旧宮殿にて
15世紀末、ミラノ、レオナルドの愉悦
三雲岳斗
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)罵倒《ばとう》する
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(例)| 旧 宮 殿 《コルテ・ヴェッキア》
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(例)二人しか[#「二人しか」に傍点]いない
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〈帯〉
万能の天才
レオナルド・ダ・ヴィンチが中世の奇怪な謎に挑む!
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〈カバー〉
| 旧 宮 殿 《きゅうきゅうでん》にて
15世紀末《せいきまつ》、ミラノ、レオナルドの愉悦《ゆえつ》
[#地付き]◆三雲岳斗《みくもがくと》
消えた肖像画、失踪した令嬢、運び出された巨大な彫像――。万能の天才レオナルド・ダ・ヴィンチが、ミラノ宰相ルドヴィコ・スフォルツァと、才媛チェチリアとともに不可解な事件の謎に挑む。15世紀末のミラノを舞台に、当時最先端の科学的知見をもって解き明かされる、事件の意外な真相。科学と謎を融合させたE・A・ポーの系譜に連なる傑作本格ミステリー!
三雲岳斗 みくも・がくと
1970年大分県生まれ。上智大学外国語学部英語学科卒。'98年に『コールド・ゲヘナ』で、第5回電撃ゲーム小説大賞銀賞を受賞して、デビュー。'99年に『M.G.H. 楽園の鏡像』で、第1回日本SF新人賞を受賞し、2000年には『アース・リバース』で、第5回スニーカー大賞特別賞を受賞した。SF、時代伝奇、ミステリーなど、多岐にわたるジャンルで、作品を発表し、熱狂的な支持を得ている。ほかの著作に『カーマロカ』『聖遺の天使』『アスラクライン』などがある。
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光文社文庫
本格推理小説
旧宮殿にて 15世紀末、ミラノ、レオナルドの愉悦
[#地から2字上げ]三雲岳斗
[#地から2字上げ]光文社
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目 次
愛だけが思いださせる
窓のない塔から見る景色
忘れられた右腕
二つの鍵
ウェヌスの憂鬱
解 説  円堂都司昭《えんどうとしあき》
[#改ページ]
愛だけが思いださせる
響いてきたのは、誰かを激しく罵倒《ばとう》する怒鳴り声だった。
豪奢《ごうしゃ》な吹き抜けの階段に反響して、声は意外なほど近くに聞こえた。人前で喋ることに慣れた人物に特有の、腹の底を震わせた太い声だ。だが、よほど憤慨しているのだろう。舌がもつれて、うまく言葉を紡《つむ》げていない。この建物の中で決してあってはならないことだが、今すぐにでも殴り合いが始まりそうな雰囲気だ。
怒声とともに伝わってくる殺伐とした空気に、ルドヴィコ・スフォルツァは足を止めた。
「――閣下。宰相閣下」
城から連れてきた護衛たちが、ルドヴィコの行く手を遮るように前に出た。
護衛の数は四人。いずれも屈強な黒人の兵士である。ルドヴィコが自ら登用した、忠誠心の格別に厚い者たちだ。何事か揉《も》めている気配を察して、彼らは剣の柄《つか》に手をかける。
ルドヴィコはわずかに顔をしかめ、薄く苦笑混じりのため息をついた。
「よい。心配は無用だ。おまえたちはここで待っていろ」
言い残すと、護衛たちを押しのけて、無造作に歩みを再開する。
「しかし、閣下。危険では……」
「気にするな。いつものことだ」
なおもつきまとう護衛たちを振り切って、ルドヴィコは階段を上っていった。
階下に取り残された護衛たちが、途方に暮れたように立ち尽くしている。置き去りにされた彼らの姿は所在なげで、ひどく居心地が悪そうに見えた。軍装した彼らの武骨な姿と、この華やかな| 旧 宮 殿 《コルテ・ヴェッキア》の雰囲気との対比が、余計にそう思わせるのかもしれない。
旧宮殿。
ほぼ円形をなす都市ミラノの中心部。建築途中の大聖堂《ドゥオモ》を正面に臨む豪華な建物と、美しい鐘楼を持つサン・ゴッタルド教会を含めた一帯。この地区を総称して、人々は旧宮殿と呼んでいた。
高く陰気な正門《ファサード》に刻まれた蝮《まむし》の紋章は、この宮殿が、かつてのミラノの支配者ヴィスコンティ家の居城であったことを示している。
そのヴィスコンティの一族がミラノを追放されて、すでに三十年あまり。現在の旧宮殿は、現ミラノ公ジャン・ガレアッツォと彼の親族であるスフォルツァ家の所有であり、ミラノ宮廷に出入りする芸術家や学者たちの住居として使用されている。広大で豪奢な旧宮殿の建物は、著述家や詩人たちが論じ合う場所として優れていたし、美術家が工房《ボッテーガ》を構えるのに十分な空間を提供することもできたからだ。
また、ときには他国からの使節を歓待するための宿舎として使われることもある。
たとえば公賓《こうひん》や外交使節。そして祭典や行事のために招聘《しょうへい》した芸術家たちである。
そのような異郷の芸術家たちの中には、ごく稀に、そのままミラノに留まって宮廷技師の地位につく者もいた。今日ルドヴィコが会いに来たのも、そんな異郷の芸術家の一人だった。
廊下を漂っているのは、亜麻仁油《あまにゆ》の香り。顔料を溶かす溶媒の臭いだ。
目的の部屋に近づいていくにつれ、憤激している男の怒鳴り声が大きくなっていく。
言い争っているという印象は受けない。一方的に挑発されて、屈辱に打ち震えているといった様子である。
やがて罵《ののし》るような怒声は途絶え、それから間もなく乱暴に扉を開け放つ音が響いた。部屋を飛び出してきた荒々しい足音が、階段を上りきったルドヴィコのほうへと近づいてくる。
足音の主は、修道僧の衣服をまとった年嵩《としかさ》の男だった。
壁際に立つルドヴィコにも気づかず、僧衣の男は、興奮した面持ちで階段を駆け降りていく。相当に立腹している様子である。
その修道僧が出てきた部屋こそ、ルドヴィコが会いに来た異郷人の居室だった。
思わず深いため息が漏れた。
「――また揉め事か、レオナルド」
錆《さび》の浮いた取っ手を引いて、ルドヴィコは呼びかける。
目に入ったのは、雑然とした部屋の光景だった。
積み上げられた書物。卓上に散らばる羊皮紙と銀筆。計算尺や定規と、用途の知れぬ無数の器具たち。顔料を溶くための鉢や画板が無造作に転がっていなければ、とても芸術家の工房とは思えない場所である。数学者や占術師の居室と言われたほうが、どんなにか相応《ふさわ》しく思えるだろう。
大きな窓から射しこむ強い光と、厚い石壁に閉ざされた部屋との明暗が、その部屋の印象を、さらに曖昧で近寄りがたいものへと変えている。
あるいは違う世紀に属するのかとさえ思えるその窓辺に、男は静かにたたずんでいた。
逆光に照らし出された彼の姿に、ルドヴィコはしばし目を奪われた。
かつてフィレンツェの美術家アンドレア・デル・ヴェロッキオは、旧約聖書の英雄ダヴィデの彫像を作る際に、その男をモデルにしたという。
美しい男なのである。
魅入られたように立ちすくむルドヴィコに、その彫刻のような男は笑いかけた。ゆったりとしていて、つかみどころのない、冷たく澄んだ流水のような声だった。
「やあ、イル・モーロ。久しぶりだね」
からかいのこもった男の口調に、ルドヴィコは軽く顔をしかめた。
イル・モーロとはルドヴィコの通称である。
モーロとは、黒のこと。すなわちイル・モーロとは黒い人というほどの意味になる。転じて、南方のムーア人を指すこともある。生まれつき肌が浅黒く、髪も目も黒かったルドヴィコのことを人々はそう呼んでいた。
ある意味では侮辱ともとれる呼び名だが、ルドヴィコ自身は、その愛称を気にいっていた。
自ら黒人風の衣装をまとい、護衛を屈強で忠実な黒人兵士で固めているのもそのせいだ。
スフォルツァ家は、いわゆる名門貴族の家系ではない。ルドヴィコの父――フランチェスコ・スフォルツァは、かつて勇猛で知られた傭兵隊長《コンドッティエーレ》だったのだ。
没落した名門ヴィスコンティ家にかわって、スフォルツァ家がミラノの支配者となった今でも、その武人の血はルドヴィコの中に受け継がれている。ルドヴィコが、酔狂な装いで市街を歩き回るのも、案外その血脈に理由があるのかもしれなかった。
「今の客、ドメニコ派の修道僧だな」
短く鼻を鳴らして、ルドヴィコはつぶやく。
男は素っ気なくうなずいた。
「そうだ。サンタ・マリア・デッレ・グラツィエの僧院長だよ」
横柄とも思えるくだけた口調だが、ルドヴィコは特に気にしていない。二人は、ほとんど歳《とし》もかわらない。そのせいか、余人には説明しにくい気安さをお互いに対して感じている。
「ずいぶんと、お怒りの様子だったではないか」
背後の廊下を振り返って、ルドヴィコは訊《き》いた。
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会。それはルドヴィコの兄である前ミラノ公ガレアッツォが、高名な建築家《アーキテットーレ》ソラーリに命じて造らせたスフォルツァ家の菩提所である。
そしてルドヴィコは、その教会の食堂に描くべき壁画を、この男に依頼していたのだった。
壁画の主題は、使徒を前にキリストが「汝らのひとり我を売らん」と告げる劇的な瞬間――『最後の晩餐』である。
「どうやら僧院長殿は、壁画の制作のために院の食堂が使えないことがご不満らしい。ぼくが残してある画材一式を、早々に片づけろと言ってきた」
涼やかな微笑を浮かべて男は言った。他人事《ひとごと》のような、淡々とした口調である。
ルドヴィコはやれやれと首を振る。
「僧院長の言うこともわからないではないぞ。貴様も時間をかけすぎだ。あの絵、まだ完成の目処《めど》は立たないのか?」
「いや」と、男がつぶやいた。「十一人の使徒と、ユダの身体までは完成しているよ。もう一年以上も前のことになるかな」
「なんだと?」ルドヴィコは、驚いて目を見開いた。「では、残っているのはユダの顔だけか。それなのに貴様、この一年間、なにを描いていたのだ」
「なにも」男は平然と言い放つ。「それどころか、この一年ほどは僧院に足を踏みいれた記憶もないな」
「それはつまり仕事をしていなかったということか?」
ルドヴィコは憮然《ぶぜん》としてつぶやいた。苛立《いらだ》つことも忘れて訊き返す。「その間に俺が貴様に支払った給金、どうしてくれるつもりだ?」
「心外だな」と男は笑った。「働いていたさ。毎日毎日、この絵のためだけにたっぷりと二時間はな」
「なに?」
「いいか、イル・モーロ。芸術家の魂が、もっとも昂揚した仕事をしているときというのは、ほかの人間から見れば、遊んでいるようにしかみえないものなのだ。これまでこの世になかった新たな思想、すなわち観念の完全なる形態というものを精神的に探し求めている状態とでもいえばいいのかな。それができてはじめて、肉体を使った表現ができるようになる」
「……わからん。結局、貴様はこの一年間、なにをしていたというのだ?」
「探索だ」
「なんだそれは?」
「あと残っているのは、ユダの顔だけだと言っただろう」
「ああ」
「聖書に描かれたユダは、この上なく悪辣《あくらつ》な人間だったな」
「そうだが……」
「ならば壁画の中の彼も、その悪辣さにふさわしい顔に描かねばなるまい。しかし、ぼくがユダにふさわしいと思えるような極悪人の顔というものは、たやすく見つかるようなものではなかったのだ。毎日のように場末《ボルゲット》に出かけては、ミラノ中のごろつきどもを観察してはいるのだがね」
思いのほか真剣な表情で男が言う。
ルドヴィコは少なからず困惑した。詭弁《きべん》としか思えぬ発言ではあるが、目の前の芸術家が、絵の題材とするために、普段から特徴的な容姿の人間を素描する習慣があるのは事実である。
特に彼が好むのは、人の怒りや苦悩の表情であり、あるいは年老いて醜くなった人々の姿である。しかしそれは美しいものだけを描こうとする当代の画家たちの中では、異端ともいえる行為だった。サンタ・マリア・デッレ・グラツィエの僧院長が、その説明で納得しなかったとしても無理はない。
「するとなにか? 貴様は、ユダ役にふさわしい悪辣な顔立ちの人間を見つけられずにいて、そのせいで絵を完成させることができないというのだな?」
「そう。それで困っているのだ、イル・モーロ」
「困っている? 困っているのは食堂が使えずにいる修道僧たちのほうではないのか」
「いや。実は、たった一人だが、ユダにふさわしい表情を持つ人物の心あたりはあるのだよ」
そう言って男は、わざとらしく腕を組んでみせた。ルドヴィコは少し安堵《あんど》する。
「ならば困ることはないだろう」
「それがな、その人物というのがだな――」
「うむ」
「サンタ・マリア・デッレ・グラツィエの僧院長なのだ」
「なに?」
ルドヴィコが間の抜けた声で訊き返す。男は、なぜか神妙な顔つきでうなずいた。
「些細《ささい》なことで激昂《げっこう》して怒鳴り散らすときのあの表情など、ぼくが望んでいたユダの姿に十分ふさわしいものなのだがな。しかし、あの僧院の中で、僧院長自身を笑い者にするのは、さすがに忍びない。それで、どうしたものかとずっと躊躇《ちゅうちょ》していたのだよ」
「……貴様、本気で言っているのか?」
こめかみを押さえて、ルドヴィコは訊く。
「もちろんだ」
「まさか、それを本人に向かって言ったのではあるまいな」
「言ったさ。現状を包み隠さず報告しろと口うるさく迫ってきたのでな」
「なるほどな」
唇を歪めて、ルドヴィコは呻《うめ》いた。道理で僧院長が憤激して帰っていったわけである。
しかし不思議と、この男を責める気にはなれなかった。それどころか、大声で笑い出したい衝動に襲われる。この芸術家は人をくった男だが、それでも自分の作品に対してだけは忠実な人間であることをルドヴィコは知っている。
それに、あの権威主義的で堅物の僧院長が、どんな表情で今の話を聞いたのか、想像するだけでも愉快だった。
「ところで、イル・モーロ。今日はなんの用件かな」
ルドヴィコに椅子を勧め、自らも手近な台座に腰を降ろして男が訊いた。なんのためにルドヴィコが訪ねてきたのか、すべて見通しているような表情である。
「特に用事というほどのものでもないのだがな」
一度咳払いして、ルドヴィコは腕を組む。
「少々聞いてもらいたい話があるのだ。時間はかまわないだろうな」
ちらりと窓の外の影に目をやって、男はうなずいた。
「このあとでチェチリアが来ることになっているが、それでもよければ」
「チェチリアか。竪琴《リラ》の授業なのか」
「いや。今日のところは話だけだ。なにやら判じて欲しいものがあると言っていたが」
「そうか。ならばいい。もしかしたら、あの娘の話とやらにも関係あることかもしれぬ」
ルドヴィコはそう言って、記憶をたどるように目を閉じた。
目の前の異郷人はミラノの宮廷技師であり、宰相であるルドヴィコは、彼の雇い主ということになる。だからというわけでもないが、ルドヴィコはこうやってしばしば彼の許を訪れた。彼の独創的な仕事ぶりや機知に富んだ話術は、退屈な宮廷の生活の中で、格好の退屈しのぎだったからである。
そしてときにはこんなふうに、相談事を持ちかけることもある。
その程度には、この奇矯な芸術家のことを信頼できる相手だと思っている。あるいは、そのように信頼させてしまうなにかを、この相手は持っているということなのかもしれない。
実際、不思議な男であった。
こう見えて、フィレンツェの事実上の支配者であるメディチ家から派遣されてきたのだから、使節と呼んでも間違いではない。公式には音楽使節という身分になる。
だが、およそ使節などという雰囲気の男ではない。
たしかに、彼は竪琴を見事に弾きこなす。楽師として一流であることに疑いはない。
なのに、ルドヴィコ自身、彼の弾く竪琴を耳にしたことは数えるほどしかない。
気が向けば一日中でも弦を鳴らしているくせに、気が乗らねば、ミラノ公の頼みでも頑として竪琴を構えようとしない。無理強いして弾かせたところで如才なく言い逃れて、いつの間にか演奏をやめてしまっている。そのような男なのである。
気まぐれなのだ。
一方で、彼は組合から自分の工房《ボッテーガ》を持つことを許された| 画 家 《デイピントーレ》である。
さらに彼は、希代の軍事技師であり建築家《アーキテットーレ》であり、彫刻家《スクルトーレ》でもあると自称する。
ミラノ宮廷は、彼を宮廷技師という身分で雇っているものの、どれほどのことができるのか、正直ルドヴィコは量りかねている。男が考案する兵器や建物にしたところで、あまりにも空想的で、とても実現できるものとは思えない。
それでいて、男の描く図があまりにも巧みであるがゆえに、まるで現実にそれが在《あ》るかのような錯覚を覚えてしまう。その素描の精緻《せいち》さと美しさは、他の宮廷画家たちをも驚嘆させるほどであり、それだけでも男が尋常ならざる才能の持ち主であると証明できる。
つかみどころのない男なのである。
だからこそ面白い。ルドヴィコはそう思っている。こうして、事あるごとに彼のもとに足を運んでしまうのも、そのようなところに惹かれているからなのかもしれない。
それとも単に――あまり認めたくはないがウマが合うというだけのことなのか。
そう思いついて、ルドヴィコは苦笑する。
レオナルド・ディ・セル・ピエーロ・ダ・ヴィンチ――
それが男の名前だった。
寝室へと姿を消したレオナルドは、葡萄酒と杯を携えて戻ってきた。
ひとたび作業に没頭すると、食べることも飲むことも忘れ、睡眠にさえ無頓着なこの男も、葡萄酒だけにはささやかなこだわりを見せる。自らも質の良い葡萄酒の製法を研究し、それを農園に送りつけているほどである。彼の部屋には、高価なものではないにせよ、ルドヴィコでさえ感心するほどの葡萄酒が用意されているのが常だった。
「一昨日、ガッフーリオの山荘《ヴィッラ》でちょっとした祝宴があったのは知っているな」
杯を満たした葡萄酒を回しながら、ルドヴィコはぽつぽつと話し出す。
レオナルドは無表情にルドヴィコを見返した。
「ガッフーリオとは、フランキノ・ガッフーリオのことか。大聖堂《ドゥオモ》の聖歌隊指揮者の?」
「そうだ。あの巻き毛の音楽家だよ」
ルドヴィコは軽くうなずいてみせる。
この時代、イタリア各地の宮廷は音楽を不可欠なものとして、必ずといっていいほど多くの音楽家を抱えていた。絵画や彫刻の分野ではフィレンツェなどに水をあけられた感のあるミラノだが、こと音楽に関する限り、イタリア国内でも際立った存在として知られている。一流の歌手兼作曲家たちを四十人以上も揃え、これを凌《しの》ぐ音楽家集団を用意できるのは法王庁だけだともいわれていた。
そんなミラノでも当代最高の音楽家とされているのが、フランスより招聘したジョスカン・デ・プレ。そしてミラノ大聖堂の聖歌隊指揮者であり、音楽理論家としても多数の著書を残しているフランキノ・ガッフーリオの二名である。
「その祝宴の噂は聞いている。チェチリアも招かれたと言っていたな」
「ああ。ガッフーリオの妹君の婚礼の祝宴だ。俺もその宴には顔を出したのだが、そこで少々不可解なことがあったのだ」
「ほう」
レオナルドは無表情に杯を傾けた。葡萄酒の芳香が、乱雑な工房《ボッテーガ》の空気まで変えていくようである。ルドヴィコは心地よい気分で話を続けた。
フランキノ・ガッフーリオの山荘は、ミラノから船でしばらく北上した運河沿いにある。
彼は貴族の家柄というわけではないが、大聖堂の聖歌隊指揮者ともなれば、その地位は貴族に劣るものではない。特にロンバルディア地方の各国では伝統的に、音楽家の地位は、画家や建築家のそれよりも上であった。メディチ家の当主であるロレンツォ| 豪 華 王 《イル・マニーフィコ》が、レオナルドを音楽家としてミラノに送りこんだのもそのためである。
ガッフーリオの山荘は、そんな彼の立場にふさわしく、広大ではないまでも贅を尽くした快適なものだった。
建物自体は中世の建築らしいが、近年の流行にあわせて入念に手が入っている。古い様式の建築を、大理石をふんだんに使った装飾で包み、華麗なものに仕上げているのだ。
改装を担当したのはヴェネツィア人の建築家らしく、運河から直接屋敷に続く専用の船着き場など、来客を愉《たの》しませる趣向がふんだんに取り入れられている。屋敷の周囲には緑の木々が整然と植えこまれ、花が咲き誇る庭園には、白い天使の像が置かれていた。
中庭に面した建物の壁には、いくつもの円柱が配置され、それぞれの部屋の窓を開け放つと、古代の神殿に似た雰囲気になる。祝宴の舞台となったのは、その美しい中庭だった。
この季節のミラノに特有の曇天だったが、建物の柱にそって、篝火《かがりび》が煌々と焚かれているので不快さはない。むしろ華やかな祝宴の舞台には格好の演出だと感じられた。聖歌隊指揮者が主催する祝宴だけあって、来賓を愉しませる演目も豪華なものばかりである。
中でもひときわ喝采を浴びたのは、才女として名高いクラリーチェ・バロッタの演奏である。
左利きのリュート奏者である彼女は、難しいとされる二十弦のリュートを自在に弾きこなし、人々の称賛を一身に浴びた。洋梨型の胴部と細長い指板部を持ち、指先で弦をつま弾くように演奏するリュートは、器楽の女王とも呼ばれる難度の高い楽器なのである。
「――あれは見事なものだったな」
いかつい顔に似ず、無邪気に感動した声でルドヴィコは言う。
希代の暴君と呼ばれた、残忍な先代ミラノ公ガレアッツォ・スフォルツァですら、こと音楽に関する限り、優れた感性の持ち主であった。音楽に対する真摯さは、スフォルツァ家の血筋なのである。
「ただひとつ心残りだったのが、クラリーチェ嬢と双璧をなすという、キアーラ・コンテ嬢の演奏が聴けなかったことだよ」
そう言って、ルドヴィコはしみじみと息を吐いた。
「キアーラ嬢は、祝宴には招かれていなかったのか」
無感動な声でレオナルドが訊き返す。
キアーラ・コンテもまた、リュート奏者として名高い女官である。
哀切な舞曲などを得意とするクラリーチェに対して、キアーラの得手《えて》は華やかな式典音楽であり、その彼女をガッフーリオが祝宴に招かないとは考えにくいことだった。
「いや。ガッフーリオが、敢えてキアーラ嬢を招待しなかったというわけではない。ただ、彼女は祝宴に出ることができなかったのだ」
「ほう?」
「どうやら彼女は懐妊しているという噂でな。それで体調がすぐれず、宴に出られないのだと、ガッフーリオから謝罪があった」
ルドヴィコが言うと、レオナルドは面白そうに薄く笑った。
「なぜガッフーリオが謝るのだ?」
「俺も、その場ではじめて聞いたことなのだがな」ルドヴィコは苦笑して目を瞑《つむ》る。「どうもキアーラ嬢のお相手というのが、ガッフーリオ本人ということらしい」
レオナルドは、少し思案するように天井を見上げて押し黙った。
「――それをガッフーリオが認めたのか? 皆の前で?」
「そうだ。でなければ、あの男がキアーラ嬢のことで謝罪などする理由はないだろう」
「なるほど。それは意外だな」
「なにがだ」
「ガッフーリオが交際しているのは、クラリーチェ嬢のほうだという噂を聞いていたからな」
「思いのほか下世話なことに通じているのだな、貴様も」
ルドヴィコはそう言うと、声をあげて笑った。
「たしかに、その噂は俺の耳にも届いている。交際していたが、すでに別れていたというのがほんとうのところであろうよ。クラリーチェ嬢のほうも、そのことでガッフーリオを恨んでいるというわけではないようだ。彼の妹の祝宴に駆けつけているくらいだからな――」
そこまで言って、ルドヴィコはふと表情を曇らせた。杯を乱暴に口に運ぶ。
「いや……今となっては、そう言い切るわけにもいかないか」
「なにか不都合があったのか、イル・モーロ?」
レオナルドがさりげなく先を促した。
「ああ……特に不都合というほどのことではないのだ。ガッフーリオは独身だし、クラリーチェ嬢もキアーラ嬢もすでに前の夫を亡くしており、他人に恋愛をとやかくいわれる立場ではない」
「たしかにな。しかし、ガッフーリオの女性の好みというのも、わかりやすい。あれは母親の面影を女性に重ねているのかもしれんな」
めずらしく真顔でレオナルドはつぶやいた。
ルドヴィコは、それを聞いて思わず笑ってしまう。年齢や性格はまるで異なっているものの、同じ楽器の奏者であるためか、クラリーチェとキアーラの背格好はよく似ていた。
「そういえば屋敷に飾ってあったガッフーリオの母君の肖像画も、彼女たちによく似ていたよ。まあ、それはいい」
「ああ」
「実は、今日の話というのは、もうひとつの肖像画のことなのだ」
「肖像画?」
「そうだ。自分の子を身ごもったからなのかどうかはしらんが、ガッフーリオは、キアーラ嬢の肖像画をジョヴァンニ・アンブロージョに依頼していたらしい」
「プレディス家のアンブロージョか」
レオナルドは、ようやく興味を惹かれたというふうに身体の向きを直した。
ジョヴァンニ・アンブロージョは、ミラノのティチネーゼ門近くに工房を構える美術家兄弟の末弟で、ミラノの宮廷画家でもある。レオナルドとも親交があり、過去にはいくつかの作品を二人の連名で引き受けていた。
年齢的にはアンブロージョのほうが上なのだが、共に仕事をするにあたって、彼は謙虚な姿勢でレオナルドの技法を学んだという。少なくとも己の実力を見極め、レオナルドの腕を認める程度には、画才に恵まれていたということである。その甲斐があってか、兄弟たちの中でもアンブロージョの評判は特に高く、近頃ではフェラーラ公妃などの肖像画も手がけるようになっている。
ガッフーリオが、その名肖像画家の作品の存在を仄《ほの》めかしたのは、祝宴も終わりに近づいた時分であった。
その肖像画はまだ未完成だが、興味のある者には特別に見せてもよい――と、彼は言った。
表向きはキアーラ・コンテの不在で参加者を落胆させた詫びということであったが、彼の真意が、自らの新たな愛人と、その肖像画を自慢することにあるのは明らかだった。
しかし宮廷に出入りする楽師――それも女性奏者となれば、ただでさえ人々の関心を集める存在である。そんな彼女を、高名な肖像画家が描いたというのだ。見ておけば、当分話の種には事欠かない。キアーラの名を知る人々の多くが肖像画の鑑賞を希望した。
ルドヴィコも彼らの列に加わった。肖像の主に興味があったというよりも、宮廷画家であるアンブロージョの仕事ぶりを見ておきたかったからである。
「それで、どうだったのだ?」
落ち着いた声でレオナルドが問いかける。
「肖像画か。まあ、良い出来だった。ただ、やはり未完成で、ようやく顔の下地を塗りおえたというところだったがな」
ルドヴィコは残念そうにつぶやいた。
肖像画は両手を広げたほどもある大きな板に、油彩で描かれたものだった。発色が鮮やかな油彩だが、それまで主流だったテンペラに比べると乾きが遅く、塗り重ねるのに時間がかかるという欠点がある。そのためキアーラの肖像画は、彼女を描いたものだとようやく見分けられるという程度の状態でしかなかった。
それでも、すでに描き終えた箇所の出来映えは、宮廷画家の作にふさわしい見事なものだった。華やかな空色の衣服をまとったキアーラの横顔が向かって右向きに描かれており、彼女の右手には、小振りなリュートが握られている。そのリュートは、本物と見紛うばかりの精密な筆致で描き出されており、レオナルドの薫陶を受けたアンブロージョならではの作品であった。
「あれならば、ガッフーリオでなくとも自慢したくなるであろうよ」
真面目な顔でルドヴィコが言う。
レオナルドは、薄く皮肉げな笑みを浮かべただけである。
「ならばよかったじゃないか。なにも問題はないだろう?」
「違う。絵の出来がよかったからこそ問題なのだ。なにしろ、その絵が忽然《こつぜん》と消え失せてしまったのだからな」
無意識に身を乗り出してルドヴィコは言った。レオナルドが、ほう、と目を細めて訊き返す。
「消えた……盗まれたということか?」
「おそらくな。しかし、それがどうもよくわからぬ」
ルドヴィコはゆっくりと首を振った。
最初に絵がなくなっていることに気づいたのは、チェチリアだった。
彼女――チェチリア・ガッレラーニはミラノの廷臣ファツィオ・ガッレラーニの末娘である。歳はまだ十代のなかばであり、祝宴に招かれた客の中でも群を抜いて若い。豊満な肉体を誇る宮廷の女官たちに比べると、幼さを残した彼女の姿は、折れそうなくらいほっそりと頼りなく見えた。しかし美しい娘である。
世間では、その美貌に感銘を受けたルドヴィコが、彼女を愛妾として| 旧 宮 殿 《コルテ・ヴェッキア》に召し上げたのだと噂されている。
そのことについて、チェチリアはなにも語らない。面と向かって不躾《ぶしつけ》な質問を浴びせられることがあっても、ただ静かに微笑んでいるだけだ。
しかしルドヴィコの庇護下にあることを差し引いても、チェチリアは宮廷の人々に愛されていた。それは彼女自身の才能に因《よ》るものである。彼女はその若さにもかかわらず、詩才に恵まれ、竪琴《リラ》などの楽器を弾きこなし、ラテン語で演説をふるうこともやってのけた。当代の女性にはあり得ないほどの高い教養を身につけているのである。
チェチリアがそのような特別な教育を受けたのは、幼くして父親を亡くすという彼女の不幸の結果であった。持参金を払えなくなったことで予定していた婚約が破棄され、ほかの上流階級の娘たちのように尼僧院に入ることも許されず、法学者や医師を目指していた兄たちの家庭教師から教育を授かるという数奇ないきさつがあったのだ。
だが、そうやって身につけた教養は、宮廷での彼女の評価を高めることに貢献した。
なかでもルドヴィコは彼女との出会いを喜んだ。
女性であるチェチリアが彼の政敵となることは決してあり得ない。ルドヴィコの好む哲学や芸術の話題はもちろん、余人には打ち明けられない政治的な相談事まで、チェチリアにだけは心おきなく持ちかけることができたのだ。
だからその日も、ルドヴィコは彼女を傍に置き、中庭の散策を楽しんでいた。
祝宴の舞台となっているガッフーリオの山荘の中庭である。
話題となったのは、庭園の中央に置かれた天使の像の銘文だった。
“CANT...ANG...”とだけ彫りこまれたその銘文がなにを表しているのか、ルドヴィコたちを含めて、その場にいる者たちで賑やかな議論になったのだ。
もとより、正解のある問いではない。
ガッフーリオがこの屋敷を手にいれたのは最近のことであり、天使像は、その遥か以前から置かれていたものだ。銘文がかすれて読めなくなってしまった以上、そこになにが書かれていたのか、ほんとうのところは誰にもわからない。
ただ、宴の主催者であるガッフーリオに敬意を表して、彼にふさわしい銘文をあてはめようという、つまりは言葉遊びである。
「|天使のの歌手《Cantor Angelo》≠ニいうのはどうか?」
と言ったのは、ある高名な詩人である。
それに対して意見を求められたチェチリアは、
「|天使の合唱曲《Canticum Angelicam》≠ナはいかがでしょうか」
控えめに微笑みながら、そう答えた。
最初に意見を述べた詩人は一瞬絶句し、それから感嘆の声をあげた。
チェチリアの答えた銘文は、単純に韻を踏んでいるだけではなかった。音楽評論家としてのガッフーリオの著書である『|天使のごとく神々しい作品《Angelicum ac divinum opus》』という題名を連想させるものだったからである。
その場に居合わせたガッフーリオ本人を含めて、人々はチェチリアに賛辞を送り、彼女の案を凌《しの》ぐ銘文を考えようと頭をひねりはじめたときのことだ。
そのチェチリアが突然、
「キアーラ殿の肖像画が見あたりませんが――」
と言い出したのだった。
見れば、たしかに展示してあったはずの肖像画が消えている。
展示してあるといっても、肖像画を中庭に持ち出してあったわけではない。万一の事故を考えて、屋内に置いたままである。偶々《たまたま》、画家が作業場として使っていた部屋が中庭に面した建物の一階にあったので、見学したい者は宴席を抜け出して自由に見に行けるようになっていたのだ。
その部屋の中のどこにも、肖像画は見あたらなかった。
肖像画といえども、気軽に動かせるような小さな絵ではない。
部屋の中に灯りはないが、中庭で明々《あかあか》と篝火が焚かれているため不便はない。先ほどまではたしかに肖像画が置かれているのが見えていたし、持ち出そうとする者がいれば、誰かが必ず気づいたはずである。
「いつの間に運び出されたのでしょうか?」
ガッフーリオに向けて、チェチリアが訊いた。
宴の主催者は、訝《いぶか》しげに首を捻《ひね》った。
「いえ、そのようなことは命じていませんが、もしかしたら画架ごと倒れてしまったのかもしれません。少し様子を見てきましょう」
そう言って、ガッフーリオが駆け出していく。
しかしルドヴィコは、それほど気に留めていたわけではなかった。館の主人が言うように、掛けてあった絵が倒れてしまったというのが、もっともあり得そうなことだと思えたからだ。せいぜい絵が傷んでなければいいがと心配した程度のことである。
天使像の周りでは、詩才のある貴族や文章家たちがチェチリアと楽しげに会話を続けている。若い婦人たちは踊りをはじめたようだった。庭園の隅でリュートを奏していたクラリーチェが、それまでの静かな曲にかえて華麗な舞曲を弾きはじめたからである。
夜が更けてきたということもあり、すでに来賓たちの一部は部屋に引き上げたようである。
すぐに戻ると思われていたガッフーリオは、それからしばらく経っても、戻ってくる様子がなかった。あいかわらず彼のいる部屋の中に肖像画は見あたらない。屋敷に仕えている従僕たちが、部屋に集まって騒いでいる。
「閣下――」
異変に気づいたチェチリアが、ルドヴィコを見上げてつぶやいた。
「なにやら、変事があったようだな」
うなずいて、ルドヴィコは肖像画が置かれていた部屋へと向かった。
中庭からわずか数段の段差を越えると、そこが屋敷の入口である。
大きく開け放たれた扉から部屋の様子は見てとれるが、扉の両脇に配された篝火が眩しく、そのぶんだけ室内は暗く感じる。篝火の強い照り返しを浴びて、ガッフーリオの青ざめた顔が薄闇の中に浮かび上がっているように見えた。
厚い絨毯《じゅうたん》を敷き詰めた床には、予想されたとおり木製の画架が倒れている。
しかし、それだけだった。画架に掛けられているはずの肖像画はどこにもない。
忽然と消えている。
「ガッフーリオ殿」
立ち尽くしている音楽家に、ルドヴィコは声をかけた。
フランキノ・ガッフーリオは振り返り、
「絵がありません」
抑揚のない声で、それだけを告げた。
「肖像画が消えていた、か」
ルドヴィコの話を聞き終えたレオナルドは、つぶやきながら葡萄酒の杯を傾けた。
「それはまた、おもしろい場に居合わせたものだな」
「おもしろくはなかったさ。面倒なだけでな」
ルドヴィコは短く鼻を鳴らす。
「それほど大きな騒ぎになったわけではないのだろう?」
「ああ。ガッフーリオとて祝宴に招いた賓客たちを盗人呼ばわりするわけにもいかないからな。簡単に事情を伝えて、皆で捜すのを手伝ったりはしたが、結局絵は見つからずじまいだよ」
「しかし……肖像画か」レオナルドは頬杖をついて独りごちた。「そのようなものをはたして盗むかな。その絵、未完成なのだろう?」
「そうだ。だから、なおのこと不可解でな」
ルドヴィコも重々しくうなずいてみせる。
「宗教画ならばともかく肖像画では金に換えようがない。キアーラ・コンテの縁のものが横取りしたと考えるしかないが――」
「でなければ、ガッフーリオに恨みを持つ者が嫌がらせをしたということだな」
淡々とレオナルドは指摘する。
「ああ。だが……仮にそうだとして、祝宴の最中にどうやって絵を盗み出したのだ。あれだけ大勢の人間が集まっていたのだぞ」
「その絵の横幅、一ブラッチョ以上もあるのだったか?」
「ああ、両手でようやく抱えられる程度だな」
「その大きさの台板に石膏を塗って、それを油彩で着色したとなると、少なく見積もっても、小柄な女性ほどの重さがある。折り曲げることもできないし、衝撃に弱く壊れやすい。屋敷から運び出すだけでもかなりの手間だな。一人では不可能だ」
「やはり無理か」
「それに、嫌がらせならなにも絵を運び出す必要はない。傷つけるなり汚すなり、ほかにいくらでもやりようがあるだろう」
「……たしかに」
ルドヴィコは、むっつりと黙りこんだ。レオナルドは少し退屈そうに笑う。
「普通に考えてあり得るとすれば、部屋を間違えたということだな。もともと肖像画があったのとは異なる部屋をのぞいて、絵がないと騒いでいたのなら不思議なことはなにもない。犯人はその勘違いを利用して、肖像画を持ち出す時間を稼いだのだろう」
「俺たちだけでなくガッフーリオまでもが部屋を間違ったというのか? 自分の山荘《ヴィッラ》だぞ?」
ルドヴィコは少し憮然《ぶぜん》とする。しかしレオナルドは笑って肩をすくめ、
「そんなふうに皆が錯覚するように誘導した者がいたのかもしれないということさ」
「いや……やはりそれはない」
ルドヴィコはきっぱりと言い切った。
「あのとき屋敷の中を調べて回ったが、近くに似たような間取りの部屋はなかった。それに、最初の部屋に残されていた画架のことは、どう説明する?」
「画架の替わりを用意するのは難しくないと思うが、まあいい。きみの言葉を信じよう」
レオナルドはのんびりとうなずいて言った。「実際に肖像画が持ち去られていたとして、その方法をひとつふたつ思いつかないわけではないしね」
「ほんとうか?」
「ああ。だが、それだけでは犯人の目的がわからない。たいして面倒なことにはならないとは思うが――」
頬杖のまま、レオナルドはため息をつく。
ルドヴィコは眉間にしわを寄せた。
「面倒とは、どういうことだ?」
「どの程度の恨みがあってやったことか、わからないのは厄介だということさ。肖像画を隠したことで問題が片づいていればいいが、そうでなければ、これだけでは終わらないかもしれない」
「……ガッフーリオの身に危険が及ぶということか?」
「それも、まったくあり得ないとは言い切れないだろう?」
ルドヴィコは困惑した表情で低くうなった。
ガッフーリオほどの音楽家は、ミラノ宮廷にとってもかけがえのない財産である。その彼が危険にさらされるのはルドヴィコにとっても見過ごせない問題だ。ましてや、ガッフーリオがミラノでの生活を不安に感じて他国に移り住むようなことになったら、目もあてられない。
「しかし、それよりも問題なのはクラリーチェ・バロッタのほうだろうな」
独りごとのようなつぶやきをレオナルドが漏らし、ルドヴィコは驚いて顔をあげる。
「クラリーチェ嬢が? なぜだ?」
「絵を盗んだ犯人として、彼女が疑われているのだろう?」
レオナルドは素っ気なく質問した。ルドヴィコは落ち着いて否定する。
「いや。クラリーチェ嬢には絵は盗めない。彼女は肖像画の見学を終えたあと、ずっと中庭でリュートを演奏していたのだ。もちろん、途中で休みをとることはあっただろうが、屋敷から絵を運び出すのはとても不可能だ」
「世間の人々はそうは思わないさ」
レオナルドは、あくまで冷淡に言う。
「有名な音楽家の新しい愛人を描いた肖像画が盗まれたのだ。たとえ、その場にいたわずかな人々が彼女の無実を主張したところで、かつての愛人が疑われるのは避けられないだろう」
「たしかに、貴様の言うとおりかもしれんが――」
ルドヴィコは、深く息を吐いた。
「そのことはチェチリアも心配していた。あれはクラリーチェ嬢やキアーラ嬢とも、個人的に親しくしているらしいからな」
「なるほど」レオナルドがからかうように言った。「それで、わざわざぼくのところに相談にきたというわけか、イル・モーロ」
ルドヴィコは、真顔になって唇を尖《とが》らせた。
「べつに、あの娘のことは関係ない」
「だが気になってはいるのだろう」
レオナルドは今にも笑いだしそうである。
「たしかに気がかりには思っていたが、それは肖像画の消え方が不可解だからだ。いつスフォルツァ城が同じ手口の盗難に遭わないとも限らないからな。チェチリアのことは関係ない」
「まあ、そういうことにしておくさ」
涼しげな口調で言う芸術家を、ルドヴィコは不満げに睨《にら》みつけた。
「――ならば貴様はどうなのだ、レオナルド?」
レオナルドが怪訝《けげん》そうに首を傾《かし》げる。しかしルドヴィコは強気な口調で、
「女嫌いと言われているわりに、チェチリアにだけは甘いではないか。エステ家のイザベッラの依頼すら断った貴様が、わざわざあの娘の肖像画を描いてやったり、手ずから竪琴《リラ》を教えてやったりとな」
「それこそ関係ないことだろう。ぼくが誰の絵を描こうが、そのことで他人に責められる筋合いはないね」
今度はレオナルドが憮然とする番だった。
「それにチェチリアを特別扱いした覚えはない。彼女にはささやかな恩義を感じているので、仕方なく相手をしているだけだ。たしかに彼女が身につけている教養には、多少の敬意を払わないではないがね」
普段と同じ冷ややかな調子だったが、彼にしてはめずらしく口数が多い。この皮肉屋の芸術家も、チェチリア・ガッレラーニという娘のことになると、なぜか冷静さを欠くのである。
いつになく感情を露わにする彼を見て、ルドヴィコはようやく微笑した。
レオナルドの居室に通じる廊下に、軽やかな足音が響いたのはその直後だった。
娘は、最近の宮廷の流行であるスペイン風の衣装をまとって現れた。
胸元の大きく開いた華やかな色遣いのドレスに、左肩だけマントをかけている。
琥珀《こはく》をあしらった首飾りは、ほかの貴婦人たちに比べると質素なものだが、若く清楚な彼女の雰囲気には、むしろ素晴らしく似合っていた。
わずかに幼さを残した顔立ちは彫像のように整っている。肌は透き通るように白い。瞳の色は薄い茶色。柔らかな眼差しには、少女らしい好奇心と大人びた聡明さが同居している。
「お久しぶりですね、師匠《マエストロ》」
部屋の入口に立って、チェチリア・ガッレラーニは優雅に一礼した。陰翳《いんえい》の強い| 旧 宮 殿 《コルテ・ヴェッキア》の一室で、そんな彼女の姿は、美しい絵画から抜け出してきた妖精のようだった。
「私の名前が聞こえたようですが、どうかなさいましたか」
華やかに微笑みながら、チェチリアが訊く。
レオナルドは素知らぬ表情で、葡萄酒の杯を傾けている。
沈黙する芸術家にかわって答えたのはルドヴィコである。
「ちょうど、一昨日のガッフーリオの祝宴での話をしていたのだ、チェチリア。キアーラ嬢の肖像画が消え失せた事件の説明だよ」
「まあ」
娘は、彼女が飼っている白貂《しろてん》のように機敏に振り返ると、大きな瞳を何度か瞬《しばたた》いた。
「よかった。ちょうどその件で伺ったところです――閣下、マントは見つかりまして?」
「いや」ルドヴィコは苦笑して首を振る。「結局、仕立屋を呼んで新しいものを作らせているところだ。あれは気にいっていたのだがな」
「ええ、よくお似合いでした。残念です」
チェチリアは、優しげに目を細めてうなずいた。
それを聞いて、レオナルドは訝しそうに片眉をあげる。
「マント? そういえばいつもの黒ずくめの服はどうした、イル・モーロ。なくしたのか?」
「ああ。先ほど話した祝宴の席でな」
ルドヴィコは、苦い表情を浮かべて言った。
「どこぞに置き忘れただけだと思ったのだが、山荘《ヴィッラ》を辞去するときになって捜しても見つからなかった。まあなくしてしまったものは仕方ない」
「妙だな――」
レオナルドは腑に落ちない様子である。そのくせどこか楽しそうに、頬杖をついたままの小指を動かしている。
「その話は聞いてないぞ、イル・モーロ」
「わざわざ言うほどのことでもあるまい。よくあることだ」
ルドヴィコは呆れたように言った。肖像画の不可解な消失にくらべれば、置き忘れたマントをなくしたことなど、とるに足らない瑣末なことだ。
「いや、そうとも限らないさ」
レオナルドは、薄く微笑んで、意味ありげにつぶやいた。
「あんなものを使うのは、きみぐらいのものだよ、イル・モーロ。持ち去ったところで使い道がないのは同じことだ」
「おい……それはどういう意味だ?」
ルドヴィコは、むっと眉を寄せてレオナルドを睨んだ。
「なに、きみのように堂々とした体躯の持ち主でなければ、あのような服は着こなせないと言っているのさ」
ルドヴィコの不満を平然と受け流して、レオナルドは娘のほうに向き直った。
「――ところで、チェチリア。きみからも、なにか話があるのではなかったか?」
壁際に立つ娘は小さくうなずいて、芸術家の対面に腰を降ろしながら確認した。
「師匠《マエストロ》も、肖像画が消えたいきさつは、ご存じなのですね」
「おおかたのことは、宰相閣下から聞いたところだよ。要は、祝宴の最中に肖像画が一枚消えたということだろう?」
心なしか優しげな表情で、レオナルドはうなずいた。
「はい。皆が目を離した一瞬のことでした」
あくまでも真顔でチェチリアは言う。
「それで、実は先ほど、キアーラ殿のご自宅に伺ってきたところです。ご懐妊のお祝いを兼ねまして」
「キアーラ嬢に?」
ルドヴィコが横から口を挟んだ。チェチリアは、硬い表情でうなずいた。
「今日は体調もよろしいということで、キアーラ殿と直接お会いすることができたのですが、ずいぶん落胆しているご様子でした」
「まあ、そうだろうな」
ルドヴィコも声を低くする。
宮廷画家として名高いアンブロージョに肖像画を描いてもらえる機会など、そうそう訪れるものではない。未完成とはいえ、その絵が盗まれてしまったのでは、期待も大きいだけに失望もひとしおだろう。
「さすがに言葉にはしませんでしたが、やはり彼女は、クラリーチェ殿を疑っている様子です」
そう言って、チェチリアは困ったように目を伏せた。
低くうなりながらルドヴィコは、芸術家の表情を盗み見た。レオナルドは、無感動な様子で彼女の話を聞いている。自分の予想通りに事態が進んでいても、特に感想はないらしい。
「それは少々厄介なことになったな」
仕方なくルドヴィコが口を開いた。
「近年中にはミラノ公の婚礼の儀式も予定されているのだ。こんな大事なときに、宮廷楽団の主奏者たちが不仲になったのでは、差し障りが多すぎる。聖歌隊指揮者の評判が落ちるのも、できれば避けたいところだしな」
「そうですね」
神妙な面持ちで、チェチリアもうなずいた。レオナルドが、不服そうに唇を歪める。
「それで、ぼくになにをしろというのだ、チェチリア。まさか失われたアンブロージョの絵のかわりに、リュート奏者の肖像を描けとでも言いにきたのではあるまいな」
「――そうか」
ルドヴィコは、勢いよく手を打った。
「その手があったか。おい、レオナルド」
「断る」
「なぜだ。アンブロージョの師匠筋にあたる貴様が代役ならば、ガッフーリオやキアーラ嬢にも不満はあるまい」
「無理をいうな、イル・モーロ。それでなくても、ぼくは忙しいのだ。ついさっきも、どこぞの修道僧に催促されていたのを見ただろう。そもそも、あの面倒な作品をぼくに依頼してきたのはきみではないか」
「そうか……そうだったな」
渋々とルドヴィコは彼の言い分を認める。レオナルドは深く息を吐き出した。
「いえ、あの……そうではないのです」
二人のやりとりを見ていたチェチリアが、申し訳なさそうに手を挙げる。
「実は、師匠《マエストロ》に見ていただきたいものがあるのです。肖像画が消えたことと、きっと関係していると思うのですが」
「消えた絵に関係しているものだと」
ルドヴィコは娘のほうに向き直った。
チェチリアが取り出したものは、掌《てのひら》ほどの大きさに折り曲げた、わりに新しい紙片であった。薄茶色の表面には、簡単な記号が描かれている。
「これは……譜面か?」
ルドヴィコは、つぶやいて首を捻る。
短い五線譜の上に描かれていたのは、わずかに七つほどの音符だけである。
一連の音符の最後には、ぎこちない筆致で“rare”とだけ書かれているが、それだけでは、なにを意味しているのかわからない。
「未完成の肖像画を展示してあった部屋に、落ちていたものなのです。皆で、なくなった絵を捜しているときに、偶然、私が見つけました」
「ガッフーリオの持ち物ではなかったのか?」
「いえ。それは私があとで書き写させてもらったもので、本物の紙片は、すぐにガッフーリオ殿にお渡ししました。あの方は少し驚いていたようでしたが、内容には特に心あたりはないと――」
「ふむ……」
ルドヴィコは、紙片を頭上にかざして透かしてみる。彼には譜面を読むことはできない。
「なにかの曲の、一小節ということではないのか?」
「それが、私の知る限りでは、そのような曲はありません。そもそも、それだけではまともな譜面にならないのです」
