TITLE : 指 揮 官
〈底 本〉文春文庫 昭和四十九年十二月二十五日刊
(C) Hiroko Kojima 2001
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ま え が き
児 島 襄
軍司令官以上といえば、日本陸軍では階級は中将以上、まず軍人としては最高の栄位に属する地位である。その軍司令官以上の高級将校の教科書ともいうべき『統帥綱領』(昭和三年三月二十日、参謀総長鈴本荘六大将名で制定)に、次のような一節がある。
「軍隊指揮ノ消長ハ指揮官ノ威徳ニカカル。苟《イヤシク》モ将ニ将タル者ハ高邁ノ品性、公明ノ資質及ビ無限ノ包容力ヲ具《ソナ》エ、堅確ノ意志、卓越ノ識見及ビ非凡ノ洞察力ニヨリ衆望帰向ノ中枢、全軍仰慕ノ中心タラザルベカラズ」
かつて、米陸軍士官学校を訪ねたとき、二人の教官(階級は中佐だった)に、この“将軍の条件”を説明したことがある。
……高邁な品性、公明な資質、無限の包容力、堅確の意志、卓越した識見、非凡な洞察力……と、数えたてるにつれて、相手は眼をむき、口を開け、やがてため息とともにつぶやいた。
「まさか……それは“将軍の条件”ではなく、“聖者の条件”だ。日本の将軍たちが、それほどの修養と能力を要求されているとは知らなかった」
「それほどに立派な将軍がそろっていて、なぜ日本(軍)は敗けたのだろう? 将軍たちは自己修養に熱中しすぎて、作戦に不注意だったのだろうか」
彼らの論評が皮肉に聞こえたこともあって、それ以上の将軍論は中断したが、むろん、『統帥綱領』にいう将軍の姿は、いわば指揮官の理想像であって、現実の資格条件ではない。
ただ、「品性」「資質」「包容力」「意志」「識見」「洞察力」という六つの要素は、指揮官にとっては必ず要求されるものであり、軍隊と他の社会集団とを問わず、指導的立場にたつ者にも求められる要件といえる。
その意味では、一般社会における指導者の心得を探ろうとするには、過去の指揮官の態様は参考になり得るはずである。とくに、あまりに社会事情がちがう古い時代は別として、現代の将軍たちの場合は、思想、組織など、現代に共通する背景もあるので、理解しやすい、と思う。
本書では、だから、第二次大戦に活躍した東西の著名な指揮官、指導者をとりあげ、主に、それぞれが直面した重要事態の姿に注目した。
求められた決定の機会に、これら指揮官たちがどのように対処し、どんな決断を下したか――そこには、それぞれのお国ぶり、個性の差があらわれていると同時に、意外に、国籍、人種、思想、文化などの相違をこえて、リーダーとしての共通性もうかがえるはずである。
なお、本書は『週刊ポスト』誌に同題名で連載したものに多少の補遺、訂正を加え、また「山本五十六」「アドルフ・ヒトラー」は雑誌『宝石』、「阿南惟幾」「チャンドラ・ボース」は『中央公論』に所載した記述を、それぞれ光文社、中央公論社のご好意で収録したものである。
昭和四十六年七月
目 次
ま え が き
第 一 部
山本五十六
宮崎繁三郎
山 下 奉 文
本 間 雅 晴
栗 林 忠 道
栗 田 健 男
牟田口廉也
牛 島 満
中 川 州 男
小沢治三郎
安達二十三
大西瀧治郎
東 条 英 機
阿 南 惟 幾
第 二 部
ダグラス・A・マッカーサー
オード・C・ウィンゲート
ウィリアム・F・ハルゼー
レイモンド・A・スプルーアンス
ジョージ・パットン
チェスター・ニミッツ
ホーランド・スミス
エルウィン・ロンメル
林 彪
グリゴリー・ジューコフ
チャンドラ・ボース
ドワイト・D・アイゼンハワー
アドルフ・ヒトラー
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指 揮 官
第 一 部
山本五十六
四月十八日は、連合艦隊司令長官山本五十六《いそろく》大将の命日である。
昭和十八年のこの日、山本大将はブーゲンビル島上空で五十九歳の生涯を終えた。連合艦隊幕僚とともに一式陸上攻撃機二機に分乗して、ニューブリテン島ラバウル基地を出発した大将は、十六機の米P38戦闘機に迎撃された。機銃弾二発(一弾は左アゴから右コメカミに貫通、一弾は、左肩胛骨《けんこうこつ》中央から胸に盲管)をうけて、乗機が墜落する前に機上で戦死した、と伝えられる。
死後、〈元帥正三位大勲位功一級〉に叙せられ、葬儀は国葬。武人として最高の栄誉を与えられた。そして、山本大将はまさにその栄誉にふさわしい、いわば日本海軍の“象徴”として回想される。いや海軍だけでなく、陸軍も含めて近代日本が生んだ最上の指揮官とみなされている。
――だが、はたしてそうだろうか。
阿川弘之氏はその著『山本五十六』で次のような述懐をしている。
「……山本の閲歴を中心に、前の戦争の歴史をあれこれ見ていると、『もしもあの時』という思いに、たくさん突きあたる」
阿川氏のいう「もしも」は、むしろ山本大将の力量を高く評価するがゆえに、大将が存分に手腕を発揮できなかった遺憾《いかん》さを表現するものだが、別な感慨も抱き得るのではあるまいか。
たとえば、「もしもクレオパトラの鼻がもう一センチ低かったら……」という「もしも」は、ひたすらクレオパトラが美人だったことの強調と解される。その意味では、「もしも」の対象になるのは鼻に限らず、現代風にバストまたはヒップであってもかまわないわけである。だが、この「もしも」が、クレオパトラの歴史的役割を認め、むしろ不美人であったほうが好ましい歴史的結果を生んだと主張するものであるならば、少なくともその論者の立場からは、美人クレオパトラが女王であったことは、ミスキャストとみなし得る。
さらにたとえば、真珠湾空襲の場合、オアフ島北端にある米陸軍オパマ監視所は空襲開始約五十分前に、レーダーで日本空襲部隊をキャッチした。二人のレーダー兵は基地に連絡したが、当直将校はなんの措置もとらなかった。当日、本土から到着する予定の味方機と想像したからである。米国側からすれば、この事件はかっこうの「もしも」の対象になる。「もしも」当直将校が必要な警戒措置をとり、オアフ島陸海軍が迎撃態勢をとったならば、真珠湾は奇襲をうけることなく、被害も少なかったに違いない。かりに米国が日本に戦争の口火をきらせようとたくらみ、かつ真珠湾来襲を察知していたにしても、それは真珠湾を攻撃させれば十分である。なにも完ぺきな奇襲である必要はない。そう考えれば、ますます当直将校の態度にかんする「もしも」は色濃く取り沙汰されるが、この「もしも」も裏返せば当直将校のミスキャストを物語るものといえるだろう。
いいかえれば、特定の人物に「もしも」の想いがわくのは、一方でその人物に寄せる期待が大きいためであるとともに、他方では実際にはその人物がミスキャストであるか、あるいはその地位に必要ないくつかの資質、能力を欠いているためである場合が多い。そして、どうも山本大将についても、それがいえるような気がするのである。
山本大将がいまなお欽慕《きんぼ》される理由を考えてみると、なんといっても大将は日本海軍の歴代連合艦隊司令長官の中で最も輝ける長官である。
大将の長官在職期間は、昭和十四年八月三十日から昭和十八年四月十八日まで、約三年八カ月である。連合艦隊司令長官の平均在職期間は約二年、長くて二年三カ月であることを考えれば、大将が長官としていかに信頼されていたかがわかる。しかも、大将の在職期は太平洋戦争前夜から日本海軍の勢威が全世界に喧伝《けんでん》された時期にあたる。日本海軍が太平洋戦争で記録した目ざましい勝利は、すべて山本連合艦隊司令長官時代のものである。さらにいえば、日本海軍の歴史において、東郷元帥を除いて、外国艦隊に大勝利をおさめた連合艦隊司令長官は山本大将だけである。しかも相手は世界最強を誇る米英海軍であってみれば、山本大将の武威は世界的となる。
しかも、大将は戦死した。これまた東郷元帥から小沢治三郎中将まで、歴代長官の中で唯一の例である。山本大将の後任の古賀峯一大将も戦争中に死んだが、その死は乗機(飛行艇)が雷雲にまきこまれて墜落したためであり、戦死でなく〈殉職〉と認定された。
戦史に確然たる武功と軍人らしい最期――それだけでも山本大将にたいする追憶は鮮烈となるが、さらに大将はすぐれた識見を持ちながら、少なからぬ欠点もむきだしにした人間味豊かな武将である。おかげで大将への追慕は、かつて東郷元帥になされたような神格化的なものではなく、たぶんに親近感をこめて一段と強まることになる。山本大将の人格について語られる長所を列記してみると――(以下は主に反町栄一『人間山本五十六』による)
〈国際的視野の広さ〉 いち早く海軍に航空時代がくることを予見した。日独伊三国同盟が日米戦争を招くことを推察し、次官時代に米内《よない》光政海相、井上成美《しげよし》軍務局長とのトリオで頑強に反対した。おかげで右翼にねらわれ、連合艦隊司令長官に転出した。米国力については、二度の在米武官勤務および研究を通じて十分に承知しており、対米戦不利を強調した。また、真珠湾奇襲にあたっても、国際法遵守《じゆんしゆ》に留意し、最後通告が事前に手渡されたかどうかを参謀に念を押している。
〈いさぎよさ〉 山本大将はいったん連合艦隊司令長官になると、それまで口にしていた対米戦反対論はぴたりとやめ、「国を負ひていむかふきはみ千万《ちよろず》の軍《いくさ》なりとも言《こと》あげはせじ」の和歌一首に万感の思いをたくして、ひたすら必勝の作戦計画に努力を集中した。
〈忠誠心〉 山本大将の皇室尊崇の念は強く、後にトラック、ラバウルに出動したときも、つねに関東地方の気象を報告させ、敵機の東京空襲の可能性に注意した。ミッドウェー島攻略作戦の決定にさいしても、大将は東京すなわち宮城防護を要件のひとつに数えていた。
〈勇気〉 かつて米内海相は次のような山本評をしたことがある。
「山本は怖しいということは知らぬ人だよ。深い谷の上の細路をあるく時には、大抵の人ならばあまり良い気持ちはしないものだが、山本という人は、ノソッとその崖縁に行って平気で谷底を覗《のぞ》くような人だよ」
真珠湾攻撃を計画するとき、山本大将は自ら攻撃部隊を率いたいとの意向を、嶋田海相あて書簡でひれきしているが、つねに指揮官陣頭の海軍精神の実行につとめた。
〈武人〉 山本大将が航空本部長から海軍次官になると、新橋の芸妓たちが祝いを述べた。すると大将は「何がめでたいのか。せっかく今日まで日本の航空を育てようと、一生懸命やってきたものを急に代えられて、軍人が政務の方に移されて何がめでたいものか」と怒った。(『山本五十六』)。
〈情愛深さ〉 この点に関するエピソードは数多く伝えられている。郷土愛が強く、大将が用いた雅号は、〈兜城〉のちに〈長陵〉だが、いずれも郷土長岡の城および地名そのものである。ガダルカナル島攻防戦でも、郷土の第十六連隊の活躍に心をくばり、郷土人士にたいする厚意は最後まで変わらなかった。
部下にたいする思いやりは、とくに数多く語りつがれている。「赤城」艦長時代、訓練中に帰艦がおくれるパイロットがあると、いつまでも艦橋に立ちつくした。殉職と知ると、涙を流して哀悼《あいとう》し、無事帰艦したときでも涙で迎えた。連合艦隊司令長官になってもこの気持ちは変わらず、手帳に戦没部下の氏名を書いてひそかな供養を欠かさなかった。大将は軽い不眠症の徴候があり、朝は四時ごろに眼をさますが、従兵にたいする心遣いから、一般起床時間の午前六時三十分まではベッドの中にいた。夜も実際には深夜すぎまで執務したが、午後九時をもって“就寝”とした。三等水兵にたいしても厳正な答礼をおこない、あるいは傷病兵へのねんごろな見舞い、公私にわたる部下の世話など……。
〈人間味〉 かくし芸あるいは趣味は広い。名高い“バクチ好き”、将棋、逆立ち、両手にのせてあやつる皿回し、そして玄人《くろうと》の域に近い和歌などのほか、淡海節《たんかいぶし》、ちゃっきり節、浪花節、軍歌、小学唱歌もうたい、ボンおどりもおどる。
また、二人の愛人がいた。当時の道徳意識からいっても、なかなかに小うるさい論評を招きがちな問題だが、とりわけ栄誉多い武人である山本大将の場合は、その剛直視されがちな生涯に暖かみある色どりをそえるものと理解されている。
以上の長所は、いずれも将器たる者に要求される資質である。これらをすべて一身にそなえていた事実からも、山本大将が傑出した将帥であったことは疑いない。
「聖将」「名将」「知将」「闘将」「謀将」「勇将」「海将」「凡将」――とは、海軍省人事局長、軍令部第一部長を勤めた中沢佑《たすく》中将の“提督分類法”である。このうち「聖将」は、強いていえば東郷元帥にたいする〈おくり名〉であって、実際には存在しがたいとのことだが、さて、山本大将が一般的に提督に求められる素質の面で、「名将」の器であったことには異論はないが、ここで検討してみたいのは、連合艦隊司令長官としての山本大将である。
連合艦隊司令長官の法的地位は「艦隊令」(大正三年十一月三十日海軍令第十号)第十条にもとづいている。
「連(聯)合艦隊司令長官ハ
天皇ニ直隷《ちよくれい》シ連(聯)合艦隊ヲ統率シテ之ニ関スル隊務ヲ統督ス
連(聯)合艦隊司令長官ハ軍政ニ関シテハ海軍大臣ノ指揮ヲ承《う》ケ 又作戦計画ニ関シテハ軍令部総長ノ指示ヲ承ク」
艦隊二つ以上の編成を連合艦隊という(艦隊令第三条)が、戦時編成では全作戦兵力をもって連合艦隊が編成されるから、連合艦隊はすなわち日本海軍の全戦闘艦隊をもうら《ヽヽヽ》する。連合艦隊司令長官はその主将、つまり海軍実戦部隊の最高指揮官である。
これに対して、軍令部は天皇の幕僚機関であり、軍令部総長は参謀総長とともに天皇の幕僚長である。その任務は「国防用兵ノ計画ヲ掌《ツカサド》リ用兵ノ事ヲ伝達ス」ることにある(「軍令部令」第一条、第三条)。要するに作戦計画の大綱を立案し、天皇の認可を得てこれを実施部隊の長である連合艦隊司令長官に伝達するわけだが、同時に作戦の細項にかんする指示もおこなう。
伝達は〈大海令〉、指示は〈大海指〉の名で実施されるが、内容はたとえば「連合艦隊司令長官ハ所要ノ作戦準備ヲ実施スヘシ」(昭和十六年十一月五日大海令第一号)、「連合艦隊ハ……準備地点ニ進出セシムヘシ」(同大海指第一号)のごとく、至って簡単なものである。
つまり、軍令部は行動の目的を連合艦隊に与え、その目的を〈いつ〉〈どこで〉〈どうして〉達成するかは、連合艦隊司令長官に一任するわけである。したがって、作戦計画については実際には軍令部と連合艦隊は、いろいろと研究協議を重ねるが、いくつかの案のうち、連合艦隊司令長官がとくにそのひとつを自信ありと主張すれば、それに決まることが多い。
真珠湾空襲作戦、ミッドウェー作戦など、その好例といえる。
米国の場合は、日本の軍令部総長にあたる作戦部長が合衆国艦隊総司令官をかね、その下に太平洋、大西洋艦隊が所属する。日本のように、いわば軍政、軍令、実戦が分離することなく、全責任が一人に集中するわけだが、さて、以上のような性格から、連合艦隊司令長官には海軍全戦闘部隊の総督者、戦略家、指揮官――という“三つの顔”があることが、理解される。
このうち、最も重要な特色を持つのがである。
なにしろ、日本海軍が保有するほとんど全艦艇が指揮下に入るのである。連合艦隊イコール日本海軍、連合艦隊司令長官イコール日本海軍総司令官といえる。陸軍とくらべてみると、陸軍では太平洋戦争中に編成された最大単位は総軍であった。二個師団以上を軍といい、二軍以上を集めて方面軍とし、二方面軍以上を指揮下におくのが総軍であり、司令官は大将である。だが、それでも総軍は陸軍の一部にすぎない。むろん、指揮する人員の数では、総軍兵力のほうがはるかに多いが、片や全海軍を支配し、片や陸軍の一部を統率するのとでは、立場には格段の差が開く。
海軍士官のあこがれは、だから、海軍大臣や軍令部総長よりも、連合艦隊司令長官である。山本大将も、連合艦隊司令長官に就任して「長門」の着任式に臨んだあと、「長官はよいものだ。これにくらべれば海軍次官は高等小使いだ」と述懐したが、当然の感慨といえる。
東条首相も一度、「大和」を訪れたさい、あまりの巨艦ぶりに声をのむと同時に、この大艦に座乗して水平線を埋める艦隊を指揮する長官の威容に、あらためて感嘆したと伝えられている。
「大和」「武蔵」の写真は少ないが、そのひとつに両艦がならんでうつっているのがある。場所はトラック島、「武蔵」が旗艦のさいのものらしい。「武蔵」の上甲板の一部に白い天幕、つまり連合艦隊司令長官の“散歩道”がみえるからである。
口の悪い士官によると、「長官はいつもきちんと白服(第二種軍装)のボタンを首までかけているのは、長官室の冷房がききすぎて寒いからだ。だから、あったまりに散歩するんだ」とのことだが、いずれにせよ、連合艦隊司令長官がとくに丁重に待遇されていたことは明らかである。
山本大将が戦死したとき、現場にかけつけた渡辺安次参謀は、
「あまりお身体に触れるのが、あの際何となく恐れ多くて……」
遺品もあまり回収せずに火葬し、遺骨はその代わり一片も残さずに全部持って帰った、と言っている(『人間山本五十六』)。
この渡辺参謀の感想は、同氏が山本長官に抱く格別の敬意を現わしたものだが、これが他の提督だったら無造作に扱われるというのではなく、連合艦隊司令長官にたいする海軍将兵一般の敬意の表現でもある。
まことに、連合艦隊司令長官は輝ける存在だが、同時に最高の実力者でもあった。前述の「艦隊令」には、海軍大臣または軍令部総長の指揮あるいは指示をうけると規定されている。しかし、この規定は連合艦隊司令長官を拘束するものではなく、むしろ戦闘部隊総指揮官という立場の純粋性を高め、その権限と発言力を強化することになる。戦闘にかんしては全責任をゆだねられているからである。連合艦隊司令長官がノーといえば、戦争はできなくなるのである。
その意味では、好むと好まざるとにかかわらず、ときに連合艦隊司令長官の立場は極めて“政治的”にならざるを得ないが、問題はその〈実質的権限〉をどう行使するか、そして山本大将はどうしたか、である。
開戦直前、戦争の開幕と見通しに関する海軍首脳の発言は、次のように伝えられている。
永野修身《おさみ》軍令部総長=「日本海軍としては開戦二カ年の間は必勝の確信を有するも、遺憾ながら各種不明の原因を含む将来の長期にわたる戦局につきては、予見し得ず」(昭和十六年十一月四日軍事参議院参議会議、朝香宮鳩彦《やすひこ》陸軍大将の質問に答えて)
及川古志郎海相=「外交で進むか戦争の手段によるかの岐路に立つ。期日は切迫している。その決は総理が判断してなすべきものなり。もし外交でやり戦争をやめるならばそれでもよろし」(昭和十六年十月十二日、近衛首相邸にて)。なお、この発言の前に岡敬純軍務局長は海相の意見として、近衛首相に次のように伝えている。
「海軍は……戦争はできるだけ回避したい。しかし海軍としては表面にだしてこれをいうことはできない。今日の会議で海相から和戦の決は首相一任と述べるから、そのお含みで願いたい」
山本連合艦隊司令長官=「それは是非やれといわれれば、はじめ半年や一年の間はずいぶん暴れてごらんにいれる。しかしながら二年三年となれば全く確信はもてぬ」(昭和十五年九月、日独伊三国同盟締結にさいし、近衛首相に)「昭和十六年一月にも、山本長官はひそかに近衛公に会っており、前回同様の見解を述べている。私が山本大将の参謀長として彼から直接聴取したところによれば、彼は近衛公にたいし、海軍作戦に関する限り持続力〈一カ年半〉であることを説明したのだ、といった」(福留繁『海軍の反省』)
この三者の意見を総合すると、「戦争は避けたい。海軍の持続力は一年半ないし二年である」ということになるが、この見解の力点は二様に解釈できる。〈二年後は敗北する〉あるいは〈二年間は大丈夫だ〉である。
あいまいといえば、あいまいである。そして、このあいまいさがもともと優柔不断な近衛首相を一層混乱させ、結局は開戦を防止できなかったとして海軍の責任追及の根拠にされているが、山本大将の真意が開戦反対にあったことは明白である。
山本大将は昭和十六年十月十一日、親友の堀悌吉元中将にあてた書簡で「……現状に於《おい》ては最後の聖断のみ残され居るも……個人としての意見と正確に正反対の決意を固め、其の方向に一途邁進の外なき現在の立場は、誠に変なもの、これも天命という可《べ》きか」と述べ、また十月二十四日、東条内閣の海相に就任した同期生嶋田繁太郎大将に書いている。
「……此の際隠忍自戒臥薪嘗胆《がしんしようたん》すべきは勿論なるもそれには非常の勇気と力とを要し……申すも畏《かしこ》き事ながらただ残されたるは尊き聖断の一途のみと恐懼《きようく》する次第に御座候」
山本大将が〈一カ年半〉といい、永野総長が〈二カ年〉と海軍戦闘力を限定した理由は、合理的だった。海軍作戦において決定的要素となるのは、兵力と燃料だが、とくにその兵力が一年半ないし二年後には、圧倒的に劣勢になると判断されたからである。
日本海軍は日露戦争以後、米海軍を仮想敵国として戦備につとめてきたが、そのさい対米七割の兵力があれば持久防衛戦ができるとみこんでいた。そして、ワシントン海軍条約時代は、その条約によって両国海軍力はワクをはめられると同時に、日本は対米七割兵力の維持が保障されていた。この意味では、同条約は日本海軍にとっては、むしろ恩恵的なものだったといえるが、昭和十一年の条約破棄は日本海軍を苦境に追いこんだ。日米の工業力、財力の差は、日増しに両国海軍軍備の差を拡大し、いかに日本が努力しても、昭和十八年後期には対米海軍兵力は約五割になることが予想された。
この兵力差は、まさに決定的問題である。七割でもせいぜい防禦戦ができる程度と考えられていたのに、五割となってはもはや有効な戦闘はおぼつかない。こうなれば、かりに石油資源地帯を確保してみたところで、それを守り活用することもできなくなる。
日米戦の場合、主役をつとめるのは海軍だが、海軍が戦えなければ日本の敗北は明らかである。では、敗北をさけるためには、海軍は戦えないというべきだが、そのさい、最も強力な発言力を持つのは、戦闘責任者である連合艦隊司令長官であろう。
――なぜ、山本大将はいわなかったか。
言った、ともいえる。近衛首相にたいする二度にわたる発言だが、これは迫力に乏《とぼ》しい。すでに指摘したごとく、その焦点はぼやけている。戦争はやれる、という発言にも解釈できるからである。
はっきりは言えなかった。あるいは言っても効果はなかった、という説明も考えられる。言えなかったというのは、及川海相と同じく、戦いが本分である軍人として戦えないとはいいがたいという心境である。また、かりに戦えないといっても、その場合はただ別の人物と更迭《こうてつ》されるだけだし、軍政、軍令、戦闘という“三権分立”制度の中では、最終的効果は期待できないともいえる。
さらにあるいは、鍛えた力を、一度は実戦で試してみたいという、軍人特有の気概を、山本大将も捨てきれなかったのかもしれない。
が、いずれにせよ、山本大将が連合艦隊司令長官として開戦に反対しようとすれば、少なからぬ影響力を発揮できる立場にあったことは指摘しておかねばならない。大将は、もはや聖断あるのみ、といったが、連合艦隊司令長官としてその聖断を直接仰ぐこともできたのである。
その結果は、あるいは統制違反に問われ、あるいは更迭、さらに暗殺からひいては国内紛争さえも予期できたかもしれない。だが、たとえそうなっても、連合艦隊司令長官が明確な反対意思を表明した事実は、強い圧力となって政治の流れに影響したにちがいない。
その意味で、連合艦隊司令長官は“特別の権限”を行使できる立場にいたはずである。そして、山本大将がその“権限”を行使しなかったことについて、井上成美大将の次のような感慨もまた、いつまでも残り得るのではなかろうか。
「実戦部隊の最高責任者である連合艦隊司令長官が、対米作戦に自信がないというのであれば、職を賭して反対すべきであったと思う。国家が亡ぶかどうかの最大の問題だ。滅私奉公こそこのときだ。私はかねがね山本さんに全幅の信頼を寄せているが、この一点だけは同意することができない。山本さんのために惜しむ」
山本大将が連合艦隊司令長官として次に持つのは、戦略家および指揮官としての“顔”である。
山本大将が長官在任中に策定した主な作戦は真珠湾攻撃、ミッドウェー、アリューシャン攻略、北部ソロモン航空撃滅戦の三つである。そこでこの三作戦を中心にして、戦略家山本大将をふりかえってみたいが、ところでまず、山本大将はどのような戦略家としての素養を身につけていただろうか。
日本海軍の人事には、陸軍に顕著だったような派閥はなかったが、それでも俗に“三つの流れ”があったといわれる。軍政系(海軍省)、軍令系(軍令部)、艦隊系の三つであり、軍政、軍令の両系、その中でも海軍省軍務局、軍令部第一部(作戦)に進むのが“出世街道”とみなされた。それにひきかえ、艦隊系は、駆逐艦、巡洋艦、戦艦と、艦型は変わってもひたすら潮風に身をさらして海上生活をつづける。“車引き”と称された。
もちろん、海軍軍人である以上、海上勤務こそ本務であるはず。またつねに戦時に備えるのが建て前であれば、なおさら艦隊生活が重視されるべきだが、実際には日本海軍は日露戦争いらいほとんど平時状態下にあった。そして海軍軍人も官吏である。ということは、他の役所と同じく、まず重んじられるのは平時向きの能吏であって、非常時の荒武者ではない。おまけに海軍人事においては、海軍兵学校卒業時の席次があとあとまで昇進評価の基準になる。毎年、厳密公正な考課表による検討が加えられるにしても、どうしても登用は“秀才第一主義”になりやすい。
そこで、艦隊系はとかく昇進がおくれがちとなる。レイテ沖海戦の指揮官栗田健男中将など、第二艦隊司令長官になるまでの三十六年間、陸上勤務は九年たらずという典型的な艦隊系だが、当然少将どまりで退役と覚悟し、中将になり艦隊司令長官を拝命したときは「自分でも驚いた」といっている。
驚いた理由のひとつは、栗田中将は海軍大学校(甲種学生)を経ていなかったからである。海軍では上級指揮官の資格としては最低限、艦長勤務と戦略眼の具備の二つが要求される。戦略教育は海軍大学校で施される。ゆえに、海軍大学校卒業者でない栗田中将は、艦隊司令長官就任と聞いて仰天することになるのである。
戦略の専門部局は軍令部であり、その第一部(作戦)である。したがって、戦略家としての素養を身につけるには海軍大学校を経て軍令部第一部に勤務するのが、最適とみなされた。たとえば、連合艦隊先任参謀には、しばしば軍令部第一部第一課長が転出するのも、戦略計画の担当者が作戦実施にあたるのが有効だからである。
山本大将の経歴をみると、大将は海軍大学校も卒業しているし、艦長の経歴(巡洋艦「五十鈴」、空母「赤城」)もある。海軍大学校教官もつとめ、また第一航空戦隊司令官も体験した。
しかし、経歴に多くの比重を占めるのは、軍政畑のポストである。海軍省軍務局員、二回の米国駐在武官(注、駐在武官は軍令部総長の管轄下におかれるが)、ロンドン海軍会議全権委員随員、ロンドン海軍軍縮会議予備交渉代表、海軍航空本部長、海軍次官などである。また、大正十年十二月から同十二年八月までの海軍大学校教官勤務では、軍政学講座を担当した。
この経歴をみる限りでは、山本大将は、海軍次官を“高等小使い”視しながらも、軍政適任者と目されていたようだが、むろん、戦略家としての優劣は経歴だけでは判断できない。いかに戦略担当のポストをふんでも戦略家としては程度が低い者もおれば、デバイダー(コンパス)を握らなくても、卓抜の着想を生みだす者もいるからである。
そこで山本大将の戦略、すなわち〈一カ年半〉日本を守る戦略はどうか、ということになるが、海軍戦略に関する限り、日本は大きな制約下にあった。
「日本が米国を破り、彼を屈服させることは不可能なり」とは、昭和十六年一月、航空本部長井上成美中将が海軍大臣に提出した意見書〈新軍備計画論〉の一句である。井上中将は、この中で、日米戦争の形態を予測し、とくに日本海軍軍備のどこに重点をおくべきかを明示しているが、日本が米国を屈服させ得ない理由を、次のように指摘している。
米国本土は広大だから全土を攻略することは不可能である。
米国の首都攻略も、だから不可能。
日本が米国の作戦軍をせん滅することも不可能である(兵力差)。
米国は資源豊富で、海外依存度が少ないから封鎖の効果も少ない。
だいいち、米国本土の海岸線は長大なうえに太平洋、大西洋両面にあり、しかも日本からは遠距離なので、海上封鎖は不可能である。
さらにいえば、米国は大陸の中央を占め陸に国境を持っている。たとえ海上封鎖ができても、完全封鎖は不可能である。
この六つの困難は、そのまま日本の不利になってはねかえってくる。
米国側からすれば、日本本土はせまいから全土の占領も首都の占領も可能である。作戦軍のせん滅も可能である。封鎖されたら日本の痛手は大きいし、海上封鎖、完全封鎖も不可能ではない。
つまり、“四面海もてかこまれた”海国日本の状態は、それ自体が国防の不利になっているわけである。しかも、井上中将によれば、日本海軍が努力する軍備はまったくの見当はずれである。
戦艦を作り、巡洋艦、駆逐艦を増やし、空母、航空兵力の充実をはかってはいるが、要するに――
「口には質を以て量の不足を補うというも、その行き方は単に個艦能力の優を求めて之に依り勝てそうに考えおる迄なり……結局、大砲口径の大、搭載数の大などをねらわんとするものにして、やはり量的競争にすぎず……米国と量的に競争するの愚」をおかすものである。
井上中将は予想する。
日米戦の場合、米国は必ずや航空機と潜水艦による海上交通破壊戦をおこないながら、次第に基地を推進して日本本土にせまるだろう。その場合、とても日露戦争いらい日本海軍が切望する日米艦隊決戦などは期待できず、「日米戦争は持久戦の性格を帯び、吾《われ》にも新しき手なく、彼にも新しき手なく、平凡なる経過をたどるべし」
ゆえに、海軍はすべからく航空、潜水艦に重点をおいた軍備計画に転換すべきである、というのが、井上中将の結論だった。
この中将の戦略構想は、いまから考えれば極めて常識的であり、また先を見抜いた卓見でもあるが、山本大将が抱いた戦略は別のものだった。大将は、井上中将が意見を提出した同じ昭和十六年一月、やはり及川海相に「戦備に関スル意見」を送付し、その中で開戦へき《ヽヽ》頭に真珠湾を攻撃する作戦計画を明らかにした。
「第一、第二航空戦隊(やむを得ざれば第二航空戦隊のみ)月明の夜又は黎明《れいめい》を期し、全航空兵力を以て全滅を期し敵を強(奇)襲す」るとともに、一個潜水戦隊で逃げだす敵艦を沈めて湾口を閉塞する、というのである。旅順港攻撃の再現である。
のちに、この着想は修正され、結局空母六隻の機動部隊で空襲することになるが、山本大将がこの計画を考えるについて、最も重点をおいたのは、敵味方の士気だった。
大将は、意見書の中で、まず開戦へき《ヽヽ》頭に敵主力艦隊を猛撃して米国海軍および米国民の士気を、「救うべからざる程度に」沮喪《そそう》させるべきだ、という。それは、日露戦争でまっさきに旅順港を襲撃して効果をあげた先例にもかなうが、同時にほかに適当な手段も見当たらず、かつ日本国民の士気を考えると、絶対に必要な作戦だ、と判定できるからである。
これまでの方針は、敵艦隊の迎撃決戦だが、図上演習をやってみると、何度やっても一回の大勝も得ることができない。また、黙って敵の来攻を待つ場合、敵は一気に本土にせまり、東京その他の都市を空襲するかもしれない。そうなればどうなるか?
「南方作戦はたとえ成功をおさむるとも、わが海軍は世論の激高をあび、ひいては国民の士気の低下をいかんともする能《あた》わざるに至らんこと、火をみるよりも明らかなり」
山本大将は日露戦争のとき、ロシアのウラジオ艦隊が日本の太平洋岸に姿を現わしたさいの状況を想起し、「(そのときの)国民のろうばいは如何なりしか、笑い事にてはなし」と指摘している。
この山本大将の戦略構想でまず気づくのは、短期決戦思想である。それは、海軍持久力についての大将の算定〈一カ年半〉にも合致する。むろん、井上中将が強調した日本防備の弱点についても、大将はとくと承知のはずだろう。同じ条件を前にして、井上中将が持久戦覚悟の戦略を主張するのにたいして、大将は持久戦不可能を前提にして“短期有効打”作戦を唱えるわけである。
だが、それにしても、大将の戦略思想はなんと“政治的”それも“内政的”香りが強いことか――と思う。
大将は、まず敵主力艦隊を猛撃撃破して米国民の士気を沮喪させよう、という。しかし、大将はほんとうにそうなると信じていたのだろうか? 大将は、及川海相に意見書をだした八カ月後、昭和十六年九月、東京学士会館で開かれた長岡中学同窓会で、いっている。
「米国人がぜいたくだとか弱いとか思うている人が、たくさん日本にあるようだが、これは大間違いだ。米国人は正義感が強く偉大なる闘争心と冒険心が旺盛である……殊に米国の軍隊にはアメリカ魂が充実しておる。更にアメリカ海軍には勇敢なる将兵が多い……我等はただ日本魂ありといって無闇に米国人をあなどってはならぬ」
大将は二度も駐米武官をつとめ、米国の国情、国民性についての研究を積んだ。大将の言明は、その研究の成果であろう。してみれば、大将は、やがて開戦へき《ヽヽ》頭、自分が真珠湾に加える一撃が米国民をふるい立たせこそすれ、意気消沈させ得るとは期待しなかったに違いない。現に、昭和十六年十月二十日付で、及川大将の後任である嶋田海相に送った書簡には、米国民の士気にはなにも言及していない。
大将が心配したのは、だから、日本国民の士気である。嶋田海相あて書簡は、ふたたび真珠湾攻撃作戦の必要を力説したものだが、ここでも大将は及川海相への意見書と同じ“不安”を表明している。
「(敵機が東京、大阪を急襲する場合を予想して)勿論さ程の損害なしとするも、国論は果して海軍に対して何というべきか、日露戦争を回想すれば想半《おもいなか》ばに過ぐるものありと存じ候」
山本大将が想い浮かべたのは、ウラジオ艦隊がせまるや、なぜ接近を許したかと日本近海防備を担当する上村海軍中将宅に押しよせ、あるいは旅順港攻略に手間どると乃木陸軍大将の家に投石した群衆の姿であろう。
ここに大将は動揺しやすい国民性を見た。その動揺はまた海軍にたいする非難にも転化する――と思いあたったとき、大将が真珠湾空襲計画を着想したのは、きわめて理論的だったといえるだろう。敵襲に国民心理が動揺するとすれば、それを防ぐには敵襲を未然に阻止すべきである。となれば、敵の来攻を待つ従来の迎撃戦法は、不適当であり、緒戦からつねに敵の出鼻をたたき、敵をさそいだしてはたたく戦法が適当である。それは同時に、持続力に乏しい国情にもかなう。
このようにみてくれば、真珠湾攻撃は、まことに、日露戦争生き残りの山本大将にふさわしい作戦といえる。そして、そのさい、大将の眼がまず国内に向けられた点、“内政的”戦略とみなすゆえんでもある。
が、大将の戦略には重大な欠点があった。太平洋戦争当時、日本海軍の現役提督の中で日露戦争に参加し負傷した体験を持つのは、山本大将ただ一人である。大将の戦略が、その体験に根ざすとすれば、同じ経験がない部下指揮官には理解しきれぬものがあったからである。
たとえば、真珠湾攻撃の場合、いまなお、機動部隊指揮官南雲《なぐも》中将が再攻撃をしなかった点が論議の対象になっている。すでにその当時、連合艦隊参謀長宇垣纒《まとう》少将の「泥棒の逃げ足と小成に安んずるの弊《へい》なしとせず」という手きびしい批判もある。
だが、「ハワイ作戦はあくまで南方作戦支援のためだと理解していた」との機動部隊参謀長草鹿《くさか》少将の回想に接すれば、理由のひとつに、山本大将の戦略思想を理解し得なかったことが、数えられるはずである。
ところで、山本大将が直接指導した残る二つの作戦のうち、ソロモン航空撃滅戦(昭和十八年四月七日〜十六日)は、いわばガダルカナル島上陸につづく米軍の反攻に対処するもので、とくに大将の戦略思想が具現された作戦ではなかった。当時はようやく、日本海軍の退勢が著しく、連合艦隊司令長官直率の航空作戦というのに、集められた飛行機は三五〇機にすぎなかった。戦果もさることながら、長官の陣頭指揮による士気高揚が主なねらいだった。
これにくらべて、その前年の六月五日のミッドウェー作戦は、真珠湾攻撃と同様、まさに山本戦略の産物である。
ミッドウェー作戦は、日本海軍の総力を出動させておこなわれた。艦船三五〇隻、飛行機一千機、将兵十万人をこえ、日本海軍は日本からしばし姿を消した感があった。そして、この作戦構想には、真珠湾攻撃に示されたと同じ山本大将の思想が現われていた。
たとえば――
短期決戦主義=軍令部は、ソロモンさらにフィジー、サモア諸島を攻略して、米国とオーストラリアの連絡路を遮断する計画をたてた。オーストラリアがやがて対日反攻の基地になることを防止するとともに、当然出撃してくる米艦隊に決戦をいどもう、というのである。
これにたいして、山本大将は、フィジー、サモアは遠すぎると考えた。
「山本さんは、あんまり遠くに行くのが好きじゃなかった。ラバウルでも離れすぎてると思っていたようです」
と、軍令部第一部長をつとめた富岡定俊少将もいっている。
山本大将は、もっと近いところ、そしてもっと早く決戦ができる場所としてミッドウェーを選んだ。
最も戦略的に有利なのはハワイ占領だが、二度と奇襲は期待できず、敵基地航空隊のカサの下で戦うのは不利である。ミッドウェーなら、ハワイから約一一〇〇マイル。基地航空機の行動半径外にあるし、かつ、ハワイ列島北端に位置する要衝であるから、米艦隊は必ずや奪回すべく出撃してくるであろう。赤道をこえ、はるか地球の反対側に近いフィジー、サモア攻略など、まず攻略までに時間がかかりすぎるし、攻撃までの間に兵力を消耗する恐れもある。
奇襲=第二艦隊司令長官近藤信竹中将は、ミッドウェー作戦に反対の意見具申をした。
真珠湾攻撃で米空母部隊をうちもらしている。ミッドウェー島にも航空基地がある。かんたんにはいくまい。というのだが、山本大将は答えた。「よくわかった……しかし、危険性は認めるが、奇襲戦法で行けばむざむざやられることはあるまい」
政治性=ミッドウェー作戦の決定を促進した要素のひとつは、昭和十七年四月十八日、日本近海に接近した空母から敢行されたドーリットル中佐指揮の陸軍爆撃機隊による東京空襲だった。
真珠湾攻撃を考えたのと同じ理由で、当然山本大将も強い印象をうけたが、幕僚たちも、軍令部あたりのミッドウェー作戦反対論者にたいして、「帝都が空襲されてもよいとの一札を入れるなら……」というのを切り札にした。
帝都守護の念は、また、ミッドウェー島攻略と同時にアリューシャン南部のアッツ、キスカ島攻略が決定された原動力でもあった。図上演習をしてみると、両島に米軍航空基地ができれば、容易に東京空襲は可能だとの結論がでたからである。
もうひとつ、ミッドウェー作戦には別の配慮が加えられた。連合艦隊総出動の形をとったのは、必ずしもそれだけの大兵力が必要だったからばかりではない。
「主力部隊の内地在泊長きにわたり、士気の沈滞を憂ふ」状態が気づかわれたからである(『戦藻録』)。もっと率直に、「あのころは、このままだとすぐ戦争が終わってしまって、功績をたてる機会がなくなるんじゃないか、という声が高まったものです」と回想する元参謀もいる。
さて、以上のような山本大将の戦略の特徴を眺めた場合、一種の感慨がわく。
純粋に軍事的効果を基礎にして考えるとき大将の戦略はまことにすきが多い。プロとはいえない。真珠湾攻撃にせよ、ミッドウェー作戦にせよ、結局は日本海軍に都合の良い状況を求め、それにすがって計画をたてている。あるいは、もともと非力な日本海軍としては、われに好都合な状況以外では勝算は望めないからだとも、いえる。
だが、そうだとしても、山本大将の戦略は、その特性が物語るように、時間的にも空間的にも性急さが目立つうえに、非軍事的要素が強い。“政治的”戦略といえるのではあるまいか。その効果は、ミッドウェー作戦に顕示されている。
ミッドウェー作戦では、ミッドウェー島の攻略と敵機動部隊撃滅という二つの目的が与えられたが、両者は質を異にする作戦である。敵機動部隊との戦いなら行動は隠密にせねばならず、かといって、上陸作戦は姿をかくしては行なえないからである。しかも、敵機動部隊はミッドウェー島攻略後に、ハワイからかけつけるものと予想した。
ここに目標の不明確化と作戦の柔軟性喪失がみられ、またアリューシャン作戦までつけ加えたことによって、兵力の分散という兵理の最も戒めるマイナス効果も生んでいる。
その意味では、ミッドウェー作戦は戦略的に見る限り、みずから招いた敗北というべきだが、ここで感慨をおぼえるというのは、山本大将の戦略の特性は、同時に先に述べた大将の人格的長所の反映でもあるからである。
大将の〈国際的視野〉〈忠誠心〉〈部下にたいする情愛〉などは、大将の戦略の“政治性”の基礎をなし、〈深淵をのぞきこむ勇気〉〈武人としての気概〉はその戦略の“性急さ”と“激しさ”の支柱となっている。
そして、これらの特質はさらに大将の“第三の顔”――指揮官――にも現われている。
山本大将は、真珠湾攻撃のさい、南雲中将が再攻撃をしなかったことに、不満をもらしたと伝えられている。
ミッドウェー作戦の前、石川信吾大佐に述べた南雲中将の言葉が伝えられている。
「此の前ハワイの時、俺は追い撃ちをかけなかった。そうしたら山本は、幕僚たちに、見ろ、南雲は豪傑面をしているが、追い撃ちもかけずにショボショボ帰って来る、南雲じゃ駄目なんだと、悪口を言った。今度反対したら、俺はきっと、卑怯者と言われるだろう。それくらいならミッドウェーヘ行って死んで来てやるんだ」
中将の発言は、石川大佐の語り伝えであり、いくぶん割り引きして聞く必要があるだろうが、ミッドウェー作戦にかんして、有馬高泰中佐(連合艦隊水雷参謀)の次のような回想も、ある。
「長官は、ミッドウェーは、ほんとは反対だったんだ……自分たちが苦心して作りあげたミッドウェー作戦案を、長官自身の意志だといいはったのは、参謀たちだった」
しかし、また、ミッドウェー作戦中止を指示したあと、山本大将は「全部ぼくの責任だからね。南雲部隊の悪口をいっちゃいかんぞ」と幕僚にもらしている。
あるいは、南雲中将更迭《こうてつ》を主張する声が高まると、大将は「いま辞めさせては南雲に傷がつく」と、首を横にふったという。
この四つの発言からは、大将の〈人間味〉と〈部下にたいする情愛〉も感じとれるかもしれないが、底深くただよっていると思えるのは、やはり〈政治臭〉である。
南雲中将にたいする批判と中将の悪口を抑えて更迭をかばう発言とは、相反する印象を与える。だが、批判は個人的見解、あとの二つは公式言明とも解釈できる。しかし、大将は連合艦隊司令長官、すなわち最高指揮官である。真珠湾攻撃のさい、もし南雲部隊の行動が不満ならば、なぜ再攻撃の命令をださなかったのか。
大将のねらいは徹底的戦果のはずであり、損害も覚悟のはずである。ならば、大将は不満を抱く前に攻撃命令をだすべきであり、命令をくだせるのは大将以外にはない。戦争においては、「やりたくなければいいさ」ではすまされないのである。
指揮官の任務のひとつは、また、責任の所在を明らかにすることである。人事は海軍大臣の管轄ではあるが、明白な失策を部下が行なったと認められるときは、その責任を追及すべきであり、さらにその責任がわが身に及ぶ場合は、自分も責任をとらねばならない。
太平洋戦争中、米軍では二十人以上の将官がクビになった。ほとんどの理由が戦意不足である。
サイパン攻略戦の真っ最中にも、司令官H・スミス中将は師団長R・スミス少将の解任を上申して実現させた。理由はただスミス師団の前進速度がおそいというだけだったが、中将はがんとして主張した。「一人の不適当な指揮官は千人の損害を招く」――と。
どうやら、以上で連合艦隊司令長官としての山本大将を概観したが、では、中沢中将風に考えた場合、山本大将にはどんな“将号”がふさわしいだろうか。
「凡将」か――いや、大将が持ち、示した資質は、その人格面だけでも、非凡である。
「海将」か――「海将」は〈シー・アドミラル〉、いわば艦隊派に属する根っからの船乗り提督をいう。大将とは違う。
「勇将」か――大将の勇気は、米内大将の言葉でも保証されるし、なによりも大将の言動が物語る。しかし、「勇将」という場合は、むしろ、悲境に静かに耐える沈勇の将をさす。大将の勇気は、いわば陽性だった。
「謀将」か――「謀」は奇謀を意味する。真珠湾攻撃計画は、たしかに一種の奇謀には違いない。が、大将は積極行動を重んじたが、奇謀を得意とするタイプではない。
「闘将」か――大将もあてはまる。大将の闘志は、自ら真珠湾に向かおうとしたことにも現われている。だが、「闘将」という場合は、戦うことを愛する型に近い。大将はそれほどでもなかったはずである。
「知将」か――大将は英知の人である。だが、同時にひどく泥くさい香りもただよわせていた。
「名将」か――「名将」とは少なくとも「知将」以下「勇将」までの資質を兼ねそなえ、さらに一段抜きんずる者である。大将が、百パーセントの有資格者でないことは、以上の検討でなっとくできると思う。
あとは「聖将」だが、もしこの“将号”をおくったら、はずかしがり屋でもあった大将は、困惑するだけであろう。
「政将」――もし、この名が考えられるとすれば、山本大将にはあるいは最もふさわしいかもしれない。むろん、それは山本大将が軍事よりも政治により興味を持っていたという意味ではない。むしろ、大将はその戦略思想にたぶんに政治性を示しながら、連合艦隊司令長官という“政治的立場”の利用を避けたことは、すでに述べたとおりである。ただ、同時に大将の姿にはつねにどこかに“政治臭”がただよっていたことも間違いない。
だが、山本大将がかりに連合艦隊司令長官として万全ではなく、かつ戦略家としてもプロとはいえなかったとしても、それは大将個人の声望を少しも傷つけるものではないことを、最後につけ加えたい。
人間は体験の動物だ、といわれる。山本大将もまた、山本大将の過去の中から生まれ、日本海軍の歩みとともに育ってきた。いざ戦争というとき、まず自分が参加した日露戦争に戦訓を求め、いわば〈日露戦争で、太平洋戦争を戦った〉のも、その例証といえる。だが、それは大将だけではない。思想的には日本海軍(そして陸軍も)、一般にも共通する。
大将に欠ける点があるとすれば、それは大将自身の問題であるとともに、日本海軍の組織、戦争観の課題でもあるはずである。総合的に眺めた場合、日本海軍の中で山本大将をりょうが《ヽヽヽヽ》する連合艦隊司令長官適任者は、ほとんど見当たらない。
その最適任者が「名将」でなかったとしたら、結局、日本海軍には「名将」を生みだす力がなかったのだともいえるだろう。
宮崎繁三郎
――ミヤオ、ミヤオ。
背の小さい軍人が、馬の上で右手を高くあげ、大声で叫んでいる。日本兵の銃剣とすさまじい眼光におびえていた村民たちは、なお不安の表情であったが、子どもの一人が気づいた。
「ミヤオだ」――嬉しそうな子どもの声に、指さす方角を見た村民も、いっせいに笑顔になり、ミヤオ、ミヤオとつぶやきながら、近づいて行った。緊張していた日本兵の眼がなごみ、銃をおろしてタバコに火をつけた。
――昭和十九年三月、インド東北部マニプール州の首都インパールの攻略をめざした「インパール作戦」参加部隊のうち、宮崎繁三郎少将が率《ひき》いる第三十一師団歩兵第五十八連隊の進撃風景である。
「ミヤオ」は、ビルマ語でサルの意味。そして、宮崎少将がかかげた右手のこぶしには、「チビ」と名づけた小ザルがとまっていた。
「インパール作戦」は、太平洋戦争最大の陸戦といわれ、同時に最も惨烈な戦いとしても記録される。
牟田口廉也《むたぐちれんや》中将が指揮する第十五軍は、第三十一師団(烈)、第十五師団(祭)、第三十三師団(弓)を基幹として、約十万人の兵力がインパール攻略をはかったが、英軍の防禦にはばまれ、七十パーセントをこえる損害をだして失敗した。
しかも、その損害の内容は、敵弾による死傷よりも、飢えと病に倒れた者のほうが多く、第十五軍が退却したあとのビルマ、インド国境の山道には、衰え力つきた兵士の死体がつらなった。
この悲劇の原因は、明らかである。作戦計画の不備、兵力の分散、補給の困難、地形の不利、制空権の喪失など、作戦開始の前から、成功はあやぶまれていた。
おまけに、第十五軍司令官牟田口中将の感情的な指導は部下指揮官たちとの意見の疎通を欠き、三人の師団長は作戦中に解任され、とくに第三十一師団長佐藤幸徳中将は、独断で退却して軍律違反に問われるなど、日本陸軍末期の綱紀の乱れも、露呈した。
その意味で、「インパール作戦」に登場する指揮官にたいする評価は、一般的に低くなるが、ただ一人、異論なく高評をうけるのが、、第三十一師団歩兵団長宮崎繁三郎少将である。
「宮崎閣下とかけてなんと解く」「男爵と解く」「こころは?」「子爵(四尺)以下」……とは、口の悪い兵隊たちの間ではやった問答だが“四尺以下”は誇張にせよ、少将の小躯はめだった。
その小さな将軍が、これまたポケットモンキーなみに小さく可愛らしい小ザルをふりかざして微笑するのである。インド国境の原住民たちも、思わずほおをゆるめたわけだが、宮崎少将は、住民工作のみならず、作戦指導、部下の統御、その他軍務のすみずみに至るまで、水ぎわだった指揮官ぶりを発揮した。
宮崎少将は、当時五十二歳。陸軍士官学校、陸軍大学校を経て、陸大教官、中国で駐在武官、特務機関長の経験もつみ、やがて中将昇進が予定されていた。
第三十一師団に所属する第五十八、第百二十四、第百三十六連隊の歩兵三個連隊を統率する歩兵団長であったが、「インパール作戦」が下令され、第三十一師団にインパール北方のコヒマ占領の使命が与えられると、編成を一変させた。
「最小の犠牲で最大の効果をおさめるのが、戦闘の根本である。それには量よりは質、質よりは和の体制をとらねばならない。たんなる総花式の編成は、貧乏根性のあらわれにすぎぬ」
そういった少将は、もともと優勢で装備もすぐれた敵にたいして、小兵力、劣等装備で突進しようというのだから、各連隊、各大隊がそれぞれに歩兵も機銃も砲も適当に持つ編成は、かえって不利だ、と指摘した。
三連隊のうち、最も強い連隊を増強して“必勝連隊”とし、同じく大隊、中隊、小隊、分隊にも、中核となる“必勝大隊”“必勝中隊”“必勝小隊”“必勝分隊”をつくる。
人員も兵器も、平等にわりあてる必要はない。射撃のうまい者は小銃と弾丸だけを持ち、手りゅう弾は持たなくてよい。手りゅう弾投げに自信がある者は、手りゅう弾だけ十個でも二十個でも持つ。「要するに、これなら勝てると確信がもてるように、思いきって改変せよ」
つづいて、少将が命令し、かつ自ら指導したのが、猛訓練と教育、とりわけ幹部教育であった。
「猛訓練は真に兵を愛するゆえんである」とは、少将が各連隊に通告した指導モットーのひとつだが、同時に少将は、次の格言を大書していた。
「軍隊の優劣は幹部とくに将校の優劣に比例する」
幹部教育は、文字どおりに徹底していて、たとえば、ある歩兵分隊の突撃訓練のさい、スコールがふっててき《ヽヽ》弾筒が不発になった。そこで、小隊長は、号令した。
「ただいま、てき《ヽヽ》弾筒射撃はおこなわれているものと仮想する。突撃ッ」
「待てィ、仮想とはなにごとかァ」
とたんに少将の大声がひびいた。実戦のさい、仮想は通用しない。まして、スコールで不発という事故は、こんご発生しやすい。なぜ、ほかの方法を考えぬか、と少将は叱咤《しつた》した。
また、ある中隊の夜襲演習では、突撃前に発見され、機銃、小銃の射撃をうけたが、大隊長は、
「元気があってよかった」と講評した。すると、宮崎少将は、中隊長を呼んで夜襲は成功したと思うか、とたずねた。
「ハッ……不成功だったと思います」
「よし、大隊長はどう思う」という少将の質問に、大隊長も同じく、不成功と認める旨《むね》を答えると、少将は声をはげまして、いった。
「そのとおり。部下も不成功と思っているにちがいない。これは、まさしく形式だけの訓練であり、むしろ、必敗の観念を部下にうえつけるものだ。訓練は、なるほど、こうやれば成功する、という信念を与えるために、おこなうものだ。こんな演習など、千万回やっても役に立たぬぞ」
宮崎少将は、最も優秀と見定めた歩兵第五十八連隊主力をひきいて、コヒマにむかった。その前進ぶりは、めざましく、どんな高い山、深い谷でも、「後退は一歩もならぬ」と突進させた。
一方、冒頭に叙述したように、原住民にたいしては、こまかい配慮を示した。
部落を発見すると、まず宣伝班を派遣して、村長や有力者に日本軍の「インド進攻の使命」を説明させ、決して生命財産に危害は加えない、と安心させ、村の入口に歩哨を立たせて、兵が勝手にはいらぬようにする。そのあとで、購買班をおくりこんで、食糧、野菜、ニワトリなどを買わせる。
小ザル「チビ」の姿も、住民の安心感の促進に役立つ。おかげで、通過する村落は、いずれも宮崎部隊に好感を示し、のちに撤退のさいの食糧調達にも、役立った。
宮崎少将は、また、「敵を見ては攻撃せぬわけにいかぬ」という口ぐせが物語るように、その戦意の激しさで定評があった。
コヒマにむかう途中、インパール西方の要地サンジャックに、敵約一個旅団がいると知ると、同地は第十五師団の作戦地であったが、さっそく回り道をして攻撃した。
夜襲は二度、三度と失敗したが、少将は敵陣を見下ろす台地の椅子に、杖をついて腰かけて動かなかった。
「撃たるれば撃たれる程に強くなる
つはものどもの精神《こころ》なりけり」
巧みとはいえぬ、そんな一首を詠《よ》んで、少将は敢然と攻撃を命じ、ついに敵を一掃すると、機関銃、自動小銃、ライフルなど、できるだけ英軍の武器を持ってコヒマ進撃行を再開した。
宮崎部隊のサンジャック戦には、約五百人の死傷者をだしたこと、前進速度が約五日間おくれたことなど、批判も加えられたが、敵の優秀兵器を装備したおかげで、宮崎部隊の火力は増加した。
さらに、サンジャック戦による遅れも、その後の急進撃でとりもどし、宮崎部隊は四月五日夜、コヒマ部落を占領した。
三月十五日に行動開始してから二十二日めだが、その間、延べ約四百キロ、それも少将の表現によれば「富士山の弟」クラスの高峰が折り重なるパトカイ山系を突破してのことである。
宮崎部隊のコヒマ突入の報告に、牟田口第十五軍司令官は机をたたいて喜び、コヒマ西北のディマプールにいた英軍指揮官ストップフォード中将は、コヒマ南方のトヘマのまちがいではないかと、「コヒマかトヘマか」と副官にくり返し、確かめさせた。
もっとも、コヒマ占領といっても、実際には占領は部落だけにとどまり、コヒマ守備の英軍のほとんどは、部落西南の丘陵地帯に布陣していた。
そして、この台地群は、ちょうどコヒマからインパールに通ずる道路にそっているため、それを攻略しなければ、インパールを孤立させるというコヒマ占領の目的は成就できなかった。
むろん、宮崎少将は、直ちにひとつずつ、台地群の攻撃を開始した。
宮崎部隊は、台地に「イヌ」「サル」「ウシ」「ウマ」「ヤギ」などと名づけたが、それらのおとなしやかな動物の呼称とは逆に、台地はいずれも三重、四重のざん《ヽヽ》壕、バリケードをめぐらし、迫撃砲、速射砲をそろえた“ハチの巣陣地”だった。そのうえ、近くのジョッソマ高地には、肉眼でもずらりと百門以上の重砲がならび、スコールのようにおしみなく砲弾を集中してきた。
戦車も、いた。そして、連日、敵機が頭上を乱舞して、銃爆撃を加えた。
宮崎少将は、ここでも教育を忘れなかった。たとえば、中隊に高地攻略を命ずる場合、少将は中隊長とともに敵陣がよく見える場所に立ち、敵陣の火点を指さしながら、中隊長に質問する。
「中隊長、この陣地をどう攻撃するか」
「配属の機関銃小隊を左の高所において掩護《えんご》射撃をさせ、中隊はこの正面からまっしぐらに頂上に突進します」
「よろしい。それで、突撃にあたって、一番気にかかるものは、なにか」
「ハッ、両側からの敵の機銃の十字火をあびることであります」
「そうだろう」と、うなずいた少将は、では、ただ一気の正面突撃はまずいだろう、どうする、と反問し、中隊長の再考をうながした。
中隊長は、一方の機銃は味方の機銃で制圧し、もう一方の機銃座めがけて突撃する、と答えた。
「同意ッ」
宮崎少将は、肩をたたかんばかりに大声で賛意を表した。若い中隊長は、少将にほめられ、眼を輝かした。
つづいて、少将は突撃隊形をたずね、中隊長の答えを修正して指示を与え、さらに分隊長以上の指揮官を集めてよく説明せよと中隊長に命じた。
中隊長は、少将の指導により、少将から作戦命令をうけたという感じよりも、自分が戦術を考案し、それを少将に認めてもらった形になっていた。
小隊長、分隊長にたいする指示は、だから、自信にあふれ、詳細であり、小隊長、分隊長のほうも、疑問を指摘し、解答をうけてなっとくした。
宮崎少将のモットーのひとつに、「指揮官は命令を出しっぱなしにしてはならぬ」というのがあるが、少将は、いざ攻撃となると、中隊全員にむかって、「軍旗にかけて成功せよ」と激励するとともに、攻撃ぶりを終始、高地上から観察していた。
中隊は、まるで演習のように的確に行動し、中隊長、先頭に立った第二小隊長は戦死したが、予定どおり敵台地を攻略した。
だが、なにぶんにも、戦車と大砲に小銃と手りゅう弾でたちむかうような戦いである。しかも、攻撃兵力は、いちどきにせいぜい一中隊をふりむけられるにとどまる。
台地の崖《がけ》にハシゴをかけてよじ登ろうとすれば、機銃と手りゅう弾で倒され、バリケードにとりつこうとする兵は、地雷と砲弾に吹きとばされた。
いったん占領した敵陣も、集中砲撃と戦車の攻撃で、おしもどされる。その戦車をめがけ、サイダーびんにガソリンをつめた火炎びんと、十キロの黄色爆薬をフトンにつめた“フトン爆雷”をだいた肉迫攻撃班が、攻める。火炎びんを投げ、“爆雷”をだいてキャタピラの下にとびこみ、わが身もろとも爆砕して擱坐《かくざ》させると、その爆音を合図に、「ワッショイ、ワッショイ」と声をかぎりに叫びながら、敵陣に殺到するのである。
あるいは、敵陣内のドラム罐を炎上させ、その火煙にまぎれて突入をはかったこともある。
だが、炎と煙は敵兵の混乱をうながすとともに、味方の前進もはばんだ。態勢をたてなおした台地頂上の敵のねらい射ちをうけ、動きだした戦車に近づこうとすると、いつの間にか、その四周に鉄条網がはりめぐらされていて、歯がみして立ちどまる肉攻兵に、銃弾が集中した。
宮崎少将は、奇略を駆使して戦った。“タヌキいぶし”は、敵陣の下から木を燃やして煙幕代わりにする法であり“旗ころがし”は、インド独立の志士チャンドラ・ボースがひきいるインド国民軍の旗を台上にかかげ、それを英軍に砲撃させて、砲弾を浪費させる戦法だった。
ある夜、少将は敵陣内に一人を潜行させ、大日章旗をひろげさせた。夜明けとともに、敵砲兵部隊はこの陣地に砲撃をあびせた。宮崎少将は、小ザルの「チビ」を肩にのせたまま、手をたたき、足ふみならして、喜びの喚声をあげた。
第五十八連隊の損害は、日ごとに増し、第六、第四、第九、第十、第七中隊と、つぎつぎに全滅していった。
だが、宮崎少将は攻撃を下命しつづけ、部下もまた、少将の指揮に一点の疑いももたなかった。
「おいらの隊長、日本一よ、ドッコイショ、戦《いくさ》強くて情深い、チョイナ、チョイナ」
誰の作詞かは不明だが、宮崎部隊の将兵の間には、いつしか、こんな歌がはやっていた。そして、この歌をうたい、宮崎部隊は、ときには敵輸送機が落とす食糧、弾薬を入手しながら、コヒマ西南台地の攻防をくり返した。
宮崎少将は、司令部(といっても、簡単なタコ壺陣地だが)を、つねに最前線におき、動かなかった。
「戦場とは、ウソのないところだ」という言明どおり、少将は一度も指示をとり消したことがなく、また十分に考えを練らずに命令を出すこともなかった。
同時に、部下指揮官の態度には厳密な眼をくばり、食糧にせよ、位置にせよ、その部下よりも安楽な立場を許さなかった。
宮崎少将の上司である第三十一師団長佐藤中将が、「今や刀折れ矢尽き糧《かて》絶え」と牟田口第十五軍司令官に打電して、コヒマを独断退却したのは、六月四日である。
第五十八連隊主力にも退却命令がだされたが、宮崎少将には、その第一、第五中隊と第百二十四連隊三個中隊を指揮して、コヒマ=インパール道を確保せよ、と佐藤中将は命じた。
「死ぬなよ」――と、佐藤中将は電話で宮崎少将に告げて戦場を去った。
だが、「死ぬな」、といわれても、宮崎少将に与えられた歩兵は、すでに第五十八連隊の第一中隊は七十人、第五中隊は三十人に減っている。第百二十四連隊の三個中隊にしても、各中隊百人たらずである。
敵は、新鋭の英第二師団が南下を開始していた。約四百人で二万人と戦うのでは、死は必至であろう。
「戦《いくさ》上手」の定評が、最も困難な退却の護衛任務を招いたとすれば、好評もかえってあだ《ヽヽ》になったわけだが、宮崎少将は、逆に勇躍した。
「四百人で一個師団を一カ月くいとめ、戦史に新記録をとどめてやる」――と、決心したのである。
この時期には、「インパール作戦」は、全線にわたって崩壊のきざしを見せ、第十五師団も第三十三師団も、豪雨の中に飢え疲れていた。
宮崎少将らにしても、飢えることはなかったが、食糧はとぼしく、なによりも弾薬が不足して、有効な戦闘は期待できるはずもなかった。
宮崎少将も、一陣地で数日間ずつ抵抗する断続戦法で敵の前進をはばんでいたが、やがて突然に敵戦車群にインパール街道を突破され、本隊の後を退却せざるを得なかった。
退却行は、難事であった。宮崎部隊の前を本隊、そして第十五師団も後退していたので、部落のほとんどは徴発をうけ、糧食の調達は極度に不便で、ようやく宮崎部隊も、疲労していった。
道路には、延々と餓死者、あるいは、死を間近に動く気力を失った兵が、雨にうたれ、泥にまみれて横たわっていた。なかば白骨化したのもあれば、くさる傷のウジをぼう然《ヽヽヽ》と口にいれる狂者も、いた。死臭と腐臭が濃霧のようにただよい、豪気の少将も、その惨状に眼をふせた。
しかし、宮崎少将は、死体は埋めるか、道路から見えぬ場所にはこび、敵に写真にとられて宜伝材料にされぬようにせよ、まだ息のある者は救え、と部下に命じ、自らもタンカに手をそえて、進んだ。
宮崎少将は、退却の途中、中将に昇進し、ビルマ北部に配置する第五十四師団長となり、終戦を迎えた。
第五十四師団長時代も、果敢な戦いぶりを示し、また終戦となり英軍捕虜となっても、部下が英兵になぐられたと聞くと、「ひとつなぐられたら、十なぐり返せ」と訓示して、最後まで戦意を失わなかった。
インパール戦の宮崎少将については、あまりにも戦いすぎる、昔の侍大将に似た部将としての徳はあっても、主将の器《うつわ》ではない、という批評もあるが、一人の餓死者もださず、一回も敗北した想いを抱かせられなかった部下に、少将をうらみがましく想起する者は、皆無である。
山 下 奉 文
シンガポール攻略戦――は、海軍の真珠湾空襲とならんで、日本陸軍が太平洋戦争の開幕をかざった壮挙である。
マレー半島一千キロを縦断して、東洋のジブラルタルといわれ難攻不落をうたわれたシンガポールを攻略する作戦は、戦史に特記される野心的なものだが、同時に、この戦いは、戦史あるいは軍事学だけでなく、心理学の好対象にもなるはずである。
日英両軍の指揮官、第二十五軍司令官山下奉文《ともゆき》中将と英極東軍司令官A・E・パーシバル中将とは、まさに心理学の気質類型の典型を示し、その相違がそのまま勝敗につながったといえるからである。
山下中将はそのご大将にすすみ、フィリピン山中で終戦を迎えたあと、戦争犯罪人としてマニラで刑死するが、昭和の日本陸軍指揮官の逸材と、認められていた。
ところで、ドイツの精神医学者、チュービンゲン大学教授エルンスト・クレッチマーは、その有名な「体格と性格」理論で、特定の体格と特定の気質(性格)との相関関係を指摘している。
体格を肥満、細長、闘士、発育異常型にわけ、気質をてんかん《ヽヽヽヽ》、躁鬱《そううつ》、分裂型に大別してみると、圧倒的に躁鬱質は肥満者、分裂者は細長体格者に多くみられる、というのである。そして、クレッチマー教授は、躁鬱気質のうちでも多い軽躁型の特色を、次のように認定した。「社交的、善良、親切、暖かみがある。活発、激しやすい」。また、「疲れを知らぬ活動力、ぬかりなさ、果敢さ」も長所としてあらわれ、精神的テンポも早く、「理解も敏速で多くのことを同時に把握し」、よく「刺激に順応する」こともできる……。
むろん、これが精神病者になると、ただ陽気でとりとめがなかったり、逆に沈んだ無能力者となるが、いずれにせよ、肥満体の人物には以上に述べた性格の持ち主が多いというわけであり、そして、山下将軍も日本陸軍有数の巨漢である。
山下中将は、すでに大佐時代に“歩兵砲”のアダ名を得ていた。三十七ミリ口径十一年式平射歩兵砲の重量は九十キロ。山下大佐の体重も九十キロだからだが、シンガポール攻略戦のころは、体重はさらに十キロは増し、約百七十四センチの長身に、ベンベンたる太鼓腹を誇るみごとな肥満人であった。
山下将軍は明るい人柄で、使用人あるいは出入りの商人にも、「いつもフンフンと鼻歌まじりにニコニコとあいさつされ、気さくに話しかけていた」と、使用人の一人田尻せん《ヽヽ》は回想する。
田尻せん《ヽヽ》がころんで腰をうったときなど、ドスドスと廊下をふみならしてかけつけ、フトンだ、医者だ、と大騒ぎで看病してくれたのも、将軍である。部下にたいする思いやりも深い。将軍が二・二六事件のさい反乱将校に同情を示して天皇の不興をかったことは名高いが、それも叛軍指揮者の中に、かつて連隊長時代に訓育した歩兵第三連隊出身者がいたためだ、と伝えられている。
また、将軍はひどく細心な面をもっていた。ひまさえあれば大いびきをかいて居眠りを楽しみ、服装もどちらかといえば無頓着だが、衛生には人一倍関心が強く、なま水はのまず、不潔とみられる食物には決して手をださない。ハエを嫌い、フィリピンの山中の逃避行のときも、ハエたたきをはなさなかった。
おしゃれではないが、口ヒゲに白毛がまじるのを気にして、毎朝、黒チックで染めていた。
おそらく、旧陸軍軍人の中で、山下将軍ほど武技に興味をみせなかった武将も少なかったかもしれない。柔剣道はもちろん、体操にはげむこともなく、当時の軍人のシンボルである軍刀にも、格別の関心をはらわなかった。終戦となり、米軍に降伏して軍刀をさしだすことになったとき、将軍はどうも名刀でないので、と苦笑すると、参謀長武藤章中将が、「いや、閣下、私のは業物《わざもの》ですから、恥をかくことはありません」と答えたというエピソードが、伝えられている。
しかし、武技、体技の習練に熱中しなくとも、山下将軍は乗馬には巧みな手綱さばきをみせ、また勇敢でもあった。
将軍が少将で、朝鮮・竜山の第二十師団第四十旅団長をつとめていたとき、支那事変が起こった。山下旅団にも動員令がくだり、旅団は、北京南苑の郊外で、敵と遭遇した。そのとき、山下少将は、第一線の兵のうしろに立ち、乗馬ムチをふりまわしながら、兵の射撃を指導した。
「オイ、もっと右だ、右……それじゃ、あたらんぞ、ほれ、こんどは左、少し左……」
巨大な少将は格好の目標である。たちまち少将のまわりの高粱《コウリヤン》が、集中する機銃弾ではじけとび、副官は大声で「閣下、あぶない」と身を伏せながら叫んだが、少将は平然と兵の射撃指導をつづけた。
だが、この勇敢さは、たんに少将が豪胆であったためではなく、少将の細かい情勢判断と計算にもとづいていた。
山下少将は言葉使い、礼儀作法にもやかましく、しばしば“副官泣かせ”の異名を得たが、支那事変がおこると、直ちに介石は後退戦術をとって長期戦化をはかることを見抜き、また英米ソ三国の支援を絶たぬ限り事変終結は望めないと見定めるなど、判断の広さとす《ヽ》早さを示した。射撃指導にしても、敵の射撃の方角と量を見きわめ、危険はあるが、むしろ、味方の射撃の正確さにより、容易に制圧できると考えたからである。
背の高さをこす高粱にかくれてせまる支那兵を防ぐため、高粱畑に味方陣地から放射状に道をつくらせて監視を便利にするなど、巧みな着想にもめぐまれていた。
つまり、山下将軍は、大いびきをかいて居眠りする“明るさ”、部下をいたわる“暖かみ”、細心な“ぬかりなさ”、銃弾に身をさらす“果敢さ”という最も明白な軽躁型気質の持ち主であったわけだが、その特質はシンガポール攻略の作戦指導にも、いかんなく発揮された。
山下将軍は、マレー半島北部に上陸し、半島を南下してシンガポール島を攻略する作戦計画をいちべつすると、即座に作戦の性格を判定した。
与えられた第二十五軍の兵力は、第五、近衛、第十八師団を基幹として、総員十二万五千四百八人、車輛七千三百二十台、馬一万一千五百十六頭になるが、全員がそろうのはシンガポール島攻略直前であり、上陸兵力は第五師団の三個連隊、第十八師団の一個連隊、計約二万六千六百四十人であり、うち戦闘部隊は一万七千二百三十人にとどまる。
一方、マレー半島、シンガポールには英、オーストラリア、インド軍約八万人が布陣していると推定された。しかも、マレー半島南下に適する道路は限られ、少なくとも、二百以上の橋がかかっている。ということは、当然、敵は要地で抵抗するとともに、次々に橋を破壊して味方の前進をくいとめようとするにちがいない。
味方は、敵の五分の一の劣勢である。持久戦になっては勝ち目がない。
「勝算はただひとつだ。ドイツの電撃戦は敵の中央にクサビをうちこみ、両翼に迂回《うかい》して包囲する戦術だが、こちらは道路をまっすぐジョホールバル(マレー半島南端)までキリもみで行く。包囲は不要、残敵は後続部隊が始末すればいい」
突進又突進なり――と、山下将軍は日誌に方針と覚悟を記述し、昭和十六年十二月八日午前二時すぎ、マレー半島北部に近いタイ領シンゴラの海岸に上陸した。
さて、山下将軍の相手であるパーシバル中将について、「ザ・タイムス」紙特派員イアン・モリソンは、次のような人物評をこころみている。
「(パーシバル)中将は……やせて背が高い。そしてウサギのように二本の前歯が突き出ている。社交的につきあうぶんには、とても魅力的な紳士だが、可能性を見出す前にまず困難に注目する、といった消極的な人物である。野心も、特色も、信念もない。性格は強くなく、指導者としては部下(将軍は名前だけしか知らず、個人的接触はしない)にも、一般市民にも人気がない」
クレッチマー教授は、細長型、つまりやせ型の人物に最も多くみられるのが分裂気質だといい、その気質の特徴として、「静か、まじめ、臆病、敏感、神経質」その他をあげ、とくに行動面では「貴族的な繊細さ、ときに激しく興奮するが決断がなかなかつかない。自分を悩まし傷つける環境をいやがる」傾向が、目立つという。
この教授が説く類型は、まさしくモリソン記者が報告するパーシバル中将の影像にぴったり符合している。
その意味で、シンガポール戦は、肥った指揮官とやせた指揮官、あるいは躁鬱気質者と分裂気質者の戦いという、特異な側面も具備していたわけだが、パーシバル中将の戦争にたいする反応は、山下将軍以上に、クレッチマー教授を喜ばせたにちがいない(注、クレッチマー教授は一九六四年死去)。
マレー半島には、英軍一万九千六百人、オーストラリア第八師団一万五千二百人、インド第三軍三万七千人、マレー義勇軍一万六千八百人、計八万八千六百人がいた。だが、装備は至って悪く、口径十センチ以上の火砲は、シンガポール要塞以外には無く、戦車は一台もなかった。飛行機も旧式の戦闘機、爆撃機その他計百五十八機しかなく、開戦と同時に飛来した日本機に、あっという間にほとんどが撃墜破されてしまった。
シンガポールの守りのために派遣された英戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」、巡洋戦艦「レパルス」も、十二月十日、マレー半島南東岸沖で、日本海軍航空部隊に撃沈された。
すなわち、マレー英軍は制海、制空権のいずれも失うという劣勢の下で、山下軍を迎えねばならなかった。マレー半島のどこかに強力な防禦線を定め、全力を投入して日本軍を阻止する以外に、防戦の方法はないであろう。
ところが、パーシバル中将の作戦指導は“優雅”なものであった。
マレー英軍も、もし日本軍がシンガポール攻撃をめざすとすれば、マレー半島北部に上陸することを予想し、そのさいタイ領に進出する「マタドール」作戦計画を用意していた。
ところが、パーシバル中将は、山下軍輸送船団接近の報告を得ながら、「マタドール」計画発動をちゅうちょして、日本軍上陸をむかえてしまった。日本軍が本当に、上陸してくるかどうかを疑い、「日本は支那との戦争に疲れている。ゆえに大英帝国と戦う意向はないはずだ」と、希望的観測をふくめて信じていたからである。
マレー半島の兵力配置も緻密《ちみつ》さを欠いていた。半島には総兵力の約三分の二、五万八千人が布陣していたが、要所と思われる地点にはしらみつぶしに配置したため、もっとも多い地域でも五千人に満たなかった。
兵力の分散であり、日本軍が英軍にはない戦車、大口径火砲、それに空軍の援護も確保していることを考えれば、安易にすぎる措置である。
おまけに、パーシバル中将は、日本軍上陸の報告をうけたあと、八カ月前に用意された、市民に決意をうながす布告を発表したほかは、政府代表や陸海軍幹部を集めた「極東戦争指導会議」を組織すると、ほかにはなにもせず、ただ山下軍の南下を待っていた。
毎朝、九時に司令部に出勤し、五時に宿舎に帰ると、平時と同じく夕食と食後のブランデーを楽しみ、窓から吹きこむ夜風を首すじにうけながらの読書のひとときをすごして、ベッドにはいる……その生活のペースとテンポは、相次いで届くマレー半島部隊の敗北の報《しら》せにも、くずれることはなかった。
しかも、パーシバル中将は、十二月十三日、半島北部の堅陣“ジットラ・ライン”が、第五師団捜索連隊長佐伯静夫中佐ら五百八十一人をはじめ、第五師団主力に一気に突破されると、オーストラリア部隊の一部を、シンガポール島にひきあげさせた。
