に盾となるのだと、そう最後まで言い続けていたらしい。
サイヴェルト=ジーナ=カゼルは剣客として生きた。
世界中の様々な国から仕官のさそいを受けながら、そのどこにも仕えることはなかった。
ただ、トウア連邦の要請を受けて何度か働いたという記録が残されているが、だからといってそのままその職にとどまることはなかった。
数人の弟子をとり、生涯を剣に捧げ剣聖と称《たた》えられている。
その死については、カウノ=イヴァン大統領が立ち会ったということなのだが、詳しいことに関しては誰にも黙して語ることはない。
そして、イット……。
伝説というに、最も相応《ふさわ》しい人物であろう。
公式な記録には、彼に関する記録はまるで残されていない。
元々存在していなかったかのように、人々が語る口伝の中にだけ彼は登場する。
彼とともに生きたとされる、トウマ=ユウリに関しても同様である。
旧セイリアン王国の第三王位継承者はレフ=コウであり、公式な記録には、トウマ=ユウリの名前は記録されていない。
トウマ=ユウリが第三王位継承者だったという資料も存在するが、第三王位継承者が二人いるという矛盾を解決することはできていない。
それでも現在二人の名前は、大陸中の伝承の中で語られている。
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終章 最後に……。
もし、この物語を読まれている人がいたとしたならきっと戸惑われることでしょう。
なぜなら、この物語はすべてが語りつくされているわけではないからです。
世界にはイットの伝承に関する物語はいくつもありますし、この物語はその中の一つに過ぎません。
中には、これよりもっとうまく見事にイットのことを描いたものも多いことでしょう。
すべての謎をそれぞれに解釈して、見事に解き明かしてくれているはずです。
でも、あえて私はそうはいたしませんでした。
わたしの知る限りのことを、できるだけそのまま残しておきたかったからです。
イットがどう歩み、どう生きたか……。
わたしの知識と集めた情報の範囲で、できるだけ忠実に書き記したつもりです。
もちろん、イットだけでなく登場人物の立場にたちながらも、できるだけ公正になるようにつとめました。
でも、ただ一人……ちょっとだけそれが難しかった人物がいましたけど……。
夫が今、私を呼んでいます。
年をとるにつれて、どんどん子供みたいになってきた夫です。
でも、それがとても可愛い……。
近所の人たちからは、よく『あんなののどこがいいの?』と聞かれますけど、一度も答えたことはありません。
子供たちからも聞かれますけど、話すつもりもありません。
この気持ちは、私と夫が共有していればいいことです。
いま、世界は平安です。
でも、それをもたらすためには多くの犠牲がいりました。
夫は、そのためにたくさん……それこそ、誰にも信じてもらえないくらいたくさん働きました。
だから、私に対するわがままなんてとてもささいなことです。
このときを望み、私は夫とともにいます。
望み続けた場所にいます。
ちょっと年をとり過ぎたけど、夫はそれを手に入れました。
私もそれを手に入れました。
ああ、また夫が呼んでいます。
行かなくては……。
足が不自由な夫には、私の助けが必要です。
もう、筆を置かなくてはなりません。
最後に、この物語があなたの心に少しでも残りますように……。
記 秋月 悠里
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あとがき
僕は物語が好きでした。たくさんの小説を読んで、漫画を読んで、映画やアニメやドラマを見ることが好きでした。やがて物語をつくりたいと思うようになり、小説を書くようになりました。
初めはワープロで印字したものを眺めては、自分だけでそれなりに楽しんでいたのですが、それも長くは続きませんでした。自分以外の誰にも見てもらえない物語を紡いでゆく行為が、虚しく感じられるようになってきたからです。誰かに読んでもらいたい、そして面白いと思ってほしいと願うようになっていました。なぜなのだろうかと考えました。
で、僕が辿り着いた答えはこうです。
僕がどんなにがんばっても、物語を完成できるのは、せいぜい半分まで。残りの半分を完成させるためには、どうしても読んでくれる人が必要なのだと。
小説とは記号の羅列に過ぎなくて、それを物語にしてくれるのは人の心だけなのだから……。
だから僕は読者を求めて、ネットでの掲載をするようになりました。
連載を始めた当初は感想等をもらうこともなく、本当に読んでもらえているのかという不安を感じていました。同時にそのことは、僕にもう一つの不安を生じさせることになりました。
“僕の書いた作品は、はたして面白いのか?”という不安です。
だから、投稿を始めました。もちろん、不安を打ち消すためだけではありません。僕の一番の願いはやはり、よりたくさんの人に僕の物語を読んでほしいというものなのですから。
ついぞ結果が出ることはなく、作家志望者としての活動にすっかり限界を感じ始めた頃。
リーフ社主催による、RANKING―KINGという試みを知ったのです。
僕の書く作品は、本当に読んでもらえるのか? そして面白いと思ってもらえるのか?
それを知るための一つの機会になるのではないか、とそう捉えたのです。
僥倖だったのでしょうか? 僕の書いた作品を受け入れてくださる方がいらっしゃいました。
その結果としてこの作品が書籍化されることになりました。
僕の希望へと繋がる足がかりを、どうにかつかむことができたのです。
もしこの本を手に取り、この物語に触れ完成させてくださる方がいらしたなら……。
面白いと思っていただけるのなら……。
その時こそ、僕の本当の希望は適うことになるでしょう。
少しでもまともな作品になるようにアドバイスしていただいた担当者様。この物語のイメージを素晴らしい絵で補完してくださいました絵師様。書籍化していただいたリーフ様。
そして何より、この物語を完成させてくださった貴方に、全霊を込めて感謝を捧げます。
桜の花の咲く頃に  児玉ヒロキ
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