「たしかに、これだけの音符しか書かれていないのではな」
ルドヴィコは紙片をレオナルドに渡しながら言った。
「最後に書いてある“rare”は|希薄にする《rarefare》≠ニでも書こうとしたのかな。ほかに、そのような綴《つづ》りではじまる言葉は思いつかないが」
「私も、はじめはそう思ったのですが――」
「……それでも意味は通じないか」
「はい。紙片に書かれていたのはそれだけで、たとえばもっと大きな譜面の一部である、ということでもないようでした」
「見たところ、なにかの下書きというふうにも思えんな……どうだ。なにか思いついたことはないか」
ルドヴィコは、レオナルドを振り返って乱暴に訊いた。
この奇矯な芸術家は、楽器を演奏するだけでなく、自ら曲を作り、音楽理論書の挿絵もいくつか手がけている。それを知っているから、チェチリアも彼を訪ねてきたのだろう。
しかし本人は、紙片を一瞥《いちべつ》しただけで、すぐに興味を失ったようにチェチリアに戻した。
「思いつかないこともない」
「……曖昧だな」
もったいぶった彼の仕草に、ルドヴィコが文句をつけた。レオナルドはそれを聞き流して、チェチリアに視線を向けた。
「しかし、書かれていたのは、ほんとうにこれですべてだったのかな」
チェチリアは、驚いたように口を開けた。ルドヴィコは当惑して、二人の顔を見比べる。
「いえ……実は、ほかにも見たことのない、記号のような、落書きのようなものが描かれていました。てっきり、ただの書き損じだと思って、書き写してはこなかったのですが――」
「なるほど。それは、たぶんこのようなものではなかったかな」
レオナルドは左手でペンを取り上げると、手近にあった羊皮紙の隅に、なにやら単純な記号を描いた。疑問符を逆さにしたような、鉤《かぎ》のような図形である。
チェチリアは呆然と目を見開いている。
「そうです……ですが、どうしてそれがおわかりになるのです?」
「これがなければ意味が通らないからな」
「えっ?」
「おい、それはどういうことだ」今度は、さすがにルドヴィコも驚いて訊いた。「貴様、この譜面がなにを意味しているのか読めるのか?」
「騒がしいな、イル・モーロ」
うんざりとしたようにレオナルドは言った。
「それは譜面などではないよ。まあ、ちょっとした置き手紙のようなものだな」
「置き手紙だと」ルドヴィコの表情が険しくなる。「まさか肖像画を盗んだ犯人が残していったのか?」
「いや、そういう文面ではないな」
レオナルドは落ち着いた口調で言う。
「では、なにが書いてあるのだ」
ルドヴィコはすっかり不機嫌になっている。
「仕方ないな」レオナルドは面倒くさそうに天井を仰いだ。「そこに書いた記号は、釣針《アモ》だ」
「釣針?」ルドヴィコは、わざとトスカーナ風の発音で告げたレオナルドの言葉を繰り返す。「魚を釣るときに使う、あの釣針か? そんなものになんの関係が――?」
「まあ、聞けよ。イル・モーロ」
なだめるように言って、レオナルドは、チェチリアの手の中にある紙片を指さした。
「楽譜は読めるな、チェチリア。そこに書かれている音符が、どの音階を意味しているのか、宰相閣下に教えてあげてくれないか」
「……ただ読みあげればよいのですか?」
チェチリアは、要領を得ない様子のまま、紙片を広げて目を落とした。澄んだ声で、歌うように音符を読みあげる。
「順番に、レ、ソ、ラ、ミ、ファ、レ、ミ――です」
「そう、re' sol la mi fa re' mi......だね。では、それらを最後の“rare”まで、続けて読むとどうなる?」
「最初の釣針からですね?」
言われるままに言葉を続けようとして、チェチリアが息を呑《の》んだ。
「アモ、レ、ソ、ラ、ミ、ファ、レ、ミ……|愛だけがわたしに思いださせる《Amore sol la mi fa remirare》!?」
「な……これは……」
ルドヴィコは腰を浮き上がらせた。チェチリアが解読した文章を、何度も口の中で反芻《はんすう》する。
「言っただろう。これは、ただの置き手紙だよ」
芸術家は涼しげな声で言った。
「あ、ああ……だが、これだけでは……」
ルドヴィコは、ようやくそれだけを言う。紙片を握りしめたチェチリアも、ひどく困惑している様子だった。
ただ一人、レオナルドだけが冷ややかに笑っている。
「礼を言わなければならないな、チェチリア。そんなことだろうと漠然と予想はしていたが、この手紙のおかげで確信が持てた」
「え……」ようやく呼吸を整えて、チェチリアが言った。「それでは師匠《マエストロ》には、誰が肖像画を持ち去ったのか、おわかりになったのですか」
「いや。それは、最初からわかっていたよ」
「どのようにして持ち去ったのかということもですか」
「そう。なぜ肖像画がなくなったのかということも――まあ、心配するほどのことでもなかったというところだな」
つぶやいて、レオナルドは軽く肩をすくめた。
「説明して、もらえるのだろうな」
ルドヴィコは怒ったように口を尖らせた。しかしレオナルドは、なぜか困ったような仕草で考えこんだ。めずらしく歯切れの悪い口調で言う。
「いや。それは、ぼくがここで言うべきことではないだろう」
「なんだ、それは」
苛立たしげにルドヴィコが言うと、レオナルドは苦笑した。
「まあ、世の中には明らかにしないほうが良いこともあるということだ」
「なにが言いたい? ここまできてはぐらかすような真似はやめろ、レオナルド」
ルドヴィコは、わざと大きくため息をつく。
「肖像画が消えたことで現実に騒ぎが起きているのだ。クラリーチェ嬢にも嫌疑がかかっている。このままでは宮廷内の空気も悪くなりかねん」
「それに、今回の出来事ではキアーラ殿も傷ついておられます」
チェチリアも身を乗り出すようにして言った。
「このまま放っておいて、生まれてくる彼女の子によくない影響があったら、師匠《マエストロ》はどうなさるおつもりですか」
「それほど大げさなことではないと思うがな――」
レオナルドは、うんざりした様子で目を伏せていた。
「では、こうしよう。まずはチェチリア、明日にでもガッフーリオの屋敷を訪ねてみてはもらえないか」
「はい、それは構いませんが――」
うなずいて、チェチリアは彼の言葉の続きを待った。
「それで私はどうすればよいのです?」
「ガッフーリオに直接会って、返事を聞いてきてくれればいい」
「返事ですか?」
「そうだ。持ち去られたアンブロージョの絵の代わりに、このレオナルド・ダ・ヴィンチがキアーラ・コンテ殿の肖像を描きたいと思っているが、どうか――と訊いてきて欲しいのさ」
「おい待て、レオナルド」
ルドヴィコが声を荒らげて言った。
「貴様、先ほどとずいぶん態度が違うな」
「……なにを怒っている、イル・モーロ?」
「俺がキアーラ嬢の絵を描けと言ったときには、あれほど嫌がっていたではないか」
「嫌だよ。もちろん、引き受けるつもりなどないさ」
「ではチェチリアの立場はどうなるのだ。もしもガッフーリオが、本気で貴様に絵を発注すると言い出したらどうする?」
「そんなことにはならないさ」
レオナルドは、皮肉げに微笑んだ。
「今更ほかの誰かに頼むくらいなら、そもそも今回のような出来事は起きなかったのだ」
「なに?」
「とにかく、ガッフーリオはきっと断る。そうしたら彼にこう伝えてくれないか。感謝の心は惜しまず形に表したほうが良い――」
「……はい。わかりました」
チェチリアはくすくすと笑ってうなずいた。理解できないながらも、彼の言葉には従うことにしたらしい。
「まるで金をゆすりにきた破落戸《ごろつき》のような台詞《せりふ》だな」
ルドヴィコは、顔をしかめて鼻を鳴らす。
無造作に背伸びをしながら、レオナルドは付け加えた。
「ああ。そうだ、イル・モーロ。きみも一緒に行ったほうがいいな」
「……なに?」
「都合が悪いのなら、誰か使いの者でもいいが」
「いや、都合をつけるのはかまわないが、なぜだ?」
「マントが戻ってきているからだよ」
「……祝宴の席で俺が置き忘れてきたマントのことか?」
「愛着のあるものだったんだろ?」
「あ、ああ……」
どう答えればいいのかわからず、ルドヴィコは沈黙した。仮にルドヴィコのマントがガッフーリオの手元に届いているとして、なぜそれがレオナルドにわかるのだろう。
しかしレオナルドは、それ以上なにも説明しようとしなかった。
そしてルドヴィコたちは、彼に追い立てられるようにして| 旧 宮 殿 《コルテ・ヴェッキア》をあとにしたのだった。
二人が再びレオナルドの居室を訪れたのは、その翌日のことだった。
昨日よりも少し時間が遅い。そのため石造りの窓の外に広がる空は、夕陽の色を映して赤く染まっていた。サン・ゴッタルド教会の高い鐘楼に切りとられた、ミラノに独特の夕景である。
窓際の作業机に腰をおろし、レオナルドは書きものをしているようだった。
彼は、右から左へ――普通の人とは逆に銀筆を動かしていく。その結果、描かれた文字は、まるで鏡に映したように反転したものとなる。だから彼がなにを書き綴っているのか、ルドヴィコには読みとることができない。片隅に描かれた繊細な素描は、まだこの世に存在しない、素晴らしい機械を写しているように見えた。
「やあ、イル・モーロ――どうやらマントは返してもらえたようだな」
扉の傍に立つルドヴィコたちを振り向きもせず、美しい芸術家はそう言った。
「――どういうことだ、レオナルド」
彼の部屋に踏みこむと、ルドヴィコは早口でまくしたてた。
「俺のマントがガッフーリオの許《もと》に届いていたのは、まあいいだろう。彼の山荘に置き忘れてきたものだからな。だが、なぜあの男は、貴様がキアーラ・コンテの肖像画を描くという申し出を断ったのだ。なぜ貴様には彼が断ることがわかっていたのだ?」
「そうか。やはり断ったか」
レオナルドは、そこでようやく顔をあげた。満足そうに薄く笑う。
「ああ。だが、なにやら妙な調子だったぞ」
拗《す》ねた子どものような口振りで、ルドヴィコが言った。
「ガッフーリオめ、我々にも、気を遣わせて申し訳ない、自分が見栄をはって未完成の肖像画を持ち出したことがそもそもの原因だと、ひどく恐縮した様子でな。クラリーチェ殿が疑われていると知って、ずいぶん心を痛めているようであった。なあ」
「はい」
ルドヴィコに同意を求められたチェチリアも、なにか言いたげな表情でうなずいた。
「言われたとおり、感謝の心を表しておいたほうが良いと伝えましたら、ガッフーリオ殿は、重々承知しました――と。師匠《マエストロ》にも、日を改めてお礼をすると仰《おっしゃ》っていました」
「なるほど」
書きものを続けながら、レオナルドは素っ気なくうなずいた。
ルドヴィコは、大きく咳払いする。
「結局あれはなんだったのだ、レオナルド。なぜガッフーリオが貴様に感謝するようなことになったのだ。いい加減、教えてくれ。そうでなければ落ち着かぬ」
「だからさ、イル・モーロ」
レオナルドは、苦笑するように肩を揺らした。
「つまり肖像画の行方が、ぼくの想像したとおりだったということだ」
「なに?」
「そうだな、順を追って説明すると少し長くなるのだが――」
億劫《おっくう》そうに息を吐きながら、レオナルドは言った。
「きみたちが見た肖像画は、キアーラ・コンテを描いたものではなかったのだよ。おそらくね」
「キアーラ嬢ではないだと?」
ルドヴィコは、記憶をたどるように目を細める。
「だが、あの絵はたしかに彼女の肖像だった。アンブロージョ・プレディスの作品だぞ。別人と間違えるはずがない。それに絵の女は、キアーラ嬢と同じ宮廷楽師の衣装を着て、リュートを持っていたのだぞ?」
「たしかに、それはそうなのだろう。きみの目を疑っているわけではない」
あっさりとレオナルドはそう言った。
「だが、その絵は油彩で描かれていたのだろう? 旧来のテンペラ画を修整しようと思ったら上から塗り重ねて描くしかないが、油彩というのは乾きが遅く、あとで塗り直すこともできる。もちろん、似ても似つかぬ別人を描いたものなら、最初から描き直したほうが早いだろうが、もし背格好のよく似た人物を描いたものだったなら――」
「う……」ルドヴィコは呻き声をあげた。「まさか……クラリーチェ・バロッタか?」
「たぶん、そういうことだろう」
レオナルドは淡々とつぶやいた。
キアーラと同じ宮廷楽師であり、リュート奏者でもある。そしてなによりも彼女はかつて、ガッフーリオの愛人だったのだ。アンブロージョが最初に依頼を受けたのが、クラリーチェ・バロッタの肖像画だったというのは、十分に考えられることであった。
「あれはキアーラ嬢ではなく、クラリーチェ嬢を描いた絵だったのか――」
ルドヴィコは、もう一度繰り返して言った。
「これは、たとえばということだが」
レオナルドがもっともらしく前置きする。
「ガッフーリオは、クラリーチェ・バロッタの肖像画を画家に依頼していた。だが、その絵が完成するよりも先に、二人が別れてしまったのだと想像してみる」
「うむ」
「やがてガッフーリオには新しい愛人ができ、彼女になにか贈り物をしたいと考える。そして、ガッフーリオの手元には、一枚の未完成の肖像画がある。その肖像画を贈るべき相手はすでにいない。そして新しい愛人は、その肖像画の主と良く似ていた――」
レオナルドは、そこで悪戯《いたずら》っぽい笑みを浮かべた。
「いくら未完成とはいえ、画家にはすでに相当の経費を支払っているだろう。新しい肖像画を注文するとなると、さらに出費はかさむことになる。だが、画家に絵の手直しを依頼するだけなら、それよりは安くつくはずだ。画家としても、少々手を加えるだけで、本来なら陽の目を見ることのなかった作品を、世に送り出すことができるようになるというわけだ」
「お互いに悪い取引ではない、というわけか……なるほどな」
感心して、ルドヴィコはうなずいた。しかしチェチリアは、不満げに頬を膨らませて言った。
「ですが、それでは女性に対して、あまりにも失礼ではありませんか」
ルドヴィコは、なぜか後ろめたい気分になって訊き返す。
「それは、本来の絵の主題であるクラリーチェ嬢に対して失礼ということか。それとも、それを贈られるキアーラ嬢に対して――」
「どちらに対してもです」
強い口調でチェチリアが言い、ルドヴィコは気まずげに肩を落とした。
「キアーラ嬢は、おそらく、そのあたりのことは知らされていなかったのだろうね。最初から自分のためだけに描かれたものだと思っていたはずだ」
苦笑しながら、レオナルドが続けた。
「しかしクラリーチェ嬢のほうは、すべて了解していたはずだ。ガッフーリオが事前に話をつけていたのだろう。彼女としても、別れた愛人から未完成の肖像画をもらっても困るだけだからね。いくらかの見返りは要求したかもしれないが、少なくとも、そのことを恨んではいなかった」
「――なぜ、そんなことが言い切れる?」
ルドヴィコが不審そうに訊き返す。レオナルドは冷ややかに即答した。
「わかるさ。彼女が残した手紙を読んだからね」
「手紙だと?」
「あ」
チェチリアが大きく目を開いた。
「あの譜面ですね。愛だけがわたしに思いださせる――あれは、クラリーチェ殿が書いたものだったのですか?」
「そう。たぶん、あのような譜面を使った特別な手紙を、彼女とガッフーリオは以前からやりとりしていたのではないかな。互いに愛し合っていた時代にね。ほかの誰かに見られても困らないように。いかにも音楽家らしい言葉遊びじゃないか」
「ではガッフーリオ殿は、最初からあの手紙になにが書いてあるのか、ご存じだったのですね」
「ああ。だろうね」
レオナルドは、書き綴っていた紙に再び視線を戻す。
「しかし、彼はその前に気づいたはずだ。肖像画を消したのが彼女だということにね」
「え……」
「なんだと」
ルドヴィコたちは、表情を強張《こわば》らせた。
「では、肖像画を盗み出したのは、やはりクラリーチェ嬢の仕業なのか? しかし彼女は、ずっと中庭で演奏を続けていた。山荘《ヴィッラ》の外に持ち出すことが出来たとは思えぬ」
「そうではないよ、イル・モーロ」
レオナルドは優しく微笑んで言った。
「彼女は肖像画を消しただけだ。運び出したわけじゃない。それに、彼女はそもそも肖像画を消し去るつもりなどなかったのだ」
「わからん……では、なぜ肖像画は消えたのだ」
「そうだな。こういうことは口で説明しても、なかなか伝わらないのだが……たとえば、その窓の外にある教会の鐘楼は見えるか、イル・モーロ?」
「見えるに決まっているだろう。それがどうしたというのだ」
ルドヴィコは憮然としてうなずいた。
| 旧 宮 殿 《コルテ・ヴェッキア》の一部でもあるサン・ゴッタルド教会の鐘楼は、当代のミラノでもっとも高い建造物である。市内のほとんどの場所から、その特徴的な姿を見上げることができる。レオナルドの居室からでは、ちょうど真西の方角だ。
「では、鐘楼のこちら側に見える窓が、いくつ開いているか数えてくれないか――」
「開いている窓を数えればいいのだな」
眉を寄せながら、ルドヴィコは窓側へと歩み寄った。
沈みかけた夕陽を背景に、教会の鐘楼はくっきりと浮かびあがっている。しかし逆光に包まれたその姿は、影と一体化して、いくら目を凝らしてもただの黒い塔にしか見えない。
「どうした、イル・モーロ?」
からかうように、レオナルドが言う。
「だめだ、これでは」
ついにルドヴィコは諦めた。
「陽の光が邪魔をして、窓があるのかどうかさえ見分けることができない――」
言いかけて、ルドヴィコは言葉を切った。真顔になって芸術家を睨み、黙りこむ。
「そこにあるのに、それが見えないということは、意外に身近なことだろう。イル・モーロ?」
レオナルドは、楽しげに唇の端を吊り上げた。
「では、私たちが肖像画がなくなっていることに気づいたとき、あれは持ち去られたあとではなく、単に見えなくなっていただけのことだったのですか?」
ゆっくりと、チェチリアが問いかけた。聡明な彼女は、ルドヴィコよりも一足先に、事の真相に思い至っていたらしい。
だが、ルドヴィコは反論する。
「しかしガッフーリオが調べに行ったときには、すでに肖像画は消えていたのだぞ。それは、俺もこの目で確認した」
「ああ。ほんとうのところはわからないが、おそらく事件のあらましは、こういうことだったと思うのだ」
レオナルドは、銀筆を持つ手を休めてルドヴィコたちに向き直った。
「ガッフーリオが肖像画を公開した。クラリーチェ・バロッタは、演奏の合間を縫って、その肖像画を鑑賞に行った。時間が経って、人が少なくなったころを見計らって行ったのだろうね。本来は自分のものになるはずだった肖像画だ。そのときの彼女の心境は興味深いが、そのことは今は置いておこう」
「ああ……」ルドヴィコは意味のない相槌《あいづち》を打った。
「かつて彼女の姿を描いていたはずの肖像画は、キアーラ・コンテに似せて手直しがされていた。そのことについてはクラリーチェ嬢も納得している。だが、彼女はそこで、なにかに気づいたのだと思う」
「なにかとは、なんのことだ?」
「その肖像画が、もともとキアーラ・コンテではなく、クラリーチェ・バロッタを描いたものだったという証拠のようなものだな。画家が見落としたのか、ガッフーリオが気づかなかったのか。とにかく誰かに気づかれてはまずいことになる。クラリーチェ嬢本人はともかく、ガッフーリオが恥をかくのは明らかだからな」
「うむ」
「そこで彼女は、その事実をガッフーリオにだけ伝えようと考えた。部屋にあった炭かなにかを使ったのだと思うが、肖像画のその部分に目印をつけ、それが人目に触れないように、傍にあった黒い大きな布をかぶせた。肖像画を布で覆ってあれば、普通は、公開を取りやめたのだろうと考える。それをめくってまで、中を見ようとする者はいないだろうからな」
「おい……まさか、その黒い布というのは……」
「ああ。おそらくきみのマントだ、イル・モーロ」
レオナルドは笑いながら言った。
「その部屋のどこかに、置き忘れていたのだろうな。彼女はたぶん、それがきみのものだとは気づいてなかったはずだ」
「む……」
「そしてクラリーチェ嬢は、ガッフーリオに伝言を残した。例の譜面を使った手紙だよ。愛だけがわたしに思いださせる、という文章は、裏返すと、愛のない者は忘れてしまう、という意味になる。私のこんな特徴も忘れてしまうほど、あなたの愛は冷めてしまったのですね、とでも、彼女は言いたかったのかもしれないな」
チェチリアは、無言で彼の言葉を聞いている。
「とにかく、彼女がやったことはこれですべてだ。絵に目印を付け、布をかける。それから、短い手紙を残しただけ。どれほどの時間もかからなかっただろう。あとは祝宴に戻って、リュートの演奏を続けていた。ところが、そこで彼女にも予想外の出来事が起きた」
「……肖像画が見あたらないと、私が言い出したことですね?」
困ったような表情のチェチリアに、レオナルドはうなずいた。
「そう。大切な絵に煤《すす》がつかないようにという配慮だろうが、肖像画を飾ってある部屋に灯りはなかった。一方で中庭には篝火が明々と燃えていたから、部屋の中はよけいに暗く見えたはずだ。肖像画は、もともと篝火の光を受ける方向に配置されていた。だが、そのときは黒い布ですっぽりと覆われている。中庭にいたきみたちの目には、絵は消えてしまったようにしか見えなかった」
「それで、あのときはガッフーリオ殿が様子を見に行かれたのです」
「うん。そこで彼は気づいたはずだ。かつての愛人が残したメッセージにね。そして、かなり焦っただろう。冷静に行動すれば、もう少し巧いやり方があったのかもしれないが、そのとき彼にできたのは、従僕たちに命じて絵を隠すことだけだった。イル・モーロのマントに包まれたまま、肖像画は屋敷のどこかに隠された。そのあとすぐにきみたちがやってきたから、ガッフーリオは、絵が消えたと告げるしかなかったのだろう」
「……肖像画は、山荘《ヴィッラ》の外に運び出されたわけではなかったのですね」
「そうだ。結局この出来事は、別れた男のために女が最後の世話を焼き、彼女の献身に男が甘えた――それだけの話だったのだよ」
そこまで話し終えて、レオナルドは息をついた。
ルドヴィコは、漠然と居心地の悪い思いを感じて首を振った。チェチリアは胸の前で両手を合わせ、明るく澄んだ声で言う。
「クラリーチェ殿の残した手紙で、そのことがわかったのですね。ああ……ではガッフーリオ殿への師匠《マエストロ》からの伝言は、彼女によく感謝するように――と、そういうことだったのですか?」
「そう。心配ないとは思ったけれど、万が一このまま彼女に罪を着せるようなことをされては後味が悪いだろう。だから、なにがあったのか知っている者がいると、いちおう伝えておいたほうがいいと思ったのさ」
「はい」
チェチリアは静かに微笑んだ。
ルドヴィコは、複雑な表情で髪をかきあげる。
「なあ、レオナルド。ひとつだけ、まだわからないことがあるのだがな」
「肖像画にあった間違いのことかい?」
思い出したように、レオナルドは言う。
「うむ。残されていた証拠というのは、なんだったのだ。俺もあの絵はじっくりと眺めたが、クラリーチェ・バロッタと結びつけられるようなものはなにもなかったぞ。特に人物の部分は未完成で、そもそも特徴らしい特徴すら描かれていたわけではないからな」
「だが、リュートの部分は完成していたのだろう」
「リュートだと? しかし楽器の模様の違いなど、誰もが真っ先に直す部分ではないのか」
「たしかに。だが、アンブロージョは楽師ではない。楽器の構造まで知悉《ちしつ》しているわけではないからな」
「……ふむ」
「まず、リュートという楽器には弦がある。上から順番に、下に行くほど音が高くなるように張るのが普通だな。そして音の高さが変われば、弦の太さや長さも変えなければならない。だから、楽器の造りも、そのような構造になっている」
言いながら、レオナルドは、さらさらとリュートの素描を描いてみせた。
「ところがクラリーチェ・バロッタは左利きだ。左右逆向きにリュートを構えたら、弦の天地も入れ替わることになる。つまり彼女のリュートは、下から上に向かって音が高くなるような仕組みになっているのだ。ほかの者は気づかなくても、音楽家であるガッフーリオなら、当然そのことに気づくべきだった」
「弦の張り方が彼女のものだけ違っていたのか。アンブロージョはそれを知らずに、そのまま残してしまったのだな」
「たぶんね。しかし、そもそもリュートを片手で抱えるとき、右手で指板を握るのは左利きの人間だけだ。そうでないものが右手でリュートを持っているのは不自然だよ。どうやってキアーラ嬢にそれを納得させるかは、まあガッフーリオたちのお手並み拝見というところだな」
そう言って、レオナルドは愉快そうに笑った。
「なるほど……しかし、よくそんなことに気づいたな」
ルドヴィコは素直に感心して言った。
レオナルドは、ほんの少し笑ったようだった。
「べつにたいしたことじゃない。ミラノの宮廷に出入りしている人間で、左利きの楽師は、彼女を含めて二人しか[#「二人しか」に傍点]いない。だからよく覚えていた。それだけのことさ」
素っ気ない口調で言い終えると、レオナルドはそっと握っていた銀筆を置いた。
左手に握っていた銀筆を。
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窓のない塔から見る景色
ミラノの夏の夜の訪れは遅い。
日没を過ぎても空は薄明るく、都市にはいつまでも活気が満ちているように思われる。
褐色の煉瓦《れんが》と灰色の切石で造られた市街。北西の田園地帯を吹き抜けてきた風が、わずかに植えられた緑を揺らしている。その薄暮の街を眺めながら、宰相ルドヴィコ・スフォルツァは、東のヴィットリア門から裁判所前の広場に通じる街路を進んでいた。
領内の視察を終えた帰途である。
数年前から流行の兆しを見せていた黒死病や、穀物の不作、ヴェネツィアとの国境争いなど、平和に見えるミラノ領内も、蓋を開けてみれば問題が山積している。そのことを自覚して、ルドヴィコはすっかり気疎《けうと》い気分になっていた。
やがて広場にさしかかったルドヴィコは、夕風に誘われたように、ふと気まぐれに馬の進路を変えた。正面に見えてきたのは、建設途中の大聖堂《ドゥオモ》だった。
「どちらへ、閣下――イル・モーロ閣下」
突然行く先を変えたルドヴィコを、随従《ずいじゅう》の兵士が呼び止めた。豪華な胸甲を身につけ佩刀《はいとう》した、いかにも屈強な黒人の護衛兵である。
「少し寄り道する時間くらいはあるだろう」
ルドヴィコはそう答え、軽く鼻を鳴らして笑う。
「あの男に会いに行く。おまえたちは| 旧 宮 殿 《コルテ・ヴェッキア》の衛所で待っていろ」
石造りの建物の入口で足を止め、ルドヴィコは護衛たちにそう告げる。
ルドヴィコの気性を知る兵士たちは、不満も漏らさずにその言葉に従った。あの男、というだけで、彼らにはルドヴィコの目あての人物が伝わっているのだ。
旧宮殿とは、ほぼ円形をなす都市ミラノの中心近く――大聖堂《ドゥオモ》を正面に臨む豪奢な建物と、美しい鐘楼を持つサン・ゴッタルド教会を含めた地区一帯の総称である。かつてはミラノ公の住居として使われていたが、現在は宮廷に出入りする芸術家や学者たちのために供されている。
慌ただしい国務に倦《う》み疲れたとき、ルドヴィコはしばしば居城を離れ、この旧宮殿を訪れた。
生粋《きっすい》の貴族ではないルドヴィコにとって、口うるさい官吏に囲まれた宮廷は、あまり居心地のいい場所ではない。実利的で進取の気性に富んだ旧宮殿の芸術家たちと話しているほうが、それよりは格段に気安いのだった。
佩《は》いていた剣を護衛に預け、ルドヴィコは一人の男の工房《ボッテーガ》へと向かった。自然に足が向いたのだ。その異郷人の男ならば、沈んだ気分をまぎらわす趣向の一つや二つ、提供してくれるだろうという予感があった。
そもそもルドヴィコは、男を宮廷での祭典や余興をとりしきる技師として雇っていた。だから余計にそう思えたのかもしれない。その異郷人は以前にも、機械仕掛けの人形や動物の腸《はらわた》で作った風船などを考案して、人々を大いに驚かせている。
しかし男がただの宮廷技師かといえばそうではない。
本来、彼は楽師としてフィレンツェのメディチ家から派遣されてきた音楽使節なのである。事実、男は竪琴《リラ》を見事に弾きこなし、様々な楽器をも考案している。
一方で、男は、組合から自分の工房を持つことを許された| 画 家 《デイピントーレ》でもある。
さらに彼は希代の軍事技師であり、建築家《アーキテットーレ》であり、彫刻家《スクルトーレ》でもあると自称する。
気まぐれで、つかみどころのない男なのだ。
正直に言えば、宰相である自分とも対等に振る舞うその不敵な男に、ルドヴィコは興味を惹かれている。
こうして事あるごとに男のもとに足を運んでしまうのも、彼が慢心した愚か者なのか、それとも真に創造的な天才なのか、それを見極めたいと無意識に願っているからなのだろう。
それとも単に――あまり認めたくはないが、ウマが合うというだけのことなのか。
そんなことをルドヴィコは時折、本気で悩む。
レオナルド・ディ・セル・ピエーロ・ダ・ヴィンチ――それが、ルドヴィコを悩ます男の名前だった。
彼の工房は、教会の鐘楼から少し離れた、中庭のついた建物にある。
もとは宮殿の一部として造られた、天井の高い石組みの房舎である。
金属細工や彫刻を造るための広い房内は、描きかけの素描や未完成の塑像が置かれているだけで閑散としている。徒弟たちの姿もない。晩鐘の時刻は過ぎているとはいえ、本当にここで働いている者がいるのか疑いたくなるような光景だ。戸に鍵さえもかかっていないのは、盗《と》られるものなどないと高をくくっているからだろうか。それでも銀筆で描き残された断片的な素描は見事なもので、工房の主の尋常ならぬ画才を表していた。
不用心に開け放たれた戸をくぐり、ルドヴィコは工房の奥へと進む。
色褪《いろあ》せたフレスコ画が消え残る階段を上っていくと、部屋の奥からぼんやりと漏れる光が見えた。風に乗って漂ってくるのは、顔料を溶かす亜麻仁油の香りである。
「いるのか、レオナルド――」
呼びかけて、ルドヴィコは錆の浮いた扉の取っ手を引いた。
目に入ったのは、雑然とした部屋の奥。西向きに大きく開いた窓の景色だった。
窓辺には長身の男の姿があった。古びた椅子の背に肘をつき、わずかに顔を傾けている。画架に掛けた絵を眺めているのだ。
薄暮の空を背にしたその姿は、それ自体が異教の神話の風景を描いた絵画に似ている。
美しい男なのである。
「やあ、いいところに来てくれた、イル・モーロ」
ぼんやりと見とれていたルドヴィコに、その美術品のような男は笑いかけた。冷淡なようでいて奇妙に人懐こい、とらえどころのない笑みである。
突然のルドヴィコの来訪にも、気分を害した様子はない。めずらしいことだと思いつつ、ルドヴィコは空いている椅子に腰かけた。
「いいところに、というのはどういう意味だ?」
訊《たず》ねると、レオナルドは薄く微笑んで画架のほうを指す。
「この絵の感想を誰かに聞きたいと思っていたのだ、イル・モーロ。どう思う」
「絵を見て、思ったままを言えばいいのだな」
ルドヴィコは問われるままに壁際の画架へと目を向け、眉を寄せた。
画架には、大人の肩幅よりもやや大きい程度の横長の画板がかかっている。
ただし描かれている内容を見ることはできなかった。画板全体を、白い掛布が覆っていたからだ。画面を保護するためのものなのだろう、縦横の折り目が残る清潔そうな布である。
「この布ははずしても構わないのだな?」
念のために確認して、ルドヴィコは立ち上がる。レオナルドは薄笑みを浮かべたまま、軽くうなずいただけである。
絵の感想を訊くのに、肝心の絵を覆ったままというのも失礼な話だ。
軽い憤りを覚えつつ画架に近づいて、ルドヴィコははじめてその違和感に気づいた。
掛布はたしかにそこにあった。濃紺の柄を規則正しく織りこんだ、白い綾織の布である。左右の端に結び目を作り、画板を包みこむような形で固定してある。
だが手を伸ばしても、ルドヴィコはその結び目に触れることはできなかった。その布は、画板の上の平面に、あたかもそこにあるかのように描かれただけのものだったのだ。ただの絵だ。
「この俺を騙《だま》したのか、レオナルド……!?」
ルドヴィコは呆然とつぶやいた。確かめるように何度も、絵の表面を指でなぞる。
傍に寄ると、掛布からは油彩画に特有の匂いがした。部屋に立ちこめていた亜麻仁油の匂いの源は、やはりこの奇妙な絵画だったのだ。レオナルドが描き出したのは絵画ではなく、それを覆う掛布だけだった。ルドヴィコはまんまとそれに欺かれたことになる。
「騙したとは人聞きが悪い。絵画を覆うその掛布こそが、今回の作品だったのだけどね」
つぶやくレオナルドは、愉快そうに微笑んでいる。楽しんでいるとしか思えない表情だ。
ルドヴィコは恨みがましい目つきで彼を振り返る。
「それで感想を聞かせろなどと、柄にもなく殊勝なことを言ったのか」
「柄にもない、とは心外だな」
やはり楽しそうにレオナルドは首を振った。手の動きで、椅子に戻るようにルドヴィコを促す。横柄とも思えるくだけた態度だが、ルドヴィコは特に気にしていない。二人はほとんど歳もかわらない。そのせいか、余人には説明しがたい気安さを相手に対して抱いていた。
あるいは、この奇矯な芸術家に、そう思わせるだけの魅力があるということなのだろう。
「その絵はね、習作なのだよ。イル・モーロ」
画架のほうに視線を流して、レオナルドが言った。ルドヴィコをからかうつもりで描いたのではないと言いたげである。
「習作か――ずいぶん殊勝なことを言うな」
ルドヴィコは椅子の背に深くもたれて、絵を見やった。たしかに良くできた絵であることは認めるが、やはりこれはレオナルドらしい悪ふざけではないのかという気がしている。
そんなルドヴィコの心情を読んだのか、異郷人の芸術家は少し真面目な顔をした。
「ゼウクシスとパラシオスの逸話を知っているか、イル・モーロ?」
「いや」とルドヴィコは首を振る。聞き覚えのない名前だった。
「プリニウスの博物誌の中の一節だ。古い逸話だな――ゼウクシスとパラシオスという二人の画家がいて、互いに作品を持ち寄ってその技量を比べることになった」
「ふむ?」
「ゼウクシスは実に巧みに葡萄の絵を描いた。それを見た鳥たちが絵の中の葡萄に惹かれて舞台に集まってきたというほどだから、相当なものだったのだろうな」
「ほう。それはすごいな」
ルドヴィコは素直に感心して言った。イタリアの他の都市の住人からは、いささか文化性に欠けるなどと揶揄《やゆ》されるミラノだが、写実的な絵画に関していえば優れた作品がないわけではない。それでも鳥の目を欺くほどの静物画を、ルドヴィコはこれまで目にしたことがなかった。
ただの伝承に過ぎないとわかっていても、心を惹かれる逸話である。
「それでパラシオスのほうはどうなったのだ」
訊ねると、レオナルドは少し意地悪く微笑んだ。
「そう。そのときのゼウクシスも、きみと同じことを言ったんだ――さあ、その緞帳《どんちょう》を引いて早く絵を見せろ、とね」
「――ふむ?」
当然ではないのか、とルドヴィコは思う。絵画の競作なのだから、作品を見ないことには優劣のつけようがないはずだ。
「いや……その言葉がゼウクシスの敗北を表していたんだ。つまりパラシオスが描いたのは、緞帳そのものだったんだよ。それがあまりにも真に迫っていたので、ゼウクシスは緞帳の背後に本物の絵があると思ってしまったんだ」
「む」
満足げに頬杖をつくレオナルドを睨んで、ルドヴィコは唇を歪めた。
ゼウクシスの葡萄は動物の目を欺いたが人の目は欺けなかった。それに対してパラシオスの緞帳は、同業者であるゼウクシスの目をも欺いたというわけだ。
たしかに面白い逸話だったが、この流れで聞かされるとまるでルドヴィコ自身が笑われているようで落ち着かない。それともレオナルドは、彼なりにルドヴィコを慰めているつもりなのだろうか。
「なるほど、貴様はそのパラシオスの逸話にちなんでその掛布の絵を描いたのだな」
そう言ってルドヴィコは息を吐く。レオナルドは微笑んでうなずき、
「そうなるね。実はこの技法をサンタ・マリア・デッレ・グラツィエの壁画に使おうと思っている。食卓を覆う掛布としてね」
「『最後の晩餐』か」
ルドヴィコは低くうなって芸術家を見返した。
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエとは、前ミラノ公ガレアッツォが高名な建築家ソラーリに命じて造らせた教会のことだ。そして、その食堂に描く壁画をレオナルドに依頼したのは、ほかならぬルドヴィコ自身であった。主題となるのは晩餐式。神の子とその弟子たちが食卓を囲む、ごく一般的な宗教画である。
ただしこの主題には、画面を横に跨《またが》る食卓の掛布が、白い大きな色面となって意味もなく目立つという欠点がある。
だから、もしもその掛布が、折り目や木綿の質感など、本物と見まがうばかりのものとして描かれていたならば、これまでの常識を覆す画期的な作品になるのは間違いなかった。
それを想像して絶句するルドヴィコに、レオナルドは澄ました表情で言う。
「ゼウクシスたちの作品は残っていないが、当時の状況を考えるに、彼らは舞台を飾る背景画として絵を描いたのだろうと言われている。古代の画家たちでさえ、それほどの風景を描いていたのだ。ならばぼくも、きみの目を欺くぐらいの絵は描かねばならないだろう?」
「そうか……それでこの作品を習作だと言うのだな」
どこか釈然としない気分ではあったが、そう言われてしまうと騙されたことを責めるわけにもいかない。なんにせよ掛布を描く彼の技量がずば抜けていることは、認めざるを得ないのだ。
あまりにも鮮やかに騙されたせいか、先ほどまでの倦み疲れた気分も、いつの間にか消えていた。
苦笑して、ルドヴィコは芸術家の私室を見回す。
厚い石壁に囲まれた室内には、書物や羊皮紙、計算尺や用途の知れぬ無数の器具たちが無造作に転がっていた。とても芸術家の工房とは思えない場所である。数学者や占術師の居室と言われたほうが、どんなにか相応《ふさわ》しく思えるだろう。
壁龕《へきがん》に葡萄酒を満たした容器を見つけて、ルドヴィコは立ち上がる。
「貴様のせいで喉が渇いた。この葡萄酒をもらうぞ、レオナルド、いいな?」
強い口調で一方的に言うと、レオナルドはなぜか苦笑した。
「それは構わないが、イル・モーロ――怒るなよ」
「なに?」
怪訝に思いながら壁龕に近づき、ルドヴィコは再び低くうなった。
石壁を窪ませて造った、奥行きの浅い棚である。本来は彫像や装身具を飾るための場所だが、そこに透明なガラス容器が置かれている。容器には葡萄酒が半分ほど残っており、部屋の光が金属製の台座に映りこんでいるように見えた。
その表面に触れて、ルドヴィコは息を吐く。
そこにあったのは葡萄酒の容器などではなかった。
光を反射する透明な容器も深みのある葡萄酒の赤も、そして壁龕の奥行きまでもが、またしても小さな画板に描かれた作品だった。
いかにも壁の一部であるかのように掛けられていたせいで、近づくまで気づかなかったのだ。怒るなと予告されていなければ、危うく声を上げていただろう。
「すまないな、イル・モーロ。なかなか良くできているだろう」
平然とうそぶき、レオナルドは立ち上がった。
「……これもやはり習作なのか」
寝室のほうへと向かうレオナルドの背中に、ルドヴィコが訊く。少し遅れて返事があった。
「そうだ。この金属の重みや透明感は、フレスコ画法では表現するのが難しい。そういうのはフランドル地方の画家たちが得意なんだ。彼らの技法をどうにか壁画に応用できないか、それを確かめるための作品というところかな」
言いながら戻ってきた芸術家の手には、ガラスの杯が二つ握られていた。そのうちの片方をルドヴィコに差しだしてくる。
相手が杯を受け取るのを待って、レオナルドは微笑した。時間を確認するかのように窓の外に目を向け、ふいに言う。
「実はこのあと、チェチリアが来ることになっている」
「チェチリアか。また宮廷でなにかしら厄介な噂を聞きつけてきたかな?」
ルドヴィコがつぶやくと、レオナルドは心底嫌そうな表情を浮かべた。雇い主の命令さえも如才なく言い逃れ、自らの意に染まぬことは決してやらないこの男にしては、めずらしく面倒事を覚悟したような顔である。軽くため息をついて彼は言う。
「どうかな。聞いて欲しい話があると言っていたが。よければつきあわないか、イル・モーロ」
「それは構わないが……しかしこの杯はなんだ?」
ルドヴィコは渡された杯を眺めて、首をかしげた。決して高級な品ではないが、綺麗に磨かれた品のいい酒杯である。やはりからかわれているのだろうかとも思う。
「いくら貴様でも、絵の中に描いた酒は飲めまい?」
怪訝そうに訊くルドヴィコを見返し、レオナルドは楽しそうに微笑んだ。
「酒ならあるさ」
そう言って、壁に掛かった絵をめくる。
画板にすっぽりと覆い隠されていた本物の壁龕の中には、石壁で冷たく保たれた葡萄酒が、容器をなみなみと満たして置かれていた。
レオナルドが用意していた酒は、翡翠《ひすい》の色に似て澄んだ極甘口の葡萄酒だった。
選《よ》り分けた緑色葡萄を乾燥させた濃厚な果汁を使い、更に硫黄|燻蒸《くんじょう》を施して酸味を抑えたものだという。いずれも考案されて間もない新しい技術であるが、どのようにして調べたのか、レオナルド自身が製法を書簡に書きつけ、農園に送りつけて造らせたものらしい。ひとたび作業に没頭すると、食べることも飲むことも忘れ、睡眠にさえ無頓着なこの男も、葡萄酒だけにはささやかなこだわりを見せるのだった。
たしかに旨い酒だった。
美酒に慣れたルドヴィコをもうならせるほどである。その独特の芳香を愉しみながら酒杯を二度ほど空けたころ、誰かが工房から続く階段を上がってくる気配が伝わってきた。
部屋から漏れる光に気づいたのだろう。軽やかな足音は、迷うことなくレオナルドの私室へと近づいてくる。
しばらくして、錆の浮いた扉に触れる音とともに、華やかに澄んだ声がした。
「遅くなりました――師匠《マエストロ》」
現れたのは、ほっそりとした輪郭の、しかし美しい女性だった。
まだ娘と呼んでもおかしくない年齢である。最近の宮廷の流行である、瑪瑙色《めのういろ》と碧《みどり》を基調にした鮮やかな色遣いの衣装を身につけている。
肌は透きとおるように白い。長い髪を薄い紗《しゃ》で覆い、質素だが上品な琥珀《こはく》の飾りで留めている。瞳の色は薄い茶色。落ち着いた柔らかな表情が、大人びた聡明さを感じさせた。どこか清楚な花のような印象の娘だ。
彼女――チェチリア・ガッレラーニは、ルドヴィコの姿を認めると、目を細め、優雅に礼をした。
「閣下も、ご無沙汰しております」
ああ、とうなずいてルドヴィコは酒を口に含む。
十五近くも年下の彼女がいるというだけで、部屋の雰囲気が華やかに変じたように感じられた。
チェチリアは、ミラノの旧《ふる》い廷臣ファツィオ・ガッレラーニの遺児である。今はルドヴィコを庇護者として、レオナルドと同様に| 旧 宮 廷 《コルテ・ヴェッキア》で暮らしている。
幼くして父を亡くした影響か、彼女は人の感情を察することに素晴らしく長《た》けており、生来の美貌の助けもあって宮廷の内外に友人が多かった。
宮廷内における人材の登用から外交関係まで、彼女の助言によってルドヴィコが助けられたことも一度や二度ではない。ミラノ宮廷が技師としてレオナルドを登用したのも、そもそもは彼女のルドヴィコへの進言が発端だった。
そのような経緯があったせいか、レオナルドは、彼女のことを少々苦手にしているらしい。チェチリアが部屋を訪れて以来、彼はいつもより更に素っ気ない態度で酒杯を傾けている。この気まぐれな芸術家も、彼女の前でだけはなぜか時折、冷静さを欠くのである。
女性に対しては特に冷淡な彼を、他愛ない世間話や竪琴《リラ》の練習につきあわせることができるのは、ほかの誰にも真似できない、チェチリアだけの特権であった。
「そうだ、レオナルド――例の絵の感想を、チェチリアにも訊いてみてはどうだ」
ふと思いついて、ルドヴィコは言った。
壁龕に掛かっていた絵は片づけられてしまっているが、画架に載せた掛布の絵は今も壁際に飾られている。あらためて眺めても、やはり綾織の布が画板を覆っているようにしか見えない。
自分一人が騙されたと思えば腹も立つが、同じように誰かが欺かれるのを見るのは、むしろ愉快なことだと思われた。
「新しい作品を描かれたのですか?」
娘らしい素直な好奇心で、チェチリアが顔を輝かせる。
レオナルドは曖昧にうなずいてみせた。あまり気乗りしないふうではある。
「そちらの画架にかかっている絵だよ」
そう言って、ルドヴィコは彼女に道を譲った。
二、三歩前に歩み出たところで、チェチリアは画面と向き合う形になった。そのまま彼女は動きを止める。近寄って掛布を取り去ろうとするのではないかと期待して見ていても、一向にそのような気配はない。つかの間、感嘆するようなため息が漏れる。
微笑んで、チェチリアはレオナルドのほうを振り向いた。
「まるで本物の綾織を見ているようですね。『最後の晩餐』の習作なのですか」
問いかけにうなずき、レオナルドは苦笑いを浮かべている。
少し意地悪い気分でチェチリアの様子をうかがっていたルドヴィコは、驚いて彼女の横顔を見つめた。娘は得意ぶる様子も見せず、あらためて芸術家の習作に見入っている。
「どうしてわかったのだ。この掛布が絵に描かれたものだと――」
ルドヴィコは、少し落胆した声で言った。
振り返るチェチリアは、目を大きくして楽しそうに微笑んでいた。
「いえ。こうして見ていても、私には本当に布が掛かっているように思えます」
「しかし、だとしたらどうして、これが『最後の晩餐』の習作ということまでわかったのだ?」
「あら、お忘れになられたのですか、閣下? 師匠《マエリストロ》が宮廷技師に任命されたときにお書きになった自薦状のことです。その中に、師匠《マエストロ》が描かれた素描の目録も同封されていたではありませんか」
「……ああ、そうだったかな」
ルドヴィコは歯切れの悪い口調で言う。
自薦状のことを忘れたわけではない。むしろその逆である。レオナルドがたまに書き寄越す手紙といえば、文面こそは丁寧だが、その内容はとても実現可能と思えぬほど壮大で、しかも鼻持ちならないほど自信に満ちたものである。その本文の印象があまりにも強すぎて、目録にまではとても注意が及ばなかったのだ。
控えめに微笑みながら、チェチリアが続けた。
「目録には、機械の図面や人物の素描に混じって、多くの結び目の素描、という項目がありました」
「結び目?」
「はい。師匠《マエストロ》はフィレンツェにおられる時分から、結び目や編んだ髪などを緻密に描写することに凝っておられたということでしょう?」
「そのことが、この絵となにか関係しているのか」
ルドヴィコが困惑して腕を組むと、チェチリアは優しげに目を細めた。
「ですから、そのことでこの絵が『最後の晩餐』の習作ではないかと思ったのです」
「どういうことだ?」
「だって結び目の形が違いますもの」
そう言って娘は絵の端を指す。
油彩で描かれた掛布は、左右の端を結んで、画板を包みこむように固定してあるように見えた。さしたる特徴があるようには思えないが、よく見れば単純に結び目を一つ作っただけのものではなかった。
「まず小さな結び目を一つ作って、布の手前の縁《へり》を少しつまんで結び目の中に押しこむようにしておられるでしょう。普通に結び目を作ってしまうと、布の端にいくつもしわが寄ってしまうのですけど、この結び方だと四隅まで布をぴんと張った状態にできるのです。食卓に布を掛けるときのやり方です」
「ほう……」
ルドヴィコは感心してチェチリアの説明を聞いていた。
言われてみれば、綾織の柄や折り目にゆがみが目立たないのも、その変わった結び方によるものらしい。しわの少ないこの独特の装いが、掛布の清潔感をいっそう引き立てているようにも思えてくる。
「ですが絵画を保護するための掛布に、しわが寄っていることを気にする人がいるとも思えません。このような面倒な結び方をする理由がないのです」
チェチリアは、悪戯《いたずら》っぽい眼差しでレオナルドを見た。ルドヴィコは、うむ、とうなる。
「そうか。だから、この掛布が絵に描かれたものだと考えたのだな」
「はい、閣下。それに幾通りもの結び目を素描したことがある師匠《マエストロ》ならば、当然これが食卓の掛布に使われるやり方であることをご存じだったはずです」
にこやかに微笑んで、娘は言った。
「師匠《マエストロ》が戯れにこのような意味のない絵を描かれるとは思えませんから、おそらく何か大きな作品の習作なのだろうと思ったのです。それほど食卓の風景が重要な主題といえば、『最後の晩餐』よりほかにはありません」
彼女の説明を聞き終えて、ルドヴィコは沈黙した。
わかってしまえば、ひどく簡単な理屈であった。
