「その眼鏡、度なんぞはいっとらんな。淨眼持ちかい」
片腕の翁はくつくつと喉で笑いながら呟いた。
遠野志貴は眼鏡の奥を希望に輝かせて、浮かしかけた腰をもう一度座布団の上に据えた。頑固一徹の態を崩さず、志貴の言葉を全て興味無しとばかりに一蹴してきた翁は、七夜の名を志貴が名乗った瞬間に態度を変化させた。視線だけで人を殺そうと企む瞳が突然穏和な色を帯び、志貴は戸惑いもそこそこにメガネを外して、刀崎の翁を視た。
「ほォ……奇麗なもんじゃの」
老人は身を乗り出して志貴の瞳を見つめ、やがて満足したように頷く。
「遠野と言うから相手せなんでおけば、小僧の倅か」
小僧が指すのは誰か、と思案し、実の父親の朧げな輪郭を思い描いた志貴は、小さく息を吐いた。
「そう急くな。遠野の頭首が還ったと言ったな」
志貴のため息を催促のそれと受け取ったのか、刀崎の翁はくつくつと笑いながら言う。
「ここにまで来るくらいじゃ、巫淨へも行ったのだろう。知っての通り、先祖還りした者を人に戻すことなど不可能。がまぁ……アテが無いわけでもない」
「本当……ですか」
思わず飛び掛ってしまいそうになる自分を抑えて、勤めて冷静に訊ねる。ここではしゃいで、再び翁の機嫌を損ねるのは得策ではなかった。
刀崎の翁はしゃがれた笑い声を止め、座敷に吹き込んでくる風に身の通らない左袖を揺らした。骨刀の伝承を思い出した志貴は、己の祖父に捧げられたであろうその刀を想像し、昂ぶりを覚える。
「冬木、という街がある。ワシも風聞しただけだが、生き残れば何でも願いが叶うとかでな。聞いた時分には一笑に伏したが、いやなに小僧を見ておれば藁にも縋らんばかりだからの」
「生き残る?」
「聖杯戦争、と言う。魔術師同士の殺し合いじゃ。使い魔を戦わせて生き残りを争う。アテというほどアテにならんがどうする」
是非も無い。が殺し合いという言葉が胸につっかえた。黙り込んだ志貴を、刀崎の翁は興味深げに観察し、やがてさも不愉快だと言わんばかりに剣呑な空気を纏った。
「遠野に、何ぞされておるな」
言って、翁は立ち上がる。
「行くのなら、いいものをくれてやる」
慌てて見上げた志貴をカカと笑い、腕に繋がらない左肩を奇妙に吊り上げ微笑んでみせた。
fate/stay night -月姫-
時刻は零時近く。降りしきる雨は、強くアスファルトを叩いて水溜りを作っていく。ペインティングデニムの裾は既にずぶ濡れで、歩くたびに靴下が音を立てる。半年の旅ですっかり擦り切れたスニーカーはそろそろ買い替え時。コンビニで立ち読みした雑誌で気に入ったスニーカーがあった。事が終われば買いに行こうと、考える。
駅前の喧騒が嘘のように辺りは静謐を保っている。降り止みそうに無い空をビニール傘の中から見上げた。月は分厚い雨雲に阻まれて窺えない。閑静な住宅街の理想的ともいえる町並みを背後に、志貴はなだらかな坂を歩く。
途中に設けられた十字が目立つ墓地──外人墓地だろうか──を横目に歩くと、やがて高台のような、開けた場所に出た。一教会が保有しているとは思えないほど広大な敷地。長方形の広場のような場所の奥に、十字架を構えた大きく立派な建物が佇んでいる。人里離れた場所に相応しく厳かな佇まいは冬木教会。交番で尋ねたここはそういった名称の教会だった。
巨大な扉を前にして、ちりとこめかみが針で突かれたような痛みを訴えた。鼻をひくつかせ、眉根を寄せる。痛みの原因は匂いだった。重厚で濃厚な、歪(まが)り淀んだ空気。それが放つのが甘ったるくどこか妖艶で、嘔吐感を煽る臭いであり、恐らくは死の臭い。聖域に相応しくないものだったが、生を受け死を見取るのも教会だと思い出し、邪推しはじめた思考をストップさせる。
扉に手を掛け、深呼吸を一つ。何が出てきても驚かない覚悟を決めて、臭気に圧されて妙に重い扉を押し開けた。襲い来る臭気に耐えるべく手のひらを握り締める。だが、予想に反して押し潰されるほどのそれは無く、むしろ清涼な空気が淀んだ空気を打ち払う。
「こんな遅くに何か用か」
声は礼拝堂の奥から聞こえた。整列した長いすの一つに腰掛けて、金髪を揺らして振り向く男。
「ああ、スイマセン。教会の方ですか?」
「……オレか? いや違う。神父に用なら私室にいるだろうから訪ねれば良い。そこの扉から出て中庭を抜け……適当に曲がっていればそのうち着く」
男は赤い瞳で志貴を一瞥する。志貴は煌々と燃えるような瞳に射すくめられ、背筋を伸ばした。不思議な圧力が体に掛かり、それから逃れるように辺りを窺う。人の気配などなく、臭気の元がここにあるとは思えなかった。
「どうも」
会釈を返すと、じっと志貴を見据えていた瞳がゆっくり細められた。それから逃れるようにそそくさと礼拝堂を横切り、こげ茶色の扉を押し開く。中庭、と外国人が言っていたように、そこは草木がプランターに植えられた、ちょっとした庭園の様相を呈していた。どす黒い臭気は完全に根っこから無くなり、思わず安堵した。
「こんな夜中に……珍しい客だ」
石造りの渡り廊下を、長身の男が歩いてくる。深い鳶色の瞳。威厳たっぷりに歩く姿。その全てに萎縮しそうになって、どこかで似たような目を見たなと既視感を覚える。
「すいません。ちょっと窺いたいことがあって。聖杯戦争ってやつのことなんですけど」
「……礼拝堂へ」
神父服に身を包んだ男は抉るような目で志貴を貫いた。商品を見定めるような無機質な瞳。人間味の無い瞳と、低く腹に響く声。それら一々に眉根を寄せながら、教会にいるのに安らげないのは信徒でないからかと考えて、礼拝堂の方へ歩いた。
礼拝堂では、あの外国人が何をするでもなくいすに腰掛けていた。赤色の瞳が訪れた二人に向けられ、何某か理解したらしい外国人は、立ち上がった。
「部屋に戻っていろ」
「そのつもりだ」
無表情で神父に返し、男は二人とすれ違うようにして礼拝堂を後にした。去り際に見下すように口元を歪めて。
「やつのことは気にするな」
外国人を目で追う志貴の視界を神父が遮る。
「今この教会には簡単な結界が張ってあってな。よほどの信者か聖杯を欲するもの以外は立ち寄らない。見たところキリスト教徒というわけでもなさそうだ。どこで知った?」
神父は無表情に見下ろしてくる。どうしてこの教会はこうも高圧的な人間ばかりなのかと辟易して、志貴は「人づてに」と答えた。
神父は嘗め回すように志貴の全身を睨みつけ、やがて「そうか」と呟いて、踵を返した。
「あ、ちょ」
「魔術師であることが最低条件だ。君では勝ち残ることはおろかサーヴァントさえ喚べん」
神父の背中は扉の向こうに消える。志貴は狐につままれた表情で呆ける。刀崎の翁のカカカという笑い声を思い出して、全身から力が抜けた。
「前途多難どころじゃないだろ、これ」
椅子の一つに腰を下ろしてため息を吐く。聖母像までもが、睥睨し見下しているように思えた。
interlude
「オイ、キャスター。こっちに来い」
また聞こえた。堪らない腐臭を放ちながら、アイツが声をあげた。殺してしまいたい。考えた瞬間、体を電撃が打った。主に逆らった身に、鉄球が圧し掛かった。
キャスターは床に頽れながら、主を窺う。キャスターを卑汚しようとする瞳は卑しく歪み、膨らんだ鼻の穴は欲望を吐き出さんと必死にひくつく。ギッと噛み砕いてしまいそうなほど歯を噛み締め、キャスターはよろよろと立ち上がる。
「今おまえ……何を考えた? 令呪の縛りを何故受けた? 私の言うことを聞こうとしなかったのか? 逆らおうとしたのかおまえは」
俯いたキャスターに、主の言葉が突き刺さる。興奮に紅潮していた顔は一瞬のうちに固くなり、魔術師らしい猜疑心をありありと浮かべる。
「なんとか言え」
あと一つ。
歯を噛み締め、キャスターは懸命に堪えた。息をするのも困難なほど圧迫される全身に喝を入れる。あと一つなのだから、耐えなければ。
「答えろキャスター。おまえは何を考えた」
「逆らったわけではありません。ただ、何をされるのかと……あ」
壁に手をあて、ようやく体を支えるキャスターを、近付いてきた主が突き飛ばした。
重圧に辛うじて逆らっていた体は再びよろけ、床に音を立てて転がる。ずれそうになったローブを慌てて直して、主に顔を見せないようにする。
「何をされるか? 馬鹿かおまえは。私に逆らえると思うなよ」
その様はまるでヒステリーを起こした女。間抜けで、卑小なくせに、野心だけは一丁前。まったく実に私のマスターに相応しい。
「ごめんなさい」
殊勝に頷いたキャスターに、満足といかなくともそれなりに自尊心を満たされた主は、フンと鼻を鳴らして窓際のチェアーに腰掛けた。
「おまえの相手をしていたら気が萎えた。眠る」
そう言って目を閉じると、魔術師の男は眠ってしまう。キャスターは埃を払うようにしながら立ち上がって、寝息を立てる男を睨み据えた。
ローブの奥の瞳を憎悪の渦に曇らせて、キャスターは口元を歪めた。苦々しく。自嘲するように。
「あと、一つ……」
それが、名前も覚えていない人間のライフリミット。どう殺してやるか考えるだけで胸が躍る。鼓動が早まる。この体を蹂躙したあの男の腹に魔力を有りっ丈に注ぎ込み、中から弾き飛ばしてやろうか。それとも四肢を順番に切断し、許しを請う男に嘲笑を上げながらナイフを突き立ててやろうか。
主は今際にどんな声をあげるのか。烈火の如く猛るのか、涙ながらに懇願するのか。兎角、あと一回。全てはその時にわかる。
「でもそれから先は──」
主を殺してしまったらその先は、どうすればいいのだろう。魂を喰って生きながらえるか。それとも潔く果てるか。
「なんて、情けない……」
interlude out
目を覚まし、カーテンの向こうを覗いて、世界が泣いているようだと感じた。黒い線によってツギハギだらけの世界は、画用紙をめちゃくちゃに破いて無理やりつなぎ合わせたように不自然。それを嫌った世界が、必死になって押し流そうとしている。槍のように強い雨は、あわよくば死を消してしまおうとする世界の涙。
枕元の眼鏡をつけ、ひとつ伸びをする。つまらないことを考えた頭を覚ますべく、洗面所に向かった。
鏡に映る顔は酷いものだ。半年間探し回ってようやく見つけた手掛かりは、根暗な神父によって粉々に砕け散った。ショックは大きく、昨晩は浅い眠りを繰り返すに留まった。
目の下にうっすらと浮かんだ隈を、水で擦る。冬の水は凍えるほどに冷たいが、昨夜のショックを紛らわすには絶好だった。豪快に顔を洗い、部屋に戻る。そうして改めてベッドに座り、思考を巡らせる。だがそうしたところで打開案が浮かぶわけもない。魔術師でなければ参加はできない。解っていた。ダメで元々知り合いの魔術師に頼んでみるかと考えたが、引き摺り戻される自分の姿が浮かんだ。
「……先輩でも勝てないくらいに厳しかったりするのか……?」
ふと脳裏を過ぎった思い。もしも万が一、埋葬機関の第七位を以って勝利が難しい戦争だとするのなら、自分には万に一つも勝機はない。だが、その知り合いの魔術師であり埋葬機関の第七位でもあるところの女性が敗北する姿など、まるで思い浮かばない。不死性を失ったとはいえ、彼女の鍛え抜かれた格闘術と魔術は、魔術の世界を知らない志貴にも異常だと見て取れる。
彼女の愛嬌のある笑顔を思い出すと、自然に三人の家族の顔が思い浮かんだ。使用人二人と、家主。後継者がどうのとかで、再び志貴の抹殺が仄めかされている。七夜の生き残りを滅ぼすという大義名分を掲げれば、志貴を抹殺するのは容易い。逃げ出してきたようなものだった。
「電話くらいしておくか」
部屋に備え付けられた電話の受話器をとる。番号をプッシュして、コール音をどこか遠く聞いた。夜逃げするように飛び出してから、半年間まるで連絡をしていない。怒っているだろうか。怒っているだろう。いつも笑顔のあの人も、いつも無口なあの子も、全て失ったあいつも。
『はい、遠野です』
懐かしい声だった。
「琥珀さん? あ、えと、志貴……だけど」
思わずどもってしまう。電話口に沈黙が広がり、やがて小さく息を呑む気配を感じる。
『志貴、さん? ほんとに。出て行くといったっきり何も連絡をせずに、もう半年ですよ。今どこにおられるんですか』
「……遠いところですよ。秋葉の様子、どうかな」
『戻ってください。もう、秋葉様には日が残されていませんから』
彼女の声は震えていた。今にも泣き出しそうな声に、胸をナイフで穿たれるような痛みを覚える。何より、日が残されていないという言葉の意味が解らず、動悸が早まる。
「どういうことですか?」
『秋葉様の処断を、分家の方々が話し合われています。刀崎家のご隠居様と九我峰家のご長男が異を唱えてくださっていますから決定はされていませんが、それもいつまで持つか』
血の気が音を立てて引いていく。貧血を起こしそうになって、コードレスの受話器を弱々しく握ったまま、ベッドに腰を下ろした。
いつかこんな日が来ることは解っていた。反転した人間を、そのままにすることはできない。志貴が駆け回ることによって分家筋に、遠野の頭首が反転したという情報が回っていたのだろう。
ベッドに腰を預けても、体は支えを失ったようにゆらゆらと揺れる。意気は消沈してゆき、意識は遠のいていく。
「わかりました。一段落したら戻ります。迷惑ばっかで、ほんとすいません』
搾り出すような言葉でも、聖杯戦争のことは伏せたほうがいいと考えた。参加できるかもわからない話で、無闇に期待させるのは愚かなことだ。「帰ってきたら、覚悟してください……」という小さな声を聞いて、志貴は受話器を下ろそうとする。これ以上話していると、帰りたくなってしまう。
『志貴さまっ!』
しかし、耳から離しても聞こえたその声に、思わず受話器を握りなおした。
『志貴さま?』
「あ、ごめん。久しぶりだね、翡翠」
『志貴さま……秋葉さまが』
自分付きの使用人の声もまた、か細く震えていた。恐らく、分家から連絡があったのは最近のことなのだろう。翡翠の声は泣きとおしたように掠れ、弱々しかった。
「琥珀さんから聞いたよ。今ちょっと立て込んでてね、これが終わったら戻る」
言葉は、冷酷なほどに冷静だった。今にも壊れてしまいそうな心が、均衡を保つために平静を装っている。
『秋葉さまの命よりも大事な用事ですかそれは。少しでも長く一緒に居られてはどうですか。このままでは秋葉さまが……可哀相です』
そんな言葉が気に障ったのか、翡翠は息を呑んだあとに大きな声で捲くし立てた。翡翠は怒っている。嘗て無いほどに怒気を孕ませた言葉は、そのまま志貴の代弁でもあった。
秋葉の元に居たい。彼女を連れて逃げ出したい。哀れだ。あいつは何もしていない。あいつはただ俺を助けてくれただけなのに。なのに殺されるなんて事、許せるはずが無い。
「ごめん翡翠。秋葉に、すぐ帰るって伝えてくれ」
翡翠の声も聞こえなかった。何で妹が殺されなきゃならない。そこに意識は集約し、収束し、刀崎の別荘で決めた覚悟を、更に強固なものにした。
殺し、殺される。だがその先に希望があるのなら、この身に変えてもそれを手にしてやる。
妹との約束も守れず、自害する胆力も無かった。そんな自分が情けなくて、居た堪れなくて、妹を救う手立てを探すと言う大義名分を抱いて、逃げ出した。
ここが、覚悟の決め時だ。
「何をしてでも、秋葉を守るから」
それだけ言って、受話器を置いた。
The shrine of a moonlight night.
interlude
結局、チャンスが来れば行動を起こしてしまう自分がいた。そんな自分に流されて、破戒すべき全ての符(ルール・ブレイカー)を主の胸に深々と突き立てたのがほんの数時間前。身を統べる力(まりょく)が根こそぎ消えていく恐怖が身を包み、凍えるような苦痛の最中にあって、キャスターはぼうっと空を見上げていた。
月を隠した雲が、冷たい雨を降らせている。ローブを濡らして、全身を洗い流す雨が、強く、叩きつけるように降っていた。早く消えろと、そう言われているようで、胸が痛い。
「フフ」
本当にわたしらしい、惨めな最期。
自嘲は嘆きに変わり、嘆きはほんの小さな嗚咽に変わる。歩くことにも疲れた。もう三十分と保たない体で、これ以上動くのも馬鹿らしい。
キャスターのサーヴァントは雨に濡れた顔を空に向けて、泣いた。自分が惨めで、哀れで、空しい。女神に翻弄されて、気付けば魔女に成り下がっていた。顔も知らなかった男に恋をして、弟を殺し、父を殺し、我が子までも殺した。そんな人生を願った覚えは無い。王の娘として、少し堅苦しい生活を送れたらよかった。それがどうして、たった一人にも看取られることなく逝かなければならなかったのか。だからもう一度世界に生まれ変わって、第二の人生を歩みたかった。普通に生きてみたかった。
しかし結局、それさえも許されなかった。
魔女を召喚するような性根の持ち主に、聖杯戦争を生き残るだけの力などなかったのだ。最初から、キャスターに勝利は約束されていなかった。
召還に応じたのがキャスターだと知るや戦意を失い、挙句にキャスターの「女」を利用しようとした魔術師。反英雄だとしても。イレギュラーだったとしても。英霊として召還されたからには意地と名誉とプライドがあった。それを踏みにじった魔術師には、然るべき制裁を与えた。当然の行為であり、奇しくもキャスターにはそれを可能にする力があった。最後に運命に反して消えることができるのならば、それはそれで召還に応じた甲斐もあるというものだった。
「も……げんかいか」
倒れこむ。どことも知れない異国の町。冷え切ったアスファルトに崩れるように倒れこんで、見上げれば分厚い雲。
涙を拭い、キャスターは苦笑する。涙ながらに死を迎えるなんて、魔女に相応しくない。
そんな感想を抱いて、キャスターのサーヴァントは現界を終えようとしていた。
眼を閉じる。何も見えない。何も感じない。ただ、自分がふわふわと浮いているような感じ。ふと、誰かの声が聞こえた。
「大丈夫ですか」
見て解らないのかという言葉は、喉につっかえて声にならなかった。変わりに目を開けて、人の死を冒涜しようとする不躾な人間を睨み付けた。鼻と鼻がくっつきそうな距離にいたのは少年で、少年はしゃがみ込んで、キャスターの肩を抱いていた。
一目見て、普通の少年ではないと気付いた。目に惹かれた。眼鏡の奥にある瞳は、どす黒い邪悪に染まっている。そう、邪悪だった。体さえ動けば、絶対に近づけたくない。あれは、他者を蹂躙することによって自己を確立する人間だ。とにかく良くないものだと思ったので、キャスターは身をよじって少年の腕の中から逃げ出そうとした。
「あんたさ──」
しかし少年は力強く肩を鷲掴みにして、キャスターを押さえ付けた。
「サーヴァントだったり、しないかな」
耳を疑う。そして警戒する。どす黒い目にも納得がいった。
「……へえ」
こいつは──マスターだ。
右手に力を収束させる。ここまで接近していれば、今の弱った魔術でも一撃で殺すことができる。サーヴァントを出されるよりも早く、魔術で少年を殺し、その魂を食らう。
何て幸運。キャスターは口元に微笑を携えて、その手を少年の胸に押し付けた。
「なんて幸運かしら」
「俺もそう思ってた。だからその手はどけてくれないか。正直怖くて死にそうなんだ」
「喋ると痛い目みるわよ」
あとほんの一ミリでも少年が動けば、病風の魔術が開放される。それを真正面から受ければ、いかな剛の者とて灰燼に帰す。
だが少年は
「俺と契約してくれないかな」
思いもよらないことを口にした。
「サーヴァントがほしい。何としても」
少年は真っ直ぐにキャスターを見つめて、言っていた。
キャスターの手は少年の腕に押し付けられたまま。
「マスターじゃ、ないの?」
「俺は魔術師じゃない。だからマスターにはなれなかった。見たところあんたは消えかけてる。助けが必要だろ? 相互扶助だと思って、契約してくれないか」
少年は淡々と語る。嘘をついているようには見えないが、信用するのも馬鹿らしい。だが、マスターが手に入るのならば、人を殺して魂を食らうよりも効率的に魔力が手に入る。少年が魔術回路を持っていればの話ではあるが──。
「魔力は、どうやら持っているようね」
先ほど感じた邪悪な瞳。そこに感じる魔力はなかなかのもの。
「いいわ、契約しましょう」
「いいのか?」
「ええ、まだ消えるには早すぎる。坊や、名前は?」
「遠野志貴」
「志貴ね。私はキャスター、知っての通り七騎のサーヴァントの一騎」
右手の魔力を霧散させる。
「魔術師の名に於いて告げる。汝、我が主として契約せんことをここに」
「ん、ああ。よろしく頼む」
interlude out
キャスターの言葉に頷いた瞬間に、体が錘でも取り付けられたように重くなった。代わりに、青ざめ、土気色の肌を晒していたキャスターはすっかり元気になり、志貴の後ろを上機嫌で着いて来る。着いて来るといってもなんとなくそんな気がするだけで、実際は霊体になっているらしく、見えない。見えないが見えないゆえに彼女の持つ独特の雰囲気が伝わってくる。一言でいうと危険な感じ。女狐とか、魔女とかそんな言葉がひどく似合う、彼女のローブのように紫色の何か。
「なぁ、なんでキャスターは倒れてたんだ?」
「前のマスターを殺したからよ。サーヴァントはマスターとの契約を切ってしまうと、大抵二三時間で消えてしまうの。だから私はあそこで倒れていた」
キャスターはあっさりと言う。不安もまたあっさりと的中した。
「マスターを殺したって、なんで」
彼女がクスクスと妖艶に笑っているような錯覚を覚えた。彼女に晒している背中がムズ痒くなる。一瞬後に魔術の餌食になっているかもしれない恐怖。不安になって振り向くが、彼女の姿はない。むっと顔をしかめて歩き出す。
「相応しくなかったから」
「いやに簡単だな」
「もちろんよ」
悪びれた様子などどこにもない。寧ろ当然だとでも言わんばかりの物言い。頭を抱えたい衝動を堪えて、ビニール傘を強く握った。
「俺のことも殺すのか?」
「坊や次第ね」
志貴は人知れずため息を吐く。運がいいと思っていたが、どうやら外れクジだったかもしれないと嘆息する。昨日の今日で、いや、今日の今日とでも言うべきか。妹の話を聞いた日の夜に、使い魔を手に入れられた。でもどうやらそいつは欠陥品だ。使い魔のくせに主を殺すなんて、欠陥品以外のなにものでもない。
「使い魔なら使い魔らしくしてないといけないんじゃないか?」
尤もな疑問を口にする。使い魔とはマスターによって使役されるもの。マスターがなければ存在せず、唯一絶対がマスターであるが故に、マスターには歯向かわない。歯向かえば待つのは自身の消滅だからだ。そこまで思考できる自我が与えられている使い魔となれば、相当な力を持った魔術師の作品ということになるが、自我があればあるほどに使い魔は大人しくなる。わざわざ反抗的な自我を与える魔術師は少ないからだ。そういった意味で、このキャスターという使い魔は欠落している。
と、志貴は知人からの知識を思い起こしながら考察してみた。使い魔とは絶対服従のものだ。だがキャスターには過剰なほどの反骨精神がある。キャスターの元マスター──つまり創造主というのは、よっぽどな好きものだったのだろうか。
「坊や? 何か勘違いをしているようね」
「何かおかしなこと言ったかな」
「言ったわ。宿に着いたら説明するから、今は早く歩いてちょうだい」
言われた途端に体が鉛のようになる。キャスターがやってるんじゃないだろうなと、強ちはずれとも言えない愚痴を飲み込んで、志貴は歩いた。
志貴が泊まっているのはラブホテルやビジネスホテルに混じって乱立するホテルの一つだ。見栄えが良いわけでも、これといった売りがあるわけでもない。特に面白おかしいものがある街でもなかったが、ホテルだけは探すといくらでもあった。
ベッドを使いたいというキャスターの申し出で、フロントで二人部屋にしてくれと頼んできた。金は有り余ってる。秋葉が殺されると貧乏生活に落ちるだろうが、それでも今は金がある。一人で二人部屋を使うという客にフロント係は首を傾げたが、快く応じてくれた。
キャスターのローブはどういうわけか部屋に着く頃にはもう乾いていた。バスルームに置いてあったタオルで体を拭いて着替える。
「奇麗な部屋ね」
新しい部屋はさすがに広い。キャスターは部屋のあちこちを見てしげしげと呟いた。気に入ってくれたようでなによりだと顔をほころばせる。
「安いけど」
「そう、気に入ったわ。でもここで神殿は作れ──あ、色々説明がいるのよね、アナタ」
ベッドに腰を落ち着けて、キャスターは志貴が淹れた紅茶を啜る。ローブは外さないが、仕草は様になっていた。
「あぁ、頼む」
「どこまで知ってるの?
「聖杯戦争ってのは、魔術師がそれぞれの使い魔を戦わせて殺しあう。勝者の望みが叶うって事までかな」
前情報はそれだけだ。藁にも縋る思いで放浪していたから、それだけの情報でも僥倖。奇跡に近い。その『藁』の内容も奇跡のようなものだったが、キャスターの体が半透明になっていく様を見た今では、現実味を帯びている。聖杯をめぐるなどと、彼のアーサー王伝説の登場人物にでもなったような気分だった。
「それだけ?」
キャスターは不満顔だ。口しか見えないから本当に不満顔かどうかはわからないが、不満そうな声色だからそう思う。志貴は頷いて見せた。
「参ったわ。幸運かと思ったけど、これでは元の木阿弥。私たち、きっとすぐに殺される」
物騒だとは思わなかった。現にキャスターは死に掛けていたし、一歩間違えれば即死という状況を知らないわけでもない。何より殺し殺されるという前提を理解して、この戦争に参加する気になった。ただ、情報が少なすぎる。今は少しでも聖杯戦争のことを知って、生き残ることを考えたい。できれば殺し無しで。
「説明、頼む」
キャスターはええと頷いて、紅茶を口に含んだ。
「まず、厳密に言うとサーヴァントは使い魔とは違うわ。英霊って知っているかしら?」
「英霊っていうと、戦死者なんかをそういう風に言うんじゃないか? あと、魔術的に言えば霊長の抑止力になりうる存在……とか聞いたことがある」
「この場合の英霊は後者。霊長云々っていうのはこの際省くけど、その通り、大まかに言えば抑止力として世界に使役されるのが英霊。それは過去の英雄や、人に信仰される想像上の人物などがあたる。そして、聖杯戦争に召喚される使い魔はその英霊」
「魔術師固有の使い魔じゃないのか?」
「違うわ。セイバー、ランサー、アーチャー、ライダー、キャスター、アサシン、バーサーカーの七つのクラスに該当する英霊を喚び出して戦わせる。それが聖杯戦争」
「つまり、歴史上の偉人だとかが召喚される……ってキャスターも英霊なのか?」
そうよとキャスターは頷いて、フッと勝ち誇ったように口元をゆがめた。
「なんて、名前なんだ」
恐る恐る訊ねる。メデューサなどと言われた日には納得してしまいそうだったが、そもそもそういった所謂悪に属するものは英霊にはならないはずだ。だが、キャスターからはどうも邪悪なものを感じる。
「サーヴァントの本名のことを、真名と言うの。でも、マスターは自分のサーヴァントをクラス名で呼ぶ。何故だかわかる?」
キャスターは志貴の質問を無視して続ける。釈然としない思いで首を振ると、キャスターは顔と肩を覆っていたローブを緩慢な動作で脱いだ。
「え……」
「サーヴァントとして使役される英霊は、皆が皆歴史に名を残す英雄。本名が露見してしまえば、弱点も簡単に見つけ出すことができる。有名な英霊なら有名なほどに」
キャスターの言葉が耳に入らないほどに見とれていた。思わず腰を浮かせていた。驚いたなどという言葉では表現できない衝撃が、志貴を襲った。
ローブの下から現れたのは滑らかな艶を持った、青み掛かった銀髪。瞳もそれに準じた薄めのラベンダーヒスイ。あれだけ辛辣な言葉を吐いたとは思えぬほど、小さく噤まれた口。それら顔の造形は一々が美しく、これまでの美人の常識を覆しかねない魅力を持っていた。
志貴が息を呑んだのをどういう意味でとったのか、キャスターは顎を引いて、やや俯き加減でスッと息を吸った。
「私はメディア。女王……いえ、魔女と言ったほうが、解りやすいかしら」
ぼうとする頭を切り替えて、脳内の引き出しを片っ端から開けていく。魔女メディア。それはすぐに見つかった。
「もしかして、アルゴー船の」
ギリシャ神話に登場する冷血非道な裏切りの魔女。女神アフロディーテによって人生を狂わされた、不幸な女王。
「そう。私は裏切りの魔女。だから人間如きに縛られはしない──」
キャスターは自嘲するように微笑んで、ローブを被りなおす。
「それでも、坊やは契約し続ける? いつ裏切るともわからないわたしと」
得心がいった気分だった。完全に、それこそ根本から自分は聖杯戦争を理解できていなかった。魔女メディア。あまりにも有名だ。何しろ神話の登場人物なのだから。それを召喚し、使役する。まるで天邪鬼だ。彼女は完全に格上の存在。それを、人間如きが令せるわけがない。だからこそ納得した。彼女がマスターを不甲斐無いとして殺したのは、決してありえないことではないと。
「随分スケールの大きい話だったんだな」
「怖気づいた?」
「そりゃ、もちろん。目の前にいるのがあのメディアだなんて、死ぬまで自慢できる」
「今契約を破棄するなら、命は助けるわよ。あなたのおかげで魔力の補充ができた。いわば恩人だものね」
キャスターの提案は魅力的だ。できることなら投げ出したい。キャスターのサーヴァントは魔女メディア。ならば他のサーヴァントは一体どんな人物が出てくるのか。考えるだけでも怖気が走る。だが──
「俺にも引けない理由がある。そのためなら魔女だろうと悪魔だろうと契約するさ」
右手を差し出して、宣言する。キャスターは差し出された手をじっと見て、不服そうに口を窄めた。
「魔女とは、呼ばないでくれる?」
意外な申し出に、思わず噴出しそうになる。ああなんだ、こんな顔もできるのか。だが向けられた気は本物で、きっと次に魔女と呼べば消し炭になること請け合い。
「なら、俺のことは志貴って呼んでくれ。坊やは無しだ」
キャスターは神妙な顔で頷くと、
「ええ、解ったわ志貴。よろしく」
力強く握手を交わした。
柳洞一成はキリッと引き締まった顔に、細身の眼鏡を掛けた知的な印象の少年だ。通っている学園の生徒会長を勤める彼の自宅は円蔵山の中腹に門を構える柳洞寺の敷地内にある。敷地内と言っても、円蔵山の殆どを所有する柳洞寺は五、十からなる修行僧が寝食を共にする古式ゆかしい寺だ。
柳洞一成の一日は本堂の清掃に始まり、学校帰りに境内の清掃をして終わる。無論他の修行僧たちもやるのだが、次期住職として決定している一成にとっては当然の仕事であった。
級友に雑事を押し付けてしまった自分に嘆息しながら、一成は息一つ乱さずに石段をゆったりとした歩調で上っていく。かれこれ十五年以上も上り下りを繰り返した石段に、今更恐れおののくことなどない。背筋をぴんと伸ばした姿は現代人の鑑とでも言うべき佇まいであり、学園の生徒会長を仰せつかる身としてはまさしく適任であった。
「む──」
足を踏みあげようとして、一成が唸る。上げた足の置き場所が、どこにもない。
「階段が粉微塵……隕石でも落ちたか」
冗談とも本気ともつかない様子で呟く。階段は坂になっていた。石段としてそこに在ったらしいモノは、いまや石ころと化してそこかしこに散らばっている。
「よくないな。親父にでも訊ねるとしよう」
瓦礫の山を迂回して、辛うじて石段の態を為している場所を歩く。
石段を登りきれば、そこはもう柳洞寺の境内だ。真正面に構える堂。今朝方まで続いた雨に濡れた屋根が、月光を浴びて鈍い光沢を放っている。これは風流なものだと頷いて、あたりを見回してみた。敷き詰められた砂利の上に、見知った影と見知らぬ影を二つ見つける。
「宗一郎……?」
「柳洞か」
眼鏡を光らせたのは柳洞一成が通う穂群原学園の教師であり、柳洞寺の居候でもある葛木宗一郎。だが他の二人にはまるで見覚えがなかった。
一人は一成とそう年齢の変わらない眼鏡の少年で、もう一人は全身を深い色のローブで覆った外国人。異様なのはその見知らぬ二人の格好だった。女性は力無く倒れている。少年もところどころ千切れた服で、同じように仰臥していた。
師と慕う葛木宗一郎が何某か事件を引き起こしたとは考えられず、一成は困惑の色が広まった瞳で宗一郎を見つめる。だが、宗一郎はといえばいたって平然と腕を組み、、
「弟だ」
代わりに一成の眼鏡がずり落ちた。
朝食はビュッフェスタイルだった。ロビー奥のフロアに、所狭しと並べられた四人がけのテーブル。未遠川から日本海への河口を覗く風景は、このホテルの一応の売りであるらしかった。風景と言っても乱立するビル郡に阻まれて、望めるのはほんの欠片に過ぎない。パノラマ展望の大窓を設置したのは、失敗と言える。
ビジネスホテルに混じる観光ホテルは一種異様だったが、冬木臨海公園の水族館が目当てなのか、外れのようで意外と人が居る。
「キャスターは、食わないのか?」
志貴はトマトが絶妙な風味をかもし出すパエリアを頬張りながら、背後で控えている英霊に訊ねる。安ホテルと思って軽視していたが、なかなかどうして美味である。
「サーヴァントは食事を必要としません。それに、どこにマスターが控えているとも限らない。姿を見せるのはよくないわ」
道理だった。どこからともなく聞こえてくる声に頷いて、志貴はミルクでパエリアを流し込む。遠野の家に帰って身につけた作法は半年で忘れた。何より、家族連れで賑わうホテルのバイキングで、作法など気にするだけ空しい。
「見てたらお腹空かないか?」
端から見れば独り言でも、飯時の喧騒は小さな呟き程度を包み隠してくれる。加えて、四方に設置されたスピーカーから流れる場違いに気取ったジャズも、その役目を買って出ていた。
「空腹を感じることは無いわ」
キャスターは落ち着いた口調で言う。空腹を感じないというのは常に満腹ということなのか。それともそういった器官が存在しないのか。どちらにしても、それはそれで寂しいだろうなと思った志貴は、残っていたパエリアを一口で平らげて席を立った。
「もういいの?」
「元々朝はそんなに食べないから」
「今はもう昼よ」
いわれて、確認するようにロビーに設置された柱時計を見た。一時二十五分。十四時間もの睡眠でも、重苦しい倦怠感は残っていた。契約の代償だ、すぐに慣れるというキャスターの言葉を思い出す。
「頭が割れそうだ」
「慣れるわ。そのうち」
売店で購入した冬木市の地図を広げる。かわいらしいカジキのマスコットが説明してくれるこれは観光用のもの。地図というよりはパンフレットに近いそれを見つめるのはキャスターだ。部屋に戻って紅茶で一服つけたキャスターは、床にぺたんと座ってそれを眺めている。
「役に立たないわ、これ」
地図から視線を外して、キャスターがつまらなそうに言う。地図に記されているのは中央公園や臨海公園などの娯楽施設のみ。冬木教会も名を連ねてはいるが、ろくな説明も無く「冬木教会」となっているだけ。キャスターの神殿探しに役に立たないのは当然だった。
「それしか無いって言うんだ。外に買いに行ってもいいけど、だったら自分の足で歩いた方がいいだろ」
「そうね。日が落ちる前に一度外に出ましょう。そもそも、自分で見なければわからないものね」
キャスターの声は柔らかだ。
「ああそれと、一箇所だけ、気になったところがあるわ」
「どこ?」
「柳洞寺……と言ったかしら。ここよ」
キャスターは地図の一点を指した。冬木教会と丁度正反対、深山町のはずれのそこは柳洞寺と示されていた。
「前のマスターと街を歩いたときに一度見たの。結界が張ってあって、侵入は困難。けれど、中で神殿さえ築くことができれば、私でも他のサーヴァントと渡り合えるわ」
前のマスターと口にしたキャスターの声はどこか上ずっていた。確認しようと窺うが、ローブの奥の真意は測れない。刹那、裏切りの魔女というフレーズが不意に脳裏を過ぎり、慌ててそれを振り払う。
「どうかしたの?」
突然首を振り出した志貴を、キャスターが不思議そうに窺う。
「いや、なんでもない。じゃあ、これからそこに行こう」
取り繕った言葉は不明瞭に含んだような声色で放たれる。変わらず訝しむキャスターから視線を外して、いそいそと立ち上がる。
「おかしな坊やね」
霊体化したキャスターの忍び笑いを背後に聞いた。
晴れたのだから歩いていくという考えは、早々に改めた。地図の縮尺は適当だったのか、未遠川の川幅から、一時間も歩けばたどり着けると考えたのが馬鹿らしくなるくらい、それは果てしない道のりだった。魔力の探知は全てキャスターに任せているため、歩くことだけを考えて居ればいいのだが、そもそもキャスターとの契約によって、体のどこかにあったらしい魔力は根こそぎに奪われている。最早歩くのも困難なほどに疲弊した志貴は、へとへとになった体をバス停のベンチに預けて休んでいた。
「……情けないわね」
「昨日も言ったろ。キャスターに吸い取られてるせいだ」
「もう契約は破棄できないわよ」
キャスターの苦い声が聞こえる。苦笑しているのか、どこかしら自嘲を混じらせているが、自分への同情もそれに篭められているのだと気付いた志貴は、バスの時刻表を見るフリをしながら背後を窺った。そうしたところでキャスターの姿は無いのだが、そうしなければならないように感じていた。
「俺にも目的があるんだ。これも昨日言ったと思うけど?」
「聞いてない」
「そうだったっけ」
我ながら気の無い返事だとため息を一つ。キャスターの姿を諦めて、時刻表に素早く目を走らせる。四時十五分の表示を確認した志貴は「もうすぐ来る」と意味無くキャスターに言って、腰を下ろした。
「目的って?」
見計らったように、キャスターが尋ねた。意外としつこい性格なのかという疑問を質問にする前に嚥下して、ほうとため息を吐いた。
「妹を助けたい」
魂が抜け落ちるようなため息を吐いた後、浮かべたのは極端な渋面だった。だが目は野心に燃えるような強いものだった。それに多少なりとも気圧されたのか、キャスターもまた小さなため息を吐いてみせた。
「病気……?」
「似たようなもの、かな」
それ以上聞くなの思いを背中に滲ませると、何か言いたげな気配を残してキャスターは喋らなくなった。
視界の片隅に路線バスの車影をみとめて志貴は立ち上がった。小さなブレーキ音を響かせながら停車したバスに乗り込み、手近な座席に座る。平日の午後のバスに人影は疎らだ。疲れた顔の女性と、老人が一人。
緩やかに走り出したバスに揺られながら、安堵のため息を零した志貴は、悲鳴を上げる頭を窓枠に載せて、流れる風景をぼんやりと眺める。
深山町はその殆どが住宅地になっているようで、見渡す限りに住居が立ち並んでいる。今風の建物もあれば、夏場に小学生が忍び込んできそうな古めかしい日本家屋まで。しかし何より目を惹くのは左前方──円蔵山を背に構える、なだらかな丘陵に立ち並んだ洋館の数々だった。
「立派なもんだ」
知らず口にして、それら一々に我が家の場違いな佇まいを思い起こした志貴は、努めて遠くを望まないようにした。ちょっとしたことで屋敷を思い出す自分の卑小さに辟易しながら、しかしのんびりとしていられないことを思い出すと、言いようのない焦燥感が体中を這いまわした。それらは痒みとなって全身を覆っていく。掻こうとすれば逃げてゆき、諦めれば寄ってくる。そんないたちごっこ。ところ構わず肉が千切れるまで掻き毟りたい衝動、叫びだしてしまいたい衝動を堪えて、目を閉じた。
「志貴」
というキャスターの涼やかな声で目を覚ます。ゆっくり走る車窓から覗くあたりの気配は一変していた。鬱蒼と茂る木々が道路の横に林立していて、住宅地の影が薄れている。それに、空が真っ暗だった。
「もう着くわ」
キャスターの呟きと同時に、到着を告げるアナウンスが入った。
「ありがとう」とキャスターに小声で礼を言って、降車を告げるためにボタンを押す。甲高い音で多少意識が覚醒するのを感じて、車内を見回す。人影は無かった。
「あれ……今何時だ……」
「午後五時というところね」
体が前に倒れる。バスがブレーキをかけたのだった。代金を払い、バスを降りる。目の前に広がっているのは山。円蔵山。
The shrine of a moonlight night.2
一応の舗装はされている坂をしばらく上ると、やがてめまいがするほどに長い石階段に出くわした。胸のあたりがずんと重くなる感覚を味わいながら、志貴は背後で実体化したキャスターに窺いたてる視線を送った。
「素晴らしいわね。私たちには鬼門よ、これは」
しかしキャスターはうっとりと遥か頭上、石段の果てを見つめている。鬼門を前にして何がおかしいんだろう、という疑問は口にせず、何度かため息を吐くのみ。次の言葉は予想がついている。
「さ、行きましょう」
「ああ、わかってる。わかってるよ」
一体どこまで続いているのか。果ての見えない石段を見据え、志貴は投げやりに呟いた。返ってきたのは、目を丸くしたキャスターの「何を怒っているの?」という言葉。
「山道を歩いた挙句にこんな階段が出てきたら誰だって意気消沈するさ」
もう一度嘆息して、胸のうちに靄った底知れない重みを噛み締めた志貴は、石段に足をかけると、引き摺るような足取りで歩き始める。
「結界、と言えばわかりやすいかしら」
長い石段を前にしても、まるで萎えた気配のないキャスターが、不意に零した。
「この柳洞寺にはそういったものが張られている。所謂魔を遮断する結界が。魔が侵入するには、この石段を登って真正面から入らなければならない。けれど、これほど霊的に優れた寺ならば、正面からの魔を迎え撃つこともできるでしょう」
「何の話かな」
「私たちにも、その結界は有効だという話よ。けれど、中に入ってさえしまえば、外界とは隔離された一つの世界がある。これ以上無い好条件ね」
キャスターは歩調を変えず、立ち止まった志貴を追い抜いて歩いていく。それを眺めて、志貴は得心いった顔で何度か頷いた。
キャスターは魔術師のサーヴァントだ。魔術による攻撃は確かに強力だが、サーヴァントには対魔術という能力を持つものも居る。だから戦闘力で劣るキャスターは、この寺に本拠地を構え、正面からやってくる敵に罠を張ろうとしているのだ。
「うまくいくのか? そもそも、今時の寺ってのは人を泊めてくれたりしないんだ」
「そのときは私の言うことを聞いてくれるようにするだけよ」
「おい、物騒だな。嫌だぞ、そんなのは」
不穏な言葉を残して、キャスターは苦もなく階段を上がっていく。キャスターの言葉が気に入らなかったのか、こめかみがチリチリと痛んだ。どこかで味わったことのある感覚だなと意識下を模索し、やがて答えを得るのと、キャスターが振り向くのは同時だった。
「しくじったわ、マスター」
「……みたいだ」
キャスターは青ざめた顔でそう言って、右手に魔力の滾りを迸らせる。大気をざわめかせ、
「──」
何か、聞き取れない言語で叫んだ。
それがトリガーだった。キャスターの腕から青白い閃光が薄闇を切り裂いて跳ぶ。それは遥か頭上で、石段を粉微塵に砕き濛々と白煙を立ち上らせた。
「この魔力量、キャスターか」
瞬間、何か異質なものが──スイッチのようなものが、音を立ててはまったような感覚を得る。キャスターに魔力を携えた掌を押し付けられたときの感覚に似たそれ。つまり
「サーヴァント……?」
爆煙の中から現れたのは異様な風貌の男だった。
猛獣を思わせるしなやかな筋肉を、体に張り付くボディスーツのような蒼い服で浮き彫りにし、深紅に輝く双眸は、粗野で豪胆な、やはり獣を想起させるもの。何よりも、針の筵に立たされているのかと思うほど、鋭く刺々しい殺気。
「ご名答」
胡乱なところなど何一つない、そいつはただ殺すために存在し、今まさにその牙を剥こうとしている。殺気から何から隠さず、表に出したまま。ただ最初から敵と味方としてのみ存在する彼我の関係を、誰よりもよく理解している目。ゆえに、その目は闘争を求め、闊達に過ぎるほど堂々とそこに立ち塞がっている。
尊大で仰々しい佇まいと、自分を灰すら残さず消し去りかねない魔力の波を真正面から受け止める化け物染みた体力。それを前にして、志貴が萎縮しない理由はなかった。
その手に握られた一本の武器は槍だった。いたってシンプルなそれが、刃物を好む志貴にはたまらなく魅力的に見え、それは即ち恐るべき業物であることの証明でもあった。
「……おい」
「逃げ切れるかしらね」
キャスターは諦めたように軽妙な口調で言う。それで絶体絶命を理解した志貴は、懐から鉄塊を取り出した。十センチ強の長方形。
「志貴? 何のまねですか」
「いや、何もないよりはマシかと思って」
パチンと、鉄塊が音を立てる。長方形はナイフと化し、銀光を煌めかせる。
「勇ましいねえ小僧」
槍頭から槍把に至るまでの全てを紅蓮に染め上げた槍は、闇に紛れる蒼とのコントラストで殊更異様に見え、月光に照らされるとひどく妖艶に輝いてみせる。背筋を怖気にも似た高揚感が駆け抜けて、志貴は我知らず唇を噛み締めた。
「出逢ったからには一戦交えたいんだが。どうだ?」
無論、そこに拒否権は存在しなかった。
──どうしたもんか。
ランサーのサーヴァントは前髪をかき上げてキャスターとそのマスターをにらみつけた。
待ち伏せていたわけではない。柳洞寺の様子を調べろという主の言葉に従ったのみで、向こうから火の中に飛び込んできたのだった。
本来喜ぶべき戦いのチャンスだった。しかし高揚感など覚えるはずもない。相対するのは魔術も知らないであろう素人で、構えもまた凡庸なもの。武器が短刀ではあるが、そこそこの業物であること以外に、意外性もなければ力もない。何より戦闘において上を取った者の有利は、互いの技術差をひっくり返すほどだが、惜しくも短刀を構える少年はランサーの遥か下に位置取っていた。
警戒すべきは黒いローブを纏ったキャスターのサーヴァントのみであると判断を下す。先ほどの魔術。流れ矢の加護では防ぎようのない、恐るべき魔力量を誇った一撃だった。
「逃がすつもりはないかしら」
そのキャスターは諦めたように頭を振って、一応の確認のつもりか訊ねた。
ランサーは口元を歪めてくつくつと笑い、右手の槍をキャスターに向けて構える。
「当然だ」
それを合図にして、ランサーは石段を思い切り蹴り付ける。空に舞い上がった体を、慣性に任せてマスター目掛けて飛び掛る。月を背景に逆行を利用し姿を消すと、次の瞬間には志貴の歯を食いしばる渋面が眼前に迫っていた。
「……オレの前に立つ胆力は褒めてやるよ。だが役不足だ。どきな、坊主」
槍を振りかぶると、慌てて横っ飛びに避けたマスターを通り過ぎ、その背後で右手を掲げたキャスターに槍を突き出す。大気さえ穿つ刺突は寸分違わずキャスターの心臓を目掛けて伸び、赤い迅雷が閃光する刹那。ランサーの槍はキャスターに届く寸前何かに弾かれる。防御魔術と当たりをつけた瞬間にはキャスターの指がパチンと音を立て、その手から膨大な魔力が噴き出した。深紫色の魔力は目が眩むほどに発光しながら、肉薄したランサーを襲う。
咄嗟に体を捻ると、魔力の弾丸は右わき腹を掠めて石段を粉微塵に砕く。背面跳びの要領で距離を置く。しかし息をつく暇など無かった。着地と同時に背後から襲ってきたのは、つい数秒前に退けた志貴。小さな短刀を、連続して突き出す様は存外に堂に入っていて、思わず「ほう」と唸ってしまう。だがそれはあくまで素人の技。背を見せたままで回避すると、槍把で志貴の腹を打ち、今度は姿勢を低くして階段を駆け下りる。直線距離にして十メートルほどの距離を、瞬きする間に詰めると、眼前にはキャスターの右手があった。
まともに受けるのは得策ではない。
その手が魔力を放つ瞬間に飛び上がり、キャスターを飛び越えるとそのまま振り向く。が、振り向こうとした体は、まるでヘドロに絡め取られたように微動だにしなかった。
「圧迫(アトラス)」
キャスターの声に反応するように、ゲル状の皮膜に覆われた体への圧力が強くなる。高くは無いものの対魔力を有する体が、張付けにされたように動かない。四肢を折らんばかりに締め付けるそれは間違いなく最高位の魔術。喩えるのなら水牢。
「ッアァ!」
マスターからの供給とオドの開放でキャスターの魔術を解呪すべく叫ぶ。果たして重圧が僅かに薄れたところで、ランサーは今度こそ振り向き、そして驚愕を上塗りするはめになる。
無言で間合いを詰めたキャスターが、その手のひらをランサーの額に押し付けていた。収束する紅色の魔力。驚きは焦りへと転化し、更に内部で化学反応を起こしたそれは激しい高揚感を呼ぶ。
──最も弱いサーヴァント……?
敵と認識してなお、そういった偏見を持ち挑んでいた自分が居る。上段に位置するという最良の条件を捨て、己の間合いを捨ててまで戦うという暴挙。より危険を味わおうと、無意識に創り上げたハンディキャップ。だが、考えを改めなければいけない。こいつは、このキャスターは──
「ッハ」
──恐ろしく、強い。
槍把を翻し地面を穿つ。無数に砕けた石ころが舞い上がる。同時に地を蹴り、石礫の牽制を得ながら後退する。魔術光弾がこめかみを掠めるのをゆっくりと流れる視界の中で見据え、四肢をついて地面に降りる。離れた距離は約10段。その気になれば一歩で詰められよう。だがそれも、弓矢隊の一斉掃射もかくやというキャスターの攻撃が無ければの話。
「耐えなさい、志貴!」
槍を構えなおした瞬間には、キャスターの形振り構わない怒声が飛んだ。矢継ぎ早に繰り出される高位魔術の乱れ撃ち。紫色の攻撃魔術も、ランサーの槍を防いだ防御魔術も、ランサーを捕らえた捕縛魔術も、全てが全てあわや魔法という威力の数々。その過負荷に、見たところ魔術の一つも使えないらしいマスターの体は悲鳴を上げているのだろう。
無論、ここで手を休める愚を、あのキャスターが犯すとも思えない。手を休めれば、ランサーの容赦ない一撃が命を刺し抜く。
マスターが倒れるのが先か、キャスターの魔力切れが先か、はたまたランサーが魔術の前に屈するのが先か。
滅多矢鱈と打ち出される魔術を、人間離れした動体視力と身体能力で避けつつ、ランサーはじわじわと一段ずつ階段を上がっていく。マスターの姿が見えないことに注意しながら、サーヴァント最速の名のまま、縦横無尽に飛び回る。
「まるで蚊トンボね」
焦れたキャスターの息はあがっている。たった一言で高位魔術を放てるとはいえ、魔力には限りがある。境内には多少のマナもあるだろうが、この石段ではマナの供給は望めない。多く見積もっても残り十発程度。この猛攻を凌ぎきれば、ランサーの勝利は揺るぎ無いものになる。
思考する間にも強力な光弾がランサーを襲う。だが確実に一発一発を避け、キャスターの魔力は激減していく。そしてとうとう、キャスターの体から輝きが失われる。
「勝負あった……というところか。なかなかに楽しめた」
荒い息を吐くキャスターを睨み上げ、階段を上る。キャスターは懐から怪しげな形の刃物を抜き、ランサーに突きつけたまま立ち尽くしている。その短刀も魔術的に優れたものではあるが、万策尽き果てた態で佇むキャスターを見れば、それが起死回生に足る代物とは思えない。
「まだ、負けてない」
「ハ。臭い女かと思ったが、気に入った。つくづく惜しいが……これも仕事だ。殺せる相手を見逃せるほど余裕ぶってる場合でもない。ここで終わってもらうぞ、キャスター」
気丈ににらみ続けるキャスターを深紅の槍の射程に捕らえ、ランサーは腰を落とした格好で構える。肩で息をするような手合いを相手取れば、万に一つの敗北もありえない。構えたまましばらくキャスターを見据えていたランサーは、小さな物音を聞いて振り向く。
「いい根性してやがる」
「逃げなさい……」
ナイフを構えたキャスターのマスターが、そこには立っている。逃げるほどの根性無しがマスターになるとは思えないが、サーヴァント相手にここまで接近する間抜けなマスターがいるとも思えない。ランサーは湧き上がるおかしさを堪え、努めて鋭い眼光を遠野志貴に向けた。
「死ぬか?」
「キャスター!」
言って、突き出した槍は背後に向けられたものだった。鮮血が舞いあがり、音もなく胸を刺し穿たれたキャスターが倒れる瞬間、憤怒の形相を浮かべた遠野志貴がナイフを突き出した。
理解に苦しむ。まるで漫画だとごちて、志貴はふらつく体を雑木林に紛れ込ませた。夕闇を切り裂く紫色の光弾。精々軌跡を追うので精一杯のそれを、信じられない足捌きで縦横無尽に跳びまわって避けるランサーのサーヴァント。それはまるっきり異次元の闘いであり、志貴に立ち入る隙などあるはずもなかった。
二体のサーヴァントを見ていると朧げに浮かぶイメージ。それは、恐らくキャスターが言っていたサーヴァントの性能。直感にも似た刹那的なイメージではあるが、キャスターはランサーを相手に大きく後れを取っているように思えた。キャスターがランサーを上回るのは魔力を放った瞬間のみ。脳内に閃光のようなものが爆ぜ、キャスターの薄くにごった灰色のイメージが、瞬間的に赤く染まる。対してランサーは、常時青白い閃光に包まれている。それは手を出してはいけない象徴であり、視ているだけで怖気の走る異様な力。
「これが、サーヴァント」
これほどの闘いは見たことが無い。ここまで大々的な、いかにも魔術ですといった具合の攻撃を見るのも初めてなら、ランサーの機動力は志貴の知るエクスキューターを遥かに上回っていた。
「出鱈目だ」
呟いて、雑木林の急勾配を下る。キャスターの魔術一発で、志貴の体からは何かがごっそりと抜け落ちていく。マシンガンのように乱射されている魔力は、とっくに志貴を昏倒に追いやっても不思議ではないのだが、志貴にも常人とは異なる点がいくつもあった。そもそも、志貴の生命力は約二人分である。
再び石段に出る。見上げれば、頽れたキャスターに、ランサーが槍を突きつけている。サーヴァント中最弱。キャスターはそう言った。その状況を覆すために、こうして柳洞寺に赴いた。だがランサーに見つかってしまうという失態。キャスターは既に聖杯戦争を絶望視しただろう。けれど、キャスターは素晴らしい。自分と彼女の組み合わせは、恐らく何者にも勝る。
体は綿毛のようだった。力は通常の何倍もあった。恐らく肉体は鋼と化している。逃がすために掛けた魔術なのだろう。志貴はキャスターに、自分の能力を語っていない。人間の領域を超えた、馬鹿げた、身に余る魔眼を語っていない。
それは、人を殺す覚悟がまだ決まっていなかったから。だが、サーヴァントという連中を見れば、それが青二才の戯言だと知れた。殺さずに切り抜けられるほど、甘い世界ではない。仮にも戦争の名を戴くこの生き残り合戦に、生存の二文字は勝利以外ありえない。そう、実感させるほど、二人の戦いは常軌を逸していた。ならば、志貴も覚悟を決めるときだった。何のために屋敷を飛び出してきたのか。己を殺す覚悟くらいはあったはず。ならば、希望のために修羅にでも成れ。
だが、魔眼だけではサーヴァントには敵わない。それは、最初の突進で身に刻みこまれた。横っ飛びでかわしたはずが、翻った槍頭に左腕を切り裂かれている。身体能力に絶望的なまでの差がある。だが、キャスターの魔術で、志貴の体は格段にレベルアップしている。この体と魔眼があれば、或いはサーヴァントと対等に戦い得るかもしれない。
志貴は眼鏡を外し、懐にしまう。今まさにキャスターを貫こうとしているランサーの背後に忍び寄り、頭痛に耐えながら、その背中を直死の魔眼で視た。
「いい根性してやがる」
振り向いたランサーの眼光に、思わず立ち竦む。紅蓮に燃える瞳とは裏腹な凍て付くような殺気。それをじっと見返して、奥のキャスターを窺った。
「逃げなさい……」
ごめんなさいと聞こえたのは、恐らく錯覚ではない。不甲斐無い自分を嘲っているのだろう。だがそういうわけにはいかない。
役目を終えようとしていたキャスターを無理に連れ帰ったのは志貴だった。ならば、志貴が謝ることこそあれ、キャスターに謝られる筋合いは無い。元よりダメで元々。捨てた命でもある。その自分の夢の肩代わりをしてくれるという彼女。ここまでくれば一蓮托生だとばかりに腰を落とした。
それを宣戦布告と取ったのか、露骨にランサーの殺気が燃え上がる。
「死ぬか?」
絶対零度の眼差しは瞬時に地獄の業火の如き火力で志貴を焼く。そして目にも留まらぬ速さで飛んだ槍は、
「キャスター!」
キャスターの胸を抉っていた。
赤い、奇麗な鮮血が吹き上がる。月明かりを浴びるそれがランサーの背を汚し、飛沫のいくつかが志貴の顔に音を立てて飛んだ瞬間、脳と脊髄でスイッチが入るのを感じる。風を受けるだけでも痛みを覚えそうなほど神経がむき出しになり、五感が鋭敏化する。
気付けば、槍を相手どってナイフを振るうという暴挙に出た自分が居て、その結果に双眸を凍りつかせたランサーが居た。
それは言ってみれば奇跡だった。ランサーが返す刀で突きぬいた槍は、凡そ目視できる速度ではなかった。研ぎ澄まされた脳が幼い頃の拙い研鑽を思い起こさなければ、勘だろうと何だろうと避けることはできなかった。志貴の一閃は容易く槍の一撃に弾かれた。だが、槍が肉を抉るタイミングから、コンマ秒をさらに十分の一秒だけ早く体を倒していた志貴は、シャツと背中の薄皮を貫かれるのみで済んでいた。喩えるのならば、それは横に奔る紅蓮の稲光だった。或いは神の鉄槌だった。
しかし、その力に驕るランサーではない。回避されたのならばと第二第三の刺突を繰り出すべく体を反転させ、しかし青々と輝く志貴の瞳を見て、一瞬だけ全身を凍りつかせたのだった。遠野志貴という人間に与えられた神殺しの魔眼。それに、己の先祖の姿を照らした英霊は、ほんの僅かに力を抜いてしまった。それは奇跡だった。
魔術による身体能力の向上ゆえか。はたまた過剰分泌されたアドレナリンの為せる業か。酷く緩慢な動作で動く自分の体を知覚しながら、静止したランサーの頭部に走っていた黒い線目掛け、ナイフを突き出した。
しかし、ランサーは首を捻ってそれを難なく避ける。渾身の一撃はランサーの首を掠め、ルーン石のピアスに、吸い込まれるようにして突き立てられた。
音も立てずに切断され、落下するピアス。その異常性に気付いた瞬間、ランサーは一息に間合いを開けていた。
地面を転がるピアス。黙ってそれを見つめたランサーは、憤怒の形相で志貴を睨み付けた。
「この勝負……預けるぞ」
泣いているのかと、ランサーの表情を見て思った。しかし、目尻は怒りによって痙攣し、槍を握る拳はわなわなと打ち震えている。ランサーが地面を蹴ろうとした瞬間に、志貴はその表情の意味に気付く。怒りではなく、あれは屈辱に耐える瞳なのだと。
「なんで退くんだ。いや、退いてくれるのは嬉しい。けど、何で退くんだ。おまえなら俺を殺すくらいワケないだろ」
ランサーは踏みとどまり、槍をその手からかき消す。
「マスターの命令ってヤツだ」
おどけたような口調で言うが、まさかそれで隠しているつもりなのか。そう訊ねようとしたが、言う間も無く意識が霧散していくのを感じた志貴は、キャスターは平気だろうかと視線を動かし、階段を上ってくる見知らぬ人影を見た。
──人に見られる。
倒れてはまずいと理性ががなる中、しかし過負荷に晒されて完全に落ちていく意識だけは、どうすることもできなかった。
宗一郎が連れ込んだ二人は暴漢に襲われたとの事だった。円蔵山でそのような凶行に及ぶ、あまつさえ宗一郎の肉親を襲うなど万死に値すると一成は猛ったが、無事だったのだからそれでいいと言われてしまえば、それ以上口を出すことも出来なくなり、手持ち無沙汰に本堂脇の小部屋に向かった。
この部屋には必要なもの一式が揃っている。言って見ればキッチンで、冷蔵庫の中には常に新鮮な野菜や果物、精進料理の具材が所狭しと並べられている。
一成は棚の上に置いてある茶筒を手に取り、シャカシャカと振り、中身を確認する。茶葉の新鮮な匂いに頷いて、それを急須に注ぐ。やかんに火をかけ、腕を組んで待つ。待ちながら、一成はふとした疑問を口にした。
「天涯孤独の身だと言っていたが……」
葛木宗一郎は読めない男ではある。だが、その心根は大樹のように真っ直ぐな、直刃の剣だ。自身に正直に生きる人なのか嘘は言わないし、人を騙そうとしない。或いは自分をひた隠しにする性格なのだろうか。どちらにせよ、既婚者であることを隠すような人ではないのだ。
「恥ずかしがりでもしたのだろうか。いやまて、そんな莫迦な……」
ぶんぶんと頭を振り、生徒会室での何気ない会話なのだからと自身に釘を刺すと、やかんがコポコポと音を立てていることに気付く。急須に湯を注いで、湯飲みを三つと急須を盆に載せる。
「宗一郎の家族ならば、問題は無い……か」
廊下を音も無く歩き、三人が待つ部屋の襖を開ける。部屋の中は変わらない。葛木が座り、敷かれた布団に女性と少年が死んだように眠っている。その光景に吐き気を催しそうになったが堪え、一成は葛木に茶を渡した。
「すまない、柳洞」
葛木が頭を下げる。
「先日は殺人事件があったばかり。どうしてしまったのか、この街は」
噛み締めるような一成の言葉を、葛木は茶を啜りながら黙って聞いている。
「……独りにしてくれ」
やがて一息ついた葛木は、厳粛な口調で言った。配慮が足りなかった自分に気付いた一成は、ペコリとお辞儀をして、再び部屋を後にする。窺った空はとっくに真夜中を迎えていた。
土蔵に差し込む月光を背に、逆光の形で佇む少女。
金髪。碧眼。不釣合いにいかめしい、しかし美しい細工の甲冑。
「問おう──」
その声凛と慎ましく。
「貴方が、私のマスターか」
俺は、息をするのも忘れた。
幕が上がるとキャスターが言った。キャスターは七体目のサーヴァントの出現をしっかりと感知していた。月明かりの夜だ。キャスターと二人、堂の縁側に腰掛けて、美しい三日月を仰ぎ見ていた。キャスターはローブを外さないが、ぼうっと見とれていることがわかった。その姿は、傍目にも美しい。
このところキャスターの夢を良く見た。夢は見ない性質(タチ)なのだが、繋がっているためか、キャスターの夢だけは良く見た。その中で、キャスターはいつも独りでいた。寂しげにぼんやりと空を見上げ、暗い森の中で月を見つめていた。それはきっと、彼女が竜が牽く馬車に乗ってたどり着いた先の光景。そこで彼女は一人ゆっくりとした時間を過ごしていたのだ。
彼女が見上げた先にあるのは、現代では見たことのない、恐ろしくはっきりくっきり浮かび上がる月と、満天の星空だった。木々が風に凪がれて揺れると、キャスターもまたふわふわと揺れる。人生に疲れ切った彼女は、それを揺りかごにして、ただ眠りを待っている。人知れず眠りに着くその日を、空を見上げて待っている。
「……なんか、パッとしないな」
「そんなものよ。何も、よーいどんが全てじゃない。覚悟が決まれば、それでいいの」
キャスターが無表情に返した。瞳は空を見上げたままだ。
「宗一郎さんには礼を言わなきゃな」
「……おかしな人間よ。私は好きになれない。掴み所がなくて」
「まったくその通りだと思うよ。雲みたいな人なんだ。全ては流れのままに。そんな人」
「なぜ、匿うのかしら」
志貴は苦笑した。二日前──目覚めてすぐの宗一郎の言葉を思い出したからだった。
「何を笑っているの」
「いや、同郷の好だってさ」
「同郷なの?」
「さあ」
キャスターが渋い顔をする。
「右も左も変人ばかり」
「キャスター」
志貴はキャスターをじっとり睨んだ。
「人見知りが激しいの、直したほうが──」
「カツッ!」
叫び声がした。
「ここの坊やの声ね。敵じゃないわ」
「行って来てくれ、キャスター」
「何故よ」
「人見知りを直すためには、人と触れ合うのが一番だろ」
The shrine of a moonlight night.3
「──む?」
一成は足を止めた。山門をくぐる手前。確か昨日まではそこに大穴が開いていた。それも一つや二つではない。隕石でも落ちたのかと思う惨状は、しかしどうしたことか奇麗さっぱりなくなっていた。
「久瀬さんが慌ただしかったが。と、これは……」
ぶつくさと呟き、確かに確認した孔の場所を、掌で叩く。何の変哲もない、使い古され苔が生えた石段。だが直したのなら苔が生えているわけもなく。そもそもここまで奇麗に直せるような人間といえば、彼の知る限りでは今しがたまで厄介ごとを頼んでおいた友人くらいのもの。
用事を済ませて学校に帰ってきたころには夕飯時を過ぎていた。友人に頼みごとをしたまま出て行ったので、その確認をしようと校舎に向かう。頼んだ雑事は全て処理されていて、相変わらずの手際に舌を巻いた。
友人──衛宮士郎のそういったテクニックは神がかっているため、あれが何某かおかしな力であることは、そういった方面に僅かながら見識がある一成には解っていた。果たしてそれを口にしないのは、それを隠そうと奔走している友人のためであり、別に彼が陰陽師だろうと混ざり者だろうと一成は一向に構わないのだった。
「近頃はよくない流れが多い。呑まれぬ様に精進精進……」
学校も然り。何かおかしいことが起きようとしている。右掌を顔の前に据えて黙礼をすると、ふむと頷いて砂利を踏みしめる。瞬間、異様な空気に体が凍りついた。まず最初に息を止め、瞳で周囲を窺った。他の部位は動かない。粘膜のようなものがベタベタと体に張り付いているためだ。今朝、学校の校庭に足を踏み入れたときとまったく同じ感覚だった。
それに実体は無い。ただ一成が粘膜と感じているだけで、実際にはそのようなものは無い。体が無意識に嫌がっているのだろう。この先に進むなと体が言っている。
「ええい──喝ッ!」
怒声は天を裂き、木々を震わせる。伊達や酔狂の賜物ではなく、丹田に篭めた力とともに放った言霊は、ある種の呪詛返しとなって一成を守護する。体に張り付いていた違和感が消えたのを確認して、一成はほうと息を吐いた。
「虚像に踊らされていては、帰れないではないか」
制服の裾を払って、一成はごちる。まったく不愉快だ。この原因の一端には、例の客二人も大きく関わっている。
宗一郎の肉親とその使用人だと知ると、一成の父はからからと笑って滞在を二つ返事で許した。その時点では、一成も喜ばしいことだと思っていた。だが、その二人はあまりにも怪しかった。少年は遠野志貴。一成の一つ年上であり、宗一郎の義理の弟だという。志貴とは時折会話をするが、別に怪しいことはない。持ち物もそう不思議なものではなかった。護身用だというナイフ以外に物騒なものは無かったし、彼自身は気さくな印象だ。
だが、と一成は眼鏡を曇らせた。志貴が連れる使用人。無愛想なことこの上ない。寺にやってきてもう二日になるが、一度も口を開いているところを見せていないのだから、その無口も折り紙つきだ。常にローブで顔を隠しているのが気になって志貴にたずねると、極度の人間不信なんだという答えが返ってきた。
「悪い人では無いのだろうが……どうも良くない予感が」
俯き思案しつつ砂利を踏みしめる。すると、じゃりっという石が踏みしめられる音が前から聞こえてきた。なんだろうと顔をあげた一成は、直立不動の態で睨み付けてくる女性──志貴の使用人──にぎょっとした目を向けた。
「こんばんわ」
「あはい、こんばんは」
あまりに驚いたので、眼鏡がずり落ちてきた。聞かれただろうかと窺いながら一成は二歩ほど下がり、使用人と改めて対峙した。
「志貴が遅いと心配していたわ」
「いえ、特に……貴女こそ、どうかしたんですか」
「あなたの叫び声が聞こえたようだったから」
「……雑念を祓っただけのこと。何ら問題はありません故、お気になさらず」
声は既に落ち着いていた。平静さえ保てればこちらのものとばかりに一成はまじまじと女性を窺った。化生の類ではないかと邪推したがために見た足は、しっかりと地に付いていた。瞳はローブの奥に隠れて窺えない。だが、睨まれているという実感だけがはっきりと自覚できた。
──何か、怒らせるようなまねをしたか。いや、失礼な妄想を聞き取られれば怒るだろうが……。
化生だなんだと脳内で勝手に想像していた自分に嘆息しつつ、この二日間の出来事を追ってみるが、特に彼女の気に触るようなことをしたとは思えない。気付かないところで何か仕出かしたのかもしれないが、そもそも会話もこれが初めてなのだから、まずありえないだろう。
それでは、典座の飯が気に食わなかったのか。見たところ女性は日本人ではないようだから、ありえる話だった。だが、一成とて父のくだらない主義思想によって食事については苦難の日々だ。客人とはいえ、こればかりは我慢してもらう他ない。
「食事が気に入りませんでしたか」
「は?」
女性がはじめて見せる表情の変化だった。口をぽかんと広げてみせると、悪趣味な薄紫色のルージュも清廉なものに見えた。
「食事は、美味よ」
果たして女性が口にしたのは、そんな言葉だった。今度は一成がぽかんとする番で、呆気に取られた一成はやがて頬を緩ませた。
「そうですか、ではそう伝えましょう。女性に美味いと言ってもらえたとあれば、坊主とて喜びます」
なんだ、と一成は落胆するような、安心するような微妙なため息を吐いた。まるで純真な人ではないだろうかこの人は。
女性はといえば、じっと留まったままで依然として一成を窺っている。その口元が一瞬歪んだように見えたのは、気のせいか。
「では、また明日にでも」
そんな彼女に頭を下げて、部屋に向けて歩き始めた。名前を聞き忘れたなとぼんやり考える頭からは、陰鬱な気持ちがどこかに流れて消えていた。
「吸い取られてるのか」
キャスターの報告を受けた志貴は、渋面を作り出して項垂れた。
「いいの? こうして既に動き始めているサーヴァントもいる。私にはあなたが勝ちに行くつもりとは思えないわ」
七体目が確認されて間もない。だというのに、キャスターの言うとおり魂食いを是とする魔術師は行動を開始している。どこで食われようとしているのかは気になるところだったが、寺で篭城の構えを取ると決めた以上探索に赴くわけにもいかない。
「あの坊や、殺されるわよ」
言ったキャスターは歯噛みするように、一成が消えた別館をねめつけていた。志貴はそこに安堵感を覚える。魔女だなんだと自分を卑下するわりには、キャスターは魂食いのような非道を是としなかった。というよりは話題にしようとしなかった。
陣地形成をし、境内の中はキャスターの匂いで充満している。この中ならば、龍脈に流れを載せた魔術で街中から精気を吸い取ることもできなくはないという。精気を吸い取ればキャスターは格段に力を増し、聖杯戦争における勝率はうなぎ上りになる。だが、人の魂まで喰って勝利し、それで助けられたなどとあの勝気な妹がしれば、自分は間違いなく勘当されるだろう。それにそんな非道を許せるほどに悟っているわけでもない。
「キャスター」
志貴はぼんやりと呟いた。
「これ以上一成君がおかしい様子だったら学校に行こう」
「可笑しな話」
「どういう意味?」
「篭城戦しかないと言っているのに。白兵戦で私が他のサーヴァントと渡り合えるなんて思わないことよ。神殿を出たら非力な魔術師でしかないんだから」
キャスターの口調は嘆くものだ。
「ランサー相手にいい線行ってたじゃないか」
「あのランサーは本気じゃない。次に外でやりあったらまず殺されるわ」
「……いいさ。キャスターはこの前の魔術を掛けてくれ。あれがあれば少しくらいなら戦えるだろ」
「強化であなたが時間稼ぎ? まあ、そうね。空間転移は大魔術だけれど、神殿に戻るだけなら一瞬だもの」
「便利なもんだ」
「でなければキャスターは本当に噛ませ犬よ」
ふふと意味深に笑うキャスターから視線を外し、なるほどと納得顔で頷く。それからぼんやりと三日月を見上げた。
「戦争始まったんだっけ」
「何を寝惚けたことを言って──」
キャスターの言葉をさえぎって志貴は手を差し出す。真意を測り損ねたキャスターが首を傾げ、志貴は「握手だ」と補足する。
「なぜ」
「やっぱり、よーいどんは必要なんだよ」
キャスターはためらっていた。志貴の手と自分の手を交互に見つめ、やがて深いため息とともに、その手を握る。
「よろしく」
「ええ」
気のないキャスターの言葉にも、志貴は笑顔で応えていた。
昼間にも関わらず、鬱蒼と茂る木々によって太陽が翳っていた。マスターの言を借りるならここはアインツベルンの森。結界によって包囲されたアインツベルン家の隠れ家といったところだ。その奥深く、ダウジングでたどり着いた広場に忽然と姿を現したのは城だった。ランサーは「ほう」と賞賛の呼気を漏らした。
「こいつはいいセンスだ。なぁ」
背後で泰然と佇む巨漢に同意を求める。巨漢は斧のように巨大で無骨な剣を握り、ごうごうと灼熱の吐息を噴いていた。ランサーの賛辞は城へのものと同時に、その巨漢に向けられたものでもあった。或いはその巨漢の主に。
「随分上等な魔術師に出逢ったらしいな──」
軽い足取りでランサーが振り返った。
「狂戦士(バーサーカー)」
呟くと、ハリケーンのような雄風がランサーの頬を凪いだ。それをスウェーで避けたランサーは、そのまま十メートルほど後退する。四肢をついて着地すると、首筋にチリっとした痛みを覚えた。確かめると、首の肉がごっそりと抉り取られていた。音を立てて吹き上がる鮮血を見ると、ランサーは慌てた風もなく血を指ですくって文字を刻む。文字というにはあまりにもお粗末。直線を組み合わせただけのそれは、しかしランサーが指を止めるとその効力を発揮した。
「楽しいぜ。いつだって真剣勝負ってのは心が躍る」
削り取られたはずの喉を震わせ、ランサーは口元をゆがめた。
その映像は途中で途切れた。城の主に気付かれたのだ。キャスターは嘆息し、目を開けた。ランサーに、バーサーカー。どちらも強敵だ。バーサーカーは完全に狂化していればまだ御せるものだが、どうやらランサーの言うとおりマスターの性能が素晴らしい。現状で打開する術は無い。ならば、マスターを狙うまで。だが志貴には内緒にすべきだ。あの男は、きっとそれを良しとしないだろうから──。
Hunting High and Low.1
志貴は時折すれ違う学生服を興味深く観察しながら、校内の一角に設けられたベンチに腰掛けた。生徒会の客という名文で一成に連れられてきたここは穂群原学園。キャスターは烈火の如く反対したが、寺に篭もっているだけというのは性に合わない。と言っても戦いたいわけではなく、何かしていないと気が狂ってしまいそうになるだけだった。
「学校も懐かしいな」
秋葉が堕ちて以降、学校には通っていない。最初の半年はただ秋葉に己の血を飲ませる日々だった。離れに泊まり、来る日も来る日も血だけを求める秋葉の相手をする。見かねた翡翠のビンタが飛ぶまでは、ずっとそうしていた。
つまり、目が覚めたのは彼女のおかげだったのだろう。腐りきった脳味噌はショックからか多少なりとも働くようになっていた。最初に槙久の書物を片っ端から読み漁った。それで約一月もかかったのだが、結局秋葉を元に戻す手掛かりを見つけることはできなかった。もともと期待もしていなかったが、何かしら手掛かりくらいあるだろうと考えていただけに、落胆は大きかった。
あの勝気な妹が死んでしまう。考えてしまうたび、全身を言いようのない虚無感と焦燥が駆け抜けていく。腕がざわつき、涙があふれそうになる。今すぐ他のサーヴァントの所へ赴いて、その首を刈り取ってしまいたい気持ちも無いではなかった。心が荒んでいるのは自覚していた。おれらしくもない。志貴は呻いた。しかしどうすることもできないのだった。
愛した、いや、愛している女性が殺されようとしているのに、のんびりしていられるわけもない。気持ちばかりを走らせると、キャスターを手に入れることはできた。だがそこまでだ。ランサーとの戦いで己の無力を痛感した。そして取ることができる作戦といえば、引きこもって敵が網に掛かるのを待つだけ。それが最善だとわかっていても、やり切れない空しさが胸のうちを占める。
「は──」
一成に話はつけてもらっているが、部外者が校内をうろついていてはいい加減に目立つ。通りかかる在校生たちの好奇の視線に耐えかねた志貴は、気の抜ける掛け声で立ち上がり、辺りを見回す。
「……なんだ?」
グラウンドから校舎。そしてその裏手。視線を動かすごとに空気が音を立てて凍り付いていくのを感じた。凍りつくというより、研ぎ澄まされていくというほうが正確だ。とにかく違和感を覚えたときには、辺りから音が消えうせていた。生徒の叫び声はおろか、街を走る車のエンジン音も、あろうことか風の息吹さえも消えうせた一瞬。その数奇な瞬間を克明に捉えた志貴は、ハッとして後ろを見た。
──タン。
と小気味のいい音がしたのは志貴が振り向くのと同時だった。清冽な静謐。音はたった一度聞こえただけだと言うのに、まるで計算し尽されたリズムのように心に染み渡った。静寂の間隙を縫って放たれた音源を求めた志貴は、視界の片隅にしっかりとそれ捉えていた。やや赤みがかった黒髪の、恐らく同い年くらいの少年。
──何の音だ?
遅れた感想を飲み込んで、志貴は少年へ駆け寄った。駆け寄って初めて、彼が建物の中にいるのだと気付いた。どうやら自分の目は障害物全てを排除して、彼という音源だけを求めて馳走していたらしい。平べったいが横幅のある瓦屋根。校内にあるが故そこだけ異様な佇まいの建物を前に、志貴は眉を顰めた。周囲をそろそろと回ると屋根があるのは一部分だけだということに気付く。屋根の無い場所から中をうかがい、成る程と納得する。屋根のあるところ──射場に立っているのは先ほどの少年だ。身長の五割増ほどの弓を掲げ、残心の体勢で両手を大きく広げた少年は、やがてほうと小さな息を吐いて弓を下げた。
「んー、相変わらず皆中か。みんな、部外者の士郎に負けてちゃダメよ」
そんな声が聞こえたが、弓道場の中は静寂に包まれていた。無理も無い、と志貴は矢の刺さった的を見た。ど真ん中。寸分の違いも無くど真ん中に突き刺さっている。しかも突き刺さっているだけではない。そう在るべきものとして、そこに刺さっている。例えばそれは先日ランサーと相対したとき、自分の運命が死すべきものと決め付けられていたように。
士郎と称された少年こそ平然としているが、それが並の技ではないと誰もが理解している。部外者の志貴でさえ背筋を粟立たせる技に、学校の部活とはいえ経験者が気付かない道理はない。声をあげた女性が能天気な反応をできるのは、見慣れているか、自身も何らかの域に達しているからだろう。
少年がチラと志貴を見た。澄んだ瞳だった。あまりにも澄んでいたので、志貴にはひどく薄っぺらに思えた。恐らく士郎という少年にも、志貴の瞳は嫌なものとして見えたのだろう。少年は眉を顰めると、先ほどの女性の方を向いた。
「約束どおり射ったから、さっきの話はちゃんと教えてくれよ、藤ねえ」
黙りこくる部員たちの視線をばつが悪そうに受け流しながら少年が言った。もう一度見たいものだが、あの様子ではそうもいかないらしい。女性のセリフや私服姿というところから鑑みるに彼は弓道部の正規部員ではないようだ。体を正門に向ける。
「あんた、誰だ」
背後から声をかけられたのはそのときだった。
「誰だ」
なんでもない言葉のはずだが、とくんと心臓が鳴る。音が遠ざかる。耳栓でも付けられたように、声が遠い。どこにでも居る少年の声だ。なのに、胸につっかえるのは何故。
「学校の人間じゃないだろ」
三言目。ようやく振り向くつもりになって、予想とは違う光景に辟易した。立っていたのは黒髪のあの少年。まだあどけない顔つきだ。少年は不思議そうな目でこちらを見据えていた。その目は、あんまりにも真っ直ぐだった。けれど空虚だった。悲しい何かに囚われた瞳が、くすんだ硝子球のような目が、志貴の蒼い目を貫くのだ。嫌な瞳だった。或いは羨ましいのかもしれない。
「最近危ないから、こんなとこ生徒でもないのにうろついてると捕まるぞ」
「衛宮。その人は俺の客だ」
反応の無い志貴に対して少年がようやく怒りの片鱗を滲ませたとき、聞きなれた声がした。それは少年にしろ同じだったらしく「一成。ほんとか」と少年らしい声を出した。
校舎のほうから歩いてきた柳洞一成が、何か不可思議なものでも見る顔で大きく頷く。
「本当だ。俺は嘘などつかん」
「そうだな。じゃあ信じる。でも、ほんとに危ないから、あんまり変なことはしないほうがいい」
自分と彼らの間に、何か分厚い皮膜のようなもので衝立が置かれているような感じがした。声もにごって聞こえる。自分に向けられた言葉だと、最初気付かなかった。ほかの事に気を取られていたからだ。足が震える。そうだ、別に『あんた、誰だ』と尋ねられて困るようなことはしていない。問題はそんな言葉ではなく──
「シロウ」
こいつだ。
ずっと弓道場の中からこっちを見つめていた彼女。だが身に着けている服のせいもあるだろう、姿は見目麗しい可憐な少女だ。
「突然飛び出して、どうしたのですか」
「見慣れない人が見てたから誰かと思っただけ、なんでもないよ。一成の知り合いだってんなら悪い人じゃない」
一成が同意するように頷いた。
「……そうですか」
しばらくの沈黙を経て、少女がぽつんと言った。志貴は初めて少女を瞳を直視した。少女も険しい表情で志貴を見つめていた。逃げ出したいと心底から思った。
人を探るときはまず目を見る。目は全てを写す。力も、意思も、弱さも。全てを瞳は映す。ならば彼女の目も同じだった。瞳は噤まれた口以上に闊達に語っていた。
美しい碧玉はまるでアレキサンドライトの輝きだ。日の元では清冽なえもいわれぬ鶸萌黄(ひわもえぎ)。それが生み出す静謐は清純さと気高さにおいて何よりも勝る。しかし内に抱いた凄烈な赤色は、内包する獰猛さを滲み出させる。その洋服は彼女に良く似合っている、しかしまるで似合っていない。獅子に衣装など要らぬ。
もう、正体など解ったようなものだった。異常。異様。彼女が在るだけで、そこに在るべき死が消えていく。恐らく眼鏡を外せばもっと顕著にそれを感じ取れるだろう。
後退したい感情を、最後の理性で押し留める。ここで動けば、音もなく疾走する彼女に潰されるのか、或いは撃たれるのか……いや、彼女には剣こそが似合う。自分が想像し得る最高の剣を彼女に握らせてみればほら、こんなにもよく似合う。
「衛宮。それより彼女は誰だ」
志貴と少女の空気が凍りついたことに気付かないのは、一成のみだった。しかし少年のほうも、それほど志貴を警戒しているようではない。今はそれが頼りだった。何も知らない無垢があることで、この場は膠着する。ただ、その先に繋がるものが無い。このまま一成と共に帰宅するしか道は無かった。先ほどから寺で待機しているキャスターの声が聞こえない。喋れば勘繰られると黙っているだけなのだろうか。或いは目の前の少女が展開した結界か、はたまた別の魔術師の手によるものか。とにかく、この場は逃げに徹するに限る。
「今うちに住んでるんだ。切嗣(オヤジ)が昔世話した子らしい」
少年は平静を装ってそう言った。一成はへえと興味深そうに少女の目を覗き込み、ふむと唸った。
「まったく、隅に置けない。なんだかんだと言っておきながら、よりにもよって外国人とは」
「な──彼女はそんなんじゃない。そっちこそ、この人は?」
「葛木先生の弟で、遠野志貴さんと言う」
もう小指の爪ほども残っていない理性で、ナイフを抜くことは堪えた。今は、一欠けらの動揺も顔に出してはいけない。とっくに向こうも気付いてる。魔術師には見えないから安心。そういうわけじゃなかった。遠野志貴という人間が持っている違和。それを少女は一目で嗅ぎ取った。志貴が彼女の違和を嗅ぎ取れたように。
「遠野?」
「血が繋がってないんだ。士郎くん……だったかな」
衛宮士郎の疑問に答えながら、志貴は少女に視線を送った。少女はまるで無表情のまま志貴を見つめてくる。怖いと、正直に思えた。喩えるならば、代行者に狩られる名も無い死徒の気持ちかもしれない。なぜか、彼女を前にすると自分が絶対悪にでもなったような気になる。英雄の重みをわが身で感じ、志貴は息をするのも覚束ないように感じた。
「衛宮士郎であってる。それより──」
「シロウ。彼は私と同じ境遇ということですね」
じっと志貴の目を見たまま、少女が言った。言葉の裏に篭められた真意は、志貴に届いた。それは宣戦布告だろう。己のマスターに伝えるための言葉は、意図したものか偶然か、志貴の臓腑を縮み上がらせる結果になった。
心臓が戦慄いた。背筋がたわんだ。殺されることに恐怖はない。いや、恐怖はある。しかし真に恐ろしきは、妹を救えなくなることだ。それが、自分が消え去るよりもよっぽど怖いのだ。
表向きは平気な顔で、志貴は生唾を嚥下した。心臓が飛び出そうだ。噛み締めた歯が割れそうだ。だが、そんな志貴の心情を知ってか知らずか、
「帰りましょうシロウ」
少女は平坦な調子でそう言った。
***
風は体を劈く。あまりにも冷たくて、目を覚ました。貸し与えられた部屋前の縁側で、座ったまま眠り込んでいたらしい。凝り固まった首を揉んで、思わず震えた。昼の穏やかな風が恋しくなった。だが月が綺麗だった。時計を確認しようとして、寺にそんなものがほとんど無いことに気付く。
仕方無しに頬に触れた。何時間も前に叩かれたのにまだ熱い。キャスターのビンタは強烈だった。翡翠のビンタも真っ青だ。志貴は軽口を叩いて、笑えず沈黙した。
『言ったはずよ。声が聞こえなくなったら戻りなさいと』
ふさぎ込んでいたキャスターが久しぶりにらしい表情を見せたのだが、喜ぶ気にはなれなかった。戦況が最悪になった。一成は言った。葛木の弟だと。ならば居所は露見した。教師の住所など、学校に確認をとれば、よっぽどの素行不審者でない限り教えてくれるだろう。それを見越してあのサーヴァントは退こうと言った。だから命だけは助かった。けどそれだけだ。もう本当に後が無くなったのだ。
「……なんて、不様」
本当に間抜けだ。自分の感情を抑えられなくて外に出て、途轍もなく巨大な厄介を連れ込んだ。キャスターの怒りは尤も。志貴を叩いて以降はずっと境内で何かしているようだが、声をかける気にはなれなかった。敵に備えているんだろう。なら、自分も何かしなければならなかった。
縁側からだらんと垂らしていた足を踏ん張り、大きく伸びをする。はだしで土を踏みしめて、果たして何ができるのだろうかと考えた。
改めて考えると何もないものだ。サーヴァントと戦うにはあまりにも頼りないナイフに、使うと自分が倒れかねない魔眼。それと、ほんの少しの体術。
「参った。これじゃほんとに、足手まといだ」
昼間の少女に感じた恐怖を考えてみれば、サーヴァントという連中の出鱈目さがよくわかる。いや、実際に彼女がサーヴァントだと決まったわけではない。サーヴァントならば、人気の多い場所では霊体化すべきなのだ。実体化していれば一般人にも見えてしまうし、魔術師にでも見つかれば、すぐさま正体がばれるだろう。
正体がばれるというのは厄介な話だ。例えばキャスターは神殿から龍脈に魔力を通すことで街中を見渡せるが、霊体化していればキャスターでも多少探知しづらくなる。とはいえサーヴァントには霊体化したサーヴァントも見えるらしいので、効果的というわけでもないが、それでも多少のかく乱にはなる。だというのにあの少女はそれをしていなかった。よほど自信があるのか。それとも無関係な一般人であるとも、言えなくもない。サーヴァントと断じるのは早計なのか。だが何にしろ、姿を見せるだけで人の肝を冷やすような人間は、まともな者ではないだろう。
とにかく、そんな連中を相手取るに、キャスターと自分では多少心許ないのは確かだった。いくら直死の魔眼でサーヴァントの死を視ても、接近できなければ意味がない。キャスターの魔術で相手を固定することはできるらしいが、対魔術を持つサーヴァントには無駄ときている。そのための神殿とは言っても、志貴はそこまでの効果を期待していなかった。何せ、この寺にはただキャスターの気配が充満しただけで、何か本質的な変化を遂げたわけではない。むしろ自分の存在をキャスターが振りまいているようにさえ、志貴には感じられる。
よくないことだ、と志貴は忸怩した。キャスターを疑っても仕方がない。元々参加する資格さえなかった自分がここに居られるのはキャスターのおかげなのだ。それ以上の高望みはよくない。今は自分で何か作戦を練らなければ、任せっきりでは立つ瀬がないというもの。
「……そういえば」
何かないかと頭を巡らせて、ふと思い浮かんだ。ナイフよりよっぽど上等なものを、自分は手に入れているではないか。
志貴はいそいそと立ち上がり、部屋の中へ入っていった。
***
川の字に眠っていた布団から抜け出したあと、一目散に目指したのは柳洞寺だった。月が美しい。こんな夜は、剣の冴えも格別だろう。少女はそんなことを夢想しながら、飛ぶようにして走った。
マスターは当てにならないと早くも断じさせてもらうことにした。昼間、露骨にマスターとわかるような人間を前にあの態度。いつ己の身の上を語り出すかと気が気ではなかった。我がマスターとして相応しいか否かで言えば明らかに相応しくない。しかし愚物だとて主は主だ。サーヴァント──それ以前に騎士である自分には従う義務があった。嘗て自分に付き従った騎士たちのように。
良い騎士は、己で考え行動する。全てを上意下達の柵の中にしてしまえば、そこで主の器など知れるのだ。良い君主でありたいのならば、自由意志で動こうとする部下を上手く操らなければならない。だが愚物についた騎士は己で考え動くしかない。主を導くために動くのだ。それに、マスターとしては二流以下でも、その他の面で自分のマスターの人柄は嫌いではない。部下を自然に動かす気質も、それはそれで主の気質だろう。でなければ、護るなどという言葉を軽々しく口にはしない。
故に少女──セイバーは柳洞寺の山門を目指して疾風と化していた。雑木林が背後に流れる。急勾配の階段など、セイバーにとっては平坦な道と何ら変わらない。風よりも速く駆け、やがて立ち止まった。頭上に人影があった。見下ろす瞳は冷ややかなものだ。
セイバーは小さく腕を震わせた。己を奮い立たせる雄叫びは、彼女には必要ない。その身は剣。彼女は抜けばいつでも戦える。両手で握られたそれは、哀れ眼前に立ちはだかった者に制裁を加える時を待っていた。故に、震えたのだ。
血を求めるのではなく。戦を求めるのでもない。ただ彼女に振るわれようとして、震えた。
「これは、見込み違いか」
「いや、お前の判断は正しい」
山門と月の光を逆光に迎えた迎撃者は、姿を見せずに啼いた。これもまた雅な声だが、如何せん邪気が強い。この山一帯を包む瘴気にも似た悪臭と同質のものを、彼は抱えていた。
「抜ける気なのだな」
立ちはだかる男が尋ねた。くつくつと、愉快げに喉を鳴らすのが聞こえる。何が可笑しい。訊ねようとしてやめた。それは無粋だ。
「素晴らしい目だ。今宵召喚に応じた身だが、どうにも不都合がありすぎたらしくてな。こういった邂逅は望めんと腹を括っていたのだが……なかなかどうして面白い。ヤツは好かんが、感謝の一つくらいはしてやるべきか」
「……戦う、と?」
陶酔するように詠う男を見上げて、セイバーは訊ねた。男は何を況やと片眉を吊り上げた。
「ここまでお膳立てをされ、太刀も合わせず何をする。所詮、私は無粋に粋を感ずる者よ」
「おかしな男だ。しかしここで争う気など毛頭にない。ただ、私は確認さえできればよかった。見つかってしまったのは失敗だが──」
言葉を切る。
「とうに見つかっているのだろうから変わらない、か。豪気なことだ。益々気に入った。構わん、ヤツに見つかっていようと私がおまえのことをどうこう語るつもりはない。与えられたのは何人も通すなとそれだけだからな」
代わりに語った男は、再び喉を震わせて笑った。まったく底の知れないと、セイバーは嘆息する。互いに万全ではないらしい。ここは退くが上策だ。
セイバーが背を向ける。背中の警戒は解いていない。やがて男の敵意が薄れた瞬間に一歩目を踏み出そうとして、
「私はアサシン。名を小次郎──」
信じられない言葉に再び振り返った。
男は怜悧な瞳に涼しげな笑みを浮かべている。なんと月の似合う男だという感想を得たセイバーは、何をと問いかける口を噤んだ。
「佐々木、小次郎。次に見えるときは語らおう。無論、背に佩いたこの物干し竿でな」
痛快に笑い、アサシンは消えた。名乗りを上げるサーヴァント、佐々木小次郎。あまりに鮮烈なその名前を噛み締めて、セイバーは再び風になった。
衛宮邸に戻る頃には、時計の針は午前一時を指していた。音を立てないようにそろそろ屋敷に上がると、背後で甲高い音が響いた。何度か聞いた事のある音だったので振り向いて、セイバーは目を丸くした。自転車に跨った衛宮士郎が、セイバーをジッと睨んでいた。
「お前──」
発つ時も気配は消していたはずだったので、セイバーは少なからず驚いた。だがすぐに、屋敷に張られている結界のことを思い出す。しっかりと門から出て行ったのだが、彼にはわかるのか。いや、そんなはずはない。内からのものまで警戒するほど、彼は魔術師的ではない。それにこの男は様子がおかしい。
「柳洞寺になんて、何の用で行ったんだ」
セイバーは近寄らない。今の一言で確信した。こいつは偽者だ。
「我がマスターを侮辱する気か」
だって私のマスターは、決して私に追いつくことなどできない。だからセイバーが柳洞寺に行ったことなんて、解るはずが無い。
不可視の剣を抜いた。静かに燻っていた剣気が渦を巻く。圧迫感に、偽者が露骨にうろたえる。ああ確かに、その仕草は堂に入っている。人間の仕草としては大正解だ。けれど、とセイバーは偽者をにらみつけた。
「我が主は、そこまで真人間ではない」
そう、サーヴァント同士の戦闘に介入するほどの、大ばか者なのだから。
***
「志貴」
がさごそとバッグの中を漁り、それを見つけたとき、キャスターの声が背中に聞こえた。志貴は手に取ろうとしたそれをバッグに押し込んで、振り向く。キャスターはぎょっとした顔だった。
「起きていたの……あなた」
「さっきは悪かった。俺が勝手なことしたから、危うく死ぬところだった」
「……それは、生きて帰れたのだから良しとしますが……」
キャスターは歯切れ悪く呟く。俺の頬を張ったときもこうだった。と志貴は冷静に分析する。引っ叩いた瞬間は烈火のごとく猛ったくせに、ふと我に返ったように俯いたのだ。キャスターはどこかおかしい。何か、隠し事がばれるのを恐れる子供のような──。
「キャスター」
志貴の呼びかけに、キャスターは応えない。
「寝るよキャスター。なんだか、眠くて仕方が無い」
不安を押し込めて、志貴はそう言った。
頭痛だ。目覚めたばかりの頭を何度か小突いてその現実を受け入れると、志貴は部屋に備え付けられた日めくりカレンダーを見つめる。2/6(水)。日付の感覚までおかしくなっている。記憶の最後は日曜日だ。金髪の少女と出会い、死ぬ思いで逃げ帰って、キャスターに叩かれた。だがその後二日間はどうだったろうか。
「だめだ、思い出せない……」
丸二日記憶が消失している。懸命に記憶を弄って、たった一日前の出来事を思い出そうとする。まずは簡単なところからだ。朝食はなんだった。脳味噌を回転させる。やがて浮かんできたのは焼き魚。橙色の身が美しい鮭だ。
では、朝食をとったあとはどうしたのだろう。再び記憶を弄る。だが、そこから先はどうやっても思い出せない。靄がかった記憶とか、生易しいものではなかった。ナイフで記憶の線を切られたような、人為的なものが、そこには感じられた。
気だるく重い体を引きずり、座敷へ向かう。そこにはすでに僧たちが揃っていた。だが席にはぽつぽつと空きがある。柳洞寺にやってきてそれなりになるが、初めてのことだった。朝は全員揃って朝食を始めるのが常だったからだ。そこに欠員が出ることなどなかったし、住職である一成の父は、そういったことに対して非常に厳格な性格だった。
「おはようございます」
頭を下げて座ると、隣に座った一成が「おはようございます志貴さん」と力ない挨拶をした。
「顔色が良くないけど、風邪?」
「ふむ、昨日も聞かれましたが、志貴さんこそ平気ですか。俺は熱でもあるらしくて。眠れば疲れるし、その疲れを取ろうと思ってさらに寝るんですけど、悪循環そのもので」
──昨日も、ということは俺が三日間昏睡していたわけではなく、俺が記憶を失っているだけか。
一成は大きな欠伸を垂れた。「失礼」
「不眠症か何か?」
「いえ……俺一人ならそういうことになるんでしょうが」
一成の視線を辿り、絶句する。見渡せば、着席している僧たちは誰一人口を開かずに黙々と食事を続けている。それは異様な光景だった。50からなる人々が、誰とも目を合わせず、ただ手元の食べ物を口に運び、咀嚼し、嚥下する。瞳は曇りガラスのくすんだ輝きで、まるでぜんまい仕掛けの人形だった。人形の方がまだ表情があるかもしれない。ただそれだけしかできないとばかりに、延々とその作業を繰り返す。そこに、あるものを見つけた。誰かに生きることを強要される。行動を制約される。いつだったか、妹に血を与え続けた自分のヴィジョン。
吐き気を催した。いつもより大雑把な食事を、口に運ぶことが躊躇われた。そうしたら自分も彼らの仲間入りしてしまう恐怖を感じた。
「志貴さんも具合が悪そうですよ」
「ああ、頭痛がね、するんだ」
自嘲気味に笑って、志貴は何気なく眼鏡を外した。手で顔を覆い、蒼く変貌しているだろう瞳を隠しながら今にも倒れそうな僧たちを視た。予想通りの光景が広がっていた。誰にでもある死の線。突けば全ての物理法則を忘れて「死ぬ」線。それが、常人よりも遥かに色濃く浮かび上がる体を、僧たちは懸命に動かしていた。
ふと平静を装う葛木宗一郎を視界に見とめて、志貴は僅かに眉根を寄せた。何故平然としているのか。恐らくこの中で最も苦しいのは葛木宗一郎だ。太く、濃い線が腕といわず顔といわず全身に走っていた。更に異常なのは、それらの中心に黒々と穿たれた点があるということだ。まるで、死の線という支流の根源──即ち本流のように存在するそれ。まるでブラックホールだと、志貴は目を疑う。そして猛烈な痛みを目に覚える。死を理解したはずの体が拒否反応を起こすほどの怪異、異常。反射的に眼鏡を掛けなおす。
「なんだ……今の」
あれならば、ナイフを使うまでもない。指でさえ殺せるのではないだろうかと、ぞっとしない感想を飲み込んだ志貴は、ついでに味噌汁を勢いよく飲み干した。
いや……あれには覚えがある。シキを殺そうとしたとき。ヤツの胸の脇にあった点。それだ。
「ん、案外に元気ですね」
「空元気ってやつだよ」
一成の無理やりの笑顔に付き合うと、脊髄のあたりで鳴っていた警鐘が収まる。志貴は愁眉を開いた。
朝食を終え、学校に向かう一成と葛木を見送る。
「キャスター」
背後のキャスターに声をかけて、ギッと歯を噛み締めた。
「今日は学校に行く。これ以上は、耐えられない」
キャスターは答えなかった。
***
果たして訪れた学舎に、人の気配などなかった。あるのは人だったものの胡乱な息遣いと、その中に紛れ込んだ魔獣一匹。遅れたことを後悔する時間も惜しい。事は既に起こっている。
散々に撒き散らされた腐臭。肉を焼き、骨を溶かす瘴気。しかしそれが外に漏れ出すことはない。紅蓮赤々の結界は校庭を、校舎を、敷地全てを包み隠していた。傍目には粛々と、しかし獰猛な牙を体内で振るっている。その様はさながら肉食と化した大鯨か。
泰然と佇む風情でいながら、志貴は大きな焦りを内心に感じていた。校門から向こうに一歩も踏み出せないほどの恐怖。筋肉は弛緩しているのかはたまた凝固しているのか。兎角一ミリたりとも動こうとしない。
「入っても平気かキャスター」
言ってから、志貴は後悔した。不様だ。ここに来て怖気づくなど間抜けにも程がある。
「平気よ。この程度の結界──」
平然と答えようとするキャスターの言葉をさえぎるように、硬く握り締めた拳を自分の頬に叩き込む。想像よりもはるかに強い衝撃に面食らいながら、しかしすっきりと目が覚めた自分を確認すると、眼鏡を外した。
瞬間、ぐらりと世界が歪んだ。
それは間違いなく濁流だった。目玉にナイフを突き刺され、上下左右に押し開いたあと、出来上がった穴に泥水を注ぎ込まれる感覚。蹂躙され、陵辱され、暴虐の限りを眼球に尽くされる。引き抜かれ、踏み潰され、ぐりぐりと押し付けられるナイフの痛みは言うに及ばず、流し込まれる濁流に混じった恐怖の発露。曰く、助けてくれと。心根から叫ぶ数十、数百の喚き声。
それが、この先に潜む惨事のあらまし。志貴は発狂寸前で目を一際強く見開いた。余計なものを視てはいけない。視るのは死だけで十分だ。それだってとんでもない苦痛だというのに、他人の恐怖まで共有していられるか。
「何をしているの?」
「なんでもないよ」
平然と一歩を踏み出す。赤い皮膜の中に体を潜り込ませる。鮮烈な赤が視界を染めた。途端襲った吐き気は、キャスターが手をかざすと消えうせた。この中で、自分は生きていられる。その事実が、ひどく嬉しかった。
校庭を一息で走りぬけ、昇降口から校舎に駆け込む。異常は更なる異常と悪臭をもたらし、志貴は嘔吐感に堪えながら、手近な教室の扉を開け放った。最初からそういうものだと理解していた上に、今の志貴には真っ黒の塊にしか見えないことが幸いした。その分頭痛は酷くなる一方だが、こんなものを直視するよりは、そのほうがよっぽど良いと思える。
一面に横たわる人人人。仰臥するのはいずれも同じ制服を着込んだ学生。だというのにその有様はまるで化け物だ。死に覆い尽くされ、漆黒に塗り固められた肢体。ピクピクと細かく痙攣するものが居るのなら、微塵も動かず死を享受しようとするものもある。
死体の海。その表現が最もしっくりくる。まだ死者は居ない。だが志貴に視界に映るそれらは間違いなく死人であり、あと数時間もすれば事実になるだろう。
──そう理解しようとした。そう考えるべきだとわかっていた。彼等のどこに、こうなるべき非があったのか。或いは死ぬべきであるような人間もいたかもしれない。だが今このとき、ここでたかが奴隷(サーヴァント)の糧になるべく生まれてきた人間など、居るはずがない──。と、こう考えてしまえば、自分は怒りで何もかもを見失うとわかっていた。だから志貴は努めて平静に振舞う。
「落ち着きなさい」
この惨状に臆したのか、キャスターの声が震えている。
「落ち着いてる」
底冷えのする声で返して、志貴は踵を返した。教室を出ると右手はナイフを握っていた。左手は血が滲むほど握り締められていた。最後に振り返った教室の片隅では、柳洞一成らしき闇が仰臥していた。ピクリとも動かない。しかし冷静だった。教室で倒れていたのは男子十七名女子十六名。そして、教師一人。三十四名中十二名の肌はぐじゅぐじゅと音を立てて爛れて、まるで出来の悪いプリン。そこまで確認して、物音に気付いて意識をカットする。いくつか上の階からたんたんと走る音が聞こえる。
「……二体居るわよ、サーヴァントが」
キャスターの声を無視して、廊下を走り、階段を駆け上がる。僅かな足音も立てず、僅かな気配すら探らせず、志貴は影になって走る。赤い廊下。赤い窓。赤い天蓋。その中で黒い影は、ひどく浮いていた(・・・・・)。
階段を二つ駆け上ったところで、新たな気配が真上に現れた。
「……上……?」
まるで道化じみている。あまりにも唐突なそいつの出現に際して、志貴が思ったのはそんなことだった。あろうことか天井をすり抜けてくるなんて馬鹿げた芸当を、そいつ自身も皮肉げに自嘲している。
「志貴、跳びなさい」
「必要ない」
ナイフを突き出し、女が振り下ろした巨大な釘のような短剣を打ち払う。女──何らかのサーヴァントは窓ガラスを蹴り、数メートル後退して着地した。
薄紫色の髪に、露出度の高い身なり。目を覆い隠した大きな眼帯は、あまりにも不気味だった。
「……鼠風情がなかなかやるようですね。何の用です」
片膝をついて着地したサーヴァントは、ゆっくりと余裕の体で立ち上がる。女性にしては高い身長は、その黒い衣服との相乗効果で、志貴を押し潰さんと威圧していた。
「この結界はお前か?」
「そうなります。まだ十分ではないので情けない限りですが、私が展開したものです」
「今すぐこの結界を解け」
だがこの程度、あの少女に比べれば──いや、比べようも無い。アレは別格だ。だから、先に少女と出会っていた幸運に感謝した。そして生き帰れた自分の悪運の強さに辟易した。
「出来ない相談です」
「……だと思った」
いつになく好戦的な自分を感じていた。余りにも頭にきて、メーターが一周してしまったのか。普段ならば考えられないようなことを、志貴は頭の中で妄想していた。
目の前の、サーヴァントとはいえ美しい肢体。露出した胸元。腰のくびれから艶かしい曲線を描く臀部を視界に納め、更にタイトスカートから覗く柔らかな大腿を嘗め回すように見つめる。あまりにも白い。あまりにも美しい。眼帯の下の素顔もさぞ素晴らしいだろうと夢想すると、それだけで果ててしまいそうなほどの官能がつま先から脳髄までを焼いた。
白い肌にナイフを突き立て、溢れ出す鮮血で新雪の肌を赤く赤く染め上げてしまいたい。お前が引き起こしたこの惨事とまったく同じ色に染め上げて、断末魔の悲鳴をこの耳に聞きとめたい。
とにかく頭がぼうっとして──
「志貴? 何をバカな。戦うつもりですか」
気持ちが良い。
左足に重心を置き、体を折りたたむ。力いっぱい地面を蹴りつけて、十メートルも彼方に居る女サーヴァントに斬りつける。体が軽いのはキャスターが魔術でも掛けたからか、或いは──。
順手で握ったナイフを思い切り突き出す。サーヴァントは構えるまでも無いという風に、だらんと腕を垂らした格好でいる。果たして右肩を狙った突きはサーヴァントの右釘で弾かれ、逆に志貴の心臓を狙って短剣が疾走した。上半身を捻ってそれを避けると、志貴は三歩下がる。
「驚いた。後ろのサーヴァントはキャスターですか。素晴らしい強化魔術だ。しかし今の動き、いくら強化を受けようとただの魔術師にできるものではない」
「有り難う。で、オマエ、何のサーヴァントだ」
驚きの面持ちで立つライダーに志貴が訊ねる。
「ライダー。貴方は」
「志貴」
直立不動だった体を豹のように前傾させ、女──ライダーは満足気に頷いた。
「ではシキ。貴方を殺します」
目に見えるほどの赤い殺意が渦になって、ライダーを取り囲む。それがライダーの性能。直感にも似た一瞬の出来事だが、それで彼我戦力差を計るには十分だった。そして、彼女には然したる脅威を感じ得ない。
獲物の射程も同じなら、機動力もそう変わらない。どんぐりの背比べだ。結界の展開に力を注いでいるためだろうが、これを好機といわずに何を好機とするのか。順手から逆手に握りなおしたナイフを顔の前にかざし、志貴は対抗するように構えた。
「おどきなさい、志貴」
キャスターの言葉に応えるように前傾し、地面に鼻を擦るように疾走する。背中を通過する魔力の塊を知覚すると地面を蹴り、壁を蹴り、志貴はライダーに肉薄した。
***
急いで階段を上り、廊下に出て、その光景に腰を抜かしそうになった。最初の疑問は、ライダーは何のサーヴァントと戦っているのだろうというものだった。獲物はナイフ。年齢は自分とそう変わらない。しかしその服装は、普段自分たちが身に着けるものと同じ──つまり、甲冑をはめているわけでも、情婦の如き露出をしているわけでもない。現代の若者らしい格好で、そいつはライダーと互角に渡り合っていた。
「サーヴァント……なのか、あれが」
慎二のイメージとはかけ離れた光景だった。英霊というからには、伝説に出てくるような連中ばかりを想像していた。事実として間桐慎二が使っているサーヴァントはメデューサという怪物であり、伝説上の存在だ。だがあれは、あまりに自分と近すぎはしないか──。
スニーカーを履いて、ジーンズを履いて、その上コートまで羽織っているそいつが、本当にサーヴァントなのか?
