金瓶梅(上)
富士正晴訳
[#表紙(表紙1.jpg)、横180×縦240)]
登場人物
[#ここから1字下げ、折り返して3字下げ]
西門慶《せいもんけい》……山東省清河県の生薬屋の二代目。のち、質屋や糸屋を開くなど商売の手を広げる一方、首都東京(開封)の宰相蔡京(蔡太師)に渡りをつけ、この県の提刑所(警察・裁判をつかさどる役所)の副官という官職を与えられ、のち提刑(長官)に昇進
呉月娘《ごげつろう》……西門慶の正夫人。後妻。呉千戸の娘
李矯児《りきょうじ》……西門慶の第二夫人。もと廓の芸妓
孟玉楼《もうぎょくろう》……西門慶の第三夫人。もと呉服商の未亡人
孫雪蛾《そんせつが》……西門慶の第四夫人。もと西門慶の娘の小間使い
潘金蓮《はんきんれん》……西門慶の第五夫人。もと仕立屋の娘。売られて大家の小間使いにされ、のち武大に嫁がされたが、西門慶と通じて、夫を毒殺
李瓶児《りへいじ》……西門慶の第六夫人。梁中書の妾から花子虚《かしきょ》の妻となったが、夫を悶死させ西門慶の妾となる
春梅《しゅんばい》……呉月娘づきの女中から潘金蓮づきの小間使いとなり、西門慶と関係する
秋菊《しゅうぎく》……潘金蓮づきの小女。炊事係
迎春《げいしゅん》……李瓶児づきの女中
綉春《しゅうしゅん》……李瓶児つきの小女
来保《らいほ》……西門慶の下男
来旺《らいおう》……西門慶の下男。江南の織物を買い付ける役を受け持っていたが、のち西門慶に謀られて郷里へ追放される
|宋※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《そうけいれん》……西門慶の番頭来旺の妻。夫の留守中、西門慶と通じる
来興《らいこう》……西門慶の下男
陳敬済《ちんけいさい》……西門慶の婿。妻とともに西門質店を預かる
西門大姐《せいもんたいそ》……西門慶の娘、陳敬済の妻
玳安《たいあん》……西門慶の小者
傅《ふ》番頭……西門薬舗に古くからいる番頭
呉典恩《ごてんおん》……もと西門慶の番頭
韓道国《かんどうこく》……西門糸店の番頭
王六児《おうろくじ》……その妻。のち、西門慶と通じる
李桂姐《りけいそ》……廓の芸妓。李矯児の姪
鄭愛香《ていあいこう》……廓の芸妓
応伯爵《おうはくしゃく》……西門慶の取巻き。西門慶のいちばんのお気に入り
謝希大《しゃきだい》……西門慶の取巻き
呉大舅《ごたいきゅう》……呉月娘の長兄
武大《ぶだい》……潘金蓮の先夫。蒸しパン売り
武松《ぶしょう》……武大の弟。武二郎、武二とも呼ばれる。虎を退治して県の巡捕都頭に取り立てられた豪傑
王《おう》婆……武大の家の隣の茶店の婆さん。周旋屋
薛嫂《せつそう》……花かんざし売りの女。周旋屋
馮《ふう》ばあさん……李瓶児の老女中
如意児《にょいじ》……李瓶児の子、官哥の乳母、西門慶の愛を受ける
夏龍渓……この県の提刑所の提刑(長官)
|※[#「羽/ふるとり」、unicode7fdf]謙《てきけん》……蔡京の執事。都にあって西門慶のためにいろいろ便宜をはかる
喬大戸《きょうたいこ》……西門慶の向かいの家の主人
周守備《しゅうしゅび》……守備府(治安をつかさどる役所)の長官
張勝《ちょうしょう》……もと廊の地まわり。西門慶の紹介によって周守備の秘書となる
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
一
大宋《たいそう》の徽宗《きそう》皇帝の政和年間、山東の清河《せいか》県に、生薬《きぐすり》屋の主人で、姓は西門《せいもん》、名は慶《けい》という男がいた。四川《しせん》広東広西《かんとんかんしー》の薬材を売って金を作り、間口五間、奥行七層の店をひらき、土地での物持ち、西門|員外《だんな》とあがめられた西門|達《たつ》のひとりむすこなのだが、幼いころから甘やかされて育ち、ろくろく読書もしない。その代わり、遊びといえば、拳術《けんじゅつ》、棒術、ばくち、双六《すごろく》、将棋、麻雀《マージャン》、謎《なぞ》あてなど知らぬことがなく、父母に別れてからは、色町で遊び回っていた。
そのころ二十六七歳で、顔だちは堂々たるもの、女が大好きというやつ、付き合う友だちはおおむね世にいう頽瘍賊《たいようぞく》、ろくでもないことをするのが本職という手合いである。第一に応伯爵《おうはくしゃく》、呉服屋の応|員外《だんな》の次男だったが、自分の代になって資本をすってしまい、色町でたいこを持って暮らしているのであだ名を応|花子《こじき》。第二に謝希大《しゃきだい》、家柄の子孫だが幼くて両親を失い、前途に見切りをつけて遊んでいる。それから、祝実念《しゅくじつねん》。孫天化《そんてんか》。呉典恩《ごてんおん》、これは県の陰陽《うらない》生だったが止《よ》して県庁前で役人相手の金貸しをやっており、そんなことで西門慶と往来がある。他に、雲参将《うんさんしょう》の弟の雲|理守《りしゅ》。常峙節《じょうじせつ》。|ト志道《ぼくしどう》。白賚光《はくらいこう》。こういう連中が西門慶をとりまき、かれにたかって酒を飲み、女を買い、ばくちを打って遊ぶ。普通の男ならいくら金があってもたまったものでないが、西門慶は世才に富み、悪知恵が回り、損得の道にも長《た》けていたから平気である。役人に金を貸し、時の四大官僚の高・楊《よう》・童・蔡《さい》といった連中にも道筋をつけて、県の公事にも、人のもめごとにも口をきき、ぴんはねをやる力がある。だから県内の人々はかれをおそれて西門大官人とあがめたてまつった。
西門慶は陳《ちん》氏を妻としたが、娘をひとり残して早死にした。そこで呉|千戸《せんこ》の娘の呉|月娘《げつろう》を後添えにもらった。八月十五日の生まれである。二十五くらいの柔順な女で、夫の言いなりしだいになっている。第二夫人は芸者上がりの李嬌児《りきょうじ》、第三夫人は娼妓《しょうぎ》上がりの卓二姐《たくにそ》、月ぎめにしていたのを、落籍したのである。卓二姐は病気がち、精力絶倫の西門慶は浮気の虫が動かぬでもない。
ある日、家でひまを持てあましていた西門慶は呉|月娘《げつろう》に、
「来月三日は仲間の会だな。二《ふた》テーブルの酒席と芸者ふたり準備してくれよ」
「およしなさいな、あんな連中よろしくありませんわ。それに卓二姐《たくにそ》が病気だし、お酒も少しお控えになったら」
「そうはいかないよ。ほかのやつは別だが、応さんはどうだい。良い男じゃないか、おもしろくて、几帳面《きちょうめん》で。それに謝だって切れるしろものさ。そうだ、いっそ、今度、兄弟分の契りを結んでやろう。後々たよりになるからな」
「兄弟分ですか。たよられっぱなしが落ちってとこでしょう。阿呆《あほ》らしい」
「たよられる側ならりっぱなもんさ。応さんがやって来たら話してみよう」
ちょうどそのとき、西門慶付きの利口そうな小僧の玳安児《たいあんじ》が応伯爵《おうはくしゃく》と謝希大《しゃきだい》の来訪を知らせに来た。
「うわさをすれば影だ。やって来おった」
西門慶が広間に出ると、ふたりは立ってあいさつした。
「哥《にい》さん、しばらくごぶさたいたしておりました」
「このところ気がふさいでいっこう出る気になれずにいたが、影も見せなかったじゃないか。どうしてたんだ」
「きのうは色町の李《り》家へ行ってむすめを見ましたよ。お宅の二奥様の姪《めい》の桂卿《けいけい》の妹ですがね、にわかに別嬪《べっぴん》になってましたなあ。おふくろがしきりと良い旦那を世話してくれと言ってたが、結局あれもあなたのものになるんだろうね」と応伯爵。
「一度見てみるとするか」
「うたぐり深いですなあ。たしかに良い器量ですぜ」と謝希大。
「きのうはそことして、その前はどこにいたんだ」
応伯爵は
「実は卜志道《ぼくしどう》のやつが死にましてね。葬式の手つだいですよ。細君はむさくるしいところなので、お知らせしなかったと、ぜひあなたに伝えてほしいって言ってました」
「そうなのか。良くないとは聞いていたが、もう死んだか。四川の金箔《きんぱく》扇をもらったから何かお返ししようと思っているうちに、死んじまったんだな」
謝希大はため息をついて、
「十大兄弟のひとりが欠けましたよ。……それはそうと、来月三日は例の集まり。大官人《あなたさま》のご散財で一日ゆっくり」
「今も女房と話してたんだ。これまでみたいに、酒を飲んで遊ぶだけでは実《み》のない話、今度こうしたら良かろうと思うがね。どこかの寺で、誓書を書いて兄弟の契りを結ぼうというんだ。後々たよりになるぜ。その日はめいめい幾らか出し合ってお供物の獣を買おうじゃないか。おれひとりで出しても良いが、そうしたら皆の志が現われないから」
応伯爵は「そりゃあ、お説のとおりですね。|かか《ヽヽ》が焼香しても、亭主の念仏の代わりにゃなりませんやね、めいめい出すのがほんとうです。だがあたしたちは、ねずみのしっぽのお瘡《でき》だね、膿《うみ》も知れたもんだ」
西門慶は吹き出して、「ばかな! だれがきさまに多く出せと言った」
謝希大は「兄弟結びは十人といったものだ。卜志道が欠けたが、だれか良い人いないかなあ」
西門慶はしばらく考えていたが、
「隣の花《か》さんはどうだい。花|太監《たいかん》の甥《おい》で、金ばなれが良くって、遊び好きだ。さっそく使いをやってみよう」
応伯爵は手をたたいて、「そうそう、呉銀児《ごぎんじ》を月ぎめにしている花|子虚《しきょ》?」
「うん、そうだよ」
「しめた。また一つ酒屋ができたって勘定だ。さっそく迎えをおやんなさい」
「ど乞食《こじき》め、意地がきたねえなあ」
一同はどっと笑った。玳安児が使いに出された。
伯爵「その日はお宅で、それとも寺で?」
希大「仏教なら永福寺、道教なら玉皇|廟《びょう》。どちらになさるんです」
慶「縁結びは寺じゃないな。それに寺の和尚《おしょう》は知らんが、廟の呉|道官《どうかん》は親しいんだ。場所も閑静だね」
伯爵「そのとおりですよ。けれど、謝は不服だろうな。おかみさんが永福寺の和尚と仲良さそうだ」
「老いぼれ乞食! まともな話を屁《へ》でとばそうってんか」と希大はげらげら笑いながらののしった。
しばらくして玳安児がもどって来て、
「だんな様はご不在でしたので奥様に申しあげましたところ、たいへん喜ばれまして、義兄弟にしてやると言われる西門だんなの仰せにどうして異存がありましょう、もどってまいりましたらわたくしから良く申しましてかならず参上いたさせますと言われ、わたくしにお茶菓子を二つ下さいました」
聞くと西門慶は応と謝にふり向いて、
「花さんの奥さんというのが、またとっても|良い《ヽヽ》んだ」
帰るとき応はわざわざひき返して、「芸者も呼ぶんでしょうね」と念を押した。
十月一日、西門慶が月娘《げつろう》の部屋にいると、髪を伸ばしかけの小僧が金塗りの小箱を持って来て最敬礼をし、主人花子虚のことばを伝えた。
「過日は主人不在のためまことに失礼いたしました。三日の会にはかならず参上いたします。これは些少《さしょう》ではございますが会費としてご受納ください。もし不足でございましたらいずれ後ほど補いますから」
封を切って見ると紙袋に会費一両と書いてあるので、「これでは多すぎるぐらいだね。いずれお誘いしますと伝えておくれ」
うなずいて立ち去ろうとする小僧を月娘は呼びとめ、小おんなの玉簫《ぎょくしょう》に蒸し菓子を出させて、「ほんのお茶の代わりだよ。それから奥様によろしく伝えておくれ。わたしが一度お招きしてお話ししたいと言ってたとね」
小僧が帰って行くと、応伯爵の使いが玳安児の案内ではいって来た。受け取ってみると八包みで、満足に包みもできていない。使いを帰し卓二姐を見舞いに行こうとすると、玉簫が呼びとめて、「奥さんがお話があるそうで」
「用があるなら早く言えばいいのに」
月娘は紙包みをひろげて指《さ》しながら、「まあ、ごらんなさい。応さんのだけは一匁二分の八掛銀を持って来たけど、ほかのときたら、三分や四分のまぜもの。今までこんな銀子《かね》見たことありませんわ。受け取るのもきたないみたい。突っ返してやったら」と笑っている。
「そういうなよ。おまえが何も腹を立てるにも及ばんじゃないか」
二日。西門慶は四両の重さの銀を秤《はか》り、奴隷の来興《らいこう》児に豚一匹、羊一匹、五六|甕《かめ》の金華酒、線香、ローソク、鶏、あひる、くだものなどを買わせ、五銭の銀を包んで家人の来保《らいほ》、玳安児、来興児の三人に玉皇廟へ運ばせ、呉道官にあすの義兄弟の契りの準備を頼ませた。
三日、西門慶は朝早く起きて髪を結い終ると、玳安児を花《か》家へやり、こちらで朝食をいっしょにとり、それから廟へ参りましょうと伝え、ついでに応伯爵のところへ寄り、皆をせかさせた。一同いっしょに朝食を済ませると、うちそろって玉皇廟に向かった。
呉道官に迎えられ、茶を飲むと、一同は立ち上がって廟の中をながめ回す。大きな虎《とら》を従えているまっ黒な顔の趙元壇《ちょうげんだん》元師の像を見ると、白賚光《はくらいこう》はそれを指して、
「兄貴、こりゃどうじゃ。虎がいやにおとなしい。肉断ちでもしてんのですかね、この虎」
応伯爵は笑って、「知らんのか。この虎はトリマキだからさ」
謝希大は近寄ってへッと舌を出し、「ぶっそうなトリマキもあったもんだ。一刻も安心できんな。取って食われるおそれがある」
伯爵は西門慶に笑いかけ、「ところで、あなたはどうです?」
「どういうことなんだ?」
「謝のやつ一匹でもこわいと言いましたがね、あなたはわれわれみたいなのを七八匹従えてるわけですがなあ」
一同が笑っていると、呉道官が近寄って、「虎の話で思い出しましたが、ここのとこ、清河県では大虎でえらい目をしているんでござんすよ。旅人が何人食われましたやら、猟師だけでも、もう十数人やられたんでやんすから」
西門慶が「どうしてそんなことを」とたずねると、
「だんな方はご存じなかったのでやんすか。わたしも知りませなんだが、この間|滄州《そうしゅう》から帰って来た男の話によりますると、景陽崗《けいようこう》というところに目のつり上がった白|額《びたい》の大虎が出るんで、旅人は隊を組まねば通れなくなってしまったそうで。それで県では五十両の懸賞で虎狩りをはじめましたが、かわいそうなのは猟師たち、職務怠慢の|かど《ヽヽ》で笞刑《ちけい》を受けたものもあります」と答える。
聞くなり、白賚光《はくらいこう》はおどり上がった。「しめたぞ。あしたはひとつ金もうけだ。きょうは兄弟結びだからだめだがね」
西門慶が「おいおい、命が惜しくないのか」と言うと、「銀子《かね》さえありゃ、命なんか!」
伯爵が「東西東西。笑い話がまた一つ出来たよ。ここにひとりのおやじが虎にさらわれた。むすこはおっ取り刀で飛び出す。くわえられたおやじが虎の口の中から言うのにさ、刺すのは待て、皮が悪くなる」
一同大笑いだった。
そのうちに呉道官は式の準備を整えたが、義兄弟結びの誓書の名まえの順が決まらぬ。一同はもとより西門慶を筆頭に推したが西門慶は年長のゆえに応伯爵を推す。すると応伯爵は舌を出して、
「だんな、冗談言っちゃいけませんね。今の世の中は歳《とし》より金ですよ。よしんば金を抜きにしても、あたしにはまずいことが二つある。第一にあなたほど威も徳もないから兄弟が言うことをきかない。第二に長兄になったら、応二寄《にばんめのにいさん》じゃなしに、応大哥《うえのにいさん》と呼ばれにゃならん。応二哥と呼ばれたり応大哥と呼ばれたりじゃ、あたしがだれだかわからなくなりますよ」
西門慶もそう言われて悪くはない。結局、筆頭となったが、第二は応伯爵、第三は謝希大、第四は花子虚というふうに名が書かれた。若くて新参の花子虚が第四というのも金があるからである。
誓紙が読まれ、神を礼拝し、おたがいに八拝し、神を送って紙銭《しせん》をたき、式が終ると、用意の二《ふた》テーブルで、大宴会がはじまった。酒がめぐり、酒令《けん》をうち、廟が破れるほどのさんざめきである。その最中、玳安児が現われて西門慶に耳打ちする。
「三奥様が気絶なすったので、奥様が早くお帰りくださるようおっしゃいました」
西門慶はそれを聞くと、理由を言って立ち上がった。すると花子虚も同じ道だからいっしょに帰ろうと立ち上がる。応伯爵はあわてた。
「ふたりの金主が行っちまったら、残ったわれわれはどうなるんです。花さん、あなたはゆっくりなさいよ」
西門慶が「いっしょに帰るほうがいい。無人のお宅だから」
玳安児が「手前の出て参りましたとき、隣でも馬の用意をしておりました」と言っているところへ、はたしてひとりの小僧が現われ、花子虚に、「奥様が早くお帰りになるようにとのことでございます」
ふたりは立ち上がり、呉道官に礼を述べ、一同を手で制して、「皆さん、どうぞ、ごゆっくり」と帰って行った。残った連中が恥もなく牛飲馬食したのは話すまでもない。
西門慶が帰ると、月娘は「病人がいるのにどこへ行かれるやらわからないから、ああ言わせたのですよ。だんだん悪くなるし、あなたも見てあげていただかないと」と言う。西門慶はそれから毎日家におった。
十月中旬、医者を呼んで卓二姐を診察させていたが、ふと西門慶が広間に出ると、応伯爵がニコニコしてやって来た。
「姉さんのご容態は?」
「どうもうまくないな。それはそうと、あれからどうした?」
「呉道官が放したがらんので、夜の九時ごろになりましたかね。いやもう、へべれけで、|わや《ヽヽ》ですわ。にいさんは早く帰って、よかったです」
「きみ、飯くったかね」
伯爵は食ってないとは言いにくく、「あててごらんなさい」
「食ったね」
「アウトですな」
西門慶は苦笑いして、「いやらしい犬め。食ってないなら食ってないと言えばいいのに。気どりやがって」と、小僧に飯を見にやらせる。「この人といっしょに食うからな」
伯爵は笑って、「食う暇がなかったんですよう。珍しい話を聞いたもんだから、にいさんに知らせようと、駆けつけたんだ」
「なんだい、珍しい話てのは」
「ほら、呉道官が言ってた景陽崗の大虎、あいつがきのう拳固《げんこ》でなぐり殺された」
「うそをつけ。信用できるか」
「うたぐり深いからねえ。詳しく話しますとね」伯爵は手ぶり身ぶりよろしく、「そいつは武松《ぶしょう》という二郎《じなんぼう》です。何かの事情で柴《さい》大官人のところへ隠れてたらしいが、病気をして、今度全快したもんで兄を尋ねて景陽崗にさしかかった。すると例の虎が現われて、ああして、こうして」とたった一発でなぐり殺したことを、見て来たみたいにまくし立て、「まもなくそいつが虎といっしょに県庁に練りこんで来るはずですよ」
「それがほんとうなら、飯を食ってからいっしょに見に行こう」
「食ってちゃ間に合いませんよ。すぐ大通りの酒楼へ上りましょうや」
ふたりは途中で出くわした謝希大とともに、通りに面した大酒楼に上って待った。まもなく、銅鑼《どら》・太鼓がひびき渡ると、やって来る猟師の一隊、それにつづく、四人でかつぎかねている、まるで錦の袋のような虎のしかばね、最後に一頭の白馬にまたがった壮士。身のたけ七尺余り、いかめしい大きな顔で、二十四五歳、明星のようなひとみ。
西門慶は思わず爪《つめ》をかみ、「ううん、これでは! 千頭の水牛でも動かせぬわい」
この男こそ応伯爵のうわさした陽谷《ようこく》県の武二郎《ぶじろう》。兄のゆくえを尋ねる途中、はからずも猛虎をなぐり殺し、知事に召されておもむくところだった。
県庁にはいり、武松がひとりで大虎をかついで広間の前におくと、知事は広間へ呼びあげ、虎をなぐり殺した次第を始めから終りまで話させたが、両側の役人どもはあっけにとられぼんやりするばかり。知事は三杯のほうびの酒を武松に飲ませ、出納係に命じて五十両の賞金を与えようとすると、武松は
「拙者、殿様のご威勢によりまして、僥倖《ぎょうこう》にも大虎を打ち殺しましたが、これはけっして拙者の力ではございません。でありますから、拙者は受け取るわけにはまいりませぬ。猟師どもがこの畜生のために殿様に罰せられた者も少なくないと聞き及んでおります。この賞金を皆にお与えくだされば、殿様のご威勢をますます輝かせるゆえんと存じたてまつります」
知事はもっともなことと思い、「そう申すなら、その方の処分に任せる」
武松は五十両の賞金をその場で猟師に分配したが、知事は武松の人がらに惚《ほれ》れこみ、こいつ役に立つぞと、
「その方は陽谷県の者だそうだが、わが清河県とはわずかな距離だ。今日から本県の巡捕《じゅんぽ》の隊長となり、河東《かとう》にまた水西に、賊を捕えてはくれぬか」
武松はひざまずき頭を下げ、「殿様のお引立てをいただきまして、かたじけないしだいに存じたてまつります」
こうして武松はその日から巡捕隊長となり、土地の名主、金持、有力者が集まって数日の間、かれのために慶賀の宴が張られた。武松の名はあたりにだれ知らぬ者もなくなったのである。
ある日武松が巡回していると、後から呼びかける者があった。
「弟、隊長になったんで、わしのことを忘れたのかい」
武松はふり向いて大喜び。その男こそ武松が日々尋ねあぐんでいた兄、武大《ぶだい》であった。
武大は以前、弟と別れてから飢饉《ききん》に遭《あ》い、清河県に移ったが、からだが小さく気が弱いので人々は「ちびっ子うらなり」とあだ名している。
武大にはこれといった商売もないので蒸しパン売りをしていたのだが、妻に死に別れ娘がひとり残った。年は十二で迎児《げいじ》という。ふたりは半年の間に元手をすり、大街坊の張大戸《ちょうかねもち》の家の、道に面した部屋を借りた。張家の使用人たちは罪のない武大をかわいがり、主人の前でほめるので、大戸《たいこ》は家賃もとらない。
張大戸は金持、家持だが、六十の坂を越えるのに子がひとりもない。だのに妻君の徐《じょ》氏はがんこ者だから、きれいな女中を使わせない。大戸は常々胸をたたいて、「こんな年で、子なしでは、幾ら財産があったってなあ」と嘆いていた。それを聞いて妻君がかわいそうになって、ふたりの女中を買ったが、そのひとりが潘金蓮《はんきんれん》、もう一人が白玉蓮《はくぎょくれん》。潘金蓮は潘という仕立屋の六女で、幼いころから器量がよく、纏足《てんそく》の足がまことに小さいので金蓮と呼ばれた。父が死ぬと母は暮らしがたたず、九歳の時、王招宣《おうしょうせん》の屋敷に売られ、芸ごとを習い、読み書きもした。もともと利口だから、十二三になるともう、お化粧こってりと、しゃなりしゃなりとしている。十五の時、王招宣が死んだので、おふくろはあわてて引き取り、今度は三十両で張大戸に売りつけ、そこで玉蓮といっしょになった。けれど玉蓮はまもなく死んで、金蓮ひとり。十八前後ともなると桃の花の顔《かんばせ》、細いまゆは新月のよう。張大戸はなんとかして抱きたいのだが、妻君がこわくて手が出せない。ある日妻君が隣に招かれて出向いた後、こっそり部屋に呼び入れ、とうとう手をつけた。それから張大戸に五つの病がふえる。第一に腰痛、第二に涙目、第三に耳が遠く、第四に鼻水、第五に尿がポタポタと力ない。気がつくと妻君は腹を立て、大戸を数日もわめきののしり、金蓮をぶちまくる。大戸はしかたなく、金蓮を嫁に出そうと思った。使用人たちは口をそろえて、まじめだし、屋敷内に住んでいるから、武大に限ると言う。大戸は金蓮に未練があるので、びた一文とらず武大に嫁入らせた。
武大が金蓮と夫婦になると、大戸は武大をかわいがって元手がなくなれば銀子をくれてやる。が、武大が荷をかついで行くのを見すまして、武大の部屋で金蓮とくっつく。時々それを目にしても武大は声も立てない。そのうちに大戸は腎虚《じんきょ》で、哀れや、死に果てた。張大戸の妻君は家の者を呼び集め、さっそく夫婦を追い立て、武大は紫石《しせき》街の王という皇族の部屋を二つ借り受け、いぜんとして蒸しパンを売って暮らしていた。
金蓮は、気が弱いちびの武大が大きらいだった。結婚させた張大戸がうらめしい。何の因果できらいな男と暮らさねばならぬか。武大は毎日荷をかついで出、晩《おそ》くなってから帰る。金蓮は武大が出ると、すだれの下で瓜《うり》の種をかみ、わざと小さな纏足《てんそく》をちらつかせ、女|欲《ほ》しやの男の気を引く。門前には不良が集まりだし、歌を歌ったり、謎を掛けたり、「あったらうまい羊の肉が犬の口に落ちこんだ」などと、言い寄る。武大ががらの良いとこへ移りたいと金蓮に相談すると、
「決まってるじゃないの。こんなところじゃ、ならず者がやかましいのも当然だわ。幾両か出して、しやんとした家に住めば、人はばかにしやしないよ」
「といって、そんな金が」
「ちっ、薄|野呂《のろ》ねえ。男のくせになんなのさ。やっかいな人。おかねがないんなら、あたしの頭の物でも売ってこしらえたらいいじゃないか」
こうして郡西《ぐんせい》街の二階四部屋の家に移ってからも、相かわらずの蒸しパン売り。この日思いもかけず血のつながった弟に出会ったので、非常に喜び、家に連れかえって二階に上げ、金蓮を呼んで武松に会わせた。
「こないだ景陽崗で虎を退治したのはおまえの小じゅうとだ。隊長になったが、おれとは一つ腹の兄弟だよ」
ふたりはあいさつをかわした。そこへ娘の迎児がお茶を持って来た。武松は金蓮があまり濃艶《のうえん》なので、頭を低くたれたままである。武大は酒よさかなよとばたばたし、外へ買いに走る。金蓮は動かず武松の相手をしていたが、なるほど大虎を打ち殺したのも道理だ、一つ腹の兄弟とはいいながら、どうしてこうも違うものか、うちのやつときたら人三《にんさん》化け七《しち》、なんの因果であんなやつにぶつかったんだろう、武松さんの凛々《りり》しさ、いいからだつき、そうだ、この男を家へ引き入れて何かのおりに、などと考えて笑いを浮かべ、
「あなた、今どちらにお住まいですの? お食事はどなたが」
「新任早々でございますので仕事が多く、宿舎の一室を借り、ふたりの従卒に作らせております」
「従卒じゃ行き届かないことでしょうね。あたしが万事引き受けますから家《うち》へ移っていらっしゃいな」
「ありがとうございます」
「どこかに奥様がおいでなんでしょう? お目にかかりたいわ」
「まだ独身です」
「あなた、おいくつ?」
「二十八歳になります」
「あたしより三つ年上ですね。こんどどちらからおいでになりまして?」
「滄州に一年ばかりおりましたが、兄上はもとの所におられるとばっかり、こっちに越されているとは知りませんでした」
「なんと申していいのやら、あたしが嫁に来てから、何ぶんあの人は人が良すぎるので他人にばかにされますので、こちらへ移ったんですのよ。あなたのようにおりっぱでしたら、だれもばかにしませんわね」
「兄上はまじめで、わたくしのような乱暴者ではございません」
女は声を立てて笑った。
「あら! よく言うじゃありません、強くなきゃ世渡りがむつかしいって。あたし、気が勝ってるせいか、あんな煮えきらない意気地《いくじ》なし、大っきらい」
「いや、兄上はめんどうを起こしませんから、姉上も安心です」
金蓮が武松と話していると、武大は肉、野菜、くだもの、餅《もち》などを買って帰り、台所へ置くと二階へ上って、「おかみさんよ、ちょっと下へ」
女は武松をふり返って「こんなんですよ。二郎さんがここにいらっしゃるのに、置き去りにしろっていうの」
「どうぞおかまいなく」
「隣の王《おう》ばあさんにしてもらえばいいのに、ほんとに気がきかないったら、ねえ」
金蓮を上席に、武松はむかい、武大は横にすわって、さて一杯となっても、武大はせっせと上り下りして酒の受けつぎに大わらわ、金蓮はこぼれるばかりの笑顔《えがお》で、二郎さん二郎さんととりもち、「どうぞ召しあがって」と、うまそうなところをつまんで武松にやる。
武松は武骨ものだから、金蓮を嫂《あによめ》として応待しているが、女は小間使い上がり、数杯の酒を重ねるうちに、とろりとした目がくぎ付けになる。武松は視線を受けかね、うつむくばかり。酔いが回ると急に立ち上がった。武大が「二郎、まあ良いじゃないか」
「じゅうぶんいただきました。また」
門の外に出ると、金蓮は
「あなた、きっと越して来てくださいよ。でないと、あたしたちが笑いものになるわ。血の通った兄弟ですもの、他人とはちがうのよ。あたしたちの力になってちょうだい」
「せっかくのおぼし召しですから、今晩にも荷を持って参りましょう」
「お待ちしてますわ」
二
武松が越して来ると、女はお宝でも拾ったような喜びよう。自分で部屋を掃除して、武松を住ませた。翌朝、武松が早く起きると、女はあわを食って飛び起き、あわてて湯を沸かし、顔を洗わせる。武松が髪をすき頭巾《ずきん》をかぶって出勤しようとすると、
「あなた、お仕事がすめば早く帰って来てね。外でご飯をあがっちゃいけませんよ」
仕事が終って帰って来ると、もうご飯はできている。三人いっしょに食事を済ますと、女は武松に茶をささげる。
「姉上、それじゃかえってきゅうくつです。あしたから従卒を使いましょう」
「あなた、水臭いですわね。兄弟じゃないですか。迎児はいるけど、だらしないし、従卒なんて味噌《みそ》も糞《くそ》もいっしょで、きたならしくって目ざわりだわ」
「では遠慮いたしません」
武松はお茶菓子を買って近所との顔つなぎもし、数日後、鍛子《どんす》を一匹|嫂《あによめ》に贈った。女はにこにこして、
「あなた、よしてくださればいいのに。でも、あたしありがたくいただきますわ」
武大は相かわらず蒸しパン売り。武松は役所勤めだが、早かろうとおそかろうと、女は茶だご飯だと、亭主《ていしゅ》そっちのけの世話。武松はかえって迷惑だが、女はしきりと気を引く。武大はとりあうけはいもなかった。
一月余りたち、十一月のころ、毎日北風が吹きすさび、雲がかかったと見ると早や、雪となり、夜の八時ごろまで降りしきり、もう、一面の銀世界。翌日、武松は早くから役所へ行ったが、いつもに似ず昼近くになっても帰って来ない。女は武大を商売に出し、隣の王婆を酒や肉を買いに出し、武松の部屋に火を入れ、きょうこそ心を動かすかどうかためしてやろうと待っていた。そこへ武松は玉のような雪を蹴《け》ちらして帰って来る。女はすだれを上げニッコリ。
「あなた、お寒かったでしょう」
「いや、ありがとうございます」
武松が中へはいって笠《かさ》をとると、女が手を出す。
「そりゃいけません」と武松は自分で雪を払って壁にかけ、腰帯をとき、上っ張りを脱いで室にはいった。
「朝じゅう待ってたんですよ。なぜ食べに帰らなかったんですの」
「友だちにごちそうになりました。また一つ宴会もあったんですが、めんどうだから帰って参りました」
「まあ、そうでしたの。さ、火におあたりになって」
「ええ」と武松は油靴を脱ぎ、靴下をとりかえ、上靴をはくと、火ばちのそばに床几《しょうぎ》を引き寄せ腰をおろした。女は迎児に表門も裏門もしめさせ、熱い茶をテーブルに置く。
「兄上はどちらへ?」
「あきないに出ましたわ。それより一杯やりましょうよ」
「兄上が帰られてからにしましょう」
「待たなくったっていいわ」
迎児が燗《かん》した酒を持って来た。女も床几を一つ引き寄せて火のそばに掛ける。テーブルにはごちそうが並んでいる。女は杯をとって、「あなた、ぐっとおあけなさい」
武松が一気に飲み干すと、
「寒いわねえ、仲良し二杯といきなさいよ」
「姉上もどうぞ」と一気に飲んで、女に一杯つぐ。女は銚子《ちょうし》を手にして武松につぎ、白い胸をはだけぎみにすると、黒髪をかしげ、笑いを浮かべて、
「あなた、町に芸者を囲ってるってうわさだけど、ほんと?」
「姉上、でたらめを真《ま》に受けちゃいけません。わたくしはそんな男じゃないです」
「あら、そうかしら。口と腹とは違うんでしょう?」
「うそだとお思いになるなら、兄上にお聞きください」
「ああら、あんな人に何がわかるもんですか。わかるぐらいなら、蒸しパン売りなどしてませんわよ。二郎さん。さ、もう一杯」と、つづけざまに三四杯|酌《しゃく》をする。女も、腹にはいった三四杯の酒に、味な心がむらむらと、とてもおさえられたものではない。武松も八分どおりは察したが、さしうつむいて相手にならない。
女がお燗に立ったあと、武松は火をいじくっている。しばらくして女は銚子を持ってはいって来たが、あいた片手で武松の肩をつねり、「二郎さん、寒かないの、こんな薄着で」
武松はむっとして返事もしない。女は返事をせぬのを見て、さっと火ばしを引ったくり、「二郎さん、火を起こすのへたねえ。あたしが起こしたげる。火ばちのように暖かくしましょうよねえ」
武松はいらいらしながら黙っている。女はおかまいもなく火ばしを投げすてると、一杯ついで半分飲み、武松を見つめて、「ねえ、気があるのなら、この半分飲んで」
「姉上、おかしなまねはおやめなさい」
武松は杯をひったくりざま床へぶちまけ、金蓮を小突くと、女はころびかけた。
「武二《ぶじ》は天地に恥じぬ、歯もそろい髪ものびた男ですぞ。人の道をふみはずす犬畜生じゃない。姉上、おかしな手練手管はおよしなさい。もし万一おかしなことがあったら、武二は姉上を許しても、拳固は姉上を許しませんぞ」
女はまっかになって、迎児に皿や杯を片づけさせ、「冗談だのに本気にして。ほんとにばかにしてるわ」とつぶやきながら台所へ降りて行った。
武大が荷をかついでもどると、女は目をまっかに泣きはらしている。
「どうしたんだ?」
「おまえさんが意気地がないばっかりに、人からばかにされたんだよッ」
「だれだい?」
「決まってるわ。大雪の中を帰って来たから寒かろうと思って、人が酒を出したら、武二のやつ、良い気になりやがって、じゃれかかるのよ。迎児の手前も恥ずかしいや」
「そんな男じゃないよ。昔から固いんだ。大声でわめかんでおくれ。笑われるじゃないか」
武大は女をそのままに武松の部屋にはいり、「二郎さん、おやつはまだだろう。いっしょに食べよう」
しかし、武松は考えこんで、返事もせず門を出て行った。武大は部屋にもどって女に、「黙って行ってしまった。どうしたんだろう」
「ばかやろう! わかってるじゃないか。あんたに合わせる顔がないからさ。今にきっと荷物を取りに来さすから。ここにいたくないのよ。けっして引き留めてはだめよ。それとも、泊めときたいの」
「引っ越されちゃ世間の物笑いだ」
「おたんちん! 女房が袖を引かれたのは物笑いにならぬのかい。あいつをおいときたいのなら、今すぐ離縁状を書いて、それから仲良く暮らすがいいや」
ののしっているところへ、武松は従卒に天秤《てんびん》棒をかつがせて部屋にはいり、荷物を片づけて出て行く。武大はあわてて、
「二郎さん、どうして引っ越すんだ」
「にいさん、聞かないほうがいいよ。話せばあなたの顔がつぶれる。かってに行かせてください」
くわしくも聞けず武松を出したが、女は部屋で悪口雑言、「いいあんばいさ。隊長に出世していながら、兄夫婦によくするどころか、かみつきやがった。見掛け倒しの花木瓜《ぼけ》野郎。あんなの、とっとと出てうせやがれ。さっぱりすらあ」
武大はそれを聞いていたが、やはり割り切れぬものが残った。
十日余り過ぎたある日。武大が商売から帰って来ると武松が門前にすわりこんでいる。金蓮は未練たっぷりだったので、さては武松め、やはりあたしに気があったのだな、まあゆっくり聞いてやろうと、イソイソ化粧し、着物を着替え、門前に迎え、
「あなた、あれからすっかりお見限りでしたね。あたしずいぶん気をもみましたの。ようこそ来てくださいました。たくさんごちそうを持っていらしったようだけど、どういうわけなんでしょう」
「折入って兄上にお話ししたいことがありまして」
「それではどうぞお二階へ」
二階へ上ると、武松は兄夫婦を上座にすわらせ自分は横に腰かけた。従卒が酒さかなを運んでテーブルの上に並べると、武松はそれを兄夫婦にすすめる。女はさかんに秋波を送るが、武松は酒を飲むばかりであった。酒が数めぐりすると、武松は迎児に大杯を持たせておき、酒をつぎ、じっと兄を見つめて、
「兄上、わたくしはこのたび知事の殿様の命令で、明日|東京《とうけい》に出発します。長くて三月、少なくて一月かかりますので、とくに兄上に一言申しあげておきたいことがございます。兄上はおとなしい|たち《ヽヽ》で、わたくしがいないと人からばかにされないものでもありません。で、毎日十|蒸籠《せいろう》の蒸パンを売っているのなら、あすからは五蒸籠にして、なるたけおそく出て、なるたけ早く帰るようにしてください。人と酒を飲まず、家へ帰ったらすだれをおろし、門をしめればうるさいことも起こりますまい。万一、人がなぶりものにしても、相手になさらぬように。わたくしがもどってから片をつけます。兄上、このとおり守ってくださるのなら、この杯を飲み干してください」
「よくわかった。あんたの言うとおりするよ」と武大はそれを飲み干した。武松はまた一杯をつぎ、「姉上はよく気のつく方だから、わたくしから申しあげるまでもありませんが、うちの兄はただの正直者、何事も姉上の心のままです。ことわざに玄関の戸締りより台所の戸締りといいます。姉上が家のうちをしっかりお守りくだされば、兄も心配ありません。古人も、じょうぶなかきねは犬もはいらぬと申しますから」
女はこれを聞くと、さっと耳を赤らめ、顔を紫色にして、
「ろくでなし! 何言うのだい。ばかにしてるわね。わたしは男まさりの、ぱりぱりの|おかみ《ヽヽヽ》さんなんだよ。拳固の上に人が立ち、腕の上を馬が走れるんだ。へにゃへにゃの汁無《しるなし》野郎とはわけが違うんだから。武大に嫁入ってから、あり一匹だって部屋へ上げたことはないよ。何さア、じょうぶな垣根は犬もはいらぬなんて。いいかげんにしてよ、一々裏にいわくがあるんだね。火がありゃあ、煙が立つはずよ」とののしる。武松はわらって、
「姉上がそういうふうにしっかりしてらっしゃれば、何よりです。どうか口と心とを違わせぬようにしてください。たしかに、姉上のおことばを覚えておきますから、どうかこの杯を干してください」
女はそれを押しのけ、下に駆け降りかけたが階段の中ほどで、
「あんたはお利口さんだよ。嫂《あによめ》は母がわりってことを知らないの。武大に嫁入った時には、弟のへったくれがいるなんて聞いたこともなかったよ。どこからころげこんだんだい。身内だかなんだか知らないが、いやに偉そうにして。ああ、嫌《や》になったよ、へんな目にあわせてもらって」と泣きじゃくりながら降りて行った。
女はふてくされて見せたが、武大と武松は何杯か杯を重ねたのち、門前で涙を流して別れるのだった。
「武松、早く帰ってくれよ」
「兄上、商売はできなくってもいいんですよ。小づかいは届けてあげますから」
武松は重ねて、「兄上、わたくしの言ったことを忘れてはいけませんよ」
武松は翌日、知事の荷や、金銀をつんで東京へ立った。
武大は弟と別れてから、どんなにいや味を言われても、蒸しパンを半分にし、毎日おそく出て、早く帰る。帰るとすぐすだれをおろし、門をしめてしまう。女は腹を立て、
「わからずや。お日様が高いのに門をしめるなんて聞いたことない。なんの物忌《ものいみ》してるんだって笑われるよ。弟の言うことばかり聞いて、人から笑われてもいいの」
「笑うなら笑わせるさ。弟の言ったことは道理があるよ。もめごとが起こらなければいいんだ」
金蓮はペッとつばきを吐きかけ、
「ペッ、ぼけなす。男なんだろう? 人の言うなりになって、腑《ふ》ぬけだわ」
「なんでもいいよ。弟の言うのは確かなもんだ」
金蓮は何回か大騒ぎしたが、あきらめて、武大がもどるころになると、自分からすだれをおろし、門をしめるようになった。武大は安心した。
月日のたつのは早いもの、梅が咲いたと思ううちに、もううららかな春は三月のころとなった。
金蓮はあでやかにお化粧をし門前にたたずんでいたが、やがて武大の帰るころと、すだれを竿《さお》でおろそうとするとたん、さっと風が竿《さお》を吹き倒し、通りかかった男の頭にぶつかった。ハッとし、お世辞笑いをしながらその人を見ると、潘安《なりひら》にもまさる男まえ。りっぱな頭巾、まぶしく光る金のかんざし、すんなりとした身にうすものをまとい、キチッとはいた底あがりの靴、水色の靴下、四川できの金扇、水もしたたる男ぶりである。
男のほうはムッとしてふり返ったが、そこにいたのは、なんとまあ、妖艶《ようえん》な若|年増《としま》。髪はからすの濡羽《ぬれば》色、まゆは新月、目は杏子《あんず》、脂粉にかおるその肌《はだ》、玉をみがいたその鼻、見れば見るほどチャーミングだった。男はぼうっとして腹立ちはどこへやら、にっこり笑ってしまう。女は手を組み合わせて、ていねいにおじぎし、
「あら、とんだ|そそう《ヽヽヽ》をいたしまして、申しわけございません」
「いやいや、なんでもないです」と男は頭巾を直し会釈する。見ていた隣の王|婆《ばばあ》が「大官人《だんな》、だれがここの廂《ひさし》を通らせたのかいね。うまいことぶつかったもんじゃわいね」
「いや、わたしが悪いのさ。失礼しました。奥さん、気にしないで」
男は女の顔にじっと見入って行きたくもなさそうに、七回も八回もふり返り、金の扇をつかいながら立ち去って行ったが、お察しのとおり、この男こそ西門慶であったのだ。第三夫人卓二姐に死なれてから、うつうつとして楽しまず、気晴らしに外へ出たところを、ゴツンと竿にあたったのである。
西門慶は「きれいな雌《めんた》だ。手に入らんかしらん。そうだ、あのばばあにまとめさせたら、いくら使ったところでたかが知れてる」と、いったん家に帰ったのに飯も食わずに飛び出し、一直線に王婆の茶店へやって来てすだれの下に腰をおろす。王婆はあいそ笑いをして、「だんな、さっきのおじぎはずいぶんとご念入りで」
「おばさん、ちょっと隣のレコはありゃだれのかかあなんだ?」
「閻魔《えんま》大王の妹で、五道将軍の娘じゃわいね。何かご用でもあらっしゃるかいね」
「冗談はぬきにしろ」
「だんながそれを知らぬとはふしぎ。あれの亭主は県庁前で暖かいものを売っていますわいね」
「棗餅《なつめもち》を売ってる徐三《じょさん》の女房か?」
「いいえな。あれなら似合いの夫婦。だんな様、よう考えてみなされ」
「それなら饅頭《まんじゅう》を売ってる李三《りさん》の女房さんか?」
「いいや。それでも似合いの夫婦」
「じゃ腕に入墨《いれずみ》の劉小二《りゅうしょうに》の女房だな」
「あの男なら、これもええ夫婦じゃ。だんな様、もう一回あててみなされ」
「どうも、わからんなあ」
王婆はけたたましく笑いだした。
「そろそろ申しあげようかいね。あれの蓋物《ふたもの》はじゃなあ、蒸しパン売りの武大郎」
「ひえっ、あれが、ちびっ子うらなりって言われてる武大郎の!」
「それが、そうなんですよオ」
「ちえっ。いい羊の肉が、なんで犬の口に落ちこんだか」
「ほんにねえ。昔から、いい馬には屑《くず》が乗り、きれいな女はぶおとこと添寝するもんじゃわいね。縁組の神様はいたずらじゃ」
「おい、茶代はいくら」
「あとでけっこうですわいね」
「それはそうと、おまえのむすこの王潮《おうちょう》はどこなんだ?」
「なんともはや、淮《わい》の方の旅商人のお伴をして行きましたがな、今だに帰らず、生きてるもんやら、死んでるもんやら」
「なんでおれんとこへよこさなかったんだ。気がきいてるやつだったのに」
「だんなが引き立ててくださるなら、何よりのことですわい」
「帰って来たら、話に乗ろうぜ」
西門慶は出て行ったが、ふた時もたつかたたぬかに、また店先のすだれのあたりに腰をおろし、武大の門のほうをジロジロ見ている。王婆が出て来て、
「だんな、梅湯でもお召しあがりになりますかいね」
「うん、少し酔《す》っぱめにしてくれ」
王婆が梅湯をこしらえて渡すと、それを飲み、「ほう、けっこうな梅湯だ。おまえのうちに、どのぐらいあるんだい」
「よめさんの世話はたくさんしましたが、うちに仕入れてあるのなんてありませんよね」
「そうじゃない。おれは|うめ《ヽヽ》湯の話をしてるのに、おまえは|よめ《ヽヽ》の話だ。大ちがいよ」
「わたしゃ、また、|よめ《ヽヽ》の世話がうまいとおっしゃったのだと思いましてな」
「おばさんが仲人《なこうど》商売というのなら、おれにも取り持ってくれ。お礼はうんとするぜ」
「だんな様、ご冗談! お宅の奥様のお耳にはいったら、それこそわたしゃ、横つらをピシャとやられますがいね」
「家内はなかなか良くわかったやつなんだ。今だって五六人、妾《めかけ》はいる。だが、困ったことには気に入ったのがひとりもおらない。良いのがあったらぜひ一つ世話してくれ。出もどりでもいいよ、おれの気に入りさえすりゃ」
「この間うち、いいのがありましたが、とってもだんな様のお気には入りますまいて」
「いいのならまとめてくれ。お礼はうんとする」
「器量はほんとうに申し分ないが、年が少し行きすぎておりますんじゃ」
「年増ざかりはまた格別。一つや二つ年上でもかまわん。いくつだい」
「ええと、みずのと、い、だから、とって九十三かいね」
西門慶は笑いだし、「くそばばめ。とぼけた話で笑わせやがる」と立ち上がる。
日が暮れて、王婆が灯《ひ》をつけ門をしめようとしていると、西門慶はまたはいって来て、武大の門口を見張っている。
「和合湯《なかよしちゃ》がございますが、いかがですかいね」
「おお、しゃれてる。少し甘口に頼むよ」
王婆が作って出すと、西門慶はそれを飲んで夜分までがんばっていたが、やっと立ち上がり、
「つけといてくれ。あしたまとめて払うから」
「いいです。じゃあすまた」
西門慶は笑いながら出て行ったが、家へ帰っても、そわそわ落ちつかない。呉月娘は卓二姐が死んだせいだと思って、怪しみもしなかった。
翌朝早く王婆が門を開いて外を見ると、もう西門慶が通りを行ったり来たりしている。
「なんて精の出ることだろう。鼻の先に砂糖がくっついて、なめられもせん。あいつはみんなの金を巻き上げるんだから、こっちもひとつ、上前をはねて吐き出させてやろう」
王婆は西門慶がはいって来ても、見ないふりで、区切りの中で火をおこし、茶がいるかともきいてやらない。
「おばさん、茶を二杯くれないか」
「あーれ、だんな様でしたか。お久しぶりで。まあまあ、どうぞごゆっくり」
「おばさん、いっしょに飲まないか」
「まあ、わたしでは身がわりになりますまいがね」
西門慶はしばらく笑っていたが、「隣の男は何を売っていたんだったかな」
王婆はこの世にありもしない食物の名を並べ立てて澄ましている。
「このきちがいばばあ、また吹き出したな」
「わたしはきちがいじゃありませんよね。あの人にはれっきとした亭主があるんですよ」
「まじめな話をしよう。いい蒸しパンができるのなら四五十も買って家へみやげにしたいが」
「いずれ出て参りましょうから、それをお買いになればよろしかろ。わざわざたずねて行ってお買いなさらずとも」
「そりゃそうだ」と西門慶は茶を飲み、しばらく休んでいたが、またもや、門の前を東へ行ってはぶらぶら、西へもどってはぶらぶら、七八回もくり返すと、また茶店へはいった。
「おや、だんな様、お珍しい。ようこそいらっしゃいました」
西門慶は笑いながら一両の銀子を出し、「まあ収めてくれ、茶代だ」
「おやまあ、こんなにたくさんいただきましては」
「まあ取っておけ」
そろそろはじまりやがった、しめしめと、「だんな様、なんぞ心配ごとでもおありなさるかね」
「どうして」
「わからんことがございますか。景気をたずねるのはやぼなこと、お顔を見ればわかりますというじゃありませんか。わたしはいろいろややこしいこと当てたことがございますよね」
「当たったら五両やるよ」
「たいして知恵がなくたって、一ぺんに当たります。ちょっとお耳を。それ、お隣のあの人でしょうがね? どうです」
「たいしたもんだ。諸葛孔明《しょかつこうめい》はだしだね。おれはきのう、竿にぶつかってから、寝ては夢起きてはうつつ、三度の飯ものどに通らず、仕事にも手がつかんのだ。なんとかいい方法はないか」
王婆はハハハと笑った。
「だんなにはほんとうのことを申しあげますがね、うちの茶店は、鬼の夜回りでうそッ八。三年前の六月三日、雪の降ったあの日に、茶を出しただけで、景気がわるく、何でも屋で食ってるんですがいね」
「何でも屋ってなんだ」
「ハハハ。三十六の年に宿六に死なれ、ひとりのせがれを大きくしたのも仲人商売。口入れ屋もやれば、産婆、妾のとりもち、鍼灸《しんきゅう》までやりますわいね」
「ほう。そんな腕があったのか。この口まとめてくれたら十両やる。棺桶《かんおけ》代にでもしろ。ぜひあの雌《めす》に会わせてくれ」
「だんな様、でたらめ言ったんですよう」と、王婆はカラカラ笑った。
三
「あの雌《めん》に会わせてくれ。まとめてくれたら十両やる」
「でもね、間男《まおとこ》するのには五つのことがそろわぬとだめですがいね。第一に潘安《なりひら》のような美しい顔、第二に驢馬《ろば》ぐらい大きいしろもの、第三にケ登《とうと》ほどの財産、第四に小《わか》くて辛抱強いこと、第五に閑《ひま》のあること、この潘驢ケ小閑《はんろとうしょうかん》、五つそろえばまずまずだいじょうぶ」
「ざっくばらんに言うが、その五つならおれは全部そろっている。第一、顔は潘安まで行かんが、まあ踏める。第二に子供のころから色町をうろついたおかげで、しろものは大きい。第三にケ登《とうと》には及ばんが、まず財産はある。第四に辛抱強いことこの上なしだ。四百回なぐられたって手を出さんよ。第五に閑はあり余っている。でなけりゃ、こんなに|まめ《ヽヽ》に足は運べない。ぜひひとはだ脱いでくれないか。お礼は充分にするよ」
「なるほど、だんなのおっしゃる五つのことは申し分ございませんが、ただ一つどうかと案じられることがありますがいね」
「そりゃ、なんだ」
「遠慮なく申しますが、気にしないでくださいませよ。いったい、間男するのはむつかしいもんで、九分九厘までお金を使って、あとの一厘おしんでうまくいかぬことがありますがいね。だんなは昔からむだ使いをなさりませんが、ここのところ、はりこんでいただかんことには、なあ」
「百も承知。おまえの言うようにするよ」
「それなら、妙計がございます。きっと雌《めす》に会わせましょう」
「ほんとか」
「ハハハ。きょうはおそくなりましたからお帰りあそばせ。いずれ、半年か三年後にご相談いたしますがいね」
「人をジラすなよ。頼むから。恩に着るぜ」
「まあ、だんな様のお気の短いことわいな。わたしのこの計略は極上とびきりの手。十中八九はもうこっちの物でございますわいね。実を申せばあの雌は生まれこそ貧しいが、目から鼻へ抜ける利口もの、遊芸は申すに及ばず、お針がじょうず……こうしましょう。藍紬《あいつむぎ》一匹、白紬一匹、白絹一匹と、いい綿を重さ十両、届けてください。わたしは隣へ暦を借りに行き、いい日を選んでくださらんか、仕立屋に着物を出すんだから、と言いますよ。ここで相手にしてくれねば、それでおしまい。もし、わたしが仕立ててあげますわと来たらまず一分はできました。そこでここへ来て縫ってくれるように頼んで、それを承知すれば二分のできです。昼になって酒や料理を出してもてなす。それを遠慮して家へ持って帰って縫うと言いだしたらそれでおしまい。平気で飲み食いすれば三分のでき。この日にだんなはうろうろしてはいけませんよ。三日めのお昼ごろ、あなたはうんとやつしていらっしゃい。咳《せき》を合図に、門口から、どうした、近ごろ顔を見せないが、お茶を飲ませてくれないか、とこうおっしゃい。わたしはだんなを部屋に呼び入れて茶をいれる。この時立ち上がって逃げて帰ったら、それでおしまい。帰ろうとしなければ四分のでき。あなたが腰をお掛けになると、あの子に、このだんな様から着物をいただいたんですよと紹介して、あなたの良いところばかり並べ立てますわいね。あなたも針仕事をほめてやってください。あの子が受け答えしなければそれでおしまい。ちょっとでも口をききましたら、五分のでき。そこで、ありがたいことにこの奥様はわたしのために縫ってくださる、ひとりは金を出してくださるし、ひとりは手を貸してくださる、奥様がここにいらっしゃるのが何よりの機会、だんなひとつ奥様の慰労をしてあげてくださいなと持ちかける。そこであなたはお金を出して、わたしを買物に出す。その時あの人が出て行ってしまえばそれでおしまい。立とうとしなかったら六分のできですわいね。で、わたしがお金を持って出て行く時、あの人に、すみませんが、だんなのお相手をしていてくだされや、と頼む。あの人がもし立ち上がって家に帰ればそこでおしまい。動かないなら見込みがある。七分のできですよ。わたしが買物から帰ってテーブルに並べ、奥さん、一休みして一杯おあがりなさいな、と言います。そこで、あなたと食べずに、さっさと帰ってしまったら、それでおしまい。もし立たなかったら脈がある。八分のできですわい。さて酒がほどよく回って、話がはずんだころを見はからって、お酒がなくなったと言い立て、もう一度あなたに買わせます。あなたはわたしを買いに出しなさい。わたしは門をしめて、あなたがたを閉じこめます。その時、あわてて帰るようだと、それでおしまい。わたしが門をしめても平気でいるようならしめたもの、九分どおりでき上がったわいね。ここで、あと一分の仕上げがむずかしい。何か甘いことを言ってやりなさい。すぐじたばたしてはいけません。ぶちこわしになっても、わたしはどうにもできませんからね。まあ、まず、袖でテーブルから箸《はし》を払い落すんですわいね。箸を拾うと見せかけて、足をつねってみる。もし騒ぎ立てたらわたしが助けに出ますが、そうなりゃ、この件はそれでおしまい。もう取り返しはつきませんよ。もし声を出さなかったらこれで充分のでき。上首尾だわいね。だんな、そこでお礼はどういうことになりますかいな」