しかし、わずかな観察でその結び目の違和感に気づき、芸術家の目的まで見抜いてしまうのは、やはり並大抵のことではない。チェチリア・ガッレラーニとはこういう娘なのだ。
「だからやめておけばよかったのだ、イル・モーロ。つまらなかっただろう?」
杯に残った酒を揺らしながら、レオナルドが含み笑いを漏らした。
「まるで、こうなることを知っていたような口ぶりだな」
ルドヴィコは少し不機嫌な声を出す。そういえば、彼は初めからあまり気乗りしない様子をみせていたのだった。あたりまえのような顔で彼は答える。
「ああ。その絵ではチェチリアは欺けないだろうと思っていたさ」
「なんだ……それでは俺なら騙せるとわかっていたということか?」
唇を尖らせてルドヴィコが言うが、芸術家は聞こえないふりをした。二人の雰囲気から事情を察したらしく、チェチリアは声を殺して笑っている。
その彼女を不意に見上げて、レオナルドは口調をあらためた。
「ところでチェチリア――ぼくになにか相談事があるのではなかったか」
「はい。相談というほどのことでもないのですが、面白い噂を聞いたのでお伝えしようと思いまして」
「噂?」
「ええ、きっと興味深い内容だと思います」
そう言って、チェチリアは艶《あで》やかに微笑した。
事の起こりは、チェチリアの実母が、財産の運用を目論んだことにあった。
彼女の母――マルガリータ・ブスティもまた、当世の女性にはめずらしく、高い教養を身につけた女性であった。チェチリアは、母の影響をもっとも強く受けて育った末娘なのである。
そんなマルガリータの資質を知る亡夫ファツィオは、死に際して、彼女に財産の多くを相続させた。当主である嫡男ではなく、妻に遺産を扱う裁量権を認めたのである。驚くべきことに、その権利は彼女が再婚したとしても失われるものではなかった。
それだけファツィオは妻の才覚を高く買っていたのだろう。実際マルガリータはその期待に応え、相続した財産を利用して六人の息子たちに一流の教育を与えている。
そんな彼女が、思いがけない災難に巻きこまれていると娘に漏らしたのが先日のことだ。
銀行の利息などあてにできない時代の話である。
資産を運用するといえば、商人に投資して、その利益の分配を受けるということが主になる。
マルガリータが選んだのはバハモンデという人物で、主に湖水地方で産出する石材や木材を扱う交易商であった。ミラノの郊外に大きな商館を持ち、多くの人夫を雇い入れている。
「――それは悪い選択ではないだろうな」
説明する娘の瞳を見返して、ルドヴィコは自らの感想を述べた。
「大聖堂《ドゥオモ》の建設や利水工事で、建築資材の需要はこれから増える一方だ。いずれ値段も跳ねあがるだろう。母君はやはり目利きだな」
「そうですか。ですが母は、これ以上の投資は控えるべきだろうと思っているようです」
チェチリアが複雑な表情を浮かべて言う。ルドヴィコは軽く眉を上げた。彼女の母の選択は少し意外に思えた。
「なにか理由があるのか」
「はい。実は商売のこととはべつのことで、バハモンデ家は評判を落としているのです」
「ほう。しかし商売がらみではないとすると、なにが原因だ? 身内になにか問題でも?」
ルドヴィコは独りごとのように言う。多少の浮き沈みがあるのは商家の常だが、バハモンデ一門が扱っている商品は手堅く、よほどの事情がなければ商いが傾くとは思えない。
「バハモンデの当主にはレオノーラ様という令嬢がいらっしゃいます。歳は十七におなりとか」
チェチリアがわずかに姿勢を正して言った。
どうやら、それが彼女の本題のようだった。
「まだお若いのですが、寡婦だと聞いています。以前、ある商家に嫁いでおられたのですが、相手の男性が結婚して間もなく亡くなられたのだとか」
特に驚きもせずにルドヴィコはうなずいた。
バハモンデの当主の娘が嫁ぐとなれば、相手もそれなりに名のある商人だったのだろう。
花嫁と夫の年齢が、二十や三十離れていることは当世めずらしくない。そのぶん夫が先に逝くことも多くなる。亡き夫の喪が明ければ生家に戻り、そこで再婚の機会を待つのがこの時代の女性の常であった。
「その令嬢になにかあったのだな」
ルドヴィコが訊くと、チェチリアは目を伏せてうなずいた。
「はい。バハモンデの当主は喪が明けるとすぐに、新しい結婚相手を捜してきたらしいのです。今度のお相手は宮廷の官吏の方だとか」
「ふん……官吏か。なるほどな」
ルドヴィコは少し感心した。娘を官吏に嫁がせることによって、バハモンデは商売の便宜を図ってもらおうと考えたのだろう。一族の身内に宮廷の高級官吏がいれば、商売の上で有益な情報を労せずして手に入れることができるだろうし、宮廷との新たな取引の機会を得ることもあるだろう。
「ですがレオノーラ様には、もう心に決めた方がいらしたようなのです」
「ほう?」
「噂でしか存じ上げないのですが、どうやらそのお相手というのが、トルコ帰りのヴェネツィア人らしいのです。彼女とは前の嫁ぎ先で知り合ったらしいのですが」
「バハモンデはそれを許したのか?」
さすがに驚いてルドヴィコは訊き返した。
今でこそ和平条約が結ばれてはいるが、ベルガモを挟んで国境を接するヴェネツィア共和国は、ミラノにとって幾度となく戦火を交えた宿敵である。ましてや異教国であるトルコ帰りの男ともなれば、どうしても胡散《うさん》臭い印象がつきまとう。少なくとも、バハモンデの商売にとって有益な相手ではないだろう。
「いえ」
予想どおり、チェチリアは首を振った。
「バハモンデ殿はひどく立腹されたそうです。絶対にそんな相手との結婚は認めないと」
「だろうな」
「はい。その上で、レオノーラ様を幽閉なさったとか」
「……幽閉?」
チェチリアはため息をついてうなずいた。
「バハモンデ殿の別宅が運河沿いの郊外にあるのです。古い貴族の邸宅を改装したものだとか。そこに石造りの塔があるのです。塔といっても、それほど高いものではないらしいのですけど」
「バハモンデは、そこに自分の娘を閉じこめたのか?」
「はい。今からふた月ほども前に。ご自分が決めた婚約者との婚儀を、半年ほど先に控えてましたから、それまで彼女が逃げ出さないようにというつもりだったのでしょう」
「たしかにやり過ぎだと思わないでもないが……」
顔をしかめて、ルドヴィコは言う。
「しかしバハモンデの気持ちもわからないではない。親に反対されて持参金も持たない娘では、嫁ぎ先でも不幸になるのは見えている。むざむざ駆け落ちなどされるよりは、いっそ閉じこめてしまったほうがマシだと思ったのかもしれぬ」
「そうですね」
同意するような言葉とは裏腹に、チェチリアの瞳につらそうな表情が浮かんだ。
この時世、上流階級に生まれた娘が、自らの望む相手と結ばれることは稀だ。そのことは誰よりもチェチリアがよく知っていることである。
「ですが、バハモンデ殿の選んだ婚約者というのも、あまり評判の良い男性ではないのです。年齢もずいぶん離れていますし、ほんとうに商売の利益だけで選んだ相手だと噂されています」
「そうか、わかった」
ルドヴィコは手を振って、娘の言葉を遮った。チェチリアは少し不思議そうに首を傾げた。
「つまり、そのバハモンデのやり口があまりにもあくどいと世間で評判になっているわけだな。それで母君も、やつに投資するのがためらわれると――」
かいつまんで言えば、それだけのことだとルドヴィコは思った。チェチリアがわざわざ伝えに来たわりには、平凡な噂話だ。
道ならぬ恋愛の末、互いに結ばれることなく夭折《ようせつ》したシモネッタ・ヴェスプッチとジュリアーノ・デ・メディチの伝説的な悲劇に比べれば格段に小粒だが、これも悲恋といえばいえなくもない話である。いかにも世間の女性たちが好みそうな話題ではあった。
しかしチェチリアは、なぜか楽しそうに首を振った。
「いえ――そうではありません、閣下。バハモンデ殿は、結局レオノーラ様をご自分の選んだ婚約者と結婚させることはできなかったのです」
「ほう、なぜだ?」
「レオノーラ様が失踪してしまったからなのです」
「失踪だと?」
ルドヴィコは訝《いぶか》しげに眉を寄せる。
「しかし令嬢は塔に閉じこめられていたのだろう。誰かが彼女を逃がしたのか?」
「それが、そうではないのです」
もったいぶるようにチェチリアは微笑する。
「レオノーラ様が幽閉されていた部屋の扉には、外側から頑丈な閂《かんぬき》がかけられておりました。彼女を閉じこめるために新しく作ったものです。取りつけた錠前も、取引用の倉庫に使うための特別なもので、鍵はバハモンデ殿だけがお持ちでした」
「……それでは本当に牢獄《ろうごく》だな。では、食事などはどうしていたのだ?」
ルドヴィコは半ばあきれて言った。チェチリアも神妙な面持ちでうなずいてみせる。
「扉の傍に小窓があって、そこから差し入れていたそうです。もちろん人が通れるような大きさではありません」
「扉からは出られないというわけか」
「はい。錠前にも閂にも、こじ開けられた痕跡はなかったそうです」
「ならば、考えられるのは窓から抜け出したということだが」
言いかけて、ルドヴィコは顔をしかめる。
「まさか、窓にも鉄格子が嵌《はま》っていたというのではあるまいな?」
「いえ。レオノーラ様は罪人というわけではありませんから、さすがにそこまでは」
チェチリアは苦笑して言った。ちらりと自分の傍にある窓辺を見やる。
「塔の部屋には一つきりしか窓はないのですが、それは自由に開けて外を眺めることができたそうです」
ルドヴィコは軽く肩をすくめた。だったらなにも不思議なことはない。
「令嬢は窓から逃げ出しただけではないのか。それほど高い塔ではないのだろう?」
「はい。ですが、それは大聖堂《ドゥオモ》の尖塔《せんとう》などと比べての話です。レオノーラ様が囚《とら》われていたのは、普通の建物なら四階の高さだと聞いておりますから」
「……地面までは、少なく見積もっても二十ブラッチャはありそうだな」
ルドヴィコは、頬杖をついた手で顎を撫でた。とても飛び降りて無事に済む高さではない。いくら女性のほうが身体が軽く柔らかいといっても、その高さでは同じことだろう。
「たしかに女性の腕力でそこから降りきるのは難しいが、それでも、縄を使えばどうにかなるのではないか?」
「いえ。その塔はもともと貴重品を収めておくための倉庫として作られたものなのです。城塞《じょうさい》なみとは言いませんが、外から侵入するのはまず不可能だと聞いています。中から出るのも、同じくらい難しいのではないかと」
「たやすく縄を結べるような場所はない、というわけか?」
ルドヴィコのつぶやきに娘がうなずいた。それでルドヴィコも納得した。道理で、世間でも不可解な事件だと騒ぎになっているわけだ。
「それにレオノーラ様が縄を使って逃げたとしても、その痕跡を隠さなければならない理由があるでしょうか?」
「ふむ、言われてみれば不可解な気もするな。ほんとうに痕跡はなかったのか?」
「そのように聞いています。鉤縄のようなものを使ったのなら、塔を降りてからでも回収できるのかもしれませんが、壁には、そのようなものが使われた痕跡もなかったと」
「なるほど。たしかに不気味だ。気に入らぬ」
ルドヴィコも、知らぬ間にチェチリアの話に影響されて不安な気分になっていた。
密閉された部屋から、人一人が忽然《こつぜん》と消え失せたというのだ。それも荒っぽい作業には向かない富家の令嬢が、縄も使わずに、隔離された塔の上からいなくなったのだという。逃げ出した目的ははっきりしているとはいえ、その方法にどこか魔術めいたものを感じて寒気がした。
チェチリアが、上目遣いで愉快そうに笑う。
「おかしなことはほかにもあるのです」
「なんだ?」
「レオノーラ様が閉じこめられていたという部屋なのですけど、そこには、絵が描かれていたのだそうです」
「絵? 素描か?」
ますます困惑するルドヴィコを見て、チェチリアは悪戯っぽく微笑んだ。それまで無言で酒杯を傾けていたレオナルドが、はじめて興味を惹かれたように彼女を見る。
「塔の部屋の内壁は漆喰《しっくい》で白く塗られているのですが、その壁一面に絵が描かれていたのです」
チェチリアは、それが大きな絵であることを示すためか、両腕をいっぱいに広げて見せた。
「何が描かれていたのだ」とレオナルドが訊く。
「風景です」
「風景? 塔の窓から見えるという景色か?」
ルドヴィコはつまらなそうに鼻を鳴らした。
何週間も殺風景な塔に閉じこめられて、目に入るのは窓から見える景色だけなのだ。令嬢が、退屈しのぎにその風景を描き残したとしても、なにも驚くことではないように思える。
「それならなんの不思議もないのですが、違うのです」
しかしチェチリアはきっぱりと言い切った。ほっそりとした体驅を巡らせて、自分の背後にある壁を手で押さえる。
「塔の窓はミラノの郊外に向かって開かれています。ですがレオノーラ様が描いた景色は、その反対側――壁に邪魔されて見えないはずのミラノの市街が描かれていたのです。まるで壁を透かして見たように、壁の向こう側に広がっているはずの風景が描かれていたのです」
「……ふむ?」
ルドヴィコは曖昧に相槌を打った。説明を聞いても、なにが奇妙なのかわからない。ただレオナルドだけがやけに険しい表情を浮かべている。
「もちろんレオノーラ様には絵画を学んだ経験などありません」
ルドヴィコの疑問に先回りするように、チェチリアが言った。
「ですが、その絵は驚くほど上手だったのだそうです。まるで実際に見たままを描き写したように――それに、その絵には塔から見える野茨《のいばら》の斜面まで描かれているのです」
「野茨?」
突然出てきた言葉に、ルドヴィコは少し戸惑う。
「ああ……あの棘《とげ》のある低木か。それがそこに描かれていたとしてなにが問題なのだ?」
怪訝そうに訊き返すルドヴィコに、レオナルドが喉の奥で笑いながら呼びかける。
「ふん。きみは面白いとは思わないのか、イル・モーロ?」
「面白い? なにがだ?」
「その絵を見た人間は、なぜそこに野茨が描かれていたと気づいたのだと思う? 窓から見下ろしたような遠景の風景画に、まさか細かい茨の棘を描きこんであったわけでもないだろう」
「それはそうだろうが……」
ルドヴィコは唇を突きだして考えこむ。たしかに野茨の茂みなど、離れてしまえばただの低木にしか見えないだろう。画家ではない商家の令嬢の描いた稚拙《ちせつ》な絵なのだから尚更だ。
「そうか……花か!」
顔を上げるルドヴィコを見て、レオナルドは慎重にうなずいた。
「おそらくな。野茨の白い花は、小振りだが多くが一斉に咲く。その様子が塔の壁には描かれていたのだろう。だとすると、ますます奇妙なことになる」
彼の言う奇妙なことがなにを指しているのか、考えてもルドヴィコにはわからなかった。
「なぜだ?」
「野茨が花をつけるのは初夏。今年なら、ほんのひと月ほど前のことだ。だが、そのときにはレオノーラ嬢はすでに塔に幽閉されていたはず」
「うむ……?」
「だからさ、レオノーラ嬢は、その場所に野茨が咲いているということを知らないはずなのだ。なのに彼女の絵には野茨が描かれていた。つまり彼女の絵は、塔に閉じこめられる前の記憶を基に描いたわけではない。すなわち窓のない塔からの景色を見ていたとしか思えない――きみはそういうことが言いたいのではないか、チェチリア?」
「はい、師匠《マエストロ》」
彼の言葉に、チェチリアは嬉しそうに微笑んだ。
「そうか! 彼女には窓のない側の景色も見えていたのだ。つまり塔には、傍目にはわからぬ隠し扉のようなものがあったということではないのか?」
ルドヴィコは膝を叩いて言った。
令嬢が幽閉された部屋の、ミラノ市街に面した窓のない側。その壁のどこかに、外につながる隠し扉があった。そう考えれば、彼女が、見てきたような正確な絵を描いたことも、こっそりと塔を抜け出した方法も説明できる。貴族が作らせた古い邸宅ということであれば、そのような仕掛けが残されていても不思議はなかった。
「そうです。バハモンデ殿もそのように思われたのでしょう。商館の人間に命じてレオノーラ様の行方を追うと同時に、数人がかりで部屋の中をお調べになったとか」
ルドヴィコはうなずいた。それが当然の対応だろう。
「して、結果は?」
「はい。レオノーラ様が例のヴェネツィア人と連れだって国境を越えたということはわかったのですが、結局、部屋の中に抜け道のようなものを見つけることはできなかったとか」
「なんと」
そんな馬鹿な、とルドヴィコは訝った。塔の上にあるというのだから、それほど広い部屋ではないのだろう。いくら巧妙な隠し扉でも、数人がかりで捜して見つけられないとは思えない。
「それは……ほんとうに不気味な話だな」
チェチリアを見つめて、ルドヴィコは正直な気持ちを告げた。
令嬢が忽然と消え失せたことといい、残された不可思議な絵のことといい、まるでその塔に怪しげな魔法でもかかっていたのではないかとさえ思えてくる。吹きこんでくる夕風に肌寒さを感じ、ルドヴィコは上着の襟を寄せた。二、三度、大きく身震いをする。
「そうなのです」
ルドヴィコに同意するようにうなずいて、チェチリアは長く息を吐いた。
「バハモンデ殿の下で働いていた人々の中には、レオノーラ様がなにがしかの魔術を心得ていたのではないかと噂する者もいます。結婚に乗り気でないというだけで実の娘を幽閉したバハモンデ殿の行動も、なにかを予見していたからなのではないかと――」
「そう思う者がいたとしても無理はないな」
つぶやくルドヴィコの声に苦い感情が混じる。
「すでにそのような噂が広まっているのでは、いずれバハモンデの令嬢が魔女だと言い出す者も出てくるかもしれんな。厄介な話だ。おまけにトルコ帰りのヴェネツィア人が絡んでいるといわれてはな。世間が怪しげな魔術を連想しないほうが不思議だ」
「はい。実際にそういう風評が流れ始めているようなのです。私の母の耳にも事件のあらましが伝わっているくらいなのですから」
そう言って、チェチリアもやはり困った顔をした。世間話としては興味深いのだが、肉親に面倒が降りかかるのはやはり避けたいというところなのだろう。
「バハモンデが評判を落としているというのは、そういうことか」
ようやく得心して、ルドヴィコは苦々しくつぶやいた。
ミラノのようなイタリアの都市では、アルプス以北のような馬鹿げた宗教裁判は滅多にない。法王庁が身近であるぶん、教会の腐敗の様子もよく知られているからだ。それでも、身内から魔女が出たとなれば一族の評判を下げるには十分である。
「それに実はバハモンデ殿には、更に都合の悪いことがあるのです」
チェチリアは、そう言って形の良い眉を寄せた。
「都合の悪いことというのは、魔女がらみの噂になりそうな材料ということか?」
渋面を作って、ルドヴィコが訊き返す。
「そうなのです。レオノーラ様を幽閉していた塔にはひとつだけ窓があると申し上げましたが、その真下に置かれていたのだそうです」
「置かれていた?」
「はい。羊が」
「……羊?」
ルドヴィコは丸く口を開けたまま、チェチリアを見返した。
彼女は、めずらしく躊躇《ためら》うように目を伏せて、それから少し声を低くした。
「レオノーラ様が失踪したその日、ばらばらに引き裂かれた羊の死体が、血まみれで塔の真下に置き去られていたのです」
長かった夕暮れの時間も終わりに近づき、徐々に窓の外が薄暗くなっていた。
ルドヴィコは、酒杯に残っていた葡萄酒を一息にあおった。いつの間にか酔いが醒めてしまっていた。レオナルドは目を閉じて、無造作に伸ばした髪を風に遊ばせている。
チェチリアは無言のまま、誰かが口を開くのを待っていた。彼女の眼差しには、娘らしい好奇心にあふれた強い光が宿っている。
「なんとも奇怪な話だな」
殊更《ことさら》に大きく声を出して、ルドヴィコはつぶやいた。瞑目《めいもく》したまま沈黙を保つ芸術家の横顔を、じろりと睨む。
「レオナルド、貴様、どう思う。なにか考えついたことはないのか」
「べつに……」
目を開けても、やはり素っ気ない口調でレオナルドは言った。
ルドヴィコが唇を尖らせる。
「べつに、とはどういう意味だ?」
「特別に奇怪というほどのこともない、ということだ」
「なに?」
説明しろ、というふうにルドヴィコは強い視線を向けた。レオナルドは億劫げに片眉をあげ、渋々と口を開いた。
「そうだな。真っ先に考えられることといえば、まずはその噂が、ほんとうにただの噂に過ぎないかもしれない、ということだ」
「実際には、奇怪な失踪などなかったというのか?」
ルドヴィコは目を大きく見開いて、隣のチェチリアと顔を見合わせる。
「そうなるね。その理由としてはふたつの可能性が考えられる」
「ふむ?」
「ひとつは、バハモンデが自らそんな噂を流したという可能性だ」
「バハモンデが自分から、だと?」
ルドヴィコは呆れ顔でレオナルドを見た。
「馬鹿な。それはあり得ない。悪い風評が立って困るのは、バハモンデのほうなのだぞ」
「そうだ。だが、それでもそんな噂を流さなければならない理由があったとしたらどうだ?」
「なに?」
「たとえば婚約者の官吏とやらに、娘を嫁がせるのが惜しくなったという場合だな」
レオナルドは薄く笑って、掌を返してみせる。
「もともと商いの利益になるのを見込んで選んだ婚約者だ。一方的に婚約を破棄したのでは、今後の商売に差し障りが出るかもしれない。しかし娘が失踪したというのなら、バハモンデも被害者だと言えないこともない。普通に婚約を取り下げるよりは、いくらか気が楽だろうさ」
「む……」
ルドヴィコは、空の酒杯を手の中で弄《もてあそ》びながら考えこんだ。
宮廷の官吏には派閥があり、内部での権力闘争も盛んだ。たとえばその結果、期待していた娘の婚約相手の地位が失墜するようなことがあったとしたら。
縁談そのものを取りやめたいと、バハモンデが考えても不思議はない。
「あるいは、結婚させたくても出来ない状態になっていたとしたらどうだ?」
レオナルドは、無表情のままそう言った。
「あり得るとすれば、すでにレオノーラ嬢が亡くなっているという状況だな」
「亡くなっている?」
「そうだ。もし彼女が自らの境遇に絶望して、自殺を選んでいたとしたらどうなるだろうな」
「それは……」
腕を組んで考えこむルドヴィコの隣で、チェチリアが小さく肩を震わせた。
レオナルドはなおも淡々とした声で言う。
「自殺というだけでもキリスト教徒としては許されざる大罪だが、父親が実の娘を幽閉して死に追いやったのだとしたら、それは更に大きな問題だぞ。どんな不自然な理屈をつけてでも、その事実を隠したいと思うのは当然ではないのか」
たしかにそうだ、とルドヴィコは思う。にわかにレオナルドの言うことが、真実味を帯びてきたように感じられた。
「その場合には、窓の真下に羊の死体が置かれていたという理由も説明できる。つまり、塔から飛び降りた令嬢の遺体だけは気づいた者がすぐに運び去ったが、彼女の流した血の痕までは洗い流すことができなかったという状況があったのだ」
「娘の流した血を隠すために、敢えてその上から羊の血をばらまいたというわけか――」
そうつぶやいたきり、ルドヴィコは黙りこむ。
レオナルドの言葉に、有効な反論は思いつかなかった。それならばたしかに奇怪なところはない。ただ後味の悪さだけが残る。
「とはいえ、今のは思いつく中でも最悪の結末だ。まったく違うふうに考えることもできる」
真剣に思いつめるルドヴィコをからかうように、レオナルドが微笑した。
「たとえば誰かがバハモンデの評判を貶《おとし》めようと画策して、それでそのような噂を流したという場合だな。そうなると怪しいのはヴェネツィア人の男ということになる」
「例のトルコ帰りの男か」
ルドヴィコのつぶやきに、レオナルドが小さくうなずいてみせた。
「バハモンデの娘を誘惑し、彼女が自分の手元にいることを利用して噂をでっち上げたということだね。目的はいくらでも思いつくことができる。娘との結婚を認めてもらえなかったことに対する腹いせかもしれない。あるいは、その男がバハモンデと対立する商家の人間なのかもしれない」
「なるほど。バハモンデの評判が落ちると得をする人間もいるということか」
感心して、ルドヴィコは低くうなる。レオナルドは目を閉じて薄く笑った。
「この場合、令嬢は最初から幽閉などされていなかったということになるね。だから、やはり奇怪なことはなにもない」
「たしかにな」
ルドヴィコは深々と息を吐いた。先ほどまで感じていた重苦しさは消えていたが、それでも安心しきれないのは、説明するレオナルドの態度に違和感を覚えたせいだった。
「ですが、師匠《マエストロ》はその噂が誰かの創作だということは、信じていらっしゃらないのですね」
それまで沈黙を保っていたチェチリアが、ふいに質問した。迷いのない彼女の指摘に、レオナルドが苦笑する。
「そうだね。それが誰の考えた噂だとしても、それでは塔の部屋に残されていたという壁の絵のことが説明できない。わざわざ面倒な絵を描くまでもなく、魔術を使ったような痕跡が欲しいのなら、それらしい方法がいくらでもあるはずだ」
レオナルドは淡々と答えたが、その瞳には楽しげな光が宿っている。
「それではやはり娘が幽閉された塔はあるし、そこには絵が描かれているというのか?」
ルドヴィコは困惑して訊き返した。レオナルドは優雅にうなずいた。
「そうなるだろうね」
「待て。では、実際に塔を抜け出す方法があるのだな。それとも、やはり娘は自殺したのか」
「そんなことは知らないよ、イル・モーロ。ぼくは、この目でその塔を見たわけではないからね。まあ、塔を抜け出す方法について思いあたることがないわけではないが」
「なに?」
思わず身を乗り出したルドヴィコを見て、レオナルドはゆったりと微笑んだ。
「方法を思いつくと言っただけだ。実際にそれが使われたかどうかはわからない。それに正直なところ、塔を抜け出す方法などには興味はないんだ」
「貴様……」
はぐらかすようなレオナルドの物言いに、ルドヴィコは歯噛みする。
「本当に魔術が使われたとしても知ったことではないが、その令嬢が描いたという絵には興味を惹かれるね。きみが面白い話だと言ったのもそれがあるからなのだろう、チェチリア?」
レオナルドの問いかけに、チェチリアは穏やかな笑みで答えた。ルドヴィコはあきれていた。どう考えても素人が描いた壁画などよりは、塔を抜け出す方法のほうが重要だと思えたからだ。
「その絵、できることなら実際に見てみたいな」
うっとりとした口調で、レオナルドが言った。
「そう仰るだろうと思っていました。実は、もう母に取り次ぎを頼んであるのです」
チェチリアが少し得意げに微笑む。彼女を見て、レオナルドもわずかに唇の端をあげた。
「バハモンデに、別宅を見せてもらえるように頼んでくれたのか」
「はい。悪評の原因になっているのは、結局のところ、塔に残された謎を誰も説明できないことなのですから。バハモンデ殿も、絵画だけでなく建築にも通じている師匠《マエストロ》が調べてくださるのなら心強いと喜んでくださっているそうです」
「そうか。では早速、明日にでもお邪魔することにしよう」
レオナルドがあっさりと言い放った。チェチリアも当然のようにそれにうなずく。同行するつもりでいるのだろう。
「俺も行くぞ、レオナルド」
ルドヴィコが憮然とした口調で言った。レオナルドは少し意外そうな顔で振り向いた。
「それは構わないが、イル・モーロ。公務のほうは放り出して平気なのか」
「構わぬ。貴様は宮廷技師なのだから、それを監督するのも公務のうちだ」
ルドヴィコは堂々と宣言した。続けて、ぽつりと本音を漏らす。
「どうせ、このような話を聞かされたままでは、気になって公務どころではないからな」
夕闇の窓辺に、チェチリアの華やかな笑声が響いた。
結局、出立《しゅったつ》は明日の正午ということになった。
高く陰鬱《いんうつ》な市壁に沿って進み、南のティチネーゼ門を抜けていく。
精強な軍隊を備えたミラノ領内の治安は悪くない。それでも市外に出るとなると、いかに剛胆なルドヴィコでも、護衛を連れていかないわけにはいかない。結局は、騎馬隊の一部隊を引き連れた大仰な集団になってしまう。公式の行事ではないのだから、それでも少ないほうなのである。幸いなのは、同行するレオナルドやチェチリアが、その程度のことで物怖じするような殊勝な人間ではないということだった。
バハモンデの別宅は、郊外の運河《ナヴィリオ》沿いの地区にあった。
元は貴族の所有だったと聞いていたので、緑の庭園に囲まれた優雅な山荘《ヴィッラ》のようなものを想像していたのだが、実際には随分と雰囲気が違っている。
褐色の煉瓦積みの建物はこぢんまりとしており、背後に見える城塞づくりの別館がなければ、裕福な農家のものとほとんど変わらない。門柱から館へと続く道は、ほとんど手入れがされておらず、まるで自然に踏み固められた獣道のような印象である。
館の正面には石塀が巡らせてあるが、馬上から中の様子が簡単に見渡せる程度の高さでしかなかった。裏庭は木製の柵で囲われているだけで、とても防備と呼べるものではない。家畜の逃走を防ぐために作られたものなのだろうが、女性でも簡単に越えることができそうだった。
運河に面した船着き場だけは立派だが、そこから続く庭園は荒れている。
剥《は》がれかけた芝生の隅には、無造作に切り出した石材や木材が積み上げられていた。その周囲を慌ただしく人夫たちが行き交っている。別宅といっても個人所有の避暑地などではなく、あくまで商館の一部として扱われているのだろう。
「これは、閣下」
ルドヴィコたちを出迎えたのは、ふくよかな中年の女性だった。よく日焼けした顔に深いしわが刻まれているが、よく見れば愛嬌のある顔立ちをしている。
馬車から降りたルドヴィコを見るなり、彼女は電気に打たれたように歩みを止めた。
「当主様から、案内するように言いつかっておりますが――よくぞ、このような場所に足を運んでくださいました」
「よい。私人として来ているのだ。楽に振る舞え」
膝を突こうとする女を押しとどめて、ルドヴィコは言った。
女は呆気にとられたようにルドヴィコを見上げていたが、やがて人好きのする笑顔で白い歯を見せた。いかにものどかな農村の住人らしい開けっぴろげな彼女の態度に、ルドヴィコは好感を持った。宮廷に出入りする女官では、そんな笑顔を浮かべることはできないだろう。
「レオノーラ様の乳母《うば》様でいらっしゃいますね?」
馬車から降りてきたチェチリアが、いかにも彼女らしい人懐こい口調で訊ねた。
「はい。アンナと申します。お嬢様が生まれたときから、お側に仕えてお世話させていただいておりました」
そう言って女はチェチリアを眩《まぶ》しそうに見返す。年の頃も同じ彼女に、自分が長年仕えていた令嬢の面影を重ねて見たのかもしれなかった。
「レオノーラ様が塔から失踪なさった日も、この館にいらしたのですか」
「そうでございます。特に当主様がお嬢様を塔に閉じこめなさってからは、私がずっとお食事のお世話や、話し相手を務めさせていただいておりました。お嬢様は、その、ほかの使用人を誰も信用なさらなかったものですから……」
アンナが悲痛な表情を浮かべて言った。
「そうでしょうね。実のお父上に、あのような場所に閉じこめられたのでは」
つぶやいて、チェチリアは頭上にそそり立つ四角い塔を見上げた。
ルドヴィコもつられて彼女の視線を追う。
ミラノの街並みを見慣れた目には、驚くほどの高い塔というわけではない。しかしのどかな周囲の風景からは、その石造りの塔は明らかに浮いていた。
この邸宅が貴族の山荘だった当時の面影を残しているのは、実際のところ、その塔の建物だけなのかもしれない。宝物庫として使われていたというだけあって、見るからに頑強に造られた建物である。塔の壁にはよじ登る手がかりになりそうなものはなにもなく、傾斜の急な尖った屋根には、縄もかかりそうにない。
最上階の四角い部屋だけが、塔の壁面よりも一回り大きく張り出していて、侵入者が登ってくるのを決定的に防いでいた。逆に言えば、部屋の中にいる人間も、壁づたいに塔を降りることはできないということである。
その部屋に、哀れな令嬢は幽閉されていたのだろう。
「あの部屋に絵が描かれているのだな」
最後に馬車から降りてきたレオナルドが、塔を見上げてのんびりと言った。
「そうでございます、師匠《マエストロ》」
彼の姿を見て、乳母が再び畏《かしこ》まった声を出す。
レオナルドはふと足を止め、乳母の顔をまじまじと見返した。乳母が迷わず彼のことを師匠《マエストロ》と呼んだことが気になったらしい。しばらくして、芸術家は軽く手を打った。
「そうか。あなたはマジェンタ門近くの鉄具師の姉上だな」
「はい。鍛冶屋のドメーニコは私の弟でございますが……覚えていてくださったのですか?」
「一度、農園で採れたという果物を差し入れてくれたことがあっただろう。あなたの弟君には、騎馬像の模型を造るときにずいぶんと世話になったのだ」
「もったいないお言葉です。弟も喜びましょう」
恐縮しきりの様子の乳母に向かって、レオナルドは薄く微笑んだ。
普段から他人に対して冷淡な彼としては、破格に愛想のいい態度である。
それはこの乳母の顔立ちにも理由があるのだろう。レオナルドは、美しくなくても印象的な顔の持ち主が好きなのだ。もちろん絵画の題材となる人物として、という意味である。
「早速だが、部屋を見せてもらえるかな」とレオナルドが訊く。
「はい。こちらでございます」
乳母は勢いよくうなずいて、弾むように歩き出した。呆気にとられたように立ち尽くしているルドヴィコたちを、芸術家は怪訝そうに見返す。
「どうした。行かないのか、イル・モーロ?」
「いや、そうだな。行こう」
苦笑してルドヴィコも歩き出す。チェチリアは、なぜか頬を膨らませてレオナルドを睨み、
「女嫌いだなどと仰っているわりに、師匠《マエストロ》は、あしらいがお上手です」
拗《す》ねたような声でそうつぶやいた。
塔のある石灰岩の建物は、本館とは切り離されているらしい。
中は、石造りの建物に特有のひんやりとした空気が漂っている。
一階部分は、小さな礼拝堂になっているらしかった。香の匂いが残っているところを見ると、今でも実際に使われているのだろう。
重そうな一枚板の扉を開けると、長い螺旋《らせん》階段が上に向かって延びている。
切石を剥きだした殺風景な壁に窓はなく、昼間だというのに、灯りがないと階段を上れないほど暗い。そのせいか、螺旋階段はよりいっそう長く、果てしなく続くかのようにも思われた。
「別宅と聞いていたが、ずいぶんと多くの従者が暮らしているのだな」
気を紛らわすためにルドヴィコが口を開く。
「はい。この館は、もともと市門が閉じている時間に着いた運搬船の船員と、荷物を休ませるためのものなのです」
乳母は、よく響く声で丁寧に説明した。
階段の傾斜は急だったが、彼女は慣れた足取りで上っていく。二カ月近くもの間、幽閉された令嬢のもとに通い続けていたというのも、どうやら嘘ではないらしい。
「それでも、ここに泊まりたがる人夫は随分、減ったのです。余分な金を払ってでも運河近くの酒場に宿を取ったほうがいいと、今は多くの者が考えています」
「それは、こちらの令嬢が失踪したせいか」
「はい」
快活な乳母の声も、さすがに沈みがちである。
「お嬢様がいなくなっただけならまだしも、引き裂かれた羊の死体を見た者がおりまして、これはただごとではないだろうと」
「奇妙な鳴き声を聞いた方もいらっしゃるそうですね」
乳母の言葉を引き継いで、チェチリアが言う。ルドヴィコは怪訝に思って訊き返した。
「鳴き声?」
「はい……獣のうなり声というか、遠吠えというか、そのような低い声がいつまでも続いていたという者もおります。お嬢様がいなくなった夜のことですが」
あまり触れたくなさそうな口調で乳母が告げた。彼女なりに怯えているのかもしれなかった。
「その獣とやらが羊を襲ったということではないのか?」
半信半疑という気分でルドヴィコが訊く。たしかに気味の悪い話ではあった。
「どうでしょうか……そうなのかもしれませんが、このあたりにそのような獣が出るという話はこれまで聞いたことがありません。足跡も残っておりませんでしたし」
その話はこれまでにしたい、というふうな口調でぴしゃりと言って、乳母は階段を上る足を止めた。最上階の部屋にたどり着いたのだ。
「これが、レオノーラ嬢を閉じこめていたという部屋か」
つぶやいて、ルドヴィコは目の前の頑丈そうな扉を検分する。
扉の様子は、チェチリアに聞かされた話とほとんど変わりないものだった。鉄の鋲《びょう》を一面に打ちこんだ厚い木の扉だ。そのすぐ傍の石壁に、のぞき窓のような小さな扉があって、そこから食事などを差し入れられるようになっている。かろうじて人の頭が入る程度の大きさである。子どもでもそこから出入りするのは無理だろう。
「この閂《かんぬき》には、錠がかかっていませんね」
チェチリアが訊くと、乳母は真面目な顔でうなずいた。
「お嬢様がいなくなった日に、当主様がご自分の手でお開けになりました。そのときは、お嬢様が部屋から抜け出したとは誰も思っておりませんで、ご病気で声も出せずにいるのではないかと恐れていたのですが」
「なるほど。それでバハモンデも、あわてて部屋に踏みこんだわけか」
ルドヴィコは納得してつぶやいた。そのときは、この気丈そうな乳母もさぞかし焦っていたことだろう。その直後、部屋の中を訪れて更に愕然《がくぜん》とすることになったわけだ。
「使われた形跡がほとんどないな」
レオナルドがぽつりと指摘する。彼が見ていたのは、木製の閂の底辺の側だった。
開け閉めする際に金具とこすれて傷つくのがこの道具の常だが、その痕跡がないと言っているのだ。この閂は、据えつけられてから、ほとんど開閉されなかったということになる。
「お嬢様を閉じこめるために、当主様が新しく取りつけたものですから、実際に使われたのは一度きりなのです」
そう説明して乳母が扉を開けた。
ほう、とルドヴィコは声を漏らした。
外から想像していたよりも、はるかに広くて小綺麗な部屋だった。
壁の一面に、大きめの窓が設けられており、明るい陽光が射しこんできている。
それ以外の壁の部分は、真っ白な漆喰で塗り固められていた。広く感じるのはそのせいかもしれなかった。
幽閉中とはいえ、愛娘が不自由しないようにという配慮だろうか。調度品も最低限のものはしつらえられている。さすがに天蓋《てんがい》つきの寝台のような大きなものは運びこめなかったのだろうが、それでも問題なく暮らせる程度の家具は揃っていた。
ただ、それらの家具はどれも部屋の四隅に無理やり押しつけられている。
床に引きずった痕が残っているところを見ると、令嬢が自らそのような配置にしたらしい。
どこか病的なものを感じさせる間取りである。
壁際に家具を集めてしまったせいで、余計に一面だけの大きな窓が強調されるような印象になっている。風に舞う白い木綿のカーテンが、やけに目立った。
この部屋の印象を更に凄惨《せいさん》なものにしているのが、壁に描かれた風景だった。
窓に向き合う側の白い壁一面に、木炭で、ぎっしりと風景画が描かれているのである。
その風景は、窓から見える景色とはまるで違っていた。まさしく、その壁に窓があったならば見えたであろう風景そのものであった。
ミラノは平原にある街である。
はるか遠くに霞《かす》む山の稜線《りょうせん》。輝く運河の流れ。小さく見える市壁と、そこから見える大聖堂《ドゥオモ》の屋根。間近に広がる田園の風景や、そこに咲き乱れる野茨などの夏の花が、驚くほどの濃密さで再現されている。
決して巧い絵ではない。
筆致はたどたどしく、何度も描き直した画面は鉛色に曇っている。
しかし、とても素人が描いたものとは思えない。遠景に霞がかかってぼやけている様子や、精確な遠近感などは、中世までの画家では再現できなかったものだ。
宗教的な命題や、哲学的な主題などはどこにも感じられない。ただ目に映る風景だけを描いた絵である。
それが壁一面に描かれている。
レオノーラ嬢は小柄な人物だったのだろう。壁の上のほうには余白が広く残されている。
それでも彼女が手の届く限りの範囲に、命を削るようにしてそれを描いたのは理解できる。
すさまじい執念を感じさせる画面であった。
レオナルドがこの絵を見たがった理由が、ルドヴィコにもようやく理解できた。この絵は、どこか彼が描く絵に似ているのだ。
しかもレオノーラが描いたこれは、閉ざされた塔から見おろす、見えるはずのない風景なのである。
「これは、なんとも凄いものだな」
しばし圧倒されて無言だったルドヴィコが、ようやく言った。
「そうだな」
つぶやくレオナルドの声は満足そうだ。
「芸術家が創作に向かうときの心境を狂気と呼ぶならば、ここにはまさに狂気が描き出されている――見ておく価値のある絵だった」
「幽閉されて、その世界に憧れる気持ちが描かれているということでしょうか」
絵を見つめたままで、チェチリアが訊く。
レオナルドは沈黙して何も答えない。だが、おそらくそういうことなのだろうとルドヴィコは思った。これは普通の人間が、まともな精神状態で描けるような絵ではない。この絵を見たバハモンデの使用人が、なにか魔術的なものを感じたというのも無理はなかった。
それ以上は絵を見ているのがつらくなって、ルドヴィコは壁から目をそらした。
「しかし……この部屋の造りでは、たしかに隠し通路のようなものを探すのは無理だな」
気を取り直すように息を吐いて、そうつぶやく。
壁一面を覆う漆喰には継ぎ目がない。壁面に仕掛けがあったとしても、それを気づかれないように隠すことは出来そうになかった。床や天井にもそれらしい痕跡はない。
そのようなものがあるのなら、バハモンデが真っ先に見つけていただろう。
「羊の死体が転がっていたというのは、この下だったのかな」
窓から身を乗り出して、レオナルドが乳母に訊く。
「そうです。手や足を断ち切られて、臓物を引き出された哀れな姿で横たわっておりました。まだ生まれて間もない子羊だったのですが――」
沈んだ声で乳母は答えた。そのときの光景を思い出したのか、顔色が少し悪かった。
ルドヴィコも同じように窓辺に寄った。
外から見たときにはそれほどにも感じなかったが、実際に上ってみるとやはり高い塔である。
窓から見おろした地面は遠く、目がくらむような不安な感覚がある。
窓の真下は、ちょうど裏庭の花壇になっていた。
菜園にでもなっているのだろうか。家畜に踏み荒らされないように、古びた木製の柵で正方形に囲われている。この部屋の半分ほどの広さの小さな菜園だ。
それを見おろしていたレオナルドの唇に、うっすらと苦笑めいた笑みが浮かぶ。
「なにかわかったのか、レオナルド?」
ルドヴィコは渋い表情で訊いた。
実際に塔を訪れてみても、謎は深まるばかりだった。壁に描かれていた絵はくだらない噂を捏造《ねつぞう》するために描かれたような代物《しろもの》ではなかったし、塔から抜け出す方法も思いつかない。
子羊が殺されていたという事実は、否応なく生《い》け贄《にえ》という言葉を連想させた。
これではバハモンデの娘が本当に魔女だったのではないかという気さえしてくる。
しかしレオナルドはルドヴィコの質問には答えなかった。いつもの皮肉げな笑みを浮かべ、乳母のほうを振り向いて訊く。
「これから、あなたはどうなさるのです――乳母殿?」
「私、ですか?」
思いがけない問いかけに、乳母はひどく驚いたようだった。
「あなたは、これまでずっとレオノーラ嬢のお世話をなさっていたと聞きました。しかし彼女はもういない。バハモンデ殿が、あなたをこれまでのように雇っておく理由はないはずだ」
「ああ、そういうことでございますか」
質問の意図が呑みこめたためか、乳母は生来の快活な表情を取り戻して朗《ほが》らかに笑った。
「特に心配はしておりません。家族もおりませんし、怠けずに働くのだけが取り柄ですから、一人でならどこででもやっていけるでしょう」
「どこででも?」
微笑んで、レオナルドは彼女の口調を真似た。乳母が怪訝そうに首をかしげる。
「では、もし暇ができたらでいいのですが、ヴェネツィアに行く気はありませんか」
レオナルドは淡々と告げた。乳母は一瞬、なにを言われたのかわからなかったようだった。ぎょろりとした瞳を瞬《しばたた》いて、芸術家の顔をじっと見上げる。
ルドヴィコは眉を寄せ、同じような表情のチェチリアと不思議そうに顔を見合わせた。
「ぼくがまだフィレンツェにいた時分、師の工房で手がけた騎馬像が、ヴェネツィアの広場に飾ってあるのです。ただ実際に飾られている姿は見ていないし、市民の評判も聞こえてこない。そのときに知遇を得たヴェネツィアの友人たちに連絡を取るついでに、誰か信頼できる人間に様子を見てきてもらえると有り難い」
「ですが……」
「ああ、もちろん旅券や路銀《ろぎん》の心配はいりません。こちらの宰相閣下が、快く面倒を見てくれるでしょう」
「なに?」
いきなり話の矛先を向けられて、ルドヴィコは狼狽した。
「おい。レオナルド……貴様、なんのつもりだ?」
「なんだ、イル・モーロ。できないのか」
「馬鹿を言うな。できるできないということであれば、その程度は容易《たやす》いことだが、しかし……」
「ならば頼む」
レオナルドがきっぱりと言った。いつもの軽いからかいのこもった口調だが、どこか真剣なようでもある。ルドヴィコは沈黙した。
「師匠《マエストロ》……あなた様は……」
それまで呆然と立ち尽くしていた乳母が、かすれた声でそう言った。脱力したように跪《ひざまず》き、祭壇で祈るように手を合わせた。
レオナルドはなにも答えず、素知らぬ顔で窓の外を眺めている。
「ありがとうございます」
涙を流しながら、乳母は何度も何度も頭を下げた。
幽閉された娘が見ていた郊外の景色を、白い陽射しが美しく照らしていた。
バハモンデの別宅から戻る頃には、陽射しも翳《かげ》り、馬車の中も過ごしやすくなっていた。左手の窓にはミラノの市壁が見えている。運河沿いの涼しげな風を浴びながら、ルドヴィコはむっつりと腕を組んでいた。
レオナルドは目を閉じたまま、無言で馬車に揺られている。薄笑みを浮かべた表情は、塔の壁に描かれていた絵を瞼《まぶた》の裏で再現して楽しんでいるようにも見えた。
チェチリアも無言である。ただ彼女の場合は、話を切り出す機会を待ち構えているような雰囲気だった。唇の前で両手を合わせ、上目遣いにルドヴィコたちの様子を窺っている。どこか愛らしいその仕草は、彼女が友人と称して育てている、白貂《しろてん》の動きによく似ていた。
沈黙に耐えかねて、最初に口を開いたのはやはりルドヴィコだった。
「――どういうことだ、レオナルド」
ふてくされたように口を尖らせたまま、乱暴に言った。
隣の席にいたチェチリアが、驚いたように肩をすくめる。木製の車輪が石を撥《は》ね、馬車が少し不自然に揺れた。馬も驚いたのかもしれなかった。
「大声を出すな。聞こえているよ、イル・モーロ」
レオナルドは平然と笑っている。ようやく目を開けて、向かい合うルドヴィコの顔を見た。
「で、なんの話だ。なにを怒っている?」
「とぼけるな。先ほどの乳母のことだ」
大げさに頭を振って、ルドヴィコは言った。
「ヴェネツィアに行ってくれると助かるというのは嘘だろう。いったいどういうつもりなのだ」
「ああ……あれか」
レオナルドは無関心な様子で軽く目を閉じた。
「まあ、そうだな――あれはただの人助けだよ」
「人助けだと? 貴様が?」
「そうだよ。素晴らしい作品を見せてもらったお礼だ。それくらいしてもいいだろう」
まるで当然のような口調で言って、彼はルドヴィコの憮然とした顔を見上げた。
「今になって彼女に路銀を渡すのが惜しくなったなんて言うなよ、イル・モーロ。そのぶんはバハモンデからでも税として取り立てれば済むことだ」
「勝手なことを」
ルドヴィコは苛々と舌打ちする。レオナルドは、やはり表情を変えずに続けた。
「それにチェチリア。きみの母君に伝えておきたまえ。バハモンデの悪評はそう長くは続かない。投資を考えているのなら特に気にする必要はない、とね」
「え?」
チェチリアが瞬《まばた》きする。本気で驚いている様子だった。
「あの、それはどういうことなのですか、師匠《マエストロ》?」
「レオノーラ嬢の周囲でも、あの別宅でも、これ以上、奇怪な現象が起きることはないということだよ。だから噂も長続きしない。バハモンデが本業でしくじれば話は別だが、悪評が原因で投資に失敗するということはないはずだ」
淡々とレオナルドが喋り続ける。眠いのか、あまり抑揚の感じられない口調だった。
「なぜそんなことが言い切れるのだ」
ルドヴィコは苛々と問い返す。やれやれ、とレオナルドは姿勢を直した。
「彼女が犯人だからだよ」
「犯人だと……あの乳母がか?」
「そうだよ」
素っ気ない芸術家の声。責めるような口調ではない。
「レオノーラ嬢を塔からこっそり連れ出したのも、夜中に聞こえたという獣のような声も、子羊を引き裂いて庭にばらまいたのも、すべて彼女が一人でやったことだ」
「しかし……それは、いったいなんのためだ?」
訊き返すルドヴィコの声が震えた。まさか魔女はバハモンデの令嬢ではなく、乳母である彼女のほうだったということなのだろうか。