海から攻撃されるかもしれない、という中将の言葉に、オーストラリア第八師団長ベネット少将が、それならいっそ全兵力をシンガポール島防衛にまわしてはどうか、というと、中将は、答えた。
「残念だが、島にはそれだけの兵を収容する兵舎がないよ」
戦争だというのに、兵舎が心配なのか……と、ベネット少将はぼう然とした。
このような調子なので、山下軍が「突進又突進」と、遮二無二、一千キロを突破して一月三十一日、シンガポール対岸のジョホールバルに達したときも、シンガポール島の防衛準備は、ほとんどととのっていなかった。
ベネット少将がパーシバル中将に質問すると、中将は当惑げに説明した。
「ゴルフ場を陣地にしようと思うのだが、委員会は三月一日の総会できめなければ許可できないというし、苦力《クーリー》の労賃が値上がりして、規定の一日四十五セントでは集まらないし……」
山下将軍は、シンガポール島攻略も突進戦法以外にない、と判定していた。
すでに二月十一日、紀元節にシンガポールを陥落させる、という作戦命令をだしている。一方、攻略のための準備は、意外に不十分である。兵力は本来の第二十五軍が勢揃いして、火砲も約四百四十門がそろえられたが、問題は砲弾であった。
各砲千五百〜二千発を用意できる見込みだが、上陸準備、突撃(渡河)準備、シンガポール島の最重要地「ブキテマ」高地奪取、その後の戦闘と四段階にわけた作戦のうち、第二段階で八百発を使うことになっている。してみれば、二千発としても、せいぜい三、四日でうちつくす計算になる。
上陸は二月八日――もし二月十一日までにシンガポールが陥落しなければ、タマがなくなってしまうのである。
細心な山下将軍としては、本来なら、いま少し余裕ある計画が好ましかったが、将軍のいまひとつの性格である敢為性はさらに極限状態に身をおいて、否応なく使命達成をはかる方策を採用させた。
砲弾が二月十一日までなら、食糧もそれまでとしたのである。たとえば、第五師団の場合、兵が携行した糧食は各人「精米三日ぶん、乾パン二日ぶん、罐詰肉三個、粉ミソ、粉醤油五日ぶん、食塩、砂糖二回ぶん」となっている。しかし、戦闘中に炊事はできない以上、兵が頼れるのはせいぜい乾パンと罐詰くらいであろう。
二月十一日までに敵を降伏させて、その食糧を入手しなければ、山下軍はタマもなく、食物もなく、シンガポール島で立ち往生を予想されるのである。
はたして、ブキテマ高地攻撃が手間どると、山下軍は全線にわたって攻撃がにぶった。山下軍の砲弾が不足を告げたのにたいして、たっぷり余裕を残す英軍の砲撃は激しく、さらに食糧不足は、兵に一千キロ突破行の疲労を一段とつのらせ、損害は急増した。
参謀副長池谷半二郎大佐、そして強気の作戦参謀政信中佐も攻撃中止を進言したが、山下将軍は「敵も苦しんどる」と、しりぞけた。
英軍にとっては、絶好の反撃チャンスであったが、パーシバル中将は、前線から日本軍停滞の報告をうけながら、トーマス総督が、降伏にそなえて紙幣の焼却、百五十万本のウイスキー投棄を命ずると、「スピリット(精神、俗語では酒の意味)は失われた」と言明して、二月十五日、降伏使節を山下軍に派遣した。
山下将軍とパーシバル中将との降伏談判で、パーシバル中将は、持ち前の性格をあらわに、低い声でくどくどと降伏条件の緩和《かんわ》を求め、不決断ぶりを示した。
山下将軍は、イエスかノーだけ表明せよと大声で叫び、降伏を納得させた。
のちに、山下将軍は、「あれは威嚇《いかく》だった。こっちの歩兵砲には三発しか残っていなかったからな」と述懐したが、シンガポール戦が終わると、東京では、勝利を祝う歓声とともに、山下将軍の指揮ぶりにたいする批判もささやかれた。
日本軍の死傷九千六百五十七人(うち戦死三千五百七人)、英軍側約七千人と日本側の損害のほうが、大きかったことが、あるいは山下将軍がときに示す威力誇示性によるものではないか、と、大兵力の指揮官の適性に疑問をもたれたわけだが、その確認の機会はついに与えられなかった。
山下将軍は昭和十九年十月、第十四方面軍司令官として、フィリピンに赴任したが、フィリピン防衛態勢の不備を是正するひまもなく、ただ山中にこもってマッカーサー軍と持久するだけに終わったからである。だが、ことシンガポール戦の戦例をふりかえるとき、山下将軍とパーシバル将軍との対決には、指揮官としていかなる性格が有用か、また強い性格の持ち主の場合、その組みあわせの態様と結果が明示されているといえよう。
本 間 雅 晴
本間雅晴《まさはる》中将の指揮する第十四軍主力が、フィリピンの主島ルソン島北部リンガエン湾に上陸したのは、昭和十六年十二月二十二日であった。
本間中将は当時五十四歳、英国駐在武官を長くつとめ、文人的な将軍として知られていた。昭和三年、中佐のときに作詞し、名軍歌といわれた「朝日に匂う桜花」に次のような一節がある。
「君の恵の深ければ 内に平和の栄《さかえ》あり 国の守りの堅ければ 外侮《あなど》りを受けずして 文化の流れを汲み分けて 進む一路は極みなし」
平和、文化など、およそ軍歌には異例の単語であり、中将の視野の広いインテリぶりをうかがわせている。
そして、この本間中将の“文化性”がフィリピン攻略戦をふりかえるとき、つねにひとつの問題――指揮官と知性との関係――を提起しているのである。
第十四軍の使命は「比島(フィリピン)ニ於ケル敵ヲ撃破シ其ノ主要ナル根拠ヲ覆滅《ふくめつ》スル」ことにある、と定められていた。第十四軍の上級機関である南方軍は、さらにその目標を「主要ナル根拠特ニ首都『マニラ』」と指示し、マニラ市攻略は昭和十七年一月十六日と予定していた。
第十四軍は、第十六師団(森岡皐《すすむ》少将)、第四十八師団(土橋勇逸中将)、第六十五旅団(奈良晃中将)を基幹としたが、本間中将は第十六師団をマニラ南東のラモン湾に上陸させ、リンガエン湾の第四十八師団とともに、南北からマニラを攻め落とし、応召兵が多く素質が低下している第六十五旅団は、作戦終了後の整備部隊にあてる考えであった。
本間軍は予想以上のスピードで前進した。とくにリンガエン湾から南下する第四十八師団は、橋を破壊しながら抵抗らしい抵抗もせずに後退する米比軍に首をかしげつつ、予定より一週間も早い進撃速度を示した。
ところが、十二月二十七日ごろには、マッカーサー大将が指揮する米比軍は、マニラを捨ててバターン半島にろう《ヽヽ》城する動きを明らかにした。第四十八師団長土橋中将は、「マニラ市突入は一部の兵力をあて、主力は敵に追尾してそのせん《ヽヽ》滅をはかるべきだ」と、意見具申した。
だが、本間中将は、マニラを主目標とすべしという参謀長前田正実中将の意見を採用した。
じつは、米比軍がバターン半島にたてこもるであろうことは、事前に予測されていた。そして、その予測を最初に指摘したのは、前田参謀長であった。
前田参謀長はフィリピン通であった。大尉時代に密命をうけてフィリピンを踏査し、その後もフィリピンの歴史、政治、経済、社会、民族性その他、こと細かに実情を調べていた。
南方攻略作戦が計画され、昭和十六年十月、各作戦担当予定者が陸軍大学校に集まって図上演習をこころみたとき、前田参謀長は、質問した。
「作戦の目的は敵兵の撃滅にあるのか、マニラという要衝の占領にあるのですか。米西戦争(米国とスペイン)のように、米比軍は、バターン半島に逃げこむ公算があるが、その場合はどうしますか」
図上演習では、マニラ周辺で日米軍の決戦がおこなわれ、やがてマニラ入城で作戦が終わる、という構想が示された。
これは、首都の陥落イコール降伏、という旧式の兵術思想のあらわれであり、前田参謀長は、歴史に照らしてみても、時代遅れとみなした。いや、現に支那事変は、そのつもりで首都南京《ナンキン》を攻略しても、介石軍は手をあげず、いまだに“延長戦”がつづいているではないか。
しかし、南方軍参謀副長青木重誠少将は『とにかく、政戦略関係からまずマニラを攻略し、バターンに米比軍が退避しても、マニラ攻略後にゆっくり処理してほしい」と、きっぱり明言した。参謀本部も、同様の意見をひれきした。
前田参謀長の質問には、もうひとつ、マニラという場合、マニラ市だけを考えていいのか、という問題点もふくまれていた。
地図を一見すれば、すぐ理解できるが、マニラ市はマニラ湾岸にある。そして、マニラがフィリピンの首都として機能するためには、マニラ湾が確保されねばならない。米国はそのためにバターン半島、さらに半島南端のコレヒドール島に陣地を築き、マニラ湾防衛をはかっている。
つまり、マニラ攻略は、バターン半島、コレヒドール島をこみ《ヽヽ》にして、はじめて成就できるのではないか。
南方軍は、しかし「マニラ」市でいい、といい、前述の命令にも「首都マニラ」と明記した。ひとつには、フィリピン作戦のあとにはジャワ攻略作戦がひかえている。第四十八師団はジャワにふりむける予定なので、一日も早くフィリピン作戦を終える必要があったからである。
首都を攻略すれば敵は降伏する、という旧式思想とともに、長期間の作戦は無理な事情から、そうあってほしい、との希望的観測が「マニラ市」攻略構想によどんでいた、といえる。
およそ、作戦計画はつねに最悪の事態を予想して立案してこそ、健全なものとなる。自分に好都合な希望的観測にすがり、または周囲の状況にとらわれすぎるのは、最も拙劣《せつれつ》かつ危険である、とは、どの国の士官学校の教科書にも明記されている。
むろん、本間中将もそれは承知している。が、本間中将がとった措置は多くこの初歩的な戒めに反するものであった。
昭和十七年一月二日、マニラ市は陥落した。すでに“オープン・シティ”(無防備都市)が宣言され、陥落というよりも、実質的に開け渡された感じであった。市内は無秩序状態で、無頼の徒が横行し、キャバレーは騒々しく営業をつづけていた。
本間中将は、前田参謀長の献言にしたがい、参謀副長林義秀少将、高級参謀(情報)高津利光大佐、参謀(作戦主任)牧達夫中佐、同(情報主任)中島義雄中佐らに、軍政担当を命じた。
マニラ占領で一応の作戦は終わり、あとは占領行政でフィリピン市民の対日協力を確保すべきだ、という前田参謀長の意見は、広い視野をもつ本間中将の意にかなった。また、参謀長は、バターンの敵は封鎖により自滅させるべきだ、と述べたが、この見解も、近く第四十八師団を転用され兵力が不足する第十四軍にとっては、適切である。……
第四十八師団長土橋中将からは、しきりに、戦いの目的は敵軍の撃滅にある、不動産(土地)の確保ではない、といった進言がよせられるが、本間中将は、前田参謀長に、いった。
「『海』(第四十八師団の暗号名)はジャワ行きの準備もある。追撃は必要だが、実際に命令しては『海』も良い気持ちはしないのでは、ないかな」
この意向が伝えられると、土橋師団長は心外の想いに眼を光らせた。
「なんという遠慮だ。いやしくも戦場ではないか。必要とあれば、どんな命令でもだすべきであろう。よろしい、私はすぐにバターンに行く」
もっとも、第四十八師団はたしかにジャワ行きの準備があるので、師団はバターン半島入口付近で数日間の戦闘をしたにとどまり、バターン攻撃は、警備任務を予定された第六十五旅団に、命ぜられた。
この攻撃については、前述の如く、前田参謀長は反対であり、主として高級参謀(作戦)中山源夫大佐の主張によった。
その根拠は、バターンの米比軍兵力はせいぜい四万人たらず、食糧貯蔵も不十分であろう。南方作戦全体から考えればいつまでも敵を半島にばん《ヽヽ》踞《きよ》させておくことはできない、というのであった。
本間中将も、敵の半島ろう《ヽヽ》城はフィリピン市民の対日協力に影響を与えると判断していた。そこで、第六十五旅団の攻撃となったわけだが、このとき、中将は重大なミスをおかしていた。
そのひとつは、司令部内の意見対立を十分に統一して、綿密な作戦計画を準備しなかったこと、もうひとつは、敵情にたいする調査を未熟のままに攻撃したことである。くわしい地図もなかった。
おかげで、第六十五旅団は、昭和十七年元旦にリンガエン湾に上陸すると、直ちにバターン攻撃の命令をうけ、そのまま二百キロの炎天下の道を行軍し、一月八日、第四十八師団と交代すると、へとへとになったまま、大まかな二十万分の一地図を頼りにバターン半島にとびこむことになった。
第六十五旅団長奈良中将は、指揮下の四個連隊のうち、武智漸《すすむ》大佐の第九連隊をナチブ山に、今井武夫大佐の第百四十一連隊を東岸沿いに進ませた。一方、第十六師団からも、吉岡頼勝大佐の第二十連隊が、半島西側を攻撃した。
ところが、バターンには四万人どころか、約八万人の米比軍が三重の防禦線を敷いて待っていた。おまけに半島は密林と高地におおわれ、ろくに道もない。
吉岡連隊のうち、半島西岸を舟艇で迂回した垣広成長中佐指揮の第二大隊は、上陸地点をまちがえて、敵の重囲下におちこみ、ほとんど全滅してしまった。木村三雄少佐の第一大隊も、吉岡連隊長直率の第三大隊も、いつの間にか敵に包囲され、馬肉を食い、樹脂をすすって耐え忍ぶのが、せいいっぱいであった。
武智、今井両連隊も苦戦した。武智連隊は、ナチブ山のジャングルにまよいこみ、十日間というもの、消息不明になった。今井連隊も、地理不明、敵情不明の状況で突進をつづけたため、戦闘開始二週間で兵力の半分を死傷させる結果となった。
本間中将は、二月八日、バターン半島入口のサンフェルナンドの戦闘司令所に幕僚を集め、作戦会議を開いた。
この日は第四十八師団がフィリピンを離れる日でもある。第十四軍には予備兵力がなくなる。もし、敵が反撃してきたら、もはや、太刀打ちは困難になるだろう。攻めあぐんでいるバターンの敵にたいして、このまま攻撃を続行するか、別の策案を考えだすか、第十四軍は重大な局面に立っていた。
再び意見は、われた。中山高級参謀は、いぜん攻撃をつづけて戦いの主導権をにぎるべきだ、と強調し、前田参謀長は、いったん戦線を整理し、援軍を待って後図を策すべきだ、と述べた。
本間中将は、苦慮した。中将は、日露戦争を思いうかべた。
「日露戦役南山攻撃に於ける死傷者は約三千名で、日清戦争の全死傷者に匹敵する。然し一日で敵の陣地を奪取した」
戦史と兵理は、損害を減少しようとしてちゅうちょすれば、逆に損害を増す。大なる戦果に大なる犠牲はやむを得ぬ、と説いている。
しかも、この日、東京からは、バターン攻略の遅延について、天皇も“痛くご軫念《しんねん》遊ばさる”旨の電報が届いていた。
本間中将は、文人的な将軍ではあるが、“文弱”ではない。敵を前にして一歩でも後退し、援軍を要請するなどは武人の恥辱とわきまえている。まして、忠誠を誓う天皇の名で督戦をうけるとは……本間中将は、会議の前、ひとり自室で電報をにぎりしめ、しばし机にうつぶして涙をこらえていた、と伝えられている。
そもそも、バターンは後でゆっくりといったのは東京(大本営)であり、上司の南方軍である。第四十八師団と第五飛行集団のひきぬきも、その意味できめられたはずである。にもかかわらず、あえて責任を追及するのは、見当違いではないのか。
本間中将の胸中には、屈辱感と不満の炎が燃えあがったが、中将には、体力の限界をこえている部下を叱咤して、みすみす生命を失わせる決心は、つかなかった。もっと早く、バターン突入にふみきればよかった、という悔恨もこみあげてくるからである。
本間中将は二月十日、前田参謀長の名前で参謀次長田辺盛武中将あてに、打電した。
「……軍に於いては茲《ここ》に血涙を呑みて現在の態勢を整理し、暫く戦力増強を図り……適当なる施策を講ずる様、決せらるるに至りし次第なり」
血涙を呑みて――の一言に、本間中将の無限の想いがこめられていた。
本間中将は、おりから視察にきていた参謀本部第一部長田中新一中将にたいして「バターン戦はご期待にそえず深くおわびする」といい、バターン、コレヒドールは封鎖でおさえ、ビサヤ諸島を攻略して、フィリピンの安定をはかる計画を、伝えた。
ところが、南方軍は、第十四軍の方針に眉をひそめた。
すでに第十四軍には第二十一師団の一部、第四師団など兵力の増強がきまっている。それなのにバターン攻撃を中止するのは、フィリピン作戦そのものの放棄にひとしく「帝国陸軍伝統の精神にも反する」。
南方軍と参謀本部は、他の南方地域の作戦がスムーズに進んでいるとき、バターンのマッカーサー軍だけが健闘しているかの形は、不快に思っていた。米国も、大々的に宣伝している。まことに、日本陸軍の恥辱というべきであろう。
中山高級参謀はじめ、司令部内からも強硬意見が具申された。南方軍第一課(作戦)高級参謀石井正美大佐からは、とくに中山大佐あてに「甲案(攻撃案)採用ヲ希望セラル」という激励電が届いた。
本間中将は、熟慮の日をかさねた。およそ一週間以上も、慎重に考慮したのち、二月二十日、再び作戦会議を開き、乙案(ビサヤ先攻案)を決定して、寺内南方軍総司令官に報告した。
「……乙案を以て進むことに決心したるに付き報告する。本件に関し……総司令官閣下に多大の御迷惑を及ぼし誠に汗顔の至りに堪えず、深く御詫び申上ぐ」
南方軍は、翌日、前田参謀長、牧参謀らの更迭《こうてつ》で回答した。
和知鷹二少将が新参謀長に命ぜられ、参謀本部第一課長(作戦)服部卓四郎大佐が作戦計画をたて、参謀(作戦班長)政信中佐、瀬島竜三少佐も、派遣された。
あとは“東京”がやる――といわんばかりの措置である。
第二次攻撃は、四月三日、神武天皇祭を期して開始された。
火砲約三百門、飛行機百二十八機をそろえ、兵力は第四師団をはじめ、第五師団、第十八師団からも増派され、約三万人が第一線にならんだ。事前の戦闘訓練もおこなわれた。
マッカーサー大将はすでにコレヒドールを脱出し、全指揮官はジョナサン・ウェンライト中将に、バターン守備軍の指揮はエドワード・キング少将に与えられていた。
作戦はほとんど和知参謀長と中佐らで運営され、本間中将は「床の間のかけ軸」的存在であったが、いざ攻撃を開始してみると、バターン米比軍ははやくも四月九日、降伏した。食糧不足とマラリヤに悩み、体力、士気ともに低下していたからで、ウェンライト中将は抗戦を命じたが、キング少将は拒否して、トランク一個をかかえ、日本軍の軍門にくだった。
そのあっけなさに、日本側は驚いたが、さらに仰天したのは、四万人たらずとみこんだ敵兵力が、なんと米兵一万二千人、フィリピン兵六万四千人、計七万六千人もいたうえに、難民二万六千人が、バターンにいたことである。
バターン戦のあとには、コレヒドール島攻略戦がひかえている。
コレヒドール島攻略にはバターン半島が基地になる。おまけに半島は名だたるマラリヤ蚊の巣窟であり、米比軍に患者は多い。本間中将は直ちに捕虜の後送を命じた。
トラックがないので、捕虜は徒歩行軍した。四月、五月はフィリピンの盛夏である。弱った捕虜、とくにマラリヤ患者の米兵は次々に倒れ、その数は約二千三百人と記録された。
しかし、北にむかう捕虜といれ違いに南下する日本軍は、その姿にせん《ヽヽ》望の眼をみはった。今井武夫大佐が、記述している。
「数万の捕虜が、着のみ着のままで飯盒と水筒だけをブラ下げてえんえんと行軍していた……背のう《ヽヽ》を背に、小銃を肩にして、二十キロの完全武装に近いわれわれからみれば、彼らの軽装と自ままな行動を、心中密《ひそ》かにうらやむ気持ちすらないとはいえなかった」
そして、バターン半島にはいると、日本軍はばたばたとマラリヤに倒れ、一時は、コレヒドール島攻撃の延期が考慮されたほどであった。
バターンの捕虜の行進は、“死の行進”の残虐行為として喧伝《けんでん》された。しかし、もし移送しなければ、すでに弱りきっている捕虜は、あるいは全滅状態になったかもしれない。むしろ、“生の行進”ととなえるべきであったはずである。
ところで、コレヒドール島も五月五日に上陸作戦がおこなわれると、翌六日にウェンライト将軍は降伏して、フィリピン作戦はようやく終了した。
そして、フィリピン作戦をふりかえるとき、本間中将の立場は同情をもって回想できる。
本間中将は作戦終了後、バターン第一次攻撃の失敗の責任をとらされて予備役に編入された。だが、その責任は、むしろ、土地(マニラ)か人間(敵軍)か、攻撃目標を明確にしなかった上級機関にあり、またバターン封鎖のほうが、より損害の少ない作戦であったともいえるからである。
しかし、同時に、本間中将の作戦指導には、幅広い配慮にとらわれすぎ、変化に応じたすばやい臨機の決断がおくれていたことも、たしかである。
その理由を、中将の“文人性”に求めることは容易かもしれないが、本間中将の最期は、むしろその“武人性”をはっきりと示して剛毅であった。
中将は、終戦後、バターン“死の行進”の責任者ということで、マニラ軍事法廷で戦争犯罪人としてさばかれた。
“死の行進”が誇張であり、中将の人格がそのような非違を許さぬ高潔なものであることが立証されたが、判決は死刑であった。
ただ、刑が他の戦犯者の多くが一般市民なみの絞首刑であるのに、軍人としての銃殺刑だったのは、さすがに法廷も判決の無理を自覚していたとみられる。
本間中将は、昭和二十二年四月三日、ちょうどバターン第二次攻撃日の五周年“記念日”に、処刑された。
執行前、本間中将はビールとサンドウィッチ、さらにビフテキ、食後のコーヒーまで所望してたいらげた。柱に固縛され、銃殺隊長の「用意」の声がひびくと、中将は大音に叫んだ。
「さあ、来いッ」
胸部を貫いた命中弾は六発――中将の身体は、絶命後もなおその流血の胸をはったまま、動かなかった。
栗 林 忠 道
くにを出てから幾月ぞ
ともに死ぬ気でこの馬と
攻めて進んだ山や河
とった手綱《たづな》に血が通う
戦争中の国民歌『愛馬進軍歌』の冒頭の一節である。そして、作詞者・栗林忠道中将は、とった手綱に血が通う、という一句が、とくに自慢であった。
中将が作詞したのは、騎兵大佐、陸軍省馬政課長時代である。この一句に、騎兵の本領である「人馬一体」精神と、あわせて“無言の戦士”軍馬にたいする情愛を表現し得た、と満足したわけだが、堅苦しい語句がない歌詞と軽快なメロディとで、歌は広く愛唱された。
中将の“文名”は高まった。もともと、陸軍大学校を、二番で卒業した秀才であり、米国、カナダに駐在武官勤務の経験もある。端正《たんせい》な容姿にも、めぐまれている。当時の陸軍将校の中で最もダンディな将軍、かつ、いわゆる“文人派”の代表的存在に数えられがちであった。
だが、栗林中将は、その貴族的なふんい気や文才で群をぬいていたと同時に、日本陸軍が生んだ最も果敢な指揮官の一人でもあった。
栗林中将は、昭和十九年五月二十七日付で第百九師団長に親補された。第百九師団は新編成の部隊で、小笠原地区集団の主力であった。守備範囲は小笠原諸島の父島、母島、硫黄島、南鳥島におよんだ。栗林中将は小笠原地区集団長を兼ねたので、司令部は、父島におくことが提案されたが、中将は、首をふった。
「小笠原諸島のうち、硫黄島こそ最良の飛行場を持つ最重要な戦略拠点である。敵の目標も硫黄島にあること必至であろう。そのさい、指揮官は戦場の焦点に位置すべきであり、後方に安閑の地を求めることは許されない」
栗林中将は、指揮下の各部隊の集結を待たず、六月八日、専属副官一人をつれて硫黄島に着任した。その一週間後、サイパン島に敵が上陸し、硫黄島も牽制空襲をうけた。
サイパン島に敵が来た以上、サイパンと東京の中間にある硫黄島の飛行場をめざして米軍が来攻するのは、自然かつ時間の問題と判断すべきである。サイパンを確保した場合、米軍にとって硫黄島はサイパンから日本本土にむかうB29爆撃機の不時着場あるいは護衛戦闘機の中継基地として利用できるほか、日本側の反撃基地を消滅させる意味でも、その攻略は絶対に必要だからである。
小笠原地区集団は小笠原兵団に増強改組され、歩兵第百四十五連隊、戦車第二十六連隊はじめ兵団兵力のほとんどが硫黄島に送られた。
栗林中将は、硫黄島を大地下要塞にして敵を迎えることにした。
硫黄島は小さい。広さは約二十平方キロにすぎず、端から端まで一番長いところ(北東→南西)で約八・三キロ、最もせまい千鳥ヶ原南部は約八百メートル。おまけに、南端に高さ百六十九メートルの摺鉢《すりばち》山がもりあがっているほかは、全島はほぼ平坦である。
この平たい地形が飛行場適地となったわけだが、戦場としてはまことに守り難い場所である。地下壕陣地に頼って敵撃滅をはかる戦術は、いわば地形上の当然の結論ともいえたが、その実行は極度に困難であった。
硫黄島の生活条件は劣悪だった。栗林中将はとくに清潔好みであったが、宿舎にあてられた民家にはいったとたん、眼をむいた。なんと「油虫というグロテスクな不潔虫」が足音が聞こえるほどに群棲し、ハエも話をすれば口中にとびこむほど、一面にうなり飛んでいる。
アリも、多い。地面といわず樹の幹といわず家の柱といわず、びっしりとはいまわり、夜は巣に帰るのか、いくらか減少するようだが、それでも服を着たままの身体じゅうを動きまわる感触で一夜に二、三度は眼をさまさせられる。
中将にしてみれば、まるで「ゴミ捨て場に居住」するようないまわしさだったが、さらに中将に、ショックを与えたのは、島の水不足であった。
硫黄島はその名のごとく、火山列島に属するので、摺鉢山の火山活動は終わっても、全島到る所に噴煙がふきだし、ところどころ湧出口が開き、硫黄ガスのにおいが島にたちこめていた。このガスと地熱のおかげで、ヘビ、毒虫はいなかったが、ほとんど湧水もない。飲料水はときに訪れるスコールを溜めるか、噴出する硫黄の蒸気を濾過《ろか》して入手する以外にはない。
栗林中将は、来島の日から、さっそく洗面器の底にためた水で眼を洗うだけの洗面ですごさねばならなかった。そのあとで副官が顔をぬぐい、さらにその水は捨てずに、便所の手洗い用にするのである。
野菜はすべて乾燥野菜、のちには少しばかりの菜っ葉を栽培したが、天水にも硫黄ぶんがまじりこむためか、煮沸《しやふつ》をおこたったり、海水を利用してコメをたくと、必ず猛烈な下痢におそわれた。
「皆々変りない事と思ひます。私も丈夫でゐますが、此の世乍《なが》ら地獄の様な生活を送つてゐます」
と、栗林中将は七月七日、五十三歳の誕生日に、東京の夫人に書き送っている。むろん、夫人あてにはともかく、中将は部下の前ではいささかの不満ももらさなかったが、島の悪環境は、敵弾以上に重大な脅威とみなさざるを得なかった。
栗林中将の地下要塞構想は、徹底したものである。
地下壕陣地は、地下十五〜二十メートルの深さに爆弾なら二百五十キロ以上、砲弾なら戦艦の主砲にも耐えられることを目標にし、とくに摺鉢山と北部台地の元山に主陣地をつくる。そして、海岸には半地下式の鉄筋コンクリート製トーチカを配するとともに、これらトーチカも地下で連結させるほか、摺鉢山と元山との地下連絡路、さらに島を一周する地下道もつくって、随時随所に敵の側背をおそえる態勢を確立しよう――というのである。
ところが、前述のごとく、硫黄島はおそらく地球上で最も地下坑道作業に不向きな土地である。
地熱が高く、地下十メートルでは摂氏四十九度にも達する。地下足袋の底のゴムもとけるほどで、兵たちはフンドシ一本の姿で、ときに防毒マスクをかぶってツルハシ、スコップで掘るのだが、一回の作業時間は三〜五分、とても、それ以上はつづけられなかった。
半日働けば、よほど体力がすぐれた兵でも、残る半日は激しい頭痛とたたかいながら、ふらふらと足がもつれる状態になった。そのうえに、島の生活条件の悪さが加わるのである。
このような悪状況下で、いかにして、兵に防備陣の完成を促進させ、敵撃滅の戦意を維持させることができるか――栗林中将が直面した課題は、おそらく戦史に例が少ない困難な指揮官のテーマだったといえる。
栗林中将は「指揮官陣頭、軍紀粛正、上下一体」の三要目を、その解答と見定めた。
中将は、次々に硫黄島部隊のスローガンを作成した。
「実戦本位、敬礼の厳正、時間の厳守、(命令)速達即行、油断大敵」は、中将がまっさきに考案し、島に新部隊が来着するたびに指示した要望事項だが、つづいて「日本精神ノ基幹ハ悠久三千年ノ尊厳ナル国体ヨリ生ス。我等ハ此ノ精神ヲ蹂躙《じゆうりん》スル敵撃滅ノ為凡有《あらゆる》苦難ヲ克服スルコトヲ誓フ」という「日本精神練成五誓」、また次のような「敢闘ノ誓」も作案した。
「一、我等ハ全力ヲ奮ツテ本島ヲ守リ抜カン……一、我等ハ各自敵十人ヲ殪《たお》ササレハ死ストモ死セス、一、我等ハ最後ノ一人トナルモ『ゲリラ』ニ依ツテ敵ヲ悩マサン」
さらに昭和二十年初頭、硫黄島部隊二万九百三十三人(うち海軍部隊七千三百四十七人)火砲百七十門(うち海軍二十三門)が勢ぞろいすると、栗林中将はあらためて「胆(兵団暗号名)兵の戦闘心得」十五条を配布した。
「……八方より襲ふも撃てる砦《とりで》とせよ、火網に隙間を作らずに戦友斃《たお》れても……広くまばらに疎開して指揮掌握は難かしい、進んで幹部に握られよ……一人の強さが勝の因、苦戦に砕けて死を急ぐなよ胆の兵……一人でも多く斃《たお》せば遂に勝つ、名誉の戦死は十人斃して死ぬるのだ……」
この「心得」は、たんなる励句《れいく》のら《ヽ》列ではなく、防備の重点、射撃要領、接敵のコツまでおりこんでいる。いかにも、『愛馬進軍歌』作詞者らしい中将の文才の産物であった。
栗林中将がこのような「誓」「心得」を著作したのは、これら文章を唱えることによって、将兵に共通の精神的基盤を与えることを心がけたわけだが、中将はさらに明確に具体的な指揮統率ぶりを示した。
栗林中将は、とくに指揮官の率先と、上下一体に厳しい眼を光らせた。
毎朝、中将は、散歩をかねて島内を一巡して、陣地構築、地下壕掘り、戦闘訓練のようすを見てまわった。いや、午後にも、ときには日に二度、三度と見回りをつづけた。
「……待て、そこに陣地をつくった場合、敵がここから来ると……」
と、中将は、いきなり大地に腹ばいになると手にした目盛り付きの指揮棒を、小銃のように構えて、まずい、もうひとつ、こっちに機銃陣地をつくって死角をなくすようにせよ、と指導したり、あるいは棒を砂につきたて、「これではトーチカがばくろしすぎる、もっと砂をかけたほうがいい」と指示するなど、その視察は、入念をきわめた。
「たぶん、閣下がいちばん島のようすはご存じだったでしょうな。だから、私ら、突然、閣下が予想外の場所から顔を出されるので、いつもびっくりさせられたものです」
とは、生き残りの大隊長の一人、原光明少佐の回想だが、栗林中将が視察の主目的のひとつにしていたのは、防備状況と同時に兵の士気、とりわけ指揮官の態度にあった。
中将は、作業や訓練中は、上官が巡視にきても敬礼する必要はない、と命令し、また服装も動作に便利なようにせよと指示していたが、一方、将校が兵よりも優雅な生活を送ることは厳禁する布告を発していた。
「将校ハ兵ノ食事ニ満幅ノ注意ヲ払フヲ要ス。将校ノ分ノミ別ニ炊事シ、兵ノ給食ガ如何ナル状態ニ在リヤニ無関心ナルガ如キコト断ジテアラザルヲ要ス」
とかく、上下の階級差が激しい軍隊では、将校と兵とに生活差が生まれ、ときにはそれが根強い上下離間の原因ともなる。まして、水不足、食糧不足の硫黄島で“食い物の恨み”が高じては、いざというさいの戦力に影響するであろう。
栗林中将は、条件が困難な場合、最も必要なのは、指揮官と部下との接触であり、その接触が低下すればするほど部下の士気は沈滞する、と考えていた。
だからこそ、毎日の巡視も欠かさず、また「全将校もれなく訓練、築城に邁進《まいしん》すること、ことに司令部、本部などの事務処理を徹底的に簡易化し、各級隊長はつねに現場に進出し、陣頭指揮の徹底をはかる」ことを命じていた。
そこで、中将は格別に指揮官のようすに注目して、もし兵たちに上官にたいする苦情がある場合は、いささかの容赦もなく隊長を追及した。
ある日、視察の途中、一人の隊長が洗面しているのを見ると、中将は激怒した。
その隊長は、洗面器にかすかにたたえた水に手拭をぬらし、捧げるようにそっと顔をあてていたのだが、中将は色をなした。水の一滴は血の一滴ほどに貴重視されている。スコールが降れば、たとえ深夜であろうと、全将兵はすっぱだかでとびだし、あらゆる容器に雨をうけ、木の葉に残るしずくの一滴もこそぎおとして、貯水にはげんでいる。中将も、同じである。それなのに、手拭をひたすなどとは、もってのほかの浪費であろう。
栗林中将は、文字どおりに烈火のごとく隊長をどやしつけ、その不心得をせめた。
中将の姿勢は、兵に感銘を与えた。硫黄島には、すでに敵機の来襲がひんぱんとなり、貯水槽も破壊され、物資の補給もとだえ、食糧不足、水不足は一段と深刻さをました。困難に負け、あるいは他隊の食糧を盗み、あるいは小銃で自らを傷つけて内地後送を願う兵も、出ていた。
「一に炊事二に将当三に計理で四に衛生」――と、兵の一人が将校当番兵をうらやんだように、将校の間にも空腹に耐えかねてその特権を行使する者もいた。そのとき、栗林中将の峻厳《しゆんげん》な態度が伝えられ、兵たちは一様に中将にたいする信頼感を強めた。
硫黄島将兵が、劣悪な条件下で士気を維持し、熱気にむされる地底に長大な陣地網を築き得たのは、この栗林中将の克己の指導によるものであり、中将によって与えられた将兵の感奮は、戦闘においても遺憾《いかん》なく発揮された。
硫黄島には昭和二十年二月十九日、米海兵第三、第四、第五師団が殺到した。三師団の兵力は七万五千百四十五人、七十五ミリ以上の火砲百六十八門、戦車約百五十台を用意したが、攻略部隊用の艦船四百九十五隻のほか、支援艦艇として旧式戦艦七隻、重巡四隻、駆逐艦十五隻、護衛空母十一隻が加わり、さらに大型空母十七隻を基幹とするマーク・ミッチャー中将指揮の第五十八機動部隊が参加した。
総指揮官は米第五艦隊司令長官R・スプルーアンス大将、攻略部隊指揮官としてH・スミス海兵中将、その下に第三、 第四、第五海兵師団を指揮下におくH・シュミット海兵少将の第五水陸両用軍団が配置される組織であった。
直接の戦闘兵力は七万五千余人だが、同行する海軍部隊将兵を加えると十一万千三百人に達し、そのための物資はぼう大であった。弾薬、食糧その他、攻略部隊だけで兵一人あたり一トンをこえる量がはこばれ、タバコは十億本、キャンデー、ひげそりクリーム、トイレットペーパーなどドラッグ・ストア六千店ぶんの雑貨も準備されていた。
硫黄島攻略につづいて沖縄作戦が予定され、硫黄島の攻略は「五日間」ですますと見こまれていた。そして、この見込みは達成できるものと、攻略部隊指揮官スミス海兵中将は確信していた。
すでに硫黄島には事前の砲爆撃がたっぷり加えられ、全島はほとんど緑色を発見できぬほどに焼けただれていた。上陸直前の砲爆撃も、爆弾百二十四トン、ロケット弾二千二百五十四発、ナパーム焼夷弾百発を空からたたきこみ、艦艇は十六インチから五インチ砲まで合計三万八千五百五十発をうちこんだ。
南端の摺鉢山は、約七分の一が吹きとび、島全体が爆煙につつまれて、まず「生物は生存し得ない」情況と思われた。
ところが、硫黄島将兵は、地下道は予定の二十八キロの約七十パーセントの約十八キロの完成にとどまったが、ほぼ大部分が地底にひそんで待っていた。
上陸部隊は第四、第五海兵師団の主力だったが、上陸そのものは比較的容易であったものの、海岸から内陸に至る低い斜面をこえようとした瞬間に、日本軍の猛射をうけた。
戦闘は、栗林中将のペースで進められた。
中将にとって痛手だったのは、摺鉢山と元山をつなぐ、地下道路が未完のままで、摺鉢山が孤立していたことである。もし、この二つの高所が地下で連結していたら、元山から適時に摺鉢山に増兵して、その麓に群がる海兵隊をせん《ヽヽ》滅できたはずである。
また、摺鉢山には硫黄島の主力火砲である海軍の十四センチ、十二センチ砲が配置されていたが、敵艦艇の接近にうながされて発砲した。栗林中将は、敵をあげてから撃滅する方針を指示していたが、おかげで砲台の位置が明らかとなり、海軍砲台の多くは敵の事前砲撃で破壊された。
おかげて、摺鉢山は二月二十三日、予想外に早く奪取され、栗林中将を歯がみさせた。
しかし、その後の戦闘は完全に栗林中将が予想した“地上対地下”の戦いという、かつて米軍が習ったことがない様相を呈し、米海兵三個師団はひたすら攻めあぐんだ。
栗林兵団二万人は、当時の軍隊の規準からいえば、三十歳前後の“老齢応召兵”が多く、精兵とはいい難かった。ところが、栗林中将の物心両面にわたる指導はまさに「心得」が強調した「一人の強さが勝の因」の覚悟を身につけた戦いぶりを示した。
海兵隊は、前面にひそむ地下壕陣地をひとつでも見逃せなかった。もし、見過ごした場合は、たちまち一夜あければその壕にいた日本兵が、破壊したいくつかの壕にはいりこみ、海兵隊は背後から攻撃されるからである。
海兵隊の戦術は、否応なく定型化せざるを得なくなった。朝七時ごろ、夜が明けて朝食をすませて前進し、午後四時すぎ、日没の前に停止して、もとの陣地に戻る。夜は、間断なく照明弾をうちあげ、鉄条網をはりめぐらせ、砂のう《ヽヽ》を積み重ねた陣地内で、日本兵の斬り込み夜襲を警戒しながらすごす。
前進距離は日に数ヤード、ときには数インチという身体をずらすだけにひとしい低速ぶりであった。しかも、その数ヤードの前進にも、死傷者を必要とし、三月十四日、ようやく日本軍の組織的抵抗が排除され、占領を記録する米国旗掲揚式がおこなわれたときも、各師団の一日平均前進距離は、最長が七十ヤード、そして死傷者は、一日平均百二十人と報告された。
だが、そのころになると、栗林兵団の拠点は島の北部と、東部の一隅に残存するのみとなっていた。三月十六日、その東部にいた西竹一中佐指揮の戦車第二十六連隊の残兵が掃討されると、同日午後、第三海兵師団は島の北端に達し、栗林中将は訣別電を大本営におくった。
「戦局最後ノ関頭ニ直面セリ……今ヤ弾丸《タマ》尽キ水涸《カ》レ全員反撃シ最後ノ敢闘ヲ行ハントスルニ方《アタ》リ……皇国ノ必勝ト安泰トヲ祈念シツツ永《トコシ》ヘニ御別レ申上グ……」
しかも、栗林中将は包囲された司令部壕の中でなおも持久戦を命じつづけ、三月二十六日未明、最後の突撃を下令した。しかも、指揮官は多く部下の突撃を前に自決するが、栗林中将は白ダスキをかけ、軍刀をかざし「進め、進め」と叫んで先頭に立った。
突進――それが騎兵の戦《いくさ》であり、それ以外に、騎兵の戦いはない、とは、栗林中将が、語っていた言葉である。あるいは、中将は最期を迎えるにあたり、この騎兵の戦を、誇示したかったのかもしれない。
そして、部下も、生活苦でも死でも、つねに先頭に立つ栗林中将に従った。中将は、負傷しながら突撃をつづけた。出血多量で動けなくなると、屍を敵にわたすなと命じ、参謀中根中佐に拳銃で頭を射ぬかせて死んだ、と伝えられる。
硫黄島の米軍の損害は海兵三個師団だけで死傷二万五千八百五十一人。日本側の戦死者は一万九千九百人。太平洋戦争で、米軍の損害が日本軍を大幅に上まわった稀有《けう》の戦例である。しかも、捕虜千三十三人のうち、設営隊員を除いて、負傷せずに投降した将兵は、ただの一人もいなかった。
栗 田 健 男
「ナゾの反転」――といわれるのが、昭和十九年十月二十五日、フィリピン・レイテ島沖における第二艦隊の行動である。
当時、レイテ湾にはマッカーサー元帥率下《そつか》のレイテ島上陸部隊と輸送船団が群集していた。栗田健男中将が指揮する第二艦隊は、この船団を撃滅するため出動したが、レイテ湾口四十三マイルまで迫りながら、突然、身をひるがえして帰って行った。
なぜ帰ったのか? もし突入していれば、敵船団のみならずマッカーサー元帥も、戦艦「大和」の巨弾で吹きとばし、あるいは戦局に大変化を与えたかもしれないのに――と、疑問は当時から、そしてとくに戦後は米国側から“海戦史上のナゾ”として提起され、栗田中将は内外の批判にさらされつづけた。
――「臆病者」「愚将」「無能指揮官」……
そんな酷評さえ加えられている。だが、栗田中将は、ほんとに無能な指揮官であったろうか――。
「大和」「武蔵」の大艦をふくむ戦艦七、重巡十一、軽巡二、駆逐艦十九、計三十九隻の第二艦隊が、ボルネオ・ブルネイ湾を出撃したのは、昭和十九年十月二十二日であった。
第二艦隊は、空母を含まぬいわゆる水上部隊である。そして、すでに空母の主勢力を失っていた日本海軍にとって、この水上部隊が唯一の有力な戦闘単位でもあった。もともと第一艦隊が主力戦艦部隊、第二艦隊は重巡を主力とする夜戦突撃部隊として編成されていたので、旗艦も重巡「愛宕」である。
司令長官栗田中将という人事も、第二艦隊にふさわしいものとみられていた。
司令長官は栄職である。たいてい、海軍大学校を卒業したエリートが就任するが、栗田中将は入試に失敗して海軍大学校の学歴はもっていない。だから、司令長官拝命と間いて、いちばん驚いたのは中将自身である。
「じょうだんじゃない、こんな野武士を、だめじゃないか、そう思ったね」
なにせ、明治四十三年七月に海軍兵学校を卒業していらい、陸上勤務はわずか九年間、あとはひたすら砲艦、駆逐艦、巡洋艦と、海上勤務で終始した。元海軍省人事局長中沢佑《たすく》中将によれば、提督は「聖将、名将、知将、闘将、謀将、勇将、海将、凡将」に分類される。このうち海将とは、根っからの“船乗り”提督を意味するが、栗田中将はまさにその典型的な存在であり、当人は不向きと思っても、日本海軍の最後の栄光を発揮すべき水上部隊の指揮官として、最適任の経歴者とみなされた。
第二艦隊の使命は、フィリピンで“決戦”をめざす陸海軍の方針にしたがい、レイテ島にくいついた敵を海上から撃滅することにある。
いわゆる「捷《しよう》一号」作戦であり、海軍はこの作戦にほぼ連合艦隊の総力を投入する決意を固めていた。
すなわち、空母「瑞鶴」を旗艦とする小沢治三郎中将の機動部隊十七隻をルソン島北方に進出させて、敵機動部隊をつりあげる。栗田艦隊は二つにわけ、西村祥治中将の第二戦隊(戦艦二、重巡一、駆逐艦四)をスル海――スリガオ海峡を通って南からレイテ湾にむかわせ、その間に、栗田艦隊主力はルソン島とサマール島の間のサンベルナルジノ海峡をぬけ、サマール島東岸沿いに南下して、北からレイテ湾に突入する。
また、西村部隊には、志摩清英中将の第五艦隊(重巡二、軽巡一、駆逐艦四)を後続、応援させる。
小沢部隊は空母部隊とはいえ、正規空母は「瑞鶴」一隻にすぎず、あとは給油艦改造の「瑞鳳」、水上機母艦改造の「千歳」「千代田」、それに戦艦の後部を発着甲板にした“航空戦艦”「伊勢」「日向」である。しかも、航空機はわずか百十六機――身を捨てて敵をひきつけるオトリ部隊であった。
西村、志摩艦隊にしても、その戦艦はいずれも旧式、低速であり、これまた敵艦隊の牽制以上の効果は期待できず、栗田艦隊突入の援護役とみなされた。
さらにまた、フィリピンに展開する基地航空部隊、とくに第一航空艦隊司令長官大西瀧治郎中将は、体当たり攻撃の特別攻撃隊を編成して、栗田艦隊突入に呼応して敵機動部隊攻撃を用意した。
いわば、海軍はレイテ決戦に全力をあげ、その全力の焦点に栗田艦隊が位置していたわけである。当然、栗田艦隊としては、肩にかかる期待を自覚し、勇戦の覚悟に身をひきしめたが、同時にレイテ突入作戦の内容については、釈然としないものを感じた。
栗田中将は、第二艦隊司令長官に就任していらい、航空勢力の衰弱にともない、第二艦隊の使命は独力による敵艦隊、とくに敵機動部隊の撃滅にあると見定め、訓練にはげんだ。ハダカでむかう以上、戦術は限られる。夜暗を利用して接近し、一発必中の砲弾、魚雷をうちこむ以外に、ない。栗田艦隊は、スマトラのルンガ泊地で夜戦訓練に没頭していた。
ところがその栗田艦隊にたいして、輸送船団を攻撃せよ、という。艦隊に不満の声がとどろき、参謀長小柳富次少将は、マニラで開かれた連合艦隊との打ち合わせ会議で、船団撃滅というが、敵機動部隊にそうぐうしたらどうするか、そのときは敵主力部隊と決戦していいか、とたずねた。連合艦隊から来た作戦参謀神重徳中佐は「結構です」と答えた。
この点は重大であった。敵輸送船団がいる以上、機動部隊の存在は予想できる。してみれば、栗田艦隊と敵機動部隊との戦いは、むしろ、必至であろう。となると、その“決戦”に専念すれば、輸送船団撃滅という作戦目的は吹きとんでしまう……つまり、船団撃滅とはいいながら、実際には、第二艦隊は敵艦隊との戦いをめざし、一種の作戦変更になるからである。
そして、この点は、やがて栗田艦隊の“ナゾの反転”を生む重大要素となるが、とにかく、敵の軍艦と戦うのが海軍の本務とみなされている。そこに触れられては、異議は持ちだしようがない。小柳参謀長の質問に、神参謀はあっさりうなずき、栗田艦隊も「敵機動部隊との決戦を期待しながら船団撃滅」にむかった。
栗田中将の心境はサバサバしたものだった。どっちに重点をおくかというよりも「軍艦がいれば軍艦とやる。商船がいれば商船をやる。それでいいじゃないか」――白の半そで防暑服、白の長ズボン、白戦闘帽、ズック靴という気軽な姿で艦橋に立った。
栗田艦隊の航海は、難儀であった。まず、十月二十三日、ブルネイ湾からサンベルナルジノ海峡にむかう途中、パラワン島西岸沿いのパラワン水道をとおるとき、敵潜水艦二隻の攻撃をうけ、旗艦「愛宕」と重巡「摩耶」が沈没、重巡「高雄」は大破した。
栗田中将も海中にとびこみ、駆逐艦に救助されて第一戦隊旗艦「大和」に移った。戦隊司令官宇垣纒中将が「長官、なぁに、これからですよ」というと、栗田中将も「うん」と答えた。
栗田艦隊は、西村部隊を分離しているので戦艦五、重巡十、軽巡二、駆逐艦十五、計三十二隻だったが、パラワン事件で重巡二を失い、傷ついた「高雄」には駆逐艦二隻をつけて引き返させたので、計二十七隻となった。
次いで、十月二十四日、ミンドロ島南端からシブヤン海にはいると、五波計二百六十四機の敵空襲により、戦艦「武蔵」が撃沈された。重巡「妙高」も被雷し、駆逐艦三隻とともにブルネイ湾に帰った。
これで栗田艦隊は二十三隻となり、しかも戦艦「長門」が通信施設を破壊され艦首に浸水したほか、各艦とも大なり小なりの被害をうけていた。
栗田艦隊は空襲をうけると、いったん反転して、敵の第五波がひきあげるのを待ち、再び引き返して夜間にサンベルナルジノ海峡突破をはかった。作戦参謀大谷藤之助中佐の献言によるもので、反転を敵機に見せて、ひきあげたと思いこませる作戦だった。が、大谷参謀自身、それがうまくいくとは確信できず、おそらく、サンベルナルジノ海峡の出口には、敵機動部隊が待ちかまえているものと、覚悟していた。
――ところが、十月二十五日午前六時四十分ごろ――。
サンベルナルジノ海峡をぬけ、朝もやがたちこめる海面を進んでいると、まず重巡「熊野」が百十度方向に敵機を発見した。旗旒《きりゆう》信号で「大和」に知らせた。ついで重巡「鳥海」も二百二十度方向、距離二十四キロに、レーダー目標を探知した、と伝えてきた。
つづいて午前六時四十四分、「大和」の左六十度、三十七キロの水平線に数本のマストが見えた。駆逐艦らしい、と思ううちに、飛行甲板に発着する飛行機の姿も双眼鏡にとびこんだ。
「小沢部隊じゃないですか」と参謀の一人がつぶやいたが、「大和」はサマール島東岸にいる。小沢部隊ははるか北方にいるはずである。敵艦隊、それも明らかに敵機動部隊ではないか……しかも、なんと主砲の射程内にいる。
「天佑だ」――と、大谷作戦参謀は涙ぐんだ。シブヤン海で空襲をうけ、敵機動部隊の待ち伏せは不可避と考えていた。おそらく、敵機との戦いに終始し、とても敵艦隊相手に練りあげた砲雷戦の腕をふるうチャンスは与えられないものと予感していただけに、眼前に敵機動部隊を見るとは、まさに栗田艦隊、いや帝国海軍に花を咲かせようとの神助であろう。
「長官ッ」
「おう」
感涙にかすれる参謀の呼び声に、栗田中将もがっしりとうなずいた。まだ、夜間航行隊形から輪形陣に変わる途中で、隊形は不整であるが、勝負は転瞬の間にある。直ちに全力即時待機、「列一三〇」(百三十度方向一斉転換)、展開方向百十度と、矢つぎ早に命令が下され、午前六時五十八分、まず「大和」の前部四十六センチ主砲が、重さ一・四六トンの巨弾を轟音とともに敵空母めがけて発射した。
レイテ沖海戦――の開幕であるが、それにしても、その幕開けは、大谷参謀がおどろいたように、米国側にとっても予想外の事態であった。
当時、レイテ周辺に配置されていた米艦隊の勢力は強大であった。
第三艦隊司令長官W・ハルゼー大将が指揮する第三十八機動部隊は、大型空母八、軽空母八、戦艦六、重巡四、軽巡十一、駆逐艦五十八、計九十五隻をそろえ、さらにマッカーサー軍には、T・キンケイド中将が指揮する戦艦六、重巡四、軽巡四、特設空母十六、駆逐艦四十二、計七十二隻の第七艦隊が付属していた。このうち、第三十八機動部隊の一部、第三十八・一機動隊二十五隻はウルシー基地にむかっていたが、いずれにせよ、総計百四十二隻の大艦隊が、栗田艦隊を待っていたのである。
しかも、南方からレイテ湾に進んだ西村部隊は前夜、スリガオ海峡入口でキンケイド艦隊に迎撃され、ほぼ全滅し(重巡「最上」と駆逐艦一隻が辛うじて離脱)、つづく志摩艦隊も打撃をうけて反転していた。
栗田艦隊の接近はすでに探知されている以上、米国側としては余裕をもって栗田艦隊の到着を待てばよい。現に、ハルゼー大将は、第三十八機動部隊の中から栗田艦隊の迎撃用に戦艦を中心とする第三十四機動部隊の編成準備を命じていた。
ところが、ハルゼー大将は、二十四日、小沢部隊を発見すると、第三十八機動部隊の全力をあげて攻撃にむかった。レイテ湾の防備はもともとキンケイド中将の責任でもある。
「飛行機をもたぬ艦隊など、わしが出かけるまでもない。目標はジャップの機動部隊だ。決戦だ」
と、ハルゼー大将は鼻息荒く叫んだものである。
一方、キンケイド中将は、サンベルナルジノ海峡の出口は、ハルゼー大将の守備範囲だと考えていた。第三十四機動部隊が栗田艦隊を迎撃するもの、と信じていた。西村、志摩両艦隊との交戦で、キンケイド艦隊の徹甲弾は極度に不足している。まずはハルゼー艦隊の働きに期待する状況でもあった。
かくて、ハルゼー、キンケイド両提督は、互いに相手が仕事をするものと思いこみ、おかげで、サンベルナルジノ海峡の出口はおろか、レイテ湾に至る“花道”まで、栗田艦隊に開放する結果になったが、被害をうけたのは、栗田艦隊に発見されたC・スプレイグ少将の第七十七・四・三部隊である。
第七十七・四・三部隊は、第七十七・四機動隊の一部で(ほかに第七十七・四・一、第七十七・四・二部隊)商船または油槽船《ゆそうせん》を改造した特設空母六隻、駆逐艦三隻、護衛駆逐艦四隻から成っていた。空母とはいえ、戦闘機、雷撃機をそれぞれ十二〜二十八機積み、装甲の厚みも〇・五インチ、速力も十八ノットでれば機関長が祝杯をあげるといった程度で、前夜、西村、志摩艦隊との戦いに邪魔にならぬよう、キンケイド中将の命令でレイテ湾北方に退避していた。
むろん、スプレイグ少将も栗田艦隊の接近は知っていたが、とっくにサンベルナルジノ海峡付近でハルゼー艦隊に撃滅されているものと想像していた。
それだけに、午前六時四十五分ごろ、レーダー室から突然「目標あり、北方、正体不明……」という報告をうけたとき、旗艦・空母「ファンショウベイ」の艦橋にいたスプレイグ少将は、それはハルゼー艦隊だと思った。
ところが、哨戒機は「敵水上部隊発見」と告げ、よく確かめろ、という少将の指示にかぶせるように、パイロットの上ずった声が艦橋ラジオにひびいた。
「間違いねェ、パゴダ・マストだ」
日本軍艦のマストを、米海軍はビルマ、インドのパゴダ(仏塔)に見たてている。
「どうしたんだッ」――と、スプレイグ少将は仰天して双眼鏡をのぞくと、水平線に点々とまぎれもない日本戦艦のマストが浮かびあがりはじめた。
「針路九十度、全速、全機発艦、全艦煙幕をはれ」
戦艦と特設空母では、戦車にワイシャツ姿でたちむかうにひとしい。スプレイグ少将は、悪寒が背筋を走りすぎるのを感じながら、あわてて退却を命じたが、とたんに空中に急行列車のような怪音がひびいたと思うと、まわりに砲弾の水柱が林立した。
「大和」の初弾斉射であるが、つづいてほかの艦の周囲にも、日本艦隊がうちだす砲弾が水柱をふきあげた。弾着位置を知るための着色弾らしく、水柱は緑、黄、紫、赤などに染まっている。演習なら美しいとも思うが、実戦となれば美しい色彩も無気味にみえる。スプレイグ少将の耳に、一人の水兵の叫びが聞こえた。「ヤツらは“テクニカラー”(天然色)で攻めてきたァ」
戦いは、一方的にみえた。スプレイグ部隊にできることは、三隻の駆逐艦、四隻の護衛駆逐艦に反撃させ、そのすきに逃げるだけである。七隻の駆逐艦にしても、戦艦、重巡をそろえた栗田艦隊になにほどの抵抗ができるとも、思えなかったからである。
だが、戦闘は意外に長びいた。ひとつには、栗田艦隊は文字どおりの「不意そうぐう戦」であったので陣形が不整のまま突撃した。各個戦闘の形になり、集中射の威力を発揮できず、また、スプレイグ部隊の母艦機の攻撃、駆逐艦の雷撃回避で手まどり、なかなか追いつけなかったことなどが、原因である。
おまけに、空母には次々に命中弾が認められるが、沈まない。徹甲弾なので、うすい艦体をつきぬけてしまうのである。それでも、午前九時ごろには、空母一隻、駆逐艦二隻、護衛駆逐艦一隻が撃沈され、ほかの艦も傷つき、スプレイグ少将は、最期の接近を覚悟した。
ところが、午前九時二十五分、スプレイグ少将は、栗田艦隊がひきあげるのを見て眼をみはった。まるで「死刑執行寸前に黙って部屋を出て行く執行人を見送る死刑囚」の心境で、ただぼう然としていた。
すると、午前十時五十四分、北方にむかっていた栗田艦隊は再び向きを変え、南下してきた。栗田中将は戦場が紛糾《ふんきゆう》し、重巡部隊のうち「熊野」「筑摩」「鳥海」「鈴谷」が大中破したのをみて、いったん隊形を整備してレイテ湾突入をはかったのである。
米艦隊は完全に混乱していた。スプレイグ部隊の危機は伝えられたが、ハルゼー大将は、キンケイド中将の不手際と怒り、キンケイド中将はハルゼー大将の怠慢をなじる電報を発し、スプレイグ少将はその両方に呪いの眼をむけ、そして誰もなんの処置もとろうとしなかった。
戦闘の成否は、参加部隊の統一された行動にかかっている。そして、部隊間の統制はまず指揮官の心理的結合によって生まれるとすれば、それを失った米国艦隊は最大の危機にそうぐうしていた。
ところが、午後零時二十五分――栗田艦隊がレイテ湾口四十三マイルにせまり、砲弾不足のキンケイド艦隊が「あと一時間の生命」と観念したとき、栗田艦隊はぐるりと背をむけて去っていった。
「日本艦隊はまるで目に見えぬ巨大な手でひき戻されたようだった。それは神の力以外には、考えられない。私は、さあ“祈ろう”と部下に声をかけた」
去るかと思えば迫り、襲うかと見れば栗田艦隊は退く。スプレイグ少将も、キンケイド中将もそのたびに「天国と地獄の間を往復する心境」を味わった。それだけに栗田艦隊の退去は限りない幸福感をもたらしたが、それにしても栗田艦隊の行動は不可解である。安心の深呼吸を重ねるたびに、疑問は深まっていった。
戦況は、明らかに米国側に不利であった。ハルゼー部隊は遠くルソン島北方に小沢部隊にさそいだされ、キンケイド艦隊は砲弾不足で恐れおののいている。
むろん、栗田中将にこれら米国側の事情がわからなかったにせよ、攻撃部隊指揮官としては、かりにもスプレイグ部隊に勝利をおさめている以上、さらに攻撃を加え、敵の敗走に追尾して目的のレイテ突入をはかるのが、常識である。米国側もそう、予想した。
それなのに栗田中将は、いわば「勝利の前髪にのばした手をひっこめ」て後退した。
栗田艦隊に反乱が起きたのではないか? それとも指揮官が死んだのか?
しかし、そのいずれの場合でも、後退は、最後の一兵まで戦うことを誇りとする日本軍にふさわしくない。では、なぜ栗田中将は戦いを“捨てた”のであろうか?――
栗田艦隊の反転――それは部外者にとってはナゾであろうが、栗田艦隊司令部にとっては、じつはしごく当然の措置であったようである。
たぶん、午前十一時三十分ごろと思われる。作戦参謀大谷藤之助中佐は、艦橋からすぐ下にある作戦室に下り、たまった受信電報を読みはじめた。先任参謀山本祐二大佐は、トレイドマークになっているくわえタバコのまま、しきりに書類をめくり、海図をのぞきこんでいた。
栗田艦隊はレイテ湾にむかっている。敵艦の沈没海面には、数百人の米兵が思い思いに、漂流物につかまって浮いていた。着色弾の跡が、ところどころ水面を濃い赤、黄色に染めている。
大谷参謀は、艦橋を去るとき、そういう光景を眼の端にいれたが、すぐ電報読みに没頭して忘れていると、敵信班(敵の電信、電話傍受を担当)の佐々木中尉が、情報を伝えてきた。敵第七艦隊は「レイテ南東三百マイルに全軍集結を下令した」という。つづいて、南西方面艦隊司令部の発信とみられる次のような電報が届けられた。
「敵正規母艦部隊〇九四五スルアン島灯台ノ五度一一三浬《カイリ》ニ在リ」
すると、その電報を読み終わるか終わらないうちに、「大和」の左舷に“ペンシルバニヤ型戦艦”と駆逐艦らしいマストが見える、と報告された。とっさに、大谷参謀の耳に、午前九時ごろ聞いた佐々木中尉の言葉がよみがえった。
「作戦参謀、敵さん、手荒くあわてとりますよ。さかんに味方に救援を求め、相手は、がんばれ、あと二時間で行く、と叫んでいますワ。平文の電話ですよ。どこにいるんでしょうかな、二時間でくる相手というのは」
そのときは、夢中になって敵空母を追いまわしている最中なので、ふむ、と右の耳から左の耳に中尉の報告を聞き流したが、いまや、中尉の一語一語が鼓膜をさす思いである。
大谷参謀は、ガク然としながら、すばやく情勢判断をすると、山本先任参謀に自分の考えを述べ、小柳参謀長を作戦室に呼んだ。
大谷参謀は、いう。
「まず、敵は避難しとる、と思いましたね。あわてふためいた平文電話といい、敵艦のマストといい、これは明らかにレイテ湾の敵艦隊が移動している証拠でしょう。となると、レイテ湾の敵船団も逃げたか、でなければ、空っぽにしているにちがいない。上陸いらい一週間もたっているのだから、とっくに空船になっている可能性もある。
次に、南西方面艦隊の敵機動部隊発見の情報だが、これは確度が高い。栗田艦隊も索敵機をとばしたが、いずれも未帰還または敵未発見に終わっている。しかし、艦隊の場合は目前の敵情観測だから、基地航空隊の広範囲な組織的索敵のほうが発見の可能性は大きいわけです。
第三に、その発見時間は午前九時四十五分。位置はスルアン島の五度一一三浬というと、ちょうど午前九時ごろに、あと二時間で行く、と敵さんが電話した地点に符合する。こりゃ、背中に敵がせまっている。そう思いましたね」
大谷参謀の結論と意見具申は「レイテ湾突入の中止、新敵機動部隊撃滅」であった。
小柳参謀長は、思案した。大谷参謀の意見具申は重大である。栗田艦隊は、いま、まっすぐレイテ湾にむかっている。作戦命令はそれを要求している。が、大谷参謀の意見に従えば、その命令に違反することになる。
だが、敵の機動部隊にぶつかったときは、機動部隊をたたく、というのが、連合艦隊司令部との合意でもある。
ただし、戦場における予定行動の変更は、彼我の情況の変化に応ずる場合に限るが、では、新事態、すなわち新敵機動部隊出現という判定は正しいであろうか?
「当時は、栗田艦隊にとって最も重要な判断のポイントは、敵、味方の情況がほとんど不明だったことだ」と、小柳参謀長は指摘する。
小柳参謀長によれば、レイテ沖の戦いがはじまるまでに判明していた敵情は、出撃前に偵察機が見たものと、十月二十四日朝、西村部隊の重巡「最上」水偵機がレイテ湾上を飛んだときのものだけである。ほかには、ない。
これらの情報によると、敵機動部隊は、『ルソン島沖』『サンベルナルジノ海峡沖』『レイテ沖』の三群がいる。そして、レイテ湾内には「輸送船八十隻」、また湾外に「戦艦四隻、巡洋艦二隻」がいる、という。
栗田艦隊がそうぐうしたのは、三群の機動部隊のうち、最南端の『レイテ沖』部隊であり、南西方面艦隊がいうのは中央の『サンベルナルジノ海峡』部隊であろう。
小柳参謀長は、もうひとつ、敵信班が伝えた敵の電話情報を思いだした。敵はレイテ島のタクロバン飛行場を使用している、という。
もし栗田艦隊がこのままレイテ湾に突入すれば、運動し難いせまい湾内で、湾内の敵艦、背後の機動部隊のほかに、陸上基地の航空機の攻撃もうけ、三方から袋だたきにされる可能性がある。
一方、味方の状況はどうか……?
西村部隊からの連絡はない。撃滅されたことは明らかであろう。小沢部隊からも、二十四日夜、機密第二四一七一五番電(二十四日十七時十五分発の意味)として、その前衛部隊がルソン島東方海面の“残敵撃滅”にむかう旨《むね》を知らせてきただけである。機動部隊とはいえ、ほとんどハダカの空母だけの小沢部隊である。“つぶれた”のではないか。
まず、栗田艦隊は“孤立無援”状態になっているとみるのが、自然である。むろん、これは覚悟の前であるが、栗田艦隊は戦艦四隻、重巡二隻、軽巡二隻、駆逐艦七隻に減少したうえ、ほとんどの艦は被害をうけている。
将兵も疲れている。二十三日からほぼ不眠不休の配置であり、戦闘の連続である。緊張しているおかげで、夢中で戦っているようだが、疲労のために倒れたという報告も耳にはいっている。
小柳参謀長自身も、「愛宕」沈没のさい、海中にはいるときに舷側の金具で大腿部をうち、痛みのために杖にすがり、艦橋に坐りこんでいた。水筒の水を飲み乾パンをかじることもあるが、ほぼ“飲まず食わず”の状態ですごしてきた。別に疲れたという感じはないが、疲労は身体の奥深くよどんでいるにちがいない。艦隊将兵の全員が同じだろう。
事実、栗田艦隊将兵はきわめて疲労していた。たとえば戦艦「金剛」は戦闘中に弾庫員数人が熱射病で倒れたが、その主因は弾庫内の温度上昇(摂氏三十〜三十二・五度)と空腹にある、と指摘されている。また、戦艦「榛名」の戦闘詳報によれば――、
「今次の如き長期連続的空襲では、兵員の体力、精神力の消耗大にして……緊張の連続の結果、食欲不振におちいりたる者多数あり……戦闘配置長時間のため飲料水不足し……一人当たり約十立《リツトル》は必要……見張員の疲労極度に達したるを以て、その中間に『コーヒー』『紅茶』『特殊栄養食』『果実酒』等を与えたるところ、見張員活気を呈し、良く奮闘せるを認めたり……」
そこで、小柳参謀長は、考える。
――栗田艦隊にとって、レイテ湾に進むのも“死”、北転して新敵機動部隊にむかうのも“死”、いずれにしても眼前に用意されているのは“死の道”であろう。なぜなら、栗田艦隊には、おそらく、あと一回は戦う力はあっても、二度の余力は残っていないからである。では、最後の勇をふるう“死に場所”は、レイテ湾かサンベルナルジノ海峡沖か……。
その裁断は、参謀長ではなく、司令長官の権限である。小柳参謀長は、足をひきずりながら、タラップをのぼり、栗田中将を作戦室に招じいれた。
まず小柳参謀長、ついで大谷作戦参謀が詳細に敵、味方の状況判断を述べ「南進か北進か」の決定を中将に求めた。
栗田中将は、黙思した。
小柳、大谷両幕僚の判断の根拠が薄弱であることは明白である。戦場における情況判断は、およそ推理や希望的観測を介入させず、偵察と信頼できる情報という“事実”を基礎にしなければならない。が、両幕僚の主張と指摘はほとんどが推測である。
たとえば、レイテ湾に敵船団はいないだろう、という。しかし、それは偵察の結果ではなく、敵の電話と水平線に見えた敵艦マストによる推理である。
マストはすぐ消えた。誤認ではないのか。かりにまちがいないとしても、退避中かそれとも迎撃準備中かは、決めかねるはずである。まして、敵の電話は、はたして百パーセント信用できるだろうか?
戦艦「榛名」の戦闘詳報は「敵は全面的に妨害電波を実施し、その効果大なるものを認む。我方としても積極的に通信攻撃を行なうべきなり」と、述べている。妨害電波だけでなく、偽電も考えられる。
志摩艦隊ではスリガオ海峡後退後、二十五日朝、米護送空母機の追尾空襲をうけたが、重巡「那智」の敵信班亀田重雄大尉(ハワイ生まれ二世、明大卒)は敵電話の波長にあわせて「わが母艦に敵襲、ただちに攻撃をやめて帰投せよ」と英語で放送し、まんまと敵機を追いかえした実例がある。
そして、実際にも、栗田艦隊が聞いた電話は、偽電であった。第七艦隊通信参謀R・クルーゼン大佐の演出である。
ちょうど、栗田艦隊がまっしぐらにスプレイグ空母隊に突進しているころである。レイテ湾を守るキンケイド第七艦隊司令官は、ハルゼー艦隊に救援を求めて躍起になっていた。しかし、ハルゼー大将はこれまた小沢部隊に眼をうばわれ、度重なるキンケイド中将の依頼にも、うるさそうに「了解」をくり返すだけであった。
やっと処置をとったのは、ウルシー泊地に帰還中の第三十八・一機動隊にたいする反転命令だが、第三十八・一機動隊の位置は北緯十五度、東経百三十度付近。はるか北東方であり、栗田艦隊にたいする攻撃隊発艦地点をその北東三百三十五マイルとすれば、そこまで達するのは、全速で走っても午前十時半以前にはならない、と計算された。
「十時半……そのころには、われわれは海の底だ」
「提案がございます。閣下」
がっくりと顔青ざめるキンケイド中将に、クルーゼン大佐が答えた。このさい、どんな手でもうつべきだが、ニセの電話はどうだろう。日本艦隊はこちらの通信を傍受《ぼうじゆ》しているにちがいない。わざと平文の英語で味方大部隊の来援近しと放送すれば、敵は本気にしないだろうか。
クルーゼン大佐は、幸い、スプレイグ部隊はじめ味方がしきりに平文でやりとりしている。その中にまぎれこめば真実性を増すはずだ、といった。
「どうやるのかね?」
「まず、敵の位置は貴隊に近い、すぐ攻撃されたしとやり、ついでにすぐ行くという返事もこちらで放送するのです」
「日本人は賢明な民族だ。そんな単純な手口で通用するとは思えんが……」
しかし、ほかにより良い方策があるかといえば、なにもない。クルーゼン大佐は、ひとりの通信兵曹を呼び、ニセ放送の要領を指示した。救援依頼は大佐がおこなう。返事役は兵曹。距離感をもたせるために、大佐はじかにしゃべるが、兵曹はハンカチでマイクをおおう。
「いいか、上品にやれ。できればハルゼー大将になったつもりで……いや、大将はとくに優雅な会話はしなかったな。そうだ、カーニー参謀長になったと思うんだ」
「全力をつくしますです、参謀どの」
そこでおこなわれたのが「二時間後救援」会話であったわけだが、もちろん、栗田中将にその事情はわからない。
しかし近代戦での通信合戦は常識である以上、いちおうは疑惑の眼をむけるべきであろうし、また南西方面艦隊の敵発見電にしても、その一通だけである。ということは、一機の報告と考えられるが、これもあぶない。すでに一般的にパイロットの練度が低下していることは、これまた常識となっているからである。
では、どうするか?
この状況で考えられる選択は、次の三つであろう。
敵情は不明である。そして、敵情不明の場合は、命令どおり、所期の目的にむかって突進するのが、軍人の本務である。
敵情は不明である。味方の状況も不明である。ゆえにあえて徒死をさけ、いったんひきあげて、後図を策すべきである。
敵情は不明である。しかし、与えられた情報の中で確実とみられるものによって判断し、行動すべきである。
栗田中将は、を選んだ。前述の如く、情報のほとんどは首をかしげさせる要素をふくんでいたが、なにもかも疑っては判断も生まれ得ない。少なくとも味方の情報は信ずべきであり、それを裏付ける敵の動きがあれば、その情報の確度は高いと考えるべきである。
じつは、“新敵”発見の電報は、発信の有無についても疑問を持たれることになるが、当時、まして戦場のさなかにいる栗田艦隊に検討の余裕はない。
栗田中将は、この“南西艦隊電”と大谷参謀が告げる情況判断を組みあわせて、新敵機動部隊の近接を確信した。
「ふりむいたら、すぐ敵のマストが見えるんじゃないか。そんなつもりだった」
、の選択も考慮したことは、いうまでもない。たとえば、栗田艦隊は次のような戦果をあげたと判定していた。
「撃沈空母エンタープライズ型一ヲ含ム三乃至四隻、甲巡二隻、駆逐艦一。命中弾確実ナルモノ空母一乃至二隻」
“大戦果”である。現実には、栗田艦隊の戦果は、護送空母一、駆逐艦二、護衛駆逐艦一の撃沈にとどまっていた。(その後「神風特攻隊」攻撃により護送空母一隻撃沈、二隻大破)が、“大戦果”を信ずる限り、それを手土産に帰還を考えても、ふしぎはない。
についても、栗田中将は考えた。しかし、栗田艦隊は「特攻艦隊」ではない。敵船団撃滅という目的自体が、戦果を期待している。してみれば、より大きい戦果、つまりは敵機動部隊撃滅のほうが、命令文の字面はともかく、真意にかなうはずである。
そして、敵機動部隊撃滅――これこそ、日本海軍軍人の願いであり、その相手がいるのに輸送船にむかうのは、トラ狩りに行ってウサギを獲るようなものではないか。
おりから十月二十五日は基地航空隊の総攻撃日である。敵機動部隊は、ほかならぬその基地航空隊である南西方面艦隊が発見している。ならば、この敵にたいしてこそ、空海呼応した大攻撃が期待できる。
「たとえ不幸にしてわれは全滅するも、敵にもまた容易ならざる損害を与えて日米両海軍の最終決戦を飾ることとなるであろう」
小柳参謀長は、著書『栗田艦隊』にそう当時の心境を記述しているが、想いは栗田中将も同じであった。
判断は、しかし、きわめて微妙であった。味方偵察機をとばして確認する方法もあるが、すでに栗田艦隊の保有水偵機は底をつき、またレイテ湾に刻々とせまっている事情では、水偵機の報告を待って態度を決める余裕はない。
一方、ひとたび北転すれば、もし敵機動部隊に出会わなかったとしても、再びレイテ湾にはひき返せない。それだけの燃料はないからである。
この燃料の問題は、しばしば、栗田艦隊反転の理由に数えられる。
「保有燃料の考が先に立てば自然と足はサンベル(サンベルナルジノ海峡)に向ふ事となる。敵さヘやつつけ得れば、駆逐艦には夜間戦艦より補給するも可なる筈なり」
とは、同じ「大和」の艦橋にいた第一戦隊司令官宇垣纒中将の感想だが、この述懐も、結局はめざす敵機動部隊がいないとわかった後のものである。
栗田中将は、小柳参謀長らの報告と判断を聞くと、北へ行く、と裁定した。
人間の行為は、ときに信条で左右され、あるいは欲望で左右され、恐怖で左右されることもある。その中でなにが最も力をふるうかは、各個に差違があろうが、栗田中将に北進を決断させた最大の要因が、敵発見の“南西方面艦隊電”によってかきたてられた、敵艦を求める“海軍根性”にあったことは、間違いない。
かくて、栗田艦隊は餌食を前にして、敵にむかうために北進したが、「ふりかえればマストが見える」と思った敵機動部隊は、行けども行けども見当たらない。「いつまでも同一場所にいるはずなし」と、宇垣中将が表情を渋くするうちに午後四時十五分ごろ、敵六十機、ついで約三十機の味方機があらわれた。やっぱり敵はいた、と大喜びで信号すると「敵の位置お知らせ乞う」という返事である。
せっかく敵機動部隊と刺しちがえるつもりでも、せめて敵を捕捉してくれるべき航空部隊がこの調子では、がっかりである。しかも、その後にあらわれた戦闘機九機のうち二機は、まっしぐらに急降下すると栗田艦隊を空襲した。たぶん、パイロットは陸上訓練だけで、味方軍艦も見たことがないためであろうが、士気は沮喪《そそう》せざるを得ない。
栗田艦隊は、そのままサンベルナルジノ海峡入口付近に達し、しばし東に進んで敵機動部隊をさがしたが、午後六時、海峡にはいった。もはや、帰還である。
背後の東方海面には、ときどきスコールらしい影がよぎり暗く黒ずんで見えたが、頭上は満天に星が輝いていた。その星の下を、栗田艦隊は速力二十二ノット、対潜警戒のジグザグ運動もおこなわず、まっすぐに海峡を通過した。
午後六時十六分、連合艦隊司令部は夜戦をすすめてきたが、すでに帰途についている栗田艦隊にその実行は不可能である。海峡を通過した一時間後、午後十時十分、栗田艦隊は「夜戦実施の見込み立たず」と返電した。
栗田中将が、ひと休みすべく、艦橋をはなれたのもそのころ――出撃いらい四日目である。
牟田口廉也
「鬼畜牟田口」――と、太平洋戦争最大の陸戦といわれるインパール作戦の指揮官、第十五軍司令官牟田口廉也《むたぐちれんや》中将を、第三十一師団長佐藤幸徳中将は評言する。
インパール作戦の損害は大きく、かつ惨烈であった。第十五軍十万人は、インド東北部、雨のアラカン山中に飢えと疲れに悩み“白骨街道”の異名そのままに延々と死体の列を残して退却した。その惨状は“餓島”といわれたガダルカナル島の苦戦とならんで、インパールの名は戦争の苛酷《かこく》さの代名詞として記録される。
そして、このインパール作戦の悲劇は、作戦計画の粗雑さ、とくに軍司令官牟田口中将の補給を無視した突進戦法に主因を求められ、さてこそ、佐藤師団長の「鬼畜」なる評価も生まれるゆえんであるが、それにしても、部下の指揮官から「鬼畜」とまで恨まれる軍司令官は異例であり、その由来は検討に値する。
インパール作戦――すなわち、インド東北部マニプール州の州都インパールを攻略する計画は、正式にきまるまでに多くの曲折があった。作戦の直接担当機関は第十五軍であるが、第十五軍司令部の中にも、また上級のビルマ方面軍、南方軍、さらに参謀本部にも反対意見は強かった。
インパール作戦計画が本腰をいれて検討されたのは昭和十八年中期以降であるが、当時すでに太平洋戦争の戦勢は日本側に不利となり、ビルマ領内にも英軍のウィンゲート遊撃部隊が侵入していた。大軍を動員しての作戦よりも、ビルマ防衛体制の整備こそ、当面の必要事とみなされていた。
だいいち、インパールが英軍のビルマ反攻および介石・中国軍支援ルートの拠点になっていることはたしかだが、そのインパールを攻略しても、補給路を確保し、必要に応じて増兵する能力は日本側にない以上、ただ一時的にインパールに日の丸をかかげるに終わるだろう……。
そんな作戦にはどれほどの意味もないし、その種の気楽な作戦をおこなう余裕はないはずだ――というのが、反対者の主張であったが、インパール作戦は、決定された。
――なぜか?
