TITLE : 開 戦 前 夜
〈底 本〉文春文庫 昭和六十二年十二月十日刊
(C) Noboru Kojima 2000
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目  次
開 戦 前 夜
初版あとがき
主要参考文献
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開 戦 前 夜
――昭和十五年十一月二十五日未明。
日本郵船・サンフランシスコ航路客船「新田丸」(一万七千二百トン)が、横浜に帰港した。
十月十九日午後三時に横浜を出帆《しゆつぱん》していらい、三十八日目である。船長小川清はじめ乗組員は、慣れた航海とはいえ、久しぶりの無事の帰国に安堵し、なつかしく陸上にまたたく灯火を望み見た。
もっとも、乗組員たちには横浜でゆっくりする余裕はなかった。翌日、二十六日午後三時に横浜発、二十九日正午神戸発、そして上海経由でマニラにむかうスケジュールがきまっているからである。
お早く、とか、お忘れ物のないように、などと、船室ボーイがしきりに乗客の下船支度を急がせるかけ声を発していたのも、わずかでも上陸時間を長くしたい、との念願からであったかもしれない。
百四十人乗客たちも、上陸を急ぐことに異存はなかった。サンフランシスコから十五日間の船旅である。設備はととのい、波おだやかにすぎた航海ではあったが、家族との再会または要務をひかえているだけに、いざ到着となれば、想いはすでに船上をはなれている。
船には、米国の絹糸業界の事情を視察してきた今井五介・片倉製絲会社社長がいたが、八十二歳の今井社長も、検疫と通関手続きがすむと、集まった新聞記者数人に自慢の長鬚をふってひとこと話しただけで、出迎えの車にのった。
「日米関係がどうあろうとも、アメリカの業界は日本の生糸を渇望しておるよ」
くもり空の初冬の朝風は、冷たい。乗客たちも、出迎えの知人たちも、税関を出ると急ぎ足で四方に散っていった。
外国航路、とくに米国からの客船に話題を求める横浜駐在の記者たちは、今井社長を見送ったあとは、船客名簿をいちべつしただけで離散した。あれは、と思える取材の対象も見当らない。
船客の中には、二人の米国人神父がいた。
出迎えたのは、やはり神父の服装をした米国人と日本人の老人であった。
「モンシニョール、ビショップ・ウォルシュ」(ウォルシュ司教猊下《げいか》)
「マイ・ディア、アドミラル……」(親愛なる提督よ)
その日本人老人と下船した神父の一人との間で、そんな丁重な挨拶《あいさつ》がかわされた。
二人の神父は、ニューヨーク市郊外のオシニングにあるメリノール派「米国カトリック外国伝道協会」の司教ジェームス・E・ウォルシュと神父ジェームス・M・ドラウトで、“アドミラル”と呼ばれた老人は、予備役海軍少将山本信次郎であった。
山本少将は、カトリック教徒であり、海軍部内では異色の存在である。かつて、天皇が皇太子のころにヨーロッパに外遊したさいに随行し、そのごも側近に奉仕した。
おりから、日米関係は悪化の勢いを増している。前年の九月にナチス・ドイツがポーランドに進攻して第二次ヨーロッパ大戦が開幕していらい、米国は「親英反ドイツ」日本は「親ドイツ反英米」と背中あわせの政治方向をたどり、複雑な国際情勢を反映して、日本では昭和十五年七月までの一年間たらずに阿部信行内閣――米内光政内閣――第二次近衛文麿内閣と政変がつづいた。
とくに米内内閣の末期からは、国内は“一億一心”を呼号する「新体制」運動がすすみ、政党から婦人会まで“中央集権的大同団結”が拡大された。そして、こういった国内統一を背景に、第二次近衛内閣成立の直後である九月には北部仏印進駐(九月二十三日)、日独伊三国同盟締結(九月二十七日)と重要な対外国策が実行された。
米国側の反応はきびしく、米国政府は十月になると、クズ鉄と銅の対日輸出禁止のほかに極東の米国人引きあげ勧告、極東への米国人の渡航制限などの措置をとった。
「新田丸」の乗客がわずか百四十人で、しかもほとんどが日本人船客であったゆえんでもあるが、それだけにこの時期にわざわざ日本船に乗ってやってきて、しかも海軍少将の出迎えをうける米国人神父は、当然、新聞記者の注意をひくはずであった。
だが、記者たちは関心を示さなかった。ひとつには、山本少将はすでに大正十三年に現役をしりぞいている。ジャーナリズムの記憶にその名前はうすらいでいた。また、米国人神父の来日も、とくに不自然とは思われなかった。
「新体制」運動は宗教界にもおよび、国内のキリスト教社会では各教派ともに外国人幹部が日本人神父と交代するほか、「大東亜新秩序」をたたえ、中には神社に参拝するカトリック神父の姿もみられるなど、キリスト教の日本化が促進されていた。
二人の神父の来日は、こういった日本のキリスト教界の情勢に即応して、たとえば神父たちの引き揚げその他の“残務整理”のためともみられ、記者たちのうちで二人の神父に注意する者はいなかった。
神父たちをのせた車は、京浜国道を走り、「帝国ホテル」にすべりこんだ。
前日、十一月二十四日午後九時五十四分、元老西園寺公望公爵が死去した。沿道には黒い喪章をつけた国旗をかかげる民家が多く、東京市内にも沈痛な静けさがただよっていた。
西園寺公爵は九十一歳になっていた。天寿を完《まつと》うしたという形容にふさわしかったが、元老という存在は公爵以外にはなく、政変のたびに後継内閣の首班の人選をひきうけたり、政界にたいする影響力は巨大であった。
その死は、明らかに日本政治史にひとつの区切りをつけるものであり、国民はそれぞれになにがしかの感慨と感動にひたっていた。
新聞の報道は、ほとんどが西園寺公爵関係に集中していて、ほかに目立つものといえば、新駐米大使に野村吉三郎海軍大将がきまった、というニュースくらいである。
“超弩級《ちようどきゆう》大使”――と、新聞は野村大将の大使就任を歓迎していた。
大将は、連合艦隊司令長官と海相は経験しなかったが、軍令部次長、呉、横須賀鎮守府司令長官などの要職を歴任し、また学習院院長、阿部内閣の外相もつとめ、海軍きっての人格者かつ一流の人材とみなされている。かつて駐米武官時代に、当時米国の海軍次官だったルーズベルト大統領と親交をむすび、その点からも、駐米大使の最適任者と判定されていた。
二十五日夜、渋谷区南平台四十番地の野村邸にかけつけた記者も、まっさきに「遂に乗りだしましたね」と、かねての下馬評と期待をこめて話しかけたが、野村大将の反応は、とくに溌剌としたものではなかった。
「到頭《とうとう》ひっぱりだされてしまった……乃公《だいこう》出でずんばの気持ちではない。自分にできることなら及ばずながらやろうと引きうけたのだ……政府の定めた大本にのっとって、外交の正道を堂々と行くというよりほか、なんの心構えもない」
野村大将は、大男である。身長「五尺九寸」、体重「二十二貫」、当時としては群をぬく大兵肥満である。その肥体も駐米大使にふさわしいとみられるが、大将は、その重量感にあふれる腹部を椅子の中でゆすってそういうと、
「しかし、外交は相手次第だからな。先方が大同に就《つ》くのでなければ、どうにもならん」
じつは、大将としては、駐米大使就任は気のりがしなかった。
すでに大将は、第二次近衛内閣が成立して間もない八月二十四日、山中湖畔に避暑していたときに松岡洋右外相に呼びだされて、駐米大使就任を勧誘されたが辞退していた。
そのごも、大将のところには海軍、外務省関係の知人から勧誘がつづいたが、大将はことわった。
しかし、十月二日に海軍次官豊田貞次郎中将から海軍の要望として就任を要請されると、海軍軍人である野村大将としては考えこまざるを得なかった。
十月二十四日には、また松岡外相が「最早《もはや》、湊川に行っても宜いのじゃないか」
と決心を求め、また及川古志郎海相、東条英機陸相もしきりにすすめるので、野村大将は、十一月七日、近衛首相と会談して、その意向をたしかめたうえで大使就任をひきうけた。
野村大将の駐米大使就任はすぐ上奏され、米国政府のアグレマンも十三日に届いていた。そのため、正式発表は親任式の日取りなどの理由でおくれたが、大将の駐米大使決定は米国側で報道され、日本国内でも一部には知られていた事情もある。
――ところで、
野村大将が、しきりに駐米大使就任をちゅうちょしたのは、日本政府の対米外交の焦点が不明確であったからにほかならない。
「三国同盟を強化する一方に日米関係を調整しようというのでは、到底《とうてい》問題にならない。独と米とを両天秤にかけるようなことでは日米国交を調整することは不可能だから、米国に行っても目的を達成することはできない」
と、大将は、はじめに松岡外相から交渉をうけたとき、当時の海相吉田善吾大将に述べているが、問題は三国同盟にある。
三国同盟は加盟国が第三国に攻撃されたときは他の加盟国も参戦することをきめている。ということは、「欧州戦争と支那事変の連結」となる。米国がヨーロッパ戦に参加すれば日米戦争となり、また日米戦争が起れば米国はヨーロッパ戦争に加わることになって、要するに三国同盟は第二次世界大戦の引き金になっているわけである。
日本は、支那事変で疲れている。事変に動員する戦力を維持し、国力を保持していくためにも、米国からの物資輸入が不可欠である。
潤滑油の輸入が中断して、鉄道省が「東海道本線が動かなくなる」と悲痛な電報をワシントンの日本大使館におくったのは、七月早々のことである。
折衝をつづけて潤滑油は輸入できるようになったが、このような事態を考えれば、駐米大使としての任務は、米国の対日感情をやわらげ、必要な物資輸入を確保するのが主眼になるはずである。
だが、一方で三国同盟という明白な反米政策を採用しながら、他方では米国の友情を求めるという外交方針が、米国になっとくされるであろうか。
米国は、ヨーロッパ戦争をファシズムと自由主義、独裁主義と民主主義の戦いだと宣言している。つまりは、国家の発展をゆだねる思想と原則が問題になっているのである。
そこで、野村大将は、対米外交の基本としては、日米戦争をさけることを眼目とすべきであり、そのためには東南アジアにたいする武力進出はつつしみ、三国同盟の運用、とくに米国のヨーロッパ戦争参戦のときは慎重に対処すべきだ、という意見を、近衛首相に進言した。
近衛首相は、全面的に野村大将の意見に賛成し、次に会った軍令部総長伏見宮博恭《ひろやす》も「野村と同意見である」といい、野村大将は、それならば、とうなずいた。
野村大将の意見は、すでに決定されている「基本国策要綱」や三国同盟がしきりに「大東亜新秩序」の建設、いいかえれば東南アジアを日本の勢力圏にして米英勢力の駆逐をはかるという方針に、まっこうから反対するはずである。
にも拘《かかわ》らず、政府首脳が大将の見解に同調する様子をみせたのは、相当の覚悟と決意があるものと野村大将は推理したが、大将の胸中にはなお不安がわだかまった。
「過去の大使にして米国務長官より嘘つきと言はれたる者ありと聞く。国交には武士に二言《にごん》なしと迄は行き難かるべきも、尚言に信頼をつなぎ得るものなるを要す」
野村大将は、近衛首相に会ったさいに提示した覚書の中で、そう強調した。そのつもりで交渉しているときに、逆の政策や事態が推進されるのでは、「二階にあげられてハシゴをはずされる」ようなもの。外交使節としての面目は立たず、国家の信用も失われるだけであろう。
近衛首相は、そんなことはない、と確答し、また、とくに海軍から、ぜひ日米戦争はさけたい、という訴えもあったので、大将は大使就任を承知した。
だが、実際にどれほど政府が野村大使に同意し、また交渉上の実権を与える意向であったかは、疑問である。
松岡外相は、最初の大使就任交渉のとき、
「日独伊枢軸と思われていればこそ、アメリカに貴下のような人を送ったということが、アメリカに重点をおいているとみられることになる」
と野村大将にいったが、駐日米国大使ジョセフ・グルーの回想録にも、次のような記述がみられる。
「一九四〇年十一月八日……松岡は再三私に、彼自身こそ駐米大使として理想的だが、東京を離れるわけにはいかないのだといった。かくて野村は明らかに、第二の手段なのだ!」
なんとなく、野村大将は、その温和な風姿で米国内に友好ムードをかもしだす役割りだけを与えられているようである……。
野村大将としても、その種の“道化役”にされる懸念を感ずればこそ、前述の近衛首相あて覚書提出にもなったわけだが、その心配は不要だ、といわれれば、それ以上の論議はくどくなる。
だが、野村大将としては、なお自信を持ち得なかったことは記者会見の談話にもうかがわれるが、とりわけて不安を感じさせるのは、大将の意見をくみいれた明確な対米外交方針がなかなか示されないことであった。
「どこから相手に食いつくのか。そのきっかけまたは突破口はどうするのか。それがなければどうしようもないではないか」
野村大将は、松岡外相にもそう指摘したが、外相は、出発前には訓令を渡します、というだけである。
――ところが、
野村大将が求める日米交渉の突破口は意外な形でつくられようとしていた。
「帝国ホテル」に落ちついた二人の神父は、二十六日は外務省に亜米利加局長寺崎太郎を訪ね、二十七日は聖心女学院と元ブラジル大使沢田節蔵宅を訪問した。
二十八日は、東京宝塚劇場でその日に幕明けした国民歌劇「夜明け」(山田耕筰指揮、藤原義江、牧嗣人、長門美保その他)を観劇したりしたが、来訪をうけた沢田節蔵は仰天していた。
二人の神父は、出迎えに山本海軍少将があらわれたように、日本のカトリック教徒の有力者に来日を予告していた。
沢田節蔵も、八月、知人の『リテラリー・ダイジェスト』誌編集長ロバート・カドヒィからウォルシュ司教とドラウト神父が来日する連絡をうけた。
カドヒィもカトリック信者である。とくに妊娠中絶を拒否する教義の熱心な信奉者にふさわしく、十二月三十一日の誕生日に集まる家族が七十一人もいることで名高かったが、連絡はただ二人の神父が「新田丸」で訪日すること、しかるべき政府関係者に紹介してもらいたい意向をもっていることを伝えていた。
沢田節蔵は、政府に用事があるとすれば、三つの場合が考えられると、推測した。
ひとつは、日本国内におけるカトリックをふくむキリスト教にたいする圧迫問題である。第二番目は、内地、朝鮮、支那などにあるメリノール派教会の施設の運営にかんする問題であり、三番目は、あるいは一般的な日米関係にかかわることかもしれない。
「最初の問題なら文部省が管轄だ。第二の場合、たとえば現に朝鮮でメリノール派教会にたいする陸軍の監視強化という問題なら、これは陸軍省との話しあいになるし、第三の問題なら外務省の担当者を紹介すればよい」
沢田節蔵は、そんな心構えで二人の神父を待っていたが、いざ来訪をうけてみて、その発言におどろいた。
ドラウト神父とは初対面であったが、ウォルシュ司教とは、かつて沢田がニューヨーク総領事時代に知りあっている。そこで、話はもっぱらウォルシュ司教がしたが、
「神と聖霊の御名において、ミスター沢田、われわれはたんなる宗教人であり、政治家でも外交官でもありません、しかし……」
と話しだした司教といい、ときどき横から口をはさむ神父といい、満州事変から支那事変、三国同盟におよぶ日本の政治事情、それをとりまく国際情勢について、なみなみならぬ知識と理解を示していた。
そして、来日の目的は、日本とアジアにおけるカトリック布教活動の困難な環境の改善にあるのではなく、ひたすら日米両国の将来を危惧するがためだ、と司教と神父は強調した。
「現在の情況が、放置されたままで進展するならば、日米間の武力衝突に発展するにちがいない。いざ戦争となれば、それは日米両国のみならず、人類全体の不幸でありましょう」
敬虔《けいけん》にうなずく沢田節蔵に、ウォルシュ司教は、自分たちは米国務省の役人にも会い、日米関係の打開について話しあおうとした、と述べた。
「しかし、連中は頑固な石頭ぞろいで、われわれの言葉に耳を傾けようとしない……」
ウォルシュ司教とドラウト神父は、遺憾の想いをこめて黙祷したが、そこで、二人は協議して、日本で責任ある当局者と話しあい、両国の平和交渉の糸口をつくるべく来日した、といった。
日米関係の改善はアジアの平和につながり、さらには教会活動の保全にも通ずるわけであるが、二人の神父はそのような目先の利よりも、人類の平和の立場に立つ宗教者の使命感を強調し、沢田節蔵は感動した。
だが、ことは国家の問題であり、一途に宗教精神だけで解決できるものではない。沢田節蔵も現実的な外交訓練をうけている。
なにか具体的な提案をお持ちか、と沢田が質問すると、ありますぞ、と司教は荘重にうなずく。
「要するに、日米間の対立は両国の勢力範囲が不明確なために発生している。そこで、太平洋を東西に二分する線をひき、西側は日本、東側は米国の勢力圏にして相互に干渉しないことにする。そうすれば、両国はともに繁栄の道を歩めるわけです」
たしかに、そうなれば日本は安楽に東南アジアの安定勢力の地位を確保できる。だが、それはこれまでの米国の政策である対支援助や満州国否認も放棄し、アジアからの完全な後退を意味する。
はたして、米国政府が承知するだろうか。
沢田節蔵は二人の神父と話しあい、さらに十一月三十日にも夕食に招待したあとで懇談をつづけたが、結局、二人の神父に提案を文書にしてくれれば外務省幹部にとりつぎ、適当な担当者との会談もあっせんする、と答えた。
提案はいかにも非現実的である。が、とっぴではあっても、それは世間知らずの“神の使徒”にありがちなことであり、なによりも純粋な熱意を評価せねばならない。たぶん、二人の神父も、提案が日本政府当局の耳にはいれば一応の成果をあげた、と満足してくれるのではないか。
そう思って沢田は司教と神父に提言したのだが、ところが、二人の神父にはたんなる自己満足を求める心境はさらになく、つづいてはじめられた工作と活動は、そのごの日米国交を大きくゆがめる誘因になっていくのである。
二人の神父の動きは、微妙であった。
神父たちは、さらに山本信次郎海軍少将、寺崎外務省亜米利加局長と会見したのち、十二月五日午後二時半、外相松岡洋右の私邸をたずねた。
その日は、元老西園寺公爵の国葬日でもある。
西園寺公爵の遺体は外相官邸に安置されていたが、午前八時半、霊柩車は日比谷公園に用意された葬儀場にむかって出発した。晴れわたった冬空は突きぬけたように青く、陽光は暖かく大地を照射していた。葬儀場にむかう車の速度はゆるく、沿道に見送る市民の列は静まりかえっていた。
葬儀は午後零時五十分に終り、そのあと西園寺公爵の遺体は世田谷区若林町の松陰神社横の西園寺家墓地に埋葬された。
ウォルシュ司教とドラウト神父は西園寺公爵の葬儀は知っていたが、それよりも同じくカトリック神父で哲学者としても名高い岩下壮一の死亡を聞き、その魂の平安を祈って午前中をすごしていた。
松岡外相が神父たちを代々木初台の私邸に招いたのは、外相公邸が西園寺公爵の霊安所になっていたためであるが、松岡外相は一応の初対面のあいさつをすませると、しゃべりはじめた。
松岡外相の長広舌は、定評がある。「ちょっとで二時間、もう少しで三時間、ゆっくり話そで二日半」とは、外務省詰めの新聞記者の間でもてはやされた戯言である。それほどでないにせよ、とうとうという形容そのままにしゃべりつづける外相に、二人の神父は眼をむき、ひたすらひと区切りごとにうなずくだけであった。
おどろいたのは、その流暢な英語スピーチの急ピッチぶりではなく、内容そのものについてもであった。
「支那事変は、日本にとって明白なまちがいだった。大義にそむき名分に欠ける戦争だといっていい。支那民衆にたいする不幸でもあり、なんとか終結させる方策を見出さねばならない」
ウォルシュ司教によれば、この松岡外相の言明は、とかく支那事変を「神聖なる戦い」(聖戦)と自讃する日本政府当局者の声明にくらべて、ひどく意外な印象を与えたが、松岡外相はもっと二人の神父をびっくりさせる発言をかさねた。
「そこで、だ。わしは、アジアに平和をもたらすために、ぜひ米国と平和条約を結びたいと思っている」
松岡外相はそういうと、その平和条約では、日本は「日独伊三国同盟からの脱退」「支那大陸からの日本軍撤退と支那の領土保全」を約束し、米国は「通商協定の締結と石油その他の物資供給を保証する」ことにしたい、と述べた。
ウォルシュ司教とドラウト神父は、急いで視線を交錯した。そして、ドラウト神父が、松岡外相の言葉の切れ目に質問をねじこんだ。
「閣下、支那の領土保全とおっしゃいましたが、満州もふくまれますか」
「ノー。われわれは満州を支那の一部とは考えていない」
松岡外相は、即座に否定したが、しかし別問題として満州国問題を討議することには異論はない、といった。
そのご、松岡外相は国際情勢について語りつづけ、ようやく、本日はこれまで、と告げたのは、午後五時に近かった。
「帝国ホテル」に帰ると、二人の神父は夕食をとりながら、話しあった。松岡外相の談話が、公式な声明ではなく、たんなる私的なおしゃべりであることは明らかであり、また、外相が口走った日米平和条約の締結にしても、いずれそのような交渉をしてみたいとの外相の個人的希望の表明であって、外交方針をうちあけたものではない。
つまりは、松岡外相の“講話”にとどまるわけで、日本政府の思想とは別問題と理解すべきであるが、二人の神父はやや興奮気味に松岡“講話”を分析した。
「要するに、満州だけははなしたくないということでしょうな」
「そう、その代りドイツとも手を切り、支那からも引き揚げる用意があるようだが、それなら、それで十分じゃないか」
「まったくです。それで十分でありましょう」
二人の神父が来日したのは、結局はアジアにおけるカトリック布教活動の安全と発展のために日米関係の改善策をさぐりにきた、といえる。
もし、日本軍が中国大陸から撤退して大陸の戦乱がおさまるならば、その影響はアジア全域におよび、宗教活動も再び支障なくすすめることができるであろう。
まさに「それで十分」であり、それは神父たちが沢田節蔵に説いた日米勢力範囲分割構想にも一致する。そして、個人的見解にもせよ、日本政府の有力閣僚が似たようなアイデアをもっているのは、まことに好ましい。
二人の神父は、こんごの活動についてなおも話しあったが、その翌日、十二月六日は二手にわかれ、ウォルシュ司教は寺崎亜米利加局長を訪ね、ドラウト神父は「産業組合中央金庫」理事・井川忠雄と会った。
井川理事は大蔵省出身だが、カトリック信者でポールの洗礼名を持っている。神父は来日すると、井川理事の知人であるニューヨークの「クーン・レーブ」商会重役ルイス・シュトラウスからの紹介状と会見申し込みの手紙を、井川理事におくっていた。
この日の会見の結果は、その翌日、井川理事から首相近衛文麿に手紙で報告されているが、ドラウト神父は「日米国交調整とくに経済提携」について両国間の話しあいをあっせんしたい、と井川理事に話した。
井川理事は、はじめは一介《いつかい》の神父がなぜそのような国家の大事に参画しようとするのか、と不審の眼をひからせていたが、そのうちにすっかり興奮してしまった。
「いや、じつは昨日、松岡外相にもお眼にかかったのだが、もちろん、これは儀礼的な訪問にすぎませぬ。大事な話は、まず貴下とするようにミスター・シュトラウスからも注意されておりました」
ドラウト神父はそういい、そして井川理事が「クーン・レーブ」商会と米国政府との間になにか諒解ができているのか、と質問すると、神父は「その点についてはあまりお訊ね下さるな」と口ごもる風情をみせたからである。
――ハ、フン。
井川理事は、わかった、と思い、胸奥で米国式に鼻をならすうなずきをこころみた。
ドラウト神父の話は、二様に解釈できるはずである。表現があいまいなのは、実際には神父と米国政府との連絡がないためともみられるし、逆に政府の“密使”なるがゆえにまだ腹中をあかさないとも、理解できる。
冷静に判断する限りでは、神父の“密使”性は疑わしい。井川理事は、シュトラウス重役とはニューヨークに財務官として駐在していたときに面識を得ているが、神父とは初対面である。
重要な国策にかんする使命が神父にゆだねられているとすれば、いきなり初対面の相手にうちあけるものであろうか。
だが、井川理事は、神父が「クーン・レーブ」商会の「密命を受け来《きた》れること」は「疑の余地無之《これなく》」、また米国政府との関係について口をにごしたのも「余程意味深長なり」と判断した。
ひとつには、神父が「外相よりも貴下に」と井川理事を最高の要人扱いしたこともあったが、もともと「クーン・レーブ」商会は、かつて日露戦争のときに日本の外債募集に努力してくれた有力な金融機関である。
日米の経済に関心を持つのは当然であるし、また重役シュトラウスはユダヤ系市民である。とかくユダヤ人は、有能だが排他性も強く、どの国でも警戒される傾向があり、とくに当時は、しきりにナチス・ドイツがユダヤ人の世界制覇陰謀なるものを宣伝して、日米両国内にも同調する者がふえていた。
おそらく、重役シュトラウスはそういった点を配慮して表面に立つのをさけ、神父を派遣したのでもあろうか。
「用意周到なるものあり」とうなずいた井川理事は、神父が「ワシントンの密使」であることを確信するとともに、自分が日米外交の焦点に位置するかもしれぬ期待に感奮しながら、近衛首相に申告したのである。
「……元より悪く解せば、日本の経済力をスパイせんとの底意あるやも知れ不申《まうさず》候も……アメリカ財界を切半する一大勢力の対日動向を打診するの機を得ば、何らかの御参考にも相成るべしと存じ、敢《あへ》て一役買ひ出で候次第、暫し御静観の程願上候……」
二人の神父のうち、ウォルシュ司教は七日から九日まで京都に旅行して、帰京すると十日夜、外務次官大橋忠一主催の夕食会に招かれた。
寺崎局長、沢田節蔵、山本海軍少将も同席したが、神父たちは松岡外相との会談の様子を思いだしながら、日本側がアジアの平和を念願しているなら、ぜひ日米平和交渉を開始すべきであるし、そのためにはまずアメリカ国民にたいして外相が声明を発表すべきだ、と強調した。
「結構ですね。たとえば、年があけると議会で外相は外交方針演説をおこないます。そのときに意図を明らかにすれば効果がありましょう」
「ノー。それではおそすぎる。新年まで待つのは、致命的な時間の浪費になりかねませぬぞ。ぜひとも、クリスマス前に米国民にアピールすべきです」
ドラウト神父は、沢田節蔵の発言に反駁した。沢田は、ほう、と軽く嘆息して考えこんだが、大橋次官は露骨に不快な表情を示して横をむいた。
大橋次官は先輩である沢田節蔵や信頼する部下の寺崎局長らのすすめで二人の神父と会見したが、二人の神父がいかにも“外交使節”然とした言動をするのを、にがにがしく感じていた。
外交は、国家の信頼を与えられた外交官の仕事である。公式の信任状も、外交交渉の体験もない無責任な神父が、なにを根拠に日米国交調整などといって動きまわるのか。
むろん、硬化している日米関係をときほぐす妙案があれば、神父にせよ、僧侶にせよ相手が誰でもその高見は拝聴するが、神父たちがいうのはいかにも単純な平和論にとどまる。
松岡外相の談話にしても、大橋次官が外相から聞いた限りでは、三国同盟からの脱落や支那撤兵は、そうでもすれば米国は満足するかもしれぬがそれは米国側の一方的見方だといった、という。
大橋次官は、神父がいうクリスマス前までというタイム・リミットの理由を質問しようと思ったが、やめた。話にのる必要はあるまい、と考えられるからである。
会談は、次官の気のりうすの態度を反映して、次第になんとなくだらけ勝ちになったが、寺崎局長がふと思いついた様子で提案した。どうしてもクリスマス前までというなら、十二月十九日に日米協会が野村駐米大使の送別会をおこない松岡外相の演説が予定されている。その演説の中に米国民向けアピールをふくませるのはどうか、というのである。
二人の神父は、喜色を顔面にうかべてその提案に賛成し、寺崎局長は、それではとにかく外相にどんなことをいわせたいのか、その要旨を書いてみてくれ、と二人の神父に依頼した。
承知した二人の神父は、そのごも井川理事や沢田節蔵、あるいは東京在住のカトリック神父たちと会見する合い間に長文の覚書を作成し、十三日には沢田節蔵に手渡した。
できるだけ早く松岡外相のチェックと承認を得てもらいたい、と二人の神父はいい、また、あらかじめ草案を米国に送っておいて、外相の演説と同時に米国内でもラジオ、新聞などで発表すれば効果的だ、ぜひそうしたい、と進言した。
ドラウト神父は、この「特に米国との関係に論及したわが(日本の)極東における地位と政策の実際的分析」と題する覚書を、井川理事にも渡し、井川理事はさっそく近衛首相にとどけた。
内容は、要するにアジアに「極東モンロー主義」を適用して、米国が日本の立場を認めることによってアジアをソ連の赤化政策から守るべきである。それは米国の利益に合致するはずだから、日米両国間に太平洋平和協定を結ぼう――というもので、三国同盟や支那撤兵など具体的な問題には、ふれていなかった。
いわば、一種の平和アピールであり、神父たちはとりあえず松岡外相が米国民にそう呼びかけよ、と進言するのだが、井川理事あての書簡には、こういうアピールをクリスマスが近づき平和精神が高まる「十二月二十日ごろ」におこない、次に「来年の二月か三月」に日米会談を東京でひらくのが望ましい、とこんごのスケジュールも提案していた。
「……身僧籍に在る人に応《ふさ》はしからぬ知識用語全文に溢れ居り候点より推すも、右書面は……相当の背景あるに非ずやと想像せられ候」
と、井川理事はまたしてもドラウト神父の“識見”に感銘した手紙を近衛首相に送っているが、その他の方面の反応はかんばしくなかった。
たとえば、二人の神父は「クーン・レーブ」商会から元首相若槻礼次郎あての紹介状ももらい、十二月十二日、国際文化振興会で若槻元首相に会った。
会話は主にウォルシュ司教がすすめたが、司教は、米国の実業家は日本が中国市場を独占するのをおそれているから、むしろ、逆手をとって日本は中国市場を独占するぞと立言すれば米国側は説得されるだろう、といった。
また、外交官よりも両国から政治家、軍人、財界人をふくむ有能な委員二十人ほどを選んで交渉させれば、日米問題も容易に解決するだろう、とも、ウォルシュ司教は述べた。
若槻元首相は、あきれた。いや、「途方もない話」であり、「私を愚弄するもの」とさえ感じた、と若槻元首相は記述している。
およそ一国の市場を独占するなど夢想外のことであり、国際関係を雑多な代表で一気に片づけられるなどという発想も、あまりに非現実的にすぎるからである。
若槻元首相は、
「支那の市場は広大ですからなァ」
と苦笑し、
「米国はともかく日本にはそんな大任をはたせる人材は少ないでしょうな」
ととぼけて、対話をうちきった。
そして、二人の神父が出ていくと、若槻元首相はしまったドアをまじまじと凝視しながら、同席した国際文化振興会会長・永井松三に、つぶやいた。
「あの坊さんたちは、いったいなにしに来たのかなァ」
沢田節蔵は、なんども大橋次官を訪ねて、神父たちが提出した覚書はどうなったか、とさいそくしていた。
だが、大橋次官の返事は、丁重だが冷静な「なおご検討中です」の慣用句で終始し、やっと、沢田節蔵に覚書が返却されてきたのは、十二月十九日、日米協会主催の野村大使送別会がおこなわれる当日の朝であった。
大橋次官は、二人の神父がいきなり外相に演説草稿を押しつける態度を非礼とも粗野とも感じていた。それだけに松岡外相にたいするあっせんも形式的にとどまり、外相自身も一読して机上にほうり投げた、という。
送別会は、十九日午後零時半から「帝国ホテル」でひらかれ、二人の神父も招待された。
パーティには、駐日米国大使グルー夫妻、前駐米大使堀内謙介夫妻その他百数十人が集まり、松岡外相が、野村大使は提督だから太平洋をのりきって日米の橋渡しをするには最適任者だ、といえば、野村大使が「海には馴れているが陸上は不得手」と応ずるなど、なごやかな雰囲気につつまれていた。
予定どおり、松岡外相は日米関係について約三十分間の演説をこころみたが、日米戦争は「人類文化文明の潰滅を意味する」から両国の友好が必要だと指摘しながらも、内容は、これまでの政府の公式見解を主張したものであった。わずかに、
「世界の現状をみるに、政治的には広汎にすぎ、経済的には狭隘《きようあい》にすぎる。経済的活動は、もちろん、全世界にわたるべきだが、政治的活動は、各国その死活的利害関係を有する地域に局限して、あえて他国の領域に及ぼすべきではないと信ずる。
かかる地域的諒解によって地域的平和が確実に樹立されれば、その集約したものが世界平和となる」
という一節が、「極東モンロー主義」を強調した二人の神父の提案にそった内容ともみられるが、いずれにせよ、神父たちが望んだクリスマス前のアピールは、実現できなかった。
神父たちはなおも沢田、寺崎、山本少将や井川理事と会談をつづけた。二十一日には大橋次官と夕食をともにし、二十三日は、再び松岡外相私邸で昼食をとりながら、松岡外相、井川理事、駐米公使に予定されている若杉要とも会った。
二十六日は、グルー駐日大使にあいさつし、堀内前駐米大使夫妻と懇談した。その翌日、二十七日は、井川理事が同行して陸軍省軍務局長武藤章少将を訪問し、二十八日は、近衛首相私邸を訪ねたのち、同日午後三時、往路と同じく日本郵船「新田丸」で帰米の途についた。
神父たちが訪問したこれらの人々のうち、近衛首相は会わず、また松岡外相をはじめ、カトリック信徒でない人たちはいずれも儀礼にとどまる応接をしただけである。
いいかえれば、もし二人の神父が日米交渉開始の“密命”をうけていたとすれば、その使命は完全に失敗したと判定されるはずであるが、出迎えのときと同じく、山本海軍少将に見送られて「新田丸」のタラップをのぼる二人の神父はひどく晴れ晴れした顔つきであった。
理由――は、二人の神父は、二人が米国側から“密命”をうけていたかどうかは不明にしても、その段階では逆に日本側から“密命”をうけた、と考えていたからである。
ウォルシュ司教によれば――、
「ドラウト神父は日本側当局者がわれわれに平和提案に関するメッセージをワシントンに伝達するよう依頼してきた、と告げた。外相および首相双方からの依頼だという。
われわれは、ちゅうちょした。そのようなメッセージは駐日米国大使館を通ずるのが自然だからだ。われわれは、松岡外相をふくむ当局者と再び会見したが、当局者は、米大使館に頼めば、ワシントンに届くまでに日本陸軍、あるいは第三国によって暗号が解読されて内容がもれてしまう、と説明した」
ウォルシュ司教は、ドラウト神父が誰からワシントンヘの橋渡しを頼まれたか記録していない。そして、松岡外相が二度目の会見でそのような依頼をした事実はなく、近衛首相は二人に会っていない。ほかの首相、外相につながる責任者も、二人の神父にはただ深く一礼しただけである。
では、誰が二人の神父に頼んだのか? ワシントンあてのメッセージとは誰が書き、どのようなものなのか?
二人の神父の滞日中の行動をたどる限り、その正体はつかみようがないが、とにかく、二人の神父は、井川理事と連絡用の電文隠語までうちあわせ、“日本の密使”になったと固く信じて、太平洋を帰っていった。
野村吉三郎大使は、忙しい年末と年始をすごした。
二人の神父が日本をはなれる五日前、十二月二十三日午後十一時、野村大使は東京を出発して神戸にむかい、朝鮮、満州、北支、中支をまわる旅に出かけた。
与えられた日米関係改善という使命は、しょせんは支那事変の解決を焦点にする以上、これら地域の実情と責任者たちの見解を明らかにしておく必要があるはずである。
野村大使は、京城で朝鮮総督南次郎大将、新京で関東軍司令官梅津美治郎大将と会談したのち、十二月三十日、北京に到着した。
そして、北支那方面軍司令官多田駿《はやお》中将その他と会見して、昭和十六年元日、南京にむかって支那派遣軍総司令官西尾寿造大将、南京政府主席汪兆銘《おうちようめい》に会ったあと、一月三日上海に飛び、同六日午前八時、東亜海運「神戸丸」で帰国した。
文字どおりのかけ足旅行であり、各地での会談もどちらかといえば儀礼的なものが多かったが、その中で野村大使の胸に銘記されたのは汪兆銘との会見であった。
汪兆銘とは一月二日午後、その私邸で会ったが、大使はまずその住居、生活ぶりの簡素におどろき、次いで外交部を訪ねておどろきは憂いに変った。
「片田舎の旧建築にして国民政府何れに在りやを疑はしむ」――と、野村大使は回想しているが、汪兆銘の簡易生活も外交部の貧弱さも、つまりは日本側の汪政権にたいする処遇のあらわれであり、財政困難の象徴であった。
支那事変の開幕いらい三年余をすぎているが、日本側の作戦第一主義と支那民衆にたいする配慮不足は、軍票の増発にともなうインフレと民生窮乏を野放しにして、汪政権を樹立してもその効果を求め得ない状態のままである。
野村大使は、むしろ、唖然とした。支那事変の解決といい、日米関係の改善といって困惑するが、結局はその対策は単純なことではないのか。
「経済の自由を復活し外国との貿易を作興し、物資を豊富ならしめ財源を豊かならしむ」
要するに汪政権の自立を認めて「門戸開放」をすれば、支那自体の安定と繁栄も可能だし、日本が支那大陸を独占しているという米国の批判も解消する。そうなれば介石の抗戦も目標を見失って戦いも終るにちがいない。
野村大使は、上海で数人の在住米国人に会ったさい、一同が口をそろえてただ経済生活上の不便を取り除いてほしいと訴え、日本の政治的発言権にはなにも不満はない旨を述べるのを聞き、ますます事変の解決が些細な政治心の欠如に災いされていることを、さとった。
――簡単なことじゃないか。
野村大使は、帰京すると一月十三日、視察旅行の印象にもとづいて日米交渉の基本構想「対米試案」をまとめたが、なにぶんにも赴任がせまっているので、近衛首相や松岡外相と十分に協議するひまはなかった。
ほぼ連日、大使のための送別会が予定され、一月十七日には本郷春木町の厚沢義眼院で滞米中の用意に右目の義眼二個を院長厚沢銀次郎に新調させねばならず、十九日は政府主催送別会、二十一日拝謁、二十二日は松岡外相から訓令を受領し、二十三日横浜出帆、というスケジュールがきまっていたからである。
こうして野村大使が赴任の準備をすすめているころ、二人の神父も米国であわただしく動いていた。
神父たちは、野村大使が「対米試案」を書きあげた一月十三日、ニューヨークの自分たちの教会に帰ったが、二人の神父はさっそく「クーン・レーブ」商会重役ルイス・シュトラウスに連絡するとともに、一月二十日、ワシントンに出かけて郵政長官フランク・ウォーカーを訪ねた。
ウォーカー長官は、やはりアイルランド系カトリック信者で全米カトリック教会財務委員でもあった。ルーズベルト大統領の当選にさいして、カトリック信者票をまとめた功績を評価されて閣僚の椅子を与えられていた。
その意味で、ウォーカー長官はルーズベルト大統領に影響力を持つ有力閣僚の一人に数えられるが、ウォーカー長官は二人の神父の話を聞くと、神父たちの努力を讃えながら神父たちを仲介にする日米交渉に強い関心を示した。
もっとも、ウォーカー長官はウォルシュ司教とは何度か会ったことがあるが、ドラウト神父とは初対面である。
二人の神父が帰ると、ウォーカー長官はニューヨークのメリノール派教会事務局に電話して、ドラウト神父とは何者か、正式の教会職員か、ウォルシュ司教とどのような関係にあるのか、と質問した。
教会側の返事が満足できるものであったので、そのごはウォーカー長官も熱心に二人の神父と交際を深めることになるが、ドラウト神父はウォーカー長官との会談を終えると、東京の井川理事に打電した。
――「グッド」
井川理事とは、四つの隠語がうちあわせてある。「ディフィカルト」は「交渉見込みなし」を意味し、「グッド」は「各方面順調に進行中」、「サティスファクトリー」は「大統領考慮中」、「コンプリート」は「準備完了」を意味する。
電文は、だから、「各方面順調に進行中」を伝えたわけだが、さらにその翌日、一月二十一日、ドラウト神父はまた井川理事に発信した。
――「サティスファクトリー」
二人の神父、とくにドラウト神父の素性《すじよう》をたしかめて安心したウォーカー長官がルーズベルト大統領と国務長官コーデル・ハルに進言し、大統領も二人の神父に会うことを承知したからである。
ただし、ルーズベルト大統領もハル国務長官も、ウォーカー長官の熱意に応えて神父との会見を承諾しただけで、ウォーカー長官の話を聞いた限りでは、二人の神父の活躍にとくに関心はもたなかった。
なぜなら、民間人による外交関係の進展については大統領も国務長官も、現にあまり期待をもてない実例にそうぐうしていた。
じつは、二人の神父がのった「新田丸」には、グルー駐日大使の紹介状を持った国粋主義論客・「紫雲荘」主宰者橋本徹馬の一行も乗船していた。
橋本徹馬は前年の秋からグルー大使に接近し、親善使節または日本の高官を啓蒙するため、米国を訪問したい、日米関係の打開についても私案がある、と申し出ていた。
グルー大使は、その前に財界の代表である鮎川義介からも似たような提案をうけ、鮎川を「ミスターX」と呼んでワシントンに報告していたので、橋本に「ミスターY」の呼称を与え、国務省に紹介した。
親善使節という存在については、グルー大使はもはや無用だと思ったが、橋本徹馬が政官界上層部に知人が多く、あるいは橋本がいう「高官啓蒙」に役立つかもしれぬと考えたのである。
橋本徹馬は、一月十八日、「日本経済連盟会」の戸田理事とともに、国務省で、政治顧問スタンリー・ホーンベック、極東部長マクスウェル・ハミルトン、日本課長ジョセフ・バランタインと会談した。
橋本徹馬は、日本の支那事変も日独伊三国同盟もまちがいであったと述べ、日本国内の政治情勢を解説したあとで、しかし、世界平和を確立できる道は残されている、と指摘した。
「それは、だ。日米間に太平洋条約の如き平和条約を結び、同時に米国はヨーロッパ、アジアにたいして平和を呼びかけ、支那事変の調停をする。これで世界に平和がよみがえるし、それ以外に平和回復の方法はない」
国務省側は、当然、もっとくわしくうかがいたいと後日の再見を約束はしたが、内心では失望した。米国にそれだけの施策を求めながら、では日本側はその代りになにをするのかという点には、具体的な提案が示されなかったからである。
ホーンベック顧問たちから報告をうけたハル国務長官も、「そらァ、駄目だ」とテキサスなまりで答えて肩をすくめていた。
そのすくめた肩をおろした直後に、また民間人である神父が“日本の密使”然としてきたのである。
ハル国務長官としては、格別の期待も抱かず、ルーズベルト大統領の心境は国務長官に共通していた。
してみれば、ドラウト神父の井川理事あて隠語電報は、たぶんに実際の情況を誇張していたと思えるが、むろん、井川理事はその消息を知るすべもなく、まして、野村大使には、ワシントンでそのような日米民間人が活躍しているとは、夢想外のことであった。
野村大使は、予定どおり、ドラウト神父が「サティスファクトリー」の一電を井川理事に送った二十二日(日本時間)に松岡外相と会い、日米交渉に関する訓令をうけとった。
一読して、野村大使は当惑せざるを得なかった。
「我国策ヲ相当思ヒ切ツテ変更スルニ非ザレバ、米(国)ト了解ヲ付ケ、以テ太平洋上ノ和平ヲ確保シ進ンデ世界平和克服ノ為提携策動スル事、所詮不可能也」
訓令の冒頭にはそう主唱してあり、つづいて日米戦争は世界戦争に通じ、「文明ノ没落」を招くから回避すべきだと強調している。
ところが、ではどのような国策の変更が予定されているか、と読み進むと、日独伊三国同盟は遵守する、日本には侵略の意思はないのだから米国も大東亜共栄圏に協力すべきだ、と述べてあるだけである。
「右諸点、米(国)大統領、国務長官始メ米国朝野有力者ニ徹底ヲ期セラレ度」
と、黙読し終って、野村大使は左眼にはめた片眼鏡をはずして撫然《ぶぜん》とした。
結局は、これまでの日本政府および松岡外相の主張を要約しただけで、せいぜい日本側の立場を説明してほしい、というにとどまる。外交交渉、それもこじれている日米関係をときほぐすための交渉が、ただ一方的な宣言だけで成功するとでもいうのであろうか。
野村大使は、訓令の文面が告げる矛盾を指摘し、譲歩をふくめた具体的な交渉方針を訊ねるべく、軽いせきばらいをすると、松岡外相に話しかけた。
「御訓令はたしかに受領致しました。ところで……」
「いや、もう大使閣下にこまごまと補足する必要はありますまい。たしか出帆は明日でございましたな。では、閣下の御航路の平安と御任地での御活躍を心からお祈りしております」
松岡外相は、せかせかとした口調でそういうと、失礼、と口中でつぶやき、さっさと部屋を出て行ってしまった。
――翌日、一月二十三日。
野村大使は、公使要員である顧問若杉要、一等書記官奥村勝蔵ら新たに駐米大使館勤務となった随員とともに、午後零時三十分、東京駅発の臨港列車で横浜にむかった。
駅には松岡外相、駐独大使に任命された大島浩中将をはじめ、海相及川古志郎大将、軍令部総長永野修身《おさみ》大将など海軍関係の見送り人も集まり、グルー大使も野村大使と握手した。
横浜からは、日本郵船「鎌倉丸」で赴任する。
新港埠頭四号岸壁に碇泊《ていはく》している「鎌倉丸」の前にも、早朝から見送りの関係者、一般市民が群集し、しきりに日の丸の紙旗をふっていた。
「鎌倉丸」は、その前日、一月二十二日午前九時五十分、上海・香港ルートの航海を終えて横浜に帰着したばかりで、野村大使一行を迎えるため徹夜で船内の清掃と整備をすませていた。
野村大使が乗船することは前年の十二月中旬に示達されている。いらい、野村大使用の特別室は使用せずにすごしてきたが、船長栗田達也は、朝から何度も船内を見回った。
全長一七七・七七メートル、船幅二二・五六メートル、総トン数一万七千八百九十トンの「鎌倉丸」は、「浅間丸」(一万六千九百四十七トン)、「竜田丸」(一万六千九百五十五トン)とならんで、日本郵船が誇る太平洋航路の豪華客船である。
乗組員三百二十三人、船客は八百三十八人を収容できる船内は、いわば一流ホテルと同様であった。
ロビー、社交室、読書室、画廊、喫煙室、食堂、映写室、水泳場、遊戯室、理髪室、美容室、住友銀行出張所、無線電話局が設置され、三部屋の日本座敷もある。
家具調度、備品はすべて一流の外国製品がそろえられた。
野村大使が居住する特別ルームは、寝室、居間、付添人室、トランク室、浴室、洗面所にわかれ、落ちついた華麗さにあふれている。
栗田船長は、船内の何度目かの視察を終えて、午後一時半、船橋にもどって天気図を検討すると、一等運転士三上太三郎、次席一等運転士河合弥に、いった。
「予定どおり出港だ。いよいよ、いざ、鎌倉だな」
クスッ、と河合運転士は笑いかけたが、あわてて歯をかみしめた。
船長の言葉に、とっさに船名の由来を思いだして失笑をさそわれたのだが、もともと「鎌倉丸」は「秩父丸」の名前で親しまれていたのを、改名したのである。
その理由と経緯が河合運転士のほおをゆるめたのだが、発端は昭和十二年九月二十一日の内閣訓令にはじまる。
支那事変の発生にともなう国粋主義の高揚にもとづき、内閣訓令はローマ字の綴り方を日本式に統一するというものであった。それまでのヘボン式が廃止されるわけで、駅名、文書類もすべて訂正され、逓信省の指示によって船名表示も日本式ローマ字となった。
「秩父丸」も、だから、昭和十三年二月、「CHICHIBU MARU」から「TITIBU MARU」と書き換えられたのだが、とたんにニューヨーク、ホノルル、シカゴ、サンフランシスコその他全米の日本郵船支店から本社に苦情が寄せられた。
「CHICHIBU MARU」は「チャイチャイブ丸」と発音されたりして、米国市民の間にも有名であったが、「TITIBU」となると、別の船と思われるうえに「TITI」は米語の俗語で女性の乳房を意味する。つまり、「オッパイ丸」という感じになるのである。
「……我ガ帝国ガ誇ル代表的客船ガ斯《カ》カル卑語ヲ船名ニ冠スルハ、当《マサ》ニ帝国ノ威信ヲ失墜スルモノト在留邦人ハ挙ゲテ痛憤措ク能ハズ、無念ノ涙ニ暮ルルモノニシテ……」
支店からは激烈な語調の電報が相次ぎ、逓信省もなっとくした。昭和十三年四月、改正二カ月後に「秩父丸」だけは例外として、もとのヘボン式にもどったが、すると陸軍から通達がきた。
挙国一致の非常時体制下において、たかが船名に欧米流を固執するのは時局認識に欠くること甚だしいものがある、断乎として日本式表示にもどせ、というのである。
日本郵船は弱り、折衝の時間かせぎをこころみて日を重ねたが、ついに、いっそ別名にしてしまえ、ということになった。「鎌倉丸」に変更する旨届け、その理由をたずねられた船客課長永島義治は、とっさに答えた。
「鎌倉は、日光、箱根などとならんで外国人にもなじみ深い地名ですが、同時に、いざ鎌倉というように、非常時にふさわしい意味もあると思ったからです」
うむ、その精神よろしい――と、逓信省から連絡をうけた陸軍側担当官はうなずき、「秩父丸」は昭和十四年一月十八日、「鎌倉丸」と改名された。
河合運転士は、いざ、鎌倉、という栗田船長の言葉に、以上のような船名改変の経過を思いだしたわけだが、栗田船長がそういったのは、ただ野村大使運送の任務と照合して、奇《く》しくも改名の根拠にした非常事態の発生とみなしただけではなかった。
おりから、夜来の雨は晴れあがり、東京も横浜も晴天であったが、低気圧が房総半島の南岸をかすめて東進している。予定どおりに出港すれば、ちょうどその低気圧の下端を横切ることになり、相当のシケが予想された。
栗田船長としては、野村大使が乗船することを考え、出港延期も検討したが、大使の赴任日もきまっているので、決心を固めて出港を運転士たちに下令したのである。
――午後三時、
「鎌倉丸」は、ドラの騒々しい響きで見送り人を退去させたあと、甲板と岸壁をつなぐ無数のテープをひきちぎりながら新港埠頭をはなれた。
見送り人をのせた約二十隻のランチ、小汽船が港口まで「バンザイ」の声をのせて随伴し、港内の船舶はいっせいに汽笛を鳴らし、「WAY」(安全ナル航海ヲ祈ル)の旒旗信号をマストにあげて、「鎌倉丸」を歓送した。
浦賀水道をぬけ、房総沖を東に進んだが、予想どおり、近海はなかなかのシケぶりであった。
荒天は翌日いっぱいつづき、ようやく二十五日朝、海は静まり、空は青く晴れわたった。それまで船内にこもっていた船客たちも、広々としたAデッキ(遊歩甲板)にあらわれ、船旅につきもののデッキ・ビリヤードをはじめた。
野村大使もデッキチェアに寝そべり、船客たちのビリヤード競技を眺めていた。微笑をたやさず、「イルカだ」という声に船客たちが舷側に走りよっても、大使は動かず微笑していた。
さすがに提督だ、慣れておられる、と感服した河合運転士は、かねて野村大使が運転士の出身校である和歌山中学の大先輩であることを想い、ひとときの歓談の機を得て、「人世の大先達《だいせんだつ》」から教訓を得たい、と思った。
随員を通じて大使に依頼すると、大使は快諾してくれたので、河合運転士は刀弥次席一等機関士と一緒に大使の居間を訪ねた。
「長官、と私らは大使をおよびしましてね。かつて横須賀鎮守府司令長官だったからではなく、風格はどうしてもそこらの外交官ではなく、大提督そのものです。提督というのもいい慣れないし、長官、というのがぴったりだった」
河合運転士はそう回想するが、野村大使は、長官、と呼びかける運転士に気軽に国際情勢を説き、運転士が説明する海運事情に、ほう、ふむ、とあいづちをうちながら、耳を傾けた。
運転士たちは、ようやく話題もつきかけたころ、チラと視線を交差した。おそらく、誰もが考える質問を用意していたからで、河合運転士が口を開いた。
「長官、横浜の見送りの様子からみても、日本じゅうが日米関係の行方を見守っていると思います。長官の御使命はそれだけに大変だと思いますが……。
ぶしつけですが、ワシントンでの御交渉は日本に有利に展開し、日米間の感情のこじれが氷解するでしょうか」
野村大使は、運転士の発声のひとくぎりごとに軽くうなずいて聞いていたが、運転士の言葉が終ると、すぐ返事した。
「まず、フィフティ・フィフティ(半々)というところだろうな」
有難うございました。と運転士たちは眼を輝かして敬礼し、野村大使の部屋を出た。
半々、は確率五十パーセントを意味する。
運転士たちは、野村大使が胸中にそれだけの成算を保有している、と判断したのである。そして、野村大使自身も、少なくともそれくらいの希望はもてると思っていた。
好天と平穏な海上に変化はなく、おだやかで明るい航海もまた、野村大使のいくぶんかの楽観をさそったのかもしれない。
「鎌倉丸」は、なめらかに航海をつづけた。
横浜、ホノルル間三千四百五十カイリを、「秩父丸」としての処女航海では七日十五時間三十分で航走したが、一般には八日二時間が航海定時になっている。
その定時にあわせるべく、「鎌倉丸」は、一七・五ノットの速力を維持しながら、明るく温かな南海をすすんでいった。めったに行き交う船影もない。文字どおりに大洋に浮かぶ孤舟であったが、船内には単船で渡海する淋しさはなく、映画、音楽会、余興など、用意された娯楽がさそう笑声と喜声がたえなかった。
野村大使も、ときには浴衣姿で日本間のスキヤキ鍋にむかったり、隻眼《せきがん》を細めて海波を望見しながらの散歩を楽しんで日をすごしていた。
運転士河合弥は、たまに遊歩甲板で野村大使をみかけると、そのたびにおぼえた名前を呼んで会釈してくれる大使に、かえって身をこわばらせて黙礼した。
フィフティ・フィフティだな――という大使の言葉が思い浮かぶからである。
五十パーセントの確率とは、期待と不安を同量にさそう意味を持っている。「長官」と河合運転士は野村大使に呼びかけたが、艦隊を指揮する「長官」であれば、あるいは大使はそういう表現はしなかったかもしれない。
「長官」としての出陣なら、作戦計画の用意もあるし、使命の範囲も明確であろう。かりに敵情が不明であっても、随時の索敵、臨機の措置、微妙な戦機の把握で勝利のチャンスを求め得る。責任のとり方も自明である。
だが、大使は、ちがう。同じく“陛下の官吏”として国運の動向に結びつく責務をになうとはいえ、職場は直接に生死がわかれる戦場ではなく、外交交渉は転瞬に勝敗の結果がもたらされる戦闘とは相違する。
戦意といい、信念といい、戦闘にも無形の力は作用する。が、同時に戦闘は物理的力がものをいう。
外交には、それがない。戦さが鉄と血の闘いであるなら、外交は完全に智と情の闘いであろう。
その意味で、戦争には圧倒的な武器が求められるが、外交には求め得ないはずである。
外交の分野でも、優勢な国力や政治情勢を背景にほぼ一方的に相手を圧倒できるときもあるが、その場合は交渉ではなく、強制になる。
そして、野村大使にその立場は与えられていない。
してみれば、大使がいう「フィフティ・フィフティ」は、半量の成算を意味するよりは、もともと事前に確算を持ち得ない外交の本質を指摘し、それゆえの胸中の悩みを、告白していたのかもしれない……。
河合運転士は、大使との対話のあとでそう思いつき、むしろ、まばゆく平安な航跡も、大使にとっては気重な旅の道程かもしれぬと同情に似た感激をいだくようになっていたのである。
――だが、
野村大使が「フィフティ・フィフティ」といったのは、あるいは河合運転士が想像したのとはまた別の予感をさそわれてのことであったかもしれない。
もし、「フィフティ・フィフティ」をあえて「五分五分」の交渉と解釈すれば、大使の発言はまさにそのご、ワシントンで大使がそうぐうする環境を暗示することになり、現にその悲境を約束する事態がすでに形成されていたからである。
ワシントン時間一月二十三日――といえば、ちょうど出港二日目で「鎌倉丸」は低気圧通過後の荒浪にもまれていたが、そのころ、ウォルシュ司教とドラウト神父は、ウォーカー郵政長官の紹介でルーズベルト大統領に会っていた。
ハル国務長官も同席したが、二人の神父は「松岡外相およびその補佐官たちが概説したメッセージ」を大統領に示し、ドラウト神父が東京での体験を報告した。
「日本政府は、公式には、ルーズベルト大統領による米国の経済的圧迫と軍備促進が政治的成果をあげ、日本がいまやその国際的立場の変更を求めざるを得なくなったことを認めることはできない。現在の日本政府の対内的立場は、一九三一年ドイツのブリューニング内閣に似ている。日本国民は、極右主義者との闘いに負けるよりは、支那で敗北したほうがよいと思っている……」
といった調子ではじまる「メッセージ」は、日本政府が米国と協定を結べるならばこれまでの政策と方針を大幅に変える意思があることを、告げていた。
たとえば、「大東亜共栄圏」構想は、日米の共同保障でフィリピン、香港、シンガポール、マレーの現状を維持する「極東モンロー主義」に変えられる。日独伊三国同盟についても、「日本は条約の戦局拡大の原則をドイツ側に主張」して、対ヨーロッパ戦不参加を約束する、という。
支那事変も、日支が極東における対共産主義闘争のパートナーになって、完全な門戸開放を保障する形で解決が可能であり、日米間には「特定の基礎物資、重機械などの輸入をふくむ互恵通商条約」を結びたい、と「メッセージ」は述べている。
ドラウト神父は、「メッセージ」の中で、“日本の穏健派の代表”として名前をあげている「近衛公爵、松岡外相、有馬頼寧《よりやす》伯爵、武藤章少将」などとの会談の様子を語り、いずれもまじめに日本の「過去の修正」を考えていると伝えた。
ルーズベルト大統領とハル長官の反応は、しかし、丁重ではあったが、冷たかった。
太平洋の平和を維持できるものであれば、どんなチャンスも見逃すべきではない。大西洋を越えてヒトラー主義の脅威がせまっている以上、太平洋側の平和を確保するのは絶対に必要なことである――などと、ルーズベルト大統領はウォルシュ司教から「メッセージ」をうけとりながら、儀礼的な挨拶を述べたが、ハル長官は、はっきりと二人の神父に、消極的な態度を示した。
「この“メッセージ”のような提案は、じつは日本の自由主義グループから何度か聞いたことがある。しかし、彼らの意思がどうであれ、力は軍部にくらべて弱すぎますな。この“メッセージ”にしても、マツオカや日本の政府当局が世界にむかって公言している話とは、あまりにちがいすぎるようだ」
「さよう、そこがポイントですぞ」
ドラウト神父は、ハル長官を直視して重々しくうなずいた。
日本の“穏健派”は力が弱い。しかし、もし彼らの手に米国が平和の鍵を与えるならば、彼らはその鍵で国民の支持という強力な武器がはいっている部屋のドアを開けられるのである。彼らが「メッセージ」に述べているような「真意」を公表できないのは、まさに力がないからにほかならない。
ドラウト神父は説き、ハル長官も軽く肩をすくめて答えた。
「お二人が純粋に個人的な立場で、たとえば日本大使館筋と連絡をとっていただけるならば、われわれにとっても有難いことです。
しかし、われわれとしては、新しい日本大使ノムラがワシントンに着くまでは、なにもできませんな」
ルーズベルト大統領も「メッセージ」は慎重に検討させていただく、と謝意を表して会談を終えた。
ウォルシュ司教の手記によれば、ルーズベルト大統領とハル長官は、さらに二人の神父に「こんご実質的な交渉が開始されるさいも協力願いたい」と依頼した、という。
はたしてルーズベルト大統領またはハル長官が、そのとおりの表現で二人の神父に協力を求めたかどうかは不明だが、二人の神父が会談を成功とみなし、一段と日米交渉の準備工作にはげむ熱意を高めたことは、まちがいない。
そして、二人の神父が大統領と国務長官に伝えた提案は、国務長官が指摘したように、日本政府の姿勢とはおよそかけはなれており、野村大使が松岡外相からうけた訓令ともひどく相違する。
その意味では、野村大使の前途には、二種類の外交路線の設定という困難な外交事情が用意されはじめたわけだが、この二人の神父がホワイト・ハウスを訪ねた一月二十三日には、さらに野村大使の使命に重大影響をおよぼす環境が誕生していた。
神父たちが大統領の部屋を出て間もなく、一人の海軍士官が大統領を訪れた。茶色の革カバンをかかえている。
大統領は、そのカバンを渡されると、机の引きだしから小さな鍵をとりだしてカバンをひらき、黄色い紙片をつまみだすと、士官に声をかけた。
「これが、あれか」
「イエス、サー」
士官は低く答え、やがて大統領が紙片の文章を読み終ってカバンにもどし、また鍵をかけるのを待ってうけとり、退出した。
あれ――と大統領が呼称したのは、日本外務省が使用する機械暗号の解読文である。
米国は、日本の外交暗号にかんしては、かつてワシントン軍縮会議当時にその解読に成功していらい、とくに陸海軍が中心になって解読の努力をつづけてきた。
むろん、日本側としても、米国だけでなく外国側に暗号を解読されることは外交の致命傷になるので、改良と防諜に留意している。
そして、外務省は、海軍技術部の協力を得てそれまでの暗号機械の常識を破る新型式の暗号機「九七式印字機」を完成していた。
米国側がこの新式暗号機の存在に気づいたのは、一九三八年(昭和十三年)だが、海軍省通信保安課長ローレンス・サフォード大佐は、最初に日本海軍暗号の変化を知り、次いで外交暗号が同種のシステムらしいことを察知した。
同年末、海軍省通信局長C・コートニー少将と陸軍省通信局長J・モーボーン少将との間に、この日本の新暗号機械“攻略”の協定が結ばれた。海軍が過去の日本の暗号機械の資料と傍受電を提供し、陸軍がそれを利用して新暗号のシステムを解き、暗号機械を作製する……。
モーボーン少将は、解読班長ウイリアム・フリードマン大佐に仕事を命じた。
フリードマン大佐は、仕事は格別に困難だとは思わなかった。暗号機械の原理は、複雑なものではない。歯車と軸盤を組みあわせ、モーターで動かして乱数表の作用をさせるのである。暗号をまず解読し、そのシステムにあわせて機械を作ればよい。
暗号文の採集も、容易である。外交文書は互いに相手の提案をそのまま引用しながら、自分の意見を述べる形をとることが多い。米国側がなにかを提案してテキストをわたしたとき、日本大使館の東京あて電文、東京から大使館あての電文をキャッチすれば、発信、受信双方の暗号システム解明の手がかりが得られるわけである。
ところが、作業を開始して三週間で日本の外交暗号システムの約二十五パーセント、十八カ月間で約七十五パーセントを理解したが、それ以上の進展は至難となった。ふつうなら、七十五パーセント程度までわかれば、あとは自動的にすすむのだが、組みたててみた暗号機械は、どうしてもそれ以上の解読機能を発揮しない。ついに、フリードマン大佐は強度のノイローゼになり、あきらめかけたが、一九四〇年八月、部下の一人H・クラークがつぶやいた。
「もしや、サルどもは軸盤の代りに切り換えスイッチを使っているんじゃないだろうか」
このクラークの思いつきは的確であった。「九七式印字機」は、それまでの暗号機械とはちがい、歯車や軸盤は使わず、電話交換台のようにコイルと回線と切り換えスイッチを利用して、暗号化用と解読用の二台にわかれていた。
フリードマン大佐は、クラークの発想を疑問視したが、十セント・ストアで部分品を買い集め、クラークのアイデアにしたがって機械を組みたててみた。結果は、成功であり、大佐が錯乱状態になるまで脳を酷使してもわからなかった“二十五パーセントのナゾ”が、一気に解けた。
回線の調整、キー暗号の発見とその組み替え方式その他の細かい調節をすませ、最初の完全な解読文が入手できたのは、一九四〇年(昭和十五年)九月二十五日、ちょうど二人の神父が日本を訪れる二カ月前である。
次いで、ワシントン海軍工廠暗号通信作業部に機械製造が依頼され、“バズ”と呼ばれる電気主任と通称“トム”の電気工の二人が、それぞれの仕事の合い間に作業を分担して十一月初旬に四台を完成させた。
海軍は、海軍省の通信保安課解読班長L・パーク少佐の部屋に機械を置き、陸軍は陸軍省通信課長S・エイキン中佐の部屋の隣に特別室をつくって設置した。
日本側の電文傍受は、「東京――ワシントン」交信は、海軍のベインブリッジ島S通信所と陸軍のプレシド(サンフランシスコ)MS2通信所、「東京――ベルリン」「東京――モスクワ」交信はフィリピンのキャビテ軍港通信所が担当した。
傍受した電文は、海軍はTWXテレタイプでワシントンに送られるが、陸軍はパンアメリカン航空機で毎週一回輸送された。
解読は、陸軍が偶数日、海軍が奇数日を担当した。作業時間は陸軍は月曜日〜金曜日は午後四時半、土曜日は午後一時までの一般官庁なみの勤務体制としたが、海軍は通信保安課長サフォード大佐が主張して、三交替二十四時間勤務を実行した。
解読された日本外務省の外交暗号は“パープル”(紫)、暗号解読工作および機械は“マジック”(魔法)と呼ばれ、最高機密扱いとされた。
この“マジック”情報に接近できる者は極度に制限され、陸軍は陸軍長官H・スチムソン、参謀総長G・マーシャル大将、参謀本部作戦部長L・ジロー少将、情報部次長S・マイルズ准将、同極東課長L・ブラットン大佐の五人であった。
海軍は、海軍長官F・ノックス、作戦部長H・スターク、作戦部戦争計画局長R・ターナー少将、情報部長R・インガソル大佐、同極東課長A・マカラム中佐、同日本班長E・ワッツ少佐の六人である。
解読文の配布は、陸軍は極東課長ブラットン大佐、海軍は保安課長A・クレイマー中佐が責任者となり、カギつきの革カバンにいれて持参し、必ずその場で読み終るのを待って回収した。
参謀総長マーシャル大将は、“マジック”を確実に国防に役立たせるためには、決して政治家や不必要な職務者に見せないことだ、と海軍側を説得し、以上の十一人以外には閣僚にも知らせないことにした。
しかし、ノックス海軍長官とスチムソン陸軍長官は、大統領にも報告しないのは「非アメリカ的」だと主張して、マーシャル参謀総長も大統領、国務長官の二人を配布リストに加えることに同意した。
一月二十三日の午後、奇数日なので海軍のクレイマー中佐が“マジック”電報を大統領に届けたのは、その第一回の配布であった。
なぜ、一月二十三日からになったのか――理由は不明であるが、その時期は野村大使の赴任に合致している。
国際関係において、暗号解読がどれほど外交交渉に影響するかはいうまでもない。手のうちを知られ、その事実を知らずに交渉する不利はあまりにも深刻であり、致命的という形容も誇張ではない。
ワシントンは、二人の神父がこころみる民間外交がやがて野村大使の“手械《てかせ》”になるとすれば、さらに苛酷な暗号解読という“足械”も用意して、大使を待っていたのである。
野村大使は、そのような消息はなにも知らない。
海上はいぜんとして平穏のままで、次第に気温が上昇してきた。船客たちは夏姿に着替え、野村大使もまっ白な麻服を着た。
ホノルルに着く三日前、「鎌倉丸」は米太平洋艦隊司令長官J・リチャードソン大将名の電報をうけとった。ホノルル入港のさいは駆逐艦二隻を出迎えにさしむけるので、船位、速力、針路を教えてほしい、という。
指示どおりに打電すると、その翌日午前八時、二隻の駆逐艦があらわれて、一隻は「鎌倉丸」の前方約千五百メートル、一隻は右後方約千メートルに占位して、同航した。
甲板から船客たちはさかんに手をふったが、二隻の駆逐艦は号笛も鳴らさず、静かに、しかし、ぴたりと「鎌倉丸」の前後をはさんで航走しつづけた。
ホノルルの歓迎は、盛大であった。
二隻の駆逐艦は、ホノルル港外に達すると、はじめて汽笛を二回吹鳴して別れを告げ、右舷沖合いに反航して行った。代りに一隻のランチが「鎌倉丸」を埠頭に先導し、「鎌倉丸」は三十一日午前九時二十分、第八桟橋に着岸した。
埠頭は、日の丸をふる日系市民と見物きぶんの米市民、それに無表情に見守るカナカ人たちで埋められ、野村大使が甲板に姿を見せると、バンザイ、バンザイと日系市民は歓呼した。
太平洋艦隊司令長官リチャードソン大将は、情報参謀E・レイトン少佐を大使の接伴員に任命していたが、「鎌倉丸」の到着とともにレイトン少佐の先導でタラップをあがってきた。
野村大使は舷門まで出迎えた。リチャードソン大将がタラップをのぼりきって野村大使の前に立つと、その一瞬にあわせて埠頭で待機していた軍楽隊長の指揮棒がひらめき、「君が代」が演奏された。
埠頭の市民たちも、野村大使も、甲板の船客、船橋の河合運転士も、直立不動の姿勢で国歌の吹奏を聞いた。船橋から見下ろす河合運転士は、埠頭で涙ぐむ日系市民を何人も見た。
あとで見学に乗船してきた日系市民の一人は、日米関係の悪化にともなってめったに「君が代」も聞けない、まして米国側の高官も一緒になって日本国歌に敬意を表するなど、夢にも思わなかった、と感動して、河合運転士に語っていた。
「君が代」につづいて米国国歌も演奏され、それが終ると、野村大使は旧知のリチャードソン大将に破顔して近づき、にぎりしめた手を何度もふり動かした。
「駆逐艦の派遣を感謝する。こんな歓迎をうけた大使は、私がはじめてだろう」
「ノー。これは大使用の歓迎ではない。本官の友人であり、同じ提督である貴下にたいする敬意だ」
リチャードソン大将は、野村大使の右手をにぎり返して答えた。その夜、ホテル「ロイヤル・ハワイアン」で商工会議所主催の野村大使歓迎夕食会が開かれた。リチャードソン大将は、いったん官舎に帰って純白のタキシードに着かえて、ホテルにやってきた。
すると、玄関にレイトン少佐が待っていて、ワシントンからの電報だ、という。緊急信か、とたずねると、いや、情報部あての参考用だが興味深いものですから、と少佐は告げた。リチャードソン大将は、あとでもよかったのに、とつぶやきながら電文をいちべつしたが、すぐ眼をこらして再読した。
電報は、グルー駐日大使が一月二十七日付で国務省に打電した報告の転電であったが、グルー大使は次のように述べていた。
「駐日ペルー公使(R・シュリーバー)が当大使館員(一等書記官E・クロッカー)に語ったところによると、日本軍は米国との紛争発生の場合は、全軍事力をあげてハワイ真珠湾(基地)を大部隊で奇襲する計画をたてている……」
拍手がひびき、野村大使がホテルに到着したのを知ると、リチャードソン大将は電文をレイトン少佐に返したあと、小走りに大使に近づき、緊張した声で野村大使を呼びとめた。
――提督。
リチャードソン大将の声にふりかえり、満面の親しげな微笑をうかべて右手をさしだす野村大使を見て、しかし、大将は口ごもった。
グルー駐日大使の情報は、リチャードソン大将にとっては、ひどく印象的であった。
六日前、一月二十五日、リチャードソン大将は真珠湾にたいする日本海軍の攻撃法について、ノックス海軍長官に手紙をおくっていた。
前年の十一月十一日夜、英海軍航空部隊はイタリアのタラント港を奇襲し、雷撃でイタリア戦艦三隻を大破した。当時の兵術思想からすれば、航空機による敵基地内の艦船空襲は異常のことであり、各国の海軍は少なからぬ刺戟をうけた。
米海軍でも、事件の内容を検討し、ノックス長官は、日米戦争が起るときは日本海軍機による「真珠湾内の艦隊または海軍根拠地にたいする奇襲」で戦端が開かれるかもしれない、と考えた。
ノックス長官は一月二十四日、スチムソン陸軍長官にその旨の警告を伝え、陸軍側もハワイの空の守りに一段と留意してほしい、と要請した。リチャードソン大将は、このノックス書簡の通報をうけると、直ちに二十五日、考えられる日本側の真珠湾攻撃の態様として、次のようなことも予想できる、と長官に進言したのである。
「日本は、無警告攻撃をおこなうかもしれず、その攻撃はあらゆる手段による可能性がある。たとえば、ドイツまたはイタリアの国旗をかかげた水上艦艇、あるいはそれらの国籍をよそおう潜水艦による攻撃も考えられる……真珠湾口の閉鎖も可能である」
リチャードソン大将は、もともと米太平洋艦隊のハワイ・真珠湾駐留には反対であった。駐留は前年五月、日本を牽制するという政治的ねらいで決定されたが、リチャードソン大将は真珠湾が防衛上の欠陥がありすぎて危険であり、日本側を刺戟するとの理由で、ルーズベルト大統領にも直接反対意見を具申していた。
おかげで、リチャードソン大将は太平洋艦隊司令長官の辞任を求められ、ほかならぬ翌日、二月一日に新任の司令長官ハズバンド・キンメル大将と交代する。
それだけに、いま、離任の直前に、まるで自分の危惧を裏書するような情報が東京から送られてきたことにリチャードソン大将は感銘に似た感動をおぼえた。
「日本は、対米関係が最も困難な時期に海軍大将を大使に送りこんできた。きわめて暗示的ではなかろうか」
大将は、野村大使と別れたあと、感慨深げに情報参謀レイトン少佐にそうつぶやいたが、大将が大使を呼びとめたのも、とっさにその感慨におそわれたからである。
そして、リチャードソン大将は野村大使に警告するつもりであった。
大将は、ノックス長官あての書簡で指摘したように、真珠湾にたいする日本海軍の攻撃法としては、空襲よりも艦艇による攻撃、それも仮装艦船によるゲリラ的奇襲か、かつて日本海軍が日露戦争の開幕に実施した旅順港閉塞に似た襲撃をおこなう可能性がある、と判断していた。
しかも、その攻撃は、同じく日露戦争の勝例にならって「無警告夜襲」方式になるのではなかろうか。
「もし、日本海軍がそう考えているとしたら、それは日本にとってあまりにも不幸な時代錯誤だ。戦争そのものが不幸であるだけでなく、戦争の性質が変化したことを知らない不幸がつきまとう」
リチャードソン大将は、無警告戦争と夜襲がともに危険にすぎることを野村大使に警告しようと思った。第一次大戦でも戦争を犯罪とみなす発想が存在したが、このアイデアはそのご強化されている。まして無警告戦争をやれば、その国家と民族は長く犯罪者のレッテルをはられるだろう。また、米海軍は英海軍とともにレーダーを装備しつつある。海上における夜戦の有利性はすでに失われようとしている……。
だが、リチャードソン大将は、野村大使の笑顔を見た瞬間に率直な勧告をすることを思いとどまった。
「なぜそのような気持ちになったかはわからないが、ノムラの顔をみたとき、私の胸中には、なにもかもすでにきまってしまっているのだ、運命は変えられない、という想いがこみあげた。どんな形にせよ他国に自国が持つ優位を告げるのは国家にたいする反逆行為になるという反省ではなく、もっと動かし難い大きな力を感じたような心境だった」
リチャードソン大将は、そこで、一瞬時に双眼の光をやわらげ、野村大使の右手をにぎりながら、いった。
「閣下、忘れないうちにお伝えしておきたいが、元駐日武官のE・ザカリアス大佐がサンフランシスコで閣下をお待ちしています。機会があったら会ってやって下さい」
「おお、エリス・ザカリアス……おぼえていますよ」
野村大使は、ザカリアス大佐が重巡「ソートレーク・シティ」艦長として乗艦修理のためサンフランシスコ郊外のメア・アイランド工廠にいること、大使の赴任を知ってリチャードソン大将に伝言してきたことを聞くと、なつかしそうに答えた。
その夜、リチャードソン大将は、全米海軍将兵を代表して野村大使を歓迎し、その使命達成を祈念する、と心からの熱意をこめた祝辞を述べた。
「私は四十二年前、少尉候補生としてハワイに来た。いま、外交界の少尉候補生として再びハワイに上陸したが、私の印象と信念に変りはない。日米両国はつねに友好国であるという印象と、両国の間に解決できぬ問題はないという信念である」
野村大使も、率直な口調で答辞して、周囲の人々に一人ずつ握手しながら、ホテルを出た。リチャードソン大将は玄関に立ち、野村大使の車が暖かいハワイの夜気の中に消えるまで見送っていた。
野村大使は「鎌倉丸」にもどり、「鎌倉丸」は午後十時ホノルルをはなれ、サンフランシスコにむかった。
航海は、ホノルルまでと同じく平穏と好天に抱きかかえられたままで、なんの異常もなかった。
強いて変化をさがせば、サンフランシスコに近づくにつれて海風も冷たくなり、船客二人がカゼをひいたことである。
運転士河合弥は、ホノルルでの野村大使歓迎ぶりに感激し、デッキですれちがうときの大使に、一段と丁重さをこめた目礼を送っていた。ホノルルを出発するとき、サンフランシスコでもホノルルにまけぬ歓迎を用意しているというニュースが伝えられた。
さすがは「長官」だ、これで米国の日本にたいする認識は一変するにちがいない――と確信できるからである。
そして、このおぼろげな河合運転士の予感は、「鎌倉丸」がサンフランシスコに近づくにつれて、次第に現実化する気配を濃くしていた。
たとえば、二人の神父のワシントン“工作”であるが、その進展は意外に早く停滞しようとしていた。
ドラウト神父は、ルーズベルト大統領と会見したあと、一月二十五日に「大統領訪問の結果、有望。進展中。展開期待せられる」と井川忠雄理事に平文で打電した。井川理事は、近衛文麿首相、松岡洋右外相、武藤章陸軍省軍務局長に連絡した。
井川理事からドラウト神父の数語の報告を伝えられた三人は、それだけではなにが有望でなにが進展しているのかわからない。ほう、あるいは、なるほど、と無意味なうなずきを井川理事に示すだけであった。
ただ、近衛首相は、興味をもったとみえ、井川理事が渡米して二人の神父に協力したいというと、即座に同意した。しかし、それ以上の支持は約束しない。おかげで井川理事はドラウト神父に折り返し渡米の意向を返電しながら旅費の工面に頭を悩ますことになった。
井川理事の電報をうけとった二人の神父は、ウォルシュ司教がウォーカー郵政長官に手紙を書き、「われわれは、日本政府が信頼すべき代表一人を派遣するという連絡をうけました」と連絡した。ウォーカー長官は司教の手紙をルーズベルト大統領にとどけた。
ルーズベルト大統領は、二人の神父と会見したさいに受けとった『覚書』を、「どうすればよいと思うかね?」という添え書をつけてハル国務長官に渡していたが、こんども「それでどうしようか?」とのメモを添付して国務長官にまわした。ハル国務長官は、二月五日、「鎌倉丸」がサンフランシスコに入港する前日、ルーズベルト大統領に返事した。
国務長官は、簡単な一文と、ホーンベック政治顧問とハミルトン極東部長が起案した詳細な分析を大統領に提示したが、その結論は次のようなものであった。
「……現段階では、日本政府および日本国民がそのような路線の調整を誠実にうけいれる可能性はほとんど、あるいはまったく無いとしか思えない。また、本官が観察するところでは、たとえわが(米国)政府の仲介で日本が支那から手をひく取り決めができたとしても、日本はその現在の侵略路線を平和路線に変えるよりも、さらに南方にたいする侵略の歩度を拡大かつ促進させる可能性があるとみられる。
しかし、われわれとしては、現在のコースを変えようと努力している日本人を失望させるべきではない、と考える。新駐米大使のノムラ提督は近く当地に到着する。彼はなんらかの提案または示唆を提示するかもしれない。
……そこで、本官としては、われわれがノムラ大使と話しあう前、また東京のグルー大使を通じて仕事ができる間は、その他の代表または連絡に頼るべきではないと考える……」
要するに、外交は正式な外交ルートと外交官を通じておこなうべきであり、二人の神父は相手にしたくない、というのである。
実際には、二人の神父の活動はなおもつづき、やがては正式の外交ルートもまきこんで発展するのだが、この段階では米国務省は“神父工作”には冷淡な姿勢をみせた。この国務省側の態度は、公式の外交代表としての野村大使を迎える儀礼にかない、野村大使にとっても、任地で自分より先に非公式人物が動いている不快な事実にそうぐうせずにすむことになる。
その意味で、また裏面の事情を知らないだけに、野村大使は米国側の歓迎を率直にうけとめ、より一層の責務を自覚する心境であったが、大使のそういう感慨はサンフランシスコ到着後、ますます深みを増していった。
「鎌倉丸」は、二月六日午前九時、サンフランシスコに入港した。
ホノルルのときと同様、港外三十五カイリに二隻の駆逐艦が出迎え、金門橋の間近にさしかかると陸岸の基地から十九発の礼砲が発射された。
埠頭には数百人の在留邦人のほか記者団、「パラマウント」「ユニバーサル」「ワーナー・ブラザース」「RKO」「二十世紀フォックス」など映画会社のカメラも放列していた。
宿舎「フェアモント・ホテル」のロビーには、わざわざ桜花が飾られ、その夜「マーク・ホプキンス・ホテル」で開かれた歓迎会では、参会者が日本語で「バンザイ」を三唱して野村大使を迎えた。
野村大使は歓迎陣の中の第十二海軍区司令官A・ヘバーン少将を見つけると、リチャードソン大将に教えられたE・ザカリアス大佐に連絡してほしいと依頼しておいたが、ザカリアス大佐は、七日午前十時、ホテルを訪ねてきた。
「おどろいたことに、ノムラ提督は私を見ると、側近者に座をはずすように命じた。これは日本の伝統的な慣習に反する親密さの表現であった」
ザカリアス大佐は、野村大使との再会の第一印象をそう回想しているが、大使と大佐とは、かつて大使が海軍省先任副官のころ、ザカリアス大佐が日本語研修のために訪日していらいの知り合いである。
野村大使は、米国には胸襟をひらいて語れる友人が二人いる。一人は元海軍作戦部長W・プラット大将、もう一人は貴下だ、とザカリアス大佐の肩をたたいた。昔、若いザカリアス大佐とともに新橋の小料理屋で痛飲したころを想いだす、とも大使は、いった。
ザカリアス大佐は、感動した。自分でできることはなんでも申しつけてほしい、と述べた。そして、野村大使と約一時間半にわたって、日米両国をとりまく政治、軍事情勢について話しあった。
野村大使の手記によれば、この会話のさい、ザカリアス大佐は「満州は大体現状のまま、支那は各国にたいして商業の均等を旨とし、なおまた日本が仏印およびタイに余り積極的に出ず、概ね現状を根本として日米両国の諒解が出来ざるものなりや」と、野村大使に提案した。
ザカリアス大佐によれば、野村大使は「おどろくべき率直さ」で語り、とくに次の三点を強調した。
1、自分の使命は、日米両国が現在の対立を武力で解決しようとするのを防止することにある。
2、日本は支那にたいする考えを完全に変え、いまや早期和平こそ(日支)両国にとって緊急事であると信じている。
3、(日独伊)三国同盟は、国内の意見が対立し、わずかに賛成派が力を得た関係で締結されたものである。過ちはすぐ理解されたが、現在ではどうにもならぬ。自然消滅させるべきである。
野村大使はまた、ザカリアス大佐が日米戦争の可能性についてふれると、沈痛な表情で答えた。
「米国との戦いは、日本帝国の終焉《しゆうえん》を意味するだろうね」
ザカリアス大佐は将官への昇進にそなえて艦長勤務についているが、元来は情報将校であり、日本海軍の暗号解読に重要な成果をあげてきた。その日の訪問も、だから、たんなる挨拶ではなく、注意深く用意した質問を慎重に会話にはさみ、大使の構想と意図をさぐりだす情報活動であった。
ザカリアス大佐は野村大使との会談を終えると、直ちに報告書を作成し、スターク海軍作戦部長とキンメル太平洋艦隊司令長官に送付した。
キンメル大将からは返事が来なかったが、スターク大将からは、報告書を大統領に届け、コピーを海軍情報部、ハル国務長官、ノックス海軍長官に送った、と連絡してきた。
野村大使は、しかし、ザカリアス大佐がひたすら旧知の大使を激励するために来訪したものと信じていた。大佐は、もし必要ならワシントン転勤を申請して大使を援助したい、といい、大使は「好意は感謝に余りある」と謝辞を述べた。
好意――は、さらに感得されつづけた。
野村大使は、八日午後四時十五分、オークランド発の特急列車「ザ・シティ・オブ・サンフランシスコ」で、ワシントンにむかって出発した。
この汽車の旅の間、列車がとまる駅には必ず在留邦人が集まって、野村大使を「バンザイ」で出迎えた。九日朝、列車がユタ州オグデン駅に停車すると、氷がはったプラットフォームに約百人の日系市民が整列し、大使に花束を捧げた。
その夜、ワイオミング州チエンに着くと、まさかと思う深夜の駅頭に約三十人の邦人が直立して待っていた。花束をさしだし、おずおずと寿司、果物の箱を捧げながら、口々に、ご苦労さまであります、と大使に声をかけた。
野村大使は、涙を流して贈物をうけとった。日本を出発するとき、新聞には『日米戦はば』などという題名の著書の広告が登場し、米国内でもいくつかの都市で米婦人が日本製絹靴下を焼いて反日感情を誇示した、と報道されていた。在留邦人がどんな心情で毎日を送っているかは、よくわかる。
その思いが、邦人たちを夜のプラットフォームに立たせ、心づくしの寿司の一折りを捧げて大使の健闘を祈念させているのであろう。
「皆さん、ありがとう。自分は全力をつくすが、どうか、皆さんもこのさい、国法を守って落ちついて各自の業にはげんでもらいたい。自重自愛して下さい」
野村大使は声をつまらせて挨拶し、もう結構です、早く帰って休んで下さい、と邦人たちをうながした。が、三十人の邦人男女は、黙々と立ちつづけ、列車が動きだすと深々と頭を下げて見送った。
「ありがたいことだ。これほど、日米両方から期待と支持を寄せられるとは、夢にも思ってみなかった」
野村大使は、しみじみと同行する若杉要顧問に語ったが、九日午前九時半、シカゴに到着して汽車をのりかえたあとも、大使を迎える歓声は各駅ごとにつづいた。
――だが、
二月十一日、紀元節の朝九時、ワシントンのユニオン・ステーションに到着したとき、野村大使は駅頭を吹きぬける冬風の冷たさだけでなく、米国側の心理的冷却ぶりを、あらためて感得せざるを得なかった。
ホノルル、サンフランシスコ、そして鉄道沿線で味わった情感の温かさを感じさせるものは、なにもない。
出迎え者の数は、数百人をこえていた。バンザイ、の連呼はプラットフォームにこだまし、子供たちがふる日の丸の小旗が波騒のようにゆれている。盛大な歓迎である。
だが、米国側の出迎えは、わずかに国務省のハミルトン極東部長と儀典課長G・サマリンだけである。
十八日前の一月二十四日、新駐米英国大使ハリファックスが着任したとき、米国側は、ハリファックス大使が戦艦「キング・ジョージ五世」でやってきたこともあったが、ルーズベルト大統領はノックス海軍長官、スターク作戦部長とともに大統領専用ヨット「ポトマック」で、ハリファックス大使を迎えている。
ハリファックス大使は元外相だが、野村大使も元外相であり、海軍大将である。それなのに、一方は大統領と海軍首脳部が迎え、他方は国務省の二人が迎えるのでは、いささか格差がありすぎる。それとも、すでに歓迎はホノルル、サンフランシスコですんだというのであろうか。
おまけにプラットフォームにはトムゼン駐米ドイツ大使代理とロッシロンギ駐米イタリア大使館参事官が、立っていた。すかさず、報道陣は大使とならべてカメラをむけた。翌日の新聞には、「ワシントン駅頭における枢軸国代表の示威」と皮肉な見出しの記事が発表されるが、野村大使としては、同盟国の代表の出迎えを拒否するわけにもいかない。
大使は丁重に挨拶して、マサチューセッツ街の日本大使館にむかったが、ワシントン駅の零囲気は複雑な感慨をさそったとみえ、車中ではむっつりとしてすごした。
そして官邸に落ちついたあとも、館員の紹介をうけると、広い前庭に出て、軍艦上で軍艦旗を仰ぐように二階のバルコニーにかかげられている国旗を見上げながら、しばし、黙然《もくねん》と立ちつくしていた。
ワシントンの冬は、寒い。とくに早朝は、冷雨に似たモヤがたちこめ、寒気は老齢者にはひとしおである。
野村大使は、しかし、東京の朝と同じく、ワシントン到着の翌朝もはやばやと起床して、冷たい朝モヤに包まれる庭を深呼吸しながら散歩した。
朝食は、好物のヒジキの煮つけ、焼ノリ、味噌汁、米飯と指定してある。食堂に用意がととのうと、大使は健啖《けんたん》ぶりを示して、おかずは全部たいらげ、ご飯は三杯もお代りした。
大使として着任した当座は、多忙な日がつづく。任国の元首に信任状を捧呈し、政府要人に挨拶するほかに、これはと思える財界、言論界その他の主要メンバーや外交団との社交もあり、在留邦人の幹部にも会わねばならない。
また駐米大使館の陣容も、交代期にそうぐうしていた。
幹部要員である公使、参事官、書記官のうち、参事官はこれまでの一等書記官井口貞夫が昇格するが、ほかの公使若杉要、三人の二等書記官松平康東、奥村勝蔵、寺崎英成はいずれも新任者であり、若杉、奥村は野村大使と同行したが、他の二人の赴任は少しおくれる予定である。
そして、これら新任の館員の場合も、着任すればその地位に応じて各方面への挨拶まわりや連絡を必要とするから、野村大使も大使館も、しばらくは外交活動にそなえての“表敬”行事におわれるわけである。
野村大使が、まずは冷気を吸って気息をととのえ、朝食をたっぷりつめこんだのも、予定される忙事への用意ともみられたが、もっとも、野村大使にしても、格別に急ぐ仕事は思いあたらなかった。
大使館には、二月七日付の松岡外相の訓電が到着していた。その内容には、次のような章句がみられた。
「米国ハ日本ト戦争シ果シテ何ヲ獲ントスルヤ……仮リニ日本ヲ屈伏セシメ……苛酷ナル条約ヲ強ヒタリトスルモ、日本ハ恐ラク三十年ヲ出《イデ》ズシテ此ノ桎梏《シツコク》ヲ破ルベシ……」
「日米戦ハバ蘇聯(ソ連)ハ必ズ動クベシ。而《シカ》シテ仮ニ日本ガ米国ノ欲スル如ク全敗ストセバ、蘇聯ハ……忽チニシテ亜細亜ノ大半ヲ赤化スベシ……」
「……日米ハ……協調スベキナリ、然ルニ米国政治家最近ノ……目標ハ、恰《アタカ》モ米国ヲシテ全世界ノ警察官タルニ足ラシムル程度ノ大軍備ヲ整備セシムベシト云フニ似タリ……」
こういった評言は、そのごの歴史の推移と思いあわせるとき、感慨をさそうものがあるが、当時の松岡外相の訓電としては、要するにそのような判断ができるのだから、野村大使は大いに「大統領初メ朝野有力者」を説得してほしい、と指示していた。
訓電も、「米国朝野啓発ニ関スル件」と表題されている。大使が東京出発のさいにうけた訓令と同趣旨であり、いいかえれば、松岡外相は野村大使の使命を“PR活動”に限定していたわけである。
この点は、松岡外相がしばしば、対米交渉は自分が「ルーズベルト大統領と一時間も話せば」できる、しかし、自分以外の者ではできぬ、ともらしていたことと符合する。
松岡外相としては、いずれ自分が訪米するまでの“地均《じなら》し”工作を野村大使に求めていたと理解できるが、では、具体的にどのような方策を実行すべきかは、指示されていない。
その手法は、特命全権を与えられている野村大使に任されているのだが、野村大使にも格別の妙案があるわけでもない。とりあえずは、各方面に顔つなぎをしながら、その反応を検討することになる。
野村大使は、十二日午後四時、国務省でハル国務長官と会い、次いで十四日正午、ホワイト・ハウスにルーズベルト大統領を訪ね、信任状を捧呈した。
大統領は、小児マヒのために下半身が動かず、椅子に坐ったままであり、野村大使は右眼が義眼である。
大統領は野村大使の信任状をうけとる間は儀礼的な態度であったが、儀式が終るとすぐ笑顔を見せ、野村大使の義眼はちっともわからない、となつかしそうに話しかけた。
野村大使が駐米武官時代に、ルーズベルト大統領は海軍次官補で親交を結んでいた。大使も、旧友が大統領になっている国に大使として赴任することができて嬉しい、と答え、微笑した。
互いに友好と平和のために努力しあう旨を明言しあい、ルーズベルト大統領は貴下とは必ず会うからいつでも訪問されたい、と握手して、野村大使に親愛感をひれきした。
ハル国務長官は、野村大使が退出すると、「たぶん一週間もしたら野村大使は日本側の提案を示すだろう」、と大統領に告げた。ウォーカー郵政長官を通じた二人の神父の話が、日本政府の意向であるならば、当然、野村大使から正式に提示されるにちがいない。
神父たちは非常に急いでいる印象を与えていたので、野村大使も行動を早めることが予想されたからである。
だが、その一週間が十日になっても、野村大使からの接近はなく、また、神父たちからもなにも連絡はなかった。野村大使は泰然かつ悠然として、ワシントンの外交社会を遊歩している。
「日本側は公式の提案を持ちあわせていないのだろうか。それとも、あえて落ち着いているのだろうか」
「あるいは、わが米国と日本との道徳の規準の相違かもしれませんな。つまり、倫理的まじめさを欠いているといったような……」
ハル長官の質問に、政治顧問S・ホーンベックは眉をしかめて、答えた。
のちに、日米交渉をふりかえるとき、米国側の担当者の“ミス・キャスト”が米国内でも指摘されるが、交渉で主要な役割りをはたしたのは、ハル国務長官のほかにはこのホーンベック顧問と極東部長・ハミルトン、日本課長J・バランタインである。
ハル長官はテキサス州の判事出身であり、ハミルトン部長は典型的な官僚性格者との定評があり、バランタイン課長の小心も、名高かった。そして、ホーンベック顧問は、支那で育ったので“支那びいき”で有名であるうえに、極めて厳格な道徳家を自認していた。
つまり、これら四人はいずれも、きまじめでもの堅い代りに政治性に乏しい性向の持主であり、さてこそ、最も政治性を要求される日米交渉には不向きな“配役”であった、と論評されるゆえんである。
ホーンベック顧問が、ハル長官の質問にたいして、さっそく持ち前の“倫理観”を表明したあたりにも、その間の消息はうかがえるわけだが、神父たちの活動が中断していたのには、理由がある。
野村大使がハル長官を訪ねた二月十二日、日本時間の二月十三日午後、井川理事は横浜からシアトル行きの日本郵船「氷川丸」にのり、米国にむかっていた。
神父たちは、すべては井川理事の到着を待って行動をすることにしていたのである。
大使館員の異動は、若杉顧問の公使任命、井口貞夫一等書記官の参事官昇格をふくめて次々に正式に発令され、野村大使の要人訪問もスケジュールどおりに処理されていった。
野村大使の評判はよく、大使自身も各方面から寄せられる期待に満足していた。
とくに、米海軍首脳部の反応は好ましく、たとえば、海軍武官横山一郎大佐は、米海軍作戦部戦争計画局長R・K・ターナー少将の期待に満ちた言葉を伝えてきた。
横山大佐が、率直なところ野村大使の赴任は日米関係にとっては「ツー・レイト」(遅すぎる)ではないか、と尋ねると、ターナー少将は、そんなことはない、自分は表面には出られないが「裏面からどんな援助もする」、だから決して「ツー・レイト」などと思わずに努力するよう野村大使にもいってほしい、と述べたというのである。
野村大使は、うなずいた。そして、武官補佐官実松譲少佐が、それにしても日独伊三国同盟がありながら日米国交の調整はできるものか、と質問したのにたいしても、できる、と確言した。
「外交交渉というものは、口先だけの事じゃないさ。ハラとハラとをうちわってまとめるものだ。その意味で、自分はできると思ってやってきた……」
横山大佐は、ぜひ大使のお骨折りを願いたい、それには理由があります、と声をひそめた。
横山大佐は、前年の九月に駐米武官になったが、赴任のさい、ワシントンではとくに軍事情報の収集に努力しなくてもよい、という指示をうけていた。米国側のワナに落ちてはまずいからである。
そこで横山大佐は、表立った情報活動はおこなわず、新聞、雑誌を通じての資料収集と他の外国武官たちからの話題に耳をすますことにしてきたが、イタリア武官V・ライス中将から有力な情報を入手した。
前年の十一月二十七日夜、地中海のサルジニア島沖でのイタリア艦隊は突然、英国艦隊とそうぐうして集中射撃をうけ、戦艦一隻、重巡二隻を大破された。文字どおりの暗夜の奇襲で、イタリア側はどうして英艦隊に所在を探知され、命中弾をうけたかわからなかった。
「ところが、これらしいのだ。電波の反射で目標を捕捉するらしい」
ライス中将はそういって、艦船用方向探知器のアンテナの写真が掲載されている雑誌を横山大佐に示した。
『レーダー』という呼称はまだついていなかったが、それである。そして、もし英艦隊がその種の装備をしているなら米国艦隊も装置しているにちがいない、という横山大佐の予想は、的中した。西海岸の米艦艇を調べさせると、たしかに巡洋艦以上のマストにそれらしい装置を確認したとの報告をうけたからである。
「閣下、もしこの装備が米国側だけのものであれば、わがほうの基本戦術である夜戦は成立しなくなる恐れがあります」
その意味でも、できるだけ対米戦は回避する必要がある、と横山大佐は野村大使に進言した。野村大使は、海軍大将でもある。大佐の報告にたいする理解は早く、無言で強くうなずいた。
横山大佐と実松少佐は、決意を明らかにして光る野村大使の隻眼に敬礼しながら、胸中では、どうしても大使の使命に不安を感じないわけにはいかなかった。
同じ海軍の先輩であるために、その成功を祈る気持ちがひときわ強いからでもあるが、どうも米国はじつは対日戦の決意をかためているように想えてならない。
横山大佐自身が野村大使にひろうした二つの情報にしても、一方では米海軍は戦争回避を念願している印象を与えながら、他方では英国と協力して新兵器開発を急いでいる様子である。
それに、どうも海軍武官府にたいする米国側の態度が、急速かつ微妙に変化してきた気配がうかがえるのである。
海軍武官府は、日本大使館の北、マサチューセッツ通りとウィスコンシン通りが交差する角の「オーバン・タワー」アパートの四階にある。
武官横山大佐のほかに、補佐官実松少佐、寺井義守少佐、書記を名のる電信下士官、兵三人、文官書記一人、嘱託一人が海軍武官府の構成メンバーである。
嘱託佐々木勲一だけが、いわゆる現地雇いで、他の要員はいずれも日本から赴任してきている。佐々木嘱託は、通訳と庶務係をかねていたが、ロサンゼルスに住んでいたところを前任の武官小川貫璽大佐時代にみこまれ、一種の“忠誠テスト”をうけて採用された。
「あれがテストだったと自分で判断しているわけですが、一度は、ゴルフに誘われたとき、ボールを藪の中にうちこみましてね。どうする、といわれたので、あきらめます、と答えました。もう一度は、急に来てくれといわれたので、部屋をかけ出すと、廊下に新聞がおいてある。天皇の写真が第一面にでているので、ひろってサイドテーブルにおいてから相手の部屋にはいったら、よろしい、というわけでした」
佐々木嘱託は、米国生まれだが、日本で教育をうけてきたいわゆる“帰米二世”である。海軍武官府としては、日本国籍を持つとはいえ、その忠誠心に多少の疑念をいだいたらしい。
「ボールをあきらめる、といったのが、いざというときの覚悟があるとみられ、陛下のお写真を丁重に扱ったので合格したのでしょうね」
そういうテストを経てきただけに佐々木嘱託は、さりげなく通称ジミーを名乗っては屈託ない米国風生活を送っていたが、親しくなった電話交換手の女性が、佐々木嘱託にささやいてくれた。
「ジミー、気をつけたほうがいいわよ。あなたたちの部屋の反対側の部屋の人たちは、あなたたちにフレンドリー(友好的)じゃないわ」
「ほう。ボクのほうは誰にでもフレンドリーさ」
佐々木嘱託は、はぐらかすように答えたが思いあたるものを感じて背筋をこわばらせた。
数日前だが、洋服屋と自称する男が何回か武官府を訪ね、布地の見本をみてくれといってずかずかと中にはいってきた。いかにも頭脳が弱そうな「間抜け顔」をしているので、そのたびに追っぱらうだけであった。
海軍武官府は四階の一隅の五部屋を使用しているが、ビルは中庭を中心にした四角形なので、庭の反対側の部屋からは武官府を監視することは可能である。
さては、洋服屋風の男は、反対側の部屋からどの部屋がどれほどのぞけるか、その偵察にきていたらしい。「フレンドリーではない」男という言葉から、当然にFBIまたは米海軍情報部員の潜伏を想像した佐々木嘱託は、さっそく実松少佐に報告した。
少佐も、それが米国側の諜報工作であることを直感した。
国際社会において、駐在武官が情報活動をおこなうのは常識であり、任地国が駐在武官を注視するのも、これまた常識である。
しかし、米国の場合は、あからさまに日本海軍武官府にたいする注目を誇示してきた気配がある。
たとえば、電話が盗聴されていることは容易に想像できるが、実松少佐が米海軍情報部極東課長マカラム中佐に電話すると、英語で中佐はいるかとたずねたとたんに、「マカラムさんは外出中です」などと、日本語の返事がはねかえってくる。
以前にはなかった現象で、野村大使の赴任後のことだが、それにしても、いくら実松少佐の英語が非英語国民のものであろうと、ふつうは即座に少佐かどうか判定できないのではなかろうか。
「極東課長と交際する英語の下手な武官はほかにもいるはずでしょ。日本の武官だとすぐわかるにはそれだけの理由があるにきまっているし、いかにも、わかっているぞといわんばかりの嫌味ですよね」
実松少佐は、いまなお不快げに回想するが、そうかと思うと、ニューヨークに出張しようと思って飛行機会社に予約しようとすると、海軍武官府だといわないうちに、満席だ、とことわってきたりする。
ところが、大使館から頼むと、その満席の飛行機にちゃんと座席がとれる。
そして、こういった処遇をうけるのは海軍武官府だけで、磯田三郎少将を長とする陸軍武官府のほうは、至ってなごやかに扱われているのである。
血気にあふれる実松少佐としては、米海軍の日本海軍にたいする“挑戦”とも感じられ、してみれば、米海軍首脳部の野村大使にたいする好意の表明もすなおにはうけとれない心境になりはじめていた。
野村大使に、少佐が日米関係は改善不可能ではないかと悲観的に質問したのも、そういった日ごろの環境が背景になっていたわけだが、野村大使は、二月二十七日までにハリファックス英国大使をはじめ、主な駐米大使たちとの会見を終え、三月三日からニューヨークの財界要人、邦人代表たちに会う予定をたてていた。
与えられた使命が、米国の「朝野有力者」にたいする啓蒙であるとすれば、そして日米関係の改善とは、結局は米国からの物資輸入を中心とする通商維持に焦点がおかれている以上、ニューヨーク財界との接触は必須である。
野村大使は、そこで、かつてニューヨーク総領事をつとめた若杉公使を同行させることにして、準備をすすめていた。
すると、二月二十七日、ニューヨークから電話がかかってきて、中金理事井川忠雄であるが至急内密に面談したい、と連絡してきた。
野村大使は、東京で井川理事と会ったことがある。ウォルシュ司教とドラウト神父が訪ねてきて挨拶をかわしたさい、二人の神父に同行していたのだが、数語を交換しただけである。
なんの用事か、と訊ねると、くわしくは面接のうえ話すが、今回の渡米は近衛首相および陸軍首脳部と連絡をしてのことであり、またすでにウォーカー郵政長官とも会見している、と井川理事は、答えた。
井川理事の渡米については、外務次官大橋忠一は不快かつ不審な印象をうけていた。井川理事は、離婚した元米国人妻の財産処理のために渡米したい、と旅券交付を求め、大蔵省為替管理局には、「大橋次官の依頼」で渡米するので外貨をもらいたい、と申請し、二月五日付で軍事課長を辞めた岩畔豪雄《いわくろひでお》陸軍大佐は、南米の遊休工場買取のための通訳に井川理事を使う、と大橋次官に述べていたからである。
大橋次官は文字どおりに「うさん臭さ」を感じたが、ともかく井川理事は首相と陸軍に連絡してはいるわけである。
また、井川理事は二人の神父に同行してウォーカー郵政長官にも、二十七日に会見していた。
二人の神父は、井川理事を近衛首相の側近であり、「日本政府の全権代表」だと紹介し、ウォーカー長官は神父の言葉をそのまま信じて、ルーズベルト大統領、ハル国務長官との連絡を約束した。
野村大使に告げる井川理事の声音は、だから、説得力に富み、大使も会見を承知したが、二十八日午後、大使館にあらわれた井川理事の話を聞いて野村大使はびっくりした。
二人の神父はすでにルーズベルト大統領、ハル国務長官と会見し、日米会談をひらく具体案を考案中である。ウォーカー郵政長官が橋渡し役であり、井川理事は神父と連絡のうえ、近衛首相、陸軍から交渉をすすめる内命をうけた。近く、前軍事課長岩畔大佐が交渉促進のために訪米する――と、井川理事は述べたからである。
野村大使は、隻眼で井川理事を注視した。――どうも、よくわからない。
井川理事は、近衛首相や松岡外相の信任を得て渡米した、という。が、そのような事情は、野村大使は出発前にも、ワシントンに着いてからも聞いていない。
日米関係打開のための具体案を研究中だというが、その内容については井川理事は語らない。追々とご報告する、というだけである。
その交渉にタッチしているのは、二人のカトリック神父、カトリック教徒のウォーカー郵政長官、そして同じくカトリック教徒の井川理事だ、という。では、ローマ法王庁からの示唆でもあったのだろうか。
井川理事は、岩畔豪雄大佐もこの日米交渉に一役買うというが、岩畔大佐の渡米の目的はちがうはずである。野村大使は赴任にさいして、いずれ日米間の話しあいでは支那事変の処理が議題になるだろうから、支那問題にくわしい人物を補佐役にほしい、と陸相東条英機中将に要請した。大佐はそのために選ばれたのであって、井川理事のパートナーになったとは、聞いていない。
それに、なによりもまず、井川理事の話がほんとうなら、東京から一言も通報してこないというのは、不審である。
井川理事は、しきりに内々のことだと述べ、しかし、十分な手応えはある、と強調したが、野村大使はかすかに首をひねり、若杉公使は露骨に不信と不快の視線を井川理事にむけた。
若杉公使の耳には、井川理事の人格にかんしてあまり好ましくない風評が達していたからでもあるが、なによりも、重大な国際関係に正式の資格と権限を与えられていない私人があえて介入しようとする「不謹慎」さに嫌悪を感じたのである。
そこで、井川理事が、神父たちやウォーカー長官との会談の結果をまとめた報告を松岡外相に送りたい、大使館から打電してほしい、というと、若杉公使は即座に拒絶した。
「公電は文字どおりに公電でありますから、当館の公務以外のものを電信するには、本省の認可を得なければなりません」
若杉公使は、井川理事が退出すると、さっそく東京に問いあわせ電を発信することを野村大使に進言し、翌日、三月一日、次のような電報を大使の名前で松岡外相あてに送った。
「井川中央金庫理事二十八日本使ヲ来訪……日米一般会談ヲ開催セムトスル工作ニ付、詳細陳述スル所アリタルガ……同人ハ貴大臣ニ如何ナル連絡ヲ有スルヤ、又同人云フ所ノ近衛総理並陸海軍当局トノ関係如何ヲ本使心得迄ニ内報願度シ……」
電文には、井川理事が「貴大臣宛長文ノ電信案」を持参したが、「御回電」を得てから処理することにした、とつけ加えた。
若杉公使は、よほど井川理事に不審を感じたとみえ、三月三日からの野村大使のニューヨーク訪問に同行している間も、おりにふれて、井川理事の「出しゃばり」を批判していた。
井川理事については、米国側も疑惑の眼で眺めていた。
ウォーカー郵政長官は、井川理事が野村大使を訪ねた同じ日、二月二十八日にルーズベルト大統領と会い、井川理事にかんする覚書を提出していた。
ただし、書中では井川理事の名前をあげず、「一人の日本政府の全権代表」がワシントンに来ている、という表現を使い、その「全権代表」の見解として、日本政府は支那事変の調停を個人的にルーズベルト大統領に依頼し、日本の枢軸同盟参加を無効にする手段をとり、太平洋と極東の安定のために現状維持、不侵略を誓約する用意がある、と伝えた。
そして、この「全権代表」はそのような協定案を作成するために大統領が代表を任命し、いずれ、できれば東京で協定調印するようにしたいと述べている、とウォーカー長官は、報告した。
このウォーカー長官の覚書はハル国務長官に回送されたが、相談をうけたホーンベック政治顧問は、直ちに意見書を提出した。
「長官閣下。もし私が閣下または大統領の立場にいるとすれば、まっ先にウォーカー長官に質問すると愚考致します。
この無名の“全権代表”とはいったい何者なのか?――と……」
じつは、国務省には、井川理事にかんする情報が届いていた。
井川理事が渡米のために乗船した「氷川丸」には、転任する駐日米大使館商務官補D・スミスものっていたが、スミス商務官補は船中で井川理事と話した結果を、国務省に打電していたのである。
スミス商務官補によれば、井川理事は自分は「日米関係改善を望む日本のある影響力をもつグループ非公式代表」だ、と述べた。
「陸軍の推進力の一人である岩畔大佐」の訪米の準備のために米国に行くところだが、大佐は「日本陸軍にたいして統制力を持つ」存在であり、日本陸軍は「大佐がワシントンを訪問するまで」は、東南アジアにたいする「南方進出政策」を実施しないことになっている、という。
スミス商務官補は、井川理事との会話から、井川理事がどうやら有馬頼寧伯爵がひきいる「農民団体」の代表らしいこと、岩畔大佐はフランス語とドイツ語はできるが英語はダメなこと、しかし、井川理事が「日本政府の明白な承認を得た使命」を持っているのはまちがいないようであること、などを報告していた。
だから、ウォーカー長官の覚書にある「全権代表」が何者であるかは、ホーンベック顧問にはすぐピンときていたが、顧問はあえて知らぬ風情でハル長官に意見具申した。
それというのも、ウォーカー長官が連絡してきた「全権代表」の見解なるものが、ホーンベック顧問には至って非現実的に思えたからである。
「もし、日本政府が本気で極東問題の解決を米国と協議しようとするのなら、日本はまず三国同盟からの離脱および南方侵略政策の停止など、具体的な証拠を示すべきである……本官の見解では、この提案には、日米両国の現実の政策およびその実行についての認識が欠けているという根本的な欠陥がある」
ゆえに、この「全権代表」との接触はさけたほうがよい、というのが、ホーンベック顧問の言外の結論であった。
ホーンベック顧問は、ウォーカー長官がハル長官に面談を申しこんだと知ると、そのときはぜひ次のような質問をウォーカー長官にしてほしい、とハル長官に手紙を書いた。
「第一問=この“日本政府の全権代表”とは何者であるか? 日本人か? 名前は? 日本政府内で彼を支持するのはどんなグループまたは派閥か?