「決まっている。彼女はレオノーラ嬢に幸せになって欲しかったのだろう」
「幸せだと? 家を捨てて、異郷の男のもとに行くことが?」
「それは本人が決めることだと思うが……」
レオナルドは、なぜか遠くを見ているような瞳でうなずいた。
「そうだな、イル・モーロ。ゼウクシスの話を覚えているか?」
「ゼウクシス? あの葡萄の絵を描いて鳥を誘ったというギリシャの画家か?」
「そう。実はあの話には、続きがあるんだ」
「ほう? いや……待て。今はそんな話をしているわけではない」
「まあ聞けよ。あのあと、ゼウクシスは葡萄を持つ子どもの絵を描いたのだ」
「ふむ?」
「そして鳥たちはやはり、その絵に描かれた葡萄に群がってきた。それを見たゼウクシスは、嘆いたんだ」
「嘆いた?」
ルドヴィコは訝しげに眉を上げた。
「なぜだ。鳥たちの目を欺くほど巧く葡萄を描いたということではないのか?」
「そうだ。ゼウクシスは結局、葡萄しか巧く描けなかったのだよ。もし同じだけの巧みさで人間を描けていたら、鳥たちは描かれた子どもを怖れて近づいてはこなかったはずなのだ」
「そうか……」
ルドヴィコが低く言う。レオナルドはかすかに笑ったようだった。
「しかしな、結局ゼウクシスはその葡萄を消して、本物そっくりとはいえない子どものほうを残したのだよ」
「なに?」
今度こそルドヴィコは混乱した。レオナルドは愉しそうに笑う。
「それが芸術なのだ、イル・モーロ。表面的に巧く見えることよりも、もっと深い意味でよい作品であることをゼウクシスは選んだのだよ」
「そうか……貴様の言いたいことはわかったぞ、レオナルド」
ルドヴィコはじわりと息を吐きながら言った。
「多額の持参金を渡されて、親の決めた相手のもとに嫁ぐよりも、身一つで愛した男のもとにいくことのほうが幸福だと、レオノーラ嬢は判断したと言いたいのだな」
「まあ、そういうふうに解釈することもできるな」
澄ました口調でレオナルドが答える。チェチリアがくすくすと笑いだし、ルドヴィコは短く鼻を鳴らした。
「しかし、あの乳母をヴェネツィアに送ることにしたのは、怪しげな術を使う彼女をミラノから引き離すためか?」
「怪しげな術? まさか。違うよ、イル・モーロ」
レオナルドは苦笑した。
「そのほうがレオノーラ嬢のためになると思ったからだよ。ただでさえ異郷の男性のもとに逃げこんで寂しい思いをしているんだ。気心の知れた乳母が一緒にいてくれれば心強いだろう。幸いあの乳母も、レオノーラ嬢に仕えるのを望んでいたようだしね」
「む……」
なにか会話に齟齬《そご》を感じて、ルドヴィコはむっと顔をしかめた。
「ああ……!」
そのとき、チェチリアが大きく目を開いて言った。
「素晴らしい作品を見せてもらったお礼というのは、そういう意味だったのですね」
「やはりわかっていたんだな、チェチリア?」
レオナルドが唇の端をちらりと上げた。チェチリアは嬉しそうに目を細め、身を乗り出す。
「あの絵を描いたのは、やはりレオノーラ様だったのですね。乳母様はそれを知って、だからこそ、彼女を逃がそうとしたのでしょう?」
「そう。レオノーラ嬢は、ずっと外の景色を見ていたんだ。精神の平衡を失いかねないほど、塔の外に憧れていた」
「……内側を暗くした箱に一つだけ小さな穴を開けると、そこから入りこんだ光が外の景色を映し出すのだそうですね。あの塔の部屋は、それと同じ仕組みになっていたのですね」
「おそらくね」
うなずくレオナルドは、いつもの素っ気ない顔に戻っている。
一人取り残されていたルドヴィコはようやく、ああ、と低くうめいた。
以前、レオナルドがそのような原理の道具について調べていたのを見たことがあった。彼はそれを使って素描の補助や図面の複写に生かそうと考えていたようだ。その原理を書き留めた手稿も残っていたはずである。彼はそれを暗室装置《カメラ・オブスクラ》と呼んでいた。
そのような暗室装置の現象を、歴史上初めて書き記したのはギリシャの哲学者アリストテレスだといわれている。それ以降、十四世紀《クアトロチェント》になるまで、それは主に日食の観測に利用されていた。それを絵画に応用したとされているのは、フィリッポ・ブルネレスキ――レオナルドと同じフィレンツェの芸術家だ。
「板窓を閉めると、あの部屋は真っ暗になる。窓のない側の壁のどこかに、針の先ほどの小さな穴が開いていたのだろうね。晴れた日のうちの何時間かだけ、あの部屋には外の景色が映し出されるんだ。白いカーテンを透かして彼女はそれを見たのかもしれない」
「見えないはずのその風景を、レオノーラ嬢は、必死で描き留めようとしていたのですね」
チェチリアがため息をついて目を閉じる。
「そう。そうやって映し出された外の風景は上下が逆転している。だから逆に、先入観なく、見たままの風景を壁に描き写すことができたんだろう。そうでなければ素人にはあれだけの絵が描けるものではない……いや」
レオナルドは、自分の言葉を打ち消すように首を振った。
「なんの咎《とが》もなく、実の父親に幽閉された彼女は、そうやって外への憧れを膨らますことで、かろうじて心の安定を保っていたのかもしれない。だからこそ、あれほどの気迫で絵を描けたのかもしれないね。それを見かねて、乳母殿は、彼女を逃がすことを決心したんだ」
「はい」
チェチリアは、つかの間、目を伏せてうなずいた。| 旧 宮 殿 《コルテ・ヴェッキア》という名の塔に囚われた若き寵姫《ちょうき》。レオノーラ嬢とよく似た境遇の彼女の心境は、ルドヴィコには推し量ることができなかった。
ルドヴィコは嘆息し、仕方なく正面からレオナルドを見た。
「あの乳母がバハモンデの令嬢を逃がした理由はわかったが――しかし実際のところ、どうやって彼女はそれを実行したのだ。あの扉は、乳母にも開けることができなかったのだろう?」
「そのことか……」
レオナルドは、なぜか露骨に嫌そうな表情を浮かべてつぶやいた。
「決まっている。扉から出られないのなら、窓から抜け出すしかない」
「窓? しかし、あの高さだぞ。それに部屋には縄を結わえることができる場所などなかった」
「そうだ。縄を使ったわけじゃない。彼女は窓から飛び降りたんだ。もちろん自殺したわけではないよ。たとえばあの高さでも、下が水面なら怪我をせずに済むだろう?」
「水面ならばそうかもしれんが、あそこにあったのはただの菜園だ。運河《ナヴィリオ》があるのは、屋敷の裏側だしな」
「では、下が空気だとしたらどうだろう?」
「空気だと?」
ルドヴィコは唖然《あぜん》として訊き返す。レオナルドは複雑な表情でうなずいた。
「以前にぼくが風船を造ったことがあるだろう。覚えているか?」
覚えていた。あれはミラノの宮廷が、ある祝典の準備で騒がしかった時期のことだ。祝典劇の技師を務めていたレオナルドが、気まぐれに巨大な風船を造りだし、それを狭い部屋の中で膨らまして人々を混乱に陥れたことがある。
「あれは羊の腸を使うんだ。腸の脂を落とし、丁寧によく洗う。これを鍛冶屋の鞴《ふいご》につないで空気を送りこむと、信じられないくらい大きく膨らむ。部屋いっぱいになるくらいにね――」
「鍛冶屋の鞴?」
チェチリアが鋭く気づいてつぶやいた。
「では、夜中に屋敷の人々が聞いた低いうなり声というのは――」
「鞴を使って腸に空気を送りこむ音か」
ルドヴィコも思わず声を上げた。馬車の中であることを忘れて立ち上がり、したたかに頭を打ちつけそうになる。
「そうか。宮廷内で貴様が羊の腸を膨らませて騒ぎを起こしたときのことを、あの乳母は、鍛冶屋の弟から聞いて知っていたのだな」
ルドヴィコが睨むと、レオナルドはばつの悪そうな顔をした。今回の騒動の遠因が自分の悪戯にあったことに、彼はおそらく早い段階で気づいていたのだろう。
「塔の真下の菜園には、風船を固定するのに都合のいい木の柵が張り巡らされていた。レオノーラ嬢は、首尾良く乳母が膨らました風船の上に飛び降りて、無事に塔を抜け出すことができたんだろう」
レオナルドが少しだけ感心したように言う。
「役目を終えた風船は、裂け目を入れれば一瞬で空気が抜けて、あとには羊の腸だけが残る。これを処分するもっとも簡単な方法は、羊の死体にまぎれこませることだ」
「……羊の死体をばらまいたのは、そのためか」
ルドヴィコが低い声を漏らす。そういえば殺されたのは子羊だといっていた。成長しきった羊を運ぶのは、乳母一人の手には余ったのかもしれない。
「厨房の隅あたりにこっそり捨てておく手もあったのだろうが、レオノーラ嬢の失踪を謎めいたものにしたいという気持ちがあったんだろうね。もし誰かが彼女を手引きしたということになれば、真っ先に疑われるのはあの乳母だからね」
そう言うと、レオナルドは興味をなくしたように座席に深く倒れこんだ。
ちょうど市街の入口である大きな門を、馬車が通り抜けようとするところだった。
中世の趣を残すサンテウストルジョ教会の姿。市《いち》に向かう人々で賑わう街路。活気に満ちた無秩序な街。そのミラノの空気が、やけに懐かしく感じられる。
「レオノーラ嬢は、生まれ育った街を離れてもうまくやっていけるでしょうか」
ぽつり、と独りごとのようにチェチリアが言った。サン・ロレンツォ・マッジョーレ聖堂を飾る、ローマ時代の列柱が見えてきたところである。
「大丈夫さ。彼女ならばね」
意外なことに、そう力強く言い切ったのはレオナルドだった。
「ほう、なぜそんなことがわかるのだ」
ルドヴィコは笑いながら訊き返す。レオナルドも目を細めて笑って言った。
「わかるさ。考えてみるがいい。いくら下に風船が置かれているからといっても、あの高さの窓から飛び降りたんだ。生半《なまなか》な度胸でできることではない。それだけのことができるのだから、多少の苦労などどうということはないさ」
「度胸か、なるほどな」
奇妙に納得して、ルドヴィコは破顔した。
「彼女が飛び立つ姿を、見られなかったのが残念だな……」
レオナルドがぽつりと言った。その言葉に誘われるようにルドヴィコは目を閉じる。
思い浮かんだのは、窓のない塔に描かれた、炭絵の風景へと飛び立っていく天使の姿だった。
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忘れられた右腕
車は、ティチネーゼ門前の広場に止まっていた。
馬車である。一頭立ての簡素な造りで、屋根はない。明るい薄茶色の瞳を細め、チェチリア・ガッレラーニは、夕靄《ゆうもや》に包まれた街の景色を眺めている。
彼女のほかには、馭者《ぎょしゃ》が一人乗っているだけだ。異国風の顔立ちをした壮年の兵士。黒い上着にあしらわれた|桑の葉《モーロ》の紋章は、彼が宰相ルドヴィコの私兵であることを示していた。
ティチネーゼ門は、ほぼ円形をなす都市ミラノの南側に造られた市門である。
都市を囲む城壁に沿って運河が流れ、市門近くに設けられた船着場《ダルセナ》は、日暮れ近くになっても活気に満ちている。
肥沃《ひよく》なロンバルディア平原の各地から運ばれてくる穀物や果実。あるいはヴェネト州を経由して、遠くヴェネツィアやパドヴァから届く美術品や工芸品の数々。それらを運ぶ荷馬車や人夫たちが絶え間なく行き交って、街路はひどく混雑していた。
「申し訳ありません、チェチリア様」
馭者が、彼女を振り返って言う。
浅黒い色の肌をした馭者は、ムーア人と呼ばれる南方の出身者だった。どこか発音がぎこちなく、表情の変化もわかりづらい。しかし主人には忠実で、独特の愛嬌がある。
ミラノ宰相ルドヴィコ・スフォルツァは、彼のような屈強な黒人を、自らの護衛として何人も従えていた。チェチリアの馭者を務めているのは、なかでもルドヴィコの信任が厚い一人である。郊外にある知人の山荘《ヴィッラ》を訪れることになった彼女の随従として、特別に宰相自らが手配してくれたのだ。
その山荘からの帰り道、ミラノの市門までたどり着いたところで、馬車は船着場《ダルセナ》の混雑に巻きこまれてしまったのだった。
「この時間、市門界隈が混み合うことを失念しておりました。このぶんでは、| 旧 宮 殿 《コルテ・ヴェッキア》にたどり着くのが、ずいぶん遅くなってしまいます」
馭者があまりにも深刻そうに言うので、チェチリアは微笑した。
「私はいっこうに構いません」
「ですが」
「よいのです。こうして街の様子を眺めているのも、なかなか興味深いものですから」
「はあ……」
馭者は気まずそうに沈黙した。チェチリアが彼を皮肉って、そんなふうに言っているのだと受け取ったのかもしれなかった。
街路を行き交う人々の隙間を縫うようにして、馬車はじりじりと進んでいく。
しかし実際、船着場で人々が働く様子は、見飽きることのない光景だった。
運河から運びこまれた積荷の多くは、そのまま市街や、商館の倉庫へと持ちこまれていく。
逆に船へと積みこまれていく荷物もある。ミラノとは、ローマやフィレンツェなどの南方の諸都市と、アルプス以北の国々との交易を取り持つ、商業上の要衝なのである。
ある意味では、大海港であるジェノヴァやヴェネツィアなどよりも、めずらしい物品を目にする機会が多いともいえる。こうして馬車の上から眺めているだけでも、それらしき荷物のいくつかが目についた。
異国のものとおぼしき見慣れない酒樽。
美しいガラス細工や、銀器。
そして禍々《まがまが》しい武具や兵器など。
特にチェチリアの目を惹きつけたのは、美術品を扱う一党だった。
名のある美術商が雇った人夫たちらしく、彼らが運ぶ荷物は古びた壺《つぼ》や食器などが多かった。毛布にくるまれた大きな壁板は、おそらく絵画作品なのだろう。
彼らが最後に運び始めたのは、木箱に詰められた奇妙な荷物だった。
同じような木箱が全部で六つ。ただし、大きさはまちまちである。
人が小脇に抱えて簡単に運べる程度のものもあれば、四人がかりでないと持ち上げられないほど大きなものもある。
それらは、ほかのどんな荷物とも違って、なぜかチェチリアの興味を惹いた。
「彼らは、なにを運んでいるのでしょうか」
誰に訊くともなしに、チェチリアはつぶやく。
小さな木箱が一つ。大きなものが一つ。そして、やや細長いものと、それらよりも更に大きく長い木箱が二つずつ。飾り気のない木箱の形そのものも奇妙だが、その数と配置も見慣れたなにかに似ているようで気にかかる。
「なにやら、葬儀の真似事のようですな」
何気ない口調で馭者が答えた。
チェチリアは、ああ、と細く息を漏らす。
人夫たちが運ぶ白木の箱と、釘で打ちつけただけの蓋。
それらは、棺桶に似ているのだった。
普通の人間の身体では、その木箱には入りきらない。けれど胴体から両手足と首を切り落とし、それぞれを別々の箱に入れれば、ちょうど具合よく収まるだろう。
もちろん、それはそう見えるというだけのことで、わざわざ切り離した死体を市内に運びこもうとしているわけではあるまい。ただ、その木箱の一組から、チェチリアは無意識に解体された人の姿を連想してしまったのだ。真新しい棺桶のような木箱の印象が、ほかの美術品とはずいぶん違って見えたことも、興味を覚えた理由の一つだろう。
理屈がわかってしまえば、取り立てて面白いというほどのことでもなかった。
それきり彼らには興味を失って、チェチリアはようやく近づいてきた市門の姿を見上げた。
広場に人夫たちの怒声が響いたのはそのときだった。
続けざまに、なにかが割れるような音が響いた。人混みの中から飛びだしてきた騾馬《らば》と、人夫たちの荷馬車がぶつかって積荷が崩れてしまったのだ。
普通なら誰も気にとめないような、ありふれた事故だった。
だが、ムーア人の馭者は、それを見て驚いたように馬車を止めた。
崩れ落ちた積荷を中心に、人々のざわめきが広がっていく。
地面に落ちた荷物の中に、例の奇妙な木箱の一つが混じっていた。
細長い、小さな木箱の片割れである。
石畳にぶつかった衝撃で木箱が割れ、釘で打ちつけてあった蓋がはずれている。
敷き詰められていた毛布がはだけ、箱の中身が外に転がり出ていた。
チェチリアは、形のよい眉を寄せる。
木箱の中に収められていた荷物。
それは、灰色の、人の腕の形をしたものだった。
消え残る朝霧を透かして、晩秋の太陽が弱々しい光を落としている。
褐色の煉瓦《れんが》と、灰色の石で囲まれたミラノの市街。未完成の大聖堂《ドゥオモ》を窓越しに眺めながら、宰相ルドヴィコ・スフォルツァは| 旧 宮 殿 《コルテ・ヴェッキア》の通路に立っていた。
高く陰気な壁に刻まれた蝮《まむし》の紋章は、この宮殿がかつてのミラノの支配者――ヴィスコンティ家の居城であった時代の名残《なごり》である。
そのヴィスコンティ一族がミラノを追放されて三十年あまり。現在の| 旧 宮 殿 《コルテ・ヴェッキア》は、現ミラノ公ジャン・ガレアッツォと彼の親族であるスフォルツァ家の所有であり、宮廷に出入りする芸術家や学者たちの住居として供されていた。
慌ただしい国務に倦《う》み疲れたとき、ルドヴィコはしばしば居城を離れ、この宮殿を訪れる。
いまだ幼いミラノ公に代わって国務を掌握するルドヴィコは、旧宮殿に集う人々の実質的な雇い主であり、その働きを監督するという意味合いもある。
しかしなにより、ミラノが抱える当代有数の知識人との会話や、彼らの仕事ぶりを眺めるのは、退屈な宮廷での生活にあって格好の気晴らしなのだった。
だが今日に限っては、ルドヴィコの表情はさえなかった。
陽に灼《や》けた精悍な顔つきに、うっすらと疲労の色が浮かんでいる。
狐に似て、虎に似る――機知に富み、同時に剛胆であると噂される希代の宰相にしてはめずらしく、ルドヴィコは憔悴《しょうすい》した様子を隠そうともしていなかった。
「どう思う、レオナルド?」
扉の前に立って、ルドヴィコは問いかける。
いかにも重々しい鉄の扉は、大きく開け放たれていた。
室内を眺めれば、整然と並べられた無数の美術品が目に入る。
古代の彫刻。壺。板絵。
碑石に彫りこまれた刻銘や、異国の石棺もある。
部屋の奥には採光用の小さな窓があり、その窓辺には一人の男の姿があった。
逆光に照らし出された男の姿に、ルドヴィコはあらためて目を奪われる。
均整のとれた長身の影は、それ自体が、異教の神話の彫刻を見ているようであった。
陽に透けた長い髪が輝いている。おだやかな面立ちは、むしろ女性的であるかもしれない。ゆっくりと振り向いたその瞳は、驚くほど深く澄んでいる。
美しい男なのである。
魅入られたように立ちすくむルドヴィコに、その彫刻のような男は笑いかけた。ゆったりとしていて、つかみどころのない不思議な気配をまとわりつかせた笑みだった。
「どう思う、とはどういうことだ。よくわからないな、イル・モーロ」
軽いからかいのこもった男の口調に、ルドヴィコは小さく顔をしかめる。
イル・モーロというのはルドヴィコの通り名である。
モーロとは黒のこと。すなわちイル・モーロとは、黒い人という程度の意味になる。転じて、南方のムーア人を指すこともある。生まれつき肌が浅黒く、髪も目も黒かった彼を、人々はそう呼んでいた。考えようによっては侮辱ともとれる呼び名を、ルドヴィコ自身は気にいっていた。自ら黒人風の衣装を装い、あえて屈強な黒人兵士を護衛として登用しているほどである。
スフォルツァ家は、いわゆる名門の家系ではない。ルドヴィコの父の代までは、勇猛で知られた傭兵隊長《コンドッティエーレ》だったのだ。
名門ヴィスコンティ家の没落によって、スフォルツァ家がミラノの実質的な支配者となった今も、その武人の血はルドヴィコの中に受け継がれている。ルドヴィコが酔狂な装いで市街を歩き回るのも、案外その血脈に理由があるのかもしれない。
だが、その激しい気性のルドヴィコを、この異郷人の男は恐れない。
そのことが少し腹立たしくもあり、小気味よくもある。
レオナルド・ディ・セル・ピエーロ・ダ・ヴィンチ――
それが、この美しい芸術家の名前であった。
「この塔にある美術品を、どう思うかと訊いている」
ルドヴィコが再び訊き返す。あくまで真剣な口調である。
レオナルドは唇に薄く笑みを浮かべ、ゆっくりと部屋の中を見回した。
「たいした数だな」
「ああ」
「ずいぶんと金がかかっている」
「そうだ。先代までのミラノ公が集めた品が揃っている。これがすべてというわけではないが、ここにあるものだけでも二百点は下るまい」
ルドヴィコは小さく息を吐く。先代のミラノ公爵ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァは、ルドヴィコの実の兄であり、そして驕奢《きょうしゃ》な人物であった。
彼は豊かなミラノの富を、自らの欲望のためだけに浪費した。この倉庫に収められた品々の大部分は、彼が個人的に買い集めた品である。
それ以外にも、この中にはヴィスコンティ家がミラノを支配していた百七十年間に、他国から略奪した美術品や、君主としての彼に献上された賂《まいない》の類も含まれている。
正当な経路で国庫に納められた品は王宮の宝物庫に保管されているので、この| 旧 宮 殿 《コルテ・ヴェッキア》にひっそりと保管されているものは、代々のミラノの支配者が個人的に集めた品々ということになる。いわば隠し財産というわけだ。
「それで、こんなものをぼくに見せて、なにをしろというのだ、イル・モーロ?」
「これらの中から、特別に価値があるものをいくつか、選んでもらいたい」
「目利きをしろ、というわけか」
ふん、とレオナルドは意外そうに唇を歪めた。
「そうだ。できるか?」
「引き受けてもいいが、実はあまり気分が乗らない」
「なぜだ?」
「この部屋を見ていると、フィレンツェにある、あの男の博物館を思い出す。ろくに整理もせずに数だけ揃っているところなんか、特にね」
「博物館?」
「メディチ家の現当主ロレンツォ| 豪 華 王 《イル・マニーフィコ》の収集品だよ。古代の化石やら動植物の標本やらを集めた倉庫だ。幼い娘の死体から型どりした蝋《ろう》人形などという悪趣味なものもある」
「……そんなものと一緒にするな。ここにあるのは、まっとうな美術品だけだ。貴様の趣味に合う物をいくつか選んで、推薦状の一つも書いてくれればそれでいい」
不機嫌な声でルドヴィコが言う。レオナルドはやれやれと肩をすくめた。
「推薦状ね……なにやら厄介事の臭いがするな。わけを訊かせてもらおうか」
「人に譲り渡さねばならんのだ。相当な価値のあるものをな」
「贈り物か。ふん……それはちょっと面白いな」レオナルドが愉快そうにつぶやいた。
「なにが面白い?」
ルドヴィコが不機嫌な口調で言うと、レオナルドはますます楽しげに笑った。
「宝石や衣裳などではなく古美術品を欲しがるとは、ずいぶん趣味のいい愛人を見つけたものだな、イル・モーロ」
「勘違いをするな。女に頼まれたわけではないよ」ルドヴィコは顔をしかめて言った。
「違うのか」
「あたりまえだ」
「だったら、なぜこそこそと先代の遺産を漁るような真似をする。公務に使うものなら、堂々と家臣に命じて古代ローマの貴石細工でもカタルーニャの聖櫃《せいひつ》でも、好きなものを買い集めてくればいいだろう」
皮肉のこもったレオナルドの言葉に、ルドヴィコは深く息を吐いた。
「できることならそうしたいところだが、そうもいかんのだ」
「わけありのようだな。相手は誰だ?」薄笑みを浮かべたまま、レオナルドが訊く。
「エンリケスという男だ。ナポリ大使の秘書官だよ」
「聞かない名だな」
「着任して間もない新任の官吏だからな。まだ若いが、弁が立つ。外交官としては手強いな」
「美術のわかる男なのかな?」
「それはわからんが……なぜだ?」
「なに、ものを見る目のある男なら、この蔵にある美術品を贈るわけにはいかないだろうと、そう思っただけだよ」
「なに?」
ルドヴィコは、むっとしてレオナルドを睨んだ。まるで彼が、ここにある無数の美術品を、取るに足らないものと嘲《あざけ》っているように思えたからだ。
「なぜここにある品ではだめなのか、わけを聞かせてもらおうか」
低い声でつぶやくルドヴィコに、レオナルドはあっさりと答えた。
「それは、ここにある品のほとんどには価値がないからだよ」
「価値がない?」ルドヴィコは唖然として訊き返す。
「ばかな……傷んだものもあるかもしれないが、これらはみな、歴史的にも価値の高い品ばかりだぞ。古いものなら、二千年近くも前に作られたエトルリアあたりの品もある」
「それが本物ならば、の話だよ、イル・モーロ」
「……なんだと?」
「きみの兄上は宝石を集めるのが趣味だったらしいが、美術の審美眼は二流だったようだな。ここにある美術品のほとんどは贋作《がんさく》だよ。偽物だ」
「贋作……?」
ルドヴィコは驚いて、部屋にある品々を見回した。
美術品には贋作というものが存在する。それぐらいのことは、もちろんルドヴィコも知っている。ガラスを磨いてまがいものの宝石や貴石を生み出したり、同時代の芸術家たちの作品を模造したりという技術は、古くは古代エジプトの時代から日常的に行われていたことらしい。
しかし、それらの品は一般に、芸術に疎い素人はだませても、普段から美術品を見慣れた美術商や収集家の目を欺くことはできないものだと思われていた。
古代ギリシャでは贋作のことをノソイと呼んだが、これは、粗悪品と同じ程度の意味である。
「しかし、これらの品は粗悪なものではないぞ。どれも巧みに作られているし、ずいぶん古いものばかりだ。たしかに、最近になって修復されたものもいくつかあるかもしれないが」
「それは違う、イル・モーロ。これらはみな、最近になって新たに作られたものばかりだよ」
「馬鹿なことを……新品か、古代の遺物かということぐらいは、素人にでも見破れるだろう。姿形は古代の品に似せて作ることもできようが、時間の流れだけは人の手によってはどうすることもできないからな」
「時間の流れ、か」レオナルドは薄笑みのまま、手近にあった壺に手を伸ばした。
「それが盲点なのだ、イル・モーロ。時間の流れを操ることはできなくても、時間が流れたように人々に錯覚させるだけなら、そう難しいことではない。まあ、見てみろよ」
そう言って彼は、壺をルドヴィコの前に差し出す。
紫色の斑《まだら》の入った大理石の壺だった。
この斑岩はエジプトでしか産出しないといわれており、その希少性と、紫という色合いの持つ価値によって、王家のもの、というふうに見なされることが多い。作られた当時は艶やかに磨き上げられていたであろう壺は、長い年月を経て色あせ、蒼然とした姿を見せていた。
「壺だな。古代ローマの品だろう?」
「そう見えるというだけだ。これはせいぜい二、三十年前に作られたものだよ」
「なに……? しかし、この表面の色合いは……」
「半年か一年か地中に埋めて、わざと古風な味をつけたものだ。よくある贋作者の手口だな。浸透力の強い土が必要だ。どこぞの川辺の泥土か、あるいは牛馬の糞を使ったのかもしれない」
「牛馬の糞だと」
ルドヴィコはぎょっとして伸ばしかけた腕を引っこめた。
長い年月を経て味わいが出たなどと珍重がられていた壺が、まさか糞によって色づけされたものだったとは、にわかには信じがたい。だが怪しいと思って見れば、いかにもその味わいは表面的なもので、色褪せ方が不自然なようにも思われた。
「こちらの品は、それよりは少し手がこんでいるな」
続けてレオナルドは、同じような斑岩の杯に手を伸ばす。先ほどの壺に比べれば更に古く、価値の高い品であるように思える。使いこまれた道具の常として、いくつか疵《きず》が残されており、そのことが逆に、代々受け継がれてきた貴重な品という風格を与えている。
「古く見せるための手法は先ほどの壺と変わらないが、これは新品の杯をわざと欠いて、その上で鉛の詰め物で補修したものだ。いかにも古代に修理されたというふうにな。そうすることで、贋作がいっそうそれらしくなる」
「贋作者とは……そこまでするのか」
ルドヴィコは、渡された杯をしげしげと眺めた。腐食した鉛や、銅の薄板で焼き接いだ杯は、説明を受けてもなお古代の遺品にしか見えなかった。
「なるほど、ここにある器や壺が怪しいというのは、それでわかった。しかし、この部屋にはまだ板絵や素描も数多くあるぞ。それらもやはり贋作だというのか?」
「そうだね。真筆であっても価値のない作品も、多く混じっているようだが」
「ふん……しかしな、まさかそれらを土の中に埋めるわけにもいくまい。それは、どうやって時代を誤魔化しているのだ?」
「同じことだよ。素人の目を欺くだけなら、絵そのものを燻《いぶ》して、くすませるだけでいい」
「む……」
「この板絵は、それよりはだいぶ腕のいい贋作者の手が入っているな。おそらく出自はスペインあたりだ。数百年前の品だな。どこぞの教会の祭壇から剥がしてきたものだろう」
「待て……ならば、それは贋作ではない、本物の聖遺物ではないのか?」
ルドヴィコは首を傾げて、飾られた板絵に歩み寄った。
漆喰の上に描かれた宗教画である。平面的で稚拙な図柄だが、描かれているのは受胎告知の一場面だろう。画板や漆喰の傷み具合は、それが明らかに遠い中世の作品であることを示しているように思える。
「本物だよ。その絵の土台になっている画板はね」
「なに?」
「もともとの絵が見る影もなく傷んでいたのか、それとも無理やり剥がすなり塗りつぶすなりしたのかは知らないが、この絵そのものは最近になって描かれたものだよ。中世には使われていなかった顔料が使われているし、この図柄もほかの教会の模倣だろう」
「そうか……先ほどの壺や杯と違って、こちらは素材の一部として本物を使っているわけか。巧妙だな」
ルドヴィコはむしろ感心してそうつぶやいた。レオナルドも同じような表情でうなずき、
「絵画などは、まだわかりやすいほうだ。土台はともかく、少なくとも作品それ自体はすべて人の手によって生み出されているわけだからな」
苦笑混じりにつぶやいた。
壁際の棚に歩み寄り、彼はそこに置かれた古い石柱や粘土板などを眺めた。
「それよりも厄介なのは刻銘や碑文だよ。ラテン語程度ならまだしも、象形文字や楔形《くさびがた》文字が読める人間はイタリアにはまずいない。古代の石や粘土板に上書きされたら、まず見破るのは不可能だろう」
「たしかにな……」
ルドヴィコはたまたま目についた粘土板を手に取った。古代バビロニアのものだとされている書簡である。厚みのある赤茶けた粘土板は、年を経て硬く変質している。
だが、レオナルドの説明を聞いた上で改めて眺めてみれば、そこに描かれている楔形文字の配列は、ずいぶんと不自然なものに思われた。
粘土板の一部は保管されているうちに変形して、ところどころ厚みが変わっている。にもかかわらず、表面に彫られた文字の深さはほとんど同じなのだ。風化して薄れた文字のかわりに、何者かがあとから彫りこんだのが明らかだった。
「その意味では、彫刻も同じだ。彫刻の利点は、絵画よりも保《も》ちがいいということだからね。そのぶん時間の流れによる変化がわかりにくい。名工の手にかかれば、まったく完全に古代の彫刻と同じものを生み出すこともできるだろう」
「そうなのか……?」
訊き返すルドヴィコを振り返り、レオナルドは愉しげに目を細めた。
「そうさ、イル・モーロ。いったい、ぼくがどうしてこんなふうに贋作の製法に精通していると思っている?」
「なに?」不意をつかれたように、ルドヴィコは大きく眉を上げた。
「そういえば、なぜだ。まさか貴様に限って贋作作りになど興味を示すとは思えないが」
常日頃から、芸術家は自然を手本にするべきだと公言し、過去の文献で得た知識や他者の権威を振りかざす論者たちを辛辣《しんらつ》に批判しているレオナルドである。その彼が自ら進んで贋作について研究するとは考えにくい。贋作に騙された人間を嘲笑《あざわら》いこそすれ、自分の手を煩《わずら》わせてまで誰かを陥れようとするほど、他人に執着する男ではないのだ。
そんなことを思って戸惑うルドヴィコに、レオナルドは薄く苦笑してみせた。
「師のもとで学んだんだよ。実際に贋作を作る現場にも何度か立ち会ったかな」
「なんだと? 貴様の師といえば……ヴェロッキオ殿のことか?」
さすがに驚いてルドヴィコは声を上げた。ヴェロッキオといえば、フィレンツェでも最大の工房を構える当代有数の師匠《マエストロ》である。幅広い分野に才能を持つが、特に金細工と彫刻の分野においては他者の追随を許さないものがある。
それほどの大芸術家が古美術の贋作にかかわっているのでは、なまじの鑑定人では、とても真贋を見極めることなど及びもつかないことだろう。
「彼だけではないよ。ドメニコ・ギルランダイヨも、ドナテッロも、一時期、古美術の贋作にかかわったことがあるそうだ。我が師が、鋳造したばかりのブロンズ像に、古代の彫像そっくりの緑青《ろくしょう》を定着させたのも見たことがある。あれには誰もが面白いくらいに騙された」
「それは、無理もあるまいな」
ルドヴィコは弱々しくつぶやいた。額を押さえ、特徴的な黒髪を荒々しくかき上げる。
「なるほど……ここにある古美術品をナポリの秘書官にくれてやるのは、得策ではないということか。もしも彼奴《あいつ》が、これを贋作と見破ったら、我らがよけいに恥をかくはめになる」
「あるいは、知っていて、わざと偽物を贈ってきたのではないかと疑われることになるだろう。どちらにしても愉快な結末になるとは思えないな」
「ああ、そのようだ」
力なくうなずいてルドヴィコは嘆息した。
「しかし、あれほど疑り深かった我が兄が、これほど見事に贋作ばかりをつかまされるとはな」
「欲望に囚われた人の目を欺くのは、それほど容易《たやす》いということだ……それにしても、よくわからないのだがな、イル・モーロ」
粗石《あらいし》の壁にもたれて、レオナルドが面倒くさそうに訊いた。
「そもそも、どうして異国の大使の秘書官ごときに、宰相たるきみが美術品を贈呈するという話になったのだ? ぜひ教えてもらいたいものだな」
「む……」
ルドヴィコは不満げに唇を曲げ、なにか苦いものを呑みこんだような顔をした。
ため息をついて、レオナルドのほうに向き直る。
「贋作か。いっそのこと、あれも贋作であってくれれば、話は簡単だったのだがな」
「ふむ?」
レオナルドは、話の続きをうながすように視線だけをルドヴィコに向けた。
そして、ルドヴィコは渋々と重い口を開けた。
ナポリ大使の秘書官エンリケスは、ようやく三十歳になるかならないかの若い男だった。
鼻筋が高く通っており、顔の造作が鋭い。いかにも自信に満ちた態度の一方で、上役である大使の面目を立てて如才なく振る舞うことも出来る。現実的なものの考え方をする有能な男で、手強い外交官だと警戒する一方で、ルドヴィコはすぐに彼に好感を抱いた。
そのエンリケスと最初に顔を合わせたのは、七日ほど前のことである。
ナポリ大使公邸で彼自身の着任を祝う宴が催され、その場にルドヴィコも招待されたのだ。
祝宴といっても、それほど大々的なものではない。
大使の主立った知人を招いての、ささやかな宴である。
儀礼的な挨拶を終えたルドヴィコは、余興がわりの舞踏が始まったころを見計らって、会場から立ち去ろうとした。
そのとき、エンリケス本人がルドヴィコに声をかけてきたのだった。
折り入って相談したいことがある。
物怖じしない態度で彼はそう言った。
「着任早々相談とは、なにか困り事なのか、秘書官殿?」
ルドヴィコは軽い興味を覚えて訊いた。
新任の秘書官に恩を売っておくのは悪くない考えだと思えたし、互いに不利益になるような相談事を持ちかけてくるような相手ではないという予感もあった。
「まあそのようなものです」
エンリケスは意味ありげに微笑した。
「説明するよりも、まずはご覧になっていただいたほうが早いでしょう」
そう言って、彼は大使公邸の別館へとルドヴィコを案内する。
ルドヴィコは護衛の兵たちを引き連れて、素直に彼の誘導に従った。
別館があるのは、| 旧 宮 殿 《コルテ・ヴェッキア》地区の、普段はあまり使われていない一角だった。
かつては王宮技師の工房として使われていたらしい、屋根の高い建物である。
細い路地を通ってたどり着いたその建物の正面には、厳重に施錠された大きな扉が設けられていた。エンリケスは取り出した真鍮《しんちゅう》の鍵で、錠前と鎖を外していく。
錠前の数は三つ。それぞれに太い鋼鉄製の鎖が巻きつけられているのだ。
ようやく鍵をはずし終え、エンリケスは自ら扉を開けた。ぎしぎしと耳障りな音を響かせ、扉はゆっくりと開け放たれた。
建物の中は三階までの吹き抜けで、方錐形の天井に、換気用の窓が開いているだけだ。
柱や、弓形の梁《はり》で支えられてはいるものの、基本的に垂直の壁に覆われた殺風景な建物である。人が住むための場所ではなく、もともとは工房《ボッテーガ》の倉庫かなにかだったのだろう。
壁際に備えつけられた簡素な棚をのぞけば、調度品らしきものはなにもない。
外からの光が入ってこないせいか、建物の中は薄暗かった。ただ、風通しだけはいいらしく閉めきった建物にありがちの黴《かび》くさい臭気は感じられない。天井が高いということもあって、蝋燭《ろうそく》や洋燈が燃える臭いもほとんど気にならなかった。
そして、いくつもの蝋燭が照らし出す光の中に、一体の巨大な影が浮かび上がる。
それは男性の立像だった。
彫像である。
身長は、大柄なルドヴィコよりも、さらに身体半分ほどは高いだろう。優雅な巻き毛の男性裸体像である。
大理石を磨いてつくった滑らかな表面が、炎の照り返しを受けて艶やかに輝いている。
頭上に伸ばした左腕は、途中で欠けて失われていたが、彫像としての価値を損なうほどの欠損ではない。両脚は優美な姿勢を保って台座に固定され、右腕の付け根から垂らした布の彫刻が、右腕と上体の石の重さを支えている。きわめて洗練された意匠である。
「これは……古代ローマ時代に作られたものか」
ルドヴィコは、感嘆の息を漏らして言った。
「さすがですな、閣下」
秘書官は、満更《まんざら》お世辞でもないというふうにうなずいた。
「ギリシャ美術の影響を強く受けているようですが、これだけの精密な彫像を作る技術は古代ローマのものでしょう。紀元前二世紀ごろの作品だと思われます」
「見事なものだな」
「お褒めいただきありがとうございます。実はこれは、私がミラノで手に入れたものなのです」
「ミラノで?」
ルドヴィコはまじまじとエンリケスを見た。これほどの美術品がミラノ市内にあるとしたら、どの美術商もまずはルドヴィコのもとに売り込みに訪れるはずだからである。
ルドヴィコの疑惑を敏感に感じ取ったのか、エンリケスはあわてて言葉を続けた。
「もちろん閣下の財産をかすめとるような真似をしたわけではありません。実はこの彫像は、ミラノを経由してフランスに運ばれるはずだった品でございます」
「……フランスか」
ルドヴィコは低くつぶやいた。苦々しい感情が胸中をかすめる。
フランスは今やヨーロッパでも随一の大国である。古美術収集熱の高いローマやフィレンツェあたりで出土した品ならともかく、そのような流行とは無縁のシチリアあたりで発見された古美術品が、ひっそりとミラノを経由してフランスに売り渡されるということは、当然起こり得ることであった。つまり美術品の国外流出である。
「ご存じのとおり、我がナポリのアラゴン家は、王位継承問題をめぐってフランスと敵対しております。私が今回ミラノに派遣されてきた理由の一つには、このような美術品を買い求めて、ナポリ本国に持ち帰るという役目もあるのです」
「ほう……」
「もちろん、我々が美術品を買い上げた代価はミラノ市内の美術商の手元に入るわけですから、閣下にとっても不利益ではないはずです。ナポリに送られた美術品は、同盟国への贈呈品として使われますので、いずれ閣下のお手元に届くこともあるかと」
「ふん……たしかにそういう考え方もあるな。そう言われては俺も文句を言えぬ」
回りくどいエンリケスの物言いに、ルドヴィコは苦笑を浮かべて見せた。
エンリケスは、共犯者に向けるような親しげな笑顔でルドヴィコに一礼する。
「この品のために、我が大使館は、二万ドゥカートもの大金を貴国の美術商に支払いました」
「は……それはまた、彫像一つに破格の値段だな」
「はい。実は閣下へのご相談というのはそのことなのです」
「ほう?」
「大使館の予算の多くをつぎこんで手に入れた逸品です。もしもミラノから運び出す前に、万一、この彫像になにかあった場合には、私の首一つでは収まりません」
「そうか……大事《おおごと》だな」
「ですが、なにぶん本国から遠く離れた異郷の地。警備の人間を増やそうにも、我が大使館には余分の人員がないのです」
「はは……なるほどな。そういうことか」
ルドヴィコも納得した。エンリケスは、ミラノの兵士を彫像の護衛として貸して欲しいと、そう訴えているのである。わかりやすい話であった。
「たしかにな。このミラノの中で、貴重な美術品が盗まれたり壊されたりということになれば、我がスフォルツァ家の名誉にもかかわる問題だ」
「閣下、それでは……」
「承知した、秘書官殿。ミラノ王宮の衛兵の中で、信頼できる者を何人か貸そう。彫像を送り出す手配が整うまで、自由に使ってくれて構わない」
ルドヴィコの言葉を聞いて、エンリケスは安堵したように微笑した。
ゆらめく明かりに照らされて、重々しい彫像は、いくつもの長い影を落としていた。
「それで早速、翌朝から、朝晩交代で六人ずつの兵士を貸し出すことにしたのだ」
ルドヴィコは、そう言ってレオナルドを見た。
二人はすでにレオナルドの工房へと移動している。
雑然としているようでいて、どこか奇妙な調和のとれた部屋だ。
書物がうずたかく積み上げられ、卓上には羊皮紙と銀筆が散らばっている。計算尺や定規と、用途の知れぬ無数の器具たち。芸術家の工房というよりは、数学者や占術師の居室と言われたほうが、どんなにか相応しく思える。
互いに向き合って椅子に腰掛け、二人は葡萄酒の杯を傾けていた。
「それで、どんな面倒事が起きたのだ?」
なぜか愉しそうにレオナルドが訊いてくる。
「揉め事が起きたのがわかるのか?」
ルドヴィコは唇を歪めて言った。
「わかるさ。でなければ、秘書官にきみが美術品を贈る理由がないだろう?」
「まあな。結局はそういうことなのだがな」
「なにがあった?」
歯切れの悪いルドヴィコを見返して、レオナルドは酒を口に運ぶ。
「彫像が消えたのだ」
「消えた?」
「そうだ。俺の部下たちが護衛していた公邸の別館から、彫像だけが消え失せた」
ルドヴィコが押し殺した声で言った。レオナルドは軽く眉を上げる。
「それは面白いな」
「……面白くなどはない。おかげで我がスフォルツァ家の面目は丸つぶれだ」
「消えた、というのはどういう状況なのだ」
「それがわかれば苦労はない」
嘆息して、ルドヴィコは首を振った。
「どうもこうも、エンリケスたちが輸送隊の手配を整えて建物の扉を開けたら、中の彫像だけがなくなっていたのだ。それだけだ。派遣した兵士の中で、建物の中に入った者はいないし、もちろん運び出される瞬間を見た者もいない」
「なるほど」
レオナルドは、ふ、と薄笑みを浮かべてうなずいた。
「兵士が見張っていたのは、別館の扉の前だけだったのかな?」
「いや。別館に通じる細い路地の左右にも、それぞれ二人ずつ配置していた。別館につながっている路《みち》はほかにはない」
「扉の鍵は?」
「もちろんかかっていた。鍵を持っていたのはエンリケスだけだ」
「ほかに別館とやらに入る方法はないのかな?」
「それは……まあないこともない」
ルドヴィコは、腕組みをして息を吐く。
「たとえば、窓だが、これは正面の扉のように頑丈な鍵がとりつけられているわけではないからな。小柄で、身の軽い人間ならば、兵士たちの目を盗んで別館の中に忍びこむことぐらいはできるかもしれない。もちろん巡回している兵士に見つかる危険もあるから、自由に何度も出入りするというわけにはいかないだろうが」
「出入りだけなら、絶対に不可能ではないわけだ」
「まあな」
重々しくルドヴィコはうなずいた。
「だが、これは本当に、なんとか出入りできるかもしれないというだけのことだぞ。少しでも荷物を抱えていたら、窓の高さまでよじ登ることも難しい。ましてや、あの巨大な彫像を運び出すことなど絶対に不可能だ。あれを運び出せるとすれば、どうにかして正面の扉を通るよりほかにない」
「ふん……まあ、きみがそう言うのなら、そうなのだろうな」
レオナルドが気のない口調でつぶやいた。
ルドヴィコは深く息を吐き、乱暴に杯の中の葡萄酒をあおった。
「事情が呑みこめていないのはエンリケスも同じだ。だが、こちらには間近で兵士たちに警護させていたという弱みがある。大使館の職員の目を盗んで、どうにかして彫像を盗み出したと疑われても、筋道立てて反論できないのがつらいところだ」
「それで、とりあえず盗まれた彫像のかわりになりそうな美術品を差し出しておこうと、そういうことか。きみにしてはめずらしく弱気だな」
「仕方あるまい。ナポリは重要な同盟国だし、フランスやヴェネツィアを牽制《けんせい》するためにも、こんなことで関係を悪化させるわけにはいかないからな」
「しかし、ミラノは歴史の浅い都市だからな。芸術のほかの分野ならばともかく、古美術品の収集にかけては、ほかの地方よりも分《ぶ》が悪い。二万ドゥカートもの彫像のかわりになるような品がおいそれと見つかるとは思えないな」
「わかっている」
ルドヴィコは苦々しげに顔をしかめた。
「最悪、貴様に働いてもらうことになるだろうな。師匠《マエストロ》レオナルド・ダ・ヴィンチの作品をかわりに差し出すということになれば、ナポリの連中も文句は言うまいよ」
「なんだって?」
レオナルドが、めずらしく驚いて声を上げた。
「ひどいな、イル・モーロ。それでは、このまま彫像の行方がわからなければ、かわりにぼくを働かせるつもりだったのか」
「悪く思うな。貴様に古美術の目利きを頼んだのも、万一のときに責任をとらせるためだったのだからな。それとも、彫像が消えた理由を貴様が説明してくれるのか?」
「そういうことなら、思いつくことはいくらでもあるさ」
憮然とした口調でレオナルドが言った。いつになく積極的な彼の態度に、ルドヴィコはあきれた表情を浮かべた。
「いくらでも、か」
「そうだ。まずは、これがナポリの人間によって、最初から仕組まれていたという可能性だな」
「最初から?」
「そう。派遣した兵士たちが到着したときには、すでに別館の中には彫像がなかった。すでに運び出されていたあとだったと考えれば、なんの不思議もないだろう?」
どこか投げやりな声音で、レオナルドは続ける。
「きみの部下たちは、空っぽの建物をずっと見張っていたわけだ。この場合は、すでに彫像はミラノの国外に運び出されたあとだろう。そして、それを確認する方法はここにはない」
「いや、違う……それはないのだ、レオナルド」
ルドヴィコがあわてて口を挟む。
「その可能性は、俺も考えた。だが、最初に派遣した兵士たちが到着したときに、エンリケスは別館の扉を開けて中を確認したらしい。そのときにはまだ、たしかに彫像が建物の中にあったと、兵士たちの全員が証言している」
「ふうん……まあそうだろうな」
レオナルドは、特に落胆した素振りを見せなかった。彼自身、その仮説を信じていたわけではないらしい。
「では、次に考えられるのは、ほんとうにミラノの人間が彫像を盗んだという場合だな」
「なにを馬鹿な……そんなことは……」
「あり得ない、とは言い切れないさ。彫像の出来に目がくらんだきみが、それを奪い取ろうと考えたのではないかと、ナポリの秘書官とやらは疑っているはずだ」
「貴様……本気で言っているのか?」
ルドヴィコはレオナルドを睨みつけた。
「仮にきみが命じていないとしても、兵士たちが共謀して彫像を盗んだ、ということも考えられるな。巨大な大理石像となれば重量も相当なものだろうが、屈強な兵士たちが協力すれば、運び出すのはそう難しくないだろう」
「馬鹿馬鹿しい……ほかの雑兵ならばいざ知らず、奴らに限ってはそんなことはあり得ぬ」
ルドヴィコは、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
「それに、鍵の問題もある。あの厳重な鍵を保管していたのはエンリケスだけなのだぞ」
「ならば、そのエンリケスが首謀者だとしたら、どうだ?」
レオナルドが淡々とつぶやき、ルドヴィコは呆然と目を見開く。
「なに……?」
「エンリケスが、きみの部下たちを買収して彫像を運び出すのを手伝わせた、というふうに考えれば、特に不都合はないだろう。兵士たちにしてみればナポリは異郷だ。他国の人間に頼まれて他国の財産を奪う手伝いをしただけ。ミラノを裏切っているわけではないと思えば、彼らの良心の呵責《かしゃく》も和らぐのではないかな」
「それは……」
つぶやきかけて、ルドヴィコは沈黙した。レオナルドの言葉を信じたわけではなかったが、とっさに否定する材料を思いつかない。
「とはいえ、きみの態度を見ている限りでは、そういうわけでもなさそうだな」
短くため息をついて、レオナルドは醒めた声を出す。ルドヴィコは訝しげに眉を寄せた。
「どういうことだ?」
