少女ノイズ
三雲岳斗
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)論理《ロジック》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)斎宮|瞑《めい》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)調査[#「調査」に傍点]とは違う
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〈帯〉
「それは嘘ね」
ミステリアスな彼女の美しく冷徹な論理《ロジック》
欠落した記憶を抱えた青年と心を閉ざした孤独な少女。彼らが出会った場所は無数の学生たちがすれ違う巨大な進学塾。夕陽に染まるビルの屋上から二人が見つめる恐ろしくも哀しい事件の真実とは――。気鋭の作家が送る青春ミステリーの傑作!
[#改ページ]
少女ノイズ
Syoujo Noise
[#地から2字上げ]三雲岳斗
[#地から2字上げ]Mikumo Gakuto
[#地から2字上げ]光文社
[#改ページ]
Syoujo Noise * * Contahts
T Crumbling Sky
U 四番目の色が散る前に
V Fallen Angel Falls
W あなたを見ている
X 静かな密室
[#改ページ]
T Crumbling Sky
式典は長く続いていた。
立ち続けるのは我慢できたが、同じ姿勢のまま動けないのがひどく苦痛だ。
唯一の救いは、ここが建物の中ではなく、美しい景色の広場だということだった。足元には真新しい緑の芝生が敷き詰められ、頭上には遮るもののない青空が広がっている。
式典は除幕式と呼ばれていた。
少年は数人の同級生とともに、学校の代表としてセレモニーに参加していた。
式典自体は退屈だが、授業を堂々と休めたことは素直に嬉しかった。自分たちはどうせ式典の飾りとして、意味もわからないまま連れてこられただけなのだ。せめてそのくらいの恩恵がなければたまらない。
不満なのは、前に立っている男のせいで肝心の彫像が見えないことだった。
美の女神が題材の彫像らしく、誰かの長い挨拶の中で、美しいという言葉が連呼されている。
そこまで綺麗な彫像なら、もっと見やすい場所に置いてくれればいいと思うのだけど、高い台座の上に飾られているせいで、少年の身長ではほとんど見えない。先生と呼ばれている目の前の男の背中が邪魔なのだ。
少しでも彫像の見える場所に移ろうと、少年は、周りの大人たちに気づかれないように静かに足の位置をずらした。目の前の男の大きな背中が、ぐらり、と揺れたのはその直後だった。
なにが起きたのかわからなかった。
見上げた男の太い首が、不自然な形に曲がって痙攣《けいれん》していた。
男はそのまま、ものすごい勢いで地面に倒れこむ。
なにかがぶつかったのだと思った。上空からなにか重いものが落ちてきて、男の頭を直撃したのだと。
苦しげに頭を押さえた男が、かはっ、と悲鳴のような吐息を漏らす。
大人たちが騒ぎ始めていた。すぐ隣にいた同級生が、怯《おび》えたように少年の腕をつかんでいた。
少年はゆっくりと地面を見回した。落ちてきたなにかを探そうとしたのだ。しかし集まってきた大人たちの背中に隠れて、なにも見つけられそうにない。
仕方なく少年は頭上を見上げた。
誰が、どこから、なにを投げ落としたのだろう。
どうやって正確に男の頭にぶつけたのだろう。
しかし空を仰いだときに、とてつもない恐怖が少年を襲ってきた。
少年たちの上空にはなにもない。建物の影も、鳥も、飛行機も。うっすらとたなびく雲すら見あたらない。ただ青い空だけが広がっている。
吸いこまれそうな、なにもない空だけが。
そもそもの発端は皆瀬梨夏《みなせりか》だった。あの日、彼女が声をかけてこなければ、僕がその事件のことを思い出すこともなかっただろうから。
後期の授業が始まる少し前のことだった。大学の暦では夏休みということになっているが、世間的にはすでに初秋である。そのせいか校舎には冷房が入っていなかった。蒸し暑さに失望しながら人の疎《まば》らな学食にたどり着いたとき、僕は久しぶりに皆瀬の声を聞いた。
「そうか。スカ、この際だからあなたでいいわ」
いかにも名案だといわんばかりの弾んだ声だった。
券売機の前に立つ僕の手から鮮やかな手つきで食券を奪い取り、皆瀬は勝手にカウンターのほうへと歩いていった。僕は彼女の後ろ姿をしばらく呆然と眺めていたが、ふと我に返って、仕方なくあとを追った。買ったばかりの食券を人質に取られては、彼女につき合うよりほかに選択肢がない。オレンジ色に染めた髪を揺らして皆瀬は振り返り、無言でコーヒーの自販機を指さした。奢《おご》れ、と命令しているつもりらしい。僕は軽くため息をつき、おとなしく彼女の要求に従った。
