聖遺の天使
la reliquia di angelo
三雲岳斗
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)天使《アンジェロ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)| 沼 の 館 《カーサ・ディ・パルデ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)人工的に洪水を引き起こし敵を殲滅する可動式の水門[#「人工的に洪水を引き起こし敵を殲滅する可動式の水門」に傍点]
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[#表紙(img/表紙.jpg)]
〈帯〉
2000年無重力空間の殺人『M.G.H』、深海四千bの『海底密室』、そして2003年、奇跡のミステリの誕生!
湖畔に建つ古城の密室
聖母子を出現させる香炉の謎
受けて立つは万能の天才レオナルド・ダ・ヴィンチ!
「読者よ、三雲岳斗の華麗な才能に酔え!」
山田正紀氏激賞!
| 沼 の 館 《カーサ・ディ・パルデ》と呼ばれる館に天使《アンジェロ》が出現したという。師匠《マエストロ》レオナルド・ダ・ヴィンチがその謎を探ろうとする……。内と外、光と影、信仰と理性、奇跡と錬金術、そして愛と憎しみとが驚異の二重螺旋をえがいてここに新たな歴史ミステリーのDNAを誕生させた。
読者よ、三雲岳斗の華麗な才能に酔え!
[#地付き]――山田正紀
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聖遺の天使
la reliquia di angelo
[#地から2字上げ]三雲岳斗
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目 次
序 章
一 章
二 章
三 章
四 章
五 章
六 章
終 章
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[#挿絵(img/01_004.png)入る]
[#挿絵(img/01_005.png)入る]
序 章
その館は| 沼 の 館 《カーサ・ディ・パルデ》と呼ばれていた――
真夜中を過ぎて、雨は激しさを増したようだった。
灯りを消した部屋の中は暗い。家具の輪郭さえ朧気《おぼろげ》にしかわからない。
閉めきった窓が風に揺れる。
不快な湿り気を帯びた空気が、降りやまぬ雨の気配を伝えてくる。
こんな夜更けに目を覚ましたのは、彼女にしてはめずらしいことだった。
悪い夢を見ていた気がするが、はっきりとは覚えていない。雨のせいかもしれないと思う。六年前、彼女の父親が死んだのも、こんな酷《ひど》い雨の夜だった。
風に震える木々の葉音が耳に障った。地鳴りのような低いうなりを感じる。押し寄せる濁流を連想させる音だ。山頂近くにある湖のことを思って、彼女は少し不安になった。
かつては城砦としても使われていたというこの巨大な館は、湖の氾濫に備えて、高い城壁に囲まれている。しかし荒れ狂う自然はときとして、どれほど強固な建造物をもたやすく打ち崩す。彼女はそのことを幾度となく師に聞かされた。否、師の描く素描で知ったのだ。
安い黒チョークで無造作に描きつけられた嵐の素描は、まるで自らが体験した事実のように、彼女の心に焼きついている。彼女の師は、それほどまでに恐ろしく、そして美しい光景を描き出す才の持ち主なのだ。そのことが、今は少し恨めしい。
たたきつけるような風が吹いて、窓が軋《きし》んだ。
耳をふさいで寝返りを打とうとした、そのときだった。
悲鳴が聞こえた。
細い悲鳴。聞き覚えのある声だ。
その叫びが恐怖に彩られていたことよりも、意外なほどの声の近さに彼女は驚いた。
遅れて、もう一度悲鳴が響いた。同時に、なにかが荒々しくぶつかる音がした。はっきりと風の音が大きくなる。
それほど長くは迷わなかった。
「――おいで、リベラ」
友人の名前を呼んで、彼女は寝台に上体を起こした。
勢いよく彼女の胸に飛びこんできたのは、柔らかな毛皮に包まれた小さな生き物だった。闇の中にもくっきりと白い優雅な獣――| 白 貂 《エルメリーノ》。
この夜行性の小動物は、暗い室内でも迷うことはないらしい。彼女の頬に鼻先を擦りつけるようにして甘えてくる。普段と変わらぬ白貂の様子にかすかな安堵を覚えて、彼女は寝台を降りた。慣れない客間の間取りに戸惑いながら、手探りで部屋の入口に向かう。重い樫《かし》のドアを開け、薄織物の寝衣をまとうだけの姿で部屋を出た。
ひんやりと湿った石造りの壁。きつく閉ざされた小さな板窓。それほど古い建物ではないはずなのに、ずいぶんと荒《すさ》んで見える狭い廊下。
その廊下を弱々しく照らす燭台の炎が揺れていた。階下から風が吹きこんでいるのだと、すぐに彼女は気づいた。悲鳴はもう聞こえない。窓の軋む小刻みな音だけが激しくなる。
客間として彼女のために用意された部屋は、館の南西にある塔の一室だった。相棒の白貂を強く抱きしめたまま、彼女は意を決して暗い回廊の角を曲がった。
身の危険を感じなかったわけではない。だが、この城館があるのは最寄りの村からも遠く離れた山中である。こんな嵐の夜に襲ってくる者がいるとは思えない。それよりも恐怖の正体を見極めることが大切だと考えたのだ。
しかし、緊張しながら回廊を進む彼女が目にしたのは、思ったよりも平凡な光景だった。
塔と塔を結ぶ長い回廊のほぼ真ん中に、一人の女が座りこんでいる。紺色の筒衣を着た若い女中である。腰を抜かしたように、回廊の壁に背中をつけて震えている。ただそれだけのことだった。
中庭に面した回廊の窓が開いており、そこから雨が激しく降りこんでいた。吹きこんでくる強い風で、開閉式の板窓が休みなく壁に叩きつけられている。それが先ほどから聞こえていた激突音の正体だった。床に敷き詰めてある絨毯の色が、水を吸って黒く変わっていた。
女中の足下に真鍮《しんちゅう》の燭台《しょくだい》が転がっている。蝋燭《ろうそく》の火は消えていた。転んだときに落としてしまったのだろう。こんな夜中に回廊を歩いていたところをみると、用を足しに行くところだったのかもしれない。しかし女中の顔は蒼白で、その身体はひどく震えている。
ただ転んだだけにしては、あまりにも不自然な姿である。
「ベネデッタ、どうしたのです?」
彼女は腰を落とし、震えている使用人の名前を呼んだ。穏やかに呼びかけたつもりだったが、その声に驚いて、相手が激しく身体を強張らせる気配が伝わってきた。
それでも自分の名前を呼ばれたことで女中は顔をあげ、大きく見開いたままの瞳で、彼女のほうを振り返った。震える手で窓の外を指さした。
血の気のない唇が、なにかを告げようと引きつるように動いた。
「……んし」
「え?」
「て……んし、が……」
「――天使《アンジェロ》?」
ただでさえか細いベネデッタの声は、雨音にまぎれてほとんど聞き取れない。彼女は、服が濡れるのにかまわず、開け放たれた窓に歩み寄った。水に濡れるのを嫌って白貂のリベラが身をよじる。
厚い雲に覆われた空は一面の闇だった。回廊の灯りも窓の外までは届かない。水煙と雨に遮られて、視界はほとんどないに等しい。なのに彼女は、そこにたしかに光を見た。
広い中庭を挟んだ対岸の回廊。その屋根の上に立つ影を、ぼんやりとした光が照らしていた。
影は、人の形をしていた。
この嵐の中、一糸まとわぬ姿で闇の中に立っている。
男性とも女性ともつかぬ小柄な身体。
透き通るような白い肌。
輝くような金色の髪。
その姿が闇の中に浮かんだのは、一瞬だった。
瞬く間に光は消え、あとには暗闇だけが残された。
「そんな……まさか……」
窓の外を見据えたまま、彼女は呆然と立ちつくした。天使を見たという実感はなかった。
天使の存在を疑っているわけではない。
キリスト教徒である彼女にとって、神が存在することは、肌を裂けば血が流れ出るのと同じくらい当然のことだった。ならば神の御遣《みつか》いが存在することにも疑問はない。
けれど闇の中に浮かび上がったあれが、天使だとは、どうしても思えなかったのだ。
もしあれが本当に天使だとしたら、なぜ、このベネデッタという名の女中をこれほどまでに怯えさせているのか。
そして、なんのために地上に姿を現したのか――
動きを止めた彼女の腕の中で、なにかの臭いを嗅ぎつけたように、リベラが鳴いた。
白貂の動きにつられるように、彼女は視線を落とし、そのときようやくそれに気づいた。悲鳴をあげることもできなかった。
ベネデッタをこれほどまでに怯えさせたものは、彼女たちの足下にあった。
館の中庭に面した回廊の外壁。開け放たれた窓の真下に、一人の男がいた。
なんの足場もない壁に、張りつくように浮かんでいる。
声もなく、気配もなく、身じろぎもせずに雨に打たれている。
不自然な形に首を曲げ、
かすかにうつむき、
張り出した窓枠に両手をかけて、
まるで、磔刑《たっけい》にあったような姿で、
――男は死んでいたのだった。
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一 章
復活祭を間近に控えた、春の午後のことである。
その日、宰相ルドヴィコ・イル・モーロが訪れたのは、| 旧 宮 殿 《コルテ・ヴェッキア》にある小さな工房だった。
曇天である。鐘楼《しょうろう》から響く鐘の音に混じって、かすかに湿った風の匂いがする。
この季節、北部イタリア――ロンバルディア地方では、天候の荒れる日が少なくない。昨夜までは、ミラノでも、嵐のような激しい雨が降り続いていたのだ。
さすがに雪が舞うほどではなかったものの、石造りの建物の中は真冬のように冷えこみ、街は深い霧に包まれた。
その雨が数日ぶりにあがったのは、ようやく今朝になってからのことだ。
久方ぶりに霧が晴れ、雲間からのぞく太陽が、柔らかな光の帯を落としている。
暗く濁っていたミラノ公の居城の堀も、今はもとの澄んだ輝きを取り戻し、灰色の都市の姿を静かに水面に映していた。
ほぼ円形をなす都市ミラノの中心部。建築途中の大聖堂《ドゥオモ》を正面にのぞむ豪奢《ごうしゃ》な建物と、美しい鐘楼を持つサン・ゴッタルド教会を含めた一帯。この地区を総称して旧宮殿と呼ぶ。
何世紀も前に都市計画家に見放された迷宮のようなミラノの街でも、この界隈に限れば、比較的整然とした姿を見せている。
建物の壁に刻まれた蛇の紋章は、この宮殿がかつてのミラノの支配者――ヴィスコンティ家の居城であった時代の名残である。
そのヴィスコンティ一族がミラノを追放されて三十年あまり。現在の旧宮殿は、現ミラノ公ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァの所有となり、宮廷に仕える芸術家や学者たちの住居として使用されていた。広大で豪奢な旧宮殿の建物は、著述家や詩人たちが論じ合う場所として優れていたし、職人たちが工房を構えるのに十分な空間を提供することもできたからである。
まだ幼いジャン・ガレアッツォにかわって国務を担当している宰相のルドヴィコは、そこで暮らす人々の雇い主ということになる。
だからというわけではないが、ルドヴィコは、こうしてしばしば旧宮殿を訪れた。
もちろん、雇い入れている芸術家たちの働きを監督するという意味合いもある。
しかし何より、ミラノが抱える当代有数の知識人との会話や、彼らの仕事ぶりを眺めるのは、退屈な宮廷での生活にあって、格好の気晴らしなのだった。
そして、ある一人の異郷人がここに住みついて以来、ルドヴィコが旧宮殿を訪れる機会は間違いなく増えている。今日の彼の目当ても、やはりその異郷の男だった。
興味深い相手だが、一風変わった人物でもある。
フィレンツェの事実上の支配者であるメディチ家から派遣されてきたのだから、使節と呼んでも間違いではない。公式には、音楽使節という身分になる。
だが、およそ使節などという雰囲気の男ではない。
たしかに、彼は竪琴《リラ》を見事に弾きこなす。楽士として一流であることに疑いはないのである。
なのに、ルドヴィコ自身、彼の弾く竪琴を耳にしたことは数えるほどしかない。
気が向けば一日中でも弦を鳴らしているくせに、気が乗らねば、領主の頼みでも頑として竪琴を構えようとしない。無理強いして弾かせたところで、如才なく言い逃れて、いつの間にか演奏をやめてしまっている。そのような男なのである。
気まぐれなのだ。
一方で、男は、組合から自分の工房を持つことを許された| 画 家 《デイピントーレ》である。
さらに彼は、希代の軍事技師であり、建築家であり、彫刻家でもあると自称する。
ミラノの宮廷は、男を、祭典や舞台を監督する宮廷技師という身分で雇っているものの、実際どれほどのことができるのか、ルドヴィコには量りかねている。
宮廷に出入りする数学者や音楽家とは親交を結んでいるようだが、絵画や彫刻には、ほとんど興味を示そうとしない。描くものといえば、せいぜい芸術とは無関係の幾何学や科学を研究した素描。そして、男が考案したという兵器や、建物の設計図だけである。
その兵器や建物にしたところで、あまりにも空想的で、とても実現できるものとは思えない。
だが、男の描く図があまりにも巧みであるがゆえに、まるで現実にそれが在るような錯覚を覚えてしまう。
その素描の精緻さと美しさは、宮廷画家たちをも驚嘆させるほどであり、それだけでも男が尋常ならぬ画才の持ち主であると証明できる。
すなわち、彼は、創作をせぬ芸術家。
絵を描かない画家なのだ。
レオナルド・ディ・セル・ピエーロ・ダ・ヴィンチ――
それが、男の名前であった。
異郷人の工房は、教会の鐘楼から少し離れた中庭のついた建物だった。
もとは宮殿の一部として造られた、天上の高い石組みの房舎である。
金属細工や彫刻を造るための広い房内は、描きかけの素描や未完成の塑像《そぞう》が置かれているだけで閑散としている。徒弟たちの姿もない。復活祭直前の時期とはいえ、本当にここで働いている者がいるのか疑いたくなるような光景だ。戸に鍵さえもかかっていないのは、盗られるものなどないと高をくくっているからだろうか。それでも銀筆で描き残された断片的な素描は見事なもので、工房の主の尋常ならぬ画才を表していた。
不用心に開け放たれた戸をくぐり、ルドヴィコは工房の奥へと進む。
「いるのか、レオナルド――」
傾斜の急な、狭い階段を抜けたところで、ルドヴィコはそう呼びかけた。
返事はなかったが、ルドヴィコも返事を期待していたわけではない。乾きかけの油彩や石膏の臭いがこもった廊下を歩いていくと、左手に扉を開け放したままの作業場が見えた。
埃をかぶった画板やイーゼル。積み上げられた書物。顔料を溶くための瓶や鉢。描きなぐられた無数の素描。さして広いとも思えぬ部屋を、窓越しの光が照らしている。
その窓辺に、男は静かにたたずんでいた。
逆光に照らし出された彼の姿に、ルドヴィコは、ほう、と息を呑んだ。
均整のとれた長身の影は、古代ギリシャの彫刻を見ているようであった。陽に透けた長い髪が輝いている。穏やかな面立ちは、むしろ女性的であるかもしれない。ゆっくりと振り向いたその瞳は、驚くほど深く澄んだ色をしていた。
かつて、彼の師であるフィレンツェの美術家アンドレア・デル・ヴェロッキオは、旧約聖書の英雄ダヴィデ≠フブロンズ彫像を作る際に、この男をモデルにしたという。
美しい男なのである。
魅入られたように立ちすくむルドヴィコに、その彫刻のような男は笑いかけた。ゆったりとしていて、つかみどころのない、冷たく澄んだ流水のような声だった。
「やあ、イル・モーロ――久しぶりだね」
軽いからかいのこもったその口調に、ルドヴィコは顔をしかめた。
イル・モーロというのは、ルドヴィコの本当の名前ではない。
正式な名は、ルドヴィコ・スフォルツァという。先代のミラノ公国の当主フランチェスコ・スフォルツァの第十一子であり、現ミラノ公ジャン・ガレアッツォの叔父にあたる。
モーロとは、黒のことである。すなわちイル・モーロとは、黒い人という程度の意味になる。転じて、南方のムーア人を指すこともある。生まれつき肌が浅黒く、髪も目も黒かった彼を、人々はそう呼んでいる。
考えようによっては侮辱ともとれる呼び名だが、ルドヴィコ自身は、その愛称を気に入っていた。自ら黒人風の衣服を装い、屈強で忠実な黒人兵士を護衛として使っているほどである。
スフォルツァ家は、いわゆる名門貴族の家系ではない。ルドヴィコの父――フランチェスコは、かつて、勇猛で知られた傭兵隊長《コンドッティエーレ》だったのだ。
名門ヴィスコンティ家の没落によって、スフォルツァ家がミラノの実質的な支配者となった今も、その武人の血はルドヴィコの中に受け継がれている。ルドヴィコが、酔狂な装いで市街を歩き回るのを好むのも、案外その血脈に理由があるのかもしれない。
だが、今日のルドヴィコの傍らに、護衛の黒人兵士たちの姿はない。
日に灼けた精悍《せいかん》な顔つきにも、うっすらと疲労の色が浮かんでいた。滅多にないことではあるが、ルドヴィコは焦っていたのである。
そんな彼の様子に気づいてか、レオナルドがかすかに片眉を上げた。
「一人で来たのか、イル・モーロ?」
微笑みながら、皮肉げな声で言う。写生でもしていたのかと思ったが、違った。彼は、手になにも持っていなかった。
「宰相閣下ともあろう者が、不用心なことだ。いつもの取り巻きはどうしたのだ?」
「置いてきた」
ルドヴィコはぶっきらぼうに言う。
「急いでいたのだ。それに、目立ちたくなかった」
「ふむ……ならば、こんなところに立ち寄っている暇はないのではないか?」
まるで興味がないという口調で、レオナルドはつぶやいた。端整な顔をルドヴィコのほうに向けたまま、彼の瞳は窓の外の景色を見ていた。
ルドヴィコは、深いため息をついた。
「貴様に用があったのだ、レオナルド。城に来るようにと言っておいただろう?」
「そうだったかな」
「今朝から何度も使者を送ったはずだ」
「そうか。言われてみればそんな気もするが、すまない。どうしても見届けねばならないものがあったのだ」
「……む」
ルドヴィコは、レオナルドの視線を追って窓の外を見た。
作業場は市街に面しているが、特に面白いものが覗けるわけではない。通りを行き交う人々。くすんだ建物。絵筆で掃いたような雲。黄色く染まりはじめた午後の日射し――
「大聖堂のことを言っているのか?」
遠方にそびえる未完成の尖塔をながめて、ルドヴィコは訊いた。
ミラノは美しい街ではない。
この街は、かつて神聖ローマ皇帝フリードリヒ一世の手によって完膚無きまでに破壊されたのだ。
その後、幾たびもの戦争を経て、フィレンツェやヴェネツィアとの長い抗争が終わったのは、ほんの三十年前のことである。戦争は、ミラノを近代的で豊かな工業国に変貌させたが、その代償として都市の文化は停滞した。
事実、都市の象徴ともいえる大聖堂は、百年近くも前から建造をはじめたにもかかわらず、いまだ屋根すら完成していない有様である。建築家をも自称するこの貪欲な男が、工事なかばの大聖堂の姿に興味を持つのは、むしろ自然な成り行きだと思えたのだ。
だが、レオナルドは素っ気なく首を振った。
「そうではないよ、イル・モーロ。ぼくが見ていたのは、もっと普《あまね》く普遍的なものだ」
「……普遍的?」
「きみの目の前にもあるだろう。大気だよ」
「大気だと?」
ルドヴィコは不服げに目を細めた。話をはぐらかされたような気がしたのだ。
「ふざけるのはよせ。そんなものが目に見えるか」
「ふむ……しかし、きみも霧や砂塵は見たことがあるだろう?」
「なにが言いたいのだ。霧は霧、砂塵は砂塵だろう。大気ではない」
「いや、同じことなのだよ、イル・モーロ。つまりは光の問題なのだ」
「光だと?」
「そうだ。霧も砂塵も、大気と同じように手につかみ取ることはできない。光があるからこそ、それがそこにあるとわかるのだ。違うか?」
「それはそうかもしれんが、大気とは違う。霧や砂塵は光を遮るが、大気とは光を素通しするものではないか」
なかばむきになって主張するルドヴィコを、レオナルドは愉快そうにながめていた。思案するように組んでいた腕をほどいて、左手を頭上へと向ける。その指の示す方向――雲の隙間に、うっすらと青い空が見えた。
「では、透き通っているはずの空が青く見えるのはなぜだろうな、イル・モーロ?」
「……あの青が、大気の色だというのか?」
露骨に疑わしげな口調で、ルドヴィコは訊いた。
「しかし、空の色など刻々と変わるものだぞ。黄金色の黄昏《たそがれ》や、夕焼けの赤はどう説明するつもりだ」
「それだよ、イル・モーロ。それらは、すべて同じものだ」
「……待て。それでは、大気の色とは赤でもあり青でもあり黄金色でもあることになる。そんなふざけたことがあるか」
「そうではない。そもそも、それらは同じものなのだ。色とは物の本質ではないのだよ」
「む……」
ルドヴィコは沈黙した。
ほかの人間が言うことであれば戯言《ざれごと》として聞き流すところであるが、レオナルドという男の言葉には、それを許さない、なにか魔力のようなものがある。
「油膜に映った光を見たことがあるか、イル・モーロ」
「……ああ」
「虹のように、無数の色にわかれて反射していなかったか?」
「それがどうしたのだ?」
「あれが光なのだ。光の中にはすべての色が含まれている。すべての色が集まったところに光が生まれるのだ」
むう、とルドヴィコは低くうなった。淡々としたレオナルドの口調に圧倒されぬよう、声を太くして訊き返す。
「――すべての色を混ぜると黒に近づくのではないのか?」
「それは、顔料の話だよ。黒とは色の名前ではない。白も黒も、光の多寡を示す基準だ」
「では、色とはなんなのだ?」
「色とは、言ってみれば影のようなものだよ」
「影だと?」
さらなる説明を求めて、思わずルドヴィコは身を乗り出していた。それはレオナルドの持つ魔力に屈服する危険と背中合わせである。
「そうだ。闇とは光が存在しない状態だが、影は違う。光のあるところで、光が遮られるから影が生まれるのだ。影と色が無関係ではないというその証拠に、この聖母の衣服は青い顔料で描いているが……」
と、部屋の片隅に放置されていた宗教画の一部を指さし、レオナルドは言う。
「――影になっている部分には紺を使っている。光の当たり具合が変わったことで、色もまた変化したのだ。空の色が変わるのも、理屈はこれと同じことだよ」
「なるほど……わかるような気もするが……」
ルドヴィコは、腕を組んで低くうなった。レオナルドが言わんとすることの半分は理解したつもりだが、残りの半分はまだ信じきれていない。それはレオナルドの説明が足りないのではなく、おそらくルドヴィコ自身が彼の言葉を認めたくないのだ。
なぜならば、それは怖いことだからだ。
「……色とは、影のようなものだと言ったな」
ルドヴィコが、訊いた。
「ああ」
「では、俺が今、こうして見ている景色はなんなのだ。この風景も、空の色や影のように、姿形を変える可能性があるということか?」
「そうだ」
「馬鹿なことを言うな。影のようなものだというのならば、見る者によって、まるで違う姿に見えてもおかしくないではないか」
あきれたように首を振るルドヴィコを、レオナルドは無言で見つめ返す。その静かな視線に奇妙な戸惑いを感じて、ルドヴィコはまくしたてた。
「ならば、俺が見ている景色と貴様が見ている景色が同じであることはどう説明するのだ? いや、今この俺が知っている世界が、このまま変化しない理由は――」
「ない」
レオナルドが短く告げた。
「そんなものはないのだ、イル・モーロ。たとえばきみは、鏡に映った影を自分のほんとうの姿だと思っているかもしれないが、ぼくらが見ているきみの姿は、それとはまったく違っているかもしれない。そして、きみには、それを確かめる方法はないのだよ」
「な……」
「この世界とは、湖の水面に映る影のようなものなのだ。我らの住む大地も、我々も」
「しかし、俺はこうして壁に触れることができるぞ。手を伸ばせば、貴様にも触れる。もし、この世界がただの影だというのなら、この壁に触ることなどできないはずだ」
早口で告げながら、ルドヴィコはひんやりとした石壁に手を伸ばした。
レオナルドは小さく笑ったようだった。
「できるさ」
「なに?」
「簡単なことだよ。なぜなら、きみもまた影だからだ、イル・モーロ。いつ消えてもおかしくない幻影なのだ。幻が幻に触れてみせたところで、なんの証拠にもならないよ」
「――!?」
瞬間、ルドヴィコは息を呑んだ。
教会の鐘が鳴っていた。風が吹き、太陽が雲に隠れたようだった。
すっと室内が暗くなった気がした。逆光の中に浮かんでいたレオナルドの表情が、翳ってなにも見えなくなる。
「……違う、俺は……」
ルドヴィコは、弱々しい声でそれだけを言った。レオナルドがすぐに続けた。
「どうしてそう言い切れるのだ、イル・モーロ。きみは暗闇の中では花の色を見分けられない。そこに花が存在することも証明できないだろう。それと同じだ。きみ自身、誰かが目を閉じたら消えてしまう存在なのかもしれないのだ」
「くだらぬ。それが真実だというのならば、その誰かとは誰のことだ。言ってみろ」
思わず声を荒げたルドヴィコに、レオナルドが微笑みかけた。その美しい表情に、ルドヴィコは漠然とした不安を覚えた。その不安はすぐに不満に変わる。
さらに彼を問いつめようと、ルドヴィコは再び口を開きかけた。
そのとき、レオナルドがつぶやいた。
「神だ」
「――馬鹿な」
「この世界は精巧なステンドグラスが生み出す影絵のようなものだ。光の中に浮かぶ幻想だ。神が見ている、ただの幻なのだよ。儚《はかな》い、夢のような――」
「違う。そんなことは、嘘だ」
「証拠がある」
「なんだと!?」
「聖書に書かれているではないか」
「な……に?」
「忘れたわけではないだろう。神がどうやって世界を創ったのか」
光あれ≠キると光があった――
聖書の一句が閃光のように思い出されて、今度こそルドヴィコは絶句した。
ルドヴィコは、決して信心深い人間ではない。少なくとも、アルプスの北の国々のような、狂信的とも思える中世的な宗教観とは無縁である。法王庁《ヴァチカン》と地理的に近いだけに、その腐敗や堕落ぶりを目にする機会も多く、イタリア人の多くは宗教に対して冷静な視点を失わずに済んだのだ。
だがそれでも――だからこそ、ルドヴィコはレオナルドの言葉に翻弄された。
人間は神に創られたのではなく、光が生み出したただの幻影にすぎない。まさしく影絵だ。
夢を見ている人間にとって夢が現実であるのと同じように、影にも自分が影であることがわからないのではないか。そう思ってしまった瞬間、ルドヴィコは圧倒的な不安に押し潰された。
レオナルドの言葉がただのまやかしだったとしても、それを証明する手段はどこにもない。それこそが彼の持つ魔力であった。
鳴りやんだはずの鐘の音が、耳の奥に響き続けている。
神の姿を人が見ることができないのは、人が影にすぎないから。
影が、光を見ることはないのだから。
だとすれば、それは、なんと、絶望的で儚いことか――
「――まあ、そのような手紙を書こうと思っていたのだよ」
目の前がふいに明るくなる。
ふと気づけば、窓辺にはもとどおり光が射しこみ、舞い上がる埃をきらきらと照らしていた。
悄然と肩を落としたルドヴィコの沈黙を破ったのは、レオナルドの穏やかな声であった。
「……手紙、だと?」
我に返ったルドヴィコは、額に滲んだ汗を拭きながら言った。
「なんの話だ?」
「聞いてなかったのか、イル・モーロ?」
レオナルドは、おやおやと肩をすくめた。
「色とは物の本質ではない、という話だ。サン・ドナートに送るのだよ」
「サン・ドナート……僧院か……」
ルドヴィコは、ようやく、レオナルドがこんな話をはじめた理由を悟った。
これは、三王礼拝の話なのだ。ルドヴィコは、最初からからかわれていたのである。
レオナルドは、相変わらず涼しげな顔で微笑んでいる。
腹を立てたというよりもなかばあきれて、ルドヴィコは乱暴にイスに腰掛けた。
三王礼拝とは、レオナルドが、フィレンツェ近郊の聖ドナート・ア・スコペート修道院に依頼されて描きはじめた宗教画である。
ルドヴィコは、その実物を見たことがない。けれど、実際に目にした者の話では、聖母子を中心に、礼拝に訪れた三人の賢者や群衆を精密な数学的構図で描いた、画期的な作品なのだという。
しかし、この作品は未完成である。現存する三王礼拝は単色のビスタで描いた下書きの段階であり、各部の彩色が施される以前の状態で放置されている。
レオナルドはこの絵を友人のアメリーゴ・デ・ベンチに預けたままミラノを訪れ、そのまま住み着いてしまったのである。
「つまりこういうことか、レオナルド?」
こめかみに手をあてて、ルドヴィコは訊いた。
「色とは物の本質ではないのだから、三王礼拝図にも、色を塗る必要はないと言いたいのか?」
「そのとおりだよ、イル・モーロ。しかし、サン・ドナートの連中は、あの状態では契約の金を支払えないと言ってきたのだ」
「……だが、それは当然ではないのか。現に、その絵は完成していないのだろう?」
「そうではないのだ、イル・モーロ。あの絵は、未完成だからこそよいのだよ。あの構図は、陰影で処理することはできても、彩色して描き出すことはできないのだ。そんな簡単なことが僧院の連中にはわからないらしい」
「しかし、完成していない作品に金を払いたくないという相手の言い分はもっともだぞ。仮に下絵の段階よりも作品として劣るようなことになっても、彩色してみせれば、僧院も納得するのではないのか」
「いやだよ、面倒くさい」
レオナルドは、いかにも傲然とした口調で言う。ルドヴィコは嘆息した。
どうやらレオナルドの中では、描きかけの絵を放置していることにも、正当な理由があるらしい。思想の上ではすでに完成している作品をわざわざ彩色するなど、この奇矯《ききょう》な画家にしてみれば、まったく無駄なことなのだろう。
しかし、ルドヴィコのような人間から見れば、それは面倒だから描かないと言っているようにしか思えない。いや、実際、面倒で描きたくないから、光だの神だのという理屈をこじつけたのかもしれない。まったく気まぐれな男である。そのくせ、やたらと金にはうるさい。
そもそも、こんな話を長々と聞かされる羽目になったのは、彼が、ルドヴィコの呼び出しを無視したからである。それを思えば、レオナルドが詭弁《きべん》を弄して煙に巻こうとしているのは、聖ドナート修道院ではなく、ルドヴィコのほうなのかもしれない。
だが、それでもルドヴィコは、今更レオナルドを咎めようという気にはなれなかった。
たとえ詭弁でも、レオナルドが語った言葉から感じた恐怖は真実だったからだ。
あるいは、それこそが彼の持つ魔力だったのかもしれない。
と――
「では、話を聞こうか」
窓辺に腰をおろしたまま、レオナルドはおもむろにそう言った。
「……話?」
ルドヴィコは、一瞬、なにを言われたのかわからず、放心したように訊き返した。
画家は、そんなルドヴィコを、真っ直ぐに見ている。
「なにか用があってきたのではなかったのか、イル・モーロ? それを聞こうと言ったのだ」
「あ……ああ。そうだ。そう、こんな話をしている場合ではないのだ、レオナルド」
ルドヴィコは姿勢を直し、宰相の貌《かお》でレオナルドを見据えた。
レオナルドは静かに微笑んでいる。
ミラノの北方――北部イタリアの中央部に点在する湖と、その周辺部を総称して湖水地方と呼ぶ。
豊かな水と緑に恵まれ、季節の花々が咲き乱れるこの土地は、古くから貴族たちの保養地として栄えていた。地中海的な気候とアルプス特有の風景が入り混じる、美しい地域なのである。
パオロ・アッラマーニの城館はその湖水地方のはずれにあるのだと、ルドヴィコは先《ま》ず説明した。
「そのあたりはな、もともとは、さるロンバルディア貴族の所領だったらしい。もう十年近く前のことになるが、その貴族が病没する直前に、生前親交の深かったアッラマーニに遺贈したというわけだ」
「ほう」
それまで相槌も打たず話を聞き流していたレオナルドが、めずらしく表情を動かした。
「パオロ・アッラマーニか……建築家だな」
「知っているのか?」
「会ったことはないが、噂は聞いたことがある」
「どんな噂だ?」
「変わったものを創るのだそうだ。たしか、城の設計を得意にしていると聞いていたが」
「……そのようだな」
ルドヴィコはうなずいた。
「その館というのも、もとは城砦として建てられたものだったらしい。ローディの和が結ばれる前の話だから三十年以上も昔のことになるが、そのとき、件《くだん》の貴族の依頼で設計にあたったのが、アッラマーニだったのだ」
「なるほど……自分の設計した館を譲り受けて住んでいるというわけか」
レオナルドは、特に驚きもせずにそう言った。
早くから自由市民という概念の発達したイタリアの各都市では、貴族と富裕者の区別が曖昧である。土地所有が軽視されていたともいえる。貴族ならぬ建築家が所領を譲り受けるという行為も、それほどめずらしいことではないのである。
「館の価値は、たいしたものではない」
脚を組み替えながら、ルドヴィコは続けた。
「個人の邸宅としてみれば大きな部類にはいるのだろうが、立地条件がよくないのだ。そばに小さな湖がいくつかあるだけで、村落からも離れている」
「そうか……昔は城砦だったと言っていたな」
レオナルドのつぶやきに、ルドヴィコは苦々しい表情で同意した。
平野であれば、所領を守るためには巨大な城壁や堀で市街を囲む必要があるが、山間部なら、交通の要所に砦を置くだけで済む。その場合、砦の位置が不便な場所になるのは、仕方のないことだろう。
「問題はそこなのだ」
「……ふむ?」
「その館から北西に進んで国境を越えると、ミケーレ・パンドルフォの所領がある」
「パンドルフォ――何者だ?」
「傭兵隊長だよ」
「ほう……」
レオナルドは、少し意外そうな顔をした。
この時代、有力な傭兵隊長の多くは貴族の出身である。彼らは軍人であると同時に、自らの領土を持つ小国の支配者でもある。もっとも、長いこと敵対関係にあったヴェネツィアとミラノが和平を結んで以来、イタリア国内では大きな戦争は起きていない。当然、稼ぎ場を失った傭兵隊長に、かつての勢いはなかった。
それを知るレオナルドが、揶揄《やゆ》するような口調で言う。
「なんにせよ、ミラノのスフォルツァ家が恐れるほどの相手とは思えないが」
「べつに恐れているわけではない」
ルドヴィコは顔をしかめて言い返した。
「ただ、パンドルフォの雇い主が――少々厄介な相手なのだ。それだけの話だ」
「ははあ」
レオナルドは、どこか愉快そうな表情で言った。
「――なるほど。つまり、名もない傭兵隊長ごときは恐れるに足りないが、その雇い主は怖い。きみはそう言いたいのだな、イル・モーロ?」
「む……」
しばらく逡巡した後、うむ――と、ルドヴィコは口惜しげにつぶやいた。それを見たレオナルドが、ますます意地の悪い笑みを浮かべた。
「――ヴェネツィアか」
「そうだ」
ルドヴィコは、苦々しい思いでうなずいた。
アドリア海の貿易を独占する商業都市ヴェネツィアは、内陸の工業国であるミラノにとって宿敵ともいうべき存在である。経済の分野に限った話ではない。スフォルツァ家がミラノの当主となる以前から、ロンバルディア地方の領有権をめぐって、両国は激しい抗争を繰り返してきたのである。
その両国が、ローディの和と呼ばれる平和条約を結んだのは、ほんの三十年ほど前のことだ。
当時じわじわと勢力を増していたオスマントルコや、フランスなどの強国に対抗するためには、長年の宿敵同士といえども、手を組むしかなかったのである。
やがて、条約にはフィレンツェや法王領を含む多くの都市が加わることになり、その結果、戦乱に明け暮れていたイタリアには、一応の平和が訪れることになった。
きわめて危うい均衡の上に成立した、表向きの平和である。
条約に加わった各国は、こうしている今も水面下で策を弄し、互いに牽制を続けている。
事実、半年ほど前にも、フェラーラの権益をめぐってミラノとヴェネツィアの軍隊が小競り合いを演じている。ルドヴィコとて、意味もなくヴェネツィアの動向を気にしているわけではないのである。
しかしレオナルドは、あからさまに気の抜けた仕草で頬杖をついた。
「それで、なにが問題なのだ、イル・モーロ? 忘れているのなら言っておくが、ぼくは政治家ではない。ただの芸術家だ。外交の話に興味はないぞ。きみがヴェネツィアに戦争を仕掛けるというのなら、新しい兵器の一つや二つ、組み立ててやってもいいが――」
「あまり物騒なことを口にするのは慎め、レオナルド」
ルドヴィコは唇をゆがめて、レオナルドを睨んだ。
「最初に説明しただろう。問題なのは、パオロ・アッラマーニの屋敷のことだけだ」
「一向に話が見えないから訊いているのだ」
芸術家は、不満げにそう言った。
「きみの話は、いちいち回りくどいのだよ。ヴェネツィア人に雇われた傭兵隊長が、建築家の屋敷を襲ったとでも言いたいのか?」
「違う」
きっぱりと告げたルドヴィコの言葉に、軽口を叩いていたレオナルドが眉をひそめた。
「――パンドルフォは、アッラマーニの屋敷に攻め入ることはできないのだ」
「できない?」
「そうだ」
「なぜ?」
レオナルドの問いかけに、ルドヴィコは一瞬沈黙した。
「……アッラマーニの屋敷には、聖遺物があるからだ」
「聖遺物だと?」
頬杖《ほおづえ》を崩して、レオナルドが顔をあげる。
軽く見開いたその瞳に、愉しげな光が浮かんでいた。さきほどまでの無気力な態度が、嘘のような表情である。
「――本物なのか?」
と、レオナルドは訊いた。つまり、偽物だろう、と言っているのである。
ルドヴィコは無言で首を振った。
「わからぬ」
「どういうことだ?」
「だから、わからないのだ。アッラマーニ自身、それが真に聖遺物であるかどうか定かでないと言っている。もとの所有者であった貴族も、同じことを言っていたらしい」
「なるほど……それは面白い」
レオナルドに落胆した様子はなく、むしろ嬉しそうにそう言った。ルドヴィコは、もう一度首を振った。信仰心の薄いルドヴィコといえども、安易に口にするのがはばかられる話題だったからだ。
聖遺物とは、その名のとおり、聖人の遺した物品のことである。
具体的には、キリストや聖母、使徒たちの遺体や、彼らが生前身につけていたものを指す。
キリストと聖母に関しては、魂とともに肉体も昇天してしまったため、彼らの遺体は現存しない。しかし、キリストの死に際して間近にあった十字架や、荊《いばら》の冠、さらには傷口からしたたった血液や、遺体をくるんだ布など、多くの遺物が各地の教会に納められている。そもそも教会堂や礼拝堂と呼ばれるものは、本来、聖遺物を納めるために建設されたものなのだ。
当然のことながら、有名な聖遺物を所有する教会は信仰を集め、多数の巡礼者が訪れる。それは、教会堂の名が高まり、収入が増えるということでもある。
しかしながら、聖遺物の数には自ずと限りがある。
ましてや価値の高い聖遺物ともなれば、そう易々と手にはいる性質のものではない。やがてヨーロッパ各地にキリスト教が普及し、新たに多くの教会堂が造られるようになると、それは大きな問題を引き起こした。
聖遺物の略奪と、偽造である。
実際、強奪された聖遺物の例は数多く伝えられているし、財政が行き詰まり、自ら聖遺物を手放した教会も少なくない。教会の建築が盛んだった十一世紀ごろには、ローマの地下遺跡から掘り出した由来不明の遺骨を高値で売りさばく、聖遺物専門の業者までいたという。
「――しかし、巧いやり方ではあるな」
なぜか感心したような口調で、レオナルドは言った。
「アッラマーニの屋敷にある聖遺物が仮に偽物であったとしても、最初から真贋《しんがん》のほどがわからないと明言していれば、虚偽を騙《かた》ったことにはならないわけだ」
「それは――そのとおりだが」
ルドヴィコは不満げに顎を撫でた。
「どうやら貴様は、その聖遺物が偽物だと決めつけているようだな、レオナルド?」
「いや、そうとは限らないさ。だが、それがほんとうに聖遺物ならば、聖職者でもない一介の建築家が所有しているのは問題だろう?」
「だろうな」
「少なくとも教会の連中は黙っていないさ。無理やり寄贈させられる可能性だってないわけではない。それを恐れているということは――まあ、あり得ることだろうよ」
「つまりアッラマーニは、それが本物の聖遺物だと知っていながら黙っているということか?」
「そういうこともあり得るという話だ。あるいは、本物の聖遺物だと信じているから、無理にそれを証明しようとしないのかもしれない」
「なるほど」
それは十分に起こり得ることだと、ルドヴィコは思った。重々しくうなずく宰相の姿を見て、芸術家が苦笑した。
「もちろん、アッラマーニが聖遺物だと信じているだけで、実際には偽物だったということも考えられる。そうなると、その聖遺物が本物かどうか見分けるのは不可能に近いだろう。その聖遺物が、伝説にあるように奇跡を起こすとでもいうのなら話は別だが――」
「やはり――そうか」
ルドヴィコは、低い声でつぶやいた。レオナルドは、怪訝そうに目を細めた。
偽物の存在が広く知られていながら、人々の、聖遺物に対する信仰が衰えなかったことには理由がある。聖遺物の真偽を判定し、その価値を決めるのは、それが奇跡を起こすかどうかということなのだ。多くの場合、奇跡とは怪我や病気の治癒であり、ときには死者をも復活させることがあるという。そのほかにも聖遺物に関する奇跡は数多く目撃され、語り継がれてきたのである。
「だとすれば、その香炉が本物の聖遺物だということは認めないわけにはいくまいな」
ルドヴィコのつぶやきを聞きつけて、レオナルドはかすかに眉を上げた。
「――香炉? アッラマーニの屋敷にある聖遺物とは香炉なのか?」
「そうだ。聖マルコ由来のものだということだが――そのあたりの真偽は俺にはわからぬよ。ただ、その香炉が奇跡を起こすというのは、どうやら真実らしい」
「どのような奇跡なのだ?」
「聖母子の姿を生み出すのだそうだ」
「……生み出す?」
「そうだ。香炉の煙が、聖母子の姿となって空中に現れるのだと聞いている。聖母の託宣《たくせん》を聞いた者もいるらしい。もちろん、公にされているわけではないが」
「ほう……」
レオナルドの顔から表情が消えた。
それは、真剣になったときの彼の癖である。無理もない反応だと、ルドヴィコは思った。
香炉の煙がなんの仕掛けもなく虚空《こくう》に聖母子の像を結ぶというのなら、それはまぎれもない奇跡である。事実、似たような奇跡の話をルドヴィコはいくつも知っている。そもそも、とらえどころのない煙を操って意味のある像に見せかけることなど、どんな仕掛けであっても可能だとは思えない。
「実際に見た者がいるのか?」
「そうだ。もちろん聖母子の姿ともなれば、そう頻繁に呼び出すわけにもいかないのだろうが、記録に残っているだけでも過去に十数回――それなりに信仰の深い人間が立ち会っていれば、かなりの確率で目にすることができるらしい」
「……なにかの見間違いということではないのか?」
「俺も最初は疑ったがな――聖母子の姿を目にした者は、一人や二人ではないのだ。目撃者の中には、名のある貴族や聖職者も含まれている。そんな大勢の人間が同じものを見たと言っているのだから、やはり奇跡は起きたのだろうよ」
「聖母子像の姿を映し出す香炉か……なるほど、興味深い」
つぶやいて、レオナルドは無表情にルドヴィコを見た。
「それで、ぼくにどうしろと言うのだ。同じものを作れとでも言いに来たのか?」
「……できるのか?」
「そんなわけがないだろう。いくらなんでも、奇跡を起こすのはぼくの仕事の領分ではない」
「あたりまえだ」
不謹慎だぞ――と、ルドヴィコは顔をしかめた。レオナルドは薄く笑った。
「――しかし、奇跡が起きたのだと人に思いこませるだけなら、やりようはあるだろうさ」
「香炉の煙を聖母子像の姿に変えることができると言うのか?」
「そうではない。実際に奇跡を起こすことと、奇跡が起きたように見せかけることはべつだと言っているのだ」
「香炉に仕掛けがあると疑っているのだな?」
「持ち主でさえ、本物かどうかわからないと言っているのだろう? ならば疑ってかかるのが当然ではないか。ぼくは香炉の実物を見たわけではないのだからね」
「そうだな」
と、ルドヴィコは芸術家の言い分を認めた。
「だがな、レオナルド。アッラマーニの香炉が起こした奇跡は、それだけではないのだ」
「ほう……」
芸術家は、すぐに理解したようだった。
「そうか、例の傭兵隊長とやらがアッラマーニの屋敷に手を出せないのは、その香炉を恐れているからだと言っていたな」
「そうだ」
「だが、それも奇妙な話ではないか。それだけ頻繁に奇跡を起こす聖遺物なら、屋敷を襲ってでも手に入れたいと考えるのが普通だろう?」
「そのとおりだよ。だがな、パンドルフォ家は、過去にその屋敷に攻めこんだことがあるのだ。その当時はまだ聖遺物の存在も知られていなかったから、純粋に領地――というよりも城砦の財産を狙っての行動だったらしいが――」
「アッラマーニに屋敷が譲り渡される前の話だな?」
「ああ。ミケーレの父親の時代だ。ヴィスコンティがミラノを統治していた頃だというから、三十年以上も前のことになるな。だから正確な記録が残っているわけではない。しかし、その付近の住民の間では誰もが知っている話だ」
「それで――どうなったのだ?」
「失敗した」
「傭兵隊長ともあろう者が、たかだか田舎貴族の山荘を襲うのに失敗したのか?」
レオナルドが無感動な声で言った。ルドヴィコは、なんともいえぬ表情を浮かべた。
「それがな……どうにもよくわからぬのだよ」
「どういうことだ?」
「パンドルフォは、五百人近い兵士を駆り出して、一時は完全に城砦を制圧したらしい」
「ふむ……?」
「当然だろうな。当時城砦にいた兵士は、貴族の護衛と使用人をいれても、せいぜい二十人というところだったのだからな」
「籠城すらできなかったということか」
「もともと本格的な戦争に耐えられるような城ではないのだよ」
ルドヴィコは息を継いだ。
「だが、パンドルフォ軍は結局、その城砦を攻め落とすことはできなかった。それどころか、生きて戻ることさえできなかったのだ」
「全滅――したということか」
レオナルドはますます無表情になる。うなずいて、ルドヴィコは続けた。
「兵の数には何十倍もの開きがある。ロンバルディア貴族のもとに、援軍がきたという様子もない。しかし、傭兵隊は一夜にして全滅した。ミケーレの父親も、そこで命を落としたらしい。パンドルフォ家が落ちぶれたのも、もとをただせばそれがきっかけだ」
「それも、香炉が引き起こした奇跡だと言っているのか?」
「ほかに考えようがないのだ。生き延びたのは城砦にいた人間だけで、傭兵たちは何者かの手によって全員が死んだ。しかも、その死体の多くは、城砦の中だけではなく、山中の至るところに転がっていたらしい。毒殺などではないぞ。どれも人間の手によるとはとても思えぬ、壮絶な姿だったそうだ」
「……山中の至るところに……か」
「どうだ? その噂が真実なら、聖ジャンヌの働きにも劣らぬ奇跡ではないか」
かすかな畏怖をこめて、ルドヴィコは言った。
ルドヴィコは信心深い人間ではない。それどころか、人々が噂する奇跡の半分以上は、偽物だろうと思っている。ルドヴィコとて、必要とあらば、奇跡の一つや二つ捏造《ねつぞう》するつもりでいる。ミラノの繁栄のためならば、教会や神の権威を利用することを厭《いと》うつもりはない。
だが、その一方で、神の奇跡が存在することもまた事実なのだ。
屋敷にある香炉が真に聖遺物であるのなら、所有者であるロンバルディア貴族が、救いを求めて祈りを捧げたことは想像に難くない。ならば、聖母子がその祈りを聞き届けたということも、当然あり得るとルドヴィコは思う。
「そうだな……少なくとも、傭兵隊長の側に、アッラマーニの屋敷を恐れるだけの理由があるというのはたしかなようだ」
レオナルドは、あくまで落ち着いた口調である。
「結構なことではないか。その香炉がある限り、パンドルフォという男は湖水地方を越えて、ミラノに攻め入ることができないというわけだ」
「あ、ああ」
「あとは、せいぜい隠居した建築家の機嫌をとって、ヴェネツィアに懐柔されないようにするのだな。たいして面倒なことではない。きみが焦る必要などないだろう?」
投げやりな口調で、芸術家が言った。
そうではない――と、ルドヴィコは否定した。