「この場合、エンリケスにしてみれば、彫像がなくなったことで、イル・モーロ、きみを責めるようなことをしてはならないのだ。もしミラノの兵士の中の誰か一人でも、エンリケスに頼まれたことを証言したら、彼の立場が危うくなるからな」
「そうか……彫像がなくなったことで、エンリケスが俺に文句を言ってくるのは、彼奴《きゃつ》にとっても危険だということか」
ルドヴィコは安堵の息を漏らした。
「つまり、その考えも成り立たないというわけだな」
「まあ、そうなるね」
そう言って、レオナルドはほんのわずか表情を変えた。
「先ほどから少し気になっていたのだがな、イル・モーロ。建物の中には、彫像が消えた痕跡はなにも残されていなかったのか?」
「む……」
「実際のところ、その場所に彫像があったという証拠のようなものがきちんと残されていたのではないのかな?」
「そうだ……驚いたな、その通りだよ」
ルドヴィコが感嘆したようにつぶやいた。
「なにが残っていたのだ?」
「台座だよ。彫刻は青銅製の台座の上に載っていたのだが、その台座はそのままの形で建物の中に残されていた。台座の部分は、彫像と一緒に出土したものではなく、最近になって付け足されたものだから、価値はほとんどなかったらしいが」
「ふん……なるほど。消えたのは彫像だけか」
「いや、実は、それだけじゃない。彫像の腕も残されていた」
「腕?」
「右腕だ。もちろん大理石製なのだが、肘《ひじ》の部分で折れている。それだけが、台座から落ちて床に取り残されていた。おそらく運び出す途中で破損したのが、そのままになっていたのだと思うのだが」
「右腕だけ、か……なるほど、そういうことか」
レオナルドはうつむいて、なぜか小さく肩を震わせた。笑っているのだ。
「なにがおかしい?」
憮然としてルドヴィコが訊く。
「いや……イル・モーロ。今の言葉で、おおよそのことは見当がついた」
「なに?」
「もっと早く教えてくれれば、あれこれ思い悩まずに済んだのだがな」
「彫像の行方がわかったというのか」
ルドヴィコはかすかに腰を浮かせた。
「どこだ? 誰がどうやって持ち出した?」
「まあ、待てよ、イル・モーロ」
レオナルドは、はやるルドヴィコをからかうように、新しい酒を空の杯に注いだ。
悠然と笑って、指を一本立てる。
「物事には順序というものがある。その前に、もうひとつの謎について話をしなければな」
「……もう一つの謎について、だと?」
ルドヴィコは椅子に座り直した。いつの間にか酔いが醒めてしまっている。そのことに気づいて、ルドヴィコは自分の杯に残されていた葡萄酒を一息に飲み干した。
「そう。これもやはり彫刻がらみの話だよ。きみが覚えているかどうかは、定かではないが」
「はぐらかすな。その謎とやら、今の話と関係あることなのだろうな?」
微笑んでいるレオナルドを、ルドヴィコは睨む。
「どうかな……まあ、ぼくの考えが正しければおそらくは」
レオナルドは、いつもの皮肉げな薄笑みを浮かべて、うなずいた。
「この問題は一つだけでは解くことができない。二つの謎をあわせて考えることで、ようやく現実味を帯びてくる。そういう類の事件だよ」
「……だからそういう言い方はよせ。レオナルド、貴様、さっきからなにが言いたいのだ?」
「まあ聞けよ、イル・モーロ。今からひと月近くも前だったかな。チェチリアが、知り合いの山荘《ヴィッラ》を訪ねるというので、きみが馬車を仕立ててやったことがあっただろう?」
「ああ……?」
「その帰り道に、面白いものを見たそうだ」
「なんだ?」
「腕だよ」
「……腕?」
「彫像の右腕だ。ティチネーゼ門近くの船着場《ダルセナ》から市内に運びこまれた荷物の中に、それが混じっていたらしい」
「右腕か……偶然だな」
ルドヴィコは、ふ、と短く鼻を鳴らした。たしかに以前、そのような話を聞いたことがあるような気はするが、それ以上の感想は特にない。
「それだけならばな」レオナルドはうなずいた。
「その腕は、まるで棺桶を思わせる木箱に収められていたそうだ。たまたま、蓋が開いて中身が転がり出たので、チェチリアは中に入っているのが腕だと気づいたようだが」
「しかし、それは彫刻の腕だったのだろう?」
つまらなそうにルドヴィコは言う。生身の人間の腕が出てきたのならともかく、彫像では、事件と呼ぶほどのことでもない。
「そう。大理石を削って作った腕だよ」レオナルドは薄く笑って続けた。
「木箱はほかに五つあったそうだ」
「五つ?」
「小さなものが一つ、大きなものが一つ、右腕が入っていたものと同じような大きさのものが一つ、それと、それらよりも大きく細長いものが二つだ」
「ふん……それは、それぞれの木箱に、頭、胴体、左腕、両脚が収められていたというだけのことではないのか? ちょうどそれで一体の彫像が完成するではないか」
ルドヴィコは、指先で空中に人の姿を描いた。レオナルドが笑う。
「チェチリアも、同じことを思ったそうだよ。それぞれの木箱の大きさは、ちょうどそのような具合になっていたそうだ」
「謎というほどのものでもないな。出土した古い彫像が破損していることなど、めずらしくもないだろう?」
ルドヴィコは少し得意げに言う。するとレオナルドは、意外そうに片眉を上げた。
「そうかな……では、教えてくれ、イル・モーロ。その彫像の持ち主は、なぜ、その破損した彫像を別々に梱包して運ばなければならなかったのか。それも、わざわざ専用の木箱をあつらえてまで」
「それは……」ルドヴィコは一瞬、言葉に詰まった。「それは、輸送中に中の荷が壊れるのを防ぐためではないのか? 持ち主にとってよほど大切な彫刻だったのだろう」
「ふむ。だが、果たして完全に五体がばらばらに切り離されているような彫像に、それほどの価値があるものかな」
「む……」
「これがブロンズ像ならば理解できる。ブロンズ像には、それぞれ独立して鋳造したいくつかの部品を、最後に溶接して完成させるという製法があるからね。どこか離れた場所で鋳造した彫像を、ミラノ市内の工房で仕上げるというやり方は、そう悪くない」
「ああ」
ルドヴィコは同意した。型枠を使って行うブロンズ鋳造には広い敷地が必要だし、悪臭の問題もあるため市街地での制作は難しい。だからといって彫像を郊外で完成させてしまうと運搬が大変だ。半完成品の状態で市内に運びこむのは、その欠点を補う巧いやり方である。
「だが、ものが石像となると話は違ってくる。人間の手で鋳造したブロンズ像と違って、石を彫刻して造った石像は、一度壊れたら、もう二度と完全な形に戻ることはない。歴史的な価値はともかくとして、美しい庭園に繕い直した彫刻を飾っておきたいと思う美術収集家がいるものかな?」
「さあな……」
ルドヴィコは弱々しく首を振った。それ自体が相当な重さを持つ石像の場合、いくら巧妙に修復したところで、完全に元の姿を取り戻すということはないだろう。
もともとの彫刻の形がよくできていればいるほど、そのような無理やりの修復は困難になる。
だからこそ、高名なミロのヴィーナスやラオコーン像は、不完全な形のまま現在に伝えられているのだ。
「たしかに奇妙な話だとは思うが、しかし、それとエンリケスの彫像が消えたことがどう関係しているのだ? 言っておくがエンリケスの彫像は、ところどころ欠損してはいたが、完全な姿の石像だったぞ。無理やりに焼き接いだ痕跡などはなかった」
レオナルドは薄笑みを浮かべてうなずいた。
「置き忘れられていたという右腕は、どうだ? 本物だったのかな?」
「ああ。エンリケスが連れてきた鑑定人が念入りに調べたそうだ。間違いなく、古代ローマの時代に作られたものだそうだが……」
言いかけて、ルドヴィコは表情を険しくした。
「待て、レオナルド……まさか、置き去りにされていたあの右腕は偽物か? すり替えられたものだったのか?」
たしかに、苦労して盗み出した石像の一部を置き去りにした犯人の行動は不可解だ。いくら破損したとはいえ、貴重な美術品のかけがえのない右腕である。
しかし、あの右腕が実は偽物だったと考えれば話は違ってくる。
チェチリアが見かけたという、最初から折れていた彫像の右腕。それを犯人はわざと持ちこんで、置き去りにしたのかもしれない。いかにもエンリケスの彫像の一部が壊れたものだと、ルドヴィコたちに錯覚させるために。
「考え方としては悪くないよ、イル・モーロ」
レオナルドは満足げにうなずいて言った。
「だが、それではまだ正解とはいえない。きみたちに彫刻の右腕が壊れたと錯覚させることで、犯人が有利になる理由がなにも説明されていないからね」
「ならば貴様には正解がわかっているというのか?」
ルドヴィコは、拗ねた子どものようにレオナルドを睨んで訊き返す。
「正解かどうかは知らないが、ミラノに持ちこまれたばらばらの彫像と、消えてしまったという彫像。この二つの謎に、少なくとも合理的な説明をつけることはできるよ。それを目論んだ犯人の見当も、ついているといえばついている」
「……説明してもらおうか」
ルドヴィコが真面目な声で言う。重々しい覇気に満ちた声だったが、レオナルドはさらりとそれを受け流し、ゆったりと杯を傾けた。
「その前に一つ試してもらいたいことがあるのだが、頼まれてくれないか、イル・モーロ?」
「なんだと……貴様、今さらなにを……」
「うまくいけば、ナポリの外交官に貸しを作ることができると思うが」
「なに?」
ルドヴィコは顔をしかめてレオナルドを見返した。レオナルドは涼しげな表情で笑う。
「もしそれが首尾よくいったら、ささやかな報酬を要求してもいいかな、イル・モーロよ」
「報酬だと?」
「そうだな……前に見せてもらったバビロニアの書簡、あれがいいな」
「粘土板の上に描かれていたあれか? あんなものが欲しいのか。贋作だろう」
ルドヴィコは怪訝顔でレオナルドを見返す。変形した粘土板の上に書かれた楔形文字は、ルドヴィコでさえ一目でそれとわかる粗悪な贋作だったはずである。
「そう。あのままではたいした値打ちもない粗悪品だ。それを、ぼくが引き取りたいのだが、どうかな」
「それはべつに構わんが、悪用するなよ」
ルドヴィコは短く言い捨てる。
説明をはぐらかされた腹立たしさはあったが、ナポリに恩を売るという彼の提案が魅力的であることも事実だった。あきらめたように嘆息して、ルドヴィコは言った。
「で……俺はなにをすればいい?」
「エンリケスとやらに、渡してもらいたいものがある」
立ち上がってふらりと部屋を出て行ったレオナルドは、しばらくして戻ってきた。
掌の上に、煉瓦ほどの大きさの、白い煮こごりのような塊を載せている。
「彼に伝えてくれればいい。彫像を売りつけた美術商のところに行って、なにも言わずにこれを突きつけてみろ、とね」
「なんだ……これは?」
手渡された白い塊を、ルドヴィコは怪訝な眼差しで見つめた。
レオナルドは薄く微笑むだけで、それ以上はなにも答えようとしなかった。
ルドヴィコが再びレオナルドの工房《ボッテーガ》を訪れたのは、それから二日後のことであった。娘を一人連れている。スペイン風の鮮やかな色遣いの衣装をまとった美しい娘だ。
チェチリア・ガッレラーニである。
「ご機嫌いかがです、師匠《マエストロ》?」
優雅に一礼するチェチリアの姿を見るなり、レオナルドは恨みがましい視線をルドヴィコに向けた。ルドヴィコは笑いを噛み殺す。
当世の女性にはあり得ないほどの高い教養を身につけたチェチリアは、人の才能を見抜くことに類い稀な才能を発揮する。ミラノが宮廷技師としてレオナルドを登用したのも、彼女が、ルドヴィコにそうするように進言したのがきっかけだった。
そのせいもあって、常に飄然《ひょうぜん》と振る舞うレオナルドも彼女だけは苦手にしているらしい。
この奇矯な芸術家も、彼女の前でだけは、なぜか冷静さを欠くのである。気まぐれな彼を、他愛ない世間話や、竪琴《リラ》の練習につきあわせることができるのは、ほかの誰にも真似できないチェチリアだけの特権であった。
「それで結局のところ、あれはどういうことだったのでしょうか」
挨拶もそこそこに、チェチリアは話を切り出した。
「相変わらず唐突だな……なんのことだい?」レオナルドが顔をしかめて言う。
「先日、私がお話しした彫像の右腕のことです」
チェチリアは印象的な薄茶色の瞳で、真っ直ぐにレオナルドを見つめている。
「そのことについて、師匠《マエストロ》にはなにかお考えがあるのだと聞きました」
「ひどいな、イル・モーロ。いくらきちんと説明しなかったからといって、チェチリアを連れてくるなんて」
レオナルドは鼻白んだように顔をしかめた。それを眺めて、ルドヴィコは微笑する。
「それでは私が、まるで邪魔者みたいな言われようではありませんか、師匠《マエストロ》」
チェチリアが唇を尖らせて拗《す》ねたように言った。レオナルドは苦笑して首を振る。
「せいぜい反省するのだな。いつまでもはぐらかそうとするからだ」
助けを求めるようなレオナルドの視線を無視して、ルドヴィコが真面目な顔で言った。
「べつにはぐらかそうとしたわけではないよ。きみに面倒な説明をする前に、試したいことがあると言っただけじゃないか。だが、その様子ではどうやらうまくいったようだな」
「うまくいった、か……たぶんそういうことなのだろうが……」
腕組みしたルドヴィコが、腑に落ちないという表情をする。どうやらルドヴィコがこうやって彼のもとを訪れることさえも、レオナルドの予想の範疇《はんちゅう》だったらしい。
「言われたとおりにエンリケスには伝えた。そうしたら彼奴《きゃつ》め、今日になって、おかげで助かったと、わざわざ使者をよこして報告してきたぞ。疑って申し訳なかったと……これはいったいどういうことだ?」
「なんだ……それならば、もうなにも思い悩むことはないじゃないか」
レオナルドは素っ気なくつぶやいた。
「おかげで兵士たちの濡れ衣も晴らせたし、ぼくも無駄な働きをしなくて済んだというだけのことだ。それでもういいだろう」
「いいわけがあるか。結局、この件はなんだったのだ。あのとき、貴様がよこした煮こごりのようなものはなんだ?」
詰め寄ろうとするルドヴィコを、レオナルドはうんざりしたように見上げた。
「蝋だよ」
「……蝋?」
「わざわざ説明するほどのことではないよ。それよりも、イル・モーロ。ぼくの働きを認めてくれているというのなら、例の報酬を請求させてもらってもいいかな?」
「あの粘土板なら持ってきている」
ルドヴィコは、工房《ボッテーガ》の入口に無造作に置いた包みを指さした。
事情を知らないチェチリアが、少し不思議そうに目を瞬《しばたた》いている。
「だが、これを渡す前に、きっちりと今回のことは説明してもらおう」
「……わかったよ。仕方ないな」
やれやれというふうに肩をすくめて、レオナルドは優雅に脚を組み替えた。
つられてルドヴィコも背筋を伸ばす。チェチリアは姿勢良く椅子に腰掛けたまま、にこやかにレオナルドとルドヴィコを見比べていた。楽しそうだ。
「さて、互いに言い分はあるのだろうが、結局のところエンリケスたちが問題にしていたのは、誰がどうやって建物から彫像を消し去ったのかということだ。そうだろう、イル・モーロ?」
「……ああ」
ルドヴィコはうなずいた。今さら指摘されるまでもないことである。
「一方でチェチリアは、ばらばらに切り離されたままミラノに持ちこまれる彫像を見ている。この二つの出来事は、無関係なように思えるが、鏡に映したように逆しまになっているだけで、実は同じものを見ているのではないか。そんなふうに考えてみた」
「同じもの?」
つぶやいて、チェチリアはルドヴィコと顔を見合わせる。
「しかし、チェチリアが見たのはばらばらになった石像なのだろう? エンリケスの彫像は、ほぼ完全な姿で、どこにも継ぎ目などはなかった。その二つが同じだということはあり得ないのではないか?」
「そうでもないさ」
レオナルドは意地悪く笑って首を振った。
「チェチリアが彫像の右腕を見たのは偶然だろうが、ナポリ公邸の別館に同じ右腕が置き忘れられていたのは、偶然ではない。おそらく、わざと置き去りにしたのだ」
「わざと? あの右腕は、運び出すときに壊れてしまったわけではなく、最初からそうするつもりだったということか?」
ルドヴィコは不満げに眉をひそめた。
「……なんのために、そんな彫像の価値を損なうような真似を?」
「それだよ、イル・モーロ」うなずいて、レオナルドは訊き返す。
「置き忘れられていた右腕は、本物の大理石で出来ていたのだろう?」
「そうだ。だから彫像の本体を運び出すときに欠けたものだと思ったのだ。違うというのか?」
「違うよ。犯人の狙いは、まさにきみたちにそう思わせることだったんだ。置き去られたあの右腕が彫像の一部だとね」
レオナルドがきっぱりと言った。
「するとやはりあの右腕は偽物か? だが、なぜそんな手のこんだ真似を?」
右腕の部分だけとはいえ、石で出来ているのだからかなりの重量である。見張りに気づかれずに彫像を運び出すだけでも大変なのに、その上、外から偽の腕を運びこんでくるのでは、手間ばかりが増えて、なんの見返りもないように思える。
なのにレオナルドはゆるやかに首を振る。
「大理石で出来た右腕を残したいちばんの理由は、残された右腕が本物の彫像の一部だったということを証明するためじゃない。その逆だ。消え去った彫像の本体部分――そのすべてが、本物の大理石で出来ていたと錯覚させるために、わざと残したんだ」
「錯覚させるため……?」
ルドヴィコは意味もなく同じ言葉を繰り返した。
「そうだ。本物の大理石で作られた右腕をわざと置き忘れることによって、右腕以外の部分も、同じように大理石で作られていた。そう思いこませるのが犯人の目的だった」
「……では俺たちが見たあの彫像は……右腕の部分以外は、なにか違う材質で作られていたというのか。あれは純粋な石像ではなかったと?」
「あ」
呆然とつぶやくルドヴィコの横で、チェチリアが小さく声を漏らした。
「気づいたね、チェチリア」
レオナルドが微笑を浮かべた。チェチリアは静かにうなずいた。彼女は聡明な娘である。これまでの説明を聞いただけで、彼女にはおおよその事情が呑みこめたらしい。
「大理石で作られていたのでないとすれば、あの彫像はなんだったのだ?」
ルドヴィコは、困惑したまま問い返した。どう見てもあれは大理石の像だった。ブロンズや木材で作られた質感ではあり得ない。しかしレオナルドはあっさりと言った。
「決まっている。贋作だよ」
「……贋作だと」
「そうだ。ナポリ公邸の別館で彫像を見たとき、きみは直接、彫像そのものに触れてはいないのではないか、イル・モーロ? 彫像がほんとうに大理石で出来ていたと確認したか?」
「それは……」
ルドヴィコは息を呑む。もちろん、彫像に直接触れるような不躾な行動をした覚えはない。
それは、おそらくエンリケスも同様なのではないかと思われた。
それなりの教養を持った人間が、台座の上にのぼってまで、わざわざ彫像に手を触れようとするとは思えない。美術商の手によって運びこまれた彫像に、彼が直接触っていないとしても不思議ではない。なぜなら彼は美術の愛好家ではなく、ただの外交官に過ぎないからだ。
「待て、レオナルド……仮にあの彫像が贋作だったとして、材質が大理石でないということになにか意味があるのか?」
「もちろんだ。いいかい、今回の事件で唯一なにかしらの利益を上げた人間は、エンリケスとやらに彫像を売りつけた美術商だけだ。贋作の彫像を売りつけて、二万ドゥカートもの大金を手に入れた。だが、それだけでは十分でない。彫像が贋作であることがばれたら、不都合なことになるからだ。その前に彼らは彫像を消し去る必要があった」
「そう……犯人は、すでに手に入れた利益を護《まも》るために彫像を奪い去ったのですね。彫像そのものを手に入れたかったわけではなかった……」
チェチリアが穏やかな口調でつぶやいた。
ルドヴィコは、むっつりと考えこむ。自分だけがなにか大切なことを見落としているような気分になって、ひどく焦る。
「思うに、赴任してきたばかりのエンリケスが、すぐに貴重な彫像を見つけ出したというのは出来すぎている。おそらく彼はミラノに到着するずいぶん前から、この近辺の美術商に告知してあったのではないのかな。貴重な古美術品があれば高値で買い上げるということを」
そう言うと、レオナルドは醒めた目で微笑《わら》った。
「おかげで美術商たちには十分な時間があった。計画を練り上げ、贋作を作るための時間がね」
ああ、とチェチリアが大きくうなずく。
「師匠《マエストロ》、それでは……私があのときに見たものは……」
「ぼくも同じ意見だよ。おそらくね」
レオナルドはにやりと唇を吊り上げる。
「きみが見たものが、イル・モーロの見た彫像と同じでなければならない理由はないが、そう考えれば、誰がなんのために切り離された石像をミラノに持ちこもうとしたのか、説明できる」
「待て、レオナルド……俺にもわかるように説明しろ」
勝手に話を進める二人に、ルドヴィコはついに音《ね》を上げた。少し怒ったように言う。
チェチリアが、嫌味なく微笑んだ。
「ですから、私が船着場《ダルセナ》で見たあの荷物も同じなのです、閣下」
「同じ?」
「はい。私は、偶然、本物の石で作られた彫像の右腕を見てしまいました。そして、ほかにも同じような木箱があるのを見て、その中身も、やはり石で作られた彫像の一部だと思いこんでしまっていたのです」
「……違うのか?」
「はい。ほんとうは、ほかの木箱の中身が、同じ材質でなければならない理由はないのです。それは閣下がご覧になった彫像も同じことです」
ルドヴィコは、む、と唇を引き結ぶ。
レオナルドが、チェチリアの言葉を引き継いで言った。
「チェチリアが見たという木箱は、寸法や数量から考えても、間違いなく彫像の部品だろう。だが、部品の材質が純粋な大理石ではないとすれば、その役割がまったく変わってくる。切り離されていた各部を接ぎ合わせて、一つの彫刻を完成できる可能性が出てくるからだ」
「そうか……」
ルドヴィコはうなずいた。石像ではなくブロンズ像であれば、あとから溶接して継ぎ目を消し去ることができると、レオナルドが前に言っていたのを思い出したのだ。
どこか離れた場所で密かに鋳造したものであれば、最終的にそれを溶接して組み立てるのは、ミラノの市内に入ってからのほうがいい。そのほうが輸送が簡単だし、人目にもつかないからだ。
そう考えると、ばらばらに切り離されていた彫像が、厳重に梱包されていた理由もわかる。
「あとはそう難しいことはない。おそらく右腕以外の彫像の部品は、蝋で作られていたのだと思う。表面を、あたかも大理石で作ったように仕上げてね」
「そんなことができるのか……?」
「簡単さ。きみたちが目にする機会はあまりないだろうが、一般的なブロンズ像を鋳造する際には原型は蝋で作る。その技術を応用すればいい。長い期間、他人の目を欺くことは無理でも、数日間なら、表面の仕上げだけ工夫すればどうにかなる。本物の石で出来た右腕だけは、その重さを支える意匠を考える必要があるだろうが」
「そうか……たしかにあの像の右腕は、下に伸びる布の彫刻で支えるようになっていた」
ルドヴィコは低くうなった。
「蝋か……では、まさか、あの彫像は運び出されたのではなく……」
「そう。燃やしたんだ。運び出す必要なんて、なかった」
レオナルドは無表情のまま言った。
美術商は見張り役の兵士たちの目を盗んで、建物の中に忍びこんだのだ。火種だけを持って入ればいいのだから、それくらいのことは不可能ではない。最初に彫像を運びこんだときに、下見をする余裕は十分にあっただろう。あるいはナポリ公邸の使用人の誰かを買収したのかもしれない。
「蝋燭と違って、表面のすべてに火をつけることができるからね。いくら巨大な彫像でも、一晩とかからずに燃え尽きただろう。理想的な燃焼状態なら、蝋はほとんど煙を出さない。見張りの兵士たちも灯りを持っていただろうから、臭いにも気づかれなかったはずだ」
「たしかに……あの建物の正面は鉄製の扉で覆われていて、窓がない。建物の中で彫像が燃えていたとしても誰も気づかなかっただろう」
ルドヴィコはゆっくりと首を振る。
「これは、あとで確認すればいいことだが、彫像を載せていた台座の天板は、回転して裏表が入れ替わるようになっていると思う。あるいは天板を交換できるような仕掛けになっているか。そうすれば熔け落ちた蝋の跡や、熱が加わった痕跡を隠すことができるからね」
「右腕の部分は、火をつける前に取り外しておいたのだな……なるほど、石像の一部分だけが無傷で残って、ほかが燃え尽きてしまったとは、普通は考えないからな。それが美術商たちの狙いだったわけか……贋作者どもめ」
ルドヴィコは、むしろ感心してつぶやいた。
本職の外交官などよりもよほど駆け引きに長《た》けているではないか、と。
長い沈黙のあと、ルドヴィコは苦笑した。
レオナルドの工房にある窓は大きい。白い陽射しとともに、乾いた午後の風が吹きこんできている。
「贋作か……しかし実際たいしたものだな。精巧な贋作作りにかける贋作者の熱意は、並の芸術家以上なのではないか?」
「どうかな」
レオナルドは乾いた声で言った。
彼は、すでにルドヴィコの話に興味をなくして、自筆の手稿に視線を落としていた。
「その二つは似ているようでいて、ほんとうはまるで違う人種だ……単純に比較はできないが、人間が存在し、芸術が生き続ける限り、新たな贋作も同じように生まれ続けるのだろうな」
「そうか……」
ルドヴィコは再び沈黙した。
本物の芸術作品の数は限られており、それを求める人間の数はあまりにも多い。
出会うすべての作品の真贋を見分けることなど、とてもできるものではない。
自分の前にあるものが偽物ではないかと常に怯えつつ、それでも手を伸ばさずにいられない。人は、時には自ら騙されることを望んでいるように振る舞ってしまうこともある。
だが、ほんものの芸術作品によって与えられる感動だけは、まぎれもない人生の真実だ。
だからこそ、人は真の芸術に焦がれ、贋作をつかまされたときの落胆は深いのだろう。
「……芸術とは、まるで人の情のようなものなのですね」
まるでそんなルドヴィコの心の内を読みとったように、チェチリアが、ぽつりと漏らした。
「なるほどな」
ルドヴィコはつぶやいた。愛情、友情。そんな言葉を連想して、ふ、と思わず笑みが浮かぶ。
「……なるほど」
レオナルドも同じようにつぶやいた。その美貌に、悪戯《いたずら》を叱《しか》られた子どものような、ばつの悪そうな笑みが浮かぶ。不思議そうな表情を浮かべるチェチリアをちらりと見返して、彼は、のろのろと立ち上がった。仕方がないというふうに肩をすくめ、歩き出す。
「……イル・モーロ。せっかくの報酬だが、気が変わった。これはきみに返すことにしよう」
そう言ってレオナルドが手を伸ばしたのは、無造作に壁に立てかけられた粘土板だった。古代バビロニアの書簡を模倣した、例の粗末な贋作である。
「どういうつもりだ。返すと言われても、いくらの値打ちもないものなのだろう……?」
ルドヴィコは困惑して訊き返す。チェチリアはただにこやかに微笑んでいるだけだ。
レオナルドは、ふう、と深く嘆息した。
「せっかくの機会だ。きみにも美術品の真贋を見抜くコツを伝授してやろう。それさえ知っておけば、八割方は、ほぼ間違いなく美術品の真贋を言い当てることができるようになる」
「ほう。すごいな……どうすればいい?」
「なに、簡単なことだよ。世に出回っている美術品の八割方は贋作だ。だから美術品の真贋を当てようと思ったら、とりあえず贋作だと思っておけば間違いはない」
「……なんだ、それは」
ルドヴィコは絶句した。チェチリアは、くすくすと声を上げて笑い出す。
「待て、レオナルド……貴様、まさか先日の古美術品の目利きも、そのコツとやらに任せて判定したのではないだろうな」
「さあ……どうかな」
レオナルドは涼しげな顔で言う。
それから彼は粘土板を持ち上げ、木製の作業台の上に無造作に投げ落とした。ひび割れた粘土板の表面を見おろし、手近にあった木槌《きづち》で表面を何度も殴りつける。
「おい……なんの真似だ?」
ルドヴィコがあわてて立ち上がった。いくら贋作とはいえ、レオナルドの扱いは乱暴に過ぎた。一度は返すと言っておきながら、その行動は支離滅裂である。そのくせ彼の表情は冷静そのものだ。
「これが残るたった二割の、真の美術品を見つけ出すコツだよ、イル・モーロ。美術に対する深い理解を持って、表面に惑わされないことだ」
「なに?」
「古代バビロニアの書記は、重要な文書を扱うとき、粘土板に書いた文章の上に、もう一枚の粘土をかぶせ、そこにも同じ文章を記したそうだ。二重構造になっているんだよ。何者かが無断で文書を書き換えたり、輸送中に粘土板が破損したときに備えてね」
「二重……それでは、これは……」
ルドヴィコは、目を丸くして、気まぐれな芸術家の横顔を見つめた。
やがて砕け散った表面の粘土板の下から、新たな文字を刻んだ書簡が現れる。
それは、乾いた土の下に忘れ去られていた、古代の筆跡。真の美術品の姿だった。
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二つの鍵
とろりと粘性を帯びた液体の底で、うつろな瞳が虚空を見上げている。
燭台《しょくだい》の光が、天井に複雑な影を落とす。窓のない暗い部屋。血に濡れた石畳の床。ひんやりとした空気に混じって、強い油の臭いが鼻をつく。
地下室の端にある巨大な石棺には、なみなみとオリーブ・オイルが満たされて、その底に、無数の死体が沈んでいた。切り裂かれた死体。病院の解剖室である。
解剖台に載っていたのは、年老いた男性の死体だった。
大きく切り開かれた胸部から、醜く変色した臓器が露出している。
腐臭を放つその死体を、長身の男が見おろしていた。揺れる蝋燭《ろうそく》の炎が、端整な横顔を照らし出す。男が手にしているのは紙と金属筆だった。誰もいない深夜の解剖室で、男は、死体の姿を素描していたのだ。
紙面に描き出されたその描写は精確で、恐ろしいまでに緻密だった。血管の一本一本、筋肉のひだの一つ一つまでもが、冷酷な美しさとともに再現されている。
地下の静寂の中に、筆先が紙をなぞる音だけが響く。
硬直した死体と炎のゆらめき。ある種、悪魔的とも思えるその空間の中で、男の表情だけはきわめて理性的だった。
やがて素描は完成した。男が手にした紙の上には、肥大した男性の心臓の姿が、いくつもの説明とともに写し取られている。ため息とともに死体を石棺の中へと戻し、男は油にまみれた手を拭いた。
荷物をまとめ、燭台の炎を吹き消す。足音だけを残して地下室を出ると、窓の外には月に照らし出された巨大な聖堂が見えた。奇しくも病人に喩《たと》えられる、未完成のいびつな聖堂――ミラノ大聖堂である。
蒸し暑い夜だった。
一面の煉瓦《れんが》に覆われた赤褐色の街。点在するわずかな大理石の白が、青白い月光を映して闇の中に浮かんでいる。濡れたように輝く石造りの回廊を抜けて、男は病院の建物をあとにした。
そして、門を出たところで足を止めた。
「………」
建物の陰の薄暗がりから、すっと歩み出た人影があった。頭巾つきの外套《がいとう》を着た二人組だ。屈強な体格の大柄な従者と、それよりはいくらか小柄な主人という雰囲気である。
まるで男を待ちかまえていたかのように、彼らはゆっくりと近づいてくる。
従者は剣を帯びていた。その腕には、太い杖が握られている。
敵意があるのは明白だったが、強盗の類には見えなかった。彼らの身なりはそれなりに整っており、物腰も荒事に慣れている様子ではない。
「医学生……ではないな?」
男の前で足を止め、従者が低い声で訊いた。聞き覚えのない声だった。壮年の男性の声である。かすかにヴェネツィアあたりの訛《なま》りがある。
「そちらこそ何者だ……? 病院の関係者には見えないが」
落ち着いた声で男は問い返す。その声には、どこか気怠《けだる》い響きがあった。怯えているというわけではないが、やはり困惑の色は隠せない。
「誰に、頼まれた?」
従者が訊いた。その言葉に、男ははっきりと戸惑った。男が病院を訪れたのは、誰に頼まれたわけでもない。純粋に自らの探求心に突き動かされてのことだったからだ。
「……なんのことだ?」
「答えろ」
従者が杖を振り上げた。男の肩口を狙い澄ましての一撃である。
剣の心得があるのだろう。それは見事な抜き打ちだった。
しかし男は、それをかわした。まるで、従者の行動を前もって知っていたような動きだった。従者の表情に薄く動揺が浮かんだ。
「………」
男が取り落とした荷物を見て、従者はちらりと主人のほうを振り返った。指示を仰ぐ番犬の仕草に少し似ている。主人は頭巾の下でかすかに首を振った。構えていた杖を下ろし、従者が男に目礼した。
「どうやら我らの思い違いだった様子――失礼した。許されよ」
一方的にそれだけを言うと、二人組は素早くきびすを返した。振り返ることなく、闇の中の路地へと消えていく。彼らの後ろ姿を見送って、男は無言で肩をすくめた。
ため息をついて、散らばった紙束を拾い上げる。
そこに描かれていたものは、これまで誰も見たことのない、精密な人体の解剖図だった。
その場所は| 旧 宮 殿 《コルテ・ヴェッキア》と呼ばれている。
有名な鐘楼を持つサン・ゴッタルド教会。大聖堂《ドゥオモ》正面のレアーレ宮。その横に並ぶアルチベスコーヴィレ宮。この地区一帯のすべては、かつて百七十年間にわたってミラノを支配したヴィスコンティ家の住居であった。蝮《まむし》の紋章で知られたその一族が没落し、この都市の支配権をスフォルツァ家に明け渡して、すでに三十年余りが経っている。
現在の旧宮殿の住人は、その新たなミラノ公の宮廷に出入りする学者や技術者、そして芸術家たちだった。広大で豪奢《ごうしゃ》な旧宮殿の建物は、著述家や詩人たちが論じ合う場所として優れていたし、細工師や職人たちが工房を構えるのに十分な空間を提供することもできたからである。
それらの工房の中の一つをチェチリア・ガッレラーニが訪れたのは、その日、夜が明けて間もない早朝のことだった。
工房の主人は異郷人。同盟国フィレンツェの実質的な支配者、ロレンツォ| 豪 華 王 《イル・マニーフィコ》の使節である。
公式には音楽使節ということになる。彼は竪琴《リラ》をよく弾きこなし、自らも様々な楽器を考案していた。
しかし彼の才能は、音楽の分野だけにとどまらなかった。事実、彼は組合から自分の工房を持つことを許された| 画 家 《デイピントーレ》でもある。そして希代の軍事技師であり、建築家《アーキテットーレ》であり、彫刻家《スクルトーレ》でもあると自称する。さしたる実績も持たない彼を、ミラノ宰相はなぜか厚く信頼し、宮廷での催しに重用した。
有能だが気まぐれで審美眼に優れた宰相と、傲岸不遜《ごうがんふそん》で底知れぬ才能をたたえた芸術家。
結局のところ、彼らには、互いに通じるところがあったということなのかもしれない。
宰相の名はルドヴィコ・スフォルツァ。
そして異郷人の芸術家は、レオナルド・ディ・セル・ピエーロ・ダ・ヴィンチ――という。
「師匠《マエストロ》」
工房内に徒弟たちの姿はなかった。
チェチリアは石造りの階段を上って、芸術家の住居へと向かう。
積み上げられた書物。卓上に散らばる羊皮紙と金属筆。建物の中は雑然としている。
その男は、亜麻仁油の臭いが漂う部屋の奥、大きな窓のある壁際で、ゆっくりと彼女を振り返るところだった。朝の陽射しに長い金髪が透ける。長身の美しい男である。
逆光に照らし出された彼の姿は、それ自体が神話の彫刻を見ているようだった。
「こちらでしたか、師匠《マエストロ》」
微笑むチェチリアを見おろして、その彫刻のような男は、薄く苦笑に似た表情を浮かべた。
女嫌いという噂に違《たが》わず、彼が自分の工房に女性を招き入れることは滅多にない。ほぼ唯一の例外がチェチリアだった。彼、レオナルドが音楽使節としてミラノを訪れた際に、誰よりも早くその才能を見抜き、宰相ルドヴィコに彼の登用を薦めたのが、ほかならぬ彼女だったのだ。
そしてレオナルドが、画家としてミラノの宮廷に己の名を知らしめるきっかけとなったのも、彼が描いたチェチリアの美しい肖像画であった。
その見返りというわけではないのだろうが、彼女が工房に出入りすることを、レオナルドは渋々と認めている。もともとチェチリアは彼に竪琴《リラ》を師事していたのだが、最近では特に用もなく立ち寄ることのほうが多かった。そして、そんなときのチェチリアは、たいてい面倒な相談事を抱えていた。レオナルドが苦笑を浮かべたのも、そのことについて、なにか予感めいたものを感じたからなのだろう。
「やあ、チェチリア。恐いな、朝早くからそんなにあわてて押しかけてこられると。またどこぞの信心会あたりが、作業の督促に来たのかと思ってしまったよ――」
皮肉っぽい口調で彼はつぶやいた。言葉とは裏腹に、チェチリアの突然の訪問にも驚いている様子はない。チェチリアは軽くため息をついた。
「なにを呑気な……師匠《マエストロ》が暴漢に襲われたという噂を聞いたので、あわてて駆けつけてきたのですよ。お怪我はなかったのですか」
「早耳だな。まだ一昨日のことなのに」
レオナルドが感心したように眉を上げた。チェチリアは首を振り、
「それだけ噂が広まっているのです。毎夜、病院の死体置き場に忍びこんで、その姿を写生している者がいると……それは師匠《マエストロ》のことではないのですか?」
「かもしれないね」レオナルドは少し愉快そうに笑った。「忍びこんでいるわけではなくて、きちんと医師たちには話を通してあるし、毎夜ではなくて、面白そうな死体が出たときにしか病院には顔を出さないけれど」
「同じことです」チェチリアも苦笑する。「教会の許可もとらずにそんなことをしていると、そのうち審問会議にかけられてしまいますよ」
「わかっているさ。だから、手早く終わらせたつもりだったのだけどね――一昨日の邪魔者のせいで、せっかくの素描が台無しになってしまったのだよ」
彼はいかにも無念そうにつぶやいた。
「邪魔者……医学生か修道士のような方たちですか?」
チェチリアは眉をひそめて訊く。
最近でこそ一部の大学で医学的な解剖実験が行われるようになってはいたが、解剖に対する人々の嫌悪感にはいまだに根の深いものがある。
夜な夜な解剖室に出かけて、死体の姿を描く芸術家が、世間の目に不気味な人物として映るのは間違いないだろう。血の気の多い若い医学生や修道士の中に、そのような不届き者を制裁しようと考える連中が現れても不思議ではない。
しかしレオナルドは、たいして気にした様子もなく首を振った。
「どちらかといえば、軍人くずれといった雰囲気だったよ。たぶん商館あたりの護衛だろうね。本人は、ぼくを襲ったのは人違いだったというふうなことを言っていたが」
「……人違い? 師匠《マエストロ》のほかにも、病院の解剖室に通うような人がいるということですか?」
驚いてチェチリアは目を瞬《しばたた》く。レオナルドは愉快そうに唇の端を吊り上げて笑った。
「もしそうなら、ぜひ会って話をしたいものだね。その人物が、解剖図の作成に足るだけの描写力を備えていればなお素晴らしいが」
「………」
残念ですがそれはないでしょう、とチェチリアは心の中でつぶやいた。
工房の机の上に無造作に広げられている臓器の素描は、医学の知識を持たない彼女の目から見ても、見事としかいいようのないものだった。立体的で精密で、しかも美しい。
解剖室の腐臭と恐怖に耐えて、これほどの解剖図を残せる者は、おそらくこの地上に彼一人だけだろう。この天才的な芸術家の目には、美しい山野の景色も、不気味な人体の内側も、すべて等しく描き出すべき自然の一部として映るらしかった。
「ですが、そのような暴漢に襲われて、師匠《マエストロ》はよくご無事でしたね?」
チェチリアが尋ねると、レオナルドは心外そうに首を振った。
「無事ではないよ。荷物を落として、素描を破いてしまった。書き直すのに骨が折れたよ」
「ですが怪我はなかったのでしょう?」
「いくら軍人くずれでも、つまるところ人間の動きというのは骨格と筋肉の働きだからね……人体の構造がわかっていれば、相手の動きを読むのはそう難しくないよ。それよりも、彼らがぼくを誰と間違えて、なんのために襲ったのか。そちらのほうが難問だし、気になるね」
「そうですか……」
チェチリアはくすっと小さく笑った。
気まぐれな彼にとっては結局のところ、絵画の技法も、人体の構造も、様々な機械や発明も、探求すべき対象の一つでしかないのだ。
面白いと感じるうちは驚くべき集中力でそれを突き詰めていくが、新たな興味の対象を見つけたら、ほかのすべてを投げ出してその探求に没頭するのに違いない。彼には自分の好奇心だけがすべてなのだ。
おそらく法王の権威をもってしても、彼に望まぬ作業を強制することはできないだろう。
だからといって、彼に自分の頼みを聞いてもらうことが、難しいということではない。要は彼に、魅力的な謎を提示することができればいいのだから。
「実はわたくし、もっと気になる問題に頭を痛めているんです――そのことで師匠《マエストロ》にご相談があるのですけれど」
そう言って、チェチリアはにこやかに微笑む。
そして苦笑する芸術家に、彼女はそれを語り始めたのだった。
ロンバルディア地方の中心地ミラノは、商人たちがイタリアで初めて、今でいうところの会社組織を作った街として知られている。一一五九年のことである。
他のイタリアの都市と同様に、ミラノには多くの職人、兵士、そして聖職者たちがあふれていたが、この街はなによりも交易の中心地であった。彼らはヨーロッパのあらゆる市場へと進出し、多くの成功を収めた。今日でもロンドンのシティには『|ロンバルディア人の通り《ロンバード・ストリート》』という名の道が残されている。商才に長《た》け、しかも信用がおけるというミラノ商人の評判こそが、市民の誇りだった。ミラノは商人の都市なのだ。
ファブリツィオ・マシーニも、そんなミラノ商人の一人だった。
運河の船着場《ダルセナ》沿いに大きな商館を構えており、国外にもいくつかの拠点を持っているという。商売の内容は堅実で、派手に儲かることはないが、着実に利益を上げるという種類の商人だったようだ。
ファブリツィオは高齢だったが、後継者には恵まれていた。成人した四人の息子と一人の娘。彼らはファブリツィオの商才を受け継いで、真面目に家業を手伝っていた。
だが、そのことが彼に悲劇を招くことになる。彼は後継者に恵まれすぎたのだ。
「――そもそもの始まりは、半年ほど前、ファブリツィオ翁《おう》が遺言書を用意したことでした」
チェチリアの説明に、レオナルドは黙ってうなずいた。
高齢になった商館の主人が遺言書を用意するのは、特に意外なことではない。むしろ自然な流れだといえる。
「ですが、その遺言書は少し変わったものでした。商館の経営はこれまでどおり――ただし、ファブリツィオの個人的な財産は、相続人を一人指名して、その者にすべてを譲り渡す、と」
「……なるほど。商人らしい発想だな」
彼は淡々とつぶやいた。商売をするには元手がいる。そのための資金は分割せずにまとめておいたほうがなにかと有利だ。そしてなにより兄弟に資産を分配することで、商館が分裂することをファブリツィオは恐れたのだ。
「ただし、その相続人が誰になるのかということは、最後まで明かされませんでした。それは遺言書に記載されているということでしたので」
「ふん……問題がないとは言わないが、まあ、それも一つの方法だろう」
「はい。後継者同士の無用の争いを避けるため、というのが表向きの理由でしたが、本音は、せめて自分が生きているうちは兄弟同士が争う姿を見たくない、というところだったようです」
「……詳しいのだな、チェチリア」
訝《いぶか》しげな顔でレオナルドが訊いた。チェチリアは微笑んで、
「わたくしの幼なじみに聞きました」
「幼なじみ?」
「ガブリエッラといいます。ガブリエッラ・カテーナ。ファブリツィオ翁の……愛人です」
「なるほど」
レオナルドはほとんど表情も動かさずにうなずいた。
「そこまでわかっているのならいいじゃないか。なにが問題なんだ?」
「そのファブリツィオ翁が殺されました。五日ほど前のことになります」
チェチリアはわずかに声を低くした。それでもレオナルドは表情を変えない。
「殺された?」
「はい。郊外にある彼の屋敷で。犯人の姿を見た者はおりません」
「遺言書は?」
「持ち去られました。おそらく犯人に」
「ならば仕方ない。ファブリツィオには気の毒だが、法で規定されたとおりに遺産を分配するのだな。子どもたちも、それなら異存はないだろう」
「それがそうではないのですよ」
チェチリアが首を振ると、レオナルドはつまらなそうに鼻を鳴らした。
「ファブリツィオを殺したのは、相続人の中の誰かだった、ということか」
「はい」
「……順を追って説明してくれないか?」
それまで退屈そうにしていたレオナルドが、姿勢を正して向き直る。どうやら少しは、彼の興味を惹くことに成功したらしい。
「ファブリツィオ翁が恐れたのは、誰かが自分の知らないうちに遺言書を書き換えてしまうことでした。ですが、彼の遺言の性質上、遺言書は自分の手元に置いておかなければなりません。途中で気が変わって、相続人の名前を書き換えることがないとも限りませんから――そこで、彼は職人を呼んで、ひとつの小箱を用意させました」
「小箱?」
「はい。遺言書を保管するための箱です。頑丈な錠前がついています」
「わざわざ新しく作らせたのか。商人なら書類を収めるための金庫ぐらい持っているだろうに」
「そうですね。ですが、その箱は特殊なのです。最初に申し上げた『変わった遺言書』というのは、その箱を含めての言葉です。正確には、変わっているのはその鍵ですね。二種類の鍵を使います」
「錠前が二種類ついている、というようなことではなくて?」
「違います。鍵穴は一つきりなのですけれど、二種類の鍵が必要なのです。ファブリツィオ翁はそれぞれ、金の鍵、銀の鍵と呼んでいました。もちろん実際に金や銀でできているわけではありませんが。実物はどちらも鉄製です」
そう言ってチェチリアは微笑んでみせた。純粋な金や銀は柔らかい金属だ。そんなもので鍵を作ったら、すぐに歪んで本来の役に立たなくなってしまうだろう。
レオナルドは黙って彼女に続きを促した。
「この箱は、金の鍵で施錠したときには、銀の鍵でしか開けられません。逆に、銀の鍵で施錠したときには、金の鍵でしか開けられないという仕組みになっています。金の鍵は一本、銀の鍵は三本が作られて、それぞれ三人の息子たちに渡されました。金の鍵はファブリツィオ翁が保管しており、どこにあるのかは誰も知りません」
「……三人? ファブリツィオの息子たちは四人いたのではなかったのか?」
レオナルドが、チェチリアの言葉を遮って訊き返す。
「四人です。ですが一人は正妻の子ではなく、昔の愛人に生ませた庶子《しょし》なのです。正式に認知されてはいますが、遺産の相続権はありません。もちろん遺言で特に指定されれば別ですが」
「……なるほど。しかし現時点で鍵を受け取ったのは、正妻の子である三人だけだったというわけだ」
「そうなります。ファブリツィオ翁は後継者全員の前で遺言書を箱に入れ、その箱を金の鍵で施錠しました。三人の息子に渡した三つの銀の鍵はすべて同じものなので、そのうちの誰かが鍵を壊したり、なくしたりしても、問題なく箱を開けることができます」
銀の鍵が三本用意されていたのは、単に兄弟に公平感を与えるためだけではなく、非常時の予備という意味合いがあるのだろうとチェチリアは思っていた。金の鍵は一本しかないが、これは箱を封印するためだけに使われるものだから、施錠後に失われても問題ない。
困るとすれば遺言書を書き換えたくなったときだろうが、その場合は、翁がまだ生きているということなのだから、無理に開かない箱にこだわる必要はないのだ。箱などなくても普通に遺言書を書き直せば済むことだし、あるいは箱ごと作り直してもいい。
「ただし、翁は一つだけ条件をつけました。箱を開けることができるのは、翁の死後、相続人候補全員と公証人がそろったときだけ――それ以外の状況で、翁以外の人間が箱を開けた場合には、箱の中の遺言書は無効として、財産のすべてはガブリエッラに相続させる、という内容です」
「……ガブリエッラ? きみの幼なじみだという彼の愛人か?」
「はい。その条件は、どちらかといえば、息子たちに対する、脅し[#「脅し」に傍点]のようなものだと思います。相続に関して不正な行為はするな、という意味の」
少なくとも、翁が彼女のことを愛していたからというだけの理由ではないだろう。とはいえ、最悪の場合、自分の遺産のすべてを譲ってもいいと思う程度には、翁もガブリエッラのことを気に入っていたということだ。
「なるほど。考えたものだな。息子たちは銀の鍵で、いつでも自由に箱を開けることができる。だが箱を開けた時点で、彼らは相続の権利を失うというわけだ」
めずらしく感嘆したようにレオナルドが言った。
もしも彼らが自分の鍵で箱を再び施錠したとしても、誰かが箱を一度開けたという事実は、相続のときに必ず暴かれる。銀の鍵で閉めた箱を、銀の鍵で開けることはできないからだ。