「おばさん、正一位勲一等とまではいかんが、こりゃたしかにいい計略だ」
「忘れちゃだめぞいね。十両のお約束」
「のどもと過ぎても、あつさは忘れないよ。ところで計略はいつ実行する」
「今晩ご返事しましょうわいな。武大が帰らぬうちに、ちょいと行って話して来ます。あなたは反物と綿を届けさせてください。急いでな」
「いいよ。けっして約束は破りはせん」
西門慶は王婆と別れて、町で反物と綿を買って帰り、玳安に届けさせた。王婆は品物を見ると、裏門から金蓮をたずねる。
「奥さん、どうしてこのごろお茶を飲みに来ないのかいね」
「からだのぐあいが悪くてね。動くのもいやなの」
「暦があったら貸してくださらんか。針仕事をはじめる日取りなんじゃが」
「何の針仕事?」
「わたしもそろそろ|おいぼれ《ヽヽヽヽ》てねえ。いつひょんなことが起こらぬとも限らんし、せがれもいないし」
「むすこさん、どうしたの?」
「旅商人のお伴で行ったが、たよりもよこさず、案ぜられるわいね」
「いくつ?」
「十七よ」
「お嫁さんを取って、仕事代わってもらったらいいのに」
「ほんとになあ。人手はなし、なんとかひとりでやっとるが、せがれがもどったら、そうしようよ。このごろはなあ、夜も昼も咳の出通し、からだが痛みまわってな、こりゃ、死出の晴着の一つでも作っておかにゃあと、後生っけが出ましたよ。さいわい家《うち》のお客のあるだんなさんが、わたくしの実直なのをかわいがってくれましてなあ、紬《つむぎ》と絹と一そろい上等の綿までそえて恵んでくださったのでなあ。一年以上そのままでおいてたんじゃが、いいあんばいに今は閏《うるう》月、二三日暇なのをさいわい作らせようと思ったら、仕立屋に忙しいとて、ことわられてしまった。いやになるぞね」
「あたしの手じゃお気に召さぬかしれないけど、おいやでなければ、仕立ててあげましょうか」
「奥さんが縫ってくだされば極楽往生疑いなし。じょうずにお針なさることは存じてたんじゃがねえ、さし控えておった」
「なんでもないことよ。暦でいい日を選んでくれさえしたら、縫ってあげるわ」
「おかくしなさんなや。詩詞から百家曲、なんでもお読みなさるくせに。何も人に暦を見てもらわんでも」
「あたし、明きめくらよ」
「どういたしましてえな」
婆は笑って暦を女に渡す。女は手にとって操っていたが、あしたと決まる。
「奥さんに縫っていただければ大安心。あした、わたしの所へ来てくださいね」
「持って来て縫っちゃいけないの」
「いいえな、あんたの縫ってなさるとこ拝見したいしね、店番はいないし」
「そうですか、それなら朝ご飯がすんでから上がりますわ」
翌朝、王婆は部屋をとりかたづけ、糸を買って来た上、茶を用意して待つ。武大は朝飯をすませて商売に出る。金蓮は迎児を留守番に、裏門から王婆の家へはいる。婆は有頂天に喜んでみせ、濃い胡桃松子茶をすすめ、テーブルをきれいにぬぐって、さっそく反物を出すと、女は尺をとって反物を裁ち、すぐ縫いはじめた。王婆はその手つきを見てやたらにほめそやす。昼まで縫うと、王婆は酒食をととのえ、うどんを作って食べさせた。女はそこで一休みし、夕方まで縫って家へ帰る。ちょうど、武大が荷をかついで門をはいるところで、すだれをおろしている女の顔がポッと赤らんでいるのに気づいた。
「どこで飲んで来た」
「隣のおばさんが死んだ時の寿衣《はれぎ》を縫ってくれっていうもんだから。お昼ご飯よばれたの」
「そりゃいかんよ。こっちも世話になることがあるだろうからな。仕立物を頼まれたぐらいで、あまりめんどうをかけないほうがいい。すこし銭を持って行って、お返しをしておくんだね。遠い親類より近いお隣というからな。もし受けてくれないようなら、仕事はうちへ持って帰って、おやり」
翌朝、武大が商売に出ると、王婆は金蓮を迎えに来て連れ帰る。昼ごろになると金蓮は袖《そで》から三百文取り出し、
「おばさん、お酒をおごりましょう」
「おやまあ、何おっしゃるのよ。仕事してもらって、お金出してもらうなんて。わしのもの食べたって、おなかをこわす心配ないだよねえ」
「でも、うちの言いつけなの。受け取らなきゃ、帰って縫えって」
「まあ、ご主人の物堅いこと。そうおっしゃるなら、お預かりしておきしましょうな」
世の中の女の人は、いかにしっかりした人でも、ちやほやされれば、十中九人はころりと参るものだ。婆は金蓮の言うなりに酒さかなの用意をし、いっしょに食べて、女を喜ばせる。女は仕事をはじめ、夕方になると、こっちから厚くお礼を言って帰って行った。
次の日、例によって王婆はわざわざ誘いにやって来る。ふたりは連れ立って王婆の部屋に行き、茶を飲むとすぐ、仕事にかかる。
昼ごろになると、待ちかねていた西門慶がやつしにやつし、三五両の銀子をふところに、金の扇子を手にして、しなりしゃらりとやって来た。王婆の門口へ着くと、咳といっしょに、「王婆、どうしてこのごろ姿を見せないんだ」
「だれだえ、わしを呼ぶのは」
「おれだよ」
婆は飛び出して来て、笑いながら、「おやまあ、どなたかと思ったら、だんな様じゃございませんかいね。ちょうどいいところへいらっしゃいました。さ、中へ」と袖をとらえて、部屋の中へ引っ張りこみ、金蓮に「この方が反物を恵んでくださっただんな様ですわい」
西門慶が目を皿のようにして女を見ると、女は美しい顔を伏せる。西門慶はなおもすすんで一礼すると、女は仕事をおいて、あいさつを返した。
「せっかくだんな様から反物をちょうだいしながら一年も手をつけずにおいてありましたが、今度この隣の奥さんに仕立てをお願いしましてな。ほんとに機械みたいにじょうずなお針ですよ。だんな様、まあ見てくだされ」
西門慶は着物を手にとって、「ほう、人間わざじゃないね」とほめそやす。女はうつむいて笑い、「だんな様、おなぶりになっちゃいやですわ」
「この奥様はどちらの方なんだ?」
「あててごらんなさいよね」
「むつかしいねえ」
王婆は笑って西門慶に椅子をすすめ、「お教えしましょうか。この間、軒を通っていて、頭にぶつかったもの、あるでしょう」
女はなおさらうつむいて笑いながら、「あの日はとんだそそういたしまして」
西門慶はあわてて、「いや、どういたしまして」
「えへへへへ、この方はお隣の武大の奥さんですわいな」
「そうだったのか」
「奥さん、このだんな様ご存じですかな」
「いいえ」
「この方は県いちばんの大金持、知事様とも行き来なさる西門慶大官人ですよ。百万両のご身代で、生薬屋を県庁前で開いていなさる。日ごとに出入りするおかねは、一斗ますで量るほど。米は腐るほど倉にあるし、黄色いのは金、白いのは銀、丸いのは真珠、光るのは宝石で、犀《さい》の角もあれば象牙《ぞうげ》もあるんですよ。大奥様も、わたしがお世話したんで、呉|千戸《せんこ》のお嬢さん、頭のご発明な方ですよね」と言って、「だんな様、どうしてお茶を上がりにいらっしゃらなかったのですかいな」
「娘の縁談がきまったので暇がなかったんだよ」
「きまりましたって? どうしてわたしにお世話させてくださらなかったのかいね」
「東京《とうけい》の八十万禁軍の楊《よう》提督の親戚《しんせき》で、陳家ときまったんだ。陳敬済《ちんけいさい》といってひとりむすこ、十七で学堂に通っているんだが、文ねえさんという人がいて正式に申し込んで来た。でなければ、おばさんに頼むとこなんだがな。こちらにも、花かんざし売りの薛《せつ》ねえさんというのが仲人に立ってまとめてくれたんだ」
「だんな様、冗談ですよう」
西門慶は金蓮にいくらか気がありそうなのを見て、早いとこ差し向かいにと、いらいらしている。王婆は二杯の茶をついで、一杯は西門慶に、一杯は金蓮に出し、「奥さん、ひとつお相伴なさいよ」と言って、片手でほおをつるりとなでてみせる。
ほい、五分どおりできたと西門慶は思った。茶は縁のとりもち、酒は色ごとの仲人と昔から言う、そこで王婆は「だんながおいでにならなかったら、まさかお呼び立てもできないし、一つには縁、二つは拍子《ひょうし》がよかったんですわいな。だんなはお金の受持、奥さんは仕事の受持、ありがたいことですわいね。そこで、おりよく奥さんもいらっしゃるんだから、だんなひとつご亭主役になってくださって、奥さんの慰労をしてあげてくださりますまいかな」
「そこまでは気が届かなんだ。かねならここにあるよ」
「そんなの困りますわ」と言いながらも、金蓮はいっこうに座を離れようともしない。
王婆はかねを受け取ると、
「すみませんが、だんなのお相手をしててくだされ。ちょっくら行って参ります」
王婆が出て行くと、西門慶は目の玉も動かさず女を見ている。女もちらりちらりと西門慶を見ながら、うつむいて仕事をしている。しばらくすると王婆が帰り、ごちそうをテーブルに並べた。
「一しきり手を休めて、一杯お飲みなさらんか」
「おばさんがお相手してくださいな」
「奥さんのために買って来たんですのに」
三人が席につくと、西門慶は酒をつぎ、
「おばさん。奥さんにぐっとあけてもらって」
「あら、あたしほんとうにだめなの」
「あらまあ、奥さんがいける口だぐらいちゃんと知ってますよ。ゆっくりお重ねなさいね」
「だんな様、すみません」
西門慶は箸を手にとって、「おばさん、わたしの代わりに、奥様に料理をおすすめして」
婆はうまそうな所をえらんで女にすすめる。三回ほど酒が回ったところで、婆が燗《かん》に立つと西門慶が「失礼ですがお年は」
「二十五になります」
「それでは家内とおない年の龍《たつ》ですな。家内は八月十五日、子《ね》の刻の生まれです」
「まあ、天と地をくらべなすって。いけませんわ」
そこへもどって来た王婆がくちばしを入れて、「ほんとにおりっぱな方ですよ。おかしこくって、針仕事もおじょうず。それに、諸子百家、双六《すごろく》、将棋、麻雀《マージャン》、謎《なぞ》あてなんでもご存じだし、それに字のおじょうずなこと」
「どこからもらったのかしらないが」
「いいえ。とやかく言うんじゃないですがね、お宅にたくさんいらっしゃっても、この奥さんほどの方はいませんわね」
「どうもおれは運が悪くて、いいのにぶつかったためしがないよ」
「先の奥様はいいかただったのでしょう?」
「いや、あれさえいてくれれば、ごたつきやしない。このごろときたら、三人五人といっしょに飯を食うだけやってるみたいなもんさ」
「おなくなりになって、何年ですかいね」
「三年になるよ。出はつまらなかったが、頭がよくて、万事わたしの代わりをやってくれた。今のやつとくれば病気がちで、家の中はひっくり返ってらあ。こうしてぶらつき歩くのも、むしゃくしゃするからだよ」
「ざっくばらんに言やあ、前の奥様だって今の奥様だって、この奥さんほどお針はうまくないですね」
「いやあ、ほかのだって、この奥さんの足もとにも及びやしないよ」
「色町の李|嬌児《きょうじ》とは久しいんでしょう」
「あれはもう内へ入れたよ。家事が見られるんなら正妻に直してあげるぐらいだがね」
「卓二姐とは良かったんでしょう」
「あれかい? 最近になって病死した」
「へえ。かりにね、この奥さんのように、だんなの気にかなう人があったら、お話に上がっていいですかいね」
「ふた親ともないんだから、おれがうんと言えばだれが文句を言うものか」
「冗談ですよ。だんなのお気に召すような人が、ちょっこらちょいとあるものですか」
「ないこともないだろうが、夫婦運がうすくってめぐり合わんのだろう」
西門慶と婆はしゃべり合っていたが、王婆はふと気がついたように、「いいきげんになってるのに、またなくなってしまったよね。無心がましゅうござんすが、もう一本どうです」
西門慶はありがねはたいて、「なんでも買って来な。余ったら、とっといてくれ」
婆は礼を言って立ち上がる。女をちらりと見ると、三杯の酒に、浮気心が動きかけた様子、それに意味ありげなふたりのことばのやりとりに、じっとうつむくばかりで顔も上げない。
四
王婆は銀子を持って出ようとしたが、金蓮に向かって満面に笑《え》みを浮かべて、
「お酒を買って来ますから、すみませんが、だんなのお相手たのみますぞね。徳利にはまだ残ってますから、いっしょにやっててくだされ。県東《けんとう》街にいい酒があるちゅうことでそこへ行って来ますから、しばらくかかりますがね」
「もういいのに」
「なんですねえ。人に見られて悪いわけじゃなし、かまわないじゃないか」
女は口ではもういいと言うが、さっぱり立ち上がろうともせぬ。王婆は戸をしめてなわでしばり、通りに向かってすわって見張りをする。
金蓮は王婆が出ると、椅子を片寄せて、西門慶を盗み見している。西門慶はよだれだらだら金蓮を見ている。
「ええと。忘れましたな。奥さんのご名字は?」金蓮はうつむいたまま、く、くと笑って、「武《ぶ》ですわ」
「堵《と》ですって?」
「あなた、つんぼでもないのに!」
「そうだった。武ですね。ここでは武という姓は余り聞かないが、県庁前で蒸しパンを売ってるちびっ子うらなりがそれで、武大郎といっていたが、一族ですか?」
金蓮は顔じゅう真っ赤にして、うつむいてしまった。「ええ、わたしの主人ですわ」
西門慶は声も出ぬほど驚いたふり、「つらいね!」
金蓮は笑いながら目でとらえ、含み声に、「あなたが苛《いじ》められるのでもないのに!」
「いやあ、あんたに同情してさ」
西門慶はじりじりしてくる。金蓮はスカートをいじくりながら、袖口をかみ、ちらりと秋波を送る。西門慶は暑さにかこつけ、緑の紗帽を脱ぎ、「すみませんがオンドルの上においてくださいな」
金蓮は袖口をかみつづけ、受け取ろうともしない。「手がないわけじゃないのに、どうして人を使うの」
「あんたがしてくれないなら、自分でやりましょうかね」
西門慶は笑いながら手を伸ばしてオンドルにおき、わざと箸を一本払い落したが、うまいぐあいにちょうど金蓮のスカートの下だった。
西門慶は酒をついですすめるが、金蓮は相手にしない。そこで今度はお菜をとってやろうと、箸に手を出すが、一本ない。すると金蓮は笑いながら箸を足先で蹴《け》とばし、「これじゃない?」
西門慶は「なんだ、そこに落ちてたのか」と歩み寄りしゃがみこんだが、箸はそっちのけ、かわいい刺繍の靴を、ぎゅっとひねる。女は笑いだして、「何すんの。声立てるわよ」
西門慶は、あたふたと両ひざをつき、「奥さん、かわいそうと思って」と言いながらもズボンをまさぐる。
「まあ、うるさいことすると、たたくわよ」
「あんたになら、たたき殺されても本望ですよ」と言いざま、ものも言わせず王婆のオンドルまで抱き運んだ。潘金蓮は張大戸にも、武大にもない力量を西門慶に味わい、喜びようはたいへんなものである。
ふたりが雲雨《しごと》を終えてえりをかき合わせていると、王婆は戸をあけてはいって来、手をたたくと、
「しゃれたことをやったね」と声を殺して言った。金蓮は、愕然《がくぜん》とした。「やれ、やれ、仕立てものはたのんだが、そんなことしてくれとは言わなかったわい。武大さんに知れたら、わたしに迷惑がかかる。先にぶちまけて来よう」
王婆を身をひるがえして行こうとする。女はあわてて裾《すそ》を押さえ、赤い顔をうつむけて、「おば様、かんにんして」
「かんにんしてと言うなら、ふたりとも、わたしの言うことを、一つだけ聞いておくれよ。きょうからは武大をごまかして、毎日だんなの言うことを聞く、一日でも来なかったら言いつけるよ……さあ、どうなの? 早く返事しないかね」
「参ります」
「だんな様、言わんでもおわかりじゃろうね。うまいことになったんだから、お約束のもの忘れちゃいけませんぞね。もしうそだったら、やっぱし言いつけますよ」
「おばさん、だいじょうぶだ。うそはつかんよ」
「口だけでは証拠にならんよ。ふたりとも何かで、情《こころ》を見せなされ」
西門慶は、そこで頭から金のかんざしを抜いて女の髪にさす。女は武大に見られたらたいへんと袖にしまい、何も身につけていないので、袖から白いハンカチを出して西門慶に渡した。
三人はまた酒を飲み出したが、昼すぎになったので金蓮は別れを告げて帰り、裏口からはいってすだれをおろしていると、武大が帰って来た。こちらでは王婆は、西門慶を見ながら、
「どうだい。わたしの手並のほどは」
「まったくもって、おばさんのおかげだ。いい腕だった」
「女はどうだった?」
「いうにいえないね」
「芸者上がりだからねえ。なんでもやれるようになるわいね。骨折ってこしらえあげたんだから、あのことは忘れちゃだめだよ」
「帰れば、すぐ届けてあげる」
「勝ちいくさでいい話なんだ。棺桶の中から手を出さにゃならんようなまねはさせないね」
西門慶は笑いながら通りに出たが、ぼうっとして人通りすら目にはいらない。こうして金蓮はその日をはじめとして毎日迎児を留守番におき王婆の家に来て西門慶とねんごろにする。漆《うるし》か膠《にかわ》のように、もうくっついて離れられない。昔から、好《よ》い事は門を出ず、悪事は千里を走ると言うが、半月もたたぬ間に、このことは隣近所に知れ渡り、知らぬは亭主の武大ばかりとなってしまった。
この県で、|※[#「軍+おおざと」、unicode9106]州《うんしゅう》に従軍中に生まれたので|※[#「軍+おおざと」、unicode9106]哥《うんぼう》と呼ばれている十五六の少年がいる。家には年取ったおやじきり。この小僧、生まれつき小がしこく、県庁前に立ち並んでいる居酒屋に季節もののくだものなどを売りこんでいた。いつも西門慶から小遣い銭をめぐまれていたので、その日も、手に入れた一かごの雪梨《ゆきなし》をぶら下げて、西門慶を捜し回っていた。すると、どこにでも金棒ひきはいるもので、「だんなを捜しているんなら、どこか教えてやろうか」
「ありがてえ、どこへ行ったらいい」
「西門慶のやつはなあ、蒸しパン屋の武大の女房とできやがって、毎日王婆の茶店にへたりこんでらあ。今ごろはきっといるぜ。おまえは子供だ。かまうこたあない、飛びこんでみろ」
|※[#「軍+おおざと」、unicode9106]哥《うんぼう》は礼を言って、かごをぶら下げたまま、王婆の茶店へ飛んで行く。ちょうどその時、王婆は床几《しょうぎ》にすわって糸をつむいでいる。|※[#「軍+おおざと」、unicode9106]哥《うんぼう》はかごを地面におくと「おばさん!」
「なんだね、|※[#「軍+おおざと」、unicode9106]坊《うんぼう》」
「だんなを捜してるんだ。三十銭か五十銭もうけさせてもらって、おやじに食わすんだよ」
「だんなてだれだよ」
「知ってるじゃないか。そのだれかさんよ」
「だんなといったって名字があろうじゃないか」
「二字の人だよ」
「どの二字さ」
「からかうなよう。西門のだんなに話があるんだ」と中へ飛びこもうとする。婆はあわてた。
「猿《さる》! どこへ行くんだえ。人の家にはね、表も裏もあるんだよ」
「中へはいりゃわからあ」
「おたんちん、どっから西門のだんなが出て来るかい」
「ひとり食いはいけねえよ。おれにも汁《しる》ぐらい吸わせろ。知ってるんだぜ」
「おまえみたいな小僧に何がわかる」
「ぬかしやがらあ。丸|庖丁《ぼうちょう》で柄杓《ひしゃく》の中の葉っぱを切り、水ももらさぬつもりだろうが、おれ様がばらしてみせたら、蒸しパン屋の兄《あん》ちゃんいらいらしようぜ」
婆は図星をさされて、くわっとなり、
「鳥《からす》と猿とのできそこない、わしのところで屁でこきさらすか」
「おれが猿なら、てめえこそやり手婆のわんわん女郎じゃねえか」
婆は|※[#「軍+おおざと」、unicode9106]哥《うんぼう》を押さえつけ、ポカポカと二つほどくらわせる。|※[#「軍+おおざと」、unicode9106]哥《うんぼう》は悲鳴を上げ、「よくもなぐりやがったな」と婆をにらむ。
「どろぼう猿めが。大きい声立てやがると、たたきのめして、ほうり出すぞ」
「何を! どろぼう、苦虫ばばあ。何もしねえのになんでなぐるんだい」
王婆はポカポカとなぐり回し、梨《なし》のかごを打ちほうる。梨はあっちこっちにころげ散った。猿はとうてい、婆にかなわぬ。ののしりながら泣きわめき、逃げ腰で梨を拾いつつ、王婆の茶店を指さして、「苦虫ばばあ。あとであわてんな。おれが言えねえと思ってんのか。やってやるぞ。金もうけの蔓《つる》、ぶち切ってやらあ」
猿は、かごをぶら下げると、武大捜しにすっ飛んで行った。
五
|※[#「軍+おおざと」、unicode9106]哥《うんぼう》が通りを二つばかり曲がると、天秤をかついだ武大にぱったりと出会った。
「しばらく会わんうちに、食いぶとったねえ」
武大は荷をおろして、「いつものとおりだよ。べつに肥えたりしちゃいない」
「こないだ、|ふすま《ヽヽヽ》を買おうと思ったが、どこにもねえ。おまえんちにあるってうわさだったがな」
「おれんとこには鵞鳥《がちょう》も家鴨《あひる》も飼っていない。ふすまなんかあるもんか」〔ふすまはアヒルのえさ。アヒルの雌はみだらなものだというところから、女房に姦通された男をアヒルという〕
「ないって、そんなら、どうしてそんなに丸々太るんだい。さかさに吊《つ》って、鍋《なべ》で煮たってうんともすんとも言わねえんだろう」
「この餓鬼《がき》、何ぬかしやがる! おれの女房が間夫《まぶ》をこしらえてないのに、どうしておれを家鴨にするんだ」
「間夫《まぶ》はこさえねえが、|ぶま《ヽヽ》はするよ」
武大はあわてて|※[#「軍+おおざと」、unicode9106]哥《うんぼう》を引き留め、「おい、ちょっと待て」
「笑わせやがらあ。おれを引き留めて何になるんだい」
「いい子だから、だれだか教えてくれなよ。パンを十やるから」
「蒸しパンでははじまらんな。酒をおごるなら言ってやるよ」
「おまえ飲めるのか。それじゃいっしょにおいで」
武大は|※[#「軍+おおざと」、unicode9106]哥《うんぼう》を連れて居酒屋にはいり、蒸しパンを出し、ちょっぴり酒と肉を飲み食いさせ、「いい子だから、教えてくれよ」
「あわてるなよ。飲んでから話すよ。心配すんな。おれだって手助けはするぜ」
ちび猿が飲み食いを終ると武大は、「もう話してくれよ」
「教えてやるから、まず、おれの頭のたんこぶをなでてみな」
「このこぶ、どうしたんだい」
「それはこうなんだ」と話して聞かせ「さっきはなんのかんのと癇《かん》を立てさせたが、そうでないとおまえさん耳を貸さないと思ったからさ」
「ほんとうかね」
「またそれだ。そんなんだから、ふたりは好きなようにつるめるんだい。ほんとうか、うそかの段かい!」
「ふうん、そう言えば、あれは毎日着物を縫う、靴を縫うと言って王婆のところへ出て行くが、帰って来るとまっかな顔だ。娘をひっぱたく、ののしる。飯も食わさないんだぜ。この二日ばかり、ますますへんで、おれを寄せつけやがらん。おかしいとは思っていたが、そうなら荷物はここに預けておいて、今から間男をつかまえに行こう」
「いい年をして、あんた、単純だねえ。あの王婆ってけだものはたいしたしろものなんだぜ。お前さんなんか、ちょろりと、してやられるな。やつらには合図があるに決まってるから、おまえを見るなり、おかみさんの方を隠してしまわあ。西門慶というやつは手ごわいやつだ。おまえさんが二十人集まったところで、かなうもんじゃねえ。つかまえそこなってみろ。なぐられたあげくの果てが、金も勢力もあるやつだ、反対におまえさんを告訴するぜ。こっちゃあ口をきいてくれる人もなし、命があぶないね」
「なるほど。それじゃ、どうすればいいんだ」
「おれはあのばばあになぐられて、むかむかしてる。そこでいい手を教えてやるよ。きょうはな、これから帰って、おこってもいかん、何もしゃべんな、いつもと同じにしてるんだ。あしたは蒸しパンをずっと少なめに作って売りに出る。おれは角《かど》で待っていてやる、もし西門慶がはいるのを見つけたら知らすから、おまえは荷をかついだままそのあたりにいてくれ。おれがはいって老いぼれにからむ。やつぁきっとなぐりかかる、おれはかごを往来へほうり出す。そしたら飛びこむんだ。おれがばばあを押さえつけてるから、おまえは飛びこんで騒ぎ倒せ。どうだい、この計略」
「そうしてくれりゃありがたい。ここに幾らか銭があるから、とってくれ、あすは早くから角で待っててくれよ」
金蓮はこのごろ少しは自分のやり口に気がさして来ていた。その晩武大が荷をかついで帰ってくると、金蓮は「あなた、お酒買って飲みなさいよ」
「さっき、仲間と三杯ほどやってきたんだ」
翌日武大は蒸しパンを三段だけこしらえて荷に入れたが、女は西門慶のことでうわの空、多かろうが少なかろうが気にもとめない。武大が出るのを待ちかねて王婆の茶店へ行き、西門慶を待っている。
武大が荷をかついで角まで来ると、|※[#「軍+おおざと」、unicode9106]哥《うんぼう》がかごをぶら下げて見張っている。
「どうだ」
「まだ早すぎるから一回りして来な。あの野郎きっと来るから。あまり遠くへ行っちゃいけないぜ」
武大がふらりと一回り売り歩いて帰って来ると、「いいか、かごをほうり出したら飛びこむんだぞ」
武大が荷をおろすと、|※[#「軍+おおざと」、unicode9106]哥《うんぼう》はかごをぶらさげて茶店へはいり王婆に悪態をつく。
「やい。豚、犬! てめえきのうなんでおれをなぐった」
王婆は飛び上がってわめきちらす。
「ちび猿、おまえなんか知ったことか。なぜ悪態をつきに来た」
「やり手ばばあのぽん引きの、犬女郎め。おれのちんぽこでもくらいやがれ」
婆はかっとして、|※[#「軍+おおざと」、unicode9106]哥《うんぼう》を押さえてなぐる。|※[#「軍+おおざと」、unicode9106]哥《うんぼう》は「なぐりやがったな」と言うなり、往来にかごを投げ出す。婆がつかまえようとすると、婆の帯をつかまえて、下腹に頭突きをくらわす。婆はひょろつき、猿は一生けんめいぎゅうと壁に押しつける。と、武大は裾をばっとたくし上げ、だだっと茶店へ飛びこん来る。婆はさえぎろうとするが、小僧に押さえつけられて、動けない。しかたないから、「武大が来たよーっ」と叫ぶ。女はあわてて、戸口をからだで押さえ、西門慶はベッドの下へもぐりこむ。武大は戸口をもろ手で押すが開きっこない。「やりやがったな」とくやしがるばかりだ。
女はからだで戸を押さえてあわてていたが、ふと気がついて西門慶に、「いつもは大口たたいて武芸をうりものにしていたくせに、張子《はりこ》の虎ね、こんな時になって腰が抜けてるじゃないの」
西門慶ははっと気づき、ベッドからはい出して、「腕がないんじゃない。とっさに知恵が出なかったんだ」と言うと、戸をさっと開き、「寄るな!」とどなった。武大が西門慶にしがみつこうとすると、蹴り上げられ、背が低いから心臓をやられて倒れ、西門慶はとっとと逃げて行く。|※[#「軍+おおざと」、unicode9106]哥《うんぼう》も形勢非なりとみて、王婆をほったらかして逃げる。隣近所の者も、相手が悪いから、うっかり口出しするものもない。
王婆が武大を抱き起こしてみると、口から血を吐き、顔は蝋《ろう》のように黄ばんでいるので、女を呼んで水を吹きかけると、息をふきかえした。そこでふたりは武大を肩によりかからせて裏口から二階へ上げて寝させた。
その晩はこともなく、翌日になっても世間は騒いでいない様子なので、西門慶は安心し、いつものように王婆の茶店でふざけちらし、武大が死ねばよいのにと思っている。
武大は寝たっきり、何日たっても起きられない。茶も水もくれず、呼んでも返事もしないで、女は厚化粧をして出て行き、帰る時にはほおが桜色。娘の迎児もおどかされているので、看病もできない。武大は気の遠くなるほど腹を立てるが、どうにもならない。そこである日、金蓮を呼び、
「おまえらが姦通《かんつう》しているのをおれはこの目で見た。おまえは間男におれを蹴上げさせやがった。おかげで、生きも死にもならぬ目をみてるが、おまえは好きなことをしている。おれは死んでもいいさ。おまえたちとけんかもできんからな。がおれの弟の武二《ぶじ》はああいう気性の男だ。帰って来たら、ただでは済むまいぜ。おれをかわいそうと思う気があるなら、介抱してくれよ。そうすれば、帰って来てもしゃべりはせん。もし介抱しないんなら、おれはしゃべってしまうぞ」
女は返事もせず、王婆のところへ行って、一部しじゅうを、王婆と西門慶に話す。西門慶はそれを聞くと、ぞっとしてまっさおになり、
「そいつは弱った。景陽崗《けいようこう》で虎を張り殺したのは武隊長なんだ。おれはこうして奥さんとも深間《ふかま》になり、しっくりいって、離れられないが、どうしたものか。弱ったなあ」
すると、王婆はからからと笑って、
「おかしいじゃないか。あなたが船頭でわたしがお客のつもりでいたのに、わたしが船頭だったのかいね。船頭のわたしが平気でいるのに、お客がばたついて、どうなさる」
「おれも男だと言いたいが、どうにもこぎ抜けられそうにもない。いい考えがあるなら、助けてくれよ」
「考えがないこともないが、末長い夫婦になりたいのかね。それともしばらくの夫婦がいいのかいね」
「末長い夫婦、しばらくの夫婦って何だい」
「しばらくの夫婦でいいのなら、きょうかぎり別れて、武大にあやまって病気をなおしてやる。武二がもどって来ても問題ないわけだわね。武二《ぶじ》が出張したら、よりをもどすんだね。これが短い夫婦さね。もし末長い夫婦で毎日、いっしょに安心して暮らしたいのなら、わしに良い考えがあるが、ちょっと教えにくいね」
「おばさん、末長い夫婦にかぎるんだ。なんとかしてくれ」
「品物がいるんだよ。よそにはないが、うまいことに、お宅にはある」
「おれの目玉がいるんなら、くりぬいて出すよ。いったい何なんだ」
「あのちびっ子の病気がもっけのしあわせ、そこにつけこんで、やっつけるんだわいね。だんなは家から酖毒《ちんどく》を持ち出して、奥さんに渡す。奥さんは痛み止めの薬と言って、酖毒をまぜ、ちびっ子に飲ませればお陀仏。火葬にすればあとは残らぬし、武二がもどってもどうしようもないわいね。昔から初縁は親まかせ、再縁はわが身まかせと言ってね、弟なんかさしずできるわけがない。そのうち、半年か一年たって、喪が明けたなら、だんなが公然ともらえばいい。これが末長い夫婦で、共白髪《ともしらが》。どうですいね?」
「そいつはいい。昔から、身を捨ててこそ浮かぶ瀬はあれと言ってるが、ええい、毒くわば皿までだい」
「しゃれてるでしょうがね。草は根こぎで芽は生《は》えずって手ですよね。だんな、早いとこ持っていらっしゃい。わたしが奥さんにやらせますわい。首尾よくいったら、たんまりお礼はいただきますよ」
西門慶はほどなく酖毒の包みを持って来て、王婆に渡す。婆は金蓮に、
「奥さん、薬の盛り方を教えようね。武大がさっき介抱してくれと言ったでしょう。だから少し親切そうにしてやるんだよね。そうして薬をほしがったら、この酖毒を痛み止めの薬にまぜて、ひと寝入りして起きた時に飲ませるんだよ。毒が回ると、胃も腸も破れて、かならず大きな叫び声を上げるから、そこをあんたは人に聞えないように掛けぶとんで、押さえこむのよ。その前に布をお湯につけておく。毒が回ると七つの穴から血が流れ、くちびるに歯形がつくから、死んじまったらふとんをめくって、その布ですっかり血のあとをぬぐっておく。それを棺桶《かんおけ》にほうり込んでかつぎ出せばなんの造作もありゃせんわね」
「そうすればいいのはわかってるけど、気がくじけて、やり通せるかどうかねえ」
「わけやないよ。壁をたたいてくれたら、手助けに行ってあげる」
ふたりが話していると西門慶は「抜かりなくやってくれよ。あした朝四時ごろ様子をききに来る」
王婆は酖毒を指で粉末につぶし、女に渡した。
女が二階へもどると、武大は息もたえだえ、もう死にそうに見える。女はベッドのそばに腰をおろすと、うそ泣きをはじめる。
「なんで泣くんだ」
「あたし西門慶にだまされてたのよ。あなたの胸を蹴上げるなんて思いもよらなかったわ。いい薬のあるとこ聞いて来たから、買って来て飲ませてあげたいんだけど、あなたが気を回しゃしないかと思って、行けずにいるの」
「直してくれりゃ文句はないよ。みんな帳消しだ。武二にも話さない。早く買って来てくれ」
女は銅銭を持って王婆の家に行き、薬を買い求めさせると、二階へ上って武大に薬を見せ、
「この薬は夜中に飲むんだとお医者が言ってましたよ。一二枚ふとんをかけて汗を出したら、あしたから起きられるんですとさ」
「そいつはありがたい、ご苦労だけど、今夜は起きていて、夜中に調合して飲ませておくれ」
「安心して寝なさいな。そばについててあげますから」夜になると、女は部屋に灯《ひ》をともし、階下で鍋に湯を沸かし、布を煮ている。そのうちに十二時をつげる太鼓の音。女は酖毒を杯に入れ、白湯《さゆ》を持って二階へ上る。
「あなた、薬どこにありますの」
「寝ござの下の、まくらの横だ。早く飲ませてくれ」
女は寝ござをめくり、薬を杯に入れて湯をたらしこみ、頭から銀のかんざしを抜いてかきまぜ、左手で武大を助けおこし、右手で薬を飲ませる。武大は、ごくりと一口飲み、
「飲みにくい薬だ」
「よくなるんだから、がまんしなけりゃ」
武大がふた口めを飲もうとした時、女はぐっと流しこみ、薬はことごとくのどを通った。女は武大をつき放し、あわててベッドから飛び降りる。武大はうめき声を立て、
「金蓮、薬を飲んだらにわかに腹が痛くなってきた。痛い。痛い。たまらんわい」
女は脚《あし》のほうへ回り、二枚のふとんをひっつかみ、頭の上からすっぽりと武大におっかぶせる。
「息がつまる!」
「汗さえ出れば、早くなおると医者が言ってたさ」
武大はなにか言おうとするが、女はもがき立てられてはめんどうと、ベッドに飛び乗り、武大の上に馬乗り、手でしっかりふとんの端を押さえつける。苦しみもがいたあげくの果て、「ギャーッ」と二声ばかり叫んで、哀れや、お陀仏。女がふとんをめくってみると、歯は食いしばり、七つの穴から血が流れている。さすがに恐ろしくなり、ベッドから飛び降りるなり壁をたたく。王婆は音を聞くと、裏口にまわり、咳ばらいする。女が裏口をあけると、王婆が、「片はついたかい?」
「ついたことはついたけど、手足がしびれて、あと始末がやれないわ」
「いいよ。手つだってやるわいね」
王婆は袖をまくり上げ、湯を一桶くんで、布をひたし、二階へさげて上る。ふとんをめくり、口のまわり、七つの穴をすっかりぬぐい、着物をからだにかぶせると、ふたりで死体を一足一足かつぎおろし、戸板の上に寝させてから、髪をときつけ、頭巾をかぶらせ、着物を着せ、靴下や靴もはかせ、白絹で顔をおおい、さっぱりしたふとんをかぶせ、それから二階へ上ってとり片づけをすませて王婆は帰って行った。金蓮はそこでそろそろ声を出してうそ泣きにとりかかる。
朝の四時ともなると、夜も明けきらぬうちに、西門慶はかけつけて首尾をたずねる。王婆から詳しく模様をきき、銀子を渡して葬式のしたくを頼み、女を呼んであと始末の相談となる。この阿魔《あま》はやって来ると、西門慶に、
「武大は死んじゃいましたわ。あなたばかりがたよりです。見捨てちゃいやですよ」
「心配無用だよ」
「でももしそんなことがあったら、どうしてくださるの」
「その時は武大みたいな目にあうだろうよ」
すると王婆が、「だんな、もう一つやっかいなことがありますわいな。夜が明ければ検死があります。ばれたら、どうなるか。検死役の何九《かきゅう》はよく気がつく方だから、へたすりゃ、弔いが出ないがね」
西門慶は笑って、「それならだいじょうぶ。おれに任しておけ。おれから言えばさからったりしないよ」
「だんな、早く言ってくださいよ。ぐずぐずしちゃおれませんわな」
六
西門慶が出て行くと、夜はすっかり明け、王婆は葬具を買って来て武大の霊前に灯をともす。隣近所の者が来ると女は白い顔をおおってそら泣きをしてみせる。
「大郎さんは何の病気で死になすった」
「胸が痛んで重くなるばかりで、残念にも、昨晩、十二時の太鼓といっしょに死にました」とまた、そら泣き。近所のものも、どうも臭いとは思うものの、突っこんで聞くわけにもゆかず、「死んだ者は死んだ者として、生き残ったものは無事にその日を送らねばなりませんよ。暑さもきびしいから、あんたもからだに気をつけなさい」と慰めると、女も心にもない礼を述べる。人々が帰って行くと、王婆は棺桶をかつぎこみ、検死係の何九を呼びに行き、納棺に使うものいっさいをととのえ、坊主ふたりの段取りもつけた。
やがて何九は、まず手下の隠亡《おんぼう》をやって準備させ、自分は十時ごろに、ゆっくり出かけて来たが、ひょっこり西門慶に出会った。
「何九、どこへ行くんだ」
「蒸しパン屋の武大の検死にちょっとそこまで参ります」
「話があるから、ちょっと付き合ってくれんか」
何九が西門慶について町角《まちかど》の居酒屋へはいると、
「何九さん、まあそっちへ」
「だんな様、わたしが上席にすわれるもんですか」
「まあ、水臭いことを言わずに、どうぞ」
席に着くと、西門慶はおやじにいい酒を注文する。おやじは料理やくだものをテーブルに並べ、燗《かん》した酒を持って来る。何九は、こいつはこれまでおれと酒を飲んだこともなかったのに、どうもこの酒にはいわくがありそうだぞと思いながら飲んでいると、西門慶は袖《そで》の中から雪のような銀十両を取り出し、テーブルの上におき、「ほんのわずかだが。あしたまた、べつにお礼はするよ」
「何のお役にも立っていないのに、いただく筋がありません」
「水臭いことを言わないで、まあ納めてくれよ」
「だんな、お話とおっしゃるのは」
「たいしたことじゃないんだがね。あそこでもちろん酒手は出すだろうが、武大を検死する時、じょうずに錦《にしき》のふとんをかけてやってもらいたい、それだけさ」
「それきしのことぐらいで、このお銀子《かね》いただきかねますな」
「受け取れぬというのは、やってくれぬという意味なのか」
西門慶が役所で顔をきかせているのを知っているから、何九は銀子を受け取るほかなかった。ふたりはまた、しばらく酒を飲んだが、さて別れぎわに
「何九さん。胸に納めておいて、もらさないでくれよ。いずれまた充分のことはするから」
どうも臭い。銀子をもらったはいいがと思案しながら何九が武大の家に着くと、数名の隠亡がもう門で待っている。
「武大は何で死んだんだ」
「胸を痛めて死んだと言っていますが」
何九がすだれを上げて中にはいると、王婆が、「ずいぶん待ちましたぞ」
「ちょと用事で道草くったもんだから遅れた」
そこへ金蓮が白っぽい着物で、髪を白布でおおい、そら泣きをして出て来た。
何九は頭からつま先まで女の様子を見ていたが、武大がこんな良いかかあを持っていたんだとはね、西門慶のこの十両の銀子にはいわくがあるぞ、と考えつつ、白絹をめくって死体を一目見ると、指は青くくちびるは紫、顔は黄色く、目は飛び出している。これはただごとではないとにらんだ時、そばの隠亡が、
「どうして紫色の顔をしてるんかな。くちびるには歯形があるし、口から血が流れている」
「くだらんことを言うな! 二日ばかり暑かったから、くずれもするわい」と、何九はあたふたと検死をすませ、棺桶に入れ、長命くぎを打ちこんでしまう。王婆も一生けんめい世辞をふりまき、小銭を何九に渡して、隠亡にやってもらう。
三日めの早朝出棺すると、城外の火葬場ですぐさま焼き、骨は池の中へばらまいてしまった。西門慶がかねを使ったので、ことはすらすらと運ぶ。
金蓮は家へ帰り、二階に「亡夫武大の霊」とかいた位牌《いはい》、霊台、その他いちおうかたちを整えると、もう西門慶といちゃつき、王婆を帰すが早いか、二階で楽しみをはじめた。以前は王婆の部屋でこそどろみたいにやっていたが、武大が死んだのだから、ふたりとも安心してゆっくり添寝したことは言うまでもない。こうして、それからというもの、女との仲はますます深く、三晩、五晩と家をあけるから、家の妻妾《さいしょう》はほうりっぱなしで、それぞれごきげん斜めであった。
七
五月のある日、西門慶《せいもんけい》の家にしじゅう出はいりしているかんざし売りの薛嫂《せつねえ》さんがたずねて来た。ちょうど生薬屋《きぐすりや》の店で、西門慶は大番頭の傅《ふ》と帳簿を調べている最中であった。すだれを上げて目顔で知らす薛嫂《せつそう》を静かなところへ連れて行って話を聞くと、死んだ卓二姐《たくにそ》の代わりに、南門外の布問屋の楊《よう》家の未亡人を入れないかという相談なのである。薛嫂が、未亡人の財産を並べ立て、主人が旅先で死んで一年余り、子供はなく、主人の弟楊|宗保《そうほ》はいるがやっと十歳、本人の年がまだ若くて二十五六ぐらいだろうから、後家を通すのは無理な話だし、本家の伯母《おば》も再婚をすすめているという家庭の状況、そして、すらりとしていて、あだっぽくて、きりっとして、気はきくし、そろばんもわかるし、針仕事や双六なんぞ言うまでもない、里《り》の姓は孟《もう》といって、名は玉楼《ぎょくろう》、三番めの娘だがと仲人《なこうど》口を使うのを聞いていた西門慶は、つづいて言った月琴がおじょうずに、ふと気を引かれて、会って見る気になった。「見合いは何日だ」と聞くと、見合いなんてどうでもいい、あの家でいちばんいばっているその伯母の欲張りばばあを承知させさえすれば良いのだと言う。婆《ばばあ》がほしいのはお銀子《かね》、それさえもらえば、甥《おい》や姪《めい》がどう言おうと、相手がどんな男であろうと、再婚させるのだから、緞子《どんす》を一匹贈物に、銀子も幾両かその場で握らせるとして、善は急げ、あしたその婆の家に行こうということになった。西門慶はいい話だぞと、ぞくぞくして、顔の相がかわってきた。
翌日、手みやげ充分にお供にかつがせ、薛嫂を先頭に、お供を尻《しり》に、自分はまん中に馬に乗って、楊ばあさんの家に向かう。楊婆は大喜びでさっそく中へ通し、みやげの品でまず良い気持、西門慶の金持らしい服装身ごなしも気に入り、まず相談を自分へもって来たことで心はうきうき、甥の未亡人を縁づかせて一もうけするつもりの競争相手の張四《ちょうし》のこともちらりと話して、夫が死んで玉楼にころげこんだ千両の財産はどうにでもなさい、わたしはものをほしがりはしませんよときれいがることで棺の催促、貧乏がってみせてものを出させようという根性が目に見えた。西門慶は時を見はからってキラキラ輝く官銀を三十両握らせ、棺桶もやろう、葬儀のしたくの七十両、鍛子二匹も、結婚したあかつきにはお贈りしましょうと気まえの良いところを見せたので、婆は、すっかり有頂天になり、南門街の当の本人に見合いなんかしなくたって、あれはわたしの言うがままにするんだというような熱の入れ方になってしまった。
翌日、西門慶は充分やつして、結納を袖に白馬にまたがり、玳安《たいあん》、平安のふたりの小僧をお供に従え、驢馬《ろば》に乗った薛嫂といっしょに、本人のいる楊家へ乗りつけた。薛嫂がまずはいって、しばらくすると出て来て、りっぱな客間に導き入れる。化粧に手間どっている当の本人が出て来るまで、薛嫂は手短く、この家の収入の大きかったことや、職人がたくさんいたこと、それの取りさばきをしていたのは、みんなその人だったのだということ、その人にふたりの小間使いがあり、十五の蘭香《らんこう》、十二の小鸞《しょうらん》、どちらも嫁入りの時は連れて来るなどとしゃべった。
そこへ小間使いが薛嫂を呼びに来る。やがて帯につるした珠《たま》の触れ合う音が聞え、蘭のかおりがぷんと来たと見るまに、薛嫂がさっとまくり上げるすだれの下から、ひとりの女が現われ出でた。一目見るなりぞっこん惚《ほ》れこみ、西門慶の腹の中からうれしさがこみ上げてくる。さっそくあいさつもそこそこ、
「妻をなくして家事取締りに困っておりますが、あなたに来ていただければありがたいと存じます」
女は西門慶をチラッと盗み見、その男っぷりにかなり惚れこんだので、薛嫂に向かって、「こちら様のお年はおいくつでしょうか。奥様をなくしてどのぐらいにおなりでしょう」
西門慶は「二十八歳になります。先妻に死なれて一年ばかりになります。あなたのお年は?」
「三十でございます」
「わたしより二つ年上ですね」
すると薛嫂が横から、「二つの上の奥様をもつと財産が日々にまし、三つ上なら山のようになるというじゃありませんか」
そこへ小間使いが三杯の金橙子《きんとうじ》茶を出した。女は立ち上がって、一つ取り、美しい指でふちのしずくを払って西門慶に差し出しておじぎをする。そのすきに薛嫂は手をのばして女のスカートをめくると、ぴったり三寸ばかりの先のとがった纏足《てんそく》が出た。真紅の地に金雲を刺繍《ししゅう》したハイヒールをはいている。西門慶はじつに満悦した。
結納を収め、内祝言は二十四日、輿《こし》入れは六月二日にきまる。西門慶は馬に乗り、よろこんで帰って行く。薛嫂が残って、女と西門慶の金があり勢力があることを話していると、楊婆のうちから小僧が菓子などを持って来て、
「あの方のお話を受けましたか? あのような方にとつがなくては、行くところがありませんよ」との楊婆のことばを通じる。女は内祝言、嫁入りの日取りを教えて帰す。薛嫂はお菓子のおすそわけをもらって帰って行った。
さて、女の夫の母方の叔父《おじ》張四は、たよりにしている甥の楊宗保のために、女の財産がほしいと考えて、女を尚推官《しょうすいかん》のむすこの尚|挙人《きょじん》の後妻に出そうと躍起になっていた。ところがとつぜん今度の話が持ち上がったのでびっくりし、あわてて女のところへ飛んで来た。
「おまえ、西門慶の結納を受けてだめじゃないか。おれが言うとおり尚挙人のとこへ行くのが良いんじゃ、学者で家がらは良し、田地もあるし、暮らし向きも良い。西門慶ちゅうやつは役人とぐるでろくなことをしていない紳士ゴロなんだ。家にはれっきとした正妻もいる。呉千戸《ごせんこ》の娘だ。それに妾《めかけ》が三四人。あんな家に行ったら、人は多し、口はうるさし、いやなことが多かろうぞ、それだけじゃないんだぞ。あいつの女いびりと言えば有名だ。少しでも気にさわれば、周旋屋を呼んで売りとばすんだ。おまえ、それでも行く気かね。十四になる嫁入り前の娘までいるんだぜ。うるさいぞ。いや、まだ一大事がある。あいつは身持がふしだらで、家は明けっぱなし、女道楽で、不誠実で、見掛けははでだが、内の中はからっけつだ。おまえ一杯くわされそうで気の毒だよ」
「叔父様、冗談言っちゃいけませんわ。若いんだもの、遊んだって当りまえ、かれこれ言うことないですわよ。内の中がからっぽと言ったって、いつも貧乏してるわけでもなし、金持だっていつまでもそうとは限らないわ。それに、縁は前世の約束でしょう。もうわたしのことはお気にかけないでくださいな」
張四は説きふせるどころか、逆に極《き》めつけられて面子《メンツ》まるつぶれで、冷えた茶を二杯ばかり飲むと帰って行った。
二十四日の内祝言、二十六日には十二名の僧を招いて経を上げ亡夫の位牌を焼き、そしていよいよ孟玉楼がとつぐという前日、張四は隣近所のものを呼び集めて玉楼と対決するつもり。一方|薛嫂《せつそう》は西門慶の使用人に家を守らせ、十数名の兵卒を引き連れて、女の嫁入り道具を運び出そうとする。張四はゆくえをさえぎって、
「おい、ちょっと待ってくれ。おれに言いぶんがあるんだ」と足をとめさせ、近所の人を連れこむと、「皆さん、まあ聞いてくれ。ここにいる当の本人に正当な話をしようと思うんだ」とすわっていた孟玉楼に、「おまえの夫だった揚|宗錫《そうしゃく》も、その弟の楊宗保もおれの甥だ。不幸にして宗錫は金をもうけたまま死んでしまった。だれがそうしろと言ったのか知らぬが、弟の楊宗保には少しも遺産が分配されないでいる。家には弟の取り分がなくて、おれがすっかり世話を見なければならんとでも言うのか、きょうは皆さんのいる前で、このおまえのつづらをあけて見せろ。銀子がはいってるかどうか、はっきり皆さんにも見てもらおうじゃないか」
これを聞くと婦人は泣いて弁解した。
「まあ、なんてでたらめをおっしゃるの。まさか夫を謀殺したわけでもあるまいし、今身の振り方に困って嫁入るというのに、金があるかないか、皆さんもご存じですわ。幾両か銀子がたまっていたのは、みんな家につぎこんだのですよ。この家はわたしは持って行きません。みんな弟に残します。三四百両の証文はありますが、叔父さんが持ってくださればいい。その上、どんな銀子《かね》がわたしにあるんです?」
「銀子がないならそれでいい。とにかく皆さんの前でつづらをあけてみよう。もしあったっておまえが持って行けばいい。おれは何も言わん」
「靴の中までのぞかなきゃ気が済みませんの?」
やり合っているところへ楊婆がつえをついて後から出て来た。近所の者にあいさつすると、「皆さん、わたしは故人の父方の叔母《おば》ですから少し言わせてもらいます。死んだのもわたしの甥なら、生きているのもわたしの甥、十本の指はどれをかんでも痛いものです。さっき、嫁は夫の手に金がなかったと言ってたが、十万両あったところで、これにはどうにもできるわけのものじゃないのです。まして、子供もないし、若いのだし、嫁に行かさないわけにはいかないじゃないですか」
近所の者はそりゃそうだと賛成する。
「だから、これが里から持って来た道具まで差し押さえるいわれはありませんわい。と申して、わたしはこれに頼まれたわけでもありませんが、ふだんから義理人情に厚くて、おとなしいことを知ってるから、出しゃばってしゃべりに出たんです。だから、これは公平な話だと思うんですがな。どうですかな」
張四は婆をちらりと見て、「公平だよ! お宝のないところには鳳凰《ほうおう》もよりつかぬってね」
婆は痛いところをつかれて、カッとなり、張四を指《さ》し、「張四、へらず口をたたくな。わたしは楊家のご先祖をお祀《まつ》りする身分じゃないけど、そういうおまえはいったい楊家の何に当たるのだえ」
「黙ればばあ、おれは姓こそ楊じゃないが、ふたりの甥はおれの姉の子だ。おまえこそ、いったん外へ出たものじゃないか。火事に水をかけたり、火をかけたり、てんからつじつまが合わねえじゃないか」
「この恥知らずの犬の骨、若い嫁をむりに引きとめ、色と欲との二筋道の寸法かい」
「何を、三毛猫《みけねこ》の黒しっぽ! 楊宗保の行く末を案じりゃこそこう言うんだ。てめえのように、大きいのを出して、あとからボツボツお礼をかじろうってんじゃないぞ」
ふたりはつかみ合いになりかけたが、近所の者は、ばあさんの肩をもつ。ギャアーギャーやっている間に薛嫂は下男や兵卒を使って、みるみるうちに、荷をすっかり運び去る。張四は口もきけない。
八