「そう。たしかにこれまでは貴様の言うとおりだったのだ、レオナルド。ところが、少々厄介なことが起きてしまったのだよ」
「ふん……」
レオナルドが、ようやく表情を崩した。
「法王庁あたりが、聖遺物を寄越せとでも言ってきたか?」
その言葉に、ルドヴィコは少し驚いた。
「いや、そういうことではないのだが――まるで無関係というわけでもない」
「はっきりしないな。なんだ?」
「貴様の予想どおり、アッラマーニの香炉の噂が法王庁の耳にも届いたらしいのだ。そして、香炉の鑑定をするために、近隣の教区から大司教を派遣するということになった」
「こんな時期に、ご苦労なことだな」
レオナルドが短く鼻を鳴らした。ルドヴィコは、小さく首を振る。
「こんな時期だから、だろう。復活祭が近いからな。新しい聖遺物を見つけて、手柄にしたいとでも思ったのではないか」
「まあいいさ。それでどうなったのだ?」
「大司教が出向く前に、調査団を送りこむことになったそうだ。ミラノとマントヴァ、それにヴェネツィアの教会から、それぞれ聖職者を派遣したらしい」
「ほう……どうやら法王庁も、香炉の奇跡を高く評価しているようだな」
レオナルドは愉しそうである。ルドヴィコは黙ってうなずいた。
ミラノもマントヴァもヴェネツィアも、湖水地方に近い都市である。
もしもアッラマーニの所有する香炉が真に聖遺物であった場合、それが、どこの地区に帰属するものなのか――教会教区同士の牽制が、すでに始まっているのだろう。
「それできみは困っているのか、イル・モーロ? 教会が、アッラマーニの香炉を譲り受けたとしたら、例の傭兵隊長がミラノにとって脅威になるかもしれないからということか?」
「いや……それはそれで面倒なことだが、俺は、それでもかまわないと思っているのだ。奇跡などに頼るより、兵士の数をそろえるほうが確実だからな。それに、香炉が本物の聖遺物だと認定されたなら、ミラノの大司教がそれを手に入れられるよう働きかけるという手もないではない」
そこまで告げたところで、ルドヴィコは言葉を切った。苦々しい感情が、喉までこみあげてきている。そんなルドヴィコを見て、レオナルドは怪訝そうな顔をした。
ため息をついて、ルドヴィコは言った。
「――調査団がアッラマーニの屋敷を訪れたのは三日前のことだ。今も全員が残っている」
「ずいぶん時間をかけるのだな」
レオナルドはからかうように言った。
「奇跡が起きるまで待つつもりか?」
「最初はそれもあったのだろうが、今は違う――事情が変わったのだ」
「それが、きみの言っていた厄介事というやつだな」
「そうだ。だから貴様を呼びにきたのだ、レオナルド」
「……待て、イル・モーロ」
それまで飄然《ひょうぜん》としていた芸術家の顔に、はっきりと困惑の色が浮かんだ。
「まさか、ぼくをアッラマーニの屋敷に連れていくつもりではないだろうな?」
「今更なにを言っている」
ルドヴィコは強い口調で告げた。
「俺が無駄話をしにきたとでも思っていたのか。用があってきたのだと言っておいただろう。貴様も、さきほどまでは興味深いなどと抜かしていたではないか」
「近くにあるものなら見てみたいとは思うがね」
憮然《ぶぜん》とした態度で、レオナルドは言った。
「香炉ごときのために湖水地方まで出かけるつもりはないよ。だいたい、聖遺物の調査なら、教会の調査団がやるのだろう?」
「香炉だけではない。貴様には、もう一つ調べてもらいたいことがあるのだ」
「面倒だな……アッラマーニに関わりのあることならば、直接本人に訊けばよいではないか」
「それができぬから、貴様に頼んでおるのだ」
「なんだ、それは?」
レオナルドが訝《いぶか》しげに訊き返す。目を閉じて、ルドヴィコはゆっくりと言った。
「――アッラマーニは、死んだ」
「なんだと?」
さすがにレオナルドも眉を寄せていた。
「殺されたのだ。昨夜のことだ」
「まさか――調査団の中に犯人がいるのか?」
「わからぬ」
豊かな黒髪をかきあげながら、ルドヴィコは唇を噛んだ。
「屋敷にいたのは、調査団の聖職者ばかりではない。屋敷の使用人はもちろんだが、アッラマーニの友人や、調査団の噂を聞きつけて、奇跡を一目見ようと同行した貴族もいたのだ」
「つまり犯人の身分も目的も、わからないということだな」
レオナルドは、心底うんざりしたように言う。
「それで調査団の連中も、屋敷を離れられないというわけか。厄介事には違いないが――所詮よその領内の問題だろう。放っておいてはどうなのだ?」
「そうもいかぬ理由があるのだよ。言っただろう、聖職者以外の者も屋敷を訪れているのだと」
だからなんだ――と、レオナルドが大儀そうに訊く。
ルドヴィコも、同じように疲れた声で答えた。
「アッラマーニの屋敷には、チェチリアがいる」
刹那、声にならぬ不満の言葉を吐いて――レオナルドは今度こそ黙りこんだ。
目に見えて、その表情が険しくなる。ものすごく不服そうな様子である。
ルドヴィコは、なぜか肩の荷をおろしたような不思議な錯覚を覚えて、ため息をついた。
「ミラノ領内ならばともかく、他国の貴族や神父たちを相手に、あまり強引なこともできぬ。この場合、なによりも恐ろしいのは人の噂だからな。だから官憲を派遣することも叶わぬ。なるべく事を荒立てずに済ませたいのだ。それは調査団の連中も同じ気持ちのはずだ」
「――だからといって、ぼくに犯人を捜せと言うのは筋違いだろう?」
「チェチリアの推薦なのだ」
ルドヴィコは短く言った。レオナルドは、さらに苦い顔をする。
「貴様はミラノの人間ではないし、ヴェネツィアとも無関係だ。それなりに名も知れているし、弁も立つ。アッラマーニ同様、建築にも詳しいのだろう。とにかく貴様を連れてきてくれというのが、チェチリアからの伝言なのだ。それに、なにも貴様に犯人を捜せと言っているわけではない」
「――ほう?」
「屋敷にいた人間には、アッラマーニを殺すことが不可能だと証明できればいいのだよ。それだけでいい」
「どういうことだ?」
「アッラマーニが死んだときに、天使の姿を見た者がいるのだ」
「――天使?」
「そう。建築家が殺されたのは、神の意思だ。なによりも奴の死に様が、そのことを物語っている。アッラマーニは屋敷の回廊の外壁に、張りつけられた姿で死んでいた――奴は、空中で殺されたのだ」
ルドヴィコは、やや興奮した口調でそう言った。
「第三の奇跡は、殺人――か」
レオナルドは、しばらく無表情に視線を彷徨《さまよ》わせていたが、ふいに作業台に手を伸ばして、ペンをとった。彼は左利きであり、右から左へ――まるで鏡に映したような奇妙な文字を書く。思いついたことを、とりとめもなく書き留めているだけなのだろうが、鏡に映さない限り誰も読むことができないのである。しかも、こうなってしまうと、誰がなにを言おうと彼の耳には届かない。
ただ、彼が走り描きした図解から、アッラマーニの事件に関する事柄を書き留めているのだということは想像できた。とりあえず、事件に興味を惹かれたのはたしかなようだ。ルドヴィコの当初の目的は果たされたことになる。
明朝迎えの者を寄越す、と言い残して、ルドヴィコは工房から立ち去ろうとした。
奇矯な芸術家は最後に顔をあげ、不機嫌そうに、報酬は弾んでもらうぞ――と答えた。
風が、森と湖の香りを運んでくる。
窓越しの穏やかな夕陽を浴びながら、チェチリア・ガッレラーニは本を読んでいた。百篇ほどの短い物語を集めた、トスカーナ方言の説話集である。面白いことは面白いのだが、何度も読み返した作品だけに退屈でもある。城館から見える景色も同様で、緑に覆われた起伏ある地形は相変わらず美しかったが、最初に目にしたとき感じた新鮮さはもう残されていなかった。
赤く色褪せた太陽が、地平線に連なる山塊に沈もうとしている。
都会育ちのチェチリアには馴染みのない、深閑とした夕暮れである。
この城館で夜を迎えるのは四日目だが、昨日までの嵐の中の夕景とは、まるで違ったものに感じられる。
たとえるなら、城館を取り囲む世界そのものが変貌してしまったような――
そんな錯覚を覚えてしまうのは、昨夜目にした信じがたい光景が、いまだ脳裏に焼きついているせいかもしれなかった。
降り注ぐ雨と激しい風の中。
回廊の外壁に浮かぶ男の死体。
そして、闇の中に溶けこむように消えた美しい影――
本を伏せ、チェチリアは深く息をつく。
その気配を感じたのか、膝の上で眠っていた| 白 貂 《エルメリーノ》が、むくりと頭を起こした。
かまってもらえるのだと思ったのかもしれない。黒く濡れた瞳が急かすように見上げてくる。
その背中を撫でながら、チェチリアは苦笑する。どうやらこの小さな獣にも、飼い主の退屈さが伝染してしまったらしい。
そう――チェチリアは退屈だったのだ。
世話になっている屋敷の主人が殺されたばかりだというのに、そんなふうに感じてしまうのは褒められたことではないのだろう。だが、ようやく嵐が去ったというのに城館からの外出は禁止され、なるべく部屋から出るなとまで言われているのだ。退屈を覚えるのも、仕方のないことだとチェチリアは思う。
このような理不尽な扱いを取り決めたのは、各都市から派遣されてきた司祭たちである。
もちろん、彼らに悪意があるわけではない。館にいる人々の安全を守るための処遇である。
けれどチェチリアは、彼らの考えに賛成できない。
彼らとて警吏ではないのだから無理もないが、司祭たちの判断には大きな欠落があるような気がするのだ。
だからといって、チェチリアになにができるというわけでもない。
邪険に扱われているわけではないにせよ、この城館でのチェチリアは所詮ただの客人である。チェチリアは貴族の出身ではないし、ましてや女である以上、教会の権威とは限りなく無縁だ。司祭たちの取り決めに意見できる立場ではない。結局こうして部屋でおとなしくしているほかないのである。
とはいえ、読み飽きた説話集を、これ以上|捲《めく》る気にはなれなかった。
生|欠伸《あくび》で流れた涙を拭い、白貂を寝台に戻してチェチリアは立ちあがる。本を借りに行こうと思ったのだ。屋敷の主人――パオロ・アッラマーニは高名な建築家だったという。ならば、それなりの数の蔵書を持っているだろう。屋敷の中を探せば、もう少し面白い本が手にはいるのではないか。そんなことを思いついたのである。
厳《いか》めしい樫の扉を開けて、薄暗い廊下へと歩み出る。与えられた客間のある小塔の廊下には、採光用の小さな窓が一つあるきりである。石壁に足音が大きく反響する。湿気を吸った空気が冷たかった。
「チェチリア様」
螺旋階段を降りきったところで、右手の回廊から声がかけられた。
見ると、用事を言いつけていた侍女の一人が、ちょうど戻ってきたところであった。
しっかりと襟の詰まった筒衣を着た、背の高い侍女である。
背を伸ばし、厳しい表情で歩いてくる。
フェデリカという名のこの侍女は、ミラノの宮中での評判はあまり芳《かんば》しくない。
同僚の侍女や下働きの者たちからは、ほとんど恐れられていると言ってもいい。人前では滅多に笑うことがない。そのせいで酷く冷たい印象を与えてしまうのだ。
二十歳になったばかりだと聞いているが、少なくとも五歳は老けて見える。口|喧《やかま》しく、その口調にも愛想がないとの噂であった。
だが、チェチリアは彼女のことが嫌いではない。
つまらない世辞や社交辞令を口にしない潔さは、むしろ好ましいと思っている。
祖母の代から宮廷に勤めているというだけあって、宮廷内の事情にも通じている。宮廷では新参者のチェチリアは、これまでに何度も彼女に助けられていた。
そのフェデリカは、勝手に出歩いていたチェチリアを咎めもせず、
「司祭様に見つかると、また煩《うるさ》く言われますわよ」
と、抑揚の感じられない声で言った。
チェチリアは微笑んで、本を借りに行くだけです――と答えた。フェデリカは不機嫌そうないつもの顔で、黙ってチェチリアのあとに続いた。
「エンニオたちは、無事にミラノに戻れたのでしょうか?」
色彩の乏しい回廊を歩きながら、チェチリアは独り言のようにつぶやいた。
エンニオは、フェデリカたちとともにチェチリアが連れてきた従僕の一人である。パオロ・アッラマーニが変死したことをミラノの宮廷に知らせてもらうために、急使として帰国させたのだ。外部に情報を漏らすことに不満げだった司祭たちも、エンニオが教会宛ての信書を預かるという条件で渋々合意した。
この城館からミラノまでは、馬車でゆっくりと一日がかりの距離である。馬だけならば半日だろう。ただ、チェチリアの従僕たちにとって、ここが不慣れな土地であるのはたしかである。昨夜までの雨で、道もぬかるんでいるはずだ。チェチリアは、それを心配している。
しかし、フェデリカはあっさりと告げた。
「ルドヴィコ様は、明日、こちらにいらっしゃるそうです」
「え?」
振り返るチェチリアに、フェデリカは淡々と言葉を続けた。
「先ほど、宰相閣下の使いの者が到着しました。ちょうど今、そのことをお知らせしようと思っていたところです」
「ずいぶん早く着いたのですね」
「彼らも元は兵士ですから。馬の扱いには慣れておりましょう」
「そう――そうでしたね」
長身の侍女の瞳を見上げて、チェチリアは微笑んだ。
フェデリカの口調は素っ気なかったが、彼女の言葉には、チェチリアを気遣う意思がそれなりに感じられた。ひどく不器用な人なのだ。
それに、彼女の言うとおり、チェチリアの従僕たちはもともと武人であった。
過去にはスフォルツァ家の護衛も務めていた、宰相ルドヴィコ・イル・モーロの忠実な部下たちである。チェチリアがミラノを離れると知って、わざわざルドヴィコが手配したものだ。
たしかに、アッラマーニの屋敷が位置する辺境の空白地帯には、ミラノやマントヴァの勢力も及んでいない。野盗の襲撃を警戒するのは、むしろ当然のことだろう。だから、宰相が心配する気持ちもわからないではないのだ。
だが結局のところ、彼は過保護なのだろうとチェチリアは思っている。そして父親を早くに亡くしたチェチリアにとって、ミラノの宰相のそのような庇護が有り難いものであるのも事実だった。
城館の中庭に、木樽が転がる音が響く。
「――彼らは、なにをしているのですか?」
長い回廊の窓から屋敷の中庭をのぞいて、チェチリアが訊いた。
アッラマーニの城館は、四隅に配した小塔を、回廊を兼ねた高い城壁で結んだだけの単純な形をしている。
住居として利用されているのは塔の部分だけで、城壁の内側は吹き抜けの広い中庭である。
チェチリアの歩幅で東西に五十歩ほど。南北には百歩近い奥行きがあるのだから、野外劇場なみとまでは言わないまでも、個人の邸宅としては相当に大きな中庭だろう。
しかし一面に石畳を敷き詰めてあるせいか、ひどく殺風景で荒涼とした印象を受けてしまう。
その中庭の南側の城壁に、七、八人ほどの司祭や侍者たちが集まっていた。葡萄酒の樽や藁束を、階段状に高く積み上げているのである。
それだけならば牧歌的でほほえましい作業の光景だが、参加者たちの表情は一様に険しく、全体としては粛然とした雰囲気が漂っている。
「アッラマーニ様のご遺体を降ろそうとしているのです」
足を止めたチェチリアを振り返って、フェデリカが言った。
「死臭を嗅ぎつけて、鳥たちが集まってきておりましたから」
チェチリアはうなずいて、中庭に面した城壁を見た。
南側の城壁のほぼ中央あたりに、両腕を窓枠にかけた形で半裸の男がぶら下がっていた。
屋敷の主人――建築家パオロ・アッラマーニの死体である。
両腕を大きく広げたその姿勢は、たしかに磔刑に遭ったキリストの姿と同じである。しかし少なくとも、アッラマーニという男はキリストとはまるで似ていない。
大勢の職人を指揮する建築家だけあって、五十代の後半にさしかかった今でも、アッラマーニの肉体は筋肉質で逞《たくま》しかった。頭髪はほとんどなく、硬直した顔は岩のように厳めしい。
死体を運び出そうとする司祭たちに気づいて、上空を舞う烏《からす》の群れが騒いでいる。
その光景はキリストの受難というよりも、カウカソス山に縛りつけられたプロメテウス神の物語を想起させた。ギリシャ古典に描かれた彼《か》の神は、神々の叡智を盗み出して人類に与えたことで主神の怒りを買い、生きながら大鷲に食われ続けるという罰を受けたのだった。
司祭たちは、ようやく死体に手が届く高さまで樽を積み終えたところである。
「――あまり巧いやり方だとは思えません」
チェチリアが漏らした言葉に、侍女は冷たくうなずいた。
「そうですわね。三階の窓から縄で引き上げるほうが早かったでしょうに」
「いえ、そうではなくて」
窓枠に手をかけて、チェチリアは苦笑した。
「もしも、アッラマーニ殿が亡くなったのが本当に天使の仕業《しわざ》なら、彼の死は神の意思ということになりませんか?」
「ええ――まあ、そうなりますわね」
「だったら祝福こそすれ、悲しみ恐れる必要はありません」
「――はあ」
「ですが司祭様たちは、危険があるといけないのでなるべく部屋から出るなと仰っています」
「それは、あの方たちも、天使が人を殺したなどと本気で信じてるわけではないのでしょう」
あっさりと侍女は答えた。愛想のないフェデリカだが、存外に頭は切れるのだ。
嬉しくなったチェチリアは、勢いこんで話を続けた。
「そう――でもアッラマーニ殿が人の手によって殺されたのならば、犯人は今もお屋敷の中に残っているということになるでしょう」
「それは、まあ、昨日はあの天気でしたからね」
フェデリカは、相変わらずの陰気な口調で答えた。
「夜の山道なら尚更視界も利かないでしょうし。あんな日にわざわざ屋敷に忍びこむ物好きがいるとも思えませんけれど――でも、チェチリア様、肝心なことをお忘れではありませんか?」
「なに?」
「もしアッラマーニ様を殺した者がいるのなら、その下手人は、どうしてあのようなところに死体を引っ張り上げなければならなかったのです?」
「そう……それが問題なのです」
チェチリアは真顔でうなずいた。
アッラマーニの死体は、回廊の二階の窓枠にぶら下がる形で放置されていた。
地面からの高さなら、大人の男の身長の三倍以上。十四、五ブラッチャはあるだろう。地上から足場を積み上げるだけで、半日がかりの大仕事である。
城館の外装は全体的に簡素なものだが、それでも窓の上には、庇《ひさし》代わりに大きく張り出した窓飾りがついているのだ。
つまり、二階の窓から死体を持ち上げることはできないのである。
一方、三階の回廊の窓からでは距離がありすぎて、死体を投げ落として窓枠に載せることは、とてもできそうにない。フェデリカの言うように縄をかければ降ろすことはできるだろうが、見る限り、アッラマーニの身体になにかを結びつけたような痕は残されていなかった。
それに、大柄なアッラマーニの死体を縄で吊して降ろすのは、数人がかりでも相当な重労働である。いくら嵐の夜とはいえ、誰にも気づかれずそんな大変な作業ができるとは思えない。
――そんなことをする理由があるとも思えなかった。
「でも、現実に死体は回廊の壁に磔られていたのです」
中庭を見おろしたまま、チェチリアは言った。
「つまり犯人は、それを可能にする手段を手に入れているということです」
「あの回廊に、なにか仕掛けがあると仰《おっしゃ》りたいのですか?」
フェデリカが冷静な表情で訊いてきた。
言おうとしたことを先に口にされて、チェチリアは少し落胆した。よい考えだと思っていたのだが、案外、誰でも思いつくことだったのかもしれない。
「ええ。ですから、危険を避けるために部屋に閉じこもるというやり方は、あまりよい方法ではないと思うのです。それよりも皆で屋敷の中を調べて、抜け道や特殊な道具のようなものを探したほうがよいのではないでしょうか」
「それより、このような物騒な屋敷からは、さっさと立ち去ったほうがよいと思いますがね」
「だめですよ、フェデリカ。まだ、肝心の聖遺物の奇跡を見せてもらっていませんもの」
真面目な口調で、チェチリアは言った。
フェデリカはなにも答えない。あきれているのかもしれなかった。
アッラマーニの所有する香炉をチェチリアたちが最初に見せてもらったのは、屋敷を訪れた翌日だった。一昨日のことである。
城館の北東の塔に小さな礼拝室が設けられており、質素な祭壇には、聖遺物との噂もある香炉が無造作に置かれていた。
アッラマーニは、特に勿体ぶることもなく香炉を触らせてくれたのだが、それはただの古びた香炉でしかなかった。もちろん香の煙が聖母子像の姿をとることもなかった。
それでも司祭たちは、熱っぽく香炉の年代や様式について議論を交わしていたのだが、チェチリアはすっかり失望していた。そもそも、チェチリアがミラノ公の紹介状まで用意して面識のない建築家の屋敷を訪れたのは、奇跡の真贋を自分の目で確かめるためなのである。しかし奇跡そのものが起こらないのでは、それが本物なのかどうか判定のしようがない。
そんなわけで、チェチリアはなかば意地になって、滞在を今日まで延ばしていたのである。
「なんにせよ、閣下が首尾よく師匠《マエストロ》を連れてきてくれればいいのですけど」
期待をこめてつぶやいたチェチリアを、フェデリカが訝しげな顔で見つめた。
「師匠《マエストロ》とは、ダ・ヴィンチ様のことですか?」
「ええ。フェデリカも知っているのでしょう?」
「はい。ですが、あの方はチェチリア様の竪琴の教師ではないのですか? そのような方に来ていただいても、なにがどうなるとも思えません」
冷ややかな侍女の疑問に、チェチリアは静かに微笑んだだけだった。
フェデリカの言葉の半分は真実である。
レオナルド・ダ・ヴィンチは、公式にはメディチ家が派遣した音楽使節であり、その演奏を聴いて感激したチェチリアが、彼を竪琴の教師として雇った。表向きはそのようなことになっている。チェチリアが彼を師と呼ぶのもそのためだ。
しかし、レオナルドは音楽家ではない。単なる画家や建築家でもない。彼の才能を、そんな簡単な言葉で表すことは不可能だということを、チェチリアは早くに見抜いていた。
あの奇矯な芸術家が描き出すものは、ときとして理想都市の設計図であり、掃射機関砲《スピンガルダ》や蒸気砲《アルキトロニト》のような恐ろしい兵器であり、誰も見たことのない人体の精密な解剖図であった。天文学や力学に通じ、幾何学の数式に興じている。
彼はただの芸術家ではない。客観知――科学《シエンツァ》の使い手だ。でなければ、魔術《マジイーア》の側の人間だ。おそらく、彼の雇用主であるルドヴィコ・イル・モーロでさえ、その事実に気づいていない。レオナルド・ダ・ヴィンチの能力を誰よりもよく知っているのは自分だという自負がチェチリアにはある。
だが、チェチリアが彼をこの城館に呼び寄せようと思った理由はそれだけではない。
パオロ・アッラマーニとはじめて言葉を交わしたとき、チェチリアは、師と同質のものを彼に感じたのである。隠居した老建築家もまた| 自 然 魔 術 《マジイーア・ナトゥラーレ》の探究者だと直感したのだ。事実、屋敷の召使いたちも、アッラマーニがなにかの研究に没頭していたことを証言している。
そしてアッラマーニは殺された。
奇跡か――魔術としか思えぬ奇怪な姿で。
ならば、その魔術を解き明かせる者はレオナルドしかいない。
チェチリアは、そう考えたのだ。
もっとも、それを説明したところで、フェデリカを納得させられる自信はない。だから彼女は、それ以上なにも言わなかった。
東西に続く回廊を抜けた先は小さな広間になっており、簡素な長椅子が置かれていた。
屋敷の北西と南東にある小塔にはこのような談笑用の空間が設けられ、来客が自由に使えるようになっている。この城館が、貴族の別荘として使われていた時代の名残だろう。階段と回廊が交差する場所に、人が自然と集まるように設計してあるのだ。
チェチリアたちが通りかかったとき、そこにいたのは一人の若い使用人だった。
昨夜、チェチリアと共にアッラマーニの死体を最初に発見した、ベネデッタという名の女中である。顔色がひどく悪い。憔悴《しょうすい》した様子で、力無く長椅子にもたれている。
仕えていた屋敷の主人があのような死に方をしたのだから、無理もないことだとチェチリアは思った。少なくとも彼女だけは、アッラマーニが天使に殺されたのだと疑うことなく信じているのかもしれなかった。
なんと声をかけるべきか迷っているうちに、ベネデッタもチェチリアに気づいて顔をあげた。
あわてて立ち上がり、目を伏せたまま逃げるように去っていく。まるでチェチリアを恐れているような反応である。
彼女の背中を見送って、チェチリアは大きく肩をすくめた。
「なんでございましょう、あの態度は――」
フェデリカは、眉一つ動かさずにそう言った。
小広間を抜け、再び回廊を北へと進む。
回廊の突きあたり――屋敷の北東の隅にある小塔が、アッラマーニの私室だった。
部屋は最初から城館の主人のために造られたものらしく、ほかの客室に比べてかなり広い。塔自体の造りが大きいのだ。
柱や壁の装飾も、比較的豪華である。
だが、せっかくの内装も傷みが酷い。ほとんど手入れがされていないのだろう。
漆喰《しっくい》は表面がひび割れ剥落《はくらく》し、剥きだしの石壁には金具の錆が流れた痕がある。
窓枠や柱の木材も、仮漆が剥がれて白茶けていた。
おそらく客間や回廊は使用人たちが手入れしていたのだろうが、屋敷の主のほうは、自分の住処《すみか》にほとんど興味を示さなかったらしい。
「――やはり、亡くなった方の部屋に勝手にはいるのはまずかったでしょうか?」
私室への扉に近づきながら、チェチリアは訊いてみた。もちろん、咎められたところで引き返すつもりはなかった。
無愛想な侍女は、なにを今更、という表情でチェチリアを見返した。それから、かすかに眉を寄せて、冷静な声で言った。
「ですが――先客もいらっしゃるようですわ」
「……先客?」
訊き返して、チェチリアもすぐに気づいた。
アッラマーニの私室に続く古びた扉は、大きく開け放たれたままだった。室内には人の気配もある。チェチリアが扉の前に立つと同時に、部屋の奥にいた人影が頭《こうべ》を巡らせた。
最初に目が合ったのは、屋敷に仕える使用人だった。
サントという名の、気のよさそうな老人である。農作業で日焼けした顔に深いしわが刻まれており、年齢の割に体格がいい。老従僕は挨拶の代わりに、愛嬌のある笑顔を見せた。
部屋の中にいたもう一人の男は、刺繍《ししゅう》入りの長衣をまとった痩身《そうしん》の司祭だった。
年齢は、三十代になるかならないかというところだろう。優しげな顔立ちは、知性的で若々しい。そのせいか、聖職者というよりも育ちのよい貴族という印象を受ける。
「貴女は――」
司祭の聖職帽を被ったその男は、チェチリアを見てなにか言いかけた。
彼が言葉を続けるよりも先に、口を開いたのはチェチリアだった。
「ミラノのチェチリア・ガッレラーニです、レナート・サンドレッリ司祭。アッラマーニ殿の本を借りにきたのですが、はいってもよろしいでしょうか?」
彼女に名前を呼ばれたことで、司祭は少し驚いた様子だった。直接話をしたことはなくても、一度でも会った人間の顔と名前を忘れないことが、チェチリアの自慢なのである。
予想どおり、機先を制された司祭は言葉に詰まって、本ですか――とだけようやく言った。
「アッラマーニ殿が亡くなる前に、見せていただく約束をしていたのです」
チェチリアは平然と嘘をついた。
普段から無表情な侍女の存在は、このようなときに重宝する。チェチリアがどんな出任せを言っても、フェデリカは驚きを外に出さないからだ。
それでも司祭は、チェチリアの言葉に戸惑いを覚えたようだった。
「そうでしたか。そういうことでしたら、本をお持ちいただくのはかまわないのですが――」
歯切れの悪い口調で言って、サンドレッリ司祭は部屋を見回した。
建物自体の大きさとはべつに、アッラマーニの部屋は狭かった。
寝室と一続きになった室内は雑然としており、所狭しと図面や工具が散らばっている。まるで美術家の工房のようである。
部屋の一画に簡素な棚がしつらえてあり、アッラマーニの蔵書はその中に収められていた。
古写本や手写本だけでなく、普及しはじめたばかりの印行本まで――数百冊はあるだろう。個人の蔵書としては破格の規模である。
司祭は、その書棚から一冊を抜き出して、チェチリアのほうに開いてみせた。
「ご覧のとおり、ここにある本はすべてラテン語で書かれています。ご婦人がお読みになって面白いものがあるとは思えません」
「フィッチーノの『ヘルメス文書』ですね」
サンドレッリが手にとった本の装丁を一瞥《いちべつ》して、チェチリアは言った。司祭は、一瞬、目をしばたたいて、本の表紙を確認した。
「――貴女は、ラテン語が読めるのですか?」
意外そうな表情で、サンドレッリが訊いた。
チェチリアは、穏やかに微笑んで司祭の質問をうやむやにした。
たしかにチェチリアは、ラテン語の教養を身につけている。語学以外の分野でも、チェチリアが受けた教育は、同世代の女性の標準を大きく超えているだろう。
だが、それが必ずしも世間に評価されるものではないことも、チェチリアは知っている。
ラテン語の教育を授かるのは、本来、知識人だけの特権なのだ。たとえ上流階級の娘でも、通常受けられる教育といえば、せいぜい聖書の教義と礼儀作法くらいのものである。
語学はもとより、哲学や修辞学などのあらゆる学問は、女性が望んで学べるようなものではなかった。柔順で寡黙であることが女性の美徳とされる世の中では、高度な女子教育は、時にその美徳を損なうものとして批判される対象だったからだ。
そして、そのような風潮を作り出したのは、ほかならぬローマ教会の教義なのである。
しかしサンドレッリは、チェチリアが身につけた教養に素直に感心したらしかった。朗らかに微笑んで書棚の前から退き、チェチリアに道を譲った。
「失礼しました。まさか、貴女のようなお若い方がラテン語の書物をお読みになるとは思わなかったのです。いや、さすがはルドヴィコ・イル・モーロ閣下の――」
そこまで言ってサンドレッリは言葉を切った。チェチリアの背後に控えていた侍女が、小さく咳払いをしたのである。
司祭はすぐに自らの失言に気づいたらしく、ひどくばつの悪そうな表情を浮かべた。
「さすがはイル・モーロの愛妾《あいしょう》――ですか?」
悪戯っぽい口調で、チェチリアが彼の代わりに言った。サンドレッリは、ますます困った顔になった。
「あ、ええ――いえ……」
「よいのです。私が、世間からそんなふうに扱われていることは存じていますから」
言いよどむ司祭に、チェチリアは明るく告げる。悠揚《ゆうよう》と悪びれぬ彼女の態度には、小娘だという侮りを寄せつけないものがある。
書棚の前に立ち、アッラマーニの蔵書を物色しながら、チェチリアは話題を変えた。
「香炉の来歴を調べていらしたのですか?」
司祭は、救われたような表情で顔をあげた。
「ええ。こちらのサント老人は、この屋敷で働いていた方々の中でも一番の古株なのです。ですが、彼も香炉の由来は知らないのだそうです。先のロンバルディア貴族の代から、すでに香炉は、この館にあったのだと」
サンドレッリの言葉を聞いて、老従僕はきっぱりとうなずいた。それは、チェチリアが屋敷を訪れる前に聞いていた噂とも一致する内容だった。
「聖マルコ由来の香炉だそうですね」
「ええ――ですが、その伝説は、それほど根拠のあるものではありません。福音《ふくいん》者が使っていた香炉がこの地域に伝わっていたとすれば、ヴェネツィアから流れてきた可能性が高いという、それだけの理由です」
「ヴェネツィア?」
問い返したチェチリアに司祭は、聖マルコはヴェネツィアの守護聖人というだけでなく、この地方で最初に教会を創立した人物なのだ――と説明した。
「ですが、持ち主のアッラマーニ殿でさえ、香炉が本物の聖遺物かどうかわからないと仰っていました。その彼が亡くなってしまった以上、今更香炉の来歴を調べることはできないのではありませんか?」
「難しくなったのは事実です」
そう言って、サンドレッリは控えめに微笑んだ。
「ただ、この城館自体は、それほど古いものではありませんからね。それに、ここを建築したのはアッラマーニ殿ご自身です。屋敷が完成した直後に香炉が運びこまれているのなら、その当時の記録が残されていてもおかしくないとは思いませんか?」
「記録……ですか?」
「ええ。当時の日記や、覚え書きのようなものでもよいのです」
なるほど、とチェチリアは思った。それは――あるかもしれない。
「その記録を、サンドレッリ様お一人で探すおつもりですか? 大勢で手分けして探したほうが効率的ではありませんか」
暗に出し抜かれたことへの抗議もこめて、チェチリアは言った。建築家がメモを残した可能性を、彼に指摘されるまで気づかなかったことが口惜しかった。
その思いを敏感に読みとったのか、サンドレッリは苦笑した。
「先程のチェチリア殿の話ではありませんが、ラテン語が読める司祭が私しかいなかったのです。死亡した人間の荷物に勝手に触れるのは心苦しいのですが、アッラマーニ殿にはご遺族がいないということですし、これでも我々には、ローマ教会の公務で来ているという大義名分がありますから――」
司祭は穏やかな口調で説明する。
彼の言い分に理があることを、チェチリアは素直に認めた。
私的な覚え書きの類は俗語で書いてあるにしても、この部屋に残された公文書や図面はラテン語で書かれた可能性が高い。それを理解できない者をいれても、作業の邪魔になるだけだろう。ラテン語の知識は高位の聖職者には欠かせぬ教養だが、知識として知っているということと、実際に読みこなせるということはまた別の問題である。司祭位程度の聖職者では、語学に堪能な人間はむしろ多くない。
聖職者らしからぬサンドレッリの率直な物言いには好感が持てた。だが、それで納得しない人々がいるだろうということも、チェチリアには容易に想像できた。
「――香炉の来歴を調べる理由は、それが聖遺物だと認定されたときに、どの教区に帰属するかを判定するためですか?」
「そうなりますね」
サンドレッリは、少し考えてうなずいた。
「もちろん、記録は、香炉が真に聖遺物かどうかを判定する材料になりますが、逆に言えば、聖遺物だと確定できれば自動的に帰属先が決まるということでもあります。同じことです」
「でも、この屋敷を訪れている司祭様の教区は、それぞれ違っているのでしょう?」
「ええ、そうです」
「それは、自分たちの教会に都合の悪い記録が出てきても、容易には認めないということではありませんか?」
「教会同士が聖遺物を奪い合って争うということですか?」
問い返して、サンドレッリは目を伏せた。気を悪くするのではないかと思ったが、司祭の答えは簡潔だった。
「その可能性は、あります。残念ながら」
「え?」
あっさりとサンドレッリが認めたことに、チェチリアは拍子抜けした思いだった。そんなチェチリアの様子を見て、彼は聖職者特有のよく通る声で言った。
「しかし、真に神の祝福を受けた聖遺物ならば、自ずと本来あるべき場所に落ち着くのではないでしょうか。それを妨げることができると考えるのは人の思い上がりでしょう」
「そんなに都合よくいくものでしょうか? 世間では贋作の聖遺物が出回っているという噂も耳にします」
「そうですね。ですが、本来祀られるべき聖遺物が、このような辺境に死蔵されていることのほうが問題だと私は思うのです。ましてや個人が、聖遺物を使って不正な財を成すようなことが許されるとは思えません」
チェチリアは、複雑な思いでサンドレッリの顔を見上げた。
この理屈屋の司祭が遠回しに、アッラマーニのことを責めているような気がしたからだ。
「サンドレッリ様は、アッラマーニ殿が殺されたのは神の意思だとお考えなのですか?」
チェチリアの質問に、サンドレッリは深くうなずいた。
「ご存じですか? アッラマーニ殿が、香炉の噂を聞きつけた人々から、これまでに相当な額の寄進を受け取っていたことを……」
「寄進、ですか? 教会でもないのに?」
「ええ。アッラマーニ殿は、いちおうこの地域の領主ですが、ここには小さな葡萄園と数軒の農家があるだけなのです。このような大きな城館を維持し、これほどの蔵書を買い求めるだけの収入はありません」
「それを寄進で賄っていたのですね?」
「そう――法王庁が私たちを派遣したのも、実はその問題があったからなのです」
サンドレッリは、そこで小さく息を吐いた。
厭な話だと、チェチリアは思った。しかし今頃になってローマ教会が調査団などを派遣することになった事情は、よく理解できた。本来、教会に対して納められるはずの寄進が、辺境に住む建築家のもとに流れているとすれば、それは看過できることではないのだろう。
だが、聖遺物を金儲けの道具として使っているのは、ローマ教会とて同じなのだ。アッラマーニだけが神の怒りに触れて殺されたと考えるのは、どうもチェチリアには馴染まない。
「仮にそのお話が真実だとしても、アッラマーニ殿の罪は、殺されなければならないほど重いものだったのでしょうか?」
チェチリアは不満げに言った。サンドレッリが首を振る。
「ですが、奇跡は起きました」
「奇跡――なのでしょうか?」
「ほかに、あのような奇怪な殺され方をした理由が説明できません。それに――」
天使を見たと仰ったのは貴女ではありませんか、とサンドレッリは言った。
チェチリアは言葉に詰まる。闇の中に浮かぶ光。男とも女とも、大人とも子どもともつかぬ美しい人影。チェチリアが見たものはそれだけだ。ベネデッタはそれを天使と呼んだ。
だがチェチリアにはそれがなんであったのか、いまだにわからないのだ。断言できることがあるとすれば、その姿が、この屋敷にいる人間の誰にも似ていないということだけである。
「――誤解していただきたくないのですが、私は、そのことでアッラマーニ殿の香炉が聖遺物であると短絡的に考えるつもりはないのです」
沈黙したチェチリアを気遣ったのか、サンドレッリが補足した。
「どういうことですか?」
「つまり、香炉が聖遺物として奇跡を引き起こしたというのならば、香炉に願いをかけた者がいるということになりませんか?」
「誰かが――アッラマーニ殿の死を願ったということですか?」
「ええ。ですが、私はそれを認めたくないのです。それよりも、聖遺物の贋作を使って人心を惑わす者が神の手で裁かれた――そう考えたいのですよ」
「それは……でも……」
穏やかに微笑む司祭の言葉に、チェチリアは激しく落胆した。
彼の理屈は整然としていたが、所詮、聖職者の論理であった。綺麗事だ。
結局のところサンドレッリは、建築家の死を奇跡によるものだと処理しようとしているのだ。犯人を捜すつもりはないということだ。
たとえアッラマーニを殺した者がいたとしても、司祭たちはなにも困らない。寄進を掠《かす》めていた建築家は死に、あとには聖遺物だけが残った。これは法王庁にとって、むしろ望ましい結末である。聖遺物を買い受ける交渉をする必要すらなく、第三の奇跡という箔までついたのだ。
ふとチェチリアは、アッラマーニを殺したのは司祭たちではないかという疑惑を覚えた。
だが、違うのだ。それではチェチリアが見た天使の姿に説明がつかない。
そもそも司祭たちが犯人ならば、建築家の死体を磔にする理由がない。苦心してあのような不可解な状況を作る必要はなにもないのだ。
では、それ以外の者が犯人だとしたら――
神が建築家を裁いたのだと司祭たちに思いこませるために、奇怪な死に方を演出したということは、あり得ないではないだろう。
だが、その場合は、アッラマーニを殺す理由がわからなくなる。
建築家には、財産を受け継ぐ遺族がいないのだ。サンドレッリの言葉を信じれば、そもそも彼には、相続すべき財産もほとんど存在しないことになる。
唯一の財産といえる香炉も、この展開では、ほぼ間違いなく教会に没収されることになるだろう。意味がない。だからといって、何年も前に隠棲した老建築家が、屋敷に逗留する貴族たちの恨みを買うとも思えない。使用人たちに至っては、アッラマーニが死ねば職を失うのだ。
無言で立ちつくすチェチリアを、司祭とサント老人が困ったような顔で見ていた。
チェチリアが部屋を出ていかないと、彼らの作業が再開できないのだろう。
けれど、このまま部屋を出ていくことはなぜか躊躇《ためら》われた。
なにか居座る口実がないかと考える。
そのとき――声が聞こえた。
悲鳴だった。
チェチリアは、軽い眩暈を覚える。
昨夜の情景が繰り返されているような、奇妙な既視感。
最初に反応したのは、老従僕だった。
孫の声じゃ、とつぶやいて、抱えていた荷物を投げ出す。
フェデリカが無表情なまま振り向いた。
悲鳴が聞こえるのは、階段の下からだった。
アッラマーニの私室があるのは二階である。
階下にあるのは、礼拝室だ。
「香炉のある部屋だ!」
サンドレッリが叫んで、駆けだしたサント老人のあとを追った。チェチリアも続く。
狭い螺旋《らせん》階段に、靴音が反響する。
女の悲鳴ははっきりと聴きとれるようになっていた。
先ほど、小広間ですれ違った女中――ベネデッタの声だ。
それに覆い被さるように、裏返った男の声も聞こえてくる。
激しく争っているような不吉な音が絶え間なく続いている。
一階の回廊に窓はなく、暗い。
誰もいないはずの廊下に、灯りがついている。
施錠されているはずの礼拝室の扉は開いていた。
緑青の浮いた祭壇。
剥《は》がれ落ちたフレスコ画。
剥《む》きだしの石壁。古びた金具。流れ落ちた赤錆。光と影。
礼拝室に設けられた窓は、分厚い硝子をはめこんだ採光窓が一つきりだ。
射しこむ白い光の中に、揉みあっている男と女がいる。
「違います、違います――知らない、私は本当に知らないのです」
「嘘をつけ! おまえか――おまえがやったのだな」
「違います――私は――」
「コンタリーニ殿!」
倒れている娘を殴ろうとした男の腕を、部屋に飛びこんだサンドレッリが止めた。サント老人が駆け寄って、孫娘――ベネデッタを抱き寄せた。
被り物が飛び、露わになったベネデッタの髪をつかんだまま、男は荒い息をついていた。
袖口にレースをあしらった華やかな服装の男である。ヴェネツィア貴族のジョヴァンニ・コンタリーニ。普段の洒脱な表情はなりを潜め、険悪な相で若い女中のことを睨んでいる。
「なにがあったのです、コンタリーニ殿」
きつい口調でサンドレッリが訊いた。
彼の腕を乱暴にふりほどきながら、コンタリーニが怒鳴り散らした。
「香炉だ――この女が、香炉を盗んだのだ!」
「なんですって?」
全員の視線が、祭壇の上に向けられた。手入れは行き届いているが、長い年月で鍍金が剥がれ落ちた簡素な祭壇である。建物に比べて異様に古い。香炉と同じで、どこからか運びこんだものなのかもしれない。様式も現代のものとは少し違う。祭壇に置かれた鏡や飾り石も摩耗《まもう》し、本来の輝きを失っていた。
左右に置かれた燭台だけは、比較的新しい。
そして、その中央に安置されているはずの香炉の姿は、どこにもなかった。消えている。
「違います――私ではありません。私がここにきたときには、もう香炉はなかったのです」
ベネデッタが、悲痛な声で言った。顔色は、ますます青ざめている。恐怖と混乱のあまり、涙すら出ないようだった。
「旦那様! この娘は、毎日この礼拝室を掃除することになっているのです。それだけです。あの香炉を盗むなんてそんな恐ろしいことができる娘ではありません」
孫娘をかばうように、サント老人がコンタリーニに言った。だが、その言葉はヴェネツィア貴族を激昂させただけだった。
「黙れ! この扉には今朝からずっと鍵がかかっていたのだ。それが今来てみたら、この女が中にいて香炉が消えていた。ほかに誰が持ち出せるというのだ。それとも、おまえのほかに、ここの鍵を隠し持っている者がいるのか?」
「そ、それはアッラマーニ様が……」
ベネデッタが、弱々しく言った。コンタリーニが歯を剥いた。
「なに!?」
「私は、お掃除をするために、このお部屋の鍵だけを預かっているのです。ほかに鍵をお持ちなのは、アッラマーニ様だけです」
「はっ」
コンタリーニは荒々しく息を吐いた。
「死んだ人間が、どうやって鍵を開けるというのだ? それとも、アッラマーニの部屋に忍びこんで鍵を盗み出した者がいるとでもいうのか?」
貴族の言葉に、司祭と老従僕は顔を見合わせた。いまだ呼吸を荒げている貴族を娘から引き離しながら、サンドレッリが静かに言った。
「それはありません、コンタリーニ殿。先ほどまで私とサント殿は、アッラマーニ殿の部屋にいたのです。屋敷の鍵を束ねた鍵束は、たしかにアッラマーニ殿の部屋にありました」
「ほう……ならば、この部屋に入れたのは、この女中以外にいなかったということだ。見てのとおり、この部屋には、ほかに出入り口がないのだからな」
勝ち誇ったように、コンタリーニが言った。サント老人は困惑の表情を浮かべ、ベネデッタは首を振り続けるだけだ。
チェチリアは激しい混乱を覚えながら、その光景を眺めていた。
眩暈が酷くなる。この礼拝室に入ったときから、激しい違和感と不安を感じる。
「コンタリーニ殿――」
ヴェネツィア貴族の瞳をのぞきこむようにして、チェチリアは言った。そのときになって、コンタリーニはようやくチェチリアの存在に気づいたようだった。
「貴方は、なぜこの部屋に鍵がかかっていたことをご存じだったのです?」
「そ、それは……」
チェチリアの言葉に、ヴェネツィア貴族ははっきりと狼狽した。室内にいた人々の視線が、彼に集中する。チェチリアの背後で、フェデリカが短く鼻を鳴らした。
「そうです、コンタリーニ殿」
サンドレッリが、低い声で言った。
「なるべく部屋から出ないようにと、あれほど申し上げたではありませんか。なのに貴方は、なぜこの場にいるのですか。もしかして香炉を持ち出そうとしていたのは、本当は――」
「馬鹿なことを言うな」
コンタリーニは、司祭を突き放した。だが、その言葉に先ほどまでの勢いはなかった。
ベネデッタは倒れたまま、老人の胸で啜り泣きをはじめていた。サンドレッリとチェチリアは、なすすべもなく立ちつくす。突然の静寂に耳が痛む。
採光窓から射しこむ光が、祭壇の上を照らしている。
その光を反射するはずの香炉は、今はない。チェチリアは深々と嘆息した。
コンタリーニが口にしたことは、実は、それほど的はずれなことではないのだ。
礼拝室に続く入口は一つしかない。そして、彼の口振りから察するに、ヴェネツィア貴族はアッラマーニの死体が発見された直後から、この部屋を見張っていたのだろう。
その間ベネデッタ以外にこの部屋に入った者はいない。そして彼女が部屋に入ったときには、香炉は消えていたというのだ。
だとすれば、香炉が消えたのはアッラマーニが殺される前ということになるのではないか。それとも、香炉を盗むために犯人はアッラマーニを殺したのだろうか。
それはあり得ないことではないが、なにかがチェチリアの胸に引っかかる。
長身の侍女が、再び鼻を鳴らした。礼拝室の臭いが気に入らないらしかった。
「――フェデリカ……」
侍女の名前を、チェチリアは呆然とつぶやいた。怪訝な表情で振り向いたフェデリカも、チェチリアの見ているものに気づいて息を呑んだ。
眩暈の理由がようやくわかった。
不安感の正体は、礼拝室の臭いだ。それは、香の臭いではなかった。
そして違和感の正体は、この光景だった。
ヴェネツィア貴族の身体を押しのけて、チェチリアは祭壇の奥へと向かった。
剥きだしの石壁に、赤黒い染みが浮いていた。金具の錆の痕だと思っていた。
だが、前にこの部屋を訪れたとき、そんな染みはなかったのだ。
祭壇の奥には、ひときわ大きなどす黒い染みがあった。
「――血だ」
サンドレッリがぽつりと言った。ヴェネツィア貴族が甲高い悲鳴をあげる。
ベネデッタの啜り泣きがやんだ。気を失ったのかもしれない。
チェチリアは眩暈を止めるために、目を閉じた。
これはアッラマーニの血なのだろうか。
哀れな建築家はここで殺されて、屋敷の外壁に磔られたのだろうか。
けれど死体があった場所は、はるか回廊の彼方――城館の対岸の壁なのだ。
そんなことができる者がいるとすれば――
祭壇を照らす白い光の中に、チェチリアは昨夜の天使を見たような気がした。
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二 章
十五世紀末、ミラノ在住のフェラーラ大使が母国に宛てて密かに送った一通の書簡がある。
ミラノ宰相ルドヴィコ・イル・モーロに関する報告書である。
当時ルドヴィコには婚約者がいた。
それが同盟国フェラーラの君主の末娘、公姫ベアトリーチェ・デステだったのだ。婚約当時、彼《か》の幼い婚約者は、わずか五歳になったばかりだったとも言われている。
