金瓶梅(下)
富士正晴訳
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登場人物
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西門慶《せいもんけい》……山東省清河県の生薬屋の二代目。のち、質屋や糸屋を開くなど商売の手を広げる一方、首都東京(開封)の宰相蔡京(蔡太師)に渡りをつけ、この県の提刑所(警察・裁判をつかさどる役所)の副官という官職を与えられ、のち提刑(長官)に昇進
呉月娘《ごげつろう》……西門慶の正夫人。後妻。呉千戸の娘
李矯児《りきょうじ》……西門慶の第二夫人。もと廓の芸妓
孟玉楼《もうぎょくろう》……西門慶の第三夫人。もと呉服商の未亡人
孫雪蛾《そんせつが》……西門慶の第四夫人。もと西門慶の娘の小間使い
潘金蓮《はんきんれん》……西門慶の第五夫人。もと仕立屋の娘。売られて大家の小間使いにされ、のち武大に嫁がされたが、西門慶と通じて、夫を毒殺
李瓶児《りへいじ》……西門慶の第六夫人。梁中書の妾から花子虚《かしきょ》の妻となったが、夫を悶死させ西門慶の妾となる
春梅《しゅんばい》……呉月娘づきの女中から潘金蓮づきの小間使いとなり、西門慶と関係する
秋菊《しゅうぎく》……潘金蓮づきの小女。炊事係
迎春《げいしゅん》……李瓶児づきの女中
綉春《しゅうしゅん》……李瓶児つきの小女
来保《らいほ》……西門慶の下男
来旺《らいおう》……西門慶の下男。江南の織物を買い付ける役を受け持っていたが、のち西門慶に謀られて郷里へ追放される
|宋※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《そうけいれん》……西門慶の番頭来旺の妻。夫の留守中、西門慶と通じる
来興《らいこう》……西門慶の下男
陳敬済《ちんけいさい》……西門慶の婿。妻とともに西門質店を預かる
西門大姐《せいもんたいそ》……西門慶の娘、陳敬済の妻
玳安《たいあん》……西門慶の小者
傅《ふ》番頭……西門薬舗に古くからいる番頭
呉典恩《ごてんおん》……もと西門慶の番頭
韓道国《かんどうこく》……西門糸店の番頭
王六児《おうろくじ》……その妻。のち、西門慶と通じる
李桂姐《りけいそ》……廓の芸妓。李矯児の姪
鄭愛香《ていあいこう》……廓の芸妓
応伯爵《おうはくしゃく》……西門慶の取巻き。西門慶のいちばんのお気に入り
謝希大《しゃきだい》……西門慶の取巻き
呉大舅《ごたいきゅう》……呉月娘の長兄
武大《ぶだい》……潘金蓮の先夫。蒸しパン売り
武松《ぶしょう》……武大の弟。武二郎、武二とも呼ばれる。虎を退治して県の巡捕都頭に取り立てられた豪傑
王《おう》婆……武大の家の隣の茶店の婆さん。周旋屋
薛嫂《せつそう》……花かんざし売りの女。周旋屋
馮《ふう》ばあさん……李瓶児の老女中
如意児《にょいじ》……李瓶児の子、官哥の乳母、西門慶の愛を受ける
夏龍渓……この県の提刑所の提刑(長官)
|※[#「羽/ふるとり」、unicode7fdf]謙《てきけん》……蔡京の執事。都にあって西門慶のためにいろいろ便宜をはかる
喬大戸《きょうたいこ》……西門慶の向かいの家の主人
周守備《しゅうしゅび》……守備府(治安をつかさどる役所)の長官
張勝《ちょうしょう》……もと廊の地まわり。西門慶の紹介によって周守備の秘書となる
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四十三
翌日、西門慶が役所から帰ってみると、喬大戸の家から使いが贈物を持って、月娘のところへ来ていた。そして李智と黄四《こうし》も、一千両の銀子《かね》を返しに来ており、応伯爵も手つだいに来ている。残りの五百両はしばらく後ということにしてふたりを帰したが、応伯爵は西門慶に呼びとめられて、きのうのことを聞かれたりするが、なんとも尻が落ち着かず、いつになく飯も呼ばれずにとっとと帰って行く。黄四、李智から仲介料を取るためであった。
西門慶はふたりが利息に置いて行った四個の腕輪を手にとり、官哥は福の神だな、あいつが生まれると、役人になるわ、喬家と縁組が決まるわ、財《かね》は殖《ふ》えるわだ、こう考えると奥へも行かず、腕輪を袖に入れて、まっすぐに李瓶児の部屋に行った。西門慶が乳母の手から官哥を受け取り、腕に四個の腕輪をはめて喜んでいると、李瓶児が赤ん坊の手が冷えると苦情を言う。ハンカチでくるんで玩具《おもちゃ》にさせているところへ、玳安が雲家から二頭の馬を引いて使いが来ていると言って来た。そこへ、李嬌児、孟玉楼が月娘の姉と呉大舅の妻の鄭三姐《ていさんそ》を連れて官哥を見に来る。西門慶は腕輪をそのまま置いて出て行った。表門の外に雲家の使いが待っているが、身分が高くなった西門慶はもう十兄弟の雲理守《うんりしゅ》の使いなどにことばもかけず、小ものに二三回引いて歩かせ、馬にけちをつけた上で、なるほど値は安いが、引いて帰れ、いい馬なら高くても買うがと、にべもなく帰してしまう。琴童が呼びに来たので、李瓶児の部屋へ引きかえすと、
「あなた、腕輪を一つ持って行きまして」
「馬を見に、持って行くはずないじゃないか」
「じゃ、どこへ行ったのかしら。ずっと捜してるのに見当たらないの」
「だれかのしわざだろう。ゆっくり捜すさ」
「あたしはてっきりあなただと思ってましたのに。どうしたんでしょうねえ。みんな青くなって捜しに行きましたわ」
西門慶は残りの三つの腕輪を受け取ると、奥のほうへ行った。
こちらは潘金蓮、事件を聞きこむと、すぐさま月娘のところへ駆けつけ、子供に金の腕輪をおもちゃにさせる者があるかとか、なくなっても平気な顔をしているが、それじゃいくら財産があってもたまらないとか、西門慶をそしっていた。そこへ西門慶がはいって来て、月娘に腕輪を渡すと、各部屋付きの小おんなを呼ばせ、
「いいか、おれは街《まち》へ行っておおかみの筋《すじ》の鞭《むち》を買って来るぞ。すなおに出せばよし、出さねば、それが飛ぶと思え」
「そんなこと言ったって、金の腕輪なんか赤ん坊に持たせなきゃよかったのに」と、月娘はなだめにかかるが、金蓮がそばから口を出し、
「人に知られないように、袖にかくして持ってたってくせに、なくなったからって、騒ぎ立てるもんじゃないわ。大|姐《ねえさん》に調べさせたって、小おんなたちはヘイチャラよ」
「また、へらず口をたたく! きょうこそ、ぶち殺してやらあ! きさまの知ったことか!」
西門慶は金蓮をオンドルに押さえつけた。今にもなぐりつけたそうなけんまくである。金蓮は泣き声をあげ、
「財産や地位ができたら、人が変わったわ。ほんとに偉い人なら人のひとりやふたり殺したっていいでしょうよ。たかが破れ帽子の借金持ちのくせに、訴えられたら最期だわ」
「なんだと! おれの帽子を持って来させてみろ。どこが破れてるか! どこへでも行って聞いてみろ。どこに借金があるんだい! ごつごつの骨女郎め!」
「骨女郎ですって? この脚見せてあげるわ。骨なんかあるもんですか」
月娘は吹き出してしまった。
「まるで、銅のお盆に鉄のほうきがぶつかったみたいだ」
西門慶は気ぬけして、周守備の家の宴会に出かけてしまった。月娘は潘金蓮をたしなめて部屋へ帰した。
そのうち、玳安が来て、お客がもう出発して来そうだということを告げた。そこで月娘は客間に絨毯《じゅうたん》をしかせ、テーブルを出し、すだれをまき上げ、香をたかせ、小間使い、使用人の女房たちに化粧させて、新しい親戚喬家の女たちを迎える準備をととのえた。まもなく、大広間の鼓楽が奏せられ、平安が喬五奥方到着を知らせる。表門はたちまち人のうずとなり、喬五奥方の銀屋根の轎《かご》を先頭に、召使の女房たちの小轎がつらなり、四名の小役人が衣箱をかつぎ、ふたりの青衣の召使が小馬に乗ってお供する。それにつづいて、喬大戸、朱台官、尚拳人、崔大官、喬通などの娘《おく》さんが小轎で到着する。こちらは呉月娘、李嬌児、孟玉楼、潘金蓮、李瓶児、孫雪娥たちが化粧をこらして二の門まで出迎えた。こうして大がかりの宴会があり、喬五奥方は官哥を見て、贈物をおくる。芝居があり、語りものがあり、正式の酒宴は日の暮れ、喬五奥方が帰ってもまだつづいていた。
四十四
その夜、西門慶が酔って帰宅した時には、董嬌児、韓玉釧、李桂姐と呉銀児の四人の芸者が残っているばかりだった。西門慶は四人に歌を歌わせ、前のふたりには祝儀をやって帰したが、あとのふたりは泊まらせることにした。李桂姐は帰りたがっていたが、泊まるよりしかたなかった。やがて、休もうかと言っている時、がやがやと表のほうからわめき声が起こり、玳安と琴童のふたりが、李嬌児の部屋付きの小おんな夏花児《かかじ》を引き立てて来た。ふたりを送り出し、馬をうまやへ引いて行くと、中にひそんでいたというのである。そこで西門慶はベランダの椅子に腰をおろし、琴童に小おんなをひざまずかせ、「表へ何しに出た」と語気はげしく尋ねる。李嬌児も自分の部屋付きのものだからことば鋭く「行けとも言わぬのにうまやで何してたの!」
小おんなは物も言えない。琴童にからだを調べさせると、金の腕輪がころげ落ちた。
「きさまが盗んだのだな」
「いいえ、拾いました」
「じゃ、どこで拾った」
小おんなは返事をしない。西門慶はおこって鞭を持って来させると打ちのめす。小おんなは豚のように悲鳴を上げる。西門慶が酔っているので、月娘もとめることができない。ついに、李瓶児の部屋で拾ったことを白状すると、西門慶は李嬌児に「部屋へ連れて行け! あした売りとばしてやる」
西門慶は腕輪を月娘に渡し、李瓶児の部屋へ行ってしまった。月娘は小玉に儀門《よこもん》をしめさせると、「あの奴隷はあの部屋へはいったのかねえ?」
「はい、二奥様と三奥様と奥様の姉様が参られたとき、ついて参っていました。だんな様がおおかみの筋の鞭を買ったと聞いて、すくんでいましたが、きっと、今夜、妓楼《ぎろう》の人たちの帰るとき、まぎれて逃げるつもりだったのに、表門に人がいるんで、うまやにかくれていたのでしょう」
李嬌児が夏花児を部屋へ連れて帰ると、李桂姐はたいへんな怒りよう。
「ばかだね、おまえは。十五六になれば、もう少し物を考えるんだよ。はじめから奥さんに打ち明けとけばいいのに。ひどい目にあったって当然だよ。奥さんに申しわけ立つと思うのかい」と、夏花児をののしり、李嬌児に「伯母さんも、しっかりしなけりゃだめよ。自分の部屋のものを、みすみす人前で責めせっかんさせて見ているなんてこと。もし悪いことをしたら、部屋へ連れて来て自分がしかればいいんだわ。ばかにされすぎてるわよ。あんたの部屋からこいつがどろぼうで追い出されたりすりゃ、あんたの恥じゃないの。今後何かにつけてへんに見られるわ。是が非でもかばわなきゃ」と言い、今度は夏花児に向かって、「おまえ、出て行きたいかい?」
「いいえ」
「それなら以後、奥さんの気持をよくのみこみ、何事も打ち明け、一心同体でやるんだよ、いいか!」
西門慶が李瓶児の部屋へ寝に行くと、李瓶児は呉銀児とオンドルの上にいて、
「銀ねえさんがここに寝ますから、あなたはお隣へでも行きなさったら?」
「場所がないってのか? おれがふたりの間にはいればいいじゃないか」
すると李瓶児はじっとにらんでみせて、「また、下品なことを言って!」
「じゃ、どこで寝ればいいんだ」
「金蓮さんのところへいらっしゃい」
西門慶はしばらくしゃべって、金蓮の部屋へ行く。金蓮は棚《たな》からぼた餅《もち》と大喜び、急いで衣服を脱がせ、茶を飲ませると、すぐさまベッドへすべりこんだ。
李瓶児は呉銀児とオンドルに小机を出し、象棋《しょうぎ》を三回すると酒を飲みはじめた。呉銀児が琵琶《びわ》を聞かせようと言ったが、官哥が寝ているしだんなにも聞かれると言って李瓶児は骰子《さいころ》で賭《か》け飲みすることにして、迎春に乳母にも一杯飲ませるからと呼びに行かせようとする。けれど赤ん坊に添い寝しているからと言うと、一本持って行かせ、呉銀児に、
「家の坊やはほんとうに賢いのよ。あたしがいなくなるとすぐ目をさますし、こないだだんながこちらで泊まって、ちょっと身動きしたら、もう目を開くの。すぐわかるのねえ。あちらで乳母に抱かせていても、すぐ泣きだしてあたしに抱かれたがる」
呉銀児はそれを聞くと、くっくと笑い、
「それじゃ、だんな様が来ても、ゆっくり寝るってわけにいきませんねえ。だんな様は何日に一回?」
「一回とも二回とも限らないわ。しじゅう坊やを見に来るの。でも、そのため、あたしがだんな様をひとり占めしてるって、あの人たちたいへんなのよ。だから、今も出て行ってもらったの、あんたにはわからないだろうけど、人が多ければ舌も多い。きょうも腕輪がなくなったとき、わざわざことを荒立てにかかった人もあったわね。下手人が早くわかったから良いものの、でなければ内の部屋が盗人の巣みたいに言われるでしょうね。馮《ふう》ばあさんなんか疑われるなら死んだがましだと泣くしまつだったわ」
「ほんとにね。けれど、あんたはだんな様のこと思って、坊ちゃんをだいじに育てていくことだわ。それでいいのですよ」
「だんなと大奥さんが気を使ってくれてなければ、この子も、今まで生きていられなかったかもしれないと、あたし思うわ」
四十五
話が昼にもどるが、応伯爵はいつになく飯もたからずに、西門慶の家を飛び出して、まっすぐに黄四の家へ行った。黄四は仲間で十両の銀子をまとめてあって、それを応伯爵にお礼として渡すと、西門慶から残りの五百両を返さずにもう五百両ほど借りられるよう尽力してもらえないかと持ちかける。応伯爵はしばらく頭をひねっていたが、
「よし。だが、うまくいったらおまえの仲間は、礼をどれだけする気かい?」
「李三にも言っておきましたが、五両出します」
「へっ、たった五両か。おまえん所から五両のはした銀子《がね》をほしがりゃしねえよ。考えてみろ、おれがやれば一言でころりなんだぜ。おれはあしたの晩招待されてるんだが、おまえさんたちふたりはあした早く、料理四|色《いろ》と金華酒一本を用意しておいてくれ。李桂姐と呉銀児が泊まってるはずだから芸者はいらんが、プウプウジャンジャンやるやつを六人ほど色町から差し向けろ。そうすると、おまえさんたちを呼ぶに決まってるから、その時にゃふたりともおれのそばへすわるんだ。そうなりゃ、おれがちょいとしゃべるだけで、ことはまとまる。五百両引っ張り出して、借りが千両ってことにすりゃいいんだろう? 利息は月三十両と思え。一月女を囲ったと思えば安いもんさ。その代わり、役所へ香蝋《こうろう》を収める段には、香の中には木くずを入れ、蝋には柏油でも交ぜるさ。魚をとるには水ごとすくえだわな。西門慶の名を使っていい目ができるってわけだね」
翌日になると、応伯爵はふたりの小ものに料理や酒を持たせて西門慶の家へ運びこむ。西門慶は役所が休みで、朝っぱらから広間に出ていた。
あいさつもそこそこに、応伯爵は酒、料理を運びこませる。
「李智と黄四が、お世話になったからって贈りたがっていたから持って来させましたよ。だれかにくれてやってください」
「またこんなものを届けさせて。受け取るわけにはいかんね。持って帰らせてくれ」
「そんなことをしたら、ふたりは恥じ死にしますよ。芸者をふたりばかり呼ぶというのも、わたしはやっと止《と》めたんです。笛吹きや太鼓たたきを六人ということだけにして、外に待たしてあるんです」
「呼んだのならしかたないなあ。じゃ、李智も黄四も呼んだらどうだ」
応伯爵の計略はすらすらと成功し、西門慶は応伯爵の言うとおり、金の腕輪を百五十両と見つもり、それに三百五十両そえて、李智と黄四に貸すことになった。相談が終ってふたりが飲んでいると、呼びにやらせた謝希大に次いで、李智、黄四がやって来た。六名の楽人が音楽を奏し、呉銀児は酌をしてまわる、ところが李桂姐の家の保児《ほじ》と、呉銀児の家の小おんな蝋梅《ろうばい》が迎えに来ると、保児に何かを聞いた李桂姐は月娘が引き留めるのに、あわてて、ほかの奥さん方にもあいさつをし、玳安に西門慶を呼び出させると、夏花児を追い出さぬようにくれぐれも頼みこみ、応伯爵をからかいながら帰って行った、応伯爵は謝希大と、李桂姐は外の男が待っているからあわてて帰るんだが、哥《にい》さんは知らぬが仏だと、ひそひそ話。呉月娘は夏花児を売るのを中止した知らせを聞いて、玳安に立腹した。
四十六
翌日、西門慶が役所に出たあと、月娘と孟玉楼、李瓶児の三人は、亀《かめ》占いの婆《ばばあ》が袋をかついで歩いているのを見かけ、小ものにばあさんを呼び入れさせた。
「あたしたちを見てちょうだい」
婆はあたふたと地べたにはいつくばうと、四回おじきして、「お年は?」
月娘が、「龍よ」
「大龍ですと四十二、小龍なら三十ですが」
「目がわるいのね。三十で八月十五日、子《ね》時生まれよ」
それだけ聞くと、婆は霊亀《れいき》をぽんと投げ出す。亀は一回りすると一枚の占い札をくわえて来たが、ひとりの役人とひとりの奥方がおり、お付きの者がたくさん立ったりすわったりして金銀財宝を守っている。
「この奥様は、仁義に厚く、心ゆたかで、慈悲深く、家を守ってまちがいを起こしません。一生他人に敬われますが、目下のために喜怒常ならず、憂いごとが多いでしょう。七十歳まで長生きされ、出家なさったお子さんが老後を養いましょう」
「きっと、あんたのところの呉応元道士ちゃんのことね」
孟玉楼が李瓶児に笑いかけると、月娘が「あなたも見てもらいなさい」と、孟玉楼に言う。
「じゃ、三十四歳、十一月二十七日、寅《とら》時の生まれよ」
亀のくわえて来た札には、ひとりの女に三人の男が並び、奥のひとりは小さい帽子をかぶって商人風、もう一人は紅い衣を着た役人、三番めの男は秀才姿で、これも金銀の庫《くら》を多くの人が守っている。
「この奥様はおとなしい、いい性質をお持ちですな。喜んでも人に知られず、怒っても人に知られず、はっきりと表に出ませんから、一生上からは喜ばれ、下からは敬われ、夫にはかわいがられますよ。ただ人の心を握れないから、小人たちの恨みを買うこともありましょうが、おだやかな性質のおかげで、突きのけられることはありませんじゃろ」
月娘が「この奥さんには赤ちゃんができる?」
「うまくすると女のお子が生まれます。お寿《とし》も全うされますな」
「じゃ、この奥さんを見てよ。李ねえさん、生年月日をおっしゃい」
「わたしは羊」と李瓶児が笑う。
「小羊とすると二十七歳ですな。何月生まれで?」
「正月十五日の午《うま》時ですわ」
亀のくわえた占い札は、ひとりの奥方に三人の役人が描かれ、ひとりは紅、ひとりは緑、ひとりは青い衣服、最後のひとりは赤子を抱いて金銀財宝を守っているが、そのそばに青い顔で赤い髪の鬼が牙《きば》をむいている。
「この奥様は一生富貴をきわめ、食べるにも着るにもあり余っております。ご主人もみな高貴なお方、仁義に厚うて、金銀財宝などお気にしませんなあ。ただ、人と角《つの》づき合わせになりがちで、恩は仇《あだ》で返されるし、虎《とら》より恐ろしい人もないではない。はっきり申しあげれば、奥様はほんにみごとな紅羅《うすもの》ではございますが、ちと長さが足りないというとこでお子様にもむずかしいところがございます」
「もう道士にしてありますけど」
「出家なすっていなすれば、だいじょうぶとは存じますが、もう一つ、今年は血光の災がありますで、七八月にはご用心あそばすよう。泣き声が諱《い》みものでございます」
占いが終ると、李瓶児は袖から五分の銀子《かね》を出して婆に払う。月娘も玉楼も五十文ずつやって婆を帰した。
そこへ「まあ、奥にいないと思ったら」と金蓮と西門大姐が歩いて来た。
「いま、占いをしてもらったところなのよ。一足早ければあんたらも見てもらえたのに」と、月娘が残念そうに言うと、金蓮はかぶりを振って、
「あたしは見てもらわないわ。運命は占えても、行いは占えないっていうもの。この間の道士はあたしが短命だって言ったけど、いいさ、町で死んだら町に埋めてもらう、道で死んだら道に埋めてもらう、溝《どぶ》に落ちれば、そこが棺桶《かんおけ》さ、ねえ」
四十七
楊州《ようしゅう》に苗員外《びょういんがい》名は天秀《てんしゅう》という者がいた。財産家で学問ずきで四十歳の男だが、妻は病身、子供は娘《むすめ》がひとり。家事万端は気に入りの妾《めかけ》、|※七児《ちょうしちじ》が見ている。これは娼妓《しょうぎ》をしていたのを、銀三百両で身受けしたものだった。ある日、裏庭をそぞろ歩いていて、苗天秀は召使の苗青《びょうせい》と妾の|※七児《ちょうしちじ》がたわむれているのを見て、苗青をたたきのめしたが、近所の人たちのとりなしで追い出しはしないで、そのまま家においていた。天秀には黄美《こうび》という従弟《いとこ》があり、今は東京の開封《かいほう》で通判《つうはん》をしていたが、それから一度上京しないかというたよりが来た。妻の李氏はいつぞや旅はしてはならぬと占った老僧のことばが心配で反対するのだったが、東京へ出て出世しようと思い立っている天秀をとめることはできなかった。
天秀は旅じたくを整えると金銀を二つの箱につめ、小ものの安童《あんどう》と苗青を伴に、船で東京に旅立った。秋の末、冬の初めのころである。陝湾《せんわん》というところに船を泊めさせた夜のこと、苗青は船頭の陳三《ちんさん》と翁八《おうはち》に天秀を殺して金銀や衣服、織物を山分けしないかと相談をもちかける。ふたりの船頭のほうでも考えていたことだから、たちまち相談はまとまった。十二時ごろ、苗青は櫓《ろ》の後ろにかくれて「どろぼうだ!」と騒ぎ立てる。
飛び起きざまに出て来る天秀ののど仏を陳三は短刀で突き刺し、水中へ蹴《け》りこむ。逃げようとした安童も翁八のこん棒をくらって水に落ちる。三人は金銀衣服の類を山分けすると、二名の船頭はその船で帰り、苗青は主人の品物を売っても怪まれないから別の船に移り、清河県の宿屋へもぐりこんで、品物を売っていた。ところが、気絶はしたが死ななかった安童は葦《あし》の間を漂っていて年寄りの漁夫に助けられ、一時その家に身を寄せていたのだった。
年も暮れに近づき、安童が老漁夫に連れられ、魚を売りに出かけたとき、偶然にも、苗天秀の衣服を着た陳三と翁八が船で酒を飲んでいるのを見た。主人の仇と、安童は河川役人の周守備に訴えたが、証拠がないからと却下される。そこで今度は提刑院に訴え出、夏提刑はさっそく捕吏をやって、新河口で、陳三・翁八を引っ捕えたが、共犯の苗青がつかまらぬので、ひとまず、証人の安童と合わせて三人を牢につないだ。正月十四日のことである。十五日は元宵節《げんしょうせつ》で休暇、十六日も役人は顔を出さない。
この二日の間に苗青にこのことを知らせる者がいて、まっさおになると、仲買人の楽三《がくさん》の家へもぐりこんだ。ところがそれが韓道国のとなりで、女房どうし大の仲良しときている。さっそく、話は苗青から楽三の女房、それから王六児と伝わる。銀子五十両と緞子の衣服二そろいが、楽三の女房の手を経て王六児に渡ると、王六児は大喜びで、十七日の夕暮れ、ちょうど通りかかった玳安に苗青のことを話す。玳安はそれは大仕事だから、やめたらどうだいとは言いながら、二十両せびりとると、一杯ごちそうになった上で、西門慶を呼びに行った。西門慶がなんのことかとやって来ると、苗青はふたりの船頭にむりに引っ張りこまれたから助けてもらいたいと隣のかみさんから頼まれたのだと王六児の話。
「だめだめ。苗青というやつは主人殺しだ。まだ死体は上がらんが、苗青は嬲《なぶ》り殺しの刑、ふたりの船頭は斬刑《ざんけい》だぞ。二千両もの銀子や品物を取ったというんだぜ。五十両なんか、早く返してしまうほうがいい」
王六児は小おんなの錦児《きんじ》に持って行かせる。苗青はまっさおになって震え上がった。
「こうなりゃ、二千両は吐き出してもいい。命にはかえられねえや」と、楽三に相談する。
「まあ待て、一千両でやってみよう。残りで、ほかを買収しなけりゃなるまいから」
「だが、品物のままで、銀子になっちゃいねえんだ」
楽三は三日の間に千両つくるからと、女房に王六児のところへ言って行かす。西門慶はそれなら良いと承知した。苗青は三日たたぬ間に品物をさばき、銀子千七百両をつくり、十九日に千両の銀子を四つの箱に収め、豚一頭を添えて送り届ける。王六児には前の分とは別に、五十両の銀子と四そろいの衣服、内情を知っている玳安、平安、書童、琴童には、十両ずつ握らせた。玳安はそのほかに王六児より骨折り代十両をせびりとった。さて、そうして西門慶は棚の下の椅子に腰をおろし、灯もとぼさず、ぼんやりした月光の下で苗青に会ったが、「その方はここにいてはまずいから、郷里へ帰るがいい。贈物は夏提刑に届けてやる。下役の方にも話がつけてあるな。それならば早く帰れ」
苗青はさっそく荷物をまとめ、五十両だけ身につけると、残りの百両はあとの反物などといっしょに楽三夫婦にお礼としてやり、夜の明けぬうちに、楊州へ向かって馬を走らせた。
翌日、退庁のとき、西門慶は夏提刑を家へともなって帰り、酒を飲みながら、「実は苗青がこんなものを届けて来たのですが、それで長官をお招きしたしだいですよ」と目録を見せる。
夏提刑は受け取れぬと辞退したが、結局二つに割り、重箱に五百両つめると、玳安に持って行かせた。
「火がつけば豚肉はただれ、銭が入れば公事ははかどる」とはまことにもっともである。
役所の下役人にも楽三の手が回っているから翌日の裁判もまことに簡単、「きさまたちふたりは多年にわたって江河を横行し、強盗したのみか、人命まで害《あや》めるとはもってのほか」と証人の安童とつき合わせ、文書を作製すると、陳三、翁八を東平府へつき出す。府知事の胡師文《ごしぶん》は西門慶と親しいから、ふたりを斬刑と決し、安童は苗天秀の死体の出るまで、追っての沙汰《さた》を待てと釈放した。ところが安童は東京開封の黄|通判《つうはん》の役所へ飛びこみ、事件のいっさいを話して、苗青の名がけずられていては不正だと訴える。黄通判はすぐさま文書をととのえ、安童の訴状も添え、旅費を与えると、山東検察院に訴え出させた。
四十八
安童は山東検察院へ行くと、巡按使《けんさつかん》の曾御史《そうぎょし》に黄通判の手紙に訴状を添えて差し出す。曾御史はそれを読むと、さっそく東平府知事に、苗天秀の死体を調べ出し、詳細な報告をするように通達する。東平府知事胡師文はおどろいて、陽谷《ようこく》県の狄県丞《てきけんじょう》に調査を命じたが、命じられた狄県丞は胡師文に輪をかけてびっくりした。それは、ある時、清河県へ行く道すがら川のほとりを通ると、馬の前に、一陣の旋風が巻き起こり、馬について来て離れない。ふしぎに思って旋風の行くままについて行くと、新河口のあたりでぴたっと止まって動かぬ。そのあたりを村人に掘らすと、数尺で刀きずが首《くび》にある死体が出て来たことがあったからだ。さっそくそう曾御史に報告すると、安童を首実験にさし向ける。まぎれもなく苗天秀である。そこで、陳三、翁八を尋問すると、苗青が主謀者とわかった。烈火のごとく怒った曾御史は、ただちに苗青を捕えに楊州に向かい、夏提刑、西門慶を汚職官吏として弾劾《だんがい》文を朝廷へ送る。
さて、西門慶は前に南門から五里の村の墓所に家を建ててあったが、官哥が生まれ、自分が副千戸の職についてまだ墓参りをしていないから、墓門を立て、池を掘り、山を築き、木を植えさせて、三月六日|清明節《せいめいせつ》に、米、酒、料理、楽隊、芸人、役者、芸者を充分に準備し、男客二十余名、女客十余名を招き、一家うち連れて、墓参りに出かけた。一同が礼拝を終ると、銅鑼《どら》と太鼓が鳴りひびく。この音を聞くと、官哥はおびえて息も吐《つ》けない。李瓶児はあわてて、銅鑼、太鼓をやめさせ、官哥を裏へ連れて走る。宴会は日の暮れるまでつづき、官哥を気にしつつ抱いて一同は城内へ帰って来た。
西門慶が家へ着き馬を降りると、平安が夏提刑が一度たずねて来て、あとから二回も使いの者が来たが、用件は漏らさなかったことを告げた。ふしんがっていると、夏提刑がまた、やって来て、人払いをさせる、県の李知事が自分らの弾劾文が都へ送られることを教えてくれたと、その弾劾文の写しをひろげた。西門慶はまっさおになって、字がかすんで読めないぐらいだった。それにはふたりの私行の悪いことをはじめとし苗青から収賄して法を枉《ま》げたことまでがはっきり書かれて、「この二臣は、貪官汚吏《どんかんおり》の尤《ゆう》たるものであって、一刻といえども在職させてはならぬ者であります。陛下の御聖断を仰ぎ奉ります」とあった。夏提刑はおろおろするが、西門慶は「兵が来たれば将があたり、水が来たれば土で掩《おお》うですよ。こうなれば蔡太師様にお頼みして、上からつぶすだけですな、方法は」
そこで、夏提刑は、銀子二百両と銀のつぼ二つ、西門慶は、銀子三百両、宝石、飾り馬具を出し、これを夏家の召使|夏寿《かじゅ》と、西門家の来保に持たせ、別に|※[#「羽/ふるとり」、unicode7fdf]謙《てきけん》あての手紙もつけて東京へ走らせ、西門慶と夏提刑は東平府の胡知事のところへ苗青《びょうせい》の消息を聞きに行った。
一方、官哥のほうは家へ帰ると、泣きわめくだけで乳も飲まず、飲ませてもすぐ吐くで、劉婆を呼ぶやら、まじないをするやらであった。
来保と夏寿は夜を日についで、弾劾文よりも早く六日めに太師の屋敷へ着いた。|※[#「羽/ふるとり」、unicode7fdf]謙《てきけん》に両家からの贈物を渡し西門慶の手紙を見せると、
「曾御史《そうぎょし》からの弾劾文はまだ着いておらぬ。二日ほど待っておるがいい。殿様は、目下七ヶ条の法案を奏上しておられるので、これが済んでから弾劾文ということになるだろう。殿様がお帰りになったら、弾劾文は奏上させないようにその係の方へ手紙を書いていただくから、何も起りやしないよ」
来保は待つ間も、官報を写したり、役所から消息を聞いたり活動している。やがて|※[#「羽/ふるとり」、unicode7fdf]謙《てきけん》の手紙を受け取ると清河県へ引き返した。西門慶に|※[#「羽/ふるとり」、unicode7fdf]謙《てきけん》の話を一とおりすると、来保は
「なんにも起こりませんから、どうぞご安心を。それだけではございません、ほかに二つばかりいいことを聞いて参りました」
「いいこと?」
「へい。太師様が七ヶ条の法案を奏上なされ、近く施行される予定だそうですが、それには、各府都県で、義倉《ぎそう》を設け、鑑札を発行する。民間の富豪に米を納入させ、塩の販売を許可するというので、家では前に喬家と三万の米を納め鑑札を受けておりますから、三万の塩の販売が引き受けられるはずでございます。また、先日お見えになった蔡状元様がこちらのほうの塩の検察官と決まって、近く出発して来られるそうです、おもしろいことになります」
「おい、それはほんとうのことか!」
来保は官報の写しを差し出す。陳敬済と書童を呼んで、読ませた。その蔡太師の七ヶ条の法案は、
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一 官吏登用試験を廃し、士には学校出身者を登用する
二 文教局、大蔵商務局を廃する
三 塩商鑑札法の改正
四 幣貸法の改正
五 米穀の地域的買付けおよび集中的官売を行う
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西門慶は大喜びで、夏寿を帰して夏提刑に知らせ、来保には銀子五両、酒二本、肉などをほうびに与えた。
四十九
曾御史は夏・西門ふたりの弾劾文が握りつぶされ、巡按使《けんさつかん》も換えられることを聞き、また蔡太師の七法案も、上の者が得をとり、人民が損をするものなので、ただちに上京して、七法案に反対の意見を奏上した。蔡太師は怒り、曾御史を徽宗《きそう》皇帝に讒言《ざんげん》して、陝西《せんせい》慶州の知事へ飛ばし、その上、陝西の巡按使である自分のむすこに命じて、法律にひっかけ、家人を逮捕して。曾を首にしてしまった。だが、これは後のことである。
さて、西門慶は来保の報告を聞くとすぐさま来保と、喬大戸の甥《おい》、崔本《さいほん》の名で米倉の件の登記をさせ、一方蔡御史招待の準備も着々と整えている。
蔡御史と宋《そう》御史の船が着くと、西門慶は夏提刑と船中まで迎えに行った。蔡御史が西門慶のことを、土地の有力者で、蔡老先生の門下と説明しかけると、宋御史はすべて|※[#「羽/ふるとり」、unicode7fdf]雲峰《てきうんぽう》(謙)と親戚だということを知っていて、ふたりそろって西門慶の招待を受けることにした。蔡御史、宋御史が西門慶の屋敷へ出かけると、清河県の人々は「巡按使《けんさつかん》のだんなも西門大官人の知合いか」とますます畏怖《いふ》したのだった。この日の料理と歌舞の豪華さといえば、お供の者にさえ、五十本の酒、五百個の菓子、百斤の肉がふるまわれたぐらい、西門慶は千両ばかり使ったのだ。
芝居が一段終ると、せっかちな宋御史は立ち上がり、仕事に帰って行く。西門慶は豪勢な贈物を宋御史に献上して、帰した。
それから西門慶は酒の間に、来保、崔本の塩の販売許可について頼みこむと、蔡御史は来保を呼ばせて、こともなげに
「わしが楊州へ着いたら、まっすぐに検察院へ来るがよい。ほかの商人より一月早く鑑札をおろしてやろう」
夜になり、燭《しょく》がはいると、西門慶は蔡御史を翡翠《ひすい》軒に通し、書童に木戸口をしめさせると、そっと呼び寄せてあったふたりの芸者、董嬌児《とうきょうじ》と韓玉釧《かんぎょくせん》がなよなよと現われて前にひざまずく。蔡御史は「このごちそうはどうも受けかねるようだ」と照れる。ふたりの芸者を引き連れ月下を散歩すると、蔡御史は詩をつくって壁に張らせたり、董嬌児と碁をしたりしていい気分の様子、いいところで西門慶も韓金釧もいなくなり、蔡御史は董嬌児の扇子に詩を書いてやったりしたあげく、ふたり一つベッドで寝た。
翌日、西門慶は、苗青の件の握りつぶしを宋御史に話してほしいと頼んで蔡御史を城外の永福寺のあたりまで送り帰したが、その後、楊州で苗青がつかまると、宋御史は、「これは曾御史の関係の事件だから、もういいんだ」と、苗青を釈放してしまった。
西門慶は蔡御史と別れると永福寺の方丈へ帰り、長老《おしょう》としゃべっていて、それが周守備の寺だと知り、寄付を約束したが、便所にたったとき、ふと、異相の坊主に目がついた。頭は豹《ひょう》のよう、目は皿《さら》のよう、色は紫の肝のよう、ひげは針金のようで、頭をたれると肩の間にすっぽりはいり、鼻をだらりとたらしている。西門慶はこれはきっと高僧にちがいないと、
「どちらのお坊さんですか」と三度呼びかけると、
「きいてどうするんだ。西門域の天竺《てんじく》国の密松林、斎腰峰寒庭《さいようほうかんてい》寺の梵僧《ぼんそう》とはわしのことだ。雲のように気ままに経《へ》めぐりここに来て、薬を施して人を救っているんだが、おまえ、何か用事か」
「薬を施すとおっしゃると、強精剤をお持ちですか」
「あるさ」
「では、拙宅までおいで願えませんでしょうか」
「行くさ」
西門慶は小ものにどんどん料理を運ばせると、梵僧はどんどん食い、がぶがぶ飲んで、やがて、「酒にも酔った。飯も食い足りた」と目を細くして満足しているので、西門慶は房中の薬を求める。
「持ってる。老君が練り、西王母《せいおうぼ》が薬方を伝えたものだ。人にあらざれば授けず、人にあらざれば伝えぬ秘薬だがな、ごちそうにあずかったのも何かの縁だ、少しあげよう」
梵僧は皮袋から瓢箪《ひょうたん》を出し、傾けて丸薬を百十粒出し、一回に一粒だけ、焼酎《しょうちゅう》で飲むんだぞと注意し、別の瓢箪から二匁の桃色の膏薬《こうやく》を出し、一回に二厘ぬるんだ、ぬりすぎてはいかんぞと注意する。
「脹《は》れすぎたら、両|股《もも》をもみ下げればよい。使っても、軽々しく人にしゃべるんでないぞ」
西門慶は処方を聞こうと、銀二三十両を玳安に持って来させたが、梵僧は銀子《かね》に用事はないと立ち上がる。そこで長さ五丈の大布を衣料に差し出した。梵僧は門を出るとき、
「用いすぎるなよ。よく注意するんだぞ。注意するんだぞ」と言い残して、どこへともなく立ち去った。
五十
その日は李嬌児の誕生日なので、観音庵の王|尼《あま》が、蓮花《れんげ》庵の薛《せつ》尼とその弟子《でし》の妙鳳《みょうほう》、妙趣《みょうしゅ》を連れてやって来て、女たち相手にありがたそうな話をかわしている。
西門慶のほうは玳安から、王六児が、きょうは自分の誕生日だからおいで願いたいと使いをよこして来たと聞くと、今、梵僧から手に入れたばかりの薬をためしてみたいと、すぐさま琴童に酒を届けさせ、金蓮の部屋においてあった淫器具《いんきぐ》の包みを持つと、玳安をともに王六児の家へ向かった。王六児の家に着くと、琴童を残し、玳安には家できかれたら獅子街の家で帳簿を調べていると答えよと言い含め、馬を引いて帰らす。玳安が家へ帰って、つい疲れからうたたねしているうちに灯ともしごろとなり、目をこすりながら奥へ迎えの燈籠を取りに行くと、月娘が、
「お坊さんを帰してから、だんなは着替えもせずに、どこへ飲みに出たの?」
「獅子街へ帳簿調べにです」
「そんなことどうしてこんなに手間どるのか」
「済んでから一杯召しあがっておられるのでしょう」
「誰も相手なしにかい? さっき韓道国のところから使いが来ておまえを捜してたじゃないか」
「韓さんがいつごろもどるか、聞きに参りましたのです」
「怪しいね……とにかく、二奥様の誕生日だからお待ちしていると言っておくれ」
玳安が表の店へ出て来ると、書童と番頭の傅《ふ》が酒を飲んでおり、外からもどった平安も加わった。
玳安は一杯ひっかけ、王六児のところへ出かけて行く。まだ部屋で寝ていると琴童が言うので台所へ行くと馮《ふう》婆がいて、
「ずいぶんおそかったじゃないか。かみさんがごちそうを残しておいてくれなすったよ」
玳安は琴童と飲み食いしながら、
「馮ばあさん、おまえさん六奥さんの留守番で、もう一つここの留守番かい。奥さんに言いつけるぜ」
「死にぞこないの猿《さる》だね。そんなことすりゃ一生恨んでやるよ」
その間に琴童は座をはずし、寝室の窓の向うにひそんで西門慶と王六児の様子をうかがうと、梵僧の薬のききめはすばらしく、ああやったり、こうやったり、飽かずたわむれて、いつか終りも知れない。その間にも、西門慶は王六児に
「おまえの亭主がもどって来たら、来保や崔本と楊州へ塩の商売に出すが、それが済んだら、今度は湖州へ絹ものを織らせにやるつもりでいる。それでいいだろう?」
「ええ。どこへでも」
「店はその間、賁四《ほんし》に見させるよ」
琴童は窓の外からふたりの雲雨《しごと》をのぞいていたが、玳安がやって来て、「のぞいたってつまるもんか。起き出さぬうちに、こっちも行こうよ」
ふたりは路地の魯長腿《ろちょうたい》の家の、金児《きんじ》と賽児《さいじ》という女郎のところへ出かけたが、二人の酒造りといっしょにもう寝ていたので、提刑所をかさに来てふたりをたたき出し、ふたりの女をふところに抱いて酒を飲んだ。
一方、潘金蓮は月娘たちと薛《せつ》尼の弟子の仏曲を聞いていたが、ふと月娘が玳安をしかったことばを思い出して、すぐ部屋へもどってベッドを捜しても、淫器包みがない。春梅にきくと、西門慶が持って行ったと言う。
「よし、帰ったらあれを持って色町のどこへ行ったか聞いてやる」と言って奥へもどったが、その時、西門慶は家にもどってまっすぐ李瓶児の部屋に行っていたのだった。その帽子や衣服をしまいに琴童が奥まで持って来ると、月娘が「みんなが待っているのに」としぶい顔。李瓶児はあわてて西門慶を奥まで連れて来る。すると月娘が、「こんな時分までお店にいたんですか?」
「ああ、応にいさんと飲んで来た」
「またうそついて! 家で飲んだらいいじゃないの」
西門慶はこそこそ李瓶児の部屋に舞いもどってしまったが、それは王六児のとこで飲んだ薬がまだきいていて、淫欲のほとぼりがさめなかったからである。帰って来た李瓶児は西門慶がいるのにおどろき、奥へ行くことをすすめたが、西門慶は李瓶児にまつわりついて離れず、梵僧の薬を飲んだことを話し、
「いっしょに寝てくれないと、おれは死んでしまう」
李瓶児がからだの調子を言って、金蓮のところへ行くことをすすめても西門慶はきかない。
「ずいぶん、しつこいのねえ! からだが病気なのにそんなことさせて、死んだらあなたにたたって出るわよ」
なんと言ってもきかぬので、西門慶と寝ようとすると官哥が泣きだす。寝つかせて西門慶のところへ来るとまた泣きだす。しかたないから迎春に、乳母のところまで連れて行かせて、やっと自由に遊んだ。
潘金蓮は西門慶が李瓶児のところへ泊まったと知ると、わざわざ|あいつ《ヽヽヽ》のために淫器包みを持って行ったのかと、深夜に歯がみしてくやしがった。
月娘は薛尼、王尼と寝たが、ふたりの尼は胞衣《えな》と薬をそっと月娘に渡し、
「いい日をえらんで、お酒といっしょに飲んでくだされ。だんな様とたった一回お休みになるだけで、きっといい赤ちゃんができます」
月娘は二両ずつ銀子《かね》を渡し、「赤ん坊ができたら袈裟《けさ》を作るように、茶色の緞子を一匹あげましょうね」
「在家の菩薩《ぼさつ》様、まことにありがたい賜わりものでございます」
この調子じゃ、豚だって、たぬきだって尼さんになれるというものだ。
五十一
翌日早くから潘金蓮《はんきんれん》は月娘《げつろう》のところへ行き、
「李瓶児《りへいじ》さんが、こんなこと言ってるんですよ。だんなが酔って泊まりに来たって、自分のせいじゃなし、いくら二奥さんの誕生日だって、とやかく大ねえさんに言われるすじじゃないって」
月娘はこれを聞くとさすがに腹を立て、姉や孟玉楼《もうぎょくろう》に向かい、
「あんたたちだって知ってるでしょう。わたしは何も言わなかったわ。小ものが燈籠《とうろう》を持って来たから、だんな様はお帰りかいときいたら、六奥さんの所にいるって言うから、二奥さんが待ってるって言っただけじゃないの。わたしの言うことに棘《とげ》があるかしら? いい人だと思ってたのに、心はわからないものね。きれいなのは上ッつら、綿の中に針を潜めているんだね! 一日じゅうだんなとちちくり合ってたってわたしが心を動かすもんか! どうせ、後家を通せない女の言うことだもの」
「まあ、がまんおしよ。赤ちゃんがかわいそうじゃないか。宰相《さいしょう》の腹は舟も浮かべよ、奥様の腹は泥水|甕《がめ》がいいと言うだろう。いいことも悪いことも胸にたたんでおくのさ」
姉がなだめても、月娘は、「呼んでききただしてやる」
金蓮はあわてて、「ねえさん、大人は小人の罪を責めずと言いますから、許しておやんなさいよ。あたしだって、何を言われているかわからないわ。子供があるので気が強いのよ。こんなことも言ってましたわ。この子が大きくなったら恩には恩、仇には仇を返させてやるって。あたしなら餓《かつ》え死にだわ」
「まさかそんなことはないでしょう」と、月娘の姉が言う。月娘はむっとして口もきかずにいた。
西門大姐《せいもんたいそ》は李瓶児と仲良しだから、すぐさま李瓶児のところへ飛んで行く。李瓶児は端午《たんご》の節句も近づいたので、その用意をしていたが、話を聞いて、余りのことに涙を流し、
「あの人の口にはかなわないわ。もう神頼みだけよ。あたしたち親子は、いつかはあの人の手にかかってしまうんでしょう」と泣きくずれる。西門大姐はすぐさま月娘にこの話をすると、月娘の姉は、「そうだと、わたしゃ思ってたよ。李瓶児さんはいい人さ」
「そうだったのかねえ。わたしたちを争わせようと思ったのね、きっと」
しばらくすると西門慶がやって来て、塩の登記が済んだから二十日に来保《らいほ》と韓道国《かんどうこく》を楊州にたたせるからと五百両月娘に出させ、それを捲棚《まきだな》の下で包み、ふたりには五両ずつ包んでやって旅じたくさせる。そこへ応伯爵《おうはくしゃく》がやって来て、李智《りち》と黄四《こうし》にもう五百両ばかり継穂《つぎほ》してくれないかと相談をもちかけたが、西門慶は塩の入費で手いっぱいだから、徐四《じょし》に貸し金を、動かしてやると約束した。応はそれで帰らず、李桂姐《りけいそ》に関する大事件を話す。それは、王招宣《おうしょうせん》府の三男坊三官が東京黄|大尉《たいい》の姪《めい》を迎えて妻としたのは良かったが、孫天化《そんてんか》、祝実念《しゅくじつねん》、小張閑《しょうちょうかん》などを取巻きとし毎日色町で遊び、二条巷の斎香児《さいこうじ》を囲い、李桂姐もたびたび買ったことがある。しまいには妻のものにまで手をつけるというようなわけで妻のおやじがおこり、結局、県まで手が回って、孫、祝、小は李桂姐の家で引っ捕えられ、王三官は裏から逃げ出し李桂姐は隣に逃げこんで一夜かくれていたというのである。そろそろ李桂姐が現われるころだと、応伯爵は帰っていった。西門慶が陳敬済《ちんけいさい》に徐四の家へ銀子《かね》の催促に出したところへ李桂姐が月娘の部屋に来ていると琴童が知らせに来た。
李桂姐は茶色の衣服《きもの》で、白粉もぬらず、ハンカチで頭をおおったまま、「|おとうさん《パパ》、どうしましょう! 家の中でじっとしてるのに、天から災難が降って来たの」
祝や孫が、見もしらぬ王三官を連れて来て、李|嬌児《きょうじ》伯母さんの誕生日に行こうとしているのに、どうしても茶を飲みたいときかない。母は茶を出してあげなさいなど言って、自分はこちらの家へやって来てしまう。そこへどやどやと大ぜいの男が飛びこんで来たので、自分は隣へ逃げこんだが、逮捕状が出ているらしいなどと、つじつまを合わせて泣いて話すのだった。月娘の口添えもあって、李桂姐を家にとめておくと、李県知事のところへ書童《しょどう》を使いに出したが、東京の上司からの命令なので、逮捕するよりしかたがないが、二日ほど時間をおいておくから、その間にうまく手を回してほしいという返事である。月娘と相談のあげく、楊州へは韓道国と崔本《さいほん》を先発させ、来保を東京の開封へまず行かせることになった。
その日、呉大舅《ごだいきゅう》が印千戸《いんせんこ》に村の倉庫を建てるための費用二十両を借りに来、陳敬済は徐四の借金催促に行って取れなかった。李桂姐はもう安心して、奥さんたちに琵琶をひいて聞かせた。その夜、西門慶は金蓮を相手に余裕しゃくしゃく、猫をからかいながら梵僧の薬をためし、ますますその偉力におどろき、金蓮は満足の限りだった。
翌日、役所から帰るとすぐ、青衣の小役人が駆けつけ、主人の朝廷用材官|安《あん》と、煉瓦廠《れんがしょう》黄が東平府の胡《こ》のところへ行く途中、あいさつに寄るということを伝え、目録とともに浙江紬《せっこうつむぎ》二匹、湖北綿四斤、香帯一束、古鏡一面をおいて帰る、昼ごろになるとふたりの役人は到着し、豪勢な食事の後、翌日、黄の同僚の劉太監《りゅうたいかん》の圧《むら》まで宴会に来てくれとさそって帰る。そこへ夏提刑《かていけい》から迎えが来て、倪《げい》秀才に引き合わされ、役者の歌を聞いて酒となった。
潘金蓮は西門慶を送り出して昼ごろまで寝ていたが、起き上がっても足腰のたたぬ感じで、髪を結うのさえものうかった。午後になって月娘の部屋へ行くと、みな集まって、薛《せつ》尼の仏法の講義がはじまった。それが終ると、薛尼と王尼とで仏法問答がはじまる。そこへ玳安《たいあん》が巡按使《けんさつかん》の宋から使者と贈物がついたことを知らせて来、すぐさま玳安は馬を飛ばして夏提刑の家にいる西門慶のところまで使いに出された。
それから月娘はまた仏曲を聞こうとするが、うんざりして逃げ出そうと、潘金蓮は玉楼の手を引くが動かない。次に李瓶児を引っ張り出そうとするが、さすがに月娘の目がこわかった。月娘は
「李ねえさん、いっしょに出たがってるんだから行ってあげなさいよ。まるで足が地についてないじゃないの」と外へ出し、「まるで兎《うさぎ》だ。どうせ仏法を聞く人じゃないから、いないほうがいいわ」
外へ出た潘金蓮は、さっそく李瓶児の手をとり、
「ねえさんたら、死んでもいないのにお経ばかり上げさせて、あんなの聞いてどうする気なんでしょう。大姐《おじょう》さんが何してるか見に行きましょうよ」
ふたりが行ってみると、中には灯《ひ》がともっていて、西門大姐と陳敬済が銀子がなくなったことで、くどくど言い合っている。金蓮が聞くと、陳敬済が借金とりに行くとき、西門大姐から三銭渡され、金飾りのあるハンカチを買うことを頼まれたが、どこかで金を落として買って来なかった。それが、どこかの女にやったのだろうと、やきもちげんかに発展して、落とした銀子を小おんなが拾って持って来ているのに、口論はおさまっていないのだった。金蓮、李瓶児が、それでは自分たちのも買って来てくれと頼んだので、けんかはどこへやら、あいまいになってしまった。
西門慶は帰宅して、徐四が二百五十両だけしか渡さなかったと陳敬済に聞き、口ぎたなくののしりはじめたが、酒に足をとられ、奥へ行かず、金蓮の部屋へ直行した。
五十二
翌日、西門慶が役所から帰り、髪結いの小周《しょうしゅう》に髪を結わし、翡翠《ひすい》軒で昼寝をしていると、尼たちを送ったその足で、玉楼、金蓮、瓶児、西門大姐、李桂姐が官哥を抱いてはいって来たので目がさめた。桂姐に抱かれている官哥をからかっていると、応が来たという知らせがあったので、女たちは李瓶児の部屋へ帰って行ったが、その途中で官哥を抱いた李桂姐は応伯爵につかまった。「おい、キッスぐらいしてくれろよ。ところでおまえの事件はどうなった?」
「だんなが都へ使いを出してくださったわ」
「そいつはよかった。ところでちょっと話が」桂姐はとっとと李瓶児の部屋のほうへ行ってしまった。
応伯爵が西門慶のところへ行くと、
「宋巡按使《そうけんさつかん》から豚を届けて来たよ。すぐ料理させるから、謝子純《しゃしじゅん》も呼ぼうじゃないか」
「じゃ腰を落ちつけましょうか。徐家の銀子はとりましたか?」
「あいつ、二百五十両しかよこさんのだ。持って来るように言ってもらいたいな。そしたらまとめてそっちへ回せるから」
「そいつはありがたいですな。きっとお礼を持って来ますよ」
「いらんこった。で、孫《そん》と祝《しゅく》はどうなった?」