西門慶は玉楼をめとってから、夢中になってくっついている。ところが、とつぜん、陳《ちん》家から文|嫂《ねえ》さんが使いに来て、六月十二日に娘さんを嫁入りさせてもらいたいという話、あまり忙しいのでベッドをあつらえる暇もない。孟玉楼の持って来た南京製のベッドを持たせて嫁入らす。こうしたぐあいで、一月余り、潘金蓮《はんきんれん》のところへいっこうに足が向かない。
女は毎日のように門で、見張っている一方、王婆を家までさぐりに行かせるが、小僧たちは相手にしない。こんどは娘の迎児《げいじ》を探りにやらせるが、子供のことで無理な話、目的を果たさず帰って来ると、床へひざまずかせたまま、物さえ食べさせない。おりしも盛夏のころでたいへん暑い。女は急に湯|浴《あ》みを思い立ち、迎児に湯を沸かさせ、別に、西門慶が来たらいっしょに食べる気で、一|蒸籠《せいろ》の肉|饅頭《にくまんじゅう》を作らせ、薄紗の上着を着て、西門慶が来ないかと待ちあぐんでいる。薄情もの! と心の中でののしってみても気はひき立たず、脚から靴を脱いで恋うらないを立ててみたりするが、つまらない。眠くなって、ベッドに横になっているうちにほんとうに眠り、一時間ほどたって目をさましたが、心はやはりくさくさする。そこへ迎児が湯の沸いたのを知らせて来た。それより肉饅頭をと持って来させ、白い指で数えてみると、三十ふかしたのに、二十九しかない」
「迎児、もう一つどこへやった」
「知りません。おかあさんの勘定ちがいじゃないの」
「あたしは何回も数えたのよ。ちゃんと三十あった。おとうさんといっしょに食べようと思ってたのに、一つつまみ食いしたんだね。返事おしよ。気どりやの淫婦《いんぷ》め。さあ、こっちへおいでよ。お行儀をしこんでやる」
この小娘の着物をはぎとり、泣きわめくやつを鞭《むち》で二三十も打ちすえ、「これでも知らんのか! 白状しないと百たたくよ」
小娘はこわがって、「おかあさん、堪忍して。わたし、あまりおなかがすいたから」
「それごらん。食べたくせして、勘定ちがいもないもんだ。強情な尼っちょだね。あのすっぽん野郎が生きてたとき甘やかしすぎたからね。今おまえはどこまで行ったんだい。行きやしなかっただろう。人をたぶらかしやがって。見てろ」とさんざんなぐり、着物を着させると、こんどは煽がせながら、「どろぼう淫婦! こっちへお向きよ! つらの皮ひんむいてやる」
すると迎児がまっ正直に顔を向けるので、ますます腹を立て、血が流れ出るまで、かきむしった。
やっとのことで迎児を許し、お化粧を直すと、あきらめきれずすだれの下に立つ。思いもかけず、玳安が包みをかかえて、馬で門前にさしかかった。玳安はへいぜい心付けなどもらっていたから、呼びとめられると、知らぬふりもできず、門の中へ引っ張りこまれる。女に問いつめられると、はじめは忙しいからお見えにならないのだと白を切っていたが、とうとう孟玉楼が嫁入った話をすっかり話してしまった。女は思わず涙をほおに流し、「あの方とあたしとは以前あんなに情合いがこまやかだったのに、それがもう見捨てられてしまった」
「家では奥様ですらほったらかしなんですから」と玳安はなぐさめにかかったが、女は泣きくずれる。
「まあ泣くのはおよしなさい。だんなだって、もうすぐ誕生日ですから、きっとお見えになりますよ。一筆書いてください。だんなに届けますから」
「きっとよ、おまえにいい靴《くつ》を作ってあげるからね。もし来なかったら、おまえのせいだよ」
そこで迎児に言いつけ、肉饅頭と茶を出させ、自分は部屋にはいり、筆のあともなめらかに心のたけを小唄《こうた》にしてしるし、心の字形に結んで封に入れて玳安に渡した。
待てど暮らせど何のかいもなく七月はおわり、西門慶の誕生日になった。それでもやはり何の音沙汰もない。銀の歯をきりきりかみ、星のひとみに涙の波を打たせるばかり。しかたがないので、晩になると王婆に酒や肉をごちそうし、金の頭、銀の脚のかんざしをやり、西門慶を呼んで来てくれと頼む。すると王婆は「今じぶん行ったって来やしませんよ、あしたの朝。請け合った以上心配しなさんなや」といいきげんで帰って行った。
女は部屋に帰ったが、どうにも寝つけず、出るのはため息ばかり。夜はふけ、人は寝静まり、部屋はがらんとして、ぞっとする感じである。やるせなさを散らそうと、琵琶《びわ》をとってみたり、一夜まんじりともせず、空の白むのを待って迎児を王婆のところへやると、王婆はもう家を出ていた。
王婆は西門慶の店の前に待っていて、番頭の傅《ふ》から、色町へ行って帰らぬと聞くとさっそくすっ飛び、色町の小路《こうじ》でまんまと馬にまたがり、ゆらゆらと来るふつか酔いの西門慶を見つけた。
「だんな、深酒はお毒ですよ」かん高い声を張り上げて、王婆が馬の口をとる。
「王婆じゃないか。金蓮が捜してるのか?」
王婆は小声でこちょこちょささやく。
「小僧がおれにそういったから、おこってるぐらいのことは知ってるさ。今すぐ行こう」
そうこうしているうちにふたりは女の門口に着いた。王婆は中へ飛びこむと、女を呼ぶ。女は急いで迎えに出る。西門慶は扇子を使いながら、酔いのさめぬ声で「よう!」
女はちょっとあいさつしたが、「貴い方にはお目にかかりにくいのねえ。わたしをほったらかしといて、新しい奥さんとお楽しみだったんでしょう」
「でたらめ言うな。新しい女など連れこむものか。娘を嫁に出すので、来る暇などなかったんだ」
「なんとか言って、たぶらかすおつもり?」
「うそをついたら、お椀《わん》ぐらいのお瘡《でき》ができ、四五年|黄疸《おうだん》にかかり、からだ一面水虫になって、そっから大|蛆《うじ》が出てくらあ」
「大うそつき! 水虫も蛆もあるもんか」
そう言うと、女は男の頭から帽子をひったくり、地面へたたきつける。王婆はそれを拾ってテーブルにのせ、「手荒なことしなさんなや。そんなことならお連れしなかったらよかった」
女は今度は、男の頭からかんざしを引きぬいて調べると、純金のかんざしで、「金勒《きんろく》の馬はいななく芳草の地、玉楼の人は酔う杏花《きょうか》の天」と二行に彫りこんである。女はすぐ袖の中に入れ、「あたしのあげたかんざしを、どうしてさしてないの」
「うん、あれか、酔っばらって髪がとけたとき、つい落とした」
「何言ってんのさ」と女は男のほおをピシャリとやり、「薄情だから見つけなかったのよ。そんな話、信用できないわ」
「ふしぎなことなどありますかいね。だんなは城外四十里向うのみつばちの見分けをつけるけど、門を出たとこで象にでもつき当たっちまうんさね。足もとに落ちてるかんざしを見落しもしますがいね」
「なんとでも言いやがるがいい。こっちはギャアギャアぬかすし、そっちはふざけやがるし」
すると女は西門慶の紅骨金粉の扇子に気がつき、新しい女がやったものと気を回して、さっと破り去る。
「ばかなまねをするな。友人の卜志道《ぼくしどう》がくれたんじゃないか。ずっとしまってて、使いはじめて三日にもならん」
女が鼻先でふふんとやり返しているところへ、迎児が茶を持って来る。それを見はからって王婆が、
「ふたりとも、もういいかげんになさらんか。あとの仕事があろうになあ。わたしゃ台所へ降りますからね」
女は迎児に命じて、テーブルにごちそうを並べさせ、それから箱の中から誕生祝いの品々を取り出して盆にのせ、西門慶の前に並べる。黒|鍛子《どんす》の靴、蘭《らん》松竹梅の刺繍の焦茶色のぱっち、緑紗裏の紫色の帯、草花を縫いこんだ腹あて、蓮《はす》の花を二つ並べた頭のかんざしなどで、かんざしには詩が彫りこまれている。
[#ここから2字下げ]
わたくしの並頭《へいとう》の蓮《はす》〔夫婦愛の象徴〕を
贈ってあなたの髷《まげ》をとめる
なにごとも頭の簪《かんざし》のように
決して決して捨てあわぬよう
[#ここで字下げ終わり]
西門慶は読むと大いに喜び、女を抱きかかえてキッスして、「おまえはどうして、こう気がつくのかい」
それから酒になり、王婆が幾杯かのお相伴で顔をまっかにして帰ったあとは、ふたりでのびのび快楽を求め、夕刻、おともに馬を連れて帰らせると、夜じゅう眠りもしないで情痴に狂うありさま。翌朝、快い疲れで食事時になっても起きて来ぬふたりを、王婆が部屋の外からあわただしく呼び起こす。
「おふたりとも起きなさい。たいへんですぞね。武二《ぶじ》が帰って来るんじゃ。今、武二が兵隊に手紙を持たせて来て、わたしゃ受け取って帰したけれど、遅れちゃたいへん、たいへん。用意がかんじんじゃ」
西門慶はぞっとして、あわてて女とふたり着物をつけ、王婆を呼びこんで手紙を見る。あて名はもちろん武大《ぶたい》だが、中には八月には必ずもどると書いてあるだけ。ふたりは手足の置き場もないくらい驚いた。
「おばさん、こりゃ、どうしたらよかろう。今となっては切ろうにも切れぬふたりの仲だ。あいつが帰って来てはたいへんだ。いい考えはないか。お礼はたんまりするぜ」
「うろたえることありませんやね。前にも言ったでしょうが。幼いとき嫁入るのは親まかせ、再縁はわが身まかせって。まだあるよ。古くから、弟と嫂《あによめ》は無関係だって言うじゃないかね。もう武大の百日忌だから、奥さんは坊さんを呼んで位牌を焼き、武二のもどらぬうちに、だんなは轎《かご》をもちこんで正式に嫁に迎え入れればそれまでよ。武二が帰ったらわたしが言いくるめてあげる。あいつに何ができるもんですかい。そうなりゃ、ふたりはいっしょにおられるし、こんないいことはないでしょうがいね」
八月六日が武大の百日忌なので、その日に僧侶《そうりょ》を呼んで位牌を焼き、八日の晩に、輿入れと、手はずはその日のうちに決まった。
武大の百日忌も、供養は王婆と、呼び寄せた報恩寺の六人の僧侶に任せきりで、仏堂の次の間の金蓮の室にふたりはこもりっきり。たまたま手を洗っていた坊主がふたりの思いもよらぬふるえ声、柔らかい息を聞きつけるというような不体裁。斎主《さいしゅ》が仏を拝まねばなら時にはいやいや女は立ち現われたが、女を再々呼び出さぬように西門慶は王婆にさしずする。和尚《おしょう》たちは金蓮のあだっぽさに気をとられて、ふたりのやっていることを聞き伝えて心乱され、なんともありがた味のない法事となり終った。
最後に武大の位牌を焼くのを、金蓮は西門慶と並んですだれの中よりながめているというありさまである。
九
武大の霊を焼いた次の日、あらためて酒席を設け王婆を招いて、迎児のめんどうを見てもらうことを頼み、一両の銀子《かね》を礼とした。その晩のうちに、金蓮の荷物はすっかり、西門慶の屋敷へ運びこむ。残った破れテーブル、こわれ椅子、ぼろの着物などは王婆にやって、翌日の八日、西門慶は、一丁の轎《かご》、四個の燈籠《とうろう》で女をむかえ入れる。女は艶《あで》やかな衣服をまとい、王婆がつき添い、玳安《たいあん》がお供である。遠近を問わず、町じゅぅの人はこのことを知っていたが、西門慶をはばかって口をきく人もないが、こんなはやり文句ができ上がっていた。
「西門慶の恥知らず、先に盗んであとから娶《めと》る、轎にはあばずれじごく女郎、後に随《したが》うやりて婆」
西門慶は金蓮を迎えると、奥庭の中に三部屋とってその居間にする。一間は客室、一間は寝室、十六両はりこんだ黒漆に金粉をたたいたベッド、まっかなたれ幕、客間にはりっぱな椅子テーブルを入れた。正妻の月娘《げつろう》の小間使いのひとり、春梅《しゅんばい》が金蓮につけられ、下女中には秋菊《しゅうぎく》を六両で買ってつける。月娘には春梅の代わりに、小玉《しょうぎょく》というのを五両で買ってやった。ここで潘金蓮は第五|房《ふじん》ときまった。
第二日め、妻妾《さいしょう》たちにお目見得の日である。女は化粧し、礼服をつけて、春梅に茶をささげさせ、正妻月娘の部屋へはいった。呉月娘が、頭から足先まで、見おろすと色っぽさがこぼれおち、見上げると色っぽさが立ちのぼる。なるほど、小僧番頭らが武大の女房がどうのこうのと言うだけある。だんなが血道を上げるのも無理はないと月娘は思った。
金蓮はまず呉月娘にうやうやしく最敬礼をして靴をささげる。月娘はつづいて李嬌児《りきょうじ》、孟玉楼、孫雪娥《そんせつが》に対等の礼を行わせ、家じゅうの女どもを集めて、これから金蓮を五|娘《おく》さんと呼ぶように命じた。
金蓮がちらりちらりと観察すると、二十六七の呉月娘は、銀盆の顔に杏《あんず》の目、身ごなしがしとやかで重みがあり、口数も少ない。第二の李嬌児は芸者あがりで、肌は豊満でつやつやしく、からだがぽったりとしている。きれいさはたいしたこともないねと、金蓮は思う。第三はめとったばかりの孟玉楼、年は三十ばかり、梨《なし》の花のような顔、柳腰、すっきりしたからだつきで、うりざね顔にかすかにあばたが見えるが美人だ。スカートからあらわれる纏足のかわいらしさは自分と甲乙がなさそう。第四は孫雪娥。もとは先妻の小間使い。こじんまりしたからだつきで身のこなしが軽い。料理がうまいという話。――そうした印象を金蓮は心に刻みこんでおいた。
金蓮は正妻の月娘にとり入ろうと、月娘の室に朝早くから行き、針仕事をはじめとしてなんでも手つだい、大奥様、大奥様としたってゆくので、月娘はたいへん気に入ってしまい、着物やアクセサリーなど、いいのをよって分けてやり、お茶も食事もいっしょにするありさま。おもしろくないのは古顔の李嬌児たちで、わたしたちにはいっこう構ってくれなかったくせに、大奥様もあれじゃ余りじゃないか、と陰口をたたき合っている。西門慶はべったりと金蓮のところにへばりつき、毎日毎晩、楽しみを尽くしていた。
武松《ぶしょう》がやっと帰って来た。知事は、金銀財宝が無事についたことを、武松の持ち帰った返書で知り大喜びで、十両のほうびを与え、酒さかなで、その労をいたわった。武松は宿へ帰ると服装を改め、さっそく、紫石《しせき》街へ出かける。近所の人は武松の帰ったのを知り、これはただでは済まないぞと、手に汗をにぎった。
武松が兄の家のすだれをあけてはいると、中はガランとして回り廊下で小娘の迎児が糸をつむいでいるばかり。兄上と呼んでも、嫂《あね》上と呼んでも返事がない。
「おとうさんはどこへ行った?」と迎児に聞くと、泣くばかり。そこへ隣の王婆があたふたとかけつけて来る。
「兄上も嫂上もどこへ行ったのかご存じじゃないでしょうか」
「まあ、お掛けなされ。実は、あんたが出かけなすったあと、四月ごろに病いでおなくなりになったのですわいね」
「死んだ? 四月のいつです。だれに薬をもらってたんですか?」
「四月、そう、二十日でしたかいね。だしぬけに胸が痛んで、八日ばかり寝てられたが、加持祈祷《かじきとう》などやって、薬は飲まなんだようすじゃが、どうにもならずお死になすった」
「兄貴にはそんな病気はなかったはずだが。どうして胸など痛がって死んだのか、ふしぎだ」
「隊長、何をおっしゃるんですかいね。天に思わぬ風と雲、人に朝夕の幸不幸です。今晩脱いだ靴や靴下が、明朝はけるとは決まっていませんぞよ。定めないのはこの世の中ですわいね」
「兄上はどこに葬られていますか」
「何しろ家の中にびた一文も無し、奥さんもたよりにする足掛りもなし、墓地を買うどころじゃない。しかたがないから近くの方のごやっかいで、棺桶を買っていただき、三日もお経を上げて、それから火葬にしましたよ」
「嫂上はどちらへ?」
「あの人はまだ年も若いし、ひとりでは暮らしも立たないから、百ヶ日を済ませると、おっかさんの勧めで、よそ者に嫁入りしましたよ。わたしはこの|こぶ《ヽヽ》を残されたんで、あんたの帰るのを待ってたんですよ。あんたにお渡しすれば、わたしもやれやれですわいね」
武二は話を聞きおわると、考えこんでいたが、やがて王婆に見向きもせず、門を出て行き、宿へ帰ると、喪服に着替え、麻帯、もめんの靴下、喪帽、その他にお供物、線香、ローソクなども、従卒に命じて整えさせ、兄の家にもどって、あらためて位牌をつくり、武大をまつった。
「兄上の魂はまだ迷っておいでのことでしょう。あなたは柔弱なたちでしたが、今度の死に方もただごとではないと思います。もしも恨みをのんで殺されたのなら、夢まくらに立って告げてください。かならず恨みは晴らしてあげます」と酒を地にそそぎ、冥紙《めいし》を焼き、武松は慟哭《どうこく》する。これを聞いた近所の人は震え上がった。
武松は泣きやむと、お供えの飯酒肴を従卒や迎児とともに食べ、むしろを買って、従卒たち、迎児を寝かせ、自分は武大の霊前に横になったが、夜中になってもどうしても寝つかれない。ふと起き上がって霊台を見ると、燈明が明かるくなったり暗くなったりする。「ああ、あなたは生前|懦弱《だじゃく》だったとおり、死後も験《しるし》を見せないのか」とつぶやくと、たちまち、霊台の下から冷たい風が吹きつけ、がっと見ひらいた武松の目に人のようなものが霊台の下から漂い出て、「弟よ。おれは死んでも死にきれぬぞ」
はっきり見ようとにじり寄ると、もう冷気は散り、人の影もない。
「はて、いぶかしいぞ。夢のようだが、夢ではない。兄上はおれに知らそうとしたんだな。ただごとではないぞ。きっと殺されたのだ」
朝になると、武松は迎児に留守を頼み、従卒を連れて、近所の者に兄の死、嫂の嫁入り先をきいて歩くが、人々は西門慶がこわいから、何も言わない。しかし、おしゃべりの男がいて、ついに「梨売りの|※[#「軍+おおざと」、unicode9106]哥《うんぼう》と、検死人の何九《かきゅう》が詳しく知っているよ」ともらした。
武松がくまなく町を捜し回っていると、あのちび猿《ざる》の|※[#「軍+おおざと」、unicode9106]哥《うんぼう》が、手の竹かごに米を買って帰って来るのに出くわした。
「兄弟、元気かね」
「武隊長! 一歩おそかった。もう手のつけようがないぜ。おれには六十になるおやじがいるから、それをほっぽらかして、おまえさんたちの訴訟ごとには手が出せねえしな」
「おまえはいいやつだな。ついて来いよ」
武松はちび猿を飯屋の二階へ連れて上がり、飯を二人分注文し、「兄弟、年が若いが親孝行で感心だ。ほんの少しだが」と五両の小粒を渡し、「持ってっておとうさんの小づかいにしろ。仕事がかたづいたらもう十両やるから、商売の元手にすりゃいい。そこで詳しく話してくれんか。おれの兄貴はだれとけんかして、だれにやられたんだ。それから嫂はだれの所へ片づいたのか、包み隠さず話してくれ」
|※[#「軍+おおざと」、unicode9106]哥《うんぼう》は銀子を受け取ると、この銀子があればおやじも半年たらずは食うに困らぬ、訴訟ざたでおれが引っ張られても差しつかえないと腹で考え、「武あにき、まあ聞きなさい。でも、かんしゃく立ててはいけないよ」と梨を売りに行って王婆になぐられたあたりから、すっかり詳しくしゃべると、「まちがいあるまいな。それじゃ、嫂はどこへ片づいた」
「そりゃむろん西門慶さ。うそだと思うなら、自分でただせばいい」
「まさかうそは言うまいな」
「役所でだって、このとおり言うよ」
飯を食い終って表へ出ると、武松は「あした役所へ出て、おれの証人になってくれ。それから何九はどこに住んでるんだ」
「今どきになって、つかまるもんか。あいつは三日前に、おまえさんが帰ると聞いて雲隠れさ」
次の日、早朝、武松は訴状を書き上げると、県庁前で待っていた|※[#「軍+おおざと」、unicode9106]哥《うんぼう》とともに役所にかけつけ、ひざまずきざま、
「お願い申しあげます」と叫ぶ。知事は武隊長を見て、「その方は何人《なんびと》を訴えるのか」
「凶悪漢西門慶はわたしの嫂《あによめ》潘氏と姦通《かんつう》し、発覚するやかえって本夫の胸を蹴《け》り、ついに殺害いたしました。王婆が主謀者、何九の検死にも疑点がございます。しかばねを火葬にしたのは証拠いんめつを計ったものであります。現在西門慶は潘氏を引き入れて妾としております。この|※[#「軍+おおざと」、unicode9106]哥《うんぼう》が証人。なにとぞ、ご明察のほどを」と訴状を差し出す。
「何九はなぜ出廷せぬのか」
「何九は事情を知って逃亡し、ゆくえ不明であります」
知事は|※[#「軍+おおざと」、unicode9106]哥《うんぼう》の言い立てを聞くと、法廷を退き、ふたりの補佐役と協議した。ところが、知事をはじめ諸役人は、ことごとく西門慶と同じ穴の狢《むじな》だから、どう相談したって正しいことにはならない。知事はふたたび出廷すると武松に
「その方は本県の隊長でありながら、上《かみ》の|おきて《ヽヽヽ》がわからぬのか。昔から、姦通をとらえるにはその現場、殺人は傷が証拠となっておる。その方の兄の死体はすでになく、また姦通の現場をつかんでおらんではないか。このような子供のことばを証拠に人を大罪におとしいれようとは、まことにふつごう千万。軽はずみをしてはならぬぞ。よく考えてみよ」
「おそれながら、殿様。訴えましたるところはことごとく実情、けっしてうそ偽りではござりませぬ。ここに西門慶、嫂《あによめ》潘氏、王婆の三人を呼びいだし、お調べくだされば、罪はおのずから明らかになります。万が一、わたしに誤りがございましたら、甘んじて罪に服します」
「この場は引き下がれ。協議の上、よしと決まれば、捕えてつかわす」
武松は立ち上がって退廷したが、自分の部屋に|※[#「軍+おおざと」、unicode9106]哥《うんぼう》を引き留めて、帰宅を許さない。この話はもう西門慶の耳にはいっていた。かれはあわてて腹心の来保《らいほ》と来旺《らいおう》を呼び、銀両《かね》を夜の間に役人たちにばらまかせてしまった。
翌朝、武松は出廷すると、知事に狂人の逮捕を求めたが、知事は訴状をぽんと突っ返した。
「そのほうはデマを真《ま》に受けて、西門慶と争ってはならぬ。この事件は証拠不充分で裁判は成り立たないのだ。聖人も言うごとく、目で見たことですら真偽がうたがわれる、まして世間のデマはまったく証拠にはならぬ。出すぎたことをしてはならぬぞ」
「そう仰せられてみると、兄の仇《あだ》は永久に報いられぬわけ。殿様が告訴をお取り上げにならぬということなら、いたしかたもござらん」と訴状を収めて引き下がり、宿にもどって|※[#「軍+おおざと」、unicode9106]哥《うんぼう》を帰したが、武松のような男だから、嘆息したり、淫婦をののしったりで、腹の虫が治まろうはずがない。よし、西門慶をなぐり殺してやろうと、すぐさま西門慶の生薬屋へやって来るのを、番頭の傅《ふ》が帳場で見つけた。
「だんなはいるか」
「不在ですよ。隊長、何かご用で?」
「おまえ、ちょっと顔を貸せ」
相手が相手だから出ぬわけにいかない。武松は人気のない裏通りに番頭を引っ張りこみ、ぐっとにらみつけると、えり首を引っつかみ、
「やいきさま、死にたいか、生きたいか?」
「隊長。わたしはべつに悪いことした覚えはございません。なんでお怒りなんですか」
「死にたけりゃ黙ってろ。死にたくなけりゃ正直に言え。西門慶はどこにいるんだ。嫂が来て何日になる?」
肝っ玉の小さい傅番頭は武松がおこっているのを見て、もう手足も動かぬ。
「そうおこらないでください、隊長。わっしゃ、月給三両で使われてるだけなんだから、だんなと別でございます。だんなは獅子《しし》街の料理屋です。ヘイ」
武松は聞くなり手を放して、ばたばたと獅子街へすっ飛んだが、傅番頭は半日ほど足腰が立たない。
西門慶は下っぱ役人の李|外伝《がいでん》に酒を飲ませていた。李は県庁の内のことで種になることがあればものにする訴訟ブローカー、今度も武松が訴え出たということを西門慶に知らせたお礼に料理屋にまねかれ、袖の下五両をにぎったというわけ、ふたりは酒たけなわだったが、ふと西門慶が下を見ると、武松が凶神のように橋から料理屋へ飛んで来る。いけないと肝をつぶし、裏の方へ逃げこむ。武松は料理屋まで飛んで来ると支配人に、
「西門慶はいるか!」
「だんなはご存じと二階で飲んでいますよ」
武松は裾をからげて、二階に飛び上がる。西門慶の姿は見えず、ひとりの男が正面にすわり、芸者が両側にすわっているだけ。武松は李外伝のつねを知っているから、さてはこいつが裏切りやがったなと、かっとして、
「西門慶をどこに隠した!」
李外伝は、肝をつぶして口がきけぬ。武松、物を言わぬのでますます怒り、ぱっとテーブルを蹴倒す。皿《さら》杯は粉みじん。芸者はまっさおとなり、李外伝は必死に下へ駆け降りようとするところを、武松はむんずとつかまえ、「こいつ、返事もせず、どこへ逃げる」と、李外伝のつらをなぐると、「痛いっ! 裏へ行ったんだ。助けてくれえ!」
これを聞いた武松はかんしゃくまぎれに、両手でかれを抱きかかえ、「おう、逃がしてやらあな」と窓から町へぽいと投げ出し、すぐさま裏へ回って西門慶を捜す。西門慶はこのさわぎに驚きふためき、裏の窓から裏手の人家の庭へ飛び降りる。武松は西門慶が見当たらぬので、李外伝だましやがったなと、下へ駆け降りると、李外伝は半死半生で地上に横たわり、目をぐりぐりさせて虫の息、やがて脚をにょっきり出したまま死んでしまった。往来の人が「こりゃ李外伝じゃないか。隊長、あんたに何か悪いことしたのかね。どういうわけで殺したんですか」
「西門慶をなぐるつもりで来たら、こいつがじゃましやがった。おれのゲンコツに当たりやがったのさ」
町役人がやって来たが、相手が武松ではしりごみする。おずおず近くへ寄って、抵抗せぬ目当てがついてから、やっと縄をかけ、それから料理屋の番頭、ふたりの芸者も役所へ縄打って連行した。この時は獅子街からうわさはひろがり、西門慶が武松になぐり殺されたということになってしまった。
十
西門慶が、飛び降りた庭を、四つんばいになり走っていると、厠《かわや》にいた女中が見つけて、「どろぼう!」と叫ぶ。この家の主人の医者の胡《こ》老人が駆けつけて、西門慶とわかると、
「大官人《だんなさま》、あぶないところじゃったのう。いいあんばいに、武二はしょっ引かれて行った。もうだいじょうぶじゃ」
西門慶は礼を述べると、意気揚々と家に引き上げ、できごとを潘金蓮に話して聞かす。金蓮は手をたたいて大喜び。この際、わざわいの根を断つように、上にも下にも銀子《かね》を使って、かならず武松を死刑にし、まちがっても釈放させぬようにと入れ知恵する。西門慶は腹心の来旺に命じ、知事に金銀一そろいの酒器と銀五十両を、係の役人にもそれぞれ付け届けして、武松の罪を重くするよう頼みこんだ。
知事は翌朝法廷に立つ。武松、酒楼の番頭、ふたりの芸者などはひざまずいている。
知事は声も荒く、
「武松。その方、先ごろも良民を誣告《ぶこく》し、とくに隠便の処置をとってつかわしたが、またしても、法度《はっと》にしたがわず、罪無き者を打ち殺しおった。いったいなんとしたことじゃ」
「わたくし、兄の仇西門慶を打とうと参りましたところ、はからずもあの男に出会いましたが、西門慶をかくまったので、カッとして誤ってなぐり殺しました。これというのも西門慶が原因、西門慶を正しくおさばきくださるようお願い申しあげます。その上は、わたくし喜んで罪をお受けいたします」
「黙れ。その方があの男を小役人と知らぬはずはない。なぐり殺したのには別の理由があろう。それを西門慶にかこつけるとは。それ、責めよ!」
両側の小役人はこん棒を振り上げ、三十回あまりも武松を打ちすえる。武松は一打ごとに「冤罪《えんざい》だ」と叫び、「わたくし、殿様のお役に立ったこともございます。しかるに、今日、無慈悲にも、かかる苦刑《しう》ち」
「ずぶといやつ。人を殺しながら、無礼千万。打て、打て!」
武松は五十棒くわされ、長|枷《がせ》をかけられて牢獄《ろうごく》につながれ、他の者は門番小屋にとめられた。役人の中には武松と仲よく、かれの正しいことを知る者もいたが、大方が西門慶の賄賂をとっているからどうにもできない。武松は歯がみをしてくやしがる。
知事は役人をやって李外伝の死体をあらため、検死記録をでっち上げ、いいかげんな調書をつくると、武松を東平府へ護送し、断罪を待つことにした。
東平府の知事|陳文昭《ちんぶんしょう》は清廉をもって聞えていたが、法廷に現われ、関係者を召し出し、清河《せいか》県からの調書に目をとおすと、このように書かれている。
[#ここから2字下げ]
東平府清河県殺人事件
犯人武松、二十八歳、陽谷《ようこく》県人。この者武力人にすぐれたるにより、本県の隊長であったが、公務出張より帰って、不在中兄が死亡し、嫂潘氏が服喪完了を待たずほしいままに人に嫁したのを知り、且《か》つ諸人に聞きただし不快に感じて獅子街の王鸞《おうらん》酒楼に上ったが、李外伝と出会い、酩酊《めいてい》の余り、銭三百文の返債を求めたが、李外伝が応ぜぬため、不法にも殴打し、遂《つい》に外伝をその場に蹴殺したものである。娼婦|牛《ぎゅう》氏|包《ほう》氏これを立証する。犯人は町役人に逮捕されたので、係員は現場に急行し、検死役、隣人等の証言により委細明白となった。ここに口供書をとり調書を作製する。予審の結果、武松を殴打殺人犯と認め、酒楼主|王鸞《おうらん》、包氏、牛氏は口供によって無罪と認める。今かさねて、審議判決され、刑の執行をのぞむものである。
政和三年八月 日 知事李|達天《たつてん》
[#ここで字下げ終わり]
府知事は一とおり目を通すと、武松を面前に引きすえて尋問する。
「その方は李外伝を殴殺したか」
「明判官様。殿様のおさばきにあいますことは、まことに青天に白日を見る思いでございます。何もかも申しあげます」
「おお、なんなりと申すがよい」
武松はいっさいの事情を述べ、
「兄の仇を討とうと思い西門慶を捜していて、ついあの男をなぐり殺しましたが、西門慶の金力の前には、どうともならず、わたくしはただ今死にましてもさしつかえありませんが、恨みをのんで地下に眠った兄武大の」
「多くは言うな。すべて存じておる」
そこで府知事は証人を一々審問した後、武松を烈士として取り扱い、長枷を短枷にかえ、一方、牢につないでいた関係者は保釈、別に文書を清河県に送って、西門慶、潘氏、王婆、|※[#「軍+おおざと」、unicode9106]哥《うんぼう》、ならびに検死役何九などを呼び、再審するよう命じた。
早くもこのことが西門慶に伝わる。陳文昭では西門慶の嗅《か》ぎ薬も用をなさない。この上は上から行くよりしかたがないと、来旺を娘の聟《むこ》陳|敬済《けいさい》の家へ走らせ、楊提督《ようていとく》を通じて内閣の蔡太師《さいたいし》を動かす。蔡太師は県知事に傷がつくのを恐れ、一封の密書で、府知事陳文昭に西門慶および潘金蓮を捕えぬよう命じた。もともと陳文昭は蔡太師の門下生であり、楊提督から引立てを受けているので、義理にからまれ、ただ武松を死刑から免れさせるだけしか好意の示しようがなく、裁判はもみつぶされてしまった。
陳文昭は牢から武松を呼び出し、判決を読み、背に四十棒を加え、七斤半の鉄枷をはめ、顔に一筋の入墨《いれずみ》をすると、武松を孟州《もうしゅう》へ流すことにした。武松はふたりの護送人とともに清河県の家に着くと、家具を売り払って護送人の旅費にあて、右隣りの姚二郎《ようじろう》に迎児を託し、いずれ大赦が下ったら厚くお礼すると約束して別れる。近所のものは同情して、餞別《せんべつ》や酒食を贈る。それから自分の宿へもどると、従卒に荷をつくらせ、その日のうちに清河県をはなれて孟州へ向かった。
西門慶はこれを聞くと、頭をおさえていた岩が落ちたようにすっとして、来旺、来保、興児《こうじ》に奥庭を掃き清めさせ、芙蓉亭《ふようてい》を美しく飾り、さっそく宴会にとりかかる。楽人を招いて吹く弾《ひ》く歌う舞うの、一家総出の楽しみ。西門慶と呉月娘が上座、他の者は両側に並び、にぎやかに酒宴をしていると、玳安《たいあん》の案内で、ひとりの小ものと前髪の小娘が、それぞれはこをささげてやって来る。隣の花《か》家からのお使いである。
「わたくしどもの奥様が、このお菓子と花を届けて、西門大|娘《おく》様の髪にさしていただきたいと申しました」
月娘は喜んで料理や菓子をふたりに食べさせ、小娘にはハンカチ、小ものには百文やって、「娘《おく》様によくお礼を申しておくれよ」そして小おんなに、「おまえさん方の名は?」
「わたくしは綉春《しゅうしゅん》と申します。こちらの男は天福児《てんぷくじ》と申します」
ふたりが帰ると月娘は西門慶に向かって、「花家の娘《おく》さんはほんとうに行届いた方ですよ。いつもあの小ものと小おんなに贈物を届けさせるの。こちらはまだ何のお返しもしてませんのに」
「花|二哥《にいさん》はあの娘《おく》さんをもらってから二年とならんだろう。気立ての良い人だろうな。でなければ、部屋にあんなきれいな小間使いがいるはずないね」
「以前、おとうさんがなくなられたとき、お悔みに行って一回お目にかかったことがあるけど、小がらでぽってりして、まゆが美しくきめの細かい、おとなしそうな方でしたよ。二十四五かしら」
「おまえ知らんのか。もと大名府の梁中書《りょうちゅうしょ》の妾だったが、後に花|子虚《しきょ》の所へ来たんだ。持参金が大きかったようだよ」
花子虚の女房というのは、正月十五日の生まれで、生まれた時ある人が一対の魚瓶を届けて来たところから幼いころ、瓶姐《へいじょう》さんと呼ばれ、後に梁中書の妾となったのである。梁中書は、東京《とうけい》の蔡太師《さいたいし》の娘婿であるが、夫人が焼餅がすごく、妾婢を打ち殺して奥庭に埋める騒ぎ。それで李氏は外の書斎に乳母《うば》といっしょに囲われていたが、政和三年正月、上元節《じょうげん》〔正月十五日=燈節〕の夜に、染中書が夫人と連れ立って翠雲《すいうん》楼にいたとき、李逵《りき》が家じゅうの者を皆殺しにする事件が起こった。梁中書らも、命からがら、八方へ逃げたが、李氏は西洋到来の百粒の大珠と、重さ二両の青い宝石を身におびて、東京の親戚《しんせき》をたよっておちのびた。たまたま花|太監《たいかん》の甥《おい》の花子虚に妻がなかったので、仲人《なこうど》をたてて正妻に迎えたのだが、花太監が故郷の清河県に帰住するのについて来、花太監が死ぬと、大きい財産が花子虚にころげこんだ。もともと宮中勤め出身で、金使いがはでだから、例の十兄弟の連中にうまうまたかられて、三晩五晩と色町に流連《いつづけ》ることもある。
さてその夜、西門慶は潘金蓮の部屋にはいった時はすでに生酔い、いいごきげんでたわむれようとする。ベッドに上り吹簫《すいしょう》の遊びをしているうちにのどがかわき、西門慶は春梅に茶を持たせる。金蓮はあわててベッドのカーテンをおろす。すると西門慶は「見られたって良いじゃないか」とこともなげに、「花|二哥《さん》のところには小間使いがふたりいるんだ。きょう来たのが小さい方、大きい方はうちの春梅ぐらいだな。花子虚はもう手をつけてしまっている。娘《おく》さんが門に立っていたとき、そのうしろに従っているのを見たが、なかなかいい風景なんだ。花さんは年も若いし、しあわせさ」
「いやな人。春梅の小娘と雲雨《しごと》したいんでしょう。それなら、そうすればいいじゃないの。遠回しにあてこすったって、主人も召使も、お隣のようにはいかないわ。したいのなら、あしたあたしが外へ出てあげるから、春梅を呼びこんでいいようにしなさいよ」
「おまえはかわいいなあ、わかりがよくって。だから、おれは好きになるんだ」
翌日になると、女ははたして孟玉楼の部屋へ行ってしまった。西門慶は春梅を呼びこんで、春は杏桃《きょうとう》に点じ紅は蕊《しべ》に綻《ほころ》ぶふぜいを楽しんだのである。
潘金蓮はこれ以後、春梅に目をかけ、水仕事はいっさいさせず、ただ部屋の中の用事につかい、衣服やアクセサリーのいいのを与えたばかりか、脚《あし》もかわゆく纏足《てんそく》してやった。春梅は秋菊とちがって才はじけ、ウィットもあり、きれいだから西門慶もたいへんかわいがるようになった。一方秋菊は悟りがわるく役に立たぬので、女はしじゅう打ちすえるのだった。
十一
潘金蓮はだんだん増長してきて、ともすればデマを製造し、風波を立てようとする。しっと深くて立ち聞き、盗み見、なんでもかぎつけようとかかっているのは、もちろんである、春梅もまたおとなしい方ではない。似合いの主従だった。
ある日、金蓮に些細《ささい》なことでしかられた春梅が、腹立ちまぎれに裏の料理部屋にはいり、台やら椅子やらに当たっていると、孫雪娥が見かねて、
「おかしい子だね。男がほしいなら、どっかへ行っておいでよ。ここで当たりちらしたってしようがないじゃないか」
春梅はたちまちおどり上がらんばかりに癇《かん》を立て、「どこのどいつ。あたしが男をほしがってるって抜かすのは」
雪娥が取り合わぬと、春梅は表へ飛び出しののしったあげく、金蓮に「雪蛾のやつ、あたしにだんなさんが手をつけるように奥さんがそそのかしたと言うのよ。ふたりして、だんなをたらしこんでるのだって」
その晩、金蓮の部屋で泊まった西門慶は、翌日真珠の飾りを買って来る約束で、早めに起きたが、出かける前に蓮花餅《れんげもち》と、銀|水母《くらげ》のスープが食べたくなった。
西門家では、正夫人の月娘は病気がちなので、家事が見られず、贈物、交際、会計は李嬌児の分担、料理部屋は、召使どもを孫雪娥がさしずし、西門慶がだれかの部屋に泊まってする食事は、小間使いが料理部屋まで取りに行き、孫雪娥がまかなうということになっている。そこで春梅を料理部屋へやろうとしたが、春梅は動こうともせぬ。そこで金蓮が
「春梅をやるのはおよしなさい。この間あなたが手をつけてから、向うではまるであたしたちふたりがぐるになって、あなたをたぶらかしてるようなことを言ってるんだわ。使いにやると、豚だの犬だと言われたんじゃ、行きやしませんよ」
「だれがそう言ったんだ」
「だれだっていいじゃないの。土びんにだって耳はあるわ。秋菊をやりましょう」
秋菊をやったが、なかなか帰って来ない。金蓮はテーブルを離れてしまった。西門慶はかんしゃく玉が破裂しそうになっている。そこで金蓮は春梅に、「ちょっと見て来ておくれ。あいつ、いつまでぐずぐずしてるんだろう」
春梅がぷりぷりして厨房《だいどころ》へ行くと、秋菊はそこで待っている。
「何してんのよ。じっと居すわっていてさ。だんなは暇がかかるって、ジタバタしておこってなさるわよ。ばか!」
これを聞いて孫雪娥は火のようにおこりだした。
「ちび淫婦! あわて者! 鍋《なべ》だって鉄で作ったものだよ。火が回るまで時間がかかるんだよ。お粥《かゆ》をこしらえるにも手間どってるのに、やれ餅だ、やれスープだ。腹の虫じゃあるまいし、要《い》るものがはじめからわかりゃしないよ!」
「何をおっしゃいますの。だんな様のお使いですよ。好きなものをほしいとおっしゃってるだけじゃないですか。できなければできないと返事してくださればけっこうですさ」と、秋菊の耳をつねり上げて引張り出そうとするので、雪娥が「あと押しつきの奴隷てのは鼻息が荒いわね。運が向いたろうからね」
金蓮は春梅がふくれっつらで秋菊を引っ張って来るのを見たから、「どうしたのさ」
春梅はキャンキャン一部しじゅうを話す。
「だから春梅を出すなって言ったわけでしょう。あたし達ふたりでだんなをひとり占めしてるって皮肉|三昧《ざんまい》」
西門慶はカンカンにおこり、料理部屋へ飛びこむやいなや、雪娥を蹴っとばす。
「ゴリゴリの骸骨《がいこつ》! 餅を取りに来させたのが、なんで気に食わんか。奴隷たあなんだ。小便に面《つら》でもうつしてみやがれ」
雪娥は黙っていたが、西門慶が外へ出ると、来昭の妻|一丈青《いちじょうせい》に、「ほんとにいやになっちゃう。聞いたでしょう。何もべつに悪いことを言った覚えがないのに、小おんなのことばなんか取り上げて、死神みたいにおこって来た。これじゃ、どんな騒動が持ち上がってくるかわからないわ」
ところが西門慶はこれを聞いていて、引き返すと、ポカポカなぐる。
「このすべた奴《め》。きさま、ばかにするか。この耳で聞いたぞ」
西門慶が立ち去ると、雪娥はわっと泣きだす。月娘は奥の間で髪を梳《す》かせていたが、これを聞きつけ、小玉にたずねる。
「そうかえ。餅がほしいと言えはすぐこしらえてあげればいいのに。なんで雪娥は小おんななんかとけんかしてゴタゴタするのだろう」
そこで小玉を料理部屋にやり、雪娥と一丈青をなだめて食事を作らせ、西門慶を外出させた。
雪娥は胸がおさまらぬので、月娘の部屋にことのしだいを訴えに行く。金蓮は窓下にひそんで耳をそばだてて聞きとる。月娘と李嬌児を相手に金蓮の行状をしゃべり、
「あいつはじつにむごいやつなんですよ。間男《まおとこ》をする女なんか及びもつかない。一晩でも男なしには寝られないってしろものですもの。奥さんはご存じないのでしょうが、あいつは先の亭主《ていしゅ》を毒殺しておいてここへ嫁入ったんです。わたしたちだって何をひどいことされるかわからないですよ。だんなを盲みたいにしてしまって、わたし達を人間扱いしないもの」
「そりゃどうか知らないが、餅を取りによこしたら持たせてやればいいんで、けんかするには及ばないだろう」
「あんなやつなんか禿《はげ》めっかちになりゃいいんだ。春梅のやつはこちらの部屋付きのころから、猫の手も借りたいときも手つだったことがなかったですよ。今のうちに奥さんがなんとか言われないと、金蓮なんてやつの手もとにおかれるようになってからの増長ぶりなんて、ありゃしない」
その時、小玉が駆けこんで来て、「五奥様が、おいでです」と言うより早く、金蓮がつかつかはいって来て、雪娥に
「あたしが亭主殺しと言うけど、それならあたしを家へ入れさせなかったらよかったのよ! そうすりゃ、だんなを寝取られたりしなかったさ。春梅だって、もともと大奥様付きのおんなよ。あたしとべつに深い関係ありゃしないわよ。亭主に死なれてしかたないからここへ嫁入ったんだけど、こうなりゃ三下り半いただくよりしかたないってことですわ」
月娘は「おまえさん方のこと、何が何だかわからないないけど、おたがいに口を慎むんだね」
「奥さん、まあこの口はばったいこと。まるで淮河《わいが》の洪水《こうずい》みたいに、止めようったって止まりゃしない。だんなの前もこの口先でごまかしてしまうんですからね。良いですわよ。あんたひとり残って、わたしたちを追い出したらいいのさ」
月娘はののしり合いを黙って聞いているばかり。雪娥は「わたしが銀でかわれた奴隷なら、おまえさんこそ本物の奴隷じゃないか」とつかみかかろうとする。月娘は見かねて小玉に雪娥を連れて行かせる。金蓮は飛び出し、厚化粧を洗いおとし、髪をかき乱して、ベッドの上で目を泣きはらしている。
夕方になって西門慶が四両の真珠をみやげに、金蓮のところへ帰って来ると、このありさま。金蓮は声を張り上げて泣きだし、離縁状を書けと迫り、すっかり話して、
「あんたの財産をねらったわけでもなし、あんたに連れられて来ただけなのに、亭主殺しと言われて。小間使いなんかもいらないわ。悪口の種になるばかりだもの」
西門慶は亭主殺しがぐっと来て、あらしのように飛んで行き、雪娥の髪を引っつかむと短いこん棒でびしゃびしゃたたく。月娘がこれをとめ、「みっともないから、およしなさいよ。みんなもだんなの気を荒立てないようにつつしみなさい」
「ガリガリの骸骨め。きさまの悪口はおれが聞いたんだ。まだぬかしてると、引き裂いちまうぞ」
孫雪娥はたたかれたにしても、潘金蓮の過去は暴露されてしまった。西門慶は金蓮の部屋に帰り、四両の真珠を渡す。女は男がかばってくれたので、大喜び。サーヴィスにこれ勤めるので、寵愛《ちょうあい》は深まるばかりだった。
さてある日、西門家の邸宅の裏の花子虚の宅で宴会が開かれた。花子虚は宮中役人の家柄だから、酒席もはででたいしたもの。十兄弟みんなそろったが、西門慶はおくれて午後から出席した。そのうちにふたりの芸者が演奏を終ると、花のように舞いいで、西門慶の前にひれ伏すので、西門慶は玳安にさいふを出させ、小粒をやって、花子虚に、
「だれだい? じつにじょうずだ」
応伯爵が口をはさんで、
「大官人、もうお忘れですかな。筝《そう》を弾いたのが花二哥《あにき》の気に入りの呉|銀児《ぎんじ》、琵琶《びわ》の方が、こないだお話しした、李|桂卿《けいけい》の妹の桂姐《けいそ》ですよ。お宅には叔母《おば》になる李嬌児奥さんをおいてるくせに」
「そうだったのか。六年も会わぬうちに、すっかり見違えてしまった。大きくなったねえ」
酒たけなわになると、桂姐はそばにくっついてしきりと酒をすすめ、話しこんでいるうちに、西門慶は桂姐がおとなしそうで、話も気がきいているので、すっっかり気に入った。西門慶はハンカチ、楊枝《ようじ》、茶箱などを桂姐にやり、友だちふたりといっしょに家まで送ってやると約束する。桂姐は小ものの保児を帰してこのことを家へ知らせた。
酒が終り、灯ともしごろになって散会すると、西門慶は、応伯爵《おうはくしゃく》と謝希大《しゃきだい》を連れ、家にも帰らずそのまま、桂姐を色町の李家まで送って行く。李桂卿がそれを大広間まで迎え入れ、母親を呼ぶと、婆は杖《つえ》にすがって出て来た。
その晩そこで大いに飲み直したが、西門慶は桂姐に南曲を歌わせてみて、ますます気に入ってしまい、玳安に馬を引かせて帰すと、そのまま泊まりこんでしまった。
翌日、西門慶は家から五十両の銀子、呉服屋から四着の衣服をとりよせ、桂姐をひかせる。これを聞いた李嬌児は自分の姪《めい》のことだから大喜びで、玳安に馬蹄《ばてい》銀を持たせて、水あげ披露《ひろう》の衣服や宴席の用意をさせた。三日間というもの。弾く舞う歌うの大にぎわいである。
十二
西門慶は桂姐が気に入り、半月というもの流連《いつづけ》て家に帰らない。呉月娘は小ものに馬を引かせて数回迎えにやったが、李家では西門慶の衣服や帽子をかくして引き留めてしまう。七月になり、西門慶の誕生日が近づいたので、呉月娘はふたたび玳安を迎えに出す。潘金蓮はひそかに手紙を書き、玳安にことづけた。玳安が李家に着くと、応伯爵、謝希大、祝実念《しゅくじつねん》、常峙節《じょうじせつ》といった連中が、西門慶にたかり、白首を胸にかかえて、底ぬけ騒ぎをしている。西門慶は玳安に気づいて、
「何しに来た。家に変わったことはないんだろう?」
「はい」
「金のことは傅《ふ》さんに言え。おれが帰ったら勘定するから」
「このところいろいろあるので、傅さんはだんなのお帰りを待っておりますが」
「そうか。桂姐の着物は持って来たか」
「はい、ここにございます」と包みから、出して桂姐に渡すと、桂姐は礼を言って、裏で酒や食事を与える。食べ終ると玳安は出て来て、そっと西門慶に耳うちして、金蓮の手紙を渡そうとする。桂姐は気を回し、ひったくるが早いか封を開くと数行の墨のあと。祝実念に読んでもらうと、
[#ここから2字下げ]
夜も昼も思いこがるるあの人は
浮気者 今日《きょう》も来まさず
やつれ果て 悲しや錦《にしき》のしとね
照らすは残んの灯《ともし》の光、
人は睡《ねむ》り わが窓にあきらけく月は照れど
鉄の心もてる人よ このすさまじさいかに耐えと
[#地付き]愛妾 潘金蓮
[#ここで字下げ終わり]
桂姐はこれを聞くと、さっと席をはずし部屋にもどり、ベッドにころがって背を向けてしまった。
西門慶はこれを見ると、手紙をずたずたに引き裂き、玳安を蹴とばして、桂姐を二回も呼んだが返事がない。あわてて部屋に飛びこみ、桂姐をかかえ出し、玳安に向かって、
「馬もろとも、とっとと帰れ! けしからん淫婦《いんぷ》だ。帰ったらたたき殺してやる」
玳安は涙ながらに帰って行った。西門慶は、「桂姐、おこるんじゃないよ。五番めの妾が早く帰ってくれと言ってるだけじゃないか」
祝実念がまぜっかえして、
「桂姐、ごまかされるんじゃないよ。ゆだんするとたいへんだぜ。この潘六児ってのは、新《しん》いろで、とてつっぽうもなく別嬪《べっぴん》だからな」
西門慶は祝実念をぴしゃりとやって笑いだし、「こいつ、悪いやつだな。そばからでたらめ言うもんがあるか」
一方、玳安は目をまっかに泣きはらして帰って来て、「だんなに蹴とばされました。迎えに来させるやつは、ぶんなぐると言っておりました」
月娘「なんてことだろう。帰るのがいやなら帰らなくていいけど、小ものに当たるなんて」
玉楼「蹴とばすだけならいいわ。迎えに出したあたしたちが、なんで悪いの!」
金蓮「わかってるわよ。あの女郎淫婦のしわざなんだ。船につむぐらいの金銀だって女郎の穴はふさげないって言うわ」
李嬌児は窓の外でこれを聞き、姪の桂姐をののしる金蓮のことばに恨みをもった。
金蓮は部屋へ帰ったがやりきれない。ふたりの小おんなを寝かせると、奥庭を散歩すると見せかけ、孟玉楼が連れて来た美少年の小もの琴童《きんどう》を庭番小屋から呼び出して連れて帰り、酒を飲ませて酔わすと、着物を脱ぎ帯をとき、肉体の渇《かわ》きを満たした。それからは毎晩琴童を呼びこみ、夜の明けぬうちに帰す。そして、人に知られぬように、金をかぶせたかんざしを二三本頭にささせ、スカートにかくしてつけている香嚢《こうのう》も与えた。ところがこの子供はいい気になり、街に出て酒を飲み、さかんにじまんしてしゃべるので、ついにこのうわさが孫雪娥、李嬌児の耳にはいった。ふたりはいっしょになって月娘に知らせるが、月娘はあたまから信じない。
「あんたらは金蓮と仲が悪いからね。ほんとうだったら、孟玉楼が知らせて来るはずよ。琴童を連れて来たのは玉楼だからね」ふたりは黙って引きさがって行った。
ある夜、女は琴童と床仕事をしているところを、戸をしめわすれたため、手水《ちょうず》に起きた秋菊に見られた。秋菊から小玉へ、小玉から雪娥に話は伝わり、雪娥は李嬌児と月娘に向かって、もうこうなっては、大|娘《おく》さんが口をきいてくれないのなら、わたしからだんなに知らせる、この淫婦をそのままにしておくのは蝎《さそり》を許すようなものだと申し立てる。ちょうど、七月二十七日で、誕生日の前日だったので、西門慶は色町から帰って来た。月娘は、おめでたい日なんだから黙っていなさいと言うが、ふたりは聞き入れず、西門慶に口々に告げた。西門慶は聞くなり烈火のごとく怒り、表へ飛び出すが早いか琴童を呼び立てる。すでに金蓮は知らせを受け手足がすくむ思いだが、春梅を琴童の部屋へやり、口を割るなと命じ、かんざしも取りもどしたが、香嚢は度忘れしていた。
さて、西門慶は琴童をひざまずかせ、三四人の小ものに棒を持たせ髪をさぐらせたがかんざしは出て来ぬ。
「きさま、金着せの銀簪《ぎんかんざし》をどこへやった」
「わたくしは、覚えありません」
「白《しら》をきるか! 着物をはいで、打ちのめせ!」
小もののひとりが、衣服をはぎ、ズボンを引きずりおろすと、下のパンツに錦の香嚢《こうのう》がぶら下がっている。まぎれもなく潘金蓮がスカートにくっつけていたもの、西門慶はいきり立ち、「おのれ、これをどうして持っておる。だれからもらった」
琴童は青くなって、物も言えなかったが、「この間、奥庭を掃いているとき、拾ったのでだれのものか知りません」
西門慶はカッとして、棒で三十たたかせる。皮膚は破れ、肉はほころび、赤い血がほとばしり出て股《もも》をつたう。なおも、来保に命じて、両|鬢《びん》を剪《き》り取らせ、二度と足踏みならぬと、門からたたき出した。
一方金蓮は冷水を浴びせられた思い。西門慶がはいって来ると、ブルブル震え震え、手をのばして近寄ろうとしたところを、ピシャリと横つらを張りとばす。西門慶は春梅に前後の門をしめさせ、金蓮を素裸にさせ、鞭《むち》を手にして、「かくしてもだめだぞ。もうあいつは白状した。さあ言え。おれの留守に何回やりやがった」
女は泣きながら、「情けない。半月の間、昼は孟さんと針仕事、夜は早めに門をしめてお留守を守っていました。うそだとお思いなら春梅にお聞きください。あれがなんでも知っております。春梅、おまえから申しあげておくれ」
西門慶はののしって、「どろぼう淫婦。きさまが金着せのかんざしをあいつにやったろう。どうだ」
「もう殺してくださいな。どこの死にぞこないの淫婦が言ったのか知らないが、あなたのくださったかんざし、ちゃんとそろっていますわ。お調べになってくださいよ」