彼らの婚儀はそれから十年後――ベアトリーチェが十五歳になった年に行われることになっていた。けれど、高まるエステ家の不満にもかかわらず、ルドヴィコはこの結婚を一度ならず延期する口実を作っている。
その原因を調査していたフェラーラ大使の書簡には、ある一人の女性の存在が記されていた。
女性とは、まだ年若い娘であった。
ミラノの廷臣を父に持ち、彼女は、当時の女性の水準をはるかに超えた教育を受けていた。詩才に恵まれ、竪琴《リラ》などの楽器を弾きこなし、ラテン語で演説をふるうこともやってのける。
そしてなによりも聡明な娘だった。
ルドヴィコは娘を常に傍に置き、宮廷内のことから政治向きのことまで、彼女の助言を容れたという。すなわち彼女は、宮廷内の実権を握る宰相を動かし得る、唯一の女性なのである。
宰相ルドヴィコが、婚約者である公姫の到着を好ましく思っていないのは、彼が、その娘を今後も宮廷に置いておきたいと考えているからではないか。
大使の書簡には確信に満ちたそのような分析と共に、短い報告が添えられていた。
|彼女は、花のように美しい《bella come un fiore》。
その娘、名前をチェチリア・ガッレラーニという――
そんなチェチリアが奇跡を呼ぶ香炉の存在を知ったのは、偶然の出会いがきっかけだった。
ヴェネツィアとの国境近くの修道院で、ロレッラ・コンタリーニという女性に出会ったのだ。半月近く前のことである。
チェチリアにはザネータという歳の離れた姉がおり、一時《いっとき》その修道院に寄宿していたことがあった。その姉の使いとして、チェチリアは修道院長を訪ねたのである。
この地方の裕福な家庭の娘たちにとって、修道院への寄宿は、ごく当然のことと受け取られていた。親もとを離れ、結婚までの期間、その中で教育やしつけを与えられるのだ。
しかしチェチリア自身には、修道院で暮らした経験はない。
ガッレラーニ家の経済状況が、それを許さなかったのである。
チェチリアの父ファツィオ・ガッレラーニは、彼女が十歳の誕生日を迎えたときにはすでにこの世を去っていた。チェチリアは、彼が五十代も後半になってもうけた末娘だったのだ。
そして、シエナからの移民の家系であるガッレラーニ家は、ある程度の地位にはあったが、貴族ではなく、特に裕福というわけでもなかった。
チェチリアには姉のほかに六人の兄弟がいたが、父親の死後、彼らは自分たちがなんらかの職について、生計を立てなければならないことを知っていた。
そして兄弟たちが選択したのは、医師や法律家などの専門職への道であった。
彼らが大学に行く準備が整うまでの期間、父が残したわずかな財産は、家庭教師を雇い教育を授かるための費用に充てられることになったのである。
チェチリアに許されたのは、兄たちの授業に加わり、上流階級の娘の標準からは大きくはずれた、男子のための教育を受けることだけであった。
ラテン語の読み書きはもちろん、神学や哲学、詩作まで――
いきさつはどうあれ、チェチリアはほかの女性が望んでも得ることのない高い教育を授かることになったのだ。ミラノの宰相が、そんな彼女の特異な資質に目を留めることになるのは、それから間もなくのことである。
そのような生き方をしてきたチェチリアにとって、わずかな滞在期間とはいえ、修道院での暮らしは退屈以外のなにものでもなかった。
話し相手となるべき修道女たちは厳しい戒律に縛られ、チェチリアに見合うだけの教養を身につけているわけもない。それは無理もないことである。
その退屈をまぎらわせてくれたのがロレッラ・コンタリーニという女性である。
「よろしければ話し相手になっていただけませんか」
院の中庭をあてもなく散歩していたチェチリアに、そう言って声をかけてきたのがロレッラだった。年の頃は二十代も後半の、美しい金髪の女性である。
修道女の服装ではなく、白い地味な衣服をつけた姿だった。ほっそりとした顔立ちに、時折|愁《うれ》いを帯びた表情が浮かぶものの、穏やかな物腰が育ちの良さを感じさせる。柔らかで知的な口調にも好感が持てた。
聞けばヴェネツィアの名門貴族コンタリーニ家に連なる家系の出身であり――そして高名な建築家、パオロ・アッラマーニの妻だったという。
その時点で、チェチリアには彼女の事情を察することができた。
高貴な生まれの人間が、思い立ったように修道院にはいるのは、めずらしいことではあるが前例がないわけではない。しかし正式な修道女になることもなく、長期にわたって院内に滞在しているとなれば、その目的は一つしかない。
離婚である。
修道院にはいり聖職に身を捧げる期間を経ることで、カトリックの教義に背くことなく結婚関係を解消することができるというのが、この時代の慣わしであった。いかに法王庁《ヴァチカン》の権威が揺らいでいるイタリアといえども、女性の側から結婚生活を解消する方法は、修道院に逃げこむ以外になかったのだ。
しかし修道院にはいったからといって、すぐに離婚が成立するというものでもない。
残された夫があきらめて、婚姻を解消する気になるまで待たねばならないのだ。
それは、人によって半年一年で済む場合もあれば、十年二十年とかかることもある。夫の死を待たねばならないこともあり得るのだ。ロレッラの場合は、後者であった。
「――わたくしは、もう十二年もここにいるのです」
凪《な》いだ湖のように静かな表情で、ロレッラは言った。
「建築家のパオロ・アッラマーニのもとに嫁いだとき、わたくしはまだ十四だったのですよ。夫は三十も年上でしたが、彼の庇護者だった貴族とコンタリーニ家には交流がありましたから、この結婚は不自然なことではなかったのです」
「……アッラマーニ殿とは、どのような方なのですか?」
と、チェチリアが訊くと、
「あの人は、優れた建築家でした」
ロレッラは、唇だけの微笑を浮かべて答える。
「芸術家としても、優れた才能を持っていたのでしょうね。数人の高弟と、大勢の職人を使い、いくつもの仕事を請け負っていましたから。弟子たちにはずいぶん慕われておりましたのよ」
「はい」
うなずいて、チェチリアは彼女の話の続きを待った。
金髪の女性は息を吸って、ためらいがちに唇を開く。
「わたくしにとっても、情熱的とまではいえませんが、悪い夫ではありませんでした。少なくとも、あの香炉と出会うまでは」
「香炉?」
「ええ」
彫りの深いロレッラの顔立ちが、翳りを増したように見えた。ゆっくりと視線を落として、彼女は続けた。
「出自ははっきりしないのですが、大変古く価値のある香炉なのだそうです。パオロはそれを、聖遺物だと呼んでいました。奇跡を起こすのだと」
「え……」
「わたくしはそれを信じませんでした。けれど、その香炉を手にして、たしかに彼は人が変わってしまいました。依頼された仕事をすべて断り、弟子たちを皆追い払い、湖水地方の不便な土地に持っていた城館に閉じこもってしまったのです」
「――それが、その聖遺物の影響だと仰るのですか?」
チェチリアは、礼を失しない程度に身を乗り出して訊いた。声を抑えるのに苦労する。
「わかりません」
そう言ってロレッラは、気分を落ち着かせるように言葉を切った。
「ですが、あの人が香炉の煙の中になにかを見たのは事実なのです。そうでなければ、あのような恐ろしいことができるはずはありません」
「恐ろしいこととは、どのようなことなのです?」
「……子どもを、殺したのです。わたくしが産んで間もない、赤子を」
乾いた声で告げる建築家の妻を、チェチリアは呆然と見つめるしかなかった。
ロレッラは、どこか壊れかけたような空虚な微笑を浮かべて首を振る。若々しい彼女の姿とは裏腹の、ひどく疲れた所作《しょさ》だった。
「ごめんなさい。いえ、わたくしの当時の記憶は曖昧で、ほとんどなにも覚えていないのです。屋敷に仕えていた者たちからは、あの子は病で死んだのだと聞かされました。生まれつき身体に異常があったのだと。ですが、パオロがわたくしの手から赤子を奪っていったのは確かです。わたくしが最後に覚えているのは、血に濡れた彼の部屋で、ふいにあの子の泣き声が途絶えたことだけなのですから」
「――そのことが、貴女が修道院にはいった理由なのですね」
少し間をおいて、チェチリアは静かに言った。
ロレッラは目を伏せたまま、ゆっくりとうなずいた。記憶を失ったことは、彼女にとって幸運であったとチェチリアは思う。もしそうでなければ、彼女の憔悴は、こんなものでは済まなかったかもしれないからだ。
「ですが、どうして私にそんな大切なことを打ち明けてくださったのですか?」
首を傾げて尋ねるチェチリアに、彼女は少しだけ愉しそうに微笑んだ。
「ザネータがここで暮らしていたころに、貴女のお話はよく聞いておりましたのよ。聡明で、不思議なちからをお持ちでいらっしゃると」
「いえ。それは姉が誇張しているのです。落ち着いて考えれば、誰にでもできることです」
チェチリアは、薄く苦笑して首を振った。歳の離れた姉が自分のことをどんなふうに語ったのか、手に取るようにわかったからだ。
それは、たとえばこんな話だ。
あるとき、まだ健在だったチェチリアの父を、見慣れない商人が訪ねてきたことがある。
商人は、翌年の農作物の出来を判じてみせると言った。天候に恵まれず、ノヴァーラの米は不作だ。今のうちに市場に出ている米を買い占めておいたほうがいい、と。
ファツィオ・ガッレラーニは、商人の言葉を信じなかった。
果たして商人の予言はあたった。翌年はひどい不作で、米の価格は暴騰した。けれど偶然の一言で片づけるのは容易だったし、一度会ったきりの商人の顔など誰もが忘れかけていた。
そんなある日、再び商人はファツィオのもとを訪れた。そして言った。今年のモンフェラートの葡萄は質が良い。今から予約しておくべきだ、と。
ファツィオは商人を門前払いにこそしなかったが、今度も彼の言葉には従わなかった。
それから半年ほどが過ぎて、商人が三度ファツィオのもとを訪れたのは、モンフェラートの葡萄が豊作だったという噂が流れはじめたある日のことだった。ピエモンテのライ麦は、来年いつになく不作で、必ず値段があがると彼は言った。
そのときには、ファツィオも商人を完全に信用するほかなかった。そして、翌年のライ麦を買い占めるために一千ドゥカートの大金を商人に預けようとした。
そのとき、まだ幼かったチェチリアが進み出て、きっぱりとファツィオに言った。
「いいえ、お父様。この方は嘘をついておられます」
そしてこうも言った。
「来年のピエモンテのライ麦の出来は普通です。そしてこの方は二度と我が家を訪れませんわ」
ファツィオはチェチリアの言葉を信じたわけではなかったが、そう指摘されたときの商人の慌てぶりに不審を抱き、結局彼に金を預けることはなかった。
結局、翌年のライ麦は豊作とも不作とも言えず、チェチリアの指摘どおり、商人は二度と姿を現さなかった。
「なぜ、あの男が嘘をついているとわかったのだ。あの男の言葉が間違いで、おまえの予言のとおりになったのはなぜだ?」
そう問いかけるファツィオに、チェチリアはにっこりと微笑んだだけでなにも答えなかった。
実はチェチリアは知っていたのである。
商人が投資を持ちかけたのは、ファツィオだけではない。あちこちの貴族や官吏たちの家を回っては、同じようなことを吹きこんでいたのだ。
ただし、予言の内容はいつも同じではなかった。ファツィオに農作物が豊作だと告げたとき、べつの貴族には、同じ作物が不作であると告げておく。
そうすれば、どちらか一方の予言は必ずあたるというわけだ。
予言がはずれた相手を、再び訪れる必要はない。二回目は、正しい予言を告げた相手だけを回る。そして同じやり方で、いかさまの予言を繰り返す。三回、四回と予言を重ねるうちに、客は商人の言葉をすっかり信じるようになるという理屈である。
はずれてしまった予言のことなど人々はすぐに忘れてしまうし、予言を信じている人間は、自分だけが儲かるようにと予言の内容を他人に漏らすことはない。しかも、直接的にはつながりのない家ばかりを狙って訪ねている。それが、この詐欺の肝要なところである。
だが、怪しげな予知を行う商人に興味を持ったチェチリアは、従僕に命じてあとをつけさせ、彼の手口を見抜いてしまったのである。
それからも、似たようなことは何度かあった。
幼いころからチェチリアは俗信を信じない子どもであった。加えて好奇心が旺盛で、奇妙なことには首を突っこまずにいられない性分であった。
つまらない奇術の仕掛けや、簡単で、けれど大人たちでさえ騙される詐欺の手口をあばいたことは数え切れない。ごく普通に良家の娘としての教育を受けたザネータの目には、そんな妹の姿が、とても奇異に映ったに違いない。
チェチリアがそう言って説明すると、ロレッラは満足げに微笑んだ。
「そのようなことがあったのですか」
顔をあげた彼女の瞳が、真っ直ぐにチェチリアを見返してくる。
「でも、それならばなおのこと、貴女に聞いていただけてよかったと思います」
「それは、どういうことですか」
「もしいつか、お会いできたら是非お願いしようと思っていたことがあるのです」
「はい」
「パオロの屋敷を訪れて、香炉の起こす奇跡というものを確かめてはいただけないでしょうか。そして、今の夫の様子を教えていただきたいのです。わたくしは、この修道院から出ることができませんから」
建築家の妻の思いがけない申し出に、チェチリアは戸惑った。
たしかに、真に奇跡を起こす聖遺物が近くにあるのならば、それを見てみたいという気持ちはある。
それに、ロレッラの想いもよくわかった。彼女は件の香炉の煙の中に、アッラマーニがなにを見たのかを知りたいのだ。自分自身の記憶が曖昧である今、その光景こそが、彼女の苦悩をやわらげてくれる唯一の希望なのだろう。
「ですが、ロレッラ様。その香炉が、それほど貴重な物ならば、そう簡単に見せていただくことなどできないのではありませんか?」
「ええ。ですが、噂では香炉のことは法王庁の耳にもすでに届いているのだそうです。それで教会が調査団を派遣するのだとか」
「教会が?」
「はい。聞けば、チェチリア様はミラノのルドヴィコ・スフォルツァ宰相とご親交が深いとのこと。そのあなたからの依頼であれば、調査団への同行も許されるのではありませんか?」
かすかに首を傾げた姿勢で、ほっそりと美しい女が言った。
チェチリアはすぐに返事をすることはなかった。だが、心の中ではすでに答えを決めていた。
その理由は、この理知的な金髪の女性に、不思議な好意を覚えていたからかもしれなかった。
彼女の、失われた記憶に惹かれたのだ。
聖遺物の奇跡には自分も興味がある。
それだけを答えて、チェチリアは修道院をあとにした。
「なるほど――」
長いルドヴィコの説明を聞き終えて、レオナルドが疲れたように息を吐いた。
ミラノの市門を出て、すでに数刻が経っていた。
白く朝靄に霞む峠道である。残雪を頂く山々を遠くにながめながら、ルドヴィコたちを乗せた軍馬の一群は、緩やかな峠道を軽快に進んでいく。
供として連れている騎士は十数名。小勢だが、いずれ劣らぬ屈強な護衛兵たちばかりなので、それなりに目立つ。ルドヴィコはいつもと同じ、酔狂な黒ずくめの出立《いでた》ちなので尚更だ。
精強な軍隊を備えたミラノの領内の治安は悪くない。だが市外に出るとなると、いかにルドヴィコが剛胆でも護衛なしというわけにはいかない。どうしても騎馬隊の一部隊を引き連れた大仰な集団になってしまう。公式の行事ではないのだから、それでも少ないほうなのだ。
幸いなのは、同行している芸術家が、その程度のことで物怖《ものお》じするような殊勝な人間ではないということだった。レオナルドの乗馬の腕は、ほかの騎士たちと比べても遜色ない。危なげのない手綱《たづな》さばきで、ルドヴィコの隣にぴたりとつけてくる。
「彼女がアッラマーニの屋敷を訪れていたのは、そのような経緯があったわけか」
つぶやくレオナルドは、苦笑しているようでもある。
「そうだ」
同じように苦い顔でルドヴィコが言った。
チェチリアは俗信を信じない娘であるが、それは逆に言えば、割り切れないことを割り切れないままにしておくことができない性分ということでもある。聖遺物の奇跡という餌を目の前にちらつかされて、彼女がおとなしくしているはずもなかった。とはいえ彼女も、まさかその奇跡によって死者が出るとは予想しなかったに違いない。
「しかし驚いたな、レオナルド。貴様どこで馬の扱いを覚えたのだ?」
ルドヴィコは短く息を吐いて、話題を変えた。
「馬?」
振り返りもせずにレオナルドが言う。革製の短衣に外套をまとっただけの、あっさりとした旅装である。鎧などはもちろんつけていない。ミラノ近辺ではあまり見慣れない険しい峠道を進み続けているというのに、その顔に疲労の色はない。
「気性の荒い軍馬をそこまで自在に乗りこなすとは、工房にこもりがちの繊細な芸術家らしくもないではないか」
今度は幾分のからかいをこめて、ルドヴィコは言う。
「そうでもないさ」
レオナルドは表情を動かさず、冷淡な笑みを浮かべて首を振った。
「芸術家が馬の扱いで騎士に劣ると信じるのは、思いこみというものだ、イル・モーロ」
「ふん、思いこみか」
短く鼻を鳴らして、ルドヴィコが答えた。
戦いを生業《なりわい》とする騎士よりも、芸術家のほうが馬の扱いに長けていると言われているのだ。武人であるルドヴィコにしてみれば、気持ちのいい話ではない。
「しかし、馬の扱いを知らぬ騎士はいないが、馬に乗れない芸術家などめずらしくもないぞ」
「それは芸術家として二流ということさ。観察が不足しているのだ」
「観察だと」
「そうだ。騎士は経験で馬を操る術を身につけるが、芸術家は観察によって馬の扱いを覚える。それだけのことだ」
「ほう」
「コッレオーニの騎馬像の話は知っているだろう?」
「ヴェネツィアがヴェロッキオに依頼したという銅像だな」
問い返すルドヴィコに、レオナルドは悠然とうなずいてみせる。
ベルガモ出身の傭兵隊長《コンドッティエーレ》バルトロメオ・コッレオーニは、トルコとの戦いで多くの武功を残したヴェネツィアの英雄である。そのコッレオーニは死に臨み、自らの銅像をサン・マルコ広場に建てる、という条件でヴェネツィアに莫大な遺産を残した。
その遺言に反しないよう、ヴェネツィア政府は彼の騎馬像を発注し、それを請け負ったのがフィレンツェのヴェロッキオ工房であった。
アンドレア・デル・ヴェロッキオ――レオナルドの師にあたる男である。
「その騎馬像がどうしたのだ」
軽く眉を上げて、ルドヴィコが訊く。
レオナルドは涼しげな表情のまま、
「ヴェロッキオ工房で、その騎馬像の馬の部分を担当したのはぼくだ」
と言った。
驚いて見返すルドヴィコに、レオナルドは薄く微笑んでみせる。
「我が師は、馬の造形になど興味がないとの仰せでね。彼にかわって馬を素描し、雛形になる粘土の像を造ってやったのだ」
むう、とルドヴィコは低い声でうなった。
レオナルドの仕事のやり方は、ルドヴィコもよく知っている。彼は、その対象がなんであれ、一度描くと決めた以上、徹底的な研究を行うのだ。
騎馬像を素描することになったのならば、馬の姿や性質を学んだのはもちろん、骨や筋肉や腱が、どのような仕組みになっているのかということまで、すべて調べ尽くしたに違いない。
「なるほど。貴様はそのときに馬の扱い方も学んだというわけだな」
ルドヴィコは静かにため息をつく。
「そうだ」
「どうせ貴様のことだ。馬の扱いだけでなく、その力の伝わり方も心の動きも、すべて知り尽くしたと言いたいのだな」
「そのとおりだよ、イル・モーロ」
微笑みを浮かべたまま、レオナルドが言う。
「馬の身体の成り立ちを知らない画家に、正確な馬の姿は描けないだろう」
「そうだろうな」
「しかし観察が十分であれば、馬を描くことも自在に乗りこなすことも、そう難しいことではないということさ」
「そういうものか」
ルドヴィコは、どこか騙されているような気分で首をひねった。
「しかしレオナルドよ。その理屈で言えば、観察さえ十分であれば、馬に限らず万物すべてのものを自在に操ることができる、ということになるのではないか」
皮肉るような口調で訊き返すルドヴィコに、レオナルドは、ほうと息を吐いた。めずらしく、素直に感心したような声を出す。
「意外に飲みこみが早いじゃないか、イル・モーロ」
「なに?」
「きみの言うとおりだ。それが科学《シエンツァ》というものだよ」
「科学か」
「そうだ」
「馬を操るのと同じように自然をも操るというのか」
つぶやいて、ルドヴィコは苦笑いを浮かべた。レオナルドの大言壮語には慣れているつもりだったが、その言葉には苦笑するしかなかったのだ。
ルドヴィコの護衛の騎士たちは、少し離れたところから、ミラノの宰相に対して対等の口をきく芸術家と、それを咎めることもなく愉しげに笑う主君の姿を、怪訝そうにながめている。
たしかにレオナルドの態度は横柄とも思えるくだけたものだが、ルドヴィコは特に気にしていなかった。この男は誰に対してもこうなのだ。おそらく相手が法王でも神聖ローマ皇帝でも、彼は態度を変えないだろう。
正直に言えば、宰相である自分とも対等に振る舞うこの不敵な男に、ルドヴィコは興味を惹かれていた。こうして事あるごとに彼を試すように仕事を押しつけてみるのも、彼が慢心した愚か者なのか、それとも真に創造的な天才なのか、それを見極めたいと無意識に願っているせいなのかもしれない。
それとも単に――あまり認めたくはないが、単に反りが合うというだけのことなのか。
そんなことを思いついてルドヴィコは苦笑した。
「では、人間はどうだ。たとえ自然を操れるとして、人の心も自由にできるものなのか?」
「人間もまた自然の一部ならば、当然それを操ることもできるだろうさ」
関心のない声でレオナルドが言い、ルドヴィコは小さく顔をしかめた。
「物騒だな」
「そうでもない」
レオナルドはうっすらと微笑んでいる。
「河の水を堰き止めれば、一時的には流れを遮ることはできるだろうが、いずれ水はあふれて下流に害をなすだろう」
「ああ」
「人の心もそれと同じだ。無理やり押さえつけようとすれば、必ずどこかに反動が生まれる」
「なるほど。わかる理屈だな」
「だろうな」
含みのある表情で、レオナルドはうなずいた。
「ちょうど今のきみと同じことだからな」
「……なんのことだ?」
憮然としてルドヴィコが訊き返す。
すると、世間話をするような何気ない口調で、レオナルドはつぶやいた。
「フェラーラの使節は、そろそろミラノに着いているころではないのか?」
「なんだと……!?」
驚いて、ルドヴィコはまじまじと馬上の芸術家を見返す。
「なぜ貴様がそれを知っている? フェラーラの大使が俺を訪ねて来ることは、宮廷の中でも一部の人間にしか伝えていなかったのだぞ」
「やはりそうか――」
レオナルドは涼しげな表情を浮かべたままだ。
「どうせ、先方の公姫との婚宴を早く催せ、とでも催促されているのだろう。とはいえ二十九も年下の、顔も知らない相手との結婚に情熱を抱けるほど、きみは器用な人間ではないからな。それに同盟国の公姫との結婚となれば祝宴にかかる費用も莫大なものだ。そんな面倒なことはなるべく先送りにしたい――それで此度《こたび》の事件を口実に、大使との面会を断るつもりなんだな」
「それは……そのとおりだが、それを誰に聞いたのだ、レオナルド?」
「べつに誰かに聞かされたわけではないよ。大方そのようなことだろうと思っただけだ。聖遺物がらみの騒ぎとはいえ、この程度の問題に直接きみが手を下すのも奇妙な話だし、日が昇るよりも早くミラノを出たのも、大使とはち合わせするのを避けるためではないのか?」
「む……」
ルドヴィコは相手を睨んで低くうめいた。苦々しげに顔をしかめる。心の裡を読まれているようで落ち着かない。
「それが貴様のいう観察か――」
困惑するルドヴィコと裏腹に、レオナルドは声を出して笑っている。
「これも観察だよ、イル・モーロ。自然とは決して自己の法則を破らないものだ。きみの行動に不自然な点があるからには、なにかしらの事情があると踏んだのさ」
淡々と言ってのけるレオナルドを睨んで、ルドヴィコは深く息を吐いた。
彼の言うことは真実だった。
だが、ルドヴィコが真剣にチェチリアの身を案じているというのも事実である。そうでなければ、いくら聖遺物がかかわる事件でも、公務を投げ出してまでミラノを離れたりはしない。
口に出しては言わなかったが、その複雑なルドヴィコの心境までも、レオナルドは見抜いているのかもしれないと思う。本来ならば怒りを覚えるところなのかもしれないが、彼に指摘されるぶんには不思議と腹も立たなかった。むしろ下手な隠し立てをしなくて済むだけに、どこか気安い思いがある。結局のところ、この奇矯な芸術家こそが、自分のいちばんの理解者なのかもしれないと感じてしまうのだった。
道は、ちょうど建築家の屋敷に続く峡谷に差しかかろうとするところだった。
異郷人の端整な横顔から目をそらし、ルドヴィコは馬の歩みを止めた。
苔むしていた岩肌が途切れ、その先に湖が広がっていた。
薄青の空からは明るい春の陽光が降りそそぎ、凪いだ水面には対岸の丘陵が映りこんでいる。美しい景色である。
ルドヴィコは言葉を忘れて、その光景にしばらく見入った。切りたった崖の谷間にたまった、細長く澄んだ湖だった。
色鮮やかな春の花が、下生えの草むらに混じって、ぽつぽつと咲いている。
「なかなかの景観だな」
ぽつり、とルドヴィコがつぶやいた。
「アッラマーニという男が、都市を離れて移り住んだという気持ちもわからないではない」
「面白いことを言うな、イル・モーロ」
レオナルドはルドヴィコに並んで馬を止めた。
振り返った唇に、いつになく柔らかな微笑が浮かんでいる。
「自分が治めるミラノを、フィレンツェを凌ぐ芸術的な都市にしたいと常々口にしているきみにしては、ずいぶんと殊勝な言葉ではないか」
ルドヴィコはがっしりと筋肉のついた肩を揺らして、ふ、と笑った。
「正直に言えば、俺には芸術の良し悪しはわからんよ、レオナルド。だが、このような景色を見てしまうと、今風の哲学の観念を描いた宗教画よりも、ただひたすらに自然を描いただけの貴様の素描のほうがより恐ろしく、美しいと感じてしまうときがある」
「ほう」
「俺は、この美しい自然の光景を、ミラノという都市のものにしたいのだ。かつてのアテネのような、世界の文化の中心地としてな」
独りごとのように漏らすルドヴィコの横顔に、レオナルドは無邪気に笑いかける。
「たいしたものだな、イル・モーロ」
「なにを笑っている」
「いや、褒めているのさ。きみの芸術についての感性は悪くない。ボッティチェリあたりより上かもしれんぞ」
「見え透いた世辞などいらぬ。ボッティチェリといえば、フィレンツェのメディチ家お抱えの人気画家だろうが」
「いや……あの男はそれなりの画才を持っているくせに風景をないがしろに扱うからな」
微笑みを浮かべたまま、レオナルドは辛辣《しんらつ》な口調で言った。
「絵画に哲学的な主題を持ちこむのはいいが、だからといって自然の美をないがしろにしていいということではない。絵画に含まれるあらゆるものを等しく愛せないから、あれはいつまで経っても貧弱な背景しか描けないのだ」
「おい、レオナルド」
ルドヴィコは、ふと興味を覚えて訊いた。
「まさか、その台詞、ボッティチェリ本人に同じことを聞かせたのではあるまいな?」
「もちろん言ってやったさ。ずいぶん機嫌を損ねていたようだがね」
レオナルドは、まるで屈託のない口調で答えた。
低くため息をついて、ルドヴィコは言った。
「あきれた男だな。ボッティチェリは、ヴェロッキオ工房にも出入りしていた、いわば貴様の兄弟子ではないのか?」
「師を凌げない弟子など哀れなだけだ。ましてや兄弟子ごときに遠慮するいわれなどないさ」
レオナルドは、さらりと言ってのけた。呆気にとられるルドヴィコを後目に、湖の対岸へと視線を移す。
「それよりも見ろ、イル・モーロ。あの細く鋸歯《きょし》状に削られた岸壁を。この湖は、氷河の浸食で作られたのだ。興味深いとは思わないか」
「氷河だと? しかし、この地方に氷河などあるわけが……」
「当然だ。氷河は何千年、何万年もの歳月をかけて、ゆっくりと地形を変えていったのだ」
「ほう?」
「あの灰色の岩壁は石灰岩だな。表面の起伏は、地下水の溶食によるものか。時間が許すのならば、ゆっくりと写生していきたいところだな」
愉しげな口調でレオナルドはつぶやく。
ルドヴィコは、喉もとで小さくうなり、その変化の激しい地形を眺めた。レオナルドの説明を聞き終えても、なかなか顔をあげようとしない。
魅入られたように何度も対岸の光景を見回したあと、ルドヴィコはようやく口を開いた。
「……この不動に見える大地すら、長い年月のうちには姿を変えてしまうのだな」
「ああ、そうだ」
「そう思うと、政《まつりごと》というのはむなしいものだな」
「なぜそう思うのだ」
「貴様にはわかっているのだろう、レオナルド。この湖が生まれるまでの歳月を思えば、国家の寿命など儚いものだ。あれほどの権勢を誇った東ローマ帝国も、今や歴史に名をとどめているだけではないか」
獅子に似て狐に似る――武勇と知略を備え、世間にそう評される希代の宰相とも思えぬ寂しげな声でルドヴィコは言う。
「めずらしく卑屈だな、イル・モーロ」
からかうような口調で、レオナルドが言った。その瞳は、優しげに細められている。
「――悲観するのはきみの勝手だが、忘れないことだ。たとえきみが死んで公国が滅ぶことがあったとしても、ぼくが残す作品が、きみの治世を永劫の未来に伝えるだろうということをな」
ゆるゆると髪を風に遊ばせながら、レオナルドが言った。
冗談めかした口調の中に彼の本心を垣間見て、ルドヴィコは思わず微苦笑を浮かべた。
この傲岸な芸術家と奇妙に気があってしまうのは、結局、自分が、彼のこのような言葉を聞きたいからなのかもしれないと思ったのだ。
「ふむ、ではせいぜい貴様には働いてもらうとしよう」
苦笑の残る表情でそう言うと、ルドヴィコは馬を前に向けた。湖の岸辺に沿うようにして、緩やかな登り坂が、峠の中腹まで延びている。
「アッラマーニの屋敷までは、あとどれくらいだ」
問いかけるレオナルドに、
「もう間もなくのはずだがな」
そう答えて、ルドヴィコは先導する護衛兵の背中を見た。
チェチリアからの信書を運んできたエンニオという男だ。アッラマーニの城館までの道は、よく知っているはずである。
だが、ルドヴィコが護衛兵を呼び止めようとしたとき、そのエンニオの厳しく誰何《すいか》する声が響き渡った。
「何者か!」
護衛兵の太い声に驚いたように、低木をかき分けて人の影が現れた。
茶色い毛織物の上着をまとった、逞しい体つきの老人である。
深いしわの刻まれた顔は褐色に日焼けし、斜面を歩く足取りはしっかりしている。黒い瞳は大きく愛嬌があったが、遭遇した騎士たちの姿に、ひどく怯えているようだった。野盗の集団だと思い違えているのかもしれなかった。
「よい。下がれ、エンニオ」
部下の肩越しに声をかけ、ルドヴィコは老人の前に進み出た。表情を硬くしたままの老人に、穏やかな声で話しかける。
「ミラノのルドヴィコ・スフォルツァだ。脅かしてすまぬ。ここはパオロ・アッラマーニの領地ではないのか」
「……はい。そうでございます」
嗄《か》れてはいるが、よく通る声で老人は言った。
「私は、アッラマーニ様のお屋敷に仕えておりますサントという者です」
「そうか。では、アッラマーニの屋敷で人死にが出たことも知っているな」
「はい。亡くなられたのはアッラマーニ様ご本人でございます」
「ほかの客たちはどうしている?」
「……司祭様たちのご指示で、お屋敷に残るようにと」
「うむ」
ルドヴィコはうなずいて、老人の様子をながめた。受け答えを見る限り、このサントと名乗る老人は怪しいものではないらしい。
「だが、ならばなぜおまえは屋敷から離れているのだ?」
「麓の村まで、食糧の買い出しに出たのでございます。もともとお屋敷に蓄えていた食材は、パオロ様と私ども一家のぶんしかありませんでしたので。皆様が、もうしばらく滞在されるということになりますと、心細くなってきたところだったのです」
「なるほどな」
そう言ってはみたものの、見たところ、サントという老人は手ぶらである。
「その食材とやらはどうしたのだ?」
「はい。この先に荷馬車を止めてあります」
「ほう……?」
「私は、その……茸《きのこ》を狩っていたのです。なにぶん小さな村ですので、高貴な方々に満足いただける料理が用意できるわけもなく、せめて松露なりとも見つかればと」
「そうか。それは邪魔をしたな。すまなかった」
ルドヴィコが微笑むと、サントは首を振り、白い歯を見せた。
「ときに、ここから屋敷まではどのくらいかかる」
そう尋ねたのは、太陽が間もなく真南に達しようとしているからだった。早朝から休みなく馬を飛ばしてきたせいで、だいぶ腹も減っている。
「はい。この湖を右手に見ながら、峠をしばらく上ったところです。旦那様たちの馬ならば、もう半刻もかからないかと思います」
「そうか、それは助かる」
ルドヴィコはうなずいて、サント老人に礼を言った。
「ご老人、この先には氾濫《はんらん》するような湖があるのですか?」
めずらしく丁寧な口調でレオナルドが訊く。
「は、湖ですか……?」
サントは少し怪訝そうに首を振った。
「いえ。この辺りに湖は多うございますが、これより先にはありません。あるとすれば峠を越えた向こう側の斜面になりますでしょうか。景色を楽しむのであれば、孫に近くの高台を案内させますが」
「いえ、それには及びません。では当然、そこに流れこむ川もありませんね」
「ありません。ですが湧き水が出る場所はいくらかございます。お屋敷での飲み水も、それで賄っております」
「湧き水ですか……」
レオナルドは歯切れの悪い口調で低くつぶやき、むっつりと考えこんだ。
その様子に首をひねりながらも、ルドヴィコは護衛兵に屋敷へと向かうように命令する。
レオナルドはなにか思案しているような表情のまま、黙々とルドヴィコのあとについて馬を走らせた。
途中、老人が言ったように道端につないだ荷馬車が見えてくる。たいして大きくもない荷台には、鶏や野菜などが山盛りになって積まれていた。
それを横目に見ながら、ルドヴィコが訊いた。
「なにを気にしている、レオナルド。あの老人に訊いていたのは、なんのことだ?」
馬上の芸術家は路面に視線を落としたまま黙っていた。それから、だいぶ遅れてゆっくりと言葉が返ってきた。
「……石が多い」
「ああ、山道だからな」
ルドヴィコは息を吐いた。
「おおかた一昨日までの嵐の影響だろう。このあたりは、かなり降ったようだな」
「そうかな……」
レオナルドは、気の抜けたような声でぽつりとつぶやいた。それきり完全に黙りこむ。
ルドヴィコは首をひねりながら、手綱を強く握りしめた。
道が荒れている。先日までの雨の名残なのか、ところどころぬかるんでいる場所もあった。
ほとんど通る者もないのだから無理もないが、起伏の激しい峠道には砂が浮き、崖から転げ落ちてきたような礫岩がごろごろと転がっている。
「どうやら、たどり着いたようだな」
急に開けた場所に出たところで、ルドヴィコは立ち止まり、遠く前方を指さした。
木々の隙間越しに、人工的な灰色の石壁が見えている。
峠の斜面に張りつくようにして建っていたもの。それは、四隅に円塔を持つ無骨な城砦だった。
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三 章
その屋敷は| 沼 の 館 《カーサ・ディ・パルデ》と呼ばれていた。
緑豊かな保養地の山荘《ヴィッラ》に相応しいとは思えない、やや陰鬱な響きの異称である。けれど、実際に目の当たりにしてみると、それを納得させる雰囲気を、その屋敷は漂わせていた。
異形の館であった。
遠目には城館というよりも、崩壊した古代遺跡の土台のように見える。
岩肌を剥き出しにした勾配のきつい斜面に、なかば埋もれるような形で無表情な石壁が屹立しているのである。四方に円柱状の小塔を配しただけの、飾り気のない方形の建物だった。
巨大な建造物である。
堅牢な灰白色の外壁は分厚く、膠泥《モルタル》と混凝土《セメント》できっちりと隙間を埋められている。苔むした表面が、必要以上に重々しく陰気な印象を館に与えている。
その姿に、ルドヴィコはかすかな違和感を抱く。
いくつもの湖と、常緑樹《じょうりょくじゅ》の森を見おろす景色はたしかに美しい。
城館の建つ高台からは、神聖ローマ帝国から湖水地方を抜けて、ロンバルディアへと向かう街道を見おろすこともできる。軍事的な要害としての機能も申し分ない。
しかし、この地方であれば、このような人里離れた場所でなくとも、館を建てるのに相応しい地形がいくらでもある。そう思えたのである。
「……ようやく着いたか」
馬の背に手をあてて、ルドヴィコはつぶやいた。
慣れぬ山道を走らされて、屈強な軍馬といえども幾分、疲弊《ひへい》しているようである。
護衛の兵に馬の世話を任せ、ルドヴィコは城館の正面へと向かう。アッラマーニの城館は、たしかに異形で巨大な建物だ。だが、それは単にそれだけのことである。裕福な貴族の山荘であれば、この程度の規模の建造物はめずらしくない。城館の造りは堅牢だがきわめて質素で、とりたててルドヴィコの興味を惹くものではなかった。
ただ違和感だけがある。
無意識に、ルドヴィコは同行していた芸術家を振り返った。
白い外套をまとったレオナルドは、目を細め、無言で城館をながめている。その様子は愉しげで、いつになく生き生きとしているようにも見えた。
「なるほど、門は引き上げ式か……回転式の巻き上げ機を使っているのだな」
中庭に続く城門を睨んで、レオナルドが言う。
その声につられて、ルドヴィコも門を見上げた。
金属製の分厚い城門を、踏み車に巻きつけた鎖で上方へと吊りあげているのだ。特に複雑な仕掛けではない。門扉に施された華麗な彫刻も、錆びついて、今や見る影もない。
ただし、城砦として造られたというだけあって、扉そのものはかなり頑丈である。この門を外側から攻め破るのは、かなり骨の折れる仕事になるだろうとルドヴィコは思う。
「外堀はないのか……そうだろうな。この土台も石灰岩ではない。わざわざ遠方で切り出してきたのか……ふうん、面白いな」
「なにか気になることでもあるのか、レオナルド?」
「いや、そうでもない。気にしているのは、きみのほうだろう、イル・モーロ」
「なに?」
一方的に思わせぶりな言葉を言い残すと、レオナルドは、興味を失ったように城門から離れた。城門は中庭へと通じてはいるが、その中庭から直接、館の中にはいることはできないらしい。一段高くなった連絡壕が、城館の壁の外側を、ぐるりと回廊のように囲んでいる。館への出入りには、その連絡壕を使うようになっているのだ。ひどく不便な造りである。もともとは城砦として造られた建物なのだから、使い勝手が悪いのは仕方のないことなのだろう。
「きみは、この建物を見て、落ち着かない気分になったのではないか?」
芸術家が不意に尋ね、ミラノの宰相は唇を固く結ぶ。
「……たしかにな。俺は、この建物がどうも好かぬ。妙に陰気で、黴臭《かびくさ》い」
「黴臭い、か……なるほど」
レオナルドは薄く笑った。不機嫌な声で、ルドヴィコは続けた。
「そうだ。悪いが、俺にはアッラマーニが、それほどたいした建築家だったとは思えぬ。ミラノは華やかな街ではないが、この屋敷よりも不細工な建物はそう多くない」
「それはつまり、この建物が古ぼけて見えるということかい?」
「む」
指摘されて、ルドヴィコは足を止めた。先ほどから感じていた違和感の正体に、ようやく気づく。この建物の姿は、古いのだ。
噂では、この城館が建てられて、まだ三十年あまりしか経っていないとされている。なのに、その外観はいかにも古臭く、まるで中世以前の建築であるかのような錯覚さえも覚える。
手入れが行き届いていないという部分はあるだろう。しかし、それだけではあるまい。小さな窓と平面的な造作の壁が、建築技術の未熟だった時代の建物を連想させる。遺跡のようだと感じたのも、そのせいだ。
それでいて、厚みのある低い城壁や四方に配した円塔などは、ごく近年になって生み出された城壁の構造である。その様が、いかにも不調和でちぐはぐなのだ。
ルドヴィコは、ふと飛躍した想像に囚《とら》われる。
「この館の姿が古臭く造られているのは、聖遺物を納めていることに関係しているのか?」
レオナルドは一瞬、なんとも言えない奇妙な表情を浮かべた。微笑んで首を振る。
「まさか。そんなはずはあるまい」
「ああ……しかし」
「そうだな。強いていえば、それは順序が違う」
「それは……保管している聖遺物をそれらしく見せるために、わざと古臭い建物を造ったということか?」
訝しげに、ルドヴィコは訊き返した。レオナルドは、ふふん、と軽くうなずき、
「そういうこともあるかもしれないな」
含みのある口調で、それだけをつぶやいた。
ルドヴィコは、城館の入口へと続く連絡壕の階段をのぼった。
間近にそそり立つ灰色の壁に、重々しい石の質量を感じる。それは、ミラノのスフォルツァ城にいても意識したことのない感覚であった。
やはりこの館の異形さが、それを感じさせるのだとルドヴィコは思う。
出迎えの人間の姿はない。
城館の扉の前に立って、中の人間を呼んだのはルドヴィコの護衛の一人である。
しばらく待たされて、ようやく内側から扉を開けようとする気配があった。
顔を出したのは、質素な下級聖職者の装束を身につけた男だった。
「ミラノのルドヴィコ・スフォルツァ閣下でございますか」
必要以上に丁寧な口調で、男が言った。
厄介者を扱う態度である。敏感にそれを察して、護衛の兵士たちは一様に表情を険しくする。
「ヴェネツィア大司教区の助祭殿だな。屋敷の人間はどうしたのだ?」
男と面識のあるエンニオが、進み出て訊いた。
助祭は、かすかに戸惑うような態度を表した。
「それが……少々、不測の事態がありまして」
「不測の事態?」
館の主が殺されたこと以上に思いがけないことがあるのだろうか、とルドヴィコは訝る。
はい、と若い聖職者はうなずいて、まずはお入りください、と道を譲った。
巨大な建物の外観に反して、館内の回廊は狭く暗かった。馬の世話をする兵士を数人残して、ルドヴィコたちは食堂に案内された。アッラマーニの屋敷には、いわゆる広間のようなものはないらしい。細長い食卓の並ぶ小振りな食堂は、屈強な護衛の兵士たちを迎えて、一層窮屈に感じられる。
昼間から薄暗い室内を、部屋の四方に置かれた灯火《ともしび》が弱々しく照らしている。
食堂の掃除は行き届いていたが、内装の様子から、長いこと使われていなかったのは明白だった。アッラマーニは、おそらく使用人たちとも顔を合わせず、自室で一人きりの食事を続けていたのだろう。偏屈な建築家が人目を避けるように暮らしていたという噂に、どうやら間違いはないらしい。
ヴェネツィア人の助祭は退席し、かわって二人の男が食堂に現れた。いずれも中位の司祭の衣装をまとった連中である。年齢はルドヴィコよりも上だろう。二人の司祭は似たような背丈だったが、受ける印象はまるで違った。一人は、絵に描いたような謹厳《きんげん》な聖職者という雰囲気であり、残る一人は、司祭よりも商人のほうが似合いそうな脂っぽい顔つきの男である。
「これは、閣下……このような場所でお目にかかれるとは思いませんでした」
不健康そうな肌の色をした厳めしい顔つきの司祭は、そう言って、ミラノ大司教区より派遣されてきた主席司祭――カルロ・マンゾーニであると名乗った。
言外に敵意を滲ませた口調である。
「いや、まったく。お目にかかれて光栄ですな、イル・モーロ閣下」
対照的に愛想の良い声を出したのは、もう一人の恰幅の良い司祭だった。胸に手を当てて、慇懃に礼をする。
「ヴェネツィアはサンタ・マリア・フォルモーザ教区の聖堂参事長、ダニエリ・オルセオロでございます。お見知りおきを。閣下の訪問については、ガッレラーニ嬢から伺っておりますが、なにぶん状況が状況でして。非礼がありましてもお許しいただきたい」
「承知しているつもりだ、オルセオロ殿」
ルドヴィコは、二人の聖職者に油断なく目を向けたままうなずいた。
館の主であるアッラマーニが死んだことで、聖遺物の調査団とルドヴィコたちの関係は、微妙なことになっている。
建築家の不可解な死によって、図らずも香炉の霊験は立証されてしまった。こうなると聖職者たちの最大の関心は、最終的な香炉の帰属である。どの教区の教会が聖遺物を手に入れるかによって、司祭たちの立場も大きく違ってくるからである。
そんな彼らにとって、ルドヴィコはまさに招かれざる客である。
ルドヴィコが、ミラノの宰相という肩書きをもって聖遺物の争奪に加わるようなことがあれば、ミラノと他の教区の間に深刻な対立を引き起こすのは目に見えている。それを司祭たちは危惧しているのだろう。
一方で、聖職者たちが本気で香炉の奪い合いをはじめた以上、ルドヴィコも手をこまねいて見ているわけにはいかなくなっている。
いちおうの同盟相手とはいえ、ヴェネツィアやマントヴァは、利害の対立する異国である。いつなんどきミラノと戦火を交えることになるとも限らないのだ。
そんな彼らが、噂に名高い聖遺物を手に入れるのを、黙って見過ごすわけにはいかない。民衆や兵の士気にかかわる問題だからだ。
だからといって、無理やりに香炉をミラノのものにすれば、法王庁《ヴァチカン》の反感を買うのは目に見えている。俗世と宗教界の利害が複雑に絡んだ、ひどく難儀な問題であった。
しかも聖職者たちの態度はかたくなで、そう易々とルドヴィコたちに調査の主導権を渡すつもりはないらしい。この交渉は骨が折れそうだと、ルドヴィコは密かにため息をついた。
その直後だった。
「ところで、司祭殿――」
二人の聖職者の顔を見比べつつ、レオナルドが口を開いた。この陰気な館には不似合いな、旅装の美しい芸術家の言葉に、司祭たちは刹那、不意を突かれたような表情を浮かべた。
「先ほどお会いした助祭殿に、なにやら厄介なことが起きたと聞かされましたが?」
「さて、そのようなことを言った者がおりましたか――」
ミラノの司祭が苦い顔でつぶやいた。今にも舌打ちしそうな表情だ。オルセオロもはっきり動揺を表に出す。二人の聖職者は、どちらからともなく互いに顔を見合わせた。
口ごもる彼らを冷ややかにながめて、レオナルドは淡々と言葉を続けた。
「なるほど……では、やはり聖遺物は消失したと考えてよろしいのですね」
「消失だと?」
驚いて、ルドヴィコは身を乗り出した。
「待て、レオナルド。なんの話をしている?」
「きみにしては察しが悪いな、イル・モーロ」
レオナルドは、いつもの皮肉げな表情で笑っている。
「おそらく例の香炉とやらが消え失せたのだろうさ。屋敷の使用人たちならともかく、法王庁の使者である方々があわてるとしたらほかにあるまい」
「香炉が……消えたのか」
呻いて、ルドヴィコは聖職者たちに視線を戻した。マンゾーニは不快げな視線をレオナルドに向け、恰幅の良いヴェネツィア人は額の汗を拭いている。確認するまでもなく、彼らの態度がレオナルドの言葉を裏付けていた。
ルドヴィコは少なからず混乱する。
「この屋敷から香炉を持ち出した人間がいるというのか……?」
誰に言葉を向けるともなく、ルドヴィコは乱暴な声を出した。
聖職者たちは答えない。彼らにしてみれば、香炉を紛失したという事実は出来る限り伏せておきたいことだったのだろう。しかしその目論見は、皮肉屋な芸術家の一言によって呆気なく破れてしまったというわけだ。
やがてマンゾーニが低いため息をついた。
威圧するようにルドヴィコを静かに睨んで、口を開く。
「仰るとおりです、閣下」
唇だけを動かして、ミラノ人の司祭は言う。
陰気な瞳は瞬きもせず、ルドヴィコを睨んだままである。
「――昨夜以来、アッラマーニ殿の香炉の行方は知れません。聞けば、閣下は聖ルカ信心会の師匠《マエストロ》に依頼して、聖遺物の真贋を独自に判定するおつもりだとか。そうであるなら、申し訳ないが機会を改めていただきたい」
「我々に出直せと?」
ルドヴィコは不快げに鼻を鳴らした。マンゾーニは目の動きだけでうなずく。
「無礼を承知で申し上げております。いずれにせよ、肝心の香炉が何者かに隠蔽《いんぺい》されていては、いかな慧眼《けいがん》の師匠《マエストロ》といえども、その真贋を見極める術はありますまい」
「それは――そのとおりだが」
「ガッレラーニ嬢を足止めしたことについては、心苦しく思っております。閣下が身分を保証してくださるということであれば、あの方の拘束は解きましょう。ただし、ミラノに戻られる前にお荷物だけは検《あらた》めさせていただきたい」