「ビルマ防衛」と「時局の要請」のためだ、と南方軍参謀副長稲田正純少将は指摘する。
「たとえインパールが取れなくとも、インドの一角に立脚してチャンドラ・ボースに自由インドの旗をあげさせる。これだけでも相当の政治的効果をおさめ、東条首相の戦争指導に色をつけることにもなり得よう」
当時、ドイツから来日したインド独立運動の志士チャンドラ・ボースが日本に協力を求め、シンガポール攻略で捕虜になったインド兵を主体にして、自由インド仮政府と自由インド国民軍の名のりをあげていた。一方、日本国内には相次ぐ敗北と生活の困窮から、ようやく士気沈滞の気配がみえはじめている。東条首相は、ここで勝ちどきをあげて国内の意気をかきたてるとともに、ボース軍を進出させることによってインド国内の反英運動の火を燃えあがらせ、あわよくば英国の抗戦能力にヒビをいれさせたい、と考えた。
いわば、戦略よりも政略に重点をおいてインパール作戦は決定されたわけだが、この“政冶的作戦”は、牟田口中将にとってきわめて理解しやすかった。
牟田口中将は、支那事変のきっかけとなった昭和十二年七月七日の蘆溝橋事件当時、中国軍を攻撃した連隊長であった。そして、支那事変が太平洋戦争に発展したと理解するとともに、責任を感じていた。
「蘆溝橋事件処理について至らざる処があったゆえに、国家国軍に迷惑を及ぼした……今次大戦勃発の遠因を作ったのはわたしだと、自らを責めていた」と、中将は手記している。してみれば、インパール作戦によって援ルートを遮断し、介石中国軍を屈伏させ得れば、当然、介石軍をたすける米英も和平を考えるであろう。
つまり、“わたし”が起こした戦争を“わたし”が解決することになる……。
牟田口中将は、感奮した。中将は、シンガポール攻略戦に第十八師団長として参加し、その猛将ぶりをたたえられていたが、蘆溝橋事件で中国軍を独断攻撃した“失敗”を長く自責していると告白するごとく、小心な性格である。
小心な性格者は、小心なるがゆえにしばしば果敢な行為を好み、著しい克己心を発揮し、また、自己にたいすると同様に他人にも厳しさを求め、性急な行動を好み、偏執的《へんしゆうてき》な思想傾向をもちやすい。
牟田口中将がシンガポール戦で示した突進ぶりも、この中将の性向のあらわれとみられるが、インパール作戦についても、中将はひとたび作戦がわが意にかなうと思いあたるや、異常な熱意にかりたてられた。
作戦の正式認可は昭和十九年一月七日であったが、その前から「紀元節(二月十一日)に作戦発起、天長節(四月二十九日)に攻略だァ」とかけ声をあげていた中将は、正式認可の通告をうけると、ビルマ南部メイミョウの第十五軍司令部に新聞記者団を集めた。
「インパールはわけない。ま、三週間もあればとれる。が、そのあとがある。インパールなど、それだけじゃ、とってもましゃくにあわん。自動車、戦車、大砲も敵さん給与でまずプラマプトラ河に出る。ここ……(と地図を指し)ここが、プラマプトラ河だ。ここでカルカッタからのびるベンガル、アッサム鉄道を押える。うまくいきゃ、レドもとる。いや、デリーの赤い城壁まで、兵を進めるさ」
どうじゃ、ハッハ、と牟田口中将は、仰天する記者団に、自信の笑声をふきつけた。
牟田口中将には、自信があった。第十五軍の主力、第三十一、第十五、第三十三師団を北から南に配置し、第三十一師団はインパール北方の要地コヒマを占領して、敵の増援を遮断する。一方、第十五師団は東からまっすぐインパールにむかい、第三十三師団は南からインパールを突く。
作戦距離は、いずれも約三百キロをこえるが「なあに、マレー一千キロの突進にくらべれば軽いもの」で、第三十三師団を先発させて敵の注意をひき、その間に、いっきに第三十一、第十五師団が突進して「インパールにおける、光輝あるせん《ヽヽ》滅戦」で作戦を終了する。
「敵の戦意は低い。空に三発も鉄砲をうてば逃げだすはずだ。皇祖皇宗の神霊も助け給うにちがいない」
と、牟田口中将は必勝の信念を呼号したが、冷静に観察するとき、作戦の前途には、むしろ“必敗”の要素が指摘されるはずであった。
「天の時」「地の利」「人の和」――この三つが戦勝のための必須条件だ、と説いたのは、中国古代の戦術家孫子であるが、インパール作戦に直面した第十五軍には、そのすべてが失われていた、といわざるを得ないからである。
作戦発起は、第十五師団の戦場到着がおくれることもあって、第三十三師団は三月八日、第三十一、第十五両師団は三月十五日と定められた。
統計によれば、インド、ビルマの雨季は五月中旬とみられる。いったん雨季にはいると、インド東北部は世界一の雨量を誇る土地である。戦闘行為はおろか、ろくに行軍もできなくなる可能性が予想される。牟田口中将は、四月二十九日インパール攻略を叫ぶが、三月十五日に作戦発起となれば、四月二十九日までは四十五日間にすぎない。インパールまでの行軍だけでも十分な時間とはいいきれないのに、戦闘をつづけながらでは不安は大きく、ます「天の時」は味方に不利とみなすべきである。
「地の利」は、さらに第十五軍に不利である。各師団とも三百〜四百キロを進むがいずれも山岳地帯であり、とくに第三十一、第十五師団は、三千メートル級の高峰も少なくないジュピー山系、アラカン山系を踏破する。突進する戦闘部隊の苦労はむろんのこと、食糧、弾薬の補給は文字どおりに「至難」、いや不可能とさえ予想できる。
「人の和」も、ほぼ失われていた。とくに目立つのは、軍司令官牟田口中将と指揮下の三人の師団長との間柄である。
第三十三師団長柳田元三中将は、陸士第二十六期の首席で、陸軍部内で有数の知性派将軍であった。インパール作戦には、はじめから反対で、作戦の準備段階としてのチン高地占領作戦を下命されると、補給線のと《ヽ》絶を顧慮して反対した。
結局、作戦は実施され、かつ成功したが、牟田口中将は「それでも軍人か、それが戦場の師団長のいいぐさか」と、柳田中将にたいする不満をひれき《ヽヽヽ》した。
第十五師団長山内正文中将も、牟田口中将とは異質の肌合であった。山内中将も、柳田中将に似た俊才で、米国の陸軍参謀学校を卒業し、米国駐在武官をつとめた知性派である。外国武官勤務は一度もなく、ひたすら野戦指揮官を自負する牟田口中将とは、別種のタイプである。
牟田口中将は、作戦が本決まりとなると、タイで道路工事中の第十五師団主力の前進をさいそくし、第十五師団参謀が軍司令部を訪ねると「『祭』(第十五師団の呼称)は戦《いくさ》がいやなのか」と、どやしつけることもあった。
幕僚をどなられたとあっては、師団長としてはおもしろくないが、とりわけ礼節を重んずる山内中将にとっては、そういう牟田口中将の粗野な態度は不快であった。
「情もなく察しもなく、ただ自分かってにならぬのをどなるような将軍は、軍司令官たるの資格なきなり。師団としては何ともならざるも、悪い上官をもったとあきらめて将来処置する必要あるべし」
山内中将は、日記にそう遺憾《いかん》の意を記述したが、第三十一師団長佐藤幸徳中将も、牟田口中将には、反感をいだいていた。
佐藤中将は、山内、柳田両将軍とはちがい、どちらかといえば、牟田口中将と同型の単純気質の実戦派であった。支那事変、張鼓峰、ノモンハン事件で勇将ぶりを発揮した。中でも張鼓峰事件では、果敢な指揮で声価をあげた。
しかし、第三十一師団長を拝命して、上官が牟田口中将だと知ると、佐藤中将の胸中は波立った。二・二六事件のころ、牟田口中将はいわゆる反乱将校に同情する皇道派、佐藤中将は当時の東条英機少将と親しい反皇道派で、佐藤中将は「当時参謀本部人事課長だった牟田口大佐が、なにかにつけて第六師団高級参謀であった自分を敵視して、身辺にスパイの眼をはりめぐらせた」と、信じていた。
第十五軍司令部に、着任の申告に行くと、牟田口中将は、野鴨を射って佐藤中将を迎えた。とたんに、感激型の佐藤中将は牟田口中将にたいする先入観をやわらげたが、もともと長年にわたる反感である。簡単に消滅するわけもなく、次のような疑惑が胸奥にわだかまった。
「コヒマ占領は支作戦である。場合によっては『烈』(第三十一師団)をギセイにするもやむを得ない、と考えているのではないか」
いわば、三人の師団長は、いずれも上官である牟田口中将にたいして親しみを感じていなかったわけだが、この指揮官同士の心理的結合の欠如は、作戦遂行にとっては致命的マイナスとなる。
すでにビルマの制空権はほぼ英軍側に奪われ、第十五軍はほとんど各自が背負えるだけの食糧、弾薬に頼ってインパールにむかおうとしている。食糧と運送用に牛、山羊をつれているが、そんなジンギスカン式戦法を採用したこと自体にも、日本軍の苦境があらわれている。最初から苦戦が予期されているのであり、そのさい軍司令官と師団長の心がはなれていては、第一線指揮官である師団長の指揮と士気に作用しかねないからである。
しかも牟田口中将は、小心性のためか、作戦発起前に三人の師団長とへだてない会談の機会ももうけず、ひたすら勇戦と突進を指示するだけであった。
その意味では、インパール作戦は、まず第十五軍の“心理的敗北”でスタートしたとさえいえるが、はたして、作戦は次々に障害に直面した。
戦況は、作戦開始直後、朗報につつまれた。第三十三師団は、トンザンで第十七インド師団を包囲し、第三十三師団の宮崎支隊は、サンジャックで第五十インド降下旅団をせん《ヽヽ》滅して、突進をつづけた。第十五師団の前進も順調であった。
しかし、第三十三師団は、第十七インド師団の包囲撃滅に失敗し、やがて第三十一師団は、予定どおりコヒマを占領したものの、第十五師団は、インパール東方の山地に釘づけとなり、第三十三師団も、インパール南方のビシエンプール前面で停滞した。
牟田口中将がインパール攻略日と予定した四月二十九日はすぎ、空には雨季の訪れを告げる暗雲が走りはじめた。難路と敵機の襲撃により、各師団にたいする補給はとだえた。
第十五軍としては、いちおうは予期された事態であるだけに、有効な措置をとる必要が痛感されたが、予備兵力もなく、牟田口中将がおこなったのは、ひたすらなる督戦《とくせん》でしかなかった。
第三十三師団長柳田中将は、トンザンの第十七インド師団の包囲失敗のあと、師団の損害と補給困難を理由に、作戦中止を具申してきた。牟田口中将は、師団参謀長田中鉄次郎大佐に「爾後《じご》師団の指揮は参謀長に任す」と打電する一方、インダンギーの戦闘司令所から第三十三師団司令部を訪ねた。
「『弓』(第三十三師団)はなにをしとるか。インパールに入れば食糧なんかどうにでもなる。あと一歩でとまってしまうとは、なにごとだ」と、牟田口中将は、しかし、柳田師団長には会わず、隣の天幕から、聞こえよとばかりにわめきあげた。
第十五師団にたいしては「(貴師団は)インパール付近進出後、前進を統制しあるが如きも、果敢に所命の線に進出されたい」と電報するとともに、山内師団長あてに手紙をおくった。
「……貴師団に於ても、或はタイ国周辺に荷物監視者として多数の兵員残置し居るに非ずや……皇国の興廃を賭するこの作戦に於て、荷物監視のため第一線の戦力を減殺するは、煎《せん》じつめれば、国家より荷物が大事なりとの結論と相成るべく……小官は要すれば荷物を全部焼却しても第一線に押出すべく、憲兵及び兵站《へいたん》に命じ置候……」
牟田口中将は、第三十一師団にたいして、一部兵力をふりむけ、なんとしてもインパールを攻略せよ、と命じたが、佐藤師団長は、その命令とは逆に持久態勢をとる師団命令をだした。
佐藤師団長は、その手記によれば、作戦発起のとき、「大部分の者はアラカンの山嶮に餓死を覚悟してもらわねばならない」と訓示したが、心中では、補給がと《ヽ》絶すれば退却する決心を固めていた、という。そして、補給はコヒマ占領後、ただ一度、ジープ十五台につんだ糧食、弾薬がとどいただけである。佐藤師団長は、牟田口中将の命令を“拒否”したあと、五月二十五日、第十五軍司令部に打電した。
「師団は、いまや糧絶え、山砲及歩兵重火器弾薬もことごとく消耗するに至れるを以て、おそくも六月一日までにはコヒマを撤退し、補給をうけ得る地点まで移動せんとす」
牟田口中将は、佐藤師団長の明白な反抗におどろきながら、あわてて打電した。「貴師団が補給の困難を理由にコヒマを放棄せんとするは、諒解に苦しむところなり。尚十日間現態勢を確保されたし、然らば軍はインパールを攻略し、軍主力を以て貴師団に増援し、今日までの貴師団の戦功にむくいる所存なり。断じて行えば鬼神も避く……」
しかし、佐藤師団長は「やはり『烈』はみすてられた」と思い、「このうえは非常手段に訴え、作戦を中止させよう……わが師団が退却をはじめれば戦線は崩壊し、どんなに牟田口中将ががんばろうとしても、作戦を中止せねばならなくなるだろう」と考えていた。
六月三日、佐藤師団長は独断退却を開始し、佐藤師団長の予想どおり、第十五軍の戦線は崩壊《ほうかい》していった。
作戦開始いらい、二カ月半をこえて、雨は毎日依然、戦場に降りつづいている。
各師団ともに糧食はほとんどなく、わずかに現地人部落のモミを徴発したが、飢えと傷病に倒れる者が激増していた。
牟田口中将は、与えられた責任をはたすべく、なんとかしてインパール攻撃態勢をとろうとして、かねて戦意不足とみられる柳田第三十三師団長を解任した。
指揮官を代えれば部下はふるいたつ、と牟田口中将は確信した。「兵は勢いなり」と説かれるが、たしかに、兵に勢いを与えるのは指揮官である。『第二部』で述べるが、ホーランド・スミス海兵中将の場合、ラルフ・スミス第二十七歩兵師団長の解任は、明らかに並進する第二、第四海兵師団の戦意を高め、また憤慨した第二十七歩兵師団もその憤慨心を敵意に変えて前進した。
だが、牟田口中将の柳田師団長解任は、かえって逆効果でしかなかった。
山内第十五師団長が、「あまりのこと」とぼう然とすれば、佐藤第三十一師団長は「なんという冷酷無残な仕打ちであるか」と悲憤し、コヒマ攻略の勇将である宮崎繁三郎少将も「これでインパール攻略の望みはなくなった」と、嘆息した。
いずれも、牟田口中将が、ただかけ声の督戦をするばかりで、労をねぎらい、あるいは叱咤にもせよ、親しく前線を訪れぬ態度に反感をおぼえていたこともあり、本来なら、軍司令官としての苦衷《くちゆう》にたいする同情の声もわくはずなのに、柳田師団長解任は、もっぱら中将の、部下にたいする“責任転嫁”と解釈されたのである。
牟田口中将は、つづいて病身であった山内第十五師団長も解任した。独断退却した佐藤第三十一師団長も当然に解任され、インパール作戦は、作戦中に参加全師団長の解任という、戦史に空前の記録を残して、七月五日、中止された。
雨にうたれ、死体の列をひいて退却する日本軍を追い、英軍が最後に撤退する第三十三師団を見送ってインパール攻防戦の終了を確認したのは、さらに四カ月後、十一月二十日であったが、その日、英第十一方面軍司令官ギファード大将は、インパールの第十四軍司令官スリム中将に、祝電をおくった。
「親愛なるスリム……すばらしい勝利にたいしてお祝いをいう……すぐれた戦いには、すぐれた計画とすぐれた指揮官がなければならない……」
牛 島 満
「よか」「よか」――と、日露戦争のとき満州軍総司令官大山巌元帥は、なにごとも総参謀長児玉源太郎大将に任せ、どんな不利な戦況にも笑顔のまま動じなかった、といわれる。
いらい、この大山元帥の姿は将軍の理想像とみなされ、日本陸軍では、なにかにつけて「山は富士山、将軍は大山」と強調されてきた。ところが、実際には「大山型」将軍はきわめて少なく、それとみなされる将軍にしても、多くは「大山型」のポーズをとっているにとどまった。
組織の近代化と複雑化がすすむにつれて、平時においても、戦時においても、高級指揮官の仕事は多様になり、なかなか部下任せにばかりはでき難くなったのだが、その中で、ほぼ純粋な「大山型」と認められるのが、沖縄・第三十二軍司令官牛島満中将である。
牛島中将は、昭和十九年八月八日、陸軍士官学校長から第三十二軍司令官に転補された。那覇の軍司令部に着任すると、牛島中将は指揮下の第九、第二十四、第二十八、第六十二師団長をはじめ各部隊長を集め、沖縄は「驕米《きようべい》を撃滅」し、日本の「運命を決すべき決戦会戦場」となろう、と訓示した。
この中将の訓示どおりに、沖縄は太平洋戦争最後の戦いとなった。むろん、牛島中将の訓示には、そこまでの見通しはふくまれていなかったであろうが、沖縄はれっきとした日本本土の一部、沖縄県である。沖縄の攻略は本土の攻略につながるわけで、牛島中将としても、深い覚悟をきめて赴任してきた。
ところが、その覚悟にこたえるべき体制はととのわず、牛島中将は、おそらく指揮官としては最悪の条件で米軍の速攻をむかえることになった。
米軍がレイテ島に上陸すると、第九師団は台湾の防備強化のために転用された。第二十八師団は宮古島、歩兵第三十六連隊は南大東島を守るので、沖縄本島の兵力は第二十四、第六十二師団と独立混成第四十四旅団、それに海軍部隊、計約七万七千人となり、おまけに、昭和十九年暮れから昭和二十年三月にかけて人事異動がおこなわれ、第六十二師団長本郷義夫中将、第二十四師団の主力部隊・歩兵第二十二連隊長吉田勝中佐などは、米軍上陸のわずか二週間前に着任するありさまであった。
兵力はけずられ、しかも指揮官が戦場に不慣れとあっては“敵撃滅の決戦”はのぞめない。牛島中将は、沖縄の南部で持久戦をおこなうことにして、小禄《おろく》、知念《ちねん》両半島にそれぞれ海軍部隊と第四十四旅団を配し、首里周辺に第六十二師団と独立混成部隊、その背後の島の南端に第二十四師団を配置した。
この作戦構想は、高級参謀八原博道大佐のアイデアだったが、牛島中将にとっては、八原大佐をふくむ幕僚の陣容も、不利な要素にかぞえられるべきであった。
参謀長は長勇中将。青年将校時代、革新運動派の「桜会」の主要メンバーとして活躍した豪放、横紙破り型の将軍である。かつて第十旅団長に就任したさい、浪曲で訓示したエピソードは名高く、また太平洋戦争の開幕直前、サイゴンでフランス人有力者を集めて浄るり《ヽヽ》をうなって煙にまいた。
「名文家でもありましたねェ。命令文などを持っていくと、赤インキをひたした筆ですらすらと直す。すると、こうも違うかと思うほど文章が生きてくる」
と、八原大佐は思い出を語るが、大佐と参謀長とは、対照的な性格であった。
八原大佐は、陸大を優等で卒業した俊秀であり、しかも陸大の戦術教官を前後十年間つとめ「戦術眼と戦局の洞察力については他にヒケをとらず」と自負していたが、長参謀長の特質が戦意旺盛な即決断行性にあるとすれば、八原大佐は冷徹で計算を重んずる典型的な幕僚タイプであった。
豪放な上官と緻密《ちみつ》な部下――という関係は、本来なら好ましい組み合わせである。しかし、それは指揮官と幕僚との間柄にふさわしく、同じ幕僚内部の関係としては、必ずしも有効とはいいきれない。参謀長にあまり将軍性が強くては、指揮官が二人いる形となり、かえって参謀内に“実力者”を生み、参謀間の融和を失わせる可能性があるからである。
そして、第三十二軍幕僚陣の場合は、参謀たちの多くがかつての八原教官の教え子であった関係もあり、ひときわ、その可能性を強く内蔵していたわけだが、牛島中将は、なにも気にとめるようすをみせなかった。
牛島中将は、大山元帥と同じ鹿児島の出身だが、酒豪の長参謀長とは逆に酒は弱く、チョコ二、三杯でまっ赤になる。かくし芸もただひとつ、ハダカおどりだけである。
「参謀長はなァ、わしよりも戦《いくさ》がうまいからのゥ」
と、語尾をひく独特のゆったりした口調でそういっては、ニコニコと書類に署名していた。
――昭和二十年四月一日
サイモン・バックナー陸軍中将指揮の米軍第十軍が、沖縄に上陸した。
ロイ・ギーガー少将の第三水陸両用軍団所属の第一、第六海兵師団、ジョン・ホッジ少将が指揮する第二十四軍団の第七、第二十七、第九十六、第七十七師団、計六個師団を基幹とする大軍である。
牛島中将は、持久戦のたてまえから水際抵抗はおこなわず、地下十五〜三十五メートル、延長一キロをこえる首里台の地下司令部にいた。司令部壕の入り口には「天之巌戸《あまのいわと》戦闘司令所」と長参謀長が大書した看板が、立っていた。
牛島中将と長参謀長は、その看板を背にして、林立する砲爆煙をぬって、嘉手納《かでな》海岸に殺到する米軍の上陸の模様を望見した。
米軍は、あまりのあっけなさに、おどろいた。四月一日は「エイプリル・フール」である。まさか、日本軍にバカにされているのではあるまい、と疑いながら、とにかくあがれるだけあがれとばかりに、いっきに約五万人が上陸した。
翌日も、日本軍の地上攻撃はなく、米軍は第六海兵師団が北飛行場から北へ、第一海兵師団が中飛行場から島を横断して東側の勝連《かつれん》半島、中城《なかぐすく》湾に、第七歩兵師団は東岸、第九十六師団は西岸沿いに進んで、島の中央部を占領してしまった。北飛行場には、その日のうちに艦載機が進出してきた。
南部に兵力を集中する持久作戦である以上、当然の成り行きであった。そして、持久作戦は、大本営が承認した計画でもある。牛島中将も、長参謀長も泰然として、首里司令部壕で碁をうっていた。
「まァ、予定どおりだなァ。いずれ敵とは勝負するが、その前にこっちの勝負をつけておきましょうかァ」
「結構です。敵のほうは、どっぷりとわが腹中にはいってからたたきますよ」
――ところが、
持久戦を決めていながら、むざむざと飛行場をとられてみると、心境は変化する。とくに、現場をはなれている立場からは、なんの反撃もしない第三十二軍の態度は、歯がゆく眼にうつってくる。
東京では、四月三日、まず参謀本部第二課が「敵の出血強要、飛行場地域の再確保」を要望する電報を起案した。第一部長(作戦)宮崎周一中将が、現地軍にたいする干渉になると発信をおさえたが、四日には飛行場制圧をうながす参謀次長電がおくられた。
第三十二軍は、台湾に司令部をおく第十方面軍に所属するが、第十方面軍からも、参謀長名の「水際撃滅」をうながす電報につづいて「本来の任務完遂に邁進《まいしん》すべし」という司令官安藤利吉大将の命令がとどいた。
連合艦隊参謀長草鹿竜之介少将からも、長参謀長あての電報がおくられた。
「……貴軍においては既に準備中とは存ずるもここ約十日間敵の北、中飛行場の使用を封止するため……主力をもって当面の敵主力に対し攻勢をとられんことを熱望する次第なり……幾多の困難あるは想察に難《かた》からざるも、以上全般の状況を慮 《おもんぱか》り、失礼を顧《かえり》みず意見を具申する次第なり」
第三十二軍の立場は、微妙になった。飛行場を奪取されたことは、たしかに沖縄の戦術的価値を大幅に失わせる。しかし、それは予定の計画でもある。口惜しさにかられて攻撃するにしても、すでに第三十二軍は堅固に陣地にたてこもり、一挙に総攻撃に出る態勢にはなく、敵は十分な地域を確保している。かりに準備して攻撃する場合も、飛行場を奪回する大規模作戦をおこなえば、もはや持久戦はあきらめねばならず、といって、中途半端な攻勢では、効果はあがるまい。
八原参謀は、敵を近接させて火砲と歩兵の夜襲でせん《ヽヽ》滅する「短刀闇打ち刺し違い戦法」を主張して、頑強に攻撃に反対した。
沖縄での戦いかたについては、陸海軍の間に根本的な意見のくいちがいがあった。陸軍は、しょせん離島は守りきれぬと判断して、本土決戦にそなえる時間かせぎをめざしたが、海軍は、沖縄を最後の決戦場とみなし、特攻飛行機だけでなく、戦艦「大和」以下の水上特攻部隊の投入も決意していた。
現に「大和」は、四月四日、出撃命令をうけ、六日に三田尻沖を出発して八日沖縄に突入することになっている。
あるいは、参謀本部、第十方面軍の攻撃督促《とくそく》は、この海軍の決意にあおられた結果かもしれないが、いずれにせよ、戦えといわれてちゅうちょするのは、とりわけ長参謀長の熱血が許さない。
「閣下、海軍に呼応して七日夜、攻撃を加えるべきだと思います」
「うう……いいよゥ」
しかし「大和」は、七日午後、米機動部隊の攻撃をうけて撃沈され、第三十二軍の攻撃も中止になったが、長参謀長は、四月十二日に第二次夜間攻撃をおこなうことを提案した。
「よし、いいよゥ」と、相変わらず、牛島中将は温顔の眼を細めて承認したが、八原参謀は、強硬に反対した。
圧倒的に優勢な敵にたいしては、陣地に拠ってこそ戦えるのに、出撃するのはむざむざ敵の集中射を浴びに行くようなものではないか。まして、夜間の敵の縦深陣地突破は不可能というべきであろう……。
八原参謀は、長参謀長の命令にしたがって、作戦計画をたてたが「このバカげた夜襲」の損害を少なくするため、長参謀長が指示する第六十二師団主力を使う集中攻撃ではなく「小隊以下の小群多数による斬り込み」を指導した。
つまり、命令はこうだが、実際にはこうやれ、という注意を与えるわけで、八原参謀はとくに、第六十二師団の攻撃部隊、第二十二連隊第一、第二大隊に注意を与えた。
結果は、攻撃兵力のうち、独立歩兵第二百七十二大隊は大隊長以下ほぼ全滅、独立歩兵第二十三大隊は約半数を失って、攻撃は失敗した。第二十二連隊のほうは、八原参謀の注意で強力攻撃を実施しなかったので、死傷者は数十人にとどまった。
当然、幕僚の間から、八原参謀の処置にたいする不満の声があがったが、長参謀長はあえてなにもいわず、牛島中将も、変わらぬ態度を示していた。
首里の司令部壕は、発電設備を持ち、一トン爆弾の直撃にも耐える強固さを誇っていた。
牛島中将以下約千人に近い要員、一部避難民が住んでいたが、その千人が三カ月以上生活できる食糧も確保されていた。酒類も日本酒、ビール、航空用ブドウ酒、さらに長参謀長備えつけのスコッチ・ウィスキーと、豊富だった。
罐詰は、その箱をならべて寝台代わりにするほど貯えられ、長参謀長が前年、福岡から呼びよせた日本料理人が機会に応じて料理の腕をふるい、野戦建築隊配属の菓子職人も勤務していた。
床屋も、いた。その床屋、沖縄県民の比嘉仁才が、いう。
「二週間に一回くらい、軍司令官と参謀長の散髪とヒゲ剃りをしてさしあげるんですが、牛島閣下は、ご苦労さま、といって刈りよいように坐ってくださいますが、長閣下は、床屋か、とじろりと見て、碁をうちながら首をひょいと横にだして、やれ、とこうです。恐かったですよ」
女性も、いた。司令部勤務の女性職員が司令官、参謀長、参謀に当番として配属されていたほか、さらに偕行社の芸妓十数人、那覇の花柳街辻町の料亭『若藤』の遊女十数人が居住していた。もっとも壕内に部屋はなく、司令官、参謀長も通路にそった横穴を居室代わりにしていたので、遊女たちに“職業的サービス”の御用はなく、炊事の手伝いなどをしていた。
したがって、酒あり、タバコあり、そしてとにかく女性もいる――というわけで、司令部壕内の生活は、一応は“完備”していたが、米軍が進出してくるにしたがい、用便のための外出も困難になり、湿度が高く通風の悪い環境は将兵の体力を衰えさせた。
四月下旬には、米軍は首里北方約二キロにせまった。前線からは損害と後退の報告が相次ぎ、司令部壕に避難してくる負傷者もふえた。“穴居生活”に耐えかねて脳神経に異常をきたしたとみえ、一人の大尉が坑道に「南無妙法蓮華経」の旗を立て、ウチワダイコを連打しながら、意味不明の説法を口走るようになった。
しかも、荒武者タイプの参謀木村正治中佐が、その説法に耳をかたむけている。
境内の衛生環境はますます悪化し、ほとんどの将兵が下痢に悩んだ。兵たちは長参謀長の口ぐせである「敵わが腹中に入れり」をもじって「敵わが腹中に入れり、われにわかに下痢せんとす」といっていたが、そのような軽口の声も、少なくなった。
長参謀長は、四月二十九日、参謀全員を集めて総攻撃を提案した。
「現状をもって推移すれば、軍の戦力はロウソクのごとく消磨し、軍の運命のつきることは明白である。よろしく、攻撃戦力を保有している時機に攻勢をとり、運命の打開を策すべきである」
参謀たちは、即座に賛成した。参謀神《じん》直道少佐によれば、当時、参謀たちは第三十二軍の戦闘能力について「組織的な統一ある作戦は五月十五日をもって限度とする」と判定していた。あとわずか十六日間の命運であれば、できることはなんでもやるべきであり、そして、できるのは攻撃以外にはない……。
だが八原参謀は反対した――戦力維持の限界の訪れが間近であれば、なおのこと総攻撃でその時期をせばめるのは、持久の使命に反するのではないか。たしかに、これまで戦闘の正面にいた第六十二師団は約半数を失ったが、南部にはまだ第二十四師団がいる。いずれは第二十四師団も“磨滅”するだろうが、まさに“磨滅”させてこそ、第三十二軍の任務にかなう。
安易な総攻撃は「無暴かつ無謀にすぎぬ」と、八原参謀は強調した。
またか、と参謀たちは黙りこみ、座はしらけた。しかし、八原参謀はいいおわると、自分の居住穴にもどり、作戦補佐参謀長野英夫少佐に手伝わせて、総攻撃計画を策案した。
長参謀長は、第二十四師団および第四十四旅団を主力として、五月四日夜明けに攻撃を開始する計画を提案した。そのさい、大規模な煙幕をはって敵の眼をくらませ、敵味方の紛戦状態をつくって敵の砲撃をさけて撃滅をはかる、というのが、参謀長の構想である。
当然、八原参謀もこの構想にそった作戦を立案したはずだが、やがてできあがった計画案をみて、参謀たちはざわめいた。
八原案によれば、東西海岸にそれぞれ約五百人の挺身斬りこみ隊を上陸させて敵陣を攪乱《かくらん》させ、第二十四師団と第四十四旅団をつっこませるが、第二十四師団の第一線兵力は二個大隊、また攻撃時間は四日朝なのに第四十四旅団の行動開始は、四日夜と指定されている。
「なんだ、これは。これが総攻撃か。結局、二個大隊の斬りこみではないか」
「これじゃ、失敗するにきまっとる。まるで兵をムダ死にさせるようなもんだ」
八原参謀は、つつぬけに聞こえる罵声《ばせい》に冷然としていた。
「余は内心ひそかに考えていた……頑固な攻撃論者も……その主張を放棄するように攻撃を指導しなければならん。そして、もう一度戦略持久の態勢にひきもどしたい」
つまり、攻撃論に終止符をうつために、あえて失敗必至の攻撃を計画する、ただし、損害をおさえるために第一線兵力を少なくする、というのである。
参謀たちも、八原参謀の意図は推察できたが、結局は、部下のギセイで自説をとおそうとするのであり、あまりにも冷血な我執ぶりではないか。
「八原、ちょっと来い」
牛島中将の声がひびいたとき、一部の参謀は、中将が八原参謀を解任するものと期待したが、牛島中将は、沈痛な口調で八原参謀にさとした。
「八原大佐、貴官は攻勢の話が出るたびに反対し、また、わが輩が攻勢に決心したあとも浮かぬ顔をして全体の空気を暗くする。すでに軍は、全運命をかけて攻撃に決したのであるから、攻撃の気勢をそぐようなことのないようにしてほしい」
八原参謀が総攻撃は“自殺攻撃”に終わるにちがいない、というと、牛島中将は答えた。
「もちろん、玉砕攻撃である。最後には、わが輩も軍刀をふるって突撃する考えである」
八原参謀は、第四十四旅団の行動開始を一日くりあげて、文字どおりに総攻撃態勢をとるよう、作戦計画を訂正した。
だが、総攻撃は失敗した。舟艇による挺身隊の攻撃はいち早く発見され、上陸部隊はほとんど海上で全滅した。
第二十四師団も、飛行機、戦車、火砲の集中攻撃をうけ、牛島中将は五月五日午後六時、参謀長の意見を待たず、攻撃中止を命令した。
八原参謀によれば、牛島中将は攻撃中止命令を発したあと、とくに参謀を呼び、「こんごは貴官にまかせる」と述べたといわれるが、その後、五月二十七日夜、牛島中将は首里をはなれ、島の南端・摩文仁《まぶに》の洞穴陣地に移った。
首里を撤退したときの第三十二軍の兵力は、第二十四師団一万二千人、第六十二師団七千人、第四十四旅団三千人、軍砲兵隊三千人、その他五千人、計三万人――と、八原参謀は推計した。
しかし、その多くは現地召集者および補充兵で、固有の戦闘員は二十パーセント内外とみられ、火砲、弾薬も少なかった。
戦力は、まさに長参謀長がいうように、「ローソクの如く消磨」していき、次第に銃声は摩文仁に近づいた。
長参謀長は、好きな酒を欠かさず、ときに「高級参謀ッ、戦略持久もそろそろ切りあげてくれんか」と八原参謀に声をかけ、感状や電報に署名していた。
摩文仁の司令部壕に敵機銃弾が飛来しはじめたのが、六月十九日――牛島中将は、参謀たちに退却を命じた。
六月二十二日正午ごろ、通気孔から手りゅう弾が投げこまれ、牛島中将と長参謀長は二十三日未明、自決した。
別離にさいして、長参謀長は、私服に着かえて脱出する八原参謀に丸薬と百円札五枚を与え、牛島中将も手をさしだした。
「これはウマいよゥ」――中将がナイフでけずってひまつぶしにしていたカツオブシであった。
中 川 州 男
東経百三十四度十四分、北緯七度二分――東京から約三千二百キロはなれた南海に、ペリリュー島がある。パラオ諸島の美しい小島である。
昭和十九年四月二十九日、天長節の朝、歩兵第二連隊の軍旗とともに、コロール島から大発(大型発動機艇)でペリリュー島に渡ったとき、連隊長中川州男《くにお》大佐は、ひたすら空の美しさ、海の美しさ、島の美しさに嘆声をあげた。
歩兵第二連隊三千五百八十八人は、満州北部の嫩江《ノンチヤン》から派遣されてきた。パラオ諸島はフィリピンに近い。すでに米軍はマーシャル群島を攻め、ニューギニア北岸沿いに進攻してきている。次の目標がマリアナ諸島、フィリピンにあることは明らかである。その際、マリアナの南、フィリピンの東にあるパラオに航空基地を求めることは、戦略上の常識とみなされ、パラオ諸島を襲うとすれば、最要衝のペリリュー島がねらわれるのは、必至とみられたからである。
だが、来てみればあまりに美しい世界である。その空が弾煙でおおわれ、海が砲撃でわきたち、島が戦火に焼けただれるさまは、想像し難く、まして、その戦いが「空前の激戦」として米海兵隊史に記録され、自身がその主役をつとめることになるとは、中川大佐には予感するすべもなかった。
ただ、死は覚悟していた。離島での戦いが、玉砕に終わることは、戦況が告げている。ペリリューがどんな島にせよ、島への赴任はやがて、戦死につながるものと見定めねばならない。
中川大佐は、嫩江からペリリューにむかうとき、夏服と冬服を用意せよ、という言葉に、思わず「どちらへ」と問いかけた夫人三枝に、いった。
「エイゴウ演習さ」
「エイゴ……英語ですか」
夫人は反問したが、大佐はそれ以上はなにもいわなかった。大佐の無口は定評があり、出張に行く場合も、決して行く先も日程も告げない。まして戦場行きとなると、ただ軍装をととのえて、出かけるだけである。
夫人も、だから、わけのわからぬことをいうと思いつつ、黙って、馬にのる大佐を見送ったが、大佐としては、夫人が首をひねったひとことに永別の想いを託していた。
「エイゴウ演習」は「永劫《えいごう》演習」つまり未来永劫につづく演習であり、二度と帰れぬ、征旅の意味である。もの堅い大佐が、はじめて夫人にもらした任務の内容であった。
さすがに死地赴任を前に、おぼろげな形容でも、夫人に別れを述べたかったのであろう。が、同時に、中川大佐の表現は別の意味もふくまれていた。
大佐は「永劫演習」といい「永劫戦闘」とはいわなかった。必死の戦いを覚悟しているなら、むしろ「永劫戦闘」のほうが格好の修辞といえるはずだが、大佐はあえて演習といった。理由は、大佐がペリリュー島到着後、さっそく、訓練を命じて、副官根本甲子郎大尉に述べた発言に、明示されている。
「兵の精強は訓練によって成就される。結局、戦いに勝つ軍隊は、訓練どおりに戦える軍隊だからなァ」
戦闘もまた演習の継続、あるいは実戦は最後の演習にほかならないというのが、中川大佐の信条である。夫人にも、だから、演習と口走ったわけだが、大佐は、まさに、かたくななまでにその信条を守って、ペリリュー戦を戦いぬいた。
ペリリュー島にたいする、米軍の攻撃は、昭和十九年九月十五日に開始された。
攻撃部隊は、ロイ・ギーガー海兵少将指揮の第三水陸両用軍団で、上陸および占領はW・ルパータス少将の第一海兵師団二万四千二百三十四人が担当し、予備としてP・ムラー少将の第八十一歩兵師団一万九千七百四十一人が、ひかえる。
米軍とくに、ガダルカナル島、ニューブリテン島で戦った第一海兵師団は、自信にあふれていた。ペリリュー島には、第二連隊のほかに、第十四師団戦車隊(中戦車十二輛)、第十五連隊第三大隊(千明武久大尉)、海上機動第一旅団輸送第一中隊(舟艇十隻)、独立歩兵第三百四十六大隊(引野道広少佐)が増強され、さらに海軍部隊、設営隊をふくめると、総計一万百三十八人がいたが、米軍はほぼ正確にその兵力と戦力を探知していた。
第一海兵師団は、ペリリュー島にむかう前、ガダルカナル島で将兵を集めて作戦説明会を開いたが、その際、師団情報参謀ハリス大佐は次のように述べた。
――ペリリュー島日本軍は約一万五百人を大幅にこえてはいない。主要兵器は小銃五千六十六挺、軽機関銃二百挺、重機関銃五十八挺、火砲は十三ミリ対戦車砲から百五ミリ曲射砲まで種類は多いが、せいぜい二百門程度である。あとは戦車がたしか十二台……。
――一方、米軍側は第一海兵、第八十一歩兵師団のほか付属海軍部隊も加えると総数四万八千七百四十人。持参する兵器はカービン銃、ライフル、自動小銃だけで四万一千三百四十六挺、機銃千四百三十六挺、ピストルは三千三百九十九挺、、火砲は迫撃砲、曲射砲など七百二十九門、戦車百十七台、ほかにロケット発射基百八十もある。「これを要するに、わが軍は日本軍にたいして、人員で四倍、小銃は八倍、機銃は六倍、火砲三・五倍、戦車は十倍。上陸軍は守備軍の三倍を要するという“三倍原則”をおぎなって、はるかに余《あま》りある優勢である」
ハリス大佐が高らかに叫ぶと、師団長ルパータス少将がすかさず進みでて、マイクをにぎりしめた。
「ゆえに、諸君、戦闘は短時間で終わるものと確信する。激しい、だが、す《ヽ》早い戦闘だろう。たぶん三日間、あるいはほんの二日間かもしれない」
ひと息ついたルパータス少将は、そこで、ちょっとメガネをおしあげると、
「そこで、諸君にお願いがある。短い滞在にも記念品はほしい、誰でもよいから、本官にペリリュー島日本軍指揮官のサムライ・サーベルをおみやげに持ってきていただきたい」
拍手がわき「スリーデイズ、メイビー・ツー」(三日間、たぶん二日)を合言葉に、いとも明るい気分で、第一海兵師団はペリリュー島にやってきた。
ペリリュー島にたいする事前砲爆撃は九月十二日からおこなわれた。十四日までに砲弾三千四百九十トンが射ちこまれ、爆弾五百七・六トンがばらまかれた。島の大半が焼けこげたが、十五日朝の上陸直前には、さらに戦艦四、重巡三、軽巡一、駆逐艦十七隻の砲撃部隊が砲弾千四百六トン、護送空母十隻の艦載機延べ三百八十二機が爆弾九十七・九トンを加えた。
ペリリュー島は南北約八キロ、東西は最も広い部分で二キロにたりず、面積は約十六平方キロの小島である。事前、直前砲爆撃を合計すると、一平方キロあたり三百五十トンの砲爆弾がたたきこまれたわけで、水陸装甲艇二百九十三台にのった第一波上陸部隊四千五百人の眼にうつるペリリュー島は、ただただ火炎と爆煙につつまれている。
第一海兵連隊長L・プラー大佐が、輸送船から上陸用舟艇にのりこもうとすると、船長が話しかけた。
「大佐、夕方にはお帰りですね」
「どうして?」
「だって、大佐(と火煙がうずまく島を指さして)、あれでは、もう人間は生きてませんや。あんたの仕事といえば、見回りぐらいのものでしょうよ」
だが、プラー大佐は静まり返る島に、むしろ、不吉さを感じていた。島は固いサンゴ礁《しよう》岩でできている。もし、その岩盤をくりぬいて日本兵がひそんでいたら、砲弾も爆弾もどれほどの効果があるとも思えない。大佐は、ペリリュー島攻略作戦の暗号名を思いうかべた。「ステイルメイト」、すなわち「手づまり」である。
あるいは、途方もなく手こずる戦いになるのではないか――と、プラー大佐は陽気に「スリーデイズ、メイビー・ツー」と三本指、二本指を見せあってはしゃぐ部下を眺めながら、不安を感じたが、大佐の予感は正しかったといえる。
中川大佐は、島の中央部から北にのびる丘陵《きゆうりよう》地帯に主陣をおき、とくに中心の台地を第二連隊の原籍地水戸にちなんで、「水府山」と名づけ、天然の洞穴を利用し、コンクリート、砂利、ヤシ丸太で補強した堅固な陣地網を準備していた。島を東西南北の四守備区域にわけ、北地区には独立歩兵第三百四十六大隊、南地区には第十五連隊第三大隊をあてたが、「水府山」を中心にする東西地区には第二連隊を配置した。
「みんな立派な部隊だ。しかし、最期は苦楽をともにした自分の隊と一緒に迎えたいからなァ」
大佐がもらした言葉は、第二連隊を感奮させた。大佐は将兵の信頼を得ていた。風貌も平凡、体躯も普通、おまけに無口で、ひどくまじめであるという以外に、きわだった印象はなにもない。が、連隊長着任の第一声が「兵をあまりなぐってはならぬ」という注意だったことでもわかるように、目立たぬ配慮がゆきとどく人柄であった。いつしか、大佐の存在は、重量感をたたえて第二連隊将兵の胸奥に定着していた。
島にきてからも、大佐は陣地構築に、特に入念さを要求した。「敵を倒さずに死ぬのはムダ死にだ」という。そして、最期をともにする、という大佐の意向である。将兵は静かな感銘をおぼえたが、いざ敵来攻を迎えてみると、ますます大佐にたいする信頼は深まった。大佐が作らせた陣地は強く、島をゆする砲爆撃にも、兵器、人員ともほとんど損傷をうけることはなかったからである。
午前八時二十五分――といえば、第一海兵連隊長プラー大佐の舟艇が、島をとりまくサンゴ礁にさしかかったときだが、島をおおう黒煙を縫って、赤い閃光《せんこう》がひらめいたと思うと、第一波上陸部隊の周囲に水柱が林立し、水陸装甲艇は砲弾と機銃弾のうずにまきこまれた。
むろん、舟艇はそのまま海岸に殺到した。が、その前進は混乱と恐怖の世界への突入を意味するだけであった。
上陸用装甲艇は、あっというまに約六十隻が破壊された。乗りあげる装甲艇からとびおりた海兵は、地に足がつく前に鉄カブトを撃ちぬかれて倒れ、倒れた海兵を、逃げまどう装甲艇がふみつぶした。
海兵たちは、こわれた装甲艇のかげにうずくまり、鉄カブトで砂を掘って頭をつっこんだ。
サンゴ礁に火を吹いた装甲艇が点々と傾き、波打ち際にはうつぶせになった死体、あおむけに手をさしのべた死体が浮いた。
「衛生兵ッ」と、吹きとばされた片腕をおさえた海兵が叫び、その横にすっぽりと首のとんだ死体が、いつまでも血をはきだしながら倒れていた。
精密に準備された上陸計画はずたずたに乱れた。第一大隊が第二大隊にまざりこみ、第二大隊の一部は第三大隊の予定地点に混入し、指揮官は夢中で部下を呼び集めようとするが、その命令は負傷者の助けを求める叫びにかき消された。
ようやく橋頭堡《きようとうほ》を確保して上陸第一日の夜を迎えてみると、海兵の死傷は千二百九十八人(戦死九十二人、行方不明五十八人、負傷千百四十八人)に達していた。しかも、その夜は黒ヒョウのようにおそってくる日本軍斬りこみ隊のため、海兵は一睡もできなかった。
夜が明けると、海兵たちは、まわりを眺めて慄然《りつぜん》とした。砲弾にくだかれたヤシの木の幹、鉄カブト、ちぎれた電話線、ねじまがった小銃、木箱、鉄片、そしてゴムボートまで、まるでゴミ捨場のような戦場に、頭をぐしゃぐしゃにつぶされた海兵の死体、口から血をはき思いきり両手をのばした日本兵の死体、いや、右手が無造作にころがっているかと思えば、無気味にふくれあがった胴体もころがっている。死臭が濃霧のように浜辺にたちこめ、よどんで消えなかった。
第一海兵師団にとっては、夢想もできなかった事態であるが、さらにペリリュー戦は、海兵の期待を裏切る進展を用意していた。
まず、暑さ、である。上陸日はおだやかな潮風も吹いていたが、二日めからペリリュー島は摂氏四十度前後の猛暑がつづいた。この暑さは、海兵にとって厄介な“敵”であった。ノドがかわくだけではなく、ハダカになりたくなる。ということは、日本軍陣地にむかうとき、鋭く固いサンゴ礁岩に肌を切りさかれ、あるいは敵弾をさけても、伏せた岩角で負傷する……。といって、服をきちんと着こめば、暑熱に体はむれて卒倒する。
海兵は、服を着ては前進し、岩かげにかくれては服をぬぎ、戦闘そのものよりも、いかにして暑さをしのぐかに熱中せざるを得なかった。
しかし、なんといっても、最も意外だったのは、島の地形と日本軍の戦法である。
これまで、海兵が攻略した島の日本軍は、陣地にたてこもると同時に出撃もしてきた。そして、海兵は随時その日本兵を撃破するとともに、島の片側から反対側に圧迫するか包囲して、勝利をおさめてきた。
ペリリュー島の場合、島の中部の台地群が日本軍の主陣地であることは明白なので、包囲作戦が適当である。ところが、台地群は険しく、接近しにくい。しかも日本軍はほとんど出撃せずに迫る海兵を迎え撃ち、夜間だけ少数の斬りこみをおこなう。
師団長ルパータス少将は、頭をかかえて苦慮した。日本軍が持久戦を計画していることは明らかである。しかし、攻撃は短期間を予定している。だが、攻撃すれば、敵は洞穴にかくれ、味方は姿をばくろして進む。ねらい射ちの的になるだけである。が、攻撃しなければ敵は倒せない……。
考えてみても、思案は堂々めぐりに終わるだけで、とにかく、ルパータス少将は、攻撃を命じた。
結果は、しかし、ルパータス少将の苦慮を現実化したにとどまった。
「地形はけわしく、被害は大きく、前進は少ない」とは、第一海兵連隊第二大隊長R・ホンソウィッツ中佐の報告だが、予期された攻略日数「スリーデイズ、メイビー・ツー」などはあっというまに経過したばかりか、上陸二週間後になっても、中川大佐の中央台地群は手つかずのまま。しかも、第一海兵連隊は指揮三個大隊がいずれも五十五パーセント以上の損害をうけ、ついに戦闘能力喪失と判定されて、後退した。
むろん、日本側も打撃は受けていた。とくに南部、北部の平地帯区域は制圧され、ルパータス少将は九月二十八日午前八時飛行場のポールに星条旗をかかげ、ペリリュー島占領を宣言した。
ただし、少将自身、この宣言が文字どおりに宣言のための宣言にすぎないことは、知っていた。
中川大佐も、戦いはむしろ、第二連隊だけになったそれからである、と思っていた。そして、副官根本大尉が、中央台地群に残る戦闘兵力は約千五百人に減った、と戦線縮小を提案すると、大佐は、首をふった。
「いや、根本、戦《いくさ》はしょせん、人と人との戦いだ、戦う意志と力を持つ者がいる限り、戦いは終わらず、勝敗もきまらない。陣地は手段のひとつだ、問題はできるだけ多数の敵を倒し、できるだけ長く戦闘をつづけることにある。それには陣地が多いほどよかと」
故郷の熊本なまりをまじえ、中川大佐は気魄《きはく》をこめてそういうと、島を三カ月間持久せよ、という第十四師団長井上貞衛中将の命令を確認し、
「一兵といえども過早の出撃を許さぬ」と、指示した。
戦闘は、完全に“中川ペース”で進み、第一海兵師団は、軍団予備の第八十一歩兵師団の応援をうけて、攻撃をつづけたが、十月五日には、第七海兵連隊も死傷千五百三十二人、損害四十七パーセントを数えて、戦闘能力を失った。
第一海兵師団は、第一、第七連隊のほかに第五海兵連隊を持つ。いまや、師団の三分の二の打撃をうけたわけだが、その第五海兵連隊も十月十一日、死傷率四十二・七パーセントを記録し、戦闘能力喪失と認められた。
第一海兵師団の崩壊――である。ルパータス少将は、師団残兵の後送手続きを終え、第八十一歩兵師団長P・ムラー少将にひきついで、十月二十日、輸送機でペリリュー島をひきあげた。
三日後、十月二十三日、中川大佐は、確保する戦線は「水府山」周辺の三百六十メートル×四百五十メートルの面積、兵力は約七百人という根本大尉の報告をうけた。陣地間の連絡は困難となり、敵は火炎放射器と戦車で、しらみつぶしに洞穴陣地を破壊している。食糧、水も涸渇《こかつ》状態になり、兵は進んで斬りこむ死を望みつつある、ともいう。
十月二十九日、兵力は約五百人に減り、確保する戦線は南北四百メートル、東西百五十メートルにせばまった。米軍は、砂のう《ヽヽ》を積んだ陣地ごと、一日数メートルずつの前進でせまってきた。兵の中には飢えのため傷口にわくウジを食う者も、いた。
中川大佐は、細かい戦術を駆使するよりも、命じられた持久に徹して、次々に司令部を移動して戦いつづけた。十一月にはいると、さすがに、司令部員たちの間からも、突撃したい、という声が高まったが、大佐は承知しなかった。
「こんど友軍機の攻撃があったら、出る」というのが、大佐のきまり文句であった。だが、日本機の救援が望めないことは、誰もが痛感していた。
十一月十五日、パラオ本島の第十四師団司令部は、ペリリュー守備隊の奮戦にたいする天皇の十回めのご嘉賞の言葉があったことを、伝えた。中川部隊にたいしては、九月十五日の上陸日からはじまり、十七日、二十二日、十月六日、十八日、二十四日、十一月二日、七日、十三日、十四日と、ご嘉賞がつづいていた。東京の大本営でも、そのころは「まだペリリューはがんばっているか」が、朝のあいさつ代わりになっていた。
東京のそんな雰囲気は、知る由もないが、十回のご嘉賞は日本陸軍史に前例がない。根本大尉は一同を代表して、出撃を進言した。もはや、天皇にたいする忠誠はつくしたと思う、というのである。
一粒の米もない日がつづいていた。しかし大佐はなおも首をふった。
「根本、お前らの気持ちはよくわかる。友軍機もこんかもわからん。だが、軍人は最後まで戦うのが務めだ。百姓がクワを持つのも、兵が銃をにぎるのも、それが務めであり、最後まで務めははたさんならんのは、同じだ。務めをはたすときは、誰でも鬼になる。まして戦じゃけん。鬼にならんでできるものじゃなか」
十一月二十日、敵は陣前百メートルにせまり、中川大佐が掌握《しようあく》する兵力は約五十人となった。この日、十一度めのご嘉賞があった旨の連絡があった。大佐はまだ戦うといったが、二十四日、ついに敵攻撃が十数メートルにせまると、軍旗を焼き、各個の遊撃戦を命じて自決した。
根本大尉以下残兵は夜襲をおこない、ペリリュー島の組織的抵抗は、終わったが、中川大佐の戦意をうけつぎ、ひたすら軍人としての実直な責任感をうえつけられた一部将兵は、なお島内に潜伏をつづけ、山口永少尉以下三十四人がようやく“戦い”をやめて米軍に収容されたのは、日本の降伏二年後、昭和二十二年四月二十一日であった。
小沢治三郎
古来「人はみかけによらぬ」とよくいわれるが、最後の連合艦隊司令長官・小沢治三郎中将ほど、この俗諺《ぞくげん》がぴったりする指揮官も少なかったにちがいない。
海軍兵学校のクラスメートがつけたアダ名は「鬼瓦」、青年将校時代にかよった横須賀の料理屋の女中たちは「ダルマさん」と呼んでいた。
小沢中将は宮崎県高鍋町の出身だが、昔風にいえば六尺豊かな大男で、県立宮崎中学校時代は、柔道が強く、あるいは隣の中学校の生徒とケンカしたり、校長夫人がのっていた人力車をひっくり返したり、不良青年を投げとばすなど、しきりに腕白ぶりを発揮して、ついに退学処分をうけた。
上京して、私立成城中学校へ入学したが、ある日、神楽坂を散歩していると、小柄だが目の鋭い青年にケンカをふっかけられた。態度がきわめて無礼なので、小沢生徒はこの青年を投げとばし、下駄でその背をふみにじって説諭した。青年はわび、柔道修行中であると述べて、名前を告げた。「三船久蔵」――のちに日本一の柔道家といわれた三船十段である。
この腕っぷしといい、「鬼瓦」をおもわせる面構えといい、また百七十九人中四十五番という海軍兵学校卒業成績といい、小沢中将の前途を光輝あるものと予見する者は、ほとんどいなかった。また、小沢中将は、いわゆる“水雷屋”と呼ばれる魚雷戦闘と艦隊勤務に関心をもち、将来の道を定めたので、まずは潮風に身をさらす駆逐艦長から、せいぜい戦隊司令官が出世の行きどまりとみられた。
大尉のとき、故郷の名家の娘・森石蕗《つわ》と結婚したが、そのさいも、ほかにも良縁があったので、テーブルの上にハシを立て、倒れた方向できめた、という(『提督小沢治三郎伝』)。
ますます、その豪快だが大ざっぱな風格は、緻密な計画を好む知将よりは荒波にもまれて号令する、海の男にふさわしい印象を、周囲に与えた。
ところが、小沢中将は、およそ外見とは対照的な人柄であった。
第一に、小沢中将はその風貌、あるいは酒を好み、しばしば海軍御用の料理屋で“沈没”する、女好きなどの徴候から推察される“豪放性格”とは別に、慎重な配慮と高い教養の持ち主であった。
小沢中将が残しているエピソードに、その歌のうまさがある。料亭で遊ぶとき、中将はいつもたくみにうたっては女中たちを喜ばせたが、太平洋戦争の開幕を前に、海南島三亜港でマレー進攻の山下奉文中将ら第二十五軍幹部と会食したときである。小沢中将は南遣艦隊司令長官として、第二十五軍の上陸援護を担当するわけだが、コタバル海岸上陸部隊指揮官・佗美《たくみ》浩少将に「海のことはひきうけます」といったあと、立ちあがってうたいはじめた。
赤いランタンほのかにゆれる
港《みなと》上海 花売り娘……
小節《こぶし》もきいた美声であり、おまけに歌にあわせておどりだした。あのいかめしい顔と体のどこをどうすれば、そんな美声が出現するのか、と、山下中将以下陸軍将兵は唖然《あぜん》とした、と伝えられている。
むろん、好きだからうまいわけだが、小沢中将の歌上手には裏話がある。中将は、参謀に頼んで上陸するたびに最新の流行歌レコードを買わせ、ひそかに猛練習をおこたらなかったのである。
幅広い読書家でもあった。ロシア文学を好み、ドストエフスキーの作品は、ほとんどぜんぶ読破した。「中央公論」「改造」などの雑誌も、購読を欠かさなかった。
小沢中将は、「戦《いくさ》は人格なり」といい、部下統率の極意は「無欲だ」と強調していた。「戦は人格なり」とは、中将が海軍大学校時代、日本海軍が生んだ有数の戦略家・佐藤鉄太郎大佐(のちに中将)が主唱した言葉であったが、小沢中将は「ほかの話はなにひとつ覚えていないが、それだけは忘れぬ」といって、自らの信条にもしていた。
おそらく、小沢中将がひそかに心がけた教養の積み重ねと経験によって、佐藤教官の言葉の真髄を自得してうなずいたものであろうが、小沢中将自身も、海軍では群をぬく戦術家であった。
小沢中将は、海軍水雷学校と海軍大学校の教官をつとめたが、そのとき中将が学生に強調したのは、戦史の研究と独創性であった。中将はとくに第一次大戦の英独艦隊が戦ったジュットランド沖海戦を研究して、それまで考えられなかった主力艦隊による夜戦強襲戦術を、案出した。
また「戦法はその国民性に合致し、独創的で、敵の意表をつくものでなければならない」と指摘して、日本の古戦史の研究を学生にすすめるとともに、それまでの戦術の定説にとらわれることを厳重に戒めた。ある学生が、当時、海軍戦術の教典とみなされていた「海戦要務令」について質問すると、じろりと相手をにらんだ小沢教官は、ぶすりと答えた。
「こんご、本校在学中にそんなものはいっさい読むな」
つまりは、借り物のチエに頼るな、という戒めであるが、同時に、この叱咤《しつた》は、小沢中将の合理性、具体性を尊ぶ資質に由来するものでもあった。中将は、戦いは具体的な行動である以上、戦術もまた具体的でなければならない、と信じていた。その点「海戦要務令」は、抽象性に富んでいる。
たとえば「戦闘の要訣は先制と集中にあり」と書いてあるが、では“先制”と“集中”とはどうするのか。敵に先んじて攻撃体形をとるための展開の要領、あるいは戦力を集中して発揮するための砲戦、魚雷戦の開始の時期、その距離、各艦艇の運動、さらに夜戦、薄暮《はくぼ》戦のやり方など、こと実際の戦闘となれば、およそ細かい行動の内容が問題になる。ただ「先制と集中にあり」のかけ声だけでは、どうしようもない。
「しかも、戦闘はけっして先例どおりにおこなわれるものではない。千の変化と、万の応用が必要になる。そのときに、ただ語感でわかったような心境で対処するのは、むしろ、失敗を招くだけである」
自分の頭で考え、そして変化に対応する準備をととのえろ、という意味であるが、この小沢中将の考えはそのごも変わらず、また中将の経歴はその思想の熟成を促進した、とみられる。
小沢中将は、海軍水雷学校高等科を卒業していちおうの士官教育課程を終えると、水雷艇「鶴」、同「白鷹」艇長、駆逐艦「竹」艦長、第三号駆逐艦長を経て第一艦隊兼連合艦隊参謀、第一水雷戦隊参謀、海軍水雷学校教官をつとめたのち、第一駆逐隊司令、第四駆逐隊司令、第十一駆逐隊司令、戦艦「榛名」艦長、第八戦隊司令官、第一航空戦隊司令官、第三戦隊司令官を歴任し、南遣艦隊司令長官として、太平洋戦争を迎えた。
この間、海軍大学校教官や海軍水雷学校長もつとめたが、いずれも短期間にとどまった。すなわち、小沢中将は、幕僚勤務や行政事務にたずさわるよりも、指揮官としての訓練を積んでいる。
海軍では、海上勤務とくに艦長づとめをつづける経歴を「車引き」と称した。そして、陸軍と同様、中央勤務を出世コースとみなす場合、「車引き」はあまり歓迎されぬきらいがあったが、「無欲」を旨《むね》とし、「独創」と「現実性」を支柱にする戦術考案を心がける小沢中将にとっては、「車引き」勤務は、かえってかっこうの指揮官としての鍛錬の場でもあった。
経歴が語る順調な昇進も、指揮官としての小沢中将の成長をものがたっているが、中将は“水雷屋”でありながら、いち早く飛行機の価値を認め、第一航空戦隊司令官時代には、きたるべき海上決戦の主力は航空兵力となることを指摘し、連合艦隊の全航空部隊を単一指揮官の下に統轄する航空艦隊編制を、海軍大臣あてに具申した。
そのころ、航空艦隊の必要は中央でも察知していた。だから、小沢中将の意見は軍令部の見解とも合致していて、太平洋戦争前に、南雲忠一中将を指揮官とする第一航空艦隊が誕生した。その意味では、小沢中将の意見具申は、とくに目新しいものとの評価はうけなかったが、中将の着実な指揮官ぶりと積極的で柔軟な戦術思想は、連合艦隊司令長官・山本五十六大将の信頼を得て、山本大将はハワイ空襲作戦の準備中、南雲中将よりもむしろ、小沢中将を第一航空艦隊司令長官にあてたい意向を、もらしていた。
太平洋戦争における、小沢中将の活躍は、どちらかといえば、地味である。ほとんど南雲中将の後任をたどる職歴を歩んだ。
第二十五軍のマレー進攻にさいして、海軍内部に護衛の危険性、とくにコタバル上陸援護の危険が強調されて、海軍の援護任務の範囲が論議の焦点となったさい、小沢南遣艦隊司令長官が「全滅を賭しても護衛にあたる」と断言した話は、よく知られている。
おかげで、第二十五軍は予定計画どおりの作戦を実施することができるようになり、作戦主任・政信中佐は「小沢長官は戦の神さまだ」と、感涙を流しながら、小沢中将を拝礼した。
そのごも、ハデな登場ぶりは示さなかったが、小沢中将の声価は高まっていった。マレー沖海戦で、英極東艦隊主力の戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」、巡洋戦艦「レパルス」を撃沈したあと、中将は、敵将フィリップス提督が艦と運命を共にした報告を聞き、「おめでとうございます」と告げる軍医長に、静かに答えた。
「いや、俺もいつかはフィリップス長官と同じ運命をたどるだろう」
シンガポールが陥落したあと、第二十五軍司令官・山下中将は、とくに小沢中将の上陸援護に感謝の意を表明すべく、英極東軍司令官・パーシバル中将はじめ捕虜多数を整列させて、小沢中将の“閲兵式”をおこなった。小沢中将は、パーシバル中将の前に立つと、いった。
「閣下はじゅうぶんに国家にたいする義務をはたされました。こんごはゆっくり休養されるよう望みます」
休養といっても、捕虜生活は一般的意味の休養とはほどとおいはずである。だが、通訳の言葉に耳を傾ける前に、パーシバル中将の目にはかすかに涙がにじんだ。小沢中将がいうのは、皮肉な挨拶ではなく、心からのいたわりであることが、その表情と声音から感得できたからである。パーシバル中将は、ふるえる小声で、小沢中将に答えた。
「サンキュー」
小沢中将が指揮官としての本領を発揮したのは、昭和十七年十一月に第三艦隊司令長官に就任して以後に、とくに著しいといえる。第三艦隊は、それまでに撃破された空母勢力を、大型空母「瑞鶴」「翔鶴」を中心に再編した母艦部隊であるが、当時、旗艦「瑞鶴」の航海士だった野村実中尉は、小沢中将の指揮ぶりのいくつかを記録している。
ある日、小沢中将が艦橋で野村航海士に質問した。
「航海士、ガラスはなにからできているか」
「ハイ、珪酸と石英が主成分で……すみません。もっと確かめます」
あわてた野村航海士は、辞書を調べて報告したが、小沢中将がうなずいてポツリともらしたのは、要するにガラスを完全な平面に作ることはできない、だから見張員が船橋のガラス越しに双眼鏡で監視するのはよくない、という指示であった。
「この小事は、小沢さんの細心で慎重な面を示しているのではなかろうか。夜戦の権威であった小沢さんは、見張員のこのようなやり方を、許せなかった。しかし艦長や航海長に注意すると、やや面目問題と感じるかもしれない。幕僚を通じていうには、ことが小さい。航海士の教育とともに、自分の目的を達成しようとして、私にあのようなことをいったにちがいない」
というのが、欽慕《きんぼ》の念をたたえた野村航海士の回想である。
また、小沢中将は「僕は昔から……いろんな敵の出様を頭の中に想定して、之《これ》に対応する策を考えて置く癖がある」と自身でも記述しているが、第三艦隊司令長官時代、中将は、トラック諸島のひとつ、楓《かえで》島に艦隊乗組員を動員して飛行場をつくらせた。
「やがて決戦ともなれば、基地航空兵力を有効に使用するために、必ず多くの飛行場が必要になる。一歩先のことを一歩前にやっておく。これが戦いの要諦である」
小沢中将は、そう指摘して、連合艦隊司令部が人手不足をとなえると、あえて指揮下の兵員の手で飛行場を用意したのである。
その小沢中将が期待した決戦――「マリアナ沖海戦」は、しかし、惨めな結果に終わった。
小沢中将は、昭和十九年三月、第三艦隊と第二艦隊をあわせた第一機動艦隊司令長官となった。第一機動艦隊の兵力は、空母九隻、戦艦三隻、巡洋戦艦二隻、重巡十隻、軽巡三隻、駆逐艦二十九隻、計五十六隻のほかに各種補助艦船を加え、実質的には、連合艦隊、いや、当時の日本海軍そのものといえた。
この第一機動艦隊を率いて、小沢中将は、サイパン島上陸を支援する米第五十八機動部隊に決戦をいどんだ。戦術は、小沢中将自らが考えた「アウト・レインジ戦法」であった。
主力部隊の前方百マイルに、大林末雄少将の第三航空戦隊(空母「千歳」「千代田」「瑞鳳」)と、栗田健男中将の第二艦隊の大部分を配置しておく。そして、念入りな索敵で、まず米艦隊を先に発見し、次いで母艦機を発進させる。そのさい、日本機のほうが米軍機よりも航続距離が長いから、敵が攻撃してこれない遠距離から発進する。すなわち「アウト・レインジ」である。
そして、敵空母の甲板を爆撃して発着艦不能にさせておいて、前衛部隊は突進し、砲弾と魚雷で敵を撃滅する――という戦法である。
「これは虫がよすぎると見えるかもしれないが、戦法としては可能なことであり、寧《むし》ろ食うか食われるかの一発勝負の母艦航空戦では、これはすばらしい着想として称揚されてよい」
と、真珠湾空襲飛行隊指揮官・淵田美津雄大佐は論評するが、小沢中将は、接敵法についても「敵のレーダーに発見されぬように、攻撃隊は敵空母群の五十マイル付近までは低空飛行をおこない、急上昇して降下せよ」と細心の指示を与え、「一部兵力にギセイを強いることも辞せず」と訓示して、ボルネオ東方のタウイタウイ基地からサイパンにむかって、出撃した。「皇国ノ興廃此ノ一戦ニアリ」――と、連合艦隊司令長官・豊田副武大将は訓電したが、まさに日本海軍の総力である第一機動艦隊が敗れれば、そのごの戦局の退勢は明らかである。「此ノ一戦」の成否は、小沢中将の双肩にかかっていた、といえる。
六月十八日午後三時ごろ、小沢中将が実施した入念な索敵により、小沢部隊の前方約三百八十マイルに敵空母部隊三群を発見した。第三航空戦隊の大林少将は、「直チニ攻撃隊発進」と小沢中将に報告するとともに、全機発艦の準備を開始した。
だが、小沢中将は「発進中止」を指令した。理由は、そのとき発艦すれば、敵上空到着は夕刻になり、帰艦は夜となる。だが、第一機動艦隊所属のパイロットの訓練はなお不十分で、夜間着艦はおぼつかないとみこまれたからである。
小沢中将の部下おもいは、名高い。かつて、昭和十八年十一月、ブーゲンビル島方面の「ろ」号作戦が実施されたとき、小沢中将は作戦終了の訓示をしようとしたが、部下多数の戦死を思い、壇上でただ号泣するばかりであった。
この日も、索敵機一機が帰路を見失って夜になると、敵に発見される危険もかまわず、サーチライトの点燈を命じて、一機の帰りを待ちつづけた。
おそらく、この部下おもいと、練りあげた「アウト・レインジ」戦法にゆだねる戦術家としての自信が、小沢中将に発進中止を命令させたのであるが、結果からみれば、この中将の“温情”と“自負”が致命傷となった。
翌十九日、小沢中将は、快晴の天空に第一次、第二次攻撃隊二百五十七機を相次いで発進させた。ところが、パイロットの未熟さは、敵を求めて飛ぶ洋上三百五十〜四百マイルの飛行も負担であったうえに、米第五十八機動部隊は、日本側の出動艦艇五十一隻にたいして百五十八隻、空母だけで九隻対二十九隻の優勢を利用して、艦隊とサイパン島上空、さらに前方の駆逐艦群上空にも戦闘機群を配置して、警戒していた。
戦いは、二十日夕刻まで続いたが、第一機動艦隊の航空機は米軍側が「マリアナの七面鳥撃ち」と呼称したごとく、文字どおり一方的に撃滅され、空襲と潜水艦攻撃により空母三隻(「大鳳」「翔鶴」「飛鷹」)を失って、敗退した。
しかし、打撃をうけながらも戦いつづけた小沢中将の闘志は、米国側にも称賛された。そのご、小沢中将は、昭和十九年十月のレイテ海戦で、残存空母部隊をひきいて囮《おとり》となり、ハルゼー機動部隊をみごとにひきつけて栗田艦隊の作戦を有利にして、さらに米国側の賛辞を強めた。
小沢中将は、そのご、軍令部次長を経て、昭和二十年四月、「海軍総司令官兼連合艦隊司令長官、海上護衛司令長官」に就任した。
小沢中将を連合艦隊司令長官に求めたのは、鈴木貫太郎内閣の海軍大臣になった米内《よない》光政海軍大将であった。米内大将は終戦を志し、そのさい海軍将兵を総督できる人物は“無私の提督”小沢中将以外にない、と判断したのである。米内大将は、小沢中将を大将に昇進させて連合艦隊司令長官にしようとしたが、小沢中将は固辞した。そこで、米内大将は中将の先任者を移動させ、小沢中将が中将のまま司令長官になっても最上級者であるようにして、任命した。小沢中将は終戦を迎えると、厳重に将兵の自決を禁止した。厚木航空隊が抗戦を叫び、その説得にむかう寺岡謹平中将にたいしても、中将は寺岡中将の手をにぎって、いった。
「キミ、死んじゃいけないよ。きのうから宇垣中将は沖縄にとびこんだ。大西中将はハラをきった。みんな死んでいく、これでは誰が戦争のあと始末をするんだ。キミ、死んじゃいけないよ」
小沢中将は、戦後、清貧の生活を送り、ただ旧部下の世話と戦史記録の整備に努力して、昭和四十一年十一月九日、八十歳で亡くなった。四日後におこなわれた葬儀には、米国大使館武官も参列した。かつて米太平洋艦隊司令長官・チェスター・ニミッツ元帥は、日本の提督評をこころみた中で、小沢中将について次のように語ったことがある。
「勝った指揮官は名将で、負けた指揮官は愚将だというのは、ジャーナリズムの評価にすぎない。指揮官の成果は、むしろ、彼が持つ可能性にある。敗将といえども、彼に可能性が認められる限り名将である。オザワ提督の場合、その記録は敗北の連続だが、その敗北の中に恐るべき可能性をうかがわせている。おそらく部下は、彼の下で働くのを喜んだにちがいない」
安達二十三
オーストラリアの首府キャンベラに、戦争博物館がある。前庭にシドニー港を急襲した特殊潜航艇の残骸が安置され、館内にも、太平洋戦争中の日本軍の遺品が多く展示されている。
出征のとき贈られた寄せ書き入りの日の丸、鉄帽、水筒、あるいは現地生活に使用したのか「○○上等兵」「△△軍曹」と書かれた木の表札……など。それらの“戦利品”の中で、ひときわ目立つのは、黄色い将官綬のついた数本の軍刀である。名札が置いてある。
ジェネラル・マサタネ・カンダ……第十七軍司令官神田正種中将の愛刀である。降伏のとき、オーストラリア軍にさしだしたものであろう。次に「ジェネラル・ハタゾウ・アダチ……」と読んだ案内役のオーストラリア陸軍大佐は、威儀を正すと、その軍刀に敬礼した。
不審げに注目すると、大佐は私にむかってうなずきながら、いった。
「本官は、指揮官として、また人間として、民族をこえ、人種をこえて、このジェネラル・アダチこそ最も偉大なる存在だと尊敬している。彼は、指揮官としての責任の極限を示した、立派な軍人だった」
――と、以上は六年前にオーストラリアを訪ねたさいの出来事であり、そのときは、オーストラリア人大佐の言葉の意味がよくわからなかった。が、そのご、安達二十三《あだちはたぞう》中将について知ることが多くなるにつれ、大佐の賛辞にはいささかの誇張も含まれていない、と承知できた。
安達二十三中将は、明治二十三年六月十七日生まれ。そこで、「二十三」と名づけられた。陸軍士官学校第二十二期生。近衛歩兵第一連隊勤務を経て陸軍大学校を卒業したのちは、参謀本部鉄道課勤めが長かった。
支那事変が起こると、歩兵第二十二連隊長、第二十六師団歩兵団長、第三十七師団長、そして北支方面軍参謀長と、中国大陸を転戦した。
厳格な武人――というのが、部下の眼にうつる安達中将の第一印象であった。
「師団長、中将ともなれば、敬礼もおうようなものですが、安達閣下の場合は、まるで初年兵のようにキチッとした敬礼でしてね。
なかなかの美食家で、朝・夕食をとどけると、じっと食事を眺めまわされてから、ハシをとられました。それに、朝飯前、必ず静かにお茶をたてて一服されました」
そう想い出を語るのは、中将が第三十七師団長時代の当番兵・土持兵長だが、当番兵の眼から見る中将は、なかなかの気むずかし屋だった。
四十歳をすぎてからタバコを吸いはじめたとのことだが、中将は師団長当時、一日約八十本を吸う愛煙家であった。
「ゴールデン・バット」を好み、ただし吸口をつけて吸うので、当番兵が一本ずつ「ほまれ」の吸口をはずして「バット」につけねばならなかった。
週に一回、幕僚と一緒に遠乗りを楽しむが、ある日、落馬して前額部に三針ほど縫う裂傷をうけた。入院中、副官が気をきかせて、日本人マッサージ師をさしむけたところ、激しく叱られた。
「民間人をよこして、もし師団長が入院中だと敵に知れたら、どうするかッ。カネをはらって、すぐ追い帰せ」
当時の安達中将の写真をみると、眉《まゆ》も眼もやや下がり気味の温顔だが、ゆったりとした肥満体で、なかなかに重圧感に満ちている。
厳正な態度といい、細かい配慮といい、少なからず“恐い上官”ではなかったかと想像されるが、当番兵・土持兵長をふくめて、安達中将を煙たがる部下は少なく、逆に強い信頼感をいだく者がほとんどであった。
なぜか――? 土持兵長は、いう。
「ひとつは、非常な勉強家だったこと。閣下はいつも二、三百冊の本を居間にならべておられました。ヘンペンたる岩波文庫のたぐいはなく、部厚い歴史書、哲学書が多かった。私ら、やはり閣下はちがう、と思うとりました。
もうひとつは、無口でお上手はいわれないが、心からの部下想いであることが、私らによくわかっていました。副当番の少年兵が、汽車のコークス暖房の不燃焼で死亡すると、すぐ司令部の暖房を中止され、寒さをがまんしておられたのも、その一例です。けっして無理な作戦は承知されず、どうしてもやらねばならないときは、必ず第一線に出られました。この閣下の下でなら、見殺しになることはない、と信頼できました」
いいかえれば、安達中将が心底に秘める指揮官道の“真髄”は、「人間として実行できる命令を出す、部下が直面する苦難は、指揮官も共に味わう」という点にあったわけで、中将が東ニューギニアに赴任していらい発揮し、戦後もオーストラリア陸軍を感嘆させているものも、この“安達式統率”にほかならない。
安達中将が北支方面軍参謀長から第十八軍司令官に転補され、ラバウルに着任したのは、昭和十七年十一月であった。その三カ月後、昭和十八年二月にガダルカナル島は米軍に奪取され、中部、北部ソロモン諸島と東ニューギニアは、にわかに米・オーストラリア軍の脅威にさらされてきた。
東ニューギニアを守備する第十八軍は、相次いで増兵され、四月には、第二十師団(青木重誠中将)、第四十一師団(阿部平輔中将)、第五十一師団(中野英光中将)、独立混成第二十一旅団(山懸栗花生《つゆお》少将)その他、約十万人になった。
だが、この十万人は、十万人としての戦力は発揮すべくもなかった。
基幹兵力三個師団のうち、第四十一師団は、東ニューギニア中北岸のウェワク、第二十師団はその東方マダン、第五十一師団はさらに東端のアント岬をまわりこんだラエ、サラモア地区に布陣したからである。ウェワク→マダン間約三百キロ、マダン→ラエ間は約五百キロ。その間は険しい山脈とうっそうたる密林におおわれ、各師団はそれぞれ、ジャングルの大海に浮かぶ“孤島”に似た関係にあった。
安達中将は、ラバウルから海軍機でラエ、サラモア地区の第一線を視察した。ラエに近いホポイに独立混成第二十一旅団が配置されていたが、すでにラバウルがあるニューブリテン島と東ニューギニアとの連絡は、米・オーストラリア軍の制空、制海によって困難になって補給が不十分のためか、第二十一旅団の兵は少なからず疲弊《ひへい》し、ボロボロの軍服に竹の杖という姿であった。病兵が道端に倒れたままになっている。
安達中将は、涙を流して、しばし休養せよ、と命令した。
サラモア地区にまわるころ、安達中将はひどい下痢に悩んでいた。北支から赴任してきたころの二十貫をこえる巨躯は、すでにだいぶひきしまっていたが、下痢のおかげで日ごとにやせるのが目立った。軍医は、作戦主任参謀杉山茂中佐に、中将は絶対安静を要する、と注意した。参謀は中将に前線視察中止を進言したが、中将は首をふった。
「いや、ありがとう。しかし、行くよ。下痢はがまんする」
「下痢は生理的にがまんできません。せめて一日だけでもやめてください」
「いや、行くよ。下痢はきっとがまんする」
安達中将は、地下タビをふみしめ、軍刀をにぎって、行く、と主張した。そして、その言葉どおり、真っ青な顔で便意をおさえながら、ジャングル内の夜行軍、スコールの中での露営にも耐えて、第一線視察をつづけた。
「将軍のヨイショ、ヨイショのかけ声は、ドッコイショに変わり、そのドッコイショも出なくなることもあったが、一呼吸一呼吸にがまんを打ちこみ、一言のグチもこぼされない。どこまで強い意志か、と胸をうたれた」
杉山参謀は、そう回想しているが、視察行を終えると、安達中将は直ちに軍司令部をラバウルからマダンに移した。
オーストラリア軍は、東ニューギニア東南ポートモレスビー方面から北東進して、ラエ・サラモア地区に圧迫を加えていたが、昭和十八年六月三十日、サラモア南方のナッソウ湾に米軍第百六十二連隊が上陸した。
第五十一師団は、危機に直面した。師団を増援しようにも、制空権、制海権は敵の手中にある。かろうじて北岸に到着できても、サラモアに行くには標高三千メートル級の高峰が折り重なるフィニステル山脈を横断せねばならない。
すでに兵力減少していた第五十一師団は、七月二十日には総計三千二百五十人、うち戦闘要員二千五百八十人となった。しかも、弾薬、食糧ともに乏しく、糧食の貯蔵量は一日百人平均の運送で二日分が維持されているにすぎず、砲弾は山砲の六百発が最も多く、十センチ加農砲《カノン》に至っては、わずか五発という有様であった。
安達中将は八月二日、ラエに飛んで戦闘を指導した。とくに第五十一師団長中野中将にたいして、私信をおくって持久を要求した。
「師団は長期に亙《わた》り、大敵に克《よ》く抗戦、サラモアを固守せり。感謝するところなり。然れども、該地の重要性に鑑《かんが》み、かのスターリングラードにおけるソ(連)軍の如く、最後まで固持すべきを希望す」
安達中将は、第五十一師団がどのような苦境にあるかはよく知っている。だから、あえて命令ではなく、私信で激励した。命令なら、うっかり後退すればたちまち命令違反となり、処罰の対象になるが、私信であれば、融通がきく。また、「スターリングラードのソ連軍の如く」という表現には、ソ連軍が持久に徹してがんばったように、けっして玉砕突撃を急ぐな、という意味がふくまれている。