「かんざしなんか、あってもなくっても同じだ」西門慶は例の香嚢を取り出し、「これはおまえのだ。どうしてあいつがくっつけてたんだ。つべこべ抜かすな」とまっ白なふっくらした肌にピシピシ鞭をあてる。
「おとう様、あんまりよ! ゆるして。あたしをたたき殺したって地面が臭くよごれるだけだわ。その香嚢は、お留守の時、孟さんと奥庭で針仕事をして、木香《もっこう》だなをくぐるとき落して見つからなかったもの。それをあいつが拾ったのでしょう」
このことばは偶然琴童のことばともぴったりする。その上女がまっ裸でなよなよと語るのだから、西門慶の怒りも、いつのまにやら八九分は静まり、春梅をふところに抱くと、「淫婦、琴童と何かあったんだろう?」
春梅は甘ったれて西門慶のひざにすわり、色っぽく「だんな、きょうはよっぽどどうかしてらっしゃるわ。あたしと奥様と離れたこともないのに、そんなのはあたしたちを妬《や》いてる人たちの細工ですよ。こんなうわさが世間にひろまったらいいざまですわ、よくお考えあそばせ」
西門慶はからりと鞭を投げすて、金蓮を立ち上がらせ、秋菊に料理を用意させて飲みはじめ、金蓮はなみなみ酒をついだ杯をひざまずいて西門慶にささげた。
「きょうのとこは許してやる。今後少しでもこんなことがあったら許さんぞ」
「はい、よくわかりました」と、女は四たび地に頭をつけて、やっと席につき、酒の相手をする。
そのうち誕生祝いをもって、呉|大舅《だいきゅう》、呉|二舅《じきゅう》、傅番頭、西門|大姐《おじょうさん》、陳敬済、その他親戚のものが来たという知らせで、西門慶は表へ出て接待にあたる。応伯爵、謝希大からも贈物があり、李桂姐からも保児が来て贈物を届けた。西門慶はそれらを受け、あらためて書状で客を招待した。
孟玉楼は金蓮がはずかしめを受けたことを聞くと西門慶がいないのをいい潮に、李嬌児、孫雪娥の目をくらまして、金蓮を見舞いに来る。金蓮はベッドに寝ていた。
「あんた、どうしたことなの? ほんとうのことを聞かせてちょうだい」
金蓮は目に涙をためて、
「あの淫婦らが陰からそそのかせて、こんなにたたかせたのよ。あの淫婦ふたりには、海よりも深い恨みがあるわ」
「あんたはとにかく、わたしんとこの琴童をどうして追い出すんだろう。ま、いいわ。あの人がわたしんとこへ来たら、ちゃんととりなしてあげるわね」
晩になると、月娘の姉が泊まるので、西門慶は孟玉楼の部屋に休んだ。そこで玉楼が、
「五|娘《おく》さんには絶対そんなことありませんわ。李嬌児や孫雪娥とは前から仲が悪いんですよ。琴童だって良い災難だわ。もしそんなことがあれば大奥さんがきっと何かおっしゃいますわ」
「うん、春梅もそんなこと言ってた」
「かわいそうだから、見舞っておやんなさいね」
「うん、あした行こう」
翌日は西門慶の誕生日で、周守備《しゅうしゅび》、夏提刑《かていけい》、張団練《ちょうだんれん》などの役人、それから月娘の兄たちなどよんでの宴会なので、轎《かご》で桂姐とふたりの歌妓《かぎ》をよんで一日じゅう歌わせる。李嬌児は姪である桂姐を月娘にひき合わせ、そこでお茶ということになったが、二回も呼びにやったのに金蓮はぐあいが悪いと言って顔を出さぬ。晩になって帰る前に桂姐は月娘にあいさつし、ハンカチ、花かんざし、衣類などの引出ものをいただく。桂姐根は金蓮の顔だけ見てやろうと奥庭の門まで来たが、金蓮は、春梅に門をぴっちりしめさせ、「奥さんの命令ですからあけられません」と言わせた。桂姐は面子《メンツ》をつぶされて帰るほかなかった。
その晩、西門慶は金蓮の部屋に来たが、金蓮は髪も結わず、やつれ果てた顔でかれを迎え、衣服を脱がせ、茶、湯、すすぎ、チヤホヤする。床にはいると、金蓮は寝物語に、
「おにいさん、この家であなたを愛しているものはあまりいないんじゃない。みんな水臭い腰掛け夫婦みたいだわ。あたしだけがあなたのお気持がわかるんだし、あなただけがあたしの心をくんでくださるのよ。あなたがこんなにあたしをかわいがってくださるんで、あの連中ったらやきもちをやいて、あなたをそそのかして、あたしを情けない目にあわすのよ。飼ってる鷄をたたけばころがるだけ、野の雉《きじ》をたたけば飛び立って行ってしまうってよく言うでしょう。あなたに打ち殺されたってあたしはいいの。けれど、この部屋の中ででよ。こないだ、あなたが玳安を蹴ったとき、大奥さんや孟さんといっしょに話聞いたけど、あたしは何も言わなかった。けれど、女郎にうつつをぬかすのは良かないわ。女郎が好くのは銀子《おかね》だけで、愛情じゃないんですもの」
西門慶はすっかり丸めこまれて、その晩のたのしみには際限がなかった。
けれど、数日たつと、西門慶は玳安、平安をお供に、のこのこと桂姐のところへ出かけてしまう。その時、李桂姐は厚化粧で客待ち顔だったが、かれが来たと聞くと、急いで部屋に逃げかくれ、化粧をおとし、かんざしや環もとって、ベッドに横になるなりふとんをかぶってしまった。
ずいぶん待たされて、出て来たのはばあさんだったが、世間話が長々つづいても、桂姐はいっこうに出て来ない。
「桂姐が見えないが、どうした」
「まあ、ご存じないんですか。あの日、どういうわけか、ぷりぷりして帰って来て、それきり寝ついてしまって、部屋からも出ないんでございますよ。それにだんなもその後お見限りのようですからね」
「それは知らなかったな」
西門慶が部屋にはいると、桂姐は黒髪をかき乱し白粉《おしろい》けもなしにべッドにいる。
「おい、どうしたんだ」と呼びかけても返事しない。
「こないだおれのとこへ来たとき、何か気に入らぬことがあったのか? だれがいじめたんだ、言ってごらんよ」
「五奥さんにきまってますわ。あんなりっぱな口も八丁手も八丁のご器量よしがおられるんですから、こんな淫婦にご用のあるはずはありませんわね。そりゃどうせあたしは芸者ですよ。でもあの日お伺いしたのは商売じゃなくってよ。贈物だって届けたわ。大奥様は親切にしてくださって、花かんざしや衣服やいろいろなものをくださったですわ。それにあの五奥さん、ごあいさつしなくて失礼だと思ってお伺いしたのに、まあ、小おんなに門をぴっしゃりしめさせて、剣もホロロの扱いでしょう。失礼だわ」
「そう言うなよ。あいつあの日は気分が悪かったんだ。あいつは気紛れもので、きげんが悪いと箸《はし》にも棒にもかからん。そんなことならひとつこらしめておくよ」
「へん! なんて大うそつきのおにいさん。こらしめるなんて、なめられるだけでしょ」
「おまえ、おれの気性をまだ知らんのだね。たたくだけじゃないぞ、鞭でびしびしやるんだ。髪の毛だって切ってみせる」
「へへえ、そうですの。お話だけでごまかせると思ってらっしゃるの? できるとおっしゃるなら、ほんとにあの人の髪の毛を切って来てくださいな。そしたらいい男だってほめてあげますわ」
西門慶はその夜は泊まり、翌日の夕方、桂姐のもとを離れようとすると、桂姐はしつこく、「あの品をお忘れになっては面子が立ちませんよ」
西門慶はこうだめをおされて帰ったが、酔っ払っているから、まっすぐに金蓮の部屋に行く。女は酔っていると見て、いっそう細かく気をつかうが、酒も飯も手をつけない。それで、春梅にべッドをちゃんとさせ、戸も締めさせる。ところが西門慶はどっかとべッドに腰をおろし、女に靴《くつ》を脱げと言う。靴を脱ぐと、着物を脱いでひざまずけと言う。女はどうなることかと冷汗をかき、泣き声で
「おとうちゃん、はっきりおっしゃってください。毎日びくびくして一生けんめいつくしてるのに、まだ何か気に入らぬことがありますの。あなたに殺されたってかまわないけれど、まるでなまくら包丁《ぼうちょう》かのこぎりで引くようなやりかたはあたしたまらない」
「えい、どろぼう淫婦! 脱げったら脱げ! 承知せんぞ」
そこで春梅に鞭を取って来いと命じたが、春梅は出て来ない。やがてやっとはいって来た。見ると灯《ひ》の下でテーブルの横に金蓮がひざまずいている。
「春梅、おまえさん、助けておくれ。あたしを打《ぶ》とうってんだよ」
「うるさい! 黙ってろ! 春梅、おまえは鞭を持って来りゃいいんだ」
春梅は「だんな様、いやな方ですねえ。奥さんがあなたに何をしたって言うんですか。あたしはいやですよ。恥ずかしいわよ」と門をしめて外へ出て行ってしまった。
西門慶は気抜けしてハハハと笑いだし、金蓮に、「まあたたくのはよしにしよう。ちょっとお前からもらいたいものがあるんだが、くれるか」
「まあ、あたしはみんなあなたのものです。なんでも言うことを聞きますわ。なんですの、それは」
「ほかでもない。おまえの髪の毛がほしいんだ」
「まあ、だんな。あたしのからだを焼こうと煮ようとかってです。けれど、おかあさんのお胎《なか》を出てから二十六のきょうまでだいじにしてきた髪の毛を切れなんて、むごいわ」
「そしたら、いやか」
「いやというんじゃないの。これを何になさるか聞きたいのよ」
「おれのヘヤーネットにするんだ」
「じゃ上げます。淫婦にやって、まじないに使わせたりしないでくださいね」
「ああ、だれにもやらん。おれが使う」
「それなら、差し上げます」
女が髪をとくと、西門慶ははさみでざくりと一束切りおとし、紙に包んで巾着《きんちゃく》の中へ収める。女は西門慶のふところにすがりつき、なよなよ泣きくずれ、「言うなりになったんですから、心変りしちゃいや、けっして捨てないで」その夜、ふたりが歓を尽くすことなみなみでなかった。
翌日、西門慶はまっすぐ色町へ出かけて行く。桂姐が「あの人の髪はどこにあるの?」
「これを見ろ」と西門慶は巾着の中から紙包みを出す。中にはつやつやした黒髪。「見たら返してくれ。昨夜はこの一件で、まったくうるさいことだった。おこったらやっと一束切ったんだ。どうだ約束は果たしたぞ」
「いつでも返しますよ。そんなに心配なら、切らさなきゃ良かったんだわ」
「心配するわけじゃない」
桂姐は姉に西門慶の相手をさせておいて、自分は毎日踏みつけるためそっと金蓮の髪を靴底に入れてしまった。西門慶はまたぞろ桂姐とくっついたまま、何日も家に帰らなかった。
金蓮は髪を切り落してから、気がめいって、部屋から出る気にもならず、食欲も減退してしまった。月娘は小ものに、出入りの劉《りゅう》ばあさんを呼ばせて、金蓮を見させる。劉婆は薬をおいたが、自分の亭主を推薦して、運気を見せることをすすめた。日をあらためて劉婆に連れられて来た劉めくらの見立ては、金蓮は一生夫運に恵まれず、子供についても難がある、夫に逆らう運勢であるが、聡明《そうめい》で機を見るに敏、人の寵《ちょう》を受けるが、ことしは厄年《やくどし》、小ねずみが二つの星をねらっているから。同輩とは不和。
そこで金蓮は、夫と仲直りするまじないを教えてもらった。その方法は、柳の木で二つの男女の像を刻み、それぞれ生年月日を書き入れ、七七、四十九本の紅糸でこれをしばる、紅紗二枚で男の目をふさぎ、女を西施のように美人と思いこませる、艾《よもぎ》で胸をふさぎ、女のことで心をいっぱいにする、手をくぎづけにし、女が何をしても手出しできなくする、足を膠《にかわ》ではり、よそへ遊びに行けなくする、それをまくらの中へ入れておく。次に朱砂《しゅしゃ》で呪文《じゅもん》を書いた|おふだ《ヽヽヽ》を焼いて灰にし、それを茶にまぜる。その茶を飲み、そのまくらに寝れば、三日の間にかならずしるしが見える。
西門慶が来たとき、そのとおりやってのけると、かれはべったり泊まりづめで、日一日と情が濃くなるように見え、金蓮のよろこびはひとしおであった。
十三
ある日、西門慶は月娘から花子虚の招待状を受け取った。色町の呉銀児の家で食事をともにしたいから、拙宅までお越しくださいという文面である。西門慶はすぐさま服装をあらため従者ふたりを連れて花家へ行ったが、夫人の李瓶児《りへいじ》が銀糸の飾を頭にかぶり、紫の石をはめた金の耳輪をつけ、蓮糸のうすものを着、白紗でふち飾りのスカートをつけ、スカートの下から先のとがったかわいい靴をのぞかせて二の門に立っていたが、ふいにはいって来た西門慶と胸ごとぶつかってしまった。
西門慶はこの女を一回見かけたことがあり、気にはとめていたが、今その姿を見ると、まっ白な顔に小がらなからだつき、うりざね顔に細く曲がったまゆ、思わずぼうっとしてしまう。急いで女に深くおじぎすると、女はあいさつを返して奥の方へかくれてしまったが、綉春《しゅうしゅん》を使って、西門慶を客間に通し、自分は庭の角門から美しい顔を半分出して、
「大官人《あなたさま》、しばらくお待ちください。ちょっと出ましたがすぐ帰って参ります。お呼び立てしまして、どちらへ参るのか知りませんが、どちらにしましても、あたしの顔に免じて早く帰るように申してくださいましな。小ものがふたりついて行くと、あとは小おんなばかりで心細いですから」
「ごもっともです。きっと、ここまで送って参ります」
そこへ花子虚が帰って来たので、女も部屋へはいって来た。あいさつが終ると花子虚は、
「料理の用意をしろ。西門のだんなと一杯飲んだら出る。きょうは六月十四日、呉銀児の誕生日だから、哥《にい》さんといっしょに遊びに行く」
これを聞くと西門慶、「どうして早く知らせてくれないのだ」と急いで玳安を家に走らせ、五両の銀子を持って来させる。
呉銀児の誕生日はにぎやかだったが、西門慶は心を引き締め、花子虚をへべれけに盛りつぶして、李瓶児の頼みどおり、いっしょに連れて帰った。花子虚をたすけて、客間にすわらせると、李瓶児が小おんなに燭《しょく》を持たせてはいって来て、子虚を奥へ入れる。西門慶はそこでいとまを告げて帰ろうとしたが、奥からもどって来た李瓶児が礼を言って帰さない。
「いつもあんなふうなのですよ。どうもお世話になりました。ほんとうに困ってしまいますわ」
「いやあ。きょうは奥様のご命令なので、このとおりにいさんを連れて帰りましたが、ずいぶん骨を折りましたよ。何しろ例の連中がつきまとうわ、にいさんは腰に根が生えるわ。やっとのことで連れ出したのはよかったが、楽星堂の前まで来ると、また、難関が一つ。にいさんはこんどは芸者の鄭愛香《ていあいこう》のとこで泊まって行くと言いだしてきかない。わたしが再三とめて、奥様が心配しているからと言ったんで、やっと帰って来たというようなことです。もし、鄭家にはいってたら、帰って来るどころか」
「ほんとにそうなんですの。人の気もしらないで外ででたらめばっかりやって。今後ともああいう所でお会いになった節には、わたしのことを思い出してくださって、早く帰らすようにお願いいたしますわ。きっとお礼はいたしますから」
西門慶にはピンと来た。この女のことばは、明らかに、大路を開いて入港せよとの謎《なぞ》である。西門慶は顔じゅう笑みくずして、「どういたしまして。友だち付き合いとはそんなもんですよ。いずれにいさんに忠告しますから、ご安心ください」
これから後、西門慶はうまくたくらみ、花子虚を色町へ連れ出しては応伯爵や謝希大に相手させておき、自分は席をはずすと花家の門前をぶらぶらうろつく。女は女で、ふたりの小間使いを連れて門口に立っている。西門慶は女の姿を見かけると、大きな咳《せき》をしたり、東へ行き西へもどり、時には立ちどまって中をのぞきこむ。女はかれを見つけると、奥へ逃げ、通り過ぎるとまた顔を出す。ことばこそかわさぬが、思いは一つ。
ある日、西門慶が門口に立つと、小間使いの綉春が手招きする。
「何か用かね? だんなはご在宅かい」
「だんなはお留守でございます。奥様がお話が」
西門慶が客間で待つと、しばらくして女が出て来てあいさつし、「先日はありがとうございました。あのご恩は肝に銘じておりますの。ところが、また二日ももどって来ないんですのよ。お会いにならなかったでしょうか」
「昨夜は三四人と鄭家で飲んでいましたが、わたしは用事があったので帰って来ました。きょう行ってみて、おいでになったら、早く帰らせましょう」
「ほんとに、いくら言っても、外でばっかり遊んでいて、家にいないんですよ」
「にいさんは義理堅い方なんだが、どうもその点が」
西門慶は子虚が帰って来はしまいかと気が気でなく、そそくさと帰って行った。
翌日、花子虚が色町から帰って来ると、女は再三再四いや味を並べて、
「あなたが少しもお帰りにならないから、裏の西門のだんなにお頼みして方々さがしていただいたんですよ。贈物でもしてお礼しなきゃ義理が悪いですわ」
花子虚はあわてて届け物を四箱、酒を一本、小ものの天福児に贈り届けさせた。西門慶は贈物を受けると使いを厚くねぎらって帰す。月娘はふしぎがって、「花家がなんでこんなもの届けてよこすんですの」
「この間、呉銀児の誕生祝いのとき、花にいさんが酔っぱらってしまったから、家まで送り届けてやったんだ。その後も色町で会うたびに、泊まらさないで帰すもんだから、奥さんが恩に着てるんだろうさ」
「あんた、何かへんじゃない。どろ仏《ぼとけ》が土仏を諫《いさ》めるんですか。あんただって、一日じゅう家をあけて女を囲ったり、娘をからかったり、あまり言えたもんじゃなさそうだわ。この贈物、収めっぱなしにはできませんね」
翌日になると西門慶は酒の用意をして、花子虚を呼び、一日飲ませて帰す。すると李瓶児が花子虚に、西門慶をそのうちにかならず招待するようにすすめるというようなことになる。
さて、またたくまに九月、重陽《ちょうよう》の佳節となり、花子虚は節句にことかりて、ふたりの芸者を呼び、招待状を出して西門慶を観菊の宴に主賓として招く。ついでに応伯爵、謝希大、祝実念、孫天化《そんてんか》の四人を陪賓《ばいひん》として招き、小宴をひらいた。一同酒を飲んでいる間に灯《ひ》ともしごろとなる。西門慶が小用を催し外に出ると、隔て壁の向うに立っていた李瓶児に胸ごとぶつかった。女は西の角《かど》に走り去ったが、綉春をそっと使いに出し、薄くらがりにまぎれて、
「お酒を控えて早くご帰宅なさいますように。そして」と何事かささやく。西門慶は胸をとどろかせ、席にもどるともう酒は飲まない。午後八時ごろとなり、李瓶児がしきりとすだれからのぞいて見ると、西門慶は上座でこっくりこっくりやっているが、応伯爵、謝希大は椅子にくぎづけされたようにゆっくり構えこんでいる。祝実念、孫天化が帰り、やがて西門慶が立ち上がる。花子虚はそれを引き留め、「まことにお粗末でお気に召さなかったでしょうが、もっとゆっくりしてくださっても良いじゃないですか」
「いや、もうこれ以上飲めない」
西門慶は東によろよろ、西によろよろ、小ものにつかまって帰って行く。応伯爵はふしぎがり、
「どうしたんだろう。ろくに飲まんであんなに酔っぱらってしまった。ご主人の好意を無にして、いかんわねえ。姐《ねえ》さんもふたりいるんだし、どうだ、大きなやつでもう四五十杯も飲んでから、おひらきとしようや」
すだれの外で聞いた李瓶児は意地ぎたないやつとののしり、小ものの天喜児《てんきじ》に花子虚を呼ばせ、「あんた、あんな連中とまだ飲むのならお茶屋へでも行ってちょうだい。夜の十二時までも家の中で騒がれては困るわ。油もいるし、内の者もたまらない」
「こんなおそくから行ったら、家には帰れないぞ。それでいいな」
「いいわ」
花子虚はそのことばを聞くと、一同の者に向かい、「おい、出かけようぜ」
「ほんとですか? かついじゃいけませんぜ。奥さんのお許しがないと、出かけるわけにいかんでしょう」
「お許しは出たよ。あした帰ればいいんだ。どんなもんだい」
そこでふたりの芸者も連れてお茶屋にあがったのが、十時ごろ、天福児も天喜児もお伴して行った。
西門慶は酔ったふりして金蓮の部屋にはいると、着物を着替え、またひとりで奥庭の亭《ちん》に腰をおろしている。だいぶたったころ、小おんな迎春《げいしゅん》の影がれんが塀《べい》の上に現われ、猫の鳴きまねをする。西門慶は急いでテーブルと腰掛けを塀ぎわに引きずり、それを踏台にして塀によじのぼる。向う側にははしごがかかっている。
李瓶児は子虚を送り出すと、廊下に立って西門慶を待っている。さっそく部屋に導き入れ、「この間はありがとう存じました。そのままでは気が済みませんので、こうしてお招きいたしましたの」
「でも、にいさんはお帰りになるんでしょう」
「いいえ、泊まって来るように言ってありますから。ふたりの小ものもついて行きましたし、もうだれもおりませんの。このふたりの小間使いと、乳母《うば》がひとり門を番しているだけです。裏も表も門はしめてしまいましたわ」
これを聞くと西門慶は大喜び、ふたりはもう肩を並べ股《もも》を重ねて酒を飲みはじめる。迎春がお酌《しゃく》、綉春が料理を運ぶ。酒が回ってくると、ベッドに香をたきしめるのを潮に、ふたりの小間使いはテーブルを下げ、戸をしめて出て行く。迎春は十七でもうだいぶ悪知恵もあるので、外からそっとかんざしで障子紙をつき破ってのぞきこむと、ふたりはベッドでたのしく雲雨《しごと》の最中である。
西門慶「あなた、お年は?」
「二十三になります。大奥様のお年は?」
「二十六」
「三つ年上ですね。あしたにでも、贈物をもってお伺いしてもいいですかしら。へんに思われないでしょうか」
「あれは、人が良いですからね」
「こちらへお越しになったこと、大奥様はご存じないの? もし聞かれたら、どうなさる?」
「妻は裏の四層にいるからわかりっこないですよ。五番めの妾《めかけ》の潘金運が、すぐ前の奥庭にいるんだが、感づいたっていいですよ」
「五奥さんはおいくつ?」
「妻と同じです」
「もしおいやでなかったら、その人をねえさんて呼びたいわ。大奥様と五奥様の靴を縫ってさしあげたいと思いますわ」
李瓶児は頭から二本のかんざしを抜いて西門慶の髪にさし、「花子虚に見つけられちゃだめよ」
「うん、よくわかってる」
ふたりは膠《にかわ》か漆のように、午前四時ごろまでからみついていたが、空が白むと、子虚がもどるのをおそれ、着物をととのえ、塀を乗り越えて帰って行った。潘金蓮の部屋に帰ると、金蓮はまだ横になっている。
「知らない間にどこへ行ってたの。何も言わずに」
「花二寄《にい》さんがまた使いをよこしたから、一晩じゅう飲んでて、今帰って来たんだ」
金蓮はいくらか怪しく思った。
それから先、西門慶と李瓶児は小間使いに合図させて、花子虚の留守にたわむれていたが、塀越しで、表門から出入りせぬから、隣近所、だれ知る人もいなかった。
ある日、食事をすませた潘金蓮が、孟玉楼といっしょに奥庭の亭で針仕事をしていると、だしぬけに目の前に瓦《かわら》のかけらが飛んで来た。金蓮があたりを見回すと、隣の塀の上にちらりと白い顔が見えた。金蓮は玉楼をつついて、「見てごらん。隣の女中が顔を出したわ。あたしたちがいるからあわてて首をひっこめた」
夕方になって、外の宴会から帰った西門慶は、金蓮の部屋で着替えをすると、そそくさと奥庭へ出て行く。金蓮は注意深くそっと見守っていると、さっきの小間使いが顔を出したかと思うと、西門慶ははしごをかけ、向う側へ塀を乗り越して行った。潘金蓮はその晩寝つかれない。明方近くになると、西門慶が帰って来ていくらか気がねぎみにべッドに近づくと、金蓮ははね起きて、西門慶の耳を引っ張り、
「あなた、ゆうべどこへ行ったの! あんたのやったことぐらい見通しだわ。さあ、あの淫婦と何回寝たかはっきりおっしゃい。白状しないと、前足が乗り越えたとき、後足を引っ張って大声を立てたげるから。あんたみたいな悪党は死んだってお墓が立つもんですか。亭主を色町へおびき出して、その留守に女房へはまりこむって寸法だわね。きのうも、孟|三姐《ねえ》と奥庭で針仕事してたら、大きい方の小間使いめが、塀から頭を出したわよ。あれ、何の合図。どんなばかでもそのくらいはわかるさ」
西門慶は愕然《がくぜん》として、小人のようにちぢまり地にひざまずき、「しっ、小さい声で、小さい声で! 実はこうこうしかじかで、おまえたちふたりに靴を縫って、おまえたちふたりをねえさんとあがめて」
「ふん。そんな妹はいりませんよ。姉妹をかこつけて、人のいいものを取ろうと思いやがって。なんだい」と言いざま、片手で西門慶のズボンをぐっと引きおろすと、証拠は歴然。
「はっきり、おっしゃい。このざまは何? いったい何回したの」
西門慶は顔一面の追従《ついしょう》笑い、
「まあ、まあ、まあ、静かにしてくれよ。向うは何回もおれに催促してるんだ。あしたにでもこちらへ来させて、おまえの前で地に頭をつけ、その上靴を縫わせればいいじゃないか? きょうは、このかんざしをことずかって来てるんだ」と、帽子を脱ぎ、かんざしを抜いて金蓮に渡す。見ると青い宝石に金の寿字型のかんざしで、宮中用のもの。金蓮はさすがににっこりして、「そんなら、だれにも言うのはよそうっと。あんたが塀を越えようが越えまいが、あたしの知ったことじゃないわ。かってになさいな」
「かわいいね。そうしてくれりゃ、おれの教育のかいがあったというものさ。お返しはする、あした、きれいなおべべを買ってやろう」
「うまいこと言って! 大目に見る代わりに三つ条件があるのよ。第一に、色町へけっして足を向けぬこと、第二にあたしの言うことはなんでも聞くこと、第三にあの人のところへ行って帰って来たら、ごまかしなしにみんな報告すること」
「お安いことだ。わかった」
これからというもの、西門慶は隣に泊まると、李瓶児のからだ、腕まえ、一々しゃべって聞かせ、李瓶児のとこから春画まで持って帰って、金蓮に見せて、ふたりで学習するというしまつである。
十四
ある日、呉月娘《ごげつろう》のからだの調子が悪く、姉が見舞いに来ていたとき、西門慶《せいもんけい》が帰って来た。姉が孟玉楼《もうぎょくろう》の部屋にさがると、西門慶がはいって来て、上着を脱いだが、茶も飲まない。月娘は西門慶の顔がふだんとちがっているのに気づいた。
「きょうは茶会だったんでしょう? どうしてこんなに早く」
「うん。そのあとで、花にいさんの招待で四五人で鄭愛香《ていあいこう》の家で飲んでいた。するととつぜん五六人の役人が乗り込んで来やがって、ものも言わず、花にいさんをしょっぴいて行くんだ。おれはびっくりして李桂姐《りけいそ》の家に半日もかくれて様子をうかがわせたが、なんでも花にいさんの東京の親戚《しんせき》が訴えたので、ここまで召捕りに来たというわけなんだ。やっと安心して、それから帰って来た」
「だから、言わんことじゃないでしょう。あんな連中と遊んでいたらろくなことありませんわ。もう行き来しない方がよろしいね。妻のことばは空吹く風と聞き流し、よその人のことは金字経のように真《ま》に受けてさ」
そこへ玳安《たいあん》がはいって来て、花家の奥さんが天福児をよこしてぜひお目にかかりたいと言って来ていると伝えた。西門慶がすぐさま出て行こうとするので、月娘が「世間の口がうるさいですよ」
「なあにかまうもんか。何か相談ごとだろう」
西門慶が行ってみると、李|瓶児《へいじ》は身だしなみも忘れ、白粉《おしろい》はまだら、顔は蝋《ろう》の滓《かす》のよう。西門慶の前にひざまずくと、
「大官人、どうぞ助けてください。あの人は家のことをほっちらかして、外ででたらめばかりやっているから、こんなことになってしまったんです。どうかしてと思いますが、女の身ではどうにもなりません。どうか、隣のよしみで、人を東京へ出して、助けてやってください」
西門慶はあわてて引き起こし、
「どういうわけなんです?」
「一口には申せませんが、なくなった伯父《おじ》に四人の甥《おい》がありまして、一番めが花|子由《しゆ》、二番めが内の人、三番めが花|子光《しこう》、四番めが花|子華《しか》といって皆血のつながった甥です。どれもやくざ者なので伯父さんは内の人ばかり手もとにおき、ほかの甥は寄せつけなかったのです。それで伯父さんがなくなった時も三人に家具や品物は分配してやりましたが、現銀はそのままになっていました。早く分けてやった方が良いとあたしがいつも言っていたのに、内の人は相手にしないでいたら、こんなことになってしまって」言い終ると、女は声を上げて泣きだす。
「何かと思えばそんなことですか。奥さんのことはわたしのこと。よろしい、お引き受けしましょう」
「それで安心いたしましたわ。どれぐらい運動費がいるものでしょうか」
「たいしてかからんでしょう。東京|開封《かいほう》府の楊《よう》府知事は蔡太師《さいたいし》の門人で、この蔡太師と家の親戚の楊提督とは宮中で連絡《ひっかかり》がありますから、ふたりに頼んで楊府知事に口をきいてもらえば、まさか悪いようにはしないでしょう」
そこで女は部屋にもどり三千両の金銀《かね》を出して西門慶に渡す。
「半分でけっこうです。そんなに必要じゃありません」
「多ければあなたがとってください。そのほかにわたしの部屋に四箱、衣服やアクセリーや金めのものが詰まっていますが、これも預かってくださいませんか。いる時には取りに参りますから。何しろ用心しておかないと、安心できませんわ」
「しかし、花にいさんが帰って来て、たずねたらどうします?」
「だいじょうぶです。伯父様が生きてられる時わたしにそっと預けたものですから、あの人は知りません」
西門慶は月娘の意見を聞き、玳安、来旺《らいおう》、来興《らいこう》、平安に食物入れを持たせてやり、三千両の金銀をその中に入れて持ち帰らせ、夜になると、李瓶児側は迎春《げいしゅん》、綉春《しゅうしゅん》、西門慶側は月娘、金蓮《きんれん》、春梅《しゅんばい》で、箱を塀ごしに移し、月娘の部屋に運びこむ。隣近所だれひとりとしてそれを知らない。
西門慶は来保《らいほ》を派遣して楊提督を通じ蔡太師に頼みこむ。蔡太師から命令となれば、楊府知事は義理上きかねばならない。いよいよ裁決の日が来ると、花|子虚《しきょ》は西門慶の手紙の指示どおり、銀子は葬儀で使い果たしたこと、二ヶ所に屋敷、一ヶ所に田地があるが、その他の家財道具は家族で分けあった、とつっぱる。そこで府知事は、花|太監《たいかん》の残した屋敷二つ、田地一ヶ所を売り払って、その金を花|子由《しゆ》ら三人がとるようにせよと判決を下す。花子由たちは、他にかくし銀子があると訴えるが、府知事は一|喝《かつ》して、強引にその申し立てを退けた。
来保《らいほ》から報告を受けると、西門慶は花子虚の釈放を知って大喜びだったが、李瓶児は西門慶を呼んで、今住んでいる家を買いとるようにすすめ、「ねえ、その内に、あたしだって、あなたのものになるんですもの」
西門慶が家にもどって月娘に相談すると、月娘はそんなことをすると花子虚に疑われると反対した。花子虚がもどって来ると、役人が屋敷、田地の売り立てにやって来る。大街安慶坊の大邸宅は七百両で皇族の手にはいり、南門外の田地は六百五十五両で守備の周秀《しゅうしゅう》のものとなる。けれど、今の住居は五百四十両と値がついたものの、西門慶の隣なので、はばかってだれも買い手がつかない。花子虚は再三、西門慶に買うことを頼むが西門慶は買わない。役人は早く片をつけたくてやいやい言う。李瓶児はあわてて馮《ふう》ばあさんを使いに出し、西門慶に、預けてある銀子の中から出して買うようにすすめたのでやっと買うことになった。こうして銀一千八百九十五両は花子虚の兄弟三人に均等に分けられたが、もちろん花子虚は一両も分けまえに預からない。屋敷も田地も失った上、二箱につめておいた金銀三千両も雲がくれているのだから、あわてて李瓶児に、西門慶に渡した運動費の清算をして、その残りを返してもらい、それで住家を買いたいと相談をもちかけた。けれど、李瓶児は
「そんなことできるもんですか。まともなこと一つせず外ででたらめばかりやってるから、こうなってしまったのですわ。わたしは女だからしかたないので隣のだんなに頼んだのですよ。西門|大官人《だんな》は、小ものをさっそく使いにやらせて、あんなに行き届いてやってくださった。それでやっと、無事に帰って来たと思ったら、もう銀子《かね》、銀子《かね》、銀子。なんてことなの? 物がなおれば痛さを忘れ、命拾えば銭《ぜに》思い。勝手がすぎやしない」
「それでも幾らか残ってるだろう。家を買って住まなきゃならんし」
「ばかねえ! そんならなぜ最初からそう書いてこないの。第一、あんたの三千両なんか、どこへも行きやしませんよ。蔡太師でも楊提督でもじょうぶな胃袋なんだから。鼻薬が回ればこそ、無事に釈放されたんでしょう? それに何ですの、家へ帰ればもうきいた口。そんなことより、第一にしなくちゃならないのはお酒にでも呼んでお礼を言うことでしょう。それは|おくび《ヽヽヽ》にも出さずに、清算、清算って、あんたはどんな了見なの?」
花子虚は言いまかされて返すことばもない。
翌日になると、西門慶は玳安に見舞品を届けさせて来たので、花子虚も宴席を設け、西門慶を招いて、運動費の清算を求め、家を買おうと計画する。ところが李瓶児はそっと馮《ふう》ばあさんをやって、席には出向かぬように注意した。花子虚は鈍感だから何回も使いを出して招くが、西門慶はお茶屋に避けていていつも不在であった。花子虚は気が遠くなるほど憤慨するが、どうにもしようがない。花子虚は二百五十両の銀子をやっと才覚し、獅子《しし》街に家を買って住むことになったが、あまり煩悶《はんもん》したのでひどい病気になり、十一月初旬から床についたまま起き上がれず、はじめこそ医者に見せたが、あとは寝ているばかり、二十日あまりで、ああ悲しいかな、死んでしまった。二十四歳である。どさくさに召使の天喜児は五両の銀子をぬすんで逃げ出してしまった。花子虚の葬式の世話一式は西門慶がし、会葬者が花子虚の兄弟であったとは、一種皮肉な光景である。花子虚が死ぬと、霊壇こそ設けてあれ、もう大っぴらで、迎春、綉春のふたりの小間使いはすでに花子虚の生前から西門慶に抱かせてあったから、なおさらであった。
その内に正月九日になるとこの日が潘《はん》金蓮の誕生日だと知って、李瓶児は花子虚の三十五日も済んでいないのに、喪服のまま轎にのり、贈物をもって、西門慶の宅へ出かけ、月娘をはじめ、妻妾《さいしょう》と顔つなぎをし、その夜は金蓮の部屋に泊まって帰った。正月十五日の誕生日には、李瓶児のところへ招くという約束さえできたのである。李瓶児は西門慶が旧花子虚宅へ小門をひらいて通路を作ったことを金蓮より聞き心にとめて帰った。
十五
正月十五日、元宵節《げんしょうせつ》となった。この日は燈節《とうせつ》とも言い、家々に燈籠《とうろう》をかかげて祝う。
この日の前の日に、西門慶は李瓶児の誕生日を祝うため、玳安をやって、四盤の珍味、一|樽《たる》の酒、一着の金糸入りの衣服、一盤の寿《ことぶき》うどん、一盤の桃を、月娘の名で届けさせる。李瓶児はたいへん喜び、迎春に命じて茶菓子を出し、帰る時に二銭の小粒とハンカチをやり、箱をかついで来たふたりの者にも百文の小粒をやる。それから五通の案内状を馮《ふう》婆に持たせて、誕生の十五日に、月娘、李嬌児《りきょうじ》、孟玉楼、孫|雪娥《せつが》、潘金蓮の五人を招き、別に西門慶にも秘密の手紙をもたせ、これは夜に招いた。
さて翌日、月娘は留守居に孫雪娥を残し、李嬌児、孟玉楼、潘金蓮と連れ立ち、四台の轎《かご》で乗りつける。お伴は、来興、来安、玳安、画童《がどう》である。
獅子街の李瓶児の家は間口四部屋、奥行が三層で、通りに面した方は二階建てになっている。その二階に、屏風《びょうぶ》やテーブルを並べ、たくさんの燈籠がつるしてあり、下の客間に芸者ふたりを呼んでのにぎやかな昼食をすませた後、ここへ上って街《まち》の燈籠と、雲と集まる人出をながめて遊ぶ。呉月娘はしばらくすると、あまり通りがさわがしいので李嬌児と連れ立って席にもどって酒を飲みはじめたが、潘金蓮と孟玉楼はふたりの芸者といっしょに窓によりかかって下をながめて、きゃあきゃあ騒いでいる。下を通っている群集の数人が白い上着に真紅の外掛《そでなし》、上半身を乗り出し、さかんに瓜《うり》の種をかんでは、その殻《から》を通りの人に吐き落としている金蓮に目をつけ、何者だろうと取りざたしていると、ひとりの男が走り寄り、小声で、
「知らんのかね。あのふたりの女はちっぽけな家の女じゃない、ほらあの西門のだんなのとこの女だ。きっと大奥さんといっしょに燈籠を見に来てるんだ。あの緑の外掛《そでなし》を着てる方は知らねえが、紅に金のを着て花かんざしをさしてるのは武大の女房で、亭主を殺して色男といっしょになったやつさ。もう一二年姿を見なかったが、畜生、きれいになりやがったねえ」
下にだんだん人が集まって来るので、月娘は金蓮と玉楼を呼び入れ、ふたりの芸者に歌わせて酒を飲む。やがて月娘と李嬌児は帰って行ったが、金蓮と玉楼はとっぷり暮れるまで遊んでいた。
西門慶はその日、応伯爵と謝希大とともに家で食事してから三人でうろついていると、孫|寡嘴《かし》、祝実念に出くわし、むりやりに李桂姐のところへ引っ張って行かれる。西門慶はいたしかたなく三両の銀子を出し宴会となったが、三人がはしゃぎ回っても、おもしろくもおかしくも、なんともない、気にかかるのは李瓶児との約束、そのうちに玳安が馬で迎えに来て、耳もとで、
「大奥様と二奥様がお帰りになったので、花家の奥様がだんなをお呼びしてとのことでしたから、どうぞお早く」
これを聞いた西門慶は、人に知られぬよう馬を裏門に回して待たせると、酒も飲まず、桂姐を部屋へ引っ張りこみ、しばらく腰をおろしたと見るまに、便所にかこつけ、逃げ出してしまった。残った連中は十時ごろまで飲んだくれて、解散した。
十六
西門慶が馬に乗り玳安を連れて李瓶児の家に着くころには、もう金蓮も玉楼も帰ってしまっていた。ふたりはそれから春燈をともし、幕をたれ、火ばちには炭をついで飲み直しとなる。李瓶児は一杯の酒を西門慶にささげると、最敬礼して、
「夫が死んでからというもの、たよりになる人とておりません。これから先はあなただけがたよりです。どうぞこの杯をお干しになって、わたしの力になってくださるこころをお示しくださいませ」と目に涙を浮かべている。西門慶は片手に杯を受けると、片手で李瓶児を助け起こし、
「お立ちなさい。それほどまでに思ってくれるのなら、わたしの心も決まっている。喪が明けたら、きっとうまく取り計らうつもり。まあ、きょうはあなたのめでたい日なんだから、ゆっくり飲もうよね」
西門慶は杯を飲み干すと、その杯になみなみとついで女に返す。女はそれを飲み干すと席にもどった。
玳安に李瓶児のところだと言わぬように言い含めて帰すと、李瓶児と西門慶は迎春にべッドを片づけさせ、菓子や酒をそこへ運ばせる。女は紫錦のたれ幕の中で着物を脱ぎ、真白な裸のまま、西門慶と肩を並べ、賭《かけ》けをしながら酒を飲みはじめた。
「ねえ、お家の工事はいつ始めますの?」
「二月に着工するよ。あの家までぶち通して、あの裏庭につづける。前に築山《つきやま》をつくって、奥庭に日|除《よ》けだなをつくり、後に三部屋の花見楼を建てるんだ」
「あたしのこのベッドの後ろの茶箱に、まだ三四十斤の沈香《じんこう》と二百斤の白蝋《はくろう》、二|鑵《かん》の水銀、八十斤の西洋|胡椒《こしょう》がはいってるの。あしたにでも持っていかれて、銀子にかえ、建築の費用につかってくださいな。それから、あたしがおいやじゃなかったら、妹分にしてくださいって、大奥さんに言ってください。何番めでもいいの。あたし、とてもあなたと別れていられないわ」と涙をぼろぼろこぼす。西門慶はいそいでハンカチでふいてやり、
「わかった、わかった。喪が明けるころには家ができるさ。今すぐでは住まわすところがないからね」
「その気があるのなら、すぐ娶ってくださいな。五奥さんと同じでもいいの。あたし、あの人が大好き。裏の孟奥さんとも仲よくなったし。あたし、一つ胎《はら》の姉妹みたいな気がする。けれど大奥さんはやかましい方らしいわね」
「いや、そんなことはない。でなけりゃ、大ぜい女がおれるわけはないじゃないか。まあ三部屋の二階建てにして、門を二つこしらえることにしようか。どうだい?」
「まあ、あたしもそう思ってたの!」
ふたりはそこで午前二時ごろまで淫欲《いんよく》にふけり、やっと、肩を並べ股《もも》をかさねて眠ったが、翌朝は食事時になっても起き上がらず、やっと目がさめると、髪もとかず、迎春のもって来た粥《かゆ》を半|椀《わん》食べたきりで、また酒を飲み、さかり犬のように遊びはじめる。最高調に達しようというとき、玳安が馬で迎えに来た。窓下へ呼び用件をきけば、四川《しせん》と広東《かんとん》から三人の客が珍らしい品物をもって来て番頭と交渉中だが、それで月娘が帰って来てくれと言っているというのである。
「おまえは、おれがここにいるとは言わなかったろうな」
「はい、桂ねえさんところにおいでだと申しあげておきました」
「役に立たんやつばかりだな。傅《ふ》番頭がそんなことはやればいいのに」
「お客がだんなと直接交渉したいと言っているので」
李瓶児はふたりの話を聞いていたが、「商売がたいせつですわ。使いをよこしたんですもの、帰らないと大奥さんがへんに思いますよ」
「おまえは知らんだろうが、あいつらは品物のはけ口に困って家へ来たのさ。わざとじらすも手だよ。清河《せいか》県広しといえども、まとまった取引ができるのはおれんところぐらいさね」
「商売と道路はいくらあってもじゃまになりませんわ。お帰りになってまた出直して来られたら。これから先、柳の葉っぱぐらい、日はありますわ」
西門慶がぼうっとした目つきで店に着くと、四五人の客が待ちかまえている。取引をすませて、潘金蓮の部屋へ行くと、
「昨夜はどこへ行ったの。ほんとうのことおっしゃい。でないと、ほこりの立つぐらい騒いでやるから」
「おまえたちが花家へ遊びに行ったから、友だちと燈市見物に行き、それから色町へ飲みに行って泊まったのさ。小ものが迎えに来たから帰って来たんだよ」
「うそおっしゃい。魂だけはお茶屋で、からだはどこかに飛んでったんでしょ。きのうあの淫婦があたしたちを呼んだのはお体裁、ほんとうはあんたを引っ張りこむのが眼目。一晩じゅうふざけて、ぬけがらを帰してよこしたんだわ。玳安の|わる《ヽヽ》もおしこみが良くて、めっきり口が達者になったわ。はじめ馬を引いて帰って来た時、大奥さんが尋ねたら、傅番頭たちと燈籠を見物して、李桂姐のところで飲んでおられます、明朝早く迎えに来るようにとのお話で、なんて返事をしてる。あとで、あたしが呼びつけて、おどしたら、とうとう白状しました。わるいやつだわ。あんたがあんなことを言わせたんでしょ?」
とうとう包みきれず西門慶は、李瓶児が晩に呼んだこと、泣きながらたよりがないと訴えたこと、そのほか、家のこと、香や蝋《ろう》のこと、金蓮といっしょに住みたがり、妹となりたがっていることなど話すと、
「あたしも気の合う人がいないから、ほんとに来てもらいたいわ。昔から船は多くても道のじゃまにならず、車は多くても港のじゃまにならないっていうもの。けど、あたしがそうだからって、それよりあんた大奥さんに尋ねてみなくっちゃ」
「そうだな。だが、あれはまだ喪が済んでいないしなあ」
話し終って、女が、西門慶の上着を脱がすと、袖《そで》の中からころころ、鉄砲|丸《だま》のようなものがころげ出した。
「これ、なあに? 持ってると手がしびれてくるみたいよ」
「知らんかね、これは勉子鈴《べんしれい》〔当時のバイブレーター〕といって、ビルマでできるんだ。いいやつは四五両もする」
西門慶が昨夜のことを細々《こまごま》と話すと、金蓮はたまらなくなり、まっ昼間というのに、着物を脱いでいどみかかった。
李瓶児の香や蝋は三百八十両に売れた。百八十両は雑費用に手もとに残し、二百両を、李瓶児は建築費として西門慶に渡す。いよいよ二月八日の吉日を選んで着工することに決まった。西門慶は五百両を来招《らいしょう》と金庫番の賁四《ほんし》に渡し、れんが、かわら、材木、石材などの買い付けと帳簿を受け持たせた。賁四は名を賁第伝《ほんだいでん》といい、宮中の小役人くずれの|ごろつき《ヽヽヽヽ》で、その後大家の使用人となったが、そこの乳母とでき合って盗み出し、古着屋の帳簿をやっているうち、琴・瑟《しつ》・簫《しょう》・笛などの芸ごとで西門慶と懇意になり、秤《はかり》差しや、薬の仲買いに使われていた男である。賁四、来招の両人は大工や左官を監督して、どんどん花家の古家をうちこわし、塀をのけ、築山と日除けだなをこしらえにかかる。こうして、工事にかかって一月ばかり、三月の上旬になり、花子虚の百日忌も、間近となった。李瓶児は、西門慶を呼んで相談し、花子虚の霊牌《れいはい》を焼くことに決め、「この家は売れないから、だれかに見させておいて、あたしを引き取ってくださいよ。あたしはあなたの床をとったり、ふとんを敷いたりしたいわ」とさめざめと泣く。
「心配するなよ。もう妻にも金蓮にも話しておいたから。おまえの家が建って、喪が終ってからで良いじゃないか」
「それなら、大ざっぱでいいから、早く家を建ててください。あたしはあなたの所で一日でも住めたら死んでもうれしいの。このままここで一晩明かすのは、あたしには一年にも思われるわ」
「よくわかってる」
「でなきゃ、先に位牌を焼いて、五奥さんのところにしばらく置いてもらい、新しい家が建ってから移ることにしたら。家へ帰って話してくださいな。この三月十日が百ヶ日ですから、お経を上げて位牌を焼きます」
西門慶は承知して、その晩は女のところに泊まり、翌日家に帰ると金蓮に話した。
「いいわ。二部屋あけときますから、大ねえさんにも話しておいてください」
月娘に話すと、「引き取ってはまずいんじゃないかしら。第一にあの人はまだ喪中でしょう? 第二に、あの人の夫とは親友だったじゃないですか。第三に、あの人といっしょにあの家を買ったり、あの人の品物も家にずいぶん持ちこんであるでしょう? あの家の花大《かだい》というのが、とんでもない無頼漢だそうよ。もしかぎつけたら、頭に虱《しらみ》がわいたぐらいのめんどうじゃ済みますまいよ。わたしはまあ、あなたのためを思えばこう考えるんですけど、聞く聞かないはお好きになさるといいわ」
西門慶はがっかりして広間にもどり、腰をおろして考えたが、名案も浮かばない。すごすご金蓮の部屋にもどって月娘の話をくりかえすと、
「ねえさんのおっしゃるとおりだわ。親友の家を買い、その奥さんをもらうなんて、へんだろうな」
「そんなことはどうでもいい。ただ花大の野郎が気がかりなんだよ。喪も明けてないし、因縁をつけられそうだな。李瓶児へどう返事したものか、困るよ」
「ふん、なんでもないこった。こう返事すりゃいいわ。五奥さんに話したら、あそこへ行ったって二階には薬材がつまってて寝るところがない。いましばらく待ってくれ。急ぐだけ急がせ、ペンキがかわくころには喪が明けるわけだから、その時移る方がいいじゃないか。五奥さんの所に寝泊りしたって、どっちつかずでつまらないぜ、って」
西門慶は金蓮に知恵をつけられ、さっそく李瓶児にそのことをしゃべり、
「いま一つうるさいのは、花大《かだい》のやつが喪中に因縁をつけることなんだ」
「あの人に指一本触れさせるもんですか。家は別だし、お役所のさばきで手は切れてるはずですよ。ことわざにも、初婚は親まかせ、再婚は身まかせと言うし、嫂叔は交際せずとも言いますわ。だから義兄はわたしをどうもできませんわ。へんなこと言って来たら、たいていのことでは済まさない覚悟、どうぞ心配しないで。絶対に指一本ささせるものじゃないわ。家はいつでき上がります?」
「急がせてるが、五月にはいるだろうな」
「急がせてくださいよ。それまでじっと待っていますから」
小おんなが酒を持って来たので、ふたりはたのしんで夜をすごした。それから先、西門慶は三日にあげず、李瓶児の家にかよった。
もう五月の節句、工事はもう日除けだなを残すばかりになる。李瓶児は酒席を設けて西門慶を呼んだが、第一に粽《ちまき》をごちそうするため、第二に輿《こし》入れの相談のためである。その結果、五月十五日に僧侶をまねいて位牌を焼き、それから輿入れすることに決まった。で、西門慶が、
「位牌を焼く際、花にいさんの兄弟は呼ぶのかい?」
「案内状は出しますが、来る来ないはあちらしだいよ」
五月十五日、女は報恩寺から十二名の僧を呼んで、自宅で経を上げ、位牌を焼いたが、西門慶は玳安に五両の銀子を夜の喪明けの宴会用に持たせて手つだいに行かせ、自分は応伯爵の誕生祝いに平安と書童を供につれお昼ごろ出かけて行った。
この日は、謝希大、祝実念、孫天化、呉典恩、雲理守、常峙節、白賚光《はくらいこう》の七名の兄弟に、新たに賁第伝《ほんだいでん》が加わり十兄弟ことごとくが席に連らなったわけだった。日暮れごろまで飲んでいると、玳安が馬を引いて迎えに来て、耳もとで
「花家の奥さんがお待ちしています」
西門慶が目顔で知らせて向うに行かせようとすると応伯爵、
「おい、待て。白状せんと耳をねじ切るぞ。おれの誕生日だというのに日の高いうちから馬なんか引っ張ってきやがって、いったいだれの使いだ。家のどの奥さんだ。それともどこの|いろ《ヽヽ》なんだ。もしも言わぬと、きさまのような禿《はげ》犬、一生嫁取りしてやらぬようだんなに言いつけるぞ」
「いえ、だれの使いでもありません。夜はぶっそうですので、馬を引いてお迎えに上がったのです」
「ごまかしやがったな。よし、そんならどこからか聞き出してみせる。その時に化けの皮ひんむいてやるからな」と酒と菓子を与えて玳安に食べさせる。しばらくすると、西門慶は便所に立って玳安を暗がりに呼び、「花家に来た顔ぶれはだれだれだ?」
「花三はくにへ帰っていますし、花四は眼病でとじこもっていて、花大夫婦だけがそろって来ました。酒を飲んだり飯を食ったりしていました。花大は一足先に帰り、お上《かみ》さんだけが部屋に横になっていましたが、奥さんが銀子十両と二そろい着物をやったもので、地に頭をつけてお礼を言ってました」
「あいつごててやしなかったか」
「いいえ。奥さんがお輿入れになったら三日めの祝いにはかならず参上させていただくとは申してました」
「それ、ほんとうか!」
「わたしはうそなどつきません」
西門慶、それを聞くと大喜びである。
「おつとめは済んだか」
「へい、和尚はとっくに帰り、位牌も焼きました。奥さんがお早くと申しておられます」
「よしわかった。外で馬のしたくをしておれ」
玳安が出ようとすると、陰にかくれていた応伯爵が
「ワッ」と玳安をすくみ上がらせ、「この犬の骨! いいかげんな返事をしやがって。おれはちゃんと聞いたぞ。おじょうずなペテン師だな、きさま」
西門慶「おい、犬っころ! 大きな声でほえるなよ」
伯爵「前から渡りをつけててくれたのなら黙ってて差し上げるがね」と席へひき返し、このことをぶちまけてから西門慶の手を握って、「にいさん、あんまりじゃないの。こういうことを兄弟に黙ってる手はないやね。花大ぐらいごねて来たって、わたしらが出りゃなんのことがあるもんか。さあ、もう打ち明けちまいなさいよ。たとえ火の中水の底、あっしたち、厭《いと》いはねえんだから」
そこで伯爵は杯を持ち、謝希大は酒壷《とくり》を持ち、祝実念は菜の皿《さら》をささげ、その他の面々はふたりの役者といっしょにひざまずいて、「あなうれし吉《よ》き日かな」という歌を歌って、西門慶に三杯の酒を飲まし、その日にこのふたりの役者も呼ぶことを約束させる。こうして日は傾いていくが、応伯爵は通せんぼしてどうしても出さない。ついに謝希大が「応あにき、放してやんなよ。仕事のじゃましちゃわるいや。あとでひっかかれるぜ」
西門慶はそのすきに、馬にまたがるが早いか獅子街へと飛んで行く。
李瓶児は喪の髪を解き、あでやかな衣服に着替えると、こうこうと明りをともし、豪華な一テーブルの料理も用意して、上座に西門慶を腰掛けさせ、なみなみと一杯ついで頭を四回地につけ、「きょう位牌は焼いてしまいました。あなたといつまでも添いとげとうございます」
そこで綉春に酌をさせながら飲みだしたが、何にせよ、李瓶児はうれしくて、はしゃぎがちになる。その酔態を見ているうちに、西門慶はどうにも情欲がおさえきれなくなってきた。ふたりはむしゃぶりついて、キッスし合い、ほおとほおをくっつける。李瓶児は西門慶を胸に抱きしめ、