「ほう……チェチリアを疑うか」
ルドヴィコは声を低めて、マンゾーニを見返した。厳格な顔つきの司祭は動じない。
「この城館の香炉を調査する権限は、法王庁から我々に与えられたものです。それについては、お忘れなきよう」
「そちらこそ思い違えてもらっては困るな、主席司祭殿」
穏やかな声でルドヴィコが言う。
「この屋敷も件《くだん》の香炉も、パオロ・アッラマーニの所有だろう。そして我らはアッラマーニの客人だ。貴殿らが法王庁に与えられた任務は尊重するが、我が物顔で彼の遺産を掠め取るのを認めるわけにはいかんよ」
「な……!?」
顔色を変えたのは、オルセオロである。
「閣下は、我々が聖遺物を略奪しようとしていると仰るのか?」
「そう思われたくなければ、振る舞いには気をつけることだ。貴殿らがこの屋敷に来てアッラマーニは命を落とし、香炉は何者かに奪われたという。疑われても文句は言えまい?」
「し……しかし」
「もちろん私とて、貴殿らを本気で疑っているわけではない。だが、疚《やま》しいところがないのであれば、我々を追い払おうとするような貴殿らの態度は腑に落ちぬ。そう言っている。本気で香炉を捜すつもりがあるのなら、人手は多いに越したことはないはずだ」
「……それは、たしかにそうですが……」
オルセオロは眉根を寄せ、すぐ隣のマンゾーニを睨むように目を伏せた。
あからさまな困惑と嫌悪が滲み出たような表情である。頭ごなしの交渉しかできない堅物のミラノ人司祭を、内心で軽蔑しているのだろう。自分なら、もっと上手くルドヴィコをまるめこめると思っていたのかもしれない。
結局、不承不承ながら最初に折れたのはマンゾーニだった。
「わかりました……そこまで仰るなら止めますまい。ただし閣下、条件――というよりもお願いがございます」
終始冷静な司祭の言葉に、ルドヴィコは敢えて微笑んでみせた。
マンゾーニの希望とは、ルドヴィコの護衛たちを、最低限の人数を残して帰らせるということであった。まずは妥当な条件だといえる。ただでさえ主人を亡くして混乱している城館に、さらに大勢の兵士を滞在させるのは明らかに無謀だからである。来る途中で出会った老従僕も言っていたように、食料の調達だけでも少々厄介なことになる。
さらには、兵士の人数が増えることで、この城館での主導権をルドヴィコのような部外者に奪われるのを、マンゾーニは恐れたのだろう。
「承知した、司祭殿。この二人の護衛を残して、あとの者は麓の村まで戻らせよう。それでよろしいか?」
ルドヴィコはあっさりと聖職者側の提案を受けいれた。
マンゾーニは表情を変えなかったが、その陰気な目の縁《ふち》に、ほんのわずか安堵の表情を浮かべたようにも見て取れた。
「では、香炉が紛失したという、その状況を聞かせてもらえるかな?」
面倒な交渉事をようやく終えて、ルドヴィコは本題に切りこんだ。
司祭たちが再び黙りこむ。マンゾーニは相変わらず抑制の効いた態度だが、オルセオロは露骨に逡巡を顔に出している。成り行きでルドヴィコらの滞在を認めた格好ではあるが、事情を説明して調査に協力するかどうかは、べつの問題ということである。
人々の間に気詰まりな沈黙が落ちた、その直後だった。
回廊に通じる扉が開いた。
その向こう側から、痩身の司祭が現れる。
年の頃は三十代になるかならないかの、若い司祭である。
着ている刺繍入りの長衣は、マンゾーニたちのものと大差ない。ただ、優しげで穏やかな顔立ちのせいか、ずいぶんと印象が違って見える。良い意味でも悪い意味でも、聖職者に特有の空気が感じられないのだ。
彼に案内されるようにして、一人の女性が歩み出る。
少女といっても通じそうな若い娘だ。
透き通るような白い肌をしている。
ほっそりと小柄なその娘は、年齢に似合わず落ち着いた、控えめな笑みを浮かべて言った。
「それについては私が説明いたします、閣下」
ルドヴィコは思わず目を見開き、その隣で、芸術家があきれたように苦笑した。
チェチリア・ガッレラーニであった。
娘は、最近の宮廷の流行《はやり》であるスペイン風の衣装をまとって現れた。
緋や橙色の布で仕立てた礼装を纏い、左肩にだけ薄い青の飾り布をかけている。
琥珀をあしらった首飾りは、ほかの貴婦人たちに比べると質素なものだ。けれど若く清楚な彼女の雰囲気には、むしろ素晴らしく似合っていた。
長い髪を薄い紗で覆い、質素だが上品な石の飾りで留めている。
瞳の色は淡い茶色。柔らかなその眼差しは、大人びた聡明さを感じさせた。
豊満な肉体を誇る貴族の女性たちを見慣れた目には、彼女の姿は、折れそうなほど頼りなく映る。ヴェネツィア特産の水晶硝子《クリスタッロ》のように、混じりけのない可憐さを持つ娘だった。
彼女――チェチリア・ガッレラーニは貴族の生まれではない。
ミラノの廷臣だった彼女の父もすでに亡い。本来なら彼女は、宰相であるルドヴィコと会話を交わすような身分の娘ではないのである。
世間では、彼女の並はずれた器量に感銘したルドヴィコが、愛妾として彼女を囲っているのだと噂されている。ルドヴィコも敢えてそれを否定していない。しかし実際のところルドヴィコが魅了されているのは、むしろ彼女の教養と知性に対してであった。
女性であるチェチリアが、ルドヴィコの政敵になることは決してあり得ない。
そのため、最近ではルドヴィコの好む哲学や芸術の話題だけでなく、余人には打ち明けられない政治向きのことまで、彼女に持ちかけるようになっている。幼い君主にかわってミラノを統治する宰相が、年若い娘を、いわば非公式の顧問官として扱っているというわけだ。それは宮廷に出入りする人々なら誰もが知っていることである。
特に人材の登用について、彼女は格別の嗅覚《きゅうかく》を身につけているらしかった。
ミラノが宮廷技師としてレオナルドを登用したのも、そもそもは彼女が進言したことである。
そのせいか、誰に対しても尊大なレオナルドも、チェチリアだけは苦手にしているらしい。
娘が部屋を訪れて以来、彼はいつもより更に無表情に窓の外を眺めている。
この奇矯な芸術家も、彼女の前でだけはなぜか冷静さを欠くのである。
そんな彼をも他愛ない世間話や竪琴《リラ》の練習に付き合わせることができるのは、ほかの誰にも真似できない彼女だけの特権だった。チェチリアというのは、そういう娘なのだった。
整った面差しに見る者を怯ませるほどの凛々しく小気味よい表情を浮かべ、彼女は男たちに向き合っている。
「――礼拝室の壁には、血の痕が残されていました。つまり、館の対岸の壁に運ばれる前、アッラマーニ殿の遺体は礼拝室にあったのだと思われます」
手際のよい彼女の説明を、ルドヴィコたちは黙って聞いた。
事情を知っている司祭たちは退屈そうだったが、それほど長い時間がかかったわけではない。娘の説明は、簡潔でわかりやすかった。
途中、何度か口を挟もうとしたオルセオロ司祭も、結局、ほう、と意味のないため息をついただけだった。チェチリアの凛然さに、大抵の大人たちは圧倒されるだけである。
「香炉がなくなっているとわかったのは昨日の夕刻ですが、アッラマーニ殿の遺体が見つかったあとで、香炉を安置していた礼拝室にはいった者はおりません。ですから彼が死ぬ前に自分で香炉を持ち出したのでなければ――」
「わかった、チェチリア」
彼女の言葉を遮って、ルドヴィコは静かに言った。
「おまえは、アッラマーニを殺した人間が香炉を奪ったのだと言いたいのだな」
唇の端をわずかに緩め、チェチリアは自信ありげにうなずいた。
「――はい、閣下。礼拝室を毎日掃除しているというベネデッタたちの言葉がほんとうならば、部屋の壁に血が飛び散ったのは、アッラマーニ殿が殺された夜だと考えて間違いないと思うのです。館の主人が殺され、その持ち物が奪われました。それが無関係な出来事だとは、私には思えません」
「うむ」
ルドヴィコは腕を組み、黙考する。
アッラマーニという建築家が殺され、彼の所有していた香炉が奪われた。実際にこの城館で起きた事件とは、チェチリアが語ったとおりの――ただそれだけのことなのである。
その出来事を、ルドヴィコたちが、複雑で奇怪なものだと感じてしまうのは、聖遺物の存在を事態の中心に置いて考えてしまうからだ。
建築家の不可解な死に様や、奪われた香炉にまつわる奇妙な噂に気を取られ、肝心の香炉を奪った犯人を捜すことを、ルドヴィコは考えていなかった。それを敏感に感じとって、チェチリアは、これが人の手による犯罪だと繰り返しているようだった。
とはいえ、そのアッラマーニの遺体を最初に見つけたのはチェチリアたちである。
香炉の紛失が発覚したとき、そこに居合わせたのも彼女だという。
普通なら、こうも冷静にその様子を語れるものではない。現に、同じ境遇にあったベネデッタという女中は、自失して昨晩から寝こんでいるらしい。
しかしチェチリアは、聖書の一節でも読み上げているかのように、普段の口調で淡々と言葉を続ける。
「アッラマーニ殿が殺された当時、礼拝室にいたと考える根拠は、ほかにもあるのです」
ルドヴィコは小さく眉を上げた。
「ほう?」
「扉には鍵がかかっていたのです」
「その扉とは、閉まっていたという礼拝室の扉のことだな」
「そうです。扉の鍵を持っていたのは、ベネデッタのほかには、アッラマーニ殿だけでした。アッラマーニ殿はあの夜、ずっと居室に閉じこもっておいででしたし、部屋には、荒らされた形跡がありません。鍵を盗み出すことができる人間は誰もいないのです。だとすれば、アッラマーニ殿が自ら礼拝室を訪れたと考えるのが自然だと思います」
「なるほど……理屈はわかるが、しかし、嵐の真夜中に礼拝というのも奇妙な話だな――」
ルドヴィコは顎を撫で、不審げに首を傾ける。
「それに、アッラマーニを殺して、そのあとで彼奴の部屋から鍵束を持ち出しても問題ないのではないか」
「いえ。それでは礼拝室に残っていた血の痕のことが説明できません」
チェチリアはきっぱりと首を振る。
「それに、その鍵束には四十本以上の鍵が無造作に綴じられているのですよ、閣下」
続けて答えたのは、チェチリアを案内してきた若い司祭だった。
マントヴァ大司教区の、サンドレッリと名乗る男である。線の細い、頼りない風貌の男だが、聖職者にしては理屈の通じる人物のようだと、ルドヴィコは値踏みする。
明らかに、彼はチェチリアとの問答を愉しんでいる様子である。
「普段から慣れていればともかく、なんの目印もなく目的の鍵を探し出そうとすれば、結構な手間がかかります。それよりは、むしろアッラマーニ殿を脅して、鍵を開けさせたあとで彼を殺したほうが確実だと思います」
「そうか……それならば、鍵束を探すのに部屋を荒らす必要がなかったことも説明できるな」
サンドレッリと目を合わせ、ルドヴィコはうなずいた。
たとえ、アッラマーニの部屋から鍵束をこっそり盗み出すことができたとしても、扉に合わない鍵を不用意に試せば、当然、金属の音が鳴り響くことになる。あるいは、その音を聞きつけたアッラマーニが礼拝室を訪れて、そこで焦った犯人に殺されたということも考えられる。
どちらにしても結果は同じことだった。
「ですから、やはりアッラマーニ殿は礼拝室で殺されたのだと思います」
考えこむルドヴィコを見て、チェチリアが言葉を継いだ。
「そのあとで犯人は香炉を奪い、その鍵を使って扉を施錠したあと、鍵束をアッラマーニの部屋に放りこんでおいたというわけか」
「はい」
それまであまり感情を見せなかったチェチリアが、ようやく嬉しそうにうなずいた。
「最初から香炉を手に入れることが犯人の目的だったのならば、アッラマーニ殿が礼拝室で殺された理由にも説明がつきます。香炉の置かれた礼拝室の扉を開けてしまったから、あの方は殺されてしまったのです。彼の血が礼拝室に残っていたことにも、香炉が消えてしまったことにも不思議なことはありません」
「奇跡などではない、ということか――」
ルドヴィコは、真面目な声でつぶやいた。近くにいた護衛の兵士の誰かが、ほっと息を吐く気配がした。レオナルドはひどい無表情で、採光窓から差しこむ光をながめている。
「あぁ……しかしな、ガッレラーニ殿」
それまで会話に加わることができずにいたヴェネツィア人の聖堂参事長が突然、チェチリアに張り合うように、甲高い声を出した。
「それでは貴女は、アッラマーニ殿が空中に掛けられていたことを、どのように説明なさるおつもりか? 貴女が言うように、彼奴が礼拝室で殺されたとして、なぜ死体をあのような姿で晒す必要があるのだ?」
「それは、わかりません」
チェチリアは揺らぐことなく率直に首を振った。
その部分にかんしては、オルセオロの言うとおりなのであった。
自分が殺した相手を館の端から端まで運ぶとなると、それは鍵を探すよりもはるかに面倒で危険な仕事である。誰が、どうやってアッラマーニを磔刑に処したのか。使用人の娘が見たという天使の存在も含めて、答えを出せる者は誰もいない。
「そうだろう」
オルセオロは、満足げに何度もうなずいた。
「あれこそ人の業に非ず。まさに彼《か》の香炉が聖遺物である証である。ならば扉に鍵がかかっていたことや、礼拝室に血痕が残っていたことに疑問を差し挟む余地はあるまい。せっかく長々と説明してもらったが、どうやら無駄であったようだな」
「――犯人など、いないということですか?」
チェチリアは静かに問い返す。
「いかにも。アッラマーニは、聖職者でもない者が聖遺物を独占し死蔵しようとした罪で裁かれたのであろうよ。奇跡を疑うのも、度が過ぎれば神に背く振る舞いとなる。くれぐれもそれを忘れないことだ」
恰幅のいいヴェネツィア人司祭は、蔑むようにそう答えた。
ルドヴィコに対するときとは別人のような、高圧的な口調だった。
チェチリアのような若い娘が、小賢《こざか》しい理屈を振り回すのが気に入らないのかもしれない。そんなふうに彼女に反感を抱く男は、実際、決して少なくない。
それとも単に、聖遺物の霊験《れいげん》を聖職者の権威にすり替えることで、自分の立場を底上げしようという魂胆なのか。あるいは、聖遺物の起こす奇跡を肯定することで、殺人者の捜索という面倒な作業から解放されたいというのが、この俗っぽい司祭の本音なのかもしれない。
彼らにとって、アッラマーニは、しょせん行きずりの他人でしかないのだ。
なんにせよ彼のその態度に、ルドヴィコは自分が不機嫌になるのを自覚した。
「なるほど……」
そのとき、おもむろにつぶやいたのはレオナルドだった。
彫像のように整った顔立ちに、いつになく穏やかな笑みを浮かべている。
「司祭殿の仰るとおりだな、チェチリア。それに、すべてが聖遺物の働きということであれば、問題の香炉が消失したのも、やはり奇跡ということになるのだろうな」
「なんだと」
真顔で言う芸術家を見返し、ルドヴィコは露骨に顔をしかめた。
「貴様……正気か、レオナルド?」
「もちろんだ。香炉が自ら姿を消したということは、この館には、それを所有するのに相応しい人物がいなかったということではないのかな――それでは、我ら俗人が捜索に手を貸すのは徒労ということになるな、イル・モーロよ」
レオナルドは涼しげな顔で笑っている。
それを聞いたオルセオロたちが、う、と呻くような息を漏らした。
建築家の死をあくまでも奇跡と言い張るつもりならば、香炉の消失もまた、神の意志ということになる。そのことを、司祭たちは失念していたのだろう。
たとえ香炉が真に聖遺物だと認められても、それを失ってしまえば、彼らの評価があがることはない。むしろ大きな失態である。
うろたえる聖職者たちから目を背け、レオナルドは皮肉げにチェチリアを見上げた。
「アッラマーニは香炉を奪うために殺された――それはいいだろう、チェチリア。だが、彼はなぜ館の対岸にまで運ばれなければならなかったのだ?」
「それは――私たちの目を礼拝室から遠ざけるためではないのですか。香炉がなくなっていることを、すぐには気づかれないように、と」
「それはね、普通の泥棒の発想だよ、チェチリア」
「え?」
チェチリアが怪訝そうに眉を寄せた。レオナルドが笑う。
「その理屈でいけば、きみたちの目を屋敷の対岸に向けさせたのも、礼拝室の扉を施錠したのも、すべては時間を稼ぐためだということになる。逃げ出すためか、それとも盗んだ香炉を隠すために時間が必要だったのか――だけど、実際にはどうだった?」
「それは――」
チェチリアは息を呑んだまま固まっていた。
「夜が明けるよりも前にアッラマーニの遺体が発見され、その結果、きみたちは、この館から出ることができなくなった。礼拝室は見張られ、香炉を隠すことも流血の痕跡を消し去ることもできなくなった。それでは意味がないだろう」
「犯人は……香炉を奪うために、アッラマーニ殿を礼拝室で殺したのではないのですか――?」
さすがに不安げな口調で、チェチリアが訊いた。
「そんなことは知らないよ――まあ、正直に言えば、一つ二つ思いつくこともあるのだが」
レオナルドはとぼけている。
「なんだ、それは?」
ルドヴィコは苛々と訊き返した。レオナルドが苦笑する。
「言ってもいいのか」
「あたりまえだ。もったいぶるほどの卓見なのか?」
「いや。アッラマーニの死体を奇跡めいたやり方で空中に持ち上げて得をする連中が、いないこともないというだけの話だ」
「……誰だ?」
ルドヴィコは表情を険しくして訊く。やれやれとレオナルドは肩をすくめた。
「もともといわくつきの香炉なんだ。持ち主が奇怪な死に方をすれば、それが新たな聖遺物の奇跡だと認められるかもしれない。いつまで経っても聖遺物の真贋を判じることができずに、無能の烙印を押されかけていた調査団の団員にとってはいい話だろう。ついでに香炉が消えたことにしてしまえば、嘘が暴かれることもなくなるしな――」
「……それは、こちらの法王庁の調査団のことを言っているのか……」
頬を強張らせて、ルドヴィコは呻く。
ふと見れば、司祭たちは青ざめた表情で全身を震わせていた。怒っているのだ。
「ぶ……無礼な」
かすれた声で、マンゾーニがようやく言葉を絞り出す。
しかしレオナルドは、それを気にした様子もなく、にこやかに微笑んだ。
「まあ、そのようなことを考える者がいないとも限らない、ということだ。信仰心が篤いのは結構なことだが、確たる証拠もなしに奇跡などというものを振りかざさないほうがいい」
他人事のような口調でつぶやき、彼は不意に立ち上がる。
退屈な議論に、興味を失ったような態度である。
「どちらに行かれるのです、師匠《マエストロ》?」
声をかけたのはチェチリアだった。
「仕事だよ。横暴な雇い主に押しつけられた雑用を片づけなければならないのでね」
「――待て、レオナルド」
嘆くように天上を仰ぐ芸術家を睨み、ルドヴィコは眉間にしわを寄せた。
「まだ話は終わっていない。情報を集めねば、此度《こたび》の犯人の目的や香炉の在処はわかるまい」
「なにを言っている。そんなことは知らんよ、イル・モーロ」
レオナルドはわざとらしく息を吐き、大きく首を振って見せた。
「忘れたのか。ぼくがきみに依頼されたのは、死体が屋敷の壁で磔にされた原理を解くことだ。建築家を殺した犯人だの、古臭い香炉だのを捜すのはまた別の話だろうに。そんなものにまで責任は持てないぞ」
「だが、聖遺物の真贋を見極めるのも貴様の仕事のうちだろう。肝心の香炉なしで、どうやって鑑定をするつもりだ?」
「なにが問題なのだ、イル・モーロ。聖遺物がもし偽物なら、そんなものはあってもなくても同じではないか。ぼくが代わりのものを作れば済む話だ」
「ぬ……」
「それができないのなら、アッラマーニの香炉は本物の聖遺物だということだ。それで証明は終わりだ。どちらにしても香炉を探すのはぼくの仕事ではない。そんな約束をした覚えはない」
「そ、それはそうだが……」
芸術家の詭弁に翻弄されて、ルドヴィコは黙りこんだ。
「では、勝手に調べさせてもらうよ」
その隙に、レオナルドはするりと彼の横をすり抜けた。誰かが制止する間もなく、薄暗い通路へと消えていく。
「あ、お屋敷の中を見て回られるのですか――?」
遠ざかっていく背中に尋ねながら、チェチリアがあわてて立ち上がった。
「でしたら私が案内いたします。師匠《マエストロ》!」
衣装の裾を両手でつまみ上げ、娘は大急ぎで食堂を飛び出していく。ルドヴィコは、呆気にとられてそれを眺めた。
彼女たちの姿が見えなくなると食堂には、途方に暮れた様子の護衛たちと、司祭たちだけが残された。レオナルドの遠慮のない指摘が尾を引いているのだろう。司祭たちは揃って渋面を作ったままである。レオナルドがさっさと逃げ出したのは、彼らを軽く不愉快にさせただけで、とりあえず満足したからなのかもしれない。
しかし、そのあとは自分が彼らの相手をしなければならないのだ――
そのことに思い至って、ルドヴィコはうんざりとため息をついた。
邸内に、豆の煮える匂いが漂っている。
食事の支度をしているのはフェデリカである。倒れてしまった女中のベネデッタに代わって昼食を手配するようにと、チェチリアが申しつけておいたのだ。
しかしミラノから駆け通しでここまできて疲れているはずのレオナルドは、料理の匂いには無関心に厨房の前を通り過ぎた。そういう男なのである。食事にはほとんど興味を示さないし、酒も呑まない。それどころか睡眠さえもあまりとらず、いつ眠っているのかわからないところがある。
光と闇が交錯する回廊に、その男はたたずんでいる。
チェチリア・ガッレラーニは息を詰めて、その様子を見守っている。
穏やかな日盛りの時刻である。
けれど灰色の石壁を剥きだした城館の回廊は薄暗い。窓から漏れる午後の日射しは、屋内の闇を一層深くするだけであるようにも思える。
冷たい彫像のような男の横顔に、窓越しの光が濃い陰影を落としていた。石畳に覆われた城館の中庭を、美貌の芸術家は見つめているのだった。
「アッラマーニの遺体は、あの飾り窓の枠に支えられて空中に浮かんでいたわけか――」
説明を聞くよりも先に、芸術家は、一人で納得したようにつぶやいた。
「気に入らないな。偶然ではないのだろうが、目的があってやったことだとも思えない。こればかりは理解に苦しむな」
「師匠《マエストロ》にも、おわかりにならないことがあるのですね」
チェチリアは小さく微笑んで訊いた。
「そう、描かれた絵が不自然だと感じるということは、なにか見落としている法則があるんだ。それがどんな些細なものだとしてもね――」
レオナルドは淡々とつぶやく。明らかに彼は、この疑問を愉しんでいるようである。
「なにか……お気づきになったのですね」
いくばくかの期待をこめて、チェチリアは顔をあげた。
城館の壁に仕掛けがあるのではないかと、最初に指摘したのはチェチリアである。
レオナルドが真っ先に中庭を見たいと言い出したときに、疑惑は、ほとんど確信めいたものに変わっていた。芸術家は、しかし素っ気なく首を振って告げた。
「うん、この建物が、ある法則に基づいて造られているということだけはわかった」
「え?」
「さすがはアッラマーニといったところだな。見事な建築だ。だが、それがよくわからない。なんのために彼がそのようなこだわりを見せたのか。彼の死に様にそれが関係していることは間違いないと思えるのだが――」
「はあ……見事な建築、なのですか?」
チェチリアは、かすかな落胆を覚えて言う。
アーチ型の狭い窓越しに見える中庭の姿は、殺風景で貧相ですらある。城壁は、粗い仕上げの石材を無造作に積み上げただけであり、傷みが激しい。城館の意匠は簡素すぎるほど簡素で、とても彼が言うような見事な建築物であるとは思えなかった。
「この屋敷を、イル・モーロは、黴臭いと表現したよ」
不服そうな表情のチェチリアに気づいて、芸術家は薄く笑ったようだった。
上手いことを言う、とチェチリアは思う。その心情を見抜いたように、レオナルドはうなずいた。
「そう。あの男の言葉は正しい。この屋敷は、ぼくたちが知っている建造物とは、違う法則に基づいて造られている。だから、ここに居る者は強い違和感を感じるのだな」
「違う法則……ですか?」
少し興味を惹かれて、チェチリアは眉を寄せた。
「それは、どのようなものなのです?」
「建築の歴史とは、光を求め、天空に向かう欲求の積み重ねだよ。それはつまり、重力を否定しようとする試みだ、チェチリア」
「――より高い建物を造ることが、人々の望みだったということでしょうか」
チェチリアは、創世記第十一章の一節を思い出す。
かつてシンアルの地に移り住んだ人々は、天まで届く塔のある都市を造ろうとして神の怒りに触れた。後に、バビロンと呼ばれた街に住む人々の物語である。
しかし、十二世紀なかばにゴシック様式が確立して以降、まるで聖書の物語をなぞるように、大聖堂《ドゥオモ》をはじめとする都市の建築は、壮麗さと巨大さを競い合うように変わっていった。
十三世紀までのわずか百年間にゴシックの大聖堂の天井の高さは当初の二倍にも達し、フランスのアミアン大聖堂などは、約一万人もの都市の住民すべてを収容できると言われている。
「それだけではないよ、チェチリア」
無表情に、レオナルドは言葉を続けた。
「――人々が真に望んだものは、建物という器ではなく、その中に盛られた領域そのものだ」
「……領域?」
「建物固有の意味を持った空間、とでも言えばいいのだろうな。建築という行為は、ある種の魔術《マジイーア》の延長にあるものだ」
「魔術……ですか」
目を大きく開いて、チェチリアは首を振る。
「まさか――」
「そうかな。たとえば商人が道端に天幕を張るだけで、路地だったはずの空間は商店に変わる。ドゥカーレ宮の壁に刻まれた蝮《まむし》の紋章は、ヴィスコンティ家が滅びた今でも彼らがミラノを統治していた時代の記憶を残している。それが建築物にかけられた呪《まじな》いだよ。おそらくは人類が狩猟をして暮らしていた古《いにしえ》の時代から、人が住む空間には特別な意味がこめられていた。人の手で区切られた領域は、外側の空間とは異質なものに変わるのだ」
「はい。でも、それは――」
反論しかけて、チェチリアは言葉を切った。少し考えて、言い直す。
「……ただ雨風をしのぐだけが建築物の役割ではないということは理解できます。それが魔法、なのですか?」
そうなのかもしれない、とチェチリアは思う。
貴族や諸侯は自らの居城を壮麗に飾りたてることを競い、司教をはじめとする都市の住民はより巨大で美しい教会堂を所有することを強く望む。まるで熱病に浮かされたようなその情熱を建築物の持つ魔力と呼ぶのなら、それはそのとおりなのだろう。
窓の外に目を向けたまま、レオナルドはつぶやくように言った。
「そう、逆に異教徒の神のために造られた神殿も、聖遺物を祀ることで、それはキリスト教の礼拝堂になるとされている」
「聖遺物……!?」
思いがけない符合に、チェチリアの鼓動が跳ねる。
レオナルドは、ようやく振り向いて目を合わせた。皮肉げに唇を歪めて言う。
「重要なのは器ではないのだ、チェチリア。より強力な呪物を受け容れれば、結界たる建築物は存在する意味すら変わってしまう」
「わかる、ような気がします――いえ、わかります」
チェチリアは小さくうなずいた。
「建造物の領域を表現する主体は内部の空間なのですね。建物の外側は、舞台の裏側のようなものにすぎない?」
「きみはイル・モーロよりも、生徒としては上だな」
そう言って、レオナルドはやりにくそうに微苦笑を漏らした。
チェチリアも同じように笑みを浮かべた。城館の主人が奇怪な殺され方をした現場を見て、にこやかに建築学を談義している自分たちのことがおかしかったのだ。
館の石壁に手を伸ばし、レオナルドがふいに話題を変えた。
「領域とは、人の手によって生み出された世界のことだ。建築とは、世界を創り出す魔法だ。より広大で精緻《せいち》な世界を生み出すために、人々は巨大な建造物と光を必要とした」
「光……」
「そう。天上の世界を再現しようとした教会が、豪壮な大聖堂と壮麗な着色|硝子《ガラス》の窓を必要としたように――」
よどみない口調でレオナルドはつぶやき、チェチリアは、幼い頃に目にした大聖堂の伽藍を思い出す。
燃え立つ陽光のごとき薔薇《ばら》窓の輝き。無数の色彩に自ら発光する着色硝子。呼吸のように色を変える光に包まれ、彼女はまるで自分が黙示録に記された天上の都にいるような錯覚を覚えたのだった。
その錯覚を生み出したものこそ、あれほどまでに巨大で、そして神秘的な光に満ちた聖堂の空間そのものではなかったか。
「だが、それは矛盾だ。石や煉瓦《れんが》を積み上げて造る建築は、基本的に壁で床や屋根を支える。窓などの開口部が狭いほど安定する。建物の巨大さと、内部に取りこむ光の量は相反する要素だ。その不利な課題を克服するために、建築家たちの技術は進歩した。それが――」
「重力の否定、ということなのですね」
レオナルドは、チェチリアを見てわずかに口元をほころばせた。
「そうだ。穹窿《ヴォールト》や拱《アーチ》、|飛び梁《バットレス》。現在の美しい建築の構造のすべては、重力に逆らう、ただそのためだけに生み出された技術だ。だが――」
つぶやくレオナルドにつられて、チェチリアは視線を中庭に戻した。
アッラマーニが高名な建築家であったのならば当然知っているはずのそれらの技術は、この城館には使われていない。
否――使われてはいるのだ。
だが、それは屋内を美しく快適なものにするためではなく、ただひたすら城壁の強度を増すためだけに用いられている。いかめしい要塞建築そのままの粗石積みの壁に窓は少ない。その壁は、場所によっては大人の男が両手を広げたよりも厚い。
その荒削りな建築様式は、一千年以上も昔に造られた古代ローマの万神殿《パンテオン》にも通じるものがある。ルドヴィコが黴臭いと評したのも、実にもっともな話だった。
「この屋敷が、そのような歴史の潮流に逆らうような造りになっているのは、もともと城砦として使われていたからなのでしょうか」
迫り出した二階の飾り窓を見つめ、何気なくチェチリアはつぶやいた。
館内の中庭に面した窓には、いずれも頑丈な鋼鉄製の鎧戸がついている。ほとんど隙間なく完全に密閉できる造りである。おそらくは、それも屋敷が城砦として使われていた時代の名残なのだろうと思う。
そのことについて尋ねようと振り返り、チェチリアは少し驚いた。
レオナルドが、呆然と目を見開いていたからだ。これまでに彼が見せたことのない、放心したような表情で高い外壁を見上げている。瞳の焦点があっていない。
「そうか、チェチリア――それだ」
大きく息を吐いてレオナルドがつぶやく。だが、彼は自分が声を出していることにさえ気づいていないようだった。無意識に掲げられた左手が、虚空に精緻な像を描き出すように動く。
「……歴史の潮流……なるほど、アッラマーニ、そういうことなのだな。だからきみは……」
「師匠《マエストロ》?」
「そうだ……だけど違うんだ、チェチリア」
レオナルドは曖昧な微笑を浮かべて首を振った。
軽く目を伏せた彼の口調は、すでに普段の様子に戻っている。呼吸だけがかすかに荒い。
「……違う?」
「言っただろう。この館はぼくらの知っている建物とは別物だ。これは世界ではなく、境界を創り出す建造物だ。だからやはりアッラマーニはたいした建築家なのだ」
「…………」
チェチリアは無言で、美貌の芸術家を見つめた。
彼の言葉を、完全に理解することはできなかった。時折そうやって含みを持たせた言い回しをするのが、この男の癖なのだ。
思わせぶりな言葉を弄《もてあそ》んで、愉しんでいるわけではない。会話を成立させるためには、双方が言葉の裏側にある概念を、同じように理解していなければならない。
だが、不世出の才能の持ち主である彼の思考を表現できる言葉は、おそらくこの時代には存在しないのだ。だから、どうしても曖昧な表現になる。彼が絵を描くことを選んだのは、もしかしたら、そのためなのかもしれなかった。
そして彼は、この建物は境界を創り出す建造物なのだと言った。
この城館が造られた意味は、建物の内側にはない、ということなのだろうか。
それもまた、奇妙な符合であるように思える。
建築家の死体が磔られていたのは、中庭に面した館の外壁――
建物の内側でも外側でもない場所だ。
「このお屋敷の成り立ちが特異なのは、やはり、これが聖遺物を納める器として造られた建物だったからなのですか?」
声を低くして、チェチリアは訊いた。
レオナルドはゆっくりと振り向いた。愉快そうな表情を浮かべている。
「きみまでイル・モーロのようなことを言うのだな、チェチリア」
声を出して笑いながら、芸術家は言った。
「そんなことは知らないし、興味もないよ。アッラマーニの造った屋敷は少しばかり面白いが、それだけだな。本来ならば、こんな使われ方をするべきものではなかった。実に不本意だ」
「え……それでは聖遺物の奇跡は、この建物とは独立して起きたことなのですか?」
チェチリアは混乱して問い返す。レオナルドがなにかに気づいたように思えたのは、聖遺物とは無関係なことだったのだろうか。
「ですが、師匠は聖遺物の真贋を判定すると約束されたのでしょう――」
「ああ、そうだ――そうだった」
億劫げにつぶやいて、レオナルドは思案するように首を傾けた。
やがて不意に眉を上げ、彼女を見る。
「では、きみの| 白 貂 《エルメリーノ》を連れてきてくれないか。一緒に来ているのだろう?」
「リベラ、ですか?」
チェチリアは、目を瞬いた。
「それはかまいませんが――あの子が、どうかなさいましたか?」
「絵を描くのさ。それがぼくの仕事だからね」
「ですが、ルドヴィコ様に依頼された仕事はどうなさるのです?」
少し驚いてチェチリアは訊いた。
たしかに、哀れな建築家の遺体に最初に気づいたのは、あの小さな獣だった。
白貂を使って盗まれた香炉の在処なり、聖遺物の真贋なりを解き明かすつもりなのだろうかと想像する。
けれどレオナルドは、そんな面倒事にはまるで無関心な様子で首を振った。
そして、なにか含むような笑みを浮かべて、無造作に言った。
「だから描くのだよ、チェチリア。そう、きみも一緒にいればいい」
茶色の目を細めて芸術家を軽く睨み、チェチリアは、困惑した表情のままうなずいた。
館の中庭へと通じる正面の門は、想像していたよりもずいぶん簡単に開いた。
この建物が城砦として使われていた時代の面影を残す、厚い青銅製の扉である。
軍馬で数頭分の重さはあるだろう。大勢の兵で攻め立てても、外側からでは簡単に破れるとは思えない。その扉が、上方へと吊り上げられていく。
時折ぎしぎしと鎖が軋む音がするが、それだけである。実に滑らかなものだった。
館の中に残って扉を巻き上げているのは、山中での茸探しを終えて戻ってきた使用人のサントである。山育ちで健脚ではあるが、小柄な老人だ。それほどの腕力の持ち主だとは思えない。
しかし扉は滞りなく引き上げられ、まもなく、人が通れるほどの高さになった。
石切場などで使われる巻き上げ機を効率の良い形にいくつも組み合わせ、逆転を防ぐための弁も設けてあるのだろう。
なかなかたいした技術であるとルドヴィコは思う。レオナルドがこの館に着いたとき、しきりに感心していたのも、ふざけていたわけではなかったらしい。
ゆっくりと門をくぐって、ルドヴィコは頭上を振り仰いだ。
広い中庭である。
だが、開放感はない。
周囲をぐるりと囲む建物が、敷き詰めた細かな石畳に長い影を落としている。
地面が露出した場所はなく、草木も生えていない。
建物の窓も小さく、ここからではほとんど目立たない。
無彩色の灰色の壁が、目の前に立ちはだかっている。
ただ空だけが青い。
暗く陰った中庭から、建物に切り取られたその空を見上げていると、まるで自分が深い沼の底にいるような錯覚にとらわれる。
どことなく息苦しい気分を覚えて、ルドヴィコは軽く頭を振った。
「――アッラマーニ様の亡骸《なきがら》が浮かんでいたのは、ちょうどあのあたりでございます」
案内役として連れてきた侍女のフェデリカが、ルドヴィコの隣で説明した。
彼女が指さしたのは、館の二階にある飾り窓の上辺だった。
二階とはいうが、建物自体の造りが大きいため、かなり高い位置である。とても人間がよじ登れる高さではない。上から引き上げるにしても、一人や二人では無理だろう。
「あの窓と窓の隙間に、ちょうど引っかかっていたのだな」
顎に手をあてて、ルドヴィコは確認した。
「そうです、閣下」
本来はチェチリアの世話係である侍女が、不快げに回廊を見上げて目を細めた。
「司祭様たちが遺体を下ろすだけでも、ほとんど一日がかりだったようですわ」
「ふむ……」
と、ルドヴィコはうなずき、中庭をゆっくりと見渡した。
「彼の遺体は、今どこに?」
「とりあえずは、邸内に安置してあるそうです。いつまでも、あんなところにご遺体を晒しておくわけにもいきませんでしょう」
愛想のない声で、フェデリカが答える。
宰相であるルドヴィコを前にしても、彼女の素っ気ない態度は変わらない。相変わらずの陰気な口調である。
「とりあえず、とはどういうことか?」
「ええ、司祭様たちが仰るには、お屋敷に運びこむのはかまわないが、いつでもご遺体を運び出せるようにしておけと……」
「ああ……なるほど。くだらんな」
かすかに顔をしかめて、ルドヴィコは息を吐いた。
聖遺物の奇跡によって天に召された者の遺体は、それ自体が新たな聖遺物となる。それを教会堂に納めれば、その教区の名は高まり、収入も増すということである。真に彼が聖遺物の奇跡で命を落としたのならば――という条件つきではあるが、アッラマーニは、教会にとっての厄介者から利用価値の高い財産へと変わったということだ。
いずれにしても、その様子では、アッラマーニの死体を調べることはできそうになかった。
しかし、直接亡骸を目にしていないせいか、顔も知らない建築家の死を、ルドヴィコは実感することができない。
目を凝らして回廊の外壁を見上げても、血痕など、死体がその場所にあったことを示すものは見あたらなかった。
飾り窓の両脇の壁石はあちこち傷んでいるが、いずれも雨風に晒されてできた古い傷ばかりである。アッラマーニの死体を引き上げるために、縄や鎖などの道具を使った跡はない。もちろん、壁そのものが移動するような大仰な仕掛けがあるとも思えなかった。飾り気のないこの城館の外壁は、そのような仕掛けを隠すにはまったく向いていないのである。
「アッラマーニが殺されたという礼拝室は、あの中か――」
つぶやいて、ルドヴィコは背後の小塔を振り返った。
礼拝室のある小塔から、こちら側の回廊の外壁までは、普通に歩けばたいした距離ではない。
だが、聞けばアッラマーニというのは大柄な男だったらしい。その死体を抱えて運ぶとなると話は別である。
その日、館には大勢の人間が滞在していたのだ。
真夜中とはいえ、誰かに見られないとも限らない。そもそも、そんな危険を冒してまで死体を空中に飾らなければならない理由が、ルドヴィコには想像できなかった。
空に近い場所に磔られた死体。
普通に考えれば、それはアッラマーニを神の子に見立てるためということになるのだろうか。
アッラマーニを恨みに思っている人間が、そんなことをするとは思えない。
しかし、チェチリアが主張していたように、香炉を盗むことが目的でアッラマーニを殺した者がいるとしても、死体を礼拝室から運び出さねばならない理由はない。
アッラマーニの死体を飾ることで満足する犯人がいるとは、どうしても思えないのである。
だからこそ、アッラマーニは神の手によって裁かれたのだという説を、信じる者も出てくるのだろう。
「……アッラマーニの身体を運んでいる人影を、見た者はいないのだろうな」
ルドヴィコは、フェデリカに問いかけた。
長身の侍女は振り返り、意外にも少し困った顔で首を振った。
「ええ、見た者はおりません。チェチリア様も気にしておられたのですが」
「チェチリアが、なにを気にしていたのだ?」
「あら」
フェデリカは驚いてルドヴィコを振り返り、自らの失言に気づいたように、鼻の頭にしわを寄せた。
「では、閣下はご存じなかったのですか」
「――どういうことだ?」
ルドヴィコは、目つきを険しくして訊き返した。フェデリカは、あまり表情を変えずに首を振った。
「ええ、つまり、閣下が手配してくださったチェチリア様の従者が三人ほど、アッラマーニ様が殺された夜に起きていたらしいのです」
「起きていた?」
「はい。南東の小塔にある広間に、明け方近くまで集まっていたと」
「広間? ああ……」
ルドヴィコは、先ほど案内された小塔の様子を思い出す。
南東の小塔というのは居室ではなく、三階に通じる螺旋階段が納められている塔である。
そして、屋敷の回廊と階段が交差する場所には、長椅子などをしつらえた、簡素な談笑用の空間が設けられているのだった。
「しかし、なぜそんなところに?」
ルドヴィコが訊き返すと、フェデリカは短く息を吐いた。
「盤|双六《すごろく》に興じていらしたとか」
「……賭け事か」
ルドヴィコは苦々しく微笑した。
十字軍以降、ヨーロッパ全土に広まった盤双六は、庶民ばかりか貴族や聖職者たちの間にも根強い人気を誇る遊技である。チェチリアの護衛としてルドヴィコが派遣した従者たちは、任務を忘れて夜更けまで賭け事に熱中していたというわけだ。そのことがルドヴィコに知れたら彼らが咎められると考え、チェチリアは黙っていたのだろう。
「しかし――そやつらもアッラマーニを運んでいる者を見たわけではないのだろう?」
「そのようです」
フェデリカは無表情に言葉を続けた。
「同じような階段はほかの小塔にも用意されているのではなかったか?」
「はい。ですが、礼拝室やアッラマーニ様の居室から対岸の回廊に渡るには、南東の階段を使わなければなりません。北西の階段を使うのは遠回りですし、そのうえ南西の小塔を経由しなければ、死体のあった回廊まではたどり着けません」
「そうか――南西の小塔には、チェチリアや司祭様たちの客室があるのだったな」
「はい。助祭様の幾人かは、寝台が足りず廊下で寝ている方もいらっしゃいます」
「なるほどな。その中を死体を抱えて通り抜けた者がいるとは思えんな」
ルドヴィコは低く呻く。
アッラマーニが殺されたと目される礼拝室があるのは、館の北東の一階である。二階にあるアッラマーニの私室は吹き抜けであり、三階にあがる階段はない。
一方で、彼の死体が遺棄されていたのは、館の南側の回廊だ。犯人は、東側の回廊を進んで南東の小塔の階段を使ったと考えるのが、もっとも合理的な道筋である。
だが、その階段をあがる途中には、ルドヴィコの部下たちが集まっていたのだという。
「兵たちが夜明け近くまで広間を占拠していたとなると、礼拝室でアッラマーニを殺した者は、やつらに気取られず回廊の二階や三階に上がることはできないというわけか」
「はい。しかし、彼らは口を揃えて、誰も通りがかった者はいないと言っているのです」
「なるほど……チェチリアが気にするのも道理だな」
つぶやいて、ルドヴィコは再び屋敷の外壁を見上げた。
足場になる場所などほとんどない、垂直の壁である。死体が遺棄されていたという飾り窓の屋根までは、少なく見積もっても人の背丈の三、四倍はある。
大人の男の死体を抱えてこの壁をよじ登るのは、考えるまでもなく不可能であった。
この壁にアッラマーニの死体を掛けるには、三階の回廊から死体を吊り下ろす以外に方法はない。だが、その夜、階段をあがった者はいないという。
そう証言したのは司祭たちの仲間ではなく、ルドヴィコの配下の兵たちである。
死体を抱えているような不審な人物を、三人もいて見逃すとは思えない。今は彼らの言葉を信用するしかないだろう。
「司祭たちも奇跡だなどという言葉を無闇に使っていたわけではない――ということか」
ゆっくりと首を振り、ルドヴィコは舌打ちした。
厚い石の壁に反響して、その音は思いがけず大きく響いた。
どちらを向いても同じように飾り気のない外壁に囲まれた、方形の中庭である。
風の吹きこまぬ中庭の空気は澱み、昼の光に慣れた目に、建物の落とす影が一層暗い。
その異様な館の気配を振り払うように、ルドヴィコはもう一度強く首を振る。
城館の門を固定し終えたサント老人が、中庭におりてきたところだった。
「手間をかけたな、老人」
緊張した足取りの老従僕を見おろし、ルドヴィコは静かに頭を巡らせた。
中庭の北側――ルドヴィコたちがはいってきた門の反対側にも、錆びた金属製の扉が見える。やや狭く、背も低いが、同じような吊り上げ式の城門である。
「この中庭、あちら側にも入口があるのだな?」
静かに問うと、老従僕は、まるではじめて門の存在に気づいたように驚いて顔をあげた。
「いえ。あちらの山側の門は使えません」
「開かないのか――巻き上げ機が故障でもしているのか?」
「そうではありませんが、扉を開けたとしても外には出られないのです。屋敷の北側の壁は、なかばまで山の斜面に埋もれておりますから」
「埋もれている?」
ルドヴィコは、あらためて閉ざされたままの城門に向き直った。
石壁にぴたりと填めこまれた扉は、言われてみれば使われた形跡があまりないように思える。特別に傷んでいるというわけではないのだが、人が出入りする門かそうでないかということは、見ればなんとなくわかるものだ。
「土砂崩れでもあったのか?」
「はい。もうずいぶん昔のことだと思います。私がこのお屋敷に仕えるようになったころには、もうあちらの門は塞がっておりましたから」
「……なるほどな」
ルドヴィコは、フェデリカに劣らず陰気な声でつぶやいた。
この城館を訪れたときから漠然と感じていた違和感の理由のひとつが、ようやく理解できたような気がした。
城館の外壁が、山の斜面に半分埋もれているというのだ。それでは、この館に近づくだけで息苦しい圧迫感を感じてしまうのも無理はない。背後の森がやけに暗く鬱蒼《うっそう》としたものに思えるのも、館との距離が近すぎるせいなのかもしれなかった。
「しかし北側の斜面ということは、主の居室がある側だろう? よくもまあ、そんなところに住んでいたものだな、アッラマーニという男は」
同意を求めるようにルドヴィコはつぶやいたが、フェデリカもサント老人も、沈黙を保ったまま答えない。憮然とした表情でルドヴィコはため息をつき、
「――礼拝室とやらを見せてもらおう」
老従僕を振り返って、わざと強い口調で言った。
使用人たちに割り当てられた寝所は、城館の北西の小塔にあった。
往来のやや不便な、あまり陽当たりのよくない一画である。
だが、その廊下からは、乾いた土と干し草の臭いがした。
その空気に、ルドヴィコはかすかな安堵を覚えた。陰鬱な死の気配に支配されたこの館で、それは唯一、生命の営みを感じさせる気配だったからである。
臭いの源は、寝台に敷き詰められた寝藁や、室内に保管されている農具だった。
「この鍬《くわ》や鎌は、貴様のものか」
案内するサント老人の背中に向かって、ルドヴィコは問いかけた。
礼拝室の鍵を持っているのは、老従僕の孫娘のベネデッタである。寝こんでいる彼女から鍵を借りてくると申し出たサント老人に、自分も同行すると言ったのはルドヴィコだった。アッラマーニの死体を最初に発見したという女中の娘に、話を聞いておきたかったのだ。
「そうでございます。汚いところに足を運ばせてしまって、申し訳ないことです」
心底、恐縮した様子で老従僕は答えた。ルドヴィコは朗らかに笑って首を振る。
「かまわぬ。それより、この農具はずいぶん使いこんでいるようだが、こんな場所に畑があるのか?」
「いえ、そうではありません。この山の麓にアッラマーニ様の農園がございます。私も、もとはそこに勤めていた小作人なのです。だいぶ前に腰を痛めて、農園の仕事を続けることができなくなりまして、それで孫娘と同じように、お屋敷の世話をさせてもらっております。ですが、今でも収穫期には農園の手伝いに参りますので、道具はこちらにも」
「ほう。すると、この屋敷で働くようになったのは――」
「はい。孫娘のほうが先でございます。私の息子が、このお屋敷を建てるときにアッラマーニ様の下で働かせていただきました。そのご縁でございます」
「そうか。何年になる?」
「さて……あれの母親が死んでまもなくのことですから、もう四年ほどにもなるでしょうか。それまでは息子夫婦がこのお屋敷に勤めておりましたので」
「ふむ……息子殿はどうしている?」
「死にました。やはり四年ほど前に、流行病《はやりやまい》で」
「余計なことを訊いた。すまぬ」
ルドヴィコは、低い声で詫びた。あわてて首を振る老人に頭を下げながら、考えていたのは違うことだった。