安達中将独特の細慮に満ちた指揮法であり、第五十一師団は感激した。
「師団ノ任務ハ『サラモア』ヲ確保スルニ在《あ》リ……之《これ》ヲ保持シ得サルトキハ……軍旗ハ焼キ奉リ病兵ニ至ル迄立チ上リ切リ死ノ覚悟ナリ、生キテ捕虜トナルモノ一兵モアルヘカラス……」
と、師団長中野中将は、むしろ、安達中将の温かい心根に感奮して決死の覚悟を部下に求め、第五十一師団の残兵たちも生米をかじり、粉味噌をなめながら、銃をにぎりつづけた。
だが、九月四日、新たにG・ウッテン少将のオーストラリア第九師団がラエ東方約二十キロのブソ河口に上陸し、五日にはG・ベイジー少将指揮のオーストラリア第七師団が、ラエ西北約三十キロのナザブ平原に降下した。
もはや、第五十一師団の命運は尽きた、とみなすべきである。中野中将は佐賀生まれである。幕僚の起案書には、いつも「よかろうたい」と泰然とうなずくだけであったが、この時期には、作戦参謀の後退持久作戦案に首をふった。
「もう俺もがまんできぬ。この辺で残兵力を集結して斬りこもうじゃないか」
飢えと病によろめく部下に、抵抗力は乏しい。坐して砲爆弾に吹きとばされ、切り裂かれる最期は目に見えている。ならば、軍人らしい死を与えるべきであろう。はじめてきっぱりと幕僚の献言を拒否する中野中将に、参謀たちも粛然と頭をたれたが、そのとき、安達中将の第十八軍命令が受信された。撤退せよ、という。
中野中将も幕僚たちも「心気の動揺を覚えた」。玉砕の決意をかためて、むしろ、解放感を感じていたからである。だが、一兵でも多く生存せよ、という安達中将の温情もよくわかる。安達中将は、後退を援護するために、第二十師団の一部をマダンから派遣する、とも伝えてきている。
中野中将は、約四千メートルの高峰サラワケットをこえて、北岸に避退することにした。
九月二十二日、第五十一師団はサラワケット山に分け入った。白いアゴひげにおおわれ、乃木将軍に酷似した中野中将は、一本の杖にすがって身を運んだ。
「いまから考えても身の毛がよだつほどの“死の行進”であった」と、中野中将は回想するが、すでに弱りきっている第五十一師団将兵にとって行軍は負担が多すぎた。サラワケット山の急斜面にかかるまでに、約二百人が倒れた。
食糧は乏しく、しかも連日豪雨におそわれた。疲れはてた将兵の中には、踏みしめる足の力もおとろえ、あるいは生きる気力を失って小銃、手榴弾で自決する者、岩角から声もなく断崖を落下する者も少なくなかった。おまけに、寒い。熱帯地方とはいえ、高山の夜は零下二十度にも冷えこみ、夏服一枚でマラリアを病む兵は、五人、十人とひとかたまりに凍死した。
サラワケット越えで、どれほどの将兵が倒れたかは不明である。約千人とも、約二千人とも、いう。
既に乏しき我が糧に
木の芽草の根補いつ
友にすすむる一夜は
「サラワケット」の月寒し
この第五十一師団の軍歌「サラワケット越え」の一節に、当時の悲境がうかがえる。
安達中将は、第五十一師団の先頭がサラワケット山をこえてキヤリ部落に達した、と聞くと、直ちにキヤリに司令部を進め、毎日、よろよろと密林からあらわれる将兵を、泣きながら出迎えた。
ガダルカナル島の戦いは、飢えと病魔の二重苦の戦いだといわれる。ニューギニアの第十八軍はさらに長行軍を加えて三重苦と戦ったのである。が、その三重苦の戦いは、サラワケット越えで終わらず、第十八軍は、米・オーストラリア軍に追われて転進を重ねながら、昭和十九年四月下旬には、ウェワク付近で孤立した。西方のアイタペ、ホーランジアに米軍が上陸して退路を遮断されたからである。
安達中将は、アイタペ攻略を決意した。そのままでは、海軍部隊をふくめて約五万四千人に減少していた第十八軍も、十月末には全軍飢え死にと判定されたからである。しかし、「猛号」作戦と名づけられ、七月十日から開始された攻撃も、八月四日には中止せざるをえなかった。損害約一万人を数えた。
安達中将は、自活による持久を指令した。「それから約四カ月間の安達中将は、食糧技術者であり、医者であり、宗教家であり、行政家であった」と、参謀の一人田中兼五郎少佐が回想しているが、中将はそれまでの教養のすべてをしぼりだして、各部隊の生活指導にあたった。
安達中将の体重は十三貫に減り、持病になっていた脱腸は悪化し、歯はほとんど抜け落ちていた。しかし、中将は、自身のことはいささかも顧《かえり》みることなく、密林をこえ、川を渡って、どんな遠い小部隊も訪ねて、激励した。
サゴ椰子《やし》の実からとる澱粉《でんぷん》が、主食であった。その採取法、また病人運搬法と永住農園の開拓計画など、生活の基本設計はすべて安達中将の考案であった。原住民にたいしても、自ら杖をついて酋長に面会して、協力を求めた。
田中少佐は「あの困苦の戦場で、第十八軍にただ一人の抗命者も出なかったのは、安達中将の“無私無雑”の指揮のおかげであった」と強調するが、安達中将の真面目な姿勢は、原住民にも感動を与えた。
原住民たちはすすんで自分たちの食糧を日本軍に提供し、そのための餓死者も発生するほどであった。
こうして、第十八軍はしだいに居住小屋もふえ、栽培するイモ畑も拡がり、自給生活は軌道にのりはじめた。キャンベラ市の戦争博物館に展示される表札は、これらの小屋の入り口にうちつけられていたものでもあろうか……。
だが、昭和十九年十二月、見捨てられていたと思った第十八軍にたいする攻撃は再開された。将兵はクワを捨てて銃をにぎり、爆弾の火薬を利用して手榴弾をつくり、鉄帽でタコ壺陣地を掘って応戦した。
安達中将は、果敢な抗戦ぶりを示した。ただ、以前は即決といってもよいほどに命令はすばやかったが、その反応はにぶくなった。
中将は、指揮の限界に想い悩んでいた。戦理にかない体裁がととのった命令案には承知せず、どんな小規模な行動を命ずる場合でも「生身の人間として、はたしてこの命令が実行できるか」と、入念に自問していたからである。
おかげで、第十八軍の被害は意外に少ないままに持久をつづけたが、さすがに昭和二十年七月にはいると、敵の包囲はせばまり、八月八日には、敵は第十八軍司令部付近に進入してきた。安達中将は、九月はじめには、全滅するものと判定して、各部隊指揮官に覚悟と最後の攻撃を通達した。
八月十五日の終戦は、だから、第十八軍にとっては、まさに「死の直前にさしのべられた生の手」であったわけである。
安達中将は、九月十三日、ウェワクのオーストラリア第六師団司令部に出頭し、軍刀をさしだして降伏文書に調印した。中将は、指揮下部隊に降伏を命ずることを、要求された。他の戦場と同様であり、そして、多くの指揮官は、とかくその場合に「降伏」という言葉は使いたがらなかったが、安達中将は、明確に命令した。「軍は大命に基き豪州第六師団に降伏せんとす……」
終戦につづくのは、戦争犯罪人裁判である。第十八軍はムシュ島に収容され、昭和二十一年一月には大部分が日本に復員したが、安達中将は約百四十人の部下とともに、戦犯容疑をうけ、ラバウルに送られた。
収容所では、完全な囚人待遇を与えられた。脱腸は悪化し、手術をすすめられたが、安達中将は首をふり、劇痛にたえながら、天秤棒を肩に水をはこび、炎熱にあぶられて草をむしるなど、課せられた労役に服した。
中将は、終身刑の判決をうけた。容疑は、シンガポールで降伏したのち自発的に日本軍に参加した「インド義勇軍」を、強制されたものとみなし、一種の捕虜虐待と判定したためであった。
裁判所も無理を認めたものか、判決後、検事が中将に近づき、刑が重くて気の毒だ、と同情の意をひれきした。中将は、厳然と答えた。
「貴下に同情してもらうつもりはない」
そのご、安達中将は、同囚の部下をなぐさめ、その心の柱となってすごした。減刑の嘆願もせず、ただ戦犯裁判が終了する日を待った。裁判終了となれば、新たに部下が処刑されることもなく、指揮官として部下の前途に安心できるからである。
九月八日ラバウル法廷の閉鎖が通告され、同時に容疑者として拘留中の部下八人の釈放が発表された。
安達中将は喜び、弁護団に謝辞を述べ、身の回り品を整理したあと、九月十日午前二時ごろ、自決した。
「……小官は皇国興廃の関頭に立ち……将兵に対し……人として堪へ得る限度を遥かに超越せる克難敢闘を要求致し候……黙々として之を遂行し……花吹雪の如く散り行く若き将兵を眺むる時……当時小生の心中、堅く誓ひし処は、必らず之等若き将兵と運命を共にし……たとへ凱陣の場合と雖《いえど》も渝《かわ》らじとのことに有之《これあり》候……」
第八方面軍司令官今村均大将あての遺書であり、安達中将がこれまで、それこそ「人として堪へ得る限度」をこえた忍苦の日々をすごしてきた心境が表明されている。
そして、中将は、果物ナイフで割腹し、自分でわが首を圧迫して死ぬ、という克己の死をとげた。
大西瀧治郎
「急告 本月五日、各新聞に掲載の小生の記事は……事実相違のかど多々有之、小生の一身上に何等御配慮を煩はす点無之……此段御安心下され度候……
早々敬具
大正十三年九月十日
海軍省教育局第三課 大西瀧治郎」
こんな手紙、いやガリ版刷りの同文の回状をもらったとき、大西瀧治郎海軍大尉の友人、知人たちは、いっせいに苦笑した。
「大西のヤツ、こんどのイモ掘りは、だいぶこたえたらしいな」
「ま、いい薬だろうよ」
“イモ掘り”は海軍隠語である。俗に、タコはイモが好物で、よく海岸の畑にはいあがってイモを食い荒らすという。そこで、海軍の将兵が陸上であばれることを、“イモ掘り”と称していた。
大西大尉の“イモ掘り”とは、回状の前日、九月四日、横須賀の料亭で一杯やったとき、呼んだ芸者のサービスが悪いというので、ポカリとなぐったことである。当時の海軍青年将校にはありがちのふるまいで、もの慣れた芸者なら笑ってすますことも多かったが、当人はたちまち憲兵隊に通報し、ついでに「旦那」なる人物が騒ぎ、さっそく五日の新聞に報道されてしまった。
しかも五日は、大西大尉にとって海軍大学校入試口頭試問の第二日めである。新聞を見た教官は眉をしかめ、大西大尉は受験を停止されてしまった。
かくて、噂は飛び、友人は心配し、大西大尉の挨拶状となった次第である。大西大尉は、小肥りの身体、眼の大きな丸顔とさっぱりした気性で人気を集めていたので、論評の多くは前述のような好意に満ちたものであった。が、同時に、これで大尉はエリート・コースをふみはずした、とみる者が少なくなかった。
海軍大学校を卒業しないで栄進した例は、すでに加藤寛治、安保清種、野村吉三郎大将そのほかがある。しかし、海軍大学校卒が出世の早道であることもまちがいなく、入校を棒にふった大西大尉の不利は明白であったからである。
だが大西大尉は、その年の十二月に予定どおり少佐に進級したのをはじめ、その昇進によどみはなかった。
「その胆甕《かめ》のごとく、思想は周密かつ深刻であり、しかも全然無私であった。国家のために何が最善であるかということが、その判断および行動の基準をなしていたように思われる」
とは、源田実中佐の回想であるが、この源田中佐の大西中将評は“特攻の父”として、終戦直後に大西中将が自決したあと中将に捧げられた、賛辞と墓辞のすべてに共通している。そして、源田中佐がたたえた「大胆、緻密、無私」という指揮官としてのすぐれた資質は、すでに青年将校時代の大西中将が身にそなえ、先輩、同僚、後輩の多くの注目と期待を集めていた。
おそらく、定評ある酒好きと“イモ掘り”(注、大西中将は英仏両国に留学中にも、英国人をなぐりとばす武勇伝を発揮した)にも拘わらず、大西大尉が累進をかさねたのも、この辺の消息によるものとみられる。
大西中将には“特攻の父”のほかに、“海軍航空の親”という敬称も献呈されているが、中将自身も「航空は小生の生命に候」と唱えていたように、その経歴はまさに海軍航空隊の歩みであった。
大正四年十二月、中尉になると同時に海軍航空技術研究委員に任命された。
飛行機が「飛行器」と呼ばれていた時代である。ついで横須賀海軍航空隊が設置されると、その隊付きとして、日本海軍最初の水上機母艦「若宮」のパイロット七人の一人に選ばれた。
三年間の英仏留学のおみやげは飛行船であり、大西大尉は、初代海軍飛行船長として大正九年秋に試験飛行をおこなったが、この飛行テストに、大尉の周到ぶりが発揮されていた。
その日は、早朝は風も弱く、結構な「飛行船日和《びより》」と思われていたが、テスト実施になると風は強まり、とくに風向きの変化が激しかった。しかし、大西飛行船長の操縦にはあぶなげがなく、飛行船はゆうゆうと飛び、また予定着陸点にピタリと着地した。
地上からみていると、いかにも大胆な操縦ぶりにみえ、しばしば「お、大西大尉、あぶないぞ」と叫び声があがった。だが、着陸後、大尉の説明を聞くと、参観者は別のおどろきの声をあげた。
「だいたい、地表と上空の大気情況、船体浮力、前後空気房内の空気量、つりあい、ガス量、地上作業員の能力、着陸索の長さと重量、船体の慣性、エンジン出力などから、着陸操作は三段構えの方策を考えておきました」
なるほど、これだけの注意をしておけば、まず大丈夫というものである。一同は、一見“西郷風”の容姿と挙動から、およそ大ざっぱな性格とみていた大西大尉の細心さに、感銘をうけた。
いらい、大西中将には「西郷隆盛を科学したような男」という評言が与えられたが、大西中将の“科学性”は独特の風格をおびていた。一方で非合理をトコトンまで排除すると同時に、他方では、理は不明でも有用であれば採用する、といった融通味も備えていたのである。
たとえば、大西中将が霞ケ浦航空隊教官、佐世保航空隊飛行隊長、航空本部教育部員、空母「加賀」副長、横須賀航空隊副長兼教頭を経て、大佐に昇進して、昭和十一年三月から海軍航空本部教育部長をつとめていた頃のことである。
海水を石油に変える“発明”を売りこみにきた男がいた。実験させると、ビンにつめた海水がたしかに石油になる。石油問題が有力な太平洋戦争開戦原因のひとつになるほど、海軍は燃料不足に悩んでいる。たちまち支持者がふえた。
大西大佐は、くさいと感じた。たぶんビンをすり替えているにちがいない、と思った。事実、そのとおりだったが、手ぎわよいため、わからない。徹夜で監視し、あるいは自宅に宿泊させて実験をやらしてみたが、シッポをつかめない。ついに、海水のつまったビンを写真にうつし、ビンのガラスの気泡と、石油に変わったときのビンの気泡とみくらべることで、すり替えを立証した。
詐欺が発覚したとき、犯人は「あそこまでやられては……」と、大西大佐の徹底した究明ぶりを嘆いたが、そうかと思うと、大佐はパイロット要員の査定に骨相学を採用した。
当時、まだ海軍航空技術は未熟で、飛行機事故が多かった。当然、飛行機そのものの改良にも努力ははらわれたが、パイロットの適不適も事故原因のひとつであるだけに、その選定法が問題となった。
心理学テストなども採用されたが、大西大佐は骨相学の名人水野義人の名を聞くと、さっそく霞ケ浦航空隊でテストを依頼した。あらかじめ航空隊で認定した飛行適性と、水野氏の骨相判断とを比較するわけである。水野判断は符合率八十七パーセントを示した。さらに調査を重ねたが、つねに高率の成果をおさめるので、大西大佐は水野氏を嘱託に採用することを上申した。
むろん、「科学の粋を集める航空界に骨相判断とはなにごとだ」という反論が激しかったが、本部長山本五十六中将の裁決で、水野氏は航空本部嘱託となった。いらい終戦まで、水野嘱託は約二十万人の海軍パイロットの採用検査をおこなった。
いいかえれば、日本海軍のパイロットは骨相で採用されていたわけだが、ところで、大西中将が指揮官としての本領を示すのは、昭和十四年少将に進んで、第二連合航空隊司令官に就任してからである。
支那事変が勃発すると、大西大佐は自身で九六式陸上攻撃機にのって南京《ナンキン》爆撃を視察したりしていたが、二連空(第二連合航空隊)司令官となると、さらにその陣頭指揮ぶりは徹底した。
二連空は、第一、第三連合航空隊とともに支那方面艦隊司令長官の指揮下にあったが、三つの連合航空隊指揮官は、一連空が山口多聞《たもん》少将、三連空が寺岡謹平少将と、いずれも大西少将の同期生(海軍兵学校第四十期)であった。
大西少将は、しばしば出撃に参加した。しかも、そういうときは、必ず編隊の後隅、つまり三角点に位置する飛行機にのった。
この三角点は、一般に最下級のパイロットの位置とされ、周辺に味方機がいないだけに、先頭の指揮官機以上に危険とみなされていた。おまけに伎倆《ぎりよう》が低い。
「まず(敵機に)食い下がられたら最後、防ぐ手はないだろうな。いちばんかわいそうだよ」
と、大西少将も述懐していたが、少将はその“三角点機”にのった。「指揮官というものは、部下に号令するときは部下と共に在り、共に死地に飛びこむのが務めだ」からである。
しかし、あまりに危険なので、成都爆撃のさいは、第十三航空隊司令奥田喜久司大佐は「司令官が死ぬのはまだ早いです。代わらせて下さい」と切願して、自分が攻撃隊指揮官となった。そして大佐は戦死した。大西少将は、奥田大佐機の最期を聞くと、泰然として訓示した。
「出撃に臨んで、はじめて死を決するのは、すでに遅い。武人の死は平素から十分に覚悟されているはずである」
そのとおりではある。が、部下たちは、なんとなく憮然《ぶぜん》とした表情をそろえた。情のこわい人、という印象をうけたからである。
ところが、数日後、奥田大佐以下戦死将兵の追悼式が挙行されると、部下たちの気持ちは一変した。
「……卿等《けいら》の勇姿今尚眼底に彷彿《ほうふつ》たるに、卿等と其の愛機とは再び相見《あいまみゆ》るに由なし……」と、弔辞がすすむにつれて、大西少将の声は細くなり、とぎれがちになり、「……忽焉《こつえん》として忠勇の士を失ふ、愛惜安《いずく》んぞ堪へん……特に思を卿等の遺族に致す時……」というところまでくると、いつのまにか涙声になっていた少将の声はフツリと絶え、よろよろと上体がゆらめき、かけよった参謀が少将を支えた。少将の弔辞は中絶され、少将は居室にはこばれた。亡き部下を思いつづけ、食欲不振と睡眠不足で倒れたのである。部下たちは、感激した。
おもえば、部下の死を淡然と迎え、さらに攻撃を命ずる背景には、自ら最も危険な場所で率先指揮する責任感と、泣くときには全身で泣く情愛があったのである。
「おいも行く、わかとんばら(若殿輩)のあと追ひて」
――とは、そのころから大西少将が愛誦していた西郷隆盛の言葉であるが、部下たちは少将の涙の卒倒をみて、少将の心境にウソがないことを知った。
二連空の士気は高まり、支那事変中に二連空は山口少将の一連空とともに、二回にわたって、感状をうける働きを示した。
昭和十六年一月、大西少将は第十一航空艦隊参謀長に就任した。その直後、少将は連合艦隊司令長官山本五十六大将に呼ばれ、ひそかにハワイ真珠湾空襲作戦の計画立案を命じられた。
山本大将がわざわざ直接の指揮下にない大西少将に秘事をたくしたのは、真珠湾空襲計画が異例のものであり、しばらくは大将の個人的研究ということにしたかったためと、なによりも大西少将を信頼していたからである。
大西少将はまた、自分が信頼をかける第一航空艦隊参謀源田中佐に作業をゆだねて、作戦案をつくった。しかし、作戦には、大西少将は最後まで反対しつづけた。戦意に富み、勇敢さを好む少将にとって、三千マイルの波濤をこえて敵の本拠に突入する、というハワイ作戦は、文字どおりに武者ぶるいを誘いこそすれ、ちゅうちょはみじんも感じないはずである。
だが、少将は作戦行動の秘密保持は無理であり、どうしても事前に発見または察知され、みすみす敵のワナにとびこむ形になると判断した。それでは将兵は徒死するだけではないか。
「敵ニ大ナル打撃ヲ与エテ死ヌノハ玉砕デアルガ、事前ノ研究準備ヲ怠リ、敵ノ精鋭ナル兵器ノ前ニ、単ニ華々シク殺サレルノハ瓦砕デアル」からである。
結局は、ハワイ作戦は山本大将の決断で実施され、奇襲も成功したが、大西少将の反対には、少将らしい慎重さと部下思いが鮮明にあらわれている。
源田中佐は、大西中将の資性のひとつに「無私」をかぞえ、少将がひたすら“奉公と戦勝”のために全力をつくした点を指摘しているが、おそらく大西少将ほど政治運動に背をむけ、「無私」に徹した存在も少なかったにちがいない。
二・二六事件が発生したころは、陸海軍をとわず、青年将校の間にガクガクの政治論議が盛んになり、過激な行動に走ろうとする者もいたが、当時大佐の大西中将は、ときには鉄拳をふるって後輩の興奮を鎮め、軍務に専心させた。
「無私」では、とくに陸軍との協力が目立つ。航空本部総務部長時代、大西少将は海軍部内では、孤立的なほどの陸海軍航空合同論者であった。国家の大事の前には、陸軍だ、海軍だという狭量は災いになるにすぎない。一体となって総力をあげずに、どうして勝利を得られるか、という意見である。
しかし、本部長山本五十六中将は、こと海軍の優位を崩すような措置は認めない、との態度を変えなかった。むろん、尊敬する上司の意見に、大西少将はいさぎよく従ったが、昭和十八年、軍需省の新設とその中に航空兵器総局を設けることになると、進級していた大西中将は、自身で東条首相兼陸相を訪ね、総局長官には陸軍航空本部長遠藤三郎中将をあて、自分はその下位の総務局長に就任したい、と要請した。
東条首相は、しぶった。なにせ、ことごとに問題化するのが、根深い陸海軍対立感情である。大西中将の提案はありがたいが、はたして海軍がなっとくするであろうか。
遠藤中将も、固辞した。航空関係については、大西中将のほうがはるかに知識も体験も多い。陸軍部内では、大西中将があえて総務局長を望むのは、長官をロボットにして、海軍が実権をにぎるハラだ、というささやきもひろまった。
しかし、大西中将は説得をつづけ、遠藤中将の長官、大西中将の局長という人事が実現した。しかも、大西中将は風評とは別に、完全に忠実な長官の女房役をつとめた。遠藤中将は、いう。
「かくの如き事は、階級新古の観念の強い軍人社会に於ては、まことに出来難い事で、大西中将のような没我の人格者に於て、はじめてなし得る事と思います」
遠藤中将は、「今日の社会における醜い指導権争いをみるにつけて、大西中将を思いだす」というが、では、以上のように情と理を兼備した大西中将が、なぜ“非理”の特攻の“父”となったのであろうか。
大西中将が第一航空艦隊司令長官として、マニラに着任したのは、昭和十九年十月十七日であった。その二日後に米軍のレイテ島上陸が開始された。
すでに戦勢は明らかに日本側に非であり、局面の打開はよほどの妙策があっても不可能に近いとみられていた。そして、おそらくは唯一の対策は「体当たり攻撃」だという意見が、急速に高まっていた。
大西中将も、その一策に期待をかけるべきだ、という見解であった。
源田中佐によれば、古来、「智仁勇信厳」を将の五徳というが、大西中将の場合、最も顕著に身につけていたのは、第四の徳「信」である。
つまり、軍人としての信念、戦勝を求める信念、部下を信ずる信念、自らの言行にたいする信念である。その信念が、あるいは涙となり、あるいは怒りとなり、叱咤《しつた》となるが、この“特攻”という異常な攻撃法についても、大西中将は責務に照らし、情と理をこえて「信」の対象になるとみた。
マニラに赴任する前、大西中将は、軍令部を訪ね、総長・及川古志郎大将、次長・伊藤整一中将、第一部長・中沢佑少将と会談して、第一航空艦隊での“特攻”実施を協議した。及川大将は、“特攻”を承知したが、大西中将に、いった。
「大西、くれぐれもいっておくが、これはよくよくのことだ。けっして命令では実施せぬようにな」
伊藤中将と中沢少将も、こもごも見解を表明した。
「決死隊には、東郷元帥も山本元帥もご反対でした。しかし、ことここに至りましては……」
「長官、“特攻”は兵術のワクをこえています。軍令部としては、これを作戦とは呼ばぬようにいたしたいと考えています」
三人の言葉のすべてに、大西中将はうなずいて、マニラに飛んだ。
十月二十日、大西中将はマニラ郊外のクラークフィールド飛行場に近いマバラカット町の第二〇一航空隊(戦闘機)本部に、二〇一空副長・玉井浅一中佐ら六人を集め、ゼロ戦に二百五十キロ爆弾を抱いて敵艦船に突入する体当り攻撃案を、披露した。
一瞬、座は沈黙に満たされたが、ただちに感奮の賛意の声に満ち、その夜のうちに関行男大尉を長とする二十四人、四隊の特別攻撃隊が編制された。いずれも志願であり、大西中将は命令に「作戦」の文字を使用しなかった。
関大尉たちは、レイテ湾に突撃する栗田艦隊に呼応して攻撃したが、大西中将は、二十五日の関大尉らの出発を前に、二十三日も二十四日も眠らずに熟慮を重ねた。深夜に、第二航空艦隊司令長官・福留繁中将を起こし「これはやねェ」「じつはやねェ」と、攻撃計画の細部について疑義を質しつづけた。
その朝、大西中将は、次のように訓示して攻撃隊を見送った。
「俺がまっ先に行きたいのだが、俺は指揮官だからそれができない。必ずあとで行く」
その後も、中将は、しだいに激化する敵機の空襲を避けながら、奥地に移動する飛行場で、つねに「あとから行く」をくり返しながら、特別攻撃隊を見送った。そして、送られる部下たちは、この中将の言葉をその場限りの激励の言葉とうけとる者は、いなかった。
「閣下、お先に……」と、快い微笑で別れを告げる兵さえも、いた。
大西中将は、昭和二十年一月、司令部を台湾に移して“特攻”攻撃を指導したのち、五月、軍令部次長に就任した。
専念したのは、沖縄作戦と本土決戦準備であり、中将は「必ず勝つ。たとえ勝てなくとも、必ず負けない」といって抗戦を主張しつづけた。中将とても、敗勢は自覚しているが、自ら爆弾を抱いて死んだ若い戦士たちに、「せめて勝利の中の和睦」をはなむけにしてやりたい、と願ったのである。
だから、いよいよ終戦と政府の裁決がまとまり、米内海相に涙を流して翻意をせまり、ついに説得されると、床に身を投げて号泣《ごうきゆう》しつづけた。
大西中将は、天皇の終戦放送がおこなわれた翌日、八月十六日、軍令部次長官舎で自決した。古式にしたがい、腹部を斬り、頸動脈を剌したが、招かれた知友・児玉誉士夫は驚嘆した。
さぞかし苦しいはずなのに、中将は、「これで部下たちとの約束をはたせる」と、ニコニコ笑いながら、流血の中に息絶えていったのである。辞世は、次の一句であった。
「之でよし百万年の仮寝かな」
東 条 英 機
太平洋戦争中、東条英機大将の名前は、日本人の代名詞であった。
マッカーサ―元帥の家庭では、フィリピン産の小さなサルを飼っていたが、その名は「トウジョウ」。米兵の多くは、戦争中の日本兵捕虜から戦後の戦犯容疑者まで、誰彼の区別なく「ヘイ、トウジョウ」と呼びかけるのが、ふつうだった。
開戦時から戦争の末期まで首相をつとめた東条大将の名前が、日本人および日本国家の象徴として知られていたからである。ちょうど、ナチス・ドイツがヒトラー総統により、イタリアがムソリーニ首相によって代表されていたようなものであり、そして、東条大将もまた、ヒトラー、ムソリーニなみに、“独裁者”とみなされていた。
マツカーサー元帥が日本に進駐してきたとき、まっ先に指示したのは、戦犯容疑者第一号としての東条大将逮捕であり、東条大将が自殺をはかると、検証のためにかけつけた米軍憲兵軍曹と居あわせた新聞記者との間に、次のような問答がかわされた。
「この男の名前は?……階級は?」
「トウジョウ。陸軍大将だ」
「大将? ヘェ。それでいまも大将なのか。違う? それじゃ現職は?」
「面倒くさいな。元独裁者としておけ」
むろん、日本でも東条大将は“軍国主義の権化《ごんげ》”あるいは独裁者とみなされ、極東国際軍事裁判で大将の弁護を担当した清瀬一郎弁護士も、東条大将を「日本一評判の悪い男」と、いっていた。
だが、東条大将の事績をたどるとき、およそ独裁者の名に値するような、いまわしい非情さも発見できなければ、狂信的性格も見当たらない。
東条大将は、東条英教中将の息子であり、ごく自然に軍人を職業に選ぶ道をすすんだ。軍人の家に生まれ、軍人になるのが当然だと、周囲からもいわれ、自分自身もそう思っていたからであるが、大将は幼年学校、陸軍士官学校を、しだいに尻上がりの好成績ですごし、陸軍大学校は首席で卒業した。
陸大首席は、恩賜の軍刀を受領し、その軍刀は将来の栄進を特徴づけるが、東条大将の場合、その好成績は能力の特質も明示していた。
「努力即権威」――が、東条大将の座右の銘であったが、この座右の銘ほど東条大将の生涯を象徴するものは、ほかにない。
大将が陸大を首席で卒業したのも、大将に天才や独創的才能がそなわっていたからではなく、ひたすら緻密な勉強をつづけた成果である。ノートをとり、それを整理し、くり返し理解につとめる。その勉強法は単純だが、大将はいささかの疑問を抱くこともなく、一刻もサボることなく、勉学にはげんだ。
陸大学生といえば、大尉または少佐時代である。年齢は三十歳代の前半がほとんどで、東条大将は二十九歳で入学し、三十二歳で卒業した。ちょうど、青年将校の血気が最も旺盛な時期であり、また大尉、少佐といえば、中隊長クラスとして軍務もいそがしい。
血気と多忙で、とかく試験勉強も不十分となる。山下奉文大将、阿南惟幾《あなみこれちか》大将のように、四回、五回と受験をくり返す例も少なくない。在学中も、エリートに選ばれた自負心が、理解しはじめた酒の味に強化されて、とかく、“一夜漬け”の試験勉強でお茶をにごしがちだが、東条大将は、一晩といえども精密な予習・復習を欠かさず、ノートをとりつづけた。
幼年学校からの士官学校出身の将校には、おおざっぱにいって二つのタイプがある。ひとつは、ひたすら勇猛果敢な“戦争屋”タイプに育つ者と、もうひとつは、極度に細かい“事務官僚”タイプだ――といわれるが、東条大将がこの後者の典型であったことは、すぐうなずける。
東条大将の有能ぶりが認められたのは、陸大卒業後、陸軍省副官になったときだが、その好評の根拠は、副官時代に大将が「成規類聚《るいじゆう》」をすべて読破し、マスターした点にある。
「成規類聚」は、陸軍の六法全書のようなもので、陸軍の規律はすべてこの「成規類聚」にもとづく。それだけに、複雑かつ膨大な書物で、ちょうど官庁事務の細部は下級職員の担当になっているように、「成規類聚」と対面するのはもっぱら下士官の仕事であり、エリート将校は、ときに応じて下士官に確かめさせればよい、とされていた。
ところが、東条大将は、それでは下僚任せになり、結局は統帥の乱れにも通ずる、と判定して、あたかも「六法全書をサカナに酒を飲む」ような態度で、膨大な「成規類聚」の勉強にとり組み、ほとんど暗記するばかりに精通してしまった。
まず下士官が「こんどの副官は途方もない趣味の持ち主だ」と仰天し、次に同僚もおどろき、上官も目をむいた。小説本や講談本、あるいは修養書とも違う。細かい法規集にそれらの書物なみの興味を注ぐことは、まことに「えがたい模範的官僚」とみなされるからである。
おかげで、東条大将の精勤ぶりは特記され、未来の軍務局長、陸軍大臣候補と認められたが、東条大将にとっては、「成規類聚」の“攻略”は、とりたてて克己の産物ではなかったといえる。
東条大将の“くそまじめ”は、定評がある。なにかといえば、「まじめにやっとるか」というのが口癖である。そういわれるたびに、甥の山田玉哉少佐などはうんざりして答えたものである。
「閣下みたいにまじめにやれるはずがないじゃないですか」
碁、将棋、マージャン、トランプ、花札、釣り、その他趣味といえるものはなにひとつ、ない。映画、演劇に興味を示すこともなく、ただただ軍務に過ちのないよう気をくばるのみである。山田少佐は、いう。
「わたしの知っている長い年月のあいだで、たった一度だけ、子供づれで歌舞伎見物をしたことがありました。これは、おじ《ヽヽ》の死に至るまでの人生のうちで、遊びに費やした唯一の数時間といえるのではないでしょうか」
女性関係についても、厳格すぎるほどけっぺきであった。山田少佐が、大将の妹、つまり少佐のオバさん宅を訪ねたとき、不在だったが、慣れた気安さであがりこみ、女中にビールとうな丼《どん》をとらせて帰宅を待ったことがある。そのとき、少佐は退屈しのぎに女中と話しながら、ちょいと手をにぎり、「いやァ、だんだんキレイになるなァ」とお世辞をいった。
すると、その夜、帰宅したオバさんが通報したとみえ、深夜に東条大将から呼び出しがかかり、かけつけると、いきなり、玄関で「このバカものッ」と、大将にはりとばされた。
「なにごとですかッ。いやしくも自分は大日本帝国陸軍の少佐であります。いかに閣下といえども……」
「なにィ。なにが陸軍少佐だ。このアホウめがッ」
烈火の如き、という形容そのままに、東条大将は山田少佐をどやしつけた。理由は、女中の手をにぎった点にある。なにもキスしたわけじゃなし、手をにぎったくらいで……と、山田少佐は不満だったが、東条大将にしてみれば、慮外の事件である。
「およそ妻以外の女性に接したり、ことに女性の手をにぎるなど、帝国軍人の風上にもおけぬッ」
謹厳というか、小心翼々というのか、職務以外に気をそらすことを不忠、罪悪と考えるのが、東条大将の信条である。してみれば、「成規類聚」のマスターなども、それがわが務めと見定めれば、大将にとっては、むしろ、当然の努力の対象になる。
東条大将にとっては、だから、他人の評価に逆にとまどうおもいであったかもしれないが、いずれにせよ、大将は、卓越した事務家としての声価のなかで、着実な昇進をつづけていった。
軍隊、とくに平時の軍隊(ピースタイム・アーミー)は、他の官庁と同じ官僚機構であり、その昇進の基準は、まったく一般の官吏と同様に、たゆみない精励と能率による事務処理にかかっているからである。
東条大将は二年間のスイス、ドイツ駐在後、陸軍大学校教官、歩兵第一連隊長、参謀本部第一課長(編制、動員)、陸軍士官学校幹事(注・幹事は教頭にあたる)、歩兵第二十四旅団長を経て、昭和十年九月、関東軍憲兵司令官に就任した。
「カミナリ(雷)」「カミソリ」「メモ狂」――など、すでに東条大将にたいしてはその抜群の緻密さを認めるアダ名が献呈されていたが、大将の「カミソリ」ぶりが一段と顕示されたのは、昭和十一年の二・二六事件にさいしてである。
東京から事件の連絡があったとき、憲兵司令官・東条少将は満州北部のチャムスにいた。電報をうけた東条司令官は、その夜、ただちに司令部に帰ると、副官・塩沢清宜中佐にうなずくやいなや、パッと机上にメモをひろげた。
塩沢中佐によれば、そのメモには関東軍司令官・南次郎大将の辞任をはじめ、七項目の“粛軍要望事項”が書かれてあったが、東条司令官はそれら要望を関係筋に具申するとともに、とっさに関東軍全部隊の手紙、電報の発信を停止させ、さらに反乱軍の同情者とみられる軍人、軍属、市民をいっせいに検挙させた。
二・二六事件の反乱首謀者は、陸軍内部の派閥である“皇道脈”に属するといわれ、東条司令官はその対抗グループ“統制派”とみられている。相手方にたいする調査は入念をきわめていたとみえ検挙者は二千数百人にのぼり、新京では収容場所に困るほどであった、と伝えられる。
が、その迅速かつ大量検挙という措置で、関東軍内部の動揺は未然に防がれ、東条司令官の辣腕《らつわん》にたいする評価は、にわかに高まった。
東条少将が同年の十二月の定期進級で中将にすすんだあと、関東軍参謀長に栄進したのも、このときの手腕を買われたはずである。
――ところで、
東条大将は、その能力にふさわしく、経歴のほとんどは「デスク・ワーク」の任務であったが、ただ一度、実戦部隊を指揮した。
支那事変が起こると、関東軍はただちに北支に増援部隊を派遣したが、その部隊が東条参謀長の指揮する“チャハル兵団”四個旅団であった。
関東軍司令官が不在のために参謀長が指揮したのだが、参謀長の部隊指揮は異例であり、「東条兵団」の呼称が生まれた。そして、「東条兵団」は、張家口から山西省一帯に転戦し、昭和十二年十月二十八日、綏遠方面に進出したところで、蒙古連盟自治政府の成立を機会に、満州にひきあげた。「東条兵団」の進撃は、とくにその“迅速果敢”ぶりを謳《うた》われたが、このはじめての野戦指揮官としての機会に、東条大将は及第点を獲得するとともに、いかにも東条大将らしい“指揮法”をくりひろげた。
たとえば、「東条兵団」は北支に進入してまもなく、突然、天候が変わり、九月中旬というのに、しんしんと降雪にみまわれた。まだ残暑シーズンなので、将兵は夏服姿である。参謀が対策を思案するよりも早く、東条参謀長は「なんでもいい、冬服を調達せよ」と、周辺の部落から綿服、下着を買い集めさせた。
また、兵の食事に気をくばり、必ず兵と同じ食事を用意させた。急進撃のために補給部隊が追いつけない。現地調達の糧食は粟がせいいっぱいである。
幕僚、当番が努力して、なんとか参謀長には米飯を提供しようとしても、東条大将は承知しない。ちょっと変わった料理でも出ようものなら、ジロリと副官をにらんで質問する。
「これは兵と同じものか」
右手が静かに胸ポケットに近づくのは、例のメモを取りだすためであろうか。副官としては、調査ずみだと思うのでウソはつけない。「じつは……」と頭をかくと、「下げろ、兵食をもってこい」とカミナリが落ちる。
軍紀も厳正で、とくに女性問題については、容赦なく軍法会議にかけて厳罰に処した。おかげで中国市民も「東条兵団」には好意を示したが、また、東条大将は有名な大同郊外の雲崗石仏の保護に、特別の配慮を示した。
無趣味な東条大将にとって、石仏の芸術的価値は不明だが、「世界的一級品」という世評は、大将が好む権威に通ずるからである。
しかし、幕僚たちにとって、東条参謀長が野戦指揮官もつとまるとなっとくできたのは、野戦病院の視察がきっかけであった。それまで、東条大将の部下おもい、とくに涙もろさはしばしば語り草になっていた。なにしろ、負傷兵の話をすれば涙ぐみ、その家族の窮状を聞けば、即座にポケットの俸給袋を投げだすのである。
情愛もよいが、もし戦場の傷兵を見たら、そんな細い神経では作戦指揮もにぶるのではないか――と、幕僚たちは「東条兵団」が進み、東条大将が病院視察を提案すると、なるべく重傷兵を目にとめさせぬよう、病院関係者に手配した。
しかし、重傷兵を隔離するわけにもいかず、東条大将はやがて、血に染まり、うめく重傷病棟の中で立ちすくんだ。はたして顔面蒼白となっていたが、「勇を鼓《こ》した」ようすで見舞いをつづけて、幕僚たちをホッとさせた。
東条大将は昭和十三年五月、陸軍次官。同年十二月、航空総監となり、昭和十五年七月、近衛文麿内閣の陸軍大臣となった。
相変わらず、「まじめにやっとるか」が口癖であったが、陸相としてのモットーは「骨肉の至情」と「統制」であった。とりわけ、公人としての東条大将が重視したのは、ひたすらなる「統制」であり、その内容は指揮系統と手続きの完全な保持にあった。
したがって、いやしくも上下の命令関係を乱すような行動にたいしては、いささかのしんしゃく《ヽヽヽヽヽ》もなかった。その典型例として、北部仏印(注、現在の北ベトナム)越境事件が指摘できる。
重慶の中国・介石軍にたいする援助ルートを遮断するため、北部仏印に兵力を進駐させる計画がたてられた。フランス植民地なので、現地機関と平和進駐の交渉がすすめられるうちに、現地にむかった南支派遣軍参謀副長・佐藤賢了大佐と参謀本部第一部長・富永恭次少将らの独断に近い措置で、日本側の一方的武力進出という形になってしまった。中央との連絡不十分による手違いという要素もあったが、東条陸相は「統帥越権」とみなして、南支派遣軍司令官・安藤利吉中将、第二十三軍司令官・久納誠一中将、第五師団長・中村明人中将その他関係者を、ずらりと予備役に編入し、富永少将、佐藤大佐も処分した。
もっとも、富永少将、佐藤大佐はじめ関係者の相当数は、やがて昇進と復活の機会を与えられている。東条流の「骨肉の至情」の現われともいえるだろうが、いずれにせよ、こういった東条大将のもの堅い執務ぶりは、大言型、壮語型将軍の多い陸軍内で傑出した存在と認められた。
昭和十六年十月、近衛内閣が倒れたさい、東条陸相が後継首班に推薦されたが、その強力な推薦者である木戸幸一内大臣は、近衛首相について、「非常な秀才だが、なにしろボクらと違って実務の経験がなかったからね」と回想している。
つまり、木戸内大臣は、東条大将の「綿密な実務家としての資質と、統制維持に示す勇気」とを評価して、陸軍の“暴走”を押えうるのは、東条大将以外にないと判断して、首相に推薦したのである。
そして、木戸内大臣の眼力は正しかったと思われた。
東条首相が実現すると、天皇はとくに東条大将にたいして、国策の再検討を指示された。九月六日の御前会議で、対米戦決意が決定され、近衛内閣が倒れたのも、早く決意だけでなく開戦決定をせよ、という陸軍、つまりは東条陸相の申し入れに困惑したためである。そこで、天皇はなお対米和解の道を探すべく、いま一度の努力を東条大将に求められた。
東条大将は、「忠節の臣」を自認している。異議なく“聖旨《せいし》”にしたがい、対米政策の再検討をはじめたが、陸軍内部にはたちまち首相批判の声がうずまいた。陸相として内閣打倒にまで開戦を主張したのに、首相になると意見をかえるとはなにごとか。「変節したのか」――と、老若《ろうにやく》をとわず将校たちは憤激した。開戦の用意もすすんでいた。
しかし、東条首相兼陸相は、上司に反対する者は処断する、との強硬態度を示した。だが、東条大将個人では、なにがなんでも開戦を阻止することはできなかった。
大将は立場を重視する能吏である。したがって、十分と思われる手続きを経て多数意見が一致した事項については、大将はその事項にたいする自己の権限を考え、統制を乱さない決定を下すことを心がける。そして、大将はいうまでもなく軍人である。
その意味で、開戦時の勝利に確信があり、一方では軍部内の士気高揚を前にした当時、一戦もまじえずに仏印はおろか、支那、満州も手ばなせという米国の条件をのむことは、大将にとって苦痛、いや文官閣僚の多くも開戦やむなしという環境では、不可能と判断したのであろう。
いいかえれば、実務に通じ、実務の規律を重んずるがゆえに、蛮勇よりはその規律に添う決定を好む――という官僚的思考が、東条大将の開戦決定の基礎を形成していた、といえる。
だから、木戸内大臣が期待した大将の資質は、着実なるがゆえに積極論をおさえ得ない要素を含んでいたわけだが、東条大将は、結局開戦にふみきり、開戦後はますます、まじめ、かつ実直に職務にはげんだ。
戦時中の東条大将については、あるいはゴミ箱を視察したり、憲兵を使っての思想統制など、その言動にたいする批判が多い。
しかし、大将にとっては、ゴミ箱をのぞくのは、市民生活の内容を探りたいというまじめな希望からであり、憲兵による警戒も要するに「国家全体の統制」のためにほかならず、私欲は、ない。
昭和十九年二月、東条大将は陸相とともに参謀総長も兼任した。陸軍内部が陸軍省と参謀本部、いいかえれば軍政(行政)と軍令(作戦)の二本立てになっている非能率さを是正しよう、という行政家らしい発想であった。
参謀総長、杉山元大将は反対した。作戦が政治にひきずられてはまずい。ドイツのヒトラー総統の場合も、作戦に口出ししすぎて、スターリングラードの悲劇を招いた、という。東条大将は、憤然として答えた。
「ヒ総統は兵卒出身、自分は大将である」
江戸時代の将軍なみの権力をにぎろうとするのか、という批判もあった。しかし、東条大将のように、ひたすら統制を考え、実務以外には趣味も思想も幅せまい場合は、組織の変革はすなわち権力機構の集中化と判断するのも、自然であるかもしれない。
その意味で、もし東条大将に批判が寄せられるとすれば、その焦点は大将が与えられた地位の不適当さにおかれるべきであろう。
大将は、戦争犯罪人として、昭和二十三年十二月二十三日未明、巣鴨拘置所の絞首台で六十四歳の生涯を終えた。判決前、大将は夫人に、
「巣鴨で宗教を勉強できて嬉しい」
と語ったが、あるいは大将にとっては、この非命にそなえる勉学が、生涯で唯一の趣味に似た楽しみであったかもしれない。
阿 南 惟 幾
――昭和二十年四月七日、太平洋戦争最後の内閣、鈴木貫太郎内閣が成立した。
その夜、親任式を終えると、閣僚は首相官邸玄関で記念撮影を行なったが、カメラを構える報道陣は、ふと首をかしげた。
内閣の記念撮影とあれば、首相を中心に主要閣僚が最前列にならぶのが慣例である。そして、当時、主要閣僚といえばまず陸、海相を指す。ところが、米内光政海相は首相の横にいるのに、陸相阿南惟幾《あなみこれちか》大将は向かって左列最後尾に、ひっそりと姿勢を正している。
しかし、閣僚の配置に異常を感じたのは、一瞬である。異常といえば、すでに戦局はその一週間前、四月一日、沖縄に米第十軍十八万人が殺到し、日本本土も連日の空襲下におかれている。非常時などという戦時用語も月並みに感じられる“異常時”に生活していたそのころである。報道陣はとっさにカメラのシャッターを押すと、忙しげに走り去っていった。
だが、阿南陸相の位置には、意味があった……。
もし、閣僚内の地位を問題にするなら、ときの陸軍大臣こそ最重要位にあったといえる。当時、すでに海軍は戦力を失っていた。国民にはまだ公表されなかったが、その日、海軍最後の出撃部隊である戦艦「大和」以下は、沖縄に向かう途中、九州南端坊ノ岬の二百九十度、九十マイル沖で米艦載機群に撃沈されていた。もはや、敵の沖縄攻略を防止する手段はなく、やがて日本本土来攻を迎えるのは、特攻機と陸上兵力以外には期待できなかった。
してみれば、鈴木内閣において最も重視されるべきは、全陸軍の軍人、軍属を統督する陸軍大臣である。その重責と栄誉を自覚するならば、阿南陸相が鈴木首相と肩をならべて胸をはるのが、当然であったといえよう。
それに、阿南将軍個人の立場からいっても、陸相就任はまことに祝うべき家門の誉れであった。おそらく阿南将軍が大将、大臣にまで累進《るいしん》すると予測した人は、陸軍部内でも少なかったに違いない。
士官学校の成績もとくに優秀ではなく、陸大は卒業しているが、その入学試験には三回も落第している。もっとも、頭脳が劣っていたというのではない。中央幼年学校生徒監を勤めながらの試験勉強が不足がちだったためと、口試の作戦考査でつねに慎重にすぎるとみなされたのが、主因といわれる。
それにしても、三回も落第し、なお受験をあきらめずに四回目に合格したのは、陸大史にも稀有《けう》の例である。母堂の激励があったためといわれ、同時に阿南将軍の不撓《ふとう》の根性を物語るエピソードだが、いずれにせよ、陸大卒業後の阿南将軍の歩みは地味だった。
陸大卒業が大正七年、その後参謀本部員、サガレン派遣軍参謀、歩兵第四十五連隊留守隊長、侍従武官、近衛歩兵第二連隊長を経て、昭和九年八月、東京陸軍幼年学校長に就任した。
当時、幼年学校長はいわば閑職視され、陸大出身の大佐が迎えられるポストとはみなされなかった。同期の山下奉文将軍などは、すでに陸軍省軍務局軍事課長を経て、阿南将軍の校長就任と同じ八月、少将に昇進している。阿南将軍を知る友人、先輩の中には、将軍の校長就任を「陸軍最高の人事だ」と讃える向きもあったが、一般的には阿南将軍の“出世”もこれでおしまいとみられた。
その阿南将軍が、にわかに栄達の道をたどることになったのは、二・二六事件のおかげである。
事件を機会に陸軍部内の派閥解消がはかられたため、俗にいう統制派、皇道派その他いかなる派閥にも属さない阿南将軍の存在がうかび上がった。二・二六事件が発生した昭和十一年の八月、陸軍省兵務局長に登用されると、翌十二年三月人事局長、そのあと第百九師団長を経て昭和十四年十月、畑俊六陸相の下に陸軍次官、さらに第十一軍司令官、第二方面軍司令官を歴任して昭和十八年五月、大将に進んだ。
そのころには、かつて一年遅れがつづいた山下将軍との差もちぢまり、山下将軍の大将進級におくれること、三カ月だった。そして、その年の十一月、第二方面軍を率いて西ニューギニアに転進し、昭和十九年十二月、航空総監兼軍事参議官として帰京したあと、いま、陸軍大臣の座についたのである。
もっとも、阿南将軍にたいする陸相の呼び声は、その前から高かった。陸軍次官を辞任したのが、米内内閣が倒れて第二次近衛内閣に移るさいだが、そのとき陸軍省内ではほぼ一致して新内閣の陸相に阿南将軍を望む意向が強かった。東条内閣の末期、その人気が悪化するや、柳川平助将軍を首相、阿南将軍を陸相にとの声が起り、また東条内閣退陣のあとをうけて小磯・米内内閣が成立するときも、小磯首相は「山下または阿南」を陸相に要望している。さらに、その小磯・米内内閣の声望が低下すると、陸軍内部には“阿南首相”説さえ擡頭《たいとう》した。同内閣のあとの鈴木内閣においては、新陸相には阿南将軍以外の名前は提議されなかった。
全陸軍の輿望《よぼう》をになって――と、当時、阿南陸相の登場が形容されたゆえんであるが、それにしても、その将軍に寄せられた輿望は、かつて他の将軍に捧げられた期待の歓声とは、大いに質を異にしていた。
昭和陸軍史は、同時に軍閥史でもあるといわれる。そして、軍閥の中核となったのは、主として昭和四年五月に結成された、次のような「一夕会」のメンバーたちであった。
(カッコ内数字は陸士期)
〔14〕 小川恒三郎
〔15〕 河本大作、山岡重厚
〔16〕 永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次、小笠原数夫、磯谷廉介、板垣征四郎、土肥原賢二
〔17〕 東条英機、渡久雄、工藤義雄、飯田貞固
〔18〕 山下奉文、岡部直三郎、中野直晴
〔20〕 橋本群、草場辰巳、七田一郎
〔21〕 石原莞爾、横山勇
〔22〕 本多政材、北野憲三、村上啓作、鈴木率道、鈴木貞一
〔23〕 清水規矩、岡田資、根本博
〔24〕 沼田多稼蔵、土橋勇逸
〔25〕 下山琢磨、武藤章、田中新一
いずれも俊秀をうたわれ、あるいは権謀に長じ、政略に手腕をふるった将校たちであり、のちに首相になった東条将軍を筆頭に、中央では軍務局長、軍事課長、作戦部課長と省部(陸軍省、参謀本部)の枢要地位を占め、前線に出ては総司令官、方面軍司令官、参謀長をつとめた“要人”群である。
そして、これらエリートは最初は同志的結合でスタートしながら、やがて分派し抗争し合い、その形づくる“人脈”が軍閥の名を得た次第であるが、阿南将軍はもともと「一夕会」にも迎えられず、つねにその圏外に位置していた。
およそ自己顕示欲に乏しく、軍閥人とは異質のタイプだったからである。
おそらく、阿南将軍ほど逸話の少ない将軍も珍しいかもしれない。兵務局長、人事局長、さらに軍司令官と顕職を経ながら、そのいずれの職場でも、きわだった切れ味を示した事績は見当たらない。
ただ、太平洋戦争開幕とともに、第十一軍司令官阿南将軍が進言し実施した第二次長沙作戦は、将軍の武将としての真価を発揮したものといえる。この作戦は、味方の劣勢を承知であえて重慶軍大兵力を牽制し、南方攻略戦を有利にしようとするもので、将軍の慎重な中にも放胆な指導によって、重慶軍の主力十二個軍を釘づけにする成果をおさめた。
将軍自身も、この戦闘は自慢とみえ、その後竹下中佐ら若い将校と盃をあげるたびに話題にした。ひとくさり経過を語ると、戦闘における勇往邁進《まいしん》の必要を説いて、楽しげに叫んだ。「いいか。ドンドン行け。ドンドン、ドンドン行け」
タバコは吸わず、酒を飲んでもこの「ドンドン」を口走るか、ときに調子はずれの軍歌を披露するだけ。しかも、昭和十八年三月、敬愛する母堂が死ぬと、それを機会にほとんど盃を手にすることもなくなった。
実直一途の軍人だったわけであり、将軍が重用されたのは、もっぱらその人格によったといえるが、こと人格に関する限りは、阿南将軍は群を抜いていた。
母堂にたいする孝養の心は篤《あつ》く、前述のごとく、その死を悼《いた》んで禁酒を心がけたほどだが、生前も年末、年始などことあるごとに袴姿に威儀を正して母堂にあいさつを欠かさなかった。
夫婦仲の良いこと、家庭を愛することも定評があった。後輩の本多政材《まさき》中将は、将軍を評して“一穴居士”と称した。
将軍は綾子夫人との間に五男二女をもうけたが、末子惟道氏の誕生は第十一軍司令官時代、将軍五十四歳のときである。とかく、“多穴”をもって武威の一部とみなしがちなのが当時の軍人社会である。その中にあって、絶えて浮き名を残さず、夫人一人を愛しつづける阿南将軍の姿に、おそらく本多中将は、多少の口惜しさと羨望《せんぼう》の念をこめて、その称号を献上したものであろう。
将軍の子ぼんのうも名高い。次男惟晟少尉が昭和十八年、中支常徳作戦で戦死すると、折柄、南方転出の途中マニラでその報をうけた将軍は、ひとり愛児の写真の前に祝宴用のまんじゅうをそなえて冥福を祈った。遺品の軍刀が送られてくると、将軍はそれまでの太身の佩刀《はいとう》を少尉の細身の刀に代え、つねにわが子を側におく心境を維持した。
大声をあげたことも、他人を叱ったこともほとんどない。夫人は、実家(竹下平作中将)と思いあわせ、こんなに静かな軍人もいるものかと、「ちょっと奇妙に感じることさえあったくらいで」と回想する。夫人の記憶では、運転手が夫人の母堂に非礼な言をはいたとき、「ワレガネのような声でどなった」のが、ただ一度見た将軍の怒りだった。
「温容玉の如し」「内剛外柔」「挙措端正」「公正無私」と、将軍に寄せられる論評はつねに一致しており、将軍も求められれば「法と義」を説き、「徳義は戦力なり」の信念をひれきして変らなかった。
「乃木大将に似ている感じだが、もっと柔かい。知将でも勇将でもない。強いていえば“徳将”というのが、阿南さんに一番ぴったりな気がする」
岩田正孝氏(元中佐、旧姓井田)の阿南評だが、阿南将軍にたいするたびたびの重用そして非勢を激化した戦争終期に陸軍がこぞって寄せた輿望の根拠も、まさしく将軍の“徳将”性にほかならなかった。
すなわち、それまでの歴代陸相は、あるいは先任将官のゆえに、あるいはその政治的手腕を期待され、あるいは内部実力派の意のままに操縦し易いがゆえに推戴《すいたい》されることが多かったが、いまや国家および軍の危急に際して陸軍が求めたのは、何人も非をうち得ぬ無比の人格以外でなくては、全軍統督の実を発揮できないと見定めたからである。
その意味では、いわば陸軍は軍閥政治の行きづまりに最も反閥的、反政治的な将軍にすがった形となり、阿南将軍の陸相就任は、困難と混乱を予想させる時代だけに、いっそ皮肉な登場といえるであろう。
だが、期待と観測と四囲の情況がどうあれ、阿南将軍は変らざる“徳義の人”であった。
鈴木内閣誕生の記念撮影においても、その篤真さはにじみでた。国軍をになう陸軍の統領としての栄誉と責務は重い。その重みを感ずれば感ずるほど、将軍は「得意淡然、失意泰然」の心境を固める。そして将軍は五十八歳、鈴木首相や米内海相をはじめ閣僚の多くは、将軍よりも年長である。長上者にたいする敬意をモットーとする将軍としては、身にせまる重責感とともに、後方に占位するのはむしろ自然だったのである。
ところで、こうした人格を“買われて”就任した陸相ではあるが、阿南将軍自身、その椅子がたんに人徳の温かみだけではどうにもならないほど、坐り具合が堅く困難なものであることは、承知していた。
阿南将軍の入閣にあたって、陸軍は鈴木内閣に次の三条件を提示していた。
飽くまで大東亜戦争を完遂すること。
勉めて陸海軍一体化の実現を期し得る内閣を組織すること。
本土決戦必勝の為、陸軍の企図する施策を具体的に躊躇《ちゆうちよ》なく実行すること。
ずいぶんと高飛車な調子であり、ここにも当時の“実力者”陸軍の自負がうかがえる。
だが、阿南将軍はこれらの条件のうち、については入閣前にさんざん論議されたあげくに結論を得なかった経緯も知っている。についてもいわば要望程度である旨《むね》を、入閣直後、米内海相に説明したと伝えられている。
いや、阿南将軍も戦局の前途が楽観を許さず、むしろ機を見てできるだけ有利な終戦をはかるべきだと考えていた。
たとえば、第二方面軍司令官時代、南方からときの重光外相に終戦の建議を行なったこと、入閣後の五月の最高戦争指導会議構成員会議(鈴木首相、米内海相、阿南陸相、梅津参謀総長、及川軍令部総長)で、ソ連による平和仲介工作を決定したこと。そのときは、ソ連との中立関係維持、ソ連の好意的中立確保、ソ連に和平斡旋依頼の三施策にわけ、第三項は留保していたが、六月二十二日、とくに陛下の終戦促進のご指示にたいしては、全員第三項発動を認め、阿南陸相も異議ない旨を奉答している。
したがって、阿南将軍にも終戦然るべしとの情勢判断があったことは明らかだが、問題は終戦の条件である。六月二十二日の奉答にさいしても、「功を急ぎて我が方の弱味をばくろしてはなりません」とつけ加えている。
この点は、次官若松只一中将の次のような回想でも、裏書きされる。
「また七月中旬、私が陸軍次官として着任直後、大臣の本土決戦構想をたずねたところ、徹底的水際戦闘方式であり、水際で敵に殲滅《せんめつ》的大打撃を与える。目的はできるだけ有利な条件で終戦のチャンスをつかむにあると、明快に答えられた」
また、東郷茂徳外相が米英支三国がポツダム会談を開くことを知り、外交の優位を確保するため、その前に「尠《すくな》くとも敵の機動部隊を捕捉して一大打撃を与えてもらいたい」と述べたことがある。
このときも、阿南将軍は同感し、本来、大臣は作戦については干渉がましい態度をとらない建前にも拘わらず、とくに航空総軍作戦参謀を招き、「本土決戦を考えなくてもよい。陸軍航空の主力をもって、敵艦隊を攻撃することはできぬか」と指摘している。
阿南将軍は、沖縄戦のさいも全陸軍航空兵力の投入による一勝を強調しているが、それでは将軍がいう終戦の“有利な条件”とはなにか。
国体の護持、すなわち皇室の存続がその最大のものであることは明白だが、そのほかの点は、記録による限り不明である。将軍は、ドイツ降伏(五月)、沖縄戦終結(六月)などの情勢悪化に伴う首脳会談で、しばしば見解を述べているが、いずれも「いま一度勝ちどきをあげて戦争終結をはかるべし」と主張し、「それではますます敗戦の深みにはまるばかり」という米内海相、東郷外相と対立をくり返した。
あるいは、その段階では、まだ阿南将軍にしても、なにを捨てなにを守るべきか、明快な判決を下していなかったと思われるが、将軍にはっきりと自己の立場を自認させたのは七月二十六日のポツダム宣言である。
ポツダム宣言は、いわば日本の「無条件降伏についての条件」を示したもので、保障占領、領土縮小、武装解除、戦争犯罪人処罰が主項目となっていた。
この宣言については、大西軍令部次長ら統帥部の強硬意見におされて鈴木首相が“黙殺”声明を発し、一方、宣言にソ連の名がないことを頼りに、なおソ連の斡旋《あつせん》を期待するうちに八月六日、九日の原爆攻撃、ソ連参戦を迎えたことは、よく知られている。
九日はまずソ連参戦のニュースが入り、最高戦争指導会議構成員会議が開かれた。議題は、むろん“ポツダム宣言”の取扱いである。会議は午前十一時近くから午後一時まで続き、その間に長崎に原爆投下の報告がもたらされたが、六人はポツダム宣言の条件つき受諾には同意した。
しかし、その条件で意見がわかれた。国体護持を第一留保条件とすることには、全員が一致したが、ほかにも条件をつけるかどうかで、片や東郷、米内、片や阿南、梅津、豊田(軍令部総長、五月及川総長と交代)の二つのグループが対立した。前者は、それ以上の条件はかえって交渉決裂を招くと強調し、後者は保障占領地域の制限、自主的武装解除、自主的戦犯処理の条件をつけよ、と主張した。
東郷外相は、条件を伝えて相手に蹴られた場合はどうする、と質問し、そのときは最後の一戦をまじえるとの回答にたいして、さらに「勝つ自信があるか」と反問した。
そして、「うまくいけば上陸軍を撃退できる。しかし、戦争だからうまくいくとばかり考えるわけにはいかぬ」という梅津参謀総長の返事に、「では戦えばそれだけ日本は不利になる」と首をふり、さらにそのあとに開かれた閣議では、阿南陸相と米内海相が次のようにまっこうから激論をたたかわせた。
〈陸相〉 戦局は五分五分である。負けとはみていない。
〈海相〉 科学戦として武力戦として明らかに負けている。局所局所の武勇伝は別であるが、ブーゲンビル戦いらいサイパン、ルソン、レイテ、硫黄島、沖縄島皆然り、みな負けている。
〈陸相〉 海戦では負けているが戦争では負けていない。陸海軍間の感覚がちがう。
〈海相〉 敗北とはいわぬが、日本は負けている。
〈陸相〉 負けているとは思わぬ。
〈海相〉 勝つ見込みあれば問題はない。
〈陸相〉 ソロバンでは判断できぬ。とにかく国体の護持が危険である。条件つきにて国体が護持できるのである。手足もがれてどうして護持できるか。
米内海相の考え方は、はっきりしている。海相は、かつて開戦前の重臣会議のとき、「ジリ貧を恐れてドカ貧になることなかれ」と述べたが、いまやそのドカ貧を目前にしている。一日も速かな戦争終結をはかれ、というのである。
これにたいして、阿南将軍の見解も明快である。
――まず第一に、海軍はすでに出撃すべき艦艇は皆無に近く、戦うにすべもないかもしれぬが、陸軍はなお外地に二百七十万人、国内に二百二十万人の兵力を持つ。たしかに島では負け、空襲も激化している。しかし、陸軍としてはまだ本当の戦いをしておらぬ。本土決戦こそ、その戦いであり、国民もそのさいは奮起するであろう。
――第二に、戦争は味方が苦しいときは敵も苦しい。もはや退却というときに、突然敵が退散することは、戦場では珍しくない事例である。なによりも、戦意を失わぬことが肝要である。
――そして第三に、それでも終戦をしなければならぬなら、国体護持の保障だけは確認すべきである。保障占領の制限、戦犯処罰および武装解除の自主的遂行も、要するに最小限の国権を維持せんとするためである。それもなく、ひたすら無条件に頭を下げるのでは、たとえ国体護持の条件を相手がのんだとしても、その履行に信頼はおき難い……。
すなわち、米内海相がもっぱら国政の責任を持つ天皇輔弼《ほひつ》者(大臣)の立場を強調しているとすれば、この阿南将軍の主張は、同じく輔弼者としてのほか、全陸軍の統領として、さらに一人の武人としての三つの立場を基礎にしている。
阿南将軍は、その三つの立場を守ることこそ臣子の務めと見定め、それにかなう四条件つき受諾説をとなえたのだが、将軍の主張は九日夜から十日午前三時までつづいた御前会議において、聖断により否決された。天皇は、「天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることの了解の下に」という条件だけをつけて受諾する外相案を採用され、外相案は直ちに連合国に通報された。
御前会議における阿南将軍の反対意見は、気魄《きはく》にみちていた。「温容玉の如し」と形容された将軍だけに、語気鋭く、あるいは怒髪天をつきといった様子はみじんもなく、むしろその声音は沈痛に低く、ふるえがちであった。
「天皇の国法上の地位確保の為には自主的保障なくしては絶対に不可であり、臣子の情として、わが皇室を敵手に渡して、而《しか》も国体を護持し得ると考えられず」
将軍はさらに、このままの降伏ではアジア解放を叫んで開始した戦争の意義を見失う旨を指摘したあと、ひたと眼をすえて言った。
「最後に重ねて、ソ連は不信の国なり。米(国)は非人道の国なり、かかる国にたいし、保障なく皇室を敵に委することは絶対反対なり」
天皇は、しかし、「これ以上国民を塗炭《とたん》の苦しみに陥れることは忍びない」といわれて、外相案採決を指示されたのである。
いわば、将軍の“臣子の情”にたいして、天皇は“君主の情”をもって答えられたわけだが、ここにおいて阿南将軍の立場は微妙にならざるを得なかった。
当面の措置については、明確に判断できる。全軍の戦意の維持である。聖断は、ポツダム宣言にたいする条件付与を定めた。したがって、相手の回答いかんによってはなお戦争継続の可能性がある。阿南将軍が十日朝、陸軍省防空壕に幹部を集めて、聖断に不服の行動をとろうと思う者は「まず阿南を斬ってからやれ」と軽挙を戒めるとともに、一致団結の下に和戦両様体制の堅持を強調したのも、さらに全軍将兵に徹底継戦の覚悟を促す大臣訓示を布告したのも、いずれも将兵の士気低下の防止のためである。
だが、これは陸相としての行政的施策にすぎない。さらに、陸軍五百万の統領として、忠誠なる臣下として採るべき手段が問題である。
ポツダム宣言につけた条件について、相手の回答は三様に考えられる。受諾、拒否、あるいは不十分な内容または新提案の三つである。受諾ならばよい。しかし、拒否または新提案でも、政府がそれを受け入れ、陛下もまたご承知になった場合はどうするか。
承詔必謹。
すでに聖断は下ったが、なお意見を具申する。
いわゆる和平派を斥け、廟堂《びようどう》の空気を一新し、もう一度聖断を伺う。
思い浮かぶのは、この三種類の行動である。このうち、第三の行動はクーデターの性格を持つ。阿南将軍は幼年学校長時代、二・二六事件にさいして、反乱軍の行動を統帥を乱すものと激しく批判する訓示を行なっている。
だが、将軍が信奉する平泉澄《きよし》博士の学説は、法と義を説き、大義は法の優位にあるとも説いている。たんなる一部の反乱ではなく、全軍一致の諌言行動であれば、それは“義挙”として聖意にもかなうものではあるまいか。
阿南将軍は、政治家ではない。胸中深く根を下ろしているのは、ただ陛下の忠良なる兵士たらんの一念である。皇室あっての国家か、それとも国家あっての皇室か、といった種類の論議が、閣議でも交されたが、阿南将軍にとっては、国家イコール天皇である。その天皇を守るのが兵士のつとめであるならば、可能な手段のすべてをつくすのが義務でもあろう。
したがって、阿南将軍は十二日朝、義弟竹下中佐ら軍務課員を中心とする青年将校が作成した第三の行動計画案に接すると、必ずしも全面的に拒否する態度は示さなかった。
計画は、陸軍大臣の権限である警備上の応急局地出兵権を利用し、宮城、東宮御所、各宮邸、総理官邸、各大臣邸、各重臣邸、放送局、陸軍省、参謀本部その他を東部軍司令官、憲兵司令官に占拠させようというものである。
阿南将軍は、この計画にも、宣言受諾を阻止できなければ「切腹すべきである」との竹下中佐の強硬意見にも直接答えず、全軍一致を重ねて強調した。
この日、阿南将軍は人事問題に関して上奏したが、そのさい国体護持について将軍が不安を言上すると、天皇は、かつて侍従武官時代に将軍を「アナン」と呼ばれたそのままの口調で、話された。
「阿南《あなん》、心配するな、朕《ちん》には確証がある」
将軍は、はっとしたように天皇を見上げたが、連日の苦慮にやつれながら、かすかに微笑されている天皇の視線をうけると、静かに頭をたれた。
確証……と、天皇はいわれる。だが、連合国回答は、天皇の地位は連合国最高司令官の権限に「従属する」(サブジェクト・ツー。外務省は“制限の下に置かれるものとす”と訳したが)、将来の日本国政体は「自由に表明された国民の意思による」と述べている。
あるいは、国体はしょせんその国民が決めるもので、いかに占領軍といえどもその意思を左右しきれるものではない。そして、そうなれば、国民の皇室尊重心を信頼できるといえるかもしれぬ。だが、いったん占領されては、占領下の国民の“自由意思”など思いのままにでっちあげられるのではないか。まして、最初から天皇の地位を占領軍司令官の下におくという……。阿南将軍には、天皇がいわれる“確証”に根拠があるとは思えなかった。
その後二日間、阿南将軍は慎重な努力をつづけた。将軍がなにを考え、またその考えにどんな変化があったかを伝える記録はない。しかし、将軍はこの間、とくに松岡洋右元外相、三笠宮殿下、木戸内大臣、畑俊六元帥に会っている。
おそらく、阿南将軍としては、なんとしても皇室の安全にたいする不安を消し難く、場合によっては非常手段をとる考えも捨てきれなかったのである。そして、そのためにも松岡元外相らになお外交手段の余地なきやを問うて、残る三者に支持を求めようとしたのであろう。なぜなら、将軍としては、自分にたいする陸軍の信頼には自信がある。もし、自分が起てば全軍もけっ《ヽヽ》起するであろう。しかし、そのうえに、宮殿下、軍の長老の支持を得れば、それこそ真の“全軍”一致であり、さらに元外相の外交的見地、陛下のご信任篤い内大臣の同意を加え得るならば、むしろ陛下に安心して戴けるはずだからである。
だが、結果はすべて「ノー」であった。松岡元外相は、もはや打つ手なしと答え、木戸内大臣も首をふり、三笠宮殿下は逆に阿南将軍にこれまでの陸軍の専横ぶりを難詰された。十四日午前十時、御前会議前に永野修身、杉山元両元帥とともに参内した畑元帥も、天皇の固い和平意思の前に頭をたれるだけだった。陛下は「忠良なる軍隊を武装解除し、またかつての忠臣を罰するが如きは忍び難き処なるも、国を救う為には致し方なし」とはっきり言われたのである。
阿南将軍の“工作”は、つきた。将軍は十三日夜、竹下中佐らのクーデター計画(木戸、鈴木、東郷、米内ら和平派の隔離をねらう)にも承認を与えていなかったが、さらに十四日朝七時、梅津参謀総長の拒否を確認すると、厳重にけっ《ヽヽ》起を戒めて、御前会議の聖断に服した。
陸相官邸は空襲で焼け、高級副官用の木造平屋が官邸になっていた。阿南将軍が、御前会議につづく閣議、さらに詔書の副署を終えて、その仮住居に帰ってきたのは、十四日夜十一時半をすぎていた。
――将軍は、自決を覚悟していた。
その覚悟は、林三郎秘書官にもわかっていた。詔書副署のための閣議の前、将軍は秘書官に半紙二枚を用意するよう、命じていたからである。秘書官は、その半紙二枚を玄関で将軍に渡し、敬礼して自分の官舎に向かった。
十五日午前一時半ごろ、竹下中佐が将軍を訪ねた。クーデター計画は、十四日朝の梅津参謀総長の拒否で中止になっていた。発動には大臣、総長、東部軍司令官、近衛師団長の四者の意見一致が条件だったが、四者とはいえ、東部軍司令官、近衛師団長は大臣の命令によって動かせる。実際には大臣、総長間の合意でたりるわけで、その総長が不承知ではどうにもならないからである。
ところが、畑中少佐、椎崎中佐らはなおもあきらめず、午前二時を期して近衛師団のけっ《ヽヽ》起をはかった。場合によっては師団長を斬っても実行する、という。そこで、竹下中佐はもう一度、将軍に再考を求めるべく訪れたのである。
だが、竹下中佐は玄関に立つと、迎えに出た護衛憲兵の表情で、とっさに将軍が自決準備中であることを知った。部屋の前で名乗った中佐に、将軍は「なにしに来たか」と、いったんはとがめるようにいったが、すぐ「いや、よく来た」と迎えた。
二間つづきの十二畳ほどの日本間に寝床が敷かれ、白いカヤがつってあった。将軍は湯上がりとみえ、上半身はだかのまま、机にむかっていた。ちょうど、なにか書き終ったところらしい。机の上には、徳利とチーズをならべた小皿が盆にのっていた。
将軍は、にこりと笑った。十日いらい、竹下中佐はほとんど不眠不休で走り回り、その夜は疲れきって眠っていたところを、畑中少佐に起こされた。鏡を見るまでもなく、憔悴《しようすい》しきった顔をしていると自分でもわかる。たぶん、将軍も同じ苦慮と疲労の日を重ねたに違いないが、将軍の血色は平常と変らず、温顔に疲労の影もなかった。(あにき《ヽヽヽ》、ちっとも変らぬ)――そう思ったとたん、竹下中佐は興奮の血が冷え、静々とした風が吹きぬける感じがした。
「お止めしません。時期としても今夜か明晩あたりと思っておりました」と中佐が答えると、将軍は喜び、「それならいい。かえっていいところに来てくれた」と盃を中佐に差し、遺書を見せた。
一死以て大罪を謝し奉る
昭和二十年八月十四日夜
陸軍大臣阿南惟幾
そして、もう一枚は辞世――
大君の深き恵に浴みし身は
言ひ遺すへき片言もなし
八月十四日夜 陸軍大将惟幾
この辞世の歌は、自決にさいして詠《よ》んだものではなく、昭和十三年十一月、将軍が第百九師団長に任ぜられて中国戦線に向かうとき、宮中で御陪食を賜わった機会に感激をつづったものである。出征とあれば、死は覚悟の前である。将軍の詠唱は、その覚悟と皇恩にたいする感謝をうたいこんでおり、いらい、その気持ちは変らないまま、辞世の句に用いたのである。
将軍は遺書に「神州不滅ヲ信ジツツ」と書き加えたあと、中佐と酒盛りをはじめた。最期にあたり、義弟という身内と水入らずの機会を得たことが、将軍にはとくに嬉しかったらしい。しかも、同じ陸軍軍人である。将軍は、中佐も意外なほど、ほとんど一人で率直に話しつづけた。
「もう暦のうえでは十五日だが、自決は十四日夜のつもりだ。十四日は父の命日だから、この日にきめた。そうでなければ、惟晟の命日の二十日と思ったが、おそすぎる」
「明日は、陛下の玉音放送がある。自分は、とてもそれを拝聴するに忍びない」
用意した短刀二ふりのうち、一ふりを形見だと、中佐に手渡した。
「梅津総長によろしくいってくれ」
将軍は、その日午後三時すぎ、陸軍省第一会議室に課員以上を集め、最後の御前会議のもようを伝えていた。将軍はあらためて、会議の様子、さらに詔書案審議の経過などを中佐に語り、さらに先輩、知友の名をあげて別離の言葉を告げていたが、突然、ぷつりと言った。
「米内を斬れ」
(この時の将軍の言葉は竹下中佐の日記に記されている。その一部は『敗戦の記録』〈原書房〉に“機密終戦日誌”としてすでに公表されているが、未公開部分を仄聞《そくぶん》するに、特に説明はなく、ただ「米内ヲ斬レ」の五字のみが記されているという)
驚いて竹下中佐は顔を上げた。どういう意味か戸惑った。沈黙が二人の間に流れた。将軍はこの前後に、ポツリポツリと次のように語っている。
「いやあ、六十年の生涯、顧みて満足だった。ハハハ」
「惟道(末子)はお父さんに叱られて可哀想だが、この前帰ったとき、風呂にいれて洗ってやったので、よくわかったろう。皆と同じように可愛がっていることを伝えてくれ」
「綾子(夫人)には、お前の心境にたいして信頼し、感謝して死んでいく、といってくれ」
「荒木閣下によろしく」
午前二時ごろ、銃声らしい音が聞えた。将軍も聞き耳をたてたので、竹下中佐は畑中少佐らのクーデター計画をうちあけた。それまで黙っていたのは、事前に将軍が知れば陸相として中止の処置をとるようになること、自決前の心境を乱したくない、また将軍の死は混乱の“鎮静剤”になるだろうことなどを考えたからだが、将軍は聞き終わると、ただ「東部軍はたたぬだろう」といっただけだった。
そのころから、将軍自決前の静けさは乱れはじめた。畑中少佐一派から、クーデター開始と森近衛師団長斬殺を伝える使者がかけつけ、次いでクーデターに同行していた井田正孝中佐が訪れ、大城戸憲兵司令官、さらに林秘書官もやってきた。
阿南将軍は、井田中佐が帰ったあと、夜明け間近と知って着替えした。竹下中佐が手伝ったが、立ち上がりシャツをとろうとするとき、思わず中佐と将軍はひしと抱きあった。
将軍は、侍従武官時代に拝領した白シャツを身につけ、勲章を全部つけた上着を着たが、その上着は再びぬいで床の間に置いた。その上に次男惟晟少尉の写真をおき、写真を抱くように軍服の両袖を前にそろえた。
「惟晟と一緒に逝《ゆ》くんだ」
将軍は、大城戸司令官来訪を機会に竹下中佐に応接を命じて去らせ、縁側で自決した。中佐は、大城戸司令官と話すうち、直接居間に向かった林秘書官に将軍自決を告げられた。
戻ると、将軍は端坐し、すでに割腹を終っていた。閉めきった雨戸のすき間から、朝の陽光が数条の斜線を描いてさしこみ、居間の灯光が左から将軍を照らしていた。将軍の周囲は血でぬれ、将軍は左手で頸動脈を探っていたが、右手の短刀をあてノドを切り裂いた。
竹下中佐が介添《かいぞ》えを申し出ると、将軍は「無用、あちらへ行け」という。中佐が若松次官からの電話に応対して帰ってくると、将軍は意識不明とみられたが、まだ呼吸音が聞え、手足がときどき動いた。中佐は、将軍の手から短刀をとり、右頸部の傷口に深く切りこみ、介添えした……。それから、遺書、辞世などをきちんと将軍の周囲に並べて、自決を報ずべく立ち去った。竹下中佐が去ったあと、将軍のからだからほとばしり出た血は遺書、辞世を朱《あけ》に染めた。
阿南将軍の死は、竹下中佐が予想したとおり、陸軍の混乱に終止符をうつ役割をはたした。森師団長を斬り、ニセの師団命令まで出してクーデターをはかった畑中少佐、椎崎中佐も、阿南将軍自決を知るとすべてをあきらめ、十五日午前十一時二十分、宮城前で自決した。「起たば阿南大臣を首領として全軍一致」と誓い定めていたからである。
だが、それにしても、阿南将軍の自決には相異なるいくつかの解釈がつきまとう。