「李桂姐の家でつかまると、役所で一晩泊められ、次の日にゃ、三人鎖につながって東京《とうけい》行きですよ。いい目をしたあとに悪い目、この暑さにご苦労なこった。鎖つきで、路銀なしで」
「ふん、王家の小僧っ子などと遊ぶからさ」
「まったくね。おれや謝子純を呼ばないからだ」
そこへ謝|希大《きだい》がはいって来た。
「どうしたい? 大汗かいて」
「いやはや、話になりませんよ。朝っぱらから孫《そん》のかかあに飛びこまれて。あっしがやつの亭主をしょっぴかせたと、因縁をつけやがるんでさあ、腹が立ったから追い出してやりましたがね」
「そうだとも。王家の小僧と付き合うなと言ってあったんだ。間抜けさ。網にひっかかるのもてめえが悪いんだよ」と、応伯爵が口をとがらすと、西門慶、
「王家の小僧っ子に何ができるもんか。かかあ大事にやってりゃいいものを、李桂姐んとこなんか出入りしやがって、ざまあ見ろってんだ」
さて、ベランダに、月娘、桂姐、李嬌児、孟玉楼、潘金蓮、李瓶児、西門大姐がいると、小周が顔を出す。月娘が暦をくって、
「きょうは四月二十一日で庚戌《かのえいぬ》の日、祭祀《さいし》、外出、裁縫、沐浴《もくよく》、理髪、建築、工事には午《うま》の時よし。じゃ、剃《そ》らせたらいいね」と、官哥にかみそりをあてさす。ところが官哥はもうへんな声を上げて泣きだし、小周があわてて大急ぎでかみそりを動かすと、息をつまらせ、まっかになって声も出ないありさま。李瓶児が取り乱して、
「もうやめて! 剃るのはやめてちょうだい!」と叫ぶので、小周はびっくりして、髪結い道具もほうり出して逃げて行った。月娘は官哥の神経質なのを案じ、李瓶児は小周に腹を立て、ぷりぷりしている。
やがて西門慶のところから迎えが来て桂姐が行くと、捲棚の下にテーブルが出されている。桂姐が酒をついで回ると応伯爵が、
「どうだい、おれがおまえのだんなに頼んでやったから、つかまらんと済んでるじゃないか。酒のさかなに何か歌えよ」
「花子《こじき》のくせに大きな顔して。あんたの言うことなんか信用できないわ」
西門慶が桂姐に歌わせると、その文句の一つ一つをしつこく応伯爵は冷やかしの種にするので、途中で桂姐が泣きだすという騒ぎ。歌い終ると謝希大、「桂姐、ご苦労だったね。きげん直しに一杯つごう」
すると応伯爵「じゃ、おれもお茶をつまんでやるかな」
「ほっといてちょうだい! たたいた拳固《げんこ》でなでるてなこと」
謝希大が立てつづけに三杯ばかり酌をすると、西門慶は目顔で桂姐に外に出るように合図した。出て行こうとするのを見つけた応伯爵は西門慶に
「どこへ行くんです? 奥からお茶を持って来させてくださいよ。蒜《にんにく》で胸がやけてしかたがない」
「茶なんかあるものか」
「だまされませんよ。劉学官がだいぶ届けたじゃありませんか。ひとりで飲むなんて罪ですぜ」
西門慶が笑いながら出て行き、桂姐がそれに従って出て行ってからだいぶたったのに帰って来ぬので、応伯爵は西門慶を捜しに出た。すると蔵春塢《ぞうしゅんう》の雪洞のあたりで人の笑い声がする。そっと洞門を開いて耳をすますと、桂姐が震え声で、「おにいちゃん、だれか来るといけないから、早く済ませてね」
応伯爵はわあっと飛びこんで行き、
「やってるな。水をぶっかけようか。おい、淫婦、なんとか言え。黙ってると騒ぎ立てて奥さんたちに知らせちゃうぞ。娘分がだんな様を盗むとは、とんでもないやつだな」
「応|花子《こじき》、出て行ってよ」
「出ては行くがね」と応伯爵はチュッとキッスする。西門慶が、「犬っころ、門をしめて行け」
「はい、はい。まあ、ふたりとも力いっぱい渡り合うんだな。渡り合ってぼろが出たって、知らないっと」と出て行ったが、また首を出し「さっきくれると言ったお茶、どこにあるんです?」
翌日、築山《つきやま》の上の臥雲《がうん》亭で、月娘、孟玉楼、李嬌児、孫雪娥《そんせつが》、西門大姐、李桂姐、潘金蓮、李瓶児が将棋をさしたり矢投げをして酒を飲んでいると、陳敬済が、徐家の銀子の取り立ての報告に来ていっしょに飲みはじめた。酒もまわって、一同が草やら花を見に席を立つと、金蓮は白紗の団扇《うちわ》を使いながら芭蕉《ばしょう》の深みにかくれる。陳敬済はあとをつけて、
「五奥さん、何を捜しているんです。足がすべりますよ」
「死にぞこない! あたしがころんだって、平気なくせに。あとをつけて来て、なあに?」
金蓮は目に秋波を漂わせ色っぽい限りである。
「ハンカチを買って来てあげたんですよ。お礼にどうしてくださる?」
ずいとからだを寄せて行ったところへ、李瓶児が官哥を抱いて歩いて来た。陳敬済はあわてて洞《ほら》の中へもぐりこんでしまう。李瓶児は如意児に、金蓮のまくらと敷物とカルタを持って来させて、金蓮とカルタをしていた。すると、孟玉楼が臥雲亭から、「李ねえさん、大ねえさんがちょっとって」と呼ぶ。李瓶児は金蓮に官哥をあずけて山を上って行った。
金蓮は陳敬済が洞の中で待っているのはわかっているが、こぶ付きなので、「だれもいないから、早く出てらっしゃいよ」
「それより、はいって来てごらん。こんなに茸《きのこ》が出てますよ」
金蓮がはいって行くと、「さあ、早いことやろう」と息をはずませて陳敬済はかじりついてキッスする。
李瓶児が臥雲亭へ行ってみると、いっしょに矢投げをして遊ぼうと言っているのだった。そこで孟玉楼に官哥を抱いて来るよう頼み、小玉に敷物やまくらをとって来るよう言いつけて、そこにすわりこんだ。玉楼と小玉が芭蕉の葉陰まで来ると、金蓮の姿は見えず、官哥が手足をばたばたさせている。そばに一匹の黒猫がいたが、人影を見てさっと逃げ去った。
「まあ、子供をほったらかして、どこに行ったのだろう。猫にびっくりしたのね、この子」
すると、洞の中からばたばた金蓮が飛び出して来て、「あたし、ここよ、ちょっと小用を足してたの。猫にびっくりしたって、どこにいるの? うそばっかり」
孟玉楼は返事もせずに、泣く官哥をかかえ臥雲亭のほうへ行く。金蓮は陰口をたたかれてはたまらぬと、後を追って行った。
「どうして泣いてるの?」
矢投げをやめて月娘がきくと、玉楼が
「大きな黒猫がいたんですよ」
「だって、五奥さんがいたはずじゃない?」
「洞へ小用を足しに行ってたんですって」
そこへ金蓮が着いて、「猫なんかいなかったわよ。お乳が飲みたくて泣いたんだわ」
如意児が乳を飲ませても乳を飲まぬので、月娘は李瓶児に部屋で寝かしつけるように言いつけ、そのままそれぞれ散って行った。そうした間に陳敬済は洞から逃げ出したが、いま一息のところで金蓮との雲雨《しごと》をしくじり、つまらなさそうに部屋に帰って寝たのである。
五十三
その夜、西門慶が、宴果てて劉太監の庄《むら》からきげんよく家への帰路をたどっているころ、いま一息というところで金蓮を手に入れそこねた陳敬済は、西門慶の留守をさいわい、金蓮のところを襲った。金蓮はびっくりするわ、うれしいわ、
「死にぞこない! 放してよ! 見つけられたらどうするの」
陳敬済にはそんなことばは耳にはいらない。金蓮を抱きしめたまま、いきなり金蓮のズボンのひもをときにかかった。
「まあ! ひもが切れたじゃないの! 大それたこと仕出かして、あたしをどうするの?」
「もう辛抱できない。この思いだけは遂げさせてください」
紅|欄干《らんかん》によりかかったまま、抱き合って小半時、塀《へい》の外に酔っぱらった書童と玳安が門をあけろとどなる声が聞えるまで、ふたりは離れなかった。
西門慶はぐでんぐでんになって帰って来たが、まっすぐ月娘の部屋にはいり、すぐ床につこうと月娘に抱きつく。月娘は二十三日の壬子《みずのえね》の日に薬を飲んでことを行わねばならぬから、「きょうはからだのぐあいが悪いのよ。よその部屋へ行って」
「酔っぱらってるから袖にするんだね。じゃ、明晩来るからな」
「きらってるんじゃないのよ。月のものが残っているの。だから、明晩来てね」
「よし、よし」
西門慶は金蓮の部屋へ行く。金蓮は今しがたの敬済との欲情のほむらが燃えているから思わずにっこりして、「ずいぶんおそかったのねえ」
翌二十三日。月娘は床を出ると、身づくろいし、小玉に香机《こうづくえ》を持ち出させ、香炉や、観音経をその上に並べ、西へ向かってうやうやしく礼拝し、
「なにとぞおかげをもちまして、この薬で、わたくし呉氏に子宝をお恵みくださいませ」と祈り、熱い酒で薬を飲む。何か生臭いにおいがした。こうして月娘は部屋を一歩も出ず、一日、西門慶のおとずれを待っていた。
西門慶は潘金蓮の部屋で起きると、書童に黄・安両主事に宴会の礼状を届けさせる。すると、両主事があいさつにやって来る。ふたりが帰ると、昼からは、あらためて礼のあいさつに西門慶はふたりのところへ出かけて行った。
西門慶がもどって来ると月娘は酒肴を用意して自分の部屋へ請じ入れる。
「昨夜は酔ってたから泊めなかったんだろう? ぐあいが悪いなんて言ってたが」
「まあ! ずいぶん疑い深い人!」
月娘が酒肴を進めている間に、小玉はふとんに香を焚きしめる。ふたりはまずふろを使ってベッドにはいったが、まくらべの恩愛、言語に尽くせぬものがあった。こうして月娘は妊娠した。
次の日、役所から帰った西門慶が官哥を見に行くと、李瓶児が、このごろ下から出血があるので願をかけに行きたいが、忙しくて行けないと言うので、さっそく、王尼を玳安に呼びにやらせた。そこへ応《おう》と常《じょう》が来たというので出て行くと、応伯爵はさっそく、黄四、李智へ金を貸してやってくれという話を持ち出す。西門慶ははっきりした返事をしないでいる。するとしばらく雑談していたあとで応伯爵が、あした城外の花園へ西門慶と常峙節《じょうじせつ》のふたりを招待すると言いだした。西門慶は行くことにした。あたしも、お宅では箸《はし》をすり減らすぐらいごちそうになったんだからというのが応のせりふだったが、役者は準備してあるが、芸者をふたりほど呼べるとなおおもしろいんですがねえなどと謎をかける。西門慶はさっそく琴童を走らせて、あした、呉銀児《ごぎんじ》と韓玉釧《かんぎょくせん》を呼ぶ手はずをした。
そこへ王尼が到着し、西門慶が官哥を仏様にお守りしてほしくて呼んだと言うと、薬師経を上げ、陀羅尼《だらに》経を二部刷ることをすすめて奥へはいって行く。王があしたがいい日だから庵でお経を上げると月娘に言うと、李瓶児は自分のからだをよくする祈祷《きとう》文を書いてくれるよう王尼に頼んだ。王尼は気軽にそれを引き受けた。
五十四
お経を上げる相談が終ると、月娘はその時使う品々を渡して王尼を帰し、陳敬済に、あしたいっしょに、拝みに行くようにと言いつけたが、陳敬済は西門慶が留守になるから店を見なくてはならないと断った。留守に見るのは店ではなく、金蓮のからだというのが本心である。
翌日早朝、西門慶は書童と玳安を従えて王尼の庵へお経を上げに行った。願かけしたらかならずかなうと決めこんで仏の守護に感泣し極楽へ行けるのならこの世は楽だというものだ。庵から帰ると、まだ日が上ったばかりというのに応伯爵と常峙節が迎えに来ている。城外二十里のところに内相《かんがん》の庭がある、そこへ迎えるのだという。ふたりは先に出て呉銀児は病気なので、韓玉釧だけ連れて庭園に行き、料理の用意、俳優の用意をととのえ、西門慶がやって来るとまず庭園を案内し、それから、ふたりの俳優に歌を歌わせてきげんをとる。充分気持よく西門慶を遊ばせて、さて帰ろうという時に、やにわに応伯爵はべたべたとひざまずき、李智、黄四の借金の話を持ち出す。それが目的のまねきであったのである。夕方西門慶は家に着いた。その晩は李瓶児の部屋に泊まった。
その日、陳敬済はうまく金蓮の部屋にはいりこんだが、小玉が用事でうろうろし、目的を果たすことはできずじまいである。
翌日、李瓶児はしんみりと西門慶にこんなことを言う。
「あなた、あたし、赤ちゃんを生んでから、ずっと出血があるんですよ。鏡で見ると顔は黄色くて光沢《つや》がなくなってるし、食欲もなくなり、足に力がはいらなくて、元気もありませんの。もしものことがあって、赤ちゃんを残して行くようなことがあったら、だれに育てさせてくださるつもりですの」
李瓶児はぽろぽろ涙をこぼしている。西門慶はさっそく、任《にん》医官を呼んだ。任医官はベッドにおろしたたれ幕の間からそっと出す布をまいた手の脈を見ていたが、西門慶に
「まことにぶしつけですが、お顔の色も拝見したいのですが」
「朋友《ほうゆう》だから、かまわんだろう」
たれ幕をかがけて見せると、顔は桃のように赤み、眉《まゆ》を柳の葉のようにひそめている。
乳母《うば》の如意児からくわしく病状をきくと、口がかわき、くちびるがやけ、夜もろくろく眠れないのだと言う。任医官は病人が元気づくようなことを西門慶に向かって話した。西門慶は妾のうちこれがいちばん気に入っているのだと話し、くれぐれも早く直してもらいたいと頼みこむ。
「かならず厚くお礼はいたします」
「それでは、全快のあかつきには、ご迷惑でも、扁額《へんがく》など書いていただきますかな」
任医官はこう言って笑いながら、広間へもどって行った。
五十五
広間へもどると、西門慶は「ほんとうのところは、この病気はどうなのでしょうか」
「産後を慎まなかったら起こったんですな。目下のところ、悪路はよごれ、顔色は黄ばみ、飲食は進まず、疲労が早いようですが、ご心配には及びません。保養だけがたいせつでございます」
西門慶が銀子一両を包んで任医官を帰すと、やがて薬が届いたので、すぐ李瓶児に飲ませた。
西門慶がもどって来ると、応伯爵は待ちかねていて、
「けさがた李三と黄四がまたやって来たんですよ。あの銀子が早くほしいんですな。あたしの顔に免じて一つ」
「そんなに急なのか。じゃしかたない。あした受け取りによこしてくれ」
ふたりは棚の下でいっしょに食事をした。
「李桂姐はまだ泊まっているんですか? 都へやったってやつも、そろそろもどって来そうなものになあ」
「そう思ってるんだ。もどったら楊州へ出さねばならんからね」
食事が済むと伯爵は帰って行った。
翌日、応伯爵が李智と黄四を連れて来たが、ふたりが五百両の銀子を借りて帰って行き、引きとめた応伯爵と西門慶がしゃべっているところへ来保がもどった知らせがあった。応伯爵はだから言ったでしょうと鼻をうごめかす。そこへ来保がはいって来て、西門慶の前にひざまずいた。来保の報告によると、|※[#「羽/ふるとり」、unicode7fdf]謙《てきけん》に手紙をもらい朱太尉の所へ行くと、蔡太師《さいたいし》の命令は聞かねばならぬが、捕えられたのは六董《ろくとう》太尉だから、すぐ帰すわけにはいかない、しかし逮捕されない者はうち捨てておき、逮捕されたのも、数日捕えっぱなしでほっておけば、六董太尉も朝廷役人で気が変わりやすいから、軽い処分で済むだろうと言っていたというのである。
「チェッ、それなら斎《さい》家の小淫婦も助かるってわけか、うまくやってやがる」と応伯爵が言うと、
「祝のだんな様方も、五六回たたかれるだけで、罪にはならぬそうでございます」
「孫のやつも、祝のあばたも、おれが手を回してやったんだとは、ゆめにも知らんだろうな」
「いや、それこそ陰徳というものですよ」と、応伯爵。
「|※[#「羽/ふるとり」、unicode7fdf]《てき》のだんな様は、わたくしを見てたいへんお喜びになりまして、太師様の誕生祝いには、ぜひだんな様のおいでを願うと申しておられました」
「そうか、そりゃ、行かずばなるまいな。いや、ご苦労。裏で飯でも食って休んでくれ」
来保が引き下がるとき、それを潮に応伯爵も帰って行った。
西門慶が月娘の部屋へ行くと、李桂姐はふたりの前にひざまずいてお礼を言い、「でも、斎香児まで助けてやるなんて、あんまり気がよすぎるわ」などと、意地悪いことを言ったが、あたふたと家へ帰って行った。西門慶は月娘たちと表門まで送って行き、「ま、片はいちおうついたが、今後王三官は呼ばんことだな」
「まあ、そんなことしたら、あたしのからだが腐りますよ」
「あれ、また誓うのかい」
月娘は冷やかしぎみに言った。
またたく間に数日は過ぎ、蔡太師の誕生日も間近に迫った。西門慶は吉日を選び、琴童、玳安、書童、画童を引き連れ、礼物《いわいもの》やら自分の衣服類などを二十荷につめて都へ向かう。別れに際して、李瓶児に官哥をだいじに育て、自分もよく養生し、薬がほしかったら任医官に作らせよ、おれもすぐ帰って来る、と慰めたのは、いわゆる鬼の目に涙である。
旅をすること十数日、早くも都に着き、日の暮れ方、|※[#「羽/ふるとり」、unicode7fdf]謙《てきけん》の屋敷に着くと、|※[#「羽/ふるとり」、unicode7fdf]謙《てきけん》は酒よ料理よと大サーヴィスである。西門慶は、太師門下に加えてもらえるよう|※[#「羽/ふるとり」、unicode7fdf]謙《てきけん》に頼みこんだが、|※[#「羽/ふるとり」、unicode7fdf]謙《てきけん》はにっこり笑い、
「そんなことは容易なことです。うちの主人は朝廷の大臣ではありますが、至ってきげんはとりやすい人だから、こんなりっぱなお祝いなら、見ただけで子分どころか、官位だって進めてくれますさ」
翌朝、西門慶は|※[#「羽/ふるとり」、unicode7fdf]謙《てきけん》に連れられて蔡太師の屋敷へはいって行った。警戒はきびしいが、|※[#「羽/ふるとり」、unicode7fdf]謙《てきけん》が親戚だと言えば、こともなく次々と門をくぐり、やがて、二十四名の女が鳴らす、鼓楽の音が近く聞えるようになると、蔡太師の書房は間近となっていた。
大広間で蔡太師の前に四拝すると、腰かけていた太師は立って一礼を返す。|※[#「羽/ふるとり」、unicode7fdf]謙《てきけん》が太師の耳もとでささやく。西門慶がふたたび四拝すると今度は返礼がない。これで親子の契りが固まったというわけである。運びこまれるお祝いの品に太師は満足して、午後早めに来るように言いつけた。
午後行くと、太師はわざわざ軒下まで出て迎え入れてもてなした。
八九日、|※[#「羽/ふるとり」、unicode7fdf]謙《てきけん》のうちで泊まると、西門慶は帰っていった。
西門慶の留守中、潘金蓮は厚化粧してやたらにうきうきしている。人目を忍んで、雪洞で陳敬済とくっついていたからであった。
西門慶が帰ると、応伯爵と常峙節がたずねて来て、常《じょう》の引越しの銀子《かね》を貸してほしいと頼んだが、西門慶はいま手もとにないと言って貸さなかった。
五十六
常峙節は西門慶には借りられず、家主の追い立てはきびしいので、その後毎日のように西門慶の家へ足を運ぶが、いつも不在である。西門大官人と親しいってのに、なんてことだと妻君はがなり立てる。とうとう、飲みたがらぬ応伯爵を居酒屋に引っ張りこんで泣きついた。応伯爵が常峙節を連れて西門宅まで来ると、運よく西門慶は在宅だと言う。けれど、いつまで待っても出て来ない。そのうちに書童と画童が綾絹《あやぎぬ》や衣服《きもの》をつめた箱をかついではいって来たので尋ねると、花園で遊んでいるという。
もう一度言ってやらすと、やっと西門慶が出て来た。応伯爵は常峙節の事情を説明して、ことば巧みに頼みこむ。西門慶は太師への誕生祝いに使いすぎたし、韓道国はまだもどらぬしと渋ったが、さしあたって必要な銀子は三四十両と聞くと、月娘の部屋から砕銀子《こつぶ》で十二両持って来させ、ひとまず息をついてくれと、常峙節に渡した。応伯爵はさっそく、
「昔から財を軽んじて人に施す人の子孫は栄えるし、けちんぼは幾ら貯《た》めたって子孫は祖先の墓を守りかねると言いますね」などと言う。西門慶は、
「銀子というやつはへんなものさ、ね。動きたがって止まりたがらないんだ。だから、ひとりが積んで押さえると、だれか貧乏するものが出てくる。だから、使わないのはいけないことなんだ」
飯を食わせてもらうと、常峙節は足も軽く家に帰る。妻君はそれと知らぬから、顔を見るなり、ガミガミ食ってかかる。いつになく常峙節は平然とかまえて、ぽんと袖の砕銀子《こつぶ》の包みをテーブルにほうり出し、
「お銭様々。美しいお姿様よだ。早くおいでくだされてりゃ、こんな淫婦に恥をかかされずに済んだものを」
妻君は銭を見ると、狂喜して飛びつこうとする。常峙節は別れようかとかなんとか、さんざん妻君をじらしたあげく、米やら肉やら買って来て妻君に食べさせる。妻君は上着やスカートや下着をどっさり買いこみ、あしたは家具をとはしゃいでいた。
五十七
そのころ、東平府の永福寺という禅寺に来ていたインド生まれの老僧が朽ち果てたその寺を再建しようと、役人でもあり財産家でもある西門慶に喜捨《きしゃ》を請うため、勧進帳を袖に、西門慶の家へ向かっていた。
西門慶は応伯爵が帰っていくと、月娘と相談し友だちを招きに小ものたちを走らせ、ふたりで李瓶児の部屋へ官哥を見に行く。李瓶児が官哥を如意児に抱いて来させると、官哥はぽてぽてした白い顔で笑って、月娘のふところに飛びついて来る。
「坊や、大きくなったら、おかあさんに孝行するんだよ」
「まあ、何をおっしゃる。この子がいまに役人にでもなったら、いちばんにねえさんのところへ走りこみますわ」
李瓶児がそう言うと、西門慶が、
「文官になるんだね。おとうちゃんみたいに武官になっちゃだめだぞ。いくら力があっても、敬われはしないからな」
窓の外から盗み聞いていて、潘金蓮は煮えくりかえる思いである。へん、おまえに赤ん坊が生まれたからって、文官だ、武官だと今から大騒ぎして、大ねえさんも官吏のおっかさんと奉《たてまつ》られる気なのかい。育った上でなくちゃ、小便袋同然さ。
西門慶が出て行くと、喜捨を頼みに和尚《おしょう》が来ていると小ものが知らせる。官哥かわいさに善事を積みたくなっている西門慶はさっそく和尚を広間へ通させて用をたずねた。和尚は自分の生《お》い立ち、寺院再建の一念を起こしたいきさつを話し
「仏典にもございますとおり、善男善女、金銭をみ仏に喜捨いたせば、かならず、お子のお顔は日ましに端正となり、文官試験にも合格いたすというような功徳がございます。それゆえ、まずこちら様の高門をたたきました」と、勧進帳をひろげた。
西門慶は望みにピッタリで有頂天になり、五百両を約束し、知合いの金持役人のところを、自分が勧進帳を持って集めてやることにし、充分精進料理でもてなし門まで見送った。
西門慶は奥へはいると、月娘に和尚が喜捨を請いに来たこと、自分が勧進元になることなどをしゃべった。月娘は喜んだが、
「それは赤ちゃんのためにいいことですわ。でも善《い》いことをなさるのはそれでよろしいが、悪いことも慎んでくださいね。色と欲を慎めば、子供はしぜん、よく育ちますよ」
「なんだい、またやきもちか。天地に陰陽はあり、男と女はしぜんに引き合うんだよ。女に手を出すのも、くっつくのも、仏様の縁結びの本にちゃんと書いてあるんだ。だから嫦娥《こうが》を強姦《ごうかん》しようが、織女《しょくじょ》とちちくり合おうが、積んだ宝や善根は減らないのさ」
「まあ、きたならしい。たいして良くなっちゃいないわね」
ふたりが笑い合っているところへ、薛《せつ》尼と王尼がはいって来たが、金蓮は尼たちが来ているのは官哥の延命を祈るためだろうと考え、李瓶児とふたりではいって行った。李瓶児の姿を見ると、西門慶はまた、得々と喜捨やら勧進元の話をはじめる。金蓮は李瓶児が愛されているのを見せつけられている気がしておもしろくなく、何も言わずに出て行ったが、薛尼は口じょうずに西門慶の善根をほめたたえ、千年も長生きするだの、五人の男の子にふたりの女の子が生まれてりっぱに成長するだの喜ばせたあげく、ただいま一つ良いことがある、費用は少なくて舞いこむ福は限りがないと、うまうま陀羅《だら》経千巻の印刷配布を説きつける。西門慶はいい気持になり五千巻注文し、三十両の銀子《かね》を前金で渡してしまった。
そこへ、招待された客の到着が知らされた。もちろんその中には呉|大舅《だいきゅう》、花《か》大舅、謝希大、常峙節などの面々がまじっている。一方そのころ、おもしろくなくて部屋を飛び出した金蓮は捲棚《まきだな》の下で、偶然やって来る陳敬済に出会ったが、魚に会った猫のよう、たちまち心は浮き立ち、しばらくじゃれ合ったあげく、そこで雲雨《しごと》はしかねると、大胆にも手に手をとって立ち去ったのだった。
五十八
その夜、西門慶は酔った余り、孫雪娥の部屋に泊まりに行った。一年余り見向きもされなかったのだから、雪娥がからだを洗いきよめて、心からサーヴィスしたことはもちろんである。
翌、二十八日は西門慶の誕生日。西門慶が天に祈っていると、韓道国に連れられて胡秀《こしゅう》が来て、帳簿を示し、韓が杭州《こうしゅう》で仕入れた一万両の絹ものが着き、関税を収めれば城内に運びこむことになっていると報告した。西門慶はたいへん喜び、喬家に知らせに使いを走らせ、自分は店を開く段取りを月娘と相談していた。そこへ応伯爵がやって来て、誕生日に荷が着くとは縁起がいいと喜ばせ、使う小僧の世話を引き受けた。間借りではなく、一軒の家に住んでいる甘《かん》という男である。そうしているうちに、李銘《りめい》、呉恵《ごけい》、鄭奉《ていほう》その他の楽人がつめかけて来たが、頭《かしら》立ったものが言うのに、鄭|愛月《あいげつ》は王という皇族に呼ばれていて来られぬので、斎香児、董嬌児《とうきょうじ》、洪《こうし》四児の三人を連れて来た。西門慶は鼻でせせら笑い、「ふふん、皇族か。よかろう。おれにだって連れて来るだけの力はあるさ」
玳安に名刺を持たせ、軍卒をたくさん連れさせて、
「王家のだんなにこう言え。こちらでは客を呼ぶために鄭愛月は三日も前から約束してあったのだとな。もし女が言うことを聞かなかったら、婆もろとも役所にしょっぴいてやる。鄭奉おまえもついて行け!」
ふたりが出かけても、西門慶はぷりぷりおこって、
「畜生め、おれが呼んだのに来やがりもしないで」
「どうしたんでしょうなあ。にいさんのすごいのを知らないのかな。でもまあ、ほかの女だってなかなか良いじゃないですか」と、応伯爵がとりなすと、そばから李銘が、愛月が年ごろになってすばらしく美しくなり、歌も桂姐ぐらいは歌えると話した。
喬家にやった使いがもどって来ると西門慶は五十両胡秀に渡し、目録や徴税通知票とともに、あした、税関の銭《せん》だんなと会われる節の費用にというよう命じた。
薛《せつ》内相が着き、つづいて夏提刑の家で教師をしている倪《げい》秀才が、誕生祝いをかねて、同窓の温《おん》秀才を秘書役に推薦するために連れて来た。見ると、年は四十たらず、ひげはまばらで温厚そう、少し話してみて西門慶は温《おん》が気に入った。その間にも、呉大舅、范《はん》千戸が顔を出し、鄭愛月を迎えに行った玳安も鄭奉も帰って来る。西門慶が広間の前に立つと、四人の芸者はしずしずひざまずいておじぎをする。鄭愛月は、紫紗の上着に、白紗のスカート、なよなよとして美しい。
「愛月、来いと言ったのになぜ来ん。おれが連れて来られんとでも思ってるのか」
鄭愛月は返事もせず、にっこり笑って、一同とともに奥へはいり月娘たちの前にひざまずいておじぎをし、ついで李桂姐や呉銀児にもあいさつする。お茶が終ると、李桂姐と呉銀児は潘金蓮と孟玉楼に連れられて花園へ行こうと出て行ったが、人がいたので李瓶児の部屋へ行った。ちょうど、官哥のぐあいが悪く李瓶児は部屋にいた。しばらくおくれて西門大姐が四人の芸者と小玉を連れてはいって来たので、孟玉楼が何をしていたのかときくと、洪四児が「四奥様の所でお茶のごちそうになっていました」
「四奥様?」と金蓮が聞きとがめ、玉楼と李瓶児の顔を見て吹き出し、「洪四児、だれがその人を四奥さんだって教えてくれたの?」
「はい。ご自分で四奥様と申されましたの」
「まあ、あきれた奴隷淫婦! 自分でそう言ったの? だんなを一晩泊めたからって、もう大きい顔してんのね。みんなのとこにお客さんが泊まってたからじゃないか。でなかったら、あんなやつん所へ順番が回らないわよ」
「それどころか! だんなを送り出すと、急にめかしはじめたのを見た?」と孟玉楼も口を出す。「小玉、おまえ知ってるだろう。あいつ、だんなに部屋がかたづかないから小間使いがほしいなんて言ってたってさ」
「わたしは存じません。玉簫《ぎょくしょう》が知ってるかしれませんが」
その時、表の方から鼓楽響き渡り、荊都監《けいとかん》たちが到着した。四人の芸者はお酌《しゃく》するために表に出て行った。表は楽隊や芝居で大にぎわい。食事に任医官がお祝い持ってかけつけ、ややあって、表門から露払いの声が聞え、平安が周守備《しゅうしゅび》の到着を知らせに来る。西門慶はあわてて、出迎えに行った。その日は酒を酌《く》み、舞をまい、歌を歌い、笛を吹き、にぎやかに誕生日が祝われた。その夜西門慶は月娘の部屋に泊まった。
翌日、応伯爵が甘|出身《しゅっしん》を連れて来たので、喬家から崔本《さいほん》を呼び寄せ、甘のことを話し、店の利潤は西門慶、喬大戸が各三分、残りの四分を韓道国、甘出身、崔本が三等分することにした。店の裏手は書院として温秀才をおき、手紙を扱う係とし、給料は月に銀子三両、季節には礼物《おくりもの》をし、書童をそばに仕えさせることにした。夜になって李桂姐も呉銀児も帰ると、西門慶は李瓶児の部屋で官哥の顔をのぞいてから孟玉楼の部屋で泊まった。
金蓮は朝、任医官が官哥を診《み》に来たのも気に入らぬ。西門慶が李瓶児の部屋へ行ったのも気に入らぬ。気にいらぬだらけで、むしゃくしゃして部屋にもどるとき、やみのことで、犬の小便を踏みつけ、靴がよごれた。ますます腹は立ってくる。春梅を呼んで犬の尻《しり》を思い切りたたかせ、犬をキャンキャン鳴かせていると、李瓶児の部屋から迎春《げいしゅん》が来て、
「五奥様。赤ちゃんがお薬を飲んでやっと寝ついたところですから、どうぞ犬をたたかないでくださいと、六奥様が申しております」
金蓮は物も言えぬ。力いっぱい犬をおっぽり出すと、いきなり秋菊《しゅうぎく》を呼びつけ、
「こんなおそくまで犬を放しておいて、あたしに恨みでもあるのか。見てごらんよ、新調の靴を小便だらけにしたじゃないか! 暗いのに、灯も持って来ない! この泥でもなめるがいい」と靴の底で秋菊の口のあたりをピシャピシャたたく。秋菊が、口を押さえて逃げ出そうとすると、春梅《しゅんばい》に捕えさせ、裸にして、靴でたたかせる。秋菊が豚のように悲鳴を上げるから、せっかく眠りついた官哥は目をさました。
「五奥様、赤ちゃんが眠れませんから、秋菊を許してやってくださいな」
李瓶児の部屋から今度は綉春《しゅうしゅん》が来て金蓮をなだめる。すると、今までベッドで横になっていた金蓮の母までむっくり起き上がって金蓮をとめにかかるので、金蓮は紫色になり顔をひきつらせ、「おかあさん、黙っててよ」と母親を突きとばす。「老いぼれのくせに。あいつの肩をもったって、相手は屁《へ》とも思ってないんだよ!」
むすめにこう言われて、潘ばあさん、奥の部屋へ飛びこんでわあわあ泣くばかり。金蓮は秋菊を二三十鞭でたたき、その上こん棒で十回もなぐりつける。秋菊の皮膚は破れ、肉はほころび、顔までひっかかれて血だらけである。李瓶児は両手で官哥の耳をおさえ、涙を流してくやしがっていた。
翌日、官哥の病気ははっきりしないし、一晩じゅう眠れなかったので李瓶児は目をまっかに腫らしていたが、薛《せつ》尼と王尼が帰るという話を聞き月娘の部屋へ行って、自分の部屋の銀製の獅子《しし》の置物を持って行ってもらって、薛尼にその代金で仏頂心陀羅《ぶっちょうしんだら》経を印刷してもらって、八月十五日に岳廟《がくびょう》に献納したいと相談した。薛尼はさっそくその場で銀獅子を持って行こうとしたが、孟玉楼がそれをとめ、賁四《ほんし》に目方をはからせ、経舗《おきょうや》にいっしょに行かせて、一部の費用や仕上りの日限をきかせるほうがよいと月娘に言った。それで賁四を呼んで一対の銀獅子をはからせると、四十一両五銭あった。賁四が薛尼、王尼と出て行くと、潘金蓮は孟玉楼と西門大姐の部屋へ行ったが、西門大姐は軒で靴を縫っているところだった。孟玉楼はそこに腰をおろすと、金蓮に向かって、「李ねえさんはおっとりしてるから、すぐお銀子《かね》を人に渡すけど、あの尼はあぶないわ。あんな調子じゃ、刷り上がるかどうかわからないと思ったんで、賁四について行かせたのよ」
「そんなことを言ったって、あの人は金持だもの、あれぐらい九牛の一毛よ。けど、人には寿命ってものがあるんだもの、寿命のないのに、お経を刷ってみたって、山ほどお銀子を捨てたって、どうにもならないわよ。朝っぱらから医者を呼んだり、大げさね。それに、赤ん坊が眠らないからなんて言って、だんなをあたしの部屋に回して恩を売ったり。おこぼれなんかほしくないから、だんなが来ると、あたしよそへ回すのよ。腹が立つわよ。貞淑づらしてさ。ゆうべだって、わざわざ小おんなに呼びにやらせて、赤ん坊に薬を飲ませるところを見せて喜ばせようという寸法。小憎らしいったら。うまくやるもんだから、大ねえさんも、聞くのはあいつの話ばっかりで、あたしたちの言うことなんか聞かなくなるのは当りまえね。ゆうべ、あたしが小おんなに犬を追わせたら、あいつ、赤ん坊が眠れないなんて、いばって小おんなをよこして来るのよ。おっかさんまで向うの肩もつから、ちょっと言ってやったら、おっかさん、腹立ててきょうは家へ帰ったわ。おっかさんみたいな貧乏身内はほしくないって言ってやったのさ」
「まあ、ひどいむすめねえ、おかあさんをいびり出すなんて」
「そうじゃないよ。甘いものなめさせられて、人の肩ばかりもつからだわ」
賁四が帰って来て、また銀の玉を持って行くのを見てふたりが尋ねると、一千五百部の刷り代が五十五両となるので、不足ができ、李瓶児から銀の玉を預かって来たというのだった。賁四が行ってしまうと、玉楼は金蓮をかえりみて、「お銭《かね》のむだ使いだわ。自分の子供だと目がくらんで、あんなインチキ尼のことばまで信じてしまうのね」
五十九
その日、韓道国は大きな帽子をかぶり、意気揚々と騾馬《らば》にまたがって帰って来た。荷が着いたのである。玳安が西門慶に知らせに周守備の屋敷に走っている間に、荷車十に積まれた緞子《どんす》は店の二回に積みこまれ、陳敬済が門へ封印をすませた。西門慶が帰って報告を聞くと、「税関の銭《せん》様は、税金をずいぶん減らしてくれた」ということであった。
韓道国が帰宅すると王|六児《ろくじ》はいそいそと食事の用意をする。韓道国は景気よく商売の話をし、重そうな銭袋を見せて、「別に城外に一二百両の品物がおいてあるから、そのうちに銀子《かね》にして来るよ」
「よかったわねえ。王経の話だと甘という男や、崔本たちと、店を開くんだってね」
「おお、こちらで商売を見るほかに、庄《むら》の倉のほうも管理しろとだんなが言うのさ」
翌八月一日、韓道国は崔本や甘出身と店のほうを見回ったのだが、西門慶は品物が着いて一安心したとたんに、急に鄭愛月の顔が見たくなった。玳安に、銀子三両と紗《しゃ》の衣服《きもの》を一着届けさせておき、店を見回って王経を家に残すと、琴童、玳安、春鴻《しゅんこう》の三名を供に轎《かご》で乗りつけ、晩に馬で迎えに来るよう言いつけて、琴童を轎につけて帰した。
西門慶は鄭婆に先日愛月が来ようとしなかった苦情を聞かせ、愛香《あいこう》、愛月と奥で酒を飲んでいたが、やがて愛月がひとりになると、例の薬を飲み、夜中ちかくまで愛月のおとめの肌をたのしんだのである。
翌日、月娘が孟玉楼、潘金蓮、李嬌児と話し合っていると玳安が夏提刑の誕生祝いに贈る反物の箱を捜しにはいって来た。月娘が、西門慶は昨夜王六児のとこへ行ったのかときくと、玳安は亭主《ていしゅ》が帰ってきたのだからもう行けないというだけで、どことも言わず、へらへら笑いながら出て行った。そこで金蓮が春鴻を呼びつけて、おどし上げてみたが、色町の家らしいことはわかっても、女郎を奥さんだと思っているし、容貌《ようぼう》をきいても、くちびるが紅《あか》かったぐらいのことしか言えぬ。知らぬ人かと言えば歌を歌いにここへ来たことがあると言う。李桂姐だろうと話が落ち着きかけたが、家の様子がちがうと李嬌児が言いだし、わからずじまいになった。
さて、潘金蓮は前から一匹の白猫を飼っていた。ただ一点、額に黒点があるので、雪炭《ゆきずみ》とか雪獅子とか呼んでかわいがっていた。ハンカチをくわえたり扇子を拾うのがじょうずである。金蓮はこれに牛の肝とか、ほし魚、生肉とかを食べさせているので、栄養も充分、毛がふさふさして、その中に卵でもかくせるほどである。近ごろどういうつもりか金蓮は肉を紅絹《もみ》につつんで投げ、それにじゃれさせていたのだ。
この日、劉婆の薬を飲んだためか、官哥のぐあいもいいようなので、紅緞子の上着を着せ、乳母と迎春にお守《も》りをさせて、李瓶児は一休みしている。迎春が官哥をオンドルに寝かせ、乳母がその横で食事をしていると、いつのまに忍びこんでいたか、金蓮の白猫が、紅い上着の動かす手足につられて、ぱっと飛びかかり、やにわ官哥の顔をかきむしった。官哥は一声高く泣き叫んだが、もう声も出さぬ。乳母の如意児はあわてて茶わんを投げ出し官哥をふところに抱きしめ、猫を部屋からたたき出す。迎春から知らせを聞くと、李瓶児はもとより月娘も、二歩を一歩にして部屋へとびこん来た。官哥は目をつり上げて、口からあわを吹いているから李瓶児は心を刀で切り裂かれる思い。
「坊や! とうとうこんな目あって!」と抱き上げて泣き叫ぶ。月娘は迎春や乳母からことのわけを詳しく聞くとすぐ金蓮を呼びよせた。金蓮は自分の猫は部屋におると言って相手にしないで、おまえたちが赤ん坊をおどかしたんだろうと迎春と如意児にくってかかる。
「どうしてその猫がはいって来たんだろう」と、月娘が迎春にきくと、「いいえ、あの猫はいつもこの部屋に来て飛び回っています」
「じゃ、なぜきょうに限って坊やを引っかいたんだね? 目がどこについてるのさ。でたらめ言うのはよしてよ!」
金蓮は身をひるがえして出て行った。
月娘たちは急いで劉婆を呼び、金色の丸薬を飲ませたり、灸《きゅう》をすえたりしたが、こんこんと眠るばかり、夕暮れなって西門慶が帰って来ても目をあかぬ。月娘からそのことを聞くと、西門慶は飛ぶように李瓶児の部屋に駆けつける。李瓶児は目をまっかに泣きはらしている。西門慶が問いただしても李瓶児は泣くばかり、乳母も迎春もおし黙っている。見ると官哥の手の平や顔には灸の跡が残っている。西門慶はすぐさま奥へひき返し、月娘につめ寄っていっさいをきくと、腹は煮えくりかえり、凶神のように金蓮の部屋に飛びこみ、雪獅子の首すじをぐっと握ると、ベランダの土台石めがけてたたきつけた。ギャッと一声、脳みそはほとばしり、歯は飛び散り、あたりは鮮血にいろどられる。潘金蓮はオンドルにすわって平然と見ていたが、西門慶が出て行くと、
「へん、死にぞこないの強盗! あたしを殺せるんなら見上げたもんだが、たかが、猫一匹!」とせせら笑っている。
西門慶は李瓶児の部屋にひき返し、迎春や乳母をどなりつけたり、劉婆を役所にしょっ引いてやるとわめいたり、荒れ回る。官哥の様子は悪化する一方で、大小便は流れほうだい。顔には斑点《はんてん》があらわれ、目を開いたかと思うとまた閉じ、乳も飲まず、意識もないらしい。李瓶児は占ったりおみくじを引くが凶と出るばかり。月娘は西門慶にかくれて劉婆を呼んで魔|除《よ》けをやらしたり、小児科の医者を呼ぶが、回復の見込みは立たなかった。
そうこうしているうちに八月十五日になったが、月娘は自分の誕生日もそっちのけで、客の招待もせず、自分の姉と玉楼の伯母と尼たちを呼んだだけだった。ところが薛尼と王尼の間にお経の印刷の利益のことで、仲たがいが起こるという不体裁。お経はやっと十四日にできて来て陳敬済が岳廟に献納して全快を祈り、官哥のいいなづけ長姐《ちょうそ》の喬大戸の家から毎日見舞が来るし医者もさしむけるが、官哥は薬もうけつけず、歯をガチガチ鳴らしているだけである。李瓶児は日夜官哥を抱きつづけ、西門慶も外へ一歩も出ない。こうして八月下旬となり、月明りのさしこむベッドで官哥を抱き寝してうとうとしていた李瓶児の夢に、生前そっくりの服装をした花子虚《かしきょ》が現われ出た。「淫婦め、おれの財産をよくも西門慶に盗み与えた。これから陰府《いんぷ》に訴えてやるぞ」
「あなた、許して!」
泣き叫んで花子虚の袖を引き押さえ、パッと振り放されて目をさますと、官哥の袖をしっかり握りしめているのだった。この話を聞かされ、西門慶はたいして気にもせず李瓶児を元気づけ、話相手に呉銀児や馮《ふう》婆を呼びにやらせたが、まだ着きもせぬうちに、乳母に抱かせた官哥がしゃっくりをはじめ、白目をむく。李瓶児はあわてて西門慶を呼びにやる。常峙節としゃべっていたのをそこそこに切り上げてやって来た西門慶は官哥の苦しそうなしゃっくりに、がっくり椅子に腰をおろした。まもなく官哥ははかなくなる。八月二十三日、申《さる》の刻、わずか一年二カ月の生命だった。
一家ことごとく泣き叫ぶ中にも、李瓶児はばたりと地に倒れ、しばらく気を失っていたが、気がつくと、わあっと泣きだし、「坊や、先に死んでしまって、あたしももう生きていられない」
西門慶は李瓶児をなだめ、ふたりの小ものに官哥の死骸《しがい》を運ばせたが、「どうしてそんなに急ぐの? まだからだが暖かいじゃないの。坊や、あたしを置去りにしてなぜ死んだ」と、李瓶児はまたも泣き伏す。
呼び寄せた陰陽《うらない》師の除《じょ》が見るところでは、
「官哥は生前では、|※[#「なべぶた/兌」、unicode5157]州《えんしゅう》の蔡家男子として生まれ、人の財物を奪い、酒を飲んで魂を失ったもので、天地六親を敬わず、熱病にかかって死んだため、今生《こんじょう》で小児のうちに癲癇《てんかん》の病をうけ、十日以前に六畜のため魂を奪われた。来生は鄭州王家の男子と生まれ変わり、後には千戸の位を受け、六十八まで生きる」さしずめ、官哥は花子虚の生まれ変わりということであろうか。
あわただしく五日が過ぎ二十七日の朝、出棺となる。月娘は李瓶児に、孫雪娥、呉銀児、そのほかにふたりの尼をつけて家へとどめ、墓へ行かせなかった。表門を棺が出て行くと、李瓶児はやにわに門の敷石に額をぶっつけて自殺しようとする。呉銀児と孫雪娥があわてて抱き起こすと、顔から血が流れていた。ふたりは急いで、李瓶児を部屋へ連れもどしたが、官哥がいないのでガランとし、ベッドに投げ捨てられた|でんでん《ヽヽヽヽ》太鼓も涙のもと、李瓶児はテーブルに泣き伏し、テーブルをたたいて自分の運命をのろうのだった。
「奥様、泣くのはもうおよしになってくださいまし。泣いても、坊っちゃんがもどって来られるわけじゃありませんし」
「ほんとですよ。まだお若いんだもの、そのうちに赤ちゃんがまたおできになるわ」
呉銀児と孫雪娥はもらい泣きして李瓶児をなぐさめる。やがて孫雪娥は
「でもねえ、言いにくいけど、あいつはあなたの、赤ちゃんを殺すぐらいだもの、あたしたちだって、いつ生き埋めにされるか、こわいぐらいだわ。だんながたった一晩でもだれかの部屋へ泊まると、もうそれだけで恨むんだものねえ。あの淫婦が、どんな死に方するか、この目でちゃんと見てやりたいわ」
「そんな話よして! あたしも病気になってるから、いつ死ぬか知れないし、あの人と争いたくないわ」
すると乳母の如意児がふいにひざまずいて、自分は赤ちゃんがなくなったから、追い出されてしまうだろうと嘆いた。李瓶児はまた涙をもよおし、
「ばかねえ。坊やは死んでもわたしはまだ生きてるのよ。たとえわたしが死んだっておまえに暇はやりはしない。大奥さんに赤ちゃんでもできてごらん。やはりお前の乳がいるんだよ。心配しなくていい」
李瓶児はいつまでも泣いていて、むりに食事をとらせても、半分と食べることができなかった。
墓からもどった西門慶は李瓶児の部屋に泊まっていろいろと慰めたが、官哥の玩具は、李瓶児の気持につらかろうと、迎春によそへ隠させた。
六十
潘金蓮は官哥が死んだのでうれしくてたまらない。
「淫婦《いんぷ》のやつ、ざまあ見ろ。お天道《てんと》様だって、いつかは沈むんだ。とうとう、ああなりやがった」と聞えよがしにしゃべりちらす。つつぬけに聞えるそんな悪口にも、李瓶児はただ泣くばかりで、食欲もなく、顔は日々にやつれてくる。一方、孫雪娥の部屋では、あらたに十三になる翠児《すいじ》という小おんなを使うまでになっていた。
李瓶児はまたもとの病を再発した。下から血が流れ出るようになり、任医官の薬も効かなく、半月たたぬ間に腕など指が回るほどやせてしまった。
ころは九月の初旬で、風もひえびえする、ある夜のこと、月のさしこむ窓ぎわのベッドに横たわっていた李瓶児が、官哥のことなど思ってすすり泣いているうちに、いつしか眠っていた。ふと気づくとだれかが窓をたたいている。小間使いを呼んだが返事がないので、靴をつっかけ、上着を肩に羽織って外に出ると、花子虚が官哥を抱いて立っていて、「新しい家が見つかったから、いっしょに行こう」
李瓶児は西門慶から離れかね、あわてて官哥を取り返そうと両手をのばすと、「えい、よるな!」と突き倒されてしまった。
「あっ!」と叫ぶと、それは一場の夢で、からだはぐっしょりと盗汗《ねあせ》に濡れている。
そのころ、来保が荷を積んで来た船も着き、店も飾りつけが終ったので、九月四日開店|披露《ひろう》となる。この日、二十台の車に積まれた荷が、店に運びこまれ、祝いに来た親戚朋友は三十名余り。甘出身と韓道国のふたりは店頭に立ち、ひとりが銀子《かね》をしらべ、ひとりが品物を売る、崔本はもっぱら家事を見る。その日の水上げが五百両余り。西門慶は大喜びで、店の者も宴席に呼び寄せて、大いに飲み、遊んだ。
翌日、応伯爵が李智と黄四を連れてやって来、千両のうち三百五十両を返したが、西門慶はふと思いついて、その中の五十両を応伯爵に、常峙節のところへ家を買う金として届けさせた。応伯爵は証人に王経《おうけい》を連れて出かける。常峙節は借用証を書いて王経に託したが、西門慶はそれを王経に常峙節のところまで返させてやった。
六十一
ある夜、王六児は韓道国に、「だんな様には、だいぶもうけさせていただいてるし、お子様をなくしたおりでもあるし、どう、お酒にでもお呼びしてお慰めしたら」
「うん、おれもそう思ってた。あさって、芸者でも呼んでお招きしよう。晩はおれは店へ泊まるよ」
「芸者なんか呼ばなくても、隣の楽さんとこへ遊びに来る申二姐《しんにそ》という人、歌が歌えるから」
「うん、そうしよう」
翌日、韓道国は温秀才に招待状を書いてもらって、西門慶の前に出向いて差し出し、西門慶は行くことを承知した。その翌日、琴童にぶどう酒を届けさせておいて、西門慶は玳安と王経を供に、轎《かご》で韓道国の家に乗りつけた。韓道国が
「いつも外で商売をさせていただき、また妻もご愛顧を被り、王経までもお宅でお使いくださいますので、ありがたく存じております。先日はお子様をお失いになり、だんな様もさぞかしお心をお痛めになっていると存じますので、わたくしたちの気持だけでもと」
「心配をかけて、ほんとうにありがたい」
申二姐が呼び出され、筝《こと》をひいて歌を歌うと、西門慶はたいへん気に入り、申二姐に重陽の佳節に家へ来るように命じた。
申二姐が帰って行くと、韓道国は予定どおり店へ泊まりに行き、西門慶と王六児だけが部屋に残る。王経と玳安と琴童は表の部屋で酒を飲み、胡秀は台所で酒を五六杯ひっかけて王六児の隣部屋でぐうぐう眠ってしまっていたが、物音に目をさますと、板壁のすきまから明りが漏れている。韓道国だなと、頭のかんざしを抜き、目ばりの紙を突き破ってのぞくと、韓道国ならぬ西門慶が王六児と雲雨《しごと》の最中だった。女の両足は纏足《てんそく》布でベッドの屋根へつり上げられ、西門慶は上半身に上着をひっかけているだけで、話し声が聞える。
「おにいちゃん、お灸をすえたいのなら、どこでもすえていいのよ。どうせ、あなたのからだなんだもの」
「しかし、亭主が見たらおこるぞ」
「おこるもんですか! だれのおかげで生きてられるの」
「そうか。それなら韓道国は来保と、遠方へ商売に出そう」
「そう、あれも二回ほど飛び回ったもんだから、また行きたがってますわ。今度もどって来たら別にかみさんを捜してやってくださいね。あたしは、あんただけのからだが恋しいの。だから、何番めでもいいから、あたしを引き取って。気持わかるでしょ? うそなら、あたしのからだがきっと腐っちまうわ」
西門慶は王六児のみぞおちと、陰戸と尾骨の三ヶ所を線香で焼いた。王六児は衣服を着ると、西門慶に酒をすすめてから、帰した。
西門慶が家に着いたのは夜中の十二時であったろう。李瓶児の部屋へはいると、李瓶児はベッドに横になっている。
「どこで召しあがったのですか?」
「うん、韓道国が気晴らしするように呼んでくれた。申二姐というむすめが歌ったが、重陽節に家へ呼んでやろうと思ってる」
西門慶が衣服を脱いで李瓶児の横へはいろうとすると、李瓶児は「下のほうの血がとまらないから、薬を飲んでるぐらいなんです。よその部屋で寝てくださいな」
「うん。でも、おれはおまえを離れられないんだ。いっしょに寝たいのだから、どうにもならない」
「あんなうまいこと言って! そんなこと言わないで、よくなるまで待っててくださいな」
「そんなら金蓮の部屋へ行こうか」
「そうしてください。火みたいになって待ってるでしょうよ」
「そんなこと言うと、行きにくくなるじゃないか」
「いいえかまいません。行ってください」
西門慶を送り出すと、迎春が薬を持って来たので、李瓶児は涙をこぼしながらそれを飲み干した。
西門慶が金蓮の部屋に来ると、
「まあ! どんな風の吹き回し? どこで飲んで来たの?」
「韓道国が気晴らしにごちそうしてくれたのさ」
「あれは店へ泊まるはずだから、かみさんをかわいがって来たのね」
「ふん、使用人の女に手なんか出すか!」
「身分の違いだって、破れる棒がありますよ。あたしの目はごまかせませんよ。あんたの誕生日に、あの淫婦、李瓶児のかんざしをさしてたわ。あの浅黒い淫婦のどこがいいの」
「ふざけんな。王六児は顔も出さなかったんだぞ」
「うそおっしゃい。韓道国が|寝取られ男《スッポン》だってこと、だれだって知ってるわよ。女房を渡して、もうけ仕事をもらいたがってるんだわ」