「ライダー何やってるんだおまえ! 早くそいつを殺せ!」
ただわかるのは、あいつには英霊としての気質も、素質も何もないということ。口元に貼り付けた薄笑いは語り継がれるべき者のものではない。あれは犯罪者の表情だ。自分が妹を陵辱するときの表情だ。だがその動きだけは、サーヴァントじみていた。喩えるとしたらアサシンか。地面を蹴ったと思えば壁に張り付き、次の瞬間にはライダーの背後から刺突を繰り出す。動きはあまりにも滑らかだ。だからそれが、到底人間業ではないと、慎二は理解していた。
「シンジ……出てきてはいけません。キャスターが潜んでいます」
男の突きを二本の短剣で捌きながらライダーが焦った声を出したが、慎二には最初からその気はない。あんな馬鹿げた戦いに自分から飛び込むなど、正気の沙汰ではない。だが、背後から迫る目障りなあいつらのことを考えれば、いつまでも階段の影に隠れているというわけにもいかないのが現状だった。
「追われてるんだ。セイバーと衛宮。それと遠坂に!」
形振り構わずに叫んで、階段から飛び出す。廊下を走って手近な教室に駆け込んだ。
「追うなキャスター」の声を背中に聞きながら扉を閉め、足に当たった名前も知らない生徒の腕を蹴りつける。気が立っていた、なんで僕が追いかけられなきゃいけない。苛立ちを紛らわすためにもう一度その生徒の頭を蹴り付けようとして、ひんやりとした感覚が背筋を撫でた。
「こんにちは。ライダーのマスター」
「──え?」
振り返れなかった。動けば死ぬ。背中に当てられた掌が、氷のように冷たい声とは裏腹、饒舌に語っていた。
「わかってるじゃない。聞き分けのいい子は嫌いじゃなくてよ」
「な、何の用だよ」
自分で訊ねてバカだと思った。サーヴァントがマスターに近付く理由はただ一つだ。殺す。それ以外に何があるはずもない。
体中の栓が一気に緩んでいく。下腹部に集中したそれが決壊する前に、なんとかそんな不様だけは晒すまいと歯を食いしばったとき、
「逃げます、シンジ!」
「慎二ィ!」
二つの聞き慣れた怒声と共に、教室の扉と壁が蹴破られた。
***
血沸き肉踊る。そんな興奮はどこにも無かった。あるのはただ標的を解体してしまいたいと願う心だけで、殺し合いに対する感慨など何一つとしてない。
一時的にでも昂ぶった感情はいまや冷え切っている。明鏡止水に到達したのかと思うほど粛々とした感覚の中で、ライダーの黒い閃光だけが残像を伴って走っていた。
視界から消えたかと思えば背後から襲ってくるという戦法は、彼女の圧倒的速度あってのものだったが、志貴の研ぎ澄まされた五感はしっかりとライダーの一挙一動に反応していた。背後からの突きを曲芸じみた跳躍で避け、逆に彼女の脳天を打ち貫かんとナイフを突き出す。
「先ほどから無口ですね」
右に聞こえた声に反応すると、背後でじゃらんと鎖の鳴る音が聞こえた。
「悦びを感じているようにさえ見える」
次は頭上。三度の攻撃を全て弾きながら、志貴は眉を吊り上げた。不愉快だった。
志貴が風ならば、ライダーは砂漠のようなものだった。どれだけの強風が吹こうとも、変幻自在に姿をかえる砂。互いの掠り傷は既に十を数えるが、打てども打てども致命傷に至らない。まるでいたちごっこのような殺し合い。ライダーにしろ同じ感想なのか、挑発という安っぽい手段に出たのは焦りの表われだった。
つい今しがた教室に駆け込んだライダーのマスターは、まるで殺し合いというものを理解していない。無粋な乱入者とでも言おうか。とにかくつまらない。しかしそれでもマスターであることには違いないようで、ライダーは少年が現れてから目に見えて動きが悪くなった。キャスターがあとを追ったこともそれに拍車を掛けている。
焦りや不安。何故そんなものを英霊に与えるのか不思議で仕方が無かった。聖杯戦争を勝ち残るという目的で召喚するのに、彼らには確固たる自我がある。それは明らかに余計だった。或いは設計者──神の暇つぶしなのだろうか。
自我があるために、キャスターのようにマスターを裏切るサーヴァントもいれば、ランサーのように戦うことに至上の喜びを感じるサーヴァントもいる。そして自我があるために、些事に気を取られて殺すべき相手さえ見失うという愚を冒す。それは間抜けだ。興ざめでもある。
だから──
「失望させるな」
殺(バラ)ス
ナイフを一際細かく刻む。死の線をなぞらせてもらえるほどに甘い相手ではない。ならば手数で圧倒する。
本来五秒かかる斬撃、刺突を一秒で繰り出す。その数十七。体が覚えている動きだけを、脳味噌を解介させずにただただ摸倣(トレース)する。イメージ下でしか行えないはずの動きは魔術によって容易く可能になり、閃光のような攻撃を三十四、五十一と打ち穿つ。
鬼気迫る連撃に臆したのか、ライダーが焦りの渋面を向ける。気付けばとっくに結界は解除されている。最大出力で臨む志貴に、ライダーもまた生半の覚悟を改めたらしい。
纏う闘気は黒く気高く。今までと比較にならない威圧感が巻き上がる。両の手に構えた短剣捌きも飛躍的に能率化し、志貴の一刀を、遥かに上回る立ち回りで捌いた。だが一度攻勢に入った勢いを殺しきることはできず、後退を余儀なくされる。いや、そうなるように仕組んでいるだけか。気付けばライダーと志貴はキャスターとライダーのマスターが対峙しているだろう教室の前まで移動していた。そこが磐石。一際強く志貴のナイフを弾いた両手が眼帯の前で交差される。
「自己封印(ブレーカー)──む」
まずいと思った瞬間、ライダーの動きが止まった。
「──時間切れです」
瞬時に踵を返したライダーの視線を追って、それを見つけてしまった。予想外の出来事だった。恐怖がよみがえる。死を覚悟させるほどの恐怖。揺れる金髪。怒りにゆがめられた瞳。逆立った柳眉。見間違えるわけも無い。そいつは死神だ。少女の姿をした冷酷なマーダーだ。
「クッ!」
校舎に入ってからずっと頭の中で囁いていた何かが、成仏するように消え去っていく。『助けてくれ』と囁いていた何十何百という情念、或いは怨念が根こそぎに浄化されていくような錯覚を覚えた。
ライダーは手を止めた志貴に攻撃することなく飛んで、教室の壁に大穴をあけると、その中に飛び込んでいく。
「慎二ィ!」
それと同時に、もう二つの影が教室に飛び込んでいく。それを追う余裕はない。何故なら眼前には粛然と佇む少女。美しい。なんて美しい。数秒前ならそう感じただろうか。だが今は、魔法の解けたシンデレラの面持ちで、不様に逃げ帰る策しかこの身には残されていない。
魔法が解けた。その表現は適切だ。彼女という洗練された聖気を前に、遠野志貴に宿っていた矮小な悪など消し飛んだ。戦意も、害意も、結界の主に対する殺意も、全てが根こそぎ奪われたような錯覚。
「また遭ったな、キャスターのマスター」
鈴が鳴るような愛らしい声は、しかし壮絶な殺意に彩られている。
「やっぱり、サーヴァントだったってワケか」
「私はセイバーのサーヴァント。先ほどのライダーとの戦いは非常に興味深いが……貴方は危険だ。だからキャスターには消えてもらう」
まるで仇敵を見る目だった。痛い腹もないというのに居た堪れなくなって俯く。その隙にセイバーはライダーが開けた穴に飛び込んでいた。
「あ──クソ」
慌てて後を追って、三人と相対していたキャスターの横に立つ。
「ライダーは?」
「逃げて行ったわ。よく無事だったわね」
「向こうだって深い傷は一つもないい」
一体どんな芸当で俺はあの攻防を繰り広げたのか。まるで実感の沸かない感触を手のひらのナイフと共に握り締めて、志貴は立ちふさがる三人を順に見た。制服姿の男女二人に、甲冑の少女。男子生徒は先日弓道場で遭遇した衛宮士郎。甲冑の少女は想像通りセイバーのサーヴァント。あの結界の中無事なところを見れば、もう一人の少女も聖杯戦争の関係者だろう。
その少女を窺う。少女は鋭く抉る視線を向けてきた。その顎が震えているのは、あまりの出来事に対する恐れだろうか。
「あんたが……街の人を……」
だが、少女は意味のわからないことを言った。俺が? 街の人を──なんだ?
「待ちなさい小娘!」
激しく猛ったキャスターが手のひらを少女に向ける、途端に空気が凍結し、セイバーと衛宮士郎が一歩前に出る。まずいと直感的に悟った。キャスターが撃てば少女は死ぬだろう。だがそのコンマ一秒後には自分が紙切れのように分断されて死ぬ。
「よせキャスター。殺す気かおまえ」
「殺さなければ、何をしてもいいってワケ……」
慌てて叫んだ制止の声を、少女は嘲笑うように鼻で笑った。泣いているのかもしれない。とにかく自分の与り知らぬ所で少女の怒りを買ったことは間違いないらしい。勘違いであってくれと願うが、隣で怒りか恐れに打ち震えるキャスターを見れば、心当たりがあるらしいことはわかった。
「文句は無いわよね、もちろん。────アーチャー」
少女の背後で空間が揺らいだ。頭蓋骨に響く音をたてて、その歪みは人形(ひとがた)を創り上げる。やがて赤を基調にした体躯が現れ、長身の男の輪郭を模って実体化した。屈強な赤い騎士。サーヴァント・アーチャー。
「ふん、哀れなものだな。その面では知らぬのだろう」
赤い外套に浅黒い肌。白髪をオールバックに撫で付けた英雄は、現れるやそう言って口端を吊り上げた。
「何故自分が二人ものサーヴァントに殺されようとしているのか」
「アーチャーこの場は任せます。私はライダーを追う」
セイバーは涼しい顔でアーチャーに言う。
「私は構わんが、いいのか凛」
「ええ、この程度の相手……あなたなら軽く捻り潰せるでしょ」
「行きましょうシロウ。彼らは凛とアーチャーが倒すでしょう」
「おい、倒すってそれは──」
衛宮士郎が一人理解できない顔で聞き返す。生殺しとはこのことかと、志貴は一人納得顔で冷や汗をかく。冗談じゃない。何て物騒な会話をしてるんだと、叫びだしたいのを堪えてジッとそのやり取りを見つめた。
「殺すってことよ。衛宮くんは殺し損ねたけど……今度はそうはいかない。この二人は、越えちゃいけないラインを超えた──」
まただ。
ここまでくれば、キャスターか自分が何かを仕出かしたことは間違いない。こんな女の子が殺すと口にするからには、確固たる確証と、それだけの『事』があるのだろう。そして自分たちはその逆鱗に触れた。もう間違いはない。
「人の魔力を搾り取った。瀕死の重傷になるまでね」
──ああ、やっぱり。
おかしいとは思っていた。学校に結界が張られているのなら、一成と葛木が体調を壊すことはあるだろう。しかし、柳洞寺の面々までもが倒れてしまった事実は、それでは説明できない。
志貴は冷静な顔でキャスターの横顔を窺った。震えている。何を恐れるのか。これから訪れる一方的な虐殺──いや、報復に対してか。それとも志貴に自害を命じられることか。
その目が志貴と合わさる。謝るでもない。開き直るでもない。ただ後悔に彩られた瞳だった。
だから
「キャスター」
左手をかざし
「俺が戻るまで柳洞寺で大人しく寝てろ」
逃げろと命じた。
「ちょっと、兄さん?」
夕陽の赤紅を受けて桜鼠に燃える雲を見上げながら、妹がいつになく砕けた調子で言った。鼻に掛かったような声は、厳格な遠野家当主であるところの遠野秋葉が、遠野志貴の妹として接しようとしているときの合図だ。非常に解りやすいと苦笑して、志貴は「何の話だっけ」と訊ねた。
「……なんでもありません」
秋葉が頬を膨らませる仕草をしてみせる。
琥珀は買い物に出かけ、翡翠は部屋で休んでいるためテラスには二人しかいない。気を使ってくれているのだと気付いていたが、ありがたく甘えることにしている。
風がそよそよと凪いで、夕陽で赤く染まった秋葉の髪を靡かせる。肩を寄せる彼女の髪は、志貴の鼻先をくすぐる。柔らかな香りの髪を片手で弄んでいると、やがて秋葉が髪をかきあげた。
「……ほらまた、聞いてますか?」
見上げるようにして秋葉が覗き込んでくる。志貴は「うん」と頷いた。嘘だった。
「わたしを無視してまで、何を見つめていたんですか?」
秋葉は呆れた様子で深くため息を吐いた。
──何を見ていたかって?
「秋葉」
「な──?」
驚いたように、見上げてくる瞳が宙を彷徨った。慌てて首を引っ込めると頬を桜色に染める。志貴は苦笑しながらもう一度秋葉の髪に手を通す。きちんとケアされた奇麗な髪だ。紅に染まっていることも、それを美しく見せているのかもしれない。
「こ、琥珀にクスリでも盛られましたか。今日の兄さん、おかしい……」
口を開かずに、篭もった声を出す秋葉。くすぐったそうに首を縮める姿は、どこか小動物的だ。まじめな人間ほど酒乱に陥りやすいというが、ギャップが激しいという面では、普段気丈な秋葉も該当する。こうしていると顔をあわせるたびに詰られている自分が嘘のようで、思わずからかってやりたくなる。
「そうかな。俺には秋葉が可笑しく見えるけど」
「兄さん、それっておかしいのニュアンスが変です」
むっとした表情で、今度こそ本当に頬を膨らませた秋葉は、フンとそっぽを向いて黙りこくった。それでも髪を梳く志貴の手をはらわない辺り、嫌がっている様子ではない。
「毎日、手入れとか大変なんじゃないか?」
「そういうのは、その、琥珀がやってくれますから」
そっぽを向いたまま恥ずかしそうに言う。
「琥珀さん、そういうのはできるんだ」
「どこで仕入れてくるのか、お手入れしないと男性が寄り付きませんだとか、髪形を変えましょうだなんだとお節介を焼くんです」
秋葉は愚痴愚痴と使用人の不足を喋りだす。だがその横顔には華が咲いていて、大好きな姉のことを愚痴るクラスの女子が思い出された。それはきっとほほえましい光景だろう。実に、そのクラスメイトは心底愛しげに語ったものだ。だが、秋葉が咲かせた華に混じったほんの小さな翳り。その寂寥にも似た影を、志貴はしっかりと見抜いていた。
そんな影があるせいか。夕陽で赤く染まった髪。顎から鎖骨までの美しいライン。胸の奥底からこみ上げてくる衝動。紅い髪。赤い髪。朱い髪。それはなんて──
「兄さんってば。もう、またで──兄さん?」
秋葉の瞳が戦慄く。
「どうかした?」
「兄さんの瞳、蒼い」
言いながら秋葉は手を伸ばし、志貴の頬にそっと触れた。暖かな体温が流れ込んでくる。或いは奪われていく。
「綺麗な瞳」
とろんと、とろけそうなほどに潤んだ瞳が見上げてくる。それだけで、堕ちてしまいそうなほどの官能を覚える。はて、秋葉はこうも艶かしい女だったろうか。
「こんなにも澄んで」
手のひらが頬を撫でる。這い上がってくる。眼鏡を押し上げて眼球に触れようとする。視界がひび割れる。ツギハギに塗れる。ほんの少し力加減を間違えたら壊れてしまう世界。秋葉の体に走る線。ごくりと生唾を飲み込んだ。
「そんなに私を殺したいですか?」
その髪が、深紅に揺らいでいた。
「そんなわけないだろ」
志貴の手の中で蠢いていた指先がフッと力を抜く。目を閉じた秋葉の姿が愛しくて、志貴は思わず抱きすくめていた。
「誰が、お前を殺すか」
そんな、夢。
Hunting High and Low.
「え──」
ぽかんと、まるでこの出来事が信じられないと、キャスターの表情が語っていた。薄れていく己の体を見下ろし、一度主の顔を見つめ、もう一度消える体を見下ろした。そうしてから今にも泣き出しそうな表情を作ったキャスターは、一言も口にしないまま消え去った。
「いい心がけじゃない」
遠坂凛がぼうっと呆けていた顔に一際早くキリッとした表情を戻して、髪をかき上げながら言った。
「セイバー、ライダーをお願い」
「……わかりました。行きましょうシロウ」
「待ってくれセイバー。俺は助けを呼ぶ」
「じゃあ綺礼に頼みなさい。番号は教えたでしょ」
「聞いた。それと遠坂」
「はあ……ったく、わかってる。殺さないわよ」
「ああわかった。信じるぞ」
最後に何か言いたげに志貴を一瞥してから、士郎は教室から駆け出していった。
「さて、じゃあ廊下に出てくれる? 抵抗なんてしないで。何も殺そうってわけじゃないんだから」
凛は背中を見せて廊下に出る。志貴はぼうと突っ立ったまま、その後姿を見送った。
「行け。ここで戦うわけにはいかないだろう」
アーチャーが無表情に言う。こくりと頷いて、志貴も廊下に出る。廊下にはライダーとの戦いの傷跡が色濃く残っていたが、それも当然だった。志貴が今まで死闘を繰り広げていたのだ。窓ガラスは割れ、ライダーが刻んだ床には大きな亀裂ができていた。だがつい数秒前まで戦っていた自分を思い出せず、志貴は小さくため息を吐いた。
全てがぐちゃぐちゃだった。死の線のせいか。それともキャスターの手酷い裏切りに、参っているのか。両方だと志貴は自答した。長時間死を見すぎたことで脳味噌は壊れかけのラジオの如くノイズ混じりで、キャスターが人を食っていたという事実でノイズは視界にまで広がっている。真っ暗だ。前が見えない。右も左も上も下も見えない。知っている、これは貧血のときと同じだ。
「顔が真っ青よ。遠野志貴さん」
凛の澄んだ声が、志貴を立ち戻らせる。しかし視界は真っ暗のままだった。汚泥に顔面から飛び込んだような視界。目を凝らせば何かが蠢いている。
「……俺の、名前を?」
「衛宮くんが言ってたから」
「ああ……そっか」
一成が士郎に紹介していたのだと思い至る。士郎と凛が協力関係にあるなら、知っていて当然だった。士郎が言わなかったとしても、あの少女──セイバーが言うだろう。
志貴は眼鏡を付けた。最早魔眼に用は無い。視界に渦巻いていた反吐の出る死の線が消えていく。ノイズが薄れていく。それでようやく人心地ついた志貴は、ため息もそこそこに両手を広げる。その様は殺してくれと言わんばかりだった。凛が眉をしかめる。
「殺してくれってこと?」
「いや──」
志貴は首を振る。無表情だった顔に僅かな感情の色が差した。暗い感情の色が。
◇
「──死ねないんだよ」
にこりと、屈託なく志貴は笑う。その笑みを見て、凛は唇を噛んだ。目が笑っていないことに気付いたからだった。眼窩には底なし沼のように虚ろな穴が広がっていた。絶望に塗れている目だった。今まで青かったものが黒くなったせいかもしれないが、とにかく凛は汚物を見る目でじっと志貴を見つめて、小さく息を吸った。
「どういうこと」
「言ったとおり、死にたくない。だから、きみかそのアーチャーを倒したい。逃がしてくれるってんなら嬉しいけど──」
顔は笑っているが瞳に反応が無い。ただ惰性で返答しているだけという感じ。薄気味が悪い。まるで生気を感じない。いくつもの理性が混濁している異常。遠野志貴の感情と理性と本能が全てまるで別のベクトルに向けて伸びているような。
「──どうするんだ?」
志貴が問うてくる。凛は改めて志貴の顔を注視してみた。肌は土気色。唇は真紫。眼窩は落ち窪んで、これが魔術の人形だといわれても信じるほど、人間の色が欠落している。
「どうするもなにも──」
右手を突き出す。正しくは人差し指を。文字通り、人差し指で志貴を指差して、
「とりあえず風邪引いてもらうから……」
ガンドと呼ばれる呪いを打ち出す。黒い病魔術の塊。遠坂凛という優秀が本気で打ち出せば、それは最早呪いではなく質量を持った兵器になる。人一人殺すくらいのことはわけないのだ。ただし、今回は手加減してある。掠れば風邪。直撃で立っていられなくなる程度。
指先から放出される呪いの塊。それは弾丸の速度を以って志貴に飛び掛る。ガンドが飛ぶ一瞬の間隙、そこで凛は志貴を見た。目に飛び込んできたのは蒼い瞳。美しい、何らかの魔眼。
──メガネを?
外していた。悲しげな微笑を無表情に変えて、遠野志貴はナイフを握っていた。短い。サーヴァントと戦うにはあまりにも頼りない武器を、自分目掛けて飛んでくるガンドに突き立てる。物質を、架空要素に突き立てたのだ。ただ、それだけでは無駄だ。魔術は魔術で以って初めて相殺される。あのナイフに対魔術の属性が付加されているか、或いは遠野志貴自身に強い耐魔力がなければならない。
だが、凛のそんな思惑とは裏腹に、呪いが霧散する。消えた。僅かな残滓も残さずに。まるで初めからなかったように魔術は殺された。故に、理解不能の現象だった。指の一本も動かせないような顔をしていながら、弾丸よりも早く動いた不可思議。そして魔術の弾丸を消すという異状。果たしてそれは、人間の業か。
志貴が駆け出した。
「凛、退け! 早くしろ」
アーチャーも油断することがあるらしい。逼迫した叫び声を聞きながら思った。
立ち位置が悪い。非常に悪かった。凛は先に教室を出て、志貴はアーチャーに押されるように出てきた。だから、風のように突進してくる志貴と凛の間には、何の障害も無いということ。
アーチャーもまた風になっていた。しかし間に合わない。何故なら、志貴のほうが速い(........)。
何故矢を射ないのかと疑問に思ったが、その答えはすぐに見つかった。これも立ち位置。アーチャーが矢を射て、万に一つ志貴に避けられた場合、直撃を受けるのは自分なのだ。
「アーチャー……」
決死の形相のアーチャーと無表情の志貴を見比べる。あのアーチャーが人間らしく見えるなんてことが信じられなかった。いつも皮肉ばかりで冷たいように見えるけど、アーチャーにはちゃんと感情がある。笑うし、怒る。冗談を言うことだってある。でも、遠野志貴にはそれがない。ただ、眼前の標的を狩るためだけの、殺戮機械。
──なんだこれ。
「ふざけないで……」
──こんなインチキ。
「認めない」
顔が熱くなる。こんなやつに殺されてたまるかと打開策を模索した指が、ポケットの中の宝石に当たる。それを全身全霊で開放すれば、間違いなく志貴は殺せるはずだ。けれどヒートアップした感情とは裏腹に、魔術師としての遠坂凛は退けと命じていた。今は魔術師としてここに立っている。ならば優先されるべきはそちらだ。
右手をポケットから出して、後ろに力いっぱい飛ぶ。そうしながら左手を再び志貴に向けて、戦闘機の機銃掃射のようなガンドを撃った。凛にしかできない、凛以外はしようとしないガンドの使用法。効果は絶大だ。志貴は体を捻って避けようとするが、足がもつれたのか体を大きく前傾させた。その上を運良く(...)ガンドが通り過ぎ──。
「な、んで」
加速する。地面に鼻を擦りそうなほど体を折って、なぜかそんな体勢で志貴は加速した。それは人間業じゃない。神業でもない。それはただ劣悪で、どうしようもなく下劣で、吐き気を催すほどの外道。
今から魔術で体を強化したところで、焼け石に水。あの速度から逃れる自信はどこにもない。かと言って打ち合う力など元よりありはしない。ライダーと互角に戦うようなやつと渡り合える人間など居ない。
ポケットの中を弄る。宝石を握る。数に限りがある凛の隠し玉。Aランクの魔術を予備動作無しで打ち出せる秘密兵器。
人間相手に使うのか──。
心の中で誰かが呟いた。そうだ、使う。出し惜しみはできない。出せば志貴は粉々だろう。けれど出さなければこっちが死ぬ。こいつは、狂人だ。
「図に乗るな、小僧」
凛が宝石を取り出したのと、アーチャーの底冷えする声がしたのは同時だった。凛は咄嗟に顔をあげ、僅かに意識を逸らした志貴の視界から逃げるように横に跳んだ。
アーチャーが双剣のうち片方を思い切り投げたのだった。ブーメランのように飛ぶそれは風切り音をたてながら志貴に向かって飛んでいく。志貴は低く落としていた体勢から一転して、大きく飛び上がる。減速なんかしない。むしろ更に加速したようにさえ見える。空しく空を斬った剣が窓ガラスを割って外に飛んでいった。
志貴は床を蹴り、地面を蹴り、天井を蹴る。リズムを刻むように、一片の曇りも無い動き。サーカスを間近で見ているような不思議な気分を、しかし凛は改めた。蹴った天井は凛の真上だった。獣の炯眼。うっすらと輝いてさえいる瞳に、真上から睨まれる。
──やば。
逃げられない。右に飛んでも左に飛んでも前も後ろも、どこに跳んでも遠野志貴はついてくる。今ここで脳天を突き刺されるのが先か、少しでも抵抗してアーチャーに敵をとってもらうか。
そんなことを考えているうちにも、志貴は目にも留まらない速度で落ちてくる。蒼い瞳がじっとこちらの急所を見つめている。ぞわりと、左胸の少し下が疼いた。
「図に乗るなと、言ったろう」
凛と志貴の間に隔たりが生まれる。薄桃色の花びら。凛を守るように、志貴の落下を防ぐべく展開される楯。
「──ッ」
妙に温かみのあるそれを見て、志貴の土気色の肌に色が差したような気がした。瞳が戦慄いた気がした。
志貴の足が空中で動く。窓ガラスを蹴って、志貴は軌道を変えた。遠く、十メートルほど離れて志貴が着地する。ひらひらと、紙が落ちてきた。
「無事か」
もう目の前。少し手を伸ばせば届くところにアーチャーの赤い外套が翻っていた。志貴が軌道を変えたのは何も凛を助けるわけではない。アーチャーが迫っていたから、それから逃げただけ。
「大丈夫。びっくりしたけど」
一瞬、まさか見逃そうとしたのかなんて、そんなことを思ってしまった自分に眩暈を覚える。
「君は下がっていろ。矢張り人間だなどと思わないほうがよさそうだ」
「中途半端に人間だから大変なのよきっと……」
「何か言ったか?」
「あいつ、狂いきれてないって言ってんの。キャスターに操られてるにしても、おかしい」
アーチャーはふむと唸って、
「それはまた後にしよう。殺すぞ。文句はあるまい」
片手に白い剣を持って、走った。その後姿を見つめながら、何てバカなことを言ったのかと、再び眩暈を覚えた。
人を殺そうってときに、あんな捨てられた猫みたいな顔をするなんてのは卑怯だ。
なんで私が罪悪感なんて感じるのだろうかと、凛は腹立ち紛れに地面を叩こうとして、先ほど落ちてきた紙に気付いた。それを摘み上げる。
「写真──?」
それは写真だった。『志貴さんの』と水でこすれたような汚い字で書かれた裏。ひっくり返してみると、そこには如何にもなお嬢様が写っていた。赤い髪の少女が、今自分を殺そうとした志貴と一緒に。他にも二人写っている。双子だった。笑顔の割烹着と照れ笑いのメイド服。その二人に挟まれるようにして、遠野志貴と少女が写っている。
志貴は笑っていた。心底楽しそうに。幸せそうに。隣の少女は頭に志貴の手を置かれて、気恥ずかしそうに俯いている。家族か、恋人か、どちらにしろ、あまりにもその光景が日常に過ぎたから。あの鬼のような人間と、同一には結びつかなかった。
「何があったか知らないけど。未練たらたらってことね」
そんなものを後生大事に持ち歩いていて、この変わりよう。そう考えれば可能性というのはひどく限定されてくる。たとえば一緒に写っている女性のうちの誰か、或いは全員が事故にあってしまったとか、殺されてしまったとか。それで聖杯を求めた。ありそうなことだ。想像するだに悲しい出来事でもある。だが、人を傷つけていい免罪符にはならない。
「許すつもりは無い」
自分で確認するように呟いて、凛は立ち上がった。
ちょうど、窓から飛んでいったはずの黒い剣に、遠野志貴が貫かれる瞬間だった。惹かれあう夫婦剣。吹き上がる鮮血。明らかに致命傷。深々と、あの巨大な短剣が突き刺さっているのだから、無事はありえない。けれど、志貴は立っている。
彼を支えるのは途轍もなく強大な精神力か。凛は手の中の写真を見下ろした。恥ずかしそうに俯く少女。同い年くらいのその少女が、ふと自分に重なって見えた。
***
胡散臭い神父の嫌味も耳に入らないほど、上階から聞こえてくる音に気をとられていた。
「……頼んだぞ」
「それが私の仕事だからな」
まだ何か言おうとしている神父の声をさえぎって、士郎は受話器を叩きつける。椅子にもたれかかって昏倒している男性を床に寝かせる。何かと厳しい生徒指導の教諭も、こうなってしまえば形無しだった。
「……くそ、慎二のやつ」
「シロウ。ライダーは恐らく撤退しました。先ほどまで微かに気配が残っていたのですが、今は跡形も無い」
セイバーが頭上を見仰ぎながら言った。本来物音一つないはずの校舎が、ぎしぎしとたわんでいるようにさえ感じられる。アーチャーの繰り出す一撃一撃が空気を打ち震わせる。あるいは、遠野志貴の攻撃が。
「加勢しますか、凛に。相手はライダーと互角に渡り合っています。万が一もあり得なくは無い」
「そういえばセイバー」
「なんですか」
「この前学校に遠野志貴が来たとき、怖い顔してたけど、あの時わかってたのか?」
セイバーははてと首を傾げたあと、小さく首を縦に振った。
「マスターだということはあの時点で解っていました。この街に今存在する魔力を帯びたものは大抵がマスターです。それに、彼は私を見て怯えた。サーヴァントだとわかったからこそ怯えたのでしょう。そういったことから、彼がマスターであるという確率は非常に高かった」
「それはその日の夜に聞いたろ。そういうことじゃなくて、志貴がとんでもなく強いやつだってことがわかってたのかなって」
職員室から出ながらセイバーに返す。セイバーはもう一度黙り込んで、一際大きな剣戟音に顔をあげた。何かを憂慮するような、険しい表情。先ほどからセイバーはずっとこんな顔をしている。
「アーチャーと打ち合えるほどとは思っていませんでした。キャスターの魔力援護あってのものですが、それにしてもライダーやアーチャーと互角を演じるほどの効果を得られる者はそう居ない。己の限界を知り、更にその先があることを理解していなければ魔力による援護など無駄ですから」
「……確かに。体の動かし方を知らなきゃ強化なんて意味が無い」
「そうです。それに、サーヴァントが殺すという行為に徹底した場合、人間は絶対に勝てない。凛という卓越した魔術師が本気でサーヴァントを倒そうとしたところで、私にはそもそも魔術が通用しない。ランサーを相手取れば瞬きをする間も無く殺されるでしょう。ただ、あの少年は違う。あの時、彼に初めて睨まれたとき、恐怖を覚えたのは彼であり私でもあった」
見上げる視線が怒りを孕む。屈辱に揺れる瞳を呆然と見つめて、士郎が思わず立ち止まる。
「セイバーが?」
彼女が恐怖したとは思えない。仮にも魔術使いである士郎は何も感じなかった。瞳に嫌なものこそ感じたものの、他はまるで一般人と変わらない。
「寒気を覚えたのは久方ぶりです。バーサーカーとて、あそこまで薄気味の悪い気配は持っていない。確信ではありませんが、嫌な予感がします」
言って、セイバーが何か決意したように振り向いた。階上からは音が消えている。あれだけ激しかった剣戟の音が僅かにも聞こえない。強化した耳にさえ、足運びの布擦れの音一つ聞こえない。だが、校内を包む空気は明らかに変質していた。世界が挿げ替えられたような違和感。
激しい動悸を覚える。吐き気を覚える。この感覚を知っていると、脳髄が喚き散らした。
「やはり行きましょうシロウ。この魔力量……」
「何か起きてる……」
半ば押されるようにして、階段を駆け上がる。胸の中は信じられない思いでいっぱいだった。同時に嫌な予感も漂ってくる。セイバーは嘘をつかない。話すのはいつも真実だ。彼女が無理といえばそれは無理で、できるといえばどれほど無理に思えてもできる。その彼女が怖気づいたと聞けば、萎縮しない理由は無い。唐突に、凛を置き去りにしたことが心細く感じられたのだ。
「……急ごうセイバー」
足に力を篭めて、一段飛ばしで階段を駆け上がる。目指すのは三階。祈るような気持ちで一階分駆け上がると、むっとした空気が体を包んだ。背筋がずきんずきんと音を立てて痛み始める。この先を見るなと脳が勝手に命令を送ってくる。それがアーチャーの鋭い殺気だと理解するや廊下に飛び出して、崩壊しかけた校舎の様相とは裏腹、外れた予感に胸を撫で下ろす。
「セイバーか、ライダーはどうした」
アーチャーはまったくの無傷でこちらに背を向けていた。アーチャーの後ろには凛が控えている。志貴を探そうとして、しかしその手間は省けた。アーチャーの赤い外套の向こうに赤い血溜まりが覗いている。その中央で、志貴がうつぶせに仰臥していた。ぴくりとも反応せず、血の中に顔を埋めていた。服は真っ黒に染まり、破け、砕けた骨が太ももから突き出している。
「言峰に電話してるうちに逃げられた。それよりおまえ──」
セイバーのかわりに答える。アーチャーはほうとため息を吐いた。
「貴様のたわごとを聞いて殺してはいない。これから腕を切断するが、それはかまわんのだろう?」
アーチャーは振り向き、士郎を嘲笑うようにして言った。その冷笑が引きつっているのに気付かない者はいなかった。何かがあった。アーチャーをして恐れるほどの何かが起きたのだ。
「待ってアーチャー。ちょっとそいつ、聞きたいことがあるの。今腕斬ったら死んじゃうから、うちに連れて行くわよ」
「承知した。すまないがセイバー」
アーチャーがセイバーを見つめる。
「こいつを一人で運ぶのは危険だ。手伝ってくれ」
そんな物言いは、頭でも打ったのかと思わずにいられないくらい、アーチャーらしくなかった。
風が凪いでいた。アサシンは空を見仰いだ。灰褐色の雲が敷き詰められた空を見上げて大きなため息を吐いた。
門番でいろという令を拝命してからこっち、境内に足を運んだのは初めてのことだったが、それを咎める女狐は、赤子のごとく身を投げ出して眠りこけている。
「よもや──」
石畳に眠るキャスターへと近付き、アサシンは嘆息した。
「小僧っ子にあしらわれるとは思わなかったぞ」
アサシンが女狐と称した女は、まるっきり赤子だった。体を横たえて眠る。事もあろうに、ローブの奥からは涙が一筋流れている。令呪の縛りとは言え、このような顔を見せられるとは露程も思わなかった小次郎は改めて頬を凪ぐ風に身を委ねた。
今朝方までは愚物に過ぎなかった小僧が、知った途端にこれでは、たかだか魔女ごときに掌握できる相手ではなかったということだ。
「まこと愉快なことよな、キャスター」
ピクリとも反応しないキャスターを見下ろし、アサシンはくつくつと笑った。ひとしきり笑うと、アサシンはキャスターを引き起こして肩に抱く。
「これで貴様も目が覚めよう」
もう一度笑って、アサシンは寺の本堂にキャスターを寝かせた。その顔を二たび見ることもなく、アサシンは山門へと引き返す。途中、一陣の風が山を吹き抜けた。心地よい冷気。寒さを感じる体ではなかったが、その冷気の正体に僅か頬を引き締めて、アサシンは再び踵を返す。
本堂に入り込み、情けない姿をさらすキャスターの脇に腰掛けた。キャスターのフードをはぐる。涙のあとを残したまま眠りこける女は、見るも美しい女性だ。初めて見た素顔に少なからず驚くが、アサシンはすぐに表情を引き締める。背中の物干し竿の柄に手を添えながら立ち上がった。
キャスターを殺せば、己の存在は露と消える。
「覚悟はできていよう」
ひたすらに研鑽し、研鑽の上に研鑽を重ねとうとう手にした秘剣。それも人相手に振るうことなく消えた。
「全てはこの機会のために……構わぬ、人の生で目的を見出せたことこそが至福。燕を切れるだのと、つまらん技に注ぎ込んだ人生よ。だが──」
たとえ怨霊と化したとしても、その願いこそが生だった。
「機会を与えたのはおまえだろうキャスター。ならばその責任くらいは果たせ」
迷いは消えた。アサシンは背に佩いた長刀を抜く。薄暗い堂の中で鋭く輝く刀。それを流れるような動作で上段に構える。あくまでも流麗に、美しく、舞うように構えられた刀を、
「許せ」
打ち下ろした。
Hunting High and Low.
息を吐く。呼吸を合わせる。熾天覆う七つの円冠(ロー・アイアス)を解除し、志貴の呼吸を見る。僅かな呼気にも耳をそばだて、微細な筋肉の収縮を捉えるべく透視する。解析不能は相も変わらず瞳。能力を図ることはできないが、何かを視るタイプの魔眼であることは間違いない。背後からの投擲を避けたことから想像するに未来視の確率が高い。
もう一息吐いて、アーチャーが突進する。右手に持ち替えた陰剣莫耶を真横に構える。志貴は様子を見るように動かない。地面を蹴り、真正面から飛び込むと同時に、横薙ぎの一閃を放つ。志貴はバックステップで容易く避けた。
空間把握の能力がずば抜けていることは凛を真上から狙った動きでよくわかった。どこにどう飛べば最速でいられるかを理解した、無駄の無い動き。それに加え、魔眼と魔術による補正。生身でもそれなりの機動力を誇るだろう身体は、英霊並の速度を持っている。
──これ以上は考察のしようが無い。
舌を打ち、再びアーチャーが駆ける。一歩で間合いに入り込み、二歩で踏み込みの体勢に入る。下段から斬り上げられた短剣を、志貴はスウェーで避ける。そこで、ようやく志貴の腕が動いた。アーチャーの右側に避けた志貴は、弓なりにしなった上半身をバネにして、心臓を突き刺そうと腕を突き出した。
速く、正確な突き。だが甘いとばかりに腕を振り下ろし、ナイフを叩く。金属音が響いてナイフは腕ごと弾かれる。追い討ちの薙ぎを放つが、そこに志貴は居ない。無意識に動いた眼球が、背中に回ろうとする志貴を捉えていた。視界の下隅。あの前傾し過ぎた姿勢で、志貴が駆ける。
「──フン」
右腕を再度打ち下ろし、志貴を追撃する。志貴のナイフは莫耶に吸い込まれるように動き、アーチャーの一撃を容易く受け流した。絶妙の力加減で、下手をすれば折れてしまいかねないナイフを防御に使う。
志貴の目と目が合う。未来を視ようとする瞳がぎらついた輝きを見せて、刹那襲った悪寒に莫耶を振り回した。狙うのは急所。ランサーとの戦いならばいざ知れず、人間を相手どるならば受けに徹する必要は無い。首を狙い、手首を狙い、心臓を狙い、足を股間を、思いつく限りの急所めがけて干将は振るわれる。竜巻のような風を孕んだ猛攻を前に、回避を諦めた志貴が立ち止まり防御し始める。場が膠着する。響くのは落雷のような金属音。一撃ごとに衝撃が空中に伝播し、耳朶をゆする。互いに踏み込めず、退けない斬りあい。それこそが、アーチャーが整えた磐石の如き策。
窓の向こう。黒い陽剣干将が飛来してくるのを感じ、アーチャーはほくそえむ。互いに動けない状況を作り出す事こそがアーチャーの狙い。ライダーの二刀を防いだ志貴を相手に、単純な打ち合いでは勝率は低い。故に、奇策で以ってこれを討つ。
小さく細かく。志貴のナイフをも凌駕する速度で莫耶を振るいぬく。十の牽制の中に一の必殺を交え、落雷は最早雨のようだった。未来を視ようが動けない勢いと力で、志貴を圧倒する。志貴は的確に必殺を見抜く。否、全身全霊をかけて見抜く以外に手は無い。たった今校舎内に侵入してきた陽剣干将の姿も、志貴には見えているだろう。そして、それに貫かれる己も視えているはずだ。だが、視えていてもどうにもならないものがある。見捨てなければならないものがある。
──貴様はここで、己の命を見捨てる。
志貴の表情は変わらない。だが焦りが透けて見える。ナイフに篭められていた殺意が薄れる。死をイメージさせる瞳から力が逸れている。つまり、志貴は結末を知った。貫かれ終わる己を知った。依然、表情は変わらない。そして、結末も変わらない。
「見えたか」
呟く。剣戟は僅かにも弱めず、一撃一撃を必殺に替え、あわよくば志貴を殺すべく振り下ろす、振り上げる。
「聞こえたか」
干将のその様は鎌鼬。空を切り裂き、莫耶を目指す。邪魔者は空気でさえ切り裂きながら飛ぶ。距離は一メートルと離れていない。アーチャーは猛然と仕掛ける。志貴はそれを防ぐ。一撃とて取りこぼせば即座に命を奪う攻撃を、志貴は決死に打ち返す。
アーチャーの策が完遂される。ずぶ、と肉が引き裂かれる音がする。命が零れ落ちる音がする。背中から深紅の血液が噴水のように吹き上がり、志貴は盛大に吐血した。
大きく揺らいだ志貴の体を見、最早死は免れないと悟ったアーチャーが莫耶を振り上げる。干将は尚深くめり込もうとしていた。それから逃れるための慈悲の行動だった。莫耶を振り下ろす。倒れる志貴の心臓を目掛けて突き落とされる莫耶。だがそれは、今までの猛攻に比べればひどく緩慢で薄らのろい攻撃だった。
鋭い眼光。陽の下にあって輝きさえ見せるそれが、一際強く力を放った。
「遅い」
その声に悪寒を感じたときには遅かった。志貴のナイフが爆薬推進でも得たかのような速度で伸びてくる。莫耶に吸い込まれるようにとび、そして通過していく。衝撃は無かった。志貴の腕は振りぬかれているのに、アーチャーの右手は何の感触も得ていなかった。莫耶を握る感触(.......)さえも、アーチャーの右腕には無かった。徒手空拳の体で、アーチャーは右腕を突き出していたのだ。
志貴の左腕が動き、背中の何かを掴んだ。引き抜かれた黒い剣。それに志貴はナイフを突き立てる。それで、干将は死んだ。跡形も無く消え去り、その破片も残さず、この世界から消え去った。いったいそれは、どれほどの異常か。
──それが、どうした。
「見くびるなよ遠野志貴」
アーチャーが駆ける。干将莫耶を振るう。二刀の攻撃は一刀のそれとは比較にならない速度だった。単純計算で二倍。そして、殺されようとも無限に生み出せる剣。それを、瀕死の重傷を負った人間如きが覆せる道理はない。
それを悟ったのか志貴は六度打ち合うと距離を離す。一歩で十メートルも後退する離れ業をやってのけると、直後猪のような突進を見せる。ぼたぼたと血の足跡を作りながら突っ込んでくる志貴を、アーチャーは双剣で迎え撃った。突きの軌道を左手で逸らし、右手で逆に突く。だが堂々巡り。どうあってもアーチャーの剣は当たらず、心眼の前に志貴の攻撃も当たらない。
渾身を篭めて放った一撃が、志貴のナイフに当たって消える。すぐさま次の莫耶を投影し、干将で牽制する。
この状況に幸運があるとすれば、志貴と戦っているのが剣を生み出せるアーチャーであったということ。万が一、セイバーの剣さえ殺せるのであれば、彼女の敗北は必至だっただろう。ならば、己で良かった。目的を果たす前に、彼女に倒れられては意味がない。
アーチャーは無表情にナイフを振る志貴を見据えた。
察するに干将莫耶を消したのは魔眼の能力。だが、三度打ち、一度消される。故に、魔眼の能力は完全ではない。触れたもの、見たものを消すタイプのものではない。モノを消すためのトリガーがある。そのトリガーさえ引かれなければ、消されることはない。
踏み込む。隙の少ない攻撃を重点的に繰り出し、志貴の反応を見る。しかし、志貴の挙動におかしなところはない。発動するのに何か唱えることも無ければ、体に変化も訪れない。
焦れる。背中に大穴を開けた人間にここまで追いやられていることへの焦りと、底知れない能力への焦り。
アーチャーは二刀を同時に振り下ろし、志貴のナイフを同時に弾く。そうして力の限りに後退した。そこに、ちょうど凛が居た。眼をまん丸に見開いて呆然としている凛の頭を軽く小突いて現実に引き戻す。
「アーチャ、あんた剣がたくさん消え……!!」
志貴が駆け出した。アーチャーの左手には真紫の輝きを持つ弓。次第に魔力が固着し、干将と同じく光沢のないゴシックブラックに変化する。
「下がれ、生徒の命は保障できん」
右手には青白い光を放つ矢。それを三本弓に番えると、アーチャーは息をつく間も無く弦を引いた。横に走る稲光。音も無く飛んだ矢は十。更にアーチャーは弦を引き続け、二十にも届く矢の雨は廊下いっぱいに展開しながら飛ぶ。逃げ場は無。後退して避けられる速度ではなく、真正面から受けられる数でもない。だが志貴は、己の進行方向にある矢のみ煮ナイフを走らせた。一瞬その場で停止した矢は、切断されぽたぽたと地面に落ちた。
「うそ」
「凛。君もガンドで応戦しろ。手数は一つでも多いに越したことはない」
アーチャーが矢を放ちながら叫ぶ。すぐさま頷いた凛が人差し指を突き出す。左前腕部に刻まれた魔術刻印が淡い蛍光色を伴いながら脈動し、魔力の式を組み上げた。空気を凍らせるほどの魔力の高鳴り。だが、それは志貴の放つ異常に相殺され、子犬の猛り程度にしか感じられない。
「Fixierung,EileSalve(狙え、一斉射撃)――!」
邪悪そのものの黒い弾丸がマシンガン掃射さながらに撃ち出される。先ほど志貴が消したガンドとは質の違う、最高級の殺意の権化。
アーチャーの矢とあわせた総数は最早数え切れない。鼠の小躯であっても逃げ道など無い、魔術に侵され尽くした空間。黒と青の光が縦横無尽と飛び交うその様に消しきれないと悟ったのか、或いは何か奇策があるのか。志貴がナイフを見当違いの方向に振るう。それは教室の壁だった。
「何を──」
凛が叫ぼうとした瞬間、二の句を告ぐまえに、志貴は教室の壁に体当たりを仕掛けた。壁が直線を無造作につないだような、歪な円形に切り取られ、型抜きの要領で倒れていく。常識外の方法で教室に逃げ込もうとしたその足に、ガンドが突き刺さる。ショックで体が硬直した瞬間、次いだ矢が逆の足の太ももに命中する。ぶちゅと肉の潰れる音がした直後、志貴が体勢を崩し、床に倒れこむ。太ももからは白骨が顔を覗かせていた。
「あ」
「……最早加減も無い。接近して殺されるなどと、笑い話にもならん」
「ちょ、アーチャー」
「凛。動いたら撃て。やつが教室に入れば厄介なことになる」
言って、アーチャーが眼を閉じた。凛は釈然としない顔をしながらも、アーチャーの言葉に頷く。志貴の異常性をその眼で見れば、生かしておこうなどと考えられるわけもなかった。宝具クラスの武器をいとも容易く消した挙句、サーヴァントと対等以上の勝負をする人間。それは、最早人間などではないからだ。
人間離れでは、サーヴァントには追いつかない。殺し合いにおける類稀なセンス。殺すことに長けた類稀な能力。そこに、キャスターという力が加わって、遠野志貴は英霊並の力を手に入れている。
アーチャーの全身から魔力が吹き上がる。凛はそれを見て、とうとうアーチャーが本気なのだということを知った。
恐らく、彼は宝具を使おうとしている。人間相手に、バカな話ではある。だが、笑えない。笑おうとも思わない。魔術師でもない人間一人を相手に、遠坂凛とアーチャーが苦戦を強いられたのだ。苦戦などという生易しいものではなかったかもしれない。一歩間違えれば死んでいた。だから、アーチャーは腹を括った。ならば凛もまた、覚悟を決めるときだ。
志貴は動かない。ごうと空気が鳴った。アーチャーの左腕が掲げられる。
「──投影、開始(トレース・オン)」
「え……?」
驚きの声は果たしてその呪文に対してか、はたまた志貴の頭上に現れた無数の名剣に対してか。どちらでもいいと、アーチャーは断じた。アーチャーが瞳を開く、左腕で志貴を指差す。すると、天井から氷柱のように垂れ下がった十本の剣。それが、
「消えろ、遠野志貴」
落雷のように落ちた。
それは完膚なきまでに完璧な殺人だった。
音が聞こえる。肉を裂き、骨の砕ける音。削岩機に人間をかければこんな音がするのだろう。人間の体を挽肉にしかねない最凶の暴力。凛は目を逸らしそうになる。その直撃を受けて無事で済むのは、人間はおろかサーヴァントでさえあり得ない。だが、それを見届けるのが遠坂凛の使命だ。生け捕りなど最初から望まない、時代錯誤の侍みたいな男。そいつは覚悟の果てに、こんな結末を迎えた。己のサーヴァントに裏切られ、それでも役割を果たしたのだから、遠坂凛はその死を見届けなければならない。
「とんでもないヤツ……」
立ち上る土煙は、床を砕いた剣が生み出したものだ。濛々と立ち上る煙。その中に鮮やかな朱色が混ざっているように見えるのは気のせいではない。血煙。夫婦剣の直撃でその大部分を失ったと思わせておきながら、真っ赤な鮮血は飽きることなく吹き上がる。
土煙が徐々に晴れていく。真っ赤な血が床を伝ってくる。じわじわと広がってくる血を見て、映画でも見ているようだと場違いな感想を得た。
ふと耳を澄ますと、ぴちゃんぴちゃんという音がしていた。吹き上がった鮮血が天井から滴っているのか。その光景を思い浮かべ、忸怩たる思いで志貴が開けた大穴を見つめた凛は、あり得ない方向から音がしていることに気付く。背後。アーチャーと凛の背後で、血の滴る音がする。
アーチャーは既に振り向いていた。凛も背後を見た。外壁が真円に刳り貫かれていた。歪ではなく真円に。その抜き型が床に無造作に落ちている。その上に、遠野志貴が立っていた。満身創痍の体に血で染まっていないところなど無かった。髪も服も腕も足もどこもかしこも深紅、あるいはどす黒く染めて、志貴は片足だけに体重を乗せて立っていた。右足は潰れていた。左腕もだらしなくぶら下がっている。
「そう、か」
"I am the bone of my sword."
耳元でアーチャーが呟いた。
"Steel is my body,and fire is my blood."
空気が変化していった。
"I have created over a thousand blades."
己の存在が希薄になり、世界から乖離していく。
"Unknown to Death.Nor known to Life."
圧縮され凝縮され行き場を失った大気がどこかへ流れていく。
"Have withstood pain to create many weapons."
例えばソレは別の世界──。
"Yet,those hands will never hold anything."
志貴は何かを感じ取ったように走り出した。異常は更なる異常を呼び、相乗効果で高まり尽くした魔力が炎となって地面を焼いた。
だが凛には最早そんなことはどうでもよかった。その呪文があまりにも悲しくて、あまりにも切なくて。最高位の魔術を行使しようとする皮肉屋のサーヴァントに、ある人物の影が重なって……。
"So as I pray──"
「エミヤ……くん」
頬を伝う涙は何なのか。地を走る炎が焼くものは何なのか。そしてなにより、
「unlimited blade works.」
その声を聞いているのが何よりも辛かった。
赤銅に世界が変質していく。そこだけ世界を塗り替えるように、下書きの上にまるで違う絵画を塗りたくるように。炎が走ったその内部だけが、荒れ果てた荒野に成り代わる。
遠く空で動く巨大な歯車。燃え盛る幻視の炎。その姿はさながら製鉄所。荒れ果てた土地に突如現れた製鉄所。大地に刺さるのは無数の剣だ。古今東西あらゆる名剣を作り上げては地面に突き刺さっていく。ただそれだけの空間。そこに存在を許されたのは、この世界の主と、遠坂凛。そして、呆然と足を止めた遠野志貴だった。
「固有結界……」
凛もまた呆然の体で呟いた。アーチャーは閉じていた瞳を開け、背後で足を止めた志貴に向き直る。
「驚かされるばかりだよ。本当に」
アーチャーはおどけるように言って、それから舌を打った。心底忌々しげに、遠野志貴に向けて殺意を剥き出しにする。
「イレギュラー中のイレギュラーだ」
「あんた、アーチャーじゃなかったの」
「私はアーチャーだよ。生前、ほんの少し魔術を齧っただけの、魔術師ではあったが」
「何が……ほんの少し。固有結界なんて、大魔術じゃない」
アーチャーの左腕がゆっくりと掲げられる。志貴は相変わらずナイフを構えている。あれだけ縦横無尽に駆け回った志貴が、凛には小さく見えた。これだけ広い空間を前にすると、あの志貴が猛獣の前の兎でしかなかった。最早志貴には、脱兎のごとく逃げ出すしか術がない。しかし、このアーチャーの世界には、その逃げ場さえない。校舎の中にはいくらでもあった遮蔽物も、一面の荒野には存在しない。詰み。まさしくその通りだった。
「ハ──」
だが志貴は笑う。絶体絶命の窮地に何を思うのか。自嘲めいた微笑は静まり返った世界で場違いに響き渡る。
「無様」
それを己を卑下する言葉だとは思わなかった。高みを目指す引き金。小さな自嘲に篭められた万感の思い。ただ薄ら寒い笑みに身を震わせて、凛はアーチャーを窺う。既に平静を取り戻したアーチャーは、左手を掲げたまま微動だにせず志貴を見つめていた。
「モノを殺す魔眼……か」
何かを惜しむような声色でアーチャーが言った。同時に、志貴が飛ぶ。一直線に、間合いを詰めるべく飛んでくる。だが、片足が潰れていては速度は半減どころではなかった。もとより、既に生きていられる傷ではなかった。この広大な世界も影響しているのだろうが、それは容易く捉えられる速度だった。
アーチャーの左腕がゆっくりと下げられる。代わりにその両手に握られたのは夫婦剣だった。音も無くアーチャーが消え。決着となった。
突きを避けられ、その胸を十字に切り裂かれた志貴が倒れ伏すのを見届けた凛は、目を閉じた。
「あんただって、甘いじゃない」
そう強がりを吐いて、震える腕を掻き抱いた。
それは遅れて襲ってきた恐怖だった。
***
目を覚まして、磔になった己の無様を嘲笑う。自由が利くのは僅かに首から上だけ。両手両足を彼の偉人の如く張り付けられ、足元は不気味な魔法陣で囲まれていた。
「……なんてこった……骨、出てる」
五臓六腑には生命力の欠片も感じず、筋肉はだらしなく弛緩し、骨はところどころが砕けている。左腕に感覚は無い。右脚にも感覚が無い。穴でも空いているのか、腹が冷える。鋭い痛みに顔をしかめながら、なによりも眼鏡が無いことに大きな焦りを感じた。
自由の利かない腕を揺すってみるが、五寸釘を指先に突き刺されるような痛みが走るだけ。視界を遮るためには目を閉じるしかなかった。
心臓の鼓動にあわせて全身を駆け抜ける痛みを堪えながら、志貴はぼうと呆けてみる。お気に入りのジャケットも、買い換えようと思っていたスニーカーも、みんな台無しになった。剣に突き刺され、黒い弾丸で打ちぬかれ、無事な生地を探す方が難しい状況のジャケット。自分の血でぐしゃぐしゃになったスニーカー。ソックスは血が凝固してガチガチに固まっていた。
「それより、骨」
左腕と、右太ももから白骨が顔を覗かせている。道理で感覚が無いわけだと納得して、その傷口を見下ろしてみる。太い骨が、大腿部から真っ直ぐに突き出していた。恐らく砕けた骨の欠片なのだろうが、この怪我ではもう歩くこともできない。
「……負けた」
ただ本能に任せて戦って、それで負けた。そも、遠野志貴が殺し合いをするなら、相手に姿を見られないことが前提だったのだ。だというのに、それに気付いたときには既に体はこの様だった。打ちぬかれた足を捨て、片足で二人の背後に回った。だが、出血はとうに許容量を超え、十本の剣が降って来たときには、殺し切れなかった八本の剣によって内臓にまで至る大怪我をしている。右腕と踏み込みの左足だけを死守したが、限界は超えていた。加えて、変質した世界。アーチャーの力が数倍にも膨れ上がる恐怖。今生きているのは病床の妹から吸い取っている生命力の加護に過ぎない。
「まだ、オマエに迷惑掛けてる」
妹を救うために妹を犠牲にしているジレンマ。己の命一つ絶てば救えるかもしれないのに、それに賭けられない無様。
忸怩たる思いで項垂れると、ふと足音が聞こえた。咄嗟に身構えようとしたが、囚われの体はズキンと大きな痛みを訴えるのみで、まるで動こうとしなかった。だが目は開く必要が無かった。目を閉じていても感じる気配。あまりにも高貴な、自分と対極の気配。
「起きたか」
──セイバー。
噛み締めるように最強の称号を口にして、志貴は小さく息を吐いた。
「ああ、起きた。ここどこかな」
「凛の邸宅だ。しかし、よく生きていられるものだ」
言いながら、セイバーが近づいてくる気配。目を閉じたままに身を竦ませて、何が起きても驚かない覚悟を決める。
「魔眼殺しか。凛が驚いていたほどのつくりだ。まさか貴様の創作ではないだろう?」
だが、意に反してセイバーの剣戟は訪れなかった。代わりに、耳にかけられる慣れ親しんだ感触。志貴は思わず目を開いてメガネを確認する。視界からはツギハギが消え、正常な光景に戻っている。だが、安堵のため息をつくより先に、眼前で睨み付けてくる見知らぬ少女に面食らった。
「貴様、何を見ている」
セイバーは凛や、教室で昏倒していた生徒達と同じ制服を着付けていた。佇まいは深窓のお嬢様といった風情であり、鎧甲冑の厳しい少女を想像していた志貴は、目を見開いて上から下からその姿を確認する。
「そうしてると、かわいいもんだ」
己の言動に非を見取ったときにはもう遅かった。首筋に「何か」が突きつけられていた。恐らくはセイバーの獲物。だが、姿が見えなかった。セイバーというからには剣なのだろうと想像するのだが、その切っ先から柄まで、僅かたりとも姿が見えない。
だがセイバーは確かに踏み込んで、志貴に剣を突きつけたのだ。
傍目に見ればセイバーは徒手空拳の眼光のみで志貴を威圧しているように見えるのだろうが、頚動脈を圧迫するのは間違いなく殺意の塊だ。
「あまり、調子に乗るな。私は今すぐにでも貴様を──!」
セイバーの瞳に明瞭な殺意が宿る。美しい緑色の瞳に闘気と殺気が入り混じり、美しく輝く。死の暗示を真っ向から見据えながら、志貴は無表情に口を開いた。
「……今、何時」
「──夕食時だ」
腹はすいていない。
「で、俺は殺されないのかな」
「令呪を使い切れば殺さないと。使わなければ私が腕を切り落とすことになるだろう」
顔をしかめる。とっくに襤褸切れのようになった左腕なら切り落とされても痛みさえ感じないだろうが、腕を失うのは大きな痛手だ。
「セイバー。その辺にしてくれないか。お前が悪役みたいで、その口調は好きじゃない」
「シロウ……」
セイバーが突きつけていた剣を納めながら振り返る。制服姿の衛宮士郎が立っていた。
「遠坂が新しい服くれるってさ。俺、そいつと話があるからちょっと外してくれるか」
「一人では危険ですシロウ」
「遠坂の魔法陣で捕えられてるんだ。大丈夫だろ。それに、アイツも見てるみたいだし」
言って、士郎は部屋を見回した。『アイツ』を探しているようだった。セイバーは部屋の一点をにらみながら、項垂れた。
「……アーチャーとて、私は信用できない」
セイバーが俯く。
「心外だな。そこまで言われては、私もそいつに手を出さないと約束せざるを得ない。何せ、協力関係とやらにあるらしいからな」
くつくつという嘲笑が聞こえたかと思うと、部屋の片隅に現れたのはアーチャーだった。赤い外套を纏った、白髪の騎士。大仰な仕草で腕を組むと、アーチャーは背中を壁に預けた。
「それより遠野志貴」
アーチャーが目を閉じたままくつくつと笑った。
「貴様、令呪はどうした?」
くつくつ、くつくつ。いやらしい笑いが薄暗い部屋に響く。意味を図りかねた志貴が首を傾げると、訝しんだセイバーが志貴の左腕を強く握り、手の甲を穴が空くほどに見つめる。
感覚が無くなった腕は痛みも伝えなかったが、飛び出した骨がギチと動くのを感じて、顔をしかめる。
「裏切りの魔女……か」
再びアーチャーが笑って、志貴はようやくセイバーが握る己の腕を見た。だらりとぶら下がる手首を窺い、違和感に気付いた。
血の気が失せていく。何故もっと早く気付かなかったのかと焦りを覚える。この数日常に感じていた繋がり。それが消え失せていることに何故気付かなかったのか。
「令呪が──」
無い。
「キャスター……?」
「哀れなものだな」
裏切り。頭に浮かんだ言葉を慌てて拭い去る。そんなはずは無い。だが、言い切れるのか。前マスターを殺したというキャスター。己の思い通りに動かない志貴に腹を立てたとしてもおかしくはない。だが志貴は別の可能性を脳裏に過ぎらせた。令呪が消える理由はもう一つある。
「キャス……タ」
彼女の、死。
アサシン──佐々木小次郎は山門に腰掛け、生まれて初めて斬った柔肌の感触を噛み締めていた。
快楽など無い。悦びも無い。あるのは空しさと、ほんの少しの達成感。この先、己がなすべきことに対する好奇心。既に失せたキャスターのことは頭に無かった。ただ斬った肌の感触のみを剣とともに佩いていた。
キャスターのマスターへの興味は尽きなかったが、所詮は畑違いの者。一目で筋違いの才を見抜けるほどに卓越しているわけでもない。故にベクトルは剣士(セイバー)を名乗る少女一人に向けられていた。
再び立ち寄る。その自信があった。故にアサシンはキャスターの後を追わず、少女の帰りを待つことにした。
境内に人の息吹は無い。皆寝込んでいる。ある者は熱を出し、またある者はぼうと呆けたような格好で眠っている。柳洞寺は閑散とした冷たい風に凪がれていた。だがそれも、じきに元通りの姿を取り戻すだろう。
市内一体を包んでいたもの悲しげな邪気は既に霧散し、今は残滓が方々に散るのみ。なんのかんのと悪役に徹しきれない女狐の甘さを肴に、アサシンは清浄な空気を吸い込んだ。思えば召喚されて始めて吸う空気でもあった。キャスターに汚染された空気ではなく、大気そのもの。だが、そこはかとなく香る苦味に、アサシンは舌を打った。
「住めば都か。あんな空気でも、私にしてみれば羊水のようなもの」
ありがとうなどと、初めて人間らしい言葉を発したキャスターの顔を思い出し、アサシンは笑った。高らかに笑って、やれやれと山門から地に降りた。石段の左右を取り囲む雑木林。そこに異様の気配を悟って。
「邪魔立ては、させぬ」
彼女の覚悟を穢されぬために、アサシンは刀を抜いた。
Hunting High and Low.
「死、んだ?」
震える顎を僅かに上下動させて、辛うじてそう零した。吐息にさえ痛みを覚える体には、声帯を震わせるだけで内側から肉を燃やされるような痛みが走った。だがそれ以上に、確認するように吐かれた言葉が四方八方から圧力をもって纏わり付いてくることが、志貴には苦痛だった。
「令呪、無いのか?」
安堵とも愛惜ともつかない表情を浮かべるセイバーの背後で、士郎が呆然の声をあげた。振り向いたセイバーの頷きに自身の見間違いをも否定された志貴は、足元から瓦解しようとする何かを防ぐべく、床を俄かに強く踏みしめて、大きく深呼吸をした。
「これ、解いてくれないか。もう、俺はマスターじゃなくなったんだろ」
両腕を拘束する赤い光を睨みつけながら言う。深呼吸の後の言葉はひどく冷淡な響きだった。
志貴の言葉にセイバーと士郎は顔を見合わせる。そういうわけにはいかないと結論付いたところで、階上で扉のあく音がした。
「……あなた、教会を知ってる?」
階上に繋がる階段に設置された鉄扉が押し開けられる気配のあと、遠坂凛が僅かに憔悴した顔を覗かせた。
「丘の上の教会なら、一度行ったよ。魔術師でもないから門前払いだったけど」
志貴がむせながら返すと、凛は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「綺礼のやつ、わかってた癖に……。まあいいわ、そこに行けば保護はしてもらえるから、好きにしなさい」
「おい、遠坂、いいのか?」
士郎が驚いたように口を挟む。その声には喜色が混じっていた。凛は士郎をちらと一目だけ窺うと、再び志貴に視線を戻した。
「だってその人街の状況をまったく何も知らないんだもの。それに、もう治癒さえ働いてない。キャスターが死んだのは間違いないわよ」
「凄い速度で治ってるぞ?」
「それはわたしの魔法陣の力」
凛はリボンを揺らしながら階段を降りてくる。その瞳は真っ直ぐに志貴を見ているのだが、真実見ているのは士郎の方なのだと、志貴ははっきり感じ取っていた。目で見ずに、耳で士郎を窺っている。それは級友に対する態度ではなかった。喩えるなら、恋敵の一挙一動を牽制するような。歯車が狂い掛けている。志貴を二の次にしてしまえるような事件があったのか。
どうでもいいと、志貴は首を振った。キャスターの死は誰よりも自分が感じ取っていた。凛にとって志貴が二の次ならば、志貴にとってもこの状況は二の次でしかなかった。
ここで生き残ろうと、キャスターがいなければ死んでいるのと変わらない、聖杯戦争から脱落すれば、志貴に残された道は死以外にない。
秋葉の処断までも時間が無く、藁にも縋る思いで参加した戦争。これが最後のチャンスだったのだ。ここで逃せば、最後の選択肢として残しておいた方法を取るしかなくなってしまう。
それも最早詮無い事だった。死はあれから遅れること一年。刀崎の翁の下で覚悟してきた。故に、最後の手段としての自殺を行使することに対する躊躇いはそう大きくない。
兎角、哀れで仕方が無かった。何も与えられず、何も与えることができずに死んだ女が、また再び無意味に命を刈り取られて終わった。行ったことと言えば千に近い数の人間を布団に篭もらせたことのみ。その、何と哀れで意味の無い生か。
あらためて喪失感が体を包んだ。
「一発、殴らせろ……バカキャスター」
無意味。無価値。彼女が何を望んで召喚に応じたのか、最早知る術もない。ただ、それはとてもくだらない願いだったのだろう。それだけは、実感として志貴は断言できた。くだらない、けれど何よりも尊い願いを胸にして、彼女はこの世に再び現れた。それが、至らないマスターを得たせいで、なんてつまらない結末を迎えたのか。
「凛、私は賛成できかねる」
「奇遇だな、私もだ」
ふと耳に、セイバーの澄んだ声と、アーチャーの聞くに堪えない澄ました声が聞こえた。
「聞けば、アーチャーは宝具まで使ったと。私は彼を決して見くびってはいない。彼は英霊たる力をもって存在している。その彼を、そこまで追い詰める人間を、野放しにはできない」
「ふむ、痒いが同意見だ。必ず障害になるぞ」
二人は示し合わせたかのように異を唱えた。
「おい。もう戦えないんだぞ」
士郎が口を挟んだ。セイバーの緑色の瞳を上から見下ろし、士郎は心底不機嫌そうだった。
「貴様も見ただろう。生身でさえ、こいつは英霊を脅かす」
アーチャーが組んでいた腕を解き、士郎と相対する。即座に漂い始めた険悪なムードは、凛の言葉を待っていた。
「確かに一理あるけどね、わたしは無関係になった人間を殺すつもりはない。ただ、話は聞きたいからこの場にしばらく残ってもらうけどね」
と、凛が重々しく口を開いた。しかしそれもどうでもいい。逃がされようと殺されようと、志貴の末路としては同じことだ。だが、逃がそう、殺そうなどと、未だにそんな議論を目の前でされている今ならば、志貴には脱出の策があった。
「ハ」
ずぶずぶと、砕けた骨が体内で蠢く。突き出していた骨が徐々に皮膚内に埋まっていく。全身の痛みは引かない。しかし外傷はほぼ癒えようとしていた。魔法陣の効果。凛はそう言った。
ジャケットの内ポケットになれた感触がある。間違えるはずも無い。僅かな傷跡の数さえ数えられるほどに付き添った、何よりも信頼できる獲物が、振るわれる時を今か今かと待ちわびている。
「なんて、無様」
己ではない。遠野志貴という生粋の殺人鬼から武器を奪わなかった遠坂凛。彼女の過ち。このナイフで英霊の武器をいくつも殺していくのを見たはずの凛だが、目を重視し過ぎ、たかがナイフと甘く見た。或いは、性格のなせる業か。
志貴が大きく体を揺さぶった。メガネが音を立てて床に落ちる。繋がっていない骨が軋む音を全身から聞きながら、それでも志貴は体を揺さぶった。目の前がツギハギだらけになる。骨折よりも性質の悪い痛みが襲い掛かってくる。それを堪えながら、志貴は思い切り体を揺すった。
胸元からナイフが落ちていく。靴を脱ぎ捨て、落ちていくナイフを思い切り蹴りつける。拍子に刃が飛び出した。その先にあるのは大きな点。
四人には悪あがきにしか見えていないだろう。だが志貴には視えている。
足元にぽっかりと浮かんだ、この魔法陣の死が。
「ほう?」
反応したのはアーチャーだった。だが遅い。志貴は自由になった体を前傾させ、ナイフとメガネを拾い上げる。倒れる勢いを利用して走ると、眼前に遠坂凛のあきれ返った顔があった。
「悪いね。まだ、死ねない」
「そ。好きにしたら?」
凛が意地悪く微笑した。コンマ一秒と顔を見続けずに階段を駆け上がり、志貴は玄関を目指した。だが、階段が終わらない。異変に気付くより先に足を速める。既に二十段は駆けたはずだが、一向に抜ける気配がない。
「残念だけど、ここはわたしの『家』だから」
明りが遠ざかっていく。背後には奈落。闇が濃くなっていく。にんまりと、底意地の悪い笑みが背後にあった。再び階段を見上げる。既に果ては見えなかった。それは永遠に連なっているように、天国への階段のように見えた。
覚えのある感覚だなと、志貴は思った。体内に“何か”が入り込んでいる違和感。そう、アレは確か──クラスメイトを殺したときだったろうか。
ならば方法は容易い。あの時脳裏に浮かんだ選択肢。そいつを選んでやればいい。
志貴は己の体を見下ろした。臍のやや下。丹田で何かが蠢いていた。それが毒。体内に侵入した、恐らくは幻覚か何かの魔力。息をする間も無くナイフを突き刺す。感触は無い。血も出ない。殺したという実感だけがあった。それをもって見上げると、天国への階段は姿を消していた。あるのは短い石段。
「そんなものも殺しちゃうわけ」
凛の声は相変わらず背後にあった。どこから自信が涌くのか、その表情に焦りはない。むしろ笑ってさえいる。
「少し、自信過剰じゃないか?」
「もう一度言うけど、ここは、わたしの家だから」
諭すような口調は強がりではない。そこで気付く。上下左右。三百六十度を囲む殺意の塊。ぞくりと首筋が粟立った。最たるものは二体のサーヴァント。他にも数多の魔術が遠野志貴を殺そうと待ち構えている。
志貴は目を閉じた。
「試したのか?」
行き止まりだった。やがて覚悟を決めた。正面には目を見開いたセイバーがいた。殺意を針のように飛ばしながら、彼女は志貴を睨んでいる。その向こうには、唯一の逃げ道となる階段。
諦めの感情が燃焼し、殺意に反応する自分がいた。志貴は落ち着けと何度も心で繰り返し、そして今にも切りかかってこようとするセイバーの一挙一動を凝視した。
「シロウ……申し訳ありません。私は貴方の命に背く」
セイバーは志貴を睨んだまま謝罪し、不可視の剣を両手で構えた。
腕が、足が、全身が震えていた。マッサージ器のようだと場違いの感想を得た志貴は、彼女を乗り越えて階段を登りきれるかと一瞬で思考した。結果はわかりきっていた。不可能だった。
「待てよセイバー。殺す気なら、令呪を使ってでも止めるぞ」
「殺しはしません」
士郎の声をおぼろげに聞きながら、志貴はじりじりとすり足で下がる。セイバーが腕を動かして牽制するが。
隙など無い。だが神経は研ぎ澄まされ、五感が過剰なまでに敏感になる。キャスターの魔術は既に切れている。だというのに、体には力が漲っていた。痛みは残っている。血液が沸騰しそうな痛み。だがここしかないと、これしかないと、体が判断した。ぐんと腰を落とした瞬間、
「やめろ!」
士郎の怒号は志貴を止めるもので、
「待ってセイバー。私は彼に話があるの」
凛の言葉はセイバーを止めるものだった。二人から言われたセイバーは何度も志貴をにらみつけながら、ようやく不可視の剣を消したようだった。
「一言言わせてください、凛」
「なに?」
「ソレは、危険です」
◇
志貴の戒めは解かれた。心を読んだみたいに、凛は殺意の欠片も見せなかった。知られたのだった。志貴にもう戦う気がないと。何より、抵抗しても無駄だということが、先の一件で志貴には身に染みて解っていた。凛の一声で発動するトラップだけで死にかねないというのに、英霊が二体も留まっている家。そこでの抵抗は無意味だし、志貴は抵抗してまで誰かを道連れにする気は無かった。
聖杯戦争を生き抜けそうに無かったら一人で死ぬ。参加すると決意している間は人殺しも厭わない覚悟があったが、無意味な殺人を犯すほど狂っているわけでもない。今の自分が正常に無いことはわかっていたが、それくらいの分別はあるつもりだった。
セイバーと士郎。更にはアーチャーまで下げて、凛と志貴は地下室で会話していた。ご丁寧に紅茶まで用意されている。毒でも入っているのかとも思ったが、生きる理由を失った志貴にはどうでもいいことだった。取っ手を軽く握り、左手で受け皿を持ち、カップを口元に運ぶ。凛が感心したような顔で見つめていた。
「作法なんて知ってるんだ?」
「家がそういうのにうるさかったんだ」
口に仄かな薬草の香りが残る。志貴は作法こそ知っているが知識については素人だった。ハーブティーか何かだろうといい加減な当たりをつけて、カップを床に置いた。
「ふうん、良家の殺人嗜好者ってわけ。ありがちね。この国で良家なんて呼ばれるところは大抵いわくつきだから」
凛が同じように紅茶を飲む。その仕草は様になっていた。志貴はそうなんだと気のない返事をした。今更殺人嗜好者だと言われて否定する気にもなれない。凛やアーチャーを殺すことを、はっきりと意識して動いていたのだから。
「何で聖杯戦争なんかに興味持っちゃったの?」
「人づてに噂を聞いたからだよ。何でも願いが叶う聖杯を手に入れられるんだ。誰だって試してみたくなる」
ふうんと再び凛が訝るように反応する。嘘を見抜いた顔だった。
「この写真の誰が絡んでるの?」
凛がポケットから紙切れを取り出す。志貴は驚きの面持ちで胸ポケットを漁り、そこにあるべき写真の感触を得られないと、凛が差し出した一枚の写真を凝視する。それは四人で撮った最初で最後の写真。
「敵わないな……。魔術師ってのはみんなそうなのか?」
ひったくるように写真を奪い取り、志貴はそれを大事に両手でつまみながらぼそりと呟いた。
「赤い髪の子だよ。秋葉っていうんだ」
「彼女……ってわけじゃなさそうね」
「いや、あってる。妹だけど」
志貴はばつが悪そうに漏らした。
「そ。別に人の趣味をとやかく言う気はないけど──」
凛が紅茶を啜った。
「その子、鬼でしょ。写真越しでもわかるくらい強烈な匂い」
志貴の眼光が凛を射抜く。志貴は首をすくめた凛から写真の少女に視線を落とした。
「さっき、なんでナイフを奪っておかなかった?」
「必要なかったでしょ」
凛はさも当然とばかりに言った。
「キャスターは死んだ。だったらあなたを野放しにしたってわたしにはもう関係ない。わたしを殺してでも令呪を奪う覚悟は、遠野志貴には無い。覚悟っていうのは透けて見えるものだから」
「不確定要素に賭けるなんて、魔術師の行動じゃないな」
志貴は嘲笑うように言う。衛宮くんのせいかもね。と凛は言った。
「俺が君を殺す気だったとしたらどうしてたんだ?」
「どうにもならないわよ」
ここはわたしの家だから。
言外に凛が告げて、志貴は再び黙り込む。実際その通りだ。志貴は内心で凛の言葉に頷いた。
自分にはそこまでして続ける覚悟は無い。死は覚悟したが、殺人の覚悟は生半可なものだ。見透かされていた。遠坂凛には見透かされていた。ならセイバーは何故遠野志貴を殺そうとしたのか。善い少女だ。一目で解るほどに善い少女だ。だからこそ、主の命に背いてまで斬りかかってきた意図が掴めない。
「そうそう、気になってたんだけど、その目元から?」
「これを手に入れる前から不思議なものは良く見た……と思う」
「生まれつきじゃないってことはきっかけがあるんじゃない?」
志貴は簡単なことだとつないだ。
「死んだから」
凛は少なからずショックを受けたようだった。目を白黒させる仕草は面食らっている証拠だが、その一方でその意味を深く吟味してもいる。少女と魔術師が混同する遠坂凛を志貴はしばし眺める。深く、強い瞳。こんな目をした人間を、志貴は何人も知っている。何でも映す硝子球のようでいて、その実何も映さない曇り硝子。かなしい宿命を持った哀れな人間達。
血の宿命。魂に刻まれた運命という名の羅針盤。そんなものに振り回されて破滅していく人たち。妹もそんな人間たちの一人だった。
凛も、そんな人間と同じ目をしていた。
やがて凛は目をスッと細める。年端も行かない魔術師は、それを「真実」と取ったようだった。
「そう、繋がったのね……」
ぼそりと呟いて、凛は立ち上がった。
「他には聞かないのか?」
「知っても無意味でしょ。わたしにはわたしの到達点がある。モノを殺す魔眼なんて、そんなの理解できない」
凛が左腕を中空に晒す。ぼんやりと浮かび上がる魔術刻印。
「悪いんだけど、眠ってくれる?」
平然とそう言われて、思わず苦笑する。
「唐突だな。もっと優しい方法は無いのか?」
「無いわよ」
痛烈な言葉だった。
キャスターはどうなったのだろう。諦めた志貴はふと考えてみて、背筋を粟立たせた。
令呪が消え去った左手の甲。そこが、じりじりと痛んだ。常に繋がりを感じていた全身が、ぶるぶる震え始める。
キャスターが騒いでいるんじゃないかと思った。私はまだ生きているのだから、まだ死ぬなんてことはさせない。そう喚いているんじゃないかと。
志貴はバカな考えを鼻で笑った。けれど、笑いきれなくもあった。キャスターが生きている。少しでも思ってしまった脳味噌は、その考えを捨てられなくなった。
ありえないと解っているのに捨てられない。なぜか。志貴は死ぬのが怖い。志貴が恐れるのはそれだけだ。たとえ妹のためだろうと、志貴は死にたくない。だからこそ、今も志貴はのうのうと生きているのだから。けれど、ここまでくれば死ぬしかない。だが、もしキャスターが生きているなら。志貴に死ぬ理由は無い。生きる理由が生まれる。
生きていてもいいのだという、免罪符を得る。
「本当に、かっこ悪いな俺」
ずんと胸に何かが飛び込んできて、志貴は気を失った。
◇
「やはり、殺しておくべきだったな。生かしたせいで、くだらない情に絆されている。だから君は甘いというのだ」
耳がいたい。アーチャーの言葉は一々正論で、自分でだって自分の感情がわからない。さっきだって、少し魔力を凝縮させてやれば、志貴は死んだのに。
込み入ったことを聞きすぎた。遠野と聞いて河童やらの関係かと考えたが、どうやら『あの遠野』の関係だったらしい。
この国には数多の魔的家系が存在するが、その中でも遠野家といえば有名なものだ。何しろ時折テレビなんかでその名を見ることもある。だが、それよりも魔の部分を、この国に住まう魔術師として凛は伝聞していた。
先祖還りといえば、狂人のことと言っても過言ではない。魔術的に言えば己の起源に立ち返った者のことを指す言葉だが、そう変わるものでもない。元々自身に内包されていた魔に負けた人間のことだから。
それを人間に引き戻すことは不可能と言われている。そう考えれば、あの男が聖杯戦争に参加した理由も、いくら叩きのめしても向かってきたことも自ずと見えてくる。
愛。それも恋愛感情と家族愛がブレンドされた厄介この上ない愛のために、あの男は立っていたんだと思う。
「聞いた? 本当に変態だった」
「フン。こんなものに参加する人間は、多かれ少なかれ変態の素養を持っている。今回で言えば最たるものは衛宮士郎だろうがな」
アーチャーの軽口に自嘲が混じるが、聞き流す。今は、その話題に触れたく無いからだ。
妹のために死ぬ覚悟。恋人のために死ぬ覚悟。どちらともそう簡単にできるものじゃない。
自分そっくりだった髪の毛が、すっかり向こうに染まってしまった妹を思い出す。さて、わたしは妹のために命を投げ出すことができるだろうか。
「髪の毛の色を変えるってさ、やっぱり遺伝子弄らなきゃだめよね」
「染色ではないとしたら、そうだろうな。私はそちらの知識には疎いが……どうかしたのか?」
あの家にそんな手練れがいるはずは無いのだが、因子を混ぜるくらいはできるということだろうか。或いは、妹自身がそう仕向けたか。凛は唸って、目を閉じた。
頭の中で、自分そっくりの髪の毛をした妹を想像する。きっと美人だ。ほら、描いた容姿には非の打ち所が無い。元々美人だし、何よりこの遠坂凛の妹なのだから。
うんうんと唸ってみて、なんだかんだ妹を愛している自分を確認する。肉親を愛さない人間はあまりいない。時折いるが、それは『違った家』に生まれた人だ。遠坂凛もその妹もそんな家の出身ということになるが、それでも凛は妹を愛している。では、妹が堕ちたときに命を投げ出す覚悟はできるだろうか。
凛は唸った。二つ返事でできると言うのは簡単だが、心底絶望的な状況──たとえば己の命と引き換えにしなければならないとき、自分はどうするだろう。遠野志貴はまさしく命を投げ出している。志貴が死ねばその妹であり恋人であるらしい彼女が人に戻るというのは理屈にならないのだが……とにかく志貴にはその覚悟ができているのだろう。それを、遠坂凛にできるのか。恐らくは、できない。
自分の命と肉親とはいえ他人の命。そんなもの秤にかけるまでも無い。じゃあ、なんで遠野志貴にはできるのだろう。
「ううん。なんでもない」
自分を非情と思ったことは無いが、慈愛に満ち満ちた人間だと思ったことも無い。妹を切り捨てるという発想は、もしかすると稀有で奇異なものなのだろうか。いや違う。魔術師というカテゴリーに生きる人間は、総じて自愛に満ちた存在だ。
凛はベッドに身を投げ出す。まとまらない話は好きじゃない。凛は思考を止めて、天井を見つめた。
セイバーと衛宮士郎は別室でのんびりしていることだろう。セイバーの荒れようからするとのんびりはできないかもしれないが、精々くつろいでいただきたいものだ。
「セイバーどうしたかわかる?」
「さてな。あの魔眼を知っているのか。彼女の容姿を見るにケルト神話と繋がりがあってもおかしくはあるまい」
金髪に碧眼の少女。もしかするとケルト神話の英雄なのかもしれなかったが、女性の英雄というのはそう多くない。有名どころでフランスのジャンヌ・ダルク。その他はこの国ではほとんどが認知されていない。
だというのに、セイバーの力は圧倒的だ。バーサーカーを相手に一歩も引かず、魔力不足の体で五分に打ち合った。ジャンヌ・ダルクが英霊となれば、それは恐らくセイバーではないだろう。彼女が持つものといえば、月並みだが旗というイメージがある。では、セイバーは何者か。
「あの取り乱し様は普通じゃなかった」
「何、星寄りだろうとなんだろうと、英霊は危険を察知する能力だけはずば抜けている。彼女のそれが反応しただけの話だろう。私としても、殺しておきたいんだがな」
アーチャーが紅茶を啜りながら言った。
「衛宮くんのことは毛嫌いするくせに、セイバーのことは良く庇うじゃない」
「妬いているのか?」
「バカ言わないで」
「──それは残念だ。さて、私は遠野志貴の様子でも見てくるとしよう。また結界を破られては敵わんからな」
「殺さないでよ」
アーチャーはしばらく黙り、
「了解だ、マスター」
偽りの無い声で言った。
***
殴られた頬がひりひりと痛んだ。帰ってくるや自分を殴った兄の後姿を見つめながら、今晩は先輩のところには行けないかなと、どこか外れた心配をする。
間桐桜は平凡な学生である。引っ込み思案で、顔の半分を覆うほど前髪を伸ばした冴えない少女だ。日ごろあまり口を開かない彼女は、その女の前でだけ饒舌になる。
「ライダー、人は殺したの?」
間桐桜は兄が部屋に戻るのを確認すると、スッと音も無く現われたサーヴァント──ライダーに尋ねた。
「いえ、邪魔が入って殺すまでには至らなかった。魔力の面では残念ですが……サクラの悲しむ顔を見なくてすむのは喜ばしい」
「邪魔って、先輩?」
「確かにセイバーとアーチャーの姿も確認しましたが、まるでノーマークだった相手に邪魔を」
「そう。でも良かった」
言いながら、桜はぼんやりと視線を虚空に投げた。
──先輩以外に、そんな人がいるとは思わなかった。
「ああ、でもただ阻止したのかもしれないんだ」
魔術師として、ライダーが力を持つことを許せない人間は少なくとも他に六人いる。
「いえ、明確な怒りを持って私に向かってきました」
しかしライダーの返答は桜の予想をいい意味で裏切っていた。その“せいぎのみかた”みたいな変人の姿を想像しつつ、桜は包丁を手に取った。
「……そう」
さて、今晩は何を作ろうか。
数時間前...
両手両足を鎖に繋がれ、眠っている。体に感じる重みは令呪の縛りだろうか。
いわゆる覚醒夢の状態だった。志貴の命令で体は眠っているが、意識は目覚めている。元々眠りを必要としない体がそうさせたのか、とにかく意識は明瞭だった。
意識体の顔をあげた。鳥の囀りが耳に届く。川のせせらぎが静かに聞こえ、木々がそよ風に揺られている。ああ、懐かしい。キャスターは小さく吐息を漏らした。
果たしてここがどこなのか、詳しく知っているわけではない。だが、竜に曳かれてやってきたこの森で、魔女メディアは人としての生を終えたのだ。誰に看取られるわけでもなく、孤独に死んだ。
けれども、その死に様に後悔があったわけではない。犯した過ちに比べれば、その死は穏やかでさえあった。だから、メディアはその生にこそ執着があった。
女神に翻弄される人生。そこにどんな意味があったのか。自己などというものは欠片もなく、女神の都合、英雄イアソンの都合のみで終わった人生だ。
家族を皆殺しにした果てでたどり着いたのがこの森だった。穏やかで諍いも無く、落ち着いた静謐の場所。
よりにもよってこの世界へ帰ってきた己の未練を笑って、キャスターは動かない体を鎖に預けた。
志貴はどうなっただろう。
ふと思って、令呪の具現である鎖をぎゅと握ってみる。キンと冷たい痛みが手のひらに残る。なんとも突き放したような痛みに、思わず胸が痛くなった。
まるで志貴が怒っているようだった。キャスターは肩を竦める。事実その通りだろう。あまりの怒りに、後先考えずに令呪を使ってしまったくらいだから、随分怒ってる。
「なぜ……ばかなことを」
原因が自分にあるとしても、キャスターにはその行動が信じられなかった。志貴は死んだはずだ。二体の英霊に囲まれ、生きて帰れたのなら志貴は人ではない。万に一つ生き帰れたとして、そのときには令呪は失っているだろう。つまり、志貴とキャスターの繋がりは失われている。
キャスターは安堵している自分に気付いた。志貴と離れられることに安堵していた。少し違う。自分は、遠野志貴を解放できることに安堵している。
ようやく見つけた人形のマスター。カタチだけのマスター。眠りの歌を心地よさそうに聴き、そのまま呪いをその体に受けた。それで、遠野志貴はキャスターに従順な人形になった。それだけで万全だった。志貴は適度な魔力供給を可能とするタンクなのだ。あとはずっと眠っていればいい。柳洞寺の護りはあの胡散臭いアサシンが行うだろう。英霊ですら無いが力だけは本物なのだから、足止め程度はどんな英霊相手でもこなす。あとは、キャスター自身の力で迎撃していけばいい。だから、本当は遠野志貴の力など必要ではなかった。不可思議な力に興味はあるが、不確定要素に賭ける……何より人間などに頼るということが、キャスターにはできなかったのだ。
ならば何故、志貴が学校に向かうと言ったとき、それをムリヤリにでも押し留めなかったのか。
矛盾だった。
志貴を人形のままにしておきたいと思っていたのに、彼の意見に耳を貸している自分。
『いやなに、何と言うべきか……おまえも人なのだと思ってな』
アサシンはそう言って笑っていた。姿が見えていたら恐らく腹を抱えていただろう。それほどに、あの番犬は可笑しそうだったのだ。普段ならばアサシンに令呪の一つくらい使ったかもしれない。しかし、自分自身疑問を感じていたために、何をするでもなく志貴の言葉に耳を貸した。それで、
「この様……」
キャスターは鎖を握った。冷たい。ギチギチに氷結した鎖がキャスターの体温で雫になる。腕を伝う鎖の感触に身を震わせた。ふと、首筋にも一筋の雫が流れた。
つまるところ、自分は試してみたかったのだ。遠野志貴が、人の魂を吸い取るという異常を前にどのような行動を取るのか。いざとなれば空間転移をすることで撤退も可能だった。故に、効率的ではないが志貴の策を飲んだのだ。
効率的などという言葉を使うのもばからしい。それは本当に好奇心だった。聖杯戦争に勝つための一歩ではなく、むしろ崖っぷちからの後退。けれどそれでも確認しておきたかった。怒り狂うことくらいは解っていたが、知りたかった。
一つ問題があったとすれば、セイバーとアーチャーの出現。そして彼らが、キャスターの所業を知っていたということ。結果的にキャスターは疑問を解くことができた。己の終焉とともに。
志貴は静かに憤怒した。それを見て、自分はどうした。小娘のように震えていなかったか。かたかたと震えながら横目で志貴を窺う自分。あまりにも間が抜けている。けれど、仕方が無かった。志貴の考えが透けて見えたから。そのあまりにも透明な心に、キャスターの心が負けてしまったから。
──死
あるのはそれだけ。『死』というたった一つの単語以外に、志貴には何も無かった。つまりキャスターは死の恐怖を感じた。志貴に殺されると思った。けれど振り向いたその瞳にはまったく別の感情があった。無論激怒している。それでも彼の瞳は「あとで思い切り引っ叩いてやるからな」なんて、あまりにも笑えないことを言っていたのだ。
「ああ──」
声が篭もっていた。情けない。鎖から溶け出した雫かと思っていたけれど、
「なんで泣いてるの……私」
頬を伝った涙が首筋を流れていただけのこと。
簡単なことだった。自分は単純に人に甘えたかっただけ。こう言えばなおのこと情けないし、それが全てとは思わないが、真実だったのだろう。
胸の奥が熱くなる。顔はどれほど醜いだろうか。
キャスターは鎖を打ち鳴らした。呆けている場合じゃないと、焦りを覚えた。けれど、令呪の縛りは消えない。文字通り鎖の縛りで、キャスターを拘束して離さない。
何度も何度も魔術詠唱を試みるが、意識体でしかない今の自分には簡単な魔術さえ使えない。なんて抜け目無いと志貴を皮肉りながら、キャスターは鎖を打ち続ける。
何度も何度もそうした後、とうとう諦めかけた頃にじゃらんと鎖が鳴った。足元に、断ち切られた鎖が落ちていた。全身を雁字搦めにしていた鎖が全て、解けている。
何が起きたのか探る前に、キャスターは次の手を考え始める。鎖はなぜか解けたが、それだけでは夢からは覚めない。
辺りを見回す。よく肥えた大木に、冷たそうな水流。そんなものばかりがある世界。あまりにも平和すぎて、現実に戻れるほどのショックが無い。
「どうす──っぐ」
声を出した瞬間、その声が途絶える。足元の鎖にぱたぱたと赤い液体が降り注いでいた。まるで雨のように、勢いよくキャスターの首から吹き上がった血が、あたりを真っ赤に染めていく。
「え──?」
首に手を当てる。ぱっくりと裂けた首からは、止め処なく血が吹き上がる。シャワーのように、滝のように。それは、たとえサーヴァントと言えど命を失いかねない傷。
視界が歪む。朦朧とした意識が夢の世界を保てなくなる。せせらぎは慟哭に変わり、水流は鮮血が溜まる音。傷口から血のかわりに闇が溢れていく。それによって世界が黒く塗りつぶされてゆき、存在が希薄になっていく。
──消える。
震えるための体も消えた。感覚だけが闇の中を浮遊する。見渡す限りの闇の中に落ちる。寒い。呟く口も無い。痛いと思う神経も消えた。
キャスターは自分がこのまま消えていくのだと感じ、意識の目を閉じた──。
が、次の瞬間に襲ったのは強烈な光だった。そして首筋からぼたぼたと流れ出る己の血液だった。慌てて手で押さえ付け、唱えなれた癒しの魔術を行使する。魔術を、行使した。その事実に気付き、キャスターは勢いよく目を開けた。
「ふむ、死ぬかとも思ったが、なかなかどうしてやるものだ」
侍が見下ろしている。この国で嘗て名声を得た剣豪の贋作。そも、その剣豪さえ存在しなかったのだから、この存在は一体何か。唐突にそんなことを考えて、しかしすぐに唖然とする。アサシンは異様の長刀を鞘に収めるところだった。
「まさか私を」
──斬ったのか……と。
アサシンが動きを止める。
「礼を言われこそすれ、怒鳴られる筋合いはない。不甲斐無い姿を見せてくれるな、主」
やれやれとため息を吐いたアサシンは、そのまま踵を返した。飄々と。
「待ちなさい。あなた、自分が何をしたかわかって?」
「貴様を眠りから覚ませてやっただけの話よ」
アサシンが振り向いた。
「誰がそんなことを! 危うく死ぬとこ……ろ」
勢い良く詰め寄ろうとした足が止まる。キャスターは目を見開いてアサシンを見た。死ぬところとは何か。それこそがあの世界。死を待つためのあの世界だ。ならば、解き放ってくれたのはアサシン。
「私が行ってみるのもよいかと思ったが、生憎ここから出られぬ」
アサシンは無表情に言って、両手を広げて境内を指した。
「そう、助けられたわね」
キャスターがぺたんとその場にへたり込んだ。
「気にするな。そのままではあまりにも哀れと思ったゆえに。さて、これからどうするのだ主」
打って変わって、アサシンは尻餅をついた格好のキャスターに手を差し出した。あまりにも豹変した態度をキャスターは訝しんだが、アサシンは変わらず無表情だったので、その手を取った。
「少し待ちなさい。志貴の……位置を」
キャスターが目を閉じて何かを呟いた。その様を、アサシンは奇妙がる。
「魔術師……魔術師。まるで不可解な人種だな」
「私に言わせればおまえの方がよっぽど不可解よ」
キャスターが目を開ける。アサシンは不服とばかりに眉を顰めた。
「聞き捨てならんな。その所業、人の為せる業か」
「あら、おまえだってそうじゃない。マホウと──居た」
キャスターが露骨に顔をしかめた。
「あの小娘の家……か」
唸り始めたキャスターを、アサシンはぼうと眺めた。キャスターは、常に隠していた顔をさらけ出していることに気付いているのだろうか。常に高圧的で、相手を威圧することでしか対等な会話などできなかった者が、かくも自然に振舞っていることに気付いているのだろうか。恐らく気付いていないだろう。アサシンは目を閉じた。
「アサシン。ここで、別れることになるわ」
と、キャスターの小さな声が聞こえた。それは覚悟していた言葉だった。覚悟と言うより、許容しようとしていた言葉だった。
「そのようだ」
アサシンは何事も無いというように返した。だが、キャスターは顔を伏せている。後悔でもしているのか。バカなことをとアサシンは笑った。
「……頭でも打ったか。それがおまえの判断なら、私は従おう。そんな顔は似合わん。どうせなら最後まで女狐であれよ。おまえが犯した罪は消えない。ゆえに、これが最後の罪と思え」
「理由を聞かないのね」
「必要も無い。覚悟が透けて見えるぞキャスター」
素顔のままで、キャスターが顔をあげた。実にいい顔をしている。初めからこれならば、少しは協力してやる気にもなったというのに。
「破戒すべき全ての符(ルールブレイカー)」
キャスターが真名を紡ぐ。両手に握られる形で具現された奇怪な形の短刀。それが古代ギリシアの英霊メディアの持つ宝具。貫いた者の魔術的柵の一切合財を破戒する魔具。
キャスターは、それを振り上げる。
「ありがとう、アサシン」
そして、そのまま自らの胸に突き刺した。
おもむろに目を開くと、セイバーの視線があった。学生服から私服に着替えていたが、鎧甲冑が無ければただの少女だ。
深夜を回っているはずだが、疲れは見えない。代わりに、苦虫を噛み潰したように顔をゆがめている。志貴に気付いて、ハッとしたように顔を引き締める。
初めて見たあの日は、こんなにも雲ってはいなかった。今日も、彼女が現れた瞬間は死さえ覚悟した。けれど、今の彼女は歪な何か、くだらないものに囚われているような気がしてならない。それも、志貴に関係の無いことではあるが。
志貴の無表情としばらく相対してから、セイバーはゆっくりと口を開いた。
「一つ聞きたい。あなたは一体何故聖杯を求めるのか」
「俺のせいで死ぬ妹を助けるため。遠野志貴という存在を初めから無かったことにしてもいい。奇跡でもなければ、無理なんだ」
セイバーは弾かれたように顔をあげた。何か言いかけて、口を噤む。
「街を覆っていた気配が消えた」
「知ってる」
キャスターの紫色の匂いのことだ。街中から精気を吸い上げるために張り巡らされた魔力。令呪に続き、それさえなくなった。
「もう聖杯戦争を生き抜くのは不可能だ。他のサーヴァントでも見つけない限りは」
「君がなるか? 俺のサーヴァントに」
鋭い視線に「冗談だよ」と返して、志貴は項垂れた。どう表現したらいいのかわからない感情が、背中から腹から這い上がってくる。
『伏せなさい、志貴』
そう、しっかりと聞こえたのだから。
「またな、セイバー」
Hunting High and Low.