第二問=彼がワシントンに滞在しているのは、日本大使が承知または承認しているのか?
第三問=米国が“調停”すべき日支間の問題は何か?
第四問=同問題は本質的に独英関係と切りはなし得るのか?
第五問=これらの紛争に米国が調停者として介入するのは賢明かどうか?
………」
そのほか、ホーンベック顧問は、そもそも日米間の問題とはなにか、日本が一方的にひき起しているのではないか、それをウォーカー長官は理解しているのかという意味の質問も、列記した。
要するに、「全権代表」である井川理事の資格に疑問を表明し、さらにその背後にあるべき日本政府が具体的になにを考えているのか、それが明らかにならない限り取りあうな、ということである。
このホーンベック顧問の質問は、ウォーカー長官にもこたえたらしい。
ウォーカー長官がハル長官と会見したのは、三月五日であったが、ウォーカー長官はその夜、急いでドラウト神父に連絡し、翌日、三月六日、もう一度ハル長官をたずねて、日本「全権代表」の“具体的提案”事項を伝えた。
それは、極東地域における政治的・領土的進出問題から日米両国の航空郵便の開始まで十三項目におよび、支那・満州にたいする門戸開放政策の適用、日独伊三国同盟に代る日米両国の平和条約、協定妥結のさいはホノルルで調印することなどもふくまれているうえに、そのいずれにたいしても日本側は「討議し合意」する用意がある、という。
そして、三月七日、野村大使がニューヨークからワシントンに帰ってくると、再び井川理事が訪ね、その翌日、八日、土曜日の朝にハル国務長官と会ってほしい、ウォーカー長官が会見をあっせんした、と大使に告げた。
井川理事は、できるなら若杉公使の同席も望ましい、と述べたが、若杉公使は言下にことわった。
大使館に帰ってみると、井川理事についての問いあわせ電にたいする返事が東京からとどいていたが、松岡外相は「最近井川ニツキ兎角《トカク》ノ噂ヲ耳ニスル」ので「可然《シカルベク》御注意ノ上“井川ヲ御指導”相成度」と注意してきた。
しかも、井川理事は、ハル長官との会談は翌日午前九時半、なるべく人眼につかぬようにハル長官の宿舎である「カールトン・ホテル」の非常階段から直接長官の部屋を訪ねられたい、というのである。
「日本を代表する特命全権大使がなぜそのようにコソコソしなければならないのです?」
論外だ、といわぬばかりに若杉公使は顔をしかめ、野村大使にも、会見は正式に国務省とうちあわせておこなうべきでしょう、と進言した。野村大使は、しかし、
「いや、なにか相手の都合もあるんじゃないかな。どんな形にせよ、国務長官が会うというなら、会っておいたほうが良いだろう」
そういって、気軽に井川理事の提案を承知した。そして、若杉公使には、ハル長官との第一回会談になるわけだが、それだけに顔あわせの意味もあって事務的な話にはなるまいから、同行しなくてもよい、といった。
――翌日、三月八日、
野村大使は、午前六時に起床すると、ベッドの横で軽く海軍体操のまねごとをして筋肉をほぐしたのち、身支度をととのえて朝食をすませ、居間で新聞を読んだ。
新聞は数種類に眼を通すが、とくに『ニューヨーク・タイムス』『ワシントン・ポスト』は精読する。
「あの、ネクタイはここにございますのでよろしゅうございますか」
「あ、村井さんか。なんでもいいよ、ご苦労さま」
野村大使の返事に、居間にはいってきた村井京子は、やや当惑して一礼した。
村井京子は料理人村井時次郎の妻である。村井時次郎は前駐米大使堀内謙介の推薦で大使館の料理人に選ばれた。野村大使は夫人秀子を同伴しないので、京子は身のまわりの世話をするよう夫人に頼まれて夫・時次郎と一緒に赴任した。時次郎も京子も、大使夫人から細々と野村大使の好物や日常の習慣を教えられ、京子はノート一冊に記録された衣料品リストももらってきた。
前年の十二月二十一日に結婚したばかりの京子は、男性の身のまわりの世話の体験に乏しい。どうなることやら、と不安のままワシントンに来たが、大使館での生活は安堵と当惑がいりまじった感じであった。
海軍軍人らしく、野村大使はたいていのことは自分で支度する。が、同時に衣類や服装については、ほとんどなにもいわない。
「だから、衣裳ダンスにそろえておけばいいので楽は楽でしたが、お気に召しているのかどうかもわからないわけで、気になりましたねェ」
弱ったのは、フンドシである。野村大使は越中フンドシを好み、さらにその上にサルマタをはく。
東京から五十本以上のフンドシを用意してきたが、村井京子はフンドシになじみがない。
「そりゃあ、よくいうようにナプキンとまちがえるなんてことは、ございませんよ。洗濯も女中がやりますし……でも、うちのひとの下着もあまり扱わないのに、……なんとなくねェ」
米国の洗剤が強力にすぎるのか、洗濯屋の腕力が強いのか、洗濯にだしたフンドシは縁がすりきれて返ってくる。やむを得ず、京子は夜なべ仕事にそのほころびをつくろうが、その姿を眺める夫・時次郎の心境も複雑になる。
「大使閣下のフンドシだが、フンドシにはちげえねェ。新婚早々フンドシのつくろいか、と思いますと……」
しかし、野村大使が双肩にになう大任を想い、あるいは大使も「緊褌《きんこん》」の覚悟でフンドシを愛用しているのかとも思えば、村井夫妻のフンドシ観も厳粛になる……。
おかげで、このごろは京子も野村大使の衣料品にとまどいを感ずることもなくなっていたが、ときに眉をひそめるのは服装にたいする無頓着さである。
この日も、国務長官に会うためのネクタイの選別を求めたのだが、野村大使は相変らず、時間がくると、衣裳ダンスの一番手前にかけてあるネクタイを首にまきつけ、出かけて行った。
人眼にふれぬように、との注意なので、野村大使は公用車を使わず、秘書煙石学の小型車に乗って「カールトン・ホテル」にむかった。
会談は約二時間つづき、話題は三国同盟、日本の南進政策、支那事変、日米通商関係など両国が直面する問題をもうらしたが、内容は一般的なものにとどまった。
野村大使としても、第一回会談なので問題点を列挙するにとどめ、ハル国務長官もその前日、ウォーカー長官とホーンベック顧問から一般意見を述べるだけにしてほしい、と勧告されていた。
しかし、会談後、ハル国務長官はいかにも不審げにホーンベック顧問に、述懐した。
「ノムラの反応は意外なほど消極的だったよ。何度か、両国政府の間の関係、また相互協定によって問題を解決する意向があるか、と打診してみたのだが、ノムラは、結構だと思うといいながら、ではいつ、誰と話しあいをはじめるかという点には、なにもふれなかった」
じつは、ウォーカー長官は、前日、三度覚書をハル長官に伝達してきて、二つの点を強調していた。
ひとつは、いわゆる「全権代表」の井川理事の提案は、「近衛公爵、枢密院、陸海軍指導者、平沼騏一郎男爵たちが天皇の承認の下に政策転換を決定した」事実にもとづいているが、これは極秘であり、もれればこれらの人々は“反逆者”として暗殺されるので、「野村提督にも(若杉)公使にも伝えられていない」こと。
もうひとつは、しかし、野村大使はハル長官との会談で、日本政府は米国との改善関係再開を「積極的に考える」というはずなので、そのときはハル長官も米国に異存はない旨を述べてもらいたい、ということであった。
そこで、ハル長官は、ホーンベック顧問に語ったように、会談の中で野村大使にさそい水をむけたのだが、大使はさっぱりのってこなかったのである。
ホーンベック顧問も、ハル長官に自分が感得している疑惑を指摘した。
「おかしい、と本官も思います。なぜ、この“全権代表”は正式の資格を証明する文書も示さず、日本大使館も通さないのか」
日本政府が本気なら正式の代表機関を通して意向を表明すればよい。“暗殺”をおそれるというが、天皇もふくめ陸海軍も同意しているというのに、なぜ“暗殺者”の危険があるのか。野村大使にももらさないというが、では野村大使も“暗殺者側”なのか。
「本官は、この“全権代表”は実際には全権を委任されていないか、それとも個人的名声を得るためにスタンドプレイをしようとしているか、そのいずれかではないかと疑います。そのいずれの場合でも、公式な処置は不適当だと考えます」
ハル長官はうなずき、なお慎重な姿勢を維持することをホーンベック顧問と約束した。
すると三月十日、またもやウォーカー長官から次のような覚書がとどけられた。
「一、われわれはすでに協定草案作成の準備を開始した。
二、“日本代表”は私的暗号通信で近衛公爵と連絡を保っている。同人は三月九日午後 八時、「コモドア・ホテル」内のウェスタン・ユニオン電信会社出張所から近衛公爵に打電し、日本大使がロイ・ハワード(スクリップス・ハワード系新聞会長)と会談するのは軽率である旨を伝え、日本大使にもその旨を書簡で指摘した。
三、井川氏は、三月二十日または二十一日にサンフランシスコに到着する岩畔大佐と彼 が接触するまでは、日本政府がなんらかの行動に出ないことを期待している。
四、井川氏は近衛公爵にたいして、公爵がルーズベルト大統領が同意するホノルル会談を開催するよう提案した。
五、松岡外相の訪欧は、近衛首相自身が米国との交渉を直接監督できるよう松岡外相を国外に出したと解釈される。
六、ホノルル会談の出席者は、専門家や事務関係者その他を除き、暫定的に近衛公爵、若槻礼次郎男爵、郷誠之助男爵、平沼騏一郎男爵、陸軍代表は武藤軍務局長または岩畔大佐、海軍代表は岡(敬純)軍務局長が考えられている。
七、日本において政府の対米交渉の意図が“洩れ”れば、“われわれは日本の第五列(註、スパイまたは反対勢力)の激烈な反対を覚悟せねばならない”(野村提督の言葉)。
八、岩畔大佐は友人を通じて、“心配するな。枢軸同盟にかんする詳細な訓令を持参す”と電報してきた。
九、岩畔大佐の到着にさいして、サンフランシスコの港湾当局、航空会社関係者に最大の接待をするよう訓令されたい(大佐は英語が話せない)。井川氏はサンフランシスコに飛び協定予備草案を大佐と協議する。」
覚書には追伸として、井川理事が泊っているニューヨーク市五十二番街東二十一丁目の「ザ・バークシャー・ホテル」の支配人と相談して、こんごは井川理事の名前をいわず、「プラザ三―五八〇〇、内線一八一二」の電話だけで連絡できるようにした、とつけ加えられていた。
この覚書は、ドラウト神父からウォーカー長官にあてたものをハル長官に転送したのだが、欄外に、井川理事は「貴下と他の二人」以外には極秘にする条件で覚書内容に同意した、と書きそえてあった。
覚書をみせられたホーンベック顧問は肩をすくめた。
一読した限りでは、いかにも重要な秘密工作が進行中のようだが、日本大使館を批判し岩畔大佐の訪米に期待をもたせようとしているだけで、具体的な提案はなにひとつ見当らない。
「日本大使館にたいする苦情は日本政府にいうべきでしょう。この“全権代表”は外交と内政の区別を知らないようですな」
そのような相手との「日米交渉」は不可能かつ無用だ、とホーンベック顧問は渋面をさらにしかめた。
どんな交渉においても、その交渉はしばしば、「意思」と「情報」という二つの要素によって推進されるはずである。
たとえば、交渉のイニシアチブを交渉者のどちらがにぎるかという問題にしても、積極的にせよ消極的にせよ、交渉にたいする意思がより明白であるか、相手側にかんする情報が多いか少ないかによって、交渉のイニシアチブの行方は左右されるであろう。
そして、「日米交渉」においてもこの『交渉の原則』は明確に作動していた。
「日米交渉」をふりかえるとき、交渉は二人の神父と井川理事、さらに岩畔大佐も加わっての“民間人作業”で準備がすすめられたが、その過程では米国側、とくに国務省当局は不審の眉をひそめつづけた。
にも拘らず、結局は“神父工作”が正式の外交交渉の扉を開くことになったのは、神父側と国務省側とをくらべれば、交渉開始にたいする意思と態度が神父側のほうがはるかに明確かつ強固であったためと、国務省側にとって、神父側が伝える東京の意思なるものが正確かどうかわからなかったからである。
ホーンベック顧問は、三月十日の段階では、はっきりとハル長官に井川理事との交渉は無用だと進言した。
その進言は、井川理事の発言に公式の裏付けが発見できないという点に反対のポイントがある。ハル長官も、ホーンベック顧問の意見に同意した。
すでに配布されている日本外交暗号を解読した“マジック”情報にも、井川理事の使命はあらわれていないからである。
だが、井川理事がまったくの「虚言者」または「ペテン師」であるとも断定はできない。日米関係を悪化させようというのならともかく、好転させようとするのに「虚言」や「ペテン」は不必要である。
それに、ウォーカー郵政長官によれば、井川理事は近衛首相と「私的暗号」で通信連絡をしている、という。では、日本外務省と大使館をつなぐ“マジック・ライン”に井川理事の動きが見当らないのも、当然かもしれない……。
ホーンベック顧問の鼻孔は、だから、井川理事にかんしてウサンくさい臭気をかぎとりながらも、なお、その臭気の判定にとまどってうごめいている感じであったが、三月十三日、またもやウォーカー長官から覚書がとどけられた。
覚書は、ウォルシュ司教が起草したものであったが、最近の東京からの「暗号通信」により、自分たちはますます日本と合意できる確信を深めた、という書き出しで、次のようにその“確信”の根拠を列記していた。
「アユカワ(註、日産コンツェルン代表・鮎川義介)が現在進行中の(われわれの)交渉に疑惑を持ちはじめた。昨日、彼は帰国の途中、滞米中の来栖《くるす》(三郎)駐独大使に情報を入手するよう依頼した」
「松岡外相のベルリン訪問は、ドイツにたいして、日本の三国同盟上の義務が平和的行動にとどまることを説明するための儀礼的なものであるとみられる(日本人は拒絶的態度を示すときには儀礼的になる)」
「他の重要事項の合意も成立すれば、日本は米国を公式に太平洋の大国と認め、共同で“極東モンロー主義”を声明する用意がある」
「日本の指導者たちは、われわれと同様の熱意を以て、この交渉期間中は米国が日本にたいする強い圧迫、しかし、日本の“石頭”連中や第五列から反米宣伝の口実を奪うように友好的に圧迫を加えつづけることを、希望している」
「近衛公爵は、寝室の壁にルーズベルト大統領の写真をかかげている」
「日本の有力紙、東京日日、大阪毎日、朝日新聞の発行者、編集者は政府の示唆があり次第、米国にたいする有利な報道を開始する用意をしている」
覚書には、相変らず、井川理事がこの交渉をルーズベルト大統領、ハル長官、ウォーカー長官の三人だけの秘密にしてほしいと望み、近衛首相に「日本大使館に公式交渉をしないよう指示することを求めた」と、秘密性の保持を強調していたが、最後にさりげなく、次のようにつけ加えていた。
「私は、われわれの会談を通じて、非公式だが決定的な意味で、米国の最重要関心事と思われるポイントを発見したと考えている。私は以下の諸点を目標にして作業している。
日本の枢軸同盟からの排除 太平洋の平和の保障 支那の門戸開放 支那の政治的保全 これ以上の(日本の)軍事的または政治的侵略の防止 経済および財政協定 日本商船の使用 ドイツにたいする(日本の)補給の停止 共産主義蔓延の防止 ルーズベルト大統領およびハル長官が宣言した諸原則にもとづく日本との協定」
ホーンベック顧問は、首をひねった。覚書は、前回のものより具体味を増し、とくに最後の十項目は、これら十項目を交渉の根拠にしていいかどうか、国務省の意思表示をうながしていると理解できる。それだけ「日本側」の態度と考えがはっきりしてきたとみられる。
だが、その「日本側」とは誰を指すのか?
覚書からうける印象では、近衛首相を頂点とする日本政府首脳部であり、近衛首相はどうやら神父がキリスト像に祈願するように、夜ごとベッド・ルームの壁にかかげたルーズベルト大統領の写真を仰ぎ日米関係の改善を祈念しているらしい。
しかし、ほんとうであろうか――?
ホーンベック顧問が黙考していると、またまた「特別覚書」(スペシャル・メモ)が、ウォーカー長官からとどいた。
この覚書も、ウォルシュ司教の起草であるが、覚書には、松岡外相が三月十二日にドイツにむかって東京を出発するさい、もし招待されれば訪独のあとワシントン、ロンドンを訪ねたい、と述べ、また外相の秘書が、「日米間の問題解決の最善の方法は、(松岡)外相がホノルルでルーズベルト大統領またはハル長官と会見することだ」と言明した、という情報が添付されていた。そして、覚書は次のように告げている。
「井川(理事)は近衛首相にたいして、首相がワシントン大使館に松岡外相の訪米を米国側に示唆せぬように指示してほしい、と打電した」
「本日、近衛首相からの来電によれば、首相は、これまでの二週間にワシントンから送った電報のうち、一通だけしか松岡外相に見せていないとのことである」
「本日午後、井川(理事)は、秘密保持が次第に困難になっている事情にかんがみ、本月末までに原則にかんする基本的協定を結ぶようあらゆる努力をなすべきだ、と電報した」
「アユカワは来栖大使にたいして、米国にとどまって岩畔大佐と協力するよう依頼した。(ところが)来栖大使が本日午後、日本大使館に電話すると、若杉公使は“忙しい”ので会えないと返事した! 若杉公使は来栖大使に、“国務省に用事がある”といったが、実際には、彼は本国政府の意図はほとんどなにも知っていない」
井川理事は、明らかに若杉公使にたいして反感を抱いているらしく、その感情をむきつけにひれきしている。
ホーンベック顧問は、その点に格別の印象をうけた。ウォーカー長官は、井川理事を日本側の「全権代表」と紹介した。すでに野村大使という「特命全権大使」が存在する以上、その「全権代表」の意味は、近衛首相の私的代表ということになるのであろう。
ウォーカー長官からとどく覚書が、しきりに井川理事と近衛首相との連絡ぶりを伝えていることからも、その辺の消息はうかがえる。が、井川理事のように感情的な人物がはたして外交交渉の「全権代表」に選ばれるものであろうか。
しかし、井川理事にたいする疑問はたしかめようがなく、さらに井川理事が告げる日本側の意図の真偽も確認するすべがない。
ホーンベック顧問は、「観測気球」をあげてみることにした。
翌日、三月十四日朝、ホーンベック顧問はその日の午後に野村大使がルーズベルト大統領を訪ねることになっていたので、ハル長官にメモを提出した。
「もし(野村)大使が、ワシントンに滞在して日米関係改善に努力しようとしている同国人について言及した場合は、閣下は慎重に、大使の同国人の意向は諒承する、ただし、国務省当局は日本大使が同問題に責任を持ち、かつイニシアチブをとらない限り、それらの人々と個別に会談することはできない、と述べてみてください」
ハル長官はホーンベック顧問の勧告に従い、午後一時半に野村大使がホワイト・ハウスに来ると、大統領との会談に同席しながら、その合間に野村大使に述べた。
「日本は、これまで日米両国がともに歩いてきた道をふみはずした。したがって、(両国関係改善のための)どのような問題について、いつ、どういう形でまじめな討議をはじめるか、そのイニシアチブと責任は日本側にある。なによりもまず、日本側が言葉と行動によってその意図のまじめさを明らかにすべきである」
しかし、野村大使から積極的、具体的な反応はなく、ハル長官は他の会談の議題も日米間の広汎な問題にふれただけで「新しい重要な発展はなかった」と判定した。野村大使も、別に「重要な発展」は期待していなかった。
大使としては、なによりもまずルーズベルト大統領と親しく話しあったことに満足して、東京にもその心境を打電した。
「要スルニ(大統領ハ)終始一貫極メテ機嫌良ク語リ、極東ノ事態ヲ心配シツツアリタリ」
野村大使は翌日、三月十五日夜、米海軍作戦部長H・スターク大将の官邸に招待された。約十人の米海軍提督が同席し、その中にはのちの米太平洋方面司令長官チェスター・ニミッツ大将もいた。当時は少将で、海軍省人事局長である。
「アイ・アム・アン・オールド・セイラー」(私は老水兵だ)――というのが、野村大使の米国での口癖であった。ルーズベルト大統領との会談でも、なにはともあれ「水兵ノ率直ヲ以テオ話シス」といって大統領を微笑させたが、スターク大将邸でも、大使はしきりに「水兵」を自称した。
「ノー。ユー・アー・ノット・ジャスト・ア・セイラー、アドミラル。ア・グレイト・オールド・セイラー、ユー・マイト・セイ」(提督、貴下は一介の水兵にあらず、いうなれば偉大な老水兵なり)
スターク大将は、心から野村大使の使命のご成功を祈る、と杯をあげ、ニミッツ少将たちも海の先輩としての敬意と親しさをこめて、野村大使に話しかけた。
大使は、大統領、国務長官との会談にもふれ、日米両国間の難問は必ず解決できる、こうやって日米海軍が握手している限り太平洋はおだやかだ、と応え、上機嫌に哄笑《こうしよう》した。ニミッツ少将は、一九〇五年(明治三十八年)夏、海軍兵学校を卒業するとアジア艦隊所属の戦艦「オハイオ」に乗り組み、遠洋航海の途中に日本を訪ねたことがある。
おりから、日露戦争祝賀園遊会がひらかれていて、ニミッツ少尉候補生たちも園遊会に招待されたが、ニミッツ少尉候補生ら米海軍士官がいっせいに、かつ一致して探し求めたのは日本海海戦の名将東郷平八郎大将の姿である。
「日本海海戦こそ、洋の東西をとわず海戦の手本であり、教科書である。私の生涯は、この教科書をマスターし、この手本をしのぐ戦さをおこないたいという念願に燃えつづけた、といっていい」
ニミッツ提督はそう回想しているが、だから、その園遊会で東郷大将がニミッツ候補生たちのテントに近づいてきたとき、ニミッツ候補生は思わず立ちあがり、大将になにかひとこと訓示してほしいと願った。東郷大将がそのとき、どのような話を米海軍の若者にしてくれたかはおぼえていない。しかし、じつは一九三四年(昭和九年)に戦艦「オーガスタ」艦長として日本を再訪したとき、東郷元帥の国葬に参列する二重の奇縁を得た――と、ニミッツ少将は感慨深げに野村大使に語りかけた。
野村大使は、大尉のころ、軍艦「済遠」の航海長として旅順港攻撃に参加し、「済遠」が撃沈されて海中に投げだされ、あやうく水沈する体験をしている。ニミッツ少将の東郷元帥回顧談は、野村大使の日露戦争参加を承知したうえのことで、大使も、感興をさそわれて往時の想い出を語った。
「ご歓待を感謝する。あと一カ月もすればポトマック河畔の桜も満開でしょう。そのときは、ぜひ桜の下でもう一度談笑の機を得たいものです」
野村大使は、散会後、そう一同に挨拶した。スターク大将邸はポトマック河をへだてたワシントンの対岸、アレキサンドリヤにある。野村大使は、来訪の道すがらに見た桜並木のつぼみを思いうかべたのである。
すると、ニミッツ少将が、ポトマック河といえば、といいながら、野村大使に声をかけた。
「提督、日本ではすばらしいウナギの料理があると聞きましたが……」
「ウナギ?」
「イエス。ポトマック河で黒人の老婆が釣っています。うまいそうですが、料理法を知りません」
黒人が釣るウナギと聞いて、スターク大将たちは肩をすくめたが、野村大使は破顔した。
「おお、カバヤキのことですな。まことに美味だが、まずウナギを捕えねばならない。ところが、ぬるりとしてまことに捕えにくい……」
「いや、閣下。大使として捕えにくい外交問題を処理されているのですから、閣下はお上手だと思いますが」
ニミッツ少将の即妙の論評に、野村大使はますます機嫌を良くして、まだ冬の気配が残る春の夜空に笑声をひびかせながら、自動車にのりこんだ。
――ところで、
この日、大使館では、再び東京からの井川理事に関する注意を受信していた。
「ソノ後井川ニツイテハ各方面ノ風評極メテ面白カラズ……近衛大臣ノ希望アルニツキ、井川ニオイテコノ上話ヲ進ムル事ナキ様勧告アリ度」
松岡外相名になっているが、外相はそのころモスクワ経由でドイツにむかうため、シベリヤ平原をソ連政府の特別列車「赤い矢」号で突進していた。
次官大橋忠一からの来電であるが、大使館は大きくうなずいた。井川理事は、なにかといえば近衛首相の側近を自称するが、その近衛首相自身が井川理事との関係を否定しているらしいのだから、井川理事の素性はいかにもうろんである。
若杉公使は野村大使に報告し、大使も肥首をかしげた。もし電報が正しければ、いったい井川理事はなぜひとりで躍起になっているのか、その理由がわからないからである。――だが、井川理事と二人の神父の活躍は、さらに急速化していた。
三月十六日、ウォーカー郵政長官はまたウォルシュ司教の覚書をハル長官に配達したが、この覚書では、すでに“原則的協定”の予備草案が相当な部分まで起草されていることを伝え、その内容としてこれまでに指摘した項目をならべたあと、いずれ近衛首相とルーズベルト大統領がホノルルで協定にサインすることを期待していた。
「かくて、太平洋平和の新時代の開幕――そして、枢軸同盟の終末――ハレルヤ!」
末尾には、そう感嘆符をならべた興奮気味の単語もつけ加えられ、いかにも近く日本側が重大な決意を示そうとしている印象を与えた。
日本大使館は、しかし、そのような動きについてはなにも知らず、その代りに井川理事にたいする不信感を一段と強めていた。
外務省から、井川理事が近衛首相に「種々援助ヲ求ムル」旨を電報してきているのは「言語道断」であり「ツイテハ井川ヲ篤《トク》ト諭《サト》シ、絶対ニ出過ギタル事ナキヤウ御厳命相成度」という訓電が到着したうえ、さらに蔵相河田烈からニューヨーク駐在の財務官西山勉にたいする次のような電報も、転電してきたのである。
「首相ソノ他ニ質シタルニ、首相・内相・陸海軍当局等ハ……同人(井川)ニ対シ何ラ具体的交渉ヲ依頼セル事ナシトノ事ナリ。同人ガ首相ノ代理トシテ何等カ交渉ノ為派遣セラレタルモノノ如キ印象ヲ彼ラニ与フル事ハ、対独関係上等ヨリ見テ、甚ダ面白カラズ……」
井川理事はワシントンの日本大使館から電報をうつことを拒否された。そこで、旧知の西山財務官を通じ、蔵相あての暗号電を利用して近衛首相に連絡していたので、蔵相から西山財務官あての注意電となったわけだが、こうなると、井川理事がなんらの信任も与えられていないことは、明白である。
おかげで、若杉公使以下の大使館幹部は井川理事にたいする評価と態度を、一段と冷却させることになったが、一方、井川理事と二人の神父は、「ハレルヤ!」のかけ声をハル国務長官につたえた翌日三月十七日、早くも“原則的協定”の予備草案を完成した。
この予備草案は、ほぼ一カ月後に作成される「日米諒解案」の基礎となるものだが、「前文」「国家の基本原則」「平和への支持」「枢軸同盟」「日支紛争の調停」「日支紛争の処理のための秘案提案」「海軍兵力」「商船隊の使用」「日独通商関係」「輸出入」「金クレジット」「石油」「ゴム」「南西太平洋地域における自治国家」「極東モンロー主義下における極東諸国の地位」「会談」の十六項目にわかれていた。
内容は、これまでに神父たちが述べた提案項目にそってはいたが、さらに進歩していた。
たとえば、三国同盟については、日本政府はその目的が「合法的な自衛と分配的な平和」だけであることを宣言するという。
また、支那事変解決にかんしては、日本側は支那側に通商上無差別、反共政策、治安確保などを要求する代りに、支那の「完全な政治的独立」「撤兵」「無賠償」「領土保全」「門戸開放」などを保証する。
そして、米国は日本が必要とする物資を供給し、日米両国はこんご三年間は、一方が他方にたいする海軍力の協力要請を認める、というのである。
ホーンベック顧問は、眼をむいて覚書を何度も読み返した。これが日本側の正式提案であるとすれば、まさしく日本は政策の大転換を決意したことになる。だが、真実であろうか。
覚書には、いぜんとしてこの提案が日本大使館にはつたえられていないことと、近衛首相、有馬伯爵、内大臣木戸幸一侯爵たちが生命を賭けて交渉成立を計画していることが、書きそえてある。
翌日、十八日はさらに、交渉は一刻も早く進める必要があり、もしルーズベルト、ハル両者によって権威ある内諾を得られるならば、この草案を二週間以内に提出するよう野村大使に訓令させる、という覚書が、ウォーカー長官経由で伝達された。
「(交渉が遅延すれば)日本の指導者たちは、たぶん暗殺されるであろう。ミスター井川と岩畔大佐は、どっちみち殺されることを覚悟している(ミスター井川の母親は、覚悟している、とミスター井川に述べている)」
大使館に知らせてはいけない、秘密にしないと殺されるから――との注意は、国務省の大使館にたいする問い合せを封止するためとも思えるが、日本には政治的暗殺の伝統が根深く、その事例も顕著である。
ホーンベック顧問は、バランタイン日本課長にニューヨーク出張を命じ、二人の神父と井川理事に会わせることにした。
三月二十日、岩畔豪雄大佐が日本郵船「竜田丸」でサンフランシスコに着いた。
「竜田丸」は三月六日に横浜を出帆したが、岩畔大佐は出発にさいしてなにも陸軍省当局と協議しなかった。いや、なんのために渡米するかも知らぬ者が、多かった。
ちょうど、出発の数日前、新しく陸軍省軍務課長に就任する佐藤賢了大佐は、陸軍省の廊下で岩畔大佐に出会った。渡米のあいさつ回りだといった岩畔大佐は、「ちょっと米国へ行ってきます。支那事変を何とかしたいと思いましてね」と、佐藤大佐に告げた。
(ハテ、妙なことをいう)――と佐藤大佐は胸中でけげんな想いをかみしめた。
――支那に行くというならともかく、アメリカに行って支那事変をどうしようというのか。
それに、岩畔大佐は軍事課長として前年七月に決定された国策「世界情勢ノ推移ニ伴フ時局処理要綱」、九月に締結された日独伊三国同盟の最も熱心な推進者の一人である。
「世界情勢ノ推移ニ伴フ時局処理要綱」は、「日満支を骨幹とし概ね印度以東、濠州、ニュージーランド以北の南洋方面を一環とする自給態勢を確立する」ために、「第三国の援行為を絶滅」して支那事変を解決しようとする政策で、そのためには「南方武力行使」と対米英戦の覚悟も必要だ、と規定している。
日独伊三国同盟が対米英戦につながる合意を持つことも明らかであり、極秘にされているとはいえ、いずれもきわめて強硬な対米方針である。
こういった対米姿勢の推進役・岩畔大佐が、なにをしに米国に行こうとするのか。
佐藤大佐としては、「キツネに鼻をねじあげられた」ような想いでとまどった次第であるが、岩畔大佐に別れたあと、前任者の河村参郎大佐にたずねてみたが、河村大佐も知らない。
「アメションだろうよ」
河村大佐はそう答え、佐藤大佐もぼんやりとうなずいたが、軍務課長は陸軍省における政策担当の主務者である。その軍務課長がなにも知らないのは、岩畔大佐が河村大佐にもその上司の武藤軍務局長にもなにも告げていなかったからであろうが、そうなると、岩畔大佐の態度は不審である。
岩畔大佐の赴任は、支那問題にかんする補佐という野村大使の要請にもとづくので、あえてそれ以外の仕事にタッチしない姿勢を維持したのかもしれない。
だが、岩畔大佐は横浜出帆と同時に「案ズルナカレ、枢軸同盟ノ方式ニツキ詳細ナル訓令ヲ携行シアリ」と打電している。しかし、必要な主務者になにも語らずに“訓令”をうけることはできず、事実、大佐は陸軍当局の訓令をうけていない。
その意味では、岩畔大佐の訪米は、ワシントンの“神父工作”にもうひとつ、不明確な要素をつけ加えることになりそうだが、その岩畔大佐をサンフランシスコで迎えた井川理事の動きは、さらに不明瞭であった。
井川理事は、サンフランシスコの「セント・フランシス・ホテル」に投宿して岩畔大佐を出迎えたが、大佐と一応の会談を終えた三月二十二日、日本に帰る「竜田丸」に託して近衛首相に手紙を送った。
三月十七日にウォーカー郵政長官がハル国務長官にとどけた「日米原則的協定案」と、それにかんする所見を書きそえたものだが、井川理事は、まっさきに次のように述べている。
「拝啓、愈々《いよいよ》御健勝の段奉賀候。却説去る十八日夕刻、大統領側近より太平洋平和維持に関する根本原則試案とも申すべきものの送付有之候に付、茲許《ここもと》及御転送候間、御査収被下度《くだされたく》候。右は……大統領自身、目下南方旅行に藉口《しやこう》して本案検討中の趣に御座候へば……」
この文書は、ずいぶんと理解に苦しむ内容に満ちている。
すでに述べたように、「原則的協定」案は井川理事と二人の神父の合作であり、ウォーカー長官ら米国側には、「日本側の提案」の印象で提示されている。ところが、井川理事は、米国側、それも「大統領側近」の提案だと報告している。
しかも、大統領が同案を検討するため、わざわざ旅行を口実にしてホワイト・ハウスに閉じこもっているといっているが、その事実はなく、ウォーカー長官も二人の神父もその種の空言を井川理事に語った様子は、ない。
もっとも、岩畔大佐は井川理事が示した「原則的協定」案にはだいぶ異論をとなえたとみえ、井川理事は、手紙の末尾に書きそえている。
「本案御手許に届き候頃は、勿論、一大修正を受け居ることと被存候間、之を我関係当局に御示の儀は或は考物と相成るやも知れ不申候……」
岩畔大佐は、日独伊三国同盟や支那撤兵問題について、「原則的協定」案の宥和的態度をきっぱりと拒否した。そこで、井川理事としても、不安を感じたわけだが、それにしても、近衛首相あての書簡はいかにも「顧みて他を云う」式の歪みにいろどられている……。
井川理事が近衛首相あての手紙を書いた二日後、三月二十四日朝、国務省日本課長J・バランタインはニューヨークに到着し、「ザ・バークシャー・ホテル」に泊った。
事前にドラウト神父と打ちあわせておいたので、ホテルに着くと間もなく、神父は訪ねてきた。そして、二人の神父の工作の背景について、バランタイン課長に説明した。
――前年の十一月、神父とウォルシュ司教は日本のカトリック教会の教育活動にかんする立法措置について当局者と協議するために、訪日したこと。
――この話しあいの過程で、日米関係が問題になり、松岡外相は、ほんの一時間だけ(ルーズベルト)大統領と会うことができれば、日米関係を改善してみせるといったこと。
――そのご、二人の神父は井川理事をふくむ多くの日本側指導者に会ったこと。
――帰国後、スペイン公使として赴任する前外務省情報部長須磨弥吉郎を通じて日本大使館と接触したがなにもいわず、井川理事の訪米を待って活動を開始したこと。
バランタイン課長は、ドラウト神父の説明にうなずいたが、神父との会談の途中、サンフランシスコから神父に電話がかかってきた。
「申し訳ない。井川サンからの電話でしたが、イワクロ大佐と二人でサンフランシスコから飛行機で今夜到着するはずだったが、イワクロ大佐が船中でちょっと身体の調子を悪くしたので、汽車で来ると申しております。私は、それなら井川サンだけ先に来るようにいい、井川サンも承知しました」
だから、井川理事との会見は翌日になる、と神父はいい、バランタイン課長は諒解した。しかし、その夜、またドラウト神父は電話をかけてきて、飛行機はアルバカーク付近の暴風雨を回避するために遅れ、井川理事の到着は三月二十六日夜になる、と伝えてきた。
結局、バランタイン課長が井川理事に会えたのは、三月二十七日であったが、この日はまずドラウト神父がバランタイン課長をたずねた。
「駐日ドイツ大使(ユージン・オット少将)が、イワクロ大佐の日本出発数時間後にその事実を知り、ドイツ政府はいくつかの対抗手段をとったようです」
ドラウト神父は声をひそめて、バランタイン課長に話した。その対抗手段とはどんなものか、というバランタイン課長の質問には答えず、とにかく「原則的協定」案の内容には変更はないが、こんごの交渉のすすめ方は変えねばなりますまい、と述べた。
そして、それ以上は語らず、井川理事の部屋に電話してバランタイン課長を連れて行き課長を理事に紹介すると、退出した。
井川理事とバランタイン課長との会談は四時間以上もつづいたが、井川理事が最も熱心かつ長々と述べたてたのは「自己紹介」である。
井川理事は、日本のシベリヤ出兵のさいに陸軍の顧問をつとめ、現宮内大臣松平恒雄と親しくなったと述べ、また、自分は首相を二回つとめた若槻礼次郎の「従弟だ」と、いった。
「現在は、中央金庫理事でありますが、中央金庫は三井銀行や安田銀行よりも大規模な日本最大の金融機関であります。いいかえると、中央金庫には日本全人口の五十五パーセント農漁業人口の九十五パーセントが関係していて、いわば私はそれだけの日本人を代表していることになります」
そういう計算と判定の仕方もあるのか、とバランタイン課長は眼と眉をつりあげて仰天したが、井川理事は、いさい構わずに話しつづけた。
「この中央金庫の理事長は、第一次近衛内閣の農相有馬頼寧伯爵であり、有馬伯爵は内大臣木戸幸一侯爵、近衛首相とともに、日本において最も影響力を持つ文官の一人であります。とくに、陸軍が農村子弟に人的資源を求めている実情において、有馬伯爵は陸軍指導者と親密であり、陸軍指導者たちは熱心に米国とのトラブルを避けることを望んでいます」
井川理事は、ただし、どうも海軍の一部には急進分子がいるらしい、と指摘したあと、岩畔大佐は東条陸相と武藤軍務局長の「完全な信頼」を得ていること、ドイツは日本とソ連との政治的合意をあっせんしようとしていることなどを、話した。
バランタイン課長は、何度か井川理事の物語りの合い間に口をはさみ、井川理事が提案する「原則的協定」がどの程度日本の公式諒解を得ているか、こんご具体的にどのように交渉をすすめる計画であるかをさぐりだそうとした。
しかし、井川理事はそういった質問には直接答えず、逆にバランタイン課長から米政府側の反応を確かめようとしたが、課長が米国の伝統的アジア政策を述べて身をかわすと、井川理事は、自分はこの交渉に「生命を賭けている」といいながら、ワシントンの日本大使館を批判する言葉を述べたてた。
「本件については、なにも日本大使館には話してありません。たぶん、大使館の連中は交渉にタッチできないので失望しているでしょう。しかし、本件は職業外交官よりはもっと経験豊富な人物の手で処理されねばなりませんよ。私は、彼らを全然信用しておりません。たとえば、若杉公使などはあまりにも在外勤務が長すぎて、日本の実情を知りません」
そうかと思うと、井川理事は、交渉は「野村大使とハル国務長官と直接におこなうべきだ」と、正反対の意見を主張してバランタイン課長をびっくりさせた。
バランタイン課長は、翌日、ワシントンに帰って井川理事との会見にかんする詳細な報告書を作成したが、その中で、井川理事については「人格者で説得力と知性に富む人物」と評価しながらも、結局は、日本側の意図はなお不明であり、それを確実に把握するためには「数日間かけねばならぬだろう」と、結論した。
報告書を読んだ国務次官サムナー・ウェルズは、「きわめて興味深かった」とホーンベック顧問に伝えたが、ホーンベック顧問の論評も、それ以上の表現は採用できなかった。
「いずれ、イワクロ大佐がワシントンに来ればなんらかの動きがあるかもしれない。それまで待つことだな」
ホーンベック顧問の言葉に、バランタイン課長も応えた。
「イワクロは(三月)三十日にニューヨークに着くと、イカワはいっていました。あるいは、サクラ・シーズンになるかもしれませんね」
バランタイン課長がいう“サクラ・シーズン”は、ポトマック河畔の三千本の桜が咲く四月中旬を指し、のちに回顧すれば、このバランタイン課長の予測はぴたりと適中することになるが、ホーンベック顧問とバランタイン課長が話しあった同じ三月二十八日夜、野村大使は官邸で少し早目の“サクラ・パーティ”をひらいていた。
大使公邸の庭にも、桜樹がならんでいる。野村大使は二週間前のスターク作戦部長邸での招宴のお返しに、まだつぼみ《ヽヽヽ》ではあるが夜桜を眺めながらの歓談をしたい、と米海軍首脳部十四人を招いたのである。
もっとも、当夜の宴席は正確には“サクラ・パーティ”ではなく、“ウナギ・パーティ”と呼んだほうがよかったかもしれない。
十四人の招客の中には、リチャードソン前太平洋艦隊司令長官のほかにニミッツ少将もふくまれ、野村大使は、スターク邸での約束を忘れずにウナギのかば焼きをメニューに加えていたからである。
ウナギ釣りを命じられたのは、海軍武官府に勤める佐々木勲一である。
「大使館の裏手に、ずうっとロック・クリーク公園がのびていましてね、それを南に下るとポトマック河にぶつかる。公園をぶらぶら歩いて河に出て、黒人のバアさんと並んで釣ったんだが、いや、よく釣れました」
おまけに、米国のウナギは日本産より相当に大きい。
「これがウナギかねェ。メリケンのウナギはウナギまでぶくぶく肥ってやがら」
大味でうまくはないだろうな、と料理人村井時次郎は、うす気味悪そうに大ウナギを調理したが、食卓にだしてみると、米海軍の提督たちの関心は、照明に映える庭の夜桜よりはかば焼きに集中した。
最初は、全員が鼻をぴくつかせて香りをかぎ、眼をむいて皿を凝視し、うまそうに食べてみせる海軍武官横山一郎大佐の口もとを観察していたが、「チェスター、ユー・トライ・イット」(チェスター、食べてみろ)というスターク大将の指示で、ニミッツ少将がフォークで小片をちぎりとって、口にほうりこんだ。
「うまい。すばらしい味です、閣下。ニューヘブライズ諸島の名産、バトル・フィッシュ以上の味です」
「オー、リアリー?」(本当か)
スターク大将が反問して食卓にかがみこむのを合図に一同もかば焼きを食べ、口々に賞味の辞を述べあった。
野村大使も提供したご馳走が喜ばれたので満足して客人たちを送りだしたが、走りだした自動車の中でのスターク大将とニミッツ少将の次のような会話は耳にすべくもなかった。
「ときに、チェスター。バトル・フィッシュ(戦闘魚)というのは、キャトル・フィッシュ(イカ)の一種かね」
「いいえ、閣下。そんな魚は聞いたことありませんよ」
「だって、貴下はニューヘブライズ諸島で……」
いいかけて、スターク大将はニミッツ少将の即席の冗談に気づき、腹をかかえて笑いこけた。
野村大使もその夜は、気のおけない海軍仲間の交際なので、客の一行が帰ってからも、横山大佐や補佐官実松少佐をひきとめて談笑をつづけたが、やはり海軍同士はいいな、とくり返す大使の顔を見ながら、実松少佐は憮然としていた。
実松少佐には、米海軍が良いとはどうしても思えない、少なくとも体験はその逆の印象を与えるからである。
つい数日前のことである。ワシントン駐在員である司城正一海軍造兵大尉が憤然とした表情で、実松少佐に報告した。
「補佐官、私の自動車に拳銃弾を射ちこんだヤツがおります」
「拳銃……? 誰かが空気銃でいたずらしたんだろう」
実松少佐は、まさか、と思って、そう答えた。少佐自身の乗用車のタイヤも刃物で切られた経験がある。明らかに嫌がらせだが、誰の仕業かはわからない。
「いや、たしかに拳銃弾の弾痕です。まちがいありません」
司城大尉は造兵将校である。銃砲にはくわしい。実松少佐が大尉に連れられて自動車を見に行くと、なるほど、後部座席のガラス窓に一発、右後部車輪の軸カバーに一発の弾痕がはっきり残っている。たしかに拳銃弾痕、それも四五口径くらいの大型拳銃弾と判定された。
車内のシートをひっくり返してみると、弾痕はへしゃげているが、明らかに四五口径弾と思える拳銃弾が発見された。
実松少佐は、司城大尉に自動車を修理屋にはこばせるとともに、米海軍省にたいして一応の抗議をした。
すると、司城大尉の下宿先の部屋が、大尉の不在中に警察官の家宅捜索をうけた。そして、大尉に警察署に出頭が命じられた。
――来たな。
実松少佐は直感して、司城大尉に警察ではとくに慎重に応答するよう、注意した。駐在員は、軍人ではあっても武官府のメンバーではないので、外交特権は認められない。不法行為があれば逮捕されるし、追放もされる。嫌がらせ、または退去させるには格好の対象になるからである。
はたして、警察署の司城大尉にたいする処遇はひどく意図的であった。
大尉の行動を詳細に調査ずみとわかる質問をかさねたのち、なぜ警官の制止をふりきって逃走したのか、と詰問してきた。
「だから、貴下の自動車に弾痕があった。警官はやむを得ず威嚇射撃をしたので、弾痕があるわけです。つまり、貴下は違法行為をしたからこそ逃げたのであり、弾痕がそれを立証しているではないか」
「待ってくれ、貴官は誰にむかって、そのような子供じみたいいがかりをいっているのか、おわかりなのか。本職は造兵士官であり、鉄砲の専門家ですぞ」
司城大尉は、海軍武官府嘱託の佐々木勲一の通訳で警察官に応対しながら、胸をはった。逃走している自動車に発射したというなら、後部座席窓の弾痕はともかく、軸カバーの弾痕は車輪の回転に応じて曲線に流れねばならない。それが垂直なのは、駐車中に拳銃を射ちこんだなによりの証拠ではないか。
理路をたどった大尉の抗弁に警官は黙りこみ、よく調査する、と答えて大尉を放免したが、佐々木勲一が別の警官から聞いたところ、調べ室に同席していた私服の男は、米海軍情報部の大尉だという。
してみれば、司城大尉の自動車の弾痕事件も、米海軍が警察と手を組んで司城大尉の追放をこころみた、とも推理できる。
実松少佐には、だから、米海軍はむしろ歴然と日本海軍を警戒かつ敵視しているのであり、表面の友好的態度は文字どおりにジェスチュアにすぎないとしか、思えなかった。
しかし、といって、せっかく“海の男”のまじわりを楽しんでいる野村大使に些細な裏話を告げ口する必要もない。
実松少佐は、公邸を出て横山大佐を送る自動車の中で、大使もたいへんですね、米国側は渋いですから、とグチめいた言葉をはいただけであった。
「そうだな……そういえば、岩畔大佐がもうじきやって来るな」
横山大佐のつぶやきに、あ、陸軍の、実松少佐は軽くうなずき、ハンドルをにぎり直してアクセルをふみこんだ。
二人とも岩畔大佐が野村大使の補佐として赴任することは知っている。
が、そのころ、ニューヨークにむかう列車の寝台の上で、ロイド眼鏡をおしあげながら、しきりに書類に万年筆を走らせている岩畔大佐が、胸奥になにを考え、またその文書がなにかは、横山大佐も実松少佐も、知るすべはなかった。
10
岩畔大佐は、三月三十日にニューヨークに到着すると、翌日、ウォルシュ司教とドラウト神父に会ったのち、ワシントンにやってきた。
「いよッ、矢野少佐。久しぶりだ。元気か」
駅に出迎えた陸軍武官補佐官矢野連《むらじ》少佐にロイド眼鏡の奥の双眼を細めた大佐は、威勢の良い大音声《だいおんじよう》をはりあげた。三月末だというのに寒い日がつづいている。大佐がひとことを吐きだすたびに、唇のまわりに呼気が白く飛散した。
「宿舎は、アンバサダー・ホテルにおとりしてありますが、武官府にいかれますか」
「ああ、そうしよう」
ワシントン駐在陸軍武官府は、日本大使館の東北方約三マイル、ロック・クリーク公園にかかる「ミリオン・ダラー」橋に近い「バレー・ベスタ・アパート」にある。
向い側は「ウォードマン・パーク・ホテル」で、つい数日前からハル国務長官が転居してきている、という話だった。
陸軍武官府は、武官磯田三郎少将の下に補佐官二人(矢野少佐、石川秀江少佐)、嘱託、書記三人という陣容であったが、磯田少将をはじめ武官府は、やや当惑した心境で岩畔大佐を迎えた。
岩畔大佐の赴任については、武官府はすでに前年(昭和十五年)十二月はじめに、東京からの内示で承知していた。まず、大佐が米国在勤帝国大使館付武官補佐官に任命されるとの電報がとどき、次いで、年があけてから、岩畔大佐を支那問題にかんして野村大使の特別補佐にあたらせる、という指示が伝達された。
しかし、そのほかにはなんの連絡もなく、磯田少将は首をひねった。
「とくに補佐官を増員してほしいと要請したこともないし、また増員せねばならぬほどの事情もない。それに、岩畔は軍事課長の要職にあった男だ。これを補佐官として、具体的にどんな任務を担当させていいのか、さっぱり見当がつかない」
軍事課長が武官補佐官に転出した前例はなく、補佐官には“大物”すぎる。磯田少将は、あるいは大佐は武官要員として赴任するのかとも考えたが、それならば少将に帰朝の内命があるはずである。
「あれこれ考えたあげく、結局、軍事課長の職にたいする慰労のために、補佐官という名目で観光旅行にくるのだろう。そんなぐあいに想像しとりました」
すると、三月一日(または二日)、中央金庫理事井川忠雄が陸軍武官府を訪ね、二人の神父を通ずる日米交渉の準備工作の概要を語って、磯田少将に質問した。
「岩畔大佐もよくご承知のことですが、この件にかんして陸相または(参謀)総長のほうから、なにかご指示が来ておりませんか」
「………」
磯田少将は、複雑な心理的動揺を感じながら、無言で首を左右にふった。
岩畔大佐がそのような使命を与えられていたとは意外だが、使命が極秘であろうと、武官府になんの連絡もないとは、いささか心外である。また、その種の国際交渉は、もともと大使の任務であり、それを補佐するのは武官の仕事になるだろう。
かりにも正式には「補佐官」の身分を与えられた岩畔大佐が、民間の私人である井川理事と組んでやるのは、大使館と武官府の立場を無視した異例事にすぎるのではなかろうか。
磯田少将は、井川理事からさらに詳しい説明を聞き、工作の背後にウォーカー郵政長官という閣僚がいることも知ったが、釈然としない想いは消えなかった。
若杉公使、また海軍武官横山大佐にもそれとなく井川工作にかんする意向をたずねてみたが、両者ともに反応は消極的であった。発言は慎重だが、なんとなくそれぞれ外務省、海軍省から警戒すべき旨の指令をうけているようにさえ、うかがえたからである。
磯田少将は、矢野少佐に案内された岩畔大佐が、ヤア、ヤア、と豪快なかけ声を発散しながら武官室にはいってくると、さっそく率直に質問をくりだした。
井川理事の話はほんとうか? 日米交渉とはなんのことか? 訪米の真の目的はなにか? 具体的な使命を与えられているのか?
とくに磯田少将が岩畔大佐に質したのは、若杉公使や横山大佐の微妙な発言ぶりから感得したように、どうも外務省、海軍は“井川工作”に消極的らしいが、では、陸軍はどうなのか、陸軍だけでやろうとしているのか、という点であった。
岩畔大佐は、うなずきをくり返しながら磯田少将の質問に耳を傾けていたが、じつは、と姿勢を正して、いった。
「本工作に関しては、近衛首相から話があり、外務省及び海軍の省部(註、海軍省、軍令部)はあまり関心を示さなかったが、陸軍大臣は、毒でも使い方では薬になると同様に本工作もやり方によっては為になるかもしれない、之が成否を深く憂慮することなく、とに角やってみたら良いだろう、ということになり、井川、岩畔両名の派米をみるに至った次第であります」
だから、よろしくお願い致します、と岩畔大佐は一礼した。
この岩畔大佐の発言は、明らかに事実に相違している。大佐は、日本を出発する前に井川理事とは会っているが、井川理事から聞いた二人の神父の工作については陸軍省の誰とも話しあわず、陸相東条中将にも報告していない。陸相から激励されるはずもないのである。
なぜ、ウソをつくのか――?