皆瀬梨夏はこの大学の特任准教授だ。赴任してきたのは昨年の春頃。三十歳を過ぎているはずだが、見た目にはほかの女子大生とほとんど変わらない。子供っぽいという意味ではなく、芸能人のような年齢不詳さがあるのだ。派手な顔立ちや服装と、大人げない性格のせいだろう。なにしろ学部生にコーヒーをたかる准教授だ。
おかげで事情を知らない人間には、僕が皆瀬と交際していると誤解されることもある。実に恐ろしい話だった。
皆瀬は僕の直接の指導教官というわけではなかった。サークル関係の先輩でもない。
ただ、ちょっとした個人的な理由があって、僕はたまに彼女の研究の手伝いをしているのだ。もちろん無給。ただ働きだ。だから正確には、押しつけられている、というべきかもしれない。
彼女が声をかけてきたときは、たぶんまたその仕事の話だろうと思った。
けれど今回の皆瀬の態度は、普段とは少し違っていた。
「私が紹介してあげるわ」
定食のトレイを運んできた僕に、彼女は唐突に切り出した。
もちろん僕には話が見えなかった。
「いきなりですね。紹介って、なんの話ですか」
「アルバイトよ。探してたんでしょう? フィルム代?」
「え、どうして?」
「学生課の建物から出てくるのが見えたから」
「ああ」
僕は否定しなかった。残り少ない夏休みの一日を潰して学校まで来たのは、たしかに新しいアルバイト先を斡旋してもらうのが目的だったからだ。あまり条件のいい仕事はなかったが、いちおう何件かは連絡先も控えてあった。
「大学関係のバイトですか。試験監督みたいな」
「違うよ。昔の知り合いからの頼まれ事でね、適当な人材を探してたの。ふふ……おめでとう、あなたは選ばれました」
そう言って皆瀬は華やかな笑みを浮かべた。
僕は無言で顔をしかめていた。そんなことを突然言われても正直困る。
「この際だから僕でいい、というようなことを言ってませんでしたか?」
僕は苦笑混じりに指摘した。本能的な警戒心も少し働いていた。
しかし皆瀬は悠然と微笑《ほほえ》み、
「あれはべつに誰でもよかったって意味じゃないのよ」
コーヒーをすすって淡々と告げた。それから彼女はふと思いついたように、
「でも、特別な理由もなく選ばれるというのは、それは貴重な才能だと思うわ」
「そうですか?」
「そうよ。汎用性が高いって言えばいいのかな。少なくとも私には無理」
皆瀬は大げさに肩をすくめてみせた。
なるほど、と僕は納得した。たしかに彼女の汎用性は低そうだ。遠回しに、僕が無個性で目立たない人間だと貶《けな》されているような気もしたけれど、僕は文句を言わなかった。実際、そのとおりだったからだ。
「スカには向いてると思うわ、この仕事。ただの私のカンだけど」
「そうですか。それは恐いですね、なんだか」
どういうつもりなのだろう、と僕は皆瀬の端整な輪郭を眺めた。
皆瀬梨夏は、まあまあ美人といっても差し支えない容姿をしていた。立ち居振る舞いは華やかで、人当たりも悪くない。学生たちの一部には、皆瀬のそんな上辺の姿に惑わされ、彼女に憧れている者もいるという。しかしそんなものは彼女のほんの一面でしかない。
こう見えて皆瀬は異常犯罪マニアだ。彼女の専門は心理学系の法科学なのだ。滅多にほかの学生を入れない彼女の教官室には、猟奇殺人や性犯罪などの資料と写真が溢れかえっている。
国内でその手の事件が起こったときには、わざわざ現地まで出かけていくこともあるらしい。警察の上層部に顔が利く、という噂もある。そして僕は、その噂が、かなり真実に近いことを知っていた。
彼女に比べれば、僕はまったく特徴のない人間だ。
他人と違うところがあるとすれば、それは少しばかり面倒な性癖を持ち合わせているということだろう。皆瀬と僕が知り合ったのも、僕のその厄介な趣味のせいだった。
いつも皮肉っぽく笑っている皆瀬に、僕は昔からどこか人間離れした恐さを感じていた。
それは彼女との出会いが強烈すぎたからかもしれない。僕が最初に彼女と出会った場所は、血臭の立ちこめる廃墟の地下室。ある猟奇的な殺人事件の犯行現場だった。
「心配しなくていいわよ。今回のはいつもの調査[#「調査」に傍点]とは違う。本当に普通のアルバイトだから。割のいい仕事だと思うわよ」
僕の不安を察したのか、皆瀬は静かに微笑んで言った。
「どんな仕事なんです」
「予備校」
「……予備校?」
「そうよ。雙羽塾《ふたばじゅく》って知らない?」
「わかります。彩吹《あやぶき》駅前の」