落ち度は無かった。結界の強度も質も、常時の数倍の規模にしてある。敷地内にネズミ一匹でも入り込めば知覚できる。だが元々、魔術による直接攻撃など想定していなかった。魔術的衝撃を受け流す結界となれば凛を以ってしても難しく、維持費(まりょく)がかさむ。何よりそんなことをする「魔術師」は居ないはずだった。
考えが甘かったと思わざるを得ない。志貴は魔術師ではない。協会に見つかればただで済む人間でもないが、魔術とは無関係の世界で生きてきた人間だ。だから、魔術師は身を隠すなどという理屈は通らない。
半壊した屋敷を駆け回りながら、志貴の姿を探す。飛び出してきたアーチャーが「外だ!」と叫んだ。鬼気迫る形相だった。
「あの魔力量、おそらくキャスターが生きている」
「わかってる。ほんの一瞬だけど張り巡らせた感知野が消えた。志貴を見失ったの。だから逃げられた。こんなことできるのは魔術師(キャスター)しかいない」
でも、と凛は続けた。
「志貴の令呪は消えたはず。胸糞悪いキャスターの気配も消えた。なのになんでキャスターが」
「キャスターは最高の魔術師だ。《契約を破棄》することも可能なのかもしれん。我々を欺き、マスターを救出するためにな」
「なるほどね。そうだとしたら、最弱なんていわれる割にえげつない。他人の契約も切っちゃうならまずいわね。あんたそのまま逃げかねない──って、酷い……」
階段を駆け下りて、凛は怒りに顔を歪めた。アーチャーを召喚したときとは比べ物にならない惨劇。壁は焼け落ち、穴が空き、絨毯は溶け、穴は地下まで続く。途方も無い出力。
「最弱だからこそ、えげつないとも言える。まだ断定されたわけでもない、囚われるなよ」
アーチャーは苦笑していた。
これほどの魔力をもっていたら、たとえ気配を遮断しようと魔術師に嗅ぎ付けられる。敷地内になど入らなくても、感知できたはずなのに。
「アーチャー、キャスターを感じた?」
アーチャーは首をふる。
「気配遮断と契約破棄。二段構えの捨て身の戦法と考えられるな」
「キャスターには単独行動のスキルは無いはずだけど。新しいマスター? いや、違う。マスターがいれば今度はわたしに見つかる」
「そうだ、キャスターは恐らく単独──だが単独で、それも空が焼ける程の魔力を放てば」
「瀕死ってことね。オーケーアーチャー。今すぐ志貴を追うわよ。合流する前にどちらかを」
言葉に詰まる。アーチャーは既に武装していた。
「──殺しなさい」
「従おう」
アーチャーが一足早く闇の中に飛び込んでいく。士郎とセイバーの姿を探すが、居間には見当たらない。
攻撃で空いた穴から外に抜けて、目に魔力を通す。月の灯り以外に光点の無かった世界はぼんやりと輪郭と取り戻す。その中に駆けるアーチャーの後姿を見つけ、凛はすぐさま後を追った。
「志貴は」
「一足遅かったらしい。見ろ」
アーチャーが指差した先で、士郎とセイバーが立ち尽くしていた。志貴の姿は既にない。
***
『伏せなさい、志貴」
目を覚ました直後に聞こえた声だった。その後一瞬だけ、屋敷中の監視が消えた。向けられていた銃口も、足元の魔法陣も、全てが効力を失った。刹那、屋敷が轟音と共に崩れた。紫色の魔力は壁を貫いて地下室へと至り、セイバーを直撃した。ビクンと一瞬体を跳ねさせたセイバーは、すぐさま体勢を立て直し、剣を握ろうとした。だがその腕に、落ちた天井が激突する。隙を見逃さずに走って、屋敷から出た。あまりにも容易く脱出できた。門の向こうに人が倒れていた。ローブ無しで、薄い生地の服を着たキャスターだとすぐに気付く。
「しき」
キャスターは蒼白な顔をあげて喘ぐ。キャスターと出逢った日と似ている。あのときも、キャスターは今にも消えそうな顔で志貴を見上げていた。
見上げてくるキャスターの顔はいろいろなものに彩られていた。憔悴。恐怖。絶望。不安。そのどれもが負の情念だった。
志貴は答えられなかった。人を何百人と昏睡に陥らせたキャスター。死者が居ないからと許される問題でもない。関係者をそうさせたのならば、まだ救いはある。そういう前提の下に集った者たちだからだ。そういった意味では、志貴を結局殺さなかった凛たちのほうが異常。戦争の名を戴くこの争いで甘えた考えは命取りだ。
だがキャスターが巻き込んだのは無関係の人間だ。それを許せるほど、志貴は冷めた人間ではなかった。狂いきれてもなかった。ただそれでも、死を覚悟してまで自分を助けてくれたキャスターを信じたくて──。
「逃げるぞ、キャスター。話はあとだ」
「え……」
今にも消えそうな彼女を抱きかかえて駆けた。
「く……」
くぐもった笑い声を聞いて、士郎は声の主を見る。セイバーが鎧をカチャカチャと鳴らしながら震えていた。クスクスと漏れる声は途中でヒックと止まり、セイバーはゆっくりと顔をあげた。
「いっそ清清しいものですね、ここまで盛大にしてやられると」
「セイバー……」
「安心してくださいシロウ。昨晩の件は私も忘れてはいない。あなたを狙ったキャスターも。そして、アーチャーも、倒すことには変わりありませんから」
肩を竦める士郎を見て、セイバーが甲冑を解除した。ブルーを基調にした時代物の服を夜風になびかせる。本当に清々したとばかりに深呼吸をするセイバー。士郎も考え込んでいた頭を切り替える。
「わたしの家が壊れたってのに嬉しそうじゃない、セイバー」
背中から声をかけてきたのは、今にも倒れそうなほど憔悴した凛だった。外傷は無かった。屋敷の崩壊に、意識がついていかないのだろう。
「その、遠坂。もしよければウチに来ないか。部屋ならいくらでも余ってる。流石にこれじゃ、無理だろ」
「そうね、どうせこれじゃしばらく住めないし。人除けの結界を強めたらお邪魔するわ」
名残惜しそうに屋敷を見つめながら、凛が頷いた。
Hunting High and Low.
遠坂を別館の客間に案内して、俺はすぐ土蔵に向かった。時計の針は午前二時を指している。いくら明日が休校になろうと、いい加減寝なければいろいろと支障が出る。藤ねえは曜日関係なくやってくるのだから。だけど、五年間続けた訓練は、やらないと眠れない域にまできていた。
土蔵で一通りの行程を終える。ここのところの強化魔術の精度はうなぎ上りだ。今日の強化は過去最高の出来だったからか、気持ちが昂ぶって眠気の『ね』の字もない。仕方なしに、昨晩のことを思い起こしてみた。
二月五日の柳洞寺。キャスターの魔術でまんまと誘き出された俺は、絶体絶命の危機をアーチャーによって救われた。
矢が雨のように降り注ぐ中、俺は視界の端に奇妙な影を見つけた。魔力を通した目でも、見えるか見えないかというほどの違和感。結果、セイバーを憤怒させる原因となった影だ。
そのときは見間違いだと思った。それよりも、目の前でとんでもない事態が引き起こされているんだから、そんなものに構っていられる余裕は無かった。
二人のサーヴァントがいがみ合っている。アーチャーとキャスター。俺に背を向けて仁王立ちするアーチャーはあくまで皮肉げにキャスターの相手をしている。だが、その背中から漂う研ぎ澄まされた敵意は、俺の臓腑を縮ませて余りある。
そのアーチャーが、キャスターを一刀に両断した。目にも留まらぬ、巨象の圧力と獣の瞬発力。はらはらと舞うローブを見つめて、俺は僅かに胸を撫で下ろした。とりあえず、脅威は去ったと思ったからだ。だが──
「……残念ねアーチャー。貴方が、本当にその程度だったなんて」
キャスターの静かな声は、確かに上から聞こえた。俺とアーチャーは同時に空を見上げる。刹那、アーチャーは剣を振り、俺は圧倒された。
赤い焦げ跡を残し、霧散した何か。赤い雷光としか思えない攻撃は、羽根のようにローブを広げて空に浮くキャスターが放ったものだ。その佇まいはさながら伝説に出てくる魔法使い。漆黒のローブに、長大な杖。
辛うじて砲撃を打ち落としたアーチャーは、肩に裂傷を負っていた。おかしな話だ。いくら不意打ちだろうと、俺でさえ来るとわかった物を、あのアーチャーが迎撃し損なうなんて。
「──空間転移か固有時制御か。どちらにせよこの境内ならば魔法の真似事さえ可能という事か。実に厄介極まる」
「本当に見下げ果てたわアーチャー──」
アーチャーは再び双剣を構えなおし、上空を見据えている。嘲るように釣りあがった唇こそ変わらないが、焦りが見えた。
キャスターが両手を広げる。それに呼応するように、羽根は更に広がる。目に見えない魔力が渦になってキャスターへと取り込まれていくのを、俺は黙って見つめていた。
昔テレビで見たことがある。狭いガラスケースみたいなセットに押し込められて、上では膨れ上がっていく風船。回答者は必死に問題を聞いて、答える。
この場合違うのは、風船は時限爆弾で、問題が無ければ回避方法も無いということ。
「堕ちなさいな、あの座まで!」
時間が来た。俺は案外に冷静だった。光の筋は何十とある。喩えるなら絨毯爆撃。轟音と眩しいほどの魔力の奔流に一瞬目を奪われると、駆け抜けるアーチャーの体が見えた。双剣で迫る光弾を弾きながら、ほんの僅か、人間が一人通れるか通れないかの間を見つけてそこに駆けていく。
その体が突然反転し、俺のほうを目指してくる。呆けていた俺に向かって、アーチャーが何か叫ぼうとした瞬間。アーチャーの体がグラリと傾いだ。
「な……に!」
倒れることこそ無かったが、踏みとどまったがために一瞬アーチャーの動きは止まった。その隙をキャスターが狙わないわけが無い。新たな光弾が降り注ごうとした瞬間、俺は駆け出そうとする。仮にも命を救われて、これで見殺しにしたら遠坂になんて言い訳すればいいかわからない。だが、アーチャーは鋭い殺気を宿した目のままで俺を射抜き。
「来たら貴様ごと殺す」
そう、語っていた。
アーチャーはすぐさま飛びのき、光弾を回避する。右手から出血している。またしても裂傷。キャスターの攻撃で裂傷などありえない。あれは命中箇所をごっそり持っていくものだ。じゃあなぜ、アーチャーは斬り傷を負ったのか。
「セイバーが、やられた……?」
あの傷はアサシンの仕業ではないのか。
「たわけ。己のサーヴァントの気配くらい探れるだろうが」
すぐ眼前まで迫っていたアーチャーが血相を変えて叫ぶ。そのまま血が滴る腕を俺に伸ばし、片腕で俺を持ち上げた。
「降ろせバカ! 何するんだお前」
「黙っていろ。それよりセイバーはまだ無事だろうな」
「ああ、すぐそこで戦ってるはずだ」
そうか、と呟いてアーチャーは突然俺を睨み付けた。
「飛べ」
まるでゴールキック。アーチャーの足は俺の腹にめり込んで、俺の意識の芽を刈り取りながら振りぬかれた。俺は空を飛び、強かに背中を打ちつける。失神こそ免れたが、遠慮の一つも無い蹴りで腹がおかしい。
「てめ──!」
胃からこみ上げてくるものに耐えつつ、起き上がる。アーチャーは背を向けたまま硬直していた。アーチャーを囲む空気そのものが固着し、アイツを閉じ込めているような。キャスターの魔術だとすぐにわかった。
「勝手に人を助けといて何固まってんだおまえ」
ギシギシと軋む背骨のせいで走れない。二度も助けられた悔しさが胸に募る。己の不甲斐無さが、頭にくる。そんな思いでキャスターをにらみつけると、羽根を開いた魔女は呆然とアーチャーの体を見ているようだった。
「あなた、その傷は何?」
上空のキャスターの、間の抜けた質問だ。
「何って、お前がやったんだろ」
怒鳴ってやる。だが、キャスターはまるで意に介した様子が無い。ただ、この好機を失わないように魔力を集中させ、「避けろ、キャスター。死にたくなければな」の声に、慌てて首をめぐらせた。
上空を、ブーメランよろしく飛び交う何かが、キャスターを切り裂こうとしていた。俺を蹴る瞬間に投擲したらしい双剣だ。さすがは弓兵(アーチャー)と思わざるを得ない。
アーチャーの助言で辛うじてキャスターは難を逃れる。
「アーチャー、どこに──」
そこまで言って、絶句する。それはキャスターも同じだった。
アーチャーはとっくに準備を終えていた。片膝をつき、巨大な弓を大空に向けている。セイバー諸共バーサーカーを攻撃したあの螺旋(ネジ)れた矢を番えている。そうしてヤツは、必殺の真名を紡ごうとした。
繰り出せば必殺。サーヴァントをサーヴァントたらしめる宝具の真名を。
「I am the bone of my sword(我が骨子は捻じれ狂う)」
キャスターは半ば狂乱する形で何かを詠唱している。だが遅い。アーチャーの指は、矢を放った。
「“偽・螺旋(カラド・ボル)──」
言葉が途切れたのは、あまりの驚き故に。
撃ち放った矢は、あらん方向へと軌道を変え、虚空に呑まれていった。真名を開放する寸前だったからこそできた芸当。ついでに、俺はアーチャーの裂傷の正体を見た。
そいつはバカみたいに速く。
嘘みたいな身のこなしで。
アーチャーの弓を、弾き飛ばした。ちっぽけなナイフで。
「え……?」
ぽつんと呟いて、ゆっくりと降下してくるキャスターの足元で、そいつは蹲るようにして残心を終えた。
緩慢な動きで立ち上がり、振り返る。凍えるような蒼い瞳にこそ覚えは無いが、他が全て一致した。
「遠野……志貴」
二日前に学校で遭った男だった。嫌味ったらしいほどに澄んだ目で、俺を見つめていた男。この世の不幸なんてどこ吹く風。そんな雰囲気を持つ能天気そうな男だった。それが、氷のような目でこちらを睨み付けてくる。
「コレが傷の正体か。キャスターの傀儡だ」
「かいらい? 操られてるってことか」
「他に考えられまい。人間が、あの砲撃の雨を掻い潜ってサーヴァントに傷を負わすなど。それよりキャスター。こちらには続ける気が無いのだが、そちらはどうなんだ」
地に降り、志貴の背後で視線をあちこちへと飛ばしているキャスターに、アーチャーが尋ねた。
「この道化……最初からその気は無かったということ?」
「挑発に乗っただけだ。この小僧にこそ用がある。そちらもどうやらソレの出現は予定外だったようだからな、手を引かせてもらおうか」
その後、俺はアーチャーに斬り付けられた。
“理想を抱いて溺死しろ”
そんなことも言われた。その言葉は今もひどく心にまとわりついているし、思い出すだけでムシャクシャする。でも、今は遠野志貴のことで頭がパンクしそうだった。
操られているだけだと思っていたのに。一成の友人だと本気で信用したというのに。アイツは一成を騙していた。ライダーを攻撃したのはせめてもの罪滅ぼしのつもりか。それでもキャスターが犯した罪は覆らない。
なのに俺は、羨ましいと、そう思ってしまっていた。アーチャーの不意を突ける機動力。化け物じみた魔眼。ちっぽけなナイフで闇に紛れて人を襲う。それは俺の理想とはまるで正反対の姿だ。けれどその完成した形を、俺は羨ましいと思った。
志貴に話しかけなかったのは、怒りと羨望とでごちゃ混ぜになった頭を冷やすため。
街から魂を吸っていたのはキャスターの独断専行だった。だからアイツ自身はきっと良いヤツなんじゃないか。と、くだらない妄想をしながら数時間考え込んだ。
希望的観測でしかない。結局アイツは操られてなんか無かった。だが、キャスターの行為に静かに激昂もした。捕らえて、遠坂の家で見た遠野志貴は、初めて会ったときと同じ、澄んだ目をしていた。
殺そうとしたセイバーと、生かそうとした俺。
どちらが正しかったのか。
キャスターの行為を糾弾さえするだろう。それに、柳洞寺の志貴はキャスターの行為を知らなかったはずだ。なら、アイツは被害者だ。
「なんでさ……」
解ることは唯一つ。
俺には力が必要だってこと。
“喜べ少年
君の願いは、ようやく叶う”
衛宮家の縁側に腰を落として、月を見上げている。凛は眠り、士郎は土蔵に篭もっている。
一日で激変した己の立ち位置を噛み締めるように、セイバーは大きなため息を吐いた。
士郎との関係の悪化がその最たるものだ。元々ソリがあわないなりにも上手くやってきていた関係が、ひび割れた歯車同士のようにかみ合わない。
──そもそもシロウはアルトリア・ペンドラゴン。つまりアーサー王。ひいてはサーヴァントというものを理解していないのだ。
猛ろうとして、セイバーは顔を俯けた。信用できないと言って己の真名を明かしていないのは誰だ。いまだセイバーを少女として扱おうとするのも、無理の無い話ではないか。この世界ではアーサー王が女だったという伝承は無いのだから、士郎がこの身を割れ物のように扱うのも仕方が無い。
ふとして、キャスターと志貴の姿を頭に浮かべた。
あれだけ接近しても気配を感じないほど肉体(エーテル)が希薄になっていたキャスター。恐らく魔力は底を付いていた。当然だ。契約が切れた状態で他人の魔術式を乗っ取るという大技をやってのけた後に、士郎の感覚で言うところのAランク魔術。その次元違いの所業を理解できるのは、恐らく打ち破られた凛だけだろう。式として成り立った魔術を打ち消すには、途方も無い時間と技量が必要なのだ。
ゆえに追って、疲弊しきったキャスターを消すことはあまりにも容易だった。あれは八割方が木偶だった。指先の一つもろくに動かせなかったはずだ。だが、追わなかった。志貴の背が、セイバーたちを忘れていたからだ。
セイバーは志貴に抱えられるキャスターに問うた。
「恥ずかしくは無いのか。人を喰い、捨てられ。挙句護るべき主に守られ、貴様にサーヴァントの誇りは無いのか」
キャスターは声にしなかった質問にこそ答えなかったが、じっとセイバーを見つめていた。その目は彼女の主と同じように、澄んだ狂気に染まっていた。
『またな、セイバー』
本当に突発的な衝撃だった。『またな』とは再び会おうということだ。人の顔を見るたびに震え上がっていた小僧が、そんな大層な口を利く。それほどの隙を見せていた自分に辟易する思いだった。
きっと志貴は友人の家を訪れるが如くして現れる。無意味な確信として、セイバーはそう考えていた。好敵手と呼ぶには弱い。決して友にはなれない。ふわふわと波間をたゆたう木の葉のように、とらえどころのない人間。狂った真人間。
志貴が逃げられたのは奇跡以外のなにものでもない。キャスターが消えたと確信してしまったことに拠る緊張感の欠如。士郎との関係が志貴に刃を向けて以降かみ合わずにいた焦り。それらが生んだ起きるべくして起きた奇跡だ。出し抜かれた悔しさは無かった。ただ己の未熟を悔やむばかり。壁を突きぬけ襲ってきた魔力の奔流は、本来意も介さずに霧散せしめて然るべきもの。
『遠野志貴という存在を初めから無かったことにしてほしい』
その言葉もまた、セイバーの心をかき乱した。
それは確か、己の希望と同意だ。己を抹消し、別の王に未来を託す。暗君では為せなかった夢を、別の王に叶えて欲しい。それが、凄烈な死を迎える騎士王アーサーの願い。
高尚な願いのはずだ。それが、たかが狂人の願いと同じだという驚き。憤り。
──わたしは違う。
叫ぼうとした言葉の無意味。それは、己もまた狂人であるという認識を生んだ。
エクスカリバーを握った。風王結界(インビジブル・エア)によって姿こそ見えなくとも、セイバーはそこに数限りない戦いを共に勝ち抜いた相棒を感じる。
あの二人は、今後強い結束力をもって襲い掛かってくるだろう。キャスターの瞳が物語っていた。志貴の過去を知りはしないが、似たような者なら星の数ほど覚えがある。国のためと叫びながら突撃してくる侵略した国の兵士。父の仇。親の敵。娘の仇。様々な者にとっての仇となりながら、家畜を見る目で切り伏せる。そんな中に、志貴のように世捨て人同然の、ただこの首のみのために生きる人間がいた。今まで感慨もなく切り伏せてきた。だから今度も同じだ。
『救えないのなら己を無かったことにしたい』とという、同じ願いを持つ者を消さなければならない。
「無為ではない。無為ではないが、空しい」
それにあれは魔王の子でもある。有機物はおろか、無機物まで万物を平等に殺しかねない力など、人間には過ぎたものだ。
「そんな物騒なもの握って何してるんだセイバー」
「星を見ていました」
「隣いいか?」
「ここはシロウの家なのですから、断りなど必要ありません」
背後の気配は感じていたが、セイバーはあえて驚く仕草をしてから。体を半身ずらした。引き戸一つ分のスペースに、二人で座る。
「さっきは久しぶりに喋った気がするよ」
「事実です。実に十時間ぶりの会話ですから」
「そうだったな。悪かった。いろいろ考え事してたんだ」
「いえ、私の方が驚かせてしまったようですから……。凛の部屋の準備はできたのですか」
士郎は僅かに頷いた。横顔は憂いを孕んでいた。
「正直、羨ましかったよ」
「羨ましい?」
「遠野志貴が羨ましい」
「どういう意味です」
それはキャスターを召喚したかったということかと、セイバーは眉根を寄せた。確かに、晒した素顔は美人であった。年増でもあったが。しかしそんなことよりも、夜の柳洞寺で殺し合った人間(.......)が羨ましいとは、どういうことなのか。士郎は慌てて首を振った。
「違う。変な意味じゃなくてさ。アイツには力がある。サーヴァントと一人で戦える。倒れたサーヴァントを守るだけの力がある。俺は守られてばっかりだろ。あの夜だって、アーチャーがいなかったら俺は志貴に殺されていたかもしれないんだ。悔しくてさ」
「それでいいのですシロウ。サーヴァントと打ち合える人間こそが異常なのですから。凛がアーチャーと戦ったらどうなると思いますか。あのバーサーカーのマスターがアーチャーと戦えると思いますか。サーヴァントと戦えるということは世界をも動かしかねないという意味です。この異常性にどうか気付いてほしい」
世界に力を認められた、あるいは与えられた人間。それが英雄であり英霊。その力は想像を絶する。人の行く末を正す者。惑星の危機を救う者。そのスケールの大きさは、高位と呼ばれる魔術師とキャスターを比べてみればよくわかる。水鉄砲と火炎放射器。本来火を消す水を以ってしても、キャスターの炎は揺らぎもしない。
「それでも……俺には必要なんだよ。世界を動かす力だって、俺は歓迎する」
「等価交換の理は魔術だけに適用されるわけではありません。過ぎた力には必ず反動がある。しなった弓が矢を吐き出すのと同じように。そしてその矢の先にあるのは己の体」
「じゃあなんで遠野志貴は平然とあんな力を使ってるんだ。アーチャーを追いやって、遠坂の魔法陣を消したんだぞ」
「あの命は既に尽きています」
死を視る魔眼というならば、その発現は死と引き換えになる。これは安易な考察だが、志貴から第三者の生を感じたセイバーには、確信に近いものがあった。
「俺が死んだとしたって、おまえが傷つくのは嫌なんだ。セイバーだけじゃない。遠坂も。学校のみんなも。今日は遠野志貴がいなかったらみんな死んでたかもしれない。藤ねぇが、一成が……そんなの耐えられるわけないだろ。だからせめて、ほんの少しでいいから力がほしい」
士郎は力を手に入れてもきっと悪くは使わない。己の正義に従って、力を行使するだけだろう。だが、見返りなどない。むしろ破滅への道を全速力で駆けるのと変わらない。それは、自身の生き方と変わらない。全速力で駆け抜けて、結局後悔している人間と変わらないのだ。
だが、士郎は笑った。
「心配しないでほしいんだ、セイバー。ただ、おまえが疲れたときにほんの少しだけ代わってやれたらいいって思うだけだから」
すぐ横で、曇りない笑顔で言われると、セイバーに返す言葉はなかった。家臣の気苦労などまるで理解してくれない。だがそれでこそ仕え甲斐もあるというもの。
「だから、少し待ってほしい。それまでは、この頼りないマスターをよろしく頼む」
「一朝一夕では遠野志貴には追いつけないでしょうが、そういうことなら私も今まで以上に力を入れましょう。ですが、あくまでも前面に出るのは剣の役目ですので、履き違えないように」
「ああ、わかってる。セイバーに迷惑かけないために、強くなるよ」
「では、仲直りですね」
「ん? 喧嘩なんかしてたか?」
「こちらの話です。気にしないで」
今回ばかりは、この熱意にほだされてもいいかと、月を見上げながら思った。
「じゃあ俺はもう寝るけど、セイバーも早く寝ろよ。今日はいろいろあったから」
「はい。おやすみなさいシロウ」
セイバーは士郎が行ってからも空を見上げていた。翳り始めた空に星は窺えなかったので、代わりに雲のゆったりとした流れを見つめる。
時刻は既に深夜二時半を回っていた。眠って魔力の補充に充てなければならないのだが、今夜は眠れそうに無かった。明日は士郎の学校は休校になるというし、たまには夜更かしも悪くない。
「眠っているばかりでは体が鈍ってしまう……」
言い訳のように呟いて、士郎がさりげなく置いて行ったどんぶくをもこもこと着込む。なるほど、温かい。
凛が衛宮邸にやって来ると共に離れて行ったアーチャーの気配は、偵察に出たと解釈すればいいのだろう。つまり、今の凛はサーヴァント無しのマスター。令呪でアーチャーを呼び出そうとも、その隙さえ与えずに殺すのは容易い。赤子の首を捻るが如くして絶命させられるだろう。
「いや……よそう。対策を練りこそすれ、行動に移しては休戦協定の意味がない」
頭が休まらないのはひとえにマスターのせいだ。が、それさえも心地がいい。
セイバーはやおら立ち上がり、小さく伸びをした。
雲の切れ間から覗いた星を最後に一瞥して、セイバーは踵を返す。
***
凍て付いた夜の風は、弱っていなくとも力を奪っていく。追走者の影はどこにもないが、漆黒の海に生まれた芥のように、己の存在を寂しく感じる。疎らな街灯の明かりを頼りに駆ける体は、歯車の足りないぜんまい仕掛けの人形のように空回っている。
もはや瞼さえ開かなくなったキャスターの、消えていくぬくもりだけを抱きしめて、志貴は走った。
「お前には聞かなきゃならないことが、それこそ腐るほどにあるんだ」
柳洞寺に戻ったところで居座ることは出来ない。葛木や一成たちは何が起きたのかさえ理解していない。だが人として、どんな顔をしてこれ以上一緒にいればいいのか。そう考えると、志貴の内心にはどす黒い憎悪が浮かび上がってくる。キャスターに対しての怒りだ。だが、文字通り捨て身で自分を助けようとした彼女に、どうしてそんな感情を向けられよう。
キャスターに偏り過ぎているとは気付いているが、それが偽りようのない気持ちだった。たとえ街の人間から魂を吸い上げ、別の英霊を召喚し、あまつさえ主人の記憶を消し飛ばした彼女でも、既に志貴は彼女と共に戦い抜くと決意しているのだ。たとえどんな非道に堕ちようとも、共に堕ちる覚悟の一つくらいはしてある。ただ、それを全力で以って阻止することだけはやめない。だから、死なれたら困るのに。何故こいつは目を覚まさないのか。
どうやって吸い上げ、いつ英霊を召喚し、何故記憶を消したのか。それを、キャスターはうわ言のように呟いていた。曰く、何をしてでも勝ち残りたかった。曰く、勝ち残るために。そして、志貴ではない志貴を呼び出してしまったからだと。
キャスターが手を翳すと、消された二日間の記憶が蘇ってきた。パズルのピースがはまるように、くっきりと。
セイバーが志貴を殺そうとしていた理由は簡単なものだった。ただ、志貴とキャスターが衛宮士郎を殺す寸前まで行っていたというだけのこと。
記憶が完全に戻ったというのに、志貴にはまるで覚えの無いことだったが、それはキャスターの催眠にかかっていたためらしい。とにかくキャスターは裏で様々なことをしていたのだ。
「ほんと、どうかしてる。おまえはバカだキャスター。うなされるくらいなら最初からしなきゃいい。ローブが無きゃできないなら相談すればいいんだ」
志貴は焦っていた。再契約をしようと何度も試みた。だが、キャスターはうわ言を返すばかりでまったく応じない。まるで契約を拒むかのように、頑なに応じようとしない。一人では契約はできなかった。キャスターはもう、あと数分ももたない。
「死なせてたまるか」
一際強くキャスターを抱いた瞬間、志貴は咄嗟に体を捻った。浮遊感を感じる。吹き飛ばされたと気付いた瞬間には、電柱に背中を強打していた。襲ったのは暴風だ。完全に避けた筈の攻撃は、志貴の体を十メートルも弾き飛ばした。キャスターが衝撃で落ちる。既に質量すら無いのか、その体は音も無く地面に横たわった。
「こんばんわ、キャスターとそのマスター」
セイバーの声を鈴が鳴るようと表現するのなら、これもまた同じだった。しゃらしゃらと鳴る、小さな鈴。
「こんな時間に瀕死のサーヴァントを連れて歩くなんてバカね。予定には無いけど、ついでだから殺しちゃうね」
志貴は振り返らなかった。倒れたキャスターの頬に手を置いて、じっと蹲っている。
「怖くて声も出ない? でも許さない。シロウに手を出したんだから消すわ」
幼い声は心底憎々しげに、語気を荒げた。
志貴はようやくキャスターから手を離すと、ゆっくりと立ち上がった。
『志貴ではない志貴が……出てきてしまったから』
その言葉を反芻する。
「やっちゃえ、バーサ──」
獣の咆哮が夜更けの住宅街に響いた。
少女は、眼前一センチのところで止まった斧剣を見て目を見開いていた。斧剣の風圧でなびく髪。
「なにしてるの、バーサーカー!」
身長3メートルにも届こうかという褐色の巨人は、その剣を少女に向けて微塵も動かさない。ピタリと空で停止させること自体が神技に等しかったが、少女にとってはどうでもいいことだったのだろう。少女を憎しみの篭もった目で睨み付ける。
「おまえの敵はあっち……え?」
少女は電柱の方を見て、目を疑った。倒れているキャスター以外に、何者の影も無い。
「逃げた?」
呟いた瞬間、少女の首がピクンと脈打ったのを、志貴はしっかりと観測していた。
「喋りすぎなんだよ」
志貴は少女の背後にいた。少女の首に触れるか触れないかのところに右手を翳し、いつでも折れると顕示するように指の骨を鳴らしてみせる。それを聞いて、少女はようやく背後に迫った危険と、それに対応しようとしてできなかったバーサーカーの行動に気付く。
己の剣風だけで人を弾きかねないバーサーカーにとって、自分がバーサーカーに近すぎたから、攻撃を止めるしかなかった。
「もういい、消えてくれ」
だが、絶好の機会だというのに志貴は少女の首から手を離した。少女の横を通り過ぎ、背中を見せてキャスターのところへ戻っていく。
「何、してるの?」
「君を殺せば次の瞬間俺は死ぬ。ここで戦ったらその間にキャスターは消える。君を人質にして逃げればソイツは攻撃しないだろうけど、結局時間切れでキャスターは消える。俺にとって最大の不幸は、ここで君達に見つかったことなんだよ。とっくに詰んでるんだ、俺達は。だから君を殺したところで俺にメリットは無い」
志貴はキャスターを両手でゆっくり抱きかかえ、背中を見せてゆっくり歩き始めた。少女はじっとその背中を見据え、やがて唇を濡らした。
「殺しなさい、バーサーカー」
巨体が咆哮し、大地を震わせながら疾走する。さながら砲弾のように駆けて、無防備に背中を晒す志貴目掛けて斧剣を振り上げた。雷鳴のような怒号と共に、雷光のような一撃が振り下ろされる。志貴は避ける動作さえ無く、ただキャスターを守るようにその拳を受け──地面に膝をついた。
少女はしばらくぼうっとその体を見つめる。志貴の足はすでにガタが来ていて、しばらくは動かないだろう。
少女は仁王立ちしている巨体を睨んだ。
「なんで殴ったのバーサーカー。帰ったらお仕置きだから」
少女は志貴の元へ小さな歩みで向かった。
「貴方みたいな魔術師は初めて見た。だから今は生かしてあげる。覚えておきなさい。わたしはイリヤスフィール・フォン・アインツベルン。これで、貸し借りは無しよ」
志貴から返答は無い。当然だ。バーサーカーに頭を殴られて、辛うじてでも意識を保っている方がどうかしてる。
少女はキャスターの胸に手を当てる。触れているのかも怪しいほど消えかけている体に、僅かな魔力を流し込む。
「バーサーカーのこと嫌いになりそうよ、わたし」
それを最後に、志貴は気を失った。
吹き荒ぶ北風が障子を揺すり、降り出した雨が瓦を打った。
明けを告げる鳥の囀りは雨音にかすれ、弱々しく遠く聞こえるのみ。障子に透ける緑色の木々は、止まり木の役目も果たさぬとばかり揺れていた。
「起きたか」
葛木宗一郎の抑揚のない声に、志貴は上半身を起こして応えた。コンクリートで倒れたにも関わらず、やけに温かい理由にようやく気付く。志貴は布団に眠らされていた。
「事情は全て聞いた」
夜の冷気を吸い取った掛け布団をはぐりながら、志貴は僅かに顔面を緊張させた。窺いたてるような視線を宗一郎に向けたが、引き締まった表情から窺えるものはない。
無貌と呼ぶに相応しい面相で宗一郎は正座した体勢から微動だにしない。空気が鉛になったかのような重みを帯びて、志貴の体を張り付ける。宗一郎の背からぼんやりと立ち上る揺らぎが、絶体絶命のような緊張感を生み出していた。
「謝罪の言葉もありません」
辛うじて零すと、宗一郎は指の骨を鳴らした。
「謝罪など必要無い」
僅かな動揺もなく言い切って、宗一郎はゆっくり立ち上がった。立ち上る揺らぎが微弱になり、志貴は小さく安堵の息を吐く。
「殺されるかと思いました」
率直な物言いに、背を見せようとした宗一郎が動きを止めた。
「私に、最早お前のような胆力など有りはしないがな」
まさか。と志貴は内心で抗議した。宗一郎がその気になれば、自分の首など容易く飛ぶだろうことはそれこそ容易に想像できた。それは志貴が抵抗も何もしなかったら、という条件付きではある。だが宗一郎の能力は、恐らく志貴を上回っていた。宗一郎が「殺す者」だと直感的に理解できたように、その事実は何の疑念も混じることなく志貴の中に根を張った。
宗一郎はじっと志貴の眼を見つめていた。何か言いたげな視線に、ほんの僅かに好奇心が交ざった瞬間、志貴はぞわりと首筋を粟立てた。戦慄といえば、これほどわかりやすいこともない。
「名を聞こう」
遠野志貴
そう答えることは許されなかった。死んだはずのアイツが、狂笑を浮かべながら埋没していた心底から隆起してくる。眼前の男が望むのはこのオレだ。そう喚き散らしながら這い上がってくる。
『志貴ではない志貴が、出てきてしまったから』
志貴は息を呑み、そして小さく低く、しかしはっきりとこう発音した。
「──七夜」
初めて見た宗一郎の微笑は、自嘲に塗れていた。
荷物を纏め、雨が降りしきる外に出る。最早布切れでしかないジャケットを肩からぶら下げる様は、浮浪者同然だった。
境内を歩くと、やがて山門の前で雨に打たれるキャスターに気付く。アサシンを縛っていたという山門を指でなぞっている。背中は泣いているように見えたが、振り向いた表情は穏やかなものだった。
「出るのですか」
「ああ、宗一郎さんは居たいだけ居ろなんて言ってたけど、そういうわけにもいかないだろ。これ以上巻き込めるか……」
キャスターは最後に一度柱を撫で、それで何かを吹っ切ったように志貴に向かって歩いてくる。マントのフードはしていない。理由は、表情を見ればすぐにわかる。その美しい素顔を隠す意味は無くなった。人への復讐を止めると決意したそのときに、そんなものは露と消えたのだ。
「行こうか」
静かにキャスターは頷いた。
もう戻れない。
七夜を語ったからには、もう後戻りはできない。
トランクケースとは別に握った、細長い包みを力強く握ってから、志貴は歩き出した。
Excalibur/Medusa
イリヤスフィール・フォン・アインツベルンは不機嫌だった。メイドであるリーズリットとセラには原因の見当もつかなかったが、一睡もしていない目元は今にもとろけてしまいそうだ。
「イリヤ、眠らないと危ない」
「フン、どうせ寝たくても眠れないんだから、関係ないの」
「眠れなくても寝ないと。子守唄、歌おうか……?」
「バカにしないで! 頭がガンガンして寝るどころじゃないのよ」
乱暴に怒鳴り、イリヤスフィールはナイフとフォークで食事を始める。その仕草さえ乱暴で、黙って事の次第を見守っていたセラがため息を吐く。
「お嬢様、リーズリットの言うことも正しいですよ。眠らなければ、お体に触ります」
「セラまでうるさいこと言うの。いいわよもう、バーサーカーと出かけてくるから」
「いけません」
「だめ」
二人同時に反対され、イリヤスフィールは膨れっ面で沈黙する。リーズリットとセラは苦笑しつつ顔を見合わせて、わがままなお姫様を暖かな目で見つめた。娘か姉妹を見つめるような視線に、イリヤスフィールはますます動けなくなった。二人の信頼し切った表情には、弱い。
「わかったから、そんな目で見ないで。今日はおとなしくしてる。それでいいんでしょ」
「イリヤ、偉い子」
リーズリットが頭を撫でようと伸ばした手を、セラが叩き落とす。身構えたイリヤはほっとした顔になった。
「リーズリット、お調子が過ぎるわよ」
リーズリットは聞き流す。
「それで、イリヤ。イリヤが眠れなかったのは『お兄ちゃん』のせい?」
「ううん。キャスターのマスター」
「キャスター? 何かされたのですか」
「殺されるところだったかも」
「……油断し過ぎ」
うるさい。とイリヤはリーズリットを睨んだ。
「殺されそう、とは。バーサーカーがついていながらですか」
「キャスターじゃなくてそのマスターにね。バーサーカーはキャスターのマスターを庇うし。わたしはわたしであんなヤツに魔力分けるし。らしくない」
「挙句に寝不足で不機嫌」
イリヤは今度こそ鋭い眼光でリーズリットを射抜く。リーズリットはセラの背中に隠れた。セラがずれると、リーズリットも一緒になって動く。イリヤスフィールは大きなため息を吐いた。
「とにかくお嬢様。お食事が済みましたらお休みください」
「ええ、そうするわ。やっぱり疲れてるもの」
「それがいい。無理して倒れたら困るから」
テーブルの下でぶらつかせていた足を止めて、代わりにナイフとフォークを動かす。セラが用意する食事はいつも豪勢だったが、今朝は体調の優れないイリヤスフィールを察してか、柔らかなものが多い。それをぺろりとたいらげて、イリヤスフィールは席を立った。
「じゃあ、おやすみ。何かあったらすぐ起こして」
「おやすみ、イリヤ」
「おやすみなさいませ、お嬢様」
イリヤスフィールを見送ったあと、リーズリットは横目でセラの様子を窺っていた。気付いたセラが見返すと、リーズリットは納得いかない顔で目をそらした。
「何?」
「なんで今日はイリヤって呼んでも怒らなかったの?」
セラは肩を竦めたあと、食器を器用に重ねて運んでいく。そのあとを着けながら、リーズリットは答えを待った。
「随分滅入ってらっしゃるようだったから、貴女のその不躾な言葉で少しは元気を取り戻すかと」
「セラもイリヤって呼べばいいのに」
「それじゃ意味が無いの。貴女じゃないと」
「難しい」
「そう、難しいの」
目を細めたセラは遠くを見つめた。リーズリットも視線を追う。壁にかけられた一枚の絵画。美しい女性が描かれた絵画。銀糸の髪に、透き通るほど白い肌。光を閉じ込めたような、美しい瞳。イリヤスフィールが成長したらきっとそうなる。まるで成長した姿を描いたかのように、絵の中の彼女はイリヤスフィールに酷似していた。だが決して、イリヤスフィールは絵画のように美しい女性になることはない。
「難しいのよ」
セラは台所に消えていった。
***
聖杯戦争に於いて自分が敗北することは有り得ない。そんな自負が、ほんの少し傾いでいた。
イリヤスフィール・フォン・アインツベルンにとって、昨晩は生涯忘れられない日になった。
衛宮士郎以外に興味は無い。イリヤスフィールは衛宮士郎を殺すために生まれてきたのだから、それ以外の人間には価値が無い。だから、そこを割って入り込んできたあの男に受けた衝撃が、許せない。
サーヴァントを抱いたバカな男を見つけた瞬間、イリヤスフィールは人知れず舌なめずりをした。アサシンにしてやられた怒りを、その男にぶつけてやろうと思ったのだ。
今にも消えそうなサーヴァントを胸に、男は必死に走っていた。その姿は傍目にも無様で、情けなくて、あまりにも弱者然としていたから最適だと思った。
弱々しく震える瞳。サーヴァントと戦闘でもしてきたのか、着衣は襤褸雑巾。凝固した血液から見るに随分前の出血らしいが、そんなことはどうでもいい。ふと、街灯の光の中に入った男の顔が見えた。遠目で見たのと同じ顔。女みたいに弱々しい目。厚ぼったい眼鏡。病弱そうな白い肌。
──わたしの士郎を殺そうとした男だ。
最早躊躇は無い。一撃で粉々に砕き、千切り、血と臓物の雨を降らせてやろう。
「行って」
バーサーカーに小さく命令する。バーサーカーはその巨躯に見合わぬ速度で駆けた。音も立てなければ気配すら殆ど皆無。バーサーカーに有るまじきその技は、イリヤスフィールという本物あってこそのもので、瀕死の魔術師に察知できようはずもない。
巨大な斧紛いの剣を振り上げ、横に薙ぐ。剣風は最早暴風だった。空気さえ砕きながら驀進する斧剣。だが、くたばり損ないの魔術師は大きく体を捻って回避する。避けたといっても豪腕、怪腕のバーサーカーの一撃。纏う風圧だけで人間程度容易く吹き飛ばす。例に漏れず吹き飛んだ瀕死の魔術師は、抱いたキャスターのために受身を取ることもできず、キャスター諸共壁に叩きつけられ、アスファルトに仰臥する。それは恐らく致死性のダメージだったはず。だが──
「こんばんわ、キャスターとそのマスター」
背を見せて立ち上がった魔術師の背中に、怒りに打ち震えた声をかける。何故避けられる。なぜ立ち上がる。死んでもおかしくない攻撃だったのに。背中に目でもついているのか。
「こんな時間に瀕死のサーヴァントを連れて歩くなんてバカね。予定には無いけど、ついでだから殺しちゃうね」
魔術師は振り返ることなく、質量さえ忘れ、ゆっくりと地面に落ちたキャスターの頬に手を置いた。優しく撫で、無事を確認するように、あるいは別れを惜しむように、じっと蹲ってそうしたあと、肩を落とした。
「怖くて声も出ない? でも許さない。シロウに手を出したんだから消すわ」
声は尚震えていた。まるで思い通りにならない。こんなことは初めてだった。殺そうと思えば殺せる力。支配するための力。聖杯戦争に於いて最強足りうる力。それを持つ自分が、何故全てをコントロールできないのか。
バーサーカーを一度殺すなんて芸当をしてみせたあの出来損ないも。
死ぬべきなのに死なないこの男も。
その後の不覚は、怒りに我を忘れていたためか。
背後を取られ、バーサーカーのお荷物になるという失態。
ただ、瞼の裏に焼き付いたのは、死に損ないと決め付けていた男の蒼い瞳だった。
思い出すだけでイライラする。見逃された屈辱は喩えようも無いほどに胸を焼く。本来死ぬべきは自分だった。アレが例えば遠坂凛だったらどうだ。彼女に背後を取られるなどということは有り得ないが、もしそうなってしまったら、イリヤスフィールはあっという間に死んでいた。
「はぁ……やっぱり眠れないじゃない」
イリヤスフィールは布団を跳ね飛ばし、勢いよく起き上がった。キョロキョロと辺りをうかがい、続けて遠目の魔術でセラとリーズリットの位置を確認する。二人とも安心して仕事に就いたようだった。
「おいで、バーサーカー」
霊体化していたバーサーカーを部屋に限界させる。屈強という言葉では足りない。頑強な巌のように佇む巨漢は、小さく唸り声をあげながらイリヤスフィールを見下ろしている。
「セラとリズに見つからないように外に連れ出して」
バーサーカーは頷きもせずにイリヤスフィールを片手で抱えると、窓を開け放った。バーサーカーを通すには小さく、イリヤスフィールを通すには大きすぎる窓。そこから巨大な腕をイリヤスフィールごと突き出して、彼女を抱いていた手を離す。
「え、何……あ、あぁ!」
抗議の声をあげる間も無く、イリヤスフィールは十数メートルの自由落下。内臓が浮き上がった拍子にこみ上げてくるものを堪えて、あっという間に迫った地表を睨む。あまりにも唐突で、魔力を通す暇も無い。従僕の突然の謀反に驚きと怒りの形相で落ちるイリヤスフィールの眼下に、両手を広げて待ち構えるバーサーカーが映った。
「バーサーカー」
ストン、と軽い音と共に、イリヤスフィールはバーサーカーの胸の内に収まる。イリヤスフィールは気の抜け落ちた顔で文字通り放心していた。いつもなら真っ先に口をつく罵倒の言葉も出ない。
『どこへ行く』
バーサーカーの横顔が問いかけていた。
「あの魔術師のところ……! こ、今度やったらただじゃおかないんだから!」
気にした風もなく、バーサーカーは自身の肩の上にイリヤスフィールを載せ、深いアインツベルンの森へと消えていった。
***
いつかのホテルにチェックインを済ませると、疲れがどっと押し寄せてきた。六帖ほどの空間にベッドが一つ。キャスターは必要なとき以外は霊体で過ごすという。神殿と魔力を失ったのだから当然だった。
志貴は備え付けの電話を耳にあて、番号をプッシュする。無機質なプッシュ音とコール音。四コールで、か細い声が受話器越しに聞こえた。
「はい、遠野です」
「もしもし、志貴だけど、翡翠?」
「はい、志貴さま。ご連絡をお待ちしていました」
毅然とした口調ながら、以前電話したときよりも遥かに動揺した声だった。
「何か……あったのか」
電話口で黙り込む気配は、肯定以外のなにものでもない。
「一昨日、九我峰さまから連絡がありました。今日から一週間後……だと」
翡翠の息は荒かった。
「一週間後? まさか」
「はい。秋葉さまの……秋葉さまの」
「いい、言わなくていいよ、翡翠」
「申し訳……ありません」
前に電話したときも泣き通したような声だった。けれど、今回は発狂しかねない雰囲気があった。荒い吐息に、掠れた声。それは志貴の知る翡翠の声ではなかった。
「わかった。ありがとう。それで、琥珀さんはいる?」
「姉さんは離れで暮らしています」
「翡翠はどうしてるんだ?」
「わたしは屋敷の清掃がありますので、屋敷に」
頭をトンカチで殴られるような衝撃があった。そして思い出す。言ってやらなければ、彼女は主を失くしてからもきっとそれを続けるような少女だと。
それしか知らないから、それしかできないから、きっといつまでも続ける。外に出ることも無く、狭い箱庭の世界で働き続ける。
遠野の屋敷。そこは閉塞された異空間のようなものだった。
数年ぶりに帰った我が家に感じた重圧は、決して年月の重みだけではなかった。遠野の名に雁字搦めにされた妹と、やがて知ることになった様々な暗い過去。そんなものが染み付いた屋敷。そこで暮らせば、誰だって現実を見失う。
「ばか」
「え……?」
「もういいから。屋敷のことは何もしなくていい。離れで琥珀さんと一緒にいてくれ」
離れには、七夜志貴の過去がある。一緒に駆け回った思い出がある。それが、少しでも彼女に安らぎを与えると信じて、志貴は言う。
「そういうわけには──」
「命令。帰ったときに屋敷でメソメソ泣いてたら、クビにする」
それで何かの線が切れてしまったのか、堪えていた何かが溢れるのを、受話器越しにも感じた。
「志貴さま……! 秋葉さまがいなくなられるなんて、頭が割れそうです」
「大丈夫だよ。そのときは俺が秋葉をさらってやる。もちろん、翡翠と琥珀さんもね。それでさ、どこか狭いアパートでも借りて暮らせばいい」
「そんなことをしたら、秋葉さまがお怒りになられてしまいます。わたしでは、鎮圧は難しいですよ」
「そっか。いい考えだと思ったんだけどな」
会話が途切れる。少しは落ち着いたのか、大きく息を吐く気配を感じて、志貴はかすかに安堵した。やがて、翡翠が控えめに口を開く。
「期日までに、戻られるのですね?」
「約束する。必ず戻るから、翡翠は琥珀さんと一緒にいるんだ。いい?」
「……はい」
「じゃあ、近いうちにまた連絡するよ」
受話器を下ろす。腕は恐怖か怒りかで震えている。
窓の向こうに見える海は静かに揺らいでいる。眼下の通りには背広姿のサラリーマンやOLがあくせくと行き来している。そんな光景は、今自分が身を置く世界とはまるで別物のようだった。
仕事の汗を流して、家族を養う。妻子を持った平穏な生活。そんな当たり前のことが、志貴には想像できない。生まれがそもそも平穏な世界ではなく、育ちもまた異常だった。だから、志貴は平穏を求める。
死ぬほどの目に遭ったわけではなく、まさしく死を経験している。奇跡的に還ってきてみると、それは他人に命の肩代わりをさせただけ。七夜志貴という自分は死んで、遠野志貴という自分が生まれたのだという。そして、その遠野志貴はみんなとは少し違う世界に生きなければならなかった。
ツギハギだらけの世界。足を踏み違えただけでモノが死にかねない世界。幼心に『世界がこんなにも危ないところなのだ』と気付いた感性は、既に壊れていた。
決定的に外れているわけではない。皆の世界を1とするなら、志貴の世界は1.1。皆と同じものを食べ、同じように笑い、同じように泣く。けれど志貴の世界には死がある。0.1の差は、有って無いようなものだったが、しかし確実にズレていた。ズレを無くすことこそが志貴の望みで、生きる意義だった。無くせなくとも、無いものとして生きたかった。
しかし、遠野志貴は選択を誤った。
平穏を得たかったのなら、妹が反転したあの日、己の胸にナイフを突き立てればよかった。妹は戻り、屋敷には平和が戻る。琥珀と翡翠がやつれていくことも無かった。我が身可愛さに、借りた物さえ返せなかった自分は、きっと道を誤った。
だから
「キャスター」
「はい」
日常を取り戻すために非日常の中に自分から飛び込まなければならない。
何があろうと聖杯を手に入れて、秋葉を目覚めさせなければならない。
それはとんでもないエゴイズム。しかし、それだけが正義だった。
だからこんな人殺しの戦争に身を投じたのに、できることなら戦いたくないなんて、間抜けにも程がある。
「ライダーを消す」
志貴を見つめる見えない瞳は、物憂げに揺れていた。
「電話は家族? 随分と逼迫しているようね」
「期限も決まった」
ため息を吐く余裕すらない。ぎらついた目で窓の向こうを睨み付ける志貴は、まるで別人だった。
「一週間、と言いましたね。それでこの戦争を勝ち抜くと?」
「無理か?」
「いいえ──」
キャスターはわざわざ実体化して微笑んだ。背筋を凍らせかねない微笑は、しかし綺麗に澄んでいた。
「無茶ですが無理ではありませんよ、志貴。あなたの望みは、必ずや成就させましょう」
「ありがとう。少し、散歩してくるよ。いいかな」
キャスターはどうぞ、と仕草で言う。志貴の尋常ではない気配くらい、彼女にも伝わったようだった。
「そうそう」
ドアノブに手を掛けると、キャスターが思い出したように声をあげた。
「ライダーを倒すなら『マトウ』という家を探してくれないかしら。デンワバンゴウというやつで構わないから」
「わかった。マトウね」
ホテルを出てから二十分ほど歩いた。震えの止まらない腕を掻き抱いて、当て所も無く。上着も羽織らずに出てきたせいで震えているのか、それとも──。
自販機で買った缶コーヒーで体を温めつつ、震える右腕をさする。二月の初頭にしては温かいのだが、それでもジャケット無しでのんびり散歩と洒落込める気温ではなかった。
とはいえ仕方の無いことだ。昨晩の一件で上下一着ずつの服を失い、唯一の防寒具であるジャケットもボロ切れになった。寒空の下、薄いシャツ一枚の青年に道行く人は不思議そうな目を向けてくる。
震える腕に不審な挙動。その上季節外れの軽装となれば、好奇の視線もひとしおだった。耐えかねた志貴は、通り掛かったカジュアルショップに逃げ込み、適当な上着を見繕って購入する。安物のジャケットだが、身なりに頓着しない志貴にはどうでもいいことだった。無意識の好奇心に晒されることなく、寒さも防げるというなら御の字である。ジャケットを受け取りしな、震える志貴に店員が苦笑混じりに言った「大丈夫ですか?」という言葉が、空しく頭の中をリフレインする。
そこからまた方位も確かめずに歩き始める。しばらく歩き、あたりを見渡してみると、ちょっとした広場のような、開けた場所に立っていることに気付く。オフィス街の憩いの場のようで、昼休みにのんびりと過ごすサラリーマンが目に付く。本を開いたり、自前の弁当を広げていたり。思い思いに時間を潰している。
志貴は広場中央部の噴水周りに設置されたベンチに腰掛け、寒さが原因ではなかったらしい腕を強く強く擦る。そうすればするほどに震えは強くなっていく。右腕だけだった震えはやがて体中に伝播していった。志貴は全身を震わせながら、止まっていた思考回路に電力を送るように、頭を働かせる。
残された時間は一週間。だが一週間を一杯まで使えるわけではない。万が一聖杯戦争を勝ち抜けなくなれば、志貴には自害する道しか残されない。死ぬことで秋葉との契約を破棄し、彼女本来の生きる力を取り戻させる。今まではそう考えていた。だが、秋葉を殺させないためには、志貴は一週間後には帰宅していなければならない。翡翠に言った攫うという言葉。それが現実味を帯びてくる。実行するために、志貴は一度帰宅して三人を連れて逃げることになる。琥珀と翡翠が嫌がれば、秋葉一人でも連れて逃げ出すだろう。何せ、自分の命を絶てば秋葉が救われると決まったわけではない。その選択は今更だ。紅赤朱に成りきれていなかった秋葉なら救えたかもしれないが、成ってしまった秋葉を救うには、それこそ奇跡でも必要になる。
──俺が命を絶って、それで秋葉が戻らなかった場合、死刑執行は滞りなく行われる。遠野志貴が死んだことになど誰も気付かずに。
それでは意味が無い。志貴は歯噛みした。
秋葉を攫い、それから自害すれば、翡翠と琥珀が後はどうとでもしてくれる。秋葉が元通りになれば逃げ隠れる必要もなくなるし、三人は今までどおりの生活に戻れる。
下向けていた視界に黒い靄のようなものが掛かったのはそのときだった。怖気づくほどの黒が、視界の片隅に細長くぼんやりと浮かぶ。それは線のようだった。
「まさか」
視線をずらす。靄は動かない。
震える腕で眼鏡に手を掛け、息を呑んだ。荒ぐ呼吸を落ち着けて、跳ねる心臓を押さえつける。恐る恐る、ゆっくり慎重に眼鏡をずらしていく。『先生』に貰った命よりも大切な眼鏡。志貴を人間でいさせてくれる眼鏡。
取り外す。爆発するように眼球を襲う許容外の情報。視界は一瞬にしてひび割れて、死があちこちに溢れる死界へと変化する。
靄は消えた。その代わり、靄があったのとまったく同じ位置に、黒々と線が引かれていた。
理解する。耐えられなくなっただけだ。『先生の眼鏡』でも抑え切れないほど力が肥大してしまったのだ。
胸の奥に焼けるような痛みを覚えて思わず蹲ると、唐突に焦りが広がってくる。じわじわと水が染み出してくるようにゆっくりと。それが魔眼の侵食なのだと気付けば、焦りの原因にも気がついた。
「時間が無い」
眼鏡をしても抑えきれなくなれば発狂する。
魔眼封じというダムは明日にでも決壊するかもしれないし、一生侵食を留め続けるかもしれない。ただそれが不確定である以上、時間は無い。一刻も早く敵対するサーヴァントを殲滅し、聖杯を手にしないと、秋葉をもう一度見る前に狂気に飲まれかねない。
志貴は覚束ない足取りでホテルに戻る。途中の電話ボックスで住所録を引くと、『間桐』の家は容易く見つかった。メモ用紙が無いことに気付き、手早くそのページを千切ってポケットに滑り込ませた。
ホテルにキャスターの姿は無く、代わりとばかり、慣れない日本語のメモがおかれていた。
「準備に出ます」
***
ライダーは油断なく四方八方に意識の糸を飛ばしていた。突き刺さるような危機感。のんべんだらりとした体で無造作に歩いている主に、この危険性は伝わらない。
日が落ちていること、やって来たのが広く開けた場所だったということ。それはライダーにとって僥倖だった。戦場は暗ければ暗いほど。広ければ広いほど良い。ところどころに立つ枯れ木は、障害物のうちには入るまい。ライダーが宝具を開放すればその瞬間、ここは更地になるのだから。
冬木中央公園。聞けば前回の聖杯戦争の決着地だというここには、あまりにも強烈な腐臭が漂っている。昼夜問わず人が寄り付かないというのも頷ける話で、まさしく死地だ。数千の人の怨念と呪詛がそれぞれ巻かれ合い高まっていく。そんな螺旋構造の極みに、こんな淀みきった空間ができあがる。加えて、数千の軍勢に囲まれているような感覚をもたらす結界。とうに、自分達はキャスターの術中にはまっていた。
こんなところにわざわざ足を踏み込んだのは、ひとえにマスターの命令だからであった。一本の電話。『おいで』とたった一言呟かれた言葉によって、間桐慎二は容易く陥落した。すぐに異変を察した間桐桜によって難を逃れはしたが、プライドを傷つけられたと猛る慎二は、桜の制止の声にも耳を貸さず、ライダーを連れて誘いに乗ったというわけだ。
電気信号と化した電話越しの声でさえ呪術の媒介にできるキャスターも大概のものだが、わざわざ出向く自分達ほどバカな話もない。いくら魔力を吸って多少強くなったとはいえ、相手が誘い込もうとしている地に、必勝の計も無く飛び込んでいく。その行為のいかに無謀なことか。しかし慎二は聞く耳を持たず、復讐だと息巻いている。
「シンジ……ここでは貴方を守る自信が無い」
慎二は聞こえていないかのように、ずかずかと公園の中央を目指す。ライダーは既に臨戦態勢だった。穏やかだった呼吸は、いつの間にか激しく変化し、一定のリズムを保っていた鼓動もまた、警鐘を打ち鳴らすように喚き散らしていた。
視線を僅かに動かした瞬間、月明かりと遠く見えるビル街の明かりが揺らぐのを見た。何者かの世界に飲み込まれた感覚。それは極限まで研ぎ澄まされていたライダーの五感だからこそ感知しえた変化。それが致命的なミスになる前に、ライダーは行動を起こした。
「シンジ! 私の後ろへ」
「敵か?」
「そうです」
両手を顔の半分を覆う眼帯の前で交差させ、
「自己封印・暗黒神殿(ブレーカー・ゴルゴーン)」
英霊・メドゥーサは、彼女を彼女足らしめる魔眼を解放した。
背後で喚く主をその視界に納めないよう気を配りながら、ライダーは慎重に周囲を見回した。どこまでも続く枯れ果てた草原。まばらに屹立する樹木。運悪くライダーの視界に入り、ぼたぼたと落下していく蝙蝠たち。
如何に強い対魔力を持とうとも、この魔眼の前には行動を制限される。それがライダーの石化の魔眼の能力。その名の通り、対魔力を有さないモノは見つめられた瞬間石化させることができるが、そこまでの効果は期待していなかった。相手はキャスター。呪詛返しの術でも使われかねない。だが、魔力を練るにしろ動きを制限されるにしろ、そこに隙が生まれるのは必定。ならばその隙にもう一つの宝具(.......)で先制、あるいは撤退すればいい。敵地に策も無く飛び込んだのだから、出し惜しみなどできるはずもない。幸い、魔力は釣りが来るほど有り余っている。
──だが
ライダーは顔に苦味を混ぜた。
前言を撤回する。ここが『夜』で『広い』ことはマイナスであり、疎らに立つ木々は障害物でしかない。暗闇が視力を低下させ、木々が生む僅かな死角は命取りになる。現にライダーは間違いなくこちらを監視しているはずの敵を見つけられないでいた。
「どこに──」
冷静沈着が持ち味だと信じていた。感情を表に出さないだけでもあったが、自身を見直すことにかけて、ライダーは誰よりも長けている。何せ、考える時間はいくらでもあった。英雄に殺されるその日まで、暗い洞穴の中で自己批判と懺悔の日々を過ごしたのだから、その忍耐力は言わずもがな。だがそれも、非常時には容易く崩れ去った。
元々メドゥーサは美しいだけの、ただの少女だった。戦闘に長けているわけでもなく、特殊な力を持っていたわけでもない。今持つ力にしろ、因縁から植えつけられたものだ。怪物になってからでさえ、彼女はただの一度も自分から人を殺さなかった。興味本位で洞穴に忍び込み、勝手に石になったバカな人間たち。彼女自身が願って得た力など、何一つありはしない。だから、恐ろしいに決まっている。こんな、あのときのように寝首をかかれるようなやり口は、ライダーが最も苦手とするものなのに……。
沈みかけた気持ちを切り替えて、ライダーはダガーを一際強く握った。白く変色した指先がライダーの緊張を表している。
耐えられない。
「退きますよ、シンジ」
「ふざけるな。ここで! 敵の真ん中で! 敵の罠を! 粉微塵に砕くんだ!」
慎二の言葉から理性は感じられなかった。卑小なくせに野心プライドだけは一丁前。端から見ればあるかないかも怪しい信念こそ持っているようだが、ライダーにはそれが哀れに思えた。
俗世であれば、弱者は結束して強者を淘汰するだろう。強者とはつまりイレギュラーだから、人類という種はそれを見逃せない。故に魔術師は姿を隠す。協会とやらが奇跡を隠匿するのは淘汰を恐れているからに他ならない。
だが、その強者たちの中に紛れ込んでしまえば、淘汰されるのは弱者だというのに。強者という通常の中で弱きは異常でしかない。それを知っていながら引き返せない哀れな少年。それが間桐慎二。弱者は弱者なりの小細工で生き残る。魔術師が異常を隠すように、異常者は自分が異常だと悟られてはいけない──
「ならば相応の準備をしなければならない。このままでは犬死──」
ライダーの腕が蛇のように伸び、慎二の襟首を掴んでそのまま空高く飛び上がる。瞬間、一陣の風が吹き抜けて行った。その影を見逃すことなく、上空から睨み付ける。正体は知れている。蒼い瞳に、細身の体。武器こそカタナを使用しているが瑣末なこと。ライダーと昨日死闘を繰り広げた遠野志貴その人だ。
「アイツ!」
慎二が叫ぶ。
「シキ──やはり貴方か。蜘蛛のように網を張り、獲物を待ち構える。らしくもない。昨日の勇猛果敢な貴方はどこへ消えたのです」
必殺の一撃を避けられて、志貴はたたらを踏んでいた。更にライダーの視線に捕まり、枯れ木の陰に身を滑り込ませようとした志貴の動きが止まる。志貴はゆっくりと首を回し、頭上のライダーをにらみつけた。ライダーは口端を吊り上げて、面妖にほくそえむ。
「フフ、蜘蛛はどちらかしらね、騎乗兵」
突然の声に、自由落下し始めた体を捻って背中に視線を向ける。紫色のローブをはためかせ、闇夜を魔女が舞っていた。右手には巨大な杖。ライダーの視線を一身に浴びながら、しかし魔女は平然と笑っている。
「その魔眼がさながら蜘蛛の糸というところかしら、メドゥーサ。けれど残念ね。蜘蛛の糸で蝙蝠は捕まえられない」
「私の名を──」
「反英雄メドゥーサ。キャスターを甘く見ないことね。それと、この私のマスターを」
ライダーはハッとして志貴に視線を戻す。ほんの一瞬目を離した程度で解ける魔眼ではない。事実、志貴はいまだ石化したまま数ミリたりとも動けていなかった。
「シンジ、今すぐこの場を離れてください」
志貴とキャスターを交互に睨みつけながら、ライダーは背中の慎二に声をかけた。
「シンジ──?」
だが返事は無い。振り向けないことが仇になる。確認しなければならないのに、それができない。振り向けば、対魔術など持たない慎二は一瞬で石と化してしまう。
斬られたのか。撃たれたのか。はたまた吸われたのか。その容態も確認できないようでは、この先戦いようもないというのに。
「無駄よ。あなたのマスターはもう返事をしない」
着地し、片手で慎二を引き摺るようにしながら移動する。ゆっくりと一歩一歩。志貴とキャスターを同時に視界に納められる位置へと。
死んだのか。否。背中に鼓動を感じる。
気絶しているのか。おそらく正しい。慎二の体は操り人形のように力がない。ぶらんと垂れ下がった腕に、すぐに砕ける腰。
「それは貴女のマスターとて同じでしょう。私の魔眼の術中にあるうちは、いくら貴女が解呪したところで意味は無い」
時間稼ぎのつもりで言うと、キャスターは一瞬きょとんとしたあと、心底おかしそうに腹を抱えた。
「アハハハハハハ! おかしな女。私は確かに言ったわね、マスターを甘く見るな、と」
ローブの向こうの瞳が怪しげに光る。悪寒が足の指先から脳天まで駆け上がってきた。ライダーは荒い息で周囲を睨み付ける。極限まで高められた魔眼のために、あちこちで生命の終わる音がする。断末魔も無く、地面にぼたぼたと倒れる石。
志貴もキャスターも動かない。今となってはそれこそが不気味だ。キャスターなら志貴の石化も解除できるだろう。空中からこちらを狙い撃ちにだってできるだろう。荷物(シンジ)を抱えたライダーを殺すには、慎二を狙えば事足りる。サーヴァントは、マスターを殺されるわけにはいかないのだから。だがしない。
──何を企んでいる。
「貴女の魔眼を解呪する必要など、はじめからないの。何故かしらね」
キャスターの口調はおちょくるものだ。安い挑発。そんなものに乗るとでも思っているのか。
ライダーは内心で毒づいて、監視の目を強くする。
「挑発には乗らないってわけ。いいわ。反英雄同士、仲良くしたかったのだけど。そろそろ終わりましょうか」
言って、キャスターは指を鳴らす。乾いたスナップの音が響いた瞬間、今まで完全に硬直していた志貴が疾走を開始した。ライダーまで最短距離を一直線に走る志貴を正面に見据え、ライダーはダガーをその首に突き立てた。
「あら、自害するというの?」
うるさい女狐め。
兎を狩るのに鎧は要らない。笑い者にされるだろう。バカにされるだろう。それでも構わない。事態は常に悪い方向へ想像していくものだ。そう、たとえばその兎には猛毒があるかもしれないのだから。
──ならば私は、兎を狩るのに五千の兵隊を用意しよう。
ダガーに切り裂かれた首から夥しい量の鮮血が吹き上がる。闇夜にあって目の覚めるほどに赤い血。魔力が全身に漲っている。生命力が血を赤く赤く染め上げる。円を描き、陣を組み、呪文を刻む。
この首より生まれし幻獣。その主の名を以って、今一度我に従えと──。
ゴルゴン三姉妹の末、メドゥーサの最高を以って貴様を葬ると。
「騎英の手綱(ベルレ・フォーン)──!」
間桐桜は目撃した。降り注ぐ雷がだらりと剣を構えた少年を打つ瞬間を。
走りとおした足は棒のようになって、間接を動かすことも困難なほどだった。助力を求めるライダーの叫びに応じ、有りっ丈の魔力をレイラインに送り込んだ。そうしながらも、桜は走った。ライダーが勝つにしろ、負けるにしろ、その戦いを見届けることは、間桐桜の義務だったのではないか。兄に擦り付けた危険を、見届ける義務がある。
ライダーが宝具を繰り出すまでにどれほどの攻防があったのか、桜には想像することもできなかった。或いは最初から宝具を放ったのかもしれない。見たところただの少年一人に、英霊が宝具を使用した。結果など解り切っている。少年のサーヴァントと思しきキャスターは呆然とその決着を見届け、ゆっくりと地面に降下していった。
肉片など残らない。髪の毛の一本から血液の一滴に至るまで蒸発したマスターに何を思うのか。キャスターは杖を振りかざし、言った。
「さようなら──」
ライダーは天馬を降り、キャスターと相対する。その瞳が桜を見つけて細くなる。ありがとう。ライダーの目はそう言っていた。
人を殺したのにありがとうという言葉。そこに違和感を覚える前に、ライダーの口端から血が零れた。
キャスターが続ける。
「──ライダー」
ライダーの体が傾いでいく。いつの間にか見慣れた黒いドレス。その裾から夥しい量の血液を流しながら、ライダーはゆっくりゆっくり傾斜していく。
その体と入れ替わるように、ライダーが立っていた場所には別の姿があった。薄茶色のジャケットに、擦り切れたジーンズ。血のりでべったりと塗れた髪をてからせ、獣のように蒼い目でこちらを見据える姿。
月明かりに照らされる白刃もまた、黒い血で濡れていた。
「……終わった」
ぽつんと、男が言った。
その一言がトリガーだった。全身に熱いものがこみ上げてくる。ライダーは既に姿も無い。わかってる。現界を終えたから、彼女は器に入ったのだ。メドゥーサという、寡黙だけれども優しい英霊は、もう二度と姿を見せることはない。
──あの男に、殺された。
「声は激しく──私の涙は大地を埋める」
真っ黒に色づいた魔力という名の水が、心の貯水池に濁流の如く流れ込む。それが、間桐桜のスイッチ。叫べば刹那、地面が轟いた。地鳴りを引き連れて、間桐の元素たる水が地面から吹き出す。それはダイアモンドカッターの切れ味を持つ間欠泉。鋼鉄さえ寸断し、マグマの流れさえ押し留める水流。
間桐桜の持ちうる最高の攻撃魔術は、寸分違わず血塗れの男を直撃する。
「声は高らかに──私の槍は夜闇に注ぐ」
続けざまに放ったのは鋼の雨。空高く舞い上がった魔力の塊が弾けると、無数の魔弾が降り注ぐ。
「よしなさい」
耳元で聞こえた声に、桜は大袈裟に肩を震わせながら振り返った。魔弾を全身に受けたはずのサーヴァントが、平然として立っていた。
手のひらが桜の胸に向けられる。
「なんで……ライダーの宝具は確かに!」
そうだ、と桜は男が立っていた位置を見た。逃げ場なんて与えなかった。吹き出した水柱は男の四方を囲み、尚且つ一つは直撃させた。そこに降り注ぐ魔弾。それで生きていられるなんてことは……。
だが、男もまた平然と立ち尽くしていた。蒼い瞳で桜をじっと見つめながら。
「……確かにライダーが……」
男の周囲には透明な皮膜があった。
「物を作るのが、好きなのよ」
桜に向けられた手のひらが上向き、乾いたスナップを響かせる。すると、物陰から何かが姿を現した。蒼い瞳。手にした日本刀。それは、自分を睨み付けている男とまるで同じ姿、顔、形で歩き──
「私はキャスター」
再び鳴り響いたスナップによって、初めから無かった物のように消え去った。
傀儡。人形。ダミー。桜の脳裏に波紋が広がる。それだけ見てしまえば十分過ぎた。つまり、ライダーは偽者を攻撃し、本物に殺されたということ。
「ライダーが、気付けもしなかったなんて……」
それに、ベルレフォーンの速度は人間が捉えられるようなものでは無いはずだ。速度と纏ったエーテルによる体当たり攻撃。速度は武器だ。サーヴァントさえ滅ぼせる火力を誇る最強の体当たり。いくら偽者を攻撃しようと離脱するには十分な速度を保っていた。だがライダーは止まった。壁にぶつかって跳ねたわけでもない。ゆっくりと減速していったわけでもない。何の脈絡もなく、彼女を取り囲んでいた物理法則全てを殺されたように、ライダーは止まり、そして死んだ。
「帰りなさい、貴女では触れることも叶わないのだから。それに……」
キャスターが視線をずらす。桜はその先を追って、僅かに肩を強張らせた。
「バー、サーカー……」
黒光りする岩のような筋肉。二メートルを優に超える巨体と、それに不釣合いなほど小さな少女。少女は恭しく頭を下げる。
「こんばんわ、キャスター」
場違いなほど澄んだ笑みで頭を下げる少女に、キャスターは露骨に怒りを滲ませた。
「一応、貴女を助けたのはわたしなんだけど。そういう目で見るのはよくないと思うわ」
「お黙りなさい。昨晩私に意識があれば、あのような失態など演じなかった。死にたくなければ早々に立ち去ることね」
「ふぅん……こういうの、恩を仇で返すって言うのよね」
「小娘が……!」
キャスターの雰囲気が変化する。刺々しいながらもどこか丸みを帯びていた魔力が、空気さえ凍らせるほどの奔流となって渦巻く。間近での魔力の爆発に、思わず倒れ掛かった背中が、何かによって支えられる。
「やめろ、キャスター」
「マスター」
細い手だった。桜は跳ね除けるように身を起こし、二人から離れる。
跳ね除けられた手をじっと見つめた男は、焦点の定まらない蒼い瞳を木陰に移す。
「お兄さんだろ?」
言うとおり、木陰には兄が倒れている。その兄をも覆う薄い皮膜に気付いて、桜は再度キャスターを見つめた。助けてくれたのだ、桜が放った無差別の魔力から。
気を失った兄に駆け寄りつつ、桜はようやくライダーのための涙を流した。
***
「お兄さんだろ?」
そう言ったつもりだったが、しっかりと発音できているか不安だった。耳鳴りが酷くてキャスターとイリヤスフィールが何を言い合っているのかも解らなかったし、骨刀・刀崎を握った右手はおろか、地面を踏みしめている感覚さえなかった。最も酷いのは、目だったが……。
とにかく間桐桜が走っていったのを見るに、言いたいことは伝わったようだった。改めてイリヤスフィールとキャスターを、ゆっくりと視界に納めた。
「こんばんわ、キャスターのマスター。勝ったのね」
少女の口がそう動いたような気がした。
「何か、用なのか?」
「……挨拶をされたら返す。どこの国でも基本だと思ったけど」
イリヤスフィールは憮然と頬を膨らませた。背後のバーサーカーは大人しく立っているのみで、襲ってくる気配は無い。
「ああ、悪い。こんばんは、イリヤスフィール。で、用は? 戦うっていうなら、相手になる」
我ながら率直な物言いだとも思うが、生憎回りくどい言い回しをする余裕などどこにもない。体が空気になって、意識だけが浮いているような気分だった。
「やめておいたほうがいいと思う。あなた、魔眼使いでしょ? それごとキャスターに強化させたから、暴走しちゃってるじゃない。そんなので戦ったって、わたしの魔術でも倒せるんだから」
イリヤスフィールは軽い足取りで近づいてきて、下から志貴の目を覗きこむ。キャスターが身じろぎしたのを制して、「よくわかるね」と返した志貴は、その場に腰を下ろした。
「志貴、撤退しましょう。今この場では、アサシンを倒したバーサーカーに太刀打ちなどできない。それに、貴方の眼は──」
「どうせもう使い物にならないんだ。逃げるのは、イリヤスフィールの話を聞いてからでもいい。お前ならできるだろ?」
キャスターは押し黙る。ずるい言い方だが致し方ない。
「わざわざ出てきたんだ、話があるんじゃないか?」
「そうね、なんだか危ない状況みたいだから単刀直入に言うけど」
「うん」
「手を組まない?」
Excalibur
killing me killing you
「その、悪かったな、遠坂。手間取らせて」
「いいわよ別に。ショック受けてるのはそっちでしょ。何せ、自分の半生が否定されたんだから」
セイバーはふむ、と唸った。ついさっきまで放心していた者になかなか痛烈なことを言う。もちろん、『魔術回路は切り替えるもの』という、セイバーでさえ知っている魔術における基礎中の基礎で蹴躓いていた者には当然の態度なのかもしれなかったが。
外はもう暗い。士郎が縁側で放心していた時間はおよそ四時間というところだ。この数年で日常とまで化していた行動を『無駄。やめろ。バカじゃない』と一蹴されたにしては、立ち直りが早かったといえるだろう。
「まあ、凛。その辺にしておいてください。それ以上毒を吐かれては、シロウがシロウで無くなりかねない」
適当に助け舟を出しつつ、和菓子と共に緑茶を啜る。心なしかいつもより苦いのは、きっと士郎の精神状態を表している。セイバーはもう少し大人しい味が好みだった。
「ライダーを倒す前に廃人になられても困るしね」
凛はいまだに呆れた顔で士郎をじっとりと睨んでいる。
「そうですよ。ですからシロウ。あなたも元気を出してください。毎晩の生成であなたは類稀な集中力を授かったのですから、まったくの無駄ということもありません」
「ありがとうセイバー。お茶、不味いな。いれなおすよ」
士郎はぎこちない微笑を浮かべながら立ち上がり、急須片手に台所に向かった。凛とセイバーは見送ったあと、顔を見合わせてため息を吐いた。
「重症ね」
「原因は凛ではありませんか」
「……原因だったらわたしじゃなくて衛宮くんの師匠ね。無断で人の土地に潜り込んで、挙句半人前を放置。許されることじゃないんだから」
確かにそうだ。切嗣さえしっかりしていれば、士郎はもっと素晴らしい魔術師になれたかもしれない。
凛の言葉に頷こうとしたセイバーの体が小さく跳ねる。電気ショックでも受けたような反応に凛が眼を丸くした瞬間、セイバーは勢い良く障子を開け放ち、暗闇に目を凝らす。
「……錯覚じゃないってこと」
凛も窓際に移り、空を見上げた。
「途轍もない魔力。どこかのサーヴァントが宝具を使ったわね」
「凛、アーチャーは無事ですか」
「大丈夫。観戦してるみたい」
一瞬そのアーチャーが戦っているのではないかと危惧したセイバーだったが、平然とした凛の様子に胸を撫で下ろす。彼も、そう簡単に殺していい相手ではない。
「念のため呼び戻したらどうです。流れ弾で逝くなどと笑えませんよ」
「……セイバー」
凛は怪訝そうな顔でセイバーを見た。
「アイツのこと心配してるの?」
「そうではありません。あなたを心配しているのですよ」
納得したのかしないのか。曖昧な表情で石油ストーブの前まで戻ると、凛は頭を掻いた。
「ふうん……しっかしこの豹変っぷりは凄いわよね」
「私のことですか?」
「そう。遠野志貴と喋ってるときのあなたときたら、鬼もかくやって感じだったから。アイツはセイバーが食いしん坊だなんて知ったらそれだけで戦意喪失するかも」
あまりの言い草に、セイバーは身を乗り出して凛を睨み付ける。
「凛、今のは聞き流せません。良いではないですか、お腹は空くんです。それが自然です」
セイバーが言い切ると、台所から堪えたような笑い声が聞こえてきた。
「なんですか、シロウまで」
「いい作戦じゃないか、遠坂。それならとても平和的だ」
「でしょ。他のサーヴァントにも見せてあげないとね、このセイバーを」
士郎は新たに淹れたお茶を湯飲みに注ぎ、テーブルの上に置いた。凛は両手を擦りながら湯飲みに手をかけ、一口啜ったあと盛大に吐息を零した。弛んだ空気の糸を引っ張るような、合図のような吐息で、セイバーと士郎は静かに腰を下ろした。
弛緩した糸を手繰り寄せた凛はフッと瞳を細める。士郎が緊張するのを感じながら、セイバーは凛の言葉を待つ。
「明日、ライダーを倒しに行くけど、異存は無いわよね」
単刀直入な言葉に、士郎は一瞬言葉を失ったようだったが、すぐに気を取り直したのか、大きく頷いた。
「そうだな。作戦は?」
「マスターまでわかってれば、作戦は決まったようなものね。慎二を直接狙う」
「……狙うっていうのは?」
「拘束するってこと。それでチェックメイト。令呪を手放すように言って、おしまいよ」
「いざ戦闘になっても、こちらの戦力は私とアーチャー。余程のことがなければ、敗北は無いでしょう」
セイバーは横目で凛を見た。『余程のこと』とはアーチャーの裏切りを懸念した言葉だ。アーチャーはキャスターとの戦闘中に士郎に危害を加えようとしている。その理由こそ不明だが、士郎とアーチャーの確執……というよりアーチャーの士郎に対する異常なまでの執着を考えれば、明らかな殺意による行動。理由、原因は気に掛かるが、見当がつかないこともない。馬鹿馬鹿しく、否定したいところではあるが、衛宮士郎と共に生活していると強ちハズレとも思えないというのが偽らざるセイバーの本音だった。
凛はセイバーの真意を悟って沈黙した。「その必要はなくなった」という低い声が聞こえたのはそのときだった。
「アーチャー?」
名を呼ばれた騎士は霊体化させていた体を、突如居間に現して、セイバーたちを見下ろす。
「必要は無いって、どういうことだ」
硬く結ばれたアーチャーの口元と鋭い瞳には頑なな意志を感じる。そこに数日前の悪夢でも見たのか、士郎の声には緊張が混じっていた。
「ライダーはキャスターと遠野志貴に倒された」
「……では、先ほどの魔力の高鳴りは」
「ライダーの宝具だ。それをキャスターの魔術で避け、遠野志貴は一撃でライダーを仕留めた」
一撃という言葉が突風となって居間を吹きぬける。戦慄するような悪寒は背中から首筋まで這い上がってきて、セイバーの拳を震わせた。
この聖杯戦争に、弱い者など無い。戦闘能力で突出しないライダーであれ、宝具の力は絶大だ。街全体の空気を打ち震わせるほどの強烈が、敗れた。久しく忘れていた武者震いの感覚に戸惑う。
「これで休戦協定は無くなった」
戸惑う暇など無いとばかりにアーチャーが告げる。士郎は今度こそアーチャーを睨みつける。セイバーは一瞬で鎧を具現化し、不可視の剣を構えた。
「ちょっと待って」
一触即発の空気に、凛が割ってはいる。
「アーチャー、言いたいことはそれだけじゃないでしょ」
「その通りだ……一つ提案がある」
「聞きましょう。協定が無くなったと言ったのはそちらだ。気に入らなければ切り伏せます」
アーチャーは鼻で笑う。
「できれば協定を続けたい。厄介なことになったのでな」
アーチャーは語調を変えずに言ったが、その口元は笑みなど刻まなかった。怒りと、悔しさのようなものを滲ませていた。
「続ける……? おまえらしくも無いな」
「耳が痛いな。だが、キャスターとバーサーカーが組んだと言えば、貴様にも事の重大さは解るだろう」
「な──! イリヤが、志貴と?」
武者震いさえ打ち消す衝撃に、セイバーは目を見開いた。
「有り得ない。あの少女が他人と組むなど。アレは己を神聖視している。その自尊心の塊のような者が、よりにもよってあのシキと組んだというのですか」
「だが事実だセイバー。私はこの目で見、そしてこの耳で聞いた。イリヤスフィールの真意はわからない。しかし二人組となればこちらを意識しての行動だろう」
「……アサシンも死んだのよね? これで、残りは五人。そのうちの二組ずつが協定を結ぶ状態。狙うのは単体で動いてるランサーでもいいんじゃない?」
「いえ、もしも本当にバーサーカーとキャスターが組んだのだとすれば、万全で挑まねばなりません。私とアーチャーが同時に攻めるのなら、ランサーに勝機は無いでしょうが、無傷で勝てる相手でもない。どちらか片方は痛手を負うことになるはず。そこをバーサーカー達に襲われれば、ひとたまりも無いでしょう」
凛が唸る。
「そうか……セイバーならバーサーカーとも対等に戦えるけど、そこにキャスターの援護が入るのね。結果なんて……考えたくもない」
「迎え撃つのか、打って出るのか……。どちらにしろ大怪我覚悟の大仕事になりそうだな」
「だが、付け入る隙はあるかもしれん」
「言って」
「キャスターはバーサーカー達を快く思っていない。キャスターの飼い犬だったアサシンを殺したのはバーサーカーだからな」
「アレだけやっておいて……仲間意識だけは随分強いみたいね、キャスターって」
「まぁ、何にせよ──」
アーチャーはようやく不敵に微笑む。
「協定については引き続きということで構わないのだな?」
セイバーは見逃さない。アーチャーが士郎を嘲笑うように目を細めたのを。
***
しんしんと、澄みきった風がナイフのような鋭さで桜の体を打った。外人墓地を経て、教会へと通じる上り坂。
肩に感じる兄の体は想像以上に軽い。それでも疲労した体に、六十キロもの重りはつらい。自宅から公園までの全力疾走に続けて、高位魔術の連発。修めた最高を続けざまに放ったのだから、動けるだけでも僥倖だった。
「あと少しだから、兄さん」
目覚めない兄に声をかけつつ、何度も休憩しながら足を動かす。息は絶え絶えで、無傷の慎二と比べればはるかに重症に見えた。だが、慎二の傷は外面には現れない。ライダーの判断能力さえ鈍らせた結界は、慎二の五感を完全に破壊している。桜が平気だったのは、ライダーの死に沸騰した頭が結界に入る前に魔術回路を開いたからだ。魔術回路すら無い兄では、影響を十割全て受けてしまったということ。
桜が術式を組む瞬間に慎二をも防御魔術の対象にしたキャスターでさえ、この結果は予想外だったに違いない。魔術回路を持たないマスターなど、想定するはずがない。だから、慎二のことでキャスターたちを恨むのはお門違いだ。だが、
「ライダーのことは」
許せなかった。
怒りや恨みよりも悲しみのほうが強い。
慎二に独占されていて、ろくに会話することもできなかった。正直に言えば興味も無かった。戦争など、他所でやってくれればいい。兄が身代わりとして危険に身を晒すのならそれでいいとさえ思った。だが、ライダーは常に桜の心配をして、桜のことを考えながら行動していた。学校の結界を発動させることを最後まで拒んだのはライダーだった。心の底で嫌だと絶叫していた桜の代わりに、ライダーが抗議してくれていたのだ。
そんなライダーのことを知っていても、たった一撃で虫けらのように殺せたのか。死人のような蒼い瞳で、何もかも見透かしたような目をして。
『お兄さんだろ』
そう告げたあの口が、あの顔が、目が。恨めしい。
『確かにセイバーとアーチャーの姿も確認しましたが、まるでノーマークだった相手に邪魔を』
昨晩のライダーの言葉だ。ノーマークとはキャスターだったのだろう。ライダーは嬉しそうに語っていた。己の暴挙を止めてくれる相手に感謝さえしていただろう。桜でさえ嬉しかったのだ、ライダーもそう感じたはずだ。それをあんな冷たい目で睨み付けて、完膚なきまでに殺した。戦争とはそういうものだと解っている。解ってはいるが、納得できない。
眼前の建物を見上げる。巨大な教会だ。言峰神父は恐らく桜を待ちわびている。敗者を保護するという目的のために、首を長くして待っているはずだ。教会の人間にして魔術師。その神霊医術の腕は素晴らしいと聞く。まずは慎二を回復させよう。考えるのは、それからでいい。
鈍重そうな扉がゆっくりと開く。人一人分扉が開いたところで、見下ろす視線を感じた。
「迷える子羊……とは上手い喩えだな。まさしくそれがここにある」
「……言峰神父。兄さんを」
「ライダーが呑まれたか」
神父は桜と慎二を交互に見、そして片方の口端だけを歪に歪めて見せると、大きく扉を開け放った。
「中に入れ。間桐桜、きみも随分と消耗しているようだ」
言われるがままに教会の中に進む。礼拝堂には一人の外国人が居座っていた。外国人はめんどくさそうに首を回すと、赤い瞳を桜とあわせた。
「ほう、貴様やられたか」
「──知り合いか? ギルガメッシュ」
「知り合いという程ではない。一度声をかけたことがあってな。心地よい魔力を持っていたが、負けるとは。セイバーにでも挑んだか」
外国人──聞き間違いでなければギルガメッシュと呼ばれた男は、おかしそうに桜と担がれている慎二を見やった。
「ギル、ガメッシュ?」
男は小首を傾げるようにしてから、大仰な身振りで立ち上がり、両手を広げるジェスチャーをする。
「如何にも、我(オレ)はギルガメッシュ。言峰、コイツはまだ喰わん。見たところ、別の意味で餌になろう」
赤い瞳が慎二を射抜く。
「そいつは要らぬ」
「待ってください……一体何の話を。それに、ギルガメッシュって……あの」
バビロニアの王のことなのか。口に出せず言い篭もる桜に、二人は冷笑を浴びせる。
「雑種、容易く人の名を呼び捨てるな。呼びたければ……アーチャーとでも呼ぶがいい」
「……アー、チャー? でも……まさか前回の……」
「ほう? 解っているではないか。雑種の割には頭が働く。褒めて遣わすぞ。そう、今回のアーチャーはあのフェイカー」
ギルガメッシュは頷き、目を閉じ自嘲するように笑った。
「ということは、どういうことなのだろうな」
桜は一歩二歩と後退した。前回戦争から生き残っている? 言峰綺礼からはそう強力な魔力を感じない。その彼に十年間もサーヴァントを現界させ続けられるとは思えない。と考えた頭に『言峰、コイツはまだ喰わん』というセリフが思い起こされた。
「その通りだ間桐桜。コイツは十年間人の魂を喰って生き長らえてきた」
後退しつつあった体は、背後に言峰を感じると止まる。桜は肩に抱いた兄を強く自分に引き寄せた。
「兄さんを……どうするつもりですか」
「食うか?」
「食わん」
「だ、そうだが?」
言峰もギルガメッシュも、瞳が笑っている。否、哂っている。逃げ惑うネズミを甚振る猫のような目だ。桜の心臓は既に破裂しそうだった。助けを求め飛び込んだ場所に地雷があったようなものだ。そして桜はそれを踏んだ。あとは動くだけで、粉微塵に砕ける。
「何を、すればいいんです」
「簡単なこと。ここに居ろ。それだけで全ては事足りる」
「兄さん、は?」
「責任を持って、治療しよう。それが私の仕事だ」
言葉以外に、信じられるものは無かった。
藁にも縋る気持ちというものを理解しつつ、脳裏を掠めたのは青く冷たい瞳と、熱く燃える先輩の瞳だった。
衛宮士郎の朝は静かに訪れる。何年間も続けた一人暮らしによって、体内時計には一分の狂いも無い。今朝も午前六時には着替えを済ませ、朝食の準備に取り掛かっていた。
「おはようございます」
味噌汁の味見をしていると、セイバーが重そうな瞼を引きずりながらやってきた。「おはよう」と返すと、もそもそと緩慢に居間に戻っていく。昨晩はアーチャーと交替で見張りをしていたから、その疲れが残っているのだろう。
「セイバー、眠かったらもっと寝ててもいいんだぞ」
「アーチャーはピンピンしていますから。平気です」
セイバーは解りづらい返答をすると、机に突っ伏して士郎を見つめ出す。見つめるというより、穴が空くほどに睨まれているのだが、その理由は簡単なことだった。
「すぐできるから」
フライパンの中の卵焼きを見せつけてやる。食欲をそそる黄色いだしまき卵は、素晴らしい出来具合だった。セイバーはばつが悪そうにそっぽを向いた。
「……まるで私が催促しているようではないですか」
「昨日の晩は頑張ってくれたんだから。腹が空くのは当たり前だろ」
さも当然とばかりに言われて、セイバーは再び士郎に視線を戻した。いちいちからかい甲斐のある反応にしのび笑って、まな板に移した卵焼きを適当な大きさに切っていく。
そうこうしていると三白眼の凛がやってきて、朝食と相成った。
忍び寄る影には、気付けなかった。
Excalibur
高い天井、吊るされたシャンデリアのような照明。ベッドは屋敷で使っていたものより更に上等で、起きぬけの思考は一瞬忘我の彼方へ追いやられた。
「シキ様。朝食の準備ができましたので、食堂へいらっしゃってください」
その声に懐かしい響きを聞いて、志貴は思考を手繰り寄せると風を切るほど首を回して振り向いた。白い服に全身を覆われた女性が扉口で志貴をじっと窺っている。肩を落とした志貴を見て、女性は訝しむように眉をしかめた。
「わざわざ申し訳ないんですけど、朝食は食べられそうにないんです」
「承知しました」
「あ、それと。目を隠せるようなものを貸してもらえませんか」
「目を……隠す? 少々お待ちください」
女性は背を向け、ふと思い出したように向き直った。静かな瞳が微かに色を灯す。彼女の脇には、まったく同じ格好の女性がいた。その女性は覗きこむように志貴を見ていた。
「私はセラ。彼女はリーズリット。シキ様は現在イリヤお嬢様と同盟関係にあるということですので、客人として迎えさせていただきます」
「丁寧にどうも。よろしくお願いします」
セラは一礼すると、今度こそ踵を返して歩いて行った。その背に従おうとして、今度はリーズリットが振り返る。
「ワタシ、ニホンゴ、ア・リトル。用がアタラ、セラに」
リーズリットは片言の日本語で言うと、セラのあとを追っていった。見送った志貴はベッドに倒れこみ、強烈な痛みに耐えた。
「志貴……」
キャスターの声は窓際から聞こえてくる。彼女たちが怪しい動きを見せたら即刻殺すつもりだったのだろう、キャスターの右手が蜃気楼のようにゆらゆらと揺れていた。
「目は、見えていますね」
「視えすぎて困るくらいに見える」
「私は──」
キャスターはゆっくり近づいてくる。ピンと尖った耳に、青みがかった銀色の髪。彫刻のような美しさを持つキャスターは、顔を俯けていた。
「後悔しています」
「何を後悔してるっていうんだ」
「志貴の口車に乗せられたことを。私の説明不足です」
「キャスターの説明は聞いたよ。聞いたうえで俺は頼んだんだ。魔眼ごと強化してくれって。だから、キャスターが後悔することは何一つ無い。この先盲目同然っていうリスクはあるけど、そうでもしなければライダーの点は突けなかった。それに、さすがのキャスターの魔術でも、この眼は強化し切れなかったみたいだ。この眼はただ使うだけで体を蝕むんだよ。どの道こうなる運命だったんだ。後悔なんてしてる場合じゃないだろ」
志貴はもう一度部屋を見回した。眼鏡はしている。だが、豪華絢爛な部屋は、まるでツギハギだらけのボロ屋敷のように見えた。壁という壁、物という物に走る死の線。酷い頭痛は頭を割らんばかりで、今にも気を失ってしまいそうだった。
魔眼の暴走とイリヤスフィールは言った。だが、志貴は違うと考えていた。この体が死に近づけば近づくほど、魔眼は強くなっていく。これは寿命だ。遠野志貴の寿命が、とうとうやってきただけ。決してキャスターの強化魔術のせいでも、ライダーの死点を突いたからでもない。魔眼によって弱っていく体が、死へと近づいているだけ。
部屋の扉が開かれる。リーズリットだった。
「ほうたい」
綺麗に巻かれた目の細かい包帯を、志貴はありがたく受け取った。
***
「セラ」
テーブルの上座に腰掛け、ナイフとフォークを器用に扱っていたイリヤスフィールが背後に控えるメイドに声をかけた。
「はい」
「シキは?」
「体調が優れないと」
セラの表情は硬い。イリヤスフィールは「そう」と返して、黙々とサラダを頬張る。いつもどおりに佇んでいたセラだったが、やがて意を決したように息を吸い込んだ。
「あの男、使い物になるのですか。目を隠すものをくれだなどと、戦いを放棄しているとしか思えませんが」
「シキが使い物にならなくても、全然関係なんかないのよ」
「……同盟……では?」
「餌よ、シキは」
「餌……ですか」
「悔しいけど、シロウ達が恐れてるのは、わたしじゃなくてシキなの。何せ人間のくせにライダーを倒しちゃったんだから。そのシキがバーサーカーと組んだって知ったら、何が何でも落としに来ると思わない?」
「ですが──」
「それに、こうすることでシキはセイバーたちに勝手に手出しはできなくなる。ランサーはどうせやる気無いし、わたしはシロウを殺せたらそれで満足なんだから。コトが済んだらキャスターを殺して……シキも殺すことになるんだろうけど、それでおしまい」
セラは深いため息を吐いた。
「お嬢様は恐ろしい方です」
「あ、でもこういう話はこれでおしまいね。キャスターに聞かれたら面倒だもの」
「承知しました」
セラは深く腰を折る。
大きな音をたてて食堂の扉が開かれる。二人の視線は深々と被ったローブで顔を覆い隠したキャスターに注がれた。
「おはよう。よく眠れた?」
「獣臭くて、眠るどころではないわね」
「意外と小物よね、貴女って。何か用? アサシンのあだ討ちでもしかねない雰囲気だけど。それってお門違いよ。バーサーカーは殺されたんだから」
キャスターはフッと口元を緩めて、ローブをはぐり取った。セラが息を呑むのを背後に感じたイリヤスフィールは、へえと声を漏らした。
キャスターの素顔は絵画か彫刻から抜け落ちてきたような、幻想的なつくりのものだった。英霊は皆が皆美しい顔立ちをしている。それが生前からのものなのか、それとも神話に生ける者を美化した結果なのかは定かでないが、およそ奇跡としか言い得ないレベルで、彼らは象られている。その顔が苦渋に染まっているのを見るのは非常に不思議な気分になる。イリヤスフィールは内心に湧き上がってきた好奇心と嗜虐心を抑えつつ、キャスターの言葉を待った。
「小次郎のことはどうでもいいの。志貴からの伝言を伝えに来ただけ」
「言って」
「今晩セイバーたちを倒しに行きたいから協力してくれ……だそうよ」
「へ?」
イリヤスフィールは素っ頓狂な声をあげて、呆然とキャスターを見た。キャスターの苦渋の正体に気付いて、イリヤスフィールは思わず頬を綻ばせ、声をあげて笑ってしまった。
「……私だって笑いたいものね」
「かわいそうなキャスター。そんなのがマスターじゃ、街中から吸い取ろうって気にもなるってことね。よく解る。ほんの少し突かれただけで死んじゃう人間のくせに粋がってる。だからキャスター、あなたが少しでも自分が強くならなきゃだめ。ああキャスター。あなたとっても最高」
突然笑い転げたイリヤスフィールに、セラは目を丸くしている。「ところで」とイリヤスフィールは上目遣いにキャスターを見上げた。
「なんで今夜なの?」
「志貴は六日以内に聖杯を手に入れなければならないのよ」
「六日以内に叶えたい夢なんて、見かけによらず野心家なの?」
「無欲な人間よ、恐ろしいほど。私より悲惨な過去を持っていると言っても、過言じゃないのにね」
キャスターは自嘲するように笑う。イリヤスフィールは目を輝かせた。爛々と輝く瞳に気付き、キャスターは嫌な予感に鳥肌をたてた。
「シキの過去を教えてくれたら今晩の作戦に協力してあげる」
予想通りの言葉を突きつけられ、キャスターは小さく唸る。勝手に喋るわけにはいかなかった。かといって志貴が喋っていいと言うとも思えない。
「それでいいのかしら。セイバー如き、私一人でどうとでもできる。そうされて困るのは貴女ではなくて?」
「あら、もしかして聞こえちゃってた?」
「外まで筒抜けよ、おばかさん」
今度はイリヤスフィールが唸る番だった。だが、イリヤスフィールはキャスターの肩越しに人影を見つけ、パッと花を咲かせた。
「シキ、キャスターは随分ケチね」
慌ててキャスターが振り向けば、そこには包帯で目を覆い隠した志貴と肩を貸すリーズリットがいた。志貴の口元は苦笑いを浮かべている。
「休んでいなくていいのですか?」
「ああ、乗り込むのは今晩なんだから、眠ってなんていられないよ」
「シキー! 教えなさい」
「と、言ってますが……」
「いいよ、話してあげても。相手のことを知らないで共同戦線張るってのは少し、無謀かもしれないしね」
「ならばイリヤスフィール、あなたからも何か有意義な情報をいただくわ」
セラは目を丸くしたまま成り行きを見守った。
──これほど楽しそうなお嬢様を見るのは、一体何年ぶりだろう。
そう思いながら。
***
「仕事に戻りましょう、リズ」
これ以上見ていられない。セラは顔を俯けて、部屋から立ち去ろうとした。
「え、なんで。だってイリヤ」
志貴は眠れと強く勧めるキャスターに押し切られるかたちで、作戦会議の名を借りた雑談は志貴に宛がった部屋で行われた。
「イリヤ、楽しそう。だからもうちょっと」
会話は日本語で行われていたため、リーズリットにはまるで理解できないのだろう。しかしイリヤスフィールの華やいだ表情を見るリーズリットの表情は、穏やかなものだった。
「そうね……とんだ厄介ものかと思ったけど」
「でも本当はエミヤシロウとああしていたいんだと思う」
志貴はベッドに腰掛け、イリヤはその隣、キャスターは正面で椅子に腰掛けている。ぽつぽつと記憶を語る志貴の表情は硬かったが、まるで夢物語のようなその話に、イリヤは興味津々だった。
はたから見れば兄妹のようにさえ見える。兄が妹に絵本を読んで聞かせているようだった。そこにエミヤシロウが居られれば。セラは僅かに唇を噛み締める。
神は残酷だ。あまりにも。あの小さな命を引き合わせ、殺し合わせる。二人を出会わせたことが神の慈悲だというのなら、そんなものは独りよがりの偽善でしかない。
「どんな話をしてるの?」
「悲しい話。とてもとてもね」
「……わかりづらい」
セラは小首を傾げ、必死に聞きとめた単語をつなぎ合わせる。
「彼には、吸血鬼になった妹がいる」
「え……」
「その妹が六日後に処刑されてしまうから、それまでに聖杯を手に入れて人間に戻したい……そんなお話」
「悲しい。けど……セラ聖杯は」
「駄目よ。口にしないで。教えてはならないの。確実に、七つの魂を納めなければならない」
だからこそセラは見ていられない。聖杯の真実を知っているイリヤスフィールの笑顔に見え隠れする、陰を。
「カレーパンの食い方も知らないヤツだったんだ」
「かれーぱん?」
我慢ならないとばかり、セラは踵を返した。クレナイセキシュ。トオノ。オニ。センゾガエリ。どれも聞き馴染みの無い極東の国の魔だ。どこの国でも、魔は人々に不幸を呼ぶ。言わば自分達だって被害者だ。
「あ、セラ待って」
名残惜しそうなリーズリットの声を背中に聞きながら、セラは拳を握り締めた。既に収まったサーヴァントがいる。今晩セイバーを受け入れれば、変調も時間の問題だった。
***
「こんなところかな」
包帯の向こうに隠された瞳は、一体どんな表情なのだろう。
イリヤスフィールは自身が抱いた素朴な疑問に驚愕した。遠野志貴という敵に興味を抱いている自分に。
目的は衛宮士郎。彼のことならば何でも知りたかったし、独占したかった。その果てで殺す。アインツベルンを裏切って、聖杯を破壊した衛宮切嗣の息子を殺す。そうすることでアインツベルンの復讐は完遂される。イリヤスフィール個人の復讐も遂げられる。
だから衛宮士郎には興味があった。実際に会い、話し、興味は尚増した。では、それと似たような感覚を遠野志貴と話して得るのは何故なのか。
「シキ」
声は震えていたかもしれない。
「わたしは、あなたを殺すわ」
キャスターが殺気立つが、志貴は動じなかった。
「そのときは、俺もやり返すよ」
真面目に言われた言葉に胸が疼いた。怒りと憎しみと、よくわからない気持ちが絡み合って互いに噛み付き合う。
「……そういうのは、わたしのロールなのに」
「とにかく、しばらくの間はよろしく、イリヤスフィール」
言って、志貴は右手を見当違いの方に差し出した。
「イリヤでいい」
「じゃあよろしくイリヤ」
渋々志貴の手を握ったイリヤスフィールの体が、力強く振られる志貴の腕に振り回されて跳ねた。クスクスと嘲笑しているキャスターを睨み付けて、イリヤスフィールは大きなため息を吐いた。
「じゃあ、今度はわたしの番ね」
ようやく手を離した志貴に散々文句を言った後、イリヤはそう切り出した。
「バーサーカーの真名はヘラクレスよ」
「ヘラクレスって十二の試練の……?」
「そうよ。英霊としては最高クラスなんだから」
志貴とキャスターの驚きの顔が心地いい。イリヤは内心でほくそえみつつ、二人の様子を窺った。キャスターは針のような殺気を放ちながらそわそわし始め、志貴は口を半開きにしていた。
「そういえばキャスターの真名は何?」
「教えると思って?」
憮然と言う。
「……けち」
「そんなことより、いい加減本題に入らなければ。時間が無いのですから」
「それもそうだな」
「作戦は?」
「昨日みたいにできればいいんだけど」
「セイバーを誘い出すの? それは無理よ」
イリヤの反論に、二人は顔を見合わせた。
「キャスターの見立てじゃ衛宮士郎はろくな魔術を使えないらしい。衛宮士郎を誘い出せばセイバーもついてくる。そこを突くのが一番だと思うんだけど、無理なのか?」
「昨日はアーチャーに覗かれてたもの。アーチャーとセイバーは組んでるんだから、対策は取ってるはずよ」
そんなことにも気付いてなかったのかという皮肉を込める。
「……気付かなかったな」
「あの結界は二流品ですから。内側を強力な催眠で埋め尽くすために、外側の情報をある程度遮断してしまっている」
「よっぽど急いでたのね。で、作戦ってまさかそれだけ?」
キャスターが首を振った。
「バーサーカーの助勢を期待できるのならば、こちらは手を汚さずにセイバーを戦闘不能に陥らせることができるわね」
「どうするの?」
「マスターとセイバーの契約を断ち切ってしまえばいい」
キャスターは事も無げに言う。志貴は名案だとばかりに顔を上げるが、イリヤにしてみれば気になるところが山ほどあるような話だった。
「他人の契約に干渉するつもり? いったいどれだけ時間がかかるか──」
「私の宝具を使えばほんの瞬きをする間に可能よ」
「ふうん……そういう能力の宝具なのね?」
「ええ。どうするのかしら。協力してくれるの?」
協力なんて、バーサーカーに必要ない。志貴は衛宮士郎を誘き寄せるための餌だ。
「協力してあげる。でもその代わり、セイバーは殺すんじゃなくて捕まえる」
士郎との決着をつける前に、魂を取り込みすぎては意味が無い。あくまでもイリヤスフィール・フォン・アインツベルンとして、士郎を殺さなければならないのだから。
「ああ、構わないよ」
「お話は終わりましたか?」
イリヤは突然の母国語に肯きをかえした。
「昼食の準備が整いましたので、食堂までおいでください」
「もうそんな時間か」
志貴が柱時計を見ながら言った。ゆらゆらと振り子を揺らす時計は十二時半を指していた。三時間近くも話し込んでいたらしい。
「シキの話が長かったから」
「やっぱり退屈だっただろ」
「ううん。御伽噺みたいな話だった。けど、聖杯はわたしが手に入れるから。お零れならあげるわ」
「そうだね、そのときは全力で立ち向かうよ……英雄ヘラクレスに」
イリヤは笑う。志貴も包帯をゆがませて微笑んだ。優しい笑顔だった。昨晩の阿修羅のような凶暴さはどこにもない。
凄惨で陰惨な過去を哀れとは思わなかった。そういう星の下に生まれてしまった人間なのだ。ヒトですらない(ホムンクルス)自分がいるように、志貴もまた人間から外れた者。
「シキも昼はたべなさい」
***
踏み込みからのバリエーションは十ではきかない。流水のように形を変え、一直線に急所を狙う。ならば迎撃に要するのは技術ではなく、数日間の訓練で培った常人に毛が生えた程度の勘だった。
とっさに上段に構えていた竹刀を打ち下ろし、掬い上げるような剣閃をたたきつける一撃で弾く。
「実の入らない防御では──」
だが、セイバーの竹刀は打たれた衝撃さえ意に介さず、昇竜の勢いで士郎の竹刀ごと士郎の顎を打った。
「赤子の一撃とて防げませんね」
脳みそが頭蓋骨に叩きつけられる感触を、宙さえ舞いながら感じた士郎は次の瞬間には板張りの床に仰臥していた。
「何分?」
士郎は大の字のまま天井を見つめ、見下ろすセイバーに尋ねた。
「約一分というところです。数十分もノびていることは無くなりましたね」
「そりゃ、毎日こうして気絶させられてれば耐性もつく。人間は順応する生き物なんだから」
腫れ上がった顎をさすりながら立ち上がる士郎に、セイバーは手を貸す。意地を張って自分ひとりで立ち上がると、セイバーは苦笑した。
「もうじき日も暮れます。今日はこの辺にしておきましょう」
「夕飯でも作るよ」
顎をさすると痛みが走った。顎がぷっくりと腫れ上がるのを想像すると情けなくて笑えてくる。手加減をしているセイバー相手でこの様だ。本気のセイバーと立ち会えば、一秒だって持ちこたえることはできないだろう。強化魔術しか使えない衛宮士郎は、サーヴァント達との戦いにおいて邪魔者になる。凛やセイバーは、マスターとはそういうものだと言うだろう。だがそれでは無意味だ。キャスターやライダーのような者を、この手で叩くことができなければ、意味などは消えてなくなる。