岩畔大佐については、「やり手」「無私の人」「信念の人」「智謀の人」などの人物評が多い。
「強引な謀略家」という評言もあり、近衛首相の秘書牛場友彦は、「一見してただ者でない、一種異様な迫力をうけたのを覚えている」と回想している。
軍事課長時代の仕事ぶりも、有能ではあるがときに策謀に長じすぎる印象を与え、野村大使から適当な補佐役の人選を求められたとき、東条陸相と武藤軍務局長は、私行上のとかくの噂もあったので“厄介者払い”の意味をこめて岩畔大佐を推薦したとも伝えられている。
あるいは、自信と智略に富む岩畔大佐は、わが手で日米関係を有利に転換させるべく、米国政府を背景にするとみられる二人の神父と“謀略合戦”をまじえる意気に燃え、ひそかに秘略をめぐらしていたのかもしれない。
そして、その秘策がどのようなものであるかは、そのごの大佐の言動と日米交渉の行方が物語るが、いずれにせよ、ワシントンに大佐を迎えたばかりの磯田少将にとっては、岩畔大佐の脳中と胸奥は推察し得べくもなく、その言葉をそのままにうけとるだけであった。
まして、岩畔大佐は陸軍首脳部と接触が深い軍事課長であっただけに、発言内容を疑う根拠はなにもない。
よくわかった、と答えた磯田少将は、宿舎にむかう岩畔大佐を送りだすと、大使館の若杉公使に電話して、できるだけ早い機会に大使、公使、参事官、陸軍武官と岩畔大佐との会合を開いてはどうか、最新の内地情報を聞くチャンスにもなる、と提案した。
すでに若杉公使が“井川工作”または“神父工作”に消極的であることはわかっているので、東京の情勢を岩畔大佐に説明させながら、ついでに工作の実情も伝えさせて、野村大使に工作の採用を承知してもらおう、という含みをこめての提案であった。
岩畔大佐は、四月一日午前十時、大使館に出頭して野村大使に着任を申告したが、大使にも、そのあとで挨拶した若杉公使、井口参事官にも格別の話はしなかった。
磯田少将が提案した岩畔大佐をかこむ会は、四月三日夜、大使公邸でひらかれたが、軽妙な人物評を加えながら軍、政界の事情を語る岩畔大佐の内地情報が話題の中心となり、“神父工作”にはふれなかった。
磯田少将は、用意した機会が失われたことを残念に思い、宴席が終ると、野村大使に短時間の会談を求め、日米間の関係改善にかんする交渉は大使の本務ではあるが、多少の裏面または側面工作を併用することも有効であろう、と進言した。
磯田少将が“神父工作”を指摘していることは、野村大使にもすぐ諒解できた。そして、磯田少将は、岩畔大佐の説明の概略も報告しはじめたが、料理人村井時次郎の妻京子が部屋にはいってきたので、会話を中止した。
野村大使は果物が好きで、就寝前に必ず食べる。村井京子は、その慣例にしたがい、オレンジ二個を皿にのせて運んできた。
「ありがとう。早く寝みなさいよ」
野村大使は、村井京子にねぎらいの言葉をかけて磯田少将にむきなおったが、少将は大使の就寝時間であることを考え、いずれ岩畔大佐を引見して詳細の報告をうけてほしい、と述べて退出した。
――三日後、四月六日午後一時。
岩畔大佐は野村大使を訪ね、ひとたばのタイプした文書を手渡しながら、“神父工作”を正式交渉に移すべきだ、と強調した。
大佐は、サンフランシスコからの汽車中で井川理事とドラウト神父が合作した「日米原則的協定案」を検討し、四月二日からは連日、ワシントンに出張してきた神父と協議して修正していた。
持参した文書は、「原則的協定案」とその“岩畔修正案”である。
岩畔大佐はまた、あらためて野村大使に前年末からの“神父工作”の経過を報告したが、野村大使は経過説明よりも文書の解説を大佐に要求した。
「原案のどこをどのように修正されたのですか。その理由は……また、本案の意味と意義はどのようなものでしょうか」
待ってました、とはいわなかったが、むずと坐り直した動作でそれとわかる気配を示しながら、大佐は論述した。
「米国は大戦参加の気構えを強めております。いや、実質的にはすでに参戦していると申せましょう」
この大佐の指摘は正しいといえる。ルーズベルト大統領は、武器貸与法の成立にともない、三月十五日、ナチス・ドイツとその追従者たちの独裁諸国を崩壊させるため、米国民は一致して努力と犠牲をはらうべきだ、と演説したが、三月中の米国の動きは、陸海兵員の増員、陸軍機月産二万一千機の目標設定、艦隊建造費三十四億四千六百万ドル余の計上、海軍兵学校生徒の繰上げ卒業など、まさに戦時態勢そのものであった。
岩畔大佐は、このままでは必ずや米国はヨーロッパ戦争に参加し、さらに日米戦争も必至であろうが、ただ、米国としてもヨーロッパと太平洋との二正面戦争は避けたいにちがいない、といった。
「その意味で、日米関係の調整は現在がチャンスだといえましょう。ただし、それには両国間の懸案を一挙に、かつ全面的、劇的に解決するのでなければ不可能です」
日米間の懸案、いいかえれば日米関係を危険にさせている根本問題は、日独伊三国同盟、支那事変、日本の南進、米国の対日禁輸の四つである。この四つを一気に解決してしまえばよい。
岩畔大佐は、テーブルの上に置いた文書をめくりながら、「原則的協定案」は一種の平和条約案の形式がとられ、抽象的になりすぎているので、もっと具体的に双方の利益を合致させるよう修正してみた、と述べた。
たとえば、「原則的協定案」では、米国にたいして反日的同盟不締結を求めているが、米国が独自に福祉と安全のために行動する自由を認める。また、「原則的協定案」で唱えられていた「極東モンロー主義」の宣言はやめ、その代りに日本は行動の平和性を守り、米国も日本が必要な天然資源を入手することを援助する、と修正した。
とくに重要なのは、支那事変の解決である。
支那事変は、明らかに日本の失策であるが、介石政権もこれまでの日本側の和平提案を拒否しつづけてきた。米英が政権を援助しているからだが、事変は、いまや日支両国を疲れさせようとする共産主義の謀略に利用されつつある。
日本にとって、その南進政策も結局は支那事変での国力消耗をおぎなおうとするためであるから、支那事変が解決すれば武力による南進は不要となり、当然、米国との対立の理由も失われる。
そこで、修正案では、支那事変の解決が米国の対ヨーロッパ、対アジア政策のすべてに有利になることを考え、また日本側も最大限の譲歩の用意があることを前提として、米国は満州国の承認と和平交渉を介石政権にあっせんし、それが拒否されれば対支援助をうちきるよう要請した……。
岩畔大佐は、支那事変解決のための譲歩としては、日本軍の二年以内の撤兵、さらに北部仏印(仏領インドシナ)からの撤兵も神父たちに示唆しておいた、といった。
「結構です。これでいけるなら日本は救われる」
野村大使は、岩畔大佐の説明を聞き終るとほおを紅潮させた。隻眼にはうすく感涙もにじんでいる。
野村大使は、赴任前に米国での交渉の腹案として「対米試案」を書いたが、その中で両国関係を阻害する最重要問題は「大陸就中《なかんずく》支那問題」「最近の南進論」「米国参戦の場合における(三国)同盟条約による我国の義務」の三つだと判定して、その処理の必要を指摘していた。
岩畔大佐の「修正案」と意図は、まさに「対米試案」にひれきされた野村大使の配慮とねらいそのままではないか。
「結構です。やりましょう」
野村大使は、結構、をくり返し、きっぱりと岩畔大佐にたいする支持を言明すると、若杉公使に陸海両武官の呼集を指示した。
二人の武官が来るまでに、野村大使は若杉公使に岩畔大佐の「修正案」を見せ、事情を説明した。若杉公使は、無言で聞いていた。
午後三時すぎ、二人の武官が到着すると、野村大使は着座した二人を前にして、しばらく黙思する風情であったが、
「大使親任にあたり、聖上陛下にはとくにご懇篤なお言葉を賜りまして……」
荘重な大使の声音に、あわてて武官たちが背筋をのばすと、野村大使は、日米関係の改善を希望された天皇の胸中を察すると一日も早く日米交渉を開始したい、そのために陸海両武官のご協力を得たい、といった。
何事なのか判然としないままに、二人の武官が黙礼していると、野村大使にうながされて岩畔大佐がことの次第を説明した。
「原則的協定案」と「修正案」が回覧され、岩畔大佐は、まず「修正案」を外交文書にふさわしい形式にととのえ、二人の神父を通じて非公式に米国政府に提示して意向を打診する、それにもとづいてさらに修正を加え、第二次かつ最終案文を作成して正式交渉に移して一気に成立させる、という今後の交渉スケジュールを告げた。
「その方向で進めたいと思います。ついては、ご意見をうかがいながら修文したい。条約担当の松平書記官を参加させますので、本日から作業をはじめたいと思います」
若杉公使が言葉をそえ、野村大使も、よろしく、と微笑した。
磯田少将は、驚いた。岩畔大佐の要請で“神父工作”の承認を野村大使にすすめたのは少将自身であるが、ことがこれほど急速または簡単に決定されるとは、夢想外であったからである。
それに、いま、岩畔大佐の説明を聞くと、かつて井川理事が述べた日米交渉が、太平洋、アジア地域における日米利益協定をめざしているとうけとれたのとちがい、支那事変解決を焦点とする対米取り引きを企図している印象をうける。
そして、岩畔大佐は、提案については二人の神父を通じて米国政府、とくにルーズベルト大統領、ハル国務長官ら首脳部の直接諒解を得られる見込みは十分にある、という。
一種の高等政治工作をねらっているらしいが、はたしてそれは可能なのか。
磯田少将は、横山大佐の横顔に視線を走らせた。ひどく意表外の事態にとまどっているのか、唇をひきしめたままである。
「ご趣旨はよくわかりました。ご指示にしたがって努めたいと思います。が、一、二、私見を申し述べたい」
磯田少将は野村大使に挨拶すると、次の三点を意見具申した。
日米両国がはっきりと対立する陣営に位置している以上、交渉は困難である。気長にまた名を捨て実をとる心構えで進めるべきである。
ウォルシュ、ドラウト両僧の米政府首脳部にたいする影響力を予測することは至難中の至難事である。
交渉にさいしては、政戦略にわたる帝国の企図にとくに留意し、また交渉の範囲や項目の細部については、米国側の意向をできるだけ尊重して交渉を容易ならしめるべきである。
磯田少将にしてみれば、至って楽観的な岩畔大佐の態度に不安が感じられる。
なんとなく、“神父工作”が“岩畔工作”にすり替えられ、それだけに交渉の性格も容易に“米国本位”から“日本本位”に変化している感じがするからである。
磯田少将の三項目の所見は、だから、そういう“岩畔工作”の進展にたいする危惧の表明でもあったが、反応はほとんどなかった。
少将の表現が慎重であったためもあるが、岩畔大佐の登場は、一般的には事態の好転と理解できるからでもある。
若杉公使や横山大佐が“神父工作”に好感を示さなかったのは、井川理事という私人の介在が主因であったが、いまや日本で最大の勢力・陸軍の要人が推進役になるとなれば、工作の意義は大きく変化する。
しかも、岩畔大佐はその背後に近衛首相、東条陸相の存在を確言しているのだから、交渉の前途に期待ももてるはずである。
一同は、野村大使の「では」という散会のつぶやきを合図に、軽い興奮をおぼえながら立ちあがった。作業は極秘を要するので、地下電信室の横の小部屋でおこなう、と若杉公使は、いう。
もっとも、条約草案にひとしい公文書作成作業といっても、ことの次第を熟知しているのは岩畔大佐に限定される。「原則的協定案」と“岩畔修正案”をみくらべ、項目ごとに大佐の解説を聞きながら修文していくだけのことである。
その意味でも、工作はまさしく“岩畔ペース”で進む形となったわけだが、米国側はそういった変化は察知できなかった。
ただ、なにか異常が発生しているらしいとは、感じられた。
四月七日午後、バランタイン日本課長は岩畔大佐の宿舎を訪ね、表敬の対話をこころみたが、国務省に帰ると、大佐の部屋にはニューヨーク駐在の大蔵省財務官西山勉もいたが、その身体からはアルコールの臭気がただよっていた、と報告した。
「日本人には日中に酒を飲む慣習はありません。例外として悲しいときか、嬉しいときです。しかし、ニシヤマは悲しそうではありませんでした」
「それじゃ愉快な場合だろうが、このワシントンで日本人に嬉しいことが発生したのか」
ホーンベック政治顧問は眉をひそめ、不安そうに眼を光らせた。
11
日米交渉における“神父工作”について、ホーンベック政治顧問たち国務省当局者は、「ジョン・ドウ」工作という呼称を与えていた。
国務省式の公文書で、この「ジョン・ドウ」工作という呼び方があらわれるのは、四月五日付のホーンベック顧問のハル国務長官あて覚書からである。
ジョン・ドウとは、一般に無名の私人を指す。神父あるいは井川理事という私人が中心になっている工作なので、そう呼んだのであろうが、そのごの交渉の発展ぶりと思いあわせると、この呼称は意外に示唆的でもあった。
ジョン・ドウは、日本風にいえば「甲野乙太郎」といった表意だが、もともとは法律用語であり、とくに不動産回収訴訟における原告の仮名に使用される。被告は、「リチャード・ロウ」である。
つまり、「ジョン・ドウ」工作とは、“私人”工作であるとともに“原告”工作の意味にもなり、交渉があくまでも日本側の提唱によると理解していることを、明示している。
一方、すでに述べたように、井川理事も岩畔大佐も、神父たちの説明で交渉は米国側の意向によると、解釈している。
この点が、日米交渉にゆがみを与える大きな要因になるわけだが、そのうえにもうひとつ、交渉を終始して性格づけたのは、日米の考え方の相違である。
岩畔大佐をはじめ井川理事、そして野村大使も、工作による交渉は一種の高級政治折衝だと理解しているが、ホーンベック顧問に代表される国務省側は、外交交渉はどんなものにせよ、「政治の原則」にもとづく交渉以外にはあり得ない、と考える。
外交交渉には、相互の国家の国策という物指しがあり、在外公館というルートがある。なにをいい、なにを聞くにもこの「物指し」と「ルート」によって判断されるべきである――と、ホーンベック顧問は確信する。
その意味では、ホーンベック顧問からみれば、「ジョン・ドウ」工作は、まことに非合理かつ非現実的であるとしか思えない。
たとえば、ドラウト神父は岩畔大佐と会談したあと、四月四日、ウォーカー郵政長官経由でハル国務長官にメモを送ってきた。
米国がドイツにたいして防衛的行動をとっても日本は米国に軍事的行動をとらないこと、また米国による日支和平調停、米国の対日借款、日本商船隊の大幅提供その他を岩畔大佐は承知した、という。
神父はこれらの内容をふくむ協定草案についてのハル長官の意見を求め、もし日米交渉が失敗すれば、
「日本の指導者たちは自分たちが支配力を失い、南西太平洋で戦争が勃発すると信じている」
と告げた。
――おかしいではないか。日本は米国の参戦については(日独伊)三国同盟で正反対の態度をとる約束をしている。
――米国、とくにルーズベルト大統領に日支和平の仲介を頼むなら、まず日本が本気で公正な対支和平方針を示すべきであろう。
――商船隊を提供するというが、日本自身が船舶不足に悩んでいるのではないのか……。
ホーンベック顧問は、ドラウト神父が伝える「ジョン・ドウ」提案のひとつひとつに論評を加え、にがにがしげに批判した。
「日本の指導者たちというが、どんな指導者たちなのか? 近い将来に南西太平洋で戦争を起すなど、本官としてはまったく信じられない。
だいいち、この交渉のやり方は一方の手でほうび《ヽヽヽ》を示し、他の手で鞭を示すようなもので、日本独自の手法ではないか、平静かつ冷静な情勢判断で対処する必要がある」
バランタイン日本課長が岩畔大佐たちと会った様子を報告したときも、だから、ホーンベック顧問はしごく冷然と耳を傾けるだけであった。
ホーンベック顧問は、「ジョン・ドウ」工作者たちがしきりに日本の指導者たちとの連絡を強調する点が、よほどカンにさわったとみえ、四月八日にも、ハル長官に覚書を提出した。
「“ジョン・ドウ”工作者は、日本の陸海軍指導者の支持をうけ、その約束をとりつけ得ると主張しているが、それが事実であるならばその指導者たちは日本の陸海軍の行動をコントロールできるにちがいない」
では、彼らが交渉開始を望むならば、次の三点をまず明確に日本側に諒解させるべきであろう。
日本政府は、交渉の予備、本会談の全期間を通じて、極東における新たな侵略行動を一切おこなわないことを言明する。
米国政府も、相互主義の精神にもとづき、日本が前項の約束を守る限りは日本にたいする軍事行動を実施しないことを声明する。
両国政府は、その最高権威者による宣戦布告を少なくとも第一撃の二十四時間前に相手方に通知しない限りは、相手側にどんな軍事的攻撃も加えないことを約束する。
この第三項は、歴史家であるホーンベック顧問が、日本が過去において無警告攻撃で開戦している事情を想起してつけ加えたもので、やがて真珠湾奇襲で日米戦争が開幕することを想えば、これまた示唆的な注意といえるかもしれない。
しかし、この四月八日付「覚書」は、指摘された“三つの約束”を日本側に要求してほしいという提案ではなく、ホーンベック顧問の日本にたいする基礎的な不信感を率直にひれきしたものとみなされる。
日本大使館での修文作業は四月八日夜に終り、“岩畔修正案”は翌日、四月九日、ドラウト神父からウォーカー郵政長官を経てハル国務長官に届けられた。
ドラウト神父はそのさい、直接ハル長官に覚書を送り、在支日本軍は日支和平が成立すればその後二年以内に撤兵する、仏領インドシナに進駐している日本軍もアジアに公正な平和が確立され次第に撤兵するなどの諒解ができている、と報告した。
“岩畔修正案”にたいする国務省当局の反応も、渋かった。
ハミルトン極東部長とバランタイン課長は、三国同盟の日本の参戦義務についての提案が「原則的協定案」の表現よりもあいまいになっているほか、米国の「原則と政策」の観点からすれば、この“修正案”は、「原則的協定案」よりも有用ではない、と判定した。
「したがって、閣下は、このような“ジョン・ドウ”提案について討議にはいることは、現段階では拒否されて然るべしと考えます」
ホーンベック顧問も、四月十一日、日本側提案にたいして米国側が対案を出す必要はない、とハル長官に進言して次のように指摘した。
――少なくとも訪欧中の松岡外相がはっきり帰国の途につくまでは、対案を提示すべきではない。
――日本側は、実際に合意を望む以上のものを提案にふくめてきている。ゆえに、もしわれわれが対案をだすときには、取り引きする立場でおこなうべきである。
――日米間にこんご数日または数週間以内にどんな合意が成立するにせよ、実質的に世界情勢を変化させることはあり得ないし……また、現在の日本で支配力を持たないグループに支配力を持っているグループを追いださせる効果も、ない。
――日本の指導者たちは、ヨーロッパおよび太平洋の具体的情勢を判断して、南進するかどうかを決定するにちがいない。
ホーンベック顧問は、このさい米国は「断固たる態度と断固たる意思」を日本側に表明する以外のことはおこなうべきでない、と結論したが、さらに同日、もう一度、過去の日本のアジア進出が主として西欧側の軟弱姿勢によって促進されたことを例示する覚書を提出した。
そして、この覚書の中でも、ホーンベック顧問は、米国はその政治原則を守るために戦う用意があること、日本の南進は必ず米国の武力抵抗にそうぐうすることを、とくと日本側に理解させるために「あらゆる努力」をはらうべきだ、と強調した。
四月十二日、十三日は、ワシントンの「サクラ祭り」である。
恒例の「サクラの女王」コンテストもおこなわれ、二十歳のナンシー・スト口ングが選ばれた。桜並木を前にしたポトマック河上に、桜の造花で飾った“王座”が浮かべられ、ナンシー・ストロングは白いケープを肩にかけ“桜花の冠”を頭にのせて坐った。
十二日は、まだ肌寒い川風が吹き、ナンシーは、カメラがむけられたときはニッと前歯を見せたが、カメラが見えなくなると肩をすくめて寒がっていた。
野村大使も、用意された祭典式場でスピーチをおこない、満開の三千本の桜を背に報道陣のカメラにポーズをとった。カメラマンたちは、あれこれと注文をだしたが、野村大使はナンシーとはちがって、しごく上機嫌の様子でイエス、オールライト、と応じた。
前日、十一日夜、岩畔大佐は、九日に提示した“岩畔修正案”が米国側からドラウト神父に返ってきたと連絡してきた。
「なんら修正はなく、米政府側の諒解を得た」と神父はいっている、という。
「あとは大使から正式に提案していただけば、米政府は公式に交渉にはいって妥結する意向だといわれます。さっそく、案文の作成にとりかかります」
岩畔大佐は、どうやら国務省の事務官僚の中には反対意見を述べた者もいたらしいが、ルーズベルト、ハル、ウォーカーの「三巨頭」は合意したというドラウト神父情報を告げ、喜声をあげた。
「こりゃあ、どえらいことになりそうですなァ」
野村大使が、ポトマック河畔で笑顔を絶やさなかったのは、この岩畔報告のためであったが、「サクラ祭り」から帰ると岩畔報告を裏書するように、ハル国務長官から十四日、月曜日の午前九時十五分に宿舎「ウォードマン・パーク・ホテル」で会いたい、という連絡があった。
「サクラ祭り」第二日の十三日は、前日とは変って気温が上昇し、ポトマック河畔は桜見物の市民であふれた。警察の調べでは、三十万人をこえる人出で、復活祭(イースター)でもあるので、市民たちは彩色したタマゴを手にしながら桜花の下を歩いた。“女王”ナンシーも元気いっぱいに、河の上で微笑し手をふりつづけた。
約束どおり、その翌日、野村大使はハル長官を訪ねた。
それまでの寒さを一気に解消するかのように、朝から暖かい日で、野村大使はオーバーを着て秘書煙石学が運転する車にのりこんだが、途中で脱いだ。
ハル長官は、前日の十三日に松岡外相がモスクワで調印した日ソ中立条約に軽くふれ、またヨーロッパ戦況や日米経済問題なども話題にしたのち、「ジョン・ドウ」提案をとりあげた。
「じつは、先日、日米両国関係の調整にかんする非公式提案をうけとりましたが、この件について貴大使もご関係と聞いたが、ほんとうでしょうか」
ハル長官は、ホーンベック顧問やハミルトン極東部長の意見を聞き、また「原則的協定案」と“岩畔修正案”を検討したのち、「どんな機会にせよ日本との広範囲な対話をするチャンスを逃すべきではない」と、判決していた。
ひとつには、英国およびオーストラリアから日本の南進を防ぐ措置をこうじてほしい、との強い要請があったためだが、同時に、ヨーロッパ参戦を決意している米国にとって、日本との戦いはできるだけ避けたいからでもある。
ただし、ホーンベック顧問たちの進言にしたがい、日本側にはなにも伝えていない。
岩畔大佐が野村大使に報告したドラウト神父情報は、だから、ほとんど神父の独断的理解であったわけだが、野村大使は、ハル長官の発言でますます神父情報が確かめられた想いで、答えた。
「よく知っております。まだ本国政府には送っていませんが、十分な理解を期待できます」
野村大使は、いま成案を作成中だが、国際情勢からみて日米関係の改善は一刻も早いほうがよいから、宜しければこの“非公式案”を基礎にして交渉をすすめたい、と述べた。
ハル長官は、その作業はいつ終るか、と訊ね、一両日のうちにはできるという野村大使の返事を聞くと、二日後に再会を約束した。
「交渉開始となれば、その前にいくつかの原則について貴政府の意向を確かめていただく必要もありましょうが……いずれにせよ、交渉は貴大使以外の者とは致しません」
ハル長官はそうつけ加えて野村大使の右手をにぎりしめた。交渉開始に同意した発言と解釈してよいであろう。
野村大使はハル長官との会談を岩畔大佐に伝え、岩畔大佐は井川理事とドラウト神父に連絡して、互いに喜びあった。
四月十五日夜、野村大使は岩畔大佐の誘いをうけて井川理事とともにアナポリスにドライブした。三人は名物のカニ料理屋にはいり、太平洋の平和と支那事変の解決という二本の柱を支えにした日米国交調整のメドがつきそうだ、と杯をあげて喜びあった。
とりわけ感動していたのは、井川理事であったが、井川理事は、三人で近衛首相に親書を送ろうといい、「明日はハル(長官)のホテルで首尾を待っていますよ」と、野村大使にいった。
「井川クン。いよいよホノルル会談となれば、キミも経済代表で出ろよ。オレが推薦するよ」
岩畔大佐も、交渉成就はまちがいないといわんばかりに井川理事に語り、いやあ私なんか、と 嬉しそうに首をふる井川理事を眺めて、野村大使も快笑した。
ドラウト神父をまじえて作業していた最終案は、翌日、四月十六日早朝にできあがった。
最終案といっても、“岩畔修正案”から一部を削除して文章をととのえたもので、実質的に、“岩畔修正案”と変りない。
野村大使は、最終案を「日米諒解案」と仮称してハル国務長官に提示すると、大使によれば、ハル長官はその「日本人及び日本人の友人たる米人の作成した」諒解案によって交渉を認める日本政府の訓令を得てほしい、といった。
「貴使トノ間ノ話ガ進ミタル後、東京ヨリ否認サルルコトアラバ米政府ノ立場ハ困難トナルヲ以テ斯クシタシ」
ハル長官は野村大使の英語能力は「ぎりぎりの線」なので、しばしば自分が述べた問題点を理解したかどうか不安だった、と回想しているが、ハル長官はこの日の会談で主要な論点はすべて列挙していた。
「わが(米)政府に関する重要な前提問題のひとつは、貴政府が解決策を推進する意思と能力を持っていることを、あらかじめ明白に保障されるかどうかである。つまり、現在の武力による軍事征服主義を放棄する意思がおありかどうか? 政策の手段として武力行使を放棄し、わが政府が国際関係の基礎として宣言している諸原則を採用する用意がおありか?」
ハル長官は、その諸原則とは、領土保全と主権尊重内政不干渉機会均等太平洋の現状維持、の四原則だ、と述べた。
野村大使は、「日米諒解案」の大部分は合意できるか、と質問した。
いくつかはすぐ合意できる、修正すべき点もいくらか目につくし、当方から提案したいこともある――とハル長官は答え、静かにつけ加えた。
「いずれにせよ、貴政府がほんとうに心から政策を転換しようとしておられるのであれば、提案されるあらゆる主要問題について、公正かつ満足すべき解決策が見出し得ないはずはないと思う」
このようなハル長官の発言は、野村大使の回想録にも報告電にも記述されていない。
ハル長官は野村大使の語学力に疑念を表明するが、長官自身の英語もひどいテキサスなまりである。両者ともに相手の発言を理解するのに苦労し、とくに野村大使にその苦労が激しかったためかもしれない。
が、それにしても、このハル長官の言明は重要であった。
明らかにホーンベック顧問のたびたびの進言にそった発言だが、原則と要求をはっきりさせ、まず日本が米国の政策に同調する決心をせよ、そうでなければ交渉成功の可能性はない、と最初にクギをさしている感じである。
ハル長官が指摘する四原則は、もし厳密に適用すれば、満州事変から支那事変に至る日本の歩みはまっ向から否定される。だからこそ、その覚悟があるか、とハル長官は訊ねているのだろうが、では、既成事実の尊重を主旨にする「日米諒解案」もまた、四原則の壁の前で足ぶみせざるを得ないのではないのか。
「貴政府がほんとうに政策を転換するつもりなら」とハル長官は、いう。しかし、米政府にも政策転換の意向があるとはいっていない。
交渉する気持ちがあるのか――と、とっさに反撥したくなるはずだが、日本側の反応はちがっていた。
もはや閉ざされたうえに二重三重にカギがかけられていたと思った日米間の話し合いの扉が開かれた喜びと、米国側に合意の用意があるとくり返す“神父情報”のおかげで、日本側は一致して希望的観測の中に身をひたした。
大使館に帰った野村大使の報告を聞くと、陸軍武官磯田少将をはじめ幹部たちは、それでは神父たちはほんとうに米政界に影響力を持っていたのか、と感嘆した。
野村大使は直ちに「日米諒解案」文を打電するとともに、交渉開始の許可を求める請訓電も急信した。
「就テハ此ノ際大局ノ為ニ……何卒《ナニトゾ》此ノ筋ニテ交渉ヲ進メテ宜シキ御回訓ニ接シタク切望ノ至リナリ」
岩畔大佐も東条陸相、武藤軍務局長、田中新一参謀本部第一部長に連絡して、速かな回訓を要請した。
「……此際大局的見地ニ立チ、為シ得ル限リ無修正且迅速(遅クトモ四月二十二、三日頃)ニ政府ノ方針ヲ決定セラルルコト特ニ必要ト信ズ……」
磯田、横山両武官もそれぞれ陸海軍に応援を求める電報をおくり、岩畔大佐はさらに別電で次のように強調した。
「情勢ニ大ナル変化ナキ限リ、日本側ノ意思表示アリ次第、其大綱ハ一、二日中ニ決定スル事確実ナリ」
米政府首脳は承知ずみだ、という。“神父情報”を前提にしての打電であるが、井川理事は、より一段と興奮の度を高めた報告を近衛首相に郵送した。
「……内我外務属僚の小刀細工に苦しめられつつ、外世界の横綱を相手にして力戦数旬……ル大統領ハル長官ウォーカー郵政長官等の小生に対する絶対的信用と、近衛公爵に対する絶大の尊敬との御蔭にて、愈々今明日中に世界歴史上特筆大書に値すべき大事件の礎石が置かるる運びと相成申候……」
井川理事は、前夜に野村大使に告げたとおり、ハル長官が住む「ウォードマン・パーク・ホテル」で待機していて、いち早く野村大使の連絡を得て筆を走らせたのだが、交渉の妥結はすでに既定とみなし、書簡の大半はホノルルでの日米首脳会談の人選問題に集中していた。
「ルーズベルト大統領自らホノルル迄出馬の事確定仕居り……(岩畔大佐が井川理事を日本側代表に推薦していると述べ)小生としては大統領側近の希望もあり、寧《むし》ろ事務総長として先方(ホプキンス位か)と折衝仕る方、御国の為と存じ居候……」
その日もワシントンはバカ陽気で、最高気温は華氏八十八度と記録されているが、井川理事は春の暖気よりも興奮の熱気に全身をほてらせて、ホテルのロビーを右往し左往しつづけていた。
12
野村大使は、まず「日米諒解案」日本文を東京に打電した。
暗号機械「九七式印字機」により極秘暗号化されたものをRCA電報会社に発信させるわけだが、四月十六日午前中に打電された電文は、時差のため、日本時間・十七日夜から十八日朝にかけて外務省電信課に入電した。
「外機密 第二三四号」と表記された電報を訳了されるごとに読んでいた亜米利加局長寺崎太郎は、たちまち眼をむき、翻訳を急げと電信課長亀山一二に指示するとともに、次官大橋忠一の部屋にかけこんだ。
大橋次官も、電文の数節を走り読みしたとたん興奮して、首相官邸に行く、と車の用意を命じた。
首相官邸ではこの日午前十時から定例閣議が開かれていたが、大橋次官は内閣書記官長富田健治を呼びだすと、重大な外交事項なので近衛首相に会いたい、と述べた。松岡外相がヨーロッパ旅行中は、近衛首相が外相を兼務している。
近衛首相は、富田書記官長の耳うちをうけると、わかっている、といった表情でうなずき、すぐ閣議室から出てきた。前日とその日早朝に駐独大使大島浩陸軍中将から、ドイツがソ連を攻撃する可能性が強い旨を伝えてきていた。近衛首相は、その関連情報かと予想したのだが、ちがっていた。
「総理、あるいは世界の運命を左右することにもなりそうです」
大橋次官は、「日米諒解案」の入電状況を伝えると、興奮しきった様子で、近衛首相にいった。とり乱しているようにさえ、みうけられた。
近衛首相も、さすがに驚いた気配であったが、ほぼ一週間前に、井川理事がサンフランシスコで「竜田丸」に託した「原則的協定案」をうけとっている。では井川理事の工作か、と思いあたった。
大橋次官は、電報訳文がそろい次第にとどける、と述べて帰り、午後四時半、寺崎亜米利加局長とともに「日米諒解案」全文を首相官邸に持参した。
同じころ、訳文コピーは陸、海軍両省にも配達されたが、読み終った陸軍省軍務局長武藤章少将は急いで軍事課長真田穣一郎大佐と軍務課長佐藤賢了大佐を招集した。
「岩畔はこんなことをやってよいのかね。あれほど各方面をどなりまわして三国同盟の締結をはかりながら、こんどはアメリカヘ行って掌をかえしたように日米関係の調整だ。まるで百八十度の転換だ。この諒解案も岩畔の作文だよ。あんまり策が多すぎる」
武藤少将は、二人の大佐が電報を回読すると、むしろ、にがにがしげに口を開いた。
二人の大佐は、呆然としていた。こんな結構な話があるものだろうか――。
「日米諒解案」によれば、日独伊三国同盟については、日本の参戦義務はドイツが第三国から積極的に攻撃された場合に限って発動するが、米国はもっぱら「自国の福祉と安全を防禦する」ためにだけ参戦することを認める、と暗に米国の対ドイツ戦参戦を承知する条項を規定しているが、その他の点ではひたすら米国が日本側に好意を示している。
支那事変については、満州国承認や駐兵協定をふくめる条件で米国大統領が介石政府に和平を勧告するし、日米通商関係は廃案された日米通商条約なみに改善し、米国から相応の「金クレジット」も供与する。また、日本が東南アジアに武力進出しないことを信じて石油、ゴム、錫、ニッケルなどの軍需物資も提供する。米国および南西太平洋地域にたいする日本人移民もうけいれる。
そして、こういった取り極めについての長期の交渉は「不適当かつ優柔不断」になるので、「できるだけ早く(五月)」ホノルルでルーズベルト大統領と近衛首相の首脳会談を開き、決めてしまいたい――というのである。
「話がうますぎてかえって疑惑も生じますが、失敗してももともとです」
「たぶん米国は参戦のハラはきめているが、対独、対日の二正面作戦には自信がないので、日本に手をうって太平洋の安全をはかろうとするのは、あり得ることでしょう」
佐藤大佐と真田大佐がこもごも感想を述べると、武藤少将は、「枢軸分裂の謀略ではあるまいか」「ちょっとアメをしゃぶらせて日本を中国から撤兵させ、ドイツを料理したあとで世界中を袋だたきにするつもりじゃないだろうか」と、しきりに首をひねった。
この武藤少将の疑惑は、予想外に米英陣営の“世界戦略”のねらいを見抜いていたが、このときはそれ以上の論議はなく、少将も佐藤大佐の「だめでもともと」論に同意する風情であった。
その夜、午後八時、首相官邸で第十九回政府統帥部連絡懇談会が開かれた。「日米諒解案」審議のためである。
政府側から近衛首相兼外相、平沼騏一郎内相、東条英機陸相、及川古志郎海相、大橋外務次官、統帥部を代表して杉山元《はじめ》参謀総長、永野修身軍令部総長が出席し、武藤陸軍省軍務局長、岡敬純《たかずみ》海軍省軍務局長、富田内閣書記官長が陪席した。列席者の反応は、武藤少将と二人の大佐が示したものと大差はなかった。
三国同盟との関係に問題はないか、などいくつかの疑問が指摘され、また「うますぎる話」だという感想も一同が一致してもらした。しかし、長期化した支那事変を解決しながら日米戦争を回避できるとすれば、これ以上の妙策は思いつき得ない。
「日米諒解案」というが、実質的にはほとんど米国が一方的に日本に同情的理解を示している形であり、“米国諒解案”と呼称したくなるほどである。
とにかく、思いつく不審点をワシントンに問いただしたうえで受諾しよう、モスクワから日本にむかっている松岡外相の帰国を急がせよう、と次第に浮き浮きした雰囲気を高めながら、連絡懇談会は散会した。
会議には、野村大使、岩畔大佐からの説明電もひろうされたが、いずれの内容も「日米諒解」が「米国側の提案」であり、米国側が合意を急いでいる印象を伝えている。
政府、軍代表たちが、半信半疑の想いのうちにも「飛びついてみる」心境になったのは、そのためである。
「歴史的外交転換ナリ。何ト云フテモ三国同盟精神ノ清算也」――とは、参謀本部戦争指導班の感慨であるが、佐藤大佐によれば、一夜明けた四月十九日は、ますます楽観と希望が陸海軍当局者の胸奥を支配した。
陸軍省では、武藤軍務局長を中心に佐藤、真田両大佐、軍務課高級課員石井秋穂中佐、軍事課高級課員西浦進中佐、軍務課外政班長二宮義清中佐その他軍務課、軍事課主務者が集って協議したが、交渉開始に同意することに意見が一致した。
東条首相も、一応は「日米諒解案」は「岩畔の大ぶろしき」で「眉唾もの」と論評しながら、交渉開始には同意した。
海軍は、疑わしさを感じた。岩畔大佐の資質と能力を知る陸軍当局者は、意外に思いつつ「岩畔なら……」の感想を持ち得たが、なんの予備知識も推測材料もない海軍は、まずはひたすら驚くだけであった。
しかし、同時に海軍には、陸軍が支那事変にたいして抱くような“自責感”“焦慮”もないだけに、「日米諒解案」にはより客観的な眼をそそぐことができた。
とくに、米国の参戦は必至であり、日米戦の危険も増していると判断している海軍にしてみれば、「日米諒解案」はあまりにも「甘すぎ」る。軍務局第二課員柴勝男中佐は、三国条約、支那撤兵については下手をすれば交渉は難航し、「米国に引きこまれて戦争になる危険」がある、と判断した。
「……下手に触れるを避け交渉には入るべからず、この旨大使に伝へよ」
柴中佐は、そういう横山武官あて訓電を起草して、岡軍務局長にみせた。岡軍務局長も同意し、次官代理井上成美《しげよし》中将の決裁を求めた。
戦争気構えが高まっているときの外交交渉は、よほどの慎重さを要する。交渉したために交渉決裂を戦争の口実に利用されかねないからである。むしろ、交渉しなければ、そのぶんだけ相手に開戦の大義名分を与えずにすむであろう……。
ところが、井上中将は、いまここでそのような電報を送っては、せっかく野村大使が努力している日米不戦方針をくずすことになる、と考えた。政府統帥部連絡懇談会の大勢も、交渉開始に傾いている。
井上中将は紫中佐起草案電に大幅修正を加え、岡局長と紫中佐は、それでは意味がないと述べて打電を中止した。
近衛首相は、次のような疑問点を列挙した問い合せ電をワシントンに発信した。
本案は、結局は日本の南方進出を阻止し、かえって米国の対英援助を強化させるものではないか。
本案が不成立となれば日米関係はどうなるか。
ドイツにたいする信義のため、日米共同で欧州戦の調停はできないか。
本案を成立させれば、将来、ドイツが勝った場合は日本は不利となり、英米が勝てば本案は無視して日本を圧迫してこないか。
米国は自衛のために参戦というが、実際には英国の崩壊を防ぐためには本案を無視して参戦するのではないか。
資源獲得、移民あっせんについて、米国側はどのような具体的援助手段をとるのか。
米国は日本の平和的領土獲得についてあっせんする意向があるか。
近衛首相が数えあげた質問は、十八日夜の連絡懇談会で指摘されたもののほかに、首相と大橋外務次官が協議してまとめたが、主旨は、日独伊三国同盟と大東亜共栄圏構想に抵触することはないか、という点にある。
野村大使は、この問い合せ電をうけると、岩畔大佐、井川理事、若杉公使、陸海両武官を呼んで相談した。
岩畔大佐と井川理事は、ハル国務長官の宿舎である「ウォードマン・パーク・ホテル」に移住し、連名で長官に挨拶状とプレゼントを贈ったりして、本格的な日米交渉開始にそなえる構えをみせていた。
ハル長官夫人にも京人形のプレゼントが贈られたが、その京人形には、この娘の名前は“ハル”という、“ハル”は日本語で最も平和な季節(春)に通ずる、平和を象徴するこの娘を養女にして下さい、という井川理事の手紙が添えられていた。
嫌味なヘツライじゃないか――若杉公使は、その話を聞くと、ますます井川理事をきらった。
「日米諒解案」にたいする問い合せ電とともに、外務省から交渉用の機密費五万ドルが送金されてきた。正式交渉開始の指示の前触れであるが、そうなれば、武官補佐官の肩書を持つ岩畔大佐は別として、井川理事は無用の存在である。
「本交渉は極秘事項にすることを米国側も希望しています。私人を介入させるのは、機密保持上からも不安があります」
機密費ができた機会に、井川理事に旅費を支給して帰国させてはどうか、と若杉公使は岩畔大佐に勧告した。しかし、岩畔大佐から若杉公使の意向を聞いた野村大使は反対した。
ハル長官との個人的会談をはじめるとき、井川理事は、ホテルの非常階段からはいって部屋のドアをノックすれば長官が待っていると大使に知らせた。そんなことができるのか、と野村大使はびっくりしたが、それが実現したばかりか、ついに「日米諒解案」がまとまったとなっては、井川理事の存在は無視できない。
まだ何かと役に立ってもらえることもありそうじゃないか、と野村大使は若杉公使をなだめて、井川理事のワシントン滞在を認めた。
近衛首相の質問七項目のうち、については、野村大使も岩畔大佐も即座に「ノー」と返事することにした。米国側にはそれほどの対日好意はうかがえなかったからである。
残る四項目のについても、野村大使と岩畔大佐の意見は一致した。日米交渉が失敗すれば日米戦争の危険は急増するにちがいない。にかんして野村大使と岩畔大佐の判断は微妙な差異をみせたが、しかし、いずれも可能性はあるが、米国は太平洋から完全に兵力をひきあげるわけにはいかず()、おそらくドイツから挑戦されなければ参戦する可能性はうすく()、また米英の戦後の態度を好転させるためにも日米関係を打開して支那事変を解決しておく必要がある()と判断する点では、一致した。
「之ヲ要スルニ、本了解ハ……枢軸同盟ノ論理的発展ト考ヘラレ……三国条約第三ノ効力ハ何等ノ影響ヲ受ケザルコトハ特ニ指摘シ度キ所ナリ……(このままでは)米国ノ参戦、日米戦争勃発ノ最悪ノ場合ニ早晩到達スベキコトハ覚悟セザルベカラズ……」
野村大使はそう結論して、東京に打電した。
もっとも、こういった野村大使の返電は、近衛首相も予期していたといえるかもしれない。七項目の質問は、しごく当然の疑念ではあったが、「日米諒解案」の内容が基本的に受諾可能な“結構ずくめ”であり、野村大使が決意と熱意をこめて支持を表明しているのだから、否定的な回答がくるはずもないからである。
東京では、ますます「日米諒解案」にたいする好感が醸成され、二十日に開かれた参謀本部の部長会議も諒解案にもとづく日米交渉に同意した。
近衛首相は大連に到着した松岡外相に電話して、米国から重要な外交提案があったから帰国を早めてほしい、と述べ、東条陸相は陸相用のMC二〇輸送機を迎えるために大連へ飛ばした。
海軍にも喜色が伝染した。もともと野村大使は海軍大将である。海軍出身の大使が功績をあげることは、好ましい。
「野村は偉いヤツだ。野村でなければできないことだ。これで決めて早くやろう」
軍令部総長永野大将が、手放しという形容そのままに讃辞を連発すれば、二十一日「水交社」で開かれた陸海軍省部局長会議でも、海軍側はすらすらと日米交渉に同意を表明した。
この会議では、「日米諒解案」には、日本の南方進出阻止、対英援助拡大、三国同盟弱化といった米国の謀略臭がただよってはいるが、それを承知で、むしろ、そういう米国の企図を「逆用」して支那事変解決と国力回復のチャンスにしよう、ということになった。
すべては、「日米諒解案」が米国側からの提案だという理解を前提にした反応であり、さらにいえば、その点にかんする疑念をたしかめる慎重さを捨てさせるほどに当時の日本の窮状はひどかったわけである。
天皇は、二十一日午後一時四十五分、木戸内大臣から報告をうけたが、天皇もまた諒解案が“米国案”であると信じ、眼を輝かせて木戸内大臣に、いった。
「米国大統領がそれ迄突込みたる話を為したるは、むしろ、意外と云ふべきだが、かう云ふ風になつて来たのも、考へ様によれば、我国が独伊と同盟を結んだからとも云へる。総ては忍耐だね。我慢だね」
むろん、木戸内大臣も諒解案を「天来の福音」と感じて、喜んでいた。かねて国際関係の改善に憂慮している天皇の心境を知悉《ちしつ》しているだけに、天皇の喜びは嬉しく、また、忍耐だね、我慢だね、とあらためて過早かつ強硬な外交政策を戒める天皇の言葉に、強く胸をうたれた。
そして、この天皇の二言――「忍耐」と「我慢」は、まことに示唆的、かつ象徴的であったといえる。
わずか一日後、二人の主要人物が、この二言を忘れたために、それまで宮廷、政府、軍部をひとしく包んでいた温暖ムードは一変し、日米交渉はゆがんだ冷たさの中でスタートすることになるからである。
松岡外相は、二十一日に帰京する予定だったが、出発地・大連と中継地・福岡の天候が悪く、四月二十二日午前八時四十分に大連を出発し、同日午後三時半、立川陸軍飛行場に到着した。
立川市は全戸に日章旗をかかげ、飛行場には近衛首相、富田書記官長、陸軍次官木村兵太郎中将をはじめ、オット駐日ドイツ大使、インデルリ駐日イタリア大使も出迎えた。
“凱旋将軍”なみの歓迎ぶりであり、松岡外相自身もそれに似た心理であったかもしれない。ヒトラー、ムソリーニ、スターリンという当時の世界の大物に会い、難事とみられていた日ソ中立条約を転瞬に締結した。きわだった成果であり、大勝利を記録した将軍に匹敵する……。
そんな自覚によるためか、松岡外相は木村陸軍次官が外相の“外交の勝利”を讃えると、ロイド眼鏡をきらめかせて答えた。
「さしたることとは思いません。軍人が戦場に向うのと同じく、外相が外交のことでヨーロッパに参ったまでです」
この日は、東京地方も小雨模様で、立川飛行場も無音の細雨にぬれていた。
近衛首相も、長身をぬらしながら少し離れた位置に立ち、松岡外相が挨拶を終え車にのりこんでくるのを待っていた。
じつは、午前の閣議で内閣からの出迎えは書記官長だけということにきまった。全閣僚が出かけるのは大げさにすぎる、といって一部の閣僚だけというのもおかしい、という理由であった。そして、「日米諒解案」については大橋外務次官と富田書記官長が外相に説明することにした。
だが、昼食のさい、近衛首相は、自分が行くと富田書記官長に告げた。
「松岡クンは感情の強い人だから、はじめに言い出す人物によっては、そのときの気分でどう出るか判らない。ボクが自動車の中で話をすれば案外すらすらと行くかもしれない」
――だが、
近衛首相と松岡外相の車中会談は実現しなかった。
近衛首相は、松岡外相が「宮城二重橋参拝の予定」をいいだしたためだと手記しているが、次官大橋忠一によれば、外相が宮城参拝をいいだしたのは、後述するように、突然の予定外の行動であり、飛行場でのことではなかったという。
飛行場では、近衛首相は松岡外相の耳に低い声でささやきこみ、別々の車で首相官邸にむかった。首相の車には富田書記官長、外相の車には大橋次官が同乗した。
松岡外相は、車中でまず南洋局長斉藤音次が持参した日米交渉を伝える海軍省軍務局第二課長石川信吾大佐の書簡に眼を通し、次いで大橋次官から「日米諒解案」の説明をうけた。
沿道には、日の丸をふる市民男女の列がつづき、外相は耳で次官の言葉をとらえながら、車窓から手をふっていたが、その手を止めて大橋次官に顔をふりむけた。
「なんだって。それじゃ、そのアメリカの提案というのは、ボクがモスクワでスタインハートにいった話とはちがうんだね」
松岡外相はモスクワで米国大使スタインハートに、米大統領に日支和平の仲介を依頼した旨を語り、帰国一週間後に折衝する、と述べていた。その会談は四月八日付で東京に報告してある。
二日前に近衛首相が電話で米国の提案がきていると知らせたときも、このスタインハートとの会談の反応と思いこんでいた。
「ちがいます。申しあげましたように二人のカトリックの坊さんと井川、岩畔などが……」
「怪しからんッ。そんなことは許せない。ボクは反対だな」
我慢ならぬといった調子で、松岡外相はうめき、大橋次官をにらみすえた。
そのまま、むすりと黙りこんでいたが、松岡外相は自動車が首相官邸に近づくと、急に宮城前に方向変換を命じた。
大橋次官は、松岡外相は「日米諒解案」について、とっさに「陸軍の謀略? 平沼一派の松岡失脚陰謀? 神父を先手とするアメリカの謀略?」の三疑点を胸奥にわかせ、いずれにせよ早急の協議を希望する近衛首相に肩すかしをくわせる必要を感じて、宮城参拝でタイミングのずれをはかったもの、と推察している。
13
帰朝した夜(四月二十二日)の松岡外相は、忙しかった。
近衛首相はじめ閣僚たちが首相官邸で待っていると、宮城前の遥拝を終えた松岡外相は午後五時半ごろ、官邸にやってきた。
ところが、閣僚たちが用意していた歓迎会には現われず、ラジオ用の声明録音をすませると回れ右をして、スジ向かいの外相官邸に出かけた。
食堂で待っていた外務省幹部や夫人親子をはじめ家族と乾杯すると、午後六時十分、報道陣に挨拶をすませ、さらに外人記者団の簡単なインタビューに応じて夕食ののち、午後七時二十分、官邸を出発して参内した。
首相官邸では、閣僚たちが次々に伝えられる松岡外相の行動に、むっつりと不機嫌な顔をならべていた。
外相官邸で乾杯していると聞いたときは、
「なんだ、こっちが先じゃないか」
と平沼内相がつぶやいたが、参内したという報告をうけると、一同は、歓迎会はあきらめて冷えた料理をつついた。
松岡外相が首相官邸にもどってきたのは、午後九時すぎであったが、ワシントンは「日米諒解案」にたいして一日も早い回訓を求めているので、午後九時二十分から政府統帥部連絡懇談会がひらかれた。
本日の議題は「松岡外相帰朝報告並対米国交調整ノ件」であると富田内閣書記官長が開会を宣言すると、松岡外相は延々としゃべりはじめた。
「外相ハ最初疲労シタル様ナリシモ逐次疲労ハフツトンデ元気トナレリ」
と、当日の議事録にも記載されているが、松岡外相はしきりに、「ヒトラーさん」「チアノさん」(チアノ・イタリア外相)などの呼称を連発しながら、訪欧の印象と成果を語りつづけた。
『一万言就寝居士』――というのが、松岡外相のニックネームである。一万語しゃべらないと寝つかない、という意味だが、松岡外相の場合は多弁であると同時に能弁であり、かつ巧弁である。話は、ひどく面白い。
ぶすりとしていた大臣も大将も、つい外相の物語りにひきこまれ、微苦笑をうかべながら耳を傾けた。
近衛首相は、しかし、冷然と松岡外相のせわしない唇の動きを注視していたが、外相がひと息つくと話題の転換を提案して、「日米諒解案」の審議を求めた。
閣僚たちも、卒然として表情をひきしめたが、松岡外相もとたんに渋面を示した。
「此ノ問題ハ支那事変処理以外ニ相当重大ナ事ガ含マレテヲル」
松岡外相は、同盟国であるドイツ、イタリアにたいする信義の問題もあるし、だいいち米国は信用できない、と指摘した。
第一次大戦のとき、米国は日本と「石井・ランシング協定」を結んで参戦した。後顧の憂をなくするためである。ところが大戦が終ると、さっさと協定を破棄した。
こんどの「日米諒解案」にしても、同じく「悪意七分善意三分」の策略でないとはいいきれない。
「兎ニ角、自分ハ疲レテヲル。一昨日以来睡眠不足ニテ疲労シテヲル。二週間カ一ケ月カ二ケ月位、慎重ニ考ヘナケレバナラヌ」
そういうと、松岡外相は、失礼する、といって、中座してしまった。
時刻は午後十一時に近い。たしかに外相も疲れてはいるだろうが、それにしてもそっけない態度である。閣僚たちの間から不満の私語がわき起り、外相は慎重にというが、時期を失しては米国にたいしてもドイツにたいしても工作は失敗するだろう、という意見が口々に述べられた。
会議の正規の構成員ではないが、とくに出席を認められていた外務次官大橋忠一は、立川飛行場からの車中で松岡外相がドイツの諒解をとる必要を力説していた、と報告した。
「この点について、外相はとくに強いご意向のようでありました」
「しかし、それではドイツが諒解しなかったらどうするのだ?」
海相及川古志郎大将がすぐ反駁した。ドイツが反対したからといって米国側の提案を拒否せねばならぬとは思えない。まして、この提案は支那事変処理という大目的にかなうのだから、「充分事ノ軽重ヲ分ケテ考ヘナケレバナラヌ」と、及川海相は強調した。
「日米諒解案」が成立すれば国内的にも論議を招くにちがいないから、その意味でも早く交渉したほうがよい、と平沼内相も口を添え、連絡懇談会は「日米諒解案」による日米交渉促進を申しあわせて、二十三日午前零時二十分、閉会した。
――だが、
政府と軍首脳部が促進を決定してもその決定を実行するのは、外相である。そして、外相は、
「二週間〜二ケ月」の棚上げを主張している。
近衛首相は、懇談会が深夜までつづいたのでカゼをひいてしまったが、二十三日夜、松岡外相を首相官邸に招いて、日米交渉開始をすすめた。が、松岡外相はなおも首を左右にふる。
「しばらくはヨーロッパのことを忘れてから、判断させていただきたい」
松岡外相は私邸にひきこもり、近衛首相も四月二十四日からカゼ療養のために私邸「荻外荘《てきがいそう》」に蟄居《ちつきよ》した。
陸海軍は、困惑した。このままでは、せっかく米国が“軟化”を示してきた機会を見逃してしまう恐れがある。
陸軍は東条陸相と武藤軍務局長、海軍は及川海相と岡軍務局長が、連日のように、あるいは単独、あるいは同道して松岡外相を訪ね、ワシントンにたいする訓令打電を勧告した。
しかし、松岡外相は、疲れがぬけぬといったり、持参された回訓案文に異議があるなどといって、頑固に勧誘をはねつけた。
陸海軍の間では、松岡外相がかたくなな態度を維持するのは、要するに自分がやりたいことを野村大使に出し抜かれたので不満なのだろうが、狭量であるし、公私の感情を混同している、という批判が高まった。
外相を更迭《こうてつ》させよ、という強硬論も出たが、首脳部は反対した。うっかり外相に辞任を求めて拒否されれば、内閣瓦解《がかい》を招きかねないからである。
天皇も心配して、四月二十八日、侍従次長甘露寺受長を呼んだ。
この日、内大臣木戸幸一もカゼのために欠勤を届け出たが、これで首相、外相、内大臣という重要な高官三人が現場をはなれたことになる。
「今回の如く首相も外相も内大臣も病気引籠りの場合、外交問題等に対して誰に下問すべきや」
甘露寺次長は内大臣秘書官長松平康昌に伝え、松平秘書官長は木戸内大臣邸を訪ねて天皇の下問を伝達した。
天皇は同時に「米国対策」の様子についても下問していたので、木戸内大臣はそれぞれに奉答したが、少なからず恐懼した。
天皇の下問に他意はあるはずもない。しかし、天皇が行政上の官制についてはすでに知悉していること、またとくに米英との親善に関心をはらわれていることなどの事情を思いあわせると、天皇の下問は、政府首脳にたいする鞭撻《べんたつ》の意味にも推察できるからである。
おそらく、天皇としては、「日米諒解案」にたいする期待が少なくなく、それだけに交渉促進の契機とみられた松岡外相の帰国が、逆に交渉の開幕を延期させている事態に、意外感を抱かれたのであろう。
その想いをこめての下問とみられるが、太平洋をはさんで存在する関係者の注意も、松岡外相に集中していた。
米政府当局は松岡外相渡米説に神経を刺戟されていた。
松岡外相の訪米については、すでに外相がヨーロッパ旅行中から一部の新聞が予想記事を流布していたが、外相が帰国した三日後、四月二十五日には東京駐在のグルー大使も打電した。
「東京、四月二十五日午後一時、電五九号、
宛国務長官
発駐日大使
未確認の噂によれば、マツオカは遠くない将来にワシントン訪問を企図しているといわれる。訪米の意図は、明らかにモスクワ、ベルリン、ローマ訪問の成果を米政府ならびに米国民に印象づけるためとみられる。
日ソ中立条約の締結により、マツオカの日本における評判は一時的にきわめて高くなっているので、彼が同様に日米関係も改善したという印象を与えてその評判をさらに高めようとの野心を持つのは、論理的だとみられる……」
グルー大使は、そこで、松岡外相から訪米の意向を伝えられた場合、どのように答え、どのような態度を示すべきかを指示してほしい、とハル国務長官に要請した。
米国では、松岡外相は根強い親独伊論者であり、明白な親ファシズム論者だと観察されていた。そして、米国では反独伊、反ファシズム感情が日増しに高まっている。もしほんとうに松岡外相が訪米しようとするなら、その処遇は慎重さを要求される。
「……米国政府は他国の責任ある地位を占める人物の訪米を歓迎している……ゆえに、マツオカが訪米するつもりなら、むろん、歓迎されるであろう……」
ハル長官は、松岡外相にその旨を伝えていいが、同時にそれはグルー大使の「個人的見解」だとつけ加えて、米国政府の指示を求めることにせよ、と回答した。
松岡外相は、米国の一般感情からすれば“歓迎されざる人物”になる。ハル長官にしても、はたして松岡外相がどのような意図で訪米を計画しているのか、その点がはっきりするまでは態度表明は保留せざるを得ない。
ハル長官は、松岡外相の訪米の意図の探知をグルー大使をはじめ、支那、満州、ドイツ、イタリアその他日本と関係ある各国に駐在する外交官に指示したが、四月二十七日、元海軍作戦部長W・V・プラット大将からその翌日に野村大使に会う予定だと聞くと、松岡外相訪米問題を話題にふくめるよう依頼した。
プラット提督と野村大使とは、野村大使が米国駐在武官をつとめた当時からの交友で、大使が、最も隔意なく話せる米国人の一人であった。
四月二十八日、「ホテル・プラザ」でおこなわれた二人の対話も、野村が申しいれた。たまには“老水兵同士”でゆっくり話しあいたい、という。
プラット提督と野村大使は、提督が部屋にはこばせておいた紅茶をすすりながら二人だけで話しあった。ヨーロッパ戦争の話、支那事変の話、ヒトラーの話、スターリンの話、日本の南進政策の話、米国世論の話……。
話題はどうしても日米両国が直面する困難な国際情勢に集中し、プラット提督はしきりに、日独伊三国同盟は米国民を「激奮《マツド》」させたこと、海国日本が遠い陸国ドイツとなぜ同盟を結ぶのか、などといっていたが、やがて話題は松岡外相訪米説に移った。
プラット提督は、松岡外相が“枢軸工作”をやるつもりで米国に来るなら反感を買うだけだ、といい、野村大使は、松岡外相の発言だけで判断するのはまちがいだ、外相は米国育ちで米国事情はよく承知している、と答えたが、声調を落としてつけ加えた。
「しかし(外相の)内心はどんなものかはわかりませんが……」
松岡外相の意図を知りたいという点では、野村大使自身も困惑していた。
新聞が伝え、米国側が観測している外相の訪米については、東京から正式の連絡はないが、問題は日米交渉にかんする外相の態度である。
「日米諒解案」を打電していらい、陸海軍も好感を示す返電を武官に送ってきながら、肝心の政府と外務省は沈黙したままである。
「鉄は熱いうちに打て、という諺があるが、日米問題は最高度のステーツマンシップを発揮してはじめて解決できるものだ。時期を失するとまずいと思うんだ」
野村大使は、プラット提督と会う日の朝、まだ東京から何もいってこないと報告した若杉公使に、そう述懐していた。
交渉には、鉄は熱いうちに……という俗諺もあてはまるが、同時に冷却期間の効用も指摘される。たしかに、場合によっては一定の冷却期間をおくことが交渉の進展に役立つことがある。しかし、交渉成立のためには「人」「時」「情勢」という三つの要件が不可欠である。そして、冷却期間はしばしばこの三要件の変化を招くものである。
「とにかく、事務レベルでの折衝ではかえって問題を複雑化するばかりなんだから……まァ、松岡クンもそこはわかっていると思うがね」
野村大使は、若杉公使にそうもつぶやいていた。その釈然としない心境がプラット提督にたいする附言になったのだが、そのころ、岩畔大佐の胸中でも不満と不安が交錯していた。
岩畔大佐は、野村大使がプラット提督と会談した二十八日、井川理事と一緒にニューヨークにむかった。武藤軍務局長の通報によれば、松岡外相は帰国後、持病の「気管支カタル」(註、実際には結核)のために療養中であり、近衛首相も「病気引きこもり」中なので回訓はおくれる、という。訓電を待つ間にドラウト神父や井川理事が交際できる前大統領H・フーバーに会うことにしたのである。
ところが、ニューヨークにむかう前日の新聞には、東京で松岡外相が帰朝歓迎大会に出席し、五十分間にわたり演説をした、という記事がのっていた。この報道にまちがいはなく、松岡外相は欠勤はしていたが、四月二十六日、日比谷公会堂でひらかれた歓迎会にはあらわれ、「ヒトラーさん」「スターリンさん」「ムソリーニさん」との会見模様をとうとうと披露した。
――なんだ、病気じゃないんじゃないか。
岩畔大佐はニューヨークに着くと、「ザ・バークシャー・ホテル」から東京に国際電話をかけた。東京時間は、四月二十九日朝になる。
「モシモシ……松岡さんですか……モシモシ、岩畔です」
「イヨッ、岩畔クンか。どうだ、そっちは」
松岡外相は、私邸にかかってきた岩畔大佐の電話に、至って元気よく応じた。岩畔大佐が、米国では外相の訪米の噂が流れている、というと、そういうこともあるかもしれん、と、ややとぼけた返事がはねかえってきた。
「そうですか……、ときに、先日お送りした乾物は早く料理しないとくさる恐れがあります。早く料理して結果を知らせて下さいますか」
盗聴を用心しての会話だが、むろん、「日米諒解案」にかんする回訓催促であり、松岡外相もそれと諒解できる。
「ああ、わかっているよ。あんまり急がせるな。オレは病気だよ」
ハハ、と松岡外相はひと声笑ったが、すぐ声をひきしめて、いった。
「野村になァ。キミからいっといてもらいたいが、あまり腰をつかわぬようにとなァ」
松岡外相は、大佐の督促に、わかっちょる、をくり返して、電話をきった。
岩畔大佐は、約十分ほど呆然として「沈吟した」と回想しているが、松岡外相の反応はひどく意外だった。
外相の口調が、かつて接したときとは別人のように高慢に聞こえたことも意外だったが、それよりも意想外なのは、短い会話を通じて、外相が「日米諒解案」に冷淡であることがはっきりわかったことである。
岩畔大佐は、ホノルルでの日米首脳会談で一挙に解決といったハデな外交は、松岡外相が最も好むところで、東京の回訓が遅れているのは、むしろ、松岡外相がその日米交渉に一段と「華麗な化粧直し」を検討しているためとさえ、想像していた。
「日米諒解案」の内容に自信があるだけに、岩畔大佐は、少なくとも松岡外相の諒承をかねたねぎらいの言葉を期待していたのだが、反応は正反対であった。
「余計なことをするな、といわれたようなもんだ。松岡はどうかしているんじゃないかなァ」
岩畔大佐は、横にいて不安そうに眼を光らせる井川理事に松岡外相との対話を告げ、嘆息した。井川理事は、そんなことでは元も子もなくなりますよ、と顔色を変え、それじゃ(近衛)公爵に電話してみます、といった。
井川理事が直接近衛首相に電話したのか、側近の誰かと話したのかは、井川理事はそのまま自室にひきあげたので岩畔大佐にはわからなかった。しかし、井川理事は一時間もすると岩畔大佐の部屋にもどって、報告した。
「大丈夫ですよ。陸海軍は一致して支持していて、もし外相があくまで反対するなら更迭する決心だそうですよ」
この“井川情報”は外相更迭うんぬんを除けば、陸海軍省から武官府に届いた連絡電と合致する。しかし、もし外相更迭ということになれば、日米交渉の開始はさらに遅れる。
その結果は、交渉要件である「人」も変り、「時」を失し、「情勢」も変化して、ついに機会を見失うことになりかねない。ドラウト神父も、その点をとくに強調して憂慮をあらわした。
神父は、米国政府首脳の「日米諒解案」にたいする支持は最高度に達している、ハル長官は国務省幹部にたいして、「日米諒解案」は首脳部決定だから、「不満ノ者アラバ退職セラレ度」旨を通告したほどだ、といった。
また、ルーズベルト大統領は最近、長男のジェームス・ルーズベルトを重慶に派遣したが、これまた日支和平交渉の仲介をするために介石政府の意向を打診させるためだ、と神父は、述べた。
ドラウト神父は、米国側がこれほど熱意と誠意をみせているのに、と暗然と瞑黙し、とにかく早く反応するよう東京を督促すべきだ、と強調した。
「ハヤク、ハヤァク」――と、くり返す神父に、岩畔大佐は、さっそく電報をうつ、とうなずいた。
ただし、ドラウト神父が伝えた米国政府情報は誤りであった。
ハル長官が国務省官吏にそんな指示をした事実もないし、ジェームス・ルーズベルトの重慶行きは対支援助にかんするものであった。いずれも、ドラウト神父の“希望的推測”である。
ドラウト神父のそういう“希望的推測”を事実化して話す性癖は、このとき井川理事から聞いた松岡外相についての情報にも発揮され、二日後、五月一日にウォーカー郵政長官に伝えたさいには、「松岡外相は辞職を求められ、近く近衛首相が直接いいわたすはずだ」という形に変容しているのである。
もっとも、神父の性癖は、すでに記述した如く、井川理事にも、さらに程度が少し落ちるが岩畔大佐にも共通している。したがって、三人は互いに希望的観測にもとづく誇張を交しあっていたわけだが、この三人が共通の性格者であったことは、日米交渉の発端を彩る重要な特徴であり、またなにかと日米双方に誤解を残す要因となったといえる。
だが、そのような事情に気づくのは後日のことである。
神父にたいする一般的信用は強大であり、神父はウソをつかぬという信仰も根深い。まさか神父の中に“虚言癖”に似た性格者がいるとは思いも及ばず、ドラウト神父にその懸念があるなどとは思いつくすべもない。
岩畔大佐は、五月二日、このさい松岡外相の「ゼスチュア」外交をやめさせ、速かに交渉開始を回訓させてほしい、と次のように東条陸相に打電した。
「小官ノ見込ミトシテハ、先般ノ上申案ニ対スル回訓ヲ遷延シ、コノ間松岡氏ガ新聞ヲ通ジテ所謂『フーセン上ゲ』(観測気球)ヲ為シヲル事ハ、今日ノ米国ノ国内事情ニ照シ米国首脳部ノ感情ヲ悪化コソスレ何等効果ナシ……コノ際速カニ『ゼスチュア』外交ヲ止メ、ナルベク速カニ大使ニ回訓ヲ与ヘラレ日米間ノ予備交渉成立ニ努力ナシ、然ル後、更《アラタ》メテ日米会談ナリ或ハ松岡氏渡米ナリ(当地・陸・海・外務〔出先〕共ニ氏ノ渡米ハ効果アラズト見ヲルモ)相当大キナ手ヲ打ツヲ至当ト信ズ……」
岩畔大佐としては、わが身のことは抜きにして松岡外相の“誇張癖”こそ、日米交渉の障害になると判定したのである。
14
松岡外相は五月三日、帰国いらい十一日ぶりで首相官邸にあらわれ、政府統帥部連絡懇談会に出席した。
待ちかまえていた閣僚たちは、「日米諒解案」について考慮したか、と松岡外相にたずねた。
「『ソ』連ト中立条約ヲ結ンダ筋デ、先ヅ米(国)トノ間ニ中立条約ノ締結ヲ打診シ、其反響ヲ見タイト思フガ如何」
とたんに、それは無理だろうとか、日ソ中立条約は外相の「頭ト弁(舌)」でできたが野村大使ではうまくいくまいなどと、ほぼ全員が反対した。
「松岡自ラクハシク書イテ野村ニ読マセレバヨイ」
松岡外相はそうもいい、近衛首相が「皆不賛成ダカラ取止メテハドウカ」といっても、なお「考ヘサセテ呉レ」とがんばった。
そして、対米国交調整にかんする次のような三原則を主張した。
支那事変処理ニ貢献スルコト(米国に支那から手をひかせる)
(日独伊)三国条約ニ抵触セザルコト
(対独)国際信義ヲ破ラザルコト(米国の欧州参戦を阻止する)
この「松岡三原則」は、かねて陸海軍省部局長会議できめた「日米諒解案」にたいする態度にも合致するので、一同は異議なく承認した。
松岡外相は、「三原則」にもとづく「日米諒解案」修正案を提示して承認を得たのち、ドイツ、イタリア両国の意見を求めたあとで米国側に提案したい、と述べた。
会議後、松岡外相は宮中に参内して天皇に報告し、ついで午後十時三十五分東京駅発の列車で西下した。
天照大神(伊勢神宮)、神武天皇(畝傍御陵)、明治天皇(桃山御陵)に訪欧の帰朝奉告をするためである。
松岡外相はまた、野村大使にたいして“日米中立条約”の打診指示とハル国務長官あて「オーラル・ステートメント」(口上書)を打電し、さらに五月四日、欧亜局長坂本端男から駐日ドイツ、イタリア両大使に「日米諒解案」にかんする情報を伝えさせた。
そのさい、松岡外相がとくに強調したのは、「日米諒解案」は米国が対英援助に全力をあげるために日米戦争を回避しようとする「底意」を持つ政治的「ジェスチュア」と理解すること、日米外交の基調は「三国同盟」にあり、日本の国策は「全力ヲ挙ゲテ独伊ノ勝利」を応援するにあること、の二点であった。
両大使は、松岡外相の好意に心から感謝する旨を坂本局長に述べ、さっそく本国に通電すると約束した。
その翌日、五月五日午前九時、松岡外相は帰京したが、東京にむかう車中からもリッベントロップ・ドイツ外相に友好心をひれきした電報をうち、帰京した翌日、外務省を訪ねたオット駐日ドイツ大使にも、日独親善を強調した。
「思フニ『ルーズベルト』ノ考ヘハ、太平洋ヲ閉ヂテ援英ヲヤラムトスルモノナルガ、三国同盟ニ少シデモヒビノ入ル様ナ事ハ、日本ハ決シテセヌ」
要するに、松岡外相は「日米諒解案」を米国側の“日独伊離間工作”とみなしているわけだが、その気持ちは五月三日にワシントンに打電された訓電や「オーラル・ステートメント」にも表明され、野村大使を困惑させた。
野村大使は、電報をうけとっていらい考えこんでいたが、松岡外相が伊勢参りから帰京した五日も、ほとんど終日、居室にとじこもって思案にふけっていた。
松岡外相からの訓電は、およそ予想外の内容であった。
外相はまず電報第一九〇号で、“日米中立条約”提案をこころみよ、と指示してきたが、それも本気で希望しているとは思えない。「諒解案」の検討には「相当時日ヲ要スル」が、「何条挨拶セズシテ過スコトハ如何カト思ハルル」ので、とりあえず「中間的回答」として「アツサリト簡単明瞭ナル中立条約」の提案を「軽ク」告げてみろ、という。
しかも、米国の伝統からして中立条約は好まないだろうが、「此ノ際ノ事」だから反応するかもしれず、また望みが無いなら無いという事実を確かめるだけでも役に立つ、というのである。
「問題は諒解案にあるはずじゃないですか。関係のない中立条約交渉を、それも相手の反感を招くことがわかっているのに、挨拶代りに提案したりしたら、こちらのまじめさを疑われるだけではありませんか」
岩畔大佐は、電報を一読すると、とっさにそう論評したものだが、「オーラル・ステートメント」のほうも刺戟的な文字がならんでいた。
「オーラル・ステートメント」でも、松岡外相は「諒解案」の検討に「猶数日」を要する旨を述べていたが、同時に訪欧のさいに会見したヒトラー、ムソリーニ両首脳の自信を伝え、米国の参戦に警告を与えるとともに、次のように結語していた。
「……日本ハ三国条約ニ基キ、其同盟国トナリ居ル独伊ノ地位ヲ些少ナリトモ毀損スルガ如キ何事ヲモ為スコトヲ得ズ、又為サザルベキコトヲ附言スルハ、殆ド要ナキコトト思判ス……」
岩畔大佐は、こんなものを渡したらぶちこわしだ、とうめいたが、野村大使もつくづく同感であった。
米国内の反ヒトラー熱は、日増しに高まっている。
ギャラップ世論調査所の発表によれば、米国がヨーロッパ戦争に参戦すると思うか、という質問にたいする回答は、昭和十六年はじめには「イエス」が六十八パーセントであったが、四月末には八十二パーセントに達した、という。
ルーズベルト大統領は、かつて絶対に米国の青年を参戦させないと言明したが、バージニア州ストートンのW・ウィルソン大統領記念堂除幕式では、一変して声明している。
「わが合衆国は過去において民主主義の信念のために戦ったが、いまや再び民主主義の存立のために戦う用意がある」
そうかと思えば、五月五日付の『デイリー・ニューヨーク』紙は、全米ラジオ放送網を構成するNBC、CBS、MBS三社は、こんごはヒトラー総統の演説中継はおこなわない、有料のコマーシャル放送のほうが有効だと決定した、と報道した。
このような情勢で“日米中立条約”を提唱したり、ナチス・ドイツとファシスト・イタリアを支持する「オーラル・ステートメント」を伝えるのは、米国側の神経をさかなでするだけであろう。
野村大使は岩畔大佐と相談して、五月六日朝、大佐からドラウト神父を通じてウォーカー郵政長官の意見を求めた。
――ハル長官と五月七日に会見する予定であるが、そのさい、「オーラル・ステートメント」は手交しないほうがよいのであるまいか。
――また、“日米中立条約”を話題にするが、ハル長官には、そのような提案は問題外だと答えてもらいたいがどうか。
ウォーカー長官は、「オーラル・ステートメント」については、その内容をハル長官に伝えればよい、“中立条約”にかんしては、野村大使の意向をハル長官に伝達すると答え、ハル長官に連絡した。
五月七日午前九時十五分、野村大使がハル長官を訪ねると、長官は野村大使が“中立条約”を話しだしたとたんに、それは別問題だ、と拒否した。
つづいて、野村大使は、松岡外相からハル長官あての「オーラル・ステートメント」がとどいているが内容には不適当なことが多くふくまれている、手交しようかどうしようか、と述べた。
ハル長官は眼をむいた。野村大使の発言は、下級者の上級者にたいする関係ならともかく、自国政府の方針の実現を担任する代表使節のものとは思えぬ「卑屈な印象」をうけたからである。
「貴大使にそういう権限がおありならば、お手もとに置かれたほうがよいかもしれませんな」
野村大使はうなずき、早口で「オーラル・ステートメント」を読みあげると、またカバンにしまいこんだ。
ハル長官は、米国はヒトラーが七つの海を制覇することを許さぬ、といい、日米交渉開始を急いでほしい、と強調した。
野村大使は、それこそ自分の望みでもある、と応えて、大使館に帰ると、東京に打電した。
「本使ノ見ル所ヲ以テスレバ、今ヤ……腹ノサグリ合ヒ等ヲ許スノ時機ニアラズ……大ナル『ステーツマンシップ』ヲ発揮シ、両国国交恢復ノ為ニ大決心ヲ為スノ時機ナリ……了解案ノ線ニ沿ヒ交渉開始方速ニ御回訓ヲ請フ」
野村大使には、ハル長官の態度は明らかにウォーカー長官を通じての“事前工作”の成果とみなされた。そして、工作にも快く応じてくれたのは、米国側がまちがいなく「諒解案」を内諾している証拠だとも判断できる。
せっかく米国側がさしのべた手をにぎろうとしない東京の態度はなんとも歯がゆいが、おりからルーズベルト大統領が五月十四日に重要演説をすると発表されていた。
演説は、英国向け船団を艦艇で護送する決意の表明と観測されているが、この船団護送が実施されれば、当然、ドイツ側の攻撃、ひいては米独交戦状態の発生が予想される。
いいかえれば、船団護送は米国の参戦決意の表明でもあるわけだが、そうなると、米国は枢軸側の日本にたいして圧迫と牽制をかねて全面禁輸などの措置をとる可能性がある。
その結果は日本を刺戟して日米戦に発展しかねず日米戦争となれば、支那事変をかかえているだけに日本は不利となる。一刻も早く日米交渉を成就させて日本の安全を確保する必要がある……。
野村大使につづいて、海軍武官横山一郎大佐、陸軍武官磯田三郎少将もそれぞれ東京に意見具申電をおくり、岩畔大佐は武藤軍務局長に電話で回訓をさいそくした。
だが、松岡外相はなおも腰を重くすえて動かなかった。
五月八日の政府統帥部連絡懇談会では東条陸相が野村大使に五月三日決定した修正案を送るよう勧告し、及川海相も、米国としても「国策ノ大転換」の好機だから交渉を開始したほうがよい、とすすめたが、外相は首をふった。
「了解事項ヲ取付ケタカラト云フテモ、是レデ戦争ハ防ギ得ナイカモシレヌ。哨戒ガ激化スレバ、コンナ了解事項ナンカフツトンデシマフ……『ルーズベルト』ハ戦争ヲヤル気ニナツテヲル」
松岡外相は、大橋次官も修正案を送れという意見だったが、「外交ノ太刀打チハオ前等ハダマレト云フテオイタ」といい、自分に任せてくれ、と強調した。
「外相ハ、フツトブ、フツトブト云フガ眼前ノ支那事変解決ガ大事ナノデ、本案ハ急グ必要アルト思フ」
という意見もでたが、松岡外相は、結局は米国を参戦させずに支那から手をひかせるつもりだ、「急ガセズニヰテ呉レ」とおしきった。
では、なぜ松岡外相は日米交渉の開始をしぶるのか。
日独伊三国同盟の堅持と対米強硬姿勢……というのが、「松岡三原則」の基調になっているように、松岡外相の外交方針である。
ところが、「諒解案」は米国にたいする宥和的態度を基礎にしている。明らかに“松岡イズム”に反するものである。しかも、その「諒解案」は、外相には事前の相談もなく、神父や民間人をまじえての工作の成果だという。
松岡外相は、まずは独伊両国の反応がまだだからということを回訓延期の理由にしていたが、野村大使たちにたいする反撥も有力な理由のひとつになっていたはずである。
つまりは、米国側でいう「ジョン・ドウ」工作、いいかえれば“シロウト外交”にたいする反撥であり、松岡外相にとっては、野村大使たちは外交の初歩さえもわきまえないとしか、思えなかった。
たとえば、日米交渉はまさに「国策大転換」をもたらすかもしれないだけに、極秘中の極秘事項であるのに、すでに一部の日米の新聞にもれている気配がうかがわれ、財界の有力者も概要を知っているとの噂も聞こえていた。
五月八日の連絡懇談会の直前には、ベルリンの大島浩大使から次のような電報が、とどいた。
「当地第三国新聞記者間ニ日米間ニ何等カノ政治協定締結ノ交渉行ハレ居ルヤノ噂アル処、為念折返シ回電アリ度シ」
松岡外相は、おそらくはワシントンの大使館員から洩れたものと想像し、直ちに大橋次官に命じて若杉公使あてに打電させた。
「館長符号(註、機密暗号)ハ井口(参事官)ヲシテ保管使用セシメラレタク、長文且至急ヲ要スル場合ニハ電信係ヲシテ取扱ハシムルコトナク、書記官全部ヲ督励之ヲ分担セシメラレタシ」
松岡外相としては、保安上の統制さえも不十分ではないかと、日米交渉の開始にたいするブレーキをかける心境になっていた。
この松岡外相の暗号注意電は、野村大使をはじめ大使館関係者を刺戟した。すでに「諒解案」を打電したあとの四月下旬にも、機密防止の注意をうけていたからである。
「どうも、なにもかも信用してくれないようだな」――と、野村大使は憮然として若杉公使につぶやいた。
だが、さらに刺戟をうけたのは、米国側である。
米国側は、すでに述べたように、日本の外交機械暗号を解読し、“マジック”の呼称で必要な関係者に通報していた。
ハル国務長官が、松岡外相の「オーラル・ステートメント」を要らないと野村大使に述べたのも、じつはすでに“マジック”作業で内容を承知していたからである。
さらにいえば、野村大使がウォーカー郵政長官に相談したことも、ハル長官は知らなかった。ウォーカー長官のメモは、野村大使との会談のあとにとどいている。野村大使が「オーラル・ステートメント」を渡そうか、といったときに、ハル長官が瞬時の黙思をこころみたのは、“マジック”作業をかくすにはもらったほうがよいかどうかを判定するためであった。