西門慶が黙って衣服を脱いでベッドに腰かけると、金蓮はからだをさぐり、「鍋《なべ》に入れられた、ろうそくみたいになってるじゃないの。あんたったら、天下の女をみんな通り抜けて行く気なのね!」
重陽《ちょうよう》の佳節となり、花園の大捲棚の下にテーブルを出し、一家をあげて、にぎやかに祝う。李瓶児もむりに出席されたが、部屋に帰って淨桶《おまる》に腰かけると、下からどす黒い血が尿のようにほとばしり出る。立ち上がってスカートをなおしていると、目の前がまっ暗になり、ばったりと倒れた。迎春は急いでベッドに寝かせつけ、綉春を月娘のもとへ走らす。月娘があわてて駆けつけると、李瓶児は気を失っている。口を割って生姜《しょうが》湯を飲ますと気がついたが、西門慶に知らせようとすると、「お酒を召しあがっていらっしゃるのに、お騒がせしないで」と、李瓶児はことわった。
夕方になって客が帰ってから、月娘からそのことを聞き西門慶が駆けつけると、李瓶児の顔色は蝋滓《ろうかす》のように黄ばんでいる。西門慶はその夜、李瓶児の隣に休み、翌朝役所へ出向くおり、琴童を任医官の家へさし向けた。
任医官、胡太医、韓道国のすすめで趙《ちょう》太医、喬大戸の推薦で何《か》老人と、とりかえひきかえ医者が呼ばれたが、病状はよくならない。陳敬済を走らせて易を見てもらいに行かせると、見立ては
「この方は、喪門の五鬼の災を受けて、悪い星の下にある。人知れぬいろいろなことが陰に行われていて、一二三七九月には病に犯され、病は進むばかりである。小人どもに落とし穴を設けられ、人の口にかかって財産を失う大凶である」
これを聞いて西門慶は眉間《みけん》に深いしわをきざみ、涙をぐっとのんだ。
六十二
西門慶の心配も甲斐《かい》なく、李瓶児は日々にやせほそり、もう床の上に紙をしいて大小便の用を足し、紙は小おんなに焼き捨てさせるありさま。西門慶は李瓶児の細い腕を見て泣くばかり、役所へも一日おきにしか出て行かない。そのことを気にして李瓶児は役所へ行くようにすすめるが、夜になって花子虚の夢を見るのが恐ろしいと訴える。そこで西門慶は呉道官のところへ魔除け札をもらいに玳安をやったが、途中で出会った応伯爵と謝希大がすぐさま駆けつけ、邪気除けには城外の五岳観の潘《はん》道士がいいとすすめ、西門慶に頼まれて呼びに出かけることを承知した。
その晩、李瓶児の部屋に、呉道官の魔除け札を貼《は》った。けれど李瓶児はやはりおびえて、今も花子虚が自分を捕えに来たと言う。西門慶は、潘道士が来る話をし、馮《ふう》婆を夜|伽《とぎ》に呼び寄せたが、不在だった。
次の日、王尼がうるち米一箱、乳餅二十個、薬味をつけた瓜茄子《うりなす》一箱を持って見舞いに来た。けれどそれも少し食べるともうのどは通らない。王尼はそっとふとんをめくり、李瓶児のからだのやつれを見て思わず叫び声を上げた。如意児は思わずため息をつき、金蓮の白猫が官哥に飛びついたことや、いい気味だと大声でしゃべっていること、それをじっと辛抱しておられるのが病のもとなのだと王尼にこまごま話しはじめたが、李瓶児はきっとなって如意児の口を封じた。王尼は不覚にも涙をこぼし、「おかわいそうに! 奥様、そのうちにはいいことが回って来ますよ」
「いいことなんてありませんよ。子供も死にましたし、あたしの運勢もこれまでですわ。王師父、お銀子は差し上げますから、あたしが死んだらいいお経を上げてくださいね」
そこへ花|子由《しゆ》が見舞いに来たという知らせがあり、王尼は奥へ帰って行った。花子由は西門慶に連れられてはいって来て、
「きのう、使いがあっておまえのことを知ったんだ。あしたは妻をよこすよ」
「ほんとに、ご迷惑おかけいたします」
ぽつりとそう言ったが、悲しさがこみ上げ李瓶児はくるりと壁のほうを向いてしまう。しばらくその場にじっと立っていた花子由は外へ出ると、様子をきき、それではもう持つまいからと、棺の用意を西門慶に頼んで帰って行った。
おくれて馮婆がやって来て、無沙汰《ぶさた》のいいかげんな言いわけをすると、李瓶児はくすりと笑う。李瓶児が笑ったので如意児はうれしがり、「まあ、奥様がお笑いになった。馮ばあさんが来たから、きっとよくなりますよ。あんたが来ないんで、ここ五六日、何も召しあがらなかったんですよ」
「そりゃそうですとも、あたしゃ、奥様の厄《やく》払い博士ですもの」
馮婆が様子を聞いていると、西門慶がもどって来たが、馮婆が出て行くとオンドルの縁に腰を掛け、気分をたずねてから、潘道士がきょうは不在だったので、あした来保に呼んで来させると話した。
「ほんとに早く呼んでください。あいつにつきまとわれて苦しくてたまらないの」
「気が弱ってるからさ。潘道士がくればそんなもの一ペんだよ」
「いいえ、もうだめ。よくわかってますわ。やっとあなたのおそばにいられると思ったら、もう先に行かなくっちゃならない。運がないのねえ。今度お会いするのは、もうこの世じゃないわね」
西門慶の両手にすがり、李瓶児の目から涙があふれる。そこへ琴童が役所からあしたの予定をききに来たと伝えに来たが、西門慶は休むと返事する。
「おにいさん、公のことをなげうってはいけませんわ。あたしだって、今すぐ死ぬわけでもなし」
「おまえのそばにいないと安心できんのだ。おまえは気を使わなくてもいい。今、花《か》にいさんが棺のこと頼んで行ったが」
「十両ぐらいのでけっこうだわ。内にかかりが多いんですもの。前になくなった奥さんの横に埋めてほしいですわ。焼いてはいやですよ。そしてあなたのおいでを待ってます」
西門慶は声を上げて、男泣きに泣きじゃくって、きっとそうすると誓った。そこへ月娘が姉からの見舞いのくだものを持って来たが、これものどを通らなかった。
西門慶は月娘と出て棺の相談をし、賁四《ほんし》と陳敬済に捜しにやらせた。やっと夕方ごろ三百二十両の棺材が運びこまれ、徹夜で棺がこしらえられていった。
さて、馮婆と王尼がその夜は李瓶児のそばにおり、李瓶児も離したがらぬ様子なので西門慶はしかたなく金蓮の部屋へ行ったが、そのあとで、李瓶児は王尼に五両の銀子と一匹の紬《つむぎ》を渡し、死んだらあとのお経のことを頼み、馮婆をまくらもとに呼んで、銀子四両と白綾《しろあや》の上着、黄綾のスカートをやると、子供の時からの養育の礼を言い、獅子街の店にずっと住んでいられるよう西門慶に頼んでおくからと言って聞かせる。馮婆はその場にひざまずいて、
「これからだれをたよりにしたらいいのでしょう」と泣きだした。
李瓶児は次に乳母の如意児を呼び、紫紬のスカート、古い綾の上着、金簪《きんかんざし》、銀冠などを形見にやり、
「お前のお乳で育てた赤ちゃんも死んでしまったねえ。あたしは末長くおまえにいてもらうつもりだったけれど、どうにもならないわ。けど、大奥さんに赤ちゃんがおできになったら、おまえの乳で育ててもらうようにだんな様や大奥さんにお頼みしておくからね。安心おし」
如意児は地に額をつけておじぎすると、滝のように涙を流す。
次に迎春と綉春を呼び寄せ、「おまえたちふたりは小さいころから来ててくれたわね。衣服は充分あるはずだからこの金簪をとっておいておくれ。迎春はもうだんな様のお手がついてるから出されることもないでしょう。綉春はだれかのとこへお嫁に行くがいい。あたしからも大奥様にお願いしておくからね。おまえたちは気ままにしていたけど、これからはそうはいきませんよ。そのつもりでお働きなさい」
綉春は地にひざまずいて泣き声を上げ、「あたくし、死んでもこの家の門を出ません」
「ばかねぇ、あたしが死んだら、だれに使われる気なの」
「奥様の霊をお守りします」
迎春は金簪を手にすると、もう悲しくなって、声さえ出ないありさまである。
このようにして李瓶児はとうとう夜明しをしてしまったが、そこへ西門慶が見舞いに来て、棺の用意のできたことを知らせ、また、棺作りの監督に出て行った。それと入れ代わりに月娘と李嬌児がはいって来る。
「気分はどう?」
月娘がきくと、李瓶児は月娘の手を握って涙を流す。
「大奥さん、あたし、もうだめ」月娘も思わず、ぽろぽろ涙を流した。
「李ねえさん、何か言い残すことないの。二奥さんもいるし、あるのなら、お話ししなさい」
李瓶児はこれまでのことを感謝し、別れの悲しさを告げたあと、迎春、綉春、如意児のことをくれぐれも頼んだ。月娘は迎春は自分の部屋に、綉春は李嬌児の部屋に、そして如意児は自分に子供ができなくったって家へおいておく、小ものにとつがせれば良いと答えて安心させ、李嬌児も綉春を引き取って、かわいがってやると言った。そこで李瓶児は三人のものを呼んで月娘と李嬌児にひざまずいておじぎをさせる。月娘は涙がとまらない。やがて、孟玉楼、潘金蓮、孫雪娥たちも見舞いに来、李瓶児はそれぞれに心のこもったことばを残す。そのうちにみなが出て行き、月娘ひとりが残ると、李瓶児は急に声をひそめて、
「おねえさん、だんな様としっかり結びついていてください。あたしのように計略にかかってはだめよ」と涙を流す。
「ええ、よくわかってるわ」
李瓶児の一言に、月娘はハッと思いあたった。そのため西門慶の死後、潘金蓮の地位はゆらぎだすのだが、それは後のこと。
さて、そこへ琴童がはいって来て、部屋をかたづけ、香をたくようにと告げた。用意がととのうと潘道士を西門慶が連れて来る。潘道士は魔除け札を焼き、口から法水《ほうすい》を吐いて一陣の狂風を起こし、神の姿にかわり、祭壇に向かって、詰問しているらしく見えたが、やがて、それが終ると、外へ出て、李瓶児は、宿世の恨みを陰府に訴えられているので、どうにもしかたがないことを告げた。しかし、西門慶があんまりしんけんなので、潘道士は李瓶児の年が二十七だと聞くと、その夜ふけに二十七の燈明をともし、ふたたびお祈りを行ううちに、李瓶児の二十七本の本命《ほんみょう》燈はぱっと消えうせ、ひとりの白衣の者がふたりの青衣の者を外から導いて来て文書を置くのを見た。その文書を読むと地界からの知らせである。潘道士はふたたび、李瓶児が救われぬこと、ほどなく死ぬことを告げ、今晩は病人の部屋へはいってはならぬ、はいれば災がその身にも及ぶと戒めて、去って行った。
西門慶は潘道士を表門に送ってもどって来たが、小ものが燈明壇をかたづけているのをながめていても涙はあとからあとから流れてとどまらない。書房へ来て、たった一本ついているろうそくの下にいたが、部屋にはいっていけないと言っても、ひとりでほっとおけるものか、おれは死んでもいい、いっしょにいてやろう、と決心すると、すぐさま李瓶児の部屋へはいって行った。李瓶児は寝返りをうつと、
「おにいさん、どうしてすぐ来てくれなかったの? あの道士はどう言ってたの?」
「安心しろ。燈明はなんともなかった」
「おにいさん、うそついてるのね。道士のお供がはいって来て、あした他界から、あたしを捕えに来るって言ってたわ」
「そんなこと気にするな。いっしょにいてやるから。おまえが死んじまうくらいなら、おれのはらわたがずたずたに切れたほうがましだ」
西門慶が声を上げて泣き叫ぶと、李瓶児もその首にすがりついて泣きくずれる。
「共白髪《ともしらが》までと思っていたのに、もうだめだわ。最後に申し上げておかねばならないことがあるの。あなたは親兄弟もなし、良い友だちもないんだから、どうか激しい気性だけはなおしてください。大奥さんもだいじにしてあげてください。きょうからだのぐあいが悪いと言ってられたから、きっと赤ちゃんよ。これで安心だわ。けれど、あまりへんなところへお酒を飲みに行くのはおよしなさい。お家のことを第一に考えて」
「うん、よくわかってる。心配しなくていい。しかし、つらい。おまえとやっと夫婦になったのに、もう別れるなんて、なんという不運なんだ」
李瓶児は部屋の小間使いのことをくれぐれも頼む。西門慶は乳母も位牌《いはい》を守らせるように残すと約束した。こうして長い間話していたが、李瓶児はしいて西門慶を引き取らせた。
午前二時を過ぎ、李瓶児はからだの下の紙をとりかえさせて、すやすや眠り、迎春と綉春はふとんを敷いて、李瓶児を見守っているうちに、頭がぼうっとかすんできて、うたたねをしてしまった。と思うと、オンドルを降りた李瓶児が迎春を揺り起こす。
「あたしはもう行くから、おまえたち、よく家を見ておくれよ」
ハッとして目をさますと、夢で、テーブルの灯がまたたいている。床を見ると、李瓶児は壁のほうを向いて寝ているが、へんな予感がするので、鼻に手をあててみると、息はとまっている。ああ、悲しいかな、李瓶児はこの世の人ではなかった。
西門慶と月娘が飛んできて、ふとんをめくり手をあてると、からだはまだ暖かく、からだは紅綾の乳あてをおおっているだけである。西門慶は血によごれるのもかまわず、李瓶児を抱き起こし、
「とうとうこうなったか。情のある女だったのに、なぜおれを捨てて行ったんだ。おれももう長いことはない。生きていても生きがいがない」と大声を上げて泣き叫ぶ。「おれを身代わりにしてくれりゃいいのに。おねえさん、おまえは家へ来て三年、一日だって楽しい日はなかっただろう。みんなおれが悪かったんだ!」
「あなた、たいがいにしておきなさいよ。死んだ者に顔をくっつけて毒気にあたりますわ。楽しい日がなかったなんて、みんなそうよ! 寿命だもの、どうにもならないじゃありませんか」
月娘は癇《かん》にさわってこう言うと、集まって来て泣き叫んでいた李嬌児、孟玉楼、潘金蓮、孫雪娥、そのほかの小おんなたちに李瓶児の衣服の着せつけや、そこらのかたづけをさしずしてやらせる。西門慶はまだ、好きだった衣服を着せてやれとか口を出し、まる一家のあるじが死んだ時のように大広間に遺骨を安置し、胸をたたいて泣き叫びながら、「おとなしい、情のある姐《ねえ》さん!」と鶏の鳴くころまで、李瓶児を呼びつづけた。やがて陰陽師の除先生がやって来て書類をととのえる。こうして西門夫人李氏は、元祐辛未《げんゆうかのとひつじ》年正月十五日|午《うま》時に生まれ、政和|丁酉《ひのととり》九月十七日|丑《うし》時に卒《しゅつ》したのである。
日をえらんで、野べ送りは十月十二日と定められ、除先生が帰って行くと、空が白む。西門慶は親戚《しんせき》に通知し、役所の休暇をとり、獅子街に玳安を走らせて、布を取り寄せると、裁縫師を呼んで西|廂《むね》で、天幕、たれ幕、テーブル掛け、一家じゅうの喪服などを作らせ、また、ペンキ屋を呼んで庭に大きな日除けだなを作らせていたが、李瓶児のしとやかな物腰を思い出すと、来保を呼んで、りっぱな絵師を連れて来いと走らせる。一晩じゅうまんじりともせず、気のたっている西門慶は小おんなや小ものに当たりちらし、李瓶児の遺骸を守って声をからして泣き叫んでいた。
たれ幕の陰で李嬌児、孟玉楼、潘金蓮たちと、小おんなや使用人の女房たちに、喪服の布を分け与えていた月娘は西門慶が泣き叫んで、茶をおあがりと言っても返事しないので、さすがに気をわるくし、玉楼や金蓮たちとぶつぶつ言っていたが、玳安のすすめで、応伯爵や謝希大を呼び寄せると、応伯爵にうまくなぐさめられ、西門慶はやっと食事をとる気になった。
六十三
気をとり直した西門慶が、くやみに駆けつけた呉|大舅《だいきゅう》、呉|二舅《じきゅう》を加えて、温秀才、謝希大、韓道国、陳敬済と食事をしていると、夏提刑から字を書く者と、軍卒を使ってもらいたいと届けて来て、やがて韓《かん》画師が到着した。西門慶は韓画師にあいさつして、肖像を依頼する。「遅れると顔がくずれてしまいます」と呉大舅は心配したが、ことばだけでも書けると韓画師は茶を飲んでいる。そこへ花|子由《しゆ》もやって来た。
さて大広間へ一同が通り、韓画師が喪旗を払って李瓶児を見ると、久しくわずらったとも思えない顔で、くちびるなどは生きているもののように紅くうるんでいる。西門慶はまたも涙にかきくれる。来保と琴童が絵の具を差し出すと、応伯爵が、
「韓先生、この顔はやつれていますが、もっとふっくらして、姿も美しかったんですよ」
「は、よく存じております。五月一日に岳廟でお見かけいたしました」
「そうでしたなあ」と、西門慶は思い起こし、「あの当時は元気でしたが。先生、大幅のものと、半身のものと一軸ずつお願いします。お礼には緞子一匹と銀子十両差し上げましょう」
韓先生はたちどころに筆をとり、さらさらと半身の美人画をかき上げたが、花の顔、玉の肌、香が生ずるばかりのできばえであった。まず一同に見せると、今度は玳安に持たせて奥の女たちに見てもらう。くちびるが薄く、左側の額が狭く、まゆの曲りが足りない点を除けば、そっくりだという返事だった。韓先生はすぐその部分を描き改め、ちょうど来た喬大戸に見せる。
「いや、息が通ってないというだけで、そっくりそのままですよ」
喬大戸がほめちぎるので西門慶は大喜びである。西門慶は出棺の日までに、半身のものと大幅を仕上げるように頼み、画料を持たせて韓先生を帰した。
喬大戸が茶を飲んで帰ると、葬儀屋が来て万端の用意をととのえる。遺骸の両側には来興《らいこう》に死着屋でこしらえさせた、髪結い道具、洗面道具をささげ持った小おんなの人形を並べ、霊前には、炉、燭台、香箱などを飾り立てる。応伯爵に葬儀帳簿を作らせ、韓道国は会計、賁四と来興は買物と食事の係、応伯爵、謝希大、温秀才は接待係、崔本は喪中の経費の帳簿、来保は出納、王経は酒、春鴻と画童は霊前の仕事、平安と四人の軍卒は外客の通知、夏提刑のよこした書記と四人の軍卒は来賓簿と役割が定められる。そのうちに薛《せつ》内相から六十本の杉材、三十本の竹、三百枚のアンペラ、百本の麻なわが届けられたので、門の二つついた大日除けだな、台所に三間の蔽《おお》いだな、表門に七間のたまりだなが立てられた。報恩寺から十一名の和尚が来て経を上げたのち、呉|二舅《じきゅう》、花大舅は帰って行った。
西門慶の悲しみはさることながら、陳敬済を遺児に仕立てて重喪服を着せたり、葬式の案内状に正妻にしか使わぬ荊妻《けいさい》という文字を使おうとしたり、棺の中に銀塊を入れさせたり、葬儀の旗にこれも正妻を意味する恭人という文字を使おうとして応伯爵や温秀才にたしなめられたりしていたが、葬式芝居を見ながら、
「今生に逢《あ》いがたければ、文《ふみ》に寄すわが思いかな」と玉簫に扮《ふん》した女役が声張り上げて歌うくだりに、李瓶児のおもかげを思い浮かべて、ハンカチで顔をおおうしまつだった。それを見て、金蓮は 「ごらんなさいよ、つまらない。お酒を飲んで、芝居を見て、泣いてるわ」
六十四
鶏の鳴くころになり、芝居も終って、西門慶も寝てしまうと、酒と料理とをちょろまかして一杯やった玳安は、もう酔って寝ている番頭の傅《ふ》の横にごろりところがった。すると傅|自新《じしん》が「六奥さんはなくなっても、りっぱなお棺に入れてもらって、ありがたいお経も上げてもらったんだから、浮かばれるわい」
「奥さんはいい人だったけれど、寿命がなかったんですね。だんなはずいぶんはりこんでるみたいだけれど、あれはだんなの銭《ぜに》というわけでもないですぜ。人は知らんけれど、輿《こし》入れの時、奥さんは銀子《かね》や宝石や骨董《こっとう》をどれだけ持って来たかわからんくらいですよ、だんながかわいがったのも、奥さんだったのやら、お銀子だったのやらわかったもんじゃないです。いい人がらの人でした。にこにこして、やさしくて、しとやかで、どの奥さんだって、かなやしない。買物を頼まれる時でもおうようで、銀子をけちけちはかったりせず多めに多めに出して駄賃《だちん》をくださるし、家の人たちだって六奥さんに借りる人はあっても返す人はいなかったでしょうよ。大奥さんや三奥さんはまだいいほうだけど、五奥さんと二奥さんのしみったれときたら、一銭だと言って九分半渡したり、ひどい時には九分なんだ。まったく六奥さんに及びっこないですよ」
「大奥さんもいいけど、少しこせついてるから、いい時はいいが、気にさわると口やかましいからなあ。六奥さんはだれにでも好かれたね。だんなにはかばってくれるし、おれたちの言い分もうまく通るようにしてくれた。それにひきかえ、五奥さんとくればだんなに告げ口だ、春梅さんはすぐおこりやがる」
「六奥さんがなくなったから、五奥さんの天下ですね。うるさいことだろうなあ」
話しているうちに傅《ふ》から先にふたりは眠ってしまった。
李瓶児が死んでから、西門慶はいつも霊前で寝るのを常としていて、朝になると玉簫《ぎょくしょう》がふとんのかたづけに来る。西門慶が奥へ洗面に行くのをさいわいに、そこへ書童《しょどう》が忍びこみ、ふたりはいい仲になっていた。ところがその日は西門慶が奥に寝たので、玉簫は書童としめし合わし、花園の書斎へちちくり合いに行った。運わるく金蓮が喪服のことで書童を捜し歩いて書斎の前まで来ると、中で笑い声が聞える。踏みこむと、書童と玉簫のふたりがベッドで雲雨の最中ではないか。
「いいことをしているね」と、金蓮に一|喝《かつ》されふたりはへなへなとその場にひざまずいてあわれみを請う。金蓮は書童に喪絹と白布をとって来させ、そのまま部屋へ帰って行ったが、玉簫はくっついて行って、西門慶に秘密にしてくれるようひざまずいて頼む。金蓮はいっさいを白状させると、三つのことを承知ならと条件を出した。第一は以後、玉簫の使われている月娘の部屋のことを大小もらさず知らせること。第二は、金蓮がほしいと言ったものはなんでもつごうして来ること。第三は、月娘が妊娠したのはどうしたのか話すこと。玉簫は薛《せつ》尼の胞衣《えな》と薬を月娘が飲んだ次第を詳しくしゃべらされた。金蓮はそれを心に刻みこんだが、西門慶には知らぬ顔をしている。
一方書童はまずいことになったと考えたから、書斎のたんすから、ハンカチやアクセサリーを持ち出し、かねがねちょろまかしていた十両の銀子を持ち、喪絹を買いに行くことを命じられたと番頭の傅をだまして二十両受け取って、馬に荷をつんで、船に乗りこみ、故郷の蘇州《そしゅう》へ高飛びした。あとでわかって西門慶が烈火のごとく怒り、しらみつぶしに町を捜させたが、見つかるものではない。
六十五
毎日毎日、弔問の客がつづくうちに、ふた七日の翌日、煉瓦廠の黄《こう》主事がやって来た。黄主事は霊前に香を上げた後、捲棚の下で西門慶と茶を飲んでいたが、朝廷が築山《つきやま》の造営のために江南から珍奇な石を運送船で運んでいるので沿岸の住民は船引き人夫に徴用されて青息吐息だし、道長の宋松原《そうしょうげん》もその監督で忙殺されている、そこへ黄太尉が東京《とうけい》から検分に来るので接待をしなくてはならないが、とても手が回らない、そこであなたのお宅で接待をやってもらえないかという話を持ち出し、宋公よりの志の品や、役人たちの酒代のわりまえ百六両を差し出した。西門慶がしかたなく引き受けると、黄主事は帰って行った。
十月十二日出棺、埋葬は盛大にとどこおりなく済んだが、西門慶は李瓶児の部屋で通夜《つや》をする。正面には位牌、横には大幅の肖像画、奥の間には綿のふとん、ベッド、化粧道具などが生前そのままに置かれ、土間の靴、テーブルの線香、花、燈明、供物など、何一つ涙の種でないものはない。迎春にオンドルにふとんを敷かせて横になったが、月光の斜めにさす窓の下で、ほの暗いあかりを見守りつつ、長い夜を寝がえりばかりうって過ごした。
夜が明けて、位牌に茶や飯を供えると、西門慶は箸《はし》をとり上げ、「ねえさん、食事だよ」と生きているものに対しているよう。これを見て、小おんなや乳母は涙をぬぐう。人影の見えぬ時などには、乳母の如意児《にょいじ》は茶をついだり、話し相手をしたりして西門慶をなぐさめていたのである。ある夜、酔って眠った西門慶がのどの渇《かわ》きに目をさまし、迎春を呼ぶと、如意児が茶を持って来た。オンドルからずり下がっていたふとんを直そうと如意児が手をかけたとき、西門慶は禁欲生活がつづいていたことでもあり、ふとへんな気になり、やにわに如意児の首を抱いてキッスすると、如意児は叫び声も立てず吸いついた。そこで如意児に衣服を脱がせ、ふたりは床の中で抱き合う。
「だんな様。奥様がおなくなりになってしまって、たよる方がありません。かわいそうとおぼし召すのなら、どうぞだんな様のものにしてくださいまし。だんな様のお宅から離れたくございません」
「よくわかっている。おまえひとりぐらいなんとかなるさ」
西門慶は大喜びだったが、翌朝になると如意児は早くより飛び起き、靴をそろえ、ふとんをたたみ、小まめに働く。西門慶は如意児に李瓶児のかんざしを四本やり、身の回りのことに迎春を使わなくなった。迎春は如意児に手のついたことを知り、力を合わせて西門慶にとり入ろうとしたが、もう如意児は相手にせず、厚化粧をしてはしゃぎ回るので、金蓮がいつしかそれをかぎつけた。
ある朝、西門慶と応伯爵が話し合っていると、宋|御史《ぎょし》から宴会用具、酒十本、羊二頭などが届き、十八日に歓迎の宴を開くと伝えて来た。西門慶が応伯爵相手に忙しさと、十八日が李瓶児の三十五日であることをぐちるが、応伯爵は殿中の黄太尉が客だから名誉だとか、二十日に三十五日をやって、東京からちょうど来ている黄|真人《しんじん》に拝んでもらうとあらたかでいいとか言うばかりで取り合わない。
応伯爵が帰るのを待って奥へ行くと、月娘の部屋に黄四のかみさんの葉五児《ようごじ》と、むすめの長姐が来ていた。長姐がとつぐことになったので、あいさつに来たのだと月娘が言う。しかも、その先は夏堤刑のところだった。
次の日から、西門慶の家は宴会の準備でごったがえす。十七日に宋御史の部下がふたり下検分に来る。いよいよ十八日、山東の長官、検察官は人馬を率いて船まで黄太尉を出迎え、「勅使」と書かれた黄旗を振って、勅書を先頭にひき返して来ると、道の両側には何里にもわたって、地方の武官連が武装し、部下の人馬をひきいて出迎えるというありさまである。
宴会が無事に終り、役人たちがすべて引き上げて行ったあと、四テーブルの料理を残し、四人の芸人に歌ったり弾《ひ》いたりさせながら飲んだ面々は、呉大舅、応伯爵、謝希大、温秀才、傅自新、甘出身、韓道国、賁四、崔本、陳敬済である。芸人の歌う「洛陽《らくよう》の花、梁園《りょうえん》の月」の「されど、われ人の子は、死に去れば帰ることもなし」という歌詞に、西門慶が涙をためているのを見た応伯爵が、
「にいさん、なくなったねえさんのことを思い出されましたね」
「うん、あれが死んでから何を食ってもうまいとは思わないんだよ」
「にいさん、そりゃいけませんよ。気を落としなさるのは当然ですけれど、そんなこと言うのは、ほかのねえさんがたに悪いですよ」
壁の陰で歌を聞いていた潘金蓮がすっかりこれを盗み聞いて、さっそく、月娘に知らせる。月娘は、
「かってに言わしときゃいいわ。好きにすりゃいいんだ。李さんが生きてた時に、綉春は李嬌児の部屋付きにするんだぞなんて目をむいて言ってたと思ったら、今度は死んで幾日もたたぬのに、李さんの小おんなにかってに手をつけて、わたしには物を言わせないんだものね。どうかと思うわ。わたしが何か言うと、あれを追い出すつもりだな、なんて、やりだす」
「あの女も、ずいぶん変わったわ。この間もかんざしをもらったと、あっちこっちで見せびらかしてたの」
「ふん、あんなからだに、味があるもんか! みんな陰口きいてるわ」
六十六
翌日、呉道官の弟子《でし》がふたり来て大広間に法場を設け、西門慶は温秀才に命じて、あしたは法事を営み、精進料理の用意もととのえてある旨を、親戚、友人、女客あてに出させた。
その翌日、暗いうちから道士たちが法場にはいり、燈明をあげ香をたき楽を奏し経を上げはじめた。日が高く上ってから、真紅の道衣に金帯をおび、象牙《ぞうげ》の轎《かご》に乗った黄真人が従者をしたがえて到着する。午前のおつとめが終り、精進料理を食べてもらい、一同、花園をそぞろ歩いているころ、|※[#「羽/ふるとり」、unicode7fdf]謙《てきけん》からの使者が手紙を持ってやって来た。食事をとらせ、あした返事を取りに来るよう言いつけると、使者は韓道国への手紙も取り出したので、韓道国も呼び寄せた。
さて、捲棚《まきだな》にもどって、温秀才に読ませると、まず弔問の意があらわしてあり、西門慶の治績について主人の蔡太師が陛下に奏上する予定だから、かならず恩典があるはずだということ、つづいて夏提刑も栄転する予定であること、楊《よう》閣下は前月二十九日獄死したことなどがしるされ、この書面のことがらは秘密にしておくようにと言い添えてあった。
大広間のたなの下に、色塗りの橋がかけられ、その下に水の池と火の沼が設けられたが、夜になって黄真人は黄金降魔冠をいただき、雲霞《うんか》の道衣をまとって法座に上り、水と火で霊を救う法術を行って、行事は終った。あとは黄真人を主賓とする宴会で、芸人たちに弾かせ、歌わせ、拳《けん》を打って酒を飲み、十時ごろまでそれがつづいた。その夜は西門慶は月娘の部屋で寝た。
六十七
次の朝、日が高くなってからやっと西門慶は起き上がったが、疲れのためにきげんがよくなかった。髪もとかさず、顔も洗わず花園の書房へ出かけると、王経を呼んで来安《らいあん》に応伯爵を迎えにやらせ、久しぶりに現われた床屋の小周に髪を結わせる。その最中に応伯爵がやって来た。西門慶は|※[#「羽/ふるとり」、unicode7fdf]謙《てきけん》への返事や、たなの取りはずし、韓道国の出発、葬式の礼を述べに行く仕事など、用事が山積しているのをぐちりながら、小周に棒で按摩《あんま》をさせる。
夜になると腰が痛んで、からだがだるいとは、西門慶らしくもないことだった。そこへ韓道国がはいって来て、船も定まったので二十四日に出発すると言う。西門慶はかれらにやらせていた店の売上げ六千両の、二千両を崔本に渡して湖州で紬《つむぎ》を買わせ、韓道国と来保は四千両で松江《しょうこう》から布地を買い、年が明けてから船に積んで帰って来るよう指示した。韓道国は|※[#「軍+おおざと」、unicode9106]王《うんおう》府に勤めていて、保証金をまだ納めていないことを心配したが、西門慶は名まえを削ってやると約束して、韓道国を帰した。髪結いが済むと、奥で衣冠をととのえて来て、温秀才を呼び、|※[#「羽/ふるとり」、unicode7fdf]謙《てきけん》への手紙の下書きを見て、清書させる。外には雪がひどく降っている。
西門慶は温秀才を引き留め、応伯爵と陳敬済とで雪をながめていた。すると鄭春《ていしゅん》がたずねて来て、姉の愛月が手づくりの菓子と乳いための|たにし《ヽヽヽ》とを蒔絵《まきえ》の重箱に入れてささげた。応伯爵は無遠慮にまっ先に手を出し、|たにし《ヽヽヽ》を一つつまんで口にほうりこみ、
「ほほう、うまい。この間ひとり死んだが、またいいむすめができたわい」と、温秀才にも食うようにすすめる。西門慶が重箱の中の小箱をひざにすると、応伯爵はそれに目をつけ、たちまち、ふたをひらく。西門慶に情をみせて桃色のハンカチに包んでよこした愛月が口で殻《から》をかみくだいた西瓜《すいか》の種がはいっていた。応伯爵はハンカチを西門慶にぶつけて、西瓜の種をぱっくり食べてしまう。
「少しは残しておくもんだ。おれが食わねば悪いじゃないか」
「むすめが孝行してくれるんですから、あたしが食べないでだれが食べるんです? あんたはいつも食べているでしょう」
西門慶はしかたなくハンカチをそでにしまった。
そこへ李智と黄四が千両だけ銀子を返しに来たと玳安が知らせに来る。陳敬済が銀子をはかりに行って、月娘に渡して来たが、黄四が直接会いたがっていると伝えた。西門慶が出て行ってみると、黄四の岳父《ちち》が傷害致死の事件で雷《らい》兵備のところへ引っ張って行かれ牢《ろう》にはいっているのを助けてくれという話であった。西門慶は銭主事を通じて雷兵備に頼みこんでやることにする。白米百石の届け状と銀子百両を黄四は差し出したが、銀《かね》の色を見て、応伯爵が口添えを熱心にしたのは言うまでもない。
そのあと鄭春、王経、春鴻《しゅんこう》をそばに、四人は酒宴をはじめたが、来安が皿に入れかえて持って来た|たにし《ヽヽヽ》のできばえを応伯爵がほめちぎると、西門慶は
「このたにしを見ると、おれは気が沈んでしまうんだ。李瓶児だけが、これをこしらえることができたのさ」
「だから、言ったでしょう。ひとり死んだらまた、たにし料理のできるむすめができたって。にいさんはしあわせ者ですよ」
「犬っころ、またそんなことを」と、西門慶は伯爵をたたくが、目は糸のように細くなっていた。
みなが帰ると、西門慶は来安の肩につかまり、潘金蓮の門口を過ぎて、やっと李瓶児の部屋の門をたたき、中へはいると李瓶児の肖像画に目をとめたのち、如意児と激しくたわむれた。如意児のからだは、まるで綿のように柔らかである。西門慶は、如意児の首を抱きしめ、
「なんてまっ白なからだだ。まるで、おまえの奥さんと寝ているような気がするぞ。一生けんめい仕えろよ、きっとかわいがってやるから」
「六奥様とわたしでは比較にはなりませんわ。でも、わたしはご主人もなくなって、たよりのない身です。どうぞお見捨てにならないでくださいまし」
「おまえいくつなんだ」
「はい、兎《うさぎ》年の三十一でございます」
「おれより一つ年下だな」
西門慶は如意児が受け答えも気がきいており、まくらの腕もたしかなのを知りすっかり喜ぶし、如意児は綉春、迎春をそっちのけにして、まめまめしく仕える。そして白|紬《つむぎ》の上着をねだったが、西門慶はそれどころか、頭の飾りもの、銀子《かね》、なんでも月娘に内緒で如意児にやってしまった。
このことを知った潘金蓮は、さっそく月娘のところへ飛んで来てたきつける。
「大ねえさん、なんとか言ってやらなきゃだめじゃないの。あの人、きのうあの部屋であの女と寝たのよ。そのうちに子供でもできたら、だれの子になるの? 来旺児の女房のようなことになったら、聞えが悪いじゃないの」
「そんな貧乏くじは引きたくないね。|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》が死んだ時だって、みんないい子になりたがって、わたしが悪者になってしまったじゃないの」
こう言われると金蓮はすごすご引き下がるほかはなかった。
二三日たって西門慶が花園の書房にいると、銭主事のところへ使いにやってあった玳安が帰って来た。銭主事に手紙をもらい雷兵備のところまで行き、そこで雷兵備は自分で裁判をやって黄四の父を釈放したと報告し、それについて銭主事あてに出した雷兵備の手紙も渡した。西門慶は安心して、ごろりとベッドに横になった。
しばらくすると、とつぜんすだれをかかげる音がしたかと思うと、李瓶児がはいって来た。紫の肌着に白絹のスカート、髪は乱れ、顔も黄色くやつれている。李瓶児はベッドに近づき、
「おにいさん! お休みになっていらっしゃるので、お会いしに来ましたの。わたしはあの男につかまって地獄で血の出る苦しみをしていましたけど、おにいさんが届け物してくださって、三等の罪は減じられました。けれど、あの男はますます怒って、今度はあなたを捕えると言ってました。お知らせしないと毒手にかかると思って、急いで来たけど、もう帰るべきところへ帰らなけりゃなりません。気をつけてくださいね。あんまり外で飲んだりなさらないでね」
ふたりは首をかかえ合って泣きに泣いたが、「ねえさん、どこへ行く?」と言うまに、さっと李瓶児は腕をぬき、西門慶は目をさました。すだれに日がさしこみ、心は落ち着かない。
そのころ喬家よりの婦人連への案内状を見せようと金蓮が書房にやって来たが、ドアをあけてみると、西門慶がごろごろころがっている。その横に腰かけ、
「坊っちゃん、ひとりごと言って何してるの? こんなところで。まあ、目が赤いじゃないの」
「うん、眠りこんでいた」
「まるで泣いてたみたいだわ」
「おかしなこと言うな。泣くわけがあるか」
「とかなんとか言って、心上人《いいひと》でも思い出してたんじゃない?」
「ふざけんな。心上人も心下人《すいたひと》もあるもんか」
「李瓶児が心上人で、如意児が心下人で、あたしなんかは心の外の人だわね」
「また出まかせを言う。まじめな話、李ねえさんを棺に入れるとき、どんな衣服を着せたんだ」
「きいてどうするの」
「きくだけだよ」
「いちばん上が金|緞子《どんす》、その下が白綾《しらあや》の下着に黄|紬《つむぎ》のスカート、その下が紫綾の襦袢《じゅばん》に白絹のスカートで、肌には真紅の肌着」
西門慶は一々うなずいて聞いている。
「あたしには、あんたの思ってることぐらい、わかってるわ。あの人のことを思ってないなら、きくわけはないわね」
「実は夢を見た」
「死んだ人なのにご執心だこと。あたしなんか死んだって、思ってくれる人もありゃしないわ」
西門慶は金蓮の首に腕をからみ、キッスして「口の悪いやつだな」
「だって、当たったでしょう」
ふたりはくちびるを押しあてて夢中になっていると、玳安がすだれ越しに応伯爵の来訪を告げるので、金蓮は応伯爵が待たされている間に、奥のほうへ逃げて行った。
応伯爵がとつぜんやって来たのは、女房が赤ん坊を生んだので二十両貸してくれという用事だった。西門慶は五十両の包み銀子《がね》を持って来させ、借用書もとらず貸してやった。
六十八
十一月一日、西門慶《せいもんけい》が李県知事の所へ行き、月娘《げつろう》も長姐《ちょうそ》の誕生祝いに喬《きょう》家へ出かけた留守に、薛尼《せつあま》が五日の法事の打ち合わせにやって来た。金蓮《きんれん》は如意児《にょいじ》にでも子供ができたら寵《ちょう》を奪われてしまうと考え、そっと薛尼を自分の部屋に通し、銀一両をやって、月娘と同じように、お札と薬をつごうして来るように頼んだ。
六日。前からの約束で、鄭愛月《ていあいげつ》の家に黄四が招待する宴会に西門慶は応伯爵《おうはくしゃく》にせき立てられるように出かけた。西門慶はちょうど不在だった温《おん》秀才にもあとから来るように言い残しておいて出かけたが、迎えたのは李智《りち》、黄四、鄭愛月、鄭愛香である。応伯爵は相もかわらず、悪ふざけして座もちをする。やがて温秀才も駆けつけて来、裏の呉銀児《ごぎんじ》も聞きつけて喪の白いかぶりものをしてやって来て西門慶を喜ばせた。
酒が進むにつれて、ふと李瓶児《りへいじ》が外であまり飲まぬようにと言ったことばを思い出し、やおら立ち上がって便所に行こうとすると、愛月がついて来た。憎く思っていない愛月のことだから、小用をすまし、愛月の差し出す盆の水で手を洗うと、急に愛月の手を握って、そのまま居間にはいって行った。居間はまるで春のように暖かく、香がたきこまれている。西門慶は上着を脱ぎ、ベッドへ腰をおろすと、ひざの上に愛月を抱きしめて、こないだのたにし料理で李瓶児を思い出し、涙が出て困ったことなど礼を言う。愛月はふと思いついたように、李|桂姐《けいそ》とこのごろ会っているかと尋ねる。
何か李桂姐について言い出そうとするところへ、応伯爵が飛びこんで来て、愛月の白い腕に食いつくなどの悪いたずらをして出て行ったが、それから愛月の話したことは、李桂姐が王三官とまたよりがもどったこと、孫天化《そんてんか》、祝実念《しゅくじつねん》らの取巻きが王三官を連れ出して、李桂姐の家に出入りしているということだった。いきり立つ西門慶に、愛月は、おこらなくてもいい、王三官の鼻をあかす方法があると、そそのかす。それは王三宮の母の林太太《りんたいたい》と、王三官の奥さんとを手に入れてしまえと言うのだった。林太太の浮気の手引きをしているのは仲人《なこうど》商売の文嫂《ぶんそう》であって、便宜はある。西門慶は興奮して、女に武者ぶりつき、いろいろと問いただし、そんなに自分に義理立てしてくれるのなら、毎月三十両で囲ってやると言いだし、忙がしく歓を交えて、表のほうへもどって行った。
翌日、西門慶が役所で夏提刑《かていけい》から賊兵の模様など聞いて帰宅すると、沈《しん》叔父から来在《らいざい》、劉包《りゅうほう》というふたりの小ものを贈ってくれていた。ふたりを家におくことにした後、西門慶は玳安《たいあん》を呼び、仲人商売の文嫂を呼びにやらせる。文嫂が陳敬済《ちんけいさい》の仲人だったので、玳安は道をたずねるとさっそく、文嫂をせき立てて連れもどった。
六十九
文嫂がやって来ると、西門慶は五両の銀子をまず握らせて、王招宣《おうしょうせん》の家の林太太《りんたいたい》を、なんとか文嫂の家につり出してくれと相談をもちかける。文嫂はむしろ王三官の留守にはいりこむのが良いことを話し、太太へ話を通じることを約束して帰って行ったが、午後になるとさっそく、王招宣の邸宅へ出向き、林太太に会う。世間話もそこそこに文嫂は、王三官がつまらぬ取巻きと色町にいつづけで二晩ももどらず、その妻も部屋に引きこもっていることを知ると、ここぞとひざを進め、
「太太《おくさま》、どうぞご安心くださいませ。きっとそのつまらぬ手合いを追っぱらい、三だんな様も色町に行かぬようにしてさしあげます。その方法はと申しますと」
文嫂の方法というのは、提刑院に勤め、千戸の職をつかさどっている西門慶、東京の蔡太師《さいたいし》の門下生で、朱太尉《しゅたいい》が後だて、蔡太師の家務を見ている|※[#「羽/ふるとり」、unicode7fdf]《てき》が親戚、省長、検察官、府知事、県知事との交際がある名門で、三十一二の美男子、風流事にも長《た》けているその西門慶の力を借りることだというのだった。話を聞いているうちに太太のこころはときめいてくる。そこをとらえて、王三官の取巻きを訴える前に相談したいということで招けばよいと、文嫂は予定の段取りへ林太太をはめこんでしまった。
翌日、文嫂はその報告を西門慶にもたらす。西門慶は天にも上るここちで、文嫂に紬と緞子を一匹ずつやり、あしたの夜を待ちかねる。
次の夜、玳安と琴童《きんどう》を供に、王招宣邸の裏門に着くころにはあたりは静まりかえっていた。玳安に門をたたかせると文嫂が出て来て、西門慶をみちびき入れ、林太太の一|棟《むね》に導き入れる。林太太は自分の部屋のすだれの中からうかがい見ていたが、西門慶の男ぶりにすっかり惚《ほ》れこみ、文嫂に言って、自分の部屋へはいってもらう。
ふたりがあいさつをすませ席につくと、林太太は西門慶に茶をすすめ、自分も飲み、「ちとお願いがございますが」
「なんなりとも、わたくしにできますことなら」
「実は、わたくしの家は代々招宣の職についておりますが、夫が死にましてから、家にたくわえもなく、子供も幼いため、家職もつけず、武学堂を卒業してから、毎日けしからぬ男たちと遊び回っております。心配ですので、その取巻きを訴えようと考えましたが、そうすれば家の名も出、先祖の名をけがすことにもなります。それで、あなた様においでを願って、内々に取巻きを処分していただきたく存じまして。もし子供の行いが改まり、先祖の名を輝かすことができましたら、お礼は、わたくしから、かならずいたします」
「太太《おくさま》のお言いつけとならば、謹んでお引き受けいたします。太太《おくさま》のご心配ごとはわたくしの心配ごとですから、お礼には及びません」
話し合っているうちにも、目はほかの話をささやき、心はそぞろにゆれ動き、文嫂がテーブルのしたくをして引き下がって行くと、西門慶はじりじり席の間隔をちぢめ、きわどい話をもちかけて、いつとはなしに腕から肩、肩から胸とふれながら、ふざけたふりで女の首に腕をからませたが、女は笑っているだけで、やがて紅に濡れたくちびるをそっと開く。勢いこんで、紅《あか》い口に舌を吐き入れると女はくくくと笑っていたが、自分から立ち上がってドアをしめ、飾りものをはずし、衣服を脱ぎ、西門慶をいいかおりのベッドへ導き入れた。
その夜、おそく家へ帰った西門慶は翌日さっそく、王三官取巻きのリストを小役人につくらせる。しばらくすると小役人は孫天化、祝実念、小張閑《しょうちょうかん》、聶鉞《じょうえつ》、向三《こうさん》、干寛《かんかん》、白回子《はくかいし》、李桂姐、秦玉芝《しんぎょくし》の名を書いて来たが、西門慶は李桂姐、秦玉芝、孫天化、祝実念の名前は一筆で抹殺《まっさつ》して、残りの五人を、あしたまでに引っ捕えておけと命じた。小役人どもはさっそくその夜、李桂姐の家を襲って五人の者を召し捕る。孫と祝は奥の部屋に逃げこみ、王三官は李桂姐のベッドの下にかくれ、李桂姐一家のものはただ肝をつぶしていた。翌日、西門慶は夏提刑とともに法廷に上り、小張閑ら五名のごろつきに各二十棒ずつくらわせ、以後良家の子弟を誘って色町で悪事を働くようなら、かならず枷《かせ》をはめて色町でさらしものにしてやると一喝して釈放した。
提刑院をほうり出されたごろつきどもは、どうしてこんなことになったか見当もつかない。東京からの指令にしてはことが軽すぎる。王三官とのいろの鞘《さや》あてのとばっちりだ。おれたちみたいな下っぱばかりばかを見た。それにしても夏提刑もそばにいながら、いい明きめくらだと、一同がやがや話しながら李桂姐の家へ歩いて行ったのは、王三官から幾両かたたかれ代をしぼろうというわけである。ところが李桂姐の家の門は鉄桶《てっとう》のようにとざされていて、やっと門越しに小おんなが、王三官はあの晩に帰ってしまったと返事しただけ。そこで、ごろつき一同は王招宣の屋敷に乗りこみ、どっかと客間に尻《しり》をすえ、出て来た小ものに、血のにじんだ太|股《もも》を見せて、王三官を呼んで来いとかけ合いはじめた。
部屋にひっそりかくれていた王三官はますます恐れて、母親の林太太になんとか助けてくれと頼むが、林太太は「わたしは女ですもの、方法がありませんよ」
客間でごろつきどもは待ちきれなくなって、林太太に顔を出してくれとわめき立てる。林太太は屏風《びょうぶ》の後から、今留守だから小ものに呼んで来させると取りしずめ、茶など出させておいて、裏門から小ものを出して文嫂を呼び寄せた。文嫂が西門慶を知っていると聞かされたので王三官は、文嫂の顔を見るなり助けを求め、あげくにはバッタと文嫂の前にひざまずくしまつ。そこで文嫂が目くばせすると、やっと林太太が
「文嫂、なんとかしてくれないかねえ」
文捜は王三官が西門慶にじかに頼むことをすすめ、自分もわきからうまく取り計らうと言い、客間のごろつきどものところへ出て行って悪くはしないからときげんをとり、酒を二銭、菓子を一銭、豚羊牛の肉なども皿に盛って出しておいて、裏門から王三官を連れ出した。
西門慶は王三官から訴えを聞くと、丁重に扱って帰し、ふたたび小役人をやって、五人のごろつきを自分の家まで引っ捕えて来させると、責め道具をちらつかせておどかし、以後このようなことをしないと誓わせて、放った。月娘が奥でことのしだいを聞くと、西門慶は詳しく話し、
「そんなわけで、文嫂が、五十両の銀子を届けに来たんだよ。そこで、そのチンピラごろを驚かしてやっただけだ。だが、ああいう家柄に、どうして、あんな不肖の子が生まれるんかねえ。家には花のような奥さんがいるのに、わるにそそのかされて悪所通い、まだ二十《はたち》にもならぬ若い身空で」と言うと、
「燈台は自分の身を照らさないって言いますが、あんただってその人と同じことじゃないですか。あんまり人のことをとやかく言える義理でもなさそうですわね」
西門慶はケションとして、黙って料理に箸を出すばかりである。
食事が終り、待っていた応伯爵と書房で会うと、応伯爵は王三官の事件にさぐりを入れ、西門慶がぬらりくらりと、関係なさそうにそらすのを聞いていたがついに、
「にいさんは、あたしまでごまかすおつもりですか? あたしにはお気持がわかってるんですがね。人を召し捕るお役所が、祝|麻子《あばた》や孫|寡嘴《だまり》を目こぼししたってんですからね。李桂姐をびっくりさせて、にいさんのすごい所を見せたんでしょう? 引っとらえりゃ、気持が離れてもおもしろくないというところでしょうな。達人は姿を見せず、姿を見せるは達人にあらず。いやはや、にいさんの知恵は底知れずですからなあ」
西門慶はおだてられ、思わず吹き出し、「おれに知恵などあってたまるかい?」
「役所じゃ、もう王三官をとらえないんでしょうね?」
「とらえて何にするんだ。最初から、祝麻子、孫寡嘴、李桂姐、秦玉芝の名は消してある。ごろつきをとらえただけだよ」
「二回つかまえたのは?」
「やつらが王三官を強請《ゆす》ったので、王三官かおれに詫びを述べ助けを求めに来たんだ。王三官のやつは、おれを伯父上なんて奉りやかって、五十両持って来たが受け取らなかったがね。いつかおれを招待するとか言ってたよ」
「ほんとに詑びに来たんですか」
「うそなどつくもんか」と、西門慶は王経《おうけい》に王三官の名刺を持って来て応伯爵に見せさせると、そこには「晩生王晋|頓首《とんしゅ》百拝」と書かれている。
「いやあ! にいさんの策はまったく神わざですなあ。底が知れないですよ」
「だが、だれがきいても、おれの知らぬことにしておいてくれ」
「謀《はか》りごとは密なるを以《もっ》てよしとす。承知しました」
しばらくして伯爵は席を立ち、「あたしは帰りましょう。もしかすると、麻子《あばた》と寡嘴《だまり》が来るかしれませんが、その時は、あたしが来てなかったことに頼みますよ」
「あいつらが来ても、通させない」
その後、李桂姐は西門家へ出入りできず、宴会があっても、李銘《りめい》は呼ばれなかった。
七十
任官公報が役所に届いた。まず山東の兵部《ひょうぶ》のページをくると、
「山東提刑所、正千戸、夏|延齢《えんれい》。この者人望あり、かつ才能人にすぐ。刑法を行って民に不平なく、なお余力ありと認む。よって鹵簿《ろぼ》の選に備うるを可とす」
夏提刑は指揮使に昇進して鹵簿《ろぼ》付きになるというのに、家郷を離れねばならぬので、顔色がかわってしまった。
「副千戸、西門慶。この者有為の人物にして、家は殷盛《いんせい》を誇るも、国事を私せず、民に索《もと》むる所なければ民のひとしく仰ぐ所となる。よって副を転じて正となし、刑名を掌《つかさど》らすを以て可とす」
西門慶は正千戸になると思うと、心をわくわくさせた。つづいて工部のほうを見てみたが、東京では蔡京《さいきょう》一派の者、地方では西門慶と気脈を通ずるものが、それぞれ昇進しているのである。
その午後、王三官のところから招待状が来て、西門慶は王三官の妻も近いうち手にはいるのだと、喜んでいたが、招待日の前の十日の夜、とつじょとして、各省の提刑官員に東京への出頭命令が下った。冬至の節句に参内して、聖上に拝顔が許されるというのである。このために出発の準備にいそがしく、十一日の宴会はお流れになった。西門慶は賁四、玳安、王経を連れ、夏提刑の一行とともに十二日、清河《せいか》県を後にしたのである。