「セイバー」
道場の入り口に立った背中に、セイバーの視線が向けられる。いつもどおりの、柔らかい視線だ。遠野志貴と向き合ったときのような、敵対心など欠片も感じない視線だ。
「俺、強くなってるか?」
一拍の間。それが永遠に感じられる。返ってくる答えはわかりきっているから、この間こそがセイバーの本音だった。衛宮士郎が考えていることなど、彼女は見透かしている。
「ええ、強くなっています。驚くべき速度で上達しているのですから、私も師として鼻が高い」
──勝てるのか。
「そっか。サンキュ」
道場から遠ざかっていく。夕食の献立を考える頭に、あの雪のような髪と青い瞳がよぎる。
──遠野志貴に勝てるのか。
ズボンのポケットの中に忍ばせておいた鉄塊を握り締める。あの日志貴から取り上げた、何の変哲も無い飛び出し式のナイフ。だが、ただの飛び出し式ナイフはアーチャーの猛攻を防ぎ、凛の魔法陣を破壊した。一つか二つ年上の男が、その気になれば世界さえ救える男が、ただ己の欲望のために力を振るう。他人を傷つけてまで勝とうとする。それは衛宮士郎には理解できない。
士郎はナイフを振った。刃こぼれの一つも無い銀刃が苦々しくゆがんだ士郎の顔を映し出していた。
「屋敷と一緒に埋まっちゃったかと思ってたけど、それ衛宮くんが持ってたんだ」
午後六時二十分。縁側で浮かぶ月を眺めつつ手持ち無沙汰にナイフを煌かせていた士郎に、凛が声をかけた。
「どう見えるの? 衛宮くんには」
「何の変哲もないナイフにしか見えない。名工の作ってことはわかる。けど特別な力は感じない。遠坂にはどう見えるんだ」
刃をしまって手渡すと、凛は勢いよく振って刃を出した。まじまじと見つめる目は真剣そのものだ。わずかに漏れた凛の魔力が、士郎の背筋を痙攣させる。
「やっぱりなんでもないナイフみたいだけど」
「けど?」
凛は握りに刻まれた文字を指差した。
「七つ夜……ってのが気にかかるのよね。どこかで似たような言葉を聞いたような気がするんだけど……どこだったかな」
「銘にしては変な気がするな。七つ夜……七つ夜……七つ時のことかもしれないぞ。午前四時頃に出来上がったから七つ夜」
凛は考え込んでいる。士郎は再びぼんやりと月を眺めた。屋根の上ではセイバーもこの月を見上げているのだろう。普段監視につくアーチャーは今夜も偵察に出ている。代わりにと申し出たのはセイバーだった。
「セイバーなら何か感じ入るものがあるかもしれないな。何せセイバーなんだから」
「そうね。セイバーの剣って見えないから、もしかすると短剣(ダガー)を振り回してるのかもしれないし。聞いてみる?」
凛はセイバーをからかうように言う。
「失礼な。私が握るのはれっきとしたセイバーです。その様な品と一緒にしないでほしい」
しっかりと聞いていたセイバーが頭上から言ってきた。
「ところでそのナイフは飛び出すようですが、そんなもので戦うメリットとは何でしょう。人とは比べ物にならない臂力を持つ英霊を相手に、いくらキャスターの強化があったとて、その低い剛性では耐えられるはずが無い。私が打てば二つに折れかねませんよ」
「そういえばそうだな。でもアーチャーの剣戟は受けたんだろ?」
「結果としてはそうですが、アーチャーの二刀を見て、己の獲物では役不足だと感じなかったのかという疑問です」
「確かに疑問かもね。アーチャーが言うには、昨日の志貴は刀を使ってたって。そんな立派なものがあるのに、わざわざナイフを使うっていうのはどういうことなんだろう」
セイバーにとっては暇つぶし程度の疑問らしいが、凛はまじめに悩んでいた。ナイフを裏返してみたり、下から見上げてみたりしている。
「アサシン」
士郎はふと頭に浮かんだ単語を口に出してみた。
「アサシン? バーサーカーにやられたアサシン?」
「違う違う。暗殺者っていう意味のアサシン。ぱっと見た感じはそれただの鉄塊だろ。文鎮だって言われても信じそうだ。それなら目標に近づいていって、鉄塊を取り出したと思ったらナイフで……って駄目だ。それならこの時代、拳銃でも使ったほうが確実だ」
考えすぎだと自分を笑いながら、凛を横目で伺う。すると凛は目をまん丸に広げて士郎を見ていた。
「すごい……衛宮くんすごいかも」
「なんでさ」
「七つ夜……ひっかかると思ったら七夜のことだったってわけ。なるほど道理であの動き。偽名を使ってるか、遠野に養子として引き取られた七夜の生き残り?」
凛は興奮した様子で独り言にいそしんでいる。まるで理解できていない士郎にようやく気づくと、咳払いを一つした。
「衛宮くん遠野グループってわかる?」
「CMとかで良く見るけど……ってまさかアイツが?」
遠野グループといえば、財閥めいた資産力を持つ一大企業グループだ。衛宮家にもその息がかかった製品はあるし、保険や銀行などでもたびたび名前を耳にする。二年前の遠野槙久の逝去はちょっとしたニュースになったくらいだから、士郎にも覚えがあった。
「そう。遠野っていうのはあの遠野」
「ちょっと待ってくれ。なんで日本でも一二を争ういいとこのお坊ちゃんが、あんな化け物じみた動きをするんだ」
「衛宮くんに一ついいことを教えてあげる」
にこり、という綺麗な笑みに、士郎は思わず上体を仰け反らせる。首筋が一瞬であわ立ったのだ。
「この国で魔術師をやりたいのなら、名のある家には近づかないこと。そもそも遠野は魔との混血っていう噂があるの。この国の魔術師の間でまことしやかに流れてた噂なんだけど、わたしは確信してる。この前志貴に見せてもらった写真からは、とんでもない魔の匂いがした」
「魔っていうのは妖怪とかの類か」
「そういうものだと思ってもいいわね。だから遠野の当主は早くに亡くなる。何年か前に遠野の頭首が死んだってニュースがあったでしょ。あれも、魔の血に耐えられなくなって死んだって話だし」
「だから志貴が化け物じみてるってことか?」
凛は首を振る。
「もしかしたらそうかもしれないけど、わたしは違うと思ってる」
「さっきのナナヤってやつか」
「そう。七夜っていうのはね、衛宮くんが言うとおり暗殺者の一族のこと」
暗殺者。思い出すのは柳洞寺の一戦。ヒットアンドアウェイの究極のような戦法は、確かに如何にも暗殺者的ではあった。
「どうして志貴が七夜だと思ったのか説明してくれ。七夜の人間から貰ったのかもしれないし、どこかの店で買ったものかもしれないだろ」
「七夜っていう一族はとっくに根絶やしにされてるのよ。七夜は遠野みたいな『混ざり物』を殺すための一族。だから、その力を恐れた混血の家系に七夜は滅ぼされたんじゃないかって」
「だったら尚更志貴は遠野の人間だってことになるんじゃないか。その……根絶やしにされたんだろう?」
凛の言うことは矛盾している。志貴は遠野を名乗っていて、七夜が滅ぼされたというならば、志貴は遠野の人間と考えれば自然だ。
凛はしばらく呻吟したあと、ばつが悪そうに頬を掻いた。
「言われて見るとそうね……うーん……なんで七夜って言葉に反応しちゃったんだろう。間違いないと思ったんだけどな」
「アレは人間ですよ、正真正銘の。きっとどこまで辿っても、邪なものと契約した形跡は無いでしょう」
セイバーの声が頭上から降ってきて、二人は天井を見上げた。
「邪なものと契約した者は臭いますから。間違いありません。そのトオノという家が何と契約したのかは知りませんが、魔と称されるのであればそれは邪なものでしょう」
「邪というか、魔としては最高レベルの存在よ。鬼って言って、この国じゃ最悪の幻想種ね」
「ならば、凛の考察は正しい。暗殺者と言われれば、私にも納得できるものがありますから」
落ちてくる声には、鈴が鳴ったような透明感があった。
「ただ、どこまでも純粋な人間であるからこそ、私はあの男を恐ろしいと感じている」
セイバーはそれっきり黙りこんだ。凛も士郎も言葉は無く、呆けたように月に思いをはせる。千切れ雲の合間に浮かぶ月は柔らかな光で夜の街を照らし、三人が抱える不安を拭ってくれるようだった。
バーサーカーとキャスターの両方を相手にしなければならないというのは、想像以上の重責だ。バーサーカーは単体でもセイバーを脅かす。墓地で戦ったときのように機転をきかせればなんとかできない相手でもないのだが、そこに策謀家であるキャスターが加わると、逆にこちらが窮地に誘い込まれかねない。
いまだ、結界の強化以外に、バーサーカーとキャスターへの対策は立てられていなかった。
凛に肩を叩かれる。見ると、凛は立ち上がってナイフを差し出していた。
「あんまり外にいると風邪ひくわよ」
言って、凛は居間に戻っていった。
受け取ったナイフを片手でもてあそびながら士郎も立ち上がった。
「セイバーも中に入らないか?」
「いえ、私は見張っていますから、遠慮せずに中で温まってください。凛の言うとおり、風邪を引かれでもしたら大変です」
「そっか。じゃあもう少し月見をするよ」
「……やさしいですね、シロウは」
あまりの不意打ちに、士郎はばね仕掛けの人形さながらに背筋を反らして叫んだ。
「ば──ッ! 何言いだ──」
「衛宮くん!」
セイバーへの抗議は、部屋から飛び出してきた凛によって遮られる。血相を変えた凛は、既に左腕の魔術刻印を剥き出しにして周囲に注意を飛ばしていた。
「シロウ、凛! 伏せてください。キャスターの魔術が!」
空が紫一色に染まる。二日前に遠坂の屋敷を瓦礫の山にした一撃が、屋根の上のセイバー目掛けて激しく閃光する。屋根から飛んだセイバーは、魔力の大砲とでもいうべきものを不可視の剣で両断し、そのまま庭先に着地した。鎧甲冑に剣を構えたセイバーの表情には、既に先ほどまでの穏やかさの欠片も無かった。碧玉の瞳が敵の気配を探っている。
「まさか二日連続で倒しにかかってくるなんて」
「文句言っても仕方がないぞ遠坂。早くアイツを呼び戻さないと」
「もう一発来ます! 伏せて」
空が再び紫に染まる。目映い閃光はセイバーの剣の前にむなしく霧散するが、四方を取り囲まれているような圧迫感の前には、何の気休めにもならなかった。キャスターの攻撃は明らかに目くらましだった。本命は別にある。士郎も意識を総動員して気配を探るが、どこにも異常は見当たらない。最低でも志貴はどこかにいるはずだ。そしておそらくはバーサーカーも……。
「あのバカ……こんなときにどこほっつき歩いてるのよ」
凛は焦りに表情を歪めている。士郎にしても似たようなもので、今にも破裂しそうな心臓の鼓動が、胸から首へ伝わり、耳朶をゆすっているようだった。
世界が静まり返る。キャスターの魔術も、志貴の奇襲も無ければ、バーサーカーの雄たけびも聞こえない。己の鼓動と息遣いだけが、銅鑼の音のように鳴り響く。魔術の鍛錬をしているのと同じ感覚だった。極度の精神集中が生み出す自己の世界。
士郎は己の内に埋没していく。深海へ、はたまた遥かな宇宙へ。意識は縮み、広がり、マクロとミクロを繰り返し、その過程で浮かんでは消える何かのイメージの奔流。その中から曖昧ではない一つのイメージを見つけ出し、士郎は撃鉄を起こした。
「──同調、開始(トレース・オン)」
手に収まるほど小さなナイフ──『七つ夜』を構成する要素の隙間を縫うように魔力を流し込んでいく。
「上です」
睨み上げる。同時にセイバーが跳躍した。士郎の肩を越え、屋根から飛び出してきたそいつを迎撃するために。
落下してくる襲撃者の顔は、暗闇に紛れて伺えない。闇に滲む襲撃者の輪郭と、手にした白刃はセイバーを目掛けて一直線に落下していく。
不可視の剣が下段に握られる。それはつい今しがた士郎を失神させた構え。速く、重い一撃。それを、アイツはどう受けるのか。はたまた一刀の下に切り伏せられるのか。
「ハァ──ッ!」
襲撃者──志貴が刃を振るうよりも早く、セイバーの剣が風を切り裂いた。見えない斬激はさながらカマイタチだった。大斧の破壊力と、短刀の敏捷性を持ち合わせたそれはまさしく一撃必殺と呼ぶに相応しい。だが、肉を裂く音も、刃同士がかち合う音も無い。
「な──ッ」
セイバーは剣を振りぬいたままで驚きの声をあげた。見上げていた士郎には、その光景は理解できない。志貴は空中で止まっていた。落下することはおろか、あらん方向──一瞬前にセイバーが通過した場所を見据えたままで、完全に硬直していた。刃は奇妙な方に刃先を向けている。
呆気に取られるセイバーは、いまだ跳躍の頂点に達していない。空で止まる志貴に再度斬撃を加えようかという刹那、志貴の体が物理法則を思い出した。士郎は志貴の体勢を見、即座にセイバーの不利を悟った。
「突かれるぞ、セイバー!」
刀の刃先は、見当違いの方向を向いていると思われた刃は、その実見事にセイバーの喉下に突き付けられていた。
セイバーは振りぬいた剣を戻すが、さしもの豪剣もほんの十数センチ突けば到達する刃を相手にするには荷が重かった。刀は寸分違わずセイバーの首に切っ先を突きたて──
「甘い」
そのまま空を切った。
セイバーの左手が、配水管を握り締め、力いっぱいに腕を伸ばす。上昇途中だった体は軌跡をなぞる様に落下した。猫のようなしなやかさで着地したセイバーは、再び下段に構え、落下してくる志貴を睨みつける。
「すばらしい連携だが」
見えない剣が唸る。風を巻き上げる圧力は、真正面から志貴にぶつけられた。
「上から攻めたのは失策だ」
だが、その迫力を一身に受けながら志貴は頬を吊り上げる。志貴の体が空中で翻り、すりガラスを蹴りつける。砕けたガラスのツブテをセイバーに浴びせかけながら、志貴は大きく跳躍し、着地した。
バーサーカーがいない間に、一人でも動けなくしておくつもりなのだろう。セイバーは間髪入れずに駆けた。
「狙え、一斉射撃!」
凛の声が響いたのはその瞬間だった。闇と同化する魔弾が、間断無く飛ぶ。発射された弾丸はおよそ三十。セイバーの周囲を取り囲む攻撃は、そのまま志貴の逃げ場を無くすものだった。前後左右に着弾する魔弾を冷静に分析しつつ、志貴は刀を構える。その刀身は銀色ではなかった。新雪のような白。誰も踏みしめていない、今降ったばかりの雪の白さ。
「私は貴様等に一度敗れている」
駆けながら、セイバーは吼えた。
「故に、油断などというものは、一片たりとも存在しない!」
鋭い剣閃が志貴を襲う。士郎と立ち会うときとはまるで別人のような踏み込み、振り上げ、振り下ろす速度。その本気の打ち込みを、志貴は後方に跳躍することで辛うじて避ける。シャツの一部がはらはらと舞った。
「セイバー、そいつは宝具も消すわよ」
「ならば決して受けられない一撃を見舞うのみです」
烈火怒涛の攻めに、志貴は防戦を強いられていた。それでも戸惑いは無い。不安そうな表情も無い。それは、堅固な覚悟に身を任せている者の顔だった。
セイバーに勝てるはずが無い。今は避けていても、いずれ追いつかれ、追い抜かれる。たとえどれだけ優れようと、志貴は人間だからだ。ならなぜそんな顔をしていられるのか。
一撃ごとに白刃が軋む。剣戟は刀の悲鳴のようだった。
セイバーの重く鋭い斬撃を受けて、志貴の手は痺れからか震えている。
それでも表情は変わらない。青く燃える瞳が、セイバーの不可視の剣を一心不乱に見出そうとしていた。
志貴が今、何を考えているのかがまるでわからない。姿を見せないキャスターを信じているのか、それとも同盟を組んだというバーサーカーの応援を信じているのか。ただ、往生際の悪いその様を、無様だとは思わなかった。
志貴の左前腕から鮮血が迸った。動きが鈍った瞬間を見逃さず、凛のガンドが飛ぶが、それはどこからともなく展開されたガラスのような膜に阻まれる。後退した志貴をセイバーが追う。
「イリヤ!」
「逃げろ、凛!」
志貴と、塀の上に立ったアーチャーが大声で叫んだのはその瞬間だった。アーチャーは血まみれの外套を引きずっている。左腕は半分に千切れ、胴体にも空洞に見えるほどの大穴が開いていた。
一言叫ぶと、アーチャーの体はゆっくりと前傾していく。塀から落下し、庭に仰臥する。溢れる血が庭を赤く濡らしていった。
「アーチャー!」
凛が叫んで駆け寄ろうとするのを、士郎は腕を取って止めた。キッと鋭く睨む凛は見たはずだ。視線は士郎を通り越し、その背後を見つめていたのだから。そこにたった今現れた、巨大な体躯のサーヴァントを見たはずだ。
「バー……サーカー」
最初から、それが狙いだったのかもしれない。「バーサーカー」という言葉にセイバーは一瞬、注意を逸らしてしまった。眼球を僅かに横にずらし、正面で荒い息を吐く志貴に戻す。それが命取りになった。セイバーが視線を戻したとき、そこには志貴の姿は無かった。眼球を下向ける。そこに志貴は居た。戦いが始まって二度目の攻撃を繰り出し、既に完了させている志貴がいた。
斬られた感触は無かった。生前何度も何度も味わった感触だから、間違えるはずは無い。斬られてはいないし、どこにも異常は無い。体には。
異常は剣にあった。風が巻き起こっている。穏やかな風はやがてつむじ風となり、数瞬後には竜巻のそれとなった。
「風王結界(インビジブル・エア)が……」
解けていた。
セイバーは片手で握っていた聖剣を両手で強く握り締めた。風王結界に溜め込まれた風は、すべてをなぎ倒す。それを押さえ込むために、セイバーは動きを止めた。だからきっとそれも、
「破戒すべき全ての符(ルールブレイカー)」
狙い通りだったのだろう。
音も無く現れたキャスターに胸を貫かれ、セイバーは二度目の敗北を認めた。
「セイ、バー!」
バーサーカーの巨体の向こうで、セイバーが地に伏せるのを見た。同時に、左手の甲に焼け付くような痛みを感じた。令呪が消えていくのを見て、セイバーが倒れているのを見て、士郎の中で何かの栓が抜けた。否、起こした撃鉄が、勝手に降りた。イメージがより強くなる。ぼやけて見えたさまざまなイメージの欠片。ついさっきは何のイメージなのかさえ定かではなかった。だが、今は見える。まだぼやけているがそれらは剣。赤い荒野に突き刺さった、無数の剣だ。
理想を抱いて溺死しろ。
ふと浮かんだのはそんな言葉。ならば、この世界はアイツの──。
「投影、開始(トレース・オン)」
毎日繰り返した言葉。そこに言霊が宿った。慣れ親しんだ呪文はまるで新しい響きとして口をついた。理想(イメージ)を現実(リアル)に顕在(トレース)させる。それはきっと、衛宮士郎の意味だった。
「衛宮くん、それアーチャーの……」
考察する。否、必要ではない。今はただ、眼前の障害を取り除き、セイバーを取り戻す。
ならば策を考案する。否、必要ではない。元々、敵うはずの無い相手なのだから。
だが逃げる手だけはあり得ない。ならば、戦うしかない。
「どけェ木偶の坊!」
走った。二メートルをゆうに越すその巨体目掛けて。両手に握った「干将・莫耶」の重みだけを頼りにして。
「ちょっと! ったく……揃いも揃って……」
バーサーカーは接近する人間を脅威と認めていない。だが、集った蝿を尾で打ち落とす馬の如く、その腕が振り上げられる。それを受けとめる術など存在しない。巌さえバターのようにスライスする攻撃は、受け止めようが無い。かと言って避けられるかといえばそれも不可能だった。バーサーカーはその鈍重そうな体躯に見合わない速度で、既に角ばった岩のような斧を、振り下ろしているのだから。
「七番、開放!」
こめかみを強烈な痛みが襲った。見れば、魔力の塊が士郎を追い越してバーサーカーへと飛んでいく。空気を打ち震わせる、加工も何もしていない純粋な魔力。正面から受けるには強烈過ぎる魔力の塊に、バーサーカーは標的を変えた。士郎もまた標的を変える、魔弾に注意を向けたバーサーカーを、わざわざ相手にする必要は無い。もはや視界に映るのは、ふらふらと覚束ない足取りでセイバーに歩み寄るキャスターと、千切れかけた腕から血を吹きながらも、士郎を迎え撃とうとする志貴の姿だけだった。
振り上げ、振り下ろす。士郎がそうする間に、志貴は何度斬りつけてくるだろうか。だが、何度斬られようと、この足を止めてはならない。欲望のために悪さえ容認する者を、許してはならない。
「遠野、志貴──!」
裂帛の太刀を、志貴は容易く防ぐ。間髪いれずに左腕を振るう。流れるような動作で翻った刀が、それも弾く。再度右の剣を打ち払う。志貴は僅かに反応を遅らせたが、逆に強く刀を打ち付けてきた。弾かれ、体勢を崩した瞬間、腹に激痛が走る。気付けば体が宙を舞い、背中をしたたかに打ちつけた。
「志貴……戻ります」
キャスターがセイバーの腕を肩に回しながら言う。
「イリヤスフィール、一人で戻れるわね」
首を回せば、紫色のロシア帽をかぶった少女が塀の上に腰掛けて、天使のようにやわらかく微笑んでいた。
「当たり前でしょ」
少女──イリヤスフィール・フォン・アインツベルンは不服そうに頬を膨らませたが、すぐに士郎に微笑みかけた。
「ちゃんとセイバーを助けに来るのよおにいちゃん。そしたらそのときはセイバーと一緒に殺してあげるんだから。でも早く来ないと、セイバーだけが死んじゃうかも」
立ち上がり、バーサーカーに戻ってくるよう命令するイリヤ。バーサーカーに捕らえられていた凛が開放される。咳き込みながらイリヤを睨む目はまだ死んでいない。必ず倍返しにしてやる。そんな目だった。
消えていくセイバーを黙って見つめている。もう指を動かすだけの力も無かった。
情けなく仰臥する士郎を、志貴はあざ笑うでもなくじっと見ていた。青い瞳は何かを語ろうとして、やめた。しかし士郎には聞こえた。「うらやましい」と、確かに聞いたのだ。だから気付いてしまった。
志貴は、未来など見ない。
あの死を見る瞳は、そこにある終局しか映し出さないのだと。
自分たちは、決して相容れない人間なのだと。
半身不随状態の者を討つことは、アーチャーの最後の理性が拒否した。だが、最終的には殺すのだ。ならば今殺しても、後で殺しても変わらないはずだった。なのに拒否する。あまつさえ、応急処置さえ施している。
──機会を伺うには、事態が逼迫し過ぎている。
言い訳じみたことを考える自分を、アーチャー──英霊エミヤは自嘲した。
「ほんとに休まなくていいの? バーサーカーの相手してたんでしょ」
「救えん小僧だ。私の剣などと、甘すぎる」
アーチャーは答えずに、激しく身悶える士郎を感情の篭らない目で見下ろした。
「行くぞ、凛。もうここに用は無い」
凛は喘ぎ苦しむ士郎を、沈痛な面持ちで見つめた。
「ちょっと待ってアーチャー」
「何だ、こんな場所に未練でもあるのか。ソイツは既にマスターではない、ならば休戦協定も無為になるだろう」
「違うわよ。このまま出て行ったら、衛宮くんは間違いなくアインツベルン城に来るってこと。それに、アンタその傷じゃバーサーカーの相手は無理でしょ」
「ならば明朝、こいつにそう告げてから出るか? 私としては、セイバーが抗っているうちになんとかしてしまいたいのだが」
「わたしが話すから、あなたは休んでて」
自嘲するように笑って、アーチャーは部屋を出た。そして、その場で片膝をつく。強がりも限界だった。
どてっ腹にはおぞましいほど巨大な穴が開いている。治癒は行っている。それでも、あと少し食い込んでいれば致命傷だった。
──情けない。
月を見上げながら自嘲した。
「アーチャー」
「何だ……キミももう眠れ」
「ありがとう。無事でよかった」
答えずに霊体化する。知らず微笑んでいた顔を、見られたくはなかった。
Excalibur
薪を暖炉にくべる。毛布を肩にかけ、石造りの床に腰を下ろし、木が爆ぜる心地良い音を聞いていた。赤々と燃える炎の揺らぎを想像した。きつく巻いた包帯が眼球を圧迫してくれる。それで、わずかながら不安を拭うことができた。
それでも震えは止まらなかった。
千切れかけた左腕は魔術で治癒を行った。今は指さえ動かないが、明日には治るらしい。ならば問題は無い。原因はそんなことではなかった。志貴は暖炉に向けていた顔を、鉄格子のむこうに向けた。
アインツベルン城地下牢。その一室、硬いベッドの上で小さな寝息を立てる少女──セイバーは、まるで死んだようだった。
身じろぎもせず、呼吸も小さい。だが見えない分だけ良く感じ取れる。少しずつ、その眠りが浅くなってきていることを。
ここに連れてくるまでに触れた細い腕。華奢な体。その体が振るう剣戟一つ一つの、信じられない重さ。込められた想いと願いが、竜巻のような太刀筋となって志貴を切り刻んだ。
全身が震えている。恐怖か、武者震いか。どちらにしろ、セイバーによって植えつけられたものだ。一撃ごとに鈍くなる反応。一撃ごとに失っていく握力。線は視えている。なのにそこに刃を通すことなど、不可能だった。
絶対的な戦力差を突きつけられた恐怖が脳裏を埋め尽くした。コレには勝てない。学園で目にしたときの怖れは、決して誇張でもなんでもなかった。この体はそれにのみ特化したものなのだから、間違いなどあるはずがなかったのだ。
志貴は傍らに置いた刀剣を手のひらで撫でた。美しい装飾を施された剣だった。凝った装飾ながら、実用性にも優れる片手半剣。風の結界に覆われて、ずっと姿を見せなかった剣。指先が感じる造形は、雄雄しく美しい。人の手からは決して生まれないような完全がそこにある。
志貴は刃物に目が無い。あえて言うことではないからクラスメイトたちは知らないし、遠野の屋敷から追い出されて世話になっていた有間の家では、義理の両親に心配をかけないためにとひた隠しにしていた。それでも、国宝物の刀剣が展示されていると聞けば電車を乗り継いで見に行くことがあった。そこで目にする天下名だたる名刀たちも似たような雰囲気は持っていた。常識離れした美しさや気品、猛々しさが、もはや原型を留めていないような刀にもあった。それを言えば、志貴が現在扱う「骨刀・刀崎」にもその雰囲気はある。腕一本を犠牲にすることで、刀に魂が吹き込まれている。だが、セイバーの剣は違った。その剣には作り主の魂が篭らない。ただ湧き上がる力がある。人に不屈の闘志を与えるような力がある。
ふと、セイバーが動くのを耳で感じ取って、志貴は顔をあげた。包帯越しでもわかるほどに、セイバーの瞳が志貴を射抜いていた。
「貴様は──!」
「こんばんはセイバー。またなってセリフ通りになった。今度は、立場が逆だけど」
「は……?」
セイバーの視線が外れたような気がした。
「どうかした?」
「……なんでもありません。構えていた自分が少し間抜けに思えただけです」
「これ、綺麗な剣だな。俺が今まで見た剣で一番綺麗だ」
「その剣は勇気と決断を司る……あなたには、そして私にも相応しくない剣だ」
「勇気と決断か」
志貴は苦笑する。
「確かに、俺には相応しくない。これ以上ないってくらい豪快に、その道は踏み外した」
「ここは?」
「アインツベルン城。イリヤの家ってところかな」
「シロウは無事ですか」
「傷一つついてない」
セイバーは安堵の吐息と共に、ゆっくりと起き上がる。
「なぜ、私を殺さなかったのです」
「そういう約束だった……と言うと聞こえはいいけど。正直殺すつもりだった。そうでもしなきゃこっちが死んでた」
志貴は再び苦笑する。歪につりあがった唇は引きつってさえいた。つまらない見栄を張る必要はない。力の差ははっきりしているのだから。
「実際は殺せなかっただけだよ。結果的に約束は守ることになったから、士郎くんが来るまでは殺さない」
セイバーは鼻で笑った。
「こちらこそ、殺すつもりでした。シロウへの言い訳を考えていましたよ。いくら貴方とて、人を殺したとなれば私のマスターは怒るでしょうから」
「その割には、セイバーが倒れた瞬間、両手にアーチャーの剣を持って襲い掛かってきたな。アレこそ、殺す気だった」
アーチャーの剣という言葉に、セイバーが反応した。訝しげに眉を寄せる。
「アーチャーの……剣?」
「黒と白の二刀。獲物を消すのが流行ってるのかな。アーチャーに至っては殺しても殺しても出てきた。どうなってるのか、聞きたいな」
本気で訊ねたのだが、セイバーには聞こえていないようだった。肩を落とし、再びセイバーの剣をいじり始めた志貴に、セイバーの鋭い視線が突き刺さった。目が見えなくとも、視線はわかるものだ。
「……できればその剣は返してほしい」
露骨に嫌悪感を滲ませた声だった。
「いくらなんでもそれはできない。この剣渡したら暴れまわるつもりだろ。いくら令呪で絶対服従なんて命令してても、セイバーはとらわれない気がするから」
セイバーは尚も強い視線でにらんでくる。
「わかったよ。触らない。それでいいか?」
「別に、そこにあっても消せる」
「嘘は良くない。宝具はその手で持ってないと消せないってことくらい、キャスターから聞いてる。たとえば相手に弾き飛ばされても消して、またその手に握れるってんじゃ、矛盾が生じる。投げても戻ってくるっていう伝承がある武器なら別らしいけど。わざわざ言うってことは、そういうモノじゃない。あってるか?」
セイバーは深いため息を吐いて黙ってしまった。どうやら図星らしい。
「まるで別人ですね。吐き気を催すほどの殺意を、今の貴方からは感じない」
「吐き気……か」
そうだろうな、と志貴は自嘲した。
ここ数日の戦いを通じて、自分でも恐ろしくなることがある。思考が何かに占有される。血が熱く滾り、眼前の標的を殺せとがなりたてる。昔は抑えることができた感情だ。だが、秋葉がああなってから、自分でも驚くほどに攻撃的になることがある。焦り、不安、怖れ。そんな感情に負ける。自分は変わってしまったのだ。あるいはもともとそうなのかもしれない。
死ぬことを怖れるようになった。死ねば秋葉を救えない。勝ち残らなければ秋葉を救えない。今の自分なら、秋葉を理由にして、どんな非道をも許容してしまいそうだった。
「キャスターやバーサーカーのマスターはどこに」
「イリヤは寝てる。おまえの寝顔を見て機嫌悪そうに部屋に戻っていった。キャスターならイリヤと何か話して、そのままふらっとどこかに消えた」
「ならば、今ここで貴方を倒せば私は容易く脱獄できるということですね」
「やめろ」
強い言葉に、セイバーが目を鋭く細めた。空気が張り詰める。
「セイバー……おまえは倒す。けどそれは今じゃない」
「聞き捨てなりませんね。この程度の拘束で、私をどうにかできるとでも。それに、その理屈はつまらない。今は殺さない? 今でも後でも、何も変わらない」
セイバーは掴み掛かる勢いで立ち上がる。だが、その足はすぐに縺れ、無様に倒れこんだ。再び、硬いベッドの上に。
「な……」
「使った令呪は二つ。俺とキャスターに従うこと。それと、目を覚ましたその場から決して動かないこと」
「二つも使ったと……それも、そんな効果の薄いものに。では、最後の一つを使わせれば私の勝ちですね」
「それも無理だ。最後の一つの使い道はもう決まってる」
「……何?」
「自害することだ、セイバー。だから抵抗はするな。つまらないことをすればキャスターは躊躇わず最後の令呪を使うよ」
弛緩していた空気はすでに限界まで張り詰められた。セイバーの視線はそれだけで人を呪い殺さんばかりだった。悔しさからか、唇が白くなるほどにかみ締められている。
それ以上、志貴もセイバーも口を開かなかった。
***
イリヤスフィールは寝巻き姿でスリッパをパタパタと鳴らしながら、広いアインツベルン城を一人歩いていた。部屋を出てから一体いくつの階段を下りただろうか。そもそも、人が三人しかいないのにこの城は巨大すぎる。
真っ暗な廊下に点在する蝋燭に、魔術で火をつけながら歩くのは非常に面倒だった。
しばらく歩くと、突き当たりに光が漏れている扉を見つけた。図書室だった。
扉を押し開いた。キャスターは机の上を書物で埋め尽くし、椅子に腰掛けて一心不乱にそのうちの一冊を読みふけっている。
「ねえキャスター。さっきから何してるの?」
キャスターが顔を上げた。
「あら、眠っていなかったの」
「眠れなくて。で、何してるの」
「調べ物。ここは書物がたくさんあって、調べ物には事欠かない。素敵な人形もあるようだし」
「ほとんど写しだけどね。それよりシキを見てなくていいの?」
「薄々はそうかとも思っていたけど」
「ん?」
「貴女の先ほどの話。それを聞いてしまえば、対策をとりたくなるのも当然でしょう。セイバーは仮にも令呪で縛っているのだから、よほどのことが無い限り平気だろうし」
キャスターは目にも留まらない速度で書物を読み流していく。古い呪いの儀式にまつわる書だ。イリヤには適当に眺めているようにしか思えなかったが、目の動きを見ると、どうやら本当に読んでいるらしい。
「そうよね。シキが戦争をあきらめたら、わたしはキャスターも殺すもの」
「そう簡単にやられるつもりもないけれど……」
キャスターは珍しくのんびりした口調で言った。あくびをして、目のふちに涙をためている。まるで自分の家のようなくつろぎようだった。
初めて顔をあわせたとき、キャスターは深々とローブで顔を覆い隠し、志貴ではないマスターに連れられていた。そのマスターは魔術師としての能力は悪くなかったが、息が臭かった。別に間近まで迫って息を吹きかけられたわけではない。ただ、反吐が出るほど嫌いなタイプだと一目見てわかる、典型的な魔術師だった。
魔術師は、バーサーカーを見るやキャスターに命令して逃げ去った。そのときのキャスターの顔が面白かった。弱弱しく、まるで小娘のように弱弱しく頷いたくせに、背を向けたマスターを見る目は氷のように冷たかった。ローブの向こうに隠れて瞳は見えなかったのだが、その代わりとばかりに放たれた、見えるほどの殺意に喉がキュッと縮んだ。だがそれも一瞬のこと。キャスターはすぐに小娘に戻り、魔術を行使した。
「……興味深い本だけれど、考えが薄いわ。複雑な言葉を並べ立てて、本質を見失っている。理屈を捏ねる前に自然を見れば一目瞭然だというのに。呪術にしたってそうよ。万物それぞれが持つ特性と相性を感じ取れなければ、効果的な術は使えない」
「あのね、アナタみたいな規格外品の考えを、たかだか人間の魔術師がわかるわけないでしょ。それに、その程度のことはどの魔術師だって知ってる。誰でも知ってるけど、誰もできない。だから体験しようとして理屈を捏ねるんだから」
「そういうものかしら」と小首を傾げるキャスターには、以前の険は無い。あのマスターがどうなったのかなんてことは、想像するまでもないが、この変貌には驚かされる。志貴が原因なのだろうが、果たして彼にどれほどの魅力があるのか。ふと疑問に思って、イリヤは問いかける口を開いた。
「ねえ、シキに裏切られたらどうするの?」
キャスターが本に落としていた視線を上げる。
「裏切るも何も、私たちは互いに困っていたから組んでいるだけなのよ。志貴はサーヴァントが欲しくて、私は現界したかった。そのまま続いてはいるけど、私は早いうちに人形にでもするつもりだったし」
「酷いことしようとしてたのね」
キャスターはさらっと言う。イリヤも納得した。キャスターはそういうモノだ。人間なんてゴミクズ程度にしか見えていない。少なくともあの殺意の視線を見たときはそう思った。だからその言葉はきっと真実だろう。
だが、驚きもあった。今のキャスターは志貴を信頼し切っているように見えるからだ。
「だから、裏切ったのは私なのよ。それは許さない。けどそれさえ包み込んで共に歩いてやる。そう言われてしまえば、私には何ができると思う?」
キャスターは本を閉じた。山のように積まれた書物の中から再び一冊を選んで広げる。平静を装っていても、不安なのが見て取れた。
「変わったのね」
「イリヤスフィールだったかしら?」
「そうよ」
「貴女こそ、私は寝首をかかれるものとばかり思っていたのに、何もしてこないのね。志貴ではバーサーカーには勝てない。わかっているのでしょう」
言われて、つい数時間前のことを思い出した。アーチャーとの駆け引きが思いのほか長引き、セイバーを相手にしている志貴の生存など絶望視していた。手間が省けるので、それでも構わなかった。
イリヤがようやく到着したとき、志貴は無事だった。左腕に酷い傷はあったが、他はまるで無傷だ。バーサーカーと互角に戦ったセイバーを、押し留めていたのだ。初めて志貴を脅威と感じた。だがそれでも、バーサーカーには及ばないだろう。十一回も殺すことは、隙を突くことでしかサーヴァントを仕留められない志貴には不可能だから。
キャスターが昨日イリヤを警戒していたのは、その辺りを懸念してのことだったのだろう。だが今は、手を組んでいる間は利用し尽くしてやるという考えにシフトしている。そういう柔軟な発想ができることは強みだ。魔術師は頭が固いと相場が決まっているが、中にはこういう者もいる。大魔術師になるのにそういうタイプが多いのも事実だ。
「きちんと敵を排除してから殺すんだから、今はまだ殺さないだけよ」
「困るのでしょう、私やセイバーが死んでは。キャパシティは十分に残しておかなければならない。貴女には別の目的があるようだから」
イリヤが表情を無くす。
「ほんと、やっぱり気に食わないわ、その性格」
「お互い様よ、イリヤスフィール。これ以上私たちがサーヴァントを倒す前に行動に出たのは上手かった。ずいぶん焦ったのでしょうね」
キャスターは本に目をやったままで言う。
「ところでセイバーのことだけど」
「何? まだ殺しちゃだめよ」
「わかってるわ。貴女の目的が達成されるまでは、でしょう。そのことなんだけど、貴女の目的は志貴には言わないほうが賢明ね」
「そのつもり。邪魔するんでしょ、シキは。キャスターだって『部屋一つ分の陣地』じゃ何もできないものね」
「そう、今バーサーカーを相手にするのは良くない。けど、あの坊やが狙いだなんて、志貴は間違いなく反対するわ」
「フン、シキは狂人のくせにそういうところまともだから大変ね」
キャスターは否定も肯定もしなかった。これ以上口を開きそうにない。イリヤはほうとため息を吐いて、踵を返した。と、何か思い出したように振り返る。
「ねえ、シキにはいつ言うの?」
「これから言おうと思ってる」
「そう。志貴が抜けると言ったらすぐに逃げ支度をしなさい。シロウを殺したら真っ先に殺しに行くから。おやすみキャスター」
「ちょっと待ちなさい。眠る前に一つ頼まれてくれないかしら」
イリヤは小首をかしげた。
***
「用事って?」
志貴はイリヤが灯したろうそくの灯りを頼りに、何度か壁に頭をぶつけつつ図書室に足を運んだ。キャスターは一つ伸びをして、椅子から立ち上がる。伝わってくる気配が硬かった。その口が何かよくないことを口にするような気がして、志貴はあわてたように口を開く。
「イリヤがぶーたれてた。わたしを顎で使うなんて信じられないとかで」
「そうでしょうね」
何でもない軽口に、キャスターは何でもないように答えた。まじめな雰囲気は崩れない。
「明日か、明後日か、アーチャー達との戦いは壮絶なものになるでしょう。私があの小娘の家に押し入ったときのことを考えてもらえれば、わかるでしょう?」
「ああ、あの剣幕で襲われたらさすがに肝が冷えるよ」
「だから、その前にお話したいことがあります」
背中が冷えた。キャスターがどんな顔をしているのか手に取るようにわかる。きっと不安に唇を震わせて、崩れそうになる何かを必死でこらえている。それは、「私は貴方を裏切った」と告白したあの日のような、弱々しい気配。
「貴方の願いを教えてください、志貴」
真摯な言葉を、茶化すことなどできない。
「聖杯を手に入れて、妹を──秋葉を人に戻すことだ」
「ならば、今すぐに──」
「待て、何を言おうとしてるんだおまえ」
キャスターは口をつぐんだ。それはきっとキャスターにも覚悟が必要なことなのだろう。こんなときに目が使えない自分の不甲斐なさが、頭にくる。
表情さえ見ていれば、きっとその先は絶対に言わせなかった。
聞いてはならない言葉を、キャスターは今から口にしようとしている。なら止めなければならなかったのに、
「簡単なことですよ。志貴、今すぐその妹のところへ帰りなさい。この戦争では、貴方の望むものは手に入らないのだから」
止めることができなかった。
「そう──か」
「妹は大切な人なのでしょう。私のことは気にしないで。どうせ、戦争が終われば消える身ですから」
「そうか……」
キャスターは立ち上がって、落ち着いた足取りで近づいてくる。冷たい手が頬を撫でた。熱なんてどこにもない。氷のような手のひらだった。
「おやすみなさい志貴。セイバーのことはもう私に任せて、眠りなさい」
促されるがままに部屋を出た。真っ暗な廊下を歩く。だというのになぜかどこにもぶつからなかった。宛がわれた部屋に転がり込む。部屋に入ってすぐ、途方に暮れた。
帰れ。帰れってどこに?
三咲町に?
何のために。秋葉を救うため? 秋葉を救いたくてこの眼を犠牲にしてライダーを殺した。街中の人間を犠牲にした。だから、秋葉を元に戻したくてここにいるのに、なぜ帰らなければならないのか。
俺は何のタメにここにいたんだろう。
俺はなぜこんなところで立ち尽くしているんだろう。
──セイハイでは秋葉を救えない。
意味なんて考えたくもない。頭が意味を理解してしまう前に捨て去ろうとしたが、先に腰が砕けた。扉を背にしたまま崩れ落ちて、初めて、涙がこぼれた。何が悲しいのか自分でもわからない。
何もかもがわからない。でもとにかく悲しくて、ただ泣くことしかできなかった。
「ショックが大きいみたいね。でもきちんと考えなさい。このまま抜けることだけは許さないんだから」
部屋のベッドの辺りから、小さな鈴の音が聞こえる。
その声はだんだんと近づいてきて、志貴の前に立ちはだかった。
「今は同盟を組んでるんだから、勝手に抜けるなんて許さない。抜けるなら抜けるで、キャスターを生贄に差し出さなきゃだめよ」
わけもわからず、わーわーと喚く少女の頬に触れた。柔らかい感触に手のひらが包まれる。少女は体を跳ねさせて、後退りした。
「や、何?」
「情けないところ見せちゃったな」
志貴は包帯を外した。目を開いただけで、気を失いかねないほどの頭痛が襲う。堪えながら涙を拭う。約一日ぶりになるイリヤの顔は、子供のらくがきみたいにひび割れていた。
「目、青いままね」
「治らないだろうな、これはもう」
「シキはどうするつもりなの?」
「どうするって?」
「聖杯じゃ願いを叶えられない。叶えられるかもしれないけど、それはきっとシキの望む形じゃない。ならトオノシキは聖杯戦争を続けるの? っていう質問」
うな垂れた志貴を、イリヤは蔑むように鼻で笑った。
「それは、間違いない情報なのか?」
「キャスターも薄々はそうなんじゃないかって思ってたみたい。そこにわたしの話が加わったから確信したんだって。キャスターったらこの戦争の原理なんかとっくに理解しちゃってたんだから、本当に油断ならない」
「戦争の、原理?」
「まあ、シキは知らなくてもいいことよ。今あなたにとって大事なのは戦争を続けるか続けないかっていうことだもの。でも、アキハは助けられないんだから、決まってるんじゃない?」
イリヤはひび割れた顔で見下ろしてくる。無垢な表情ばかり見てきたせいか、そこに張り付いた笑みが、ひどく妖艶なものに感じられた。イリヤは笑っている。ネズミをいたぶるネコの顔で。
「でもだめよ。やめるならキャスターを置いていきなさい。そうしたらわたしが責任を持って殺してあげるわ」
悪魔みたいな子供だと思った。子供のふりをして人をたぶらかす。その挙句に魂を持っていく悪魔だ。
こっちはまだ心の準備も何もできてない。刀崎翁から聖杯戦争の概要を聞き、神父に一蹴されたとき、遠野志貴は『願いは叶う』という話を妄信した。それがここに来て『あれは嘘だった』と言われたって、どうしていいのかわからなくなる。それを判っていて、イリヤは意地悪な言い方をしているのだ。ああでも──
「小悪魔っていうのかな」
「ナニソレ」
「イリヤのこと。秋葉にそっくりだ、相手が困るってわかってていじめるところとかね」
イリヤは本当に怒ってしまったらしい。睨む視線に力を感じる。
「そ。死にたいっていうなら別にいいわ。せっかく人が妥協案出してあげたのに」
「なあ、イリヤ」
「人の話聞いてるの!?」
そういう子は、
「もう一度触らせて」
こちらもいじめたくなるものだ。
「あ──」
当惑するイリヤの頬に手を伸ばす。イリヤは拒まなかった。つきたての餅なんて、古臭い表現がぴたりと当てはまる。懐かしい感触。アイツの肌も、柔らかくて暖かくて。
志貴はへたり込んだまま。イリヤは立ち尽くす。互いの視線が交差して、
「なんで──」
零れ落ちた声がぼやけている。イリヤの顔にまるで焦点が合わない。それでもなんとか笑みを返し、立ち上がり、部屋を出た。
志貴を見送って、イリヤは軽く頬に触れてみた。暖かい。
「暖かいってなんなの……あんなに、あんなに……」
震えてたくせに。
***
地下なのだろう。壁に触れてみても、向こう側には何か──おそらく土──がぎっしりつまっていて、破壊することはできそうにない。
志貴がイリヤスフィールに連れて行かれてから三十分ほど経った。その間、セイバーを監視する者はいなかった。令呪で縛っているのだから監視など必要無いということか。それとも何か問題が起きているのか。どちらにせよ、セイバーにはあまり関係の無いことだった。「絶対服従せよ」との言葉で縛られているこの身は、志貴が去り際に残した「大人しくしてろ」の声に律儀に従おうとしているからだ。
効果的ではない命令なため、動けないほどの苦痛ではない。それでも動きは鈍るし、キャスターや志貴に何か命令されれば更に重くなる。そのくせ、キャスターとの契約によって士郎と契約していたときよりも力を感じるのだから、笑えない冗談だった。
「不甲斐ない……これではシロウにあわせる顔がない」
アーチャーに危害を加えられていないだろうか。凛は士郎をいまだ仲間として扱ってくれているだろうか。
衛宮士郎を守ると誓った。彼が衛宮切嗣(裏切り者)の息子であろうとも、その約束だけは違えようとは思わなかった。
端的に言えば、セイバーは士郎を気に入っている。頼りないマスターだと思ったし、この身に相応しくないとさえ思った。青臭い理想論を吐くし、サーヴァントを押しのけて戦おうとする。志貴の話では、自分が倒れた瞬間、志貴に飛び掛っていったという。キャスターの魔術で強化され、最早人とはいえない状態にある志貴に。無謀だ。だが、心地が良い。いつの間にそんなことを思うようになっていたのだろうか。
「どうか、ご無事で」
祈るように呟いた。士郎とつながっていない不安が、ほんの少しの弱気を生む。目を閉じて壁に触れた。穏やかな表情は、その向こうに想い人の影でも見たかのようだ。
ゆえに、アタラクシアが生んだ静謐を壊さないようにと、静かに腰を下ろした気配には気づかなかった。
やがて、ゆっくりと目を開く。鉄格子の向こう。残った薪が、ゆらゆらと陽炎を立ち昇らせながら燃えていた。暖炉の正面に置かれた彼女の聖剣が、赤く燃えていた。鞘の無い聖剣は、寂しそうに火に照らされている。それは、まるで士郎とのつながりを失った自分自身のようで、セイバーは知らず目をそらした。
いつの間にやってきていたのか、そこに遠野志貴が座っていた。『触らない』と告げた通りに聖剣から離れ、所在無く座り込んでいる。
セイバーには、彼が死んでいるように見えた。頭は力なくうな垂れ、指先もだらしなく弛緩していた。口元から零れる白い呼気だけが、彼を生かしているような、そんな錯覚。だが、それはきっと錯覚ではないのだろう。死を体現する体が生きていては、冗談にもなりはしない。あの身は既に朽ち果て、死そのものになる日をただ死にながら待ちわびている。志貴が望むにしろ望まないにしろ、彼は死人なのだから。
死を待ちわびているといえば、セイバー自身も似たようなものだ。体は死の寸前で止まっている。違うところがあるとすれば、志貴が死人なのに対して、セイバーは生者だということ。
彼の魔眼はバロールではなく直死の魔眼と呼ぶそうで、過去現在未来と、おそらく彼一人が持つ魔眼。遠野志貴がそれを持つに至った経緯はそれこそ、奇跡そのものなのだろう。死人がリビング・デッドの如く生者の真似事に興じているのだから、神の気まぐれ以外の何物でもない。或いは神ですら予期しえなかったことなのか。それに敵対しようとする自分は愚かなのだろう。それでも目的のために妥協する気はまったく無い。
──そのためならば、士郎をその手に掛けることも……。
セイバーは頭を振った。
嫌な想像をしてしまった。それは考えてはいけないことだ。たとえそんな契約が目の前に転がってきても、考えてはいけない。
何か別のことを考えようとした頭に、いつかの会話が思い起こされた。
『一つ聞きたい。あなたは一体何故聖杯を求めるのか』
『俺のせいで死ぬ妹を助けるため。遠野志貴という存在を初めから無かったことにしてもいい。奇跡でもなければ、無理なんだ』
──わたしの願いは何だっただろう。
曇りない目で自己の消滅を望むと言われたとき、不覚にも思ってしまった。願いは高尚なものではなくとも、尊いものであるはずだった。少なくとも、アーサー王にとっては、最良の願いだったはずだ。
選定の剣(カリバーン)を、別のものに引かせる。
アーサー王では果たせなかった夢を、別の者に肩代わりして欲しい。
叶えば、アルトリアという少女は少女のまま過ごすことになるだろう。だがそれはセイバーではない。アーサー(セイバー)は皆の記憶から消えてなくなる。アーサー王として世界と契約したセイバーは、誰の心に残ることもなく、ただ世界に使われることになる。それは自己の消滅と同義だ。それでもいい、ブリテンの繁栄こそがアーサー王が愚直なまでに願った夢だ。だからその願いさえ叶えば、何も思い残すことはない。
そう信じていた心が、揺さぶられた。青い目でまったく同じ願いを口にした人間によって、信仰にも似た願いが揺らいでしまったのだ。
「同じ願い……?」
自分は、この死人と同じことを願っているのか。違う、自分はもっと別のことに気づいてしまって、動揺したのだ。己の失敗をやり直したい。誰しもが思うことだ。それは狂人であれ同じだろう。だから、セイバーはもっと別のことに気づいて、震えた。
「その妹の願いは、どこへ消えるのです」
似た願いを持つ者を前にして、初めて気づいた矛盾。気づかないほうがよかったのか。気づけてよかったのか。セイバーは己の願いの矛盾に恐怖する。
「確かにそこまで歩んだという軌跡は、貴方の中だけにあるわけではない。たとえどれだけ無念だろうと……消滅を求めるのは……逃亡……ではないのか」
声になどならない。
やはり、気づかなければ良かった。それはそのまま己を否定することに繋がる。
あの時、何故問いかけたのか。こんな、人間一人の取るに足らない願いなど、聞かなければ良かったのに。
心のどこかで己の願いを否定していたなんてことはあり得ない。唯一無二の願いだった。それを、この男は粉々に砕いてしまった。アーサーとしての願いを否定されては、この身に生きる術などありはしないのに。
「なぜ……現れたのですか……この、私の前に」
切嗣も、志貴も。聖杯戦争で出会う者たちは、私に何か恨みでもあるのだろうか。思わずにいられないほどやり切れない。叫び出したい。喚き散らしたい。保ってきた尊厳なんて、どこかに放り出してしまいたい。歯がゆくて、そのまま顎ごと噛み砕いてしまいそうだった。
「憎い……遠野志貴、貴方が憎い」
志貴にとっては、自己の消滅とはあくまでも副次的なものなのだろう。でなければ『自分を消してくれてもいい』などという言い方はしない。覚悟の吐露でしかなく、故にセイバーの感情を逆なでする。心底願っていた夢を、何の脈絡も無く、自滅するような形で踏みにじられる痛み。これまで受けたどの太刀傷よりも痛く、切ない。
戦う理由が薄れている。
この身は貴方の剣となる。
誓いさえも違えてしまいそうだ。
士郎ならセイバーの願いを聞いてどう答えるだろうか。同意してくれるだろうか。共に歩んでくれるだろうか。
いや、同じように互いの夢を見ているのだとしたら、「おまえ自身のために使え」くらいは言われるだろう。必死の覚悟なんて彼の前では何の意味もなさず、ただ気に入らないというだけで否定されてしまうだろう。けれど、それは違う。セイバーの願いは己のためだから。ブリテンを救いたいと言いつつも、歴史を修正して安らげるのは、失敗してしまったアーサー王だけなのだから。
アーサー王が国を滅ぼしたなんて、誰も知らない。そもそもアーサー王は存在しない。誰にも責められず、誰にも嫌われない。それが、己のためでなくて誰のためなのか。
「ああ……ヒスイはワインなんか飲んじゃ……」
漏れた声には、驚くほど安らかな響きがあった。夢でも見ているのだろう。死人の顔に生気が戻っている。夢の中では誰しも幸福になれる。今だけは、そこに逃げ込みたい。
キャスターの夢など見ないようにと願いつつ、セイバーはまぶたを下ろした。
***
キャスターは眠る二人を遠目に見つめていた。志貴は部屋で眠るよう仕向けたのに、イリヤスフィールが手を出したらしい。好奇心の塊のような生き物だ。今回は善意からだろうが、感謝する気にはなれなかった。催眠の魔術をかけるのに、どれだけの覚悟を要したのかわかっていない。ようやく手に入れた信頼できる人。それを、手放す。考えるだけでも震えがくる。けれど、慣れているから平気だと自分を騙して、志貴を帰そうと決めた。
だって、あまりにも哀れだ。悪の片棒を担いでまで聖杯を手にしようとしていたのに、それが嘘だったなんて。こんなところで死なせては、死んでも死にきれない。
あとは眠ってから、破戒すべき全ての符(ルール・ブレイカー)を刺してしまえばいい。本当は部屋で行ってしまいたかった。城の中にいるかぎり、どこにいてもイリヤスフィールの監視はあるだろう。だからせめて、転移魔術用にと簡単な陣地にした部屋で行いたかった。
だが、イリヤスフィールによって目覚めさせられた志貴を追ってみれば、志貴はセイバーの監視などという仕事を律儀にこなそうとしていた。それどころではないだろうに。そうする以外に何もできなかったのか。
憎いと口にしたセイバーの懊悩の原因はわからない。その代わり、志貴が煩悶する様子は、手に取るようにわかった。
ようやく手に入れられると思った平和が、跡形も無く消えた。絶望でいっぱいになった心から漏れ出した慟哭が、キャスターの胸を焼いた。痛い。苦しい。それは志貴が感じる痛みの欠片でしかない。こんなに苦しい思いは、しなくていい。早く開放してあげたい。
懐から歪な形の短刀を取り出す。それを突き立てれば、志貴とキャスターは他人同士になる。
「志貴……」
こんな形での訣別など、求めてはいなかった。
凡庸な一突きはこの胸を貫き、オレをその場に磔にした。
理想を求める心、夢を追う気概。そんなものを、心に突き立てる一撃。
理想と現実が混ぜっかえり、真実を見失う。その時点できっと、オレはオレでなくなったのだろう。或いは、オレがオレに立ち返ったのか。
目を覚ませば、陽が昇りかけている。
見下ろす遠坂凛の心配げな視線を見返して、オレは苦笑しながら呟いた。
「おはよう、遠坂」
Excalibur
起きてからしばらくは、じっと天井を見つめていた。襖の向こうから聞こえてこない息遣いを探すように、左手に感じていた繋がりを求めるように。じっとじっと天井を見つめた。
朝だ。傍らでじっと見下ろしてくる彼女に『おはよう』と言ったのだから朝だ。死神に一太刀も浴びせることなく、斬られることもなく、馬鹿正直に足蹴にされ、失神したのだ。そこから無様に眠り続け、もう朝が来た。
「調子はどう? アーチャーが滞ってた流れを正常に戻してくれたから、死ぬほど辛いってことは無いんじゃない?」
遠坂凛は朝なのに凛とした顔つきだった。寝ぼけた頭が一瞬で覚醒する。無表情に一抹の情も表さない顔は、学校でガンドを乱射したときに良く似てる。凛が時折見せる魔術師の顔。士郎はアーチャーが助けてくれたという異常に対する疑問さえ飲み込んで、凛と対峙するように見つめあった。
「最後に餞別ってところね」
半ば予想通りの言葉だったといえるが、それでも脳みそが攪拌されるのは回避できなかった。最後という言葉は額面どおりの意味だろう。遠坂凛は衛宮士郎とここで訣別すると言っている。
「元気ならもういいわね」
凛は立ち上がり、背中を向けた。
「待てよ遠坂。行くんだろ、アイツのとこに」
「ええ。だから、さようなら衛宮くん。ちゃんと療養しなさい」
「待て、俺も──!」
腹に力を込めようとして、唖然とした。体が起き上がらない、動かない。まるで金縛り。全身が硬直していて、脳みそが必死に送る電気信号が受理されない。
「わかったでしょ、死ぬほど辛くはないだろうけど、動ける体じゃない。だから大人しくしてなさい」
「でも、だからってお前だけ危ないところに行かせられるか!」
士郎の言葉は必死だった。それこそ哀れになるくらい。しかし、ここで行かせたら何かを失ってしまう。その理性が、彼女を行かせるのを是としない。懸命に言葉を捜す。
「勘違いしないで。わたしたちはセイバーを助けに行くんじゃない。マスターじゃなくなった衛宮くんとはもう休戦協定なんて組む必要は無い。だから、セイバーがまだ陥落していないっていう望みに賭けて、セイバーごとキャスターとバーサーカーを倒しに行く。ここを逃したら、つぶされるのを待つだけの蟻になる。そんなのは嫌だから、打って出る」
「それはおかしいだろ。セイバーが連れて行かれたのは俺のせいなんだから、遠坂たちが危険な目に遭う必要なんかない」
凛のまぶたが落ちた。言葉を吟味するように。あるいは止めを模索するように。士郎は生唾を飲み込んだ。
僅かな呻吟のあと、開かれた瞳には、敵対心のようなものが滲んでいた。それで何となく、次の言葉も予想できてしまった。
「わたしはね、あなたが邪魔だと言っているのよ、衛宮士郎」
止めだった。
力が抜けた。ずっと憧れていた。いつの間にか、ただ遠くから眺めていただけの彼女と、生死を供にするまでの仲になった。憧れは好意に変わっていった。だからその言葉は衛宮士郎が最も恐れた言葉だ。言われては最早どうすることもできない。ジョーカーみたいな言葉だったから。
「さようなら」
呼び止める言葉が見つからない。『がんばれ』『死ぬなよ』どれも間抜けだ。なら士郎に言葉はなかった。
「アイツ──は」
凛は振り返らず、立ち止まっただけだったのだから、
「アーチャーは大丈夫なのか」
そんな、藁にも縋るような言葉に意味はない。
「大丈夫よ」
それで本当に手詰まり。士郎は目を閉じ、凛を送った。
屋敷は静かになった。腹をすかせたセイバーの声も、起き抜けで幽鬼のような姿の凛もない。たった一人だ。震えるほどに寒い。
藤村大河があわただしくやってきて、桜と一緒に朝食を作る。ほんの数日前まで、それが日常だった。だが、聖杯戦争に奪われた。大河は入院している生徒たちに付きっきりで、桜は慎二に連れ戻された。
大河は元気だろうか。慎二は無事だろうか。桜は──。
身の回りが一変した。聖杯戦争から脱落して、周囲が元に戻るならいいだろう。しかし、既に大きな変化がある。遠坂凛をただの優等生と見て、憧れることはできなくなった。慎二が学校中を巻き込んだ者だという認識を消すことはできない。それが、半端な覚悟で聖杯戦争に臨んだ衛宮士郎に突きつけられた代償だ。
この先、凛が勝利して平和になればいい。だが、もう元に戻ることなどない。サーヴァントが居る限り、いつまた崩壊するとも知れない。少なくともこの街は、サーヴァントが消滅するまでは安全ではない。そんなところに友人や無関係な人々を置き去りにして、逃げようとしている自分は何者か。
「けど、俺には──力がない」
及ばない。限界を見せ付けられた。たった数日の稽古では及ばないところに在る者と出会ってしまった。決死の剣は容易く受け流された。サーヴァントでも何でもない、人間に。それで、数年間にも及ぶ日々の修練が、自己満足以外の何物でもないと思い知らされた。
衛宮士郎はここで終わる。正義を夢見た男は、その実くだらない自尊心さえ満たすことができずに、終わった。
「理想を抱いて溺死しろだって……? その理想さえ、俺は貫けなかった」
貫こうとした。貫こうとはした。しかし邪魔だと言われて。おまえの振りかざす正義は邪魔なのだと言われて、衛宮士郎にどんな手が残されているのか。
もう眠ってしまおう。
何もかも忘れて、消えてしまおう。
『貴方が、わたしのマスターか』
月明かりが照らす土蔵の中。彼女の第一声はそれだった。威厳たっぷり。誇りの塊みたいなソイツは、じっとあの碧玉で見下ろしていた。
──違う。俺は、おまえのマスター足り得なかった。
目を閉じる。セイバーや凛の様々な表情。この数日間に見た喜怒哀楽が、脳裏に浮かんでは消えていく。
走馬灯とは違う。体が最後の力を振り絞って、諦めようとしている頭を説得している。彼女たちを見捨てるのかと、がなり立てる。けど仕方がない。邪魔だと言われたんだ。衛宮士郎が本当に正義の味方になれたのなら、邪魔だなんてことは、絶対にありえないのに。
ふと伸ばした手は、何も掴まずに握り締められた。その手は何を掴もうとしたのだろう。
血塗られた丘を歩む彼女を救うと決めた。共に勝ち抜こうと決めた。その彼女を奪われ、途方にくれている。同い年の少女に邪魔だと言われ、魂が抜け落ちたような顔をしている。なんて情けない。なんて間抜け。
気づけば涙が浮かんでいた。その生を否定された空しさに。届かぬ力への悔しさに。
「しろぅ……おなかへったよぅ。どこー?」
突然聞こえた威勢のいい声に、間の抜けた返事をする。
「藤、ねえ?」
声に反応したように、大きな音と共に襖が開け放たれた。むすっと膨れっ面がそこにある。きっと二日間ろくに眠っていないのだろうに、藤村大河は藤村大河だった。
「こんな時間まで寝てたらいけないん──士郎……? どうしたの?」
手も動かないから、涙は拭えない。士郎は頬を濡らしたまま、大河を迎えていた。
膨れっ面は呆然となり、やがて青褪めていく。まるで百面相だ。
「調子悪いの? なんで言わないの。何かあったらすぐに連絡しなさいって言ったのに!」
喚きながら駆け寄ってきて、士郎の体に触れる。その顔は、最早蒼白だった。
「すごい、熱。バカ士郎! 強がって。あなただって学校に居たんだから、検査くらいしなきゃいけなかったのに。泣くほど辛いのになんで言わないの! バカ士郎!」
大河は勘違いをしている。けれど、今にも泣き出しそうなその顔を見ていれば、わざわざ訂正する気にもなれなかった。冷たい大河の手のひらが気持ちいい。頬に触れる手のひらが心地いい。
大河は元気だった。士郎の心配が間抜けに思えるほど元気だった。彼女の泣き顔はとても綺麗で、十年も共に居た彼女は真摯に士郎の身を案じてくれている。それが嬉しくて、彼女が悲しむ姿なんか見たくなくて。
そんな顔をさせるくらいなら、こんな体はどうなってもいいんじゃないか。そう思った。
誰もが笑って暮らせる世界。誰もが幸せでいられる世界。それは誰が望み、誰が受け継いだ夢だったのか。
「ハ──ハハ」
何故忘れてしまっていたのか。それこそが、衛宮士郎が生きる理由。存在する意味だったのに。
「切嗣の夢──」
「士郎?」
「俺の夢だ」
そんな、簡単なことも忘れていた自分に気づいて、士郎は笑った。力が及ばなくても、諦めずに戦う。セイバーを勝たせると約束した。彼女の苦しむ姿を見たくないと強く思った。
何故自分は凛にかける言葉など模索したのか。本来言葉など不要だ。信じる理想があれば、言葉など無価値無意味だ。凛が納得しなくとも、セイバーを勝たせるという誓いはまだこの胸にある。だから、理由なんてそれで十分すぎた。
断線した筋肉を無理やりに結ぶ。ぎっちりと、硬結びに結んでやる。ほら、それだけのことで、体は動く。
「何してるの士郎。わたしのご飯なんか良いから、寝てなさい」
「うん、ごめん藤ねえ。飯は作れそうにない」
誰もが笑っていられる世界。それを望む人間が、身近な者の泣く姿を許容していいわけがない。セイバーが、遠坂凛が、消えてしまっていいわけがない。
「わかってる。だから無理しないで。今お医者様呼ぶからね!」
大河は起き上がろうとする士郎の肩を掴んで、押し留める。涙をぽろぽろと流している様を見れば、自分がどれほど故障しているのかなんて、嫌でも理解させられた。
肩を押さえつける彼女の手に、士郎は優しく手を重ねた。
大河の顔は自責にとらわれてもうぐちゃぐちゃだった。士郎がこうなったのはわたしのせいだ。自分がもっとしっかりしていれば。自分が傍に居れば。濡れた瞳がそう嘆いていた。
「違うよ藤ねえ。ありがとう。けど、行かないと」
「何をしに行くっていうのよ。お願いだからやめて……士郎が、士郎がいなくなっちゃいそうだよ……」
重ね合わせた手に力を込める。大河は肩を震わせた。声も震えている。掠れて、彼女こそ今にも消えてなくなってしまいそうで。彼女をそうさせているのが自分かと思うと悔しくなる。けれど進まなければならない。立ち止まってはいけない。そうしたら自分は、本当に終わってしまう。言葉は失ってもいい。けれど理想を目指す行動だけは止めてはならない。
遠野志貴相手に日々の鍛錬の成果など見込めなくとも、この身体にはもっと別の力がある。
ゆっくりと上半身を起こし、同じ高さから大河と見詰め合う。いや、少し士郎の方が高い。いつの間に追い抜いたのだろう。十年前の自分は大河の半分ほどしかなかった気さえするのに、大河はわずかに首を上向けて、しゃくりをあげていた。
「帰ってきたら、目いっぱい旨い物を食べよう。だから、今はごめん。必ず帰ってくる」
手を握ったまま、正面から見詰め合った。やましいことなど何もない。俺は必ず帰ってくる。その想いを、視線に乗せる。
たっぷり一分間はそうしていた。見詰め合うなんて生易しいものじゃない。大河の視線は冗談ではなく戦士のそれだ。だからその一分間、士郎は有りっ丈の想いをぶつけた。今までは、勝てなかった。いつだって本気の大河には勝てなかった。
けれど今回は負けない。
再び一分間が経った。
「……こうなったら、士郎は聞かないんだから」
溜息とも、嗚咽ともとれない吐息が零れる。
「行ってきなさい士郎。けど、何かあったら許さない。地獄の底まで追いかけていって面打ち一千本よ」
「ああ、必ず帰る」
最後にもう一度手を握って、立ち上がる。強引に繋げた筋肉は思いのほか、いや、普段よりも良く動く。最初の右足を踏み出す。それが畳を踏みしめた瞬間、士郎は風になっていた。塀を飛び越え、歩きなれた道を文字通りに疾走する。
「待ってろ、セイバー」
目指すのは、郊外の森。
***
ふとした違和感に目を覚まし、音もなく立ち上がる。セイバーは眠っていた。
左腕は全快とはいかなかったが、きちんと反応するようだ。その甲には令呪もある。それに落胆とも安堵ともつかない感情を持っている自分に気づいて、志貴は激しく舌を打つ。
頭にイリヤの声が響いた。
『アーチャーが来た』
ならばそれは開戦を意味する。戦う理由など失った身体は、ただ惰性で刀崎を握った。セイバーを倒すまでは、イリヤとは休戦という形になっている。その後は、自由だ。三咲町に帰って秋葉をさらい、そのまま二人で消えてしまえばいい。キャスターには悪いが、もうこれ以上、何もすることはない。
「キャスター、強化を……」
傍らのキャスターに声をかける。
「戦うつもり?」
「そういう約束だから。キャスターは、セイバーを頼むよ」
二人の間には壁が出来上がっていた。聖杯を手に入れるというところで繋がっていたモノが、その壁によって寸断された。キャスターが昨晩、破戒すべき全ての符(ルール・ブレイカー)を手ににじり寄ってきていたのは知っていた。気づいていても止めなかったのは、『そうしてくれれば楽だ』と思ったからに他ならない。志貴は決断を恐れた。生涯を裏切りの螺旋の中で過ごしたキャスターにとって、その行為がどれほどの苦痛を強いるものなのか、わかっていて尚止めなかった。
卑怯な逃亡だった。
体に力がみなぎってくる。キャスターの魔術は、少なくとも志貴には暖かに感じた。優しげな潮騒のような流れ。それに包まれると安心できた。けれど、今日は違った。悲しみと、嘆きに包まれた、荒れ狂う大海原。それだけで、キャスターの悩みなんて手に取るようにわかった。
破戒すべき全ての符(ルール・ブレイカー)を振り上げ、そのまま泣き崩れた彼女を知っている。一晩中暗澹たる思いで過ごした彼女を知っている。己に刃を立てようとして、それもできずに苦しんでいた彼女を知っている。それでも、志貴は彼女と共に歩む道を選べない。ごめんと口にすることなど、できるはずもない。
「行ってくる」
「セイバーのことは、引き受けました」
後ろ髪をひかれる思いのまま、城から出た。包帯は外さなかった。キャスターに振り向きもしなかった。
顔を見れなかった。振り向けなかった。罵倒されるのが怖くて。蔑まれるのが嫌で。志貴は森の入り口でバーサーカーの肩に乗っているイリヤの元まで走った。イリヤは紫色のコートに、紫色のロシア帽という普段どおりの出で立ち。志貴を見ると、いびつに顔を歪めてみせた。
「キャスターは?」
「セイバーを見ててもらう」
「……まあ、いいんじゃない? でも──」
「わかってる」
二の句を次ごうとしていたイリヤは、遮られるとつまらなそうに口を尖らせた。
「ずいぶん無口なのね、今日は」
「殺し合いの前にヘラヘラできる方がどうかしてるよ」
「昨日は泣いたり人のほっぺ触ったりでやりたい放題。今日は不機嫌だから話しかけるななんて、とんでもない自己中心人物ね」
「悪かったよ。昨日のことは反省してる。ただ、おかげで少しだけ元気が出た。感謝もしてる」
包帯を外す。酷い頭痛がする。頭痛のおかげで気が紛れる。何でもいいから、今はこの気持ちを鎮めたい。イリヤにまで八つ当たりをしては、情けないにも程がある。
咆哮と共にバーサーカーが走り、志貴が追従する。木々をかいくぐり走る志貴と違い、バーサーカーは木々をへし折りながら走る。その怒涛の光景は圧巻だった。戦えば殺されていただろう。風圧だけで人を殺しかねない怪物を打倒する術はあいにくと持ち合わせていなかった。
襲ってくる木々を掻い潜っていると、意味もなく古い映画を思い出した。アレは木々が避けていた。今自分たちは圧し折りつつ走っている。まるで木々が三人の行く手を遮るかのようだ。だが、とまらない。狂戦士はにじり寄ってくる敵を挽肉にすべく土石流の勢いで疾走する。肩に乗ったイリヤは、心地よさそうに揺れている。
まるでアンバランス。だが、これこそが最高の関係なのだろうという認識は、より強くなる。互いに筆舌しがたい信頼で結ばれている。父に肩車される幼い娘。それこそトンデモナイ想像をして、志貴は我知らず頬を緩めた。
唐突にバーサーカーが足を止めた。前方を睨むイリヤの視線を追って、志貴は納得した。赤い外套が風に舞っている。世界を作り変える英霊。無限に武器を持つ英霊。
「お腹が痛そうね、アーチャー」
「良い気付けになっている。感謝せねばな」
学校で戦ったときとは違い、アーチャーは最初から弓を握っている。左手に弓。右手に捩れた剣。境内で一度破った弓矢だ。だとて安心はできない。あの剣のような矢からは、途方もない力を感じる。だから危険を顧みず一度は阻止したのだから。バーサーカーも態度には出さないが、その矢に注意を払っているように見えた。
「マスターはどうしたの?」
「どうやら置いてけぼりにしてしまったらしい。何せ、全速力で駆けてきたからな。だが、その方が都合がいい。この場合はな」
アーチャーの闘気が膨れ上がる。アーチャーの昂ぶった精神に呼応するように木々がざわめく。腰を落とし、片膝をつき、弓を番える。イリヤはバーサーカーから飛び降り、数メートル下がった。
「偽・螺旋剣(カラドボルグ)」
標的はバーサーカー。判断するや志貴は地面を蹴り、木を蹴って天高く舞った。足元を、空間ごと捻じ曲げて飛ぶ異形が通り過ぎていく。肝を冷やしながらも両手で骨刀・刀崎を握り締めた。刹那──
──壊れた幻想(ブロークン・ファンタズム)
大気を揺るがす閃光に、視界を奪われた。砕け散った木の欠片が弾丸となって志貴を襲う。並のサーヴァントなら即死、志貴などあの場から動いていなければ消し炭さえ残らなかったに違いない。それがあの捩れた剣のような矢の能力なのか。それにしてはあまりにも強引だ。閃光に視界が埋め尽くされる直前、何かの悲鳴のようなものを聞いた。それは、カラドボルグという伝説の剣があげた、悲鳴なのではないか。
バーサーカーは無事かと探ろうとしたが、目は何も映さない。爆発は回避しても、爆光によるダメージが大きいようだ。だが、あの程度で死ぬバーサーカーではないはずだ。
──なら俺は、そこで息を潜めている策士を、地に落としてしまえば良い。
爆風で反れた軌道を、吹き飛んできた巨木を蹴りつけることによって修正する。目指すのは、辛うじて爆光の範囲から逃れた巨木の枝に潜むそいつ。おそらくイリヤを直接狙おうとしているソイツ。
音もなく枝に着地して、刃を突きつけた。
「残念だったね」
目を閉じ、耳をふさいでいたとしても、あの強烈な閃光は彼女の五感を狂わせ、ここまでの接近を許してしまった。
「遠坂さん」
***
何か、性質のワルいユメだと思った。首筋に突きつけられた真っ白な日本刀。光を避けるために瞑っていた目を開けば、目の前にはそんなものがあった。息は止めていたし、一ミリたりとも動かないように努めていた。あの閃光で目が見えているはずはない。それでも気づかれていたというのなら、最早生き物としての規格が違う。いや、七夜だというなら、それこそが暗殺者として秀でた部分なのか。
これは俗に詰みと言われる状態だ。首筋に突きつけられた刃は、ほんの少し動いただけで動脈を切り裂きかねない。
だが、おいそれと諦める彼女ではない。何せ、諦めたところで待っているのはバーサーカーの手による斬殺だか圧殺だか殴殺だかよくわからないものだ。どうせ死ぬなら、爪痕の一つでも残さなければ、浮かばれない。
刃の主を見た。遠野志貴。怪物だ。本当に恐ろしいくらい化け物だ。けれど、たとえどんな怪物だろうと、あの閃光で目が見えているはずは無い。その青い目は、凛を見ているようでその実、ほんの少しずれていた。
体を僅かにずらした。そこで白刃が翻れば死ぬ。だが刃は動かない。もう半身、あくまでも慎重にずれた。それで、刃の射程から抜けた。
右手は既に宝石を握っている。遠坂凛が十年間コツコツと溜めた魔力が詰まった宝石。放てばキャスターの魔術にだって対抗する自信がある。加工に費やす時間は無い。だが純粋な魔力としても、脅威足り得るはずだ。
「八番──」
小声で唱えた瞬間、志貴の瞳が光を取り戻した。あと一言「開放」と言えば、志貴を倒せる。志貴もまた己が置かれた窮地に気づいたようで、刃を翻した。一歩踏み込んで刀を振る動作と、一言告げるという行為。そのどちらが早いか。
「解──」
──あぁ、死んだ。
刃が早い。まるで雷。一瞬で制空権に凛を捕らえ、横一閃に振るわれる。凛は己が失念していた重大なことを思い出した。それは、遠野志貴の瞬発力が、人間の尺では計れないということ。矢とガンドの雨を掻い潜った反射神経を侮ってはならなかった。アーチャーと互角同然に打ち合った速さを忘れてはいけなかった。
凛には刃を防ぐ手立てがない。今もノドは発声している。右腕は志貴に向けて伸びきっている。手詰まりだ。
死を目前にしても、凛は揺るがなかった。聖杯戦争に参加すると決めたときから、覚悟の上だった。噂に聞く走馬灯のような云々は見ることができないらしい。思えば魔術の鍛錬に費やした半生だったし、学校では優等生を演じるばかりでろくな思い出が無い。辛いと思ったことは無かったが、それは普通ではなかった。
今にも首を刎ねようとする刃がやけに遅い。だから少し視線を巡らせてみた。アーチャーは双剣を握って、バーサーカーを押さえ込んでいる。本当は遠距離から仕留めるはずだった。それも、この失敗によって崩れ去った。バーサーカーが凛の方に向かってこないようにと気張るその決死の形相を見れば、今すぐにでもこちらに駆け出したいのだと知れたが、それはできない。バーサーカーは、余所見をして戦えるほど甘くない。せめてありがとうくらい言ってみたかったが、そんな時間があるならば『開放』と叫んでいる。
再び志貴に視線を戻す瞬間、凛は不可解なものを見た。幻覚を見るなんてらしくなかったが、こういうのは彼にとっては本望なのではないか。こんな窮地に現れるなんて、まるで『正義の味方』そのものだから。幻覚だとしても、彼はそれを誇っていい。トレーナーにジーンズ。色気も何も無い正義の味方だが間違いない、毎日毎日見た姿。衛宮士郎の幻だった。
***
体は完全に、死の予感に反応していた。目が見えなくなる直前に捕らえた場所に降り立ち、刃を突きつけた。だからそれで終わったと安堵した。だが、凛は反撃の拳を振り上げた。それに、体が反応してしまった。不安定な枝の上で一歩を踏み込み、刀を薙ぐ。止められない。もう、殺す理由など欠片もないのに、遠野志貴は殺人を犯そうとしている。
ふと、背中に悪寒を感じた。決定的な予感が、新たな予感によって塗りつぶされる。
空を裂く音を聞いた。弓か、弾丸か。とにかく武器だった。志貴は安堵している自分に気づいた。それを回避できるかなんて、野暮だ。回避など不必要。遠野志貴はこのまま刃を振りぬけばいい。それはきっと、
「テメェ!」
この怒号の主が、弾いてくれるだろう。
甲高い音がした。刃同士が弾け、火花を散らす。強い衝撃にたたらを踏む。落ちると思った瞬間には枝から飛び降りていた。着地し、攻撃を止めた者を見据えた。赤みがかった髪。病人かと思うほど青白い顔。それでも両目は強固な意思に見開かれている。
衛宮士郎。
わからないものだ。ただ指をくわえて見ているだけだった男が、一晩でこの変貌。そういう想いは、忘れて久しい。
遠野志貴は完結している。全てを振り絞った義兄弟との死闘。そこで、遠野志貴は完結している。だというのにその結果を引きずり、奇跡にまで救いを求めた。結果無残に打ち砕かれた願い。なんて情けない。なんて無様。それでも、アイツが生きている限り、この身を差し出すと誓った。いつか必ず救うと誓った。
志貴の足元に何かが突き刺さる。刀崎を弾き、空を舞った無骨な鉄塊は、志貴の良く知るものだった。
「七つ夜……」
奪われていたナイフ。拾い上げて握る。良く、馴染む。
「大丈夫か遠坂」
「えみ、やくん……? な、なんで来たのよ!」
「俺だって役に立てる。邪魔だったら、捨てていってくれてもいい。それでも俺はアイツを取り戻す」
やり取りに興味は無かった。セイバーを倒すまでは協力すると約束した。それを守ろう。約束も守れないようでは、何にせよ妹に合わす顔などあるまい。衛宮士郎がかかってくるならば相手になろう。負けるつもりはない。このナイフがあれば、男は神ですら殺せるのだから。
バーサーカーとアーチャーの死闘はいまだ激しい。咆哮と剣戟が交互に鳴り響く。暴風のような攻撃を辛うじて避け、それでも必殺の機会を伺うアーチャーに、諦念は見出せない。唇は笑みを刻んでさえいる。何が可笑しいのかとは思わなかった。アーチャーも、衛宮士郎に窮地を救われるとは思っていなかっただけのこと。
さて、と志貴は並んだ凛と士郎に向き直る。アーチャーは放っておけば数分と持たずに倒されるだろう。いくら笑みを浮かべようが、腹の傷は癒えていない。倒されるそれまでの時間稼ぎが仕事だ。それをこなす事だけを考えろ。こんなところで死んでは、笑い話にもなりはしない。
二人が身構えた。凛は今すぐにでもアーチャーの援護に向かいかねない。殺さず押し留めるのは至難だが、絶対に殺すことだけは回避したい。
凛の魔術には細心の注意を払わなければならない。それで以前致命的なダメージを負っている。
士郎の得体の知れない能力にも気をつけなければならない。
それとは別に、様子のおかしいイリヤも気になる。しきりに城の方に、何かよくないものでも見たような顔を向けている。何かある。感じてイリヤの視線を追った瞬間、臓腑から冷える悪寒を得た。キャスターが許容外の魔力を放ったとき、これと同じ感覚に見舞われる。
「──ックソ、ランサーしかいないじゃないか」
なら、考える暇などどこにあるのか。
七つ夜の刃を仕舞い、投げ捨てた鞘に刀崎を収める。それらが済んだときには、志貴は踵を返して駆け出していた。
「ちょ──シキ!?」
「キャスターが誰かと戦ってる」
「やっぱり。でも、気づかないなんて……バーサーカー!」
イリヤの怒声に応えるように、バーサーカーはアーチャーを剣圧で弾き飛ばすと駆け出した。それを確認して、志貴は更に速く駈けた。こんな後味の悪い終焉など、断じて許さない。
願いは脆くも崩れた。見たのはキャスターの夢だった。ままならないものだ。暗澹たる気分で目を開ける。時刻は昼前と当たりをつけて、身体を起こした。キャスターから十二分に魔力を吸い上げ、漲る力は今にも溢れ出さんばかりだった。
暖炉の薪はとうに切れていた。牢屋の中は凍えるほどの気温なのだろうが、寒さは苦にならない。寒かろうと暑かろうと、この身が鈍ることはあり得ない。
暗い牢獄の光源は、鉄格子の向こうに申し訳程度の炎を燻らせるランプのみだった。ランプの灯りの下に、キャスターが立っている。深い紫色のローブは夢の中と同じ。違うところがあるとすれば、素顔を晒していることか。夢の中で、キャスターは一度も顔を見せなかった。
キャスターはうつむけていた顔を僅かにあげて、セイバーが起床したのを確認すると、途端に頬を吊り上げた。それを人は魔女の邪笑と言った。情けないほど揺らいだ瞳には気づかず、彼女を恐れた。とるにたらない、ただの人間を恐れ、迫害し、結果反英雄に成るほどまでに囃し立てた。
悪事は全て魔女のせい。そう決め付けられては、キャスターは魔女として生きるよりなかった。
「目覚めたのね、アーサー」
アーサーと呼ぶ声に驚くことは無い。セイバーがメディアの夢を見たように、キャスターもアーサーの夢を見たのだろう。
「朝が早いのだな、メディア」
それで何が変わることもない。セイバーにとってキャスターは打倒すべき敵であり、キャスターにとっても同じものだ。恨みは掃いて捨てるほどにある。その大半を占めるのが遠野志貴によるものだが、主の不足は部下が補うしかあるまい。
故に、願いを踏み躙られたと猛る心は、今この場で彼女を切り捨てたい衝動を体に伝える。
「人の気配がまるで無いが、そこまで油断していて良いのか」
「そうね、油断かもしれない。城で迎え撃てばそれでいいのに。でもあの小娘は待てなかったんでしょう。一刻も早く、坊やを殺したくて殺したくて……」
気が触れたように、キャスターはケラケラと笑い出した。
「ほんと、おかしくなるくらい一途で困るわね」
セイバーは哄笑をあげるキャスターから視線を外した。狂人に付き合う余裕はない。揺らいだ夢。それを、どうやって取り繕えばいいのだろうかと、そこに意識が集約される。一晩眠ったくらいでは解決の足がかりにもならなかった。
自分で気づいてしまった矛盾。遠野志貴というひび割れた鏡に映った己。鏡の向こうに、剣を携え騎士の遺骸を見下ろす自分がいる。血に濡れた赤い丘。血生臭い風に髪を靡かせて佇んでいる。それがアーサー王。忌むべき己の過去。傲慢で、尊大で、救いようの無い愚か者。たかだか剣を抜いただけでその気になり、良い国であるようにと小ざかしい夢を見た王。だがそれはあまりにも頑なで、セイバーには打倒し得ない。数え切れない返り血を浴び、それでも表情一つ変えなかった暗君。
──決めた。
聞こえない。そんな馬鹿者の言葉など聞こえない。この戦争を勝ち抜くことで、おまえは消える。だからもう何も言わずに消えろ。その厚顔無恥な顔をみせるな。
拳に鈍い痛みが走った。壁に、思い切り拳を叩き付けたのだ。一滴、また一滴とベッドに零れ落ちる赤い雫。壁には傷一つついていない。巌をそのまま持ってきたような、凹凸の激しい壁に、千切れて張り付いた肉がこびりつく。
徒に体を痛めつけただけ。剣を持たなければこの程度でしかない自分は、笑う以外にどうすればよかったのだろう。
「惨めだな、この上なく」
ちぎれた肉は既に再生していた。傷を負えば、半ば強制的に魔力を消費して、回復する。無様で生き汚い。この体は穢れている。多くの人々の怒りや嘆きを黙殺し、挙句国を滅ぼしたこの体は穢れている。
だから消す。新たな王に任せよう。それが、最良だ。
活目する。迷いは断ち切った。
──と決めた。
聞こえない。代わりに聞こえたのは、忘れようの無い、金色の英雄の魂の音。
前回の戦争で味わった二番目の屈辱。倒せないばかりか傷一つ付けられない。名だたる英傑たちを屠り去ったセイバーの太刀が、まるで効かない。そんな相手の気配を、忘れるはずが無い。
「感じているな、キャスター」
「ええ、もちろん。まったく記憶にない気配ね」
「令呪が仇になったな。これでは私は剣を抜くことさえできない」
何故この気配がここにある。何故この時に存在する。内心の焦りなどおくびも見せずに、キャスターに『最後の令呪を使え』と言った。キャスターは渋面で上階を睨みつけている。
「決めろキャスター」
キャスターは答えずに向き直って、小さな声で呪文を唱えた。青白い輝きに包まれた指先をセイバーに向ける。
「私に魔術は効かない」
「でしょうね」
閃光が迸る。薄暗い部屋を一瞬照らした魔力の弾丸は、セイバーではなく、彼女が腰掛けるベッドを粉微塵に粉砕した。
「その様子を見ると、志貴はきちんと説明したようね」
笑みを浮かべながら、キャスターは暖炉に歩み寄った。そこにはセイバーの聖剣が立てかけられている。
「それに触れるな」
キャスターが触れようとした瞬間、セイバーは鉄格子目掛けて駆け出していた。令呪の縛りなど感じない。昨晩のように転倒せず、セイバーはまるで自由に走っていた。
「動ける……?」
「本当はね、セイバー。私がした命令は『目覚めた場から動くな』ではなく『ベッドから降りるな』だったということよ。つまりベッドが消えてしまえば、効果は無くなるわね」
キャスターは聖剣に伸ばそうとしていた手を引っ込めて、再び鉄格子に向き直る。
「少し離れなさい。その綺麗な顔に火傷の痕なんて、似合わなくてよ」
再びキャスターが一言呟く。一瞬の閃光のあと、鉄格子が溶解した。赤熱した鉄が、石を焼きながら地面を伝わる。セイバーとキャスターの間を遮るモノが消えた。
セイバーならば、一瞬で間合いを詰め、聖剣を拾い上げてキャスターなど一刀の下に切り捨てられる。だというのに、鉄格子を破壊した。
絶体絶命のはずだ。セイバーを僅かに押さえつけていた令呪さえ己から解除した。だがキャスターに焦りはなかった。
「上のアレ、私では勝てそうにない。でも、志貴を帰すまでは死ねない。彼がきちんといなくなったのを確認しないと、死ねないのよ。だからセイバー」
つまりは、そういうこと。確かにそれは正しい。
「言うな。言われなくとも、そのつもりだ。私も先ほどから見知った気配を感じている。彼がアレに見つかる前に、何とかしなければ」
「それは頼もしいわね」
「そうするしかないのだから、仕方がない」
夢が揺らごうとも、誓いだけは忘れてはならないのだから。
「アレの狙いは、何かしらね。貴女? それとも、イリヤスフィール?」
ぶつくさと呟くキャスターは、何か考え込んだあと、セイバーを真正面から見据えた。
「五分でいいわ、持ちこたえられるかしら」
「善処しよう」
──信念さえ覚束ない体では、死にに行くようなものだろうが。
微かに自嘲し、セイバーは聖剣を握った。
Excalibur
英雄
疾風(はし)る。突風のように。
奔(はし)る。津波のように。
邪魔を切り裂き、なぎ倒し、限界を超えて更に走った。
二つの風と濁流は常軌を逸した速度で疾走し、やがて森の切れ目を迎えた。それでも速度は衰えない。アーチャー達は唐突に反転した志貴達を、いくらか遅れて追いかけている。アーチャーは切り裂かれ、血に塗れた外套を翻し、全速力で走っていた。それでも追いつかない。万全でも追いつけるという自信は無かった。それほどに、バーサーカーと志貴は異常だった。
志貴は、己が何のために駈けているのかさえ忘れていた。キャスターが戦っている。知ったその瞬間に、悩みなど消え失せた。誰かにキャスターが倒される光景は、見たくない。見てはいけない。彼女を送り出すときは、作り物でも笑顔を向けて「ありがとう」と言わなければ、気がすまない。
今になって気付く。キャスターが聖杯の真実を話す必要など無かったことに。聖杯戦争に勝ち抜くことが目的ならば、妹を救えないという言葉は隠せばよかったことに。
人間など滅びてしまえばいいと思う裏で、人の温もりが愛しいとずっと願ってきたのだから、言わなければよかった。そうすれば遠野志貴は、何も知らずに彼女と共にいたのに。
だが報せてくれた。怖がりながらも教えてくれた。信頼してくれていたのだろう。でなければできない。ならば、裏切ったのは誰だ。
こんな終焉は認めない。絶対に認めない。
知ってしまった以上、これ以上戦うことはできない。けれど、彼女に謝ってからでないと、帰るなんて選択肢は、選べない。
故に疾風(はし)る。突風のように。
バーサーカーはただ主に従うだけだった。ただ主の必死さに比例して、足に力を込めるだけ。まともに思考する頭脳などありはしない。主が『走れ、もっと速く、速く』と繰り返すたびに、力強く大地を踏みしめる。主が必要とするならば、海さえ割って走る自信がある。
主の心から不安で零れ落ちているようだった。バーサーカーとて気付いている。あの騎士と対等以上に戦うこの気配が、此度召喚された七騎のいずれにも該当しないということに。
だがそんなことは関係がない。主が必要とするから奔(はし)るのみ。津波のように。
腹に響く地鳴りが、屋敷の窓ガラスを粉々にしながら襲ってくる。何度も何度も、その度に志貴の体は冷えていく。
セイバーとの契約で、キャスターはその強大な魔力量を半分近くまで減らしているが、無尽蔵に近い魔力には余裕がある。魔力を世界から取り込む技術において、キャスターほど長けた者はいない。それでもこれほど影響されるということは、セイバーを戦わせているためだろう。剣戟の一撃で閃光が城を包み、疾走するだけで床が踏み抜かれる。
『セイバーも哀れよね』
ふと、いつだったかキャスターがぽつりとこぼしたセリフを思い出した。
『他の魔術師と契約していれば、もっともっと強かったでしょうに」
それを体現したのがこの地鳴りだ。昨晩は耐えられた。だがこれはどうだ。遠く離れていても感じる、強い魔力。大気を揺るがす裂帛の気合。その全てが、神技の粋。
セイバーが反旗を翻し、キャスターに刃を向けているのか。
あるいは乱入者を二人で迎え撃っているのか。
「嫌な、予感がする……」
イリヤが呟いたとき、アインツベルン城の城門を抜けた。その先は、広間になっている。正面の階段は、二階のテラスと奥の廊下に繋がっている。だが、階段はその半分が破壊され、テラスは大部分が落下している。絢爛華美な広間は、荒れ果てた廃墟のように、荒涼としていた。
バーサーカーは立ち止まる。その横に、志貴もまた停止した。
金色の男が立っている。黄金の鎧、篭手、具足。逆立った黄金色の頭髪。黄金のピアス。赤い瞳を残した他を全て黄金で統一した男は、いつか、そう確か教会で見た男に酷似していた。
問題はそこではない。あの神父がろくな人間ではないということなど、第一印象から判っていた。たとえサーヴァントを持つ参戦者だったとしても、おかしくはない。ソイツが八人目だとしても、どうでもいいことだ。聖杯の気紛れだと考えればなんてことはない。異常なのは、セイバーが階段の上で膝をついているということと、キャスターの姿がないこと。
見知らぬ男は肩で息をするセイバーに向けていた目を三人に向けた。
「──ほう、帰ったか。余りにも暇だった故、余興が過ぎた。下がっていろ騎士王、今はお前と戯れる時ではない」
信じられるはずがなかった。セイバーは階上。男は階下だ。その優位にあって、セイバーは膝を折る光景など、信じられるわけがない。
「何なの……アナタ」
イリヤの様子も、ここに来て最悪のようだった。震え、幼子のように首を振り、あり得ない光景を否定しようとしていた。
「この身はオマエもよく知るサーヴァントだろうに、何を恐れることがある」
「知らない、アナタなんか知らない……わたしが知らない英霊なんて居る筈がないんだから──」
取り乱した様子で首を振るイリヤは、最早正常な思考など忘れていたのだろう。その体は軽やかに宙を舞い、着地するやセイバーを傅かせた英霊を相手に、バーサーカーを送り出した。
「殺しなさい、バーサーカー!」
狂戦士が吼えた。志貴の脇を、黒い猛獣が疾駆した。その瞳が一瞬だけ志貴を見た。感情は読み取れない。ただほんの一瞬目と目が合わさってだけで、伝わってきた。
『アレは我が抑えよう。貴様は主を連れて往け』
一直線に猪突猛進する。それ以外は知らないと、ヘラクレス本来の卓越した剣技、弓技を棄て、狂った猛獣と化したギリシャ最強の英雄は、黄金の男を肉塊にすべく駆けた。
黄金のサーヴァントは無表情に、向かい来る巨体を見据えた。
イリヤを抱きあげて、敵に背を向ける。イリヤは暴れた。バーサーカーの側から離れたくないと喚いた。
「俺たちが居たら邪魔になるんだ」
嘘ではなかった。しかし虚言だ。
とっくにイリヤも理解している。だからこそ、バーサーカーと会えなくなるから嫌だと、彼女は嘆いているのに。正論ぶった言葉をぶつけて、逃げようとしている。
──死ぬわけにはいかないから。
構わずに走った。城門は目の前。だがその直前で、志貴は反転を余儀なくされた。凛を殺そうとしたように、体が勝手に舞い上がった。両手をふさがれていては、完全とはいえない跳躍。それが回避行動だったのだと気付くより先に、焼け付くような痛みを背中に感じていた。
何かが背中を掠めただけ。だがその傷は灼熱の衝撃波で肌を焼いた。
「ほう──。それを避けるか」
宙返りをする視界の中に、黒光りする剣を見た。セイバーの剣と対等な、神々しい気配を持った剣。志貴の背中を切り裂いて飛んだ剣。宝具と見て間違いないそれは城門を突き破り、崩壊させ、蓋をした。
広間から出られる道は二つ。今塞がれた城門と、セイバーが倒れている二階。城門を瓦礫で塞がれた以上は二階から出るしかない。だが、そこに向かうにはあの黄金のサーヴァントを越えなければならない。だが今投擲されたものは、宝具。なら、今あの男は丸腰ではないのか。
──宝具を投擲するなんて、馬鹿か。
焼け付くような痛みを堪えつつ着地する。退路を見定めるために顔をあげて、戦慄した。今度は三つ。形の異なる、紛れもない宝具たちが襲い掛かってきていた。
馬鹿か。と今度は自分を罵倒する。バーサーカーを相手にしなければならない者が、武器を棄てるはずなどない。もっと強力な術があるからこそ、あの魔剣を投げてきたのだ。
緩く巻いたベルトに差し込んだ鞘を放り投げ、刀崎を握った。刀崎翁一人の人生を打った一刀。その紛れもない名刀が、三振りの魔剣聖剣を前にしては、役不足でしかなかった。
「──クソ」
「シキ……わたしを置けば逃げられるでしょ」
「できるか、そんなこと」
遠くで、バーサーカーが雄叫びを上げた。それに呼応するように慧眼を光らせる。脊髄から脳髄まで駆け上がる電気ショックのような痛みは、気力で相殺した。既に包帯を外してから三十分以上経過している。これ以上は酷く成りようがない。信じて、無機物──それも宝具の死を睨め付けた。
「視える」
薄く細い線が数本、三振りの剣それぞれに視えた。だが、こちらに刃を向けて飛ぶ以上、線は点でしかない。イリヤを片手で抱いている状態では、迎撃は不可能だった。
「首に腕回して」
「え?」
イリヤの体重はおよそ三十キロと半分ほど。無論軽いのだが、ろくな鍛錬を積んでいない志貴では、彼女を片腕で抱いたまま跳んだり跳ねたりは難しい。
「早く」
おずおずと腕を回したイリヤが、胸に顔を埋める。震えていた。胸が痛い。こんな子供が、何で殺し合いの戦争なんかに参加しているのか。
左足が縮み、地面を蹴った。三本の魔剣聖剣の間隙を縫うように体を移動させる。回避には成功したが、今度は右腕と頬に裂傷を負った。
追撃はなかった。つまらなそうに吐息を零した黄金の男は、突進してくるバーサーカーには目もくれず、志貴を見ていた。
「バーサーカー!」
狂っている。
志貴は初めて、男がどういった方法で攻撃しているのかを見た。
男の背後には無数の刀剣があった。古今東西、どうすればそれだけのものを集められるのかという数の剣が、浮遊していた。あるいは待機していた。王の号令を待つ兵士たちのように。剣を砥ぎ、己を高め、放たれる瞬間を待ちわびている。そこに雑兵はなかった。皆が皆歴戦の猛者であり、王だった。
「全部が、宝具……?」
それを、バーサーカーは一身に受けていた。宝具クラスの武器を全身で受け止め、時に叩き落しながら、じっと堪えている。何かを守るように、仁王立ちしている。頭が飛び散り、腕が寸断される。それでもバーサーカーは踏みとどまっていた。
こちらを探るようなバーサーカーの様子に、志貴は己の迂闊さを呪った。
「全部避ける。好きに戦ってくれ」
バーサーカーは動かない。頑なに、動かない。その身は彼女の言葉を待っていた。主の一声を。
「シキ?」
「言ってやれ」
イリヤが頷く。小さな口が躊躇いがちに開閉し
「狂え、バーサーカー」
轟と、猛獣が哭いた。途端、バーサーカーはその巨体に見合わぬ速度で横に跳び、黄金の男目掛けて疾走する。
速かった。剣の雨は標的を見失い、見当違いの床や壁を破壊して消える。あの巨体が霞んでいる。二メートルを優に越える巨体が、あまりの速度にブレてみえた。かのランサーのように、受けて、回避し、前進する。イリヤがぽかんと見蕩れるほどに、速かった。
「あんなバーサーカー……見たことない」
流れ弾を回避する志貴の腕の中で、イリヤが呆然とした声をあげる。それも当然だった。バーサーカーの背後にはいつもイリヤが居たに違いない。だから、バーサーカーは常に防戦を強いられた。彼女を傷つける要因を全て排除するために、バーサーカーは動かず戦ってきた。その、ランサーにさえ引けを取らない機動力を、開放する機会がなかったのだ。
狂化すれば、サーヴァントは標的を殺すためだけの殺戮兵器に堕ちる。その点ではこのバーサーカーもそうだった。だがその動きには、確かな知性を感じた。標的を打倒するために、一直線に進路を取るのではなく、最短で殺すための行動を取る。それが、ギリシャ最強の英雄に染み付いた常識。剣技を忘れようと、考える知能が無くなろうとも、染み付いた癖は消しようがなかった。
イリヤスフィール・フォン・アインツベルンでしか為し得ない奇跡が、そこにあった。
振り払った豪剣は、三つの宝具を叩き落す竜巻だ。黄金の男の顔は無表情ではあったが、既にこちらには意識の欠片も向けられていなかった。眼前の脅威を排斥することに、全力を注いでいる。止め処もなく刃を射出しては、バーサーカーを殺そうとする。だが、それらは空しく空を切った。あるいは叩き落された。豪腕だけで、宝具など物の数ではないと吹き飛ばす。
ゆえに、『全部避ける』という言葉は不必要になった。その力の全てがバーサーカーに向けられた今、志貴たちを狙う剣は一本たりともなかった。バーサーカーは、黄金の男を支点に志貴たちと対極側に回っていたから、最初に回避した一回を除けば、流れ弾さえ消えた。
目指すのは階上。剣を杖のようにして立ち上がろうとしているセイバーの元へ。それは賭けだ。彼女が志貴たちを見逃してくれるかどうか。
志貴は駆けた。バーサーカーが押し止めてくれているその間に、脱出すべく。いや、あの様子では、逆に殺しかねない。
硬く、強く、速い。
そんな文字通りの怪物を、どうして倒せるのか。だが油断などできない。今は脱出し、身を隠し、勝利したバーサーカーを迎えればいい。
そう考えた瞬間だった。
「それほどに護りたいか……」
底冷えのする声が聞こえたのは。
***
イリヤは思い出に蓋をして、目を開いた。志貴に抱かれて走っている。その胸の中で、バーサーカーの姿を見た。巌のような体が風のように走る。強かった。圧倒的なまでに強かった。
最強の名に恥じない強さ。イリヤは自分がバーサーカーの枷になっていたことを知った。だが、イリヤでなければ、バーサーカーがあの力を発揮できないとも知っていた。互いに互いが不可欠だった。
ああ、本当に彼でよかった。彼ならきっと、あの見知らぬ英霊も倒してくれる。
「それほどに護りたいか。ならば防いでみせよ。同じ半神のよしみだ、我が全力を以って、貴様の主を屠り去ってくれよう」
なのに、その言葉には、本当にそうしてしまいそうな力が篭っていて。
「イヤ……」
バーサーカーはきっと、ここで命を落とすんだと、理解してしまった。
「“天地乖離す(エヌマ)──」
ようやく手に入れた温もりだった。
お父さんみたいだと、思った。
抱き上げてくれなくてもいい、撫でてくれなくてもいい。器としての役目を果たすその瞬間まで、一緒にいてくれればいい。
願いはそれだけ。
復讐ももうどうでもいい。だから神様、
「──開闢の星(エリシュ)”」
バーサーカーを助けてください。
『バーサーカーは強いね』
初めて触れて、声をかけた。
バーサーカーの体は温かかった。
自分の声も、聞いたことがないくらい暖かかった。
そんな思い出がある。一緒に生き延びた。一緒に戦い抜いた。
バーサーカーは強い。世界で一番強くて大きくて、優しい。言うことを何でも聞いてくれる。言わなくてもわかってくれる。話を聞いてくれる。撫でてくれたり、抱いてくれたりはなかったけれど、イリヤが今まで持っていなかったものをくれた。
だから、殺さないで。
目を閉じて祈ると、目の前が真っ暗になった。
***
「──ならば防いでみせよ。同じ半神のよしみだ、我が全力を以って、貴様の主を屠り去ってくれよう」
その声と共に降ったのは鎖だった。三百六十度を囲まれ、次の瞬間には全身が縛り上げられていた。
見えなかった。絡みつく瞬間も、締め上げられていく過程も。鎖は現れた瞬間に志貴の四肢を捕えていたのだから、回避などできるはずがない。鎖の力は強くはなかった。それで十分だと言わんばかりに、ある程度弛緩させていた。かといって抜け出せるほど甘いものでもない。
大きく跳躍した黄金の男は、剣の雨でバーサーカーを牽制しつつ、一振りの剣を握る。剣と呼ぶのもおこがましい風体のモノだったが、それは確かに剣として存在していた。肉を断つものではなく、もっと大きなものを切り裂くための剣。
着地した男は、身動きの取れない志貴たちを見て、哄笑を上げた。呼応するように剣が回転を始めた。吹き上がる魔力。大気そのものを吸い上げ、暴風が巻き起こる。空気が打ち震え、大地が鳴動した。
「“天地乖離す(エヌマ)──」
そのあまりに大げさな真名も、虚言ではない。回転する刀身から、ジェット噴射さながらに魔力が溢れ出す。だから、虚言ではない。それはきっとこの世を地(Earth)と天(Air)に分けた、創世の剣(EA)。或いは、エアと呼ばれた神そのもの。世界を始まりに導いたものに名などあるはずもなく、ならばそれは、誰も知り得ない剣だった。
「──開闢の星(エリシュ)”」
世界が断裂した。赤く巻く破界の渦に、世界が切り裂かれていく。閃光と風によって、アインツベルン城が崩壊していく。たかが人の造りだした建造物の一つなど物の数ではないとばかり、赤い波動が視界を埋め尽くした。
死ぬ。
頭の中がその単語だけで一杯になった。死ぬ。完膚なきまでに、殺される。
夢も、最後の希望も志も何もなくした体を、天地を切り裂く剣が飲み込んでいく。暗い奈落の底に叩き落される感覚は、いつか経験したことがあるものだ。
腕の中のイリヤを強く抱いた。震える体が、強くしがみついてきた。何かを強く祈るように、喚いていた。赤い閃光のせいで顔はわからない。それが幸いだった。自分の顔など見せられない。絶望に染まりきった顔なんて、見せられるはずがない。
だが死はいつまでもやってこない。
暗い闇の中、宙に浮いたような感覚の中、志貴は暗い世界において輝く背中を見た。バーサーカーというクラスが剥がれ落ちていく背中。隆々と逞しい筋肉に固められた背中。
突風と閃光で朧にしか視認できない。その肌は雄雄しく肌色。その腕は世界を押さえ込み、幾多の魔獣を打ち破ってきた。
聞こえたのは咆哮だ。城が砕け、瓦礫が落ちる音よりも尚大きい雄叫び。それは理性を失った怪物のモノではなく、一人の人間が、死力を尽くすために吐き出した咆哮。
両腕を広げ、腰を落とし、巨大な足は地面にめり込みながらも、後退しなかった。十二の試練を越えた英雄は、星を割る力をその身一つで受け止める。ありえない。あってはいけない光景。だが、有り得ないことを可能にする者こそが英雄であり、紛れもない英雄がそこで、新たな伝説を作り出そうと堪えていた。
「ヘラクレス……」
止まない咆哮が響き渡る。
その背中はきっと、イリヤ一人に向けられたものだ。父が子を護るような、あまりにも雄大な背中。体は何度も何度も消え去る。だがその度に蘇り、堪え、また消滅する。それでもイリヤのために蘇り、身を焼く剣を押し止める。死ぬこと十度。世界を切り裂くはずの剣は、城の一つを半壊させるのみで、とうとうその刃を退いた。
紛れもない、バーサーカーの勝利だ。
残ったのは、無傷で巌のように構えた漆黒の狂戦士(バーサーカー)。
「イリヤ、おまえのサーヴァントは、本物だ」
胸の中で、イリヤは目を開かない。怖がっているのかと、左手でゆすってみた。しかし、動かない。それどころか、その体は体温を失っている。
首に回された手に力がなかった。胸に押し付けられていたはずの頭も、力なくうな垂れていた。鼓動はあった。小さな心臓が、生きようとしている鼓動はあった。
恐ろしい想像をした。何せ、理由がない。彼女が冷たくなって力を失う理由がない。バーサーカーは完全に受け止めきった。なのになんで──
「侮ったか。腐っても半神……貴様は見事だったヘラクレス。だがな、我(オレ)の勝利だ」
──死んでいる?