松岡外相の注意電は、ワシントン時間五月八日朝にキャッチされた。偶数日の解読を担当する陸軍は、直ちに陸軍省通信課長S・エイキン中佐から海軍省通信保安課長A・クレイマー中佐に警報を発した。
いらい、“マジック”関係者は、クレイマー中佐の表現によれば、「人妻の寝室にしのびこんで楽しんでいるうちに突然ノックの音を聞いた男性」のような心境で、毎日をすごした。
解読を探知されたのではないか、と懸念されたからである。
「もし、気づかれたら、日本側は暗号機械を変え、われわれは再び解読の優位を確保するために長時間の努力を強制されるにちがいない。ただ、機密防止のために電信係を排斥しろ、という指示の意味がはっきりしないのが、希望の綱だった。解読に気づいているとすれば、電信係だけをマークする必要はないはずだからだ」
いや、電文自体が警告の暗号文かもしれない、とも考えられ、米国側は次の“マジック”電報を確かめるまでは、不安感を鎮静できなかった。
不安定な日が終りを告げたのは、しかし、意外に早く、三日後、五月十一日であった。
重要な“マジック”電報としては、その前日、「諒解案」は極秘に検討中だから誰に聞かれても知らぬと答えてくれ、という大島大使あての電報があったが、「東京――ベルリン」間のマジック通信キャッチはフィリピンのキャビテ軍港通信所が担当しているため、電文は一週間後航空便でワシントンに配達された。
松岡外相は、ドイツおよびイタリアからの返事を待ち、たびたびオット駐日ドイツ大使に督促していた。しかし、回答は十一日になっても到着せず、一方、陸海軍はしきりに交渉開始をうながすので、松岡外相は十一日夜、修正案を打電し、ついで、五月十二日正午に交渉開始するよう野村大使に訓電した。
“マジック”は、まず次のような指示電をキャッチした。
「至急第二〇九号(館長符号絶対極秘)
申ス迄モナキコト乍ラ、本件ノ如キハ絶対極秘裡ニ取運バルベキモノニシテ、東京ニテモ非常ニ警戒シテ取扱ヒ居レリ。貴館員中ニテモ、事務上此ニ関与スルコト絶対必要ノモノ以外ニハ、断ジテ御話アルベカラズ。況ンヤ、紐育(ニューヨーク)ニ在ル財務官等ニ御内話アルコトハ、絶対禁物ナリ……」
松岡外相は、井川理事およびその友人・西山勉財務官を通じての機密漏洩の可能性が強いとみこみ、とくに注意したのである。
この注意がどれほど正確であったかは不明だが、こと“マジック”関係者にとっては電報が告げる意味は正確に理解できた。クレイマー中佐は、いう。
「この電報で東京が心配しているのは関係者のおしゃべりだけであることが判明した。われわれは、前回の警告電とあわせて、わが国では最も口が固いはずの電信係と財務官が、日本ではおしゃべりとみられている点に興味を感じたが、いずれにしても、われわれの作業が探知されていないことがはっきりして、心から安堵した」
解読作業も、容易であった。つづいて入電した修正案は、日本文のほかに英文も添付されていたので、日本文を英文に翻訳する手間がはぶけたからである。解読はワシントン時間五月十一日午後一時すぎには終了し、ハル国務長官も修正案を熟読することができた。
野村大使は、日本時間五月十二日正午に修正案を提示して交渉を開始せよ、という訓令をうけると、ハル長官に会見の申し込みをした。ワシントン時間では、五月十一日午後十時になる。
夜分で恐縮だが、という野村大使の言葉にハル長官はゆっくりと、しかし、明るい音声で、何時でもかまわぬ、お待ちする、と答えた。
野村大使は、約束どおり、秘書煙石学が運転する小型クーペで午後十時五分前に「ウォードマン・パーク・ホテル」に到着し、ハル長官の部屋を訪ねたが、日ごろの温顔は苦渋にゆがみきっていた。
松岡外相が打電してきた「日米諒解案修正案」は、「諒解案」で提唱された日独伊三国条約の緩和も、対支和平条件も、南方武力進出中止も、さらにホノルル会談にかんする規定も削除し、いわば「松岡三原則」にかなう強腰の条項だけに修文していた。
むしろ、“松岡案”というにひとしく、野村大使が「諒解案」に見出していた「ステーツマンシップ」による国交調整の可能性は寸尺の余裕もなく否決されていたからである。
15
「五月十二日付の日本側正式提案をうけとると、われわれは直ちに厳密な検討を加えたが……この文書からは、ほとんどかすかな希望の光も照射していなかった」
ハル国務長官は、「日米諒解案」にたいする“松岡修正案”についての感想を、そう記述している。
“松岡修正案”に、「日米両国ノ抱懐スル国際観念並ニ国家観念」、「欧州戦争ニ対スル両国政府ノ態度」、「支那事変ニ対スル両国政府ノ関係」、「両国間ノ通商」、「南西太平洋方面ニ於ケル両国ノ経済的活動」、「太平洋ノ政治的安定ニ関スル両国政府ノ方針」――の六項目についての“諒解点”を列記していた。
このうち、は抽象的に日米両国が平和愛好心を維持することを強調し、以下はいわば両国の国交調整が成就したあとの付属事項といえる。焦点は、の二項目である。
は、まず次のように述べていた。
「日本及米国政府ハ世界平和ノ招来ヲ共同ノ目標トシ、相協力シテ欧州戦争ノ拡大ヲ防止スルノミナラズ、其ノ速ヤカナル平和克服ニ努力ス」
ハル長官は、とたんに大脳を刺戟された。
(ヨーロッパの平和とはなにごとか。ヨーロッパの大半はヒトラーの手中にある。いま“速ヤカナル平和”をもたらすのは、ヒトラー・ナチスの勝利の下での平和になるではないか)
つづいて、ハル長官はその次の条文にも眉をしかめた。
「日本国政府ハ枢軸同盟ガ防禦的ニシテ、現ニ欧州戦争ニ参入シ居ラザル国家ノ戦争参加ヲ防止スルニ在ルモノナルコトヲ、闡明《センメイ》ス」
(要するに米国が参戦したら制裁するということか。明らかに米国にたいする威嚇だ)
「米国政府ハ、其ノ欧州戦争ニ対スル態度ハ、現在及将来ニ於テ一方ノ国ヲ援助シテ他方ヲ攻撃セムトスルガ如キ攻撃的施策ニ出デザルベキコトヲ、闡明ス」
(攻撃的施策とはどういうことなのか。結局は英国にたいする援助をやめろという、これまた威嚇にほかならない)
「支那事変ニ対スル両国政府ノ関係」は、むしろ、簡単に記述されていた。
「米国政府ハ、近衛声明ニ示サレル三原則及右ニ基キ南京政府ト締結セラレタル条約及日満支共同宣言ニ明示セラレタル原則ヲ了承シ、且日本政府ノ善隣友好ノ政策ニ信頼シ、直ニ政権ニ対シ和平ノ勧告ヲ為スベシ」
(介石政権が存立をかけて戦っている領土保全と独立確保をあきらめさせ、満州の承認、汪兆銘政府の承認、日本軍の駐留を政府にのませろ、という意味になる)
あまりにも日本側の一方的利益を主張しすぎている、とハル長官は結論したが、ホーンベック政治顧問も、後で覚書にして提出するが、と前置きしながら、憤慨に耐えぬといった口調で、ハル長官に意見を述べたてた。
「日本が、自発的にヨーロッパ戦争に参加する地理的位置にも政治的立場にもないことは、明らかです。だから、日本の交渉の中心は支那問題にあるはずです。それでは、なぜ日本は支那事変の解決、いいかえれば支那からの兵力ひきあげを認めようとしているのでしょうか」
長期化している支那事変のわずらわしさから逃れたい、というのかもしれない。しかし、日本は支那で敗北しているわけではない。
してみれば、日本が支那から相当な兵力をひきあげたがっているのは、別の土地にその兵力を進出させようとしているために、ちがいない。
「日本の意にかなう協定を結ぶことは、結局は日本の武力南進、あるいはわれわれにたいする攻撃までも激励する結果になりかねません」
とくに、日本が支那事変の解決を米国の援助によって成就しようとしている点は、問題である。
日本側の主張を認めるのは、米国がこれまで維持してきた「満州不承認」政策を放棄し、他国にたいする「領土保全」「主権尊重」の原則を放棄することに通ずるからである。
閣下、とホーンベック顧問は、椅子にすえた腰をゆすり直して、ハル長官に強調した。
「個人にとっても、国家にとっても、原則こそ行動の規範となるものです。原則があれば、自分がなにをしているかもわかり、方向も探知できます。しかし、いったん原則を棄てれば、個人も国家も不可知の世界に投げこまれ、予測できぬ困難と予見できぬ危険に身をさらすことになります」
そのとおりだ、とハル長官がうなずくのをみながら、ホーンベック顧問はつけ加えた。
「これまで日本は、ナチス・ドイツと同様に他国と条約を結んでは無視し、“愚弄”してきました。わが国も被害をうけている。しかし、今までは致命的な被害はうけなかったが、われわれの安全を日本の約束にゆだね、われわれを日本に“愚弄”させることは、致命的結末を招くにちがいありません」
ハル長官によれば、このあとハル長官はルーズベルト大統領と会談して、次のような日米交渉方針をきめた。
「A、米国の政治的、道義的な基本的原則を放棄することはしない。
B、五月十二日案は日本側の正式かつ詳細な提案なので、これをまっ向から拒否せず、修正、削除、挿入などをかさねて討議をつづける」
譲歩はしない、というのである。そして、このハル長官に代表される「原則遵守」方針は、ふしぎなほど松岡外相の姿勢に一致していた。
松岡外相は、“松岡三原則”に即して修正案を作成したが、五月十三日、次のような覚書をハル長官に手交せよ、と野村大使に指示してきた。
「本大臣ハ心底ヨリ殆ド必要ナシト存ズルモ、一切ノ誤解ノ余地ヲ余サザル為、此際次ノ点ヲ記録ニ留メムコトヲ希望ス……」
松岡外相は、日米交渉開始を「決意セル所以」は、二つの前提条件による、と指摘した。
「米国ハ欧州戦争ニ参加セザルベキコト」、「米国政府ハ政権ニ対シ対日直接和平交渉開始方ヲ勧告スベキコトニ同意スルコト」――
の二点であり、この前提条件が承知されない限り、日米両国間の諒解は成就され得ない、というのである。
野村大使は、「遅滞ナク直ニ国務長官ニ手交セラレ度シ」という指示を注視しながら、嘆息をはきだした。
この覚書は、修正案の内容を確定する“松岡三原則”の宣言ともいうべきものであり、日本側のねらいと態度を明白にする意味では、有効であろう。しかし、これをのめばよし、そうでなければ交渉の余地はない、ときめつけている形であり、まるで交渉のはじめに最後通告をつきつけているような印象を与える。
「交渉じゃありませんな。要求ですよ」
岩畔大佐も若杉公使も、まずい、と首をふり、野村大使は「遅滞ナク直ニ」反対意見を東京に打電した。
交渉の眼目が、米国の参戦防止と介石政府にたいする和平勧告にあることは、いうまでもない。しかし、せっかく交渉が開始された段階で、「御来示ノ如キ書物」を提出するのは、かえって話し合いを困難にして「了解ノ成立ヲ阻害」すると思うので、ハル国務長官には手渡さないでおく……。
野村大使としては、日米交渉は細かい事務折衝では処理できず、「大いなるステーツマンシップ」を発揮することによってのみ成功できると信じている。松岡外相が主張する妥協を認めぬ“原則外交”では、最初からまとめようがないではないか。
野村大使は、どうもワシントンの空気を東京ではよくのみこんでいないらしい、なお一段と諒解させるよう努力してほしい、と岩畔大佐をはじめ、横山海軍武官、磯田陸軍武官にも陸海軍当局への働きかけを依頼した。
野村大使の立場は、ひどく微妙かつ困難なものになった、といえる。
ハル長官と松岡外相がともに強調する“原則外交”の谷間に孤立した感じで、しかも双方の原則は対立して調和の余地を見出し得ないのである。
松岡外相もそれは承知であり、五月十四日、オット駐日ドイツ大使に、告げている。
「責任ある外相として、本職は三国条約の下で、米国を欧州戦争に参加させぬよう全力をつくす義務を負っている。自分の努力が成功するチャンスが少ないことは、認める。本職は天皇にたいする上奏で、見込みは三十パーセントだと評価しておいた」
ほぼ同じ時期にあたる五月十六日、ハル国務長官もまた、ハリファックス駐米イギリス大使に日米交渉にたいする悲観をひれきしていた。
「米国が日支和平のための交渉をおこなっているとの噂が流れているようだが、私は本問題を真剣に取り扱ったことはない」
ハル長官は、日本の高官たちの間には親ドイツ派と平和派があり、平和派は支那からの撤兵、太平洋での戦争回避を望んでいる、といい、ハリファックス大使が、そういう和平のチャンスがあるなら、確率が二十五分の一以下でも放棄しないでほしい、というと、ハル長官は答えた。
「さよう、(日米)交渉の成功のチャンスは十分の一以下でしょうな」
ハル長官の日米交渉に寄せる期待の程度がどのようなものであったかについては、別の記録がある。ハル長官は、一九四五年十一月二十三日、米国議会上下両院合同真珠湾調査委員会に提出した供述書の中で、証言している。
「日本の過去および現在の記録にかんがみ、また極東における日米両国の政策の大幅な相違からみて、私は最初から平和的解決に到達するチャンスは二十分の一、あるいは五十分の一、百分の一もないと予感していた」
では、なぜ成功の見込みがほとんどない日米交渉が開始されたのか。
ハル長官は、ルーズベルト大統領と話しあった結果、
「たとえほんのかすかでも日本を枢軸同盟から切り離す可能性は求めなければならぬ、と決定した」と記述している。
松岡外相もまた、前述のオット大使にたいする談話が示すように、可能性は少ないが交渉で米国の参戦を防止したいと考えたのである。
それでは、なぜチャンスがゼロではなく、少しはあると双方が判定したのだろうか。
その答えは、すでにこれまでの交渉の過程に明示されている。日本側は、「日米諒解案」が米国側の提案だとみなし、ハル長官も、「日米諒解案」が日本側提案だと聞かされ、ともに相手の政府首脳または指導層に和平意図があると想像していたからである。 野村大使も、むろん、米国政府首脳の“好意”を確信している。しきりに「ステーツマンシップ」を強調するゆえんである。
だが、このような誤解は、それが「ジョン・ドウ」工作という私的交渉の中で生まれたとすれば、交渉が正式に“原則外交”の軌道にのるにつれて発覚せざるを得ず、まず気づいたのは、松岡外相であった。
ハル長官は、五月二十日、野村大使と会談したが、二人のほかに岩畔大佐、井川理事、ハミルトン国務省極東部長も同席した。
ハル長官は、岩畔大佐を「静かで正直で自信にあふれた人物」、井川理事を「口八丁手八丁の政治家タイプ」と評しているが、会談では岩畔大佐が日本の北支駐在権を主張したほか、野村大使が東京の雰囲気を説明した。
ハル長官によれば、野村大使は、「日米諒解案」の主旨については、すでに陸海軍、外務省、全閣僚も諒承していて、天皇にも上奏されているほどなので、案文の語句の問題で諒解が成立しないようになっては困る、と述べた。
ハル長官は、野村大使の話をハリファックス英国大使に伝え、大使はロンドンに打電し、ロンドンは東京の英国大使館に情報として転電した。
この暗号電報は日本海軍によって解読され、その内容を知った松岡外相は、激怒した。
ハリファックス大使の報告は、ハル長官はじめ国務省関係者から聞いた情報もまじえ、日本側は天皇をはじめ首脳部が賛成しているのに松岡外相だけが反対しているため、野村大使らワシントンの大使館当局は苦慮している、と述べていたのである。
じつは、松岡外相はそれまでに、「日米諒解案」の英文と日本文を検討して、数カ所で日本文と英文が相違していることに気づいていた。英文の意味を緩和して日本文に訳しているのである。
松岡外相は、これは野村大使が故意にしたもので、「我方ノ忌《イヤ》ガルコトハ之ヲ日本政府ニ隠シ、米国政府ノ忌ガルコトハ米国政府ニ隠シ、中間ニ立ツテ胡麻ヲ摺リ何トカ纏メ」ようとしているのではないか、と疑ったが、ハリファックス電報を読み、野村大使が外相批判をしていると知ると、日米交渉は野村大使の“独善的工作”だと解釈した。
「今回の提案は米国側からではなく、野村からしたことがわかりましたな」
松岡外相は、五月二十三日夜、近衛首相ににがにがしげにいうと、その翌日、野村大使に問詰電を発した。
「五月二十四日発電、第二五〇号(至急、館長符号、外機密)
稍々《ヤヤ》確実ナリト認メラルル情報ニ依レバ、(一)貴大使ハ『ハル』国務長官ニ対シ、日米諒解案ニ付陸海軍首脳者ノ同意ノ下ニ会談スルモノニシテ、(二)松岡外相ヲ除ク外天皇陛下及他ノ閣員全部ノ支持ヲ受ケ得ベシ……(四)『ハル』長官ガ貴大使ニ対シテ先ヅ以テ天皇陛下及内閣ノ意嚮《イカウ》ヲ確メラレムコトヲ要求セル処、貴大使ニ宛モ其ノ同意ヲ得タルガ如キ返答ヲ為サレタリ云々トアル処……」
松岡外相の電報は、ハリファックス情報の中でも最も刺戟的な部分を伝えたのち、激しい文字をつらねた。
「外務大臣ト一心同体タルベキ筈ノ貴大使ガ、外務大臣ニ関シ右情報ニアルガ如キコトヲ述ベラレタリトハ、常識上絶対ニ考ヘラレザルノミナラズ……天皇陛下ニ於カセラレテ御同意アルベシトカ云フ如キ言ヲ為サルルコトハ、絶対ニ禁物ニシテ……」
とにかく、一刻も早くハル国務長官に訂正を申し入れよ、という内容であり、野村大使は、文字どおりに仰天して返電した。
「貴電拝読、事実全ク無根ニシテ唯々驚キ入ルノ外ナシ……若《モ》シ夫レ神聖侵スベカラザル至尊ヲ引用スルガ如キコトアリトセバ、夫《ソ》レ丈《ダ》ケニテ罪万死ニ値ス。本使ハ軍人トシテ万一斯《カカ》ルコトヲ為シタリトセバ、民道ノ上ヨリ此ノ世ニ存在ヲ詐サレザルモノト信ズルモノニシテ、夫レハ絶対ニアリ得ベカラザルコトナリ……」
野村大使は、せいぜい思いあたることといえば、ハル長官から日本外交の政策決定の仕組みを質問されたときに内閣組織、閣議、政府統帥部連絡懇談会などについて説明したことくらいだが、その場合でも外相が指摘するような質問はなにひとつおこなわれなかった、と陳述した。
松岡外相は、野村大使にはそれ以上は電報せず、野村大使は外相の誤解をとくことができたものと思っていたが、松岡外相はその後日米交渉の経緯を調べ直し、ますます野村大使にたいする不信感を深めていた。たとえば、五月二十九日の連絡懇談会では、次のような問答が記録されている。
「某  然ラバ今度ノ日米会談ハ誰ガ種子ヲ播イタノカ。
外相 野村ノ処置トシテ『ハル』ガアノ程度ニ話合ヲ進メタノデアルガ……野村ノ出発前自分ハ一筆書イテ渡シタガ、野村ノ今度ノ措置トハ反対ノコトヲ書イテアル。
無統制ノ外交ハ相済マヌト思フ。今直グ責任ハ取ラヌガ、他日自分ハ陛下ニ対シ責任ヲ取ル考ヘデアル。
海相 米国ノ坊主ニヤラセタノデハナイカ。
外相 然ラズ。
某  井川ニ誰ガ金ヲヤツタノカ。
外相 俺デハナイ。誰カハ知ツテヰルガ、今ハ聞カンデ呉レ」
この問答からも、どうやら松岡外相が日米交渉の発端のゆがみを察知したことがうかがわれるが、米国側で最初に事情に気づいたのは、海軍であった。
松岡外相がハリファックス電報を知った前日、五月二十二日午後、井川理事は知人の米海軍少佐ルイス・ストラウスと会食したさい、「日米交渉にかんする全構想の責任者は、メリノール派のジェームス・ドラウトです」と、もらしたのである。
ストラウス少佐は、情報部長R・インガソル海軍大佐に報告して、国務省に連絡するよう進言した。インガソル大佐は、しかし、なんのことだ、報告書にして提出してくれ、とそっけなく答えた。
インガソル大佐は、“マジック”情報の配布先の一人である。日米交渉の開始は知っている。そして、日米交渉は極秘にすすめられている。それだけに、まずは機密保持のためにストラウス少佐にとぼけてみせたわけだが、同時に国務省のホーンベック顧問に電話をかけてうちあわせをした。
「オールライト、サー。処置します」
インガソル大佐は、そういって受話器をおいたが、大佐がいう「処置」の内容は、意外なものであった。
――十日後、
五月三十一日午後、プリンストン大学留学のために滞在していた岡田貞外茂海軍少佐は、新たにワシントン州シアトル駐在員を命じられ、ロサンゼルス駐在員・立花止海軍中佐と接触するため、一九四〇年型黒色ビュイックで、西部にむかった。
六月二日午後、カリフォルニア州フレズノ南方百五十キロのハイウェイで、突然、パトカーに停車を命じられた。スピード違反だといいながら、近づいた二人の警官は、麻薬密輸で手配中の車に似ているので調べさせてもらう、と岡田少佐に告げた。
岡田少佐が、後部トランクをあけようとすると、警官の一人が拳銃をぬきだし、もう一人が岡田少佐の両手に手錠をかけた。
日本帝国海軍の士官だ、と岡田少佐は抗議したが、そのまま警察署に連行された。留置場に収容されたが訊問もなく、一時間後に釈放された。所持品は入念に検査されていた。
岡田少佐は、署長に会わせろ、と主張したが、署長はあらわれず、岡少佐は憤慨しながら車を走らせた。
すると、午後十時すぎ、ロサンゼルス北郊にたどりついたとき、またパトカーに停車を命じられた。こんどは、パスポートをみせろ、という。
再び、とにかく署まで、と連行され、留置場にほうりこまれ、所持品を検査されて、放免された。
岡田少佐が立花中佐のアパートに到着したときは、少佐の顔面は憤慨のために怒張した血管で真赤になり、ウヌ、畜生、とくり返すばかりで挨拶の言葉も出ない様子であった。
ロサンゼルスから電話で報告をうけたワシントンの海軍武官横山一郎大佐は、すぐ岡田少佐にワシントンに来るよう、指示した。
狙われている――と判定できたので、岡田少佐の報告を聞いて情報活動全般にたいする対策をたてるためと、岡田少佐自身を保護するためである。
だが、米国側の狙いが、じつは岡田少佐ではなく、さらにその背後に日米交渉にたいする謀策がひそんでいるとは、ワシントン海軍武官府では夢想もできないことであった。
16
海軍武官補佐官実松譲少佐は、岡田少佐留置事件を知ると、とっさに警報を感得した。
――次は、立花だな。いや、もともと立花が狙いにちがいない。
立花中佐は、当時米国に配置された海軍士官の中で最も有能な情報将校の一人であり、その活躍ぶりもしばしば大胆であった。
もし米当局が日本海軍の情報活動を封止しようとすれば、まっ先に焦点にされる存在だが、すでに直接の理由も発見されているのではないか、と実松少佐には思えた。
五月中旬に、立花中佐はワシントンを訪ね、五千ドルの機密費を要求した。ハワイの米太平洋艦隊司令部に勤務する下士官を買収して、戦艦の射撃成績表を入手できることになった、五千ドルはその買収費だ、という。
日米開戦となれば、必ずや日米艦隊決戦が発生するだろうとは、海軍士官の誰もが予期している。そのさい、主戦力である戦艦の砲術力を知っておくことは、作戦計画の立案から勝利の機会を確保するまで、すべての面で有効である。
立花中佐は、すでに米巡洋艦の夜間射撃訓練のデータを入手しているので、さらに戦艦の射撃成績表が確保できるなら、帝国海軍にとってはまことに貴重な成果ともいえる。だが、大丈夫か?――というのが、横山一郎大佐をはじめ武官室全員の懸念であった。
立花中佐に看視の眼がそそがれ、中佐が利用する米下士官が米国側の情報メンバーであり、中佐をワナにかける計画が練られていることも、予想できるからである。
「その心配は当然です。しかし、この男は大丈夫です。絶対に信用できます」
立花中佐はきっぱりと断言し、それならば、と横山大佐は五千ドルを中佐に渡したのだが、岡田少佐の事件は、あらためて実松少佐に立花中佐にたいする危険信号を感じさせた。
岡田少佐が注目されているならば、最近まで住んでいたプリンストン、あるいは新居住地のシアトルで逮捕されるのが、自然である。だが、少佐はまだ具体的な情報活動はおこなっていない。
米国側も、それは承知にちがいない。それを、立花中佐宅にむかう途中でチェックしたのは、立花中佐が本当の狙いであり、中佐への連絡または中佐の活動の裏付け証拠を探すためではなかろうか。
それにちがいない――とは、横山大佐の感想であり、武官室の憂慮でもあったが、といって、適当な具体的な措置も想い浮かばなかった。
急いで立花中佐を帰国させるのは、中佐の安全保障にはなるが、かえって唐突な印象を米国側に与え、警戒心を強化させる可能性もある。
また、ワシントンに出頭した岡田少佐は、立花中佐の“五千ドル工作”が近く成就するはずだ、と報告した。成果を眼前にして帰国させるのは残念だし、中佐自身も承服し難いであろう。
結局は、危険信号は感じられるが、十分に注意しながら様子をみよう、という実質的には意味のない結論に達せざるを得なかった。
実松少佐は、さらに、いずれワシントンの武官室も捜索されかねない、と考え、治外法権を適用される大使館内に移転すべきだ、と横山大佐に進言した。
そして、うなずく横山大佐とともに、岡田事件が日米関係、または米国の参戦態勢となんらかの関連があるかどうかを検討してみた。
ルーズベルト大統領が五月十四日に船団護衛政策を発表するという噂は、噂として終り、大統領は五月二十七日、いわゆる“炉辺談話”の形で英国援助強化を声明した。しかし、援英物資輸送の船団を艦艇で護衛する方針は明らかにせず、また日米関係にもとくにふれていない。
「船団護衛は必ず実施されるにちがいない。そのときにそなえて、太平洋艦隊の一部が大西洋に回航になるという噂も、耳にはいっています。しかし、それと岡田少佐事件とはどう結びつくのか」
太平洋艦隊の回航を悟られないための処置としては、あまりに姑息にすぎる。情報将校を一人や二人捕えても効果はないからである。
大統領が日本に言及しなかったのは、対日政策を軟化する意図があるからだ、という観測が伝えられていた。わざと強硬手段を示して、政策変更の効果をあげるつもりであろうか。しかし、そうだとしても、やはり海軍士官の逮捕がどれほどの効果をももたらすはずがない。
米国内では、ナチス・ドイツのスパイ狩りがさかんである。現に五月十八日には、ニューヨーク、ニュージャージー、カリフォルニア州その他で百六十九人の親独市民がスパイ容疑で検挙された。いずれ日系市民も対象になるかもしれないが、岡田少佐がその警告の象徴とは思えない。
実松少佐は、不審は感じながらも、とくにピントが合う背景に思いあたらず、岡田事件は相変らずの米海軍の嫌がらせだ、と解釈した。
――だが、
事件には、たしかに背景があった。その背景はホーンベック国務省顧問と米海軍情報部長インガソル大佐との談合であるが、実松少佐が予想したとおり、狙いは岡田少佐ではなく、立花中佐であった。
ただし、立花中佐は逮捕されるが、中佐の逮捕そのものが目標ではなく、目的は、むしろ、対内的であり、かつ日米交渉の操作にある。
インガソル大佐が、「日米諒解案」の演出者がドラウト神父だという情報をホーンベック顧問に伝えたとき、ホーンベック顧問は、その点は承知ずみだ、情報はメモにしてハル国務長官あてに送付してほしい、と答えながら、ハル長官は、日米交渉をもう少し継続したい意向だ、と指摘した。
インガソル大佐には、ホーンベック顧問の発言の意味が、すぐわかった。
そのころ、昭和十六年五月中における米国政府首脳部の関心と討議の中心は、太平洋艦隊の大西洋移動問題であった。
英国向け船団護送にからむ問題だが、陸軍長官ヘンリー・スチムソン、海軍長官フランク・ノックス、陸軍参謀総長ジョージ・マーシャル大将たちは、ヨーロッパ大陸への海路を確保することが欧州戦の勝利に連結する、と強調して、太平洋艦隊を大西洋に回航することを主張した。
米国は伝統的にヨーロッパと結びついており、ナチス・ドイツを打倒すれば、日本は参戦しないだろうし、かりに参戦しても日本を撃破するのは容易だ、という“ヨーロッパ第一主義”発想である。
この見解にたいして、ハル国務長官と海軍作戦部長ハロルド・スターク大将は、反対した。
ハル長官は、日本を外交的に枢軸陣営からひきはなすチャンスは最後まで求めるべきである、そのためには太平洋艦隊のハワイ駐留は日本にたいする抑止力になる、と判定した。
太平洋艦隊が姿を消せば、日本は安心して東南アジアに武力進出をおこない、その結果は日米戦争を招来するのは必至とみこまれるからである。
スターク大将も、ハル長官の見解を支持した。米国海軍は日本海軍を仮想敵とみなし、太平洋を主戦場と覚悟して演練をかさねている。
「太平洋を日本海軍に明け渡すのは、米海軍の存在意義を失わせることにほかならない」
ルーズベルト大統領が、五月二十七日の“炉辺談話”で船団護衛政策を発表しなかったのも、政府部内にこの論争がつづいていたからだが、ホーンベック顧問は、インガソル大佐に論争の行方をハル長官側に方向づける方策を求めたのである。
そこで、インガソル大佐は、いかに日本海軍が太平洋艦隊の動きに興味をもっているかを政府幹部に印象づける一策として、岡田少佐つづいて立花中佐逮捕を演出することになるのだが、ホーンベック顧問は、そのさい、六月いっぱいがメドだ、とつけ加えていた。
「貴官も承知のように、六月中にヒトラーはスターリンを攻撃する。そうなると、ソ連と中立条約を結んだ日本は、もしソ連を攻撃しなければ、ますますわが国の参戦が近づくのを予想して三国条約から離脱する可能性もある。太平洋艦隊の配置も自ら定まるにちがいない」
ホーンベック顧問は、「独ソ戦が起れば日米交渉も転機を迎える」とインガソル大佐に告げたが、米国は、ドイツのソ連攻撃にかんする情報をきわめて的確にキャッチしていた。
ヒトラー総統が、ソ連攻撃計画である総統指令第二一号「バルバロッサ」作戦に署名したのは、前年の昭和十五年(一九四〇年)十二月十八日、ちょうどドラウト神父とウォルシュ司教が東京で要人を歴訪し、野村大使も相次ぐ送別会で忙しいころであった。
ハル国務長官によれば、その一カ月後、昭和十六年一月中旬には、早くもベルリン駐在商務官サム・ウッズが、ドイツ側にソ連攻撃計画があることを通報してきた。
ウッズ商務官の情報は正確をきわめ、三月には、ドイツ側の作戦が、中央、北、南の三方向から成り、そのうちモスクワに直行する中央作戦が主作戦であることも、伝えた。
ハル長官は、国務次官サムナー・ウェルズを通じて三月二十日、ウッズ情報を駐米ソ連大使ウーマンスキーに伝達した。
ソ連が突然、日本と中立条約を結んだのは、そのほぼ三週間後である。
四月二十五日には、英国から、駐ソ英国大使館はドイツのソ連攻撃日が「六月二十二日」であることを確認した、という情報も連絡され、五月にはいると、さらに日一日と情報の量と質は増していた。
ハル長官としては、だから、日米交渉は最初から独ソ戦という国際情勢の変化を念頭において処理すべきテーマであったわけであり、また岡田少佐事件の背後にもそういう世界の動きを掌中に把握したうえでの配慮がひそんでいたのである。
その意味では、日米交渉における米国側の“原則外交”は“マジック”情報をはじめ圧倒的な情報の優位に裏打ちされた“スケジュール外交”の性格ももっていたことが、理解できる。
野村大使には、そのような米国側の事情はわからない。
野村大使は、そして岩畔大佐も、すでに独ソ戦が既定の事実にひとしい事態になっていることも、まして米国がそれを承知で日本の“処理”をはかっていることも、知るすべもない。
ワシントンの夏は、妙に湿気が多く、すごし難いことでは定評がある。すでに初夏であり、大使館の中でも、扇風機ではじっとりとにじむ汗を吹きとばし難くなっている。
野村大使は、肥体なので発汗度も激しく、日に二、三度は下着をとりかえることも多くなったが、汗はときに暑さのためばかりではなく、交渉の前途に苦慮して浮かぶ冷汗であったかもしれない。
日米国交の調整を願う野村大使としては、なんとかして米国側の態度軟化を願いたい気持ちが強いだけに、ハル長官の眉のしかめ具合い、唇のゆがみかたにも一喜一憂する想いである。
ハル長官は、バランタイン課長を通じて、五月三十一日、日本側の提案にたいする意見書を野村大使に渡した。主に、米国が自衛のために参戦することは阻害されない旨を強調し、全般的に米国側の義務を縮減するよう修正していた。
野村大使は、岩畔大佐と相談して、そのまま東京に打電するのはやめることにした。
松岡外相は、同じ五月三十一日に、次のような指示を電報してきていた。
「……本大臣ハ、現在ノ我ガ皇国ノ国際的地位、東亜ノ情勢ニ之ヲ鑑ミ、米国ニ(日支和平の)橋渡シヲ頼ムトイフガ如キ考ヘハ、毛頭ナシ。唯介石ニ対シ『日本ト直接交渉ヲ為スベシ、然ラザレバ米国ノ援助ヲ中止スベシ』ト申渡スコトヲ、米国当局ニ勧告スルノ意ニ他ナラズ……」
ハル長官の意見書は、日華基本条約や日満支共同宣言を認めて日支和平の仲介はできない、駐兵その他の細目についてももっと明確にしてほしい、といっている。松岡外相の態度とはまっ向から対立するはずである。
野村大使も岩畔大佐も、ハル長官の意見書は松岡外相を刺戟するだけだと判断し、米国側と折衝して然るべく修正してから東京に報告することにした。
ハル長官は、野村大使が「若干の修辞をこころみたい」というと、びっくりした表情を示した。
野村大使はそれまで、しきりに細かい言葉遣いよりも「ステーツマンシップ」でことをはこびたい、とくり返していたからである。
しかし、交渉がながびくのは歓迎すべきことなので、ハル長官は、野村大使が適当な大使館員を選定してバランタイン課長と作業するのは結構だ、と述べた。
――ところで、
野村大使は、ハル長官の意見書を東京に伝えなかったが、岩畔大佐は参謀本部と武藤軍務局長に通報した。
岩畔大佐は、米国側の態度が硬化の方向をたどっていることに注目し、おそらく「米国ノ参戦ヲ防止シ得ルト見ルコト、日本ノ枢軸ニ対スル立場ヲ米国ガ尊重スベキト見ルコトハ、共ニ不適当」だと判定して、次のような意見を具申した。
「(修正案を日本が拒否するならば)日米間ノ空気ハ頓《トミ》ニ悪化スベキヲ以テ、本交渉ハ引伸バシツツ継続シ、破局ノ責任ヲ米国ニ帰スル如ク指導シ、他方対南方武力進出ノ決意ヲ固ムル要アルモノト信ズ」
この意見は、意外に米国側の姿勢に合致していたが、連絡懇談会で岩畔電の内容をひろうされると、松岡外相は、露骨に不機嫌さを表明した。
なによりもまず、ハル長官の意見書が野村大使から報告されずに、参謀本部にとどいた点に、松岡外相は憤怒した。
「苟《イヤシ》クモ遣外使臣タル者ハ……先方ヨリ接受シタル重要ナル文書ハ、遅滞ナク本国政府ニ対シ……電報スベキモノナルハ、申ス迄モナシ」
松岡外相は、のちに辞任する直前に近衛首相にあてた書簡の中で、このときの事情にふれ、そう野村大使の“小細工”を批判している。
だが、松岡外相が不機嫌であったのは、それだけではない。独ソ戦にかんする情報が濃度を増していたからである。
独ソ戦の可能性については、東京は、ワシントンほどではないが、すでにたびたび駐独大使大島浩から警報をうけていた。
大島大使は、たとえば四月十六日付の電報で、リッベントロップ外相が、ソ連の出方次第では、「今年中ニモ蘇聯邦ニ対シ戦争ヲ開始スルコトアルベシ」
と語ったと報告し、またドイツ軍のソ連国境にたいする兵力増強も通報していた。
松岡外相は、五月二十八日、大島大使にたいして、リッベントロップ外相に「友人トシテ」独ソ戦をやめるよう伝えよ、と電報している。
松岡外相は、ソ連との中立条約をやがては「日独伊ソ四国同盟」に発展させ、それを背景に日米国交も一気に調整しようという構想を抱いていた。
独ソ開戦となれば、この松岡構想は根底から崩壊する。
そればかりではなく、日本はきわめて不利な立場に追いこまれざるを得ないであろう。
ドイツと戦うソ連にたいしては、当然に米国は支援する。そして、ソ連もドイツの同盟国である日本に敵意を示すにちがいない。ということは、日本がドイツに呼応してソ連を攻撃すれば、米国との戦いになりかねないし、南方に進出すれば、中立条約を結んでいるとはいえ、いつソ連が背後を襲わないとも限らないのである。
松岡外相の勧告電にたいするドイツ側の反応は、ドイツ側の強固な決意表明であった。
大島大使は六月三日にヒトラー総統、四日にリッベントロップ外相に会見したが、二人はいずれも独ソ戦が必至である旨を明言した。
ヒトラー総統は、独ソ戦争は「恐ラク不可避」であり、「自分ハ相手ニ敵意アルヲ認ムレバ、常ニ相手ヨリ先ニ刀ヲ抜ク男ナリ」と述べ、リッベントロップ外相は、開戦はいつかという大島大使の質問に、次のように答えた。
「未定ナルモ、若シ日本トシテ右ニ対シ準備ヲ為サルル必要アリトセバ、一日モ速ニ之ヲ完成セラルルコトヲ御勧メシタシ」
大島大使は、二人の首脳者がここまで言明している以上、独ソ戦は「短時日ノ中《ウチ》ニ之ヲ決行スルモノト判断セラル」と急電した。
適切な判断であり、独ソ戦の開幕に一カ月以上の余裕はないと見定められるはずである。
だが、松岡外相は、自分の外交構想が崩れるのを恐れてか、六月六日の連絡懇談会でも、なお首をかしげながらの見解を述べた。
「『ヒトラー』ハ、共産主義ヲタタキツブスノガ信念デアルト云フテ居ルガ、ソレデ戦争スルダラウカ……英独協定トイフコトモ相当警戒ヲ要スル事ト思フ……大義名分ヲ必要トスルカラ、先ヅ条件ヲ出シ、其後開戦スルト思フ……」
そのあと、松岡外相は宮中に参内して天皇にも情勢判断を奏上したが、独ソ関係は「協定成立六分、開戦四分」とみなす、といった。
また、侍従武官長蓮沼蕃大将が天皇の内意をうけて東条陸相にたずねると、東条陸相も開戦は「左迄《さまで》急迫せりとは見ず」と答えた。
陸軍省軍務課長佐藤賢了大佐の回想によると、大島電を見て、本当にドイツはソ連を攻撃するだろうか、と武藤軍務局長に質問すると、武藤局長もまさか、と首を左右にふった。
「ヒトラーの英本土上陸のはったりさ。ヒトラーやリッベントロップからすれば、大島を欺すぐらいは朝飯前だ」
もし、松岡外相が希望的観測にすがって独ソ戦の可能性がうすいと推測したとすれば、武藤局長もまた、ドイツ軍の英本土上陸への期待によりかかっていた、といえる。
しかし、米国側には、判断を曲げる“希望”も、“期待”もなかった。
大島電は、“マジック”情報に捕えられ、内容を知った米国政府はますます独ソ戦が間近にせまっているのを確認して、ハル長官も海軍も予定どおりの言動を推進することにした。
そして、その予定表にのっている事態のひとつは、実松少佐が予感したように、ロサンゼルス駐在員立花止海軍中佐の逮捕であった。
17
立花海軍中佐は六月六日午後六時半、三人のFBI捜査員の来訪をうけ、そのままFBIロサンゼルス支局に連行された。
容疑は米海軍機密にたいするスパイ活動であり、さらにいえば、ワシントンの実松少佐が予感したとおりに、米国側の防諜工作の網にかけられたといえる。
立花中佐が利用しようとした米海軍下士官は、“チャールズ・チャプリン”という俳優チャプリンと同名の暗号名で呼ばれ、その行動はFBIの看視下におかれるとともに、米海軍省情報部に連絡されていた。
情報部長インガソル大佐は、ホーンベック国務省政治顧問と連絡した五月二十二日には、すでに下士官“チャプリン”が立花中佐から戦艦の射撃成績表の入手を求められたことを知っていた。情報部は、ハワイの太平洋艦隊司令部に連絡し、下士官“チャプリン”に司令部を訪問させた。新しい日付をつけ替えた古い射撃演習資料を用意し、兵曹に変装した士官が“チャプリン”に手渡した。
下士官“チャプリン”は二重スパイであるが、立花中佐に信頼感を与えるためには、自分が二重スパイを意識しないほうが、些細な言動も信憑性を持ち得ると判断されたので、資料の手交にも工夫がこらされていた。
兵曹に変装した士官が、偶然、下士官“チャプリン”が好むバーにあらわれ、へべれけになって“チャプリン”に抱きつく。
「戦友よ。オレは、海軍を辞めたくなったよ。ああ、きっぱりと辞めるとも。あの禿げたガラガラ蛇のクソ課長のヤツめ……くそッ、ぶち殺してやりてェ」
士官は、貴官が最も不快に思う上官の顔を想い浮かべながら演技せよ、と指示されていた。そして、その士官は日ごろ、なにかとある上官に小うるさく指導されて恨んでいたので、その述懐は真にせまり、また当人もグチをこぼしているうちに、本当に興奮してきた。士官は、しきりに「クソ課長の鼻を明かしてやりたい」とわめき、「お前が気にいった」と下士官“チャプリン”にかじりついた。
続けざまに毎夜、同じバーで同じ酔態劇が演じられたあと、士官は上官にたいする腹いせのために機密書類を持ち出すといい、下士官“チャプリン”に渡した。
下士官“チャプリン”は、相手が連絡員らしいとは思いながらも、いかにも迫真の演技に不安を感じていた。ロサンゼルスで立花中佐に資料入手を報告したのち、予定どおりFBIに逮捕されたときは、むしろ「ホッとした」と係官に告白している。
それだけに、立花中佐も下士官“チャプリン”の報告に真実性を感得し、使命の成功を喜んでいたが、下士官“チャプリン”が資料を届けに来る前にFBI捜査員にふみこまれて、それ《ヽヽ》と悟った。
ワシントンの帝国海軍武官府が立花中佐逮捕を知ったのは、その翌日、六月七日である。FBIロサンゼルス支局からロサンゼルスの日本領事館に通報され、ワシントンの日本大使館に急報された。武官府は、武官横山大佐をはじめ一同が緊急会議をひらき、東京に連絡するとともに対策を協議した。ニューヨーク、サンフランシスコその他の駐在官にも、連絡と警報が発せられた。
対策は、むろん、立花中佐救出策であるが、立花中佐は戦時スパイではないしまた特別に重要な米国の機密を盗んだわけでもないから、死刑の対象にはならないはずである。処遇としては、訴追されて処罰されるか、国外追放などの政治的措置をうけるかのいずれかであろう。
補佐官寺井義守少佐をロサンゼルスに急行させ、米国側の態度をさぐらせることになったが、数日後、寺井少佐は米国側は十分の自信をもって立花中佐を裁判にかけるつもりらしい、と報告した。
武官横山大佐、補佐官実松少佐らは、有能な米国人弁護士の選定を急ぎながらも、焦慮した。
裁判となり有罪となれば、米国刑法の規定ではまず二十年の禁錮刑が予想される。寺井少佐がいうように、おそらく米国側は慎重な工作で立花中佐をワナにかける自信をもっているとすれば、証拠もそろっているだろうから、有罪判決はまちがいないとみられる。そして、公判廷で裁かれれば、帝国海軍の情報活動が暴露されることはもちろん、長期刑を言いわたされた立花中佐は、おそらく軍籍を離脱せざるを得なくなる。
「チキショウッ。お互いさまにやっているくせに、汚ない真似をしおるッ」
血気に燃える実松少佐は、顔面を紅潮させ、眼球を血走らせて痛憤したが、とっさに妙策には思いいたらず、また、はたして立花中佐が正式に裁判されるかどうかも判明せぬままに、不快な日をかさねた。
米国側が、立花中佐を訴追することにきめたのは、六月十三日であった。
司法省から国務省に連絡があり、国務省の意見を求めてきたが、ハル国務長官はホーンベック顧問と相談して、同意した。
ホーンベック顧問が、立花中佐事件を政治的解決の対象にせず、法廷で公けにする方針に賛成した理由は、三つあった。
そのひとつは、独ソ戦の切迫である。
国務省には、立花中佐の逮捕と前後して、ブカレストおよびストックホルムの米公使館から、いずれもドイツ軍が「二週間以内、おそらく六月二十二日」にソ連を攻撃する、という情報電がとどいていた。ホーンベック顧問は、これらの情報は確度が高い、と判定した。
「独ソ戦は、これまでわれわれが検討してきたように、日独伊三国同盟にも、日本の対米態度にも重要な刺戟を与えることは、明らかです。われわれの対日姿勢は、これまでどおりに強硬を維持することが、独ソ戦により発生する新局面にも有利になるはずです」
立花事件は、だから、米国側の強腰を示す形で処理すべきであり、裁判が適切となる。
第二の理由は、日米交渉の性格と内情から考えられる、とホーンベック顧問は指摘した。
ホーンベック顧問は、三日前、六月十日、「『ジョン・ドウ』工作について」と題する覚書をハル長官に提出していたが、その覚書を想起してほしい、とハル長官に進言した。
覚書は、五月二十二日に米海軍省情報部のストラウス少佐が井川理事に聞いた日米交渉の内幕にふれ、ドラウト神父を交渉の主役とみきわめて、次のように述べていた。
――本官が観察する限り、本件においては、ドラウト神父がプロモーターとセールスマンの役割をつとめているようである。
――本官の推理では、神父はまず日米交渉および可能ならば日米協定のアイデアを若干の日本人に「売りつけ」た。
そして、そのご、および現在でも、そのアイデアを閣下(さらに閣下を通じて大統領)に「売りつけ」るべく、夢中になっている。
――本件の“狂言廻し”は、ドラウトであり、彼は郵政長官と三人の日本人を補佐役にしている。
――本官の見解では、(ドラウトたちによる)協定案は、日本国民も米国民も望まないものであり、たとえ完成品に仕上げても、双方にとって味の悪いものになるはずである。
――右の点についての本官の意見は、まちがっているかもしれないし、まちがっていないかもしれない。しかし、いずれにせよ、その種の協定の成立は、支那および英国にとって良くないものであり、米国およびその外交政策の基本的目的にも不都合なものであると確信する。
――これまでくり返し具申した如く、本官も、日米討議の継続が若干の有用な目的にかなうものであるとは、感得している。
しかし、その種の協定の結果については、本官は不たしかな不安をもって見守らざるを得ない。
――本官の知る限り、本件に関与する国務省員全員が、本官と同様の不安を共有していることを伝えるのは、本官の閣下にたいする義務と思う。
ホーンベック顧問は、日米交渉が、平和希求という動機の純粋さは疑えないにしても、一人の神父の“思いつき工作”で発足し、またその“思いつき工作”で日米双方の当局者がひきまわされる傾向があったのは、遺憾であった、と述べた。
しかし「交渉をまとめるのはともかく、交渉を続けることが有意義である」とすれば、交渉は継続すべきであり、また交渉継続に必要な要素は放棄すべきでない。
「立花事件は、日米間の交渉の対象になり得ますよ」
そこで、第三の理由にすぐ連結する、とホーンベック顧問は、ハル長官に解説した。
「立花中佐の裁判を日本側が好まないことは、明白です。ということは、おそらく日本側は裁判阻止を働きかけるでしょうから、その段階で必要な取引きができる可能性も見出せます」
この最後のホーンベック顧問の予測は的中した。国務省の同意を得た法務省は直ちに立花中佐訴追の手続きをとり、六月十九日に中佐の公判廷をひらくことをきめ、その旨を立花中佐に通告した。
中佐を通じて日本側にも伝えられたが、海軍武官横山大佐は、裁判となれば中佐にたいする有罪判決は必至と判断して、野村大使に政治的解決あっせんを依頼した。
野村大使は、六月十四日、まず国務次官サムナー・ウェルズを訪ね、次に米海軍作戦部長ハロルド・スターク大将を訪ねた。ハル長官は、八日いらい持病の胆石炎に悩み、「ウォードマン・パーク・ホテル」の自室で療養している。
野村大使は、立花中佐事件は司法問題だとは思うが、「日米両国の友好関係の利益のため」に中佐を裁判にかけず、即時国外追放にしてほしい、とウェルズ次官に要請した。
「ご存じとは思うが、日本海軍の士官たちはきわめて親米感情にあふれ、とくに米海軍と米海軍将校にたいしては強い尊敬の念を抱いております」
この事件がきっかけになって、日本側の興奮が高まり、在日米海軍士官に報復措置がとられることにでもなれば、日米間の事情はますます悪化するばかりだ、とも、野村大使は強調した。
ウェルズ次官は、事件については知らないし、管轄外だと思うが、野村大使の友好精神を理解して「速かな検討」を加える、と答えた。
スターク大将には、野村大使は、旧知の間柄でもあるし、ウェルズ次官に対してよりは、はるかに率直かつざっくばらんに頼んだ。
外国に駐在する軍人が情報活動をおこなうのは、国際的に認められた常識である。発覚したのは、技倆未熟だといわれればそれまでだが、相互に自分のほうの利益を考えて目をつぶっている場合も多いはずである。
「とくに日米関係が微妙なときだ。このさいは、なんとか穏便にとりはからってもらえるよう、お力添えをしてもらえぬだろうか」
スターク大将は、うなずきながら野村大使の話を聞いていた。しかし、ひとことも意見は述べなかった。
「大丈夫だとは思うが……」
大使館に帰った野村大使は、心配そうに首尾を訊ねる横山大佐に、ウェルズ次官とスターク大将との会見模様を伝えながら、口ごもった。二人ともに確答は避けているので、反応は不明確であり、野村大使にも判断はでき難いからである。
――すると、六月十八日朝。
国務省のハミルトン極東部長が、日本大使館に電話をかけてきた。
野村大使は、ウォーカー郵政長官との会見に出かけていたので、若杉公使が電話に出ると、急用だがすぐ国務省までお出で願えるか、とハミルトン極東部長はいう。
その前日、米太平洋艦隊司令長官ハズバンド・キンメル大将が、野村大使を訪ねていた。野村大使が赴任の途中でハワイに立ち寄ったときは、前任のリチャードソン大将と交代する直前だった。いらい挨拶の機会がなかったが、要務でワシントンに来たついでに敬意を表しにきた、とのことであった。
歓談ののち、帰りぎわに、キンメル大将は見送りに出た若杉公使にも聞こえる声で、ご心配の件はうまく片づくことと思う、と野村大使に告げた。
「立花のことかもしれない」――と、野村大使も眼を輝かせたものだが、そこで、若杉公使は、ハミルトン極東部長の電話にピンと来るものを感じながら、すぐ伺う、と答えた。
予感どおりに、ハミルトン極東部長は、若杉公使を迎えると、ハル長官は野村大使の日米友好関係維持にかんする熱意にかんがみ、立花中佐事件を特例として考慮した、と述べた。
「国務省は、司法省にたいして立花中佐の訴追を中止し、中佐が直ちに米国を退去して二度と訪米しないことを条件に、本件を解決することにしました」
ハミルトン極東部長は、この処理はあくまで特別扱いであり、前例とはならない、といい、また、日本側の米国人スパイ容疑者にたいする扱いの不当を指摘して配慮を求める発言をしたが、若杉公使は、心からの感謝を述べてうなずきつづけた。
横山大佐をはじめ海軍武官室も、若杉公使の連絡をうけて歓呼の声をあげ、野村大使も喜んで翌日、六月十九日、ウェルズ次官とスターク大将を訪ねて感謝した。
野村大使としては、キンメル大将の示唆と思いあわせ、とくに同じ海軍軍人としてのスターク大将の口添えが事件解決に役立ったものと信じ、スターク大将に会ったときは、相手の右手を両手でにぎりしめて頭をたれた。
――だが、立花中佐の釈放は、「日米交渉の終幕を急ぐ理由がなければ、日本海軍を刺戟することは避けたい」というスターク大将の勧告が作用したことはたしかであったが、それだけで実現されたのでもなかった。
最重要な理由は、独ソ戦の開幕が確認されたことである。
野村大使が、立花中佐事件でウェルズ国務次官を訪ねた六月十四日、チャーチル英首相はルーズベルト米大統領に手紙を送り、「ソ連にたいするドイツの大規模攻勢は、目前にせまっていると思う」と伝えた。
つづいて、同日、ロンドンの米国大使館は、ソ連軍が独ソ国境の内陸沿いに展開している旨を、報告した。
そして、六月十七日“マジック”暗号解読は、ベルリンの大島大使から東京にあてて、リッベントロップ外相が「日本側ニ於テ準備セラルル必要アラバ、二週間以内ニ準備セラレ度シ」と述べたことを報告する電報を、キャッチした。さらにストックホルムとスイスから相次いで、独ソ開戦日が「六月二十二日」にまちがいないとみられる、という情報がとどいた。ハル長官とホーンベック顧問は、独ソ戦の開幕が「六月二十二日」であることを確信し、立花中佐事件をひきのばす必要がないと判断した。
前述の如く、立花中佐事件は日米交渉に多少の関係はあるというのが、ホーンベック顧問の判断である。が、日米交渉そのものが独ソ戦によって変質が期待される以上、独ソ戦の開幕が“確認”できたとなれば、立花中佐事件の外交的、または取引き的価値は失われるからである。ホーンベック顧問は、むしろ、独ソ戦の開幕の前に米国側の日米交渉にたいする公式姿勢を明らかにしておくことに、関心を集中した。
「なぜなら、独ソ戦という新事態に直面してから態度を表明すると、新事態で変化したと解釈され、また別の新事態が起れば変るものとみられます。そこで、独ソ戦後の事態にも即応できる方針を明示しておけばよいと思います」
ハル長官は同意したが、では独ソ戦は「六月二十二日」の何時に発生するのか。
そこまでは、米英の情報機関も探知していなかったが、ホーンベック顧問は、ドイツ軍はベルリン時間で攻撃を開始するはずだ、と考えた。
「ベルリンとワシントンの時差は、六時間です。ベルリン時間六月二十二日午前零時以降に攻撃がはじまるでしょうから、われわれは六月二十一日午後六時前に、日本側に通告してはどうでしょうか」
「グッド」(よろしい)
このホーンベック顧問とハル長官との打ち合せは、六月十七日午後七時すぎにおこなわれ、その結果のひとつが立花中佐釈放になってあらわれたのだが、ハル長官から野村大使にたいする米国案の提示は、六月二十一日午後零時半におこなわれた。
野村大使が、「ウォードマン・パーク・ホテル」のハル長官の居室を訪ねると、ハル長官はベッドに横になったままで、大使を手招きした。
土曜日の昼である。ホテルに近い路上では、子供たちが群がり遊び、散策を楽しむ市民が多かったが、その人声は部屋の中までは届かない。ハル長官は、このままで失礼すると野村大使に詫び、病床についたので回答が遅れて申し訳なかったと再度の詫びを述べたあと、米国案と付属する「オーラル・ステートメント」(口上書)を野村大使に手渡した。
いや、あとでゆっくり御検討を願う、と文書を開けかかる野村大使をおさえ、ヒトラーはまことに危険だ、とそれまでの主張をくり返しながら、いった。
「彼はヨーロッパの十五カ国を征服したが、それに満足せず、さらに他の国を征服しようとしている。恰も猛虎の如し。これに対して抵抗するのは、自衛上当然である」
ハル長官は唇をひきしめ、眼を細めて野村大使を注視した。
あるいは、日本側は独ソ戦を正確に察知しているのではないか。もし、そうであれば、「他の国」(アナザー・カントリー)という単語に反応が示されるのではないか――と、ハル長官は思ったのだが、野村大使の表情は動かなかった。
ハル長官は、そこで話題を変え、どうも日本政府内に日米交渉を好まぬ意見の持ち主がいるようだ、と暗に松岡外相にたいする批判を述べ、野村大使の反駁を聞いて、別れを告げた。
ハル長官は、野村大使が退出すると、しばらくは閉ざされたドアを凝視しつづけた。時刻は午後一時半に近い。ベルリン時間は六月二十一日午後七時半ごろである。あと約四時間半で、ベルリンは六月二十二日、日曜日となる。
その日曜日の何時かに、歴史を変える独ソ戦争が開始される。ハル長官はふと、野村大使が閉じたドアが、その歴史的事件を知らせる使者の手で開かれるような気がしたのだが、やがて疲れたように頭をふると、眼を閉じた。
バルト海から黒海まで約千六百キロにおよぶ独ソ国境に、リッター・フォン・レープ元帥指揮の「北方軍集団」、フォン・ボック元帥指揮の「中央軍集団」、フォン・ルントシュテット元帥指揮の「南方軍集団」、計三百万人、戦車三千五百八十台、砲七千百八十門のドイツ軍が展開を終え、各兵士に戦闘用のタバコ三十本、チョコレートの配給も終ったころである……。
18
ドイツ軍のソ連攻撃は、昭和十六年六月二十二日、日曜日、午前三時十五分に開始された。
ドイツ軍の展開は巧妙をきわめ、攻撃は奇襲の形をとった。
もっとも、独ソ開戦の情報は、すでに述べた如く、米英両国、一部のヨーロッパ諸国、日本など地球上をかけめぐっていた。ハル国務長官も、ドイツ軍の攻撃開始時刻であるワシントン時間六月二十一日午後九時十五分には、すでに早目に睡眠薬を飲んで就寝していたが、眼がさめれば独ソ戦ニュースが告げられるものと期待して、眠りこんでいた。
ソ連軍も、事前に知っていた。レニングラードから黒海沿岸に至る第一線には、百三十九個師団、二十九個旅団、計四百七十万人、戦車千五百台が展開し、開戦数時間前にはキエフ軍管区の前線に一人のドイツ軍曹長が投降してきて、ドイツ軍の攻撃を通報した。
チモシェンコ国防人民委員とジューコフ参謀総長の連名の警報が発せられ、六月二十二日午前零時三十分には、ソ連軍全線に通報されていた。
だが、実際には、集結したソ連第一線は国境から約三、四十キロは内奥にはいっており、国境沿線の兵力配備は手うすだった。また、ジューコフ参謀総長の警報も、ドイツ軍の攻撃は「六月二十二日〜二十三日」に予期される、というものであり、結局は、ドイツ軍の攻撃は、すでに多くの情報と徴候が察知されていたにも拘らず、十分な奇襲効果をあげて開始されたのである。
とくに空襲の効果はめざましかった。ドイツ機はあらかじめ無人の沼沢、森林地帯上空を高々度でソ連領内に侵入し、攻撃開始時刻を目標に急降下したので、白ロシア、キエフ、バルト海沿岸のソ連軍飛行基地は、いずれも滑走路に配置した飛行機を分散する余裕もなく、ほぼ全滅させられた。
独ソ戦の開幕が全世界に伝えられたのは、攻撃開始約二時間後の二十二日午前五時三十分、ベルリン放送局の電波にのるゲッベルス・ドイツ宣伝相の対ソ宣戦演説によってであった。
米国では、NBC放送がまっさきにその放送をキャッチした。
ニューヨーク時間は二十一日午後十一時三十分になる。ニューヨークは数日来むし暑く、この夜もニューヨーク郊外・ロングアイランドに近いNBC短波受信所では、夜勤通信員ジュール・ファン・アイテンが顔中に流れる汗をぬぐい、ついでにレシーバーの汗もふこうとした瞬間、強力な通信波のざわめきとともに、ベルリンからゲッベルス宣伝相の放送が伝わってきたのである。
NBC放送が、深夜の特別ニュースを流すと、つづいてCBS放送、さらにロンドンのBBC放送もベルリン放送を中継し、また各通信社、新聞社もいっせいに至急報が舞いこみ、世界各地にテレタイプで打電された。
六月二十二日は、東京もむし暑い日曜日であった。
ベルリン時間の午前三時十五分は、東京時間では午前十一時十五分であり、ゲッベルス放送時間は午後零時三十分にあたる。
ニュースは、当然ながら通信社、新聞社がいち早くキャッチし、東京・数寄屋橋畔の『東京朝日新聞』が電光ニュースで報道すれば、やがて午後の街頭を号外の鈴音と叫声が走りまわった。
内大臣木戸幸一侯爵が独ソ開戦を知ったのは、午後二時ごろ、ちょうど洋服屋に新調する国民服の仮縫いをさせているときであった。企画院総裁鈴木貞一が電話で知らせてきた。
木戸内大臣は、やはり、という想いをこめて驚いた。
その前日、二十一日午後六時半から目白の近衛首相別邸で、首相と内相平沼騏一郎と独ソ戦について、話しあったばかりであったからである。
そのとき、平沼内相は、かつて平沼内閣当時、ドイツが日独防共協定を結びながら独ソ不可侵条約を締結したため、総辞職した事情を指摘しながらも、もし独ソ戦が勃発したら、と憮然とした表情を示した。
「またドイツが独ソ戦をやって裏切るのなら、日独間の同盟にも重大な支障を来たすのだから、内閣は責任をとるべきだろうね」
近衛首相も、そういって不快な様子であったが、木戸内大臣は、「他国の行動のあおりを食って日本の内閣が倒るるが如きは、感心したことにあらず」と反対し、次の三つの場合にそなえて、近衛首相の「指導的力の発揮」がとくに必要だ、と強調した。
「一、独ソ開戦の場合。二、米国参戦の場合。三、米国より回答のありたる場合」
早くも、その第一項が実現したのである。木戸内大臣は、午後四時すぎ、松岡外相が参内して天皇に上奏するとの連絡をうけると、侍従に電話して自身も宮中にむかった。
松岡外相は、この日は来日中の支那南京政府主席汪兆銘を招待して、昼すぎから歌舞伎座で観劇していた。
尾上菊五郎、松本幸四郎、中村吉右衛門らの「与話情浮名横櫛」「修禅寺物語」であり、当日は、汪兆銘一行のために一般開演を午後五時にのばして特別公演した。
独ソ開戦のニュースは、観劇中に松岡外相に伝えられたが、外相は「修禅寺物語」の終演まで待ち、さらに伝達された駐独大使大島浩からの独ソ開戦公電をみたのちに、汪主席を送り出してから、私邸でモーニングに着がえて参内した。
参謀本部も、独ソ戦の知らせに驚いた。
ドイツ軍が独ソ国境に展開していることは、とくに駐独武官坂西一良中将の報告で承知していた。
しかし、ドイツ側の兵力集中はソ連にたいする威圧だとみなす観測が有力で、参謀本部情報担当の第二部長岡本清福少将は、開戦率四十パーセントと判定した。
そして、しきりにドイツ軍の攻撃切迫を打電する坂西中将にたいしては、駐ソ武官山岡道武大佐から開戦否定が伝えられたこともあって、六月二十一日、東京から注意電が発せられていた。
その矢先の独ソ開戦である。陸軍部内は、愕然かつ騒然とした。
当然に論議されるのは、独ソ戦にともなう世界情勢の変化と、それに応じる対策であるが、その当時、ほぼ国際的に一致していた観測は、ドイツ圧勝論であり、独ソ戦短期終結論である。
リッベントロップ・ドイツ外相は、チアノ・イタリア外相に独ソ開戦を通告しながら、
「スターリンのロシアは八週間以内に地図から抹殺されるだろう」と述べたが、この予想は世界各国に多くの共鳴者を発見していた。
ハル長官は、六月二十二日朝、独ソ戦の通報をうけると、直ちにルーズベルト大統領とウェルズ国務次官に電話をかけ、日本にはすでに手をうってある、全力をあげてソ連を援助すべきだと、主張した。
「私は、軍事専門家の中には、ヒトラーは二、三週間でソ連を片づけると予言している者があることを、知っていた。だが、私は、フランスが崩壊したときに、英国の崩壊が数週間以内の問題だと多くの人々が言ったのを信じなかったように、ソ連がたちまち参るとは信ずることができなかった」
ハル長官は、そう回想録に記述している。が、ではどのくらいソ連が持ちこたえられるかについては、明確な予断を下していない。
陸軍長官ヘンリー・スチムソンは、六月二十三日付のルーズベルト大統領あての書簡で、参謀総長ジョージ・マーシャル大将をはじめ主要幕僚と協議した結果、次の判定を得たと報告した。
「ドイツは最小限一カ月、予想し得る最大限三カ月間は、完全にソ連攻撃に専念するであろう」
英軍幹部の判断は、ドイツ軍による「ウクライナおよびモスクワの占領をふくめて第一段階は三週間、または六週間、あるいはそれ以上」という、やや不明確なものであったが、それでも月単位の長期戦は予測していなかった。
スチムソン陸軍長官は、その予想する“最大限三カ月間”の独ソ戦は、まさに「神の摂理」だ、とルーズベルト大統領に指摘した。
米陸軍当局は、ドイツ軍があるいは英本土攻撃、あるいはアイスランド、アフリカ、南米、中近東、地中海に進出して、その結果は米国側が十分な準備のないままにヨーロッパ戦争にひきずりこまれる危険をおそれていたが、いまや“三カ月間”はこの心配から解放されると見込まれるからである。
「ナチスがついにここまで野心と背信をひれきしたがために、大統領が北大西洋戦の勝利とわが半球の保護とにむかって、まっすぐ国民を指導していかれるべく、門戸は大きく開放されたのであります」
つまり、ドイツがソ連攻撃を終らない間に、米国は参戦準備をととのえ、大西洋の制海権も確保すべきだ、という意見である。
日本側でも、独ソ戦はドイツの勝利で短期に終るとみられた。
六月二十三日、参謀本部第二部長岡本少将は、陸軍省、参謀本部部局長会議で、「ソ連は虚をつかれ、数カ月で戦争終末となる公算」が大きい、との判断を述べた。具体的には、「二、三カ月」でレニングラード、モスクワ、ハリコフ、ドンバス、バクーなどの戦略拠点が占領され、ソ連は「電力五分の三、鉄鋼二分の一、石炭五分の三、石油四分の三、穀物七分の三、人口四分の三」を失うことも予想される、と岡本少将は、推定した。
ほぼ、スチムソン陸軍長官および米参謀本部の観測に一致するが、そこで、問題はそのような情勢判断にもとづく日本の国策をどうするか、である。
陸海軍は、すでに六月六日に大島駐独大使から独ソ戦切迫の通電をうけていらい、その場合の施策を検討していて、南部仏印(南部フランス領インドシナ)に進駐する「南方施策促進ニ関スル件」をきめていたが、六月二十四日、陸海軍部局長会議で「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」案を決定した。
この「要綱」案は、独ソ戦を利用する南進論と北進論、つまりドイツの勝利に乗じて南方に武力進出せよという海軍側の主張と、むしろソ連を攻撃して北方の安全を確保せよという陸軍部内の一部の主張とを、妥協させたものである。
「――情勢ノ推移ニ応ジ北方問題ヲ解決ス」
「――帝国ハ南方進出ノ態勢ヲ強化ス。帝国ハ本号目的達成ノ為、対英米戦ヲ辞セズ」
「独ソ戦争ノ推移帝国ノ為極メテ有利ニ進展セバ、武力ヲ行使シテ北方問題ヲ解決シ――」
などと併記されている文言は、南進も北進もともにめざしているようでもあるが、またそのいずれにも明確な決意の表明はうかがえず、いかにも即席の作文の印象をまぬかれない。
陸海軍ともに一応の主張はあるのだが、十分な情勢判断がつかないために態度は不明確にならざるを得ないのである。
だが、松岡外相だけは、ひどく明確な態度を維持した。
松岡外相は、すでにシンガポール攻略など南方武力進出を主張していたが、独ソ戦の気配が濃くなるにつれて考えを変え、南部仏印進駐にも反対の意向を表明していた。
独ソ戦開幕のニュースを聞いて参内したときも、松岡外相は対ソ攻撃説を天皇に上奏したが、六月二十五日の連絡懇談会でも、北進論を強調した。
この日の会議では、南部仏印進駐にかんする「南方施策促進ニ関スル件」と「情勢ノ推移ニ伴フ国策要綱」案が討議され、「南方施策……」のほうは松岡外相も承知したが、「要綱」については強く反対して、対ソ攻撃を主張した。
もっとも、松岡外相のソ連攻撃論は、必ずしもドイツの戦勢に応じて利益を得ようという発想だけではなかった。
「もし、独ソが戦うようなことになったらソ連はひとたまりもなく敗れるだろう。そうして、もしハーケンクロイツ(註、ナチス党章・カギ十字)がウラジオストックにひるがえることになったら、ウラジオがソ連領であるよりもわが国に危険である」
だから、独ソ戦になったら直ちに「少なくともイルクーツク以東を占領すべきだ」と、松岡外相は、日ソ中立条約を結んで帰国した四月下旬、木戸内大臣に語っていたのである。
だが、六月二十五日の会議では、松岡外相はそのような意見は述べずに、
「独ガ勝チ、『ソ』ヲ処分スルトキ、何モセズニ取ルト云フ事ハ不可。血ヲ流スカ、外交ヲヤラネバナラヌ。而シテ、血ヲ流スノガ一番宜シイ……牽制位ヤラネバナラヌデハナイカ」
海相及川古志郎大将が、海軍は対英米戦には自信があるが、「対英米ソ戦」には自信がない、ソ連を刺戟するのは不得策だというと、松岡外相は「要綱」の規定と矛盾するではないか、と反駁し、海相との間に次のような問答をかわした。
外相 英米トヤルノハ辞セズト云フノニ、『ソ』ガ入ツタトテ、ドウシテ困ルノカ。
海相 『ソ』ガ入レバ一国増エルデハナイカ。何レニシテモ、アマリ先走ツタ事ヲ云フナ。
外相 今迄俺ガソンナ事ヲ云フタ事ガアルカ。
連絡懇談会は、そのご六月二十八日まで連日ひらかれたが、松岡外相はくり返し、ソ連攻撃論を主張しつづけた。
たとえば、六月二十七日の会議では――「独『ソ』戦ガ短期ニ終ルモノト判断スルナラバ、北ヲ先キニヤルベシ。『ソ』ヲ迅速ニヤレバ、米ハ参加セザルベシ。南ニ出ルト英米ト戦フ。『ソ』ト戦フ場合、三、四ケ月位ナラ米ヲ外交的ニオサヘル自信ヲ持ツテ居ル」
松岡外相は、「虎穴ニ入ラズンバ虎子ヲ得ズ。宜シク断行スベシ」といい、また「要綱」に書かれている「独ソ戦ノ推移帝国ニ極メテ有利ニ……」の“極メテ”を削除することを提案した。
「極メテ有利ノ『極メテ』ハ嫌ダ。『ソ』ヲ打ツト定メラレ度」
「イカン」――と叱咤《しつた》したのは、参謀総長杉山元大将であったが、その翌日、六月二十八日の会議では、松岡外相のいうとおりに「極メテ」は削除された。ドイツ軍は、快進撃をつづけてソ進軍を圧迫し、かつて西ヨーロッパを制覇した電撃戦が対ソ戦でも実現される気配をうかがわせていた。
攻撃開始五日目の六月二十七日には、ドイツ軍は全線にわたって二百〜三百キロもソ連領内に進出し、中央部ではミンスク、南部ではオデッサに迫り、北部のレニングラードも連日、猛爆をうける状況であった。
参謀本部は、そのドイツ軍の歩度にせきたてられる想いで速かな国策決定を望み、ドイツも大島駐独大使を通じて日本の対ソ参戦をさそってきた。そして、六月三十日午前には、オット駐日ドイツ大使は、リッベントロップ外相の次のような申し入れを松岡外相に伝達した。
「蘇聯(ソ連)ガ既ニ一敗地ニ塗レタル後日本ガ行動ヲ起スコトハ、日本ノ道義的並ニ政治的地位ヲ著シク害スベシ」
松岡外相は、その日の連絡懇談会で、ドイツ側の提案をひろうして、このさいソ連攻撃を決意し、南部仏印進駐も「約六カ月」延期してはどうか、と述べた。
松岡外相の提言にたいして、及川海相は杉山参謀総長に、また海軍軍令部次長近藤信竹中将は参謀次長塚田攻中将に、それぞれ延期してはどうか、と相談した。
この辺の消息にも「要綱」の不鮮明な性格がうかがえるが、塚田中将は杉山参謀総長に断乎進駐すべき旨を具申し、杉山参謀総長は永野軍令部総長と協議して、所定方針どおりに南部仏印に進駐する、と答えた。近衛首相も、「統帥部がやるならやる」と述べ、松岡外相も、その件はすでに賛成したのだから同意する、といったが、威儀を正して言明した。
「我輩ハ数年先ノ予言ヲシテ適中セヌコトハナイ。南ニ手ヲツケレバ大事ニナルト、我輩ハ予言スル……南仏印ニ進駐セバ、石油、『ゴム』、錫、米等皆入手困難トナル。英雄ハ頭ヲ転向スル。我輩ハ先般南進論ヲ述ベタルモ、今度ハ北方ニ転向スル次第ナリ」
陸軍省軍務局長武藤章少将が、南部仏印に進駐してこそ、ゴムも錫も取れるのではないか、と反論したが、松岡外相は、いやいや、という形に頭をふった。
「情勢ノ推移ニ伴フ国策要綱」は、そのあと軍事参議官会議、さらに七月一日の連絡懇談会を経て、七月二日、御前会議で決定された。
「英雄」を自称する松岡外相の“予言”は、やがて太平洋戦争となって現実化する。
その意味では、松岡外相の当時の見識は評価されるべきであろうが、外相が主張した対ソ攻撃論も必ずしも有効ではなかったはずである。
すでに述べた如く、米国は独ソ戦勃発と同時にソ連援助を計画しはじめていた。もし日本がソ連を攻撃すれば、即座に日米戦争に発展しなくても、米国のソ連援助は促進され、また米国の対日経済圧迫も強化されることは明らかであり、結局は日米両国は開戦への途を歩むことになると、みられるからである。
野村大使は、ワシントンで憂慮と焦慮に身をひたしていた。
独ソ戦は、世界を完全に二つに割ったと、野村大使は判定する。それまでは、米国内でも共産主義者グループによる反政府デモがおこなわれていたが、独ソ戦とともにその種のデモは姿を消し、赤い『デイリー・ワーカー』紙も、とたんにそれまで主張していた反英、反武器貸与、反ルーズベルトの論調を、親英、親武器貸与、親ルーズベルトに一転させた。
「支那事変はますます解決が困難になるだろうなァ」
野村大使は、おそらく中国共産党も介石政権と握手するにちがいない、との予想を秘書煙石学に述べながら、嘆息した。
この観測は、すでに汪兆銘も六月三十日、支那派遣軍総司令官畑俊六大将にもらしていたが、要するに、独ソ戦によって、これまで世界に存在していた三大陣営、「民主主義陣営」「共産主義陣営」「枢軸陣営」は、「民主・共産主義陣営」と「枢軸陣営」の二つに改変されたといえる。
「日本は下手に動けば、大変なことになる。いや、どんな動きにせよ、動けば破滅を招きかねないなァ。助かる道はただひとつ、一刻も早く米国と手を結ぶことなんだが……」
野村大使は、六月二十三日、その二日前にハル国務長官から手交された米国側対策と長官の「オーラル・ステートメント」を東京に打電していた。
東京からの返事は、まだ来ない。独ソ戦によって世界情勢が急転し、さらに情勢の推移が急速化することを思えば、日米国交の調整は文字どおりに急務である。
野村大使は米国案にそえて回答を急ぐように具申し、六月二十九日にも催促の電報をうった。秘書煙石学は、野村大使の言葉がとぎれると、汗かきの野村大使におしぼりをすすめながら、東京は何をしているのでしょうか、と大使の焦慮にあいづちをうった。
だが、野村大使が発言を中断したのは、便りを待ちわびる憂さのためばかりではなかった。
じつは、野村大使は、おそらく日米交渉はもはや成就は不可能との見込みを強めていた。
ハル長官の対案と「オーラル・ステートメント」の内容が、あまりに予想外であり、独ソ戦という事態にそうぐうしてみると、ますます日本側には受け入れ難くなるとしか、思えなかったからである。
岩畔大佐も、帰国準備をはじめている。
19
外務省が、野村大使から米国側対案とハル国務長官の「オーラル・ステートメント」を受電したのは、独ソ開戦の二日後、六月二十四日であった。
いらい、東京は、ぴたりと沈黙をつづけた。
独ソ戦に応ずる「情勢推移ニ伴フ国策要綱」策定を急いだためでもあるが、同時に米国案に極度の失望を感じたからでもあった。
米国案は、それまでの「日米諒解案」、松岡外相の修正案のいずれとも、まっ向から対立していた。
米国の参戦および日独伊三国同盟については、米国の参戦は自衛権の行使として認めるが、三国同盟による日本の参戦義務発動は認めない合意の規定となり、日本側が提案した対米移民問題は、削除されている。
太平洋地域の日米両国の経済活動は、たんに必要資源の「商業的供給」関係に限定され、明らかに日本の「大東亜共栄圏」構想を否認していた。
また、日米通商関係の復活についても、一応は好意的な表現は使用しているが、通商額を日支事変前の状態に釘づけする条件をつけている。
とくに厳格な態度を明示しているのは、支那問題についてである。
米国案は、日本と「支那政府」(ザ・チャイニーズ・ガバメント、またはザ・ガバメント・オブ・チャイナ)との和平交渉の仲介をする、という。
この「支那政府」という表現は、これまでの米国の外交関係からみて介石政府を指している。ということは、日本が承認する汪兆銘南京政府の否定を要求しているにひとしい。
そうなれば、汪兆銘政府との間の「日満支共同宣言」「日華基本条約」も否認されるし、満州国も否定される。
日本側が主張する対支治安駐兵も否決され、日本は支那から無条件撤兵せねばならない。
「我国ガ日支事変ノ処理ト大東亜新秩序トヲ断念シ、且ツ日独伊三国同盟ノ誼《ヨシミ》ヲ弊履ノ如ク棄テザル限リ、到底受諾シ難キモノナリ」
とは、米国案の検討を命じられた外務省顧問斎藤良衛の結論だが、さらにいえば、米国案は日本が「満州事変以前」にもどることを求め、それ以外には最小限の日米友好関係も不可能だ、と明言しているのである。
なぜ、このような苛酷な要求をしてくるのか――?
野村大使は、米国案を通読したとき、「日米諒解案」から感得した“和解ムード”が、かすかな痕跡もないほどに消滅しているのに驚嘆した。
しかし、対米戦回避を使命と覚悟し、またいぜんとして「日米諒解案」をめぐる神父たちの“善意”を信ずる野村大使は、相手の強腰には交渉技術の意味もふくまれていると解釈して、東京に交渉促進のための訓令を求めつづけた。
現実問題として米国が参戦にふみきるまでには、なお時間があるはずであり、その間に日米諒解が成立する可能性は、まだ残されているであろう。だが、日本側も強硬姿勢を示せば、米国側につけこまれて、事態は急速に悪化するにちがいない。
「其ノ辿ル道ハ、自然ニ経済断交次イデ我南方進出トナリ、遂ニハ英米トノ衝突トナル惧《オソレ》多分ニ有之《コレアル》ベシ」
野村大使は、六月二十九日の意見具申電でそう述べ、「至急何トカ御工夫ノ程願ヒ度ク」と請願したが、東京から来たのは、南部仏印進駐をきめた「情勢ノ推移ニ伴フ国策要綱」の概要電であった。
野村大使は、もし南方武力行使をすれば「日米関係ノ調節ノ余地ハ全然無キモノ」と覚悟せねばならぬ、と七月三日付で打電し、さらに七月八日にも回答の遅延は「先方ノ疑惑」を増すばかりだ、と発信した。
そして、七月十日、東京が若杉要公使に報告のために帰朝を命じて来ると、野村大使自身にも帰朝命令をだしてくれ、と請訓した。
一刻も早く話し合いをまとめる必要があるのに、公使を呼んで事情を聞くというのは、公使が帰朝するだけで三週間もかかる以上、間にあわなくなるだろう。
「諒解成立ノ見込無之、日米国交ハ断絶ニ近キ状態トナルベシ、随《シタガツ》テ本使ノ当地ニ滞在スルコトモ無意義トナル」と、野村大使は嘆いた。
このころ、野村大使は、あるいは午後のひととき、あるいは夕食ごろに、ふらりと海軍武官府を訪ね、ため息をついて思案することがしばしばであった。
「辞めたくなったよ」と、頭をたれる風情を示すこともあり、海軍武官横山一郎大佐や補佐官たちが、わざと話題をそらして米海軍情報などを告げると、
「やっぱり海軍はいいなァ」
そういって、じわりと隻眼をうるませて、武官たちを愁然とさせる夜も、あった。
――だが、
こういう野村大使の苦慮とは逆に、松岡外相の姿勢は米国側に劣らず強硬であった。
松岡外相が米国案にかんする見解をひろうしたのは、七月十日の大本営政府連絡懇談会であったが、外相は、外務省顧問斎藤良衛に検討の結果を報告させたあと、きっぱりと明言した。
「要スルニ、『アメリカ』ハ日本ノ東亜ノ指導権ヲ抹殺シヤウト考ヘテヰル……自分ハ、『ハル』案ヲ受ケ入レルコトハ出来ナイ。何トカシテ話合ヲツケタイト思フガ、到底成功ノ見込ナシ」
とくに、松岡外相が重視したのは、米国案に付属していたハル国務長官の「オーラル・ステートメント」であった。
「オーラル・ステートメント」は、日米国交の調整に努力する野村大使およびその「同僚」(アソシエイト)たちの熱意を評価していたが、次のような章句がふくまれていた。
「不幸ニシテ政府ノ有力ナル地位ニ在ル日本ノ指導者中ニハ、国家社会主義ノ独逸及其ノ征服政策ノ支持ヲ要望スル進路ニ対シ抜キ差シナラザル誓約ヲ与へ居ルモノアルコト……之等ノ人ガ是認スベキ合衆国トノ了解ノ唯一ノ種類ハ、合衆国ガ……欧州ノ戦闘行為ニ捲キ込マルルガ如キ場合ニハ、日本ガ『ヒトラー』ノ側ニ於テ戦フコトヲ予見スルガ如キモノナルベシ……
斯《カカル》指導者達ガ公ノ地位ニ於テ斯ル態度ヲ維持シ、且公然ト日本ノ輿論《ヨロン》ヲ上述ノ方向ニ動カサント努ムル限リ、現在考究中ノ如キ提案ノ採択(ヲ)……期待スルハ、幻滅ヲ感ゼシムルコトトナルニ非ズヤ」
この文中に指摘されている日本政府の「指導者」が、松岡外相を指していることは、明らかである。
松岡外相は、激怒した。
まっさきに、神経を刺戟されたのは、「オーラル・ステートメント」が野村大使とその「同僚」の努力を評価している点である。
「同僚」(アソシエイト)とは、誰のことか――?