「翁は時折、自分の鍵を使って、箱が開かないことを確認していたそうです。もし、金の鍵で箱が開くようなことがあれば、それは誰かがこっそり忍びこんで、銀の鍵で箱を開けたということになりますから」
「彼は賢明だな。そのために二種類の鍵を用意したわけか。その条件というのも、正式な遺言の一部として認められたのかな?」
「そのようですね。箱の表面に、二種類の鍵と遺言との関係も含めて説明が刻みこんであるということでしたから。それと同じ文章が遺言書にも書かれて、これは公証人の証印も受けているそうです。翁も商人ですから、そのあたりの手続きに不備はないでしょう」
「しかし、そのファブリツィオは殺されてしまった……」
「はい」
チェチリアはわずかに目を伏せた。マシーニ家とガッレラーニ家には交流があり、彼女自身、ファブリツィオとは面識がある。特にガブリエッラが老商人の愛人になってからは、彼の噂を耳にすることも多かった。
交易をしていた以上は、敵がいなかったとまではいえないが、少なくともファブリツィオは相手を陥れて暴利をむさぼる種類の商人ではなかった。商館の実務はすでに息子たちに譲っており、本人は屋敷にこもって楽隠居同然の生活を送っていたらしい。
性格は穏和で、陽気な男だったという。誰かに殺されるほどの恨みをかっていたとは思えない、というのがガブリエッラの証言だ。
「ファブリツィオ翁が殺されたのは、五日前の夜でした。その日はガブリエッラも外泊して、屋敷にいたのは翁と、年寄りの使用人夫婦だけだったそうです。翌朝、使用人の妻が翁の寝室をのぞいて初めて、彼が殺されていることがわかりました」
「夜のうちに来客があった、ということだね……五日前か。たしか明け方近くに雨が降ったな」
「そうです。ぬかるんだ道に馬車の轍《わだち》が一輛《いちりょう》ぶんだけ残っていました。馭者を含めて二人しか乗れない型のものですが、マシーニ家の商館では同じ馬車を十輛以上も所有していて、その日、相続人候補の全員がそれを利用することができたとか――」
「……状況から察するに、ガブリエッラを含めた遺産の相続人候補以外に、ファブリツィオを殺すことができた者はいない、と受け取っていいのかな?」
「そうなりますね。使用人夫婦と顔を合わせずに翁の部屋にまで入れたのは、屋敷の鍵を持っていた、彼ら六人だけですから」
「しかし……遺言書が持ち去られていたのだろう?」
レオナルドが目つきを鋭くして言った。思考するときの彼の癖である。
「はい。遺言書を収めた箱ごとです」
「ファブリツィオが持っていたという鍵は?」
「いえ。それが金の鍵も見つかっていないのです。ガブリエッラは、おそらく鍵も箱と一緒に、屋敷の外に持ち出されたのではないかと考えているようでした」
「……老商人が殺されて、彼の遺言書を収めていた箱と鍵が消えたのか――なるほど。きみがこの相談事をぼくのところに持ちこんだ理由がわかったよ」
長く息を吐き出して、レオナルドは苦笑した。チェチリアは目を輝かせる。
「師匠《マエストロ》……それでは」
「ああ、鍵をかけると錠前の内部の構造が変わって、対になる鍵でないと開かなくなるわけか。理屈はわかるが、その箱とやら、実物を一度見てみたいな」
レオナルドは淡々とつぶやいた。独りごとのような口調だが、彼は、ファブリツィオの箱を見に行くと言っているのだ。つまり犯人を捜しあてるつもりなのである。
チェチリアはふっと安堵《あんど》の表情を浮かべた。彼のその言葉こそが、彼女の望みだったのだ。そう、この奇矯な芸術家に頼み事をするのは、決して難しいことではない。
「それでは参りましょう、師匠《マエストロ》。実はもう、表に馬車を待たせてありますので」
チェチリアは、花のように優雅な微笑みをたたえてそう言った。
イタリアの自治都市における行政官の多くは、他都市出身の騎士身分で、法学を専攻した者が選ばれることが多かった。公正を期するためである。任期も短く限られており、任期終了後には厳しい監査を受けることになっている。やや形骸化《けいがいか》してはいるものの、スフォルツァ家の事実上の独裁下にあるミラノの警察機関でも、その制度は生きていた。
ファブリツィオの屋敷には、今もまだ多くの刑事官が残っている。
殺されたのが裕福な商館の主人ということもあって、刑事官たちもこの事件にはずいぶん力を入れているらしい。これだけの大きな事件が解決できないとなると、行政官としての能力が疑われることになるからだろう。
「――ファブリツィオ翁が殺された部屋を見せて欲しいのですが」
馬車を降りたチェチリアは、刑事官たちの長《おさ》らしき人物を呼び止めてそう言った。
初めは胡乱《うろん》な目つきで彼女を睨《にら》み返したその男も、チェチリアが自分の素性を明かし、ミラノ公名義の紹介状を手渡すと態度を一変させた。ミラノの重臣ファツィオ・ガッレラーニの遺児という以外にチェチリアにはなんの肩書きもないが、彼女が、宰相ルドヴィコを動かし得る唯一の人間であるという事実は、宮廷に出入りする者なら誰もが知っていることだった。
屋敷は、チェチリアが想像していたよりもずいぶん小さかった。決して粗末というわけではないが、華美な装飾などは一切省かれており、その潔さがむしろ新鮮に思える。
ファブリツィオの居室には、異国の工芸品が多く飾られている。燭台や彫刻、細工物の類だ。
特別に高価な材料を使っているとは思えなかったが、様々な意匠が凝らしてあって興味深い。どうやらそれらを収集することが、老商人の娯楽だったらしい。
棚にはそれらが隙間なく整然と並んで、持ち去られたものがあったとは考えにくい。机には商売がらみの書類なども積まれていたが、それらが荒らされた気配もなかった。金品めあての強盗の仕業ではないのが、そのことからもよくわかる。
敷物の上に点々と飛び散った血痕だけが、この部屋で起きた惨劇の記憶を留めていた。
傍らのレオナルドを見上げても、彼は無言だ。しばらく部屋の中央で立ち尽くしていると、誰かが彼女の名前を呼んだ。
「――チェチリア!」
振り返ると、黒ずくめの衣装を着た若い娘が小走りに近づいてくるのが見えた。ふっくらと丸みを帯びた顔立ちの、赤毛の娘である。彼女がガブリエッラ・カテーナだった。
「ああ……チェチリア。よかった。ほんとうに来てくれたのね。では、こちらの方が――」
「ええ。師匠《マエストロ》レオナルド・ダ・ヴィンチよ。師匠《マエストロ》、彼女がガブリエッラです」
チェチリアは二人を互いに引き合わせる。愛人である老商人が殺されて、ずいぶん心細かったのだろう。チェチリアたちを見るガブリエッラの表情には、安堵の気配が滲んでいる。
一方のレオナルドは素っ気ない。
「ずいぶんとお若いのですね。驚きました」
ぶしつけな彼の言葉に、ガブリエッラは恥じらうように目を伏せた。彼女とチェチリアの年齢はほぼ同じ――ようやく十七、八といったところである。ファブリツィオと彼女では、実の親子よりも歳が離れていただろう。
「ちょうどよかった、ガブリエッラ――つらいと思うけれど、翁がどうやって殺されていたのか、もう一度わたくしたちにも教えてはもらえないかしら」
赤毛の娘の手を握って、チェチリアは訊いた。
「……大丈夫よ、チェチリア。ええ、わたくしが屋敷に戻ってきたとき、あの方はまだ、この部屋の床に倒れていたわ。普段の部屋着のままでした」声を絞り出すようにして、娘が言う。
「死因は?」レオナルドは無表情に彼女を見た。
「頭が……何度も硬いもので殴られたように血まみれで……それから、喉を裂かれていました」
「喉を?」チェチリアが驚いて訊き返す。それは彼女も初めて聞く内容だった。
「そう……刃物で縦に裂いたような傷だったわ。最初は、なにがどうなっているのかよくわからなかったけど」
ガブリエッラの声がかすかに震えた。そのときの光景を思い出していたのかもしれない。
「……それにしては出血の量が少ないな」
レオナルドが、部屋を見回して淡々とつぶやいた。
「師匠《マエストロ》……」
チェチリアはやんわりと彼をたしなめる。
「いえ、アレッシオも同じことを言っていました。おそらく、あの人が動かなくなるまで殴りつけたあとで、確実に絶命させるために喉を裂いたのだろうと」
ガブリエッラは気丈な態度でそう答えた。
すでに心臓が止まっていれば、たとえ太い血管を裂いても血が噴き出すようなことはない。その程度の知識はチェチリアも持っていた。
「アレッシオというのは?」レオナルドが質問する。
「あの人の……ファブリツィオ様の息子の一人です。今もこの屋敷に残っていますので、会って話をすることはできると思います」
「息子ということは、彼も銀の鍵の所有者なのかな?」
「いえ……彼の母君は、ファブリツィオ様の亡くなられた奥方ではありませんでしたので……」
遠回しな表現で、ガブリエッラは言った。ファブリツィオが愛人に生ませた子というのが、そのアレッシオのことだったらしい。
「遺言書が入っていた箱というのは?」
「はい。こちらに……」
ガブリエッラは、部屋の隅にある小さな台のほうへと歩いていった。ちょうど彼女の腰ぐらいまでの高さの脇机である。天板に残った日焼けの跡から、箱のだいたいの大きさがわかった。大人なら楽に一人で抱え上げられる程度のものだ。
「箱はこの上にいつも置かれていました。飾り気のないただの青銅《ブロンズ》の箱でしたけど、遺跡から発掘した宝箱のように見えると、ファブリツィオ様は気に入ってましたので」
「……青銅製か。けっこうな重さになるな」
レオナルドは脇机を見おろしてつぶやいた。ガブリエッラが同意する。
「動かせないほどではないのですが、気軽に持ち運べない重さだったのはたしかです」
「だろうね。そうでなければ、遺言書を保管する役には立たない。ところで、金の鍵も持ち去られているというのはほんとうなのかな?」
「いえ……あの人が金の鍵を保管していた場所を誰も知らないので、正確には、持ち去られたのかどうかはわかりません。ですが、この部屋は刑事官の手で徹底的に調べられていますから、それでも見つからないということは、やはり誰かが持ち去ったとしか――」
「あなたも鍵の在処《ありか》を知らなかったの?」
チェチリアは、真顔で幼なじみを見つめた。
「ええ、そうよ。たぶん、この部屋にある置物のどれかに隠していたのだろうとは思うけれど、この数では、そう簡単に見つかるとも思えないし、わたくしが鍵を捜す理由もないし」
ガブリエッラは苦笑混じりにそう言った。
たしかに彼女の言うとおり、ガブリエッラが鍵を捜さなければならない理由はどこにもなかった。ファブリツィオが施錠した遺言書の箱は、金の鍵では開かないのだ。鍵を手に入れてもまったく使い道がない。
「彼が殺された日、あなたはどこにいたのかと刑事官に質問されませんでしたか?」
冷たく微笑して、レオナルドが訊いた。
「はい。もう嫌になるほど」ガブリエッラは弱々しく笑った。「たしかにわたくしはあの日、ミラノ市内の知人を訪ねてましたけど、わたくしがこの屋敷にいないのは、めずらしいことではないのですよ。市内にはわたくしの生家もありますし、この屋敷に泊まるのは、せいぜい週の半分ほどです」
「そうだったの?」
チェチリアは思わず訊き返した。それは少し意外な気がした。
「正妻でもないわたくしが屋敷に居座っていたら、ほかの人たちが気兼ねするでしょう」
赤毛の娘は苦笑する。ほかの人たちというのは、ファブリツィオの実子たちのことをいっているのだろうと、チェチリアは思った。マシーニ家の兄弟は、末弟でさえガブリエッラよりも年上なのである。
「もし誰かが勝手に箱を開けたら、ファブリツィオの遺産はすべてあなたに譲り渡されることになっていたそうですね?」敷物の上に屈みこみ、血の跡を確かめながらレオナルドが訊いた。「そのことについてはどう思いましたか?」
「そうですね……正直に言えば、あまりいい気分ではありませんでした。だって、そのような形で遺産を手に入れても気持ちのいいものではありませんし、あの人の子どもたちの恨みを買うことはわかりきっていますから」
ガブリエッラは深々とため息をつく。彼女の目の下にはうっすらと隈《くま》が浮いていて、まるで泣き疲れた余韻のようだとチェチリアは思った。
乱暴な足音が響いてきた。
刑事官たちへの不平不満をまくしたてながら、誰かが早足で近づいてくる。それが女性の声だと気づいたときには、声の主は、もうチェチリアたちの前に姿を現していた。
高価そうな肩掛けをまとった、ほっそりと背の高い女だった。険のある顔立ちだが、美人といっても差し支えないだろう。年齢は三十前後。明らかにガブリエッラよりも年上である。
「ダニエーラ……」
少し怯えたような声音で、ガブリエッラがつぶやいた。
名前を呼ばれた美女は立ち止まり、不機嫌そうな目つきでチェチリアたちを見回した。ダニエーラ・マシーニ――ファブリツィオの長女である。一時は遠方の富豪の家に嫁いだが、夫と死に別れ、数年前にマシーニ家に戻ってきたのだと聞いていた。
「気安くわたくしの名前を呼ばないでいただきたいわ、ガブリエッラ。あなた、まだこの屋敷にいらしたの?」
辛辣な口調でダニエーラが言い放つ。
彼女にしてみれば、父親が実の娘の自分よりも年若い女を愛人として囲っていたことは、耐え難い屈辱だったのだろう。ガブリエッラを見る彼女の視線は冷ややかだった。
「――ところで、この方たちは?」
ちらりとチェチリアを見て、ダニエーラが訊く。言いよどむガブリエッラにかわって、チェチリアは静かに一歩前に歩み出た。このような悪意のある相手に対応するやり方は、ここ数年の宮廷暮らしですっかり身についていた。慣れた仕草で一礼する。
「チェチリア・ガッレラーニです、ダニエーラ様。今日は友人のガブリエッラを励ますために、厚かましく参上いたしました。こちらは師匠《マエストロ》レオナルド・ダ・ヴィンチです」
非の打ちどころのない笑みを浮かべてみせる彼女に、ダニエーラは気圧《けお》されたような曖昧な表情でうなずいた。
「師匠《マエストロ》……ええ、お噂は存じていますわよ。それに、そう……あなたがルドヴィコ閣下の……」
ダニエーラが言いかけてやめた言葉はおそらく、ルドヴィコ閣下の愛妾《あいしょう》、というようなことだろう。なんの後ろ盾もなく宮廷に出入りする彼女のことを、世間の人々がそのように噂しているのをチェチリアはよく知っていた。
「せっかく高名な師匠《マエストロ》に来ていただいたのに残念ですが、この屋敷はご覧のとおりの有様で、とてもおもてなしができる状態ではありませんの。ご無礼をお許しくださいませ」
気分を取り直したように美貌の芸術家を見上げ、ダニエーラが謝罪した。レオナルドは悠然と微笑んで口を開く。
「いえ、我々のほうこそ、このようなときに押しかけて申し訳ありません。ところで、失礼ついでにいくつかお聞きしたいことがあるのですが、よろしいですか?」
「わたくしに? ええ……どうぞ?」
「お尋ねしたいのは、遺言書のことです――あなたは、ファブリツィオ殿の遺言書を収めた箱のことをご存じでしたね?」
「ええ、もちろん」ダニエーラは馬鹿馬鹿しいというふうに首を振った。「わたくしもいちおうは相続人候補の一人でしたからね」
「その遺言書について、どう思いましたか?」
「くだらないことを始めたものだと思いましたわ……いえ、相続人を一人に絞るということに不満があるわけではないのですよ。せっかくの資産を、わざわざ分割して目減りさせる理由はありませんからね。わたくしが言っているのは、そこにいる父の妾《めかけ》のことですわ」
「――誰かが勝手に遺言書を見た場合、すべての相続権をガブリエッラ嬢に譲る、という文言《もんごん》のことですね?」
「ええ。だって誰が考えてもおかしいでしょう」
ダニエーラは、嘲笑《ちょうしょう》するように短く息を吐いた。
「いくら父個人の財産とはいえ、血もつながっていないただの愛人に相続させるなんて。約束を破った罰則にしても不合理に過ぎますわ、ねえ?」
同意を求めるようなダニエーラの視線を無視して、芸術家は続けた。
「では、遺言が適正に執行された場合、相続人として選ばれるのは誰だと思いますか?」
「ずいぶん俗なことに興味をお持ちですのね」
ダニエーラは喉を鳴らして笑った。
「そうですね……個人的な感情を抜きにして言えば、わたくしを含めた全員に相続の可能性はあったと思いますわ。もちろん、わたくしやガブリエッラの場合は女ですから、相続するのは財産そのものではなくて、用益権ということになるのでしょうけど」
妻や娘に対して財産そのものではなく、その用益権を与えるというやり方は、当時では一般的な相続の方法だった。その後、妻や娘が他家に嫁いだ場合には、その権利は消滅する。財産そのものの移動がないので、相続によって家が廃《すた》れる危険が少ないのだ。
「……庶子であるアレッシオ殿にも相続の可能性があった?」
「ええ。妾腹《しょうふく》とはいえ彼は有能だし、人望もありますからね。商館の経営は、実質的に嫡子《ちゃくし》の三人が継いでいますから、せめて自分の個人的な財産ぐらいはアレッシオに遺《のこ》してやりたいと父が思ったとしても、不思議ではありません。ほかの兄弟たちは不満でしょうけどね」
「ですが、実際にはアレッシオ殿には銀の鍵は渡されなかった」
「……よくご存じですのね、師匠《マエストロ》」
ダニエーラが含みのある笑顔を見せた。
「わたくしも鍵はもらっていません。ですが、それを不満に思ったことはありませんわ。どうせ持っていても自由に使えない鍵ですもの……それよりも、どうやら師匠《マエストロ》は、父の箱に興味がおありのご様子。でしたら、わたくしよりも彼女に、箱の行方を訊いてはいかがです?」
そう言って彼女が指さしたのは、ファブリツィオの愛人である赤毛の娘だった。思いがけない話の成り行きに、ガブリエッラは顔色を蒼白《そうはく》にして首を振った。
「どういうことです、ダニエーラ様? 遺言書の箱は、ファブリツィオ翁を殺した犯人が持ち去ったのではないのですか?」
チェチリアが驚いて口を挟む。ダニエーラは、冷笑めいた表情でガブリエッラを睨んでいる。
「ですから、その娘が父を殺したのだと言っているのです」
「――違います」ガブリエッラが悲痛な声で叫んだ。「違います。わたくしはそのような恐ろしいことはしておりません」
「ですが、あなたには父を殺す理由があるはずです」
「――ダニエーラ!」
「わたくしが知らないとでも思っていたのですか? あなたは父の愛人でありながら、エウスタキオとも密通していたではありませんか。大方そのことを父に知られて、争いになってしまったのでしょう」
「違います……わたくしではありません……」
ガブリエッラが力無く首を振った。エウスタキオとはファブリツィオの末子である。年齢は二十代のなかばで、ガブリエッラともあまり離れていない。老商人を殺したことについては、必死で否定するガブリエッラだが、密通の事実そのものを否《いな》もうとはしなかった。
もしもそれが真実なら、彼女とファブリツィオの間に諍《いさか》いが起きたことは十分に考えられる。刑事官たちもきっと同じことを考えるだろう。ダニエーラが勝ち誇ったような笑みを浮かべ、チェチリアは言葉を失った。
しかしレオナルドはその会話に興味を示さず、脇机の上に視線を落としている。
彼は、持ち去られた遺言書の箱の跡だけを、無言で見つめていたのだった。
興奮したガブリエッラに付き添って、チェチリアは別室を訪れた。もとは客間だったというその部屋を、ガブリエッラは寝室として使っていたのだという。
使用人に頼んで用意させた葡萄酒を飲ませると、彼女はようやく少し落ち着きを取り戻した。
ガブリエッラは酒が強くない。彼女が寝台で寝息を立てはじめるまで、それほど長い時間はかからなかった。
「………」
苦悶《くもん》するような顔で眠る幼なじみを見おろし、チェチリアは嘆息する。
どれほど必死で無実を主張しても、彼女にファブリツィオを殺す動機があったのは事実である。それはダニエーラの言うとおりだ。
だが、それだけでガブリエッラが犯人に決定されるわけではないとも思う。彼女が犯人だと決めつけるには、一つだけ不自然なことがあるのだ。それは、彼女がなにを目的として、遺言書の箱を持ち去ったのかということだ。
チェチリアは、客間を出てファブリツィオの居室に戻る。
レオナルドもまだその部屋に残っていた。部屋には彼のほかに、もう一人、見知らぬ男性がいた。二人は好意的に挨拶を交わしているようだった。
「初めまして、美しいお嬢さん。アレッシオ・マシーニです。お見知りおきを」
部屋に入ってきたチェチリアに気づいて、男は丁寧に挨拶した。
アレッシオ・マシーニ。ファブリツィオが、昔の愛人に生ませたという庶子である。想像していたよりも年嵩《としかさ》だ。ダニエーラよりも年上――三十四、五といったところだろう。
いわゆる美男子ではないが、よく陽灼けした健康的な顔立ちをしていた。年齢を感じさせない屈託のない笑顔に、チェチリアは好感を抱く。
「今、師匠《マエストロ》にご挨拶をしていたところなのですよ。私は以前、ヴェロッキオ工房時代に師匠《マエストロ》が手がけた作品をいくつか拝見したことがありますので」
「ヴェロッキオ工房? アレッシオ様はフィレンツェに行かれたことがあるのですね」
「ええ。私も商人ですからね。商品と買い手があれば、どこへでも参ります。ヴェネツィアでもフランスでもトルコでも」
誇らしげな口調でアレッシオは言った。言われてみれば、彼にはヴェネツィア地方の訛りがあった。彼だけでなく、屋敷の使用人たち全体にその傾向がある。海運国ヴェネツィアの商人と長年にわたって取引をしているうちに、言葉遣いがうつってしまったのだろう。
「ファブリツィオ翁が殺されたときのことは……」
「聞いています。残念でした。まさか、あの遺言書が原因でこのようなことになるとは思っていませんでしたから」
アレッシオは目を伏せ、辛そうな表情を浮かべた。チェチリアはかすかに眉を動かした。
「翁が殺されたのは、あの遺言書が原因だとアレッシオ様はお考えなのですか?」
「違うのですか?」アレッシオは不思議そうに首を傾げる。「父を殺害した犯人は、あの遺言書の箱を持ち去ったのでしょう?」
「そのようですね」
チェチリアは静かにうなずいた。彼が、老商人の末子と愛人との関係を知らないのであれば、それは彼女の口から語るべきことではない。
「私も何度か目にしていますが、あの箱は青銅製で価値のあるものではありませんし、気まぐれで持ち運べるような重さでもありません。犯人が箱を持ち去ったというのなら、それは必ず、中の遺言書が目あてだったはずです」
アレッシオは力強く言い切った。筋の通った説明だとチェチリアは思った。
「ですが、遺言書を持ち去ることで得をする者がいるのですか?」
「いないことはありません。父は、遺言で相続人を一人に絞ると宣言していたわけですから、選に漏れた者は面白くないでしょう。しかし、遺言書がなくなれば、遺産は法の規定どおりに分配されて、兄弟全員に分け与えられることになります」
「でも、それでは……」
「ええ。遺産を受け取れるのは、嫡出の兄弟だけ……それでもダニエーラは、自分の取り分があると信じているようですが、私やガブリエッラ嬢には関係のない話です」
「……アレッシオ殿はそれでも構わないのですか?」
「相手は法律ですからね。不満を言っても仕方がありません」
アレッシオは愉快そうに声を出して笑う。
「誤解して欲しくないのですが、私は、自分が妾腹の子であることを恥じてはいないのです。私の母は地位も教養もない人間でしたが、そんな彼女と私に、父はよくしてくれました。その意味で、私はすでに十分な財産を受け継いだつもりでいるのですよ」
「……ご立派です」
チェチリアは感嘆してつぶやいた。アレッシオは目尻に深いしわを寄せて笑い、
「こういうことを言うと負け惜しみに聞こえるのかもしれませんが、本心ですよ。父には商売のやり方も教えてもらいましたし、結婚のときにも祝福してもらいましたしね」
「……ご結婚?」思わず訊き返すと、
「ええ。半年ほど前にようやく」アレッシオは、はにかむように微笑んだ。大恋愛の末の結婚だったらしい。そのときにもファブリツィオの力添えがあったのだと、彼は言った。
「十分な財産はすでに受け継いでいると……ほかのご兄弟も同じようには思えなかったのでしょうか?」
ぽつりとつぶやくチェチリアに、アレッシオは首を振った。
「それは難しいでしょうね。バジリオとコルネリオ……二人の兄は、それぞれ国外の大きな商館を任されたばかりで、資金はいくらあっても足りないでしょうし、エウスタキオは、ここ数年かなりの損失を出していて、それを取り戻すための大きな取引を狙っているという評判です」
「――ダニエーラ様は?」
「彼女は……」アレッシオは小さく苦笑した。「ご存じのとおり自尊心の強い女性ですからね。ほかの兄弟の世話になりながら質素な生活を送るというようなことは、彼女の誇りが許さないでしょう」
「わかるような気がします」
チェチリアも微笑んだ。そのダニエーラは、アレッシオのことを、有能で人望があると評していた。彼女がそう言った理由がよくわかる。情報にも通じているし、人を見る目もある。人あたりがいいだけの陽気な男というわけではない。
「実際のところ、ファブリツィオ翁が相続人を選ぶとすれば、それは誰だと思いますか?」
チェチリアは思いきって訊いてみた。
「それは難しい質問ですね」
アレッシオは腕を組んで考えこむ。
「長兄バジリオは人付き合いがよくないし、次兄コルネリオは頭が固くて融通が利かない……父に似て商才があるのはエウスタキオですが、彼はまだ若い。無謀な取引に手を出して失敗することが多かった。父が財産を託すには、皆なにかが欠けているように思います」
「ご自分は? アレッシオ様は交易に向いているような気がしますが」
「ありがとう。そう言ってもらえるのは嬉しいのですが、私はやはり庶子ですからね」
彼は軽く笑い飛ばした。相続争いには興味がないという口調だった。
「その意味では、女に生まれたダニエーラも不憫《ふびん》です。母がわりとして、これまで兄弟をまとめてきたのは彼女ですからね……ガブリエッラ嬢は論外でしょう。彼女が相続人に選ばれて、ほかの者たちが黙っているはずがない。父としては彼女を選びたかったのかもしれませんが」
「結局、誰が選ばれてもおかしくない、ということですね」
「そうなります」
アレッシオがうなずいた。彼は知るよしもないことだが、それはダニエーラの考えとまったく同じ内容だった。
「さて、私はそろそろ失礼します。商館の仕事がまだ残っていますので……また、すぐに戻ってきますけどね。今夜は、兄弟で父の葬儀について話し合いをすることになっているので」
アレッシオが、陽の傾きを確かめるように窓の外を見る。薄曇りの空は、すでに午後の色に変わっていた。
「……父を殺したかもしれない人間と一緒に、そのような話をしなければならないというのも、なかなか厳しいことですが」
苦笑混じりに漏らした言葉は、彼の本音だろう。チェチリアは、彼を真顔で見上げた。
「アレッシオ様は、誰がファブリツィオ翁を殺したとお考えなのですか?」
「……なかなか答えにくいことを訊きますね」
アレッシオはゆっくりと首を振った。
「ですが、それは私にもわかりません。私も調べてみたのですが、我々の中に、あの日、この屋敷を訪れなかったと確実に言い切れる者はいない……裏を返せば、確実にこの屋敷にいたとわかっている者もいないわけです。普通に考えれば、遺言書を持ち去ることで得をする誰かが犯人なのでしょうが、逆にそうやって自分を容疑から外そうとしたのだと言われてしまえば、私としても反論できませんしね」
「遺産の相続は結局どうなるのでしょう?」
「わかりません……が、揉めるでしょうね」
アレッシオは初めて疲れたような微笑を浮かべた。そして、廊下へ控えていた従者を呼び、自分の馬車の手配をするように伝えた。
部屋を出て行く直前、彼はレオナルドのほうを見て、少し不思議そうな表情を浮かべた。
美貌の芸術家は、チェチリアたちの会話にほとんど注意を払わず、部屋の中を黙々と歩き回っていたからだ。時折、屈みこんで床に手を触れたり、展示されている細工物を持ち上げてみたりと、落ち着きのない動きを繰り返している。
アレッシオは愉快そうに目を細めて、チェチリアに別れの挨拶をする。出て行く彼の背中を、チェチリアはため息をつきながら見送った。
ファブリツィオの子どもたちは、商館の付近にそれぞれ自宅を構えている。彼らが父の屋敷を訪れるのは、急ぎの決裁業務があるときにほぼ限られていた。
ただし仕事の性質上、彼らの訪問は深夜になることもあったという。そのため彼らにはそれぞれ屋敷の鍵が与えられ、使用人の取り次ぎを待たなくても、自由にファブリツィオに面会することが許されていた。
屋敷にいる使用人夫妻は揃って高齢であり、耳が遠いというほどではないものの、深夜に訪れる馬車の音には気づかないことが多かった。しかし室内が荒らされていないことや、屋敷の中で迷った形跡がないことからも、老商人殺しの犯人は、彼の身内であると考えてほぼ間違いない――それが、チェチリアが刑事官から聞き出した事件の概要だった。
遺言書の箱が持ち去られたということを、刑事官たちはそれほど重要視してはいなかった。犯人が相続人の誰かであれば、そういうこともあるだろう、というのが彼らの認識である。
ファブリツィオの屋敷に泊まることが多かったのは、やはりガブリエッラである。その次に多いのはダニエーラ。ただし、彼女はガブリエッラのことを露骨に避けており、二人が屋敷で顔を合わせることは少なかった。
息子たちの中では、エウスタキオが屋敷を訪れることが多かった。ただし、彼の場合には、父親よりも、その愛人に会いに来ていたのではないかという説がある。次兄コルネリオは時折、深夜まで父親と酒を酌み交わすことがあり、希に仕事がらみのことで口論になることもあったという。長兄バジリオが、仕事以外で父親と会話することはほとんどなかった。しかし、祝祭日には必ず顔を見せにくるという律儀な一面もあったらしい。
一方、アレッシオが屋敷に泊まることは最近では滅多になかった。他の兄弟に遠慮していたというわけではなく、結婚したことが原因である。ファブリツィオの子どもたちの中で、妻帯者は今のところ彼だけだった。彼の細君は、取引先の工房主の娘。彼女の父親はファブリツィオとも昵懇《じっこん》の間柄だったという。
アレッシオがチェチリアに告げたとおり、事件の夜、彼ら相続人候補の全員に、ファブリツィオの屋敷を訪れる時間的な余裕があったことが確認されている。翌日の彼らの行動にも特に不自然な点はない。唯一の例外が長兄のバジリオだった。彼は翌日から商用でモンツァに出かけている。そこには遺言書の箱を造った錠前職人がいるのだった。
「――それで、捜し物は見つかりまして?」
ようやく落ち着いて腰を下ろしたレオナルドに、チェチリアは訊いた。
「いや、なかった」レオナルドは満足そうに言った。「それでいいんだ。見つからないことを確かめるために捜していたのだからね」
「もしや、捜していたのは鍵ですか? 金の鍵がこの部屋にないことを確かめるために?」
チェチリアはレオナルドの行動を思い出す。
壁や床を調べたり、置物を一つ一つ手にとって調べたり――あれはたしかに、なにかの隠し場所を捜しているようにも見えた。
「そうだよ」レオナルドが淡々と言う。「犯人を捜しあてるためには、どうしてもそれを確認しておかなければならなかったからね」
「犯人を?」チェチリアは目を瞬いた。「師匠《マエストロ》には犯人がわかっているのですか?」
「いや、まだだよ」レオナルドは素っ気なく首を振る。「まだいくつか確認することが残っている。犯人がわかるかどうかは、その結果次第だね」
言いながら、彼は部屋の入口のほうを見た。チェチリアもつられて振り返る。
男が一人、腕組みをして扉の脇に立っていた。チェチリアたちが振り向いたことに気づいて、彼はぎこちなく礼をした。
二十代なかばの、まだ若い男である。刑事官かと思ったが、そうではなかった。アレッシオの着ていたものと同じ、マシーニ商館の紋章が入った外套をまとっている。
「――今の話、ほんとうですか、師匠《マエストロ》?」
青年特有の荒っぽさが残る口調で、男が訊いた。
「あなたは?」チェチリアが問い返す。
「失礼。エウスタキオ・マシーニです、ガッレラーニ様。先ほど屋敷に着いたところなのですが、ガブリエッラから、遺言書の箱を捜しにあなた方がいらしていると聞きましたので」
殺された老商人の末子は、まるで怒っているような早口でそう言った。普段からそのようなしゃべり方なのかもしれないが、ガブリエッラが、チェチリアたちを呼んだことを、快く思っていないのかもしれなかった。
「それよりも、師匠《マエストロ》。ほんとうに、誰が遺言書の箱を持ち去ったのかわかるのですか?」
「わかるかもしれないと言っただけですよ。まだ知りたいことがすべてわかっているわけではないのでね」
「なにをすればいいんです。私に協力できることがあるなら、やりますよ」
エウスタキオが熱心な口調で言った。彼の態度に、チェチリアはかすかな違和感を覚えた。
彼は、誰が遺言書の箱を持ち去ったのか、を知りたがっているのだ。誰が彼の父親を殺したのか、ということではなく。結局は同じことなのかもしれないが、彼の冷ややかな本性が、そんな些細な言い回しにも表れているような気がして、落ち着かない。
「そうですね。では、質問が一つ」
しかしレオナルドは、普段と変わらない穏やかな声で訊いた。
「――あなたは、ガブリエッラ嬢と結婚の約束を交わしていたのではありませんか?」
「それが、なにか事件と関係のあることなのですか?」
エウスタキオは、不満そうに顔をしかめた。
「まあ、いいでしょう。もう隠し立てするようなことじゃない。たしかに私とガブリエッラは、結婚の約束をしていました。もう二年近くも前にね。そのことは今夜にでも、兄たちに伝えるつもりです」
「……そのことはガブリエッラ嬢も了解しているのですね」
「ええ、もちろん。ですが、私たちには父を悲しませるつもりはなかったのです。遺言書なんてものを用意したことからもわかるように、父は自分が老い先短いことを自覚していた。最期をガブリエッラに看取って欲しいというのが彼の望みだったのです」
「それまで待つつもりでいた?」
レオナルドが訊くと、エウスタキオは苛々《いらいら》と頭を掻いた。
「そう……こういうことを言うと誤解されそうですが、だからといって自分の手で父の死期を早めるなんてことは考えていませんよ。聖書の中でもあるまいし、たかが女一人のために、父殺しなんて馬鹿げている。それにそんなことはガブリエッラが許さないでしょう」
「……彼女が、なぜ?」
「ガブリエッラが愛しているのは、やはり父なのです。私としては複雑な気分ですが、それが事実ならば、そういうものとして受け入れるしかないでしょう――彼女は、私の中にある父の面影を愛しているということなのかもしれません……今はまだ、ね」
エウスタキオはため息をついた。彼の告白を、チェチリアは不思議な気分で聞いた。しかし、ガブリエッラの立場で考えれば、彼女の気持ちはよくわかった。
どれだけ愛しても、ファブリツィオは彼女を置いて先に逝ってしまうのだ。ならば、若さと彼の面影を持つエウスタキオに惹かれたとしても、誰も彼女を責めることはできないだろう。
「感謝します、エウスタキオ殿。おかげで犯人の正体を知る重要な手掛かりが手に入りました」
レオナルドは、片頬に笑みを浮かべた。
「お役に立てて光栄ですよ」エウスタキオが皮肉っぽく苦笑した。「それで、ほかにはなにをすればいいんです。まさか今の質問だけで終わりということはないでしょうね?」
「いえ、できればもう一つお願いしたいことがあります」
レオナルドの醒めた視線を正面から受けて、エウスタキオが身体を硬くしたのがわかった。
「なんです、師匠《マエストロ》?」
「あなたは銀の鍵を持っていますね。あなたの二人の兄上も」
「ええ……?」
「今夜、葬儀の打ち合わせでこの屋敷に集まるときに、その鍵を持参していただきたいのです」
「我々全員が……ですか? 三本とも?」
エウスタキオが困惑の表情を浮かべる。
「お願いできますか?」
「ええ。兄たちも私も、大切な鍵は普段から持ち歩いていますからね……ですが、それでなにがわかるというのです?」
あからさまに不審げな表情を浮かべて、エウスタキオはつぶやいた。
そんな彼を、ゆったりと椅子に腰掛けたまま、レオナルドは見上げた。断言する。
「三本の鍵がそろえばわかるのですよ。ファブリツィオを殺した犯人も、遺言書を収めた箱の行方も。すべてが」
夕方を過ぎたあたりから、食堂にはファブリツィオの子どもたちが集まり始めた。
最初に顔を見せたのはダニエーラ。次いでエウスタキオが、憔悴《しょうすい》した様子のガブリエッラを連れて食堂に現れた。
血縁でもないガブリエッラが、葬儀の打ち合わせに出席することに対して、ダニエーラは不満そうだった。しかし、エウスタキオの前で、口に出して異議を唱えることはなかった。
遅れて屋敷に到着したのが、長兄のバジリオだった。
すでに四十近い年齢のはずだが、肩幅の広い、逞《たくま》しい男だ。よく陽灼けしているのはアレッシオと同じ。だが、神経質そうに唇を引き結んだ顔立ちに、異母弟のような快活さはない。人付き合いが苦手だという彼の評判を、チェチリアは思い出す。
「兄上、モンツァからはいつ戻られたので?」
エウスタキオが、どこか挑発的な態度で兄に訊いた。
「昨日だ。取引の成果が知りたければ、あとで手代《てだい》の者に訊くがいい」
バジリオが、ぼそりと返答する。末弟の言葉の裏には、例の鍵屋は見つかったのか、という皮肉がこめられていたようだが、長兄がそれを鼻先であしらったという構図だった。
窓の外はもう暗い。食堂の窓からは、地平線を淡く染める残照がよく見えた。
使用人の老夫婦が食前酒を振る舞い始めたころ、新しく馬車が到着する。次兄コルネリオの馬車だった。
コルネリオは兄弟の中で一番背が低い。四角い頑強そうな体格をしている。チェチリアたちに気づいて、彼は丁寧に挨拶した。商人というよりも、宮廷の官吏を思わせる慇懃《いんぎん》さだ。
なにを考えているのか推し量りにくい長兄や、苛立ちを隠そうとしない末弟と違って、彼は素直に、父親の死を悲しんでいるように見えた。事件から五日も過ぎてだいぶ持ち直したが、一時は落胆して仕事も手につかない有様だったという。
しかし、それをただの演技だと疑えば疑えないことはなかった。彼が一流の商人であれば、その程度の駆け引きは慣れたものだろう。
兄弟の会話はあまり弾まなかった。誰が父親を殺したのかという話題を、誰もが不自然に避けていた。一度その話を始めてしまえば、激しい口論になることが全員にわかっていたからだろう。ダニエーラが最近の宮廷での流行の衣装についてチェチリアに質問し、そのことにからめてコルネリオやエウスタキオが繊維の産地についての情報を交換する。バジリオは黙々と食事を続けていた。気詰まりな会食だった。
「やあ、遅れてすまなかった。急な来客があったのでね」
にこやかに言いながら現れたのは、アレッシオだった。
彼が場にいるだけで空気が変わる。ダニエーラは彼を高く評価しているし、バジリオたちにとって彼は、兄弟というよりも信頼できる友人といった間柄のようだ。ただしガブリエッラに対してだけは、アレッシオは少しよそよそしかった。妾腹の子として生まれた彼には、父の新たな愛人である彼女に対して、複雑な思いがあるのかもしれなかった。
「おや……」
チェチリアたちに気づいて、アレッシオは軽く眉を上げた。部外者である彼女たちがこの場にいることに驚いたのだろう。しかしその表情は、すぐに陽気な笑顔に変わった。
「これはガッレラーニ嬢と、師匠《マエストロ》……ようこそ。歓迎しますよ。今夜ばかりは、身内だけでは厳しい会食になりそうな予感がしていましたのでね」
「……アレッシオ。客人の前でそのような言い方はよせ」バジリオが低い声でたしなめた。
「いいではありませんか、お兄様」刺々《とげとげ》しい声で笑ったのはダニエーラだ。「ほんとうのことですもの。わたくしもまったく同感ですわ」
「ああ……もういいでしょう!」
苛立ったように、エウスタキオが腰を浮かせた。レオナルドを睨みつけ、待ち疲れたといわんばかりの口調で言う。
「これで容疑者の全員がそろったんだ。ほんとうにすべての謎が解けるというのなら、教えてください。この中の誰が、父を殺して遺言書の箱を持ち去ったんです?」
「……謎が解けた? ほんとうなのですか、師匠《マエストロ》?」
アレッシオが面白そうに口角を上げた。
気怠《けだる》そうに息を吐いて、レオナルドがエウスタキオを見る。末弟はうなずいて、懐から鍵を取り出した。二人の兄にも、持ってきた鍵を見せてくれと頼む。ファブリツィオが息子たちに渡した遺言書の箱の鍵――『銀の鍵』だ。
それは、小さな鍵だった。
華やかな名前に反して、ごくありふれた鋳鉄《ちゅうてつ》の鍵である。たいして複雑な形をしているわけでもない。強いていえば、溝を刻んだ金具の部分が平均より長いという程度である。
「この三つ、すべて同じ鍵ですね」
それぞれを手にとって調べながら、レオナルドはつぶやいた。
「当然でしょう。だから、こんなものを調べてなにか意味があるのかと訊いたのです」
エウスタキオは今にも怒り出しそうだ。しかし、芸術家は鷹揚《おうよう》な態度で首肯《しゅこう》する。
「ええ。これでもう十分です。知りたいことはすべてわかりました」
「犯人がわかったというのですか?」
驚いて、チェチリアは思わず口を挟む。
三人が持ち寄った鍵は、完全に同じ材質、同じ形だ。どれも大切に扱われていたらしく、傷や汚れも見あたらないし、もちろん複製でもない。なぜそれで犯人が特定できるのか、チェチリアにはまったくわからなかった。
それは、この場にいるほかの人々も同じ気持ちだったのだろう。まるでタチの悪い詐欺師か、でなければ魔術師にでも会ったような顔でレオナルドを見ている。
「わかったよ。たぶん間違いないだろう。ここにいる人たちが、よほどの間抜けでない限りは」
「それはどういう意味ですか?」チェチリアはぱちぱちと目を瞬いた。「犯人は誰なのです?」
「最初から説明するのは面倒だし、ここでその人物の名を明かすのが、いいことなのかどうかぼくには判断できない。持ち去った遺言書の箱を、あとでこっそり見せてくれると約束してもらえるのなら、敢えてそれを証明しようとは思わないのだけれど」
レオナルドは、気乗りしない口調でつぶやいた。真っ先に反論したのはエウスタキオだった。
「そうはいきませんよ、師匠《マエストロ》。人が殺されているのですよ。遺言書だってまだ見つかっていないんだ。説明してください」
「私からもお願いしたいですね」アレッシオが皮肉っぽく笑う。「それともまさか、そうやって脅せば、犯人が名乗り出てくれるとでも思っているのではないでしょうね、師匠《マエストロ》? 生憎《あいにく》、ここにはそんな幼稚な駆け引きに乗せられるような純真な人間はいませんよ」
「……わかりました。いいでしょう」
レオナルドが薄く笑った。それはまるで、未知の叡智《えいち》をもって人々を誘惑する悪魔にも似た、美しい冷笑だった。
チェチリアは炭酸水を口に運ぶ。かすかな苦みに、彼女はグラスを握る指を震わせた。
「最初に確認しておきます。ファブリツィオ殿は、自分の財産を相続させる者を一人選び、その名を記した遺言書を箱の中に封印した。その箱には二種類の鍵があり、金の鍵で閉めた場合は銀の鍵、銀の鍵で閉めた場合には金の鍵でしか開かない――ご存じですね」
全員が黙ってうなずいた。なぜ今さらそんなことを言い出すのだ、と非難するような表情を浮かべる者もいる。レオナルドは、かまわず続けた。
「金の鍵は一本だけ、銀の鍵は三本が作られて、それぞれ嫡流の三人の息子に手渡された。全員が見ている前でファブリツィオ殿は金の鍵を使って箱を施錠し、自分の死後、ここにいる全員の前でしか開けてはならないと言い残した」
「……ええ、そうよ。しかもその約束に反したら、遺産はすべてその女に譲るなんて馬鹿げた脅し文句まで箱に刻みこんでね」
ダニエーラが、忌々しげにガブリエッラを睨んで言った。目を伏せるガブリエッラを庇《かば》うように身を乗り出して、エウスタキオが舌打ちする。
「そうですね。それがわかっていれば、ファブリツィオ殿が殺された夜にいったいなにが起きたのか――そのことがほぼ推定できます。誰が犯人で、金の鍵がどこに行ったのかということも」
「……金の鍵だって?」アレッシオが眉を寄せた。「知りたいのは遺言書の箱の行方だろう?」
「いいえ。金の鍵の行方ですよ。それがこの事件の――鍵です。文字どおりね」
レオナルドは、なにかを思い出したような含み笑いを浮かべた。
「それについては、ぼくにもわずかばかり責任があるのかもしれないが……それはともかく、追いつめられた人間の行動というのは、意外に単純なものです。とりあえず自分の利益が最大になるように行動する――そうではありませんか、バジリオ殿?」
「……そうだ」
突然の指名に長兄は驚いたようだったが、すぐに落ち着いて返答した。
「往々にして、それはもっとも安全な行動でもある。交易なんてことをやっていると、それを実感することは多い」
「私も同感ですね、師匠《マエストロ》」
次兄コルネリオが、会話に加わった。彼の視線は、末弟エウスタキオに向けられている。
「追いつめられたときに無謀な賭に出るのは、愚か者のやることだ」
「なにがいいたいのだ、兄上」エウスタキオが不満そうに言う。「師匠《マエストロ》も、話をはぐらかすのはやめてくれ」
「失礼……しかし、はぐらかしているわけではありません。犯人も、おそらく同じように行動しただろうということが言いたかったのです」
「興味深い話ですわね」ダニエーラが優艶《ゆうえん》に微笑んだ。「自分の利益を最大にするというのは、つまり、父の遺産を手に入れようとしたということなのかしら?」
「ええ。それは、犯人にとっての保身の手段にもなっていたはずですが」
「興味深いな。どうやってその結論に到達したのか、ぜひ聞かせてもらいたいですね」
アレッシオが真顔で言った。レオナルドはうなずいた。
「簡単な理屈です。犯人はなぜ遺言書の箱を持ち去ったのか――あるいは持ち去らなければならなかったのか、ということから考えていけばいいのです」
食卓に座った全員の表情が真剣なものへと変わり始めていた。宮廷で多くの学者や文章家を唸《うな》らせてきたレオナルドの話術は巧みである。彼の言葉が、単なる虚勢や思いつきではないということを、マシーニ家の者たちも実感しつつあるのだろう。
「箱が持ち去られた理由を考えるためには、ファブリツィオ殿が殺されたとき、箱がどのような状態にあったのかをまず知らねばなりません。本来の状態――すなわち、金の鍵で施錠されたままの状態だったとして、この箱を持ち去ることで利得を得る人間がいるでしょうか?」
六人の相続人候補は、互いの表情をうかがうように全員で顔を見合わせた。レオナルドは、順番に彼らを見渡していく。
「――まず、ガブリエッラ嬢は論外です。彼女の相続の権利は、箱に刻まれた遺言によって保証されているからです。箱がなくなってしまえば彼女が遺産を受け取れる目はありません」
赤毛の娘が、安堵したようにほっと息を吐いた。ほかの候補者はなにも言わない。彼女を目の敵《かたき》にしているダニエーラにも、特に異論はないようだった。
「同様の理由でアレッシオ殿が箱を持ち去る理由もありませんね。彼が遺産を受け取れるのは、箱の中の遺言書に自分の名前が書かれている場合だけだからです。箱ごと遺言書がなくなってしまえば、彼が利益を得ることはありません」
アレッシオが大きくうなずいた。その程度のことは、彼自身、気づいていたのだろう。彼の態度には最初から余裕があった。
「残りの四名の立場は微妙です。遺言書が紛失すれば、法の規定どおり、遺産の一部を手に入れられる可能性があるからです。しかしこれは『犯人は最大の利益を求めようとする』という最初の前提に反します」
「たしかにな……」バジリオが重々しい声で言う。「この時点で箱を持ち去る理由はないな。遺言書に誰の名前が書かれているのか、まだわかっていないのだ。箱を持ち去るのは、自分が正当な相続人になれる可能性を放棄することになる」
「そもそも、それなら父上を殺す理由がないだろう」焦ったようにコルネリオが言い足した。「自分だけが殺人者となる危険を冒して、遺産は兄弟で均等に分けるというのでは、あまりにも条件が不利だ。遺産を兄弟にばらまくようなものだからな」
「そういうことです」
レオナルドは薄笑みを浮かべたままうなずいた。マシーニ家の人々の聡明さに、満足している様子だった。
「つまり、箱が金の鍵で施錠されたままの状態であれば、箱が持ち去られる理由はなかった。その必要があるとすれば、遺言書に自分の名前が書かれていないことを犯人が知っていた場合だけ。箱が何者かによって一度開けられた状態でなければなりません」