将軍は、竹下中佐に「かねてよりの覚悟に基き」と述べた。その覚悟とはなにか。
将軍が深く皇室を崇敬し、強い責任感の持ち主であることは、よく知られている。陸相就任にさいしても、その職責にたいする覚悟を問われると、次のように答えている。
「将来もし予にして自らの責任において、その責を負わねばならぬが如き場合に遭遇せんか、自分は辞職だけでは絶対に相済まぬと思う。従ってほんとうに腹を切って、お上にお詫び申上げる覚悟である」
また、吉積軍務局長は、第一回聖断が下った八月十日朝、阿南将軍との会話を回想するが、そのとき、将軍は平素と変らず微笑をうかべながらも、明言した。
「おれは今日は陛下にたいして徹底的に陛下の御意志に反するところの意見を申しあげた。これは、万死に値する……ポツダム宣言を受諾するということになれば、この敗戦の責任は陸軍を代表して、おれがとるべきだ」
これらの発言から、将軍の死、とくに書き遺された「大罪」の意味について、ひとつの解釈が成り立つ。
阿南将軍が、最後の聖断が下ると、なにかせきたてられるように自決したのは、あくまで陸相として死にたかったからではないのか。
すなわち、将軍が語る職務にたいする責任、聖旨に反する意見をのべた責任、陸軍を代表する責任は、いずれも陸相の地位にあってこそ、とれるものである。十五日の玉音放送後には内閣総辞職が予想されている。陸相の座を下りては、それらの責任をはたす資格を失う。「大罪」の中に、過去において陸軍が行なった数々の過ち、とくに皇室を守り国家を守る任務をうけながら、いまそのいずれをも危殆《きたい》におとしこんだ責任が含まれるとするならば、それを一身にになおうとするのは、阿南将軍のすぎた自負といえるかもしれない。だが、その責任をあえて負い、それを名誉とみなすならば、陸相として腹かききる以外に道はない。その意味では、阿南将軍は名誉ある死を名誉ある時期に求めたといえる。
だが、それでは「米内ヲ斬レ」のひとことはどのような意味を持つのだろうか。
阿南将軍は、米内海相を立派な武人として尊敬していた。海相は、六月の臨時議会ごろ辞意をもらしたことがあるが、その翻意を願い、強く働きかけたのは、阿南将軍である。その米内海相を斬れと、将軍はいう。
ポツダム宣言受諾をめぐり阿南将軍にたいして最も強く反対意見を述べたのは、東郷外相と米内海相であり、とくに米内海相とは最後まで対立をつづけた。陸軍部内では、海相を目して和平派の元兇《げんきよう》とみなしていた。
そこで、生まれる推測は、阿南将軍は結局は単純な武人であり、陸軍本位の“抗戦派”であった。クーデターにも賛成であった。自決前に反乱を知っても、あえて中止の処置はとらなかった。森師団長斬殺の報を聞いても「そうか。このお詫びも一緒にする」といっただけである。そして、将軍は、部下の軽挙を戒めたとき、「この阿南を斬ってからやれ」と発言している。
将軍は、先に指摘した三つの行動のうち、いま一たびの諫言の道を選び、梅津総長の不同意をきっかけにクーデターを拒否した。しかし、本心はあくまで陸軍の名誉挽回のための一戦の機会を望み、自らの自決で逆に将兵の士気を鼓舞し、その一環として米内海相を“血祭り”にあげよ、と示唆したのではないか。あるいは、それほどでないにしても、いざというときに一致協力すべき海軍を和平主義の米内海相が支配していては、それこそいざ一戦というときに障害になる。とにかく斬っておけ、という意味だったのか……。
だが、こういった観測は正確を欠くと竹下中佐は首をふり、いわば興奮のあまりの“うわ言”に近い発言とみなす。
阿南将軍は、最後まで日本軍人の栄誉のために奮闘した。終戦詔書案の審議において、原案の「戦勢日ニ非ニシテ」を「戦局必ズシモ好転セズ」と訂正を提案し、米内海相と激論を重ねた。海相は、もう敗けているんだから「日ニ非ニシテ」でよいではないかという。
だが、阿南将軍にしてみれば、それは酷にすぎる。現に外地では将兵は「泥を食い野に伏して」戦いつづけている。本土に二百五十万の将兵も待機している。すべてこれ皇国のために身を捧げんと覚悟しておればこそである。それなのに、いかにも無下に敗けたときめつけるのは、あまりに武士の情けがなさすぎる……と反ばくしつづけて、訂正におしきったのである。
「阿南の自決は、その論争後間もなくです。興奮さめやらずといったところでしょうが、とくに深い意味がなかったのは、すぐ話題が移ったことからも、察せられます」
米内海相は当時としては政治的見識もあり国際的視野も広い提督として定評があった。ときにその言動は武人のワクを越える冷たいスマートさに満ちていた。「米内ヲ斬レ」は、その米内海相の“政将”ぶりに対する根っからの武人阿南将軍の純な反発でもあったろうか。
「私は、主人には陸軍大臣という職は荷が重すぎたと今でも思っております」と、綾子夫人はその手記に述べている。
たしかに、阿南将軍に閣僚としての政治的手腕はなく、将軍はただひたすらに身につけたかたくななまでに純粋な君臣観と軍人の覚悟を頼りに、難事に棹《さお》さした。戦陣訓には、軍人の涵養《かんよう》すべき徳目として「軍紀」「必勝の信念」「敬神」「孝道」「敬礼挙措」「責任」「清廉潔白」などがあげられているが、将軍はそのすべてを体得して欠けるところがなかった。
その意味では、阿南将軍は日本陸軍が目指した“理想像”に近い存在だった。そして、その清々たる阿南将軍が、汚濁の道を歩んだ日本陸軍の葬儀人をつとめた……意義深いことといえよう。
第 二 部
ダグラス・A・マッカーサー
マッカーサー元帥《げんすい》――といえば、本人を見た人も、写真で知る人も、まず思いうかべるのは、金モールで一面に飾られた、しかし、ややくたびれた感じの独特の軍帽をかぶった元帥の姿であろう。
ついでに、一ドル六十五セントのとうもろこしパイプも元帥とは切りはなせない“名物”だが、この軍帽とパイプ、とくに軍帽は、マッカーサー元帥の人物と性格、そして指揮官としての態様をまことに明確に象徴している品物だ、といえる。
あの帽子は、じつは米国陸軍の制帽ではなく、マッカーサー元帥が一九三五年、米陸軍参謀総長をやめてフィリピン陸軍元帥に就任したとき、大統領マヌエル・ケソンが元帥のために用意したものである。
いらい、マッカーサー元帥は、そのフィリピン陸軍元帥帽をかぶり、一度も米陸軍の制式軍帽をかぶったことがない。アイゼンハワー将軍、パットン将軍その他、第二次大戦中の有名な米陸軍将官の軍服姿と比較してみれば、元帥の帽子がちがっているのは、瞭然《りようぜん》とする。
なぜ、米国陸軍の将校でありながら、その制帽をかぶらずに、フィリピン軍の帽子を愛用するかといえば、帽子が元帥という最高位のものであり、しかも、マッカーサー元帥ただ一人のためにデザインされたものだからである。
指揮官に必要な資質は、統御力であるが、マッカーサー元帥の場合は、まさにこの帽子が示す「他に比類なし」という特性こそ、統御力の根源と信じ、実行した典型例である。
ダグラス・アーサー・マッカーサーは、一八八〇年(明治十三年)一月二十六日、アーカンソー州リットル・ロックの米陸軍基地で生まれた。父親アーサー・マッカーサーは陸軍大尉であった。
少年時代は、父親の昇進と転任に応じて、兵営を転々とする生活がつづいた。現在でも、キャンプ生活をおくる軍人家庭の悩みは、子どもの教育であるが、まだ西部開拓の名残りがただよう当時は、なおさら不便であった。
もっとも、六歳のとき、レベンワース兵営で基地の小学校にかよい、そのごも教育が中断することはなかったが、少年時代に最も熱心な訓育をうけたのは、母親からであった。
母親メリーは、ダグラスに甘かったが、南部(バージニヤ)女性らしく、気性も激しかった。その母親がとくにダグラスに教えた訓戒は、「ウソをつくな」「おしゃべりをするな」の二つであった。
マッカーサー元帥の能弁、多弁は名高い。のちに一九四四年七月、対日進攻作戦の主コースを、海軍が主張する中部太平洋→日本本土ルートにするか、フィリピン経由にするかについて、ハワイでルーズベルト大統領が、ニミッツ提督《ていとく》ら海軍首脳とマッカーサー元帥と会談したさい、マッカーサー元帥はじつに三時間以上も、とうとうとまくしたて、ついに大統領は鼓膜をおさえて、元帥に同意したこともある。
そのほか、元帥について語る者が、一致して指摘するのが、その卓抜した雄弁ぶりであることを想えば、その弁舌の才はすでに幼少時に、母親も気にするほどに発揮されていたことが、うかがえる。
しかし、よくしゃべるのは、頭脳の鋭敏さに通じやすい。マッカーサー元帥においてはとくにめざましく、元帥は一九〇三年六月、陸軍士官学校を一番で卒業した。しかも、四年間の平均が九十八・一四点、士官学校空前の成績であった。
この好成績が、マッカーサー元帥に強い自信と自尊の念をあたえたことはいうまでもないが、さらに元帥にとって自己の能力と将来に確信をいだかせたのは、自分が高位の上司に注目されているということであった。
マッカーサーは、一九一一年に大尉となり、一九一三年九月、参謀本部勤務を命ぜられた。当時、参謀本部員は三十八人で、マッカーサー大尉は最新任であったが、さらに他の者は陸軍大学卒業者であるのに、マッカーサー大尉だけは、陸大出身ではなかった。
マッカーサー元帥は、そのごも陸大にはすすまなかったが、陸大をでずに元帥になったのは、マッカーサー元帥だけである。
元帥の昇進は、はやかった。一九一五年少佐。翌年、陸軍長官副官兼広報班長となった。
マッカーサーの名が世に知られるようになったのは、第一次大戦からであるが、一九一七年四月、米国の参戦がきまると、マッカーサー少佐は、米国の全州出身の兵士をあつめた一個師団を編成し、全州民が自州出身兵がヨーロッパ戦線一番のりをした、との感慨をいだける計画を考案し、ウィルソン大統領に進言した。
すべての米国市民が、米国からヨーロッパにむかう。「ちょうど大西洋にかけるレインボー(虹)のように……」というマッカーサー少佐の言葉に、ウィルソン大統領は感銘をうけた。即決で通称「レインボー師団」の創設をきめ、マッカーサー少佐は大佐に昇進して、師団参謀長に就任した。
マッカーサー大佐は、ヨーロッパ戦線で活躍した。新聞は、「連合軍のダルタニヤン」と、アレクサンドル・デュマの名作『三銃士』の勇者になぞらえて、マッカーサー大佐を呼んだが、それほど大佐の活躍はすばらしかった。
マッカーサー元帥は、指揮官とは「よきマネージャーであるとともに、部下がつねに関心と尊敬の念をもって仰ぎみる存在でなければならぬ」と、考えていた。
ヨーロッパ参戦は、このモットーの最初の実現の場であったが、「部下が仰ぎみる存在」とは、マッカーサー大佐の解釈では、よく目立つということである。
そこで、大佐はまず軍帽の針金をとって、その形をラフにし、ちょっと横かぶりにした。ワイシャツ、ネクタイの代わりに、タートルネックのスウェーターを着て、マフラーをゆるく首にまき、そして、拳銃の代わりに乗馬ムチ一本をもち、いつも第一線に立った。
日本軍で指揮官がこんな格好をすれば、たちまち、軍紀をみだすと狂人扱いをされかねないが、米軍ではかえって人気がわく。それに、マッカーサー大佐は、米陸軍きっての秀才であり、長身の美男子でもある。その大佐が、ダンディ・スタイルで弾丸雨飛の中を先頭に立つのだから、部下は喜び、新聞記者が夢中になって賛美記事を打電したのも、当然であった。
しかも、大佐は勇敢で、軽傷ではあるが、二回も負傷し、次々に勲章をもらった。特別功労十字章二個、議会勲功章一個、銀星章七個という叙勲《じよくん》は、これまた米陸軍史上空前の記録であった。
准将にすすみ、さらに少将に昇進して「レインボー師団」長となったところで、一九一八年十一月第一次大戦が終わった。
米軍では、戦時と平時とで、階級制度が相違する。戦時で昇進しても、定員の関係で、平時になると降等になることが多い。たとえば、第二次大戦での有名将軍、アイゼンハワー、パットン両氏にしても、第一次大戦末期には大佐だったが、戦争が終わると、大尉からやり直しとなっている。
ところが、マッカーサー少将の場合は、准将にさがっただけで、一九一九年六月、陸軍士官学校長に抜てきされた。三十九歳。空前の若い陸士校長であった。
陸士には、のちに朝鮮戦争のさい、解任されたマッカーサー元帥の後任となるマシュー・リッジウェイ中将が、まだ大尉で体育教官をつとめていた。
マッカーサー校長は、「ひとにぎりのプロ軍人が戦う時代はすぎた。こんごの指揮官は内外情勢の把握《はあく》と柔軟な頭脳をもち、よく同僚と協力することが必要である」と述べ、教課目に政治、経済学を加え、集団スポーツの強化、一般大学からの講師の招へいなど、思いきった改革を実行した。
成果は認められ、マッカーサー准将は一九二五年少将に昇進し、さらに一九三〇年八月、中将にすすんで陸軍参謀総長になった。副官には、四十五歳のアイゼンハワー少佐、パットン少佐がいた。
参謀総長時代は、就任の前年、一九二九年にはじまった大恐慌に世情はゆれ動き、マッカーサー中将の主な仕事は、いかにして陸軍予算の増額を議会に認めさせるか、ほぼその努力に終始した。
しかし、きわだった事績はなかったが、マッカーサー総長は、その魅力的な風さいと能弁、さらに卓越した記憶力と敏速な事務処理など、多くのすぐれた能吏ぶりで、好評をあつめた。おそらく、他の官庁の俊秀も含め、マッカーサー総長は、当時の米国官吏の中で最有能者だと評された。
マッカーサー総長の任期は一九三四年できれるが、その前年に就任したフランクリン・ルーズベルト大統領は、マッカーサー中将を大将に昇進させるとともに、異例の措置としてもう一年、任期を延長させた。
一九三五年秋、マッカーサー大将は、客船「プレジデント・フーバー」号で、マニラにむかった。フィリピンのケソン大統領から、フィリピン軍編成とその総司令官就任を依頼されたからである。
マッカーサー元帥とフィリピンとの関係は深い。父親のアーサー・マッカーサーは、旅団長ついで師団長としてフィリピンに駐在したことがあり、マッカーサー元帥自身も、陸士を卒業すると、すぐ工兵少尉としてフィリピンの基地建設にあたり、また一九二八年にも、短期間だが、在フィリピン米軍事顧問団長をつとめたこともある。
ケソン大統領とは、工兵少尉で赴任した当時から親交を維持していた。大統領は、だから、マッカーサー大将を優遇した。マニラ・ホテル最上階を居所に提供し、大統領の給料より多い年俸三万千五百ドルを支給し、そして元帥の称号をおくるとともに、特別製の帽子もつくったのである。
この知遇にこたえるため、マッカーサー大将は、一九三七年十二月、正式に米陸軍を退役して、後半生をフィリピン政府のために捧げる決心をした。
いいかえれば、隠退準備のための就職ともいうべき環境となったわけだが、そのごのマッカーサー元帥の生活は、それまでとはだいぶ趣きを異にしていた。
現役時代のマッカーサー元帥は、まずは職務精励を第一とし、清廉《せいれん》でもあり、およそ非社交的であった。
マニラ時代にも、精勤ぶりと非社交性は変わらなかった。マニラ・ホテル最上階での生活は、むしろ、その非社交性を高踏的にまで上昇させた感があり、総督または土侯に匹敵《ひつてき》する優雅かつ閉鎖的な暮らしぶりとなった。
元帥は、陸士校長時代の終わりに、金持ちの離婚婦人ルイス・ブルックスと結婚し、一九二九年に別れたが、一九三七年四月、マニラにむかう客船で知りあったジーン・フェアクロス嬢と再婚した。元帥五十七歳、新婦三十八歳で、翌年一九三八年、一人息子アーサー二世が生まれた。
あるいは、この孫に近い子どもの将来を思ってか、元帥はマニラ時代には蓄財にも関心を示した。動産、不動産に投資し、とくに伝えられるのは、のちに元帥の腹心となったコートニー・ホイットニー少将との間柄である。
ホイットニー少将は、日本占領時代に総司令部民生局長として活躍するが、当時は弁護士で、金鉱会社の株を世話したりして、マッカーサー元帥の蓄財のためにはげみ、側近の地位を獲得した、というのである。
マッカーサー元帥を観察するさい、きわめて特徴的に目につくのは、その特異な幕僚の使い方である。ホイットニー少将の場合もそうだが、元帥の幕僚陣には、つねに元帥と君臣関係に近いほどの心服ぶりをみせる者だけが、あつまる。
これは元帥が忠勤をはげむ部下には格別の処遇を与えるためでもあるが、自信があり、かつどの分野においても自分が最高の能力者だと確信している元帥としては、幕僚に一流人物を必要としなくなるからでもある。
米軍では、大隊以上の単位、とりわけ大軍となれば、必ず副師団長、副司令官というように次席者が存在するが、マッカーサー元帥の司令部には、参謀長はいても、ナンバー・ツーの指揮官は、いない。
「マックの下では一流になってはならぬ」と軍人仲間でささやかれ、自然にマッカーサー元帥の幕僚には、“二流”人物がならび、さてこそ、元帥自身が休暇もとらぬ勤勉ぶりを発揮するゆえんでもある。参謀総長時代からマニラ時代まで副官をつとめたアイゼンハワー少佐も、一九三九年に任期が終わると、固く再任をことわって帰国した。
――ところで、
アイゼンハワー少佐が帰国したあと、第二次大戦がおこり、日米関係も緊張していったが、一九四一年(昭和十六年)六月、マッカーサー元帥は、日米開戦にそなえて、フィリピン軍を米軍に編入し、かつ元帥は極東米陸軍司令官に就任したい、と米政府に提案した。
米政府は承知した。七月二十六日付でマッカーサー元帥は、米陸軍少将に復帰し、その翌日、中将に昇進して、極東米陸軍司令官となった。
この処置は適切であり、マッカーサー元帥の先見能力を示すものとして讃《たた》えられるが、開戦後の元帥は、指揮官としては、まるで「カムバックした元チャンピオン・ボクサーが久しぶりのリングの上でとまどう姿を思わす」と論評されたように、いかにも不敏な印象を与えつづけた。
開戦五日後、十二月十二日、マッカーサー元帥はケソン大統領に、米比軍のバターン半島撤退、司令部とフィリピン政府のコレヒドール島移転、マニラ市非武装直言などの措置をとる、と通告した。
これは米西戦争でスペイン軍が半島にたてこもった故知にならい、かつ米軍もWPO3作戦として、かねて立案していたものである。ケソン大統領に、異議はなかった。
ところが、マッカーサー元帥は、計画を決定はしたが、発動をしぶった。
元帥は、十二月十日、参謀総長ジョージ・マーシャル大将に、日本本土を空襲して在外日本航空兵力をひきあげさせるべし、と提案していたが、また十三日には、米国のドイツ打倒第一主義を修正して全兵力を対日戦に投入すべし、と勧告したり、しきりに救援を要請した。
情報参謀チャールズ・ウィロビー中佐が、日本軍上陸は十五日後と報告したためもあったかもしれないが、一説には、マッカーサー元帥がマニラ撤退をちゅうちょしたのは、マニラ市に保有する財産の処理が問題であったためとも、伝えられている。
だが、いずれにせよ、マッーサー元帥は、本間雅晴中将の第十四軍がリンガエン湾に上陸した翌日、十二月二十三日、バターンろう《ヽヽ》城を下令したが、この十日間の遅延の代償は大きかった。
WPO3計画では、バターン半島に四万三千人六カ月ぶんの食糧をはこび、米本土から救援がくる六カ月間を戦い抜くことになっていた。
ところが、発動がおくれたため、コレヒドール島には一万人六カ月ぶんの食糧が蓄積できたが、バターンには五万人六十日ぶんしか搬入できなかった。しかも、バターンには、米比軍八万人、難民二万八千人が流れこんだ。五万人六十日ぶんは、十万人ならわずか一カ月ぶんにすぎない。
おかげで、バターン半島ろう《ヽヽ》城軍は、はじめから飢餓《きが》状態におそわれる結果になった。バターン攻略後、米比軍捕虜は半島から移動させられた。その行進で約二千三百人の米兵捕虜が倒れた。
“死の行進”として、戦後、本間中将はその責任を問われて戦犯処刑されるが、行進で捕虜が倒れたのは、行進させたのもさることながら、その前に空腹と疾病《しつぺい》で衰弱していたからであり、衰弱の原因は、マッカーサー元帥のろう《ヽヽ》城命令の遅延による食糧不足にあったはずである。
マッカーサー元帥は、コレヒドール島のマリンタ・トンネル内にいたが、例の元帥帽、開襟シャツ姿で、左手にとうもろこしパイプ、右手にステッキをついて、付近の陣地視察をかねた散歩を楽しんでいた。
バターン半島の攻防戦が激化し、次第に米比軍は圧迫され、コレヒドール島にたいする空襲もひんぱんになった。しかし、たとえ空襲下でも、元帥は定めた時刻の散歩は欠かさず、その冷静な足どりは、コレヒドール米軍将兵に、安堵感を与えた。
ところが、バターン米比軍の間でのマッカーサー元帥の評判は、低下した。
元帥のモットーは、指揮官は部下に仰ぎ見させる存在たるべし、というにある。そのとおりであり、部下は、指揮官の姿を見ることによって自分の立場と責務を確認しつづけるものである。この意味では、指揮官は、必要なときには、つねに部下から見える位置にいなければならない。
現に、第一次大戦では、マッカーサー元帥はそれを実行した。また、バターン陥落がせまり、ワシントンからコレヒドール脱出を勧告されると、「辞職して、志願兵となり、バターン第一線におもむかん」と述べた。
だが、実際には、マッカーサー元帥は一回だけ、それも数時間、バターン戦の初期に半島の指揮官ジョナサン・ウェンライト少将の司令部を訪れたのみであった。
「穴掘りダグは、岩の上、
ぶるぶるふるえて身を伏せる
弾丸《たま》もショックも、こわくない」
とは、三月十一日、元帥がコレヒドール島を魚雷艇で脱出したあと、さっそくバターンでうたわれだした歌である。ダグラスのダグと、ダグアウト(壕)、またコレヒドール島の俗称「岩」をもじって、マッカーサー元帥にあてこすった歌である。
むろん、歌は事実に反する。元帥に卑怯《ひきよう》さはなく、コレヒドール脱出も、オーストラリアに新設される南西太平洋方面連合軍総司令官に就任するため、ルーズベルト大統領の直接の命令によるものであった。
だが、歌は、マッカーサー元帥の言動に、名利と安全を土台に超然とするエリート意識のくさみにたいする反発をみなぎらせている。中傷というべきかもしれないが、ほかならぬ部下の間から、その種の中傷を招くのは、指揮官としては欠格者と判定されかねないであろう。
昭和二十年(一九四五年)九月二日、東京湾上の戦艦「ミズーリ」上甲板で日本の降伏調印式がおこなわれたとき、マッカーサー元帥は六十五歳であった。
元帥にたいする評価は、極端なまでに高かった。
その抜群の秀オぶりと太平洋戦争中に示した連戦連勝の戦果、しかもどの戦場でも発表された丸腰で第一線に立つ勇姿は、元帥を「戦略、戦術の全能者」として、アレキサンダー大王、シーザー、ナポレオンとならぶ史上最高の軍人とみなす者も、少なくなかった。
米国の一流ジャーナリスト、ジョン・ガンサーの著書『マッカーサーの謎』の中に、インド人が元帥に送った葉書が紹介されているが、その葉書の宛名を、インド人は次のように書いていた。
「最も慈悲ぶかき陛下、古き友、最も尊敬すべき日本の総督にして国王たる、偉大なる主人、マッカーサー元帥閣下」
日本占領時代のマッカーサー元帥は、まさに日本の支配者であった。天皇は存在するが、各国の外交官が信任状を提出するのは、マッカーサー元帥であり、日本の議会を解散させる権限を持つのも、マッカーサー元帥である。閣僚の任免も、元帥の意のままである。
しかも、外から見る限り、元帥は日本政府をたてて、その権限をできるだけ直接には行使しないようにみえる。英国式のきびしい植民地統治になれたインド人の眼には、“慈悲ぶかい主人”とうつったのも、当然かもしれない。
かくて、マッカーサー元帥は、たんなる武将のほかに“偉大なる政治家”としての声価も得たが、米国内には、逆に元帥にたいする強い批判もささやかれていた。
客観的にマッカーサー元帥の事績を眺めるとき、指揮官としての元帥には、たぶんに首をかしげさせる要素がひそんでいるからであり、その中で最も目につくのが、いずれも極度な幸運にたいする自信、近視眼的な使命感、保守的な戦略眼の三つであった。
元帥が幸運であることは、その記録破りの昇進だけでなく、フィリピン脱出のさいの事情にもよくあらわれている。開戦時のマッカーサーの指揮ぶりは、まことに拙劣《せつれつ》なものであった。誤判断と油断により、航空機のほとんどを一気に失い、バターンろう《ヽヽ》城作戦の準備もできなかった。
まったくの奇襲をうけた真珠湾の太平洋艦隊司令長官ハズバンド・キンメル大将が、クビになったことを思えば、当然、マッカーサー元帥も解任されていいはずであったが、元帥の抜群の名声は、そのような高名な軍人を捕虜にさせてはまずい、というルーズベルト大統領の判断となり、元帥は脱出し、南太平洋方面司令官に任命された。
「私は帰る」(アイ・シャル・リターン)――と、マッカーサー元帥は、オーストラリアに到着すると叫んだが、そのとき、元帥の胸中には、わが身の幸運さにたいする自覚と、フィリピン帰還という使命感が燃えあがったにちがいない。
その後、マッカーサー元帥は、その使命感にしたがって、対日反攻ルートはニューギニア→フィリピンのコース以外にはない、と頑強に主張しつづけた。
だが、実際にマッカーサー元帥が立案したフィリピン・コースの戦略は、至って消極的なものであった。たとえば、初期の反攻計画「カートホイール」は、ソロモン群島、東ニューギニアを制圧してラバウルを包囲しようとするものだが、作戦期間は八カ月もかかる慎重なものであった。
その後の作戦計画も、堅実ではあるが、要するに日本軍基地はすべてつぶして行く式のもので、ワシントンの米統合参謀本部は、おりにふれてマッカーサーの戦略の省略と促進を指示した。戦後、マッカーサー軍の作戦として有名になった日本軍基地をとびこえて進む「カエル飛び」(リープ・フロッグ)作戦は、この統合参謀本部の指導による。
ラバウル基地にしても、攻略には少なくとも十万人以上の損害は必至と判断して、そのす《ヽ》通りをきめたのは統合参謀本部であり、マッカーサー元帥は、強硬に攻撃を主張して、す《ヽ》通り決定は「最大の軍事的過ちとして記録されるだろう」と、指摘した。
戦術面でも、マッカーサー元帥の定石性はめだった。
ひとつには、マッカーサー軍が攻めるとき、どの戦場でも、日本軍はすでに制海、制空権を奪われ、補給路をたたれて地下または山地にひそむ環境にあったこともあるが、マッカーサー元帥は、空中偵察→艦砲射撃と空爆→側背をつく安全な上陸→火砲と戦車を先頭にした横隊前進という、ぴたりと型にはまった戦術だけを採用した。
むろん、このマッカーサー元帥の戦術は有効であり、すべて成功した。そして、武将の評価は勝敗によって左右される以上、勝利を重ねるマッカーサー元帥には、ただ賛辞と勲章が捧げられるだけで、指揮官にとって大事ないまひとつの能力、すなわち変化に応ずる才能にたいする疑惑は、口にだされることはなかった。
もし――という単語は、歴史には禁句となっているが、マッカーサー元帥を高く評価し、崇拝する者にとっては、もし元帥が対日戦終了とともに隠退《いんたい》していたら、という想いは根強いであろう。
それまでであれば、元帥は米陸軍史のみならず、世界戦史にも、最も完ぺきな指揮官の一人として特記されたはずだが、日本の“支配者”の地位につき、朝鮮戦争を迎えたおかげで、元帥の指揮官としての資質は再評価され、与えられつづけた栄光に、かげりをそえられねばならなかったからである。
朝鮮戦争がおこる前、マッカーサー元帥は真剣に隠退を考えていた。大統領選出馬を要請する動きもあった。
元師は、日本占領にあたっては、かつてフィリピンにフィリピン軍育成の使命感にもえて渡り、フィリピン奪回の使命感にもえて戦ってきたように、日本軍国主義の根絶という使命感を自覚していた。
その使命は、どうやら成就された。軍隊がなければ軍国主義もあり得ない、という元帥の考えにもとづいて、戦争と軍備を放棄した新憲法を日本は受諾《じゆだく》し、戦犯裁判と指導者追放、法律、制度の根本的改革により、日本は思想的にも組織的にも、危険なキバを抜きとられたとみなされる。
元帥としては、一九三五年(昭和十年)いらい離れている母国に、ようやく眼をそそぐ環境になり、対日講和条約調印後は、故郷ミルウォーキーに隠退する旨を、言明していた。
ところが、昭和二十五年六月二十五日、北朝鮮軍が朝鮮半島北緯三十八度線をこえて韓国を攻撃すると、七十歳のマッカーサー元帥の胸には、またも新たな使命感がわきおこった。
アジア共産主義勢力の一掃――である。
マッカーサー元帥は、七月末、台湾にとび、介石総統と会ったが、八月七日、ワシントンからトルーマン大統領の使者として、アブレル・ハリマン、参謀次長マシュー・リッジウェイ陸軍中将を迎えると、次のようにいった。
「もし中共軍が台湾を攻撃したら、自分は、その戦いの指揮をとり、世界で最も決定的な戦闘をおこなって相手に大打撃を与え、アジアから共産主義勢力を一掃するつもりである。自分はいまや、毎夜、中共軍が攻撃してくることを祈っている」
ハリマン、リッジウェイ両人は顔をみあわせた。トルーマン大統領の懸念《けねん》が的中したと思ったからである。
当時、米国の対共産陣営対策は、いわゆる「封じ込め」であり、直接に共産諸国、とくに中ソ両大国とはことをかまえる意向はなかった。トルーマン大統領は、マッカーサー元帥の台湾訪問を知り、あるいは、元帥が台湾の介石軍を動かして、戦争の大規模化を招くのではないか、と不安になって、二人を派遣したのである。
はたして、元帥の言葉を聞けば、元帥はあえて中共に台湾を攻撃させたがっている気配が感じられる。二人は鼻白み、「憲法上の権威にたいする忠誠」を指摘して、帰った。米国憲法では、大統領が三軍の最高司令官である。大統領の命令に違反するな、という意味である。
マッカーサー元帥がうなずいたのは、いうまでもないが、それにしても、マッカーサー元帥は、いまひとつの感慨、それも、運命的な感慨をおぼえないわけには、いかなかった。
朝鮮戦争は、なんと太平洋戦争に似ていることであろう……。
攻撃された六月二十五日は真珠湾空襲日と同じく日曜日である。おまけに、韓国軍と北朝鮮軍とは、ちょうどフィリピン米比軍と日本軍と同じように、日本軍が飛行機と優秀装備に身をかためていたのにたいして、米比軍がほぼ軽火器だけであったごとく、韓国軍には飛行機も戦車もなく弾薬も数日分しか、なかった。北朝鮮軍はソ連製戦闘機、爆撃機、戦車をそろえ、中共、ソ連両国軍の戦闘訓練をうけている。
マッカーサー元帥は、ただちに米政府に増援を要請したが、ドイツ防備に兵力を必要とするので、とっさには応じられない、という返事であった。またしても、フィリピンで日本軍を迎えた当時の事情の再現である。
マッカーサー元帥が、米国民が日本帝国主義者の真珠湾“だまし討ち”に奮起した状況を思いうかべ、同じく卑劣《ひれつ》な「帝国主義的共産主義者」を打ち倒し、降伏させるのが、自分の最後の使命と自覚したのも、自然であったかもしれない。
北朝鮮軍は、かつての本間雅晴中将の第十四軍がフィリピン平野を南下したように、装備、訓練ともに不十分な韓国軍をけちらして、南進した。
マッカーサー元帥は、かつてフィリピンを“自由の砦《とりで》”としてその維持を訴えたように、韓国守護の必要を叫んだ。
「共産主義共同謀議者たちは、世界征服運動の場所として、アジアをえらんだ。アジアで(われわれが)共産主義に敗れれば、ヨーロッパの運命も危機にみまわれる。そのときの訪れはせまっており、予の耳には、運命の時計の音がきこえるような気がする」
マッカーサー元帥は、七月二十三日、陸軍参謀総長ロートン・コリンズ大将と海軍作戦部長フォレスト・シャーマン大将に、そう述べたあと、八月十七日には、米国の在郷軍人大会にメッセージを送り、次のように強調した。「台湾を守るだけで共産主義を防げると考えるのは、東洋人を知らぬ者である。東洋人は、野心的で決断に富み、ダイナミックな指導者を、内気で不決断な指導者よりも尊敬し、かつそれに従うことを喜ぶものである」
このマッカーサー元帥の東洋人心理の分析は、フィリピン、日本での体験の成果であろうが、元帥は、朝鮮半島反攻のために、ソウルの南西の仁川上陸作戦を実行した。
まさに、フィリピン・リンガエン湾に上陸して首都マニラを目指した、あの「アイ・シャル・リターン」作戦の再現である。
仁川港は、海底の泥が厚く、潮の干満のタイミングをはずすと上陸はむずかしい。統合参謀本部は危惧《きぐ》を表明したが、マッカーサー元帥は、「仁川上陸とソウル攻略は軍事的のみならず、政治的効果もふくんでいる」と主張して、九月十五日、実行した。
上陸は成功し、マッカーサー元帥は九月二十九日、陥落したソウルの議会で、李承晩大統領に韓国政府の帰還を祝った。
かつて、マニラをおとし、マラカニヤン宮殿でオスメニヤ大統領にフィリピン政府の復帰を祝福した情景の再現であり、歴史をもう一度歩む心境のマッカーサー元帥にとっては、あとは、日本軍に手をあげさせたように、北朝鮮軍の降伏が目標となった。
マッカーサー元帥は、北朝鮮内への追撃の自由を、統合参謀本部に求めた。
だが、トルーマン政府も、統合参謀本部もちゅうちょした。朝鮮戦争は、太平洋戦争とはちがう。太平洋戦争のときのように、直接米国が攻撃されたわけでもなく、しかも当時の同盟国中ソ両国が、敵側に立っている。戦争の名分はうすく、米国にとって同盟国も用意も不十分である。
おまけに、中共といい、ソ連といい、共産主義国家はまだ敗北を知らない。米国も同様だが、そのような国家間の戦争が、苛酷《かこく》になることは、対日戦で立証ずみである。第三次大戦の可能性も少なくない。
マッカーサー元帥は、十月一日、北朝鮮軍総司令官あてに降伏勧告を放送したが、統合参謀本部は、その種のやり方はかえって相手を刺激するだけだ、と反対し、また中ソ国境にはせまるな、と注意した。
はたして、中共側は、元帥の降伏勧告放送が終わると、即座に反応を示して、「帝国主義が隣国に入るのは傍観し得ない」旨《むね》を声明した。
一方、マッカーサー元帥は、すでに国連軍としてオーストラリア、英、トルコ、カナダ、タイ軍部隊を指揮下においていたが、米軍とともにこれら非韓国軍の進出限度を、中共国境の三十〜四十マイル南と定めながらも、追撃をつづけ、十月九日、ふたたび北朝鮮軍総司令官に降伏を呼びかけた。
北朝鮮の金日成首相は、翌十日、マッカーサー元帥の勧告を拒否した。そのころには、国連では、ソ連代表が停戦と撤兵を提案し、インド代表は、中共軍介入の危険をにおわせていた。
トルーマン大統領は、マッカーサー元帥に会談を申し入れ、十月十五日、ウェーキ島に飛来した。
会談には、マッカーサー元帥は、腹心のコートニー・ホイットニー少将と副官をつれてきただけであったが、トルーマン大統領はフランク・ベイス陸軍長官、統合参謀本部議長オマー・ブラドレー陸軍大将その他の幹部と新聞記者団を同行させた。
また、ホイットニー少将によれば、元帥の副官が会談のメモをとろうとすると、大統領側はそれを禁止したが、ドアの外には政府の女性速記者がいて、会談内容を記録した。会談では、マッカーサー元帥は、中共軍介入にかんして楽観論を強調した。
その前日、元帥の情報部長チャールス・ウィロビー少将が、中共の派兵声明は「たぶんに政治的はったりに属する」と報告していたからでもあるが、マッカーサー元帥は、かりに中共が北朝鮮に兵力を投入するにしても、補給が困難のはずだから、せいぜい「五〜六万」にとどまるだろう、と述べた。
十月二十日、米第八軍は北朝鮮の首都平壌にはいり、同日、空挺部隊一個連隊が北方三十マイルに降下し、北朝鮮軍主力を包囲したかにみえた。
翌日、十月二十一日、マッカーサー元帥は、戦いはまもなく終わるだろう、と言明し、二十四日、国境までの進軍を命令した。
ところが、二十五日、前線で中共軍との接触が報告され、数日後には、中共二個師団の存在が確認された。
実際には、中共軍はすでに平壌陥落のころから、夜行軍で北朝鮮領内に展開していた。難民の口からは、そのようすが語られていたが、マッカーサー総司令部は、難民情報を信用せず、また空中偵察により発見できないので、気づかなかったのである。
ここにも、マッカーサー元帥の過去のミスのくり返しがみられる。対日戦のさいも、マッカーサー軍は、空軍に頼りすぎ、その偵察と空爆の効果も過信して、しばしば“意外な損害”を経験していたのである。
だが、マッカーサー元帥は、なおも中共軍の大量介入は信ぜず、十一月はじめに疑問の余地がなくなるまで、ワシントンには小兵力との推測を報告していた。
つづいて、マッカーサー元帥は、十一月五日、中共国境の鴨緑江《おうりよくこう》の橋を爆撃することを命じた。中共軍の補給路遮断のためである。
統合参謀本部は、あわてた。先月二十四日の国境進軍といい、鴨緑江爆撃といい、明らかに米国政府の政策に反する。中止命令がだされるとともに、十二月三日、米国防省でマッカーサー元帥の処遇について、協議がおこなわれた。
民主主義国では、軍事は政治のコントロール下におかれている。軍人が国家の進路を決定できるのは、独裁国家だけである。
マッカーサー元帥を、危険な存在として解任を主張したのは、参謀次長リッジウェイ中将であったが、トルーマン大統領は、元帥解任が米軍の士気と国民感情に影響することを考え、元帥をふくめて全軍指揮官に、外交政策に関係する言動をつつしむよう注意するだけに、とどめた。
マッカーサー元帥は、しかし、大統領に反抗する意思はなかったが、アジアの共産主義追放が自分の使命である、との信念は、すてなかった。
中共軍の介入により、国連軍は敗退をつづけ、十二月下旬には、中共軍は北緯三十八度線に近づいた。統合参謀本部は、マッカーサー元帥にたいして、国連軍の日本への撤退と日本防備の体制について、意見を求めた。
明らかに敗北を認める見解である。マッカーサー元帥は、回答した。
「いまや、米国または国連、あるいは双方が中共との戦争状態を認識すべきである」
元帥は、中国大陸沿岸の封鎖、砲爆撃による産業地帯の破壊、介石軍の韓国派兵、中国大陸への上陸作戦を提案した。
再び、釜山までの撤退をくいとめたのは、W・ウォーカー中将の事故死で米第八軍司令官に就任したリッジウェイ中将の功績であったが、昭和二十六年三月二十四日、マッカーサー元帥は、ソウルの再奪回のあとをうけて、またしても、「敵軍司令官」に降伏を勧告する声明を発表した。
トルーマン大統領と統合参謀本部は、マッカーサー元帥の解任を決意した。
元帥のすぐれた頭脳、勇気、愛国心、部下および周囲を魅惑する能力、激しい使命感、そして強い自信など、いずれも指揮官として卓越したものであるが、あまりにも多すぎる“栄光”と長すぎる頂上の地位とは、個人と機構との命運を混同視する過信を生む。
トルーマン大統領は、元帥はまた同じことをくり返し、ひいては国家に危機を及ぼしかねないとして、四月十一日、元帥に解任を通告した。
マッカーサー元帥は、副官が報告したとき、宿舎である東京の米大使館で昼食中であったが、無言の数秒をすごすと、こわばったほおのまま、夫人にいった。
「ジニー、これでやっと米国に帰れるよ」
オード・C・ウィンゲート
「この世に天才はいない。いるとすれば、天才的な人物だけだ」――という格言があるが、かけ値なしの天才と英首相ウィンストン・チャーチルが折り紙をつけたのが、英国陸軍少将オード・C・ウィンゲートである。
そして、ウィンゲート少将の存在が最も注目を集めたのは、インパール作戦においてであるが、少将の名前はすでに英軍、とくに在インド英軍部隊の間に、極端に相反する評価とともに知られていた。
いわく「天才……アラビアのロレンスの再来……」いわく「ペテン師……偏執狂《へんしゆうきよう》……」
ウィンゲート少将は、昭和十八年二月、特別遊撃部隊第七十七旅団三千人と、ラバ、去勢牛千頭をひきいて、インド東北部マニプール州の首都インパールから、ビルマに潜入した。日本軍後方地域の攪乱《かくらん》のためである。
当時、ウィンゲート少将はまだ准将であったが、その作戦中に四十歳になった若さであり、英陸軍中、最年少の将官だった。
少将は、イギリス人としては小柄のほうで、やせていた。広いひたい、うすい唇、青く澄んだヒトミを持つ風ぼうは、美男子ではないが、落ち着いた学者のふんい気をただよわしていた。やや前こごみの歩き方も声も静かで、およそ特別に目立つ印象はとぼしかった。
だから、第七十七旅団の将兵は、はじめてウィンゲート少将を見たとき、一様に意外感をうけた。
少将はそれまで、パレスチナのシオニスト運動、エチオピア戦争で苛酷《かこく》な戦争ぶりと卓越した能力を示し、“恐るべきゲリラ戦指揮官”の異名が流布されていたからである。
最初の訓示も、変わっていた。ゲリラ戦は不正規兵、つまりかき集めた市民を兵士にして戦う以上、その戦意をかきたて感奮させるために、指揮者はなみはずれた雄弁家であることが多い。ところが、少将は次のようにいっただけである。
「われわれの目的は、すべての人間が平和に暮らし、奉仕の共通の機会が得られる、全世界政府機構を実現することにある」
大英帝国……国王陛下……英軍の伝統……など、将兵が聞きなれ、同時に期待していた単語は、なにひとつ、少将の口から出なかった。
訓練も、異常だった。第七十七旅団の任務は、ビルマ北部のジャングルにひそみ、日本軍基地の物資を焼き、鉄道、道路を破壊することにある。
当然、ジャングルにおける生活と戦いが、訓練の焦点になるが、ウィンゲート少将は完全装備のまま、倒れるまでの行軍を命じ、へたばっても、木かげの小休止と扇子であおぐ以上の休養は、許さなかった。雨が降れば、わざわざ泥沼をえらんで訓練させた。
糧食も最小限の量しか持たせず、チューインガムをかむことは禁止された。飢えに耐え、渇《かわ》きにも耐えるためだった。ジャングルに、マラリヤ蚊《か》はつきものだが、少将はマラリヤ予防薬キニーネの服用は厳命したが、カヤは禁止した。
たちまち、病人はふえ、あっという間に、全将兵の七十パーセントが病気だと報告された。すると、ウィンゲート少将は、命令した。
「病気にかかることを禁ずる。こんご病人の手当ては、小隊の先任軍曹がおこなうことにする」
とたんに、全快者が相次ぎ、病人数は三パーセントに激減した。実際には訓練の苛酷さをまぬがれるためのケ《ヽ》病がほとんどだった。先任軍曹の看護となれば、どうせ、看護という名のしごきになることをみこんで、兵たちはあきらめたのである。
だが、第七十七旅団将兵は、やがて現実の作戦行動にはいると、ウィンゲート少将に感謝した。
戦場、それも、孤立無援の敵地であれば、食糧も水も装備も不足する。空腹にも渇きにも、対策はただ耐え忍ぶことだけである。ジャングルの中を日本兵に追われて移動する場合、カヤをつって優雅に眠るなどは、論外である。蚊を防ぐよりも、慣れる以外に方法はない。また、病気になることは、死ぬか、捕虜になるか、そのどちらかである。
要するに、ウィンゲート少将の訓練はすべて現実に即したものであり、いささかも訓練用の手ごころは加えられていなかった。第七十七旅団の少将にたいする批判は、一転して限りない信頼に変わった。
第七十七旅団のゲリラ作戦は、約二カ月で終了し、昭和十八年四月下旬には、旅団はちりぢりになり、日本軍の追撃をさけながらインドにひきあげた。
国境近くを流れるチンドウィン河を渡るのが難事だったが、ウィンゲート少将は、へとへとに疲れた部下たちには眼もくれず、ジャングルの葉かげをもれる月光をランプ代わりに、ギリシャの古典、プラトンの対話篇に読みふけった。
その姿は、いかにも、高踏的であったが、部下は誰一人、不満の声もあげず、不平のつぶやきももらさず、命令を待って少将のまわりにうずくまっていた。
しかし、インド英軍司令部内では、少将の評判は悪かった。
少将はもの静かではあるが、およそ非社交的である。司令部では、戦時中とはいえ、植民地の気楽さから、連夜のようにパーティが楽しまれたが、少将は一度も出席しない。ただ、司令官ウェーベル大将が呼ぶときだけは出席する。「ごますり人間」だというカゲ口が高まった。
会議で発言するときも、口数は少ないが、口を開けば、ピシャリと断定的な結論を述べ、妥協《だきよう》の気配はみせない。当然、「独善的だ」という批判がささやかれていた。
第七十七旅団の挺身作戦は、太平洋戦線ではあまり活発な動きをみせない英軍の最初の積極行動であった。おまけに、その活動は冒険に似た苦難にいろどられている。生来、冒険ずきの英国民にとって、ウィンゲート少将の壮挙《そうきよ》は、格好の賞賛の対象となった。
新聞は、あらそって少将の挺身作戦をほめたたえ、それがまた、インド英軍司令部の反感を、あおりたてることになった。第七十七旅団の損害が三十パーセントをこえたことも手伝い、ウィンゲート少将は、作戦が終わると、インパール基地に待機を命ぜられたまま、なんの声もかけられなかった。
少将は、そこで、作戦の報告書を書くと、ひそかに退役を考えたが、少将の才能に眼をつけ、その活用をはかったのは、チャーチル首相であった。
チャーチル首相が、ウィンゲート少将の報告書を読んだのは、インド英軍司令部がビルマの日本軍にたいして積極性に欠ける点に気づき、その理由を知るべく関係書類の提出を求めたためだが、一読すると、首相は「この士官は、天才にめぐまれている」と秘書に言明して、本国召還を指示した。
ウィンゲート少将がロンドンに到着したのは、八月四日夜。チャーチル首相はルーズベルト米大統領とカナダのケベック市で会談するため、出発する直前だった。
「すぐ案内せよ、一緒に食事だ」
と、チャーチル首相は、少将の来訪を聞くと、大喜びで執事に命じた。
首相は少将の才幹に眼をつけ、少将を起用してビルマ日本軍にたいする反攻を開始し、沈滞したインド英軍の士気を高めようという下心を持っていた。が、少将は知らない。
インパールにほさ《ヽヽ》れていた不快感が消えぬまま、ジャングルの中と同じに、スルッとスープをすすり、ガッシと牛肉にかみついた。そのたびに、礼儀作法に神経質な執事は、眼をとじて身ぶるいしたが、チャーチル首相は満足げにほほ笑んだ。
チャーチル首相は質問し、ウィンゲート少将は答えた。
父親ジョージは陸軍大佐、母親エセルも陸軍大佐の娘であること、サンドハーストの英陸軍士官学校を卒業したあとの経歴……。
「ものの三十分間も話さないうちに、私は最高の能力を持つ人物に出会ったことがわかった」と、チャーチル首相は、のちにこのときの会見の印象を記述しているが、とくに首相が感銘したのは、ウィンゲート少将の強い宗教心である。
「彼には、国家の運命をになう自負心はみあたらなかった。しかし、宗教にたいする激しい信仰心に支えられた、苛酷なまでの使命感と、冷酷な責任感にもとづく自信があった。おそらく、この使命感と責任感が、他民族とのゲリラ戦という危険な場をえらびつづけさせたのだろうが、危機に人生の意義を認め、自分の独創力と決断だけを信ずる以上に、戦場指揮官の適任者はいない」
チャーチル首相は、直感が的中していたことを喜び、ウィンゲート少将にカナダ同行を命じた。ケベックには、米英両国の参謀本部首脳も集まる。その席で、新たなビルマ侵入計画を考えよう、というのである。
ウィンゲート少将はチャーチル首相と客船「クイーン・メリー号」にのりこむと、船内で、チャーチル首相、英参謀本部総長サー・アラン・ブルック大将に、新挺身作戦を説明した。あるいは、それが“天才”の証例かもしれないが、少将はチャーチル首相の指示をうけたとたんに、新計画を考案していたのである。
――兵力は六個旅団、二万六千五百人。三個旅団ずつ、それぞれ戦闘、補給用に編成する。戦闘一旅団と補給一旅団を組みあわせ、三つの集団にわける。第一集団は介石の中国雲南遠征軍とともに雲南からビルマ東北部に、第二集団は北西部、第三集団はその南からビルマ領内にはいり、ビルマ北部を制圧する。
ウィンゲート少将は、ブルック参謀総長の顔色をうかがった。計画は明らかに野心的だが危険性に富んでいる。だが、参謀総長はあっさりと「健全なプランだ、結構だ」とうなずいた。
ケベックでは、ウィンゲート少将はルーズベルト大統領に計画を説明した。チャーチル首相の紹介である。
ウィンゲート少将は、ビルマ・インド方面の地図を前にして解説したが、ウィンゲート少将の特性のひとつに、話術の魅力がある。意識して技巧《ぎこう》をこらすのではないが、自然に相手は、少将の意見をききたくなるふんい気を持っている。
質問されると、少将は必ず十五秒ほど間をおいて答えるが、相手はいつのまにか、その十五秒を十五分間にも感ずるほど、少将の言葉を待ち望むようになる。
このときも、そうだった。最初、ルーズベルト大統領は、しきりに質問をあびせて、ウィンゲート少将の説明を中断していたが、やがて質問の回数は減少して耳を傾け、最後にチャーチル首相が「将軍、難局を打開しようとする貴下の努力に敬意を表する」と述べ、ウィンゲート少将が静かに「それが私の仕事です、閣下」と答えると、大統領は大きく拍手《はくしゆ》して少将に握手を求めた。
おそらく、第二次大戦中、連合軍将校の中で米英両国の首脳からこれほどの知遇を得たのは、ウィンゲート少将のほかに何人もいなかったが、両首脳の拍手を背に帰ったインドの環境は、少将にとって一層の冷たさが感じられた。
ウィンゲート少将は、インド英軍司令部に出頭すると、副官部を訪ね、宿舎、事務所、自動車、速記者などの所在をたずねた。ケベックから、ブルック参謀総長名で指示されていたはずだからである。ところが、副官の返事はそっけなかった。
「聞いておりません。なにも知りません」
英軍司令部では、少将の評判はますます悪化していた。ロンドンでチャーチル首相に会い、ブルック参謀総長の指示がきたことは、とりもなおさず、少将が司令部の悪口をつげぐちした結果であると解釈されていたからである。
「よろしい。参謀総長の命令を実行できないなら、私は直接、チャーチル首相に連絡する」
ウィンゲート少将は、憤然として捨てぜりふを副官にたたきつけた。そのご、宿舎その他は手配されていたが、いざ新作戦準備と新部隊編成が問題になると、インド英軍司令部の態度はしぶかった。……長距離挺身隊とおっしゃる。ふむ、しょせんは補助部隊ですな。
……六個旅団? それだけの兵力と準備が調達できるなら、まず正規軍の正規作戦にふりむけるべきでしょう。
……そもそもですよ。遊撃戦は小兵力でやるところに効果が期待できる。師団なみの大部隊のゲリラ作戦など、兵術論理を無視しておりますな。
「結構だ、諸君、私は(チャーチル)首相との直接連絡手段を通じて、首相が私に約束した作戦を実行できるチャンスはないから、解任してほしい旨《むね》を報告しよう」
少将はテーブルをたたいて立ちあがったが、なにかといえば、首相、首相である。参謀たちの間からは、聞こえよがしに「大げさなホラさ」という論評もひびいた。
ビルマ反攻の直接指揮をとる第十四軍司令官ウィリアム・スリム中将も、ウィンゲート少将に反感をいだいていた。
「ほかの条件や他人のことは考えず、自分の目標だけを狂信的に追求する人物」というのが、スリム中将のウィンゲート少将評だが、中将も、少将のチャーチル首相持ち出しには、いらいらさせられた。
新部隊編成について、少将が苦情を述べたとき、少将は自分はたしかに中将の指揮下にあるが、同時にほかにも直属上官をもっている、といった。
「誰のことかね?」
「大英帝国首相と米合衆国大統領です。問題があればいつでも連絡せよ、といわれております」
「そうかい」と、スリム中将は答え、それでは、いますぐ手紙でも書いたらどうだ、と机上のインクスタンドを、少将のほうに押しやったものである。
スリム中将にしてみれば、ウィンゲート少将はあまりにも日本兵を知らない。研究もたりない。
中将は、陸軍大学時代、日露戦争を研究して、日本軍の弱点に気づいた。日露戦争では、ロシア軍はほとんどの場合、予備兵力を温存しすぎて敗北をかさね、逆に日本軍はつねに全兵力を投入する方法で勝っている。どちらも予備兵力の活用を心がけていないわけだが、日本軍の場合も、そのやり方はときに致命傷になるはずであろう。
スリム中将は、英軍のビルマ反攻の前に、日本軍がインパールにむかって攻撃する情報をキャッチすると、自室の壁に日本側の指揮官、ビルマ方面軍司令官河辺正三中将の写真をピンでとめ、毎日、ながめていた。
「弾丸のような頭、メガネ、大きな歯と長いヒゲ。どうやら、私のほうがハンサムだが、それにしても、指揮官としては私とカワベとどちらが利口だろうか、と考えていた」
スリム中将はそう回想しているが、ウィンゲート少将には、そのような敵を知る努力は見当たらない。ただ、チャーチル首相の名前を呪文《じゆもん》のようにとなえて、自分のやりたいことを実現しようとしているだけではないか。
「日本兵は、貴下が北アフリカ(エチオピァ戦争)で戦ったイタリア兵とはちがう。後方をおびやかしても、それだけでは退却しない」
スリム中将はそうもいったが、むろん、ウィンゲート少将にもいいぶんはある。
少将にしても、司令部将校たちにたいする自分の態度が職場の協調を乱していることは承知している。しかし、首相の名前を持ちだす以外に作戦準備ができなければ、そうするほかはないであろう。
ウィンゲート少将は、作戦に自信があった。いや、たんに北ビルマ制圧にとどまらず、二十〜二十五個旅団、約十万人を動員し、さらにバンコク、ハノイを攻略してインドシナ半島を通り、太平洋の米軍と手をにぎる大計画さえ、考えていた。
一方、スリム中将やその上官である南東アジア連合軍総司令官ルイス・マウントバッテン海軍大将も、ウィンゲート少将の計画が興味深いものであることに、異論はなかった。
「本来、天オ的着想というものは、知ってみれば至って平凡にみえることが多い。しかし、合理のワクをはずれずにそれに思いつくか、つかないかが、天才と凡人のわかれ目になる。ウィンゲートの敵中に腰をすえるゲリラ作戦構想は、その意味で奇抜なものではなかったが、彼がプラン実現のためにとった手段は、明らかに平凡人ではできないやりかたであった」
と、マウントバッテン大将が述べているのは、ウィンゲート少将が周囲の悪評、冷評にもかかわらず、強引に目的実現に突進した姿を描写したわけだが、結局、ウィンゲート少将の計画は、はじめの六個旅団は半分の三個旅団(第七十七、第十六、第百十一旅団)にけずられたが、二個旅団をグライダー、一個旅団を陸路ビルマ領内に潜入させる形で、実施された。
日本側のインパール作戦開始の導因のひとつには、第一回のウィンゲート挺身隊の跳梁《ちようりよう》が、数えられている。その基地インパールを壊滅する必要があるからである。
その意味では、インパール作戦はウィンゲート少将によってひき起こされた面もあるが、第二回のウィンゲート兵団の出発は昭和十九年三月五日――日本第十五軍の作戦発起の三日〜十日前である。
ウィンゲート少将は、インパール西方ララガット飛行場から先陣の第七十七旅団の出発を見送った。六十一機のグライダーは、過重のため、あるいは山腹に衝突し、あるいは輸送機とのロープがきれて墜落するなど、次々に二十六機が失われたが、少将は出撃を命じつづけた。
月光をあびて、飛ぶグライダー群の姿は、作戦開始にそなえて展開をいそぐ日本軍からも、見えた。
そして、インパール作戦がはじまると、ウィンゲート兵団の後方攪乱《かくらん》工作は、それでなくても補給に悩む日本軍に打撃を与え、第十五軍敗退の誘因をつくったが、ウィンゲート少将は三月二十四日、乗機の墜落事故で死んだ。
「おそらく、彼ほど、好感を持つ者も反感をいだく者も、ともに心服させ得た指揮官はほかにいないだろう。彼は冒険家であり、予言者だった。問題は彼自身も自分を予言者だと信じていた点だが、しかし、その信念がなければあれほどの指揮力と活力は生まれなかったろう」
スリム中将の回想であるが、中将はそのあとに、つけ加えている。
「戦いには天才が必要だ。が、組織の中で天才がどう生きるかは別問題である」
ウィリアム・F・ハルゼー
“ブル”(雄牛)――というのが、太平洋戦争中、米海軍きっての猛将といわれたウィリアム・F・ハルゼー大将のニックネームであったが、ハルゼー大将は、指揮官の最も重要な要件は部下にその存在を明らかにすることだと考えていた。
どこにいるかわからず、またどんな人物かも不明では、部下としては、自分の行動がはたして指揮官の意思に裏打ちされているかどうか不安となり、十分な成果は期待できなくなるからである。
むろん、この点は洋の東西、時の古今をとわず、およそ指揮官であれば、誰もが理解し、かつ心がけるべきテーマだが、そのやり方はそれぞれに異なる。
たとえば、ミッドウェー海戦の勝者スプルーアンス提督《ていとく》は、極端に新聞記者を寄せつけず、訓示も命令もぶっきら棒なほど簡単だった。しかし、判断と命令は的確であり、部下は提督のいうこと、なすことは神のお告《つ》げなみにまちがいないと信じていた。
マッカーサー元帥は、できるだけ部下の前に姿を見せた。ただし、つねに旗竿のようにまっすぐ、そして威厳を誇示する形をくずさずに無言で立つ。部下は雲をぬいてそびえる高峰を仰ぐ思いで、元帥に従った。
ハルゼー大将が採用したのは、一種のPR方式であった。
大将は小柄で、鋭い眼光、太い眉、かみしめた唇など、その風ぼうは一見して猛気に満ちた印象を与えた。また、大将は鋭いカンとユーモア性にめぐまれていた。そこで、大将は、この内外の特性を最大限に活用したが、大将が好んで採用したのは、自分の勇猛心をひれきして部下の戦意をかきたて、ついでに自己の存在をきわだたせる言論活動であった。
太平洋戦争で、まずハルゼー提督の存在が米国民に強く印象づけられたのは、開戦直前昭和十六年十一月二十八日に大将がだした命令である。
ハルゼー大将(当時中将)は、空母「エンタープライズ」をひきいてウェーキ島に海兵航空隊を輸送する任務を与えられたが、真珠湾を出航すると間もなく、次のような命令を発表した。
「一、エンタープライズは現在、戦闘状態の下に作戦中である。
二、昼夜をとわず、つねに即時行動にそなえて待機せよ。
三、敵潜水艦との遭遇を予期せよ。
いまや、強靭なる神経と断固たる決意を必要とする時である」
つづいて、艦隊に近づく日本または国籍不明の艦船、航空機は、すべて攻撃せよ、というハルゼー提督の指示が、艦内にアナウンスされた。
日米関係の緊張が最高潮に達していることも、米太平洋艦隊の対日作戦計画「WPPAC46」号第一法が発動されていることも、将兵は知っていた。現に、ウェーキ島への海兵航空隊輸送は、その計画による。だが、同時に日米戦争はまだはじまっては、いない。作戦参謀ウィリアム・ブラッカー少佐は、あわてて、ハルゼー提督の部屋にかけこんだ。
「閣下、これは戦争を意味する命令だとご承知なんでしょうか」
「イエス」
「しかし、それじゃ、閣下の個人的戦争になります。万一のときは誰が責任をとるんです」
「わしがとるさ。いいか、近づいてくるヤツがいたら、まず攻撃しろ。議論はあとまわしだ」
ずいぶんと乱暴な話である。もし日本機動部隊が北からハワイを空襲せず、南方または西方コースで真珠湾に接近していたら、太平洋戦争の第一発は、日本側ではなく、米国側によって火ぶたをきられ、“真珠湾だまし討ち”論議なども発生しなかったかもしれない。
その場合、当然、ハルゼー提督はブラッカー少佐の予告どおりに責任を追及されたろうが、それはともかく、真珠湾空襲後、ハルゼー提督の命令と、参謀とのやりとりが伝えられると、提督の名前は、戦意の権化《ごんげ》として歓迎された。
“ブル”のあだ名が捧げられ、卑怯な日本人をやっつける男、それこそ“ブル”ハルゼーだ、と新聞は、讃えた。
そのご、ハルゼー大将はマーシャル、ギルバート諸島、あるいはウェーキ島、南鳥島など、太平洋に展開する日本軍基地を「ヒット・エンド・ラン」戦法で空襲し、さらに昭和十七年四月十八日、ジェームス・ドーリットル陸軍中佐指揮の東京空襲部隊を、空母「ホーネット」にのせて、日本近海にはこんだ。
東京空襲は、米国民の士気をわきたたせたが、その指揮官がハルゼー提督とわかると、大将の人気はさらに一段と高まった。
東京空襲がさそい水のようになって生起したミッドウェー海戦には、ハルゼー大将は、慢性皮膚炎《ひふえん》のために参加できなかったが、昭和十七年十月十八日、南太平洋方面海軍司令官に就任した。
おりから、二カ月前に開始されたガダルカナル島攻防戦は、陸海ともに激戦がつづき、日本側が補給に悩めば、米国側も疲労の色が濃く、島の海兵部隊指揮官と海上の海軍部隊指揮官の対立、一般の士気低下が目立ちはじめていた。
ハルゼー大将は、この気配を見抜くと、指揮官と新聞記者をニューカレドニア島ヌーメアの司令部に集め、戦いに勝つために要求することは、たった三つしかない、それは、と一息ついたあとで、声をはりあげた。
「第一に日本兵を殺せ、第二に日本兵を殺せ、そして第三に、もっと日本兵を殺せ、この三つである」
(キル・ジャップ、キル・ジャップ、キル・モア・ジャップ)――という大将の言葉は、たちまち、米国内と前線との合言葉となり、ハルゼー大将の登場は士気回復に役立った。
大将のユーモアに富む会話、訓示や指令は、まことに格好の新聞記事の見出しとなるので、記者たちはしきりに大将に声明発表を求め、大将もまた、マスコミを利用するため、その要望に応えるべく努力した形跡がうかがえる。
たとえば、昭和十八年四月十八日、連合艦隊司令長官山本五十六大将が戦死すると、山本長官撃殺任務を担当したマーク・ミッチャー少将に、次のような祝電をおくった。
「貴下ならびにミッチェル少佐とその狩人たちにお祝いを申しあげる。これは、獲物袋に入れたアヒルの中に、クジャクがまじっていたようなものだ」
その前に、ガダルカナル島の日本軍が敗退し、完全占領が現地指揮官アレクサンダー・パッチ陸軍少将から報告されたとき、その報告電とハルゼー大将の祝辞の応酬も、将兵と新聞記者を喜ばせた。
「本日一六二五、ガダルカナル島の日本軍の完全かつ完璧な敗北が確認されました……“東京急行”はもはやガダルカナルを終点にはできません」
米軍は、日本側のガダルカナル補給に来る駆逐艦隊《くちくかんたい》を“東京急行”と呼んでいた。パッチ少将は、そこに注目して報告したのだが、おり返し、ハルゼー大将は、返電した。
「本職がパッチを洋服屋としてガダルカナルに派遣したとき、かくも速やかに敵のパンツをぬがせ、それを縫いあげるとは予期していなかった……感謝と、そして、おめでとう」
パッチという単語には、つぎ布という意味がある。大将はそれをもじったわけだが、もうひとつ、パッチには間抜けという意味もある。
じつは、ハルゼー大将は、パッチ少将のアメリカン師団の前進ぶりに不満だった。
そこで、「パッチが……速《すみ》やかに敵のパンツをぬがせ……」は、皮肉もこめたワサビのきいたしゃれ《ヽヽヽ》となり、前線の米軍将兵に腹をかかえさせた。
勇将、猛将をうたわれる指揮官は、とかく不言実行型で、なにかいう場合でも詠嘆調の美辞麗句をならべた演説をする例が、多い。軍人意識が強ければ、民間人である新聞記者にたいしても、冷淡になりやすい。
ところが、ハルゼー大将は、部下にたいする指揮官の意思伝達の方法として、直接の命令や指示のほかに、マスコミを活用できることに注目し、それを実行した点で、新しい型の“民主的指揮法”を発見した、といえる。
もっとも、たんに巧みな警句や表現を考えるだけでは、せいぜい報道部長が適任でしかない。
ハルゼー大将は、戦術家としても、一流の能力を発揮した。
ハルゼー大将は、南太平洋方面海軍司令官として、南西太平洋方面連合軍最高司令官マッカーサー元帥の指揮下にあったので、ソロモン群島からニューギニアを経てフィリピンに至るまで、マッカーサー元帥を補佐し、つねに適切な判断と作戦で、元帥の反攻を容易にした。
とくに大将が示したのは、す《ヽ》早い決断と新鮮な戦闘技術であったが、たとえば昭和十八年十一月、ブーゲンビル島のエンプレス・オーガスタ湾の上陸作戦のさい、日本海軍が栗田健男中将の第二艦隊を派遣して、その阻止をはかったときのことである。
ハルゼー大将は、思案した。栗田艦隊は巡洋艦、駆逐艦それぞれ十二隻を基幹とする強力な部隊である。一方、当時、米艦隊の主力はギルバート諸島タラワ攻略戦に出はらって、ハルゼー大将の手もとにある攻撃兵力は、空母「サラトガ」「プリンストン」と数隻の改造小型空母にすぎなかった。
大将は、栗田艦隊がラバウルで給油することを知った。その給油中を空襲すれば撃破できる。しかし、給油の時間はせいぜい二十四時間にとどまる。限られたタイミングをはずさず、しかも決定的打撃を与えようと思えば、空母「サラトガ」と「プリンストン」を沈没覚悟で接近させる必要がある。
「あのとき、私は生涯で最も苦しい決断をした」と、ハルゼー大将はのちに回想しているが、当時、「サラトガ」には大将の息子、海軍中尉ウィリアム・ハルゼー三世が、補給役将校として乗っていた。
大将は、「サラトガ」「プリンストン」には「二度と会えない」ことを覚悟して、出撃を命じ、同時に基地航空部隊に空母の上空護衛を指令した。
この基地航空部隊による空母護衛というアイデアは、当時の兵術思想の常識を破るものだった。母艦は母艦機が守るもの、基地航空部隊の仕事ではないと考えられていたからである。ミッドウェー海戦でも、ミッドウェー島基地の飛行機は、日本機動部隊を攻撃したが、スプルーアンス空母部隊を護衛することはなかった。
だが、ハルゼー大将は、基地航空部隊の不平を、「帰る巣を持つ鳥は幸福だ」の一言で押え、息子にも「ゴー(行け)、グッドバイ」と伝えてラバウルにむかわせた。
空襲は成功し、栗田艦隊は沈没艦はなかったが損害が大きく、ブーゲンビル島攻撃はあきらめて、修理のため日本に帰った。
マッカーサー軍のレイテ島攻略を促進させたのも、ハルゼー大将であった。
昭和十九年九月初旬、ハルゼー大将はマーク・ミッチャー中将の第三十八機動部隊に命じて、フィリピンの日本航空基地を空襲させた。マッカーサー軍のモロタイ島上陸を支援するためである。
九月十三日、空母「ホーネット」のパイロットの一人、トーマス・チラー海軍少尉が、レイテ島に撃墜《げきつい》されながらフィリピン原住民に助けられて、帰還した。少尉は原住民が語る日本軍防備状況を報告した。ひどく手薄だという。
報告は、特別の注意もはらわれなかったが、通常の手続きを経てハルゼー大将の手もとに届けられた。一読して、大将はとびあがった。
すでにミッチャー機動部隊からは、日本機の応戦ぶりが消極的であるとの報告がとどいていた。その報告とチラー少尉の土産話とは、フィリピン日本軍の準備不足をもの語っているのではないのか。
マッカーサー軍のレイテ島上陸は、ミンダナオ島攻略を経て十二月二十日に予定されていたが、ハルゼー大将は直ちにマッカーサー元帥、ニミッツ太平洋方面総司令官の二人にあてて、ミンダナオ攻略を中止して一気にレイテ島を攻撃すべきだ、と進言した。
「もはや沈めるべき日本艦船はなく、いまや敵の戦意は幻想的なほど低い。いまこそ敵にパンチをくらわすだけでなく、直接ドテっ腹に一発お見舞いするときであります」
このハルゼー大将の進言は、ワシントンの米統合参謀本部にも受けいれられ、レイテ上陸作戦は、二カ月くりあげられて、十月二十日と定められた。
ハルゼー大将は、マッカーサー軍のレイテ攻略を容易にするために、十月九日から十二日にかけて、沖縄、奄美《あまみ》大島、南大東島、宮古島、台湾南部に空襲と艦砲射撃を加えさせた。日本航空兵力のさそい出しのためである。
大将の幕僚たちは、戦争初期に「なにか、日本をやっつける卑劣な計画はないか」と相談しあったことにちなみ、“卑劣な計画局”と自称していた。日本航空兵力さそい出しは、まさにその“卑劣な計画”であったが、成果はめざましかった。日本海軍は台湾沖でハルゼー部隊にくいついたものの、台風にも出撃できる優秀部隊「T(タイフーンのT)部隊」をはじめ、台湾、九州、フィリピンの航空部隊の大半を失ってしまった。
この「台湾沖航空戦」では、日本側は「空母十一隻撃沈、八隻撃破」と発表し、東京・大阪で、祝賀国民大会がひらかれた。しかし、実際には、重巡二隻が大破されただけで、ハルゼー大将は、「東京放送が全滅と報じた第三艦隊(ハルゼー部隊)は、全艦海中より引きあげられ、敵に向かって退却しつつあり」
と、ハワイのニミッツ総司令官にラジオ放送して、得意の鼻をうごめかせた。
大将の名句は一段と磨きがかかった感じで、米国民を喜ばせたが、ところで、ハルゼー大将にも泣き所があった。日本艦隊と対決する機会がなかったことである。
東京空襲から台湾沖航空戦まで、ハルゼー大将が経験したのは日本軍基地の空襲か、でなければ来襲する日本機との戦いであり、日本艦隊と四つに組んでの戦闘は、一度もない。これは日本艦隊との決戦を夢見てきた米海軍軍人として、さびしい限りである。
「ミック、わしはついに日本製砲弾のうなり声を聞けないかもしれぬな」
ハルゼー大将は、台湾沖航空戦が終わった十月十六日、参謀長ロバート・カーニー少将に、そう述懐したものだが、その十日後、大将の願いは意外な形でかなえられることになった。
十月二十日、マッカーサー軍がレイテ島に上陸すると、日本海軍は残る連合艦隊の総力をあげて米機動部隊、すなわちハルゼー部隊とマッカーサー軍の撃滅をはかった。
戦艦七隻、重巡十一隻を基幹とする計三十九隻の栗田中将の第二艦隊、空母四隻、航空戦艦二隻など計十七隻の小沢治三郎中将の第三艦隊、そして、志摩清英中将指揮の重巡二隻を含む七隻の第五艦隊と、潜水艦十三隻である。
作戦は「捷号《しようごう》作戦」ととなえられた。小沢艦隊がフィリピン・ルソン島東北海面におとり《ヽヽヽ》部隊となり、その間にルソン島南端のサンベルナルジノ海峡を栗田艦隊主力が、さらに南のセブ島沖から栗田艦隊の一部(西村祥治中将指揮の第二戦隊七隻)と第五艦隊が相呼応してレイテ島をめざすのである。
ハルゼー大将は、日本艦隊の動きを察知すると、主力は北方の小沢部隊と判定して、ミッチャー中将の第三十八機動部隊を小沢部隊にむかわせた。大将自身も戦艦「ニュージャージー」に乗って同行した。
栗田艦隊は、途中、潜水艦の攻撃、艦載機の空襲をうけながら、十月二十五日朝、サンベルナルジノ海峡をぬけ、サマール島東岸沖を南下して、レイテ湾をめざした。
この時期における米軍指揮官の心境は異常だった。レイテ湾のマッカーサー軍の護衛は、トーマス・キンケイド中将の第七艦隊六十七隻(うち十六隻が護送空母)があたっていた。そして、キンケイド艦隊はすでに前夜、接近する西村部隊を壊滅《かいめつ》させ、志摩艦隊も敗走させていたが、栗田艦隊については、ハルゼー部隊が処理するものと考えていた。
一方、ハルゼー大将も、栗田艦隊はキンケイド中将の担任だと信じ、格別の指示はしなかった。ただ、指揮下の第三十八機動部隊から戦艦六、重巡六など三十五隻で第三十四機動部隊を編成して、必要に応じて使用する手はずはととのえていた。
いずれにせよ、おかげで栗田艦隊は、まるでわざわざ進撃路を開放してもらった形でレイテ湾にせまり、途中で遭遇した護送空母隊をけちらし、レイテ湾のキンケイド艦隊とマッカーサー軍に、大恐慌をもたらした。
明らかに日本側のおとり《ヽヽヽ》作戦の成功であり、ハルゼー大将の誤判断であったが、米軍側に幸いして、栗田艦隊はレイテ湾口の直前で反転して、帰って行った。
ハルゼー大将は、たび重なるキンケイド中将からの救援電報にも拘わらず、小沢艦隊を攻めつづけたが、ニミッツ総司令官からも注意電をうけると、二十六日未明、戦艦二隻、軽巡三隻、駆逐艦八隻をひきいて、栗田艦隊迎撃《げいげき》に急行した。
しかし、栗田艦隊の姿はすでになく、沈没艦の乗組員救助にあたっておくれた駆逐艦「野分」を発見した。戦艦二隻をふくむ十三隻と駆逐艦一隻との戦いである。照明弾に照らされて、砲弾を集中され、「野分」は砲戦開始三十分後に、撃沈された。
ハルゼー大将は生まれてはじめての砲戦に興奮し、「やれ、やっつけろ」と艦橋で叫び、目標は駆逐艦だったと報告されても、「いやアタゴ(愛宕)級重巡、せめて軽巡だ」とがんばった。
この「レイテ沖海戦」でのハルゼー大将の指揮ぶりは、批判された。あまりにも素人じみていて、主導権は完全に日本側に握られすぎていた、というのである。
ニミッツ元帥によれば、ハルゼー大将が解任されなかったのは、米艦隊側に大きな損害がなかったことと、大将の人気のおかげである。元帥は、いった。
「“ブル”ハルゼーの存在は、すでに、米海軍のシンボルとみなされていた。彼が小沢艦隊に興味を持ちすぎたのは、彼の個人的功名心のせいだとしても、それは彼がそれまでに成就した名声に比較すれば、ささいなキズだ。尊敬される指揮官、畏怖される指揮官も必要だが、人気があり愛される指揮官はまた、かけがえがない存在だ」
ハルゼー大将はその後、沖縄作戦を経て、やがて富士山を背に第三艦隊を配置して、日本の降伏を迎えたが、さすがに内心では、日本海軍には負い目を感じていたとみえる。八月十五日、戦闘停止命令をうけた後で、もしなおも攻撃してくる日本機、艦船をどうするかと部下に質問されると、答えた。
「むろん、撃墜せよ。ただし、手荒にはやらず、友好的方法でやれ」
レイモンド・A・スプルーアンス
――なぜ、ミッドウェー海戦で日本海軍は負けたのか?
太平洋戦争をふりかえるとき、まず発生する疑問のひとつである。そして、この疑問は、日本側のみならず、米国側からも寄せられて、いまなお消えることがない。
ミッドウェー海戦は、昭和十七年六月四日から六日にかけて、ハワイ列島北端のミッドウェー島付近でおこなわれた日米空母戦だが、その結果、日本側は第一線空母四隻を失い、決定的な打撃をうけた。
海戦のあと、米太平洋艦隊司令官ニミッツ大将は、声明した。「真珠湾の復讐《ふくしゆう》は、一部成就された。しかし、完全な復讐は、日本海軍が無能力になるまでは達成されないだろう。その方向にむかって、われわれは重要な前進をした。われわれはいまや、目標の“ミッドウェー(なかば)”に達したといっても、それは認められるであろう」
ニミッツ大将の言葉に、誇張はなかった。いらい、日本海軍はミッドウェーの痛手から立ちなおれず、太平洋戦局の主導権は米海軍の手ににぎられることになったからである。
だが、ミッドウェー海戦の前には、米国側の勝利を予測した者は、ニミッツ大将をふくめて、ただの一人もいなかった。
いや、むしろ、勝利の女神がウィンクをおくるのは日本側だ、と日米双方が考えていた。
前にふれたように、ミッドウェー作戦は山本連合艦隊司令長官の主張で実施され、ほとんど連合艦隊全勢力をあげての出動となったが、主役を演ずる南雲《なぐも》忠一中将の第一機動部隊だけで、空母四隻、戦艦二隻、重巡二隻、軽巡一隻、駆逐艦十二隻、計二十一隻である。
一方、ミッドウェーに出撃した米国艦隊は、空母三隻、巡洋艦八隻、駆逐艦十五隻(ほかに潜水艦十二隻)、計二十六隻で、数のうえでは日本艦隊にひけはとらぬ形になっているが、空母戦が予想されている場合に、空母以外の艦艇は直接には、重要な戦闘単位とはみなされない。
比較は空母同士となるが、そうなると、優劣の差はあまりに大きく、あまりにはっきりしている、とみられた。
南雲部隊の四隻は、真珠湾空襲からインド洋の英艦隊撃滅まで、まさに当時の世界一流の腕前を持つ精鋭部隊として、知られている。ところが、米空母部隊は、三隻のうち、「ヨークタウン」は、ミッドウェー海戦にさきだつ五月のサンゴ海海戦で大破され、数カ月かかる修理を二日間の応急手当ですませて、戦列にくわわっている。
ほかの二隻、「エンタープライズ」「ホーネット」も、それまでマーシャル群島の日本軍基地を攻撃したり、東京空襲の陸軍機をはこんだことはあっても、日本艦隊との実戦経験は、ない。
パイロットの技術にしても、「急降下爆撃は八十点、ほかの戦闘、雷撃はいずれも四十点」というのが、米空母部隊参謀長M・ブローニング大佐の評価であった。
日本側も、作戦前に一部をいれかえはしたが、パイロットの練度は高く、南雲部隊の参謀長草鹿龍之介少将が、「一度機動部隊が出陣すれば、鎧袖一触《がいしゆういつしよく》 何程のことかある」と胸をはれば、作戦参謀源田実中佐も「一航艦(第一航空艦隊、すなわち南雲部隊)は世界一だ」と、まんまんたる自信をひれきしていた。
技術と経験とにかんする限り、日本側の言明は正しく、さらに日本側には機動部隊のほかに「大和」をはじめとする大戦艦部隊もひかえていることを思いあわせれば、まず、ミッドウェーでの日米艦隊決戦で日本の勝利はうごかぬ、とみるのが、常識的な判定であった。
にもかかわらず、米国側は大勝利をおさめた――なぜか?