大使の「同僚」というからには、大使館員ではない。たぶん、岩畔豪雄大佐と井川忠雄理事のことだろうが、二人とも、外相から大使の「同僚」となるよう依嘱した事実は、ない。
松岡外相は、七月十一日付で野村大使に打電した。
「……岩畔大佐ハ、特ニ本大臣ヨリ任命セラレザル以上ハ、斯ル重大事件ニ関シ『アソシエイト』トシテ何等容喙《ヨウカイ》スベキ筋合ノモノニアラズ」
さすがに陸軍部内の有力者とみられる岩畔大佐については、それ以上の苦情は述べられなかったが、それだけに松岡外相の不快感は井川理事に集中したらしい。
「井川ニ付テハ、本大臣渡欧前オ問合ニ対シ……斯ルモノ近ヅケザル様ニトノ意味合ヲ回電セルコトハ、御記憶ノコトト存ズ。同人ハ……平常其ノ人トナリニ就テハ定評アル程ノ如何ハシキ人物ナリ。同人ノ如キハ、愈々以テ斯ル重大案件ニ直接ニモ間接ニモ関係セシムベカラザルハ、疾《ト》ク御承知ノ儀ト存ズ、然ルニ……」
そのような井川理事を大使の「同僚」であるかの如く相手に印象づけているのは、「頗《スコブ》ル遺憾」だ、と松岡外相は強調したが、とりわけて松岡外相の血圧を上昇させたのは、外相自身にたいする批判である。
「オーラル・ステートメント」は、きわめて理解し易い言葉遣いで、日本政府に松岡外相がいる限りは日米諒解は期待できない、と述べている。
「自分も長い間外交官生活をしたが、これほど奇怪な文書は見たことがない。外相の退陣、いいかえれば内閣改造を要求しているわけで、外交交渉で内政干渉をするなどは重大侮辱である」
と、外務省顧問斎藤良衛は連絡懇談会で指摘したが、松岡外相も、このような非礼な国際的事例は歴史上にも珍しいことだ、と憤激した。
松岡外相によれば、わずかに一九〇五年夏、ドイツ皇帝カイゼルがフランス政府にたいしてデルカッセ外相の追放を要求した一例が思い浮かぶだけだ、という。
いずれにせよ、この種の恫喝《どうかつ》に似た申し入れは、対等の独立国の間でおこなわれるものではなく、保護国または属国にたいする態度である。
「斯ル『ステートメント』ハ、帝国政府ハ固《モト》ヨリ之ヲ代表スル帝国使臣ガ受理スベキモノニアラズ」
松岡外相は、野村大使宛電報でもそう述べているが、外相にしてみれば、このような明白な非礼文書を「おめおめと受理」した野村大使に、少なからぬ不満が感じられる。
野村大使からは、しきりに交渉促進を具申する意見書がおくられて来るが、この「オーラル・ステートメント」の言辞にかんする痛憤の情のひれきもなければ、断乎として撤回を要求したとの報告も、ない。
かねて野村大使の姿勢を“軟弱”だとみなしてきただけに、松岡外相の野村大使にたいする嫌悪感は頂点に達したが、それにしても、「オーラル・ステートメント」の非礼と米国案の苛酷さとを組みあわせれば、結論は明白だ、と松岡外相は判定した。
米国側には日米交渉の意思はなく、「オーラル・ステートメント」は交渉にたいする「絶縁状」とみなすべきであろう。
「米人ハ、弱者ニハ横暴ノ性質アリ、此ノ『ステートメント』ハ、帝国ヲ弱国、属国扱ヒシテ居ル。我輩ハ、『ステートメント』ヲ拒否スルコトト、対米交渉ハ之レ以上継続出来ヌコトヲ茲《ココ》ニ提議スル」
松岡外相は、七月十二日の連絡懇談会で主張した。
しかし、海軍は「帝国ノ取ルベキ態度」として、なお交渉継続を要望した。すでに南部仏印進駐の準備が開始されている以上、「少ナクモ仏印進駐終了迄」は交渉をつづけてほしいことと、こんごの交渉においても、次の三点だけは日本側の主張を堅持してもらいたい、という。
欧州参戦にかんしては日本は独自の立場をとる。
日支和平については、米国は和平交渉の勧告だけをおこない、条件については干渉させない。
太平洋地域における政治的安定にかんして、日本の南方武力進出が掣肘《せいちゆう》されないようにする。
この海軍要望は、かつて松岡外相が「日米諒解案」の修正として強調しながら、米国案が否決した要点を復活しようとするものである。松岡外相は首をふった。
松岡外相は、米国側が今回のような態度を示したからには、「日本ガ如何ナル態度ヲ取ツテモ米ノ態度ハ変ラヌト思フ」と述べ、たとえば「南ニ兵力ヲ使用セヌ」というような譲歩でもすればともかく、そうでなければ交渉は困難だ、と指摘した。
「原案ヲ堅持シテ交渉ヲ続ケルナラバ、蹴ツテ蹴ツテ蹴リノメサレテカラ止メル様ニナルダラウ」
松岡外相としては、もはや交渉すること自体が日本にとって危険だとみなしていた。
米国案をみると米国は明確に日本を敵視しており、米国自身は欧州参戦を決意していることがわかる。日本が「日独伊」枢軸から離脱しないこと、ドイツと一緒に対戦する覚悟さえあることを承知しているのがうかがえる。
交渉とは、いわば妥協の別義語だが、相手に妥協の気持ちがない場合は、交渉は戦いの口実と機会を提供する手続きにしか、ならないはずである。
つまり、交渉することが、決裂という結果を招くのだから、危機を回避しようと思うなら、交渉そのものをやめるべきである。
松岡外相が交渉中止を提案した背景には、交渉の特性にたいする考察もふくまれ、また米国の外交政策の原則主義にたいする理解も内蔵されていた。そして、この松岡外相の冷静な判断は、そのごの日米交渉の歩みと照合するとき、的確な洞察として思いあたることになるが、七月十二日の会議では、なおも「既定方針ニ依ル交渉継続」が議決された。
内相平沼騏一郎が、「米人中ニハ戦争反対ノモノ」もいるだろうから交渉は継続してほしい、といい、陸相東条英機中将も「望ガナクテモ最後迄ヤリ度イ」と、いった。
軍令部総長永野修身海軍大将は、日本がなにをいっても駄目なら松岡外相の意見を採用すべきだ、と口走ったが、たちまち軍務局長岡敬純海軍少将に注意された。
「何ボカデモ努力スルト云フナラバ宜シイガ、総長閣下ノ様ニブツツリト止メルト云ハレテハ、下ノ者ハ仕事ヲヤル熱ガナクナルデハアリマセンカ」
「ソレモサウダ」
永野総長は、あっさりと豹変し、松岡外相も「絶望トハ思フガ最後迄努力致シマセウ」と答えた。
――ところが、
松岡外相がいう「最後迄」という時間的期限は、日米交渉よりは外相自身の問題として意外に早く現実化することになった。
松岡外相はまず、会議の二日後、七月十四日午後十一時半、「オーラル・ステートメント」は「皇国ノ威信」を傷つけ、またこんごの交渉にも障害になるから、「遅滞ナク先方ニ御返付相成度シ」という撤回指示を、野村大使に発電した。
じつは、近衛首相、東条陸相、及川海相は、松岡外相がとくに「オーラル・ステートメント」を目の敵にするのは、交渉継続のためにはプラスにならないと判断し、米国案にたいする日本側再修正案と同時に、撤回指示電も発信すべきだと外相に説いていた。
松岡外相の遠慮のない抗議は、必ずや相手の反撥をまねくだろうが、対案と同時であれば、一途に立腹だけしているのではないことも理解されるはずだからである。
だが、松岡外相は、別種の判断を下した。七月十二日の連絡懇談会でも、松岡外相は、実質的には日米交渉は終局したとの判定を述べたが、それだけに、再修正案の提示は、ひたすら「国策上交渉ヲ引延バス」手段だと承知した。
では、「オーラル・ステートメント」の撤回を求めながら、いずれ誠意ある対策を送付する旨を伝え、時間をおいて修正案を届けるのが、より「交渉引延バシ」の趣旨にかなうはずである。
松岡外相は、近衛首相の勧告には従わずに、まず「オーラル・ステートメント」撤回指示を打電したのだが、近衛首相はそれと知って、松岡外相の更迭を決意した。
近衛首相は、それまでにも松岡外相の言動に批判的になっていたが、「オーラル・ステートメント」事件で、決心がきまったらしい。
ワシントンには、近衛首相の意向にそって、七月十五日朝、外務省亜米利加局長寺崎太郎が再修正案を打電した。
近衛首相は、十五日午後四時二十分、葉山御用邸に避暑中の天皇に拝謁して、松岡外相との意見相違が解消できないので閣内不統一のために総辞職する、と内奏した。
木戸内大臣は、「理由の不明瞭なる政変は絶対に避くることを要する」と近衛首相に忠告して、松岡外相一人の更迭ですますべきだと強調した。
しかし、近衛首相は、第二次近衛内閣組閣のさい、天皇は二度も松岡外相の登場に懸念を表明されたが、あえて押しきった事情があるうえに、松岡外相だけを辞めさせると、「米国の注文にて内閣を改造したりと宣伝」される恐れもあるので、総辞職する以外にない、と答えた。
翌日、七月十六日、近衛首相は松岡外相に辞表の提出を求め、さらに閣僚一同の辞表もまとめて午後九時、葉山御用邸の天皇に奉呈した。
その翌日、宮中に召集された後継首相選考の重臣会議は、「近衛さんでなければ駄目ですよ」という米内光政前首相の発言が代表するように、全員一致で近衛首相の再出馬を推薦した。
大命降下、そして商工相豊田貞次郎を外相に移したほか、内相、厚相を代え、実質的には松岡外相を放出しただけの第三次近衛内閣が成立したのは、七月十八日である。松岡外相は、近衛首相から辞表提出を求められると、即座に承諾したが、七月十七日、日米交渉にかんする意見口述書を近衛首相に届けていた。
口述書は、とくに「オーラル・ステートメント」にたいする松岡外相の見解、日米交渉全般にかんする米国側の態度についての意見、さらに野村大使非難などが詳細に述べられていたが、近衛首相の姿勢についても、鋭く批判していた。
とりわけて、「オーラル・ステートメント」が「国体の尊厳」を汚すものなのに、その拒否通告を対案と同時に提出するのは、国体にたいする認識を低めるものである。それでも、なお相手のご機嫌とりをするのは、国辱をわきまえぬ態度であろう。
「笑ヲ後世ニ残スベシ。後世ノ史家ガ、閣下ヲ長袖者流ナリトシテ筆誅ヲ加フルコト有ラバ、果シテ如何。本大臣ハ到底之ヲ忍ブ能ハザル所ナリ」
松岡外相としては、独立国家の政治責任者として、国家にたいする侮辱に甘んじてまで国際交誼を求める必要はない、という立場を主張する。だから、その立場を保持できないとわかると、さっさと辞表を提出したのだが、それにしても、この段階での日米交渉にたいする松岡外相の判定は、適切であったといえる。
「日米諒解案」が否定され、異質の日本案と米国案とが対峙するだけでは、交渉の接点は発見し難いからである。
そして、もう一人、そのころ京都の河畔を歩く米国人も、まったく同じ感慨にふけりながら、首すじにねばりつく汗をふいていた。再び秘かに来日した日米交渉“工作者”の一人――ウォルシュ司教である。
20
ウォルシュ司教は、独ソ戦が開幕した六月二十二日に京都にあらわれていた。
来日は、日本のメリノール派教会の運営問題の処理を主目的にしていて、また朝鮮、北支などの教会視察も予定されていた。
「とくに問題だったのは、いわば“教会行政”にかんするもので、日本人司教と米国人神父との関係、たとえば教会の運営と資金の責任者は誰かといった問題だった。実際には、日本人司教が温厚で謙譲な人柄にすぎるために発生した問題といえるかもしれず、処理は比較的に容易であった」
ウォルシュ司教はそう記述している。そして、現実の行動としても、司教は一時は朝鮮の平壌を訪ねたが、もっぱら京都に滞在しつづけた。
前年の暮に接触した松岡外相、沢田節蔵、寺崎外務省亜米利加局長その他の人々との連絡はとらず、教会関係者との交際をかさねるだけであった。
もともとウォルシュ司教とドラウト神父の日米交渉“工作”がアジアにおける教会活動の維持を目標のひとつにしていたこと、日米交渉自体が極秘事項であることなどを考えれば、この司教の慎重な姿勢は自然である。
ウォルシュ司教は、日米交渉の経過については、新聞が伝える日米両国政府の態度とドラウト神父からの便りで、その推移の態様に注目していた。
しかし、ことの詳細はわからない。新聞は極秘にされている日米交渉の内容にふれることはなく、ドラウト神父の連絡も注意深くぼかした表現で、しかも簡単に交渉の雰囲気を知らせてくるだけであったからである。
だが、それでも、連日の新聞が伝え、また教会関係の日本人市民が語る世情の緊迫強化ぶりで、交渉が難航していることは容易に推察できた。
たとえば、ウォルシュ司教の耳には、神戸、大連、奉天などで日本軍隊の移動がひんぱんになり、また、どうやら三十歳以上の市民が軍隊に召集されているとの噂が、とどいた。
大阪方面の電鉄会社では一週間のうちに運転手五十人が召集された。一連のスポーツ大会が中止されたが、それも軍隊輸送用の列車確保のための措置だ、という。
ウォルシュ司教には、この噂が、七月十一日に「大陸命第五百六号」で指示されたソ連攻撃を準備する『関特演』(関東軍特別演習)動員を意味しているとは、理解できなかった。
この『関特演』動員は、満州に二十五個師団、約八十五万人と馬二十二万頭を集結して、独ソ戦の推移に応じてソ連攻撃のチャンスをねらおうとするもので、実際には、その好機を発見できぬままに中止になる。
むろん、ウォルシュ司教には、そのような事情も知るすべもなかったが、ただ、軍隊の動員と移動の噂は、第二次近衛内閣が第三次近衛内閣に変身したのちも、おとろえなかった。
「政変が松岡外相を更迭させるためのものであったことは、容易に理解できた。松岡外相が日米交渉の促進にブレーキをかける存在であっただけに、外相の退陣は好ましい徴候だった。ところが、日本軍はなんの影響もうけずに行動をつづける気配を示している……」
ウォルシュ司教は、松岡外相の退陣を近衛首相を中心にする“平和勢力”の勝利だと評価しながらも、やはり、より強力な勢力である軍に勝つまでの成果はあげられなかったものと判断した。
してみれば、当然に日米交渉の前途も暗色にいろどられることになるのではないか。
「マツオカは危険な人物だったが、彼は外交官だった。だが、新外相トヨタは海軍軍人である。一段と危険でないという保障は見出し難い」
ウォルシュ司教は、京都で会った駐日米大使館の参事官ユージン・ドウマンにそう語り、ドウマン参事官から、日本側が日独伊三国同盟と支那駐兵に固執していることを聞くと、つぶやいた。
「平和は忍耐から生まれるものだが、忍耐は生命と同じように無限ではない。とくに政治の忍耐の糸は細くて切れやすいですからな」
ウォルシュ司教は、やがて再び日米交渉の渦中に身をひたすことになるが、そのときは朝鮮、北支にむかう予定もあり、またドウマン参事官も司教の忠告や援助を求めることもなく、ただ互いにむし暑い京都の大気の中に嘆息を吐きだしあって別れた。
暑さのあえぎに嘆息を加えていたのは、野村大使も同様であった。
ワシントンの盛夏もむし暑く、大使館員は例外なく暑さに苦しんだ。クーラーはまだ普及せず、野村大使の寝室に装置してあるだけで、あとの部屋には扇風機が装備してある。しかし、風自体が熱いのだから、風速による気温低下もあまり期待できず、痩身の若杉公使もぐったりする日を送った。
野村大使も、寝室はクーラーで涼気に満たされているとはいえ、つねに寝室にとじこもっているわけにはいかない。
肥体なので人一倍に汗かきである。料理人村井時次郎の妻京子が、せっせと冷やしたおしぼりをはこぶのだが、お代りを持参するたびに、大使はハンカチで汗をふきながら書類を眺め、あるいは若杉公使や井口参事官と話している。おしぼりもあっという間に熱汗でむれてしまうらしい。
「ふとっていらっしゃるのだから無理もありませんが、一番困ったのは、お洋服でしたねェ」
野村大使は、海軍軍人らしく、夏は白麻服を愛用する。地味な性格の書記官松平康東もダンディな奥村勝蔵書記官も、時に応じての服を用意しているが、野村大使は白麻服一点張りである。
相変らず、フンドシをしめてサルマタをはき、アンダーシャツに白ワイシャツ、ネクタイもきちんとしめて服を着る。居間や書斎にいるときは上着をぬぐが、それだけにズボンはすぐシワになる。
バンドとサスペンダーを併用しているのだが、なにぶんにも九十キロをこえる肥満体だから、シワになりやすい麻服はくしゃくしゃになってしまう。
「村井さん、大使館にはアイロンはないのかねェ。あれじゃ大使の服としてはまずいよ」
と、七月早々に皮肉な忠告をこころみたのは岩畔大佐だったが、いらい、村井京子は野村大使が寝室にはいると、必ず居間にすべりこむことにした。
野村大使が寝室で服をぬぐ場合は、まさか寝室内に進入するわけにはいかないので、そのままにしておくが、居間にぬぎすててあれば、夜なべ仕事としてアイロンをかけておく。
ところが、第二次近衛内閣の政変の前ころから、野村大使はほとんど連夜、午前二時、三時まで寝室で作業をしているとみえ、居間をうかがっても服が見当らない。
「なにもそんなに何回も見に行くこたあ無えやな。二階にゃあ、煙石さんや奥村さんも寝てるんだ。まさか、女の夜ばいたあ思われめぇが、うろうろして起しちゃ気の毒だぜ」
「なにをバカバカしいことをいってるのよ」
村井京子は、ときどき夫時次郎の寝ぼけ声の苦情を聞きながらも、大使の麻服のシワが気になってならなかった。
村井時次郎がいうように、大使の寝室がある二階には秘書煙石学、書記官奥村勝蔵も居住している。村井夫妻と書記官松平康東夫妻は、三階に住んでいる。
大使公邸に館員や料理人が住むのは、あまり例がなく、おかげで公邸は「アンバサダー・ホテル」の呼称を得ていたが、たしかに、いくらホテルなみとはいえ、夜中に若い女性が三階から二階に降り、忍び足で大使の居間にすべりこむのは、「まともな格好じゃ無え」印象を与えるであろう。
そこで、村井京子は野村大使に服は居間でぬいでほしい、アイロンをかけておくから、と進言した。
そうか、それはすまないな、と野村大使は古傷がかゆい頭をかきながら、うなずき、夜がふけて居間で麻服にアイロンをかけている村井京子にそうぐうすると、いかにも気の毒そうにねぎらった。
「こんなにおそく、大変だ。適当にして休みなさいよ」
「いえ、大使こそ毎日大変で、お疲れでしょう」
「なあに、これも浮世の義理というものでねェ」
野村大使は、村井京子の挨拶を背にうけながら、書棚から抜きだした本をかかえて寝室にもどっていった。
村井京子の記憶では、この会話をかわしたのは、ちょうど近衛内閣が第三次になった数日後のころだというが、そのころ、野村大使はつくづく日米交渉の前途を悲観していた。
野村大使は、すでに松岡外相あてに辞意を表明し、同外相の慰留をうけて任務遂行の決意を固めてはいたものの、さらに七月十四日にも、次のような電報をおくっていた。
「……何分ニモ従来ハ常ニ訓令ノ下多少自由裁量ヲ許サルル海軍ノ出身ナレバ、ソレガ第二ノ天性ヲナシ居リ、又々御迷惑ヲカケ累ヲ国家ニ及ボスコトナキヲ保セズ。旁々《カタガタ》本使ハ凡ユル角度ヨリ考フルモ、国家ノ為メ成ルベク早ク退任スルノ必要ヲ痛感スル次第ナリ」
松岡外相が明らかに野村大使に不満を感じている気配がうかがえるうえに、その対米外交政策は野村大使が希望かつ期待する路線とは正反対としか思えなかった。
野村大使としては、大使としての任務をはたせないと感じたわけだが、さらにまた、電文中に指摘されている軍人社会と外交官社会との違和感も、野村大使には自分を不適格者とみなす根拠になっていた。
軍人社会は、いわば階級にもとづく身分社会である。下僚は上官の命令に絶対服従を本務とする。また、指揮官と幕僚との関係のように、上司にたいする補佐機関も確立されている。
だが、外交官社会をふくむ一般の官僚機構は、ちがう。官僚機構という点では軍人社会と同じではあっても、外交官吏の場合は、一応は大使、公使、参事官、書記官という身分があっても、むしろ、それぞれが独立の機能をはたす関係にある。
公使以下は大使の幕僚の職務をはたすことはあっても、純粋な幕僚ではないのである。
その意味では、大使の純粋な幕僚は秘書だけということにもなり、軍人社会における指揮官生活に慣れている野村大使には、なにかと意想外の慣例に出くわすことになる。
たとえば、ハル国務長官との会見を終えて帰館した場合でも、海軍の司令長官が中央との協議を終えて帰ってくれば、すかさず参謀長または先任参謀が部屋にかけこんできて、要談の内容の口述を筆記するのが普通だが、大使のさいは、とくに指示しない限りは自分でメモをまとめ、電文も自分で起案するのが普通である。
まして、極秘の日米交渉であるので、野村大使の個人プレイはますます重視される。
むろん、野村大使はつねに若杉公使以下の主要館員と連絡を絶やさず、交渉の内容ももらさずに伝えてはいるが、事務処理の方式という点では充足感に欠けることがある。
海軍の幕僚の場合は、艦隊司令部の幕僚が中央の幕僚に連絡をとって司令長官の意図の実現をはかる例が多い。
現に、海軍武官横山一郎大佐は、野村大使の意向を知ると、しばしば海相及川古志郎大将や軍令部総長永野修身大将に意見具申をおこない側面から大使の希望が成就できるよう工作していた。
外交官社会においても、私信による事情説明や意見具申は盛んであるが、本来が幕僚としての立場とは相違するのだから、その機能もちがってくる。
結局は、大使は大使としての公電と私信で中央との連絡を維持せざるを得ず、そうなると海軍出身の野村大使は、ハンディキャップを感得することになる。
野村大使は外相も経験しているとはいえ、海軍軍人である。大使の職務も臨時のものであり、いわば外交官社会にとって“よそ者”である。現実には、若杉公使以下の館員は誰一人として、野村大使を疎外することはなかったが、外務省内での影響力は不足がちである。
――やはり、海軍は良いなァ。
野村大使が、海軍武官府を訪れてもらす嘆声には、そういう“社会の相違”に由来する悩みもこめられていたはずである。
そのような事情からいえば、新外相に海軍大将豊田貞次郎が就任したことは、野村大使にとっても、心強さを感ずる事態であった。
野村大使は、豊田外相が就任とともに大使の一層の努力を要請する挨拶を送信してくると、さっそく七月十九日に意見を具申した。
独ソ戦は、はじめのころの予想とちがって長期戦となる気配が色濃くなっている。そして、日本は同盟国であるドイツ、イタリアとは遠くはなれていて相互援助は困難であり、しかも、支那とは戦いつづけている。もし、三国同盟にさそわれてソ連を攻撃すれば、米英両国はすでにソ連を援助する方針を明らかにしている以上、日本は米英ソ連とも敵対関係になる恐れがある。
そうなれば、「我ガ四周皆漸次敵トナル」わけで、日本の将来は暗澹たるものがある。
「徒ラニ頼ミ難キ外国ヲ頼ミトスルコトナク、我ガ国力ノ限度ニ於テ善処スルヲ以テ安全トナス。白人諸国ガ互ニ相戦ヒ、互ニ疲弊スルモ左迄《サマデ》我国トシテ(条約上ノ義務ハ之ヲ全ウスルモ)頭痛ノ種トスルニ及バズ」
日独伊三国同盟にしばられず、そして北進も南進もひかえて、米英と妥協して支那事変の解決と自立の道を求めるべきだ、というのである。
野村大使は、七月二十三日にも豊田外相に意見具申電をおくった。
日本政府とフランス政府との間に、日本軍の南部仏印進駐の交渉がすすみ、七月二十一日にはフランス側は日本軍進駐に同意した。
日仏両政府ともに、交渉についてはなお発表しなかったが、情報はもれて、米国各紙は日本の南進を批判し、経済制裁を加えよとの論評をかかげるものが多かった。
「我南進ノ場合、日米関係ニ及ボス影響ハ可成リ急速度ヲ以テ進展シ、国交断絶一歩手前迄進ムノ惧大ナリ……又日本ハ一面日米了解ヲ売物ト為シ、反面南進ノ策ヲ立テ、国務長官ノ如キハ騙サレタルナリト非難モアル趣ニテ……」
野村大使は、その日の朝、国務次官サムナー・ウェルズと会見していた。
ウェルズ次官は、ホワイト・サルファー・スプリングスで療養中のハル国務長官から、日本が南方侵略をやめなければ日米会談の必要はない、日米諒解のほうが仏印進出による結果よりも日本に有利だと野村大使に伝えよ、という指示をうけていた。
ウェルズ次官は、ハル長官の言葉を野村大使に伝え、「ハルは交渉継続の基礎がなくなったと考えている」と、言明した。
野村大使は、新聞が対日経済制裁を叫んでいることと思いあわせて、おそらくは米国は日本資産凍結または重要物資の対日禁輸を考えていると判断した。
知人である海軍作戦部長ハロルド・スターク大将に電話して昼食をともにしながら、至急ルーズベルト大統領と会見したい、あっせんを頼む、と依頼した。そして、急いで大使館に帰ると、豊田外相あての電文を走り書きした。
もし、米国が経済断交にひとしい強硬措置をとれば、日本の軍部の性向としては、南進政策を中止するよりも逆に反撥して、対米戦気構えを強化するにちがいない。
といって、おそらく、南進は既定方針でもあり、ここで中止は不可能であろう。
野村大使は、せめて米国の経済断交を防ぐために、日本政府が誠意ある姿勢と懇篤な説明を米国政府におこなうべきだと考えた。
「就テハ、一面米国大使ニ機ヲ失セズ、日本政府ノ日米国交調節ニ関スル誠意ト仏印進駐ノ真意トヲ御披瀝相成様致シ度シ。又、本使ニ対シテハ、至急新内閣ノ対米御方針ヲ御内示相成度ク……」
野村大使は、ひたいからしたたる汗でくもる眼鏡を何度もぬぐいながら、電文を書いた。
「本使モ起死回生ノ積リニテ、十二分ノ努力ヲ致シタキ覚悟ナリ」
至急だというので、電文は一枚ずつ若杉公使が眼を通しては電信室にはこばれていたが、最後の一枚にふと若杉公使は首をかしげた。
「大使、この『起死回生』は少し強すぎましょう。はぶいてはどうでしょうか」
野村大使は、額の汗をぬぐっていたがそれでお願いします、といい、ためらっている若杉公使の様子をみると、もう一度、いった。
「それでお願いします。それ以外に適当な表現は思いつきません」
ワシントン時間の七月二十三日午後三時すぎ南部仏印にむかう陸軍第二十五軍四万人が、すでに海南島・三亜港で輸送船に乗組みを終っていたころである。
21
野村大使は、七月二十四日午後五時、ホワイト・ハウスでルーズベルト大統領と会見した。
米海軍作戦部長ハロルド・スターク大将が会見をあっせんした形になっていたので、同大将と国務次官サムナー・ウェルズが同席した。
小児マヒのために下半身不随のルーズベルト大統領は、車椅子にのっていたが、野村大使が部屋にはいってくるのを見ると、ウェルズ次官に押させて大使に近づき、握手しながら席をすすめた。
会談の焦点は、もちろん、日本軍の南部仏印進駐である。
野村大使は、前日、七月二十三日に豊田貞次郎外相に意見具申電を送ったあと、いれちがいに外相から訓電をうけていた。
南部仏印進駐は御前会議決定事項だから中止はできない、しかし、北部仏印進駐のさいのような衝突は起らない。フランス政府の諒解を得て「共同防衛」のために部隊を増派するのである。さらに、米英両国と摩擦も避ける方針であるから、米国が「パナマ運河の閉鎖や資金凍結」などの刺戟的措置をとらぬよう、米国政府の「善処」を求めてほしい――という。
野村大使としては、意見具申電で述べたように、米国側に対日経済断交をおこなう気配が感じられるだけに、もっと明確な、あるいはなにか米国側がうなずける提案をふくめた訓令が望ましかった。
しかし、せっかくの大統領との会談の機会を、訓電を待ちたいからといって延期するわけにはいかない。
野村大使は、若杉公使と井口参事官と相談して、大統領にたいする発言要旨を紙片にメモしてきた。
南部仏印進駐は、日本に必要な米や資源を入手するためと、第三国の勢力範囲になって日本の安全がおびやかされるのを防ぐためであり、いわば経済および軍事的自衛措置である。日本側に領土獲得の野心は、まったくない。
「就テハ、米国政府ニ於テモ之ヲ諒トセラレ、余リ極端ナル態度ニ出デザルコトコソ望マシ」
野村大使は、メモをみながら、ゆっくりと一語一語に力をこめて発言した。大統領は、野村大使が発音するたびに、うなずいてみせた。
野村大使はさらに日米交渉にもふれ、交渉の難点とみなされる支那にたいする日本軍の駐兵、通商無差別問題、日独伊三国同盟における参戦義務の問題なども、「大乗的ニ考フレバ自ラ解決ノ途アラン」と、述べた。
ルーズベルト大統領は、微笑しながら野村大使の言葉を聞き終ったが、しかし、アドミラル(提督)、と野村大使に呼びかけて話しかけた大統領の声音には、友好の暖気よりは峻厳な政治の冷気がより明白に感得された。
「日本が南進をつづける以上、太平洋の平和維持は困難になる。わが国が太平洋地域から、錫、ゴムなどの物資を入手することは困難になり、フィリピンをはじめ他の太平洋地域の安全も危険となってくる」
ルーズベルト大統領は、日本が物資不足状態にあることにたいしては同情する、といい、まだ国務省とは相談していないがひとつの提案をしたい、とつけ加えた。
「若シ(日本ガ)仏印ヨリ兵ヲ引キ、各国ニテ『スイス』ノ如ク之ガ中立ヲ保障シ、各国ガ公平ニ自由ニ物資ヲ入手シ……得ルコトト為スナラバ、自分ハ尽力ヲ惜マズ」
つまりは仏印(フランス領インドシナ)を中立化しようという提案だが、野村大使は、がっかりした。
野村大使がルーズベルト大統領と会見しているワシントン時間七月二十四日午後五時すぎは、日本時間では七月二十五日午前七時すぎにあたる。
南部仏印にむかう第二十五軍の輸送船団が、海南島・三亜港を出港するのは、日本時間七月二十五日午後五時である。
野村大使はその正確な予定を告げられていない。しかし、事態が「日」の単位よりは「時間」単位で進展していることは、承知している。
おそらく、余程のことがなければ日本軍の南進は阻止できないはずだが、ルーズベルト大統領の仏印中立化提案がその効力を持っているとは思えないからである。
野村大使は、ルーズベルト大統領との会談を終えると、会談要旨を東京に打電してニューヨークにむかった。
旧知のプラット提督と会い、また「日米協会」の会合に出席するためだが、同時に岩畔大佐との意見交換も予定されていた。
岩畔大佐は、井川理事とともにその翌日、七月二十五日に国務省日本課長ジョセフ・バランタインと会見し、七月三十一日に飛行機でサンフランシスコにむかい、帰国することになっている。
「仏印中立化ねェ……要するに、日本はインドシナ半島から手をひけというわけでしょうが、アメリカにも譲歩の気持ちがなければ問題外です、もう、おしまいでしょう」
岩畔大佐は、二十五日にバランタイン課長と会ったあと、とくに収穫はなかったと会見内容を報告して、野村大使にそう述べた。
岩畔大佐の情勢判断によれば、米国はすでに日米交渉を断絶する意思を表明したとみなすべきである。
「理由は簡単明白です。大統領が、国務省当局と相談せずに提案するとことわっているのは、これまでしきりに正式の外交ルートでの交渉を主張してきた経緯に矛盾しています。だから、大統領の提案は、一方で外交ルートでの交渉打ち切りを宣言し、他方で太平洋の平和のために努力しているとのジェスチュアを示すためだ、と解釈すべきでしょう」
岩畔大佐は、それにしても米国も身勝手だ、と慨嘆した。
大統領がいうように、米国にとっても東南アジアの資源は必要である。とくに、ヨーロッパ戦参戦を覚悟しているとすれば、なおさらであろう。
しかし、資源の必要度からいえば、自給自足ができる米国とそれが不可能な日本とでは、格段の差異がある。
日本にとっては、米、石油、ゴム、錫など、軍需だけでなく生活必需物資のほとんどを輸入せねばならず、その対象は米国と東南アジアである。
米国は、日本の南方進出を侵略だといい、支那事変も侵略だといい、満州国も侵略の成果だといい、すべての対外進出を中止して日本列島だけで生活せよというが、それでは日本はどうやって生活の向上をはかれるのか。
「これまでの交渉の過程でも、米国側にはステーツマンシップはうかがえませんでしたな。支那問題にしても、日本軍が支那から撤退すれば問題は片づくことは、誰にでもわかる。しかし、とにかく四年間もつづいた事変である以上、いきなり全面撤兵というわけにもいかない。
血を流してきた国民にたいする説得も必要だし、こんごの日本の生存のために必要な経済的発展の可能性も確保しなければならない。その辺の事情については、さっぱり同情がみえませんでしたなァ」
岩畔大佐は、野村大使の宿舎である「ウォルドーフ・アストリア・ホテル」の一室で、次第に日米交渉を回顧する形で話しこんだ。
日米関係を衝撃的に好転させる期待をこめて「日米諒解案」を作案しだのは、ほんの三カ月前である。
いまとなっては、岩畔大佐も、「日米諒解案」が希望的観測にすがった先走り案であったことは、なっとくしている。
しかし、岩畔大佐にしてみれば、「日米諒解案」を工作した二人の神父、そして野村大使もふくめて、「日米諒解案」は太平洋の平和維持のためには「妥当な提案」だったと、なお確信せざるを得ない。
「日米諒解案」は、いわば“日米妥協案”あるいは“日米譲歩案”であるが、結局は、日本が生存の途を求めて米国に接近しようとするものである。日本が求めるのは、国家自存のための経済的保障であり、そのためには段階的に政治的譲歩をおこなおうとした。
その「日米諒解案」はハル長官と松岡前外相に代表される日米両国の政治原則論に挟撃されて萎縮した状態になったが、どちらかといえば、米国側に日本にたいする同情が欠損しているのが目立つ。
「持てる国・米国には、持たざる国・日本の切羽詰った事情は理解できないのでしょうなァ」
野村大使は、岩畔大佐の嘆声に応じて、だが日本側の態度もまずい、一方で妥協を求めながら他方で武力行使を計画するのでは相手の信頼は得られない、と、指摘した。
「妥協なら妥協で徹底すべきだろう。そして、どんな妥協でも戦争よりはましだ……」
「しかし、閣下。大統領の提案は、ハル長官と同様に日本が最もやり難いことを選んで注文しているような気もしますよ。もう少し余裕があればともかく、いますぐにはできないことをすぐやれというようなもので……これで、資産凍結、禁輸ときたら、日本は首をしめられることになります」
岩畔大佐は、いかに国力と国際的発言力に差異がある国家関係でも、一方が他方に経済的に依存しているのを承知で、相手の「糧道を絶って」折衝するのであれば、それは「もはや交渉ではなく、降伏要求」になる、と嘆息した。
岩畔大佐は、とにかくもうおしまいでしょうな、とロイド眼鏡をおしあげてつぶやくと、口を閉じた。
野村大使も、黙然と部屋の窓を凝視した。冷房装置のおかげで、窓ガラスは白くくもっている。
岩畔大佐は、悲観的観測の言外に日米戦必至の予測をにおわせている。軍人は、屈伏よりも戦いを、降伏よりも死を選ぶ教育をうけている。大佐の情況判断も、その軍人の覚悟を基礎にしているのであろう。
野村大使も海軍軍人である。だから、岩畔大佐の判断は、しごく素直に理解できた。が、同時に野村大使は不戦を信念とし、また妥協の方策の探究を使命とする外交使節でもある。
「たしかに、糧道を絶たれたら(日米関係の)事情は一変するでしょうね。その意味でも、いま一番欲しいのは時間だと思う」
――だが、
野村大使が、なおも破局への時間の延長を願って独語した数時間後、むしろ、危機にむかう時間を短縮する事態が発生した。
ホワイト・ハウスは、七月二十五日午後八時、二十六日午前零時(日本時間二十六日午後二時)から在米日本資産を凍結する、と発表した。
第二十五軍の海南島出港が確認されたからである。
もっとも、資産凍結の具体策は発表されず、とくに資産凍結にともなう物資の対日輸出禁止については、なにも公表されなかった。
国務省が、日本を極度かつ一気に刺戟することにちゅうちょしていたためである。
国務省顧問ホーンベックは、七月二十二日付のハル長官あて覚書で、支那にたいする援助強化だけで日本を支那から駆逐できる、と進言していた。
「時間は、日本にとって不利な要素になりつつある。
支那にたいして、その対日抵抗力を適度の有効水準と十分な期待を維持できる程度に援助すれば、いいかえれば、支那側の努力と米国の援助と時間とが合成されれば、日本は自動的に支那から撤退することになるであろう」
ホーンベック顧問の進言は、日支双方に知人を持つ燕京大学総長レイトン・スチュアートの情報と、独ソ戦が予想外に長期化する見通しとにもとづいていた。
日本としては、ソ連攻撃のチャンスを見逃したはずであり、そのうえに支那軍の抵抗力が強まれば、選択する道は南進か、政策転換による対米協調以外にはない。しかし、急激な南進をさそうことは日米戦を招く可能性も高まるので、極度の経済的圧迫はさけて支那から敗退させる方策を採用すべきだ、という。
ハル長官も、このホーンベック顧問の意見に賛成して、二十五日朝、ウェルズ次官に電話した。
「日本にたいする宥和を考えているのではないが、なにか日本を思いとどまらせる事態が発生しない限り、日本は確実に(南方)進出をつづけるだろう」
南部仏印の次はタイ、さらにマレー、シンガポール、フィリピン、蘭印(オランダ領東インド諸島)にも日本は歩度をのばすかもしれない、とハル長官は予測した。
そうなれば、まず日英戦、日蘭戦、そして日米戦が予期されるが、過早な戦争は米国に不利であり、不利な戦いをさけるためには日本に物資を与えるべきではないか。
このハル長官の慎重な姿勢が、対日輸出禁止措置を停滞させていたわけだが、しかし、ハル長官自身もその姿勢を長くは維持することはできなかった。
資産凍結令の発表は、予想をはるかにこえて日米双方の危機感をあおりたて、戦争気運を急昇させてしまったからである。
日本側は、南部仏印進駐が米国の対日経済圧迫を招くことは予想していた。
豊田外相は、七月二十四日の大本営政府連絡会議(註、第三次近衛内閣より政府統帥部連絡懇談会を改称)で、米国が重要物資の輸出禁止や資金凍結をおこなうかもしれない、と報告して、そのさい、米国にある日本資金は現金二億円、証券三億五千万円だが、米国の在日資金は三億円なので差し引き日本側が二億五千万円の損失となる、と述べた。
しかし、実際には、たんに二億五千万円の損失どころではなかった。
日本の物資輸入ルートは、ヨーロッパをはじめ、米国、中南米、アジアなど広範な地域にわたってはいるが、ほとんどは米英両国の勢力圏にふくまれている。
すでにヨーロッパ戦争によって、ヨーロッパとの貿易は閉止されていたので、日本は手持ちの船舶をフルに動員して米国、カナダ、アジアから資源を輸入してきた。
ところが、まず中南米からの輸入が杜絶状態になった。コバルト、白金、鉛、水銀、石綿、雲母など中南米産出の重要物資は、米英両国の大規模かつ徹底的な買い占めで、ほとんど日本が買える機会は失われたからである。
当然、日本としては米国を最大の顧客、いや“生存源”としてすがらざるを得なかったが、資金を凍結されては輸入のしようがない。
しかも、米国が日本資金を凍結すると、直ちに英国とカナダが同調し、さらに七月二十八日には、蘭印も日本資金の凍結のほかに日蘭石油協定の停止、対日輸出の許可制を実施した。
まさに、岩畔大佐が指摘する「糧道の断絶」であり、七月二十九日、企画院総裁鈴木貞一は 「戦争遂行ニ関スル物資動員上ヨリノ要望」と題する報告書を大本営政府連絡会議に提出して警告した。
その報告によれば、民間の重要物資のストックは文字どおりに枯渇状態にあり、ニッケルは約二カ月ぶん、マンガン鉱は約四カ月ぶん、マニラ麻は約一カ月ぶんしかない。とくに肌寒いおもいにとらわれるのは、石油である。
重油は約一カ月半、航空揮発油は約十五カ月、普通機械油は約二カ月半、軽油は約三分の一カ月、灯油は約一カ月、その他のものもせいぜい六カ月ぶんにとどまる。
そして、石油資源の輸入先は米国でなければ、米英両国の勢力圏内である。
もし、これらストックが底をつかない前に新たな輸入先を見つけるか、あるいは輸入継続の保障を得られなければ、どうなるか。
「現状ヲ以テ推移センカ、帝国ハ遠カラズ痩衰起ツ能ハザルベシ」
鈴木企画院総裁は、ひと息つくと、静まりかえる会議上に視線を走らせて、報告書の結論部分を朗読した。
「即チ帝国ハ方《マサ》ニ遅疑スルコトナク最後ノ決心ヲ為スベキ関頭ニ立テリ」
近衛首相をはじめ閣僚たちも、陸海軍首脳も、いまさらのように危機の到来を感じて表情をこわばらせていたが、その三日後、八月一日には、米国は日本にたいする石油輸出を全面的に禁止した。
石油禁輸は、資金凍結令にともなう貿易制限として発表され、表現上では「一九三五〜三六年度と同量までの低質ガソリン、原油、潤滑油の対日輸出を許可制とする」となっていたが、石油取引に必要な凍結資金は解除されず、実際には全面禁輸となったのである。
この措置は、第二十五軍の主力が七月三十日にサイゴンに上陸した事態に即応したもので、ハル長官も同日、ウェルズ次官に電話して、日本は次いでタイにむかうかもしれぬと告げながら、「日本にたいして戦争以外の包括的手段をとるべきだ」と、五日前の発言を一変させる見解を伝えていた。
米国内の世論も、興奮した。市民の一般的常識から判断しても、このように次々に圧迫手段をとる以上は、米国政府が対日戦を覚悟していると理解されるし、日本の立場にたってみれば、これまた戦争を決意するのが自然だと推理されるからである。
日本の新聞、通信社の米国特派員には相次いで日米戦のさいの転任先が通告されはじめた。
ニューヨーク駐在の『朝日新聞』特派員・中野五郎も、米国南部旅行を終えて支局にたどりつくと、いざというときはメキシコに行け、との行政電報をうけとったが、宿舎の「ホテル・ロイヤル」に帰ってみると、ボーイに声をかけられた。
「ハーイ、ミスター・ナカノ。日米戦争はいつはじまるのか」
それは米国の出方次第じゃないか――と、中野五郎は苦笑してみせたものの、米国紙はこぞって日米の危機を叫び、『ニューヨーク・タイムス』紙も、「日米戦争は寸前にある」と強調している。
ホテルの十階にある自室に落ち着いた中野は、窓から暗夜に静まりかえったビルの谷間を見下ろしながら、情勢の緊迫を自覚せざるを得なかった。
「ああ歴史的な日米開戦の前夜、一九四一年の夏……」
中野五郎は、思わずも日誌にペンを走らせて、その文言に自分自身がおどろいたが、この中野五郎の感慨は、野村大使をふくめて在米日本人のすべてに共通していた。
とりわけて、野村大使の心境は沈鬱であった。
野村大使は、八月三日、日曜日の『ニューヨーク・タイムス』紙にギャラップ世論調査所の調査が報道されているのをみると、海軍武官府を訪ねた。
ギャラップ調査は、米国は戦争の危険をおかしても日本の膨張を阻止すべきか、という設問にたいして、イエスと答えた市民が五十一パーセントだと伝えていた。
野村大使は、海軍武官横山一郎大佐に米国世論はさらに高まるだろうと語ったあと、がくりと肩をおとして、つぶやいた。
「政府は何を考えているのか……わしにはもう、なにもできない、申し訳ないが……疲れたなァ」
22
野村大使は、海軍武官横山一郎大佐、武官補佐官の実松譲少佐と寺井義守少佐を相手にして、隻眼をうるませながら胸中の苦慮をうちあけたが、翌日、八月四日、起床すると朝食前に電文を書き、東京に打電した。
「……何分ニモ形勢ハ刻々進展スルヲ以テ、時ハ大ナル要素ヲ為ス。……此ノ際……内外ノ形勢ニ通ズル外務ノ先輩(例ヘバ来栖《クルス》大使)ヲ一時出張セシメ、本使ニ協力セシムル様御取計ヒ相成度シ。何分政府御方針ノ機微ニ触レタル所ヲ知ル由ナク、当方ニ於テモ手ノ下シ様モナキ次第ナルヲ以テ……速ニ御実行相成様被致度シ」
横山大佐も二人の武官補佐官たちも、野村大使の苦悩を察しながらも、その辞意表明には反対した。
「閣下、閣下は松岡前外相がハル長官の『オーラル・ステートメント』でへそをまげたとき、外《こんがい》の将は君命と雖《いえど》も聞かず、といわれました。とにかく最も重大な時期です。ご忍耐をお願い致します」
実松少佐は、辞表を提出したい、という野村大使に、文字どおりに必死の思いと気魄をこめて進言した。
少佐が引用した古諺、出師の命をうけた指揮官は現場の責任者である以上、ときに後方の指示を拒否しても勝機を把握すべきだ、という兵理を説示している。
野村大使は、松岡前外相が感情的ともみえる強硬姿勢を示したさい、この古諺を海軍武官府でひろうしたことがある。大使は対外的に国家を代表する存在である。外征の将と同質の立場にある。してみれば、外相ももっと大使の現地判断に信頼して、自由に手腕をふるわせるべきではないか。
実松少佐は、こじれたうえに平行線上をたどるような日米交渉の谷間に立つ野村大使の環境に、心から同情していた。しかし、「外の将」に君命にさからっても使命達成をはかる覚悟が求められるとすれば、任務の中途で職責をはなれる自儘も許されないはずである。
野村大使もその点は自覚している。が、それにしても心労と前途にたいする悲観は根深く、辞職は思いとどまったものの、あえて、“援軍”を東京に要請する心境になったのである。
とくに来栖三郎元駐独大使を指名したのは来栖元大使と親交があったこと、生っ粋の高級外交官吏のほうが大使館員の統率に有効だと判断されたこと、また日独伊三国同盟が日米交渉のガンとみなされているさい、その三国条約締結の主務者だった来栖元大使に同盟の“真意”を説明させるのが効果的だと考えられるからである。
だが、実際には、来栖元大使が応援に来てもなにほどの効果があるとも、野村大使には思えなかった。
野村大使が“援軍”要請電をうった八月四日、若杉公使はいったん帰国するためにワシントンを出発したが、出発の前にウェルズ国務次官に会見したところ、ウェルズ次官は、これ以上に日本が武力南進をつづければ日米戦争の可能性は増大する、と明言した。
この日には、岩畔大佐と井川理事もサンフランシスコ出帆の日本郵船「竜田丸」で日本に向かったが、岩畔大佐はニューヨークからサンフランシスコに飛ぶ前日(七月三十日)、渡米するときにもってきた機密費の残額約十万円を陸軍武官磯田少将に寄託していた。
在米日本資金凍結と日米開戦を予見しての措置であるが、磯田少将も危機の切迫を感得して、在米陸軍武官の一部と家族の引き揚げを東京に具申していた。
海軍武官府でも、ニューヨークの監督官事務所の閉鎖と担当武官の引き揚げ、また武官府の大使館内への移転が話題になった。
事態の緊迫は、当然にいつ米国官憲の捜索をうけるかわからない不安を添加する。そのさい、最も懸念されるのは暗号機械と機密書類の保守である。すでに暗号機械を焼却処分するための薬品“テルミット”も日本から輸送されてきてはいるが、治外法権の適用をうけられないアパートでは、適切な処置をする余裕があるかどうか不安である。
ニューヨークでは、在米邦人の引き揚げが深刻に討議された。
資金凍結のため、在米邦人は一般的に一カ月五百ドルまでの生活費を認められるだけなので、各商社、銀行、言論界の駐在者はむろんのこと、準米国人なみに暮らしてきた日系市民たちも生活不安を感じていた。
とりわけて在米邦人たちの不安をかきたてたのは、日米航路の断絶である。
当時、日米両国をつなぐ主要連絡手段は日本郵船のニューヨーク、サンフランシスコ、シアトル航路線であるが、対日資金凍結が日本船の抑留におよぶことも危惧され、各航路線とも運航が中止されることになった。
ニューヨーク線、シアトル線はいずれも七月末にうちきられ、サンフランシスコ線も、岩畔大佐と井川理事が乗船した「竜田丸」のあと、「浅間丸」がサンフランシスコに航海していたが、同船はホノルル東方九百八十カイリの地点で反転を命じられて、横浜に帰った。
在米邦人たちの間では、生活困窮のままに日米開戦をむかえるのではないか、と心配する声が高まった。
ニューヨーク駐在財務官西山勉は、このような事態はかえって「実質的ニ国交断絶」を促進する恐れがある、と判断して、「ボロ船」で良いから米国向けに配船すべきだ、と大蔵省に意見を具申した。
物資買い入れは望みうすであり、船が積めるのは郵便物程度であろうが、それでも日本が両国の交通を杜絶させない意思を表明すれば、それが米国民の世論緩和にも役立ち、やがては国交調整のいとぐち発見にもつながる――という意見である。
西山財務官は井川理事に協力して日米友好問題の回復に努力していた。それだけに、その意見は野村大使の共鳴も得たが、野村大使自身は、日を経るごとに悲観の想いを深めていた。
豊田外相は、ルーズベルト大統領が提唱した「仏印中立化案」にたいして、
「日本は仏印以上に南進の意思はなく、仏印からも支那事変解決後は撤兵する」
との回答案をワシントンに伝えてきた。
しかし、野村大使は訓電を一読すると嘆息した。
豊田外相案は、さらにフィリピンの中立を保障するとも述べていたが、米国にたいしては、蘭印(オランダ領東インド諸島)における日本の資源獲得に協力すること、日支和平交渉の橋渡しをすること、仏印での日本の特殊地位を認めることなどの要求も、つけ加えられていたからである。
「相手は仏印進駐をやめろといっているのに、その点をはっきりさせないで条件交渉をするのはどうかと思うがなァ」
野村大使は八月六日午後六時、療養生活を終えて再び「ウォードマン・パーク・ホテル」に帰ってきたハル国務長官を訪ねる途中、秘書煙石学にちらとつぶやいたが、大使の予感どおり、ハル長官の反応は冷たかった。
ハル長官は、病気全快についての野村大使の祝意に謝意は表明したが、豊田外相案を提示されると、それを見ようとはせずに、しきりに日本が一方で平和を唱え、他方で武力進出をつづけるのはヒトラーの同類とみなさざるを得ない、と述べて、首をふった。
「もはや日本に期待する何物もなし」(アイ・キャン・エクスペクト・ナッシング・フ口ム・ジャパン)
豊田外相案については、ハル長官は暗号解読による“マジック”情報ですでに承知していた。だからあえて一読する様子もみせなかったわけだが、その事情を知らぬ野村大使には、提案文書を無造作に机上にほうり投げる長官のしぐさは、一段と態度の硬化を表現しているようにみえた。
野村大使は、ハル長官の部屋を出て大使館に帰ると、会見の様子を井口参事官に話したあと、絶望をこめて電文を起草した。
「……本日得タル印象ヨリ察スルニ、最早殆ド如何ナル説明ヲ以テスルモ、帝国ノ意図ハ米国当路ノ者ニ通ゼシムルコト不可能ナルガ如ク、且米国政府ハ如何ナル事態ニモ対処スル腹ヲ極メ居ルコト、間違ナク観取セラレタリ」
すると、その翌日、八月七日夜、豊田外相から急電が送達された。
「……危険ナル途ヲ打破スル唯一ノ途ハ、此ノ際日米責任者直接会見シ、互ニ真意ヲ披瀝シ、以テ時局救済ノ可能性ヲ検討スルニアリト信ズ……米側ニ於テ同意ナルニ於テハ、近衛総理自ラ『ホノルル』へ出張、『ルーズベルト』大統領ト親シク会談致シ度キニ付テハ……」
急いで米国側の意向を打診してほしい、という。
野村大使は、憮然とした表情で電文を注視した。電文には「第一次米提案中ニ該当事項モアリ……」という文言がある。第一次米提案とは「日米諒解案」のこと。たしかに諒解案には日米首脳会談が提議されている。
しかし、なぜいま頃になって首脳会談を提唱するのか――?
じつは、この首脳会談構想は、まったく近衛首相個人の発案であった。
近衛首相が日米首脳会談のアイデアを正式に表明したのは八月四日夜、私邸に招いた及川海相と東条陸相にたいしてであったが、首相は五日夜、その意図を綴った書簡を内大臣木戸幸一に届けている。
「別紙の如き意見を昨夜陸海両大臣を招き開陳致候。右御参考まで」――と付記してある書簡は、八月二日、米国の対日石油禁輸を知った日に内閣書記官長富田健治に口述したものであった。
富田書記官長によれば、口述がそのままきちんとした文章になっているので驚いた、とのことだが、近衛首相は、このままずるずると(日米)戦争になるのでは為政者として天皇にも国民にも申し訳ない、と考えた。
日米両国間の意見の対立は、主としてアジア問題と対ドイツ問題にあるが、近衛首相はこの両方とも米国との意見調整は可能と判断する。
アジア問題についていえば、米国は日本の大東亜共栄圏構想を侵略政策とみなしているが、大東亜共栄圏の確立は日本の理想である。計画の修正も可能である。
ドイツとの関係についても、ドイツが世界制覇できるとは考えられない以上、日本が米国と協調しても、ドイツの日本にたいする報復を重視する必要はない。
むしろ独ソ戦は長期化してドイツ側に不利になる気配もうかがえる。そして、はっきりとドイツの不利が確定すれば、米国の対日態度はますます硬化するにちがいない。
その意味では、「一日も早く対米の手を打つことが急務」と考えられる。が、だからといって、米国にたいして「媚態」を示し「屈伏」する印象を与える必要はない。「対米戦争の覚悟」をきめ、話し合い不調のときは「席を蹴って帰る覚悟」で臨む。そうなれば「つくすだけの事をつくした」ということになって、対外的にも対内的にも納得をうながし得るであろう……。
近衛首相は、そのような趣旨を八月四日夜、陸海両相にひろうして、賛同を求めた。
及川海相は即座に、結構です、と賛成したが、東条陸相は不審そうに及川海相の顔をみつめながら、統帥部と相談したうえで返事する、と回答を保留した。
東条陸相が、不審の視線を及川海相にそそいだのには、理由がある。
当時、米国の対日資金凍結の実施いらい、陸海軍部内では急速かつ全般的に対米開戦論が強調され、軍令部総長永野修身海軍大将は天皇に開戦決意の必要を上奏していた。
海軍の動力である石油の貯蔵量は「一年半ないし二年間」ぶんしかなく、昭和十七年後半期以降になると米国の海軍勢力は飛躍的に強化されて、まず対抗し難くなる。
どうしても戦争が避けられないのであれば、少しでも有利な情況でおこなうべきだ、と永野軍令部総長は主張した。
陸軍部内においても、いまやソ連を攻撃するよりも「生きるため」の南進を実施すべきである、との意見が支配的になり、陸軍省軍務課員の間では、対英米戦を決意するための御前会議を招集せよ、と主張する者もふえていた。
このような風潮であるだけに、東条陸相には及川海相があっさりと日米首脳会談に賛成した心理が、よくわからなかった。
東条陸相は、翌日、参謀本部を訪ねて参謀総長杉山元大将や第一部長田中新一少将と協議したが、その結果、東条陸相は、日本のこれまでの基本政策を維持し、また「対米一戦の決意」をもって渡米するというのであれば賛成する、と近衛首相に伝えた。
陸軍側は、近衛首相の渡米が、三国同盟の弱化を招くことになったり、あるいは「国際謀略」にひっかかって結局は対米屈伏を余儀なくされることになるのではないか、と懸念した。
「対米一戦の決意」堅持というクギをさしたゆえんであるが、この陸軍側の疑念はある意味では“的確”であったといえる。
近衛首相秘書牛場友彦によれば、近衛首相は「ルーズベルト大統領との会談で、それまでの軍部の方針を大転換させる妥協を成就し、米国から直接に天皇の裁可を仰いでことを決める覚悟を固めていた」からである。
だが、近衛首相はそのような真意は陸海軍側にもらさず、「つくすだけの事をつくした」という実績づくり、いいかえれば軍の対米戦決意の基礎づくりとも解釈される表現で説得し、陸海軍の賛意を得た。
天皇も近衛首相の渡米計画に賛成され、陸軍も首相に同行する随員を選考することにした。
野村大使は、そのような東京の事情は知らなかったが、近衛首相とルーズベルト大統領との会談が実現するとは、期待できなかった。
近衛首相は、かつて支那事変を解決するために介石との直接交渉を計画したことがある。自分がのりだせば、という自信にもとづくゆえであろう。
しかし、その自信が、つねに高位の貴族として尊重されている日本の社会事情に由来するとすれば、それだけでは国際政治に効果は発揮され得ない。貴族制度を保有しない米国では、貴族は実質的な権威を認められるはずもない。
いや、一国の首相であっても、それだけでは無意味である。問題は、どのような具体的政策を持参するかであり、ただ訪米するのであれば、観光客としての扱いをうけるにとどまる。
野村大使は、豊田外相が告げる近衛首相訪米計画に具体的提案がふくまれていないことに、まず失望した。
ハル長官に首脳会談を提案したが、ハル長官はおよそ興味を示さず、前回の会談と同様に、日本の政策に変更がない限り話し合いの根拠はない、とくり返した。
野村大使は、うなずいた。米国側の反応としては自然だと諒解できたからである。
「……単ニ総理自ラ出馬セラルトノコトノミヲ以テシテハ、真ニ遺憾ナガラサシテ先方ヲ動カスコトトハナラヌト推察ス……」
野村大使はそう東京に打電した。
ルーズベルト大統領はそのころ、のちに「大西洋会談」と呼称されるチャーチル英首相との協議のため、重巡「オーガスタ」に乗ってニューファウンドランド沖にむかっていた。
ハル国務長官は、大統領の動きについては語らず、ただいずれ近いうちに大統領と会えるようにすると語ったが、野村大使には、大統領と会っても、ハル長官とは異質の反応が期待できるとは思えなかった。
――「店じまいだな」
野村大使はハル長官と会った八月八日夜、海軍武官府を訪ねてつぶやいたが、横山大佐たちにもその感想は共通していた。
その前日、ニューヨークの監督官・小池金五郎主計中佐が帰国のために出発した。監督官事務所の閉鎖である。
「戦争になったら、まずオレは帰れん。捕虜になってハイウェイの掃除かなんかさせられると思うね。お別れだなァ」
見送りに行った実松少佐は、そういいながらポケットからドル紙幣をつかみだし、家族に渡せたら渡してくれ、と小池中佐に依頼した。
そして、その夜は、嘱託・佐々木勲一に命じて、実松少佐はもうひとつの“店じまい”もおこなっていた。
実松少佐は、それまでに何度か親日家を自称する英国海軍士官から情報を入手していた。その士官が、メキシコに出かけた帰りにワシントンに立ち寄り、実松少佐に連絡してきた。
実松少佐は、情勢が極度に緊張している時期であり、また立花中佐事件もあったので、英国士官に適当な謝金を提供して手を切ることにした。佐々木勲一が実松少佐の自動車で出かけた。
場所は、ワシントン市の北西を縦貫する「ロック・クリーク」公園の南隅。時刻は午後十時すぎ。合図は、自動車のヘッドライトを三回点滅する……。
「あまり気持ちの良い仕事ではなかったです。実松さんの車は外交官ナンバーだから、めったに警官につかまらないとは思いましたが、それでも人気の無い暗い公園にすべりこんだときには、胸がどきつきました」
夜なので、車を走らせているうちは涼しいが、木下闇《このしたやみ》につつまれて停車していると、ムッと盛夏の暑さがおしよせてくる。
佐々木勲一は、ヘッドライトを点滅させたが、あたりは静まりかえっているだけである。二回、三回と三度ずつライトを点滅させると、意外にも、ものの三メートルもはなれていない右斜め前方の闇がギラリと光り、次いでパッ、パッ、と点燈した。相手はすでにやって来ていて、様子をうかがっていたらしい。
「足音がしたと思うと、運転席のドアをあけて男が助手席にはいって来ましたよ。葉巻のにおいがしましたね」
佐々木勲一が名乗り、実松少佐の代理だといって紙幣をいれた封筒をさしだすと、相手は押し殺した怒声をあげた。
「オレは金をもらいたさに働いているのではない。日本が心配だからやっているんだ。アメリカはもうはっきりと日本をたたく決心を固めている。日本がどんなことをいおうと、どんなことをしようと妥協は絶対にしない。そこまで来ているんだぞって、いいましてね」
もう二度と会わない、というと、相手は車を出て闇に消え、やがて排気音とタイヤがきしむ音が遠ざかった。
海軍武官府に帰って報告すると、実松少佐は無言でうなずいただけであった。佐々木勲一もそのまま自室にひきあげた。
廊下を歩いていると、暗号文を組む暗号機械音がひどく大きく聞こえる。エレベーターの前にいた顔見知りの黒人従業員が佐々木勲一にニタッと笑いかけた。
「ヘイ、ササキ。またユーのボスが東京と話をしているね」
佐々木勲一は、すくめた肩で返事をして通りすぎた。
23
ワシントンでは、沈鬱な想いによどむ日が、つづいた。
野村大使は、八月十三日、ウォーカー郵政長官と会い、日米首脳会談の促進に努力してほしい、と依頼した。
しかし、二人の神父とともに日米交渉開始に熱意を示したウォーカー長官は、むしろ、困惑した表情で、「さあ、ハル国務長官にご意向は伝えますが……」と眉をひそめるだけであった。
ルーズベルト大統領がひそかに洋上でチャーチル英首相と会談しているとの情報は、米国各紙ですでにニュースとして報道している。日米首脳会談というテーマについては、当然、大統領の決裁が必要である以上、すべては大統領の帰還を待たねばならない。
それはわかっている。が、野村大使は大統領がいつワシントンに帰ってくるか知らず、一日の経過は一日ぶんだけ日米関係を悪化させる不安を感じていた。
その心労と暑さのため、さすがに健啖家の野村大使も食欲に衰えをみせ、起床後の日課になっていた庭の散歩もとぎれがちになった。
料理人村井時次郎が、「おい、大使はぐあいが悪いのかい」と、大使が好物のひじきの煮物を残した皿を眺めながら、夫人京子に訊ねたのもこのころである。
「あたしも心配してるんですがねェ。どうも、あんまり夜もよくお寝みじゃないらしいからねェ」
夫人京子も心配そうに声をひそめたが、野村大使は胸奥の屈託は村井夫妻にも館員たちにももらさず、人前では笑顔を示していた。
八月十四日、米国各紙は突然、そしていっせいに米英首脳の大西洋会談を報道した。
第一報は、カナダ首相官邸の発表を報じたAP通信オタワ電であったが、相次いでロンドンの英首相官邸、ホワイト・ハウスからも発表され、大西洋会談で決定された八項目の「大西洋憲章」も明らかにされた。
この「大西洋憲章」は、ナチス・ドイツを打倒したあとの世界秩序の基本方針を宣言する形で、枢軸国に制覇された国々の主権と独立の回復、関係国の領土不変更、侵略国の軍備縮小、敗戦国をふくめての国際的平等などを強調していた。
むろん、各紙とも、米英両首脳がたんにこのような抽象的な声明を作成するだけのために、洋上の秘密会談をおこなったとは信用せず、熱心な取材活動がおこなわれてその“成果”が報道された。
いわく――「大西洋会談では米英協同による対ドイツ作戦計画が決定され、米英軍は近くフランス領アフリカの軍事基地、とくにダカール、カサブランカを攻撃占領する」
いわく――「フランス・ヴィシー政府が支配するカリブ海のマルチニク島を占領し、同島に保管されているフランス国立銀行の金塊四十億ドルを奪回する作戦が、決定された」
いわく――「米英軍は一挙にヨーロッパ大陸に上陸してドイツを攻略する大作戦に合意した」
大西洋会談にかんする発表が少ないだけに、これらの新聞情報は米国内の興奮を呼び、数日中にも米英海軍とドイツ海軍が決戦するという噂まで流れた。
「まさか。それは立派な戦争だ。宣戦布告もせずに、いきなりそこまでやることは、米国のように議会がうるさい国ではできないよ」
野村大使は、噂を伝えた秘書煙石学に苦笑まじりに応えたが、表情は暗かった。
米国が直ちに新聞情報のような軍事行動にでるようなことはないにせよ、戦後の“世界経営”の意図を明らかにしているのは、ドイツとの戦いと勝利の決意を固めたためにほかなるまい。そして、ドイツとの戦いは、ドイツの同盟国・日本との戦いに通ずる……。
野村大使は、ルーズベルト大統領が八月十七日にワシントンに帰ることを知ると、その前日、ハル国務長官を訪ねた。
大西洋会談では、英国が米国をヨーロッパ戦争に引きこもうとして失敗した、という情報を耳にしたので、ルーズベルト大統領のワシントン到着前にもう一度日米首脳会談についてハル国務長官に勧告したいと思ったからである。
もっとも、日米首脳会談にかんするハル長官の態度が冷淡であることはすでに判明している。野村大使もとくに希望は持てない心境であった。
――ところが、
野村大使が、「大西洋憲章」の趣旨は近衛首相の考えと合致する点も少なくない、首相が出馬を決意したのは成功の成算がある証拠だと思う、と述べると、ハル国務長官はそれまでの答弁を変えて、
「貴使に於て十分の見込みを持たれるならば、ホワイト・ハウスに取次いでも宜しい」
「ぜひ、そう願いたいものです」
野村大使は、意外なハル長官の反応にびっくりしながら、そう答えたが、驚きはなおつづいた。
翌日、八月十七日は日曜日だが、昼食がすんで間もなく、野村大使は、ルーズベルト大統領が午後四時半にお待ちしている、との連絡をうけた。
野村大使は、感銘した。ルーズベルト大統領が洋上会談から帰ったばかりで、しかも日曜日の午後に、休息もとらずに野村大使と会見しようというのは、大統領が日米関係に格別の関心を抱いている証拠とみなし得るからである。
「少しは期待がもてる話があるかもしれないな」
野村大使は見送る井口参事官に笑顔をみせて、ホワイト・ハウスにむかった。
ルーズベルト大統領は、ハル国務長官とともに野村大使を迎えたが、野村大使が入室すると、例によって「アドミラル」(提督)と呼びかけ、洋上で陽焼けした顔でうなずいた。
――上機嫌らしいな。
野村大使も、楽しげに笑いかけながら、海上生活はいかがであったか、と問いかけると、大統領は、まことに海は良い、天候にもめぐまれた、米国軍艦ではアルコールは禁止されているが、とくにチャーチルのためにウイスキーを用意したら喜んでいた、などと、快笑をまじえて話した。
ハル国務長官もうすい微笑をうかべていたが、やがて大統領が長官に視線をむけると、軽く眉をつりあげた。合図らしい。
「ところで」――と、ルーズベルト大統領はハル長官の眉の上下運動を眺めると「このようなことは特に申し上げる必要はないと思うが、はっきりさせておきたい」といって、机の上から二枚の紙片をとりあげて朗読した。
「過去数ケ月に亙リ、合衆国及日本国政府ハ太平洋ニ於ケル秩序及正義ヲ有スル平和ノ維持ニ関シ……」
内容は、これまでの日本の政策が、一方で平和を主唱しながら他方では武力南進をつづけていることにたいする警告で次のように結語していた。
「実情右ノ如キヲ以テ、本政府ハ今ヤ日本国政府ニ対シ、若シ日本国政府ガ隣接諸国ヲ武力若クハ武力的威嚇ニ依ル軍事的支配ノ政策ノ『プログラム』遂行ノ為メ、更ニ何等カノ措置ヲ執ルニ於テハ、合衆国政府ハ時ヲ移サズ、合衆国及米国民ノ合法的ナル権利及利益防衛ノ為メ及合衆国ノ安全及保障ヲ確保スル為メ、同政府ガ必要ト認ムル一切ノ手段ヲ講ズルヲ余儀ナクセラルベキ旨言明スルコトヲ必要ナリト思考ス」
ルーズベルト大統領は、もうひとつの文書も読みあげて、野村大使に手渡した。
「……日本国政府ガ其ノ膨張主義活動ヲ停止シ、其ノ立場ヲ調整シ、且合衆国ガ誓約シ居ル『プログラム』及原則ニ従ツテ、太平洋ニ関スル平和的『プログラム』ニ乗出スコトノ希望ヲ有シ、且実行シ得ルニ於テハ、合衆国政府ハ七月ニ中絶セラレタル非公式予備的討議ノ再開ヲ考慮スルノ用意アリ……」
そして、この二通の文書朗読の合い間に、野村大使との間に次のような問答がかわされた。
大使「日本国政府は日米国交調整のために、とくに近衛首相と閣下とのハワイ会談を提案しております。首相は、大局的な意見交換を希望し、米国政府および閣下の高度のステーツマンシップを期待しております」
大統領「ホノルルに行くことは地理的に困難だ。飛行機の搭乗は禁止されてもいる。日本の首相がサンフランシスコまたはシアトルに来るのは難しいだろうか」
大使「ちょっと困難だと思われます」
大統領「それでは……ジュノー(アラスカ)はどうだろう。ちょうどワシントンと東京の中間くらいと思うが、日本から何日くらいかかるだろうか」
大使「たぶん、約十日間と思われますが」
大統領「なるほど。気候も問題だが、十月中旬ごろはどうだろう」
大使「そのころは、結構でしょう」
野村大使は、当惑に似た感慨をふくむ興奮を感じながら、大使館に帰った。
ルーズベルト大統領が提示した二通の文書は、一見した限りでは矛盾している印象もうける。
最初の文書は明らかに、“最終通告”に似た警告である。しかし、第二の文書は、とにかく日米交渉再開を提案している。
「私は、決して今日のような“クローズド・ドア”(閉扉)状態を歓迎しない。しかし、この扉を開くのは日本の態度如何であり、こんどは日本の番だ」
大統領は、そうもいい、そして日米首脳会談にも同意する意向を示している。
――米国政府の真意はなにか? なぜこのような姿勢変換をおこなったのか? あるいは大統領言明にはなにが裏面事情があるのか。
野村大使は、ホワイト・ハウスからコネチカット通りを抜け、さらにマサチューセッツ通りを経て大使館にむかう車中で、考えこんだ。
たしかに、ルーズベルト大統領の言動にはウラがあった。
大西洋会談で米英首脳の討議の対象になったのは、「大西洋憲章」だけではなく、じつは焦点は対ソ援助問題と対日問題であった。
ソ連にたいする援助については、会談にかんする報道で、すでに米国各紙は一致して伝えていた。
「共産主義よりもナチズムのほうが世界に有害であるとの判断と合意が、両国の間で成立した」――と。
しかし、対日問題については、会談で協議されたとしか報道されていなかったが、実際には、チャーチル英首相は、日本の武力南進とくに英領マレー、オランダ領東インド諸島にたいする日本の脅威を防止するため、米国が「戦争を賭しても反対する」との強硬態度を明示してほしい、とルーズベルト大統領に要請した。
ルーズベルト大統領は、しかし、極端に露骨な姿勢は避けるべきだ、と反駁した。
大統領によれば、日本にたいして強硬な態度を示す場合は、具体的な行動を用意したうえでなければ効果がない。だが、米国にはまだその準備がない。
たとえば、米陸軍は会談がおこなわれている当時、約百六十万人を動員していたが、日本と戦う場合にはドイツとも戦うことになるので、その二正面作戦を勝つために必要な兵力は二百十五個師団、八百七十九万五千六百五十八人と算定される。
米陸軍当局の推算では、これだけの兵力を完備できるのは、一九四三年(昭和十八年)七月一日以降になる、という。
国内における反戦気運も意外に根強く、会談のさなかである八月十二日、前年九月に制定された選抜徴兵法の一年延長案が下院を通過したが、その投票結果は二百三票対二百二票、わずか一票差という実情である。
そこで、ルーズベルト大統領は、のちに『レディス・ホーム・ジャーナル』誌が伝えるところによれば、次のようにチャーチル首相に答えた。
「われわれはもうしばらく手控えるほうがよいと思う。その問題は、私に任せていただきたい。私は、三カ月間くらいは彼らをあやしておける(ベイビー・アロング)と思う」
この両首脳の話しあいに従って、八月十七日の野村大使にたいするルーズベルト声明が作案された。
ウェルズ国務次官が原案作成して、大統領より一足先に、八月十五日、ワシントンに帰ってきた。
その原案には、大統領が野村大使に読みあげた「警告」声明よりも強硬な「たとえそれが両国間の衝突を招く可能性があろうとも」という文言が、あった。
ハル長官とホーンベック顧問は、この表現はあまりにも強すぎて、日本を「ベイビー・アロング」するという大統領の趣旨に反すると判定して、それを削除するとともに、「警告」と「交渉再開の招待状」の二通の文書に書きかえて野村大使に手交したのである。
しかし、この二つの文書は、ホーンベック顧問によれば、「その性格は明白であり、注意深く読めば妥協の意思がないことも明瞭に理解できる」ものであった。
「警告」は、これ以上に日本が南進すれば米国は武力で阻止する、と述べているし、「招待状」のほうも、日本が米国側の要求に従うならば交渉再開に応ずる、といっている。
米国側の要求を全面的に受諾するなら、それ以上になにを交渉するのか。
つまりは、「警告」も「招待状」も、日本にたいする屈伏要求にほかならず、ルーズベルト大統領が、十月中旬に近衛首相と会談してもよいような発言をしたのも、「三カ月間のベイビー・アロング」方針にのっとった発言であったわけである。
――だが、
野村大使には、いかに推察をこころみてもそのような裏面事情は察知すべくもない。
車が大使館に到着したとき、野村大使の胸奥には、ルーズベルト大統領の言明にたいする疑惑よりは、日米首脳会談にかんする希望的観測が充満していた。
野村大使は、居間に落ち着くと、さっそく海軍武官横山一郎大佐と陸軍武官磯田三郎少将を招き、大統領との会談経過をひろうした。
二人の武官も、喜びに眼をみはった。首脳会談で「ハラとハラの話し合い」ができれば、まず問題の大筋は解決するにちがいない。
「アラスカのジュノーと大統領がいったわけですね。たしかに、ジュノーはワシントンからも、東京からもほぼ等距離ですよ。してみれば、こりゃァ、ルーズベルトは前々から考えていたかもしれませんね」
「そうだなァ。こんなぴったりした場所をとっさに思いつけるものではないだろうからね」
二人の武官は意見を交換しあううちに、これは本物だ、と異口同音に語りあい、野村大使も何度もうなずいた。
野村大使は、二人の武官が退出すると、上着をぬぎすて、ワイシャツの袖をまくりあげて机にむかい、東京あての報告と意見具申電を起草した。
「本使ノ所見ヲ率直ニ述ブレバ、今ヤ和戦ノ分岐点ニ臨ミツツアリ……今『チヤンス』ヲ逸スレバ最悪ノ場合ニ進ムベク、事態亦《マタ》救フベカラザルニ至ルハ、火ヲ見ルヨリモ明カナリ……。何卒此ノ際政府ニ於テ大英断ニ出デラレ……大局ヲ保全スル様切望ニ堪ヘズ。
未曾有《ミゾウ》ノ難局ニ際会シ沈黙ヲ守ルハ不忠ノ嫌アリト信ジ、敢テ卑見具陳ス」
野村大使は、米国としては日本が背後で「剣ヲ擬シテ立ツ」ような態度にみえるのは不安であろうし、日本にしても、経済断交のまま時をすごすのは自滅の道を歩むだけだと指摘して、このさいは「一時ノ毀誉褒貶ノ如キハ忍ンデ」譲歩してほしい、と訴えた。
野村大使は、その翌日も、とにかく一日も早く首脳会談開催にこぎつけてほしい、と豊田外相に打電した。
海軍武官補佐官実松少佐と寺井少佐は、ジュノー付近の海図をさがした。武官府に見当らないので、書記に命じて米政府印刷局で買わせた。日本から首相一行が渡航してくるとなると、その乗船を迎えるために米海軍当局と打ち合せが必要になるので、あらかじめ知識を得ておかねばならない。
「私らも、首脳会談ができるとなればうまく行く、と思ったので、熱心にやりましてね。海図をにらんで、どうせ日本からは軍艦と客船でくるだろう。軍艦はたぶん重巡だろう。そうなると、吃水はこのくらいだから、ジュノーの港のどの辺に碇泊《ていはく》すべきか。
十月中旬なら、だいぶ寒くなるだろうから、オーバーが必要じゃなかろうか。武官府からは誰が行くべきか。先任補佐官は残ったほうがいいのか、などと、いろんなことを検討しましてね」
わくわく――という表現にふさわしい心境だった、と実松少佐は回想するが、陸軍武官磯田少将は、近衛首相には陸相または参謀総長が同行すべきだ、と東京に電報した。
参謀本部からは、日米首脳会談が開かれるさいには参謀次長塚田攻中将、陸軍省軍務局長武藤章少将その他が随行するという内報が届いていたが、磯田少将はそれ以上の大物が来る覚悟が必要だ、と判定した。
「なぜなら、おそらく会談場所から直接に天皇の御裁可を得るような決断、それも日本国内で期待するほど有利でない妥協をせねばならないはずです。このさいに、いったん日本に帰って協議しなければならないような立場の代表では、まとまるものもまとまらなくなると思えるからです」
覚悟が必要なことは、近衛首相も痛感していた。
近衛首相は、野村大使からの報告電を読むと、若槻礼次郎元首相、幣原喜重郎元外相、友人伊沢多喜男などの意見を求めた。
幣原元外相は、外交交渉はあくまで正規の外交ルートでおこなうべきである。首脳会談といえども外交ルートをはずれた交渉は好ましくない、と反対した。
若槻元首相は、賛成した。
「政治家には面目や名誉や生命を捨ててやらねばならぬことがある。戦争を避けることができるなら、なんでもやるべきだ」
若槻元首相は、そういったあとで、磯田少将と同じく、あとに問題を残さないように参謀総長と軍令部総長という陸海軍の作戦責任者を同行させるべきだ、と強調した。
伊沢多喜男は、成否にかかわらず暗殺されるかもしれないぞ、と近衛首相の顔をのぞきこんだ。
「生命のことなど考えていないよ」
「いや、殺されるだけでなく、アメリカに日本を売ったといわれるだろうな」
伊沢多喜男は、日米首脳会談で合意に達するためには、日本は米国の主張の少なくとも六十パーセントはのまなければなるまい、といった。
「つまり、ルーズベルトが四十パーセントアメリカを売り、キミが六十パーセント日本を売ることになるわけだ」
「それでも結構だよ」
近衛首相は平然と応え、おどろく伊沢を静かに注視した。
24
昭和十六年夏の東京は、暑かった。ほぼ連日、摂氏三十度前後の気温が記録されている。
八月十八日午後四時、駐日米国大使ジョセフ・グルーが外務省を訪ねたときも、大気の温度は摂氏三二・二度に熱せられていた。
グルー大使の訪問は外相豊田貞次郎の招きに応じたもので、豊田外相は大使を迎えると、握手しながら、いった。
「本日、ご足労をいただいたのは、極めて重大かつ極秘のお話をしたいためで、閣下のご協力を切に希望する次第です」
グルー大使は、豊田外相の言葉をメモしはじめたが、当時は外務省に冷房設備はなく、たちまち大使の白麻服はにじみだした汗にぬれ、ひたいから落下する汗がメモ用紙のインクを溶かした。
豊田外相は、汗だくになっているグルー大使を眺めると、事務員を呼んで冷たいおしぼりと麦茶を注文し、手まねで上着をぬぐ。
「暑いですね、提督。それにしても、外交関係の長い嵐の海をのりきるには、提督と私とでこの荒海に油を流さなくてはなりませんね」
グルー大使は上着をぬぎ、ワイシャツの袖をまくりあげながら、豊田外相に微笑した。
当然、(そのとおりだ、しかし、米国が油を日本に売らないのでは、どうすればいいのだ)と、豊田外相が反撃してくるものと予想したが、外相はハ、ハ、と二声ほど笑っただけであった。
豊田外相は、会談内容は絶対に極秘にしてほしい、とくり返して話を進めたが、要するに、日米首脳会談についてグルー大使からも本国に勧めてほしい、との趣意であった。
豊田外相は、日本が平和を望んでいること、南部仏印からも支那事変が解決すればすぐ撤兵すること、日本の首相が外国に出かけることは前例がないことなどを指摘したあとで、やや声をひそめて、つけ加えた。
「日米首脳会談では、日本は必ずしもこれまでの日本側提案に束縛されることはなく、両首脳がステーツマンシップを最高度にはっきして、日米関係の一般的問題を大所高所から公平、平等に片づけることが可能だ、と確信しております」
大幅の譲歩の用意がある――というのである。
豊田外相は、日米国交の問題点だけでなく、国内情勢とくに政府と陸海軍との関係、右翼団体の動向などについても率直に語った。
会談は二時間半におよび、大判ノート十二頁のメモをとり終ったグルー大使は、右手に軽い痛みを感じた。
グルー大使は、豊田外相の提案がまじめなものであることを感得し、大使館に帰ると、ドウマン参事官と秘書ミス・アーノルドとともに外相との会談内容を整理し、十九日午前三時、国務省に意見具申電を発信した。
「いまや、時間の要素が重大である。最近の米国の日本経済生活圧伏にかんする措置は、日本の穏健分子および現内閣の力を強めるよりも急速に弱化し、かえって極端論者の勢力を強化しつつある」
グルー大使は、近衛首相の日米首脳会談の提案は、首相およびその協力者の非常な勇気と決意を表現している、と強調した。もし、事前にもれれば、首相たちはたちまち暗殺の危険に身をさらすにちがいない。
また、首脳会談は、日本側の譲歩がなければ成功しないことはわかっている。それを承知で会談を求めているのは、日本が米国との平和を真剣に希望している証拠であろう。
「もし、この日本側の明白でおそらくは最後のジェスチュアが失敗に終れば、日本の政府は改造または交代することになる。日本の将来の運命は対米戦につながる大東亜共栄圏拡大を志す陸海軍の手中ににぎられるであろう。これは、数学的正確さで予見できる」
日米首脳会談が日米関係の打開の最後のチャンスであることは、野村大使も痛感していた。
会談の成功のためには、日本側が米国側に歩みよる政策の転換が必要だが、それを実現するためにも、首脳会談が望ましいはずである。
野村大使は、八月二十一日、また首脳会談をさいそくする急電を東京におくった。
「政府ニ於テ日米国交調整ヲ御決意ナリタル以上、此ノ機ヲ逸スレバ再ビ機会アリトモ思ハレズ。大統領ノ言ヘル如ク、会見ヲ十月中旬トスルナラバ、下交渉ノ完結ニハ今後僅ニ一ケ月ヲ余スノミ……急速ニ御回訓アリタシ」
野村大使が東京に電報をおくるのといれちがいに、豊田外相から、十八日にグルー大使と会見して首脳会談の促進を依頼した旨を通告してきた。
――だが、
日米の二人の大使が、それぞれに首脳会談の速かな実現を具申しても、両国政府の腰はともに重かった。
もっとも、その事情と理由は互いにちがっていた。米国側がとくに日本の反応をさいそくしなかったのは、すでに日米交渉を時間かせぎ策と定めていたためでもあるが、国務省としては、日米首脳会談そのものにも疑問を感じていた。
野村大使が東京に請訓電をおくった八月二十一日、国務省顧問ホーンベックもハル長官に意見書を提出していた。
ホーンベック顧問は、日米両国の平和が保障されるためには、日本の政界にくいこんだ好戦的な軍国主義のガンが除去され、日本の「政治的健康」が回復されることが必要だ、と述べた。
「したがって、首脳会談については、まず日本が平和意図を具体的に明示し、それが確認されねばならない」
ハル長官も、たんに首脳会談による妥協がおこなわれるのでは意味がない、と考えていた。
「いや、もし明白な根本原則にかんする協定ができないのであれば、それはヒトラーと妥協してヒトラーの擡頭《たいとう》をうながしたミュンヘン会談の再現にすぎない」
ハル長官は、一九三八年九月、チェンバレン英首相がヒトラー・ドイツ総統に宥和政策をとったことが第二次ヨーロッパ大戦の遠因になっている点に注目して、ホーンベック顧問に答えた。
「私は、チェンバレン首相の役割りをはたすつもりはない。日本は、首脳会談で大筋をきめ、細目は後日に交渉するといっているが、この主張そのものが重要視される必要がある」
日本にたいする不信感の表明であるが、日本側では、首脳会談にたいしては格別の反対は無くなっていた。
そのころ、陸海軍は戦争への道を進む決心をするかどうかで、苦慮しつづけていた。
「一日ノ待機ハ一滴ノ油ヲ消費ス。一日ノ待機ハ一滴ノ血ヲ多カラシム。而シテ対米百年戦争ハ避ケ度」
参謀本部で政略(戦争指導)を担当する第二十班の『機密戦争日誌』は、そう記述している。そして、この感慨に誇張はなかった。
当時は、しきりに「ABCD包囲陣」という表現が唱えられていた。アメリカ、ブリテン(英)、チャイナ、ダッチ(オランダ)の頭文字をつらねた呼称だが、支那はともかく、他の三国からの経済的制裁は、日本を、包囲されて糧道を絶たれた孤城の環境においこんでいた。
第二十班の記述は八月十日であるが、そのご陸海軍の作戦当局は連日、東南アジア制圧とそれにともなう対米英作戦の検討に没頭していた。
八月十二日、海軍は九月一日から戦時編制を実施する決定をおこない、次いで陸海軍共同で十三日は南方作戦図上演習、十四、五日南方作戦兵棋演習をこころみ、十六日、海軍は、十月下旬を目途として戦争準備と外交を並行してすすめる、という「帝国国策遂行方針」案を陸軍に提示した。
参謀本部は、喜ぶと同時に不満も感じた。
参謀本部は、日米交渉は見込みうすと判定し、東南アジアの武力確保以外に日本の生存策はない、と考えていた。ただ、その場合に必至の対米英戦は、太平洋が戦場になるだけに、海軍の“蹶起《けつき》”がなければ実施しようがない。
海軍の「帝国国策遂行方針」案は、いねば海軍の“やる気”の表明である。が、それだけでは不十分である。
海軍は、機動性に富む艦艇で行動し、戦争準備といっても、主として基地における兵力と資材の整備である。だから、戦争の決意はギリギリの段階でおこなっても、間に合う。
ところが、陸軍の戦争準備は、大兵力を動員しその兵力を予想戦場付近に集結、展開することを意味する。その準備は国民生活に大きな影響をおよぼすうえに、準備段階の途中で敵と接触して戦争状態にひきこまれる可能性も少なくない。
したがって、陸軍としては、戦争の決意がなければ戦争準備はおこなえないわけである。
参謀本部第一部長田中新一少将は、海軍案を明確な“決意方式”に修正するよう、第二十班に指示した。
「まず戦争を決意し、九月上旬または十月上旬に開戦を決意し、十月下旬に開戦準備を完成し、十一月上旬に開戦する」趣旨にせよ、というのである。
参謀本部が、この田中少将の意見にそった「帝国国策遂行要領」案をまとめたのは、八月十九日であったが、陸軍省は即時戦争を決意する点に難色を示した。
陸軍省から海軍案に近い修正案が届けられたが、参謀本部は八月二十二日、部長会議で陸軍省案を加味しながら戦争決意を明記した案を、決定した。
「……前後四時間ニワタリ審議シ、対米英戦決意ヲ決定ス。次長(塚田攻中将)、対米英戦決意ノ意見牢固タルモノアリ……」
しかし、この参謀本部案が海軍と政府の承認を得られるかどうかは、なお未定である。
「総長(杉山元大将)以下大ナル疑問ヲ持チアリ。一致三分、不一致七分ト考ヘアル如ク、内閣瓦解ハ必至ナルベシ」
第二十班も『機密戦争日誌』に不安の文字をつらねている。
ルーズベルト大統領にたいする回答がおくれていたのは、以上のような陸軍の国策案作成作業がつづいたためでもある。
大統領にたいする回答案の起草は、むろん、外務省の仕事だが、陸海軍務局長を通じて陸海軍の意向をただす慣行ができあがっていたので、陸海軍主務者が多忙のときは事務がおくれることになるのである。
外務省は、八月二十五日、陸海軍務局長を外相官邸に招き、外務省が起草した近衛首相の大統領あてメッセージと日本政府回答案を提示した。陸軍は、同日午後六時、陸相官邸に東条陸相、木村兵太郎次官、武藤軍務局長、佐藤賢了軍務課長、杉山参謀総長、塚田次長、田中第一部長、岡本清福第二部長が集まり、近衛メッセージと政府回答案を了承した。
海軍も同様の手続きで承知し、二つの文書は翌日、八月二十六日の大本営政府連絡会議で可決されたのち、ワシントンに打電された。
電報は第五〇一号から第五〇四号までの四通にわけられていた。第五〇一号はメッセージと回答を打電したとの予告、第五〇二号は近衛メッセージ、第五〇三号が回答文であるが、第五〇四号は次のような豊田外相の指示電であった。
「……今ヤ国際情勢国内情勢共ニ極度ニ緊迫シ、総理ト大統領ノ会見ニ最後ノ望ミヲ嘱シ得ル状況ニ達セリ。右趣旨ニテ大統領及国務長官ヲ説得セラルルト共ニ、右会談ハ必ズシモ厳格ニ冒頭電ニ拘束セラレズトノ当方見解ヲ含ミ置カレ度シ」
この短い指示電には、豊田外相とその背後にひかえる近衛首相の“必死の願い”がこめられていたといえる。
電文中の「国内情勢」は、陸海軍の間でおこなわれている“戦争決意”政策の審議を指摘している。
参謀本部の「帝国国策遂行要領」案は、陸軍省の討議を経て、その翌日、八月二十七日の陸海軍部局長会議で検討される。おそらくは即決されることはないであろうが、それでも一日も速く会談が開かれ、かつ成功するのが望ましい。
事後になればなるほど、会談の成果にかかわらず、既決の政策だという理由で強行される危険性が増すからである。
電文の末節にいう「冒頭電」は『第五〇三号』電、政府回答を指している。豊田外相の指示は、だから、回答は提出したが日米首脳会談ではさらに譲歩の用意がある、との意であり、これまた首脳会談開催を受諾してほしいという同義語にほかならない。
日米交渉、いや日米外交史を通じても、この豊田外相電ほどに真摯な熱意をひれきした電報は、他に類例を発見し難い。当時の日米首脳会談にたいする日本の文官指導者たちの姿勢も理解できるはずである。
もっとも、陸海軍側も、日米首脳会談に少なからぬ期待を寄せていた。
たとえば、海軍は、近衛メッセージと政府回答がワシントンにおくられた八月二十六日、陸軍側に「帝国国策遂行方針」案の改訂案をとどけてきた。
「対米英戦決意ナキハ勿論、対米英戦争準備ノ字句モ抹殺、援補給路遮断作戦準備ト変更シアリ」
日米首脳会談にそなえて、米国を刺戟するような政策に反対する意向を示したもので、翌日、八月二十七日に開かれた陸海軍部局長会議でも、海軍側を代表する岡敬純海軍省軍務局長は、対米戦決意には強く反対した。
陸軍側の考えでは、かりにも対米戦をやる気があるならば、戦争を決意するのは当然かつ必然のことであり、日米交渉も戦争に即応する形でおこなわねばならない。
具体的には、日米交渉は戦争決意を開戦決意に変える根拠としてつづけ、開戦決意が定まったあとは攻撃開始時期をカムフラージュするための偽装工作として継続することになる。
だが、岡軍務局長は、時期を定めての日米交渉打ち切りに反対し、またたとえ日米交渉が不成立の場合でも、「尚欧州情勢ヲ見テ開戦ヲ決スベシ」と、主張した。
陸軍側は、「海軍にははたして対米一戦の決意があるのか」と疑い、一部の幹部は次のような極端な疑惑まで表明した。
「海軍側は最後の瞬間に身をひくのではないか。いや、実際には、開戦の決意とか、太平洋の事態の解決よりも、ひたすら開戦準備の名目で予算と資材を獲得するのが目的ではないのか」
むろん、これは“うがちすぎ”の観測であり、海軍が開戦決意に不同意を強調したのは、和戦の決は軍がきめるものではなく政府の仕事である、という考えと、日米首脳会談に期待をよせていたためである。