東京へ着くと、夏提刑が親戚の崔中書《さいちゅうしょ》のところへ泊まろうと言いはるので、一晩そこに厄介《やっかい》になり、次の日ふたりは贈物を持って蔡太師の邸宅へあいさつに参上して、|※[#「羽/ふるとり」、unicode7fdf]謙《てきけん》に接待されただけでふたたび崔中書の家へひき返したが、そのとき、西門慶は|※[#「羽/ふるとり」、unicode7fdf]謙《てきけん》から意外のことを聞いた。それは夏提刑が鹵簿《ろぼ》官になりたからず、林《りん》府知事に手紙を出し、朱太尉を通じて蔡太師に現在地で指揮官として刑務の方につけるよう運動していたというのである。一方、何太監《かたいかん》は甥《おい》の何永寿《かえいじゅ》をそこへ入れたいと、寵のあつい安妃《あんひ》や劉《りゅう》皇后から手を回して、蔡太師や朱太尉に運動してくる。そこで太師が困ったところを、|※[#「羽/ふるとり」、unicode7fdf]謙《てきけん》が説得して、夏提刑を動かし、そのあとへ西門慶を収め何永寿をその補佐役にするようにしたというのだった。そのごたごたは西門慶への|※[#「羽/ふるとり」、unicode7fdf]謙《てきけん》の手紙が夏提刑にもれていたのだと|※[#「羽/ふるとり」、unicode7fdf]謙《てきけん》は言い、
「機密ならざれは害生ず、だ。これからは何事も慎重にやってくださいよ」と最後にだめを押した。西門慶はどうして夏提刑に知れたのかわからなかった。
次の日、ふたり連れ立って皇居に参内した帰り、何太監の従者が西門慶を捜しており、太監の官宅に導いた。そこで西門慶は何太監よりねんごろに甥の何永寿のことを頼まれ、酒をよばれて出た。兵部で夏提刑と落ち合い、長官朱太尉に参見し、各官員にあいさつしての帰り道、もう提刑ではなく指揮である夏龍渓《かりゅうけい》は、年が明けてから家族を呼ぶつもりだが、今の家をほしがるものがあったら自分に代わって千五百両で売ってほしいと頼んだ。ふたりが崔宅へ帰ると王経がもう何永寿があいさつに来たし、使いの者が二匹の金鍛子を持って来たことを報告する。西門慶は二匹の南京《なんきん》できの官服地を用意し、礼状もしたため、食事をとってすぐ、何家にお礼に出かけて行く。
何《か》千戸(永寿)は二十《はたち》そこそこの、粉をこねたような白い顔、紅を塗ったかのようなくちびるの美少年で、行儀正しく、物腰もやわらかかった。西門慶の号が四泉《しせん》、何永寿の号か天泉《てんせん》というのも良く、ふたりは所轄の長官朱太尉への高価な贈物を打ち合わせて別れたが、このことについて西門慶はもちろん夏龍渓に何も話さなかった。翌日早くから西門慶は何《か》千戸の家へ行きごちそうになってから、届け物を従者にかつがせて朱太尉の屋敷へ参見に上がって、無事にそれを済ませた。
七十一
朱太尉の参見の帰り、西門慶は何《か》千戸に相談があると言われて、従者のうち賁四だけ空《から》荷を持ち帰らせ、自分だけが立ち寄ったが、広間には、すでに西門慶招待の宴の用意がちゃんとされており、やがて何太監も現われた。礼を守ってゆずり合ったあげく席が定まると、
「小ものはおらぬか! 炭を持って来い。こんなに寒いのに」と、何太監は良い炭をつぎ足させる。広間の入口には油紙の防寒用のすだれがたれているから日ざしも通り、部屋の中は明かるかった。さらに太監は西門慶に礼服を脱がせ、自分の飛魚の柄の毛の官服をしいて着させ、音楽がはじまり酒になると、みずから立って酌《しゃく》をしようとまでして、何千戸の指導を頼む。日暮れになり厚く礼を言って帰ろうとすると、何太監は帰さず、
「せがれと同じ職につくのだから、拙宅へ移られたらよろしいでしょう。裏に静かな部屋もあいているし、お仕事を教えていただくのにも便利ですから」
「たいへんかたじけなく存じますが、夏公がへんに思いますから」
「かまうものですか。当節では、朝役人をやめれば晩にはあいさつもしないのが通り相場、役所といったって芝居小屋同然です。いくら同僚だったと言っても、もう職が違い、後任もこれと決まっているんですからな。きょうはどうしても大人をお引留めします」と問題にせず小ものを呼んで、部屋の整えから、西門慶の荷物を引き取って来ることを命じた。夏龍渓のことなど気にもかけていない。
玳安に五六人の軍卒をつけ、なわなど持たせて崔中書の家へ向かわせた後、何太監は、もう一つお願いしたいことがあるがと、何千戸の赴任後の家の世話を頼む。条件をきくと、使用人もまぜて二三十名になるから、千両を越える家でなくては住めまいというので、西門慶は夏龍渓の家の話を持ち出す。さっそく、帰って来た玳安と賁四を何回か往復させ、その夜のうちに銀子を払って買い取ってしまった。
宴会が済んで、西門慶が奥庭の書房に案内され、衣冠をとってオンドルに上って、窓からさしこむ月の光をながめていると、こずえを渡る冬の風がはたはたと窓の紙を鳴らし、遠く故郷を離れた身に、寂しさは一しおしみ、寝返りをうつばかり。王経でも呼んで夜伽《よとぎ》させようかと考えていると、ふと窓の外から低い女の声が聞える。衣服を羽織り、靴をつっかけてそっと戸を開いてみるとまっ白の下着をまとった李瓶児が月の光の下にじっと立っている。どうしてここへと言いながら抱きかかえるように部屋へ入れる、李瓶児はやっと行く家ができたから、それを知らせに来た、そこはついそこの造釜巷《ぞうふこう》だと告げた。西門慶は李瓶児を抱きしめて床に上り、雲雨《しごと》を交えたが、これまでに知らぬここちよさで、衣服をつけても、まだ離れがたい気持でいると、
「あたしのおにいさん。夜遊びはつつしんでくださいね。早くお家へお帰りになってくださいよ。あいつがあなたをねらってるのですよ。このことは、忘れてはいけません」と、李瓶児は西門慶の手を引いて行く。真昼のような月明りを表通りまで送り、小さな路地へ曲がると、白板の門があった。
「ここがあたしの家ですの」と言い終ると、李瓶児の姿は、すっと門に消え、これを捕えようとして、目がさめると、月の光が窓をさし、木の影が揺れ動いている。ふとんをなでると、かすかに残るのは甘いかおり。悲しみにたえず西門慶は、鶏の声を待ちこがれていたが、いつしか眠ってしまった。
やがて何千戸の家のものに起こされ、何千戸とともに参内し、兵科に出頭すると、別れて西門慶は東街をぬけ、夏龍渓に会うため崔中書の屋敷に向かって進むうち、造釜巷《ぞうふこう》という路地を通る。中ほどに夢に現われたと同じ白木の門があり、玳安に命じて、近所で聞かせると、それは袁《えん》指揮の宅だということである。ふしぎなこともあるものと、夏龍渓のところへ行き、家を早く明け渡してもらう話もうまくすんで、昼食をよばれて帰ると、|※[#「羽/ふるとり」、unicode7fdf]謙《てきけん》からの祝いが届いていた。西門慶は韓愛姐《かんあいそ》に会いに|※[#「羽/ふるとり」、unicode7fdf]《てき》家へ行くという王経に二|罐《かん》の薔薇餅《ばらもち》をことづけた。やがて、夏龍渓がちょっとあいさつに来るなどのこともあり、十時ごろまで何千戸に歓待されて寝についたのだが、昨夜の夢を思えばひとりはいかにも寂しく、西門慶は従者の王経を床へ引き入れてしまった。
翌日、早く起きて何千戸とともに参内し、聖上の謁見を受ける。その次の日は手続きと、|※[#「羽/ふるとり」、unicode7fdf]謙《てきけん》宅の訪問と、旅の用意、その夜は何太監が送別の宴を張った。
こうして西門慶と何千戸は二十人ばかりの供を連れ、十一月二十日、東京を出発して、厳寒の凄涼《せいりょう》とした枯れ野を山東へと向かう。山また山、村また村を越えて、やっと黄河《こうが》のほとりの八角鎮にたどり着くと、空はにわかに曇り、一陣の大風がまき起こって進めない。そのうちに日が暮れかけたが、やっとあたりに荒れ果てた黄龍《こうりゅう》寺という寺を見つけ、その夜を過ごし、翌日、うそのような晴天のもとを山東へと急ぐのであった。
七十二
西門慶の留守中、月娘は表門は締め、奥の儀門《うらもん》も夜は錠をかけ、奥さん連には部屋で針仕事をさせ、陳敬済が奥へ衣服を捜しに来る時でも、かならず春鴻《しゅんこう》か来安《らいあん》をつけて問題が起こらぬように注意させていた。そのため潘金蓮は、陳敬済とちちくり合うこともできず、如意児が陰口をきいたにちがいないと、恨みをいだいている。
ある日、月娘が西門慶の衣服《きもの》や下着を出して、如意児と韓|嫂《そう》に洗わせていると、春梅《しゅんばい》も衣服を洗おうと思っていたところで、秋菊《しゅうぎく》が洗濯《せんたく》棒を借りにやってきた。けれど如意児は前にも洗濯棒を持って行って返さないじゃないかと言って貸さなかった。腹を立てた秋菊は春梅のところへ飛んで帰って、貸してくれない、如意児が渡さないと告げる。借りて来い、貸してくれないと争っているのを、纏足《てんそく》を巻いていた金蓮が聞きつけ、
「淫婦《いんぷ》め、どうしても渡さぬのかい! 春梅、おまえが借りに行っておいで。もし貸さなかったら、かまわないよ、さんざんののしっておやり」
春梅は突風のように李瓶児の部屋へ飛んで行き、
「外の者でもないのに、なぜ洗濯棒を貸さないのよ! この部屋に、また奥さんでもできたのかい。いばりやがって」
「あれ、そこにあるから持ってったらいいでしょう。だれも押さえこんでるわけじゃなし。何おこってんの。奥様が、韓さんのいる間に、だんな様の衣服や下着を洗っておくようお言いつけになったから、ここで洗ってるんだわ。わめくことないじゃないの。迎春《げいしゅん》さんだって知ってることだわ」
思いもかけず金蓮が春梅の後ろから「つべこべ言うんじゃないよ! ここの主人が死んだんで、この部屋がおまえのものになったみたいじゃないか。だんなの衣服は、おまえに洗ってもらわなくってけっこうさ。あたしが死んじまってから、洗えばいいんだ」
「五奥様、なんてことおっしゃるんです? 大奥様がお言いつけにならなければ、だんな様のものに手はつけません」
「男たらしのすべた淫婦、何を偉そうに言ってるんだい。夜中に茶を出したり、ふとんを敷いたりしたのは、どこのどいつなんだね。衣服をもらったのは、だれなんだよ! あたしが知らないとでも思ってるのか? おまえに赤ん坊ができたって、こわくもなんともないよ!」
「赤ん坊ができたって、死んでしまうんですもの、わたくしはそんなこといたしません」
「なんだって」と、金蓮はみるみるまっかになり、いきなり如意児の髪をひっつかみ、片手でおなかをつっつきまわす。あわてて韓嫂が間にはいると、
「恥知らず淫婦、男たらし淫婦! あたしたちだって声のかからない時はあるのに、おまえ奴《め》、だんなをつりやがって。身分を考えてみろ。おまえはなんなのさ。来旺《らいおう》のかみさんの生れ代わりだって、あたしゃ、ちっともこわかあないよ」
如意児は泣き声を上げ、「あとから来たので来旺のかみさんのことは知りませんわ。あたしは乳母《うば》に雇われて来たんです」
「乳母なら乳母らしくしてりゃいい! 虎《とら》の威を借るきつねみたいに、人をたぶらかすのはいいかげんにしな!」
やり合っていると、ゆっくり出て来た孟玉楼《もうぎょくろう》が金蓮を部屋に連れて行き、
「どうしたのよ、いったい?」
金蓮はいきさつを話し、
「韓嫂が割って出なかったら、あの淫婦の心臓をえぐり出してやるところだったのよ! 大ねえさんもまちがってる。来旺の淫婦女房だって、あんな悪くしてしまって、あたしとは仇《かたき》どうしにしてしまったでしょ? あげくはあたしが殺したことにして、膿《うみ》はあたしにほうりつけるんじゃないの。今度の女だって、あんなにのさばらせてさ、乳母なら乳母らしくさせとけばいいのに、あんなにじゃらついた|なり《ヽヽ》をさせてるわ。あたしゃ、目に砂を入れとけないのよ。だんなの|ざま《ヽヽ》見てられないじゃないの。死んでどこに行ってるかわからないのに、まだあの人の部屋にへばりついていて、どこからもどっても、あの絵姿におじぎして、口の中でぶつぶつ蛆《うじ》でもかんでるみたいに唱えてさ。そんなふうだからあの淫婦に食いこまれて、茶を飲むのも、ふとんをしくのも、あいつでなけりゃ気に入らないのよ。上着をねだられたら、あわ食って店へ紬や緞子を捜しに行く、恥知らずったらないわ。あんた、知らないんでしょ、四十九日のこと。だんながあの部屋で紙を焼いて、あの女がオンドルにかくれてるのに気がついてさ。しかりつけるのが当りまえね。ところが、おこらない。このお酒と供物は、奥へ持って行かず、おまえが食べればいいなんて。こんなふうなんだもの、あの淫婦のやつ、つけ上がりやがって、オンドルの上から、だんな様、お待ちしておりましたの、こちらへどうぞ、だなんて、|今にも《ヽヽヽ》のところに、あたしが飛びこんだから、肝をつぶして物も言えないぐらいさ。何がいい女なもんか。たかが人の女房のどすべたじゃないの。それに腹をすかしてるもんだから、西瓜の皮だとも知らずにかぶりついたんだ。もともとあの淫婦め、男を見たら目から火を吹くぐらい熟《う》れ切ってるんで、亭主《ていしゅ》が死んだなんてごまかして、だんなのものになりたがってるけど、この間、その死んだはずの亭主が、赤ん坊を抱いて表門からのぞきこんでたのよ。頭かくして尻かくさずさ。このごろ、すっかり様子が変わってるじゃないの。あいつ李瓶児の二代めなのさ! 大ねえさんときたら、奥にいたっきりで、何も見なきゃ、何も聞きもしない。いくら、あたしが教えたげても、あたしを悪く取るんだからね」
「ずいふん詳しいわね」と、孟玉楼は笑っている。
「南京《なんきん》の沈万三《しんばんさん》、北京《ぺきん》の枯柳樹《かりゅうじゅ》、人の名まえも木の名まえも、なんだってあたしゃ知ってるよ。雪で死体を埋めても、雪が解ければ人が出るって」
「あの女、亭主がないって言ってたのに」
「風が吹かねば空晴れず、うそをつかねば人立たず。亭主がないって言わなきゃ、引き取ってもらえないじゃないの。来た時はやせこけてたけど、このごろは腹いっぱい満足に食ってるもんだから、騒ぎは起こす、男はひっかける、今のうちになんとかしとかなきゃ、赤ん坊でもできたら」
「気の回る小むすめね、あんた!」
話が一段落つくと、ふたりは奥へ将棋をさしに行った。
さて西門慶の一同は清河県へ帰りついたが、西門慶は賁四に荷物を家へ届けさせ、自分はまず何《か》千戸を役所に案内して、官舎を掃除させて荷物をかたづける。それから家へ帰ると、旅のいろいろのことを月娘に話し、夏龍渓の家を何千戸が買ったこと、だれかが|※[#「羽/ふるとり」、unicode7fdf]謙《てきけん》からの手紙の内容を夏龍渓に知らせたので、宮中で職の割りふりに、一|悶着《もんちゃく》起こったことなども話した。月娘は西門慶のやりかたの慎重でないことにちくりと針を刺し、
「あなたは騒ぎ癖を直さなければだめですね。人に会ったら話は三分、あけっぴろけの阿呆《あほう》者、って言うじゃありませんか。妻たちの心でさえ裏表があるんだもの、まして世間の人なんて」とやっているところへ、李嬌児《りきょうじ》、孟玉楼、孫雪娥《そんせつが》、潘金蓮、西門|大姐《たいそ》がごきげん伺いに出て来る。それを見ると、この前の上京のおりは、まだ李瓶児がおったのだとたまらなくなり、李瓶児の部屋にはいり、霊前に丸粒ほど涙をこぼした。
翌日、何千戸の歓迎会の準備をしているところへ、王三官からの招待状が来る。西門慶は、豚のひずめ一個、鮮魚二尾、焼鴨《やきがも》二羽、南酒一本を林奥様の誕生日の後祝いだと言って、王招宣府へ、玳安に届けさせた。
午後になって何千戸が現われたのを、夕暮れまで、呉|大舅《だいきゅう》、応伯爵、温秀才などとともに厚くもてなしたのだったが、その夜は金蓮の部屋へ行く。金蓮は厚化粧し、香をたき、からだもすみずみまできれいに洗い清めて待っていたところなので、顔じゅう笑《え》みくずしで西門慶を迎え入れ、茶を飲むのももどかしく、すぐ床へ上った。半月も離れていたのだから、金蓮はまっ白なからだをすり寄せて、西門慶をなかなか寝つかせず、小便まで口の中にさせるという媚《こび》の売りようであった。妾《めかけ》というものは夫を惑わすためには身を屈し、恥もかまわぬもので、正室の妻のしないことをやるものだ。
翌日、役所の祝賀会に何千戸とともに出席して帰ると、王三官から招待が来ている。出かけようとするところへ、工部の安郎中《あんろうちゅう》がたずねて来て、蔡太師の九番めの子、九江《きゅうこう》の知府|蔡少塘《さいしょうとう》が拝謁を賜わるため上京する途中寄るから、宴会に屋敷を貸してもらいたいと申し入れた。もちろん承知して、それから王招宣の邸宅へおもむく。林奥さんは下にもおかぬもてなしようで、王三官の義父になってくれるよう頼みこみ、西門慶は王三官の四拝の礼を受けて王三官の義父となり、十時ごろまて飲んで、いいきげんで帰って来た。
金蓮はまだ寝ないで、薄化粧をして待っていたが、西門慶が上がって来ると天にも上る心持、茶を飲ませると、西門慶の衣服を脱がせて床にはいり、たえず下のほうで手を働かせている。
「かわいい子だね、おまえは。おれのいない時も、おれのことを思ってたか?」
「半月思いつづけていたわ。夜ひとりで寝ていても冷え冷えして足も伸ばせず、何回涙でまくらを濡らしたか。そのうちに、あたしがため息ばかりついているので、春梅がいっしょに寝てくれたの。あなたはどうなの?」
「口のうまいやつだな。女はたくさんいるけど、おまえのそばにいることがいちばん多いはずだぜ」
「まあ、あんなこと! 来旺のかみさんとべっちゃりだったとき、あたしなんかほうりっぱなしだったじゃないの。そのうち李瓶児が赤ん坊を生むと、しりめにもかけないし。きょうはどこへ行ったんです? 風の中の花びらみたいにふわふわして。このごろまた如意児と熱いんじゃない? あんな乳母ふぜい、亭主持ちだというのに手をつけてさ。そのうち、亭主が門前で羊飼いをはじめるわよ。人目についたら聞こえがわるいわ。この間も洗濯棒のことで春梅と角突き合わせたけど、あたしが出て行っても、平気なんだから」
「もういいじゃないか。たかが乳母だ。おまえにたて突くもんか。おまえが手を上げてやれば通れるが、手をおろせば行きづまりだろう」
「あんなこと! あいつ、李瓶児のあとがまねらってんのよ」
「疑い深いやつだな。じゃ、あいつをおまえの前にひざまずかせてやるよ」
「そんなことじゃないわ。あの部屋で寝ちゃだめってこと」
「あそこへ寝に行くのは、李瓶児にお通夜《つや》をしてやるためだよ。だれが、あんなやつと」
「信用できないわ。百日もたってるのに何がお通夜。夜中の半分は鈴を振って、あとの半分は小おんなが棒を振ってる、その音聞いたってことよ」
ことばにつまって西門慶、いきなり金蓮の首に腕をからませて、キッスし、「そんなことがあるもんか」と色でごまかす。それでもなお、金蓮は、「あたしが黙ってれば、もっとかってなことするんでしょ。あの女と離れられぬのはわかるわ。ただ、あたしに断ってから行ってよ。何をほしがったかも聞かせて。かげでこそこそはいや。もしそうしないのなら、あんな淫婦、追い出すなんてわけないわ。淫婦のやつ、李瓶児みたいにあんたを丸めて、あたしを除《の》けものにしたら、あんな腐れ桃の、もやし売女《ばいた》の味なし淫婦、どうしてやるか。あたしゃこれでも、少しは恐ろしい女になったんだから!」
こうして夜明けまで眠っていたが、目がさめると、またも朝っぱらから金蓮はいどみかかるという調子であった。
一方、応伯爵は二十八日が赤ん坊の満一月の誕生祝いになるので、西門慶の五人の夫人に祝ってもらおうと考え、温秀才に案内状を書いてもらうために家を出たが、町かどを曲がると、李銘に呼びとめられる。家まで引き返すと、李銘は焼鴨二羽、老酒二本はいった重箱を差し出し、桂姐のあやまちのために、自分まで出入りをさしとめられている西門慶のところへ、ふたたび出入りさせてもらえるようにと頼みこむ。応伯爵はしかたなくそれを引き受け、李銘を連れて西門慶の屋敷に向かった。
西門慶は広間で、頭巾《ずきん》もかぶらず祝い物を受けたり礼状を出したりしている。その横にテーブルが並んでいるので、
「にいさん、このテーブルはなんなのです?」と、応伯爵が声をかけると、西門慶は椅子をすすめて、安郎中たちが蔡知府を招待することを話した。
応伯爵はあしたの宴会にだれだれを役者に呼ぶのか尋ね、李銘のことにひっかけ、うまく李銘を弁護すると、衝立《ついたて》の影にやもりのようにくっついていた李銘を呼び出す。李銘はわあわあ泣いて言いわけをし、やっと西門慶は出入りを許す気になった。応伯爵は誕生日の案内状を渡して帰って行った。
七十三
この日、孟玉楼の誕生日を祝ってやって来た女客は、玉楼の伯母《おば》、月娘の姉、金蓮の母、薛尼《せつあま》、王尼《おうあま》、小尼の妙趣《みょうしゅ》、妙鳳《みょうほう》、侑大姐《ゆうたいそ》などであり、月娘は他の女連と奥の間でこの客の接待をしていたが、潘金蓮は部屋に帰り、白綾の中に顫声嬌《せんせいきょう》という淫薬を縫いこんで西門慶の淫帯を作っていた。そこへ薛尼が子授け札と胞衣《えな》を持って来て、
「壬子《みずのえね》の日にお飲みになるんですよ。その晩にだんな様とお休みになれば、たった一回でお子様ができます。いま一つ、錦《にしき》の香嚢《こうのう》をお縫いになり、わたくしの朱砂符〔朱砂で書いたお札〕を納めて身につけていらっしゃればかならず男のお子さんです」
金蓮はすっかり喜び、暦をくってみると二十九日が壬子《みずのえね》だった。薛尼はさんざん商売がたきの王尼の悪口を言って出て行った。
午後になると、月娘はオンドル部屋にテーブルを出して女客や尼をもてなし、客間にはテーブル、火ばち、酒など並べる。やがて粧《よそお》いこらした玉楼が現われて、まず西門慶に酒をささげ、つづいて月娘以下の姉妹にも酒を献じて席につく。次は陳敬済と西門大姐が玉楼に拝礼し、これで誕生祝いの式は終った。さて、台所から寿《ことぶき》うどんや菓子が運びこまれ、一同酒になろうするところへ、応伯爵からの祝い物が届く。西門慶と月娘はさっそく、応伯爵と呉|大舅《だいきゅう》を招きに来安を使いに出した。
西門慶は昨年の玉楼の誕生日にはまだ李瓶児が生きていたんだとふと思うと、ひそかに涙をぬぐう。そこへ李銘とふたりの役者がはいって来て、西門慶に命じられ「簫《しょう》吹く人」を歌った。「わがために裳《もすそ》に紅《べに》の、ほととぎす、血を吐く人よ今いずこ」というくだりになると、金蓮はそろそろたまらなくなり、西門慶を冷やかして、「ふん、生むすめでもない、二度めの女のどこから血が出るのよ」
「うるさい。黙って聞け」
そのうちにも歌はすすんで、「深窓に育ちし花を捨て去りて、気強い人は垣《かき》越しの、花をみだりに手折るかな」
金蓮は、頭をたれて聞き入っているのが癪《しゃく》にさわり、西門慶にくってかかる。見かねた月娘は月娘の姉と玉楼の伯母の相手に金蓮を追っぱらった。そのうち、応伯爵が着き、呉大舅が着き、温秀才も呼んで別室で男の宴会がはじまり、西門慶は着ている何太監にもらった青緞子に五色の飛魚の蟒衣《ぼうい》をじまんする。呉大舅は安郎中が蔡知府を招待することを聞くと、自分のことを耳に入れて昇進させてくれるように頼みこんだ。十時ごろ宴が果てて奥へはいると、金蓮はまたしつこく「簫吹く人」を歌わせたことで西門慶にからみ、
「深窓の花ってどなたなの。やっぱりあたしと同じ、二度めの女じゃないの。どうして、裳《もすそ》にほととぎすの血が散るの! あの人が死んでから、ものが食べられないって、あたしたち物の数にはいらないんですか? こんなりっぱな大奥さんが家事をちゃんとしてくださってるのが気に入らないの? あの人だけがいいような顔をして、あの人の来なかったころは、なんでも気に入らなかったんですか? あの人のことになると、すぐ涙ぐみ、どうせあの人の部屋でなら水を飲んでもおいしいのね」
月娘が横から、「美人薄命って言いますもの、どうせあたしたちはうすのろよ。言わせておけばいいわ」
「あたしが悪口言ってるんじゃないのよ。この人の言ったとおり言ってるんだわ」
「いやな淫婦め。おれがどこでそんなこと言った」
「黄尚官《こうしょうかん》をお呼びしたとき、応《おう》こじきと温《おん》やぼてんに言ってたじゃないの。おかみさんがみんな死んで、あの人だけ残ればどうなの? ひとりずつ引っ張りこむたびに、あの人と比べてみるの?」
西門慶はおこって金蓮を蹴《け》とばしそこね、あとを追っかけると、鼻先に春梅に立たれた。月娘は小玉《しょうぎょく》をつけて、酔っぱらっている西門慶を寝かしにやった。後から金蓮が部屋のほうへ帰ると、小玉が来て、西門慶が捜していたと告げる。自分の部屋まで来て窓からのぞくと、西門慶と春梅が自分のベッドでふざけ散らしていたので、そのまままた、奥へもどっていった。薛尼の仏法を聞いて酒を飲んでから、ふらふらして帰り、秋菊をいじめたあげく、眠りこんでいる西門慶を簫を吹いて起こすと、金蓮はでき上がった淫帯を西門慶につけさせ、ひとしきり狂いたわむれた。
七十四
朝になって、金蓮はまたも西門慶にいどみながら、二十八日の応伯爵の家の招待に着るために六十両もする毛皮の衣服をねだり、西門慶がことが終って、安郎中の宴会のために起き上がると、すぐその足で毛皮の衣服を見つけるように頼んだ。西門慶はそれを取りに李瓶児の部屋へ出かけたが、もう起きて李瓶児の位牌に茶を上げていた如意児を、迎春にかぎを取らしにやると、すぐさま抱きかかえ、乳をまさぐりなからキッスする。如意児は毛皮の衣服の話を聞くと、金蓮が陰険だということを告げるが、西門慶はあまり本気にもしない。あれは口はきついが心は悪くないから和解するほうがいいと言う。迎春がかぎを持って来、毛皮の衣服が出ると、如意児は声をひそめて、スカートや下着をねだった。西門慶はそれをやったが、如意児に毛皮の衣服を金蓮のところへ届けさせた。金蓮は根ほり葉ほり如意児が来たわけをきくと、
「だんながおまえをかわいがるなら、あたしには何も言うことがないが、ただ、じゃまするようなことはしないでよ」とくぎを刺した。
如意児が李瓶児の部屋へもどると、もう西門慶はいなかった。迎春に、かぎを取りに行ったとき呉月娘がどう言ったかきくと、「かぎを持って行ってどうするんたい? とおっしゃるから、五奥様が毛皮の衣服をほしがったなんて言わずに、知りませんて答えておいたのよ。大奥様は、黙って考えこんでたわ」
西門慶が広間へ来てみると役者や李銘なとの芸人たちも来ており、申二姐《しんにそ》が祝い物を持って来て玉楼の誕生日を祝い、やがて韓叔母や玉楼の姉など、傅《ふ》番頭、甘《かん》出身、崔本《さいほん》のかみさん、段三姐《だんさんそ》、賁四のかみさんなども着いたのだった。しばらくして月娘の部屋へ行きかぎを返すと、「このかぎをどうしたの?」と、月娘が尋ねる。
「金蓮があした応にいさんの所へ出かけるのに毛皮の衣服がほしいというから、李ねえさんのをやったんだ」
「あなたって人は、言うこととすることと違ってしまうのねえ。李ねえさんが死んでも、小間使いも動かしてはいけないと言ってたのに、毛皮の衣服なら散らしてもいいの」
西門慶はぐっとつまり、劉学官《りゅうがっかん》が銀子を返しに来たという知らせを潮《しお》に出て行った。すると王招宣の宅から贈物が届き、次いで李桂姐が四箱の祝い物を保児《ほじ》にかつがせて到着し呉月娘の部屋へはいった。西門慶がはいって行くと李桂姐はひざまずいて四回おじぎをする。西門慶は冷淡にあつかうが、月娘がいろいろとりなし、桂姐が必死に王三官と何もなかったことを説きつけ、やっと西門慶のきげんはなおった。
その時、安郎中と宋御史《そうぎょし》がやって来たとの知らせで、西門慶が出て行くと、三十日にも検察官の侯石泉《こうせきせん》が太常《たいじょう》卿となった祝いの宴会に場所を貸してもらいたいと申し入れられる。そこへ銭《せん》主事もやって来、将棋をさしたり、酒を飲んだり、役者に歌わせたりしていると、やっと蔡府知事が黄主事と到着し、夕刻までゆっくり遊んで帰った。役者に三十日また来るよう言いつけて帰すと、温秀才と応伯爵を呼び、芸人に歌を歌わせながら飲んでいたが、奥でも、三人の手代のかみさんは帰り、段《だん》大姐と金蓮の母は金蓮の部屋に休み、月娘の部屋には月娘の姉、李桂姐、申二姐、尼《あま》三人、郁《いく》大姐、李嬌児、孟玉楼、潘金蓮が集まっていた。そのうち、表の客が帰ったと聞くと金蓮はぬけ出して、李瓶児の部屋へ行こうとしている西門慶を手を引いている来安からひったくって、自分の部屋に連れこんでしまった。
月娘は来安からそのことを聞き、玉楼に向かって、金蓮のことを憤るが、玉楼はたいして問題にしないふうをしている。そこで月娘は李桂姐、申二姐、段大姐を呼び返し、三人の尼を呼んで、十二時ごろまて仏説を聞き、そのあとで桂姐と申二姐が歌を歌った。
世に胎教ということがあり、本来僧尼の説く死生|輪廻《りんね》の物語など、身ごもった身の呉月娘は聞くべきでなかったのである。月娘の生んだ子が家業をつげなかった原因はこの夜にあったわけで、惜しいことである。
七十五
金蓮は西門慶を自分の部屋へ引っ張りこんだのはいいが、西門慶はベッドに腰掛けたなり身動きもしない。「どうして衣服を脱がないの」ときくと、西門慶は金蓮を抱きしめ、「実はおまえに話そうと思って来たんだが、おれはあちらで寝るから、あの道具包みを渡してくれ」
「ごまかそうったって、その手にはのりませんよ。振り返りもしないで素通りしたくせに、話そうと思って来ただなんて。朝方、あのすべたと約束したのね。毛皮の衣服を持たせてよこして、きげんをとらせたりしても、あたしをだれだと思ってるの、二度と李瓶児の時のようなへまはしないわよ」
「だれがそんなカラクリをするもんか。あれがあやまりに来なければ、おまえ、おもしろくあるまい?」
金蓮はしばらく考えていて、「じゃ、きょうは許してあげるわ。でも包みは渡さない。あのすべたと使って、その明くる日はあたしと寝るなんて、ぞっとする」
「おれはどこでも使ってるんだ。渡したっていいじゃないか」
「じゃ、これだけ」
金蓮は托子《あてがい》だけほうり出し、「ちょっとお待ちなさいな。あんたいっしょにずっと寝るつもりでしょ。それじゃ、あのふたりの小おんなが恥ずかしがるから、あの時だけで、あとは別になるのよ」
「だれがずっといっしょになんか寝るもんか」
「お待ちったら! 何あわてるの」
「まだ、言うことがあるのか」
「いっしょに寝るのは許してあげるけど、くだらない話をするんじゃないことよ、つけ上がるから。もし話したことを聞きつけたら、もうこの部屋へはいれない。はいっても、あんたを食い破ってしまうわよ」
「つべこべうるさい淫婦だ」
西門慶が出て行くと、春梅は「かってに出て行かせなさいよ。仇どうしになったってつまらないでしょう?」
西門慶は李瓶児の部屋へ行くと、しばらく酒を飲んでから、如意児とベッドにはいり、年をきいたり、名をきいたりしながらたわむれつづけ、
「おれのほうが一つ年上か。章《しょう》四児、おまえはなんてかわいいやつだ。おれをだいじにするんだぞ。奥の大奥さんが赤ん坊を生んだら、またおまえのお乳がいるんだからな。もしおまえに子ができたら、おまえを妻にして、奥さんの部屋に住めるようにしてやる」
「わたくしの亭主は死にましたし、里にはだれもおりません。わたくしは一生だんな様のおそばにいるつもりです。死んでもだんな様の門は出ません」
李瓶児を思い出させる、きめの細かい白い肌を暖めたり、暖められたり、一晩じゅうこうして過ごした。
翌朝部屋を出ると西門慶はきのう宋御史がほめた鼎《かなめ》をさっそく検察院の宋御史のところまで送り届けさせ、別に蔡知事に贈る金鍛子や色鍛子を用意させ、月娘の部屋で粥《かゆ》をすすっていた。そこへ荊都監の来訪が知らされる。出て行くと、検察院の宋御史が上司へ報告する時によろしく頼んでくれるよう、履歴書も用意し、お礼として白米二百石の目録までつけて来ているのだった。西門慶は承知してそれを受け取り、荊都監が帰るとまもなく、琴童を供に、馬に乗って蔡知事訪問に出かけて行った。玉簫《ぎょくしょう》は西門慶を送り出すと、その足で金蓮の部屋へ行き、昨夜、月娘が金蓮のやり口を玉楼相手におこっていたしだいを告げ口した。
「何かと言えばあたしの悪口か。ふん、男に抱かれたくて目がかすんでるんだろうよ。おまえ、だんながあたしの部屋で寝たって言うのかい?」
「だんな様は表へおいでになりましたし、六奥様はおなくなりですし、ここでなければ」
「だれでもそれぞれ行き場所はあるよ。ひとり死んだって、そのふとんの跡つぎはちゃんといるのさ!」
それから毛皮の衣服についてのことも玉簫はつけ加えた。
「勝手な口をたたかせておくさ。口をふさぐわけにゃゆかないからね。口も下の穴もきたないこった」
だれにも言わないように頼んで玉簫は奥へ帰り、金蓮はきょうの訪問の化粧をはじめる。やがて五人のご婦人方は轎《かご》をつらねて応伯爵の家へ、子供の誕生一月めの祝い酒を飲みに出かけた。
話かわって、如意児と迎春は、昨夜西門慶が残した料理や酒を昼間から、金蓮の母や、春梅、郁大姐を呼んで飲んでいたが、春梅が申二姐を呼んで座興に歌わせたらと思いついた。さっそく、ちょうど火にあたりに来た春鴻に一杯飲ませて使いに行かす。春鴻が飛んで行くと、申二姐は月娘の姉や西門大姐、三人の尼、玉簫たちと茶を飲んでいたが、いっかなことで腰を上げない。春鴻は引き返してそれを伝えると、春梅が「わたしが呼んだと言えば来るよ」
「そう言ってもだめなんだ。表でねえさんが呼んでると言うと、またねえさんができたんかねと抜かしやがる。それで春梅ねえさんだって言ったら、郁大姐で間に合うだろう、わたしは大奥様のお姉様に歌ってさしあげるんで暇がない、こうなんですよ」
春梅はまっかになって、人の止めるのも振り切り、疾風のように申二姐のところへ飛んで行き、さんざんその歌をののしり、恥をかかせて追い返した。月娘の姉はあきれ返るばかりである。
蔡知事のところから西門慶がもどると、待ちかねたように平安が何《か》千戸のところから使いが来て、あした賊兵の状況について話したいと言っていることや、胡府知事から新しい暦が届いたことなど報告した。
西門慶は奥へはいり、来興《らいこう》に三十日の侯検察官、一日の劉・薛《せつ》両内相を招く準備を命じ、しばらく荊都監から届いた酒を飲んでいる。そこへ月娘たちが帰って来、月娘ひとり残って応伯爵のところでの様子を報告した。月娘の姉や尼のところへ行って、月娘は申二姐のいないのに気がついて問いつめる。月娘の姉が春梅がののしったことのしだいを話すと、月娘はおこり、
「歌いたくないって言うのになんでののしるのだろう? まるで自分が呼んだみたいないばりようじゃないか」と、今度は金蓮に向かい、「あんたもきびしくしつけてもらいたいわ。まるで、天も恐れないみたいじゃないの」
「でもあんな盲の歌うたい」と金蓮は笑い、「だいたいあっちこっちに出入りするのも歌うためじゃありませんか。おとなしく歌ってりゃいいのに、偉そうにしてるからですよ。春梅がののしらねば、かえってへんだわ」
「あんたは口がおじょうずね。いい人も悪い人も一からげにののしっていいっての?」
「だって、あの盲淫婦が先に振り上げたこん棒でしょう?」
月娘はまっかになり、
「それじゃ、春梅に六族の親戚みんながののしりつくされても、黙っているがいいというのね」と言うと、金蓮に背を向け西門慶の所へ行く。
「どうしたんだい」
「どうもこうも、あんたの使っている行儀のいいむすめが、申二姐をどなりつけて追い返したんですよ」
西門慶が笑ってとりあわぬので、月娘はぷりぷりしていた。気まずくなって玉楼と李嬌児はひきとって行ったが、金蓮ひとり、じっと部屋から動かない。というのはこの日が壬子《みずのえね》に当たるので、薛尼からもらった札と薬を飲み、西門慶と交じわらねばならぬから、西門慶を自分の部屋へ連れこもうと思っているのである。ところが西門慶が酒をなめていっこう腰を上げないので、
「では、お待ちしてますからね」とすだれを上げて出て行く。
「ああ、この酒を飲んでから行くよ」
これを聞いて月娘、
「あたしはあなたをやりませんよ。話がありますからね。あんたたち、ふたりで一つのズボンでもはいてるの。なんていやらしいんだろう。わたしの部屋まで呼びに来て、恥知らず。自分ひとりが奥さんの気なのかね。あんたもあんたですよ。東京《とうけい》から帰って、表にばっかり、奥に一晩だって泊まらない。冷たい|かまど《ヽヽヽ》には火、熱い|かまど《ヽヽヽ》には薪《まき》、それがほんとうでしょう。わたしのことじゃありませんよ。ほかの人たちは口にこそ出さないが、心の底ではおこってるんですよ。きょうだって孟さんは、応さんの家でも何も食べなかった。腹の底まで冷えてるんだわ。かみさんの出したたった二杯の酒だって吐いてしまったのですよ。あんたはそれでも見舞ってはやらないおつもり?」
西門慶はおどろいて酒をやめ、すぐさま玉楼の部屋へ行き、吐いていた玉楼に薬を飲ませ、床の中で慰めながらきげんのなおったところで歓を交えたのだった。
翌日、西門慶は床を出ると役所へ行ってしまったが、月娘のために壬子《みずのえね》の日をはずされた金蓮はむかっ腹を立てて、朝早く母親を家へ帰してしまった。
月娘は李嬌児、孟玉楼、西門大姐、尼たちと奥にいたが、小玉に金蓮と金蓮の母を呼びにやらせようとすると、玉簫が自分からその役を買って出、金蓮のところへ行くと、ゆうべ月娘が、西門慶を金蓮のとこへやらなかった一部しじゅうを告げ口した。玉簫が帰って、
「おかあさんはもうお帰りになりましたが、五奥様はすぐ参ります」と返事をすると、月娘は姉に向かって、
「きのうわたしに言われたもんだから、なんのあいさつもなしに、おかあさんを帰したんだわ。きょうはまた、きっとなにかたくらんでやって来ますよ」
金蓮は窓の下にかくれていてこれを聞き、だしぬけにはいって来て、
「そのとおり! 大奥さん! あたしが母を家へ帰したのはね、だんなを連れこむのにいいからですよ」
「よくも言いましたね」月娘は言った。「だんなが東京から帰ってから、あんたにつかまって奥へ来ないのは、あんたひとりが奥さんなんだからね。ほかの人は奥さんでないんだろう。わたしの知らないことで、あんただけ知ってることがあるらしいわね。どうせ一日じゅうくっついてるんだから」
「だんなはあたしの所へ来ませんよ。なわでしばってあるんじゃないわ。だれが男ばっかりほしがってるもんですか」
「ほしがらなきゃ、きのうわたしの部屋でだんなを引っ張ったのはなぜ? だんなは罪もないのに、なぜあんたのなわにしばられなきゃならないの。物の道理もわからないんだから言って聞かせたってなんにもならないがね、男をつついてそっと毛皮の衣服を持ち出させ、なんのあいさつもないのは、なんのこと! わたしたちはこの部屋に飼われる鴨《かも》かね? 孤老院にだって頭《かしら》の人はちゃんとあるってのにさ。使っている小むすめだって、あんたと猫とねずみの仲のくせして、ひとりの男を順ぐりに回して。それだからふしだらになったんですよ。あれが人をののしり回るんだって、あんたと腹を合わせてるんだろう」
「あたしの小おんなだからどうなの。悪けりゃたたけばいいわ。あたしはここで見てるわ。毛皮の衣服はもらいましたよ。ほしかったからさ。出入りするようになったばかりの人だって、すぐに五六着の衣服は持って行くじゃないの。それをなぜ言わないの。小おんながいばりちらすのは、ふしだら者のあたしがだんなの気に入るからさ。だんなをそうしこんだのは、だれさんなのさ」
月娘はすっかりおこって、顔は紫色にむくみ、
「それはわたしがふしだら者だからだろうよ。なんと言ったってね、わたしは娘のからだで正式にとついだ妻ですよ。にょろにょろ男のあとを追っかけてはいりこんだ恥知らずの女じゃないんだからね」
月娘の姉が「まあまあ、三奥さんの前ですよ。もうおよしなさい」と言うが月娘はなおも
「あんたは、わたしを殺しちまいたいぐらいなんでしょ」と金蓮にくってかかる。
孟玉楼は月娘をなだめ、金蓮をすかし、月娘の姉も
「人を打つ手は悪い手、小ものをののしる口は悪い口と言うじゃないの。奥さんどうしでいながらわめき合うなんて、わたしら親戚のものでも泊まるのが恥ずかしくなるじゃないか。おさまってくれないと、わたしが気に入らないからだと思って帰らしてもらいますよ」と立ち上がるので、あわてて李嬌児が引き留める。
金蓮は地べたをころがり回り、髪飾りが落ちるのもかまわず泣きわめき、
「あたしが死ねばいいんだろう。こんな命がいるもんか。だんなが来いと言ったから来たまでじゃないか。だんながもどってから離縁状を書かせて、追い出しなさいよ」
「見てごらん、このざま」と月娘、「わたしが一ことも言わぬのに、まるで准河《わいが》の洪水だわ。だんながもどってから、わたしをなんとかしようと思ってるんでしょ。あんたがどんな力を持ったってこわいもんか!」
「あんたは正妻さんだわ。だれだってあんたに指もさせないでしょうよね」
「なんだって! わたしが男でもかくしてるっていうのかい」
「男がなくって、どうしてだんなをあたしによこすのよ」
ふたりがますますしつこくなったので、玉楼は金蓮の手をとり、
「大きな声して、尼さんに笑われるじゃないの」と玉簫の手を借りて連れ出してしまう。月娘の姉は、
「あんたは身重のからだなんだから、おこっては毒よ。みなが仲良くしてりゃわたしも居ごこちがいいが、止めても引かぬけんかなんかみせられちゃ、困ってしまうよ」と月娘をなだめる。三人の尼はそそくさと小尼にしたくさせて帰って行った。
西門慶が役所から帰り、奥へはいると月娘はオンドルに寝ていて返事もせぬ。表の金蓮の部屋にはいると、髪ふり乱して横になっており、これも返事もしない。わけがわからぬので、玉楼の部屋へ行くと、玉楼は隠すわけにもゆかず、月娘と金蓮とが大騒ぎしたことを詳しく話した。西門慶はおどろいて奥へ引き返し、月娘を揺り起こし、
「おまえは身重《みおも》だというのに、あんなやつと口争いして、どうするんだ」
「そりゃ、仲が良くないからよ。あの人のおかあさんをお茶に呼んだのに、あいさつもさせずに帰してしまって、その上わたしにくってかかるのよ、止める人がなかったら、わたしをなぐったかもしれないわ。あの人は目の上の瘤《こぶ》のわたしを踏んづけたいのよ。あんたが連れこんだから、あんたに離縁状を書かせろとか、まるで准河の洪水みたいな騒ぎ方。わたしのようなやせ骨じゃ、相手できっこない。からだはぐったりするし、赤ん坊も何もあったもんじゃないわ。死にもできず、生きもできず、胸が焼けるようだし、おなかは下へさがる、頭は痛む、腕はしびれる。今も便器《おまる》にしゃがんだけど、出て来ない。いっそ出て来てくれたら、死んでも身持ちの幽霊にならずに済むというものよ。夜になったら、首をつって、あんたたちをいっしょにさせてあげますよ。そうすりゃ、李瓶児みたいに殺されずに済みますからね。三年も女房が死ななければ、男も気づまりだぐらいは、わたしも知ってるわ」
「姐《ねえ》さん、あんな淫婦相手にむきにならなくてもいいじゃないか。あいつには、高い低いも、いいにおいも臭いにおいも、わかるもんかい。今、表へ行って、どなってくるからな」
「どなるって、また、なわでしばられるくせに」
「おれをなんとかしてみろ、蹴とばすだけさ。だが、おまえ気分はどうだ。薬は飲んだか」
「飲めるもんですか。がなり立てられたんだもの。胸は焼ける、おなかは下がる、頭は痛むし、腕はしびれるし。うそだと思ったら脈をみてちょうだい。止まったり早くなったり」
「そりゃたいへん。早く医者を呼ぼう」
「任《にん》医官なんかだめよ。助かるものでも殺すんだから。どんなりっぱな妻だって塀《へい》の煉瓦《れんが》と同じね。一つ落ちたって、あとがあるもの。あんな頭のいい人だもの、わたしが死んだら正妻に直すのがいいことよ」
「あんな淫婦なんか気にするな。小便と同じだ。流しっぱなしにしておいてもかわいてしまう。それより、第一に任医官に見てもらおう。妊娠してるんだから、へんなことになると困るよ」
西門慶は月娘が劉婆で良いというのに、小ものを馬で任医官を迎えにやらせ、自分は月娘につきっきりである。任医官が留守で、明朝しか来ないとわかると、月娘は喬家が毎日待っているから行くようにと西門慶を行かせる。西門慶はしぶしぶ出かけて行った。
喬家の招きは、しょせんは胡府知事に話して義官の賞状をもらってほしいということだった。銀子三十両と贈物をあした届けると言う。荊都監の頼みといい、呉|大舅《だいきゅう》の頼みといい、このところ、西門慶を通して良い目にありつこうということばかり。夕暮れに帰ってみると、月娘はいくぶん気分が良くなっていた。その夜、西門慶は月娘の部屋に泊まった。
翌日、宋検察官の宴があるので、早朝から役所よりつかわされた楽人たちが西門慶の宅に集まる。そのうちに任医官がやって来て、西門慶の栄進のお祝いを言い、奥へ通る。月娘は任医官に見てもらうのをいやがったが、玉楼や姉になだめられ、しかたなく身の回りを整えはじめた。
七十六
月娘がなかなか出て来ぬので、西門慶みずから月娘を客間まで引っ張って出たが、診察のあと任医官は怒気やすめの薬を調合すると告げて帰った。西門慶はすぐ琴童に一両の銀子《かね》とハンカチを持たせて薬を取りに出した。
一方月娘の部屋には、孟玉楼や李嬌児たちがつめかけて、銀の食器などを拭《ふ》いている。
「どうして大ねえさんの心の病気が、あの医者にわかったんでしょうね」と、玉楼が月娘に話しかけると、月娘はまた金蓮を思い出し、
「ほんとうに。あの女とわたしとでは身分が違うばかりじゃなしに、わたしのほうが八月《やつき》も年上なのよ。だんながあたしをかわいがったって、少しは譲るべきでしょう。それなのにわたしを目のかたきにしてるんだわ。もしあんたたちが追い出すんでなければ、わたしは十年したって出て行きませんよ。鶏は一羽死んだら一羽が鳴き、あとで鳴く声のほうがきれいだそうだけれど、わたしが死んでから、あいつを立てればいいわ」
「あら、大ねえさんは、あたしたちもいっしょにしてしまったのね。でも、あの人は憎らしいこというけれど、心はそんなに悪くないのよ」
「あんなやつ、今寝てるそうだけど、死ぬんなら死なせたらいいわ。あいつの心が悪くないなら、どうしてこっそり盗み聞きして皮肉るの。あんたたちより、それで心がいいの?」
「大|甕《かめ》はどろ水も入れなきゃならないって言うでしょ。君子は十人の小人を許すって。大ねえさんも心を大きくお持ちなさいな。やり合ったって果てしがないもの。あの人を呼んで来て詫《わ》びさせればいいんでしょ?」
月娘の姉も口を添え、
「ほんとうだ。だんなも両方で締め出されては行き場がなくて困っちゃうわ」と言う。玉楼が出て行こうとするので、
「孟さん、行かないでちょうだい。あの人の好きなようにさせといて」と、月娘。
玉楼は金蓮の部屋へ行き、髪も結わずベッドにすわっている金蓮に、
「何をおこってんの。あたしたちが忙しい目にあってるのに、引きこもってられては困るわ。いま、裏のほうはとりなして来たから、髪でも結ってあやまって来なさい。廂《ひさし》を借りてる身分だもの、頭を下げなくちゃしかたないじゃないの。頭を下げれば、天より大きい事件だって氷みたいに解けてしまうわ。そうしなけりゃ、だんな様だって、途方にくれなさるよ」
「あたしなんて、あの人に比べられないわよ。正真正銘の奥様と、吹けば飛ぶ露の妻」
「あたしたちは、あとから来たといったって、手続きはふんでるじゃないの。飛入りじゃないわ。おこってる人がいれば、味方の人もいるんですよ。勢いがあっても使いきっちゃだめよ。言いたいことも言いきってしまってはだめ。少しは|ゆとり《ヽヽヽ》を持たなくちゃね。きょうは、裏も気がひけてるんだから、行って来なさい。これからもいっしょに暮らすんだもの」
金蓮は黙って聞いていたが、しばらく考え、涙をのんで鏡に向かうと、髪を結い衣服を着かえ、玉楼について月娘の部屋にはいる。玉楼が、
「大奥様、連れて参りましたよ。金蓮さん、お詫びしなさい。大奥様も、このむすめを許してやってくださいな。年が若くて向う見ずですが。今度無礼をしましたら、大奥様の手を待つまでもなく、このあたしが許しませんから」
金蓮は月娘の前にひざまずいて四回おじぎをしたが、頭を上げるが早いが飛び上がって玉楼に、「この淫婦、いつあたしのおっかさんになったのさ」
回りのご婦人方がみな吹き出したので、月娘も笑ってしまう。
「この悪奴隷! おかあさんがあやまってやってるのに、なんでくってかかるんだい」と、玉楼が笑う。月娘の姉も
「みなさんが笑い合っているのは、いいものですねえ。わたしの妹に行き届かぬことがあるでしょうけど、みなさんも、がまんしてくださいな。牡丹《ぼたん》の花も、緑の葉があって映《は》えるんですから」
「いいえ、大奥様は天、あたしたちは地、大奥様さえ許してくだされば、あたしたちのような犬の骨は、大奥様の胸の中に収まってしまいます」と言う金蓮の背中をたたきなから玉楼、
「そうそう、それでこそ、わたしのむすめよ。忙しいんだから手つだってね」
金蓮もオンドルにすわって食器の手入れを手つだった。
宋御史の来訪があったので、西門慶は捲棚《まきだな》に通す。宋御史は贈られた鼎《かなえ》の礼を言って、土地の民情風俗のことを尋ね、話が官吏に及ぶと、西門慶は巧みに荊都監のことを持ち上げ、また呉大舅のことを指揮の職に推挙し、履歴書を渡した。そのうちに役人たちが続々と到着し、茶なんど飲んでいるうちに午後になり、四人乗りの大轎に乗って侯検察官が到着する。主人役の宋御史が侯検察官に茶を献じて、にぎやかに日の暮れまで宴会はつづいた。
みなが帰って行った後、楽人だけは帰して料理はそのまま、呉大舅、温秀才、応伯爵、傅番頭、甘出身、賁第伝、陳敬済などを呼び集め、改めて役者に歌など歌わせて酒を飲みはじめた。客が散ると月娘の部屋へ行き、呉大舅の昇進のことを話したが、月娘はたいしてうれしい顔もせず、立ち上がって出ようとする西門慶に、