老従僕の話がほんとうならば、アッラマーニが亡き今、この城館の構造や聖遺物についてもっとも詳しいのは、ベネデッタという彼の孫娘ではないか。そう思ったのだ。
そのベネデッタが寝ていたのは、小塔の三階にある一室である。
手狭だが、意外にしっかりした内装の部屋だった。
豪華とはいえないまでも見映えのよい布張りの家具がしつらえられ、卓上には繕いかけの衣服が何枚も置かれている。この地方の平均的な農民に比べれば、まずまずの暮らしぶりと評価していいだろう。アッラマーニという男は、偏屈だが吝嗇家というわけではなかったらしい。
寝台で毛布にくるまっていたベネデッタは、彼女の祖父とともに現れたルドヴィコを見て、ひどく驚いたようだった。サント老人がルドヴィコの身分を告げると、彼女はなかば放心した表情で起きあがり、ただおろおろと唇を震わせた。
祖父に似て小柄で、あまり特徴のない顔立ちの女性である。
ルドヴィコが想像していたほど若くはない。フェデリカよりも歳は上だろう。
緊張しているせいか、顔色が悪く、やつれて見える。この数日、あまり眠っていないのかもしれなかった。
そして、ひどく怯えている。
彼女がなにかを恐れていることは、一瞥しただけで容易に見て取れた。その恐怖が、彼女を実際の年齢より余計に老けこんで見せている。
「おまえが預かっているという礼拝室の鍵を借りにきた」
穏やかな口調で、ルドヴィコは言った。
「そのついでに、少し話を聞かせてもらおうと思ったのだ。畏《かしこ》まることはない」
ベネデッタはかすかに表情を緩め、うつむいたまま小さくうなずいた。
その間にサント老人は、壁にかけられていた鍵束から、目的の礼拝室の鍵を選び出していた。
女中の部屋にある鍵のほとんどは、鉄製の簡素な造りのものである。それらはどうやら館の外にある厩《うまや》や納屋のものらしかった。
礼拝室の鍵だけが真鍮でできた立派なもので、その中では明らかに異質である。鍵がなくなったり、すりかえられたりすれば、それに気づかないということはあり得ないと思えた。
「アッラマーニが死んでいるのを見つけたそうだな」
寝台から降りようとするベネデッタを制止して、ルドヴィコは訊いた。
「そのときの様子を聞かせてはくれないか?」
ベネデッタは、うつむいたまま首を振り、ようやく聴き取れるほどの声を出した。
「私はなにも……ただ、この先の回廊を歩いておりましたら、窓が開いていて……」
「アッラマーニの死体に気づいたのか?」
「いえ……そのときにはまだ……そのあとですぐにチェチリア・ガッレラーニ様がいらっしゃって、そのときにあの方が……」
途切れ途切れの女中の言葉に、ルドヴィコは黙って眉をひそめた。
「しかし、悲鳴をあげたのではないのか?」
「それは……」
ベネデッタが口ごもる。
「天使《アンジェロ》を――見たのだな?」
ルドヴィコが短く問うと、ベネデッタは肩を大きく震わせた。
例の香炉が聖遺物だと主張する司祭たちを勢いづけたのは、天使を見たと言う彼女の証言である。だが、少し遅れてその場に現れたチェチリアは、それらしい光は見たが、はたしてそれが天使であるかどうかはわからないと言う。
そして、ベネデッタは震えながらつぶやいた。
「……わかりません」
「なんだと?」
「私は……あの……なにも覚えておりません」
「しかし――」
「ほんとうに、私はなにも……」
頑なに首を振り続ける女中の姿に困惑して、ルドヴィコは彼女の祖父を見上げた。
壁際に立つサント老人は、不安げにうつむくだけである。
ベネデッタの真意をはかることは、ルドヴィコにはできなかった。だが、恐怖に怯える彼女の態度が、演技であるとはとても思えない。いずれにせよ、これ以上の事情を彼女から聞きだすのはできそうになかった。ルドヴィコは、話題を変えた。
「――礼拝室の掃除は、おまえの役目だったのだな?」
「は……はい」
ベネデッタが、怯えたまなざしをルドヴィコに向ける。
「アッラマーニという男は、信心深い男だったのか。屋敷に礼拝所を設け、毎日掃除をさせるほどに」
「いえ。それは……わかりません」
「礼拝する彼奴の姿を見たことは――?」
「ありません。私は存じません」
「ふむ――では、あの礼拝室は、アッラマーニがしつらえたわけではないのか。先代の館主が用意したのかもしれんな」
「わかりません……私がこのお屋敷に仕えるようになったころには、もう今と同じ様子でしたから」
「そうか」
なかば予期できたベネデッタの回答に、ルドヴィコはかすかな失望を覚えた。
彼女が嘘をついている様子はない。
ルドヴィコを前にして、今の精神状態で彼女がなにかを隠し通せるとはとても思えない。
しかし、ここで彼女と話を続けても、得られるものはなにもなさそうだった。辞去しようとルドヴィコは立ち上がり、ふと思いついて、最後の質問をした。
「ベネデッタといったな――香炉が起こす奇跡とやらを、おまえは信じているか?」
気弱げな女中は、ぼんやりとした表情で顔をあげた。そして頼りなくうなずいた。
「はい」
「ほう……なぜだ?」
「私は、聖母子様のお姿を見せていただいたことがございます」
「なに?」
驚いて、ルドヴィコは声を漏らした。横目でサント老人の様子をうかがうと、彼はぎこちない様子で首を縦に振った。老人は、すでに孫娘から、その話を何度も聞かされていたらしい。
ベネデッタは細々と言葉を続けた。
「私がお屋敷に仕えるようになってすぐのことでございます。両親を亡くした私を哀れんだのか、遠方より礼拝に来たお客様と同席することを、アッラマーニ様が許してくださいました」
「そのときに、聖母子が姿を現したというのだな」
「そうでございます。香炉の煙が自ら輝きを放ってお姿を――私は恐ろしくなって目を伏せてしまいましたので短い時間でしたが、はっきりと拝見いたしました」
「そうか」
ルドヴィコは意味のないつぶやきを漏らした。
ベネデッタの様子は、やはり嘘をついているようには見えなかった。アッラマーニが没した今となっては、彼女が聖遺物の奇跡をでっちあげる理由もない。
ただルドヴィコの困惑が深まっただけである。
ルドヴィコは短く礼を言って、ベネデッタの部屋をあとにした。
怯える彼女は、最後まで、ルドヴィコと目を合わせようとはしなかった。
塔の階段をおりていると、荒々しい声が聞こえてきた。
声の出所は、北側の回廊の端である。
粗石を剥きだした館内は思いのほか音が響く。その姿を認めるよりも先に、ルドヴィコには声の主がわかった。ミラノ大司教区の主席司祭マンゾーニである。なにか不満なことがあって、従者の助祭にあたり散らしているらしい。
「何事だ?」
階段の踊り場で待たせていたフェデリカに、ルドヴィコは訊いた。
愛想のない長身の侍女は、蔑むような表情を回廊の奥に向けると、抑揚の感じられない低い声で答えた。
「アッラマーニ様の居室で、なにやら揉め事が起きたようでございます」
「揉め事か」
ルドヴィコは眉間にしわを寄せた。興味を惹かれると同時に、漠とした不安を感じて思わずつぶやく。
「様子を見に行くか」
つぶやきを聞きつけたサント老人が、先に立って案内をはじめた。アッラマーニの居室へと続く、北側の回廊の二階である。
間もなく薄暗い通路の先に、司祭の服装をした男たちの姿が見えてくる。
いきり立つマンゾーニを、痩身のサンドレッリ司祭がなだめているところだ。
マンゾーニが連れている二人の従者は、機嫌の悪い上司を恐れてか、離れた場所でうつむいている。
「なにがあったのだ、マンゾーニ殿」
歩きながら、ルドヴィコは厳めしい顔つきのミラノ人聖職者に声をかけた。
マンゾーニは、不機嫌な表情もそのままにルドヴィコを見上げ、とってつけたような咳払いをした。
「閣下……貴方が連れてこられた師匠《マエストロ》は、いったいなにをお考えなのですか?」
「師匠《マエストロ》とは、レオナルド・ダ・ヴィンチのことか?」
「左様です」
「やつがなにを考えているのかなどということは、この俺にもわからぬよ」
苦笑して、ルドヴィコは相手の陰気な顔を見おろした。マンゾーニは苦々しげに唇を歪めたが、なにも言い返そうとはしなかった。
「それで、あの男がどんな無礼を働いたのか?」
「ダ・ヴィンチ殿は、我々の制止も聞かず、アッラマーニ殿の私室に居座っているのです」
「部屋を調べているのではないのか。聖遺物の真贋を見極めるように、あの男に依頼したのはこの俺だ」
「いえ、そうではありません」
マンゾーニが、険のある目つきをルドヴィコに向ける。
「絵を描いているのです。ガッレラーニ嬢の肖像画を描くのだとか」
「肖像画?」
ルドヴィコは無造作に首を振った。驚いたのだ。
「頼まれもしないのに絵を描いているというのか。あの男が?」
「そうなのです。それも、閣下のご依頼なのですか?」
「いや。知らんな」
「とにかく、我々は法王庁の命でここを訪れているのです。アッラマーニの遺品に手をつけて調査を邪魔するようなことがあれば、しかるべき措置をとらせていただかねばなりませんぞ」
「わかっている。やつがなにを考えているのかは知らんが、部屋を荒らしたりはせぬようにと、俺からもよく言っておこう」
ため息の混じる声で、ルドヴィコは言った。
怒りをぶちまけたことで、マンゾーニも多少は満足したらしい。無愛想に一礼すると、従者たちを引き連れて立ち去っていく。
「お見苦しいところをお目にかけまして申し訳ありません、閣下」
一人残されたサンドレッリが、丁寧な仕草で目を伏せた。
マントヴァの大司教区から派遣されてきたという痩身の司祭は、他の聖職者たちよりもずいぶん若い。身のこなしも穏やかで、立ち居振る舞いにしなやかな知性が感じられた。
生まれ持った性格もあるのだろうが、相応の教育も受けているのだろう。
貴族の血を引いているのかもしれないと、ルドヴィコは想像する。
正式に家を継げない貴族の庶子が聖職者への道を歩むのは、ごくありふれたことである。
若くして法王庁の使節に選ばれたのも、あるいはその血筋のためなのかもしれなかった。
「マンゾーニ殿は信仰の深い方なのです」
サンドレッリは落ち着いた声で言葉を続けた。
ルドヴィコはからかい半分に苦笑する。
「それは貴殿も同じだろう、司祭殿?」
「いえ。あの方はもっと厳格な考えの持ち主なのです。建築でも彫刻でも絵画でも、信仰とは無関係なものを嫌悪しているのです。法王庁が絵画を買い集めたり、庁舎を美術品で飾り立てることを公然と批判するような方ですから」
「そうか……それではレオナルドのことも快くは思っていないのだろうな」
「はい」
「わかった。では、やはりあの男には釘を刺しておいたほうがよさそうだ。世話をかけたな、司祭殿」
ルドヴィコは短く息を吐いて、まだ少し気にしている様子の司祭と別れた。
アッラマーニの居室があるのは、東西に延びる北の回廊の突きあたりだった。
この時間は陽が射さないせいか、その周囲は薄暗く、ひときわ陰鬱に感じられる。
部屋と廊下を隔てているのは、簡素な木の扉だ。厚い黒檀の一枚板だが、仮漆が剥がれ落ち、傷みが激しい。城館らしい頑丈な錠前がついていたが、鍵はかかっていなかった。
ルドヴィコが手を伸ばすと、扉は呆気なく音を立てて開いた。
乱雑に散らかった部屋の中には、レオナルドとチェチリアの二人がいた。
チェチリアは白貂のリベラを抱き、壁際の椅子に腰掛けている。
はいってきたルドヴィコの姿に気づいて、かすかに振り返ったままの姿勢である。頭を起こした白貂が、ルドヴィコを不思議そうに睨んでいた。
そして驚いたことに、レオナルドは、ほんとうに絵を描いていた。
肩幅ほどの大きさの紙に向かい、白貂を抱くチェチリアの姿の素描を描きつけている。
「なにをしているのだ、レオナルド?」
険しい声で、ルドヴィコが訊いた。
レオナルドは答えない。
作業に没頭する芸術家にかわって、口を開いたのはチェチリアだった。
「私の肖像を描いてくださっているのです」
「それはわかっている、チェチリア。どういうつもりなのかと訊いているのだ。マントヴァの侯妃からの依頼をも引き受けなかった貴様が、こんなときに肖像画など――聞いているのか、レオナルド?」
「落ち着けよ、イル・モーロ。そう騒がなくても聞こえている」
皮肉げな笑みを浮かべ、レオナルドは静かに顔をあげた。
彼の手の中には銀筆で描かれた、チェチリアの精緻な素描が完成している。肖像画の構想を練るための習作だが、彼女の姿を優美に写し取ったその作品は、芸術の範囲で評価に値するものだった。このような場所でなかったなら、ルドヴィコとて手放しで称賛していただろう。
「――貴様がこの部屋を占拠しているために、教会の連中はずいぶんとご立腹のようだぞ」
深く息を吐きながら、ルドヴィコは言った。
「そのようだな」
と、レオナルドが笑う。
「だが、仕方ない。作品を仕上げるための画材や道具が、この部屋でしか手にはいらないのだ。さすがアッラマーニ。良い道具を揃えている。もうしばらくは、ここを使わせてもらうことになるだろう」
「そんなことをしている場合か。貴様にはほかにやるべきことがあるだろう」
憤慨して、ルドヴィコは声を荒げた。
その怒気を、レオナルドは軽く受け流した。
「わかっているさ。香炉の働きだのアッラマーニの死の真相だのを解き明かせばいいのだろう」
「そうだ。それがわかっているのならば――」
「だがな、イル・モーロよ。物事には順序というものがある」
「なに?」
「今回の出来事を解き明かすのは、彫刻や絵画を完成させるのと同じだ。いや、もっと複雑かもしれぬ。奇跡を解体しようというのだからな。工程を誤れば、永遠にその謎が明かされることはない」
「……だからといって、ここでチェチリアの肖像画を仕上げることに、なんの意味がある?」
「いずれわかる。奇跡とは聖遺物が起こすのではないのだ、イル・モーロ。奇跡を願う、人の心が見せるのだよ」
謎かけのようなレオナルドの言葉に、ルドヴィコは黙って唇を引き結んだ。助けを求めるような気持ちでチェチリアの顔をのぞいたが、彼女は苦笑して首を傾げただけだった。チェチリアも、レオナルドの真意を知って、彼の行動に付き合っているわけではなかったのだ。
「ところで、閣下――その鍵は、もしや礼拝室のものではありませんか?」
白貂を抱いた娘は、ルドヴィコの持っている真鍮の鍵に目敏く気づいたようだった。
「よくわかるな、チェチリア」
「同じものを昨日見ましたから。ベネデッタから借り出してきたのですね?」
微笑んで、チェチリアが言う。
あらためて、ルドヴィコは彼女の観察の確かさに驚いた。彼女の淡い茶色の双眸《そうぼう》には、一度見たものを決して忘れない特別な機能が備わっているのではないかと、時折思うことがある。
「同じものが、この部屋にもあるはずです」
そう言って、チェチリアは壁際に目を向けた。
錆の浮いた金具に四十本ほどの鍵をまとめた大きな鍵束がかかっている。サンドレッリ司祭が言っていた、館中の鍵をまとめてあるという鍵束だろう。
「では、この鍵束も借りていく。かまわぬな?」
ルドヴィコは振り返り、廊下で待つサント老人に訊いた。
この鍵束の中に、ほんとうに礼拝室の鍵が含まれているのか――誰かに持ち出されていないのかということを確認しようと思ったのである。老従僕はそんなルドヴィコの狙いを知ってか知らずか、ただ黙ってうなずいた。
「礼拝室に行くのか、イル・モーロ?」
座したまま、振り返りもせずにレオナルドが言った。
憮然とした声で、ルドヴィコは答える。
「そうだ」
「では、窓の様子を見ておいてくれ」
「窓だと?」
ルドヴィコは動きを止めてレオナルドの姿を見つめた。自分が見落としていた重要なことを指摘されたような気がしたからだ。
「そうか……建物の中から出る方法は、なにも扉だけとは限らないということか」
礼拝室があるのは一階だ。十分な大きさがあれば、窓からでも出入りできる可能性はある。そう思ってルドヴィコは低く唸る。
「そんな大げさな話ではないよ。おおよその窓の場所と大きさがわかればいいんだ」
興奮するルドヴィコを諫めるように、レオナルドが苦笑して言う。
「いや、香炉を盗んだ犯人が、窓から侵入したというのはあり得ることだ。それに城館の外に出てしまえば、俺の部下たちにも気づかれずに、南側の回廊まで、死体を運ぶ方法があるかもしれん。わかった――調べておこう」
ルドヴィコは重々しくうなずいて、そう告げた。
足早にアッラマーニの居室を出て行きかけ、扉を閉める直前にふと振り返る。そしてレオナルドの手の中の素描と、窓際にいる娘を交互にながめた。
「いい絵だな、チェチリア」
白貂を抱く娘は、静かに微笑んでうなずいた。
案内役の老従僕たちを廊下に残して、ルドヴィコは礼拝室に足を踏みいれた。
レオナルドの一言でもたらされた高揚感は、礼拝室の冷ややかな空気に触れると、たちまちのうちにその温度を失った。
狭くはない。現在、この城館に滞在している人間全員が、余裕ではいれるほどの広さがある。だが、館全体を包む息苦しい閉塞感が、この場所では特に強く感じられる。
窓から射しこむ光と、廊下から漏れる光。
それらが、剥きだしの石壁の粗さを強調し、いくつもの影を落としている。
最初に目についたのは、部屋の奥の剥がれ落ちたフレスコ画だ。
鈍色《にびいろ》に光る祭具としての金属鏡と、燭台。古びた祭壇。革表紙の聖書。
宮殿で暮らすルドヴィコにはよくわからないが、おそらく個人の邸宅にある礼拝所としては、十分に広く、立派な部類にはいるのだろうと思う。
だが、厳《おごそ》かでありながら殺伐としたその光景に、ルドヴィコは、忘れかけていた苦い記憶を思い出さずにはいられなかった。
祭壇奥の石壁に、黒ずんだ血痕が残っている。
飛び散った血の量は多くない。想像していたよりも、ずっと小さなものだった。
生々しさも感じられない。
顔をあげ、ルドヴィコはゆっくりと室内を見回す。
古い石造りの祭壇は、素っ気ないほど簡素な造りだった。
装飾と呼べるものは透かし彫りの彫刻程度で、宝石はおろか金箔さえ使われていない。石材はこの地方ではめずらしい灰黒色で、祭壇全体が影の中に沈みこんでいるようにも見えた。
レオナルドに言われたとおり窓を探して、ルドヴィコはひどく落胆した。
礼拝室の中にある窓は、厚いガラスをはめこんだ採光窓がひとつきりである。
しかも、天井近くの高い位置にあり、手を伸ばしてもとても届かない。ましてや、そこから外に出ることなど、どうやっても不可能であった。
溜めこんでいた息を吐きながら、ルドヴィコは、窓から漏れる頼りない光をしばらく眺めた。やがて、立ちつくすその背後に、誰かが近づいてくる気配がした。
振り返ると、ほっそりとした白い影が目にはいった。
「チェチリア……」
ルドヴィコは彼女の名前を呼ぶ。
青い清楚なドレスに身を包んだ娘は、柔らかな視線でルドヴィコを見上げている。
「肖像画の下絵は終わったのか?」
「はい。そう言われました」
チェチリアは、薄く微笑んだようだった。祭壇の飾り石に視線を落としながら訊いてくる。
「なにか、わかりましたでしょうか?」
「生憎《あいにく》な……レオナルドの言うことも、今度ばかりはあてにならんようだ」
「窓、ですか?」
「見てのとおりだ。とてもなにかの役に立つとは思えぬ」
つぶやいて、ルドヴィコは苦笑した。レオナルドの何気ないひとことに、思いのほか期待を寄せていた自分のことが滑稽に思えたのだ。
チェチリアは、思慮深い表情で室内を観察している。ルドヴィコも、彼女にならい無言で部屋の様子を見渡した。冷たい敷石に二人の足音だけが反響する。
「……この部屋は、好きになれん」
いつしかルドヴィコは、無意識にひとりごちていた。
突然の独白に、チェチリアが怪訝そうな顔を向ける。
「スフォルツァ城にも、これに似た部屋がある。ボーナの塔だ」
表情を硬くするチェチリアを、ルドヴィコは微笑とともに見つめた。
それは、宮廷でも絶対の禁忌とされる物語であった。
ボーナ・ディ・サヴォイアという女性の話である。
ルドヴィコにとっては義理の姉ということになる。先代のミラノ公ガレアッツォ・マリア・スフォルツァの妻――すなわち彼女はミラノの前公妃だった。
そして、彼女の夫ガレアッツォ・マリアは、暴君として悪名高い男であった。十年あまりに及ぶ悪政の果てに、彼は家臣たちの手で暗殺されている。わずか三十二年の生涯だった。
公国を引き継いだのは、彼の遺児ジャン・ガレアッツォである。
しかしこの新たなミラノの支配者は、まだ七歳の少年にすぎなかった。
その後見人に収まったのが、ボーナ・ディ・サヴォイアだったのだ。
前公妃ボーナは、当時の宰相シモネッタと手を組み、幼い当主が治めるミラノを思うままに動かそうとしたのである。
だが国の内外に多くの問題を抱えるミラノの統治は、彼女らの手に負えるものではなかった。
結果、ボーナの放蕩と失政を憂えたルドヴィコは、義姉《あね》である彼女を城内の一室に幽閉した。
その場所が、俗にいうボーナ・ディ・サヴォイアの塔である。
彼女をそそのかした公国の前宰相シモネッタが断罪され、前公妃自身ミラノから追放されるまでの間、ルドヴィコは義姉を塔に閉じこめ続けたのである。
陰謀が渦巻く宮廷の秩序を取り戻すためには、ほかにとるべき道がなかったのだ。
それでも、この血なまぐさい出来事は、ルドヴィコの記憶に暗い影を落としている。
新たな宰相となったルドヴィコの統治によって、ミラノがかつてない繁栄を迎えている今も、この都市がどこか退廃的なイメージを拭えないのはそのためだ。
「義姉を幽閉したことが正しかったのかどうか、俺には今でもわからぬ」
ルドヴィコの低い声が静かに響く。
「……そのことをふと思い出した。あの人が、狭い塔の中でなにを考えていたのかさえ、結局わからずじまいだ」
チェチリアはなにも言わず、ルドヴィコの瞳を見つめている。
自分が、彼女にこんな言葉を聞かせていることが、ルドヴィコにはひどく意外だった。
一国の宰相という立場の人間が、迷いを口にすることは許されない。長い間抱えこんだ負の感情は、澱《おり》のように積もり、ルドヴィコの心を蝕んでいたのかもしれない。それが、この塔の光景に呼び起こされ、溢れ出したのかもしれなかった。
「おまえにも苦労をかける――」
つぶやいて、ルドヴィコはチェチリアの髪に手を触れた。
娘の薄い茶色の瞳が、ルドヴィコを静かに見上げている。それは、彼女の真実の母親によく似た懐かしい眼差しだった。
「宮廷内が荒み、政敵に醜聞を知られることが許されぬ時期だったとはいえ、おまえが得られるはずだった貴族の娘としての権利を俺は奪ってしまった。こうして傍に置いていても世間はおまえをただの愛妾として扱う。さぞ理不尽なことだと思っているだろう。いっそ打ち明けてしまえれば面倒もないのだがな、おまえがほんとうは――」
「――それ以上を口にしてはなりません、閣下」
冷たく澄んだ声でチェチリアが制止した。
きつく唇を結ぶルドヴィコを見上げたまま、彼女は華やかに微笑んでみせる。
「母も私も自分たちの境遇に満足しています。兄たちは私によくしてくれましたし、閣下には師匠《マエストロ》のような方とも知己を得る機会を与えていただきました。それに| 旧 宮 殿 《コルテ・ヴェッキア》の暮らしは愉しいですわ。ベルナルディーナ様もルクレツィア様も、とても優しくしてくださいますのよ」
彼の実際の愛妾たちの名前を挙げて微笑むチェチリアに、ルドヴィコもさすがに苦笑した。
もしかしたらチェチリアは、彼がこのような沈鬱な思いにとらわれることを予感して、この部屋に降りてきたのかもしれないと、ふと思う。
彼女はすでにこの礼拝室を訪れたことがある。この場所がスフォルツァ城内にあるボーナの塔を連想させることを、おそらく知っていたはずだからだ。それはいかにもチェチリアという娘のやりそうなことだと思われた。
「アッラマーニが殺された夜、南東の塔には、兵たちがいたそうだな?」
ルドヴィコは唐突に話題を変えた。
「ええ、そうですね」
チェチリアは、悪びれもせずに微笑んで答えた。ルドヴィコは苦笑する。
「この血痕は、ほんとうにアッラマーニのものなのか?」
「どういうことですか?」
「前に掃除をしたときに、このような汚れはなかったというのは、女中が証言しているだけだろう。アッラマーニが殺されたときについたものだという確証はない」
「私たちも、その前日にはここを訪れています」
「この薄暗い部屋で、これしきの汚れを見落とさなかったと言い切れるか」
「いいえ。ですが、彼が殺された夜、この部屋から香炉が消えたことも事実です」
「だからといって、この部屋でアッラマーニが殺されたとは限らぬ」
「なにか、お考えがあるのですね?」
大きな瞳をまたたいて、チェチリアが訊いた。ルドヴィコは顎に手をあてた。
「ずっと考えていたのだ。今回の出来事は、アッラマーニがこの部屋で殺されたと考えるから、なにもかもが奇妙に思えるのではないかとな」
「それは、つまり死体が不自然な場所にあるように思えるということですね」
「そうだ。だから、こう考えればよい。この部屋から香炉を運び出したのは、アッラマーニだ。そして彼奴は、南西の塔にいる客人の誰かに会いに行った」
「あの方が殺されたのは、南西の塔の客間だと?」
「おそらくは、聖遺物を売りさばく交渉でもしていたのではないか。その途中で口論になり、挙げ句の果てに殺された。そして焦った交渉相手は、やむを得ず窓からアッラマーニの死体を捨てたのだろう。まさか自分の部屋に隠すわけにもいかないからな。投げ落とした死体が窓に載ったのは、偶然だ」
「わかります」
大人びた仕草で、チェチリアはうなずいた。そして首を振る。
「――ですが、アッラマーニ殿の遺体が載っていたのは二階の飾り窓の上辺でした」
「らしいな」
「つまり、死体を投げ落としたのは三階の窓辺から、ということになるのではありませんか」
「うむ」
「ですが、中庭に投げ落とすだけなら、なにも三階からである必要はありません。二階からでも高さは十分です」
「それがどうしたのだ。三階の客間でアッラマーニが殺されたと考えれば済むことではないのか?」
ルドヴィコは、訝しげに目を細めて訊き返した。
チェチリアはにこやかに微笑んだ。
「お忘れですか、閣下。三階の客間に泊まっていたのは、私です」
「なに……」
目を剥くルドヴィコに、チェチリアはくすくすと笑い続ける。
「もちろん疑われても仕方ありません。ですが、私一人の力では、殿方のご遺体を窓から投げ落とすという芸当は無理ですわ。フェデリカや、ほかの兵の手を借りればべつですが」
「いや、待て……わかった。すまぬ。もちろんおまえを疑っているわけではない。おまえには、聖遺物を欲しがる理由がないからな」
「あら……それでは、まるで理由があれば私が犯人だと仰っているようですわ」
「あまり俺をいじめるな、チェチリア」
苦笑いを浮かべ、ルドヴィコは大きく手を振った。
チェチリアの言うとおり、大柄なアッラマーニの死体を女の腕力で持ち運ぶのは困難だろう。
「おまえたちに罪を着せようと思って――いや、違うな。それだけの理由で、わざわざ死体を運びあげるとは思えん」
「私もそう思います。それに、いくら嵐の夜とはいえ、客間で激しく言い争いをしていれば、周囲の人々に気づかれたのではないでしょうか」
「だが……気づかれたのが、自分の従者たちなら口止めすることもできるだろう」
「その場に従者の方々がいらしたのなら、そもそも殺人が起きる前に止めたのではないかという気もしますが、ええ、そうですね。あり得ないことではありません」
「そうだ。おまえは、どう思っているのだ、チェチリア?」
「私も、アッラマーニ殿が自ら南の回廊に向かったという意見には賛成します」
チェチリアは、もう一度、礼拝室の中を見回す。
「ですが、やはり最初に彼が負傷したのは、この場所ではないかと思うのです。つまり、アッラマーニ殿はこの礼拝室で誰かと会い、争いになって手傷を負った。そして、逃げた」
「――逃げた?」
「塔にいる客人たちに助けを求めようと思ったのではないでしょうか」
「傷を負ったアッラマーニが、自ら南の回廊へと向かったのか」
「はい。当然、もう一人の人物も、彼のあとを追ったでしょう。そして追いつかれたのか、あるいは途中で力尽きたのか――とにかく、アッラマーニ殿は息絶えた。自分の意志とは無関係に追っ手から逃れようとしていただけですから、それが多少不自然な場所であったとしても、おかしくはありません」
「なるほどな」
ルドヴィコは感心して、低くうなった。
「死体を窓から投げ捨てたのは、そのような出来事があったのを悟られぬようにするためか」
チェチリアはうなずいた。
「はい。もしくは、香炉を隠し、礼拝室の後始末をする時間を稼ぐためか……そう考えれば、この部屋に残されていた血痕についても説明がつきます。もちろん、そのような騒動が起きて、誰も気づかなかったというのは不可解ですが」
「いや……それはあり得ることだ、チェチリア。助けを求めて叫ぶほどアッラマーニには余裕がなかったのかもしれぬ。犯人が、従者たちを客間に残して、一人でアッラマーニに会いに行くというのも、十分に考えられることだからな」
「はい」
興奮するルドヴィコと裏腹に、チェチリアは浮かない顔をしている。
「ですが、それでは結局、なにもわかっていないのと同じです。各国の司祭様はもちろん、ヴェネツィアのコンタリーニ殿や私、それに皆様の従者たち。誰にでもアッラマーニ殿を殺《あや》める機会があったということになりますから。なによりも――」
「なんだ?」
「アッラマーニ殿の遺体は、まるで宙に浮かぶように、回廊の外壁に磔られていました。はたして、窓から投げ落としただけで、あのように自然な形に載るものでしょうか?」
「さあな。俺は実際にそれを目にしたわけではない。そのあたりのことはわからぬ」
重々しく首を振ってルドヴィコは笑う。
「だが、アッラマーニの死が奇跡などではなく、人の手によって再現できるものだと納得できれば、それで十分だ。とりあえずは兵たちを使って、どこかに隠された香炉を探し出す。あとは館にいる人間に会って、今の考えを聞かせてみよう。うまくすれば、なにか弱みのある者が尻尾を見せるかもしれぬ」
「私もそれがいいと思います。ただ、ロレッラ殿になんと伝えればいいのか――」
「修道院にいるというアッラマーニの奥方か。いずれにせよ、アッラマーニは死んだ。離婚は成立だ。あとはおまえが気に病んでどうなるものでもあるまい」
「はい。ですが、残念です」
そう言って、チェチリアは弱々しく微笑んだ。
残念だという彼女の言葉が聖遺物の奇跡を見られなかったことを指しているのか、それとも建築家の死をその奥方に伝えなければならないことを示しているのか、ルドヴィコにはわからない。表情を消したチェチリアの瞳を、しばらく無言で見つめ返す。
「コンタリーニ……この館に滞在しているヴェネツィアの貴族もコンタリーニという姓なのか」
かすかに感じた違和感の正体に気づいて、ルドヴィコは訊いた。
たとえ傍流だとしても、コンタリーニといえば、ヴェネツィアの元首を輩出したこともある名門の家系だ。なるべくなら悶着を起こしたくない相手である。
そしてチェチリアが修道院で会ったというアッラマーニの奥方も、やはりコンタリーニ姓の持ち主ではなかったか。
「はい。遠縁ですが、ロレッラ殿の従兄になるのだとか。それで聖遺物の噂を聞きつけてこられたのだと、私は思っていたのですけど――」
チェチリアは軽くうなずいて告げた。ルドヴィコは思わず顔をしかめる。
「まさか、その奥方の存在をたてに香炉の所有権を主張するつもりなのではあるまいな――」
「どうなのでしょう。まだお話しされてはいなかったのですか。閣下が到着されたら、真っ先に挨拶にうかがうようなことを仰っていたのですけれど――」
少し意外そうにチェチリアは首を傾げた。ルドヴィコは一度だけ首を振る。
唇に手をあて、彼女は、廊下で待つフェデリカを振り返った。
「――昨夜から姿を見ておりません。お食事のときも」
長身の侍女は目線だけでうなずき、陰気な声で淡々と告げた。
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四 章
用意された夕食は相変わらず質素なものだったが、いくらか目新しい食材が使われていた。館の老従僕が、麓まで下りて仕入れてきた品である。
すでに太陽は沈み、山の稜線は闇に溶けている。
持ち主のいない館に集った人々は、薄暗い灯りの下で黙々と食事を続けた。
司祭たちにとって晩餐《ばんさん》は沈黙の時間である。彼らの沈黙に引きずられるように、チェチリアたちもほとんど会話を交わすことなく食事を終えた。
ヴェネツィア人貴族コンタリーニは、最後まで姿を現さなかった。
コンタリーニの従者たちが、食事を主人の部屋に運ぶために厨房を訪れただけである。
とはいえ、それをとりたてて気にする者はいなかった。アッラマーニが殺されて以来、彼が司祭たちと食事を共にしたことは一度もなかったからである。
「――奇妙だとは思いませんか?」
アッラマーニの私室を訪れて、チェチリアは唇を尖らせている。
部屋にこもりきりのレオナルドのために、食事を運んできたのである。
侍女の手を借りず、自ら彼のもとを訪れたのは、経緯はどうあれ肖像を描いてもらえることへの感謝を表したつもりであった。
しかし、自分の肖像画を描いているという予想に反して、チェチリアが部屋を訪れたとき、レオナルドは、奇妙な作業に没頭していた。鉄床《かなとこ》や鑢《やすり》を持ち出したり、怪しげな薬液を調合したりという作業である。
そのために、アッラマーニが生前利用していた図面や工具などは、部屋の隅に追いやられてしまっている。聖遺物の謎について調べるつもりがあるとは、とても思えない光景であった。
「あの方は、昨日まで、あれほど聖遺物に固執していたのです。香炉がなくなっていることを知って、いちばん落胆しているはずです。なのに、香炉の捜索を司祭様たちに任せて部屋に引きこもっているというのはなぜでしょう?」
コンタリーニの人となりや、知る限りの事情を一方的に説明して、チェチリアはそう結んだ。
レオナルドは背中を向けたまま、黙って彼女の言葉を聞いていた。
時折、思い出したように食事を口に運ぶだけで、スープが冷めることもまるで気にしていないように見える。
「――食事は、侍従たちが彼の部屋に運んでいったのだろう?」
チェチリアの不機嫌な沈黙に気づいたのか、しばらくして、ようやく芸術家は口を開いた。
「ならば、それほど不思議なことではないさ。部屋を出たくない気分だったか、部屋を出られない用事でもあったか。どちらにしてもよくあることだ」
「ええ、師匠《マエストロ》の場合はそうかもしれませんけど」
ちらり、と微笑んでチェチリアは言う。
「ルドヴィコ様がいらしてるんですよ。ヴェネツィアのコンタリーニ家の人間が、挨拶もしないというのは不自然です」
「そういうものかな」
「ええ。コンタリーニ一族は貴族ですけど、商館や貿易船を抱える名門の実業家でもありますから。ミラノの宰相といえば、願ってもない取引相手ではありませんか」
「ああ……なるほど」
レオナルドは、ようやく作業の手を休めて振り向いた。愉しげな様子で薄く笑う。
「それはいいな。わかりやすい、綺麗な考え方だ」
「綺麗、ですか?」
「そう。それで、そのイル・モーロはなんと言っている?」
「いえ、なにも。食事のあとで、ご自分から出向くつもりだと仰っていました」
「まあ、そうなるだろうな」
苦笑混じりにレオナルドがうなずき、チェチリアは怪訝に首を傾けた。
「え?」
「イル・モーロは、コンタリーニ殿を疑っているのだろう」
「――あの方が香炉を奪ったのだと考えている、ということですか?」
「香炉を持ち帰ることで利益を得るのは、彼だけだよ。司祭が香炉を盗み出して、自分たちの教区に持ち帰っても、他の教区の司祭たちが騒ぎ立てれば、法王庁《ヴァチカン》が黙ってはいない。だからといって、隠しておいたのでは、聖遺物を祀って寄進を募ることもできまい」
「では、コンタリーニ殿は――」
「貿易船を持っているのなら香炉を国外に売りさばくことができるだろう? 今ならば、そう――フリードリヒ三世やシャルル八世あたりが狙い目か」
粥《かゆ》をすくいながら、レオナルドは淡々とつぶやいた。チェチリアは黙って目を見開く。
現在の法王庁には、十字軍の時代のような権力も政治力もない。イタリア国内の君主が相手ならともかく、神聖ローマ帝国の皇帝やフランスの国王の支配下の教区に手出しできないのは明白だった。そして交易国ヴェネツィアの商人ならば、そのような大国の権力者に取り引きを持ちかける機会を、いくらでも手に入れられるに違いない。
「師匠《マエストロ》も、ルドヴィコ様と同じお考えなのですか?」
チェチリアは、注意深くレオナルドを見つめて訊く。
「それはそんなに重要なことかな、チェチリア――」
返ってきたのは、素っ気ない言葉だった。
「コンタリーニという男がどういう人物なのか、ぼくは知らない。彼が香炉を手に入れる機会が絶対にないとは言い切れないが、それはたいした問題ではないよ」
「ですが、コンタリーニ殿が香炉を持っているということは、あの方がアッラマーニ殿を殺《あや》めた人物だということになるのですよ?」
「ああ、そうか――」
レオナルドはかすかに笑ったようだった。
「それだな、きみがぼくの言うことを理解できないわけは」
「どういうことですか?」
「うん。きみは聖遺物の香炉を持ち出すことが、アッラマーニを殺した犯人の望みだと信じていたのだったね。そのことを忘れていた」
「はい。だって――なにかほかに理由があるというのですか?」
「ぼくの考えは違う」
レオナルドは短く告げた。
「アッラマーニを殺すことこそが犯人の望みだった――おそらくは」
「え?」
チェチリアは腕を組み、しばらく息を止めた。表情が硬くなったのは、師の言葉が、彼女の立てた仮説を否定するものだと気づいたからだった。
「そんな――それでは、犯人は、アッラマーニ殿をただ殺したかっただけだと言うのですか。そんなはずはありません。では、なぜ香炉は消えたりしたのです」
「香炉は持ち出されたのではなく、おそらく持ち出さなければならなかったのだ、チェチリア。ぼくはそう考えている」
「望んでもいないのに、持ち出さなければならなかった?」
想像できない条件づけに、チェチリアは困惑する。
「なぜです――?」
「そうしなければ、それが奇跡などではないということが暴かれてしまうからだよ」
ますます素っ気ない態度でレオナルドは言った。
「ですが、アッラマーニ殿が死んだのは、彼の死を願った者がいるからではないのですか?」
「そうだよ。香炉とはしょせん道具だからね」
「……道具?」
「うん。アッラマーニが命を落としたときに、彼を殺したいと願った者の望みは叶った。香炉の役目もそのときに終わった。だから香炉を持ち出した人間が、それをすでに捨て去っていたとしても不思議ではないな」
そう言って、レオナルドは葡萄酒を口に含んだ。
軽く顔をしかめたように見えたのは、酒が彼の口に合わなかったからなのだろう。食事には無頓着なこの男も、葡萄酒だけにはささやかなこだわりを見せるのだ。自らも質の良い葡萄酒の製法を研究し、生家の農園に送りつけているほどである。
「――あるいは、その香炉を見つけて隠した者がいても驚くようなことではない。最初に言っておいただろう。香炉を誰かが持っていたとしても、それはたいして重要なことではない」
「では……そのようにして、コンタリーニ殿が香炉を手に入れたかもしれないと――?」
「彼は、熱心に香炉を探していたのだろう?」
そう言って、レオナルドは皮肉げな微笑を浮かべた。
チェチリアは、首を傾げたままうなずいた。コンタリーニだけではない。レオナルドの言葉を信じるなら、たとえ香炉を持っている者が見つかったとしても、それだけで屋敷の主人を殺した者だと決めつけることはできないということになる。
「しかし、それほどの働きを持つ聖遺物を、人は簡単に手放すことができるものでしょうか?」
チェチリアは、拗ねた子どものような口調で訊いた。
「本物の聖遺物を手放すのは無理だろう」
レオナルドはあっさりと返答した。
「だけどね、チェチリア。聖遺物になにか仕掛けがあり、その秘密をすでに犯人が知っていたとしたらどうかな」
「え?」
「だから、まずはそれを確かめる。イル・モーロにも頼まれたことだしな」
「――今は、そのための準備をなさっているのですか?」
「そのように見えるかい?」
からかうように芸術家は訊き返し、チェチリアは、戸惑いながら彼の手元をのぞきこんだ。
眉を寄せ、首を振る。
レオナルドは、なにやら古びた金属の板に粘土を盛りつけたり、垂らした蝋を削ったりという作業を続けているだけである。金細工師が、鎧や盾に装飾模様を刻みこむ作業に似ているが、それが聖遺物の謎を解き明かすことに役立つとは思えない。
突然、絵を描くと言い出したかと思えば、今度は彫刻である。このようなレオナルドの気まぐれにも、チェチリアはそれほど驚かなかった。ただ、自分の肖像画が未完成に終わったことを少し残念に感じただけである。
「そう、チェチリア――きみはアッラマーニの香炉を見たことがあるのだったな?」
ふいに口調を変えて、レオナルドが訊く。
「どのような形をしていたか覚えているか」
「え? ええ、それほど特別な形ではなかったと思います。青銅製で、ほとんど金箔も剥がれ落ちていましたけど――そう、鎖で吊り下げるのではなく、台座の上に填めこまれているように見えました。燭台のような握りのついた台座です」
「では、それなりに大きいな」
「そうですね。ですが香炉の中は空洞ですから、それほどの重さではないと思います。持ち運ぶことに支障があるほどではありません」
「そうか」
「――アッラマーニ殿が命を落としたのは、それを願った者がいるからだと仰いましたね?」
ひとり満足げなレオナルドを睨んで、チェチリアは突然訊き返した。
レオナルドは軽く眉を上げる。
「それが、その者の望みだったのだとも」
「そうだ」
「ですがルドヴィコ様には、そのようなことは知らないし興味もないと仰いました」
チェチリアは、彼の心の裡を探るような視線をレオナルドに向けた。
「――それは、師匠《マエストロ》が、そのような者の考えを理解できないという意味なのでしょうか?」
皮肉げな笑みを唇に浮かべたまま、レオナルドはチェチリアの瞳をのぞきこんだ。心の動きが感じられない冷たい双眸を正面から見つめ、それでもチェチリアは、それを美しいと感じた。
彼の瞳の奥に映っていた感情を、読みとることはできなかった。
「チェチリア――この館に隠された謎で、もっとも重要な問題はなにかわかるかい」
ふと瞼を細めて、レオナルドが逆に問い返してくる。彼女が口を開くよりも先に、彼は自ら答えを告げた。
「重要なのは天使の存在なんだ、チェチリア。彼が姿を見せた理由だ」
「天使?」
チェチリアの脳裏を、透き通るような金髪の幻影がよぎる。
「それは、私やベネデッタが見た、あの天使のことですか?」
「ベネデッタ――そう、その娘もだいぶ怯えているといっていた。つまり彼女にもわからない。理解できないでいるということだな」
「アッラマーニ殿の死が天使の力によるものだと……それで、彼女は恐れているのではないのですか? それに、香炉が聖母子の姿を映し出す様子はこれまで大勢の人に目撃されているのですから同じように天使が姿を現しても――」
「そうではないよ、チェチリア。天使が姿を見せるのはかまわない。問題なのは、その天使がすべての事件の発端だということだ。聖母子像の幻影も、アッラマーニがこの館に移り住んだ理由も、彼の奇怪な死に様も、香炉の行方も、すべては彼が鍵を握っている――」
「師匠《マエストロ》……」
チェチリアは言葉をなくして沈黙した。曖昧に首を振って、レオナルドは目を伏せる。
「さっきの質問の答えだ、チェチリア。ぼくにはアッラマーニを殺した者の境遇が理解できる。だから知りたくない――そういうこともある」
自分に言い聞かせているような、抑揚のない声で彼はつぶやいた。
それからレオナルドは無言で食事を続け、チェチリアは机の上に散らばった材料をながめた。
金属板の上に無造作に塗りつけられているのは、鋳型を作るときに使う、石のように固まる粘土である。底の浅い磁器の器にたたえられた薬品からは、鼻を突く臭いがした。
青銅を削るための見慣れない工具や、硝子瓶や、それらの薬剤は、アッラマーニの部屋に用意されていたものらしい。門外漢のチェチリアにはよく理解できないが、隠居した建築家の居室には相応《ふさわ》しくない道具のようにも思える。
「――まだ、こちらにいらしたのですか」
ふいに木の扉が軋む音がして、廊下から若い男の声がした。
司祭服に身を包んだ長身の男が、穏やかな面立ちに、あきれたような表情を浮かべて立っている。温かなマントヴァ訛りの理性的な口調は、サンドレッリ司祭の声だった。
「マンゾーニ殿が気にしていたので様子を見に来たのですが――なにをなさっているのです? ひどい臭いだ」
口元を押さえる司祭を見て、チェチリアは微笑んだ。この臭いの中でよく食事ができるものだと、彼女も感心していたからだ。サンドレッリは部屋の中に足を踏みいれ、散らかった卓上を一瞥した。
「――これは、銅版画の材料ですか?」
つぶやくサンドレッリを見上げて、レオナルドは薄く微笑んだ。
「ご存じでしたか。そう――さすがアッラマーニ殿の居室です。よい道具がそろっている」
「これを試すために、この部屋にこもっておられたのですか」
部屋の片隅に押しやられた図面や書籍類に気づいて、サンドレッリが苦笑する。
「まあ、この様子では、部屋を移るというわけにもいかないのは理解できますが……困りましたね。これでは、我々の作業ができない」
「おや、調べものですか、司祭殿」
嘆くようにつぶやく司祭に、めずらしくレオナルドが興味を示す。
「ええ。昨日から香炉の来歴を調べているのです。台帳や覚え書きのようなものなど……アッラマーニ殿が亡くなられた以上、ほかに手がかりになりそうなものがありませんから」
「ああ……そういうことでしたら、どうぞそちらの書棚はご自由にお使いください――」
嘆くようにつぶやく若年の司祭に、レオナルドは皮肉っぽく笑いかけながら言った。
大勢の徒弟が働く工房や、人の出入りの激しい宮廷での作業に慣れた芸術家にとって、サンドレッリの存在は、なんの妨げにもならないのだろう。はじめは逡巡していたサンドレッリも、仕方なく、彼の提案を承知した。哀れなほどレオナルドに気を遣いながら、乱雑に押しやられた書類の束をめくりはじめる。
そんなサンドレッリに遠慮して、チェチリアは退室することにした。
レオナルドも食事を終えていたし、実を言えば、部屋にたちこめる薬液の臭いに、そろそろ耐え難くなっていたからである。
部屋の中の灯りに慣れた目には、ぽつぽつと灯りがともるだけの回廊はずいぶん暗かった。
閉じ合わされた鎧戸の隙間からは、月の光すら射しこむことができないのだ。
音を立てぬよう静かに扉を閉めて廊下に出ると、湿り気をおびた城館の空気が、よけいに寒々しく感じられる。
静かである。
深い森の静寂が、石壁の隙間から少しずつ這いだして、館の中の空気に浸みこんでいるかのようだった。チェチリアの衣擦れの音さえも、その静寂の中に呑みこまれて消えていく。
食事の盆を抱えて、チェチリアは北側の回廊を歩く。
わずかに五、六〇歩ほどの距離が遠い。
たどり着いた北西の塔にも、人の気配はない。小広間に設けられた長椅子の影が揺れている。ベネデッタは、今もこの上の部屋で恐怖に怯えているのだろうかと想像する。
先ほどまでのレオナルドとの会話を反芻しながら、チェチリアは螺旋階段を降りた。
彼が口にしたのは、意味深げでつかみどころのない言葉ばかりだったように思う。
しかし芸術家であるレオナルドがそのようなことを言い出したということは、彼の中ではすでに明確な図像ができあがっているということでもある。間違いなく彼は、この城館に残る誰もが知らないなにかに気づいているのだ。
香炉を持ち出すためにアッラマーニを殺したわけではない、と彼は言った。
その香炉の行方さえも、問題ではないのだと。
この館で起きた出来事でもっとも理解しがたいことは――
「!!」
チェチリアは立ち止まった。
血液が流れこんでくる音が耳元で鳴った。
光が見えた。
輝いている。自ら光を放っているようでもあり、闇の中に溶けこんでいるようでもある。
それがなにかチェチリアは知っていた。
嵐の夜に焼きつけた記憶が、目の前の光景と重なって見える。
燭台のわずかな灯りを浴びて輝いているのは、透き通るような白い肌。
そして金色の髪。
回廊のはるか先。礼拝室の方向に、朧に霞んだ人影が見える。
小さな輪郭。白い布を巻きつけただけの服。
男とも女とも思えぬ、幼い姿。
天使!?