心臓は動いていても、魂が死んでいる。人として重要な何かが、欠落している。動かない、物言わぬ人形が在るだけ。
「“王の財宝(ゲート・オブ・バビロン)”」
「逃げなさい」
声に振り向けば、二階から続く階段を駆け下りてくるキャスターがいた。その途中でセイバーを見下ろし、何か告げて、再び駆けてくる。今までどこにいたと訊ねることもできない。イリヤスフィールが死んでいる。
納得できない。考えられない。何故死んだ。何故死んだ。
「早く逃げなさい!」
キャスターの叫びと同時に、体を縛り付けていた鎖が緩んだ。
宝具の雨が降る。バーサーカーは動かない。当然だ。彼こそとっくに死んでいる。
咄嗟に鎖を抜け、イリヤを抱き上げて、跳んだ。もう止まってしまった体を、強く強く抱いた。空を舞う。半円を描いて、二十もの刃から逃れるために跳ぶ。十五を回避した。右手の刃は幾度も閃光し、四つの宝具を殺すことに成功した。
だがそれは結局失敗に終わった。一つ。回避も迎撃もできなかった剣が、何かを抉った。
小さな唇が血を吐いた。腹に暖かいものを感じた。服に染み込んで、肌を濡らす液体。両手が真っ赤に染まっていた。血。イリヤの腹を貫いた、名も知らぬ名剣が噴き上げさせた鮮血。
幼い体を貫いても剣の勢いは止まらず、志貴ごとイリヤを地面に引きずり落とす。辛うじて立ち上がった志貴は、変わり果てた少女を見た。
目を恐怖か何かに見開いて。
つぐんだ唇から血を吐いて。
まるで墓標のように背中から剣を生やして。
「イリヤ?」
返事など無いと知っていながら、声をかけた。
今度こそ完全に、イリヤの息の根が止められた。
「ウソだ……」
バーサーカーが消えていた。最初からなかった様に。役目を果たせなかったとばかりに、何も言わず、消えていた。
広間を風が悲しく凪いだ。
イリヤの瞼を閉じる。仰向けにする。赤い血。白い肌。紫色のコートに帽子。
悪態ばかりついている少女だった。もの悲しい悪態を吐く少女だった。悲しくて寂しくて人をけなすことで自立しようとする少女だった。頬は柔らかかったし、時折みせる笑顔は愛らしかった。
「ワカラナイ……なんだって、おまえが……」
そんな彼女を、守れなかった。逃げることばかりに気を取られて、バーサーカーと共にアイツを仕留めるという選択肢を黙殺した。だから彼女は死んだ。思い上がりでもいい。志貴がその気になれば、倒せたかもしれないのに。
──だから俺はきっと、イリヤを見殺しにした。
彼女の姿を二度と忘れないように瞼に焼き付けてから、志貴は顔をあげる。腕を組んでたたずむ黄金のサーヴァントを、蒼い目で見た。
戦う理由を失った。
奇跡を求める理由を失った。
そんなことに拘って、腕の中で震える命の一つも救えないというなら、もう何も考えなくていい。
今は、この胸に去来する怒りと悲しみだけに従えばいい。
たとえ届かないとしても──
「助かった命、粗末にするというのなら最早加減もあるまい。去るならば見逃してやるつもりでいたが、あの半神ならばまだしも、雑種如きに足掻かれては甚だ不愉快だ。その身、肉片も遺(のこ)らぬと思え」
あのサーヴァントを──
「志貴!」
斬刑に処す。
宝具の呪いで攪拌する頭を醒ますため、セイバーは大きく深呼吸を繰り返した。広間には、志貴とバーサーカーが駆け込んでくる。それを見て、しばらくの休息を得られると踏んだ体は、床に突っ伏してしまっていた。
強烈な魔力消費による回復はとっくに済んでいたが、その後に両手両足を貫いた宝具はまずかった。
セイバーは一瞬前まで自分を襲っていた剣の雨を思い出し、体を震わせる。
初撃。万全で放った宝具を破られたときに、敗北は決まったようなものだった。砕けた鎧と焼けた肌を、キャスターから絞り上げた魔力で無理矢理修復し再度渾身の剣を叩き込むも、予感した敗北の二文字が、絶望へと変化していくのに時間はかからなかった。
素人同然の剣捌きしか持たぬ敵。立ち尽くすだけの敵さえ討ち取れない不甲斐なさ。無数の武器を神懸った身体能力で避けようと、その先で再び囲まれれば後退を余儀なくされる。無数の武器が有象無象の刀剣であれば、仮にも聖剣の担い手であるセイバーに敗北は有り得ない。だがそれが、一々己が剣に勝るとも劣らない名器であるのだから、手に負えなかった。
結果膝をつき、四肢を貫いた巨大な鎌によって生命力を根こそぎ奪われるという無様を晒すに至る。
前回もそうだった。セイバーはバーサーカーの咆哮を聞きながら、僅かに考える余分を与えられた脳で思案する。
あの男をアーチャーと呼んだ前回の聖杯戦争でも、傷の一つさえ与えることは出来なかった。そこで衛宮切嗣が取った行動は、言峰綺礼を背後から撃ち取るという卑怯者じみたものだった。さりとて、それを非難する口はセイバーには無かった。セイバーの力不足が取らせた行動だったからだ。
アーチャーを倒せない己に憤慨するのなら、その生き人形の如く冷めた瞳にも憤りを感じた。勝利のためならば手段など厭わない。そのどこか過去の己と似た姿が、殊更にセイバーの心をかき乱した。だがそれも過ぎたことだ。切嗣の息子と契約している己を運命とするなら、ここで再びアーチャーに敗北するというのも運命と言える。
戦争の最中に、敵に求婚するという異常な英霊は、恐らく今度こそ良い返事を聞くつもりでいるのだろう。半死半生のセイバーに止めも刺さないでいるのがなによりの証拠だった。
「ヘラクレス……」
赤い光と全てを切り裂く風の中で、ぽつりと志貴が零したのは、セイバーが相殺すら叶わなかった宝具を押し止める英霊の真名だった。覚えがある。セイバーは震える顎を上げて、巨獣の背に眼差しを向けた。死後に神に迎えられた正真正銘の英雄の神々しさが、セイバーが失ったものが、そこにはあった。バーサーカーというクラスに堕とされ、その英知の全てを身体能力に注ぎ込んでも尚、その背には英雄の気質が渦巻いている。
その腕が握っていた、切れ味など一分の考慮にも入れられていない剣を放棄し、体一つで宝具を跳ね返さんと堪えていられる奇跡。
それを受けては、さしものアーチャーからも余裕は消えていた。歯を食いしばり、魔剣に魔力を注ぎ込む顔は、セイバーを相手には決して見せないものだ。全身全霊をかけなければならない相手。それを得て、あの英霊などというモノからは最も遠いと思っていたアーチャーが、神気を帯びていた。
その対峙も、十の命を燃やし尽くしたバーサーカーの死で締めくくられた。勝負としてならば、バーサーカーが勝利した。彼は確かに背後の主には被害を及ばせなかった。だが、殺し合いとしての勝者は紛れもなくアーチャーだった。
「侮ったか。腐っても半神……貴様は見事だったヘラクレス。だがな、我(オレ)の勝利だ」
嘲るでもなく。見下すでもなく。アーチャーが持ちうる最大の賛辞が、バーサーカーに向けられる。対等の者を得た喜びと、それを失ったという僅かな哀惜。表情にこそ出さないが、知らず口に出てしまったのは彼もまた誰もが認める英傑だったからだろう。
だが、それも一瞬だった。忽然と姿を消していたキャスターの「逃げなさい」の声が聞こえたときには、アーチャーの背後には宝具が展開されていた。
セイバーの体は動こうとしない。魔術ならばどれだけのものでも無効化できるという自負がある。だが、高度な呪いの類になれば話は別だ。そういったものも無効化できるのならば、キャスターの宝具で契約を破棄されることもなかった。アーチャーがこの四肢を貫いた剣や鎌は何れもが対象の動きを封ずるに特化したもの。剣を杖代わりに立ち上がるのが精々だった。
「貴女が、傷一つ負わせられなかった?」
駆け寄ってきたキャスターが、階下の惨状と、セイバーを見比べて訝る声をあげた。
「もし、志貴が生き残れたなら、彼を連れて逃げなさい。私では、ほんの一瞬が限界よ」
死ぬ気か? の言葉は声にならなかった。キャスターは階段を駆け下りしなに何か呪文を呟き、「早く逃げなさい!」という叫び声と共に、鎖を無効化すべく解呪の魔術を放った。
志貴がイリヤスフィールを抱いて宙を翻る。襲いくる宝具のほとんどを回避した絶妙の跳躍は、直感のスキルでも持っていなければ不可能な芸当で、更に四つの宝具を迎撃したそれは、最早奇跡でしかない。
「アレをも、殺すか──」
故に、たった一つ回避も迎撃もできなかった魔剣が、イリヤスフィールの小さな腹を貫いたとしても、それは志貴の責任などではなかった。
剣の力に押されて大地に仰臥した志貴の、呆然とした顔こそが場違い。その奇跡を生んだ体を褒めこそすれ、罵倒する理由などないというのに。
「イリヤ?」
志貴は心底痛々しい姿で、転がるイリヤスフィールを見下ろした。
「志貴、ソレは捨て置きなさい。早く、撤退を」
キャスターの声も聞こえていないのだろう。志貴は紫色のコートを黒く染め上げる血に触れようとして、恐れるように手を引っ込めた。
「ウソだ」
「聞こえないのですか!」
震えている。迷子になった子供のように、一人はぐれた子羊のように、志貴が震えていた。ライダーと対峙したとき、セイバーと対峙したときにみせた、冷淡な殺人鬼のイメージが払拭されている。
昨晩から、既におかしかったといえばおかしかった。
目覚めたセイバーを待っていたのは、気のいい好青年風の志貴だった。睨み据えられると震えが来るような魔眼を包帯の下に隠して、羊の皮を被っているだけの獣だった。好青年を演じる志貴はどこかズレていて、セイバーにはそれが可笑しかった。切り掛からんばかりに臨んでいた自分を諌めるためにそうしていたのかと考えてしまえば、わざわざ剣呑な態度で接する気勢も殺がれてしまった。
きっとあの男はずっとそうしてきたのだ。羊の群れに紛れ込むために、羊の皮を剥いで着込み、懸命に順応しようとしてきたのだ。あの許容外の魔眼を有しての生活となれば、その困難は計り知れない。
とっくに精神は擦り切れていたのだろう。志貴の寝顔は心底安らかで、それこそ永遠の眠りを連想させた。あまりにも、ネガティブに安らかな寝顔だったのだ。死んだように眠る志貴を見て、己の願いの矛盾を嘆いた。志貴を鏡像に仕立て上げて、過去の己と対峙した。
何にせよ、志貴のせいで、気付かなければ良かった矛盾を知った。気付かなければ平穏でいられた心を踏み躙られた。それが、その変貌は何なのか。戦う覚悟も無かったような顔をして、イリヤスフィールを悼むそれは何なのか。
羊の真似事に興じるのはやめろ。この私の願いさえ汚して存在したおまえが、そんな顔をするな。
怒りのままに叫ぼうとしたとき、セイバーの背筋を悪寒が襲った。志貴の震えていた指先がイリヤスフィールの顔を這った。指先が瞼を下ろす。
まるでこの現実が信じられないと喚く中で、それでもイリヤスフィールの目を閉じさせたのは、内面で鎌首をもたげた冷静な何かを象徴しているようだった。
「ワカラナイ……なんだって、おまえが……」
鎌首をもたげた何かは、皮を引き裂く。羊の毛皮を引き裂く。現れたのは巨大な牙。挑むのは世界の王。
遠野志貴は確実に殺される。あの英霊は人間では届かない高みにある存在だ。ここでキャスターの言葉通りに逃げれば、或いはいつか好機がやってくるかもしれない。しかし、今戦えば死ぬ。だというのに、薄く輝いてさえいる魔眼が、一直線にアーチャーを射抜く。
襲い来る宝具の雨を前に、日本刀の煌きは奇跡のような軌跡を描いて、確実に主の命を撃ち抜こうとする投擲を殺す。その刀捌きは理屈ではない。かと言ってセイバーのように迫力があるわけでもない。ただ最小限の中に最善を見出して振るわれる。命を刈り取る一撃を、確実に防いでいく。間合いを詰めるために、縦横無尽に駆け回りながら、避け、いなし、殺す。突き刺さるはずの投擲が、防がれていく。
表に生きたセイバーには想像もできない動きだ。己が生き残るためには敵に背すら見せる。闇に生きる者の動きと知れた。勝てばいい。信じられない跳躍力も、緩急の区別がまるでつかない動きも、誇りなどというものとは対極に位置する動作。
キャスターは巨大な杖を振り回し、次から次へと迫り来る刀剣の全てにガラスのような防御結界を放ち続けた。それが易々と貫かれると、今度は空間そのものを固着させる大技を繰り出す。志貴を空中で静止させたものと同じ魔術だ。志貴を取り囲むように放たれた空気の澱みは、絶えず移動する志貴の動きを邪魔しないようにと、展開しては消しての繰り返し。その負荷はキャスターと言えど耐えられるものではない。次第に息を荒げていく彼女を見れば、魔力は空に近いと知れた。
それほどに無理をしても、勝利は無い。キャスターがいくら宝具を僅かに鈍らせようと、志貴が渾身を篭めて接近しようとも、その鎧には届かない。
それでも構わない。眼が告げていた。
──戦うと決めた。
それは、セイバーとは根本から異なる願いのカタチだった。単純なことだ。志貴はイリヤスフィールを殺された怒りで、戦うと決めた。
無闇に難しく考えていた自分に、可笑しさがこみ上げてきた。
まるでくだらない。自分で矛盾に気付いておきながら、人のせいにして逃げようなどと、この身はそれでも英雄と呼ばれた者の果てか。
──戦うと決めた。
たとえ全てを失って、みんなにきらわれることになったとしても。
それでも、戦うと決めた王の誓い。
それが、彼の王のたった一つの誓い。
まだ何も解決などしていない。心に抱えた矛盾はそのまま。だが
「我が名はアーサー。信念によって助太刀しよう、遠野志貴」
脳裏を埋め尽くしていた絶望の二文字は、霧を払ったかのように消えうせていた。
Excalibur
勇気と決断の剣
「我が名はアーサー。信念によって助太刀しよう、遠野志貴」
その声に振り向いた。二階で膝をついていたセイバーが、全身から青白い雷光を放ちながら不可視の聖剣を携えて立っていた。
漂う威厳。前だけを見据える鋭い眼光。まるで別人だなの感想を抱いた志貴は、アーサーという名に内心で苦笑する。一方で、その名が持つ不思議な力に安堵したりもした。
彼女を中心にして巻き起こった風の渦は、黄金のサーヴァントから受けた傷を吹き飛ばす。届かない不安や恐れ。負の感情の一切合財が払拭された。
「フン、足掻くか。それも良かろう。いずれ我が物となる身。存分に刃向かい、決して届かぬ絶望を知るがいい」
悠然と駆け出したセイバーは、一歩で階段を飛び降り、そのまま一直線に黄金のサーヴァントを目指した。バーサーカーには及ばないものの、風を纏って駆ける姿は疾風そのもの。
宝具の雨を跳んで避ける志貴の足元を、突風が吹きぬける。黄金のサーヴァントは再び背後に武器を浮かべ、駆け抜ける風目掛けて打ち放った。セイバーが不用意に足を止める。意図を察した志貴は着地と同時に一歩を踏み出す。
「どうしたセイバー。勝てぬと悟ったか?」
黄金のサーヴァントの嘲笑が聞こえる。そこでセイバーが跳躍した。黄金の男には見えていない。その背に紛れた伏兵の姿など。
顔を見られぬのが残念だと内心で吐き捨てて、志貴はセイバーの小さな肩を蹴りつけ、大きく前方に跳躍する。そこでようやく見た。ありえない場所から飛び出してきた思わぬ伏兵を眼前に受け、咄嗟にその手に剣を取った黄金の男の顔を。
着地と同時に、一歩で黄金のサーヴァントに肉薄した。全身全霊を込めて、右腕を抜く。男の右脇腹から左肩までを走る死の線めがけて。男の剣が刀崎を砕くべく振り下ろされるが、それは無視する。何せ背後には──
「ッハァアア!」
宝具の雨を掻い潜り、同じように接近してきたセイバーがいるのだから。
冷気を抱いて振り下ろされる剣を、セイバーは不可視の聖剣で迎え撃った。耳元で激しい火花が散る。金属同士が打ち合ったとは思えない爆音が鳴り響き、セイバーが大きく弾き飛ばされる。だが、男もまた右腕を大きく跳ね上げられていた。
──ここを確実に射抜く。
反動でたたらを踏んだ男の脇腹に剣が届く。殺せると思った刹那、悪寒に飛び退いた。五メートルほど後退したあと、たった今まで己が居た場所を見れば、巨大な剣が土煙をあげながら鎮座ましましている。
「志貴!」
声と同時に跳躍した。セイバーは左へ。志貴は右へ。追ってくる宝具は五つ。セイバーの方に七つ。瞳を限界まで見開いて、無機物──それも幻想の域にまで達したそれらを睨めつける。脳髄が焼けて鼻から出そうな痛みに堪えながら三つを殺す。が、残りの二つが脇腹と右足を掠めた。肉をごっそり持っていった痛みに意識が朦朧としたが、次の投擲を視界の隅で捉えていれば、休む暇など無かった。
続けざまに四度床を蹴って、避け続けた。殺す。腕は意識とは別に、線をなぞるだけの機械になっている。殺す。目的は一つ、イリヤの命を奪ったアイツを切り刻むこと。
顔色一つ変えずに、ただ淡々と宝具を放ち続けるアイツに、一泡吹かせてやること。倒せないなんてことは判っている。どうしようもないくらいに、世界が違う。武器を両手でしか持てない人間では、アイツには敵わない。両手両足に括り付けたところで、アイツには敵わない。
回避に成功したセイバーが、次の回避に移る。彼女──アーサー王でもあの英霊には勝てない。それを判っていて、戦っている。接近さえできない相手。先ほどのような奇襲はもう通じない。あの場で仕留められなかったのなら、もう二度と勝機は無い。だがそれでも、イリヤのために退く訳にはいかない。
宙返りする天地の中で、キャスターと視線が合った。今朝方の気まずい雰囲気はいまだ残っている。それでも見捨てようとした主を、彼女は護ってくれた。その気持ちを裏切らないためにも、退けない。そう思ったとき、キャスターが笑みを刻んだ。酷く美しい、戦場には似合わない笑みを。
「一瞬、ですよ」
確かにそんな声が聞こえた。
「咎闇(ニュクス)、病風(アエロー)、疾りなさい」
それは文字通り、キャスターの全てを内包した魔弾だった。暗い常闇が地面を走り、紫色の魔風が空気を切り裂く。遠坂の屋敷を崩壊させた魔弾が五つあると考えればいい。後のことなど考えない一撃は、宝具の雨を掻い潜って確かに男に着弾した。
「小賢しい、大人しくしていれば楽に死ねたものを」
青白い輝きが広間を埋め尽くした。それは命中の光ではない。あの男が取り出した何かが、キャスターの全力を跳ね返した光。照り返された魔弾は、主に反旗を翻すかのように反転し、キャスター目掛けて飛ぶ。
──一瞬、ですよ。
その魔弾の先に、精根尽き果てて倒れているキャスターがいることは知っていた。それを受けては彼女が無事ではいられないことも知っていた。
だが、ほんの一瞬の静寂。盾を構えるためにほんの一瞬だけ途切れた雨を、見過ごせなかった。それを見逃し彼女を助けようなどという思い上がりは無かった。彼女が命を賭けて作ってくれた一瞬。それこそが、志貴に遺された最後の好機。
セイバーは、まだ回避後の体勢を戻せていなかった。故に走ったのは志貴のみだった。与えられた一瞬を逃さないために、全身のバネを最大限に活用して、走った。体勢を低く低く。あの男の膝より更に低く倒して、縫うように駆ける。
それは奇しくも、昨晩セイバーの剣の結界を殺したときと、非常に似通った状況だった。
背後で轟音が轟き、背中を灼熱の風が焼いた。だがそれさえも追い風にして駆けた。キャスターの血が混じった風を背中に受けて、いまだ燃え盛る火柱に目をやっている間抜けの懐に潜り込む。いや、半歩、足りない。咄嗟に思考した体がもう半歩足を滑らせたとき、男の眼が真上から志貴を見下ろした。
似通っているが故に、そこで過ちに気付いた。昨晩はここで全てを決していた。セイバーが視線を戻したときには既に全ては終わっていた。だが今回、誤算があったとすれば右足。脹脛を抉られる傷は、決して浅くは無かった。
「気付いていないとでも思ったか、雑種」
何から何まで今さらだった。熱くなりすぎて、冷静になれなかった自分の敗北が視える。だが、止まるわけにはいかなかった。この体が動く限り、左脇腹から右肩まで斜めに駆け上がる線。そこに寸分の違いも無く斬り込む。
踏み込みは大地を砕かんばかりに。打ち込む刃は神速でなければならない。
理想通りの太刀筋が、雷の如く走った。確かに鎧を打ち、振りぬいた。
だというのに、背後からはセイバーの悲痛な叫び声が聞こえた。ああ、似合わない。アーサー王ともあろう者が、そんな絶叫は似合わない。アーサー王が女の子だった事実はまだ受け入れられないし、繰り返してみると妙な気分だった。メディアに、ヘラクレスに、アーサー。なんて馬鹿げた場所に俺はいるんだろう。刃を振りぬいた格好で、少し抜けた思考を巡らせてみる。
秋葉を助けたくて、殺し合いに身を投じた。キャスターはとんでもないことをしてくれたし、この手でライダーの息の根も止めた。それなのに結局秋葉は救えないらしい。悩んでいたら、イリヤが殺されてしまった。それが頭に来て、八体目のサーヴァントに喧嘩を吹っかけた。ああ、だからこんなところで、腹に剣を突きたてられているのか。
「イリヤ、キャスター──」
腹に感覚が無かった。右手の刀がやけに軽かった。
体が浮く。否、そんな生易しいものではない。放物線など描かず、弾丸のように体が飛んでいた。視界が流れて、このまま永遠に飛び続けるのかと思った途端、酷い痛みと共に、体が停止した。その拍子に落下した刀崎は、根元で折れてしまっていた。腹に食らった剣のせいで、狙いが逸れたのだ。刀崎は黄金の鎧を直に叩き付けられて、折れてしまった。刀崎翁の人生が、折れてしまった。
目の前に階段があった。階下で、セイバーが絶叫をあげながら宝具を開放しようとしている。
その背後でキャスターが横たわっていた。血塗れだった。イリヤの姿はどこにも無かった。何故だろうと考える余裕が無かったので、きっとどこかで無事でいてくれていると信じることにした。数瞬前に、背中で吹き上がった爆炎に巻き込まれたなんて、考えたくも無かった。
「ごめん」
呟くと、意識が消えていく感覚に背筋が凍りついた。だから最後、左手の奇妙な模様に意識を集中して、呟く。
「絶対に、死ぬな……キャスター」
まだ微かに息がある彼女だけは、こんなところで死んで欲しくなかった。
***
気付いた瞬間には、真名を叫ぶべく聖剣に魔力を注ぎ込んでいた。志貴が万全だったなら、セイバーでさえ感知できなかった斬撃は、全てを終わらせていたはずだった。だが、昨晩の焼き直しのような攻防は、志貴の敗北で終わった。傷ついていたがために足りなかった半歩。それが明暗を分けたのだ。志貴は刃を振る途中で腹に剣を突き刺され、彼にしか視えない標的を外し、愛刀諸共吹き飛んだ。
「貴様ァ!」
仲間意識など無い。ここで生き残れたならば再び殺しあう間柄だ。だが気付けば叫んでいて、聖剣は呼応するように光を撒き散らした。
「まだ刃向かうか。今の我(オレ)は機嫌が悪い。加減などできぬぞ?」
「加減などしてみろ。消し炭と化すのは貴様の方だ」
アーチャーは鼻を鳴らす。吹き上がるような殺気を見るに、機嫌が悪いというのは事実らしい。志貴に殺された宝具は軽く二十を超える。手痛い損失には違いない。
つい数分前にも敗れた聖剣。勝算があるとすれば、黄金のサーヴァントも、この聖剣を迎え撃つには“天地乖離す開闢の星(エヌマ・エリシュ)”を放たなければならないということ。それも、奴は三度目。セイバーとて二発目になるが、あれだけ宝具を連発した黄金のサーヴァントが、全力を込めた聖剣を押し止められるのか。それが勝算。
「“約束された(エクス)──」
神が造り上げた聖剣。その真名を前にアーチャーは円錐状の剣を握った。刀身になる三つの円柱が、風を巻き込んで回転する。
対して聖剣は風の結界を解除し、暴風と共に輝きを増し続ける。その発光が臨界に達した瞬間、
「──勝利の剣(カリバー)”」
怒号にも似た叫びと共に、光が放たれる。
「“天地乖離す開闢の星(エヌマ・エリシュ)”」
アーチャーもまた断世の渦を解き放った。
二つの力は床を砕き、壁面を吹き飛ばし、崩れかけていた城を崩壊させていく。
降ってきた瓦礫を蒸発させ、巻き上がる旋風と爆熱が彫像を溶かす。
目が眩むほどの閃光の中で、赤い風が黄金の光を押し始めたのを見た。衰えなどなかった。三度目の開放にしてこの威力ならば、最早勝ち目は無い。これほどの宝具ならば、魔力消費とて尋常ではないはずだった。アーチャーの魔力量はそう多い方でもなかった。許容量でいえばセイバーの方が格段に上手のはずだった。それでも敵わない。微かな勝算も崩れて消えていく空しさにを堪えながら、悔いは無いと内心で呟く。
全力で挑み敗北するなら、それは必定。仮にも英霊の端くれ。悔いなど無い。
手元まで迫った断世の風を見つめながら、セイバーは歯を食いしばった。食いしばって、もう絞るだけの力も残されていないことに安堵し、エヌマ・エリシュに包まれる。
鎧が溶けた。篭手が跡形もなく消し飛んだ。肌が音を立てて焼けていく。だというのに痛みも無かった。
足が地から離れ、体が浮き上がる。あとは暴風波の成すがままにかき回され、焼き尽くされ、消える。
──“熾天覆う七つの円環(ロー・アイアス)”
士郎を斬って捨てようとした不届き者の声が聞こえたのはその時だった。吹き飛ぶセイバーの視界に、突如巨大な花弁が七枚展開する。一見脆弱そうなそれは、エクスカリバーでいくらか威力の鈍ったエヌマ・エリシュを、花弁を散らせながら押し止めた。
その奇跡のような光景を、半ば夢心地で見ながら宙を待った体は、受身も取れずに床に転がった。
「セイバー!」
床に背中を打ちつけて落下してから、声の方に首を巡らせる。それだけで全身が音を上げたが、志貴を背負った凛と、重症の体を引きずる今回のアーチャー。そして、階段を駆け下りてくる士郎の姿を見れば、痛みはどこかに消えていた。
「な、ぜ……ここに」
「バカ! お前を助けに来たんだセイバー」
その押し付けがましい声音も懐かしい。たった一晩離れていただけなのに、心底懐かしい。身を挺してセイバーをバーサーカーから護ったことも懐かしければ、早々に見切りをつけた自分も懐かしい。独断専行で柳洞寺に乗り込んで、アサシンと奇妙な邂逅を果たしたりもした。志貴のことで気まずくなって、志貴に逃げられたあとで仲直りをしたりもした。
「……バカはあなたです、シロウ」
「そうだ、バカなんだ。だからそんなバカはおまえが見張っててくれないと、困る」
瓦礫が次々と落ちてくる中、焼け焦げて湯気をあげる体に触れながら、士郎はあくまでも優しく言った。だからだ。敢えてつっけんどんな言い方になってしまうのは、そんな彼に再び会えて心底安心している自分を知られたくないからだ。
「次から次へと……蛆か蝿の類か下郎共。手を離せ。ソレは、我(オレ)のモノだ」
そんな気分を台無しにする声が聞こえてきて、セイバーは体に力を篭めた。呆けている場合ではない。士郎たちが来たのなら、もう一度剣を執り、彼らを逃がさなければならない。
「聞こえなかったか雑種。貴様が触れて良いモノではない」
その声には殺気が含まれている。見れば十を超える宝具が向かってきていて、今にもシロウを串刺しにしようとしていた。
「シロ……ウ! 逃げてく、ださい」
途切れ途切れに叫ぶが、士郎の顔はまるで変わらない。変わり果てたセイバーに向けられる表情は、泣き笑いだった。
「大丈夫だよセイバー。アイツがいる」
セイバーの視界に影が差す。襤褸切れのような赤い外套。ひび割れた甲冑。元から赤い外套は、己の血で真っ赤になっていて、歩けば血の足跡を残す英霊。既に限界寸前で佇むアーチャーだった。
「アー、チャー」
その背が少しずつ遠ざかっていく、十の宝具に向けて一歩一歩近づいていく。足が止まり、背中が小さく息を吸った。
「投影、開始(トレース・オン)」
その呪文には覚えがあった。だが、士郎はずっとセイバーの方を見ていて、口を開いていない。それに、響きの中の重みがまるで違う。世界にただ一人の担い手であるはずの士郎よりも滑らかにつむがれた呪文。
赤い騎士が唱えたものだった。
アーチャーの背から剣が飛ぶ。その数十。黄金のアーチャーが放ったものとまったく同じ宝具が、十。
疑惑と確信が交差する中、『正義の味方』という言葉が思い出された。衛宮士郎の夢。理想。叶うはずなんてない、ただの青臭い理想論。ただの理想論のはずだった。アーチャーも、それを嫌悪したからこそ士郎に手を出したのだと思っていた。
けれど、そこにいるのが彼の理想の権化だったとしたら。
「──エミヤ、シロウ──?」
十の剣戟が響いた。甲高い音に、双方の武器が砕け散った気配を悟る。
「贋作(フェイク)、だと」
アーチャーが魔力を増幅させた。
I am the bone of my sword.(体は剣で出来ている)
Steel is my body,and fire is my blood.(血潮は鉄で 心は硝子)
I have created over a thousand blades.(幾たびの戦場を越えて不敗)
Unknown to Death.(ただの一度も敗走はなく)
Nor known to Life.(ただの一度も理解されない)
Have withstood pain to create many weapons.(彼の者は常に独り 剣の丘で勝利に酔う)
Yet,those hands will never hold anything.(故に、生涯に意味はなく)
それは呪文。
世界を編み変えて、心を映し出す呪文。
英霊エミヤの、悲しい呪文。
きっと、正義の味方になろうと奔走して、その理想の尊さに挫けそうになって、それでも立ち止まることなど許されなかった男の呪文。
『投影、開始』の言葉に篭められた思いの全てはわからない。
ただそれでも、重みだけは伝わった。
エミヤシロウは突き進んだ。
正義の味方になるために、どこまでもどこまでも突き進んだ。
後悔したくないから突き進んだ。己が間違っていないと信じるために突き進んだ。
So as I pray,"unlimited blade works."(その体はきっと剣で出来ていた)
炎が走る。世界を孤立させる炎が走る。
陽炎に揺られる世界に、黄金の男と紅蓮の男が相対する。
エミヤシロウは振り返らず、最後まで背中を見せたまま、炎の壁の向こうに消えていく。
「本当に、何て勝手な人なのだ、シロウは」
焼け爛れた体を引き起こす。脳髄は動くなと命令を下していたが、体が許さなかったらしい。もう鎧を再構成する力もありはしないのに、最大限にバネを利用して、その炎の内に入るべく跳躍する。
「待て! セイバー。アイツが何のために──!」
「エミヤシロウの剣となると誓った。大丈夫ですよ、シロウ」
大丈夫なわけがない。しかし、行かないわけにはいかなかった。
「何のつもりだ?」
赤い荒野に仁王立ちにした。突然の乱入者に、アーチャーが怒りを滲ませた声を出す。
「二度も言わせないでください。私は、貴方の剣となると誓ったのだ。死後もこの手を焼かせるとは、何事です」
たとえここで死すとも、後悔などあるはずが無かった。
最後に士郎の憮然とした顔が脳裏を過ぎって、胸をちくりと刺される痛みがあった。
***
衛宮士郎は炎の向こうに消え去ったセイバーの影を追うように手を伸ばし、拳を握り締めた。強く強く、肌が白く変色するまで握り締めた。
赤い炎と、その向こうに透けた荒野。その光景を、瞼の裏に焼き付けて、士郎は活目した。
「頼むぞ、アーチャー」
死を覚悟の上で固有結界と呼ばれる魔術を行使した、己の理想に吐き捨てる。
「衛宮くん。もう崩れるから、早く」
二階で志貴を背負う凛が、静かな声をあげた。アーチャーとは二度と会えない事実を受け入れて、平静であろうとする声だった。
「キャスターを連れて行こう。志貴を説得できれば、強力な戦力になる」
「……そうね」
凛が頷くのを待ってから、キャスターが倒れている城門の入り口へ行こうとする。だがその足は、轟いた轟音によって止められた。
「上!」
咄嗟に頭上を仰ぎ、五メートルはある瓦礫いくつもが落下してくる異常事態を認めると、体は咄嗟に反転し、頭から床に転がっていた。その途中、仰臥したキャスターの顔が見えた。
──笑ってる?
次の瞬間には落下してきた瓦礫によって消えたキャスターは、笑っていたような気がする。一体ここで何が起きていたのかも知らない。セイバーと志貴が共闘していたと思しき状況に心当たりもない。バーサーカーとあの少女の姿がない異常だって、わからない。そんな中で笑みを刻む理由は何なのか。
「キャスターは諦めて! 早く」
急かされた体が走る。次々落下してくる瓦礫を必死に避け、途中で折れた刀の刀身と鞘を拾う。全力で駆けて、辛うじて階段の体をなしている階段を駆け上がった。
「くそっ! なんなんだ、あの金ピカ野郎!」
結局セイバーを救えなかった己に歯噛みしながら、志貴を凛と二人で抱き、崩壊していくアインツベルン城から脱出した。
夢を見た。
幻影の類だったのかもしれない。が、思い起こしてみれば夢とはそういうものだった。
この胸を過ちが貫く夢。否、貫いたとき、既に過ちは過ちではなかった。理想が貫いた。千載一遇の好機を得た自身が、斬って捨てるべき理想に貫かれた。
赤い騎士は答えを得たと言った。答えとは何か。得るべき答えなど、とうの昔に知った。人はどうしようもなく下劣なものだと知った。元来記憶に残らない記録の集合でさえ、エミヤと呼ばれた彼を蝕んだ。消耗し、磨耗し、研ぎ澄まされたはずだ。ここに在るのは川上から延々流れ、海にまで辿りついた精錬された意思。それが、歪な意思に負ける道理が無い。
夢など信じるなと誰かが言った。その一方で貫かれた幻影が喚く。おまえは間違ってなどいなかった。
──間違いではなかった。
信じたくなくとも、セイバーを救出しようと決めてしまった。それは、己が最も忌避すべき青臭い理想論に基づいた決意だ。
ただの夢に流されすぎているとも思った。
だがそれでも構わない。磨耗した自分が見た夢ならば、誰の言葉よりも大きな意味がある。だから、これで良かった。
「どうした、フェイカー。来ぬならこちらが行くぞ」
「せっかちな男だ。英雄ならば、もっと大きく構えたらどうだ」
「フン、こちらは十年間も待たされている。今更一分や二分、どうということは無い。が、待っていろセイバー。今すぐにおまえを我が物としてくれる」
ゆっくりと、最期の死闘に赴くべく鷹の目が開眼した。
「逸る男は無様だぞ、英雄王。それにな、私を一分で倒すというその思い上がり──」
背後を窺った。ボロボロの鎧で佇むセイバーがいる。その瞳がじっとアーチャーを見ていた。円らな、宝石のような瞳。アーチャーは微かに頷いてみせた。
心残りはある。だが、後悔は無い。
「この場で剣の錆と化すと知れ」
それが、形骸と成り果てていたエミヤの在るべき姿。
Dead Eyes See No Future
頭痛が消えたのに気付いたのは、三時間かけて森を抜け、たまたま通りかかったタクシーに乗り込んだときだった。
アーチャーの正体。アーチャーが遺した言葉。セイバーの安否。考え出すとキリが無かった。ショートしてしまいそうな思考回路を断線させて、窓の向こうに視線を投げる。そこに、死んだように眠る志貴の顔が映り込めば平静でいるのは難しかったが、五年間にも及ぶ無駄な鍛錬で培った精神力をなめるな、とばかりに無視を決め込んだ。
タクシーの運転手には『貧血持ちで』と苦しい言い訳をした。切り刻まれたジャケットや、布に包まれた怪しい棒。凛が応急処置を施したとはいえ、致死性の傷がぽっかりと口をあけた腹からは、滝のように血を零しているのだから不審に思わないはずがなかった。それでも、「本当は自殺しようとしたんですよ。あそこは深い森だから丁度いいと思ったんでしょうけど……」と、凛が心底憔悴したような心配したような声を出せば、根が優しいらしい運転手は追及してこなかった。
おまえ達は偉いだなんだと熱く語る運転手の相手をしていたのは専ら士郎で、凛は憂鬱そのものの顔を窓の向こうに向け続けていた。運転手の相手をする一方でふと思った『久しぶりに猫を被った遠坂を見たな』の感想を飲み込めば、次に浮かんできたのは本当に猫を被っているのだろうかという疑問だった。凛は相当に気落ちしている。
森を抜ける途中で一度弾かれたように立ち止まり、背後を睨んだ凛は、それ以降運転手に嘘を吐いた一度を除いて口を開かなかった。横目で窺った右手の甲から令呪が消滅していたことが全てを物語っていたが、セイバーも一緒に──と考えてしまった士郎に慰める言葉があるはずもなかった。
運転手の大雑把な笑い声に辟易する思いで、移ろう景観を見つめる。脳裏を過ぎったのは一条の光だった。
『“約束された勝利の剣(エクスカリバー)”』
誰でも知っている聖剣の真名と共に放たれた希望の光。真名が表す英雄は一人。
「アーサー王……」
日々を共にする中で見た夢の数々。
何の因果か、聖剣を抜いてしまった少女。少女は聖剣を寄る辺に戦った。国の危機を何度も救った。
誰からも恐れられて、息子の謀反で命を落とすそのときまで戦い抜いた。
孤独な戦いだったのだろう。どれもが辛い戦いだったのだろう。しかし彼女は折れず曲がらず戦った。そんな彼女の願いは何だったかとふと思って、結局自分は何も知らなかったのだなと気付く。
正体も、願いも、何も聞かないままに失った。必ず救うと誓って、結局彼女は離れていった。
だからきっと、衛宮士郎は良いマスターではなかった。
悪あがきのように赤い光を撒き散らす斜陽を見つめながら、タクシーに揺られること一時間。自宅につく頃には夕刻を過ぎ、辺りには夜の帳が下りようとしていた。
目玉が飛び出るような金額を辛うじて支払ってタクシーを降りた体は、男一人を背負って深い森を抜けた疲れから、上手く動こうとしなかった。
半ば引き摺るような格好で志貴を担いで敷居を跨ぐ。ゆっくり玄関の戸をあけて、ささやかな「ただいま」の声を上げる。返事は当然の如くない。
志貴を空き部屋に連れて行く。ひとまず畳みに横たえて布団の準備をしていると、音もなく現れた凛が「布団汚れるから、血を拭いて」の声と共に濡れたタオルを手渡してきた。
「ありがと、遠坂。後は俺一人でいいからもう寝ろよ。疲れてるだろ」
「うん。けど衛宮くんの方が体ボロボロなんだから、何か手伝わないと悪いわよ」
実のところを言えば何かしていないと落ち着けないのだろう。珍しく殊勝な顔で項垂れる凛には、どこか危うい雰囲気があった。
「じゃあ、居間から救急箱と、俺の部屋の箪笥から適当な服持ってきてくれるか。体型は志貴の方が細いくらいだから、大丈夫だと思う。ネルシャツみたいなのがあれば、その方がいい。前を明けられるから」
「わかった」
重い足取りで部屋を出て行く凛を見送って、士郎は志貴の服を脱がしにかかる。凝固した血で肌にへばりついた服を引き剥がしたが、血は胴体を覆い尽くしていて、おまけに凛の応急処置で量は減ったとはいえ、腹部からは新しい血がこぼれている。脱がせるのは断念して、志貴の懐からナイフを引っ張り出して、それで服を切り裂いた。
間近で見た傷口は、いくらか大人しくなっている。それでも本来即死の傷に違いはなく、遠野志貴の生き汚さに尊敬にも似た感情を覚えた。
何が何でも死なないという意思が、傷口からはあふれていた。或いは、死なせないという誰かの意思。後者だろうと、士郎は特に理由も無く思った。
ただ、何となく暖かいものを感じただけ。子を守ろうとする母のような暖かさのようにも、ただ失いたくないからという無色の暖かさのようにも、感じられた。
溜息を吐きつつ、布切れと化した服を剥ぎ取って凛を待った。箪笥に変なものは無かっただろうなと思い返す。不安に彷徨った目が志貴の胸のあたりに落ちて、そのまま固定された。
「なんだ、これ」
古い傷跡があった。拳ほどはある大きな傷跡だ。それは指の先に鋭利な刃物を括り付けて、腕ごと突き刺したような傷だった。位置は心臓の真上。変色しひりついた肌が、無事な肌との境目に歪な線を作っている。その線も境目は曖昧になっていて、志貴が傷と生活してきた時間の重みを感じさせた。
「学校で着てるでしょこれ。平気?」
凛が黒いシャツと黄土色のセーターを抱えてやってくる。凛の言うとおり、セーターは特に寒い日など制服の下に着用しているものだが、前開きの服といえばその二つしか思い浮かばず、「ありがとう」と言って受け取った。
凛は士郎の隣に救急箱を置き、そのまま腰を下ろして志貴の傷の具合を窺っている。
「良くここまで保ったわよね」
腹部の傷に手を当て、呪文を唱える凛がぽつんと零した。出血が収まっていく。
「遠坂が宝石一つ使ったんだ。保つだろ」
「そこまでしなきゃいけないような傷だったってこと。あんな剣を腹に深々と突きたてられた挙句、それで磔にされてたんだから、即死よ、普通」
視線で促されて、志貴の上体を持ち上げる。凛はガーゼを傷口にあてて、手際よく包帯を巻いていく。
「背骨も掠ってたしね。内臓もぐちゃぐちゃ。ダメで元々治癒してみれば、何故か生きてる。何でかわかる?」
「いや。なんでだ?」
「再構成するために魔力を志貴の体に流し込んだとき、物凄い剣幕で怒鳴られたような気がしたわ。志貴とはまるで別の意思にね。この体に入ってくるなって」
ほう、と吐息を零して、志貴の体をぴしゃりと叩く。包帯を巻き終えたようだった。
「誰かと契約してるのよ、志貴は。キャスターじゃない。もっと身近な人じゃないかと思うんだけど。とにかくそっちから生命力を吸い取って、志貴は辛うじて命を繋いだ」
「……俺も似たようなことを感じたよ。暖かい感じだった」
凛の言葉で、先ほど感じた無色の暖かさを思い出した。やはり母だろうかと推測する。無償の愛を注いでくれるのは、どこぞの神か親くらいのものだ。
「この傷から感じたんだ」
ボタンを閉める前に、凛に見せる。凛は眉根を寄せて、じっと傷跡を見つめ「これが死因ね」と、不可思議なことを言った。
「そうだ衛宮くん。居間で藤村先生が大の字になって眠ってるから、何か掛けてあげて」
疑問を口にする前に凛が捲くし立てた。心配して待ってくれていただろう姉貴分のだらしない寝姿を想像すれば、そんな疑問は些細なものだと知れた。
「ただいま。藤ねえ」
藤村大河はへそを丸出しにして眠りこけていた。気持ちよさそうな寝顔はよだれさえ垂らしている。苦笑しつつ安堵感を覚えた士郎は、担いできた毛布をゆっくり大河に掛けて、夕食はどうしようかと思考した。
「頭痛が消えたって言っても、まだ体中痺れてるしな。今日は出前に頼るか」
今月は家計簿が真っ赤になりそうだった。セイバーや凛という居候を抱えた上に、タクシー代や出前。バイトにも行けない事情では目眩さえ覚える出費だが、この状態で台所に立って指を無くしたのでは笑えない。
旨いものを食おうという約束は先送りになってしまうことを大河に謝罪して、受話器を取った。途端、酷い吐き気がこみ上げてきて、たまらず膝を折った。
煮だった釜の中に放り込まれたような灼熱感に戦慄する。次の瞬間には極寒の地に裸で放り出されたような痛み。寒いと感じる前に、体が痛みと認識するほどの寒気は、これまで経験したこともない感覚だった。
喩えるなら焼き入れ。
七百度以上の高温で熱した刀身をぬるま湯に漬けて急速冷却する。マルテンサイト組織が刃紋を刻み、強固な刃となる。折れず、曲がらず、良く斬れる。柔の中に剛を隠し、何者も寸断する。そんな妄想が赤い騎士を連想させたからか、士郎は錯覚した。事もあろうに
──体は剣で出来ている──
と。
***
出前蕎麦を平らげたあと、凛は夜風に吹かれるためにサンダルを引っ掛けて庭先に出た。翳った月を見上げる。そこに幻影を見た。赤い背中。馬鹿馬鹿しい。三流映画の安っぽいサムアップじゃあるまいし。
強がってはみるが、右腕が震えていた。この数日で体の一部になって、視界に入っても気にならなくなったモノが消えている。令呪。思えば繋がりはそれだけだったのだ。そこで赤い騎士の息吹を感じ、命令を下し、幾多の敵を倒して聖杯を手に入れる、予定だった。
狂った歯車は全てを崩壊させた。あんな化け物が現れなければ、こんなところで退場するハズがなかった。遠野志貴。第四回聖杯戦争のアーチャー。直死の魔眼にギルガメッシュ。忘れられた魔眼と英雄王。もう一つイレギュラーがあるとすれば、衛宮士郎か。
『おはよう、遠坂』
今朝のアーチャーの言葉だ。驚いたでは済まされなかった。アーチャーの正体は学校で志貴を捕えた晩に知らされた。だがその変貌振りに、己を傷つけようとする行動に、衛宮士郎の影など見られなかったから、心の底では信じ切れていなかった。
そこにショックを与えたのが、おはようというなんでもない言葉。なんでもない言葉だけにそれが決定打。寝ぼけ眼に赤茶色の髪の毛を重ねれば、遠坂凛は全てを受け入れてしまった。
再三にわたって『私とアレは別物だ』と言っていたが、結局は同じだ。いくら表面が変わっても、芯の部分で行動や仕草が一緒だったのだから。
腹と腕の傷を治癒するために、アーチャーは深い眠りについていた。寝ぼけ眼だったし、呂律も回っていないようだった。だがだからこそ、本当の彼を見たような気がしたのだ。なのに、消えた。跡形もなく、過去の己にたった一言遺して消えた。
『貫いてみろ』
それだけだった。城の中で剣戟を響かせる知り得ない英霊の正体を語ったアーチャーは、真実を悟ってしまった衛宮士郎に一言だけ遺したのだ。
衛宮士郎は何を感じたのだろうか。驚愕に染まった顔からはやはり驚愕しか読み取れなかった。自分を殺そうとした英霊は自分だった。
声も無く、目を見開いて瞬きさえ忘れる。ドッペルゲンガーを見た人間の反応が、そこにあった。
あの様子なら、ドッペルゲンガーは本物を殺しに来るという話も納得できた。まさしく士郎が、今にも消えてなくなりそうな顔をしていたのだから。
「寒いぞ、遠坂」
突然の声に、凛は目に見えて肩を震わせた。平静を繕った顔を振り向かせると、士郎が湯気をたげる湯飲みを両手に立っていた。
「藤村先生は?」
「また病院にとんぼ返り。俺を待つために葛木に無理言ったらしい」
悪いことしたなと苦笑しながら言って、士郎は湯飲みの一つを差し出した。
「お茶、飲むだろ」
士郎はどんぶくを着込んでいる。蕎麦を一息に食べたりと、あまりに元気なものだから忘れていたが、彼の体は志貴に巻けず劣らず危険な状態なのだ。投影魔術などという規格外の手品を唐突に行使したのだから、全身悪寒と寒気の塊だというのは想像に容易い。
「ありがとう」
お茶を受け取って、勢いよく湯のみを傾ける。
「あぁっっっつぅう!」
熱い。舌が焼けるほどに熱い。なのに飲み込んでしまった。喉が焼けている。胃が悲鳴をあげている。それを、士郎は平然と飲み干している。当然だ。士郎が平然と飲んでいるから、凛もまるで清涼飲料でも飲むかのように口に含んだというのに。
士郎は目を皿にして凛の絶叫を聞いた。
「わたしを焼き殺そうって──」
熱湯を飲んで焼け死ぬも何も無いが、喉がひりついているような感覚は、間違いなく火傷によるものだった。
違和感に気付いて言葉を切って、凛はじっと士郎の顔を見た。青褪めている。唇は紫色で、青いと思った顔色は次の瞬間には黄色染みて見えた。そういえば、食事のときもおかしくはなかったか。自問して、まだ熱い湯気をたてていた蕎麦を、一分少々で平らげた士郎を思い出す。
「ちょっと、おでこ貸して」
手を伸ばして、士郎の額に触れた。士郎は身じろぎしようとしたが、そんな暇は無かった。赤熱した鉄に水をかけたような音がして、凛の手の平はすぐさま飛び退く。
「なんだ?」
相変わらずどこか抜けた声を出した士郎を、凛は鋭く睨み付けた。馬鹿者。大馬鹿者。声に出さないで罵倒して、頬に平手を見舞った。凛の手が再び焼ける。構わず、降りぬいた腕を翻した。往復ビンタなど人生初の試みだったが、衛宮士郎は物理法則にしたがって首を左右させただけ。痛みへの反応は無い。
「何、するんだおまえ」
士郎の怒りの声は無視した。
「本気で叩いた。どう? 痛かった?」
そこで初めて自身の異常を察したのか、『当たり前だ!』とでも言おうとしていた口は金魚のように何度か開閉して、噤まれた。
情報を与えすぎたのだ。アーチャーの剣を投影したショックが抜け切らないうちに、彼を彼足らしめる固有結界(モノ)を見た。スペルも聞いた。衛宮士郎の心象風景が塗りつぶされようとしている。あの墓標に塗れた荒野に塗りつぶされていく。
無理矢理に扉がこじ開けられる。本来歩むはずだった道を短縮し、階段そのものを排除して英霊エミヤに近づこうとしている。
感傷に浸る暇も無い。悪態を吐きたいのを堪えて、凛は士郎を引き摺るように屋敷にあげた。ようやく自分の足で歩き始めた士郎を部屋に押し込み、敷きっぱなしにされていた布団に押し倒す。
「寝なさい」
有無を言わさぬ声色で言って、鼻を鳴らした。今朝は、切り捨てるつもりだった。縋りつく士郎を冷たくあしらった。セイバーが弱っているうちに志貴だけでも倒そうとしていた。なのに今はこうして一緒にいて、世話を掛けさせられている。それどころか遠野志貴まですぐ隣で眠っている。
「遠坂、ごめん」
士郎の言葉に微笑を返して、凛は再び庭に出た。月を見上げてみても、今度は何も映らない。千切れ雲が掛かった月は風流ではあったが、慰めにはならない。ただ空しく思い出を反芻するのみで、やり切れない苛立ちが募った。
告白しよう。アーチャーを失いたくなかった。
正体を知らなければ耐えられたかもしれない。いくら尽くしてくれようとも、それは赤の他人だ。情が移ることはあるかもしれないが、所詮主従の関係。だからきっと乗り越えられる。悔しいだろうし悲しいと思うだろう。それでも我慢できる。
しかしアーチャーは赤の他人ではなかった。今もすぐ側にいる、なんでもない少年の未来の姿だ。みんなに笑って欲しいと口にした少年が、苦労の果てに至った存在。それを見殺しにした。
──だけど。
凛は溜息を吐く。
「セイバーを守ったときのあの顔」
間に合ってよかった。
憮然としていたが、それでもこみ上げてきたのは安堵だったのだろう。その口元が微かに吊り上げられたのを、見逃す凛ではなかった。
「馬鹿は死ななきゃ直らないなんて、まるっきり嘘よね」
赤い騎士は衛宮士郎だった。いくら軽薄そうに振舞っても。磨耗して馬鹿なことを考えても。結局根元の部分は衛宮士郎のままで、だからこそ『貫いてみろ』という言葉に篭められたのは、万感の想い。
「死んでも、アイツは大馬鹿者だったんだ」
そのほうがらしいか。
何にせよ、凛は敗北した。聖杯戦争という生き残り合戦から脱落した。それだけはもう曲げようのない事実だったから、明日から始まる日常生活に気持ちを切り替えなければならない。サーヴァントという大前提を失ってまで、聖杯を手に入れるつもりは無かった。死ぬ覚悟はしていたが、わざわざ自殺する蛮勇は持ち合わせていない。だからここでお終い。
今夜は忙しくなる。士郎の狂った魔力を矯正しなければならない。それこそ一晩掛かりの大仕事になるだろう。
縁側に置き忘れた湯飲みを手にとって、ぬるくなったお茶を飲み干した。
***
士郎の容態が安定したのは、午前零時を回った頃だった。およそ三時間、凛は付きっ切りで魔力を流し続けた。先走ろうとする力に逆さまの力を与えて押し止める。半ば以上心霊医術の域にある作業は、凛の精神を残らず削り取った。
士郎は今も全身を脈打たせて、芋虫のように苦痛を表しているし、体温は依然として異常なほどに高い。兄弟子の見よう見まねでは不安があったが、元々魔力の方向性を変えることに特化した一族の末裔。触れただけで火傷という峠は越えた。あとは、士郎の精神力にかかっている。他者にできることなどその程度だ。
「頑張んなさい。衛宮くんなら乗り越えられるから」
「ありがとう」
こめかみを押さえつつ、凛は立ち上がる。患者は一人ではない。
障子を開いて廊下に出る。壁一枚越えれば、そこに志貴がいる。
凛は俄かに鼓動を強めて、呼吸を整えた。呼吸が荒らぐのは、三時間にも及ぶ作業の疲れだけではない。この部屋から流れてくる死の気配に、魔術師の体は否が応でも逃げようとしてしまう。
遠坂の家に居たときのように、余裕で構えるわけにはいかない。ここは衛宮の家だ。凛にプラスに働く結界も、トラップも無い。志貴とは一度殺し合っている。この障子を開け放った瞬間に首を落とされる可能性もある。
凛はポケットの内に手を忍ばせて、宝石を取り出す。既に一つは志貴の治癒に使った。貴重な宝石だ。弁償もさせず、ここで殺されては笑えない。
眠っているとは考えなかった。
志貴は、眠っているときは魔眼の力を抑えられている。捕えた日にそれは確認済みだ。その力を自分で吸収してしまっているかのように、外部に影響は無い。だが、一度起きてしまえば別になる。今のように、針の筵に立たされるような悪寒に苛まれるのだ。
セイバーやアーチャーが畏怖するというのも頷ける話だった。守護者であるからには、脅威に対して敏感な必要がある。星寄りだろうと、人寄りだろうと無関係に。
実際にライダーを殺して見せたのだから間違いない。通常の概念では殺し得ない英霊を消滅させるからには、その延長線上にある星や種族というものも、確実に滅ぼしてみせるということだった。
「入るわよ」
障子に手を掛けて、ゆっくり慎重に開ける。
なんでこんなおっかなびっくりしなければいけないのか。こっちは助けようとしているってのに。
愚痴はいくらでも浮かんできたが、アーチャーが命と引き換えに助けた命──本当はセイバーを助けるつもりだったのだろうが──を失うわけにもいかない。遠野志貴には『もう嫌だ』と思うまで生きてもらわなければならない。それが、ギルガメッシュを倒せと命じたマスターの務めだ。
そう思ってしまえば慎重だった手は途端大胆になり、ピシャッという小気味良い音と共に、障子を開け放った。
様子がおかしかった。
右手で顔を掴み、こめかみを握り締めている。自分の顔を、まるでゴムボールか何かのように押し潰そうとしている。その手が震えていた。手だけではない。引付を起こしたように全身が痙攣していた。
噛み締めた唇からは毒々しいほど赤い血がこぼれている。頬にも、爪による出血が見られた。布団を真っ赤に染めて、それでも力は衰えない。むしろ、痛みを求めるように、爪がこめかみに頬に額に突き刺さっていく。
うめき声も無く痙攣する様は、下手なホラー映画よりも恐ろしい。
凛は呆気にとられた格好で、その異常事態を見下ろしていた。キャスターを失ったことで、自責に囚われているのか。バカなことだ。本当は、人間一人が抗ったところで英霊の戦いには介入できない。だから志貴に責任は無い。聖剣さえ余裕で跳ね返す化け物を相手に、セイバーと共に戦ったおまえの方こそ異常なのだ。そう言ってやろうとした。だが、その口も途中で開くのをやめた。
志貴の中指と人差し指が頬と瞼を押し広げ、その奥にある左眼球を露にしたからだ。異常なほど青い瞳は天井を睨みつけている。志貴の体は限界を訴えているというのに、その眼だけは平然としていた。
それが気に入らなかったのか。志貴が左腕を翳した。天井の向こうに月でも幻視しているのか、その手は届かない何かを掴もうともがいて、諦めたように手首を下向けた。だらりと、力なく項垂れる手首。そこに令呪が残っていることも驚きならば、その指に突然力が篭もり、刃のように変態したのも驚きだった。
実際に指先を凶器に変貌させたわけではない。指は指のままだったし、丸みを帯びた人の指では何も破壊できない。だが志貴の指は間違いなく凶器であり、凶器であるということは何かを破壊しようと企んでいるということ。
いつの間にか、今度は右手親指を使って、志貴は右目を開いた。その直上には鋭く尖った指。その直下には二つの眼球。それで、凛は理解した。咄嗟に駆け出す。
指と瞳は暫しの睨み合いの後、意を決したように互いの距離を近づけた。躊躇も逡巡も無い。真っ直ぐで、素直な一撃。
一直線に落下する左腕目掛けて飛び込んだ凛は、睫毛に触れる寸前のそれらを引き離すことに成功した。
安堵の溜息を吐こうとした瞬間、取り押さえた腕が激しく動き、凛の腕を掴んだ。痛みはまるで無い。仮にも男に握られているのに、まったく痛くなかった。それだけで志貴の衰弱の程が窺えた。
「ア……キハ?」
それっきり、志貴は気絶した。
***
換気扇を止めて、ガスも元栓ごと閉めた。借りていたピンク色のエプロンを外して、ふむと唸った。
綺麗に玉子が溶けた黄金色の炒飯。初心にして最難関。遠坂凛会心の出来であるそれは、三つの皿に盛られ、香ばしい匂いと湯気をたてていた。
見ているだけで食欲をそそられるのだが、生憎凛に喜色は見られない。一晩中二つの部屋を行ったり来たりだったのだから、疲労は当然のことだった。そのため、三つのうちの一つには、ちょこんと載っているだけ。冷蔵庫から引っ張り出した牛乳を飲み干して、ようやく一息つく。
「朝じゃない……」
テーブルにべったりと突っ伏して、横目で窓の向こうを窺う。スズメが呑気に鳴いていた。午前六時。アレから六時間はまるで地獄だった。いつ発狂するともしれない危険人物と、いつ自殺するともしれない危険人物。
士郎の部屋は薪でも焚いているのかと思うほどに熱く、志貴の部屋は対照的な冷気で覆われている。錬鉄所と墓場。そんな場所を行き来していた体は、もう休ませろとがなりたてている。
「あとちょっと、コレをあのバカ二人に食べさせるまでは寝ないんだから」
文句を言う体をどうにか宥めて、ぼーっと窓の向こうを見る。休日の早朝は静かだった。
たまに車が通るくらいで、他の音は何も無い。誰も彼も、この街で起きている戦争のことなど気にも留めず、今日を過ごすのだ。
遠坂凛もまた、魔術師という素性を隠して、日常の中に埋没していく。志貴の腕に令呪があったことが気がかりだったが、それを考える頭はとっくに蕩けている。
「おはよう遠坂。って、もしかして眠ってないのか」
そんな声が聞こえて、凛は重い体を引き起こす。士郎はまだ青い顔をしていた。一度峠は越えたと思ったのだが、そこからのぶり返し方が尋常ではなく、結局明け方まで士郎が深い眠りにつくことはなかった。
「うーうー呻くようなのと目玉潰そうとするようなのを放って眠れるわけないでしょ」
軽口を叩きつつ炒飯を盛り付けた皿を差し出す。
「ありがとう。ほんとに迷惑掛けた」
頭を下げた士郎が、突き出された炒飯を見た。
「これ、遠坂が?」
目をまん丸にしてテーブルの横に着き、炒飯をじっと見つめている。驚きの声にムッとしないでもなかったが、それを顔に出すほどの元気はない。
「他に誰がいるってのよ。材料勝手に使ったけど、それくらい許してよね。それと、食べたら布団に直行すること」
「ありがたく頂く。けど、俺が眠る前に遠坂も眠ってくれ」
「言われなくてもそのつもりよ」
徹夜明けで痛む目元を揉み解しつつ、片手で炒飯を食べる。我ながら行儀が悪いとも思ったが、今更士郎の前で取り繕う自分もなかった。
三口で食べ終えて、再びテーブルに突っ伏す。ふと廊下に向けた目が影を捉える。人の影だ。
「志貴、か?」
士郎も気付いたらしく、首を巡らせている。
両目を包帯で覆い隠し、苦々しく表情を歪めた志貴が戸口に現れる。右手を壁に当てて、それでようやく体を支えているらしい。見れば全身が痙攣している。その背が靄っていた。薄く、けれど強く顕れた感情が強烈な殺意になって、毒々しい虚像さえ描いている。
「包帯、勝手に借りたけど、構わなかったかな。服も新しいし、何から何まで迷惑掛けて……」
声音が穏やかなのが、逆に薄気味悪く感じさせる。
包帯は余程強く巻きつけているのだろう。包帯越しに眼球が動くのを確認できるほどだった。
「この服、いつか返しに来るよ」
「服は別にいつだっていいけど、ナイフはいらないのか?」
踵を返そうとした志貴に、士郎が声をかける。その左手が志貴のナイフを弄んでいた。
「返して、もらえるかな」
「それはできない」
明確な拒否の言葉を前に、志貴が殺気立つ。凛も思わず腰を浮かせたが、当の士郎は平然としたものだった。ナイフを三つ目の炒飯の脇に置いて、テーブルと指でトントンと叩く。
「遠坂がせっかく作ってくれたんだ。食っていけよ」
呆然とした顔の志貴が可笑しくて、思わず吹き出してしまった。
志貴は渋々食卓に着き、「いただきます」と神妙に頭を下げて、炒飯を食べ始める。つい昨日殺しあった相手と食卓を囲んでいるシュールな光景がおかしい。
「日曜日か……」
黙々と凛が作った炒飯を食べる二人をよそに呟いてみる。
明日には学校も始まるだろう。そうしたら、苗字の違う妹との距離を、もう少しだけ縮めてみようと思う。
『おはよう、桜』
何も気負わずに、軽い気持ちで声を掛けてみよう。そうすればきっと何かが変わる。それはとても魅力的な提案に思えて、凛は人知れず頬を緩めた。こういう心の余裕も、きっとアーチャーからの贈り物に違いない。そう考えて。
だが依然として予断を許さない状況には変わりない。ランサーとギルガメッシュ。そして、令呪を持つ志貴がいる限り、凛の戦争もまた終わらないのだから。
「セイバーは生きてる」
炒飯を平らげ、すっかり牙を無くした志貴が言った。士郎はテレビのリモコンを持ったまま硬直した。早朝番組が茶の間の空気も読まずに能天気なキャスターの声を響かせる。
凛は目を瞬かせて、志貴の言葉を吟味した。
嘘をつく理由はない。セイバーが生きていると言えば士郎は止めても飛び込んでいくだろう。現に殺気立った目が志貴を射抜いている。
だが、志貴がわざわざ士郎を巻き込むとは思えなかった。つい先刻を思い出せば、志貴は明らかに一人でギルガメッシュに立ち向かおうとしていたのだろう。士郎が止めなければ、今頃志貴はただの肉塊になっていたはずだ。
士郎の言葉で正気に戻り、士郎を巻き込もうと画策したのだろうか。だが、凛には志貴がそこまで狡猾に思考できる人間だとは思えなかった。そんな冷徹な真似ができるなら、学校で危険を押してまでキャスターを撤退させるはずがない。それに、士郎の無力は先日志貴もその身で味わったはずだ。双剣を手に立ち向かい、一太刀も浴びせられず無様に蹴り飛ばされた士郎に、一体何を望むというのだろう。
囮にでもするのか。あの夜はバーサーカーを餌に隙を作り、セイバーを攫っていった。そういった戦術が志貴には必要だ。身体能力では決して追いつけない故に、奇策に頼る。確かに士郎でも囮にはなるだろう。だがそれだけで勝てるような相手ではない。
無数の刀剣による波状攻撃と、エクスカリバーの圧倒的な力を片手間程度に吹き飛ばした宝具。
それを前に人間一人が作り出す隙など、余りにも小さい。巨象にアリが挑むようなもの。倒そうと思うなら、数万の軍勢でも率いなければならないだろう。
「それで、あなたは一人で戦うつもりなの? わたしはアーチャーを失ったし、衛宮くんもセイバーとは契約が切れた。言うまでもなくわたし達は脱落者よ」
細々考えていた頭が吹っ切れた。凛は単刀直入に訊ねて、志貴の反応を待つ。包帯の向こうで眼球が動くさまは、お世辞にも気持ちのいいものではなかった。
「イリヤが死んだ」
求めた答えではなかったが、昨日の展開としては予想通りだった。
バーサーカーもイリヤスフィールの姿も無かったのは、脱出したのではなく、跡形もなく消されてしまったということなのだろう。イリヤスフィールもこの戦争に身を投じたからには、覚悟の上だったのだろうが、やり切れない気持ちが胸に渦巻く。
魔術師の外見ほど宛てにならないものは無いが、白く小さな体が無数の剣に突き刺され、バーサーカー諸共消し炭になった光景など、想像したくもないものだ。
「虫けらみたいに死んだよ、イリヤは。口も目も開いたまま、何が起きたのかワカラナイって表情で。ちっちゃな腹にバカみたいにでかい剣を突き立てられて。俺のせいでイリヤは死んだ。だからアイツは──」
言葉を区切ると同時に眼球の動きが止まった。じっと、こちらを注視している気配が伝わってくる。我知らず生唾を飲み込んだ自分に気付いて、凛は小さく舌を打った。
「殺す」
有り触れた言葉だ。ドラマや映画なんかでは良く聞くセリフだし、クラスメイトはふざけ半分で口にする。
言葉の重みくらいは理解しているつもりでいた。仮にも魔術師だから、生死とは無縁ではない。クラスメイト達より余程近い場所にいる。魔術行使で死にそうになった経験も一度や二度ではない。だから、殺すとか死ぬという言葉の重みも知っていた。逃げ出した志貴を殺せとアーチャーに命じたとき、志貴の全てを背負う覚悟で告げた。
そんな覚悟が全て吹き飛ばされた。
志貴が殺すと言った。それだけで体が硬直してしまうという現象は、到底理解できない。直視されていたら、本当にそれだけで死んでしまいかねない重みがあった。
魔眼をどうやって手に入れたか質問したときの答えを思い出した。昨晩見た胸の傷を思い出した。
あの傷を見るまで、『死んだから』という答えは臨死体験程度のものだと思っていた。それが間違いだった。遠野志貴は間違いなく一度死んで、死の淵ではなく、正真正銘の地獄から這い上がってきた人間なのだ。
本当に、たった一人でもギルガメッシュを殺してしまうのではないかと、一瞬思った。だがそれは錯覚だ。人では決して届かない。志貴の殺すという言葉も、ギルガメッシュの前では戯言に過ぎない。
「だから、一人だろうとアイツとはもう一度戦う」
それが質問の答えだと気付くのに数秒を要した。
「でも、それじゃあ妹はどうするの。妹を助けたくて聖杯戦争に参加したんでしょ。なのに玉砕覚悟じゃ本末転倒じゃない」
志貴の表情が強張って、仄暗い感情の一部を纏ったように感じたのは、気のせいではない。
「どの道、俺はもう長くない」
包帯で隠されていても、もうこちらを見ていないとわかった。凛の肩を越えて、遠くを見据えている瞳は一体何を幻視しているのか。赤い髪の妹かもしれないし、白い肌のイリヤスフィールかもしれない。どちらにしろ遠い瞳の中に自分は映っていないと確認した凛は、えもいわれぬ焦燥に焼かれる感覚を味わった。
その包帯の奥に隠した目で、一体どんな世界を見ている。
瞳と一緒に隠した心で、何を感じている。
「ケジメをつける。女の子を見殺しにしたなんてこと、妹には言えないから」
『長くない』と事も無げに言った顔には、仄暗い感情さえ戻らなかった。その一瞬だけ落ち窪んだ感情が、死への恐怖だったのかと遅ればせながら気付き、愕然とした。
勝手に七夜の暗殺者と決めてかかり、直死の魔眼のキャリアだから死を平然と受け入れているのだと決め付けていた。
直死の魔眼など、原始時代に書かれたような魔道書に名前を見る程度。今では噂話さえ聞かなくなった魔眼。昨晩の尋常ではない奇行に、その理由を見たような気がした。
直死の魔眼自体はこれまで何人かのキャリアが現れていたのかもしれない。だが、人の理解を超越する力に飲み込まれ、その悉くが発狂してしまっていたとしたら。世間にその存在を知らしめる前に死に絶えてしまっていたとしたらどうか。
ならば忘れられて当然であり、キャリアが世に出ないのも当然だ。故に、志貴の存在は奇跡なのだろう。直死の魔眼を抑え付けられるほど優れた魔眼殺しを手に出来た。それだけが、他のキャリアと遠野志貴を分かつ奇跡。
この推察が正しいとすれば、遠野志貴が恐れるのは死だ。目を開けば見えてしまう世界に恐怖する。自己を埋め尽くそうとする力に必死で抵抗する。魔眼殺しの眼鏡をつけ、自分を騙して生きてきた。
死を知っているから死を恐れない。そんなのは嘘っぱちだ。身近にあればこそ、恐怖して狂いそうになる。死が纏わりつく生活で、どうして死を受け入れられようか。
「ご馳走様。炒飯美味かった」
食卓に置かれたナイフを懐にしまって、志貴が立ち上がる。卑屈な笑みを刻む顔が、引き攣っている。それで志貴の容態を思い出した凛は、部屋を出ようとする志貴を追うように視線をずらし、途中で止めた。テレビ画面に表示されたテロップ。そこに全ての神経が注がれる。
『県冬木市で起きた集団失踪事件の──』
志貴もまた、足を止めていた。
Dead Eyes See No Future
昨晩
心臓が鼓動する。一度二度。合間にもう一つ。
常闇に置き去られた体は鋭敏になり、同化していた別の生き物の鼓動さえ感じ取ったが、桜にそれを聞き分けるだけの気力は無い。それを虫の鼓動と理解する頭は既に無く、何かが鳴っているなと認識するに留まっていた。
五分前、間桐桜は三つ目の魂を取り込んだ。赤色の魂は密かに好意を抱く少年と似通った、愚直なまでに一直線に伸びたものだった。だがその美しいカタチを愛でる間もなく、桜は体内に響く警鐘によって意識の糸を断たれようとしていた。
その更に三十分前、二つの巨大な魂を取り込んでいたのが原因だろう。赤銅色に燃える魂と、見知った魂。赤黒く、それでいてどこかに清らかさも持つ魂は、ライダーのもの。それが汚れきった体の中に入り込んできたときに、桜は考える頭を捨てた。
憎い。
感情が染まりきった。湯を張った湯船に入浴剤を入れるのに似ている。無色透明だった湯が一瞬でどす黒く染まっていく様は圧巻だ。それを成すすべなくどこか遠くで眺めながら、桜は決して屈するまいと歯を食いしばった。
脳が生きることを放棄しようとしても、体だけは抗い続ける。ただ無闇矢鱈と叫ぶことで、『わたしはここにいる』と誰かに知らせる。言うなればSOSの信号だった。
誰かがきっと助けてくれる。
そんな希望が、この常闇に放り込まれたときからあった。
憮然とした顔で料理を教えてくれるあの人。
この世でたった一人血を分けた苗字の違う姉。
きっと助けてくれる。ここで苦しんでいるわたしを知ったら、二人ともきっと助けてくれる。
心の底から信じているのに、二人の顔が思い浮かばなかった。モザイクがかかったように歪で朧。だというのに、名前も知らない男の顔だけははっきり鮮明に思い出せた。冷たい目をしたライダーの仇。シキ。確かそんな名前の男。
考える頭など無くなったと思っていたが、シキのことだけは鮮明に思い出せた。自分を真っ黒に染めた何かが、それだけは忘れるなと忠告してくれているのだろう。だが、殺せという命令は聞けない。決して耳を傾けてはいけない。
シキは憎い。ライダーを虫けらみたいに殺して、平然と話しかけてきたシキが憎い。憎くて憎くて発狂してしまいそうだったが、ここで感情に流されてはお終いだと、最後の理性ががなり立てていた。
叫んで叫んで、声が出なくなった。一体何時間叫び続けたのだろう。喉は切りつけられたように痛み、舌も痺れている。枯れ果てた喉とは裏腹に、心を染めた何かの勢いが増してくるのを感じた桜は、気力を振り絞り、声を上げるために部屋に溜まった重苦しい空気を吸い込む。
「これはこれは、私もまだまだと見える。想像の遙か上を行く結果だ……。正規の器を失ったのは痛手と思ったが、成る程これならば、間桐(マキリ)のご老体に感謝の一つもすべきか」
部屋に橙色の光線が伸びたのはその時だった。
この二日間頑なに閉ざされていた扉が開かれたのだと気付き、桜は立ちはだかる長身の向こうに、精気の抜け切った顔を向ける。
明るい世界があった。西に傾いた陽が中庭の向こうから部屋を照らし上げて、眼が眩むほどの光を与えてくれる。桜は咄嗟にその光を貪るように手を伸ばしたが「良く砕けてもいるな。間桐桜、まだ人か?」の声に、何故かいけないことを見咎められた気持ちで、全身を震わせて手を引っ込めた。
恐る恐る、救い上げる視線を扉を開け放って立つ男に向けると、言峰綺礼は笑みを湛えて桜を見下ろしていた。桜がこれまで見たどの笑顔よりも澄んでいた。どこまでも純粋に、桜の存在を歓迎してくれる笑み。
「何を恐れている」
その声があまりにも優しかったので、桜は視線を外すことを忘れた。決して見てはいけない魔性の瞳と、真正面から見詰め合ってしまった。
「解き放て。それはおまえ自身。自身にさえ恐れられては、ソレは哀れな出生を抱くことになる。祝福の心を持て。産まれ出(いずる)者に憐愛の情を以って接せよ。さすれば永久に安寧が訪れよう」
言峰は一歩踏み出して、手のひらを掲げて言った。背中に抱いた陽光のせいもあるのか、桜には神父が尊いもののように感じられた。
解き放つ。この黒いものを解き放つ。そうしたらシキは死ぬ。これにはそういう力がある。悉くを破壊し、それでも止まらない力がある。シキを殺せと、神父は言っている。
「憎い者。愛しい者。すべてに向けておまえの心を解き放て。私は母たるおまえを愛そう。子たる存在も愛そう」
「わたしを、愛す?」
神父の硝子球のような瞳が、頷くように閉じられた。
***
シキ。
その名に覚えがあった。ランサーが口にしたのか、或いは噂話でも小耳に挟んだか。ランサーの襲撃を退け、アーチャーとセイバーの包囲から脱出し、バーサーカーと手を組み、つい数時間前にはギルガメッシュと戦って生き延びたという魔眼の少年の名だった。
稀有な魔眼への興味は絶えなかったが、今はそれより余程興味をそそられるモノが在る。その二つの材料を混ぜ合わせ、更に弟弟子の因縁も混ぜてやれば、極上の喜劇となろう。
言峰綺礼は濡れた瞳を向けてくる少女を、じっと見下ろした。
──ライダーを討たれ憤っている、か。
言峰は吊り上げた頬を尚余分に引き上げ、心底から笑った。
間桐桜はその極上の喜劇の中心人物となった。現に、これほど可笑しいことはそう無い。幼少より親元を引き剥がされ、マキリに明け渡された生贄が、陵辱に次ぐ陵辱を受けてきた身が、事もあろうに聖なる杯に成るとは、神でさえ予期しない出来事だったのではないか。
天啓も無く。黒き聖杯に仕立て上げられた聖女。オルレアンの少女とはまるで逆さまなその誕生を、言峰綺礼が祝わずして誰が祝うというのか。
「すべてはおまえの思うがままだ」
瞼をおろし、囁くように言った。らしくもないとは思ったが、この事態に興奮せずして、言峰綺礼の人生に興奮は有り得ない。生まれつき天邪鬼であることを運命付けられた言峰の、唯一にして絶対、最上級の娯楽が目の前に転がっている状況。
ならばもう一つ趣向を凝らしてみようと瞳を開けば、間桐桜が口を開く瞬間だった。
「先輩は、無事ですか」
そう来るか。
言峰は内心の愉悦を露ほども見せず、天の采配に感謝する。最早真っ当な意識など無いだろうに他人を気遣う言葉。
如何に切り出そうかと考えていたのだが、そちらから来てくれるのならばこれほど楽なことも無い。
「衛宮士郎か──ヤツはサーヴァントとの繋がりを失った。だが安心しろ、生きている」
縋るような視線をしっかりと見据えた。
「今頃は、アーチャーを失った遠坂凛と傷を舐めあっていることだろう」
これにて、磐石。
間桐桜が瓦解する音を聞きながら、言峰綺礼は声にならない哄笑をあげた。
***
「失踪……だって?」
志貴は頭痛で朦朧とする頭を振って、確かに冬木市と発せられたニュースキャスターの言葉を聞いた。
『──られた多数の捜索願から露見したもので、行方不明者の数は四十六名。いずれも午後八時から午前零時以降に家を空けていたとのことです。県警では急遽対策チームを編成し、行方不明者同士の関係を調べると共に、周辺海域の厳重な警備を海上自衛隊に要請しました。前例の無い事件ですね』
『そうですね。行方不明者の年齢も、六歳の少年をはじめとして、十代の男女から五十代の男性とまちまちです。更に、政治的問題に発展する可能性も無いとは言えませんから、捜査も難航するでしょうね』
『一刻も早い無事発見を願います。それでは次の──』
世を賑わす拉致問題の魔の手を憂慮する者がこの場にいるはずが無かった。四十六の人間が、優秀と言われるこの国の警察機構を欺き、誰にも気付かれず、それも聖杯戦争が執り行われているこの街で消え去ったというなら、それは隠匿された秘術の仕業に他ならない。
誰も知らない、知りえない。だが確実に在る力。魔術と呼ばれるそれならば、使いようによっては神隠しの真似事も可能だろう。無いハズのものを有ると思わせた異端狩りの女性ならば、事も無げにやってのけるに違いない。
無論、魔術師(キャスター)のクラスに身を置く彼女(メディア)ならば、そんなことは片手間程度に済ませるはずだ。
凛の訝る視線を真正面から見つめ返し、
「キャスターじゃない。アイツはもう、そんなマネはしない」
と断じ、拳を握り締めた。
「ごめんなさい。失礼だったわ」
「……いや、前例があるから仕方ない。俺だってアーチャーかセイバーが似たようなことをしてたら、疑って掛かる。だから気にしないでいい。で、君がキャスターを疑うってことはこれ、聖杯戦争が関係してるんだな」
「まず間違いない。四十六人なんてね、いくらなんだって無理があるでしょ。変な宗教にハマってたってんなら有り得ない事も無いけど、生憎そんなものの存在を許すほど遠坂は甘くない。ふん、簡単には隠居させてくれないってワケ。やられっ放しは癪だしね。わたしの街でこんなふざけたコトをするなんてのが自殺行為だってコト、教えてあげなきゃいけないみたい」
凛は鋭くブラウン管を睨みつけ、顔も判らぬ犯人に宣戦布告する。
「──ふざ、けるな」
士郎は憤りの声をあげて、強く歯を噛み締めていた。歯軋りは奥歯を砕きかねない音をあげる。憤怒の形相で立ち上がった足で窓際に進み、障子を開け放つ。その向こうに仇敵を見出すべく、薄く灰色掛かった瞳がじっと一点を見つめていた。
志貴はその光景を音によって認識し、再び居間に足を踏み入れた。
「えっと、志貴──さん?」
凛が言いづらそうに名を呼ぶ。
「志貴でいいよ」
「そう、なら志貴? 提案があるんだけど」
変わり身に苦笑しつつも、聞く体勢を整えた志貴は手のひらを返して促した。
「どうせイリヤスフィールの敵討ちをするつもりなんでしょ。だったら敵討ちの成功率を少しでも上げるために、手を組まない? 犯人と金ぴかが無関係なら、そこで別れればいい。楽なものでしょ。わたしは冬木のセカンドオーナーとして、あなたは復讐者として、利害が一致する間だけ手を組む」
「俺と、君が? 犯人は十中八九ランサーかあの金色のマスターだと考えた方がいい。となると敵はサーヴァント。俺と君が組んだところで高が知れてるんじゃないか。それに、アーチャーは負けたんだろう。俺の責任ともいえる。そんな俺に、君は背中を任せられるか?」
「甘く見ないで。自分の不手際を責任転嫁するほど弱くないつもりよ。幸い、あなたには二つも貸しがある。アーチャーの犠牲と引き換えに命を助けてあげたっていう貸しと、助からない傷を癒してあげたっていう貸し。あなたがその事に罪悪感を少しでも感じてるっていうなら丁度いいわ。アーチャーの代わりに、あなたはわたしに使役される。そういう交渉」
「そういうのは提案でも交渉でもないよ……脅迫って言うんだ」
あまりに強かな物言いに面食らいつつ、その強さに感服した。凛は「そぉ?」と笑って、怒りに打ち震える心を胸の奥に隠した。
「判った、協力しよう。けど、邪魔だと思ったらすぐに切り捨てるから覚悟しておいてくれ」
凛は一瞬眉根を寄せたが、すぐににたりと邪な笑みを刻んでみせた。
「ふうん、心配してくれるってワケ」
「セイバーが生きてるってのは本当なんだな」
窓の向こうに視線を向けたまま、士郎が言った。
「きっと生きてる。キャスターと繋がってるラインに違う色が混じってるから、きっと」
確証に近かった。キャスターとの繋がりは、今にもプツンと音を立てて切れてしまいそうなほどにか細い。か細くなりすぎて薄まったキャスターの気配の中に、これまでは塗り潰されていたセイバーが露出してきた。契約主を通り越し、志貴にまで到達しようとするセイバーの力はつまり、セイバーよりもキャスターの方が窮地にあるということの証明だった。
「判った。なら──」
「ちょっと、衛宮くんはまだ体が」
「駄目だってのか……」
歯軋りが聞こえた。
「アーチャーの正体を知って、セイバーを奪われて、街の人達が攫われて、おまえ達がセイバーでも勝てなかった相手に挑もうとしてるってのに、それまで見殺しにしろっていうのかよ遠坂ッ!」
怒号が耳を劈く。凛は目を見開いているのだろう。これまで衛宮士郎が強く抵抗してきたことが無かったのか、それとも何かやましいことでもあるのか。凛は口を噤み、茶の間には決壊したダムを、成すすべなく見つめるしたような空気が流れていた。
「遠坂を死なせてたまるか。セイバーを死なせてたまるか。そこの遠野志貴だって、死なせてたまるか。貫いてみろって、大嫌いだったアイツに言われた。だから考えた。夢の中でも考えた。無い頭振り絞って、俺に出来ることはなんだって……考えた」
「衛宮くん……?」
泣いているのか。と、凛の声音から想像した。
「戦うだけだ。みんなを傷つける物を、絶対に倒すために戦うことだ。邪魔なら囮にでもして捨てればいい」
ク、と志貴が笑いを零す。いつだってそうだ。自分の周りにはこういう頑固者しか現れない。妹も、二人の使用人も、先輩も、あの義理の兄でさえ強固な意志で武装していた。一つの信念を貫く者は強い。
「わたしは別にあの金ぴかに挑もうってわけじゃない。確かに八人目のサーヴァントなんてインチキは認められない。けどそれは言峰の仕事でしょう。だから、わたしは四十六人を連れ去った犯人を捜す」
「同じことだ。これにサーヴァントが関わってることくらい、俺だって判るんだ」
「けど──」
「よろしく頼むよ、衛宮君」
「士郎でいい。よろしく頼む」
凛の鋭い視線を受け流しながら志貴が右手を差し出すと、力強く握り締められた。
「志貴、あなた衛宮くんの容態わかって……!」
「じゃあ凛ちゃん。俺は夜まで眠らせてもらうよ」
「りん、ちゃ……コラ!」
「士郎君、布団と服は借りていいかな」
「ああ。調子悪そうだからな、しっかり眠ってくれ」
顔を真っ赤にして怒鳴る凛の相手はせず、壁に手をつきながら廊下を歩く。ふらつく足を気合で制御して、来たときとは逆に歩く。
冷えた板張りの廊下。歩くと軽く軋む床。木造家屋独特の匂いを嗅げば、包帯を外してしまいたい衝動に駆られたが、それでは昨晩の二の舞だ。
「どういうつもりなのよ。衛宮くんの力は、あなただって知ってるでしょ」
追いかけてきた凛が叱り付けるように言った。志貴は振り返らずに、ほう、と小さな溜息を吐いた。
「あそこで切り離しても一人で突っ込むだろ、士郎君は。だったら君が守ってあげればいい。大事な人は、守らないといけないんだから」
俺が言えた事ではないなと、志貴は忸怩たる思いで唇を噛んだ。
止まれないところまで来てしまった。安易な気持ちで奇跡に縋ったために、もう二度と妹の顔を見ることも叶わない。
遠野志貴の命は長くない。昨晩の奇行で、嫌というほどに実感した。
どんなに頭痛が酷くとも、この目を潰してしまおうと思うことは無かったのだが、魔眼殺しが駄目になった途端にこの体たらく。
頭にナイフを突き立てられ、骨を貫通したソレが脳みそをかき混ぜる痛み。脳髄を侵そうとする魔眼が、好機を得たりと大暴れしているのが目に見えた。生憎、志貴には魔眼の暴挙を押さえ込む自信が無い。
座して死を待つ。それを風雅だと感じるはずが無い。諦めようとしている無様はどう繕うとも無様であり、己の眼を潰そうとする行為は無様以下の外道でしかない。逃げの一手など遠野志貴は取ってはならない。様々な因縁との決着を、一年前につけられなかったとき、それは既に決まっていた。
逃げることもできず、立ち止まる時間は無い。
キャスターを救い出し、イリヤの仇討ちという大義名分を得て、死地を求める自分はあまりにも惨めだ。
仇討ちを完遂できる確立など限りなくゼロに近く、そもそも仇討ちで救われる者があるはずもない。それでも立ち止まれないというのなら、それは遠野志貴のエゴ。もう前進も後退も叶わなくなった体が、せめて栄えある死を求めて蠢くのみ。
かつて目の前で塵と化したクラスメイトと同じ、彷徨う死者(リビングデッド)に他ならない。
「昨日はありがとう。目を潰したら、敵討ちどころじゃなくなってたな」
「気付いてたの?」
「ぼんやりと、ね」
遠くから自分を見下ろしていた。志貴ではない志貴が体を動かして、薄汚い眼窩ごと眼球を抉り出そうとする光景。もう戻らない蒼い瞳が天井に浮かぶ志貴を睨んでいた。
何故そこにいる。逃げるのか、と。
──俺はおまえを逃がさない。
そう告げられて、恐ろしくなった左腕が動いた。そんな目玉はいらないと、ランサーの突きさながらの速度で落ちた。
そんな光景が、起床したとき記憶の隅にあった。
「魔眼殺しは? 無くしたの?」
「眼鏡は無傷だけど、駄目になったんだ」
「どうして……」
「イリヤは、強化魔術で魔眼ごと強化したからだって言ってた。暴走、してるんだろうな」
が、志貴はそれを信じていない。いくらキャスターが優れていようと、この魔眼を理解できるはずが無い。対象を理解しなければ強化できないのだから、暴走のきっかけになりこそすれ、直接の原因はそれではない。ただ、自分が弱かっただけのこと。連日規格外(サーヴァント)の死など視たものだから、数段階進んでしまっただけのことだ。
「そう。じゃあ、長くないって言葉は本当なのね」
「本当だ。自分の体のことだから良くわかるよ。こうして目を閉じ続けても、着々と影が広がってくる。頭痛も酷くなってきてる。保って一月ってところだと思う」
それは、震えが来るほどに恐ろしい現実だ。怖くて恐ろしい。得体の知れないものが這い上がってくる恐怖は、人の殺意よりも余程恐ろしい。
「午後八時には起きるから。見回りをするなら一緒に行こう」
凛の手前泣き出すわけにもいかないとばかり背けていた背中を追う声もない。再び覚束ない足を叱咤して歩き、がたついた体を布団に横たえれば、あっという間に深い眠りの園へ落ちていった。
***
一晩中精神を張り詰めていたためか、浅い眠りと覚醒とを繰り返した凛は、窓の向こうが暗くなっているのを確認して、のそのそと布団から抜け出した。
人には見せられない寝巻きから普段着へ着替えを済まし、窓と入り口の扉を開いて換気する。二酸化炭素で澱んでいた空気が澄んでいく。その際時計を確認して、午後七時の針を確かめる。疲れていたのだろう。十二時間もの睡眠は久しぶりの経験だった。
寝すぎで気だるい体を引きずって廊下に出た。冷たい風に意識が覚醒していくのを感じた凛は一度部屋に戻り、机の上に広げておいた宝石を全てポケットにしまい込む。集団失踪事件の犯人がサーヴァントだった場合、その場で死闘が始まりかねない。万事に備えて間違いはあるまい。
自宅が瓦礫と化してしまったのは大きな痛手だった。工房には凛を高める秘蔵のアイテムがいくつかある。最高峰が現在持つ宝石であり、サーヴァントと戦うために最低限必要なレベルに到達しているのもまた、宝石のみ。故に宝石だけを所持していたのだが、使いようによっては不意打ちくらい可能なものもある。だが、瓦礫の山と化した自宅からそれらをサルベージするには時間が掛かる上に、無事であるという保証も無い。その間に新たな被害が出るかもしれない状況では、諦める以外に手は無い。
渡り廊下を歩いて母屋に入る。屋敷の中は怖いほどに静まり返っており、無人の廃墟と言われても納得するような雰囲気があった。あえて床を軋ませながら歩く。入り組んだ廊下を歩くと、やがて中庭を臨む縁側に居た。そこで表情も無く夜空を見上げる士郎を見つければ、生唾を飲み込むのを抑えられなかった。
士郎は所在無く立ち尽くす凛を見て、顔に微かな苦渋を滲ませた。
「朝はごめん。強く言い過ぎた」
「ううん、わたしも考え無しだったと思ってる」
素直に謝られてしまえば突っかかるのも憚られ、凛は視線を逸らして謝罪する。
「体、大丈夫なの?」
「ずいぶん楽になった。これなら飛んだり跳ねたりもなんとかなる。けど、本当に邪魔なら俺は置いていってくれ」
「……どういう心境の変化なワケ?」
士郎は暫し逡巡し、項垂れる。
「その、邪魔だろ、俺は。遠坂は志貴と二人の方がいいだろうし。俺が邪魔して二人を危険に晒すくらいなら、その方がいいのかもしれない」
凛は首を傾げる。志貴と二人の方が確かに余計な心配をしなくていい分楽ではある。だが、士郎の言葉には別な意図が見え隠れしていて──。
思わずにやけてしまうのを、凛は止められなかった。嫉妬している。間違いなく嫉妬しているんだ衛宮士郎は。
口元を右手で覆い隠し、ニシシと笑う。
「それとな、これ遠坂のだろ」
士郎は何かを差し出した。赤く美しい宝石が、その手の中にはあった。無論覚えがある。それは士郎の治療に使った宝石だ。
「さあ?」
「昨日、志貴の治療に宝石を使ってるのを見たとき、これを真っ先に思い出した。ありがとう遠坂。俺を救ったのは、おまえだったんだな」
凛は言葉も無く士郎を見つめた。言うつもりは無かった。隠しておこうと思っていた。だが士郎は確信してしまっていたのだから、返す言葉などない。
静かに歩み寄って、空っぽの宝石を受け取った。
「そうなると、やっぱり俺も行くよ。遠坂を守りたい。朝も言ったけど、邪魔なら切り捨ててくれ」
メシ、食卓に置いてあるから。
そう続けて、士郎は黙った。凛は居間へ移動するべく足を向けて、立ち止まる。
「残って、衛宮くん……今日は偵察程度のつもりだから、危険は無い」
「それはできない」
きっぱりと断られる。頑固者。とんでもない頑固者。こうなったら、本音を零さなければならないではないか。
「……あなたを殺すわけにはいかないの」
「アーチャーの、代わりか?」
血液が沸騰した。
「そうよ。それもある。アーチャーのことをわたしはずっと前から知ってた。あなたもマスターだったんだから知ってるでしょ。アイツの過去を夢に見た。あまりにもバカで、あまりにも真っ直ぐな生き様を、ふざけた死に様を見た。その果てで自分に絶望して、人間に絶望して。あんな土壇場でしか自分を信じられなかった。だからあなたには違う道を歩んで欲しいって、わかってよ」
なんてエゴイスティックな発言だろう。沸騰した勢いに任せて、吹き上がる水蒸気に任せて、吹き上がるところまで吹き上がってしまった。士郎の驚きに見開かれた瞳が痛くて、逃げるように居間に駆け込んだ。そこでは志貴が無言で食事をしている。
聞かれただろうか。
ふと思って、真っ赤になった顔を隠すように俯き気味で食卓についた。
「ちょっと、愚鈍?」
この出歯亀男め。
凛は鼻を鳴らして、髪をかきあげる。
「多分あなたも似たようなものだと思うわよ」
きっとあの赤髪の妹も苦労したに違いない。そんなことを思いながら、焼き鮭に手をつけた。
包帯を巻いているせいか、目を開いても昼なのか夜なのか判然としなかった。
腹具合から陽は落ちているだろうと推測して、全身に力を篭めた。差し油を忘れた機械人形のように軋む体を、うめき声と共に三十秒もかけて起こすと、額にはべったりと脂汗が浮いていた。
視界が無いせいか、体を真っ直ぐに保てなかった。呼吸も荒れている。支えを失ったように揺れる体が鬱陶しくて、志貴は襲ってくる頭痛に耐える心構えを用意してから、包帯に手をかけようとした。
額に針を刺されたような痛みを感じて、首をかしげる。
「あれ……」
右手の人差し指は包帯ではなく、額を爪で引っ掻いていた。大きな包帯は眉を隠していたのだから、額に触れれば包帯の側面を摘めるはずだった。
予期しない違和感に、血の気が引いていく。
両手で掻き毟るように顔面に触れる。あるのは直に触れる瞼の柔らかさと、その下でぎょろぎょろと動く眼球の感触。粗い目の包帯の手触りは、どこにもなかった。
意を決して目を開いた瞬間、志貴は短い絶叫の声をあげ、畳に頭を打ち付けた。倒れたわけではなかった。金槌で打ち付けられたような激痛に耐えかねて、より現実的な痛みに逃避しただけのこと。
無数の線と点。それが、洪水めいた情報の濁流として流れ込んでくる。線と点は見えるくせに、真っ白い布団も、障子の向こうから差し込んでくれるはずの月光も無い。線と点だけの世界。点を中心にして、至る所に張り巡らされた線。
戦争が始まった頃は、点は殆ど見えなかった。義兄(四季)に点のようなモノは視えたが、葛木宗一郎の体に再び視るまでは忘れていた。学校でライダーやアーチャーと戦ったとき、微かにではあるが点が視えた。まるで川の本流から支流へと枝分かれするような光景を目の当たりにして、それが死そのものを表しているのだと気付いた。
変調はその翌七日。今日──二月十日から遡ることたったの三日。翡翠から秋葉の処刑日を聞いたあとのことだった。大事な眼鏡が用を成さなくなった。その夜、ライダーの点を貫いた。天駆ける有翼白馬を駆り、目にも留まらない速度で飛ぶライダー。彼女が志貴の偽者に突撃した瞬間を見逃さず、貫いた。
それからたった三日。それでとうとう、視力さえ失ってしまったらしい。
体から力が抜けていく。だが頭痛は無理矢理に背筋を伸ばし、志貴に倒れることを許さない。それでも力は抜けていく。絶望がこの機を待っていたと駆け寄ってくる足音が聞こえる。死界が手薬煉引いて志貴が堕ちるのを待っている。狂ってしまえ壊れてしまえと、絶望だか死界だかよくわからないモノが囁いた。
「入るぞ」
唐突な声は背中からだった。敵だ。と誰かが騒いだ。右手はポケットに潜ませたナイフにかかっている。
その声は敵じゃない。右手に命令を送って、ナイフから手を離させる。憮然とした声は、
「士郎君?」
衛宮士郎だ。
意識した途端、目隠しを外されたように、死界が視界へと転じた。障子の向こうから、柔らかな月光が差し込む和室。そんな光景があまりにも眩くて、志貴は意識が遠のくのを感じた。
「この家に男は衛宮士郎と遠野志貴だけだぞ。それとも俺の声が遠坂の声にでも聞こえるのか?」
士郎は苦笑顔で近寄ってくる。その体を視た瞬間、胃液が食道を駆け上がってきた。死の点。無数。数数え切れない死。額に、頬に、首に、胸に、二の腕に、前腕に、腹に、太腿に、脹脛に、足首に。線が点同士をつなぐ架け橋にでもなっているかのような、異常。
こみ上げてきた吐き気をどうにか堪る。飲み込んだ胃液には味が無かった。
「いや、そんなことはないよ。確かに、言われてみればそうだった。俺たちだけだ」
咄嗟に目を閉じると、士郎は「そうか」と何か思い至ったように手を打った。
「ほら、新しい包帯。寝苦しそうだったから勝手に取ったんだ。悪かった」
差し出された包帯を手に取る。急いで巻いた志貴は、士郎がじっとこちらを見下ろしているのに気付いた。
「セイバーのことは、謝れない」
士郎は一度志貴を注視したが、すぐに視線を逸らすとばつが悪そうに頬を掻いた。
「あの時は敵同士だったんだから仕方ない。それに」
士郎は言い出しにくそうに逡巡する。
「セイバーは、あんたが串刺しにされて、怒ってたからな」
驚いて口を半開きにした志貴を、士郎は口の中で笑った。
「ならきっと、あいつは納得できたんだ」
刻んだ笑みは自嘲だろう。自分は何も知らないと嘆く声色。返す言葉などなく、志貴は「そっか」と項垂れて、包帯の上から眼球に触れた。
「そういえばな、志貴。これ」
士郎が差し出したのは棒。受け取って、撫でるように触れる。何の飾り気もない鞘と柄。それは間違いなく刀崎翁に貰った骨刀・刀崎だった。
柄を引き抜くが、刃は十センチほどで折れてしまっていた。鞘の中には、その先が入れられているらしい。折れた刀身も引っ張り出して、触れてみる。
「……やっぱり折れたか」
「遠坂なら直せると思うけど、しないだろ」
「ああ。折れた刀はもうだめだよ」
黄金のサーヴァントの鎧は一体どれだけの硬度なのか。刃の腹で叩いたわけでもない。真っ直ぐ横一文字に斬り付けた刀が折れるという異常。間違いなく業物として数えられるであろう刀崎が、傷ひとつつけられずに折れた異常。
志貴は身震いした。あの化け物を倒さなければならない。腹の傷もまだ癒えきっていない。明日の朝、光を目にできるだろうか。あのサーヴァントを倒すまでは、保たせなければならないのに。
顔を顰める志貴に気づいた士郎が、ゆっくりと立ち上がって部屋から出て行く。その直前に、士郎が振り返った。
「用件を忘れてた。飯ができたぞ。茶の間のテーブルの上に運んであるから、食べててくれ」
「わかった。けどその前に、電話借りてもいいかな」
士郎は二つ返事で了承した。
Dead Eyes See No Future
言峰は心地良い波動に満ちていく柳洞寺の境内に視線を巡らせて、笑みを刻む。十年前にこの身で味わった呪いの塊。その根源たる存在が、今にも現れるべく鳴動しているのを感じた。
だが、まだ足りない。あと三つの生贄を釜に捧げねば、事は成されない。残るはセイバー、ランサー、キャスター、アサシン。
ギルガメッシュにセイバーを殺す意思は無い。となれば決まったも同然だったが、キャスターのマスターの妨害により、キャスターをいまだ殺せずにいた。アサシンは殺そうと思えばいつでも殺せるのだが、矢張りというべきか姿を見せようとはしない。いっそギルガメッシュも投げ込んでしまえばいいのだが、セイバーへの異常なほどの固執にも興味がある。彼のアーサー王が呪いに塗れ、苦痛に喘ぎ、助けを請う様を想像すれば、ギルガメッシュでなくとも胸が躍る。
「となると……如何にしてキャスターを消すか、だが」
「ああいった気概は最高の喜劇だな。笑いが止まらぬわ」
床板を踏み鳴らし、ギルガメッシュが現れる。
「ほう、まだ足掻いていると。反英雄とはいえ、サーヴァントと成るだけはあるということか」
「意識はとうに混濁しているようだがな、我(オレ)が殺気を見せれば、即座に命令を下すだろう」
キャスターのマスターが存外に優れていたのか、それともくるくると回るキャスターの口が優れているのか。何にせよ、キャスター組が最後まで残るという番狂わせは、想像だにしていない出来事であった。