「どこへ行くの? もしも表へ行くのなら、行かなくってもいいのよ。さっき、あの人があやまりに来たから」
「金蓮の部屋など行くものか」
「じゃ、だれの部屋に行くの? 孟さんの所もだめよ。きのうわざわざあの人のところへあなたを回したのに、表の人の肩をもつんだから」
「あんな淫婦の言うこと聞くもんか」
「だから、表はだめよ。わたしんとこもだめ、李嬌児のところへ行きなさいな。あしたからは、わたしも目をつぶっていますから」
西門慶はしぶしぶ李嬌児の部屋へ寝に行った。
翌、十二月一日、役所から帰ると西門慶は三十両の銀子に豚や酒を添え、玳安に東平府の胡知事のところまで賞状を受取りにやらせ、それが着くと、喬大戸に使いをやって呼び寄せ、「義官|喬洪《きょうこう》」と喬大戸の名の載っている賞状を渡した。喬大戸は大喜び。喬大戸を西|廂《むね》の書房へ通し、やって来た応伯爵、呼び寄せた呉大舅、陳敬済と酒を飲んでいると、県庁から二百五十冊の暦が届いた。年号|重和《じゅうわ》元年と改められ、正月は閏《うるう》である。
夕方客が帰ったのち、来安と春鴻を、夏家へ訪問に行く月娘の轎《かご》につけて出すと、西門慶は金蓮の部屋に足を運ぶ。早くも見つけた金蓮は急いで冠をとり、髪をかき乱し、灯もともさぬ中で、ベッドにぐったりと横たわる。西門慶が部屋にはいって春梅を呼んでも返事がない。見ると金蓮が力なくベッドに倒れている。そっとベッドに腰をおろし、
「おい、どうして返事をしない」と抱き起こそうとすると、いじらしや金蓮はぽろぽろ涙をこぼしている。「どうしたんだ、けんかなどして」と首に腕をからますと、
「けんかなんかしないわ。あら捜しされただけだわ。あたしが男をくわえこむ名人で、あんたを追い回してるって言われた。あの人は正真正銘の奥様ですわよ、あんた、あたしのとこへなんか来て、何か用があるんですか。あの人だけをだいじにしてりゃいいんだ。そうすりゃ引っ張りこむなんて言われずに済むのよ。あんたが、あたしんとこに付ききりだと言われたけど、あたしのからだがよく知ってるわよ。あんた幾晩あたしの部屋へ泊まったの? 毛皮の衣服をもらったからって、あやまりに行かなきゃならないの? あんたも男なら、少しはしゃんとして、押さえつけることくらいできそうなもんだ。どうせ卑しい妾、あんたの所へ来てから息もつけやしない。あの人が腹を立てれば、お医者を呼ぶ人も、看病する人もいるのに、あたしは日陰者、ここで死んだって、だれも気にかけて来てくれる人もない。そんなにされても、涙は腹にのみこんで、どうしてあやまりに行かねばならないのよう」とくずれるように西門慶のふところに倒れると、涙も水ばなもいっしょに流して、わあわあ泣く。
やっと慰めて、春梅のことをきくと、これまた、月娘に奴隷女とののしられてから三、四日も水さえ飲まず、死にたい、死にたいと泣いていると言う。西門慶がおどろきあわてて、部屋へ行くと、化粧もしていない春梅がオンドルに寝ている。呼んでも返事しないので、両手で抱きつこうとすると、春梅はするりとからだをかわし、
「わたくしになんのお話がございますの? 抱いてもお手のよごれになるだけですわ」
「おいおい、大奥さんがののしったとしても、物を食べぬやつがあるか」
「だんな様の知ったことでございませんわ。どうせ奴隷女なんですもの、死んだってご損にはなりませんわ。あしたにでも韓道国《かんどうこく》の女房が顔を出したら、見ててちょうだい、思いきってののしってやりますよ。あいつが、町じゅうの男をたらしこむ盲淫婦の歌うたいを届けたことがことの起こりなんだから」
「好意からしたことじゃないか。まったく何から騒ぎが起こるやら」
「いいえ、あいつがもすこし穏やかなら、おこりゃしません」
「おい、ここへ来たのは茶をついでほしいからなんだよ」
「豚殺しが死んだら、豚を毛ごと食べるよりしかたないでしょう。あたしは動けなくて寝てるんですもの、お茶どころじゃありませんわ」
西門慶はむりやり春梅を金蓮の部屋へ連れて行き、三人は肉だ竹の子だ韮《にら》だと、うまいものをさんざん食べた。
翌日、朝早く西門慶は何千戸とともに、侯検察官を郊外まで見送りに行き、月娘も夏家へ祝い物を届けに行ったが、その留守に昼ごろ、県門前の茶店の王婆《おうばばあ》が何九《かきゅう》を連れてやって来た。玳安が聞くと、何九の弟のことで頼みごとがあると言う。金蓮に話を通じると、連れて来いと言うので、王婆だけはいって行った。頼みというのは何九の弟の何十《かじゅう》かどろぼう仲間に引きこまれ、提刑院につかまっている、それをなんとかと言うのだった。夕方、西門慶が帰って来ると、さっそく何九の手紙を読む。その晩は孫雪娥の部屋に泊まった。
翌日西門慶は役所で、つかまえたどろぼうに二十棒くらわせただけで釈放し、そのかわりに弘化《こうか》寺の和尚を、どろぼうに宿を貸した罪状で、引っ捕えてしまった。まさしく張公が酒を飲んだら、李公が酔っぱらったというところである。
この日、月娘の部屋には、宴会のために、呉銀児、鄭愛月、洪《こう》四児、斉香児《さいこうじ》の四人の芸者が来ていた。西門慶が帰宅して酒を飲んでいると、表で鼓楽がひびき荊都監《けいとかん》が到着する。荊都監は宋検察官に話がついたことを聞いて、大喜びで礼を述べる。また、鼓楽が鳴りひびき、劉・薛の両内相、つづいて周守備《しゅうしゅび》が到着する。そうこうしているうちに、張団練《ちょうだんれん》、何千戸、王三官、范《はん》千戸、呉大舅、喬大戸たちがつめかけ、一同は八時ごろまで飲んで帰って行く。その夜は李瓶児の部屋で如意児と寝た。
次の日、役所から帰り、すぐ酒の用意をして、呉|道官《どうかん》、呉二舅、花大舅、沈叔父、韓叔父、任医官、温秀才、応伯爵、李智、黄四、杜三哥《とさんか》、それから家の三人の手代を招いた。李桂姐、呉銀児、鄭愛香が酌、李銘、呉恵《ごけい》、鄭奉《ていほう》が弾《ひ》き歌う。そこへ、清河県の右衛《うえい》指揮に就任した雲理守《うんりしゅ》がみやげ物を供にかつがせて、あいさつに来て、宴に加わる。その晩、西門慶は月娘の部屋に泊まる。
翌日、雲理守のところへ行こうとしているところへ、賁四《ほんし》が来たので広間に出ると、夏指揮が賁四に自分の家族を東京へ連れて来させてくれという手紙だった。西門慶は六日に賁四がたった後は呉|二舅《じきゅう》にひきつがせることに決めて、雲理守の家へ出かけた。
その後、家へ帰るという月娘の姉を、月娘たちが送りに出ると、門のそばで平安にののしられて、画童がわあわあ泣いている。わけをきくと、温秀才が呼んでいるのに画童が行かないというのである。行かぬ理由を月娘や金蓮がきいても画童は返事せず、それを平安がひっぱたく。そこへ玳安が馬を引いて帰って来、画童の泣いているのに気づいて、
「何を泣いてるんだい」
「温|師父《しふ》が呼んでいるのに行きやがらんのですよ」と平安。
「温師父? 温|尻《ケツ》か! 尻がなければ日が過ごせんのだからな。いつも尻を貸してるくせにきょうはどうして逃げるんだ」
ふしんに思って月娘や金蓮が問いつめると、きょうは尻が痛いと言って逃げている画童を温秀才がつけ回していることがわかった。夕刻になって西門慶が月娘の部屋にはいって行くと、「雲さんが引き留めたんですの」と、月娘が言う。
「ああ。あいつも官吏になったんで酒も出したよ。そのうちに掛け軸を贈ってやろうと思うから、温先生にいい文章でも書いてもらおう」
「温先生がきいてあきれるわ。あんな恥知らず」
金蓮がぺらぺらと門口のできごとをしゃべり玳安に画童を連れて来させた。西門慶はかんかんにおこり、目をむいて画童に、
「さあ言え! あいつはおまえに何をしようとした」
「はい、わたくしにお酒を飲ませて、あんなことさせました。きょうは痛いので逃げましたら、平安にたたかせました。師父はよく奥様方のお部屋のできごとを聞きますが、わたくしは話しはしませんでした。きのうも、宴会の銀の食器を盗んで来いと言いました。だんな様のお手紙を倪《げい》師父に見せ、倪師父がそれを夏だんなに見せたこともあります」
「うーむ。虎は描けても骨描けず、顔は知れても心は知れぬ、か。あいつも、人の皮をかぶった犬の骨だったな」温秀才のとこへ行くなと言い含めて画童を帰すと、西門慶は月娘に向かって、「これでわかった。東京で|※[#「羽/ふるとり」、unicode7fdf]《てき》様が、機密ならざれば害生ずと言われたが、知らんまにやつが漏らしてたんだ。あんな犬の骨を家に飼っておくことはもうまっぴら!」
西門慶は平安を呼び、
「品物を納めるからと言って、あした温|尻《ケツ》に家を明けてもらえ。おれをたずねて来たら、留守だと言え」と命じ、月娘に、「賁四が暇を取りに来たが、六日には夏龍渓の家族を連れて立つそうだから、糸屋のほうは二舅《じきゅう》についてもらう。いいだろうな?」
「いいも悪いも、ご随意に。わたしの兄弟を引き立ててやったなんて言いたいんでしょ」
月娘の皮肉など耳も貸さず、西門慶は呉二舅を呼ばせ、いっしょに酒を飲んでから店のかぎを渡した。
翌日、温秀才は平安から立|退《の》きの知らせを受けてあわてたが、とりつく島もなく、もとの倪秀才のところへ移って行った。
七十七
ある日、汪《おう》参議、雷《らい》兵備、安郎中《あんろうちゅう》の三人の役人が西門慶をおとずれ、浙江《せっこう》の趙大尹《ちょうたいいん》が大理寺正になったので、あなたも加えて宴を九日に開きたいから場所を貸してくれと申し入れ、その帰るに雷は、西門慶の手代の孫|文相《ぶんそう》を釈放してやった昔のことをちょっと、思い出させるようにしゃべった。
一方、十二月一日から家計の担当の順番が来た潘金蓮は、新しい天秤《てんびん》を買って、小ものになかなか銀子をごまかさせないので、小ものに恐れられている。
翌日、西門慶は何《か》千戸と夏龍渓の家族のたったあとの家を見に行き、次の日、何千戸はそこへ引っ越した。
何九《かきゅう》が礼に現われる。喬家と雲理守《うんしゅり》のところへ、尚拳人《しょうきょじん》の推薦してくれた男の書の軸物に酒やくだものを添えて持って行かす。賁四に代わって呉二舅にやらしている獅子《しし》街の糸屋の店を見に行く。そうしたあわただしさのうちに雪もよいになってくると、鄭愛月《ていあいげつ》のところへ行きたくなってきた西門慶は、呉二舅と飲みつづけている体《てい》にして、そこそこに引き上げ鄭愛月の家をたずねた。西門慶は酒を飲みながら林太太《りんたいたい》のことを話し、王三官を義子にするよう頼まれたと言うと、愛月は手を打って喜び、
「どう、あたしの手引きは? 王三官の奥さんも、すぐだんな様の手に落ちますよ」
「ふふふ、正月になったら、王三官と奥さんを呼ぶつもりさ」
「だんな様は、王三官の奥さんが、どれほど風流で妖艶《ようえん》だか、ご存じないんです。ことし十九、それが家で、まるで後家さんのように暮らしてるんですものね。王三官は奥さんをほったらかし。だからちょっとお膳《ぜん》立てすれば、ころりですわ」
ふたりは酒を飲みさんざん雲雨《しごと》をたのしみ、八時ごろ床を出ると、二三杯飲んで西門慶は何くわぬ顔で雪ふみわけて家へ帰った。
次の日、応伯爵がやって来て、自分のところの応宝《おうほう》の友だちが失職しているから使ってもらえないかと言い、その男を呼び寄せて、西門慶にはいつくばってあいさつさせた。西門慶はその男を家へ入れることにし、月娘は来旺がもと住んでいたところに入れることに決めた。西門慶はその男の名を来爵《らいしゃく》とかえさせる。
九日、西門慶は安郎中、汪参議、雷兵備とともに趙知事を招待したが、この日の早朝、来爵夫妻が移って来て、来爵の女房は奥で月娘たちにあいさつして回る。こじんまりしたうりざね顔の小ぎれいに化粧した纏足の女である。月娘はこの女に恵元《けいげん》と名をつけ、恵秀《けいしゅう》や恵祥《けいしょう》とともに、かまどの用をするように命じた。
幾日かたって孟玉楼の伯母の楊婆が死んだので五両の香典のほかに料理などを持たせ、呉月娘、李嬌児、孟玉楼、潘金蓮を弔いに出した留守に、西門慶は向いの店の書房に行き、裁縫師に月娘の貂《てん》のえり巻を作らせたが、その一本を十両の銀子とともに玳安に呉銀児のところへ持って行かせる。玳安が帰って来ると、今度は賁四の留守をいいことに賁四の女房のところへ、そっと使いにやり、会いたいということを伝えさせた。玳安が承知の印のハンカチを持って帰って来ると、西門慶はハンカチを鼻にあて、そのにおいにひどく興奮し、来訪して来た花|子由《しゆ》、応伯爵の酒の相手の済むのを待ちかねて、暗い中を賁四の家へ飛んで行く。
待ちかねて家の前にかまえていた賁四の女房はさっと門を開いて中に通す。奥の部屋は暖かく用意されていた。賁四の女房が隣の韓嫂《かんそう》に見つからなかったかと心配そうな顔をするのを、西門慶はやにわに抱きかかえ、キッスしながら片手でまくらを引き寄せ、衣服をひきはいで、オンドルへ押しつける。急がしくことを済ますと、五六両の小粒と金簪《きんかんざし》をやって、そっと外へ出た。待っていた玳安は急いで門を開いて西門慶を入れる。だが、人にわからぬのでいい気になり、たび重っているうちに、いつしか隣の韓嫂がかぎつけ、金蓮の耳にもはいった。
ある日、一千両持って湖州へ絹織物を買付けに行っていた崔本《さいほん》が、船に商品を積んで帰って来たが、そのことを言いに琴童が西門慶を広間から、向い店から、奥から家じゅう捜すが見つからない。玳安は腹の底で笑いながら知らぬ顔をしている。大騒ぎしているところへ、賁四の女房と一戦交えて来た西門慶か何くわぬ顔で現われたので、一同は口あんぐりだった。
西門慶は広間で崔本から帳簿を受け取り報告を聞いたが、心をおどらせたのは、前に法を曲げて救ってやった苗青《びょうせい》が西門慶のために楚雲《そうん》という十六の女を買っており、送り届ける準備をしているという話だった。連れて来るのは来年の春と聞いて、「どうしておまえが連れて来なかったんだ」と羽あれば楊州《ようしゅう》まで飛んで行きたい様子である。午後になり、荷揚げした品物は獅子巷に納められた。
西門慶が歳暮の贈物の用意をしていると、荊都監から使いが来て、「宋検察官の上奏文がとっくに東京へ届いているはずですが、お上からどんな達しが来ているか、検察官へ調べに行っていただきたいのですが」と言う。西門慶は家に伺候している小役人に銀子をつかませ、消息をきかせに行かすと、届いたばかりの官報の写しを持って帰って来た。それを見ると、周守備も荊都監も副参統制に昇進し、呉|大舅《だいきゅう》も指揮|僉事《せんじ》に進級することがわかった。西門慶はさっそく、呉大舅を呼んでそれを見せ、進級祝いの宴会費はこっちで立て替えると言った。そこで酒になったが、西門慶は陳敬済を呼び写しを二通作らせ、荊都監や周守備に送り届けさせたのである。
七十八
翌日、荊都監が礼に来、西門慶は宋御史まで礼を届ける。そのうち辞令が下り呉大舅は新しい役につく。西門慶は銀子三十両、京緞子四匹を礼物用として呉大舅にやり、二十四日届け出が済むと、羊や酒や掛け軸を用意して親戚友人を招待してやる。同日、何《か》千戸の家族が到着し、西門慶は月娘の名で茶を届ける。二十六日、李瓶児の百日忌。呉退官が十二名の小道士を連れて来て法事。親戚友人が茶を届けに来、晩まで精進料理の宴会。二十七日、各家へのお返しで忙殺される。そして大|晦日《みそか》、家々は爆竹を鳴らし、軒ごとに春聯《しゅんれん》と桃符《まよけふだ》が貼りめぐらされる。西門慶は紙を焼いて李瓶児の霊をまつり、奥の部屋で一家だんらん、ひとりびとりひざまずいておじぎする小ものや小おんなに、ハンカチや銀銭をやる。
明けて、重和元年|元旦《がんたん》。床を出、紙を焼いて天地を礼拝すると、馬で年始回り、奥さん連は月娘の部屋へ祝いに行く。平安と当直の小役人は年賀客の名刺受付。陳敬済は、年始の客の応待である。昼、西門慶が各役所の年始を終って帰宅すると、王三官、何千戸、荊都監、雲《うん》指揮、喬大戸たちが年始に押し寄せる。西門慶はだいぶ酔って、月娘の部屋に泊まる。翌二日、西門慶は朝から年始回り、夕刻帰宅すると、韓叔父、応伯爵、謝希大《しゃきだい》、常峙節《じょうじせつ》、花|子由《しゆ》が広間に待ち構え、陳敬済が応待し、後に呉二舅も現われた。客を陳敬済が送りに出るのを待って玳安がそばに来て、「あの家にはだれもおりません」
たちまち、西門慶は賁四の家におどりこんみ、賁四の女房と、ぐっしょり大荒れに荒れる。西門慶は衣服をやりたいが賁四に知られると間《ま》がわるいと、衣服代二、三両をやって帰ったが、その後のベッドにはいりこむのは玳安であった。その寝物語に、
「だんなにからだを許してることが、隣の韓嫂にでもわかって、奥に知られると困るわ。あんたのかみさんの耳にはいったら、恥ずかしくて顔も見られないわ」
「大奥さんと五奥さんがうるさいね。特に五奥さんだ。正月の間に大奥さんには好物の蒸し菓子を、九日は五奥さんの誕生日だから瓜《うり》の種を届けて、うるさい口をふさごう」
翌日、玳安は賁四のかみさんからと言って蒸し菓子を月娘に届ける。西門慶は年始から帰り、呉道官の相手をした後、玳安を呼んで、林太太《りんたいたい》に連絡のため文嫂《ぶんそう》を呼ばそうとするとすでに文嫂が来て、四日に王三官が東京にたつから、六日に林太太は待っていると伝えて帰ったと知らせた。やがて呉大舅が現われ、新しい任務の余徳の話などし、灯ともしごろまで飲んで帰る。西門慶は金蓮の部屋に寝に行った。五日は午前中は役所で仕事始め、午後は雲理守の招待で、各役所の役人とともに酒宴。
六日、何千戸の奥さんの藍《らん》氏の招待で月娘たちが出かけた後、午後から西門慶は玳安、琴童を従えて、王招宣宅に年始回りと立ちいでる。王二官はもちろん不在。待ち受けていた文嫂に導かれ奥の部屋にはいると、部屋には紅《あか》幕がたれ、なんとなく興奮してくる。そこへ真紅の衣服、髪一面に珠玉を飾った林太太が出て来て、青地に飛魚のぴかぴかする上着の西門慶と酒宴をはじめた。日が暮れ、灯がはいるころになると文嫂は門をしめ、玳安、琴童にくっついており、部屋にはだれも来ない。酒がすすんで、話がだんだん怪しいほうへ行くと、ふたりは手に手をとって隣の寝室へ行き、心おきなく紅の大浪をひるがえす。林太太は西門慶にぞっこんだから、からだの二ヶ所を線香で焼かせて真実を見せ、西門慶は燈籠《とうろう》見物に王三官の奥さんと来るように招待し、ことが終ったあと、飲み直した。八時ごろ帰宅した西門慶は、月娘からどこへ出かけたのかときかれ、応伯爵のところとごまかす。月娘は何千戸の奥さんが、いかに美しいかということ、その生活の豪勢さを話し、あした雲指揮の家からの招待をどうしようか相談する。月娘は正月のお客が来ると困るから孫雪娥は残そうかとたずねた。
「それもいいだろう。四人で行きゃいい、おれもあしたは薛《せつ》太監様から招待が来てるんだが、どうも行きたくない。このごろ、だいぶ暖かくなってるのに、足腰が冷えて痛むんだ」
「痰《たん》は出ませんの? 任医官にお薬でもいただいたほうが」
「なあに、すぐよくなるさ。それより、元宵《げんしょう》の燈籠節には、何大人、周守備、荊都監、張二官、雲指揮の奥さん、王三官の母親、おまえの姉さん、崔家のおっかさんたちに来てもらって、酒でも飲みながら芝居を見ようじゃないか。去年は賁四が花火を上げたが、ことしは東京からまだもどらんのだが」
「賁四がいないなら、かみさんに花火を上げさせたら同じだわ」
横から金蓮がやじると西門慶はちらっとにらみ、
「淫婦、またげびたことを」
その晩、西門慶は孫雪娥の部屋に行き一晩じゅう、足腰を按摩《あんま》させた。
翌日になると朝から応伯爵が、上さんが雲家に呼ばれたが晴着がないからと借りに来る。昼ごろ、月娘たちは四台の大|轎《かご》を連らね、小轎に乗って衣服をかかえた恵元、四人の軍卒と、琴童、春鴻、棋童、来安を連れて雲指揮の家へ出かけた。西門慶は平安にだれが来ても留守だと言えと命じ、任医官のくれた延寿丹《えんじゅたん》を飲めば、腰の痛みも直るかと考え、李瓶児の部屋へはいった。正月なのできれいに化粧した如意児が迎える。如意児に乳を絞らせ、それに薬をまぜて飲むと、西門慶は迎春に酒や料理を運ばせ、如意児を相手に、この上ないしどけないかっこうで酒をちびちび飲んでいたが、門をしめさせる。如意児にスカートとズボンをとらせてあおむけにし、からだに二ヶ所灸をすえてたわむれかかる。鏡台を引き寄せて自分らの姿を映してたっぷり楽しみ、お礼に黒|緞子《どんす》の羽織をやった。
翌日は潘金蓮の誕生日の前日。西門慶は小ものどもに、家の拭き掃除をさせ、芸人を呼ぶ手はずもととのえてから役所へ出かける。金蓮がお化粧して広間に出ると、玳安と琴童が腰掛けの上に立って燈籠をつるしていた。
「だれかと思ったら、おまえたち」
「今晩は奥様のお祝いがありますので、だんな様が燈籠をつれとおっしゃいましたので。わたくしどももおじぎに参りますから、どうぞ、その節はちょうだい物を」
「たたけと言うならたたいてやるけどね、ほうびは出ないよ」
「奥様、わたくしどもは奥様のむすこも同然です。なんにもくださらずたたくなんて」
「うるさい悪《わる》だね。しゃべってる間に、燈籠に気をつけるがいいわ。年の暮れだったか、崔本がもどって来た時、まっ昼間からだんなか見つからないなんておまえは大騒ぎしてたが、よくたたかれずに済んだものさ。けどね、燈籠が落ちて来たら、たたかれることはまちがいないよ」
「奥様、おどかさないでください」
そばで聞いていた玳安が、「奥様、どうしてご存じで?」
「知ってるさ、皇居の外の松、皇居の中の鐘、鐘の音に松の影、なんでもね。きのうも、去年は賁四が花火を上げたが、ことしはいないってだんなが言うから、賁四のかみさんだって、上げられるでしょうと言ってやったんだよ。どう? かみさんは花火が上げられるだろう?」
「奥様、卑しい分際でそんな大それた」
「大それた? 身分の違いなど、股ぐらの花火で飛んで行くよ」
「人のうわさなど。賁四が帰って来て知ったら」と、琴童が言う。
「あのイカレ男はだまされてるんさ。平気の平左で、女房をほうりっぱなしで東京へ行く。女房だって、股ぐらを暇にさせとくもんか。だんなの手引きをしたくせに、おまえら根性悪は、あたしが知らんとでも思ってるのかい。大奥さんに蒸し菓子、あたしには瓜の種、それで口をふさごうってんだろう。男を羽がいじめにするたいした淫婦だよ、あいつは。玳安、おまえだね、そんなやり方を教えたの」
「とんでもない。そんなこと、とんと存じません。賁四の部屋など行ったこともありませんよ。韓回子のかみさんの言うことなんか本気にしないでください。家が倒れて人をつぶさなくても、舌先三寸はけっこう人を殺します。そりゃ、賁四のかみさんは親切ですから、お茶ぐらいはごちそうになりますよ。そんなのを一々くわえこんでた日にゃ、男の置場もなくなります」
「あの淫婦のやつ、うるんだ目に水をためやがって、七八人の柄杓《ひしゃく》もちの男に水をくませようってんだから大淫婦だわ。韓道国の女房といい勝負さ」
そこへ小玉がはいって来て、金蓮の母がやって来たが、轎代をほしいと言っていると告げた。
金蓮は奥へはいって母に会ったが銀子《かね》を出そうともしない。見かねた玉楼が轎代を払った。金蓮は部屋まで母を追いかけ、
「轎代も持たず、なぜ出て来るの。人前で、恥をかかせて」
「おまえがお銀子をくれないのに、あたしのどこからお銀子が出るんだよう。やっとこさ、みやげ物だけととのえて来たというのに」
「お銀子をくれないって言うけと、あたしはどこからもらうの。これから轎代がなかったら来ないでよ。あの人たちには、あんたみたいな貧乏親戚はいないんだから」
潘《はん》ばあさんは声を出して泣きだす。
「奥様、きょうはどうかしていますね。おかあさんにきつく当たったりして」
春梅は見かねて金蓮の母に茶を出したが、潘婆は腹を立て、オンドルで寝てしまい、奥から食事の知らせがあるまで、起き上がろうともしない。
西門慶が役所から帰り、食事をとろうとしていると、荊|忠頓《ちゅうとん》(都監)が今度、東南統制兼|督漕運《とくそううん》総兵官に栄進したあいさつに、おおぜいの幕僚兵士を連れてやって来た。その晩は、金蓮の誕生日の前夜なので、奥の間で芸人が歌など歌ったが、終ると西門慶は、金蓮の部屋に行く。潘金蓮は母親を李瓶児の部屋に出した。潘ばあさんが李瓶児の部屋へはいると、如意児と迎春はすぐオンドルへ上げようとする。潘ばあさんは李瓶児の肖像の前に、獅子や仏人の像が供えられているのを見て、
「こんなに供養してもらって、死んでも幸福じゃね」とため息まじりにオンドルに腰かける。如意児と迎春が甘い酒を出して、潘婆を慰めたが、話は自然に、みんなに愛敬されていた李瓶児の上に落ちていった。潘婆は、李瓶児が他人とは思えないなど言って、
「わたしのこの綿入れだって、あんたがたの奥さんがくださった。あたしのあの憎たれは、折れた針だってくれようとせんのにねえ。もし、むすめが一銭でもわたしにくれたら、わたしはきっと涙が出ますよ。きょうも、轎銭がないなら、うろうろ出て来るな、など言うんです。わたしも運がうすいんだね。先を考えると心細くなってしまいますわいな」
「おかあさん、それは一を知って二を知らずですわ」と春梅が「わたくしの奥様は気性は激しい方だけれど、六奥様のようにお銀子をお持ちだったら、お年寄りに差し上げないわけはございませんよ。わたしにはよくわかります。お銀子をおもちでないからって、お恨みなっては、奥様がおかわいそうですわ」
「ほんとですとも、五奥様にお銀子があれば孝行なさいますとも。親の光は桃の花|千輪《せんりん》と申しますから、もしものことがおありになっても、あなた様には、黄金のお棺を買ってくださいますわ」
如意児も口をそろえた。
翌日、金蓮の誕生日には、傅《ふ》番頭、甘《かん》出身、賁四《ほんし》のかみさん、崔本のかみさん、段大姐、鄭三姐、月娘の姉たちが祝いに来たが、西門慶は呉大舅、応伯爵といっしょに何《か》千戸の家に出かけて酒を飲み、晩は如意児のところで寝た。
十日になって、西門慶が方々の奥さん方に十二日の燈籠見物の案内状を出そうとしていると、金蓮はすぐ部屋にもどり、母親を追い帰した。燈籠見物に金持の女たちがやって来たら、母親が飯|炊《た》き婆にまちがえられそうな見すぼらしさで、いやだからである。
案内状、それから呼ぶ芸者、芸人の手はずをととのえている最中に、思いがけぬのに、東京から賁四が帰って来た。西門慶はもとの糸屋に賁四を収め、呉二舅には別の絹糸店を開かせることにした。それからまた、賁四を呼び出し、十二日に女客に見せる花火の用意を命じているところへ、応伯爵が李智を連れて来た。
李智の持ちこんだのは、朝廷が天下十三省から数万両ずつ骨董《こっとう》を買い上げることになり、東平府の割当は二万両となっている、という情報がはいっているが、大街の張二官が五千両ずつ出し合って、この仕事をやろうと言っている。向うに下働きがふたり、こっちは応伯爵と、李智と、黄四が手つだうということであった。西門慶はそんなことならこっちだけでやれると言い、まだ発表になっていない公文書を検察院の宋郎中から聞き出す手はずをととのえ、巡察に出ている宋郎中のところへ来爵と、宋郎中の気に入りの春鴻と、李智の三人に、十両をはさんだ手紙を持たせて十一日に旅立たせた。
十二日になると、西門慶の家には続々と女客が集まって来る。西門慶は外出せず、晩には呉大舅、応伯爵、謝希大、常峙節と合って燈籠見物しながら酒を飲む約束になっていた。周守備の奥さんは目がわるくて来なかったが、何千戸の奥さん、王三官の母の林太太、王三官の奥さんがなかなか来ないので、西門慶はやきもきし、玳安を出したり、琴童を出したり、しまいには文嫂まで出して迎えにやる。
やっと昼ごろ、林太太がやって来たが、目ざす王三官の奥さんは家が無人だと言ってとうとう来なかった。それからだいぶして、何千戸の奥さんの轎が着く。二番めの門で月娘たちに迎えられ、しずしずと轎から降りて来る何千戸の奥さんの藍《らん》氏を、西門慶はすだれ越しに見、そのあだ姿にぼうっとしてしまった。やがて、奥の間であいさつしたが、心も目もゆれ動き、夢ごこちになってしまい、捲棚にもどって、芸人に歌わせながら、呉大舅、応伯爵、謝希大、常峙節と酒は飲むものの、目は格子《こうし》戸の外へ網を張っているありさま。夕方になると、部屋には灯がはいり、芸人は歌いつづけていたが、西門慶はこれまでになくいつのまにかこくりこくりと居眠りをはじめた。
「にいさん、どうも元気がないようですな」と、応伯爵が酒を飲み、拳《けん》を打ちながら言うと、「うん、ゆうべ、眠らなかったので、どうも力がない」
そこへ四人の芸者が顔を出したので、洪四児と鄭愛月に歌わせ、呉銀児と李桂姐に酌をさせ、また座がにぎわったところへ、林太太と何千戸の奥さんが帰ると玳安が知らせに来た。西門慶があたふたと座をはずし、二番めの門の暗がりに隠れ、目をこらしていると、打ち上げる花火のなかを、真紅とまっ白の衣服をまとった藍氏と林太太が、風に舞う天女のように轎の中へ消えて行った。西門慶は色餓鬼の目をじっと轎にすえ、そこに穴をあけるばかりの勢い、のどを鳴らしてよだれをのみこみ、偶然部屋へもどって来た来爵の女房の恵元にぶつかると、かねがねそのぼったりしたからだつきに目をつけていたことでもあり、かっかっと情欲の燃えさかっているままに、すぐさま女を抱き上げ、いやおうなしに女の部屋のオンドルへさらって行き、キッスしながら衣服を脱ぎズボンをおろして、思うままに目的を果たした。女のほうも好きなほうだから、どたん場になって、じたばたするわけもなかった。
七十九
次の朝、月娘《げつろう》は夜中に見たへんな夢の話をした。李瓶児《りへいじ》がまっかな毛の衣服を着せてくれると、金蓮《きんれん》がひったくって自分で着てしまうので、「前に毛皮の衣服をとった上に、この衣服までとるんですか!」と言うと、金蓮はおこりだして、その衣服をびりびりに裂き、口論するという夢。西門慶《せいもんけい》はうるさそうに、
「心にあることは夢に見るってからな。そのうちにこしらえてやるよ」と、ずきずきする頭をかかえ、顔を洗い、衣服を着たが、苦い顔をして書房に行く。ベッドに横になって王経《おうけい》に足腰をたたかせていた西門慶は玉簫《ぎょくしょう》が持って来た如意児《にょいじ》の乳で薬を飲み、来爵のかみさんに金簪と銀の指輪を届けるように玉簫に言いつけた。玉簫が来爵のかみさんが受け取ったことを報告して去ると、王経は姉の王六児《おうろくじ》に頼まれたものを西門慶に渡した。紙包みを開いてみると、つやつやした髪の毛を五色の毛糸で包んた「同心結」と言う托子《あてがい》が二本の錦《にしき》のひもで結んである。別に二羽のおしどりがキッスしている模様入りの袋には瓜の種。西門慶は悦《えつ》に入っていたが、錦の托子を袖《そで》にしまって考えていると、だしぬけに月娘がはいって来た。
「お粥《かゆ》ができておりますが、どうしておいでにならないのですか。ずいぶん元気がありませんのねえ」
「うん、気持がいらいらして、足腰が痛むんだ」
「春風にあたってからだが緩《ゆる》んだんですよ、きっと。お薬を飲んでからお出かけになったら。元気を出さないと、きょうは花《か》さんの誕生日に行かなくちゃならないでしょ。それとも応《おう》さんでも呼びましょうか」
「いや、応さんはもう行ってる。おれは燈市の二舅《じきゅう》の店へ行って来よう」
西門慶は王経を連れ、馬で獅子街の燈市の燈籠を見て回ると、馬を店に乗りつけた。店は大繁盛で、呉二舅も賁四も多忙をきわめている。西門慶は月娘から届いた料理や菓子を二階に並べ、店にあった豆酒の封を切り、呉二舅と賁四に代わる代わるごちそうしながら燈市をながめおろしていたが、昼ごろになると、王六児のところに王経を知らせに出し、琴童《きんどう》に酒を届けさせておいて、その後から馬で出かけて行った。
西門慶が正月の宴会の話などをし、十六日には店の者のかみさんを呼ぶことになっているからかならず来るだろうなと念を押すと、王六児はこの間、申二姐《しんにそ》が帰って来てくやしがって泣いて困った話をし、春梅《しゅんばい》の気性の激しさをそしり、少し押さえればいいのにと言う。
「うん、なんともおさえようがない。春梅にかかっちゃ、このおれでも顔の皮をかきむしられてしまう」
テーブルを出させ、酒になると王六児は
「わたくしのお届けしたものごらんくださいまして? 髪を切って、それでこしらえたんですよ」
だいぶ酔いの回ってきた西門慶は部屋にだれもいないのを見すますと、そでから「同心結」托子《あてがい》を取り出してはめ、両|股《もも》を錦のひもでくくり、梵僧《ぼんそう》のくれた淫薬《いんやく》を酒で飲む。急に元気が出て来て、口うつしに酒を飲ましてもらっていたが、灯ともしごろになると、奥の寝室にころがりこんだ。明々とともしをともし、ふたり、ふとんにもぐりこむ。西門慶は何千戸《かせんこ》の妻の藍氏のことを思い出して、欲情は燃えさかり、どぎつい上にどぎつく淫欲を満たして果てることがない。
「どうだ淫婦、おれが好きかきらいか」
「大好き。いつまでも捨てちゃいや。大好き! あのスッポンになんか、こんなこと言ったことないの。あいつは、外で商売してもうけてりゃ満足なの。あたしのことなんか気にも留めてないわ」
「かわいいやつだ。おれだけ思ってるのなら、あいつがもどったら別のかみさんを持たせてやって、おまえはおれさえ待ってりゃいいようにしてやるぞ」
「おとうちゃん! ほんとね、それ。あたしはこんなお金にもならぬからだ、外に囲おうと、家に入れようとかってだけど、ただ、捨てられるのはいや!」
ふたりは十二分に楽しみ、抱き合って十二時ごろまで寝ていた。西門慶が起き上がって手を洗うと、王六児がドアをあけ、小おんながまた酒肴《しゅこう》を持って来る。十杯あまり酒をひっかけると、西門慶は袖から一枚の書付けを出し、これで甘出身《かんしゅっしん》に衣服を出してもらうよう言いつけ、雲間から漏れるもうろうたる月の下を、犬にほえつかれながら帰って行ったが、寒さが一しお身にしみ、家に着いて馬から降りると足腰に力がはいらず、小ものに左右から助けられながら、金蓮の部屋へはいって行った。
潘《はん》金蓮は奥からもどったばかりで、衣服を着たまま待っていたところだから、ころげ落ちるようにオンドルから降りると、さっそく衣服をくつろがせる。西門慶は倒れかかるように片腕を金蓮の首にからませると、
「だいぶ酔った。早く寝させてくれ」
抱きかかえるようにベッドに寝かせつけると、もう大いびき、ゆすっても起きない。金蓮は衣服を脱いでふとんに潜りこみ、西門慶の腰のあたりをまさぐると、さっぱり男らしさがない。どこで? と思うと、欲情が身を焼き、なんともがまんできず、ふとんの中にかがみこみ、あれこれとやってみるが、たよりがないので、
「ねえ、お坊さんの薬はどこ?」
何回もゆすられて、やっと西門慶は目を開き、
「きいてどうする。またおれにふらふらにされたいのか。おとうちゃんは、きょうは働きたくないんだ。薬は袖の金の小箱にはいっている。もしおまえに腕があるなら、シャンとさせてみろ。うまくいったら、おなぐさみだね」
金の小箱のふたをあけると丸薬が四粒残っている。金蓮は焼酎《しょうちゅう》でその一粒を飲み下すと、三粒残ったが、ききめがなくては困ると、いつもは二粒のところを三粒全部杯に入れ西門慶に飲ませる。酔っぱらっている西門慶は粒数などに気がつかずぐっと飲むか飲まぬかのうちに、もう薬はからだじゅうに回り、ききめがたちまちにからだに現われた。西門慶は眠くてたまらぬようだが、金蓮はもうたまらず、西門慶の上に馬乗りになり、ひとりがってに動きはじめ、二度|恍惚《こうこつ》としたが、西門慶のほうはことが終らぬようで、カッカッと熱をもち、腫れ上がってさえきた。腫れをひかせようと金蓮が吸いつづけていると、猛然と終りとなったのは良かったが、だらだらと流れとまらぬものに、あとには血さえまじってきて、西門慶は気を失って、四肢《しし》もぐったり伸びたなりになっている。金蓮はぎくりとして紅|棗《なつめ》を西門慶に食べさすが、もう冷たくさえなって来てしまった。金蓮は狂ったように西門慶にすがりつき、鳴き声を上げて、「おにいちゃん、どうなのよう!」
西門慶はふと正気にかえり、「頭がつーんとする。どうしてかわからん」
「どうして、きょうはこんなに流れるんかしら」
金蓮はここになっても、薬の分量を過ごしたことは黙っていた。
翌朝、西門慶は起き上がって髪を結っていたが、ふいにくらくらとして前へつんのめる。すぐ春梅に助け起こされたので額の傷だけで済んだが、椅子に腰掛けてしばらくしてから、やっと意識がもどってくるというしまつだった。
「きっと、からだの芯《しん》がからになってるんだわ。何かおなかに入れてからお出かけになったら?」
秋菊が奥の台所へ粥を取りに行き、雪娥《せつが》に西門慶の倒れたありさまなどを話しているのを聞きつけ、月娘は気もそぞろ、急いで雪娥に粥をたかせておいて、金蓮の部屋へ飛んで行った。西門慶はぐったりと椅子にもたれかかっている。
「どうして、目まいしたんですの」
「それが、どうしてやらわからんのだ」
すると金蓮が横合いから月娘に、
「あたしと春梅が助け起こさなかったら、軽くは済みませんでしたわ」
「きっと、ゆうべ飲みすぎたんでしょうねえ」
「どこでかしら、ずいぶんおそかったですわ」
「お店で二舅と飲んだはずなんだけど」
そこへ粥が届いたが、碗《わん》の半分も飲まない。
「どうですの?」
「どうって言うのか、からだがふわふわするようで、身動きもしたくない」
「きょうはお役所おやめなさいな」
「ああ、よす。も少ししたら、敬済《けいさい》に案内状を書かそう。十五日には周菊軒《しゅうきくけん》(守備)や荊南岡《けいなんこう》(都監)や何《か》大人たちを招かねばならんから」
「お薬まだなんでしょう? 乳をしぼらせて、それでお飲みになったら?」
春梅が取って来た如意児の乳を飲み、春梅につきそわれて部屋を出た西門慶は、花園の木戸口まで来ると、目の前がまっ暗になり、宙に浮いたようによろめくので、また金蓮の部屋に連れもどされる。
「もう二日ばかりお休みなさい。招待も今度だけのことじゃなし、ゆっくり休むといいでしょう。何か食べたくありませんか」
月娘が尋ねるが、西門慶は食べたくないと言うので、金蓮に、
「きのう、お帰りになった時は酔ってたの? それからは飲まなかったの? あんたと何かしたの?」とたたみこんで問いただす。金蓮は歯がみして、
「何をおっしゃるの? おそく帰って来て、口もきけないくらい酔っぱらっていたのに、焼酎だって飲みはしませんでしたよ。お酒だって、お茶だって何も飲みはしないわ。あたし、お酒なんかありませんと言って寝かしただけですよ。だれが何をしたっての? へんなこと言わないでよ。どこかで何かあったんでしょう。家の中でなんか、糸の先ほどのこともなかったわ」
月娘と玉楼《ぎょくろう》は、相談していたが、玳安《たいあん》と琴童を呼び出し、
「きのうはどこでお酒を飲んだんだ、ほんとうのことをお言いよ。もしものことがあればおまえたち悪者のからだで払ってもらうからね」
「獅子街のお店で呉二舅様や賁四と召しあがりました」
呉二舅を呼びつけて聞くと、飲んでからまた、別のところへ行ったと言う。さっそく、またふたりを呼び出しとっちめると、韓道国《かんどうこく》のかみさんの所へ行ったと白状した。聞いて喜んだ金蓮、
「ねえさん、さっきはあたしを恨んでましたねえ。無実の者を殺してどろぼうを喜ばすってのはこのこと。人には顔あり、木には皮あり、顔の皮をひんむかれては、あたしらだって黙っておられないわ。ねえさんこの悪《わる》にきいてちょうだい、この間、何千戸の招待から帰った時もおそかったけど、いったいどこに寄ったのか。年始回りにおそく帰るなんて、へんじゃない?」
さすがの玳安もここで林太太のことをすっかり白状してしまった。月娘と金蓮は林太太のことをさんざんののしったが、
「これで黒白がはっきりしたわね」と金蓮、「ねえさんはあたしが前に、韓道国の女房におこってたのがお気に召さなかったようだったけど、このとおりじゃありませんか。スッポン亭主《ていしゅ》を遠くへ出したのも、魂胆あっての細工よ」
「でも、あんた王三官のおっかさんを老いぼれ淫婦と言うけど、あんたが子供の時にはあそこで使われてたって話ね」
「まあ、なんですって。あたしの伯母《おば》があいつの隣に住んでいて、あたしは伯母の家へ遊びに行っただけですわよ。あんな老いぼれ淫婦と知った間がらであってたまるものか」
「あたしはあの人がそう言ったって話しただけですよ。何もそうどなることはないでしょう」
一日二日すれば良くなると思っていたのに西門慶の体は芯がぬけ、翌日には陽物《ようぶつ》は腫れふくらみ、腎臓《じんぞう》も茄子《なす》のようにつっぱり、小便するごとに、管《くだ》の中は錐《きり》で刺されたように痛む。赤い痰まで吐きはじめた。
そこへ応伯爵がやって来て、任《にん》医官に見せるようすすめる。そこで任医官に見せると、陽《よう》が脱けたので陰《いん》の虚を補わねばならぬと薬をくれたが、腎臓が腫れ痛み、小便にも難渋《なんしゅう》をきわめるようになっただけのことだった。
午後になると李|桂姐《けいそ》と呉銀児《ごぎんじ》、応伯爵、謝希大、常峙節などが見舞いに来、帰りに応伯爵は玳安に、
「大おくさんに、だんなの顔色がへんにくすんできたから、早くだれかに見せるように、大街の胡太医《こたいい》は痰をよく直すから、呼んだらどうかと言ってくれ」と注意して帰る。
西門慶は李瓶児を殺した薮《やぶ》だといやがったが、月娘が呼んで見さすと、下のほうに久しく以前から毒がたまっていて血尿症となったのだと薬を置いて帰ったが、飲むと小便がつまってしまった。月娘はあわてて何春を呼ぶと、何春は、これは閉便毒と言って、膀胱《ぼうこう》の邪気が下のほうに集まったのだと薬をおいて帰る。それを飲むと、陽物は鉄のように突っ立って昼夜倒れぬしまつとなった。これを見た金蓮は、晩に西門慶の上に馬乗りになって何回も目をさまさせる。
翌日、何千戸が見舞いに来たので、月娘はそこは人に会う所でないと、金蓮の部屋から西門慶を奥の部屋に移して何千戸に会わせる。何千戸は様子を聞き、東昌府に来ている劉橘斎《りゅうきっさい》を推薦して帰ったが、その薬を一服飲んでもいっこうききめがなかった。てんやわんやのところへ鄭愛月《ていあいげつ》が見舞いに鳩の雛《ひな》と菓子を持って来て、雛鳩料理を作らせたが、西門慶は二|箸《はし》つまんだだけで食欲がない。劉橘斎の二服めの薬を飲むと、痛みは渾身《こんしん》に回り一晩じゅううめいていたが、朝方、腎臓が破れて鮮血が出、亀頭にも吹出ものが出て黄色い液が流れはじめ、西門慶は気を失った。月娘たちはあわてて薬を飲ますがききめもなく、劉婆に魔除けの踊りをおどらせたり、周守衛へ人を走らせ呉神仙の住所を聞かせ、呉神仙を連れて来たが、呉神仙はもうだめだとさじを投げてしまった。占いを立てたり、八卦《はっけ》をみたり、晩になると月娘は泰岳廟《たいがくびょう》に願をかけ、孟《もう》玉楼も北斗に願かけするが、李|嬌児《きょうじ》と潘金蓮は願などかけない。
西門慶は意識がもうろうとするなかで、目前に花|子虚《しきょ》と武大が現われ、償いをつけろと迫るのを感じた。ぞうっとして気がつくと、月娘はいないで金蓮が立っている。その手を握りしめ
「おまえともふしぎな縁だったなあ。おれが死んだら、ばらばらにならずに、おれの位牌を守ってくれよ」としみじみ涙ながらに言うと金蓮も悲しみがこみ上げ、
「にいさん! でもあたし仲間はずれにされるんじゃないかしら」
そこへ月娘がはいって来て、ふたりが泣いて目を赤くしているのを見ると、
「おにいさん。言いたいことがあるなら、わたしに話してください。あなたの正妻なのですから」
それを聞くと西門慶は思わずしゃくり上げ、泣いて声が出ない。
「おれはもうだめだとわかっている。遺言しておきたい。もし、おまえに男の子でも女の子でも生まれたら、おまえたちでだいじに育ててくれ。いっしょに住むんだぞ。散り散りになって人に笑われるんじゃないぞ」
それから月娘に陳敬済《ちんけいさい》を呼ばせると、敬済《けいさい》に向かって、
「親は子供ができたら子供に、できなければ婿《むこ》にたよらねばならないんだ。おまえはおれのほんとうの子も同然、おれにもしものことがあったら、おまえが葬ってくれ。奥さんたちのめんどうも人の笑いぐさにならぬよう、おまえがよく見てくれ」と頼み、「緞子の店には五万両|資本《もとで》がおろしてある。喬《きょう》家の資本と利息も幾らかあるが、この店は傅《ふ》番頭が見ている。品が売れたら、新しく仕入れないように。賁四の毛糸店は資本が六千五百両、呉二舅《ごじきゅう》の綿糸店は五千両だ。品が売り切れたら、銀子は家のほうへ持って来ること。李智《りち》の骨董買上げの請負は手を出さず、応さんに頼んで、話はよそへ回してもらえ。李智と黄四には五百両貸してあり、利息の百五十両もまだだから、これは葬式代にしろ。おまえは傅番頭と家の前の二つの店をやっていけ。質屋は二万両、生薬《きぐすり》屋は五千両の商売をしているんだ。それから韓道国と来保《らいほ》が買付けに行っているが、松江《しょうこう》から船がもどれば、四千両の品が積んであるはずだ。運河が解けたら、すぐ迎えに行って品を売り、その銀子は奥さん方の費用にあてろ。劉学官に三百両、華主簿《かしゅぼ》に五十両、城外の徐四《じょし》の店に三百四十両貸し金がある。期日が来たらさっそく返してもらえ。それから向いの店と、獅子街の店は売り払うように。奥さん方の手ではやれないと思うからよろしく頼む」
言いおわると、のどをつまらせて泣きだす。陳敬済は「承知しました」と言った。つづいて傅番頭、甘出身、呉二舅、賁四、崔本《さいほん》たちが見舞いに来たので西門慶はひとりひとりに店の方針について話す。一同は西門慶の病状が悪いので、嘆息しながら帰って行った。
正月二十一日、月娘の神頼みもむなしく、熱にからだをやかれた西門慶は牛のように一声叫ぶと、三十三の若さで、ああ悲しいかな、こと切れてしまったのである。
西門慶は死んだが、棺の用意ができていない。月娘はあわてふためき、呉二舅と賁四を呼び、四錠の馬蹄《ばてい》銀を渡して棺材を捜しに出したが、ふたりが出て行くと、急に腹が痛みだし、ばったり床に倒れる。孟玉楼、潘金蓮、李嬌児がいそがしく西門慶に頭巾をかぶらせたり衣服を着せたりしておるところへ、小玉が飛びこんで来て、大奥さんが、おなかが痛くなったと言うので、孟玉楼と李嬌児が飛んで行くと、腹を押さえて、のた打ち回っている。お産とわかったので、玉楼は李嬌児に残ってもらい、蔡婆《さいばばあ》を呼びに小ものを出す。李嬌児も、如意児を呼びに玉簫を出したが、月娘が気を失い、部屋にだれもいないのを幸い、箱をひらいて五錠の馬蹄銀を盗み、自分の部屋へしまいに帰る。月娘の部屋へ帰ると玉楼が来ているので、紙がないので部屋に取りに行っていたとごまかしてしまった。
やがて蔡婆が来て、まもなく月娘は男の子を生み落とす、そのころ、こっちの部屋では西門慶の死のために、一家の者はそろって泣き声を上げている。
呉二舅と賁四は棺材を手に入れると、指物《さしもの》師に棺桶《かんおけ》を作らせ、小ものに西門慶の遺骸《いがい》を大広間へ移させて、陰陽《うらない》師の徐先生に死亡書を書いてもらう。徐先生は三日めに納官、二月十六日に墓穴ほり、三十日に埋葬すればさわりはないと告げて帰った。
三日めには僧侶を呼んで経を上げ、一家の者は喪服をまとう。陳敬済は嫡子の喪に服して霊前に泣き、月娘は部屋を出ず、李嬌児と玉楼は女客の接待、金蓮が会計、孫雪娥は料理番、傅番頭と呉二舅は買物の帳簿、賁四が葬儀帳簿の係である。同じ日に、蔡婆にはお礼をし、子供の名は孝哥《こうか》と名づけ、隣近所に祝いのウドンを届ける。人々は西門慶大官人の正妻がお墓からの赤ん坊を生んだ、同じ日の同じ時刻に、父が死んで子供が生まれるなんて、へんてこなことだと、うわさをしている。
何千戸も弔問に来て、西門慶の家に詰めている小役人は葬儀の終るまで動かさぬと決め、借金を返さぬものがいたら、役所の力で取り立てると呉|大舅《だいきゅう》に言って帰ったが、その呉大舅は陳敬済に力ぞえを頼まれても、公務多忙を楯《たて》の逃げ腰というけはいがはや見えるのであった。
さて一方、春鴻《しゅんこう》、来爵、李智が|※[#「なべぶた/兌」、unicode5157]州《えんしゅう》の検察院に着くと宋御史《そうぎょし》は西門慶の手紙を見て、もうきのう、割当は済んだんだと言ったが、手紙の中の十両で考えこみ、許可証を東平府から取りもどして渡した。往復十日もひまどって一行が清河県に着くと、西門慶が死んで三日になることが耳にはいる。すると李智は
「宋だんなが許可証をくれなかったことにして張《ちょう》だんなのとこへ持って行くことにせんか。ふたりに十両ずつやるから、うまく隠しおおせてくれ」と相談をもちかける。来爵は十両を手にして一も二もなく引き受けた。春鴻は心は反対だが、しぶしぶ承知する。
春鴻と来爵が帰り呉大舅と陳敬済の前にひざまずくと、呉大舅が「許可証はどうした。李智はどうして来ない」と尋ねる。来爵はうまく言おうとするがことばにつまった。すると春鴻は、宋御史からの手紙と許可証を差し出し、李智が十両やるからと言ったことをしゃべった。呉大舅はさっそく、月娘にこの話をし、応伯爵に、李智と黄四には六百五十両貸してあるが、何千戸も今しがたああ言ってくださったんだから、役所に訴状を出して取り立ててもらいましょうかと相談する。びっくりしたのは応伯爵、なんとか呉大舅をなだめると、李智と黄四のところへ飛んで行き、
「先に銀子《かね》を握らすやつがあるか! 提刑《ていけい》所へ訴えると言ってたぞ。そうなりゃ役人どうしの仲だ、おれたちには手がない。だから、そっと呉大舅に二十両握らせろ。あの家ではこの請負には手を出さぬと言っていたから、許可証も手にはいるだろうさ。それを張二官へ持って行くんだ。それからな、二百両ばかりかき集めて、お供えといっしょに持って行け。幾らか返済しておいて借用書を書き替えてもらえば、あとはなしくずしに払えばいい。そうすりゃ義理も欠かぬし一挙両得じゃないか。早く握らせろ」