チェチリアがその言葉を意識したとき、朧だった影が顔をあげた。
影は。
笑っていた。
あどけない、微笑――
肌が粟立ち指先の感覚が消える。
足下でなにかが爆《は》ぜたような音が響いた。
チェチリアの身体が、弾けるように震えた。
散らばっているのは木製の器とガラスの杯。チェチリアが抱えていた食器である。それらが落ちて、音が鳴った。
その刹那。天使が姿を翻《ひるがえ》した。
回廊の奥の灯りは消えている。その闇の中へと金色の輪郭が消えていく。
聞こえているのは、自分自身の荒い息遣いである。
衣装の裾をつまみ上げ、チェチリアは駆け出した。
逃げたのではなく、天使のあとを追ったのだ。
足音が、回廊の石壁に幾重にも反響する。
灯りなしでも先が見通せるほどの距離になっても、天使の姿を見つけることはできなかった。回廊の突きあたりに見えてきたのは、閉めきられた礼拝室の扉だ。
この中から現れ、この中へと消えていったのだろうか?
チェチリアは、無意識に扉を開けようとする。
錠が耳障りな金属音を鳴らし、チェチリアの指先に痛みが走った。
扉は施錠されている。
それがどういうことか理解するよりも早く、チェチリアは悲鳴をあげていた。
アッラマーニの死体を見つけたときから麻痺していた心が解放され、忘れていた感情が、いちどきに溢れ出す。溜めこんでいた恐怖を吐き出すようにチェチリアは叫び続けた。
その悲鳴を聞きつけて、あわただしく階段をおりてくる足音が聞こえる。
礼拝室の上階にあるのは、アッラマーニの居室だ。
最初に姿を現したのはサンドレッリだった。やや遅れて、レオナルドが静かに降りてくるのが見えた。立ちつくすチェチリアの姿を認め、彼らは、緊張した頬をかすかに緩めた。
「――なにを見た、チェチリア?」
普段と変わらぬ落ち着いた声で、レオナルドが言った。
「天使を見ました……回廊の、このあたりに立っていて……消えた……」
自分の声から漏れだしたのは思いがけず冷静な声で、チェチリアは少し安堵した。
「……天使?」
サンドレッリの顔色が青白く変わる。
「それは――」
「同じです。アッラマーニ殿が殺された嵐の夜に私が見たものと」
チェチリアの言葉を聞いて、サンドレッリは絶句した。
レオナルドはそれでも表情を動かさなかった。灯りの消えた回廊の壁を訝しげに見上げ、それからチェチリアに視線を戻した。
「その天使が立っていたのはこのあたりか。きみは、あちら側の階段から礼拝室のほうを見ていたのだな?」
「ええ。そうです……急いで追いかけたのですが、この礼拝室には鍵がかかっていて、その鍵は昼間ルドヴィコ様が――」
「ああ……ならば、この扉は開かないのだな」
レオナルドが、先ほどの彼女と同じように、礼拝室の鍵を確かめる。
「――階段をおりるとき、我々は誰とも会いませんでした」
呆然と立ちすくんでいたサンドレッリが、ようやくのことでそれだけを言った。
礼拝室のある北東の小塔は、館の北側を東西に延びる短い回廊と、東側を南北に延びる長い回廊が直交する位置に建っている。チェチリアが見た天使らしき影は、回廊の角を右に曲がって、南へと向かったのではないかと指摘しているのだ。
呼吸を落ち着けながら、チェチリアが言い返す。
「ですが――そんな雰囲気ではありませんでした。まるで、影の中に消えていくように――」
つぶやきかけた言葉を途中で呑みこんだのは、その南向きの回廊の向こう側から、新たな足音が聞こえてきたからだった。
振り返ったチェチリアの目に映ったのは、カンテラを提げた男の姿である。
浅黒い肌の長身の男は、足早に、チェチリアたちのほうへと近づいてくる。
「――こちらでもなにかあったのか、チェチリア?」
眉間に深いしわを刻んだルドヴィコ・イル・モーロが、乾いた声で問いかけた。
その表情に、焦りのようなものが浮かんでいる。普段の彼らしからぬ態度であった。
部屋着だが、腰には剣を帯びている。
彼のあとを追って、護衛の兵士が駆けてくるのも見える。その中に、チェチリアの知らない顔があった。華やかな刺繍をあしらった、ヴェネツィアふうの服装の若者である。ジョヴァンニ・コンタリーニの従者だろうと、チェチリアは思う。
「ものものしいな、イル・モーロ。何事だ?」
不快げに顔をしかめて、レオナルドが言う。
「――こちらの回廊を通ってこられたのですか?」
震える声で、チェチリアは訊いた。館の南側から来たルドヴィコたちが姿を見なかったとすれば、天使は、ほんとうに忽然と闇の中に消えたことになる。
しかし、ルドヴィコは、そんなチェチリアの質問の奇妙さにも、気づいていない様子だった。
「コンタリーニを見なかったか?」
かすかに息を弾ませたまま、ルドヴィコが訊いた。
チェチリアの心臓が、強く胸を叩く。
前に天使を見たときに、いなくなったのはアッラマーニだった。
そして、今度は。
「――あの男が屋敷から消えた」
ひどい眩暈の下で、チェチリアは回廊に揺れる灯りを見つめた。
ジョヴァンニ・コンタリーニのために用意された客室は、南東の小塔の三階にあった。
城館が貴族の別荘として供されていた時代を偲ばせる、華やかな内装の一画である。
広くはないが小綺麗な居間と、静かな寝室。そして廊下に面した従僕用の部屋が一続きになっており、家具の配置も訪れた客が快適に過ごせるように仕立てられている。
コンタリーニが連れてきた従者の一人が、鮮やかな色遣いの長椅子に座り、不安げに目を伏せていた。対面に座るルドヴィコは、かすかな疲れを感じながら、そんな従者の様子をながめている。
同じ室内にはチェチリアと、ヴェネツィア人司祭のオルセオロがいた。
端整な顔立ちを彫刻のように固めたまま、チェチリアは沈黙を保っている。遠くを見るような目をしているのは、考え事をするときの彼女の癖だった。
落ち着いた彼女とは対照的に、オルセオロは焦っている。厳しい表情で舌打ちを繰り返す彼の姿は、ひどく苛立っているようにも見えた。
最初は説明を渋っていたコンタリーニの従者も、主人が戻ってこないことで弱気になったのか、次第にぽつりぽつりと話をはじめた。それによると、コンタリーニが姿を消したのは、今朝早く、まだ夜も明けきらぬうちの出来事であったらしい。
「――若旦那様は、昨夜から部屋に閉じこもっておられました。夕食もほとんど召し上がらず、なにか考え事をなさっている様子で。葡萄酒の瓶は空いておりましたので、特に心配してはいなかったのですが」
「昨夜というのは……例の香炉がなくなっていることがわかったあとだな?」
問い返すルドヴィコに、見慣れない灰色の髪の従者はうなずいた。
すでに真夜中である。
城館に残したルドヴィコの護衛や助祭たちは、コンタリーニを捜している。それでも、彼が見つかったという報告は受けていない。
コンタリーニが館の外に出たということも考えられたが、館に仕える老従僕とその孫をのぞけば、土地に不慣れな者ばかりである。夜の山道を出歩いて人を捜すことなど、とてもできたものではなかった。
「若旦那様は、ことのほか聖遺物を買い受けることにご執心でいらっしゃいました。それで落胆なさっているのだと、私どもは思っておりました」
「買い受ける?」
ルドヴィコは、眉をひそめて訊き返す。
「――コンタリーニ殿は、アッラマーニの香炉を本気で手に入れるつもりだったのか?」
「そうでございます。いかに法王庁の使いの方々といえども、持ち主が嫌がるものを召し上げるわけにもいくまいと仰いまして。自分が金を積めばどうにでもなるだろうと――」
「そうか」
ルドヴィコは、ちらりと横に座るオルセオロの様子を盗み見た。司祭服よりは商人の衣装が似合いそうな恰幅の良いヴェネツィア人は、不機嫌そうに親指の爪を噛んでいる。
「しかし……コンタリーニ殿は、聖遺物を譲り受けて、それをどうするつもりだったのだ? 誰かに仲介を頼まれでもしたのか?」
「いえ……そのようなことはありません」
「だが、一口に金を積むといっても、アッラマーニを納得させるだけの額といえば相当なものになるだろう。コンタリーニ殿とて、理由もなくそれほどの金を動かせるわけではあるまい」
「それは、そのとおりでございます。その、つまり私が申し上げておりますのは、そのような意味ではないのです」
コンタリーニの従者は、気弱げに目を伏せたまま、聞き取りにくい声で続けた。
「……若旦那様は、コンタリーニの一族から商館を任されておりました。コンスタンティノープルやプラハの商人とも付き合いを持つ大きな商館でございます。ですが、若旦那様が商館を継いで以来、儲けは減っていく一方なのです。親族は、事あるごとに先代の旦那様と比較して、ジョヴァンニ様を非難なさいます。あの方はそれを嫌って羽振りよく振る舞っておりますが、実際のところ商館は負債を抱えて、いつ破産してもおかしくないほどなのです」
「それでは……コンタリーニ殿は……」
驚きを顔に出さぬよう気をつけながら、ルドヴィコは、それとなく部屋の様子を観察した。
部屋に残された荷物は多くないが、旅行用の櫃も、従者たちが身につけている衣服も華美な装飾が施されたものばかりで、従者が言うような切迫した気配は見あたらない。
しかし貴族であるコンタリーニが、わずかな従者だけを連れて、このような山奥に自ら出向いてきたこと自体が、彼の困窮ぶりを表しているのかもしれなかった。
「はい。若旦那様には、なんとしても香炉を持ち帰らねばならない理由がありました。パンドルフォの傭兵部隊を一夜にして滅ぼした香炉の奇跡については、イタリア国内よりも傭兵団の所領が多く集まるアルプス以北の国々で知られているのです。うまく扱えば、それを元手に商館の負債を返済することもできるはずだと若旦那様はお考えのようでした」
「……そういうことか」
ルドヴィコは腕を組み、一瞬だけチェチリアと視線を交わした。血の気のひいた唇をきつく結んでいた娘は、ルドヴィコに向かって弱々しい笑みを浮かべてみせた。
「あの方にとって、香炉は単に貴重な商品でしかなかったのですね」
非難する様子ではなく、どこか寂しげな口調である。
「だからアッラマーニ殿が亡くなったあとも、あんなふうに――」
ルドヴィコは答えず、ただ重々しくうなずいた。
香炉の消失を知ったときのコンタリーニの様子については、彼女からも聞かされている。
アッラマーニが不可解な死を遂げたあと、どうやらコンタリーニは、香炉を礼拝室から持ち出す機会をうかがっていたらしい。それが真に聖遺物かどうかということも、彼にはほとんど関係がなかった。所有者であるアッラマーニが死んだことで、香炉の価値があがると、むしろ彼は喜んだかもしれない。
「だが次に姿を消したのは、そのコンタリーニ自身だった」
ルドヴィコのつぶやきに、チェチリアは硬い表情でうなずいた。大きく見開いた薄茶色の瞳が、硝子玉のように虚空を睨んでいる。彼女の動揺の原因が、回廊で姿を見かけたという聖遺物の天使にあるのは間違いなかった。それがただの偶然であるにせよ、彼女が天使を二度見かけ、そのたびに誰かがいなくなったのは事実なのだ。
「……なんという恥知らずな」
長椅子を揺らして呻いたのは、オルセオロ聖堂参事長である。
吐き捨てるようなその言葉に顔をしかめて、ルドヴィコは振り返った。血走った目でコンタリーニの従者を睨み、オルセオロは嗄れた声を張り上げる。
「国外に売り払うだと――それでは約束が違う。アッラマーニから香炉を買い上げたら、我が教会に寄進すると……だから、私はあの男に、この調査のことを打ち明けたのだぞ」
「……寄進する?」
オルセオロの言葉を、チェチリアが訝しげに繰り返した。
舌打ちするヴェネツィア人司祭を、ルドヴィコは冷ややかに睨みつけた。
「どういうことか、オルセオロ殿。あなたは法王庁の使節として、この屋敷を訪れたのではなかったのか?」
「ち、違う……違うのです、イル・モーロ閣下。そのような意味で私は言ったのでは……」
「いや、いいのだ。貴公を咎めているわけではない。それよりも、貴公はコンタリーニ殿が聖遺物を譲り受けることを黙認するつもりだったのか?」
「まさか……そのようなつもりはありませぬ。ですが、あのアッラマーニという男が、香炉の素性を決して明らかにしようとしなかったことはご存じでありましょう。いかに法王庁とて、市民の財産を無理やりに差し出させることが許される時代ではないのです。ですが敬虔な信者である商人が、法王庁にかわって聖遺物を買い受けるというのであれば――」
「なるほど。ヴェネツィアの商人が手に入れた聖遺物を寄進するとすれば、それはヴェネツィア大司教区の教会ということになるのだろうな」
「か、閣下」
「ああ、すまぬ。責めているわけではないのだ。もちろん、コンタリーニ殿にかわって香炉をミラノ公国が買い受けるというつもりもない」
無関心な口調で言って、ルドヴィコは微笑してみせた。オルセオロが安堵の息を吐く。
しかしルドヴィコは、司祭を安心させるためにそう言ったのではなかった。
これだけの怪事が続いたのだ。アッラマーニの香炉になんらかの力があることを、ルドヴィコも信じはじめている。
しかし、その来歴を無視してまで聖遺物を持ち帰ったところで、それがミラノの利益になるとは、ルドヴィコには思えない。少なくとも、同盟国であるヴェネツィアをいたずらに刺激するほどの価値はないと断言できる。おそらくは、あの堅物のマンゾーニも、ルドヴィコがそのような行動に出ることは喜ばないだろう。
「――今のお話なのですが、それはほんとうのことなのでしょうか?」
チェチリアが、遠慮がちに、オルセオロに訊ねた。
「コンタリーニ殿に聖遺物の調査の話をなさったのが、オルセオロ殿というお話です」
「そのとおりだが……それがなにか?」
オルセオロは、むっとしてチェチリアを睨み返す。
その視線を軽く受け流して、娘は、うなだれているコンタリーニの従者へと顔を向けた。
「ではコンタリーニ殿が、最近ミラノの郊外に立ち寄ったということはありますか?」
従者は、なぜそのようなことを訊くのか、という表情で、チェチリアを見上げた。
「いいえ。若旦那様は半月ほど前までザーラに滞在しておりましたし、ヴェネツィアに戻ってからは、資金の工面に追われておいででしたから――」
「そうですか。ではミラノの修道院宛ての信書を誰かに持たせたということはありませんか」
「はあ……信書、ですか。商館での業務のことでしたら、私ではわかりかねますが」
「いえ、親族宛ての私信なのです。ですが、そう……同じことですね」
つぶやいて、チェチリアは残念そうに首を振った。
ルドヴィコは、怪訝な表情で彼女を見た。
「どういうことだ、チェチリア。なにを考えている?」
「ロレッラ様のことです、閣下。私は、教会の方々が香炉を調べに来るのだと、あの方に聞いて知りました。では彼女は誰からそれを知らされたのでしょうか?」
「それは……やはり信書なのだろうな」
わずかな間をおいて、ルドヴィコは答えた。
修道院にいるというアッラマーニの奥方と面会が叶うのは、女性か、近しい親族だけである。
同じ姓を持つコンタリーニが直接彼女と会ったのでなければ、誰かに書簡を預けたということになるだろう。
「あるいはコンタリーニ殿は、このあとヴェネツィアに戻る途中に、ミラノに立ち寄るつもりだったのかもしれぬ。その予定を書簡で知らせたということならば十分にあり得ることだろう」
「……そのようなご予定だったのですか?」
ルドヴィコの言葉を受けて、チェチリアが、ヴェネツィア貴族の従者に訊いた。
従者は申し訳なさそうに首を傾げただけだった。ふむ、とルドヴィコも考えこむ。
苛立たしげな様子で、オルセオロが大きな声を出した。
「閣下、そのような些末なこと、コンタリーニを見つけ出して本人に訊けば済むことではありませんか」
立ちあがったオルセオロは、その場でせわしなく首を振った。
「こうしている間にも、あの男は、遠くへ逃げようとしているのかもしれませんぞ」
「――逃げる? コンタリーニ殿がか?」
「そうです、閣下。聞けば、コンタリーニの商館は多くの負債を抱えているというではありませんか。聖遺物を盗み出し、このままいずこかへと逃げ去るつもりなのかも――」
「ばかな……ヴェネツィアのコンタリーニともあろう者が……」
「いえ、それは、私も同じ事を考えておりました」
苦笑を浮かべるルドヴィコを制して、オルセオロに同意したのはチェチリアだった。
「だが、コンタリーニ殿の馬は厩舎に残っていた」
「馬ならば、麓の村でも手にはいります」
「荷物や従者を残して行くのか?」
「はい。従者を引き連れて出立しようとすれば、教会の方々は、コンタリーニ殿の荷物を検《あらた》めようとするでしょう。香炉を持ち出そうとしても必ず見つかってしまいます」
「そうか……わかった。コンタリーニ殿が一人でこっそりと屋敷を抜け出せば、その心配もないということだな」
ルドヴィコは渋面でうなずいた。それに力を得たように、オルセオロが胸を張る。
「はい。ですが、それではやはりまずいのです」
チェチリアは、細い顎をあげてルドヴィコを見上げた。
「そのような手段で香炉を手に入れても、コンタリーニ殿の罪は明白です。貴族としての地位や名誉を失っては、商館の経営を立て直す意味がないのです。私ならば、従者の誰かに香炉を持たせて、その者に罪を着せることを選ぶでしょう」
「それは、もっともらしい話だがな、チェチリア。たんにコンタリーニ殿が、ほかの者を信用していなかっただけということなのかもしれんぞ」
ルドヴィコは、従者の反応をうかがいながら首を振った。
微笑んで、チェチリアは言葉を続けた。
「ええ。ですが、あの方がはじめから香炉を手に入れていたのなら、アッラマーニ殿が死んだあと、すぐにお屋敷から逃げ出していたのではないでしょうか。そのときには香炉が紛失していることは、まだ知られていなかったのです。怪しまれることなく、香炉を持ち出すことができたはずです」
「いや、そうとは言い切れないだろう。香炉を手に入れても、すぐには持ち出せない事情があったのかもしれん。単に、覚悟が決まらなかっただけということも考えられる」
「そうではないのです。アッラマーニ殿が亡くなられたあと、あの方は礼拝室を見張っておられました。そのときには、コンタリーニ殿は、まだ香炉を手にしていなかったはずなのです」
「だとすれば……コンタリーニは、今日になって偶《たま》さか香炉を見つけたということになるな」
ルドヴィコが低い声で言う。
「そうです。ですが、この方の言葉を信じれば、コンタリーニ殿は、昨夜からずっと部屋にこもっていらしたと――」
チェチリアは、そう言って、コンタリーニの従者に目を向けた。灰色の髪の従者は、うつむいたまま首肯《しゅこう》する。
「お連れの方々の目を盗んで、コンタリーニ殿を、無理に部屋から連れ出せたとは思えません。ですから、あの方はおそらくご自分の意志で部屋を出られたのです。その上、お屋敷の中では、助祭様たちが香炉を捜して休みなく歩き回っておりました。コンタリーニ殿が自由に動き回れたのは、そう長い時間ではないでしょう」
「そうだな。だが、あれだけの人数で捜しても、香炉の手がかりすら見つかっていないのだぞ。はたして、そのわずかな間に、コンタリーニ一人で見つけ出すことができるものなのか?」
「ええ。つまりコンタリーニ殿は、香炉を捜しあてたのではないのです」
「なに?」
「コンタリーニ殿は、この部屋で考え、そして気づかれたのではないでしょうか。香炉に隠された秘密か、あるいはアッラマーニ殿の死の真相に」
ルドヴィコは危うく声をあげそうになるのを自制した。
「……なにかに気づいて……それで香炉の在処を知ったというのか?」
「おそらくは、それを確かめるために彼は部屋を抜け出したのです。誰かに会いにいったのだと思います」
「その誰かとは――」
言いかけて、ルドヴィコは言葉を切った。
訊くまでもないことだった。アッラマーニの死の真相を知る、もう一人の人物。それはつまり、アッラマーニを殺した犯人ではないのか。
そして、その男に会いにいったきり戻ってこないということになれば、コンタリーニの身に、なにか変事が起きたということになる。
「――閣下!」
強い口調で、オルセオロがルドヴィコを呼んだ。黙考していたルドヴィコは、その声で現実に引き戻された。
不快げに腕を組んだオルセオロは、荒々しい声をあげて言った。
「先ほどから聞いておれば、ガッレラーニ嬢の話、なんの根拠もない妄言ではありませんか。それよりも早く追っ手を出すべきでありましょう。馬を使えば、コンタリーニが山をおりる前に追いつけるかもしれません」
「落ち着け、オルセオロ殿。麓の村には、すでに伝令を出している。仮にコンタリーニが山をおりたとしても、その先の街道に出るのは不可能だ。危険を冒して、夜道を行く必要はない」
「ならば夜のうちに館の中を徹底的に調べるべきでありましょう。そうすればガッレラーニ嬢が言うように、香炉の秘密とやらもわかるはずです――私はそうさせてもらいますぞ」
早口にそう言い放つと、オルセオロは足音を鳴らして部屋を出て行った。長い議論に嫌気がさしていたのだろう。やはり聖職者に向いた男ではないと、ルドヴィコは苦笑する。
それからルドヴィコは、コンタリーニの従者にも礼を言ってさがらせた。従者は、ひどく憔悴した様子で、もたもたと自分の部屋に戻った。
「このあと、どうなさるおつもりなのですか?」
残ったチェチリアが、落ち着いた声で訊いてきた。
微笑んで、ルドヴィコはかぶりを振った。
「オルセオロの言うとおり、館の周囲をもう少し捜してみるさ。案外、そのあたりの森に散歩に出かけて、迷っているだけかもしれないからな。おまえはもう休むがよい。護衛を二人ばかりつけてやる。安心して眠れ」
「ありがとうございます。ですが、私のことは結構です。フェデリカやリベラもおりますから。それよりもレオナルド様に――」
「レオナルドか……そういえば、あの男、なにをしているのだ? まさか、まだ肖像画の続きなど描いているわけではあるまいな」
苛立ちを隠そうともせずに、ルドヴィコは言った。
チェチリアは、めずらしく覇気のない表情を浮かべた。戸惑っているのである。
「いえ……今は銅版画を……」
「銅版画だと? こんなときに……なにをしにきたのだ、あの男は」
呆気にとられて、ルドヴィコは口を開いた。
チェチリアはただ微笑するだけだった。
夜が明けるのは遅かった。
眠れぬまま寝台に横たわっていたチェチリアは、窓ごしに漏れさす朝の光を、気怠い思いで眺めていた。
先ほどまで元気にしていた| 白 貂 《エルメリーノ》のリベラも、夜通し動き回って疲れたのか、今はおとなしい。
チェチリアが起き出す時刻を見計らっていたかのように、水を満たした手桶をもって現れたのは、フェデリカである。普段から愛想がないと評判の侍女は、そのかわり、このようなときでも決して態度を変えようとしない。彼女自身、ほとんど寝ていないはずなのに、いつもと変わらぬ陰気な表情で寝台の傍らに立っている。
「ありがとう、フェデリカ。おかげで目が覚めました」
香油をたらした水で顔を洗い、身支度を整えながらチェチリアは微笑む。
水面に映る瞳の下に、うっすらと暗い翳《かげ》がある。それを見咎めて、フェデリカが口を開いた。抑揚のない冷たい声だったが、それでも、彼女にしてはめずらしく優しい口調である。
「もう少しお休みになっていてはいかがです。お疲れなのでしょう?」
「大丈夫です、フェデリカ。それよりもコンタリーニ殿は――」
「まだ見つかってはおりません。司祭様たちも、今は屋敷に戻って、お休みになられたようでございます」
「そうなのですか……あら」
板窓を押し開けて外をのぞいたチェチリアは、城門の前に立つ人影に気づいて目を細める。
フィレンツェ風の薄い上着を着た男が、厩舎近くにいる聖職者らしき人物となにやら言葉を交わしていた。男は、館を出て行こうとしているようにも見える。
「どちらに行かれるのです、チェチリア様?」
なにも言わず部屋を飛びだそうとしたチェチリアを、侍女は冷静に呼び止めた。
「散歩です」
「そのような格好で、ですか?」
真面目に訊き返してくるフェデリカに、チェチリアは澄ました顔で微笑んでみせる。
「平気です。このような山の中では、着飾っているほうが目立つでしょう」
「お食事はどうなさいます?」
「いりません。リベラのぶんだけ用意してあげて」
振り返りもせず言い残すと、チェチリアは足早に部屋を出た。外套も被り物もない、部屋着姿のままであるが、フェデリカは、ため息を押し殺したような表情をわずかに浮かべただけで、それ以上なにも言わなかった。
チェチリアに与えられた客室は南西の小塔にあり、階段を降りてしまえば城館の玄関までは遠くない。それでも複雑な連絡壕に阻まれて、外に出るまでには、それなりの時間が必要である。すでに男は門を離れ、森に分け入ろうとしているところだった。
「師匠《マエストロ》」
軽く息を弾ませつつ、チェチリアは背後から男を呼ぶ。
さして驚いた素振りもみせず、レオナルドは振り向いた。駆け寄ってくるチェチリアを見て、わずかに微苦笑を浮かべたようである。
「やあ、チェチリア。そんなに慌てなくてもいいよ。べつに逃げ出すわけじゃない」
普段と変わらぬ皮肉っぽい口調の師の言葉に、チェチリアは肩の力を抜いた。ようやく彼に追いついたところで足を止め、呼吸を整える。
「どちらに行かれるのです、師匠《マエストロ》」
「見てのとおりだよ。散歩さ」
「コンタリーニ殿を捜しに行かれるのではないのですか?」
顔をあげ、チェチリアは訊いた。レオナルドは素っ気なく息を吐く。
「それはぼくの仕事ではないよ。彼の従者たちが捜しているのだろう?」
「はい。ですが」
「手遅れだな」
「え……」
「もしコンタリーニ殿が危険な目に遭っているとしたら、今から捜したところで手遅れだ」
レオナルドは、相変わらずの淡々とした口調で続ける。
チェチリアは大きく目を見開いて彼を見た。
「では……やはりお屋敷の中にいる誰かがコンタリーニ殿を攫《さら》ったのでしょうか?」
「どうかな、彼がまだ生きているのならそれほど焦る必要はない。むしろ、あまり騒ぎ立てないほうがいいかもしれない」
「なにか……ご存じなのですか、師匠《マエストロ》?」
訊き返しても、芸術家は曖昧に首を振るだけである。
「いや。おそらく、彼はまだ無事だろうと思っているだけだよ」
「なぜです」
「今日は嵐ではないからね」
あっさりと男は言った。チェチリアには意味がわからない。怪訝な表情の彼女にかまわず、レオナルドは歩き出す。彼が向かったのは城館の北側――山頂に向かう方角だった。
仕方なく、チェチリアもあとに続く。部屋着姿の彼女ほどではないが、レオナルドもかなり軽装である。それほど遠くまで行くつもりはないようだ。
「先ほどお話をされていたのは、マンゾーニ殿ですね」
強い朝陽に目を細めながら、チェチリアは訊いた。レオナルドが城門の前で会話していた相手のことである。
「そう。彼は、ぼくを屋敷から出したくないようだったね」
どこか愉しげな口調で、レオナルドは言う。チェチリアは少し驚いた。
「あの方は、師匠《マエストロ》が逃げ出すことを疑っておられるのですか?」
「うん。少し話をしたらわかってくれたようだがね」
平然とレオナルドはうそぶいたが、チェチリアはこっそりと苦笑した。窓から見おろしたときにマンゾーニが浮かべていた、苦々しげな表情を思い出したからである。
「それに、疑われているのは、どちらかといえばきみのほうだ、チェチリア」
「私、ですか?」
「そう、きみとイル・モーロだな。きみはおそらく、彼の協力者だと思われているのだろう」
「ルドヴィコ様と私が、コンタリーニ殿を襲ったと――?」
「いや、ヴェネツィア貴族の一人や二人いなくなったところで、マンゾーニ殿はたぶん気にも留めていない」
ああ、とチェチリアは短く息を吐いた。
「マンゾーニ殿は、私が香炉を盗み出したのだと考えているのですね。ルドヴィコ様のために」
「うん。なにか根拠があっての考えではないと思うが、そういう手合いが実はいちばん面倒だ。特に彼は芸術家というものを信用していない様子でね。イル・モーロがぼくを連れてきたことが、どうも気に入らないらしい」
「そういうものなのですか」
少し意外な気持ちで、チェチリアは彼の言葉を聞いた。高名な画家に宗教画を依頼したり、高価な美術品や建築に大金を注《つ》ぎこむのが近年の教会の風潮である。そのような現状に批判があるのも事実だが、法王庁の使節に選ばれるような人物が、公然とそのようなことを口にするのはめずらしい。
「まあ、無理はないさ。文字の読めない者には、書物に大金を支払う人間の気持ちが理解できないだろう。同じように、美術の価値がわからない聖職者がいても不思議はない」
「ですが、それだけで私たちを疑うというのは、あまりに狭量《きょうりょう》ではありませんか」
思わずチェチリアは不満を漏らす。レオナルドは静かに笑ったようだった。
「マンゾーニ殿としても、身内の聖職者を疑うわけにもいかないのだろうさ。いなくなったコンタリーニ殿をべつにすれば、あとは我々を疑うしかない」
城館の裏側の斜面は思いのほか険しく、すでに馬車で通れるような道ではなくなっている。
切り立った岩と木々の根がごつごつと這う急な傾斜を、しかしレオナルドは、まるで体重を感じさせぬ足取りで、息も乱さずに歩いていく。フィレンツェ郊外の丘陵地帯で幼年期を過ごした彼にとって、この程度の山道は、たいした障害ではないのかもしれなかった。
チェチリアは彼の背中を追いかけるだけで精いっぱいである。
すでに、城館を頭上から見おろせる高さになっている。
張り出した木々の枝越しに、完全な方形の建物の姿を一望することができた。
城館の北側の壁は、押し寄せた土砂でなかばまでが埋もれている。
そのせいで、城館そのものが斜面に沈みこんでいるような不安定な印象を受ける。
しかし、土砂の崩落が起きてからは、相当の年月が経っているらしい。疎《まば》らだが木々も生い茂っており、城館そのものに危険がない程度には、地盤も固まっているように思えた。
土砂に埋もれた結果として、北側の城壁は、そのほかの場所にくらべて、地面からの高さが低くなっている。
いちばん低い場所では、せいぜい大人の身長の二倍ほどしかない。
回廊を兼ねた城壁には相応の厚みがある。城館の四隅にある小塔を使えば、城壁の上に出ることもできるはずである。今にして思えば、アッラマーニが殺された夜に、チェチリアたちの見た天使が立っていたのが、まさにその城壁の上だった。
もしやアッラマーニを殺した犯人は、北側の城壁をよじのぼって館の外から忍びこんだ者ではなかったか。そう自問して、すぐにチェチリアは首を振った。
アッラマーニの死体が磔にされていたのは、その対岸にあたる南側の城壁である。彼の死体が運ばれた理由が、それでは説明できない。
そして、あの夜は激しい雨が降っていた。
いかに北側の城壁が低くなっているとはいえ、あの激しい風雨の中で、その城壁をのぼって屋敷に忍びこむことができるとは思えない。なにより、そんなことをすれば泥まみれの足跡が回廊に残ったはずである。
だが、城壁をよじのぼることは不可能でも、飛び降りるだけなら、そう難しい高さではない。
つまり、コンタリーニがひそかに屋敷を抜け出す道筋として、北側の城壁を使ったのはあり得ることだろう。レオナルドがこの山道をのぼっているのも、それを確かめるためではないかとチェチリアは想像する。
しかし彼は、背後を振り返ることもなく、ただ黙々と歩き続ける。
やがてアッラマーニの城館も見えなくなり、チェチリアの額に汗が滲むようになったころ、ようやくレオナルドは足を止めた。
頭上に被さっていた木々の枝が晴れ、思いがけず視界のひらけた尾根であった。
冬枯れの森林は朝霧に覆われ、遠方の山々は淡く霞んでいる。
チェチリアにとっても、はじめて見る光景である。
その美しい景色を、レオナルドは無言で見回している。
なにかを探しているような、そんな瞳の動きであった。
霧の切れ間から、きらきらと朝陽を反射する銀色の輝きが見える。
湖面である。
名も知れぬ小さな湖だが、穏やかに澄んだ水面は山々の影を映して美しい。
チェチリアたちがいる尾根を挟んで、ちょうどアッラマーニの城館までと同じくらいの距離である。途中、険しい崖に阻まれ、近づくことはできそうにない。
それでもレオナルドは、満足げに小さくうなずいた。
「やはりそういうことか、アッラマーニよ……」
思いがけない人物に呼びかけて、彼はチェチリアへと振り向いた。立ちつくしている彼女に微笑み、歩いてきた道を戻りはじめる。
「コンタリーニ殿はヴェネツィアの|大 運 河《カナルグランデ》沿いにお住まいなのかな」
「はい。おそらく。大きな商館を任されているのだと伺いましたから」
気まぐれな芸術家の質問に、チェチリアは微笑みながら即答する。
大運河は、水の都と形容されるヴェネツィアの街を横断する重要な交通路である。そして、その中央に位置するリアルト地区は、多くの商館が立ち並ぶ経済の中心地でもあった。
コンタリーニの屋敷がその周辺にあることは、ヴェネツィアの街を知らないチェチリアにも容易に想像できることである。
「そうか……だから気づいたのだろうな、彼は」
独白のような調子で、レオナルドが言う。彼が上機嫌である証《あかし》である。
「コンタリーニ殿は、やはりなにかを知っていたのですね?」
チェチリアもわずかに声を弾ませた。あの城館に隠された謎を、彼が解いたのではないかとルドヴィコに進言したのはチェチリアである。
しかしレオナルドは、いつもの皮肉げな笑みで首を振る。
「いや、おそらく彼は大きな考え違いをしている」
「考え違い?」
「たぶんね……でなければ行方不明になどならないさ。彼は、天使が香炉を持ち去ったのだと思いこんでしまったのだろうな」
「それは違っているのですか?」
「違う。香炉はもうあの屋敷の中にはない」
「え? なぜです?」
「置いておくわけにはいかなかったのだよ。ましてや、あんなものを持ち去る必要もなかった」
レオナルドは、無表情にそう言った。
「では、香炉は今どこにあるのです?」
チェチリアはなおも食いさがる。
霧に包まれた常緑樹の森を抜け、再びアッラマーニの城館が見えてきたところである。急な勾配の山道がぬかるんで、足場が悪い。腰のひけたチェチリアに手を貸しながら、レオナルドは一度空を見上げ、やがて億劫げにため息をついた。
レオナルドは城館には戻らず、そのまま山を下り続けた。
城壁と厩舎の間を通り過ぎ、森を抜ける小径にはいる。
馬で踏み固められた山道ではなく、雑草と低木に囲まれた細い獣道である。
まるで干上がった川底のように幾筋にもわかれ、小石や砂が浮いた険路《けんろ》だった。城館からも見おろせる、大きな湖のどこかにつながっているらしい。
衣服の裾を気にしながら、チェチリアも彼を追った。
慣れない山歩きで疲れていたが、彼女に合わせて、レオナルドも歩調を落としている。
いつの間にか霧が晴れ、少しだけ日射しが強くなっていた。
「あの屋敷で、最初に起きた奇跡の話は聞いたかい」
途中、不意に背後の城館を振り返り、レオナルドが言う。
めずらしく上機嫌な彼の横顔を見上げて、チェチリアは訊き返した。
「最初に聖母子像の姿が現れたときのことですか」
「違うよ。ミケーレ・パンドルフォの話さ」
「あの壊滅したという傭兵団の……?」
「そう……この館をアッラマーニが受け継ぐ前の出来事だ」
つぶやきながら、レオナルドは姿勢を低くしている。
地面の傾きや樹木の生え具合を何度も確かめ、時折、下生えの草むらをのぞきこむ。そこになにかがあると確信しているような、迷いのない行動だった。
チェチリアは、かつて館が城砦として使われていた時代の噂を思い出している。
北方に所領を持つ傭兵隊長《コンドッティエーレ》が、五百人の精鋭を率いて、その城砦に侵攻してきたという話である。生涯休むことなく戦争を続けた暴君、フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティが、ミラノを治めていた時代のことだ。その程度の小競り合いは、人々の記憶にも残らないほどありふれた出来事だったはずである。
しかし、その傭兵団は一夜にして全滅した。
そこでなにが起きたのか、知る者はもはやいない。ただ、敗北した傭兵たちの死体は、城塞の中だけでなく、山中のいたるところに転がっていたという。
この城館を訪れる途中、護衛役の兵士から聞かされた話であった。
「似ているだろう?」
レオナルドが、意味ありげに微笑んだ。
黙ってチェチリアは首を傾げる。彼がなにを言おうとしているのか、すぐには想像できなかった。再び歩き出したレオナルドの背中を見つめ、息を止めて考える。
背筋に、すっと冷たい感覚が走る。
「アッラマーニ殿が殺されたときのことを仰っているのですか」
振り向いて、レオナルドは唇の端をかすかに吊り上げた。
チェチリアは声を出せないでいる。
「そう、城砦を襲ったパンドルフォの兵士たちの死体は、砦から離れた山の中で見つかった。礼拝室で殺されたはずのアッラマーニは、中庭の城壁に磔にされていた」
「同じなのですね、死体があり得ない場所へと移動することが……」
そのことにチェチリアはようやく気づく。
レオナルドの言うとおりだった。かつて、あの城館で起きた争いの結末と、今回の出来事はよく似ている。
「まさか、香炉がなくなったのも同じなのですか。あの香炉は、奪われたのではなく――」
ぎこちない口調でチェチリアは訊いた。
「話が早いな、チェチリア」
感心したように眉をあげ、レオナルドはうなずいた。
「では」
「そういうことだ。同じなのさ。おそらく、あれは屋敷の外へと運ばれたのだろう」
「先ほどから師匠《マエストロ》が探しておられるのは、その香炉なのですか?」
木々に覆われた小径を見回して、チェチリアは不安になる。
「ですが、それでは、この山中のどこに香炉が運ばれたのかわからないのではありませんか。そう簡単に見つかるとは思えません」
「心配は無用だ。ぼくにはもう、その香炉の在処まで、見当はついているからね」
悠然と微笑んで、レオナルドは首を振った。
そのことにチェチリアは驚いた。彼の言う言葉がほんとうなら、それはすでに、あの城館にかかわる奇跡の法則を解き明かしているということになるからだ。
「ですが……では、誰がどのようにして、香炉を外に持ち出したというのです」
「無理かな」
からかうような口調でレオナルドが言い、チェチリアは唇を尖らせた。
「無理です。香炉が紛失して以降、お屋敷から離れる方の荷物は、すべて入念に検めるようにしておりました。ましてやアッラマーニ殿が亡くなられた嵐の夜に、お屋敷の外に香炉を運び出せる人間がいたとは思えません」
「そうだな……だが、チェチリア。それを言うのなら、アッラマーニの亡骸を、回廊の城壁に運ぶことも、やはりできないことではないのか?」
「それは――」
「台座付きの香炉とはいえ、抱えきれないほど重いわけではないだろう。少なくとも、人一人運ぶよりは楽だろうさ。思いのほか、遠くまで運ばれたかもしれないな」
独りごとのようにつぶやくと、レオナルドは再び歩き出した。
「ずるいですわ、師匠《マエストロ》は――お一人で全部わかったような顔をなさって」
ついにチェチリアは拗ねたように言った。
苦笑しながらレオナルドは振り返る。
「心外だな、チェチリア。ぼくに香炉の行方を解く鍵を与えてくれたのは、きみではないか」
「うそです。そんなことを言われても騙されません」
「いや、きみだよ。あの館は潮流に逆らうために造られたのだと教えてくれた」
「私、そんな難しいことを言った覚えはありません」
恨めしげな顔でチェチリアはつぶやいたが、レオナルドはもう振り返ろうとはしなかった。
チェチリアは渋々と彼のあとに続く。
自分が不機嫌であることを、チェチリアは自覚している。
だがそれは、彼女自身が望んだことでもある。
いかに優れた芸術家であり、その才を尊敬していようとも、なぜ彼だけに、聖遺物の奇跡を解き明かすことができるのか。そのことが少しだけ悔しいのだ。
すでに城館からは、だいぶ離れている。
途中、いくつか急な斜面があり、大きく迂回しなければならなかったが、レオナルドはそのたびに地面の傾きを調べ、時折、石を転がして、そのあとを追ったりもした。
子どものように自然と戯れて遊んでいるようにもみえる。
「幼いころ、ヴィンチの村の丘陵でこのようにして過ごしたよ」
しばらくして、ぽつりとレオナルドがつぶやいた。
チェチリアは、黙って彼の背中を見つめた。
ヴィンチと呼ばれる小さな村が、彼の故郷であることは知っている。だが、それを彼の口から聞かされるのは、はじめてのことだった。
拗ねているチェチリアを気遣ったのかもしれない。レオナルドが、彼自身の過去を語るのはとてもめずらしいことだ。
「父はフィレンツェの政庁で公証人をしていたが、ぼくは八十歳を超えた祖父の家に残された。モンテ・アルバーノとアルノの川。大空と大地と、そこに生きる鳥や獣がぼくの師だった」
むしろ素っ気ないほどの口調で、レオナルドが言う。
その声は、チェチリアの耳にひどく哀しげなものとして響く。
「――よく晴れた日、太陽がちょうど真上にきたときに大気から湿気が取り払われて、一日でいちばん景色が青く鮮やかになる。だが、霧の立ちこめた大気は完全に青色を喪《うしな》って、ただ真白に輝く雲の色のように見えるだけだ。
風の吹き来るほうより吹き去るほうをながめることで鮮やかさを増す木立や草原。
嵐の夜の暗黒、風、洪水、雷光、人間を空高くさらっていく旋風、崩れゆく市街……自然を観察することで、ぼくは世界のすべてを学んだ。父は、ぼくに教育を与えようとはしなかったからね」
詩人のようなよどみない口調。
「なぜです?」
ようやくチェチリアはそれだけを訊く。
「ぼくが、庶子だったからだ」
レオナルドはなぜか愉しげに微笑んだ。
「父の正妻の息子ではない。それだけのことで教育を受けることが許されず、遺産を与えられることもなく、家族の一員として受け容れられることもなかった」
「師匠《マエストロ》」
「嘆くようなことではない。そのことが、ぼくがヴェロッキオの工房に入門を許されるきっかけでもあったのだからね」
「はい」
「だが、庶子と嫡子の間の馬鹿げた区別がなければ、今頃は、ぼくも違ったふうにものを見て、違ったものを考えるようになっていただろう」
それがなにか恐ろしいことでもあるかのように、男は肩をすくめて言う。
目を伏せて、チェチリアは小さく首を振った。
「それは私も同じです。私の出生が――いえ、私が女でなければ、このようにして師匠《マエストロ》やルドヴィコ閣下と出会うこともありませんでした。そう、今頃は、ありふれた官吏の一人として、市井にまぎれ暮らしていたでしょう」
「それが叶わなかったことを、寂しいと思うかい」
綿毛のような雲が流れる空を見上げ、レオナルドが優しい声で訊く。
「いえ」
チェチリアは、微笑んで曖昧に首を振った。
遠くで野鳥の鳴く声が聞こえる。
木々の枝を揺らす風にも、もう真冬の冷たさはない。
まばゆい陽光を避けるように振り返ると、背後に、アッラマーニの城館が小さく見えた。
レオナルドが足を止め、その場所に屈みこんだ。
ほとんど崖といってもいいような、急な斜面の真下である。
先日の嵐の影響か、周囲の木々がまとめて薙《な》ぎ倒されたようになっている。
下生えの雑草に覆われた土は、いまだ、わずかにぬかるんでいるようにも見えた。
地面の窪みには、崖上から転がり落ちてきたらしい、真新しい岩や砂擽《されき》が溜まっている。
レオナルドは、その窪みに手を伸ばし、角の欠けた白い台形の石を取り上げた。
「まあ、このようなところだろうな」
つぶやいて、石についた泥を払う。
チェチリアは息を呑んで、その様を見ていた。
彼の手の中にあるものに、見覚えがあったからである。
白い大理石の台座に、青銅の飾りがついている。微細な透かし彫りを施した、大人の男の拳ほどもある球状の籠。
それは、何者かの手で運び出され城館から失われたはずの、アッラマーニの古びた香炉だった。
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五 章
ルドヴィコ・スフォルツァは、長い回廊を大股で渡っていた。
朝早く館を抜け出したレオナルドが、香炉を携えて戻ってきたと、従者に聞かされたばかりである。その場にはチェチリアもいたらしい。
礼拝室から盗み出されたはずの香炉が、なぜ山中に棄てられていたのか。
どのようにして、レオナルドがそれを見つけ出したのか。
理解できないことばかりだった。
礼拝室に至る通路にはルドヴィコの従者や助祭たちが集まり、密やかに言葉を交わし合っている。
そんな彼らをかきわけるようにして、ルドヴィコは開け放たれていた礼拝室の扉をくぐった。
薄暗い礼拝室の、ひんやりとした空気が頬を撫でる。
室内にいたのは、主だった聖職者とその従者たちである。
マンゾーニとオルセオロの二人の司祭が、祭壇の前で睨み合うようにして、なにやら言い争っていた。彼らの背後で、サンドレッリが、神経質そうな表情を浮かべている。
金糸の縁取りだけを施した助祭たちの粗末な衣服は、陰鬱な礼拝室の風景に溶けこんでいる。
彼らから、少し離れたところにチェチリアが立っていた。ルドヴィコの姿を見て、彼女は、少し困ったような微笑を浮かべた。
「遅かったな、イル・モーロ」
背後から、からかうように声をかけてきたのはレオナルドだった。
ルドヴィコは、黒髪を揺らして振り返る。
白い長衣に身を包んだ芸術家は、剥きだしの石壁に背中を預けて、退屈そうに聖職者たちの様子をながめていた。
「あれが、アッラマーニの香炉か」
険しい表情で、ルドヴィコはつぶやく。
昨夜まではなかった小さな香炉が、祭壇の上に戻されていた。
古びてはいるが、もとはそれなりの品だったことが見てとれる見事な香炉である。
表面の金箔はほとんどが剥がれ落ち、青銅の地金が剥きだしている。それでも表面に施された透かし彫りの彫刻は見事だったし、香炉の本体と蓋を結ぶ金鎖は輝きを失ってはいなかった。香炉を支える台座となっているのは、磨き抜かれた大理石である。
しかし、その大理石の表面には、いくつも無惨なひび割れが走っていた。
右側の角にいたっては、なかばから砕けて失われている。
さらによく見れば、香炉の本体にも、陥没したような大きな傷が残っていた。司祭たちが揉めているのも、聞けば、その欠損についてのことである。
「あの傷、そう古いものではないな」
神妙な口振りでルドヴィコはつぶやく。いまだルドヴィコ自身は半信半疑だが、聖遺物と疑われている香炉である。その本体を傷つけたことで、よからぬことがあるのではないか。それをルドヴィコは恐れたのだ。
「崖下に投げ落とされていたからな。そのときにでも傷ついたのだろうさ」
「投げ落とされていただと?」
短く呻いて、ルドヴィコは芸術家に詰め寄った。
「レオナルド、貴様どうやってそれを見つけ出したのだ?」
「それについては、ぜひ私どもにもお聞かせ願いたいですな」
ルドヴィコの言葉に続けて、口を開いたのはオルセオロである。
身体を揺すって歩み寄るヴェネツィア人の司祭を、レオナルドは冷ややかな目で見返した。
「特別なことをした覚えはありません。ごく普通に山中を散策していたら、目についただけですよ」