陸軍側も、日米交渉が成功する確算は乏しく、日米首脳会談が開かれる公算も少ないはずだが、それでも「会談開催は五十パーセント、妥協成立は二十〜三十パーセント」の見込みはあるものと、観察していた。
陸軍では、航空総監土肥原賢二大将を主席随員にして、武藤軍務局長その他の随員も内定し、配船には日本郵船「新田丸」が選ばれ、その部屋割りも検討されていた。
田中新一参謀本部第一部長も、日米首脳会談には「反対すべき筋合」はなく、むしろ、会談に統帥部の強硬陣容を送って主張を強調させたほうがよいと、考えた。
随員の一人に内定した陸軍省軍務局高級課員石井秋穂大佐も、「悲しいやるせない思い」を感じながらも、日米首脳会談に待機していた。
石井大佐は、日米会談が開かれれば「日米和解」は必ず成就する、と推察していた。
「近衛首相とルーズベルト大統領が会談する―→近衛首相ががんばる―→ルーズベルト大統領もがんばる―→近衛首相が東京にこれ以上はできぬと電報して天皇の裁可を求める―→陸軍は突張る―→しかし、天皇が裁可して陸軍に慰めの優諚が下る―→万事休する」
こういう筋書きがきっと実現するにちがいない。たぶん、すでにシナリオは完成している――と、石井大佐は観測した。
平和は得られても陸軍の立場は失われる。といって、平和は嫌だ、戦争だ、とごねるのは、陸軍といえどもできかねることである。
石井大佐の耳には、外務省が会談の必成を確信していること、各新聞社もひそかに取材活動を開始しているなどの情報が、聞こえてきていた。
近衛首相の側近者たち、たとえば秘書牛場友彦、岸道三、西園寺公一などをねらいうちにして取材がおこなわれ、ある新聞社では約三十人を動員して、これらニュース・ソースはもちろん、陸海軍部内にも情報を求めている、という。
石井大佐自身も何人かの新聞記者に来訪されたが、記者たちの表情は一致して明るく、会談の前途には楽観的期待しか持っていない様子であった。
石井大佐は、記者たちの態度に、平和を求める市民の心をのぞきこんだ想いがすると同時に、平和とはいえ屈伏的平和ではないかという想いにかられ、そして、結局は、日米首脳会談は成功する、これも、「ひとつの運命だ」と思いこむ心境になっていた。
ワシントンでは、野村大使も久しぶりに笑顔を回復していた。
野村大使は、東京から四通の電文が到着すると、まず八月二十七日正午にハル長官を訪ねて「近衛メッセージ」を手渡し、さらに午後八時、政府回答文を持参した。ハル長官との討議はなかったが、野村大使が直接大統領に会見したいと申しいれると、ハル長官は即座に手配する旨を答え、辞去しようとする野村大使をひきとめて歓談にさそった。
相手の表情、態度の動きからその意図を推測するのも外交技術のひとつである。野村大使は、ハル長官の温和な姿勢に「好ましい手応え」を感じた。
そして、翌日、八月二十八日午前十一時、ホワイト・ハウスを訪ねた野村大使は、前夜の感触がまちがっていなかった、と胸中に独語した。
ルーズベルト大統領は、「近衛メッセージ」を一読すると、立派な文書だと讃え、再び近衛首相との会談を承知する旨を述べながら、会談場所はやはりアラスカのジュノーにしてほしい、とくり返したからである。
――「これで、できましたな。きまりましたなァ」
大使館で待っていた陸軍武官磯田少将も、野村大使から大統領との会見の模様を聞くと、双眼に感涙をにじませながら、喜声をはりあげた。
海軍武官横山一郎大佐も、その横で、うん、うん、と声にならぬうなずきをくり返し、井口参事官も笑顔をあらわにして、タバコの煙を天井めがけて吹きあげた。
25
野村大使たちの喜悦は、しかし、ものの数時間しか持続しなかった――。
野村大使は、ルーズベルト大統領と会談した八月二十八日の夜、ハル国務長官を訪ねた。日米首脳会談のスケジュールをうちあわせたいと思ったのである。
ところが、ハル長官は、首脳会談の前に日支和平問題、日独伊三国同盟問題などこれまで双方の議題になっていた諸点の合意を成立させ、首脳会談では最終的決定をおこなう形式をとりたい、と主張した。
そして、合意すべき諸点とは、「領土保全」「内政不干渉」「機会均等」「太平洋の現状維持」の国際関係四原則だ、という。
具体的には、日本の日独伊三国同盟からの離脱、支那からの撤兵、支那の門戸開放、南進の停止など、要するに米国側が四カ月前の日米交渉の発端に強調した要求をのめ、というのである。
野村大使は、瞬時、唖然としてハル長官を注視した。ハル長官のうすいブルーの瞳も、冷然と野村大使を凝視している。
「いずれにせよ、近衛首相が出馬を決心している以上、それらの点についても話しあいをまとめる成算があってのことでしょうから……」
そういいながら、語尾はかすれ、野村大使は当惑と不審の想いにおそわれた。
野村大使にしてみれば、近衛首相が日米首脳会談を提唱し、ルーズベルト大統領も同意したのは、原則論や立場にとらわれがちな事務レベルでは交渉妥協が難しく、高度の「ステーツマンシップ」の交換に期待すればこそと、判断していた。
「ステーツマンシップ」――という単語を、野村大使は何度くり返したことか。
東京への電報でも、ルーズベルト大統領、ハル長官との会談でも、野村大使はほとんど口癖のように唱えつづけてきた。
「ステーツマンシップ」は、日本語に翻訳すれば“政治的手腕”というほどの意味であろうが、このさいは“ハラ芸”といっても良いし、“決断”といいかえても良い。つまりは、両国の政治責任者が破局をさけるために、「一世一代の政治的妥協」をしてもらいたいのである。
ルーズベルト大統領は、それを承知したとみうけられた。だから、野村大使も喜んだのに、ハル長官はまず原則だと話を反転させるかの如き発言をする。
――ルーズベルトとハルとどちらの話が本筋なのか。両人の間で連絡はとれていないのだろうか。
野村大使は、胸奥にそんな疑問が発生するのを感じながら、それでも首脳会談の期日は「九月二十一日乃至《ないし》二十五日」、日本側代表団は「約二十名内外」、場所は「ジュノー」でよいと思う、などと会談開催を予定した提案をこころみた。
ハル長官は、大統領に伝える、と述べただけであった。
その夜――、
野村大使は、深夜まで二人の武官と話しあった。陸軍武官磯田少将も海軍武官横山大佐も、とっさにはルーズベルト大統領の首脳会談受諾の態度と、ハル長官の事前合意要求との間の関連性に、首をひねった。
「大使が大統領と会ったときは、ハルも同席していたわけですからなァ」
「大統領は元首兼首相、ハルは外相のようなものだ。一応は外相としての個人的見解を述べたわけでしょうか」
実際には、ルーズベルト大統領とハル長官の態度には、対立はなかった。
ルーズベルト大統領は、ただ日米首脳会談の開催に同意しただけであり、ハル長官は会談を成就させるための要件を指摘している。
いわば、大統領と長官は、「二人三脚」スタイルで野村大使に応接していたわけで、その見解も国務省の情勢判断を基礎にして一致していた。
国務省といっても、日米交渉にかんする意見具申の主務者はホーンベック顧問、ハミルトン極東部長、バランタイン日本課長の三人だが、八月二十八日の朝ホーンベック顧問とバランタイン課長は、そろって野村大使を迎えるさいの応答について意見書を提出した。
バランタイン課長は、日本は内部分裂している、日本のやり方は全体で賛成して部分で例外を求めることが多い、ゆえに日本には「根本原則の一致が必要だ」との態度を維持すべきである、と指摘した。
ホーンベック顧問は、日本は弱い、首脳会談を求めたのは日本であり危機に直面しているのも日本である、ゆえに日本には原則で対処すべきだ、「原則を通してアメリカが損をすることはない」と、強調した。
首脳会談の申し込みにはうなずくが交渉には妥協するな、というのが、二人の共通した結論であり、この結論は、日本を「ベイビー・アロング(あやす)」しようとする大統領の意図にそい、また原則外交を重んずるハル長官の信条にも合致していた。
ルーズベルト大統領とハル長官は、そこで、ホーンベック顧問の表現によれば、「大統領が門を開き、国務長官が玄関の前で追い返す」役割りをきめて、そのとおりに野村大使を処遇したのである。
野村大使には、そのような事情はわからない。
だが、二人の武官と話しあううちに、野村大使も武官たちも、ハル長官の発言が結局はルーズベルト大統領の承認を得ているはずであり、首脳会談の前に明確な譲歩を要求していると判定した。
野村大使は、翌日、八月二十九日、ハル長官との会談の模様を東京に報告するとともにその末尾に次のようにつけ加えた。
「国務長官ハ極メテ慎重注意深ク本問題(日米首脳会談)ヲ取扱ヒ……大綱ニ付双方ノ意見略々《ホボ》一致セザル限リ、首脳者会見ノ運《ハコビ》ニ到ラザルベシト思料ス」
野村大使たちの心境は、再び沈鬱感に満たされ、二人の武官は、国交の悪化にそなえて武官府を大使館内に移転させる準備を急ぐことにした。
野村大使の電報をうけた東京も、不審の眼を光らせて考えこんだ。
ルーズベルト大統領との会談を伝える電報が八月二十八日、次いでハル長官との会見電が二十九日に到着したが、前者は首脳会談開催について楽観を述べ、後者は悲観を感じさせていたからである。
当然、政府でも軍部でも、楽観論と悲観論が交錯したが、政府内部では概して楽観論が多かった。かりにも元首である大統領が同意しているのだから、会談は開かれるにちがいない。
近衛首相は、八月二十九日から三十一日まで箱根「富士屋ホテル」にこもり、牛場友彦、西園寺公一、松本重治(同盟通信社編集局長)たち側近とともに、ルーズベルト大統領との会見のさいの提案を検討した。
近衛首相としては、とにかく首脳会談さえ開かれれば……という希望と期待が強かったので、明白な悲観材料がない限りは楽観的観測を選びたかった。
おりから、近衛メッセージがルーズベルト大統領に伝達されたことが、一般に知られていた。
事実を明らかにしたのは、じつは野村大使で、野村大使はルーズベルト大統領との会見のあと、ホワイト・ハウスの玄関で『ヘラルド・トリビューン』紙記者に語り、同盟通信社ワシントン特派員加藤満洲男も東京に打電した。
日米交渉は極秘事項であったが、政府もやむを得ず、二十九日午後二時二十分、情報局から近衛メッセージ伝達の事実を発表した。
むろん、メッセージの内容も日米交渉の経過も発表はされなかったが、この近衛メッセージにかんする報道は、一般国民の好意を招いた。『東京朝日新聞』社説は、日本は支那事変の完遂と大東亜共栄圏確立という二大目標を放棄してはならぬ、と強調しながらも、次のように近衛メッセージにあらわれた動きを歓迎した。
「近衛首相が、日米間の極めて微妙なる情勢の中に……太平洋問題検討の機会をとらへたことは……打つべき手を打つたものとして吾人はその成行きを冷静に注視したいと思ふものである」
この社説は、世論の支持とみなされ、近衛首相は側近たちと熱心に首脳会談準備をすすめた。
箱根山の冷気は快く、「富士屋ホテル」は内外人の避暑客で充満していた。
近衛首相たちは、午前と午後の散歩をのぞいては、首相が好きなゴルフもせずに協議をかさねたが、首相たちの討議には、井川中金理事とウォルシュ司教も加わっていた。
ウォルシュ司教は、京都から朝鮮・京城を訪ね、また京都に帰っていると、突然、井川理事の来訪をうけた。八月二十三日である。
その前日、ウォルシュ司教はニューヨークのドラウト神父から、「ヘルス・リカバード(健康回復)」という電報をうけとっていた。司教は、おどろいた。
電文は、日米交渉の希望が再開したことを意味している。それまでの連絡では、神父はいつも交渉が悲観的である旨を伝えてきていた。
それだけに、ウォルシュ司教は神父からの唐突な明るい電文に一驚したわけだが、翌日はさらに井川理事との再会という驚きにそうぐうしたのである。
井川理事は、「おお、ポール。わが子よ」とびっくりするウォルシュ司教に、八月十六日横浜着の「竜田丸」で帰国していたこと、岩畔大佐も一緒だったこと、大佐は軍務に復帰したことなどを語り、そのごの日米交渉の経過も報告した。
「そうか、わが子よ。では、近衛首相が決意されたのか」
「イエス、猊下《げいか》。最後の決意です」
井川理事は、近衛首相は暗殺の危険も覚悟している、と感銘深げに話し、いま一度の協力を求めたい、といった。そして、ウォーカー郵政長官に日米首脳会談開催に尽力するよう依頼してほしい、すぐ箱根にむかってほしい、と井川理事は、要請した。
「近く、近衛首相は箱根に来ます。猊下のアドバイスを望んでおられるのです」
その翌日、八月二十四日午後、ウォルシュ司教は井川理事と理事が同伴した女性とともに、京都を出発した。
急行列車の切符が入手できなかったので、午後四時京都発の普通列車にのり、午後七時名古屋に着き、午後十時十五分の夜行列車にのりかえて、八月二十五日午前七時、「富士屋ホテル」に到着した。
夜行列車は満員で、三人は座席もなかったが、井川理事が車掌と交渉してようやく二等寝台一人ぶんを確保して、三人は寝台にならんで坐ったままの旅であった。
井川理事はウォルシュ司教のためにホテルの「花御殿」と呼ばれる棟の部屋を予約していた。部屋は「あざみ」と名づけられていた。
「費用はいっさいご心配なく。猊下は首相の賓客です」
井川理事はそういい、ウォルシュ司教に、近衛首相たちが東京に帰ってからも、滞在することをすすめた。
ウォルシュ司教は、近衛首相とは一度、牛場、松本、西園寺たちとは数回にわたって会談したが、近衛首相は大幅の譲歩を用意していることは告げず、他の側近たちも、首脳会談が失敗すれば日本の政治は軍の手中におちる、と強調しただけであった。
ウォルシュ司教が、どのようなアドバイスをこころみたかは不明だが、司教は二回にわたってウォーカー郵政長官に電報をうった。
野村大使が伝達した日本政府回答がぎりぎりのものであり、「重要問題は首脳会談以外では決定され得ない……なによりも時間が重要だ」という内容である。
電報は、ウォルシュ司教が箱根に着いた翌日、八月二十六日と、近衛首相が帰京した翌日、九月一日にワシントンに送られ、ウォーカー長官はそれぞれ二日後に、ハル国務長官に伝達している。
ウォルシュ司教は、あらゆる角度から考えて、困難な日米交渉を成功させる唯一の方策は、交渉そのものを中断しないことだ、と井川理事に述べた。
「どんな小さなことでも、両国の関係を維持したいという意思が理解されることは、なんでもやるべきです。たとえば、ルーズベルト大統領の誕生日に祝電を送る。これだって、好意のあらわれでありましょう」
なるほど、と井川理事は感服した様子で、近衛首相が八月三十一日午後に帰京するさい、司教のアイデアを伝えた。
すると、その三日後、九月三日朝、ウォルシュ司教がホテルに滞在している他の神父たちと歓談していると、井川理事が近づき、司教を部屋につれこんだ。
「猊下、危険がせまりました。すぐここを立ち退かねばなりません。憲兵がわれわれの所在を探知しました」
「なんのことです……? 貴下は日本政府を代表する立場にあるといわれた。憲兵がなぜ貴下に面倒をかけるのですか」
ウォルシュ司教は、胸部の前で手を組みあわせながら、眼をむいた。憲兵は政府のために働く。反逆の疑いがあるならともかく、そうでなければ、政府側の人物を憲兵がねらうはずがないではないか。
「イエス、猊下。たしかに私は政府を代表しております。首相のために働いています。しかし、それでも憲兵はわれわれを逮捕するし、射殺することもできるのです」
話の筋ははっきりしないが、明らかにおびえている風情の井川理事をみると、ウォルシュ司教もそれ以上の質問は無用と考え、井川理事の勧告にしたがってホテルをひきはらい、理事の車で鎌倉の井川理事宅にむかった。
なぜ、井川理事がウォルシュ司教に憲兵がねらっていると告げたのか、その理由は判明しない。ウォルシュ司教が格別に憲兵にマークされていた事実はないからである。
あるいは、当時は外国人にたいしては一般に警戒心をかきたてる社会風潮があり、とくに反米感情が高まる傾向が強かったので、井川理事も万一の事情を懸念したのかもしれない。
いずれにせよ、ウォルシュ司教は、よく事情がわからないままに井川理事宅に滞在し、さらに鎌倉のホテルに移って日をすごすことになるが、井川理事が司教に伝えた“危機”が不確実だとしても、その同じ日、九月三日、東京とワシントンでは、ともに日米国交の「危機」が具体的に痛感されていたのである。
九月三日午前十一時、大本営政府連絡会議が開かれ、「帝国国策遂行要領」が審議された。
「帝国国策遂行要領」は、それまで陸海軍当局で討議されてきた陸海軍案をまとめたもので、主文は次の三項であった。
「一、帝国ハ自存自衛ヲ全ウスル為、対米(英蘭)戦争ヲ辞セザル決意ノ下ニ、概ネ十月下旬ヲ目途トシ戦争準備ヲ完整ス。
二、帝国ハ右ニ併行シテ、米英ニ対シ外交ノ手段ヲ尽シテ帝国ノ要求貫徹ニ努ム。
三、前号外交交渉ニ依リ、九月下旬ニ至ルモ尚我要求ヲ貫徹シ得ザル場合ニ於テハ、直チニ対米(英蘭)開戦ヲ決意ス」
この案は、陸軍側の譲歩によるもので、陸軍としては少なからず不満であった。
第一項は、陸軍案では「……戦争ヲ決意シ……」となっていたが、岡敬純海軍省軍務局長が「……戦争ヲ辞セザル決意ノ下ニ……」と修文要求をして、陸軍も同意した。しかし、戦争決意と戦争を“辞セザル”決意とでは、後者は必ずしも戦争を決意しなくてもよいことになり、陸軍の意向とはだいぶ相違した。
それでも、第三項では明確な戦争決意をすることになっているので、陸軍としては、第三項が第一項をうち消す効果があるものとみなしていた。
ところが、午後六時までつづいた連絡会議では、第三項についても海軍側から修正が要求され、結局、第三項の「九月下旬」が「十月上旬頃」に、そして「我要求ヲ貫徹シ得ザル場合」が「……完徹シ得ル目途ナキ場合」に訂正された。
この訂正の効果は、明らかである。陸軍案であれば、外交交渉の成否は定められた期限がきた段階で結論づけられるが、修正案では、はたして「目途」があるかないかの討議をさそうだけで、戦争決意には直接結びつかないことになる。
骨抜きだ――というのが、陸軍側の不満をこめた感想であったが、それでもこの「帝国国策遂行要領」が対米戦決意の「一歩前」の決定であることは、まちがいない。
日米関係の破局は一段と歩度を速めたといえるが、ワシントンでも、野村大使は同じく破局への傾斜が深まったことを感得していた。
野村大使は、ワシントン時間・九月三日午後五時(日本時間四日午前七時)ルーズベルト大統領と会見した。
八月二十八日に手渡した近衛メッセージと日本側回答に対する返事をもらうためだが、大統領は相変らず、「百万ドルの微笑」と俗称される笑顔で野村大使を迎えた。ハル国務長官も同席した。
ルーズベルト大統領は、近衛首相が各種の政治勢力と対抗している立場に同情する、と語り、また、「九月下旬に約束があるが、ほかにはない」と、首脳会談を期待している風情でほお笑んでみせた。
しかし、野村大使は、そういった会話ももはや無意味ではないかと、深い失望を感じていた。
ルーズベルト大統領は、首脳会談について発言したあと、すぐに「だが、アドミラル、貴下と国務長官との間でまとまらないことは、他の誰がやっても難しい」とつけ加えたが、大統領が朗読した近衛メッセージにたいする回答も、首脳会談の前の予備会談を強く要求していた。
つまりは、予備会談ぬきの首脳会談には反対だ、ということだが、さらにもうひとつの文書、日本側回答にたいする「オーラル・ステートメント」では、あらためてハル長官が提唱してきた四原則と六月二十一日の米国側提案を列挙して、次のように言明していた。
「日本国政府ハ、米国政府ト米国民ハ(ソノ)信奉スル原則ニ合致セザルベキ何等ノ協定ヲ締結セザルベキ事ヲ、確認セラルベシ」
日本側がこれまで提示してきた松岡修正案、松岡再修正案、あるいは局地解決案など、すべての提案はいっさい認めない。
米国案、それも「日米諒解案」などではなく、ハル長官の「六月二十一日案」だけを受諾せよ、というにひとしい。
――最後通告だ、これは。
野村大使は、刃風に似た冷風が胸奥を吹きぬける想いで、二通の文書に視線を凝固させた。
会話はとだえ、ルーズベルト大統領もハル長官も、しらじらと野村大使を見つめていた。
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一九四一年九月二十二日号の米国週刊誌『タイム』の表紙絵は、野村大使である。
白麻服を着て、左手を頭のうしろにあてたポーズの大使の顔が描かれている。
そして、本文には次のようなインタビュー記事が掲載されていた。
――「私は老人だ」と、アドミラル野村はいった。
「私は太平洋の戦争がどんなにひどいものか、わかっている。歴史上、このように広大な地域での戦争は類例がない」
――「私は老人だ」と、彼はいう。「私は古い格言を知っている。身体の四分の三が焼ければ、もはや残りを救うことはできない、という格言だ。いまは戦争の危機の時代だ。ほとんど世界の四分の三が燃えている。消防夫の役割りをはたす政治家がいなければならない」
――キチサブロウ・ノムラの困難は、本国の手強い陸軍とワシントンの手強い大統領という、二つの火にはさまれていることである。
この『タイム』誌の特集は、険悪化する日米関係の焦点に位置する野村大使に同情して企画され、記事には「名誉ある消防夫」というタイトルがつけられていた。
もっとも、発売されたのは、週刊誌の慣行にしたがって表記日付の一週間前、九月十五日である。野村大使にたいする取材は、さらにその数日前となる。
だから、誌上で伝えられている野村大使の意見は、ほぼ九月十日ごろのものになるわけだが、野村大使自身にとっては、そのころも、さらに『タイム』誌の表記日付である九月二十二日ごろも、見解に変化はなかった。
「どんな妥協も戦争よりはましだ」――というのが、野村大使の持論であり、日米関係は日本側の思いきった政策転換がなければ打開できない、というのが大使の情勢判断である。
『タイム』誌に語った野村大使の見解も、この「持論」と「判断」にもとづいている。
そして、『タイム』誌は、野村大使自身を“消防夫”と呼んだが、野村大使が危機の消防夫に望んだのはルーズベルト大統領であり、消火の“現場”を日米首脳会談に求めているのも、明らかであった。
だが、いまや、その“消火”活動への期待はほとんど消滅しつつあるとしか、思えなかった。
九月三日のルーズベルト大統領の回答いらい、日本側は文宇どおりに必死の想いをこめて日米首脳会談開催への努力をつづけていた。
豊田外相は、九月四日、仏印を基地としての武力進出や北方進出はしない、日支和平後は早期撤兵する、米国の支那での経済活動を無制限に認める。日米通商関係の回復、米国の対支援助中止、など「予備的大綱的見解合致点」を列挙した提案を打電してきた。
「帝国国策遂行要領」は、九月六日の御前会議で正式に決定されたが、その夜、近衛首相は知人・伊藤文吉の私宅にグルー大使を招き、極秘に会談した。
会談の秘密を保つために、伊藤家では使用人を外出させ、会談には近衛首相とグルー大使のほかは、首相の秘書牛場友彦と米国大使館参事官ユージン・ドウマンだけが同席した。
会談は、食事をふくめて三時間におよび、近衛首相は異常な熱意をこめて日米首脳会談開催の希望を述べた。
――日米交渉の成功は、陸海軍も一致して望んでいる。
――しかし、その機会はこの内閣を措いてはあり得ず、この機会を逃したら我々の生涯の間には再びその機会は来ないであろう。
――首脳会談の代表の人選もすんでいる。
――一日も早く大統領と根本問題を諒解しなければならない。細目を論じあっていれば、半年、一年はすぐ経過するが、半年または一年後に交渉をおこなえる保障はない。
――いまなら解決を保障できる。大統領との会見で必ず解決できる自信がある。そのためには天皇に無線電信で直接裁可を求める。
――自分の身体生命にたいする個人的危険も甘受する覚悟である。
近衛首相の語調は、真剣味にあふれ、牛場友彦は何度かまぶた《ヽヽヽ》をぬらす涙をおさえていたが、グルー大使も感動して、即刻ワシントンに首脳会談開催をうながす意見具申電をうつ、と応えた。
「お願いします」――と頭をさげた近衛首相は、さらに「時間」の問題が大切だ、われわれは時間に追われている、とくり返した。
この近衛首相の指摘に、誇張はなかったといえる。
たしかに、日本は二つの意味で時間との競争を強制されていた。
ひとつは、米国の対日経済断交により、日本は一日ごとに手持ちの物資を食いつぶす形になっている。このままで推移すれば、軍需、民需ともに資源は涸渇し、あるいは経済的自滅状態を招くのも、時間の問題であろう。
グルー大使の耳にも、米、英、オランダによる日本資金凍結の結果、日本の外国為替事情は悪化し、ドイツの信用貸しによってスウェーデンから物資を買入れようとしている、との情報が、とどいていた。
もうひとつの時間の脅威は、近衛首相とグルー大使が密談した日に決まった「帝国国策遂行要領」がもたらしている。「帝国国策遂行要領」は、戦争決意の決定ではない。しかし、戦争準備の決定であり、「十月上旬」には日米交渉の見込みに結論をだすことを決定している。
「十月上旬」までに日米国交調整のメドがつけられなければ、対米戦争が決意されかねないのである。
経済的自滅をまぬがれるためには、そして戦争を避けるためにも、日米首脳会談は「十月上旬」までに開かれねばならない……。
近衛首相がとりわけて「時間」の重要性を強調したゆえんであるが、それにしても、米国側はなぜ日米首脳会談に応じないのか。
「首脳会談をひらくまえに根本原則の一致が必要だといいますが、四原則のひとつが欠けてもダメだというのか。あるいは、問題をひとつにしぼってその点についての合意が成立すれば会談を開くのでしょうか」
牛場友彦は、近衛首相に意見を述べ、その点について米国側の意向を打診することにして、九月十七日、参事官ドウマンを訪ねた。
ドウマン参事官は、カゼをひいて寝ていたが、牛場友彦は、「カゼがうつってもかまわない」と電話で叫んで、ドウマン参事官に会った。
牛場友彦は、ガウンを着てベッドに半身を起したドウマン参事官の横に椅子をひきよせ参事官がセキとともに吹きだす病菌を吸いこみながら、日本が最も望むのは支那事変の解決だ、日支和平が日米交渉の核である、日支和平のあっせんを米国大統領に依頼しているのが日米交渉そのものだ、と話した。
ドウマン参事官は、しかし、日本側は支那にたいする講和条件を具体的に示していないではないか、と反駁した。
「それがはっきりせず、またその条件が米国が主張する国際関係の原則に合致することが納得できなければ、米国政府としては支那に仲介できないではないか」
なるほど、とうなずいた牛場友彦は、近衛首相に報告し、近衛首相は豊田外相に告げた。
九月二十二日、豊田外相はグルー大使を招き、次のような「日支和平基礎条件」を提示した。
善隣友好 主権及領土ノ尊重 日支共同防衛 撤兵 経済提携 政権ト汪政府トノ合流 非併合 無賠償 満州国家承認
この「日支和平基礎条件」は、参謀本部の意向にそったもので、つまりは“対支講和条件”である。
このうち、は「反共」のための日支協力を意味し、そのために一定地域に日本軍を駐屯させることであり、の撤兵はに必要な兵力を除き和平成立後に日本軍をひきあげる趣旨である。
豊田外相は、九月二十七日は日独伊三国同盟締結の一周年記念日である、とくに国内に不穏な動きは見えないが、できるだけそのころまでに米国の好意ある回答を得たい、とグルー大使に希望した。
野村大使は、九月二十三日午前九時、ハル国務長官を訪ねて、「日支和平基礎条件」を手渡した。
「我方ハ既ニ云フベキコトヲ尽シ……目下之以上ノコトハ両国首脳者ノ会談ニ譲ルノ外ナシ……」
野村大使はハル長官にそう力説して、はやく日米首脳会談をひらいてほしい、と切望した。しかし、ただうなずくハル長官の様子をみると、期待うすの感はまぬがれなかった。
野村大使は、二日前、九月二十日付で東京に打電していた。
「(米政府ガ)日本ニ対シ懐疑的ナルコトハ蔽ヒ難キ事実ニテ、率直ニ申セバ、米国側ニ於テハ、日本ハ米国ヲ『アピーズ』(宥和)シツツ、武力政策ニ出ヅルモノト認メツツアルナリ」
その前日、十九日に会見したさい、ハル長官は「平和五十、武力征服五十ニテハ困ル」といい、またウォーレス副大統領が、日本にたいしては米政府はいっさい妥協しない方針だ、と言明したという情報も耳にしている。
海軍武官横山一郎大佐も、日米交渉の前途を悲観する情勢判断を東京に打電していた。
横山大佐の観測では、米国は英国、オランダ、支那を加えて経済的対日包囲態勢をととのえている以上、米国のほうから譲歩する必要は認めまい。「時間」は、米国の味方である。時間がたつほど日本の経済的困難は増し、米国の軍備は充実するからである。
したがって、日本としては、「好機ヲ待ツ為進ンデ遷延策ニ出ヅル場合」は別として、日米交渉をどうしてもまとめようとするのであれば、米国が最も反対している「対支駐兵」を思いきるほかはない……。
この横山大佐の意見は、完全に野村大使の判断に一致していた。
それだけに、「対支駐兵」を主張する「日支和平基礎条件」では、首脳会談の誘い水にはなり得ないのではあるまいか。
野村大使は、それでも、なにか首脳会談開催をうながす方法はないか、と考え、大使館の顧問フレデリック・モアを呼んだ。
フレデリック・モアは、上院議員エルバート・D・トマスと親しい。野村大使は、トマス議員との会見をあっせんしてほしい、時間と場所は先方にまかせる、といった。
トマス議員はモルモン宗徒で、かつて日本に伝道師として住んでいたことがある。極東問題に関心が深く、上院外交委員会のメンバーでもある。野村大使とはそれまでに一度、夕食をともにしたことがあるが、日米交渉の経過については知識がないはずである。
しかし、上院外交委員会のメンバーという立場は、政府にたいして影響力を持っている。
フレデリック・モアは、トマス議員を訪ね、日米交渉の経過、とくに首脳会談が唯一のチャンスになっていながら実現されない事情を説明した。
「わかった。しかし、ことは重大だ。アドミラルに会う前に国務長官の意見を聞く必要があると思う」
トマス議員は、フレデリック・モアの前でハル国務長官に電話をかけ、面談の約束をした。
二時間後、フレデリック・モアが議員の事務所を再訪すると、トマス議員は首をふり、肩をすくめた。
「残念だが、フレディ。長官は、いまは私がアドミラルに会う時期ではないという意見だったよ」
野村大使は、フレデリック・モアの報告を聞くと、いかにもがっかりした風情で、声を低めて、いった。
「モア。もう、米国の友人たちも会ってくれなくなったらしいな」
東京からも、日米首脳会談開催を督促する急電が、つづいた。
九月二十五日には、亜米利加局長寺崎太郎がグルー大使にさいそくした旨の連絡があり、その二日後、九月二十七日には、豊田外相から切迫した語調をあらわにした緊急電がとどいた。
「……当方トシテハ総理一行ヲ輸送スベキ船舶ハ勿論、陸海軍大将ヲ含ム諸随員モ夫々内定シ、何日ニテモ出発シウル姿勢ニアリ。
……帝国政府トシテハ、今ヤ米国政府ノ(開催日取ノ)回答ノ一日モ速カナラン事ヲ期待ス。
……国際情勢ヨリスルモ亦国内情勢ヨリスルモ、此際『タイム』(時間)ガ凡テ関係アル主要ナル要素ニシテ、一日モ速カニ両首脳ノ会見ヲ決定スル必要アリ。
……追テ会合期日トシテハ、当方トシテハ十月十日乃至十五日ヲ好都合トス」
豊田外相が、あえて会談期日を指定して督促したについては、事情があった。
二日前、九月二十五日の大本営政府連絡会議で、陸海軍は参謀総長、軍令部総長の連名で、次のような「政戦ノ転機ニ関シ外交交渉成否ノ見透決定ノ時機ニ関スル要望」を政府に提示した。
「帝国国策遂行要領ニ伴フ帝国ノ対米(英、蘭)開戦決意ノ時機ニ関シテハ、作戦上ノ要請ヲ重視スベク、之ガ為日米外交交渉ハ一日モ速カニ其ノ成否ヲ判定シ、遅クモ十月十五日迄ニ政戦ノ転機ヲ決スルヲ要ス」
なぜ十月十五日までなのか――その根拠は戦争開始日からの逆算にあった。
参謀本部の考えでは、「帝国国策遂行要領」は、「戦争準備→戦争決意→開戦」という戦争発起に必要な三段階のうちの二段階までを定めたものである。
しかし、この三段階は一体関係にあって、分離し得ないものである。第二段階は第三段階を前提にしている。
「十月上旬頃」に戦争を決意するということは、当然、開戦時期を規定しての話である。
参謀本部は、南方作戦遂行に要する見込み期間と作戦地の気象条件などから、十一月十五日には開戦すべきだ、と判定した。そして、作戦兵力の準備、展開に必要な時間を約一カ月と算定した。
すなわち、開戦決意はぎりぎり十月十五日にはおこなわねばならぬことになる。そこで、その開戦決意を左右する条件――日米交渉の成否にたいする判定――も、その日までにはっきりさせる必要があるわけである。
近衛首相は、この“期限付き開戦決意”の提案にショックをうけた。
連絡会議の席上では、「要求はよくわかる。従ってルーズベルトと会見する場合は、十月初めに出発しなければならない」と述べたが、会議が終ると、用意されていた昼食もとらず、会議参加閣僚を首相官邸へさそった。
陸海両総長の要望は強い要望なのか、と質問し、東条陸相が「もちろん強い意見だ。いや、要望ではなく、御前会議決定そのものだ」と突っぱねると、翌日、木戸内大臣に辞意をもらした。
「それは無責任だ。九月六日の御前会議をやったのはキミじゃないか。決定をやり直すことを提議し、それで軍部と不一致というならともかく、このまま辞めるのは無責任だ」
木戸内大臣は、むしろ、憤然として諫言し、近衛首相も、うん、とうなって、思い直す旨を告げた。
だが、それにしても、近衛首相がグルー大使に強調し、また豊田外相も野村大使も一致して痛感していた「時間」の切迫がこれほど明確な形で表示されるとは、近衛首相にも予想外であった。
十月十五日まで、といえば、わずか二十日間の余裕しかない。
この二十日間に、日米交渉で「我要求ヲ貫徹シ得ル目途」を明確にする方法は、まさしく日米首脳会談以外には、ない。
杉山参謀総長も、連絡会議を終えて帰庁すると、「巨頭会談に米国が応じないというなら、もはやわが目的を外交によって貫徹し得る目途なしとみなければならない」と、各部長に言明した。
ワシントンでは、野村大使は困惑しきっていた。豊田外相電が、とくに会談日を指定してきた意味は不明であったが、いずれにしても、ただ一方的に早く、早く、といわれるだけでは、米国側に取り次ぎようもない。
野村大使としては、「既ニ云フベキコトヲ尽シ……」とハル長官に述べたように、米国側に伝えることはすべて伝えてあるし、東京にも意見を具申すべきことはすべて打電している。
せめて意見具申に応ずる政策の転換でもあれば話のしようもあるが、東京からの訓電にその気配はない。まさか、なんのメドもなく、ただお願いしますというのは、外交の名に値しないはずである……。
野村大使は、一等書記官松平康東に国務省のバランタイン日本課長を訪ねて首脳会談開催を督促させ、また九月二十九日朝、ハル長官に会って、ルーズベルト大統領との会見を要請した。
大統領に直接懇願したいと思ったのだが、ハル長官は、大統領は不在だが、ワシントンに帰り次第面会できるようにする、と答えた。
ハル長官は、そのあと、日本の世論の動きはどうか、とたずね、野村大使は不快げに発言した。
「米国がモンロー主義を唱えながら、何故にアジアにそれほど深く干渉するやと考える者も、日本には少なくない。日本の世論が米国の希望するとおりに定まるのを待つのは、百年河清《かせい》を俟《ま》つが如きである」
日米関係の前途は、首脳会談が開催されるかどうかの一点にかかっている。それなのに世論の動きを問題にするのはどういう心情なのか。
野村大使には、ハル長官が会うたびに新たな話題、それも肝心の主題をそらすようなテーマを選んでいるように思え、好感が持てなかった。
東京からは、なおも首脳会談開催にかんする努力要請電がつづいた。
グルー大使も、九月二十九日、ハル長官にあてて、このさい原則論議をたなあげにすべきである、日本は十分な譲歩の意思表示をしている、首脳会談が開かれなければ軍部内閣が出現するだろう、という長文の意見を打電してきた。
豊田外相の九月三十日電は、米国側が六月二十一日のハル提案を固執するならそれをうけいれてもよいから首脳会談にはいりたい、と伝えてきた。
寺崎亜米利加局長からも、井口参事官に、このさい一段と館員一同が精励して「大使ノ補佐ニ遺憾」ないようにしてほしい、と激励電報がとどいた。
野村大使は、これらの電報が到着するたび、読むたびに頭を深く垂れて暗然としていたが、十月二日午前九時、ハル長官の招きで国務省に出かけて帰ってくると、居間を片づけていた料理人村井時次郎の妻京子を立ち退かせ、ドアを閉めきってしまった。
めったにない所作なので、びっくりした村井京子は、しばらくドアの外で呆然としていたが、やがて眼をみはると地下室の調理場に下りていった。そっと夫時次郎の袖をひき、ささやいた。
「ねェ……大使、泣いていらっしゃるみたいなんだけど」
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野村大使が、料理人村井時次郎の夫人京子が推測したように、ほんとに泣いていたかどうかは、不明である。
京子の報告を聞いておどろいた村井時次郎が階段をかけのぼり、忍び足で大使の居間に近づき、ドアに耳を接触させてみたが、それらしい声音は聞こえなかったからである。
「なんでェ……つまらねェことをいって。そんな様子はさっぱりじゃねえか」
静まりかえっている居間の前を、再び抜き足で離れた村井時次郎は、廊下の一隅で心配そうに待つ夫人京子をアゴでうながしながら、首をふった。
「だって……」
「だってもこうもねェ。大使は海軍大将だ。大将が泣くわけはねえじゃねえか」
いささか説得力に乏しい論理だが、村井時次郎は強引にそう主張して調理場にもどって行った。
あるいは、村井時次郎のいうように、野村大使の泣き声と思ったのは、夫人京子の聞き違いであったかもしれない。が、声にはならずとも、野村大使の胸奥は悲憤の想いで満ち、双眼は悲涙でうるんでいたはずである。
その日、野村大使はハル長官から近衛メッセージと日本政府回答にたいする米国側声明をうけとったが、その声明文は日本側にたいする返事であると同時に、いわば“絶縁状”にひとしいものであった。
文面は丁重であるが、内容は例の四原則を明記したうえ、日本軍の支那駐兵に反対し、日独伊三国同盟からの脱退を求めるなど、それまでの日本側の譲歩を超えた“全面屈伏”を要求していた。
そして、ハル長官は、一時の間にあわせ的な妥協ではなく明確な協定を望む、といい、さらにきっぱりと言明した。
「米国政府はあらかじめ諒解が成立するにあらざれば、両国首脳者会見は危険であると考えている」
首脳会談は延期する――というのである。
「此の回答では東京はさぞかし失望するであろうが、とにかく伝達すべし」
野村大使はそういって回答文をうけとってきたが、これで日米交渉は終幕を迎えたという感慨が全身をつつんだ。
「日米交渉ハ遂ニ『デッドロック』トナレル感アルモ……」
とは、野村大使の東京あて報告電の書き出しであるが、海軍武官横山大佐も同様の感想を得て、東京に打電した。
「機密第六二五番電 二―一七三〇
日米交渉ハ予想通リ行詰リトナレル所、米(国)ハ全般的情勢ヲ有利ト見、殊ニ日(本)ガ漸次弱リ行クモノト感ジアルヲ以テ、打切リヲ急グコトナク、日(本)ノ譲歩ヲ待ツノ方策ヲ執リツツアリ」
この横山大佐の観測は、的確であった。
ハル長官をはじめ米国務省幹部は、十月二日の回答をおこなう前に、慎重に協議をかさねていた。バランタイン課長は、米国の対日態度として次の四つの態様を指摘した。
日本案は首脳会談の基礎としては不当だと通告する。
これまで通りの回答をくり返し、折衝打ち切りの責任を日本に負わせる。
近衛メッセージを基礎として、またはたんなる意見交換のための首脳会談に応ずる。
反対提案をする。
バランタイン課長は、このうちを採用するようハル長官に具申した。
日本側はなお独ソ戦がドイツに有利に終結することを期待している。日本側提案はその情勢判断にもとづいているから、ソ連の抵抗が長びけば、なお譲歩してくる可能性があるというのが、その理由である。
ハル長官も、ルーズベルト大統領に意見書を送り、日本にたいしては首脳会談をエサにしながら、原則的協定を求める主張をくり返すべきだ、と述べ、大統領は全面的に同意した。
したがって、ハル長官が野村大使に手交した回答文は、強く日本側の“屈伏的譲歩”を求めながらも、諒解ができたら首脳会談に応ずる旨を伝えていた。
その意味では、横山大佐が観察したように、この回答もまた一種の引き延ばし工作ではあるが、要求はあまりにも苛酷であった。
野村大使は、前途にたいする悲観をこめて東京に打電した。
「世界政局ニ大ナル変化アル場合及日本ガ政策ヲ転向スルノ場合ノ外、其ノ対日外交方針ハ不変ナリト思考ス」
十月は、四季を持つ国ではどこでも最良のシーズンである。
ワシントンでも、空は美しく晴れわたる日がつづいていた。日本大使館が位置するマサチューセッツ通りも、背後の「ロック・クリーク」公園も、木立は一日ごとに紅葉化し、さわやかな風に舞う落葉とたわむれるように、リスがチロチロと走りまわった。
陸、海軍武官府は、ともに大使館内に移転をすませ、横山海軍武官、磯田陸軍武官たちも朝夕は官邸の庭の散歩を楽しむことが多かった。
だが、美しく冴えた天と地とは裏腹に、日本大使館の雰囲気は重くよどんでいた。日米交渉は、いぜんとして日米両国で、極秘にされていたが、米国各紙上には注意深い表現ながらその事実と多難ぶりを伝える報道があらわれはじめ、館員たちも承知していた。
八月いらい、米国と日本を結ぶ太平洋航路は閉鎖状態となり、大使館には身のふりかたを相談する在留邦人の連絡がふえ、日を経るにつれてその連絡の語調は緊張感を強めていた。
新聞が伝える対日感情の悪化、大使館幹部の苦慮の様子、そして邦人たちからの切迫した調子の相談……などを組みあわせれば、館員も家族も危機が歩度を速めて接近していることに気づかざるを得ない。
館内を歩く館員たちの足運びは、いいあわせたように、ひそやかなものになっていた。
東京の空も美しく晴れていた。
ワシントンでハル長官が野村大使に回答文を手渡したときは、東京では十月三日になっていたが、正午になるとサイレンが鳴りひびき、街頭の市民たちは立ちどまって黙祷した。
この日から五日間、「銃後奉公強化運動」がおこなわれる。サイレンと黙祷はその行事のひとつである。
また、その日は、三笠宮崇仁親王と子爵高木正信の二女百合子の婚約のための「納采の儀」がおこなわれた。市民たちの黙祷には、若い貴人のカップルにたいする祝意もこめられていたはずである。
野村大使が打電したハル長官の回答文は、同日夜に入電して、翌日、十月四日の大本営連絡会議で報告された。
豊田外相は、回答文が明確には交渉中断の意思を表明していないことを指摘して、米国はなお「徐々に日米関係の好転をはかる」意向のようだ、と述べた。
しかし、陸海軍首脳部は一様に不審と不快の表情を示した。
「なるほど、この覚書はわが方にたいする諾否の回答ではない。しかし、米(国)の真意は明らかに日本の屈伏を強いるものである。ことはきわめて重大である」
東条陸相がそういうと、軍令部総長永野修身大将も、
「もはやディスカッションをなすべき時にあらず。早くやってもらいたいものだ」
杉山元《はじめ》参謀総長も、「根本的態度を速かに決定しなければならない」と、言葉をそえた。
この陸海軍首脳部の発言の意味は明白である。すでに「十月十五日」という期限を定め、それまでに外交交渉で日本側の要求貫徹ができるかどうかのメドをつけよ、と陸海軍は政府に申しいれている。
十五日までというのは、十五日に、という意味ではない。もっと前に判定できれば、軍にとってはより速かに戦争準備ができるのだから、そのほうが良い。
ハル長官の回答は、まさしく「我要求ヲ貫徹シ得ル目途ナシ」との判定をうながすものではないか。
陸軍は、十月五日、陸軍省・参謀本部部局長会議を開き、「外交ノ目途ナシ、速カニ開戦決意ノ御前会議ヲ奏請スルヲ要ス」と結論した。
しかし、十月六日午後にひらかれた陸海軍部局長会議では、海軍側は開戦反対の意向を主張した。
外交交渉による要求貫徹の「目途」はまだ残っている。とくに支那駐兵問題について譲歩すれば「目途」がある、フィリピンを攻撃せず米国と戦わぬ方法を考えたい――という。
軍令部第一部長福留繁少将は、連合艦隊の図上演習によると船舶の被害が大きすぎる。「南方作戦ニ自信ナシ」とさえ、明言した。
この海軍側の態度は陸軍にショックを与えた。もし海軍側の発言が真実だとすれば、そもそも九月六日の御前会議で決定した「帝国国策遂行要領」は、根拠を失う。
「帝国国策遂行要領」は、「対米(英蘭)開戦」を決意する方針を定めているが、戦争を決意するのは戦争遂行に自信があってのはずである。それなのに、海軍は作戦に自信がないという。
では、陸海軍としては、成算なしに開戦決意を求める御前会議を奏請したことになり、そのさいに十分に自信ありと説明したのもウソになる。
東条陸相と杉山参謀総長は、天皇にたいして申し訳ない、これ以上の不忠はない、と話しあい、なお海軍の真意を確かめることにした。
そして、その後は、連日、陸海軍主務者、陸海軍首脳部と近衛首相との協議がつづくが、近衛首相はいぜんとして日米首脳会談を希望していた。
十月七日朝、近衛首相の秘書牛場友彦は米大使館参事官ユージン・ドウマンを訪ね、陸海軍はともに政治責任を回避しようとしている。しかし、近衛首相は生命の危険もおかし責任をはたす決意を持っている、と述べた。
首脳会談さえ開いてくれれば近衛首相は危機を解消する用意がある――というのである。
鎌倉のホテルにいたウォルシュ司教も井川理事から情勢の急迫を告げられ、ニューヨークのドラウト神父に電報した。
「真の誠意は存在するや。神と天使たちの見解を当初のように回復する道無きや。これ以上なにをなすべきかに困惑している」
その返事は、十月十日に届いた。
「失望。ポール(井川)の友人たちはあまりに多くの変更を加えすぎた」
ドラウト神父は、日米交渉の発端である「日米諒解案」について日本側が修正、再修正と添削を加えすぎ、それが交渉を困難にして破局に近づかせた、と考えていた。
だが、このドラウト神父の観測が、いかに日米交渉の実情にそぐわぬものであるかは、すでに交渉の経過がもの語っている。
なにかといえば、とかく誇張に富む井川理事も、ウォルシュ司教からドラウト神父の電報を見せられると、憮然として感想を述べた。
「イエス。修正という名の譲歩をしたのは日本です。しかし、米国側は拒否という再修正で応じた」
豊田外相は、グルー大使を外務省に招いた。
豊田外相は、近衛首相はなおも首脳会談をおこないたい熱意を捨てていないこと、そのためには米国が日本になにを求めているかを正確かつ具体的に知りたい、と強調した。
支那駐兵の問題、ヨーロッパ戦争にたいする日米両国の態度、支那における機会均等などについて、駐兵がどの地域で何年間なら米国は承知するのか、ヨーロッパ戦争参戦について米国側の条件はなにか、機会均等の内容はなにか、といった点を知りたい。
これらの諸点を明らかにする回答をしてくれるよう、グルー大使からもワシントンに勧告してほしい、と豊田外相は、要請した。
また豊田外相は、野村大使は疲れているようだから、いずれ大使級の外交官を補佐役に派遣するつもりだ、と暗に野村大使への失望を述べ「時間が切迫している」とくり返しながら、グルー大使を送りだした。
グルー大使は、大使館に帰ると、直ちに豊田外相との会見の模様をワシントンに打電した。が、ワシントンからの反応はなかった。
野村大使も、豊田外相の指示をうけて、米国側の「真意」をたしかめようとした。ハル長官に会い、また若杉公使をウェルズ次官に会わせたが、米国側の返事はぴたりと一致して冷たかった。
「当方の意向はすべて十月二日付の覚書に表示されております。なにもつけ加えることはありません」
野村大使の耳には、ニューヨークの三井銀行支店も閉鎖の決意を固めた、というニュースがとどき、そうかと思えば、著名な教育学者E・スタンレー・ジョーンズ博士が、日米関係の打開のためになにごとか国務省に献策したという情報も伝えられてきた。
ジョーンズ博士は、知日派として知られ、野村大使の友人でもあったが、この献策については博士は大使にも知らせていなかった。
ジョーンズ博士は、日本が譲歩をしぶっている最大の理由は二つある。ひとつは、支那事変にたいするメンツ、もうひとつは、日本が生存を脅かされているという恐怖だ、とハミルトン極東部長あての書簡(十月八日付)で述べ、次のように提案した。
まず日本は支那全土から撤兵する。次に介石政府は日本と協定を結び、北支が第三者の脅威をうけたときは日本の援助を求めることを約束する。こうすれば、双方のメンツが救われる。
日本の悩みは人口過剰にある。ゆえにその過剰人口を収容する場所として、ニューギニヤを日本に提供する。その結果は、日本の不安とアジアの不安が解消する。
このジョーンズ博士の提案は、ハミルトン部長の微笑とホーンベック顧問の苦笑と、そしてハル長官の簡単ないちべつをさそっただけであった。
豊田外相は、十月十三日、野村大使に打電した。
「日本時間十四日正午ニ通話ノタメ寺崎『亜米利加』局長ヨリ若杉公使ニ電話申込……済ミ、其ノ際ノ合言葉左ノ通リ。
駐兵問題ニ関スル米側態度(マリ子)、リーズナブル(御宅ニ遊ビニ来ルヤ)、アンリーズナブル(遊ビニ来ナイ)、交渉ノ一般的見透シ(其ノ後ノ公使ノ健康)、四原則(七福神ノ懸物)、飽クマデ突張ルカ(気ニ入リマシタカ)、何トカ色ヲツケルカ(気ニ入リマセンカ)」
豊田外相は、せめて支那駐兵問題ひとつでも交渉の余地はないか、と、ほぼ必死の想いであった。
陸海軍の態度は主務者間の協議で強硬型に統一され、東条陸相が中心になって近衛首相に決断を求めつづけていた。「十月十五日」という期限は絶対に譲らず、その日までに近衛首相を説得できなければ内閣瓦解は、必至とみなされていた。
豊田外相としては、なにかひとつでも日米交渉の手ごたえを感じれば、それを根拠にして外交交渉継続を陸相になっとくさせられる、と考えたのである。
だが、野村大使にも若杉公使にも、難航する交渉に打開点を発見する妙案はなかった。
いや、妙案は思いついても、米国側に反応する気持ちがないのだから、どうしようもないというべきであろう。
日本時間十月十四日正午は、ワシントン時間十月十三日午後十一時である。
その約束どおり、野村大使の居室に大使と若杉公使が待機していると、電話ベルが鳴った。
「トウキョウ・コーリング」(東京からです)
と、交換手が告げて間もなく、寺崎局長が「マリ子」さんの様子について質問してきたが、若杉公使の答えは消極的でしかあり得なかった。
「そうですねェ。こちらが“気に入らなければ”、“マリ子”さんは、“御宅に遊びに来る”かも知れません。しかし、“七福神の懸物”はたいへん“気に入っています”……え、ああ、“そのごの私(公使)の健康”ですか。どうもよくありません」
(日本が支那駐兵問題に色をつければ、米国側の態度も妥当なものになるかもしれないが、四原則はあくまで突張るものとみられ、交渉の一般的見通しは悲観的である)
この若杉公使の返事は、すでに野村大使がくり返して東京に進言した意見に合致している。
野村大使は、十月十日付の電報でも、日本が米国側に全面的に譲歩しない限りは「首脳部会見ハ絶対見込ナシト観測ス」と指摘していた。
寺崎局長は、波騒に似た雑音がはいる電話で声を高めながら、なんとか「マリ子」さんを「御宅に遊びに来る」ようにできないか、とくり返したが、若杉公使も暗然として、「健康」がよくないから、とくり返し応答するだけであった。
寺崎局長も、気落ちした様子で、なお健闘を祈る旨を答えて電話を切ったが、ちょうど寺崎局長がワシントンと電話しているころ、近衛首相は首相官邸で東条陸相と対坐していた。
閣議の前に東条陸相に説得をこころみようとしたが、東条陸相は駐兵問題は絶対に譲れないと強調し、日米交渉の打ち切りを主張した。
では、戦争になる、戦争は心配だ、と近衛首相がいうと、東条陸相は、瞬時、まじまじと近衛首相の顔を注視したが、首をふった。
「アナタハ自分ノ身体ヲ知リ過ギテヰル。相手ノ身体ヲ知ル必要ガアル。相手ニモ随分欠点ハアル」
東条陸相は、そのあとの閣議でも時間切れを指摘して、たんに譲歩だけの外交交渉は承知できない、日本側の主張を貫いて相手を説得できる外交を展開する自信がなければ、交渉は中止すべきだ、と持論をくり返した。
東条陸相は、“譲歩外交”ではなく、たとえば作戦準備で相手を脅威させるとか、あるいは独ソ和平を工作するとか、なにか米国側の弱点をつく外交はできないのか、と、外相を鞭撻するような発言もしたが、近衛首相は黙然としているままであった。
近衛首相は、閣議が終ると、さっさと私邸・荻外荘にひきあげ、むっつりと好物の清酒「酔心」の盃をかさねていたが、夕刻、秘書牛場友彦が二人の来客を案内してきた。
井川理事と、ウォルシュ司教の二人である。
28
ウォルシュ司教は、その日、十月十四日朝、突然に井川理事から帰国を勧告された。
前日、鎌倉から上京して「帝国ホテル」に泊っていたウォルシュ司教は、とっさに当惑した。
「猊下、いまや近衛内閣は危機に直面しました。もし日米交渉が好転への徴候を示さなければ、内閣は倒れます。その結果は容易にご推察戴けると存じますが、どうか、直ちにワシントンにむかい、米国政府に日本政府が交渉に寄せている要請と希望と恐怖とをお伝えいただけないでしょうか」
井川理事は、翌日、十月十五日朝の羽田発の飛行機の切符を入手している、とウォルシュ司教に告げ、蒼ざめた顔で司教を注視した。
「ポール。危機がせまっていることは承知している。しかし……」
ウォルシュ司教は絶句して、手にしたロザリオをまさぐった。そろそろ帰国する時期であるとは考えていたが、はたしてワシントンヘの“密使”としての役割りは有効にはたせるものかどうか。
「十一カ月になりますな、ポール」
「ハ……?」
ウォルシュ司教のつぶやきに不審の声をあげる井川理事に、いや、と軽く首をふりながら、ウォルシュ司教はロザリオの珠を押え数えて黙思した。
ウォルシュ司教は前年の十一月二十五日、ドラウト神父と一緒に来日して日米交渉“工作”をこころみたときのことを、ふと想起していたのである。
あのとき、司教と神父は日米関係に画期的な平和の鐘を鳴らせる希望に満ちて日本を離れた。だが、一年もたたないというのに、情勢はあまりにも激変し、いまや平和よりは戦争への扉が大きく開いている感じである。
「ポール。私にその力があるだろうか」
「猊下、いまなにかを期待できるとすれば神の導きだけではありますまいか」
井川理事の声音にこめられた必死の気迫を感得すると、ウォルシュ司教はうなずいた。
鎌倉のホテルで荷作りして「帝国ホテル」にもどると、司教はグルー駐日大使を訪ねた。
司教は、米国政府側からこれまでの両国提案の差異を埋める努力がなされるか、ルーズベルト大統領が近い将来に近衛首相と会談する明確な保証を与えない限り、近衛政府は瓦解して不幸な結果が招来される、との趣旨を書いた覚書をグルー大使に渡した。
そして、その覚書は、伊藤述史情報局総裁、牛場友彦、西園寺公一をふくむ近衛首相側近から伝達を依頼されたものだと述べ、ワシントンに打電してほしい、と頼んだ。
グルー大使が承知すると、ウォルシュ司教は井川理事の提案をひろうして、大使の意見を求めた。
大使と同席していたドウマン参事官は、即座に同意して、できることはどんなことでもやるべきだ、とウォルシュ司教を激励した。
司教が「帝国ホテル」に帰り、“密使”役をつとめる旨を井川理事に伝えると、井川理事は近衛首相に会ってほしいと述べ、その夕刻、午後六時に近衛邸を訪ねたのである。
近衛首相は、文書を用意するひまがなかったから、といい、ルーズベルト大統領あての口頭メッセージの伝達をウォルシュ司教に依頼した。
もっとも、その内容はひどく抽象的なもので、近衛首相と政府は太平洋の平和を願ってその実現に心からの努力をつづけてきた、おそらくは第三国の邪魔によってその希望実現が阻害されているのは残念である。しかし近衛首相はなお努力は放棄せずまた首脳会談開催による完全な合意達成を確信している――というだけであった。
ウォルシュ司教は、交渉が継続されてこそ平和も希望できる、どうか忍耐して交渉をつづけてほしい、と近衛首相にいい、近衛首相はニコリと微笑で応えた。
その翌日、十月十五日午前六時、ウォルシュ司教は飛行機で東京を離れた。
まず広東に飛び、香港でクリッパー機に乗りかえ、マニラ、グアム、ウエーキ、ミッドウェー、ホノルル、サンフランシスコを経てワシントンにむかう。
順調にいけば四日間の空の旅だが、行くさきざきで、あるいは天候不良、あるいは機械整備などの理由で待機させられ、マニラではなんと二週間も待たされた。
おかげで野村大使の補佐として派遣される来栖三郎大使と同乗する結果になり、ワシントンに着いたのは十一月十五日であった。
「世界最悪の旅行のひとつ」――と、ウォルシュ司教自身も嘆息したものだが、このつい《ヽヽ》ていない旅行には、さらに沈鬱な色どりも添えられていた。
まだ広東から香港についたばかりの十月十七日朝、ウォルシュ司教が「ペニンスラ・ホテル」の部屋でひろげた新聞は、近衛内閣総辞職を報道していた。
近衛首相は、日米交渉打ち切りを主張する東条陸相を説得し得ないとみきわめ、ウォルシュ司教が離日した翌日、十月十六日午後五時、全閣僚の辞表をまとめて天皇に奉呈したのである。
「余り突然なるに驚く」――と、木戸内大臣も日誌に記述しているが、近衛内閣の崩壊は内外に衝撃を与えた。
ウォルシュ司教も、それでは十四日夜に会談したときはすでに辞意を固めていたのか、と唖然とした。
翌日、十月十八日午後、井川理事から電報がとどいた。
「花束で安全なる旅を祈る。実質的な変化なし。最悪を避けるため切に速かな反応を求む」
花束の一語は、井川理事との間の隠語で、陸軍省軍務局長武藤章少将の諒承を得ていることを意味する。ウォルシュ司教は電文を、
「日米交渉については、新内閣は前内閣の方針をうけつぐ。平和達成の合意を望むうえで矛盾する計画は延期する」
という趣旨だと解釈して、いったんは放棄を考えたワシントンヘの“密使”の任務をつづけることにした。
ワシントンも、近衛内閣瓦解の衝撃波をうけた。
近衝内閣総辞職にかんするグルー大使の公電は、ワシントン時間十月十六日午前九時四十分に国務省に到着した。電報はホワイト・ハウスに伝えられ、ルーズベルト大統領は閣議を中断して主要スタッフと協議した。
討議に参加したのは、大統領のほかにハル国務長官、スチムソン陸軍長官、ノックス海軍長官、マーシャル参謀総長、スターク海軍作戦部長、ホプキンス大統領顧問の六人である。
会議は二時間にわたってつづき、討議の焦点は当然に近衛内閣崩壊の意義であった。
近衛内閣のあとに軍部内閣が登場し、日本は明確に戦争への道を走りはじめるだろう、という観測については、大統領と六人の幹部の見解は一致していた。
ただ、問題は「時間」と「名分」――いいかえれば、なお米国側の戦備を充実させるための時間かせぎの方策をとるか、それとも日本の“蹶起”を覚悟しながら開戦責任を日本側にとらせる手段を講ずるか、どちらの政策をとるかであった。
「われわれは、日本が失策をおかして明白に最初に攻撃させるように外交交渉をする、という微妙な問題に直面することになった」
スチムソン陸軍長官は、その日の日誌にそう記録している。開戦責任を日本に負担させようとするのであり、そのためにルーズベルト大統領が承知したのは、大統領から天皇にあてて親電をおくるという方法であった。
会議後、電文草案が起草され、ハル国務長官に提示された。
「大日本帝国天皇ヒロヒト陛下
私はかつて一度、危機にさいして個人的に陛下に手紙をさしあげましたが、私は再び陛下に手紙をだすべきだと考えます。いまや、より深刻かつ広汎な危機が形成されつつあるからであります……」
親電は、これまで日米首脳会談が実現しなかったのは、支那の領土尊重、太平洋の平和問題で基本的合意ができなかったためだ、と指摘し、米国は日本が対ソ連攻撃、あるいは、南方武力進出をするとの噂にふれ、次のように結論していた。
「もし、日本が北方または南方に新たな戦争を開始するならば、米国はその平和政策にかんがみ深い関心を抱くとともに、そのような戦争状態拡大を防止するあらゆる手段をとるでありましょう」
明白な警告であり、日本との戦争になってもその責任は日本側にある旨を記録しようとするものである。
親電草案は国務省で辞句の修正をうけてホワイト・ハウスに届けられたが、同時に国務省側の意見が具申されて、打電は中止された。
国務省顧問ホーンベックによれば、
「手もふりあげていない相手に暴力の責任はお前にあるというのは、少し早手回しにすぎる」ことと、日本の新内閣が「はたしてどのような性格のものかを見極めてからでも遅くない」と判断されたからである。
野村大使には、新内閣の成立は、事態の終幕を意味するように思えた。
近衛内閣の後継者には、陸相東条英機中将が推され、十月十八日、東条内閣が成立した。東条首相は大将に昇進し、外相は東郷茂徳に代った。
野村大使は、十月十八日、東京から東条内閣成立の通告をうけると、折り返して東郷外相あてに辞意を発電した。
「御親任慶祝 偖《サ》テ本使前内閣ノ御方針ヲ体シ極力尽力致セシモ、何等御役ニ立チ得ズ……事志ト違ヒ何等為ス所ナク……或ハ無益ノ存在ハオロカ有害ノ存在トナラムコトヲ 慮《オモンパカ》 ル次第……」
つづいて、野村大使は、十月二十日、新任の海相嶋田繁太郎大将あてにも辞意表明の電報をおくった。
「……今迄ノ所米(国)側ハ終始一貫自国ノ政策ヲ固守シ、何等妥協性ヲ認メ難シ。是レ畢竟支那ニ余リ深入リシタル結果ナルベシ……小生出発前ニハ当時ノ閣僚等トモ懇談ヲ重ネ、充分政府ノ動向ヲ承知シタル上着任シタルモ、其ノ後二回ノ政変アリテ、小生ハ今ヤ暗黒裡ニ在リ。之ニテハ如何トモシ難ク、サリトテ国務長官トハ従来数十回ニ亙《ワタ》リ折衝ヲ為シタル事故、此ノ際更ニ新ナル角度ヨリ話ヲ再開スル場合ニハ、小生ノ存在ハ我方ニ不利ヲ来スコト疑ナシ……」
さらに二日後、十月二十二日にも野村大使は東郷外相あてに打電している。
「曩《サキ》ニ小生身上ニ関シ電話致セシ処、……小生ハ前内閣ノ退場ニ殉ズベキモノト確信ス……已《スデ》ニ死馬ノ骨トナリ此ノ上自分ヲ欺キ他人ヲモ欺クガ如キ胡魔化シ的存在タルハ心苦シク、之ハ戦場ヲ逃ゲントスルガ如キ心持ニアラズシテ、公人トシテ踏マザルベカラザル途ナリト信ズ……」
この三通の電文に、当時の野村大使の心境が顕示されている。
野村大使としては、すでにくり返し意見具申しているように、日本側の政策に思いきった転換がなければ日米間の妥協は不可能とみきわめている。
そして、政府の政策転換が問題であれば、それは大使にはどうしようもないことである。「特命全権大使」の肩書はあっても、本国政府の政策を左右できる“全権”は与えられていない。
さらに、野村大使にとって遺憾な一事は、かつて駐米大使を受諾するさいに相談した米内光政海軍大将の忠言が実現したかに想えることである。米内大将は、いっていた。
「(大使就任は)まことに結構だが、キミを登らせておいてハシゴをはずしかねないのが、近ごろの連中だ」
二階にあげてハシゴをはずされた――とは、野村大使も考えない。ことは国家の命運に影響する外交交渉である。野村大使個人にたいするいびり《ヽヽヽ》は無用であろうが、現実の動きとしては、一方で妥協を求めながら他方で武力進出準備をすすめる日本の姿勢は、大使の任務には不都合な障害である。
しょせんは、硬い米国側の態度が招く日本側の反応かもしれないが、そこまで考えれば自然に「此ノ上自分ヲ欺キ他人ヲモ欺クガ如キ存在」になりたくない、との感慨が胸奥にこみあげてくる。
結局は妥協は無理だとすれば、外交は平和のための政略から戦争気構えの戦略手段に化し、有利に開戦するための“欺瞞工作”の性格を帯びることになる。
率直で正直で一本気な野村大使としては、ゆがみ《ヽヽヽ》とひずみ《ヽヽヽ》に富む謀略は不得手であり、正々と行動すべき国家の代表である大使として、その種の性格を持つ任務を与えられるとすれば、困惑するばかりである。
東京からは、近衛内閣総辞職とともに豊田前外相の名前で、「今後如何ナル内閣ガ成立スルニセヨ、予定ノ方針ニ従ヒ日米交渉ヲ継続スルニハ変更ナキニ付」と連絡してきていたが、野村大使には、この電報はむしろ交渉の前途にたいする悲観をより明確にする資料としか思えなかった。
「予定ノ方針」では、米国側は納得するはずがないではないか――。
そのご、三回の辞意表明電にたいして、東京からは十月二十五日、嶋田海相が海軍武官横山大佐経由で丁重な慰留電をおくってきた。
嶋田海相は、海軍軍人の先輩である野村大使の苦労を深謝しながらも、とくに日米交渉の「成否何レトナルモ今後ノ終末段階ニ於ケル処理」が重要であることを強調して、大使の留任を求めた。
野村大使も、もともと海軍の要請で大使就任を決意しただけに、辞意を撤回することにした。
ワシントンの秋は深まり、朝晩の大気の冷却度も日ごとに強まっていく感じだが、こと日米交渉にかんする限りは、どろりとした停滞状態がつづいていた。
東条内閣の成立いらい、東京からの指示はとだえたままであり、米国側からの接触も内容に乏しかった。
米国政府は、東条内閣の性格判断に注意を集中していた。
陸軍情報部は、東条首相は「排外主義者、反ソ主義者、ドイツ礼讃者」であり、武力政策を採用する、と観察した。
グルー駐日大使は、東条首相は近衛内閣時代に日米交渉開始を支持した「五人の閣僚の一人」であり、現役軍人として内閣を組織した最初の将軍である点に注目した。
おそらく、東条首相は日米交渉にかんする近衛内閣の方針をひきつぎ、陸軍の“極右主義”グループもコントロールできる、とグルー大使は観測した。
国務省は、結局は日本は「軍事力による解決の機会が失われないうちに可能な手段をとる」と判断したが、日本のアプローチを待つことにした。
“マジック”解読による東郷外相電の中には、日米交渉継続の指示とともに、次のような一節があった。
「我方トシテハ、本交渉ニ之レ以上長時日ヲ費スヲ許サザル事情ニアルコトヲソレトナク仄メカシ……」
ハル長官は、日本はあせっている、と感じ、ホーンベック顧問も同感した。
「あせっているということはきっとなにかの行動が期待されます。それも近いうちに、きっと……」
野村大使も待った。いや、待つ以外にすることはなかったといえる。
近衛内閣の退陣いらい十月末まで、野村大使は米国務省との接触は若杉公使に一任していた。東郷外相の交渉継続指示電に、「貴大使自身マタハ若杉ヲシテ」米国側と折衝をつづけよ、と指令されていたためだが、とくに大使自身が出かけて話しあう材料もないと判定されたためでもある。
若杉公使にしても、ハル長官、ウェルズ次官と会談したが、会話は双方ともこれまでの主張をくり返すだけであった。
野村大使が会った米国人は、大使が二十五日(土)、二十六日(日)の週末を利用してニューヨークに出かけたさいに会見したプラット老提督と教育学者ジョーンズ博士の二人であった。
プラット提督は、日米関係の最後の希望は「テンノー(天皇)と大統領」に在る、と述べた。あるいは、提督は、中止になった大統領の「親電工作」を耳にしていたのかも知れない。
ジョーンズ博士は、日米交渉のガンはなにか、と野村大使に質問した。
「ガンは支那事変問題だと思います。そして、その問題のガンは日本軍の撤兵、とくに北支からの撤兵問題にある。さらにその点のガンは、四年間の事変のすえに北支に駐兵も認められないではなんのために戦ってきたのか、という日本国民の心理的問題にあります」
野村大使の答えを聞くと、ジョーンズ博士はうなずいただけであったが、その夜、さっそくハミルトン国務省極東部長に手紙を書いた。
じつは、博士は、駐米ニュージーランド公使、同オーストラリア公使と会見し、持論であるニューギニヤを日本に譲与するアイデアを話していた。ニュージーランド公使は無反応であったが、ケーシー・オーストラリア公使は真剣に興味を示した。
「それで太平洋の危機が解消するなら、オーストラリアに異存はない。日本人がニューギニヤからオーストラリアに来る懸念についても、米国が日本を押えるために一役買ってくれれば安心できる」
ジョーンズ博士は、日米交渉が日本側の心理的作用、いわば“メンツ”でひっかかっているという野村大使の説明を聞くと、ますます“ニューギニヤ工作”が有効に想えた。
支那事変における血の代償がなくなることが不満ならば、ニューギニヤという“代償”があればその不満は解消できるのではないか。
ジョーンズ博士は、大統領あての意見書もそえて、ハミルトン極東部長にニューギニヤ工作案を採用するよう熱意をこめて要請した。
しかし、国務省は再び冷淡に対処し、野村大使もジョーンズ博士の意図は知らなかった。
博士がハミルトン部長あての手紙を夢中でタイプしている十月二十六日夕刻、野村大使は料理人村井時次郎夫妻と別れの挨拶をかわしていた。
夏いらい閉止されていた日米航路は久しぶりに再開され、日本郵船「竜田丸」「氷川丸」「大洋丸」が相次いで米国にむかっていた。「竜田丸」はサンフランシスコ、「氷川丸」はシアトル、「大洋丸」はホノルルに来る。
あるいは最後の便船になるかもしれないので、在来邦人が多かったが、野村大使も村井夫妻に十一月二日シアトル着の「氷川丸」で帰国をすすめた。
村井夫妻はニューヨーク見物をすませ、野村大使に別れを告げにきた。
「それじゃ、大使、お世話になりました、どうぞお元気で」
「いや、こちらこそお世話になったよ」
ホテルの部屋の外まで見送る野村大使に村井夫妻は頭をさげ、時次郎夫人京子は、お預りした衣類は間違いなくお宅にお届けします、といった。
時次郎夫人京子は、野村大使が着古した衣類をまとめ大使留守宅に持参することにしていた。野村大使が出発するときに大使夫人が用意した衣類は、シャツ一枚、フンドシ一本も失われていない。京子が入念に管理し、ほころびも縫って維持してきたからである。
だが、こんごはそういう細心の世話をする者はいない。大ざっぱな黒人メイドだけである。
「大使もご不自由になるねェ」
「そうよなァ……」
村井時次郎と京子は、肩をならべて話しながらホテルの廊下を歩いて行った。
29
無気味――というほどではないにしても、ワシントンはそれに似た不安感につつまれていた。
東京の沈黙はつづいている。しかし、ワシントンでは、十月末ごろからしきりに日本は十一月十五日に予定される第七十七回臨時帝国議会までに重大決定をおこなう、という噂が流れていた。
もっとも、この噂はいわゆる“消息筋”の間でささやかれていて、一般市民には無縁であった。新聞報道にもあらわれず、新聞を眺める限りでは、米国市民の関心はもっぱらインフレと増税に集中している印象を与えた。
だが、「十一月十五日」を指定する噂は米国政界とくに政府筋の間にひろまり、野村大使の耳にも伝わっていた。
国務省高官の一人が「十一月十五日までに日米交渉をまとめるのは不可能だ」と語った、というのである。
なぜ、十一月十五日までなのか――。
国務省当局者がその日を口走った根拠は、ひとつは、おそらく議会で重要決定がおこなわれるであろうという議会政治の国・米国にふさわしい推測であったが、もうひとつ、中国大陸からの情報があった。
重慶の介石政府は十月二十一日、二十三日、三十日と三回にわたって、日本軍の行動開始がせまっているとの“公式見解”を発表した。日本軍の攻撃目標はそのたびに「東部シベリヤ」、「タイ」、「雲南」と変化し、重慶の米国大使館武官も「ニュースは多様性に富み」とあきれ顔で情報を打電してきた。
ただ、重慶情報はいずれも日本軍の攻撃時期をひどく確信ありげに指摘していた。
シベリヤ攻撃は「十一月はじめ」、タイ攻撃は「十一月十五日ごろ」、雲南進攻は「十一月中」――という調子である。
“消息筋”に流布された「十一月十五日」説は、たぶんにこの重慶情報から誕生した気配があったが、野村大使たち日本大使館のメンバーは、そのような背景を知らぬだけに、不審の眼を光らせるだけであった。
十一月十五日という特定日はむろんのこと、何日ごろなどという不確定な形でも日米交渉に期限はつけられていない。
ところが突然に配船された日本郵船の「竜田丸」「氷川丸」「大洋丸」三隻は、一致して十一月中旬に日本に帰着するスケジュールである。
「まさか、いち早くアメリカ側が極秘情報を入手しているとは思えませんが」
海軍武官補佐官実松少佐が、ちらりと武官横山大佐に疑惑の念を表明したことがあったが、横山大佐も、まさか、と首をひねる。
これまでの東京からの訓電は、くり返して時間が切迫している旨を強調していた。しかし、それはワシントンからも同様の表現で情勢緊迫を伝えたためと、近衛内閣の危機に応じて日米首脳会談開催をさいそくする意味であった、と理解される。
それ以上に「時期切迫」というならば、対米戦開始が決意される場合が考えられるが……。
「まさかねェ」
その点に話題が及ぶと、実松少佐も横山大佐も同音に否定的嘆声をはきだした。
――だが、
といって、では東京が非常の決意を固めないという確証は、ない。沈黙は情況不明を意味し、情況不明は不安の源泉である。
野村大使も、なんとなく不安定な心理をさそわれているらしく、大使館顧問フレデリック・モアによれば、このころ、野村大使はそれまでとは変ってしばしば戦争について語ることが多かった。
野村大使は、戦争は罪悪だ、日本で流行語になっている「八紘一宇」なる単語は仏教の教えを基礎にしている。人類はみなホトケの子だという意味だ、とモアに説いた。
十一月二日、日曜日の朝、二人でポトマック河を渡り、バージニア州の田舎町にドライブを楽しむ途中である。路端の木立は紅葉を深め、弱い晩秋の陽差しが静かな道に樹影を投射している。影の並本道を走るたたずまいであった。
「ホトケ……おお、人間はみな兄弟だとキリスト教も教えていますよ。その意味では、ヒトラーだって兄弟です。しかし、あの男が別のたくさんの兄弟たちの敵になっているとすれば、われわれはヤツと戦わねばなりませんよ」
「それでも、戦争は罪悪だよ、モア」
野村大使は、率直なアメリカ人気質をむきだしにするモアにいい、もしそういう気持ちで米国人が、日本人と戦うとすれば途方もない結果を覚悟せねばなるまい、と述べた。
米国は日本海軍の実力を過小評価してはならない、日本と戦う場合、米海軍は太平洋を横断する長大な補給線を維持する必要がある。しかし、日本海軍は大型の海洋潜水艦を持ち、南洋群島に飛行基地を配置している……。
「それに、日本国民は戦争となると頑張る。どこまでもやり抜く国民だよ。アメリカのように多くの資源は持っていないが、持っているだけの物を使ってやりぬく。乏しい物資で暮らしていく方法を心得ている」
モアは、野村大使がそういったのはモアがその話を「責任ある米国人の耳に伝えてくれる」ことを期待したからだ、と解釈しているが、野村大使は熱心に日本を過小評価してはならぬと説きつづけ、大使館に帰着すると、しみじみとした口調でモアに告げた。
「戦争は罪悪だ。しかし……その罪悪を犯すこともあるだろう」
のちに、野村大使のこの発言はしごく暗示的であった、とフレデリック・モアは回想するが、二人が大使館にもどって間もなく、東京から久しぶりに極秘至急電がとどいた。
「政府ハ組閣以来連日ニ亙リ大本営(政府)連絡会議ヲ開催シ、日米国交調整ニ関スル根本方策ヲ慎重審議中ナリシガ、右ハ来ル五日御前会議ニ於テ決定ヲ見ル予定ニシテ……」
そして、電文には次のような一節が特記されていた。
「事態頗ル重大ナルモノアリ。交渉開始ノ上ハ……極メテ急速ニ妥結ヲ要スル儀ナルニ付……」
野村大使は大使館幹部と陸海武官を集めて協議した。
電文は、日米交渉にかんする新方針が決定されたことを告げている。いずれ訓令が到着するにちがいないが、同時に電文からはなにか異常な雰囲気も感得される。
大本営政府連絡会議は、その呼称どおりに政府と大本営、つまりは政府と陸海軍作戦責任者との会議であり、国策の決定機関である。支那事変で大本営が設置されていらい、日本国家は戦時体制下にある。
政党勢力が「大政翼賛会」に吸収されてからは、ますます国策は「政略」よりも「戦略」の色彩を色濃くしている。
そして、東条内閣は組閣いらい連日の大本営政府連絡会議で、新国策をきめた。約十二、三日間にわたる異例の長期間の協議である。
してみれば、決定されたのは新たに日本の進路をきめる基本国策であり、それに応じて日米交渉の根本方針も定められたにちがいない。
――その新国策とはなにか。
野村大使をはじめ討議参加者は、沈黙した。電報は告げず、したがって知るすべもないが、「事態頗ル重大」の一語には、かつてない重量感がたたえられている感じである。
開戦決定ではないのかとは、誰しもが胸奥にわきあがらせた推理だが、誰もそれを口に出す者はいなかった。
電報は、日米交渉の新提案が決められた旨を明示している。だから、日本政府がなお交渉を再開する意図であることも明らかである。
しかし、「極メテ急速ニ妥結ヲ要スル」事態だとも述べている。もし急速に妥結できなかったらどうなるのか。
「和戦いずれかを決定する段階にはいったものと推察されます。本使以下当館の責務はますます重大になる折柄、諸君の一層のご努力を願います」
野村大使は、そういって、会議というよりはいつの間にか黙思の場に似てきた会合の散会を宣言した。至って抽象的で平凡な挨拶ではあったが、一同は無言のまま強くうなずきをくり返していた。
電報は、次の指示の予告電であるが、同時に、日米関係の決定的段階の到来を、予告していることが、予感されるからである。
米国側も東京が沈黙を破ったことと、その沈黙の破砕が警戒を要することを承知した。
米国側が、東京からの予告電を“マジック”解読で知ったのは、十一月三日であったが、夕刻には駐日大使グルーの緊急電が国務省に到達した。
グルー大使は、日本の「政治的興奮」が高まっていることを伝え、次のような警告の語句をつらねていた。
「……日本は外国の圧力に屈伏するよりは、海外の経済的圧迫を打破すべく“国家的ハラキリ”の危険をおかすかもしれない……米国との武力衝突を不可避にさせる日本の行動は、危険かつ劇的な突然さでおこなわれるであろう……」
つづいて四日午前零時すこし前、国務省極東部長マックス・ハミルトンの自宅に東京から電話がかかってきた。東京時間では四日午後二時前になるが、駐日大使館員ドウマンが早口で要件を伝えた。
東郷外相がグルー大使に、日米交渉で野村提督を補佐するために来栖三郎元駐独大使を派遣する、と通告してきた。そのさい、東郷外相は、“技術的な理由”で来栖大使を十一月十三日までにワシントンに送りたい、と述べた。
そのためには、香港からクリッパー機で渡米するのが便利だが、クリッパー機便は十一月五日香港発で、次便は二週間後になる。しかし、来栖大使が五日までに香港に到着することは不可能である。
そこで、クリッパー機の香港出発を二日間延期して七日にしてもらえないか。
それが不可能なら、来栖大使はサイパン島に飛び、そこから駆逐艦でグアム島にむかってクリッパー機を待つことになる、と東郷外相はいった、というのである。
「マック。日本の駆逐艦がグアム島を訪問するのは好ましくないと思うがね」
「おお、ノー。それはまずいよ」
グアム島は、当時、日本の委任統治領土である、マリアナ群島内の唯一の米国領である。陸海軍の基地があり日米関係の緊迫にともなって島の防備も増強されている。日本の駆逐艦の来訪を許すのは、防備状況の偵察を認めることにもなる。
ハミルトン極東部長は、できるだけ早く措置をとる、とドウマン参事官に答え、数時間後にクリッパー機の出発延期手続きを終えた旨を東京に電話した。
さらにその数時間後、十一月四日午後、“マジック”は東郷外相から野村大使にあてた四通の緊急電を解読した。
うち一通は、来栖大使が七日香港発のクリッパー機で渡米することを伝え、他の一通は御前会議で決定される日米交渉対案「甲」「乙」二案の送付を伝えたもの、そして残る二通がそれぞれ「甲」案、「乙」案であった。
この「乙」案は、とくに東郷外相が戦争防止の最後案として考案したものであった。
東条内閣は、天皇の意思にそって、九月六日決定の「帝国国策遂行要領」を再検討するために十月二十三日から三十日まで(註、二十六日は休会)、大本営政府連絡会議をひらいた。
討議の対象になったテーマは、主として対米英戦争を開始した場合の作戦、国力の見透しを中心として十一項目におよび、最後の総括討議は十一月一日午前九時から二日午前一時半まで、十六時間余にわたった。
「時ハ今。戦機ハアトニハ来ヌ」――と永野軍令部総長が叫んだように、陸海軍は相手の準備未整に乗じての開戦を主張し、東郷外相と蔵相賀屋興宣が日本の国力不十分を理由に反対した。
結局は、戦争決意をして日米交渉を進めながら戦争準備をすすめることになったが、東郷外相は交渉を十一月十三日で打ち切るべきだという参謀本部にたいし、辞職をほのめかして「十二月一日」までの交渉を認めさせたあと、「乙」案を提示した。
「甲」案は、これまでの日本側の主張を再確認したものだが、「乙」案は「成功の見込みある」腹案として、かねて東郷外相が提案していた。
内容は、日米両国が仏印以外の地域にたいする武力進出をおこなわない。蘭印における物資獲得に協力する。通商関係を資産凍結前の状態に復帰させるとともに、米国は日支和平を阻害しないことを約束する、というのである。
そして、協定が成立すれば日本は南部仏印の兵力を北部仏印にひきあげる、と付記していた。
東郷外相は、この「乙」案をあえて交渉期限を決定したあとに提案して、軍部を承知させたわけだが、参謀本部第一部長田中新一少将は「乙」案に「重大な衝撃」をうけた。
「乙」案は、明らかに暫定的な妥協をめざしている。日米交渉の難点である「四原則」や駐兵問題にはふれず、とにかく日米両国が合意できる点に合意を求め、ひとまず緊張を解いて次の交渉にはいろうとするのである。
田中少将は、米国側は「乙」案をのむと推測した。
その結果として、もし米国側が時間かせぎを心がけ、日本海軍の燃料不足をみきわめて高圧的態度にでてくれば、日本は日米戦争にふみきっても勝ち目はなくなるであろう。
「ゆえに乙案は帝国の国防、戦略上の重大な冒険といわなければならない」
田中少将はうめき、杉山参謀総長、東条首相にも反対意見を述べたが、東条首相は、やるだけのことはやる、と答えた。
そして、東条首相は、四日夜、渡米前の挨拶に来た来栖大使にたいしても、局面打開のために最善の努力をつくさねば天皇にも国民にも申し訳がない、といって、来栖大使を見送った。
もっとも、交渉については、駐兵問題だけは譲れぬ、譲るようなことがあっては「自分は靖国神社に向いて寝られない」と東条首相は強調し、交渉成立の見込みは「成功三分失敗七分くらいか」とつけ加えていた。
東条首相は、「成功三分」と判定した理由として、米国が大西洋、太平洋両洋作戦の準備に不足している、という点を第一に数え、来栖大使は、それは楽観に過ぎると考えたが、じつはこの東条首相の判断は意外に的確であったといえる。
東郷外相は、十一月五日の御前会議で、十二月一日午前零時まで日米交渉をおこない、不成功の場合は武力を発動する、という新「帝国国策遂行要領」が決定されたあと、さっそくまず「甲」案で交渉を開始するよう野村大使に指示した。
電報はすかさず“マジック”で捕捉解読されたが、それまでの「甲」「乙」両案の解読は、米国側に微妙な作用をおよぼしていた。
国務省顧問ホーンベックは、これら日本側提案は、かねて重慶情報が伝える日本軍の行動開始説を裏付けるもので、一種の陽動作戦とみられると指摘し、飛行機をふくむ政府援助を強化して対日警告をおこなうべきだ、と進言した。
「強い態度だけが(日本の)行動を抑止できる」――というホーンベック顧問の持論の表明である。
だが、陸海軍責任者はその種の対日強硬姿勢に反対した。
陸軍参謀総長ジョージ・マーシャルと海軍作戦部長ハロルド・スタークは、十一月五日、連名でルーズベルト大統領に意見を具申した。
二人は、米軍を支那に投入すれば対日戦争は必至である。米国の軍事的主目標はドイツ打倒である。日本にたいしては極東防衛力の強化で対処すべきである、と述べ、次のように提案した。
対日軍事行動は、次の事態の一または二以上が発生した時にのみ、発動されるべきである。
A、米国領土、委任統治地にたいする日本軍の直接的武力攻撃。
B、東経一〇〇度以西、北緯一〇度以南のタイ領土、ポルトガル領チモール島、ニューカレドニア島、ロイアリティ群島にたいする日本軍の侵入。
対日開戦を避けるため、米軍の中国大陸派遣、対日最終通牒などの措置をとるべきではない。
東条首相が観測したように、米陸海軍はまだ整備がととのわず、あえて日本を刺戟することは望まないのである。
ルーズベルト大統領は、この陸海軍当局の意見書を読むと、陸軍長官ヘンリー・スチムソンを招き“マジック”情報が伝える日本側新提案の「乙」案を話題にしたあとで、いった。
「マーシャルもスタークも、時間を要求している。六カ月間軍事行動を停止し、その間に日支和平をこころみるよう日本に提案してみては、どうだろうか」
すでにおこなわれているフィリピンにたいする兵力輸送、重慶にたいする援助物資の搬送も中断してもいい、とルーズベルト大統領はいうのである。
「私はこのような方法で時間をかせぐことに反対した。支那も反対するだろう」
スチムソン長官は、そのさいの反応についてそう日誌に記述している。
だが実際には、スチムソン長官が発言する前にルーズベルト大統領は、届けられた一通の“マジック”電報をいちべつしたとたんに、提案を撤回していた。
電報は、東郷外相が野村大使にあてた極秘親展電である。
「本交渉ハ諸般ノ関係上、遅クモ本月二十五日迄ニハ調印ヲモ完了スル必要アル処……右篤ト御諒承ノ上……完全ノ御努力アラムコトヲ懇願ス」
解読文を読み終るころ、ハル国務長官が入室してきたのを見ると、大統領は電文の意味に関する長官の意見を求めた。
「十一月二十六日以降は、日本はいつでも攻撃を開始する決心を固めたこと。ゆえにわれわれが利用できる時間はあと二十日間であること。この二つでありましょうか」
大統領はうなずき、スチムソン陸軍長官に、さっきの話は無いことにする、とアゴをしゃくりあげた。
30
交渉は十一月二十五日まで――という“マジック”情報は、米国政府に深刻なショックを与えた。
ハル国務長官によれば、情報を得たあとの十一月七日の定例閣議は「重く沈んだ」雰囲気に支配され、「日本はすでに戦争機械を作動させているはずだ」と長官が述べると、「一瞬、室内は静まりかえった」。
ルーズベルト大統領は、ハル長官の情勢判断についてひとりずつ閣僚たちの見解を求めたが、全員が同感の意を表明した。
―――では、われわれはどうすべきか。
大統領が質問すると、スチムソン陸軍長官は“無策の策”を進言した。
「軍事行動をふくむ現在の政策を維持し、攻撃をふくむすべての決断を日本にまかせるがよいと思います」
同席していた大統領顧問ウィリアム・リーヒ海軍大将が、かすかに微笑した。スチムソン長官の提言に「わが意を得た」からである。リーヒ大将は、いう。
「要するに、ヘンリー(スチムソン長官)は西部ガンマン魂を主張したのだな。まず相手にピストルを抜かせろ、というわけだ。政治の真髄でもある」
先に射ったほうが悪者だ、という米国式正義観をスチムソン長官は主張したのである。
いいかえれば、相手に射たせるようにする挑発や謀略はとくに正義に違反しない、という考え方でもあるが、世論は明確な行動や事実に反応する。そして、政治が世論を基礎にしているならば、事実をもたらす工作もまた政治の手段となる。
ルーズベルト大統領も即座にスチムソン長官の発言の意味を理解したとみえ、軽くうなずいて、いった。
「日本が太平洋で英国、オランダに攻撃を加えた場合に、われわれが日本に挑戦したら国民は政府を支持するだろうか」
イエス、そのさいは正義の名分が成立するだろう――というのが、閣僚たちの返事であり、閣議の決定でもあった。
のちに、太平洋戦争が回顧されるときは、この米国政府の方針はしばしば論議の対象となり、ルーズベルト大統領は対ドイツ参戦のために、日本を追いつめ、挑発した、「裏口からの参戦」をはかった、と指摘される。
だが、そういった「裏口政策」も、つまりはこの日の閣議で主張された米国式正義観の産物に照合すれば、しごく自然な米国式政治作法とみなされるわけである。
野村大使は、十一月十日にルーズベルト大統領との会見を予定していたが、その前日、九日の日曜日の夜、ウォーカー郵政長官を訪ねた。少しでも米政府内の意見の動きを知りたいと思ったからである。