日本側の敗因について、いわれている主な点をあげると――
暗号解読=敵は日本側の暗号を解読し、まちぶせていた。
索敵不備=敵の様子をさぐるために、事前に飛行艇をとばす計画が中止となり、潜水艦の配置もおくれた。また、攻撃開始前の偵察機も、同じ方向に二機をとばす“二段索敵”をせず、一機だけの“一段索敵”にとどめ、かつその発進がおくれた。
連絡不備=うしろの「大和」で敵空母の所在をしめすらしい通信をキャッチしたが、南雲部隊には知らせなかった。
時間不足=南雲部隊は、敵空母を攻撃するため、飛行機の爆弾を魚雷にとりかえ終わったときに、空襲された。あと五分間あれば、たとえ爆撃をうけても被害はすくなく、敵も撃滅できていたはずである。
そして、これらの敗因の基礎にあるのが連戦連勝のおごり《ヽヽヽ》による油断であった、といわれる。
たしかに、これらの指摘はまちがっていない。油断の一事に注目すれば、前回にのべたごとく、山本連合艦隊司令長官が陣頭にたち、かえって安易な必勝感をかきたてたことも作用していたわけだが、それにしても、有利不利の条件を背に、戦闘の行方を左右するのは、現場指揮官である。
そして、互いに遠くはなれ、断片的な情報をもとに戦う空母戦では、とりわけ指揮官の判断能力が発揮されるが、ミッドウェー海戦は、まさしくそういう指揮官と指揮官との戦いの典型例であった。
日本機動部隊の指揮官南雲忠一中将は、海軍の英才のひとりであった。明治二十年(一八八七年)三月生まれ。当時、五十五歳。
海軍兵学校卒業後、砲術、水雷学校を経て海軍大学校を優等で卒業した。そのごは、軍令部、海軍大学校勤務をまじえて、第十一駆逐隊司令、第一水雷戦隊司令官、第八、第三戦隊司令官と、いわゆる“水雷畑”を歩み、海軍大学校長から第一航空艦隊司令長官になった。
着実なエリート・コースの歩みであり、そのあとは第一または第二艦隊司令長官を経て連合艦隊司令長官の座を占めるか、鎮守府《ちんじゆふ》司令長官をつとめて退役するか、いずれにせよ、栄光につつまれた将来が期待された。
ただ、中将は一見して猛気をおぼえる風ぼうとは逆に、“英才”らしい小心者である。
また“水雷屋”出身なので空母部隊の運用に不慣れなことも、その小心性をしげきし、真珠湾攻撃のさいは、ひどく神経質になり、被害をおそれて再攻撃を中止したいきさつもある。
しかし、真珠湾攻撃にたいする世の賞賛と、そのごの戦歴は、中将の経歴に一層の光彩《こうさい》をそえるとともに、中将に自信をあたえていた。
だから昭和十七年五月二十七日、海軍記念日を期してミッドウェーにむかって瀬戸内海を出港したとき、南雲中将の胸中には、作戦の前途にかんする不安は、みじん《ヽヽヽ》もなかった。
不安を感ずべき立場にあったのは、米国側の指揮官レイモンド・A・スプルーアンス少将であろう。
スプルーアンス少将は、一八八六年七月生まれ。南雲中将と同じ五十五歳だが、まもなく五十六歳になる。
また、南雲中将と同様に、航空畑の出身ではなかった。南雲中将の経歴とくらべて目立つのは、スプルーアンス少将は技術、とくに当時の新分野である通信技術を専攻したことだが、そのほかは駆逐艦、巡洋艦、戦艦の艦長を歴任し、また海軍大学校の教官をつとめた点など、南雲中将に似た体験をつんでいる。
一九四一年九月に、太平洋艦隊第五戦隊(巡洋艦部隊)司令官となり、ウィリアム・ハルゼー中将の第十六機動部隊に所属して、開戦をむかえた。
真珠湾空襲のときは、ハルゼー部隊はウェーキ島に海兵飛行隊を輸送して帰る途中であった。スプルーアンス少将は、そのごもハルゼー部隊とともに東京空襲に参加したが、サンゴ海海戦のあと、日本軍の東ニューギニア攻略阻止にむかっているさい、ハルゼー部隊はハワイに呼びもどされた。
ニミッツ大将が日本のミッドウェー作戦を察知して、全力で迎撃する決意をかためたためだが、五月二十六日、真珠湾に入港して、スプルーアンス少将がハルゼー中将の旗艦「エンタープライズ」に行くと、中将の姿はなく、太平洋艦隊司令部に出頭せよ、と命令をうけた。
そして、ニミッツ大将に会うと、日本のミッドウェー作戦を告げられ、「ハルゼー中将は皮膚炎のため入院する、第十六機動部隊の指揮をとれ、二十八日に出港せよ」と、命令された。
同じく空母部隊の指揮に未熟とはいえ、南雲中将の場合は、すでに開戦前から一航艦の司令長官であり、真珠湾攻撃いらいの経験もある。ところが、スプルーアンス少将のほうは、指揮官に任命されたとたんに戦場に走らされるのである。
しかも、ニミッツ大将が告げる日本のミッドウェー攻略予定日は六月七日。わずか十日後に戦わねばならぬ。おまけに、その戦いは完全に味方が劣勢《れつせい》でありながら、負ければ敵にハワイ攻略の足がかり、ひいては太平洋の制海権を与える重大な戦闘だ。「絶対に勝たねばならぬ」と、ニミッツ大将は、いう。
当時、ハルゼー中将の後任は、航空出身者があてられると下馬評され、スプルーアンス少将もそう思っていただけに、任命は意外だった。
しかし、ニミッツ大将は、少将を最適任者と認め、ハルゼー中将も同感であった。
「戦場で必要な指揮官とは、どんな場合にも冷静で正確な判断をくだし、その判断を勇敢に実現できる人物だ。戦艦、空母の別をとわず、ことに味方が不利とみられるときの指揮官には、この冷たい頭脳と勇気の持ち主が必要だ」
ニミッツ大将は、スプルーアンス少将起用の理由を、のちにそう語っているが、スプルーアンス少将はおよそ社交ぎらいで、仕事一本ヤリの将校であった。
少将にかんする上官の考課は、つねに「冷静、沈着、緻密《ちみつ》……指揮官として抜群」という賛辞にいろどられ、また、「正しいことを正しいときに正しくおこなう」というのが、少将のモットーであった。
となれば、冷たい秀才タイプを思いうかべるが、少将は兵学校時代から交友関係で敵をつくらず、部下の評判は、これまた「とっつきにくいが、まちがいないボスだ」と一致していた。
つまりは、きわめて賢明な処世《しよせい》であり、ニミッツ大将も、米海軍最大の危機をのりこえるのは、このスプルーアンス少将の「賢明さ」にあると見定めたわけだが、大将の判定は的確であった。
スプルーアンス少将は、真珠湾を出港すると、ハワイ列島の東側を北上して、六月一日、ミッドウェー島北東約二百マイルの海上に到着した。
スプルーアンス少将は、ニミッツ大将から、優勢な敵に味方をさらすことなく攻撃せよ、北西よりせまる敵の側背をつくため、ミッドウェー北東で待ち伏せよ、という指示をうけていた。
奇襲で行け――という意味だが、スプルーアンス少将は、この指示が適切であると同時に、その実行はきわめて困難であることを感じないわけにはいかなかった。
暗号解読で敵の意図を知り、待ち伏せするのが有利なことはいうまでもない。だが、そこから先が問題である。
戦闘は相手を早く発見し、早く攻撃するに限るが、当時、米空母にそなえつけているレーダーの有効範囲は、せいぜい百マイル。艦載機《かんさいき》またはミッドウェー島からの陸上機による偵察のほうが、有効である。しかし、敵も索敵機をとばしてくる。敵のほうが先にこちらを発見する場合も、ある。
そうなれば待ち伏せの優位は消えてしまうし、また、こちらが先に相手を発見しても、能力と数にまさる相手が準備をととのえて攻撃してくれば、同じくこちらの敗北は必至である。
奇襲、それも相手が用意していない状態における奇襲だけが、勝利を保証する唯一の方策であろう。
「念頭にあったのは、ひたすら、いかにして敵の最も不利な情況にわれわれの全力をぶつけるか、ということであった」と、スプルーアンス少将は回想しているが、少将は、次のような戦術を採用した。
敵にわが存在を知らせぬために、厳重な無線封止をおこない、味方偵察機が方角を見失っても、電波誘導はしない。
敵を発見したら、まずミッドウェー島の陸上機で攻撃して敵の注意をそらし、その間にできるだけ近づき、敵のミッドウェー空襲隊が母艦に帰ったところを、攻撃する。
これは、冷酷かつ危険度の高い作戦といえる。日本海軍パイロットの技術を考えれば少なくともミッドウェー島陸上機の多くは、犠牲になるはずであり、また、敵機が母艦に帰着して混雑している時間は、それほど長くはない。そのタイミングをねらうのは、まず至難に近いといえるからである。
しかし、確実に勝てる手段が、この作戦以外にないことも、たしかである。
スプルーアンス少将は、六月二日に、M・フレッチャー少将指揮の空母「ヨークタウン」ら第十七機動部隊を迎えると、ミッドウェー北東海面を往きつ戻りつしながら、南雲部隊の訪れを待った。
一方、南雲中将も、ミッドウェー作戦は奇襲でいける、と確信していた。
南雲部隊は六月四日未明、ミッドウェー島北西二百四十マイルに到着した。空襲隊発進地点である。すでに飛行艇らしい機影が上空をちらつき、南方の輸送船団の一部は、B17爆撃機におそわれていたが、南雲中将は次のような情勢判断をくだした。
「敵ハ戦意ニ乏《とぼ》シキモ我ガ攻略作戦進捗《しんちよく》セバ出動反撃ノ算アリ……敵空母ヲ基幹トスル有力部隊付近海面に大挙出動中ト推定セズ……」
暗号を解読されていることも知らず、とんでくる飛行機が陸上機と飛行艇で、母艦機の姿はみえないのだから、この判断も無理はなかった。
午前四時三十分――友永丈市大尉を指揮官とするミッドウェー島空襲隊百八機が、四隻の空母「赤城」「加賀」「飛龍」「蒼龍」から発艦を開始した。同時に、七機の索敵機もとびたちはじめたが、重巡「利根」の水上偵察機二機は、おくれた。
さらに同時刻、米空母「ヨークタウン」からドーントレス急降下爆撃機十機、ミッドウェー島から飛行艇十一機が、南雲部隊を求めて哨戒に出発した。
偶然にも、日米艦隊は、同時に索敵開始したわけだが、発見は米国側が早かった。
午前五時五十三分、まず飛行艇の一機が友永空襲隊を発見し、つづいて午前六時三分、「敵空母二隻、敵艦数隻……」発見の報告がはいった。
すかさず、戦闘用意のブザーが鳴り、米空母部隊は、報告された南雲部隊の位置にむかい、二十五ノットで進んだ。報告が正しければ、南雲部隊は、南西二百マイルにいる。
スプルーアンス少将は、南雲部隊の百マイルまで近づいて攻撃しようと考えた。雷撃機の行動半径は百七十五マイルにとどまるからである。だが、すぐにその考えを訂正した。
「ブローニング参謀長の意見具申《ぐしん》もあったが、あやうく目的を忘れるところだった」
目的――すなわち、日本機動部隊にたいする奇襲であり、味方雷撃機のためにその機会をすてることはできない。
午前六時四十五分、スプルーアンス少将は、上空護衛機をのこして「全機発進」を下令した。
南雲部隊まで二百マイル。しかし、空母は攻撃隊を発進させたあと、さらに前進して帰投を待つから、もっと短距離ですむはずである。おりから、日本側のミッドウェー空襲隊は帰途についた。ちょうどその後を追って、南雲部隊の上空に達することになるであろう。
スプールアンス少将は、戦闘機、雷撃機、急降下爆撃機が一団に勢ぞろいする時間をおしみ、それぞれに発艦次第敵にむかえ、と命じた。
いまや、スプルーアンス少将は、ただただ南雲部隊にたいして奇襲効果を与えることしか望まず、それ以外の配慮はいっさい排除した。だから、午前九時二十分、空母「ホーネット」の雷撃機が、敵を発見したが燃料不足なのでいったん帰りたい、といってきたときも、容赦なく攻撃を厳命した。
だが、その段階で少将の決断が実《み》をむすぶ可能性は、すくなかった。その十五機、さらに空母「ヨークタウン」の雷撃機十二機は、全機撃墜《げきつい》され、空母「エンタープライズ」の雷撃隊十四機も十二機を失い、おまけに「ホーネット」の爆撃隊三十二機は敵を発見できずに帰ってきたのである。
ところが、南雲中将が、スプルーアンス少将に勝利をプレゼントした……。
南雲中将は、午前八時二十分、「利根」索敵機から「敵空母発見」の報告を得た。「それ、出た」と幕僚はざわめき、二航戦司令官山口多聞《たもん》少将は「直チニ攻撃隊発進ノ要アリト認ム」と発光信号をおくってきた。上空には友永空襲隊が着艦を待っている。山口少将は友永隊を海中に不時着させて、すぐ敵を攻撃せよ、という。
だが、南雲中将は、熟慮ののち、部下(友永隊)はすてずに収容し、飛行機の爆弾を魚雷にかえてから攻撃することにした。
中将が決定を下したのは午前九時五分。「敵発見」の第一報から四十五分後であり、この四十五分間の“熟慮”が致命傷となった。
米雷撃機群を撃墜しながら爆弾を魚雷にかえる作業をいそぎ、ようやく終わろうとした午前十時二十二分――、やっと南雲部隊をさがしあてて、上空にしのびよった米急降下爆撃機五十機が、まず「加賀」、ついで「赤城」「蒼龍」を急襲し、三艦は一気に炎上した。山口少将の「飛龍」は反撃して「ヨークタウン」を大破したが、午後五時五分、再び来襲した米機の投弾に火を噴いた。
戦闘の決は転瞬の間にあり、というが、米急降下爆撃隊が「赤城」の頭上に落下してきたとき、一番機は離艦寸前であった。
あと五分間――の恨みがうまれるゆえんである。が、その「五分間」の差は、そのまま、目的と使命を把握して動かぬスプルーアンス少将と、決断にちゅうちょと損害配慮を加えすぎた南雲中将という、二人の指揮官の差にひとしく、当然に生みだされたものというべきであろう。
ジョージ・パットン
――第二次大戦で活躍した最も有名な将軍は誰か?
もし、こんな質問をしたら、米国市民の圧倒的多数がとっさに答えるのは、アイゼンハワーでも、マッカーサーでもなく、パットン将軍の名前にちがいない。
北アフリカ、イタリア、そしてフランスからベルリンまで、ナチス・ドイツ打倒をめざす連合軍の先頭をきり、つねに勝利の案内役をつとめたのが、パットン将軍の機甲兵団であり、ヒトラー・ドイツ総統は「最も危険な敵」として、パットン将軍の暗殺を指令しつづけた。
敵の恐怖は、味方の賞賛をさそう。パットン兵団の将兵は、将軍の部下であることを誇りとし、所属部隊をたずねられると、ふつうは連隊名または師団名を答えるが、パットン兵団の兵に限って、例外なく「パットン軍でさァ」と胸をはったものである。
軍人の中の軍人、米国陸軍が生んだ偉大な指揮官、運命の将軍……など、パットン将軍に寄せられる賛辞は多く、米陸軍士官学校には、将軍の記念室も設けられている。
まずは、米陸軍史上、不滅の存在としての待遇が与えられているが、同時に、パットン将軍には、ヒトラーの論評とは異質ではあるが「危険な指揮官」という批判もつきまとっている。
ジョージ・パットン将軍は、米陸軍部内では、すでに戦前から有名だった。
とくにスポーツマンとして知られ、一九一二年、大尉のとき、ストックホルムのオリンピック大会には、五種競技選手として出場した。馬術、射撃、フェンシング、水泳、クロス・カントリーの五種目のうち、パットン大尉はフェンシングに一位、馬術、水泳、クロス・カントリーはいずれも三位、ピストル射撃だけが第二十七位の成績をおさめ、総合で第四位となった。
ピストル射撃は、じつは、パットン大尉の得意である。十発うったうち、九発の弾痕が標的の中心にあつまっていた。パットン大尉は、やや大きい弾痕を指摘し、同じ所に二発が命中した旨を主張したが、審判員は一発ミスと判定した。大尉は、憤然として、いった。
「オーケー。これは遊びだ。しかし、こんど本官がピストルを抜くときは、相手はマトではない。そして、必ず二発眉間《みけん》に命中させる。私は神から能力を与えられている」
明らかに脅しであり、おかげで大尉の失点はより増加された、と伝えられるが、パットン将軍の特性のひとつは、このときの発言に象徴されるように、自分自身にたいする異常な自信である。
おそらく、その自信は、将軍が霊魂の存在を信ずる神秘的なものを好む性格に由来するらしいが、将軍の祖母は、祖父の死をいち早く感得してかけつけ、最期を見守る能力を示した。将軍も、この祖母の感化をうけ、また、かつて南北戦争で南軍大佐として戦死した祖父をうやまい、子供のころから、自分は「マルス(軍神)の加護をうけている」と、確信していた。
五歳のころ、戦争ごっこ用の木のサーベルに「陸軍中将ジョージ・パットン」と刻みつけ、“軍神”の像を机に飾り、「軍神は正義の側にあり」という標語を案出した。そして、戦争ごっこでは、いつも自分が勝つ指揮官になるので、ほかの子供たちが文句をいうと、ごう《ヽヽ》然として、こう宣言したと伝えられている。
「軍神は正義の味方だ。正義はつまりパットンだ。仕方ないじゃないか」
第一次大戦では、騎兵連隊を指揮したが、敵の攻撃に部下がひるむと、ピストルをふりかざし、「戦え。一歩でも退く者はうち殺す」と叫んで、突撃した。
その勇敢な指揮ぶりで、将軍は最初の功労章をもらうが、そのごは、第二次大戦がはじまるまで、将軍の激しい戦意はむしろ、逆効果として作用した。訓練と規律にやかましく、およそ妥協的な態度は示さず、なにかといえば腰のピストルに手をそえ「卑怯者とウソつきは米国陸軍に不要だ」と、どなる。
いわば、日本でいう“古武士”的風格だが、それだけに猪突《ちよとつ》型の時代おくれの将軍とみなされがちであった。昇進もおそく、一九三八年にやっと大佐になった。
ただ、人気はあった。将軍は、スポーツマンでもあるが、極度に肉体の衰えを警戒して、規則正しい生活と身体訓練にはげんだ。そのため、六フィートの長身には一片のゼイ肉もなく、ウェストは士官学校卒業当時からついに変わらなかった。
部下にとって、腹部をはりだした堂々たる指揮官も頼もしいが、さっそうと若々しい指揮官はより好ましい。おまけに、パットン将軍は両手に二つずつ金の指環をきらめかせ、長靴はいつもピカピカに磨きたてられ、腰には白い柄の三八口径回転式拳銃をはなさない。
この拳銃は、パットン将軍の商標視され、はなやかな将軍の印象にちなみ、“真珠をちりばめ”ているといわれた。実際には「真珠のピストル? そんなものはニューオルリンズのポン引きが使うものだ」と将軍自身がいうように、象牙細工にすぎなかったが、白い拳銃を腰にすらりと立つ将軍の姿は、あたかも「西部のダテ男」を想わせて、部下将兵を喜ばせた。
将軍は、一九四〇年、准将にすすみ、第二機甲旅団長となり、翌年、少将に昇進して同師団長となり、さらに米国が参戦すると、第一機甲軍団長、次いで中将になって第七軍を率いて、北アフリカ、イタリア戦線を転戦した。
「心配するな、フレディ、私はドイツ打倒のために一つの旗の下に集められる大軍を指揮する運命にある。神はその使命をはたすまで、決して私を殺すことはない」
とは、将軍が北アフリカ上陸作戦に出発するさい、甥の一人に語った言葉だが、戦争中の将軍の言動は、まさにこの“運命の導き”にたいする確信にいろどられていた。つまり、アイゼンハワー大将の表現によっていいかえれば「自分が正しく、かつ自分だけが正しいとの信仰」を主張して、はばからなかった。
たとえば、パットン将軍の名高いエピソードのひとつに「傷病兵殴打《おうだ》事件」がある。
一九四四年八月十日、パットン将軍は新編成の第三軍司令官として、ノルマンディ上陸後間もない指揮下の軍団、師団を歴訪した。上司である第十二方面軍司令官O・ブラドレー大将を訪ねたさい、付近の第九十三野戦病院を見舞った。
四つの病棟を視察したが、最後の病棟はとくに重傷者が多かった。両手がない者、両脚をふきとばされた者、両眼をつぶされた者、顔じゅうを血がにじむ包帯でおおわれた者……パットン将軍は、眼に涙をうかべながら、“一人一人になぐさめの言葉”をかけて歩いたが、片隅にうずくまる一人の兵に首をかしげた。バンソウ膏もはっておらず、無傷としか思えない。
どうしたのか、と将軍がたずねると、兵はカン高い泣き声まじりに「恐いんです……恐いんです」と、身をすくませた。戦場に不慣れな者にあり勝ちな戦闘ショックである。
だが、とたんにパットン将軍は、持っていた手袋で兵の顔をなぐり、泣きじゃくる兵に叫んだ。
「黙れ、この卑怯者め。それでも男か。すぐ前線に帰るんだ。それが嫌なら、壁の前に立って銃殺隊の弾丸をうけろ」
仰天して静まり返る傷病兵の前を、パットン将軍は鞭で長靴をたたきながら、通りすぎた。ブラドレー大将の司令部に行くと、病院での様子を語り「ヒステリーには、いっかつしてやるのが一番の薬だ。ブラッド」と、破顔した。
たしかに、ショックによる興奮には、ほおを二つ三つなぐるのは、効果的な治療法である。日本陸軍にも「一つなぐってハッとする。二つなぐって立ちあがり、三つなぐって歩きだす」という“格言”がある。米軍でも軍医はしばしば応用する。
だが、軍医や軍曹がなぐるのと、軍司令官がなぐるのとでは意味が異なる。しかも、パットン将軍は、ときに激情をひれきする性癖を知られているので、事件は表面化した。傷病兵の間から抗議が湧《わ》き、パットン将軍は公式にあやまることになった。アイゼンハワー大将は、批評した。
「ジョージ(パットン将軍)は立派な軍人だ。だが、兵士のすべてが立派になれるとは限らない。人間には勇者になる者と卑怯者になる者、つまり、人間は卑怯者にもなれるということを忘れてはならない。彼が、卑怯者も人間だという事実に眼をひらかぬ限り、指揮者としては満点は得られまい」
しかし、パットン将軍の極度の闘争本能が、指揮官として欠点に数えられるとしても、同時にその能力は、勝利のためにはかけがえのない有用物でもある。
「ジョージは、たしかに戦《いくさ》をかぎわける能力、“戦覚”ともいうべき特殊の感覚をそなえていた。あるとき、彼は突然、部隊に前進停止を命じた。付近に敵影はなく、指揮官たちは異議を口走ったが、ジョージは、証拠はない、しかし、危険だ、と強調して集結を指示した。すると、敵の集中射撃を浴びた。態勢をととのえていたので、やがて撃退できたが、そのままでは大損害をうけるところだった」
ブラドレー大将は、そう回想して、パットン将軍がまさに、“軍神の子”であることをたたえているが、パットン将軍が最も明確に、ブラドレー大将のいう“戦覚”能力を発揮したのは一九四四年十二月“バルジの戦い”として知られる「ルントシュテット大反攻」迎撃においてであった。
当時、連合軍はフランスを通り、ベルギー、ルクセンブルク国境に展開して、ドイツ領内進攻にそなえていた。
北に英軍、南にフランス軍、中央に米第十二、第六方面軍、総計六十三個師団が約四百マイルの前線に待機していた。敵情判断としては、ドイツ軍はすでに補給能力を失い、持久戦以外に積極的な攻勢はとり得ないとみられていた。
ところがドイツ西部軍総司令官フォン・ルントシュテット元帥は、フォン・マントイヘル大将の第五戦車軍、ゼップ・ディートリヒ大将の第六親衛戦車軍を中心に、第七、第十五軍を加え、総兵力三十六個師団を動員して、反撃をくわだてた。
その計画は極めて野心的で、ベルギー南部の広大なアルデンヌ森林地帯を突破する。そのあと、リエージュからブリュッセルを経てアントワープに突進して、連合軍の補給線を分断して一気に戦勢を転換させよう、というのである。ルントシュテット元帥は、この攻勢のために、新鋭の大型“タイガー”戦車六百台をそろえた。
作戦は奇襲を基本性格とする。企図をかくすために厳重な措置がとられた。参加部隊の無線は封止され、必要な連絡は厳選された伝令により、また、中央の計画を知る者はライン河以西への旅行は禁止された。各部隊は、一時間前に攻撃発起点に展開することにした。行動はすべて夜間に限り、非ドイツ人部隊は第一線から後退させ、各部隊は偽電を発信して位置をかくし、ルントシュテット司令部も別に仮装司令部を設けた。
この徹底した防諜手段のおかげで、連合軍側はほとんど気づかなかった。やや異常な現象とみられたのは、米軍制服を着た特殊工作部隊の潜入がふえたこと、捕虜の証言により、前面にドイツ軍大部隊が集結しているらしいことが、わかった程度である。アイゼンハワー司令部、英軍司令官モンゴメリー大将、そして、ブラドレー大将も、防禦態勢の整備と推定した。
だが、パットン将軍の反応はちがっていた。将軍は、感覚的に、なにかが起こることを察知したとみえ、しきりに戦車師団に燃料確保を命じた。いざというときに燃料不足では、機動性を基本にする機甲兵団の名がすたるから、というのが、将軍のいいぶんであったが、将軍は他の部隊にむかうガソリン・トラックまで、自ら交差点に立ち、腰のピストルをたたいて方向転換を命じたりした。
一種の“掠奪《りやくだつ》”だが、相手がパットン将軍なので文句の声は低く、苦情の調子も弱かった。
十二月十六日午前六時――砲兵の一斉射撃で「ルントシュテット攻撃」は開始された。“タイガー”戦車群が殺到したアルデンヌ森は、最も手うすな前線で、米第一軍第八軍団が約八十八マイルに三個師団をばらまいているだけであった。
たちまち第一線は突破され、バストーニュ市の包囲は時間の問題とみられた。ブラドレー大将は、第百一空挺師団を、バストーニュにむかわせるとともに、パットン軍に救援を命じた。いつ出発できるか、というブラドレー大将の質問に、パットン将軍は「四十八時間以内に」と答え「準備はできている」と、つけ加えた。
パットン将軍は、第三軍に北上を命じたあと、低く雲がたれさがり、寒風にのって雪が吹きつける空を見あげて、神に祈った。
「神よ。力を与え給え。その力をうけて、われわれに勝利から勝利に進み、人類と国家の間に真の正義を樹立させ給え、アーメン」
つづいて、立ちあがったパットン将軍は「勝利を得ぬ者は一兵も帰ることを許さぬ」と訓示し、進発を命じた。
すると「あたかも“軍神”の微笑のように」とブラドレー大将が回想する如く、雪雲はきれて太陽が顔をだし、風は静まった。
もっとも、数時間後には、再び天候は悪化したが、ともかく、パットン将軍の祈りに応じて陽光が照射した事実は、まさに、軍神の加護わが頭上にあり、と第三軍将兵を感奮させた。
道は凍り、あるいは泥沼のようになっている。パットン軍の歩兵主力八十八個大隊が、百五十五ミリ以上の大口径砲千五十六門とともに、百二十五マイルの悪路を移動するのである。物資総重量は六万二千トンに達し、十三万三千百七十八台の戦車、トラックが、百六十五万四千キロを走った計算になった。そのうえ、一万九千九百二十八マイルの電話線が敷かれた。
将兵は延々と二列縦隊のトラックで移動した。寒さはきびしく、外套をきていても、突きさすように冷気がせまった。吹雪につつまれて進むその隊列は、勝利をめざす戦士の群よりも、むしろ、後退する敗残の集団にさえ見えた。
しかし、パットン将軍は、みじんも勝利を疑わず、司令部で幕僚たちに死と運命について語っていた。
「諸君が指揮官になったとき、部下に死を与えることをちゅうちょしてはならない。死とは、ただ、人間がこの世に入ってきたドアから、また出ていくだけだ。誰も、自分がどのドアからはいってきたかは知らず、それに文句をいう者もいない。
われわれの運命は定まっている。しかし、その運命に従うには、それを知らねばならない。そして、知るためには知ろうとせねばならない。努力が必要だ。一度や二度、運命の肩をたたいても、あるいは、忙しい、あとにしてくれ、といわれるかもしれないが、根気よく袖《そで》をひけばわかるものだ」
幕僚の一人が、将軍は運命の答えをもらいましたか、とたずねた。
「もちろんだ。私は軍人だ。軍人の運命はなにか。それは、自分の最後の戦争の最後の戦闘で最後の弾丸をうけて死ぬことだ」
いい終わると、パットン将軍は、出発だと幕僚をうながして、ジープにとびのった。
バストーニュ市の米軍は、第百一空挺師団をふくめて完全にドイツ軍に包囲されていたが、十二月二十六日午後四時、パットン将軍は、第四機甲師団とともに突入して同市を解放した。
ベルギー内部に突進していたドイツ第六親衛戦車軍も、ほぼ同じころ、バストーニュ西方で米第二機甲師団に戦車八十一台を破壊され、前進をストップさせられた。
後方をバストーニュで遮断されては、もはやアントワープヘの旅は不可能である。ルントシュテット元帥は退却を命じ、ドイツ軍最後の攻撃も失敗に終わった。
パットン軍の功績であり、将軍の声名はさらに輝きをました。パットン将軍は、そのごベルリンまで、あるいはジープにのり、あるいは戦車の砲塔から身をのりだして、突進をつづけた。
五十九歳をこえながら、訪ねてきた二十九歳の甥よりも胴まわりの細い腰に、象牙作りの拳銃をきらめかせて進む姿は、文字どおりに米軍の粋であった。
だが、アイゼンハワー司令部とワシントンの米陸軍省の将軍にたいする考課はきびしかった。
バストーニュ解放のさい、パットン将軍はルントシュテット軍の側背を襲い、その進撃をくいとめたことは有効だが、第四機甲師団だけで戦死四百八十二人、負傷者二千四百四十九人を数えた。これは、パットン将軍の「勝利か死か」という苛酷な命令によるものではないか。
「指揮官が勝利を目標にするのは当然である。また、強い意志で部下を指導するのも、必要である。だが、ひたすら肉体を敵の銃弾の前になげすてることだけが、勇気ではない。近代戦の指揮官にとって、まず心がけるべきは味方の損害の防止であり、個人的信条を部下に押しつけないことである」
アイゼンハワー大将は、パットン将軍の強い個性に“偏執性《へんしゆうせい》”をかぎとり、不安をこめた批判をこころみた。いかに勝利を重ねても、それだけでは指揮官として十分とはいえない。勝利の内容も検討されねばならないからである。
おそらく、アイゼンハワー大将は、そういったパットン将軍の性格が、戦場はともかく、平時ではかえって有害になると判定したのだろうが、はたして、戦争が終わり、大将に昇進したパットン将軍は、持ち前の傍若無人《ぼうじやくぶじん》ぶりで物議をかもした。とくに、戦後の微妙な国際情勢下で、あるいは「未来は英米が世界を支配し、タタール人、モンゴル人と戦う日がくる」と、暗にソ連、中国を敵視する“予言”をしたり、禁止されたナチス捕虜の使役を命じたりした。
パットン将軍は一九四五年十二月九日、ドイツから米国に帰る前日、自動車事故で重傷を負った。普通人なら二、三日しか生きられない負傷だったが、将軍は十二日間生きのび、「軍人の死にざまではないな」とつぶやき十二月二十二日、死亡した。
チェスター・ニミッツ
「……出てこいニミッツ、マッカーサー、出てくりゃ地獄にさか落とし……」
と、戦時中に歌われたように、太平洋戦争当時、日本国民に最もよく知られていた敵将は、米陸軍のマッカーサー元帥と、米海軍元帥チェスター・ニミッツであった。
ところが、それぞれ米陸海軍を代表するこの二人の軍人は、まったく対照的な存在といえる。マッカーサー元帥が、陸軍中将を父に持つ名家の出身で万事に華やかな言動を誇示していたとすれば、ニミッツ元帥は、テキサス州フレデリックスバーグ町に住むドイツ系移民の子供であり、なにごとも控え目な処世《しよせい》ぶりに終始した。
マッカーサー元帥は、父子二代にわたってフィリピンに深い因縁を持ち、それが、退役したマッカーサー元帥を歴史に再登場させる役割をはたした。ニミッツ元帥には、そのような政治的背景はない。
ただ、日本とくに日本海軍については、ニミッツ元帥には特別の想い出があった。
一九〇五年(明治三十八年)夏、ニミッツ元帥は百十四人中七番の成績で米海軍兵学校を卒業すると、アジア艦隊所属の軍艦「オハイオ」に乗り組み、アジア方面練習航海に出発した。横須賀に到着すると、練習艦隊の士官、候補生の代表は、日露戦争祝賀園遊会に招待された。
園遊会には、多くの日本の将軍、提督たちが集まっていたが、ニミッツ少尉候補生ら米海軍士官が一様に探し求めたのは、日本海海戦の名将東郷平八郎提督の姿であった。
「日本海海戦こそ、洋の東西をとわず海戦の手本であり、教科書である。私の生涯は、この教科書をマスターし、この手本をしのぐ戦《いくさ》をおこないたいという念願に燃えつづけた、といっていい」
ニミッツ元帥は、一九六三年夏、私が元帥を訪ねたとき、心から東郷元帥を礼讃しながらそう語った。だから園遊会の日、東郷元帥がニミッツ元帥たち少尉候補生が坐るテントに近づく姿を見たとき、ニミッツ候補生は思わず立ち上がり、興奮に顔を赤らめながら、東郷元帥に敬礼して、叫んだ。
「トウゴウ提督閣下、われわれは米合衆国海軍少尉候補生であります。もし、閣下が数分の時間をさいてわれわれに教訓をお与えくださるならば、われわれの無上の光栄と喜びでございます……」
東郷元帥は立ちどまり、長身の若者を見上げた。むろん、東郷元帥には、この若者がのちに元帥の後輩たちと日本海軍を撃破する米海軍指揮官になるとは予見できず、ニミッツ候補生にしても、そのような役割が自分のものになるとは、これまた夢想もできなかったはずである。
だが、なにかを感じたらしく、急ぎ足で通りすぎようとした東郷元帥は、副官に耳うちするとニミッツ候補生にうなずき、直立して待つ候補生たちのテントにはいってきた。
「そのとき、トウゴウ提督がなにを話してくれたかはおぼえていない。しかし、六十年前の提督の姿はいまでもワシの眼の底に焼きついている」
ニミッツ元帥はさらに、一九三四年、アジア艦隊旗艦「オーガスタ」艦長のとき、再び日本を訪ね、しかも東郷元帥の国葬に参列する奇縁を持つが、元帥の海軍士官としての経歴の主要部分をしめたのは、潜水艦勤務であった。
一九〇九年五月、潜水艦「ブランジャー」艦長に就任していらい、その長い潜水艦生活がはじまるが、潜水艦勤務は、テキサス人らしい闘志と忍耐心に富むニミッツ元帥に似あっていた。
ニミッツ元帥は、一見して田園を想起させるボクトツな風ぼうであり、けっして大声でどなることはなかった。趣味は馬の蹄鉄《ていてつ》投げとピストル射撃で、ひたすら黙々と軍務にはげむタイプであった。といって、クソまじめ、またはとっつきにくい感じは与えず、部下たちは元帥のテキサスなまりを聞くと、ふしぎに「神経が落ち着いた」(レイモンド・スプルーアンス海軍大将)。
一九一二年三月、ニミッツ元帥は新造潜水艦「スキップジャック」艦長として洋上訓練をしていたが、ウォルシュという名前の二等機関兵が波にさらわれた。ウォルシュはカマたき専門で泳げなかった。たちまち溺れはじめたが、波浪が激しく、投げた救命ブイはとどかず、ボートをおろすことも不可能だった。ウォルシュ機関兵のためにできることは、ただ胸に十字をきって祈ることだけと思われたが、突然、ニミッツ艦長がとびこんだ。そして、あやうく自分も溺れそうになりながら、ウォルシュ機関兵を救った。
ニミッツ艦長は、人命救助銀星章を与えられたが、同時にその勇敢さと部下想いは全海軍将兵に感銘を与えた。とりわけ「スキップジャック」乗組員は感激し、転属願いを提出していた十一人はいっせいに申請を取り下げた。
第一次大戦中は、ニミッツ元帥は大西洋艦隊潜水艦部隊参謀長をつとめ、そのご海軍省潜水艦設計部先任部員、第十四潜水戦隊司令、海軍大学校卒業、戦艦「オーガスタ」艦長、海軍省航海局(日本海軍の軍務局にあたる)次長、第二巡洋艦戦隊司令、第一戦艦戦隊司令などを歴任して、一九三九年六月、少将に昇進して航海局長に任命された。
航海局は人事局と名称を変えるが、職務は海軍行政の全般にわたる。したがって、局長の人選はつねに慎重におこなわれ、不適任の場合は直ちに更迭《こうてつ》させられた。しかし、ニミッツ元帥は、就任後まもなく、その静かで謙虚な人柄と、公正な人事処理、的確な情勢判断によって「米海軍史上、最も有能な局長適格者」という講評をうけた。
日本海軍の軍令部総長にあたる米海軍作戦部長は、ハロルド・スターク大将であったが、スターク大将はニミッツ少将の能力を評価して、ナチス・ドイツのポーランド侵入による第二次大戦開幕に遭遇すると、ニミッツ少将をアジア艦隊司令長官要員に予定した。いずれ米国の参戦は予測されるので、そのときは司令長官人事を一新して事態に対処せねばならない。
だが、ニミッツ少将にたいする期待は、ルーズベルト大統領、フランク・ノックス海軍長官も胸中にいだいていた。日本海軍の真珠湾攻撃を知ると、ノックス長官はまっさきに海軍首脳部の交替を計画した。作戦部長に大西洋艦隊司令長官アーネスト・キング大将をあてることは、将官の先任順序からいって当然であったが、問題は太平洋艦隊司令長官ハズバンド・キンメル大将の後任であった。スターク作戦部長は、作戦部次長R・インガソル中将を強く推薦していた。
しかし、ノックス長官がルーズベルト大統領に相談に行くと、話をきりださない前に、大統領は、いった。
「フランク、太平洋艦隊はあのテキサス男にまかせることにしよう」
ニミッツ少将は、真珠湾攻撃の三週間後、一九四一年(昭和十六年)十二月三十一日、大将に昇進してハワイの太平洋艦隊司令部に着任した。
ニミッツ大将の就任は極秘にされ、大将は副官一人とともに私服姿でハワイに飛んだ。日本側スパイの暗殺計画を警戒したからである。すなわち、日本海軍の真珠湾攻撃は、海軍首脳の旅行にも極度の神経を使うほど、米国に衝撃を与えていたわけだが、ニミッツ大将が着任したハワイの“現場”は、一段と惨めなふんい気につつまれていた。
太平洋艦隊の指揮は、キンメル大将が解任されたあと、次級指揮官であるウィリアム・パイ中将がとっていたが、ハワイの米海軍将兵の士気は沈滞し、日本軍にたいする激しい劣等感にさいなまれていた。流言がとび、そのたびに命令がだされては取り消され、将兵は混乱した。
パイ中将自身も、決断能力を喪失《そうしつ》していた。真珠湾空襲につづいて、ウェーキ島基地も日本軍の攻撃をうけた。海兵隊航空機が反撃して、いったん日本軍を撃退することができたので、パイ中将は、空母「サラトガ」、重巡三隻、駆逐艦九隻から成るF・フレッチャー少将の第十四機動部隊を、増援にさしむけた。水上機母艦「タンジール」に第四海兵大隊の一部、銃弾三百万発その他を積んで同行させた。
ところがハワイを出るときは、ウェーキ島近海で、再攻撃にくる日本艦隊を撃滅せよ、とフレッチャー少将に命令しながら、パイ中将は、命令は取り消す、「タンジール」にウェーキ島守備隊を収容して引きあげよ、と打電してくるかと思えば「前言取り消し、物資、人員、飛行機をウェーキ島に陸揚げせよ」と指令してきて、フレッチャー少将を当惑させた。
しかも、十二月二十三日、梶岡定道少将指揮の日本軍上陸部隊が、ウェーキ島に殺到し、フレッチャー部隊が島の東方、約四百二十五マイルに到着したとき、絶好の奇襲態勢にあったにもかかわらず、パイ中将はフレッチャー部隊に、引きあげを命じた。
ウェーキ島からの報告では、島は日本艦載機の空襲をうけている、という。パイ中将は、とっさに真珠湾を襲った「恐るべき日本機動部隊」が登場していると判断し、米海軍に新たな損害を加えないように、フレッチャー少将を退却させたのである。
フレッチャー部隊の将兵の間でも、ハワイの海軍将校クラブでも、パイ中将の“弱腰”にたいする批判の声が高まり、将兵は不満と不安とで、イラだった毎日を無為《むい》にすごしていた。
ニミッツ元帥は、むろん、ハワイのふんい気をす《ヽ》早く察知した。なによりも必要なのは、この将兵のノイローゼ的な敗北惑を鎮《しず》め、自信を回復させることにある。そして、そのための最も有効な対策は、たとえ小さくても日本側にパンチを与え、勝利の熱気を吹きこむことだが、戦艦八隻全部を撃沈破された太平洋艦隊には、そして米海軍全体にも、日本海軍に挑戦する用意はなかった。
ニミッツ元帥が、新任にさいしてキング作戦部長から指示された太平洋艦隊の任務は、次のとおりであった。
ハワイからミッドウェーに至る線をカバーし、確保するとともに、米本土西岸との交通線を保持せよ。
できるだけ早く、ハワイから主としてフィジーを含むサモアに至る線をカバーし、確保するとともに、米本土とオーストラリアとの連絡を保持せよ。
要するに、敵が来れば防ぐがこちらからは出ていくな、という命令である。
だが、将兵は、たとえ自分が死んでも、とにかく積極的に戦いたい、という焦《あせ》りに燃えている。指揮官としては、最も辛い立場にたたされたわけだが、ニミッツ元帥は将校クラブに出かけると、陰鬱に酔っている将校たちに、訓示した。
「諸君、オラが新任の司令長官である。オラの田舎で、オラがはじめて海軍に興味をもったのは、エビという海の動物を見たときだった……」
将校たちは静まりかえった。なんとも意外な訓示である。むきだしのテキサスなまりといい、百姓風の容ぼうといい、最初は誰かが芸人を呼んできてのショーだと思いこんだ者もいたが、やがて一同はとつとつ《ヽヽヽヽ》とした元帥の声が伝える真剣味を感得して、姿勢を正した。
「エビは海の王者だと聞かされた。しかも、その王者は、体のカラがはえ変わるときは、岩穴にひそんでかくれている、という。オラは、エビがうまいので、よし、それじゃ海軍にはいって海の王者をとっつかまえ、たらふく食ってやろう、と思った……」
どっと爆笑がわき、拍手がひびいた。腹をかかえ、テーブルをたたいて笑いころげる者もいた。ニミッツ元帥も微笑したが、その双眼をキラリと光らせると、声の調子をひきしめて、いった。
「諸君、オラたちの情勢は諸君もよく承知のはずだ。つまり、オラたちはエビであり、いま甲羅《こうら》がはえ変わるのを待っている時期だということを、だ。そして、この甲羅は一刻も早くはえ変えさせねばならぬということも、だ」
ニミッツ元帥の訓示が終わると、拍手はおこらなかった。その代わりに場内をゆるがせたのは、いっせいに威儀を正して敬礼するために、椅子をけとばして立ち上がる音、うちならすカカトの音であり、以後、太平洋艦隊の士気と規律は回復された。
ニミッツ元帥は、太平洋戦争中、ひとつの原則にしたがって、作戦を指導した。元帥は、それを「戦争の経済性」と名づけるが、たとえば、と元帥は、解説する。
「勝利を得ようとすれば、味方に万全の態勢を確保するために、どこでも必要な基地を入手しようとしがちだが、これは不経済な考え方といえる。兵力の分散になるからである。それよりは、敵の拠点あるいは行動にたいして、す《ヽ》早くかつ有効に兵力を集中できる準備だけを心がけるほうが、役にたつ。敵の近くに基地がなくても、敵が来るのを待てばよい。したがって、作戦はつねに勝利か、あるいは確実な勝利でなくても、少ない損害を予想できる形で実施できる」
いわば、“勝利戦略”ともいえる思想であるが、ニミッツ元帥は、この自身の戦争哲学を守りぬいた。
たとえば、こういった考え方からは、特定の兵力に重点をおく方針は排斥されねばならない。要は勝利のために、必要かつ十分な能力を発揮すればよいからである。ニミッツ元帥は「海軍力とは、あらゆる兵器、あらゆる技術の総合力である。戦艦や航空機や上陸部隊、商船隊のみならず、港も鉄道も、農家の牛も、海軍力にふくまれる」と強調した。
太平洋戦争の転機になったミッドウェー海戦も、この“ニミッツ哲学”の勝利とみることもできる。
日本艦隊がミッドウェー島攻略に出撃してくることを探知したのは、太平洋艦隊司令部の暗号解読班であった。ニミッツ元帥は、一九四一年五月に新設された太平洋方面総司令部の、長官を兼ねており、管轄区域内の陸軍部隊も指揮する権限を与えられていた。
日本艦隊のミッドウェー来襲の情報と、そのために全力を結集するというニミッツ元帥の構想に、キング作戦部長は懸念《けねん》を表明した。日本艦隊がミッドウェーにはこず、さらに南下して米、オーストラリア連絡線をおびやかすかもしれないからである。
ニミッツ元帥は、キング作戦部長の意見にうなずき、ミッドウェーにふりむける兵力は最小限におさえたが、同時にキング作戦部長に「必ず勝つ」と明言した。
ニミッツ元帥は、二つの力に自信を持っていた。ひとつは、航空兵力である。当時、太平洋で活動できる空母は「エンタープライズ」「ホーネット」の二隻で、「ヨークタウン」がサンゴ海海戦でうけた損傷を修理して、参加できる見込みはほとんどなかった。かりに、三隻出動できたとしても、日本艦隊の空母数は十隻をこえると思われ、その半分がやってきただけで、米国側に勝ち目はないはずである。しかし、ニミッツ元帥はミッドウェー島基地の陸軍機を動員すれば、日本空母五隻に対抗できると計算した。
もうひとつの有利な力は、人である。ニミッツ元帥の人物評定の公正さは定評がある。正しい意味での“人事のニミッツ”の評価をうけ、元帥自身も自分の眼力に自信があった。元帥は、空母部隊指揮官W・ハルゼー中将が入院すると、即座にかねて期待していた巡洋艦部隊指揮官R・スプルーアンス少将を起用した。
結果は、完全にニミッツ元帥の予想どおりの大勝となり、元帥はミッドウェー海戦が終わると、高らかに声明した。
「真珠湾の復讐は、一部成就された。しかし、完全な復讐は、日本海軍が無能力になるまでは達成されないだろう。その方向にむかって、われわれは重要な前進をした。われわれはいまや、目標のなかば(ミッドウェー)に達したといっても、それは認められるだろう」
この元帥の判断に誤りはなく、ミッドウェー海戦を契機にして、日本海軍は敗勢の道を歩みはじめたが、ニミッツ元帥は、対日勝利への道程の残りの“ミッドウェー”(半途)を、ひたすら信奉する戦争哲学にのっとって進んで行った。
とりわけ、ニミッツ元帥が意識し、かつ成功したのは指揮官人事である。
戦局が拡大し、参加人員も多くなれば、どうしても指揮官の人選は粗雑になりやすい。そこで、ニミッツ元帥は一案を考えだして、キング作戦部長に進言した。
「最も重要なのは、司令官クラスの少将人事であります。すなわち、どの大佐を少将に進級させるかでありますが、本官は、まず継続して六カ月以上、巡洋艦以上の艦長経験を積んだ大佐の中から、海軍省人事局が適格者をえらびます。次に九人ないし十一人の将官で構成する昇進委員会の投票に付し、その投票結果を海軍長官、作戦部長、作戦部次長、人事局長、航空局長その他が合議して、その四分の三以上の賛成で昇進を決定すればよい、と思います」
いささか慎重にすぎる印象もうける。それまでは、米海軍も日本海軍に似て、上級者が下級者を考課し、その結果を人事局で検討して処理する形式であった。当人の希望、あるいは新任先の上級者の意向も聞く。その意味では不公平さはできるだけ避けられる仕組にはなっていた。しかし、ニミッツ元帥は、それだけでは不十分だと考えた。
「人事について、最も、不満の原因になるのは、選定の過程に感情がはいることだ。推薦方式は、とかく感情で左右されたと思いこまれがちだ。希望をかなえられた場合も、かなえられない場合も、上級者の気持ちできめられたと思いがちだ。それでは、自分の能力をまともに自覚できなくなる。とくに将官は、部下の解任権を与えられるだけに、自身に自信がなければ任務ははたせなくなる。感情がはいらない選抜システムをつくれば、選ばれた者は自信をいだき、選ばれなかった者も次の機会に希望をもって能力向上にはげむことになる」
手続きはまわりくどくても、適材を適所にはめこむことが、結局は組織の力を強化する結果になる、というニミッツ元帥の“戦争経済学”の実践である。そして、元帥は、もうひとつ、その理論にしたがって“戦争経済システム”の成果を発揮した。
元帥は戦争中、空母部隊指揮官はハルゼー、スプルーアンス両提督だけを使ったといってもよいが、二人は一定期間で交替させ、指揮官が代るたびに、ハルゼー提督の場合は、部隊は第三艦隊、スプルーアンス提督の場合は、第五艦隊を名のらせた。
「有能者をその能力発揮の場所からはずすことくらい不経済なことはない。といって、いつまでも同じポストにおくのもまずい。そのために考えたアイデアだがうまくいったよ」
いいかえれば、ニミッツ元帥は、組織と人事で戦争に勝った指揮官、といえるかもしれないが、太平洋戦争をふりかえり、ただひとつ心残りがあった、と元帥はうちあけた。
元帥は戦争中、ハワイ、次いでグアム島に司令部を置き、陸上から指揮をつづけて、第一線に出ることはなかった。海戦を見る機会もなかった。とくに、元帥としては「五十年間夢見てきたトウゴウ提督の後輩たちと、大砲をうちあう日米艦隊決戦」が生起しなかったことが残念だった。
「もしそのようなチャンスがあれば、必ず直接指揮したが……海軍軍人として、それがオラの心残りだといえるだろう」
ホーランド・スミス
「誰か英国旗をもっていないか」
その声に応じて一人の少佐が進み出ると、腰の雑のう《ヽヽ》をひっくり返した。さんざんに汚れたパンツと一緒に小型の英国旗がとびだした。砲弾でちぎれたヤシの木に結びつけようとすると怒声がひびいた。
「下だ、下だ……米国旗の下につけろ」
――昭和十八年十一月二十四日午後一時三十二分。ギルバート諸島タラワ環礁《かんしよう》攻略の国旗掲揚式の光景である。そして、不快げに叫んだのは、米第五水陸両用軍団長ホーランド・スミス海兵少将だが、スミス軍団長の渋面は、異臭が付着した国旗のせいだけではなかった。
タラワは、太平洋戦争における米軍の中部太平洋反攻の最初の目標であり、その後につづく島の攻略戦の初例でもあった。
米軍は日本本土にむかう反攻コースとして、ガダルカナル島からソロモン群島、ニューギニア、フィリピンを経由する南西ルート、ギルバート諸島――マーシャル群島――マリアナ群島を通る中央ルートの二つを進んだ。
前者はマッカーサー大将の陸軍、後者はニミッツ大将の海軍、とくに海兵隊が主担任となり、タラワはその海兵隊の本格的作戦の幕開けであったが、スミス海兵少将にとっては、タラワ戦はすべてが不満の対象であった。
ギルバート諸島攻略は、タラワ環礁ペチオ島とその北方のマキン島にそれぞれ第二海兵師団、第二十七歩兵師団をさしむけ、いずれも十一月二十一日から二十四日までに占領した。
タラワを守備した柴崎恵次海軍少将指揮の陸戦隊の抵抗は激しく、日本軍の戦死四千七百十三人、捕虜百四十六人にたいして、海兵隊は戦死九百九十人、戦傷二千二百九十六人を数えた。
この人的損害数だけをくらべれば、いちおうは海兵隊側の“リーゾナブル(妥当)”な勝ち戦《いくさ》とみえるが、タラワには柴崎部隊四千八百人にたいして第二海兵師団一万七千人が攻撃し、機銃、小銃弾二百十万五十九発、砲弾五万四千六百十七発、手榴弾一万二千四百六十発、ロケット弾三百四十八発、照明弾三千八百七十発を、消費した。
兵力で約四倍、火力では十倍以上の優勢を保持しながら、十対七の損害をだすのでは、能率の良い戦いぶりとはいえない。
第二十七歩兵師団がむかったマキン島の成果はさらに惨めであった。マキン島の日本軍は七百九十八人だったが、第二十七歩兵師団は第百六十五連隊六千四百人を主力とし、第百五連隊、第百九十三戦車大隊、第百二、第百五十二歩兵連隊まで加えて、やっと攻略した。損害は、日本軍の六百九十三人にたいして二百十八人である。
「勝ちどきをあげる根拠はなにひとつ発見できず……恐るべき人命と労力の浪費にすぎなかった」
スミス軍団長はギルバート作戦についてそう回想するが、スミス軍団長によれば、タラワ、マキン攻略戦がこのような拙劣《せつれつ》な戦となったのは、指揮系統の不備に理由を求めるべきであった。
ギルバート作戦の総指揮官は、米海軍中部太平洋方面司令長官R・スプルーアンス中将で、スミス軍団長は攻略部隊指揮官ではあったが、直接には第二海兵師団も第二十七歩兵師団も指揮できず、いわば“顧問”格になっていた。
スプルーアンス中将は、ギルバート攻撃によって日本艦隊の出撃、すなわち日米艦隊決戦を期待していた。
そのため、島の攻略については、日本艦隊が出現したときは、その戦闘を適当にコントロールして艦隊決戦を優先させるべく、陸上戦闘の指揮権も自分が確保していたのである。
「しかし、おかげで陸上戦はただただ計画の遂行にとどまり、状況に応じた有効な作戦をおこなうことができず、ぶざまな記録を海兵隊史に残すことになってしまった。
軍隊にとって、権限を与えられない、あるいは権限はあってもその行使を許されない指揮官の存在ほど、有害なものはありますまい。
そのような指揮官の下では、下級指揮官はなまじ上級者がいるだけに、自己の権限も行使し難く責任をとる勇気もわき難くなるからです」
スミス軍団長は、キルバート作戦が終わると、強くスプルーアンス中将、さらにニミッツ大将にも進言して「本官は二度とショーウィンドーのドレス(注・飾り物の意味)にはなりたくない」と主張した。
そして、スミス軍団長はその主張どおり、七カ月後の昭和十九年五月、マリアナ群島サイパン島攻略部隊の指揮官の内命をうけると、完全な指揮権を与えられることを条件にして、受諾した。
マリアナ攻略軍の総指揮官は再びスプルーアンス海軍大将。やはり日米艦隊決戦を希望して大型空母八隻を基幹とするM・ミッチャー中将の第五十八機動部隊九十三隻を率い、中将に進級したスミス第五水陸両用軍団長は、第二、第四海兵師団と第二十七歩兵師団を主力とする、六万六千七百七十九人を指揮下においていた。
サイパン島守備軍は、斎藤義次中将の第四十三師団その他陸軍二万五千四百六十九人、南雲忠一海軍中将の中部太平洋方面艦隊司令部をふくむ海軍部隊六千百六十人、計三万千六百二十九人。ほかに一般市民約二万五千人(うち島民四千人)がいた。
サイパン島は東京から千二百五十マイル、ここに行動半径千六百マイルのB29長距離爆撃機の基地ができれば、日本の関東以西は爆撃圏内にはいる。
そして、サイパンと東京との間には、ほぼ中間にあたる南鳥島、硫黄島まではなにもなく、その後は小笠原諸島、伊豆諸島を経て東京に達する。
いわば、サイパンは日本の外郭《がいかく》防禦線の焦点にあたり、攻略されれば日本の敗勢は確定するし、攻略に失敗すれば米軍の攻勢は大幅に鈍化することが予想された。
スミス軍団長は、そこで、サイパン攻略はせいぜい一週間、せめて十日間で終えることを望み、またそれは可能だ、と考えていた。
サイパン島については、日本側は「難攻不落」を唱え、守備兵力も米軍側の約半分である。攻撃軍は防備軍の三倍以上の兵力をもたなければ勝利は期待できない、という、いわゆる“三倍原則”に照合すれば不安だが、スミス軍団長が入手した情報によれば、日本軍は四十八単位の雑多な混成部隊で統一性に欠け、陣地構築はすすまず、おまけに多数の一般市民が足手まといになっている。
「よろしいか、諸君。このような相手をどう処理すればよいか。それはとっくに承知のはずである。
われわれはシロウトではない。予定どおりに上陸し、予定どおりに攻略することを期待する」
スミス軍団長は上陸二日前、昭和十九年六月十三日、司令船「ロッキーマウント」号に攻撃部隊の指揮官たち、第二海兵師団長T・ワトソン海兵少将、第四海兵師団長H・シュミット海兵少将、第二十七歩兵師団長R・スミス陸軍少将を呼んで、訓示した。
第二海兵師団と第二十七歩兵師団はそれぞれタラワ、マキン島を、第四海兵師団はその後のクェゼリン島の攻略を体験している。
たしかにシロウトではない。日本兵とのつきあいの方法には慣れているはずであり、三人の師団長たちも、自信ありげにうなずきあった。
ところが、六月十五日午前八時四十分、サイパン島南西部のチャランカノア町海岸に第一波上陸部隊が殺到してみると、第二、第四海兵師団ともに、島の日本軍が意外に強力なことを思い知るだけであった。
第二海兵師団だけで、上陸時に戦死二百三十七人、負傷千二十二人、行方不明二百三十八人、計千四百九十七人を数え、スミス軍団長は十七日、早くも予備兵力である第二十七歩兵師団を上陸させた。
スプルーアンス大将は、スミス軍団長に注意した。潜水艦の報告は、空母九隻、戦艦七隻その他七十三隻から成る小沢治三郎中将指揮の第一機動艦隊の接近を伝えている。
「将軍、敵は大きなゲームをのぞんでいる。私は全艦隊を出動させるが、幕僚たちの中には、貴官も一時退避したほうがよいという意見があるが」
「逃げろ、とおっしゃるのですか……」
と、スミス軍団長は、とたんに顔面を紅潮させて声をはりあげた。“マッド(かみなり)”スミスというのが、スミス軍団長のニックネームである。その名の如く、スミス軍団長は相手かまわずに“かみなり”をおとす。そして、その“かみなり”は、いささかでも戦意不足とみられる場合に、とくに容赦《ようしや》なく落下する。
スプルーアンス大将は、あわてて「いや、たんに一部の幕僚の所見にすぎない。本官の見解はちがう」と述べて別れを告げたが、一週間後、六月二十四日、再び猛烈なスミス軍団長の“雷声”におそわれることになった。
そのころ、米軍はサイパン島の南半部を制圧し、北進して日本軍を圧迫する態勢をとっていた。
ミッチャー機動部隊と小沢機動艦隊との「マリアナ沖海戦」は、六月十九日から二十日にかけておこなわれ、米軍側が“マリアナの七面鳥打ち”と呼称したように、ほぼ一方的にミッチャー部隊の勝利に終わった。
スミス軍団長は二十日、マリアナ沖海戦の勝利にのって日本軍をいっきに撃破すべく、総攻撃を命じた。
第二海兵師団を西岸、第二十七歩兵師団を中央、第四海兵師団を東岸に配置し、壁のようにすき間のない前線を、推し進めて遮二無二攻撃しよう、というのである。
ところが、第二、第四海兵師団は、二十一、二十二日、ともにそれぞれ七百二十〜千三百五十ヤード、五百四十〜九百ヤード進んだが、中央の第二十七歩兵師団は、一インチも前進しない。
二十三日も第二十七歩兵師団は進まず、おかげで第二、第四海兵師団は、それぞれ百八十ヤード、四百五十ヤードと、前進距離を短縮して第二十七歩兵師団の前進を待つことになった。両翼がのびて中央がへこんでいては、かえって日本軍から側背をおそわれる危険があるからである。
スミス軍団長は、激怒した。軍団長はすでに二十一日、さらに二十二日にも、第二十七歩兵師団スミス少将に前進を督促《とくそく》していた。二十三日は、スミス軍団長は終日、司令船「ロッキーマウント」号で待っていたが、いぜんとしてスミス少将が歩きださぬと知ると、二十四日の日の出を待ちかねて、少将に通告した。
「本司令部は、第二十七歩兵師団が六月二十三日、命令された時刻に攻撃開始に失敗したこと、さらに小火器および迫撃砲の反撃に出会っただけで015目標の奪取に失敗した同師団の攻撃精神の欠如にたいして、きわめて不快の念をいだくものである……第二十七歩兵師団は、命令どおり前進と目標占領のために速《すみ》やかな措置をとるよう、指令されるものである」
スミス軍団長は、この通告を送ると、スプルーアンス大将の旗艦・重巡「インディアナポリス」にむかい、作戦地図を示しながら、第二十七歩兵師団の“意気地なさ”を指摘した。
第二十七歩兵師団の戦いぶりについては、マキン島攻略のさいに不満を感じていた、スミス軍団長としては、またしても、スミス少将の指揮ぶりに疑問を感じたわけであるが、スプルーアンス大将は、いま少し第一線部隊長にまかせてはどうか「上級指揮官があまり介入するのは好ましくないのではないか」と、いった。
「とんでもない、閣下。失礼だが、高級指揮官が後方にいて、ひとたび命令をだしたら部下の行動に干渉しないというやり方は、ドイツ陸軍の流儀であり、それも普仏戦争までです」
第一次大戦でも、ドイツ軍はこの流儀を守り、おかげでしだいに指揮官不足、すなわち、指揮官の素質が低下してもなお下級指揮官まかせにしたので戦争に負けた。そもそも、前線指揮官にまかせるのは、通信連絡手段が貧弱な時代の話である。
「たとえば、命令の伝達や報告の手段が騎兵にたよっていた当時なら、前線のようすを知ることは困難であり、ゆえに状況を知らぬ後方の上級指揮官は、あえて部下の行動に干渉しないほうがよいわけです。しかし、いまや近代戦の時代であります。サイパン島の戦況はワシントンにいても、こと細かにわかる時代です。本官が師団長を指導しないのは、本官の責任と存在意義を失うことにほかなりません」
スプルーアンス大将はうなずいた。スミス軍団長は、明らかに指揮官就任のさいの条件、つまり権限の行使の確認を要求している。そして、権限の行使は責任の採択と同義語である以上、積極的にそれを求める指揮官は好ましい。
「では、どうすればよいかネ」
「ラルフ・スミス(少将)は、彼が戦意をもちあわせていないことを、証明しました。彼の師団はわれわれの前進を遅らせています。彼は解任されるべきであります」
スプルーアンス大将は承知した。ただちにスミス少将解任が発表されたが、おさまらないのはスミス少将とその部下たちである。
第二十七歩兵師団の前進がおそいのは、師団長のせいではない。日本軍がしぶといからである。ましてスミス少将は“マキンの英雄”として、陸軍部内では勇将とみられている。そのスミス少将を一方的に、しかも戦闘中に解任するとは、なにごとか。
要するに、これは海兵隊、つまりは海兵隊が所属する海軍の、陸軍にたいする反感のあらわれであり、ささいなことでもケチをつけようとする下劣な根性の所産であろう。
「こんご二度と陸軍部隊は、スミス海兵中将の指揮下にいれるべきではない」
スミス少将が、太平洋方面陸軍部隊司令官ロバート・リチャードソン中将に進言すれば、第二十七歩兵師団の幕僚たちは一致して、臨時師団長に任命されたS・ジャーマン少将に、海兵師団との協同作戦中止を申しいれた。
リチャードソン中将は調査委員会を設けた。委員会は「スミス中将にはスミス少将を解任する権限があるが……スミス少将の解任は裏づけがない」と結論した。
海兵側と陸軍側との双方の体面を保つように工夫された意見であったが、実際には双方の不満をかきたてるだけであった。海兵側は、スミス少将の戦意不足という事実《ヽヽ》があればこそ解任されたと主張し、陸軍側は、事実《ヽヽ》がないのに解任されたとすればスミス海兵中将は越権行為で処罰されるべきだ、と反発した。
事件は、“スミス対スミス”事件として、米国内でも論争を呼んだ。『サンフランシスコ・エグザミナー』紙などハースト系新聞が「これというのも太平洋の米軍の指揮が不統一だからだ。すべからく、マッカーサー大将を唯一の指揮官にすべきだ」と論ずれば、『タイム』誌も強い語調で述べた。
「もし指揮官が内部の反響をおそれて不適当な部下を解任できなければ、勝利の機会と人命は不必要に失われることになるだろう」
“スミス対スミス”事件は、さらに戦後まで論争の尾をひいた。それというのも、事件は、指揮官の権限と統帥《とうすい》の限界という、いわば指揮の根本問題にふれていたからだが、スミス軍団長の考えは明確であった。
サイパン島戦では、米軍はタラワ戦その他、それまでの日本軍との戦闘で得た教訓を実行していた。日本軍は頑強に陣地にたてこもり、米軍が通りすぎたあと、再び夜間に旧陣地にしのびこんで、背後から攻撃することが多かった、そこで、サイパンでは、その種の被害をさけるために、どんな小さな陣地も見のがさず、しらみつぶしに探し、かつ破壊しながら進んだ。
最初から掃討戦を実施したのであり、その意味では、第二十七歩兵師団の歩みがおそいのも、この指定された戦術に忠実であったとみなすこともできる。
「しかし、だからといって、ひとつの陣地、一人の敵兵を処理するのに無限の時間がかかってもいいという理由はない。それでいいなら、作戦計画は不要ということになる」
作戦計画、すなわち作戦期間であり、定められた期間内に定められた目標を達成してこそ、それは作戦の名に値する。それを阻害する要素を排除し、促進する要素を助長するのが、指揮官の任務にほかならない。
「指揮官にとって最も大切なのは、任務にたいする使命感でありましょう。この使命感を欠くとき、その指揮官の胸中から勇気は消え失せ、勇気を失った指揮官の頭脳からは独創性が消滅する。勇気とアイデアがなくなった指揮官は、部下の勇気とアイデアも失わせ、ついには部下を壊滅させかねません」
スミス軍団長は、スミス少将解任を進言するとき、スプルーアンス大将にそう強調して、その後の論争、批判にも耳を傾けなかった。
戦闘中の指揮官解任――が、第二十七歩兵師団に、どれほどの好影響を与えたかは判然としない。
第二十七歩兵師団の前進距離は、スミス少将が解任された六月二十四日に七百二十ヤード、二十五日は五百四十〜九百ヤード、二十六日千八百ヤード、二十七日三百六十ヤード、新師団長G・グリナー少将が着任した二十八日以降も、二十八日五百四十ヤード、二十九日九百ヤード、三十日五百四十ヤード、七月一日四百五十ヤード……と、その速度は鈍《にぶ》さを保持していたからである。
日本軍の抵抗は、七月七日未明と八日夜、島の北端に圧迫された日本軍残兵約五千人の総攻撃で終わりを告げた。さらに追いつめられた老若男女市民が、あるいは断崖をとびおり、あるいは手榴弾を炸裂《さくれつ》させて自決し、サイパンの戦いは、その最後を限りない無惨と悲惨にいろどられた。
スプルーアンス大将は、七月九日午後四時十五分、サイパン島占領を声明した。三万一千六百二十九人の日本軍は、そのほとんどが戦死し、捕虜となった者は千人にたらず、戦火に倒れた市民は、一万人をこえたとみられる。
米軍の死傷者は、海兵隊一万四百三十七人、陸軍三千六百七十四人――これまでにない損害である。
スミス海兵中将の指揮ぶりについての批判は、しかし、とくに高まらず、スミス中将は昭和二十年二月、三たび第五水陸両用軍団長として第三、第四、第五海兵師団を率いて、硫黄島攻略を指揮した。そして、硫黄島戦でも、スミス軍団長は折りにふれて、解任をほのめかす“雷声”をはりあげて、三人の師団長を叱咤《しつた》しつづけた。
エルウィン・ロンメル
――一九四二年秋。
英中東方面軍司令官C・オーチンレック大将は「全指揮官および各参謀長あて」に次のような特別布告を発した。
「いまや、わが“友人”ロンメルは一種の魔法使いか怪人にみなされようとしている。これは危険である。彼は疑いもなくきわめて精力的で有能な人物ではあるがスーパーマンではない。たとえスーパーマンでも、われわれの部下たちが、彼に超自然能力がそなわっていると信ずるのは、望ましくない。本官は、諸君が全力をあげて、ロンメルが普通のドイツ人将軍以上の者ではないことを立証するよう、心から期待する……」
まことに異例の布告であり、それだけに、このオーチンレック大将の布告は、いかに当時、ドイツ陸軍元帥エルウィン・ロンメルが、英軍にとって恐怖の存在であったかを、物語っている。
いや、当時だけではない。第二次大戦を回顧《かいこ》するとき、ロンメル元帥の名前は、連合軍側のどの将軍よりも高い評価を、ほかならぬ連合国側から与えられつづけ、いまも変わりがない。
「戦争の名人(マスター・オブ・ウォー)」――と、英首相チャーチルも力をこめて賞賛し、戦史家は筆をそろえて「ナポレオン以来の名将」と評言するが、ロンメル元帥が最大の名声を獲得したのは、いうまでもなく、北アフリカの砂漠における戦車戦指揮官としてである。
ロンメル元帥は、一八九一年十一月十五日生まれ。父親は数学教師だった。家系に軍人はいない。弟の一人はオペラ歌手になった。ただ、ロンメル元帥だけは、第一次大戦前夜の急迫する戦雲に刺激されて、一九一〇年、ドイツ帝国陸軍第百二十四連隊に入隊した。
少尉候補生→任官→中尉と進み、第一次大戦では、部下二人とともに将校斥候に出たさい、独断攻撃をおこない、約千人のフランス兵がいる村落を占領した。独創性に富む勇敢な将校として認められたが、ロンメル元帥は、むろん、戦車が未発達な第一次大戦当時は戦車に興味を示さず、もっぱら歩兵将校として訓練と体験を積んだ。
ヒトラーのナチス党が政権をとり、ドイツ再軍備がすすむと、ロンメル元帥はドイツ国防軍に迎えられた。しかし、依然として有能な歩兵部隊指揮官として認められ、元帥が戦車隊指揮官として知られるようになったのは、一九四〇年五月、第七機甲師団をひきいて、ベルギーからフランスに進入したときであった。
第七機甲師団長には、ロンメル元帥の希望によって任命された。ロンメル元帥は、第二次大戦勃発を告げるポーランド侵攻に参加したが、急降下爆撃機、戦車、降下部隊の“三位一体”でおこなう近代的電撃戦において、戦車の役割を重視し、とくに興味を感じていた。
数学者の血統なので、もともと数理に才能をもち、軍隊の中でも、砲戦を主体にする海軍にあこがれたこともあったので「戦車団は海軍の艦隊に匹敵する。軍艦が砲をはこぶ設備なら、戦車も砲をはこぶ設備だ」と、見定めたからである。
ロンメル元帥は、また、ヒトラー総統に信頼を寄せていた。のちに、元帥はヒトラー暗殺計画に参加するが、はじめのうちはヒトラーのナチス党をドイツ復興の殊勲者とみなし、ヒトラーをすぐれた指導者と観察していた。ただし、ナチズムには興味を感じなかった。ヒトラー総統のほうも、かえって政治にたいする関心を表明しないロンメル元帥を、むしろ忠実な将軍とみて、信頼を寄せていたので、ロンメル元帥の戦車部隊指揮官の希望は、即座に容認された。
第七機甲師団に与えられた使命は、二カ月以内に北フランスのシェルブールを陥落させることにあった。
ロンメル元帥は、戦車隊の使用を艦隊行動に即して実施することを考えていたが、とくに艦隊の単縦陣による突進戦法にヒントを得た。「戦争に趣味や規則は必要ない。必要なのは、必ず勝てる手段を発見して実行することだ」と、元帥は、海軍式に反対する参謀たちに、いった。
元帥が主張したのは、砲撃しながら前進することだったが、当時、運動中に射撃するのは弾丸の浪費にすぎないから、戦車の砲撃は停止しておこなう、というのが常識であり、規則でもあった。しかし、ロンメル元帥は、軍艦も動揺しながら砲撃している、戦車も同じことができるはずだ、と強調したのである。
第七機甲師団は、突進した。命中率や弾丸消費量よりも射ちまくって進むことに重点をおく進撃ぶりであった。ロンメル元帥は、この海軍式進撃法に、もうひとつの意義を認めていた。
「軍隊にとって最も重大な要素は兵の士気である。将兵の士気が低下しては、何万発の砲弾をもっていても無用である。そして、兵は、武器を使用しているときに最も士気を高揚させるのだから、とにかく砲撃しつづけることが、敵中突破の秘訣となる」
このロンメル元帥の心理作戦は、効果をあげた。第七機甲師団は、左右に砲弾をばらまきながら、まっしぐらに進み、わずか二日間で敵戦車百台、装甲車三十台、砲二十七門を破壊して敵兵一万人を捕虜にする戦果をあげながら、予定より一カ月間も早く、一九四一年六月九日、シェルブールを占領した。
“ロンメル戦車兵団”――名は、敵味方をとわずに喧伝《けんでん》され、当時もてはやされた単語「電撃戦」の同義語とされた。
ヒトラー総統は、ロンメル師団長を大将に昇進させ、最高鉄十字章を授与した。そのころ、ヒトラーが腹心の一人、ゲーリング空軍元帥に語った言葉が記録に残っている。
「ロンメルのような将軍が五人いたら、わがドイツは北半球を制覇できるだろう」
自信と嫉妬心を肥満した全身にみたしているゲーリング元帥が、このヒトラーのロンメル賞賛を快《こころよ》く思わなかったことは、いうまでもない。いらい、ゲーリング元帥は根深い反ロンメル意識を抱くことになるが、ヒトラーのロンメル信頼は、一九四一年二月、ロンメル大将をアフリカ軍団司令官に任命する形で、発揮された。
ドイツ軍は、その年の六月、ソ連攻撃を開始する予定で、ほぼ全力を対ソ戦に投入する計画であった。ところが、ドイツにならって、北アフリカ支配をねらったムソリーニ・イタリア軍は、スエズを守る英連邦軍の反撃をうけ、かえって、自国植民地のリビアとエチオピアの大半を失う結果を招いた。
ヒトラーのロンメル派遣は、その北アフリカ・イタリア軍救援のためであるが、リビア西端のトリポリに到着したロンメル元帥は、はてしなく拡がるリビア砂漠を一見したとたん、ここが「最も自分に適した戦場」であり、かねて確信する「海軍式戦車戦術」を最も有効に実施できる場所であることを、直感した。ぼうばく《ヽヽヽヽ》として、しかも風にうねる砂漠は、まさに大海そのままだからである。
ロンメル元帥は、戦況を検討すると、四百十二台の戦車を動員する総攻撃を立案した。目標は、スエズの門、アレキサンドリア西方のトブルクである。
だが、ヒトラー総司令部は承認をしぶった。対ソ戦準備に熱中している段階では、補給困難な北アフリカでの大作戦は好ましくない。
むしろ、しばらくは英軍の攻撃を支えるだけにとどめ、やがてソ連降伏後に一気に北アフリカを確保すべきだ、という考えであった。
ロンメル元帥は、部下の第二十一機甲師団長フォン・ラベンシュタイン中将をローマに派遣し、次いで自分もローマに飛び、直接ベルリンの参謀総長ヨーデル大将に、作戦の実施を要請した。
「ソ連が攻勢をうけ、米国が参戦しない今こそ、絶好のチャンスである。わがアフリカ軍団はトブルクを陥落させたあとは、スエズ運河を制圧し、さらにアラビア半島を横断してペルシア湾に抜け、よって同湾を利用する米国の対ソ援助ルートを遮断《しやだん》する。そこへ東部戦線のわが軍が、コーカサス地方を支配して南下すれば、ソ連の敗北は必至であり、ドイツは北アフリカ、ヨーロッパ、中近東全域を手中におさめられるはずである」
まことに雄大な構想であり、おそらくは“ヒトラー好み”のプランであろうが、なにぶんにも対ソ戦をひかえている。しかし、対ソ戦遂行のためにも、いわばソ連の“下腹”をおびやかすロンメル攻勢は、捨てがたい。
「もし失敗してアフリカ軍団が壊滅しては困るが……貴軍団はその保証をしてくれるだろうか」
「保証……ヤヴォール(よろしい)、本官個人が保証するよ」
ロンメル元帥は、電話機にどなり、作戦は決定した。元帥は、トブルク攻撃開始を十一月二十三日ときめ、その八日前の十一月十五日は、ローマに夫人を呼んで、五十歳の誕生日を祝った。
もっとも、パーティを開くこともなく、夫人が映画を観にいっている間、終日、ホテルで兵術書に読みふける一日をすごしただけであった。
ロンメル元帥は、翌日、リビアの司令部に戻ったが、ちょうど、ローマのホテルで読書をしているころ、参謀宿舎が英軍コマンド部隊に襲撃されたと、聞いた。“部隊”といっても、わずか四人であったが、重傷をうけて捕えられた一人は、一行がG・キース少佐指揮の「ロンメル暗殺班」であることを、自白した。
元帥は、眼を光らせた。敵の指揮官を暗殺する試みは、別に時期を選ばない仕事であるが、攻撃開始直前の潜入であるだけに、きな《ヽヽ》臭いにおい《ヽヽヽ》がする。ロンメル元帥は、もし計画が察知せられている気配が確認できたら、ただちに作戦を中止する、と参謀長フリッツ・バイエルライン少将に注意した。
ロンメル元帥について、旧部下であったドイツ将校が語るエピソードのひとつに、かならず元帥の異常なほどに鋭い“戦闘感覚”がふくまれるが、たとえば、第二十一機甲師団長ラベンシュタイン中将によると――
「ある日、ロンメルと二人で司令部で話していると、突然、ロンメルは、この司令部は移動したほうがいい。敵襲の可能性がある、といった。情報では、敵に行動開始の兆候《ちようこう》はまったく見あたらない。しかし、翌日、ロンメルの予言どおり、司令部は攻撃をうけた。
また、砂漠で立ち話をしていると、ロンメルは、ここは危険だ、少し離れよう、という。だだっぴろい砂漠のことだ。どこにいようと、たいした変わりはないはずだと思ったが、ロンメルのいうとおりにした。すると、ものの五分間もしないうちに、突然、敵の砲撃をうけ、砲弾は正確にさっき立っていた場所に落下した」
ロンメル元帥が、参謀宿舎の襲撃を聞いて参謀長に注意したのは、おそらくこの“戦闘感覚”によるものだろうが、はたして、その二日後、十一月十八日、元帥の攻撃の出足をおさえるかのごとく、逆に英軍が攻勢を開始した。
結局、ロンメル軍はトブルクに接近しながら、元帥の命令で反転した。しかし、ロンメル軍の巧みな戦車機動戦と、強力な対戦車砲の存在は、英軍に深刻な脅威の予告を与えた。
ロンメル元帥は、深い印象をうけていた。元帥が攻勢中止を命じたのは、すでに予想していた英軍の“待ち伏せ”態勢を確認したためだが、さらにもうひとつ、元帥は指揮下のアフリカ軍団の未熟と士気の不十分さに気づいたからである。
アフリカ軍団は、とくに砂漠戦の訓練をうけた部隊ではなく、通例の編成方針にしたがって雑多の部隊からよせ集められた存在である。生まれてはじめてアフリカを訪れた者がほとんどで、とくに砂漠など見たこともなく、砂漠の水が飲用に不適であることを知る者も、少なかった。下痢が流行し、熱射病その他の病者もふえた。当然、訓練時間もたりず、戦闘技術は劣った。
ロンメル元帥は、部下の特訓と強力な部隊作りを決意した。元帥は、いう。
「戦闘は、しばしば不適格な将軍、無能な参謀のために敗北を招く。しかし、なんといっても最大かつ最明確な敗北原因は、将兵の戦意喪失《そうしつ》にある。では、将兵の戦意喪失を防ぐにはどうすればよいか?