「おにいさん、ねえ、一刻も早くあたしを引き取ってちょうだい。あんただって便利だし、あたしだって、ここにひとりぼっちじゃ、切ないわ」ふたりは抱き合ったまま、ごろごろ、床をころげ回った。
十七
五月二十日は総督府|周守備《しゅうしゅび》の誕生日だった。西門慶は四人の供を従え白馬にのって祝いに出て行く。大広間に集まったのは夏提刑《かていけい》、張団練《ちょうだんれん》、荊千戸《けいせんこ》、賀《が》千戸などの武官連で、楽隊が迎えの音楽を鳴らし、芝居もかけているという豪勢さだった。夕暮れになると、玳安が迎えに来、李瓶児ができ上がった頭飾りを見せたいと家で待っていると伝える。西門慶が立ち上がると、周守備は門に立ちふさがり、大杯を差し出して酒を強《し》い、引き留めようとしたが、酒は飲み、用事にかこつけて、のがれるように李瓶児の家へと急ぐ。玳安にあす迎えに来るように言いつけて帰すと、李瓶児の頭飾りを箱から出させてながめた。もうあとは二十四日に結納《ゆいのう》、次の月の四日には輿入れという段取りである。女はたいへんはしゃぎ、西門慶とくつろいで飲みはじめたが、やがて小間使いにべッドの涼席《うすべり》をきれいにぬぐわせ、紗帳《しゃがや》の中に蘭麝《らんじゃ》の香をたきしめ、ふとんをひろげると、着物を脱ぎすて、肩を並べ股《もも》を重ねて飲みだした。やがて雲雨《しごと》となったが、西門慶は酔ったまぎれに、
「花子虚とおれと、くらべて、どうだい?」
「あの人はのらくらしていて、つまらなかったわ。いつだって外ででたらめして来て、めったにわたしと寝なかったわ。叔父《おじ》さんがいたころは、わたしと別の室で寝るしまつだったし。あんたは憎らしいぐらいわたしをとらえてしまったわ。まるで惚《ほ》れ薬を飲まされたみたい」
こうしてたわむれつづけて、八時ごろになったと思われるころ、表門の方で音がするので、馮《ふう》婆を見にやらせると玳安だった、玳安はあたふたはいって来たが、ふたりのありさまでは部屋の中にはいれない。すだれの外から「お嬢さんと、お婿さんがたくさんの荷物で引き移って来られました。大奥様がだんなにお話があると申しておられます」
西門慶はあわてて起き上がり、家へ一目散に帰ってみると、おくの広間にはこうこうと灯《ひ》がともされ、娘と婿がおり、箱や家具が山ほど積み重ねられている。婿|陳敬済《ちんけいさい》は泣きながらあいさつし、
「楊|老爺《だんな》が弾劾《だんがい》され、聖旨によって南牢《なんろう》へ送られたんです。門下の親族や縁族はことごとく罰せられるということを、人が父に伝えて来ました。父はおどろいて、わたしとお嬢さんに品物ともども当分こちらへ避難するように申しております」
「おとうさんの手紙でもあるか」
「はい、ここにございます」
その文面は、
[#ここから2字下げ]
西門慶殿。とりいそぎ用件のみ申し上げます。現在辺境が危く、賊が雄州《ゆうしゅう》を掠奪《りゃくだつ》いたしていますが、兵部《ひょうぶ》の王尚書《おうしょうしょ》が援兵を出さず、軍機をあやまったため、宮中の楊閣下は監察官に弾劾されました。
陛下には激怒あそばされ、楊閣下は南牢につなぎ、門下親族使用人等をことごとく辺境へ放逐し、兵隊にするとのことです。小生はこれを知りあわてましたが、かくまってくれる所もなく、まず愚息、令嬢、箱籠などを、しばらくの間、貴邸にかくまわれたく、この段お願い申し上げます。小生はこれより直ちに上京、縁者張|世廉《せいれん》を尋ね、実状をさぐります。事件の収まり次第帰宅し、ご恩には必ずお礼は忘れませぬ。恐れるのは県内に噂《うわさ》の高いことのみであります。
愚息には銀子五百両を渡しおきましたからご受納ください。ご恩は決して忘れませぬ。燈下にて、草々
[#ここで字下げ終わり]
読み終ると西門慶は、手足のなえるほど驚き、娘と婿の住む部屋、荷物を月娘の部屋へ入れさすなどのさしずをすると、さっそく、役人のひとりに五両の金を渡して、夜中だというのに県の助役の家へ走らせ、東京《とうけい》から来た文書を写させた。その文書は西門慶の頼みとする蔡京《さいきょう》をはじめとし、|楊※[#「晉+戈」、unicode6229]《ようせん》、末に至っては敬済の父|陳洪《ちんこう》に至るまでの一党親族の痛烈な弾劾文で、蔡太師はしばらくその職にとどめておくが、楊提督は斬刑、陳洪らは枷《かせ》を一月課した後、辺境へ送って兵隊にしてしまうのが良いというふうに結ばれていた。
西門慶は読み終って万事休すとぞっとしたが、金銀宝|骨董《こっとう》などをそれぞれ隠し所へしまい、来保、来旺のふたりを寝室へ呼びこみ様子を見にゆくことを命じ、二十両の銀子を渡して早朝四時に、東京へ出発させた。
西門慶はその日から、奥庭の工事はぷっつり中止し、表門をしめ、召使でさえいたずらに外出はさせない。心配に心配を重ね、憂いに憂いを積むという調子で部屋にとじこもり、李瓶児をめとることなど、てんから忘れてしまった。月娘が気を大きくもつように慰めても、
「女に何がわかるか。陳家は親戚《しんせき》で、家には娘も婿も泊まっている。隣近所には恨みをもっているやつも多いんだ。どこかの悪《わる》が、それからそれへとたぐって来やがったら、お前の命だってあぶないもんだ。引っこんでなきゃあぶない」と、家の中でじりじりしているばかりである。
李瓶児は一日二日西門慶を待っていたが、音さたがない。馮《ふう》婆を毎日のように使いに出しても、西門家の表門は閉じられたままで出入りする人の姿も見えぬ。そのうち二十四日が来た。この日やっと馮婆は、馬に水を飲ませに出て来た玳安をつかまえ、李瓶児の頭飾りを西門慶に見せるように手渡したが、受け取った、何日かしたら出かけて行くとの伝言だけで、本人は姿を現わさない。こうして五月がおわり、六月になろうというのになんの連絡もなく、李瓶児は茶もご飯ものどを通らぬしまつになった。からだも気持もつかれ果て、夜は西門慶の夢ばかり見て、名をささやいたり、姓を呼んだり、だんだん黄色くやせ衰え、床についたまま起き上がれなくなってしまう。心配した馮《ふう》婆は蒋竹山《しょうちくざん》という三十歳ぐらいの小がらの軽薄才士の医者を連れて来た。竹山は李瓶児の姿を見てひそかに心を動かしたが、ともかく薬がきき、数日たつと全快する。李瓶児は酒肴《しゅこう》を用意して、蒋竹山を自分の部屋でごちそうする。酒が回ってくると、竹山はしきりと女を盗見していたが、「奥さん、お幾つでしょうか」
「二十四になります」
「奥さんのようなお若い方が何不自由なくお暮らしになっていらして、鬱結性《ノイローゼ》におなりになるとは合点がいきませんな」
女は笑って、「夫に死に別れてひとり寂しく暮らしているんですから、病気にもなりますわ」
「いつなくなられたのですか」
「昨年の十一月に急病でなくなりましたの。八カ月になります」
「どなたにかかられたのですか」
「大街の胡《こ》先生ですが」
「ああ、劉太監の家を借りている薮《やぶ》ですか。太医《たいい》院出身でもなし、診察できませんよ。なんであんな男を呼ばれたのです」
「近所の人がすすめてくれましたの。運が悪かったんですわね」
「お子さんはいらっしゃらないのですか」
「ありません」
「惜しいことですな。奥さんのようにお若い方が|やもめ《ヽヽヽ》暮らしとは、なんとかお考えになったらいかがですか」
「縁談があって、近くとつぐことにはなっているんですが」
「どなたなのですか」
「県前に生薬《きぐすり》屋を開いている西門大官人です」
「えっ、それはとんだことですよ。あんな男とですか! わたしは内情をよく知っていますがね、あの男は表は商売人、裏は紳士ごろですな。妾《めかけ》が五六人、小おんなは数知れずおいていますが、腹が立てば打《ぶ》ったたく、気に入らねば売りとばす、女いびりの親玉といったやつでね。わたしに話されて良かったですよ。もし行ってられたら、ひどいことになっていました。最近、親戚のものが何かの事件であの家にころがりこみ、建てかけの家も工事を投げ出してしまっていますよ。東京から文書が下ってくれば、あの家も官に没収されるしまつとなりそうですなあ」
女はぼうぜんとする。たくさんの品物を西門慶の家に運びこんでしまったことが、なんとも言えず口惜しい。
「よく教えてくださいました。それでしたら、どこか良い口があればお知らせくださいまし」
竹山はここぞとばかり、きまじめに、「どういう方をお望みですか。お聞きしておけば、わたしも考えようがございますが」
「たいしてむつかしい注文はありませんわ。先生のような方でしたら」
蒋竹山はうれしさ余って、あわてて席をはずすと、女の前に両ひざをつき、
「奥さん! わたしは妻を失って独身です。子供もありません。おぼし召しがあれば、どうぞわたしといっしょになってくださいませ」
女は笑ってかれの手をとり立たせようとし、
「先生はお年はおいくつ? 奥さんになくなられてどのぐらいになりますの? もし結婚なさるおつもりなら仲人《なこうど》を立てなければ礼にはずれやしませんかしら」
竹山はひざまずいたまま、
「二十九歳になります。正月二十七日の卯《う》時の生まれです。妻は昨年死にました。家が貧乏なのであなたに差し上げる何ものもありませんが、奥様がそうおっしゃってくださるのなら、仲人など必要ではございますまい」
女は笑い、「そうなら、わたしの所の馮《ふう》婆さんを仲人ということにしましょう。そしたら、結納もいりませんわ。黄道吉日《おうどうきちにち》をえらんで、あなたに来ていただきましょう。これでいかが」
竹山は地べたにひれ伏してしまった。
ふたりは杯をかわして結婚の約束をしたが、竹山を帰したあと、女は馮婆に、「西門慶はこうこういうふうで、当てにならないから、あの先生に来てもらうことも悪くはあるまいね」
翌日、馮婆を仲人とし、六月十八日、蒋竹山を自分の家に迎えて夫婦となる。三日たつと竹山に三百両の銀子を与え、通りに面した二間を店とし、やがて蒋竹山は驢馬《ろば》さえ買って往診に乗り回せる身となった。
十八
西門慶が東京へ差し向けた来保、来旺のふたりは到着して二日めに、もう蔡太師の屋敷の前に立つ。来保は高安《こうあん》に十両つかませて、蔡太師のむすこの|蔡※[#「にんべん+|+久」]《さいきゅう》に会うことができた。|蔡※[#「にんべん+|+久」]《さいきゅう》は白米五千石の賄賂により、この事件担当の右大臣李のとこらへ高安を介添えにつけて、両人に手紙をもたせて李|邦彦《ほうげん》の屋敷へ行かせた。李は高安から話を聞くと、来保、来旺を呼び入れる。ふたりが広間にひざまずくと高安はそばから|蔡※[#「にんべん+|+久」]《さいきゅう》よりの手紙や贈物を、来保は楊提督の親族としての贈物をささげる。邦彦《ほうげん》は
「蔡《さい》閣下の上に楊提督からのまで重なっては、この贈物は受け取りかねるな。その上、楊提督については、きのう聖上も心を動かされて、もうなんでもなくなったのだ。だが、その下で悪事を働いた者は罰せられるね」と言いながら、左右の者に文書を持って来させる。それには、陳洪、西門慶の名などが見られた。来保はあわてふためいて地にひれ伏し、
「わたくしはこの西門慶の家人でございます。なにとぞだんな様にはお恵みくださいまして、お救いくださいますよう、お願い申しあげます」
高安もひざまずいて、そばから口添えをする。邦彦は五百両の金銀に心を動かし、筆をとると、西門慶の文字をうまく賈廉《かれん》と改作して贈物を受け取り、|蔡※[#「にんべん+|+久」]《さいきゅう》への返書をしたためると、高安、来保、来旺に五両の酒手をとらせた。
もどって来たふたりから、ことの次第を聞いた西門慶は、水おけにつけられたようにゾッとし、月娘に向かって、「早く運動してよかったよ。命があぶないところだった」
やっとことが落着したので西門慶は門をひらかせ、奥庭の工事も再開し、外出もするようになった。
ある日、玳安は獅子街を通り、李瓶児の家が生薬屋をひらいてなかなか繁盛しているのを見て、家へ帰って西門慶に話した。西門慶は半信半疑でそれを聞いた。
七月になり、秋風がそよそよと吹き、露深いころとなる。西門慶が馬に乗って町を通っていると応伯爵と謝希大が呼びとめ、
「これはお珍らしい。お宅へ何回も伺ったが、門がしまったきりで、遠慮していましたが、家ん中でどうしてたんです? 奥さんはもう来てるんでしょう? われわれに披露《ひろう》もしないでさ」
「いや。実は親戚の陳家にごたごたがあってね、嫁取りするどころの騒ぎじゃなかったんだ」
「そうとは知らなかったですなあ。だが、ここでお会いしたら放すわけにもゆかんです。ひとつ呉銀児《ごぎんじ》のとこへ押しかけましょうや」
日が暮れてやっと放された生酔いの西門慶が馬で帰って来る途中、あたふたと歩いている馮《ふう》婆に出くわす。西門慶は馬を止めて、「おい、おまえどこへ行くんだ」
「奥さんのお使いで、なくなっただんなにお線香を上げに行って来たのです」
「奥さんは景気がいいってことじゃないか。あした行くからね」
「何おっしゃるんですよ。でき上がるところまで持って来た縁談を、鍋《なべ》ごと人にさらわれてるのに」
「えっ? だれかと結婚したのか?」
「だって、だんなが悪いんですよ、わたしが結納を持って上がっても何の音さたもなし、門を締めたきりですもの」
「だれだ、相手は」
馮婆はいきさつをすっかり話す。西門慶はすっかりいら立って馬に拍車をかけ、家へすっ飛んで帰ると、前庭で呉月娘、孟玉楼、潘金蓮、西門|大姐《たいそ》がなわ飛びをやっている。西門慶が帰ったのを見るとみんな奥へ引っこんだが、金蓮ひとり庭の柱にもたれていた。西門慶はずかずかそばへ来ると、
「きさまら淫婦め、なわ飛びなんかしやがって」と蹴《け》とばし裏へはいって行ったが、月娘の部屋にも寄らず西|廂《むね》の書斎にはいり、召使や小ものに当たりちらして、ぷりぷりしている。女どもはおどおどしているばかり。呉月娘は金蓮が恨めしくなって、
「酔って帰って来た時は気をつけりゃいいのに、にやにやして残ってるから、みんなまで虫けら同然にどなられるのよ」とつぶやくと、玉楼も
「わたしたちだけならいいけれど、お嬢さんまで淫婦呼ばわりされるなんてひどい」
すると金蓮が「何人もいたのに、あたしだけ蹴とばされて、やりきれたもんじゃないわよ」
月娘はむっとして、「だんながおまえさんを蹴ったのは、わたしたちみんなを蹴ったのも同然なんだよ。ほかの人のことも、ちょっと考えなさい。ことばを慎むことだね」
「ねえさん、そうじゃないわ。あの人はどこかで何かあったから、あたしを蹴って気を晴らしたんでしょう」
「あんたがそばにいなきゃ良かったんだよ」
玉楼が「ねえさん、だれかに、どこで飲んで来たのか尋ねてみたらいいわ。きっと外で何かあったのよ」
そこで玳安にきつく問いただすと、李瓶児が原因だということがわかった。月娘は
「あんな恥知らずの淫婦のことばを信用してて、よそに嫁入りしたからって、家でわめき散らすことないじゃないか」
「いいえ、医者を連れこんで、銀子《かね》を出してやって生薬屋をひらかせたんですよ。前にも申しあげましたが、だんなは信用なさらなかったのです」
孟玉楼が「だんなが死んでからどのぐらいたつのかな。喪も明けないのに男とくっつくなんて礼にかなわないわね」
すると月娘は冷やかに、「こんなご時勢だもの、義理堅いことなど言ったって通らないわ。喪中にべッド寂しいもんだから、男といっしょに飲んだりふざけたり、操なんかあるもんかね」
月娘のこの一言は孟玉楼と潘金蓮を同時にやりこめたことになる。ふたりとも恥をかかされた気になって部屋へ帰っていった。
娘婿の陳敬済《ちんけいさい》は奥庭で賁四《ほんし》とともに帳簿をやらされていたが呼ばれない限り内庭にもはいれず、食事は小ものが運んで来るというわけで、西門慶の妻妾と顔を合わせることもない。そこである日、西門慶が堤刑所の賀千戸の送別に行っている留守に、陳敬済を昼食に呼んで労をねぎらってやることにした。月娘は陳敬済とちょっと飲んでから、大姐を呼びに小玉を行かせた。すぐ来ると言ったが、奥ではカルタの札を打つ音がしている。しばらくして大姐がはいって来て三人で飲んでいたが、月娘は大姐に向かって、「だんな様はカルタできるの?」
「少しぐらいはやりますよ」
月娘は敬済をまじめな男と思いこんでいるが、この男は遊びでできないもののないやつで、小さいころから悪がしこく、遊びぐせは身にしみこみ、おしゃれで、無類の女好きというしろものだったのである。
「敬済さん、おできになるのなら、いっしょに遊んだらどう」と月娘がすすめると、いちおうはことわったが、部屋へはいった。ベッドの上にいた孟玉楼が出て行こうとするのを月娘はとどめて、紹介する。はじめの勝負は月娘、玉楼、大姐でやり、大姐が負けたので、陳敬済がそれに代わった。二度めの勝負がもたついている時、潘金蓮がすだれをあけてはいって来た。
「ホホホ、どなたかと思ったらお婿さんね」
陳敬済は首をよじってふり向いたが、心は空へ舞い上がる。紹介が終ると、金蓮はそばに寄り、寝台のへりに片手をあて、片手は白絹の団扇《うちわ》であおぎながら、月娘の手に差し出口をききはじめた。一同がにぎやかに騒いでいると玳安が包みを持ってはいって来て、西門慶の帰宅を告げる。月娘は小玉を迎えに出し、敬済をかどの門から出す。西門慶は工事を一とおり見て、金蓮の部屋にはいった。
西門慶は見送りで疲れているので酒を少し飲むと酔って雷のようないびきをかいて眠ってしまう。ちょうど七月二十日で、夜も蒸し暑く、潘金蓮はどうしても眠れない。そこへ、碧《あお》い紗《しゃ》の蚊帳《かや》の中で蚊がうなりだしたので、起き上がって蚊を焼いていた。西門慶はぐっすりとあおむけに寝ていてゆすっても起きない。寝乱れたそのからだにいたずらしていると、西門慶は目をさまし、それから長々とたわむれたが、そのたわむれから、西門慶はふと李瓶児のことを思い出した。
「教えてやろうか。これはな、瓶児とおれの遊び方なんだ」
「瓶児《へいじ》か釜児《ふじ》が知れないが、あたしが親切にしてやってるのに、あの淫婦め、待ちきれないで、男ほしさにあんなやつといっしょになって。それに、この間は何? へべれけになって、あたしばかりに突っかかって。あとで、文句までつけられたわよ」
「だれが文句をつけた」
「大奥さんですわよ。ひどい言い方ったら。ことばをつつしめだって! 情けないってありゃしない。わたしなんか、きっと目ざわりなんでしょうよ」
「ありゃ、おまえを憎んでやったことじゃなかったんだ。あの日、呉銀児のとこからの帰りにひょっこり馮婆に会って話を聞くと、李瓶児は人もあろうに蒋太医《しょうたいい》てなチビのスッポンといっしょになりやがったというんだ。花大のやつがそれを黙って見ているのも気が知れんぜ。おまけに、おれの向うを張って生薬屋を開きやがった」
「今さら言ったってはじまるものですか。最初から言ったでしょう、先に箸《はし》を下ろしたものが勝ちだって。そんなこと耳にもとめないで、姐《ねえ》さんの言うことばっかり聞いてるから、こんなことになったんですよ。人を恨む筋合いじゃないわ」
西門慶はこの一言にまっかになって、「あいつめ、見ていろ。あしたから相手にしてやらんぞ」
讒言《ざんげん》というものはおそろしい。これからというもの、西門慶は月娘に口もきかねば、その部屋へ足ぶみもせぬ。必要なものは女中に言いつけて取り寄せる。ふたりの仲は冷たくなっていった。潘金蓮はそれがうれしくてたまらない。ますますのぼせ上がって、西門慶をひとり占めするために精出す。それだけではなく、先日裏で見て気に入った陳敬済も、なんとか物にしてやろうと考え、西門慶の留守を見て、陳敬済を部屋に呼び入れ、茶を飲んだり、将棋をさしたりする。奥庭の日除けだなの棟《むね》上げの日の昼、客が散ったのち西門慶は昼寝した。そのすきに敬済はのこのこ、自分の方から金蓮の部屋へ遊びに行く。こうしてこの小僧っ子はだんだんずうずうしくなり、茶を飲むのも食事をするのも金蓮の部屋でやるようになり、肩をくっつけたり、背中をさすったり、くちびるをくっつけたり。ところが月娘はまだ子供だからと、いっこうに気がつかずにいるようだった。
十九
八月の初旬、西門慶は城門外の夏《か》堤刑の屋敷へ誕生祝いにまねかれたが、その帰り、南|瓦子巷《がしこう》を通り、ふたりのならず者を見かけた。草裡蛇《くさのへび》の魯華《ろか》、過街鼠《ちょろねずみ》の張勝《ちょうしょう》は西門慶の顔なじみで、いつも小づかいを恵まれているやつらだから、声をかけられるとあたふたと走り寄って地面にひざをつき、
「大官人《だんな》、今時分どちらへ」
「夏提刑の誕生日だから、行って飲んで来たんだ。実はちょっと頼みたいことがあるが、やってくれるか」
「だんな、何をおっしゃる。てまえどもはしじゅうごひいきになっている者ですから、たとえ火の中、水の底、そんな気持でおりまさあ」
「それならあしたにでも寄ってくれ」
「あしたとは言わず、今ここで良いじゃありませんか」
そこで西門慶は李瓶児と蒋竹山の一件を話し、「ふたりでおれの気がすっとするようにしてもらいたいんだ」と馬上でふところをさぐり四五両の小粒を差し出し、「まあ酒でも飲んでくれ。うまくやってくれたら、改めて礼はする」
魯華は遠慮して、
「滅相《めっそう》もない、東洋の大海の蒼竜の角を抜けとか、西岳の華山《かざん》の虎《とら》のきばをとって来いとか言われるのならともかく、こんなちょっとしたことぐらいで、銀子《かね》なんぞいただけませんや」
「受け取れんのなら、頼まないよ」と西門慶はそのまま馬を進めようとする。張勝があわててくつわを押さえ、
「魯華、おめえはだんなのご気性を知らねえんだな」と銀子を受け取り、地べたにひざまずいて頭を地につけ、「だんな、お宅でじっと待ってていただきやす。二日とたたぬうちにかならず笑っていただきやすから。だんな、そのかわり、あっしを堤刑所に就職させていただけませんかね」
「お安いご用だ」
西門慶が家に帰りついたのはもう日の傾いたころで、金蓮がひとり奥庭のたなの下で食器を片づけていた。いつものように西門慶は金蓮と酒を飲みはじめ、スカートをかかげた金蓮をひざにのせて、口うつしに酒を飲ませてもらったり、蓮《はす》の実を口に入れさせたり、くるみを口移しに食べたり、キッスしたりしていたが、
「おい、あしたはおまえをキャッキャというほど笑わせてやるぞ。おまえは蒋太医が生薬屋を開いたと言ってたが、あしたは、あいつの顔の上にくだもの屋を開かせてやるんだ」
「それ、なんのこと?」
西門慶は城外で魯と張に会った一件を話すと、女は笑って、
「罪なことをするのねえ。蒋太医と言えば、よく家へ診察に来た人でしょう。遠慮深い、かわいそうなくらいおとなしい人じゃないの」
「おまえはわからんのさ。あいつがうつむいているのはおまえの小さい脚《あし》を見ようって算段だよ」
「まあ、いやらしい。そんなことあるもんですか。書物を読む人がそんなまねするなんて」
「顔でごまかされてるんだよ。表はまじめそうだが、腹は黒いんだ」
さて李瓶児が蒋竹山を引き入れてから二月ばかりたつ。はじめ蒋竹山は女を喜ばせるため、媚薬《びやく》を調合したり、淫器を買いととのえたりしてサーヴィスするのだが、李瓶児は西門慶の手中で狂風|驟雨《しゅうう》を経てきた女、いっこうに満足せず、だんだんいやがるようになり、淫器など、石で粉々に砕いてしまう。しまいには男を表の店の方へ寝させて、自分のベッドへ寄せつけない。男はむしゃくしゃして帳場の中へ立てこもっている。そこへはいって来たふたりの男、目をぎょろりとさせてすわりこむ。
「おめえのところに狗黄《くおう》はあるか」
竹山は笑って、「牛黄《ぎゅうおう》はあるが、狗黄てなものは聞いたこともないね」
「狗黄がないなら、氷炭をくれ」
「氷片ならあるが、それはペルシャの特産で」
すると他のひとりが、
「聞いたって始まるか。それより、おい蒋《しょう》あにい、三年前、てめえの女房が死んだとき、この魯あにいから借りた三十両、利息も合わせりゃたいした額になってるはずだが、そいつをきょうはもらいに来たのさ。すぐそう言おうと思ったが、てめえの顔のことも思って遠慮して、遠まわしにやってたが、さとりやがらねえんなら、はっきり言うぜ。おい、あの銀子《かね》を返せ」
竹山はびっくり仰天、「銀子《かね》なんか借りた覚えはないぞ」
「やい! おれを騙《かたり》だとでもぬかすのか? 蝿《はえ》は割れ目のない卵にはいらねえもんだ。覚えがないで済むと思うのか」
「あんたの名まえも知らんのに、その人から銀子《かね》を借りるわけがないですよ」
「蒋あにい、そいつは話が違うだろうぜ。おめえがまだここに拾われる前、鈴を振って膏薬《こうやく》売りをしていたとき、その日その日を送れたのはこの魯《ろ》あにいのおかげじゃなかったとでも言うのか。だからこそきょうの日もあったわけじゃねえか」
「その魯華だよ、おれは。あの年におれから三十両借りて、かみさんの葬式を出したじゃねえかよう! 元利合計四十八両、耳をそろえて返してくれ」
「わたしゃ借りた覚えなんかないよ。借りたのなら、証書や保証人があるはずだ」
「あるともよ。保証人はこのおれの張勝だ」と袖から紙片を出して見せる。竹山は腹が立って蝋の滓《かす》のような色になり、
「この犬野郎。ごろつき。おれを強請《ゆす》りに来やがったな」
魯華はポカリとなぐりつけると、竹山にとびかかり、鼻をひんまげ、積み重ねられた薬材を、大通りへ向けて揺り倒す。
「ごろつき! どろぼう」
竹山は助けを求めるが、天福児は魯華に蹴上げられて、立ちむかう元気もない。張勝は竹山を帳場から引っ張り出し、魯華をなだめて、
「魯あにい、待ちついでにいましばらく待ってやったらどうだ。つごうがつくかもしれん。蒋あにい、おめえどうかね」
「借りないものが払えるか」
「蒋あにい、考えてみるんだな。おとなしくすりゃ、魯あにいに利息は勘弁してもらってやる。早々返した方がためだろうぜ。がんこなこと言ったって、出る所へ出りゃそのままで済まんぞ」
「笑わせるな! じゃ訴えろ。覚えのない銀子《かね》が返せるか」
「おまえさん、朝から飲んでるね」と張勝が言っている間に、魯華はまたまたポカリとやり、竹山は泥溝《どぶ》の方へひっくり返る。そこへ町役人がやって来てしばって連れて行く。李瓶児はすだれ越しに竹山が連れて行かれるのを棒立ちになって見ていたが、急いで馮《ふう》婆に看板をしまわせた。街路にころげ出した品々はみな盗まれてしまった。
この騒ぎの知らせを受けると、西門慶はすぐさま夏提刑に書面を届ける。翌日夏提刑は法廷を開いたが、蒋竹山の申し立てははじめから問題にせず、一方的に魯華の申し立てをとり上げ、
「憎いやつ。借用書も保証人もこのとおりなのに、学問のある者が、それでも踏み倒そうとするのか」と三十六棒をくわせ、三十両を返さねば入牢《にゅうろう》さすと言い渡した。竹山は痛む足を引きずり、小役人を|つけ馬《ヽヽヽ》に家までもどって来て、涙を流して李瓶児に三十両ととのえてくれるよう頼むが、女はつばきを吐きかけ、
「恥知らず! あんたなんかにあげる銀子なんかあるもんか。こんな借金があるのをかくしてたんだね。勝手にするがいい」
ついて来た小役人はらちがあかぬと見て帰ろうとする。竹山は役人をなだめ、地べたにひざまずいて、
「陰徳を積むと思って、お布施と思って、この三十両を出してください。出してくれないなら、たたかれ死にするかもしれない」
女はしかたなく三十両を出し、役所で借用書を裂いて片がついた。三十両を手に入れた魯華と張勝は西門慶に報告に来る。西門慶はふたりを充分に供応し、その三十両もふたりに与えた。蒋竹山は金を渡して提刑院から帰って来たが、女は
「あの三十両は病気になっておまえさんの薬を飲んだとあきらめるから、あんたはとっとと出て行っておくれ」
竹山は痛む両足をなでながら住居捜しに行く。女は自分の買った薬材はそのままに竹山の薬材は早く持って行けと言い、おまけに竹山の出て行くとき、馮《ふう》婆に命じて水をぶっかけさせ、
「おめでとう。いい男ぶりだわね」
竹山が出て行くと、女は西門慶に恋いこがれ、かれの家がなんでもなかったと聞いてから、自分のあさはかさをくやみ、湯水ものどを通らぬしまつ。西門慶は玳安から李瓶児の表門がしまってひっそりしていることを聞くと、「あのチビガメのやつ、なぐられて起き上がれんのだろう。半月休業か」と笑っている。
八月十五日は呉月娘の誕生日で、たくさんの女客が大広間につめかけていたが、呉月娘と口もきかぬ冷たさの西門慶は色町へ出かけ、夜になったら馬で迎えに来いと玳安を帰した。日が暮れると玳安が迎えに来る。
「家では何もなかったか」
「へえ、大広間のお客様はお帰りになり、奥様の伯母様と姉様が奥に残っておられます。それから、獅子街の花家の奥様から馮婆さんが使いに参りまして、お祝いに、四皿の菓子とくだもの、二皿の寿桃《いわいもも》、一匹の反物と、一足の靴を届けて参りました。奥様は馮婆さんに銀子を一銭やって、きょうはだんなが留守だからご招待することができないと申されていました」
西門慶は玳安の顔の赤いのを見てとり、「おまえ、どこで飲んで来たんだ」
「今しがた、花家の奥様からお呼びがあってごちそうになりました。奥様は大そうくやんでいるご様子で、涙を流しておりました。先日だんなにも申しあげましたが、蒋太医は追い出して、だんなのことばかり思っておられるそうです。ずいぶん面《おも》やつれなさったようで、だんなにお越し願いたいと申しておりました」
「すべた淫婦めが。へんなことしといて、おれにまつわりついてどうするんだ。よし、そんなことなら、なんとかかっこうつけて、日を選んでかってに輿入れしろと言っとけ」
次の日になると、五つ六つの荷が西門慶の家に届けられた。西門慶は月娘に話もせず、荷は新たに建てた玩花《がんか》楼の二階へ運びこませる。八月二十日なると、大|轎《かご》に一匹の緞子《どんす》、四対の燈籠《とうろう》をつけ、玳安、平安、画童《がどう》、来興《らいこう》の四名を供として、午後のころ、女をめとることとなった。女は馮婆にふたりの小間使いをつけて先に立たせ、もどるのを待って轎に乗り、馮婆と天福児に留守番させる。その日西門慶は礼服をつけ、女の輿入れを藤《ふじ》だなの下で待っていた。さて轎は門をはいったが、長い間だれも出迎えるものがない。孟玉楼は奥へ走り月娘に、
「ねえさん、あなたが主《あるじ》じゃありませんか。もう門の内に来ているのに、出迎えないと、あとでだんなはきっと気を悪くしますよ」
呉月娘は迎えに出るのも腹立たしいし、出ねば西門慶が恐ろしく、思い悩んだあげく、やっと迎えに出た。そこで李瓶児は宝瓶《ほうへい》をかかえてまっすぐに新居へ進み入り、あとは晩に西門慶を待つばかりとなるが、西門慶は根にもつ恨みがあるから部屋へ来ない。翌日、月娘の部屋で顔合わせをやり、第六|房《ふじん》とし、初三日には酒席を設け、女客を招き、酒を飲み、と習慣どおりのことは当りまえにやるが、やはり李瓶児の室に行かない。女は男がつづけざまに三晩も寄りつかぬので、夜半にふたりの小間使いを先に休ませ、泣く泣く梁《はり》に脚紐を渡して、首をつった。ふたりの小間使いは一眠りして目をさますと、このありさま、びっくりして飛び出し、隣へ行って春梅を呼び起こし、
「たいへん。うちの奥さんが首をつっています」
おどろいて金蓮が見に行くと、女は真紅の着物を着て、だらりとベッドの上につり下がっている。急いで春梅と脚紐を断ち切ると、だいぶたってから澄んだよだれを流して、息を吹きかえした。
「裏へ行って早くだんなをお呼びしておいで」金蓮が春梅を出す。そのころ西門慶は玉楼の部屋で酒を飲み、李瓶児と蒋太医のことを、ぶつくさ憤っており、玉楼が李瓶児を弁護し、部屋へ泊まりに行ってやるようすすめているところだった。門をたたく音に、玉楼が蘭香《らんこう》を見にやらすと、春梅がはいって来て六奥さんが首をつったと言う。玉楼は息もつまる思いで、
「それ言わないことじゃないでしょう。行っておやんなさいと言うのに行かないから、たいへんなことになってしまったわ」
玉楼が燈籠を持って見に行くと、呉月娘、李矯児たちもつづいてやって来た。見ると金蓮が李瓶児を抱いていたが、飲ませた生姜《しょうが》湯がちょうどきいたのか、のどの奥をごくりと鳴らすと、李瓶児は急に声を上げて泣きだした。月娘たちはやっと安心して、なだめて休ませ、部屋へ帰る。翌日の昼ごろになると、李瓶児は少しは粥《かゆ》も食べるようになったが、西門慶は女たちに向かって、
「あいつ、死ぬふりをしておどかしやがったのさ。おれは今晩行って、首つりというものを拝見させてもらおうよ。首をつらなけりゃ、馬の鞭《むち》をうんとくらわせてやる。ひとをなめてやがるからな」一同の者は李瓶児を思いやって、手に汗を握るばかりだった。
晩になると西門慶は鞭を持って李瓶児の部屋へ出かけた。玉楼と金蓮は春梅に門をしめさせ、だれも入れないようにすると、庭の門に立って中をうかがっている。西門慶が部屋にはいっても李瓶児は起き上がろうともしない。ふたりの小間使いを、あき部屋に追っぱらうと、西門慶は椅子に腰をおろし、女を指《さ》して、
「淫婦、悪いと後悔してるんなら、なぜおれの家へ来て首をつるんだ。あのスッポン野郎にくっついて行きゃいいだろう。小便をたれにわざわざ来たのかね。おれはな、首つりをまだ見たことがないから、一つ見せてもらおうじゃないか」
パラリとなわを女の前に投げ出す。女は蒋竹山のことばを思い出した。西門慶は女たたきの筆頭、売りとばしもする。わたしはこんなとこへやって来て、好んで火の中へ飛びこんだようなものだと、思わず泣きじゃくる。西門慶はますますいきり立ち、ベッドから引きずりおろし、着物を脱げとせき立て、鞭をビュービュー鳴らす。女が裸になって地面にひざまずくと、
「家がごたついているからしばらく待てと言ったのに、どうして待てなかったんだ。あわてて蒋なんて野郎といっしょになって、なんだ。ほかのやつならともかくも、あのチビスッポンのどこがいいんだ。おまけにおれの目の前で、こともあろうに生薬屋を開きやがって」
「もう取り返しはつきませんが、あなたがずっといらっしゃらないので朝晩待ちこがれているうちに、裏の喬《きょう》殿下の奥庭のきつねが、あなたの姿をしてやって来て、私の魂を吸って行くんですわ。わたしが生き血をすすられて死にそうになったとき、あの蒋太医が助けてくれたんですけれど、ついふらふらとだまされてしまって、ところがあの男はたいへんなやつだったので、わたしは涙をのんで金をやって、追い出してしまったんです」
「金がある時は、かってなやつをかわいがりやがって、金がなくなりゃおれんとこに小便たれに来るか。実を言えば、太医をなぐったふたりの男はおれが使ったんだぞ。おまえだって、同じような目にあわせるのはわけないんだ」
「知ってましたわ。だけど、なさらなかったのは哀れんでくださったのですね。あれ以上のことをなすったら、わたしはとうに死んでいますわ」
西門慶の怒りは解けてきて、「おい淫婦、おれと蒋太医と、どっちが好きだい」
「まあ、比べものになんかなるものですか。天と煉瓦《れんが》ですわ。あなたはずっと天の上、あいつは暗い地の下。比べようないわ。花子虚だってあなたに比べられるなら、わたし、こんなにあなたをほしがりませんわ。あなたはお薬みたい。わたしはとろりと溶けちまうの」
西門慶は昔を思い出し、胸がぐうっとしてくると鞭を投げ出し。女を助け起こして着物を着せ、胸に抱きしめる。
「かわいいことを言うね、おまえは。まったくそのとおりさ」
二十
西門慶は李瓶児の甘いことばにほだされてしまった。さっそく春梅にテーブルを並べさせると裏へ酒を取りにやらせる。
金蓮と玉楼はずっと庭の木戸から中をうかがっていたのだが、何も見えず、何もきこえない。春梅の行き来が目にうつるだけである。で、金蓮は、「こうなると春梅がうらやましいわね」
春梅は時々ふたりにとっつかまって、中の様子を報告される。春梅はにやにやしながら簡単に様子を知らせる。そこへ玉簫《ぎょくしょう》がやって来て玉楼から話を聞くといった騒ぎだった。春梅は小玉といっしょに酒やさかなを料理部屋から運んだ。
翌朝おそく李瓶児は起き、西門慶と酒を二びんほど飲み、それから、頭の飾りものや衣服や百粒の西洋の宝石を見せ、金をかぶせた珠《たま》で耳輪を作ってくれるように頼む。次に重さ九両の金糸の髪止めを見せ、その作りかえも頼む。ついでに獅子街の家の番をひとり出して、天福児をこちらで使えるようにしてくれと頼む。西門慶は何事もよしよしと引き受け、金糸の髪止めを袖《そで》にかくして出て行こうとすると、東の木戸口でぱったり金蓮につかまった。金蓮はむりやりに西門慶を自分の部屋に引っ張りこむ。ふり切って出て行こうとするはずみに、金蓮は袖をさわる。ずしりとした手ざわりに、「何ですの? 見せてちょうだい」
「おれの銭入れだ」
金蓮が手を突っこんで引き出すと、りっぱな金糸の髪止めである。
「あの人のね、どこへ持って行くの」
しかたがないから、それを作り直して、月娘と李瓶児の髪止めをこしらえに行くのだと言うと、金蓮は、それにしてもまだ一つ分ぐらいは取れると、自分の髪止めも作らせることにしてしまった。
こちらでは孟玉楼と李嬌児が月娘の部屋で話し合っていると、平安が来旺を捜しにはいって来た。月娘は来旺を李瓶児の獅子街の家の留守番にやることに気がすすまない。来旺のかみさんが病気だしとぐちるのを、玉楼は、西門慶と和解した方が良いと忠告するが、月娘は李瓶児を家に入れたことがどうにも気にくわないのである。
「おべっか使いは惚れられて、真心のある者はきらわれると言うけれど、わたしが李瓶児を入れるのに反対したのは考えがあってのことなのよ。あの人のものは山ほど持ちこむし、家は買うし、そしてあの人を娶るというのは不穏当でしょう。喪も明けぬうちに、輿《こし》入れというのもへんじゃないの。それも交際だといって外に出て、へんな細工をして、わたしはつんぼさじきだ。もう勝手にすりゃ、いいんだわ」
玉楼たちは返すことばもなかった。しばらくすると李瓶児が小間使いふたりを連れてやって来、孫雪娥や潘金蓮もやって来たが、みなして李瓶児をおだやかに当てこするので、いごこちわるく立ち去り、部屋に帰り、西門慶に来旺の代わりに他のものをやるように頼んだ。平安と天福児が一日おきに獅子街に泊まることとなった。
二十五日、李瓶児の披露宴をひらいたが、月娘の瓶児と西門慶に対する恨みはとけない。金蓮は間にはいって月娘をたきつけるが、それを知らぬ李瓶児はしきりと金蓮に親しんでゆくのだった。
さて西門慶は李瓶児をめとってから、財産はふえ、商売は繁盛、くらし向きも一新した。米麦は倉に満ち、奴僕《どぼく》は列をつくるありさま。李瓶児の連れて来た天福児は名まえを琴童《きんどう》と改名させ、別にふたりの小もの来安児と棋童《きどう》児を買った。部屋付きの小間使い。春梅は琵琶《びわ》、玉簫は筝《そう》、迎春は絃《げん》、蘭香は胡弓《こきゅう》を、李嬌児の弟の李銘《りめい》から習うことになり、李銘は毎日三回のお茶、六回の食事を受けて、手当は五両である。通りに面した二間は、質屋に改造され、資本金は二千両、陳敬済がかぎをあずかり、賁第伝《ほんだいでん》が帳面つけと質ぐさしらべ、番頭の傅《ふ》が生薬店と質屋の両方を監督し、銀の色合いもしらべ商売する。潘金運の二階には薬材、李瓶児の二階には質ぐさが山と積まれる。陳敬済は朝から晩までせっせと働き、帳簿もできるので、西門慶の喜びはひとしおでない。ある日いっしょに食事しながら陳敬済に、
「おまえも商売がじょうずになってきた。おとうさんのお耳にはいったら、さだめしお喜びになられるだろう。子あれば子に靠《よる》る、子無ければ婿に靠ると言うが、おれに子供ができなかったら、この店はそっくりおまえたち夫婦にゆずることにしよう」
「そんなもったいないこと。思わぬ災難で親とも分かれ、義父《おとう》さんだけがたよりですから、末長くお引立てお願いいたします」
うまい口にひっかかって、西門慶はますます喜び、家じゅうの大小の事務、手紙のやりとり、来客の応対などの秘書役を敬済にまかせる。
十一月下旬となり、西門慶が常峙節《じょうじせつ》の家での茶の集まりから散じたのはまだ明かるいころ。応伯爵・謝希大・祝実念と連れだって外へ出ると、紛々と雪が降っている。
応伯爵は「今から家へ帰ってもはじまらないね。これから一ちょう、孟|浩然《こうねん》じゃないが、雪の中に、梅ならぬ桂《かつら》を尋ねようよ」
祝実念が「そいつはいい。大哥《おおあにい》は毎月二十両出して囲ってるんだから、行かねばもったいないですよ」
李桂姐の家につくと夕暮れで、客間には灯がともり、女中が地面の雪を掃いていた。婆と李桂卿が迎えに出て四人を席につかせると、婆は先日李桂姐が李瓶児から花かんざしやハンカチをもらった礼を述べる。そのうちにテーブルに酒肴が出た。
「桂姐はどうした?」
「だんながお見えにならぬものですから、きょうは五番めの叔母《おば》の誕生日に出かけましてな」と婆の返事だが、実は西門慶の来ないのをさいわいに、杭州《こうしゅう》の絹問屋のむすこの丁二官人《ていわかだんな》から銀子や絹をもらって二晩泊め、その時も、桂姐の部屋で飲んでいたのを、あわてて奥の離れへ移したのだった。
「そうか。それなら待っていよう」
婆は酒よさかなよととりもち、李桂卿は歌ったり弾《ひ》いたり騒いでいたが、西門慶が小用を足しに裏へ立ったとき、東の離れの笑い声に気がつく。ひょいとのぞくと、李桂姐がよそのやつと飲んでいるではないか。これを見た西門慶はカンカンにおこり、酒席にもどるなり、テーブルをひっくり返す。おまけに供の平安、玳安、画童、琴童に命じて、門から窓から、ベッドやカーテンを手当りしだいぶちこわすありさま。応や謝や祝がなだめても聞くものではない。
「いなか者を引っ張り出せ。女をしばっちまえ」と荒れ狂う。二官人《わかだんな》は青くなってベッドの下にかくれ「桂姐! 助けてくれ」
「なに言ってんのさ。色町に鞘《さや》あては付き物よ。騒がせときゃいいのよ」
ばあさんは西門慶をうそでからめようとする。西門慶は、「なぐれ! ぶっつぶせ!」と婆までなぐりそうなけんまく。そこを応伯爵らがなんとかとりなして外へ連れ出したが、もう二度とこの門をくぐるものかと、西門慶は雪の中をとっとと帰って行った。
二十一
午後八時ごろ家に帰りついたが、奥の儀門《よこもん》のところまで来ると、門は半開きで、中庭はしんとしている。はてなと思って白壁にかくれてうかがっていると、小玉がベランダから降りて線香台を並べ、やがて月娘が衣服を整えて中庭に降り、炉に香をたてると、一天に向かって深く礼拝し、祈りをささげる。
「わたくし、呉氏は西門慶にとついでおりますが、夫はふらふらと遊びほうけ、中年に至りますのに、妻妾《さいしょう》六名、ことごとく子を持ちません。このままでは墓を守るものもなく、夜ごと星月のもとに、三星に祈ってご加護を願っております。なにとぞ夫が本心に立ちかえり、われら六名のうちに、はやばや嗣子《あとつぎ》が生まれますように祈ります」
聞いている西門慶の胸にぐっとくるものがある。おれはまちがっていた。あれの心が今こそわかった。西門慶はがまんできず白壁の陰から飛び出し、やにわに月娘に抱きつき、驚いて部屋へ逃げようとするのを、抱きすくめた。
「かわいい姐さん。おれがまったく悪かった」
「雪の中で、お部屋をまちがったのじゃないんですか。わたしはふしだら淫婦ですよ。あんたのことなんか思っているもんですか。うるさくくっつかないでください。お顔など見たくもないわ」
西門慶は月娘の手を握ってむりにはいると、深々とおじぎをして、
「一時の気の迷いから、おまえのことばも聞かず、おまえのこころを無にして、ほんとにすまなかったよ。思いちがいしていたんだ」
「気に入りの人じゃあるまいし、あなたのお気に召すわけがありませんわ。あなたのために心を使ったことなどあるもんですか。わたしはひとりぼっちでけっこうですよ。出て行ってくださいな。小間使いを呼びますよ」
「いや、おれは腹の立つことがあったんだ。それで雪の中を帰って来た。まあ、ことを聞いてくれ」
「わたしになんかお門違いよ」
西門慶は両ひざを地につけ、鶏がしめ殺されるような声で、「姐《ねえ》さん、姐さん」
「何よ、涎《よだれ》くりみたいに。人を呼ぶわよ」
小玉がはいって来ると、西門慶はあわてて立ち上がり、
「雪が降っているから、早く香台を入れろ」
「はい、もう入れてございますわ」
月娘は思わず吹き出してしまった。小玉が出て行くと、西門慶はまた両ひざついて月娘に泣きつく。月娘はやっときげんを直して、西門慶といっしょに腰をおろし、玉簫の持って来た茶を飲んだ。西門慶は桂姐の所の事件を話し、もう二度とあそこへは行かないと誓う。
「それはどうでしょうかね。けど、金を出してたって、ほかに男はこさえますよ。身はしばれても心はしばれませんもの」
「まったくだね」
そこで西門慶はベッドに上り、月娘としっくりよりをもどした。
このことは翌朝になると、蘭香から孟玉楼に、孟玉楼から潘金蓮にと次から次へ伝わっていった。
玉楼「蘭香が聞いて来たのよ。李桂姐のとこで飲んでて、淫婦のふしだらを見つけたと言って、ぷりぷりして帰って来ると上房《おくさん》が香をたいていて、それでぐにゃぐにゃにされたんだって。両ひざついて、おかあちゃん、なんて騒ぎ」
金蓮「いろいろな手管知ってるわね。香をたくなら黙ってたいてりゃいいんじゃないの。何もわかるようにしなくったって。だれもとりなしてくれないもんだから、お芝居うったのよ」
「まあいいじゃないの。正妻さんじゃ、わたしたちみたいなもんと、表立って同等に張り合うわけにはいかないだろうしね。とにかく、李瓶児がもとなんだから一両はずませて、わたしたちも五銭ずつ出して、お祝いしてあげようじゃないの。一つにはあのおふたりのため、二つには雪げしきを見るためにね」
「だけどだんなが仕事に」
「雪の日に仕事なんかあるもんですか。ちゃんと見て来たわ、まだお二方は寝てたわよ」
孟玉楼と潘金蓮は、李瓶児を起こし、それから玉楼はほかの妾のところへ回って行く。しばらくして帰って来て、
「骨が折れたわ。料理部屋の孫雪娥のやつ、あたしはだんなにいっこう寄りついてもらえず、お銀子《かね》なんかないというのよ。いやいやこの銀かんざしを出したわ」
金蓮が目方をはかると三銭五分しかないので、「李嬌児の方は?」
「あの人も出ししぶったわ。しゃくにさわったから、出したくないなら出さないでいいと言って出てやったら、後から小おんなに追っかけて持って来させた」
金蓮がはかってみると四銭八分ある。
ぶうぶう悪口を言いながら、李瓶児の銀の香料入れ一両二銭五分に、金蓮も玉楼も出し、合計三両一銭にすると、玳安と来興児が買物に出された。酒を買って帰って来る玳安から、これを知った西門慶は自分も酒を二本出した。
奥の広間に酒席が設けられると、李嬌児、孟玉楼、潘金蓮、李瓶児の四人が西門慶と月娘のおいでを請う。李嬌児が杯、孟玉楼が酒壷、潘金蓮が料理をささげ、李瓶児がひざまずいて、まず西門慶に酌《しゃく》をする。西門慶はにこやかに笑って、
「いや、なかなか孝行してくれるわい」
すると金蓮が、
「まあずうずうしい。きょうはね、わけがあればこそですわ。大奥さんとのお相伴じゃありませんか」
そのうちに春梅、迎春、玉簫、蘭香が、琵琶・筝・弦・月琴を合奏して、佳期重会《いいときがまたもきた》を歌う。
「だれの指図だ」
玉簫が「五奥様でございます」
「淫婦のやつ、なんてことをやる」
陳敬済を呼び、やがて李銘も呼び出される。李銘が歌ったあと、西門慶は李桂姐の話をはじめたが、李銘は姪《めい》の李桂姐のせいではなく、おふくろのやった仕事でしょうととりなした。この話は李家では黙っておけと口留めしたが、さて翌日、雪晴れのいい天気、応伯爵と謝希大のところへ、李家から焼鳶鳥《やきがちょう》や酒が届けられた。で、ふたりはさっそく西門慶を招待に出かけて来た。西門慶は月娘の部屋に泊まり、起きて餅《もち》を食べていたところだったが、玳安にそれと聞くと、餅もそのまま、応と謝に会いに表の部屋へ出て行こうとする。月娘はふたりのことを不興がり、ゆっくり食べ終って出て行けばよいというのだが、西門慶は餅を表へ運ばせて、三人で食べる気になっただけである。きょうが孟玉楼の誕生日であることを、充分念を押しておいたのに、西門慶は応伯爵と謝希大に、なだめたり、すかしたり、だましたり、はてはひざまずいての泣き落としの手で、とうとう李家へ連れて行かれてしまった。月娘はげっそりと落胆してため息をつくばかりである。
西門慶がふたりに連れられて李家に着くと、もう用意万端ととのえられている。歌を歌うふたりの女まで呼んであった。厚化粧の李桂姐、李桂卿、そして婆、うまく太鼓持ちをつとめる応伯爵と謝希大に、西門慶はすっかりきげんを直してしまった。一方家の方では月娘は孟玉楼の誕生祝いと雪見のお返しを兼ねて酒席をととのえ、待てど暮らせど、夕暮れになるというのに西門慶はもどって来ない。笑話をさせるために呼んだ噺家《はなしか》の尼の小ばなしを一つ二つ聞き、金蓮、玉楼、李瓶児の三人は表門へ西門慶を出迎えに行った。玉楼が「雪なのにどこへ行ったんでしょうね」
金蓮「きっと李桂姐のやつのところよ」
「あんなに言ってたのに。わたしは行ってないと思うわ」
「あたしは行ってると思う。おとといおこって帰ったから、きのう李銘のスッポンが探りに来て、きょうは応こじきと謝のやつが朝から引っ張り出しに来たのさ。きっと淫婦と婆がお膳《ぜん》立てして待ってたのよ。それにまあ、大ねえさんは」
そこへ瓜子《すいかのたね》売りが来たので買っていると、西門慶がやって来たので三人は奥へ逃げこむ。馬を降りて西門慶がはいって行くと、白壁にかくれていた金蓮とぶつかった。
さて孟玉楼の誕生祝いの宴会の最後に、月娘は孟玉楼に「さあ今晩はお婿さんと寝なさいね」
金蓮は「大ねえさんの厳命ですよ」
玉楼はまっかになってしまったが、いよいよ一同が部屋まで送っての別れしなに金は重ねて、「この子はにかんでるね。おかあさんがあした、見に行ってあげるから、心配しないでもいいのよ」
玉楼は「あんた妬《や》けぎみね。あした仇《かたき》をとってやるから」
「あたしゃ仲人なのよ。あまりびくびくしなくってもいいのよ」
一同が引き上げると西門慶は
「きっとあいつだよ、佳期重会《いときがまたもきた》を歌わせたやつは」
「それどういうこと?」
「おれと呉家とが仲直りしたことを、|あてこすった《ヽヽヽヽヽヽ》のさ」
「あの人はお利口ね」
「困った|やきもち《ヽヽヽヽ》なんだ」
潘金蓮は李瓶児を連れて部屋に帰ると、茶を出して、
「あんたがここへ来られたのはだれのおかげだか知ってるでしょうね。あたしたちは一つ舟に乗ってるようなものなんだから、仲良くしましょうね」
「お姐《ねえ》さんのおかげはよく存じておりますわ」
「そうお、わかってくださればうれしいわ」
金蓮はやるせない思いで、ひとり寝た。
二十二
来旺の女房は肺をわずらって死んでしまったので、月娘は新たに棺桶《かんおけ》屋の宋仁《そうじん》の娘を連れそわせた。金蓮という名で、はじめは蔡通《さいつう》という役人の小間使いをしていたが、何かふつごうなことがあって暇を出され、コックの蒋聡《しょうそう》の妻となっていた。蒋聡は西門家に出入りし、来旺も蒋聡の家へ行くことがあり、いつしか金蓮といい仲になっていた。蒋聡が仲間のコックと銀子《かね》のことでけんかとなり殺されてしまうと、来旺は月娘にうまく説きつけ、この女を妻に迎えてもらったのだが、月娘は名が金蓮では潘金蓮にまずいから|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》とかえさせた。潘金蓮よりは二つ年下の二十四。まっ白なからだは中肉中ぜいで、脚は金蓮よりもかわいいようである。利口で、化粧もうまく、男たらしの資格は充分という女。はじめ台所で働いているうちは、じみななりをしていたが、玉楼や金蓮の姿を見ならい紅や白粉に気を使い、いつしか西門慶の目にとまるようになった。そこで西門慶は来旺に五百両渡し、杭州《こうしゅう》へ行って蔡太師の誕生祝いにあてる錦《にしき》の官衣、家で着る四季の衣服を造って来るように命じた。往復に半年かかるその旅に十一月半に出発させたが、その留守にゆっくり手をつけようという心づもりである。