ウォーカー長官の私邸に着くと、子沢山で名高い長官の家族が勢揃いして野村大使を歓迎したが、ウォーカー長官は一同の挨拶がすむと手を鳴らして退去を命じ、声をひそめていった。
「神ニ誓ヒ……君限リニ告グル次第ナルガ、ボス(大統領)モ国務長官モ、日本ガ近日発動スル政策ヲ決定シテヰル確実ナ情報ヲ握リ居リ、明十日ノ君ノ大統領訪問乃至ハ来栖大使ノ来米ノ如キ何等大局ニ影響スルモノニアラズ」
ウォーカー長官が“マジック”暗号解読をほのめかしているのは明らかである。そして、閣議での対日方針決定も告げている。
だが、野村大使は、“マジック”については想いもよらず、ただ「閣議の内容を語ったらしく思われた」との印象を得た。
しかし、なにか明確な方針が決定されたらしいとは感得できても、それがどのようなものかはわからない。野村大使としては、いや日本は日米戦争を望んではいない、と答えるだけである。
野村大使は、なんとなく不鮮明な気持ちでウォーカー長官邸を辞去したが、はっきりしない想いは、翌日、十一月十日午前十一時からの大統領との会見で、さらに強化された。
野村大使が「甲案」を朗読して事態の急迫を強調したところ、ルーズベルト大統領は、これまでの米国の主張をくり返したあと、日本国民の「生きる方法」(メソッド・オブ・リビング)となる暫定協定を考えるべきだ、と発言したからである。
じつは、ルーズベルト大統領は、七日の閣議のあとハル国務長官と協議して、日本に先に行動させるための方策としては、なお日米交渉をつづける必要がある、と判定した。
日本が行動を計画しているとすれば、米国側の行動に変化がないほうが相手も計画を変更しないはずだからである。
一方では、できるだけ軍備を整備するために時間がほしいという陸海軍の要請がある。
してみれば、「十一月二十五日」までと期限を定めている日本側のプランを変化させず、あるいはさらに時間を得るためにも、そして交渉継続という平和意図を記録するためにも、交渉にたいする関心を維持している旨を表明すべきであろう。
とくに、“マジック”は日本側が「甲案」のほかに「乙案」も用意していることを告げているので、「乙案」に対抗して交渉を継続する策案が必要である。
ルーズベルト大統領とハル長官は、そこで一種の暫定協定案を考案することにし、大統領が野村大使にほのめかしたのである。
しかし、野村大使には大統領の発言は意外であった。
日本側としては「甲案」にたいする回答を求めているのに、それとは別に「生きるための暫定協定」を口走るのはどういうわけか。
まず暫定協定を結び、次いで日米関係全般を調整しようというのか。それともこれまでの交渉を一転させて経済問題だけにしぼろうというのか。
「果シテ如何ナル意ナルヤ」――と、野村大使は東郷外相あての電報の中でも首をかしげているが、想いは東京も同じだったらしい。
「会談ノ調子ヨリ観ルニ、米国ニ於テハ未ダ事態ノ急迫セル事実ヲ充分認識シ居ラザルヤニ認メラルル処、往電第七三六号(註、十一月二十五日指定電)ノ期日ハ、現下情勢上絶対ニ動カシ得ザル『デッドライン』ニシテ……」
と、すかさず東郷外相は渋面をあらわに感じさせる返電をワシントンに送っている。
十一月二十五日までに交渉妥結、さらに調印まで成就しなければ戦争になるのである。それなのに暫定協定などとはのんきすぎる……。
すでに十一月五日の新「帝国国策遂行要領」に応じて、陸海軍は戦争発起態勢に移行しはじめている。
東南アジアと西太平洋を制圧する第一段作戦計画は練りあげられ、開戦の火ぶたをきる各部隊の集結もすすみ、連合艦隊は十一月七日、「第一開戦準備」を指揮下の艦隊に下令していた。
司令長官山本五十六大将が主張するハワイ空襲作戦を実施する機動部隊その他にたいする待機地点進出を命ずる指示であり、東郷外相が打電した十一月十一日には、早くもハワイ海面の警戒にあたる第三潜水戦隊の潜水艦九隻が九州・佐伯湾を出港している。
開戦は、陸海軍ともに奇襲作戦で幕をあける計画である。むろん、奇襲は相手の準備不整に乗ずる攻撃法で、無警告攻撃ではない。ただ、襲撃効果をあげるためには、できるだけ事前に敵に近接しておき、宣戦布告後にすばやく攻撃する必要がある。
また、日米交渉が成就すれば戦争は不要になるとはいえ、戦争決意を固めてその成否を見守る以上は、情勢と時日の推移にあわせて攻撃態勢をととのえておかねばならない。
そして、行動計画をたてるためには行動開始日を想定せねばならず、計画上の開戦日時は「日本時間十二月八日午前零時」と腹案されている。
その日から逆算して必要な準備と行動は着々と実施され、まさにハル長官が表現したように「戦争機械」は作動を開始しているのである。
東郷外相があえて叱咤に似た訓電を発したゆえんでもあるが、その東郷電をうけて野村大使も表情を渋くした。
事態の急迫を米国は十分に認識していないらしい、と東郷外相はいうが、どれほどに事態が急迫しているのかは、野村大使にも理解できない。
具体的にはなにも通告されず、まさか海軍大将である野村大使の後輩の一部がすでに太平洋を東進しはじめているとは、文字どおりに夢想外のことだからである。
情勢が緊迫していることはわかる。そして情勢悪化の極致が戦争であることも、承知できる。だが、戦争をさけるために交渉をしているのであり、来栖大使の特派は交渉成功への願望のあらわれでもあろう。
「急げ急げといっても、相手があることだからなァ……」
野村大使は、東郷外相電をうけた夜、陸軍武官磯田少将にやや憮然たる様子でつぶやき、磯田少将もあいづちをうった。
「一人角力ではありませんから……ま、来栖大使が来られたら、くわしい東京の様子もわかりましょう」
その来栖大使の訪米は、意外に手間どり、大使は十一月十二日午後、ようやくハワイに到着した。
来栖大使は、前亜米利加局第一課長結城司郎次とともに七日朝、香港からクリッパー機に乗った。結城書記官は、座席もあるというのでそのまま随行したが、旅行の用意はなく、着のみ着のままで乗りこんだ。
マニラで一泊したのち、クリッパー機はグアム、ウエーキを経て、十日、ハワイ列島の北端に近いミッドウェー島に着いた。
マニラでは、ニューヨークに帰る飛行便を待っていたウォルシュ司教も同乗した。グアム、ウエーキにはいずれも夜に着き、翌日の早朝に出発するスケジュールであった。
ミッドウェー島は、七カ月後の昭和十七年六月、日米海軍の攻防の焦点となり、日本機動部隊の主力が打撃をうけて太平洋戦争の戦勢に重大影響をうける戦場となる。
来栖大使には、しかし、そのような事態が予想されるはずもなく、それよりはクリッパー機の四発エンジンのひとつが故障したことに関心が集中していた。
すぐなおる、と告げられた故障修理は長びき、結局はミッドウェー島に四十八時間の滞在を余儀なくされたが、来栖大使にはこの望外の事故はありがたかった。
来栖大使は、十一月三日の深夜、突然に東郷外相から呼びだされて渡米を要請されていらい、ほとんどろくに眠るひまもない多忙の日をかさねていた。クリッパー機は、豪華な設備を誇る大型飛行艇で機内には寝室まで設けられている。しかし、エンジンの騒音と動揺がまぬがれない機内では、睡眠も休養も不十分である。
ミッドウェー島は小さな島のうえに、木造小屋のホテルがあるだけであり、おまけに駐屯する海兵隊がさかんに対空射撃訓練をおこなっていたが、とにかく明るく美しい南海の島での滞在は、積み重なった疲労の回復に役立った。
来栖大使は、ウォルシュ司教や他の乗客たちとも話しながら、二日間の滞在を楽しんだ。乗客には、私服の米英軍人もふくまれていたが、乗客の一人、「ジャーデン・マヂソン商会」上海支店長のウイリアム・ケズウィックは、西南太平洋地域の視察旅行をした結論として、日米関係の改善は「時すでに遅し」と判定する、と来栖大使に告げた。
クリッパー機は、十一月十二日朝、ミッドウェー島を出発して、十二日午後五時、ハワイの真珠湾に着水した。
ハワイの午後五時は、まだ明るい。クリッパー機が真珠湾に近づくと、湾内の展望を阻止するために、スチュアデスが機内の窓のブラインドをおろしてまわった。
米国側の接待係、ホノルル総領事喜多長雄たちの出迎えをうけて、来栖大使は用意されたワイキキ海岸の宿舎「ロイヤル・ハワイアン・ホテル」にむかった。
来栖大使は、三十年以上も前に領事官補としてホノルルに勤務したことがある。在留邦人の中には、当時の知人もいたので、喜多総領事は、それらの邦人もふくめて夕食会を準備していた。
夕食会は午後八時からホテルでひらかれ、約一時間半ほどつづいたが、喜多総領事は、来栖大使を見送る形で大使の部屋にはいると、低声でハワイの事情を説明した。
喜多総領事は八カ月前の三月十四日に赴任したばかりである。前任地は広東であり、その前も支那各地を転任していた。米国方面ははじめての任地であるが、喜多総領事の赴任の背景には、海軍の要請があった。
とくに名指しではなかったが、海軍は「ハラのすわった人物」の赴任を外務省に求め、外務省は喜多総領事を選んだ。喜多総領事は、“大人”のニックネームを保持し、型破りの印象を与える剛腹ぶりで定評があったからである。
また、喜多総領事の赴任につづき、海軍予備少尉吉川猛夫が「森村正」の仮名で、外務書記生としてハワイ総領事館に赴任していた。
吉川少尉の任務は、真珠湾在泊の米太平洋艦隊の動静をさぐるもので、少尉は真珠湾を見下ろすアレワハイツの料亭「春潮楼」に出かけては、備え付けの望遠鏡で米艦船の出入を観察していた。
海軍はほかにドイツ人オットー・キューンをはじめ、二世邦人、中国系米国市民なども諜者として利用していたが、これら諜者や吉川少尉の任務達成をはかるためには、統轄責任者である総領事は、なかなかに「ハラのすわった」人物であることが要求されるわけである。
もっとも、喜多総領事は、そういう諜報活動については来栖大使に報告しなかった。
「お疲れでございましょう」と丁重に挨拶しながら、喜多総領事は苦笑した。
「本来なら総領事館にお立ち寄りいただくところですが、このところ盗聴がはげしくなっておりますので……」
ホノルルにおける米国側の盗聴工作はFBIホノルル支局が担当していた。
日米関係の悪化にともない、ハワイ在住の約十五万人の日系市民の動向、とくに破壊活動工作を防止する目的で、主な日系市民の電話に盗聴装置がとりつけられていた。総領事館の幹部はむろんのこと、商社などの日本人駐在者の私邸も警戒の対象になった。
破壊工作を計画するとすれば、日本との連絡を維持する市民が指令をうけるはずだ、と判断されたからである。
喜多総領事が苦笑したのは、数日前に、日本郵船ホノルル支店員の私宅の装置を、電話会社の修理人が発見した事件を思いだしたからだが、船会社員の電話にまで盗聴装置がつけられるとすれば、総領事館には電話のみならず壁の中にも盗聴マイクが潜んでいる可能性がある……。
喜多総領事は、そんなことをいえばこのホテルだって物騒じゃないか、という来栖大使にうなずきながら、さりげない表現を選んで報告した。
総領事がとくに来栖大使に告げたのは、海軍が米太平洋艦隊にたいして寄せる関心の強さであった。
一般に任地国の大公使館は、武官がいない場合は一応の軍事情報の収集も任務とし、相手国海軍の艦船にかんする動きを調べるのも、常識的な仕事である。日本海軍が仮想敵とみなす米海軍の主力・太平洋艦隊の根拠地真珠湾を任地にふくむホノルル総領事館としては、吉川少尉の赴任もあるが、艦船情報収集にたずさわるのは、しごく自然である。
だが、喜多総領事は、最近は海軍の真珠湾にたいする視線がとくに強まった気がしていた。
二カ月たらず前の九月二十四日には、真珠湾水域を五区劃にわけて艦船の動きを報告せよ、という指示がとどき、十一月一日に引き揚げ船として入港した「大洋丸」には、鈴木英海軍少佐が事務員として乗りこみ、真珠湾にかんする詳細な質問事項を列記した薄紙を小型カプセルにいれて、総領事に手交した。
喜多総領事は、副総領事奥田乙治郎と吉川少尉に作業させて、また回答文をカプセルにいれて鈴木少佐にもどしたが、なにか太平洋艦隊よりは真珠湾そのものに関心が集まっているらしい。
水深、潮流、さらには泊地と対岸の正確な距離や艦艇係留ブイの位置など……。
「海軍らしいとは思いますが、まるで入港時の水先案内人の知識を要求されているようなものです」
海軍は、日露戦争で旅順港を襲撃したように真珠湾攻撃を計画しているのではないか、との疑問は、喜多総領事はいささかもにおわさなかった。しかし、来栖大使の反応を待たずに、声音をひきしめて、いった。
「大使、ご苦労な任務と拝察します。こちらの様子もご参考にしていただければと存じまして」
喜多総領事は、日米交渉の期限がきられていることは知らない。ただ、艦船情報の異常さから事態の異常さを推理しているだけである。もし、来栖大使が赴任前に知らされた戦争決意決定の情報を知れば、推理はより明確な推察になったはずである。
だが、むろん、来栖大使は喜多総領事にはなにも語らなかった。そして、来栖大使自身も、喜多総領事が告げる艦船情報の態様と事態の緊迫状況とを結びつけられるとは想い及ばずに、すごした。
「なかなか、こちらもたいへんだなァ」
来栖大使は、喜多総領事にそう慰労の挨拶を述べると、思いついた風情で、さっきの和歌はどうでした、と喜多総領事の顔をのぞきこんだ。
夕食会のとき、来栖大使は歓談するうちに即吟の一首をひろうしていた。
「天かける翼に乗りて身はかろし
わが大君に捧げつくして」
ああ、結構でした、と喜多総領事が思いだして応えると、来栖大使は、そう、それじゃ、と総領事に別れを告げた。
喜多総領事は部屋を出ると、ロビーで待っていた副総領事奥田乙治郎と一緒に帰宅したが、車中で独語した。
「身もかろければ想いもかろし、じゃないかねェ」
「え……」
話しかけられたと思って声をだした奥田副総領事に、喜多総領事は、いや、と首をふって黙りこんでいた。
午後十時すぎ――日本時間は十一月十三日午後五時すぎにあたる。
ちょうど、岩国航空隊に参集した連合艦隊幹部が、司令長官山本大将の征戦にさいしての訓示を聞き、参会者が感銘と決意に全身をほてらせながら退出しようとしていたころである。
31
来栖大使は、十一月十三日午前九時五分、サンフランシスコに到着した。
クリッパー機の着水場は市外のトレジャー・アイランドにある。飛行機は午前八時にはサンフランシスコ上空に到達したが、当地の名物の濃霧のために旋回をつづけ、霧の晴れ間をとらえて着水した。
空港ビルには記者団が待機し、来栖大使はNBC放送のマイクに、太平洋の旅は楽しかった旨の簡単な挨拶を述べたあと、記者会見で次のように語った。
「自分の使命が極めて至難であることは痛感しているが、野村大使とがっちり組んで難関突破にあたり、見事“タッチダウン”を獲得したい」
おりからフットボール・シーズンである。「アイ・ホープ・ツー・メイク・ア・タッチダウン」という来栖大使の表現に、日本側記者団は、さすがは英語に堪能な来栖大使だと感心したが、米人記者団の間にはちらとこわばったざわめきがひろがった。
「タッチダウン」は、たしかにフットボール用語であり、敵陣内にボールを押しつけて得点することをいう。
来栖大使としては、得点をあげたい、というほどの意味に使ったのであろうが、
「あれはまずかった。私もあの日の夕刊で知って、これはと思いましたよ。タッチダウンは得点をいれるにはちがいないが、敵陣内にふみこむわけでしょう。米国がさかんにドイツと日本の侵略行動を非難している時期でしょう。
なんとなく意見をおしつけてやるとか、相手が阻止しても断乎として突進するとか、そんな強面《こわもて》の印象を与えるじゃないか」
そんな気がした、と海軍武官府嘱託佐々木勲一は回想するが、あるいは、この「タッチダウン」声明が災いしてか、米国ジャーナリズムの姿勢は、一般的に来栖大使には好感を示さなかった。
来栖大使はサンフランシスコの日本総領事館で一泊したのち、十四日の夜は大陸横断「ストラト・ライナー」機の中ですごし、ニューヨーク経由で十五日午後一時半、ワシントン空港に到着した。
空港には野村大使をはじめ大使館幹部や、国務省のバランタイン日本課長も出迎えた。同行した結城司郎次前亜米利加局第一課長は、オーバーもない着たきりの姿なので、井口参事官と握手しながら、寒い、寒い、と肩をすくめていた。
飛行機には、ウォルシュ司教とドラウト神父も同乗していた。二人は遠くから野村大使に目礼して、国務省にハル長官を訪ねた。
近衛首相、いや、近衛前首相の大統領あて口頭メッセージとウォルシュ司教が帰米の途中に書いた意見書をハル長官に提示するためだが、司教を迎えたハル長官の態度は消極的であった。
「ご尽力には心から感謝致します。ご意見は有難くうけたまわります。しかし、大統領にお会いになる必要はございますまい」
司教が日米交渉の前途について質問すると、長官はにごした言葉遣いで抽象的な返答しかしなかったが、司教には言外の意味が察知できた。
「神父、どうやらハルは完全に希望を捨てているように感じられたが」
「そのとおりです。悲観の一語が最も適切な見通しになりましょう」
ドラウト神父は、ウォルシュ司教が日本に滞在した間にも、しばしばニューヨークとワシントンを往復して解決策の発見に努力した事情を語りながら、疲れた表情で応えた。
ウォルシュ司教も、事態が予想外に悪化していることを感得せざるをえなかったが、事態の悪化におどろいたのは、来栖大使も同様であった。
来栖大使は、翌日、十一月十六日の日曜日にゆっくり野村大使と話しあった。
朝食のあとで居間ではじまった対話は、庭を散歩しながらの会話につづき、さらに昼食から午後のお茶の時間を経て、夕食後も継続した。
野村大使にも来栖大使にも、訊ねたいこと話したいことがたまっていたからだが、来栖大使にとって最も意外であったのは、「十一月二十五日」を交渉限度とする東京の指示であった。
来栖大使は、東京を出発する前日、十一月四日、東条首相と会談したが、交渉妥結にたいする希望を表明した首相は別れぎわに、つけ加えた。
「諸般の関係上、交渉は十一月一杯に終了しなければなりませぬ。野村大使限りにお伝えをいただきたい」
ところが期限は「十一月二十五日」と指定され、その旨の東郷外相電は十一月五日、つまり来栖大使が追浜の海軍基地から爆撃機で台湾にとんだ日に発信されている、という。
――それでは、情勢は一晩で急変したのか。
眉をひそめて首をかしげる来栖大使に、野村大使は、この「タイム・リミット」はよほど厳重な意味があるらしい、と説明した。
野村大使は、来栖大使がサンフランシスコを出発した十四日、南進の危険と対米英戦になった場合の不利を率直に指摘し、次のように結語した意見具申電を東京に送っていた。
「我国現下ノ国情ヲ詳知セザルモ――国情許スナラバ一、二ケ月ノ遅速ヲ争フヨリモ、今少シ世界戦ノ全局ニ於テ前途ノ見透シ判明スル時迄辛棒スルコト、得策ナリト愚考ス」
だが、東京からは「十一月二十五日」の期日は動かせぬ、野村大使のいうように隠忍することは「遺憾乍ら不可能」だと、硬い口調で返電してきた。
どうも東京は覚悟をきめているのではないか、と野村大使は手にしたタバコの煙の行方を隻眼で追いながら、つぶやいた。
来栖大使は、出発前の東条首相との対談を野村大使にひろうした。首相が「十一月一杯」という言明をする前に、来栖大使は首相に質問していた。
「総理、これは仮定の話ですが、万々一にも交渉が不成立に終り、戦争になったらどうなるのですか」
「緒戦において敗れるようなことは、絶対にない」
東条首相はそれ以上は語らず、交渉妥結した場合の条件はどんな反対があっても実行する、と断言した。
来栖大使は、この東条首相の発言から、政府は結局は平和を望んでいると思う、と野村大使に述べた。
さあ――と、うめくような一声と頭をたれての黙思が、椅子に腰を沈めた野村大使の反応であった。
翌日、十一月十七日午前十時半、野村大使と来栖大使はハル国務長官を訪ね、そのあと午前十一時にホワイト・ハウスでルーズベルト大統領と会談した。
来栖大使は五年前、駐ベルギー大使として赴任する途中に米国を通過したさい、ハル長官に会ったことがある。二人は、久しぶりの再会を喜ぶ挨拶をかわし、一般的な会話をこころみたのち、ホワイト・ハウスにむかった。
いわば“表敬”訪問であり、会話の時間も短かかったが、ハル長官はひどく深刻な印象をうけたとみえ、のちにその『回想録』に次のように記述している。
「来栖と野村とは正反対の人物であるように思われた。彼の顔付きにも態度にも、少しも信頼や尊敬を覚えさせるものがなかった。私ははじめから、この男はうそつきだと感じた」
米国の国務長官は他国の外相にあたる。ハル長官は「法律家でテキサスの田舎者」を自認しているとはいえ、ずいぶんと思いきった酷評である。
ハル長官の『回想録』は戦後に書かれたもので、とくに対日交渉では、米国の平和意図にたいして日本は“偽りの外交”をおこない真珠湾に“だまし討ち”を加えた、という論旨を一貫して主張している。来栖大使の派米も、その“欺瞞外交”の一手段とみなしている。
あるいは、そういう主張に即しての人物評で、第一回会見のときはそれほどたしかな“人相判断”はおこなわなかったともみられるが、とにかく、来栖大使の来着に好意はさそわれなかったらしい。
二人の大使とルーズベルト大統領との会談も、挨拶的なものであった。
主として来栖大使が話し、日独伊三国同盟と支那事変処理をテーマにして、日本も譲歩するから米国も妥協してほしいとの趣旨を述べた。
ルーズベルト大統領は、日支和平については米国は干渉も仲介もするつもりはない、「外交用語ニ在リヤ否ヤハ知ラザルモ、“イントロデューサー”(紹介者)トナラントスルノミナリ」といった。
ハル長官は、持論のヒトラーの侵略政策の危険を説いていたが、最後に来栖大使に、いった。
「従来自分ト野村大使トハ、何度モ話ヲ繰返シ、何時モ同ジ所ヲクルクル廻ル如キ状態ナリシガ、貴大使ヨリ新タナル角度ヨリ観タル話ヲ承ハリタシ」
前述の『回想録』の述懐と想いあわせると、いささか釈然としない応対ぶりにみえるが、実際には、このハル長官の発言は外交辞令ではなく、率直な意向の表明であった。
ハル長官は“マジック”情報で、日本政府が「甲」「乙」両案の交渉案を用意し、また「十一月二十五日」を交渉期限と定めていることも、知っている。
すでに「甲」案が提示されている。たぶん、「乙」案は来栖大使の来着、とくに大統領との会見のさいに提出されるものと予想していた。
ところが、その様子がないので、「新タナル角度ノ話」という表現でさいそくしたのである。
それというのも、“マジック”情報が告げる限りでは、日本側のカードはこの「甲」「乙」案の二枚しかなく、しかもゲームの時間も限られている。
問題は、日本側の最後の切り札である「乙」案にたいしてどのような対案で臨むか、である。
「乙」案は、交渉の焦点を武力進出の停止と通商関係の回復にしぼっている。時間かせぎのためには、「乙」案内容に近い日本の関心をひく対案を提示すべきである。それには「乙」案が示されなければ対案も出しようがない。
また、交渉打ち切りを承知する場合でも、「乙」案をはねつけるよりは、対案を示して日本側に拒否させて行動の責任をとらせる形が、望ましい。
いずれにしても、「乙」案が提示されねば具体的に反応がし難く、情勢判断を決断に昇華させることもできないわけだが、「乙」案にたいする対案は、すでにしきりに考案されていた。
たとえば、国務省極東部は、「日本を支那から撤退させる代りに、北樺太、トンキン(仏領インドシナ)、ニューギニヤの西、南、北部のいずれかまたは全部を買う資金を日本に貸し、日本は商船または軍艦で支払う」暫定協定案を考えた。
また、財務省特別補佐官H・D・ホワイトは財務長官ヘンリー・モーゲンソーを通じて、次のような“解決案”を国務省に提示した。
▽米国が実施すること=
太平洋からの艦隊ひきあげ 期間二十年の日米不可侵条約 満州事変の最終解決 仏印の共同管理(日、米、支、仏)対日クレジット供与 移民法廃止 対日資金制限解除 対日貿易協定の交渉 日米分担の円・ドル安定資金設定……
▽日本が実施すること=
支那(一九三一年国境)、仏印、タイから撤兵 (介石)国民政府以外の支那政権支持廃止 支那で使用の軍票の円交換 支那に十億円援助(二分利、十年間)ソ連極東軍の撤退に応じて満州撤兵 二割の利潤で現有軍需物資の四分の三を米国に売却 対支、対米最恵国待遇供与 米、支、英、蘭(およびフィリピン)と十年間の不可侵条約締結……
ホワイト特別捕佐官は、この“解決案”が成就すれば、日本は「“メンツ”を失わずに支那事変から脱出できて生存の道を確保できる」し、米国にとっては次のような利点がある、と指摘した。
米国は東からの脅威を解消して英、ソ連にたいする軍事援助を増強できる。
対日戦争を回避できる。この協定実施のために使う金は、日本と戦い、また両洋作戦をおこなうために必要な金よりはるかに安い。
ホワイト特別補佐官は、これらの米国にとっての利益を考えた場合、“解決案”内容の中で、「日本の支那撤兵と軍需物資の対米売却」――の二つだけは実現させる必要がある、と強調した。
国務省極東部案は、たぶんに教育学者ジョーンズ博士の提案を採用し、財務省案は「金で平和を買う」という財務省にふさわしい構想であるが、両案とも、日本を完全にアジアから撤退させてヨーロッパ戦争に参戦する、という基本方針を基礎にしている。
結局は“対日屈伏要求案”でもあり、当然に、日本が承知しないことも予想され、その場合は戦争を覚悟しなければならない。
とくに財務省案は、のちに「ハル・ノート」の基礎になるが、内容が詳細かつ広汎であるだけに“全面的降伏要求”の印象が強い。
いわば、日本側が「乙」案を最後のカードとして用意したのにたいして、米国側も最終対案を準備していたわけだが、日本側はなかなか「乙」案を提示しなかった。
野村、来栖両大使は、ルーズベルト大統領と会談した翌日、十一月十八日朝ハル長官と対談した。
会談は二時間四十分におよび、ハル長官はしきりに、米国がヒトラー政策に反対である以上は日本がヒトラーと同盟条約を結んでいる限り日米国交調整は難しい、と強調した。
ハル長官としては、来栖大使がかつて駐独大使として日独伊三国同盟条約にサインしているので、とくに三国条約を論議の対象にしたのかもしれないが、いや三国条約は武力行使を前提にしていない、それならその証拠を示すべきだ、と長官と来栖大使が応酬するうちに、野村大使が口をはさんだ。
「高邁ナル理想論ヲ闘ハスモ際限ナカルベキヲ以テ、先ヅ差当リ斯カル緊張ヲ緩和スルコト必要ナルベク、夫《ソ》レニハ凍結令実施前ノ事態ニ復帰スルコトトシ、即チ日本ハ南部仏印ヨリ撤兵スルニ対シ米国ハ凍結令ヲ撤去ス」
とにかく日米両国間の空気を緩和してみてはどうか、と野村大使は提案した。
来栖大使は、驚いた。野村大使がこのような提案をするとは、なにも聞いていなかった。しかし、悪い提案ではない。
ハル長官が、「根本ノ問題ニ付キ話ガ付カザルコト明瞭ナル間ニ、一時的手段トシテ御説ノ如キコトヲ行フモ無駄ナリ」と反駁するのを説得し、それでは日本が明確な姿勢を示すならば考慮する、というハル長官の返事をひきだした。
二人の大使は喜び、さっそく東京に意見具申電を送った。
「乙」案の提出よりも、「南部仏印撤兵」を代償として「凍結令解除及物資獲得ヲ主眼トスル実質的妥結」をこころみるのが得策である。なぜなら「乙」案は「甲」案よりも「成立困難ノ見込ミ」である……。
二人の大使の喜びは、その翌日、十一月十九日に倍増した。
朝食が終ったころ、ウォルシュ司教がやってきて、希望の光がさしこんできた、あの提案は米国政府も結構だと考えている、と来栖大使の右手をにぎりしめ、ドラウト神父もウォーカー郵政長官から好意ある内意を伝達された、と述べた。すぐウォーカー長官にお会いなさい、とも、いう。
その夜、二人の大使がウォーカー長官を訪ねると、はたしてウォーカー長官は絶え間なく快笑しながら、野村大使に、いった。
「アドミラル。貴下なら軍需用の石油と民需用の石油の区別はご存じでしたな」
対日石油禁輸が解除されても、当分は民需用石油の供給にとどまるだろう、との意であるが、野村大使の提案が実現することを前提としての発言とうけとれる。
実際には、米国政府の反応はこのウォーカー郵政長官の個人的支持にとどまっていたのだが、二人の大使にはそうとは思えず、これで緊張緩和の手がかりが得られた、と考えられた。
――ところが、
東京の反応は、文字どおりに冷厳であった。
東郷外相は、野村大使の意見具申電を一読すると、激しく眉をしかめた。外相は、そのときの心境を記述している。
「相手の態度を甘く見ているか、または徒に事態を遷延かつ紛糾せしむるものと認めた……殊に大使が折角提出せんとする乙案の範囲を縮小して先方へ提出したことは、交渉技術より見れば目茶である。如此《かくのごとき》やり方で交渉の成立した例はない……あまり自己の地位に重きを置きすぎて種々の手段をも講ずる弊害がみえた……」
要するに「シロウトの勇み足」だと東郷外相は批判するわけだが、東条首相からも外相に注意が寄せられた。
「たんなる出先機関が国策以外の私案を提出するのは面白くない」
なによりも上下の秩序と統制を重んずるのが東条首相の信条である。一種の“越権行為”とみなしたらしい。
東郷外相は打電した。
「……我国内情勢ハ……貴電私案ノ如キ程度ノ案ヲ以テ情勢緩和ノ手ヲ打チタル上更《サラ》ニ話合ヲ進ムルガ如キ余裕ハ、絶無ナリ。旁々《カタガタ》、貴大使ガ当方ト事前ノ打合セナク貴電私案ヲ提示セラレタルハ、国内ノ機微ナル事情ニ顧ミ遺憾トスル所ニシテ、却ツテ交渉ノ遷延乃至不成立ニ導クモノト云フノ外ナシ……」
そして、東郷外相は速かに「乙」案を提示することを指示したうえで、次のように強調した。
「右ハ帝国政府ノ最終案ニシテ絶対ニ此ノ上譲歩ノ余地ナク、右ニテ米側ノ応諾ヲ得ザル限リ交渉決裂スルモ致シ方ナキ次第ニ付、右篤ト御含ミノ上万全ノ御努力ヲ払ハレ度シ」
責任は政府が負う、余計なことをせずに指示どおりに動け――といわんばかりである。ウォーカー長官邸から帰って電報をみた二人の大使は、茫然とした。
「殆ど叱責に近い激しい」回訓であった、と来栖大使は回想しているが、とりわけて野村大使がうけた衝撃は激しかった。
「事務的にことをはこぶだけでは外交じゃないじゃないか。ステーツマンシップが必要なのだがなァ」
温厚で辛抱強い野村大使としては、せいいっぱいの批判をこめた感想であったが、それとわかるだけに来栖大使も暗然と眼を伏せた。
暖かく居心地がよい大使の居間であるが、黙りこんだ来栖大使の首すじはすき間風を感じた。窓ガラスが鳴っている。風が強くなったらしい。
32
野村大使は、来栖大使とともに十一月二十日正午、ハル国務長官を訪ねて「乙」案を提示した。
この日は十一月の第四木曜日、つまり感謝祭であったが、「乙」案という日本側からのプレゼントにたいする米国側の“お返し”は、ハル長官の渋面と冷たい論評だけであった。「乙」案の内容をすでに“マジック”情報で承知し、外交戦術上の対策まで考究中のハル長官としては、むしろ、「あまり強い反応を見せない」ように発言を制限した、と回想している。
「介石政権にたいする援助打ち切りは困難ですな」「とにかく日本の政策が明確に平和政策になることを切望する」――などと、およそ事態の発展には無意味な挨拶を述べて、ハル長官は二人の大使を送りだした。
「はっきりしませんねェ」
「そう、どうもネ……」
野村大使は来栖大使の感想にあいづちをうちながら大使館にもどったが、居間にはいると、それを待ちかねていたように井口参事官と海軍武官横山大佐が、はいってきた。
のちに米国議会が真珠湾攻撃の調査のために設けた「上下両院調査委員会」が『ウインド・メッセージ』(風通信)と呼んだ秘電が、とどいていた。
電文は、外交関係が断絶して国際通信がとだえるような非常事態のさいは、次のような天気予報を日本からの短波放送に挿入して知らせる、と告げていた。
日米関係が危機になったとき、東ノ風雨
日ソ関係が危機になったとき 北ノ風曇
日英関係が危機になったとき 西ノ風晴
この警告は、放送の中間と最後に加えられ、二回ずつくり返す。放送があればすべての暗号書その他必要文書を処分せよ、という。たとえば――、
「……ただいまよりニュースをお伝えします……ここでただいまはいりました天気予報をお知らせします、東ノ風雨、東ノ風雨。次に……では、最後に天気予報をくり返します、東ノ風雨、東ノ風雨」
という調子になるのであろうが、井口参事官も横山大佐も、緊張しきっていた。
電報は、米、ソ、英三国との国交断絶を予告しているが、対象の焦点は日米関係である。そして、この予告が伝えられた以上は、明日にでも“天気予報”が放送される可能性もあるからである。
すでに、海軍武官補佐官実松少佐は、書記を名のる電信下士官萩本二等兵曹に短波ラジオに耳をすますよう、指示していた。
「いいか、こりゃまさしく“風のたより”だ。この“風のたより”を聞きのがしたら、ハラを切るくらいでは相すまぬぞ」
萩本二等兵曹も、必ず聞きとります、と誓った。
野村大使は、横山大佐から“風”電報を示されると、うむ、とオーバーをぬぎながらうめいただけであったが、来栖大使は質問した。
「交渉期限の二十五日までまだ間があるというのに、どうも交渉とは無関係に軍が動いているのではないのかねェ」
「そんなことはありますまい。海軍は本交渉の成立を切望しております」
横山大佐は、きっぱりとした口調で答え、それにしても時間が制限されているので交渉成立は急がれねばならない。海軍首脳部も心から両大使のご苦労に深謝しとられます、とつけ加えた。
この横山大佐の発言に底意はない。“風”電報は、十一月二十五日の期限が切迫してきたので、あらかじめ必要措置を予報したのであろう。ただ、このような予告に接してみると、あらためて事態の急迫が身にしみるわけである。
――だが、
来栖大使の予感は、ある意味では的中していたといえる。
十二月八日を開戦日と予定し、その前に日米交渉が妥結しなければ奇襲で開戦する計画をたてている陸海軍は、当然のことではあるが、攻撃部隊をじりじりと目標近くに移動させる準備をすすめていたからである。
陸軍の場合、南方攻略部隊を指揮する軍司令官五人が親補されたのは十一月六日であったが、その一人、マレー・シンガポール攻略を担任する第二十五軍司令官山下奉文中将は、十一月十四日午前七時七分羽田を出発し、台北、広東を経て十五日午後、サイゴンに到着していた。
やがて指揮下の部隊が海南島・三亜港に集結するのを待つためであるが、第二十五軍の参謀たちも勢ぞろいしていた。
十一月十八日に陸海軍作戦協定が成立し、また当日は山下中将の五十七歳の誕生日でもあったので、サイゴンの仮司令部で夕食会がひらかれた。たまたま宮田少佐の仮名でサイゴンを訪ねている竹田宮恒徳少佐も列席したが、竹田宮はマレー上陸作戦必成を叫ぶ参会者に、たずねた。
「それで、シンガポールはいつ落ちますか」
「ほぼ三月十日、陸軍記念日を期しております」
即座に答えたのは第二十五軍作戦参謀辻政信中佐だったが、いや、と、山下中将が口をはさんだ。
「殿下、小官は正月には必ずとるつもりでおります」
「正月? それは早すぎはしませんか」
竹田宮少佐は眼をみはって山下中将を注視した。シンガポール攻略はマレー半島千百キロを縦断して、さらにシンガポール島要塞を攻撃する大作戦である。
シンガポール島そのものの攻略に五、六日はかかるとみこまれていたが、そうなると、十二月八日に上陸して昭和十七年元旦にシンガポールを攻略するには、少なくともマレー半島千百キロは二十日間たらずで突破しなければならない。平均一日五十キロ余の行軍、それも橋梁爆破や銃砲撃などの敵の抵抗を排除しながらである。
実際には、シンガポールは昭和十七年二月十五日に陥落し、辻参謀の予想よりは早かったが、山下中将の期待ははずれることになる。
もっとも、山下中将がシンガポール「正月陥落」論を唱えたのは、現実のスケジュールを述べたのではなく、「正月陥落」くらいの意気込みで突進すべきだ、との主張であったわけだが、山下中将がそれほどの自信をひれきしたのも、各部隊の準備と計画は文字どおりに万全を期して促進されていたからである。
必要資材は台湾、インドシナ各地に続々と集積され、開戦と同時にインドシナからタイを経てマレーに兵員、物資を鉄道輸送するためのC51機関車もはこばれていた。のちに国鉄総裁となって横死する鉄道技師下山定則が、あらかじめ現地鉄道を調査してゲージ改修がほどこされていた。
開戦命令を伝達する電報形式も定められ、そのさいに使用する隠語も用意された。
開戦予定日は十二月八日だが、不測の事態も考慮して、十二月一日から十日までの一〜十日にそれぞれ次のように都市名をあてた。
一=「ヒロシマ」、二=「フクヲカ」、三=「ミヤザキ」、四=「ヨコハマ」、五=「コクラ」、六=「ムロラン」、七=「ナゴヤ」、八=「ヤマガタ」、九=「クルメ」、十=「トウキヤウ」……。
そして、開戦日「X日」の隠語は「ヒノデ」であらわす。
予定どおりであれば、「『ヒノデ』ハ『ヤマガタ』」の一電が攻撃部隊にとび、もし二日間おくれれば「『ヒノデ』ハ『トウキヤウ』」となるわけである。
海軍も、次々にハワイ攻撃部隊を出陣させていた。
ハワイにむかう部隊は、主力である空母六隻を基幹とする機動部隊のほかに、小型特殊潜航艇五隻の運搬と警戒を任務とする潜水部隊にわかれるが、潜水部隊も空母も十一月十八日までにそれぞれの基地、母港をはなれて待機地点にむかっていた。
機動部隊の待機地点は、南千島択捉島の単冠湾であるが、まだ六隻の空母と所属艦艇が三々五々の形で日本列島沿岸を北上している十一月二十一日午前零時、連合艦隊司令長官山本五十六大将は、秘電を発信させた。
――「連合艦隊電令作第五号、十一月二十一日○○○○第二開戦準備」。
単冠湾からさらに作戦海面に進出せよ、という命令である。
実松少佐によれば、この電令作第五号は「フジヤマノボレ 一一二一」の隠語で打電されたという。
してみれば、のちに十二月八日開戦を指示する隠語電が「ニヒタカヤマノボレ 一二〇八」であることと思いあわせると、海軍は次第により高山にのぼる形で戦いを指導していたとも推測される……。
だが、それにしても、日本時間・十一月二十一日午前零時は、ワシントンでは十一月二十日午前十時にあたる。まだ、野村、来栖両大使がハル長官の部屋をノックする前である。
“風”電報の背景に、こういった臨戦準備が着々と進行しているとは、二人の大使には知るすべもなかったが、来栖大使は出発前に時間の切迫をとくと強調されていただけに、にわかに耳の奥に時計のセコンド音が鳴りひびく想いにおそわれたのである。
翌日、十一月二十一日には、陸軍武官磯田少将に東京から至急電がとどいた。
「交渉日時切迫ス。今ヤ和戦ヲ決スルトキ、大使ヲ補佐シテ一刻モ早ク交渉妥結ニ努力スベシ」
参謀総長と陸相の連名の電報をみると、磯田少将は野村大使に会って文意を報告したが、とくに強い語調で交渉促進を依頼することは避けた。
「じつは、これまでにも東京からの督促を野村大使に伝えたところ、大使がハルに催促すると、なぜそんなにせかせるのか、と色をなして怒ったと聞いたことがありました。そこで、また相手を怒らせ、大使にもつらい御役目をおしつけてもよくないと思った」からである。
東京では、第七十七臨時議会が閉会し、新聞には、野村大使邸に久しぶりに大使の便りが届いたというニュースが報道されていた。
便りは、十月五日付の長男忠あての葉書で、「この葉書いつつくことやら知らず」と不安を表明しながらも、次のように結語したものであった。
「私もこの頃は大分心身を労しつつあるが、いつか一陽来復の時を期待しをり、幸ひに健康なり、吉三郎」
たった一枚の葉書で文章も簡単であったが、夫人秀子は「忙しいし、無頓着な人なので手紙などもらえぬと思っていたのに」と、喜んだ。
しかし、夫人秀子が喜び、また新聞が紙面を大きく割いて野村大使の葉書を報道した理由のひとつに、文面にいう「一陽来復」の四文字に期待がよせられたとすれば、それはすでに実情からは遠のきすぎていた。
“風”電報を“マジック”解読で承知したハル長官は、十一月二十一日朝、国務省幹部と陸海軍首脳者を国務省に招集して、対策を協議した。
即時回答をださずにこのままにしておく、日本側の提案を拒絶する、反対提案をおこなう――この三方針のどれを選ぶか、とまず、ハル長官は提議した。
一同は、あっさりと第三案に同意した。第一案、第二案はともに米国側の誠意について疑わせ、日本側に開戦の口実として利用される恐れがあると判定できるからである。
では、どのような反対提案をおこなうべきか。
陸海軍の要求は、ヨーロッパ参戦を有利におこない対日戦略の強化で日本を圧伏させるために、「できれば六カ月、少なくとも三カ月」の準備期間が必要だ、という。
ハル長官は、「三カ月暫定協定案」に「全面協定案」をつけることにして国務省で作案する、と述べた。
その夜、来栖大使がハル長官のホテルを訪ねた。
来栖大使は、日独伊三国同盟に関連して、米国が参戦しても条約義務の実行は日本が独自に決定し、決して他の二国の解釈に拘束されない、と述べた無署名の書簡を用意した。
もし長官が同意して日米交渉に好影響があるというのであれば、その場で署名するつもりであった。
ハル長官は、しかし、意見は述べず、ほかに新提案はあるか、と訊ねて、ノー、の返事を聞くと、他の人物にみせたいから、といい、来栖大使の手紙をうけとった。
来栖大使は、ハル長官がいう「他の人物」はノックス海軍長官ではないかと推理したが、実際には海軍作戦部長スターク大将であった。
来栖大使の回想によれば、会談中はハル長官は上機嫌で、たまにはゴルフにでも一緒に行きたいが、などと口走るほどであったという。が、ハル長官自身の記述では、長官はそのあとスターク作戦部長に会うと、来栖大使の書簡は「日本がいつでも攻撃するという警告だと思うべきだ」と、強調したのである。
すると翌日、十一月二十二日朝、東京は次のように交渉期限の延長を伝えてきた。
「往電第七三六号ノ期日ハ変更シ難キモノナルコト御承知ノ通リナルガ……茲三、四日中ニ日米間ノ話合ヲ完了シ、二十九日迄ニ調印ヲ完了スルノミナラズ……一切ノ手続完了ヲ見得ルニ於テハ、其レ迄待ツコトニ取計ラヒ度……」
しかし、この期日の再変更は絶対に不可能だ、と東郷外相は指摘し、さらに次のように強調していた。
「其ノ後ノ情勢ハ自動的ニ進展スルノ他ナキニ付キ、如上ノ次第篤ト御含ミノ上、交渉完結ニ付キ充全ノ御努力相成度シ」
ハル長官は、この電報を“マジック”解読で知らされたとき、「自動的……の言葉が投射する暗い影を感じた」と述べているが、想いは野村、来栖両大使に共通していた。二人の大使は、交渉延期電をうけとると、その夜午後八時、ハル長官のホテルを訪ねた。
土曜日の夜であったが、会談は三時間つづいた。そして、ハル長官の態度は、こわばった印象を与えた。
来栖大使は、その前夜に会見して別れるさい、にぎりしめたハル長官の右手が熱っぽかったことを思いだした。カゼ気味なのかもしれない。
しかし、ハル長官の態度がぎこちなかったのは、じつは長官が“演技”をしていたためらしい。ハル長官は、いう。
「この二人の外交官が私の部屋にニコニコ顔をつくり、丁重な態度で表面親しそうにやってくるのを見るのは、なにかしらじら《ヽヽヽヽ》しいものであった。
私のように電報の傍受によって日本の不法な計画を知り、野村、来栖も同じ情報を持っていることを知りながら、彼らと同じ調子でものをいうのは、まったくつらいことであった」――からである。
会談は、「野村が時々クスクス笑い、来栖が歯をみせて笑ったりする」雰囲気の中で進んだ。
二人の大使が主張したのは、当然に米国側回答の催促であったが、ハル長官は、回答案を、英、支、オランダ各国に提示して諒解を求めている、月曜日(十一月二十四日)には返事ができると思う、と答えた。
野村大使が、東京からの督促が急で困ると苦笑すると、「数日間くらい待たれない理由はありますまい」と、やや憤然とした口調で反駁した。
野村大使が「乙」案について、逐条的に米国側の意向をさぐろうとすると、ハル長官は大使の発言をさえぎって、「要求セラルル理由ナク、自分ハ斯ク迄モ努力シツツアルニ拘ラズ、遮二無二当方諾否ノ決定ヲノミ迫ラルルガ如キ只今ノオ話ニハ失望スル」
野村大使が東京に打電した会見報告の末尾には、「本使等ハ沈着ヲ旨トシ、折衝ニ当リ激スル様ノコトハ無之、先方亦然リ」と付記してあるが、わざわざこのような文言をつけ加えたあたりに、当夜の会談の雰囲気がうかがえるようである。
東郷外相は、野村大使の報告をうけると、「乙」案を全部受諾させるよう説得せよ、「乙」案は「真ニ難キヲ忍ビテ敢テセル提案ニシテ、右以上ノ譲歩ハ絶対不可ナリ」と、二人の大使をはげました。
ハル長官が“マジック”を利用しての“演技外交”を展開すれば、東郷外相はまっしぐらに「イエス」か「ノー」かを迫っている感じである。
とにかく譲歩しても交渉をまとめたいと念願する野村大使にとっては、米国側の“マジック”事情も知らないだけに、ハル長官の頑固さもさることながら、東京の督促は得策ではないとしか思えなかった。だが、事態はまさに「自動的」に進展しているのであり、東郷外相にとっても、時計の針は「戦争の刃」であり、その動きは刃がふりかぶられる動きそのものであった。
野村大使と来栖大使がハル長官と会談を終えたのは、十一月二十二日午後十一時、日本時間二十三日午後一時であるが、その三十分間後、機動部隊は全兵力が単冠湾に集結を終った。
そして、粉雪が舞い、甲板を笛のようなうなりをあげて北風が吹きぬけると単冠湾で、機動部隊指揮官南雲忠一中将は、旗艦「赤城」に各級指揮官を集めて機動部隊命令作第一、第二、第三号を下令したが、第一号命令の冒頭には次のような作戦方針が明記されていた。
「機動部隊並ニ先遣部隊(註、潜水艦部隊)ハ……開戦劈頭機動部隊ヲ以テ在布哇《ハワイ》敵艦隊ニ対シ奇襲ヲ決行シ、之ニ致命的打撃ヲ与フ……」
開戦日時は「×日○三三〇」と予告され、その発令は日米交渉の成否とにらみあわせて示達されることになっているが、機動部隊全将兵は感奮した。
戦争の切迫は予想されていたが、いよいよその相手が“宿敵”視されていた米海軍であり、しかもその根拠地になぐりこみをかけるとあっては、血はたぎらざるを得ない。
喚声と歓声が単冠湾の冷風に乗って二度、三度と海面をどよもした。
東郷外相は、このような戦備状況は知らなかった。が、一時間、いや一分間が戦争への歩度を速めている事情は承知している。
そこで、「遮二無二」の督促をワシントンに重ねているのだが、といって野村大使にも来栖大使にも「遮二無二」相手を説伏する妙策は思いあたらない。
二人の大使は、二十三日の日曜日は、それぞれの居室でひたすら黙思のままにすごしたが、翌日、十一月二十四日、東京は一通の短い電報をおくってきた。
「往電第八一二号ノ期限ハ東京時間トス、念為」
延期された交渉期限「十一月二十九日午後十二時」は、東京時間だという。では、ワシントン時間では「十一月二十九日午前十時」となる。
「いよいよ、日本はわれわれの頭上にたれさげる剣に時限装置をつけたわけだ」
“マジック”情報で知ったハル長官は、ホーンベック顧問にそう述べ、二人は静かにうなずきあった。
33
米国政府の主要閣僚のうち、国務、陸軍、海軍長官三人は、毎週火曜日の朝に定例会議をひらくことにしていた。
十一月二十五日も、この恒例の三相会議がひらかれ、ハル国務長官は、日米交渉の「三カ月」延期を期待する暫定協定案と全面的解決案の二つを提示して、同日か明日に日本大使に手交するつもりだと述べた。
「この暫定協定なら日本は満足すると思う。が、ロンドンや重慶は承知するだろうか」
スチムソン陸軍長官がそういったのが、当日の短い会議での唯一の質問であったが、ハル国務長官が暫定協定案はすでに米、オランダ、支那各国に内示されている。やがて返事がとどくはずだ、と答えるとスチムソン長官はうなずき、散会となった。
つづいて、正午からホワイト・ハウスで幹部会議が開催された。
ルーズベルト大統領、ハル国務長官、スチムソン陸軍長官、ノックス海軍長官、マーシャル参謀総長、スターク海軍作戦部長の六人の会議であり、議題は対日問題にしぼられた。
ルーズベルト大統領は、日米関係の切迫を指摘して、「日本人は警告せずに奇襲をおこなう伝統を持っているから」と、眉をひそめた。
「あるいは、次の日曜日に攻撃をうける可能性もあると思う」
出席者たちは、一瞬、黙りこんだ。大統領の推理の根拠は、容易に理解できる。“マジック”情報は、日本側が交渉の期限を十一月二十九日いっぱいと指定したことを伝えている。
十一月二十九日は土曜日だから、早ければその翌日、三十日・日曜日に攻撃がおこなわれるかもしれない。現に、日本はかつて日露戦争を明治三十七年二月八日・日曜日の旅順港攻撃で開始した実績を保有している。
ハル長官も大統領の推理を支持して、「彼らは同時に数地点を攻撃するかもしれない」と言葉をそえた。
会議の雰囲気は、このハル長官のあいづちで定められ、では、そのような可能性にどう対処するかが論議の中心テーマとなった。
「問題は、われわれがあまり大きな危険にさらされずに日本側に最初の第一発をうたせるよう、どうやって彼らをその立場に追いこむか、ということであった」
スチムソン長官は、そう日誌に記述しているが、このスチムソン長官の発言の意味もまた明白であった。
議会民主主義の国・米国としては、開戦という重大決定は米国民の支持がなければおこなえず、国民の支持は、「日本人自身が最初に攻撃したのであり、侵略者が誰か、について疑念の余地がない」場合においてのみ、完全な形で入手できるからである。
それでは、どうすれば日本側に第一発をうたせられるか。
テーマがこの点に移ると、論議はやや停滞した。
日本が受諾できないような苛酷な条件を提示すればよい、とは容易に思いつく策案だが、陸海軍作戦当局はなお「最低三カ月」の準備期間が必要だ、という。第一撃をうけるにしても、十分に準備がととのっていたほうが、被害も少なくてすむはずである。
では、黙ってすごすか――。
「それはまずい。日本が南進をつづければ、それを黙認することになる」
ノックス海軍長官の反対にたいして、それじゃ暫定協定案で処理してもよいが、もし日本が受納すれば戦争にはならない、とハル国務長官が指摘した。
スチムソン陸軍長官は、暫定協定案でまとめるよりも、ルーズベルト大統領が八月十一日におこなった、これ以上の南進は米国の武力介入を招きかねない、という警告をもう一度提示してはどうか、といった。
「それはどうでしょうかな。日本はおそらくは最終的な提案をしている。それにたいする明確な態度を表明しておく必要があるが、過去の警告で代用するのはどんなものか」
ハル長官は、やはり、暫定協定案が最も有効だと思う、と述べた。
ヨーロッパ戦線では、ソ連軍はロストフを奪回して対ドイツ反撃に移っていて、明らかにドイツの対ソ攻勢は頓挫している。日時を経るにつれて、ドイツは退潮傾向を強めるにちがいない。
東南アジアでも、フィリピン防衛は十二月中には飛躍的に強化され、一方、日本海軍は八月いらい一滴の石油燃料も入手していない。
「戦争をせずに日本を経済封鎖で屈伏させられれば、これにこしたことはありますまい」
かりに暫定協定で日本がいくぶんかの物資輸入で一息ついたとしても、それは「三カ月」間のことである。その間に米国の戦備は充実するのだから、日本はあきらめるか、あるいは戦争に訴えても米国は容易に処理できる……。
ハル長官はマーシャル参謀総長とスターク作戦部長にむかい、絶対に「三カ月」が必要か、それがなければ米国は敗北するのか、と訊ね、「時間があればより有益(ベター)だという意味だ」との回答を得ると、もう一度、暫定協定案方式を主張した。
「では、暫定協定ができればよし、できなくてもよし、ということになる。それならば、暫定協定案を日本に提示するのが、政治というものでありましょう。日本が拒否する可能性も強いのだから、その場合はわれわれにとって、十分な名目を獲得する機会が与えられる」
結局は、英国、オランダ、支那の反応もみてからきめることにして、会議は終った。
時刻は十一月二十五日午後一時半――日本時間では十一月二十六日午前三時半であった。
その二時間半後、日本時間十一月二十六日午前六時、南千島択捉島単冠湾に集結した南雲機動部隊は、旗艦・空母「赤城」のマストにかけ上った信号旗を合図に出撃を開始した。
湾内は相変らず粉雪をふくむ北風が吹き、「赤城」後甲板で軍楽隊が演奏する「軍艦マーチ」の楽音を雲におおわれたくもり空に舞いあげた。
湾口を出ると、各艦とも対空射撃訓練をかねて機銃の試射をこころみたが、空母「蒼竜」では、標的にルーズベルト大統領の似顔を描いた凧を用意し、曳光弾がその似顔にすいこまれるたびに、甲板で喚声がわいた。
この機動部隊の出撃は、米国側は知らなかった。
連合艦隊は機動部隊の行動をかくすため、空母をはじめ機動部隊各艦の呼出符号を使用した偽電を発信しつづけ、いずれも瀬戸内海または日本近海にいるものと、米軍情報部に思いこませていたからである。
南雲機動部隊がハワイにむかって北太平洋をすすみだしたころ、ハル国務長官は、暫定協定案にたいする英国、オランダ、支那の返事をうけとっていた。
英国とオランダは、それぞれ、
「日本に与える代償は少なくすべきである」
「日本の軍事的潜在力を増大させない範囲での石油供給」
という条件で暫定協定案に賛成した。
しかし、介石・支那政府は、強硬に反対した。
介石総統は、日本に石油を一滴売ることは支那人兵士の血を一ガロン流させることになる、と胡適駐米大使を通じてハル国務長官に抗議し、また、宋子文は同じく介石総統の言葉をスチムソン、ノックス陸、海軍長官に伝えた。
「米国が対日経済封鎖と資産凍結を解除するならば……支那民衆は、支那は米国の犠牲にされたと考え、支那全民衆の士気は崩壊し、支那軍全将兵の士気も崩壊するであろう……」
介石総統の政治顧問オーエン・ラティモアからも、大統領補佐官L・カリーあてに意見具申の至急電がとどいた。
もし、日本が暫定協定という「外交的勝利によって軍事的敗北をまぬがれた」と知れば、支那民衆は米国にたいする信頼を失くし、その結果は「総統も収拾できない事態」の発生が予想される、という。
暫定協定案は、日本にたいする物資供給を食糧、棉花、医薬品、石油などに限定し、しかもその供給量は、たとえば棉花は一カ月六十万ドル以内、石油も漁業、輸送、光熱、農工業などの民間需要だけに限ったうえに、英国、オランダ政府と協議して輸出量をきめる、というように厳重な規制条件がつけてある。
ハル長官としては、この程度の「ヒナの餌」を日本に与えることは各国にも格別の異存はあるまい、と予想していた。
だが、この予想外に激しい介石政府の反対は、ハル長官を当惑させた。
ハル長官の相談をうけたホーンベック顧問も、眉をひそめて熟慮していたが、暫定協定案の放棄を提案した。
「この協定が成立すれば、たしかに日本にとっても米国にとっても、わずかの利益はもたらします。しかし、より大きな不利も予想されるとなれば……」
英国もオランダも、とくに積極的な賛成は示していない。支那は猛反対している。また、日本が確実に協定をうけいれる保証もない。
そして、ここで最も考慮せねばならぬのは、支那の態度である。
「もし、この暫定協定で支那が脱落することにでもなれば、アジアの戦争情勢は根本的にひっくり返らざるを得ない。また、日本に石油を供給すれば、(米)国内世論の激烈な反撥も予想されます」
ホーンベック顧問は、暫定協定ができなければ時間はかせげなくなるかもしれない、しかし、陸海軍は絶対に時間が必要だとはいっていない、と述べ、ハル長官の眼をのぞきこんだ。
ハル長官は、黙然と考えこんだままであったが、翌日、十一月二十六日早朝、駐英大使J・ワイナントからの電報をうけると、大きく嘆息した。
ワイナント大使の電報は、暫定協定案についてのチャーチル首相の大統領あて回答であったが、チャーチル首相も次のように対支関係にかんする関心を強調していた。
「……もちろん、この問題を処理するのは貴下の仕事であり、われわれもこれ以上の戦争は望まない。
しかし、ひとつだけ不安なのは、介石についてである。彼は、ひどく貧弱な料理しか与えられないのではないだろうか?
もし彼らが崩壊すれば、われわれの共同の危険は極めて大きくなるだろう……」
この電報を読み終った直後、スチムソン陸軍長官が電話をかけてきた。
スチムソン長官は、宋子文経由で伝達された介石総統の抗議をひろうしたのち、日本にたいする返事はどうするか、とたずねた。
「私は暫定協定案を(日本に)提示しないことに決心しようかと考えている。ほかに提議するものもないがね」
ハル長官は、疲れたよ、とつけ加えて電話をきったが、ちょっと思案すると、また受話器をとりあげた。
「ホワイト・ハウスにつないでくれ」
ルーズベルト大統領が電話線の彼方で応えると、ハル長官は用意したメモを読みあげ、日本には暫定協定案を提示せずに「包括的基礎協定案」を手渡すことにしたい、と提言した。
「敵をなだめるよりも、味方を失わないことのほうが大切です」
ルーズベルト大統領は、ハル長官の言葉が終ると、即座に、オーケー、同意する、と答えた。
ハル長官は、メモの片隅に「口頭で伝達、大統領承認す、ハル」と書きこんだ。
そして、約一時間後に日本大使館に連絡して、午後四時四十五分に野村大使の来訪をお待ちする、と伝えた。
野村大使と来栖大使は、このハル長官からの連絡を沈鬱な心境で、うけとった。
むろん、米国政府が、結局は支那のために対日戦争も決意する姿勢をきめたとは、知らない。
ただ、ウォルシュ司教、ドラウト神父、さらにはウォーカー郵政長官、モア顧問の知人のトマス上院議員その他、可能な限りのルートを打診してみても、米国側が「乙」案を承知する可能性はほとんど無い、とみこまれた。
野村大使は来栖大使と相談のうえ、その朝、「最後の打開策」を東京に打電していた。
「此ノ際唯一ノ打開策トシテハ、甚ダ恐懼ニ堪ヘザルモ、先ヅ『ル』大統領ヨリ至尊ニ対シ奉リ太平洋平和維持ヲ目的トスル日米両国協力ノ希望ヲ電信セシメ……之ニ対シ御親電ヲ仰ギ奉リ、以テ空気ヲ一新スルト同時ニ今少シク時機猶予ヲ得……」
とにかく時間がほしい、との一念が、野村大使にこの日米元首の親電工作を思いつかせたのだが、それというのも、東京からの督促はしきりであり、前日は、次のような電報もとどいていた。
「情勢ハ逐日急迫シツツアル処、電報ハ長時間ヲ要スルヲ以テ、今後ハ必要ニ応ジ……随時電話ヲ以テ山本(熊一)亜米利加局長ニ御通報相成度。其ノ際使用スベキ隠語左ノ通。
三国条約問題   ニューヨーク
無差別待遇問題  シカゴ
支那問題     サンフランシスコ
総理       伊藤君
外務大臣     伊達君
陸軍       徳川君
海軍       前田君
日米交渉     縁談
大統領      君子サン
ハル       梅子サン
国内情勢     商売
譲歩スル     山ヲ売ル
譲歩セズ     山ハ売レヌ
形勢急転スル   子供ガ生レル
………」
交渉期限である十一月二十九日が目前にせまっている以上、東京のいらだちも当然とは思えるが、それにしても、電話で分秒の時間きざみを必要とするのは、よほどの事態とみなさなければならない。
あるいは、すでに部隊は展開して武力発起にそなえているのでもあろうか。
艦艇で動き、砲の射程も長大な海軍の場合はともかく、敵前三百メートルを第一線とする陸軍では、うっかりすると展開中に敵と接触して戦端が開かれる恐れもある。
そうなっては、交渉などは雲散し霧消してしまう。
そういう危険をさけるためにも、一刻も早く米国側の回答が望ましく、野村大使は前日は、午前、午後の二回にわたって国務省に連絡していた。
だが、しょせんは、電話隠語でいえば、米国側には「山ヲ売ル」気配はうかがえず、不戦を切望する野村大使としては、せめて天皇の名で時間を得たい、と悲願する心境になっていたのである。
野村、来栖大使が国務省にむかったあと、午後五時四十五分ごろ、若杉公使は、二人が「梅子サン」に会いに出かけた旨を、山本熊一外務省亜米利加局長に電話した。
「縁談」の成り行きはきょうの話し合いできまるだろう、という若杉公使にたいして、山本局長は、必ずあとで電話してくれ、と頼んだ。
「私が十一月二十六日に野村、来栖両大使に手交した提案は、この最後の段階になっても、日本の軍部が少しは常識に心を動かすこともあろうかというはかない希望をつなぎ、交渉を続行しようとしたわれわれの誠実な努力であった」
ハル長官は、のちにそう回想しているが、この長官の言葉は、提示されたいわゆる「ハル・ノート」の内容とは、あまりにも異質である。
ハル長官は、二人の大使を迎えると、遺憾ながら「乙」案は受諾できない、そこで米国側の「六月二十一日」案と日本側の「九月二十五日」案とを照合して調整した一案を用意したと述べた。
二人の大使は、「ハル・ノート」を一読して顔色を変えた。
内容は、これまでハル長官がくり返していた「四原則」をまず再確認したのち、日米両国が採るべき十項目の提案を列記していたが、十項目のうちには、次のような条項がふくまれていた。
A 日米両国政府ハ英、蘭、支、ソ、泰ト共ニ多辺的不可侵条約ノ締結ニ努ム。
日本政府ハ支那及仏印ヨリ一切ノ軍隊(陸、海、空及び警察)ヲ撤収スベシ。
C 両国政府ハ重慶政府ヲ除ク如何ナル政権ヲモ軍事的、政治的、経済的ニ支持セズ。
D 両国政府ハ支那ニ於ケル治外法権(租界及団匪議定書ニ基ク権利ヲ含ム)ヲ放棄シ、他国ニモ同様ノ措置ヲ慫慂《シヨウヨウ》スベシ。
E 両国政府ハ第三国ト締結シ居ル如何ナル協定モ本協定ノ根本目的、即チ太平洋全地域ノ平和確保ニ矛盾スルガ如ク解釈セラレザルコトニ付同意ス。
このAは、日本がこれら各国の包囲下におかれることを意味し、BCDをあわせれば、日本は満州国をふくめて支那大陸全域から完全にひきあげることになり、Eは日独伊三国同盟の実質的廃棄を求めている。
明らかに「乙」案などはまったく無視し、また「六月二十一日」案にもない苛酷な要求をもりこんでいる。二人の大使は、憤然とし、また暗然とした。
「支那問題ニ関シテハ、殆ド当方ヲシテ重慶ニ謝罪セヨト称セラルルニ等シク、苟《イヤシ》クモ過般大統領ガ“紹介”ヲ云々セラレタルハ、マサカ右ノ如キ趣旨ニ出デラレタル次第ニハアラザルベシ」
来栖大使は、やや憤然とした口調で質問したが、すでにこの「包括的基礎協定案」で交渉打ち切りを覚悟しているハル長官は、泰然として無言で応えるだけであった。
そのほかにも、来栖大使と野村大使は、ほぼ一項目ごとに異論を述べ、反論をこころみたが、ハル長官は「何等力アル反駁ヲ為サズ」という態度を維持した。
「米国トシテハ、本案ノ外考慮ノ余地ナシトセラルル意ナリヤ」
野村大使はそう質問し、「要スルニ一案ナリ」というハル長官の返事を聞くと、「過般大統領ハ、友人間ニハ『最後ノ言葉ナシ』と称セラレタリ」
だから、大統領に会わしてほしい、と頼んだ。だが、承知したと答えるハル長官の表情は固く、その表情から米国政府の胸奥を推察する二人の大使の表情はさらに暗くこわばらざるを得なかった。
34
「ハル・ノート」は、まず要旨、次いで詳細が東京に打電されたが、来栖大使は詳報発電のあと、山本亜米利加局長に電話した。
山本 ハロー、こちらは山本です。
来栖 ああ、来栖だ。
山本 縁談(日米交渉)の件はどうですか。
来栖 まだ手紙(電報)は届かないの。梅子サン(ハル)がきのういったこととあまり変らないね。まとまると思ったんだがね。
山本 それじゃ、手紙をだされたのですね。
来栖 ああ、七時ごろだ。それでそちらの様子はどう? 子供は生まれそう(形勢急転)かな。
山本 ハイ。子供はすぐ生まれそうです。
来栖 えッ、ほんとに生まれるのかね。それでどちら……いや、男の子らしいかね、それとも、女の子……。
山本 とても強くて元気な男の子だろう(全面的武力行使)と期待していますが、とにかく縁談はうちきらないで下さい。
来栖 うちきるなって、交渉のこと?
山本 おっと……。
来栖 ハハ、いやどうも。ええ、できるだけのことはしますよ。
山本 縁談については、こちらから別の手紙をだします。
来栖 そう、それじゃ。
山本 失礼します。ご健闘を祈ります。
米海軍の傍受記録によれば、電話はほかに山本局長の来栖大使の努力に感謝する言葉、来栖大使が意見具申電をおくったことを語る内容などをふくめ、ワシントン時間十一月二十六日午後七時四十六分から同五十三分まで、つづいた。
日本時間では、十一月二十七日午前九時四十六分から五十三分にあたる。
そして、山本局長が受話器をおいて間もなく、野村大使発の「ハル・ノート」要旨電と日本元首の親電交換にかんする具申電がとどいた。
東郷外相は、東条首相兼陸相と嶋田海相に連絡した。陸軍にも、ワシントン駐在武官磯田少将から「ハル・ノート」の骨子を伝えた電報が入電していた。
東郷外相はまた、野村大使の“親電工作”について木戸内大臣と協議したが、外相は不快感におそわれていた。
「愈々安易なる電報進言が始ったと思った。凡そ在外使臣が任国政府との交渉に当る際は、本国政府の訓令に基き全力を傾注して相手方を説得せしむるを本義とすべきである。相手方の決心もわからず、また我方の急迫せる事情をも無視する実行不能の案をよこしても、駄目のことはわかっている筈である」
東郷外相は、そう手記しているが、最近の国内情勢の機微にうとい野村大使はともかく、わずか二十日前に出発した来栖大使までがこんな意見を具申するとはどうしたことか。
「木乃伊《ミイラ》取りが木乃伊になったのか」――と、東郷外相は眉をしかめながら木戸内大臣に電話したものだが、木戸内大臣も、“親電工作”は一蹴した。
「こんなやり方でまとめようとしたら、内乱になるよ」
そのあと、午後二時から四時まで、大本営政府連絡会議がひらかれたが、出席者は一様に撫然とした表情をならべていた。
まだ「ハル・ノート」の全文は入電していなかったが、野村大使と磯田少将の報告によって「ハル・ノート」には次の難題がふまれていることが承認された。
「(ハル)四原則の無条件承認」「仏印及び支那からの全面撤兵」「国民政府及び満州国の否認」「三国同盟の死文化」
――これでは「九カ国条約」時代に逆もどりすることになるではないか。
――最後通牒とみなすべきではないのか。
――米国側はすでに対日戦の決意をしたから、この覚書をだしたとしか思えない。
――いったい、いままでなんのために交渉してきたのか。この結論をひきだすためだとしたら、まったくの時間のムダであった。
意見は、失望と憤りに彩られた声音で交換され、結論に到着した。
「日米交渉は失敗した。いつ米国から攻撃をうけるかも測られぬ」
公式の判定と措置は「ハル・ノート」全文を検討したうえのことだが、会議の雰囲気は気落ちした暗さで支配され、次のような開戦手続きがさっさと議決された。
「第一 連絡会議ニ於テ戦争開始ノ国家意思ヲ決定スベキ御前会議議題案ヲ決定ス(十二月一日閣議前)
第二 連絡会議ニ於テ決定シタル御前会議議題案ヲ更ニ閣議決定ス(十二月一日午前)
第三 御前会議ニ於テ戦争開始ノ国家意思ヲ決定ス(十二月一日午後)
………」
「ハル・ノート」全文は二十七日夜に到着したが、内容を読めば読むほど東郷外相は落胆し、その夜は陸海相とも連絡せずに就寝した。
おそらく、東郷外相が寝苦しい夜をむかえた十一月二十八日午前零時ごろは、ワシントンでは、二十七日午前十時ごろにあたるが、そのころ、ハル国務長官はスチムソン陸軍長官と電話で話していた。
スチムソン陸軍長官は、ハル長官が前日、「ハル・ノート」を野村大使に手渡したことを知らなかった。この日の朝に配達された“マジック”情報で知り、ノックス海軍長官に連絡してみると、ノックス海軍長官も初耳だという。
そこで、ルーズベルト大統領、次いでハル長官に電話した次第だが、ハル長官は経過を説明したあとで、いった。
「そういうわけで、私は手を洗った。あとは君とノックスの仕事だ」
スチムソン長官は、このハル国務長官の説明を聞くと、ノックス海軍長官に連絡して陸軍長官室で陸海軍首脳会議をひらくことにした。
昼食をしながら話そう、というスチムソン長官の提案にしたがい、正午五分前、長官室にノックス海軍長官、スターク海軍作戦部長、そしてマーシャル参謀総長の代理として参謀本部戦争計画部長レオナード・ジロー准将が集まった。
会議は午後四時すぎまでつづいたが、その会議の途中である午後二時半、ホワイト・ハウスでは、野村、来栖両大使がルーズベルト大統領と会談していた。ハル長官も同席した。
来栖大使の回想によれば、ルーズベルト大統領の態度は「悠々として迫らず、しかも明朗」な印象を与えた。
野村大使が着座すると、大統領はタバコをすすめた。「キャメル」である。大使が一本をつまみとると、すかさず大統領はマッチをすってさしのばす。
野村大使の位置は大統領の斜め左側なので、マッチはちょうど大使が失った右眼方向からさしだされる形となり、大使は口にくわえたタバコとマッチの火とを接合させるのに、手間どった。
大統領は、微笑しながら、体をのりだしてマッチを大使のタバコに近づけた。
「サンキュー・ミスター・プレジデント」
ゆっくりと煙を吐きだして会釈する野村大使にうなずくと、ルーズベルト大統領は来栖大使にも視線を放射しながら、話しだした。
「例年だと、このころは田舎で休養するのだが、今年は、クルス大使が来たり、石炭労組のルイス会長が、争議を起したりするので、まだ出かけられないでいる」
「それは残念ですな、大統領閣下。しかし、ルイスとクルスとでは、どちらが大統領を悩ましておりましょうか」
「そりゃ、ルイスのほうだよ」
ルーズベルト大統領は、来栖大使の質問に破顔して答え、ハル長官も楽しげに無声の笑いをうかべた。野村大使も豪笑し、来栖大使も弱笑した。
だが、笑声はそれだけでとだえ、会談はなんらの成果も生まなかった。
ルーズベルト大統領とハル長官は、「ハル・ノート」の苛酷なことを訴え、再考を求める二人の大使にたいして、要するに、日本が一方で武力進出をこころがけ、また日独伊三国同盟をかかげながら平和と物資の供給を望むのは信頼感を失わせる言動だ、と首をふるだけであった。
二人の大使は、こもごも、大統領が日支和平の“紹介者”になるといったではないか、「ステーツマンシップ」の発揮を希望する、と述べたが、大統領の返事は、冷たかった。
「明金曜日(二十八日)午後出発田舎(ウォーム・スプリングス)ニ赴キ静養ノ上、来週水曜日(十二月三日)ワシントンニ帰ルヲ以テ、其ノ上ニテ貴使等トノ面会ノ機会ヲ得度キ希望ナルガ、其ノ間若《モ》シ何等カ局面打開ニ資スルガ如キ事態ノ発生ヲ見レバ結構ナリ」
野村大使と来栖大使は、なおもにこやかな表情を維持しつつ、ホワイト・ハウスを退出した。
大使館に帰ると、東郷外相からの訓電が到着していた。「ハル・ノート」要旨電と“親電工作”電にたいする指示で、交渉は「実質的ニ打チ切リトスル他ナキ情勢」と思うが、なお継続の形を維持せよ、“親電工作”は「適当ニアラズ」という。
野村大使が、黙然と電文を読んでいると、大使館顧問フレデリック・モアがドアをノックした。
モアは、「ハル・ノート」の提示を求め、野村大使が金庫から取りだして見せると、「ノート」は完全に交渉中断を意図しているとは思えないといったあとで、じつは、と話しだした。
かねて連絡のある上院議員E・トマスから呼ばれた。出かけてみると、トマス議員は、モアの知人でもあるランドン・ウォーナーなる人物が、ルーズベルト大統領から天皇に親電をおくって危機打開をすべきだ、と進言した。良いアイデアなので野村大使に伝えろ、という。
「それで、トマス議員は、野村大使もなっとくするなら大統領筋に工作するというのです。私としては、もはやムダだと思いますが」
野村大使は、自分の構想と同じアイデアが米国市民の脳中に発生していたことに驚いた。
「いや、それは結構だと思うよ、モア。それができれば……とにかく、われわれはこのさいは、たとえ一本のワラでも、それがあればすがりつくべきだ」
むろん、野村大使としては、すでに東京がきっぱりとその発想を拒否している以上、そしてまた大統領との会見の雰囲気から推理して、大統領側に天皇に親電をおくる意向があるかどうかを疑ったが、米国市民が示す善意はむげには扱えない。
「ぜひお願いする、とトマス議員に伝えてほしいね」
――だが、
その数時間後、ワシントンからは危機打開のためよりは危機を確認し危機に備えるための秘電が、相次いで発信された。
スチムソン陸軍長官の部屋でおこなわれた陸海軍首脳会議は、二つの問題を討議していた。
日本からの攻撃の脅威にいかに対処すべきか。
極東派遣陸、海軍指揮官にいかなる警告を発すべきか。
――というテーマであり、会議はそれぞれについて、できればフィリピン防衛強化事業が終る翌年三月まで対日戦を回避したい、警告は「明白で最終的」なものにすべきだ、と結論した。
ルーズベルト大統領は、第一テーマの結論は拒否した。
すでに宥和政策を放棄しているのに、来年三月までの時間かせぎをするには、また交渉再開を日本に求めねばならず、そのためには譲歩条件が必要になる。「ハル・ノート」の意義も失われるだろう。
第二テーマの結論は、オーケーだ、とルーズベルト大統領は回答した。
“マジック”情報は、日本側の交渉期限が日本時間十一月二十九日いっぱいだ、と伝えている。軍事的警告の通報は、当然である。
二十七日夜、マーシャル参謀総長はフィリピン、ハワイ、カリビア海、サンフランシスコ方面の陸軍指揮官に同文の警報を打電した。
「対日交渉はあらゆる具体的な問題について終結したものとみられる。残るところは日本政府が回答し、交渉継続を申し出ることだが、これは極めてかすかな可能性があるにすぎない。
日本の将来の行動は予測し難いが、敵対行動はいつでも予測できる。もし敵対行動をさけることができなければ、米国は日本が最初の明白な行動に出ることを希望している……」
つづいて、スターク海軍作戦部長から、ハワイの太平洋艦隊司令部とフィリピンのアジア艦隊司令部に警報が打電された。
「本電報は戦争警告とみなされたい。日米交渉はすでに終り、日本の侵略的行動がここ数日以内に予期される。……日本軍はフィリピン、タイ、またはクラ地峡(註、マレー半島北部のタイ国境地域)あるいはボルネオにたいして、陸海共同の遠征作戦をおこなう意図をもっているように考えられる……」
この二つの警告をみくらべてみると、陸軍は「第一発を日本側に射たせろ」という政治的配慮に重点をおき、海軍は日本側の進出目標を東南アジアだと判断してより軍事的である点に相違がみられる。
しかし、いずれにしても、米陸海軍は日米交渉を終結させた旨を明言し、日本側の行動開始にそなえて所要の部隊に待機を命じたのである。
そして、陸海軍ともに、警告電の中で「必要と思われる偵察およびその他の措置」(陸軍)、あるいは「適切な防衛のための展開」(海軍)を指示していた。
ノックス海軍長官によれば、「銃の安全装置をはずして相手に銃口をむけて待つ」態勢をとれ、という指令であり、「発砲一歩前」の命令でもある。
その翌日、十一月二十八日午後二時、ルーズベルト大統領は政府首脳会議をひらいた。
ハル国務長官、スチムソン陸軍長官、ノックス海軍長官との会議であるが、席上、ルーズベルト大統領は、陸海軍の「戦争警告」指令についての報告を聞いたあと、“開戦手続き”を議題にえらんだ。
「日本の交渉期限は、東京時間二十九日二十四時までとすれば、こちらでは明日午前十時になる。あと二十時間だ。われわれはどうするか、だ」
大統領は、なにもしない、もう一度最後通牒的警告をおこなう、直ちに開戦する、という三案を提示した。
スチムソン陸軍長官は、第三案を支持したが、結局は第二案に落ちついた。そして、あるいはトマス上院議員の工作(?)によるものか、ルーズベルト大統領は、天皇にたいして警告電を発することを発案した。
また、議会対策として、危機の切迫と米国の対策を述べた大統領特別教書を議会におくることも、きめられた。
日本側が、大本営政府連絡会議で開戦手続きを採択したのにつづいて、米国もまた、開戦作法を決議したわけであるが、ワシントンでその会議が終ってまもなく、東京では宮中で政府と重臣の懇談会がひらかれた。
いよいよ最後の決断を下す前に重臣たちの意見も聞きたい、という天皇の発案によって開かれたもので、懇談会は二十九日午前九時半から午後一時までつづいた。
若槻礼次郎、平沼騏一郎、広田弘毅、近衛文麿、林銑十郎、阿部信行、岡田啓介、米内光政の元首相たち八人の重臣は、東条首相兼陸相、嶋田海相、東郷外相、賀屋蔵相、鈴木企画院総裁から事情説明をきいた。
東条首相がのちに杉山参謀総長に語ったところによれば、八人の重臣のうち、若槻、平沼、近衛、岡田、米内の五重臣はなお隠忍して戦争を回避すべきだ、と述べ、広田、林、阿部の三重臣は積極的行動を主張し、とくに岡田、阿部両重臣がそれぞれの立場の主唱者であった、という。
懇談会のあと重臣たちは天皇との陪食をすませ、さらに天皇と会談した。
「大変難しい時代になったね」――という天皇の言葉が、会談のきっかけであったが、重臣たちの意見は、その前の政府との懇談会における主張と一致していた。
若槻、岡田、平沼、近衛四重臣は、長期戦にたいする物資能力について不安を表明し、若槻重臣はとくに、たんに大東亜共栄圏の確立などという理想にとらわれての「国力消費」(戦争)は危険だ、と述べた。
米内重臣は「ジリ貧を避けんとしてドカ貧になるべきではない」といい、また広田重臣は、開戦後といえども外交交渉による解決の方途を求めるべきだ、と指摘した。
林、阿部両重臣は、すでに政府と軍部との十分な協議があったことと思うので、結論に信頼する、と述べた。
これらの重臣の意見にたいして、東条首相は細かに説明と反駁をおこない、天皇は無言のままで聞いていた。
天皇と重臣たちとの会合が終ると、午後四時から大本営政府連絡会議がひらかれた。
議題は、戦争決意にかんする御前会議の運営、ドイツ、イタリアにたいする外交措置など、さらに具体的な開戦手続き事務であったが、東郷外相は、日米交渉のうちきり方を論題にした。
すると、とくに永野軍令部総長、嶋田海相、岡海軍省軍務局長たちから交渉継続の要望がだされた。
「外交ヲヤル様ナ時間ノ余裕ガアルノカ」
「未ダ余裕ハアル」
永野軍令部総長の答えを聞くと、東郷外相はちょっと黙思する風情であったが、
「X日ヲ知ラセロ。之ヲ知ラナケレバ外交ハ出来ナイ」
これまで、東郷外相は十一月一日の連絡会議で「十一月三十日夜十二時まで」という交渉期限を告げられていた。ワシントンには、妥結調印の時間的余裕をふくめて「二十九日いっぱい」と指示していたが、肝心の開戦予定日については、知らされていなかった。
東郷外相の発言に、こんどは永野軍令部総長が口ごもったが、
「ソレデハ言フ。八日ダ。未ダ余裕ガアルカラ戦ニ勝ツノニ都合ノヨイ様ニ外交ヲヤツテクレ」
東郷外相は、「戦ニ勝ツタメニ外交ヲ犠牲的ニヤレ」という海軍側の主張にたいして、
「ヨク分リマシタ」とは応えたが、ワシントンに決意を伝えたい、「外交官ヲ此ノ儘ニシテモ置ケヌデハナイカ」と、強調した。
「ソレハイカヌ。外交官モ犠牲ニナツテモラハナケレバ困ル。最後ノ時迄米側ニ反省ヲ促シ又質問シ、我ガ企図ヲ秘匿スル様ニ外交スルコトヲ希望スル」
開戦の戦果を期待する以上は、欺瞞外交も必要かもしれないが、それと知らされずに動くワシントン大使館はいかにも気の毒である。開戦後にそれと知った米国側の報復措置も予想される……。
東郷外相が唇をかみしめていると、誰かはわからぬが、部屋にふくみ声がひびいた。
「国民全部ガ此ノ際ハ大石内蔵助ヲヤルノダ」――。
35
「強いていえば“戦気”とでもいいましょうか」
海軍武官補佐官実松譲少佐によれば、“戦気”は戦争の気配のことであるが、少佐はその“戦気”を明確に感じとっていた。
もっとも、昭和十六年十一月ごろといえば、米国では日米戦争または米国の欧州戦争参戦はもはや時間の問題だ、とは、多くの市民も考えていた。ギャラップ世論調査所は、しきりに「日米戦うべきか」「汝はドイツ人を憎むや」などの設問で世論調査をおこない、それがまた市民の感情を刺戟していた。
日本大使館員たちも、生活は平静であり、街のレストランに行っても米国市民は白眼視する様子もないのだが、一般的な重苦しさは感じていた。
野村大使の秘書煙石学にしても、やはり微妙な雰囲気は承知せざるを得なかった。米国人の友人たちは、会えばこれまでどおりの友好的動作を示すが、それまでとちがって会食や招待の機会は明白に回避している風情がみえたからである。
「いずれは敵になるからというほどのことではないでしょうが、とにかくなにか警戒している感じが強くなったですね」
だが、実松少佐の場合は、煙石学がいうような「雰囲気としての戦気」よりは、もっと直接的かつ具体的な警報をかぎとっていた。
日本外務省は十一月二十四日、日本郵船「竜田丸」をもう一度邦人引き揚げのために米国に派遣する、と発表し、二十六日には「十二月二日横浜発、同十四日ロサンゼルス着……」と、そのスケジュールを公表した。
実松少佐は、とたんに、ピンときた、という。
「『竜田丸』は、『浅間丸』『秩父丸』と同型の約一・七万トンの大型優秀船です。いざ戦争となれば輸送船に使えるし、改造して小型空母にもできる。そんな良い船をなぜ情勢切迫のさなかにアメリカに送るのか」
当然に拿捕《だほ》されることが予想される以上、実松少佐は、あるいは「竜田丸」の配船は企図の秘匿のためではないか、と考えた。
「竜田丸」は、さらに十二月十六日にロサンゼルスを出発して、十二月二十四日にバルボアに到着する、という。
十二月二十四日――は、すなわちクリスマス・イブであり、そこに想いあたると、実松少佐は、おお、と口中に叫んで双眼を天井のシミにすえた。
「これだ、と思ったですね。開戦はさんざんイブに騒いでぐったりした翌朝、十二月二十五日・クリスマスの朝だ。『竜田丸』は、だから、あえて二十四日まで動きまわるのだ、とね」
そうか、いや、そうにちがいない、と秘かに胸奥でうなずきをくり返していると、十一月二十八日朝、東京から海軍武官府に指示がとどいた。
「米戦艦ノ所在改メテ報告サレタシ」
来たな、というのが、電文をいちべつしてとっさに実松少佐の脳中を走過した想いである。
米艦隊の動静については、すでに海軍武官府は刻々に東京に報告している。
米海軍が保有する十七隻の戦艦にかんしても、うち八隻が大西洋岸、九隻が真珠湾に在泊していると判断していた。八隻の中には四万五千トンの新式戦艦「ワシントン」「ノース・カロライナ」がふくまれているはずである。
そして、これら戦艦の動きは、ハワイ・ホノルル総領事館、パナマ公使館からも詳細に報告されている。それなのに、「改メテ」知らせろ、という。たぶん、ホノルルやパナマにも同様の指令が通達されているにちがいない。
「改メテ」――という表現に、実松少佐はますます自身の推理が裏書きされる感じをうけながら、さっそく自分が見に行く、と武官横山大佐に申告して、ノーフォーク軍港に出かけた。
偵察は薄暮に限る、と実松少佐は判断し、しばらく中華料理店で時間をつぶしたのち、夕闇にまぎれて軍港対岸の道を往復した。駆逐艦数隻の姿が見えた。
フェリーで対岸に渡ろうと思って車を走らせると、なんとなく様子が変った場所に出た。ノーフォークには何度も来ているのだが、暮色にまぎれて道を誤ったらしい。米海兵隊員の往来が多い。
「ヘイ、ここはどこかね?」
「マリンズ・ベース、ミスター」(海兵隊基地ですぜ、旦那)
呼びとめた一人の海兵軍曹は、そう答えながら、肩の筋肉をもりあげて車中の実松少佐を凝視した。私服姿なのでとくにあやしまれたとも思えないが、「偵察任務の遂行中」という意識があるので、実松少佐はあわてた。
「おお、マリン……世界一の精強部隊の基地ですな」
「ザッツ・ライト、サー」
実松少佐のお世辞に破顔する相手に、少佐はフェリー発着所への道順を聞き、冬の夜風に首筋に吹きでた冷汗をぬぐわせながら、海兵隊基地を“脱出”した。
薄暮偵察の不利を認めた実松少佐は翌日、十一月二十九日、こんどはデラウェア川岸にあるフィラデルフィア軍港を日中に偵察し、「ノース・カロライナ」型戦艦の在泊を確認して、任務をはたした。
「開戦日にかんする予測をたてていたからかもしれないが、大型クレーンの下にいる戦艦はいかにも臨戦準備を急いでいるように感じられましたね」
実松少佐は、そう回想しているが、米国側が臨戦準備をととのえているとすれば、そのころ東京では開戦決定への歩度を一段と速めていた。
実松少佐は十一月二十九日七時すぎに、フィラデルフィア偵察を終えてワシントンに帰ってきたが、その時刻は、東京では十一月三十日午前九時すぎになる。
この日、東郷外相はワシントンとベルリンに電報した。
ワシントンの野村大使にたいしては、「ハル・ノート」にたいする抗議を米国政府に申入れよ、と指示し、ベルリンの大島大使にたいしては、日米交渉の決裂必至をドイツ首脳に伝えることを指令していた。
おそらく、この電報が発信されてまもなくのころ、海軍中佐高松宮宣仁親王が宮中に参内して、天皇と面談した。
その内容は不明だが、高松宮は、海軍部内にはなお開戦に危惧の念を持つ者があるようだとの旨を天皇に述べたらしい。
すでに前日の大本営政府連絡会議は開戦決定を議決し、翌日、十二月一日の御前会議で形式上の決議をおこなうことになっている。
しかし、日米戦争に主役を演ずる海軍が反対しているとあっては、開戦決定は再検討されねばならない。
天皇は木戸内大臣を呼んで相談し、木戸内大臣も意外な事情に眼をみはりながら、奉答した。
「今度の御決意は、一度聖断被遊《あそばされ》るれば後へは引けぬ重大なものであります故、少しでも御不安があれば充分念には念を入れて御納得の行く様に被遊ねばいけないと存じます」
木戸内大臣は、東条首相の意見も求められるよう、また直ちに嶋田海相、永野軍令部総長を召致して海軍の「真の腹」を確かめられますように、と天皇に進言した。
午後四時に参内した東条首相は、天皇の下問におどろいた様子で、「少シモ聞及無之、海軍ニ御下問然ルベシ」と奉答した。
午後六時、嶋田海相と永野軍令部総長が参内してきたが、嶋田海相は拝謁の前に木戸内大臣から事情を聞くと、軍令部員である高松宮が、あるいはハワイ空襲作戦の図上演習の様子を奏上したのではないか、と、想像した。
これまでハワイ作戦の計画をねりあげるために図上演習がくり返されたが、いずれの場合でも、味方は相当の打撃をうけるものと判定されていた。
また、ハワイ作戦は、軍令部の作戦主務者は反対したが、とくに連合艦隊司令長官山本大将の辞職を賭した主張に折れて採択された経緯も、ある。
軍令部員である高松宮が、軍令部の立場の所見を上奏することは、容易に推察できる。が、作戦計画は検討ずみであるばかりか、既に南雲機動部隊はハワイに接近中なのである……。
「愈々時機切迫シ、矢ハ弓ヲ放レムトス。一旦矢ガ離ルレバ長期ノ戦争トナルノダガ、予定ノ通ヤルカネ」
天皇はまず永野総長に下問し、総長は奉答した。
「大命降下ガアレバ予定ノ通進撃致スベク、何レ明日委細奏上仕ルベキモ、航空艦隊ハ明日ハ布哇《ハワイ》ノ西千八百カイリニ達シ申スベシ」
天皇は、嶋田海相に質問した。
「大臣トシテモ総テノ準備ハ宜イカネ」
「人モ物モ共ニ充分ノ準備ヲ整ヘ、大命降下ヲ御待チ致シテヲリマス」
「独国ガ欧州デ戦争ヲ止メタ時ハドウカネ」
「独国ハ元来真カラ頼リニナル国トハ思ヒ居リ申シマセズ、仮令《タトヘ》同国ガ手ヲ引クトモ、我ハ差支ナキ積リニ御座イマス」
天皇との問答はそれまでであったが永野総長と嶋田海相はこもごも、天皇の不安を一掃するように、連合艦隊の士気は旺盛であり、訓練も積まれ、山本連合艦隊司令長官も満足していることなどを言上し、最後に嶋田海相が述べた。
「此ノ戦争ハ石ニカジリ付キテモ勝タザル可カラズト、一同固ク覚悟ヲ持シヲリマス」
永野総長は古巌のような風格、嶋田海相は腹部がやや突き出した端正な体躯であり、それぞれに声音は重厚、荘重である。説得力に富む。
まして、国運を賭ける決定にたいする覚悟を定めているので、奉答の片言にも気魄がこもっていた。
天皇はうなずき、午後六時三十分、二人が退出するとすぐ木戸内大臣を呼び、指示した。
「海軍大臣、総長に先程の件を尋ねたるに、何れも相当の確信を以て奉答せる故、予定の通り進むる様、首相に伝えよ」
木戸内大臣は東条首相に電話で天皇の言葉を伝えた。
翌日、十二月一日、外務省亜米利加局長山本熊一は、午後零時二十七分、ワシントンからの電話をうけた。来栖大使からである。
来栖大使は、ワシントン時間の十二月一日朝「梅子サン」(ハル国務長官)と会見すると述べた。東郷外相の指示にしたがって「ハル・ノート」にたいする抗議をおこなう。
来栖 ところで商売(国内情勢)の調子はどんなぐあいだ?