私の考えでは、部下が望むのは、信頼される指揮官であるから、指揮官はつねに部下の眼の前にいて、部下に危険は避けうるものだということを教えねばならない。しょせん、どんな組織でも、それは人間の集団であり、人間の集団をリードするのは、個人の明確なリーダーシップ以外には、ありえない。したがって、そのためには、指揮官は、安定した存在であることと、部下以上の危険を甘受することを示し、それによって部下自身にも安定した心理を生みださせねばならない」
ひとくちにいえば「率先垂範《そつせんすいはん》」ということになろうが、ロンメル元帥の“垂範”ぶりは、いかにもドイツ人らしい徹底さで一貫していた。
ロンメル元帥は、起床六時、就寝は夜十時と定めた。砂漠では、日中の暑熱に体力の消耗を防ぐため、昼寝は必須とみなされていたが、ロンメル元帥は、交代で三十分間だけの昼寝を認めた。
砂漠は、夜は日中の暑さに反比例して、ぐっと涼しくなる。おかげで睡眠は快く、ときには寝坊しがちであったが、ロンメル元帥は、一分間の遅刻も、許さなかった。元帥は毎朝ヒゲを剃り、コーヒーを一杯のむと、午前六時三十分には、部隊の視察に出発する。
副官の回想によると、ある日、午前七時ごろ、連隊司令部を訪ねると、不運にも連隊長の大佐は、まだベッドの中にいて、元帥の到着を知ると、パジャマのまま、とびだしてきた。とたんに、ロンメル元帥の罵声がひびいた。
「このなまけ者のうす汚れたキツネめ。貴様はわしがお前の朝メシを持ってくるとでも思っていたのかッ」
およそ高官らしからぬ下品な叱咤に副官が仰天《ぎようてん》していると、さんざんに大佐をどやしつけて自動車にのりこんだあと、ロンメル元帥は、いった。
「軍人は叱られて一人前になるが、同時にいちばん恐い想い出は、実務担当の下士官にどなられたときだ。だから、わしは、軍曹の言葉で大佐の記憶をよみがえらせてやったのだよ」
ロンメル元帥の視察は、克明をきわめていた。飛行機、戦車、装甲車、自動車、あるいは徒歩で、前線をすき間なく観察した。
「嵐をリードしようと思えば、旋風の中にはいらねばならぬ」――というのが、その理由であったが、ロンメル元帥は第一線陣地を訪ねると、機銃座の位置をたしかめるため、ずいと車を砂漠の中に走らせ、ふりかえって敵の立場から判断した。地雷のカムフラージュの方法、あるいは、歩兵の射角まで、かならず“敵の眼”になって確かめた。
砂漠にふみこむことは、それだけ敵に近づくことを意味する。ロンメル元帥の自動車は、たびたび敵弾の標的になり、自動車の運転手の二人が死傷して、元帥自身が運転して帰ってきたこともあった。
砂漠の生活は苛酷である。絶え間なくノドがかわくが、水を飲めば飲むほど渇《かわ》き、また大食すればするほど、さらにノドの渇きをさそうものである。しかし、激しい陽光に照らされ、昼夜の別なく緊張を要求される砂漠戦場では、将兵にとって、水と食物はせめて思いのままに欲しい。
しかし、ロンメル元帥は、厳重な節水、節食を指示した。元帥自身も、一日コップ二杯の冷たい紅茶とレモンをかじるだけですごし、食事は、なんと、イワシの罐詰一個とパン三枚ですごした。昼寝もせず、ナポレオンの故事そのままに、短時間の居眠りをかさねるだけであった。
まことにすさまじいばかりのスパルタ式生活であったが、ロンメル元帥はけっして自分の生活を部下に強要することはなく、ただ五十歳の将軍もこのような生活をやれるという事実を示した。若い兵士には、若い兵士なりの暮らしぶりを認め、視察中に、いきなり若い兵に話しかけては、若者たちのジョークを聞いて楽しんだ。
このロンメル元帥の“率先垂範”は、アフリカ軍団六万人のドイツ兵の士気を高め、訓練の成果もあがったが、さらにロンメル元帥は、部下の士気を必勝の自信にまで高める方策を考案した。
「部下に必勝の信念をもたせることは容易だ。それは、勝利の機会をたくさん体験させればよい」
そういってロンメル元帥は、しだいに気合いがはいってきた将兵のようすを見ると、次々に小規模作戦を開始した。
そして、元帥は、あるいはトラックを走らせて砂煙をまきあげ、あたかも戦車団のように敵に誤認させたり、敵の捕獲車両を使って敵をとまどわせたり、あるいは戦車模型をならべて敵の眼をごまかしたり、およそ考えられる限りの奇計、謀計を利用して勝利をおさめるとともに、敵が優勢であったり、あるいは危険を察知した場合は、けっして戦わなかった。
勝てる戦《いくさ》をやれば、必ず勝つ――という、まことに、平凡な兵理の実行であるが、小作戦なので大勢に影響はないというものの、形の上ではドイツ軍の連勝、英軍の連敗である。
はたして、ドイツ軍将兵はロンメル元帥の予測どおりに“必勝の自信”に燃えたち、片や英軍は「砂漠のキツネ」とロンメル元帥を呼び、その“狡猾な”戦いぶりに歯がみしながら、一戦ごとにロンメル元帥にたいする畏怖心と、ドイツ機甲軍団にたいする“必敗感”を強めていった。
おりから、ヒトラー総司令部は、一九四一年十二月、ソ連の抵抗に阻まれて対ソ戦を中止して、強力な空軍兵力をシシリー島に転用していた。地中海の英海軍制海権は重大な脅威をうけ、北アフリカ英軍の補給は、困難になってきた。
ロンメル元帥は、この情勢に応えて反撃準備を進め、一九四二年五月末、大攻勢を開始した。
自信と訓練を積み重ねたアフリカ軍団の進撃は激しく、六月二十一日、かつて目標にしたトブルクを占領し、さらに七月一日、アレキサンドリア西方四十マイルのエル・アラメインに到達した。
ロンメルが来る――このニュースに、もはやスエズ運河の命運が定まったと思ったアレキサンドリア港の英艦隊は退避し、市民は逃げ、アレキサンドリア守備軍は重要書類を焼き、兢々《きようきよう》として、ロンメル戦車団のキャタピラ音の接近を待った。
一九四二年夏のロンメル軍のエル・アラメイン攻撃は、英軍に徹底的にロンメル元帥恐怖感を与えた。
英第八軍司令官オーチンレック大将は、指揮下のオーストラリア、ニュージーランド、インド部隊を次々にくりだして、ロンメル軍に反撃をこころみたが、いずれも失敗に終わり、損害を増した。
ついに七月三十日、オーチンレック大将は「現有兵力ではこれ以上の攻撃は不可能である」とロンドンに報告した。チャーチル英首相は、オーチンレック大将を解任し、北アフリカ方面軍司令官にH・アレクサンダー大将、第八軍司令官にB・モンゴメリー中将を任命した。
いずれも、英国陸軍内の勇将として認められている存在であるが、オーチンレック大将には、指揮官を代えただけで、ロンメル軍を撃退できるとは思えなかった。英軍には、第八戦車師団と第四十四歩兵師団が増援され、疲れはてた第十戦車師団の再編制もすすめられていた。
「しかし、砂漠戦に慣れるためには、みっちり訓練が必要だ。それに、なによりも大切なのは、敵にたいする劣等感の除去だが、そのためには、たんに優秀な最高指揮官が赴任するだけではなく、師団長、連隊長、いや分隊長のはてまでの士気の高揚が必要である。では、どうすればそれができるか、といえば、名案はなにもない」
オーチンレック大将は、前回述べたように、部下の全指揮官あてに「ロンメルを恐がるな」と布告した。たぶん、その結果が、かえって“ロンメル恐るべし”の意識強化を招くことにしかならなかったのに気づき、一段と悲観の想いに唇をかみしめたのである。
だが、苦境を感じていたのは、じつはロンメル元帥も、同様であった。
いまにもアレキサンドリアに突入するかと思えたロンメル軍は、英第八軍の反撃をそのたびに打破しながらも、意外に前進の気配をみせなかった。
理由――は、補給難とくに燃料不足であった。ロンメル軍主力は、戦車兵団である以上、燃料がなければ動けない。むろん、ロンメル元帥は、燃料、弾薬、食糧の円滑な補給にかんしてベルリンに強く要請したが、北アフリカはもともとイタリアの支配圏であるので、補給はイタリア軍の責任とされていた。
ところが、アテにならないのがイタリアの国民性だ。イタリア軍総司令官カバレロ将軍は「ガソリン六千トンを運ぶ、そのうち一千トンは明日空輸する」という。しかし、こない。質問すると、おお、明日は必ず、と、アシタ、アシタとくり返すだけだ。
ロンメル元帥の副官アルディンガー大尉は、いまいましさをこめて回想しているが、要するに、ロンメル元帥にはイタリアの戦闘部隊は指揮できても、補給部隊に命令する権限は与えられていなかった。結局、ロンメル元帥にできることは、協議と要求と抗議にとどまり、あと一歩、とスエズ運河の空を望みながら歯がみする日がつづいた。
八月三十一日、ロンメル軍は、うずくまってチャンスをねらっていたトラが、猛然とおどりかかるように、砂漠にキャタピラ音をひびかせてエル・アラメインの東南、アラム・エル・ハルハァ丘陵に殺到した。
ロンメル元帥は、持久の不利を痛感していた。ドイツ空軍が奪ったかにみえた地中海の制空、制海権は、しだいに英空軍に確保された。英軍の増強でロンメル軍の優位もゆらぎ、ロンメル元帥自身も病体になっていた。
「自分のショーは自分で演出する」――というモットーにしたがい、ロンメル元帥は、いぜんとして英軍から捕獲した装甲車にのり、前線を走りまわっていた。ほとんど一日じゅう装甲車に乗りづめのため、元帥は気管支、鼻、肝臓を病み、部下の眼にも元帥の衰弱が目立つようになっていた。
「軍人にとって、最も不安なのは、敗北の予感にみまわれるときだ。そして、その予感を最も強く察知するのは、指揮官が弱っているのをみるときだ。心理的にも、肉体的にも、指揮官は弱みを部下にみせてはならず、その印象を与えぬ努力を欠いてはならない」
ロンメル元帥が八月三十一日攻撃を決意したのは、それ以上の時間の経過は不利と判断したためであると同時に、指揮官としての冷厳な心構えの呼び声に従ったためでもある。
しかし、攻撃は、いち早く迎撃態勢をとっていたモンゴメリー英第八軍司令官に阻止され、追撃させてワナにかけようとした試みも、肩すかしをうけた形となり、ロンメル軍は後退した。
ロンメル元帥は、病気療養のため、ドイツに帰った。元帥は、北アフリカ戦線に当分動きはないと判断していた。また、かりに英軍の反撃があっても、じゅうぶんに対処できる陣地配備と作戦を指示していた。部下将兵の士気は高く、頭をなやました補給も、戦線を縮小したおかげでなめらかさをとりもどしていた。
病気回復まではだいじょうぶと見定めたが、十月二十四日、突然、ロンメル元帥はヒトラー総統の電話をうけた。前日、十月二十三日夜、英軍が全線にわたって攻撃を開始してアフリカ軍団は危機に遭遇している、ご苦労だがアフリカに行ってくれぬか、という。
「わが部下を心配していただき、感謝にたえません」とロンメル元帥は、即座にヒトラー総統の依頼を受諾し、翌朝午前七時、特別機のタラップを、かけのぼって、アフリカに飛んだ。
英軍の攻撃は、モンゴメリー第八軍司令官の入念な用意のもとに、おこなわれた。モンゴメリー中将は、赴任後“砂漠のキツネ”ロンメル元帥の戦術をこと細かに検討すると、そっくりロンメル元帥の手口をまねることにした。
「敵であろうと、偉大なる天才は尊敬すべきである。まして、狡猾《こうかつ》なキツネをとらえるには、まずその狡知を知り、それ以上のチエを働かさねばなるまい」
モンゴメリー中将は、ロンメル元帥がしばしば偽装戦術を採用したことにならい、数百台の模造トラックをつくり、それを戦車にかぶせてカバーしたり、あるいは重砲陣地予定地に置いて一夜のうちに砲陣地に変える準備をした。また、燃料集積地らしい施設の工事をおこない、ただし、十一月末以前には完成しそうにないスピードを示した。
送油管建設をあらぬ方向に進めて、いかにも次の作戦目標がそちらであるかのように、みせかけた。ドイツ軍偵察機の行動は綿密にチェックし、“真相”をみぬかれないように迎撃するとともに、“誤解”を助ける程度に偵察させた。おかげで、攻撃が開始されると、ドイツ軍はほぼ完全な奇襲をうけた形になり、どの攻勢が英軍の主方面であるか判断できず、混乱した。
ロンメル元帥は、司令部に到着した数時間後、報告を整理して英軍の主攻方角が北方にあると、正確に判定した。しかし、英軍側の準備は周到であり、戦力もはるかに優勢であった。戦車だけをくらべても、ロンメル軍がイタリア軍戦車をふくめて約六百台であるのにたいして、モンゴメリー軍は千百十四台、うち二百六十七台は米国製の新鋭シャーマン戦車であった。
十一月二日、モンゴメリー中将は目標をドイツ、イタリア軍境界線に定め、中央突破をねらったが、予期していたロンメル元帥に包囲され、一気に戦車八十七台を失って敗退した。しかし、同時に、ロンメル元帥は、ドイツ軍戦闘能力が限界にきていると判断し、その夜、全軍の撤退を下令した。
すると、翌日、ベルリンのドイツ軍総統大本営から一電がとどいた。
「エル・アラメインは最後の一兵となるも死守せよ。一ミリの後退も許さず、勝利か、しからずんば死あるのみ。アドルフ・ヒトラー」
電報を一読して、ロンメル元帥は眉をひそめた。再読して、首をかしげた。そして、三読して唇をかみしめた。ヒトラー総統にたいして、はじめて深刻な疑念を感じたからである。
ロンメル元帥は、戦争とは勝つものであり、指揮官の任務は無駄な損害を避け、終局の勝利をめざすことにある、と信じている。撤退を命じたのも、再起の能力を保持するためである。ところが、ヒトラー総統の死守命令は、明らかに損害を無視しており、それに従えば、ドイツ・アフリカ軍団は全滅しかねない。
命令は、命令であり、ロンメル元帥には服従の義務があるが、おそらく、ヒトラー総統はアフリカ戦線の実情を知らないからであろうか。
ロンメル元帥は、部下に可能なすべての努力を要求するかわりに、部下を信頼し、かつその安全を想う心理も、強い。まさか、ヒトラー総統は、かねがね“世界最優秀民族”と強調するドイツ人の滅亡を予想しているわけでもあるまい……。
ロンメル元帥は、撤退命令を維持して、戦車八十台、ドイツ兵一万人、イタリア兵二万五千人に減少したロンメル軍を、巧みにモンゴメリー軍の追尾をかわしつつ、後退させた。
十一月末、ロンメル元帥は、総統大本営に呼ばれた。元帥は、ヒトラー総統に会うと、アフリカ軍団の窮状を報告した。十一月八日には、米英連合軍がチュニジアに上陸して、ロンメル軍は側背をおそわれる危機に直面している。兵力、装備に打撃をうけないうちに、アフリカ軍団をイタリアに転用すべきである、とロンメル元帥は進言した。
元帥は、ヒトラー総統は自分の説明になっとくするものと期待していたので、気軽に話しつづけたが、語り終えたとたんに眼をみはった。ヒトラー総統の形相《ぎようそう》は、一変していた。
「ロンメル、貴官は敗北主義者だ、貴官の部下は臆病者だ。似たような進言をしたロシア戦線の将軍は、銃殺刑になった。貴官をそうするつもりはないが、気をつけたがいい……いいか、命令を与える。トリポリは絶対に確保せよ。失えばイタリアは単独降伏する可能性がある」
「しかし……総統閣下、トリポリとわがアフリカ軍団とどちらが大事かといえば……」
「アフリカ軍団など問題ではない……。とにかく増援はおくる。貴官は戦えばいいのだ。話は終わりだ……出ていってくれ」
長靴のカカトをうち鳴らして、ロンメル元帥は部屋の外に出た。そのあとをゲーリング空軍元帥が、肥満体の腹を波うたせながら追いかけ、自分の特別列車でローマに同行しよう、と提案した。ロンメル元帥は、車中で、総統側近のゲーリング元帥に再度の説得をこころみたが、ゲーリング元帥は車室を飾る絵画と指にきらめく大粒のダイヤモンドに話をそらしつづけ、ダイヤをちりばめた空軍最高十字章をロンメル元帥に贈って別れを告げただけであった。
「アフリカに帰ろう。ゲーリングは狂人だ。ヒトラーも、とくにそれよりましだとは思われなくなった」と、副官アルディンガー大尉につぶやいたロンメル元帥は、気落ちしたようにつけ加えた。
「イギリス人、ソ連人、こんどはアメリカ人も敵になったが、さらにドイツ人の中にも敵がいることがわかった。こんごは、この敵から部下を守るのが、私の仕事になったようだ」
アフリカ戦線では、J・フォン・アルニム大将のドイツ第五戦車軍、ジョバンニ・メッセ大将のイタリア第一軍の増強がおこなわれたが、ロンメル元帥の作戦指導ぶりは消極的となった。相変わらず、巧妙な機動でモンゴメリー軍の出血をさそうが、自発的に攻撃することはほとんどなく、時間をかせぎながらの後退がつづいた。
ただ一度、昭和十八年三月五日、敗北をきらう勇将の血をおさえきれなかったように、メデニムで反撃に転じ、英軍を潰走《かいそう》させたが、元帥は部下の自信の回復を見とどけると、攻撃を中止させた。そのあと、ロンメル元帥は再びドイツに帰り、ヒトラー総統にアフリカからの撤兵を意見具申した。元帥の病状は悪化し、顔面は熱帯性潰瘍《かいよう》におおわれ、ノドの包帯を固くまかないで、とめどないセキの発生をおさえていた。二年間の熱砂の戦場暮らし、しかも心身を酷使した指揮官生活に、元帥は倒れる寸前の状態にあった。
ロンメル元帥は、さすがに衰弱した元帥の容姿に同情の言葉をかけるヒトラー総統に、部下もより以上の惨状下にある、と撤兵を要請したが、ヒトラー総統は元帥に療養とイタリアでの新任務を命じながらも、撤兵には「ナイン」(否)と首をふった。
しかし、アフリカ戦線のドイツ軍は、ロンメル元帥の不在でさらに敗色を濃くして、五月、アフリカ軍団はモンゴメリー軍に包囲されて降伏した。ドイツ兵捕虜は、砂漠を歩いてスエズ地区の捕虜収容所にむかわされたが、よろめくロンメル軍将兵に、敗北感はなく「戦わなかったから敗けた。戦えば勝っていた」と将校が広言すれば、兵たちは「さあ、イギリス領(スエズ)に行けるぜ……ゲーゲン・エンゲラン、ゲーゲン・エンゲラン……」(行こう、イギリスヘ、行こう、イギリスヘ)と流行の軍歌をうたいながら、行進した。
このようすを聞いて、ロンメル元帥は感銘の涙を流しながら、夫人に手紙を書いた。
「部下の立派な態度は、指揮官である私にたいする信頼のあらわれだ。指揮官の良否は、指揮官がいないときの部下の態度で左右されるというが、その意味で、私は最高の栄誉を与えられたといえる。だが、同時に私は深い悔恨につつまれている。私は、この部下の信頼に応えるために、なにをすればいいのだろうか?」
ロンメル元帥が、この手紙を夫人におくったのは、昭和十八年六月はじめ……そして、なにをすべきか、と胸中によどむ自問に、元帥が回答を発見したのは、八カ月後、昭和十九年二月末であった。
――そのころ、
ロンメル元帥は、連合軍の大西洋岸上陸にそなえて、オランダ方面ドイツ軍総司令官に就任していた。連合軍はすでに南部イタリアに進攻したあと、着実に北上をつづけており、やがてフランスあるいはオランダに上陸してくるのは必至とみられた。
元帥は、スツットガルト市長カール・シュトローリンの訪問をうけた。シュトローリン市長の名前は、元帥も知っていた。前年の八月、シュトローリンはライプチヒ市長ゲルデラーとともに、ユダヤ人虐殺とナチス党の法支配の中止を訴えた意見具申書を政府に提出していた。そのコピーは、ロンメル元帥夫人にも送られてきた。
シュトローリン市長は、軍事情勢が絶望的であることを指摘し、ドイツ国民を救う道を考えるべきだと述べ、その方法は? と質問するロンメル元帥に、答えた。
「ただひとつ……ヒトラー総統を捕えてマイクの前に立たせ、辞職を発表させることです」
そのためには、すでに一部の高級将校の同意も得ているが、ぜひ「閣下の決起を期待します」と、シュトローリン市長は、ロンメル元帥を注視した。
ロンメル元帥は、黙思した。会談の間、元帥は意見を求められ「戦争は敗《ま》けた。彼は幻想の中に生きている……彼は、自分が国家だといったルイ十四世の再来だ、自身と国民の利害との区別を知らぬ」といったヒトラー評を述べていた。
ヒトラー排斥《はいせき》に異論はない。が、そのための政治的陰謀に加わるのは、はたして軍人としての正当な仕事であろうか。
シュトローリン市長がロンメル元帥を勧誘したのは、元帥が、ドイツ軍およびドイツ国民の間で、ヒトラーに次ぐ声名を得た存在であり、しかも政治的に無色で、私利のために動かぬという定評があるからである。革命あるいは革新の動機に、私利の要素がふくまれることは禁物である。指導者には、だから、無条件で信服できる人物を求めねばならず、その人物は、ロンメル元帥以外にはない、と見定められた。
元帥にも、シュトローリン市長の意向は推察できた。その信頼は嬉しいことでもある。そして、なによりも、アフリカで部下を見捨てられた思いは、ヒトラーがドイツ国民も見捨てる考えの持ち主ではないか、という疑惑を濃くしている。
「承知した。われわれ軍人の使命は、国民を守ることにある。その守りかたは、一種類ではないはずだ」
ロンメル元帥は、シュトローリン市長の手をにぎった。
元帥は、個人としての指揮官の能力を評価する自信もある。それだけに、独裁者の弊害についてもよく理解できる。その理解がヒトラー失脚計画にうなずかせたのだが、独裁者の特質のひとつは、個人重視主義である。その意味では、ロンメル元帥も“独裁性格者″であり、ロンメル元帥の場合、その“独裁性格”が反独裁クーデターに、ふみきらせたわけで、あるいは成功のさいは、新たな“独裁者”の誕生を迎えたかもしれぬ、という仮説が伝えられるゆえんでもある。
だが、ロンメル元帥の心境にくもりはなかった。軍人は国民を守るために戦場で戦う。ならば、国民を守るために、誤った指導者を退ける“闘い”に加わるのも、軍人の務めであろう。
ロンメル元帥は、だから、連合軍のノルマンディ上陸(六月六日)のあと、七月二十日、爆薬によるヒトラー暗殺計画が失敗したときも、むしろ、泰然としていた。元帥は、ヒトラー失脚計画には同意したが、暗殺計画は知らなかった。シュトローリン市長たちも元帥には告げなかった。元帥の心底に、軍人としての忠誠義務が消えず、上司の暗殺に同意することは望めなかったからである。
しかし、暗殺計画に参加しなくても、“反逆者”である。ヒトラー総統に容赦の気持ちはなかった。
ロンメル元帥は、暗殺未遂事件の三日前、七月十七日、前線視察中に英軍機の掃射をうけ、左顔面に重傷をうけて加療をつづけていたが、十月十四日、陸軍人事局長ブルクドルフ将軍の来訪をうけた。ブルクドルフ局長は、陰謀発覚を伝え「三秒間で効果を発揮する」毒薬を用意してきたこと、それで自殺すれば反逆は不問にして国葬でとむらい、家族に年金を支給する、それがいやなら“人民法廷”で裁く、とヒトラー総統がいっている、と述べた。
副官アルディンガー大尉は、使者を射殺して前線に脱出することをすすめたが、元帥は、周囲がすでにナチス親衛隊に包囲されている、脱出路はない、と最後の的確な戦術判断をくだした。
ロンメル元帥は、自決を承知し、自動車が出発した十五分後に、渡された毒薬をのんだ。
ヒトラー総統が、あえて元帥を処刑しなかったのは、卓越した声望のゆえに、元帥処刑が軍隊、国民の反感をかきたてることを恐れたからである。
また、それほどの将軍の死を悼《いた》む気持ちが生まれたためか、ヒトラー総統は、敗戦まぎわの昭和二十年三月七日、元帥の記念像を建てることを思いたち、夫人に次のような記念像デサイン案を伝えさせた。
「記念像はライオンがふさわしい。考えられているのは、死にひんしたライオン、泣いているライオン、おどりかかろうとするライオンの三像だが、どれをご希望でしょうか」
むしろ、狂ったライオンが好ましい。ただし、夫のためではなくアナタのために――というのが、ロンメル夫人の回答であった。
林 彪
中国共産党中央委員会副主席、党中央軍事委員会副主席、国務院国防部長、中国人民解放軍総司令――つまりは、毛沢東に次ぐ中国のナンバー・ツーであり、“七億の軍師”といわれるのが、林彪《リンピアオ》将軍である。
もっとも、現在、中国人民解放軍に階級はない。一九六五年五月までは、林彪将軍も元帥であり、他国なみに大将から兵までの階級があったが、同年六月一日、林彪国防相自身により一切の階級制度は廃止された。したがって、林彪総司令も、総司令という職制はあるが、階級はない。
「トンチー、ライライ」(同志よ、来たれ)と林彪将軍が兵に呼びかければ、兵も「シー、トンチー」(ハイ、同志)と答える間柄である。
軍閥や介石軍と戦って革命に邁進《まいしん》した「紅軍」の昔、いわば初心に還った編制といえるだろうが、ことし(編註・一九七一年現在)六十四歳の林彪将軍は、幼名は林毓容《フーユン》、武漢三鎮のひとつである湖北省武昌市に生まれた。父親は雑貸店の店員から汽船会社の会計係をつとめた。
林彪将軍は、革命家であった二人の叔父の感化もあり、武昌の共進中学高級二年生のとき、進歩派学生の組織である全国学生連合会議の、湖北省代表にえらばれ、上海の全国代表会議に出席した。
まだ毛沢東の名はとくに聞こえず、毛沢東はもっぱらマルクス主義の書籍、雑誌の販売を通じて共産党の党勢拡張につとめていた。
ところで、中学生林毓容は上海についてまもなく、党の指令であるとして、広州の黄埔《ホワンプー》軍官学校に入学して、軍人になれ、と命じられた。指示を伝えた先輩同志の代英《ユンタイイン》は、もともと武闘に興味をもっていたので眼を輝かす林少年に、このさい、名前も変えたがいい、といった。
「ボクが考えてきたが、彪はどうだろう。林彪、いい感じだよ」
「林彪……うん、三国志の将軍のようですね、シェシェ(謝々)」
眉はきわだって太いが、どちらかといえば小柄、色白でひ弱な印象さえ与える林少年は、いかにも強そうな改名を喜んだ。
黄埔軍官学校は、中国革命の父・孫文が、新生中国の未来をになう将校の養成をめざした士官学校で、そのころの校長は介石将軍、副校長格の政治部主任が現中国国務院総理周恩来であった。
そのごの二人の関係を思えば、あるいは、いかにも大人国中国らしい同舟ぶりといえるかもしれないが、むろん、まだ若い共産少年林彪にとっては、二人はともに輝ける先生でしかない。ひたすら、一人前の軍人としての巣立ちを志しながら、軍官学校の門をはいった。
ところが、実際には、林彪がふりあおぐ校長や教官陣も若かった。介石校長三十七歳、副校長周恩来二十六歳、教官陳誠《チエンチヨン》二十七歳、そして教官葉剣英《イエチエンイン》となると、林少年よりわずか三歳年長の二十一歳でしかなかった。
しかも、教育は極度の速成主義で、一九二五年十月入校の林彪将軍は第四期生だが、そもそも開校が一九二四年六月。たった一年四カ月前である。一期の訓育はほぼ半年平均でしかない。第四期の場合は、一九二六年七月卒業だが、それでも教育期間は九カ月にすぎず、林彪少年にとっては、猛烈なスパルタ訓練にあえいでいるうち、気がついたら陸軍少尉の軍服を着ていた、という環境であった。
そのうえ、林彪少尉は、校門を出るやいなや、介石総司令が率いる、国民革命軍の第四軍第十二師団独立連隊に配属され、そのまま戦場にむかわされた。地方に割拠する軍閥を制圧して中国統一を成就しようとする、介石将軍の「北伐」が開始されたからである。
この北伐行は、林彪将軍の指揮官としての成長に決定的な影響を与えた。
共産党の場合、部隊にはつねに二人の指揮官がいる。軍事を担当する軍人と、党代表である政治指導員である。ということは、シビリアンである政治指導員も軍事を理解せねばならず、軍人指揮官も政治に眼を開く必要があるわけだが、林彪将軍が与えられた境遇は、この「軍政不可分」の共産軍リーダーとしての訓練をうけるために最適のものであった。
林彪少尉が配属された独立連隊は、連隊長葉挺《イエテイン》以下、将兵のほとんどが共産党員であり、同じく党員である林彪少尉にとって、この“共産連隊”は、一層の同志愛を培養する場所にもなった。
しかも、葉挺連隊長は「葉挺が叫べば負傷者もタンカをとびおりて突撃する」といわれるほどの猛将であった。林彪少尉にとって、初陣に勇将の指揮下にはいったことは、これまた貴重な体験である。
さらにまた、これは共産主義者林彪少尉にとっての収穫であるが、北伐戦の態様も学習のひとつであった。葉挺連隊は湘南省攸《ヨウ》県から武漢を経て北上したが、進撃してもほとんど“敵″に遭遇しない。攻撃目標である部落に突入すると、たいていはすでに“敵軍”は逃走したあとで代わりに鎌や古めかしい槍をもった農民たちが、歓迎の声をあげるのである。
職業軍人である林彪少尉にとって、これはまことにものたらない“戦い”であったが、共産主義者林彪にとっては、農民の力を認識する貴重な機会であり、のちに林彪将軍が農民に革命の主体を見出す毛沢東に共鳴し、その片腕となる基礎がつくられていた、といえる。
――ところで、
若い林彪少尉がこれら処世の教訓に身をひたしながら、ともかくも夢中で討伐作戦にかけめぐっている間に、介石将軍は北伐がすすむにつれて共産党弾圧方針を強化し、一九二七年四月の上海における共産党粛清を皮切りに、七月には湖北、湖南一帯で“赤狩り”を開始した。
当時、葉挺将軍は第十一軍第二十四師団長になり、林彪将軍もわずか一年の間に少尉から少佐に進級していたが、やがて、これら“赤い部隊”に介石軍の銃口がむけられるのは、明らかであった。
一九二七年八月一日、“赤い部隊”が南昌に蜂起し、共産革命の叫びをあげたのは、いわば自然の成り行きであり、クーデターに参加した十五個連隊を基幹とする「紅軍」が誕生した。
いらい、「紅軍」、そして林彪将軍は、介石軍に追われながら、南に北にと広い中国大陸を歩きまわることになるが、その間、林彪将軍の指揮官としての声名は、しだいに高まっていった。
おそらく、林彪の名が敵、味方双方に最も強く印象づけられたのは、一九二九年六月、江西省井岡山《チンカンシヤン》の戦いであった。
井岡山は毛沢東がろう《ヽヽ》城し、現在では“革命の聖地”と唱えられているが、介石将軍は井岡山の北麓、永新に駐屯する楊池生《ヤンチーシヨン》指揮の五個連隊に「赤匪」討伐を命じた。
井岡山を守る「紅軍」第九軍長朱徳は、永新から井岡山に至る二本の山道のうち、広い新道を敵主力がのぼってくるものと考え、新道をおさえる峠に一個連隊と一個大隊を配置し、旧道の峠に一個連隊を置き、ほかに二個連隊を予備にした。
ところが、楊池生将軍は朱徳軍長のウラをかき、旧道に三個連隊、新道に二個連隊をさしむけた。新道を進んだ二個連隊のうち、李文彬《リーウエンビン》が指揮する第二十一連隊は精兵をうたわれ、李文彬連隊も“猛虎”の異名を得ていた。
「紅軍」は、ワナにはまる形となった。新道を進んだ部隊は、両側を断崖にはさまれた一本道で、李文彬“猛虎”連隊と不意に遭遇し、火力にすぐれる“猛虎”連隊に撃破された。一方、旧道を伝った部隊は、いつの間にか目標の山頂に敵の大部隊が展開しているのをみて、釘づけとなった。側背から新道の敵軍がせまってくる。
旧道部隊の第二十八連隊長王爾琢《ワンアルチユオ》は、連隊本部および各大隊幹部を集めて、撤退か攻撃かを討議した。意見は二つにわれ、あわや、敵前で両派の乱闘がおこらんばかりとなったが、そのとき立ちあがって叱咤したのが、二十一歳の第一大隊長林彪少佐であった。
「同志諸君、なにをおどろき、なにを迷うのか。敵がうしろから攻めてくるなら、われわれは正面の敵を破って、うしろの敵にわれわれの後方を守らせればよいではないか」
“猛打(猛攻)、猛中(猛撃)、猛追”――この“三猛”こそ、敵を破り味方に勝利をもたらす唯一の方法だ、と林彪大隊長は、指摘した。
三猛戦術は、ほかならぬ林彪将軍が初陣に参加したときの連隊長葉挺の口ぐせであったが、林彪将軍はこの先輩の教えに独創の味覚を加えた。
林彪大隊長は約一時間にわたって周囲を偵察した。道はせまく、林は深く、味方の兵力は少なく、火力は乏しい。山頂に展開する敵は、たぶん味方の二、三倍、火力は十倍以上であろう。林彪大隊長は、この徹底した味方の不利を逆に必勝の条件に転化する方法として、小単位の“斬り込み”班による突撃を考案した。
連隊から古参兵、党員、指揮官など二百四十人の“勇士”をえらびだし、二十四人ずつの十突撃班を編成した。そして、二十四人をさらに三、五、七、九人にわけ、三人は機関銃、五人は槍、七人は小銃、九人は旧式の猟銃を持たせ、夜襲の要領で接近して、いっきに敵陣にとびこめ、と指示した。
山頂の敵軍は、茶店を中心に休息していた。おりから、昼食時間でもあり、陽光にぬくもりながら、弾帯をはずして木陰に寝そべる兵も多かった。
そこを突然、林彪斬り込み隊におそわれた。二百四十人が十班にわかれ、十カ所から突進してきたので、とっさに大部隊の奇襲をうけたと思いこみ、銃をとるひまもなく、急坂をひしめきあって敗走した。
戦勢は一変して、勢いにのっておしあげてきた李“猛虎”連隊が、逆に横から挟撃される結果になった。林彪斬り込み隊が槍、旧式銃で武装していたように、「紅軍」の装備は悪く、破れた綿服姿がほとんどで、農民一揆軍とさして変わらぬ集団だが、互いの肩がこすれあうせまい山道では、小銃も槍も効果に大差はない。“猛虎”連隊は、あるいは槍につらぬかれ、あるいは断崖にはじきとばされて、壊滅した。
この井岡山「七嶺《チーチーリン》の戦い」は、林彪将軍の威名を高め、「紅軍」が一九三五年十一月、その苦難に満ちた「長征」を終えるころには、二十八歳の林彪は、中将クラスにあたる第一方面軍第一軍団長に抜てきされていた。
「長征」の間、林彪将軍は劣勢な「紅軍」をひきいて“常勝将軍”の名を得ていたが、それは将軍の信条――すなわち、
「勝てる戦いを戦い、敗ける戦いは戦わぬ」
という主義を守ったからである。
その意味では、林彪将軍は、ドイツのロンメル元帥とインパール戦の第三十一師団歩兵団長宮崎繁三郎少将とをあわせたような存在だとみられるが、その特質は、一九三六年二月、華北に進出した日本軍と結ぶ山西省の閻錫山《イエンシーシヤン》 軍を攻撃したときに、発揮された。
このとき、林彪軍団は氷結した黄河を渡って山西省西南部に進入する計画だったが、林彪軍団長は、自ら少数の部下をつれて河岸の偵察に出かけた。林彪将軍は指揮官の眼でたしかめねば勝利は保証できぬ、と信じていたが、吹雪の中を一村にはいると、村長宅を訪ね、まず「県の行政地図がほしい」と依頼した。軍用地図はもっているが「地図は一枚ですむとは限らない。ときには一般地図のほうがくわしいこともある。情報にこれでよいという限度はない」からである。
次に、将軍は、道案内人として羊飼い一人、船頭一人を求めた。部下は不審な顔をみあわせた。船頭は、わかる。渡河作戦のために川幅や浅深を知るために役立つはずだが、羊飼いはなんのためか?
林彪将軍は、しかし、さっさと雪の中を進み、やがて河岸に到着すると、対岸を眺めた。対岸は、急な崖がせまり、白雪におおわれた山腹に黒い穴が点々と見える。閻錫山軍の陣地である。将軍は、羊飼いを呼んだ。
「老同志よ、あんたはこの辺の山にはくわしいだろうね」
「あたりめェよ。羊飼いを三十年もやっている。河のこっちもあっちも、みんな行っているさ」
「フム。それで、あの崖はのぼれるかね」
「のぼれるよ。羊がのぼれるところは、人間も行けるさ」
「そう。羊が行ければ人間も行ける……」
大きくうなずく林彪将軍に、部下たちも、はじめて将軍が羊飼いを連れてきた理由を理解して、うなずいた。
林彪将軍は、船頭に川の流れを、また羊飼いに山のけわしさをたずねて確認しながら、詳細に地形偵察をつづけたが、いざ進軍となると、最前線のトーチカ陣地に司令部をすすめ、先陣の突撃隊長を招いて、くわしく敵の布陣と味方の作戦を説明した。
「どうだ、わかったかな。不審があればなんどでも説明するよ」
「わかりました」
「そうか、では、同志、キミが説明してみたまえ」
ちょうど、インパール・コヒマ高地で、宮崎少将が敵前で部下に戦術教育をほどこした様子を想起させるが、林彪将軍は、隊長の言葉が終わると「よろしい、同志。キミは完全に理解している。必ず任務は達成できるよ」と、はげまして送りだした。
この一兵にまでなっとくずくの戦いをさせる、というのが、毛沢東の遊撃戦略の核心であり、林彪将軍が常勝の道を歩んだコツでもあったはずである。もともと、シロウトの農民を有用な戦士に育てあげるためには、各個人に使命と行動の内容をなっとくさせるのが、最も有効な方法であり、また個人に十分な理解があれば、そのまま集団としての戦力発揮を期待できるからである。
林彪将軍は、閻錫山軍との戦いのあと、一九三六年六月、瓦窰堡《ワーヤオバオ》に設けられた「抗日紅軍大学」校長となった。翌年、「抗日軍政大学」と名前を変えて延安に移ってからも、林彪将軍は校長をつとめた。
この延安の校長時代に、三十歳の林彪将軍は女子学生劉錫銘《リユーシーミン》と結婚した。十九歳から戦野を走りつづけてきた林彪将軍の人生にも、はじめて華やかな色彩がそえられたわけだが、この結婚は二、三年で終わり、将軍は一九三九年、または一九四〇年に、現在の夫人葉群《イエチユン》と再婚した(注、中国要人の私生活に関する資料は少なく、結婚の年月日も、不明な場合が多い。林彪将軍の子供についても、娘・林豆豆の存在が知られているだけだが、ほかに二人いるとも伝えられている)。
支那事変(日中戦争)における林彪軍の活躍としては一九三七年九月、第八路軍を名のった「紅軍」第百十五師団を率いた将軍が、河北省平型関で板垣征四郎中将の第五師団の一部を撃破した戦いが、よく知られている。
この戦いで、林彪将軍は、道路の両側に部隊をひそませ、じゅうぶんにひきつけてから攻撃した。日本軍は混乱したが、トラック、地形を利用して応戦した。林彪部隊のうち、多くは、日本軍と戦うのははじめてなので、それまで戦ってきた介石軍と同じく、打撃をあたえて降伏を勧告すれば手をあげると考える者が、少なくなかった。そこで、日本軍に呼びかけた。
「抵抗はやめよ。武器をすてて出てくれば殺さない。捕虜は寛大にあつかう」
ところが、相手は中国語を知らず、おまけに敗北という単語を理解したがらない日本軍である。答えは、鉄砲弾と突進でしかなく、ようやく数時間後に、撃退することができた。
戦果は大きく、中国側の記録は日本軍の戦死三千人と伝えているが、最も顕著な戦果は、それまで根深く植えつけられていた「中国人は日本人に勝てない」という“神話”を打破したことであった、といわれる。
林彪将軍の名前は、再び喧伝された。将軍は平型関の勝利のあと、太行山脈の主峰五台山にこもって山岳ゲリラ戦を指導していたが、一九三八年九月、将軍は山西省西部で胸部に負傷した。
下元熊弥中将の、第百八師団と交戦中に、共同作戦をしていた国民党山西軍の誤射によるものであった。将軍は一九三九年冬から一九四二年はじめまで、療養をかねて中国共産党駐ソ代表としてモスクワに滞在し、帰国してからも延安にとどまり、第一線には出なかった。
林彪将軍が出陣したのは、太平洋戦争終結後の国・共内戦においてであったが、太平洋戦争が終わった段階での介石軍と、毛沢東軍の戦力には、格段の差違があった。
介石軍は約五百万人。陸軍四百三十万人のうち、約百万人三十九個師団が戦時中の米国の援助で、完全な米式新装備を身につけているほか、戦車二千台、飛行機千二百機、米英両国からの贈与艦艇と接収した日本艦隊をふくむ海軍も保有していた。
一方、毛沢東軍はそれまでの「人民戦争」で兵力を増やしてはいたが、正規軍百二十万人といううち、正式の師団編制は三個師団にすぎず、ほかに二百万人の民兵がいたが、小銃は三人に一挺という劣悪装備であった。
内戦が開始されると、介石軍の参謀総長陳誠は「三カ月以内に共産軍を全滅させる」と、かつて支那事変開幕にさいしての杉山元陸相の言明に似た自信をひれきした。
事実、まず満州で開かれた戦いでは、常勝の林彪軍もあっけなく敗退して、陳誠参謀総長の予言は的中するかにみえた。
だが、一九四七年五月、ソ連軍が関東軍から接収していた旧日本軍のぼう大な武器弾薬を毛沢東に供給したのがきっかけとなり、あわせて介石政府の腐敗に助けられて、毛沢東軍はじりじりと民衆の支持と戦果を拡大しながら、中国全土の統轄への道を進んだ。
かつての「紅軍」は「人民解放軍」となり、一九四九年十月一日、毛沢東を主席とする中華人民共和国が誕生して、林彪将軍の征旅にも一応のピリオドがうたれた。
もっとも、林彪将軍は朝鮮戦争がおこると、義勇軍をひきいて朝鮮半島に進撃したが、林彪将軍の本領は、むしろ、そのごの“政戦”に発揮された。
「文化大革命」にさいして毛沢東主席を支持しての活躍であるが、このとき紅衛兵を北上させての“奪権闘争”は、まさに「農村による都市の包囲」を求めて長征したかつての、毛沢東・林彪戦略の再現であり、あるいは中国史に生きつづける“天下を望む英雄”の気概をかきたてたものであった……。
その意味では、林彪将軍は、まことに主義と教条に忠実な共産国指揮官の典型とみられるとともに、中国大陸の大地から生まれ、大地をはなれぬ中国の武将の末裔《まつえい》であることを確認させる存在かもしれない。
グリゴリー・ジューコフ
ソ連邦元帥グリゴリー・ジューコフは、両親のうち、多分に母方《ははかた》の資質をうけついだとみられる。
母親ウスチニヤ・アルチェミエブナの父、つまり元帥の祖父アルチェムは馬をかつぎあげたり、尾をつかんでひき倒す力持ちだったが、母親も八十キロ以上の穀物袋を軽々とはこんだ。ジューコフ元帥の生まれながらの頑健な体格と筋肉は、明らかに母系の贈り物であった。
ジューコフ家はモスクワ市西南のストレルコフカ村に住んでいたが、帝政ロシア時代の貧農に共通して、農奴に近い窮乏生活であった。ジューコフ元帥が五歳のときに生まれた弟アレクセイは、父親につづいて母親も出稼ぎに出たため、母乳を摂取できず、水とパン粉で育てられようとしたが、一年もたたずに死んだ。
家はたった一間で、屋根がくずれかけていた。ついにその屋根がくずれ落ちた。父コンスタンチンは嘆き、どうすればいいのか、と頭をかかえた。
母親は、やはり度重なる不幸に涙ぐんでいたが、考えることはない、牛を売って材木を買おう、といい、遠くを見つめながら、つぶやいた。
「裕福になったら……もっといい家を建てようよ」
この母親の言動からうかがえるのは、あるいはロシア農婦に共通しているかもしれないが、苦難にたいする忍耐、困難にたいする早い反応、未来への願望または野心であり、それは同時に、ジューコフ元帥がしっかりと母から受けつぎ、そのごの処世の指針にしたものでもあった。
ジューコフ元帥は、村の教会付属小学校(といっても同級生は男女二十八人だったが)を優等で卒業すると、モスクワで毛皮商を営む母の弟の家に徒弟奉公にいった。一日十一時間〜十五時間の労働のあと、便所の横の終夜灯の下で勉強をつづけ、夜間市立中学校を卒業した。
徒弟期間は四年半で、そのあとは一人前の職人になる。住み込みなら、月十ルーブル、通勤なら月十八ルーブルの給料がもらえる。
その徒弟期間の終わりごろ、ジューコフ元帥は里帰りの休暇をもらった。使い走りの駄賃をためた貯金で家族に土産《みやげ》品をととのえた。母親には三ルーブルと砂糖、茶、菓子を渡し、父親にも一ルーブルを渡した。長い間、砂糖入りのお茶は飲んでいなかった、と喜んだ母親は父親がつまむ一ルーブルをにらんでいった。
「パパには二十カペイクでたくさんだろうよ」(注、一ルーブルは百カペイク)
「なにをいうんだ、お前。四年ぶりに会う息子だ。貧乏話はよそうじゃないか」
父親はいちだんと固くルーブル札をにぎりしめて、あとずさりした。ジューコフ元帥は、笑った。そして、両親の喜ぶ姿に、早く腕のいい毛皮商人になり、母親が願う新しい家を建ててやろう、と決心した。だから、第一次大戦がはじまり、周囲の若者たちが義勇兵に志願しても、毛皮商の作業場にとどまりつづけた。
だが、一九一五年七月、ジューコフ元帥も召集令状をうけ、新兵訓練の後、第十ノブゴロド竜騎兵連隊に配属されると、“世界観”は一変した。
ひとくちにいえば、ジューコフ元帥は「自由」と「未来」を発見した。
「主人はときおり、過失をおかした二人の徒弟を毛皮のなめし棒でお互いに打ち合いをさせ、そのさい口ぐちに、“強く打て、強く”と唱えさせた。そして黙って耐えねばならなかった。私たちにとり、最高の裁判官は主人であった」
と、ジューコフ元帥は毛皮商の徒弟時代を回想しているが、軍隊では、直属の上官といえども、“最高の裁判官”ではなかった。ジューコフ元帥は、新兵仲間と一緒に、意地の悪い曹長を袋だたきにしたとき、久しぶりに母親ゆずりの筋肉の固さを再確認するとともに、軍隊では一般社会以上に個人の存在が主張できることを知った。金持ちの息子も、貧民の子供も、階級がちがわない限りは平等であり、しかもその階級は、一般社会のように生まれながらのものではなく、個人の能力と努力で左右されうるのである。
ジューコフ元帥は、軍務に精励した。軍隊内において、指揮官になるには兵士の支持を得ることがたいせつである。その点、貧窮生活で忍耐力を身につけ、適度の反抗心と強い野心を胸中に秘めているジューコフ元帥は、軍人としての昇進の条件をそなえていた、といえる。
革命がおこると、ジューコフ元帥はいったん故郷に復員したが、一九一八年八月、赤軍第一モスクワ騎兵師団第四騎兵連隊に志願した。翌一九一九年三月、共産党に入党し、さらにその翌年、一九二〇年には、第一騎兵連隊第二中隊長となり、一九二三年四月には、二十七歳で第七サマーラ騎兵師団第三十九連隊長になった。
ジューコフ元帥が、このような異例のスピード昇進をした理由は、元帥にたいする批判がほとんど皆無だったことによる。元帥は、革命後の内戦で、最も勇敢な騎兵の一人と認められるとともに、兵士の間では「最も話のわかる上官」という評判が高く、上官の評定は「向上心に富む野戦指揮官」という点で一致していた。
事実、ジューコフ元帥は、つねに指揮下の部隊と自分自身の戦闘能力の向上に没頭していた。連隊長に任命されたときも「われわれには、指揮官に必要な知識と熟練度が不足している」という意見と、睡眠時間をけずっての第一次世界大戦の作戦の分析研究が認められたからにほかならない。
連隊長時代のジューコフ元帥は、わずか二回の休止で百キロを行軍するなど、ひたすら猛訓練をほどこし、とくに若い指揮官たちには「率先垂範」を苛酷《かこく》に要求した。ジューコフ元帥は、いう。
「仕事のうえに誤りはつきものである。だれだって誤りをしないものがあろうか? しかし、問題は誤りそのものよりも、それを早く気づき、除去することにある。その意味で、仕事に創造的主導性を発揮しないで、上からの指示だけに頼るような人間が、はたしてよいといえるか。私は、他人の労力の代価で生活を享楽《きようらく》する権利はだれももっていないと信ずる。
このことはとくに、野戦において、自己の生命をおしまず、まっ先に祖国を防衛せねばならない軍人が自覚せねばならないことである」(『ジューコフ元帥回想録』朝日新聞社刊)
ジューコフ元帥にたいする人物評の中で、最もしばしばささやかれるのは「軍人の中の軍人」という評言であるが、以上の元帥の言葉にも、元帥がまことに典型的な軍人意識の持ち主であることが、うかがわれる。
そして、こういったジューコフ元帥の軍人精神は、ソ連共産主義社会にうけいれられた。共産主義社会においても、いや、むしろ、新しい体制をつくりあげ、守ろうとする、共産主義社会においてこそ、強烈な祖国愛と厳格な規律と独創性を尊ぶ軍人は、必須の要員であったからである。
その点、ジューコフ元帥は、生粋かつ純粋の軍人であるだけに一九三〇年代の軍部粛清にも生き残り、昇進の道を歩きつづけられたといえよう。
ジューコフ元帥は、第四騎兵師団長を経て一九三七年、第六コサック兵団長に就任した。兵団長時代も、ジューコフ元帥の勉強はつづき、古来の戦史、兵術書をあさって、現代の戦争、作戦、戦闘の性格を理論づけようと努力した。
しかし、マルクス・レーニン主義理論の勉学は、苦手だった。元帥は、率直に次のように告白している。
「私はしばしば夜、机にむかってマルクス・レーニン主義の古典を読まねばならなかった。それは私には容易なことではなかった。とくにマルクスの『資本論』とレーニンの哲学書がそうだった。しかし、私は責任上、資料の理解を余儀なくされた」
かりにも、共産国ソ連の兵団長であれば、まさかマルクス・レーニンの理論を知らぬではすまないわけであるが「戦場こそわが故郷、弾丸こそわが血汐」と覚悟する“軍人の中の軍人”にとって、経済理論や哲学の独学はつらかったにちがいない。
しかし「私は……学習を続ける根性をつかんだことを満足に思う」とジューコフ元帥が回想しているように、元帥は、毛皮徒弟職人時代の夜学ぶりを再発揮して、理論習得にはげんだ。
一九三八年、白ロシア軍管区司令官代理になったが、一九三九年六月、ノモンハン事件が発生すると、直ちに現場に派遣されて戦闘を指導した。
ノモンハン事件は、日本軍を圧倒する戦車部隊と優勢な航空機兵力によって、ソ連側の勝利に終わったが、ジューコフ元帥は、この戦闘で、いくつかの教訓を得た。
そのひとつは、元帥は騎兵出身であり、騎兵の戦闘はとくに機動と集中攻撃を性格にするが、近代戦においても、こんごは機動力と装甲をそなえた戦車部隊が地上兵力の中核になる、と判断したこと。
しかし、だからといって、個人としての兵の戦闘能力、有能な指揮官の存在意義はかえって重視されねばならないこと――などである。とりわけ、この第二点にかんして、ジューコフ元帥の印象は深かった。戦闘後、モスクワに呼ばれて、スターリン首相に報告したとき、元帥はまっ先に、日本軍の素質について、指摘した。
「彼ら(日本軍)は戦闘に規律を持ち、真剣で頑強、とくに防禦戦に強いと思います。若い指揮官たちはきわめてよく訓練され、狂信的な頑強さで戦います。若い指揮官は決まったように捕虜として降伏せず、ハラキリをちゅうちょしません。しかし、古参、高級将校は訓練が弱く、積極性がなくて紋切り型の行動しかできないようです」
この日本軍評は、ジューコフ元帥の腹づもりでは、そっくり当時のソ連軍評でもあった。ノモンハンの戦闘は勝利に終わり、機械化部隊の威力も確認されたが、こと指揮官にかんしては、戦意と率先を主義とするジューコフ元帥の眼からみると、前線偵察をしぶる指揮官など、第一線部隊指揮官の能力に不満が感じられたからである。
ジューコフ元帥は、ノモンハン事件のあと大将に昇進し、一九四一年二月、参謀総長に任命された。四十五歳である。
第二次大戦は、ノモンハン事件の直後、一九三九年九月のドイツのポーランド侵入で開始され、ジューコフ元帥の参謀総長就任のころは、すでにドイツのソ連侵攻の噂が高まっていた。しかし、ソ連側の用意はすべての面にわたって欠陥だらけであった。
一九四一年六月当時、ドイツは二百八個師団、約八百五十万人の陸上兵力をもち、ソ連は補充兵の召集をふくめて約五百万人であった。そして、バルト海から黒海に至る四千五百キロの国境線に百七十個師団が配置されていた。
だが、ソ連の機械化は不十分で、戦車は約七千台、火砲は野砲二万九千六百三十七門、迫撃砲五万二千四百七門を主力としたが、長大な国境線を守るには手うすにすぎた。
とくに、ジューコフ元帥にとって不安だったのは、いぜんとして一九三〇年代の軍部粛清による指揮官不足が回復されていなかったことと、戦略思想が防禦重点の片寄りであったことである。
ソ連を守るためには攻勢防禦戦略以外にない、という参謀本部の考えは、ジューコフ元帥にとっても健全なものとみられた。しかし、広大なソ連領を守りぬくためには、攻撃一本ヤリでは不完全である。ときに退却、あるいは敵の包囲下における戦闘なども、考慮すべきであるが、当時ソ連軍部ではこの点にかんする検討は、未熟であった。
また、ドイツがソ連を攻める場合は、必ずや、穀物地帯のほかにドネツ川炭田地域、コーカサス油田地帯を持つウクライナ地方を目指す、という根強い信仰があった。スターリン首相は、とくにこの信仰の持ち主で、トーチカ要塞線とソ連軍事主力も、ウクライナ方面に配置された。
「これらの重要資源なしには、ファシスト・ドイツは長期の大戦争を続けることはできないからだ」
スターリン首相は、そう言明したが、さらにドイツ側の巧妙な偽装工作によって、ドイツの対ソ戦開始時期の判断も混乱させられた。ドイツ側は、ソ連国境への部隊移動を、イギリス上陸作戦をかくす陽動とみせかけるため、イギリスの地図を大量に印刷し、英語通訳を部隊に派遣し、ドーバー海峡やノルウェー海岸に「立入禁止区域」を設け、宣伝放送はイギリス非難の声を高くする代わりに、ソ連非難は中止した。
おかげで、ソ連側がほぼ確実なドイツのソ連侵攻の情報を得たのは、一九四一年六月二十一日夜、つまりドイツ軍の攻撃数時間前に、キエフ地区の国境警備隊に投降してきたドイツ軍曹長の証言からであった。直ちに全部隊に警報が発せられたが、ドイツの主攻撃は予想したウクライナ方面ではなく、西部白ロシア一帯であり、おまけに潜入した工作員により前線部隊の通信線は寸断されていたため、ソ連軍は恐慌《きようこう》状態になって敗走した。
ジューコフ元帥は、混乱からは敗北しか生まれない、と判断して、確保に努力しているキエフ市から撤退し、態勢たて直しをスターリン首相に進言した。スターリン首相は「冗談をいうな」と怒った。ジューコフ元帥も反発した。
「参謀総長が冗談しかいえない人間だと思っておられるなら、参謀総長をやめさせてください。戦線に送ってください。戦線ならおそらく、少しはお国のお投に立つでしょう」
「興奮しちゃこまる……しかし、そういうことなら……参謀総長はやめてもらう」
「私をどこへとばそうというのですか」
「どこへ行きたいかね?」
「もちろん、私はなんでもやれます。師団長でも兵団長でも、軍司令官、方面軍司令官でもやれますッ」
「興奮しちゃいかんよ、キミ、興奮しちゃいかん……よし、キミを予備方面軍司令官に任命しよう」
ジューコフ元帥は、スターリンの性格について「強い意志……陰険さ……発作的な面」をそなえた“多面的性格”だと述べている。かんしゃくを起こすと、理性を失い「文字どおり人が変わった。顔はいっそう青白くなり、目つきは重苦しく残忍さをひめてくる」と描写している。「こういうスターリンの怒りに耐え、それをはねつけうるような大胆な人物を、私はほとんど知らない」
ドイツ軍侵攻の直後、正面を守っていた西部方面軍幹部は、司令官パウロフ大将以下いっせいに解任され、軍事法廷で裁判された。“スターリンの怒り”のあらわれである。が、スターリン首相は、たとえその怒りをはねつけなくても、抵抗を示したジューコフ元帥を気にいったとみえ、そのご最高軍司令官代理、ソ連邦元帥と地位を昇進させながら、ジューコフ元帥をレニングラード、モスクワ、スターリングラードなど、つねに最も困難かつ重要な戦場の指揮官に起用した。ジューコフ元帥は、どの場合でも、指揮下の部隊を完全に把握するために、指揮系統の再編成をおこなって効果をあげたが、さらに強調し要求したのは、ゆるみない戦意とその具体的実行であった。
「わが軍の勝利は、軍組織と装備の卓越によるばかりでなく、高度の愛国心、大衆ヒロイズムによるものである」
と、ジューコフ元帥は、その回想録(前出)で述べているが、元帥は一般に兵士にたいしては寛大であったが、将校にたいしてはきわめて厳格であった。およそ勇気に欠ける行動には容赦せず、もし元帥の満足を得られない指揮官は、即座に解任された。
しかも、解任は処罰をともなう。被処罰者で編成されている「犯罪者大隊」に送られるか、あるいは第一線の最も危険な場所に一兵卒として、投入されるのである。一九四四年、ソ連軍が反攻に出てポーランドで戦っているとき、ジューコフ元帥はロコソフスキー元帥、パートフ大将(第六十五軍司令官)と一緒に観戦していたが、突然、双眼鏡をおろすと、二人に叫んだ。
「兵団司令官と第四十四ライフル師団長は、“犯罪者大隊”行きだ」
おどろいたロコソフスキー、パートフ両将軍がジューコフ元帥をなだめようとしたが、ジューコフ元帥は、兵団司令官の処罰は思いとどまったものの、ライフル師団長にたいしては処罰を主張した。師団長は直ちに降等され、前線の指揮を命ぜられて戦死した。ジューコフ元帥は、こんどはその勇敢さをたたえ、「ソ連邦英雄」勲章を申請した。
むろん、こういったジューコフ元帥の苛酷ともいえる指揮ぶりは、批判の対象になりうる。ジューコフ元帥が帝政時代の軍隊にはいったとき、苛酷な上官がどのような心理的影響を部下に与えるかは、十分に体得したのであり、またそれを戒めとして立身してきたはずである。ジューコフ元帥自身も、回想している。
「私は厳格ということが、ボルシェヴィキ党員の指揮官の欠くことのできない素質と考えていたが、それが過剰だというのでよく非難された。私は顧《かえり》みて、実際にあまりにも、厳格だったことがあったし、部下の過失に対して必ずしも耐えきれないことがあった……私としては、自分が人間の弱点に対する寛大さに欠けていたと思う」
また、ジューコフ元帥の“官僚性”が指摘されることもある。とくに一九四五年四月、ドイツの敗勢が明らかになり、ソ連軍のベルリン進撃が計画されたときである。ジューコフ元帥の第一白ロシア方面軍と、イワン・コーネフ元帥の第二白ロシア方面軍とが、ベルリン一番乗りを目指す形となった。
スターリン首相の部屋で、コーネフ元帥が「わが軍がベルリンを奪《と》ります」といえば、ジューコフ元帥も「わが軍はすでに用意ができています。われわれはベルリンから最短距離にあります」と強調した。ジューコフ軍はベルリン東方約七十キロのオーデル河畔にいて、コーネフ軍は南方約百二十キロのナイセ河畔にいた。
スターリン首相は、両軍の競争を士気高揚の一策と認め、両元帥にベルリンヘの進撃を許可した。ところが、コーネフ軍のほうが一日早くベルリン市内に突入したにもかかわらず、ジューコフ元帥は、スターリン首相に“工作”して、ドイツ国会議事堂を自軍内にふくむ両軍境界線を設定してもらった。議事堂はベルリンの象徴であり、勝利のシンボルとみなされていただけに、このジューコフ元帥の“措置”は、功を求める“役人性”の表現だ――というのである。
こういった厳しい指揮官ぶりと“官僚性”が指摘される限り、ジューコフ元帥にたいする批判も残るが、ジューコフ元帥自身は、自負と誇りに満ちて、その指揮官道に確信を持ち、強調している。
「(外国ではソ連の指導者を“エリート”と表現するが)私は軍人として、そういう外国の人たちにすすめたいのである。祖国のために献身し、英雄的に生命をすてうる人々、そういう“エリート”をそちらでも持ったらどうですか、と」
チャンドラ・ボース
――ああ、チャンドラねェ。
と、元ビルマ方面軍高級参謀片倉衷少将は、なつかしそうに回想するが、当時の軍人たちの通称チャンドラ、正確にはスバス・チャンドラ・ボースの名前を記憶する人は、少ないに違いない。
なぜなら、このインド独立運動指導者と日本との交際は、太平洋戦争時代、それも末期の三年間にすぎなかった。縁は、うすい。
しかも、そのころ、日本が期待した同じ薄縁のアジア指導者の中でも、中国の汪精衛、フィリピンのラウレル、ビルマのバー・モなどが、それぞれの国家の代表であったのにたいして、インド人ボースは、いわば亡命者的な存在にとどまった。
戦争につきものの“徒花《あだばな》”に似た「かいらい《ヽヽヽヽ》政治家」、それも二流……というのが、ボースに与えられやすい一般的評価であり、記録にも、そして記憶にも影うすくなりがちなゆえんである。
だが、皮相な影像とは別に、さらに他の“かいらい《ヽヽヽヽ》”指導者とはもっと別に、ボースが歴史にはたした役割は、大きい。その影響は、ボースの祖国インドにたいしてよりも、日本にたいして直接的であり、ある意味では、ボースによって、太平洋戦争ひいては日本の命運の一角が左右されたとも、いえるのである。
ボースが、はじめて積極的に日本に接触を求めたのは、昭和十六年一月下旬であった。場所は、アフガニスタンの首都カブール市。
ボースは、十一回目の投獄から保釈されたのを利用して、従者ラマト・カーンとともに国外脱出をはかって、カブールに潜入した。
市内の木賃宿の小部屋にひそみ、深雪の寒さと官憲の眼をおそれた。二人とも巡礼をよそおい、ボースは、ヒゲをのばし、聾唖者で病気だというふれこみにした。
当時、ボースはインド国内では最も果敢な反英独立運動家として、すでに伝説的存在であった。ベンガル州の富裕な家に生まれ、英国のケンブリッジ大学に学び、二十七歳でカルカッタ市助役となり、獄中でベンガル州上院議員に選ばれ、さらに最大の野党である国民会議派議長もつとめた経歴は、輝かしい。
度の強いメガネをかけたそのインド人には珍しい丸型の童顔は、インド国民はむろんのこと、アフガニスタン、ネパールにもよく知られていた。むろん、ボースが姿を消すや、英国はインド全土と近隣植民地に手配をしている。
ボースは、ヒゲをのばしたほか、メガネもはずして、汚れた衣服をきて貧民をよそおったが、カブール到着後まもなく、早くも地元の刑事に眼をつけられた。
もっとも、この刑事は、ボースと疑ってではなく、ただ旅行者と知って、職権を利用した小遣銭かせぎを試みたのだが、ボースと従者は連日のように不審尋問をうけて旅費、はては腕時計をまきあげられた。
ボースは、従者カーンに日本、ドイツ、イタリア各公使館との連絡を急がせた。
ボースのねらいは、ドイツ亡命にある。ボースの念願は、英国支配からのインド独立であり、それには二年前、第二次大戦の火ぶたをきり、英国と戦うドイツを頼るのが自然である。そして、日本とイタリアはドイツの同盟国だから、ドイツ亡命に手をかしてもらえることも期待できる。
ところが、なにせ、使者がみすぼらしい貧民姿の従者カーンである。
「ミスター・ボースだと? そうだという証拠はどこにある? だいいち、お前はどこの何者だ……」
日本公使館でも、ドイツ公使館でも、従者カーンは、軽い右手のひとふりで追いはらわれた。やっと、日本公使館の門衛と称してもぐりこんだイタリア公使館で、カローニ代理公使がカーンの言葉を信用してくれ、ボースはその援助でベルリンに向かうことができた。
――だが、
ベルリンで、やがて、ボースは失望せざるを得なかった。
ナチス・ドイツは、ボースを好遇した。駐ドイツ大使大島浩陸軍中将の回想によれば、ドイツは「対英戦勝利のあと、インドにたいする経済進出にボースを利用する」腹案をもっていたらしいが、ベルリン市中央部の広大な邸宅をボースに与え、自動車、生活資金も提供した。
ボースは勇躍して反英義勇軍の編成を開始した。
独立は武力で達成するものである。そのためには、外国の武力援助を必要とする――というのが、ボースの持論である。この持論のゆえに、ボースは、同じくインド独立を運動しながら、非暴力主義を唱えるガンジーやその後継者ネールと対立して、結局は故国をはなれることになったのである。
しかも、いまひとつ、ボースの持論には、援助を求めるのに相手は選ばない、というきわだった特徴がある。のちに、ボースは大川周明に語ったことがある。
「英国を(インドから)駆逐《くちく》するためには、私は悪魔とでも手をにぎる」
その意味では、非暴力を叫ぶガンジー、あるいは「共産主義とファシズムとなら、共産主義をえらぶ」と声明するネールに理想主義のかおり《ヽヽヽ》をかぎとるとすれば、ボースに見出せるのは、マキャベリズムに似た強烈な現実主義である。
ここに、革命家としてのボースの最大の特徴があるが、ボースがナチス・ドイツに期待するのも、ドイツの英本土上陸作戦の成功と、それに乗じてのインド独立にある。義勇軍は、そのとき、ボースが率いる祖国解放軍にほかならない。
ボースは、捕虜収容所をまわり、アフリカ戦線でドイツ軍捕虜となった英軍のインド兵を選抜し、ドイツ将校の訓練を受けさせた。ドイツ軍服の腕に、ボースがデザインした「躍りかかるトラ」のマークの腕章をまいた、ターバン姿の義勇軍の異容は、ベルリン市民の眼をみはらせた。
ところが、いまにも、と待つドイツ軍の英本土上陸は実現せず、昭和十六年冬には、ほぼその見込みは薄弱視されて、ボースは焦慮の日をすごした。
すると――昭和十六年十二月八日、日本が米英両国と開戦した。
「私は、眼がさめる思いであった」と、ボースはそのニュースを聞いたときの印象を記述しているが、太平洋戦争開幕に感じたボースの驚きは、瞬時に喜びに変化した。
考えてみれば、ドイツの英本土攻撃にすがって祖国の独立を望むのは、「二階から目薬をさす」ような間接策である。いまや、日本はマレー半島からビルマ、そしてインドに剣尖をむけようとしている。日本こそ、直接にわが念願成就の道案内であろう。
ボースはクリスマスの翌日、寒風に舞う枯葉をけちらして日本大使館に車を走らせ、大島大使に日本行きのあっせんを懇望した。
「……いま、インド人たる者、日本と一体になり、英国と戦うことをねがわぬ者はいない……私は一兵卒としてなりとも英国人と直接戦いたい……」
双眼に感奮の涙をたたえ、ほおを紅潮させて説くボースの真剣さに、大島大使も感激して日本に意向伝達を承知したが、ボースの日本行きは難航した。
日本におけるチャンドラ・ボースにたいする評価が不十分であったこと。対インド人工作の必要は認めていたが、戦線拡大にともなうインド兵投降勧誘に主点がおかれていたこと。すでに日本には同じく独立運動指導者で同姓のラス・ビハリ・ボースがいたこと。
これらの事情に加えて、現実にボースを日本にはこぶ輸送方法がみあたらないことなどが、ボースの日本訪問をはばむ主な原因であった。
だが、昭和十八年二月、ボースは日本に向かうことができた。ドイツ海軍が潜水艦一隻のインド洋回航を認め、同艦に乗ってインド洋上で出迎えの日本潜水艦に乗り移る手はずがととのったからである。
インド洋で、日独潜水艦が出会ったのは、四月二十六日朝であったが、おりからの荒天で接近、移乗は不可能であった。ドイツ潜水艦から、軍帽をかぶった水泳パンツの士官と信号兵が、日本側のイ二九潜水艦に泳いできて、燃料欠乏のため翌日は帰る、と通告してきた。
翌日、北東に進んだおかげで海上もおだやかになったので、ゴムボートでボースと従者ハッサンがイ二九潜に移った。
おだやかとはいえ、なお浪は高く、両艦をつなぐロープを頼りの移乗作業は、容易ではなかった。いち早くかぎつけたとみえ、ボートが進む水面は、ぶきみな背びれをつきだして旋回するフカの群にかこまれ、波とフカとの水しぶきにボースとハッサンはびしょぬれになった。
ボースは、第十四潜水隊司令寺岡正雄大佐、艦長伊豆寿市中佐に迎えられ、士官室寝室の下段を提供された。
すでにボースの旅は長かった。二月末に北フランスの基地を出発して二カ月、アフリカの南端をまわってたどりついたのだが、ボースは元気で、艦内を見学したり、艦橋で体操したり、艦長や士官たちと談笑したりしていた。
ただ、夜食をふくめて一日四回の高カロリー艦内食には、やや閉口したらしく、しばしば寺岡司令に、「大佐、またメシですか」と苦笑していた。
五月六日、スマトラ北端のサバン島泊地に到着した。飛行機便を待って、五月十六日東京についた。
ボースは、宿舎帝国ホテルに案内されると、寸刻もおしむ、という様子で、日本政府、軍首脳との会談を望んだが、しばらくは、陸海軍省、外務省の課長クラスの来訪がつづくのみであった。
この日本の態度は、ボースには意外だった。
ボースは、自己の能力とインド国内における声望に自信がある。また、これまでの生涯でも、つねに指導者として処遇されてきた。現に、ドイツでもそうであった。
たとえ一兵卒になっても――と、大島大使にいったが、それは覚悟の形容であり、現実に日本陸軍二等兵に志願する意向を表明したわけではない。わざわざ潜水艦を派遣して迎えてくれたことからも、日本側にも適切な待遇を期待していただけに、ボースは不満を感じた。
五月下旬、ようやく杉山元参謀総長に会見できたが、「日本の勝利は確定した。一刻も早く、インドに兵を進められたい」とせまるボースに、杉山総長は持ち前の大陸的風ぼうにゆるぎをみせず、泰然かつ悠然とうなずくだけ。
(トップに会わなければだめだ。ドイツでも話がわかるのはヒトラー総統だけだった)
ボースは、くり返し、東条英機首相との会談を要求した。
東条首相は、ボースとの面会をしぶった。
ことインドにたいする施策の必要については、東条首相は人一倍に痛感していた。そもそも、太平洋戦争の開幕にあたり、おそらく可能性ある勝戦の途は、英国の屈服以外にはない、というのが、陸海軍の一致した結論であった。
英国が投げだせば、手をつなぐ米国も戦争終結を考えるだろう、という構想だが、ドイツによる英国打倒は望みうすとなった。東部戦線におけるソ連軍の圧迫と、米国の海空攻撃により、ドイツの戦勢はあきらかに非況を示しつつあったからである。
となると、日本としては、手近のインド情勢が変化して、英戦力が弱化することを望みたい。おりから、昭和十八年に入ると、インドからビルマにたいする英軍反攻の気配が、濃厚となっている。
このさい、インド国内、インド兵に強い影響力をもつ指導者がいれば、万難をはいしても迎えたいところだが、さて、それではチャンドラ・ボースがその人か、という点になると、東条首相はひどく懐疑的だった。
日本にとって、太平洋戦争は「自存自衛」のための戦いとされたが、「自存自衛」を維持するには、占領各地の国民、市民の支持を得なければならない。
大東亜共栄圏――とは、その要求を現実化するためのスローガンであった。日本は、だから、占領地の民族自決を実現すべく、中国、満州、フィリピン、ビルマに独立政府を認めることにした。
ところが、どの政府指導者も、日本側からみると、本気で日本に協力するつもりがあるかどうか、不審だった。
満州の総理張景恵は、満州の治政が、長は満人だが、次長は日本人で、実質的な権力は日本人官吏ににぎられていることに、漢人官吏が不満をもらすと、いつも次のように説得していた。
「日本人ほど便利な民族はいないではないか。権威さえ与えておけば、安月給で夜中も働いてくれる」
中国・南京政府の汪精衛主席については、「どうやら重慶の介石の内意をうけているらしい」との疑いがささやかれ、フィリピンのラウレル大統領は、ことごとに日本側の指示の緩和をはかった。
ビルマのバー・モ国家主席にしても、自らを「王の中の王」ととなえ、あまりにもビルマ民衆と遊離して動じないため、日本人司政官を含む一部有志が暗殺をこころみたほどである。
フィリピン、ビルマの独立は、チャンドラ・ボース来日後のことだが、ラウレル、バー・モ両者はすでに指導者として待遇され、しかもその態度には、なにか不満と不安を感じさせるものがみえていた。
あるいは、汪精衛を含めてこれらリーダーたちが、いずれも米英で教育をうけたためではないのか。
「教育は忠誠心にも作用するものだ。米英を追いだしたあとに米英教育をうけた者をすえるのは、感心できぬ」
植民地である以上、その種の現象も当然とは思いながらも、東条首相はしばしば首をひねったが、ボースの場合も、聞けば英国の名門ケンブリッジ大学卒、おまけに優等生だった、という。
たっぷり米英思想に染まっているのではないのか――と、東条首相は眉をしかめたが、さらに、東条首相はインド人に不信感さえ抱いていた。
開戦にさいして、陸軍はシーク族の独立運動秘密結社である「I・I・L」(インド独立連盟)を支援して、マレー、シンガポール戦のインド兵投降工作、さらに投降兵を集めて「I・N・A」(インド国民軍)を編成したが、その後、東条首相の眼にうつる「I・I・L」「I・N・A」は、ことさらに過大な要求をかかげ、あるいは「I・N・A」指揮官モハンシン大尉の反抗など、不快な対象にみえた。
チャンドラ・ボースを日本に迎えたのは、もう一人のボース、ラス・ビハリ・ボースにこれら「I・I・L」「I・N・A」をとりしきる力量がとぼしく、新指導者の登場を必要としたからでもあったが、東条首相の感想は積極的にはなり得なかった。
(どうせ、たいしたことはあるまい)
打診をかねてボースに面会した下級幹部からも、「やけに尊大ぶる男です」との報告もとどいていた。
ところが、呼んでおいて一度も会わぬのもいかんだろうと、六月十日、しぶしぶ首相官邸にボースを招いたとたん、東条首相のボース観は一変した。
「さすがの東条さんも、握手したとたん、タジタジと後退したと聞いとります」
というのは、ビルマ方面軍情報参謀金富与志二少佐だが、陸軍大将でもある東条首相が軍人らしからぬ後退をしたかどうかは別として、ボースの堂々たる体躯、厳正な態度、そしてなめらかな熱弁が、強い印象を首相に与えたことはまちがいない。
即座に第二回目の会見をとりきめ、六月十四日、その会談を終えたときは、東条首相は心からの支持を約束するとともに、ボースを見送って嘆声をもらした。
「ありゃあ、人物だァ」
ボースの魅力は、ビルマ方面軍司令官河辺正三中将もひきつけた。
ボースは、東条首相の理解を得たのち、七月四日、シンガポールに飛んだ。同市で開かれた「I・I・L」大会に出席して、ラス・ビハリ・ボースから総裁をひきつぎ、同時にすでに約一万三千人を数えるインド国民義勇軍(I・N・A)最高司令官に就任したあと、七月二十九日、ラングーンを訪ねた。
ラングーン訪問は、八月一日に予定されたビルマ独立記念式典参列のためだが、ボースにとっては、在住百万人のインド人の組織とビルマ日本軍指揮官河辺中将との会見のほうが、主目的であった。
ボースの願いは“自分の軍隊”を率いて祖国に進むことにある。ビルマはインドの隣であり、アラカン山脈をこえれば、はや母国である。そのビルマの日本軍指揮官がどのような人物かによって、ボースの夢の実現も左右されるからである。
河辺中将は、疑わしげな表情でボースを迎えた。中将は、ボースの東京入り、東条首相との会見後のはなばなしい記者会見ぶりなどを新聞で知っていたが、うろんげな予感をおぼえて、日誌に記述していた。
「(六月二十日)……チャンドラ・ボース……俄然《がぜん》ニュースの中心となり……今日夕刻の同盟電の如きも彼の……横顔やらタテ顔やらで一杯になり……彼如何ほど大物でも鉄砲玉が先行せざれば駄目々々。余り此の種の人間の操縦に憂身をやつせば、却《かえつ》て内兜《うちかぶと》をみすかされることを用慎《ようじん》せざるべからず……」
ところが、会ったとたんに、河辺中将の先入観は吹きとんだ。
「(七月二十九日)……意志の強き真剣なる性格を有し、教養、礼譲高く、しかも生一本なる風格は敬愛すべきものあり。成る程これならば、ガンジーを向うに回して実力派の大立者となりしことを納得し得べし……」
河辺中将にしてみれば、新聞がちやほやするだけに、いずれは口先上手の政治家タイプとボースを予想していたのだが、見れば強そうな偉丈夫。おまけに、英国仕込みの礼儀正しさに加えて、なによりも共感をかきたてられたのは、その戦意である。
ボースは、口を開くや、インド進軍を願い、第一線出動を望んだ。まさに、河辺中将の持説の「鉄砲玉先行論」にぴったりの発言である。中将は、うむ、と口中にわきあがる快哉《かいさい》をかみ殺して、うなずいた。
しかし、言葉は、しょせん、言葉だけのものである。河辺中将も、なおボースにたいする「用慎」の気持ちはすてなかったが、その後、噂を聞くたび、会うたびに感心の度を深めた。
ボースは、ラングーンのあと、バンコク、サイゴン、シンガポール、ペナンと、各地のインド人の奮起と支持を求めまわった。
「すべての血を、すべての財産を」――とボースは叫び、一日二、三時間の睡眠をとるだけで、資金集め、人集めに奔走して、十月二十一日には、シンガポールで「自由インド仮政府」を樹立した。
ラス・ビハリ・ボースなどの下準備があったとはいえ、日本に到着してからわずか五カ月の成果である。
さすが、と河辺中将は、ボースの組織能力に感じ入ったが、つくづく感心するのは、ボースの厳格な生活態度である。
タバコも飲まず、酒も宴席でなめる以上には口にもせず、女っ気は皆無である。
ボースの独身は、ときに応じて注目され、ボースが十一月東京で開かれた大東亜会議に臨席したあと、南京に飛んで汪精衛と会談したさい、汪精衛はボースにその理由をたずね、「機会がないので」という返事を聞くと、「では、中国の姑娘《クーニヤン》をお世話しましょうか」といった。
ビルマ方面軍でも、首をひねった。ボースは昭和十八年当時、四十五歳である。一歳年少の片倉高級参謀などは、自分も「ときどきは」慰安所を訪れるだけに、ボースの様子はいかにしても理解しにくかった。
「あれは、(昭和十九年)一月七日でしたか。ボースの仮政府がラングーンに移ってきた。一緒に、ほれ、あの美人の婦人部隊長もきて……てっきり、われわれは、あれがボースのこれ《ヽヽ》だと思ったが、違ったねェ」
これ、と小指をつきたてて、片倉少将が首をかしげるのは、ボース仮政府の閣僚(婦人部長)をかねる義勇軍婦人部隊長スワミナダオ・ラクシュミだが、片倉少将の述懐どおり、ラクシュミ女史も、ボースの個人生活にはなんの影も落さなかった。
ボースは、そのラングーン進出の一月七日夜、河辺中将の招宴に出席すると、またも熱誠をこめてインド進撃を願って、いった。
「いま、私が神に祈ることがあれば、それはただ一日も早く祖国のために血を流さしめ給えとの一念につきる……」
河辺中将は、このときの模様を「ボース君シンミリと其の決意をひれきし……」と記述しているが、中将をはじめ沢田廉三駐ビルマ大使ら一座は、ボースの言葉にしん《ヽヽ》と胸をうたれて静まりかえった。
おそらく、この夜のボースの決意表明は、その前後のボースの言動、ストイックな生活態度などとあわせて、河辺中将のボースにたいする敬愛感をいちだんと高め、その心境は、まさに「ほれこんだ」と形容するにふさわしい程度になった。
「立派な男だ。日本人にも、あれほどの者はおらん」
河辺中将は、おりにふれて幕僚にそう語ったと伝えられる。そして、河辺中将のボースにたいする「ほれこみ」かたが、いかに熱烈であったかは、終戦直後にボースが事故死すると、その後、河辺将軍はボースの供養を欠かすことなく、ボース正伝の編纂に余生を捧げていたことからも、推察できる。
が、その個人としての熱い情はともかく、この時期、ビルマ方面軍司令官としての河辺中将が、インド人指導者ボースに「ほれこんだ」ことは、きわめて重大であった。
――当時、
インパール作戦開幕のときである。ボースがラングーンに進出したころ、すでにインパール作戦は認可され、牟田口廉也中将の第十五軍三個師団は、三月中旬の作戦開始の準備に没頭していた。
ボースも、正確な内容は通告されなかったが、インド領内への進攻がおこなわれることは知っていた。
念願成就――と、ボースは指揮下のインド国民軍の先陣参加と、自身の第一線出動を要請したが、同時に、ボースは自己の独立性を強調した。
ボースは、来日いらい一貫して自分が日本のかいらい《ヽヽヽヽ》的存在とみられることを避ける姿勢を維持した。日本からの資金援助も借金の形をとり、ビルマ進出にともない銀行設立を主張し、インド国民義勇軍と日本軍との対等の敬礼を要求し、その指揮権独立と、日本軍刑法の国民軍適用を拒絶した。
見方によっては、このボースの態度は身勝手ともいえる。
「結局は、日本と軍に頼って、つまり、他人のフンドシをかりてスモウをとろうというのに、要求ばかりだしてありがたく従わんのは、怪しからんじゃないか」
そんな声が、大本営にもビルマ方面軍の一部にも聞こえたが、河辺中将は、ボースの姿勢は、むしろ、祖国に忠実な独立運動者の正当なものと評価した。そして、このボースを助けることが、自己の使命と覚悟した。
中将は、ビルマ赴任のさい、東条首相に指示をうけていた。
「日本の対ビルマ政策は対インド政策の先駆にすぎず、重点目標はインドにあることを銘記されたい」
もちろん、東条首相の指示は、だから政略的効果をねらってインドに進撃せよ、というものではない。逆に、インド東北部マニプール州インパールをめざす、この「インパール作戦」にしても、インパールの英軍基地を撃破して、そのビルマ反攻を阻止しようとする純戦略的発想にもとづいている。
インド人ボースにかんする配慮などは、まったく含まれておらず、作戦決定までの経過において、河辺中将の念頭にも、ボースの顔は浮かばなかった。
だが、ボースを知り、ボースに「ほれこむ」につれて、河辺中将の胸中に、東条首相の指示とボースの姿が色濃く投影され、インパール作戦は、ボースのためにも成功させたい、と期するようになった。