孟玉楼の誕生日も終ったある日のこと、西門慶は生酔いきげんで外から帰って来たが、儀門《よこもん》の所で外へ出ようとする|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》と胸ごとぶつかってしまった。とっさの間に西門慶は|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》の首を片手で抱き寄せると、キッスしたまま、「どうだ。おれの言うことを聞けば、衣服でも飾りものでも作ってやるぞ」
女は口もきかず、押しのけて表の方へ逃げて行った。西門慶は奥へはいると、藍《あい》色の反物を、スカートにするようにと、玉簫に|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》のところへ届けさせる。|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》はりっぱな鍛子《どんす》なので少し当惑したおももちで、
「うれしいけど、奥さんにどう言われるか、こわいわ」
「だいじょうぶよ。だんな様が奥様に話しなさるから。もし入用なものがあればなんでも買ってやるとおっしゃってたわ。さいわいきょうは奥様がお留守だから、あんたに会いたいってことよ。どうなの?」
|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》はにこにこするだけで返事をしなかったが、やがて、
「だんな様はこちらへいらっしゃるのですか?」
「小ものの目がうるさいから、築山《つきやま》の洞《ほら》で待ってろってお話だったわ。あそこは人がいないから」
「でも五奥さんや六奥さんにすぐ気づかれそうね」
「それもだいじょうぶよ。三奥様と五奥様は六奥様の部屋で将棋してるもの」
さて、金蓮の方は玉楼と李瓶児の部屋で将棋をさしていると小鸞《しょうらん》が西門慶の帰宅を告げに来たので、将棋をよして部屋に帰り、顔をなおして、奥へ向かって儀門《よこもん》の前まで来ると、小玉がとびらの前に立っていた。だんなは、と聞くと手で奥庭にはいったことを知らせる。そこで築山の方へ行くと、木戸口に玉簫が立っているので、さてはこいつ主人と忍び合ってるのだなと気を回し、まっしぐらにはいって行く。玉簫はあわてて、
「五奥様、はいってはいけません。中でだんな様はお仕事中です」
「この犬の肉! それが何さ!」
とっとと、奥庭のあちこちを捜したあげく、山の洞まで来ると、|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》があわててスカートをつけるやいなや飛び出して来たのにぶつかった。|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》は思わず赤い顔。
「腐れ肉! 中で何してたの!」
「画童をさがしておりました」
|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》は雲を霞《かすみ》と逃げてしまう。金蓮が中へはいると西門慶がまごまごズボンをはいているところだった。
「まああきれた。昼の日中から、そのざまは何なの。とんだ画童ね。今まで何回こんなことしたの。包みかくしすると、大ねえさんにぶちまけるわよ。そして、あいつのほっぺたを豚のつらみたいにふくれ上がらしてやる」
「大きい声出すなよ。きょうがはじめてだよ」
「信用できないわ。陰でへんなことしてたらただで済まさないわよ」
西門慶は笑って出て行った。金蓮は奥へ行き、玉簫がどこかへ藍《あい》鍛子を持って行ったことも耳にしたが、だれにも|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》のことは黙っている。|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》は金蓮に以後おさえられてしまうのである。
西門慶は|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》がうまいスープを作ることを理由に、料理部屋の大かまどから引き上げ、玉簫といっしょに月娘の部屋の小かまどにつけ、茶や料理を見させ、食事も針仕事も月娘の部屋でさせることを、月娘に承知させた。|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》は服装もぐんとよくなり、化粧もはでになってくるのだった。
十二月八日、近所の尚推官《しょうすいかん》の葬式に西門慶が応伯爵と出向いた後、李嬌児にとって、あまりうれしくない事件が起こった。春梅、玉簫、蘭香、迎春に歌や楽器を教えにやって来た嬌児の弟の李銘が、玉簫たちが西門|大姐《じょうさん》の部屋に遊びに行った留守、春梅に琵琶を教えていて、いくぶん酔いかげんのところへ、広いそで口からこぼれる春梅の白い腕にむらむらとして、つい春梅の手を握った。春梅は口をきわめて李銘をののしり、奥へはいるとそこにいた金蓮、孟玉楼、李瓶児、宋|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》にことをぶちまけてしまい、金蓮は西門慶が帰って来るとこれを話す。西門慶は来興児に以後李銘を入れてはならぬと命じた。
二十三
十二月もすみ、正月となる。西門慶《せいもんけい》は年賀に出て留守、月娘《げつろう》も伯母《おば》の家に行ってしまった。孟玉楼《もうぎょくろう》は潘金蓮《はんきんれん》、李瓶児《りへいじ》と将棋をさしていたが、
「きょうは何か賭けましょう」
「五銭賭けましょうよ。三銭で金華酒《きんかしゅ》、二銭で豚の頭を買って、来旺《らいおう》のかみさんに煮させたらいいわ。たった一本で柔らかく煮るのよ」
「大ねえさんがいないけど」
「お料理分けてとっといてあげればいいわ」
将棋は李瓶児が負けてしまった。金蓮は綉春《しゅうしゅん》を呼んで来興《らいこう》児に銀子《かね》を渡し、金華酒一本、豚の頭を一つ、蹄《ひずめ》を四つ買って、|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》に料理させるように命じた。来興児が買物して台所へ行き、|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》にそう言うと、
「あたしゃ暇がありませんよ。大奥様の靴底を縫ってるんだから。ほかの人に頼んでよ」
「どうだってご随意に。とにかく置いてゆくよ」
玉簫《ぎょくしょう》がそばから、
「あんた、煮てやった方がいいよ。五奥さんの口はおそろしいからね」
「あの人はだれに聞いたのかな、あたしの豚料理のことを」
|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》は料理部屋へ行き一本の薪《まき》で豚を煮、まっ白な大盤に盛って李瓶児の部屋に運び、金華酒の封を切ってつぐ。玉楼は一皿の料理と金華酒の壷《とくり》一本を月娘に残し、三人はそこで飲み食いをはじめた。|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》があいそよく料理のかげんをきくと、口々にほめ、玉楼は綉春を呼んで|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》に酒をつがせる。|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》はひざまずいて地に頭をつけてから、テーブルの横で立ったまま酒を飲んだ。
日が暮れて月娘がもどったので、奥《おく》さんたちは皆あつまったが、残しておいた料理をすすめたことから、月娘は、みんなで順々に招待し合ったらどうだろうと言いだし、月娘自身は五日、李嬌児は六日、玉楼が七日、金蓮は八日と決めてゆくと、金蓮は
「そうなると、あたしは得《とく》するわね。あたしの誕生日の祝いと一ぺんに二つの義理がすませるわ」
次に孫雪娥《そんせつが》につごうをきくと、雪娥は返事もしない。そこで月娘は、
「雪娥さんはほっときなさい。李ねえさんをその次にすればいいじゃないの」
「でも九日は六ねえさんの正誕生日だから、おかあ様なんかが見えてぐあいが悪くないこと?」玉楼がこう言うと、月娘は
「じゃ、十日にしてもらうわね」
五、六、七、八と終り、十日、李瓶児のごちそうする番となった。李瓶児は綉春をやって雪娥をまねいたが、雪娥はどうしても来ない。
「呼んでも来ないったら。お金のある人は回り持ちもできようが、貧乏人には、裸足《はだし》で驢馬《ろば》の蹄と同じように行こうってなものだと、言ってたわ。大ねえさんが驢馬の蹄というわけね」と玉楼が言うと、月娘はむっとした表情で
「わからずやだねえ! もう相手にしないことにしましょうね」
この日、西門慶は外出していたが、月娘は玉簫に、
「だんなが帰られたら、おまえに頼むよ」と言ったので、玉簫は出て行った。
日が暮れて西門慶が帰って来ると、玉簫が衣服の世話を見る。
「みんなどこへ行ったんだ?」
「大奥様のお部屋で飲んでいらっしゃいます」
「何を飲んでいるんだ」
「金華酒でございます」
「応さんにもらった茉莉花《まつりか》酒があるはずだから持って来い」
西門慶は茉莉花酒を一口なめると、
「奥様方にはちょうどいい」と小玉と玉簫に運ばせてやった。
玉簫は酒を運びこむと、取りに来た|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》に目くばせして手をつねる。
「だれがその酒をよこしたの」と月娘が聞くと、玉簫が「だんな様でございます」
「そうかい。だんながお酒をお飲みになるとおっしゃるなら、お料理を頼みますよ」
玉簫が引き下がってしばらくすると、|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》が、「お茶を入れて参りましょう」と言いだす。「わたしの部屋に茶の葉があるわ」という月娘の声をあとに|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》が出て行くと、ドアの前に玉簫が立っていて口笛を吹いた。すだれをあげて月娘の部屋にはいると、西門慶は椅子に掛けて酒を飲んでいる。|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》は近寄ると、ひざの上に尻《しり》をおろしてふところに抱きつき、ふたりはキッスしたり、舌をすったりしはじめた。|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》は西門慶のからだをいじくりながら、口移しで酒を飲ませ、
「いいお茶ください。この間のはなくなってしまったんです。それからお銀子《かね》も少しいるんですけれど」
「巾着《きんちゃく》に一二両あるだろう。持って行け」と西門慶は女のズボンのひもをとこうとする。
「だめよ、人が来るわ」
「じゃ、晩だ」
|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》は首を振って、
「台所の薪じゃつまらないですわ。五色の糸の方がきれいですわ」と妾《めかけ》にせよとの謎をかける。
玉簫が見張りに立っていたが、そこへ孫雪娥がやって来て足をとめる。玉簫は部屋にはいられてはたいへんと、
「どうして六奥さんのところへいらっしゃらないのですか」
「わたしは運がないからね、とってもお付き合いはできないのさ。招《よ》んだり、招ばれたりする余裕はないさ」
話していると部屋から西門慶の咳《せき》の音がするので雪娥は料理部屋へさがって行った。
そこで|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》は人のいぬ間に奥にはいると、小玉が来て、お茶をせかすので、落花生をむくのを手つだわせて、ふたりいっしょに茶をもって行ったが、いい気になりすぎて、月娘たちの骰子《さいころ》遊びに差し出口をし、玉楼にしたたかしかりとばされて恥をかいた。灯《ひ》ともしごろになると西門慶がはいって来て、人に気づかれぬよう金蓮を誘い出し、
「おい、良い子だからおまえの部屋を貸してくれ。|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》に今夜用事があるんだよ」
「まあ、なんなの! 春梅が第一承知しますかねえ。あれがいいと言うんなら、あたしはかまわないけど」
「いやだと言うんなら、山の洞で一夜を明かす。だれかにふとんと火を持たせてくれ。この寒さではやりきれんからなあ」
金蓮は思わず吹き出し、
「あいつにひどく孝行するわね。あんたが玉祥〔魚を食べたいという継母のために氷の上に寝て、氷を融かして鯉を得たという逸話のある人物〕で、石の上に寝ておかあちゃん孝行するの。そうお」
「余計なこと言うな。頼むよ」
その晩の席が果てると、金蓮は秋菊《しゅうぎく》にふとんと火を山の洞まで持って行かせたが、ころを見てそっと洞の月形窓の下へ忍び寄り様子をうかがうと、中は薄明かるく、女の声が聞える。
「寒いわ。もうやすみましょうよ。いつまで、わたしの足を見てらっしゃるんです」
「うん、おれはあしたおまえに靴の布《きれ》を買ってやろうと思っているんだよ。金蓮よりまだ少しかわいいようだな」
「ええ。きのうためしてみたら、五奥さんの靴は靴ばきのままですっとはいりましたの」
外で金蓮は、淫婦め何をぬかすかとむかっ腹を立てて耳をそばだてている。
「ねえ、あの人を連れて来るまでにいろいろ艶《つや》っぽいことあったんでしょう」
「どうでもいいじゃないか」
「そうなのね。先にでき合っちまったご夫婦かア!」
金蓮は腹が立って足も動かぬ。こんなやつを置いといては、こっちがやられそうだと思ったが、じつと辛抱して、奥庭の門を銀簪《ぎんかんざし》で固くとざして引き上げて行った。
翌朝、|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》が先に起き出し、衣服をつけて奥庭の門まで来たが、どうしてもあかぬ。西門慶がしかたなく迎春《げいしゅん》を呼んであけさせると、そこに金蓮の銀簪がさしてあったから|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》はどきりとした。胸がふさがった思いで、自分の部屋の前まで来かかると、平安が便所から出て来てにやりとする。
「いやなやつ! 何がおかしい」
「笑っておこるんかい」
「朝っぱらから何を笑うことがあるんだい」
「目がくぼんでるね。ゆうべはどこだった?」
|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》はまっかになり、
「舌をぬくよ! なぜだい」
「戸にかんぬきがかかってたからさ」
|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》はかんぬきで平安を追い回す。
「言いつけてひどい目にあわせるよ」
「そらごらん。言いつけるって、さては高い枝に止まったね」
玳安《たいあん》が通りかかったので、平安はそのすきに逃げてしまった。
部屋で髪を結うと、月娘の部屋であいさつし、その足で|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》は金蓮の部屋に行く。金蓮が髪をといているので、鏡をとったり水を運んだりきげんをとるが、金蓮は目にも留めない。
「奥様、床《とこ》靴をしまいましょうか」
「いいよ、あとでだれかにさせるから」と秋菊を呼んだが返事がない。「どこへ行ったんだろう」
「外を掃いてました。春梅ねえさんは髪を結っていますよ」
「うるさいね、あんた。ほっといておくれよ。おまえはだんなのお世話をしてあげるがいいだろう。ふん、でき合い夫婦《みょうと》さ、どうせ。おまえこそ轎《かご》で乗りこんだ正夫人だろうからね」
このことばはぐんと胸にこたえた。|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》はその場に両ひざつき、
「奥様、お許しください。奥様のお引き立てがなければこうやってはおられません。大目に見てくださったご恩は忘れておりません。もし悪いこころを起こしたら、わたしの毛穴という毛穴は腫物《できもの》になります」
「いいわけはおよし。あたしゃ目に砂を入れっぱなしにしとけない性質《たち》でね。だんながおまえにご執心なのはそれで良いさ。だが、だんなにいいかげんなことを言ってへんなことをすると承知しないよ。大ねえさんだって黙ってはいないだろうね」
「そんなこと、何かのおまちがいで」
「ばか! あたしが知らんとでも思ってるのか。十人の女もひとりの男の心は買いつけられないって言うが、さいわいだんなはあたしにはなんでも話すんだよ!」
|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》はすごすご引き下がったが、儀門《よこもん》のところで西門慶に出会った。
「あなたはほんとうにおしゃべりね。ゆうべのこと皆知れてて、ひどい目にあいましたわ。何もこころにしまっておくことできないんだから」
「なんのことだい。おれにはわからん」
|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》はジロリとにらんで、さっさと行ってしまった。
|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》は西門慶の手がつくと、だんだん増長してくるようになった。同輩の小おんなには口封じに西門慶にもらった銀子《かね》でかんざしやハンカチ、時には西瓜《すいか》の種を四五升を買ってわけてやるなどということもする。一日二、三銭も銀子を使うようになった。ただ、金蓮には痛いところを握られているから、茶をついだり針仕事をしたりして細かく気を使う。金蓮の方は西門慶が来た時など、酌に呼んでいっしょにふざける。男の心をつなぎたいためである。
二十四
正月十五日は元宵《げんしょう》節で家ごとに燈籠《とうろう》を飾って祝う。翌十六日は一家|団欒《だんらん》の日である。この日西門慶は、月娘を上座に、酒を飲み、楽器を鳴らし、歌をうたって楽しんだが、宋|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》は回り廊下の椅子に腰掛けて瓜《うり》の種をかんでいて、酒の催促があれば小ものを使い、種子の殻《から》が散らばれば小ものに掃かせるという思い上がりようだった。
酒席の方では西門慶が陳敬済《ちんけいさい》の杯があいているのを見て、潘金蓮に酌するように言いつけると、金蓮はうれしそうに敬済に近づいて、「おとうさんのお言いつけですよ。さあ、一杯あけてちょうだい」
「五奥様、どうぞおかまいなく」と敬済が意味ありげに見つめるので、金蓮は人に見えないように手の甲をきゅっとひねる。敬済も人目に気をくばりながら下の方で金蓮の足を軽く蹴る。
「腕白! おとうさんが見たらどうするの」
だれ知るまいと思ったが、|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》が格子《こうし》窓の外からじっと見つめていた。
そのうちに応伯爵《おうはくしゃく》から使いが来て、西門慶は玳安と平安をつれて外出する。やがて銀河が輝き、満月は煌々《こうこう》と上って、李|嬌児《きょうじ》、孫雪娥、西門|大姐《たいそ》は月娘について奥へ引きとり、玉楼、金蓮、李瓶児の三人は|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》とともに敬済の花火をながめていたが、金蓮が外へ出てみようと言いだすと、|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》がお供をしたいと言いだした。|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》が月娘や嬌児を誘いに出され、玉楼があれじゃうまく誘えまいと後を追っかけ、李瓶児が衣服を重ねに去ると、金蓮と敬済ばかりになる。
「こんな薄着で寒くないの」と金蓮が敬済の背中をきゅっとつねり、というところに小鉄棍《しょうてつこん》という召使の子供がやって来る。花火を二つ三つやって去らせると、敬済は、「薄着がわるけりゃ、衣服でもくれるんですか」
口争いを楽しんでいると、玉楼と|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》が帰って来た。月娘はからだの調子が悪い、李嬌児は足が痛い、孫雪娥はだんなにしかられるからということでみな行かない。そこで、金蓮、玉楼、瓶児の三人だけ行くことにし、小間使いもつれて押し出した。門のところで、|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》は衣裳をこらし追っかけて来てくっついて行く。
来安と画童《がどう》に灯をつけさせ、きらびやかに進んで行くこの一行は、美しい月光の下、燈籠に埋められた町の雑踏《ざっとう》にひときわ目立ってはなやかである。その道すがら、|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》は何だかだと敬済に話しかけたがったが、「あら、靴が脱げそうだわ」と肩にすがる。見かねて玉楼がわけを聞くと、道がぬかるんでいるので、前にもらっていた金蓮の靴を、靴の上からはいて来たのですってと玉簫が答えた。小足がじまんの金蓮はむかっとする。けれど|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》はすましかえってスカートをまくり、足を見せた。金蓮は黙殺するように、「獅子街の李ねえさんのお家へ寄ってみましょうよ」金蓮は来安、画童を先に走らせた。一同は李瓶児の家へ着いたが、酒を買いに走ろうとする馮《ふう》婆を止め、お茶だけ飲んだ。馮婆が十三の女の子を五両で、もうひとりは、汪《おう》家の召使のかみさんを十両で買ったという話をした。玉楼はそこで李嬌児が元宵ひとりで困っているから、大きい方を売らないかと交渉する。かみさんの方は十七だった。
春梅、玉簫、|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》たちは表の二階の窓をあけて見物しているが、陳敬済はもう晩《おそ》いと、しきりに帰りたがるので、一同帰宅した。翌朝、敬済は月娘の部屋で李嬌児、金蓮、玉楼、李瓶児、大姐などとお茶を飲んだが、すぐ大姐に引っ張って帰られ、「死にぞこないの悪者。来旺のかみさんなんかとべたべたして、おとうさんに知られたらどうするのよ! ただごとじゃ済まないわ」といや味を並べられた。一方、西門慶は広間で、兵馬|都監《とかん》の着任あいさつにたずねて来た荊千戸《けいせんこ》と話していた。茶を命ぜられた平安が宋《そう》|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》をさがすと、玉簫や小玉と裏庭でふざけ回っている。
「荊のだんなが見えて、お茶がいるんだ」と言っても返事もしない。「お客様は来てだいぶになるんだぜ」
「なに言ってんのさ。お茶なら料理部屋へ行ってよ。わたしたちはお部屋の係よ。表の方の世話までできないわ」
平安が料理部屋へ来ると、その日は来保《らいほ》の妻の恵祥《けいしょう》が当番でいた。
「わたしは食事の方で手がふさがってるんだ。お茶ぐらい奥の人にさせてよ」
「行ったが、|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》ねえさんが、大台所へ頼めと言うんだ」
「なんだって! あいつは部屋付き、わたしは料理部屋付きと言うんだね。みなのご飯を作って、精進料理も作ってるんだよ。わたしゃ知らないよ」
「荊のだんなが来てるんだ。早くしてくれよ。どなられちまわあ」
押し問答をしているので、なおさら暇がかかった。荊都監が何回も立ちかけるのもむりに止めていたところだから、西門慶は一口飲むと、
「なんだ、このぬるい茶は」とがなり立てて、茶を換えさす。そして都監が帰って行くと、「どこからあんな茶を持って来た!」
「料理部屋です」
「当番はだれだい!」
「恵祥でございます」
そこで月娘は恵祥を呼ばせ、二つ三つ小言を言い、以後お客には玉簫と|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》がお茶を入れること、料理部屋は食事だけを作ってるがいいと命じた。恵祥はその場はじっとこらえてたが、西門慶がいなくなると裏庭に飛び出して|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》に食ってかかった。
「やい、淫婦! おまえは奥付きになっていい気におさまってるが、元をただせば、わたし同様、料理部屋付きじゃないか。それを奥さん気どりで、茶を取りに来させやがって。キリギリスは疣蛙《いぼがえる》の肉は食わないとさ。偉そうにしたって同じ人間だよ。奥さんでもないくせに、なんだい。たとい奥さんに出世したって、ビクともするもんか!」
「だんなにしかられて、あたしに当たるのはごめんだよ」
「なんだと? おまえのおかげでしかられたんだ。蔡家にいた時、さんざん男を食いあらしやがって、それで足りずにここでもかい?」
「男を食ったって、何のことさ。おまえさんだって清浄潔白でもなさそうじゃないか」
「そりゃそうだろうさ。亭主《ていしゅ》が外で小米の粒を拾ってるのに、おまえはこそこそいいことをやってやがる。だれだって知ってるよ」
「あたしが何したと言うのさ。ふん、ビクともするもんか」
「ビクともしないはずだよ。後にレッキとしたのがしり押ししてるからね」
小玉が月娘を連れて来たので、やっとこのけんかは中断された。勝ち誇った宋|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》はますます幅をきかせ、召使たちなど眼中にない。毎日のように玉楼、金蓮、李瓶児、西門大姐、春梅たちといっしょになって遊んでいる。馮《ふう》婆は小おんなを連れて来た。李嬌児の部屋付きにしたが、値五両であった。
二十五
来旺は西門慶の命を受けて杭州に着くと、蔡太師の誕生祝いの衣服をつくり、その他たくさんの品物を船に積んで帰って来たが、まず自分だけもどって来て、報告に奥へはいっていくと雪娥に出くわした。
「まあ、帰って来たのね。黒くなったけど、太ったようだね」
「だんな様と奥様は?」
「だんなはお出かけ、奥さんは奥庭でぶらんこをこいでるわ」と茶を飲ませ、「ご飯は?」
「あとにしましょう。それはそうとかかあのやつ、かまどにいませんが」
「言っちゃ悪いけど、おまえのかみさんは近ごろたいしたもんだよ。毎日奥さんがたと将棋をさしたり、カルタをしたり、どうしてかまどのとこにいたりするもんか」
雪娥がせせら笑っていると、小玉が来旺の帰りを知らせに行くので、来旺は月娘のところへ行き、報告をする。酒を二本出して飲ませていると、|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》が来たので月娘はふたりを引き取らせる。部屋にもどると|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》は、
「ずいぶん黒くなって太ったわね」と着替えさせ、食事をとらせて、休ませた。日が暮れて西門慶が帰って来ると来旺はさっそく行って、
「蔡太師の反物、娘《おく》様方のお着物、全部ととのいまして四箱を官船で城外まで運びましたが、税金その他が未払いです」と報告した。西門慶はたいへん喜び、その方の費用を渡し、明朝城内に持ちこめるよう手配させると、別に五両のほうびもやった。
来旺はみやげ物を用意してあって、孫雪娥に綾《あや》のハンカチ、花を縫いこんだひざ当て、四箱の杭州白粉、二十個の口紅を贈る。で、雪娥は、留守の四月の間に、|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》が玉簫の手引きで西門慶とくっつき、はじめは山の洞だったが、後には金蓮の庇護《ひご》で大っぴらであること、いろいろのものを買ってもらっていることなど詳しくしゃべって聞かせた。
来旺はその話をじっと胸に収めていたが、晩、酒をひっかけると、収まらない。衣箱をあけて、
「おい、この緞子《どんす》はだれにもらった!」
|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》は笑いでごまかし、
「へんな人ねえ。また、どうしてそんなこと聞くの。わたしの衣類がないのを見て、奥様がくださったのよ。でなきゃ、だれがくれるもんですか」
「ふん! じゃ、この頭飾りはどうした」
「ちぇっ、いやになるねえ。だれにだって、身内というものはあるじゃないか。伯母さんから借りて来たのさ」
「おのれ!」と来旺児はいきなり|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》をぶんなぐると、「つべこべぬかしても知ってるんだぞ。よくもあの恥知らずの犬豚野郎とやりやがったな。玉簫の手引きで、奥庭でくっつきやがって、潘のスベタの袖の下にかくれ、毎日やらかしてるぐらい、知ってるんだ。白状しろい」
|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》はわあわあ泣きわめき、
「このろくでなし。なんでわたしを打《ぶ》つのさ。わたしがなに悪いことをしたと言うの。どっかのうそつきがでたらめ言って、おまえをせっついたんだろうが、わたしはそんな女じゃないよ。死んでも浮かばれないや。人の言うことばかり信用して、どこに証拠があるの!」
「……」
「この緞子が気にかかるのなら教えてあげるよ。去年の十一月、三奥さんの誕生日に玉簫のスカートを借りてはいてたら、みっともないからってくださったんだよ。それを疑ってかれこれ言ったことがだんなのお耳にでもはいってごらん、すぐ首だよ」
「なんでもなかったのならおこりゃしないよ。早くふとんを敷いて寝かせろ」
「この|のたれ死に《ヽヽヽヽヽ》、何さ、酒をくらって、当たり散らして」
来旺はもう雷のいびきだった。間男《まおとこ》するような女はなかなか手ごわいもの、ああ言えばこう言いくるめる。まったく便所の敷|瓦《がわら》、臭くて固いとはこのことである。
|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》は来旺に告げ口した者を、玉簫にたずねるがわからない。ところがある日、月娘が小玉に雪娥を呼ばせたところ、どこにもいず、最後に、来旺の部屋から出たところを見つけた。|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》と話していたものと思って、そのまま台所へ行くと、当の|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》は肉を切っている。ちょうどそのとき、客があり、来旺は主人に呼ばれてその部屋から出て来た。これで、雪娥と来旺のことが知れた。
ある日、来旺はへべれけに酔っぱらい、小ものたちをつかまえて西門慶を口ぎたなくののしり、「こうなったからにゃあ、白い刀ではいって、赤刀で出るまでだ。潘家の淫婦《あま》もたたっ殺してやる。きっとやるからな。畜生、亭主に毒を盛りやがって、それで足らねえで、都まで飛んでって武松を追っぱらってやったこのおれ様の女房に間男をつくりやがった。こうなりゃ、やぶれかぶれだ!」
これを来興がすぐ孟玉楼といっしょにいた金蓮に告げる。|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》を寝取りたいばかりに西門慶が買付け係を来旺に回したので、うまい口を棒にふったため、来旺をおっぱらいたく、思っていたのである。これ聞いて、玉楼はびっくりしたが、金蓮は血の気《け》をほおにみなぎらすと、歯がみをして、
「死にぞこないの三下《さんした》やっこめ。主人があいつのかかあをいじくったって、わたしに何の恨みがあるんだね。畜生、ただでは済まないよ。おまえ、だんながもどったら、そのとおり申しあげるんだよ」
来興が帰って行くと、玉楼は金蓮に、
「だんながあの女に手をつけたってほんとうかしら」
「蔡という家で何かあって蒋聡《しょうそう》のところへやられたぐらいだもの、ありうることだわ」と、山の洞のことから、部屋を貸せと言われたことまで話すと、
「まあ、あきれた。でもだんなも悪いわねえ。外へひろがったらみっともないわ」
「主人が小ものの女房に手をつければ、小ものは主人の妾に手を出す。靴に右左がないみたいだ。なってないわね」
「だんなに話さなくっちゃいけないわ。大ねえさんじゃ納《おさま》りがつかないわよ。とりかえしつかないことになるわ」
その夜ふけ、西門慶が帰って来ると、金蓮は目を泣きはらしている。わけを聞くと、来旺が主人殺しを企て、妾のひとりとくっついていると話した。
「だれがあいつとくっついたんだ」
「小玉に聞いたらわかりますわ。あの三下やっこは、わたしの悪口もさんざん言ってるのよ。亭主殺しだとか、それが、あいつのおかげで助かったんだとか、命の親だとか。あんたの面子《メンツ》まるつぶれじゃないの」
西門慶は来興に問いただすと、こいつはペラペラしゃべる。小玉に聞くと来旺と雪娥のことが、金蓮の話とピッタリ合う。西門慶はかんかんにおこって、雪娥をなぐったが、月娘になだめられ、腹が治まらないので、衣服と冠を取り上げ、召使女房どもと、台所仕事ばかりして、人前に出ることならぬと命じた。つづいて玉簫に宋|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》を呼ばせて問いただす。
「まあ、あきれたわ。おどろくわ。いくらお酒に酔ったって、そんな大それたこと。ばかばかしいわ。紂王《ちゅうおう》〔殷《いん》最後の王で暴君の代表〕の水を飲んでて、紂王をののしるなんてことするもんですか。あの人はどなたのおかげで口すぎしてるんですの? そんなことありっこないですよ。デマですよ。だれがそんなこと言ってるんです」
まくし立てられて、西門慶はしかたなく、
「来興なんだ」
「そうれ、ごらんなさい。だんなが買付けの仕事をあいつからうちの人に移したでしょう、その恨みがここへ出たんですよ。けれど、こうごたごたするんじゃ困りますね。いっそうちの人に資本《もとで》をわたして、遠方へ商売に出したらどうかしら」
「なるほど、それもそうだな。ちょうど、塩商人の王四峯《おうしほう》と来保を東京《とうけい》へ出すつもりだが、かわりに来旺をやろう。これでどうだね、おまえ」
「そうしてちょうだい」
女は喜んで西門慶に抱きつく。西門慶はものも言わず抱きしめて、キッスして離さない。
「ねええ。冠を買ってくださるって、いつまで待たせるの。今かぶらなけりゃ、もうかぶれないわ」
「うん。よしよし。あした八両の銀で頭の物をこさえさしてやる。だが、大奥さんに見られたら、どうするんだ、おまえ」
「だいじょうぶよ。伯母から借りたって言いますわ」
翌日、西門慶は来旺を呼び、あしたの三月二十七日にたって東京《とうけい》の蔡太師に贈物を届けてもらうから、旅じたくをしておけと命じ、それから帰ったら杭州で商売させる予定だと知らせる。来旺は大喜びで部屋にもどると用意にとりかかったが、来興はすぐさまこのことを金蓮に注進する。金蓮は西門慶を部屋に引っ張りこみ、
「だれを東京へやるんですの」
「来旺と帳簿係の呉《ご》だ。王四峯のことでな」
「あら、あの淫婦にすっかり丸められたのね。あの女房をあんたにしゃぶらせといて、お銀子《かね》をもってドロンをきめこんだらどうなさるの。人の大金を弁償するのはたいへんですよ。あいつは家へおいてても、外へ出して商売させてもあぶないわ。それ銀子をちょろまかされても、あんたは負《ひ》けめがあって文句がつけにくいでしょう。もし、あの女がどうしてもほしいのなら、あの三下を追い出すことを考えることよ。草をとるには根から抜けって言うじゃないの。そうすれば安心してというわけにならない?」
金蓮がけんめいにくどくので、西門慶は酔いからさめたように目が見えてきた。
二十六
翌日、西門慶は旅じたくを整えた来旺を呼びつけ、やはり今度は来保に行かせることにした、そのうちに表でおまえに商売させるから、それまで休んでいろと告げ、来保と呉を三月二十八日に出発させた。
来旺はがっかりして部屋へ帰ると、やけ酒を飲んで、|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》をののしり、西門慶を殺すとわめき立てる。|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》はあわてて、
「食いつく犬は歯を見せないよ。狂人水《きょうじんすい》をくらってへんなこと言って、おまえさんはばかだ」と寝かせつけてしまう。
翌日になると|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》は玉簫の部屋に西門慶を呼び出して、約束がちがうとなじったが、来保のほうが蔡太師のところの事情に明かるいから代わらせたので、来旺は表に酒屋を開いてその番頭にするつもりだと聞かされて、やっと納得した。つづいて西門慶は来旺を呼び、六包みの銀両《かね》をテーブルの上において、
「こないだは杭州行きでご苦労をかけたな。ここに三百両あるから、おまえが番頭となって門前で酒屋を開いてくれ。月々いくらか利息をおれに持って来てくれればいいんだ。しっかり商売にはげんでもらいたい」
来旺はあわてて這《は》いつくばうと、六包みの銀両を部屋に持って帰り、|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》に見せる。
「そうれ、ごらんよ。文句はないでしょう。気長に待ってりゃ、ことができ上がるじゃないか。もう酔っぱらったりせずに、まじめにやっておくれよ」
来旺は銀両《かね》包みを箱にしまわせ、小僧を雇おうと飛び出して行ったが、うまくゆかぬので、酒を飲んで帰って来た。|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》が来旺を寝かしつけてしばらくすると、玉簫が呼びに来たので、なんのことかといっしょに出て行く。そのうち、来旺が目をさますと、もう午後八時ごろである。酒がさめないので、またうとうととしていると、窓の外からだれかの声がする。
「来旺さん、早く起きなさいよ。かみさんが奥庭へ行ったよ」
はっとして起き上がると雪娥がそっと知らせに来たらしく|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》がいない。思わずかっとして、とびらを蹴《け》あけるが早いか、奥庭めがけて駆けつけると、ふいに横合いから腰掛けが投げ出され、つまずいてばったり倒れる。そこへガチャンと刀が投げられたかと思うと、四五人の小ものが飛び出して来て、「どろぼう」と有無を言わさずしばり上げてしまった。
「来旺だ。どろぼうじゃないぞ。かかあを捜しに来ただけだ」と言ったが、ぽかりぽかり棒でなぐり、大広間へ引きずって行く。大広間にはもう灯《ひ》がこうこうとともされていて、正面には西門慶が腰をおろしている。
「女房が見えないんで捜しに出ましたんで、どろぼうではございません」
来旺が、がっくりひざまずくと、来興が出て来て、刀を西門慶に見せる。西門慶は烈火のようにおこりだし、
「こいつめ、たしかに人を殺そうとしたんだ。でなければ、夜中に刀を持ち出すわけはない。こいつの所から三百両を取りもどして来い」
小ものが来旺の部屋に行くと、この騒ぎを聞きつけた|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》があわてて玉簫のところから帰ったところで、わっと泣きだし、
「ゆっくり寝てればいいものを、あたしなんか捜したりして。きっとだれかの穽《わな》にかかったんだ」
やがて小ものが大包みの銀子《かね》を持ち帰ると、西門慶は包みを開かす。一包みだけが銀両《かね》で、残りの五包みは鉛がはいっている。
「すり替えた銀両《かね》はどこへやった! 白状しろ」
来旺は泣きだして、「そんなこといたすわけはございません」
「なんだと。刀を持ち出しておれを殺そうとまでしやがって、何ぬかすか! 証拠の刀もここにあるわ」
西門慶は来旺をしばりつけさせると、あす訴状を書いて提刑《ていけい》院送りすることに決めた。そこへ髪振り乱して|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》ががっくとひざまずき、
「だんな様、本気のさたでございますか。わたしを捜すのがなんでどろぼうでございます。六包みの銀両はわたしが預かって箱へしまったもの、すり替えたなんて滅相《めっそう》もない。人を生埋めにするのだって物の道理がいります。どこへ連れて行こうと言うのです!」
|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》の顔を見て、西門慶は急ににやにや笑い、
「おまえの知ったことじゃないんだから、まあお立ち。おれを殺そうとしたんだが、おまえの知ったことじゃないんだから」と|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》を連れ帰らそうとするが、がんとして動かない。
「あんまりです。人の言うことは信じて、わたしの言うことには耳をお貸しにならないんでございますか。この人は酒こそ飲んでも、どろぼうや人殺しはいたしません」
西門慶はいら立って、来安に|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》を部屋まで引きずって行かせ、翌日になると、月娘のいさめるのも聞かず、さっさと来旺を提刑院に突き出してしまった。月娘や玉楼は何がなんだかわからず、|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》を慰めることばもうまく出なかった。
来旺の取調べの前に、夏《か》提刑と賀《が》千戸には白米百石が届いている。そこでふたりは有無を言わせず来旺に罪を着せようとする。来旺は西門慶が妻を姦《かん》していることを申し立てるが、
「主人に対して何をぬかすか! その方の妻も主人が配合《めあわ》せてくれたもの。資金まで貸そうという主人を殺そうとするとは何事か!」と三十棒を食わさせ、血だらけの来旺を牢《ろう》へつないだ。これを知った西門慶は家じゅうのものに、差入れもするな、|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》にも知らすなと命じた。
一方、宋|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》は来旺が引っ立てられてからは食事もとらず髪も梳《す》かぬ。西門慶も閉口して、玉簫や賁四《ほんし》の妻の葉五児《ようごじ》をやって、「あの人は酒に酔っぱらって乱暴なことを言うからちょっとこらしめに入れられただけ。その内に出て来るよ」と慰めさすが、いっこう信ぜず、そっと来安に頼んで食事を差し入れてもらい、牢の模様をきく。来安は主命があるので品物は捨てて帰り、
「おかみさん、心配しなさんな。痛い目にあっていないようだから、一日二日のうちには帰って来るだろう」
|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》はこれを聞いてやっと安心して、泣くのもやめ、薄化粧するようになった。西門慶が通りかかると|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》は部屋に招き入れ、来旺のことを持ち出す。西門慶は、五六日入れておいて性質を直すだけだから安心しろと言い、役所に放免の手紙を書いてやることと、出て来たらやはり商売をさせると約束した。|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》はこれを聞くと、いきなり西門慶の首ったまにかじりつく。
「ああ、おにいちゃん。ぜひそうしてちょうだい。きっと酒をやめさせ、まじめに働かせますから。それからあの人には別にかみさんを持たせて、わたしはあなたのそばにおいてくださいね」
「いいよ、いいよ。向いの喬《きょう》家の持ち家を買って、おまえをそこにおくようにする。そうすりゃ気がねなしに遊べるからな」
話し終ると、二人はとびらをしめる。|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》は夏はズボンをはかずスカートをたらしているだけだから、さっそくスカートはまくられた。西門慶はことのあと、二三両の銀子《かね》をやって出て行った。|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》は西門慶を信じているので、うきうきして、小おんなについそのことをにおわせた。それがすぐ孟玉楼の耳にはいり、金蓮へと伝わってしまった。金蓮はまっしぐらに、西門慶のところへ駆けつける。ちょうど西門慶は陳敬済に、来旺の釈放願いを書かせている最中だった。
「それ、なんの手紙?」
「いや、来旺をもういいかげんで出してやろうと思ってな」
「まあ! あんた、それで男なの? ふらふらふらふらして。あたしの話は聞けないが、あの三下|淫婦《いんぷ》の話なら聞けるってわけ。ふふん、淫婦は亭主がかわいいんだってことわからないのかなあ。あの三下を牢から出したって、淫婦はもらうわけにいきませんよ。へんじゃないの。あの三下に別のかみさん持たせたところで、考えてもごらんなさいよ、あんたと淫婦がいっしょにいるところへあの三下がまかり出たところを。格好にも何にも、ならんじゃないの。みっともないばかり。人のお笑いぐさだわ。でもねえ、どうしても淫婦がほしいのなら、毒くわば皿まで、あの三下を片づけちまうことね。そうすりゃあの女を安心して抱ける」
これを聞くと西門慶は考えをかえ、夏提刑に手紙をやり、下役にもそれぞれ袖《そで》の下をつかい、来旺の刑を重くするように頼みこむ。けれど書記に一名まじめな者がおり、どうしても公文書を書かない。で、提刑は、来旺に四十棒を加え、原籍地の徐州《じょしゅう》へ追放と決まった。たたきのめされた来旺は途中の路銀を人の同情にすがろうとしたが、|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》の父の宋仁《そうじん》が一両くれただけ、西門慶をおそれて人々は知らぬ顔をする。こうして来旺は、二名の護送役人にひったてられて、泣く泣く清河《せいか》県を離れて徐州へ向かった。
|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》は来旺の出獄を待っていたが、そのうちに、家の中の気配で来旺の放逐を感じ、鉞安《えつあん》という小ものを部屋に引っ張りこんで聞きただしていると、感じたことが事実であることがわかった。|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》はわっと泣き伏し、鉞安を帰すととびらをしめ、「あなた、とうとう穽《わな》にかかったのね! いい目をしたこともないのに、遠くへ追っばらわれて、生きているのか、死んでるのか。わたしも押し殺されるみたいだわ」と泣き叫んで、長い布地を梁《はり》にしばって首をつった。来昭の妻の一丈青《いちじょうせい》は隣部屋に住んでいたが、泣き声がやむとうめき声、あわててとびらをたたいたが返事がない。気が遠くなる思いで平安に窓からすべりこませると、|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》がぶら下がっている。布を切り、抱き起こして生姜《しょうが》湯を口へ注ぐと、のどをごくごく鳴らすが、声は出ない。月娘が李嬌児、孟玉楼、西門大姐、李瓶児、玉簫、小玉たちを連れて来て、哀れみ騒いでいるうちに、のどがごくりと鳴り、|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》は声を上げて泣きだす。玉簫がオンドルへ上げようとしても身もだえするばかりで上がろうとしない。とにかく正気にかえったので、玉簫と葉五児にまかせて月娘たちが引き上げるのと入れかわりに西門慶がはいって来て、
「意地を張るんじゃないよ。冷えるからオンドルにお上り。ばかな考えを起こす前に、おれに相談すりゃいいのに」となだめる。けれど|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》は、もう言いくるめられない。
「あなたはそんな人だったのね。わたしを甘口でだまして。人を生埋めにする首切り役人みたいな人だわ。殺しといて葬式に顔を出す人だわ。きょう出る、あす出るって、出たかと思えば、遠い徐州へ追放! うまく穽をしかけて、だまして。ふたりとも追い出してくれたら良かったのに、わたしひとりを残したりして、どうするの!」
「おまえの知ったことじゃないんだ。悪事を働いたものだけ追い出したんだよ。おまえも一安心のはずじゃないか」
西門慶は一丈青と葉五児に介抱を命じ、「酒でも持って来させるから、それでも飲んでいてくれ」と出て行った。
夕食の時間になり賁四《ほんし》の子供が、かあちゃんと葉五児を呼びに来る。介抱を玉簫に頼んで外へ出ると、|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》の仲悪の恵祥が西門大姐と立ち話していて、様子をたずねた。
「|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》さんも気が強いね。だんな様に楯《たて》つくんだよ。でも、小ものの女房じゃねえ」
「当りまえさ」
日がとっぷり暮れる。玉簫はいろいろ|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》をなぐさめ、