「しかし、この広大な土地を歩いて、なんの手がかりもなく香炉に行き当たったと言うのですか。それは容易に信じるわけにはいきませんな。まさか師匠《マエストロ》、貴殿が自ら香炉をこの屋敷から持ち出したのではありますまいな?」
「ああ、なるほど……」
司祭の言葉にルドヴィコは顔をしかめたが、本人はむしろ愉しげにうなずいた。
「ではオルセオロ殿、そちらにいるマンゾーニ殿にも訊いてみてはもらえませんか。この屋敷から出かけるときにしばらく話をしましてね。ぼくが香炉を持ち出そうとしていたなら、当然、マンゾーニ殿はそれに気づかれたはずだ」
レオナルドに言われて、オルセオロは傍らにいたマンゾーニを振り返る。
痩身のミラノ人聖職者は、苦々しげな表情を浮かべながらも首を振った。
「それは、そちらのガッレラーニ嬢も同じです」
司祭たちの背後に立つ娘を見やって、レオナルドが言う。
「屋敷を出るときの彼女は羊毛を織っただけの粗末な服を着ていましたし、とても香炉を隠して持ち出すことなどできなかった。それもご覧になりましたね」
「ああ……」
チェチリアの横顔に目を向けて、マンゾーニは改めてうなずいた。頑固だが、根は実直な男なのだろう。納得がいかない様子で、オルセオロ司祭は息を吐く。
「それに、その香炉の傷ですが、持ち出してすぐにそうなるものではありませんよ」
「なに?」
オルセオロが乱暴に訊き返す。
芸術家の言葉につられるようにして、全員の視線が香炉に集中した。
無惨に傷ついた香炉の表面が、青く黴《か》びたように曇っている。青銅に浮いた錆である。
「傷ついて雨ざらしになったまま、野外にしばらく放置されていたのでしょうね。そうでなければ、数日でそうはなりません。この礼拝室に置かれている間は、香炉は毎日磨かれていたのでしょうしね」
「あの嵐の晩から、ずっと山中に打ち捨てられていたというのか……この香炉は……」
かすれた声でマンゾーニが言った。
それを聞いて、レオナルドが薄く笑う。
「そう、パンドルフォの傭兵たちと同じです」
「パンドルフォだと?」
思わずルドヴィコが声をあげる。礼拝室にいた助祭たちが、一斉にざわめいた。
「そうか……この城館を襲った傭兵団は一夜にして滅ぼされ、遺体は山中の至る所にまき散らされたのだったな。それで貴様は、香炉が屋敷の外にあると考えたのだな?」
「そうだな、まあそのようなものだ」
「まさか、行方知れずになったコンタリーニ殿も、やはり屋敷の外に打ち捨てられたのではあるまいな」
「そう焦るな、イル・モーロ。それは、まだなにもわからぬよ。だが、香炉のことについては、これで司祭殿たちにも納得していただけますかな」
含みのある笑みを浮かべて、レオナルドは訊いた。
オルセオロたちは無言だった。暗に司祭たちも彼の主張を認めたということである。
「しかしな、レオナルド。それでも、誰が香炉を屋敷から持ち出したのかという謎は残るぞ」
「ああ。だがな、今はそれよりも、もっと大切なことがあるだろう?」
「大切なこと? なんだ」
「この香炉が、真に聖遺物であるかどうかだよ」
「なに?」
「仮に聖遺物であったとしても、いまだその性質を残しているかどうかもわからぬよ」
「――聖遺物としての働きが、失われたかもしれないということか?」
ルドヴィコは眉間にしわを刻んだ。
素っ気ない様子でうなずき、レオナルドは香炉に視線を向けた。
「そうであっても不思議はあるまい。なにせ、あの状態だ」
ルドヴィコは黙って唇を歪め、その場にいた司祭たちが口々に呻きを漏らした。
打ち捨てられ、雨ざらしにされて香炉はひどく傷んでいる。香炉としての役割が果たせなくなったわけではないが、装飾品としての価値はあきらかに損なわれていた。
その事実を指摘され、ルドヴィコですら動揺を隠せない。
「では……やはり、この香炉こそが聖遺物だったのか?」
「さあ、どうだろうな」
ルドヴィコの疑問に、レオナルドは薄く笑う。
「とぼけるのはよせ。それを確かめるのが貴様の役割だろうが」
「いや、とぼけているわけではない。仮に、その香炉が聖遺物であると、今ぼくが口先だけで判じたところで、それを納得できるのか、イル・モーロよ?」
「む」
正面から問われ、ルドヴィコは言葉に詰まった。
レオナルドは微笑んだまま、礼拝室の中を見回して続ける。
「それは、そちらにいる法王庁《ヴァチカン》の使いの方々も同様だろう」
「たしかに、それはそうかもしれぬが、しかし――」
「ああ。だから実際に儀式を行ってみればいいと言っているのだ」
「なに?」
「神を試すなかれとはいうが、すでに人死にが出ているのだ。神に祈りを捧げるのが、不届きということはあるまいよ。どのみち司祭殿たちは、聖務日課や聖餐式を行わぬわけにはいかないのだ」
「香炉を焚いて、聖母子が現れるのを待つというのか?」
「そうだ、イル・モーロ。それで、この香炉が真に聖遺物であると認められれば、ぼくを含め、ここにいる者すべてが目的を果たせる。そういうことでいいのではないか。幸いなことに、ここには信仰心の篤い聖職者の方々が揃っていることだしな」
「ふん」
あきらかに皮肉まじりのレオナルドの言葉に、ルドヴィコは短く鼻を鳴らした。
だが、たしかに彼の言葉に反対する理由はなかった。儀式を執り行う聖職者ならば、掃いて捨てるほどいるのだ。それに、いずれにせよ聖遺物の真贋は確かめなければならないことでもある。すでにオルセオロなどは、すっかりやる気になっているように見えた。
「いいだろう。その儀式とやらに付き合おうではないか。だがレオナルド、貴様、ほんとうはなにを企んでいるのだ?」
顔を寄せ、レオナルドの耳元でルドヴィコは訊いた。
レオナルドは愉しげに唇を吊り上げ、澄ました顔でつぶやいた。
「なに、実を言えば、一度見てみたかったのさ。聖遺物の奇跡とやらをね」
詩篇唱の詠唱が終わった。
続いて、福音書の朗読がはじまる。
祭服の聖職者たちの背中ごしに、ルドヴィコは祭壇で揺れる燭台の灯りを見ている。
礼拝室を照らす光源は、弱々しいその光と、採光窓から射しこむわずかばかりの陽光だけである。
薄暗い、石造りの小塔の部屋。
聖職者たちの白の祭服が、無数の濃い影を落としている。
城館を訪れた客人たちのほとんどが、今は礼拝室に集っていた。
福音書の一節を唱えているのは、サンドレッリ司祭である。
その左右に、オルセオロとマンゾーニ。
そして、侍者役を務める十名足らずの助祭たち。
逆光の影になり、レオナルドの表情は読みとれない。
ルドヴィコの傍らに立つチェチリアは、人形のようにまばたきを止めて祭壇を見つめている。
「あの香炉に、細工などはなかったのか?」
彼女にだけようやく届く声で、ルドヴィコは訊いた。
瞳だけを動かして、チェチリアがうなずく。
「ここに運ぶ途中で見せていただきました。ほんとうに、ごく普通の香炉です」
「屋敷にもとからあった香炉と同じものなのだな」
ルドヴィコの質問の意味に気づいたのか、チェチリアは、少し間をおいてかすかに微笑んだ。
「はい。最初にアッラマーニ殿に見せていただいたものと、間違いなく同じです。似たような形の香炉が、お屋敷の中にいくつもあったとは思えませんし、だいいち師匠《マエストロ》は香炉の姿をご存じなかったはずです。偽物を用意できたはずがありません」
「たしかにな……」
うなずいて、ルドヴィコも祭壇を睨む。
ミサの祭壇とは、聖書に描かれた最後の晩餐の食卓を再現したものだという。
その装飾は、質素なものである。
磨かれた石と金属製の鏡。石造りの壇上には布が敷かれ、背後の壁には、色褪せたフレスコ画と、聖人を模した小振りな彫像が埋めこまれていた。
金箔の剥がれ落ちたそれらの装飾も、今は、薄闇の中に沈んでいる。
香炉からたちのぼる煙も、ほとんど見分けることはできない。
儀式は奉献唱へと移り、詩篇の詠唱が開始される。
侍者の一人が、葡萄酒を満たした聖盃《カリス》と聖餐皿《パテナ》を運んでくる。
サンドレッリ司祭が、密唱のために目を伏せる。
すでに聖餐の儀式をなかばまで終えたことになる。
「このままなにも起こらなかったら、貴様、どう判断をつけるつもりだ」
無言の芸術家を横目で睨んで、ルドヴィコが問いかけた。
かすかにレオナルドが肩を震わせる。笑ったのだ。
「さあな」
「おい、まさか、なにも考えていないのではあるまいな?」
ルドヴィコは呻くように言った。
「まあ、それはそのときに考えるさ」
微笑混じりにレオナルドがつぶやく。ルドヴィコは、唇を噛んで黙りこんだ。
主は汝らとともに。
サンドレッリの詠唱が響く。
主はまた司祭とともに。
それに対する唱和の声。
単調な儀式の連続に、ルドヴィコは眠気を感じていた。
昨夜はコンタリーニの失踪騒ぎで、ほとんど眠っていないのだ。
夕暮れまでにはまだ時間があるが、採光窓から射しこむ陽の光はだいぶ傾きはじめている。司祭の叙唱が終わり、感謝の| 賛 歌 《サンクトゥス》の詠唱がはじまる。
聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、
万軍の神なる主。
主の栄光は天地に満つ。
儀式に集った人々の声が、粗石造りの礼拝室を満たし、何度も何度も反響する。
その旋律にまぎれて、ルドヴィコは芸術家のつぶやきを聞いたような気がした。
「……そろそろか」
彼の言葉の意味はわからない。
訊き返そうと、ルドヴィコは頭を巡らせる。人々の歌声は続いている。
天のいと高きところに|救い給え《オザンナ》。
誉むべきかな、主の御名において来たる者。
天のいと高きところに――
賛歌の詠唱が終わり、礼拝室には沈黙が訪れる。
誰も声をあげない。司祭であるサンドレッリでさえも。
賛歌に続けて朗読されるはずの典文がはじまらない。
静かなざわめきと、かすかな呻き。
チェチリアが息を呑む気配がある。
ルドヴィコは顔を上げ、そしてそれを見た。
静寂と濃い陰翳だけが支配する礼拝室。揺らめく蝋燭の灯。一条の白い陽光。
それらとは異なる第三の光が、祭壇の上を照らしている。
「そんな……」
サンドレッリの声がきっかけとなったように、聖職者たちの間にどよめきが生まれる。
香炉からたちのぼる薄い煙が、白い輝きを放っていた。
先ほどまでは目にとめることもできなかった香煙が、それ自体、淡く発光しているのだ。その姿が、はっきりと像を結んでいる。
頼りなく大気を漂う煙に浮かび上がったのは、まぎれもなく人の姿だった。
なにかを愛おしげに胸に抱く、美しい婦人の像。
「……ばかな」
ルドヴィコが弱々しい呻きを漏らした。
立ちつくすサンドレッリの背後で、マンゾーニが膝をついてひれ伏し、助祭たちがあわててそれに倣う。チェチリアは呆然と目を見開いて立っている。
光の像が、美しくゆらめいて、やがて消える。
「|神に感謝を《Deo Gatias》――」
ひとり満足げに微笑むレオナルドが、つぶやいて祈るように目を閉じた。
形ばかりの祈祷を済ませて、聖餐の儀式は終わりを告げた。
そのあとの司祭たちの行動は、滑稽なほど迅速だった。
各司教区の代表者たちの間で簡単な話し合いが行われ、結局アッラマーニの香炉は、マンゾーニが所属するミラノ大司教区の教会が預かることで決着した。
その合意の背景にはミラノの宰相であるルドヴィコへの配慮も含まれていたのだろうし、あるいは、ヴェネツィア大司教区の法王庁内の政治力で、いつでも香炉を取り戻せるというオルセオロの判断もあったのかもしれない。アッラマーニの館の従僕たちが、それについて異議を申し立てようとしなかったのは、聖遺物がもたらす禍《わざわい》を恐れたためである。
城館には、もう法王庁の使節たちは残っていない。
香炉を譲り受けたマンゾーニたちは、手早く荷物をまとめ、ミラノに向けて慌ただしく出立したし、他の地区から派遣されてきた司祭たちも、夕暮れまでには城館を出て行った。
残されたコンタリーニの従者たちをのぞけば、アッラマーニの死の真相や、失踪したコンタリーニの行方に注意を払うものは、もはや誰もいなかった。
「――どういうことか、説明してもらえるのだろうな?」
不機嫌な声でルドヴィコは、もう何度目かになるその言葉を口にした。
ルドヴィコたちだけが閑散とした礼拝室に残り、薄暗がりのなかで揺れる蝋燭の炎をながめているのである。
儀式に使った残りの葡萄酒を時折口に含みながら、レオナルドは涼しげに笑っている。
「説明もなにも、きみも直接自分の目で見たのだろう、イル・モーロ?」
つぶやくレオナルドの声は愉しげだ。
ルドヴィコは思いきり顔をしかめている。見れば、チェチリアも唇を噛んで、なにやら真剣な顔で思案している様子である。
「見たとも。だから、なんのつもりかと訊いている」
「気づいたのか?」
「ああ、気づいたとも。俺は、あの像を見たことがあるぞ。あれは聖母子像などではなかった。あれは――」
強い口調でルドヴィコが言い、レオナルドは屈託なく微笑した。
畏まってひれ伏していた聖職者たちは誰も気づいていなかったが、ルドヴィコは、はっきりその姿を目にしたのだった。否、不安定な煙がかたどる像であるから、それだけでは気づかなかったかもしれない。ルドヴィコがその事実に気づいたのは、その姿をかつて見たことがあったからである。
「――あれは私の姿でした」
細く澄んだ声で、チェチリアが短く言った。
ルドヴィコは重々しくうなずいた。
煙の中に描き出された像は、聖母子の姿などではなかった。
女性の腕にかき抱かれていたのは、幼い神の子の姿ではなく、純白の毛皮を持つ小さな獣。そして獣を抱く美しい女性は、チェチリア・ガッレラーニの姿をしていたのである。
まるで誰かに呼ばれたかのように振り返る、生き生きとした女性の像。
それは昨夜、レオナルドが気まぐれで描いていた、チェチリアの肖像画そのままの姿だった。
つまり、あの光の像は聖遺物が喚び起こした奇跡などではなく、レオナルドが造りだしたものということになる。
それをルドヴィコは問い詰めようとしているのである。
「結局、あの香炉は聖遺物ではなかったということなのか?」
ぼんやりと燭台に照らされた祭壇を見おろし、ルドヴィコが訊く。
「そうだ。それなりに由緒ある品なのかもしれないし、もしかしたらほんとうに聖人の誰かが使っていたかもしれないが、それを判じるすべはないな。少なくとも、あの像は奇跡などではなかった」
「だが、それならば、どうやってあのようなものを造りだしたのだ。香炉に仕掛けを組みこむ暇などなかったはずだぞ」
「あの香炉に仕掛けなどないよ。そんなものがあれば、とっくにほかの誰かが気づいていただろう」
レオナルドの言葉に、ルドヴィコはむっつりと口を引き結んだ。
しかし、それは彼の言うとおりである。
香炉だけではない。聖餐の儀式が終わったあと、ルドヴィコは礼拝室の中をくまなく調べたのだ。あれほどの像を造りだす仕掛けがあれば、間違いなく気づいたはずである。だが、結局なにひとつ不審なものを見つけることができないままであった。
「もしや、あれは影絵のようなものだったのでしょうか?」
一度目を閉じて、チェチリアがぽつりと訊いた。
ルドヴィコは小さく首をひねる。
たしかにステンドグラスなどが織りなす影を操って、荘厳な雰囲気を造りだすのは、教会建築の得意とするところである。建築家であるアッラマーニならば、そのあたりの知識を、当然身につけていただろう。
しかし、ルドヴィコが目にした香煙の像は、教会堂の着色硝子が落とす影のような、曖昧な代物ではなかった。
まるで揺らめく煙そのものが光を放ち、鮮明な像を形作っているように見えたのだ。
「惜しいな、チェチリア」
優しく微笑んで、レオナルドは言った。そして彼は、ルドヴィコのほうへと向き直る。
「光と影の話をしたことを覚えているか、イル・モーロ?」
「この世界のすべてが、光の生み出す幻影のようなものだと、そう言っていたあれか?」
顔をしかめて、ルドヴィコは答えた。あのときに感じた漠とした不安を思い出しそうになって首を振る。
「そう。きみが見た像は、まさにその幻影なのだよ」
「ああ……たしかにそれはそうなのだろうが……」
「実はな、この礼拝室から盗み出されたものは、あの香炉だけではなかったのだ」
「なんだと?」
ルドヴィコは驚いて、チェチリアのほうを振り向いた。彼女は、息を止めたまま首を振る。
「ばかな……そのことに誰一人気づかなかったというのか?」
「それはな、イル・モーロ。その盗まれたものが、偽物とすり替えられていたからだ」
「すり替えられた?」
「そうだ。だから司祭たちだけでなく、館の従僕たちでさえ気づかなかった」
「なにが……いったいなにが盗まれていたのです?」
チェチリアが声を震わせて訊いた。
「鏡だよ」
素っ気ないほどの口調で、レオナルドが言う。
「祭壇の鏡のことか?」
ルドヴィコは闇の中に浮かぶ祭壇の姿を見た。定位置に置かれた金属製の鏡は、蝋燭の炎を反射してまばゆく輝いている。
「屋敷の中に祭壇のものと同じ香炉はなかったが、似たような鏡なら、いくつか残っていた。実際に使われていたものは、ほとんどなかったようだがね」
つぶやいて、レオナルドは祭壇に歩み寄る。
「私の部屋にもありました」
チェチリアが蒼白な表情でつぶやいた。言われてみれば、ルドヴィコもその鏡には見覚えがあった。ただの装飾品だと考えて、特別に気にして見ていたわけではなかったのだ。
「最初に礼拝室にあった鏡は、もしかしたら違う形だったのかもしれない。しかし少しくらい違っていたところで、おそらく誰も気づかなかっただろう。この部屋を訪れた人々は皆、すぐそばの香炉に気をとられていたはずだし、香炉が紛失したときには、すでに鏡もすり替えられたあとだったからね」
レオナルドの説明に、ルドヴィコたちはうなずくことしかできなかった。
よほど気にしていない限りは、この薄暗い礼拝室で、装飾品の細かな形状まで覚えていられるはずがない。
「ですが、なんのために鏡をすり替えなければならなかったのですか」
一歩足を踏み出して、チェチリアが訊く。
レオナルドは、もったいぶるように一瞬息を吸って、短く答えた。
「その鏡が、魔鏡だったからだ」
「……マキョウ?」
ぎこちない発音で、チェチリアがつぶやいた。ルドヴィコも怪訝に眉をひそめる。耳慣れない言葉だった。レオナルドが軽くため息をつく。
「近くからのぞきこんだだけでは、普通の鏡と見分けがつかない。だが、この魔鏡に光をあて、遠くの壁などに反射させると――」
つぶやきながら、彼は祭壇の上の鏡を動かした。
鏡に反射された蝋燭の光が、石壁に淡い影を映し出す。それを見たルドヴィコは息を呑んだ。そこに描き出されていた映像が、間違いなく、香煙の中に浮かんでいた像と同じものだったからである。
絶句するルドヴィコの顔を見て、レオナルドが微笑した。
「こうやって像の姿を結ぶというわけだ」
「……それが、魔鏡か」
つぶやいて、ルドヴィコは何度も大きく息を吸った。
「そう。ヴェネツィアで、硝子に錫箔と水銀を塗って造る鏡が生み出されたのは、十四世紀にはいってからのことだ。それまでは石や金属を磨いて造った鏡が一般的だった。そのときの研磨の過程で、ほんのわずか平らな面とそうでない面を造ることで、このような魔鏡が生まれる。上手く磨けば、このような複雑な像を描くこともできるというわけだ」
「……そういうことか」
ルドヴィコは低い声で呻く。
「アッラマーニは知っていたのだな、この鏡の正体を……」
「そうだ。彼は知っていた。いくら香炉を調べても、この現象の正体が暴かれることはないということもね」
「それを利用して、金を儲けていたというわけか」
「ああ。だから、彼ははじめから言っていたのだ。この香炉が聖遺物かどうかわからない、と」
「なに?」
「嘘をついていたわけではなかったのだよ。もしかしたら、ほんとうに聖人に由来する香炉だということもあり得たわけだからな」
「よくもぬけぬけとそんなことが言えるな」
腹を立てるというよりも、あきれてルドヴィコは嘆息した。
「とにかく、わかった。この礼拝室が、こんなふうに薄暗いのも、その魔鏡の働きを妨げないようにするためか」
「そういうことだ。あの採光窓から射しこむ光が、うまい具合に鏡にあたるわずかな時間だけ、光の像が香炉の煙に映し出されるようになっている」
「なるほど。俺に窓の位置を確認させたのもそのためか。いや、チェチリアの肖像画を描くと言い出したときから、おまえにはわかっていたのだな」
苦々しげな口調でルドヴィコは言う。
レオナルドは、薄く微笑んだだけで、その問いには答えなかった。
「しかし、ではアッラマーニが造った鏡を盗み出したのは、いったい誰だったのだろうな?」
腕を組んで、ルドヴィコがひとりごちる。
そのとき、はじめてレオナルドの表情が曇った。
「そのことなのだがな、イル・モーロ」
「なんだ」
「おそらく、この魔鏡を造ったのは、アッラマーニではないと思うのだ」
「なに?」
訊き返して、ルドヴィコはすぐに気づく。
「――そうか、香炉ではなく、この鏡が、この屋敷に伝わる聖遺物だったということか」
「そう。もちろん、それもありえないことではない。だが、そうでないかもしれぬ」
「どういうことだ?」
「いいか、イル・モーロ。そもそも魔鏡とは、造ろうと思って造るものではないのだ」
「……なんだ、それは? そもそもアッラマーニは、その魔鏡を奪おうとした犯人に殺されたのではなかったのか」
「まあ聞けよ。香炉ではなく鏡を盗み出したということは、犯人は、魔鏡の正体を知っていたということだ。つまり、香煙に浮かぶ聖母子像が、奇跡などではないということをな」
「そうか。すり替えるための、替わりの鏡まで用意してあるくらいだからな」
「ああ。だがな、香炉にせよ鏡にせよ、それが奇跡を起こす聖遺物だからこそ価値があるのだ。魔鏡の正体を知っている者が、はたして人を殺してまでそれを奪い取ろうとすると思うか?」
「な……に」
ルドヴィコは困惑して立ちつくした。
「し、しかし……それでは、なんのために犯人は鏡を盗み出したのだ。その鏡はどこにある?」
「そうだな、考えられる理屈としては、その鏡を残しておくことで犯人にとって不都合なことがあったということだろうな。その鏡は、おそらく今も犯人が荷物の中に隠しているはずだ。不用意に棄てては誰かに気づかれないとも限らないし、仮に荷物の中に鏡がまぎれこんでいることに気づかれても、いくらでも言い逃れのしようはあるからな」
「待て。それでは、もう魔鏡は、屋敷の外に持ち出されてしまったということではないか。司祭たちは、とっくに屋敷を出立《しゅったつ》したし、老人も孫娘を連れていったん麓の村に下りると……なぜ止めなかったのだ?」
慌てて詰め寄るルドヴィコを見て、レオナルドはなぜか愉しげに言った。
「それはな、イル・モーロ。これからやることを、邪魔されたくなかったからだよ」
「邪魔だと……貴様、いったい、なにをするつもりだ?」
問い詰められて、芸術家は静かに笑う。
ルドヴィコは、自分でも気づかぬ間に数歩後ずさった。
すでに太陽は沈みかけ、ひとつきりの窓から射しこむ光は、闇の色を含んでいた。礼拝室の薄暗がりの中で、白い長衣に身を包んだ芸術家の影だけが鮮やかに浮き上がって見えている。
端整な口元に美しい笑みを浮かべ、レオナルドはつぶやいた。
「きみが依頼したことだろう、イル・モーロ――もう一つの奇跡の正体をあばくのさ」
粗石を剥きだした石壁に、その言葉がいつまでも響いていた。
回廊は一層暗く翳っている。
太陽はいまだ沈みきっていないはずだが、閉ざされた板窓からでは、外の様子をうかがい知ることはかなわない。レオナルドが、冷たく湿った通路の中を足音もなく歩いていく。
ルドヴィコは、チェチリアとともに彼のあとを早足で追いかけた。
廊下で待っていた護衛の兵士や侍女たちが、困惑した様子のルドヴィコに気づき、訝しげな表情を浮かべている。
「――フェデリカ、食事の支度をしてくれないか」
ふいにレオナルドが、侍女の一人を呼び止めた。
ルドヴィコは、落ち着かない気分で顔をしかめる。
「おい、奇跡の正体をあばくのではなかったのか? 食事などしている場合ではないだろう」
「わかっているさ、イル・モーロ。だが、これはこれで大事なことなのだ」
「……食事がか?」
「そうだ。ああ、フェデリカ。できれば、献立は昨夜の豆料理がいいな」
飄々ととらえどころのない口調で、レオナルドが言う。フェデリカは、しかし表情も変えず、ただ黙ってうなずいた。
レオナルドは、北側の回廊を真っ直ぐに進む。
中庭に面した左手の壁に、窓はない。
そして外堀に面した右手の窓は、すべて閉ざされたままである。
閉めきっているのではなく、開かないのだ。城館の北側の外壁は、崩落して押し寄せた土砂によって、なかばまで埋もれてしまっている。石壁を隔てた向こう側にある土の圧力を思って、ルドヴィコはかすかに身震いした。
城館の厨房があるのは、長い回廊の突きあたりにある北西の小塔の一画である。
食事ができるのを待つつもりか、すぐ隣の食堂にはいって、レオナルドは腰をおろす。
チェチリア・ガッレラーニは、迷わず彼の正面の席を選んだ。
彼女の隣に、ルドヴィコは乱暴に足を投げ出して座る。レオナルドがいつまでも説明をはぐらかすことに、拗ねたような心情になっていた。
「不機嫌だな、イル・モーロ」
そのレオナルドが、からかうような口調で言う。
「当然だ。こうもややこしいことばかりではな」
椅子に深くもたれたまま、ルドヴィコは短く鼻を鳴らした。レオナルドが笑う。
「ややこしいか」
「ああ、ややこしいさ。貴様のせいだぞ、レオナルド。聖母子像の正体に気づいていたのなら、チェチリアの姿の魔鏡など造らずに、その場で説明していればよかったのだ。そうすればコンタリーニ殿も攫《さら》われずに済んだかもしれないということが、わかっているのか?」
「なるほど――だがな、イル・モーロ、それはきみが望んだことだ」
「この俺が、なにを望んだだと?」
「聖遺物の真贋を判じるよう、ぼくに依頼したではないか」
「なに」
「実際に聖母子の幻像を人の手によって再現してみせることが、奇跡の正体をあばくもっとも簡単な方法なのだ。仮に口で説明したところで、魔鏡などというものを、きみが素直に信じたとは思えないからな。本物の魔鏡が持ち去られていたのでは、ああして新しく魔鏡を造ってみせるしかなかった」
「む……」
「それにな、司祭たちには、あの香炉を聖遺物だと思わせて、早々に屋敷を立ち去ってもらうほうが良かったのさ。そうしておけば、お互い面倒な思いをせずに済む」
「面倒だと?」
「ああ。これから起きることは、司祭たちには見せないほうがいいと思ったのだ」
「ふん」
ルドヴィコは、唇をきつく結んで腕を組んだ。
「……説明してもらいたいものだな。結局のところ、魔鏡を持ち去ったのは何者だったのだ。アッラマーニを殺したのも、その者の仕業なのだろう?」
「まあ、そういうことになるのだろうな」
「貴様には、その者の名前もすでに見当がついているのだな」
「名前か……」
レオナルドが、曖昧な笑みを浮かべて首を振った。ルドヴィコはしだいに声を荒げる。
「いい加減、はぐらかすのはよせ、レオナルド」
「べつにはぐらかしているわけではないさ。ただ、ここでぼくがなにを言おうと、それはただの憶測だ。それよりも、犯人が自ら姿を現すのを待つほうが上策だと思っただけだ」
「犯人が自ら現れる? なぜそんなことが言い切れるのだ」
「彼は必ず戻ってくる。そうでなければ、アッラマーニを殺した意味がないからだ」
「アッラマーニを殺したのは、魔鏡を持ち去るためではなかったのか?」
ルドヴィコは、苛々と腕を組み替えて言った。
「だとすれば、犯人の目的はすでに果たされている。このまま姿を消したとしたら――」
「いや、ぼくの考えが正しければ、それはない。どうやらきみは考え違いをしているようだな、イル・モーロ」
「なに?」
「先ほども言ったが、魔鏡とは造ろうと思って造るものではない。魔鏡そのものにたいした価値はないし、さして希少なものでもないのだ」
「だが……では、どのようにしてあんなものを造るというのだ。よもや偶然生まれるとでも言うつもりではあるまいな?」
「そう。そのとおりだ、イル・モーロ。魔鏡というものは、本来、偶然の産物なのだよ」
「ばかな。あれほど精緻な工芸品が、偶然できることなどあるはずがあるものか――」
「そうとは限らないさ。そんなふうに思ってしまうのは、きみが硝子鏡に慣れているからだ」
「……どういうことだ?」
「金属鏡というのは、そのままで使えるようなものではないのだよ。しょせん地金は青銅だ。たとえ表面を磨いたところで、それだけでは鏡と呼べるようなものにはならない」
「そうか……まあ、そうだろうな」
「だから金属鏡の表面には、錫《すず》や水銀などを塗って、その上で丁寧に磨いてあるのだ。そうすれば、銀箔のように美しい鏡面ができあがる。だが、そのままではやはりだめなのだ」
「なに?」
ルドヴィコは眉を上げて訊き返す。
「――鏡面が、曇ってしまうからですね?」
横合いからチェチリアが口を挟んだ。金属鏡と同じように磨き抜かれた銀の食器が、空気に触れて黒ずむことを、彼女は経験から知っているのだろう。
レオナルドは、片方の唇だけを上げて小さく笑った。
「そう。表面に塗ってある錫や水銀は、曇りやすい金属だ。長く使っているうちに輝きを失い、鏡としての役割を果たさなくなる。だから、鏡の表面を定期的に磨いてやる必要があるのだよ」
「……まわりくどいな。鏡が曇ることと魔鏡に、どのような関係があるのだ」
少し不満げにルドヴィコは言う。
「わからないか、イル・モーロ。何度となく錫や水銀を塗り重ねたことによって、鏡の表面は、わずかだが中心に近づくにつれて厚く盛りあがっていく。では、その金属鏡の裏側にはなにがある?」
ルドヴィコは、少し思案するように顎を撫でた。
「――装飾か」
「そう。浮彫《レリーフ》だね」
「しかし、鏡の裏面を磨く必要などないだろう」
「もちろんだ。だが、鏡面を磨くときに、どうしても浮彫のある部分には余分に力が加わる」
「ああ……そうか」
「そう。そして金属とはたわむものだ。そのために、わずかに中心に向けて盛りあがっているはずの鏡面に、裏側の装飾の形に沿って、部分的に水平な面が生まれる」
「では……魔鏡が生み出す幻像というのは……」
「わかったようだな。そのわずかな水平面の反射光――つまり、裏側の浮彫の痕跡が壁に映ったものなのだよ。研磨技術が発達していれば、存在するはずのないもの。偶然の産物だ」
「……奇跡だと思われた聖母子像も、ほんとうはただの装飾の影だったということか」
つぶやいたきり、ルドヴィコは黙りこんだ。
香炉に浮かぶ聖母子像を見て、魔鏡の存在を見抜くほどの者ならば、魔鏡の価値についても当然知っているはずである。そう考えると、魔鏡を奪うためにアッラマーニを殺したと考えるのは、やはり不自然に思えてくる。その事実に、ルドヴィコは困惑した。
短い沈黙があった。
厨房から、食事の支度をする音が聞こえてくる。
無言のレオナルドは、耳を傾けてそれを聞いているようである。通路ごしに漂ってくるのは野趣にあふれる煮物の匂いだろう。強張った心をときほぐすような、温かな香りだった。
「――奇跡の正体をあばくのだと仰いましたね?」
無表情に目を閉じているレオナルドを見つめて、チェチリアが訊いた。
「それは、アッラマーニ殿の遺体を磔にした方法を明かすということなのですね」
「ああ、そうなるな」
レオナルドは、唇だけを動かして答える。
「コンタリーニ殿の行方も、それで明らかになるのですか」
「ぼくの考えが正しければそうだろう」
「師匠《マエストロ》が香炉の在処を知っていた理由も――」
「そう。それにミケーレ・パンドルフォの傭兵団を襲った敵の正体もだ。それらはすべて同じことなのだからね」
「敵?」
何気ない彼の一言に、ルドヴィコは肩を震わせた。
「どういうことだ。パンドルフォたちが殺されたのは、三十年も昔の出来事なのだぞ」
「ああ、わかっているさ、イル・モーロ。敵というのは、ただの喩えだよ」
微笑んで、レオナルドは首を振る。
「まさか、あの天使のことを仰っているのですか」
チェチリアは表情を硬くして訊いた。
「ですが、あれは魔鏡が造りだした幻影だったのでしょう? あの聖母子像と同じ――」
「そうではないよ、チェチリア」
椅子に深くもたれたまま、レオナルドは頬杖をついている。
「きみたちが天使と呼ぶあれば、ぼくらに危害を加えるような存在ではないし、もちろん魔鏡が造りだした幻影などでもない」
ルドヴィコたちは無言である。
彼の今の説明で、魔鏡というものが、ありもしない幻影を映し出すような便利なものではないということはわかっている。最初の嵐の晩はともかく、昨夜、チェチリアの前に姿を現した人影は、少なくとも鏡の幻像ではない。
この館で起きた出来事でもっとも理解しがたいことは、天使が姿を見せた理由だ。
レオナルドは、そのような言葉を、昨夜、チェチリアに告げたらしい。ルドヴィコは、ふとそのことを思い出す。
「では、チェチリアたちが見たという天使――あれは、なんだ?」
ルドヴィコが重々しく口を開いた。
「二人の人間が、同じものを見たと言っているのだ。実際にそういうものがいたと考えるのが自然だろう」
軽い口調で、レオナルドは答えた。
「しかし、屋敷に滞在していた人間で、それらしい者はいなかったのだぞ」
「そうだ。ぼくたちが知っている範囲ではな」
「ほかに屋敷の中にとどまっていた人間がいるというのか。俺たちが、どれほど徹底的にこの城館を調べたか、わかって言っているのだろうな?」
「屋敷の中にいたとは限らないさ」
「ばかなことを」
ルドヴィコは大きくかぶりを振った。
「アッラマーニが殺された嵐の夜に屋敷の外にいただと? 自殺行為だぞ」
「では、館の中でも外でもない場所だとしたらどうだ」
レオナルドは平然と微笑んでみせる。
チェチリアが、驚いた様子で身を乗り出した。
「――そういえば、師匠《マエストロ》は、このお屋敷を、世界ではなく境界を造り出す建物だと仰いましたね?」
レオナルドは、ようやくチェチリアのほうを見て、満足げにうなずく。
「よく覚えていたな、チェチリア。そう。この屋敷は、内と外の区別が曖昧な建築物だ」
「……なんだ、それは?」
顔をしかめて、ルドヴィコが訊く。レオナルドは少し退屈そうに言った。
「難しく考える必要はないよ、イル・モーロ。この屋敷は、もとは城砦だったのだ。抜け道や、隠し部屋のひとつふたつ、むしろ存在しないほうが不思議だろう?」
「それくらいは、わかっている」
ルドヴィコがむきになって言い返す。
「だからこそ司祭たちも、あれほど念入りに屋敷の中を調べて回ったのだ。だが、この屋敷の壁や床には、構造上、隠し扉は造れぬ。抜け道などありはしないのだ」
「扉ははじめから隠されてなどいない」
「なに?」
「|飛び梁《バットレス》、というものを知っているか、イル・モーロ」
「その程度はな」
ルドヴィコはうなずいた。
「大聖堂《ドゥオモ》などの壁を支えるために、外側に張り出している支柱のことだろう?」
「そう。壁を薄くし、内陣に広大な空間を抱えこんだために、大聖堂の多くは天井を支えるための柱や梁を持ち得ない。その重量を支えるための支持構造は、複雑で緻密な飛び梁や控壁として建物の外側に露出している。まるで針葉樹林のようにな」
「話を逸らすな、レオナルド。大聖堂の造りなど、今は関係ないだろう」
「逸らしてなどいない。なぜなら、この屋敷もまた、大聖堂と同じ構造を持っているからだ」
淡々と言い返す男を睨んで、ルドヴィコは首を振った。
「なにを言っている? この屋敷に飛び梁などありはしないぞ」
「あるのだ。イル・モーロ。正確には飛び梁ではなく、控壁に挟まれた側廊だがね」
レオナルドは素っ気なく言い放つ。
困惑したルドヴィコは、チェチリアと顔を見合わせた。
アッラマーニの城館の造りは、最近の建築とは思えぬほどに無骨で簡素なものである。
外壁は瀝青や漆喰で粗石を固めただけの平坦なもので、無数の小尖塔で飾られた大聖堂の、壮麗な外観とは比べるべくもなかった。
たしかに、この城館の壁は異様なほど強固に造られている。その意味では、もっとはるかに大規模な――それこそ大聖堂のような建物の一部に通じる雰囲気がないわけではない。
しかし、それも城砦だったという館の前身を考えれば、不自然というほどでもない。
ましてや、その外壁の内部に隠し部屋を設けることなど、どう考えても不可能である。
では、なぜレオナルドは大聖堂の話など持ち出したのだろう、とルドヴィコは思う。
内側、ではないのだろうか。
しかし、城館の外側には、美しい森林の光景が広がるばかりで、ほかになにもない。
境界に存在するのは、平坦な外壁だけ。
城館の四方を囲む――
「あ!」
チェチリアが、ふいに勢いよく立ちあがった。
背後の礼拝室の方角を振り返りながら、彼女は早口でまくしたてる。
「わかった――わかりました、師匠《マエストロ》。では、あの天使は、閉じこめられていたのですね。あの崩れ落ちた土砂の下に……もう何年も……」
ルドヴィコは、チェチリアの声が震えていることに気がついた。今にも泣き出しそうである。彼女のこんな表情を目にしたのは、ルドヴィコにしてもはじめてのことだ。その姿に驚いて、なにも言葉を継げなくなる。
「では、行こうか――そろそろ支度も調ったようだ」
しかしレオナルドは、淡々と告げるだけだった。
彼の言う支度とは、晩餐の準備のことだったらしい。厨房にいた侍女たちに、食事が必要な人数を伝えると、レオナルドは再び北側の回廊へと戻った。
長い回廊に人の気配はなく、ただ無数の灯りだけが揺れている。
チェチリア・ガッレラーニは、昨夜見た天使のことを思い出している。
感じていた困惑と恐怖が徐々に薄れ、曖昧だった記憶の輪郭が、しだいに鮮明になっていくような気分である。薄暗い回廊にも、これまでに感じていた陰鬱さはもう感じない。そこにあるのは、ただの古びた石造りの建物だった。
回廊の半ばまで歩いてきたところで、レオナルドはふいに立ち止まった。
「食事の用意をしてある。出てきたまえ――」
大きく息を吸い、誰にということもなく呼びかける。
よく通る彼の声は、幾度となく壁に反響して散っていった。
「おい……どういうことだ。貴様、なにを言っている?」
ルドヴィコ・スフォルツァが、焦ったような声で言った。
問われたレオナルドは、渋々と大儀そうに振り返った。
「聞いてのとおりだ。向こうから出てきてもらおうと、呼びかけている」
「いったい誰が、どこから出てくるというのだ」
「扉なら、すぐ目の前に見えているさ」
あきれながらも愉しげな口調で、レオナルドは言った。
ルドヴィコと彼の護衛の兵たちは、やや混乱した様子で、なにもない回廊を見回した。石壁を押して、その感触を探ったりしている者もいる。
ついに屈服したように、ルドヴィコが息を吐く。
「――わからぬ。頼む、レオナルド、教えてくれ。いったいどこに扉があるというのだ」
「なんだ、気づいていたわけではなかったのか。扉に限らずとも窓からも出入りできると、それらしいことを、きみも言っていただろうに」
「窓……だと?」
ルドヴィコは、低く呻いて顔をあげた。しかし、彼の眼前には、見るからに頑丈な板窓が無造作に並んでいるだけである。
「まさか……この回廊に並んでる窓のどれかが、隠し部屋への通路になっているというのではあるまいな」
「わかっているではないか、イル・モーロ。そのとおりだよ。そのあたりの窓のどれか――それが、この屋敷のほんとうの入口だ。いや、この場合は出口というべきかな」
「し、しかし……この壁の向こう側は、土砂崩れに埋まっているのではないのか。あの従僕の老人も、そのせいで、こちら側の城門は開かないと――」
「そう、この壁の外は土砂に埋もれている。だが、自然の災害でそのような姿になったわけではないよ」
レオナルドは、誰もいない方角にむかってつぶやいた。
「この建物は、最初からそのような形に造られたのだ。この山の斜面になかば埋もれたような姿にね」
「では、あの土砂崩れの痕跡もアッラマーニが考えたものなのか? はじめから設計されていたことだと――」
ルドヴィコが大げさに首を振る。
「ばかな……なんのためにそんなことを――?」
「この壁の外に造った飛び梁と、側廊を隠すために決まっているだろう」
「側廊!?」
「この壁の外側には、きみが探していた隠し部屋がある。土砂に埋もれて開かないと思われた窓が、その部屋への通路になっているのだ。それだけのことだよ。東西と南側の三方の城壁をなんの飾り気もない平面に仕上げてあるのは、土砂で隠した北側の壁も同じような造りになっていると錯覚させるための仕掛けだ」
「……あの土砂崩れの跡だと見えたものが、飛び梁を隠すための覆いだったわけか」
無表情な石壁を睨んで、ルドヴィコがつぶやいた。
レオナルドは何者かの返事を待つようにしばらく沈黙していたが、やがてあきらめたようにため息をついた。回廊に並ぶ板窓を、順番に観察しながら歩き出す。
燭台の灯りが、傷みの激しい板窓と、金属製の型枠を浮かび上がらせている。
炎にあわせて揺れる暗い影と、ささくれだった血の色の錆。
結局、彼が足を止めたのは、礼拝室のある北東の小塔に近い窓の前だった。
傍目には、ほかの窓とまるで違いはない。しかし、よく見れば、蝶番《ちょうつがい》の部分に錆がほとんどないことに気づく。この板窓だけ、定期的に油が差されているのだ。よほど注意して見なければわからない、ほんのわずかな差異だった。
チェチリアは思い出している。昨夜、天使が壁に溶けこむように消えていったのは、たしかにこのあたりの暗がりだ。
「いちおう閂《かんぬき》はかかっているようだが――」
レオナルドは護衛の兵から短刀を借りると、窓枠と窓の隙間に突き立てて、なにやら細かな作業をはじめた。ほとんど間をおかず、金具らしきものがはずれる音がする。
彼がゆっくりと押しやると、決して開かないと思われていた板窓は、思いのほかあっさりと開け放たれた。
その先にあったのは、ゆるやかにくだっていく通路の、白く滑らかな壁である。
ルドヴィコたちが、声にならないどよめきを漏らした。
窓枠とほとんど変わらぬ天井の高さは窮屈だった。だが、暗闇かと思われたその通路には、むしろ明々と灯火が燃えている。通路の先には、傾斜のきつい階段があった。地の底まで続いているような、その階段の先はもう見通せない。
「思っていたよりも広いな……中にはいらなければ、どうしようもないか」
開ききった窓の向こう側をのぞきこんで、レオナルドがつぶやいた。
通路の奥の様子は、チェチリアのいる場所からではわからない。しかし、予想していたよりも清潔で、すごしやすい場所であるように見受けられる。密閉された部屋にありがちな、すえたような異臭も感じられない。換気のための通路や煙突が十分に整備されているのだろう。
窓枠は、身軽な人間ならば簡単にのぼれる高さだったが、ルドヴィコの部下の一人が気を利かせて、踏み台になりそうな椅子を運んできた。
厨房にあった低い椅子である。
それにレオナルドが足をかける。
なにかに気づいたように、彼は途中でその動きをやめる。
そのとき、チェチリアは声を聞いた。
耳障りな、低い声――
獣じみたうなり声である。
なにかが倒れる音が、狭い通路に反響して、雷鳴のように耳に届く。そして荒々しい呻き声。
「いかん」
レオナルドが、いつになく真剣な口調で言った。
「俺が行く」
真っ先に動いたのはルドヴィコだった。
傍にいた護衛から剣を奪い、他の者を押しのけるようにして通路の奥へと飛びこんでいく。
なにが起きているのか、彼にわかっているはずもない。傭兵隊長《コンドッティエーレ》であったスフォルツァ家の血脈を感じさせる、とてつもなく剛胆な態度である。
護衛の兵たちに止められるよりも先に、チェチリアは彼のあとを追っていた。
衣装の裾を翻して、狭い窓枠の中に身体を躍らせる。
油断すると、冷たく結露した通路の斜面に足を取られそうだった。階段を駆けおりるごとに、胸元の首飾りが大きく跳ねる。
先を行くルドヴィコの足音に混じって、人と人とが揉みあっている気配がある。
それほど長い階段ではない。まもなくチェチリアは、狭い作業場のような通路に出る。
どこか見覚えのある様子の場所だ。
壁際には、細い蝋燭の炎が燃えている。
水の音が聞こえたような気がした。
木製の柵の向こうに、いくつもの巨大な歯車が見える。
まるで水車小屋のようだと、チェチリアは思う。
それとも大がかりな水時計の裏側か――
「なんだ、この場所は」
ルドヴィコが叫ぶ。
「わかりません」
自分でも思いがけず強い口調で、チェチリアは言った。息があがって苦しかった。荒い石畳の床のせいで、何度も転びそうになる。
突きあたりの扉を、ルドヴィコが身体をぶつけるようにして開けた。
その先にあるのは広い部屋だ。
薄暗い部屋の中で、揉みあっている影が見えた。
派手な色遣いの衣装をまとった若い男だ。
剣を抜いて、ルドヴィコが立ち止まった。互いに、はっきりと相手の顔が見てとれるほどの距離である。
「コンタリーニ殿――」
ルドヴィコの背中ごしに、チェチリアは叫んだ。
「誰だ」
闇の中に立つ男が怒鳴る。
男は、腕に銀色の燭台を持っていた。
燭台に灯りはついていない。蝋燭を立てるための鋭い突起が剥きだしになっている。その突起を、男は自分の胸元に向けていた。彼の腕の中には、べつの小柄な影が捕らえられている。
「ミラノのルドヴィコ・スフォルツァだ。コンタリーニ殿――なにがあった?」
「こいつだ――こいつが、俺をこんなところに――」
上擦った甲高い声で、ジョヴァンニ・コンタリーニがわめいた。右手に持った燭台を、威嚇するように大きく震わせる。
コンタリーニの髪は乱れ、衣服もひどく汚れている。
それ以上に彼の表情はやつれ、目元が落ちくぼんでいた。瞳だけが狂気に輝いている。
そして彼の腕に捕まっていたのは、まだ幼い子どもの姿だった。
「あれが……天使か」
ルドヴィコが、消えそうなつぶやきを漏らす。
錯乱したコンタリーニに首を絞められたまま、その子どもは笑っていた。
チェチリアは、呼吸を忘れたまま立ちつくす。
少年とも、少女ともつかぬ美しい微笑み。
血管が透き通るような白い肌。
生まれたての赤子のように透明な青い瞳。
鮮やかな金色の巻き毛。ほっそりとした身体に巻きつけた、白い布のような服。
そして微笑。
燭台の切っ先を突きつけられた状態で、その子どもは、絵画に出てくる天使のような笑みを浮かべている。
唐突に、チェチリアは屋敷の侍女があれほど怯えていたわけを理解する。
これは人間の姿ではない。間違いなく、アッラマーニが殺された夜に彼女たちが見た天使の姿だ。
「こいつがやったんだ。アッラマーニを殺して、あんな姿に。同じように俺も磔にするつもりなんだ。こいつは天使なんかじゃない。こいつは――」
人殺しだ、とでも続けようとしたのだろうか。コンタリーニの言葉は、興奮のあまり声にならなかった。
彼の足下には、彼自身を縛っていたとおぼしき縄が落ちている。隙を見て抜け出し、逆に天使を捕らえたということなのだろうか。しかし天使には抗う様子は見受けられない。
ただ、冷ややかな微笑を浮かべて、ルドヴィコたちを見上げている。
ぞっとするような違和感にチェチリアは言葉を失った。
燭台をつかんだコンタリーニの腕が震えている。彼もまた怯えているのだった。天使を傷つけることでくだされる神罰を恐れ、手を出すことができないでいる。