「箱が銀の鍵で施錠されていた場合ということですか?」アレッシオが、眉間にしわを刻んで言った。「……それは変だ」
「ご明察ですね……そう、金の鍵で施錠されているときに箱が安全な状態だというのなら、銀の鍵で施錠されているときも、箱が持ち去られる理由はないのです。なぜなら犯人にも、それ以外の相続人候補にも、その二つの状態を区別することができないからです」
「それは……どういうことですの?」ダニエーラが訝しげに訊き返す。
「箱がどの鍵で施錠されているのか確かめるには、実際に開けてみるしかないということだよ」
レオナルドのかわりに、アレッシオが説明した。
「そもそも鍵を持っていない私と二人の女性には、それを確認する手段が最初から存在しない。嫡子の三人は、銀の鍵を使って箱を開ければ、それが金の鍵で施錠されていたということはわかる――が、その場合、父の遺言に反したということで、相続の権利はガブリエッラのものになってしまう。事実上、箱の状態を確認することができたのは、金の鍵を持っていた父上だけなんだ」
なるほど、とチェチリアは納得した。
金の鍵で箱が開かなければ、箱はファブリツィオが最後に施錠したままの正常な[#「正常な」に傍点]状態。一方、金の鍵で箱が開いたとしたら、それは誰かが銀の鍵で箱を一度開け、そして銀の鍵で再び施錠し直した状態だったということになる。それを日常的に確認するため、ファブリツィオは自分の手元に、金の鍵を残しておいたのだ。
「これらの条件から、ひとつの結論が導き出されます。それはファブリツィオ殿が殺されたとき、箱を施錠していたのは、金の鍵でも銀の鍵でもなかったということ――第三の状態、つまり箱は開いていたのです」
「なんだって?」つぶやいたのはコルネリオだった。「馬鹿な。父上が持っていた金の鍵では、箱は開かないのだ。なのに箱が開いたとすれば……」
「そう。それは銀の鍵が使われたときだけです」レオナルドは微笑んだ。
「そんなはずはない」コルネリオがなおも反論する。「銀の鍵を持っている人間が、箱を開けることはあり得ない。そんなことをすれば、自分が相続する権利を捨てることになるのだぞ」
「そうです。銀の鍵で箱を開いたときに得をするのは、ガブリエッラ嬢だけ。ですが、彼女は鍵を持っていない。したがって誰も鍵を開けるはずがないのです……本来ならば」
「………」
コルネリオが困惑したように黙りこみ、短い沈黙が食堂に降りた。
「そう……そういうことだったの……」
沈黙を破ったのはダニエーラだった。全員の視線が彼女に集まる中、彼女は弟を睨んでいた。
「箱を開けたのはあなたなのね、エウスタキオ――あなたは、いずれガブリエッラと結婚するつもりでいた。だから、彼女が遺産を相続するように仕組んだんだわ。そのことで父様と争いになって、父様を殺したのね?」
「――エウスタキオ!」
ダニエーラの言葉に反応したのは、ガブリエッラだった。彼女は青ざめた顔で密通相手の男を見つめていた。エウスタキオは、違う、と弱々しく首を振る。
「エウスタキオ!」
「おまえ! まさか……ほんとうなのか!?」
バジリオとコルネリオが口々に言った。
「違う!」エウスタキオは上擦《うわず》った声で否定した。「ああ、ガブリエッラと結婚の約束をしていたのはほんとうだ。たしかに私は父の箱を開けた。だが、違うんだ。私は父の不在を見計らって部屋に忍びこみ、箱を開けたあと、もう一度、すぐに自分の鍵で閉め直したんだ。中の遺言書も見ていない。その必要はないと思ったからだ」
「それを父上に見られてしまったのではなくて?」ダニエーラが険しい表情で訊いた。
「違う。私が箱を開けたのは、半月も前のことだ。父上が殺された日には、私は屋敷に立ち寄ってなどいない。私はあの夜、ガブリエッラの自宅を訪れていたのだ。そうだろう?」
エウスタキオが、すがるような瞳でガブリエッラを見る。赤毛の娘は、ぎこちなくうなずいた。彼女はエウスタキオが遺言書の箱を開けたという事実に動揺しているようだった。たしかに彼の行動は、まるで遺産を自分のものにするためにガブリエッラを利用したとも受け取れる。
「よくもぬけぬけと……」ダニエーラが吐き捨てるようにつぶやいた。
「待ってください」チェチリアがたまらず口を挟む。「エウスタキオ様は犯人ではありません」
「どうして?」ダニエーラが苛立ったように言う。「本人が箱を開けたと言っているのよ?」
「だからです」チェチリアは怯《ひる》まなかった。「彼には、ファブリツィオ翁を殺して、箱を持ち去る理由がありません。そんなことをしたら、わざわざ箱を開けた意味がなくなります」
「……たしかにな」
アレッシオがつぶやいた。ダニエーラがうっと言葉を呑みこむ。
「彼の証言は理にかなっています」
部屋が再び静まるのを待って、レオナルドが口を開いた。
「わざわざ、自分が鍵を開けたと父親に知らせることはない。部屋に忍びこんで、鍵をかけ直せば済むのです。それだけで遺産はいずれ彼のものになる」
「だったら、誰が箱を持ち去ったというのだ? 結局わからないままなのではないか?」
バジリオが不満げな目つきでレオナルドを睨んだ。レオナルドは静かに首を振る。
「いいえ。これでもう、条件はかなり限定されました。エウスタキオ殿の発想は幼稚ですが、行動に矛盾はありません。最後には遺産が自分のものになるように……利益を最大にするために行動している。彼の言葉は真実です。現在の状況が、それを証明しています」
「だとすれば……」アレッシオが思案するように腕を組む。「最終的に箱を開けたのは父上ということになる。銀の鍵で施錠した箱を開けられるのは、父上の持つ金の鍵だけだからな」
「そのとおりです。ファブリツィオ殿はいつものように箱の状態を確認するために、金の鍵を差しこんだ。その結果、箱が開いてしまった。彼は驚いたでしょうが、それ以上に不運でした。そのとき部屋の中には、彼以外の人間がいたのです。遺産の相続人候補の一人が」
「その人物は焦っただろうな」アレッシオがため息をついた。「このままでは、遺産はすべてガブリエッラのものになってしまうわけだからな」
「ええ。ここで初めて、犯人は、ファブリツィオ殿を殺す必要に迫られました。彼を殺し、彼の鍵を使って箱を施錠すれば、自分に相続の権利が回ってくるのです。遺言書の箱が金の鍵で施錠されていれば、中の遺言書は正当なものとして扱われますからね。必要なら遺言書の中身を自分の名前に書き換えることもできる」
「私が銀の鍵で箱を施錠し直したと主張しても、証拠はなにもないからな……くそっ」エウスタキオが無念そうに唇を噛んだ。「だが……だったらなぜ箱は持ち去られていたんだ? 私が犯人の立場でも、金の鍵で施錠し直す方法を選ぶぞ」
「簡単な理由です。犯人の手元には金の鍵がなかったのですよ。鍵がなかったから、施錠することができなかった。犯人は金の鍵を手に入れられなかったのです」
「なんだって?」エウスタキオは顔をしかめた。「父上は犯人の前で箱を開けてしまったから殺されてしまったのだろう? ならば、そのときに金の鍵を使ったのではないのか?」
「そうです。そして自分が殺されると気づいたとき、彼は、必死で鍵を隠したのです。犯人の手の届かないところに」
「しかし……殺される直前に、そんな複雑な場所に鍵を隠す余裕などないだろう?」
「いえ。隠し場所は、彼のすぐ身近にありました」レオナルドは軽く苦笑した。「なぜ犯人は、撲殺したファブリツィオの喉を、更にわざわざ刃物で切り裂いたのだと思いますか?」
「な……」エウスタキオが顔色を変えた。「まさか……父上は……」
「呑みこんだのですよ、鍵を」レオナルドは静かに言い放った。「彼は最後の一瞬に、もっとも身近で、犯人の手が決して届かない隠し場所を選んだのです」
「そんな……」
チェチリアは、薄寒い感触を覚えて肩を震わせた。
老商人がどんな気持ちでそれを呑んだのか。犯人が、どのような気持ちで老商人の喉を切り裂いたのか――想像するだけで息が詰まりそうになる。
食堂は、しんと静まりかえった。
低い嗚咽《おえつ》の声が聞こえた。ガブリエッラが、うつむいて泣き始めていた。
「教えてくれ……師匠《マエストロ》」アレッシオがかすれた声で言った。「誰がそれをやったのだ。あなたにはもう犯人がわかっているのだろう?」
レオナルドは、すぐには口を開かなかった。
犯人が自ら名乗り出るなら、そのほうがいいと判断したのだろう。だが、そのわずかな間合いは、食堂を沈黙で満たしただけだった。
「――犯人を絞りこむのは、そう難しくありません。犯人は箱を持ち去った。その結果として遺産の相続権を失うガブリエッラ嬢とアレッシオ殿は、まず除外されます。そしてガブリエッラ嬢に遺産を相続させようと画策していたエウスタキオ殿――あなたもやはり犯人ではない」
まず、三人の容疑者が消えた。自分の正体を隠すために、あえて彼らが遺産の相続権を放棄したという可能性を考えて、チェチリアは、それがまずあり得ないということに気づいた。
そんなふうに簡単に遺産を諦めることができるのならば、犯人は最初から殺人を犯す必要がないのである。残る容疑者は、長兄バジリオと次兄コルネリオ、そして長女ダニエーラである。
「箱を持ち去ってしまえば、あとの三人には、遺産の一部を相続する権利が残される。ですが、もっと安全で、しかも利得の大きな方法があるのですよ。実に簡単な方法が」
レオナルドは淡く微笑んだ。まるで、その方法を選べなかった誰かを哀れむように。
「それは現場に『鍵のかかった箱』を残しておくことです。そうすれば、父殺しの犯人として自分たちが疑われる危険も減らせるだけでなく、遺言書の中身を書き換えておくだけで、遺産の相続権が入る」
「鍵のかかった箱?」チェチリアはあわてて訊き返した。「待ってください、師匠《マエストロ》――犯人は、金の鍵を手に入れられなかったのではないのですか?」
「そうだよ。でも鍵をかける方法はあった。さっきも言ったとおり、箱の状態を確かめることができるのは、金の鍵を持っている人間だけなんだ。ほかの人間には、その箱が、どちらの鍵で施錠されたのか見分けられない[#「見分けられない」に傍点]」
「あ……!」
チェチリアは、今度こそすべてを理解した。
遺言書の箱が閉まったままの状態で部屋に置かれていれば、ファブリツィオを殺した犯人が相続人候補の誰かだと疑われることはなかった。そして、犯人には金の鍵の在処《ありか》がわかっている。ファブリツィオの死体の腹の中だ。
喉を裂いても、そこには鍵がなかった。しかし死体の腹部を裂いて鍵を捜すには時間が足りない。夜が明ければ、使用人たちが部屋にやってくる。しかし時間をかければ鍵を取り出すのは不可能ではないのだ。時間があれば、錠前屋に命じて金の鍵の複製を造らせることも可能だ。
ほんの一日か二日、時間を稼ぐことができればいい。
しかも都合のいいことに、遺言書の箱を開けることができるのは、すべての相続人候補がそろっているときだけである。どうにかして金の鍵を手に入れるまで、適当な口実を作って屋敷を訪れなければいい。金の鍵を手に入れるまで、銀の鍵で箱を施錠して、時間を稼ぐことさえできればよかったのだ。銀の鍵さえ手元にあれば。
「バジリオ殿もコルネリオ殿も、大切な鍵は普段から持ち歩いていると聞きました。この三本の鍵をなくした人もいなかった……仮にお二人のどちらかが犯人なら、迷わず、箱を施錠して時間を稼ぐことを考えたはずです。重い箱を苦労して運び出して、その姿を誰かに見られる危険もない――」
レオナルドは、いつになく優しげな視線を、たった一人残された相続人候補に向けた。険のある美貌の女性へと。
「犯人は、あなたですね――ダニエーラ・マシーニ」
「証拠は、あるのですか?」
屋敷を包みこむ重苦しい空気の中で、ダニエーラは穏やかな声で言った。それは言い逃れをするためではなく、純粋な好奇心から出た言葉らしかった。
レオナルドは、無言で一枚の紙を取り出した。茶色い紙に金属筆で、一人の男の顔が描かれている。ダニエーラの目が一瞬だけ、笑うように大きく見開かれた。
「――一昨日の夜、病院から出てきたときに暴漢に襲われました。その暴漢の似顔絵です。医師でも医学生でもない奇妙な男が、病院の解剖室に出入りしているという噂を聞きつけて、襲ってきたのでしょうね。まるで、ぼくが解剖室でなにかを見つけることを恐れていたかのように」
「父の死体も、ちょうど同じころ、その病院で解剖に回されていたはずなのよ……鍵は見つからなかったと聞いていたのだけれど」ダニエーラは苦笑して言った。
「あなたの従者に、この絵に似た男はいらっしゃいますか。ヴェネツィア訛りの男です」
「似ている……どころではありませんね。さすがですわ、師匠《マエストロ》。ええ、彼はわたくしの命令に従っただけです。罪には問わないでやってくださいませ」
似顔絵をレオナルドに返して、ダニエーラは立ち上がった。優雅に振り返って、食堂の出口を見る。そこにはまだ刑事官が残っていた。
「姉上!」
エウスタキオが立ち上がって叫ぶ。
「遺言書はどこなのです? なぜ、あなたがこのようなことを!?」
「遺言書は燃やしました」
ダニエーラが冷厳に微笑んで言った。
絶句するエウスタキオを無視して、彼女はレオナルドを親しげに見つめた。
「あなたには、わたくしがなぜこのようなことをしたのかもおわかりなのですね、師匠《マエストロ》?」
レオナルドは無言で首肯する。それを見たダニエーラは、満足したようにうなずいて、刑事官たちのほうへと歩き出した。それきり彼女が振り返ることはなかった。
なぐさめようとする末弟の手を払いのけ、赤毛の娘がその場に泣き崩れる。チェチリアは、それを、立ち尽くしたまま見つめていた。
それから二週間ほどが過ぎて、チェチリアは再びレオナルドの工房を訪れた。マシーニ家の、その後の状況について報告するためである。
ダニエーラは素直に罪を認め、今は牢内で裁判を待っている。父親殺しの罪は軽いものではないが、彼女の場合はいくらかの減刑が認められるだろうというのが、大方の市民の考えだった。バジリオたちが彼女の減刑を嘆願したからだ。皮肉なことだが、ファブリツィオの遺産のほとんどは、その減刑嘆願の工作費として使われたのだという。
ガブリエッラは間もなくエウスタキオと別れ、マシーニ家とも縁を切った。修道院に入るのだという。彼女は、やはりファブリツィオを愛していたのだ。
エウスタキオが、父の遺産にこだわり、無謀な取引をしてまで儲けを出そうとしていたのは、そんな彼女に男として認められたいと思ったからではないか――チェチリアはそんなことを思ったが、それをガブリエッラに伝えることはできなかった。エウスタキオは、最後まで父を超えることができなかったのだ。
レオナルドは、古いラテン語の書物に向かいながら、そんなチェチリアの報告を無関心に聞いていた。
ミラノの夏の日暮れは遅い。鮮やかな夕陽を浴びて、煉瓦造りの街並みが赤く輝いている。
「……遺言書には、結局なにが書かれていたのですか?」
チェチリアは、何気ないふりを装って訊いてみた。聞こえないふりをされるのではないかと思っていたが、意外にもレオナルドは本を伏せ、彼女のほうを見てくれた。
「遺産の管理はガブリエッラに一任する――というようなことだろう」
彼は遠い目をして言った。
チェチリアは刹那《せつな》、唖然として、そしてすぐに納得した。だから、なのだ。だからダニエーラは激昂《げっこう》したのだ。父親を殺してしまうほど。遺産はどうやっても、父の愛人のものになることを知ったから。自分が父親に愛されていないと知った――だから。
「でも……どうしてそれが師匠《マエストロ》におわかりになるのですか?」
「鍵だよ。なぜファブリツィオが、あんな複雑な仕掛けの箱に遺言書を入れたのか……なぜ、銀の鍵を三つ用意したのか。それを考えれば、自ずと彼の目的はわかる」
「三つの鍵を用意した理由……ですか?」
それは、彼の正妻の息子が三人だったからではないのか、とチェチリアは思った。たしかにダニエーラには鍵は渡されていなかったが、それは彼女が女性だからという理由で。
しかし奇妙な話ではある。予備の鍵が必要だとしても、鍵は二つあれば十分だ。息子たちに渡さなくても、自分で保管するなり、信頼できる公証人に預けるという手もあったはず。
「ファブリツィオは、気づいていたのだと思うよ。自分の息子たちの誰かが、ガブリエッラと密通していることに。そして彼はそれでもいいと思ったんだ。彼の望みは、自分の最期を彼女に看取って欲しいということだけだったから」
「あ……」
それは、エウスタキオが口にした言葉だった。そして三つの鍵。エウスタキオたちだけに銀の鍵が渡されたのは、彼らが正妻の息子だったからではない。彼らが独身だったからだ。四人目の息子――アレッシオには妻がいた。
「渡された銀の鍵で密かに箱を開ける者がいるとすれば、それはガブリエッラと結婚の約束をした者だろう。そのときは、たとえ自分が存命中であっても、ファブリツィオは、その息子に遺産を譲るつもりだった。逆に、箱の中の遺言書が有効に使われるという場合は、彼はすでに死んでいるわけだから、もう思い残すことはない――」
「だから……」
ガブリエッラに遺産を渡すことで、息子たちのほうから、彼女に求婚するように仕向けた、ということなのではないだろうか。
ファブリツィオは子どもたちのために遺産を残したのではない。彼はガブリエッラのことだけを考えていた。愛する女性が、いつまでも自分のことを忘れずにいてくれるように――自分の面影を残した息子たちを利用しようとしたのだ。
そのことがダニエーラには許せなかった。父親の行為が、彼女の母親と兄弟を冒涜《ぼうとく》しているように思えたから。だから彼女は、遺言書を燃やしたのだ。その内容を誰にも伝えずに。
「翁は、それほどまでにガブリエッラを愛していたのですね……」
チェチリアは息苦しさに胸を押さえながらつぶやいた。
老商人は、自分が死んでもなお、愛人を自分への愛で縛ろうとした。おそるべき愛情。おそるべき妄執《もうしゅう》だった。そしてガブリエッラはその想いに気づいた。だから彼女は修道院に入ることを選んだのだ。ファブリツィオの執念は成就した。彼は、娘の心に鍵をかけたのだ。
レオナルドはなにも答えない。この美貌の芸術家も、このような激しい愛情を誰かに対して抱くことがあるのだろうか――
言いかけた言葉を呑みこんで、チェチリアは深く息を吐いた。
短く別れの挨拶を交わして、彼女は、工房を立ち去ろうとする。部屋を出る直前、机の上に置かれていたものに気づいて、チェチリアはゆっくりと微笑した。
人の心臓を描いた解剖図の上に、うっすらと錆が浮きかけた小さな鍵が置かれている――
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ウェヌスの憂鬱
晩秋の夕陽を浴びて、部屋の中は仄明《ほのあか》るく照らし出されている。| 旧 宮 殿 《コルテ・ヴェッキア》と呼ばれる建物に相応しい、豪華な内装の一室だった。
万聖節《ばんせいせつ》を過ぎたミラノの街は肌寒く、吐き出す息が白く曇った。湿気を吸った絨毯《じゅうたん》が、心なしか重く感じられる。
私は足音を殺しながら、ゆっくりとその部屋に戻ってきた。鍵穴の位置に気を配りながら、音をたてずに扉を閉める。部屋の奥に進むにつれて、慣れない臭いが鼻についた。研《と》ぎ終えたばかりの刃物を舐《な》めたときに感じる金臭《かなくさ》さに似ていた。血の臭いだ。
中央にある会議机には、いくつかの模型と無数の建築図面が乱雑に散らばっていた。大聖堂《ドゥオモ》円蓋《えんがい》の八角塔《テイブーリオ》の競作に寄せられた作品たちだった。
その中には、私自身が応募した作品もまぎれていた。時間をかけた労作だったが、私の案は、選考途中ですでに棄却されている。残念と思わないでもなかったが、それも今となってはどうでもいいことだった。私はすでに、この競作に対する興味をほとんど失っていた。
「……師匠《マエストロ》」
足元から、弱々しい声が聞こえた。床に倒れている男を見下ろして、私は少しだけ驚いた。彼はすでに死んでいると思っていたからだ。
男の下半身は血まみれだった。右の脇腹に刃物で刺された傷痕があり、床には短刀が落ちていた。それは私がひそかに持ちこんだ短刀だった。調べられても所有者が私だと気づかれぬように、苦心して手に入れたものである。
彼を刺したとき、私はその短刀を抜かなかった。返り血を浴びないようにという配慮だった。だから、短刀を抜いたのは、彼自身ということになる。
男が意識を取り戻していたのは意外だったが、私の計画に支障が出ることはなかった。これだけの血を流していては、どのみち彼が助かる見込みはない。
「こんなことをして無事に済むと思っているのか……師匠《マエストロ》?」
男は苦しげな声でつぶやいた。この期《ご》に及んで私を尊称で呼ぶのは、彼なりの皮肉のつもりなのだろう。自分が死にかけているということを、彼も理解しているのだ。
「すぐに誰かが気づいてくれる……逃げられはしないぞ……建築家《アーキテットーレ》気取りの異郷人め」
呪詛《じゅそ》の言葉を吐き捨てる男を、私は無表情に見下ろした。彼が私のことを建築家気取りと呼ぶのは、あながち的はずれでもなかった。私は、公式には画家組合にも登録された| 画 家 《デイピントーレ》であり、彫刻家《スクルトーレ》としてもいくつかの仕事をこなしている。一方、これまで建築の分野では、名前を残すほどの仕事はしていない。
もちろん今回の競作で採用されれば、八角塔《テイブーリオ》の建造をやり遂げるだけの自信は持っていた。だがそれを今ここで、この死にかけている男に説明する必要は感じなかった。
「ご心配には及びませんよ、| 詩 人 《ポエタストロ》殿」
私は男に微笑みかける。近づいてくる私を見て、彼は怯えたような表情を浮かべた。私は、すぐにその理由に気づいた。彼のすぐ手元の床に、私が彼を殺したことを示す文章が、かすれた血文字で描かれていた。
私はむしろ感心した。出血がひどくなることを承知の上で、脇腹に刺さった短刀を引き抜いたのは、この血文字を残したかったからなのだろう。私を陥れようとしただけあって、小賢《こざか》しく頭の回る男だった。
怒りや不安は感じなかった。彼が今さらどれだけの謀略を巡らせたところで、私の計画には疵《きず》ひとつつけることができないという自信があった。私が仕掛けた装置はすでに期待どおりの効果を発揮しつつあり、その最後の仕上げをするために、私はこの部屋に戻ってきたのである。
「あなたがこの部屋で死にかけていることに、気づく者はいません」
私がそう言うと、男は蔑《さげす》むように表情を歪めた。
「そんなはずはない」
大聖堂《ドゥオモ》当局とミラノ宮廷による、八角塔設計案の審査はまだ続いている。| 旧 宮 殿 《コルテ・ヴェッキア》の同じ階で催される夕食会も、間もなく始まるはずだ。自分がいなくなったことに友人が気づいてすぐに捜しに来てくれる――そのようなことを、男は途切れ途切れに説明した。
私はしばらく黙ってそれを聞いていた。初めて、この死にかけている男を哀れだと思った。
「残念ですが、| 詩 人 《ポエタストロ》殿。あなたが望むような結末が訪れることは決してないでしょう」
私は穏やかな口調で言った。薄く夕陽に照らされた部屋の中で、死にかけている男の顔に濃い影が落ちていた。こうしている間にも、彼の肉体から、残されたわずかな命がこぼれだしているのがよくわかった。ひび割れた砂時計を見ているようだった。
「この部屋は今、| 旧 宮 殿 《コルテ・ヴェッキア》のどこにも存在しません。強いていうならば、私の描いた絵の中にある密室なのですから」
濁った目で私を見上げて、なにを馬鹿な、と男はつぶやいた。ほとんど聞き取れないくらいの声だった。
私は男の腕をつかみ上げると、彼が血文字で描いた文章を彼自身の服の袖で拭った。生乾きだった彼の文章は、それだけで完全にかすれて見えなくなった。
男は悲壮な表情を浮かべてみせたが、私は、その表情にささやかな違和感を覚えた。死の間際に伝えようとした言葉を消されたにしては、彼の瞳にはどこか余裕があった。
「なるほど」
男の両手を見下ろして、私はつぶやいた。男の手の甲には、深々と短刀を突き刺した痕が残っていた。右手と左手、両方に。掌にまで突き抜けたその傷痕は、磔刑《たっけい》にされた神の子の傷を連想させた。
「あなたのことを少し侮っていました。謝罪します」
私は軽く息を吐いた。これ見よがしに床に描いた血文字は、私の目を欺くための囮《おとり》だった。この部屋に私が戻ってくることを、彼は予想していたのだろう。
彼が残そうとした真の手掛かりは、両手の傷痕そのものだった。意味ありげに刻んだその傷痕は、脇腹の刺傷と合わせて私の名前を連想させる。見落とされてしまえばそれまでだが、芸術の心得がある人間ならば、それに気づく可能性が高かった。
「さすがは宮廷に出入りする詩人だけのことはある、と言っておきましょう」
私は、暖炉脇に置かれていた手斧《ておの》を拾い上げた。
男の表情が強張った。私がなにをやろうとしているのか気づいたのだ。
「こんなことをしても、おまえたちの罪を隠し通すことはできないぞ」
男が命乞いをしなかったことに、私はほんの少し救われた気分になった。なぜ自分がこのような仕打ちを受けているのか、彼は理解しているということだ。彼女の心に翳りを落とした、これは当然の報いなのだった。
私は無造作に手斧を振り上げると、正確に二回、それを振り下ろした。
男は悲鳴を漏らしたが、それを聞き咎める者はいなかった。扉の向こう側は騒がしく、歓談する人々の声が部屋の中にまで響いてくる。
男が動かなくなったのを確認して、私は部屋を出て行った。気分は高揚していたが、その反面、ひどく冷静に自分の行為を振り返ることができた。
それは、完成に近づいた美術品を眺めているときの興奮によく似ていた。
ミラノ大聖堂《ドゥオモ》を正面に見て右側。ほぼ円形をなす市街の中央部にあるのが、| 旧 宮 殿 《コルテ・ヴェッキア》と呼ばれる建造物群である。
有名な鐘楼を持つサン・ゴッタルド教会。大聖堂正面のレアーレ宮。その横に並ぶアルチベスコーヴィレ宮。この地区一帯のすべては、かつてのミラノの支配者――ヴィスコンティ家の住居であった。蝮《まむし》の紋章で知られたその一族が没落し、この都市の支配権をスフォルツァ家に明け渡して、すでに三十年余りが経っている。
現在の旧宮殿の住人は、その新たなミラノ公の宮廷に出入りする学者や技術者、そして芸術家たちだった。広大な宮殿は、また他都市からの外交使節や、スフォルツァ家に賓客として迎えられた人々の住居としても供されていた。ミラノの廷臣ファツィオ・ガッレラーニの遺児である彼女――チェチリア・ガッレラーニも、そのような旧宮殿の住人の一人だった。
チェチリアは若かった。まだ二十歳にも届いていなかった。この年頃の良家の子女であれば、両親によって定められた結婚相手に嫁ぐか、あるいは修道院に入るのが一般的とされている。
チェチリアの場合は、そのどちらにも当てはまらない。この旧宮殿で、フェデリカという名の無愛想な侍女と二人きりで暮らしている。
人々がそれを特別に奇妙なことだと感じなかったのは、彼女を旧宮殿に連れてきたのが、前ミラノ公の弟である宰相ルドヴィコ・スフォルツァだったからだろう。いまだ未婚である若き宰相が、数人の女性を愛妾として旧宮殿の中に囲っていることは広く知られている。チェチリアが、そのような彼の愛妾の一人だと思われたのは、むしろ当然のことだった。
それについてチェチリアはなにも語らない。詮索されたところで彼女は穏やかに微笑んで、答えをはぐらかすのが常だった。彼女の美貌はそんなときに、人々の追及をかわすのに役立った。宰相の不興をかってまで、無理に彼女たちの関係を確かめようとする者もいなかった。
旧宮殿での暮らしを幸福と呼べるのかどうか、チェチリアにはわからない。しかし、自分が恵まれた立場にいることを彼女は自覚していた。
チェチリアは、ラテン語の書物を好んで読んだし、詩作について宮廷人たちと論じることもできた。医師を目指していた兄の影響で、幼いころから比較的高い教育を受けてきたためである。早くに父親を亡くして以来、他人を注意深く観察する習慣を身につけた彼女の話術は巧みだった。ルドヴィコという後ろ盾の存在を差し引いても、チェチリアが宮廷内に自然に溶けこむことができたのは、彼女自身の才覚による部分が大きかった。
それはおそらく幸福なことなのだろう――壁際に飾られた素描を眺めて、チェチリアはそんなことを考える。少なくとも、宮廷にいなければ出会うことのなかった卓越した才能の持ち主たちと知り合えたことは、間違いなく幸運であるはずだった。
ミラノの宮廷には、著名な学者や音楽家が数多く雇われていた。ルドヴィコが宰相の地位についてからは、さらに諸外国から著名な芸術家を招くようになっていた。チェチリアと親交のある者も多かったが、中でも真っ先に思い浮かぶのは奇妙な異郷人のことだった。
同盟国フィレンツェから、音楽使節として派遣されてきた若き芸術家。
組合から自分の工房《ボッテーガ》を持つことを許された画家であり、そして希代の軍事技師であり、舞台演出家であり、彫刻家でもあると自称する不敵な男。今でこそ彼の才能はミラノの内外に広く知られているが、さしたる実績を持たなかった当時の彼を、宮廷技師としてルドヴィコに推薦したのは彼女だった。そのことがチェチリアの密かな誇りでもある。
多才で知られた彼のことだから、おそらく今は建築家として、大聖堂《ドゥオモ》円蓋の八角塔《テイブーリオ》の競作に関わっていることだろう。
レオナルド・ディ・セル・ピエーロ・ダ・ヴィンチ――
それが、異郷の芸術家の名前だった。
「……チェチリア」
厳かに響く男の声に、チェチリアの思考は現実に引き戻される。顔を上げると、急ぎ足で部屋に入ってくる宰相ルドヴィコ・スフォルツァの姿が見えた。
ルドヴィコの年齢は三十代の半ば。美男ではないが精悍な顔つきで、見るからに屈強な体格をしていた。宰相ではなく、軍人といわれても信じたかもしれない。実際、ルドヴィコの父の代まで、スフォルツァ家は勇猛な傭兵隊長《コンドッティエーレ》の家系として知られていた。
慣習や身分よりも合理性と実力を重んじる都市ミラノの気風には、彼のそのような出自が影響しているのかもしれない。ルドヴィコは、武人の血をひく宰相なのである。
しかし今日の彼は、普段と少し様子が違った。睡眠が足りていないのか、やつれて見えるし、苛立ってもいるようだ。
「すまない。待たせてしまったようだ」
疲れを感じさせる仕草で、彼はチェチリアの対面に座った。控えていた侍女たちに手を挙げ、料理を運んでくるよう命じる。
昼食を共にしたいという彼の伝言がチェチリアの許《もと》に届いたのは、一昨日のことだった。それから今日までのわずかな時間に、何事か厄介な問題が持ち上がって、今の彼を悩ませているらしい。
「呼びつけておいて悪いのだが、あまり時間がとれそうにない。食事を終えたら、またすぐに政庁舎のほうに戻らなければならないのだ」
運ばれてきた料理を眺めながら、ルドヴィコは残念そうにそう言った。
「大聖堂の建築設計のことで、なにかお困りなのですか?」
チェチリアは控えめに尋ねてみる。ルドヴィコが酒杯に伸ばした手を止めた。彼は驚いたように目を見開いていた。
「なぜそれを?」
「特に根拠はないのですけれど」
チェチリアは微笑んで、首を振った。
「昨日、大聖堂《ドゥオモ》の八角塔《テイブーリオ》設計案の選考が行われたと記憶しています。ですから、そこでなにか面倒事が起きたのではないかと疑っただけです。出過ぎた質問をいたしました」
「いや、構わぬ」
ルドヴィコは軽く苦笑したようだった。
「ただ、今はまだ話せないというだけだ。問題が片づく前に事が公《おおやけ》になっては、大聖堂の司教たちがまた騒ぎ立てるだろうからな」
歯切れの悪いルドヴィコの言い訳に、チェチリアはうなずいた。おそらくルドヴィコがいう問題とやらには、彼女と同じ| 旧 宮 殿 《コルテ・ヴェッキア》の住人が絡んでいるのだろうと直感する。チェチリアに無関係な面倒事であれば、彼がここで話を渋る理由がない。
しかしチェチリアも、無理に事情を聞き出そうとは思わなかった。いずれにせよ食事時に相応しい話題ではないらしい。気まずい沈黙が訪れる前に、ルドヴィコが口調を変えて言った。
「それとは違う話なのだが……おまえをここに呼んだのは、実は相談したいことがあったからなのだよ」
「あちらの絵のことですね」
チェチリアは、壁際に飾られた素描に視線を移した。見慣れない素描だった。
「そうだ。無理を言ってレオナルドから借りてきた」
「レオナルド――師匠《マエストロ》レオナルド・ダ・ヴィンチが描かれたのですか?」
わずかに怪訝な表情を浮かべて、チェチリアは訊き返す。
たしかに美しい素描だった。目の粗い紙に銀筆であっさりと仕上げた習作だが、今のミラノでこれほどの作品を描ける画家は、彼以外には考えられない。しかし普段の彼の作品を見慣れた目には、この素描はどこか違和感がある。
「あの男がフィレンツェにいたころに描いた習作だ。ボッティチェリの作品の模写らしい」
「ボッティチェリ殿の……」
チェチリアは納得してうなずいた。あの有名な『プリマヴェーラ〈春〉』の作者――サンドロ・ボッティチェリの名は、彼女もよく知っていた。
レオナルドは、故郷フィレンツェでボッティチェリと出会っていた。レオナルドが、師匠アンドレア・デル・ヴェロッキオに師事していた時期のことである。当時、ヴェロッキオの工房で客分として働いていた八歳年上の兄弟子が、ボッティチェリ本人だったのだ。
ルドヴィコが借り受けてきた素描には、優雅に寝そべる二人の神の姿が描かれていた。
左側に涼しげな表情の着衣の女神、右側に半裸の男性神が配置され、彼らの背後で甲冑《かっちゅう》や武具を抱えた幼い半獣神《サテュロス》たちが踊っている。ボッティチェリらしい、華やかな構図の作品だった。普段のレオナルドの作品と違って思えたのは、そのせいだ。
「同じボッティチェリの作品であれば、あの男はプリマヴェーラよりもこちらのほうが好みだと言う。理由を聞くと、ボッティチェリの性格の悪さがよく出ているからだ、と」
ルドヴィコの言葉に、チェチリアは思わず苦笑した。それはいかにもレオナルドが言いそうな台詞《せりふ》だと思えたからだ。
先輩であるボッティチェリを、彼は時折そのような辛辣な言葉で皮肉った。ボッティチェリの描く風景は、壁に海綿を投げつけてできた染み程度でしかない、とまで放言したこともあった。しかしそれは彼がボッティチェリを軽んじているということではなく、彼なりの尊敬の表れなのだった。ボッティチェリの描く風景が芳《かんば》しくないという言葉は、裏を返せば、風景以外は申し分のない出来映えという意味なのだ。
「ウェヌスとマルスですね」
チェチリアは、金星《ウェヌス》と火星《マルス》を象徴する二人の神の名を口にした。ローマ神話の主要な神――美の女神と軍神である。彼ら二神の組み合わせは、古典古代の時代から、数多くの絵画や詩歌で取り扱われてきた人気の高い主題なのだった。
「さすがだな。レオナルドもそう言っていた」
壁際の素描を眺めて、ルドヴィコはつぶやいた。そこに描かれた女神の姿は、ボッティチェリが『プリマヴェーラ』にも描いた|美の女神《ウェヌス》に間違いないだろう。彼女と対《つい》を為《な》す男性神が軍神《マルス》だということは、背後の半獣神たちが抱えた甲冑と武具が表している。
半裸で眠っている軍神の様子は、それが房事のあとの気怠い眠りであることを連想させた。彼らの背後で踊る半獣神たちが、いたずら好きで好色な山野の精であることも、その素描をより扇情的に見せていた。
「たしかに艶《なま》めかしい絵だとは思うが、だからといってボッティチェリの性格に問題があるとは俺には思えぬ。そう言うと、あの男は哀れむように俺を見て笑ったのだ」
「では、もしかして閣下の相談事というのは――」
「ああ。その理由を知りたいと思ったのだ。とはいえ、この素描だけではな……これがどのような目的で描かれた絵なのかわかれば、あの男の真意も読み取れたのかもしれないが」
ルドヴィコは口惜《くや》しそうに唇を歪めた。チェチリアはそれを見て微笑んだ。
他国の政治家がルドヴィコを指して、獅子に似て狐に似る、と表現したことがある。勇猛さと知性を併せ持つという意味の警句である。それは宰相としてのルドヴィコの一面をよく表していたが、チェチリアはもっと簡単な言葉で彼を表現することができた。単純に、負けず嫌い、なのである。レオナルドのような奇矯な芸術家と気が合うのも、結局のところ彼らが似たもの同士だからなのではないかと思う。
「この作品は、おそらくボッティチェリ殿が、ヴェスプッチ家の婚礼のために描いた作品なのだと思います。夫婦の閨房《けいぼう》に飾るための壁画です」
食事を続けながら、チェチリアは言った。ルドヴィコが驚いて食器を鳴らす。ヴェスプッチ家はフィレンツェの名門の一族だ。有名だがミラノ公家とは直接の縁はない。
「どうしてそう思うのだ?」
「背景に雀蜂《ヴェスパ》が描かれていますから。ヴェスパとヴェスプッチ――簡単な語呂合わせですけれど、このような言葉遊びを芸術家は好みます。師匠《マエストロ》レオナルドも、閣下のために|桑の葉《モーロ》の紋章を描いたことがあったのではありませんか?」
「そうか……」
ルドヴィコは、うむ、と低く唸った。彼女が指摘した|桑の葉《モーロ》の紋章とは、レオナルドが、かつてルドヴィコの異称に着想を得て描いたものだった。本来モーロとは黒のこと。髪も目も黒く、浅黒い肌をしている宰相のことを、多くの者が畏敬をこめて、ルドヴィコ・イル・モーロと呼んでいる。
「雀蜂《ヴェスパ》はヴェスプッチ家の紋章か……名門の貴族なら、婚礼祝宴のための絵画をボッティチェリに発注しても意外ではないな」
感心したように何度もうなずいて、ルドヴィコは素描をじっと見つめた。やがて彼の表情に浮かんだのは新たな困惑だった。
「しかし、なぜそれでボッティチェリの性格に問題があるということになるのだ? 夫婦の閨房に飾るにはむしろ相応しい絵だと思うが……」
「いえ」
チェチリアは首を振って、苦笑した。
「マルスがウェヌスの夫であれば、閣下の仰るとおりなのでしょうが、残念ながらそうではないのです。ウェヌスの夫はウゥルカヌス――天界の名工、鍛冶の神です」
食事を喉に詰まらせたような音を立てて、ルドヴィコが呆然と目を開けていた。
ウゥルカヌス――ギリシャではヘパイストスとも呼ばれるこの神は、主神であるユピテルと女王神ヘラの息子であった。にもかかわらず、あまりにも醜く生まれついたために、一度は天界から追放されたといわれている。
成長し、卓越した鍛冶の技を身につけたことで天界への帰還が許された彼は、最も美しいとされる女神ウェヌスを妻に娶《めと》る。しかしそれは幸福な結婚ではなかった。愛欲の女神であるウェヌスは醜い夫を嫌い、次々に浮気を重ねた。そんな彼女の情夫の一人だとされているのが、逞しい軍神マルスなのだった。
「つまりこの絵は、婚礼祝宴のために描かれたにもかかわらず、不義密通の現場を表している、ということか。それは……」
声をくぐもらせたまま、ルドヴィコがつぶやく。チェチリアは黙って微笑んだ。
たしかに夫婦の閨房に飾るには、意味深すぎる絵画である。しかしそれはボッティチェリの性格が悪いということではなく、彼一流の諧謔《かいぎゃく》だと受け止めるべきなのだろう。それを理解しているからこそ、レオナルドはこの絵を気に入って模写までしたのではないか。チェチリアにはそう思えた。
「うむ……」
ルドヴィコは唸り続けている。そんな彼を見返して、チェチリアはふと笑みを消した。ウェヌスとマルスの情交――そのことが不意に恐ろしい想像を呼び起こした。
「この素描を、ほかにもどなたかにお見せになられましたか、閣下?」
何気ないふうを装って、チェチリアは訊いた。素描の主題に対する驚きからまだ立ち直っていないのか、ルドヴィコはほとんど上の空で首を振った。
「レオナルドから素描を借り受けたのが二週間ほど前のことだから、その間に私の部屋に立ち寄った者ならば目にする機会もあっただろう」
そうでしたか、とだけチェチリアは素っ気なく答えた。そのとき彼女はすでにほかのことを考えていた。一通の手紙のことである。その文面が脳裏に焼きついて離れない。
「なにか悩み事か、チェチリア」
放心している彼女に気づいて、ルドヴィコが訊いた。チェチリアは無理に微笑んで首を振る。
「いえ。なんでもありません」
それはあまり上手くない嘘だった。それでも、あの手紙のことを打ち明けるわけにはいかないのだった。彼にだけは。
彼女と最初に出会ったのは、私がミラノを訪れて間もないころだった。当時の私はフィレンツェからの使節という立場であり、その歓迎の宴に彼女も出席していたのだ。
清楚な衣装を身にまとった彼女には、他の貴婦人のような華やかさはなかったが、かわりに神々しいばかりの気品があった。彼女が宰相ルドヴィコ・イル・モーロの愛人であると聞かされたときには、大いに納得した。武人の家系に生まれたイル・モーロは、為政者としては成り上がりの新参者であったが、芸術に対する審美眼は抜群に優れているとの評判である。そんな彼ならば、彼女のような女性に惹かれないはずがないと思えた。
それからしばらくして、私は思いがけない形で彼女と再会した。
ほかならぬイル・モーロの依頼によって、彼女の肖像画の制作を任されたのだ。
それは私にとって願ってもない幸運な出来事だった。間近で接した彼女は想像以上の優美さを備えていた。彼女の聡明さも私を魅了した。私は、自らが遅筆で完全主義の芸術家であることを口実に、何度も足繁く| 旧 宮 殿 《コルテ・ヴェッキア》内にある彼女の住居に足を運んだ。
「師匠《マエストロ》」
彼女は私をそう呼んだ。高い教養を身につけた彼女との会話は、ほかの女性では決して与えてくれない満足感を私にもたらしてくれた。やがて完成した彼女の肖像画はミラノ宮廷で好評を博し、それがきっかけで私は十四人しかいないミラノの宮廷技師の職を手に入れた。彼女がイル・モーロに、私の採用を進言してくれたこととも、おそらく無関係ではなかっただろう。
互いに対する尊敬の念が、いつから恋愛感情に変わったのか、私にもわからない。
どちらが誘ったということもなく、私たちは自然に愛し合うようになった。
不思議なことに、それがイル・モーロに対する裏切りであると考えたことはなかった。私はイル・モーロという人物に好感を抱いていたし、それはある種の友情に近いものだった。
幼いミラノ公を宰相として補佐するイル・モーロは多忙で、名ばかりの愛人である彼女を訪ねてくる日は多くない。彼女はイル・モーロの他の愛人たちとは歳が離れていたし、家族とも疎遠になっていた。そのような彼女の孤独を癒すのが私の役割だった。彼女をイル・モーロから奪うことなど思いつきさえしなかった。イル・モーロも、彼女と同じように、私には必要な人間だったのだ。
彼女と出会ってから、二度目の冬が訪れようとしている。
その間に私の目に映る彼女は、いっそう美しさを増していた。宮廷での仕事も順調だった。このまま何事もなく同じような日々が続くと思っていた、そんなある日。
彼女は思い詰めた表情で、私にその手紙を差し出したのだった。
「これは?」
手渡された一通の手紙を眺めて、私は訝しげに問い返した。
房事を終えた直後の彼女は、長い髪をかき上げて弱々しく首を振った。ここ数日会わないでいるうちに、彼女は少しやつれたようだった。心なしか口数も少なく、表情が硬い。
「わかりません。気がつくと私の寝台の上に置かれていたのです」
彼女の言葉には、怯えたような響きがあった。手紙に封緘《ふうかん》はなく、差出人の名前も書かれていない。薄茶色の紙片を取り出すと、そこには短い文章だけが記されていた。
ウェヌスよ、わたしのウェヌス、
海の泡より生まれたる者よ
マルスと密通したおまえは
報いを受けることになるだろう
由々しき罪は
重い罰に値するのだから――
私は言葉を失った。そこには、私の顔を青ざめさせるだけの強烈な悪意がこめられていた。
聞き覚えのあるその文章は、おそらく有名な詩歌の一節だろう。ローマ神話におけるウェヌスとマルスの不義をうたった作品である。
単に詩歌を書き抜いただけの、どうということもない手紙だった。しかし今の私たちにとって、それは恐るべき事実を暗示していた。
この詩の作者は、自らをウゥルカヌスの立場になぞらえて書いている。ウェヌスを寝取られた夫のウゥルカヌスである。そしてこれはウェヌスにあてて書かれた詩だ。
この場合のウェヌスが、イル・モーロの愛人である彼女を示していることは、誰の目にも明らかだった。この手紙が彼女に届けられたという事実が、その証拠である。
ならばウェヌスと密通したマルスというのは、おそらく私自身のことなのだろう。
この手紙の差出人は、私たちの不義の関係を知っている。自分がそれを知っていることを、暗にほのめかすために、この手紙を送りつけてきたのだ。えげつない脅迫状だった。
「いったい誰がこのような手紙を……?」
私が訊くと、彼女は無言で首を振った。手紙の差出人は、これまでのところ、彼女に対してなにも要求してきていないらしい。
だからといって、このまま何事も起こらないということはないだろう。単に私たちの疚《やま》しい関係を咎《とが》めるつもりならば、あえてこのような皮肉めいた文章を書く必要はない。
この文面からは、私たちを不安にさせようとする書き手の意図が透けて見えた。静かな悪意が感じられた。
「わたくしたちは、もう会わないほうがよいと思うのです」
諦観した口調で、彼女は言った。
その言葉は、手紙の内容と同等の驚きと恐怖を私に与えた。彼女と二人きりで過ごすわずかな時間を奪われることは、私にとってなによりも苦痛だった。
しかし彼女の選択が正しいことも理解していた。おそらく私たちの関係を知れば、イル・モーロは激怒するだろう。イル・モーロと彼女の関係は正式な夫婦ではないのだから、私が罪に問われることはないが、それでも私がミラノから追放されるのは間違いない。そして彼女にも、おそらく不幸な結末が訪れるだろう。
そして手紙の差出人は、それを知った上で私たちを脅そうとしていた。私たちが会うことをやめたとしても、その人物が、私たちを脅迫するのを諦めるとは限らない。私たちは弱みを握られて、恐怖に怯えながら生きていかなければならなくなる。それは耐えられないことだった。
その日から、私は手紙の差出人を捜しはじめた。犯人の手掛かりになるものは少なかったが、まったく皆無というわけではない。
手掛かりのひとつは、手紙がラテン語で書かれていたことだった。| 旧 宮 殿 《コルテ・ヴェッキア》に出入りする人間なら最低限の読み書きができるのは当然だが、ラテン語を読める者となると限られる。
単なる小間使いや女中ではない。ある程度の地位や役職にある人物だと考えて間違いないだろう。ありきたりの脅し文句ではなく、詩歌を書き抜いてくるという洗練された手口からも、それは想像できることだった。
彼女のもとに手紙が届いたのは三日前のことだという。それは私が最後に彼女の住居を訪ねた、その翌日だった。差出人は、おそらくそのときに私たちの関係を知ったのだ。
しかし、私が彼女の住居を訪れたことを知り得た者は、ほとんどいないはずだった。その日、彼女の侍女は外出しており、私も従者を連れてはいなかった。
もちろん二人の関係について、私や彼女が第三者に漏らすことはあり得ない。唯一、彼女の侍女だけは薄々気づいていたかもしれないが、仮にそうだとしても、無口で評判のその侍女は忠誠心が厚く、私たちを陥れるような行動をとるとは思えなかった。
旧宮殿の造りは入り組んでおり、外部から中をたやすく見通せるものではない。あの手紙の差出人が、旧宮殿への出入りを許された人物だと決めつけても、決して的外れではないだろう。
そして宮廷技師である私が、イル・モーロの愛人である彼女の住居を訪ねるのは、それほど不自然なことではなかった。肖像画を描く以外にも、彼女が祝宴で使う衣装や装飾品を受注することが、これまでにたびたびあったからだ。
仮に私が彼女の住居に出入りしている姿を見られていたとしても、それだけで私たちが不義の関係にあると判じることはできないはずだ。つまり手紙の差出人は、私と彼女の秘事を知るために、なにかしらの手段を使ったことになる。
外界から隔離された| 旧 宮 殿 《コルテ・ヴェッキア》内の様子を知る方法。私にはそれがわからなかった。
何枚もの鏡を使って部屋の中をのぞき見る器具や、湾曲した板を使って音を集め、遠くの声を聞く装置――いくつか思いつくことはあるものの、どれも実現可能とは思えなかった。
それでも私は諦めなかった。実現が難しい方法であるということは、その手段さえわかってしまえば逆に相手を特定できると考えたのだ。私はその方法を探ることに没頭した。間近に迫った大聖堂《ドゥオモ》工事の競作をもなおざりにして、そのことばかりを考えていた。