「宋|大姐《ねえさん》、だんな様があんなに好いてくださるんだもの、それでいいじゃないか。あの人はもう遠くに行っちまったんだし、それはそれで、あしたはあしたの風とゆけばいいじゃないの。貞節《みさお》のことなど、だれもぐずぐず言わなくなってくるわよ」
|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》はただ泣くばかりで粥《かゆ》も食べぬ。西門慶はしかたなく金蓮になだめさせたが、金蓮もぷりぷりおこって帰って来て、
「あの淫婦、亭主のことばかり考えてるわよ。一夜の夫妻は百夜の恩だってさ。たいした貞節女ですよ」
西門慶は笑いだし、
「あいつが貞節なら、蒋聡《しょうそう》を来旺に乗りかえたりするわけはないな」
西門慶は小ものを呼び集めると、来旺のことをもらした男を追及する。それが鉞安《えつあん》とわかると、西門慶は引きずり出してこいと命じるが、鉞安は潘金蓮の部屋に飛びこみ救いを求めた。金蓮は鉞安をかくしたが、家じゅう荒れ回ったあげく鞭《むち》を持って西門慶が飛びこみ、ついに鉞安を引きずり出した。とっさの間に金蓮は西門慶の手から鞭をむしりとり、
「なんなのよ! それでもご主人? あの淫婦が亭主を追って首をつったのが、鉞安となんの関係があるのよ!」怒りにふるえている西門慶にたてついて、金蓮は鉞安を助けてしまった。
西門慶が|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》に首ったけであるのが、どうにも金蓮は気に入らない。そこで、孫雪娥に、
「|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》のやつ、あんたがあいつの亭主をほしがったって言ってるんだよ。こないだあんたがたたかれたのも、あいつのさしがねなんだよ」とたきつける。孫雪娥はいつもとうって変わっていきり立ち、|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》のところへ飛んで行くと、
「なんだいおまえさんは! 蔡家の奴隷の分際《ぶんざい》で、男ばっかり換えて。おまえが間男しなけりゃ、おまえの亭主は追い出されやしなかったんだ。泣いてる涙で、かかとでも洗やいいんだ」
四月十八日、李嬌児の誕生日が来て、色町から李|桂姐《けいそ》の母や李桂姐たちが来て誕生を祝う。月娘はその女客を引きとめて奥の広間で酒を飲み、西門慶は外出中だった。|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》は顔をちょっと出しただけで、部屋に引きこもって、再三呼ばれても出て来ない。孫雪娥はわざわざ|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》のとこまで出向き、
「おまえさん、お高くとまってるじゃないか。呼んでも来られないのかい」といや味を言うが、|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》は壁のほうを向いて寝たまま返事もしない。「へん、旺さんのことを思いこがれてるのかい? 前から、そうだったら良かったのにさ。呼びもどしできず、死にもできず、いいざまさね」
|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》はがばっと起き上がり、
「そんなことをわざわざ言いに来たのかい。だれのおかげで、ああなったと言うのよ。たたかれて、人前にも出られなくなりやがって、ざまあ見ろだ」
「なんだって? 三下の間男づくりの淫婦め」
「そうともさ、わたしは三下の淫婦さ。おまえさんはなんだい、三下の妾なんじゃないか。わたしが主人とくっついたって、下人とくっつくよりましだわ。なんだ、亭主どろぼう」
いきり立った雪娥は、いきなり|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》の横つらを張る。ふたりはとっ組み合って組んずほぐれつやっていると、隣の一丈青が飛んで来て、やっとのことで引き離したが、悪口はやめない。そこへ月娘がやって来て、
「あきれた人たちだ。お客様もあるのに、なんという|ざま《ヽヽ》なの。だんなが帰ったら言いつけますよ」雪娥はぷりぷりして帰って行く。月娘は|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》の頭を見て、
「髪を結い直して、奥へおいでよ」
|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》は返事もせず月娘を送り出したが、とびらを中からしめ、灯ともしごろまで泣いていたが、奥の女客のにぎやかな騒ぎをよそに、ひもを鴨居《かもい》にかけ首をくくって死んでしまった。二十五歳である。
しばらくして、女客を送り帰した後、月娘が|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》の戸口で来るとひっそりしている。ふしんに思って声をかけても返事がない。ぞっとして小ものを窓からはいらせたが、もうこと切れて、|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》は冷たくなっている。月娘は、来興に馬で西門慶を呼びにやったが、雪娥はそら恐ろしくなって半泣きで月娘のところへ来、詳しく事情を話し、黙っているよう願った。月娘は西門慶に、ただ亭主を思って一日じゅう泣いて死んだのだとだけ言った。
「あわれな女だなあ。福がなかったんだ」
西門慶は嘆息すると、県知事に銀杯がなくなって罰をおそれて自殺したと報告し、別に三十両を添えて送ったので県知事は火葬を命じる。ところが|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》の父|棺桶《かんおけ》屋の宋仁は、
「腑《ふ》に落ちん。きっと西門慶に強姦されようとして貞操《みさお》を守ろうとして死んだんだ。おれは訴えてやる」と、どうしても火家《おんぼう》に火をつけさせぬ。ついて来た賁四と来興は、|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》の死体を寺に預けたまま、帰るよりしかたなかった。
二十七
その日来保が東京から帰り仕事のうまくいった報告をしているところへ、賁四、来興児が帰って来る。西門慶が「もう灰になったか」と尋ねると、来興がにじり寄り、
「宋仁が火葬場に来て、どうしても焼かせぬうえに、だんな様にこんな無礼なこと申しております」
「ようし、あの|おいぼれ《ヽヽヽヽ》、どうするか見ておれ」
さっそくその場で陳敬済に、李知事あての手紙を書かせる。知事はふたりの小役人をやって宋仁を役所へ引っ立て、むすめの死にかこつけて恐喝《きょうかつ》を働くのだろうと、有無言わせず二十棒をくらわす。赤い血がだらだらと股《もも》をつたうものすごさ。たたきのめすと、二度とふたたび西門慶に累《るい》を及ぼさずという始末書を書かせ、死体を焼かせた上で放免した。宋仁はその後幾日も経ずこの世の人でなくなった。
西門慶に向いの喬大戸《きょうたいこ》に頼まれた滄州《そうしゅう》の塩商人の事件を蒋《しょう》太師がうまく解決してくれたことのお礼に、重さ三百両の金銀を使い、誕生を奉賀する四人の銀人《にんぎょう》、寿の字をあしらった金の壺《つぼ》、桃の型をした玉杯などを作らせる。それとは別に、杭州織りの真紅の地に、五色の色どりをした蟒衣《ぼうい》も縫わせようとしたが、黒と真紅の織地が二匹ばかり足りない。困っていると李瓶児が自分の手持ちのものを出した。これは杭州ものより何倍も上等の品なので西門慶は大喜び。これらの贈物を持たせて、五月二十八日、ふたたび来保と帳簿係の呉を都へ旅立たせる。
それから二日たって、六月一日、日々の暑さつづきに外出せず、西門慶は奥庭にある翡翠《ひすい》軒の日|除《よけ》けの下に涼んでいた。らんまんと咲きほこる瑞香花《ずいこうか》に来安が水をじょうろでかけている。そこへ潘金蓮と李瓶児が笑いさざめきながら出て来て西門慶に気づき、
「あら、花に水をやって、自分の髪はほっとくんですか」
「うん、だれかに水を持たせてくれ、ここでとかすから」
そこで金蓮は来安に水と櫛《くし》を命じたが、ふと気づいて瑞香花を髪にさす。西門慶は李瓶児にも一枝やる。そして月娘、李嬌児、孟玉楼にも持って行き、玉楼には月琴を持って来させるように、鏡と櫛と水を持って来た春梅、秋菊に言いつけた。金蓮は孟玉楼のとこへは自分が持って行くと出て行き、その場には西門慶と李瓶児ふたりになる。西門慶が李瓶児を見ると、紗《しゃ》のスカートから真紅の紗のズボンがすけて見え、日の光で中から美しい玉の肌がすけて見える。思わず好きごころがむらむらとし、髪のことはほったらかし、やにわに李瓶児を涼み椅子へ押さえつけ、スカートをまくり、ズボンをおろすというありさま。一方、潘金蓮は途中で気が変わり、花を春梅に渡して、しのび足に引き返し、翡翠軒の格子窓の下に身をひそめる。中のふたりは夢ごこちになっている。
「おまえのおにいさんはな、おめえチャンのこのまっ白けのお尻が大好きさ」
「だめよ。からだのぐあいが悪いのに」
「からだのぐあいって、どうかしたのか」
「ほんとはね、赤ちゃんができたの。だから」
「えっ、そうか。なぜ早く言わなかった。それなら、そう加減するわな」
金蓮がじっと耳をすましていると、ふいに玉楼が後ろから「何してるの?」
金蓮は手で制し、それからふたりではいって行くと、とっさのことで西門慶も形がつかない。
「まだ、顔も洗ってないのね」
「いや、茉莉花《まつりか》の肥皀《せっけん》を取りにやらせてるんだ」
「まあ、肥皀《せっけん》がいるの? お尻よりよっぽど白い顔してるくせに」
西門慶は相手にならず、顔を洗う。琴を持って来たので、それから酒となった。涼しい亭《ちん》の回りには花が咲きほこり、翠《みどり》もすがすがしくあざやかである。
ところが、一同が席についているのに、金蓮だけは陶器の涼み椅子に腰をおろすので、玉楼が
「五ねえさん、こっちへお掛けなさいよ。それは冷えるわ」
「だいじょうぶよ。赤ちゃんがいるわけでなし」
酒が三巡りし、西門慶が玉楼と金蓮に歌わせようとするが、それでは李瓶児が聞き役で得だと金蓮はかぶりを振らない。西門慶はしょうことなしに李瓶児に拍子を取らせる。歌い終ると西門慶は、ふたりに酒をつぐが、金蓮は口をつけず、お冷《ひや》を飲んだり水菓子を食べる。玉楼が
「五ねえさん、冷たいものばかり食べて、どうしたの」
「だいじょうぶよ。おなかの中になんにもはいってないもの」
李瓶児は恥ずかしがって、赤くなったり白くなったりしている。
そうこうする内に、雲が現われたかと思うと、沛然《はいぜん》たる大雨が降り、見るまに通り抜けてゆく。花の紅も葉の緑もいよいよあざやかさをます、気持のよい夏景色、涼しい風がそよそよと吹いて来る。
夕暮れになりみんな奥へ引き上げて行くのを、西門慶は手を握って金蓮を引き留め、
「おしゃべりめ、放さんぞ」
「いやな人、あたしだけ残してどうするの」
「ふたりで、この太湖石の下で投壺《やかげ》をしながら酒を飲むんだ」
春梅に酒を取りに行かせ、金蓮は太湖石のそばのざくろの一枝を手折って髪にさし、皮肉めかして、
「あでやかな花の盛りは短くて」
このことばを聞いた西門慶は、さっと近寄ると、女のかわいい纏足《てんそく》をかつぎこんで、「この淫婦め、そんなら極楽まで送りこんでやろうか」
「まあ、何すんの。かわいい坊や。あんたは李瓶児と極楽へ行ったらいいんだわ。場所もかまわずからみ合って、あれは何?」
「いいかげんなことを言うな。あれと何をしたと言うんだ」
「ごまかすんじゃないの! 花を届けに行ってる間に、あんたたちここでいいお仕事をしてたわね」
「その口」と、西門慶はやにわに金蓮を花壇の上に押さえつけてキッスして放さない。
「オトウチャンと言ってみろ。そしたら許してやる」
「オトウチャン。好きな人でもないのにからみついて何するのよう!」
ふたりはぶどうだなの下に場所をかえて投壺《やなげ》をしていると、春梅が酒を、秋菊がくだもの箱を持って来、秋菊だけ帰って行った。西門慶と金蓮は向かい合って飲みながら、十数番投壺をやったが、そのたびに酒を飲んで金蓮は酔っぱらい、たいへん色っぽい。西門慶も薬酒を飲み、春梅にまた酒を持って来るよう言いつけると、金蓮が、自分には涼席《しきもの》とまくらを持って来るように言いそえる。
「人使いが荒いんですのね! 持って来ませんわ」
「じゃ、秋菊にかかえさせて来い。おまえは酒だけでいい」
秋菊は敷物とまくらを持って来たが、春梅はてんから姿を現わさない。西門慶が小用に立って帰って来ると、金蓮はもうぶどうだなの下に敷物をひろげ、その上に何もかも脱ぎすて、あおむけに寝ころんでいた。足に真紅の靴ははいたまま、手に持った白紗の団扇《うちわ》をゆっくり使っている。西門慶のような男がじっとしておれるわけがない、しばらく足でいたずらをしていたが、真紅の靴を脱がせ、纏足をまく布を解き、金蓮の両足をしばるとぶどうだなにつり上げる。ふたりが夢ごこちになっているところへ春梅が酒を持って来て、このありさまを見ると急いで築山《つきやま》の上の臥雲《がうん》亭めがけて逃げ出した。西門慶は金蓮をほったらかし、春梅を追っかけ、花木の深みで腰をとらえ、ぶどうだなまで抱きおろして、自分の股の上に腰掛けさせた。その内に酔いが回って一時《いっとき》あまり西門慶は眠ったが、金蓮は足をつられたまま、春梅は姿も見えない。こらえ性もなく西門慶はまたもたわむれかかり、とうとう金蓮は気を失う。やっと気がつくと、西門慶は春梅と、金蓮を部屋へ助け帰る。
春梅と秋菊が後しまつをすませて奥庭の門をしめようとすると、どこからもぐりこんだのか来昭の子供の小鉄棍《しょうてつこん》が
「くだものちょうだい」
春梅はいくつかのくだものをやると、「だんな様にたたかれるよ!」とどなりつける。子供はすたこらと逃げ出した。
二十八
翌朝、金蓮が食事時になってやっと起き上がると、とっくに西門慶はいなくなっている。靴をはこうとすると、きのうの紅靴の片方が見つからない。春梅にきくと、わたくしは奥様をだんな様とかかえて来たので、ふとんは秋菊が持って来たと言う。秋菊を呼びつけると、昨日奥様は靴をはいていらっしゃらなかったと言う。そんなことがあるかと言うと、ではなぜここにないのです、と反問してくる。しかって、部屋じゅう捜さすがどこにもない。奥庭に脱ぎ忘れたのではないかと言われ、春梅に、「こいつと奥庭へ捜しに行っておくれ」と言いつける。
春梅は秋菊を連れて、ぶどう園まで行ったがない。春梅は口ぎたなく秋菊をののしり、靴がなかったと知らせる。金蓮はおこりだし秋菊を庭先にひざまずかせたが、秋菊が泣きながらもう一度捜さしてくれと言うので、いきり立っている春梅をつけて出した。もう一度、あちこち捜し回ったが、どこにもない。春梅は秋菊の横つらを思いきり張りとばし、金蓮のところへ引き立てて行こうとすると、
「雪洞の中がまだあるわ」
「あそこはだれもはいらなかったよ。なかったら、ひどい目にあわせてやるから」
ふたりが蔵春塢《ぞうしゅんう》雪洞にはいって机の上やらベッドやらくまなく捜すが、どこにもない。秋菊は文箱《ふばこ》の中までひっかき回しはじめる。
「ごちゃまぜにしたら、だんな様にしかられるよ」と春梅がどなりつけたとたん、紙につつまれた当の紅靴が出て来た。
「見てごらん。あるじゃないの」
ふたりが帰って靴を渡すと、金蓮はじっと見ていたが、刺繍《ししゅう》の色がどこか違う気がする。はいてみると少しきつい。|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》のだなとピンと来た。
「これ、あたしのじゃない!」
金蓮は叫び声をあげると、有無を言わさず秋菊をひざまずかせ、大きい石を頭の上にのせておいて、別の靴で出て行った。
一方、陳敬済が店の品物を持って奥庭の門口を通りかかると鉄棍が遊んでいる。
「おじさん、なに持ってるの。いいもの持ってるけど、取り替えない?」
「これはお店のだからだめだ。持ってるのはなんだい」
するとこのチビざるは刺繍した真紅の靴を片方出して、
「きのうねえ、だんな様が五奥様の足をぶどうだなにつるして、まるでぶらんこみたいだったよ。だんな様が帰ったあとで、春梅さんからくだものもらったの。それからたなの下でこの靴見つけちゃった」
手の平にのせてみると、ぴったり二寸。金蓮のにまちがいない。あしたいいものやるからと言ってそでにしまいこみ、天にも上るここちで金蓮のところへ急ぐ。庭先まで来ると秋菊がひざまずいているので、「その石はなんのまじないかね」とからかっていると、二階から金蓮の声がして、「だれもいないから上ってらっしゃいよ」
陳敬済はすそをまくってとっとと上って来たが、金蓮の顔を見てにやにやしている。
「何を笑ってるのさ」
「何って、何かなくなりゃしませんか」
「なくなったって、あんたに関係ないわ」
「そう。じゃ、帰りましょう」
「何よ、気をもたせて。何がなくなったか、知ってるの?」
「これはどなたのですかねえ」
陳敬済はおもむろに袖から靴を出す。
「まあ、死にぞこない! あなたが盗んだのね!」
「とんでもない。この二日ばかりお伺いしませんよ」
「いいわよ。あんたが盗んだって、だんなに言いつけて見ようかな」
「どうぞ」
「そんな調子で、平気で来旺のかみさんとくっついたのね。でも、盗んだのでないのに、どうして持ってるの」
「ゆっくりお話ししますがね、靴がほしけりゃ、何かと換えましょう。でなけりゃ、雷に打たれても放しませんね」
「あたしの靴なのに! なんと換えるの」
「袖の中のハンカチ。それだったら靴は返しますよ」
「これはだんなが知ってるからだめよ」
「ほかのなら何本くれてもごめんですね。それでなくちゃ」
「ずうずうしいわね。押されちゃうわ」
口ではことわるが心は許している。白綾《しらあや》地に鶯が夜香をたいている絵のハンカチを渡し、「大ねえさんに見せちゃだめよ。こわいから」
敬済は靴を返して、鉄棍が拾った一件を話すと、金蓮はまっかになる。敬済は口止めして帰って行った。金蓮はその靴を見せ、秋菊をさんざん打ちたたく。西門慶は一仕事終えると昼食を済ませて金蓮の部屋に来た。金蓮は鉄棍が拾った話をし、たたきのめしてやらねば癖になるとそそのかす。詳しい話も聞かず西門慶は飛んで行き、遊んでいる鉄棍のえり首をつかまえて、蹴るなぐる、豚のような悲鳴なあげ伸びてしまうまでやめない。悲鳴を聞いた来昭夫婦は、あわてて鉄棍を助け起こすと、鼻から血が流れている。連れ帰ってきくと、金蓮の靴を拾ったのが、ことの起こりである。金蓮と聞くと一丈青《いちじょうせい》は、火のようにおこりだして、台所へ飛んで行き、大きい声で、あてつける。
「死にぞこないの淫婦女郎! わたしの子供になんの恨みがあるんだね。十一二の子供に女の股《また》ぐらに何があるかと言ったって、知りゃしないんだよ! それをたたかせて、血が出たじゃないか! 死んだらどうしてくれるんだ」
夜になりベッドに上ると、金蓮は思いついて、秋菊の持って来た靴を春梅に出させて、とぼける西門慶をきゅうきゅうしめつけ、靴を春梅に地べたへ投げ出させる。春梅は秋菊に、「おまえがはいたらいいや!」
秋菊は本気になって靴を拾い、「これじゃ、指一本しかはいらないわ」
|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》の足のかわいらしさを言ったことになるので、金蓮はまたおこりだし、秋菊に
「そんな靴、ずたずたにして便所へほうりこんで来な。あんな女はもう生まれかわれなくしてやるんだ!」そして西門慶に向かい、「あんたがあの女をかわいそうに思えば思うほど、ひどい目にあうんですよッ!」
西門慶は笑ってさらりとかわし、金蓮の白い首にかじりつくと、色ごとにまぎらせてしまった。
二十九
翌日、西門慶を外に出すと、金蓮は針道具を持って紅靴を縫いに翡翠軒へ行き、李瓶児も孟玉楼もさそって、三人でそれぞれ靴を縫いはじめたが、玉楼は金蓮の靴を見ながら、
「どうして底高にしないの? 木の音がいやなら、フェルトにすりゃいいじゃないの」
「いいえ、あたしのはベッド靴なのよ。チビによごされたから、新しくこしらえろって言うの」
「ああら、また靴の話。ねえ、李ねえさん、聞いてよ。きのうね、この人の靴がなくなったもんだから、だんなったら、鉄棍をさんざんぶったの。一丈青のやつ、淫婦だとかスッポンだとかわめき散らし、子供が死んだら、ただじゃぉかないって騒ぎなの。大ねえさんが鉄棍にきくと、奥庭で靴を拾って、敬済さんの何かと取り替えることにしたのを、だれかが言いつけたからたたかれたってこと。たいへんだったわ」
「大ねえさんは、なんとか言ってなかった?」
金蓮はさすがに心配そうに聞くと、
「言わないもんですか。近ごろは世が乱れて、九|尾《び》のきつねが出て来たんで、家じゅうひっくり返るってよ。来旺が罪に落されたり、|※[#「くさかんむり/惠」、unicode8559]蓮《けいれん》が首をつらされたり、今度は片方の靴のことで天と地がひっくり返るような大騒動。靴がだいじなら、ちゃんとはいてりゃいいのに、チビに拾われるなんて、酔っぱらって奥庭でへんなことになってたのに決まってるなど言ってたわ」
「まあ、ひどい。奴隷が主人を殺そうってのがだいじじゃないんだろうか。来興の話を聞いただけで、こちらはまっさおになったのに。あの人は正妻のくせに、ものごとを成行きまかせにほっといて、だんなが殺されたってかまわないのかねえ。首をつったのも、おかねにつまってたからなんだわ」
玉楼はしきりとなだめたが、金蓮は西門慶に洗いざらいしゃべって、たきつける。西門慶は烈火のようにおこりだし、翌日、来昭親子三人を追い出すとまでいきり立ったが、月娘のとりなしで三人は獅子街の留守番に回され、平安がもどって門番ということになった。この結果、月娘は金蓮を不愉快に思ったのはもちろんである。
そんなことがあった後のある日、西門慶のところへ周守備《しゅうしゅび》のところから呉|神仙《しんせん》という人相見をよこして来た。平安に連れて来させると、周守備の紹介状を持ち、青布の頭巾《ずきん》、草履《ぞうり》ばき、布の衣の上から黄色いひもをしめ、手に扇を持って風のごとくにはいって来る。話を聞けば、周夫人の眼病を直したので、こちらへ引き合わされたのだということである。
つくづくながめてみると、たいへんありがたそうに見えたので、まず精進料理を出し、食事が終ると、筆硯《ひっけん》を取り寄せて、西門慶を筆頭に、観《み》てもらうことになる。西門慶が生年月日を知らせ、寅《とら》年の二十九歳だと言うと、神仙は十本の指の指紋を見ていたが、やおら
「官を傷つけつくして財生じ、財さかんにして官を生み、福転じ来たる。――かならず権職におつきになりましょう。一生の間勢いはさかんです。性質は耿直《こうちょく》で、ただ一筋にすすみます。喜べば和気春風のごとく、怒れば迅雷烈火のごとし。多くの妻財を得るし、官位にもつきます。死に及んでは二子が送りましょう。おそくても本年七月までには登雲の喜び、進官の栄《は》えがありましょうが……六年を出《い》みずして、喀血《かっけつ》出膿の災があるかもしれませんぞ。お慎みくださいますよう。さて骨相のほうは、どうぞ正面を。頭丸く首短く、神を享《う》ける相、身体は頑健《がんけん》、英豪なたち、一生|衣祿《いろく》に困ることはございませんが、ただ……ちょっとお歩きになって……うーむ、柳のようでございますが、どうぞ妻室にご注意なさるように。ではお手を。ふむ。旬日を出でず、官位が下りますな。本年じゅうには男のお子が生まれる。ただ……いや、これは申しあげられません」
西門慶はつづいて妻妾《さいしょう》たちも呼び寄せて観させた。さて、その見立ては、
呉月娘……容貌《ようぼう》端正で衣食足り、息子《そくし》が生まれるが、涙堂のほくろは夫にひびくところがあり、目の下の小じわは肉身の縁がうすい。
李嬌児……額せまく鼻も小さい、側室でなければ三たび夫を換えよう。衣食足り栄華を享けるだろうが、肩とがり声の泣くごときは、賤《いや》からざれば肉身に別れるしるし、鼻低きは、貧しからざれば夭折《わかじに》するしるし。
孟玉楼……熟《う》れきった姿だから衣祿の心配なく、晩年には栄華をきわめ、病にもかからぬ。歩きようからすると夫に災をかける。
潘金蓮……(しばらくうなって)髪濃く毛重く目がいささか斜めに光を発するのは多淫。顔は媚《こ》び眉は曲がり、身は動かさぬのに、震えが生じておる。顔にほくろがあるのは夫への災を現わし、くちびるのせせこましいのは短命のしるし。
李瓶児……皮膚あくまでこまやかに富貴の出、容貌は端正で婦徳にすぐれているが、眼光の酔うごときは夫婦の縁に薄い相、眼《まなこ》が紫色にうるんでいるのは息子の生まれる相。身白く肩丸いのは夫の寵《ちょう》を受けるが、またしばしば災を身に受ける。がまたしばしば瑞祥《ずいしょう》にもあう。ただ声がかぼそい、二十七前後にはよくよく身を慎まねばならない。
孫雪娥……背が低く声高く、額はせまく鼻は小さい。これは情に薄く、物事を胸底深く含む相で、かならずや後に夫君と別れよう。
西門大姐……鼻低く、家を破る。声はドラのごとく、一家は離散しよう。歩みにピョンピョンと落ちつきなく、衣食足らず、二十七を過ぎず夭折しよう。
|※[#「まだれ+龍」、unicode9f90]《ほう》春梅……五官は瑞正、骨格は清奇、髪細くまゆ濃く、強い気性をもつ。息激しく、眉丸く、おだやかな性質ではない、鼻筋の通っているのは息子をもうける相、額広く、いつかは珠《たま》の冠をかぶる貴い身分となろう。歩みはキビキビ、声は澄み、運勢は旺《さかん》、二十七歳で祿を受けよう。ただ目がよくない。父母に災を及ぼすかもしれぬ。口の左のほくろは人の口の災を受け、右のほくろは一生、夫君に愛される相。
さて、見終って、西門慶は五両の白銀を包んだが、呉神仙は用がないからと受け取らない。そこで一反の織物を衣料にと差し出すと、受け取り、供の童子を連れて風のごとく立ち去った。守備府からの小ものには五銭の銀をチップとして与えた。
西門慶が奥の間にはいり、「今の占いはどうだい」ときくと、月娘は
「うまく当たりましたわ。けど、大姐《むすめ》が若死にするなんて、どうしてなの。春梅が赤ちゃんを生むってのは、あなたが生ますかもしれないけど、珠の冠をかぶるってのはねえ。家《うち》は官吏でもないのに、珠の冠の出っこはないわね。たとい、珠の冠がころがりこんだって、あの子の頭にはのらないんだし」
西門慶は笑いだし、
「おれに登雲の喜び進官の栄えがあるってことだが、どこから官吏がころがりこむんだかね。春梅がおまえのそばに立っていて、お化粧もちがってたから、おまえの娘と思いこんだな。どこか身分のある人に嫁に行って、珠の冠をかぶる身となるということだよ。周大人ところから来たから帰すわけにいかんし、見させただけだよ」
月娘の部屋で食事を終ると、西門慶は芭蕉《ばしょう》扇を手に奥庭をぶらぶらしている。時は昼間、緑の陰から蝉《せみ》の声が流れ、花のかおりが鼻へくる。椅子で休んでると、来安と画童が水を打っているので、春梅に梅湯《めいたん》を持って来させると、にこにこしながら持って来た。春梅は西門慶の手から芭蕉扇をとって風を送りながら、占いについて月娘がどう言ったか尋ね、
「先のことなんかわかるもんですか。あたしはどうせずっとだんな様の所で使われてるんですよ」
西門慶は笑って、
「おまえに赤ん坊が生まれたら人を使う身分にしてやるさ」と肩を抱き、「おまえとこの奥さんは何してるんだ?」
「お湯を使うって秋菊に湯をわかさせたけど、待ちきれなくて、昼寝しています」
「じゃ、ふざけてくるかな」
金蓮の部屋へ来ると、金蓮は新しく買った螺鈿《らでん》のベッドで寝ている。すっ裸で、紅のブラジャーだけ、紗のふとんをかけているだけ。西門慶はむらむらと味な気を起こし、春梅に門をしめさせると、自分も裸になって、紗のふとんをめくる。紅のブラジャーと、真紅のベッド靴だけで、からだは雪のように白く、茉莉花の蕊《しべ》を牛乳にまぜてすりこんだ肌はつるつる潤い、芳しいにおいがする。西門慶は両手で金蓮の股を押さえ、じっと見入っていた。
「なに見てんの! あたしは黒くて、李瓶児のように白くはないわよ。赤ん坊ができればかわいがって、あたしたちにはこんな乱暴すんのね」
「ちょっと待て、一風呂浴びるから」
金蓮は風呂おけを部屋に運ばせ、ふたりはベッドから蘭湯にはいり、魚心あれば水心と、興にのって遊びたわむれ、ふたたびベッドに上ると酒を飲みだしたが、やがて疲れたままに昼寝してしまった。
三十
来保《らいほ》は帳簿係の呉典恩《ごてんおん》とともに炎夏の旅をつづけ、やっと東京の万寿門外の宿に着き、翌日、衣服をととのえ、贈物をたずさえて、天漢橋の蔡太師の府邸に参上した。門番に金をにぎらせ、秘書役の|※[#「羽/ふるとり」、unicode7fdf]謙《てきけん》にまず会わせてもらう。来保があたふたとひざまずいておじぎをすると、|※[#「羽/ふるとり」、unicode7fdf]謙《てきけん》は軽く返礼して、
「この前はご苦労だったな。きょうは殿様にご誕生祝いを持って来たそうだが」
来保はまず目録を差し出し、人足に南京《なんきん》の織物、三十両の銀を持たせると、
「これは|※[#「羽/ふるとり」、unicode7fdf]《てき》様へとだんなからのおことづてで」
「いや、これは受けかねるね。が、ま、ひとまずお預かりしておくことにしよう」
来保が次に太師への目録を差し出すと、|※[#「羽/ふるとり」、unicode7fdf]謙《てきけん》は一目見ただけで、贈物を二門の中へ運びこむように言いつける。そこでしばらく休んでいると|※[#「羽/ふるとり」、unicode7fdf]謙《てきけん》が、太師のお出ましだと知らせたので来保と呉は階下にひざまずいた。|※[#「羽/ふるとり」、unicode7fdf]謙《てきけん》が目録をささげてもって行く後から、来保と呉が献上物をかついで上る。蔡太師は蟒衣《ぼうい》、金壺《かなつぼ》、玉盞《ぎょくせん》、銀人形などを見てすっかり喜び、
「こりゃどうもいただきかねる。持ち帰りなさい」
「やつがれの主人西門慶は、ほんの孝行心をお見せしたいだけで、まことにお恥ずかしい品々ではございますが、殿様からどなたかへの下され物にでもと存じあげまして」
「そうか。そうまで言うのなら、収めよう。で、先日の塩商の件は、書面を巡撫侯《けんさつかん》にやっておいたが」
「はい、ことごとく釈放されましたでござります」
「いつもその方の主人には迷惑をかけておるが、何の官位についておるか?」
「いえ、ただの郷民でございます」
「そうか。それじゃ提刑所に欠員があるのだが、その方の主人を埋刑副千戸にしてつかわそう」
蔡太師は書類を取り寄せ、その場で身分書に西門慶の名を書き入れ、「その方たちふたりもまことにご苦労だった。後ろにおるのはだれじゃ」と来保に尋ねる。小ものでございますと答えようとするところを、呉のやつ、やにわにすすみ出て、「西門慶の弟分、呉典恩と申します」
太師は呉典恩を清河県の駅丞《えきじょう》に、来保を山東|※[#「軍+おおざと」、unicode9106]《うん》王府の校尉に任命し、身分書を渡す。そして翌朝吏兵両役所に出頭して氏名を届け出、即日に任につくように言いつけ、次に|※[#「羽/ふるとり」、unicode7fdf]謙《てきけん》に命じて、酒食を与え、十両の路銀をふたりに渡させる。|※[#「羽/ふるとり」、unicode7fdf]謙《てきけん》はふたりに食事をとらせながら、
「実は、おまえたちのだんなに頼まれてもらいたいことがあるのだがな」
「どうぞお仰せつけくださいませ。なんでもいたさせます」
「それなら言うが、わたしも四十になるが、妻は病身で子供というものがない。で、あちらの地方に良い娘がいたら、ひとり世話してもらいたいのだ。厚く礼はするからな」
|※[#「羽/ふるとり」、unicode7fdf]謙《てきけん》は一通の書面を渡し、ふたりに五両ずつ路銀をやる。翌日、各役所へ手続もすませて、清河県へ帰って行く。
一方、西門慶のほうでは、炎暑をさけて、日除けだなの下に酒席をもうけ、一家うちそろって蓮《はす》の花をながめていたが、ふと気がつくと李瓶児の姿が見えない。月娘が綉春にきくと、おなかが痛むと言って寝ているということである。歌でも聞けば気がまぎれて、痛みもとまるかもしれないと、月娘は小おんなを呼びにやらせ、玉楼に「李ねえさんは七八カ月だからね」と話しかけると、金蓮は、「あんなこと。八月にできたんだもの、まだまだですわ」と話を横取りした。
そこへ李瓶児が出て来たが、しばらくするとまゆをひそめて苦しそうに引きさがってしまう。月娘が心配して小玉をさし向けると、痛がって、のた打ち回っているということなので、月娘はあわてて、産婆を呼べと騒ぐ。西門慶は平安児に蔡《さい》ばあさんを呼びにやらせ、女たちは李瓶児の部屋に集まった。西門慶はじれじれして、平安で足らず来安を、それで足らず騾馬《らば》に乗せて玳安を使いに出す。月娘はひとり気をもむが、潘金蓮は李瓶児がいくぶんねたましいので、すぐに孟玉楼を軒下に引っ張り出し、
「おお暑い! 部屋の中はむんむんするじゃないの。よくまあ、あんなとこに集まっておられるわ」
そこへ蔡ばあさんがやって来て、しばらく李瓶児のからだをさすっていたが、「もう、潮時です。おむつや紙のご用意は?」と月娘にきくので、月娘はすぐさま、小玉に取りにやらせる。
玉楼は蔡婆の来たのを見て、
「見に行かない? 産婆が来たわ」
ところが金蓮はぐずつき、
「見たいならどうぞ。あたしはいやよ。子供が生まれる人はいいわね」
「六月に妊娠したんだわね」
「八月に来たのにねえ。六月じゃ、だれの子か知れないと言われたってしかたなさそうだわ」
そこへ小玉が紙やおしめや小ぶとんやらを持って来た。それを見て玉楼が、
「まあ、大|姐《ねえ》さん自分が生む用意してたんだわね」
「正妻と妾《めかけ》と生む競争をすりゃいいや! おもしろくもない」
「まあ、あんた、そんなこと言って!」
金蓮はスカートをいじくって返事もしない。そこへあわてて駆けつけた孫雪娥が石段につまずいて危くころびかける。それを見て、金蓮は
「へん、あのざま、人が子供を生むのに大騒ぎしてさ」
まもなくオギャーという声が聞え、蔡婆が、
「だんな様にご祝儀いただいてくださいよ。坊《ぼ》っちゃんですよ」
西門慶は知らせを聞き、急いで手を洗い、祖先の位牌《いはい》に向かって、子母平安を祈る。時に宣和《せんわ》四年|戊申《つちのえさる》六月二十三日である。家をあげての喜びのうちに、金蓮ひとり部屋に閉じこもり、ベッドの上で、涙をこぼしてくやしがる。
蔡婆は赤ん坊を手にのせると臍《へそ》の緒をかみ切り、胞衣《えな》を地に埋め、気付け薬を煮つめて李瓶児に飲ませる。月娘は婆に酒食をふるまい、西門慶は五両の銀子をやり、三日の祝いには緞子《どんす》一反やると約束した。
産婆が帰って、西門慶が李瓶児の部屋にはいってみると、まっ白いよく太った赤ん坊だから、すっかり喜び、その晩は李瓶児の部屋に泊まり、子供を見てはにやにや笑っていた。
翌日になると、西門慶は親戚《しんせき》や隣近所に喜《いわい》うどんを届けたので、応伯爵や謝希大《しゃきだい》は二股を一股でとんで駆けつける。西門慶が二人に日除けだなの下でうどんをふるまっていると薛嫂《せつねえ》さんが乳母を連れて来る。年は三十だが、小ざっばりしているので、言い値の六両で買い取り、名を如意児《じょいじ》とつけ、子供の世話をさせることにし、月五銭の手当で、衣服はこちら持ちということにした。
そうしたにぎやかな日々のうちに、とつぜん、来保と呉典恩が東京から帰って来て、西門慶の前にひざまずきざま、
「おめでとうございます!」
ふたりが蔡太師のところでのできごとを語り、身分書を出すと、西門慶は大喜び、さっそく呉月娘たちに見せつけ、
「太師の殿様が副千戸にしてくださった。五品の大夫《たいふ》の職だ。おまえらは、いよいよ夫人と呼ばれるようになるんだぞ。呉典恩が駅丞《しゅくやくにん》、来保が校尉だ。神仙が登雲の喜びがあると言ってたが、半月もたたぬうちに、赤ん坊と、二つともあたったわい」こうしてできた子は名前を官哥《かんか》とつけられた。
三十一
副千戸の職についた西門慶はすぐさま必要な諸手続きを済ませ、官衣官帽をこしらえさせ、七八本も、官位を示す束帯を作らせたが、呉典恩には金がない。応伯爵のところへ駆けつけ、十両お礼するから、西門慶から銀子《かね》を借りてもらいたいと、地にひざまずく。
「いくらいるんだい?」
「家には一文のたくわえもありませんし、着任のおり、上官を招いたり、衣服や席を整えねばならないし、七八十両はいりますが」
「七八十両か。百両としろ。利子はおれの顔に対してもとれやしない。少しずつなしくずしに返していけばいいんだ」
ふたり連れ立って西門慶のところへ来ると、裁縫師がばたばた仕事をしている最中である。
「もう用意は整いましたか?」と、応伯爵。
「ああ、だいたいはね」
伯爵はせいぜい西門慶の束帯をほめちぎって西門慶をいい気特にさせておき、西門慶が呉典恩に、「着任の手続きは済んだのか」ときくのをいい潮に、「実はそれで困ってるんでね」とことばを引き取り、「こんな役にありつけたのも、まったくにいさんのおかげだと当人も喜んでいるんですがね、実は上官の招待や衣服や馬に使う金に困っているんで、こりゃ、ことのついでに、にいさんにご迷惑おかけするより方法がない、というわけで、めんどう見てやっていただきたいんですがね。恩がえしする時節もきっとありますよ。おい、あの書き付けを出したら」
呉典恩が急いで借用書を出す。金額百両、保証人応伯爵、月利五分の、その利息の個所を西門慶は一筆で抹殺《まっさつ》して、「この人が保証人なら、元金百両だけ返してくれたら良い」
銀子を取らせにやらせると、夏提刑の所から一名の書記と十二名の小卒があいさつ状を届けて来て、祝賀会を開く関係上、着任の期日を知らせてほしいということである。そこで陰陽《うらない》の徐《じょ》先生に日をえらばせ、七月二日|辰《たつ》の時と返事し、書記に五両のおひねりを握らせて帰す。そこへ陳敬済が百両の銀子を持って来たので、「百両だけ返せばいいんだよ」と改めて呉典恩に念を押す。呉典恩は額を地にすりつけ、銀子を手に、喜んで帰って行った。しばらくすると、府庁や県庁にあいさつ状を持って行った賁四《ほんし》が帰って来たので、西門慶は賁四、伯爵、徐先生と食事をする。いいところで、応伯爵は立ち上がり、呉典恩の家へとっとと急ぎ、十両の礼をもらった上で、
「おれがうまいこと話してやらなかったら、借りられやしなかったぜ」と恩に着せた。
西門慶のところへ李県知事は同僚たちの連名で洋酒を届けたが、別にひとりの若者を送ってよこした。十八で、色白で紅いくちびる、字も書ければ南曲も歌えるという稚子《ちご》さんで、西門慶は喜び、名を書童《しょどう》児とつけ、書房のボーイとし、奥庭のかぎも預からせた。もうひとり祝実念《しゅくじつねん》がよこした十四の小ものは棋童《きどう》と名のらせ、琴童《きんどう》とともに、品物を持って、馬にくっついてお供する役にさせた。
色町の楽人どもを集めて、役所で盛大な着任の宴会があって後、西門慶は白馬に乗り、頭に紗帽、身に五彩の官服、ピカピカの束帯をつけ、白底の黒靴、黒の大扇子をつかいながら、十数名の供を連れ、毎日、役所から親戚、朋友《ほうゆう》へと大路をねり歩く。
官哥《かんか》が生まれて一月め。西門慶の家へ呉月娘の姉妹、孟玉楼の伯母、潘金蓮の母、向いの喬大戸の奥さんなど、親戚や近所の女客がことごとく祝い物を持って官哥の誕生を祝いに来、色町の李桂姐や呉銀児《ごぎんじ》まで轎《かご》に乗ってやって来る。で、その日は大広間で大宴会、春梅、迎春、玉簫、蘭香《らんこう》四名がお化粧をして宴席をとりもった。
さて、書房付きの書童は、書房に起き伏しして西門慶の官服を預かることもしていたのだが、色町育ちでなかなかのもの、いつのまにやら各部屋の小間使いたちと親しくなっており、中でも月娘の部屋の玉簫が心を寄せている様子だった。女客の集まったその日の朝、西門慶の官服を取りに玉簫が書房に飛びこんで来ると、書童はふとんから抜け出して、窓のへりに鏡を立てかけ、紅ひもで髪を結んでいるところだった。
「なまけ者ねえ。もうだんな様はお出かけよ。おしゃればかりして。衣服はどこにあるの」
「たんすにはいってるから、かってに持って行ってくれ」
「紅《あか》いひもなんか使って、まるで女だわ」
ふと見ると、白い下着に紅と緑の二つの香嚢《こうのう》がついている。
「この紅いのあたしにちょうだいね」
「人のだいじにしてるものを、むやみにほしがるなよ」
玉簫は書童がいやがるのに、それを引きちぎる。書童はそれを追い回す。玉簫はキャッキャッと騒いで書童をぶつ。しばらくふざけると、「あとで来るから、ここできっと待っててね」と言い残して、衣服を持って出て行った。
玉簫は女客が酒を飲んでいる間に、銀の酒壺《とくり》、梨《なし》四つ、杯一つをかくし持つと、書童に食べさせるように書房へやって来たが、書童がいない。人に見られてはつごうが悪いから、持って来たものをその場におくと、さっさと出て行く。それを琴童が見つけた。琴童がはいってみると、書童はおらず、酒やくだものがベッドの下にある。琴童はそれを失敬して、李瓶児の部屋へ、迎春を捜しに行った。
そこには乳母の如意児と、綉春しかいなかったが、ぐずぐずしていると、如意児へお下がりを持って、迎春が帰って来る。琴童がそこにいるので、「わる! こんなとこで何をにやついてるの。お酒の燗《かん》でもしておいでよ」
琴童は衣服の下から酒壺を引き出し、「迎春ねえさん、これをとっといてくれ」
「まあ! お客用のだわ。どうしたの?」
「どうでもいいじゃないか。玉簫のやつが書童に食わそうと思って持ち出したんだ。そいつを、そっと持って来てやった。だれにも言っちゃだめだぜ」
「酒壺がなくなったって、大騒ぎになるわよ」
「おれが盗んだんでもなし、知ったことか」
琴童が平気な顔をして出て行くので、迎春もしかたなく、奥の部屋のテーブルにかくした。
日が暮れて客が帰り、あとしまつにかかると、やがて酒壺が一つ足りないことがわかった。玉簫が書房へ捜しに行って、書童に尋ねても知っているはずがない。しかたがないから小玉のせいにしようとすると、小玉は自分は茶の受持ちで、お酌はそっちの受持ちではないかと承知しない。騒ぎはだんだん大きくなり、月娘の前で、玉簫と小玉が口やかましくやり合うしまつになったところへ、西門慶が帰って来た。月娘に話を聞いて「ゆっくり捜せばいい。そんなに騒ぎ立てる必要はないよ」と言うのに、金蓮が口をはさみ、「誕生日のお祝いに、縁起ものの酒壺がなくなるなんて、不吉だわね」
ケチをつけるようなことばに、西門慶はむっとして返事もしない。そこへ迎春が、李瓶児に言いつけられて酒壺を持って現われた。玉簫は「それ、出て来ましたわ」と叫び声をあげる。月娘がわけをきくと、琴童が持って来たと言うので、琴童を呼びにやると獅子街の家に留守番に行って、おらない。これを見て、金蓮はふふんとせせら笑う。
「何を笑うんだ!」
「琴童はあの人のとこの小ものでしょう。酒壺はあの人のとこから出て来る。へんねえ」
「そういうのは、李大姐のさしがねで、手が出たと言う気なんだな!」
金蓮はぱっと赤くなり、「だれがねえさんにお金がないって言いました?」とさっさとのがれ出て、孟玉楼のところで立ち話をしていたが、胸は煮えくりかえり、西門慶に対する恨み、李瓶児と官哥に対する憎しみの心はいぶりにいぶった。
「あのねずみの腹ん中の鶏の臓物め、あの女が小便袋を生んだからって、一から十まで、あたしをどろん中へ踏みつけにしやがる」
金蓮は歯がみしてくやしがった。
翌日は男客をお祝いに呼ぶ。劉《りゅう》内相、薛《せつ》内相、周守備、荊都監、夏提刑、張総兵《ちょうそうへい》、范《はん》千戸、呉|大哥《たいか》、呉二哥、喬家の主人。
宴会は役者芸者を呼んでいともにぎやかに行われた。
三十二
翌日は、おくればせに祝い物を届けに来た薛内相に、李県知事、銭《せん》副知事、任《にん》出納係、夏提刑、尚拳人《しょうきょじん》などと、芸人を呼び寄せて宴会をやる。
そして、その翌日、李桂姐は婆と計をめぐらせて、月娘におくりものをして、義理の母になってもらう。西門慶が役人になったので、家のほうへ来てもらえまいから、娘分になり、自由に出入りさせてもらおうというわけであった。この日は、呉|銀児《ぎんじ》、鄭愛香《ていあいこう》、韓玉釧《かんぎょくせん》などの芸者に、喬大戸、花《か》大哥、呉大哥、呉二哥、西門慶の十兄弟連中、沈《しん》おじなどで、気のおけぬ宴会で、わあわあ騒いでいる。
潘金蓮が化粧を済ませて部屋を出ると、李瓶児の部屋から赤ん坊の泣き声が聞える。
「どうしてこんなに泣くの」とはいって行くと、乳母の如意児が、「奥様がいないんで泣くんです」
「まあ、生まれたばっかりで、もうおかあさんがわかるの」と金蓮は笑顔《えがお》を作り、「貸してごらん。あたしが抱いて、連れてってあげよう」
「滅相《めっそう》な。おしっこをひっかけられますよ」
「だいじょうぶよ」
儀門《よこもん》まで行くと、金蓮は官哥をおびえさせてやろうと、腕いっぱいに高く差し上げたが、月娘がベランダで女どもに料理のさしずをしているので、笑顔をつくり、「見てごらんなさい。小大官人《ちびやくにん》がおかあさんを捜しに来ましたよ」
「まあ、そんな高抱きをすると、赤ん坊はおびえるじゃないか!」と月娘はあわてて部屋にいる李瓶児に、
「李ねえさん、赤ちゃんが捜しに来てるのよ」
李瓶児もあわてて飛び出し、「まあ。部屋におればいいのに、あたしを捜してどうするの。五かあさんに、おしっこひっかけたらたいへんよ」
「部屋でわあわあ泣いて泣きやまないから連れて来たのよ」金蓮がそう言うと、李瓶児は急いでふところをはだけて官哥を抱きとる。月娘は李瓶児を部屋へ引き取らせた。
李瓶児は帰って乳母に、「泣いたらあやしていればいいのに、なぜ五奥さんに渡したの?」
「いいえ、むりに抱いて行ったんです」
赤ん坊は眠ったかと思うと、ふいにおびえてわあわあ泣きだす。夜中には熱さえ出てきて、乳を含ませても、飲まずに泣き叫ぶばかりだった。西門慶が客を帰した後、子供を見に来るとこのありさまだから、「どうしたのだ」と李瓶児に尋ねるが、李瓶児は金蓮のことは言わず、「どうしたのか、寝たと思ったら、泣き出して乳も飲まないんです」
月娘のところへ行くと、「あした、劉ばあさんに見せましょう」と言う。
「あいつはだめだ。鍼《はり》だの灸《きゅう》だのと何をやるやらわからん。小児科の医者を呼ぶんだ」
ところが月娘は「一月そこそこの子に、小児科の医者とはぎょうさんだわ」と言うことを聞かない。
翌日、西門慶が役所へ行ったあと、月娘は劉婆を呼び寄せる。劉婆はやって来て、「何かに驚いたんですわい」と、何やら薬を飲ませると、官哥はやっと静かに眠り、李瓶児も安心した。
三十三
西門慶は役所から帰ると、月娘に官哥の様子をきき、よくなって眠っていると聞かされても、「あの婆の灸《きゅう》や鍼《はり》があてになるもんか。小児科の医者のほうがいい。良くなりゃいいが、もし悪くなってでもしてみろ、役所にしよっぴいて、痛い目にあわせてくれる」
「あんたはどうしてそうなんです? 直ってるじゃありませんか」
そこへ小間使いが食事を運んで来たので食べていると、玳安が応伯爵の来訪を知らせに来た。西門慶は、応伯爵の知合いの商人が急に故郷へ引き上げることになり、城外の宿屋においてある五百両の絹糸を売りたがっていること、それが四百五十両でいいということになり、きのう応といっしょに行って話を決めて来たので、きょう銀子《かね》を渡すこと、獅子街の家を使わずにいるのは惜しいから、そこで来保に手代でもつけて糸屋を開かせようと思うなどと月娘に話す。
「手代を捜さなくっちゃならないですわね」
「うん。応さんの知合いに、韓という糸屋があって、今は銭がなく店を閉じてるそうなんだ。そろばんも達者だし、人間も堅いということだから、契約するつもりでいる」
言い終ると、来保に四百五十両持たせて、出て行き、応伯爵に渡して品物をとって来させる。応は来保と、馬を引いて城外の宿屋へ出かけたが、実は四百二十両にまけさせてあったのだから、来保に九両にぎらせて口を封じ、その日のうちに品物は獅子街の家に収めた。吉日を選んで西門慶は韓を応伯爵に連れて来させると、きびきびした三十がらみのあいそのいい男である。さっそく契約を結び、染工もやとって、獅子街の店を来保にやらせたがなかなかの繁盛である。
八月十五日、月娘の誕生日が来て、女客が大ぜい月娘のところへ来ているから、西門慶は李瓶児の部屋へ来ると、「子供がようやく良くなったばっかりで、気が落ち着きませんから、五かあさんの所へ泊まってくださいな」
そこで西門慶が潘金蓮の部屋に行くと、金蓮は大喜び、ちょうど来ていた母親を李瓶児の部屋へ泊めに出すと、西門慶をこってりともてなす。自分の部屋へつなぎとめたいからである。
翌日、金蓮の母は李瓶児の部屋からもどると金蓮に向かって、昨夜酒やくだものをごちそうになった上、けさはけさで、袷《あわせ》や靴の表や二百文の銭までもらったとうれしそうに告げると、金蓮はいやな顔をして、
「あんな人になんでももらうもんじゃないわ」
「でもいい方ですよ。おまえなんか、今まで一枚だって衣服をくれたことがないじゃないか」
「そりゃ金のある人みたいなわけにはいかないわ。おっかさん、ごちそうになりっ放しじゃまずいから、お酒の菜でもお返しするんだね。陰口きかれると困るわ」
そこで八皿のお菜《かず》、四箱のくだもの、酒一本を李瓶児のところへ秋菊に届けさせると、李瓶児は金蓮と母を招いて来た。春梅に酌《しゃく》をさせて飲んでいると、秋菊がやって来て、「若だんなが衣服を出すんだから、外側の門をあけてくれって」と春梅を呼ぶ。金蓮は、「じゃ、若だんなを呼んでおいでよ」と言いつける。まもなく陳敬済が捜しあてた衣服を持ってやって来ると、春梅が酒をつぐ。仕事中だというのに金蓮は三杯も酒を飲まし、「だんなはきょうどこへ行ったの」と言うと、陳敬済は今度買った向いの喬大戸の家へ行っていると説明し、酒を一杯あおり出て行ったが、かぎを忘れていた。迎春がそれを知らそうすると、金蓮は止め、かぎをかくしてしまい、あわてて帰って来た陳敬済をさんざんからかったあげく、歌を歌えば返してやると言う。一曲歌ったが、金蓮はまだしつこくからかって返さぬので、金蓮の母も李瓶児も返すようにすすめた。そこでもう一曲歌わせて、酒を飲ませていると、部屋の前を月娘が通りかかり、石段の下に如意児が官哥を抱いているのを見た。
「よくなったばかりなのに、ばかだね、赤ちゃんを風に当てたりして!」
陳敬済はかぎを手にあわを食って飛び出して行く。残ったものが月娘を迎えると、「陳若だんなは何しに来ていたんだね」
「いえ、李ねえさんが母をごちそうしてくださっているところへ、衣服を捜しに来たから一杯だけ飲んでもらったんです。ねえさん、一ついかがです」
「わたしはいらないわ。赤ちゃんが心配で見に来ただけ」と言ってから、李瓶児に「気をつけないとだめよ。この間劉ばあさんが風に当ててはいけないと言ってたじゃないの」
李瓶児が申しわけなさそうにするので、月娘はしばらくいて、奥へ帰って行った。