魔術師でも無い少年が教会の扉を叩いたときには、まるで意に介していなかった。キャスターが主を殺したという情報は聞いていたため、神の采配次第ではそれらが組むこともあるやもしれぬとは思っていた。だが所詮はキャスターとただの小僧。障害足り得るはずがなかった。
「あれを見抜けぬとは……修行が足りんな」
「あの雑種のことか。ヤツに消された宝具、宝物庫には戻っていないようだ。全く笑えぬ。アレは神殺しの者の目ぞ」
言峰は振り返り、感嘆した。
「珍しいこともあるものだ。おまえが他人を脅威と感じるとは」
「戯け。ヤツでは我(オレ)は勿論のこと、フェイカーさえ倒せぬわ」
頷き、虚空を見上げた。
「いくら優れようと──いや、アレは堕ちている、か? 兎角、所詮は雑種。英霊には及ばん」
「その物言いでは、ライダーが浮かばれん」
「雑種の力も把握できん愚図では仕方あるまい」
セイバーを手に入れて上機嫌なのか、ギルガメッシュはいつになく饒舌だった。
「気をつけろ、ギルガメッシュ。シキの瞳、おまえをも取り込みかねん」
くつくつと、言峰は喉を鳴らす。ギルガメッシュはくだらない、とばかりに鼻を鳴らした。
「我(オレ)にあの小さな牙が届くことは有り得ん。天地を引き裂く我が剣を前に、雑種が持つ特異な能力など微塵たりとも脅威足りえん。よもや、本気の言葉ではあるまい?」
言峰は僅かに頷いた。
何が起ころうとも、それが現実だ。ギルガメッシュがその気ならば、シキは身動きをする間もなく死ぬだろう。
殺す気で掛かるのなら、“王の財宝”を出し惜しみせずに放ち続ければいい。ヘラクレスやクー・フーリンの速度があれば避けようもあるが、キャスターの後押しを受けてセイバー以下の速度では、土台防ぎようが無い。なまじ防いでしまってもギルガメッシュには第二の宝具がある。彼が乖離剣エアを振れば、破壊の風に巻き込まれ、万物は平等に両断される。
その根底に流れる魂は正義だが、正義──即ち己を貫くために悪をも容認する。否、己こそが正義であるのだから、己の行為は全て正義であるというエゴイズム。そのエゴイズムを裏打ちする実力があるのだから、ギルガメッシュに敗北の二文字は有り得ない。
圧倒的な力。畏怖すべき英雄王。だが、それが最早邪魔であるとも、言峰綺礼は感じていた。
「──ところでギルガメッシュ、以前間桐桜に接触したと言っていたな。気にも留めていなかったが、思い出すと不可解だ。何の用件で接触した」
ギルガメッシュの赤い瞳が、言峰を射抜いた。
「引っ掛かる言い方をする……。よもや我(オレ)に疑念でも抱いているのか」
「かもしれんな。何せ、おまえにしてみれば私など路傍の石に過ぎん。主従とはいえ、偏った天秤の上に存在している我々だ。おまえの動向を窺うのも、おかしなことではあるまい」
ギルガメッシュの炯眼を真正面から受け止め、言峰が言い放つ。
ギルガメッシュはじっと言峰の目を見、やがて頬を歪ませる。何度も何度も見た表情。それは、ギルガメッシュが眼前のソレを殺すと決めたときのものだ。つまりこの場合、ソレとは言峰を指す。
「死ねと言っただけだ。我(オレ)は崩れた物を求めているのでな、完成されては厄介と思ったのだが……そうか、誕生を祝う貴様とは相容れぬか、この考えは」
「そのために、独断で白き聖杯を手に入れようとしたということか。確かに、両極端の因子を混ぜれば、聖杯もひどく不安定になるだろう。成る程、それは面白い考えだギルガメッシュ。セイバーに泥を浴びせられればそれで良いおまえには、もっとも都合のいいものだろう。私も、間桐桜がただの予備であればそれを考えたろうがな……」
ギルガメッシュは聖杯の中身でセイバーを犯すために聖杯を求めた。
本来裏方に徹するつもりであった言峰は、間桐桜の存在を知ればそうはいかなくなった。
産まれようとする者を祝福したいならば、聖杯を崩そうとするギルガメッシュとは相容れない。袂は同じであったかもしれない──。
「だがあの道化師の手により、白き聖杯は微塵も残らず消え果てた。結果として、おまえの思惑通りになったというわけだ言峰。この際、別に何者でも構わん。我(オレ)はアレの兄でも使おうかと思っているが、おまえはどうする」
だが最早、二人の行く末は別である。
「訣別、か。思いのほか、保ったものだ」
ギルガメッシュの目に殺意が宿る。元々、危うい均衡の上に成り立っていた関係だ。いつ壊れてもおかしくはない。言峰は生まれようとするモノを無碍になど出来ず、ギルガメッシュは産まれようとするモノを殺そうとしている。
間桐の老人が動き出したとき、この結末は見えていた。故に、言峰には策があった。
ギルガメッシュが腕を掲げると背後の空間が揺らぎ、人類最古の英雄が所有する無数の武具がその刃を覗かせた。
「“王の財宝(ゲート・オブ・バビロン)”──永きを共に歩んだ好だ、せめて一瞬で終わらせてやろう」
言峰は一息で十メートルを跳び、二息で二十メートルの間を作り上げた。床が軋みを上げ、二足目では砕けた。ギルガメッシュの投擲は回避不可能。どれだけ距離を離そうと、斉射されれば命は無い。
──故に、駒は動かしてある。
「“刺し穿つ死棘の槍(ゲイ・ボルク)”──!」
それは最速の名に恥じぬ速度で迫り、放たれた一突き。勝利の一撃がギルガメッシュを穿つのを見届け、言峰は踵を返した。たとえ仕損じていたとしても、ほんの数日隔離できれば問題は無い。蠢く影の気配と、忌々しげな舌打ちを同時に聞いて、言峰は口を開いた。
「やるものだな、ランサー」
ランサーは言峰の言葉を鼻で笑った。
「この泥、胸糞が悪い。あんな野郎でも、これじゃあ哀れなもんだ」
言峰は応えず、急ぎ足に桜を幽閉している部屋へと向かった。
***
アインツベルン城で気を失い、目を覚ましたのが、丁度何者かの世界が崩れる瞬間だった。世界が組み変わる異常を目の当たりにして、キャスターはそれが固有結界と呼ばれる異能の力だと気づく。全てに精通していたがために至れなかった高み。それが音を立てて崩れていく。それは術者の死を意味していた。
固有結界などという魔術使いが今回のサーヴァントの中にいたのかという疑問は、現れた黄金のサーヴァントと、その腕に抱えられたセイバーの姿を見れば消え去った。
キャスターはなまじ博識だったがために、黄金のサーヴァントの正体に見当がついていた。その目的にも見当はついていた。だからこそ幼い体を灰も残さず焼却したのだ。
それは次手へと繋ぐ布石であったが、この場で死ぬのでは無駄に終わるようだ、と諦念を露にする。志貴の気配が無事遠ざかっていくのを感じたキャスターは目を閉じ、一歩一歩歩んでくる英雄王の攻撃を待った。
英雄王の姿はあまりに神々しく。見てしまえば萎縮してしまう。故に目を閉じた。最期くらい潔く消えるのも、良いと思っていた。
体に電流が走ったのは、その瞬間だった。
「ほう……まだ動くか道化師」
キャスターの魔力が底をついた体は浮き上がっていた。刹那、ローブの裾を何かが切り裂いて飛んでいった。剣だった。
「──な?」
足元をまるで知覚していなかった魔剣が通過していけば、自分が回避したのだと理解はできたが、視認さえ難しい投擲を避けるような身体能力はキャスターには備わっていない。
「私を殺すつもり?」
着地の衝撃でこみ上げてきた血液を飲み込みながら、キャスターは意図しない言葉を吐いていた。
「……口の利き方に気をつけろ。我(オレ)は気分が悪い。無様を晒したくなければ、早々に自害することだ」
睨まれると、体は蛇に睨まれた蛙のように動かなくなった。だがその口は、再び意図しない言葉を喉下にまで引き上げ、
「貴方こそ、口の利き方に気をつけるのね」
そんな、無謀を吐かせた。
「貴方が次に私を攻撃しようとすれば、私はそれが届くより早く一言口にする」
「ほう……? 言ってみろ。我(オレ)を前にしての減らず口に興味がわいた。如何な戯言か、聞いてやろう」
「自害なさいセイバー、と言うだけよ。大事なセイバーが死んでは嫌でしょう?」
『絶対に、死ぬな……キャスター』
ようやく気付く。そうだ、これは令呪の縛りだ。絶対などという言葉に律儀に反応して、勝手にキャスターの体を操り、思考さえ操った。
困ったものだ。英雄王が慌てる様は面白おかしいのだが、その後に待っている地獄の責め苦を想像するだけで、怖気がつく。
「そうか……貴様セイバーのマスターとなっていたのだったな。フン、腕を切り落としてやりたいところだが、そうだな、貴様の早口言葉には叶うまい。それしか能が無いのだから、さぞ早いことだろうよ」
忌々しげに嘲い、ギルガメッシュが歩み寄ってくる。その胸の鎧が砕け、出血していることに、キャスターは遅ればせながら気付いた。セイバーが斬り付けたにしては歪な傷だった。鎧は螺旋状に捻じ曲げられ、引き千切られるように砕けていた。
誰が、と思考しようとするより早く、飛んできた剣に反応する。咄嗟に飛び上がった体に二本が突き刺さり、キャスターはもんどり打って床に叩きつけられた。
「下郎が……図に乗るな」
起き上がる力まで失って、キャスターはうつ伏せになったまま盛大に血を吐く。令呪に命令を吹き込もうとした瞬間、眼前にギルガメッシュの足を見、掲げられた魔剣の気配を感じた。この距離では、自害しろと叫ぶ間もなく切り捨てられてしまう。
「天の鎖よ」
甲高い音を響かせながら、鎖が天地を走る。蛇のようにうねった鎖はキャスターを突き刺さった魔剣ごと雁字搦めにした。
「帰還するまで延々と刃を突き立ててゆこう。意識を保てば、暫くは生かしてやる。意識を失えば、その場で死ぬ。謂わば余興よ。道化師ならば、もっと愉しませろというのだ」
柳洞寺に運び込まれて丸一日。かつて数日を共にしたお堂には人の息吹も無く、あるのは空しくそよぐ木々の音と、キャスターのうめき声。
「ァ──グゥ」
声が漏れる。艶かしいその声は事実として、濡れた口が放った血塗れの苦悶だった。もう何度目とも知れない。一日中呻き、苦しみ、そして嘆いた。吐いても飲み込んでも溢れてくる血は、奇しくも主と同じ位置に突き立てられた一振りの魔剣によるものだった。
「無事かキャスター」
鈴の鳴るような澄んだ声に、キャスターは意識の糸を手繰り寄せる。
「え、ぇ……何、とか」
キャスターは一度も気を失わないでいた。思考の海に埋没することで辛うじて保った意識は、最早現実と心象世界の区別さえ無い。覚醒しているとも眠っているともつかない時間は、キャスターに泥濘にはまったような感覚をもたらしている。アルコールを多量に摂取したかのような倦怠感。
首を巡らせるのも面倒で、眼球だけを動かして周囲の気配を探る。
セイバーは無傷、キャスターは腹から剣を生やしているという差異はあるが、二人は揃って壁に磔にされていた。辛うじて残っていた魔力も、突き立てられた魔剣に吸い取られる。セイバーと自分を保てるギリギリのところで抑えられているのは、英雄王が令呪を恐れているからに他ならず、天秤が傾ききっていない証明だったが、地獄もかくやという責め苦だけは、発狂しそうになるのを堪えるので精一杯だった。
「志貴との会話は可能か?」
「い、え……ここは異界、だもの……下界には、とどかな……ァ」
絶え間なく流れる血が一際大量に噴出し、キャスターは激しい苦痛に身悶えた。心なしか指先が半透明にさえ見える。
「……悪かった。それ以上口を開くな」
限界だなと、セイバーは冷静にキャスターを観察する。彼女を磔にする魔剣は今もキャスターから魔力を吸い上げている。彼女が消滅すれば、最低限の魔力しか与えられていない自分も即座に消えるだろう。然したる感慨もなく、セイバーはそれを受け入れていた。
無論、消える直前には一泡吹かせてやるつもりで。
「しきが、戦っ……」
血を泡にして喋ったキャスターが、身をよじらせる。窺った顔は既に正気ではなかった。瞳は蕩け、頬は上気し、半開きの口元は血に濡れている。それでも主を心配する忠義の程に眉根を寄せて、すぐに納得した。
志貴とキャスターの馴れ初めを、戦争が始まってからの道程を、たかだか数日間の出来事を、セイバーは夢として共有していた。夢はキャスターを召還したマスターが死ぬところから始まって、遠坂邸を急襲したあとで終わる。
セイバーは志貴に捕らえられた日、彼の変貌ぶりに驚いた。羊の皮を着込んだ猛獣と比喩した。少なくともその偽りの羊毛は、裸同然のキャスターの心を暖めたようだった。夢の中の志貴は、信じられないほど穏やかな顔でいた。
魔女と蔑まれた彼女に、志貴は臆することなく接した。それが、何よりもキャスターには手に入れ難いものだったのだと知った今、キャスターの心中を察するのは容易い。
「彼ならば平気であろう。何せ、英雄王にあと半歩まで迫ったのだからな」
心配なのは、士郎。また無茶をしていないだろうか。志貴と共に助けに来るなどという無謀を冒さないだろうか。
「有り得るな。英雄王の胸を貫いた彼の過去なのだから」
思えばアーチャーの強さは異常だった。王の財宝を片っ端から打ち落とす姿は圧巻だった。ギルガメッシュが放つ宝具を見ただけで複製し、相殺させる。見てから複製するのではなく、見た瞬間には複製されているのだから、両者に決着は無い。だがギルガメッシュには剣の才が無い。対してアーチャーには、己が複製した宝具を使いこなす才があった。
それが二人の差だった。アーチャーは無数の宝具を迎撃しながらも、更に一対の剣でギルガメッシュを圧倒した。
時間差で四方八方より襲い来る刃を、ギルガメッシュは鎧の防御力だけで乗り切る。露出した頭部は両腕で防御した。その隙に、セイバーは聖剣を解放する。キャスターから流れ込んでくる魔力は少なく、全力での開放には程遠い。それでも、ギルガメッシュが顔を隠した瞬間を逃さず、矢を番えたアーチャーの策を磐石のモノとするために、鎧に回していた魔力さえ遮断し、出来得る最高の約束された勝利の剣(エクスカリバー)を振りぬいた。
防御に徹していたギルガメッシュはそれを受けるしかなかった。黄金の鎧が僅かに溶け出した瞬間──。
『“偽・螺旋剣(カラドボルグ)”』
だが結局それが最初で最後の攻勢だった。アーチャーのカラドボルグはギルガメッシュの胸部プレートを粉々に打ち砕いたが、そこまでだった。
セイバーには指先を動かすだけの魔力さえなく、アーチャーは元より満身創痍だった。
アーチャーが首を刎ねられる瞬間をしっかりと眼に焼付け、必ず打倒するとギルガメッシュを呪った。
「鎖も剣も消えてねえってことは、取り込むつもりじゃねえのか。ったく、欲張るといいことなんざねえってのに」
思いも寄らない客が、姿を見せた。
***
鮭を粗方片付け、味噌汁、茶碗も空にした凛は、一息吐く暇も無く口を開いた。
「朝のことだけど」
「ん?」
志貴は啜っていた緑茶をテーブルに置き、聞く体勢を整えた。
「キャスターが生きてるって言ってたけど、今も居るってこと?」
「近くには居ない。キャスターは離れてても話しかけてきたりするんだけど、今は全く無い。でも、令呪から力は感じるから、生きてるはずだ」
志貴は肩を落とした。令呪に吹き込んだ命令は『絶対に死ぬな』だった。助けられたのは自分だけだったという結果から、キャスターは気絶したままだと推測できる。今も気絶しているために声をかけられないのか、何者かに囚われて余裕が無いのか。或いは、姿を晦ましているだけなのか。
いまいち判断に苦しむ状況に、志貴は歯噛みした。
気絶したままならば、再びアインツベルン城に出向けばいいのだが、その可能性は低いと考えていた。あの場にいて、あの金色のサーヴァントがキャスターをその手に掛けないとは思えなかった。
凛は志貴を救うためにアーチャーを失ったというから、アーチャーが時間を稼いでいれば逃げることも出来たはずだ。その場合、姿を隠しているという可能性がある。
「そう、残念ね」と小さく呟いた凛は、「あの金ぴかのこと、知らないでしょ」と口を繋いだ。
すぐさま黄金の男を思い起こした志貴は、素直に頷く。志貴に判るのは、アレがイレギュラーなサーヴァントで、圧倒的な強さを誇るということだけだった。素直な態度に気分を良くしたのか、凛は腕を組んで鼻を鳴らした。
「真名はギルガメッシュ」
茶を吹き出しそうになった。慌てて口を塞いだ志貴に無言でタオルを差し出しつつ、凛は続ける。
「その反応じゃ知ってるみたいね」
「エンキドゥとかフンババとかの?」
「そう、それ」
真剣な声色が続ける。
「驚きよね」
「伝承には詳しくないけど、蛇に不死の薬を奪われたって逸話なら知ってる」
「わたしもそう詳しいわけじゃないし、そもそも弱点なんて聞いたことがない」
「ヘラクレスを倒して、セイバーでもダメだった。となると、真っ向からじゃどうしようもなさそうだな。仮に弱点があっても、そこを突けるのかどうか……」
凛は暫く唸ったあと、諦めたように言った。
「……とりあえず今は、巡回のほうに専念しましょ」
出来る限り目立つように微少な魔力を発散しつつ、夜の街を練り歩く。自分達はおまえを狙っていると知らしめるためだが、サーヴァントに対しては撒き餌でしかない。魔術師の魂は通常の人のものより上質である。故に、狙われる。
だが、街で変わったところといえば巡回する警官の姿を頻繁に見かける程度。結局犯人の手がかりも見つからず、セイバー達の気配もどこにもなかった。元々一日や二日で見つかるものでもないとはいえ、鎮まるどころか悪化していく志貴の容態を考えれば、早めにケリをつけなければならなかった。
志貴のジョーカー的な要素に賭けて、危険極まる巡回などという行為をしているのだから、その志貴が使い物にならなくなっては、どうしようもない。
「収穫は、無しかもね。元々一日二日で見つかるとは思ってないけど」
「大丈夫か、志貴」
「ああ、大丈夫だよ。すまない、俺の方が邪魔になってるな」
「元々ゆっくり歩かなきゃ撒き餌の意味なんて無かったから、結果としては同じよ」
項垂れる志貴に、慰めにもならない言葉をかけて、次の手を考えなければ駄目かと思案する。丁度、見慣れた交差点に差し掛かったところだった。
百メートル程前方に人影を見つけて、凛は即座に目を強化した。スーツに身を包んだOLらしき後姿。魔力も感じない。恐らく会社帰りなのだろう。どこか早足なハイヒールの調子は、一刻も早く休みたいと喚いているように聞こえる。
時刻は午後十一時半過ぎというところ。十二時間もの睡眠で体力は有り余っているとはいえ、四時間歩き通しで平然とはいかなかった。足の裏はじんじん痛むし、微弱とはいえ魔力を放ち続けた疲労もある。帰ったら、士郎や志貴を差し置いて一番風呂は貰うと息巻きつつ、凛は歩調を速めた。
OLらしき女性も早く風呂に入って、一日の疲れを洗い落としたいと思っているはずだと考えて、凛は僅かに頬を緩ませた。
それはきっと、衛宮邸を間近に控えた故の油断。僅かとはいえ、凛の注意はまだ見えもしない衛宮邸に向けられた。
凛に非はない。士郎も志貴も、四時間気を張り続けていたわけではない。時折関係のないところに意識を飛ばす程度何度もあった。タイミングが悪かっただけの話。凛の足元に突如巨大な闇が穿たれて、彼女を飲み込もうとしたことにほんの一瞬反応が遅れてしまったとしても、凛に非はない。
「なに──」
士郎の体当たりによって大きく体を傾けながら、凛は足元のソレをこの世のものとは思えない、という形相で見つめていた。
街灯の明かりの範囲から一歩向こうに現れた、極大の闇。直径一メートル程のそれは、これまで凛が見たこともないほど、禍々しく歪んでいた。
影としか表現できないものが、かといってあるはずの無い影が、魔力と共に存在している。ぽっかりと口を開けている様はまるでブラックホール。そこに足を踏み込んでしまえばどうなるか、説明されるまでもなかった。
凛を強く抱きすくめた士郎が下になってくれたおかげで、アスファルトに叩きつけられずに済んだ。代わりに士郎は背中を強かに打ちつけ、「くっ」と一瞬呼吸を止める。
「大丈夫か、遠坂」
声を掛けられてようやく、自分がとんでもないポカをやらかしたのだと気付く。士郎に抱きすくめている気恥ずかしさよりも怒りが先行し、一瞬で顔を真っ赤に染め上げた凛は、左腕の魔術刻印を起動した。
「っのぉ!」
叫び、ガンドを夜闇に紛れた『闇』に叩き込もうとして、その姿がないことに気付く。代わりに、ひらりと舞う包帯を見た。志貴のモノかとすぐに思い出し、まさか呑まれたのかと咄嗟に首を巡らせれば、体勢を低く、いつか凛を殺すべく廊下を滑ったときのように倒して疾走してくる志貴がいた。蒼白い炯眼が闇の中に軌跡さえ残しながら、真っ直ぐに走っている。
「志貴……?」
凛を抱いたまま呆然と呟いた士郎の声には、多量の驚愕と畏怖が混じっていた。そうか、と凛は思い至った。士郎はこの志貴を間近に見るのは初めてだったのだ。
アインツベルン城では、士郎たちが着いたのは志貴が磔にされた瞬間だった。ライダーの時は廊下で戦う二人を遠目に見ただけだったし、セイバーが攫われたときの志貴はまだどこか理性を残している風だった。
だが、これは違う。凛とアーチャーを相手取り、まるで嘘のような身のこなしを見せたときと同じ、まったくの無表情。むしろ、夜闇のせいで瞳とナイフの輝きだけが際立っていて、その様はまるで幽霊の類だ。それが一直線に自分達目掛けて走ってくる状況で、上っ面はどうあれ心のどこかで恐怖しないほうがどうかしている。
だが志貴はそんな二人には興味の欠片も無いとばかりに素通りして、そのまま走り続ける。それは、先ほどまで足を引きずっていた志貴、談笑を交わしていた志貴と同一のものとは思えない。どこにあんな力があって、何のためにそんな速度で走るのか。
凛と士郎は急いで立ち上がる。
「ぴんしゃん、してるじゃない……!」
「強化、開始(トレース・オン)──病人のフリでも、してやがったのか?」
それぞれ自己を高める魔術を行使し、既に闇に紛れた志貴を追う。
「かもね。それにしても、志貴の速度」
「昨日と変わらない、だろ? 俺もおかしいと思ってた」
凛は苛立ち紛れに後姿を睨み付けた。もう見えないほど遠くにいる。
志貴は、昨日アインツベルン城まで走ったときと寸分違わぬ異常な速度で疾走していた。有り得ないと凛は断じた。アレは、キャスターの強化魔術があって始めて出し得る速度だ。人が、魔術も使えない超能力者風情が、引き出していい速度ではない。
キャスターの強化魔術は間違いなく切れているはずだ。志貴は今、何の魔術的後押しを受けていない。故に有り得ないはずだ。
「どうなってんのよ」
「様子がおかしかった。あの顔は、普通じゃない。普通過ぎるだろ、あの顔は」
どこか矛盾したセリフも、凛には理解できるものだった。あの無貌のことを指しているのだろう。凛を殺そうとしたとき、脳裏に浮かんだのは機械という言葉だった。人を殺すためだけの殺戮機械。
その気になった志貴は、殺気などというものを放たない。まるっきり無表情に襲い掛かってくるのだ。
「まるっきり化け物ね……」
毒づきながら、風のような速度で駆ける。志貴には敵の姿が見えているのか。凛はあの黒い円形の影以外に怪しい物は見なかった。
三秒も走ると、先んじていた志貴の体が見える。
「あれ……?」
追いついている自分達を、二人は同時に訝った。昨日は傷を負っていたとはいえアーチャーでさえ追い付けなかった。人である凛と士郎は更に遅れることになった。だが今は追い縋っている。一瞬前には追いつけないと思ったはずなのに、追いついている。
「ハッタリ……? 速く見せる走法?」
「バカ言うな。本当に速かったぞ」
言う間にも、二人は志貴に接近していく。やはり錯覚ではない。追いつけないと目や体は思っているのに、現実として追いついている。
志貴の体が沈む。地面を蹴り、放物線を描きながら向かったのはコンクリートの塀。頭からそこに突っ込んでいくと思いきや体を横向けて、塀を地面だとでも言わんばかりに駆けた。まるで曲芸。数歩だが、確かに垂直の壁を走ると、再び蹴りつけ、弾丸のように一直線に飛んだ。
凛と士郎も進行方向に黒い穴が穿たれているのに気付き、大きく跳躍した。ここに来て、ようやく志貴の目的が見えた。先ほど前方を歩いていたOL。それが、己を取り囲もうとしている黒い穴に気付かず、歩いている。
回避運動に移った士郎と凛では間に合わない。
凛は起動させていた魔術刻印に有りっ丈の魔力を送り込み、重度の呪いと化した黒い病魔を影目掛けて撃ち放ち、
「逃げろォ!」
士郎は吼えた。
Dead Eyes See No Future
草間美智子は眉をしかめていた。
毎日通っている道だが、今日ばかりは疲れた体を押して早歩きになっていた。日曜で人気が無いこともあってか、空気が重苦しい。一呼吸するだけで肺に悪いものがたまっていく感覚。現に頭は朦朧としてきていて、今にも倒れてしまいそうだった。
同じく休日出勤の憂き目に遭ったセクハラ部長が、珍しく真面目な顔をしていたのを思い出す。何でも新都と深山町で総勢四十六名の行方不明者が出たらしい。昨晩はコンパで忙しく、ニュースを見る暇もなかった。OLいじりを生き甲斐にしているような部長が、やけに真に迫った説明をするものだから、ホラーが苦手な美智子はふるふると震えたものだった。
北朝鮮がどうのとか言っていたが、海に面しているこの街では、有り得ない話でもないのだ。忠告なのか脅しなのか良くわからない部長の口調は、美智子に苛々を募らせる。そのせいで、夜道が怖いなんて懐かしい感覚に見舞われている。
──あの、バカオヤジ。
美智子は部長を内心で罵った。
社会人も二年目になると慣れたもので、外にいる内に愚痴をこぼす失態を犯すことも無くなった。社員食堂は当然のこととして、トイレでも気が置けない。どこで噂好きの年配OLが聞き耳を立てているか、わかった物じゃないのだ。
家に帰れば温まり放題愚痴り放題。歳の離れた弟が起きていれば、たっぷり聞かせてやろう。
それにしても、と美智子はコートの襟で首元を隠した。
寒気が止まらない。体中が鳥肌を立てているし、震えている。例えばそう、穂群原学園生だった頃、学園に変質者が入り込んできたときのような恐怖を感じている。他のクラスは皆避難しているのに、美智子のクラスには変質者が入り込んできたため、動くこともできなかったのだ。
アレは恐ろしかった。長ドスを手にした変質者。弓道部顧問である担任を人質に、ワケのわからないことを喚き散らす様は明らかに正気を失っていた。まあそれも、冬木の虎の手に掛かれば猛獣の前の猫でしかなかったのだが、当時の恐怖はいまだに美智子の胸にある。
思い出して再度震えた美智子は、一度立ち止まって、辺りを見回してみた。部長のせいで、本当にネガティブになっているらしい。
「嫌なことばっかり思い出すなぁ……早くシャワーでも──」
誰もいないことを確認して歩き出した瞬間。
「逃げろォ!」
叫び声に、草間美智子は振り向いた。蒼い目玉と煌く何かが弾丸さながらの速度で飛び掛ってくる。煌く何かがナイフだと気付いた瞬間、美智子は恐怖で体を硬直させた。
見知らぬ少年の言葉と眼前の状況を照らし合わせて、美智子が理解したのは変質者が向かってくるということ。
「ひっ……!」
短い悲鳴と同時に、変質者がその体に飛び掛った。男の体重が美智子の体に掛かり、倒れ込む。その直前に、まるで泥沼にはまったような感覚と共にハイヒールが脱げた。
通り魔。殺人鬼。行方不明者四十六。
殺される。
「ひ、ヤ、イヤァア──!」
絶叫は、左手で口を押さえられたためにくぐもった。じたばたと暴れながら、見開いた瞳を馬乗りになっている男に注いだ。瞬間、全ての抵抗が無意味だと悟った。
月光と街灯を逆光に睥睨してくる男の表情はわからないが、それゆえ際立った蒼い瞳が見下ろしてくる。その目が綺麗で、今まで見てきたどんな宝石よりも美しくて、美智子の体から力が抜けた。
男がナイフを振り上げる。
──しんじゃう。
ぽつんと思って、美智子は一人、姉の帰りを待っているだろう弟のことを想って、涙をこぼした。それでも目は閉じなかった。今からこの命を絶とうとするナイフの動向を最期まで観るべく見開かれたまま。或いは、瞼を閉じることさえ恐怖で忘却してしまったのかもしれない。
ナイフは雷のような速度で、或いはスロー再生された映像のような緩慢さで、美智子の胸を掠めて、地面に突き立てられた。
美智子は荒い息を吐きながら、地面にナイフを突き立てたまま見つめてくる瞳を見返した。蒼いままの目は、しかし妙な慈愛に溢れていた。助かったことへの安堵と、この変質者の薄気味の悪さで、吐き気を催す。
『■■■■■■────!』
この世のものではない叫び声が聞こえたのはその瞬間。美智子は覆いかぶさっている男の背後に、奇妙なものを見た。鈍い光沢を放つ体なのか腕なのか足なのかわからないモノ。赤いラインが走るそれは明らかに異常なもので、美智子の常識の中では『化け物』と区分されるモノだった。
覆いかぶさった男も眼を見開いている。背後に何かがいると気付いたらしい表情が、次第に顰められていく。見ているだけで体から大事な何かが抜けていくような化け物。背中に立たれただけでも、どんなに恐ろしいかわかったモノじゃない。
「本、体──ッ」
頬を引き攣らせたまま、男が振り返る。窺った横顔は、焦りとも怒りともとれない微妙なものだった。それよりも美智子は男のあどけない顔つきに驚いた。大人っぽくはあるが、年下であることは間違いない。そんな少年とも青年ともつかない、微妙な年齢の男に殺されようとし、さらに異形の化け物が眼前に立つ事実に、頭が破裂する思いだった。
男は突如としてナイフを閃光させる。街灯が反射して銀の軌跡を描くナイフが、美智子の頬を掠め、化け物の触手を切断したのだと気づいたのは、傍らに化け物の一部が落下してからだった。
アスファルトに這い蹲る触手は、蛇のように蠢いていた。うねりながらも美智子に這い寄ろうとする様に正気を失い、絶叫がのど元まで駆け上がってきたとき、男の背中が口をきいた。
「立てますか」
「は──あ? わた、わたし? 立つってムリ、腰……抜けた」
背骨の辺りがむず痒い。力を入れようとしても、体が痙攣して跳ねるだけ。両腕をつっかえ棒のようにして体を支えているが、それさえも今にも折れてしまいそうだった。
男は美智子の答えを聞く余裕も無く、右手をムチのように撓らせる。出来の悪いたこウィンナーみたいな化け物は、めんどくさそうに腕──のような部分──を振るって、男がかろうじて受けるのを楽しんでいるように見えた。
その光景を見て、先ほど耳を劈いた絶叫を思い出した。アレは、この化け物の絶叫だったのではないか。馬乗りになったのにナイフをアスファルトなんかに突き立てた男。直後の絶叫。泥沼にはまる感覚と共に奪われたハイヒール。ハイヒールを奪ったモノが、本当は美智子を飲み込もうとしていたのだとしたら?
美智子には突然この男が正義の味方か何かに見えてきて、息を呑んだ。
化け物の攻撃を受けきれず、男がぐらりと傾いだ。ほとんど条件反射でその体を支えると、手のひらにべったりと何かが付着した。
「──すいません」
男は謝って、再び化け物に立ち向かっていく。何で逃げないのだろうという疑問は、自分の状況を見下ろせばすぐに答えを見つけられた。アレは化け物だから、化け物というからにはきっとこちらを殺そうとするに違いない。
男は腹から盛大に出血している。では何故そんな化け物から逃げないのか。簡単だった。男が逃げたら、標的は無防備にへたり込む自分になる。守ってくれているのだ。
「は──」
美智子は男を支えた事実を忘却していた自分に気づく。なんて間抜けなのか。あまりの事態に気が動転して、体が動くようになっていたことにも気付かなかったらしい。慌てて立ち上がろうとしたが、生憎そこまで自由には動かない。四つんばいの格好で不様に逃げると、駆け寄ってくる二つの人影を見た。
少年と少女。少年は両手に中華包丁のような無骨な刃物を構え、少女は左腕を淡く発光させている。少女は一直線にこちらに向かって走り寄ってきて──
「全て忘れて、家に帰りなさい」
パチンと、美智子の電源を切ってしまった。
***
殺せ。苦しい。
殺せ。頭痛がする。
殺せ。目が、見えない。
怯えきっていた女性がふらふらとどこかに歩いていくのを、霞む視界の片隅で確認して、志貴はようやくその場から離れることが出来た。
腹の傷が熱を持ち、呼吸をするだけで釘を突き刺されたような痛みがある。体を動かそうものなら、キリを腹に突き立てられ、それをグルグルと回されるような灼熱感を覚える。
それらを堪えながらアスファルトの上を滑り、志貴は化け物を睨み付けた。熱のせいか、再び視界を失おうとしているのか、狭く区切られた世界は今にもその幕を下ろそうとしている。歯を食いしばり、決して見失わないように影を捉える。凛と、先ほどの女性を飲み込もうとした影の本体を。
伸びてきた触手をナイフの腹で受けつつ、志貴は大きく跳躍し、化け物の背後に回る。そこから繰り出した一撃は、再び伸びた触手によって打ち払われる。逆に何本もの触手で攻撃され、防戦するしかなくなってしまった。
キャスターの強化魔術があれば、見切れたはずだった。避けられたはずだった。
「ク、ソ──!」
視界が霞む。足ががたつく。腹からは血が溢れている。それが昨日の傷なのか、今つけられた傷なのかも判然とせず、混濁した意識は唯一つの目的を目指して演算を繰り返す。
ここで視界を失えば、一瞬で嬲り殺される。決して逃がさないと注視した瞬間、志貴は血が鳴動する音を聞いた。
曰く、殺せと。
視界が狭い。視界が赤い。世界が遠い。
それでもナイフを走らせた。その、黒い布切れみたいな影に。
影は咄嗟にアスファルトに沈み、背後から薄っぺらい、紙じみた触手を伸ばしてくる。地面を這ってそれを避け、再び一閃した。感触は無い。ナイフはむなしく空を裂き──
「ク──」
再び背後に回った影の反撃を、辛うじて受け止めた。
衝撃で五十センチほど浮き上がった体はコンクリートの壁に激突した。ただでさえ遠かった意識が更に逃げていく。長いトンネルの向こうの光のように小さな視界。そんなに小さくなった世界でも、志貴のナイフは影の触手を防いでいた。
頭を狙ってきた触手を受け、足を抉ろうとする攻撃を辛うじて避ける。
あの得体の知れない体に触れてしまったらどうなるのか。背筋が凍るほどの恐怖感。殺せと命じる何かの声はそれに呼応するように大きくなり、まるで頭の中で鐘が鳴っているかのようだった。
懐かしい感覚があった。心臓を鷲掴みにされているような嘔吐感。かつてある人が本能的な衝動と説明したことがあるその感覚は、死の予感。
だが、いつまで経っても影の触手は志貴を捕えず、志貴のナイフも影を捕えられない。
おかしな話だった。影の力ならば、遠野志貴など一瞬で飲み込んでしまえるのに。これでは、まるで嬲り殺すのを楽しんでいるようだ。そう、憎い相手をとことんまで追い詰めるかのような……。
ふと、三日前の夜に見た怒りの形相を思い出した。ライダーを殺されて、怒りと憎悪に身を任せて攻撃してきた少女。名前を、間桐桜。
なぜそんなものが目の前の化け物と重なるのか。なぜ、あの大人しそうな少女とこの化け物を同じだなどと思ってしまったのか。
志貴は大きく跳躍し、影の間合いから逃れる。しかし、落下点には影がぽっかりと大口を開けていた。それは不可避だ。手がかりも何もない空中で方向転換できるほど、志貴の体は常軌を逸していない。己の迂闊さを呪いつつ、せめてその影を切り裂いてやろうと覚悟した瞬間、
「づ──ぁああ!」
視界が流れた。士郎の体当たりを食らったのだと気付く前に、再び塀に叩きつけられる。
「ぐ──この」
「無事か?」
「くそ、背骨が……変な音したぞ」
「死ぬよりいいだろ」
途絶えようとする意識を、痛みを感じ取ることで無理矢理に留めるが、決死の延命も然したる意味は無い。相変わらず目は殆どモノを映さず、代わりに線と点ばかりが見える。
チャンネルが閉じていく。遠野志貴を人間で居させてくれたチャンネルが閉じていく。残るのは、死界を視るだけの、無機質でグロテスクなチャンネル。
だが、だからこそ、その影の正体にも気付けたのだろう。なまじ外見を見られなくなったために、魂のかたちとでも言うべきモノが視える。故に、錯覚ではないと気づいてしまった。
泣き喚く少女の姿が見えた。
おまえが憎いと恨み言を口にする姿が見えた。
──よくも、ライダーを。
その声に、足が震えた。影は喋らない。口という発声器が無いのだから幻聴のはずだ。だが、志貴は震えて足を止めた。触手が左腕を貫こうと伸びてくる。それを弾く腕は、震えて動かない。
諦めて、死を甘受しようとするような志貴に痺れを切らしたのか、白い中華刀が触手を弾き飛ばした。
「志貴? おまえおかしいぞ」
志貴を庇うような背中が震えている。当然か、ときょとんとしたように相対する影を見た。
サーヴァントとは根本から違う存在。この影は怖い。人に恐怖を与えるためだけに存在するとでもいうのか、その異形な体躯も、空気を汚染する闇も、全てが怪物じみていた。
依然として震える体を辛うじて立ち上げた志貴は、三度深呼吸をして、士郎の脇に並んだ。化け物は相変わらずのんびりと腕をくねらせている。
遠野志貴は恨みを買った。サーヴァントなら殺しても平気だろうと、自分の事情だけでそう考えていた。ナイフを突き立てた感触は、
『わたしだって、すきでこんな体になったんじゃないんだから……!』
あのときと同じだったのに……。
ライダーはこの上なく人間と同じ感触を志貴に与えて、絶命した。妹を屋敷に待たせているからと、殺してしまったクラスメイトと同じ感触を与えて。
殺した。完膚なきまで完璧に。虚を突き、たった一撃で、最も苦しまない方法で。それが偽善だということにも気付かず、これできっと平穏に死ねただろうと、くだらない幻想を抱いて。
「ああ、とっくに気付いてた。俺はとんでもないエゴイストだから」
「聞いてるのか?」
「だから、間桐桜──」
士郎が目を見開く。恐る恐るといった風情で影を見据えるその瞳は、しかしすぐに志貴に返った。
「おまえ、何を……」
「俺はきみも……」
一瞬の静寂。
「きっと殺す」
影が慟哭した。確固たる敵対の意志を前にして、報仇できる喜びを噛み締めるかのような慟哭。夜の住宅街に響き渡り、空気を大地を揺るがすそれは、或いは涙を流せない苦痛を露にするようでもあった。
影が沈んでいく。いつかまた殺しに来る。それまで怯えて待っていろ。そんな、泣き笑いの声が聞こえたのは気のせいではないだろう。
「……どういうことだ」
影が完全に消え去り、滞留していた腐臭が消え去ると、士郎が低く押し殺した声で言った。黒い中華刀を突きつけてくるその顔は、置き去りにされている現実を悟ったらしい憤怒のものだった。
「なんで、桜の名前が出てくるんだ! それに、殺す、だと……? 間違ってもそんなこと言うんじゃねえ!」
両手の中華刀を投げ捨て、士郎の腕が志貴の襟首を締め上げる。一見華奢な体躯はその実鍛えられているらしく、志貴の力では抗いようもなかった。
「……四十六人殺してるとかは関係ない。邪魔をするなら殺すんだ……そういう人間だよ、俺は」
見れば遠坂凛も信じられないという顔でいた。見開かれた瞳が悲しげに揺らげば、彼女も士郎と同じく間桐桜の友人か知り合いなのだと知れたが、どうでもいいことだった。
強く締め上げられた首筋が悲鳴をあげ、何かがこみ上げてくる。すんでのところで嚥下した次の瞬間、自分が涙をこぼしているのに気付き、憫笑した。
頬を伝う涙はどこか粘着質で、
「──だめかな、もう」
血涙と知れた。
凛は縁側で頭を抱えていた。傍らの士郎に桜との関係を語って以降、二人に会話は無い。胸は収まらない焦燥に焼かれ、言いようの無い虚脱感は力を奪っていく。頼りない体を支えるのは、顔面を覆う両の手のみ。下ろした髪が顔を覆い、さながら幽鬼のような様相を呈しているのも、無理からなることであった。
血涙を流すという離れ業をやってのけた志貴は部屋に篭っているため、あの怪物を見て『間桐桜』と零した真意は定かではない。しかし言葉にされずとも、凛は全てを理解してしまっていた。
間桐桜は凛の実の妹である。この世でたった一人の血縁。たとえ外見を弄られ、間桐として馴染んでしまっていても、魂のレベルで書き込まれた『遠坂凛の妹』という情報だけは変わらなかったらしい。何せ凛もまた、あの怪物の内に、血の繋がった妹の鼓動を感じていたのだから。
「桜……」
これまで何度呼んだとも知れない名前を呟き、凛は前髪を巻き込むようにしてこぶしを握った。音を立てて抜けた髪もそのままにじっと目を閉じていると、叫び出したい衝動に駆られた。
黙っていれば、否が応でも四十六の犠牲のことを思ってしまう。あくまでも行方不明となっているが、犯人があの影なら、おそらく誰一人として生きてはいない。あの影はライダーが学校で展開した結界のような生易しいものではない。人を丸ごと飲み込み、骨も皮も全て養分にしてしまう。だから痕跡など残らない。いわば神隠しのようなものだ。
そんな外道な行いが、妹の手によるものだったとしても、凛は「堕ちたのか」程度の感慨しか抱かない。凋落した名門に養子として差し出されたときから、凛と桜の世界は隔てられている。遠坂と間桐。二つの家は決して混ざらない。桜が間桐の色に染まってしまっても仕方の無いことだと思う。立場が違えば凛がそうなっていたのだ。だから仕方が無い。先代が決めたことなのだから、そこに異を唱える資格はないし、間桐のモノとなった桜をどう扱おうと間桐の自由だ。
だが一つ、許せないものがあるとすれば、人を食う程の外道になるまで堕としておいて、その責任さえ取れない間桐の家そのもの。それではあまりにも、桜が哀れだった。
「遠坂、ありがとう。話してくれて」
「ううん。知っておいたほうがいいだろうしね」
士郎は志貴とは違い、完全に回復していた。眠っていた力が、この先時間をかけて修めるはずだった力を先取りした体が、それに順応してしまったのか。一度や二度の剣製ではびくともしなくなったのは、喜ぶべきことではない。それはアーチャーに近づいているということだ。全ての人の幸せを願いながら、数多くの人を殺した英雄。
衛宮士郎を彼のようにはしない。
アーチャーが全てを自白した日に、密かに誓った。
初めて気にかけた異性。それが恋だとは思わなかったが、愛なのかもしれないとは思っていた。遠坂凛は衛宮士郎に好意を持っている。それがいつからなのかは分からない。夕焼けの校庭を走る姿を見たときからかもしれないし、この戦争に彼が乱入してきたときからかもしれない。どちらにせよ、彼にアーチャーと同じ道を歩ませるつもりはなかった。それが、英霊エミヤが身をもって証明した遠坂凛の生き方だから。
しかし、と凛は呻吟する。恋だ愛だのより前に、肉親を何とかしなくてはなるまい。
この局面を乗り切れるのだろうかという疑問。それが、妹の罪を目の当たりにした瞬間に生まれた。
四十六もの命を奪った外道は、管理者たる自分自身で滅ぼさなくてはならない。実の妹を殺さなければならない。
それが、かつての志貴の悩みと同じであるとは知らずに、凛は煩悶するのだった。
違和感に眉根を寄せたのはそのとき。
「矢張り今代の遠坂の切れは一際よの。が、少々不安定と見える。何か悩み事かな、娘」
「誰だ、テメェ」
結界が作動しなかったことに少々の驚きを滲ませつつも、数日間の非日常は衛宮士郎をそれなりに鍛えたらしい。鋭く侵入者を睨む様はそれなりに堂に入ったものだった。
だがその点で言うのなら、遠坂凛は衛宮士郎より頭一つは飛び抜けていた。
指の間から炯々たる眼を覗かせた凛は、悩みや疑念の一切を忘れ、悪鬼もかくやという形相を庭に向けた。そこには異形が在った。老人、否、化生の類が粘ついた笑みを浮かべながら立っている。
その顔を知っている。桜がいなくなったあの日、遠坂の屋敷まで出向いてきた間桐の隠居。十にも満たなかった凛の心に強烈な嫌悪感を刻み付けた怪物翁。
「とっくに干からびてるかと思ってたのに、まだ生きていたの。長生きね──間桐臓硯」
「随分な言い草じゃのぅ」
「間桐──まさか桜の」
「衛宮の倅か……ワシは桜と慎二の祖父、ということになるかの」
凛は眉も動かさずにその異形を睨み付け、やおら立ち上がると懐から一本の刀剣を取り出した。テオフラトゥス・フィリップス・アウレオールス・ボンバトゥス・フォン・ホーエンハイム──天才医師パラケルススの魔剣アゾット。いつか兄弟子が気紛れで寄越したものだ。レプリカではあるが、近接戦闘を行うならば凛が持つ魔具の中でも突き抜けた性能を持つ。
単純なようで、その実高度な術式で編まれた衛宮邸の結界を素通りした化け物相手には心許無いが、それ以上の高揚感で凛は眩暈さえ覚えていた。
「やり合うつもりか、小娘」
何せ、灰燼に帰してやろうと思った刹那に、その相手が現れてくれたのだから。
「何を企んでるのか知らないけど。冬木のセカンドオーナーとして、何より遠坂凛として、あんたは見過ごせない」
「ほう、知ったようじゃな。行方不明者事件の犯人を」
臓硯は行方不明とわざとらしく強く発音し、粘ついた口を歪めて笑う。
「桜だっていうんでしょ。よくもまぁあんな薄汚い格好にしてくれたものね」
「薄汚い、か。それではあの子が泣く。それよりも、剣を下ろしてくれんか。争いにきたわけではないのでな」
濡れ雑巾を絞るような音と一緒に、臓硯が尚笑う。
「冗談──」
その醜悪な様子に苛立ちを覚えた凛は剣を下ろさなかった。
「──言ったわよ。あんたは許さないって」
地獄の釜の底からの声は、齢数百年の臓硯を以ってしても感嘆に値するものだったらしい。『ほう』と呼気を漏らした臓硯は、心底おかしげに腐った息を吐きながら笑った。
「傑作とはこのことじゃな。年端も行かぬというに、何たる覇気か。だが矢張り何か、見失っているようじゃな娘。確かに桜がああなったのはワシの責任でもあろう。じゃが、お主が成すべきはこの冬木で暴れている元凶そのものを滅すことだろうて」
「桜が許されない罪を犯したっていうなら、私は裁く。妹だろうと親だろうと、理から外れたモノは摘出する。それが管理者としての責務だから。けどその前に、わたしにも私憤がある。桜がああなるのを黙って見ていた外道をおめおめと逃すほど、わたしは割り切れない」
解いた髪が風に吹かれて靡く。
「外道とはまこと正鵠。確かにこの身は既に外れておる。さて、本題を話しても良いかの。ここでは難じゃ。散歩がてらにでも、と言いたいところだったのだが、どうにも殺気が沁みるな。そうまでして殺したいか」
凛は、当然とばかりに一歩踏み出した。
「話したいならそこですることね。内容次第では三途の川を渡るまで、幾許かの猶予をあげる」
凛の挑発とも本気とも知れない言葉に、臓硯は初めて怒りの片鱗らしきものを露にしたが、すぐに笑みを刻む。
「ならば独り言に興じるかの。一つ、桜は言峰神父の手中にある。奴等は儀式のために柳洞寺に陣取っておる。二つ、ギルガメッシュは言峰に裏切られ、敗北した」
それは、情報の正誤に関わらず凛と士郎を揺さぶるには最適な言葉だった。二人の関心を掴んだ実感を得た臓硯は、知らぬふりで続けた。
「さしものアヴェンジャーとはいえ、ギルガメッシュは恐ろしいと見える。ランサーと組み、真っ先に呑みおった」
「ギルガメッシュと言峰が手を組んでたってこと?」
「八体目というところで気付かなかったのが、お主等の甘いところよな。聖杯とて、八体以上のサーヴァントを現界させるのは不可能。にも拘らず八体目が現れたということは、どういうことかわかろう」
「……前回のサーヴァント、か。あの似非神父が、十年間隠してやがったんだな」
「頭が働くのう倅。言峰綺礼は十年前の聖杯戦争に参加し、密かにそのサーヴァントを隠し持っていた。そして此度もまた干渉してきた。ギルガメッシュを持ちながら、ランサーという駒まで得てな」
凛は焦点の定まらない瞳を中空に向けていた。
凛には言峰綺礼の魂胆が見えていた。兄弟子でもある言峰の嗜好が常人とは逆向きだということは知っていた。人の苦悩を至上の蜜として、迷える子羊を巧みな話術で絶望の釜へと突き落とす。そんな言峰が、何を思って桜の闇を暴いたのかなんて、考えるまでも無い。
凛と桜を殺し合わせる。
些か突飛すぎるかとも思った。大嫌いな人間とはいえ仮にも兄弟子だ。毎年誕生日には趣味じゃない服を贈りつけて来るし、今臓硯に向けている剣も彼から貰ったものだ。士郎以外で、本当の遠坂凛を知る唯一の人間でもある。それを殺せと言われたら、さしもの凛とて戸惑いがある。だからきっと言峰もそうであると考えたかったが、姉妹を殺し合わせるというのは如何にも言峰が好みそうであり、桜の脇で憫笑を浮かべる言峰の様がありありと浮かぶのだから、どうしようもないことだった。
「趣味の悪い……」
二人に聞こえないように呟く。
「それはいい……。あんた桜の爺さんなんだろ。本当にあの……アレが桜なのか。あんたならわかるだろ」
「間違いなく、アレは桜じゃよ。黒き聖杯として機能するために、聖杯の中身を使役し養分を集めている桜じゃ。中身は便宜上、アヴェンジャーとでも名付けておくか」
「黒き、聖……杯?」
「然様。アインツベルンの白き聖杯が失われた今、この地で聖杯足りえるのはマキリの桜のみ」
「桜が聖杯ってどういうことよ」
「言った通りの意味じゃ。この地の聖杯とはそういうものよ。外なる世界とこの世界とを繋ぐ架け橋じゃな」
臓硯がくつくつと忍び笑いながら、怒りに染まっていく士郎の顔を凝視していた。
「そう殺気立つでない。ワシも今回は見送るつもりであったが、いやなに、言峰綺礼に無理やりに起こされてしまってはどうしようもあるまい」
「あの姿を見てねえのかよ。アレが桜だってんだ。綺麗だった桜が、あんな醜いモノにされて。孫なんだろ! それがなんで笑ってやがる。こんなところに居ないで、助けに行くのが筋だろうがよ!」
「故に助けを乞いに来たのだが。情報は協力と交換のつもりじゃったが、お主等の殺気とくれば人を視線だけで射殺さんばかり。それではこの老骨は耐えられぬと見て、話したわけじゃ」
臓硯はあくまでも飄々としている。それが士郎を刺激するのだと気づかず、いや、気付いていて尚その態度を崩そうとしない。それは協力を仰ぐ者の態度ではなかった。
無論、凛は端から協力などする気はないだろうと考えていた。話に嘘が無いらしいところを見れば、真実を語って士郎たちを焚きつけようと画策したのか。
「しかし──」
何がしか続けようとした臓硯の爛れた頬が僅かに引き攣ったのに、凛が気付く。飄々としていた表情が僅かとはいえはっきりと変化した。苦汁か、驚きかに。
次々と明かされる事実に凛も頭痛を覚えていたが、臓硯がそんな顔をする理由など無いはずだった。あるとすれば、孫娘を殺す殺さないの際までやってきた自分自身への辟易か。と考えて、凛は愚かだと一笑する。この妖怪が、そのような殊勝な心を持ち合わせているとは思えなかった。
魔術師の外見年齢ほどアテにならないものは無いが、その中でもこの間桐臓硯は頭一つ飛び出している。慎二や桜など孫どころの騒ぎではないだろう。その前に『曾』がいくつつくかわかったものではない。
漂ってくる腐臭からそんな推測を立てると、老獪の様子は明らかにおかしくなっていた。頬は引き攣り、口元を忙しなく動かして何かを叱責しているような風情。
「どうかしたの?」
疑問に思った凛が問いかけると、臓硯はハッとしたように肩を震わせた。
「お主等、確か仲間をもう一人連れていたな」
「……さてね。どうだったかしら」
「惚けずともよいわ。ライダーを倒したキャスターのマスターに相違無いな」
「いいえ、違うわよ」
「……小娘、惚けるなと──」
「別に惚けてないわよ。ライダーを倒したのはキャスターじゃなくて、そのマスターの方よ?」
臓硯の顔が罅割れる。その反応を矢張り訝しみながら、凛は手首に巻いたリボンで髪を一本に纏め上げた。風呂上りで少し湿った髪は大人しく従う。
「成る程。そういうことじゃったか」
何か納得したらしい臓硯は、音も無く一歩下がった。
「手間を取らせたのう」
「待て、まだ聞きたいことがある」
「ならば明日、再びやってくるとしよう」
「待ちなさい」
踵を返そうとした臓硯を、凛は強い口調で押しとどめた。
「生きて帰れるとでも思ってるの?」
指先に凝縮した魔力は、既に臓硯の心臓に照準している。殺意を胸にした瞬間、間桐臓硯の体など一瞬で灰と化すほど強烈な一撃が放たれる。
臓硯は怯えるでもなく敵意をむき出しにするでもなく振り返り、小さくため息を吐いた。
「ワシの命に見合う情報はくれてやったつもりじゃが。まだ足りぬか」
ガラスを砕き、志貴が庭に飛び出してきたのはその瞬間だった。
「そら、化けの皮が剥がれてしもうたわ」
***
志貴は部屋で就眠すべく体を横たえていたが、庭先で話す凛と士郎の声が筒抜けでは、なかなか寝付くことが出来なかった。どちらにせよ、腹の鈍痛と頭痛は意識を覚醒させる。今度から眠りたくないときは体を傷つけよう。非常に効果的だと理解した。
志貴は咳き込みながら枕元の洗面器を口許に寄せた。洗面器は真っ赤に染まっていた。唾液と、胃液と、血液の入り混じった吐瀉物。喀血はドラマに見るほど大袈裟なものではなかったが、呼吸器に損傷の無い状態で血を吐く理由など見つからず、ひどい不安に苛まれた。癌? 馬鹿な。腹の傷が次々に内臓を侵食しようとしているに違いない。
幻想の類をこの腹に受けたのだから、未知の要素が絡んでいても不思議ではない。内臓が致命的なダメージを負っていることは、かすり傷の治療程度しかできない志貴にもわかった。
洗面器に綺麗な血を吐きながら、志貴は自分が置かれている立場を整理しようと試みた。
ギルガメッシュが敗れたというのなら、目的も一つに絞られてしまう。キャスターの発見、救出。それならば、この不様な体を押してまで聖杯戦争の決戦に臨む理由は無いが、聞き逃せないことがあった。
『桜はね、わたしの妹なの』
「は──どこかで聞いたことがあるシチュエーションだよ……」
良くできた──というよりご都合主義的な話だ。あの化け物──間桐桜が遠坂凛の妹だという。しゃがれた声は凛に殺せと言った。凛もそれを了解しているらしい。
馬鹿げてる。
そう思った。身内の不祥事だから身内が尻拭いをする。当然のように聞こえたが、それは本当に正しいのか。血縁を殺すなどあってはならないことではないのか。
一年前の記憶が呼び覚まされたのか、志貴は気分が滅入るのを感じた。自分は言い訳をしている。秋葉は殺してくれと頼んだ。シキはオマエの命を差し出せと言った。答えは決まっていたのに、どちらもできなかった。
「クソッ……!」
我が家から数百キロも離れた地で、こんな胸糞の悪い場面に出会うなど思いもしなかった。それを言うならばライダーを殺し、イリヤスフィールを死なせたことこそが悪夢であったが、志貴は妹、という言葉に敏感に反応していた。
同時に、空気が張り詰められたのを感じた。
──何かが居る。
洗面器に顔を寄せ、咽てえずく振りをしながら、志貴は注意深く周囲の気配を探った。包帯を外そうか。否、今外せばきっと気絶する。
足音も気配も感じなかったが、部屋のどこかに何者かが潜んでいることを確信していた。
気配も無いというのに、居ると確信してしまっている自分に辟易すると共に、これが妄想ではなく、本当に敵の襲撃なのだとしたら、自分に勝ち目は無いなと諦念も露に嘆息する。その吐息が鉄臭いのは、小一時間も喀血し続けたためだ。直死の魔眼の侵食は血涙を流させるほどだったが、腹部の穿孔もまた、じわじわと志貴を蝕んでいる。
どの道、居るはずなのに居ないなどという異常を纏う敵に対抗できる体調ではない。その異常がサーヴァントなのだとすると、退却すらままならないことになる。これまで相対したサーヴァントに、志貴が単体で打倒できる相手は一人もいなかった。
初めて見えたランサーの槍術はいつ突かれたのかさえ理解できず、その機動性は視界で追うことさえ困難だった。
柳洞寺で戦ったアーチャーは、完全な死角からの一撃さえ必殺には至らず。学園では苦杯を嘗めさせられた。
セイバーやバーサーカーなど、一太刀でも当たれば、部位に関係なく絶命させられていたに違いない。
ライダーは唯一対等に刃を交えられる相手ではあったが、キャスターが人形で偽装しなければ、あの宝具は崩しようが無かった。
ギルガメッシュに至っては言うまでも無いことだ。
誰もが人知を超えた何かで武装し、襲ってくる。ならばと、高々人間など物の数ではないという慢心に付け入る。或いはキャスターの魔術に頼って生き残ってきた志貴にとって、こうしてキャスターも居ない状況でサーヴァントを相手取るのは無謀。今すぐにでも逃げ出したいのだが、それを許してくれる相手でもないということは、気配さえ探らせないという事実が物語っていた。この敵は、遠野志貴を必殺すべくしてそこに在る。
凛と士郎が相手をしているのは間桐桜の祖父。そちらはこの襲撃を悟らせないための陽動なのだろう。凛と士郎の会話も全て筒抜けだったこの部屋には、しゃがれた老人のものと思しき声も聞こえていた。信じられない事実をいくつか知る羽目になったのだが、それはまた後だ。まずは生き残ることを考えなければなるまい。
針を刺されたような痛みがこめかみを襲った瞬間、志貴は布団を跳ね除け、畳を転がった。その際包帯を解いたせいか、片膝をついた体勢で、志貴は激痛に上体を跳ねさせた。幸いまだ目は見えた。余計な物も丸見えだったが、背に腹はかえられない。
「ヤハリ……気付イて、イたナ」
果たしてそれが声をあげたのは、矢張り志貴を人と侮ってのことだろうか。しかし、布団を被っている者が見せた些細な動揺さえ見逃さない慧眼は、一体どのような鍛錬から得られるものなのか。内心穏やかではないものを感じながら、志貴は出来うる限り平穏を装った。その胡乱な頭は、如何にして切り抜けるかを骨董品級の性能ながら最速で演算している。大人しく殺されれば、恐らく士郎と凛にも被害が及ぶだろう。
大声をあげてはいけない。士郎の性格からして、「逃げろ」と叫んでも悲鳴をあげても、何の備えも無く部屋に飛び込んできかねない。凛にしろ似たようなものだ。一見冷徹なように見えて、情に脆いところがある。それは、志貴を捕らえた日に殺せなかったことが何よりの証拠だった。
どちらにしろ、表も修羅場を迎えているようで、助けなど最初から期待できない。
「似テいル、ナ。心得ガアルか、ソレトモ……」
声は一点から聞こえてくるようで、どこか遠くから聞こえてくるようでもあった。拡声器のはっきりしない声がこだましてやまびこのように聞こえる。頭痛と心労で胡乱な思考回路がそうさせているのか、暗殺者の技能なのか。どちらでもいい、と天井を睨んだ頭が暗殺者という言葉を繰り返し、志貴はぎょっとした。
「アサシン、アサシンか?」
枕元に置いていたナイフを一振りし、刃を露にする。
「如何ニモ。ワタシはアサシン」
返答を得られるとは思っていなかった志貴は、悪寒が現実のモノとなった恐怖を噛み締めた。
サーヴァント・アサシン。一度に二つの疑問が解けたのは良いが、事態としてはより混迷を極める結果となった。
アサシンは死んだ。キャスターが志貴に黙って召還したアサシンは、キャスターを逃すために何者か──イリヤと相対したときのキャスターの反応を見るに恐らくバーサーカー──に殺されたはずだ。
仮に生きていたとしても、キャスターはアサシンを佐々木小次郎と言ったはずだ。ルールを破ったために、奇妙なモノがアサシンになったと言っていた。ならばこれが、飛燕を落とす剣豪──佐々木小次郎の戦い方だとでもいうのか。
「佐々木小次郎、なのか?」
志貴の呟きに、アサシンは蟲が鳴くような声をあげて返答とした。あざ笑う声。志貴は確信する。これは内臓を爆弾にされてもキャスターを救おうとした義士の声音ではない。日陰で血肉を啜る、自分と同じ外道の者の声。
「コジロウ、キキ──ヤつハワタシの血肉トなリ、今モこの胸ニ。キ──キキ」
アサシンが笑う。気配遮断のスキルを使っているのだろう、居所は定かにならない。だが確実にこちらを見据えている。
「行クゾ」
九体目のサーヴァント──アサシンはわざわざ告げた。瞬間、白い髑髏面めいたものが視界の片隅に映る。
志貴の体が飛び退く。その拍子に空の箪笥に肩がぶつかり、箪笥は大げさな音と引き出しを撒き散らしながら倒れた。息つく間もなく第二第三の攻撃が来る。それをすんでのところで回避しながら、志貴は外に出るか否かと思案した。
標的を外し、畳を突き破ったのはスコットランドのハイランダーに見る『Dirk』のような投擲ナイフ。これがアサシンの主武装だとするならば、狭い部屋の中では袋のねずみも同然。しかし、広いところに出たところで、遠距離武器の優位は変わらない。そもそもそのナイフの速度は、矢か弾丸かと見間違うほどなのだから、狙い撃ちにされる劣勢は変わらない。だが中庭に出れば、アサシンも面だけではなく、姿を晒すかもしれない。ならば、弓のシエルお墨付きの直感だけに頼るよりも、その方が勝率は僅かでも上がるかもしれない。
「──避ケル、カ」
志貴は投擲の合間合間をコンマ一秒の単位で縫い、襖を蹴破って廊下に出た。廊下と庭を隔てるもう一枚の窓も突き破ると、ガラスが雨のように降り注ぎ、手と言わず顔といわず全身を切り裂く。冷たい地面を転がり、途中で地面を蹴り付けて起き上がる。
「志貴──。臓硯、アンタ!」
叫び声を聞いた志貴は一瞬だけ視線をずらした。凛と士郎、見知らぬ老人。老人を見た瞬間、血液が沸騰した。放っておけばそちらに走りかねない体を叱責し、志貴は相変わらず姿を見せないままのアサシンを探す。
その間にもダークは四方八方から飛んできて、勘を頼りに避ける以外に、志貴に道はなかった。
投擲する瞬間だけ現れる白い髑髏面を頼りに。それと、自身に備わった危機回避の直感だけで回避したダークは、十本。足を掠めた一本は、弾丸の比喩に劣ることなく肉をごっそりと奪っていった。
激痛に喘ぐ暇もなく、今度は真正面に髑髏の面が浮かぶ。
「しまっ──」
僅かにぐらついた隙を見逃さず投擲されたダークは不可避だった。その数三。狙いは両目、そして心臓。ここにきて必殺を見せたのなら、志貴の奇跡的な回避もここまでだった。
体勢を崩している志貴に回避は出来ず、また迎撃しようにも弾丸三つを受け止める芸当は、キャスターの援護が無い今は不可能。故に絶命するだろう命を、しかし儚むこともなく、志貴は咄嗟にナイフを振った。
それで受けられるのは一本。奇跡的なタイミングを制すれば二本。だが一本はどうあっても避けようが無かった。コンマ一秒にさえ満たない時間の中で志貴は、心臓を狙う一本のみを迎撃すると狙いを定めた。
ギルガメッシュが敗北した今、キャスターを救うまで、この身は満足でなければならない。
見張りに出る前に屋敷に電話したとき、秋葉のことは翡翠に頼んだ。処刑に先んじて屋敷に来ていたらしい刀崎翁とも話した。「聖杯ではダメだった。自分が戻らなかったら秋葉を頼む」と言うと、残念そうに溜息を吐き「連れ去る協力はしよう」と小さく詫びた。
後顧の憂いは無い。志貴が死ぬことで秋葉が助かる可能性とて、まだいくらか残っているはずだ。だが、死ぬべき場所はここではない。キャスターの救出を。それと、せめて言峰神父とやらに一泡吹かせてやる。そう心に決めていたがための、決死の延命。
果たしてナイフは胸を狙ったダークを弾いた。しかし衝撃でナイフも弾かれ、片目だけでもという願いは露と消えた。
「“熾天覆う(ロー)──」
ダークが両目を貫き、眼底を脳髄を抉ろうとした刹那、士郎の怒声が聞こえた。腹の底から、痛みを堪えるようにして搾り出された声。
「七つの円環(アイアス)”──ッ!」
決死の呪文は、目映い光を纏って幻想を顕在させた。四枚の花弁。それによって守護された、英雄の盾。
志貴は我が目を疑う。アサシンも恐らく仰天していることだろう。ダークは展開された四枚の花弁の一つでさえ傷つけられずに、地面に叩きつけられた。
アサシンが動揺しているうちに体勢を整えようとした志貴は、しかし大きくよろめいてその場に頽れた。尻餅をつき、信じられないという顔をする志貴は、再び投擲された三つのダークを見、眉間に皺を寄せる。ダークは盾の真正面。
果たして三本のダークは甲高い音と共に弾かれる。アサシンは姿を見せずに、素早く移動しているらしい。かすかな気配でそう感じ取れた。
「やめさせなさい!」
「はて、斯様なサーヴァントに面識は皆無じゃて。如何にしてやめさせる」
攻撃方向の一つを潰してくれた。戦いは楽になる。だがそれ以上の問題が志貴に襲い掛かっていた。体が動かない。それどころか、意識まで途絶えようとしている。目蓋が重い。呼吸が荒い。何故。
四方に視線を走らせる。仮面が浮かんだ。髑髏の仮面が笑っている。
こんなときに、彼女が居てくれたらと思う。頼れる相棒。彼の魔術師ならば、きっと何かとんでもない『魔法』でこの場を切り抜けられるのに。
一言で彼女は空を焼き、大地を穿つ。夜空が閃光に包まれ、巨大な光の柱が縦横に走る。志貴に言わせればそれは魔法だ。その光を見れば、どんな苦境も乗り越えられる。この上ない安心感。彼女が背後に控えてくれていれば、地獄の釜にだって飛び込めるに違いない。
だが、今彼女はここにはいない。どこかで身を隠しているのか。或いは囚われているのか。左手に感じる令呪。最後の一画は弱弱しく輝いている。
胸に去来するのは無念か。無念が去来するとは我ながら可笑しい。今にもダークが殺到するかもしれない状況で、志貴は苦笑しつつ目を閉じた。諦めの行為。白旗。アサシンや老人にはそう見えたかもしれない。だが否。決して、遠野志貴は二度と諦めない。妥協は無い。次に志が折れることがあるならば、それは遠野志貴の死に他ならない。故に、この場は相応しい死地ではない故に、遠野志貴は刮目する。
体は動かない。目が霞む。内臓は腐り落ちようとしている。気を抜けば気絶してしまいそうだ。
それでも、気持ちだけは負けてはならないから。
右手だけを動かして、尻餅をついた格好のままナイフを掲げた。
「無駄ナ足掻キヲ」
「──間抜け。一つ残らず迎撃すればいいだけの話だ。おまえのソレは、金ぴか野郎の足元にも及ばないんだからな」
志貴の言葉は正しくない。数や威力の面で、確かにアサシンの投擲はギルガメッシュに劣るが、正確無比な命中精度と、射手が姿を見せずに常に移動を続けるという点では、ギルガメッシュよりも遥かに手ごわいと言える。
加えて今は強化魔術の加護がない。ギルガメッシュの投擲が見えたのも、避けられたのも、迎撃できたのも、五体五感の全てが強化されていたからだ。今の志貴にはダークの軌跡さえ追うことができなかった。
「自惚レルな、ニンゲン」
その通りだな。と志貴は思った。キャスターという英霊の技で昇華させられたならともかく、人間ではサーヴァントには敵わない。もしも届いてしまったとしたらそれは人ではない。
「人間相手に遠間からチクチクやってる英霊のセリフか、それが」
安い挑発だった。暗闇が揺らぐ。一度髑髏の面をあらわにしたアサシンは、虫のように甲高く鳴いた。そして、音も無く闇に紛れる。それが死刑宣告だとでもいうように、髑髏の残像を残しながら消える様に微かな戦慄を覚えた刹那、体が跳ねようとした。あくまで跳ねようとしただけ。志貴には跳躍する力さえ残っていない。
巡回中に出遭った相手が悪かった。そこで既に悲鳴をあげていた四肢が、アサシン相手の機動戦に耐えられるはずもなかったのだ。
ならば、機動戦など望まなければいい。視ろ。飛来するダークの死を。認識しろ。ソレも、殺せるモノであると。
脳髄がスパークする。派手な花火が頭の中で上がり、綺麗な花を咲かせる。大事な歯車が噛み合う。或いは致命的な欠陥が露呈する。
「シッ──!」
一閃。若干の苦痛。苦悶。落下するダーク。その向こうで、更に三つのダークを取り出したアサシンを見た。
「あ──」
罠にかかった。最早迎撃の構えも方法も起死回生の策も無い。
志貴が構える。虚栄心からではなく、心は負けていないという意思表示のために。空しい抵抗だったが、ただでやられる筋合いなど無い。
志貴は雄叫びと共に立ち上がり、ナイフを月に翳した。アサシンは志貴の投擲の構えを見、僅かに嘲った。
志貴もまた口許を吊り上げる。概念武装でもない七つ夜はサーヴァントにダメージを与えられない。そんなことは知っている。
視線をずらした、駆け寄ろうとしている士郎と、凛がいる。その奥。間桐桜の祖父だという老人が、凛に指を突き付けられていた。その姿を視界に納めただけで、血液が沸騰しようとする。血に刻まれた退魔衝動が、老人を膾に刻めとがなり立てる。
腕が振り下ろされる。刹那、やけに寒いなと、場違いな感想を得た。臓物から冷えるような寒気。どこかでこれと似た感覚を味わった覚えがあったが、思い出せない。
放り投げられたナイフは弾丸めいた速度で老人に襲い掛かる。だが、途中で甲高い音と共に、ナイフは迎撃された。志貴が投げたナイフに、アサシンはダークを投げ付けたらしい。出鱈目な性能に笑う暇さえなく、志貴は残る二本のダークに命を抉られるのを待った。
寒気の正体が姿を見せたのはそのときだった。
「キ──!?」
「グ、ラン、サー……じゃと」
「魔じゅ……キサマ!」
臓硯の体が一瞬で塵と化し、飛来してきた二つのダークは地面に叩き落されていた。志貴には何でもない動作にしか見えず、その背中が自分を守るように立ち塞がっている理由にも見当がつかない。寒気の正体がランサーの放つ殺気であるということ以外に、理解できることは何一つとしてなかった。
半分に割れたピアスを揺らして振り返り、蒼の騎士はその野性的な笑みを露にする。
「よう。久しぶりだな、小僧」
ランサーは正面に向き直ると、先ほど志貴が打ち落としたダークを一つ手に取った。
「良く避けたもんだ。アレはアレで一つの境地だからな。見込み通りの男だぜ、おまえ」
「なんで……」
「話は後だ。悪いが、いいニュースは期待するんじゃねえぞ」
刹那、ランサーの体が霞む。ランサーが跳躍するのと同時にアサシンは焦ったようにダークを投げつけ、自身は這うような走法で屋根から飛び降り、一直線に志貴を目指した。
髑髏面だけが闇夜で無闇に存在を叫んでいる。その仮面の向こうは容易く想像できた。鼻を削ぎ、頬骨を削ぎ、耳を切り落とした、完全な無貌がそこにある。
髑髏面が焦りを浮かび上がらせていた。ランサーの出現は想定外。主も殺された。逃げるか、果たすか。その二択を迫られているに違いない。そしてアサシンの答えは。
「殺ス」
後者だった。
標的は逃してはならない。どんな手を用いても、己の命と引き換えにしても、命を奪い取らなければならない。ダークを全て迎撃し、背後から己を追う必殺の担い手も無視して、標的だけを目指さなければならない。
志貴に迎え撃つほどの余力は無かった。口の中はまた錆臭い血液で溢れかえっている。それでも志貴はおきあがりこぼしのようにふらつく足を正そうとも、動かそうともしなかった。全身から力を抜き、脱力したままに拾い上げたダークを構える。それしかできない。だがそれで十分だった。アサシンはこちらに迎撃の構えがあると見るや、僅かにだが逡巡を見せた。速度は微塵も衰えない。逡巡とは、ダークで突き立てる部位をほんの僅か迷っただけに過ぎない。速度は流星。一瞬後には肉塊と化している自分が想像できる。だが死なない。アサシンの背後を、雷が追っていたからだ。
粗野で豪胆な印象を受けるランサーが、表情一つ無く疾走している。その無言の雄叫びを背中で受けながらも、愚直なまでに志貴を目指すアサシンも相当な剛の者だったが、雷から派生した新たな稲光は、最早語る言葉さえ無いほどの衝撃を伴って、アサシンの背に触れた。
貫かれては即死と悟ったアサシンが一際地面を強く蹴り、反転しようとした刹那、一条の光に過ぎなかった刺突が無数に枝分かれした。槍の雨。ギルガメッシュが無数の武具を以って雨を降らせるならば、ランサーはその名の通り槍一本で雨を降らせた。横薙ぎの暴雨。転進しようとしたアサシンは進路を塞がれ、ランサーに向き直るしかなくなった。
「傍観者ガ、事此処ニ至リ邪魔をスルカアァア!」
臓物ごと吐き出さんばかりの慟哭は住宅街に響き渡る。アサシンは向き直った瞬間に片腕を吹き飛ばされていた。暴雨の一滴が、巌を砕く一風が、大気を穿つ一撃が、人よりも優れた体組織を根こそぎに殺した。
血飛沫を顔面から被るランサーに表情は無い。無貌の威容はモノを見下すかのようにアサシンを睨み、瞳を閉じた。大地が萎縮し、大気が罅割れていく。世界すらも従えるとばかりに、奔放な印象の槍兵はそのバーサーカーにさえ適合する本性を露にした。
「その心臓、跡形も無く果てろ」
冷淡。冷徹。炎のような気性を持つランサーの本気。その眼は、視界に納めるだけで全ての生を殺したと言われる曽祖父に酷似。また太陽神である父が扱ったという貫くもの(ブリューナク)──魔城で得た魔槍は既に父のそれを超えてさえいて、
「“刺し穿つ(ゲイ)──」
死の眼で捉え、放たれる魔槍が必殺でない筈がない。
「──死棘の槍(ボルク)”」
果たして『稲妻(ゲイボルク)』が放たれるより前、
「“妄想心音(ザバーニーヤ)”」
アサシンもまた、異様なほど長大な腕を振りかざし、宝具を放った。
その手に呪いによって顕在させた心臓を握った。それは、あるはずの無いランサーの心臓。ランサーの神速の槍がアサシンの心臓を捕らえる一刹那前に、心臓を握りつぶすという行為は完遂される。
***
ランサーの槍は確かに速い。おまけに触れただけでこの腕を吹き飛ばすほどに強力だった。本来ならこの劣勢で勝負を挑みはしない。ならば何故挑んだのか。単純なことだ。時間がない。
アサシンのマスター、間桐臓硯は死んではいない。故に、ランサーを敵に回してでも直死の魔眼とやらを持つ人間を殺すという役割を果たそうと考えた。
それが間違いだったのだろうか。アサシンにとって本当の敵は、魔眼の人間ではなく、投影魔術を使う人間だった。
聖杯ごと殺されかねないと臓硯は言った。それは、アサシンとしても断固避けたい問題であった。群体としてのハサン・サッバーハではなく、個としての己を確立する。全てを神に捧げ、神のために殺し、神のために生きたアサシンの願い。そのために召喚に応じ、そのために再び殺すと決めた。
バーサーカーを一度殺し、辛うじて撤退させたアサシン──佐々木小次郎の内から生まれたとき、そう誓ったのだ。
だから、聖杯を脅かす輩を排除するために忍び込んだ。
ふと、アサシンは奇妙な言葉を思い出す。己から生まれるモノに食われる最中に、佐々木小次郎が口にした言葉だ。
「我が体内より生まれしおまえに、一つ良い事を教えよう」
小次郎は天を見仰ぎ、大仰な仕草で続けた。
「未だ成り切らぬ英傑に気をつけよ。ク──まことこの世は、世知辛い。が、故に、風流なものよな」
成り切らぬ英傑。何を世迷言をと断じた。仮にも英霊となったこの身が、生前無数の人間を殺してきたこの身が、英霊ですらない人間などに後れを取るものか。そう考えていた。だがどうだ。間違いなく宝具を放ったはずのこの体が、僅かな痛みによって仰け反っている現実。見下ろせば、矢が突き刺さっている胸。これでは死なない。死なないが、ランサーを前に仰け反ってしまうほどの隙は必死。
故に、敵は投影魔術の人間。ランサーの背後数メートル先で、弓を構えた人間だった。
名も知らぬ小僧。そんなモノに殺される気分は最悪だ。そう考えて、アサシンは可笑しくなってきた。
──私に殺された者もまた、こう思ったのだろうな。
槍が、心臓を貫いた。
***
項垂れる凛を遠目に窺う。腐臭を撒き散らす老人だったものに憐憫の情でも抱いているのか、その顔は一向に上がらなかった。
「わりいな、小僧。助けられちまった」
「気にするな。あんたが来なきゃきっと全滅してたんだ」
「後悔しなきゃいいがな……」
志貴は溜息と共に血を吐いて、その場に倒れる。この二週間と少しで、痛みへの耐性が随分ついてしまったらしい。ダークに抉られた足の傷が、まるで痛まなかった。
「瀕死だな、小僧」
ランサーの声がこちらを向いた。
「放っといてくれ……。それよりまさかアレを倒すためだけに、わざわざ出てきたんじゃないんだろ?」
「当たり前だ。言ってみりゃ招待状か」
「言峰からの、だな?」
士郎が憎憎しげに吐き捨てる。
「口の軽い蟲だ。その通り、コトミネからの招待状だ。刻限は明日の深夜零時。キャスターは預かってる。セイバーもな。ついでに言えば、サクラもだ。来いよ。来なけりゃ、皆死ぬぜ」
ランサーは体を沈めて、飛び去ろうとする。その背中が、ほんの僅かに躊躇した。
「シキ、だったな」
「ああ……」
「助けろよ。おまえ、死ぬなと命令しておいてほったらかしじゃ、男が廃るってもんだ」
「わかってる。アンタを卑劣な罠にはめてでも、助けるさ」
ランサーは頬を歪めて、夜の闇に消えていった。
***
「さっきは悪かった。頭に血が上ってたんだ」
「ああ……俺も思慮が足りなかったよ。昔、似たようなことがあったもんだから取り乱した」
志貴は体を引きずり、門を出たすぐ横の塀にもたれ掛かり、月を睥睨していた。とはいえ、包帯越しであの月が見えているはずも無く、ただ顔を夜空に向けているといったほうが正しい。
空を見たいという志貴に従った士郎も、門をはさんで月を見上げている。
「信じられない。信じたくもない」
「間桐桜のこと、か。彼女にとっては妹なんだろ、実の」
士郎は小さく肯く。
「それも知らなかった。アイツのショックは、俺の比じゃないんだろうな」
凛は部屋に引き篭もっている。妹のことで頭が一杯になっているのは、想像に容易い。
「厳しいね、肉親のそういうのはさ……」
「俺は桜が魔術師だったことも知らなかったんだから、ライダーのマスターだったなんて、予想もしてなかったし、考えたことも無かった」
「それがよりにもよって聖杯か。まったくふざけた戦争だ。願いも叶えられない聖杯なんて、食虫植物みたいなもんじゃないか」
「願いが叶わないって、なんで」
「キャスターが言ってたんだよ。この戦争で得られる聖杯は、そんなモノじゃないって」
「……確かなのか、それ」
「キャスターが嘘を吐く理由は無かった。イリヤも同じことを言ってたから、確かだと思う」
「何のために……何が悲しくてそんな無駄に命を賭ける必要があるってんだ」
「まったくだ。だから言ったろ、この戦争は聖杯なんて名前の蜜に集った虫を食べる、食虫植物なんだって。俺はまんまと誘き寄せられて、結局後退もできないところまで入り込んだ。溶かされる前に、やりたいことはやらせてもらおうかな」
志貴の自嘲に、士郎はふと疑問を抱いた。この男の目的は、何だったのか。聖杯では願いを叶えられないと知ってもなお戦う理由は、何か。
「志貴も、願いはあったのか?」
「あったよ。というより、今もある」
「聞いてもいいか?」
「そんな大層な理由じゃないよ。自分のためだからね」
「……なんだろうな」
「自分の間違いを無かったことにしたいんだ」
どこか遠くを見ているだろう横顔が、ほんの一瞬だけ正気を失い、危うい気迫を漲らせる。背筋が粟立つのを感じ、志貴から目を逸らした士郎は、聞こえない程度に舌を打った。
「……その間違いは、受け入れられないことなのか? 聖杯なんかを望んじまうくらいに」
「無理だね。秋葉は──妹を見殺しにはできない」
「妹が……」
呟いた士郎は、先ほどの生々しい感情の正体に気付く。遠野志貴は、こういった事態を経てこの場にいるのだと。
「俺のせいでもうじき死ぬ。俺がこの胸を貫いて、自分の命を差し出してれば、妹は助かった。でもできなかったよ。自分の命が惜しくて。死にたくなかった。あのときはもっと別の言い訳で頭の中がいっぱいだった。起きたときに俺がいないんじゃ秋葉が困るだの。結局死ぬのが嫌だっただけなのに……ああ、ほんと……馬鹿だよな俺は」
精々病気の類と推測していた頭を、横合いから思い切り殴りつけられる衝撃があった。
志貴の異常なまでの強さの一片を見せ付けられたような気がした。
志貴の言葉から想像できるのは、志貴はこの戦争以前も非日常に身を置き、今自分たちが味わっているような歯がゆさと憤りを、経験してきたのだということ。
妹のために全てを擲つ覚悟で挑んだ聖杯戦争。外道に手を染めてもおかしくないだろうに、道を外したキャスターを逆に叱り付ける。それだけならばまだしも、聖杯では願いも叶わないというのに、尚戦っているという矛盾。
「そんなに大事なのに、何でまだ戦ってるんだ? もうこの戦争を続ける理由は無いんだろ」
「そうだな……イリヤのほっぺは柔らかかったし、何よりキャスターは最高の相棒だから、かな」
真顔の冗談を笑うことはできなかったが、理由は聞いたようなものだった。つまり志貴は、イリヤスフィールとキャスターの敵討ちをしたいということらしい。ギルガメッシュという仇を失えば、その矛先は言峰綺礼に向くのか。士郎には、志貴が死にたがっているように思えた。
微かな矛盾を感じ相槌も打たずに顔を上げた士郎は、背後に待ち人の気配を感じて深呼吸をした。
***
時刻は午前三時。アサシンの襲撃からニ時間が経過していた。
間桐桜が聖杯だったという事実を知り、臓硯に恨みを抱いた。
桜を言峰綺礼が監禁しているという事実を知り、言峰を憎く思った。
そして何より、死ぬ直前に間桐臓硯が漏らした言葉が許せなかった。
『桜に聖杯の欠片を埋め込んだのは、ワシじゃがな』
「ふざけるんじゃないわよ……あの蟲爺……」
『桜を助けたければ、聖杯を破壊すればいい。桜は死ぬが、真に救われる道はそれのみじゃろうて。じゃがな、ワシを殺そうとした時点で、お主等の勝機は消えた。主等だけでランサーを殺せるか?』
「……黙れ……ランサーに殺されたのは、他でもないアンタじゃない」
聖杯戦争を終結させたければ、器を破壊してしまえばいい。士郎、凛、志貴。三人で同時に柳洞寺に乗り込めば、一人くらいは桜を殺せるかもしれない。だが、その役目を人に譲るつもりはなかった。冬木を阿鼻叫喚に変えようとする桜を処断するのは、他でもない遠坂凛にのみ許された権利。
そこには、元からアサシンの介入する隙間などありはしない。志貴を邪魔者として殺そうとした臓硯には、最初から死しか無かったのだ。
「誰にも、譲らない」
呟いた凛は、一度振り向いた。衛宮低の門に、凛は立っていた。明かり一つ無い木造の屋敷は、つい数時間前の死闘のことなど忘れて寝静まっていた。二人は気付いていない。再確認した凛は、僅かに寂寥を滲ませた顔を、門の向こうに向けて歩き出す。果たして門を出た瞬間「どこに行くんだ」と真横から声を掛けられた。
男は塀にもたれ掛かるようにして、凛を睨んでいる。よりにもよってこの男に見つかった不運を飲み込んで、凛は平静を装った。
「衛宮くんこそ。そんなところで何してるのよ。明日は決戦なんだから、寝ないと真っ先に死んじゃうわよ」
「それはお互い様だよ、凛ちゃん」
もう一つの声に、今度こそ凛は呆然とした。男二人で天体観測でもあるまい。読まれていた事実に自嘲し、頭を垂れた。
「お揃いってワケ」
「そんな物騒なもの持って、どこに行く気だ」
士郎があごでしゃくったのは、凛が強く握り締めたアゾット剣。言峰綺礼を殺すなら、これ以上に皮肉に満ちた得物は無い。
「久しぶりに家を見てこようかと思って。何か眠れないし」
まさか自分の行動が見透かされているとは露ほども思わず、堂々と握ってきたのが間違いだった。苦しい言い訳を、士郎は「へえ」と適当な相槌で受け流す。
「桜が聖杯だって、夢みたいな話だな」
「そんな綺麗なものじゃないわよ。つまるところ生贄なんだから」
「違う。夢なら覚めてくれってこと。おまえ、桜を殺すつもりなんだろ。そんなの悪い夢だ。姉妹で、殺しあわなきゃいけないなんて」
思いも寄らない言葉に大袈裟に反応してしまい、凛は慌てて顔を逸らした。
「衛宮くん、あなた気付いて……」
「管理者ってのはそういうことだろ。それに、そんな真剣な顔されたら、他に考えようが無い」
士郎の歯軋りの音が聞こえてくる。歪められた顔はひどく憔悴した風で、今にも壊れてしまいそうだった。
「何か、きっと方法があるはずだ」
神にも縋る哀願の声。それでいて、必ず助かると信じているようでもあるのだから、本当にこの男は得体が知れない。
「助からないとしたら?」
「おまえがそんなことを──」
「助からなかったら、わたしが殺す」
冷たい声が響いた。
殺す。実を言えばまだ実感さえ沸かないそれを、口にした。思ったよりも重い。殺すとはどういうことか。生命活動を停止させる。それだけで済むとは思わないが、想像していたよりも余程辛いことなのだと知らされた。
口にしただけで辛いのに、実際に妹を手に掛けてしまえばどうなるだろう。
知らず震えていた顎を、歯を噛み締めることで大人しくさせ、士郎を見た。視線は縋るようなものだ。彼なら或いは──。そんな希望を孕んでいる。
果たして士郎ははっきりと否定を目にこめて、「必ず助かる」と言い切った。その言葉を待っていた。しかし表情には出さない。遠坂凛の立ち位置はあくまでも、冬木の管理者であるべきだから。拙い希望は、彼に任せてしまえばいい。
「甘いわよね、ほんと」
「おまえだって、本当はそう考えたいんだろ」
凛は答えない。
「だったらせめて俺だけでもそう思うことにする」
凛は「そう」と気の無い風に返した。
「じゃあ、一つだけ言いたいことを言ってもいい?」
「ああ」
「ああ待て……俺は部屋に戻るよ」
志貴が苦笑顔で言っていた。その訳知り顔を思い切り殴りつけてやりたくなったが、それで死なれでもしたら困る。よろよろと瀕死の体を立ち上がらせた志貴は、深い溜息を吐いた。
「俺は、妹に殺してくれと頼まれたことがあるよ。見たよね、凛ちゃん。あの赤い髪の」
「ええ」
肯きを返しながら、凛は脈拍があがるのを感じた。
赤い髪。気になって書物を紐解けば、遠野はまさしく鬼の血を持つ一族だった。いわば幻想種と人間の混血児。鬼という魔の血は、遠野の子を苦しめた。俗に先祖還りと呼ばれる現象。志貴の妹も、遠野の血に負けて先祖還りしてしまったのだと、すぐに想像できた。
その妹に、殺してくれと頼まれた。
妹に──。
「……それで、貴方はどうしたの?」
「できなかった。情けないと思うか?」
情けない。と言えるだろうか。肉親を、いや、志貴は妹を愛していると言った。それほど深く繋がった者を殺せないことは、情けないことなのか。
鬼の血を持つものは、殺さなければならないだろう。遅かれ早かれ、間違いなく人を襲うようになる。そんな危険なモノを容認しない組織はいくらでもある。そもそも、以前話題に出た七夜という一族も、そういった『外れ者』を殲滅するための一族だ。
危険は排除する。それが理屈だ。
だが人は機械ではない。血の通った人間は煩悶し、苦悩し、震える。ならば、オマエの精神が脆弱だから殺せなかったのだと、志貴に言えるか。言えるはずがない。家族を無感情に殺せる者は、とっくに死人だ。
「悩むよね。よかった。情けないなんて言われたら、立ち直れなくなるところだった」
「でも、殺せって頼まれたんでしょ。なのに殺さなければ、その妹が苦しむんじゃない?」
「だろうね。でもそれでいいと思う。だって、俺は殺したくなかったんだ」
「……頑固って言われるでしょ」
「どうだったかな。一年近くまともに人と会話なんてしてなかったんだ。覚えてないよ」
手をひらひらと振って、志貴は門の向こうに消えていった。
「もしかしてわたし、励まされた?」
溜息を吐きながら士郎に尋ねる。
「さっきの会話、全部聞こえてたらしい」
「血の涙流すようなヤツに励まされても、胸がもやもやするだけだっての。それに、志貴の方がよっぽど悩んでるみたいに見えるのよね」
「苦労してるっていうか、言葉にできないほど大変だったんだなって、今の話を聞いて思った」
「どういうこと?」
「アイツ、板ばさみだったんだよ。両極端の」
緩慢な動きで玄関に入っていった志貴を見送りながら、士郎が言った。
「自分の命を絶てば、妹は助かるかもしれなかったらしい。でも、自分の命が惜しくてできなかったって」
「ほんと、全然慰めになってないじゃない、それじゃあ」
「でも、楽にはなったんじゃないか? 後押しされただろ」
「殺すな、ってことでしょ。真逆に後押しされたら、それは圧力でしかないってのに。まあ、桜の容態次第よね。戻れるなら、戻ってから償わせたほうがいいんだから」
つまるところ、志貴は逃げても良いと言っていたのだろう。だが、そう簡単に済む問題ではない。凛には責任がある。冬木を管理するものとして、外れた者を排除するという責任が。だから、退路など与えず四方八方を固めてくれれば楽だった。志貴は困難を与えたのだ。
「で、何だ? 言いたいことって」
「ああ──」
凛は大仰に天を見仰いだ。
「忘れちゃったわ」
三人が揃ったのは昼食時だった。士郎は明け方には目を覚ましていたらしいが、凛と志貴は昼前まで眠っていた。
いよいよ決戦とあってか、凛の睡眠は浅かった。明け方まで如何にしてランサーを打倒するかと策を練るのだが、悶々とした頭に浮かぶのは虫食いのような穴だらけのもの。どうあっても三人が無事に戻ってこられる姿を思い浮かべずに、尚更頭を抱える羽目になった。ようやく眠れたのは朝陽が街を照らしだしてからだった。
昼食は平凡なものだった。ハムエッグに味噌汁にご飯。昼のワイドショーを食い入るように見るものの、新たな被害の情報は無かった。
「タイミングが良かったってところか」
「みたいね」
凛が言いながら茶碗を差し出すと、士郎は文句も言わずにお代わりをよそった。
「志貴は?」
「俺はもういいよ」
「調子悪いのか?」
「たいしたことは無い。戦えるから、安心していい」
凛も士郎もその言葉を鵜呑みにはしなかった。
「血涙流して血反吐吐いて無事なワケないでしょ」
「そうだぞ。もし厳しいなら、俺達だけでも──」
「俺一人いて変わるものか怪しいけど、ランサーを相手にするんだから、一人でも多いほうがいいだろ。士郎君の台詞じゃないけど、邪魔なら囮にでもしてくれればいいさ」
志貴はすまし顔で味噌汁を啜る。その平然とした態度が気になり、凛は茶碗を置いて身を乗り出した。
「死ぬ気じゃないでしょうね」
「死ぬつもりは無いよ。死ぬかもしれないなとは思ってるけど」
同じことだ。凛は思った。平静を装ってはいる凛だが、内心ではランサーにどう太刀打ちしたものかと不安が渦巻いている。死ぬかもしれないなどと、微笑み混じりに言えるような輩は、死を享受しているとしか思えなかった。
「気持ち悪いこと言わないでよ」
顔を顰め、ご飯を掻きこむ。志貴は可笑しげに微笑していた。
「死ぬのは怖いに決まってる、だろ?」
「志貴の場合はそもそもそこが怪しいものね」
「だって、死ぬのが恐ろしかったから、俺はここで昼飯食ってる。でなけりゃ、俺はそもそもここにいないよ」
それもそうか。死を恐れていなかったのなら、志貴はとっくに死んでいたはずなのだから。
「死ぬのは無しよ」
「わかってる。そうしたいよ、俺だって」
志貴は音を立てて味噌汁を啜った。あと十二時間で生死のやり取りに出向くというのに、そののんびりした態度には苦笑するしかない。
しかし、凛も士郎も知っている。いざ殺し合いの舞台に立てば、彼は誰よりも殺すという行為に長けた存在と化すことを。まるで機械のように精密な動きで駆け回り、相手の急所──直死という究極の急所を穿つ。
ここまで静と動がはっきりした人間も珍しいだろうなと、凛は呆れと尊敬を半々に織り交ぜた視線を投げた。
「夕飯は力が出るものにするか。カツ丼とか」
「験を担ぐのも悪くないかもな」
志貴が苦笑顔で肯く。
「ったく、受験じゃないのよ?」
「なんでさ、気持ちの問題だろ」
逆に、ここまで動ばかりの人間も珍しい。彼の辞書には後退の文字は無いのだろう。信じたモノに向かって突き進む性格は、既にある男が証明している。それが、突き進む度に退路が崩れるだけだとしても、衛宮士郎は信じたモノを信じ抜く。
それが衛宮士郎の美点なのだろうが、それは誰かブレーキを掛ける者が居て初めて成る美点ではないだろうか。或いは、背後で崩れようとする道を押し留める者が。
「聞こえはいいけど、考え無しの猪突猛進か」
二人に聞こえないように呟いて、牛乳を煽った。
退路がないならば自分が退路になってやればいいと、凛は覚悟を決めていた。
***
蟲蔵の底を想起させる闇。蟲壺の方がまだマシだったかもしれない。闇としては、きっとこの場所は最上級。最上級の闇というのも変な話かな。桜はくすくすと笑って、掌を翻してみた。だが、何にも触れないし何も感じない。
「ここは、どこだろう」
誰にともなく声を出してみるが、矢張り返答は無い。当然だった。ここは自身の内面。暗く淀んだ間桐桜の心。言峰綺礼によって切開された、真実。
「わたし、こんなにまっくろだったんだ」
この場所に巣食っていた小うるさいじめじめした少女を遠くへ追いやると、暗闇以外は寄り付かなくなった。この体に光が残っていたことが不思議だったが、最早自分が誰だったかさえ思い出せないのでは、どうでもいいことだった。
今桜にあるのは追いやられた小さな絶望と、遥かに大きい希望の光。我が子が孵ろうとする喜びは、この世の全てに勝る。たとえその子が“この世全ての悪(アンリマユ)”などという名前だったとしても、母は何者も拒まない。
言峰神父も言っていたではないか。
「生まれる者を祝福せよ。さすれば母たるおまえも祝福される」
生まれてから一度も喜ばれなかった間桐桜にとって、それにも勝る喜びがあるだろうか。
誰かに求められる。穢れた自分が求められている。兄のような卑下た欲望からではなく、存在そのものを求められる。なんて甘美で、なんて愛しい。
だから今は力を蓄えなければならない。子を祝すために。■■■■の仇を討つために。
『俺はきみも、きっと殺す』
うるさい。桜は怒鳴る。救って欲しいなどと頼んだ覚えは無い。おまえはただの餌で、この手から先輩を奪った遠坂凛も餌でしかない。
「許さない。先輩も、遠坂先輩も、あの化け物も!」
桜は絶叫し息を荒くした。あの子が驚いている。どうしたの? と訊ねてくる。それに微笑みを返して、桜は歯を食いしばった。
追いやられた少女は、きっと■■てくれると信じて待っていた。
***
昼食を終えた後、三人はそれぞれ思い思いの時間を過ごしていた。志貴は部屋で布団に寝転がり、頭痛を噛み殺す。それは最早頭痛と呼ぶのもおこがましい代物へと変化していた。虫歯が顎ごと痛むように、頭痛は骨を伝って全身に伝播している。
一度目が見えなくなってからは、その痛みが志貴にとっての日常だった。士郎と凛が居る場所では何を推しても隠し通さなければならない。
志貴が戦えないと知れば、凛と士郎は志貴を置き去りにするに違いない。それでは二人が死ぬ。
それではキャスターを救えない。
彼女だけは助けなければならない。その後すぐに別れが訪れるとしても、キャスターに別れを告げなければ、この無謀な戦いを共に歩んでくれた相棒に「ありがとう」と言わなければ、イリヤの犠牲さえ無駄になってしまう気がして……。
昼食の席では辛うじて誤魔化していた。包帯を額から鼻にかかるほど大きく巻かなければ、浮いた脂汗によって容易く看破されていただろう。次に包帯を外したときに、目が見えているか。それさえ定かではない。
ランサーと戦うには、志貴はあまりにも不出来だった。走ることができるのか。あの槍を受け止められるのか。志貴の不調は間違いなく凛や士郎にも影響を及ぼす。あの二人ならば間違いなく庇う行動に出るだろう。
それでは、皆が死ぬ。皆が死んでは、意味が無い。
「一人で、行くべきか……?」
自問する。一人で行けば待つのは死。
それは正面から馬鹿正直に突っ込んだ場合だ。ランサーに気付かれずに柳洞寺に忍び込めば、或いは勝機も訪れるかもしれない。良い案に思えた。柳洞寺は特殊な空間だと以前キャスターが言っていたのを思い出す。サーヴァントが山門を潜らずに侵入した場合、能力をある程度セーブされることになるという。だがそれはあくまでもサーヴァントの話。人間である志貴には無関係だ。
「行ける……か」
キャスターやセイバーが囚われている位置さえわかれば、さほど難しいこととは思わなかった。忍び込み、二人を解放すればいい。
「それと、凛ちゃんの妹か……」
昨晩は、間桐桜の成れの果てに「殺す」と言った。遠野志貴はエゴイストだから、君の命までは背負えない。殺すつもりなら、相手をしてやる。だが彼女は凛の妹だった。
『約束してください。もし私が変わってしまったら。貴方の手で殺してくれるって』
不意に蘇った記憶が、胸を焦がす。なんでもないことのように呟かれた言葉が、抑えようの無い感情を呼び覚ます。
桜と秋葉。
志貴と凛。
あまりにも似通っている状況に、志貴は苦悶する。どうしてこの世界はこんなことばかり起こるのか。兄が妹を殺す。妹が姉を殺す。無意味で、悲しすぎる。そんな思いはさせられない。殺すことも、殺されることもあってはいけない。
遠野志貴は妹を殺せなかった。間違いだったのかもしれない。いけなかったのかもしれない。けれど、妹を殺すことなどできやしない。自分が死ぬのも恐ろしかった。嫌だった。どちらを取ることもできなかった志貴は臆病者かもしれない。だから後悔している。狂ってしまうほどに後悔している。