しかし、このままの状態がそう長く続くわけもない。彼の細い神経は、いつ切れてもおかしくない状況だ。
「コンタリーニ殿、その子を放してください」
チェチリアが、一歩前に進み出て言った。
驚いたように、コンタリーニが目を見開く。彼が手にした燭台の切っ先が、痙攣したように大きく揺れた。なにか言いたげに、青ざめた唇を二、三度震わせる。
天使は、超然とした表情で、チェチリアを見つめている。その瞳の中に、チェチリアははっきりと知性の光を見た。この子どもは、チェチリアの言葉を理解しているのだ。
「その子は、ロレッラ・コンタリーニ様のお子様です。あなたと同じ、コンタリーニ家の血を引く子どもなのですよ」
チェチリアは静かな声で言った。コンタリーニは、その言葉を、すぐには理解できないようだった。荒い呼吸を続けたまま、間の抜けた表情を浮かべている。
「どういうことだ、チェチリア?」
剣を構えていたルドヴィコが、そんな彼を睨んだまま訊いてきた。
「その子は、天使などではないのです、閣下」
チェチリアの呼吸もまだ少し速い。
「生まれて間もない我が子を、アッラマーニ殿が連れ去って殺したこと。それがロレッラ様とアッラマーニ殿の離婚の原因でした。ですが、アッラマーニ殿は、赤ん坊を殺したわけではなかったのです。彼は、この部屋に赤ん坊を幽閉して、その子を密かに育てていたのです」
「そこの子どもが、ロレッラ殿の産んだ赤ん坊だというのか」
ルドヴィコが呻くような声で言う。
「だが、なぜアッラマーニはそのようなことを――?」
「わかりません。ですが……」
チェチリアは、小さく首を振った。しかし、確信はあった。
コンタリーニに捕らわれている子どもの年齢は、十歳をようやくすぎたくらいだろうか。ロレッラが産んだという赤ん坊が生きていたら、ちょうどそれくらいの年頃である。
そしてなによりも目の前の金髪の子どもには、母親であるロレッラの面影がある。
彼女自身、我が子が生きているという望みを抱いていたから、チェチリアに聖遺物の噂を伝えて、この城館を調べるように仕向けたのではないだろうか。
「――虚言《そらごと》だ!」
コンタリーニが、大声で叫ぶ。血走った彼の眼差しに気圧《けお》されるように、チェチリアは何歩か後ずさった。
「おまえたちも、この子どもの仲間なのだな。そうやって俺を騙して、ここから聖遺物を持ち出すつもりなのだろう」
「違います」
チェチリアは細い声で言った。どうやって彼を説得すればいいのか、懸命に考える。
「無駄なことはよせ、コンタリーニ」
威圧的な口調で、ルドヴィコが言った。
「聖遺物の謎は解かれた。アッラマーニの香炉は、すでに法王庁の連中が屋敷から持ち出している。今更その子どもに危害を加えたところで、香炉は貴様の手にははいらない」
「嘘だ、嘘だ。貴様らも、この天使と同じだ――騙されんぞ」
興奮するコンタリーニの表情が歪んだ。締めつけてくる彼の腕の力に、金髪の子どもが身体をよじった。
自らの失策に、ルドヴィコが舌打ちする。チェチリアは絶望に目が眩む思いだった。
そのとき、強い音が全員の耳を打った。
予期せぬ出来事に、コンタリーニの動きが凍りつく。
前触れもなく室内に響き渡ったのは、小気味よい拍手の音。
「師匠《マエストロ》……」
チェチリアが口の中だけでつぶやいた。
開け放たれていた扉をくぐって、美貌の芸術家が現れる。
ゆっくりとした彼の足取りに、長衣の裾がゆらりと揺れた。
彼が手にした燭台の炎が、端整な顔立ちを明るく浮かび上がらせている。
ルドヴィコは、呆然とその姿を見つめていた。まるで歌劇の一場面を見ているようである。
あまりにも場違いな彼の様子に、コンタリーニまでもが呆気にとられたように動きを止めていた。
「貴殿の言うとおりだ、コンタリーニ殿」
冷ややかな笑みを浮かべたまま、レオナルドは静かに口を開く。
「その子は貴殿の血族などではない。ましてや、天使などではあり得ない――」
「え!?」
驚いて、チェチリアが声を漏らす。しかしレオナルドは答えない。
コンタリーニは、まだ驚きから覚めやらぬ様子で、のろのろとレオナルドを見つめ返した。か細く、声を震わせながら訊く。
「で、では、この子どもは――」
「それを説明するよりも先に、この辺境の屋敷にこもってアッラマーニがなにを研究していたのか、それをお伝えしましょう、コンタリーニ殿」
いつになく丁寧な言葉遣いで、レオナルドが言った。
コンタリーニはなにも答えず、彼の言葉の続きを待っている。
ルドヴィコも構えていた剣を下ろした。
高名な建築家であるアッラマーニが、すべての仕事を投げ打って、このような山荘にこもった理由。それは、誰もが知りたいと願っていることだった。
レオナルドがその答えを仄めかした瞬間、この部屋は彼に支配されたのだ。
「チェチリア、きみも見たはずだ。アッラマーニの部屋にあった高価な書籍の数々を」
よどみない口調でレオナルドが告げ、チェチリアは無言でうなずいた。
「アッラマーニが、聖遺物の奇跡を捏造してまで金を集めたのは、それらの文献を集めるためだった。彼の蔵書の中にあったのは、たとえばラモン・リュルの諸論文、ニコラ・フラメルの象形寓意図の書、フィッチーノのヘルメス文書――」
「そ、それは!」
コンタリーニが、ぎくりと肩を震わせた。レオナルドは優しげに目を細める。
「さすがは、コンタリーニ殿。どうやらご存じのようですね。そう、これらの書物はいずれも、ある学問において重要な教典とされている文献です。ヘルメス・トリスメギストスを始祖とし、ユダヤ婦人マリアに受け継がれた、魔術に似て非なるもの。卑金属を金に変え、永遠の命、全能の知を得ることを究める法――」
「……錬金術」
つぶやいたのは、コンタリーニだった。彼の表情からは完全に血の気が失せている。
「で、では……この子どもは……」
「ええ、そうですよ、コンタリーニ殿」
冷たく突き放すようにレオナルドが答えた。唇に、薄く、蔑むような笑みが浮かんでいる。
「その子どもこそ、アッラマーニが長年をかけて造りあげたもの。硝子瓶を子宮とし、硫黄と水銀と塩から生まれし光り輝く美しい小人、人造生命《ホムンクルス》です」
そこで言葉を句切り、コンタリーニを容赦なく睨《ね》めつけ、
「ああ、気をつけたほうがいい。伝承では、人造生命は魔術を操り、外気に触れると火を放つそうですから」
レオナルドは、言った。
彼のその言葉で、恐怖にとらわれていたコンタリーニはあっさりと崩れ落ちた。
ひっ、と短く叫んで飛び退くと、そのまま腰を抜かしたようにへたりこむ。
ふいに自由になった金髪の子どもは、よろけながら、そんなコンタリーニを、不思議そうな顔で見おろしていた。
「お、おい……レオナルド。その話、ほんとうなのか?」
コンタリーニが取り落とした燭台を拾い上げながら、ルドヴィコがおそるおそる口を開く。
「なんのことだ?」
涼しげな表情でレオナルドは訊き返した。自失したコンタリーニには興味を失った様子で、彼は、のんびりと部屋の中の様子を観察している。
「アッラマーニが、錬金術を研究していたという話だ」
ルドヴィコが、少し怒ったように言った。
「ああ、それはほんとうだ。彼の部屋には、めずらしい薬品の類もたくさん揃っていた。魔鏡を造るのも、おかげでずいぶん楽だったよ」
そう言って、レオナルドは平然と笑った。
チェチリアは、彼がアッラマーニの私室にこもっていたとき、部屋の中に漂っていた強烈な臭いのことを思い出す。あれは、錬金術で使う酸や薬液の臭いだったらしい。
「では、その子どもをアッラマーニが造ったというのも事実なのか」
真剣な表情で言うルドヴィコを見返して、レオナルドはあきれたように肩をすくめた。
「やれやれ、きみまでなにを言い出すのだ、イル・モーロ。生命の創造は錬金術の秘奥義だぞ。門外漢のアッラマーニごときに、そんなことができるわけないだろう」
「な……それでは、その子どもは……」
剣をしまうことも忘れて、ルドヴィコは立ちつくしている。
「チェチリアが説明しただろう。その子は、アッラマーニの奥方が産んだ赤子だよ。アッラマーニの手で幽閉されて、ずっとこの部屋で育てられていたのだ」
「それでは、火を放つというのも出任せか――」
「もちろんだ」
レオナルドは無感情な声でそう言うと、かすかに口元を緩めて見せた。
「そう言えば、コンタリーニが手を放すと思っただけだよ。実際、うまくいっただろう?」
ルドヴィコとチェチリアは顔を見合わせ、同時に深いため息をついた。
床に座りこんだままのコンタリーニは、放心したように低い天井を見上げていた。
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六 章
レオナルドは、美しい金髪の子どもに向かって手招きする。
それに応じて、天使と呼ばれていた子どもは、素直に彼へと歩み寄った。
錯乱したコンタリーニからようやく解放されたばかりだというのに、警戒している様子はない。ルドヴィコたちが向ける畏怖の視線も、まるで気にしていないようだ。
レオナルドはチェチリアを呼んで、その子を食堂へと連れていくように依頼した。
彼女は、すぐに事情を察してうなずいた。アッラマーニが死んだあと、誰もその子の面倒を見ていないとすれば、相当に腹を空かせているはずである。レオナルドが、侍女たちに食事の支度を急がせたのも、そのような理由があったのだろう。
「幽閉、か……」
チェチリアに連れられて出て行く子どもの姿を見送って、ルドヴィコが低い声で言った。
「なぜだ、レオナルド。なぜ、アッラマーニは、自分の子にそのような残酷な仕打ちをした?」
「残酷な仕打ち……そうだな」
少し考えて、レオナルドはつぶやいた。
「残酷な仕打ちというのが、あの子を閉じこめたことを言っているのなら、あれがアッラマーニの子ではなかったと言えば納得するか、イル・モーロ?」
「彼の子ではない?」
ルドヴィコは、さらに声を潜めて訊き返した。
「まさか……不義の子だということか? ロレッラ殿が、ほかの男との間にもうけた子だと?」
レオナルドは頼りなく首を振る。
「実際のところはわからない。そう考えれば、すべて辻褄が合うというだけのことだ」
「ふむ……?」
「アッラマーニには大勢の弟子がいたが、ある時期を境に彼らをすべて放逐《ほうちく》し、この屋敷に引きこもった。そして妻を遠ざけ、彼女が産んだ赤子を死んだと偽って幽閉した――それから十年以上がすぎても、彼は修道院にはいった奥方との離婚を頑として認めようとしない。それは、彼の復讐だったのではないかということだよ」
「奥方と通じていたのが、弟子たちのうちの一人だったということか――」
ルドヴィコは大きく顔をしかめた。
レオナルドは無表情にうなずいてみせる。
「そう考える根拠がひとつだけある」
「なんだ?」
「魔鏡だよ」
「持ち去られた、本物の魔鏡のことか?」
「そう。あれを造ったのは、おそらく、アッラマーニの奥方と通じていたその弟子だったのだと思う。あの魔鏡――いや、彼が造ったのはただの鏡だが、彼は、それを奥方への贈り物として自らの手で装飾したのだ。建築家の弟子が浮彫《レリーフ》の技術を身につけているのは、不自然なことではないからな」
「贈り物……」
ルドヴィコは不機嫌な顔で顎を撫でた。
「そうか、あの装飾は聖母子像ではなく、奥方の肖像だったのか。生まれたばかりの子どもを抱いた彼女の――」
「人々が普段目にする親子の彫像といえば、聖母子像がほとんどだからな。事情を知らない者が見れば、誰もが聖母子像だと考えるさ」
レオナルドは、ほんの少しだけ愉快そうに笑った。
「とにかく、愛人から鏡を贈られた奥方は、それを大切に使っていた。少しでも曇るたびに、何度も磨き直したのだろうな。アッラマーニと奥方はずいぶん歳が離れていると聞いているし、それ以前に、建築家として忙しく働いていたアッラマーニが、彼女を気に留めることはあまりなかったのだろう。浮気が暴かれる心配はほとんどなかった。だが――」
「魔鏡……そうだ。アッラマーニは、香炉の奇跡が起きはじめたときから、突然、人が変わってしまったとロレッラ殿は言っていたそうだ。ほんとうは奇跡のせいではなく、奥方が大切にしている鏡の意味に気づいたということだったのだな」
「そう。魔鏡のことに気づいたアッラマーニは、当然、その裏に彫りこまれた装飾のことにも気づいたはずだ。そこに描かれているのが自分の妻だということにも、それを造ったのが誰かということにも」
「それで、あの男は、奥方の産んだ子が自分の子ではないという疑惑を抱いたのだな。そして妻への復讐のために、生まれてまもない赤子を幽閉したのか……」
「事の真偽はわからないが、少なくとも犯人はそう考えた。だから、今度は彼が復讐のために、アッラマーニを殺したのだろうな。そして証拠となる鏡を持ち去った。香炉の正体さえ暴かれなければ、アッラマーニの死は聖遺物の奇跡として片づけられると踏んだのだ」
ルドヴィコは、驚いて肩を震わせた。
「待て――それでは、この屋敷を訪れていた者たちの中に、かつてのアッラマーニの弟子が含まれていたということか?」
「驚くほどのことではないだろう。アッラマーニに破門され、ロレッラ殿との恋にも破れた弟子が聖職者の道を選んだ――むしろ、ありそうなことだと思うがな」
レオナルドは静かに告げた。理屈屋の彼にしてはめずらしく、あまり話したくないような口振りだった。
「聖職者、か――貴様には、その相手が誰かわかっているのだな」
ゆっくりと問い質しながら、ルドヴィコは彼を睨む。
「ああ。だが、それはぼくが口にするまでもないことだ」
「そうか……待っていれば、いずれ向こうから姿を現すというのはそのことか。あの子どもをこの屋敷から連れ出すために、犯人はアッラマーニを殺したのだな」
「うん。おそらく、聖遺物の調査のためにアッラマーニの屋敷を訪れることを、ロレッラ殿に伝えたのは犯人自身だよ。男子禁制の修道院でも、同じ聖職者である司祭なら、面会くらいは叶うはずだからな。もちろん、そのとき彼には、アッラマーニを殺す意志はなかったはずだ。だが、十年ぶりにアッラマーニと再会し、幽閉された子どもの様子を知って、怒りに目が眩《くら》んでしまったのだろう。偶々《たまたま》手近にあった凶器を使ったのが、その証拠だ」
「凶器……?」
「香炉だよ。手頃な大きさの台座がついた青銅製の香炉だ。聖遺物で他人を殴るなど普通なら考えもつかないことだが、魔鏡の存在を知っていた犯人にとって、あの香炉は禁忌の対象ではなかった」
「では……香炉にあった傷は、アッラマーニを殴り殺したときにできたものだったのか?」
かすかな戦慄を覚えて、ルドヴィコは呻いた。
レオナルドは、めずらしく疲れたように目を伏せる。
「そう。ロレッラ殿は、このような結末になることを予見して、恐れていたのかもしれない。だから、ちょうど修道院を訪れていたチェチリアに、それとなく様子を見てくれるように頼んだということではないかな」
「なるほど……そうかもしれないな」
ルドヴィコはうなずいた。この屋敷を訪れて、ずっと胸に支《つか》えていた氷のような不快感が、徐々に溶け出しているのを感じる。もう疑問はほとんど残っていない。ただひとつ、もっとも大きな謎を除いては。
「おおよその話の筋道は見えた。だが、香炉で撲殺したということは、やはりアッラマーニは礼拝室で殺されたと考えていいのだな」
「そうだね。血痕が残されていたという話だし、礼拝室なら、この隠し部屋への入口も近い。まあ、そのことにたいした意味はないがね」
「だが、殺されたアッラマーニは、南側の回廊の壁で磔になっていたのだぞ。そのことはどう説明するつもりだ?」
「あれは、事故のようなものだったのだ」
「事故……?」
「そうだ。犯人が望んでいたものとは違う結末だ。この屋敷の本来の機能ではない。この隠し部屋が、なんのために存在するのかわかるかい、イル・モーロ?」
ようやくレオナルドは顔をあげて、いつもの皮肉げな笑顔を見せた。
ルドヴィコは、土中に隠されていた白い壁の部屋を見回した。
先ほどまでは動転していて気づかなかったが、綺麗に整えられた部屋である。
ベッドには白いシーツが張られ、部屋のそこかしこに置かれた花瓶には、まだ瑞々しい花が生けられていた。小さな縦笛や、木製の玩具。本も何冊か転がっている。
「……地下牢、というわけではなさそうだな」
ルドヴィコはつぶやいて、首を傾げる。
「そう。それだけなら、なにも土砂崩れを装ってまで、この空間を地下に隠す必要はない」
言いながら背中を向けて、レオナルドは入口のほうへと歩き出した。通路に出るまえに振り返り、彼は、芝居じみた所作でルドヴィコを呼ぶ。
「この場所こそが、希代の建築家アッラマーニが生み出した奇跡の源だ。この城館は、それ自体が、数百、数千の兵士を一夜にして滅ぼす大がかりな機械――兵器なのだ、イル・モーロ」
「兵器だと……!?」
ルドヴィコは絶句して足を止める。
「地元の人間は、この屋敷を| 沼 の 館 《カーサ・ディ・パルデ》と呼んでいるそうではないか」
うっとりしたような口調で、レオナルドがつぶやいた。彼が手をかけたのは、壁際の把手《とって》。金属製の大きな回転装置の把手である。
死んだアッラマーニが、彼の姿を借りてしゃべっているようだと、ルドヴィコは思う。窓のない白い壁に、いくつもの燭台が照らす無数の影が踊っている。レオナルドの声が、美しい余韻を残して告げた。
「この屋敷は、沼を堰き止めて、その上に築いた建物だ。そしてこの隠し部屋の下にあるのが、水源を押し止めている水門なのさ――」
小塔に設けられた螺旋階段をのぼって、ルドヴィコは城壁の上に出た。
春とはいえ、夜はまだ冷える。湖水地方に特有の湿った風が、肌の熱気を奪っていく。
館を取り囲む森林は、闇の中に沈んで暗い。
だが、月の明るい夜だった。
手入れが十分でないせいで、館の頂上部はだいぶ傷んでいる。
城壁のふちを囲む狭間胸壁は、この館が城砦として使われていた時代の名残だろう。
厚みのある城壁から見おろすアッラマーニの館は、意外なほど美しく、ルドヴィコは、ようやく、この館のほんとうの姿を見たような気がしている。
近くで、波の跳ねる音がした。
城壁に囲まれた中庭には、もうひとつの月が浮かんでいる。
それは、揺れる水面の動きに合わせて、ゆらゆらと形を変えながら浮かんでいる。
「これが奇跡の正体だったのだな」
低く、ルドヴィコがつぶやいた。
いまや城館の中庭は、完全に水に沈んでいた。
水位は、四方を取り囲む高い城壁の七、八分目――回廊の、三階の床近くにまで達している。
その大量の水が湧き出したのは、土砂に埋もれて開かないとされていた、城館の北側の城門からだった。館の隠し部屋があった場所の、その真下からである。
その原理は、ルドヴィコにもわかっていた。
この館は、湖に流れこむ地下水の水脈を堰き止める形で建っていたのである。
普段は、頑強に造った水門で水の流れを遮っているのだが、隠し部屋の通路にあった巻き上げ機を操作することで門が開き、押さえつけられていた地下水が、中庭を満たすという仕組みである。
水門は、中庭の水位がある一定の高さに達すると、自動的に閉じる仕掛けになっている。館の貯水量と地下水の噴き出す圧力とが、うまく釣り合うように造ってあるらしい。
あとは南側の城門を開けば、中庭に満たされた水は、勢いよく外に流れ出していくというわけだ。
ルドヴィコは、これによく似たものを知っていた。
それは、ミラノにある運河の閘門《こうもん》である。
高さの異なる水面に船を昇降させるための装置。それを考案し、実用化したのは、レオナルド・ダ・ヴィンチと名乗る異郷人の芸術家であった――
「この屋敷は、それ自体が巨大な器だった」
レオナルドが、胸壁にもたれながら言った。
「普通なら城の外側を囲むはずの堀が、ここでは城壁の内側に造られている。この屋敷が敵に襲われたときは、いったん相手を中庭に招きいれ、あとは水門を開ければいい。重い鎧で武装した敵はひとたまりもなく溺れ死ぬだろうし、仮に生き延びても、城門から流れ出す水の勢いに呑まれて、地面に激しく叩きつけられることになる」
「それがパンドルフォの傭兵団が全滅した理由か……あの地下の隠し部屋は、敵を城内に招き入れる際に、館の主が財産を隠すための場所なのだな」
振り向いたルドヴィコが訊き返す。レオナルドは、ゆっくりとうなずいた。
「この屋敷は、内と外の境界が曖昧な建物だ。外に通じているはずの窓をくぐることで、隠された部屋にはいることができる。なにもないと思われた中庭にこそ、この館の真の役割がある。この屋敷を建てるとき、アッラマーニは、そのような目眩ましを徹底して盛りこんだ。それは、この建物の秘密が、万一にも外に漏れてはならないからだ。ほんとうの姿を知られてしまったとき、この屋敷は、存在する価値をなくしてしまうのだ」
「兵器としての価値、か……」
つぶやいて、ルドヴィコは首を振った。
レオナルドは微笑する。
「そのことが、かつてのアッラマーニの弟子が犯人だとぼくが判じた、もうひとつの根拠だよ。誰も知らないこの屋敷の仕掛けを使って、彼は、自らが犯した罪の痕跡を消そうとした。アッラマーニの死体を水流で押し流し、屋敷の外へと運び去ろうとしたのだ。屋敷から遠く離れた山中で死体が見つかれば、屋敷の中にいた彼が疑われることはないと、そう考えたのだろう」
「……なるほどな」
ルドヴィコはうなずいた。
「つまり犯人は、アッラマーニ本人から、この屋敷の構造を知らされていた人物だということか」
「そうだ。そして、彼の計画は、途中まではうまくいっていた。衝動的に犯してしまった殺人とは、とても思えないほどにね」
レオナルドは、礼拝室のある北東の小塔へと目を向けた。
「犯人は、アッラマーニと凶器の香炉を運び出し、水流で外に押し流してしまうことを考えた。激しい嵐の夜の出来事だ。水が流れる音は聞こえないし、中庭が濡れていても、怪しむものは誰もいない。だが、実際に水門を開けてみたら、思いがけないことが起きた」
じっと彼を睨んでいたルドヴィコは、ふいに目を見開いて、小さく呻いた。
「そうか……アッラマーニの死体は……」
レオナルドは肩をすくめてうなずいた。
「そう。肺臓に空気の残った人間の身体は水に浮くものだ。彼の死体は沈まなかったのだよ。死体の身元をすぐには知られないように、服を脱がせたのもまずかった。とにかく死体は水面を漂い、城壁の窓枠にひっかかって止まった」
「死体が磔になっていたという、あの窓枠の上だな」
「そうだ。城門を開けて水を放出しても、死体は流れ出さず、不自然な姿で残ってしまった。犯人は焦ったはずだ。城壁のその位置まで水が満ちていたという、完全な証拠を残してしまったのだからね。しかし、どうすることもできなかった」
「それが、犯人の予期しなかった結末ということか」
つぶやいて、ルドヴィコは腕を組んだ。
「そういうことだ。チェチリアが夜中に起き出したとき、死体の真上にあった窓が開いていたのを見ている。それは犯人が、アッラマーニの死体をどうにかして落とそうとした痕跡だったのだろう。もっともすぐにあきらめた様子だが――」
水面に目を落としながら、レオナルドは言い足した。
「そのことが、犯人の唯一の誤算だったのだ。その結果、当分誰にも気づかれないはずのアッラマーニの死は翌朝早くに発見され、犯人は、隠し部屋にいる子どもを連れ出す機会を失った。屋敷を立ち去ることもできず、翌日には、ぼくらという邪魔者まで招いてしまう羽目になる」
そこまで一息に説明して、彼は、静かにため息をついた。
「あとはもう、きみも知っているとおりだ、イル・モーロ」
「ああ……」
ルドヴィコはぶっきらぼうに言った。まだいくつか疑問は残っていたが、頭の芯が麻痺したように、考えがまとまらない。
「――コンタリーニが、あの隠し部屋にいたのはなぜだ?」
ようやく思いついたことを、ルドヴィコは口にする。
「単に閉じこめられていたのだろう」
レオナルドは事もなげに答えた。
「ずっと礼拝室を見張っていたコンタリーニには、隠し部屋への入り口に気づく機会があった。それで仕方なく捕まえて、あの部屋に監禁したのだ。犯人には、彼を殺すような理由はなかったからな。目隠しして縛り上げ、ほとぼりが冷めたら解放するつもりだったのだろう」
「だが、コンタリーニは、あのとき縛られてはいなかったぞ。たしかに、それらしい跡は残っていたが……」
「ああ、それは、あの子どもがほどいたのだ」
「……なぜだ?」
「あの子は幽閉されてはいたが、逆に言えば、これまで誰かに傷つけられたり、騙されたりすることなく育てられたのだ。警戒心というものを知らないのだよ」
「それでは……あのとき、コンタリーニが突然暴れ出したように見えたのは、縄をほどかれた直後だったからなのか」
「そう……ぼくらが食事の支度ができたと呼びかけたからかな。あの子は、コンタリーニと、一緒に食事をしようと思ったのかもしれないね」
「そういえば、コンタリーニに燭台を突きつけられているときも、あの子どもには恐れている様子がなかったな。なるほど……警戒心を知らないというのは、つまりそういうことか」
複雑な思いを抱きながら、ルドヴィコは深く息を吐いた。
外套の襟をあわせて風を避けながら、つぶやきを漏らす。
「アッラマーニが殺されたとき、あの子どもは、どう思ったのだろうな。犯人が、アッラマーニの死体を運び去る様子を、間近で見ていたのだろう?」
顔をあげ、まるで無関係の方角を見つめながら、レオナルドは冷たく言った。
「それはぼくが言えることではないな。そこにいる方に、訊いてみてはどうだ?」
「なに?」
ルドヴィコは、彼が指し示すほうに振り返った。
目を細め、わずかに遅れて、息を呑む。
闇の中に、金色の紋様が揺れていた。
金糸で縁取られた外套が、風に舞っているのである。
南北へと延びる城壁の上を歩いてきたのは、司祭服をまとう痩身の影だった。
その穏やかな表情に、ルドヴィコは、ふと十字架を背負い処刑場へと向かったあの男の姿を連想する。
落ち着いた歩調で二人に近づいて、彼は、静かに立ち止まった。
「サンドレッリ司祭……あなたが?」
ルドヴィコの短い問いかけに、マントヴァの若い司祭はうなずいた。一瞬だけ、笑顔に似た表情が彼の口元をよぎる。
「侍者たちは、先に帰しました――」
つぶやいて、サンドレッリは、水が満たされたアッラマーニの城館を見渡した。
「もう、すべて承知されているのですね?」
胸壁に手を置いて、彼は訊いた。
表情を硬直させたルドヴィコにかわって、レオナルドがそれに答える。
「あなたに尋ねたいことは、もうなにもありません――ですが、言っておきたいことがあるのなら聞きましょう」
レオナルドのその言葉は、サンドレッリにとって意外なものだったらしい。彼は、しばらく黙りこんで、そして今度はほんとうに微笑んだ。
「弁解の機会を与えてくださるというわけですか。ええ、そう……ひとつだけ言っておきたいことがあります」
「ロレッラ殿との関係ですね?」
レオナルドが、口ごもる彼のために訊いた。
それはルドヴィコにも予想できたことだった。自らの罪を認めた彼が、この期に及んで弁明を求めるとすれば、それは愛人であるロレッラ・コンタリーニの名誉のため以外に有り得ない。
サンドレッリは苦笑し、それから背筋を伸ばしてルドヴィコたちを見た。
「言い訳がましいようですが、私が彼女を知ったのは、アッラマーニが彼女を娶るずっと前のことでした。私の父は貴族ではありませんでしたが、マントヴァで大きな商館を営んでおり、コンタリーニ家とも親交があったのです。そのころから私たちは、お互いに惹かれあっていた――私はそう信じています」
彼は、わずかにうつむいていた。
「ですが、私が彼女に求婚することは許されませんでした。なぜなら、私は庶子であり、父の跡を継ぐのは十五歳も年下の弟だと決まっていたからです。なんの財産も持たない若者に、どうしてヴェネツィアのコンタリーニの血を引く娘を娶ることができましょう」
サンドレッリは自嘲めいた笑みを浮かべて言う。
ルドヴィコは、横目でレオナルドの端整な顔を盗み見た。
庶出子だった法王アレキサンデル四世の例をひくまでもなく、正妻の子でなくても、父親に認知され洗礼を受けることができれば、生きていくことに支障はない。だが、それでも、彼ら庶子が、家族に温かく迎え入れられることは稀であった。正統な嫡子が生まれた瞬間、彼らは正式な家族の地位を失い、財産が譲られることもなくなるのである。
公証人という裕福な家系に生まれながら、レオナルドが、幼くして工房にはいらなければならなかったのも、彼が妾腹の子だというのが理由であった。
しかしレオナルドは、うつむくサンドレッリを、無表情にながめているだけだった。
「家を出て独立することになった私は、アッラマーニに師事することを決めました。それは、彼女があの男に嫁いだことを、噂に聞いていたからです。たとえ結ばれることがなくても、傍にいて、彼女の力になりたかった。今にして思えば、それは私の思いあがりだったのかもしれませんが――」
「ロレッラ殿に鏡を贈ったのは、やはりあなただったのか」
重々しく息を吐いて、ルドヴィコは訊いた。
サンドレッリは驚いたように顔をあげる。
「そうです。誓って言いますが、私と彼女にはなんの関係もありませんでした。彼女は不義をはたらくような女性ではないのです。あの赤子は、真実アッラマーニと彼女の子です。ですが、だからこそ、私は、あの子を幽閉し、誰とも会わせようとしないアッラマーニのことが許せませんでした。それに、彼はロレッラにもひどい暴言を――」
なにかを思い出したのか、そこまで言って、彼は唇を噛んだ。
「もういいだろう、イル・モーロ」
レオナルドが、冷ややかな声で言った。
「これ以上、彼と話していても、お互いに得られるものはなにもない。違いますか、サンドレッリ殿?」
サンドレッリは、なぜかほっとしたような顔で苦笑した。
「いえ、そのとおりだと思います、師匠《マエストロ》。ですが、ひとつだけ、私のほうから訊いてもよろしいですか」
「コンタリーニ殿なら無事ですよ。今は従者たちと一緒に、食事をとっているはずです。香炉が法王庁《ヴァチカン》に没収されたことを知って、ずいぶん落ちこんでいたようですが」
「いえ、そうではありません。たしかに、あの方には申し訳ないことをしましたが――」
サンドレッリは、レオナルドの目を見ながら淡々と言った。
「私が知りたいのは、師匠《マエストロ》――私がアッラマーニを殺したと、あなたが知っていたその理由です。それに、そのことを、なぜあなたは黙っていたのです? 皆の前で私を弾劾すれば、あんな魔鏡など造らなくても済んだのではありませんか」
「興味がなかったからですよ、司祭殿」
レオナルドは、つまらなそうに言った。
「あなたを疑う理由は、いくつもありました。アッラマーニの奥方と比較的年齢が近いこと。礼拝室で香炉の幻影を見たとき、司祭たちの中で、あなただけが平伏しようとしなかったこと。ですが、アッラマーニの私室に出入りしているあなたを最初に見たときに、実はもう確信していました」
「――なぜです。私は、あの部屋で怪しまれるようなことをした記憶はありませんが」
サンドレッリが、訝しげに首を傾げた。
「そう。あなたは香炉の来歴を調べるために、アッラマーニの部屋を訪れた。そう仰っていましたし、事実、彼の描いた書類を探しているように見えました」
「ええ……そう思います」
サンドレッリが肩をすくめて言う。
レオナルドは、ゆっくりと首を振った。
「ですが、あなたには、香炉の過去を調べるつもりなど毛頭ありませんでした。あの香炉が奇跡を喚《よ》ぶ聖遺物などではないことを知っているのだから、当然です。あなたが探していたのは、実はべつのものでした。そう――この館の図面です」
レオナルドは、無表情に司祭を見つめている。
「アッラマーニの死が聖遺物の奇跡だなどと誤解されているのは、この館の正体を誰も知らなかったからです。だから、この館の設計図を他人が見ることだけは、絶対に避けねばならないことでした。幸い、あなたはラテン語が読めることを口実に、アッラマーニの部屋にはいることができた。そして、彼がかつて造った建物の図面を、ずっと探していたのでしょう――違いますか?」
冷ややかに問いかける芸術家に、サンドレッリは、小刻みに肩を震わせながら言った。
「なぜ……なぜそれがわかるのです? それに、この館の図面は、おそらく処分されてしまって、結局どこにもなかったのですよ。あなたはなぜ、一目見ただけで、この館の構造を見抜くことができたのです?」
レオナルドの答えは、短かった。
「図面はあったのですよ、サンドレッリ殿」
「なんですって?」
「図面はちゃんとあったのです。建物の図面を描くような上質の羊皮紙は高級品です。アッラマーニは、それをただ処分するような贅沢なことはしなかった。最近もフランスで、二百年以上前に建てられたランス大聖堂の設計図が偶然見つかって、ちょっとした騒ぎになりました。建立が終わった大聖堂の設計図は、線を消して断裁され、教会の台帳として再利用されていたのです」
「あ、ああ……」
「そう。アッラマーニは、この屋敷の設計図を裁断して、日記や手稿を記すための帳面として使っていました。図面は、もしあなたが本気で香炉の由来を調べようとしていたら、真っ先に気づく場所に転がっていたというわけです。あなたが犯人でないのなら、その図面を見て、すぐに隠し部屋の存在を皆に知らせていたでしょう。それだけのことなのですよ」
レオナルドは、放心したように黙りこむ司祭を静かに眺めていた。
短い沈黙が流れ、波の音をルドヴィコは意識する。
まとわりつく衣装の裾を払いながらレオナルドが歩き出し、彼は、サンドレッリの肩に手をかけた。
「さて、サンドレッリ殿。私は、あなたが犯した罪を裁くことに興味はありません。あなたは聖職者だ。自分の罪は自分自身で償えばいい。ですが、そのためにも、あなたは自分の犯した罪の、ほんとうの重さを知っておくべきだと思います」
「ほんとうの罪の重さ、ですか」
サンドレッリは、わずかに不満そうな表情を浮かべた。
「これは意外なことを……あなた方もご覧になったはずだ、師匠《マエストロ》。あの子を閉じこめた、窓ひとつない暗い部屋を。あれを罪といわずして、なんと呼ぶのです。それどころか、アッラマーニは、あの子を使って、自らの錬金術の実験までしようとしていたのです。私が犯した殺人はたしかに許されることではないが、それはあの子の幸せを願ってしたこと。神に誓って、私には疚《やま》しいことなど――」
「だから、あなたはなにも知らないと言っている」
そう言って、レオナルドは、司祭の耳元で短くなにかを囁いた。
興奮気味だったサンドレッリの動きが止まった。
ゆっくりと振り向いた彼の顔から、血の気が失せている。
まるで自らの罪の重さに耐えかねたように、彼はゆっくりと膝をついた。
その様子を見おろして、レオナルドは冷たく言い放った。
「あの子どもは、我々が引き取って育てます。ちょうど知り合いの工房で、新しい弟子を探しているところがありますので。ロレッラ殿には、それがアッラマーニの遺志だったと伝えます」
彼は、それきりサンドレッリに背中を向けると、ルドヴィコに、この場を立ち去るよう促す。当然、反論すると思われたサンドレッリに、なぜか言葉はなかった。
若き司祭は、懺悔するように姿勢を低くしたまま、小さくうなずいただけである。
風は、いつの間にかやんでいた。
城壁の石屋根に、足音が鈍く響いている。
小塔の入り口まできたところで、レオナルドは、なにかを思い出したように足を止めた。
「そうだ、サンドレッリ殿――もし差し支えなければ、あなたが装飾した鏡を、あとで拝見させてはもらえませんか。証拠品としてではなく、ひとつの美術品として興味がありますので――」
彼の申し出に、サンドレッリは驚いたように顔をあげ、やがて微笑とともに言った。
「ええ、喜んで――師匠《マエストロ》」
鏡のように澄んだ水面に、柔らかな月の光が映って揺れている。
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終 章
夜明けとともに、奇跡の名残も溶けて消えた。
ルドヴィコ・スフォルツァとその一行がミラノに向けて出発したのは、朝霧がまだ消え去らない早朝のことである。
山道を下りた麓では、人々が復活祭に向けて忙しく働いていた。領主が死んでも、領民たちの暮らしに変わりはない。変わっていくのは、常に、それを取り巻く世界のほうだ。山道から少し離れた草むらでは、待雪草や水仙の花が開いている。雪のように空から降りしきるのは、道沿いに立ち並ぶ巴旦杏《アーモンド》の白い花弁だった。
馬車の座席に揺られながら、チェチリアは、笑みを浮かべている。
向かい側の座席では、金髪に巻き毛の幼い少年が、道すがら見える草花や景色についてフェデリカに尋ねている。普段は何事にも動じない無愛想な侍女も、間断なく続く彼の質問に、さすがに翻弄されていた。その様子が、見ていて愉しかったのだ。
レオナルドやルドヴィコは、少年の出自についてなにも語らなかったし、チェチリアも敢えて質《ただ》そうとはしなかった。
ただ、少年はすでに読み書きを覚えていたし、驚くほど上手に絵を描いた。それだけでも、彼が大切に育てられていたことがわかる。だから、それでいいとチェチリアは思う。
ほんの少しだけ、幼い頃に亡くした父の記憶を思い出す。
半日ほどの行程を終えたところで、一行は舟へと乗り換えた。コモ湖から運河を使って、ミラノの市街へと向かうのだ。そこでようやくチェチリアは、同じ舟に乗り合わせたレオナルドたちと話をすることができた。ルドヴィコは、城館を訪れている間にミラノ宮廷で溜まった公務のことを考えて、すでにうんざりしている様子だった。
「最後にサンドレッリ司祭に告げた言葉はなんだったのだ、レオナルド?」
そのルドヴィコが、気難しい表情で口を開く。
「言葉? なんのことだ?」
レオナルドは、いつもと同じ涼しげな声で訊き返した。ルドヴィコが短く鼻を鳴らす。
「とぼけるのはよせ。あのとき、ほとんど逆上しかけていたサンドレッリが、貴様の一言で、すっかりおとなしくなった。あのとき、なんと言ったのだ?」
「ああ……簡単なことだ。ある病の名前を告げただけだよ」
「病だと?」
「そう。病というよりも体質というべきなのだろうな。強い日射しを浴びると、肌がただれ、ひどい場合は死に至るという症状だ。前にフィレンツェで、そのような子どもに会ったことがある。生まれつき色素が薄いのか、透き通るような白い肌をした少年だったよ」
「お、おい……それは……」
ルドヴィコは、併走するもう一艘の舟を振り向いた。
美しい肌を持つアッラマーニの遺児は、全身を黒い外套で覆ったまま、| 白 貂 《エルメリーノ》のリベラと幸せそうに遊んでいた。その外套を彼に着せるよう指示したのは、レオナルドである。
「――アッラマーニは、あの屋敷に引きこもって錬金術を究めようとしていた」
優しげに目を細めて、レオナルドは言った。
「彼が執心していた錬金術の学徒は、人の手で金を造り出すと吹聴する、詐欺師まがいの連中ばかりではない。不老不死を目指す過程で得られた知識を使って医療に役立てようとした、敬意を払うべき人々もいる。消毒に使うアルコールなどは、そうやって得られた知識の産物だ」
「では……アッラマーニが、錬金術によって得ようとしていたものとは……」
ルドヴィコは、絶句して唇を噛んだ。
ゆっくりとため息をついて、レオナルドは哀しげに笑う。
「アッラマーニは、たぶん彼なりに、奥方や子どもを愛していたのだろう。奥方との離婚を認めず、彼女をずっと修道院に閉じこめていたのも、復讐というだけではないのかもしれない。愛と憎しみの区別なんて、彼の中でも、もうわからなくなっていたのかもしれないが――」
「愛しているから、閉じこめた……アッラマーニ殿がほんとうに幽閉していたのは、ロレッラ殿のほうだったのですね。彼が閉じこめたかったものは、屋敷の外にいる彼女のほうだった」
つぶやいて、チェチリアは、泣き出しそうな思いにとらわれた。最後まで、あの城館の内と外の境界は、曖昧なままだったのだと思う。
それからしばらく、彼女たちを乗せた舟は、ゆっくりと水路を滑っていった。雪解けの水は、群青色に冷たく澄んで美しい。
少年の歓声とリベラの鳴き声だけが、水面に時折響く。
「あの子に、名前をつけなければいけませんね」
ふと思いついて、チェチリアは言った。我ながら、いい考えだと評価する。
だが、レオナルドは、なぜか怪訝な表情を浮かべた。
「彼の名前なら、わかっているよ」
「え……? 本人に訊いたのですか。なんていうのです?」
チェチリアは驚いて訊き返す。レオナルドは、ますます訝しげな顔をした。
「アンジェロだよ。屋敷の女中が言っていただろう?」
「……アンジェロ……え、では、あのときベネデッタが言っていたのは天使《アンジェロ》という意味ではなくて……名前? 彼女は、あの子のことを知っていたのですか!?」
チェチリアは思わず腰を浮かせ、その勢いで舟が揺れた。
彼女の手をつかんで、レオナルドが苦笑する。
「いくらなんでも、アッラマーニ一人で子どもを育てるのは無理だろう。サント老人はともかく、ベネデッタは、ずっと彼の面倒を見ていたはずだ。そして彼女は、あの子がアッラマーニを殺したと思っていたのではないかな」
「あ……それで彼女は、あんなに怯えていたのですね。あの子が、屋敷の中にいることを知っていたから……」
「そうだね。ところが、その彼女が寝こんだせいで、彼に食事を運んでくれる者がいなくなってしまった。サンドレッリ殿も、そうそうあの部屋に近づくことはできなかっただろうしね。仕方なく、彼は食べ物を求めて部屋から出たりしたけれど、きみに見つかったために逃げ戻るしかなかった。たぶん怒られると思ったのではないかな」
「では、コンタリーニ殿が失踪した夜に、私が彼を見かけた理由は……」
チェチリアは呼吸を止めて、呆然とつぶやいた。
「そう……天使はお腹を空かせていたのだよ」
唇を皮肉っぽく吊り上げて、レオナルドは愉しそうに言う。
チェチリアは、大きく息を吐き、ぐったりと席に沈みこんだ。
思わず頬に笑みがこぼれる。ルドヴィコは彼の台詞が気に入ったらしく、口の中で何度も、天使は腹を空かせていた、と繰り返していた。
「――そういえば、師匠《マエストロ》。あの肖像画はどうなりました?」
気を取り直して、チェチリアは言った。
「肖像画?」
レオナルドは、めずらしく驚いたように表情を硬くした。
「私の肖像画です。描いてくださると仰いました」
チェチリアは、にっこりと微笑んでみせる。
目を逸らしながら、レオナルドは首を振った。
「あれは、魔鏡を造るための下絵だよ。銅版に転写するときに使ってしまったから、もう残っていない」
「え……棄ててしまわれたのですか」
チェチリアは、目を大きくして彼を睨んだ。
「酷い。師匠《マエストロ》が素描する間、リベラをおとなしくさせておくのは大変だったのですよ。それに、師匠《マエストロ》は魔鏡のことなんて、なにも仰ってなかったではないですか。私には、肖像画を描いてくださるとだけ――私、愉しみにしていたのですよ」
頬を膨らませて黙りこむ彼女を見て、レオナルドは目元を覆う。いつもの無表情を装おうとしていたが、眉間には深いしわが刻まれていた。
その様子を見ていたルドヴィコが、たまりかねたように笑い出す。
「貴様の負けだな、レオナルド。あきらめて新しく肖像画を描いてやったらどうだ。代金なら国庫から支払ってやる。ただし、今回の仕事代と込みでな」
「酷いな、イル・モーロ。絵を描きあげるまで金を払わないつもりか」
拗ねたように頬杖をついて、レオナルドは言った。やがて彼は、あきらめたように息を吐く。
「人生とは、ままならぬものだな。まあ、それもいいか……一杯の葡萄酒とパンのために描くのが絵画の本質だ。古代の人々が、狩りの成功を祈って獣の姿を描いたのと同じだ」
「それって、酷い言われようではありませんか、私」
わざと怒った顔でチェチリアは言った。
レオナルドが苦笑する。
「違うよ。人々が神の姿を描くのも、結局は同じだということさ。絵画には魔術的な意味があると信じられていた。芸術と奇跡は本来同じものなのだ。だから、やはりアッラマーニの館では奇跡が起きていた。あの水門や香炉の芸術《アルテ》は、奇跡として人々の記憶に永遠に残る――」
彼は、そのまま運河の水面を見つめて黙りこんだ。
その端整な横顔は、それが聖遺物と呼ばれるものの本来の姿ではないか――そう告げているようにチェチリアには思えた。
彼の言葉にうなずき、ルドヴィコはぽつりと言った。
レオナルドは、かすかな羨望を声音にこめて、同じ言葉を繰り返した。
「永遠か」
「永遠だ」
舟は、美しい山荘が建ち並ぶ運河を抜けて行く。寒いが、よく晴れた一日だった。澄んだ空が、川辺に生えた木立の隙間から、輝く水面に光を落とす。
白い水鳥の群れが羽ばたいて、高く舞いあがっていく。
そのあとに残されたのは、透明な水飛沫に映る、虹色の奇跡の残像だった。
西暦一五〇〇年三月――オスマン・トルコ帝国との戦争状態にあったヴェネツィア共和国は、一人の技師を国外から軍事顧問として招聘している。
間もなく技師は、共和国最高執政委員会あてに一通の報告書を作成した。
レオナルド・ダ・ヴィンチと名乗るその異郷人は、書簡の中で、人工的に洪水を引き起こし敵を殲滅する可動式の水門[#「人工的に洪水を引き起こし敵を殲滅する可動式の水門」に傍点]について記しているという。
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本書は「小説推理」'02年7月号から'03年4月号に連載された同名作品に加筆、修正をしたものです。
[#ここで字下げ終わり]
三雲岳斗●みくも がくと
1970年大分県生まれ。上智大学外国語学部英語学科卒業。1998年、第5回電撃ゲーム小説大賞を受賞しデビュー。2000年、『M.G.H.』で第1回SF大賞新人賞受賞。同年『アース・リバース』で第5回スニーカー大賞特別賞を受賞。新世紀のエンターテインメントを担う俊英である。他の著書に『海底密室』など。
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底本
双葉社 単行本
聖遺《せいい》の天使《てんし》
著 者――三雲岳斗《みくもがくと》
2003年10月30日  第1刷発行
発行者――諸角裕
発行所――株式会社双葉社
[#地付き]2008年6月1日作成 hj
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置き換え文字
頬《※》 ※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]「夾+頁」、第3水準1-93-90
噛《※》 ※[#「口+齒」、第3水準1-15-26]「口+齒」、第3水準1-15-26
填《※》 ※[#「土へん+眞」、第3水準1-15-56]「土へん+眞」、第3水準1-15-56
蝋《※》 ※[#「虫+鑞のつくり」、第3水準1-91-71]「虫+鑞のつくり」、第3水準1-91-71