夕方、遊びに来ていた女客を、月娘たち一同が表門まで送りに出たが、孟玉楼が言いだして、皆で、今度買い入れた向いの喬大戸の家をのぞいて見ようということになった。そこで、月娘、李嬌児、孟玉楼、潘金蓮、李瓶児の五人は轎《かご》に乗って出かけた。二階を見ようと階段を上っている時、月娘は片足をすべらせ、やっと手すりにつかまったが、腰をねじって、もう上る元気もない。それで皆そのままひき返して来たが、家へもどると腹が痛くてたまらぬ。西門慶の留守をさいわい、劉婆を呼んで見させると、妊娠しているが、下《おろ》すよりほかはないと言う、まっ黒な丸薬を二粒出し、艾《よもぎ》酒を飲むように言いつけて帰った。その晩、月娘は便器に男の赤ん坊を流産した。翌朝早く孟玉楼が来て、男の子と聞いて残念がる。月娘はそのことをだんなも知らないのだからと孟玉楼に口止めした。
話かわって、応伯爵の紹介で糸屋の手代にした韓道国《かんどうこく》という男は、ごろつきの韓|光頭《はげ》のせがれで、口先じょうずだが、実のない、ごまかしや、本分をわきまえないやつだった。西門慶に使われるとたちまちふところぐあいが良くなり、衣服も新調して、大通りをうねるように歩く。西門慶が口をきいて、|※[#「軍+おおざと」、unicode9106]《うん》王府の校尉という小役人になり、県東の牛皮小巷《ぎゅうひしょうこう》に住んだ。あだ名がついて韓|一揺《ゆらり》。女房は屠殺《とさつ》所の王の六番めの妹で、すらりとしたからだにうりざね顔、二十八九で、娘がひとりある。韓道国の弟|韓二《かんじ》はあだ名を二|搗鬼《ゆすり》と言い、しじゅう人にたかって銭をまき上げる。この男は別のところに住んでいるが、兄が店で宿直する日には、女房のとこへ遊びに来て、酒を飲んでは泊まりこむ。
近所に遊び人が何人かいたが、韓道国のかみさんが厚化粧をしてつやっぽいから、からかおうとする。けれど、ぴしゃっとやっつけられるのでおもしろく思っていないうちに、とうとう韓二との関係をかぎつけた。ある日兄の不在にまっ昼間からかみさんとけしからんことをやっている最中、裏門を越えてどっと連中が飛びこむ。韓二が門から逃げようとすると、なぐり倒されてつかまり、女の方はオンドルの上であわてて衣服を着ようとするところを、ズボンなしの哀れなかっこうでしばられてしまった。門前は人の山、うわさは口から口へ伝わって、あたりはわあわあという騒ぎになった。
韓道国は店からゆらりゆらり帰って来たが、途中、知人に会い、あごをつき出し扇を使いながら、まるで自分が西門家の大支配人で、西門慶も自分がいなくては何もできず、家庭じゅうの相談までもちかけられるんだというふうにラッパを吹いているところへ、ひとりの男が飛びこんで来て、「韓あにい、しゃべってる時じゃないぞ。店へも見に行ったんだ。たいへんだぞ」とわきへ呼び韓二とかみさんがしばり上げられ、役所へ引っ張られるんだと教えた。韓道国は青くなり、舌打ちしたり、じだんだふんだり、あっというまに飛び出して、一目散、校尉仲間の来保のところへ飛んで行く。
三十四
来保《らいほ》は応伯爵《おうはくしゃく》に頼みこむがいいと教えてくれた。韓道国は色町を走り回り、やっと応をつかまえて詳しい話をし、西門慶《せいもんけい》に頼んでくれとひざまずいて頼みこむ。応伯爵は
「それなら一つ訴状を書け。くだらないことはいっさい書くな。ただ、おまえさんが留守がちで、近所の|わる《ヽヽ》がかみさんをからかう。それで弟の韓二がどなったから、大ぜいの者になぐられてしばられたと、そんなふうで良い」
韓道国が書き終ると、ふたりは、西門慶の家へ行った。西門慶は李瓶児《りへいじ》が赤ん坊の衣服を裁つのをながめていたところだったが、応が来たと聞いてすぐ出て来る。応は小さくなっている韓道国にかわって話をし、韓道国に訴状を出させる。西門慶は韓道国を立たせ訴状に目を通し、小ものを呼んで、
「町役人におれの命令だと言って韓のかみさんを釈放してやれ。それからよた者の名をしらべ、調書も書き替えて、あした早く提刑《ていけい》院へ連れて来い。おれがさばいてやる」と命じ、韓道国も小ものについて行かせた。
あとに残った応伯爵と西門慶は煉瓦廠《れんがしょう》の劉《りゅう》太監からの到着物の酒とさかなを飲み食いしながら、しばらくしゃべったが、西門慶は得意そうに劉太監の弟が家を建てるのに政府の材料を盗用したのがばれ、夏提刑に百両握らせたが夏《か》が本署へ送局すると言って聞かぬのを、建物をこわさせただけで、うまくもみ消したが、銀子はとらず、贈物は受け取ったことなどを話す。応伯爵は
「そりゃにいさんはそんな銭《かね》はほしがらないだろうけれど、夏さんは兵隊上がりだから、地盤もなし、少しは握らないと、やれないでしょうな。ところで、にいさんは就任してから何件ぐらい片づけたんです?」
「大小六七件かな。夏のやつは銭をほしがって、白とも黒ともつかんのを、銭さえ握れば釈放するんだ。なっちゃいないな。おれも武官で刑法をつかさどってるが、すこしは体面というものを考えにゃいかんと思うね」
翌日、西門慶と夏提刑のふたりが役所の広間にいると、町役人が、数名の男を引き立てて来た。夏堤刑が調書を見て韓二に、「その方はなにゆえ土地を騒がしたか」
「わたくしの兄は商人でめったに家におりませぬ。わたくしがたまたま兄の家へ参りますと、近くのよた者が嫂《あによめ》や娘に悪さをしております。二こと三ことののしりますと、このよた者どもに押さえつけられてなぐられ、ここに引き立てられて参りました。充分のお調べを願いあげます」
他の四名は「申しあげます。こいつはペテン師のゆすりでございます。兄の不在を良いことにして、嫂の王氏と私通しました。わたくしどもはその現場を取り押さえました。証拠としては衣服がございます」
「その王氏はなぜ、おらんのか」
町役人が「王氏は脚が小さくて、道を歩けませんので」
西門慶は夏堤刑に向かい、「王氏など来なくてもわかりましょう。きっと器量が良いので、このよた者どもがちょっかいをかけたに決まってますよ。……その方どもはどこで韓二をつかまえたのか」
「はい、きゃつの部屋でつかまえました」
西門慶は町役人に向かって、「王氏は韓二の何かな」
「はい、嫂であります」
「四人の者は、どこから部屋にはいったのだ」
「はい、塀《へい》を越えてであります」
西門慶は烈火のごとく怒り、「嫂と義弟ならともかく、このよた者どもは女となんの関係があるのか! 塀を越えてはいるなどとはもってのほか。主人はおらず、妻と娘ばかりいたというなら、強姦《ごうかん》か、強盗《ごうとう》にきまっておる」と左右に命じて、四人に二十棒ずつくらわせ、夏堤刑に何も言う暇を与えず、ただちに韓二を釈放し、四人を牢へぶちこんだ。四人がびくびくしていると、牢番が、「おまえたちはまあ懲役だな。ほかへやられて、死んじまうのが落ちさ」それで、家族が差入れに来た時、上にも下にも銭を使って助けてくれと頼んだ。
頼まれたひとりが夏提刑のところへ贈物を届けると、夏提刑は、「王氏の夫というのが西門慶だんなの使用人だからな、わしも同僚として、どうにも手の施しようがない。もし贈物をするのなら、向うへ回したほうがいいだろう」また月娘《げつろう》の兄の呉大舅《ごだいきゅう》の所へ足を運んだ者もいたが、「西門慶のとこには銭があるから、握らせてもだめだろう」などと言われて帰って来る。四人の家族のものは、あわててしまったが、ひとりが「たしか応伯爵が、西門慶と仲がいいはずだ」と言いだした。十両ずつ出し合って四十両を応伯爵に届けると、応伯爵はよろしいと引き受けて帰す。応伯爵のかみさんはびっくりした。「あんたは韓さんに頼まれてあの四人を穽《わな》に落したのに、今度は四人の肩をもつの?」
「口がききにくいのはわかってるさ。だが、方法はあるよ」
応伯爵は十五両、そでにしまって、西門慶の家へ出かけた。応伯爵はその十五両の銀子を書童《しょどう》に握らせ、なんとか西門慶を動かして、四人を釈放させてくれと説きつける。書童は呉大舅《ごだいきゅう》が来てもだめだったが、なんとかやってみるから、もう五両出してもらいたいと返事して帰し、一両五銭で金華酒、焼|鴨《がも》、鶏を、一銭で魚と肉を、三銀でいろいろな菓子やくだものを手に入れ、来興児のかみさんに料理させると、それを李瓶児の部屋まで運びこむ。隣の金蓮《きんれん》は外出して留守だった。
李瓶児はベッドの上で猫で官哥《かんか》を遊ばせていたが、「こんなものを運ばせて、だれに食べさせる気? 笑ってばかりいないで、お話し」
「わたくしは奥様のほかに、孝行をつくす人はございませんから」
「はっきり話さないと、食べませんよ」
すると書童は両ひざをつき杯を李瓶児にささげ、「どうぞこれをお飲みになってください。そうすればお話しいたします」
「話したら飲みますよ。話さなければ、百年ひざまずいていても飲みやしないよ」
こう言ってみたものの、李瓶児は結局は書童を立たせるよりしかたなかった。書童は応伯爵から頼まれたことをあらまし話して、
「どうぞ、わたくしからとおっしゃらず、花《か》家のだんなさまから頼まれたことにお願いします。わたくしはそういうふうに手紙を書いて書房に置いてありますので、奥様がわたくしにお渡しになったことにしてください。四人を釈放できれば陰徳を積まれたことになります」
「そんなことだったの。だんな様には言っといてあげる。けど、こんな料理を持ちこんで、おまえも|わる《ヽヽ》だね、何かもらったのだろう?」
「はい、実は五両いただきました」
「まあ、おまえは頭がいいわね、よくこれだけ揃えられたよ。おまえもお飲み」
書童は李瓶児の部屋を出ると、店へ行って、残った酒や料理を、番頭の傅《ふ》や賁四《ほんし》、陳敬済《ちんけいさい》、来興児《らいこうじ》、玳安児《たいあんじ》などにふるまったが、門番の平安のことはとんと忘れていた。平安は生つば飲んで、気を悪くしている。午後になって西門慶が帰って来たが、むくれていた平安はそのことをだれにも知らせない。だしぬけ書房から西門慶に呼ばれて、書童はあわてて飛んで行く。その赤い顔見て、「どこで飲んだ」と西門慶がきくと、書童はテーブルの硯《すずり》の下から手紙を抜き出し、
「六奥様からのお手紙で、花家のだんな様からのお頼みが書かれてあるそうでございます。その部屋で一杯ちょうだいいたしましたもので、顔が赤くなりまして」
西門慶が手紙を読み終って書童のほうをふり返ると、まっ白な顔に赤みがさし、かわいいくちびるからは白い歯なみがこぼれる。思わず抱き寄せふたりはキッスをしていたが、たまらなくなって西門慶は書童のズボンを引きずりおろし、尻をなで回し、「酒は慎まんと、いかんぞ。顔がきたなくなるからな」
「はい」
その時、周守備《しゅうしゅび》の手紙を使いのものから受け取った平安がやって来た。書房の窓の下で、画童が手を振って合図している。平安児は、さてはやっているなと気づき、窓の上から耳をすませて聞いていた。しばらくして、書童が水をくみに顔を出し、ふたりを見て赤くなって走って行くと、平安は中にはいり手紙を渡した。
それから西門慶は李瓶児の部屋へ行き、酒を飲みながら、「おれが徒刑にするとがんばらねば、それまでだ。だから、あしたは、あいつらをひっぱたいて釈放してやろう」
「またたたくんですの? 歯を折ったりして、かわいそうじゃないの」
「役所とはそんな所だぜ。歯なんかお安いほうさ」
「あなたのお仕事でしょうけれど、少しは人の身になって、陰徳を積んでくださいね。この子のためだって」
「ばか言うな」
「食わせる棒を減らすだけでも、福が積めるわけですわ」
「そう言ったって、いやしくも公のことに私情はさしはさめないからなあ!」
そうこうしていると、春梅がはいって来て、ふたりが股《もも》に股を重ねて飲んでいるのを見て、
「良さそうですわねえ! もうおそいので奥様を迎えに出そうと思うけど、平安児ひとりしかいません。でもおふたりは知らぬお顔ですね」
春梅がいくぶんだらしないかっこうをしているので西門慶は、「おまえ、寝てたんだな」
すると李瓶児は、春梅の身なりを直してやりながら、「おいしいお酒よ。飲まない?」
「一杯飲んだら、小ものを使いに出してやるからな」
「起きたばかりで、気分が悪いんですもの」
「だっておまえ、奥さんもおいででないし、少しぐらいかまわないじゃないか」
「六奥様。そちらはどうぞご自由に。あたしは、家の奥様がいてもいなくても飲みたくないんですわ。奥様がおいでで、ついでくださったって、あたし、飲みたくない時は飲まないんですから」
さて、平安が金蓮を迎えに行くと、金蓮は轎《かご》についているのが平安ひとりきりなので、
「だれがおまえをよこしたんだい」
「はい、春梅さんです」
「じゃ、だんなはまだ?」
「いいえ、六奥さまの所でお酒を召しあがっておりました。春梅さんが言わなきゃ、まだお迎えにはあがれなかったところです」
「おまえが来る時、だんなはどこにいたのだった?」
「六奥様の所でお酒を召しあがっており、春梅|姐《さん》にせかされて、わたしをよこしたので」
「まあまるであたしが死んでいなくなったみたいに、あの淫婦《いんぷ》の部屋に入りびたりなんだね。よし、いつかはきっと、あの小便袋の赤ん坊をなんとかしてやるから」
金蓮が轎《かご》の中で歯ぎしりしていると、平安は、「実は」と、応伯爵が書童に金を握らせ、書童が酒や料理を李瓶児の室に運び、店のものに食べさせ(自分は誘われたが、ことわったが)たこと、書童は金蓮など気にもかけていないし、西門慶と書房の中で男色関係があること、書童が長く李瓶児のとこで飲んでいたなど話した。金蓮は歯がみしてくやしがり、「今度書童のやつがへんなことをしたら、みんなあたしに告げるんだよ」と言いつける。
轎が着き、月娘、李嬌児《りきょうじ》、孟玉楼《もうぎょくろう》の部屋にあいさつをすませて、西門慶と話し合っている李瓶児の部屋に行くと、李瓶児は
「ねえさん、早かったわね。どうぞお掛けになって、一杯召しあがってちょうだい」と迎春に椅子を持たせる。
「ここで飲むと席が重なるからよすわ」
金蓮はそう言うと、さっさと引き上げて行く。見ていて西門慶が「なんてやつだ。家に帰っても、おれにあいさつもしやがらん」とぷりぷりしていると、ふいに金蓮が顔を出し、
「あんたは、きょう運が向いてないからですわ!」と謎のようなことを言って出て行った。これは書童と飲み、また西門慶と飲んでいる李瓶児に当てつけたのだったが、西門慶にはとんと解《げ》せないことであった。
三十五
翌日、西門慶は、夏提刑と簡単に話をまとめ、四人のよた者を棒たたきもなく放免した。
書童は来安《らいあん》から平安がきのう、金蓮に告げ口したことを聞いた。それで、次の日、書房で西門慶にかわいがられているとき、そのことを耳に入れる。またそのことが平安の耳にはいり、金蓮に伝わる。金蓮はすぐさま春梅を西門慶のところへさし向けた。松葉で人形をあみながら張り番してた画童をひっぱたいておいて春梅が飛びこむと、西門慶はあわててベッドに上って寝たふりをし、書童はテーブルに向かって筆をいじくっている。春梅はまるで花嫁花婿ねと皮肉り、いやがる西門慶をむりやり金蓮のところへ連れて来た。金蓮はさんざんいや味を言ったあげく、呉家への祝いごとの贈物をせしめようとする。西門慶は金蓮を連れ、李瓶児の二階の反物倉庫でいいのを捜すが、気の良い李瓶児は自分の持ち物を出して、金蓮と連名で贈ることにした。
平安は門番をしていて白賚光《はくらいこう》にどんどんはいられてしまった。運悪く、西門慶がそこへ通りかかる。きたない服装の落ちぶれた白賚光などにはもう付き合う気がないので、夏提刑がやって来ると、さっさとそのほうへ行き、巡按使《けんさつかん》を迎える打ち合せをやって出て来ると、まだ白賚光がいて、十兄弟の会が出席がわるくなってつぶれそうだが、どうしてもにいさんに出てもらわねば、などと語りかける。西門慶は|にべ《ヽヽ》もなく、会はやめてしまうほうがいい、おれも暇がないと言うが、こうまで言われても白賚光は立たない。しかたがないからいいかげんな料理をいっしょにつつき、散会の合図の銀の大杯で酒をすすめる。白賚光はさすが尻を上げたが、西門慶は表門まで送らない。さて、その後、くだらぬやつを通したと言って、平安に五十棒を食わせ、木の錐《きり》で手を刺させ「きさま、かねをもらって、おれの悪口を言いふらしてるだろうが!」
そばにいた画童もついでに責めさいなまれ豚みたいに泣きわめく。
翌日、女たちは月娘の姉の家へお祝いに行って留守である。韓道国が礼をたくさん持って来た。家の者同然に考えている者から受け取れぬと西門慶は言ったが、やっと鵞鳥《がちょう》と酒だけ受け取り、応伯爵と謝希大《しゃきだい》を呼んで来させ、韓道国もその場にとどめ、酒を飲みながら双六《すごろく》などで遊びはじめる。そのうちに応が書童に南曲を歌えと所望する。歌うからには女形の姿でやれ。玳安が女の衣服を借りるよう使いに出され、春梅にことわられたが、玉簫《ぎょくしょう》から借りて来る。書童は紅|白粉《おしろい》までぬり立て、柳腰で一杯酒を応伯爵につぐと歌いはじめた。応は大喜びで、歌い終ると、酒をひと口飲ませて、残りをうまそうに飲む。そうこうしていると、賁四《ほんし》が用事でやって来て、その場へ加えられた。賁四は、郊外に建てている家の工事の話で来たのだったが、材木、煉瓦、石灰などが不足だというのである。西門慶はこともなげに、石灰は役所から届けるし、煉瓦は煉瓦廠の劉さんからもらうと言う。賁四が、向《こう》という皇族の屋敷をこわして材木、煉瓦、瓦《かわら》、土などをとるのに、五百両ほしそうだが三百五十両で足りると思うと言うと、応伯爵が口をさしはさみ、三百両でいけると知恵をつけた。そこで、そのかけ合いを賁四に命じ、料理を食わせる。
それからまた、酒となり、李瓶児の部屋に玳安をやって骰子《さいころ》を取って来させると、赤ん坊が泣いて困っているというので、小ものを月娘の姉の家へやって、李瓶児を迎えてこさせることにし、こちらは骰子の目と持札の数が合ったら、歌うか笑い話をする遊びをはじめた。賁四は応伯爵に皮肉を言われたところで瓦屋が来たのでこれさいわい途中から出て行ったが、みんなわあわあと騒ぎつづける。
一方、玳安と書童が燈籠《とうろう》を持って迎えに行くと、李瓶児は子供が泣くと聞いてさっさと帰った。やがて月娘たちの帰る時となったが、八月の二十四日で、月が欠けて外はまっ暗である。ところが轎は四台なのに、燈籠が一つしかない。わけを聞くと、二つあったのだが、玳安が一つ取って、琴童《きんどう》といっしょに李瓶児について行ったと言う。金蓮は黙っていない。問いつめると、棋童《きどう》と琴童が一つずつ持っていたところへ、玳安が画童といっしょに一つ持って来て、帰りに、画童の代わりに琴童を連れて帰ったと言うのだ。
「玳安の|わる《ヽヽ》め。一つ持って来て、二つ持って帰ったんだね」
けれど月娘は、「赤ちゃんが泣いてるんだもの、持ってったっていいじゃないの」
「そうじゃないわ。あなたが大奥様なのに、そんな法ってない! それに、こんなやみ夜だのに、四つの轎に一つじゃ、役に立たないわ」
金蓮は帰ると、玳安に、おまえは雀《すずめ》だ、お米のあるとこへ行く、あたしゃどうせ運の向いてない女だよ、と皮肉を言ってきかせた。金蓮と玉楼が儀門《よこもん》のところへ来ると、来安児がやって来る。西門慶の居所をきいて行ってみると、みんなへべれけで、女役姿の書童が南曲を歌い、西門慶は琴童に命じて、応伯爵の顔に白粉でいたずらさせていた。西門慶はその晩李瓶児の部屋に泊まった。
金蓮は部屋に帰ると、「あの恥知らずは、あいつの部屋へはいったんだろう?」
「ええ、六奥さんが帰ると、だんなは二回も足を運びましたわ」
「赤ん坊が泣いたって、ほんとうかい」
「ええ、抱いても泣く、置いても泣くで、たいへんだったんですよ」
「それならいいけど、また何か謀《たくら》みがあるかと思ってね。それはそうと、書童はだれの衣服を着てるんだね」
「あたしに貸せというから追い帰したら、玳安のやつ、玉簫から借りて行ったんです」
「今度来ても、あんなやつに貸すんじゃないよ」
いくら待っても西門慶は来ない。金蓮は腹を立てて門をしめ、寝てしまった。
応伯爵は家を建てる仕事で賁四が幾らか取りこんでいること、皇族の家をこわすのでも、そでの下に幾両かしまったとにらんで、ちょっと酒の間におどかしたのだが、翌日、賁四は三両持ってあいさつに来た。応伯爵はお茶一杯で賁四を帰すと、かみさんに、
「どうだ、ちといい腕だろ。賁四の犬ころ、おれが入れてやったのに商売にありつくと知らん顔だから、酒の場でこたえることを言ってやったんだ。さっそく三両持って来やがった。子供の冬着でもこさえるとするか」
三十六
翌日、役所から帰ると、東京《とうけい》から飛脚がやって来て、明日までにと返事を待っていた。奥へはいって開いて見ると、|※[#「羽/ふるとり」、unicode7fdf]謙《てきけん》からの手紙で、先日西門慶の使いにことづけた件はもうできているだろうと思うから十両のお礼を送る、返事をいただきたい、それから、蔡太師《さいたいし》の義子の蔡|状元《じょうげん》がそちらへ役所の仕事で行くからよろしく頼むという文面だった。読み終ると西門慶は大声で、
「しまった! とんでもないことを忘れていた! 大急ぎで周旋屋を呼ばせろ!」
「どうしたんです」と月娘。
「どうしたも、こうしたも、太師様のところの秘書の|※[#「羽/ふるとり」、unicode7fdf]《てき》という人に、子供がないから妾を捜してくれと頼まれてたんだ。ずいぶん世話になってたのに、役人になって忙しかったのでつい忘れていた。手紙で、どうなったときいて来ている。おまけに十両までそえてる。いったいどう返事すりゃいいか。すぐ周旋屋を呼んで、大急ぎで捜させにゃならん。うまくなかったら、李ねえさんのとこの綉春《しゅうしゅん》は、きれいだから、あれをやろう」
「そりゃ、どうですかね。頼まれたからには生娘でなければまずいでしょう。綉春にはあんたの手がついてるじゃありませんか」
「じゃ、どう返事するんだ」
「だから、返事だけ持たせてやればいいでしょう。娘は捜してあるけれど、衣服やお道具がそろわないから、そのうちにって。それから捜せばいいわ」
翌日、西門慶は飛脚にこまごましたことを聞くと、
「わたくしが発《た》つ時は蔡様は朝廷を辞したばかりのところで、|※[#「羽/ふるとり」、unicode7fdf]《てき》だんなのおっしゃるには、蔡様の路銀が足りなくなるかもしれぬから、こちら様でつごうしていただき、手紙をくだされば、その分はお返しすると申しておられました」
月娘は小ものや薛嫂《せつそう》や、別の周旋屋にいい娘を捜させ、西門慶は来保を新河口に使いに出して蔡状元の船のことを聞きにやらすと、安進士《あんしんし》も同船していることがわかった。
ふたりが新河口に着くと、西門慶は来保に手紙と料理を船中まで持って行かせた。蔡状元は西門慶が厚くもてなすことを|※[#「羽/ふるとり」、unicode7fdf]謙《てきけん》から聞いているので、次の日、安進士を連れて西門慶の家へ出かける。いろいろとりつくろって、おくゆかしく遠慮深そうなジェスチャーを時々示すが、ふたりは本心は大いにサービスされないではおさまらない。役者にまじらせて演じさせた書童のあだ姿に安進士はやたらに熱を上げる。蔡状元は小用に案内してもらうついでに、西門慶に銀子《かね》の無心を申しこむ。あげくの果てに、書童、玳安を夜とぎにつけて、洞《ほら》に泊めるという至れり尽くせりのもてなしを受ける。翌日になると、西門慶は、蔡状元と安進士に布や現銀《げんなま》や香料をどっさり持たせて送り出した。
三十七
ある日、西門慶が馬に乗って道を通っていて、前を歩いている馮《ふう》婆に気づき、「この間頼んだ娘のこと、どうなっている?」ときくと、
「気にしてはいましたが、いいのがなかったのでご返事にも上がりませんでしたが、それがまあ、目の先にひとりいたんですよ。午《うま》年で十五、黒い髪、すらりとして、足も手の上に乗りそうに小さく、色は白いし、くちびるはちんまりしてるし、名は愛姐《あいそ》ちゅうんですが、あたしたちが好くばかりじゃなく、だんな様もお好きなさるじゃろ」
「このくそばばあ、おれがほしいんじゃないぞ。都の人に頼まれてるんだ。で、どこの娘?」
「燈台もと暗し、実はお宅が糸屋をさせてる、韓道国の娘なんですよ。ごらんになるなら、生年月日を調べますから、それからどうぞ」
二日たつと、馮婆が紙に愛姐の生年月日を書いて持って来た。見ると、十五歳で五月五日|子《ね》時の生まれである。
「お話を先方に通じましたところ、だんな様のおめがねなら願ったりかなったりですが、ただ用意がないと言っておりますが」
「それはおれのほうでする。結納金の二十両もこちらで出すから、靴だけ縫わせておいてくれ。輿《こし》入れの時にはおやじも都までつけてやろう。蔡太師の執事の|※[#「羽/ふるとり」、unicode7fdf]《てき》という人がもらうんだから、赤ん坊でも生めば大金持の奥さんだ」
見に行くのは翌日ということになり、馮婆はさっそく韓道国の家へ行って、かみさんの王六児《おうろくじ》に知らせる。王六児は韓道国が店から帰ると相談し、翌朝早くから西門慶を迎える準備に大わらわ、韓道国は店に出て留守だから、王六児はこってり化粧したり、杯をふいたり、落花生の皮をむいたり忙しい。そこへ馮婆もやって来る。
役所がひけると、玳安、琴童を供に従え、馬に乗って西門慶はやって来たが、当の娘には目もくれず、王六児にまじまじとながめ入った。なんともその妖艶《ようえん》なこと、西門慶は恍惚《こうこつ》としてしまって、韓道国のやつ、こんな女房を持っていたのか、これじゃよた者どもがちょっかい出すのも無理はないと腹の中で考える。娘を見ると、これがまた美人、こんなおふくろだからこそ、こんな娘が生まれるんだ、と感心している。
西門慶は玳安に包みの中から、錦《にしき》のハンカチ二本、金の指輪四個、銀二十両を出させ、馮婆に茶盆の上に載せさせると、王六児は指輪を娘の韓愛姐の指にはめ、おじぎをさせて部屋へ帰し、
「頭の先から足の先まで、みんなだんな様のおかげでございます。わたくしたち夫婦、なんとお礼を申しあげてよろしいものやら」と地面に頭をすりつけた。
西門慶は王六児が二ことめにはだんな様だんな様と調子がいいので、すっかりいい気持になり、「またやって来る」と言い残して帰った。
九月十日、役所から四名の人夫と二名の軍卒が韓愛姐のおつきとして出され、来保と韓道国は四頭の駄馬《だば》に積んだ荷を宰領《さいりょう》し、一行は都へ向かって出発。家に残された王六児は、たっぷり二三日泣き明かした。
ある日、西門慶は獅子街の店へ行き、茶を持って出て来た馮婆に礼を一両やって、王六児の様子をさりげなくたずね、韓道国がもどったら厚くお礼をすると約束したが、だれも近くにいないのを知ると、急に声をひそめ、
「近いうちにちょっとしたことでかみさんに会いたいが、いつごろがいいかきいて来てくれ。あしたまでに返事頼むぞ」
「総ざらいですねえ。ひと鍬《くわ》で金の人形を掘り出し、ふた鍬めにはその母親ですか。だんな様はあの女のこと、あまりご存じないようですが、二十九で、あだっぽいけれど、まだだれも手はつけてないらしいですよ。あしたお返事しましょう」
婆はにやにやしてこう言ったが、翌日になると西門慶のところへ来て、どうぞという返事。西門慶は一両渡して王六児のところで酒肴《しゅこう》の用意をしておくよう命じた。午後になると、西門慶はふだん着のままで玳安と棋童を連れて出かけ、王六児の家に着くと、棋童には馬を引かせて獅子街の家に帰し、日が暮れてから迎えに来るように申しつける。
王六児が今度のことで西門慶に叩頭《こうとう》して礼を言い、西門慶が王六児の家に小おんなのいないことに気づいて馮婆に小おんなを見つけて来るように命じたりしているうちに酒肴がテーブルに並ぶ。王六児は酒をそそいだ杯を西門慶にささげて、またひざまずこうとすると、西門慶は手をとって引き起こす。そのころから、こころはほぐれ、馮婆が台所へ下がって玳安にものを食べさせているころには、酒はいく巡《めぐ》りかし、王六児の腰掛けは西門慶に近づき、話に身が入って酌をしたりされたりしていたが、だれもはいって来ないと見てとって、やにわに女の首に腕をからますと、西門慶はキッスして、たわむれかかる。もうふたりの心は揺れ動いて、酒どころではない。あたふたとドアをしめ、女はオンドルにふとんを敷きのべると、西門慶のふところに飛びこんで行く。ふたりはかかえ合ったまま、まっしぐらにぶつかり合った。
西門慶が帰る時、王六児は「あしたはもう少し早めに来てくださいな。そしてゆっくり遊びましょう」とかわいいことを言う。翌日にはや、四両で小おんなを買って、錦児《きんじ》と名を改めて王六児の所へおいたが、それからは棋童と玳安を供に毎日のように西門慶は出かけて行く。馮婆は酒を買ったり料理をこしらえたりで、油やお菜をちょろまかしている。西門慶は来るたびに女に一二両ずつ経費としておき、昼間から夕方までからみ合って家へ帰るが、だれも気づかなかった。
馮婆は毎日のように王六児のところへ行くので、獅子街の家にいることが少なくなり、李瓶児の用も、月娘からの頼まれごともほったらかしで、画童に引っ張って行かれ、ふたりの小言を聞かされたが、口先でちょろりとごまかしてしまい、とっとと王六児の家へ急ぐというありさまである。
三十八
そのころ西門慶のところには応伯爵が来ていて李智《りち》という船問屋に金を貸してやってくれとねばっていたが、千両と五百両ばかりの品物を貸すということに話をつけて帰り、西門慶は棋童、玳安を連れて牛皮巷の王六児のところへ向かう。一方王六児の家には韓道国の弟のゆすりの韓二が、賭博《とばく》に負けたので兄の家で酒を飲んでやろうという算段でやって来て、袖《そで》から腸づめを出すと、嫂《ねえ》さんいっしょに飲もうと切り出す。ところが王六児は、もうすぐ西門慶が来るのだし、馮婆も台所に来ているので、「あたしは飲まないから、どこかで飲んでおいで。にいさんがいないのに、ここへ来てどうするの」
韓二は動こうともしなかったが、テーブルの下の酒を見つけ、それを飲ませろと言う。
「いけないよ! だんな様からのいただき物だから。にいさんが帰ったら、あけるよ」
「へん哥貴《あにき》、哥貴ときょうは天子様のように敬うが、その弟が一杯毒見してもいいじゃねえか」と手を出すところを女に突きとばされ、ころがったなりなかなか立ち上がれぬ。恋は変じて恨みとなり、
「やい、よくも突きとばしたな。銀子《かね》のある男とでき合って、めっぽう強気になりやがったな。その場になって、あわてんな、白い刀ではいって赤い刀で出てやるからな」
王六児はいきなりそばの槌《つち》を手にすると、まっかになってどなりつける。韓二のやつは出任せにののしりわめき門を飛び出して行ったが、そこへ西門慶が馬で乗りつけていた。
「今のはだれだ」
「いえ、韓二のやつが賭けに負けて、飲みつけに来たので、追い出したんですよ」
「あの死にぞこないのこじき野郎かい。あしたにでも、役所でかわいがってやるさ」
西門慶は「獅子街のほうに一軒家を買ってやるから移ったらいい」などと喜ばせ、いつものように遊んで帰る。
翌日、西門慶は韓二を捕えさせ、二十棒をくらわせたことは言うまでもない。
数日たって、韓道国の一行が都から帰って来た。韓道国は|※[#「羽/ふるとり」、unicode7fdf]謙《てきけん》が娘を見て非常に喜んだこと、二日泊めてもらったことなど話す。|※[#「羽/ふるとり」、unicode7fdf]謙《てきけん》の手紙を見ると、謝辞を述べ、これからは親戚づきあいをしたいと書いてあった。お礼として一頭の馬、結納として五十両、付添人の雑費として二十両を持って帰っていたが、西門慶は五十両も、韓道国にむりに持たせた。韓道国が家へ帰ると、王六児はたいへん喜んで東京の様子をたずねる。
「いや、りっぱなお屋敷でな。あれは着くなり三部屋もらい、小間使いが二人付いた。|※[#「羽/ふるとり」、unicode7fdf]《てき》のだんなも大喜びで、おれたちも二日泊めて大もてなしよ」
「そんならあした、馮《ふう》婆さんに一両、お礼しましょう」
そこへ小おんなが茶を持って来ると、韓道国はふしんに思って聞くと、王六児は留守中のできごとをいっさい話した。
「なるほどね、五十両よこしたわけだな。家でも買えってのだな」
「それは別よ。家は寝物語に、わたしに約束したんだから」
「そんならおれは知らんふりしてるほうがいいな。おまえもできる限りきげん気づまを取ってくれ。これで楽するのにかぎらあ」
「やくざめ! おまえさんは楽かしらないが、わたしゃからだを使うんだからつらいよ」
ふたりは笑って床にはいった。
礼にもらった青馬はある日、ちょうど乗馬がだめになった夏《か》提刑に、都《みやこ》の|※[#「羽/ふるとり」、unicode7fdf]《てき》という親戚がなどとひけらかして、贈物にした。夏はたいへん喜んだ。
三十九
西門慶は韓道国に獅子街の石橋の東側の家を百二十両で買って与えた。四層建てで、一層客間、二層祭室、三層居室、四層|厨房《だいどころ》である。近所の人は西門慶の手代と聞いて茶盆など贈り、ていねいにあつかったが、道国が店へ出ると西門慶が通って来るので、さてはと感づいたが、西門慶を恐れてだれひとり何も言わなかった。
年末に玉皇廟《ぎょくこうびょう》の呉|道官《どうかん》から使いが来たとき、月娘はふと、李瓶児が子供が生まれるようにかけた願《がん》がまだほどいてないことに気づいた。で、正月に願ときをしようということになったが、李瓶児が官哥《かんか》の病身なのを案じて、玉皇廟で法名をつけてもらいたがっていると聞き、その二つを兼ねて、道士十六人を呼んで正月九日玉皇の誕生日に、やってもらうように申し入れた。
九日になると西門慶は役所を休み、白馬にまたがってお供を引き連れて、早朝より玉皇廟へ行く。法場から太鼓の音が流れてくると、西門慶は吉服をまとい、腰に金犀角の束帯をつけて壇に向かう。そこで祈祷《きとう》文が読み上げられたが、その中に西門慶と呉月娘の生年月日は書かれていたが、かんじんの李瓶児と官哥のが書かれていない。西門慶はおどろき、李氏、辛未《かのとひつじ》年正月十五日|申《さる》時生、同男官哥、丙申《ひのえさる》六月二十三日|申《さる》時生と書き足させ、ふたたび祈祷文が読み上げられた。この祈祷文は長文ではあるが、結局は、官哥の法名を呉|応元《おうげん》と名づけたこと、さらに子宝が生まれ、西門慶一家が安泰であるようにとか、そういうことが書きつらねられていたのだ。祈祷が終るころ、応伯爵、謝希大、呉大舅《ごだいきゅう》、花|子由《しゆ》、そして話を聞きつけて、李桂姐《りけいそ》、呉|銀児《ぎんじ》までが茶を持ってやって来た。昼の礼拝になると呉道官は祭壇の前のテーブルに金華酒一本、官哥の衣服と帽子、黒地の道衣、下着、靴下、靴、一本の黄色いひも、銀の首輪、未色の魔|除《よ》け札などを並べる。
この日は金蓮の誕生日でもあるので、月娘の姉、金蓮の母、玉楼の伯母《おば》、歌姫の郁大姐《ゆうたいそ》たちが集まっていたが、廟からくだものや贈物を続々届けて来る。その品を見て、潘金蓮はさっそく、李瓶児を呼びに行く。小道士用の冠や道衣や靴を見て、金蓮はひどくはしゃぎ、李瓶児に寝ている官哥を起こして来させ、孟玉楼が道家の冠をかぶせ、首輪をはめると、もう官哥はびっくりして目をとじ息をこらしている。李瓶児が月娘の言いつけで、祈祷文を焼きに奥の仏室へ出て行くと、官哥はわっと泣きだした。李瓶児があわてて帰って来て官哥の衣裳を脱がすと、おしめに糞《ふん》をたれていた。
「呉応元さん、お行儀のいいこと。うんこでもたっぷりあるわ」
孟玉楼はげらげら笑い、月娘は紙で尻《しり》をふいてやった。官哥は李瓶児にもたれて眠ってしまった。
西門慶は夜になっても帰らないので、金蓮は表門に立って西門慶を待っていたが、日が落ちて帰って来たのは、生酔いの陳敬済と、玳安だった。
月娘は灯《ひ》がともると、女客を呼んで、酒を飲みながら尼に因果物語などを話させていたが、潘金蓮が途中で立ち、つづいて李瓶児というふうにいなくなって、最後には月娘ひとりが話を聞いていた。
四十
その夜、月娘は尼と一つのオンドルに寝たが、王尼に「あなた様は、まだお喜びがございませぬか」とたずねられ、去年の八月流産したことを話すと、薛師父《せつしふ》という尼のありがたいお札《ふだ》薬の話を聞かされた。それに使う赤ん坊の胞衣《えな》ばかりは自分で見つけて来なくてはならないが、それを酒で洗って焼いた灰をお札薬といっしょに、人知れず酒にまぜて飲めば、一月もたたぬ間に妊娠するというのだった。月娘は尼にそれを頼んだ。
翌朝西門慶が廟から帰ると、月娘はちょうど髪を梳《す》いているところだった。
「昨夜は五奥さんの誕生日で待っていましたのに、どうしてお帰りにならなかったの?」
西門慶は応や謝と徹夜で飲んで、役者に歌など歌わせていたことなどを話し、玉簫の持って来た茶を飲むと、この日も役所を休み書房で横になって雷のようないびきをかいて寝ていた。しばらくすると、顔をいじくるものがあるので目をさますと、道士の服を着た官哥が立っている。うれしくなって顔じゅう、笑《え》みをくずすと、抱き上げてキッスしてやる。
李瓶児にくっついて来ていた金蓮が、
「きれいな口でキッスするわね。道士の呉広元さん、つばきをひっかけてやんなさい。昨夜はどこをうろついてたんだいって。まっ昼間にいびきなんかかいて。五かあちゃんは待ちぼうけ、どうちてお祝いに来ないんかって」
西門慶は月娘のところと同じように言いわけをするが、金蓮は「お酒なんか飲まなくてもいいのに」
「そうはいかんよ」
「いかないったって、早く帰ればいいのに。あたし、待ってたんですよ!」
金蓮がいつまでもやりそうなので李瓶児はご飯ができていると西門慶に告げ、西門慶を出て行かせた。
その晩、金蓮は冠をとり、髪をまるめ、顔をまっ白にくちびるをまっかに塗りたくると、金燈籠の耳輪をつけ、まっかな上着に藍《あい》のスカートをはいて、小おんなに扮し、まず李瓶児に見せた。李瓶児はころげるほど笑い、
「ほんとに小おんなに見えるわ。紅《あか》い布をかぶんなさいよ。だんな様がまた小おんなを捜したんだと言ってみんなを驚かしてやりましょう」
春梅を先頭に立てて出て行くと、儀門《よこもん》の所で陳敬済にぶつかり、かれも一役買わされることになった。陳敬済が奥へはいって行くと、一同がオンドルにすわってお茶を飲んでいる。
「だんなが薛嫂に十六両で小おんなを世話させたんですよ。二十《はたち》で、歌も音楽もじょうずだそうで、今、届けて来ました」
月娘はびっくりして、「ほんとうかね? どうしてわたしに話さなかったのかしら」
「しかられると思ったんでしょう。薛嫂は届けると帰って行きましたよ」
すると玉楼の伯母が「幾人奥さんがいたら足りるんでしょうねえ」
しばらくすると小おんなが部屋にはいって来た。
「この方がご主人ですよ。ひざまずきなさい」
玉簫が月娘のそばからこう叫び、頭の蔽《おお》いを取りはずす。金蓮はしずしずひざまずいて地に頭をつけようとしたが、くすくす笑いだしてしまった。
「まあ! この小おんなときたら、ひざまずきもしないで笑いだして」と、孟玉楼が叫び声を上げると、月娘は金蓮と見破って笑いだしてしまった。皆で笑いさざめているところへ、琴童がはいって来て西門慶の帰りを告げる。孟玉楼は金蓮を隣の部屋にかくしてしまい、はいって来た西門慶に、「きょう薛嫂が二十歳になる小おんなを轎《かご》で届けて来ましたよ。いやらしい! そんな年をして、まだ女をほしがって」
「うそつけ」
「うそなもんですか。大ねえさんに聞いてごらんなさい。信じないのなら、本人を見せてあげますわ。玉簫、連れて来ておくれ。お目見得させるから」
玉簫は笑いをこらえてちょっと出て行ったが、もどって来て、
「どうしても参りません」
「そうかい。じゃ、あたしが連れて来る。ずうずうしいね。少しこらしめてやらなくっちゃ」と、孟玉楼が隣の部屋へはいって行くと、
「出たくないって言ってるのによ、引っ張って行ってどうするのよう」
「だれがそんなにずうずうしく仕込んだんだい。だんな様にごあいさつするんです!」
西門慶がのぞいてみると、小おんなのかっこうをした金蓮が目を細くして笑っていた。やがて金蓮は出て来たが、みんなはなおも小おんなに見立てて、しかったり、笑ったりした。
やがて月娘が十二日に自分たちが喬大戸《きょうたいこ》の家に招待されていることを告げると、西門慶は十四日に喬家の奥さん、周守備の奥さん、荊都監の奥さん、夏提刑の奥さんを招待し、花火屋を呼んで花火を上げさせ、役者には「西廂記《せいそうき》」をやらせ、呉銀児や李桂姐を呼んで、おまえたちが相手をして遊べと返事する。それから酒となったが、西門慶は金蓮の小おんな姿に心を動かされ、先に引き取った金蓮を追ってその部屋へ行く。金蓮は有頂天になって酌をしながら、喬家へ着て行く衣装をうまうまとねだり、一晩じゅう、西門慶と狂うほどたわむれた。
四十一
十二日、月娘たちと月娘の姉は六つの轎《かご》を連ねて喬家へ向かう。乳母の如意児《にょいじ》は官哥のお守《も》り役、来興のかみさんの恵秀《けいしゅう》は衣服のたたみ役としてこれにつづいて轎で行く。留守居役は孫雪娥《そんせつが》だった。
午後、西門慶は金蓮の部屋で春梅に給仕させながら食事をしていたが、十四日に役人の奥様を招くから、おまえたちは酌に出るのだと話すと、春梅は自分は出ないと言う。ちょうど喬家へ自分は行かないと言って、じわじわ衣装の新調をねだりとった金蓮そのままの手で、とうとう西門慶にひとりに三着ずつの衣服《きもの》を作らせることを承知させた。しかもほかの小間使いとは際《きわ》を立て、西門大姐と同じものをせびりとり、そのほかに、黄紗のスカートまでものにした。
月娘たちが着くと、喬家には尚拳人《しょうきょじん》の奥さんをはじめとしてたくさんの女客がすでに集まっており、ふたりの芸者まで歌わすために呼ばれていた。形式どおりの宴が済むと、月娘たちは着替えや化粧直しに奥へはいると、喬大戸の奥さんの寝室では如意児が官哥を守りしていたが、官哥は喬家の赤ん坊の長姐《ちょうそ》と打ちつ打たれつしてたわむれている。
「このふたりはまるで夫婦みたいじゃないの」と、月娘が玉楼に言っていると、はいって来た月娘の姉も、
「まあ、ふしぎね」と笑う。そしてつぎつぎはいって来た女客に、そのことを話していると、喬大戸の奥さんは、「とんでもない! 小家のむすめに、大家の若様。つりあいがとれませんよ」と謙遜《けんそん》する。月娘は
「まあ! そんなこともありませんわ。夫婦にしてもいいじゃありませんか」
孟玉楼は李瓶児をつついて、「李|大姐《ねえさん》、あんた、どう思うの」と聞くが、李瓶児は笑って答えない。
「喬家の奥様、そうなさらないと、わたしが承知しませんよ」と、月娘の姉は力《りき》み返った。
すると、そばの女客たちは「呉の奥様がああまで言ってくださるんだからよろしいじゃありませんか」とすすめ、縁組の話は決まってしまった。その知らせを聞くと喬大戸はすぐさまくだものや三反の紅い反物を持たせる。月娘も急いで玳安と琴童を家に走らせ、西門慶に二本の酒と二反の緞子《どんす》やくだものを出してもらうように言いにやらせた。
話の決まった両家は席の前に紅の布地をたらして、和気あいあいと酒を酌《く》みかわした。
夜八時ごろまで飲むと、月娘の姉だけ喬家に残し一同うち連れて帰って来た。奥で酒を飲んでいる西門慶のところへみなで行って、月娘がきょうの縁組の話をすると、
「縁組もいいけれど少しふつりあいだよ」と、西門慶はしぶい顔をする。「喬家は大戸だけれど、たかが平民じゃないか。だのにおれたちは官吏で、役所で仕事をしているんだ。会親酒《いわいざけ》の席に、あの連中がちっぽけな帽子をかぶって出て来たら貧弱だな。この間も荊都監から話があったんだが、房裡《めかけ》の子だからと言ってことわってるのに」
房裡《めかけ》の子と聞いて金蓮は黙っておれず、
「だれだって房裡《へやのなか》で生まれるんだわ。房外《へやのそと》で生まれる人なんかあるもんですか! 喬家の子供だって房裡で生まれたんだもの、この縁組は恨みっこなしだわ」
西門慶はかんかんにおこって、「どすべた、出て行け! 横からつべこべ抜かすな。このことときさまとは関係はないぞ」
どなられた金蓮はまっかになって部屋を出て行き、むくれ返って、涙を流してくやしがった。
李瓶児が部屋で西門慶に縁組の礼をひざまずいて言ったので、西門慶は気分がおさまり、迎春の酌でふたりはゆっくり酒を飲んだ。
金蓮は西門慶が李瓶児の部屋にいると思うとむらむらと腹が立つ。その上、秋菊《しゅうぎく》の門のあけようがおくれたので、いきなり横つらを二つほど張りとばして部屋へはいった。金蓮は、秋菊までがばかにしたとひがみ、なぐりつけようと思ったが、西門慶に聞かれてどなられるのをおそれ、その夜はそのままにして床にはいった。
翌日、西門慶が役所へ出ると、金蓮は秋菊を庭先にひざまずかせ、頭に大きい石をのせ、自分は髪を梳きながら、春梅に、「ズボンを脱がせて、棒でたたいてやりな」と言いつける。
「ズボンを脱がすなんて、手がよごれるわ」
金蓮は画童を呼んで来て、秋菊を裸にさせ、自分で棒を持つと、「奴隷淫婦、おまえはだれのおかげで大きくなったんだね。人が許しても、あたしは許さないよ。上の人に逆らって、ずうずうしいじゃないか!」とたたいてはののしり、ののしってはたたく。たたかれた秋菊は絞め殺される豚のように泣きわめく。
その時、李瓶児はやっと床を出、乳母に官哥を寝かしつけさせていたが、寝ついたばかりの官哥が驚いて目をさました。金蓮が秋菊をぶったたいて、口ぎたなくののしっていることばが、はっきり一こと一こと聞えて来る。李瓶児は官哥の耳をふさぎ、綉春に、「官哥が寝つくところだから、秋菊をたたかないでください」と言いにやらせた。それを聞くと金蓮、ますますたけり立ち、秋菊をたたきにたたき、
「わる奴隷! 刀で刺されたみたいにわめきやがって! あたしゃこんな気質《たち》だな。騒げば騒ぐほど、ぶったたいてやるんだから。おまえをたたいたからって、苦情を言いに来る人もいるんだ! いいねえさんじゃないかね。男に言いつけたらいいや」
李瓶児は足の縮む思いである。口に出せぬ性分だから、朝の茶も飲まず、官哥を抱いたままふとんにはいって寝てしまった。役所から帰った西門慶が官哥の顔を見に来て、李瓶児の泣きはらした目を見てわけをきくが、李瓶児はただ気分が悪いからと言うばかりである。
西門慶は喬家から李瓶児の誕生祝いと、官哥への贈物が来たことを一々数え立てて聞かせ、あしたの招待はあさってにのばしたが喬家の親戚《しんせき》でまた皇族の親戚にもなっている喬五|太太《おくさま》が、家と親戚になったので大喜びで、十五日に来るということだが、今からでも案内状を出さねばまずかろうな、などと話す。
この話を聞いて李瓶児はやっと髪を結い、月娘の部屋に行った。月娘の姉と、喬家の使いの孔嫂《こうそう》がそこにおり、贈物は客間に並べられていた。李瓶児はそれを一とおり見ると、孔嫂と、贈物をかついで来た(小ものの)喬通《きょうつう》にハンカチ二本と五銭の銀子《かね》を祝儀としてやり、手紙を書いて帰した。
四十二
西門慶は喬家の使いを帰すと、月娘、その姉、李瓶児たちと相談して、すぐに馮《ふう》婆を呼び出し、玳安とふたりをつかわして、十五日に李瓶児の誕生祝いと燈籠見物をかねて酒席にまねく招待状を、喬五|太太《おくさん》と、喬大戸、尚拳人、朱台官《しゅだいかん》の娘子《おくさん》その他の女の人に持って行かせた。一方来興児には菓子くだもの、官哥の縁組の決まった喬家の女の赤ん坊への、錦の衣服、真紅の上着、金糸の冠、燈籠、腕輪、指輪などを用意させた。
さて十四日になると、それを陳敬済と賁四を使いとして喬家へ届けさせる。この騒ぎの中へ応伯爵が李智の借金のことで話しに来たが、西門慶は十五日に応の妻君を招待することにし、自分らは今から女客を避けて獅子街の家で燈籠を見ようと約束した。呉銀児はあらかじめ四箱の贈物を届けておいて李瓶児の誕生祝いとし、うまうまと月娘の娘分になってしまったので、同格になってしまった李桂姐はあとから来て知ってひどく腹を立てた。この日の女客は、周守備、荊都監、張団練《ちょうだんれん》、夏提刑の奥さん連で、西門慶は皇族のかかえ役者を二十人呼んで接待させ、自分は花火一架を持って料理や酒をコックに持たせ、芸者の董嬌児《とうきょうじ》、韓玉釧《かんぎょくせん》を呼ばせ、応伯爵、謝希大と会うために獅子街の家へと出て行った。獅子街には、玳安に命じて王六児を連れて行かせてあったが、王六児の着いたときには王昭《おうしょう》の妻の一丈青《いちじょうせい》がちゃんと、ベッドの用意までも行き届いて準備している。
二階で応伯爵と双六をしながら、すだれ越しに通りのうず巻くような人波をながめていると、謝希大と祝実念《しゅくじつねん》が燈籠を指《さ》してもうひとりの男としゃべっている。そこで玳安を呼んで、謝だけを引っ張って来るように命じた。玳安からそっとささやかれると、謝希大はうまくふたりをまいて上って来たが、
「いっしょにいた方巾《かくずきん》のやつは何だ」と、西門慶が言う。
「王|招宣《しょうせん》とこの王三官ですよ。三百両の銀子《かね》を借りる保証人に祝《しゅく》やわたしになってくれと言うんでね」
謝が飯を食っていないというので玳安に出させると、がつがつあさましいほど食った。飯が終るころふたり芸者がついたが、応伯爵はそれを見つけ、玳安に、奥へ通さず、まっすぐ二階へ、上らせろと言いつけた。ふたりの芸者は応がそう言っていると聞いても問題にせずさっさと奥へ通る。一丈青が出てあいさつしたが、そこにいた流行の冠をかぶり美々しくめかしこんだ王六児が何者なのかわけがわからぬままに、鉄棍《てつこん》の持って来たお茶をいっしょに飲んで、じろじろ観察していた。やがて来た玳安にこっそり聞くと、「奥さんの姉さんですよ」と言う。ふたりの芸者ははっとわかって、丁重にあいさつをしたので、王六児はめんくらって半礼を返し、いっしょに食事をした。ふたりの芸者は王六児のために歌を歌った。
便所に降りた応伯爵がそれを聞きつけ、「あいつらだれに歌ってやっているんだ」と、玳安にきく。
「だれでもいいでしょう」
「知らんとでもおまえ思ってるのか」
「ご存じならそれでけっこうじゃございませんか」
応伯爵はしかたなく二階へ上って行く。そのうち芸人の李銘《りめい》と呉恵《ごけい》がごきげんうかがいと称してやって来たので、西門慶は向いの韓道国まで呼び寄せ、ふたりの芸者も呼び上げ、歌を歌わせながら、飲んでいると、どうかぎつけたか、まかれたはずの祝実念がまい上がって来てすわりこんでしまった。
日が暮れて、燈籠に火がはいると、家から棋童が四人の軍卒を連れて、菓子やくだものを持って来る。韓道国が帰ると、西門慶は街路へ花火台を持ち出させ、玳安と来昭《らいしょう》に仕掛け花火を打ち上げさす。
応伯爵は、花火が終ったころ、謝希大と祝実念の手を引っ張って、西門慶にあいさつもせず出て行く。玳安が「どちらへお出かけで?」ときくと、伯爵は耳もとで、「ばかなこときくな。おれが帰らんとふたりも尻を上げやがるまい。少しは粋をきかせてやらねばなあ。だんながきいたら帰ったと言え」
西門慶は伯爵が帰ったあと、ふたりの芸人、ふたりの芸者を帰し、小ものにかたづけさすと、奥の王六児のところへ行った。
裏庭に出た小鉄棍が笑声につられてそっと奥をのぞきこむと、西門慶と王六児がたわむれている。なおものぞきこんでいると、一丈青にえり首をひっつかんで引きずり出され、
「この厄病神《やくびょうがみ》め、もう一回死ぬほどたたかれたいか。また、見に行きやがって」
二回も食事のとれる時間たわむれると、西門慶は玳安に王六児を亭主《ていしゅ》のところへ送らせ、自分も家へ帰って行った。(つづく)
◆金瓶梅(上)◆
富士正晴訳
二〇〇四年九月十日