晩になると黄四は応伯爵と連れ立って行き呉大舅に二十両握らせ、許可証をほしがる。呉大舅は月娘から骨董の買付けの仕事はしないと聞き知っていたから、文句なく二十両を握った。翌日、李智と黄四は二百両の銀子と一《ひと》テーブルの供物を持って弔問に来たので、呉大舅が月娘に話し、前の借用書を書き替えて、新たに四百両の借用書を入れさせ、五十両は勘弁してやることにし、宋御史の許可証も渡して権利を張二官に譲ることになったのである。
八十
初七日の日、報恩寺からは十六名の僧侶が来て供養した。応伯爵は謝希大、花|子由《しゆ》、祝実念《しゅくじつねん》、孫天化《そうてんか》、常峙節、白賚光《はくらいほう》と言い合わせて集まったが、応伯爵の発案で一銭ずつ出し合い一テーブルの料理と軸を買って、水《すい》秀才に追悼文を頼んだ。水秀才はかれらの交わりがくだらぬものであることを知っているから、皮肉な追悼文を書いてやった。応伯爵たちは無学な連中だから、その日、いい気でそれを持ち込み、霊前で焼香を済ますと、声高々と読み上げる。
「重和元年正月二十七日、門下生応伯爵、謝希大、花子由、祝実念、孫天化、常峙節、白賚光、謹みて追悼の意を故錦衣西門大官人の霊に致《いた》す」読み出しこそまじめだが、読みすすむにつれて、もったい臭い言い回しは、まず西門慶の色豪であることをほめたたえ、ついでその死を悲しみ、最後に至って、その門下生たちの悲しみも、もう西門慶にたかって酒や女にありつくことができぬ悲哀の情を訴えて終るという、ばかにした嘲《あざけ》りであったが、読むものも聞くものも知らぬが仏である。
この日、色町の李家の婆は葬儀料理をととのえて、李|桂卿《けいけい》、李桂姐を送りこみ、応対に出た李嬌児に、手もとの品物をそっと李銘に渡して、家へ持って帰らせるようにさしずした。
韓道国の妻の王六児も葬儀料理を用意して、霊を拝みに来たが、月娘がこの日限り王経に暇を出したことを知っている小ものたちはだれも奥へ知らせに行かない。それと知らぬ来安《らいあん》が知らせに行くと、月娘は王六児をののしるだけだったが、呉大舅に
「罪を憎んで人を憎まずと言うじゃないか。それにおまえのだんなは韓道国に多額の銀子を預からせているんだぞ。気をつけなくっちゃだめだ。おまえがいやなら、他の奥さんに相手をしてもらうんだな」そこで孟玉楼に相手をさせた。
夕暮れ時になり僧侶が帰ると、隣近所の者、親戚者、応伯爵、謝希大、常峙節ら三十名あまりが集まって、芝居を見た。はねたのは夜中であった。西門慶が死んでから、陳敬済と潘金蓮は西門慶の霊前で、ドアに気をつけながら毎日のようにいちゃついていたが、この晩芝居がはねて、小ものがあたりを片づけはじめると、「きょうは望みをかなえてあげるわ。大ねえさんが奥だから、あんたの部屋へ行くわよ」
陳敬済は足が宙に浮くような気持ちで部屋に飛んで帰る。後を追って来た金蓮は部屋に飛びこむと、ことばをかわす暇も惜しく、ズボンを脱いでオンドルにあおむけになる。とっさの間に雲雨《しごと》が終ると、金蓮は人の来るのを恐れ、あたふたと帰って行った。
二月三日はふた七日になる。この日、玉皇|廟《びょう》の呉道官たち十六名の道士が経を上げて法事をおこなった。何千戸、劉・薛両内相、周守備、荊統制《けいとうせい》、帳団練《ちょうだんれん》、雲指揮たちが壇に上がって西門慶を祀《まつ》る。月娘は呉大舅、喬大戸、応伯爵にその接待を頼み、李銘と呉恵《ごけい》に歌を歌わせた。夕方になって経も終り、客も散じると、月娘は李瓶児の位牌《いはい》と肖像を焼き捨て、箱やつづらは自分の部屋へ積み重ね、如意児と迎春《げいしゅん》は奥で、綉春《しゅうしゅん》は李嬌児の部屋付きと決め、李瓶児の部屋にはかぎをかけた。
李銘は毎日手つだいにかこつけて顔を出し、、李嬌児に盗ませた品々を運んで帰ったが、知らぬは月娘ばかり。というのは前から呉二舅と李嬌児ができているので、みんな知らぬ顔をしているほかなかったのである。
二月二十日は出棺で、野べ送りの人も多く冥器もととのっていたが、李瓶児の時の豪華さは見られぬ。柩《ひつぎ》について墓山まで行った者も呉大舅、喬大戸、何千戸、沈叔父《しんおじ》、韓叔父、店の手代たちにすぎない。葬式が終ると、役所から詰めていた小役人も引き上げてしまった。三十五日忌になると、尼僧を呼んで西門慶の昇天を祈る時にいたのは月娘の姉と呉大舅の細君だけというありさまである。
出棺日に、李桂卿と李桂姐はそっと李嬌児に母親からのことづてを伝える。それは、なんとか騒ぎを起こし、この家を出るようにしてはどうか、応さんの話では張二官が銀子五百両であんたを第二|房《ふじん》にしたがっているそうだから、ここが考えどころ、色町育ちが旧を捨てて新につくのは当然、風を見て帆を上げて良いはずということであった。李嬌児はこのことばを胸にたたんで、チャンスを待っていた。
ちょうど、金蓮が李嬌児が呉二舅と怪しいこと、李銘に荷物を渡していることなど月娘にしゃべり、月娘は呉二舅をしかり奥への出入りを禁じ、李銘を門から入れぬようにするなどのこともあり、またある日、茶に呼ばなかったことから、月娘と李嬌児が西門慶の位牌をたたいて、夜半の十二時までののしり叫び合い、むかっ腹を立てて李嬌児が、首をつろうとするという事件が起こった。月娘は呉大舅と相談し、李家の婆を呼んで李嬌児の身がらだけを引き取らそうとしたが、たぬきばばあはいっかなことで引き取ろうと言わず、いくじなしの呉大舅には歯がたつわけもなくて、半日ももみにもんだあげく、衣服、髪飾り、ベッド、たれ幕、箱、つづら、いっさいがっさい持って帰られ、必死で小間使いの綉春と元宵《げんしょう》をやっと手渡さずに済んだというありさまだった。
李嬌児が家を出ると、月娘が声を上げて泣く。金蓮がそれを慰めているところへ、塩検査の蔡《さい》御史が位牌を拝みに来、香典がわりに杭州《こうしゅう》絹二匹、毛靴下一足、くだものの砂糖煮などを出し、借金五十両を返すと、茶を飲むのもそこそこに帰って行く。月娘は西門慶が生きていたとき、こんなりっぱな役人を黙って返すことはなかったと、しみじみ考えるのだった。
応伯爵は李嬌児が色町にもどったと知ると、すぐ張二官に知らせ、五両の世話料で、第二|房《ふじん》に世話した。このころ祝実念、孫天化は王三官の取巻きで李家に出入りし、桂姐に熱を上げている。応伯爵、李智、黄四は徐内相、張二官から五千両ずつ出させ、東平府の骨董買上げをはじめ、色町で羽振りをきかせている。張二官は提刑院の西門慶のあとがまにすわる運動を東京の劉《りゅう》という皇族に金銀をつけ届けしてはじめたが、応伯爵は張二官にべったりくっついて、西門慶の家じゅうの様子を話し、潘金蓮を手に入れろとすすめる。張二官はその気になり、応伯爵は西門慶の家に腹心の来爵を入れてあるので、金蓮がとつぐ気になればすぐわかりますなどとたきつけていた。
八十一
韓道国と来保は小僧の胡秀《こしゅう》を連れ、西門慶の四千両を預かって江南へ買付けに行ったのだが、いよいよ帰る時になると、苗青《びょうせい》が西門慶にお礼に贈るつもりの楚雲《そうん》が病気になったので、だれかに送り届けてもらうことにし、正月十日船で出発した。船が臨青《りんせい》の水門に近づいたとき、一艘の舟が下がって来て、韓道国を見ると、「おまえんとこのだんなは、この正月死んだぜ」と、言い残して下流へ下って行った。
韓道国はこのことを来保に黙っていた。ちょうどこのごろ河南《かなん》山東に大|旱魃《かんばつ》があり、蚕は死に、綿花はとれず、布地は三割方値段がはね上がっている。そこで韓道国は来保に相談をもちかけ、だんなが怒っても責任は自分が負うと、波止場で一千両の布を売り払い、それを西門慶に届けると言って、陸路をとって先に行く。途中で墓|守《も》りの張安《ちょうあん》から、あしたの三月九日が西門慶の四十九日だと聞くと、まっすぐ獅子街の自分の家へ帰った。韓道国が荷をひらき、江南で買い集めた柔らかい衣服や、千両の銀子の包みを積み上げ、王六児と相談になる。女の王六児のほうが強気で、千両持って東京の|※[#「羽/ふるとり」、unicode7fdf]謙《てきけん》のところへやってあるむすめの所へ駆けこもうと主張する。韓道国は西門慶に恩があるからなどと言うが、女房のあたしに手をつけているのだし、こないだ月娘に恥をかかされたこともあるし、あれやこれやで、千両ぐらいの値うちはあると王六児は言い、留守番に弟の韓二《かんじ》を頼み二十両やり、翌朝四時ごろ、王漢《おうかん》とふたりの小おんなを連れ、二台の車に一家総ざらえの荷を積みこんで、東京へ向かって飛んでしまった。
月娘はみんなを連れて墓参りに行き、張安が韓道国にきのう会った話を聞き、すぐ陳敬済をやってみると、韓二が顔を出し、むすめに呼ばれて東京へ行ったと言う。月娘はその話を聞いて心配になり、翌日陳敬済を臨青《りんせい》の波止場へやる。陳敬済がいろいろ問いただすうちに、来保はははんと心にさとり、陳敬済を波止場の芸者屋に上げて酒を飲ませ女を抱かせておき、その間に八百両の荷を船から宿屋へ運ばせて、かくしてしまった。残りの荷は、税関の検査も終り、西門慶の家の東|廂《むね》に収まったが、獅子街の店がもうしめてしまっていたからである。家の向いの緞子店も、建物は売られ、手代の甘出身と崔本は、決算を終ってそれぞれ家に引き上げており、残っている店は傅番頭と敬済のやっている門口の質店と生薬屋だけとなっていた。
来保はそれがわかると、自分の五歳の子と、王六児の四歳の姪《めい》と許婚《いいなずけ》だのに、いっさいを韓道国になすりつけ、韓道国の売った品は全部で二千両だったことにしてしまった。月娘が来保を東京にやり銀子のゆくえを探らせようとすると、蔡|太師《たいし》の屋敷へなど一歩も踏みこめぬこと、よし踏みこめても、|※[#「羽/ふるとり」、unicode7fdf]謙《てきけん》は韓道国を助けるのに決まっていると説得し、銀子をあきらめることをすすめた。月娘は返すことばもなく、来保の世事に長けているのを見こんで、布の売りさばきに当たらせた。来保が客を連れて来て、敬済が値を決めるのだが、客はかならず買わずに帰ってしまう。来保が敬済に商売を教えるような物言いをするので敬済は仕事をほうり出す。そこで、月娘は来保に一任すると、品物はどんどんさばけ、二千両がたはもどって来た。そこで二、三十両銀子をやろうとすると、しおらしくそれを断るかと思えば、へべれけに酔っぱらって月娘の部屋におしかけ、オンドルにへばりつくと、「奥様、おとしもお若いのに、だんな様をなくされ、子供ひとりが相手では、さぞかしお寂しいこととお察ししますが」などと言うのである。
その後、|※[#「羽/ふるとり」、unicode7fdf]謙《てきけん》から月娘のもとに手紙が届いた。その文面は、韓道国から聞いたが貴宅には四人の音楽や歌にたんのうな女子がいるそうだが、太師婦人の手もとに差し出してくれまいか、お礼はすぐ送り届けるというのである。月娘はあわてて来保を呼んで相談すると、それはやらなければ災のもとになる、渡さないと府か県役所から命令で来るだけで結局は後悔しなくてはならない、だいたいだんなが人を呼んだらすぐ女に顔を出させるからこんなことになるんで、四人がむずかしれば、さしずめふたりぐらい届ければ向うの顔も立つだろうという返事である。月娘は考えこみ、自分の部屋の玉簫と迎春にきくと、二つ返事で、行くと言う。そこで来保をつけてふたりを蔡太師のところへ届けたが、その道すがら、来保はこのふたりの味見をしてしまった。
来保は東京へ着くとまず韓道国夫妻に会い、月娘をおどしつけておいたことを話すと、韓道国は
「そりゃありがたい。あんな家はこわくはないが、それでも、もめるとは思っていた」とうれしそう。|※[#「羽/ふるとり」、unicode7fdf]謙《てきけん》はふたりのむすめを見ると十七八でかわゆく、ひとりは箏《そう》、ひとりは絃《げん》をひけるというので大喜びで、来保に二錠の馬蹄銀を渡したが、来保は帰って来ると月娘に一錠しか差し出さず、自分が行ったんでなけりゃこれも手にはいらなかったんだと恩に着せ、韓道国一家の威勢のあることをしゃべりたてて煙にまく。月娘は礼を述べ来保に酒を飲ませた上に、かみさんの恵祥《けいしょう》には衣服を持たせた。
そのうちに来保は恵祥の弟|劉倉《りゅうそう》と、宿屋にかくし預けておいた布を売りさばき、できた八百両で家を買って、劉倉に雑貨店を開かす。恵祥はきれいな着物、金銀の頭飾りの姿で王六児の母親の所に出入りしていたが、月娘の前に出る時はよれよれの着物を着て出て行く。そのうちにそのことがわかり月娘は腹を立てたが、それよりくやしいのは、来保が酒を飲んでは冗談口をたたいて気を引くことで、とうとうがまんならず、来保夫婦に暇を出した。来保はのうのうと劉倉といっしょに雑貨店をやり、友だちを呼んだり呼ばれたりで、平気の平左であった。
八十二
金蓮と陳敬済は味を知ってから、人目がなければいちゃついていた。じゃま者が目の前におれば、紙片に思いを書きつけて落とし、それでことばをかわす。
四月のある日のこと、金蓮が、夜ふけて木香《もっこう》の下で待っているという意味の詩を、髪をつめた香嚢《こうのう》とともに、陳敬済の留守の部屋に投げこんでおくと、それを見た陳敬済は金扇子に愛情の詩を書いて金蓮の部屋へ届けに出かけた。あいにくそこに月娘が来ているのも知らず、木戸口をあけると同時に、「かわいい人! いますか」と声をかける。あわてた金蓮は、陳敬済が西門|大姐《たいそ》を捜しに来た|てい《ヽヽ》にして月娘をごまかし、陳済敬は、扇子を金蓮のそでに押しこんで帰って行ったが、金蓮はその夜、月の上るのを待って、春梅と秋菊には酒を飲ませて眠らせ、部屋をととのえ、からだを清めると、木香の下で待つ。陳敬済は妻の西門大姐が月娘の部屋へ尼の語りものを聞きに行ったすきに、元宵にハンカチをやり、金蓮の所へ将棋をさしに行くから大姐が帰って来たらすぐ呼びに来るよう命じて花園に足を忍ばす。月にすかして、木香のかげの金蓮を見つけると、いきなり後から、ぎゅっと金蓮の乳を抱きしめる、
「キャッ! この死にぞこない。人に抱きついたりして、びっくりするじゃないの」
「へへへ、人違いですかね」
ふたりは抱き合ったまま金蓮の部屋にはいり、色めいた話をしながら酒を飲んでいたが、ほんのり顔が桃色になるとまもなく、灯が消された。ふたりが雲雨を終ると、外から元宵の呼ぶ声。敬済はあわてて部屋へ飛んで帰る。
金蓮の部屋の二階は三間で、まん中の一間に仏像が飾られ、両側の部屋には生薬や香料が積まれている。ある日、金蓮が二階で仏像に香をたいていると、陳敬済が生薬や香料を取りに上って来た。金蓮が香をたくのをやめ、「このかわいい命知らず!」と言うと、敬済が「おかあちゃん!」ふたりは抱き合ったりキッスをしていたが、だれもいないからと、ズボンも衣服も脱ぎ、そこの台の上で馬のようにたわむれる。この時、たまたま春梅が茶の葉をさがしに二階へ上って来た。春梅があわてて下へ降りようとすると、金蓮はスカートに足をつっこみながら、
「春梅! いい子だから上っておいで、ちょっと話があるんだから」と、春梅の上るのを待ち、「今だから教えるけど、あたしと若だんなはいい仲で、もう離れられないんだよ。いいかい、だれにも言わずに、おまえの胸の中にだけ収めておいておくれ」
「わかっています。何年も奥さんのおそばにいたんですもの。だれにも言うもんですか」
「それなら、若だんなもここにいられるから、おまえも若だんなといっしょに寝ておくれよ。そうしなけりゃ、おまえを信じない」
春梅は赤くなったり白くなったりしたが、やがて恥じらいながらスカートをおろし、バンドをゆるめると台の上にあおむけになった。これ以来、金蓮と春梅はぐるになり、秋菊の目をかすめて、しばしば陳敬済と歓を求めた。
七月のある日、朝から約束していたのに、敬済は崔本と城外へ遊びに行き、もどった時はへべれけで前後不覚に寝込んでしまった。金蓮が来て揺り起こしても、目をさまさない。どこで飲んで来たのかと考えながら袖に手をつっこむと、中から蓮《はす》の花の形の金簪が出て来て、そこに彫られた二行の文字を見ると、まごうかたない玉楼の持ち物である。そこで金蓮は自分が来たというしるしだけ残し、さっさと引き上げてしまった。敬済は目をさますと、約束を思い出し、金蓮の来たのを知ると、元宵《げんしょう》と西門大姐が奥から帰らぬのをさいわい、金蓮の部屋のほうへ歩いて行ったが木戸があかない。それを乗り越え、部屋のドアを押すと、かぎがかかっていないのか、すうっとあく。中に踏みこむと、ベッドには金蓮ひとり眠りこけ、窓からさしこむ月の光が、その白い顔を照らしている。
「かわいい人」と揺り起こすが答えがない。「誤解しないでください。崔さんが呼んでくれたので、城外の五里原《ごりげん》に遊びに行ってたんです。酔っぱらって約束やぶってほんとうにすみません」
金蓮がまだ返事をせぬので敬済がその場にひざまずくと、金蓮はどなり立てる。
「うそつきの死にぞこない! いい人ができたんでしょ! どこへ行ったのさ」
「崔本さんにさそわれて」
「うそ! このかんざしはどうしたの!」
「それは花園で拾ったので」
「影みたいなお化けを抱いたって言うの。どこの花園やら。もう一本拾って来たらいいわ。このかんざしはねえ、孟玉楼淫婦のもんなんだよ。名前が彫ってあるから知ってるさ。どうしてこれがあんたの袖にはいってるの! これからは、あんたはあんた、あたしはあたしさ」
「とんでもない、そんなことはありません。うそをついてるんなら、神様に三十前に殺されますよ。お碗ぐらいのお瘡《でき》ができて、五六年|黄疸《おうだん》にかかって、湯も水も飲めなくなって」
「歯でも痛むってのかい。なんだいあわてて」
金蓮はついに信じなかったが、夜も静まっているので、ふとんへは入れた。しかし、敬済に背を向けたきり。敬済は一晩じゅう言いわけして、明方に垣《かき》を越えて帰って行った。
八十三
敬済が帰って行くと金蓮は後悔したのだが、その日、七月十五日、盂蘭《うら》盆に当たるので月娘が西門慶のため紙を焼きに地蔵庵へ行くのを門まで見送って帰るとき、偶然陳敬済に出会ったので、夜来いと誘った。その夜、雨が降ったので敬済は紅の雨ガッパをかけて飛んで行く。金蓮はようやく孟玉楼との仲を疑っていたのを解き、八時ごろになるとベッドに上って狂い回り、一夜で西門慶のあの手この手を、陳敬済に教えこんでしまった。
秋菊が朝、小用を足しに起き上がると、ふいに寝室のドアがぎいと鳴り、中から紅のカッパを着た男が雨の中を走って行く。その後姿が陳敬済に似ているので、そのことを小玉に話すと、小玉は春梅と仲良しだから筒抜けになり、春梅は金蓮に言いつけ、秋菊は棒でさんざん打たれた。
八月の中秋節のころにも、金蓮、敬済、春梅といっしょにベッドに寝ていて、眠りすごし、お茶の時間になっても目をさまさぬ。秋菊がさっそく、月娘に注進に行くが、小玉がどうしても入れない。月娘が聞きつけて、表のほうへ歩いて来ると、目ざとく見つけた春梅が金蓮に知らせる。ふたりはまだ寝ていたから逃げ出す暇がないので、敬済はふとんへもぐりこみ、金蓮は錦のふとんをかぶせ、その上に小机をおいて、そばの椅子に腰掛け、花輪を手に持って、花輪つくりと見せかけ、うまく月娘をあざむいたが、陳敬済を部屋から出したあと、手にぐっしょり汗をかいていた。
月娘は秋菊のことばは信じなかったが、金蓮も男をなくしたばかりの女盛りだし、むすめの西門大姐のことも考え、西門大姐を儀門《よこもん》の内側のもとの李嬌児の部屋に移し、陳敬済が店に泊まるのも傅番頭が家へ帰る日だけにし、衣服や薬材を取りに行くときには玳安をつけ、小おんなも小間使いも用がなければ表へ出さず、あらゆることに目をくばるようになった。ここで、潘金蓮と陳敬済の熱烈な色恋ざたもついにとだえることとなった。
それから一月ばかりたったが、金蓮はすっかり元気もうせ、お化粧も投げやり、食欲もなくなってしまった。それを見た春梅が、
「奥様、ふさぎこんでばかりいてもしかたありませんね。ゆうべ大奥さんはふたりの尼を泊めて、きょうは例の因果話があるそうですから、草を詰めるまくらを取りに行くと言って、きっと若だんなをお店から連れて来ます。それでいいんでしょう。奥様とあたしはふたりでひとり、だんな様もなくなったんだし、これから先もいつもいっしょですよ」
晩になると、金蓮は月娘の部屋で因果話を聞いていたが、気分が悪くなったと、すぐ自分の部屋に帰る。春梅は秋菊を酒でもりつぶして台所に押しこみ、草を入れたかごを持って、そっと質店をのぞくと、傅番頭の姿は見えない。戸をたたくと、陳敬済が顔を出し、喜んで中に入れる。さいわい小ものもそこにいないので春梅は金蓮が待っていることを告げ陳敬済は喜んで春梅に白綾《しらあや》のハンカチ、三本の銀の楊枝《ようじ》をやり、春梅を抱きかかえ、オンドルに押し倒して、キッスするやら舌を吸うやら、しばらくはしゃぎ回った。春梅が金蓮に報告してまもなく、敬済は因果話に呼ばれたと平安をだまして、九月十二、三日の月影を踏んでやって来た。
「死にぞこない! 悪《わる》! 顔も見せないで」と、金蓮は有頂天である。秋菊が小用を催して目をさまし、月の光を浴びて外に出ると、今度こそはと窓からのぞく。そうと知らぬ中の三人は、灯をこうこうと照らし、まっぱだかで、ああやりこうやりしている。秋菊はこのさまを見ると、畜生、あんなまねをやりながら、わたしをたたくんだから、今度こそたたかれるような|ぶま《ヽヽ》はせず、うまく大奥様に言いつけてやると考え、また台所にもどって寝てしまった。
三人は夜中まで狂い回って眠ったが、春梅は夜明けとともに飛び起きてすぐ台所に行く。すると台所の戸があいているので、どきっとし秋菊にきくと、小用がしたかったから戸をこじあけて庭ですませたと言う。お浄桶《まる》が入れてあるじゃないか、そんなこと知らなかったとふたりがやり合っている間に、陳敬済は部屋を抜け出した。あとで金蓮が、秋菊が戸をこじあけた話を聞き、たたきのめしてやろうと思ったときは、もう秋菊は月娘の前にまかり出ていた。秋菊がゆうべ見たままのことを話すと、月娘は火のように怒り立ち、
「あるじ殺しの奴隷女! また、ありもしないことを告げ口するのか! 人が聞けば、だんなが死んでから奥《おく》さん連中が狂い回ってると思うじゃないか。わたしのこの子供だって、だれの種だい? などと言われるよ!」と秋菊をたたきはじめる。秋菊は肝をつぶして、表のほうへすっ飛んだ。
金蓮はこのことを聞き、ますます大胆にふるまう。西門大姐は陰で敬済に詰めよるが、敬済はせせら笑い、
「あのお化け淫婦のことばを信じるんか? おれは店で泊まったんだ。花園へ出られるわけないじゃないか。それとも花園の木戸はいつもあいてるんか?」
「強がり言うのはよしてよ! 風が吹けば草は動くんですよ!」
「黒か白か、しっかり見つけるんだな」
「いいわ。きっと後悔させてやるから!」
八十四
ある日、月娘は西門慶の病気の重かったとき、願をかけた泰岳廟《たいがくびょう》の娘娘《めがみ》に願解きにお参りしたいと思いつき、呉大舅に相談すると自分も行くと言う。孝哥は如意児に預からせて家におき、馬三頭、轎《かご》一つ、お供に玳安・来安を連れ、十六日の朝、四時ごろに出発した。おりしも秋|闌《た》けて、気候も寒く、日も短いので、一行四人は日の暮れぬうちに宿をとるようにして旅をつづけ無事に泰安州《たいあんしゅう》に着き、翌朝早く山に登って泰岳廟にたどりついた。
月娘が仙女のような娘娘《めがみ》を拝むと、四十がらみ、小づくりで、ひとみも歯も清らかな廟の道士が願解き文を読む。この石《せき》道士は実は色も欲も多いほうで、州|太守《たいしゅ》の妻の弟である殷天錫《いんてんしゃく》というやくざの手引きをし、お参りに来る婦女子を方丈へ連れこんでは、殷天錫に犯させるというしろものだった。石道士は月娘を見て、てっきり富豪の妻女と見てとり、物腰も柔らかく呉大舅に、茶を差し上げたいと申し入れ、山を下るのにもまだ早いと、うまうま方丈に請《しょう》じ入れた。やがて、菓子、料理、酒などが小道士の手で運び入れられると、月娘は玳安に一匹の布と、二両の銀子を出させ、これを謝礼として座を立とうとする。石道士はあわてて、再三再四ひきとめ、酒をすすめる。その酒のうまさ、石道士の口じょうにつられて数杯飲んでいるうちに、秋の日はもう暮れかかった。
宿に預けてある荷を心配して山を降りようとする呉大舅を石道士はことば巧みに安心させ、泊まることに決まると、すかさず大杯をすすめる。いい気持になった呉大舅はへんな気を起こし、便所へ行く、とうそをついて、裏の寺に歓喜仏を見に行ってしまった。月娘が横になってしばらくすると、ふいに奥のほうでガタゴト音がし、ベッドの後ろのドアがさっと開き、赤ら顔でひげを生やした三十がらみの男がおどり出して、やにわに月娘に抱きつく。別の部屋で酒や飯をふるまわれていた来安と玳安は月娘の悲鳴を聞きつけると、呉大舅を捜しに飛んで行く。呉大舅は二歩を一歩にして方丈へ飛んで来たが、押せども引けども、石道がかぎをかけたのでドアはあかない。
「助けて。焼香に来たおんなに何をなさるんです! ここは清浄な場所ではありませんか!」とかん高い月娘の声。
「おれが来たぞ! あわてるんでないぞ」と呉大舅、そこにあった石でドアをぶち破ると、殷天錫は、ぱっとベッドの後ろのドアから逃げ去ってしまう。このベッドの後ろのドアは山道につづいているのだ。呉大舅は部屋におどりこむと、まっさおになっている月娘に、
「けがされたか?」
「いいえ、まだ。ベッドの陰から逃げて行きました」
腹を立てた呉大舅が石道士を捜すが姿は見えず、弟子相手ではらちが明かぬ。ドアや窓をぶち破り、山を下って宿屋に着いたのは夜中だったか、話を聞いた宿の亭主が、それは殷|太歳《でんか》という有名なやくざで、州太守の奥方の弟で、奥様も早く逃げ出さぬと、かならずけがされると泣きべそ顔。そそくさと荷物をまとめ、あわてふためいて飛び出して轎を守って逃げるあとを、殷天錫の手下二三十人が手に手にこん棒、腰刀《だんびら》をたずさえて追っかけて来る。
やっと夜半の二時ごろ、目の前に小山が現われ、木の茂みから明りがもれている。そこは石洞でひとりの老僧が燈明をともして経を読んでいた。呉大舅がわけを話し、清河県への道をたずねると、和尚はわたしは雪洞《せつとう》禅師、法名は普静《ふせい》というと名のり、今晩はここに泊まって、あしたまっすぐに大道に出ればよいとすすめた。呉大舅は悪者に追いつかれるのをおそれたが、和尚は悪者は途中から引き返すから心配ないと言う。その夜、月娘たちはこの雪燗洞《せつかんどう》に泊まったが、翌朝、一匹の布を礼に差し出すと、「それは受けられません。かわりにあなたのお子様を徒弟に引きとりたいと存じます」
呉大舅が、妹には子供がひとりしかないと言い、月娘が、生まれてまだ一年にもならぬと言うと、今ほしいのではない、十五年たってからほしいというのだった。十五年たてば、その時はその時と、月娘はいちおう承知し、ただちに清河県めざして帰って行った。
八十五
月娘の留守の間も、金蓮と敬済は鶏と卵みたいに抱いたり抱かれたりしていたが、ある日、金蓮は妊娠していることを敬済に告げた。西門慶の時には薛尼《せつあま》の薬と胞衣《えな》まで飲んだのに効かなかったのにとぐちを言っても、もう六カ月で、腹の中で子供が動いている。もう知らぬ存ぜぬではすまぬので、どうしても月娘の帰るまでに始末しておかねばならぬ。
陳敬済は銀子三銭を握って、大街の胡太医のところへ飛んで行き、いぶかしがっていやがらせを言うのを、もう二銭出して拝み倒し、堕胎薬を買って帰る。晩になって金蓮が飲むと、急に腹が痛くなり、春梅に腹をもませ、やがて浄桶《おまる》に尻をすえると、あっというまに、まるまるした男の子が生まれた。翌日、糞《くそ》さらいの男が子供もろとも糞をかついで帰って行ったが、好事門を出《い》でず、悪事千里を走るで、このことがあってから金蓮と敬済の中は家じゅうだれ知らぬものもない。
十月になって、やっと月娘は家へ帰って来たが、月娘は旅のつかれと驚かされたことでどっと床につき、二三日は起き上がれない。ある日、秋菊が月娘の所へ飛んで来る。
「奥様、奥様はいつもうそだとおっしゃいますが、奥様の留守中も、ふたりは朝から晩まで、晩から朝まで、くっついて寝ていました。できた赤ん坊は流したし、春梅とぐるなんです。今、二階でわるさしていますから、早くおいでください」
月娘が大急ぎで行くと、ふたりは二階でまっ最中、春梅の知らせも一足おくれ、隠れる場所もない。あわてふためいて衣服をつけて出て来るところを敬済はぱったり月娘と出くわしてしまった。
「わたしの言ったことを忘れたのかい? 用もないのに、ここへ来て、何をしてたんです」
一|喝《かつ》されると、へどもどして
「店でお客が待っておりますのに、だれもおりませんので」
「後家の部屋に何をしにはいる。恥を知らぬのかい」
敬済はぼうっとして逃げて行く。金蓮は気まり悪くてなかなか二階から降りられなかったが、やがてもじもじと月娘の前に出ると、月娘は
「五奥さん。今後はけっしてこんな恥知らずなまねはしないでください。あんたも、わたしも後家なんですよ。急須《きゅうす》にも耳はあります。陰で奴隷どもが|そしって《ヽヽヽヽ》いるんです。あんたたちのことを何回耳にしたかしれませんが、うそだとばかり思ってました。ところがきょう、これでは信じないわけにはゆきませんよ」金蓮はなんとか言いつくろおうとしたが、月娘は「そうですかねえ」と、とっとと奥へ去った。
晩に西門大姐の部屋で月娘は敬済をまた、ののしって、「悪者! つべこべ言ったって、現場をおさえたんだからね。わたしを甕《かめ》の底へ押しこめて、よろしくやっていたんだね。おまえ、それで、まだこの家《や》のご飯を食べる気かね?」
「淫婦! きさまの家じゃ、おれの銀子《かね》を取りこんでるじゃないか。飯を食わせないがあきれらあ」と敬済はののしり返したが、以後一歩も奥へはいることができない。敬済は食事を叔父の張団練の所へしに行くようになった。月娘は好きなようにさせておいた。
そうこうするうち一月ばかりたつ。金蓮も敬済も欲火|蒸《む》すがごときというような気持である。ある日、門前を通る薛嫂《せつそう》を見た敬済は、店には勘定を取りに行く体《てい》にして薛嫂の家へ驢馬《ろば》で出かけて行き、薛嫂に会うと、
「実は五|奥《おく》さんとだいぶ前からできてたんだが、秋菊がしゃべりやがって、大奥さんと女房のやつにおれはひどい目にあってるんだ。五奥さんに手紙を出したいと思っても伝手《つて》がない。そこで」と袖から一両出す。
「まあ、何かと思えば」と薛嫂は笑い、「お婿さんがおかあさんを押さえこんだって! そいつは豪儀なこと。どういうぐあいに手に入れたんです?」
敬済はそれには相手にならず、手紙を頼んで帰って行った。
翌日、薛嫂は花かんざし売りにかこつけて、月娘、孟玉楼と売り歩き、最後に金蓮の部屋に来る。金蓮は朝から気が滅入り、まずそうに粥をすすり、春梅が
「奥様、人のうわさなんか気にしないでいいですよ。大奥さんだってだんなが死んでから赤ん坊を生んだのですもの、だれの種やら怪しいもんでしょ。奥さんのことを、とやかく言えたもんですか」と言うが、何げなくあけたドアの向うで、犬がさかっているのを見るにつけても、金蓮はますます気が沈む。そこへ薛嫂がはいって来て、「犬がさかってるなんて、いいきざしですよ!」
いろいろ話しているうちに、薛嫂は本題にはいり、敬済がはいって来られない事情を話すと、
「それでお手紙をことづかって来たんですがね。毒食わば皿まで、お線香に火がつけば煙はしぜんに立つ。こわいことあるもんですか」と手紙を出す。それには切々たる思いを書きつらね、そいとげたい強い望みで結ばれていた。金蓮は受け取った印に白絹のハンカチに思いをこめた歌を書き、金の指輪をつつんで渡し、「若だんなに、これで食べてもらうよう、言ってちょうだい」
薛嫂がハンカチを敬済に渡し、帰ろうとして、「あ、もう少しで忘れるところだった。大奥さんが春梅《しゅんばい》さんをわたしんとこから売りに出すんだそうですよ。ふたりの手引きをしたから」
「そんなことと思った。じゃ連れていっといてくれ。晩に会いに行く」
夕方、薛嫂がまた月娘の部屋へ出向くやいなや、月娘は「春梅はおまえの所から十六両で買ったんだから十六両持って来るんだよ」と言いつけ、そばの小玉に「おまえは連れて行くところを見て、からだだけ返すんだよ。衣服はおいて行かせるんだよ」と言いつける。
薛嫂は金蓮の部屋に来ると、金蓮とふたりで月娘が残酷だとか、薄情だとかさんざんこきおろし、小玉が見張りに来るまで待っていたが、悲しがったりくやし涙を浮かべたりする金蓮のそばで涙一つこぼさず話を聞いていた春梅は
「奥様。泣いても始まりませんよ。腹を立てておからだでもこわしては損です。あたしは出て行きますよ。衣服なんかいるもんですか。いい身分の女は、裸で嫁入りに行くって言いますからね」
そこへ小玉がやって来たが、「五奥様、大奥様はのぼせてるんですよ」と、言いつけにかまわず、春梅のつづらにハンカチやかんざしをつめると、金蓮も衣服や靴や耳輪や指輪などをつめてやる。小玉は頭から二束のかんざしを抜いて春梅にやり、つめ残った品や衣服を奥へ運んで行った。
金蓮や小玉が涙を流して手を握っているのに、春梅は振り返りもせず薛嫂の後につき、とっとと門を出て行った。金蓮は部屋にもどって寂しさに耐えかね、泣き叫んだのだった。
八十六
翌日、陳敬済は集金に出ると言って薛嫂の家にかけつけ、大奥さんに固く言いつけられているからとことわる薛嫂に一両出し、薛嫂が質入れしているまくらも出してやる約束をして、やっと春梅の部屋に通してもらう。春梅は顔を見るなり、「若だんな、あんたが人殺しの張本人よ。あたしたちをこんな目にして見られたざまじゃないわ」
「ねえさんが家を出たからには、わたしだって長くいるもんか。ねえさんはいいだんなを見つけてもらうことだ。わたしも塩づけにされた韮《にら》、畦《うね》には帰れないから、東京へ帰って父と相談して、あそこのむすめはたたき出し、預けてある銀子や品物は取り返してやる」
腹を立てながら酒を飲んだせいか回りが早く、ふたりはとっさの間に雲雨を交えた。薛嫂は月娘の目がこわいから、敬済をせかすように追い立てる。翌日、敬済はまたやって来て、薛嫂にはまくらを渡してやり、春梅にはハンカチや膝《ひざ》あてを贈って、また春梅と酒を飲みはじめた。ところが月娘の使いで、春梅に買手がついたかどうかききに来た来安が、門口の敬済の驢馬を見つけた。それを聞くと、月娘は火のようにおこり、薛嫂を呼びつけ、
「奴隷を連れて行ったきり、買手を捜さないのかね。日をのばして、男をくわえこませてもうけてるのかい。売らないなら返しておくれ、馮《ふう》婆に頼むから。それから、家への出入りはお断りよ」
さんざんとっちめられながらも、薛嫂は十六両では買手がつかないと、十三両まで値切り、翌日、春梅をきらびやかに飾らせ、周守備の屋敷に送りこんで、五十両の馬蹄銀をせしめた。薛嫂はほくほくして家へ持って帰ると、十三両だけ削って持って行き、周守備かチップを一両くれたと一両の銀子を見せて、催促がましく、銀子五銭をせしめる。薛嫂のもうけはこうして三十七両五銭。周旋屋とはだいたいこんなものと相場が決まっている。
春梅は売られ、金蓮とは会えず、むしゃくしゃした敬済は西門大姐を淫婦とかどろぼうのむすめと、ののしって暮らす。そのうち、十一月二十七日、孟玉楼の誕生日となった。玉楼は敬済がかわいそうになり、月娘の止めるのもきかず酒や菓子などを春鴻に持ってやらせ、敬済や傅《ふ》番頭に飲み食いさす。ところが敬済はそれをたいらげただけで足らず、傅番頭がとめても、来安に酒を取りに奥へやらせた。来安がもどって来て、「お酒はもうなくなりました」と言うと、敬済はののしって、「悪チビ奴隷め、うそついてやがんな。主人がおれをおろそかにしやがるから、奴隷までばかにしやがる。おれは婿だが、財産を酒や飯で食いつぶしたとでも言いやがるのか。だんなが死んでから急におれをないがしろにしやがって」
あわてて傅がなだめるが、
「飲んだからどなるんじゃねえんだ。前から考えてたことだ。母も糞もあるか。おれのことをつべこべ抜かすが、おれが女を抱いたのは、女がおれを抱くからじゃねえか。畜生め。家じゅうの女にみんな穴をあけてやるぞ。きさまのむすめなんか三下り半で追い出してやる。それから、お上に訴状を出しゃ、こんな家や金銀みな没収だ。女どもは官売だ。それがこわかったら、少しはお婿様をたいせつにしろい」
「若だんな、お酔いになったんですな」
「おいぼれ犬! きさまの酒で酔ったんじゃねえぞ。ばかにしやがって。ここのおやじのおこぼれで太りやがって、おれを追い出そうってのか。畜生め! 訴状にはきさまの名まえものっけてやらあ」
小心者の傅番頭はびっくりして逃げて行ったが、夜が明けると月娘に昨夜の陳敬済の話を告げ、お役ごめんと帳簿を差し出す。月娘は陳敬済こそお上がこわくて逃げ回っている身で恐ろしくもなんともないこと、持って来た金銀財宝などうその皮、十六のとき哀れなかっこうで逃げこんで来て大きくしてもらい、商売も西門慶のおかげでやっと覚えたところ、黙ってほっとけば良いと慰めたので、傅番頭はやっと店へ帰って行った。
ところが後のある日、如意児が孝哥を抱いて、傅番頭の所へ茶を持って行く。孝哥がわあわあ泣くのを見た敬済があやすと、孝哥はぴったりと泣きやむ。
「どうだい、まるでおれの子供だね。おれの言うことをよく聞きわける」
「若だんなの赤ちゃんですって? 大奥様に言いつけますよ」
「へん、おれの子でなくって、だれの子だってんだ」
敬済がふざけて蹴《け》ると如意児はよろよろころがりそうになり、べそをかきながら月娘に知らせに行く。小僧たちの前でそんなことを言われたと知ると、月娘は怒りの余りぶるぶる震えて、うめき声とともに卒倒した。小玉はあわてて家じゅうの女どもを集めて介抱する。雪娥に生姜《しょうが》湯を飲まされて意識のもどった月娘は泣く泣く、敬済に侮《あなど》られたことを話したが、雪娥は
「あの小僧っ子は、春梅は売り飛ばされる、潘家の淫婦には会えぬで、やけになってるんですわ。だまして奥へ連れこんで思いきりたたきのばして、追い出してやればいいんですよ。潘家の淫婦も、王婆《おうばばあ》に連れて行かせて、売っておしまいになることです。そうすりゃ、家に波風は立ちませんわ」
月娘はほんとうだと思い、翌日食事どきに、敬済を奥に連れて来ると、雪娥や一丈青《いちじょうせい》、中秋、小玉、綉春などに槌《つち》やこん棒で、さんざんにたたかせた。妻の西門大姐が手をつかねて見ているのを見て、これはいけないと敬済は、いきなりズボンを脱ぎ捨て、股間《こかん》のこん棒をむき出してしまう。女どもはびっくりして逃げ出す、そのすきに敬済もズボン片手に表の方へ逃げたが、後から追っかけて月娘が、帳簿を傅番頭に渡せと言うので、今は家にもおれないと考え、衣服やふとんを丸めると、そのまま叔父の張団練の家へころげこんだ。
話かわって王婆のところでは、西門慶が金蓮をめとったころ、旅商人にくっついて不在だったむすこの王潮《おうちょう》が、その商人から百両ばかり盗んで帰ったので、茶店はよして、買った二頭の驢馬に粉を挽《ひ》かせて暮らしていた。そこへひょっこり玳安が現われる。王婆は金蓮が赤ん坊でも生んだのかと思ったが、できたのは赤ん坊じゃなく、若だんなとできてしまったので、金蓮を引き取って、とつぎ先を見つけてくれという月娘のことづけ。
「あれはそんな女だよ。去年も何九《かきゅう》のことでだんなに頼みに上がった時も粗略に扱いおった。で、若だんなてのはだれだい?」
「陳敬済というんだが、もうおっぽり出されて、今度は五奥さんの番さ」
王婆は月娘のとこへやって来て、できるだけうまい取引、あわよくばただで引き取ろうと、恩着せがましくべらべらまくし立てるが、つづら一つで引き取れと月娘は冷淡である。そばから小玉が、轎なしで帰らしては世間の物笑いととりなすが、月娘は黙っている。王婆が金蓮の部屋へ来て、早くしたくするように言うと、金蓮は月娘を恨みののしって叫びだした。月娘がやって来て、そのののしりも知らぬ顔で、黙って二つのつづらに衣服や櫛《くし》かんざしなどをつめ、引出しのついたテーブルを持ち出させると、金蓮の部屋にかぎをかけ、秋菊を連れて奥の間にはいるなり、西門慶の位牌の前でわっとばかり泣きだした。
金蓮は月娘の部屋に顔を出し、西門慶の位牌の前で一泣きすると、玉楼の部屋に来て泣いて別れを惜しむ。玉楼はそっと金簪《きんかんざし》や衣服を金蓮にやり、再会を約して別れた。小玉は表門まで見送ると、そっと二本の金簪を渡す。金蓮は涙をこらえ、「おねえさん、あんただけは人の心を持っているのねえ」
王婆の家に来ると金蓮は奥の一部屋で王婆といっしょに寝ることとなる。王潮は妻はまだないが、もう骨格のがっしりしたいい若者、これは隣の部屋に寝る。金蓮は来た翌日からもう厚化粧してすだれから外をながめ、暇があれば琵琶《びわ》をひき、王婆が留守になると、王潮と賭《か》け将棋などさしていたが、いつのまにやら王潮ともできてしまい、夜になって王婆が寝つくと、小用に立つふりをして、王潮のふとんに忍びこみベッドをきします。王婆はねずみが粉でも食っているのかと、べつに気にもとめぬ様子である。
ある日、金蓮が王婆の家にいると聞いて陳敬済がやって来、驢馬の糞をさらっている王婆に、
「おばさん、こちらに西門大官人の五奥さんが来ているでしょう」
「へんな人じゃな。おまえさん、だれかいね?」
「五奥さんの弟ですよ」
「へえっ、あの人に弟、初耳だねえ。おまえさん、陳なんとか言う人なんだろ。また穴をあけに来たんだね。許さないよ」
「へへへ、おばさん、これでお茶でも飲んでくれ」と腰から二さしの銅銭をじゃらじゃら出すと、
「へへん、銅銭なんかじゃね。大奥さんが、へんなやつには会わせるなとお言いつけだ。会いたいんなら、一回に五両ずつ持って来な。女房にしたいなら百両、それに手数料が十両じゃ」
敬済は王婆の鼻息を見ると、金の頭の銀簪を髪から抜き、
「王婆さん、これは重さが五銭あるんだ。あとで銀子一両やるから、どうか一回会わせてくれ」とはいつくばう。
許されて陳敬済が奥の間にはいると、オンドルにすわっていた金蓮は恨めしそうに、
「あんたはなんて人、たよりないわねえ。おかげで、春梅とあたしは別れ別れ」
「おねえさん、わたしだって皮をひんむかれるところだったんだ。きのうは春梅さんが周守備のとこへ売られるし、きょうになっておねえんがここにいるとわかったから会いに来たんじゃありませんか。わたしたちは別れるわけにゆきませんよ。そのうちに、あいつは離婚して、預けておいた金銀つづらを取り返してやるんだ。もしよこさねば東京へ訴えてやる。それから、おねえさんをもらいに来ます」
「王おばさんは百両ほしいと言うんだから、それだけ用意してね」
「そんな値段てあるもんか」
そばから王婆が、
「大奥さんがどうしても百両いると言ってるんだから、びた一文かけてもだめだよ」
「おばさん、ほんとうのとこ、あたしと五奥さんは離れられないんだから、半値の五六十両にしておくれ。そうすれば、叔父に貸してある二三軒の家を抵当に、きっと銀子はそろえるから。あんたも、あまりもうけないでおくれよ」
「だめじゃ。五六十両はおろか、八十両でも渡せん。きのうも潮州《ちょうしゅう》の絹商人が七十両出すと言った。大街の張二官は八十両と言った。それでも、わしゃ、やっぱり渡さなかったんじゃ。赤ん坊であるまいし、寝ごとみたいなことは言わないほうが身のためだよ。義母《おかあさん》をめとるんじゃないか。わしが外でどなり歩いたらどうなるかわかるかい? いいかげんに口をたたくのはよすがいい。みっともない」
「おばさん、もっと小さい声で、百両きっと出す、父が東京にいるから、銀子を取って来るまで待っててくれ。馬を飛ばすから、十日、長くて半月だ」
「先に米を炊《た》いたほうが、先に飯を食べるんだわいね。早くしないと遅れるよ。それから、手数がいるんだよ、十両だよ」
八十七
月娘は今度は秋菊を売るために春鴻を薛嫂の家へ使いにやった。春鴻は大街へ出ると、ばったり応伯爵と出会う。応伯爵にたずねられるままに、春梅、金蓮と売りに出され、今度は秋菊だという話をすると、応伯爵は一々うなずいて聞いていたが、琴童も画童もいなくなったのでほかへ行きたいという春鴻に、いっそ張二官に仕えろ、張二官は西門慶の跡をついで今は提刑千戸だし、李嬌児も二奥さんでいるしとすすめ、承知させる。それから春鴻は薛嫂を呼びに行ったが、月娘はたった五両で秋菊を手離した。
応伯爵が春鴻を張二官に見せると、張二官は大喜びで使うことに決め、小ものに銀子一両と手紙を持たせて月娘のところにやる。西門慶の遺産をひそかにねらって、親しくつき合い、孝哥と自分の娘を縁組させようとしている今は清河《せいか》県の同知という役目の雲理守《うんりしゅ》の妻君がその時訪問して来ていたが、月娘が手紙を見ると、春鴻を官府で使いたいから、衣服や箱を届けてもらいたいと書いて、銀子一両が添えてある。役人では相手がわるい。銀子も受け取るわけにいかず、みすみす人も荷物もただ取られとなってしまった。
張二官は応伯爵に吹きこまれ、金蓮も手に入れたく思っていたが、八十両で買おうと人をやって交渉させても、王婆が百両を一文もひかない。そのうちに春鴻が来てたずねると、金蓮はむすめの婿と姦通《かんつう》したのだと言う。張二官には十五になるむすこがあるので考えこんだところへ、李嬌児が、夫の武大の毒殺、琴童との姦通、李瓶児と官哥《かんか》をおとしいれたことなど述べ立てたので、張二官はぞっとして手を引いた。
ところが周守備に買われた春梅は、ひどく気に入られて、第二夫人に立てられている。正妻というのが片目で、年中念仏をとなえ精進料理を食って、とんとそんなことには無関心だから、ほかに生姐《せいそ》と孫二嫂《そんにそう》という女がいるが、家のかぎはいっさい春梅にゆだねられるまでになっていた。ある日、薛嫂がやって来て、金蓮が王婆のところへ出された話をすると、その晩、春梅は涙をこぼして、金蓮をめとってくれと周守備にねだり、もしめとってくださるなら自分は第三夫人に下げられてもいいとまで言う。泣きくどかれた周守備は気に入りの部下の張勝《ちょうしょう》と李安《りあん》を王婆のところへやる。ふたりが八十五両まで出すとねばっても王婆がうんと言わぬので、帰って報告すると、周守備は考えこんだ。二日ばかりたつと、また春梅が泣きじゃくり、もう少しのことをと、かきくどく。周守備は思い直して、こんどは執事の周忠に張勝、李安をつけて九十両持たせてやったが、王婆はますます鼻息あらく取り合わない。周忠はかんかんに腹を立てて引き返して報告する。周守備はやっと心を定め、「では、あす百両持って行って、轎で連れて来い」
「ところが殿様、婆は手数料を五両くれと言うのであります。二日ばかりほうっておいて、それでもつけこんでくるなら、牢屋《ろうや》にほうりこんで、ちとは痛い目にあわせてはいかがでございましょう」この二日ばかりが物を言うとはだれ知るものもなかった。
さて、話は武松《ぶしょう》へ移る。武松の身の上にはあれから後も波瀾《はらん》が多かったが、ちょうどそのころ、徽宗《きそう》皇帝が皇太子を立て、大赦令が下り、武松は、清河県の県庁で隊長の位に復することになり、はるばる清河県へ帰りついた。まず隣家の姚二郎《ようじろう》をたずね、もう十九歳になった姪の迎児《げいじ》を受け取ると、ふたりは武大の家に住むことになる。人のうわさに西門慶は死んだが、金蓮は王婆の店で買手を待っていると聞くと、武松の胸にはまた、むらむらと怒りがこみ上げ、ようし、今度は逃がさぬ。
翌日、武松が隣の王婆の門口を通ると、すだれの陰にいた金蓮はあわてて奥へ姿を消す。武松はすだれをあけて、
「王婆さんはいるかい」
石うすの上で粉を掃き寄せていた王婆は振り向き、
「おや、だれかと思ったら武松さん。いつ帰ったんじゃね」
「恩赦にあって、きのう帰って来た。家の留守をありがとう」
「おやまあ、ひげまで生やしていい男になったこと。苦労したとみえ、礼儀正しいじゃないかね」
「実は聞いてもらいたいことがある。嫂《ねえ》さんがここにいなさるということだが、こう言ってもらいたいんだ。もしとつぐ気があるんなら、わたしの所へ来てもらいたい。迎児も大きくなったし、めんどうを見てもらって婿でも捜せば、人にも笑われずにすむから」
「いるにはいるが、とつぐ気かどうかは知らないね」
「お礼はたっぷりするよ」
「そうかね。じゃ、きいて来よう」
すだれの陰で聞いていた金蓮は、武松が男ぶりが上がり、弁舌もさわやかになったのを知ると、昔の恋情が燃え、
「あたしはやっぱりこの人に抱かれる運命だったんだわ」と心につぶやき、王婆の呼ぶのを待たず顔を出し、あいさつすると、
「叔叔《あなた》が帰って来て、迎児の世話を見、婿をとるって、賛成だわ」
王婆は「大奥さんが白いおかねが百両ほしいと言ってるんですがね」
「どうして、そう高いんだ?」
「西門大官人が、はじめにたいへんなお銀子《かね》をかけたんで、銀人形みたいなものだわいね」
「なるほど。嫂《ねえ》さんに来てもらえるんなら、百両はおろか、おばさんにもお礼を五両出す」
王婆は屁《へ》や小便をちびるほど喜び、
「やっぱり武にいさんは礼儀を知ってるねえ。よそで苦労して、ほんとうにいい男になった」
王婆は武松がそんなに持ってるはずがないと、ちゃらんぽらんにやってたが、翌日、武松はちょっとしたわけがあって持っていた百両に、五両の小粒をそえてやって来た。王婆はピカピカ光る銀子百両を目前に見ると、口には出さねど心のうちで、陳敬済の百両はいつのことやらわからんと、あわてて小粒もしまいこみ、
「武にいさんは苦労人だよ、ほんとに」
「では、今晩、嫂《ねえ》さんを連れて来ておくれ」
「気が早いねえ、へへへ、そんなに待ち遠しいかい?」