昭和十九年三月以降といえば、すでに太平洋の米軍はニューギニア、マーシャル群島をこえ、次はサイパン島来攻は必至とみなされて、戦況は明らかに非勢にむかっていた。
国民の士気の鼓舞のためにも、インパール作戦の成功は望まれ、その意味でも、作戦には政略性が加味されることになったが、現実に河辺中将に作用したのは、やはり、ボースへの同情であった。
五月になると、作戦の失敗は次第に明白になり、前線部隊の後退がはじまった。河辺中将は五月中旬から六月初旬にかけて前線を視察した。降りつづく雨にぬれ、将兵は飢えと病に疲れ、泥にぬかるむ道にならぶ死傷者の姿は、無残であった。第十五軍司令官牟田口中将は、あえて作戦中止を進言しなかったが、河辺中将には「なお言わんと欲して言い得ざる何ものか」が感じられた。
しかし、それを察するよりも、いや、その推察を押しのけるように、河辺中将の胸にはひとつの想いがつきあげてきた。
「この作戦には、日印両国の運命がかかっている。一兵一馬でも注ぎこんで牟田口を押してやろう。そして、チャンドラ・ボースと心中するのだ」
インパール作戦が正式に中止されたのは、河辺中将のこの決意の約一カ月後、七月九日である。そして、この一カ月間は、インパール作戦の終末の悲惨さを激化させた。
インパール戦の第十五軍の損害は、死者三万人、負傷者四万人をこえる。七万人といえば、国立競技場の観客席がほぼ埋まる。いわば、国立競技場いっぱいの死傷者というわけだが、このぼう大な死傷者の多くは、敵の銃砲弾よりも、飢えと病気と疲労に倒れた。
もちろん、そのすべてが、河辺中将が作戦続行を決意した以後の結果ではないが、その一カ月間が、すでに弱っている将兵の負担を強化したことも、まちがいない。
そして、その要因が、河辺中将の「ボースと心中」の覚悟にありとすれば、第十五軍の非命はインド人ボースによってさそいだされた、ともいえるようである。
河辺中将はいう。
「これほどまでにして、あの大きな犠牲を払っても厳守せんとした日本のこの国際信義が……必ずや日印提携……平和の日に役立つ日のあることを……英霊と共に信じ、かつ祷《いの》るものである」
ボースにたいする支持は、当時の政府の公約である。ゆえに、その公約を背負う河辺中将の好意は「国際信義」といえるわけだが、それにしても、中将がいうように、「これほど」の“信義”を他国から獲得した個人も、逆に「これほど」の“信義”を一外国人に与えた“国家”も、歴史に類を見ない。
その意味で、インド人ボースはまことに稀有《けう》の存在となるが、それはともかく、河辺中将の「心中決意」にたいして、ボース自身には心中の意向はなかった。
ボースは、インパール作戦後も戦意を消さなかった。東条首相が退陣して、小磯国昭陸軍大将が内閣を組織すると、ボースは直ちに新首相に打電した。
「予は我等の共同の敵を粉砕し、印度が完全なる独立を獲得する日までは、日本及び同盟国と共に戦い抜くべき不動の決意を、ここに重ねて表明す」
だが、共に戦い抜くべき日本は、翌年、昭和二十年八月十五日に降伏した。
シンガポールで終戦を知ったボースは、サイゴンに向かい、ソ連に行きたい、と述べた。
ボースのソ連にたいする関心は古く、インド脱出のさい、アフガニスタンのカブールでも、日独伊公使館のほかにソ連公使館にも接近したといわれている。
前述の大川周明との会談で、ボースは「悪魔とでも手をにぎる」という前に、「共産主義ソ連とでも」と述べて、大川を驚かせたが、その後もボースは、昭和十九年十一月に東京でソ連大使館に接触を試み、終戦二カ月前の六月にも、上海その他中国大陸のI・I・L支部を通じて、ソ連との連絡をはかった。
まだ祖国の独立は未完である。日本は倒れた。では、次はソ連にすがる――と、ボースとしては、ごく自然に英国の敵イコール自分の味方を探し求めるのだろうが、連絡をうけた大本営は、いまさら日本を見限るか、と怒った。
しかし、南方軍総司令官寺内寿一元帥は、「インド人に日本人にいうようなことをいっても、無理だ」と、その責任で許可した。
ボースは、昭和二十年八月十八日、四手井綱正中将その他とともに、陸軍九七重爆撃機にのってサイゴン飛行場を出発、台北経由で満州にむかった。満州でソ連軍に降伏する計画である。
出発直前、一人のインド人が「東南アジア在住三百万のインド人の贈物である」と、二個のスーツケースをボースに渡した(内容は、のちに宝石、貴金属と伝えられた)。
正午、台北に着いて給油ののち、午後二時、ボース機は大連をめざした。
――ところが、
離陸寸前、左側プロペラがはずれ、ボース機は滑走路をバウンドして土堤に衝突、機体が二つに折れたと思うと、ガソリンに引火して炎上した。
四手井中将と正パイロット滝沢少佐、士官一人が即死、ボースは全身に炎をあび、火だるまとなって機外に立ったが、歩く力はなく倒れた。
台北陸軍病院・南門分院にはこばれたが、全身第三度の火傷で、助かる見込みはなかった。それでも瀉血《しやけつ》、輸血、食塩注射、強心剤注射など、あらゆる手当てはつくした。
ボースは、全身を包帯につつまれ、ときどき、日本語でつぶやいた。
「ミズー……ミズー……」
夜、衛生下士官の一人が、なにか食べるか、とたずねると、「カレー」と聞こえた。インド人にふさわしい答えだと下士官はうなずき、炊事場にかけこんでカレー・ライスをつくり、ボースに与えた。
「グッド」……ボースは、うまい、と味をほめて二、三口食べると、死んだ。顔じゅうが包帯におおわれているので、様子がわからず、下士官はさしのべたスプーンを唇にあて直して、反応がないので、死に気づいた。――午後十一時四十分。ボース四十八歳である。
その後、そして、いまでも、インドではチャンドラ・ボース生存説が根強いが、ボースの遺骨は、東京杉並区高円寺の蓮光寺にある。
祖国には遠いが、その祖国のために日本に運命をたくしたボースにとっては、悔いのない安息の場所かもしれない。
ドワイト・D・アイゼンハワー
「組織の中で出世するコツは、順応性と適応性にある。つまり、部下であるときは上官の意図に順応し、上官になったときは部下に適応することである」
と、なんとなく、調和主義を説くわが国の政治家のような意見を述べたのは、第二次大戦の連合国総司令官、のちの米大統領ドワイト・D・アイゼンハワー元帥であるが、たしかに、元帥の処世はこの調和観に支えられ、かつ成功したといえる。
ただ、元帥がいう上官にたいする順応の場合、上官によっては、順応のしようがないか、あるいは、順応しても思ったほどの成果があがらない――という教訓も、元帥は指摘すべきであった。
それは、元帥自身の苦い記憶でもあるが、元帥が一九三五年から四年間、マッカーサー将軍の副官をつとめたときのことだ。写真を見ると、さっそうとしたマッカーサーの横に、いともくすんだ表情でアイゼンハワー少佐が立っている。
アイゼンハワー少佐は、マッカーサー将軍が参謀総長の任期を満了し、フィリピン政府の要請で、フィリピン陸軍創設の任務をひきうけたさい、とくに将軍の希望で副官に任命されていた。
ところが、フィリピンに来て、まっ先に遭遇したのが、マッカーサー将軍の身勝手さである。マッカーサー将軍は、着任早々、フィリピン市民に米軍の武威を誇示するためのパレードを計画した。そんな予算はない、と経理将校から苦情が出たが、アイゼンハワー少佐は、“順応力”を発揮して、関係部局のあちらをなだめ、こちらをすかして、将軍の意図実現につとめた。
ようやく、パレードの準備がととのったが、すると、こんどはフィリピン大統領エマヌエル・ケソンから抗議がきた。マニラ市内をパレードする、とのことだが、わがフィリピン政府にご相談がないのはおかしい、というのである。
マッカーサー将軍は、あわてた。将軍はフィリピン政府からサラリーをもらっている。着任早々に“スポンサー”とのトラブルは、好ましくない。そこで、将軍は、じつは副官のミスだった、とケソン大統領に弁解し、アイゼンハワー副官をどやしつけた。
「本官はパレードをやれと命じたおぼえはない、研究せよといっただけだ」
いらい、五年間、将軍はアイゼンハワー副官が勉励すればするほど、細かい失敗を指摘し、副官の転任希望もにぎりつぶしつづけた。アイゼンハワー少佐は、米国陸軍に籍がある。少佐は、くり返しワシントンの陸軍省に、転任を要請したが、任期中は上官の承認を必須とする。やっと、中佐に進級して、一九四〇年一月、ワシントン州フォート・ルイス基地の歩兵第十五連隊勤務となった。
マッカーサー将軍とアイゼンハワー元帥がしっくりいかなかったのは、いかに元帥が順応しても、将軍が期待するのは順応ではなく従属であったためである。つまり、マッカーサー将軍のような上官の場合は、自己の能力も発揮することを含む「順応型」は、不向きということになる。
米国に帰ってからのアイゼンハワー中佐は、それまでの遅れをとり戻すように昇進した。
一九四〇年十一月に第三師団参謀長、四一年三月大佐に昇進して第九軍団参謀長、ついで同六月に第三軍参謀長となり、九月に准将になった。
太平洋戦争がはじまると、アイゼンハワー准将は、フィリピンにたいする知識をかわれて参謀本部戦争計画局次長に登用された。
ワシントンに着き、参謀総長ジョージ・マーシャル大将に申告に行くと、マーシャル参謀総長は、米国側の不利な情勢と東南アジアの状況を解説したあとで、アイゼンハワー准将に質問した。
「そこで、わが軍の全般的戦略はどのようなものであるべきかね」
「……閣下、即答は困難です。二、三時間考えさせていただきたいと思います」
退出したアイゼンハワー准将は、熟慮した。マーシャル参謀総長の質問がテストであることは、明白である。アイゼンハワー准将は、それまでに耳にしたさまざまのマーシャル総長にたいする人物評を思いだしながら、どのような解答が、総長の意にかなうかを考えた。
頭にうかんだのは、第一次大戦直後の三年間、上官として仕えたF・コンナー少将のマーシャル評である。コンナー少将は、いずれ二度めの大戦は必ず起こる。そのさい、米軍指揮官が心がけねばならないのは、どうせ連合国との協同作戦になるが、決して対等意識にとどまってはならず、単一の責任を主張し、かつ強力に実現しなければならない。
「戦争指導にあたっては、いかにして国家的考慮を克服すべきかを指導者たちは学びとらねばならない。それをやれるのは、マーシャルだ。彼はまさに天才だ」
このコンナー少将のマーシャル評は、要するに、マーシャル参謀総長がたんなる戦術家ではなく、むしろ、政治家に近い広い視野を持ち、強い積極的な意思の持ち主であることを、告げている。
すなわち、積極的で、しかも米国の味方の国家、国民の心理も考慮にいれた戦略計画が、“マーシャル好み”となるはずである。そして、もちろん、す《ヽ》早い判断力がともなわねばならないだろう……。アイゼンハワー准将は、思いあたるとすぐ立ち上がり、マーシャル総長の部屋に行く道すがらに構想をまとめて、総長の前に立った。
「閣下、われわれはオーストラリアを基地にして、北上すべきです。その場合、われわれが考えねばならぬのは、中国、フィリピン、オランダ領東インド(蘭印)の市民たちです。彼らは、われわれを見つめています。われわれは、彼らの信頼と友情を必要とします。あらゆる努力、危険、そして費用をおしまずに、彼らを援助すべきだと考えます」
「同感だ」と、マーシャル参謀総長は軽くうなずいただけであったが、総長が准将を気にいったことは、満足げにうかべるその微笑にあらわれていた。
一九四二年三月、参謀本部に戦略情報を担当する作戦部が新設されると、マーシャル参謀総長はアイゼンハワー准将を初代部長に任命し、数日後、少将に進級させた。
アイゼンハワー少将は、ますます順応性に磨きをかけながら、マーシャル参謀総長の性格観察に眼を光らせた。その結果、二つの特徴を発見した。
ひとつは、責任転嫁を極度に嫌うことである。マーシャル総長は、つねに「自分の結論をもって行動せよ」と部下に注意し、また「自己の眼を信じ、外部からの作用に左右されるな」ともいった。だから、人事問題についても、自薦も他薦も好まなかった。アイゼンハワー少将は、マッカーサー将軍とくらべて、大いに安心した。
次に、マーシャル参謀総長は、一方で自力前進を強調しながら、他方で、独善的な人物、あるいはなんでも自分でやらないと気がすまぬ人物を軽べつした。そのような人物は、複雑な近代戦の重要問題を処理する能力がない、と信じていた。アイゼンハワー少将にとって、これはまさにマッカーサー将軍と対照的性格というべく、再び安堵のため息をもらすことができた。
さらにまた、マーシャル参謀総長は、およそ消極的な考えを嫌った。困難にまず注目するような人物は、遠慮会釈《えしやく》なく遠ざけた。この点は、マッカーサー将軍とも共通するが、指揮官としては当然の資質といえる。
マーシャル参謀総長は、アイゼンハワー少将に対独攻略作戦計画の立案を命じた。
アイゼンハワー少将は、あらゆる場合を検討した。強大な米国軍をどの方向から投入するのが、最も有効であろうか。
まずソ連戦線からのルートは、放棄された。ソ連戦線への出入りには、北方はムルマンスク、南方はアフリカ南端回りでペルシア湾に到る以外にはなく、あまりに距離が長すぎるからである。
ノルウェーを通ずる攻撃、スペイン、ポルトガルを通るルート、あるいは、海空軍だけで封鎖する案など、いずれも難点が多すぎた。おそらく、当時、最も効果が期待されるとみこまれたのは、地中海からの攻撃であった。北大西洋岸のフランス領を占領し、これを「要塞」化して、ヨーロッパ遠征の根拠地にするプランである。
だが、アイゼンハワー少将は、これも“マーシャル好み”ではない、と判断した。
マーシャル参謀総長は、つねに主目標をはっきりさせて、ムダな努力を排除する計画を好むが、その点から考えると、北アフリカに基地を持つことは、ドイツ打倒をねらうには間接的にすぎた。ドイツの中心部からは離れすぎていて、ドイツの同盟国イタリアを脱落させる効果は期待できるが、イタリアの崩壊がドイツの降伏につながる保証は、なにもない。
イタリア経由は、ドイツに入る前に、南部および西南部の山岳地帯を突破する困難が控えているうえに、そもそも地中海に米英軍の総力を結集することは不可能である。
ドイツを打倒するには、小兵力の作戦は重要な意味をもたず、全力による総攻撃しか考えられない。
「閣下、唯一の成算は、イギリスを基地とする攻撃以外にありません。他の計画案にくらべれば、ダイヤモンドとガラス、あるいは女王とホステスほどに差は明確であります」
アイゼンハワー少将は、大兵力の集中が可能であること、敵(ドイツ)心臓部に早く到達できること、通過困難な地形上の障害が少ないこと、補給が容易であり、友好国であるので基地建設が速やかであることなどを指摘し、ドイツ攻略は、イギリスを基点にして西北ヨーロッパに進攻する作戦が最上である、とマーシャル参謀総長に進言した。
「しかし、アイク。女王とホステスは身分の差はあっても、女性であるという点では同じだ。たしかに、イギリスを基地とする速攻作戦が健康であることには、同感だ。しかし、量ではなく質の差、あるいは新しい薬味はないのか」
「あります、閣下」
アイゼンハワー少将は、戦略爆撃の採用、海軍艦艇の大量動員、大規模な上陸作戦の実施を主張した。要するに、空海陸三位一体の立体作戦である。
これは、当時の兵術思想では、まったく新しい構想であった。空軍の大量動員ひとつをとりあげてみても、当時、陸軍将校の多くは、航空機を補助兵力とみなし、空軍側も、陸軍との協同作戦はしばしば、空軍部隊を拘束させるものだ、と考えていたからである。
しかも、この立体作戦には、当時、具体的な根拠はなにもなかった。アイゼンハワー少将の作戦構想を実現するには、おそらく万単位の飛行機が必要だが、そんな大量の飛行機は、なかった。いずれは生産される。しかし 、たとえ近くても、将来に期待する計画を維持し、そのための準備を進めるには、なみはずれた信念が必要である。
いや、その作戦計画は、ただ信念だけを基礎にしていたともいえるが、マーシャル参謀総長は、うなずいた。現在は立証できなくても、条件がそろえば確実な成果が予想され、その条件の整備は実現可能だからである。
マーシャル参謀総長は、一九四二年五月、アイゼンハワー少将にイギリスを基地化するための視察と計画案作成を指令した。
アイゼンハワー少将は、十日間の視察を終えて帰国すると、ヨーロッパ方面の米軍を統率する指揮官の資格として、米国政府の諸計画をよく知り、陸海空三軍にたいする補給の知識も深いことを進言した。
また、ヨーロッパ派遣米軍の統一司令部を規定した「ヨーロッパ戦線司令官への指令」案を提出した。かつてコンナー少将が指摘した、単一統帥の具体化であり、まさに“マーシャル好み”の策案であった。
アイゼンハワー少将は、この案文はぜひ全部読んでいただきたい、戦争遂行上の重要問題を含んでおりますから、とマーシャル参謀総長に述べた。総長は、すでに概要の説明を聞いた段階で、考慮をめぐらしていたらしく、アイゼンハワー少将に、いった。
「承知した。必ず読むよ。ところで、この計画を実施するのは、あるいは貴官になるかもしれない。そうなったら、いつ出発できるかね」
「いますぐにでも……閣下」
アイゼンハワー少将は、ハゲあがったひたいと大きな眼を光らせて答えたが、三日後、マーシャル参謀総長は、アイゼンハワー少将にヨーロッパ米軍司令官任命の内意を伝え「おめでとう、中将」と、昇進を告げる祝辞を述べた。
ロンドン赴任《ふにん》にあたって、アイゼンハワー司令官は、ルーズベルト大統領をはじめ、政府、軍幹部と打ち合わせをしたが、海軍作戦部長アーネスト・キング大将は、うまくやってくれ、うまくやってくれれば将来の米国軍人による連合軍統一司令部の実現に役立つはずだ、といったあと、次のように支持を約束した。
「本官の権限内で可能な限り、貴官の米軍司令官としての地位を支持する。責任と権限は単一のものである以上、もし海軍側でこの考え方を捨てる者がいたら、いつでも本官に報告してほしい」
アイゼンハワー司令官は、一九四二年六月、ロンドンに司令部を開設した。いよいよ、それまでの上官にたいする順応性とは別に、上官として部下にたいする適応性を発揮する機会を、迎えたわけだが、アイゼンハワー司令官の部下にたいする適応とは、部下の機嫌をとったり、その考えを受諾するのではなく、部下の立場になってその障害をとり除き、部下のレベルを向上させることを意味する。
アイゼンハワー司令官がロンドンに到着して最初にした仕事は、米軍による新聞記事検閲制度の廃止である。
検閲といっても、むろん、米人記者の記事、とくに米人黒人兵にかんするものであった。米国では黒人と白人女性との交際は、よほどのことがない限り、黒人側の“犯罪”とさえ、みなされる。ところが、英国女性は黒人を差別せず、大っぴらに黒人兵と腕を組み、デイトのお相手をしてくれる。
白人兵はおもしろくなく、おかげでケンカ騒ぎがひん発したが、米軍司令部はこの種のトラブル記事の本国送稿をストップさせていた。
もし、本国で知ったら、あるいは白黒対立の原因になるかもしれない、というのだが、アイゼンハワー司令官は、検閲を廃止させた。
「兵士に色彩が必要なのは、ジャングル戦闘服だけである。善悪の規準は白人兵と黒人兵とで変わらない。むしろ、故国に報道するほうが、外地での行動を自粛させることになりうる」
アイゼンハワー司令官はまた、部隊における精神教育の強化を指令した。とりわけ、米国は民主主義を守るために、ナチス全体主義と戦い、これを打破するのだ、という理解を徹底させるよう、命じた。
ひとつには、とかく米兵と英兵は衝突するためだが、そのさい、米兵は「オレたちゃ、お前さんたちを助けにきた十字軍よ」という態度を示し、英兵のほうは「フン、こっちはタマをくぐってナチス野郎と戦ってきたんだ」と反発する。
ともに粗雑な発想にはちがいないが、アイゼンハワー司令官には、やがて米国軍人による連合軍統一指揮という目標の達成を促進する任務がある。米兵の評判を落とすのは、まずい。
米兵の態度が未熟なのは、結局は、なんのために米国は戦うのか、つまりは戦争目的の理解がたりないからにほかならない。
アイゼンハワー司令官がそういうと、部隊指揮官の中には、露骨に不満を表明する者もいた。
「失礼ですが、閣下。民主主義対全体主義というようなアカデミックな問題に頭を使わせても、兵隊は強くなりません。それよりも、自分の部隊にたいする誇り、戦友愛、あるいは敵にたいする憎悪といったもののほうが、兵の士気を高めるものと愚考いたします」
「要するに、まだ血の洗礼をうけていないだけではないでしょうか。結局は、敵のタマのうなり声をきけば、シャキッとするものだと思いますが」
アイゼンハワー司令官は、怒らない。のちに“百万ドルの微笑”といわれたほほえみを絶やさないのが、トレード・マークである。が、このときは、眼をむいて、指揮官たちを叱咤《しつた》した。
「なにをいうか。では、貴官たちは、自分の部下を知性ある人間とはみなさず、たんに制服を着たロボットか、せいぜいが無教養なならず者とみなしていることになるではないか」
たしかに、上官にたいする服従、部隊にたいする誇り、あるいは訓練による自信、戦友同士の心理的結合は、すべて兵士の戦意高揚の源泉になることは、まちがいない。しかし「そういった局部的な精神または規律が、指揮や指導的行動で高揚されると同時に、基本問題にたいする信念は、勝利のために最も大切なはずである」
とにかく、米国軍人が戦争目的の論争をふっかけられて頭をかかえたり、不作法で評判をおとすことは、こんごの共同作戦の障害にしかなりえない、とアイゼンハワー司令官は、厳に精神教育の徹底を指揮官たちに指示した。
そして、英政府とも連絡して、米兵の一般英人家庭訪問を通じて相互理解の向上をはかるとともに、各部隊にたいしては、配給制度下の英国市民生活に負担をかけぬよう、訪問のさいは、携帯食糧を持参せよ、と通達した。
これらの措置は、効果をあげた。日ごとに、英国市民の米兵にたいする感情は好転し、やがて米兵の大群が英国に集結するさいの心理的基礎作りが、できあがっていった。
ただ、アイゼンハワー司令官にとっては、災厄が発生した。
当然、米軍司令官の評判は高まり、アイゼンハワー司令官にたいする招待が激増したため、ついに日に九回のパーティに出席する事態となり、アイゼンハワー司令官は、猛烈な食中毒にみまわれて倒れてしまったからである。
一九四二年(昭和十七年)十一月八日、米英連合軍は北アフリカ進攻作戦(暗号名「トーチ」)を開始した。米軍指揮官は、アイゼンハワー中将である。
米英両国が望み、そしてアイゼンハワー中将も強調するヨーロッパ北部上陸作戦は、準備のつごうで一九四四年春までは実行不可能と判定された。そこで、北アフリカからイタリアを制圧して、まず南の安全と補給ルートを確保しようというのであるが、この北アフリカ作戦は、アイゼンハワー中将にとっても、前途にたいする効果をふくんだ機会となった。
この作戦で、アイゼンハワー中将は、はじめて他国軍と共同し、かつ他国軍をコントロールする任務を与えられた。後述するように、このときの指揮能力によって、アイゼンハワー将軍はヨーロッパ進攻連合軍最高司令官に登用されるわけだが、将軍が北アフリカ作戦で最も注意したのは、いかに他国軍指揮官の自尊心を満足させながら、しかも自分の地位を維持するかであった。
たとえば、アルジェ占領にさいしては、攻略部隊指揮官に米第三十四師団長C・ライダー少将を任命するが、アルジェ市を占領したあとは英第一軍司令官サー・ケネス・アンダーソン中将が指揮をひきつぐ、といった配置を考案した。
ただ、フランスの将軍アンリ・ジローの場合はてこずった。ジロー将軍は、フランス軍人の間で声望が高かった。当時、北アフリカのフランス植民地は、ナチス支配下のフランス・ヴィシー政府の統轄《とうかつ》をうけ、連合軍と敵対関係にあったが、もしジロー将軍が連合軍の先頭にたてば、これらフランス植民地軍も連合軍に協力するものとみこまれていた。
連合軍としては、もともと味方と思っているフランス軍およびフランス植民地の市民たちとの戦いは、避けたい。上陸にあたって、戦艦「テキサス」からフランス国歌「ラ・マルセイエーズ」を放送して、モロッコ市民に親愛の情をひれきしたのも、そのためである。
当然、ジロー将軍の活用は歓迎すべきであり、連合軍は南フランスでドイツ側に軟禁されていたジロー将軍を、ひそかに救出してジブラルタルの連合軍司令部につれてきた。
ところが、アイゼンハワー中将と握手すると、ジロー将軍はおごそかに、いった。
「まず本官の幕僚たちはどこにおりますか。次に、本官の制服、つまり総司令官としての制服はどれでしょうか」
「……?」
アイゼンハワー中将はキョトンとしたが、やがて、ジロー将軍が北アフリカ進攻連合軍の総指揮官になるつもりでいることが、わかった。ジロー将軍は、いった。
「わが栄光あるフランスの植民地に進むとき、フランス人である本官が総指揮をとることは、祖国フランスの名誉であり、かつ本官を待つフランス軍隊にとっても必要欠くべからざる事態である。もし、本官が総司令官以下の地位を示す軍服を着ていたら、それだけでフランス軍は連合軍を投げキスではなく、銃弾で迎えることでありましょう」
アイゼンハワー中将にたいして、米国務省および英外務省から、ジロー将軍を名目的な総司令官としてはどうか、という提案が寄せられた。こんごのフランスの協力を期待するために妥協すべきだ、というのである。が、アイゼンハワー中将は、反対した。
「連合軍の司令官の任命は、それぞれ責任ある政府間における軍事的、政治的な合意を必要とする。その場合でも、一国のつごうだけを考えるべきではないが、ましてフランスの場合は、まだ一人も連合軍の司令官に就任しておらず、フランスは敵の立場にある。もしジロー将軍を総司令官にすれば、こんどは米国および英国の名誉が問題になる……」
ジロー将軍は頑固に自説を主張しつづけたが、アイゼンハワー中将は、結局、作戦終了後にフランス領の民政長官にすることで、ジロー将軍を説得した。ワシントンに報告すると、マーシャル参謀総長は、心からの賛意と祝意をひれきした電報をアイゼンハワー中将に送り、ついで四カ月後、「国威発揚と卓越した指揮能力」により、大統領がアイゼンハワー中将の大将昇進を承認した、と知らせてきた。
末は大臣、大将か――と、かつてはわが国でも歌われたように、軍人として大将になる喜びは、洋の東西を問わない。しかも、アイゼンハワー将軍の場合、一九三九年に中佐になっていらい、わずか、四年間で大将になったのである。
空前のスピード昇進記録であり、将軍は知らせをうけると、喜びをわかつために従兵たちを一階級昇進させ、好きな歌「ワン・ダズン・ローゼズ」をうたって杯をあげた。
北アフリカ作戦の次は、イタリアのシシリー島攻略作戦であったが、ここで、アイゼンハワー大将は、例のパットン事件に遭遇した。パットン将軍が病兵をなぐったのだが、パットン将軍にたいする批判はきわめて強く、アイゼンハワー大将に処置をせまる声も高まった。
しかし、アイゼンハワー大将は、熟慮の末、パットン将軍をクビにしないことにした。理由は――
「すでに私の耳には、英第八軍司令官モンゴメリー将軍にたいする批判も、聞こえていた。行動が慎重にすぎるというのだ。しかし、作戦が失敗すれば“人殺し”、おくれれば“卑怯者”というのは、あまりに手軽な勤務評定だ。戦争における指揮官にたいする批判は、その勝ち戦《いくさ》、負け戦を積み重ねた総合的結果にもとづいてはじめてできることである。
一方、パットンの場合は、たしかにその直情ぶりは欠点だが、パットンは日ごろの訓練、適切な作戦、旺盛な士気を用意して、最小のギセイで最大の効果をあげる突進攻撃をおこなえる数少ない指揮官の一人である。そして、彼の直情がこういうすぐれた指揮ぶりを支えていることも、事実である。私は、モンゴメリー将軍とともに、パットンもまた、勝利のために必要な存在だ、と判断した」
アイゼンハワー大将は、二度と同じような事件を起こしたら即座に罷免《ひめん》する、という手紙をパットン将軍に書いて問題をかたづけたが、アイゼンハワー大将の胸中を占めていたのは、ひたすら勝利の二字であり、その目的のために必要なものは最大限に利用する、という現実主義であった。そして、この態度はその後も変わらず、大将は難問にぶつかるたびに、勝利のためという目標を鏡にして、ことの処理にあたりつづけた。
もうひとつ、アイゼンハワー大将が指揮官として心がけたのは、自己の権限で処置できることは、必ず自分の手ですませ、上級者の指示はあおがないようにすることであった。いたずらに上級者にうかがいをたてることは「自己の能力不足を告白するばかりでなく、上級者の信頼を無視することにもなる」からであるが、そういう大将の配慮の典型例として、一九四三年九月八日のイタリア南部サレルノ上陸が指摘される。
サレルノ上陸は、イタリアの降伏にあわせて予定された。すなわち、ムソリーニ・イタリア首相に代わったピエトロ・バドリオ元帥は、連合軍と交渉して、九月八日午後六時半にイタリアの降伏を声明する、と約束した。同時に、アイゼンハワー大将もイタリア軍降伏を発表してサレルノに進駐する、という手はずをきめた。
ところが、同日正午になって、バドリオ元帥はサレルノ上陸の延期を求めてきた。イタリア国内にはまだドイツ軍が大量に滞在している、準備不足のうちに降伏を声明すると、ドイツ軍は必ずやイタリア軍を武装解除し、首謀者は極刑にされる危険が予想される、というのである。バドリオ元帥からの通信は、アルジェの連合軍総司令部に届き、参謀たちはあわててカルタゴの前線司令部にいたアイゼンハワー大将に連絡するとともに、ワシントンの米統合参謀本部にも伝え、訓令を求めた。
アイゼンハワー大将は、即座にアルジェ司令部に打電して、ワシントンあて請訓を取り消させるとともに、予定どおりに計画実施を厳命した。
「私は、ついでにバドリオ元帥にたいして、予定どおりに降伏を声明しなければ、イタリアはこの戦争でもはや最後の友を失うだろう、と通知した。私は、私に与えられた使命を達成することだけを考えていた」
結局、アイゼンハワー大将が、約束した午後六時半にイタリア軍降伏を放送すると、バドリオ元帥も一時間半後、午後八時に同様の声明を発表した。
おそらく、以上のような北アフリカ、イタリアにおけるアイゼンハワー大将の指揮官ぶりが、ヨーロッパ進攻の連合国軍最高司令官に選ばれる場合の採点に加味されたにちがいないが、最高司令官の地位は、最初はマーシャル参謀総長に予定されていた。
ドイツ打倒のためのヨーロッパ進攻作戦、暗号名「オーバーロード」の指揮官が誰になるかは、米英両国の最大の関心事であった。作戦に動員される兵力は陸海空二百八十七万六千四百三十九人、艦艇六千隻、飛行機一万四千機をこえる、史上空前の大兵力であり、この作戦でドイツは撃破され、戦争は終わる。
その最高指揮官となれば、当人にとっては軍人としての最大の栄誉であり、同時にその母国にとっても、歴史に残る大事である。
チャーチル英首相は、はやばやと英参謀総長サー・アラン・ブルックに「ぜひ貴官がその栄誉を入手できるよう努力する」と約束し、ルーズベルト大統領は米陸軍参謀総長マーシャルこそ、最適任の将軍だと確信していた。ルーズベルト大統領はチャーチル英首相と交渉して、「オーバーロード」作戦の参加兵力の主力は米軍になる以上、最高指揮官は米国軍人であるべきだと主張し、チャーチル首相も、マーシャル参謀総長の名前を聞くと同意した。
二百八十万人をこえる大軍は、米英両軍をはじめ、カナダ、オランダ、フランス軍も含む。しかも作戦地域はヨーロッパ各国にまたがり、ドイツをはさんでソ連との協調も必要である。文字どおりの連合国軍作戦である。その意味で、最高指揮官は広い国際的視野を持ち、各国の政情、各国軍および複雑な各兵科の事情、陸海空の補給問題などにも通じた人材でなければならぬが、その点、マーシャル参謀総長は、米軍最高幹部として連合国の世界戦略立案に従事してきた適任者である。
むろん、マーシャル参謀総長も、この任務を心から熱望していた。
すでに述べたごとく「オーバーロード」作戦は、アイゼンハワー大将とともに、マーシャル参謀総長が一貫して主張し、かつ準備を進めてきた計画である。この念願の歴史的作戦の指揮をとることは、まさに武人の本懐であり、また長い軍人生活の最後を飾る花道でもある。
マーシャル参謀総長は、ルーズベルト大統領の内命をうけると、さっそく官舎から家財道具を自宅に運びはじめた。ロンドン赴任の準備である。
ルーズベルト大統領も、十一月下旬からはじまるカイロ、テヘラン連合国首脳会談にむかう途中、チュニスにいたアイゼンハワー大将をたずね、マーシャル参謀総長の最高司令官就任をほのめかして、いった。
「アイク、われわれは南北戦争末期の参謀総長が誰かを知っている。しかし、一般には知る者は少ない。私としては、五十年後に、ジョージ・マーシャルがどんな人物だったか忘れられるのは、おもしろくない。彼が偉大な将軍として歴史に地位を占める資格がある、と思うのだ」
ルーズベルト大統領は、マーシャル将軍の後任として、アイゼンハワー大将を陸軍参謀総長代理に任命するつもりだ、とうちあけた。
ところが、“マーシャル最高司令官”は実現しなかった。米国内部、とくにマーシャル大将とともに統合参謀本部を構成する他の三人の幹部、陸軍航空部隊司令官アーノルド大将、海軍作戦部長キング大将、大統領顧問リー海軍大将が、一致してマーシャル参謀総長の転出に反対したからである。
理由は、マーシャル参謀総長がぬければ、米国のみならず、連合国の勝利のための戦略指導に、重大な欠陥が生ずる、というのである。キング海軍大将は「われわれはワシントンで最上の“戦勝コンビ”をつくっている。なぜそれをこわすのですか」と、ルーズベルト大統領にくってかかり、アイゼンハワー大将がマーシャル総長の後任になることにも異議をとなえた。
「参謀総長となれば、ヨーロッパ戦線のみならず、太平洋戦線も統轄しなければならないが、アイゼンハワー将軍とマッカーサー将軍との不仲は周知の事実である。面倒なトラブルが予想されます」
ルーズベルト大統領は、アイゼンハワー大将を最高司令官に選んだ。
アイゼンハワー大将の任命の誘因のひとつが、マッカーサー将軍と不仲のためにワシントンづとめを拒否されたおかげとすれば、アイゼンハワー大将にとっては、かつて上司(マッカーサー元帥)ににらまれ、“冷や飯”をくわされたことが、かえって幸運につながったともいえる。
もっとも、アイゼンハワー大将としては、最高司令官就任の名誉に感激しながらも、こういった感慨にふける余裕はなかった。連合国軍最高司令官の責務は、その地位の高さを喜び、軍人としての満足感にひたってすごすには、あまりに大きくかつ重かったからである。
アイゼンハワー最高司令官に与えられた命令は、次のようなものであった。
「貴官はヨーロッパ大陸に上陸し、他の連合諸国と協力の下にドイツの心臓部に進入して、その兵力を壊滅《かいめつ》するための軍事行動を展開すべし」
それだけである。要するに、ドイツをやっつけろ、やり方は任す、というわけだが、アイゼンハワー大将はまず最重要問題として、指揮体系の整備にチエをしぼった。
「なにぶんにも、二百八十万人以上の大軍である。これだけの大軍を指揮した将軍は、歴史上に先例がない。私はいかにすれば能率のよい指揮系統が確立できるかに苦慮したが、落ち着いた結論は、調和と責任の明確化という平凡な公理でしかなかった」
アイゼンハワー大将は、指揮にはパットン将軍のように「勝利のための人材」を含めて、戦場での有能さを発揮できる武将を求め、幕僚には、アイゼンハワー大将自身が心がける順応性の持ち主を選んだ。
アイゼンハワー大将は複雑で大規模な近代戦においても、個人の能力を重視した。ただ、個人が個人としての働きを誇示する時代はすぎた、と思う。
「世間的な名誉心、あるいは尊大な態度が権限を示すために必要だ、と信じている軍人は、不要だ。必要なのは、指揮官としても幕僚としても、ひとつのチームをつくる重要性を認識している者だ。ウマにのらなくても、将軍のつとめは、はたせるものである」
アイゼンハワー大将はまた、指揮官が指揮官として十分に働けるためには、その責任が簡単明瞭でなければならぬ、と考え、最高司令官がすべての責任を負い、中間の存在、副司令官はおかないことにした。このため、最高司令官は最重要な決断を一手にひきうける代わりに、部下の指揮官たちも直接、最終の意思を知ることができ、作戦行動に疑念をいだかずにすむからである。
だが、それは最高司令官の仕事をつらいものにした。ノルマンディ上陸の日の決定である――。
上陸は一九四四年六月四、五、六日のうちいずれかにおこなうことにされていた。先陣となる空挺部隊には月の明かりが必要であり、上陸部隊には干潮が必要である。上陸地域にこの二つ、おそい月の出と夜明けの干潮を保証する日は以上の三日間しかなかったからである。
だが予定日がせまるにつれて天候は悪化して、暴風雨が英仏海峡と北部フランスをおそった。四日、次に五日が放棄されたが、もし六日を逃すと、少なくとも十九日まで気象条件はととのわず、イギリス南部に集結している進攻軍の精密な準備計画の変更を考えれば、さらに長期間の延期が必須とみこまれた。アイゼンハワー大将は、パイプをふかしつづけ、ただ一人で司令部の横を、頭上の暗雲をあおいでは頭をたれ、背中を丸めて考えこみながら歩きまわった。
やっと、六日朝に一時的好天が期待できるというニュースがはいった。しかし、そのごはまた悪天候であろう、と気象班は、いう。上陸はできても、後続の補給は困難になるわけである。アイゼンハワー大将は、モンゴメリー将軍はじめ各指揮官の意見を求めたが、大将の両眼の周囲は黒ずみ、疲労しきっていた。そして、約二分間、両手を組み、眼を閉じ、祈るように沈黙したのち、決定を下した。
「諸君、私は決定を好まない。しかし、私が決定しなければならない。では……行こう、諸君」
連合軍がノルマンディに上陸してからも、アイゼンハワー大将は、いくつかの重要な決断にせまられたが、大将にいわせれば「決断とは、目的を見失わない決心の維持にほかならない」。そして、大将にとって目標は、ドイツの打倒と指揮権の保持である。だから、戦闘中、しばしば誇り高い英国人であるモンゴメリー将軍が、あるいは作戦の変更を進言し、あるいは地上部隊総司令官の地位を要求したときも、大将ははねつけた。
もっとも、そういう場合でも、アイゼンハワー大将は、けっして自分の不満や怒りを相手に示さず「親愛なるモンティ」とモンゴメリー将軍に呼びかけ、署名も「アイク」とするなど、大いに“政治性”を発揮して相手を説得した。
「第一線はさびしい場所だ。だから、兵士はデイトの相手を待っている」といって、前戦部隊訪問につとめた。兵士たちが、チョコレートやタバコが不足だといえば、さっそく補給部隊を調査させ、ヤミ市場に横流ししていた事実を発見して関係者を処罰したことも、あった。
アイゼンハワー大将は元帥になり、戦争が終わると参謀総長になり、やがて大統領になった。大統領選挙のとき「アイ・ライク・アイク」の標語を叫び、最も熱烈に支持運動を展開したのは、かつての部下たちであった。
大統領としてのアイゼンハワー元帥の手腕には、少なからぬ批判がつきまとうにせよ、指揮官としての元帥の評価は、高い。「チームの中で個人を生かす」という新しい型の指導法を最もよく服膺《ふくよう》したのがアイゼンハワー元帥であり、“民主的な指揮官”の典型だと信じられているからである。
アドルフ・ヒトラー
――ワシントンのレストランでの体験である。
一皿一ドル二十五セントの鶏料理を賞味していると、学生風の男二人が同席の許可を求めた。次いでこちらを日本人と見定めると、一人はドイツ人、他はイギリス人と自己紹介した。予想どおり、ともに留学生とのことであった。
二人がサンドイッチを食べ終わり、食後のコーヒーに移る間に、なんとなく会話が開始されていたが、話題が第二次大戦に及ぶと、ドイツ人留学生はぐいと胸を張って、握手の右手をさしのべつつ言った。
「日本の紳士よ。われわれの祖国ドイツと日本は戦争に敗れた。しかし、戦争には負けても、戦闘には負けなかった。そうでしょう」
ハハン、と私は胸中にうなずいた。ドイツに旅行すると、かならずといってよいほど、同様の見解をひれきしながら、友愛感を示す市民に遭遇《そうぐう》する。そして、これまたかならずや、そのあとで「この次は勝ちましょうよ。それにはイタリアを抜きにしなくちゃ」とつけ加えられるはずである。そこで、私もニンマリと苦笑して、このつけたり《ヽヽヽヽ》が彼の口から発せられるのを期待したのだが、同席の人物がイギリス人であることに思いあたった。かつての同盟国、日独両国民の内輪話ならともかく、戦勝国イギリス国民を前にしてのこの発言は、ドイツ人留学生の愛国心の強さを立証すると同時に、いささか相手の心証を害することにはならないだろうか。
すると、意外にもイギリス人留学生は陰鬱にうなずいた。
「イエス。ドイツは強かった。とてもわれわれはかなわなかった」
そう言うと、イギリス人留学生はさらに陰気な声で、つぶやくように歌いだした。映画〈戦場にかける橋〉でわが国にもおなじみの“クワイ河マーチ”のメロディである。ドイツ人留学生も私も、ならって口ずさもうとしたが、歌の文句に気づくと絶句した。
Hitler Has Only Got One Bowl,
Goering Has Two, But Very Small,
Himmler Has Something Similar,
But Poor Goebbels Has No Bowl At All,
ヒトラーにゃ、たったタマひとつ
ゲーリングは二つ、でも小さい
ヒムラーも似たようなもの
だが、あわれ、ゲッベルスはひとつもない
タマ、すなわち、男性のシンボルであり、この歌は明らかにかつてのナチス・ドイツ指導者をバカにしている。それを、いかにも恐れいったげに歌う。痛烈な皮肉である。ドイツ人留学生は、顔青ざめて唇をふるわせていた……。
なんともイギリス人らしい逆襲の仕方であり、そのとき私もイギリス風皮肉の苛酷さにぞっとしたものだが、三年前に耳にしたその歌の文句が忘れられないについては、別の理由がある。
(ヒトラーにゃ、タマひとつ)――この歌詞は、たんに戦争相手にたいする下品な中傷だけとは思えないフシがある。はっきりいえば、少なくとも第二次大戦末期のヒトラーは〈女性化〉していた疑いがあり、イギリス人留学生の歌は、その“秘密”をほのめかしている感があるからである。
アドルフ・ヒトラーの名前は、世界史に最も強烈な存在として記録されている。第二次大戦の損害は、連合国および枢軸《すうじく》国双方の軍人だけで一千五百三十万人の死者、行方不明者を数える。ほかに六百万人といわれるユダヤ人被虐殺者をはじめ、戦火に倒れた一般市民を加えれば、死者だけで三千万人に達するだろうと推定されている。
この史上空前の大戦争の演出者こそ、ナチス・ドイツ総統ヒトラーであるわけだが、そのヒトラーが〈女性化〉していたというのは、いささか奇矯《ききよう》にすぎるかもしれない。
むろん、これはあくまで推測あるいは推理であって、確たる証拠はなにもない。が、その推理には、意外に根深い根拠を見出し得るのであり、最も重要な示唆《しさ》を与えてくれるのが、第二次大戦中の米国諜報機関OSS(戦略諜報局)の記録である。
OSSは、ウィリアム・ドノバン大佐を長とする秘密工作機関で、日本の真珠湾攻撃直後、ルーズベルト大統領の直接命令で組織された。所属は米統合参謀本部直属である。
任務は、スパイ、破壊工作その他戦争を有利にするために必要なあらゆる活動を実施することにあり、どんな奇抜な手段、着想も見のがさないことをモットーとした。したがって、この工作は特殊兵器の考案製造から、暗殺計画に至るまで、きわめて広範囲に及び、機関には軍人のみならず、一流の科学者も多数動員された。
OSSの活動については、いまなお多くの部分が極秘にされているが、明らかにされたものだけをみても、驚くべき工作が多い。
たとえば、一九四三年暮れからパリのドイツ軍将校の間に防弾チョッキ着用が流行したが、これはOSSがG・ハンマー・ワシントン大学教授らによって製造させた完全に無音、無煙、そして発射せん光すらないピストルのおかげだった。このコルト型二二口径ピストルは、試作されると、わざわざルーズベルト大統領の部屋で発射され、大統領を仰天させた新兵器だったが、OSSはこれをパリはじめナチス占頷下諸国の地下抵抗組織に配布して、ナチス将校暗殺に利用させたのである。
そのほか、フィリピンにおける日本軍票の偽造、まったくメリケン粉と同じで煮ても焼いても安全だが信管をつければ猛爆発する爆薬、ロンドンに潜入したナチス・スパイの抱き込み工作、細菌兵器の開発をはじめ、あるいはコウモリに小型焼夷弾《しよういだん》を背負わせ、未明に日本の海岸からとびたたせて木造の日本家屋を焼きはらう計画まで、試みている。
そのOSSが、ナチス・ドイツに完ぺきな支配力を特つヒトラー総統に注目したのは当然である。ヒトラー総統をなんとかできれば、かならずやドイツ国民の戦意は低下するはずである。ただし、そのさいヒトラーを殺すのは得策とは判断されなかった。ヒトラー暗殺は、逆にヒトラーを“殉教者”視させ、ヒトラー以上の狂信主義者の登場を許す恐れが予期されたからである。
OSSは、まずヒトラーを身体障害者、とくに失明者にしたいと考え、特殊ガスを発明して待機した。
一九四二年四月末、ヒトラーがムソリーニ・イタリア首相とザルツブルクの山荘で会談するとの情報に接すると、OSS研究開発部長スタンリー・ロベル博士は、ただちにヒトラー失明作戦開始を提案した。
工作員をヒトラーの山荘に忍びこませ、会議室の花びんに持参したカプセルの中身を注ぐ。液体は水の表面にうすい油状のまくのように広がり、やがて無味、無臭、無色のガスをゆるやかに発散させる。ヒトラーおよびムソリーニが部屋に入り、二十分間会談を続ければ、ガスは眼球からしみこみ、完全に視神経をおかして二度と視力を回復することはない――というのである。
むろん、ナチス・ドイツはヒトラー失明の事実をかくそうとするだろうが、成功の暁にはローマ法王からドイツ、イタリア国民に布告をださせる。両国民の多くはカトリック教徒だから、法王の託宣は有効であり、両国民は盲人化した指導者に愛想をつかすに違いない。
ロベル博士の提案は採用され、即刻、失明ガスがドイツに密送された。しかし、ヒトラーはいかなる天啓を感じたか、突然、会談の場所を、同じザルツブルクではあるが、ビショプス公所有のシュロス・クレスハイム宮殿に変更した。おかげで、OSS工作員はカプセルを小川に投げこみ、切歯するにとどまった。
OSSが、次に着想したのが、ヒトラー〈女性化〉工作である。
OSSの観察によれば、ヒトラーはたしかに男性である。だが、きわめて女性的性格の持ち主である。もともと、心理学的には人間の性格には男女の区別は無いが、女性または男性に多く見られる性格傾向から判断すれば、ヒトラーには女性的性格傾向のほうが男性的それよりも多く認められる。
OSSの諮問《しもん》にこたえ、このようなヒトラーの性格判定を行なった一人は、内分泌腺の権威エルマー・バーテルズ博士だったが、博士は、ヒトラーの過去の言動を列挙しつつ、ヒトラーが性格的には男性と女性のさかい目にある、と次のように解説した(以下、カッコ内はバーテルズ博士の診断)。
――ヒトラーは、一八八九年四月二十日、オーストリアの元税関吏の息子に生まれた。一九三三年一月、四十四歳でドイツ首相になった。政権を握るためにヒトラーが採用した戦術の中で目立つのは、演説と演出である。
演説、つまり〈おしゃべり〉の効用について、ヒトラーはその著書『わが闘争』で次のように言っている。
「歴史に残る宗教上、政治上のなだれ《ヽヽヽ》のような大運動を実地に展開させた勢力は、しゃべる言葉の魔術的な力である。同じ地域の住民のうちでは、どんな力よりも言葉の魅力に動かされやすい連中が断然多い」
そして、たしかにヒトラーの演説は迫力に満ち、ヒトラー自身のヒステリックな感情がそのまま聴衆にのり移って、男たちは切歯扼腕《やくわん》し、女たちはすすり泣くといった光景が、至る所の演説会場でみられた。まさに〈史上最大の扇動政治家〉の名にふさわしい。
毎年九月、ニュールンベルクで開かれるナチス党大会の演出も他に類がなかった。壮大な競技場、林立する旗の波、整然たる群衆の行進、炎々と燃えるタイマツをゆるがす大音楽隊の演奏、そして夜空をドームのように照射するサーチライト……その計算しつくされた壮麗美は、バレエ、歌劇の舞台も及ばぬすばらしさで、ドイツ市民は大会の映画を見ただけで興奮せざるを得なかった。
(このおしゃべり好きと、お芝居性。これはいずれもヒステリー性格における自己顕示性の現われだが、いわずと知れた女性の特性でもある)
――ヒトラーは決して自分の非を認めない。政策を実行する場合でも、かならず自分を被害者とし、誰か悪者をつくりあげ、その相手にたいする憎悪感を国民に抱かせて、団結の原動力にしようとする。ユダヤ人を憎悪の源泉につくりあげたのもそうだし、オーストリア、チェコの併合の場合でも、両国内のドイツ人が圧迫されていると国民に訴えて、強硬策を支持させた。そもそも、ヒトラーが政権を握り得たのも、彼が叫んだ〈ベルサイユ条約への復讐《ふくしゆう》〉がドイツ国民にアピールしたからである。ヒトラーは、『わが闘争』でもはっきりベルサイユ条約の恨みを強調しているが、一九四一年一月ベルリンにおける演説でも、「私の計画はベルサイユ条約を撤廃することにある」と、明言している。
(他人に責めをきせ、執念深く復讐心を燃やす。これまた、なんと女性的であることだろう)
――ヒトラーの生活ぶりは、きわめてストイックなものと伝えられている。元来貧困な青年時代をおくったせいでもあろうが、総統となってからも、その生活態度は簡素である。菜食主義は名高いが、たしかに肉はいっさい口にしない。運動もめったにせず、せいぜい山荘で散歩するぐらい。ほとんど部屋にとじこもったきりで、新鮮な空気すらめったに吸わない。
そのくせ、健康には異常に気をくばっている徴候がみえる。酒、タバコ、アルコール、コーヒーなど、刺激性飲食物はすべて避け、侍医の調合する胃薬を離さない。病気を恐れることはなはだしく、カゼひとつひいても大騒ぎする。(粗食に甘んじ、運動を好まず、しかも長寿を切望する。これは、まさに多くの主婦の姿ではないか)
――ヒトラーの対女性関係はおかしい。ヒトラーは、一九〇九年から四年間、ウィーンで貧窮な青年時代をすごしているが、当時の彼について、女性たちは彼に関心を示したがヒトラーはさっぱりだった、と伝えられている。なぜか? 『わが闘争』には次のような文章がみられる。
「髪の毛の黒いユダヤ人の青年が、人を信じやすい娘を誘惑してやろうとねらいをつけ……その女の血に粗悪な血を混ぜて同じ民族のふところからその女を引き離してしまう」
「何十万人という娘たちが、胸くその悪い、ガニマタのユダヤ人どもに誘惑される……」
ここにも反ユダヤ感情の爆発がみられるが、しかし、この文章の調子には、なにかシットめいた気持ちもただよっている。あるいは、ヒトラーは実際には女性にもてず、青年時代にユダヤ系青年と恋の競争に破れたことが、その反ユダヤ意識を育成したのではなかったか、とも想像できる。
だが、それはともかく、ヒトラーにも恋人の噂は存在する。一九二五年から三一年まで、ヒトラーは十七歳年下の姪ゲリ・ラウパルと一緒にいた。ヒトラーのミュンヘン時代だが、ヒトラーはすでにナチス党総裁であり、ナチス党は二年前の一九二二年十一月、失敗に終わったとはいえ、小規模の政権奪取クーデターを行なうほどの勢力を得ていた。ヒトラー自身も、ミュンヘンの家のほか、オーベルザルツベルクに山荘を持っていた。
ところが、ゲリ嬢は一九三一年九月十八日、ミュンヘンのヒトラー邸で死体となって発見された。ピストルの射弾で死んでいた。自殺と検案されたが、ヒトラーが極度にシット深く、およそ男性であれば誰とでも交際を禁じたため、あるいはシットに狂ったヒトラー自身が射殺したとの噂も流れた。
当時(一九四二年)、ヒトラーは写真屋の女店員だったエバ・ブラウンと暮らしていた。
エバは、美人ではない。愛嬌はあるが頭脳は弱いほうで、その代わり、ヒトラーとは正反対にスポーツ好きである。とくにスキーと水泳がうまいといわれる。しかし、ヒトラーの相《あい》も変わらぬシット深さには悩まされていたらしく、好物のタバコをかくれてのむのに苦心し、また二回も自殺をくわだてたと聞いている。
(ヒトラーの嫉妬《しつと》は、なにが原因なのか。逆に考えれば、ゲリ、エバ両嬢がヒトラーのシットを招く行為に走ろうとするのは、ヒトラー側に理由があるのではないか。つまり、男性としての能力不足である。ヒトラーは、つね日頃、アーリアン民族の優秀性を説き、生めよ殖《ふ》やせよ政策を強調している。子供たちを可愛がる姿勢を保ち、子供たちと一緒の写真をとる機会を喜んでいる。ところが、当然、最優秀の“アーリアン人”と自任しているはずのヒトラー自身が、子宝を求めていない。あるいは、男性としては珍しく“母性本能”が強すぎて、それが子供好きに現われると同時に、対女性関係においては淡泊になっているのではないか)
以上のバーテルズ博士の説明によって、OSSはすかさず二つの作戦を考えついた。ひとつは、ヒトラーのヒステリーを悪化させ、ほとんど絶え間なく発作を起こさせて、指導者としての地位からひきずりおろすことである。しかし、薬学者はそのような薬品は発見できないと回答した。そこで、第二案、ヒトラーに強力な女性ホルモンを服用させる計画が採用された。
すでに、女性っぽいヒトラーであれば、女性ホルモンによって〈女性化〉した場合、性格傾向は大きく女性側に傾く。その結果は、感情の激動、疑い深さ、外罪性向(他人に責任を転嫁する)、不決断、被害意識、受動的行動性など、女性的とみられる性向は促進され、これまた指導者としての地位は維持できなくなるであろう。かりに指導者のイスを保ったとしても、ヒトラーの体内では、男性的要素と女性的要素が混在かつ競合する形となるので、心理は極端に不安定になりナチス・ドイツの戦争指導は支離滅裂になるに違いない。
OSSは、水にも熱にも破壊されない強力な女性ホルモン液を開発した。ヒトラーは一九四一年の夏いらい、ほとんど東プロシャのヴォルフスシャンツェの総統大本営ですごしていた。本来なら首都ベルリンこそ、最高指導者の居所にふさわしいものを、ドイツ国内でも最もへんぴな場所に本営を設けた点にも、なにかヒトラーの異常性が感得できるが、この事情はOSSにとっては好都合だった。たぶん、ヒトラーは身の安全についてとくに敏感になっているに違いなく、そのことは彼が食事にも格別の注意をはらい、好きな野菜は彼の個人用菜園の作物以外は口にすまい、と想像できたからである。
それならば、仕事は楽になる。ただ一カ所、彼のベルヒテスガーデンの農園を攻撃すればよい。OSSは工作員に強力女性ホルモン液の入ったカプセルを渡して、ドイツに派遣した。ベルヒテスガーデンのヒトラー農園のキャベツ、ニンジン、トマト、大根、なんでもよいから、カプセル液をふりかけろ……。
二週間後、工作員は、反ナチス主義者のドイツ人小作人を買収し、彼は使命を達成した、と報告してきた。
OSSは、祝杯をあげた。ホルモン液の効果に疑問はない。もはや、ヒトラーが、やがて“トレードーマーク”のちょびヒゲを失い、その声がソプラノに変化するのは時間の問題と思われた。その結果は、戦争の終結もまた時間の問題となるであろう。OSSメンバーは、「本官はヒトラーにブラジャーを提供したい」「では、小生はマニキュア・セットにしよう」などと、浮かれた。――だが、OSSの記録は、この工作は失敗したと述べている。その理由として、ロベル博士は「同時に毒薬も投与させたのだが、ヒトラーが生きのびたところをみると、買収されたはずのドイツ人が薬をヤブの中に捨ててしまったとしか、考えられぬ」と言う。
しかし、このロベル博士の言明は容易には信じがたい。なぜなら、失敗の理由がいかにも薄弱である。ほかならぬヒトラーにたいする工作である以上、失敗したら、その原因はとことんまで追及されるはずである。それをただ想像だけですまされるとは思えない。
もちろん、諜報工作の手のうちは、将来の使用にそなえて、戦争が終わっても極秘にすべき事情が多い。失敗の原因は裏返せば成功の手がかりにもなるからだが、かりにそうだとしても、なおロベル博士の発言は不明瞭である。
毒薬も一緒に、というが、では毒薬とホルモンとを混合したのか。そうとは考えられない。毒殺するつもりならホルモン薬は不要であり、〈女性化〉がねらいなら毒薬は無用であろう。では、毒薬とホルモン液を別々にしたとすれば、ヒトラーが生きのびた以上、毒薬投与の失敗は明らかだが、ホルモン液のほうはどうなったのか。
とにかく毒薬とホルモン液は一緒に渡したのだから、毒薬ふりかけが失敗ならホルモンのほうも失敗とみなす、というのは急ぎすぎる結論である。少なくとも工作員が成功の飛電を送っているのである。ホルモン作戦は成功したのであり、ロベル博士はむしろ将来に備えて、この成功をぼかそうとしているのではないだろうか。
現に、OSSのヒトラー〈女性化〉工作が行なわれた一九四二年秋以降、とくに一九四三年以後、ヒトラーの身の上には急速な異常変化が確認できるのである。
一九四三年になると、ヒトラーの印象は、がらりと一変する。
その前まで、ヒトラーはたびたび胃が痛いとか、心臓の具合が悪いなどと騒いだが、いずれの場合も医師の診断は〈異常なし〉であった。事実、一九四二年までヒトラーはほとんど病気をしていない。ところが、四三年になると、左手と左足がふるえだし、左手のふるえをかくすために右手で押えつけねばならず、左足をふんばって同じくふるえを止めようとした。一九四三年以降のヒトラーの写真をみると、多くは両手を組み、足を開いた格好になっているのは、そのためであるが、さらにヒトラーは次第に左足をひきずって歩くようになった。
ヒトラーのこの健康状態の悪化については、一応、戦況の不利による責任の重圧感と主治医の無能さという二つの理由があげられている。
第二次大戦のヨーロッパ、太平洋両戦線をふりかえるとき、日独の戦勢はともに、一九四二年秋、米国が本格的に攻撃を開始したのを機会に、退潮のきざしを見せている。すなわち、ドイツ軍が勢威を誇ったのは一九四二年七月、ロンメル機甲兵団による北アフリカのエル・アラメイン占領まで、日本軍の勝運も同年六月のミッドウェー海戦で大きく傾いた。その後は、まるでドイツ軍が電撃作戦でヨーロッパを席巻《せつけん》し、日本軍が疾風のごとく東南アジア諸国と西太平洋を制覇した勢いをまさに逆用されたように、両国軍の敗退がつづいた。
一九四二年十一月、英国のモンゴメリー軍がロンメル兵団を撃破してエル・アラメインを奪回すると、待ちかねたように米英連合軍が北アフリカに上陸する。ついで四三年に入ると、一月三十一日、スターリングラードのドイツ第六軍団が降伏すれば、二月初旬、日本軍も前年八月いらいのガダルカナル島攻防戦に敗れて撤退した。戦争終結がいつかは見通しにくいかもしれないが、もはや連合軍の勝勢は明確になってきた。
七月、ドイツ軍はクルスク付近に大戦車部隊を集結して、ソ連軍撃退を試みたが、失敗した。その後、ソ連軍は勢いにのってドイツ軍を押しまくり、年末までにはポーランド、ルーマニア国境に迫った。その間、ドイツ軍のクルスク反攻の直後に連合軍はシシリー島に上陸、そのあおりでムソリーニ・ファシスト政権は倒れ、イタリアは九月八日、連合国に降伏した。また、ドイツ海軍は、主力潜水艦隊の大部分を失い、大西洋の制海権は米英海軍の手中に帰し、さらに米英空軍によるドイツ国内にたいする空襲も激化して、四三年九月中旬からは、ベルリンも米英機の行動半径内に入った。
総統ヒトラーとしては、当然、この敗勢に心労する。その結果が手足のふるえを招いたとみなされるわけだが、もうひとつ、ヒトラーの主治医モレル博士の投薬の影響も、他の要因といわれている。
アラン・バロック著『ヒトラー、独裁の研究』によれば、モレル博士は「むかしベルリンで性病の専門医として開業していたヤブ医者」とのことだが、一九三六年いらいヒトラーの主治医をつとめた。そして、ヒトラーはこのモレル博士調合の持薬を服用しつづけた。ところが、このモレル博士の調合剤というのは、まったくでたらめなもので、ズルフォン剤、麻酔剤、興奮剤、精力剤その他二十八種類が含まれ、とくに胃薬と称した丸薬はストリキニーネとベラドンナの複合剤だったと伝えられている。
もし、ヒトラーがこの種の“モレル丸薬”を愛用していたとすれば、たしかに悪影響は予想される。麻酔、興奮、精力増進などの効能薬をいっぺんに飲めば、なにがなんだかわからない状態になるだろうし、ストリキニーネとベラドンナでは、胃痛をおさめるどころか増大するに違いないからである。
だが、“モレル丸薬”は、多種類の薬品を混合しているだけに、中和効果も考えられ、大量に服用しない限りは、特定の悪作用は期待できないともいえる。バロック教授は、「ナチス・ドイツの最後の二年間には、ヒトラーだけでなく、事実上ヒトラーの側近者はことごとく、モレルがもったいをつけて調合した薬を服用し続けていたのである」(『ヒトラー、独裁の研究』)と述べているが、ヒトラー側近者の中で、ヒトラーと同様の症状を呈した者はいない。
してみれば、もしヒトラーの健康悪化が“モレル丸薬”のせいだとすれば、ヒトラーだけがとくに大量に服用したことになるわけだが、なぜか?
バロック教授はまた、ヒトラーの総統本営での生活を伝えている。それによると、ヒトラーの日課はほぼ次のようなものだった。
起床・朝食 午前十時〜十一時
総統会議 正午〜午後二時(ときに午後五時近く)
昼食 会議後(午後二時〜五時)
総統会議 午後六時または七時
夕食 午後八時以降
会議および休憩 午前三時ごろまで
就寝 午前四時
その間、ヒトラーは官房長官マルチン・ボルマンから贈られたシェパード(めす)“ブロンディ”をつれて散歩する以外は、いっさい戸外に出なかったが、その散歩もめったに行なわなかった。夜の会議後の休憩は、お茶(ヒトラーは紅茶も飲まず、薬用茶だけ)の時間で、ヒトラーは秘書官や側近とくつろいだ。しかし、その場合でも、ヒトラーは、スターリングラード敗戦以後は、好きだったワーグナー、ベートーベンのレコード鑑賞もやめ、もっぱら青年時代の回想あるいは歴史、人間の運命、宗教などの大問題について論じた、という。
ヒトラーはまた、一九四三年以後は公衆の前に姿を現わすことをきらい、あの得意な演説もめったにしなかった。スターリングラード戦以後、ヒトラーが行なった公開演説は四回、放送が五回だけ。例年二月及び四四年十一月のミュンヘン記念式典にも欠席している。
バロック教授は、このようなヒトラーの閉居癖を、悪化する戦局という現実からの逃避とみなして――
「ヒトラーがこんなふうに閉じこもっている表むきの理由は、やむをえずそうしているというのであった。しかし、それよりも本当は、どうしても閉じこもらざるを得ないという気持ちのほうが強く働いていたのである。閉じこもっていれば、自分だけの世界にひたっていられたし、その世界には、険悪で厄介なドイツの情勢も入りこんではこなかった。
彼は、戦果に関する報告が、こうあってもらいたいと自分の念願している形勢に反するような場合には、どうしてもそれを読もうとはしなかったし、また同じように、爆撃された都市は、どこも訪問しようとはしなかった」
ヒトラーは、すでに指摘したようにきわめて主観的、感情的な人物である。この種の人物はとかく劣等感を抱き、難局に遭遇すると真っ向から立ちむかおうとはせず、意気消沈しやすくなる。その意味で、ヒトラーが戦局の悪化に伴って気力を失い、独善的な環境に閉じこもろうとしたことは理解できるがそれにしても、ヒトラーほど自己顕示欲に富む人物が、かくも急激に隠とん生活に没入するには、それだけの理由がなければならない。
あるいは、ヒトラーは自己の容姿に自信を失ったのかとも思われる。ヒトラーは〈美男のアドルフ〉と、ドイツ国民とくに女性たちの間でもてはやされていた、といわれる。頭髪をななめにたらし、口ヒゲを四角形に刈りこんで、目じりが下がったヒトラーの顔が、はたしてハンサムの評価に値するかどうかは別問題として、たぶん世界的スターを自任するヒトラーであれば、その種の評判は大いに歓迎したに違いない。ヒトラーの独身維持も、映画俳優のそれと同じく、人気保持のねらいが含まれていたのかもしれない。
そのヒトラーも、一九四三年には五十五歳になった。激務と不健康な生活と“モレル丸薬”の服用、そして寄る年波で往年の美男ぶりも衰えた。だから、もはや人前には出たくない……。
だが、問題がただ“容色”だけにあるとすれば、整形手術、カツラなど改善方法は皆無ではない。ヒトラーの指導者意識が健在であるなら、むしろ、残照の栄光を求めるスターのごとく、手段をつくして昔日《せきじつ》の声名ばん回をはかるはずである。
しかも、総統本営におけるヒトラーは、完全な無気力におちいっていたわけではなく、彼の総統としての権威と権力はいぜんとして保持されつづけていた。気にいらぬ戦況報告を耳にしなかったのも、ヒトラー自身が好まなかっただけではなく、ボルマン官房長官ら側近が、ヒトラーの機嫌悪化を恐れて伝えなかった事情もあったのである。
このようにみてくれば、ヒトラーの健康が急に衰え、人間嫌いになったについては、ヒトラー自身の内奥に重大な変化が起こったためと考えるべきではなかろうか。
宣伝相ゲッベルスは、「総統本営の寂寞《せきばく》たるふんい気と本営における仕事の運営ぶり全体とが、ひとりでに総統の気分をふさぎこませるのだ」と、日記に書き残しているが、ヒトラーは青年時代から“寂寞たる”生活に慣れている。その種の生活に耐えられないとすれば、到底総統の地位につくまでもたなかったであろう。
そこで、思いあたるのがOSS工作の成果である。ヒトラーは、過去の回想にふけり、かつ〈歴史〉〈人間の運命〉〈宗教〉といった、いわば非現世的主題に思いをめぐらせながら、一方ではせっせと精力剤である〈モレル丸薬〉を服用しつつ、しかもエバ・ブラウン嬢を呼びよせようとはしない。また、四三年からは、それまでも試みさせていた食物の毒味をとくに念入りに励行させている。
「厳格な毒味」――「精力剤の大量服用」――「愛人拒否」――「人間嫌い」……と、こう並べてみると、おぼろげながらヒトラーをつかんだ、いまわしい爪跡を感じさせられる。おそらく、ロベル博士の言明は正しかった。博士が工作員に渡した毒薬とホルモン液は、ともにヒトラー農園にふりまかれた。結果は、ヒトラーの毒味役の一人が倒れ、ヒトラーは警戒心を高めた。だが、そのためにホルモン液は見のがされ、予期どおりの効果を発揮した。おかげで、ヒトラーは身の異常を克服せんとして、〈モレル丸薬〉にすがり、その副作用と〈女性化〉の双方に、心身をむしばまれていったのではなかろうか。
むろん、そういった“背景”は側近にもヒトラー自身にも、そしてモレル博士にもわからなかったろう。だが、それだけに、戦局の悪化と並行して、ヒトラーの肉体的、精神的衰退は激しさを増していった。
一九四四年になると、ドイツの敗北は決定的になった。東部戦線では、ソ連軍が津波のようにドイツ軍を圧倒した。ポーランド、ルーマニア国境を越え、七月初旬にはミンスク、ヴィルナ、グロドノの線に進出した。連合軍のドイツ本土空襲も激化し、六月四日イタリアの首都ローマが陥落すると、二日後の六月六日、米英軍は北フランスのノルマンディ海岸に上陸、西方からベルリンを目ざした。
このノルマンディ上陸は、巧妙な米英軍の謀略によって、ドイツ軍に上陸地点を誤認させたものだが、ヒトラーだけは正しく予想していた事実がある。これは、ヒトラーの直感力がなお維持されていた証例かもしれないが、その直感は有効に実現されなかった。ヒトラーも、米英側の謀略を信じ、上陸地点はほかにもう一カ所あるものと信じて、第十五軍(十五個師団)をセーヌ河北方に配置した。しかも、ヒトラーは重要作戦のすべてを自己の権限内におさめていたので、いざ上陸という日の朝、ヒトラーが眠りからさめるまで、第十五軍の移動は行なわれず、連合軍の橋頭堡《きようとうほ》確立を許してしまった。
そのごのヒトラーは、まさにバーテルズ博士が予告したとおりの心理状態を呈した。被害意識、不信感、外罪性向など、博士が“女性的”と認めた性格傾向が強化され、むしろその他の性格を圧倒してしまった感を与えた。
一九四四年七月二十日のヒトラー暗殺未遂事件も、そういったヒトラーの変化を示す好例である。
ヒトラー暗殺計画は、ヒトラーの身体の異常が顕著になった一九四三年になって、急増している。一九四三年末期だけで六回も企てられた。七月二十日事件は、総統本営会議室に片目、片腕のシュタウヘンベルク大佐が、時限爆弾を運んで炸裂《さくれつ》させた。間違いなく成功と思われたが、部屋が木造であったおかげで爆風が壁を破って効果を減少したため、ヒトラーは火傷、打撲傷、両耳の鼓膜破裂の負傷をうけたが、助かった。
その日、ちょうど、失脚後ドイツ軍に救出されて再び北イタリアにファシスト政権を樹立したムソリーニが、ヒトラーを訪問する日だった。ヒトラーは応急手当てをすませるとズタズタになった制服を着かえて、ムソリーニを駅に出迎えた。そして、絶対に国内の被災地は見せようとしなかったのに、破壊された現場にムソリーニを案内したうえ、別室に参集したゲーリング空軍元帥、リッベントロップ外相、デーニッツ海軍元帥ら幹部の前で復讐の誓いを叫んだ。
「予は神に選ばれて歴史を作っている。予の邪魔をするものは、必ず破滅するであろう」
その言葉どおり、陰謀加担者とみられる者が、軍人だけでなく、学者、医者、宗教家、作家、はては一般の労働者、農民の中からも摘発され、検挙された。その数は〈判明しただけで四千九百八十人〉(バロック・前掲書)だが実際にはその数倍に達するものと推定されている。首謀者とみなされたのは、ヴィッツレーベン元帥ら七人。同じく一味と目されたロンメル元帥は自殺を強要されたが、七人の将軍、将校は、ヒトラーの指定した方法で処刑された。
「彼らは家畜のように殺されねばならない」
このヒトラーの命令によって、七人は肉をつり下げるフックにかけられ、しかもゆっくり絞殺された。そして、その光景は映画に撮影され、その夜ヒトラーの観賞に供せられた。
暗殺未遂事件によって、ヒトラーはしばらく蝸牛殻《かぎゆうかく》障害に苦しんだが、さらに頭痛、胃痛、咽喉痛に悩み、左手のけいれんは左半身に及び、本営防空壕の中の軍用べッドに横たわる日がつづいた。十月に声帯にできた腫瘍《しゆよう》切除手術を行ない、十一月には二本の歯を抜いた。
この抜歯手術を行なったのは、F・ブラーシケ教授だった。助手はケーラ・ホイゼルマン嬢。彼女はのちに、ソ連軍のヒトラー自殺死体確認に協力することになるが、ヒトラーの手術中、彼の痛みにたいする反応がほとんどないのに驚いた、と述懐している(K・ライアン『ヒトラー最後の戦闘』)。
手術は約四十分つづき、ヒトラーの指示によって、麻酔は最小限にしかかけられなかった。義歯を切りとり、穴をあけ、切れ目をいれる。「それは大変な忍耐でした。私たちは彼(ヒトラー)がどうやって痛みを我慢したのか、不思議でした」
あるいは、バーテルズ博士なら、「まさしくヒトラー〈女性化〉の徴候。女性は男性よりも痛覚が鈍いものだ」と解説するかもしれないが、このように頭から足まで、痛みに襲われている時期に、ヒトラーは最後の反撃作戦を指導した。
ヒトラーがねらったのは、西部戦線の英米軍に一撃を与え、その補給港アントワープを奪回することだった。すなわち、アルデンヌ高地を突破し、ムーズ河を渡ってアントワープに進むのだが、アルデンヌ地区の連合軍は比較的劣勢であり、成功は有望とみこまれた。また、作戦が成功すれば、自動的に連合軍は分断され、ムーズ河とライン河にはさまれた地域に英国軍を孤立、包囲できる。その結果は、英国軍の敗退、そして米英連合のヒビ割れも期待できる。
たしかに、ヒトラーの着想はみごとだったが、致命的な弱点が二つあった。ひとつは、たとえアントワープを占領しても、ドイツ軍には維持する能力がないこと。もうひとつは、この作戦には二十八個師団が動員されるが、それはなけなしの予備兵力であり、東部戦線が手薄になることを意味した。
当然、グーデリアン参謀総長は反対の意向を表明したが、“元伍長”ヒトラーはどなりつけた(注、ヒトラーは第一次大戦で鉄十字章をうけたが、素養がないので士官になれず、伍長どまりだった)。
「わたしは戦場でドイツ軍を五年間も指揮している。クラウゼヴィッツやモルトケも勉強しているし……わたしのほうが君たちよりも作戦は心得ている」
ヒトラーは、一九四四年十一月二十日からベルリンの総統官邸にいたが、この作戦を直接指揮するために、バート・ナウハイムの西部戦線大本営、通称“鷲の巣”(「アドラーショルスト」)に移った。そして、十二月十二日、大本営に作戦参加司令官を集めて激励の訓示をした。司令官たちは全員、武器もカバンも取りあげられ、親衛隊兵士の監視の下で、身動きもせず、ヒトラーの演説に耳を傾けた。
十二月十六日、攻撃開始。だが、作戦は死傷者十二万人を数えて失敗に終った。ヒトラーは一月八日撤退命令を承認し、一月末、ベルリンに帰った。ポーランドで攻勢に出たソ連軍は、早くもベルリン東方百マイルに迫っていたからである。
ヒトラーは、総統官邸の防空壕に閉じこもった。防空壕といっても、地下五十フィートにある二階建てで、生活および戦争指導に必要な設備は整っていた。大型砲爆弾の直撃にもびくともしなかった。だが、その安全な住居のなかで、ヒトラーは安息は味わわず、まっすぐ破滅の道を歩んだ。
ヒトラーは、肉体的にはほぼ廃人状態に近かった。頭はいつもふらふらとゆれ、左腕はたれ下がったまま動かず、目のまわりは黒ずみ、腰も曲がっていた。誰も信用できなくなったとみえ、女秘書の一人に告げている。
「わたしのまわりにいる者は、嘘つきばかりだ。誰一人信頼できる者はおらぬ。ヘスは気違いだ。ゲーリングは国民の信頼を失っている。ヒムラーは党から排斥《はいせき》されるだろう」
「わたしは、人間よりも犬のほうが好きだ」
感情を自制する力は失われ、敗北を口にする幹部には、誰彼の差別なく激怒した。グーデリアン参謀総長になぐりかからんばかりの気配をみせたこともあった。
戦時軍需相シュペーアが三月十五日、
「四週間ないし八週間のうちに、ドイツ経済の最終的崩壊は必至だ」
と進言すると、ヒトラーは三月十九日、敵の進路上にあるいっさいの通信機関、車両、トラック、橋、ダム、工場、貯蔵品の破壊、つまり徹底的焦土戦術を指令して、シュペーア軍需相に叫んだ。
「戦争に負ければ国も亡ぶ。そうなったら、ただ生存していくというきわめて素朴な生存の根拠すら、もう考慮するには及ばない。そんなにまでして生きるくらいなら、国など破壊したほうがましだ。われわれの手で破壊したほうがましだ。この国の将来は、もっと強い東方の国が握っている。それに、戦後まで残る者にろくな者はいない。立派な者は死んでしまった」
このヒトラーの言葉には、鋭い予見と激しい自棄との奇妙な混合がみられるが、明らかに心理の平衡は失われている。この時期にヒトラーを訪れた将軍たちは、口をそろえて“ヒトラーが狂っていた”と述懐する。だがそれにもかかわらず、誰ひとりヒトラーの最期を早めようとはせず、さらに奇怪なことには、ゲーリング、ヒムラー両人は激しい後継者争いを演じた。
ヒトラー自身が破壊しろと命じた国家の指導者たらんとするのだから、あるいはゲーリング、ヒムラーたちもヒトラーの“狂気”に感染していたのかもしれないが、いずれにせよ、ヒトラーは、ドイツ国家の破壊の前に、自分自身の崩壊を招かねばならなかった。
ヒトラーは、誰も信用できない、と女秘書に語ったとき、「もしあの忠実なモレルがいなかったら、わたしは完全に参っているところだ」と言ったが、その言葉どおり、いぜんとして〈モレル丸薬〉を服用しつづけたが、健康は回復できなかった。
四月に入ると、もうヒトラーには、ただ戦え、戦え、と命令することと、降伏する者はすべて銃殺せよと指示する以外に、することはなくなったようだった。ヒトラーは机にフリードリッヒ大王の肖像写真を置いていた。ある日、ゲッベルス宣伝相がカーライルの、『フリードリッヒ大王伝』の一節を読みあげた。
「雄々しき王よ、しばし待たれよ、やがてあなたの苦しみの日も終わるでありましょう」
それは、七年戦争で大王が苦闘に疲れ、あわや、毒杯をあおごうとした時の描写だったが、耳を傾けるヒトラーの目は、いっぱいの涙にうるんだ。
ヒトラーは一九四五年四月二十日、五十六歳の誕生日にアルプスの防禦陣地に向う予定だったが、すでにベルリンは四方から包囲されて脱出は困難だった。ヒトラーは、その五日前に、彼女自身の希望で総統官邸にやってきたエバ・ブラウンとともに、自殺の決意を固めた。
ヒトラーの運転手エリッヒ・ケンプカは、エバを評してドイツで一番不幸な女だった、と回想している。
「一生のほとんど全部を、ヒトラーを待って暮らしました」(シャイラー『第三帝国の興亡』)
ヒトラーとエバとは、一九四二年十月いらい三年ぶりの再会である。が、ヒトラーにはもはや、男性としてエバを愛する力は失われていたに違いない。ヒトラーにできることは、「可愛そうなアドルフ。みんなに見放され、みんなに裏切られて。あの人がドイツから消えるくないなら、ほかの者が一万人死んだほうがましなのに」というエバの愛にこたえ、十二年間“日陰”にいた愛人を正式の妻にすることだけであった。
ヒトラーの最期については、すでに多くが語られている。四月二十九日未明、ヒトラーとエバの結婚式が行なわれた。
ヒトラーは固く死体の焼却を厳命し、四月三十日午後三時四十分、ピストルを口中に発射して死んだ。新婦エバは青酸カリをあおいだ。ともに、いさぎよい死だったが、ヒトラーが残した遺言書は、次のようになおも憎悪と不信と責任転嫁と混乱に満ちていた。
「この三十年間、わたしはひたすらにわが国民への愛情と真心をもって活動し続けてきた……一九三九年にわたしが、いやドイツにいる誰かが戦争を買って出たというのは嘘である。あの戦争が起こるのを望み、けしかけたのは、もっぱらユダヤ人の子孫たる国際政治家か、あるいはユダヤ人の利害のために働いていた国際政治家たちであった……。
ドイツ国民と国防軍は、この長い苦しい闘争に全力を出しきった。しかし……この戦争中、不忠と裏切りとのために……わたしも国民を勝利に導くことができなかったのである。現在の陸軍参謀本部は第一次大戦当時のそれとは雲泥の差がある……。
ドイツ国民は依然として東方の領土を獲得しようとねらわねばいけない」
要するに、自分はチットモ悪くない、悪いのはユダヤ人と将軍たちだ、というのである。
バロック教授は、アドルフ・ヒトラーを「古いヨーロッパを破壊した一個の建設者」と呼ぶ。“建設者”とは〈新ヨーロッパ誕生に力を貸した者〉という意味であろうが、その建設のためにヒトラーが行なった破壊は、あまりに大きく深刻である。ことに一九四三年以降、ヒトラーの破壊のホコ先は外界のみならず、同胞にまで及んでいる。そして最後に残したのは、あたかも失恋女性の強弁に似た遺書一通のみ……。
まことに“狂気の独裁者”であった。もしその“狂気”が、あくまで推理ではあるが、OSS工作のゆえだとすれば、その成果はあまりにも強烈であり、悲惨の及ぶ範囲は広大にすぎる。OSSの記録があいまいに失敗を宣言しているのは、そのためでもあろうか。
文春ウェブ文庫版
指 揮 官
二〇〇一年七月二十日 第一版
著 者 児島 襄
発行人 堀江礼一
発行所 株式会社文藝春秋
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