「だから、もう誰にも、こんな思いはさせない……」
「相変わらず無茶ばかり。学習能力がないのかしら……」
今度こそ志貴は体を跳ねさせて、首を扇風機のように回して、声の主を探した。だが、包帯で何も見えない視界が紫色のローブを映し出すことも、獣じみた五感が彼女の気配を感じることもなかった。当然だ、頭に直接響く声は、主従の証。
「キャスター?」
「ええそうよ。随分大変そうだけど、何をそんなに慌てているの?」
キャスターの声は憎たらしいくらいにキャスターの声だった。人を嘲笑うような上から見た物言いも、信じられないほど澄んだ声色も。
「おまえ、無事だったのか」
「無事といえば無事かしらね。志貴こそ、何か厄介ごとでもあるの?」
志貴は違和感に眉を顰めた。無事? 言峰綺礼に捕えられていて、無事であるはずがない。
「無事って、今どこに?」
「ふらふらしているけど。何かきな臭いことになってるようだし、ほとぼりが冷めるまでこうしているわ」
偽者か、と志貴は訝った。ならば、その目的は何か。
「志貴?」
「え? ああ聞いてるよ」
「まだあの小娘達と一緒なの?」
「恩人だからな。もちろん一緒に居る。そっちこそ、セイバーは一緒なのか」
「セイバー? いえ、彼女は見ていないわ」
何かが引っ掛かる。セイバーの居所も知らない、自分はどこかをふらふらしていると言う。あのアインツベルンの地獄から、どうやって生還したのか。また、何故連絡を寄越さなかったのか。何より、ランサーが『キャスターを捕えた』と嘘をつく理由とは何か。
考えれば考えるほど、このキャスターが偽者に思える。だが矢張り、何かが引っ掛かる。何が引っ掛かるのかわからないまま、志貴は相槌を打った。
「そうか。で、なんで今まで連絡を寄越さなかったんだ」
「それは……」
キャスターが言いよどむ。偽者確定か、と思った刹那、おずおずと口を開く気配を感じた。
「喧嘩を……していましたから」
「あ……」
あまりにも唐突で、まったく備えを用意していない言葉だった。それだけで、志貴はこのキャスターが偽者だなどという馬鹿げた考えを忘却の彼方に追いやっていた。
思えばあの日、イリヤが死に、バーサーカーが消え、志貴も生と死の狭間を彷徨ったあの日。アーチャーやギルガメッシュが現れなければ、志貴はそのまま三咲町に帰っていたかもしれない。キャスターに別れの言葉も告げずに、悩んでいた彼女のことなど考えずに、消え去ろうとしていたのだ。
「気まずくて。その、どうすれば良いのか、わかりませんでしたし」
あれ程身体を苛んでいた頭痛のことも忘れる衝撃が、志貴の頭を貫いた。
志貴は忘れてしまっていたのに、キャスターはずっとそのことで煩悶していたのだろう。心底落ち込んだような声色は、彼女の苦悩の全てを内包していた。
馬鹿者と自分を詰り、底まで堕落してしまったような忸怩たる気持ちになる。そんな、最低限のことも忘れるほどに、自分は没頭しているのか。情けない。あまりにも、無様だった。
「そうだよな、キャスター。ごめんな、キャスター……」
「何を……?」
「おまえが苦しんでるってわかってたくせに。俺はおまえがルール・ブレイカーを刺してくれることを期待してた。そうすれば帰れるって。一緒に戦ってくれたおまえを裏切ろうとした。俺は、おまえを貶めた連中と、同じだ」
志貴は慙愧し、頭を垂れた。罪悪感でいっぱいになった胸を八つ裂きにしてしまいたい衝動を堪えながら、志貴はキャスターの言葉を待つ。
「違います。貴方は違う。だからそんなことは、言わないで」
掠れるような声に、何かがこみ上げてくる。キャスターの意図がようやく掴めた。馬鹿。言葉にはしなかった。
「志貴、ですからとにかく、今は静観しなければ。今生まれようとしているものは、とても太刀打ちできるものではない」
「おまえを見殺しにできるか」
「志貴?」
「今も柳洞寺にいるんだろ。全部聞いてる。まったく、そう言えば俺が来ないとでも思ったか? そうは行くか。俺は、大事な人を見殺しにするのは、もう二度とご免なんだからな」
「な……! 来てはいけません志貴!」
キャスターは可笑しい。
「そういうの、墓穴を掘るって言うんだぞ」
けらけらと笑う志貴を余所に、キャスターは己の失態に気付き、激しく取り乱した。
「いけません。貴方はわかっていない。来ては……来てしまったら死ぬ。貴方はどこまで私の考えを踏みにじれば気が済むんです! いり──」
言葉が途切れる。
「キャスター?」
返事はない。何かがあったのか。
「いり……?」
何のことかと考えようとした刹那、忘れていた痛みが襲ってきた。頭痛と、内臓を掻き回す痛み。苦しみ悶える志貴は、頭の中で大音量の鐘の音を聞きながら、その中に混じる足音を聞き分けた。
「入るわよ」
「凛……ちゃん」
「ちゃん付けはよしなさいっての」
襖を開けて志貴を見下ろした凛は、眉をひそめてじっと志貴を見た。
「何かあった?」
鋭いなと苦笑した志貴は、溜息を一つ吐いて肩を竦めた。
「キャスターから連絡があったよ」
「……なんだって?」
「柳洞寺には来るなって。つまり、そういうことだ」
余計なことは言わずに、志貴は簡潔に話す。
「裏が取れたってこと」
頷き返す。凛は暫く考え込んで、やがて志貴の隣に腰を下ろした。
「ま、それはそれとして。治療が先」
「目は君の専門じゃないだろ」
「そうね。けど腹の傷は何とかできるかもしれない。あの突き刺さった剣がクラウ・ソナスだとしたら、キャスターに感謝することね」
Claimh Solais。ダーナ神族が秘宝の一で、不敗の剣の二つ名を持つ神剣。
「ギルガメッシュが剣を使いこなせてないってこともあるんだろうけど、多分キャスターの強化が随分大きな助けになってるはず。あと貴方、もしかして誰かと契約してる?」
「契約? いや、あ……妹、かな。秋葉に命を分けてもらってるらしい」
「それね」
凛は溜息を吐いて、志貴のシャツを捲りあげた。凛が確かに治療したはずの傷は、紫色に変色し、今にも腐り始めようとしている。
「衛宮くんが言ってたから間違いないと思うんだけど、宝剣クラウ・ソナスなら標的は逃げられない……つまり死ぬっていう呪詛が付加する。けど、貴方は二重三重の加護によって守護されていた。そこで殺せなかった呪いが、懲りもせず殺そうとしてるってわけ。わかった?」
「大袈裟な武器を持ち出したもんだな……」
腹をさすると、激痛が走った。神様の持ち物にしては、生々しい能力があったものだと皮肉げに笑う。
「裏を返せば、そんなものを抜かせるほどに、志貴が手強かったってことでしょ」
「買い被りすぎだよ。それに、敵はランサーだ。ナイフを当てる隙なんか、あるかどうかも怪しい」
「助けなきゃよかったわね」
笑いながら首を振る。
「そういうわけにもいかないだろ、あの場はさ」
膨れる凛を横目に、ランサーの去り際を思い起こした。
『助けろよ。おまえ、死ぬなと命令しておいてほったらかしじゃ、男が廃るってもんだ』
不思議な言葉だった。志貴を煽る言葉。それほど遠野志貴や衛宮士郎と戦いたいのか。そんなはずはない。遠野志貴は実力で言えば遥かに格下。というよりは、小学生が格闘家と真剣勝負をするのに近い。そんな戦いを面白いと感じるほど、ランサーの性根は曲がってはいまい。つまり、ランサーが志貴を焚き付ける必要はない。
「わからないな」
「え?」
「こっちの話」
「そう、じゃ治療するわよ。少しは楽になるだろうけど、完全にとなると難しいから」
「わかった。ところで、士郎君は?」
「道場で素振りしてるみたい」
***
莫邪が風を切る。額からこぼれる汗を拭って、傍らのペットボトルの水を一息に飲み干した。
冷たい空気は心を清廉に保ってくれる。それでも、これからの死闘を思えば嫌でも心が乱れた。柳洞寺にはセイバーが囚われている。そして、敵はランサー。昨晩命を救われ、救った相手。
『後悔しなきゃいいがな』
ランサーの台詞だった。確かに、士郎が手を出さなければ、ランサーは心臓を破壊され死んでいただろう。だが、士郎は後悔していない。それでよかったと、誰かが心の中で同意してくれている。
「投影、開始(トレース・オン)」
士郎は両手に再び干将莫邪を投影した。熱が下がって以降、投影の成功確立は鰻上りだった。干将・莫邪の投影ならば、ミスはほとんどない。凛に言わせれば「アーチャーが生涯愛用した武器だから」だそうだが、ではアーチャーは何故干将・莫邪を愛用したのか。
扱い易くはある。だが、この剣でなければならない理由があったのか。決して離れない夫婦の絆が篭められた剣。何故、あの英霊はこの剣を選んだのか。
「わかるわけないか」
ふと格子の向こうを窺った目が、信じられないものを映して、士郎は戸惑った。
「空が赤いって……夕方か?」
見れば服は汗で水浴びでもしたように濡れている。数時間も素振っていた事実に戸惑いながら、士郎は道場をあとにした。
廊下を歩き、自室の隣の部屋の前で立ち止まる。中では凛が志貴の治療をしているはずだった。
「遠坂、志貴、いるか」
「衛宮くん? どうしたの?」
「買い物に行ってくるから、留守番頼む」
しばらくの間のあと、襖が開けられる。
「買い物って、夕食の材料?」
額に玉の汗を滲ませ、僅かに頬を上気させた凛が言う。とろんと蕩けたような目と、大きく上下する胸に思わずどきりとして、直後小さな痛みに胸を刺された。
「ああ」
脳裏を過ぎった下世話な妄想を振り払い、平然と言った。
「冷蔵庫の中のもので大丈夫じゃないの?」
「いや、豚肉なんかは買い置きしないだろ」
「ほんとにカツ丼にするつもり?」
凛が笑う。その笑みは何故か艶かしい。暗い部屋と差し込む斜陽のコントラストは今の彼女をひどく妖艶に映した。少女と大人。陳腐。けれど幻想めいた曖昧さで、笑みを浮かべる凛が別のものに見える。
士郎は遠坂凛に憧れていた。誰よりも美しく、誰よりも頭がよく、誰よりもスポーツが得意。多少主観が入っているのかもしれないが、遠坂凛とは衛宮士郎の中でそういった完璧な人として認識されていた。
暗がりで凛とたった二人で居た志貴に、憎しみにも似た感情を抱いてしまうのは何故なのだろう。それは憧れなのか。それとも恋なのか。
「じゃあ、行ってくる」
浮かんだ思いを否定して、士郎は平静を装って言った。
「行ってらっしゃい。楽しみにしてるわ」
屈託の無い笑顔を向けられ、再び胸に痛みを感じた。「ああ」と笑顔で返しながらも、士郎は一抹の寂しさを感じていた。
士郎が立ち去った後、凛は暫くその後姿を見送っていた。微笑ましげに見つめる志貴には、気付きもしない。
「青春、万歳」
凛が飛び上がりかねない勢いで振り向く。
「あんたね、親父臭いのよこういうときばっかり。半死人なんだから、それらしくしてなさいっての」
志貴は微笑を浮かべていたが、その顔は真っ青だ。凛が汗まみれなのは、志貴の容態が想像より格段に悪かったことに起因する。
何故生きていられるのか。凛の感想はそこに尽きた。
それでも、宝具レベルの呪術をある程度相殺した凛の実力は、矢張り相当のものである。
「今凄く睨まれた気がするよ。心配には及ばないのにな。凛ちゃんは秋葉にどことなく似てるし」
妹を愛してるとか言う人間の言葉じゃない。凛は嘆息した。
「それを聞いたらわたしが不安になったわよ」
「ああ、そっか」
志貴は苦笑していたが、凛は笑おうとは思わなかった。無理矢理に笑わされても、空しいだけだ。何より志貴の容態を現状誰よりも理解している凛を前に、虚勢を張る必要などない。
「無理しなくていいわよ。喋るのも辛いんでしょ」
それで、志貴の相貌が凍った。無理に浮かべていた笑みは卑屈に頬の肉を吊り上げるだけになり、歯の隙間からは苦悶の吐息がこぼれる。
「正直に言って欲しい」
志貴は慎重に前置きした。
「今夜勝てたとして。俺は、あとどれくらい生きられる?」
「明日死ぬかもしれないけど、そうね、半年──それだけ保てば奇跡よ」
──今夜、傷を受けなかったとしたらね。
凛はそう付け加え、深いため息を吐いた。
志貴は反応しなかった。凛の目には、長いと感じているのか、短いと感じているのかも判然としなかった。
「ところで」
志貴が再び下世話な笑みを浮かべた。
「告白しないの?」
「今夜にでもね……」
「え……?」
「あ……」
***
商店街の八百屋で玉ねぎ、切れかけていたみりん、三つ葉。肉屋で豚肉を買い、帰路を歩く。商店街は主婦で溢れかえっている。今夜生死を賭して戦おうとする少年少女のことなど知らずに、口々に行方不明者のことを語りながら、それでも時折笑みを零す人たち。
それが平和。彼女達の平和を乱さないために、今夜自分達は戦うのだ。士郎は奥歯を強く噛み締める。
街に満ち始めた何か。聖杯戦争以前では、気付けたかどうかも怪しい。だが、今の士郎にはその怪異に気付けるだけの実力が備わっていた。
ショートカット。本来経るべきモノを省略し、容易く一つの境地にたどり着こうとする矛盾。未来の己を視るということで実現したそれは、この先士郎を蝕むだろう。
夢に見たセイバーの赤い丘。それとひどく酷似した心象風景。あの英霊にとっての莫邪は、セイバーだったのか。
「だから、考えてもわからない」
再び囚われようとした心に悪態を吐いて、士郎は強くアスファルトを蹴って歩く。
心が荒んでいる。こんなにも不安定なのは初めての経験で戸惑う。頭にちらつくのは凛の屈託の無い笑みと、志貴の凍えた眼。
ふと気付き、士郎は驚嘆した。
「…………妬いてるのか、俺」
奪われたように感じている。それは勝手な妄想だ。元々遠坂凛は自分では手の届かないところにいる存在なのだから、彼女が誰を好きになろうと関係はない。なのにそれを許容できないほど彼女を恋しく思うことが、信じられなかった。
「病んでる。なんだってんだ」
少し前までの士郎なら、むしろ祝福しただろう。遠坂凛はあくまでも憧れの少女で、衛宮士郎はただの少年。二人に共通項は何一つなく、一成あたりにそんな話を聞かされても、いいことじゃないかなどと言ったに違いない。
しかし、今の士郎にとって、凛の存在は大きすぎた。命を救われ、優等生の皮を被ったあくまだと知って、共に戦った。そうした出来事を乗り越えるうちに、士郎の中で彼女の存在は大きくなりすぎていた。
彼女を失いたくないと、思ってしまうほどに。
暗澹たる気分で歩いていると、いつの間にか玄関の取っ手に手をかけていた。一呼吸して引き戸を開けて、中に入る。
「おかえり」
凛が居間から顔を出している。思わず目を逸らしてしまってから、「ただいま」と小さく返した。
「志貴はもういいのか?」
「よくない。でも、わたしにできることは全部やったわ」
「よくない……って」
「長くは保たないってことよ。魔眼は暴走してる。呪いの方は辛うじて進行を抑えられたけど、どちらにしろ魔眼の侵食が強すぎて……」
「そう……なのか」
凛のことで蟠り──士郎が一方的に感じているだけだが──があるとしても、志貴が長くないと聞かされて良い気分にはならない。憎くは思わず。憎からずとも思わず。過去を引き摺る生き方は、士郎の理念とは相反する。それでもこの二日助け合った身としては、愛惜があった。
「何とかならないのか」
士郎は材料をまな板の上に並べながら言った。凛は居間でテーブルに突っ伏したまま、間延びした声を出す。
「難しいわよ。あんなに強力な魔眼なんて見たことないんだから。それこそ、あの女王メディアくらいのレベルじゃないと。延命の呪術まで使うって伝承があるし」
「メディアって、キャスターだろ?」
柳洞寺で戦ったアーチャーはそう推測を立てたと、凛が言っていた。
「ええ、志貴にも確認取ったわよ」
「よく教えてくれたな」
「隠す理由なんて、もうないでしょ」
それもそうか。士郎は頷いて、凛に続きを促した。
「だから、志貴を生かしたいならキャスターに何とかしてもらえばいいんだろうけど、戦争後も現界させるのは、志貴じゃ厳しいわね」
「志貴は魔術師じゃないんだよな?」
「ええ。けど魔力はある。けど、何て言うのかな……方向性が違うのよ。簡単な言い方をすると、魔眼を作動させるための回路、って感じ。もちろん修行すれば魔術は使えるようになると思うけど」
「直死の魔眼に魔術……? 怖いもの無しじゃないか」
「だから、その魔眼が命を削ってるんでしょ。確かに強力だけど、過ぎた力は術者を蝕む。それは超能力者にも言えることよ」
推測なんだけど。と凛は前置きする。
「志貴は今まで魔眼をある程度セーブするのに、魔力を無意識に使ってたんじゃないかなって。その魔力をキャスターに吸い上げられることで急激な侵食が始まった。あそこまで酷い状態になることは小学生の時以来だそうだし。身体が成長して、魔力の指向性が定まったとしたら……。どう? 結構良いセン行ってると思うんだけど」
「その話は正直どうでもいいんだけど」
凛がムッとしたように膨れた。
「遠坂、戦争が終わった後、おまえならサーヴァントを現界させられるのか?」
「現界させるだけならできると思うけど」
「なら、キャスターと契約できないか」
凛が頬をかく。
「志貴はいらないって」
「え──?」
「妹の安全を確保できる時間があればそれでいいって。志貴も誰かさんに負けず劣らず頑固だから。それに、キャスターってアレ、わたしの言うこと聞きそうにないでしょ」
志貴のために単身遠坂邸に乗り込むくらいだから、志貴のためならば喜んで契約するかとも思ったが、志貴が拒否しているのでは意味がない。だが──
「アイツにとって、それは望む結果じゃないんだな。アイツは笑えないんだな」
凛は目を丸くする。
「妹の安全を確保っていうのは、どう考えても妥協案でしょうね。本当は一緒にいたいはずなんだから。だからまあ、望む結果ではないと思うけど?」
「そうか」
士郎は息巻いて、夕食の準備に取り掛かった。
***
ゆったりと漂ってきた芳醇な香りに誘われるように、志貴は居間にふらふらと現れた。テーブルの上には、狐色の衣を綺麗に卵でとじられたカツが、ご飯の上で湯気をあげている。ふりかけられた三つ葉が、綺麗なアクセントになっていて、実に食欲をそそる。
とはいえ、志貴は匂いで判断するしか無いのだが。
「調子はどう?」
テーブルにちょこんとついた凛は、どこか緊張した声で言った。
「ああ、よくなった」
──昼と比べればね。
声に出さず呟いて、それでも志貴は凛に感謝した。腹の中が腐り落ちていく奇妙な感覚はこれまで味わったことの無いタイプの痛みで、非常に耐え難い。それが純粋な痛みに変化しているのだから、ありがたいことだった。
「外傷は消えたから、すごく良い感じだよ」
アサシンのダークで穿たれた足も、微細な違和感こそあるものの完治している。
「そう、良かった」
ホッとしたような凛に笑いかけて、台所でエプロンを着けた士郎に視線を移す。
「美味そうだね」
「きっと美味い。気合入れて作ったからな」
お吸い物をお碗に注いだ士郎は、お盆にそれを乗せてやってくる。
士郎が座るのを待って、三人で手を合わせる。やけに長い「いただきます」の号令のあと、無言でカツ丼を頬張る三人には、奇妙な迫力があった。
食べ終わった時刻は午後八時。凛と士郎が皿洗いをして、志貴はナイフを手持ち無沙汰にいじっている。あと四時間で、決戦の地──柳洞寺に乗り込む。キャスターとセイバー、凛の妹が囚われている地。ふと、どうやってセイバーとキャスターを捕らえているのかと疑問に思った。
ランサーにいまだ見ぬスキルがあるのか。それとも言峰神父にそういった技能があるのか。だが、志貴の脳裏を過ぎったのは、ギルガメッシュの鎖だった。あの鎖ならば、弱ったセイバーやキャスターを捕まえておく程度、容易く成し遂げるだろう。
言峰がギルガメッシュを裏切った。ランサーを用いてギルガメッシュを討った。
それが事実でなかったとしたら。今夜の敵がもう一人増えることになる。より厄介で、しかし心を揺さぶる敵が。
「じゃ、言わせて貰う。わたしは言峰とランサーを討つ。何をしようとしてるのか知らないけど、一般人を巻き込んだ時点で、粛清の対象だから」
いつの間にかテーブルについていた凛の言葉だった。志貴と士郎は静かに頷く。
「わたしの武器は魔術。それと綺礼相手なら、魔術でブーストすれば多少なり肉弾戦もできる。宝石の攻撃は、志貴にも脅威を与えたはずだけど」
言われて、志貴はアインツベルンの森で戦った彼女が握っていた宝石を思い出す。閃光の中、何をおしても放たせてはならないと覚悟させるほどのモノ。
「そうだね。アレは肝を冷やした。じゃあ俺か? もちろん戦う。キャスターは、助けないと。それに、凛ちゃんの妹なんだろ、あの桜って子は。なら絶対に助けないと。それはそれとして、直死の魔眼くらいかな、特別なモノは」
士郎が息を吸って、吐く。
「貫けなんて言葉を遺して逝ったヤツがいる。戦うと決めたときに、最期まで付き合う覚悟はできてるさ。桜は助けたい。意地でもな。俺の武器は投影。剣ならいくらでも複製できると言いたいところだけど、元々魔力が少ないからそうぽんぽんとは出せないみたいだ」
「前から疑問だったんだけどさ。あの剣、アーチャーのモノと同じだよね」
「そう……ね。衛宮くんは」
「いい。俺が言うよ、遠坂」
士郎が真っ直ぐな目で自分を見据えていると、志貴は感じた。少し背筋を伸ばして聞く体勢を整える。
「アイツは、俺の一つの可能性だった」
それだけで、十分といえば十分だった。志貴は「そうか」と呟いて、英霊にまで至る可能性を秘めた男の死を思い出した。
全身の至るところに穿たれた点。死にやすい、どころの話ではない。志貴が戯れに触れれば、それだけで衛宮士郎は死にかねないほど、全身に存在する点。それは、本来一つであるべきだ。死とは終着なのだから、一つしかありえないはずなのだ。だというのに、それが全身にあるという怪異。推測だが彼は英雄として、死を乗り越えるほどの活躍を必要とされるということなのか。運命にさえ抗い、死さえ退けて生きる。それが、幸せといえるのか。
居間の空気が淀む。誰もが不安だった。ランサー──クー・フーリンという大英雄を、サーヴァントも無しで倒さなければならない状況に。
ついでに言えば、三人が顔をあわせることも、恐らくこれで最後になる。三人のうちの誰もが、三人の生還を絶望視している。三人のうちの誰かがセイバーやキャスターに到達できれば、勝利も夢ではなくなる。だがたどり着くとは、誰かを犠牲にランサーを押し留め、生き残った者が……という意味だ。
「ランサーは俺が受け持つよ」
「は? 一人でか?」
士郎が目を丸くしている。
「その隙に、二人はセイバーとキャスターを解放してくれ。セイバーとキャスターが揃えば、ランサーを倒せる」
「何言ってんだ。それじゃおまえが死ぬだろ。駄目だ」
士郎は猛然と抗議してくる。志貴は助けを求めようと凛の方を見たが、どうにも彼女から生気を感じない。
「凛ちゃん?」
「え? なに?」
ひどく慌てた様子に、志貴だけではなく士郎まで首をかしげた。
「考え事か? 遠坂」
「うん。もしかしたら、衛宮くんと志貴でランサーを倒せるかなと思って」
「なんだって?」
「うん、でも……その……ね?」
凛の様子は明らかにおかしい。その態度に、志貴はある閃きを覚えた。赤い世界。学園で見たあの世界。アレは、どうなのか。
はっきりしない凛の態度に疑問を覚えながら、志貴は士郎が出したお茶を啜る。
凛の動揺。アーチャーと士郎が同じ者。けど、魔力が足りない。魔力が足りないのなら、誰かが補って──。
「ああ、そういうことか」
「何がそういうことなんだ?」
士郎が尋ねてくる。
「いや、俺と士郎君ならなんとかなるかもしれないって話だよ」
「なんだ、俺だけわからないのか。悔しいぞ、なんか」
凛はおそらく烈火の如く志貴を睨みつけていることだろう。きっと、凛の中ではずっとどこかにあった案なのだろう。だが、口にするのは憚られる。当然か。と志貴は緩む口許をなんとか引き締めながら思った。
「少し、散歩してくる」
「は、え? あ、志貴!?」
凛のよくわからない叫び声を背中に聞いて、志貴は部屋をあとにした。門を出て、塀に背中を預けた瞬間、
「ち、ちょっと待てーーーーーーッッ!!」
そんな、士郎の叫び声が聞こえてきた。
志貴は苦笑して、もう少し離れた方がいいか、と立ち上がる。
志貴は羨望のようなものを感じていた。また、ある覚悟も決まっていた。死なせるものか。あの二人も、その妹も。誰も死なせはしない。決して、見捨てはしない。救ってみせる。
それは、衛宮士郎に少なからず感化された意志だった。この戦争が始まったとき、全てをの悪を容認するほどの覚悟を決めていた遠野志貴はもういない。悲しいくらいに狂っていた遠野志貴はもういない。
キャスターと共に戦い。衛宮士郎と出会い。英雄達の生と死を見てきた中で、本来あるべき貴い志を見出していた。瞳に迷いは無い。たとえこの先に楽しく笑える未来など無いとしても、未来がある者たちを、死なせることだけはできない。
たとえこの感情が今だけのもので、聖杯戦争が終わればまた狂うとわかっていても、忘れてはいけないモノなのだと思う。今夜、遠野志貴は死ぬかもしれない。けれどそれで、未来を得ることができる人たちがいるなら、後悔など無い。
「秋葉──お前を助けられないかもしれない。けど、もう俺達みたいな想いは、誰にもさせないから」
言い訳と言われようと、逃げだと言われようと、笑える未来を持つ人たちを救うために命を懸ける。
遠野志貴は、覚悟を決めた。
あても無く、月夜の街を志貴は歩き出す。弱弱しい背中を、堅固な意志で塗り固めて。
凛の瑞々しく白い肌は熱気を帯びて薄桃色に染まっている。その肌に触れただけで、士郎の脳髄は蕩けて鼻から零れ落ちそうになるのだが、恥を忍んで耐える凛を思えば、中途半端な躊躇は彼女を傷つけるだけだった。それに、どちらにしろ止まることなどできそうもない。蕩けた脳髄は欲望のままに再構成され、士郎の理性を奪っていった。
想いを馳せた少女を組み敷き、生き残るためとはいえ抱いている。喜悦と背徳。愛惜と愉悦。それらの最中で悶々としつつ、士郎は欲望の赴くままに凛を抱いた。
己の拙い愛撫で凛が身悶える様に筆舌に尽くしがたい興奮を覚え、そう多くない知識を総動員して彼女を悦ばせよう懸命になる。初めてだという言葉も、それに拍車をかけていたのかもしれない。
果たして契約という名の交わりは終わりを告げ、破瓜の証と汗と、交わりの証──それらで濡れたシーツに体を横たえ、二人は情事のあとの余韻に浸る。
目を横向ければ、顔を上気させた凛の小ぶりな乳房が呼吸に合わせて微かに上下している。咄嗟に視線を外し天井を見て、士郎は訊ねるべきではないとわかっていた質問をした。
「良かったのか?」
「……うん。気持ちはホンモノだから」
「俺はてっきり──」
凛の言葉に甘え、無粋を続けようとした唇に凛のそれが重なる。柔らかな感触だけの、簡単な口づけ。つい今しがたまで何度も味わった柔らかな唇は、ようやく理性を取り戻した脳を再びスパークさせる。言葉を継ぐことさえ忘れた士郎は、唇を離した凛を呆然と見つめた。
士郎にのしかかるような格好の凛は、じっと見つめてくる。悲しげに。それで心底馬鹿な真似をしたと後悔の念を抱いた士郎は、小さく溜息を吐いた。
「衛宮くんは、嫌だった?」
が、凛の悲しげな表情は士郎の予想とはまるで違う言葉を吐き出した。頭がカッと真っ赤になるのを感じた士郎は、気付けば怒声にも似た声をあげていた。
「そんなわけあるか!」
「でも……」
「俺はその、遠坂のこと好きだ。凄く好きだ。だから嫌なんてことは絶対にありえないし正直……」
一度言葉を区切り、士郎は頬を掻く。言ってもいいものだろうか。
「正直?」
「志貴に取られなくて、よかった」
ぼそりと、鼻と鼻がくっついてしまいそうな場所にいる凛にも届くか届かないかの声で囁く。蚊の鳴くような声を聞いた凛は、ころんと転がって士郎の横に寝転がった。
「そんな素振り見せなかったじゃない」
凛は笑っている。
「お互い様だろ。それは」
「そう? これでもわたし、貴方のことはずっと見てたんだけど」
「それ、どういう意味だ?」
「内緒」
横目で士郎を見て、にこりと微笑んだ凛は、もう一度天井を見上げて、ほう、と息を吐いた。
「本当はわたしとアーチャーだけで勝てたんだから。衛宮くんと組む必要なんて無いんだから」
素直ではない。遠まわしの告白に照れながら、士郎は気を引き締めた。確かに、凛がいなければ自分が今生きていられたかも怪しい。学園では凛自身に殺されかけたこともあった。だがそれも結局、士郎を思っての行動なのだとしたら。
「なあ遠坂。学校でガンド乱れ撃ちしただろ。アレも──」
「え? あ、ああうん。ちょっとだけ本気だった。ちょっとだけ」
なんだ、その慌てようは。
士郎はぼんやりしていた目を見開いて、現実にかえった顔で凛を睨んだ。
「な、嘘吐けおまえ。それはちょっとどころか本気中の本気だったって顔だぞ!」
「何よ! 衛宮くんが馬鹿なことするからでしょ!」
凛はピンク色だった頬を真っ赤にして怒鳴る。暫く裸のままで睨み合ったあと、二人は同時に溜息を吐いた。
「もう九時半過ぎちゃった」
凛が掛け時計を見て言う。柳洞寺までは歩いて一時間以上かかる。万全を期すならば、そろそろ出なければならない時間だった。唐突に現実に引き戻す言葉に苦虫を噛み潰すような顔をした士郎の頬に、もう一度だけ口付けて、凛が立ち上がる。
「シャワー、借りるわね」
「ああ。あんまり時間無いけど、ゆっくり入ってきてくれ──」
ごくりと、生唾を飲み込んで。
「凛」
心臓が高鳴る。名前。ただ名前を呼んだだけ。志貴が凛ちゃんと呼び、凛が志貴と呼ぶ。それがほんの少し。本当にほんの少しだけ気に入らなかった士郎の、精一杯の言葉。発音がどこかおかしかったけれど構うものかと、挑むような目を凛の後姿に向ける。
タオルを巻いた凛は思わず口を半開きにしながら振り向く。そしてにこやかに笑った。
「ありがと……士郎」
凛の発音は、完璧だった。
***
凛の後に軽くシャワーを浴びて、手早く支度──といっても着替える程度だが──を整えていた士郎は、遠坂凛の力に驚嘆した。契約によって流れ込んでくる魔力の、なんと強大で頼もしいことか。士郎の僅かな魔力では数回が限度の剣製も、これならばいくらだってできそうだ。
普通の魔術師は皆これほどの力を持っているのか。それとも、遠坂凛が特別に優れた魔術師なのか。恐らく後者だろうと思いつつ、シャツに袖を通した。気を引き締めて廊下を歩く。圧し掛かってくるような重圧が、大気を汚染している。
──桜……。
この中心にいるであろう妹同然の少女を想うと、胸が苦しくなる。何故こんなことになったのか。気付けなかった。気付いてやれたかもしれないのに、気付けなかった。危険だからと、間桐の家に帰してしまったのが、何より士郎には悔やまれた。そんなことをしなければ、彼女の変化に気付けたかもしれないのに。傲慢かもしれない。しかしあんな苦しい思いをさせないで済んだかもしれないと考えてしまえば、士郎の心は後悔でいっぱいになる。
玄関で待つ凛に駆け寄った。凛は昨晩所持していた短刀を両手で握って、物思いに耽っている風情だったが、士郎に気付くと短刀を腰に挿して顔をあげた。
「行こう」
「ええ」
扉を引こうとする手を一度止め、士郎ははっきりと言った。
「桜は、必ず助ける」
「わたしは、殺す」
士郎は頷いて、
「そうなる前に、ランサーを倒す。それで文句無いだろ」
有無を言わさぬ声色で言いつけた。何か言いたそうにしていた凛は口を噤み、歩き出す。
世界は、暗く落ち込んでいる。どんよりと曇っていて、星の瞬きを感じることができない。つい一時間前にはあった月も、その姿を隠してしまっていた。それもこれも、街中に広がった黒い何かのためだ。
街中をほの暗く覆っているのは、紛れもなく柳洞寺から流れ出た澱んだ空気。冬木という街をすっぽりと覆ってしまうほどの瘴気が不安を掻き立てる。
人の気配はどこにもなかった。確かな明かりを感じる民家からさえも、人の息吹を感じない。
門を抜けると、すぐ横に志貴が座っていた。人の気配がしない世界にたった一人でぼう、と空を見上げている志貴。青い瞳が、どす黒い空を穴が空くほどに見つめている。視線だけで、あの空さえ殺してしまいそうな雰囲気を纏わりつかせた志貴は士郎にも気付かない様子だった。
「待たせて悪かった」
声を掛けても、志貴は微動だにしない。そこで、おかしなことに気付いた。志貴は蒼い目を晒していたのだ。何故包帯を外しているのか。
「包帯はどうしたんだ」
焦れた士郎が手を伸ばす。だがその前に、凛の平手が飛んだ。乾いた音に頬を腫らされた志貴はようやく気付いたらしく、眼球だけをぎょろりと動かして士郎と凛を見上げた。呼吸が止まる。士郎は飛び退きそうになる自分を必死に押さえ込んだ。なんだこの目は。蒼い瞳。民家の明かりを受けて微かに光る眼。だが、それはまるで青いブラックホールだった。見るもの全てを飲み込む強力なブラックホール。民家の明かりを受けてはいるが、その実どこまでも光沢の無い、言ってみれば生気の無い瞳。
「士郎、君?」
と呟いた半開きの口は徐々に締まってゆき、瞳に僅かな色が差す。
「凛、ちょっと今のは……」
「平気よ。でしょ?」
腫れた頬もそのままに二人を見上げていた志貴が、僅かに微笑んだように見えた。
「ぼうっとしてた。目が覚めたよ、ありがとう」
「ぼうっとって、おまえ……」
「どうしたの?」
「なんでもないよ。さ、行こうか」
志貴は立ち上がり、一人で歩き出す。深刻な顔で立ちすくむ士郎の隣に、凛が並んだ。
「……馬鹿ね……ほんと」
「ああ、けど」
「わかってる。死なせないわよ」
Dead Eyes See No Future
人の気配がした。二つ、いや三つ。熱く滾る二つの気配と、今にも消えてなくなりそうな気配。ランサーは己が身震いしていることに気付いた。英霊の己が人間相手に緊張を覚える。いや、人間だからこそ身震いする。生前、クー・フーリンを追い詰めた『人間』など、存在しなかったのだから。
セタンタは人と神の間に生まれ、ケルンの猛犬と成った。その生涯には苦悩もあった。試練もあった。息子を死なせることもした。最終的にクー・フーリンを死なせる下劣な策にはまったこともある。だが事戦闘という行為に於いて、英雄クー・フーリンが苦悩したことはなかった。生まれついての怪力は誰も扱えない槍を容易く振り回し、戦場に鏃の痕を遺しながら疾走した。誰にも止められない。人間では、クー・フーリンを止められない。敵は恐れ、味方は歓喜した。
苦悩があったとすれば、誰も己に追いつけないということ。
だから、戦いを望んだ。誰にも止められない己と、対等以上に戦える者を渇望した。標的は人間ではなく、それ以上の存在。即ちサーヴァントであった。だが、今この薄暗い洞窟を抜けてきたあの三人は、いずれもサーヴァントではない。人間。
「刻限通り……か。その意気には敬意を表そう」
ランサーが立つのは、奥に存在する巨大な空間とは比べ物にならないほど狭い空間。それでも、地下とは思えないほど広大な空間は、死闘にはお誂え向きの舞台だった。
シキと、名も知らない少年少女が姿を現す。既にランサーの気配は感じ取っていたらしく、それぞれが武器を握っている。口を開こうとしない三人を見て肩を竦めたランサーは、岩盤に突き立てていた槍を引き抜いた。
「別れは済ませたか。名は呼び合ったか。まだなら時間をくれてやる。二度と呼べねえ名を、魂にでも刻み付けろ」
構えたのは志貴と士郎。凛を通すつもりなのだろう、士郎は背後で凛を護りながら、共にじりじりとずれていく。
「逃がすとでも思うか?」
ランサーが笑いながら言って、太股に力を込める。もっと上手い方法があったはずだってのに。内心に呟くと、ランサーの体は咄嗟に槍を盾に構えていた。
槍に鋭い衝撃が叩き込まれ、直後にその正体と、走り出した遠坂凛の姿を見たランサーは、知らず笑みを刻んでいた。
──そうでなけりゃ、面白くない。
「違うな」
「ほう──?」
武器というにはあまりに拙い、二十センチにも満たない刀身。だがそれは比類なき力を持つ英霊と対等以上に戦ってきた、いわば宝具のようなものか。
篭められた感情は戦を渇望するランサーとは似て非なるもの。殺す。ただそれだけが込められた短刀。担い手は遠野志貴。
十メートルを一瞬で詰めた志貴は、渾身の一刀を防がれ悔しがるでもなく、にやりと口元を歪めていた。
「あんたは、逃すしかないんだ」
ナイフが引かれる。走り去った遠坂凛のことなど既に忘却の彼方へ追いやったランサーは、そのナイフの軌跡を追うように、槍を旋回させる。左手で槍杷を引き、旋回半径を小さくし、小さなナイフを打ち落とすべく一閃。志貴は上半身ごと仰け反った。槍が志貴の薄手のジャケットを切り裂く。志貴に呼応するような笑みを浮かべたランサーは、そのまま引き抜いた槍杷を、右手を支点に振り回す。アッパースイングされた槍杷は、咄嗟に片足で踏み止まり、反らした上半身ごと上からナイフを叩き付けた志貴によって防がれる。
──よく動いてくれやがる。
鼻先がぶつかるほどの接近戦。本来槍の間合いではないはずのその場で、ランサーは志貴を圧倒する。上下から繰り出される穂先と槍杷。ランサーにしてみれば何でもない攻撃が、志貴には命取りになる。一撃一撃に全霊を込める志貴の静かな気迫が、ナイフから槍、そしてランサーへと伝播してくる。
不得手なインファイト。しかしランサーは驚愕していた。食い下がってくる。退こうとしない。真正面から堂々と。しかしそれでは、数秒と持たない。ランサーにはわかっていた。ランサーに油断など無い。全身全霊とは言えないが、ランサーの一撃は必殺すべくして放たれている。それを全て受け止めて、無事でいられる道理はどこにもない。キャスターの強化を受けているならいざ知らず、生身で受け切っては即座に筋肉が断線する。
ならば──。
ランサーはふと周囲の気配を窺がった。本来急襲を得意とする志貴が、こうまで真っ向勝負に拘る理由。凛を逃がすためであることは容易に想像できる。だが、既にその役割は果たしている。
では、何故。
I am the bone of my sword.(体は剣で出来ている)
周囲に散ったランサーの赤い眼が、聞き慣れない言葉を口にした一人の少年を捉えた。逃げるでもなく、向かってくるでもなく、目を閉じて棒立ちになっている小僧──衛宮士郎を。
Steel is my body,and fire is my blood.(血潮は鉄で 心は硝子)
──魔術師、だったな……。
ならば策がある。志貴を真正面で戦わせ、何かこちらを驚かせるほどの、或いは殺せるほどの神秘が待っている。受けるか、否か。
I have created over a thousand blades.(幾たびの戦場を越えて不敗)
ランサーが求めるのは死闘。妥協は無い。追い詰められた獲物の、最後の足掻き。そこまで持ち込まなければ、この小僧共の全霊は味わえまい。
故に──。
「ハッ」
志貴のナイフに槍を叩きつけると、ランサーは体を捻り跳躍し、全身を弓のように撓らせると槍を放った。
***
──負けて、なるものか──!
誰の声かと思えば、それはなんてことはない、衛宮士郎の心の叫び。心臓を抉らんと飛来する槍を真正面に見据え、衛宮士郎は微動だにせず、ただ詠唱を続けていた。覚悟は鋼。だが、覚悟のみで乗り切れる程、悠長な攻撃ではない。
止めなければ。
即座に判断した体がカタパルト射出宛らに爆ぜ、投擲されたゲイボルクを迎撃せんと疾る。しかし所詮は人の体。元より追いつけるはずのない徒競走。それでも諦めずに疾走する志貴を、士郎が睨んだ。今も詠唱を続ける口とはまるで別物の意思が、目を通して流れ込んでくる。
──おまえはランサーを止めろ。
そうはいかないと、志貴の眼が訴え返す。士郎を助けるためではない、ゲイボルクに貫かれて士郎が倒れれば、勝機を失うからこそ、その槍は迎撃しなければならない。だというのに士郎は引かない。
ゲイボルクを止めなければ敗北する。士郎の自信には裏がない。確証がない。ただ耐えられると思い込んでいるだけ。
だが──。
頑固者め。内心で毒づき、志貴は槍から遅れることコンマ数秒を飛ぶランサーを視た。ランサーは視界の端で志貴を捉えつつ、ゲイボルクの後を追う。
志貴は疾走していた速度をそのままに跳躍。ゲイボルクには追いつかなくとも、それを追うランサーになら、届く。
空中で交差する直前、志貴がナイフを閃光させる直前、ランサーが拳を握った。徒手空拳から、この英霊は一体何を──そう思った瞬間には、志貴の体は地面に叩き付けられていた。まずいと思ったときにはもう遅かった。辛うじて保っていた意識の糸が切れ、急速に視界が狭まっていく。そんな中で、志貴は英霊と戦う際の大前提を忘れていたことに気がつく。ランサーに切りかかったハズの志貴が、逆に叩きつけられるという異常。当然だ。志貴が切りかかったのは、ただの腕。しかし英霊の腕だ。たかが名も無いナイフで傷をつけられる体ではない。ランサーの徒手空拳の構えに動転し、線以外の部分を切りつけようとしたのだ。
激しく咳き込みながら、意識の糸を手繰り寄せようとする。しかしまるで水のように手のひらを通り抜けていく糸は、手繰り寄せようが無かった。微かにある視界の中で、士郎がゲイボルクに貫かれるのが見える。腹部。明らかに致命傷とわかるそれを受け、士郎の体が脈打ち吹き飛ぶ──はずだった。
士郎は堪えている。腹に巨大な槍を生やして。それでも歯を食い縛り、懸命に堪えている。しかし、その口が呪文を唱えることはない。痙攣する体を決死で押さえ込み、口を開こうとするが、そこから漏れるのは泡立った血反吐。
着地したランサーは、立ち止まってその様を見ている。吟味するように。まだ足掻くのか、ここで終わるのか。判断するように。やがて、ランサーの判決が下る。
「……楽にしてやる」
空気が凍りかねないほど深く染み渡る声で、ランサーが宣告した。一歩一歩士郎に近づいていったランサーの手が、士郎の腹から生えた槍にかかる。
「し、ろ」
志貴の声も最早声になっていない。ランサーの拳は肋骨を容易くへし折っていた。だが、あんな風穴を開けられるよりはよっぽど楽なはずなのに。向こう側が見えてしまいそうな傷よりは、よっぽどマシだっていうのに。何故、この体は骨折如きで動かなくなってしまうのか。
「とれ……」
士郎の微かな呟きに、ランサーが槍を引き抜く手を止める。
「今取ってやる。辛抱しな。瞬きをする間も──な……?」
ランサーが驚愕の声をあげ、目を見開いた。士郎の左腕がゲイボルクを、右腕がランサーの腕を強く握り締めたためだ。何のために。息さえ止まりかけている志貴には想像もできなかった。だがランサーはその行動を脅威と見た。
ランサーが腰を沈める。太股に力が篭り、バネの瞬発力で後退しようとした刹那。
「投影、開始(トレース・オン)
剣の雨が降った。
***
──綺礼……っ!
脳内を占めるのは、兄弟子への怒り。
「なめんじゃないっての」
エクスキューターとしても活動していた言峰の戦闘能力は計り知れない。吸血鬼や亡霊という怪物相手に第一線で戦っていた言峰に、一対一で打ち勝てるなどという甘えは持っていない。そもそも凛の近接格闘技術は、言峰に師事したものだ。そこに重きを置いて修行したというならいざ知らず、凛にとっての格闘とは進退窮まった際の最終手段に過ぎない。あくまでも凛は魔術師。ならば勝機は魔術戦にある。
本当は三人で相手をしたかった。しかし深夜零時を刻限として突きつけてきた以上、言峰は間違いなくその時間になれば桜を聖杯として機能させる。この地下空洞に漂う空気から察するに、聖杯が生み出すのは碌なものではないだろう。故に、聖杯が解き放たれるより前に、言峰を倒さなければならない。
どの道、凛が言峰を倒す前に志貴と士郎が敗北すればチェックメイト。割に合わない戦いだ。
どこまでも続いているような深い闇を走っていた凛は、唐突に開けた視界に映ったものが信じられなかった。直径にして二キロから三キロ。それほど巨大な空間が、この街にあったなどということは知らないし、信じられもしなかった。そして、一際目を引くのはエアーズロックのように聳え立つ一枚岩。その岩──というより台地の真ん中から、巨大な火柱が上がっている。黒い火柱は、際限も無く燃え上がり、その頂の球体を守護しているようだった。
「趣味の悪い……何だっての、あれ」
凛は周囲に注意しながら再び駆けた。広大な洞窟──既に一つの大地とも言える──は彼方まで見通すことができるため、余程のことでなければ奇襲の類には引っ掛からないはずだ。
尚注意深く進む凛は、とうとう黒い柱の根元にある崖までたどり着いた。崖といっても傾斜は緩やかで、両手が塞がるような場所は無い。『何か』に襲われても、対応できるはずだ。
崖に駆け寄る前にもう一度、と辺りを窺った目が、見知った影を捉えた。
「どうした凛。顔色が良くないようだが」
涼やかな声に神経を逆撫でされつつ、凛は斜めにその男を睨み付けた。
法衣にクロス。誰もが想起し得る神父の姿で、言峰綺礼は腕を背後に組んでいる。
真実、言峰綺礼は敬虔なクリスチャンであり、日本では珍しい聖堂教会の息がかかった『教会の神父』である。
「そっちこそ、相変わらず薄暗い顔しちゃって」
「ふむ、しかし奇妙だな。おまえ達をこの場に招待した覚えは無いが」
言って、言峰はちらりと凛が今走ってきた洞穴を見た。
「ランサーを吹っかけてきたのはそっちでしょ」
言峰は一度眉を顰め、得心いったように微笑した。
「成る程。昨晩は、確かに隙があったかもしれん。おまえを招待するのは、キャスターとセイバーを始末してからにしようと思っていたのだが、来てしまったのなら仕方が無い。鼠も数匹いるらしい……時間は無いが──」
言峰は後ろ手に組んでいた手を解き、右腕を凛に向けると、人差し指と中指で上がって来いと言った。
「眠らせよう。永久にな」
「上等!」
凛は即座に左腕の魔術刻印を起動させ、人差し指を言峰に向けた。放たれるのは呪いの機関砲。
十重二十重と重ねられる呪塊は、機関銃の掃射力と破壊力を併せ持つ。初速800m/sにも及ぶそれは、人間が避けられるものではない。
着弾の土煙が濛々と立ち上り、言峰を覆う。それで仕留められるとは端から考えてはいないが、矢張り手応えは無かった。代行者を自負する者を、人と思っては殺される。
距離を詰められてはまずいと判断し、即座に一歩後退すると、背中をまるで丸太で殴り飛ばされたような衝撃が襲う。
仮にも強化した体がギリギリと軋む音を聞きながら、凛は砲弾のように放物線を描きながら吹き飛ぶ。
「重圧──!」
咄嗟に自身の質量を肥大化させ、地面に足を着く。崖に叩きつけられる寸前で立て直しに成功し、顔を上げた瞬間、凛は再び戦慄に身を震わせた。
眼前には言峰の足の裏。凛の体勢では、顔面が言峰の膝位置。まずい。そう思ったときには遅かった。足が見えなくなるほど加速する。
──斧刃脚──ッ!
凛は顔面をガードすべく両腕をクロスさせる。だが魔術の後押しを受けた言峰の蹴りは、戦車砲の如き破壊力を秘めていた。
凛は腕を圧し折られ、再び宙を舞った。二本の腕に留まらず鼻を潰し、そのまま頭蓋を伝り脳へと達した衝撃は、さしもの魔術師とて簡単には対処できない。まさか頭蓋に根を張らせるわけにもいかない脳みそは、衝撃を受けて激しく揺れる。
ゴム鞠のように頭骨から頭骨へとバウンドする脳が、全ての情報をシャットアウトする。
一瞬の気絶から立ち直ったとき、凛は仰向けに倒れ、口と鼻から多量の血を流していた。
口の中が切れた。鼻の骨も折れた。霞む視界に見下ろす言峰の長躯を見、凛は僅かに鼻を鳴らす。痛みに顰めそうになった顔を不適に歪ませて、可愛い妹弟子を完膚なきまでに叩き潰しておきながら、感情の片鱗さえ見せようとしない言峰を睨み付けた。
「私のコレは、なんの実りもない虚偽の技に過ぎんが、おまえのソレは更に上を行くな」
「あんたみたいな筋肉馬鹿と同じにしないでほしいわね」
口内に溜まった血を吐き出しながら言う。言峰は微かに笑みを湛えて、足を振り上げた。その足が振り下ろされれば、凛の肉体は微塵に砕ける。胸や頭に食らえば即死だろう。が──。
「砕け散れ──開放!」
吹き飛ばされる寸前に魔力を込めた宝石を開放するほうが、どう見ても早い。
「む──」
僅かに頬を引き攣らせた言峰は、咄嗟に飛び退こうとしたが遅い。凛と言峰を、強烈な光が包み込む。
完璧なタイミングを制した。
大地を抉り、術者である凛自身さえ吹き飛ばした爆光は、周囲に轟音を轟かせながら霧散していった。キャスターの一撃に匹敵する魔力量。しかし仕留め切ってはいないだろうと当たりをつけ、凛は受身を取りつつ視聴覚を鋭敏化させた。
「く──」
言峰の声が聞こえる。真正面に。法衣を布切れにして、左腕をだらんとぶら下げて。
片腕を犠牲にしただけで、あの強烈な一撃を受けたのか。馬鹿げた身体能力に辟易する思いで、凛は兄弟子を睨み付けた。
凛の左腕もまた、先ほどの蹴りで折れている。だが、これは五分ではない。こうして対峙を許したのがそもそもの間違い。殴り合いなどで、最初から敵う相手ではないのだから。
「腕を上げた、どころの話では無いようだ。詠唱の隙さえ見せないとは、あの父を超えたか、その若さで」
「へぇ、アンタが人を褒めるなんて珍しいじゃない。でもね、残念ながら父さんの魔力量にはまだ及ばないわよ」
言峰が珍しく目を丸くする。そして残った右腕で顔を覆うと、くつくつと声を潜めて笑った。
「そうか……それもそうだな。何せ、お前は父を幼くして亡くしている。成程朧げに残る父はそこまで偉大か。おまえの父を殺した私を追い込むおまえが、父よりも劣っているとでもいうか?」
背筋が凍る。だがある程度予測できた言葉。矢張りという思いと、怒りがないまぜになった胸を、凛はなだめようと試みる。言峰が前回の聖杯戦争に参加していたと聞いたときに、よもやと思った。事実だったのか。この男が、父を、師を殺したのか。
「へえ、そう。なら一つ聞くけど」
一呼吸。
「そのことで、少しでも後悔したことはある? 綺礼」
「……神に誓おう」
言峰もまた一呼吸を置き。
「後悔など、有り得ん」
凛の体が爆ぜる。言峰は笑み、矢のように疾走する凛を迎撃する構えを見せた。
次に言峰の打撃を食らえば失神では済まされないだろう。だが、確実に殺すには、もう一度、たった一度だけ受ける覚悟で挑まなければならない。防御など考えず、ただ殺すために。
言峰の構えから繰り出されるのは恐らく箭疾歩。強化された拳は、凛の腹を突き破り背骨を砕くだろう。だがそれを受け、潰す。確実に、背中に潜ませたこの短剣を以ってして、殺す。言峰綺礼は殺さなければならない。その哀れな命は、遠坂凛が一生背負っていってやると内心で誓って。
肉薄する瞬間、言峰の口が歪む。凛は短剣を握り、志貴の見よう見まねで突き出した。改心の速度を得た短剣は言峰の心臓目掛けて突き進む。
突き出される短剣を言峰は容易く弾こうとする。言峰の折れた左腕が短剣を流すように滑らかに動き、それとは対照的に右腕は鋭く走る。言峰の目にはこれから砕く凛の顔しか映っていない。
──それが、隙だ。
折れた鼻を無理矢理に鳴らして、凛が笑う。
「アンタの負けよ、綺礼」
拳が凛の顔面を捕えようとした刹那、言峰綺礼の眼がソレを見た。眼前に落下してきた輝く何かを。一つ、二つ。大きな宝石が二つ。
「五番、六番、開放!」
ふと、言峰は妙な感慨を覚えた。
いつの間に、これ程の強さを手に入れたのか。拳法を教えろとせがまれたとき、戯れに一撃をくれてやった。加減はしたが、凛の小さな体はゴム鞠のように吹き飛んだ。
目に涙を浮かべながら、それでも泣かない凛を見て、言峰は思った。すばらしいと。
己の父を殺した者に師事し、涙目になりながらも向かってくる。言峰の技を奪おうと躍起になる。それは至上の玩具。
いつか父を殺したことを白状したとき、どう嘆き、どう悲しみ、どう怒るのか。涙目になりながら殺しに掛かるだろうと思っていた。そのとき、言峰は何の躊躇もなく遠坂凛を破壊する。遠坂凛という玩具は、そうすることが最適の遊びなのだ。
だが、眼前の宝石三つ。それは、言峰綺礼を確実に殺すためのものだ。
凛の怒りは感じる。悲しみも感じる。しかし彼女は、それを内に秘められるほどに強くなっていた。
無論、殺す気でいた。ここで死ぬことだけは、断じてあってはならない。この世全ての悪を顕在させ、世界の今際をこの目に焼き付ける。それこそが、言峰綺礼という、人間になれなかった人の願い。
しかし遠坂凛が父を無類の傑物として幻視していたように、言峰綺礼は遠坂凛を幼い魔術師として見ていた。脳裏には涙目で嘔吐しながら飛び込んでくる幼い少女の姿があった。成長していたことは知っている。順当に行けば聖杯戦争の勝者になるということさえ、予期できた。それでも尚、彼女を妹弟子と見てしまったのなら、それは言峰綺礼の甘さか。
妙な感慨とは、数多の怪物を葬り去ってきた己の果てが遠坂凛だということ。それが可笑しくてたまらない。喉がまだ存在するならば、口が開閉するならば、きっと言峰は大声で笑っていたはずだ。
炎の魔術が体を吹き飛ばしていく。最初に突き出した右腕をそして全身を。根元から千切れ、蒸発しながら飛んだ肉片は、凛の頬に張り付き、流麗な透き通る肌を醜く汚した。
美しい。血で、腐肉で汚れた凛の顔は、彼の名画で微笑む女など比べるべくも無いほどに美しい。少女と血。相反するようで近しいそれらが、彼女にはよく似合う。
「──」
声にならない声で、言峰は防護魔術を施した。炎に対抗するために、己の肉体を鋼と化した。それでも、死が覆らないと知っている。太陽にでも投げ込まれたのかという熱量は、鋼鉄と化した体を易々と溶解させていく。
言峰は感嘆する。あまりにも熱く、あまりにも強い。
──素晴らしい。
残った足に力を込める。だがその刹那、胸に僅かな痛みが走った。
アゾット剣。
「残念だ──」
喉などとっくに焼け落ちていたが、凛には聞こえただろうか。少し不安に思い、凛の顔を見た。彼女は泣いている。何故、泣くのか。
疑問に身を任せ、しかし最後にはこう考える。
──無念。
辞書通りの意味ではない。念が無い。何も。悲しみも憎しみも怒りも喜びも何も無い。言峰綺礼はただ己を客観的に見下ろし、
「バカ……」
言峰綺礼が終わる。
***
焼け爛れた言峰の体を静かに横たえた。アゾット剣は抜かない。魔力の一欠けらさえ残っていないただの短刀は、輝きを失っていた。
踵を返して走った。崖を駆け上がる直前に、一度だけ振り返る。全身を焼かれているにも関わらず微笑を浮かべた言峰。一体何を思って死んだのか。考えようとしてやめる。
悲しみはある。憎しみもある。しかし何より憐憫があった。哀れだと思った。たかだか小娘に、数十秒で殺された言峰は、一体何をしたかったのか。その人生に、哀歓は存在したのだろうか。人とは百八十度逆向きに生まれた人生に、苦痛以外の何があったのか。
やめろと思いつつも勘考し、凛はやがて思い至る。現状。これこそが彼に至福を与えるのだと。この澱み切った世界。腐り落ちる、反吐の只中のような世界。これこそが言峰綺礼にとって羊水の如き安寧をもたらす世界なのだと。
「……じゃあね、綺礼」
そこで、今度こそ思考を断ち切った。悲しみも憎しみも、凛が感じれば感じるほどにアイツはあの世でほくそえむ。ならさっぱりと忘れ去って、次へ行こう。言峰は喜ばないだろう。しかし彼が救われる道は、他に無い。
「アンタのことは地獄に落ちたって忘れないから」
持って行くのは言峰綺礼という人間がいたということだけ。その名は二度と聞かないだろう。しかしそんな名前の純真無垢な男がいたということだけ、覚えていく。
崖の頂から言い放って、凛は今度こそ走った。
体の芯から力が湧いてくる。巨大な洞穴全体に染み渡った不快な空気を跳ね除けるために、凛の力が膨れ上がる。それは、愚かに落ちた妹に対抗するために。おまえの姉はここにいると、叫ぶために。
「いらっしゃい、遠坂先輩」
真正面に、彼女は立っていた。火柱を背に、黒と赤の禍々しい着衣を纏って。髪は白く変わり果て、眼は赤く輝く。まるで見知らぬ妹の姿に、凛は気分が冷めていくのを感じた。
「ええ、来てあげたわ桜」
最早、アレを救うことなど不可能だ。心が負けている。あの途轍もない闇を浴びて、桜の心はすでに折れている。当然だ。自分だって、あんなモノを埋め込まれたら発狂してしまう。だから仕方が無い。仕方が無いが、
「殺すわよ」
仕事は、仕事だ。甘い考えなど、魔力と共に士郎にくれてやった。願わくば、と僅かな期待と共に。
***
ランサーの反応が僅かに遅れた。ぴくりと一瞬痙攣しただけだが、その隙が、窮地を迎えているランサーにとっては致命的だった。ランサーの頭上に現れた無数の剣は、椀を逆さまにしたような陣を描いて既に落下していた。渾身の力でランサーの腕を取った士郎は、必死の形相でランサーの眼を睨み据えている。自身をも包み込むように落下してくる剣のことなど意に介していないとでもいうかのように、ランサーだけを見ている。
ランサーが士郎の腕を無理やりに引き剥がし、ゲイボルクを士郎の腹から抜く。目を覆いたくなるほどの血が噴出し、士郎が地面に倒れていく。しかしそれを阻むかのように、剣の雨が二人を包み込んだ。
無数の剣戟の音が洞穴内に木霊する。ランサーは剣の一本一本を槍で迎撃していた。しかし──
「投影……開始(トレース・オン)」
二度目の詠唱は、最早消え入るような声だった。再び空中に現れ、ランサーを目掛けて落ちる剣。ランサーが最初の投影のときに脱出できていれば、或いはどうにかなったのかもしれない。しかし、そのチャンスを逃してしまったランサーを、士郎は逃すつもりは無いらしい。己の剣に貫かれ血反吐を吐きながらも剣を放つ士郎の気迫は、ランサーを上回っていた。
何故、俺はこんなところで倒れているんだ。
憤りが拳を震わせる。歯を噛み締め、目を見開く。包帯を外した覚悟は、結局この程度のモノだったのか。衛宮士郎がアレだけやっているのに、自分はただ倒れて見ていることしかできないのか。
固有結界の詠唱を完了させてやることもできず、ただ倒れているだけの無能。それはあまりにもくだらない、無様で役立たずな己。辟易する。苛々する。頭にくる。
「シ……キ」
士郎の声。何をする気かと目を見開いた志貴は、
「やめろ!」
喉が裂けるのを覚悟で叫んだ。
「投影、開始(トレース・オン)」
しかし士郎は呪文を口にする。
洞穴全体を覆った剣の雨に、驚愕する。見渡す限りの剣。無限の剣。それが、大きな音を立てて地面に突き刺さっていく。それは、きっと誰かが戦いやすくなるようにという士郎の気遣い。
だが、無闇矢鱈に投影された剣は、術者本人さえ貫いていく。士郎の体に、新たな剣が突き刺さる。ただでさえ瀕死だった体を、無数の剣が突き刺していく。肩を、腕を、全身隈なく貫かれながらも、士郎は次々と剣を降らせた。肉がつぶれ、骨が露出し、鋭い刃で抉り取られた皮膚が垂れ下がる。それでも士郎は投影をやめない。
──よせ。よせ!
もう声は出なかった。ランサーごと、洞窟ごと破壊しかねない剣の雨は、収まる気配も見せずに降り続ける。やがて、ひときわ大きな剣が士郎の頭上に現れ──。
「わるい、しき」
その拍子に士郎の目から力が消えた。大きく体を仰け反らせ、消えた。死んだ。死んだ? 死──。
士郎の体を、あの泥が覆い尽くしている。間桐桜の泥が、士郎の体を飲み込んでいこうとするのを、志貴は仰臥したまま剣の隙間から見た。泥が消えていく。ずるずると音を立てて跡形もなく。士郎ごと消えていく。ただ無数の剣だけを遺して。
ランサーは肩に剣を生やしていた。さしものランサーも、あのスコールのように降る剣は迎撃し切れなかったらしい。だがどうでもいい。
志貴は内心で呟き、士郎が消えた辺りを見つめた。まるで墓標のようになった洞窟。無数の剣に阻まれて、士郎が消えた場所は見えなかった。死んだ。殺した。見殺しにした。死なせないと誓ったのに。もう誰も、決して死なせないと誓った。なのに、ダメなのか。遠野志貴は、ただの一人も救えずに死ぬのか。なんてつまらない。なんてくだらない。なんて無意味。
「……あき……は」
秋葉も。イリヤも。そして士郎も。
皆死ぬ。皆救えない。遠野志貴は誰も救えない。
それでいいのか。いいはずがない。誓ったのに。未来のある二人を、必ず生かすと決めた。
衛宮邸から出てきたとき、「凛」と呼び捨てにした士郎を見て、我知らず微笑んでいた。名前を呼び合って、喧嘩をして、いつかは別れるかもしれない。けれどそれもきっと良い思い出になる。若かった二人の、思い出になる。そんなほほえましい未来を護れなかったのだ。
無能だ。どんな顔をして、凛に会えというのか。いや、己のことはどうでもいい。凛になんと思われようとも、助けられなかったことが真実なのだから。悔やむことがあるとしたら、士郎を救えなかったことのみ。
「死んだか……」
ランサーが槍を構え、ぽつりと呟いた。
広大な世界に取り残された感覚に身震いしたが、すぐさま志貴は歯を食い縛った。
──いつもと変わらない。そうだろう?
「ああ、そうだな」
誰かの呟きに応じてから、志貴はポケットの眼鏡を握り締めた。用をなさなくなったとはいえ、偽りではあるが志貴に平穏をもたらしてくれた眼鏡は、常に所持していた。いつだって一人だった。志貴の生きる世界は皆と違うのだから。いつも違和感と共に生きてきた。魔眼殺しが無ければ発狂してしまうほどに。
ズレた世界は、もう取り返しのつかないレベルで志貴を蝕んでいる。明日死ぬかもしれない体だと言われても、志貴は一向に構わなかった。もともと一人だった。普通になろうとどれだけ足掻いても、普通にはなれなかった。クラスメイトが志貴を見る目はどこか怯えた風で、有彦くらいしか、本音を語れる相手はいなかった。
──何が欲しい? 秋葉か? それとも無事か?
「もちろん、両方欲しい──けど今は」
その友人の連絡さえ遮って死の淵に身を置いた志貴は、もう戻れない。日の当たる暖かな世界を見ることはできないし、最早望んでもいない。
ならば何を求めるのか。答えは決まってる。必要なのはたった一つ。
「力を」
今は力を。力だけを望む。キャスターを救う力を。凛を安心させられる力を。皆に平和を。朝起きれば暖かな陽気を感じられる、そんな普通を与える力を。士郎を、助けることができた力を。
「この魔眼を、使いこなせる力が欲しい」
ふざけた力に振り回されて終わる人生なら、それでも構わない。しかし遠野志貴は覚悟を決めた。キャスターや凛の妹を救い出すと決めた。そんなものは役に立たなかった。ならば仕方が無い。覚悟なんて大層なものはもういらない。実の伴わない、口先だけの覚悟などに、なんの意味がある。必要なのは力だ。ほんの数分で構わない。ランサーと戦えるだけの力が欲しい。
そのためならば、修羅にだってなってやろう。
硝子が砕ける音を、脳内に聞いた。失ってはいけない最後の欠片。せっかく取り戻した理性。それが、音を立てて砕け散った。
気付けば体は風になっていた。指先一つ動かなかった体が、別の動力源を得たかのように走る。進路を遮る剣達。だがそれは問題にならない。胸まであるような巨大な剣が並ぶ中、志貴の体は剣に埋もれている。
ランサーは志貴が駆け出したことに気付いていない。音もなく。文字通りに物音一つ立てずに、志貴は疾走している。剣の山を大きく迂回し、ランサーの背後から忍び寄る。残り五メートル。そこでランサーが振り向いた。槍が旋回し、志貴の頭部を吹き飛ばしにかかる。だが、見えた。先ほどは残像しか見えなかったそれが、はっきりと視覚できる。
頭を狙った一撃を、首を傾けて回避する。頬に痛み。チリという音と共に、髪の毛が宙を舞った。だが直撃でなければ、攻められる。
「シッ!」
ナイフが空を裂き、ランサーの腹に大きく穿たれた点を目指す。ランサーの槍が翻り、ナイフを腕ごと弾かれる。悔しがる素振りもなく、即座に志貴は後退する。跳躍し、剣と剣の狭間に身を隠す。志貴はタイミングを測る。ゆっくりと移動し、ランサーの感知野から逃れ、己の必殺の機を探る。それはさながら獲物を狩る肉食獣の眼だった。
いつの間にか体を包んでいた、懐かしい魔力には、気付かなかった。
***
体は動かなかった。腹に突き立てられた巨大な鎌に、生成する魔力は次から次へと飲まれていく。空っぽ。セイバーと己を、消えるギリギリのところで現界させるだけの魔力。それしか、キャスターは持っていなかった。
でも、声を聞いたのだ。吹けば消えそうな命を燃やそうとする、親愛なる仲間の声。助けたってすぐに消えてしまう自分を、それでも助けるのだと息巻く彼の声を聞いたのだ。
バカだ。途轍もなくバカだ。救いようがないほどにバカだ。騙されていたのに、それでも信用するなんてバカだし、命を削ってまで戦おうとする姿勢もバカそのものだった。だから、もうきっと目も見えていないのに、戦っている。体はとっくに動力を失っているのに、それでも戦っている。死の目は決して光を見ない。それでも、光を見られる者達のために、戦っている。
手を貸すのは当然だ。たとえ志貴が壊れてしまっても、彼が望むのなら力を与えよう。そうしなければ死んでしまうのだから、当たり前だ。
磔にされた体は、意識を取り戻さない。それでもキャスターは小さく言霊を口にした。
「死なないで……」
***
「カ……頭に血が上ってやがるな」
腕から流れ落ちる血を一舐めし、ランサーは消えた志貴の気配を探った。傷は深い。まるで同時に着弾した剣の雨。二十もの数になる剣を同時に捌くことは、たとえ“矢よけの加護”を持つランサーをしても、不可能だった。隠し玉だったであろう投影魔術は、なるほど驚嘆するに値する、桁外れの魔術だった。放った剣の陣形も素晴らしかった。半円形を描くように整列した剣は、ランサーに逃げ場を与えなかった。否。剣が現れた瞬間に飛び退くことができれば避けられたのだが、別のことにほんの一瞬でも気を取られ、剣の存在に気付くのが一瞬遅れてしまったために、大きな痛手を負うはめになった。狙ったにしろ偶然にしろ、衛宮士郎は完璧なタイミングを制したのだ。言峰綺礼が死に、そのショックで僅かに動きが鈍るその瞬間を、偶然とはいえ突いたのだから。
言峰が死に、途絶えたレイライン越しにその思念が流れ込んできた。蝋燭が最後の瞬間でひときわ強く燃え上がるように、言峰の屈折した感情と大きな疑問が、腹の底にどんよりと滞留する。まるで腹の中に底なし沼でも抱えたかのような倦怠感。それが、魔力が文字通り底なしの向こうに消えていく感覚だと気付き、ランサーは舌を打った。ランサーに単独行動の技能はない。滝のように零れ落ちていく魔力を鑑みるに、まともに戦える時間は幾許も無いだろう。
「こっちも時間がねえ。教えておくが、言峰はやられた。あの嬢ちゃんにな……。信じ難い話だが、事実だから仕方がねえ。チャンスがあるとすれば、今だぜ、小僧」
傷が痛む。万全ならば気にならないとはいかないまでも、集中を途絶えさせるほどのものではない。だが、人でいうところの血液を蛇口全開で垂れ流している今は、致命的な傷であるといえる。人一人が、文字通り命を賭けて刻んだ爪痕。それが、痛まないわけがなかった。
この好機を逃すことなどできない人間が一人いる。英霊の一撃とはいえ、拳一つで動けなくなり、戦友を眼前で失った志貴が必死にならない道理はない。これで、ランサーが求めた、英霊に迫る人間との戦いは実現することになるだろう。だが釈然としない。
言峰は死んだ。ランサーを縛るものは何も無い。自分が洞穴の奥に向かえば、セイバーもキャスターも一瞬で救い出すことができるだろう。セイバーを縛る鎖を断ち切り、そのセイバーと雌雄を決することも可能だ。だが、そうしようとは思わなかった。ランサーは震えている。喜びにだ。遠野志貴。この桁外れの怪物との一戦を、楽しもうとしている。決して姿を見せず、隙を窺がうだけの小僧。だがその小僧は、ほんの一瞬の隙だけでこちらを殺せる。その緊張感。真っ向からの殴り合いとはまるで違う、リスキーな賭けに出るような高揚感が、ランサーを包むのだった。
釈然としないなどというのは、英雄たろうとする己の中の誰かが、奇麗事をぶちまけようとしているに過ぎない。いわば建前だ。ランサーの本音は、このあまりにも変則的な死闘にこそあるのだから。
ランサーは粗野な笑みを浮かべ、四方八方に飛ばしていた感知野を更に広げた。蟲の足音一つ逃さない耳で物音を聞き分け、人口過多の墓標のように突き立った剣に紛れた志貴を探す。
志貴はランサーの言葉を聞いても反応一つしなかった。それどころか、本当にこの場にいるのかどうかさえ定かではない。実は既に奥に進んでいるのではないか。そう思わせるほどに、志貴の隠れ身は上等なものだった。
「アサシンの素養があるぜ、おまえ」
冗談めかしたような声でランサーが言う。首筋にチクリと針の痛みを感じ、ランサーは振り向いた。
志貴の姿は無い。馬鹿なと目を見開き、直感に従って槍を振り回した。背後に向けての一薙ぎ。当たる自信は無かったが、案の定空を切る感触のみ。どこへ消えたのか。胴体が振り返るより早く背後を見た瞳が、青い瞳を捉えた。
背後から来ると思っていた。首筋に感じたのは、確かな殺気だった。だというのに、その実志貴は真正面から攻めてきている。ランサーが右から振り向いたときに、前方に回ったとでも言うのか。それを許すランサーではないはずだった。志貴の速度は取るに足らない。だが、ランサーが遅くなっているとしたら──。
「──ッ!」
志貴の無言の一撃が、槍を掻い潜って腹部を狙ってくる。一直線に、何の迷いもなく、ただ一点を貫くためだけに放たれたナイフ。ランサーの戦慄は、狙われた場所にあった。腹。かつてそこを己が槍で貫かれ、クー・フーリンは命を落とした。それを知っていると言わんばかりに、志貴は一つのズレもなくそこを狙っているのだ。
──知って、やがるのか。
槍を翻す。短刀の間合いに入り込んでいる志貴のナイフは既に間に合わない。ゲイボルクは小さな半径を描いて回転し、志貴の頭を狙って叩きつけられる。その際渾身の力を以って体を捻り、ナイフの回避に成功する。しかし志貴もまた弓のように上半身を反らして、槍を回避した。
志貴の足目掛けて放った槍は、衛宮士郎が残した剣を回避するために円を描くような軌道になる。その隙に仰け反ったまま地面を蹴り宙を舞った志貴は、中空からランサーを見下ろしていた。
ランサーを見下ろしているように見えた志貴だったが、見上げたランサーと目が合うことは無かった。志貴は槍を見ている。身動きの取れない空中などという場に逃げ込んだ馬鹿者を迎撃するために、光の速さで奔った槍を。
対してランサーは志貴の目を見た。青い目。そこに生気が無い。まるで人形のように、魂の宿らない暗い目。しかし、目的を達成するための力を感じる。そう、現代風に言えば機械と呼ばれる、目的を遂行するためだけのモノ。志貴は戦いを楽しまない。ギリギリのスリルを求めない。ただ、殺すためだけに存在する。
不意に、槍の感覚が無くなった。光の速度を自負していた槍は、既に音さえ超えられなくなっていた。故に、殺された。志貴に捉えられてしまった槍は、いとも容易く殺されたのだ。
ランサーは志貴の力を思い出す。モノの死を視る魔眼。魔王バロールが持つとされる邪眼に酷似したそれは、ランサーの死を読み取って腹を攻撃させた。ゲイ・ボルクの死を読み取って殺した。
誤算があるとすれば、マスターを失ったことによる魔力の消失。それが、想像を遥かに上回っていたということ。
志貴が降ってくる。一直線に、青い目を炯炯と輝かせて降ってくる。ナイフを順手に握り、ランサーの腹を狙って降ってくる。
「良い覚悟だった……てめぇも、あの小僧も」
誰にとも無く呟かれた言葉に、応答はない。
志貴のナイフが腹にめり込んでいく。痛みも出血も無かった。しかしこれで死んだという確信と共に、ランサーの体が冷えていく。
撤退することもできた。回避することも恐らくできただろう。しかしランサーはしない。槍を失った己には、最早何の役割も残ってはいない。
満足とはいかない。だがランサーは最期に笑っていた。
「向こうで待ってるぜ、シキ」
結局、邪魔者は早く退場するのが粋というものなのだから。
セイバーとキャスターを探した凛の視線は、火柱の根元に注がれた。巨大なクレーターの中心。黒い炎に照らされた、やけに大きな十字架が二つ。そしてそれぞれに、セイバーとキャスターが鎖で雁字搦めの格好で磔にされていた。キャスターの腹に突き立てられているのは死神のシンボルとでも言うべき大鎌だった。
二人からはまったく力を感じなかった。切ないほどに弱々しい生命の輝きが、強靭無比のセイバーと、無尽蔵の魔力量を誇る魔女を辛うじて現界させている。
鎌に何かしら仕掛けがあるのだろう。たとえばそう、魔力を吸い取ってしまうとか。
悪い予感がした。そんな武器を所持している者に、心当たりがあったからだ。しかし、そいつはとっくに死んだはずだった。では、何故。考えようとした凛の思考を、桜の悩ましげな吐息が遮った。
「殺す、ですか。あの神父さんみたいに? 真っ黒に焦げて。そうなんですよね、遠坂せんぱいは欲しいものは全部奪う。欲しいもののためなら他のものはいくらでも犠牲にする。兄弟子を殺すことにだって、なんの感慨も抱かない。泥棒猫の目、冷え切った目、まるで雪女。吐き気がします」
矢継ぎ早に放たれた言葉には力が篭らない。笑みは如何にも弱弱しく、脂汗を浮かせた肌は土気色になっている。理由はいまいち不明だが、聖杯として機能するために、いささか弱っているらしかった。好都合といえば好都合だが、凛は戸惑いを隠せない。
全てのことが、理解不能だった。キャスターに家を破壊されてしまったのが悔やまれる。膨大な書物の中に、この地下空洞のことや、あの黒い太陽について記されたものがあったのかもしれないのに。
「あれ、もしかして何も知らないできました?」
青い顔をしたまま、桜がたずねてくる。黒い太陽を背に、あくまでも悠然と構える桜は、息を荒くしている。弱っていた。確実に弱っていた。しかし凛は気圧される。空洞に満ちた無尽蔵の魔力。それらが全て桜に収束しているからだ。桜は無尽蔵の魔力を飲み込み、体中から発散している。まるで加湿器だと凛は思った。蒸気と化した桜の魔力が、ただでさえ邪悪な匂いを放つ大空洞を更に貶めていた。
「ここは、祭壇ってところです。上にも一箇所強い魔力を放つ場所があったでしょう? あちらは偽物なんだそうですよ。ホンモノはこっち。遠坂、マキリ、アインツベルンが求めた聖杯は、ここで成るんです」
嬉しそうに手を広げ、大仰な動作で説明をする。その身振りに言峰綺礼の影を見た凛は、笑っていた。
「何か、おかしいですか?」
「別に、身振りを真似たって、ああはなれないんだろうなと思っただけ」
「は?」
「で? どうする?」
「そうですね……その前に質問していいですか?」
桜が鼻を鳴らした。くんくん、くんくんと匂いを嗅ぐように。
「生臭いんですよね……先輩……鼻がきくようになったのかな、なんかすごくくさいんですよ。女の、ううん、雌の臭い」
桜はわざとらしく鼻を鳴らし続け、やがてぴたりと止まる。上半身を折り曲げて、顔だけが凛の方を向いている。鎌首を擡げようとする蛇のような仕草に、凛は頬をひくつかせた。
「せんぱいの匂いも混ざってる」
くすくすと、桜は不気味に笑う。それに合わせて、桜の背後で蠢く無数の触手たちも全身を震わせていた。
「アンタ……」
「気持ちよかったですか? せんぱいに抱かれたんでしょう? ねえ、きもちよかった?」
桜が一歩踏み出した。咄嗟に宝石を一つ握り、腕を牽制するように突き出す。折れた腕が悲鳴をあげたが、顔には出さない。弱みなど見せれば、その瞬間にあの泥に飲まれる。桜が凛を脅威としているうちに、殺さなければ。
「聞いてるんですよ。抱かれたんでしょう?」
取り合うつもりは無い。無言で腕を突きつけ、もう一歩進んできた桜を睨む。
「無視するんですか?」
凛は答えない。
「わたしなんか、人ですらなかったのにな……知ってます? ふふ、わたしの初めて、蟲だったんです。おじい様に無理やりに押し倒されて、気がつけば蟲の中にいました。何が何だかわからないままに終わってましたよ」
あくまでも笑いながら桜が言う。凛は一瞬桜の言葉を理解しかねた。否、したくなかった。そんな馬鹿なことがあるかと思ってしまった。
「きっと、そのときに埋め込まれたんでしょうね、聖杯の欠片。それからはずっとずっと、何もいいことなんてなかった。兄さんに無理やりにされるだけのモノです。だから、せんぱいと一緒に居られる時間はほんとうに楽しかったし、嬉しかった」
なのに──。
桜が凛を睨んだ。
「遠坂先輩に取られちゃった」
へへ、と桜が笑う。
「でもね、遠坂先輩……ううん、姉さん」
桜は凛を姉と呼び、
「わたし、決めたんですよ。自由になる。わたしはまだ完璧じゃないけど、ランサーもセイバーもキャスターも食べてしまえば、完璧になれる。神父さんもお爺さまもそう仰ってましたから。そうしたら自由になれる。好きなときに好きなだけ食べて、好きなものは好きなだけ手に入れる。姉さんも、先輩も、みんな、食べちゃう」
わたしはもう狂っていると、宣言した。
「ふうん。自由もいいけどアンタ、その前に死ぬんじゃない? 顔真っ青じゃない。ねえ、もしかして、サーヴァントの魔力──そうね、魂を取り込んでるわけ?」
「ええ、そうですよ。だからこんなにも、力に満ちてる」
道理でと納得した凛は、改めて桜の様子を見た。土気色の肌。白い髪。毒々しい着衣。足元はおぼつかず、目には生気がない。当然といえば当然である。サーヴァントの魂を取り込む。その所業が既に魔法の域だったが、この際置いておく。英雄の魂。言葉にしただけでさえ重苦しい重圧を伴う。それを、桜はいったい何人分取り込んだというのか。自我を保っていることが、凛には不思議だった。
「あと三人。三人で自由になれるんです。まずは最初に姉さんを──」
桜がにこやかに微笑む。妖然と。ぞくりと背筋を泡立たせた凛は地面を蹴った。鋭く流れた視界に、一直線に伸びてきた泥の触手を見、それ目掛けて火球を放った。宝石魔術ではない。言峰を焼き払った炎の余熱を再び魔力に転換し、この右腕に留めておいたものだ。何本もの泥の触手は炎の渦に阻まれ、崩れていく。
「殺します」
凛はハッとして顔を左右に首を巡らせた。正面から来た泥はフェイク。左右から五本ずつの泥が襲い掛かってこようとしていた。
「──Vier,Drei(四番、三番),Das solide die Verteidigung(炎の鎧)……!」
炎によって感覚が麻痺している右腕を突き出し、凛が叫ぶ。大地から炎が吹き上がり、凛に絡み付こうとする泥をたちどころに蒸発させていく。先ほどから炎の魔術ばかり行使している己に気付いて、凛は辟易した。気が立っているのか。
炎の鎧を纏う凛は、小さく呼吸をして顔をあげた。桜は悠然としている。自信満々といった風情で、凛を見下すかのような笑みを浮かべていた。その気持ちは分からないでもない。今打ち払った無数の泥だったが、桜の周りには再び無数に浮かんでいる。アレは底なしだと、凛にはわかっていた。この洞窟に満ちた禍々しい瘴気。そして、瘴気を生み出す火柱と、その頂の黒い太陽のようなもの。アレが存在する限り、桜の泥は消えることがない。
対して、凛の炎の鎧は宝石二つ分の力を持っているとはいえ、いずれは消えてしまう。残る秘蔵の宝石は二つ。消えても、鎧をもう一度作り出すことはできる。だが──
「stark――Gros zwei(二番 強化)」
凛は防御主体の考えを打ち払い、宝石を使用しての強化を試みた。折れた腕と鼻。焼けた腕。それらの傷が一瞬で癒え、体は綿毛のように軽くなり、拳は岩盤さえ砕くほどの硬度を、人のクラスを遥かに凌駕する臂力を得た。
護ってどうする。
凛はほんの一瞬でも臆病風に吹かれた己を詰った。もう一度鎧を纏う必要はない。この鎧があの泥の猛攻に耐えられなくなるより早く、間桐桜をぶちのめしてやればいいだけの話。
「殺す……殺して、先輩の前で食べてやる。骨も皮も髪の毛一本も遺さない。先輩はどんな顔をするんだろう……ふふ、ねえ、姉さん?」
小さな声で呟く桜は、自身を掻き抱いて蹲った。
好機。凛はすかさず走った。魔力を練り上げ、右手に収束させる。鎧に感化されドロドロとマグマじみた変化をした魔弾を、桜に叩き込むべく接近する。気付いているのかいないのか。桜は顔を上げようとしない。
その姿は痛々しいほどだった。事実、桜の体はもう限界だろう。目は焦点を結ばず、口は半開き。今にも死んでしまいそうな雰囲気がある。だが、桜の背後で揺らめく影だけは別だった。まったく趣味の悪い。凛は愚痴り、飛んでくる影に拳をくれてやる。纏った炎が影を打ち消す。
一本や二本ならいくら来ようと物の数ではないが、蛇のようにうねる泥は、その数が尋常ではなかった。四方八方から死角を縫うようにして飛んでくる。直撃を受けても鎧がいくらか緩和してくれるので、ダメージはそう大きくはない。しかし、何度も直撃されて無事でいられるほど、生易しいものでもなかった。次々に襲い掛かってくる泥を前に、凛は後退を余儀なくされた。桜は蹲ったままで居るのに、自立して動いている影はやけに動きが良かった。
「ッチ、厄介ね」
跳躍し、着地するまで一秒。その間だけで四本の触手がそれぞれ死角を突いてくる。両手両足を振り回し、影を粉砕する。着地すると、纏った炎で大地が焦げた。息をつく間もなく駆け出して、再び桜に接近しようとした瞬間──
「投影、開始(トレース・オン)」
桜を護るように立ちはだかる士郎の姿に、息さえ止めた。
***
体はとっくに壊れていた。それでも目を覚ましたのは、誰かに呼ばれた気がしたから。
「死んだ、のか」
ふわりふわりと揺蕩う体。四方八方は闇に囲まれている。己の体さえ把握し切れないほど、濃い闇だった。衛宮士郎。呟いて、嘆息した。まさか、自分は幽霊にでもなっているのではないか。そんな考えが頭を掠めた。
強ち間違いとも言い切れない。あんな死に方をしたら、誰だって化けて出ようと思うに違いない。志貴や凛がどうなったのか、気になって仕方がなかった。
──助けて。
また聞こえた。士郎は耳を欹てた。随分懐かしく感じるが、紛れもなく桜の声だった。毎日聞いていた声。しかし、彼女の絶叫を聞いたのはこれが初めてだった。
やけに頭蓋に響く。耳元でメガホン越しに喋られているような声量で、直接頭に響いてくるような感じがある。
「桜なのか!」
声をあげていた。闇が脈打ったような気がした。目の前の闇がゆらゆらと揺れている。それは次第に色を持ち、輪郭を持ち、そして──
「さくら」
数日前に別れたきり、見ることのなかった少女へと姿を変えた。
胸が痛くなった。心が打ち震えた。何故なのかと考えて、この場所を見渡した。真っ暗で、真っ黒で、寒い。
ここは桜の中だ。やわらかく、やさしく笑う彼女の中だ。やさしくて、素直で、本当の妹のように思っていた少女の心だ。それがこんなに暗くて寒い場所だったなんて知らなかった。気付きもしなかった。
現れた桜は悲しげだった。俯いたまま顔をあげようとしない。士郎の知らない桜がいた。本当に桜なのかと疑いたくなるほど、彼女は別のものだった。
「先輩は、いつだってわたしの味方、してくれますよね」
俯いていた桜は、士郎の腕に己のそれを巻き付けていた。押し当てられた胸から感じるのは柔らかさと暖かさ、しかしその温もりはどこか空虚だった。
「当たり前だろ」
「そうですか。じゃあ──」
士郎はそのときになって、違和感に気付いた。臓物の隙間を、何かが這っている。
「姉さんを、殺してください」
光が、はじけた。
***
驚愕、そして困惑。
凛は立ち止まり、呆然とした。
「士郎?」
最初に偽者かと訝ったが、すぐに本物だと気付かされた。士郎が両手に剣を握った瞬間、確かに凛の腹の奥で何かが疼いた。契約の証。
では何故こんなところにいる。ランサーと戦っていたのではないのか。志貴は、ランサーはどうなったのだ。
「凛」
心臓が脈打った。凛と呼ぶのか。その立ち位置で、桜を護るように立って尚凛と呼ぶのか。
「ふふ、ほらね、力があればなんだって手に入るんです。ちょっと予定とは違っちゃったけど、先輩が手に入ったからもうなんでもいいんです」
「ああ、そう……」
士郎は双剣を構えて、凛を見据えている。目は死んでいない。感情は見えないが、覇気に満ちた、いつも通り無駄に澄み切った目のままだ。来るなら来い。凛は歯軋りをして、二人を睨んだ。
「あ……」
突然、桜が蹲った。先ほどと同じように、自身を掻き抱くようにして蹲り、がたがたと震えている。先ほどよりも激しく、まるで電気ショックでも受けたかのように体を跳ねさせては、悲鳴をあげる。その異常に眉根を寄せる凛を、士郎が一瞥した。感情の無い目に僅かに色が灯った。
「ランサーが、倒されたんだな」
「は……い。先輩は、早く姉さんを……」
桜は縋るように士郎を見上げている。こくり。士郎が頷く。
顔をあげた士郎と睨みあう。本気の目。士郎は士郎の意思を持って、凛を殺そうというのだろう。歩み寄ってくる士郎が、双剣を構えた。凛は鎧に魔力を注ぎ込み、炎を吹き上げる。ちりちりと肌が焼ける。
腰を落として士郎が駆けた。速い。双剣を振り上げた士郎は掛け声と共に剣を振り下ろした。速く、重い。だが鎧は剣をどろりと融解させる。
「そんな鈍らでっ! わたしの防御を破れるとでも思ってんの、このバカ!」
叫び、殴り飛ばしてやろうかと思った。腕をスイングバックしてから、はたと気付いて、腕を引っ込めた。殴れば、消し炭だ。
「投影、開始(トレース・オン)」
士郎が呪文を唱える。
「何度やっ──ッ!」
言葉を噤む。士郎の背後に無数の泥の触手。それらは士郎を避け、弧を描いて凛へと殺到した。
まずい、と咄嗟に思った。その数十二本。炎で燃やし尽くせるだろうか。おまけに、正面には士郎がいる。その士郎は、双剣を握っていなかった。代わりに右手を掲げている。その指先が指し示すのは天。釣られて上を見て、再び絶句する。剣が浮いていた。いくつもの剣が。
「貫け」
剣が降る。後退。できない。背後もまた、回りこんだ泥に塞がれている。魔力を練り上げる。有りっ丈を炎の鎧に注ぎ込む。拳を握り締め、頭上の剣と泥を見据えた。凛の頭上にだけ、剣が無かった。凛を取り囲む格好でありながら、凛の上にはたった一つの剣も無い。シャッターが下りるかのように、剣は凛を取り囲んだまま落ちた。剣が、泥を次々に切断していく。超重量級の剣ばかりが十数本。それは、かつて学園で志貴を串刺しにしたものと酷似していた。
「先輩……? わたしは殺せと言いましたよ?」
「凛は、頭に血が上りやすい。桜に何か言われて、カッとなってるんだろ」
士郎は溜息を吐きながら、まるでアイツのように肩をすくめた。
「な、なによそれ!」
「事実だろ。それでな、桜。俺達がここに何しに来たか、わかるか」
「わたしを、殺しに」
「そうか。桜は、俺達がおまえを殺すような人間だと思ってたわけか」
悲しそうに、士郎が言う。
「だってわたし、殺しました、たくさん。姉さんのことも殺します。先輩を手に入れたから殺します。だから、先輩達はわたしを殺すんです」
桜は士郎の言葉に耳を傾けていた。凛の言葉には耳も貸さなかったのに。少し悲しくなる。わたしではダメなのか。これまで必死にやってきた。桜が少しでも安心できるように、桜の目が届くところでは常に笑みを絶やさなかった。何があろうとも乗り越えて、笑ってやった。桜も笑っていた。それでいいと思っていた。実際には違ったのか。
「良いか桜、よく聞くんだ」
士郎が桜に近づいていく。怯えた様だったが、桜は小さく首肯して、息を呑んだ。
「俺達は、おまえを助けに来たんだ、桜。俺も、凛も、もちろん志貴もだ。わかるか?」
「……そんなの──」
短い悲鳴が断続的に続く。桜は今にも暴れだしそうだった。それを、士郎が抱きとめることで抑えている。士郎に抱かれていることで、桜も安堵している様子ではあったが、痙攣はとどまるところを知らない。その桜に、士郎はゆっくりと言い聞かせる。
「だから俺は凛を殺せない。もちろん、桜も殺さない。一緒に帰ろう」
「どうして、なんで、せんぱいどうしてですか……。わたし、強くなるんです! もっともっと。今だってもう、先輩くらい簡単に殺せるんです。なのにどうして、言うことをきかないんですか! 助けてあげたのに。あのまま放っておいて見殺しにすることだって、できたんですよ……」
「そうだ桜。感謝してる。おまえを助けないで、死ぬわけにはいかなかった。だからな、今度は俺が桜を助ける番なんだ」
「や……そんな、やだ!」
桜の背後でで影が蠢いた。鎌首を擡げた影が八本、同時に士郎へと襲い掛かる。しかし影は尽くが士郎を外れ、地面に飛び込んでいった。桜がやったのだ。士郎の言葉に、桜は動揺している。
「いいのか? このままで」
逆に、士郎に死に対する怯えはまるで見られなかった。無数の影の触手が構えているが、当てないと確信しているのか。それとも、当たっても構わないと覚悟の上なのか。
「良くなんかない! でももう戻れない。裏切ったくせに……姉さんを選んだくせに。姉さんと寝たくせに! ほんとはわたしのことなんかどうでもいいくせに。なのになんでそうやって偽善者ぶるんですか……わたしは……ずっと……」
「俺は凛が好きだよ、桜」
桜の顔が跳ね上がった。蒼白。そこに怒りが混じっている。愕然と、あるいは憮然と士郎を睨み上げ、桜は歯を食い縛った。
「先輩なんか──」
「でもな、桜も好きなんだ」
凛は纏っていた鎧を解除して、小さく溜息を吐いた。
「桜」
「……姉、さ」
凛が近づいていく。緊張した歩み。桜は震えて、何かを堪えていた。
「……だめ、やっぱりだめ……わたしを殺そうとしたくせに……殺そうと……殺そうとしたんだ!」
読みが甘かった。凛は顔面を蒼白にし、目にも留まらぬ速度で飛んだ泥を見た。一直線だった。ほんの少しも曲がらず、真正面。だからこそ、避けられなかった。速すぎる。
「くっ!」
体を思い切り捻った。尋常ではない衝撃を受けて、凛は吹き飛んだ。衝撃の直前に、同じように吹き飛ぶ士郎を見た。気がついたとき、凛は地面に倒れていた。痛い。
ひどい寒気を感じて、凛は恐る恐る左肩を見下ろした。
思わず呻く。腕が繋がっているのが不思議だった。ショック死しなかったことも不思議だった。肩が砕かれていた。それも、ただ砕かれただけではない。絡みついた泥が、煙を上げながら凛の体を食らっている。目を覆いたくなる。叫びだしたくなるほどの怪我だった。
矢張り、だめなのか。桜に見られないように、下唇を噛み締めた。わたしでは姉になれないのか。たった一人の肉親にさえ、うわべだけの付き合いしかできないのか。
空しさが胸の中をいっぱいにした。何故。どうして。何が足りなかった。
答えなどわからない。凛は孤独だった。強く、気丈な少女。優等生だった。だが、独りだった。
強く、気丈に見せていた。優等生は演じていた。そうなるための努力は怠らなかった。だが独りであることだけは、変わらなかった。むしろ、優等生でいようとすればするほど、孤独の深みにはまっていくようだった。心底気を許せる友人などいなかったし、悩みを打ち明ける人もいなかった。
ただ、悩みを打ち明けられることだけは多かった。取るに足らない悩みを聞かされる。だから凛も、当たり障りのない言葉を返していた。それでクラスメイトたちは安心して去っていった。それは『優等生の答え』というものを彼らが期待していたからだ。だが、今は違う。桜に、優等生というステイタスは意味をなさない。ここは、裸の遠坂凛として、妹に何か言葉をかけなければならないのに。
肩の痛みは心の痛みだった。かける言葉が見つからない。浮かんでくるどの言葉も、取り繕ったような、くだらない飾り立てただけのモノでしかなかった。
気弱な己に、唾棄したくなるような気持ちだった。結局、遠坂凛なんてこんなものか。大物ぶって、バカみたいだ。
内心で吐き捨てながら、自分をこんな弱気にさせた志貴を恨んだ。
至近距離からの直撃を受けたはずの士郎が、立ち上がっていた。桜が手加減をしたのだろうかと思ったが、すぐに否定した。士郎は間違いなく重症だった。
「また、ここか……」
士郎は呟いて、己の腹を見下ろしていた。押さえた手のひらの間から臓物が覗いている。綺麗な色をしていた。士郎らしい。そんなことを思って、凛は自己再生の魔術を行使した。治癒は遅々として、完治させるには相当の時間を要するだろうと思えた。その前に、痛みで気を失ってしまいそうだったが。
「あ……あぁ……」
士郎の血を全身で浴び、桜は白目を剥かんばかりに目を見開いていた。震えながら後ずさり、士郎に手を伸ばし、引っ込める。カタツムリの触覚のような動きをしていた手を止めて、桜は俯いた。肩が震えている。だが、先ほどまでの痙攣は、既に治まっていた。
「あは、あははは!」
狂ったように哄笑をあげ、桜が腕を開いた。
「だめだ、もうだめだ……あはは……先輩にまで、こんなこと……もう、もうみんな、死んじゃえ」
「よせ、さく──」
「死んじゃえ! 先輩も、姉さんも、わたしも! みんな死んじゃえ! みんな無くなっちゃえ」
桜の背中で燻っていた泥が、無数に肥大化した。黒く、大きく。壁のように大きくなったそれは、やがて人のまがい物のような形になった。影の巨人。
凛も士郎も、呆然とそれを見上げて、息さえ忘れた。倒せない。あれは、無理だ。存在するだけで、全てを飲み込んでしまいそうなほど暗い闇。
巨人が腕のような部分を掲げた。二人を飲み込むために。その腕はきっと、人間なんて簡単に飲み込んでしまうだろう。だが振り下ろされた巨人の腕は、
「あれ……?」
桜を目掛けて振り下ろされた。
何故? 考えるより早く、凛の体が弾けていた。肩の傷のことなど忘れて、全力で腕を振って走った。幸い、強化魔術はまだかかったままだった。風よりも、音よりも、あわよくば光よりもと疾走した凛は、懐から宝石を取り出した。虎の子の宝石。最後の一つ。あの滝のように落ちてくる腕を、吹き飛ばすのに果たして足りるのか。考えている暇は無い。呆然と自分を押しつぶそうとする巨人を見上げる桜をぼろぼろの左腕で抱きしめた。強く強く抱きしめた。
──ごめん。
内心で呟いてから、見上げた。大きな腕。強そうな腕。だがそれが、
「どうしたっての……ッ! 一番、解放──!!」
加工しない、純粋な魔力の塊。詠唱は日ごろ使うドイツ語ですらなかった。だがそれでも、遠坂凛生涯最高の出来だと自負できる。最高の一撃。白い光が、視界を埋め尽くす。宝石が砕け散った。それでも、腕を突き出したまま、閃光に力を注ぎ続けた。
桜はじっと凛を見つめていた。どうして? 声にされなくとも、それくらいのことはわかった。姉だから。答えてやりたかった。でも、そんな余裕は無かった。歯を食い縛って、ただあの巨人を押し合うだけ。だがその最中、ようやく志貴の言葉を信じることができた自分に気付く。
妹を殺せるわけがない。志貴はそう言っていた。その通りだ。場合によっては殺すつもりでこの地を踏んだ。あれだけ生意気なことを言われた。だというのにこの瞬間、しっかりと凛にしがみついている桜が、愛しくて仕方が無い。全てをかなぐり捨てて、両手で抱きしめてしまいたいほどに、愛しく思う。
妹、だからだ。
巨人が力を強めた。対して凛は満身創痍だった。徐々に押されていく光を見ていた。もう、注ぐだけの力も無い。横目で桜を見た。目が合う。にこり、微笑んでやった。掲げていた右手を桜の背中に回し、強く強く抱きしめて、そのまま押し倒した。桜の体を包み込むようにしてから、更に強く抱いた。
「桜──」
見つめ返してくる瞳は、まだ状況を察しきっていない。夢遊病者のように、虚ろな瞳が凛を見つめている。
「愛してる」
背中が、焼けた。
***
こんなことが、あってたまるか。何本も何本も、投影しては放っていた。だがあの巨人に効きはしなかった。まるで平気な風情で、凛を、桜を、押し潰した。
「や、姉さん! なんで、どうしてですか! やだ、目、開けて……姉さん……ねえ……」
巨人が腕を退けると、そこには打ち捨てられたように横たわる凛と、凛にしがみついて絶叫する桜の姿があった。
「やだ、やだよ姉さん……ずる、こんなの……ずるい……や、あ、ァアアあぁぁあああ!!」
桜は一際大きな絶叫をあげて倒れた。気絶したのか。ぴくりとも動こうとしない。士郎もまた、動くことができないでいた。あまりにも近くで、直撃を受けた。臓物を覗かせていた腹はいつの間にか内臓をしまっていたが、動くとなればまだ時間がかかる。
「存外に脆い心よの。いや、ここまで堪えたことを賞賛すべきか……」
どこかで聞いた声に、士郎は戦慄しつつ顔をあげた。求めた姿は無い。当然だった。体は、完膚なきまでに破壊されたはずだ。声は桜の口から放たれている。桜の口が、桜でない者の声を発しているのだ。
「……てめ、ぇ……」
「おお主らも頑張ったのう。言峰綺礼を倒すとはおもわなんだ。ランサーもやられおった。どういう意味かわかるか……」
桜が唇を吊り上げて笑う。否、間桐臓硯が笑う。笑いながら、臓硯は凛の体を蹴り付けた。鈍い音と共に、凛の体が転げる。
──何を、しやがる!