王婆は二十両だけ銀子を削って月娘に届けに行く。
「あれはだれの所へとつぐの?」
「山沿いに駆け回っても兎《うさぎ》はもとの穴に帰りますわいね。小叔《こじゅうと》のところですよ。もとのお鍋《なべ》の粥を食べるんですわいね」
月娘は聞いて、愕然《がくぜん》とした。
夕方になって王婆が金蓮を連れて行くと、武松は紅衣を着て迎える。客間にはこうこうと蝋燭《ろうそく》がともり、武大の位牌が飾られている。王婆はふしんに思いながら部屋にはいると、武松は表門と裏門をしめてしまった。
「武にいさん、わたしゃ帰らしてもらうよ、家が無人だから」
「まあ、酒を飲んで、肉をつついてくださいよ。おめでたい日なんだから」
武松は王婆と金蓮に酒をつぐと、自分もぐいぐい四杯飲む。王婆は気味が悪くなって、
「武にいさん、わたしを帰してくださいよ。もう充分いただいたから。あとはふたりでごゆるりと飲みなさいよ」
「ばあさん、まあ待て。この武松がおまえに尋ねたいことがあるぞ」こう言うと武松は衣服の中に隠し持った二尺の長刀をビュッととり出し片手は柄《つか》をにぎり、片手はつばを押さえてかまえ、すごい目を丸く見張り、ひげをふるわせ、「ばばあ! 驚くに及ばん。仇《あだ》うらみには相手がある。借金には貸主があると言うではないか。とぼけると承知はせんぞ。おれの兄上の命はきさまがどこへ持ってったのだ」
「武にいさん、もう夜ですよう。酔って刀をひねくり回して、場所をお考え!」
「ばばあ、黙れ! この武松が死ぬのがこわいと思ってるのか。この淫婦にとっくりきいてから、きさま、老いぼれ豚犬にきいてやる。一歩も動くと、おれのこの刀をくらうぞ」そしてふり返りさま、「こら、ど淫婦、どういうぐあいに兄上をやりやがったのか。ほんとうを言えば許してやる」
「叔叔《あなた》、むちゃを言うのはあんまりです。あなたの兄さんは胸の痛みで死んだので、あたしはそんなこと」
言い終らぬに、武松は刀を取って、グサリとテーブルに突っ立て、左手で金蓮の髪をつかみ、右手で胸ぐらを握ると、パッとテーブルを蹴倒す。皿小はちは飛び、みんな落ちて砕けちる。女をテーブル越しに武大の霊前に投げ飛ばすすきに、王婆は表門目がけて走って行く。大またで追っかけた武松は、王婆をくくり猿《ざる》同様に、腰帯でくくり上げる。
「隊長、おこらないでくださいよう。その人が自分でやったこと。わたしゃ関係ないんだよ」
「死にぞこないめ! おれはみんな知ってるんだぞ。きさまは西門慶に知恵をつけ、おれを追っぱらいやがったんだ。言いやがらねば、この淫婦をえぐり殺してから、きさま老いぼれ豚犬もばらしてやる」
武松は刀をとって、金蓮の目の前で一振り、二振り。女はあわてて、
「叔叔《あなた》許してちょうだい、みんなお話しします」
「淫婦、早く言え」
女はびっくりして魂も身につかず、あの時すだれを収めていて西門慶にぶつかったことから、西門慶と通じて王婆とともに武大を毒殺したことまで、すっかり述べ立てる。聞いて王婆、
「あほう。みんなしゃべって、このばばまで巻きぞえを食うわ」
武松は金蓮を武大の霊前に引きすえると、片手で酒を地にそそぎ、紙銭《しせん》を焼き、
「にいさん、お聞きください。きょうこそ恨みを晴らしてあげますぞ」
女がおかしなぐあいになったと大声を立てかけると、武松は香の灰を女の口につっこみ、その場に突き倒す。かんざしを飛びちらしてもがくところを、肋《あばら》を蹴り、両腕を両足でぐっと踏みつけ、
「淫婦! きさまは頭がいいんだったな。さて、きさまの心のほうはどうか知らんて。おれが一つ見てやろうか」
胸のあたりをおしひろげると、まっ白な胸のくぼみを一えぐり、まっかな鮮血がほとばしる。血刀を口にくわえ、両手で胸を引き裂き、えいと、血のしたたる心肝五臓を引き抜いて霊前に供えると、一刀の下に頭を斬《き》って落とす。小むすめの迎児はそばでおそろしさに顔をおおう。恐ろしや武松、哀れや金蓮は三十二歳の青春《わかさ》を、刀の下に落とした。
武松が金蓮を殺し終るのを見た婆は
「人殺し!」と叫ぶ。武松は聞くなり、ふり向いて一刀の下に頭を斬って落とす。しかばねと首を片寄せると、武松は金蓮の心肝五臓を刀に刺し、裏の軒下に突っ立てる。夜の八時ころである。迎児を部屋に閉じこめると、迎児は、
「叔父《おじ》さん、あたしこわいよう!」
武松は「迎児よ、おれはおまえのめんどうまでは見られんのだよ」と言い、王婆の家へおどりこむ。その時すでに王潮は、金蓮の悲鳴にことをさとって、町役人を呼びに走り出たあとだった。近所のものは武松の恐ろしさを知っているからだれもあえて近寄らぬ。垣を越えて王婆の部屋にはいると、ただ、灯《ひ》がついているばかりで人影もない。婆のつづらをひっくり返し、衣服をひきちらかして、百両の銀子を捜す。月娘の手にはいった二十両を除いて八十五両と、かんざし、耳輪、首飾りを包むと、武松はすぐさま、刀をひっさげ裏の塀《へい》を飛び越え、朝の四時に城門が開くのを待って県城をぬけ出し、梁山泊《りょうざんぱく》の盗賊の群れに身を投じてしまった。
八十八
王潮が土地の保甲《ほこう》を呼んで帰り、武松の家の門を押し破ってはいると、血まみれのふたりのしかばねは地にころび、金蓮の心肝五臓は裏の軒下に刀で突き刺されている。閉じこめられていた迎児に聞いても泣き震えるばかり。すぐさま県役所へ訴え出ると、新任の李県知事は事情を聞いた上で、犯人武松を捕えた者には銀五両を賜うという布告を貼り出した。
張勝と李安は周守備から銀子百両を受け取り王婆の家へ来ると、県役人の検死の最中、その知らせを聞いた春梅は三四日泣き食事もとらぬ。周守備がいろいろ慰める手だてをするがうれしそうな顔もせず、張勝や李安に武松の見つかりしだい、報告するよう言いつける。
一方陳敬済のほうは父を尋ねて東京へ急ぐ途中、身内の陳定が、敬済を迎えに来るのにばったり出会う。聞けば敬済の父が危篤だという。急ぎに急いで東京に着くと、伯父の張世廉《ちょうせいれん》は叔母を残してすでに死に、父の陳洪《ちんこう》は死んで三日め、一家をあげて喪に服している。母親は敬済の成人ぶりを喜び、大赦令も出たし、父の柩《ひつぎ》を清河県へ届けよと命じた。敬済は、柩といっしょでは時間と手間がたいへん、その間に金蓮が人妻になってしまうかもしれないと、道中のぶっそうさを楯《たて》に、まず自分が衣服やつづらを宰領《さいりょう》して帰り家を片づけておく、来年、陳定《ちんてい》ともに母がゆっくり霊柩《れいきゅう》を守ってくるほうがよいとだましてしまった。十二月一日、敬済は衣服やつづら二車とともに出発し、数日で帰り、張団練の家へ立ち寄って、父が死に母が柩とともに来年来ることを告げると、もともと陳家の持ち家なのだから、張団練は家の者を使って部屋を掃除させ、迎え入れの準備にかかる。
「これでよし、父は死んだし母はおれに目がない。まずあの小むすめを離婚し、次に西門の家を物品横領で訴える。細工はりゅうりゅうだ」と内心ほくそえみながら、腰に百両の銀子と、王婆の手数料十両を用意し、はやりにはやって王婆の家へやって来る。すると道ばたに二個の死体が埋められ、その上に二本の槍《やり》が立って、燈籠がぶら下がっている。門には一枚紙が貼られ、
「凶犯武松は潘氏並びに王婆を殺害した、武松を捕らえたものには、銀子五十両の褒賞《ほうしょう》をたまわる」と県庁の布告。
肝をつぶして棒立ちになっていると、ふたりの大男がぬっと出て来て、「だれだ」と敬済を捕えんばかりの形相。後もふり返らず石橋のとこまで逃げて来ると、「おい、どうしてるんだい」
びくっとふり返ると、鉄の爪《つめ》というあだ名の、友人の楊二郎《ようじろう》。敬済は、楊二郎から殺人事件の話や、迎児がだれかにとついだ話を聞かされる。家へもどっても気が落ち着かず、夕暮れになると、そばでする勇気がないので、石橋のあたりで、涙を流して紙銭を焼いて、弔い帰りのおくれたことをあやまる。焼き終って帰り、泣く泣くふとんにもぐりこみ、まぶたを閉じるやいなや、まっ白な衣服に血を浴びた金蓮が現われ、「おにいさん、あなたといっしょに暮らすはずだったのに、武松のやつに殺されました。あたしは浮かばれず、ふらついていますの。仇《かたき》はつかまらないし、あたしの死骸も道に埋められたまま。ね、昔の情を思い出し、棺を買って葬儀をあげてちょうだい」
「おねえさん、わたしだってそうしたい。だが、あの無情な月娘淫婦が、何を思うやら、恐ろしい。守備府へ行って春梅さんに相談しておくれ」
「さっき行ったの。でも門の神が通してくれない」
「かわいそうに」と抱こうとすると、血のりに手がすべって、金蓮の姿は消えうせる。
夢だったのか! 呆然《ぼうぜん》としていると、外から夜中の十二時の鼓の音が聞えて来る。
二月ばかりたった。王婆の遺骸は王潮の手で葬られたが、金蓮のはそのまま。正月の初めのある夜、春梅が床につくと、髪ふり乱した金蓮が夢に現われ、自分の運命をなげき、昔の情を思い出し、棺を買って葬ってくれと泣きじゃくる。なおも聞こうとすると金蓮につきのけられて目がさめたが、涙がほおを伝っていた。春梅は翌日、さっそく張勝と李安を呼び、県庁で様子をさぐらせると、武松がつかまらぬので、遺骸は家族に引き取らせることになったが、金蓮には家族がないのだとわかった。
春梅は十両の銀子と二匹の布をふたりに渡し、棺を買い、どこかへ葬るよう頼みこむ。李安はしぶったが、張勝はここが出世の近道と李安を元気づけ、金蓮を張勝の実の妹といつわり、死骸を掘りおこして腹に心肝五臓を収めて縫い上げると棺に入れて、周守備の墓寺永福寺に運び、二奥様の姉上と住持をだまして裏手の白楊《はくよう》の下に葬ってもらった。
陳定と母は柩と家族を守って清河県に着き柩を永福寺に預け、家へ来る。家を明けわたした張団練が駆けつけて、久しぶりの姉弟の対面に涙を流す。翌日母の言いつけで五両を持ち、お経を上げてもらいに敬済が永福寺へ行く途中、友人の陸大郎《りくたいろう》と楊大郎《ようたいろう》にぶつかったが、たずねてみると金蓮が同じ永福寺に葬られたことがわかった。陳敬済は永福寺へ着くと、父のお経はそっちのけで、金蓮の墓をきき、紙銭を焼いて弔って後、長老にお経代を渡し、経を上げてくれるよう頼んだ。
二月になって、月娘のところに珍しく薛嫂が現われて、陳敬済の父親が死んで、永福寺に着いたこと、武松が王婆と金蓮を殺したこと 春梅が金蓮に棺桶《かんおけ》を買ってやったことなどべらべらしゃべった。するとそばから孫雪娥が
「春梅は守備府へ売られて、どのぐらいになるんだい。もう棺を買えるほどお銀子《かね》が自由になるのかね。いったい、周守備ってどんな人」
「あれ、まだご存じないんですか。周だんなはそりゃあの方をおかわいがりになりましてねえ、毎晩お泊まりなるし、四季の衣服もそれぞれ作っておあげになるし、わたしにまでごほうびを一両くださったほどですよ。お銀子だけじゃなしに、家じゅうのかぎをお預かりになっているぐらいです」
月娘と雪娥は物も言えない。薛嫂が腰を浮かすと月娘が「あしたまた来てくれないかい。むすめを陳家のおとうさんの墓参りに出したいから」
「奥様はどうしておいでになりませんのですか」
「陳家には気分が悪いからと言っておくれ」
「かしこまりました」
「で、おまえはどこへ? まさか守備府じゃないだろうね」
「行かねはぐあいが悪いので。小ものが何回も呼びに来ていますから」
「なんの用なの?」
「奥様、あの方はもう四五カ月のおなかなんですよ。だんな様はそりゃ大喜び」
「四五カ月? おかしいわねえ、行ってどのくらいになるんだね!」と雪娥。
八十九
翌日、月娘は薛嫂に冥紙や反物を持たせ、喪服の西門大姐を墓参りに出したが、薛嫂が墓へ行く前に、香典など持って陳家に立ち寄ると門口に陳敬済が立っている。陳敬済は月娘が墓参りに、西門大姐をよこしたと聞くと、月娘のことを、おれが上に乗ったやつかとののしり、西門大姐の轎人夫を蹴とばし追いちらす。薛嫂はしかたなく香典を母へ渡すと、帰って来て月娘にそのことを報告した。月娘は腹を立てて敬済をののしったが、大姐を呼びつけると、
「おまえはあいつの家の者だから、死んでもあいつの家の鬼となりなさい。家には置いておけない。いくらあいつが恩知らずの悪党でも、まさかおまえを井戸に投げこめはしないだろうよ」とどなり、翌日、すぐさま玳安を轎につけて陳敬済の家へ送りこむ。陳敬済は父の墓に盛り土に行っていたので、さすが母親の張氏は礼儀を持って迎え、玳安に酒食を出してねぎらって帰した。ところが墓から帰った陳敬済は西門大姐が来たと知ると、なぐるわ蹴るわの乱暴を働く。
「この淫婦女郎! また何しに来やがった。おれがきさまの家の飯を食ったか。人の家のものをかすめやがって、大財産をつくりやがったじゃないか。とっとと出て行け!」
西門大姐はくやしがって、
「なんですって? 恥知らずの悪党。淫婦が殺されたんで八つ当りしてるね」
「何を!」敬済が七つ八つ頭をなぐったところで母の張氏が間にはいると、敬済は母まで突き倒す。西門大姐は泣き叫び、
「恥知らず! 年増《としま》にかわいがられて、おかあさんの見分けもつかないんだね」
夕方になると陳敬済は「品物を持って来やがらんと、おまえみたいな淫婦は殺してやるぞ!」と轎で西門大姐を月娘のところへ送り帰した。
三月、清明の佳節になり、月娘は玉楼、小玉、孝哥を抱いた如意児を連れて西門慶の墓参りに出る。留守は雪娥と西門大姐である。うるわしい春景色の中を五里原の墓所に着き、西門慶の墓に供物をしたころ、おくれて姉と呉大舅が驢馬でやって来た。一同連れ立って墓を掃き、線香を立てて拝み、紙銭を焼く。月娘は西門慶の生前を思い出し、墓前に泣きくずれた。
墓所で少し酒を飲むと、玳安、来安に食器を片づけさせ、帰り道の杏花村《きょうかそん》酒楼に宴席を設けさすよう先に出す。月娘たちは緑の草を踏み、紅の花をながめ、鳥のさえずりを聞きながら、ぶらぶら歩いて行くと、遠くの木立の中に壮麗な寺がかくれている。呉大舅にきくと、永福寺という周守備の墓寺だが、西門慶の数百両の喜捨により、ああまでりっぱな仏殿が建ったのだというので、一同は寺を見物し、方丈で茶を呼ばれようとしていた。
一方、春梅はその前日の夜、周守備をゆり起こし、母親が紙銭を焼いてくれと、泣いて夢に出て来たとうそをついた。周守備が墓はどこかときけば永福寺と言う。そこで周守備は、自分の家の墓の寺だからと、いっしょに行くことになり、酒、料理、供物を用意し、正妻、孫二嫂、春梅とともに、四台の轎を連ねてやって来た。その知らせを聞いた長老はあわてて鐘太鼓を鳴らして門外まで迎える。春梅は金蓮の墓に祭壇、紙銭など整えさせ、墓に線香を立て、四拝すると、
「奥様、|※[#「まだれ+龍」、unicode9f90]《ほう》春梅が紙銭を焼きに参りました。苦しい時にはこの銭をお使いになって天にお登りください。守備府でいっしょに暮らせるとばかり思っていましたが、一歩おくれて奥様を仇の手に奪われてしまいました。悔いても追いつきません」と念じ終ると、左右の者に紙銭を焼かせてわっと泣き伏す。ふたたび、春梅は轎に乗り、方丈にやって来た。身の丈も高くなり顔に丸みを増し、いかにも官人の奥様というおうようさが、もう春梅に備わっていた。
月娘たちは帰ろうと思ったが、春梅がいるので出られない。長老は月娘たちの布施を受けており、なんの接待もしていないので、むりに春梅のいる方丈へ通そうとする。そこで、月娘、玉楼、月娘の姉と春梅はついに顔を合わすことになった。春梅は月娘の姉、月娘、玉楼にひざまずいて四回頭を下げてあいさつをし、如意児が連れてはいって来た孝哥を見ると、「まあ赤ちゃんもこんなに大きくなって!」
如意児と孝哥がにこにこして春梅にひざまずくと、春梅もひざまずいて対等のあいさつをする。立ち上がった春梅が金簪を孝哥の帽子にさすと、月娘は「坊や、ありがとうって言わないの?」と喜んでいる。春梅から聞いて、玉楼は金蓮の墓に参ったが、月娘は動こうともしない。けれどこうして、春梅と月娘たちの交際の糸口がひらけたのだった。
九十
呉|大舅《だいきゅう》が月娘たちを連れ、大樹の立ち並んだ堤を通って行くと、杏花村酒楼の下に玳安が待っていて、
「こんなおそくまで、何をなさっていたのです?」
月娘は永福寺で春梅に会ったことなど話しているうちに、酒楼のほうで酒や料理ができ上がったので、一同は丘の上で酒を飲みはじめた。下を見おろすと、人の山、人の海。その中であだ名は山東|夜叉《やしゃ》の李貴《りき》に馬術をやらせて杏花村酒楼の前で、子分を連れてながめていた清河県知事のむすこ、三十がらみ、学問ぎらい|やくざ《ヽヽヽ》好きの李|拱璧《きょうへき》が、ふと前方の丘をながめて、ひとりのすらりとした女に気づいた。思わずこころが動いて、人にさぐらせる。まもなく帰って来て、
「あれは西門慶の家族でして、年取ったのが正妻の姉、背の低いのが正妻、すらりとしたのが、三番めの妾の孟玉楼といい、後家でござんす」
李拱璧はじいっと玉楼をながめ入っていた。
家の方は西門大姐が通りかかった鏡みがきを平安に呼び入れさせると、鏡みがきは荷をおろしたが、
「わたくしは鏡はみがきません。金銀の飾りものを売るんで」と言いながら、そばに立っている孫雪娥を見上げている。気持わるがって雪娥がどなりつけると、「雪娥奥様と大姐《おじょう》様じゃありませんか」
尋ねてみると、西門慶に追い出された来旺《らいおう》であった。除州《じょしゅう》へいったん帰ったが転々として、今は細工師のところでこうして売り歩かされていると言う。西門大姐は箱を開かせ、かんざしを買う。雪娥も買ったが銀子《かね》が足りないので、あした取りに来させることにした。話していると来昭《らいしょう》の妻一丈青が来旺に茶を出し、来昭も出て来た。
夕刻、月娘たちが墓参から帰り、雪娥や西門大姐と、春梅のことや来旺のことをうわさしていると、孝哥が急に熱を出した。如意児が金蓮の墓のところまで抱いて行ったから、金蓮にたたられたのだと月娘はどなりつけ、さっそく劉婆を呼び寄せる。劉婆も|たたりもの《ヽヽヽヽヽ》に出会ったからだと言い、薬を飲ませて帰る。月娘はあしたも見に来るように言いつけ、その夜はまんじりともせず過ごした。
翌日来旺が雪娥の払い残しを取りに来ると、来昭が「それどころか。きのうは赤ちゃんの急病で大騒ぎだったんだ」
話しているところへ月娘、玉楼、雪娥が劉婆を送って出て来た。来旺があわててひざまずくと月娘は来旺にあれからのことを尋ね、飾りものも買ってやって、酒や料理をふるまってやる。来旺が礼を言い言い帰って行くと、月娘と玉楼は奥へはいったが、雪娥はそっと来旺のあとを追い、話があるから、あしたの晩、儀門《うらもん》のうしろで待っている、来昭のかみさんには話しずみだから、来昭の部屋で晩まで待ち、はしごで塀を越えて来るように告げる。来旺は喜色満面で帰って行った。
翌日、来旺は荷もかつかず西門慶の家に忍び入り、来昭の部屋にはいると、飲んでくれと一両差し出した。もう十五になった鉄棍《てつこん》が酒を買いに走り、一丈青が料理をつくり、来旺をオンドルにすわらせる。やがて酒や料理がテーブルに並べられると、来旺は来昭に一杯、次に一丈青に一杯すすめて、「水っぽい酒だが、にいさん夫婦に孝行しようと思って」
「いやねえ。いいかげんなこと言って。雪奥さんからちゃんとお話はあったんですよ。前の味は忘れられますまいね。それをまとめようと骨折ってるんだから、ごまかしちゃだめですよ。入港するにゃ税金がかかりますからねえ。ひとりでしゃぶらずに、汁《しる》ぐらい残しといてくださいよ」
すっぱぬかれて、来旺はあたふたその場にひざまずいて、よろしくとお願いをする。一丈青は一杯ひっかけると、来旺の来たことを孫雪娥に知らせに行く。
来旺がじりじりしながら飲んでいるうちに、あたりは暗くなり、表門がしめられ、つづいて儀門、各部屋部屋もかぎがおろされ、寝静まったのか人声も聞こえなくなった。と、塀の内側から雪娥の咳《せき》の声。来旺が、はしごをかけて塀をおどり越えると、こちらに雪娥は踏み台を用意している。地に足がつくともう来旺は雪娥にかじりつき、ふたりはそのままそばの小屋にはいって雲雨《しごと》を求め、男やもめに若後家、鼻息荒く、荒れ狂う。ことが終ると、雪娥は金銀の飾りもの、幾両かの砕銀子《こつぶ》、緞子《どんす》の服などを来旺に渡し、いっしょに逃げ出して夫婦になりたい、と心を打ち明けた。来旺は産婆をやっている屈《くつ》という伯母のところに一時身をかくし、様子を見て故郷《くに》へ逃げ、百姓をしようと決め、塀を乗り越えての来昭の部屋にかくれ、朝、表門が開くとすぐ外へ出る。そして翌日の日暮れになるとすぐ来昭の部屋にかくれ、塀を越えるというふうに雲雨を交えること一日にとどまらず、品物を盗み出すこともまた、少なくない。
ある日、孝哥にほうそうができたので、月娘は気疲れして早く寝ていた。雪娥は小おんなの中秋(西門大姐付きだったが今は雪娥のところへ回っている)を寝かすと、かんざしや耳輪、冠などを包み、ハンカチや衣服は箱に入れ、来昭の部屋に待っていた来旺といっしょに夜逃げをしようとした。それを見た来昭は、門を預かっている自分が月娘に疑われるのをおそれ、屋根を越えて瓦《かわら》の一枚を蹴落とすよう言った。
雪娥は来昭夫婦に、銀杯、金指輪、青い上着、黄綾のスカートをやったが、夜明けを待って来旺、雪娥の両人は屋根を越えて逃げ出す。途中、不審尋問にもあったが、包みの中に線香がはいっており、夫婦で泰岳廟へお参りに行くのだとごまかし、城門を抜け、曲がりくねった裏通りを、屈婆の家に着いた時は、まだ戸もあいていない。戸をたたいてあけさせ、婆に三両やって部屋を借りた。むすこの屈鐺《くつとう》が来旺たちの持ち物のりっぱなのを怪しみ、こいつはてっきりどろぼうの片割れ、お上に訴えて出ればいくらかになると、県庁へ飛んで行く。すぐさま捕吏がさし向けられ、来旺と雪娥は一つなわにしばり上げられてしまう。町じゅうは大騒ぎ、西門慶の妾と小ものが姦通した、品物を盗み外に住んでいたと、うわさはうわさを生んで、人の口が空を飛び回るに似ている。
李県知事がまず屈鐺《くつとう》を責めると、金冠四つ、銀の髪飾り三つ、銀杯二つ、その他いろいろ吐き出す。来旺からは銀子三十両をはじめとしていろいろ、雪娥からも金銀の小物いろいろ、屈婆からは銀子三両が出て来たので、来旺は姦通罪で死刑、盗品は没収、屈鐺は窃盗罪で徒刑五年、盗品は没収、屈婆は責め棒だけで釈放、孫雪娥は西門慶の妾であったため、責め棒を受け、西門慶の家へ引き取らせることになった。ところが呉月娘は、孫雪娥は世間に恥をさらし、家門に傷をつけたから引き取りたくないと申し出たから、県知事は公認の周旋人を立てて、孫雪娥を官売にすることにした。
春梅はそれを知ると、雪娥を買い取り台所付きにし、ぶったたいてこれまでの恨みを晴らしてやろうと、周守備に向かい、雪娥は料理もうまい、茶をいれるのもうまいから買い取ったらどうだろうと相談をもちかけた。周守備はすぐさま張勝と李安に県知事あての手紙を持たせて、公定価の八両で買い取り、正妻や孫二嫂にあいさつさせ、最後に春梅のところへ顔を出させる。雪娥が春梅と気づいて思わず首をたれ、ひざまずいて四回頭を地につけると、春梅はまぶたをぴくりとさせると、召使の女房を呼び、
「この下種《げす》の髪飾りを引っこ抜き、上着をはがして、料理部屋の飯たき女にしておくれ!」雪娥は思わずあっと口の中で叫んだが、頭をもたげることもならず、髪飾りを抜き取り、下着姿になると、涙をのんで料理部屋へ引き下がったのである。
九十一
陳敬済《ちんけいさい》は孫雪娥《そんせつが》の事件を聞くと、薛嫂《せつそう》を月娘《げつろう》の所へ行かせてこう言わせた。
「奥様、若だんなは外でこんなことを言いふらしておりますよ。だんな様がおいでのころ、若だんながこちらへお預けした金銀つづらを奥様が横領したから、大姐《おじょう》様を離縁して、奥様を検察院へ訴えるなどと」
孫雪娥、来旺《らいおう》の事件はあるわ、小ものの来安はいなくなるわ、来興《らいこう》の女房の恵秀《けいしゅう》が死んだわで、家じゅうごったがえしているので、月娘はこれを聞くとまっさおになり、西門大姐にベッドや化粧道具、嫁入り道具をつけ、ふたりかつぎの轎で敬済のところへ送り帰す。ところが敬済は薛嫂と玳安《たいあん》を呼んで、小間使いの元宵を連れて来るのを忘れていると言いだした。ふたりがそれを月娘に伝えると、月娘は元宵を手離したくないから、元宵はもともと李嬌児《りきょうじ》の部屋付き、今は孝哥《こうか》を守《も》りしているから、中秋にしてくれと言う。敬済はあくまで元宵がいると言う。薛嫂と玳安は行ったり来たり果てしがない。そこで敬済の母親が玳安に、元宵には敬済の手がもうついていると言って行かせた。月娘はしかたなく元宵を敬済のところへ送り届けたが、敬済は「どうだい、おれの筋書は」と喜んだ。
話かわって李県知事のむすこの李拱璧は孟玉楼《もうぎょくろう》を見そめて心は火のように燃え、公認の周旋人の陶婆《とうばばあ》に、五両の礼をして、西門慶の家に行かせる。門番の来昭から陶婆の用向きをきき、月娘はびっくりして玉楼の部屋に行く。とつぜんの話にいぶかりながら話すと、清明節の日、孟玉楼の方も李拱璧を見て悪くはなく思っていたし、今の境遇も心細くもあったところで、恥じらいなから、陶婆に会うこととなる。
陶婆が玉楼の器量をほめ上げると、玉楼はにっこり笑い、李拱璧の年や、娘《おく》さんのことを尋ねはじめる。陶婆が尋ねられながら話すことによると、李県知事は五十過ぎであるが、ひとりむすこの李拱璧は馬年の三十一、正月二十三日|辰《たつ》時の生まれで、学問、馬、弓、諸子百家、なんでも通じないものはない、大奥さんをなくして二年ばかり、部屋には小おんながひとりいるきり、もしこの話がまとまれば、県知事はこちらの租税も免じ、門口に小役人を立て、あだをする人間はしょっぴいて行くと言っている、国は真定《しんてい》府の強県《きょうけん》、国には田畑が畦《うね》を連ね、驢馬は群れをなし、小作人は数知れず、名門であると言うので、玉楼は大喜び、陶婆が、「その気がおありなら婚約書を」と言いだすと、まっかな緞子の布《きれ》を玳安に渡して、傅《ふ》番頭に生年月日を書いてもらうよう頼む。月娘が玉楼に、ここへ来るときは薛嫂が仲人《なこうど》だったから、薛嫂も仲人に加えないと礼儀にはずれると注意したので、玳安が薛嫂を呼び、陶婆は薛嫂と李拱璧のところへ返事に帰って行った。
ふたりは道すがら婚約書をひらき、玉楼の年が三十七であるのを見、これは少しひらきすぎると、易者のとこで相性を見させたあとで、年を書きかえさせ三十四歳十一月二十七日|子《ね》時の生まれとしてしまった。李拱璧は三つぐらい年上でもかまわぬと言い、薛嫂が玉楼の性格などを説明すると、「おれは顔を見たからわかっている。八卦《はっけ》など見る必要もない。日を選んで来てもらえば良い」
こうして四月十五日、日が暮れてから、役所からの四人かつぎの大轎に乗り、八名の小役人に守られて玉楼は出て行く。小間使いは蘭香《らんこう》だけで、小鸞《しょうらん》を残して行くというのを、月娘はそれはいけないと連れて行かせる。月娘は「孟さん、あんたはひどい人ねえ、わたしをひとりぼっちにして」と玉楼の手をとって泣いた。玉楼が表門を出ると、仲人が金の宝瓶《ほうへい》を持った玉楼の頭から、紅の被《おお》いをかぶせる。町じゅうの物見高い連中は表門に群集して、
「西門大官人があんなふうだったから大奥さんだけしか後家を通せないんだ」とか、
「あの野郎が横車ばかり押しやがって、どろぼうで、色好みで、人の女房を盗みやがったもんで、あいつのとこの悪たれどもは、とつぐやつ、盗むやつ、なんでもいるのさ。鶏《とり》の羽みたいに、ばらばらに飛びちりやがって、ざま見やがれ。三十年めの報いたあこのことだい」などと騒いでいる。
三日の祝いが役所であって、月娘も出席したが、家へもどると寂しいこと。西門慶が生きてたころは、宴会から帰って姉妹《みんな》と話すとき、一つの長|床几《しょうぎ》では掛けきれなかったのになどと考えて、西門慶の位牌の前にわっと泣き伏す。
李拱璧と玉楼とは油のびんとふたのようにくっついて暮らす。玉楼の顔を見ればかわいさを増すばかり。それに連れて来た蘭香は十八歳で歌も弾《ひ》きものも得意にし、十五の小鸞《しょうらん》もちょっと色気があるから、足の踏み場もないほどの喜びようである。
李拱璧の部屋には先妻の連れて来た玉簪《ぎょくかん》という三十女がいた。化粧してなまめかしく、李拱璧に媚《こ》びていたが、玉楼が来てから目もかけられないので腹立たしく、ことごとにあたりちらしのぼせ上がった。いやがらせが過ぎて、玉楼の目の前でぶちたたかれ、「たたかなくてもいいでしょう! あたしがきらいなら売りとばしてくださいよ」と言ったそのまま、陶婆に渡され、売りとばされてしまった。かみつく蚊はたたかれるということである。李拱璧は玉簪のかわりに十八歳の満堂《まんどう》という小おんなを買った。
九十二
陳敬済は商売をしたいとしきりに母にねだる。叔父の張団練《ちょうだんれん》が母親のところへ借金に来ると、酒のあげくに張団練までののしり、それがもとで母親は病気になった。気の弱った母親から二百両せびりとった敬済は、表の二間を開いて布店を開くが、来るのは陸三郎《りくさぶろう》、楊大郎《ようたいろう》などのきつねや犬のやから、毎日店で琵琶を弾いたり、酒を飲んだりしている。このでたらめを母親に告げた陳定《ちんてい》夫妻を追い出すと、敬済はまたもや三百両せびりとり、楊大郎を連れて臨青《りんせい》へ布を仕入れに行ったはよいが、妓楼《ぎろう》で遊ばされ、仕入れて来たのは馮金宝《ふうきんぽう》という十八の女郎ばかり。これを見て敬済の母親は悲しさのあまり、死んでしまった。叔父の張団練が何も言わぬので図にのった敬済は、母親の寝ていた奥の三間の中の一間に位牌を祀《まつ》り、両側の二間を金宝の居間とし、西門大姐は横の一|棟《むね》に移してしまう。そして金宝には重喜《じゅうき》という小おんなを買い与え、自分は楊大郎に店を見させて、毎日酒肉女の生活をやっていた。
ある日、敬済は孟玉楼が李拱璧にとつぎ、父の李県知事は任期満ちて厳州府の通判《つうはん》になったことを聞きつけると、前に花園で拾った玉楼のかんざしのことを思い出し、自分は玉楼と以前から関係がある、その証拠はこのかんざし、玉楼が李拱璧の所へ持ちこんだ品は、奸官《かんかん》の|揚※[#「晉+戈」、unicode6229]《ようせん》が陳家へ預け、それを敬済が西門家へ持ちこんだ没収されるべき性質のもの、こうおどかせば、たかが文官、肝っ玉も小さかろう、李通判はきっと玉楼をささげて来るだろう、そうすれば馮金宝と孟玉楼とは両手に花だと悪知恵を回した。
八月の中秋節の日、敬済は母親の箱から銀子一千両を持ち出すと、百両を日々の経費に馮金宝に渡し、追い出した陳定を呼びもどして布店を見させ、楊大郎といっしょに陳安《ちんあん》を連れて、九百両で湖州へ、綿、絹、紬《つむぎ》を買い集めに出た。船が清江浦《せいこうほ》に着くと、敬済は陳二の旅館に宿をとり、楊大郎に四五日待つように言い残して陳安を連れて厳州へ行く。城内に宿をとり様子をしらべると、李通判は着任して約一月、家族は三日前に着いたばかりと言う。陳敬済は礼物や絹織地や酒を整え、李通判の屋敷に、玉楼の弟というふれこみでたずねて行った。
門番がこれは粗略に取り扱えないと急いで知らせると、李拱璧は服を改めて敬済に面会した。敬済は商用で四川広東《しせんかんとん》のあたりへ行っていて結婚も知らず失礼したとあやまり、礼物《おくりもの》を出す。知らせを受けた玉楼は、てっきり孟鋭《もうえい》が来てくれたのだと思って広間へ出てみると陳敬済である。何の用でと不審ではあったが、郷里の水と郷里の人とはなつかしい。弟でなくとも若だんなにはちがいないと思って、一礼すると、「ねえさんのお輿《こし》入れを知らなかったもんで」と敬済は親しげに話しかける。ちょうど来客があり李拱璧が出て行くと、玉楼は蘭香に茶を入れさせ、敬済が西門慶の家から品物を取りもどした話をすれば、玉楼も春梅《しゅんばい》が金蓮《きんれん》の墓参りをしに来ていた話をする。敬済が自分がほんとうは金蓮とできていたこと、あの家から月娘が追い出さねば、金蓮が殺されることもなかったはず、きっとあの世で恨みを晴らそうとしているなどと話しているうちに、酒や料理が出る。酒もはいり、話にも実が入り、あたりに人がいなくなると、酒の情は海より深く、色の胆は天より大なりで、敬済は、みだらなほうへ話を持って行こうとした。はじめはおだやかにくどきにかかり、したたかひじ鉄砲を食う。と、がらりと態度を変え、
「ほう。会いに来てやったのに、そうなのか。李通判のむすこに嫁入りしたからって、西門慶の三番めの妾だった時わたしとできてなかったことになるかな」と、敬済は袖《そで》からかんざしを出し、「へへ、これはだれのです? わたしとできてなかったら、このかんざしはどうしてわたしの手にあるのかな? 玉楼の二字が刻まれてるね。あんたがね、ここへ持って来た品物にしたって、わたしが西門慶の家に預けたものじゃないですか。あの八箱の金銀宝石の中から持ち出したもの、そうすりゃ|楊※[#「晉+戈」、unicode6229]《ようせん》の持ち物で、お上に没収を食うはずのものなんですよ。あんまりばかにすると、良くないんじゃないですかね」
玉楼は花園でなくしたのを拾われたと感づいたが、騒ぎ立てられて家の者に知られるのはまずいので、にっこり笑い敬済の手をとって、「あなたに気があれば、あたしにも気があるわ」とくちびるを敬済に寄せて行く。敬済はへびのように舌をくねらし、玉楼の口へさし入れ、「かわいいだんな様って言えば、本気と信じるよ」
「黙って。人に聞かれるじゃないの」
敬済は、駆落ちする計画を話し、玉楼は、今夜、塀の外に待っていてくれたら、金銀絹ものを渡し、それからそっと門を抜け出すと約束する。もし玉楼の相手が愚物なら敬済はにおやかな美人を手に入れることができたろうが、どっこい李拱璧は前途有望の風流な若者、玉楼とぞっこん相|惚《ぼ》れときているからたまらない、敬済が帰ると、李拱璧に玉楼はすっかりしゃべる。
「チンピラめ、恐ろしいところを持たねば人物でないそうだが、小僧め頼みもせぬのに死にに来おったな」
そうとは知らぬ陳敬済、夜がふけると陳安を連れ、李通判の家の塀の外で合図の咳をする。中から玉楼の声が聞こえ、塀越しに銀子の包みをしばったなわが授けられる。この銀子は李拱璧があらかじめ府の倉庫から持ち出しておいた二百両の没収銀子である。敬済が陳安に銀子の包みを持って行かせようとすると、ふいに四五人の男が飛び出し、「どろぼう!」とたちまちふたりをしばり上げ、李通判の前に突き出し、翌日厳州の府知事がふたりを取り調べることになった。
府知事は取調べの最中、棒でたたかれながら敬済が
「淫婦の玉楼め! よくもだましやがったな!」と歯がみしてくやしがるのを聞きつけ、これは何か裏にあるのだと、敬済を牢につなぎ、小役人のひとりを犯人に扮装《ふんそう》させて同じ牢につないだ。小役人はことば巧みに、敬済をしゃべらす。翌日、府知事は敬済のしゃべったことをまるまる信じこみ敬済を釈放してしまい、それを不服として再三責める李通判に、
「いいかげんになさい。わしは朝廷のために仕事しているので、一家の仇を晴らすためにやっているのではない。西門家の婿を盗賊呼ばわりするとは何事です。ご令息の嫁の孟氏が持って来た品々は没収されるべき性質のもの、それを隠すためのどろぼう騒ぎではないか」恥をかいた李通判は帰るなり李拱璧を呼びつけ、
「よくもわしをだました、府知事閣下ににらまれてはわしの前途はどうなるのだ、きさまのようなやつはもう用がない。あんな嫁はとっとと家を出しちまえ、わしの名に傷がつく!」とびしびし棒でたたかせ、怒り狂う。李拱璧は、殺されても玉楼と離れぬと叫び、李通判は拱璧に鉄の鎖をかけて奥の一間へ閉じこめようとする。泣いて見ていた母のとりなしで、李拱璧夫婦は郷里の真定府へ追いやられることになり、拱璧、玉楼はすぐさま旅じたくをして旅立って行った。
釈放された陳敬済がすぐさま清江浦にもどってみれば、楊大郎は三日前に船の荷をまとめて帰って行ったという話、じだんだふんでくやしがるが、銀子の用意もなく、衣服を質入れして、道々|乞食《こじき》をしながら帰って行くうちに秋もしだいにたけていった。やっとの思いで帰宅すると、留守していた陳定がびっくりして、
「だんな、荷船は?」しばらく物も言えずにいた敬済が部屋にはいって人心つくと、厳州での事件、楊大郎の持ち逃げの話をする。陳定があわてて楊大郎の家へ行ってみたが、まだ帰って来ないという返事である。家の中は家の中で、西門大姐が、馮金宝《ふうきんぽう》は銀子をみんな母親の所へ持って行ったと言うと、馮金宝は、西門大姐は横のものを縦にもしないで、部屋で元宵と肉を食っていたなどと、たがいに悪口を言いつける。敬済が金宝のことばを真に受けて大姐を蹴とばすと、大姐は金宝の胸ぐらに頭をぶっつけ、
「品物を盗んでおかあさんとこへ持ってったくせに、よくも肉を盗み食いしたなんて言いつけたね。命は惜しくないから、おまえを道連れにしてやる」とむしゃぶりついて食いつく。敬済はまっかになってどなり、西門大姐の髪を握って、なぐるわ蹴るわ、西門大姐は鼻血を流して気を失ってしまった。敬済は金宝の部屋に寝に行ってしまう。夜中になって気のついた西門大姐は泣く泣く梁《はり》からひもをたらして首をつってしまった。忘年二十四歳である。翌朝小間使いの元宵と重喜がこれを見つけ、ああてて床におろし、力のかぎりゆすぶるが返事もない。八方手をつくしたが、ああ悲しいかな、西門大姐は二度と目を開かなかった。
陳定は西門大姐が死んだと知ると、あとで自分に火の粉が振りかかってはたまらぬと、さっそく月娘に知らせに行く。月娘は小もの小おんな七八人を引き連れておしかけ、陳敬済をたたきにたたいたあげく、ベッドの下に隠れた馮金宝も引きずり出し、半死半生の目にあわせる。その上、門や窓をめちゃくちゃにたたき破らせ、西門大姐の物をかつぎ帰らせると、月娘は呉|大舅《だいきゅう》、呉|二舅《じきゅう》を呼び寄せて相談し、あと腐れないように陳敬済を訴えることに決めた。
翌日、訴状を書いて月娘みずから新任の県知事|霍大立《かくだいりつ》に訴え出ると、県知事はすぐ出廷して訴状に目を通す。それには陳敬済の悪行の数々が書かれ、西門大姐の死因を調べて、凶悪をいましめ、良善のものをご守護くださいということが書かれている。呉月娘がいかにも上品なので県知事はていねいに扱って帰したが、さっそく、陳敬済と馮金宝を召し捕《と》り、西門大姐の死骸も調べた上で、陳敬済は絞首刑、馮金宝はもとの色町に送り帰して、使女《つかいめ》にあてることに判決を下した。驚いた陳敬済は、牢から陳定に手紙を出し、布店の資本金と西門大姐の冠などで百両の銀子をこしらえて県知事に握らせる。そこで一夜明ければ判決文は改まって、陳敬済は五年の徒刑になり、今後月娘に迷惑を及ぼさぬよう戒めて、西門大姐の葬儀のために出獄させ、泣きつく月娘には今度迷惑を及ぼせばかならず召し捕ってやると慰める。七日の葬儀を終えて牢に帰った敬済はさかんに銀子を使ったので、五年の徒刑はわずか二カ月の牢獄生活で片がついたが、家にもどっても馮金宝の姿は見えず、家具は売り払われてなく、家も抵当にはいっているありさま、意地も張りもなくなって、月娘に歯向かうこともなくなった。
九十三
陳敬済は陳定に暇を出したが窮迫していくばかり。万一をたのんで楊大郎のところへ行くと、敬済が牢へはいったのを知って船の荷を売りとばして帰って来ていた楊大郎は弟の楊二風《ようじふう》を出す。楊二風は逆に敬済に言いがかりをつけ、敬済の家まで追っかけて来ておどかす。すっかり怖気《おじけ》づいた敬済は家を七十両で売り払い、路地奥のちっぽけな家を借りて住むようになったが、そのうちに小おんなの重喜を売り、元宵は死に、陳安はいなくなり、はては一部屋に雑居する乞食部屋で乞食や夜回りにまで哀れまれる身分に落ちぶれてしまった。
陳敬済は夜は夜回り、昼は乞食をしていたが、亡《な》き父の知人の王宜《おうぎ》という老人にめぐり合い、名まえを名のって出、境遇を話す。老人は哀れんで、おりから十二月、暖かいものを食べさせ、綿入れの衣服や靴をやり、一両の銀子と五百文の銅銭を与えて、商売をやれとすすめる。けれどふたたび現われた時は、またもや敬済は乞食の姿。もう一度、ほどこしと説教をして帰したが、三度、乞食の姿で現われたとき、王老人はこれは廟《びょう》へ入れてたたき直してもらうより方法がないと思った。翌日、敬済を入浴させ新しい道衣に身じたくさせると、老人は礼物まで用意し、小ものふたりにかつがせて、一日の行程を、臨青の波止場の晏公廟《あんこうびょう》へと送り届け、任《にん》道士に敬済を預ける。
任道士は敬済を、波止場で両替屋、米屋を開かせている金道士に預ける。金道士は男女両道士のほうだから、来た晩から敬済の尻をねらい、敬済はすでに乞食たちとのざこ寝でわざも練ってあるから、言うことを聞くのと交換に、ドアのかぎを預けること、自由に出歩いても文句をつけぬことを約束させ、その夜中、ころげ回るほど狂態を演じ、すっかり金道士をまるめこんだ。金道士が任道士の前で陳敬済をまじめな若者だとほめるので、任道士の信用も厚くなって、敬済は何をするのも、おおっぴらのしほうだいである。
こうして陳敬済は銀銭を持ってしばしば波止場へ遊びに行くうち、偶然、清河県で行商していた陳三《ちんさん》に会い、その話で、馮金宝が鄭家に売られたことを知り、陳三を先導に波止場の酒楼へ足を向ける。この謝《しゃ》家酒楼は山を背に運河に画した臨青第一の大酒楼、ここで陳三の手引きで、手つだいに来ている金宝と会い短い逢瀬《おうせ》をたのしんで帰った。
九十四
陳敬済は謝家酒楼で馮金宝《ふうきんぽう》に会ってから、三日にあげず通うようになったが、任道士がごまかしやすいと知ると、ますます大胆になり、任道士の銀子まで盗み出して女につぎこむしまつである。
馮金宝の泊まっている旅館酒屋の亭主の劉二《りゅうじ》は名代の坐地虎《ほねしゃぶり》であって、周守備《しゅうしゅび》気に入りの張勝《ちょうしょう》の親戚である。強きをたのんで弱きをいじめ、女郎をかかえて花代をはねているが、払えなくなるとさっそく証文を書き替え、利息を加え、鼻汁まですすろうというエゲツナイやつ、遊女泣かせの旗がしら、酒客いじめの大親分である。こいつが敬済と金宝のことを聞きこんだからたまらない、井《どんぶり》ほどのこぶしを握りしめて謝家酒楼に乗りこみ、敬済と金宝のうれしげに飲んでいる部屋へ、すさまじい形相ではいって行き、部屋代のことで二こと三ことかわすやいなや、金宝の胸ぐらをぶんなぐり、倒れた金宝の額からは血が流れる。つづいてテーブルをひっくり返すと、とがめる敬済の髪をつかんでひっくり返し、床に押さえつけてぽかぽかなぐるので、あたりは黒山の人だかり。酒楼の亭主の謝三郎がなだめるのもきかず、敬済と金宝を一つなわにひっくくり、土地の保甲《ほこう》に、周守備の役所へ送るよう言いつける。
翌日、周守備の役所へ引かれ、まず張勝と李安に調べられるが、賄賂に出すものが銀のかんざし一つの敬済はさんざんにおどし上げられ、鄭家のほうから銀子が使ってある金宝のほうはいやにやさしく扱われる。そのうちにいよいよ、周守備が調べの広間へはいって来た。
さて春梅は昨年八月、子供を生み、今は正夫人となって五間の正房に住み、子供の金哥《きんか》には玉堂、金匱《きんき》というふたりの乳母《うば》、小間使いは翠花《すいか》、蘭花《らんか》のふたり、そのほかに、十六七になる海棠《かいどう》、月桂《げっけい》という歌を歌う小おんなさえおる。それにひきかえ、孫二嫂《そんにそう》の部屋には荷花《かか》という小おんなひとりきりである。
周守備が訴状に目を通し、
「うむ。道士の身でありながら、女郎買いをし酒を飲み、地方を騒がすとは不届き千万なやつ、二十棒を加えて還俗《げんぞく》させる。女のほうは、手の平に五十|錐《すい》を加えて、もとの妓院《ぎいん》にもどす」と判決し、左右の者に敬済の衣服を脱がせ、まさに二十棒を加えようとすると、ふしぎなことに、物陰で張勝の抱いていた金哥がそれを止めようとする。張勝がおどろいて奥へはいろうとすると、金哥はわっと泣きだし、春梅が抱いても泣きやまない。春梅がわけをきくと、陳という道士の取調べを見て泣きだしたと言う。まさかと思いながら、春梅が棒でたたかれている男を見ると敬済に似ている。張勝にきくと、やはりそうであった。さっそく周守備を呼び、従弟《いとこ》だからと言って刑の中止をねがう。周は釈放を命ずると、春梅に、道士と会うかときいた。春梅はしばらく考えていたが、会いたくないと答え、そのあとでそっと張勝に、「そのうち呼ぶことがあるかもしれないよ」と謎のようなことを言った。
陳敬済は十棒くらっただけで役所をつき出されると、頭をかかえて晏公廟に逃げこんだが、頼む任道士は陳敬済が守備府に引っ張られた話を聞かされ、自分も引っ張られる心配やら、銀子《かね》のなくなっている悲しさやらで、年取って太っている上に肝をつぶして、亡年六十三歳であの世へ行ったあとだった。敬済は家をうしなった犬のごとく、ぼんやりして清河県へ帰って行った。
春梅は部屋へもどると、冠を取ってふとんにはいり、苦しそうにうめき声を上げる。周守備はおどろいていろいろ尋ねるが返事もしない。張勝を呼んでしかりつけたり、医者を呼んだり、薬を飲ませたり周守備は困りきる。春梅はますますきげんが悪く、当たりちらし、孫二嫂にいや味を言ったりしたあげく、孫雪娥に何回も粥を作り直させ、思わずくやしくて雪娥が
「ふん、いつのまにか偉くなったわねえ」と口をすべらせたことを告げられると、雪娥を呼びつけ、髪を握ってこづき回し、周守備を呼んで、張勝、李安に三十棒加えさせ血だらけにする。そのあげく、夜だというのに薛嫂を呼び寄せて、かならず女郎屋に売るように言いつけて、連れて帰らせた。
薛嫂は雪娥を気の毒がって、なんとか商人か何かにとつがせようと思い、隣の宿屋の張婆のもって来た話で、綿商人の潘五《はんご》という泊り客に二十両でとつがせたが、これが実は女買いで、臨青の旅館料理屋の門の横の小部屋まで連れて来ると、たちまちなぐり倒し、少ししか飯を食わさず芸をしこまれ、その坐地虎劉二《ほねしゃぶりりゅうじ》の店に住みこんで働かされることとなった。六月のことである。雪娥三十五歳。
ある日、周守備の酒を作る麹《こうじ》を買いに出された張勝がそこへやって来た。劉二は妹の夫が来たと、酒や料理を出し、女を四人呼ぶ。その中に雪娥がはいっていた。張勝も雪娥もおたがいに気づいて、口もきけぬくらい驚いたが、張勝はもともと雪娥に気があり、雪娥にとって張勝は地獄に仏、酒を飲み合ううちに、張勝は雪娥を抱き、その夜は床をともにする。雪娥はサーヴィスこれ努め、張勝に頼りかかったから、翌朝、張勝は雪娥に銀子三両残し、劉二によくめんどう見るよう言いつけて帰って行く。その後、張勝は臨青に来れば、かならず潘五に何両か握らせて雪娥を抱く。劉二は張勝のきげんをとるため、雪娥からは部屋代をとらない。
九十五
月娘の所では西門大姐が死んだ後、綉春は王尼の弟子《でし》になり、来昭は死に、来昭の妻|一丈青《いちじょうせい》は鉄棍《てつこん》を連れ子としてとつぎ、門は来興が守ることとなった。来興は恵秀《けいしゅう》が死んでから男やもめでいたが、如意児が孝哥を抱きながらしじゅう来興の部屋に来て菓子を食べたり酒を飲んだりしているうちに、いつのまにかできてしまった。月娘はそれを知ると、家の悪名を外へまき散らされてはと、衣服ひとそろい、かんざし四本を如意児にやり、ふたりをいっしょにしてやった。そうこうするうちに、八月十五日、月娘の誕生日になり、夜、月娘はふたりの姉と一緒に、三人の尼の因果物語を聞いたが、いつまでたっても茶が出ないので、月娘が中秋を呼びに台所へ行くと、玳安がオンドルの上で小玉《しょうぎょく》を押さえつけ、いいところだった。ふたりがあわを食って飛び離れると、月娘はじろりとにらみ、「腐れ肉! 茶の用意もしないで、何してるんだい」
二三日すると、月娘は来興をもとの来昭の部屋に移し、来興の部屋に二つのベッドを入れ玳安を住ませ、新しい帽子と衣服、靴、靴下を与え、小玉には金銀の頭の飾りもの、四本のかんざし、耳輪、指輪、絹の衣服などを与えてふたりを夫婦にした。小玉がうまいものを持ち出して玳安に食べさすようなこともあったが、月娘は見て見ぬふりをしている。
平安は玳安より二つ年上の二十二歳で、まだ妻がないのだから、内心おもしろくない。ある日のこと、金冠や金メッキの飾り輪を銀子三十両で入れていたのを受け出しに来た男があったが、傅番頭と玳安がそれを戸だなに出して、ちょっと奥へひっこんだすきに、平安は箱ごと盗み出し、女を抱きに行って二晩泊まって帰らない。金使いの荒いのを女郎屋の亭主が疑い、土地の町役人に訴え、町役人は平安を捕えて、巡検司の法廷につき出す。平安がなわ付き姿で、法廷にひざまずくと、前の広間の椅子にどっかと腰をすえた、ここのかしら。顔を上げると前に西門慶の家で手代をしていた呉|典恩《てんおん》である。これはきっと助かると、「わたくしは西門慶の家にいる平安でございます」と目くばせうると、「なに、西門慶の家の者なら、金の品物を持って女郎屋に寝てよいと申すのか」
平安が大奥さんの命令で親戚から借りて来た金の冠だと言いはると、呉典恩は左右の者に棒でたたかせて責め上げる。平安は盗んだことを白状したが、なおも呉典恩が、「なにゆえ盗んだのか」
「大奥様は二十歳の玳安に嫁を持たせ、二十二歳のわたくしには持たせてくれません。つい、腹立ちまぎれに盗み心を起こしてしまいました」
呉典恩は月娘が玳安と姦通《かんつう》していて、口止めに小おんなを嫁にさせたという筋書をつくり上げ、平安を脅迫してそのように口供書をとり、平安を牢につないで、そのうち月娘、玳安、小玉を召し捕ってうまい汁を吸おうと胸算用をはじめる。