そんなある日、あてもなく旧宮殿の中を彷徨《さまよ》い歩いていた私の耳に、一羽の鳥の鳴き声が飛びこんできた。私は雷に打たれたように立ちすくんだ。
得体の知れなかった差出人の姿が、そのとき初めて、明確な像となって私の脳裏に浮かび上がったのだ。
極彩色《ごくさいしき》の羽根の輝きとともに。
数日後、私は一人の男のもとを訪れた。
ダンジェロという名のその男は、宮廷に仕える| 詩 人 《ポエタストロ》だった。評価の高い人物ではない。旧宮殿に出入りする芸術家の中には純粋な芸術家である者と、宮廷人に近い者とが存在する。ダンジェロは後者の典型だった。巧みな弁舌で小器用に世の中を渡っているという印象の男だ。
突然の私の来訪にも、ダンジェロはそれほど驚かなかった。
「あなたとは、いずれこのような形でお会いすることになるとわかっていましたよ、師匠《マエストロ》」
涼しげな口調でうそぶく彼に対して、私は暗い怒りを覚えた。
彼女に送った手紙のことで話がある、と告げると、彼は空惚《そらとぼ》けるように首をひねった。だが、私が手紙に書かれていた詩の内容を諳《そら》んずると、彼は愉快そうに微笑んでみせた。
「その詩のことならば知っています。それはロレンツォ・デ・メディチの作品ですよ、師匠《マエストロ》」
訳知り顔でつぶやくダンジェロを、私は黙って睨みつけた。| 豪 華 王 《イル・マニーフィコ》とも呼ばれるメディチ家のロレンツォは、私の故郷であるフィレンツェの事実上の君主である。そのロレンツォの詩を脅迫状に書き記すという行為が、私に対するあてこすりに思えて腹立たしかった。
「なるほど――彼女に届いたその手紙が、あなた方に対する脅迫ではないかと疑っているわけですね」
他人事《ひとごと》のように感心して、ダンジェロはうなずいた。しかし、ふと首を傾げて考えこむ。
訪れた沈黙に、部屋の中で飼われていた鳥が鳴き声を上げた。太い止まり木に脚をつながれた美しい鳥である。
「ところで、なぜその手紙の差出人が私だと思われたのです?」
不思議そうに訊いてくる彼を見て、私は薄く微笑んだ。会心の笑みだった。
鸚鵡《おうむ》ですよ、と説明するとダンジェロは驚いたように眉を上げた。まさか、それだけのことで私が彼の存在を突き止めたとは思っていなかったのだろう。
鸚鵡という鳥の飼育の歴史は古い。
古代ギリシャでは、インドから運びこんだこの鳥を飼育することが喜ばれたと言われている。よく人に馴れ、物まねの巧いこの鳥はヨーロッパでも珍重され、このミラノの宮廷にも飼育する者が多かった。彼女もその中の一人だった。
私と彼女の関係を口外する人間がいるとは、どうしても考えられなかった。だが秘密を漏らしたのが人間でないとしたら話は違ってくる。鸚鵡は人を真似て言葉を話すのだ。
鸚鵡は珍しい鳥なので、飼育法があまり知られていない。飼っていれば様々な疑問が湧く。自然な成り行きで、飼い主同士の親交が深まり、愛鳥を連れて集まることもあるだろう。その席で、彼女の鸚鵡が私たちの関係を匂わすような言葉を口走るのは、複雑な装置を駆使して| 旧 宮 殿 《コルテ・ヴェッキア》の中の居室をのぞくよりは、はるかにありそうなことだと思われた。
ラテン語の詩歌を解し、旧宮殿への出入りが許される立場の者。その中で鸚鵡を飼っており、しかも彼女と親交のある人物を絞りこむのは、そう難しいことではなかった。ダンジェロについて調べていくうちに、ここ最近、彼が親しげに彼女につきまとっているという噂も耳にした。
そのことを私が解説していくと、ダンジェロの態度に変化が表れた。礼儀正しかった言葉遣いが乱れ、表情に粗野な笑みが浮かぶようになったのだ。
「では、その手紙の差出人が私だったとして……あなたは、なにが目的で私に会いに来たのです、師匠《マエストロ》?」
彼女を脅迫するような卑劣な行為は、やめてもらいたいのだ、と私は言った。
「脅迫?」
彼は愉快そうに声を上げて笑った。
「しかしその手紙だけでは、なにもあなた方を脅しているとは限らないのではありませんか。もちろん、そのような不義の関係は、早めに終わらせて正解だったと思いますがね。今後あなたとは会わないという彼女の判断は賢明ですな」
「あなたの仰《おっしゃ》るとおりです、ダンジェロ殿」
私は素直にそれを認めた。しかし分別くさく振る舞う詩人の態度が、彼の本心ではないこともわかっていた。
「その機会を与えてくれたあなたには感謝しています。ですが、こうしてあなたに知られてしまった以上、このままでは、私はいつか自分の過ちが露見するのではないかと怯えながら暮らすことになってしまいます」
「なるほど……私の口止めをしたい、というわけですか」
つぶやくダンジェロの瞳の奥に、獣じみた貪欲な光が浮かんだ。こみ上げる嫌悪感を抑えながら、私は慇懃《いんぎん》にうなずいた。
「はい。もちろん相応の礼金は支払わせていただきます。同じ宮廷人として、これからもダンジェロ殿とは親しくさせていただきたいと思ってますし、まずは友情の証として」
「そう言われては断る理由がありませんな……」
ダンジェロは満足げにうなずいた。それからわざとらしく付け加えた。
「しかし誤解のないように言っておきますが、私には、あなた方のことを触れ回るつもりなどなかったのですよ。このようなことであなたの才能を失うのは、ミラノ宮廷にとっても大きな損失ですからな」
「そう仰っていただけると助かります」
私は安堵したように息を吐き、ダンジェロにやや少なめの金額を提示した。そのほうが本気らしく見えると考えたのだ。予想どおりダンジェロは不満そうな態度を示したが、私が、手持ちの美術品をいくつか加えることを約束すると納得した。
美術品の受け渡しの場所として、私は大聖堂八角塔《ドゥオモテイブーリオ》の設計案の選考会場を指定した。その日、ダンジェロは宮廷の職員の一人として選考に参加することになっていたからだ。
私に恨まれている可能性を考えないほど、ダンジェロは愚かな男ではないはずだった。
しかし私がその場所を指定したことで、彼の警戒心は目に見えて緩んだ。大勢の人間が集まる選考会場で、私が彼に危害を加えることはあり得ない――おそらくそんなふうに考えたのだろう。それこそが私の狙いだった。
私から彼女を奪おうとする者を、許しはしない。
私は最初から迷いなくダンジェロを殺すつもりだったのだ。
その日、用意した短刀で、私はダンジェロの脇腹を刺した。短刀の先が肋骨にあたって嫌な感触を残したが、研ぎ澄まされた刃はそのまま深々と彼の体内に吸いこまれていった。
金貨を詰めた麻袋に目を奪われていたダンジェロは、抵抗することもできなかった。
あっさりと倒れ伏した詩人を見下ろし、私は笑い出したいような気分になった。返り血が目立たないよう黒い布地の上着を着てきたのだが、その必要もなかったらしい。
場所は、| 旧 宮 殿 《コルテ・ヴェッキア》の広間に隣接した小部屋だった。
選考に漏れた設計案や模型を、一時的に保管しておくための部屋だ。扉には錠前がついていたが、鍵穴から中がのぞける程度の単純な造りで、合い鍵を用意するのは簡単だった。
すでに意識をなくしたダンジェロには目もくれず、私は作品の最後の仕上げに取りかかった。
用意してきた画板を扉に貼りつけ、その場にあった模型を使って、適当な高さに鏡を立てかける。鏡と扉までの距離を正確に測ることだけが厄介だったが、それで準備はすべて整った。
倒れたダンジェロの身体から、赤い影のように血だまりが広がりつつあった。私はそれを確認すると扉を開けて広間に出た。合い鍵を使って施錠すると、当然のことだが、扉はもう開かなくなった。本物の鍵を持っているのは、おそらくイル・モーロの秘書官だろうが、彼らがこの部屋を開ける理由はない。
広間では夕食会の準備が始まっていた。選考に参加した大聖堂当局の司教たちを、宮廷側がもてなすためのものである。私たちのような芸術家や楽士たちを招いての、大げさな催しだ。
「なにをなさっているのです、師匠《マエストロ》?」
私が扉の前に立っていると、顔見知りの官吏たちが声を掛けてきた。
ダンジェロ殿を捜しているのだ、と私は答えた。
「頼まれていた美術品を渡そうと思って持ってきたのだが、彼の姿が見あたらなくてね。部屋の中にいるのではないかと思ったのだけれど」
「それでしたら、中をのぞいてみましょうか」
年若い官吏の一人が自ら申し出て、鍵穴に目を近づけた。
「そんなところから見えるのかい?」
「はい。部屋の中が暗いと巧くいきませんが、日暮れ前ですから。隅々までよく見通せます」
得意げに告げてくる官吏を見下ろして、私は笑い出すのを我慢していた。官吏は扉に顔を寄せたまま、しばらく動きを止めていたが、
「この部屋には誰もいませんね」
そう言って埃を払いながら立ち上がった。私は満足してうなずいた。
私はそのまま何喰わぬ顔で会食に参加した。料理はよい出来だった。ダンジェロを捜しているという人物に何人か出会ったが、彼らの中にダンジェロを見つけ出すことができる者はいなかった。それも当然のことだろう。なぜなら今ごろダンジェロは、誰にも見えない部屋の中に倒れているのだから。
翌日、八角塔《テイブーリオ》の設計案の最終候補作品が発表された。
私の作品は選外だったが、その結果に私は満足していた。大聖堂《ドゥオモ》は今もミラノ市街の中央に未完成の偉容を晒《さら》している。その姿を見上げるたびに、私は晴れやかな気分になるだろう。
そのことを早く彼女に伝えたいと、私は思った。
十一月も半ばを過ぎたある日、チェチリア・ガッレラーニは、久々にレオナルドと顔を合わせた。例の素描を返しにいくというルドヴィコに同行して、彼の工房を訪れたのである。
異郷人の芸術家は、亜麻仁油と顔料の臭いに満ちた居室で彼女たちを出迎えた。表情から、すぐに彼が不機嫌であることがうかがい知れた。彼が拗《す》ねている原因が、ルドヴィコにあることは明白だった。やはりルドヴィコと一緒に来るべきではなかったか、とチェチリアは少しだけ後悔した。
「八角塔の設計案が不採用になったことを、まだ根に持っているのか」
前置きもなく、ルドヴィコがそう言った。あきれたような声だった。
「当然だ、イル・モーロ。あの作品は洗練されたトスカナ様式で、しかも他に類をみない二重骨組構造で造られた画期的な設計案だったのだ。それを不採用にして選んだのが、かわり映えのしないゴシック様式の作品では、選に漏れたぼくの作品が浮かばれないというものだよ」
レオナルドは不満そうな口調でそう言った。
「仕方あるまい。大聖堂《ドゥオモ》の本体が十四世紀に着工した古い建築なのだ。全体の調和を考えれば、八角塔《テイブーリオ》だけを目新しいものにするわけにはいかないと、建築委員も言っていただろう」
ルドヴィコが彼をなだめるように言った。大聖堂工事の建築委員長は、宮廷技師であり有名な建築家《アーキテットーレ》のブラマンテである。彼の決定であれば、レオナルドはもちろん、ルドヴィコですら異論を挟むことはできないのだ。
しかし落選したとはいえ、レオナルドの設計案は人々に驚嘆と喝采《かっさい》をもって受け入れられていた。ブラマンテ本人でさえ、その設計の素晴らしさについては賛辞を惜しまなかった。
そもそも、気まぐれで知られたレオナルドが、何十年もかかる大聖堂の工事などに本気で興味を示すとは、チェチリアには思えなかった。彼は落選することを見越して、わざと大聖堂に調和しない先進的なトスカナ様式の設計案を提出したのではないか、という気がした。名を取って、実《じつ》を捨てたのだ。
それを指摘するべきかどうかチェチリアが迷っていると、物言いたげな彼女の様子に気づいたのだろう。レオナルドが、にやりと微笑んだ。どうやら彼も、本気で拗ねていたわけではないらしい。
「その様子ではボッティチェリの絵の謎は解けたようだな、イル・モーロ」
がらりと口調を変えて、レオナルドは言った。ルドヴィコは苦笑めいた表情でうなずく。
「婚礼祝宴のために発注された絵に、密通の場面を描く程度には、ボッティチェリも人が悪いということはわかったよ」
「なるほど。彼女の入れ知恵だな」
レオナルドは目を細めて、チェチリアを見た。チェチリアは曖昧に微笑んだ。その絵画の主題について、ルドヴィコがいるこの場では談笑する気分になれなかったのだ。
嗅ぎ慣れない画材の臭いに、チェチリアが連れてきた白貂《しろてん》が鼻を鳴らした。彼女は多くの動物を飼っていたが、中でもこの貂は彼女のお気に入りだった。レオナルドに頼んだ肖像画にも、彼女はこの貂を抱いた姿で描かれている。リベラというのが貂の名前だ。
「……それで、イル・モーロ。ダンジェロを殺した犯人はまだ見つかってないのかい?」
戻ってきた素描をひとしきり眺めたあと、レオナルドがぽつりとつぶやいた。
チェチリアは驚いて息を呑み、ルドヴィコがぎくりと顔を上げた。
「驚くようなことではないだろう。この| 旧 宮 殿 《コルテ・ヴェッキア》の中で死体が見つかったんだ。口止めしたつもりかもしれないが、結構な噂になっているよ」
レオナルドは、不思議そうな目つきでルドヴィコを見上げて言った。すべてを見透かしたような口調だった。
「まさか絵を返すためだけに、わざわざ足を運んだわけではないのだろう? だったら殺人のことを調べるために来たと考えるのが自然じゃないか。あの日の夕食会を主催したのはきみだし、設計案の選考会にはぼくも顔を出していたからね。ダンジェロは、広間のすぐ隣で殺されていたんだって?」
「ああ……」
ルドヴィコは唇を噛んでうなずいた。宮廷が主催した夕食会で殺人が起きたというだけでも、不名誉なことである。ましてや、その場に大聖堂《ドゥオモ》の司教たちが居合わせたというのなら尚更だ。なるべく早くに犯人を捜し出さなければ、ミラノ公の権威に関わる。そのことでルドヴィコは頭を痛めていたのだろう。
「噂になっていると貴様は言ったが、ダンジェロの死に様についても、なにか聞いているか、レオナルド?」
「いや? なぜだ?」
「奇妙な死に様だったのだ」
ルドヴィコは、ほんのわずか声を潜めて言った。
「無惨な死体であるのは間違いないが、それよりも奇妙だ。俺にはどうしてもそれが気がかりで、こうして訊いて回っているのだ」
「面白いな……話してみろよ、イル・モーロ」
レオナルドが、ちらりと唇を舐めた。有能な宰相の困惑ぶりが、気まぐれな芸術家の興味を刺激したらしい。ルドヴィコは傍にいるチェチリアを気遣うように振り返ったが、結局そのまま話を続けた。
「ダンジェロは審査員として選考会に参加していた。奴自身は建築家《アーキテットーレ》ではないが、大聖堂当局に縁故があったし、ミラノ聖堂を讃《たた》える詩を書いて司教たちに気に入られていたからな」
そのダンジェロが姿を消したのは、選考会を終えて、宴席の準備をしているわずかな時間のことらしい。祝宴において即興詩を作り、人々を楽しませるのが宮廷詩人の役割である。その役割を放棄して離席した彼にミラノ公は怒り、官吏たちに行方を捜させたという。
しかしダンジェロは見つからなかった。| 旧 宮 殿 《コルテ・ヴェッキア》の広間はもちろんのこと、その周辺やダンジェロの私邸にまで捜索は及んだが、彼の姿を見た者はいなかった。
「ダンジェロが見つかったのは、翌朝のことだ。選に漏れた設計案や模型を片づけようとした、大聖堂当局の助祭が見つけた。広間のすぐ横の小部屋に倒れていたのだ」
「夕食会のときには、その小部屋は調べなかったのかい?」
レオナルドが短く質問を挟んだ。ルドヴィコはすぐに首を振った。
「もちろん、真っ先に調べたとも。いちいち扉を開けて見て回ったわけではないが、広間の周辺は造りが古くて、鍵穴から部屋の中が簡単にのぞける。ダンジェロが倒れていたのは、部屋の奥の見通しがいい場所だ。誰も気づかないわけがない」
「すると夕食会のときにはダンジェロはまだ生きていたということになるな?」
「うむ」
ルドヴィコはうなずいた。訪れた短い沈黙を使って、チェチリアは控えめに発言した。
「どこか違う場所で殺されて、夕食会が終わったあとに、運びこまれたということはないのですか?」
「いや。おそらくそれはない」
重々しい口調で、ルドヴィコは言った。レオナルドは軽く眉を寄せた。
「それは、死体の様子が奇妙だということと関係があるのか、イル・モーロ?」
「そうだ。ダンジェロの脇腹には、短刀で刺し貫かれた傷痕があった。そこから流れ出た血が、床一面に広がっていた。それを踏んだ足跡も残っていない」
「その場で殺されたのでなければ、そうはならないな」
レオナルドが独りごとのようにつぶやいた。チェチリアも反論を諦めた。
生きたままほかの場所に閉じこめておき、夕食会が終わったあとに運びこんで殺すという方法も考えられる。だが、それはおよそ現実的ではなかった。選考会を終えたばかりの広間には、数十人の人間がいたのだ。大人の男を隠して運び出すことなど、できるとは思えない。
そんな苦労をしてまで、無理に| 旧 宮 殿 《コルテ・ヴェッキア》の中でダンジェロを殺さなければならない理由も、思いつかなかった。首尾よくダンジェロを運び出すことができたのなら、ひと気のない場所で殺してしまえば済むことなのだ。
ルドヴィコは、深く嘆息して続けた。
「それよりも奇妙なのは、ダンジェロの手が切り落とされていたことだ」
「……手が?」
「そうだ。殺人犯は、ダンジェロを殺したあとで彼の手を切り落とした。手首の部分で、左右両方ともだ。床に斧を振り下ろした跡も残っていた」
「ほう……」
不快そうに顔をしかめるルドヴィコとは対照的に、レオナルドは奇妙に冷静な声でつぶやいた。手首の切断に使われたのは、ダンジェロを刺し殺した短刀ではなく、暖炉脇にあった手斧だったという。切り落とされた両方の手首は、暖炉の中に投げ捨ててあったらしい。暖炉には火が入っていなかったので、それがダンジェロ自身の手であることはすぐにわかった。
「殺されたのが、たとえばレオナルド――貴様のような芸術家だったのならば、まだ理解できる。貴様に対して恨みを持つ者が、貴様が作品を作り出すその手を切り落とすという気持ちになっても、それは想像の範疇だ」
「しかしダンジェロは詩人だった?」
「そうだ。しかも犯人は、切り落とした手が欲しかったわけではない。無造作に暖炉の中に捨てていったのだ。なんのためにそんなことをする?」
「なるほど……詩人か……」
思い詰めたようなルドヴィコの問いかけには答えず、レオナルドはぼんやりとつぶやいた。
「切り落とされた手には、ほかになにか特徴はなかったか、イル・モーロ? そうだな……たとえば目立つ傷痕とか?」
「傷痕? そんなものは……いや、あったな。短刀の先で傷つけたような痕があった」
ルドヴィコは怪訝《けげん》そうにつぶやいた。手首そのものを切り落とした犯人が、掌に傷をつけていたとしても不思議はない。そんなふうに言いたげだ。
「ほう……それは、もしかして左右ともに残っていたのではないか? 掌から手の甲に向けて貫通するような傷痕が?」
ルドヴィコが、ぎくり、と表情を強張らせてレオナルドを見た。
「なぜ、わかった?」
「そうか。やはりな」
レオナルドは愉快そうに顎を撫でた。ルドヴィコは絶句して固まっている。チェチリアは、白貂の背中を撫でながら、なぜレオナルドが、そのような思考にたどり着いたのか考えていた。
両手を切り落とされるまでは、ダンジェロの死体には三カ所の刺し傷があったことになる。脇腹と左右の手。死体の手が切り落とされたと聞いたときに、レオナルドは真っ先にそれを予想したらしい。三カ所の傷というのが、なにかの符合なのだろうか。
考えこむチェチリアの腕の中で、白貂のリベラが鳴き声を上げた。くるくると身体をひねっているうちに、尻尾がチェチリアの帯の結び目にからまってしまったらしい。その瞬間、チェチリアの脳裏に閃くものがあった。結び目と、三カ所の傷。
「清貧、貞潔、服従……ですね、師匠《マエストロ》?」
つぶやくチェチリアを振り返って、レオナルドが意味ありげに微笑んだ。
ルドヴィコだけが眉間にしわを刻んでいる。なにを言っているのだ、という疑念の表情だ。
「そんなことよりも、レオナルド――貴様も宮廷技師ならば、誰の目にも触れずに死体を隠す方法を思いつかないのか? それさえわかれば大聖堂《ドゥオモ》の司教たちにも、まだ言い訳が立つのだ」
ルドヴィコの表情が、悲壮なものに変わっていた。宴席の隣に死体が転がっていたことにも気づかなかった――そんなことが法王庁の耳に届けば、ミラノ公家の存亡に関わる問題なのだとルドヴィコは言った。現ミラノ公ジャン・ガレアッツォはまだ幼く、ミラノ公家の基盤は盤石《ばんじゃく》にはほど遠いのだ。しかしレオナルドは、素っ気なく首を振る。
「そんなことは最初からわかっていたよ。もっとも、これはぼくにしかわからないことなのかもしれないが……」
ルドヴィコは、ゆらりと立ち上がる異郷人の芸術家を、呆然と見つめた。
「それにおそらく犯人の名前もわかった。ダンジェロ殿が死の間際に教えてくれた」
「な……だが、あの部屋にはダンジェロの伝言など、どこにも……」
かすれた声でルドヴィコが言う。彼を見下ろして目を細め、レオナルドは淡々とつぶやいた。
「あの選考会に参加していた人々の中に、フランチェスコ、という男がいなかったかどうか、捜してみるといい。フランチェスコ……ぼくと同じ芸術家。フィレンツェ人だ」
チェチリアとルドヴィコは、ただ唖然としてその場に立ち尽くした。
それは美しい娘だった。
透けるように色が白く、胸元の大きく開いた華やかな衣装がよく似合う。ほっそりと美しい彼女の姿は、絵画の中に描かれる妖精の姿を連想させた。膝に抱いた白貂の背中を撫でながら、淡い茶色の瞳を物憂げに伏せている。
娘の隣には、ゆったりとした衣服をまとった長身の男。こちらもよくできた英雄像を思わせる美丈夫だ。同じ宮廷技師として、私は彼の名前をよく知っていた。
しかし彼はおそらく私の名前を知らないだろう。彼――レオナルド・ダ・ヴィンチは、ミラノ宮廷にたった一人しかいない『|公 国 付 技 術 家 兼 画 家《エンジエナーリオ・エト・ピクトレス・ドウカーリ》』なのである。
「本日は、お招きいただきありがとうございます――師匠《マエストロ》」
私は丁寧に挨拶した。
レオナルドもまた真面目な態度で、突然私を呼びつけた非礼を詫びた。奇矯な男だと聞いていたが、気難しい様子は感じられなかった。物腰は柔らかく、言葉遣いも洗練されている。
しかし、そのことが私をよけいに緊張させた。私は薄々気づいていた。ほとんど面識がなかった私を、彼がこの時期に呼び寄せるとしたら、その理由はひとつしかなかった。
ダンジェロ殺しのことである。
私が作り上げた見えない部屋の正体を、この男ならば見破ることができる。いや、見破れるのは彼しかいないのだ。私と同じフィレンツェ人であるレオナルド・ダ・ヴィンチしか。
「突然、あなたを呼びつけたのは、あなたの作品を拝見して興味を持ったからなのです。大聖堂八角塔《ドゥオモテイブーリオ》の建設案選考会の日のことです」
彼はそう説明した。その言い回しに、私は小さな引っかかりを感じた。彼は、私が考案した設計案に興味を持った、とは言わなかった。
選考会の日の私の作品に興味を持った、と言ったのだ。ダンジェロを殺した際に作り上げた、見えない部屋。あの部屋を私は、自分で作り上げた美術作品のように感じていた。そのことを正確に指摘されたような気がして、ぞっとした。
「――ブルネレスキの鏡、をご存じですか?」
なんの前置きもなく、彼が訊いてきた。知っている、と私は答えた。
フィレンツェ出身の芸術家であれば、ブルネレスキの名前を知らないものはいないだろう。フィレンツェの象徴とでもいうべき、『| 花 の 大 聖 堂 《サンタ・マリア・デル・フィオーレ》』の大円蓋《クーポラ》を設計した建築家《アーキテットーレ》こそがブルネレスキなのである。
そのブルネレスキは、ある日、友人たちを集めて奇妙な装置の実験を行ったという。それが、ブルネレスキの鏡、と呼ばれる装置だった。
彼はまずフィレンツェの象徴である大聖堂を、画板の上に克明に写し取った。その画板の中央には、あらかじめ穴が開けられていた。鍵穴ほどの小さな穴である。
そしてブルネレスキは、その画板と手鏡を、友人に手渡した。
友人たちは画板の裏側から小さな穴をのぞきこむ。その穴の正面には、もう一方の手に持った手鏡がある。したがって彼らは、画板の表側に描かれた大聖堂の絵を、手鏡ごしに鑑賞することになる。そこに映し出された光景に、彼らは愕然としたことだろう。
ちっぽけな板にかかれた大聖堂が、彼らの目には、実物と同じ巨大さをもって映し出されたのだ。ブルネレスキは遠近法を利用して、人々の両腕の間に、大聖堂を出現させたのである。
遠近法とは、現実の物体の大小関係を数学的に縮尺して再現するということである。人間は、そうやって描き出された虚構の景色を、現実のものと区別できない。それが、ブルネレスキが鏡によって証明した遠近法の働きだった。
「仮に何者かが、| 旧 宮 殿 《コルテ・ヴェッキア》の小部屋を、正確に写し取った絵を用意していたとします」
レオナルドが説明を続けている。
「その人物は、部屋の扉にその絵を貼りつけた。もちろん絵には、扉の鍵穴と同じ位置に穴が開いていたのでしょう。そして鍵穴の正面には鏡を置く。もし鍵穴から部屋の中をのぞく者がいたら、彼の目に映るのは実際の部屋ではなく、部屋の様子を写し取った絵です」
「なるほど……ブルネレスキの鏡と同じ原理ですね」
私は平静な声でそう言った。自分でも不思議なくらい動揺はなかった。同じフィレンツェ人であるレオナルドならば、私の「見えない部屋」の仕組みに気づいても不思議ではない。
だからといって、フィレンツェ人だからという理由だけでは、私がダンジェロを殺した犯人だと確定することはできないだろう。あのとき使った鏡と板絵は、死体が発見される前に運び出し、とっくに処分して残っていないのだから。
「もしかして、それはダンジェロ殿が殺されたときのことを言っておられるのですか?」
私は、ようやくそれに気づいた、という態度で、レオナルドを見返した。
レオナルドはうなずいて、
「彼が殺された部屋に行ってみました」
と答えた。私は演技ではなく、顔をしかめた。そういえばこの男には、処刑場や死体の解剖現場を訪れて、その様子を素描しているという不気味な噂があるのだった。
「ダンジェロ殿の死体は運び出されて残っていませんでしたが、彼の血痕は残っていました。それから、選考に漏れた設計案の模型も」
「その中には、たぶん私が提出した作品もありますね。あなたの、あの素晴らしい作品も」
私がそう言うと、レオナルドは小さく肩をすくめた。彼の作品は、私の目から見ても素晴らしい出来映えだったのだが、本人はあまり興味がないらしい。
「……そうですね。もっとも模型を見ただけで、誰の作品か言いあてることができる者は選考委員の中にもいないでしょう」
彼の言葉に私も賛成だった。ダンジェロが、私の作品を利用して自分を殺した犯人の名を伝えようとしても、それは絶対に不可能だ。それが私が平静でいられる理由のひとつだった。
「ですが、その部屋で少し面白いことに気づきました」
レオナルドのつぶやきに、私は不快な胸騒ぎを覚えた。
「ダンジェロ殿が倒れていた場所にいちばん近い模型の中の、穹窿《アーチ》、屋根《テット》、塔《トーレ》の部分にだけ、血の跡が残されていたのです。ほかの部分はなんともないのに、そこだけに」
なんのことだ、と私は眉をひそめた。ダンジェロの執念が、じわじわと私の周囲を黒く覆い尽くしていくような、不快な気分だった。
「最初はなんのことかわからなかったのですが、簡単な言葉遊びでした。穹窿《アーチ》、屋根《テット》、塔《トーレ》を続けて読むと、建築家《アーキテットーレ》になります」
「あ、ああ……」
私の心臓が小さく跳ねた。ダンジェロと最初に会ったときに、私は自分のことを建築家だと名乗った。設計案の選考会で金を受け渡すことにするためには、そのほうが都合がよかったからだ。しかし私には建築家としての実績が乏しい。そのことに感謝したい気分だった。
「なるほど。しかし建築家といっても、あの場所には……」
「そうです。大勢の建築家が集まっていましたから、もしダンジェロ殿が自分を殺した人物の名を伝えようとしても、それだけではなにを意味しているのかわかりません。彼は両手を切り落とされていましたから、文字で書き残すことはできなかったのです」
「両手を……それは残酷ですね。いったい犯人は彼にどんな恨みが……」
私は、わざと大げさに驚いてみせた。官吏たちの間では口止めが為されているらしく、ダンジェロの死に様については、いまだに詳しい情報が伝わっていないのだ。
しかしレオナルドは私の顔を見ようともせず、ぼそりとつぶやいた。
「恨み、だったのかな?」
私は唖然として彼を見つめた。声を出すことができなかったのだ。長い髪を払って、彼は顔を上げた。
「失礼。ですが、ダンジェロ殿は詩人でした。とっさにそんな語呂合わせを思いつくくらいの彼ならば、詩歌の技術として必要とされるほかの手段――たとえば暗喩《あんゆ》などで、犯人の名前を残そうと考えても意外ではないでしょう?」
私は沈黙した。目の前にいる美しい男を、私は初めて恐ろしいと感じた。彼は奇妙に澄んだ眼差しで、私を正面からじっと見つめた。
「犯人は、ダンジェロ殿の両手を切断して暖炉に捨てていました。詩人である彼の両手を切り落とすのは、怨恨《えんこん》が理由にしては不自然です。つまり犯人には、彼の手を切らなければならない理由があったのだと思います。なにかを隠すために、彼はダンジェロ殿の手を切り離した」
「なにか……とは、なんです?」
私は思わず訊き返した。声が裏返るのではないかと不安だったが、沈黙しているのも不自然だと感じたからだ。
「ですから、犯人の名前を指し示す暗喩です。偶然なのか故意なのかわかりませんが、犯人はダンジェロ殿の右脇腹を短刀で刺した。ダンジェロ殿はそのことを利用したんです。身体に刺さったままの短刀を抜いて、それで自分の両手に傷をつけた――磔刑《たっけい》になった神の子と同じ場所に」
「死の前に、自分を神の子になぞらえたわけですか?」
私は的はずれな言葉を投げかけてみた。しかしレオナルドは表情を動かさない。
「いえ。聖痕ですよ」
「……聖痕?」
「そう。神の子と同じ場所に聖なる傷痕を得た聖者の証――両手に聖痕を持つ聖者は何人もいますが、右脇腹にも聖痕を持つ聖者といえば、真っ先に思い浮かぶ人物は、あなたと同じ名を持つあの御方でしょう――師匠《マエストロ》フランチェスコ殿」
「……アッシジの聖フランチェスコ」
私は無意識につぶやいた。自分と同じ名を持つ聖者のことは、もちろんよく知っている。富豪の家に生まれながら、自らの私財をなげうって聖堂の修繕にあたった聖者。
彼は六翼の熾天使《してんし》と出会うことで、歴史上、初めて聖痕の奇跡を得た聖者だといわれている。だから、宗教画で彼を描く際には、両手と脇腹の聖痕を特徴として描き入れるのだ。
「あなたは気づかなかったようですが、ダンジェロ殿は自分の帯に、三つの結び目も残していたそうですよ」
「清貧、貞潔、服従……ですか」
私は苦笑してつぶやいた。聖フランチェスコ会の創始者でもある彼は、それら三つの美徳を掲げて活動したのだ。肖像画に描き入れる帯の三つの結び目が、その美徳を象徴している。芸術家なら誰もが知っていることだ。
私は妙に醒めた気分で、レオナルドを睨んだ。
ブルネレスキの鏡を利用した、見えない部屋の秘密は暴かれた。
夕食会の時点では、ダンジェロの死体はあの部屋になかった。そう錯覚させることが、私の無罪を証明する唯一の方法だったのだ。その上でダンジェロの遺言にまで気づかれては、私に嫌疑がかかるのは時間の問題だろう。フィレンツェ人で建築家《アーキテットーレ》のフランチェスコといえば、あの場所には私一人しか存在しないのだから。
しかし同じフィレンツェ人であるレオナルドが、私の罪を暴いたという事実が、私に冷ややかな怒りをもたらした。同胞に裏切られたような気がしたのだ。
「あなたは、なぜ私がダンジェロ殿を殺したのか、訊かないのですね?」
なじるような口調で、私は言った。
すると、レオナルドは意外な表情を浮かべた。決まり悪そうに唇を歪めて苦笑したのだ。
「ほんとうならばこんな真似をするのは、ぼくの本意ではなかったのだ。だが、彼女に頼まれてしまったのでね」
そう言って、彼は、傍らにいる美しい娘を見た。チェチリア・ガッレラーニという名前の、若い娘。私が愛している彼女[#「彼女」に傍点]とは親子ほども歳が離れているが、この娘もまたイル・モーロの愛人であると噂される女性だった。
「あなたがダンジェロ殿を殺害した理由なら、わたくしが存じています」
つぶやく彼女を見て、私は言葉を失った。薄茶色の大きな瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちていく。彼女は泣いていたのだった。
「わたくしは、……様から相談を受けていたのです」
娘は、私の愛する彼女の名前を告げた。
「あの方は、ご自分が宰相閣下の愛人でありながら、あなたと情事を重ねていたことを、わたくしに告白してくださいました。そして、あなたに手紙をお渡ししたことも」
娘の口から手紙のことを聞かされて、私は激しく狼狽した。なぜチェチリアがそのことを知っているのか、理解できなかった。
「あの方は宰相閣下が持っていた絵から着想を得て、一通の手紙を書いたのです。自分たちの情事が何者かに知られたかのような文章です。その手紙を見せれば、あなたが宰相閣下を恐れて、自分に会うのを避けるようになると思ったから……あの方は、あなたとの関係を終わらせたいと思って、そのような手紙を作ったのです」
「な……」
私の口から、言葉にならない声が漏れた。ウェヌスにあてて贈られた詩の一節。あの手紙は彼女が自ら書いたというのか。私を遠ざけるためだけに。
「ですが、あなたは必死で手紙の差出人を捜そうとしました。あの方は、そのことをひどく恐れました。なぜならあの方には、すでに心に決めた人がいたからです。いずれは宰相閣下にもそのことを打ち明けて、結婚するつもりでいると仰っていました……ですが……」
「……ダンジェロ」
私は呆然とつぶやいた。
娘は、私を哀れんで泣いていたわけではなかった。チェチリアは、彼女のために泣いていたのだ。嫉妬に狂った男に、愛する者を殺された彼女のために。
鸚鵡ではなかった。私と彼女の秘め事をダンジェロに漏らしたのは鸚鵡などではなかった。彼女自身だったのだ。ダンジェロは、私の稚拙な推理を、嘲《あざけ》りながら聞いていたのに違いない。
考えてみればダンジェロは、自分が手紙の差出人であるとは一言も告げていない。口止めしたいという私の申し出を受けて、彼はいくらかの小遣いを稼ごうと思いついたのだ。だから自分と彼女の関係を隠して、私の提案を受け入れた。私はただ彼に振り回されただけなのだ。
「この場所に宰相閣下が同席していないのは、わたくしがそのようにお願いしたからなのです。あなたが今も……様のことを想っているのなら、どうかダンジェロ殿を殺した理由として、彼女の名前を出さないであげてください。もしも自分が書いた手紙がもとでダンジェロ殿が死んだと知れば、あの方がどれほど悲しむか……」
チェチリア・ガッレラーニが、毅然とした声で言う。
彼女が自らをウェヌスになぞらえるのならば、この娘はさしずめミネルウァだろう。美しく汚れなき処女神。技術と芸術の守護神であり、そして罪人を許さぬ正義の神――
そして私は、醜きウゥルカヌスというわけだ。神話の中のウゥルカヌスは、自らの工芸の技術を高めることでマルスに復讐するが、私は違った。自分自身を軍神《マルス》だと信じて、実は愛する者を寝取られていた間の抜けた罪人――
あの手紙の中の最後の言葉が、今さらのように思い出された。
由々しき罪は
重い罰に値するのだから――
警吏たちが踏みこんできて、部屋の中が騒がしくなる。
レオナルドたちが出て行く気配がしたが、私はもう彼らを見ようとはしなかった。
私の描いた肖像画の中の彼女。憂鬱とは無縁のあのころの彼女の姿だけを、必死で思い出そうとしていた。
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【参考文献】
『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』上・下 レオナルド・ダ・ヴィンチ著 杉浦明平訳/岩波文庫
『宮廷人レオナルド・ダ・ヴィンチ』 久保尋二著/平凡社
『レオナルド・ダ・ヴィンチ』 セルジュ・ブランリ著 五十嵐見鳥訳/平凡社
『レオナルド・ダ・ヴィンチ』 アレッサンドロ・ヴェッツォシ著 後藤淳一訳 高階秀爾監修/創元社
『レオナルド神話を創る』 A・リチャード・ターナー著 友利修、下野隆生訳/白揚社
『ミラノ』 マリア・ベロンチ著 大条成昭訳/新書館
『図説レオナルド・ダ・ヴィンチ』 佐藤幸三、青木昭著/河出書房新社
『図説だまし絵』 谷川渥著/河出書房新社
『とめどなく笑う』 ポール・バロルスキー著 高山宏、伊藤博明、森田義之訳/ありな書房
『復活「最後の晩餐」』 片桐頼継著/小学館
『にせもの美術史』 トマス・ホーヴィング著 雨沢泰訳/朝日新聞社
『暗号の数理』 一松信著/講談社
『レオナルドと〈白貂を抱く貴婦人〉』 石鍋真澄著
『チェチリア・ガッレラーニ』 ジャニス・シェル著 水野千依訳
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解 説
[#地から1字上げ]円堂都司昭《えんどうとしあき》
[#地付き](文芸評論家)
レオナルド・ダ・ヴィンチとミステリといった時、最初に思い浮かぶのはダン・ブラウンの世界的ベストセラー小説『ダ・ヴィンチ・コード』(二〇〇三年)だろう。映画化もされた同作では、「モナ・リザ」や「最後の晩餐」など、ダ・ヴィンチの名画にキリストの秘密が隠されていたという設定だった。そこではダ・ヴィンチの絵は暗号であり、解かれるべき謎だったのだ。
逆にダ・ヴィンチが探偵役となり、謎を解く側に回る小説も複数存在する。シオドー・マシスンの短編集『名探偵群像』(一九六〇年)に収録された「名探偵レオナルド・ダ・ヴィンチ」、桐生操『血ぬられた法王一族 ダ・ヴィンチの名推理』(一九八六年)、そして三雲岳斗の『聖遺の天使』(二〇〇三年)、『旧宮殿にて 15世紀末、ミラノ、レオナルドの愉悦』(二〇〇五年)などである。このほか、ダ・ヴィンチとミステリの様々なかかわりについては、千街晶之「乱反射するイメージの彼方 ミステリに登場するレオナルド・ダ・ヴィンチ」(「ユリイカ」二〇〇七年三月号)に書かれているので、興味のあるかたはそちらを参照していただきたい。
この解説では、三雲岳斗の創作活動においてレオナルド・ダ・ヴィンチという探偵役がどのような位置にあるのか、それを考えてみたい。
三雲岳斗は一九九八年、『コールド・ゲヘナ』で第五回電撃ゲーム小説大賞銀賞を受賞しデビューした。また、二〇〇〇年には『アース・リバース』で第五回スニーカー大賞特別賞を受賞している。いずれもライトノベルの賞であり、その後も彼は、若年層向けのライトノベルのレーベルから『ランブルフィッシュ』シリーズ、『アスラクライン』シリーズなど多くの本を刊行している。
一方、三雲は一九九九年に『M.G.H. 楽園の鏡像』で日本SF新人賞を受賞しており、一般向けの書籍も発表してきている。本書『旧宮殿にて』も、その系列の作品である。
『旧宮殿にて』という短編集では、十五世紀末を舞台に万能の天才レオナルド・ダ・ヴィンチが、友人で宰相のルドヴィコ・スフォルツァ、ルドヴィコの愛人チェチリア・ガッレラーニとともに様々な謎を解いていく。レオナルドの気まぐれに振り回されるルドヴィコ、美しさのなかに知性を秘めたチェチリア、チェチリアに頼まれるとどうも断れないレオナルドという三人のやりとりが、謎解きとともに面白みになっている。ルドヴィコもチェチリアも歴史上の人物であり、チェチリアはダ・ヴィンチの絵画「白貂を抱く貴婦人」のモデルといわれる。しかし、本書中の三人に古めかしさはない。キャラクターのバランス、ユーモラスな会話などに三雲のライトノベル作家としての経験が活かされており、軽やかな印象を受けるのだ。
本書以前にもこの三人は長編『聖遺の天使』に登場したわけだが、同書が刊行された際、やや意外に思った人も多かったのではないか。ライトノベルでは異世界、未来、学園などで展開する物語を執筆し、一般向けの『M.G.H.』では宇宙ステーションを舞台にしたSFミステリを書いた三雲が、『聖遺の天使』では過去の歴史を踏まえた小説に向かったのだから。小説家として、従来とはかなり違った創作領域に踏み出したように思えた。
とはいえ、今、あらためて振り返ってみると『聖遺の天使』や『旧宮殿にて』には、それ以前の方向性との違いばかりでなく、初期作品からの一貫性も感じられる。この二冊を読み直すと、発想に関しては意外と『M.G.H.』に近いのである。
『M.G.H.』は、無重力状態の宇宙ステーション内で、墜落した状態の死体が発見された謎を書いたSFミステリだった。また、SFミステリ第二弾として発表された『海底密室』(二〇〇〇年)は、深海の実験施設の部屋における不審死という二重の密室を扱っていた。前者の探偵役が鷲見崎凌《すみさきりょう》で後者にも鷲見崎|遊《ゆとり》という女性が登場すること、いずれも未来の高度技術で支えられた施設ゆえに起きた事件と構想されていた共通性など、これら初期二作は姉妹編的な性格を持っていたといえる。
一方、三雲がレオナルド・ダ・ヴィンチを探偵役にすえた一冊目『聖遺の天使』は、未来ではなく過去に時代を設定した点で初期のSFミステリとは正反対だったが、特殊な場所を舞台にしたことでは共通していた。『聖遺の天使』では、「沼の館」と呼ばれる湖畔に建つ城館で、回廊の外壁に男が磔刑《たっけい》のごとき姿で死んでいるのが見つかる。その城館には聖遺物とされる奇跡の香炉があり、かつてそこに攻め込んだ傭兵隊がなぜか一夜にして全滅し、山中に死体が転がっていたとも伝えられていた。
落ちるはずのない無重力空間に墜死体が現われる『M.G.H.』と、そこまで持ち上げられるはずのない外壁に死体が磔《はりつけ》にされる『聖遺の天使』。宇宙ステーション「白鳳」を舞台にした『M.G.H.』には、「白鳳自体が人為的な、不自然な建造物なんだ。それを誰かが利用しただけだ……」というセリフがあった。その意味では『聖遺の天使』の「沼の館」も、十五世紀末ヨーロッパの先進的発想、高度技術によって造られた「人為的な、不自然な建造物」として三雲が想像したものである。『M.G.H.』や『海底密室』が未来の技術水準を前提にした物語だったように、『聖遺の天使』は十五世紀末の同時代人が見た近未来的光景となっている。したがって、『聖遺の天使』は歴史小説の形をとっているものの、マインドはSFミステリに近いといってよい。
『聖遺の天使』に続くシリーズ二冊目『旧宮殿にて』でも基本的な事情は変わらない。本書では、肖像画の消失事件、窓のない塔に閉じ込められた令嬢の失踪事件、片腕だけを置いて巨大な彫像が運び出された事件、変わった鍵の箱が遺言書の入ったまま持ち去られた事件など、不可解な出来事の数々にレオナルドが立ち向かう。彼は名探偵となり鋭い推理力を発揮するわけだが、それを支えているのは科学的な観察力や思考法である。本書の事件には、この時代の技術水準や科学的知見がかかわっているため、彼のような探偵役が有効なのだ。
レオナルド・ダ・ヴィンチという偉人は、「モナ・リザ」や「最後の晩餐」の画家であるだけでなく、万能の天才と称されていた。『旧宮殿にて』でも、レオナルドは楽師として一流であり、工房を持つことを許された画家であり、希代の軍事技師、建築家、彫刻家でもあると説明されている。そのうえ本書では、精緻な人体解剖図を描いたエピソードも盛り込んでいる。彼は芸術家であると同時に、科学者、技術者でもあったのだ。
それは、『M.G.H.』の鷲見崎凌が学者であり、『海底密室』の人工知能「私」が御堂健人という学者の人格をサンプリングしていたことと同様の意味を持つ。鷲見崎凌、「私」、レオナルドは三人とも、自身の持つ科学的知見と推理力を掛け合わせることで、その時代特有の不可解な事態を解明するのである。
『M.G.H.』や『海底密室』には人間の性格を移植した人工知能が出てきたのに対し、『聖遺の天使』には聖母子を出現させる香炉、『旧宮殿にて』には名手による肖像画、見えなかったはずの景色を精確な遠近感で描いた絵画が登場する。『M.G.H.』『海底密室』と、『聖遺の天使』『旧宮殿にて』では時代の科学水準が全く異なるが、あるものの情報データを残したいという人間の欲望のありかたは同じだ。そうした欲望の追求が新たな技術を引き寄せる光景に関心を抱いていることでは、三雲の創作姿勢は一貫している。
三雲には、『カーマロカ 将門異聞』(二〇〇五年)という時代小説もあった。これは題名通り、平将門が登場し陰陽師や僧兵などが暗躍する異様なアクション小説なのだが、同書でも当時の先端技術を使用したとして妖術にしか見えない不可思議な戦術が語られていた。たとえ歴史もの、時代ものであっても、SF的な思考の飛躍を融合できるのが、三雲岳斗という作家の美点なのである。
『旧宮殿にて』では、レオナルドについてこうも記していた。
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正直ルドヴィコは量りかねている。男が考案する兵器や建物にしたところで、あまりにも空想的で、とても実現できるものとは思えない。
その異郷人は以前にも、機械仕掛けの人形や動物の腸《はらわた》で作った風船などを考案して、人々を大いに驚かせている。
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実用性を度外視して想像力を自由に羽ばたかせるレオナルドの姿は、ほとんどSF作家である。『旧宮殿にて』でレオナルドは、優れた推理力とSF的想像力をあわせ持った人物として描かれている。この両面性は、エドガー・アラン・ポーを思い出させはしないか。ポーという作家は、「モルグ街の殺人」で謎の論理的解明を主題とするミステリを創始したとされている。同時にポーは、「ハンス・プファールの無類の冒険」など科学知識を応用した作品も書いており、SFの祖ともいわれる。考えてみれば、ミステリ的センスとSF的センスが同居していることではポーとレオナルドが似ているだけでなく、三雲岳斗もそうではないか。その意味では三雲は、ポーの血を引く作家[#「ポーの血を引く作家」に傍点]なのだ。
ミステリ領域に関する三雲の最近の取り組みをみると、「ジャーロ」の連載で「予備校事件ノート」と呼ばれていた連作が『少女ノイズ』(二〇〇七年)としてまとまった。これは、ライトノベル出身作家らしい青春ミステリだった。今後も彼にはミステリを書き続けて欲しいと思うし、機会があれば、時代設定がいつであるかにかかわらず、SF的発想を軸にしたミステリに再び取り組んで欲しいと強く願っている。
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二〇〇五年七月光文社刊
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底本
光文社文庫
本格推理小説
| 旧 宮 殿 《きゅうきゅうでん》にて 15世紀末《せいきまつ》、ミラノ、レオナルドの愉悦《ゆえつ》
著 者――三雲岳斗《みくもがくと》
2008年1月20日  第1刷発行
発行者――駒井稔
発行所――株式会社双葉社
[#地付き]2008年6月1日作成 hj
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置き換え文字
唖《※》 ※[#「口+亞」、第3水準1-15-8]「口+亞」、第3水準1-15-8
頬《※》 ※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]「夾+頁」、第3水準1-93-90
噛《※》 ※[#「口+齒」、第3水準1-15-26]「口+齒」、第3水準1-15-26
蝋《※》 ※[#「虫+鑞のつくり」、第3水準1-91-71]「虫+鑞のつくり」、第3水準1-91-71
涜《※》 ※[#「さんずい+續のつくり」、第3水準1-87-29]「さんずい+續のつくり」、第3水準1-87-29
e' ※[#「アキュートアクセント付きE小文字」、1-9-63]「アキュートアクセント付きE小文字」、1-9-63
平《※》 ※[#「怦のつくり」]「怦のつくり」