「ワシの勝ちじゃよ、衛宮の倅」
「ふざけんな……テメェ! 桜の中から出ていきやがれ!」
走った。だがその動きは鈍重だ。臓硯はくつくつと喉を鳴らして、右手を掲げた。
「出て行け、とな。ワシは桜を救ってやっただけじゃて。危ういところじゃった。宿主が不甲斐無いと、反旗を翻したのか。それとも、死を願った宿主に呼応したのか。いずれにせよ、口先だけで死を望んでも、桜は真に死ぬことを是とはせん。仕方なしにワシが出てきたわけじゃよ。あの子を苦しめているのは、主らじゃろうて」
「黙れ──投影、開始(トレース・オン)ッ!」
臓硯に従うように、泥の触手が伸びた。士郎は双剣を構えて、泥の中に突っ込んでいく。何度もつんのめる士郎には、元より回避するだけの力など無かった。力任せに泥を断ち切りつつ、臓硯に肉薄する。十もの触手を切り裂き、臓硯の眼前に迫った士郎が剣を振り上げる。
「それでどうする。この体を斬るか」
「……こ、の……」
士郎の動きが封じられる。凛が命を賭けて護った桜を、どうして斬れる。
「素直じゃの。じゃが、主らの相手ばかりしておるわけにもいかん。魔眼の小僧もおる。ヤツが来る前に、セイバーとキャスターを戴くとしよう」
くつくつ。笑って、臓硯が背を見せる。士郎は、歯を砕きかねない勢いで噛み締めていた。憤怒。抑えようのない怒りが、士郎を深紅に染め上げていた。
「殺しておけ」
臓硯が笑う。耳障りな声で笑う。凛と桜を押し潰し、その場で佇んでいた黒い巨人。影絵の世界から抜け出してきたような、のっぺらぼうの巨人が動き出す。大空洞を揺るがす咆哮が、毛穴から入り込み、全身に恐怖を植えつけようとする。
「精々頑張ることじゃよ。カカ」
倒せない。手持ちの武装では、あの巨人を倒すことなどできない。現れた瞬間に悟っていた。その威圧感たるや、英霊達に匹敵するものだ。
臓硯は再び背を見せて歩いていく。その後姿を、見送ることしかできない。巨人はただ見下ろしている。だが、指先一つでも動かせば、皆まったくの同時に消し炭になるだろう。
──強大な影……。倒せるとしたら、セイバーの宝具……か。
アインツベルン城で見たセイバーとギルガメッシュの宝具。ギルガメッシュに打ち破られたとはいえ、セイバーの宝具は規格外の力を持っていた。あれほどの火力ならば、きっとこの巨人も倒せる。だが、今の凛と士郎に、それほどの火力は生み出しようが無かった。
どうにか巨人を出し抜き、セイバーとキャスターを解放する。道は、それしかない。だが、この傷だらけの状態で、巨人の一撃を受け止め、臓硯の攻撃を掻い潜ることなどできるのか。
投影魔術は何度使えるのか。何度できようと、巨人を殺すまでの力は得られないだろう。だが、キャスターとセイバーを縛るあの鎖と十字架と鎌を吹き飛ばすくらいのことは、容易いはずだ。
よろよろと立ち上がり、巨人を見上げた。巨人が見下ろしてきていた。目がどこにあるのかわからないが、そんな気がしたのだ。睨みあいはほんの一秒。腕を振り上げた巨人。振り下ろそうとする。逃げることも、受けることもできそうにない。だが巨人は唐突に、何の前触れも無く消え去った。
「遅いぞ、志貴」
他に、こんな芸当をやってのけるヤツはいない。
***
鼓動。大音量。骨に響く音だ。体中の骨という骨を打ち鳴らし、頭蓋を伝わってくる。頭痛とはなんだったか。息をするだけでも痛む頭。頭が痛むのならば、これも頭痛というのだろうか。
ランサーが消えるのを、線が消えることで確認した。エセリアルの肉体は、ライダーと同じように跡形もなく消え去ったのだろうが、志貴にそれを確認する術は最早無かった。
──向こうで待ってるぜ。
唇が歪んだ。
「向こうって、どこだランサー。俺に、あんた達と同じになれってのか? それとも地獄に来てくれるのかい?」
踵を返して、一歩進んだ。体が傾いだ。右足で踏ん張って堪えると、額には玉の汗が浮いていた。拭う。もう一歩。再び傾いだ。堪え、また一歩。次第に、体が慣れ始めていた。
ゆっくり慎重に歩いた。転べば、二度と起き上がれないという感覚があった。明日死ぬかもしれないと言われたことを思い出す。つまり、今転び、そのまま死ぬということもありえる。まだ役割を果たしきっていない。ここで死ぬようなことがあって、士郎になんと詫びればいいのか。
歩く。よろめきながら。徐々に徐々に足取りがしっかりしていく。ふらつかなくなり、力強くなっていく。線や点が流れていく。己の手に走った線が、激しく前後する。腕を振っているのだと気付いた。それを見て、志貴はようやく自分が疾走しているのだと気付いた。頬に当たっているはずの風も感じない。地面を蹴っている感覚もない。何度も何度も転びそうになりながら、それでも志貴は疾走する。風がどれほどのものか。音がどれほどのものか。何よりも速く駆けねば、凛が危うい。
鼓動が聞こえる。警鐘を打ち鳴らすかのように、大音量で鳴り響く。
そして開ける。線や点が突然遠のいた。巨大な空間。大空洞とでも言うべきその空間に立ち入ったとき、志貴の聴覚が、怨嗟の声を聞いた。声ではない。それは、地鳴りだった。
再び走る。地鳴りの主の下へ。離れていても視える、あの巨大な何かのもとへ。
断崖を、両手両足を駆使して駆け上がった。人が三人ほどいるらしい。それと、巨大な何か。それを見上げる。生きているという気配はしない。サーヴァントのような気配も感じない。ならばどうするかなんて、簡単なことだった。
一陣の風が吹き抜ける。頽れる人と倒れている人の間を縫って吹き抜ける。巨大なモノが腕らしきものを振り下ろそうとするのを視た志貴は、既に跳躍していた。一体自分は何メートル飛んでいるのか。巨人の腹の辺りに視えた点に到達しているのだから、さぞ飛んでいるのだろう。
ナイフを引き、突いた。感触は無い。ただ確実に殺したという実感と共に、志貴は着地した。
「遅いぞ、志貴」
背後からの声に、志貴は肩をすくめた。
「ああ、悪い」
生きていたのか、とはたずねなかった。
凛の声が聞こえなかった。改めて前方を睨んだ。三人の人影のうち、いまだ確認が取れていない最後の一人。志貴にはその一人が二人に見えるのだが、どういうことなのか。どちらにせよ、それが間桐桜であることは、想像に容易かった。
「き、さま……何を、した」
「桜って子は、こんな声なのか……?」
桜だと思った者の声は、まるで老人のものだった。しゃがれ、つぶれ、聞き取りづらい震えた声。
「……臓硯だ」
「孫の体を……へえ、良い趣味してるじゃないか、おまえ」
再び、志貴が風になった。ひとりがふたりに視えた理由も、簡単なモノだ。乗っ取っていた。悪趣味極まりないことだと思う。悪趣味が過ぎてとても許す気にはなれないから──
「返礼だ、よくもやってくれたな」
一瞬で臓硯に肉薄した志貴を睨みつける視線を感じた。桜自身から。
「……とおの、しき」
臓硯の声ではなかった。ああ、これが桜か。おとなしそうな、好い声だった。志貴の眼に、彼女の姿がありありと映った。黒く長くて綺麗な髪に、少し弱気で俯きがちな視線。けれどどこかに強い心を持ったその姿は成るほど──。
「凛ちゃんにそっくりだ……」
***
「……とおの、しき」
桜は呆然とした。臓硯が唐突に支配権を明け渡し、自分を前に出したのだ。死を確信した。ライダーですら敵わなかった。あの巨大な影すら殺した。そんな相手に、『女子供ならば殺さないだろう』などと、我が祖父ながら浅はかであると思わざるをえない。いや、衛宮士郎になら、通じるかもしれない。だが、相手はライダーを無慈悲に一撃で殺し、ギルガメッシュにまで迫った怪物だ。祖父はこの眼を見なかったのか。青くて吸い込まれそうな目。それを見つめているだけで、桜は自分が極寒の地に裸で投げ出されるような感覚を味わうというのに。
化け物──遠野志貴の腕が一瞬ピタリと止まった。じっと、見つめられる。息が詰まった。背後で蠢く影が、躊躇していた。桜がそうさせていた。諦念が、影を使役させない。
不思議と、恐怖は無かった。
「凛ちゃんにそっくりだ……」
「は──?」
思わず声をあげた。あげてから、悲しくなった。そんなはずがあるか。自分はあんなバカみたいに綺麗じゃない。遠坂の家で育ったらわからなかった。もしかしたら美人になれたかもしれない。何せあの遠坂凛の妹だ。けれど、間桐一色の自分を、桜は嫌悪していた。
「ふざけ、ないで……」
背後で影がざわつき始める。殺す。殺してしまおう。殺せる隙があるならば、殺してしまえばいい。コレはライダーの仇だ。
声に従って影を放とうとした瞬間、桜の脳裏を凛の笑顔が過ぎった。
──もう、やめよう。
「殺して、ください」
桜は脱力し、志貴を見つめ返した。志貴の瞳は、どこかおかしかった。それでふと、思いつく。
死を視る魔眼。もしかすると、彼の視力は既に──。
「ああ、殺してやる」
体の中で蟲が叫んでいた。殺せ。殺すのじゃ桜! 煩い。必死なのはわかる。何百年も彷徨って、ようやく手に入れたチャンスだ。なんとしても手に入れたいだろう。だが、もう遅い。
姉の優しさ。桜を受け入れてくれる温かさを知った。もういい。何も、望むものは無い。
何かがこみ上げてくる。嬉しいような、悲しいような、不思議な何か。頬を伝う何かも、きっとその感情の表れ。お別れなのだ。ゆっくりと迫る銀刃。それがこの胸に突き立てられれば、間桐桜は消え去ってしまう。死ぬ。ここから消えて、自分が全てなくなってしまう。もう二度と目覚めない。もう二度と生まれない。虚無の一部と化して、永遠に虚無でいる。怖い。恐ろしい。
遠坂凛の妹で、衛宮士郎の妹分だった間桐桜は、いなくなってしまうのだ。
それが何より、恐ろしかった。
「安心していい。君には、傷一つつかないんだから」
志貴の言葉の意味なんて、わからなかった。切っ先が胸に埋まっていく。刃が突き立てられているのに、痛みも出血もなかった。実の姉と、兄みたいな人。二人が自分のために駆けてきてくれている。もう手が届きそうなところにいる二人を見て、桜は最期の一粒、涙をこぼした。それだけで十分だった。
後悔は無い。姉の腕の中は暖かかった。それを知ることが出来ただけでも、幸せだった。
胸の内で何者かの絶叫を聞きながら、桜は目を閉じた。不思議と、怖くは無かった。
***
桜の体を抱きかかえた志貴が、火柱の方へ歩いていった。士郎は凛を抱き起こす。口元に耳を寄せた。地鳴りがうるさくて聞こえやしない。鼻に指を近づけてみる。息はしていた。動かしたくは無かったが、こんなところに一人で寝かせておくほうが心配だった。ゆっくり慎重に抱き起こして、俗に言うお姫様抱っこの格好で、志貴を追った。
「悪かったな、途中で……」
背中に追いつき、士郎は謝罪した。くるりと振り向いた志貴が神妙に溜息を吐いた。
「謝るのは俺だよ、士郎君。まさか、殴られただけで動けなくなるなんて、思いもしなかった。情けなくて、それだけで死にそうだった」
「でも、倒してくれた。あのランサーをだ。正直、無理かと思ったぞ、少し」
「俺も無理だと思った。けど、倒せたのは君のおかげだ。感謝してる」
よせよ。言って、士郎が笑った。
キャスターとセイバーを解放して、セイバーにあの火柱を吹き飛ばしてもらおう。こんなものは、無いほうがいいに決まってる。ただ、まだ髪が白いままの桜は、どうすればいいのかわかりかねた。
「キャスターに、この子はなんとかしてもらおう」
心を読んだように、志貴が答えた。
「契約破り、か。反則だな、あれ」
「悲しい力だけどな」
意味深に呟き、志貴が足を止めた。火柱の根元にいた。火柱の向こうに透けてみるのが、祭壇とやらなのだろうか。そしてその頂上。あの球体。卵のようなもの。見覚えがある。十年前。いや、いい。今は考えなくていいだろう。
セイバーとキャスター。二人とも、目を開いていなかった。鎖で悪趣味な十字架に雁字搦めにされて、眠っている。セイバーはほぼ無傷だったが、魔力が足りないのか、まるで力を感じなかった。キャスターの紫色のローブは、血で真っ黒に染まっていた。巨大な鎌。魔力を根こそぎ吸い上げるその大鎌によって、キャスターは腹を貫かれている。ただ、寝顔はひどく安穏としている。この怪我で一体どんな夢を見ればこんな安らかな表情で眠れるのだろう。
「キャスター……」
志貴が桜を片手に抱いて、ナイフを抜いた。閃光する。見えないほどの速さで、ナイフが幾度も瞬いた。最初にキャスターを貫く鎌を、次に二人を縛る鎖を、最後に大きな十字架を殺した。惚れ惚れするほどの手際。切っ先はおろか、ナイフを操る腕すら目で追えなかった。
支えを失って倒れるキャスターとセイバーを、志貴と士郎はそれぞれ抱きとめた。弱弱しい温もりを肌で感じる。それでも心底安堵した。生きている。聖杯を破壊すれば、別れることになるだろう。それでも、失って別れるのと、別れの言葉のあとのそれとでは、まるで違う。
セイバーがみじろぎした。ゆっくりと、目が開かれる。緑色の、宝石みたいに綺麗な瞳だった。久しぶりの視線。まっすぐで気持ちのいい視線が、じっと見上げてくる。
「シロウ……?」
「おはよう、セイバー」
「久しぶり、元気そうでなによりだ」
目覚めたセイバーに気付いた志貴も、声をかける。寝惚けているのか、まだ状況を把握し切れていないらしいセイバーは、上下左右を見回した後、目を見開いた。
「そんな、ばか、ですか貴方たちは」
「自覚してる」
少しだけ笑って見せてから、キャスターに視線を移した。蒼白だった頬がほんのりと色づいていた。
「ランサーやギルガメッシュはどうしたのです」
「ギルガメッシュはランサーに倒された。ランサーは、志貴がついさっき倒した」
眉根を寄せていたセイバーの顔が、面白いくらいに呆然とした。
「士郎くんのおかげで、なんとか倒せたってだけだ。運がよかった。ランサーが殺す気だったら、多分俺は死んでたよ」
力なく笑う志貴の視線は、キャスターに釘付けだった。心配そうに覗き込む様子に口をつぐんだ士郎は、俄かには信じられないという顔のセイバーから、目を覚まさない凛に視線を向けた。鼻の下が赤い。言峰にでも殴り飛ばされたのだろうか。服の袖で拭い取ってやる。
すすり泣くような声が聞こえたのは、そのときだった。ハッとして視線を向けると、ローブを目深に被ったキャスターの肩が、震えていた。
「……どうしてこう、無茶ばかりを」
「迷惑、かけた」
キャスターは溜息を吐いて、ローブをはぐり取った。薄紫色の瞳が、揺れている。それでもにこりと微笑んで、キャスターは喉を鳴らした。
「無事でよかった」
「キャスターも、無事でよかった」
それきり、二人は口を開かなくなった。来た道を戻り、一枚岩の端から火柱を見つめた。セイバーの回復を待っていた。二人は急速に回復してきている。元々、キャスターの魔力供給量は半端ではないらしい。マナを体内に取り込むのが、現代の魔術師など及びもつかないほどに上手なのだという。キャスターと契約しているセイバーも、それに釣られるようにして回復していた。
「終わるんだな」
「ああ、終わるんだ。ようやく」
火柱──“この世全ての悪(アンリ・マユ)”を睨んだ。諸悪の根源。こんな、聖杯の紛い物が無ければ、何も無かったはずだった。誰が、何を求めて作ったのか、今の士郎達に知る術はない。だが、そこにどれ程尊い意思が宿っていたとしても、そんなものの存在を許すことはできなかった。
「十分です」
聖剣を握ったセイバーが一歩前に進む。何物よりも優れた剣を、下段に構えたまま、じっと、何かを堪えるように、セイバーは“この世全ての悪(アンリ・マユ)”を見つめている。その面差しに名残惜しさのようなものを感じて、セイバーの夢はなんだったのだろうと、いつか抱いた疑問を繰り返した。その願いは、聖杯を望んでしまうくらいに、無謀なものだったのだろうか。その聖杯がこんなものだと知った、セイバーの落胆は如何ほどのものなのか。想像もできない。ただ、セイバーはやがて吹っ切ったように相好を崩し、士郎を見上げた。
「離れていてください」
一際強く握られたエクスカリバーが、光と風を巻き起こす。突風じみた風の中、士郎はただ凛を抱きしめていた。
「志貴、その子をこちらへ」
志貴が頷いて、桜を抱いたままキャスターの前に立つ。
「──“破戒すべき全ての符(ルールブレイカー)”──」
セイバーの宝具と比べると弱い閃光に、一瞬目が眩んだ。キャスターは歪な形の短剣を手にしていた。セイバーと士郎の契約を消滅させた短剣。それが振り上げられる。
時を同じくして、セイバーから吹き上がる風が強くなった。
「“約束された(エクス)──」
キャスターが短剣を振り落とし、セイバーが聖剣を振り上げる。全てが終わる。一瞬後には“この世全ての悪(アンリ・マユ)”──桜の中にいるふざけた存在が、砕け散る。それで、全てが終わる。士郎は目を見開いて、その行く末を瞼に焼き付けようとしていた。だからだろうか、“この世全ての悪(アンリ・マユ)”の異変に気付けたのは。
「飛べ!」
志貴の声を聞くまでも無く、士郎とセイバーは後退していた。桜の体が脈打っている。それと同時に現れたのは、あの巨人だった。一体だけではなかった。それこそ、無数。数え切れないほどの巨人が、士郎達を取り囲むようにして存在している。
そのうちの一体が、キャスターと、桜を抱く志貴目掛けて腕を振り下ろした。キャスターは桜の心臓目掛けて宝具を振り下ろす。
「キャスター!」
「こらえなさい!」
志貴の声を遮って、その胸を貫く。黒い何かが、桜の体から湯気のように立ち上っていく。白い頭も、黒い服も、全てが吹き飛んでいく。だが、安堵はできなかった。巨人の腕が降り注いでくる。
「──勝利の剣(カリバー)”!」
セイバーが体を反転させ、真上に宝具を放った。黄金の閃光が、暗い大空洞を埋め尽くした。次々に腕を振り下ろそうとしていた巨人たちが、尽く消滅させられていく。
「出口まで走りましょう」
疲れが抜けきっていない体で宝具を放ったセイバーだったが、平然と言って、包囲の崩れた巨人の間を縫うように駆け出した。士郎が抱いていた凛は、セイバーにひったくられた。後を追おうと駆け出したすぐ背後に、もう次の巨人が現れていた。数え切れない。光によって埋め尽くされた大空洞は、一瞬でまた闇に支配されている。
走る。セイバーもキャスターも走っていた。だが、ただ一人だけ反転さえしない者がいた。
「志貴!」
キャスターの叫び声を聞き、皆が立ち止まる。巨人は今にも押し潰さんとしている。にも関わらず、志貴はじっと“この世全ての悪(アンリ・マユ)”を睨みつけていた。桜はキャスターのローブで包まれ、いつの間にかキャスターが抱いていた。
「おい! 志貴!」
「キャスター……」
志貴が呟いた。
「令呪、最後の令呪だ」
「は? 待ちなさい志貴……あなた、何を!」
「今まで本当にありがとう。助かった。迷惑もいっぱいかけた」
「志貴!」
「メディアは、最高の戦友で、最高の仲間で、最高の家族だ。ありがとう」
志貴が振り返る。青い眼が、じっとキャスターを見つめていた。士郎もセイバーも凛も桜も。もう志貴は誰も見ていなかった。ただ、この戦争を共に生き抜いてきた相棒を、見つめている。
「……何を、考えているのです」
キャスターが駆け寄ろうとした。だがそれを手で制して、令呪が輝く左手で制して、志貴ははっきりと言った。
「令呪に告げる──“俺以外全員を連れて、ここから空間転移しろ”」
キャスターの体が弾かれたように痙攣する。抗っていると見て取れた。何故そんな命令をするのか。キャスターの目には涙があった。そんな理不尽な命令には従えないと、決死で抗っていた。
士郎にも、セイバーにだってそんな命令をする理由が見つからなかった。走れば逃げられる。何も、魔法まがいの魔術まで使って脱出する必要などない。それも、一人を置き去りにしてなど。
誰も志貴の魂胆など知りえない。だが、キャスターは抗いも空しく呪文を口にしはじめていた。その顔は絶望に塗れている。涙は止め処も無い。
「死ぬ気か! シキ!」
駆け寄ろうとするセイバーが、何かに阻まれた。結界だった。キャスターが生んだ転移魔術の範囲内に、既にセイバーも士郎も入っている。抜けられない。キャスターを睨んだセイバーだが、弱々しく首を振るキャスターを見て、うなだれた。
「ふざけんな! なんだってこんなことをする必要があるんだよ!」
志貴が背を向けた。ナイフが煌いている。ゆっくりと腰が落ちていく。四人を覆う光が強くなった。強い光。その向こうに、“この世全ての悪(アンリ・マユ)”がいる。志貴が駆け出した。巨人の合間を縫って、一直線に祭壇目掛けて。
「“天地乖離す(エヌマ)──」
絶望の声。空耳かと、士郎は己の耳を疑った。そんなはずはない。いるはずがない。ランサーが殺したと聞いた。志貴は知っていたのか。ヤツが、まだ生きていると知っていたのか。
キャスターは、血が滴る程唇を噛み締めていた。その無念も、想像できるようなものではない。
「──開闢の星(エリシュ)”」
赤い風が黒い太陽から吹き上がっている。無数の巨人たちを巻き込んで、大空洞ごと崩さんとする断世の風。
“この世全ての悪(アンリ・マユ)”が、世界を切り拓く剣によって、両断された。
「この世一つ、それも高々悪如きでは足りぬ。そうは思わぬか? 神殺し」
爆風に晒された志貴が、それでも突っ込んでいく。標的は一人。黄金の鎧の至る所を破損し、それでも尚泰然と、不敵に構える英雄王──ギルガメッシュの元へ。
「志貴────!!」
空間転移が、発動する。
日付が変わってから小一時間。客間で茶を啜っていた刀崎の元に、小太りの男が人のよさそうな笑みを浮かべて近づいてきた。
刀崎は眉間に皺を寄せ、嫌悪感を隠そうともしなかった。刀崎はこの男──久我峰家の嫡子、久我峰斗波が嫌いだった。他の家のものなら媚び諂うところだったが、生憎遠野と関係の浅い刀崎には無関係である。とはいえ、今回の遠野秋葉の処断を、最後まで伸ばしに伸ばしたのもまた、久我峰であった。志貴を焚き付けたという自覚がある刀崎にしてみれば、有り難い同胞でもあった。人間的には、まるで反りが合わないのも事実であったが。
「驚いたものです。何せ刀崎のご隠居が姿を見せられていると聞きましたからな」
「久我峰の長男坊がいる。こちらのほうが余程怪異と思うがな」
無愛想に言い放ち、湯のみをテーブルに置いた。
「秋葉様は仮にもワタシの婚約者でしたからな。反古にされ、追い出されたようとも、婚約者の最期を看取るのは務めでしょう」
「……そうか」
斗波は向かいのソファに腰を下ろすと、使用人──琥珀という──が運んできた紅茶を、大仰に手に取り啜った。
「相変わらず美味いですなぁ」
屈託の無い笑みを浮かべる斗波に一礼し、琥珀が下がった。彼女は刀崎がこの屋敷に一足早くやってきたときには既に廃人のようになっていた。妹の翡翠も似たような状況だったが、琥珀よりは幾分マシな様子だった。
「可哀想なものだ……彼女らのその後は決めてあるのか久我峰さん」
「ワタシのところに来いとは言いましたがね、秋葉様に殉じかねない雰囲気でして、いやはや、参りましたな。ワタシが死んでも、ワタシの屋敷の者など狂喜するだけで殉じてくれる者など居りません。その点では、うらやましくも思いますが」
人柄の問題だろう。刀崎は口には出さずに、茶を啜った。あの丸々とした顔の中にある細い目。その目に見つめられていると、心を見透かされているような気分になる。
正面から睨み合うような年齢でもない。ちらりと窺がったカレンダーは、二月十三日を示していた。
「いよいよ、明日ですか」
「今日には、屋敷を警護しておる混血の数も増えるのじゃろう?」
「ですな。ご隠居殿、そろそろ眠られることです。ここのところ、秋葉様のところへ通い詰めているというではありませんか」
「妙な言い方をするものじゃない。何、種を蒔いたのはワシじゃて、後始末はせなばなるまい」
言って、立ち上がる。琥珀が音も無く現れ、湯飲みを下げようとしたが、それを手で制した。
「琥珀さん、と言ったな……少々この老骨に付き合ってくださらぬか。できれば、妹さんも共にな」
「……ですが」
琥珀は久我峰を見やる。客人を放っておくわけにはいかないということだろう。察したのか、久我峰は笑みを浮かべた。
「ワタシのことはお構いなく。一人で飲む紅茶というのもたまには良いものですからな。しかしご隠居──」
久我峰の目が開く。背筋を凍らせるような視線に射られ、刀崎の体が一瞬強張ったが、そこは魂まで鍛冶に捧げた男、容易く受け流すと、真正面から見つめ返した。
「志貴君は、どこにおられるのですかな」
「ワシが知るものか」
琥珀を連れ、庭を歩く。混血の男達の奇異の視線に耐える琥珀の背は、震えていた。
離れの別館に着くと、玄関でもう一人の使用人である翡翠が立ち尽くしていた。
翡翠は二人に気付くと一礼し、何か口にしようとして、躊躇したあと口を閉ざした。
「何か、あったのか」
「いえ、その……姉さんを迎えに行こうかと。そろそろ就寝の時間でしたので」
翡翠の肩もまた震えている。これは何かあるなと思った刀崎は、やけに嬉しそうに客間に現れた久我峰を思い出した。
「何か言われたのか」
「そのようなことは……」
下唇を噛み締める翡翠を見て、刀崎は大きく溜息を吐いた。なんという男なのだろか。久我峰斗波が遠野秋葉の処断に反対した理由まで、見えてくるようだった。
琥珀の見開かれた眼が、屋敷の方へ注がれていた。
「琥珀さん、滅多なことは考えるなよ。責任があるとしたら、ワシじゃ。済まぬといっても詮無きことよな」
「刀崎様はよくしてくださいます」
翡翠が否定するように首を振った。
「遠野志貴を焚き付けたのはワシじゃ。仮にも七夜の生き残り……死するようなことはあるまいが。処断は十四日。既に十三になってしもうた。万に一つ、志貴が戻らぬようなことがあれば、腹を斬って償わねばなるまい」
「やめてください……!」
ひたすら口をつぐんでいた琥珀が、その場に蹲って喚いた。
「志貴さんは帰ってきます……あの人が秋葉様を置いて……なんて絶対にないんです……」
頽れた琥珀に駆け寄って、やさしく抱きとめた翡翠が刀崎を見上げた。毅然とした瞳に、気圧されるものがあった。
「約束してくださいました。秋葉様を必ず助けると仰って下さいました。志貴さまは嘘吐きで愚鈍ですが、こちらが見破れない嘘を吐くことなどできません。ですから、わたしは信じています……必ず、帰ってきてくださると」
強い視線。琥珀もまた、同じように見つめてくる。それ以上言葉を繋ぐ気にもなれず、刀崎は空を見上げた。美しい月が出ている。明日は満月だった。
Aces High
威圧感。存在感。全てが並外れていた。視力を失ったからこそ自覚できるのか、彼我の戦力差は語るまでも無く絶望的だった。しかし、それに臆する程、生半可の覚悟で挑みはしない。
既に最高速に乗った体は、まるで将棋倒しのように迫ってくる巨人達の攻撃を尽く回避し、先ほど駆け下りたばかりの崖を再び駆け上がった。ギルガメッシュは徒手空拳で、志貴を迎える。土埃の一つも立てず、まるで無音で志貴が足を止めた。
「矢張り、生きていたな雑種。彼の忌々しい神剣……神殺しには些か役者不足と見える」
間合いは十五メートル。これより爪先一つでも進めばギルガメッシュの制空権に飛び込むことになる。十五メートルという間合いも、宝具を弾丸のように射出するギルガメッシュにとっては無に等しい間合いだが、志貴の脚力を、英雄王もまた侮ってはいなかった。あと半歩まで迫られた記憶は、まだ新しい。
「よく視えるぞ英雄王。自慢の鎧はどうした」
「我を知ったか。それでも挑むとは哀れぞ。怯えて逃げ惑えばいいものを、下らぬ見栄を張って我を押し留める心算でいるか……だから貴様等は愚かだというのだ」
巨人達は、見守るように志貴とギルガメッシュを取り囲んでいた。身じろぎ一つしない。ふと、志貴は桜に反旗を翻した巨人を思い出す。
──そういうことか。
「“この世全ての悪(アンリ・マユ)”……流石の英雄王も骨が折れたらしいな」
ギルガメッシュは鼻を鳴らした。
「二度目だ、よく聞くがいい。この世一つ、それもたかだか悪程度では、我を飲み込むには足りぬ。臣従させるに、手間など掛からぬわ」
鎧を打ち鳴らし、ギルガメッシュが右手に鍵剣を握る。お喋りは終わり。ギルガメッシュは酷薄な笑みを浮かべて、右手を翳した。
志貴は腰を落としつつ、同じように笑った。
「俺が押し留めるために残ったと言ったな、オマエ」
オマエ呼ばわりに、ギルガメッシュの表情が凍った。
「断じて違う。このままじゃ秋葉に会えない。イリヤを託してくれたバーサーカー……ヘラクレスにも、顔向けできない。判るな、ギルガメッシュ……オマエが言ったことだぞ」
「雑種如きが吼えすぎだ。その口、二度と開かぬようにしよう」
右手が上がる。ガチリ、と歯車が噛み合うような音がして──
「“王の財宝(ゲート・オブ・バビロン)”──創世の力を思い知れ」
無数の刀剣が姿を現した。志貴には見えていない。だが殺意の形は視えた。死もまたよく視える。十分だ。内心で呟き、地面を蹴った。
「これで最期だ。神殺し、見たければ見せてやるよ」
一歩で十メートル。二歩目で志貴は姿を消した。剣を放つ間もなく、ギルガメッシュは棒立ちになる。声は出さなかった。たとえどれ程驚こうとも声を放たない。流石は英雄王。志貴はその背中の線を見ながら笑った。
ナイフを真正面に突き出す。ギルガメッシュは気付けなかった。勝利が見える。腰の回転を加え、更にナイフを加速させた。ナイフが突き刺さる瞬間、背筋が凍った。地面を蹴り、宙返りの要領でギルガメッシュを飛び越えて着地する。顔を上げれば、無かったはずの線と点が地面に増えていた。剣が刺さっている、と気付いた瞬間には、更に後方に跳躍する。
「貴様のようなモノが我に挑むとき、大抵はそうする。背に目はついていないだろう……とな。だが侮るなよ、我に死角などあり得ん」
志貴を追う様に放たれた剣が、次々に地面に突き刺さっていく。線と点が飛んでくる。それだけで、回避するだけならばなんとかなる。だが、どうしても回避の動作は大きなものになった。線や点は導にはなる。だが、その輪郭までを捉えることはできないのだ。間一髪で避けても、予想だにしない形状の武器が飛んできた場合、その『予想だにしない部分』に切り裂かれ、死にかねない。
続けて放たれたのは五つの武器。互いの隙を縫うようにして飛来する剣の形状は矢張り掴めない。
志貴は舌打ちし、右に飛ぶ。
「……ほう、貴様」
脇腹が焼かれた。姿勢を崩した志貴は、地面に叩きつけられる寸前で受身を取り、即座に起き上がったが、転がった拍子に方位を見失った。線と点しかない世界。他は真っ黒だった。絵の具で塗りつぶしたかのように、風景は何一つとして映らない。呼吸を落ち着ける。耳を研ぎ澄ませる。背後から風切り音。咄嗟に振り向く。巨大な線。一閃し、両断した。音を立てて落下した武具を見下ろし、ギルガメッシュは余裕の笑みを浮かべている。
「目を病んだか」
「オマエを殺すのに、視覚なんていらないだろ?」
強がりだ。自分でもわかっていた。暗闇の中、ギルガメッシュの線と点を見分けるのは容易なことではない。広大な海から、特定の波を見つけるようなものだった。
ギルガメッシュはネズミが騒いだ程度にしか思わないのか、気にした風も無くくつくつと喉の奥を鳴らした。
「滑稽だな雑種。先ほどの勢いはどうした」
鎧が鳴った。喉を鳴らして唾液を飲み込み、志貴は構えた。
「そら、遊んでやろう」
雨が降る。
***
光に包まれていく。キャスターは己の無力を嘆いた。主を捨て置いて逃げ出そうと呪文を紡ぐこの口を、焼き尽くしてしまいたい衝動に駆られる。志貴は走っていった。遠く、ギルガメッシュの元へ。その背中にかける言葉も発せない。無力。感謝もできない。助けてくれてありがとうと、言えばよかった。あなたに会えてよかったと、言えばよかった。もう二度と会えない。そんな予感があった。
光が強くなる。背中を見据える。瞼に焼き付けるべく、涙に濡れた目でじっと見つめた。そうすればするだけ、悲しくなる。二度と会えない? 嫌に決まっている。初めて、友と呼べる人を得た。志貴は家族とさえ言ってくれた。そこに報いず、何が友なのか。家族なのか。
項垂れる。キャスターの口が真言を発した。閃光、刹那、腕の中の少女が身じろいだ。
「だめ、キャスターさん……あの人、目が見えてない」
キャスターは背筋を凍らせた。だが遅すぎた。あたりを見渡せば、そこはいつか忍び込んだ衛宮の屋敷だった。
「そんな……」
目が見えない? 見えなくて、勝てるわけがない。
震えた。志貴が死ぬという想像が、現実味を帯びた。
「キャスター! 聞こえてるかキャスター! 戻せ!」
士郎が叫ぶ。そんなことができるなら、やっている。五人もの人間を同時に転移させるなど、令呪の力が無ければキャスターとて不可能だ。それを知っていて、志貴は命令したのだ。
「いいのか、死ぬぞ。いくらアイツだって、目が見えないで戦えるかよ! 見殺しにするのかキャスター!」
見殺し、という言葉を投げつけられ、頭に血が上った。
「あなたに、何がわかるのよ!」
燃えんばかりの眼を士郎に向けたキャスターが怒鳴る。
「わかるさ。死なせたくない、それは俺も同じだ」
「もう、五人を送ることはできないのよ……」
項垂れた。唇が震えていた。
「五人が駄目なら、俺だけ、俺だけでいいから、戻してくれ」
「バカな、シロウ。戻るのならば私が行きます。キャスター、一人ならばできるのか」
二人の気迫は、キャスターを押しやるほどだった。思わず一歩よろめいて、キャスターが力無く首肯した。五人は不可能だが、一人ならばなんとかなるだろう。
「ならば決まりですシロウ。私が行きます。文句はありませんね」
「待って、なぜ、貴方たちは志貴のためにそこまでするの? 敵同士でしょう」
キャスターの問いかけに、セイバーと士郎が目を丸くした。この状況で何を言い出すのかとでも言いたげだったが、キャスターにとってはこの状況だからこそ訊ねておきたかったのだ。
行けば、恐らく殺されるだろう。なのになぜこの二人は、志貴を救うと言うのだろう。キャスターとて、今すぐ飛んでゆきたい気持ちだった。だが、彼らにそんな義理など無いはずだ。
「人を助けたいと思うのに、理由が必要か?」
「一度背を任せた者が窮地に陥っている。それを救わずして、何のための剣か」
納得はできなかった。しかし、なんとなくわかったような気がした。こんな人々が、かつての自分の周りにもいてくれたなら、きっと自分は別の人生を送れたことだろう。言っても詮方ない。キャスターは目を伏せた。嬉しくも思う。志貴を皆が救おうとしてくれる。それを厚かましくも、我が事のように喜ばしく思うのだった。
「託します……。坊や、どうか志貴を……」
「キャスター!」
セイバーが怒鳴った。キャスターは小さく首を振り、遠く空を指差した。
「私たちには、仕事があります」
キャスターの指先を追って、皆一様に顔をしかめた。
「そんな、アレは、わたしの……」
桜が呻く。町の至る所に現れた巨大な影。唸り声を上げながら、町を闊歩している。アレの通り道がどうなるか、わからない者はいない。
「……了解した。シロウ、本当に大丈夫ですか」
「当たり前だ」
言って、士郎はキャスターの目の前に立った。強い視線。苦手な視線だった。こういう目を見ているだけで虫唾が走るはずだった。だがどうしてだろう、彼の目を見ていると、心強くなる。彼と志貴とで、負けるはずがないと思えてくる。それが錯覚だとしても、今のキャスターにできることは限られていた。信じて、しまいたい。
「頼みました。貴方たちが帰る場所は、メディアの名において死するとも護りましょう」
目を閉じる。街中に溢れた邪悪なマナを幻視した。
振りかざした杖が魔力を吸い上げる。どす黒い魔力が、メディアによって薄紫の閃光へと変じていく。
真言を解き放つ。誰にも理解できない言語を早口に捲くし立てたキャスターの眼がキッと開かれる。士郎は、じっとキャスターを見つめている。一度頷き、空間転移を発動させる。
「士郎──」
士郎が閃光に包まれた瞬間、気絶していた凛が目を覚ました。
「あんな金ピカ、ぶっ飛ばしてやりなさい」
士郎が笑った。
「当然だ。俺と志貴で、負けるはずがない」
跡形も無く消え去った士郎を見送り、キャスターとセイバーは手早く桜と凛を抱きなおし、屋敷の中に寝かせた。
「ここで、大人しくしていなさい」
「……ちょっと、そういうワケに……ツッ」
「凛、ここは私とキャスターに任せて欲しい。あの程度の闇ならば、我ら二人にとって敵にさえなりえません」
縁側に立つセイバーとキャスターの姿を見て、凛が息を呑んだ。満月になりきれない月を背にして、二人の姿は目映いばかりだった。
「……お願い」
セイバーが頷いて、飛び出していく。キャスターは後を追いながらも杖を振りかざし、魔力を取り込んでいく。魔力不足はありえない。黒い魔力を全て、己の力に換算してやればいい。現代の魔術師には困難なことも、キャスターにとっては造作もないことだった。
一軒の家屋の瓦屋根に立ち、二人で無数の巨人を眺めた。
「変わったな、キャスター」
「そうかしら」
はて、と首を傾げてみせる。セイバーは微笑した。
「多いが、一人で──」
「それ以上は言わないことよ」
「失言だった」
セイバーは不可視の剣の封を解放する。風を巻き起こす聖剣を構えた彼女は、じっと月を見上げていた。
「終わったら、どうする?」
「そうね、ゆっくりと、考えるわ」
そんな時間は無いとわかっていた。もう二度と会えないかもしれない。それならばそれで構わないと考えていた。今更、言葉に何の意味があろうか。信じていればいい、志貴の生を。ただそれだけで、メディアは満ち足りるのだから。
「行こう、王女メディア。我が剣、貴女に預ける」
「ええ、アーサー王。私たちに、敵などなくてよ」
天空が割れる。落雷は巨人を消し、暴風が切り刻んだ。二人の英霊が、夜の闇を切り裂いた。有り得ざる伝承。記されることのない神話が一つ、世界に生まれる。
***
腕は鞭のように撓り。
足は岩のようにして不動。
進退窮まった志貴にできるのは、放たれる宝具を片っ端から殺していくことのみ。思考などとうに捨て、線と点を視ることだけに集中する。腕が己のものでないように感じる。まるで独立した思考回路を得ているかのように、ほぼ同時に着弾する刀剣を打ち漏らすことなく迎撃する。
動く。体は自由。無限の地獄は無間の地獄と化し、反して志貴の精神は無間道へと達する。一瞬たりとも気の置けない場面ではあったが、油断は無い。凌ぎ切れる。自信があった。だが、その自信は後には続かない。この場を凌ぐことなど有り得ない。たとえどれ程殺そうとも、ギルガメッシュが持つ武器はそれこそ無限だろう。故に、志貴が凌ぎ切るだけの精神と力を持とうとも、真実凌ぎきることなど不可能である。
ただそれでも、道は殺しつくすことのみ。
ひたすらに腕を振り、目を見開き、直視する。死を。無数の武器の死を。操るギルガメッシュの死を。いつかその胸を突くと決めて。
肩幅に開いた両足は動かない。鞭のような腕は目で追うことすら不可能だった。それほどの境地に達して尚、ギルガメッシュは余裕を見せている。
「受けるのみでは辛かろう。楽にしてやる。有り難く思え!」
ギルガメッシュが吼えた。飛来する線が増える。機関銃掃射のような剣の雨の只中にいる志貴には、回避も防御もない。ただ殺すことのみで安全を確保し、いつか穿つ隙を睨む。だが、突如増えた刀剣は最早、志貴の身体能力さえもその数で凌駕していた。
一つ目を下から切り裂き、二つ目を返した刃で上から殺した。次の一本は点を一撃で穿ち、その次は横から凪ぐようにして殺す。四本殺すまでに0.5秒とかからぬ早業であったが、そこで手詰まりだった。次手は四本目から距離を開けずに飛来していた。まったくの同時。それも三つ。
志貴の表情に焦りが浮かぶ。三つを殺すことは不可能。
そのうちの一つに狙いを絞る。銀刃が煌いた。空中で静止する武器。同時に、志貴は体を僅かにずらした。首と脹脛に激痛。灼熱の痛みは、すぐに冷気によるものと気付いた。首筋が凍ったように冷たかった。
痛みに呻く暇も無い。間髪いれずに次が迫っていた。眼前に迫る線。
ナイフを振るう。間に合わない。ギルガメッシュが新たに放った刀剣は左肩に直撃した。衝撃で吹き飛ぶ体を制御する術を志貴は持たなかった。吹き飛ばされた瞬間、視力の無い志貴は上下左右の区別もつかない闇の中、無様に顔面から叩きつけられる。
痛みに一瞬意識が途絶えかける。
辛うじて保った意識を手繰り寄せた。体は動かない。限界だった。ランサーとの機動戦で臨界点を越えていた体が、噛み合わない歯車同士のようにギリギリと耳障りな音をあげた。
──死ぬのか。
怖くは無い。ただ悔しい。殺すと誓った。この男だけは塵芥さえこの世に遺させないと誓った。目の前で、イリヤを殺した男。あんなに暖かくて、やわらかくて、悲しい少女を、何の躊躇いも無く打ち貫いた外道。英雄王などと、笑わせる。こんな外道が英雄だというのなら、そんなものはあまりにもくだらない。
たった一つだった。志貴がこの戦争で後悔するのはたった一つだけ。キャスターに吸い上げられ床に伏せている無関係な人間も、アンリ・マユに飲み干された四十六の犠牲者たちも、志貴にとっては見知らぬ他人に過ぎない。責任はあるだろう。償いも必要だろう。だが、その全てを背負うなどという思いあがりは有り得ない。怒りはある。悲しみもある。だが、それはたった一人の知人の無残な死に比べれば、小さかった。
目の前で死んだイリヤスフィール。まるで命の通わない人形のようになってしまったイリヤスフィール。あとほんの少し、志貴がうまく跳躍し、あとほんの少しだけ腕が早く動けば、死なせなかったかもしれない少女。
憤りは海よりも深く、大きかった。
──うん、ばいばい遠野くん。ありがとう──それと、ごめんね。
少女の像は、かつて救えなかったクラスメイトの姿と重なり、
──死よりも辛いということは、確かにあるんです。だから──貴方だけは、約束を守ってください。
処刑を明日に控えた妹の像を結んだ。
どくん、と血が燃えた。明日、死ぬ。忘れていた己に気付いた。明日、秋葉は死ぬ。何故忘れていたのか。否、忘れたかった。戦いに没頭して、辛い現実を忘れてしまいたかった。
「くそ、なんて、無様だ」
「気付くのが遅かったな。我に挑んだ時点で、貴様は無様に死するしか無かったということだ」
──違う。
口には出さず、呟いた。
ギルガメッシュが腕を上げた。志貴はゆっくりと起き上がる。左肩から剣を引き抜いた。重い剣だった。点にナイフを突き立てる。静かに、名も知らぬ剣が死んだ。明日、秋葉もそうして死ぬ。
マガジンに銃弾が装填されるように、ギルガメッシュの背後に剣が浮いた。それを、線と点が浮き上がってくることで確認して、志貴は深呼吸した。殺す。殺せる。
乾いたスナップ。放たれたのは十。絶望的。だが、何故か恐怖は無い。
ナイフを閃光させる。八つを殺し、二つは回避すると定める。その通りにナイフが煌き、次々に宝具を殺していく。残ったのは二本。体を捻ろうとしたその瞬間、
「──ッ」
宝具の背後から、更に二つの宝具が現れた。回避するはずだったものと併せて四本。
回避を即座に諦め、腕を振る。一つ、二つ。そこで手が詰まった。体を捻る暇も無い。ギルガメッシュを睨んだ。どんな顔をしているのか、じっと目を凝らした。だが見えない。笑っている。それだけがわかった。悔しさに歯を食い縛り、目を閉じた。
背後に、人の気配があった。
「投影、完了(トレース・オフ)──!」
詠唱と共に、宝具が打ち落とされた。
志貴は笑った。なんでいるのかなんて野暮な質問はいらない。どんなに追いやろうと来てしまう。ほんの数日の付き合いだが、そのくらいのことはよくわかっていた。
「馬鹿野郎。目が見えないのに勝てる相手か」
開口一番に怒鳴った士郎を面食らった表情で見て、志貴はクッと喉を鳴らした。
「笑ってる場合か。まったく、恩売るだけ売って自分だけで決着つけようなんて、かっこつけるにも程がある」
一頻り愚痴を言い終えると、士郎は構えた。志貴も倣うようにして構える。ギルガメッシュは動かない。じっと、何かを堪えるようにして仁王立ちしていた。
「く──はは、はははは! やるというのか我と、この場で我と向き合うとでもいうのか雑種ども! 塵芥が一つ増えたところで、何の意味がある? 何の脅威になる? 精々犬っころに纏わりつく程度だろう。我を、我を笑い殺す気か貴様ら」
ギルガメッシュはこの戦いを余興としか見ていない。以前志貴が己に迫れたのは、セイバーの力があってこそだと思っている。付け入る隙はそこしかないのかもしれない。だが士郎も志貴も、油断に甘んじての奇襲などに頼ろうとは思っていなかった。
「笑わせるだけで死んでくれるなら、いくらでもやってやるよ」
志貴は嘲るように言って、
「そうはいかないんだろ。なら、戦って倒す。それだけだ」
士郎が続く。
その言葉に、ギルガメッシュの赤い双眸が伏せられる。
「そうか……」
呟き。常に尊大な態度で佇む英雄王には似つかわしくないほど、小さな呟き。やがて、
「余興と思って手を抜いた。済まなかったな雑種──」
開かれた眼は怜悧な輝きを持ち、二人を一飲みにせんほどの眼力で睨み付けた。
「──その顔も飽きた。肉片一つとて遺さんぞ。我が財宝、最早一つ足りとて惜しむまい──!!」
士郎は目を見開き、展開された十七の宝具を睨む。その間にも頭では対抗策を模索していた。
志貴の剣閃を活かすには、何がいいのか。あの脚力を活かすには、魔眼を活かすには。
放たれる宝具、刹那、士郎の脳裏を詠唱が過ぎる。
回路を規格外の電流が流れる。術者である己が感電死しかねないほど強烈な電圧。遠坂凛からの供給を真正面から受けた力は、かつてとは比べ物にならない。
「──工程完了。全投影、待機(ロールアウト バレット クリア)」
歯茎を食い縛り、強すぎる力を制御しながら、士郎は設計図を起した。あの十七の宝具全てを読み取り、投影し、打ち消すために。
衛宮士郎の規格を越えた魔術。否、それはありえない。この身は──この魂は──。
迫った宝具目掛け、志貴が駆けようとする。それを制するように士郎は前に立ち、
「──停止解凍、全投影連続層写(フリーズアウト ソードバレルフルオープン)」
右手を翳し、肉を突き破って飛び出そうとする十七の剣を、射出した。
一つ二つと迎撃していく士郎の複製。それを見て、ギルガメッシュは怒りの形相だった。
「如何に真に迫ろうと、オリジナルを複製が越えることはありえぬ」
四つを相殺した。志貴が駆け出す。士郎に神経を集中させたギルガメッシュの元へ、一瞬のうちに迫るべく。だが、
「如何な俊足を持とうと、我に死角は存在せん──! 」
志貴をじろりと睨んだギルガメッシュは、背後の宝具を志貴に向けて射出した。
「──この状況下にあってまだ戦えるというその驕り、増長、傲慢、高慢、全てが癪に障る」
九つを打ち落とす。志貴は立ち止まり、宝具をひたすらに殺していた。膠着する。これぞと思った策が、容易く打ち破られる。士郎も、最早拮抗できずにいた。一発ずつしか射出できない士郎に対し、ギルガメッシュは同時。いずれ、間に合わなくなるのは必定。
「その程度の力で何かを救うだと、仇を取るだと……。笑わせるな。力も無い雑種が、思い上がるのもいい加減にしろ」
怒声が響く。十一を打ち落とした。あと七つ。そう思ったとき、時間が止まった。ギルガメッシュは剣を射出し続けている、志貴を目掛けて。その一方で、あの男が握った剣。歪な形の剣。エアという名の、断世の剣。決して抜かせてはいけないソレを、ギルガメッシュは握っていた。
赤い風が、世界を切り裂く風が、大空洞を旋風の中に巻き込んだ。
──打つ手は無しか。
「無力を嘆き死ね──“天地乖離す(エヌマ)──」
士郎は複製した剣を放り投げ、大声で怒鳴った。
「逃げろ──!」
「──開闢の星(エリシュ)”」
志貴とてギルガメッシュが握ったそれに、見えずとも気付いているはずだった。だが動けない。ギルガメッシュが放った刃は志貴を大地に磔にしていた。後退も、前進もない。ただ殺すことしかできずに、志貴を赤い閃光が巻き込んだ。旋風に、別の赤が混じったと思った瞬間には、士郎もまた“天地乖離す、開闢の星(エヌマ・エリシュ)”に切り刻まれていた。
地面に叩きつけられる痛みなど感じなかった。
切り刻まれた箇所など数え切れなかった。
ただ生きている。生きているのに、生きている感覚がなかった。絶望と、人はいう。打つ手が無い。否、たった一つだけ、ある。けれど、それはできない。ランサー相手に使おうとした、アイツの最終手段。ゲイ・ボルクに阻まれた固有結界。だが、本当に衛宮士郎はそれを扱えるのか──。
出来るはずが無いと、気付いていた。詠唱の最中に気付いた。だからこそ、すぐさま剣を降らすよう切り替えることができたのだから。
あの詠唱の間、何も感じなかった。世界を生み出す大魔術を使おうというのに、何も感じなかった。そんなはずはない。己に響かぬ詠唱になど、意味はない。ならば、衛宮士郎は間違えている。
何を間違えているのか。
──貫いてみろ。
アーチャーの言葉を思い出した。曖昧な言葉を遺して逝った赤い騎士の背中を思い出す。あの詠唱を思い出す。
正義を貫いたエミヤシロウが作り上げた詠唱。それがアーチャーの詠唱。
ふと、思い至って士郎は笑った。簡単なことか。簡単なことだ。アレは『正義を貫き死んだエミヤシロウ』のもので、これからその道に飛び込んでいく衛宮士郎のものじゃない。
──貫いてみろ。その生涯一つ、貫くことができたなら、貴様がヤツに敗北することはない。
そう、衛宮士郎はこれからだ。たとえどのような困難が待ち構えようとも、たとえその生涯を否定されようとも、貫く。自分たちを逃がすために自ら犠牲となった正義の味方を、追いかけると決めた。欺瞞かもしれない。傲慢かもしれない。救いなど本当は何もないのだろう。ただそれでも、この体に傷が一つ増えるたび、誰かが笑えると信じて──。
士郎の体が起き上がる。志貴もまた、震える足を杖にして立ち上がろうとしていた。
しっかりと地面を踏みしめた。力は有り余っている。詠唱する時間さえあれば、必ず勝てると信じて。
「──あの小娘、流石は聖杯足りえる器か。我の支配が及んだモノを、横合いから奪うとは……」
巨人が数体、地面に仰臥していた。心の中で感謝して、士郎はギルガメッシュを睨んだ。
「志貴」
「ああ、抑える」
言って、志貴が一歩前に出た。士郎を庇うように、背中を見せる。ぼろぼろの背中に、全てを任せ、目を閉じた。衛宮士郎だけの詠唱をするために──。
目指すのは赤い世界。心を静めた。その一方で燃え上がる回路に電流を流した。スパークする回路を、赴くままに制御する。力を抜いて、自然体で。
一言目に、魂を乗せて。
──I am the bone of my sword.(体は剣で出来ている)
鼓動を感じた。
何かの歯車が回りだすのを感じた。
同時に聞こえてくる剣戟。
──Steel is my body,and fire is my blood.(血潮は鉄で 心は硝子)
熱く滾る心が、解放を求めて四方八方に突き進む。
──I have created over a thousand blades.(幾たびの戦場を越えて不敗)
剣戟は尚激しさを増していく。志貴の息遣いが鮮明に聞こえてくる。限界を超えて、それでもナイフを振るう志貴の魂さえ感じた。
──Unaware of loss. (ただ一度の敗走もなく、)
Nor aware of gain.(ただ一度の勝利もなし。)
異変はそのとき。剣戟の音が途絶え、肉を潰す音がした。片目を開く。声をあげそうになった。志貴の左腕がだらしなくぶら下がっている。しかし堪えた。再び、聞くに堪えない水気を帯びた音と共に、志貴に剣が突きたてられる。それでも、志貴は腕を止めない。背後の士郎の詠唱が完了するまで、決して動かないとその背中が語っていた。
志貴は抑えると言った。なら、それを信じる。
──Withstood pain to create weapons,(担い手はここに孤り)
waiting for one's arrival. (剣の丘で鉄を鍛つ)
一つ、二つ。志貴の体にハリネズミのように剣が突き刺さっていく。どこで意識を保っているのか、それはまるで、ランサーとの対峙の再現だった。あの不覚を取り戻すとでも言うように、志貴は微動だにしない。生きていられるのはキャスターの強化の賜物なのか、苦悶の声一つ漏らさずに、ただ腕を振る。
――I have no regrets. This is the only path.(ならば、我が生涯に意味は不要ず。)
「貴様──」
ギルガメッシュが声をあげ、途轍もない数の宝具を装填する。
志貴の体が震えた。士郎もまた、震えた。その数二十を遥かに超える。
逃げろ、と声を出しそうになった。察したのか、志貴は動かないはずの左手で、制した。
「見えるぞ、ギルガメッシュ──!」
それは、如何なる芸当か。
今まで岩石のようにして動かなかった志貴の足が地面を蹴った。宝具の合間合間を縫うようにして、描いた機動は天地上下を逆さまに半円。すれ違った宝具を、片っ端から殺すその所業に、士郎はおろか、ギルガメッシュでさえ言葉を忘れたとき──
――My whole life was "Unlimited blade works"(この体は、無限の剣で出来ていた。)
真名が解放される。心もとない回路全てが、魔力で満ちたりる。燃え上がる炎は心の炎。全てを隔絶する拒絶の炎。そして、すべてを包み込む正義の炎。
黒い巨人が闊歩する闇の世界は途絶え、赤き荒野が姿を見せる。招待されたのは志貴、そしてギルガメッシュ。
「固有結界──これが、貴様の能力か」
拳を握り、士郎は顔をあげた。体の芯からあふれ出しそうな何かがこみ上げてくる。一面の荒野。一面の剣。そう、これこそが衛宮士郎の存在そのもの。
「──英雄王、覚悟を決めろ」
片腕を上げた。
「俺の生涯、アイツの生涯は──────重いぞ」
***
「志貴」
何が言いたいかわかったのは、士郎の声に覚悟があったから。
「ああ、抑える」
できない、とは言えなかった。この身朽ちようとも、衛宮士郎の企みを完遂させてみせる。
士郎の詠唱を聞きながら、志貴の刃はランサーの刺突の如き速度を以って、無数の宝具を片っ端から殺した。だが所詮は先ほどの焼きまわし。志貴に凌ぎきるだけの力は無い。
目が見えない。ならば五感を研ぎ澄ませればいい。腕が動かなくなれば、体を盾にすればいい。それで、この男を倒せるのなら、何を惜しむ必要がある。
一本を逃した。とうに使い物にならなくなっていた左腕を突き出した。骨を砕き、肉を抉る音。呻き声一つあげはしなかった。士郎の邪魔はできない。歯を食い縛り、ともすれば白目を剥いて気絶しかねない痛みを必死になって耐えた。痛い。痛い。体が悲鳴をあげる。すぐに、腕が追いつかなくなった。二本目が脇腹を掠めていく。その先には士郎がいる。咄嗟に背後に刃を回した。すると、がら空きになった前方から宝具が二つ突き刺さった。
声はあげない。仮に死んでも、仁王の如く立ちはだかって、士郎の傘となる。
意識は、すでに無かったのかもしれない。ただ、覚悟だけで刃を振る志貴の目に、生気などなかった。糧は、腹の奥に感じるキャスターの息吹。彼女もどこかで戦っている。それが、志貴を勇気付けた。
右腕が上がらなくなった。
──だから、どうした──っ!
両腕を広げる。一本たりとも通さない。通りたければ、この体を貫いてゆけ。
ギルガメッシュを睨んだ。矢張り笑っているのか。それとも、少しくらいは驚愕しているのか。どちらでもよかった。この手で殺せないのは残念だと思った。だが、それでもいい。この男を前に逃げ出して、どうして秋葉の前に姿を見せられるのか。自分の始末もつけられない男を、誰が迎えてくれるというのか。
──頑固ね。
「当たり前だろ。それだけが、取り柄だ」
小さな鈴の音に応えて、志貴は笑った。
──でも、死んだらアキハは悲しむんじゃない?
「かもしれない。けど、ここで逃げたって秋葉は怒るさ」
──そんなことないと思うけどな。生きててほしいって、思う。
「じゃあ、俺のエゴかもな。楽になってしまいたいって、どこかで思ってるのかも」
──弱虫ね。
「当たり前だろ。痛いのは嫌だよ」
──そんな弱虫なシキに、プレゼントがあるんだけど、欲しい?
「貰えるものは貰う主義だよ、俺は」
──そう、よかった。だめって言われても無理やりにあげるつもりだったから。
「相変わらずだな、イリヤ」
──あれ? 気付いてたの?
「いや、なんとなく。で、俺は死んだのか?」
──元々死んでるじゃない。
「……それもそうか」
──さってと、おしゃべりはおしまい。ほんとに死んじゃうかもしれないし。でも、いつもと手順が逆だから、一分が限界よ。
「何をくれるのか知らないけど、それだけあればなんとかなりそうな気がするよ」
──ふーん。色々言いたいことがあるんだけど、急ぐね。シキ、貴方に、死神の加護があらんことを。
光。眩しい。志貴は目を閉じそうになって、すぐさまそれを拒んだ。目の前に、黄金の剣が飛来していた。
「シッ」
上体を半身ずらして回避しつつ、線に向けて刃を通す。真っ二つになった高価そうな剣が落下していく。音を立てて地面に落下した剣を、志貴はまじまじと見つめた。視える。見える。見えている。
──視力が、戻った……?
暗い世界。黒い巨人。ところどころが砕けた黄金の鎧。目を見開くギルガメッシュの表情に至るまで、全てが見えた。白く靄がかかったように不確かではあるが、瞳が光を取り戻していた。
「貴様──」
この目に通った不思議な魔力の正体を悟ったのか、ギルガメッシュが声を上げた。
すぐさまに、ギルガメッシュは二十以上もの宝具を装填した。先ほどまでならば、肝を冷やしただろう。絶望しただろう。あれほどの数、打ち落とすだけでは限度があった。だが、視力があれば回避できる。
「見えるぞ、ギルガメッシュ──!」
二十四の宝具が一斉掃射される。同時に、志貴は跳躍していた。背後の士郎との位置関係を一瞬で計算し、打ち落とすべき宝具に狙いを定める。宙返りの要領で飛び上がった志貴は、己の進路と見逃せば士郎に突き刺さる刃のみを切り刻んだ。
一秒にて十二閃。
最早光としか形容できないそれは、人の技を極限まで極めたある一族のもの。
だが、
──まだ、いけるのか──。
己の更なる可能性に、志貴は舌なめずった。
体はぼろきれ。だが十分。
ギルガメッシュは千の宝具を有するという。だが、千ごときで何が出来る。志貴の背後には
「My whole life was(この体は)──
"Unlimited blade works"(無限の剣で出来ていた。)」
無限の剣を持つ者がいる。
燃え盛る炎を、志貴は空中で見た。炎は壁となり、壁は境界となり、やがて世界を成す。赤い荒野。無限の剣。むき出しの大地。かつてこの身で味わった、“無限の剣製”。
着地すると、そこには目を閉じた士郎がいた。横に並び、ゆっくりと上体を起した。蛇が鎌首を擡げるように、ゆっくりと、緩慢に。そして、目だけを黄金の英雄に向けた。
──何を思うギルガメッシュ。
「固有結界──これが、貴様の能力か」
視力を得た青い眼、死神の眼がギルガメッシュを射抜く。その程度、何ほどでもないと睨み返してくるギルガメッシュは、矢張り泰然としている。
「──英雄王、覚悟を決めろ」
士郎が片腕を上げた。ギルガメッシュが宝物庫から取り出した宝具たちは、既に複製され、士郎の両脇で待機している。
「俺の生涯、アイツの生涯は──────重いぞ」
「高々しみったれた能力を見せただけで随分と調子に乗る。所詮は偽物、紛い物に過ぎん。偽物が、本物を上回ることなど無いと、言ったはずだ──!」
放たれる宝具。士郎を見た。ゆっくりと頷く。同じように返して、志貴は風になる。一陣の黒い風。迫り来る宝具の雨に、真正面からぶつかっていく。
「馬鹿めがっ!」
体勢はとことん低く。刃は背後に流し、ただ突き進む。一本目の宝具とぶつかり合う。響く剣戟。志貴は腕を動かさない。響いた剣戟は、本物と偽物がぶつかり合い、そして互いに消滅した音。
引き金だった。ギルガメッシュが放つ宝具の数は、五十を越えた。志貴一人を目掛けて五十が殺到する。本来ならば必死に攻撃。だが尽くを──
「あぁああああああ!!!!」
士郎が迎撃する。
速く、疾く、迅く。風よりも光よりも速く疾走すべく、足を動かした。一歩進むたびに血が吹き上がった。脛、太股、脇腹、胸、肩、首、頬。名だたる武器によって傷つけられた体が血を噴出す。それは悲鳴ではない。歓喜の雄叫び。もっと速く、疾く、迅く。ようやく届くのだと、体が昂ぶっている。
そして──
「貴、様──雑種、ごときが」
アインツベルン城の再現が訪れた。
志貴は見上げる形で、ギルガメッシュは見下ろす形で。
「いつか、心に決めたあの想い」
立ち位置は同じ。だが確実に違っていた。心の位置。それが、逆転していた。
「あえて今、ここで口にしよう」
ギルガメッシュが左腕で宝物庫に手を伸ばす。その手が握ったのは、青く輝く盾。全てを反射する、神話の盾。ギルガメッシュがそれを構えるより早く、迅雷の如き速度で志貴の腕が走る。音も無く死んだ盾を見下ろし、ギルガメッシュは笑った。
志貴は睨む。ギルガメッシュの体に走る総数十九の線を。
「ギルガメッシュ、貴様を──」
「く、はは、ははははははは……! 終焉など、このようなものか……」
言霊は一つ。
遠野志貴の存在意義。
「──斬刑に処す(コロス)」
一秒の合間に、煌めく十七閃。
古代メソポタミアに生まれた原初の英雄ギルガメッシュは、その顔に愉悦の笑みを浮かべたまま、十八の肉塊と化した。
見届ける。地面に落ちた無敵の鎧とギルガメッシュだったモノが、透明になり消えていく。それと共に、赤い世界も消え、志貴の眼は深い闇を映し出す。魔法は解けた。イリヤスフィールが見せてくれた幻の世界は消え去った。
大聖杯は、ギルガメッシュの手によって既に破壊されている。断末魔のように影を吐き出しては崩れていく様は、あまりにも無様だった。止めを刺すつもりにもなれず、溜息を吐く。
どさりと、背後で物音がした。振り返る。線と点の集合体が、地面に倒れていた。
志貴の意識も途絶えていく。夢から覚めるように、眠りに落ちていく。それは、堪えなければならなかった。
大空洞は、既に崩壊を始めている。ギルガメッシュの宝具に、セイバーの宝具。無事で済むはずもない。溜息を一つ吐いて、士郎を担ぐ。
一歩を踏み出して、よろめいた。二歩歩いて咳き込んだ。膝をつきそうになったが、足を進めた。岩盤が落下してくる。上も見ずに、ナイフを突き上げた。死んだ岩盤の合間を縫って歩く。
「重いな、ほんと……」
士郎も、気持ちも、自分の体も。
キャスターとの繋がりが消えていることには気付いていた。しかし、声はあげなかった。そうしたら、泣いてしまいそうだったから。
心の中に感謝の言葉。それで、別れは済んだ。
終わったという実感はなかった。始まりはこれからだ。真実の困難は、この先に待つ。
暗く湿った世界を、遠野志貴は歩いてゆく。
黒い巨人の姿や、凝り固まった黒い瘴気は跡形もない。キャスターとセイバーが根こそぎにした。街は平和である。
あれから一月と少し。冬木市も春の訪れを随所に見ることができるようになった。
あっという間だった。協会から派遣されてきた調査員の応対やらで、息をつく暇もなかったといえる。それもこれも、士郎のせいだった。固有結界。聖杯戦争の調査にきているとはいえ、そんなものを扱える魔術師を見過ごしてくれるほど、甘くはない。勝者はセイバーとキャスターを従えた遠坂凛。そういうことになった。
毎日が緊張の連続だったが、持ち前の性格上並大抵のことでは動じない自信があった。果たして調査員は引き上げていった。ああそう、最後に片腕の女性調査員が、わたしに耳打ちをした。
『ランサーは、強かったか?』
驚いて顔をあげると、女性調査員──バゼット・フラガ・マクレミッツは、シニカルに笑って、冬木を発った。二月の終わりのことだった。
慎二がライダーを使って引き起こした事件によって、暫くの間休校となっていた学校も、今日ようやく終業式を迎えた。わたしは制服に身を包み、下校路を歩いている。もちろん、一片の曇りもない成績表を手に、だ。見せる相手のいない成績表に意味は無かった。担任はどこにだって進学できるぞとほくほく顔だったが、わたしの進路は決まっている。ロンドン。調査員たちは、わたしに推薦状を渡して、去っていったのだ。
「はぁ〜あ……自由にできる最後の一年か」
ロンドンに行けば、毎日地獄のような日々だろう。見渡す限りが魔術師の世界。想像しただけで嫌気が差すが、行くからには原色を貰うという目標もあった。辛くとも、充実した日々。それはとても魅力的なのだが、今のわたしにはやることがある。
「ただいま」
引き戸を開けて入ったのは士郎の家。どこかの誰かが跡形も無く破壊してくれたわたしの家は、まだほとんどあのままにしてある。さすがに重要な文献などはサルベージしたが、粉みじんになっている屋敷を修復するのは骨が折れる。業者に頼んでしまえばいいのだろうが、生憎とそんな金はどこにもなかった。
「おかえりなさい遠坂先輩」
居間からエプロン姿の桜が顔を出す。彼女は姉さんとは呼ばない。遠坂先輩、と今まで通りに呼ぶのだが、そこに以前よりも暖かみを感じるのは、気のせいではないと思いたい。
桜は、四十六の犠牲を引きずっている。きっとこの先、その点で救われることはないだろう。だが、彼女は以前より笑うようになった。
印象的なのは、最後の夜のことだ。
『何故、あの人はわたしを殺さなかったんですか』
『何故、わたしの胸にナイフを突き立てるあの人の目は、泣いているように見えたんですか』
桜が、そう訊ねてきた。怖かっただろうなあと思う。わたしも一度アイツに殺されかけたことがあったが、あの目は本当に怖い。
だから、話した。悪いとは思いながらも、アイツに妹がいること、妹を救うために聖杯を望んだんだ、ということを掻い摘んで話した。きっとあんたに、妹を重ねたんでしょ。
それを聞いた桜は突然泣き叫んだ。泣き叫びながら魔術回路を起し、懸命に何かをしていた桜の姿を、そしてすぐさま気絶するように目を閉じた桜の安らかな寝顔を、わたしは忘れることが出来ない。
「ただいま、桜。ん、いい匂い」
「ええ、腕によりをかけて作りましたから」
「このままじゃ中華も桜に負けそうね」
またまた、なんて笑いながら、桜が引っ込んでいく。
ちなみに士郎とのことでは、まだわたしは警戒している。
『いいです。わたしもう諦めましたから』
桜はそう言ったが、無論油断はしていない。
「士郎は?」
「道場にいるみたいですけど」
「ありがと」
礼を言って、道場に向かった。
「おかえり。遅かったな」
「ただいま。先生に呼び止められてて」
木の匂いのする道場。その中央で、士郎は木刀を握っていた。足元には大きなドラムバッグ。準備は万端らしい。
「準備、できたみたいね」
「勿論」
士郎が僅かに顔を伏せた。
あの日、志貴は結局姿を見せなかった。物音に気付いた凛が玄関に出たときには、気絶した士郎が寝かされているだけだった。
「ようやく万事整いましたか」
背後から、セイバーが声を掛けてくる。
『見届けてみろ。答えがあるかもしれんからな。彼が私に遺した言葉です。私は、その言葉の意味を確かめたい』
今は、わたしの使い魔となっている。
「今度は俺達が助ける番、だろ?」
「ええ。アイツ大金持ちなんだから、家、弁償させないと」
どこかで死んでいるかもしれない遠野志貴を見つけ出す。留守は桜に任せる。少しだけ長い旅になりそうだった。
un epilogue.
夏がもうじき終わろうとしている。コオロギやキリギリスの泣き声が聞こえ始めた庭。夜風が心地いい。テラスで姉さんが淹れた紅茶を少しずつ飲みながら、わたしは空を見上げていた。満点の星空に、大きな丸い月。今夜は満月だった。
「隣、いい?」
姉さんが問いかけてくる。手にはティーポットとティーカップ。頷くと、姉さんは「よいしょ」と小さく声を出して隣に腰掛けた。わたしたちは向かい合わない。こうして紅茶をいただくときは、二人並んで座って空を見上げる。それが通例になっていた。
誰も居ない屋敷。翡翠と琥珀という二人の使用人しかいない、悲しい屋敷。わたしたちは、ただその日その日を過ごすことしか、できなかった。
二人、言葉もなく空、いいえ、月を見上げる。満月。あの日も、満月だった。
処断は二月十四日午前零時。二月十三日の午後八時には、秋葉様は離れの一室にて赤い着物に袖を通されていた。屋敷に集まった分家筋の人たちは、黒い着衣に身を固め、本館にいる。涙を流される方もいらっしゃったが、口汚く秋葉様を罵る方もいた。わたしたちは喪服に着替えさせられ、秋葉様の着付けをした。
秋葉様は眠りこけている。ずっと。たった一度、何かの気紛れで目を覚ましたあの日をのぞいてずっと。
涙がこぼれてくる。とっくに枯れ果てたと思っていた涙が、次から次から溢れ出してくる。
何故秋葉様が殺されなければならないのか。誰に危害を加えたわけでもない。ただ眠っているだけなのに何故。
恨み言は、口を開けばそれこそ洪水のように止め処も無い。だから、口を閉じて、姉さんと二人でひたすらに泣いた。泣きながら着付けをするわたしたちを、警護の一人が笑っているのが見えた。秋葉様の警護ではない。秋葉様が来賓に危害を加えないようにと、警護しているのだ。
文句を言う口すらつぐんで、わたしたちはその後もずっと秋葉様のお傍を離れなかった。
じっと、静かに呼吸を続ける秋葉様の寝顔を、見つめ続けた。
秋葉様を連れ出してしまおうと考えたことも、一度や二度ではなかった。実際に、一度実行したことがある。けれど混血とはいえ所詮はただの人間と変わらない。わたしたちは容易く捕まった。
障子から入り込む月明かりを見つめて、無力を嘆いた。
何も出来ない。秋葉様が殺されてしまうのに、どうすることもできない。
わたしたちにできるのは、ただただ志貴さまを待つことだけ。必ず救うという主の言葉を、無心に信じることだけだった。
けれど、志貴さまは来ない。時計の針が一回り二回りしても来ない。志貴さまが一体何をされているのか、刀崎様からもついに聞くことはできなかった。戦っておるんじゃよ。と一度だけ言ったことがあったが、わたしにはそれが額面通りの意味なのか、それとも別の意味があるのか、判別できなかった。
ただ刻々と時間は過ぎ、やがて時計の針が三周と四分の三回ったとき、藪から棒に障子が開かれた。立っていたのは、わたしたちをあざ笑った混血の男だった。
「時間だ」
信じてもいない神に祈った。動こうとしないわたしたちに痺れを切らしたのか、混血の男がずかずかと部屋に入り込んでくる。
「わたし達がお連れします」
姉さんの震える喉が、搾り出すように言った。
涙が溢れそうになる。堪えた。この男の前では決して泣くまいと、必死に堪えた。
二人で秋葉様を車椅子に乗せ、ゆっくりと押す。腐葉土に車輪を取られ、何度も止まった。そのたびに、連れ去りたいと心から思った。足取りは見る見る遅くなる。木立を抜けてしまえば、嫌でも目に入るだろう処刑台。そんなものは見たくなかった。
「姉さん」
「大丈夫、翡翠ちゃん。翡翠ちゃんが言ったんだから。志貴さんは、わたしたちに見破れない嘘なんかつかない。翡翠ちゃんは嘘だと思わなかったんでしょ? ならきっと、志貴さんは来てくれる。それで、花嫁をさらうみたいにして、秋葉様を……秋葉様を……」
「早くしろ」
男が言う。押す。車椅子をゆっくり押す。
やがて、木立を抜けてしまった。ここまで来るのに十五分もかけた。引き伸ばすのも、とっくに限界。
中庭には、人がたくさん待ち構えている。それら全てが悪魔のように見えた。黒い服。黒い服。黒い服。皆警護のものだった。来賓は、久我峰さまと刀崎さまの二人だけが、この中庭にいる。他は皆家の中なのだろう。
ふと見下ろして、自分もその黒い服を着ているのだと気付いて、発狂してしまいそうなほど悔しかった。秋葉様の死を弔うつもりなんてないのに、何故こんなモノを着なければいけないの。
黒い服のうちの一人が近づいてきて、強引に秋葉様を抱き上げた。
「あ……」
「やめ、て」
無慈悲に、背中が遠ざかっていく。秋葉様の赤い着物が、赤い髪が、夜風に吹かれてふわふわと揺れる。向かう先は、小さな石造りのベッドだった。そのベッドの横には、二メートルはあろうかという剣を携えた男がいた。
『首を刎ね落とすんだそうですな。いやはや、恐ろしい』
昨夜の九我峰様の言葉を思い出した。
あの剣で、首を──。
「や──いや、いやぁあああ!!」
絶叫した。恥も外聞も、そんなものどうでもよくなっていた。元々世間体など無いわたしが、気にするものなどなにもなかったのだから。
姉さんは目を見開いて震えていた。その口が震えて歯と歯を打ち鳴らす口が、小さく呟いたのを、わたしは絶叫の中で聞いた。
「たすけて、しきさん……」
「助けて! 志貴さま! 助けてください……! どうか……」
そんな叫び声を、痛ましく思ったのか、刀崎様が一歩踏み出そうとした。わたしは縋るようにそちらを見る。助けてくれと、目で訴えかけた。無駄だと知っていても。
けれど刀崎様は、足を踏み出そうとした格好のまま、停止していた。その目が、どこか遠くを見ている。その眼に移っていたのは、恐れと、愉悦。
腐葉土にへたり込むわたしの耳にが、背後で葉を踏みしめる音を聞いた。
「本当に、ごめん。信じられないくらい、遅れた」
バネ仕掛けの人形のように振り返る。いた。立っていた。半年もの間行方知れずだった主が。待ち焦がれた志貴さまが、見慣れない青い瞳でわたしたちを見下ろしていた。
「しきさ……ま。お帰りなさいませ……よくぞ、間に合ってくださいました」
姉さんの瞳からは涙が溢れている。口元を抑え、ぽろぽろと涙を流す姉さん、そしてわたしを、志貴さまはしゃがみ込んでゆっくりと抱きしめた。
「辛かったよな。俺がしっかりしてなかったせいで、本当にごめんな。突然出て行って、ごめんな」
「そんなことありません。志貴さんは間に合ってくれました……間に合ったんです」
志貴さまの肩は震えていた。本当はわたしの体が、姉さんの体が震えていただけかもしれない。けれど、志貴さまは言葉を詰まらせて、じっとわたしたちを抱きしめていた。
長い抱擁の間、誰一人動かなかった。秋葉様は冷たい石のベッドの上で、小さな寝息を立てている。
「まったく、どうしようもないヤツだなあいつも」
志貴さまは苦笑しながら、ゆっくりわたしたちから手を離した。頬に、べったりと何かが付着していた。ハッと、見上げる。月明かりを受けて、志貴さまの体のいたるところに、てかてかと光るなにかがあった。血。血だった。
立ち上がった志貴さまは、ふらりと体勢を崩した。咄嗟に立ち上がり、支える。力を抜いた男性を支えるのにわたし一人では辛かったが、姉さんもほとんど同時に抱きとめていた。
「ごめん。大丈夫」
「大丈夫ではありません志貴さま」
姉さんが、突然わたしの口調を真似て喋った。訝しげなわたしに反して、姉さんの表情は真剣そのものだった。わたしは口をつぐむ。
「志貴さま?」
「ああ、大丈夫だって。翡翠は本当に、心配性だな。俺はあの寝ぼすけを起さないと、いけないんだ……」
姉さんが息を呑む。わたしも同様だった。確かに志貴さまの見慣れた服装ではないかもしれない。だから間違えた。そういうこともあるかもしれない。けれど、もし、もしそうじゃなかったとしたら、志貴さまは──。
「二人は、どうする」
不意に、志貴さまが小声で訊ねる。
「本当に、この人数から秋葉様をさらうおつもりですか?」
「そのために、帰ってきた。二人が望むなら、一緒にいこう。けど、いつ死ぬかはわからない。それでもよければ──」
わたしは考えた。外に出る。志貴さまの目のことも忘れて、考えた。けれど、どうやら姉さんはとっくに答えを出していたらしい。志貴さまの言葉を遮るように、言った。
「わたしは行けません」
「姉さん?」
「わたしは、この屋敷の使用人です。いつか秋葉様と志貴さんが帰ってくるそのときまで、この屋敷をピカピカに磨かなきゃいけないんです」
強い意志。一瞬顔を伏せた志貴さまが、小さく悲しげに微笑んだ。
「ありがとう、琥珀さん。必ず帰ってくるよ。でも、掃除は頼むから翡翠に任せてくれ」
くすり、姉さんが笑う。つられて、わたしも笑った。悲しい笑み。きっと、志貴さまは帰ってこない。
志貴さまは、石造りのベッドに歩き出す。その背中に、声をかけようかと迷う。
「志貴、さま」
志貴さまが振り返る。
「必ず、お戻りになられてください」
「ああ、約束するよ」
また、笑う。涙が溢れた。嘘だった。一目でわかってしまうほどに下手な、嘘だった。
歩みは心細い。今にも倒れてしまいそうなほどに、か弱い。それでも歩く志貴さまに、迷いは見られなかった。問いかけたかった。その歩みは、死を受け入れての迷いなき歩みなのか。それとも、わたしに不安を与えるためだけに、嘘をついたのか。
前者に決まっていた。けれど、後者であってほしいと、わたしは願った。
「志貴君。間に合ってよかった」
久我峰様が、志貴さまに近寄っていく。
「こんばんは、いい月夜ですね」
「これならば、秋葉様も少しは楽に逝けるでしょう」
「だといいんですが、往生際が悪くてね」
久我峰様が首を傾げる。志貴さまの不可思議な言葉に反応したのは、巨大な剣を携えた大柄な男だった。大剣を手のように操った大男は、何の躊躇いもなく志貴さまにその岩をも砕きそうな刀身を叩き付けた。
大剣は大きな音と共に地面に突き刺さった。
わたしには、その光景が信じられなかった。
志貴さまは、何事もなかったかのように、秋葉様を抱き上げていた。愛しそうに、大事な宝物のように。
わたしの目には、大剣が見当違いの場所に叩きつけられたようにしか見えなかった。けれど事実は違った。志貴さまは、避けた。目にも留まらぬ速度で振り下ろされたあの大剣を、何事でもないかのように、避けてしまったのだ。
その異常を最も敏感に感じ取っていたのは大剣使いだったのだろう。疑うまでもなく、達人であるはずの太刀筋を、ぼろぼろの優男に避けられてしまう。荒事には疎いわたしにも感じ取れるほど、異様な光景だった。
「秋葉、行こう」
志貴様が呟く。同時に、再び大剣が振り上げられた。志貴さまは気付いていないのか、微動だにしない。わたしが声を上げようとした瞬間──
「あ」
──志貴さまの腕が、なくなった。
切り落とされたとわたしは本気で思った。けれど、これもまた違った。その更に一瞬後には、志貴さまの腕は元通りだった。いつの間にか、ナイフを握っている。そんなものでどうするのだろうと思ったときには、実は全てが終わっていた。
大男が振り上げた大剣が、ばらばらに切り刻まれてしまったのだ。
「鬼神か──!」
大男の声に、一部始終を見守っていた混血の男達が動き出した。その数五十。全てが、人を殺すことに長けた人たち。対して、志貴さまは秋葉様を抱えたまま。だというのに、わたしはもう安心だと思っていた。だから一度だけ、志貴さまに頭を下げた。
その後の惨事を語る言葉を、わたしは知らない。
唯一つ、大人と子供。失礼かとも思ったけど、あのときのわたしはそう考えていた。当然、子供とは五十人もいた混血の男たち。
踊るように駆ける志貴さまに、誰も傷をつけられず、誰も触れられず。ただ右往左往した果てに倒れていく。
月夜の世界に、青い二つの軌跡だけが、際立っていた。
「ねえ翡翠ちゃん」
月を見上げたまま姉さんが言った。
「お二人はどこにいるのかな」
わたしも、月を見上げたままで、答える。
「この月を、見上げているはずです。お二人で、仲良く」
きっと、帰ってくる。あのとき志貴さまが吐いた嘘こそが、嘘だと信じていた。
***
あれから半年が経った。
足を引きずり、夜の街を志貴は歩いていた。傷が深い。血を出しすぎた。元々無い視界がぼやけることは無かったが、そんなものがなくとも、この体が限界だということは誰よりもわかっていた。
刀崎翁が極秘裏に手配してくれた四つ目のアパートまで、残り十メートル。気絶させた追っ手は、川に放り投げた。死ぬことは無いはずだった。
日に日に、追っ手が強力になっていくように感じる。現実は違った。志貴が弱くなっているだけだった。それでも、殺すことだけは避けてきた。傷を負わせることも、避けてきた。混血の力を、殺し続けてきた。戦意を喪失するその瞬間まで、殺し続けた。命を奪ってしまえと、誰かが心の中で囁く。そうすれば楽なのは、志貴自身わかっていた。だが押し止めた。日に日に強くなる殺人衝動こそを、斬り殺して生きてきた。
そうできたのは、心の中の誰かが囁くたびに、彼らのことを思い出すから。正義の味方を目指す少年だとか、いつも偉そうな少女と、その妹。それと、まっすぐで綺麗な目をした剣士。何よりも、二週間もの間、命を預けあった彼女の、素顔。本当は誰よりも人を傷つけるのが嫌で、本当は誰よりもやさしかった彼女。彼女の真実を知る自分が人を殺してしまえば、彼女の名まで堕ちてしまう。だから、殺さなかった。
それが、挨拶もなく彼女と別れた遠野志貴の、唯一の償い。
だが、逃亡生活は本当に辛い。遠野グループの情報網とやらをなめていたわけではない。だが、たった半年で四度も引っ越すことになるとは、思いも寄らなかった。連日の襲撃。日々弱っていく志貴の限界が、今日、この日だった。
腹の傷は致命傷だった。いくら抑えても、血は止まらない。頭がぼうっとしてくる。目を閉じれば、きっと死ぬだろう。死ぬのは、まずい。秋葉を、どうにかしなければならない。
渾身の力を以って、薄汚いアパートの階段を登っていく。十二段の階段が、恨めしかった。這うようにして上りきり、突き当たりの部屋の扉に手をかける。ゆっくりと、開いた。ドアノブが血に濡れる。このまま入ったら床が血溜まりになるかもしれない。冷静にそんなことを考えたが、構わず上がりこんだ。
六畳一間の、屋敷の自室よりも狭い部屋。畳の上に敷かれた布団の上で、少女が寝息を立てている。ただし、志貴には少女の顔も見えない。ただ、彼女の死の線をじっと見つめるだけ。ただ、彼女の輪郭を思い出しては、微笑みを浮かべるだけ。
「秋葉……」
窓を開け放って、その縁に腰掛けた。この世で誰よりも失いたくないと思った。だから、聖杯戦争にまで参加した。たくさんの人に迷惑をかけて、被害を被らせて、そこまでしてでも失いたくないと思った。
だが、ここにきて、とうとう限界が訪れた。
触れたかった。秋葉の頬に、唇に、体に。けれど自制する。腐った血で、秋葉を汚すことなどできなかった。
懐から紙切れを引っ張り出す。たった一度だけ目覚めた秋葉と、翡翠と、琥珀と。すべてを忘れていた秋葉と、撮った、最初で最後の写真。今はもう、見る影もない。血で汚れ、折れ曲がり、色あせたただの紙切れ。
意識が朦朧としてくる。
電話をしなければと、立ち上がる。しかしすぐに思い至った。固定電話など、引いていない。携帯電話も持ち合わせていない。
「バカか、俺……」
再び、腰を下ろした。笑いがこみあげてきた。
「いつもそうだ。どこかで、抜けてる。笑えよ、秋葉。俺、おまえを勝手にさらって来て、自分がこうなったときのこと、考えてなかった」
乾いた笑いが、狭い部屋に反響する。
「……ばかだよな、ほんと」
空しい笑い声がやむ。
「なあ、どうしたい? 秋葉」
できる限りやさしい声で、訊ねた。答えは無い。わかってる。わかってる。この半年、いつだってそうだった。半年どころじゃない。一年以上もずっとそうだった。だから、今唐突に目覚めることなんてない。
半年で、自分は元に戻ってしまった。
キャスターと出会う前の、つまらない自分に。ただ秋葉に血を与えるだけの、人形のような自分に。溜息を吐いた。そう自覚できているだけ、まだましなのだろうか。
「人形、か……」
思い出す。ライダーを倒すと決めた日の昼、彼女は志貴の人形をたくさん作っていた。気持ち悪がる志貴を見て、彼女が言った。
『出会った頃の貴方よりは、この子達のほうが役に立つわよ』
「人形以下ってことはないだろ、なんて……怒ったんだっけ」
よく言うよ、と自分で可笑しくなった。
「イリヤも、化けて出るんだもんな。アレは、驚いた」
最後の戦い。あまりにも必死で、あのときは疑問にも思わなかった。
「化けて出るくらい、頼りなかったってことか」
言って、一人笑った。
一人きりの暗闇で、一人きりで笑う。一頻り笑って、志貴は立ち上がる。懐からナイフを取り出す。刃こぼれだらけの短刀七つ夜。それを、窓枠の向こうの月に翳した。
「未練は、無い」
少し、俯く。
「──嘘吐いた。未練だらけだ。でも、後悔はない……変わらないか、でもこれは嘘じゃない」
誰にとも無く呟く。届いただろうか。届いたはずだ。一番最初の選択肢。遠野志貴はそこに戻ってしまったけれど。
「満足、してる」
やるだけのことは、やった。
だからこの命を、秋葉に返そう。
それで秋葉が戻るとは思えなかったけれど、それしか手は見つからない。
ゆっくりと、ナイフを下ろしていく。この胸にぽっかりとあいた点。そこに向かって、ナイフをゆっくり下ろしていく。
切っ先が点に触れる。寒気がした。深呼吸。目を開く。ナイフに力を篭める。瞬間──
「が──!?」
体に、電流が走った。
風が吹いている。玄関の扉が開きっぱなしだと気付くが、遅い。
「しまっ──」
体が倒れる。それを引き起こす力も既に無い志貴は、大きな音を立てて畳に仰臥した。圧し掛かってくる追っ手の残党。即座に死を視、反撃しようとするが、先ほどの電撃と、出血多量に喘ぐ体には、もうナイフを振る力さえなかった。
見上げた。これから自分を殺す者を見つめようとした。侵入者は圧し掛かったまま動かない。じっとこちらを見下ろしているのが、空気で伝わってきた。
「おまえ、なんだ……」
志貴が呟くのと同時に、侵入者の上体が近づいてくる。頭を押さえつけられ、身動きの取れない志貴に、顔を近づけてくる。
唇に柔らかい感触。志貴が目を見開くより早く、舌が志貴の口内に入り込んでくる。同時に、何か液体を流し込まれる。思わず一口飲み込んだ。
喉が焼けた。食堂が焼けた。内臓という内臓が焼け落ちるほどの熱を発し始める。
やがて熱が頭にまで上ってきたとき、志貴は気を失いかけていた。
辛うじて動く首を回して、隣で眠る秋葉を見つめた。秋葉の上にも、誰かが乗っていた。同じようにして、誰かが秋葉に口付けている。
──や、めろ。
声にならない声で叫ぶと、誰かがこちらを向いた。そして微笑む。懐かしい微笑み。
志貴は侵入者の顔が見えていることにさえ気付かず、じっと見つめた。何故? それから、慌てて自分の上に圧し掛かっている者を見上げた。感想は同じだった。何故? と。
二人は志貴の視力が戻っていることに気付いたのか、風のように消え去った。まるで、魔法のように。
自分が出血多量の身であることも忘れ、志貴は急いで起き上がり、窓枠に駆け寄った。
見上げれば、月を背景に大小の影。
大きな杖に、紫のローブをはためかせて、彼女は宙を舞う。ふわりふわりと、居なくなったはずの彼女が、居なくなったはずの少女を連れて。
足をばたつかせていた少女は、ふと気付いたかのようににこりと笑って、手を振った。ローブの彼女は、落ちそうになった少女を慌てて摘んで、控えめに微笑んだ。
嗚呼と、志貴は吐息を零した。あの城の中、動かなくなった彼女の抱き心地は、まるで人形のようだった。
そう、つまりはそういうこと。
足元の包みを拾い上げる。可愛らしい包みはどちらの趣味なのだろう。
大きく息を吸って、吐く。
見上げた空には、小さくなった二人の影絵。いつまでも消えないそれをいつまでも見つめて、志貴は目を閉じた。
代わりに明日が開ける。未来が開ける。
未来など失ったこの体に、生きる力が湧いてくる。
例え口移されたのが毒薬だとしても、
「ありがとう」
二人の魔法使いに、感謝の言葉。
an epilogue.
はじまりは偶然。
狂気の少年と、孤独な魔女の出逢い。
それは、ほんの小さな御伽噺。
「それで? 狂ってしまった少年は、最後にはどうなってしまうんです?」
「きっと、幸せに暮らしてる。もうこれ以上は無いってくらい、幸せにね」
「よかった。わたし、どうしてもそこが気になっちゃって」
眼鏡を掛けた青年と、黒髪の少女。二人は連れ添って、駅のホームに降り立った。真冬だというのに、劈くような風が無い。
少女はいくらか驚いた様子で、周囲を見渡した。初めて訪れる土地なのだろう、しきりに視線をちらつかせている。
「ところで兄さん。どこへ向かうんですか? いい加減教えてくれないと、困ります」
秋の涼やかな風を受けて、少女が髪を押さえつけながら尋ねた。
「それは勿論──」
青年は悪戯っぽく微笑する。
「優しい魔女がいる森だよ」