話かわって、戸だなから質ぐさがなくなったのを見つけた傅番頭はびっくりして玳安にきくが、玳安は生薬店で飯を食べていたと言う。ふしぎに思って平安を捜すと平安の姿は見えない。うろうろしていると、質受けに来た男は何回来てもらちが明かぬので、店先でわめき散らす。翌日になると、平安が一晩家をあけたので、盗んだのだと気づき、八方手分けして捜すがどこにもいない。月娘に弁償のため五十両出してもらったが、客が、七十両びた一文欠けても承知せぬと言う。十両足して六十両にしても引き下がらない。店先でわあわあもみ合っていると、平安が呉巡検につかまって、牢にはいっているから、盗品を申し出たら良いだろうと、近所のものが知らせに来た。
月娘はもとの手代呉典恩が巡検になっていると聞くと、さっそく呉大舅と相談して受取書を書き、翌日傅番頭に盗品を取りにやらした。ところが呉典恩は傅番頭の衣服をはぎとり、小役人に命じて、尻をいやと言うほどたたきのめさせ、「この犬奴隷め! そのほうの家の小ものは、呉氏と玳安の姦通事件を白状したんだ。召し捕ろうと思っているところへ、大胆にも盗品を受領に来るとは、この欲ぼけの犬っころめ」
傅番頭が肝をつぶして帰り、月娘にこのことを知らせると、月娘は骨をばらばらにして氷水につけられたように驚き、手足もしびれてしまう。店先では例の客がぎゃんぎゃんわめく。傅番頭が平身低頭であやまるので、客はやっと帰って行ったが、月娘は重なる憂いにまゆをひそめ、呉典恩に賄賂を届けたらどうだろうなどと呉大舅に相談し、呉大舅が五六十両届けに行こうかというところに落ち着いた。月娘が呉大舅を表門まで送りに出たとき偶然|薛嫂《せつそう》が通る。話をしているうちに、春梅が周守備の正夫人になったこと、雪娥を売りとばしたこと、今、春梅の命令で冠を買って届けるところだということがわかったが、その冠をちょっと見せてもらうことにして薛嫂を奥へ通したとき、玳安が、また例の客がどなりこんでいると告げに来る。薛嫂にわけをきかれて詳しくしゃべると、薛嫂はそんなことこそ春梅に頼みこみ、周守備の力を借りるべきだとすすめた。守備が巡検司の仕事には口出しできまいと月娘がいぶかると、朝廷からの勅書で周守備は、軍馬、税金、治安などいろいろの仕事を一手に握ることになったのだという返事。さっそく、薛嫂が月娘の手紙を、冠を届けかたがた春梅のところへ持って行くことになったのだった。
春梅は薛嫂の持って行った冠がさほど気に入ったようでもなかったが、月娘の手紙はたしかに預かり、日暮れどき、巡視から帰って来た周守備に見せて、平安の事件を話した。周守備は
「なるほど、それはおれの管轄下の仕事だ。呉巡検もなんという悪いやつだ。おれが引っ捕えてくれる。だいたいあいつは、もと西門慶の手代で、東京の蔡太師《さいたいし》へ礼物《おくりもの》を届ける役をしたおかげで官位をもらったんじゃないか。飼い犬の分際で主人の奥さんにかみつくとは不届きな話」とかんかんにおこり、翌日、月娘に訴状を出させると、張勝と李安をつかわして、呉典恩に出頭を命じる。おそるおそる呉典恩が守備府に出頭すると、周守備からさんざん油をしぼられ、
「犬官吏! このたびだけは許してつかわすが、二度とふたたび職分を犯せば、そのままに捨ておかぬぞ」と大雷。次に平安が呼び出され、
「財物を盗んだだけでも大罪であるのに、主人を誣告《ぶこく》するとは何事か。きさまのような犬奴隷がいては、もう主人も奴隷が使えぬわい」と三十棒をくらわす。呉|二舅《じきょう》が受取り状を持って盗品を受け取りに出頭すると、周守備は張勝と李安に手紙と盗品を持たせ、呉二舅、平安を連れて行かせた。月娘は張勝と李安にごちそうし一両ずつ握らせ、春梅に礼を述べてもらう。こうしてことは片づいたが、傅番頭は熱を出し七日のわずらいで、悲しいかな死んでしまい、月娘はふさぎこみ、質屋の店はしめてしまい、呉二舅と玳安に生薬店だけ開かせておく。
そんなことがあってある日、月娘は薛嫂を呼んでお礼を三両やろうとしたが薛嫂は守備府の奥様がへんに思うからとなかなか受け取らない。それをむりに受け取らせ、料理や酒や絹地をお礼に、薛嫂の後に玳安をつけて、春梅のところへ礼にやった。春梅は玳安にハンカチ一本、銀子三銭をやり、孝哥のことや小玉のことをたずね、年が改まって孝哥の誕生日はお伺いするからと言って玳安を帰した。
九十六
正月二十一日、孝哥の誕生日でまた西門慶の三周忌である。この日、春梅と周守備は一テーブルの料理と四色の菓子くだものを周仁《しゅうじん》に持たせてやる。月娘は礼物を受け取ると、周仁にチップをやって帰し、青衣を着せた玳安に招待状を届けさせる。こうして春梅は美々しい装いで四人かつぎの大|轎《かご》に乗り、供人に衣裳箱をかつがせ、小おんなの乗った二台の小轎を従え、軍卒に道を開かせて西門慶の家へ向かった。月娘はふたりの芸者を呼び、春梅を待ちかまえ、質素な装いで、姉とともに広間で迎える。
春梅は一家のものとあいさつを済ませ奥に導かれ、西門慶の位牌に幾粒かの涙を落とし、月娘や、その姉とお茶を飲んでから、衣裳を替えて月娘の部屋にくつろぐ。問われるままに、周守備の家でのことを語ったが、このごろ盗賊がはびこり、周守備は巡視がいそがしく、役目もいろいろ兼任で、それはたいへんであるらしい。そうしたことを語り終ると、春梅は潘《はん》金蓮の部屋のあった花園を見たいと言いだし、月娘とその姉と三人で出た。
花園はすでに荒廃し、垣《かき》は破れ、建物はゆがみ、壁にはこけが生え、亭《ちん》の涼み床は朽ち果ててそこここに穴があいているというありさま。李瓶児《りへいじ》の部屋はこわれた椅子《いす》テーブルが投げこまれ、床の煉瓦《れんが》の間には草が生えている。潘金蓮の部屋の二階には昔どおり生薬や香料が積まれているが、下の金蓮の部屋には二つの箪笥《たんす》があるばかりでベッドがない。わけをきいてみると、いろいろのことがあって、八両で売り払ったということである。春梅はうなずきながら、目には涙がたまり、鼻の中がすっぱくなってくる。金蓮の形見にそれだけでもと思って来たベッドだったからだ。李瓶児のベッドも家のつごうで売り払われている。客間へ帰り酒を飲み、ふたりの芸者に歌わせたが、春梅のえらんだのは「懶画眉《まゆをかくのもものうい》」という歌。消息のわからぬ恋人を思う女心のこの歌を歌わせたのは、陳敬済のことを胸にひめているからであった。
月娘の家からもどった春梅はひたすら敬済に思いこがれて一日じゅうベッドから出ぬ。周守備は張勝と李安に五日を限って敬済を捜させるが、どこにも見つからない。それもそのはず、陳敬済はもう行きどころもなく、昼は乞食、夜は乞食部屋の冷たいふとんで寝るようになっていたのである。
ある日、敬済が立ちんぼうしている前を驢馬《ろば》に乗った楊大郎が新しいラシャ帽、白綾《しらあや》の上着という姿で、小ものをひとり連れて通って行く。敬済はやにわに驢馬のくつわを押さえ、船荷を盗んで逃げた文句をつけはじめると、楊大郎に一むちピシリとやられ、小ものに蹴《け》上げられてひっくり返った。回りはがやがや一面の人だかり。ところがその中から毛ずねをむき出し、紫色の筋肉が横にとび出したたくましい男が飛び出し、楊大郎をおどしつけ、敬済のために五銭まき上げた。それは同じ乞食仲間で敬済と一つふとんで寝たこともある仲だった飛天鬼《ひてんき》侯林という男で、今はいい顔役になり、五十人ばかり男を使って、城南の水天宮の建築を請け負っている。侯林は敬済の手をとって引き起こし、居酒屋へ連れて行ってうどんを食わすし、酒を飲まし、家へ連れて帰り抱いて寝て、翌日敬済を水天宮に連れて行く。一月ばかりこうして水天宮で工事しているうちに、いつか三月の春となる。
ある日、敬済が山門の塀によりかかり、日なたぼっこしながらしらみ取りをしているところへ、芍薬《しゃくやく》の花つみに城外へ出された張勝が馬で通りかかった。張勝は喜んでていねいに扱い、敬済を周守備府へ連れ帰ろうとする。人夫どもは目をぱちくりさせ、顔を見合わすばかり。敬済は掘建て小屋のかぎを侯林に渡すと、馬にまたがり、張勝をうしろに意気揚々と周守備へ向かった。
九十七
陳敬済が守備府に着くと、張勝はさっそく春梅にこれを知らせる。春梅はまず敬済を湯に入れ、新しい衣服に着替えさせてから広間に通した。広間にはいって敬済が四雙八拝しようとすると、春梅はその半礼だけ受けて椅子にすわらせる。先立つものは涙である。春梅は周守備のもどって来るのを恐れ、人のいないのをさいわい、
「あの人か聞いたら、従弟だと答えるんですよ。あたしはあんたより一つ年上の二十五で四月二十五日|午《うま》時の生まれ。いいわね」
「わかりました」
きわどいところで小おんなが茶をささげて来る。ふたりが茶を飲み終ると、
「どうして、道士になんかなったの? 主人はあたしの従弟を誤ってたたいたって後悔していたわ。あの時も、家へ入れたいと思ったんだけれど、雪娥っていう卑しいやつがいたから、泊めることができなかったのよ。だから、あの奴隷女を売りとばして、張勝にあんたを捜させたってわけだけど、まさか城外で土方になっていようとはねえ」
敬済が、両親に死なれたこと、西門大姐に死なれて月娘に訴えられ危うく死ぬ目に会ったこと、王老人の手引きで道士になったことなど涙とともに話すと、春梅も声を上げて泣き伏す。そこへ退庁した周守備がはいって来て、敬済とあいさつし、話しているうちに、敬済が春梅の年や誕生日をうまくしゃべったので、まったく従弟と信じきってしまっている。周守備が西門慶と交際がありながら、陳敬済のことを知らなかったのは、かれが細かい他人の家のことなど気にとめぬほうだったし、たまたま宴会に招かれても、夏提刑《かていけい》や荊都監《けいとかん》といっしょで敬済の顔を見たこともなく、はじめて見た敬済は道士姿であったしするので、まさか西門慶の婿とはゆめにも思いつかなかったのである。こうして敬済は西側の書院に寝泊まりすることになり、小ものの喜児《きじ》がつけられることになった。
一月あまりたって、四月二十五日、春梅の誕生日となる。玳安が月娘からの祝いの品を守備府へ届けに来たが、周守備からハンカチ一本、銀子三銭のチップをもらい、返書の書き上がるまで待っていると、陳敬済に似た男が木戸口まで返書を持って来て、そこにいた小ものに、玳安へ渡させた。帰って月娘が春梅奥さんにお会いしたかときくと、若だんなにお会いしたと言う。周守備は年配だからへんに思って尋ね返すと、陳若だんなだという話。月娘は玳安がいろいろ言っても、笑って信じなかった。
一方、陳敬済は月娘の祝いの手紙を持って春梅の部屋に行くと、どうして月娘が祝いの手紙をよこすのかと問う。春梅が、清明節に永福寺で会ったこと、平安の事件に力を添えてやったこと、正月に孝哥の祝いに言ったことを話すと、敬済はにらんで、春梅のやりかたがだらしかないとさんざん文句を言い、月娘への憎しみをかき立てようとする。春梅は
「昔は昔。あたし、気がいいせいか、昔の恨みばかりを考えていられないの」と相手にしない。
敬済は腹を立てて書院へ、月娘への招待状を書きに行った。やがて招待状ができ上がったので、春梅はそれを月娘のところへ届けさせる。月娘は如意児に孝哥を抱かせ、玳安をお供に守備府へ乗りつける。春梅と孫二嫂は月娘たちを奥へ迎え入れ、茶や酒を出し、ふたりの芸者に歌を歌わせる。敬済は書院に閉じこもったままである。
玳安は表の小部屋で酒や肉の接待を受けていたが、その前をひとりの男が食事を持って西の書院のほうへ歩いて行くので、
「にいさん、それをだれが食べるんだい」
「奥様の弟様ですよ」
「姓は何かね」
「陳でさあ」
さてはと思って、玳安は何げなそうについて行って窓からのぞいてみると、まごうことない陳敬済が食べている。その場は黙っていたが、日暮れになって家へ帰ると、月娘にその話をする、月娘は「ほんとうかい!」と言ったなり二の句も告げぬ。一方春梅も、敬済があまりうるさいので、西門、周の両家は行き来しないようになった。
敬済と春梅が人にかくれて火遊びをはじめたことは言うまでもない。五月の端午《たんご》節の日に雲雨《しごと》の最中を、危うく小おんなに見つかりそうにさえなったぐらいである。
そのうちに、勅旨により、周守備は済州《さいしゅう》府知事|張叔夜《ちょうしゅくや》とともに梁山泊《りょうざんぱく》の賊王の宋江《そうこう》の討伐に行くことになった。周守備は春梅に子供によく気をつけるように言いつけ、「おまえの従弟にもお嫁の世話をしてやったら」と言い残し、張勝と李安を留守とし、周仁《しゅうじん》を連れて出発した。そこで春梅は薛嫂を呼び、敬済の嫁を見つけて来るように命じていると、そこへ敬済が食事をとりにはいって来た。薛嫂は立ち上がって、
「若だんな、ずっとお見かけしませんでしたが」などとやりはじめ、春梅に
「若だんななんて呼んでは楽屋が見えてしまうよ。あたしの弟だよ」ときめつけられる。薛嫂は嫁さがしを承知したが、敬済が書院へ帰って行くと、春梅から敬済が家にいる内情を打ち明けられて合点した。
薛嫂は二日ばかりたつと話を二つ持って来る。朱千戸《しゅせんこ》のむすめは年が小さくてだめ、応伯爵《おうはくしゃく》の次女は応伯爵が死んでしまっているからだめ。数日たって持ちこんだのは葛員外《かついんがい》のむすめで二十歳である。良いことずくめの薛嫂の話を聞くと春梅は承知し、薛嫂が急いで葛員外のところへ行くと、相手が守備府と聞いて大喜びで、すぐ張という仲人を立てる。とんとん拍子に話はすすみ、六月八日に華燭《かしょく》の典をあげるということになった。花嫁にベッド付きの小おんながいないと聞いて、春梅はそれも薛嫂に頼んだが、連れて来たのは黄四《こうし》のむすこが部屋付きに使っていた小おんなである。薛嫂の話によると、黄四、李智《りち》、来保《らいほ》の三人は公金費消で一年以上も入牢、家産はつぶれ、李智はその間に死んで、むすこの李活《りかつ》が牢に入り、来保のむすこの僧宝《そうほう》も落ちぶれて、だれかの別当になっていると言う。春梅は小おんなを三両五銭に値切って買い金銭児《きんせんじ》という名をつけた。
六月八日、めでたく婚儀が行われ、新婚三日の祝いが済むと、春梅は毎日の食事にかならず敬済、翠屏《すいへい》のふたりを招いていっしょに食べ、翠屏と親しくなる。西|廂《むね》の三部屋が新夫婦の居間、寝室、客間にあてられ、敬済は書院で手紙を書いたりする仕事を受け持ったが、書院にもベッドはあり、春梅は暇があると書院に出入りする。
九十八
周守備は張叔夜とともに梁山泊の宋江を討伐に向かい三十六万の賊を討ち平らげて、地方は平和に復した。朝廷はその功により、張叔夜を都|御史《ぎょし》・山東|安撫《あんぶ》大使とし、周守備は済南《さいなん》兵馬制置に位を進め、運河沿岸の治安に当たらせることにした。部下にもそれぞれ論功があり、陳敬済も参謀職、月に米二石の祿《ろく》を受け、冠帯をおびる身となった。十月中旬、周守備は凱旋《がいせん》したが、家にいたのは十日ほどで、陳敬済に番頭をつけ商売をさすように春梅に言い残し、張勝と李安を供に、周仁と周義《しゅうぎ》を残し、十一月初旬、任地の済南に向かった。
周守備が商売をせよと言っていた話を聞かされると敬済は町へ番頭さがしに飛び出したが、間々あることで、道で昔の友人、陸二郎こと陸|秉義《へいぎ》にぱったり会った。敬済が妻に死なれたこと、楊大郎に船荷を盗まれたこと、今は姉の家で新しい妻を迎え、商売をはじめようと思っていることなど話すと、陸秉義は楊大郎が謝|三哥《さんか》という男の手代になり、臨青の波止場で大きい酒楼を開いてたいした威勢だし、弟の楊二風も賭場を開いているという話をし、恨みを晴らしたいなら、楊大郎を訴え、銀子や品物を吐き出させて酒楼を乗っとれば、ちょっと資本をかけるだけで毎月百両は利息が上がるから、商売はそれに限るとすすめ、謝三哥に相談に行ってしまった。
敬済はおどり上がって喜び、家にもどって春梅に相談すると、横に立っていた周忠《しゅうちゅう》が、奪われた銀子品物を書き出し、周守備の名刺を訴状に添えて提刑所へ出すことをすすめた。周忠に訴状を持って行かすと、翌日提刑所は楊大郎と楊二風を召し取り牢《ろう》に入れる。ふたりは銀子三百五十両、百五十両の布、五十両に値する酒楼内の器具を吐き出した上に、持ち家を五十両で売り払わねばならなかったので、ついにまる裸になってしまった。こうして敬済は大酒楼を手に入れ、謝三哥、陸秉義を使って商売をはじめる。投資額は春梅の足した五百両と合わせて一千両であった。
年が改まって正月半ばより開店したが、日々四五十両の売上げ、帳場はふたりに任せ、自分は三四日おきに帳簿を調べに行けばよい、おまけに敬済が顔を出せば、ふたりが小ざっぱりした部屋に通し、酒料理はもちろん、きれいな女を四人もつけるのだから、ますます良い。
そのうち三月になり、偶然、酒楼に住む部屋を借りに来た韓道国《かんどうこく》一家に出会った。聞くと、蔡太師の一党六名は弾劾《だんがい》され。審議の結果、聖旨が下って不毛の地に終身徒刑となり、蔡太師の子|蔡※[#「にんべん+|+久」]《さいきゅう》は斬刑に処せられたとのこと、韓道国一家は命からがら清河県へ帰って来たが、弟は家を売り飛ばしてゆくえ不明、しかたなく船を借りてここまで来たと言う。
「さいわい若だんなにはお目にかかれましたが、まだ西門だんなのお宅においでて?」
「いや、あんな所にはいない。今は姉の主人の周守備だんなの所で参謀官になって、冠帯をつけられる身分だ。この酒楼はおれがふたりの番頭にやらせているのだから、どこへも行かず泊まっているがいい」
敬済はその日見た韓|愛姐《あいそ》が気にかかって夜もろくろく眠られない。三日めに酒楼へ出かけて帳簿面を見ていると、下の韓道国の部屋でお茶をと呼びに来る。奥へ通って、韓道国、王六児と茶を飲んだが、よだれだらだらの目は韓愛姐の姿を追って離れない。韓愛姐にもこれが通じ、韓道国がいなくなると、愛姐が敬済の年をきき、自分と同年の二十六であることを喜ぶあたりから、じりじりと敬済の心をたぐりよせ、王六児がそっと座をはずすと、うまく持ちかけて二階へ上り、あわただしく雷雨《しごと》を交え終ると、父のためにと五両の銀子をねだる。その夜は韓愛姐の部屋に泊まり、眠る間も惜しく仕事に精出した、というのも、愛姐が歌、音楽、読み書きまでできるのが金蓮をしのばせたからである。敬済は泣きすがる愛姐に三四日してからと言いふくめ、お供の小姜《しょうが》にも口止めしてもどったが、翠屏はてっきり色町に泊まったのだと思いこみ、それからなんとしても敬済を放さない。
韓道国は敬済がいっこう顔を出さぬので、酒がかりの陳三《ちんざん》に頼んで胡州《こしゅう》の絹綿商人、何官人《かかんじん》を愛姐の客に取ろうとした。韓道国は以前王六児の色香で甘い汁を吸った味が忘れられず、こんどは愛姐でというわけだったが、ひたすら敬済にこがれている愛姐は五十男の何官人のところへ降りて行かぬ。しかたなく、女房の王六児をさし向けると何官人はひどく気に入り、銀子一両でその夜を王六児と過ごしたが、三日をあげず寝に来るようになった。そのたび、韓道国は外へ追い立てを食う。
愛姐は十日も敬済が顔を見せぬので、思い余って店の八|老《ろう》に頼み、売上げを取りに来る小姜にたずねてもらうと、気分が悪くて寝ているという話、そこで王六児と相談して豚の腿《もも》一本、焼|鴨《がも》二羽、鮮魚二尾、菓子一箱に手紙を添えて八老に持たせ、敬済に届けさせる。八老が守備府の門前でうろうろしていると運よく小姜が顔を出し、敬済を呼び出してもらうと、しばらくして出て来た。五月だから薄紗の衣服を着ている。
敬済が手紙を見ると、恋々の情が文面に満ち、最後に、自分の心のあかしとして、錦地《にしきじ》の鴛鴦香嚢《えんおうこうのう》一個、黒髪一束を添えますとあり、紙に包まれた香嚢を出してみれば、「恋しき陳様おもとに」とある。敬済はそれらを袖にしまい、小姜に八老をそばの居酒屋に案内させておき、礼物《おくりもの》は酒楼から届けられたものだと部屋にしまわせ、書院で返事を書いて銀子五両を包み、待たせた八老に酒をふるまって、返事を持たせて帰す。翠屏は礼物を疑って口げんかしたが、水掛け論に終り、礼物の半分を届けられた春梅は、酒楼からの見舞品と聞いてもべつに疑わなかった。
八老が日が暮れて酒楼にもどり、愛姐に手紙と銀子を渡す。敬済の手紙も、愛姐にまけず熱烈なもので、最後に香嚢の礼として銀子五両とハンカチを届けるとあった。ハンカチをひろげて見ると、「寄与多情韓愛姐 偶借鸞鳳百年情」と書かれている。愛姐は敬済の情を感じて、ハンカチをひしと胸に抱いた。
九十九
数日過ぎて敬済は帳簿の決算がてら暑さしのぎに店へ行って来ると言いだした。春梅はからだを心配して轎に乗せて出す。帳簿しらべは番頭に任せて韓道国の部屋へ行くと、二階にいて敬済を思う詩を書いていた愛姐は、スカートを蹴って降りて来、話がはずんでいるすきに、そっと花箋《しきし》を敬済に見せ、「これ、あなたのことを思って作ったの」
見れば春夏秋冬四つの詩、いずれも男を思う情を訴えている。敬済が口をきわめてほめると、王六児は鏡台をのけて、化粧台の上に、酒や料理を並べる。愛姐は先日の銀子の礼を言い、敬済は来ると言って約束をたがえたことをあやまり、幾杯か酒のやりとりがあるうちに、韓道国と王六児は五六杯飲んで座をはずしてしまう。あとはしぜんに色模様と相成ったが、久しく会わなかったことではあり、敬済が病と愛姐への義理立てから、ずっと妻君と房事を行っていなかったことでもあり、一度では足らず、酒を飲んでふたたびというわけ。敬済は晩飯をとる元気もなく、ぐうぐう二階のベッドで寝てしまった。
そのとき下には王六児のところに何《か》官人が遊びに来ており、韓道国が酒、さかな、くだものなどを買いに行っている間に歓を交え終って、帰って来た韓道国もともに、日暮れ時まで酒を飲んでいた。そこへ店先から
「やい、何《か》の野郎を出しやがれ」とどなりこんで来たのが例の坐地虎《ほねしゃぶり》の劉二、べろべろに酔っぱらい、諸肌《もろはだ》ぬいでげんこを固め、敬済の眠りをさまたげてはとなだめにかかるふたりの番頭を振り切り、ずかずかはいって韓道国の部屋のすだれをあける。中では何官人が王六児と肩を並べて飲んでいるところ。劉二は何官人に因縁をつけ、一こと二ことどなると何官人の顔にげんこをくらわす。何官人が逃げ去ると今度はテーブルを蹴倒し、ののしる王六児をののしり返し、王六児は地べたをころげ回って大声を上げる。まわりは人の山である。
中のひとりが「おまえさんは来たばかりで知らんだろうが、この人は守備だんなの気に入りの張勝様の親戚だよ。辛抱しなよ」と王六児に注意すると、「ふん、そんな死にぞこないがなんだい。もっと偉い人があるんだよ!」
下がうるさいので敬済が目をさまして降りて来ると、韓道国の姿は見えず、王六児が髪ふり乱し、
「この死にぞこないのやくざが坐地虎《ほねしゃぶり》の劉二なんですよ。あなたの役所で働いてるやつの親戚をかさに、お客のことからあたしまで蹴ったり打《ぶ》ったり、とくりも皿も、ほれ、このとおりぶちこわして」と声を上げて泣き叫ぶ。敬済がふたりの番頭にきくと、守備府の張勝の親戚で、だんだんきくうちに、道士だった時やっつけられた劉二だと悟った。その狂暴さは身に覚えのあること、その場はまるくおさめ、王六児たちには「安心しろ。おれに考えがある」と慰めた。
帰ってすぐ春梅に言いつけようと思ったが、そのうちに張勝のあらを見つけて片づけよう、おれを連れて来たことを、張勝のやつ、鼻にかけ、おれをちょいちょい、ないがしろにしやがるからと考え直す。そしてある日、酒楼へ来て、帳博しらべ、愛姐とのちちくり合いも終った後、酒がかりの陳三を呼び出して張勝のことを問いただし、張勝が雪娥を囲っていること、劉二が娼妓《しょうぎ》をかかえてあこぎなしぼり方をし、周守備の名をかさに、人をおどしたりしている事実をつかんで帰って行った。
話かわって、朝廷は、北方の金国の人馬が辺境ばかりではなく時には国土深く攻めこむこともあるので、あわてて、毎年金銀その他数百万両贈ることにして講和し、天子は位を太子に譲って、宣和七年を靖康《せいこう》元年と改めることになった。新しい天子は欽宗《きんそう》皇帝である。徽宗皇帝は太上道君《たいじょうどうくん》皇帝と称して、龍徳《りゅうとく》宮に隠居したのだった。李綱《りこう》が兵部尚書《ひょうぶだいじん》となり、軍官の移動があり、今は山東都|統制《とうせい》となっている周秀《しゅうしゅう》に書勅が下り、人馬一万を率いて東昌《とうしょう》府へ行き、張叔夜とともに金兵の侵入を阻《はば》めと命じられる。周統制はすぐさま張勝と李安に、二車の箱、行李《こうり》、その他もろもろの道具を家まで先に持ち帰るように命じる。済南に一年ばかり赴任している間に、巨万の金銀を手に入れていたのである。
張勝たちが帰り、周統制も近く家にもどり、清河県から前線に出発することになっていると聞くと、敬済はいよいよ張勝たちを葬る時が来たと考えた。ある日のこと、妻の翠屏が里帰りしたので、敬済が西書院で寝ていると、思いがけなく春梅がはいって来た。だれもいないのを幸い、衣服を脱ぎ放ち、雲雨の契りを結びはじめた。どうにもならぬことだが、ちょうどそこへ鈴を持って夜警していた張勝が通りかかり、笑い声を聞いて鈴の音をとめ、書院の窓に耳をあてると、雲雨の歓を交えながらの話し声が聞える。
「ねえさん、張勝のやつ、ここへ連れて来たことを恩に着せて、わたしをなめてやがるんだ。まったくひどいやつ、この間なんか、親戚だとかいう坐地虎《ほねしゃぶり》の劉二をけしかけ、川《かわ》べりの酒楼で大騒ぎをやらせ、お客を追っぱらっちまいやがった。それに、ねえさんのだんなの家来だというのをかさに、そいつに|あいまい《ヽヽヽヽ》屋をやらせ、女郎に銀子を貸してしぼってやがるんだ。おまけに雪娥を囲ってもいるんですよ。ねえさんは知らなかったんだろうけれど、だんなが帰ったら早く知らせるに越したことありませんよ、もうあぶなくって、店へも行けやしない」
「無礼だわねえ。雪娥のやつは、わたしが売ったんだのに」
「わたしをなめて、ねえさんまでなめてるんですよ」
「だんながお帰りになったらすぐさま片をつけてやるわよ」
「畜生、そっちにはかられる前にこっちからはかってやらあ!」おこった張勝は、鈴を捨てて自分の部屋に帰り、刀を砥石《といし》でごしごし二三回とぐと、書院へおどりこんで行く。運があったのか春梅は少し前、金哥が風に吹き倒されたと小おんなの蘭花《らんか》に知らされて奥へ帰っていて、敬済ひとりがベッドに横になっていた。張勝がやって来るのを見ると、
「おまえ、何しに来たのか!」
「おれはきさまを殺しに来た。きさまは淫婦《いんぷ》におれを殺せと言ったな。よくも連れて来てやった恩を忘れて、仇《あだ》で返そうとしやがった。黒い頭の虫は救えない、救うには人間の肉を食わさにゃならんと、よく言うじゃないねえか。一刀くらって死んじまえ、来年のきょうがきさまの法事だい」
顔色をかえてすっぱだかでふとんの中にもぐりこむのを、ぱっと払いのけて、ぐさっと肋《あばら》の間、敬済の胸からどくどく鮮血が流れ出る。うなって身もだえするのを二の刀で心臓を突き刺せば、哀れや敬済、ぐったりと動かずなって、年わかくしてこときれる。張勝は首を斬り落とし、ベッドの下をさがすが、春梅の姿はない。刀をひっさげ、奥へ飛んで行くと、儀門《うらもん》のところで、ぱったり李安に出会う。どこへ行くと問うのを、かまわず進んでさまたげられ、李安に向かって斬りかかると、李安は冷笑し、
「おれの叔父は有名な山東|夜叉《やしゃ》の李貴《りき》なんだぞ」と、気合とともに蹴上げて刀を落とし、組んで来るのを、三回蹴上げてころがすと、難なくしばり上げてしまう。知らせを聞いて飛んで来た春梅はわっと泣き伏したが、気をとり直して翠屏に使いを出す。まっさおになって帰って来た翠屏は、むごい殺され方を見て、気を失ってばったり倒れた。
敬済が殺されて数日して周統制は帰宅したが、話を聞いて烈火のごとく怒り、張勝を引き出すと、尋問もせず、左右の軍卒獄吏に命じて百棒くらわす。張勝が死ぬと、坐地虎《ほねしゃぶり》の劉二を召し捕る。孫雪娥は自分もつかまると思って、哀れや、部屋で首をつって死に、劉二も百棒くらって死んでしまった。
周統制はふたりを打ち殺すと、波止場の酒楼をもとの持ち主に返し、資本《もとで》を受け取り、春梅に敬済を永福寺に埋葬するよう言いつけると、李安と周義に留守を命じ、周志《しゅうし》、周仁を連れて前線に出発して行った。
敬済を葬って三日め、春梅と翠屏が轎で墓参に来ると、敬済の墓の前で、喪服の若い女が気を失って倒れており、中年の男女が助け起こしている。わけを尋ねると、その男のほうの韓道国が蔡太師の家を離れてから今までのことを話し、どうしてもむすめの韓愛姐が敬済の墓参りをすると言ってきかぬので来たが、「あなたと偕老《かいろう》同穴の契りを結びましたのに、あなたが先に死んでしまうなんて」と気を失ってしまったしだいを話した。
春梅は西門慶の家で愛姐に会ったこともあり、王六児も知っているので、びっくりして声を出すと、愛姐が急に正気づき、おいおい泣きだす、そこで春梅が名のりをあげると、愛姐は春梅と翠屏にひざまずいて四回おじぎをし、敬済が与えたハンカチの筆跡を見せ、鴛鴦の香嚢のこともあげ、敬済と契っていたことを話した。そのうちに日が暮れてきて、王六児が帰りじたくにかかると、愛姐は春梅と翠屏の前にひざまずき、周統制の家においてともに喪に服させてほしい、死んだらこの横に葬ってほしいと涙を流して懇願する。王六児が「愛姐、あたしたち夫婦はおまえに死水を取ってもらうつもりで育ててきたんだよ」と嘆いても、「むりに連れて帰ると首をくくります」
韓道国は愛姐の決心の堅いのを見て、涙をながしつつ、王六児を連れて帰って行った。
百
韓道国と王六児は謝家の酒楼にもどったが、居食いの心細さに、また何官人を引っ張りこむ。もう劉二がいないので安心して何官人は王六児のところへ遊びに来ていたが、ふたりにすすめて湖州へ連れ帰ってしまった。
愛姐は統制府で翠屏《すいへい》とともに喪に服し、姉妹の交わりをしている。春梅の子の金哥《きんか》はもう六歳になり、孫二嫂の子の玉姐《ぎょくそ》は十歳になっている。春梅は周統制の出征以来、何不自由ない豪奢な暮らしをしていたが、晩の寂しさだけはどうにもならない。乳母の金匱《きんき》に、女の衣服五六枚と五十両一錠の銀子を張勝をとりおさえた礼に持って行かせ、李安を引っ張りこもうとしたが、その贈物の裏が気になる李安は家に帰って母に相談し、母のすすめで山東夜叉の李貴のところへ身を寄せてしまった。春梅が小ものをやってたずねさせても、李安の母は、はじめは病気と言い立て、後には国の方へ銀子のくめんに行ったと言って、使いの者を帰してしまう。
周統制は軍勢一万一千を率いて東昌府に駐屯していたが、日が長引くにつれ、ついに春梅たちを呼び寄せることに決め、周忠に手紙を持たせて家へ帰す。その結果、周忠、親戚の周宣、葛翠屏、韓愛姐が留守に残り、周仁が軍卒を率いて、春梅、孫二嫂、金哥、玉姐を守って、東昌府に着く。周統制は周仁から報告を聞くと、春梅に李安のことをたずねたが、春梅は李安が銀子五十両を盗んで、高飛びしたことにしてごまかし、一方愛姐のことについては全然告げもしなかった。
それから何日かたったが、周統制は軍務に専心して、女のことなど顧みようともしない。春梅は閨《ねや》寂しさに耐えかね、周忠の次男の周義が若くて美しいのに目をつけ、いつしか誘惑して、一日じゅうくっついていたが、周統制は気づかなかった。
そのころ、北方の金《きん》国は遼《りょう》国を威ぼしたので、徽宗皇帝から欽宗皇帝に代わったのを機会に、二手に分かれて、大挙中原に侵入して来た。これを高陽関に迎え討った周統制は五月初旬、大風が黄砂を巻く悪天候の中で、矢にのどを射られて落馬し、危うく鉤《かぎ》にひっかけられて奪い去られようとしたところを、遺骸《いがい》だけは奪い返すことができたけれど、四十七歳の身をもって戦死してしまった。春梅は遺骸を運びこまれて号泣したが、日をえらんで、周仁や家族とともに、霊柩《れいきゅう》を守って清河県へ帰って行く。周統制は武勲により都督の職を追贈され、一子金哥はその職を襲《つ》ぐことを許可された。
周統制の死後も春梅は美衣美食に明け暮れしている。そのために淫情はますます盛んで周義を香閣にひきとめ一日じゅう部屋から出ない。そのうちに、度が過ぎるのはこわいもの、桃の顔《かんばせ》もいつしか髑髏《どくろ》のようになり、食欲は減り、病いがちになる。六月の暑中のこと、柴《しば》のようにひからびた春梅は、この日も朝から周義を抱いていて、快さの登りつめたところで息終え、流しっぱなしで、ああ悲しいかな、周義にもたれかかって死んでしまった。亡年二十九歳である。周義は一時はびっくりしたが、箱から金銀その他を盗んで城外の叔母の家へ逃げる。これを知った周宣はすぐさま周義を捕え、その父の周忠ともどもしばり上げ、家名を傷つけるうわさの散るのを恐れて、四十棒をあててふたりを殺し、春梅は周統制と合葬した。その後、家計をちぢめるためふたりの乳母と、海棠、月桂は人にとつがせ、葛翠屏と韓愛姐にもとつぐようすすめたが、ふたりはどうしても承知しない。
そのうちに金の軍馬は東京《とうけい》まで陥《おと》し、太上皇帝と欽宗皇帝を虜《とりこ》にして北方へ連れ去る。勢いに乗じた金軍はさらに山東まで犯し来たり、夫はのがれ妻は散じ、親しらず子しらずという大混乱のうちに、葛翠屏は里の親に引き取られたが、韓愛姐は身寄りがない。よれよれ衣服で清河県を離れ、臨青へ行ったが、陳三に両親は何官人について江南の湖州へ行ったと聞かされる。月琴を抱き小唄《こうた》を歌い物|乞《ご》いしながら道を南へとったが、纏足《てんそく》でしかも初めての旅路、苦しさは想像以上、千辛万苦のあげく、徐州《じょしゅう》付近の寂しい村の老婆の家で休んでいるところへ、夕食を食いに来た川さらえ人夫の中にいた叔父の韓二とめぐり会う。韓二は愛姐を連れてやっとの思いで湖州にたどり着いたが、韓道国も何官人もすでに死に、いくらかの田を守って、王六児が六歳の女の子を連れているきり。もともと訳のある王六児と韓二はここで百姓をすることになったが、韓愛姐は再三あった縁談もことわって尼になり、その後三十一歳の時、病死した。
話かわって、金の軍勢は東昌府をおとしいれ、ついに清河県に襲いかかった。呉月娘は家の各部屋にかぎをかけ、いくらか金銀宝珠を身につけて清河県から逃げる。呉大舅はもう死んでいるから呉二舅と玳安を連れ、小玉には十五になった孝哥を連れさせて、目ざすのは済南府の雲理守《うんりしゅ》のもと、一つには戦いを避け、二つには孝哥を前から約束のあった雲小姐と結婚させるためである。
外へ出ると、いずこも同じ避難民の群れ、その群れにもみくちゃにされながら月娘たちは城門を抜け郊外に出たが、荒野の岐路に来ると、紫茶がかった袈裟《けさ》の和尚、手に錫杖《しゃくじょう》を持ち、背に布袋を負ったのがこちらに来て、いきなり、
「西門の呉奥様、どちらへ行かれるのじゃ。わたしに弟子をお返しくだされ」
月娘は色を失い、「和尚様、弟子を返せとは?」
「そらとぼけてはなりませんぞ。今から十年前、岳廟《がくびょう》にご参詣になり殷天錫《いんてんしゃく》に追われて、わしの山洞《さんどう》に一夜お泊まりなされたではないか。わしがそのおりの法名|普静《ふせい》と申す雪洞老和尚じゃ。あなたは子供をわしの弟子にすると約束されなんだか」
「和尚様は出家の身でありながら、少し道理をお考えください。このような乱世に、ねえさんにとって、この子だけがたよりではありませんか。それを出家させろなどと」と横から呉二舅が言うと、
「どうしても出家させぬと言われるのじゃな?」
「お通しください。後からは金兵が迫っております」
「弟子を渡さぬとしても、日が暮れては道もわかるまい。金軍はここには来ぬ。まあ寺に泊まって、明朝立ちなされ」
和尚は永福寺のほうへ五人を導き、ここで伯まることになる。方丈の小坊主が一度来た月娘を見知っていて、すぐに夕食を持って来てくれた。和尚は坐禅《ざぜん》を組み、木魚をたたいてお経|三昧《ざんまい》。食事がすむと、月娘、孝哥、小玉はベッドに、呉二舅と玳安は部屋のすみに横になったが、小玉だけはどうしても眠れぬ。夜半の十二時ごろまで和尚のお経を聞いているうちに、あたりはしんと静まりかえり、月の光は青白く、風の音も人の心をおびやかすようにすごくなってくる。やがて和尚が経文を百十回念じ終るや、さっと一陣の冷風、数十名の頭や顔のただれた者、腕が折れ手の曲がった者、腹を裂かれ胸をえぐられた者、頭のない者、びっこの者、首枷《くびかせ》をはめられた者が現われ、和尚の両側にならぶ。和尚はじっとながめわたし
「その方ら、たがいにうらみにうらみを結び、解脱《げだつ》を肯《がえん》じないが、いつの日に悟りを開くのじゃ。わがことばをよく味わい聞き、それぞれの方へ生まれ変わるのじゃ!」と一|喝《かつ》し、うらみ合うことの愚をさとし、生まれ変わったらもううらみを結ぶのではないぞ、という意味の偈《げ》を唱えた。唱え終ると、それらは一礼して去って行く。小玉はそっと見ていたが、どれもだれともわからなかった。
しばらくすると、七尺ゆたかな大男がよろいかぶとに身を固め、のどに矢を突っ立てて現われ、
「統制|周秀《しゅうしゅう》、金の将と戦い戦死しましたが、今老師のお救いにより、今より東京へ行き生まれ変わり、沈鏡《しんきょう》の次子、沈守善《しんしゅぜん》となります」と言い終らぬのに、またひとり下着一枚の男が
「清河県の富豪西門慶、不幸にして血におぼれて死にましたが、お救いにより、今より東京城内に行き、生まれ変わって富豪|沈通《しんつう》の次男|沈銭《しんせん》となります」
小玉は、これが自分の主人だと認めたが、びっくりして声も出ない。またひとり、頭を持ち全身血だらけで、陳敬済と名のり
「張勝に殺されましたが、お経の功徳で、今から東京城内の王家の子になります」つづいて、ひとりの女、頭を持ち、胸の前が血だらけで
「わたくしは武大《ぶだい》の妻、西門慶の妾の潘《はん》氏です。不幸にして仇の武松に殺されましたが、救われて、今より東京城内の黎《れい》家のむすめとして生まれ変わります」つづいてひとりの男、ちびでまっさおな顔をし、武大と名のり、
「王婆《おうばばあ》にそそのかされた潘《はん》氏に毒殺されましたが、救われて、今より徐州の落郷民|范《はん》家の男に生まれ変わりに行きます」つづいてひとりの女、黄色くやせ、血をしたたらしているのが、
「わたくしは李氏です。花|子虚《しきょ》の妻、西門慶の妾ですが、血の道で死にました。救われて今より東京城内に行き袁《えん》指揮の家に女の子と生まれ変わります」つづいて一人の男、花子虚と名のって、
「不幸にして妻に悶死《もんし》さされましたが、救われて今より、東京の鄭《てい》千戸の家に行き、むすこと生まれ変わります」つづいてひとりの女、首に纏足帯をまきつけており、
「西門慶の召使|来旺《らいおう》の妻|宋《そう》氏です。首をつって死にました。救われて、今より東京へ行き朱家のむすめとなります」つづいてまたひとりの女、顔は黄ばみ肌のやせたのが
「周統制の妻|※[#「まだれ+龍」、unicode9f90]《ほう》春梅です。色をむさぼって死にました。救われて、今より行き、東京の孔家のむすめとして生まれ変わります」つづいてひとりの男、裸で髪ふり乱し、からだじゅう棒の傷あとがあるのが
「打ち殺された張勝です。救われて今より東京|大興衛《だいこうえい》に行き、貧乏人の高家のむすこになります」つづいてまたひとりの女、首にひもを巻きつけ、
「西門慶の妾孫雪娥、不幸にしてみずからくびれて死にました。救われて今より東京城外へ行き、貧民の姚《よう》家のむすめとなります」つづいてまたひとりの女、年わかく纏足帯を巻きつけ、
「西門慶のむすめ、陳敬済の妻の西門大姐です。不幸にしてみずからくびれて死にました。救われて、今より東京城外へ行き、小役人|鍾貴《しょうき》のむすめとなって生まれ変わります」つづいてまたひとりの若い男が周義と名のり、
「わたくしもまた、打ち殺されたもの、救われて東京城外の高家のむすことなりに行き、高|留住児《りゅうじゅうじ》と名づけられて生まれ変わります」
言いおわると、すべてぼうっと見えなくなり、和尚だけが座禅を組んでいる。月娘に訴えようとしたが、その時はからずも、月娘も夢を見ていたのだった。
月娘たち一行は百粒の真珠と宝石の環を持って済南府の雲理守の家にたどり着く。雲理守はたいへん喜んで、月娘を奥の広間に通し、酒や料理でもてなす。月娘は兵乱を避けて来たと話し、孝哥の結納がわりに真珠や宝石の環を差し出したが、雲理守は黙って受け取るだけである。翌日の夕方、雲理守は奥の広間に酒席を設け月娘を招く。月娘はどうしても孝哥の結婚の話を片づける心づもりで席に出ると、雲理守は妻のないことを嘆き、前々より月娘に思いを寄せていたのだから、孝哥の結婚を行うとともに、われわれのも行ったらと言い寄る。月娘は雲理守を人の皮をかむった犬の骨とののしり、弟を呼ぶよう求める、雲理守はもう、呉二舅も玳安も殺したと言う。地面に泣き伏すと雲理守は抱き上げ、弟が死んでも泣くことはあるまい、おれも総兵の位にある、妻になって恥ずかしくはないはずと荒々しく言う。言うことを聞かねば殺されかねないと思って、作り笑いし、はじめに子供らの婚礼をしてくれるのなら妻になると言うと、雲理守は雲|小姐《しょうそ》を呼んで孝哥と結婚の杯をかわさせ、その場で月娘に抱きつき雲雨《しごと》を交えようとする。月娘が従わぬのに怒った雲理守は、賤婦《せんぷ》! よくもうそをついたな! と、刀を抜きばっさり孝哥を斬り殺してしまった。
「あっ」血煙あげて倒れた孝哥を見て思わず悲鳴を上げると、これが夢、「奥様、奥様」と、小玉が揺り起こしている。
月娘が夢の話をすると、小玉が今見た亡者の話をする。恐ろしそうに話しているうち鶏が鳴き夜が明けた。月娘は髪をとき、顔を洗い、禅堂に行って仏前に香をたくと、和尚は座禅を組んでいて、静かに「呉奥様、お悟りになられましたかな?」月娘はがばっとひざまずき、「和尚棟は仏様でいらっしゃいます。そうとは存ぜず、申しわけごさいませんでした。夢でやっと悟りました」
「悟ったら、済南へは行きなさるな、行ってもあのとおりじゃ。あなたの子供がわしにめぐり会ったのも、みんなあなたが善根を施したおかげ、さもなければ離れ離れになるところであったのだよ。もともとあなたの子供は、悪行をした西門慶の転身だから、本来なら家を傾け財を散じ、死ぬ時も首と身とが離れるはずのもの、それをわしが弟子にとって、今までの罪をぬぐおうとしているのじゃ。ま、ついて来なされ」
和尚は月娘を方丈へ連れて行き、ベッドに寝ている孝哥の頭を禅杖《ぜんじょう》でつつくと、腰を鎖でしばられた西門慶が首枷をかけられている。また禅杖でつつくと、もとの孝哥。そのとき孝哥がふっと目をさましたので、月娘は仏前に連れて行って、髪をそり落として、普静《ふせい》和尚の弟子にしたが、哀れ月娘は十五歳まで育てたものを、肉身の子に家業をつがすことができなかった。普静老師は孝哥に明悟《めいご》という法名を与え、いよいよ月娘と別れることとなる。そこで月娘に、金の軍隊はまもなく退き、南北が分かれて二つの朝廷が立ち、中原にも天子ができる、十日もたたぬうちに平和が来るから、家へ帰って日を送るがよいと注意する。月娘は声を上げて泣きながら普静老師の袖をおさえ、
「老師様、子供はお救いしてくださいましたが、わたしたち母子はいつ再会できましょうか」
「泣くことをおよしなさい。あそこにまた、ひとり和尚様がお見えじゃ」
一同ふり向くと、さっと一陣の清風と化しふたりは消え去ってしまった。
呉月娘、呉二舅、玳安、小玉の四人は十日ばかり永福寺にいたが、はたして普静老師の言うごとく、大金国は東京に張邦昌《ちょうほうしょう》を皇帝とし、文武百官をおく。康王|泥馬《でいば》は揚子江《ようすこう》の南、建康《けんこう》に即位して高宗皇帝となり、その後|宗沢《そうたく》を大将として、山東、河北を取りもどし、中国は南北両朝に分かれて天下は大平、人民はその業に復する。月娘が家に帰って門を開くと何一つ失われていないので、玳安の名を西門安と改め家業をつがせ、人々はかれを西門小員外と呼んだ。西門小員外は月娘が七十歳でなくなるまでよくめんどうを見、終りを全うさせた。これも呉月娘が平素から仏の教えを好んだ報いなのである。(完)
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訳者あとがき
「金瓶梅」の作者は、だれだかわからない。明《みん》の有名な文人|王世貞《おうせいてい》が書き、紙に毒をぬって、指をなめて紙をめくる癖のある厳世蕃《げんせいばん》に贈り、毒殺して父の仇《あだ》を討とうとしたという伝説があるが、信じるには足りないとされている。しかしこの伝説は「金瓶梅」にふさわしい伝説であろう。そのぐらい、この非情なものが底に流れている小説はおもしろく、指さきに少しずつついた毒がなるほど毒殺に役立つだろうと思われるだけの大長編である。数でいえば、一ページ四十二字十五行立てで千三百ページぎっしり、翻訳でなら尾坂徳司氏のもので四十三字十七行立てで約千八百五十ページ、小野忍・千田九一両氏のもので百回のうちの四十回までで、もう五十四字二十二行立てで約七百ページとなっている。したがって、わたしの書いたこの「金瓶梅」は原作に従ってはいるが、もちろん全訳ではなく、抄訳という文字さえ不適当で、述と言われるのがふさわしいものである。
明のころに書かれた「金瓶梅」は明のころの人ならその細部に至るまでがじつにおもしろくてたまらなかったろうが、風俗習慣のずっと異なっており、感覚のテンポも異なっている今のわたしたちには、明代の人の目で「金瓶梅」を読むことは不可能である。明代の人にとっておもしろくてたまらなかったろうと思われる個所で、わたしたちにたいくつでたまらぬ所が、随所に出て来る。わたしたちにとって繁雑なだけと感じられる事がらがじつに楽しげにえんえんとつづいているのを見ると、そのころの人にとっては、それが非常に興味があったのだと考えないわけにはいかぬ。明のころには写真もなかった、映画もなかった、ラジオもなかった、テレビもなかった。今なら写真に、映画に、ラジオに、テレビに一任されてしまうような事がらが、小説の中に、文字の中につめこまれる。そのような、一種の報道、ニュース映画、記録映画めいたものが相当「金瓶梅」の中にはいりこんでいる。それは明代の人には興味があるが、今「金瓶梅」を読物として読もうとする者には、たいくつでやりきれない。(学者として読む人は別である。そういう人たちには重要なものが豊富にころがっている)
つぎに、『「金瓶梅」は、昔から有名な 淫書《いんしょ》で、禁書になったこともある。全部で百回あり、「水滸伝」の中の西門慶と潘金蓮の色ごとを描いた写実的な小説である。「水滸伝」のものたりなさは、女性の描写のないことであるが、この本は「水滸伝」のなんでもない一節を取り上げ、それに色をつけておもしろくした点は作者として成功している。しかし材料がエゲツなくて、どうも人前には出しにくいものである』( 劉麟生《りゅうりんせい》原著・魚返善雄訳補「中国文学入門」東京大学出版会)と書かれているエゲツない部分、みだらな部分についても、ぜひとも必要な場合と、読者(または聴《き》く者)がたいくつしかけたところでパッと目をさまさせ(耳を立てさせ)ようというだけの場合とがあり、また、いささか淫法解説といったところ、安物のチャンバラの剣士のように超人的すぎるところなどがある。これらは上海《シャンハイ》雑誌公司刊行のものでも適宜|抹消《まっしょう》しているが、それで小説としての「金瓶梅」がつまらなくなってはならない。わたしのものも、その行き方に従うが、惜しいところが欠けていると思う必要はない。というのは、現在の日本の小説の方がもっとエゲツない場合が多いからであるし、淫法解説も、むしろ現在の日本人のその方の大家を「金瓶梅」の世界へ送りこむ方が順当なほどであるからだ。
魯迅《ろじん》の「中国小説史略」によると、「この書を作ったのは、もっぱら市井《しせい》間の淫夫|蕩婦《とうふ》を写すためであるというのは、皮相の見解で、本文を読めばそうでないことがよくわかる。西門慶はもと世家(家柄・門閥)を称せられ、|※[#「てへん+晉」、unicode6422]紳《しんしん》であり、ただ権貴と交通したのみならず、士階級ともまた交際した。だからかれ一家のことを書けば、すなわち諸方面をののしり尽くすことができる。けだしひとり下流の言行を描写してこれに筆伐を加えるというのみではないのである」(増田渉訳)とあるが、宋《そう》代のころを描いていると見せかけて明代の「諸方面をののしり尽くし」ている「金瓶梅」は、時代風俗地理を異にする日本の今にもって来ても、ひどく生々している部分が多い。「金瓶梅」の背景となっている宋代の歴史を知らなくても、小説の中へはいって行けばべつに不自由がないというのも、現代の日本のあらゆる方面の腐敗が似たか、寄ったかのためであろう。半年、ほかのこともせず、「金瓶梅」とつき合って、たいへん興味があったが、わたしのこの本が読者にとってもそうであればしあわせである。
終りに、お世話になった書物を列記して感謝する。
尾坂徳司「金瓶梅」(全四巻 東西出版社)
小野忍・千田九一「金瓶梅」(二巻まで三笠書房。その後、平凡社より全訳刊行)
林房雄「金瓶梅」文芸倶楽部社(じつに軽快な筆でいささか羨望を感じた)
井上紅梅「金瓶梅・支那の社会状態」 (大正十二年に上海で出版。キタナイ言葉について教えられた)
吉川幸次郎「水滸伝」第四巻 岩波文庫(語り口、語勢についてたいへん教えられた)
中国文学報第五冊(沢田瑞穂・小川環樹両氏のエッセイ)
武田泰淳「人間・文学・歴史」厚文社(「淫女と豪傑」に教えられた)
その他、いろいろ助けてくださった本山幸彦・北山茂夫・高木正一・武部利男諸氏に感謝する。また、いろいろ無理をきいてくださった創元社谷口正元氏、知念栄喜氏に感謝する。
[#地付き]一九五七年 富士正晴