山本 とくに変ったことはありません。
来栖 縁談(日米交渉)はつづけるんだね。
山本 そうです。
来栖 そちらは以前には縁談を大いに督促したのに、今は引きのばすことを希望している。それなら伊藤君(総理)も伊達君(外相)も演説の調子を変える必要があると思う。慎重にやってほしいね。
山本 わかっています。君子サン(大統領)はいつワシントンにもどりますか。
来栖 新聞によると、明朝ワシントンに着くはずだ。
山本 そうですか。では、サヨウナラ。
通話時間は短く、山本局長が受話器をおいたのは午後零時三十分、ワシントン時間の十一月三十日午後十時三十分にあたる。
たぶん、来栖大使は就寝前に電話してよこしたのであろう。
――サヨウナラよりも、お寝みと挨拶したほうがよかったかもしれぬな。
山本局長は瞬時、ぼんやりと考えたが、このワシントンからの電話のほぼ一時間半後、午後二時五分、宮中「東一ノ間」で御前会議が開かれた。
議題は「対米英蘭開戦ノ件」――である。
会議は東条首相が議事進行を担任し、東郷外相、永野軍令部総長、東条兼摂内相、賀屋蔵相、井野農相が必要な事項を説明したあと、枢密院議長原嘉道が質問をおこなった。
原議長はとくに「只今カラ何《ド》ウシテ(戦争ノ)結末ヲツケルカトイフコトヲ考ヘテオク必要ガアリマス」と指摘したが、会議自体はなんの支障もなく終った。
「本日ノ会議ニ於テ、オ上ハ説明ニ対シ一々頷カレ、何等御不安ノ御様子ヲ拝セズ。御気色麗シキヤニ拝シ恐懼感激ノ至リナリ」
杉山参謀総長は会議後、そう覚書に記述しているが、天皇が入御したあと、参会者一同は責任を明らかにするために次の決定に署名、花押《かおう》した。
「十一月五日決定ノ『帝国国策遂行要領』ニ基ク対米交渉ハ遂ニ成立スルニ至ラズ。
帝国ハ米英蘭ニ対シ開戦ス」
一同が署名を終り、解散したのは、ちょうど午後四時――。
ワシントン時間は十二月一日午前二時になる。野村大使もハル長官も眠りを深めようとしているところである。
東京とワシントンでは、一方が執務しているときは他方が就寝している関係になるが、東京が十二月二日をむかえてまもないころ、ワシントン時間十二月一日午前十時十五分(日本時間二日午前零時十五分)、野村大使と来栖大使は、ハル国務長官を訪ねた。
二人の大使が国務省に到着すると、廊下や通路に、記者、役人たちがたむろし、大使たちを眺めてなにか私語しあっていた。これまでであれば、その中から必ず挨拶または質問の言葉が放出されるのだが、相手はただ視線を注いでくるだけであった。
「大事勃発の寸前という情景」だ、と来栖大使は感じ、それもこれも東京の無思慮によるものだ、と口中の舌打ちをかみころした。
前夜の山本局長にたいする電話でも述べていたように、ワシントンでは東条首相の演説が大問題になっていた。
実際には、東条首相は十一月三十日に興亜同盟主催の日華基本条約締結一周年祝賀会で演説する予定だったが、出席できずに演説しなかった。
ところが、興亜同盟事務局は二十九日、首相の演説があるものと思って演説内容を記者団に発表してしまい、それがワシントンでも報道されたのだが、その中に次のような一節があった。
「(米英ノアジア民族搾取ハ)人類ノ名誉ノタメニ人類ノ矜持ノタメニ断ジテ之ヲ徹底的ニ排撃セネバナラヌノデアリマス」
この英訳は、「人類の名誉と矜持のために、われわれは東アジアからこの種の実績を完全に一掃せねばならぬ」となってしまい、おかげでルーズベルト大統領も休暇をきりあげてワシントンに帰ることになった。
「ハル・ノート」にたいする日本政府の返事であり、まさに戦争決意の表明だと理解されるからである。
来栖大使の山本局長にたいする電話も、だから、交渉をつづける気持ちがあるならもっと言葉遣いに気をつけてほしい、との苦情であったわけだが、このような環境で相手に抗議するのは、しごく効果がうすいといわねばならない。
はたして、ハル長官との応答はこれまでどおりの双方の主張のくり返しに終り、二人の大使はまた記者たちの視線の矢を浴びながら、国務省を退出した。
ハル長官は、二人の大使との会見を終えたあとにとどけられた“マジック”情報を読むと、午後四時ホワイト・ハウスにルーズベルト大統領を訪ね、三日前の閣議できまった天皇にたいする親電工作と議会教書提出を延期するよう、進言した。
“マジック”情報は、十一月二十九日に東郷外相が大島駐独大使に打電した電文の解読で、次のような文言がつらねられていた。
「日米交渉ハ……遂ニ決裂必至ノ事態ニ立チ至リ……我ト英米両国トノ間ニ戦争状態ノ発生ヲ見ルニ至ルノ虞《オソ》レ極メテ大ナルコトヲ内容通報セラレ、且右発生ノ時期ハ意外ニ早ク来ルヤモ知レザル旨附言セラレタシ……」
ハル長官は、この電報は日本側が戦争を仕かけようとしている事実を明示している、ゆえに天皇あて親電も議会教書も待ったほうがよい、と述べた。
「いつまで待つのかね」
「日本の攻撃がほとんど開始される時までです」
米国は日本との戦争を覚悟している。あとはただ開戦名分を確保するだけだが、それには「相手が引き金をしぼりだした瞬間」に和平意思を表示すべきである。
そうすれば、最後まで和平に努力した名分がたち、同時に相手が本当に戦争だけを望んでいることを立証することもできる……。
ルーズベルト大統領は、軽く頭をかしげて考慮する様子であったが、ハル長官の意見に同意した。
野村大使も、東京に意見を進言した。
これまでの「理論や行懸り」をすてて、大局的見地で局面打開をはかる必要がある。
「此ノ際両国首脳者ノ出馬困難ナラバ、其ノ最モ信頼スル代表者ニ両国陸海軍ノ首脳者ヲ随行セシメ……最終的妥結ノ努力ヲ試ミルコト、和戦何レカニ決スル為ニモ有利ナル一案ト存ゼラル」
野村大使は、その代表者として、米国側はウォーレス副大統領またはホプキンス大統領顧問、日本側は近衛前首相または石井菊次郎枢密顧問官の名前をあげた。
これまでに首脳会談開催は失敗しているので、まずは「本使限リノ思付」で米国に申し入れ、その反応をみて政府の提議の形にしてはどうか、と野村大使は提案した。
しかし、東京の反応は文字どおりゼロであった。いや、反応しようがなかったといえる。
この野村大使の具申案が到着したのは、東京時間十二月二日の正午前であるが、すでに開戦は決定され、日米交渉もまた大石内蔵助流の“欺瞞外交”に転移している。
だが、いかに“欺瞞外交”とはいえ、たんに有力者の会談を提案するのは、あまりにも「思付」にすぎるであろう。
東郷外相は、一週間前に野村大使が日米首脳の親電交換工作を具申してきたときは、「安易な電報進言」と批判したが、この電報にたいしては、ただ沈鬱な一言を山本亜米利加局長にもらしただけである。
「ずれていますネ」
そして、この東郷外相の評言は、野村大使の外交感覚にたいしてよりは、時間的なものを意味していたと解釈できる。
永野、杉山両総長は、そのころ、前日の開戦決定にともない、あらためて開戦日の裁可を天皇に仰ぎ、相次いで開戦命令を発していたからである。
連合艦隊司令部には午後五時、封密命令解除の指示が伝えられ、午後五時三十分、大海令第十二号にもとづく連合艦隊電令第十号が発信された。
「ニヒタカヤマノボレ 一二○八」
十二月八日午前零時(日本時間)を期して開戦の指示である。
36
南雲忠一中将が指揮する機動部隊は、順調に北太平洋を東進していた。
単冠湾を出撃していらい、空は曇り波浪は大きくうねっていたが、各艦にたいする燃料補給は毎日おこなうことができた。
三千カイリ以上の遠距離攻撃を企図する機動部隊にとって、燃料補給の成否はそのまま作戦の帰趨につながる重大事であった。もし十分に燃料を補給できないままに攻撃開始となれば、途中で燃料が不足して行動が不活発になりかねないからである。
しかし、幸運にも海上は予想外におだやかで、連日、消費したぶんの燃料を補給しつづけ、十二月二日、全艦はその後は補給しなくても作戦が実施できる地点に到着した。
南雲中将をはじめ各級指揮官と幕僚たちは、まさに「天佑」だと喜んだが、さらにその夜午後八時(日本時間)、開戦日時を指令する「ニヒタカヤマノボレ 一二〇八」電が受信された。
「『開戦』とくるか、『引き返せ』と命ぜられるか……一抹の不安は拭いきれなかったが、いまやこの電報により作戦一本に没頭できることになった……青天に白日を望むような気持ちになった」
とは、機動部隊参謀長草鹿龍之介少将の回想であるが、この草鹿少将の心情は他の指揮官幕僚たちにも共通していた。
それというのも、連合艦隊司令長官山本五十六大将は、くどいほどに、日米交渉が妥結したら引き返させる、たとえ攻撃隊発進後でも命令があれば引き返せ、と注意していた。
また、機動部隊は、単冠湾集結前から厳重な無線封止をつづけ、国際情勢の動きはラジオ放送と東京からの通達で知るだけである。が、秘事である日米交渉については詳細な通報もなく、放送で伝えられることもほとんどなかった。
日本を離れるにつれてラジオも聞こえなくなり、機動部隊としては、事態の進展と自らの行動とがぴったり噛みあっているかどうか、もしや重要指令の電波キャッチに失敗してはいないか、などの不安を感じないわけにはいかなかった。
それだけに『一二〇八』電はそういった心理的圧迫を吹きとばす効果を示し、機動部隊はあらためて「明朗な覚悟」をかためて、ハワイをめざした。
むろん、厳密な意味では、なお「引き返せ」指示到来の可能性は残っている。『一二〇八』電発信の翌日、十二月三日、軍令部総長永野修身大将も山本大将に次のような「口述覚」を示達した。
「武力発動前、日米ノ交渉妥結確実トナラバ、特令シテ連合艦隊各部隊ヲ集結帰還セシムベキニ付、右予《アラカジ》メ心得置クベシ」
山本大将は、「確《シカ》ト了承シ、確実ニ実行セシムベシ」と明答した。
そして、その日、山本大将は天皇に拝謁して決意を言上したが、宮中を退出して海相官邸で嶋田海相と懇談しながら、しみじみとした口調で述べた。
「野村さんは偉い人だから、なんとか日米交渉をまとめてくれるだろう」
この嶋田海相にたいする発言で、山本大将が最後まで日米交渉の成就を希望していたことが、理解できる。だが、実際には、山本大将の発言も希望も、すでに現実味を失っていた。
米国は「ハル・ノート」、日本側は開戦決定によって、もはや日米交渉に対する実質的期待は放棄している。日本側が日米交渉を開戦を有利にするための“欺瞞外交”として利用しようとすれば、米国側もまた、日本に第一発をうたせるための『誘い水』に活用しようとするだけである。
事態は、まさに草鹿少将がいう「作戦一本」に焦点をしぼって、進展していたのである。
米海軍作戦部長H・スターク大将は、日本で『一二〇八』電が発令される三時間半前、ワシントン時間十二月一日午後十一時五十八分、次のような極秘電をマニラのアジア艦隊司令長官T・ハート大将に送った。
「大統領は、次のことを可能な限り速かに、できれば本電受信後二日以内に実行するよう指示された……」
“防衛情報哨戒”のために小型船三隻をチャーターし、最小限の米海軍兵員と武器をのせて米海軍籍に編入したうえ、一隻は海南島と南部フランス領インドシナのユエとの間に、他の一隻はカムラン湾とセント・ジャックス岬との間に、最後の一隻はインドシナ半島南端・カマウ岬沖に配置せよ――という。
つづいて、その約十時間後、二日午前十時十五分、野村、来栖両大使を迎えたウェルズ国務次官は、南部フランス領インドシナに増強されている日本軍はフィリピン、オランダ領東インド諸島、マレー、タイに進出する意図を持つのではないか、との日本政府あて質問書を手交した。
質問書は、「支那ニ対スル吾人ノ態度ハ周知ノ所」という表現で、日本がそれら地域に進出すれば米国は相手方を援助することを示唆していた。
明白な警告であり、そしてこのウェルズ次官の覚書とルーズベルト大統領のアジア艦隊あて指示とを組みあわせれば、米国の方針も明白に推察できる。
米国史をふりかえるとき、その独立戦争、米西戦争、第一次大戦という米国の戦いは、すべてが船舶の沈没を開戦または参戦の口実にしていることに気がつく。船を沈められれば、米国は戦うのである。
してみれば、ルーズベルト大統領の三隻のボロ船配置とウェルズ次官の警告は、日本の南進を察知して、その行手でボロ船を沈めさせて開戦の名分を把握しようとする米国の伝統政策にほかならない……。
日本の開戦行動にあわせる形で、米国側も具体的に戦争への道を歩みはじめたわけであるが、日本側の開戦歩度は着実かつ急速にピッチをあげていった。
東郷外相は、野村大使にこれまでの日本側主張にしたがって交渉するように指示したが、同時に外務省は各地の大公使館に暗号機械と暗号書の処分を指令した。
十二月四日午後二時、大本営政府連絡会議は「対米最後通牒」を審議した。
条文は外務省亜米利加局長山本熊一が起草したが、内容はこれまでの日米交渉の経緯と米国側提案「ハル・ノート」を拒否するゆえんを述べた長文のもので、末尾は次のように結論されていた。
「仍《ヨツ》テ帝国政府ハ合衆国政府ノ態度ニ鑑ミ、今後交渉ヲ継続スルモ妥結ニ達スルヲ得ズト認ムルノ外ナキ旨ヲ合衆国政府ニ通告スルヲ遺憾トスルモノナリ」
つまりは、外交打ち切りを表明しているが、はっきり武力行動に出る旨は述べていない。
海軍省軍務局で異見が唱えられ、局員柴勝男大佐が「帝国ハ必要ト認ムル行動ノ自由ヲ保留ス」と書き加え、軍務局長岡敬純少将が東郷外相に進言したが、外相は変更の必要ないと答えた。
宣戦通告を明確にすべきことは、ヘーグ第三条約で確立された国際的遵守事項であるが、自衛戦争の場合は適用されないと理解されている。逆にいえば、武力行使を宣告するのは、受動的あるいは挑発された側には不要だといえる。
一九三九年九月、ドイツのポーランド進入にさいしてフランスが、ただポーランドにたいする義務を遂行すると通告して対ドイツ戦争に立ち上ったのが、その好例であろう。
「(米国が)日本に先ず手出しせしむるように仕向けた。之を挑発と云わずして何と云おうか」
だから、最後通牒文は外交打ち切りを主張するだけで必要かつ十分であり、相手側には宣戦通告だと明確に理解されるはずだ、と東郷外相は、強調した。
案文は外相一任となり、また軍令部次長伊藤整一中将の申し入れによって、最後通告は日本時間十二月八日午前二時半、ワシントン時間十二月七日午後零時半に、ワシントンで米政府に提出することになった。
ハワイ空襲部隊の攻撃は、日本時間十二月八日午前三時三十分と予定されている。その一時間前である。ヘーグ第三条約では、宣戦通告は戦闘行為の前におこなうことを規定しているだけである。何時間あるいは何分間以上前との指定は、ない。
「左手で通告文を渡して右手でぶんなぐってもよい」わけで、一時間前であれば、十分に“事前”の意義は認められるはずである。
すると、その翌日、十二月五日、伊藤中将は参謀本部第一部長田中新一少将とともに外務省を訪ね、最後通告の手交時間を三十分間くり下げて日本時間十二月八日午前三時、ワシントン時間十二月七日午後一時にしてほしい、と要請した。
「じつは、自分が計算違いをしていました」
と、伊藤中将は、理由を訊ねる東郷外相に答え、田中少将は、陸軍の攻撃は海軍の後になるので陸軍にも関係がある、といった。
のちに、伊藤中将が海軍省書記官榎本重治に語ったところによると、伊藤中将は過去の訓練成果、とくに大規模な艦隊行動はしばしば計画よりも約二十分間遅れることを思いだし、訂正を申しいれたという。
機動部隊の行動も約二十分間おくれるとすれば、一時間前通告は実際には『一時間二十分前通告』となり、敵に余裕を与えすぎる。三十分間前通告なら遅れを加えて『五十分間前』になって、まずまずである。
もっとも、伊藤中将も田中少将も、攻撃時間は東郷外相に告げなかった。
「では、通告と攻撃の間隔はどのくらいの時間が必要か」――という外相の質問にも、作戦の機密事項で申しあげられぬ、と伊藤中将は答え、また、通告を午後一時に変えても時間的余裕はある、と告げたあとで、つけ加えた。
「それにしても、我方の通告が在米大使館にあまり早く発電されないように願います」
東郷外相は、大本営政府連絡会議での海軍側の発言を想起した。
海軍側が事前通告を唱えたのは、十二月四日の会議であって、それまでは伊藤中将は戦闘開始まで交渉をつづけてほしい、といい、永野軍令部総長は、(開戦は)奇襲でやるのだ、と述べていた。そして、開戦日は知らされたが、開戦時刻はなお告げられていない。
やはり奇襲でやるのか、と東郷外相は伊藤中将と田中少将が退出したあと、胸中にうなずいたが、同時に別の想いも脳中にうかんだ。
「作戦には自信があるといっていたのに奇襲をやらなければ緒戦においても十分の見込みがないのか」
東郷外相は、「戦争の前途を心細く感ずるの念」をおぼえた、と記述している。
この東郷外相の感想は、しかし、海軍の予想とはやや異質であった。
攻撃は、敵の準備未整に乗ずる奇襲のほうが、準備して待つ敵をおそう強襲よりも有効であることは自明であり、海軍もそれを希望する。が、現実には純粋の奇襲は期待できぬものと覚悟されていた。
機動部隊は、ハワイ時間十二月五日午前十一時にハワイ北東約六百カイリ、午後三時に約五百カイリに到達する。情報が伝えるハワイの哨戒圏内である。
ということは、早ければ五日午前十一時すぎ、さらにその後はいつでも敵に発見される可能性があるわけである。
かりに空襲部隊が発進するまで未発見ですぎても、大編隊の攻撃部隊がハワイに接近すれば敵は気づくであろうし、まして攻撃開始三十分前にハワイ上空に先着する偵察機は、まちがいなく発見されるにちがいない。
軍令部も連合艦隊も、そして機動部隊も、だから、攻撃部隊はどんなに遅くても「攻撃開始一時間乃至三十分前」には敵に偵知される。まずは奇襲ではなく強襲による攻撃になるものと、予想していた。
伊藤中将がいう『三十分間前通告』は、だから、とくに奇襲をねらうための手段ではなく、もっぱら予想される戦術事情に政治的措置を即応させようとしたとも、いえる。
だが、いずれにせよ、伊藤中将の申し入れで最後通告手交の時刻も確定し、日本側にとっては、あとはその時刻を待つだけとなった。
南雲機動部隊は、相変らず平均二十四ノットの速力で一団となってハワイに航進をつづけ、山下奉文中将が指揮するマレー・シンガポール攻略をめざす第二十五軍先遣部隊の輸送船団も、十二月四日午前七時三十分に海南島・三亜港を出発して、東シナ海をすすんでいた。
ワシントンも、緊張していた。
米国側とくに米海軍は“マジック”解読情報が伝える日本側大公使館あて暗号破棄指令に応じて、アジア各地の基地、艦隊に暗号書の処分を指令していた。
日本大使館も、暗号機械二台のうち一台を処分する指令をうけ、また「隠語控え暗号(放送と関連のあるものをふくむ)」は最後まで保管せよ、という指示に、事態の切迫を感得した。
おそらく、外交関係断絶を告げる“天気予報”隠語の放送にそなえての指示と理解できるからである。
――ワシントン時間十二月四日朝。
東京では四日が五日にかわろうとするところであったが、野村大使は居間の卓上におかれた『ワシントン・ポスト』紙をとりあげて、隻眼をみはった。
「ルーズベルト大統領の戦争計画!」――と、大見出しで報道する記事は、同じく『シカゴ・デイリー・トリビューン』紙もさらに詳報を伝えていたが、三カ月前の九月十一日に大統領の指示によって米統合参謀本部が作成した「勝利計画」のすっぱぬきであった。
この「勝利計画」は、いわば米国が参戦した場合に予想される困難とその打開策を検討したものだが、内容はショッキングであった。
統合参謀本部は、ドイツ打倒のための米国の戦備が完成するのは二年後であると予測し、そのときまでに英国およびソ連が敗北していても、また日本が敵に加わっていても、米国は戦わねばならぬと強調している。
そして、そのような事態になっても、米国には勝利の能力があると指摘し、「一九四三年七月一日」には、陸海空兵力千四万五千六百五十八人が整備され、その半数五百万人がヨーロッパに派遣される、と述べている。
すっぱぬきは、よほど美事におこなわれたとみえ、「勝利計画」は細部にわたるまで具体的に報道され、政府筋が重大な機密漏洩事件として調査にのりだした旨の報道も、つけ加えられていた。
千万人の大軍は、むろん、人員だけではなく、一万五千機をこえる飛行機、千八百万トンの輸送船団をはじめ、厖大な装備がともなう。
「勝利計画」は、それが用意できると明言していた。
――できる、たしかに米国にはその力がある。だから……。
野村大使は、だから日米戦争は回避すべきだ、どんな妥協でも戦争よりはましだ、という持論をつぶやきかけたが、暗然として唇をひきしめた。
なにか、それまでは丘の陰から顔だけ出していた巨人がぬっと全身をあらわしたような印象をうけ、野村大使は圧倒的な衝撃を感じないわけにはいかなかった。
野村大使はその日の午後、ほとんど居間にとじこもってすごした。
午後五時ごろ、顧問フレデリック・モアがやってきて、野村大使にもう一度「ハル・ノート」をみせてもらいながら、ものは考え方だ、という趣旨の進言をこころみた。
「ハル・ノート」は、日本の支那からの撤退を要求し、日本はその要求を最も苛酷なものとして拒否しているが、いまや英国も軍隊をひきあげ、米国も小さな砲艦を揚子江に浮かべているだけである。日本が軍隊を撤収したところで、日本が隣接する大国として中国におよぼす影響力には変化がないではないか。
野村大使は、その意見を来栖大使にも話してみてくれ、といった。
だが、来栖大使はモアの見解には興味を示さず、モアはやがて話し疲れて帰っていった。
すると、モアが大使館を出て間もない午後六時すぎ、海軍武官補佐官実松譲少佐は、隣室からひびく大声を聞いて、とびあがった。
「武官ッ、風が吹きましたッ。天気予報です」
隣室の短波受信機に連日耳をすませている萩本兵曹の叫びであり、かけこんだ実松少佐の耳にも、ヴォリュームをあげたアナウンサーの声がはっきりと聞こえた。
「……くり返して天気予報をお伝えします。東の風雨、東の風雨……」
まちがいなく、日米関係断交を告げる隠語放送である。
来た――と、実松少佐は武官横山一郎大佐に報告し、横山大佐は野村大使に伝えた。
来栖大使は、そう、来ましたか、と肩をすくめて返事したが、野村大使は瞑黙して頭をたれただけであった。
実松少佐は、さっそく機密書類、暗号機械の処分の準備にとりかかった。
書類は焼却炉で燃やせばよいが、問題は暗号機械や軍機金庫の処分である。海軍技術研究所から送ってきたテルミット粉で焼き溶かすのだが、テルミットは炎焼するときに強烈な閃光と白煙を発出する。
戸外でやるべきだが、さて、大使館構内のどの辺で何時ごろやればよいか。
米国側にそれと悟られてはまずいので、実松少佐は、さて、とアゴをなで、はて、とまたアゴをなでながら、考えこんだ。
――ちょうどそのころ、
十二月五日午前九時ごろ、フィリピン・マニラの米海軍キャビテ軍港でも一人の若い将校が、当惑した表情で考えこんでいた。
眼の前に、二本マストのスクーナーが浮かんでいる。排水量は七十五トン、船名は「ラニカイ」号という。
将校は、その二日前、突然、上海付近で乗艦していた砲艦「オアフ」から赴任を命じられたK・トリー中尉だが、アジア艦隊司令部に出頭してうけた命令は、およそ奇妙なものであった。
スクーナー「ラニカイ」号を二十四時間以内に砲艦に整備して出航準備をととのえよ。
搭載する三ポンド砲一門、ルイス式機関銃十二門および乗組員はすでに用意してある。ただし、乗組員十八人のうち、米海軍所属兵は六人で、残り十二人はフィリピン漁夫を徴用した。これらフィリピン人乗組員の中で、英語の単語を十二以上知っている者は、ほとんどいない。
それで任務は? とトリー中尉が質問すると、指示を与えていた作戦参謀は、とたんに困惑した表情になった。
「ラニカイ」号は、前述した開戦名分つくりのオトリ船である、が、その使命は極秘にされ、作戦参謀にも告げられていない。
自分も知らぬ、命令書もない、とにかくスクーナー「ラニカイ」号に乗船していてくれ……。
そういった参謀は、ぼんやりとうなずくトリー中尉に大げさに肩をすくめてみせた。
37
――いつ、戦争がはじまるのか。
それはわからなかった。が、米国内では、日米戦争は時間の問題だという印象は、日ましに強まっていた。
とくに、在留邦人たちの間では、十二月五日ごろには、米国に定住の意思を持たぬ人々のほとんどが、日本への引き揚げ準備をととのえていた。
引き揚げの最後のチャンスが、十二月十四日にロサンゼルスに入港する日本郵船「竜田丸」乗船らしい、ということは、本能的に察知されたとみえ、乗船申し込みが相次いだ。
申し込みは各総領事館、領事館でまとめるが、ニューヨーク総領事館関係は一、二等二百二十四人、三等十五人、サンフランシスコ総領事館関係は一、二等約四十人、三等約百二十人、ほかにロサンゼルス、メキシコ、パナマなどからの申し込みを合計すると、十二月五日現在で一、二等約三百五十人、三等約七百二十五人に達した。
引き揚げについては、三十日前に出国許可を申請せねばならぬ建前なので、十一月下旬以降に申請した邦人ははたして許可になるかどうか不明であった。
しかし、とにかく引き揚げ希望の邦人たちは、あるいは汽車で、あるいはバスで、あるいは自動車で続々とロサンゼルスに向かいはじめた。
「三井物産」は社員とその家族のために旅客機一機をチャーターし、また米国・セントラル・パシフィック鉄道会社は、引き揚げ邦人のためにニューヨーク=ロサンゼルス特急列車を仕立て、料金一割引き、十二月十日午後五時半・ニューヨーク発、と発表した。
荷物は極度に制限されると伝えられたので、邦人たちの多くはピアノ、家具、電気冷蔵庫その他、米国生活の名残りのほとんどを売却していた。
「都」「錦水」「だるま」「東京亭」など、ニューヨークの日本料理屋では、連日、昼も夜も歓送、送別のスキ焼きパーティがひらかれ、おかげでこれら料理屋は十二月にはいってからの五日間で、それまでの三カ月ぶん以上の売り上げを記録した。
ワシントンでも、戦争の切迫は、ひとしお感得されていた。
野村、来栖両大使は、十二月五日午前十一時、ハル国務長官を訪ねた。仏印に日本軍が集結しているのは支那軍にそなえるためだという説明書を提出し、あわせて交渉促進をはかるためであったが、ハル長官の対応は冷たく、会談は二十五分間で終了した。
ハル長官は、「ハル・ノート」にたいする日本側の回答を求め、野村、来栖両大使もそれが無ければ交渉再開の手がかりは得られぬことは理解していた。
――だがその回答は、はたしてどのようなものか。
この日、東京からは、かねて南米転勤の内示があった寺崎英成一等書記官ほか二人を「一両日以内」に出発させよ、という指示電がとどいた。
「一両日以内」とは、どういう意味か。二日後は不都合な事態になるというのか。
暗号破棄指令と組みあわせて考えるとき、この赴任督促電は特別の底意をひそめているようでもある。寺崎一等書記官らの赴任については、その二日前、もう少し延期させたいと東京に打電したばかりだからである。
だが、まさか、文字どおりに「一両日」以後は戦争になるとは、予想できない。
「戦争は政治の一手段である」――とは、当時、しきりに好唱されたプロイセンの戦史家フォン・クラウゼヴィッツの『戦争論』の一句である。
実際には、しかし、戦争とは政治が後退して軍事に頼る事態をいうはずである。その点は、「ハル・ノート」を提示する前にハル国務長官が「あとは貴下たちの仕事だ」と陸海軍長官に述べた発言にも表明されているが、ワシントン日本大使館では、それでも、政治の糸がきれるにはまだ間があるとみなされていた。
暗号破棄の指示は伝えられても、日米交渉断絶は指令されないからである。
大使館は、この日、五日(金曜日)朝、朝靄が濃い夜明けのひとときを選び、海軍武官府の暗号機械とともに二台の暗号機械のうち一台を構内の糸杉林の一隅で焼却したが、交渉がつづく以上は残り一台は残したい、と東京に打電した。
寺崎一等書記官らの赴任は、いわば、たって《ヽヽヽ》の指示であるので、週末がすぎれば、手配することにした。
日米両国政府は、すでに述べたように、両国関係はもはや純軍事関係に移行したことを認識しながら、政治の微妙な活用を心がけていた。
米国務省は、五日午後六時すぎ、米海軍の無線通信で日本、香港、仏印、タイ、重慶などの大公使館に暗号破棄準備を指示した。
このワシントン時間五日午後六時すぎは、日本時間では六日午前八時すぎになるが、東京ではその二時間後、午前十時から大本営政府連絡会議がひらかれた。
会議は正午までつづき、また、さらに午後三時から午後六時半まで開催された。
議題は、「対独交渉ニ関スル件」「対米最後通牒ニ関スル件」「対泰交渉開始時機指示ノ件」「開戦ニ伴フ支那ノ取扱ニ関スル件」「宣戦ノ詔勅」……など、いわば開戦に必要な最終的手続きのすべてを一括していた。
そして、開戦日・十二月八日の政府の行事スケジュールもきめた。
東郷外相は、これらの議決でほとんどの政治的準備がととのったことを認め、午後八時半、最後の手続きである対米通告文の発信を命じた。
まず、通告文を発信する旨の第九〇一号電が発出された。
「一、政府ニ於テハ十一月二十六日ノ米側提案ニ付、慎重廟議ヲ尽シタル結果、対米覚書(英文)ヲ決定セリ。
二、右覚書ハ長文ナル関係モアリ全部接受セラルルハ明日トナルヤモ知レザルモ、刻下ノ情勢ハ極メテ機微ナルモノアルニ付、右御受領相成リタルコトハ差当リ厳秘ニ付セラルル様致サレ度シ。
三、右覚書ヲ米側ニ提示スル時機ニ付テハ追テ別ニ電報スベキモ、右別電接到ノ上ハ訓令次第何時ニテモ米側ニ手交シ得ル様、文書ノ整理其他予メ万端ノ手配ヲ了シ置カレ度シ」
つづいて、第九〇四号電――、
「申ス迄モナキコト乍ラ、本件覚書ヲ準備スルニ当リテハ『タイピスト』等ハ絶対ニ使用セザル様、機密保持ニハ此上共慎重ニ慎重ヲ期セラレ度シ」
そして、対米通告文は十四部にわけられ、うち十三部が七日午前零時二十分までに発出され、うけつけた中央電信局は七日午前一時五十分に全部の電報を発信し終った。
この時刻は、ワシントン時間六日午前十一時五十分にあたる。
外務省電信課長亀山一二は、これら十三部までの電報は、おそらくワシントン時間六日午後九時三十分までには大使館で処理されるはずだ、と予測した。
そこで、日本時間七日午後四時、つまりワシントン時間七日午前二時に通告文の最後部分である第十四部を発出し、その一時間半後、ワシントン時間七日午前三時三十分に「午後一時に通告せよ」という指示電をだせば、第十四部はワシントン時間七日午前十一時までには処理できるだろうから、午後一時通告は余裕をもって実現できる……。
亀山課長はそう計測し、東郷外相も、その手配で十分だろうね、とうなずいていた。
――ところが、
ワシントンは、この亀山課長の予測に応えなかった。第九〇一号、第九〇四号、そして第九〇二号電である通告文十三部は、六日正午前からつぎつぎに日本大使館に到着した。
大使館顧問フレデリック・モアは午後、米国政府が天皇あてに親電をおくるらしいという情報を、E・トマス上院議員から聞いた。喜んで野村大使に伝えると、大使は首をふって、
「だめだ、出るのが遅すぎた」
と述べた。
野村大使としては、第九〇一、第九〇四号電の口調から察して、入電しつつある「対米覚書」はあるいは交渉打ち切りを告げる強硬内容だと推測し、そうであれば、もはや大統領の親電もなにほどの効果もないと判定したのである。
電信室では、つづけざまに到着する暗号文の翻訳にはげんだが、なにぶんにも長文である。通告文は十四部にわけられているが、第十四部はほんの三百語たらずの結論であり、十三部は四千語以上である。
夕刻になって半分ほど翻訳作業が終ると、井口参事官をはじめ書記官たちは、予定どおり寺崎一等書記官らの送別パーティをひらくことにして、「メイフラワー・ホテル」に出かけた。
土曜日の夜でもあるし、また、第九〇一号電には全文到着は「明日」になりそうだといっている。そして、米国側手交は別電によると指示されており、電文の浄書はタイピストを使うな、とも指示してきている。
タイピストにやらせるな、ということは、当然、タイピスト以外の館員がタイプするのだから、時間がかかる。
となれば、たぶん、東京は日曜日いっぱいに準備をして、月曜日に提出するスケジュールを組んでいるのであろう……。
むろん、このような観測は、当時の情勢をみきわめ、また、第九〇一号、第九〇四号の指示を厳密に解釈した場合は、ゆうちょうにすぎる。
第九〇一号、第九〇四号電を併読すれば、厳重な機密保持を強調するとともに、覚書は「訓令次第何時ニテモ」米国側に提示できるよう、「万端ノ手配」をしておけ、と明確に注意している。
「何時ニテモ」とは、全文を受領した直後でも良いわけであり、してみれば「万端ノ手配」は、翻訳と並行してタイプ浄書をすすめておくことを期待しているはずである。
その意味で、この日の日本大使館の姿勢には、なんとなく米国式週末ムードに慣れた反応の鈍さがうかがわれるが、米国側の反応も、別の意味で低調であった。
米国側は、第九〇一号電を午前七時十五分〜二十分に傍受し、残りの電報は午前八時三分から午前十一時五十二分までにキャッチした。
いずれも、シアトル市に近いベインブリッジ・アイランドの米海軍通信所で受信し、テレタイプでワシントンの海軍情報部におくられた。
したがって、十三部の通告文は午前十一時四十五分〜午後二時五十一分にワシントンで受理されたが、電文が英文をともなっていたので解読作業はスムーズに進んだ。
六日は、偶数日なので、陸軍が解読を担当する日であったが、緊急処理を必要とすると判断され、十三部のうち十一部を海軍が解読し、第九部、第十部を陸軍が処理することになった。
まず、第九〇一号電の“マジック”情報が陸海軍首脳者に、つづいて午前三時すぎ、ハル国務長官にとどけられた。
ハル長官は、それまでに日本の武力行動開始にかんする決定的な情報を入手していた。
午前十時四十五分、ワイナント駐英大使は、英海軍省からの連絡として、三十隻及び十隻の輸送船を基幹とする日本船団二群が、それぞれ巡洋艦、駆逐艦に護衛されてインドシナ半島南端を西進している、という。
次いで午後零時五十六分、アジア艦隊司令長官ハート大将が、同様の情報を支那方面英国艦隊司令長官から入手した旨を通報してきた。
スチムソン陸軍長官、ノックス海軍長官と電話で相談したあとに、第九〇一号電の“マジック”情報をうけたハル長官は、さっそくルーズベルト大統領に連絡し、大統領は次のようなこんごの行動予定を指示した。
日本天皇に親電をおくる。
月曜日(十二月八日)夕刻までに天皇の返電がなければ、次の措置をとる。
A火曜日(十二月九日)の午後または夕刻に対日警告を発する。
B水曜日(十二月十日)午後以降に英国及びその連合国が対日警告を発する。
この警告とは、日本がタイ国、または「東経一〇〇度線以西あるいは北緯一〇度線以南」に進出すれば、あらゆる「適当な手段」をとるという内容のものである。
そして、この“予定表”は、日本船団のマレー半島またはタイ国到着が七日乃至八日とみこまれることを基礎にして、ルーズベルト大統領が日本の攻撃を十二月八日前後、とくに八日ごろと推定したことを、告げている。
また、“予定表”のうち、天皇あて親電に最も政治的効果が認められ、ルーズベルト大統領は、午後六時すぎ、ハル長官に天皇あて親電をすぐ送るよう、指示した。
「大至急グルー(駐日大使)に送れ。グレー暗号(註、機密度のうすい暗号)でいい。傍受されてもかまわない」
大統領は、親電案文の余白にそう手記してハル長官にとどけさせたが、ハル長官はとくに急ぐこともなく、ホーンベック顧問に打電を依頼して午後七時すぎ退庁した。
ホーンベック顧問は午後八時に、天皇あての大統領親電を送るという電報を東京に発信し、次いで午後九時、本文を送った。いずれも、RCA電信会社の商業電報によるものであり、至急電でもない普通電であった。
――そのころ、
日本側の対米通告文十三部は解読され、“マジック”解読文が関係者に配布されはじめていた。
陸軍側は、責任者である陸軍情報部極東課長ブラットン大佐が午後九時前に退庁して、首席課員C・デューセンベリー大佐が居残っていたが、ブラットン大佐は関係者への配布を指示しなかった。
だから、関係者への配布は海軍側だけとなったが、解読班長クレイマー中佐が電話で連絡すると、海軍作戦部長スターク大将も、作戦部戦争計画局長R・ターナー少将も、自宅にいない。土曜日の夜にふさわしい外出だ、と電話口に出た召使いまたは副官は、いった。
ノックス海軍長官に連絡すると、長官は在宅したので、解読文を持参した。午後八時三十分ごろである。
ノックス長官は解読文を読むと、午後八時四十五分にハル長官、同四十七分にスチムソン長官に電話して、翌日、七日午前十時にハル長官室で会議をひらくことをうちあわせた。
クレイマー中佐は、ノックス長官宅を辞去すると、いったん海軍省にもどり、午後九時二十分ごろ、夫人メリーが運転する自動車でホワイト・ハウスにむかった。中佐は夕食をすませていなかったので、助手席にのりこむと、夫人が途中のドラッグ・ストアで仕入れてきてくれたハンバーガーにかぶりついた。
ホワイト・ハウスでは、大統領付武官補佐官L・シュルツ海軍中尉が郵便室の前で待っていた。
大統領付武官J・ビアドール海軍大佐がクレイマー中佐の連絡をうけて、待機を命じておいたのである。
シュルツ中尉は、クレイマー中佐から“マジック”解読文がはいった小型革カバンをうけとると、大統領にとどけた。
ルーズベルト大統領は、顧問ハリー・ホプキンスと夕食会を中座して書斎にいたが、シュルツ中尉が革カバンの錠をはずしてとりだした解読文を読むと、ホプキンス顧問に渡した。
そして、ホプキンス顧問が読み終ると、いった。
「これは戦争だな」(ジス・ミーンズ・ウォア)
「同感です」(イエス、アイ・ビリーブ・ソウ)
ホプキンス顧問はあいづちをうち、しかし、日本が自分の都合の良いときに仕かけてくるのがわかっているのに、その奇襲を防止するために米国側が先制攻撃ができないのか、と不満をもらした。
「いや、ハリー。我々にはそれはできない。我々は民主主義国家であり、平和的な国民であり、立派な歴史を持っている」
大統領は、そういったあとで、海軍作戦部長スターク大将と話してみよう、といい、電話をとりあげた。だが、交換手が、スターク大将宅に連絡したのち、大将は「ナショナル劇場」で観劇中です、呼びだしますか、というと、結構だ、と受話器をおいた。
「(大将が)急に席を立ったりすると、観客がおどろくかもしれない。あと三十分間もしないうちに連絡がつくだろう」
シュルツ中尉は、大統領がそうホプキンス顧問に話したのを記憶している。
クレイマー中佐は、シュルツ中尉から“マジック”解読文入りのカバンを返してもらうまで、夫人が運転する車の中で待っていたが、次に海軍情報部長T・ウィルキンソン大佐宅にまわった。
ウィルキンソン邸には、大統領付武官ビアドール海軍大佐と陸軍情報次長S・マイルズ准将がいた。三人は、“マジック”解読文を回読し、仕事を終えたクレイマー中佐は海軍省にもどって文書を金庫に格納したのち、夫人とともに帰宅した。
ウィルキンソン邸のパーティも、クレイマー中佐が退去すると間もなく終り、二人の客も帰宅した。
午後十一時に近く、月は明るかったが寒風が強く、ビアドール大佐もマイルズ准将もオーバーの襟をたてて肩をすくめながら、車にのりこんだ。
――午後十一時すぎ、
日本大使館では、ようやく対米覚書十三部の翻訳が終った。
亀山課長が予測した「午後九時三十分訳了」は、むしろ、米国側解読時間にひとしい結果となっていたわけだが、午後十一時訳了はとくに遅すぎはしない。つづいてタイプ浄書にかかれば、翌朝までには十分にできあがるからである。
だが、肝心の書記官たちの姿はなく、井口参事官に連絡すると、明朝でいいから片付けて帰宅せよ、という。
電信官たちは、指示にしたがって、あるいは宿直室にひきあげ、あるいは夜の街を自宅に急いだ。
そのころ、マイルズ准将とスターク大将も自宅に帰っていた。
マイルズ准将は、極東課長ブラットン大佐に電話をかけ、“マジック”解読文をウィルキンソン邸で読んだと告げたが、ブラットン大佐がマーシャル参謀総長にとどけようかと訊ねると、いや、明朝、全部そろってからにしよう、と答えた。
スターク大将も、帰宅してホワイト・ハウスから電話があったことを知ると、二階の書斎の直通電話で連絡したが、観劇に同行して階下にいた元副官クリック海軍大佐に話した。
「日本との情勢はだいたい決定的な段階だ、ということだな」
それだけいうと、スターク大将は、辞去するクリック大佐夫妻を見送り、夫人とともに寝室にむかった。
のちに、大統領付武官補佐官シュルツ海軍中尉は、ルーズベルト大統領とホプキンス顧問との会話を聞いたときの印象を、次のように語っている。
「私がうけました印象は……我々は戦争になるのを待たなければならないということであります」
そして、まさにこのシュルツ中尉の印象どおりに、十二月六日のワシントンは、日米双方の関係者ともに「戦争になるのを待つ」形で時をすごした。
だが、その夜はすでに「開戦前夜」であり、日本大使館で暗号翻訳を終え、またスターク大将が帰宅した午後十一時すぎは、南雲機動部隊の攻撃隊発進のわずか十二時間前でしかなかった。
38
南雲機動部隊は、ハワイ北方約五百カイリの洋上で日没をむかえた。
現地時間十二月六日午後五時十八分である。
南海の落日は、す早い。西空を静かに降下してきた太陽は、その外縁を水平線に密着させたかと思うと、なめらかに押しこまれるように波の下に消える。あっけないほどに無造作な速さである。
だが、その急速な日没ぶりも、機動部隊将兵には、たまらないもどかしさに感じられた。
すでにハワイ米軍の哨戒圏内に身をさらしている。ホノルルのラジオ放送も明瞭にキャッチしている。米軍が索敵機をとばせば、まちがいなく発見される環境にあるだけに、一刻も早く夜闇に姿をかくしたかったからである。
「時計を睨みつつ日没を待つ迄の時間の永かりしこと、一日千秋の思なりき」
第八戦隊参謀藤田菊一中佐も、待望の日没時をすぎたとき、心からの安堵をこめてそう手記した。
情報では、ハワイ北東に米潜水艦の所在が推察され、またソ連船舶が付近を航行中らしいという。だから、なお警戒心と緊張感はいささかも解放することはできない。
だが、陽光が消えれば、たとえ月光、星明りがあっても、暗い大洋を黒々と灯火管制して進む艦隊を発見するのは、まず至難事である。
機動部隊は、あらためて「天佑と神助を確信」しながら、夜の南海を南下して行った。
ハワイの六日夜は、東京の七日午後、ワシントンの七日未明になるが、南雲機動部隊が夜闇に溶けこんでから約四時間後、東京時間七日午後四時、外務省電信課は対米通告の最後の部分である第十四部を発信し、つづいて三十分後、通告をワシントン時間七日午後一時に手交せよとの指示を発電した。
いずれも、東京中央電信局から発信され、確実な到着を期するために、それぞれ米国電報会社「マッケイ」「RCA」二社を利用した。
第十四部電は午後五時・「マッケイ」社、午後六時・「RCA」社を経由し、手交時間指示電は午後六時二十八分・「RCA」社、午後六時三十分・「マッケイ」社を経てワシントンに飛んだ。
ワシントン時間の七日午前三時から午前四時三十分までの発信であるが、これら秘電は、それぞれ発信直後の午前三時五分と午前四時三十七分に、シアトル市に近いベインブリッジの米海軍S通信基地でキャッチされ、ワシントンにテレタイプで直送された。
この日の暗号解読は、陸海軍双方でおこなわれたが、第十四部および手交時間指示電はともに午前七時すぎには解読を終り、まず陸軍の“マジック”配布責任者である参謀本部情報部極東課長L・ブラットン大佐の自宅にとどけられた。
ブラットン大佐は直ちに登庁して、海軍側の配布役A・クレイマー中佐に連絡した。二人は、「午後一時に米政府に手交せよ」という時間指定の意味について話しあい、ともにそれが日本の武力行動開始時間に密着した時刻にちがいない、と推定した。
「とにかく“マジック”を配布するよりも、関係者に電話して登庁を求めるべき事態だと思うね」
「同感です」
判断が一決したので、二人はそれぞれに陸海軍首脳者に電話したが、おりから日曜日の朝である。
将軍および提督たちは、いずれも連絡をうけると「オーケー」または「オールライト」と承知の旨を応えたものの、誰の動作もゆったりとしていた。
海軍作戦部長スターク大将は、クレイマー中佐の連絡をうけたあと、まず悠然と庭を散歩し、次にシャワーを浴び、さらに朝食をすませ、じっくりと新聞を読み、そのあとでやおら軍服に着かえて副官に自動車の手配を命じた。
他の幹部たちも同様の挙措を採択したが、陸軍参謀総長マーシャル大将は、朝早くから愛馬「キング・ストーリー」にまたがり、愛犬「フリート」をお伴にして、アーリントン公園で乗馬を楽しんでいた。おかげで、ブラットン大佐がマーシャル大将官邸に何回電話しても、従兵は、まだ「お馬の稽古」中だと返事するだけであった。
「緊急かつ最重要な用件があるんだ。すぐ車で閣下を探しに行き、本官に電話しろ。いいか。すぐだぞッ」
ブラットン大佐は、午前九時少し前、何度目かの電話でついに興奮の声をはりあげ、従兵を叱咤した。従兵は指示どおりに車にとびのり、アーリントン公園じゅうを走りまわったが、マーシャル大将を発見できなかった。
大将は、どういうものか、この日に限って、かつてなく乗馬をたっぷり味わいたい心境になったらしく、アーリントン公園をひとまわりすると、ワシントンを南北に縦断するロック・クリーク公園にむかい、くり返し木立の中を右往し左往していた。
おかげで、アーリントン公園を探した従兵には見つけようがなかったわけだが、ブラットン大佐は、従兵から報告をうけると、受話器をたたきつけて歯がみした。
「あと四時間もすれば、なにか起るというのに……ガッデム(くそッ)、たるんどる」
――同じころ、
日本大使館でも、海軍武官補佐官実松少佐が、ブラットン大佐とまったく同様の忿懣《ふんまん》の言葉をつぶやいていた。
「なんだ、このざまは……みんな、たるんどる……」
出勤してみると、大使館事務所の玄関には、新聞が山積みにされ、牛乳ビンが林立し、郵便受けにはぎゅう詰めに電報がつまっていたのである。
日曜日の朝とはいえ、対米通告電の到来は予定されており、情勢は緊迫をきわめている。のんびりと朝寝を楽しむ事態ではないはずである……。
「外交官という人種は非常時の認識欠如だ、これだから(野村)大使も苦労するんだ……たるんどるゥ……」
実松少佐は、新聞と牛乳ビンをかかえこみ、電報を大使館用、海軍武官用、陸軍武官用に仕分けしながら、プリプリした声で独語した。
時刻は、午前九時半に近い――。
ハワイ時間では、七日午前四時少し前になる。南雲機動部隊は予定の発艦地点に近づき、六隻の空母の甲板には次々に攻撃部隊の各機が勢揃いしていた。
そのころ、東京は七日午後十一時になろうとしていた。
そして、ワシントンの事情に似て、ここでも電報が問題になっていた。
ルーズベルト大統領の天皇宛親電――である。
関係電報は、ハル長官の予告電が午前十一時、親電本文は正午に東京に到着したが、電報は遅配されていた。
逓信省電務局外信課員・白尾干城によれば、すでに十一月二十九日、参謀本部通信課員・仁村盛雄中佐の口頭命令で外国電報の遅配が指示されていた。そのさいは、五時間の遅配が命じられたが、さらに十二月六日、こんごは一日おきに五時間と十時間の遅配にせよ、との通達をうけた。
七日は、その最初の「十時間遅配日」にあたる。
そこで、白尾干城は指示どおりに、予告電を午後九時、親電本文を午後十時に米国大使館に配達させた。
駐日大使ジョセフ・グルーは、午後三時ごろ、サンフランシスコ放送を傍受して大統領が天皇宛に親電をおくったことを知っていたので、さっそく大使館参事官ユージン・ドウマンを呼び、東郷外相秘書官友田二郎に外相との緊急会見をアレンジさせた。
東郷外相も、UP通信社の電報や米国放送、さらに野村大使からの電報によって、大統領親電が到来することを期待していた。
ただ、親電であるので、直接に宮内省あてにとどくものと予想し、また参謀本部“遅配指令”も知らなかったので、友田秘書がグルー大使が親電を持参すると告げると、やや意外に感じた。が、一刻も早く伝達したい、とのグルー大使の伝言にうなずき、来訪を待った。
グルー大使は、電報の暗号解読と浄書をすませ、十二月八日午前零時十五分、外相官邸に到着した。
大使は大統領親電を朗読し、写しを外相に手渡して、天皇に直接伝達したい、と述べた。東郷外相は、大使の希望と大統領親電を上奏する、と答えた。
東郷外相は、大統領親電を日本語訳させたのち、拝謁手続きをとってから、東条首相と木戸内大臣に連絡した。
「約一世紀前、米国大統領ハ日本国天皇ニ対シ書ヲ呈シ……爾来《ジライ》不断平和ト友好ノ長期間ニ亙リ、両国民ハ其ノ徳ト指導者ノ叡智ニヨリテ繁栄シ、人類ニ対シ偉大ナル貢献ヲ為セリ……」
と、荘重な書き出しではじまる親電は、しかし、しきりに平和維持の必要を強調しながらも、そして仏印からの日本軍撤兵を求めながらも、これまでの日米交渉内容にはふれず、「ハル・ノート」にも言及せず、保障や譲歩もない抽象的なものであった。
東郷外相は、一読して「危局を救い得るものとは認め難い」と判定したが、東条首相と木戸内大臣も同感の意を表明した。
「遅く電報がついたから良かったよ。一日、二日早くついていたら、また一騒ぎあったかも知れぬ」といいながらも、東条首相は、
「そういうものでは何の役にも立たぬではないか」
と、撫然とした表情で首をふり、木戸内大臣も、即座に論評した。
「そんなものでは駄目だね」
東郷外相は、東条首相と協議してきめた簡単な天皇の大統領あて返事の裁可を仰ぐことにして、宮城にむかった。
深夜の宮城付近は、晴天を予告するかの如く満天の星座の下に、ひたと静まり返っていた。音といえば、外相の車がはねとばす砂利音だけである。
宮城内も静寂をきわめ、うす暗い長廊下を一人の仕人に先導されて拝謁の場所にむかうとき、東郷外相は深山の木立の中を進むような粛々とした感慨に身をみたした。
天皇は、大統領親電を黙然と聞き、大統領あての回答に「よろしい」との一言で裁可を与えた。
毅然――という表現そのままの態度と拝察し、東郷外相は感動した。
あらためて、「自分としてはこれ以外更に方法なしと云う所迄つきとめての措置」であった、と開戦までの経緯を思い浮かべ、また「数刻の後には世界歴史上の大事件が起る」ことを想い、東郷外相は寒さと感動に身ぶるいしながら、宮城を退出した。
十二月八日午前三時十五分ごろ――であり、そして、東郷外相の期待どおりに、まさに太平洋戦争の開幕寸前であった。
南雲機動部隊は、グルー大使が東郷外相と会見したころ、計画どおりにハワイ・オアフ島北方約二百五十カイリの攻撃予定地点に到着し、東郷外相が東条首相と話していた日本時間八日午前一時、ハワイ時間七日午前五時三十分、まず直前偵察のため零式水上偵察機二機を発進させた。
ついで、午前六時、第一次攻撃隊百八十三機を発艦させ、午前七時十五分、第二次攻撃隊百六十七機が発進した。
第一次攻撃隊発進のさいは、まだ月齢十九日の下弦の月が去来する断雲の中に見えかくれし、東方の水平線が夜明けの明るみを増しはじめているころであった。
だが、第一次攻撃隊が南の空に姿を消してまもなく、午前六時二十五分、太陽はギラリと水平線をはなれはじめ、第二次攻撃隊は陽光に翼をきらめかせて、オアフ島・真珠湾をめざした。
東郷外相が宮城を退出した八日午前三時十五分は、ハワイ時間七日午前七時四十五分であるが、その時刻には、すでに第一次攻撃隊はオアフ島上空に到着していた。
攻撃隊総指揮官・淵田美津雄中佐は、うららかに静まりかえるオアフ島のたたずまいと、異常なく聞こえるホノルル・ラジオ放送で奇襲成功を確認し、午前七時四十九分、後部座席の電信員水木徳信一等兵曹に突撃命令を打電させた。
「ト、ト、ト……」
モールス符号の「ト」連送であり、「全軍突撃セヨ」の命令である。
――その時刻、
ワシントン時間は七日午後一時四十九分であるが、日本大使館では、野村大使と来栖大使が玄関でじりじりしていた。
大使館では、実松少佐が出勤して間もなく、一等書記官奥村勝蔵が前夜に訳了した対米通告十三部のタイプ浄書をはじめ、午前十時ごろ、電信員たちが出勤してきてたまった暗号電報の翻訳作業をはじめた。
電信処理の慣例として、まず至急報、次に長文電報から処理することになっている。
しかし、たまっていた電報は、大統領親電にかんする問い合せ、通告文第十四部、手交時間指示電、通告文訂正電、大使および館員の努力にたいする慰労電など、いずれも短文のものであった。電信室では、次々に電報翻訳がすすめられた。
午前十一時ごろ、奥村一等書記官は一応のタイプ浄書を終えた。しかし、もともと奥村一等書記官としては、いわば“草案”のつもりであったので、もう一度はじめからタイプすることにした。
タイピストに任すな、という指示のおかげで、一等書記官三人のうちでタイプがうてる奥村勝蔵が仕事をすることになったが、とくにタイプに堪能ではない。そこでまず第一回目は練習をかねてタイプし、二回目を“本番”と心得ていたのである。
米国側では、そのころには、通告文第十四部と手交時間指示電の両方が、陸海軍と政府首脳者に承知されていた。
海軍作戦部長スターク大将は午前十時すぎ、海軍省の執務室で二連の電報を読んだ。
ウィルキンソン情報部長が、ワシントン時間午後一時はハワイの午前七時三十分にあたることを指摘し、太平洋艦隊司令部に連絡すべきだと進言したが、スターク大将はいったん緊急電話の受話器をにぎりながら、手をはなした。
「その前に大統領と相談してみたい」
ホワイト・ハウスに電話すると、大統領は話し中だというので、大将は肩をすくめてそのままにした。
ルーズベルト大統領も、午前十時ごろ寝室で通告文第十四部の“マジック”情報を読んだが、「日本はまさに交渉を打ち切ろうとしているようだ」と、副官ビアドール大佐に語っただけであった。
ハル国務長官は、ノックス海軍長官とスチムソン陸軍長官を迎えて、午前十時半から国務長官室で会議をひらいていたが、通告文第十四部は会議開催の数分間前、手交時間指示電は会議がはじまった十五分間後に、伝えられた。
参謀総長マーシャル大将は、午前十時二十八分に官邸に帰ってきてブラットン大佐に連絡したのち、午前十一時少し前に陸軍省に到着した。
「閣下、まずこれを先にお読みいただいたほうが良いと思いますが……」
待ちかねたブラットン大佐は、そういって手交時間指示電の解読文を一番上にのせてマーシャル大将に進言したが、大将は、無言でそれを横に置き、まだ読んでいなかった日本側通告文第十四部をはじめから通読し、最後に手交時間指示電に眼をとおした。
読み終ると、大将は、部屋に集まった戦争計画部長L・ジロー少将ら幹部に意見をたずねたのち、きっぱりと言明した。
「諸君、本職は日本軍が本日の午後一時、またはその直後に攻撃を開始すると確信する」
マーシャル大将はハワイ、フィリピン、パナマ、サンフランシスコの陸軍部隊指揮官に緊急警報電を発信するよう、指示した。
ところが、他の地域あては“三倍優先”の緊急電で発信されたが、ハワイにたいしてだけは、少なくとも八時間を要する「ウエスタン・ユニオン」電信会社の普通電で発信されたのである……。
なぜ、あえてそのような“遅延措置”がとられたのか?
この点は、しばしば米国側が日本海軍のハワイ空襲計画を察知していたとの推測の根拠にみなされながらも、なお解明されないままでいるが、いずれにせよ、マーシャル大将の警告電文が通信将校に手渡された午前十一時五十分ごろ、日本大使館も時間の歩みの意味に気づいていた。
奥村書記官が第二回目のタイプにとりかかって間もなく、午後一時に米国政府に通告文を手交せよ、という電報が翻訳された。
とたんに、大使館の空気は一変し、奥村書記官はタイプ浄書を督促された。
第十三部までを前夜のうちにタイプしておくか、あるいは、タイピストを使うなどの指示があっても、タイピストにうたせてその後は機密保持のためにタイピストを監禁しておけば、手交時間は守れたはずである。
だが、とっさの場合に臨機の着想は思い浮かばず、東京の訓令どおりに奥村書記官のタイプ作業がつづけられた。
しかし、緊張すればするほどに“素人タイピスト”の奥村書記官の指さばきは円滑さを欠き、来栖大使に随行してきた結城司郎次元亜米利加局第一課長も手伝ったが、うち間違い、そして再浄書がさけられずに、時間は経過した。
野村大使の秘書煙石学も、国務省にハル長官との会見申し入れの電話をしたのち、奥村書記官の手助けをしたが、それでもミスが重なり、会見時間を再度にわたって延期しなければならなかった。
――午後一時四十分、
ハワイではその十五分間前から、第一次攻撃隊の空襲が開始され、そして太平洋艦隊司令部から日本軍攻撃の第一報がワシントンに到着した。
報告は、日本機の空襲をうけたというだけのものであったが、戦争開幕の事実を知るには十分である。
第一報をうけた海軍作戦部長スターク大将は、すかさずノックス海軍長官に電話したが、ノックス長官は仰天して叫んだ。
「そんなバカなッ。そりゃフィリピンじゃないのか」
ルーズベルト大統領と一緒に報告をうけた顧問ハリー・ホプキンスも、とっさに大統領に意見具申した。
「これはなにかの間違いにちがいない。日本はホノルルを攻撃したりしないはずです」
このノックス、ホプキンス両人の発言には、根拠があった。
前日、アジア艦隊司令長官ハート大将は、大統領指示のオトリ船工作の準備が完了し、その一隻が出動する、とワシントンに報告してきていた。
例の「ラニカイ」号であり、「ラニカイ」号は船員、船荷、機銃を積み、現地時間十二月八日夜明けにマニラ湾を出港する指示をうけていた。
艦長K・トリー中尉は、インドシナ半島カムラン湾沖をパトロールして日本艦隊を偵察せよ、と命令された。
「日本人に不審訊問されたら、不時着した友軍機のパイロットをさがしている、といえばいいさ」
指示を与えた作戦参謀は、相変らず気楽な調子でそういい、トリー中尉が、航海中に飲料水が不足したらどうするか、と質問すると、作戦参謀はまた明るい声音で答えた。
「そのときは、最初に出会った日本の軍艦に頼んで、いくらかわけてもらうんだな」
このようなトリー中尉と参謀との問答はともかく、「ラニカイ」号出帆の報告をうけたワシントンでは、日本軍船団の動きと照合して、「ラニカイ」号が日本艦隊とそうぐうすることを確信していた。
だから、日本機の空襲と聞いて、ノックス長官もホプキンス顧問も、やられたのは「ラニカイ」号、場所はフィリピン沖、ととっさに判断したのである。
それだけに、ハワイ空襲の事実は米国政府を驚倒させたが、そのころ、日本大使館では、ようやく奥村書記官のタイプが終り、野村、来栖両大使は通告文をおさめた封筒をカバンに投げこんで、国務省にむかった。
国務省に到着したのは、午後二時であったが、二人の大使は待たされ、午後二時二十分、ハル長官に会った。
ハル長官は、二人の大使が国務省に到着したとき、ルーズベルト大統領から電話で真珠湾空襲を告げられた。
ハル長官はウェルズ国務次官とホーンベック顧問を呼び、二人の大使との会見を拒否すべきかどうかを協議したが、やはり会うべきだとウェルズ、ホーンベックは勧告した。
二人の大使が待たされたのは、そのためであったが、ハル長官は冷たさをあらわにした態度で、二人を迎えた。
「はっきり申しあげるが……私は五十年の公職生活を通じて、これほど恥知らずな虚偽と歪曲に満ちた文書は見たことがない……」
ハル長官は、手渡された通告文をペラペラと二、三項めくるとそういい、ドアの方角にアゴをしゃくった。
――恥知らず……虚偽……歪曲……。
二人の大使はまだ、開戦を知らない。野村大使は、なぜ、ハル長官がそれほど極端な非難の表現を採用するのか、隻眼をみはったが、無言でハル長官に握手を求めた。
そして、さしだされたハル長官の手を強くにぎったが、長官の手はだらりとしたまま、なんの反応も示さなかった。
39
電撃戦――という単語が、当時、国際的に流行していた。
第二次大戦開幕いらいのナチス・ドイツ軍の進撃ぶりを、電光の走過にたとえての形容であるが、日本海軍のハワイ空襲もまさに雷電の衝撃にも似た急襲であった。
ハワイ空襲・第一次攻撃は、現地時間十二月七日午前七時三十五分の急降下爆撃隊の投弾にはじまり、午前八時二十五分ごろに終った。
そのころにはすでに嶋崎重和少佐指揮の第二次攻撃隊百六十七機がハワイ上空に到着し、次々に帰投する第一次攻撃隊に代って攻撃をつづけた。
そして、午前九時四十五分、日本機はハワイの空から姿を消した。
一時間五十分の空襲は、戦闘時間としては長いものではないが、平時体制のまま予期しない攻撃をうけたハワイの将兵、市民にとっては、無限の長さとも一瞬の悪夢とも感じられたにちがいない。
「エア・レイド・オン・パールハーバー、ジス・イズ・ノー・ドリル」(真珠湾空襲、演習にあらず)
ハワイ海軍航空部隊司令官パトリック・ベリンジャー少将は、午前七時五十八分、第一次攻撃隊の爆撃開始直後にそう放送し、そのごも、くり返して放送しつづけた。
ベリンジャー少将の放送は、太平洋艦隊司令部の無線でおこなわれたが、ホノルル放送も午前八時すぎには敵襲を伝え市民の外出禁止、防火用意、冷静さの維持などを訴えた。
だが、真珠湾上空をおおう火煙、八方から落下する高射砲弾片、次々に口伝えされる流言などは、一般市民を興奮させ、動揺させた。
空襲により、米太平洋艦隊は真珠湾在泊艦艇九十四隻のうち、戦艦八隻をふくむ十八パーセントが撃沈破され、陸海軍機四百七十九機を撃墜破され、死者二千四百四人、傷者六百二十七人の被害をうけた。
混乱はむしろ日本機が退去したあとに激しく、日本総領事館が所在するホノルル市ヌアヌ通りは、夜に入るまで「狂乱状態」になった市民の群れでごった返した。
南雲機動部隊は、ハワイ時間七日午後一時五十分ごろ、第一次、第二次攻撃隊の収容を終り、二十四ノットで北上して戦場を離脱した。損害は第一次攻撃隊九機、第二次攻撃隊二十機、ほかに別働隊として真珠湾口に潜入した特殊潜航艇五隻であった。
しかし、このような日本側の事情は、当時の米国には知るすべもなく、また米本土ではハワイの惨状もすぐにはわからず、ただ日本軍の急襲におどろくだけであった。
第二次攻撃隊の空襲が終了したハワイ時間七日午前九時四十五分は、ワシントンでは七日午前三時十五分だが、米本土の一般市民や邦人たちが真珠湾空襲の事実を知ったのも、ちょうどそのころであった。
ニューヨークとワシントンの在留邦人社会では、この日、ひとつの行事が予定されていた。
ニューヨーク監督官事務所に勤務していた陸軍武官補佐官新庄健吉大佐が、二日前、十二月五日にワシントンのジョージ・タウン病院で死去した。ニューヨークで大佐の追悼会、ワシントンでその葬儀がおこなわれることになっていた。
ニューヨークの追悼会は、日本クラブとフランス教会の双方で開催されたが、邦人たちの集まりは良かった。
すでに引き揚げ準備を終えた者が多く、また当日は好天であったが寒気が厳しかったので、おそらくは米国での最後のゴルフを楽しむ機会を放棄した者も少なくなかったためであろう。
「日米関係は緊迫してるが、その緊迫期間があまり永く統いたので、多少免疫になっていた」
とは、「日本棉花シルク」の野田岩次郎の回想であるが、「三井物産」ニューヨーク支店長・宮崎清の場合は、この日はむしろ「心強い」心境を感得していた。
宮崎支店長は、かねてニューヨーク駐在・大蔵省財務官西山勉と連絡を保ち、岩畔大佐や井川中金理事たちが在米した当時から日米交渉の“裏面工作”に関与していた。
最近は、財界の有力者バーナード・バルークと来栖大使との会見を知人E・デスバニンを通じてあっせんし、来栖大使はルーズベルト大統領から天皇に親電を送る企画をバルークに提案した。
七日朝、E・デスバニンは、大統領の天皇あて親電が発せられた、「もう心配ない」と電話してきた。
宮崎支店長は、だから、たとえ本国引き揚げとなっても、やがて日米関係は打開のチャンスを見出せるものと期待していたが、午後二時ごろ、E・デスバニンは再び宮崎支店長に電話してきて、日本軍のハワイ空襲を告げた。
そのころには、日本クラブ、フランス教会でも、あとから参集した邦人たちの報告で、開戦らしいとのニュースがひろまっていた。
「らしい」――というのは、それまでに放送されたラジオ・ニュースでは、“国籍不明機が真珠湾を攻撃”したとか、“日の丸”のマークをつけた飛行機が確認されたとか、“ドイツ空軍将校”が指揮するとみられる日本機などと、やや不明確な内容が伝えられていたからである。
だが、E・デスバニンからの電話は明確に日本海軍機による日米開戦を告げ、また、午後三時のラジオ放送は米軍政府の真珠湾空襲発表を報道し、次いでラガーディア・ニューヨーク市長の日本人外出禁止布告が放送された。
日本クラブで放送を聞いていた宮崎支店長は、集まっていた「三井物産」社員たちに現金の受けとり、自宅待機を指示したが、その間にまた電話がかかってきた。バーナード・バルークからである。
「われわれは騙されたのか」
「ノー、サー。アイ……」
宮崎支店長は、静かだが鋭いバルークの詰問に絶句した。宮崎支店長自身、大統領親電によって点灯された希望の灯が瞬間に吹き消された想いで愕然かつ暗然としていた。バルークの言葉に返答の単語も思い浮かばなかったわけだが、バルークは宮崎支店長が黙っていると、それ以上は語らずに電話をきった。
ワシントンでおこなわれた新庄大佐の葬儀は、小規模な集会ではあったが、心のこもった集いであった。
葬儀場は日本大使館の北方、メリーランドに近い小教会のホールを利用した。正面に故人の肖像写真を掲げ、その下にバラの木の棺を安置し、棺上に大佐の軍服と軍帽を置いた。
会場には、故人を偲ぶ邦人たちのほかに米陸軍から弔問にきた少佐と大尉も佇立《ちよりつ》し、約三、四十人を集めたホールに香煙がゆらめいていた。
牧師の聖書朗読、ニューヨーク仏教会の日本人僧侶の読経と故人追悼の辞と、葬儀は予定どおりに進み、会葬者はひとしく、日米関係緊張の最中に客死した新庄大佐の非命を想い、その冥福を祈った。
午後二時すぎ、喪主の形で軍装に威儀を正していた陸軍武官磯田少将は、大使館の海軍武官横山一郎大佐からの電話でハワイ空襲を知った。
「開戦だ」――と、磯田少将は電話室から帰ると、武官補佐官の矢野連少佐、石川秀江少佐にささやいた。
そのまま、磯田少将は軍刀の柄を左手でにぎりしめ、凝然と僧侶の追悼の辞に耳を傾けた。そして、その説辞が終ると、会葬者たちにむかって挨拶した。
「いよいよ日米関係は最後の事態に達したと思います。名誉ある挙措で終始するよう切望致します」
磯田少将は、日米開戦のニュースはひろうせずに日本人としての覚悟を会葬者たちに説いただけであったが、そのころには、会葬者の多くが事態を察知していた。
磯田少将が横山大佐から電話をうけるころから、会場内には無言の動揺が発生しはじめていた。
「あたかも、静まり返った山奥の古沼の水面に石が投ぜられて、にわかに波紋がまき起った如き印象であった」
引き揚げの挨拶のためにワシントンを訪ね、葬儀に参列していた『東京朝日新聞』ニューヨーク特派員・中野五郎は、そのときの様子をそう記述しているが、会場内にささやきが伝わり、足音をしのばせて退出する姿が二人、三人とつづいた。
特派員中野五郎の胸中に「不吉な予感」がこみあげた。磯田少将の挨拶が、故人新庄大佐にたいする追想や会葬謝礼よりも、しきりに危急のさいの覚悟を強調しているのも異様に感じられる。
磯田少将の挨拶が終ると、特派員中野五郎は「我慢が出来なく」なって、会場の外に飛びだし、入口にたむろしていた会葬者からハワイ空襲のニュースを聞いた。日本軍はまたマレー半島に上陸し、フィリピンを攻撃した、というが、特派員中野五郎は、真珠湾空襲に強烈な印象をうけた。
「パールハーバー……まさか三千カイリの波濤《はとう》をこえてハワイを空襲したのか」
およそ当時の兵理の常識のワクを越えた大渡洋作戦である。日本海軍にはそれほどの実力があったのか。
半信半疑の想いと、全身を貫く感動に特派員中野五郎は瞬時、茫然と葬儀場の入口に立ちつくした。会場にはすでに人気がなく、うす暗い祭壇に新庄大佐の棺が香煙につつまれていた。
磯田少将は、宿舎「ブ口ードモア・ホテル」に急行して私服に着替えたのち、日本大使館にむかった。
陸軍武官補佐官矢野、石川両少佐も、宿舎「バレービスタ・ホテル」に帰り、磯田少将と同様に私服に着替えて大使館に車を走らせた。部屋には、ルーズベルト大統領夫人にプレゼントする予定で取り寄せた西陣の帯や日本酒数十本があったが、二人の少佐は身の回り品だけを小型カバンにつめ、日本酒に名残り惜しげな視線を走らせると、ホテルを飛びだした。
大使館正門前には米国市民が群がり、しきりに罵声を投げかけていた。
磯田少将も二人の少佐も裏門から入館せざるを得なかったが、二人の少佐より一足先に到着した磯田少将は、野村大使が居間にいると聞くと、階段をかけ上ってドアをノックした。
野村大使は、来栖大使とともに国務省から大使館に帰ってきて、はじめて真珠湾空襲の報告をうけた。
国務省を退出するとき、玄関付近に新聞記者らしい十数人が群がり、口早に質問を浴びせてきた。その態度は異常に冷たく、かつ質問の内容も異様であった。ハル国務長官との会見、あるいは日本政府の対米回答について訊ねるよりも、日本は米国を騙したのか、日本は勝てると思うのか、など、まるで戦争がはじまったことを前提にしているような質問であったからである。
大使館に帰着して、海軍武官横山大佐の報告によって事態を承知できたが、野村大使は、そうか、と答えると、居間にとじこもっていた。
磯田少将が、どうぞ、という野村大使の声に応じて部屋にはいると、野村大使は立ちあがり、少将に手まねで椅子をすすめた。しかし、磯田少将は起立したまま、野村大使に一礼した。
「閣下。折角心魂を打ちこんでつくされた絶大なる御努力も、何等報いられることなくこと茲に到りました。御心中を御察しすると、まことに残念でたまりませぬ。これもまた天命でありましょうか……」
磯田少将は話しているうちに胸が苦しくなり、発言はとぎれ、双眼に涙があふれてきた。
野村大使がどれほど純粋かつ純真に日米交渉の妥結を望み、そして日米戦争回避を念願していたかは、磯田少将も知悉している。
着任いらい十カ月間、野村大使はまるで日米両国政府に懇願するように平和を訴えつづけた。
策略も謀略もなく、ひたすら善意を拠り所とし、また相手の善意の発露を期待しながら、希望を捨てまいと努力していた。
職業外交官からみればその姿はあまりにナイーブにすぎ、苛酷な国際政治の実態を知る者からはその仕事ぶりは素人にすぎると判定されるかもしれない。ミスキャストだという評言も、容易であろう。
だが、純真な善意だけで戦争は阻止し得ないにせよ、無雑《むざつ》な善意という細い一本の糸が戦争をひきとめるために存在しつづけた事実は、貴重である。
その糸はいま無造作にひきちぎられた……磯田少将は、ハラハラと落涙しながら嗚咽をかみしめ、唇をひきしめて天井を仰いだ。
野村大使は磯田少将の言葉にうなずいていたが、同じく無言で上をむき、二人はそのまま黙然と立っていた。
来栖大使も、自室で黙想していた。
来栖大使は、ニューヨークの「三井物産」支店長宮崎清と同様に、この日の朝は少なからず、事態の好転を期待する気持ちであった。十二月三日、バーナード・バルークはルーズベルト大統領と会談した、といい、次のように電話してきた。
「タラ、という魚は、餌をみると気づかぬふりをしながら、突然に食いついてくる。大統領にもそういう癖がある。十日に再会する約束をしたよ」
たしかに手応えがあった、とバルークは告げた。
バルークは、日米戦争が結局は共産主義国を援ける結果にしかならぬと判断し、大統領の天皇あて親電工作、米国の譲歩と対日十億ドル借款をルーズベルト大統領に進言したのである。大統領が天皇あてに親電をおくったのは、そのバルークの進言が実現しはじめたものと来栖大使は理解し、六日夜は、とくにバルークとの連絡を命じた寺崎英成一等書記官とともに祝盃をあげた。
それだけに、開戦のニュースは事態転換の寸前に一撃をうけた感が強く、来栖大使は「長蛇を逸した」想いでがっかりしていた。
――だが、
どのような感慨あるいは感傷が胸奥にわき起ろうとも、それに身をひたしている余裕はあまり無かった。
友好国に居住していたのが、一転して敵国に身を置くことになった以上は、それに即応した処置が予想されるからである。
もっとも、これまでにも戦争状態が予想され、引き揚げ準備もすませていたこともあってか、開戦当日の在米邦人たちの挙動には混乱もなく、動揺もなかった。
大使館では、機密書類の焼却と暗号機械の処分が急がれ、海軍武官補佐官実松少佐の指揮で実行された。
大使館前には、杉木立に火煙がたちのぼるにつれて群がる市民の数がふえ、罵声と雑言の叫びも高まった。ラジオは、日本にだまし討ちされた、というハル国務長官の声明を放送したので、一般市民はまっこうから興奮していたのである。
新聞記者二、三十人が強硬にインタビューを求め、側門が開いていたので館内にはいってきた。海軍武官横山大佐が嘱託佐々木勲一に応対を命じた。
佐々木勲一は、突然のことで大使館幹部は忙しい、取材に応じられぬので引きとってほしい、と丁重に述べた。記者の一人が、質問した。
「大使館は、事前に開戦は知らなかったという意味か」
「そのとおりです」
「それじゃ、庭で吹きだしているあの黄色やグリーンの煙はなんだ?」
「おお……あれは、館員のラブレターを焼いているんです。黄色は絶交の悲恋の手紙の色です」
日米断交を表意しての佐々木勲一の即妙の返事に、記者たちは破顔し、「ユー・アー・ツー・スマート」(うまいな)といって退散した。
大使館前の群集も、中にはビールびんにガソリンをつめた“火炎びん”を用意するなど、ひどく不穏な様子をみせたこともあったが、警官が大声で、東京のグルー大使の安全を考えろ、バカなまねはやめろ、と叫んで、解散させた。
日が暮れると、大使館の周辺は配置された警官のほかは近づく者はなく、寒風が吹きすぎる音だけがひびいていた。
『東京朝日新聞』特派員中野五郎は、新庄大佐の葬儀のあとで大使館を訪ねたあと、「最後の見納め」にホワイト・ハウスを眺めて、郊外のチェビー・チェイスのレストランで夕食した。
同僚の特派員たちのほかに駐米ドイツ大使館空軍武官補佐官夫妻も同席したが、ほかに客はなかった。
「電撃戦(ブリッツ・クリーグ)の御成功をお祝いします」と、ドイツ武官補佐官はハイボールのグラスをあげ、特派員中野五郎は、大使館でハンバーガー二人前をたいらげたあとであったが、「思い残す事のないよう」に、深夜まで飲めるだけ飲み、食べるだけ食いつづけた。
ニューヨークでは、この夜からFBIによる在留邦人の逮捕が実施されたが、「正金銀行」ニューヨーク支店支配人代理・伊藤宏一は、ラジオで開戦を知ると、宿舎「大和ホテル」で荷物をまとめ、部屋にフルコースの夕食をとどけさせて味わいながら、FBI係官の来訪をむかえた。
「台湾銀行」ニューヨーク出張所支配人代理・井上氏男は、アパートの自室でラジオを聞き、快笑した。
「ザマー見ろ、俺たちのいうことを聞かんから、こんなことになったのだ」
それまでの数々の米国側の圧迫や対日不信の言動を想い浮かべ、井上は胸中でそう叫んだ。そして、知人の老婦人と夕食をすませてベッドで快眠しているところを、FBIに起された。
「三菱商事」ニューヨーク支店長代理・幸島幸雄も「大和ホテル」に投宿していて、他の邦人たちとともにFBIに食堂に集合させられた。寒いので一杯飲んでいいか、と聞くと、FBIは、オーケー、と答えた。
「貴下たちもどうか」と、幸島はFBI係官にウイスキー・グラスをにぎらせ、大声で叫んだ。
――「大日本帝国バンザイッ」
いっせいに唱和する邦人たちに、FBI係官は眼をむきながらも、一同と一緒にグラスをさしあげて乾杯した。
午後十一時すぎであり、ワシントンと同じく、ニューヨーク街路は、早々と人気が絶え、寒風の中に静まり返っていた。
40
――その夜、
ワシントンの日本大使館は、静かではあったが、安眠できた者はほとんどいなかった。
なにしろ、大使館員や家族のほかに在留邦人たちも避難してきたので、会議室の机や、廊下の一部にも就寝せざるを得なかったからである。
おまけに、ひと晩じゅう電話が鳴った。異常事態を迎えての興奮は、眼をつぶっていても自然にさまざまの想念を発生させる。場所によってはかすかにひびくベルの音も、互いに静穏を意識して心がけているだけに、かえって大きく聞こえてくる。
電話には、海軍武官府嘱託佐々木勲一が応対した。
佐々木勲一も声を低めるよう心がけたが、電話はほとんどが真珠湾の“だまし討ち”を非難し、日本および日本人をののしるものである。
「イエロー・バスタード」(黄色いならず者)だの、「ラットル・スネイク」(ガラガラ蛇)だの、「ダーティ・スワイン」(不潔なブタ野郎)だのという罵言に満ちている。
お互いの顔が見えぬ電話のやりとりであるだけに、相手も気ままに雑言を浴びせるのだろうが、そうなると、佐々木勲一も胸がむかつく。
「ガッデム」(畜生め)と応酬し、「サナバビッチ」(売春婦の息子め)とやり返す。当然に血圧は上昇し、声は高まる。その声が静まり返った大使館を走りすぎる……。
陸軍武官磯田少将、海軍武官横山大佐、そして井口参事官や秘書煙石学は、なんとなく野村大使の寝室の前を交代で足音をしのばせて歩きながら、夜をすごした。
野村大使が使命の失敗と日米関係の破局を自責して自決するかもしれない――という噂が、流れたからである。
だが、野村大使にそのような意図はなく、のちに磯田少将が当時の事情を説明すると、野村大使は、むしろ、意外そうに、
「自決……どうして。外交官ですよ。ボクは」と、首をかしげたものである。
野村、来栖両大使と大使館員は、そのまま大使館籠城生活を送ったのち、十二月二十九日、バージニア州アレガニー山中のホット・スプリングスのホテル「ホームステッド」に収容された。
開戦とともに、「有害危険な敵国人」として逮捕された在留邦人は三千九百三十三人(ほかにドイツ人二千二十六人、イタリア人七百七十人)で、司法省移民局管轄の収容所と陸軍省管轄の収容所に抑留された。
収容所の生活は、むろん、戦時捕虜収容所よりはましだが、安楽な米国の文明生活に慣れた邦人たちにとっては、例外なく苦痛なものであった。
「デカンショデカンショで半年暮らす
オラはミゾラで石拾い
賽の河原は子供の地獄
石のミゾラは親地獄」
(「フォート・ミズーラ収容所」)
「私の居るとこ テキサス・ケネディ
何の因果か 獄条網の
張りめぐらされた キャンプ生活
檻の中だけ テクテク歩く
歩け歩け 歩かぬ時は
昼のオイモがこなれぬぞ」
(「フォート・ケネディ収容所」)
こういった自然発生的な収容所ソングに、その生活ぶりがうかがわれる。
『東京朝日新聞』特派員中野五郎も、ワシントンのレストランで“最後の晩餐”をすませたのち、ニュージャージー州グロスター市の収容所に抑留された。
「K・K・カワカミ」の署名で米国ジャーナリズムに健筆をふるっていた河上清老人や、米国議会図書館東洋部主任坂西志保なども同じ収容所に集められた。肥満体で大食漢の中野五郎は、不備な環境と少量の食事に悩み、黒人コックに小銭を与えてテキサス米に玉子の目玉焼二個をのせた“親子丼”をつくらせ、飢えをしのいだ。
その中野特派員も、大使館一行の二日あと、昭和十六年十二月三十一日にホット・スプリングスに移転してきた。
ホテル「ホームステッド」は、バージニヤ州最古の温泉ホテルで、設備も規模も一流であった。ホット・スプリングスの住民はほとんどがホテル関係者である。ホテルには付属映画館もあり、私設飛行場もあった。
待遇はまったくの一般客なみで、ホテル外に出ることは禁止されたが、内庭を散歩することも自由であり、売店で買い物もできた。収容所から移ってきた中野特派員は、三食をたらふく食い、合い間に温泉プールで泳ぎ、はるかに雪におおわれて美しい山容を望み、夜は映画を観て満足した。
ホテル「ホームステッド」には、昭和十七年四月三日まで収容され、四月四日からウエスト・バージニヤ州ホワイトサルファー・スプリングスのホテル「グリーンブライヤー」に移った。
このホテルは、ハル国務長官も好んで滞在していた。
収容人員千五百人、敷地八十万坪、映画劇場、温泉病院、温泉プール、十八ホールのゴルフ場、テニスコート(八面)などの付属設備は豪華なものであった。
ホテル「ホームステッド」に抑留されている間に、各地の在留邦人が次々に移転してきて、ホテル「グリーンブライヤー」に到着した邦人は三百三十四人になっていた。
ホテルには、トムゼン駐米ドイツ代理大使ら六百人のドイツ人抑留者が先着していて、野村大使一行を熱烈に歓迎した。
ホテルに到着したとたんに、しかし、日本側からは不満と抗議の声がわき起った。
部屋割りは、ホテルで用意していたが、基準は単純に女性と家族優先であったため、独身のタイピスト嬢がセミ・スウィートの豪勢な部屋をわりふられ、運転手一家が三間つづきのスウィート部屋にはいることになった反面、公使二人と武官一人が同居となるなど、およそ当時の日本社会では夢想外の“民主的割り当て”であったからである。
しかし、たちまちにして部屋割りは変更され、“分に応じた”生活環境が各自に提供された。
ホテル「グリーンブライヤー」の生活も、豊富かつ快適で、子供たちはテニス、大人たちは野球試合などを楽しんだ。
五月九日、ドイツ抑留組が交換船で帰国することになり、午後九時に出発するドイツ側一行を見送った。
野村、来栖両大使をはじめ、ロビーに整列した日本側はレコードにあわせて「愛国行進曲」を合唱した。トムゼン代理大使の出発のときは、野村大使の発声で「ドイツ万歳」を三唱し、トムゼン代理大使も「ハイル・ヤーパン」(日本バンザイ)と絶叫した。
日本側の引き揚げは、スウェーデン船の「グリプスホルム」(一万七千九百トン)でおこなわれることになり、野村大使たちは六月十日夜、ホテル「グリーンブライヤー」を撤去して、ホワイトサルファー・スプリングス駅から夜汽車でニューヨークにむかった。
出発前、ホテルで乗船にそなえての予防注射がおこなわれた。
ホテルの薬局に、白人の美人看護婦が出張してきて実施したが、チフスの注射でもあろうか、なかなかに痛い。
思わず、痛ッ、と叫ぶと、美人看護婦は、容姿に似あわぬズシリとドスのきいた声でいった。
「リメンバー、パール・ハーバー」(真珠湾を忘れるな)
翌日、六月十一日午後零時十五分、列車はニューヨーク市ホボケン臨港駅に到着した。
この日は曇天でひどく蒸し暑かったが、警官の列の間を、野村、来栖両大使を先頭にして長い列をつくり、一人ずつパスポートと出国許可証の検閲をうけて、「グリプスホルム」号にのりこんだ。
そのご、各地の引き揚げを許された邦人たちも次々に乗船したが、ホノルル総領事喜多長雄をはじめ、総領事館員とその家族をふくむ“ハワイ組”の到着がおくれた。
実際には、“ハワイ組”も野村大使一行と同じく、六月十一日にニューヨークに着いていたが、マンハッタンの七番街にあるホテル「ペンシルバニヤ」に足どめされていたのである。
「グリプスホルム」号では、“ハワイ組”の安否が懸念される一方、出港がおくれては途中で寄港して収容する“南米組”の予定に影響をおよぼしたり、日本からの引き揚げ船との出会いに支障を来すのではないか、とも心配された。
米国側からは、野村大使の決断で出港してもよい、との意向が表明されたが、野村大使は、“ハワイ組”が乗船しない以上は出港は拒否する、日本からの交換船の出港も停止させてほしい、と利益代表のスペイン大使館に申しいれた。
六月十八日午後四時、ようやく“ハワイ組”にも出発指示が与えられ、一行はホテル「ペンシルバニヤ」を出た。フェリー・ボートでハドソン河を下り午後八時、「グリプスホルム」号に乗船を終えた。
野村大使は、待ちかねた“ハワイ組”を迎えて喜び、喜多総領事たち一行に挨拶した。
「皆さん、本当にご苦労さまでした。もう日本に帰ったも同然ですから、ゆっくりご休養下さい」
「グリプスホルム」号は、六月十二日午前零時、ニューヨークをはなれた。
ホノルル総領事館会計主任関与吉は、翌朝、船内をひとまわりしてみて、感服した。
船室が次のような割りふりになっているのに、気づいたからである。
Aデッキ=将官級、勅任官以上の各官と家族、商社団体の重役
Bデッキ=佐官級、奏任官三、四、五等級と家族、商社団体の幹部
Cデッキ=尉官級、奏任官六、七、八級と家族、商社団体の次席級
Dデッキ=軍嘱託、判任官と家族、商社員
Eデッキ=一般商人、学生、各種雇員
軍人優先と宮中席次を基調にした日本社会の秩序そのままであり、「なるほど、船にのったら日本同然という野村さんの言葉は、このことか」と、関与吉はうなずいた。
「グリプスホルム」号は、多人数を収容するために船艙《せんそう》も客室に改装していたので、最下甲板のEデッキの居住性はあまり良くなかったが、船内生活は別に階級に即したデッキに閉居する必要もない。
『東京朝日新聞』特派員中野五郎は、ニュージャージー州の収容所で別れた米国議会図書館東洋部主任坂西志保に再会した。さっそく上甲板のバーで坂西女史が好きなウイスキーで乾杯した。
経済学者都留重人、女優竹久千恵子、木琴奏者平岡養一などの顔も見え、平岡養一は夕食後に名演奏をひろうして、一同を感嘆させた。
交換船といえども、いつ攻撃をうけるかもしれぬ、というので、陸海軍武官補佐官の指導で退避訓練や見張り勤務なども施行されたが、航海は平和にすぎ、ブラジルのリオ・デ・ジャネイロで石射猪太郎駐ブラジル大使ら“中南米組”を収容したのち、「グリプスホルム」号は、七月二十日、交換地ロレンソ・マルケスに到着した。
ロレンソ・マルケスは、東アフリカのポルトガル植民地モザンビクの首都で、港はスエズ以南の最大最良港といわれていた。
一万トン級の船が一時に十五隻も横付けでき長大な桟橋に巨大なクレーンが林立し、沿岸には赤屋根のスマートな住宅がならぶたたずまいは、アフリカの“蛮地”とは思えず、野村大使をはじめ邦人一同は、船上で嘆声をあげた。
二日後、七月二十二日、日本からの交換船である日本郵船「浅間丸」、イタリア船「コンテ・ベルデ」が、駐日米国大使ジョセフ・グルーをはじめアジア各地の引き揚げ連合国民計千五百四十六人をのせて、ロレンソ・マルケスに入港した。
七月二十三日午前十時、乗船の交換がおこなわれた。
桟橋に板塀が仮設され、下船者と乗船者が混合しないように配慮された。「浅間丸」には、野村大使をはじめ北米、カナダ方面の七百九十人がのり、「コンテ・ベルデ」号には、石射駐ブラジル大使など中南米方面の邦人六百五十六人がのった。
野村、来栖両大使が「浅間丸」にむかうと、ちょうど船を下りてきたグルー駐日大使が望見できた。グルー大使も気づいていた。三人の大使は、無言のまま、互いに帽子をとって一礼しあった。
荷物の積み替えもあるので、配船を終えたあと「浅間丸」「コンテ・ベルデ」号は、七月二十五日まで碇泊し、七月二十六日午後零時三十分、両船はロレンソ・マルケスを出港した。
途中、シンガポールに寄港し、八月二十日、横浜に入港した。
横浜港桟橋は出迎え人でうずまり、ワシントン大使館料理人村井時次郎夫妻は、野村大使にひと目会いたいと思ってきたものの、途方にくれた。
「船にのせてもらおうよ、ねェ」
「のせてもらうったって、この人ごみだ、おまけに、ほれ、あそこにナワをはってお巡りがにらんでらあな」
村井時次郎は、妻京子と問答をかわしてあきらめかけたが、妻京子は、そうだ、いいものがあった、と叫ぶとハンドバッグをかきまわして名刺をつまみだした。「駐米特命全権大使 野村吉三郎」――の名刺である。ワシントンでもらったのを保存していたのである。警備の警官にその名刺をみせて、身寄りの者です、というと、あっさり通してくれた。
船上もごった返していたが、なんとか野村大使を見つけて近づいた。が、野村大使の前に立つと、村井時次郎も妻京子もどっと感動が全身をふるわせて、言葉が出なかった。
「おう、村井さんか。元気だったようだね」
「大使もご壮健で……」
村井時次郎はやっとそこまでいうと、頭を垂れて絶句した。野村大使は相変らずの肥体であったが、ニューヨークで別れたときにくらべて、白髪がめだった。
あれから一年間、どんな苦労をされたのか――との想いがこみあげるのだが、ちょっとでも口を開くと嗚咽が噴出しそうで、しゃべれない。妻京子は、盛大にしゃくりあげている。
気がつくと、野村大使はいつの間にか別の出迎え人に連れ去られている。村井時次郎は、つっけんどんに妻京子をうながした。
「行こうぜ。なんでぇ、手前だけ泣きやがって……」
帰国した野村、来栖両大使は、その翌日、八月二十一日、天皇に拝謁して日米交渉の経過を奏上した。来栖大使は、天皇の下問があれば奉答すべく、野村大使の横にひかえていたが、天皇は下問することはなく、「ご苦労であった」と、慰労の言葉を述べた。
次いで、八月三十一日、首相官邸で東条英機首相主催の夕食会がひらかれたが、食後、東条首相は参謀総長杉山元大将とともに来栖大使を応接室の一隅に招き、声をひそめて、いった。
「このたびはまことにご苦労でしたが、ついては、こんごはこの戦争を一刻も早く終結するようご尽力を願いたい」
来栖大使は、東条首相の主張の「余りの単純さ」にびっくりした。
東条首相としては、おりから、ミッドウェー海戦での海軍の敗退のあと、ソロモン群島ガダルカナル島に予期以上に早く米軍が反攻してきている戦況にかんがみ、いずれは戦争終結の機会を探索せねばならぬと思い、来栖大使にささやいたのである。
だが、来栖大使はそのような戦況は知らぬ。いや、知ったとしても、感慨は同じであったにちがいない。
来栖大使は、東条首相が戦争という国家の大事を、まるで電灯のスイッチをひねるように簡単な仕事と考えているのか、と感じた。そんなつもりで戦争にふみきったのか、と思えば、野村大使がワシントンでつづけ、そして来栖大使自身も一部をわかちあった努力と苦悩はなんのためであったかという気がする。
「総理、和平工作は戦争を起すようには簡単にいかぬものですよ」
来栖大使は、ぶすりとそういうと、失礼、といって、立ちあがった。
野村吉三郎は、外務省付きの形ですごしていたが、昭和十七年十二月十五日に辞職し、昭和十九年五月十八日、枢密顧問官に就任した。
戦後は公職追放令の適用をうけて閑居していたが、追放令が解除されると、昭和二十八年三月二十四日、日本ビクター社長となり、同年十月十八日、渡米した。
十二年ぶりに米国を訪ねた野村大使は、プラット海軍大将、スターク海軍大将、ニミッツ元帥をはじめ、フーバー元大統領、ルーズベルト元大統領夫人など、かつての知人を歴訪した。
日米交渉の“工作者”であるウォルシュ司教とドラウト神父にも会おうと思ったが、ドラウト神父はすでに死去していた。神父は、野村大使がワシントンから抑留生活にむかうとき、「逢いたいができない。しかし私には閣下の心境がお察しできる。閣下も私の気持ちを理解していただけると信じます」という手紙をとどけていた。
野村大使は、ウォルシュ司教に、神父にたいする心からの哀悼の意を表明した。
野村大使は、また、ハル国務長官を訪ねた。ハル長官もすでに隠退生活にはいっていた。
往時を回顧する対話をかさねるうちに、野村大使はハル長官が一九四五年(昭和二十年)のノーベル平和賞を受賞していたことを思いだした。
受賞の理由は、日米交渉における努力を中心にした平和外交の推進ということになっている。
お祝いをいい、当然の受賞と思う、と野村大使がいうと、ハル長官はうなずいたが、急いで応えた。
「世界の情勢は変りましたな。日本の再建が成功することを祈っております」
ノーベル平和賞のことにはふれてもらいたくない――といった風情であった。
〈了〉
初版あとがき
もし、日米交渉がなかったら、太平洋戦争は開幕しなかったであろうか。
この設問にたいする解答は、自明である。太平洋戦争の起因は、多様である。その時間的にも空間的にも複雑な軌跡をたどるとき、太平洋戦争の発生が日米交渉の有無だけに左右されるものではないことは、容易に理解できるはずだからである。
日米交渉がなくても、日本の東南アジア進出は連合国の権益を阻害して開戦をさそったかもしれないし、本書にも指摘したように、即成の米艦「ラニカイ」号との衝突で、米国に対日宣戦させたかもしれない。
だが、こと公式の現象としては、日本にとって開戦のスプリング・ボード(跳躍台)になったのは、日米交渉の行き詰りである。
しかも、日米交渉はその発端から終幕まで、終始して異常な雰囲気につつまれている。
交渉は、二人のカトリック僧の来日で発起されたが、第二次大戦におけるカトリック教会の活躍は、ほかにもある。
一九四四年四月二十八日、スターリン・ソ連首相は、米国マサチューセッツ州スプリングフィールド市在住のカトリック神父S・オルレマンスキーの来訪をうけた。
オルレマンスキー神父は、ポーランド系米国人であったが、ソ連とバチカン、ソ連とポーランドの和解をめざして、単身で交渉の仲介者を志したのである。スターリン首相は、ローマ法王に協力を求める文書にサインして神父に与え、仲介を依頼した。
ローマ法王庁は、しかし、神父の個人的行動を批判し、修道院に閉居して反省することを命じた。宗教を否定する共産主義国との握手は危険だとみなしたのかもしれない。
日米交渉には、ローマ法王庁の干渉はなかった。そして、開始された日米交渉がどのようなものであったかは、交渉の経過がもの語っている。
その経過をたどるとき、まっさきに気づくのは、日米交渉は、一般的な意味での交渉とはほど遠い性格であったことであろう。
日米両国とも、第二次大戦の流れの中で、もはや同一平面上では並存できない立場にいることは、よく諒解していたはずである。
交渉とはいえ、それは相互の理解と妥協を求めるものではなく、屈伏または政策の訂正を要求しあうものであった。
交渉の背景と過程には、現実が理想をおさえ、逆に理想が現実をゆがめ、原則が善意を拒否し、ときには人種的偏見が理解と判断を拒絶するなど、国際政治につきまとう各種の困難な要素がむきだしにあらわれている。
また、交渉の経緯は日本側の極度の内部不統一を露呈している。政府に一貫した方針も政策もなく、首相、外相、大使はバラバラに動いている。これが文明国の政治、行政かとの嘆声をさそわれるほどであり、結局は米国に思いのままに操縦されたのも無理なかったという気がする。決して暗号解読というハンディだけではなかった。
――世界は、変った。
とは、戦後、元駐米大使野村吉三郎にハル元国務長官が語った言葉である。
たしかに、国際情勢は変化した。戦争を否定する考え方が国際的常識にもなっているし、こと日本にかんしては、その国際関係はひたすら平和と経済を基調にしている。
だが、それでも、日米交渉に露呈された国際政治にまつわる不確定要素と日本の政治的脆弱性は、いぜんとして残っている。
破局への引き金になった日米交渉が、悔恨とともに、現在への教訓としても回顧されるゆえんであろう。
本書を叙述するために利用した主要文献は、別記のとおりであるが、また、左記の方々には、とくに資料の提供とご教示をいただいた。厚く御礼を申し上げます。
松平康東氏、実松譲氏、佐々木勲一氏、原為徳氏、大木一美氏、煙石学氏、井口貞夫氏、横山一郎氏、磯田三郎氏、村井時次郎夫妻、栗原健氏、坂西志保氏、小野寺正氏、F・コールマン氏、外務省外交史料館、日本郵船株式会社。(順不同)
一九七三年十一月
児島 襄
主要参考文献
外交資料日米交渉記録ノ部   外務省編纂
米国に使して   野村吉三郎
松岡洋右 その人と生涯   松岡洋右伝記刊行会
野村吉三郎   木場浩介編
日米外交秘話 わが外交史   来栖三郎
時代の一面   東郷茂徳
綜合第二次大戦史   田中重之
杉山メモ(上・下)  参謀本部編
木戸幸一日記(上・下)  東京大学出版会
木戸幸一関係文書   東京大学出版会
近衛文麿(上・下)  矢部貞治
現代史資料(34・35・36)  みすず書房
太平洋戦争への道   朝日新聞社
ハワイ作戦   防衛庁防衛研修所戦史室
マレー進攻作戦   防衛庁防衛研修所戦史室
大本営陸軍部2  防衛庁防衛研修所戦史室
海軍軍戦備1  防衛庁防衛研修所戦史室
敵国アメリカ通信   中野五郎
祖国に還へる   中野五郎
米国抑留記   伊藤憲三編
我等がキャンプの想い出の記   紐育七日会
真珠湾・リスボン・東京   森島守人
真珠湾までの365日   実松譲
東条英機とその時代   楳本捨三
太平洋戦争(上・下)  児島襄
16年12月8日   児島襄
秘められたる昭和史   林正義編
Foreign Relations of the United States──1941 vol. 1,2,3,4,5,6,7,U.S.Department of State
Manuscript,Memoirs and Diaries Bishop James E. Walsh
Ten Years in Japan Joseph C.Grew
Pearl Harbor Attack 39 vols.U.S.Congress Joint Committee on the Investigation of the Pearl Harbor Attack
With Japan's Leaders Frederick Moore
Roosevelt and Hopkins Robert E.Sherwood
The Road to Pearl Harbor Herbert Feis
The Memoirs of Cordell Hull Cordell Hull
On Active Service in Peace and War Henry L.Stimson & McGeorge Bundy
Bridge to the Sun Gwen Terasaki
The Broken Seal Ladislas Farago
The Final Secret of Pearl Harbor Robert A.Theobald
The Codebreakers:The Story of Secret Writing David Kahn
単行本
昭和四十八年十一月集英社刊
文春ウェブ文庫版
開 戦 前 夜
二〇〇〇年七月二十日 第一版
二〇〇一年七月二十日 第三版
著 者 児島 襄
発行人 堀江礼一
発行所 株式会社文藝春秋
東京都千代田区紀尾井町三─二三
郵便番号 一〇二─八〇〇八
電話 03─3265─1211
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