この地方では有名な大手の進学塾だ。ターミナル駅近くの一等地に巨大なビルを構えており、高校時代には僕も何度か模試を受けに行ったことがある。
「塾講師のアルバイトってことですか? そういうのって採用試験があるでしょう?」
僕は気乗りしない声を出す。僕らの大学はこのあたりではいちおう名門と呼ばれているが、三年近くも前に詰めこんだ受験勉強の知識を、今も思い出せるという自信はなかった。そもそも自分の試験のために身につけたスキルと、他人にそれを教える才能は、別物だと僕は思っている。なんにせよ僕は講師などという柄ではない。
それは皆瀬にもわかっているはずだった。その彼女が、どうして僕に塾講師の仕事を押しつけようとしているのか、少し考えてみたが想像できなかった。
「自信ない?」
「ありませんね。皆瀬さんのゼミの院生を紹介したらいいんじゃないですか。割のいい仕事なんですよね?」
「うちの子たちでは駄目なのよ。ちょっと理由があってね」
残念だけど、と皆瀬はわざとらしく目を逸《そ》らした。その理由とやらについて、僕に説明するつもりはないようだった。
「それに本当のことを言うと、正式な講師のバイトってわけでもないのよ」
「はあ」
講師ではない、とすると事務員か。清掃員あたりという可能性もある。それならばたしかに大学院生を斡旋するような仕事ではないかもしれない。
しかし皆瀬は、意味ありげに薄く笑って首を振った。
「詳しいことは、塾に行って直接聞いてくれるかな。これが事務室の連絡先」
皆瀬は一枚のメモを差し出した。大人びた流麗な文字で電話番号と部署名が書かれている。
「コーヒー、ごちそうさま」
そう言い残して皆瀬は立ち去り、あとには僕とメモだけが残された。
採用面接は五分ほどで終わった。皆瀬が事前に話を通してくれていたのかもしれないが、本当に誰でもよかったのかもしれない。とにかく拍子抜けするほどあっさりと、僕の新しい職場は決まった。
「| 斎 宮 《いつきのみや》さん、ですか?」
渡された登録カードを眺めて、僕は彼女の名前を確認した。こういうものはたいていパソコンのデータベースで管理していると思っていたので、手書きの書類が少し新鮮だった。
機械でタイプしたような几帳面な筆跡で、生徒の簡単なプロフィールが書かれている。貼りつけられた写真には、セーラー服を着た女子高生が映っていた。
「そう、斎宮|瞑《めい》さん。青稜《せいりょう》高校の二年生。あなたには彼女を担当してもらいます……彼女のこと、なにも聞いてなかったの?」
小柄な教務係の職員に訊き返されて、僕は無言で首を振る。教務係は、そう、と短く嘆息した。眼鏡越しの彼女の瞳に、明らかな失望の色が浮かんでいた。
それ以上、彼女が説明しようとしないので、仕方なく僕は質問を続けた。
「その担当というのは、担任みたいなものですか? 受け持ちの生徒は彼女一人だけ?」
普通にイメージする塾というより、家庭教師に近いシステムらしい。少人数制の個別指導がこの塾の売り文句だとは知っていたが、予想以上に徹底している。僕が心配することではなかったが、保護者が負担する学費もけっこうな金額になるはずだ。
「担当は担当よ。瞑さんのお世話をお願いしたいの。無理に講義に出席させる必要はないけど、その……彼女が面倒を起こさないよう、相手をしてあげて欲しいというか」
「はあ」
登録カードの顔写真と教務係の顔を交互に眺めながら、僕は曖昧《あいまい》に返事をした。
写真の中の斎宮瞑は、優等生然とした少女だった。整った顔立ちをしており、髪の手入れも行き届いている。真面目というよりは、聡明で如才ない印象を受けた。塾での成績がどの程度なのかはわからないが、少なくとも自分から揉め事を起こすようなタイプとは思えない。
「彼女にはなにか問題が?」
「問題? いえ、そういうわけではないわ。だけど、誰か監督する人間が必要でしょう?」
教務係は迷惑そうに呟いた。説明するのに飽いているという態度だった。アルバイトの学生は僕一人ではないのだから、似たような説明を何度も繰り返しているのかもしれないが、しかし慣れているわりには要領を得ない話だ。
「ここであれこれ説明するより、直接、本人に会ったほうが早いと思う。それよりもあなた、印鑑は持ってきてくれた?」
「はい」
「そう。では、彼女が帰ったら、もう一度ここに来て。今日のぶんの給与はそのときにお渡しします」
わかりました、と僕は特に不満もなくうなずいた。塾講師の仕事でバイト料の日払いというのはめずらしいが、べつに不都合というわけでもない。
「彼女の講義があるのは、週に四日ですね?」
「ええ。だから、辞めたくなったら早めに言ってね」
教務係は真面目な顔でそう告げた。僕がすぐに自分から辞めたいと言い出すことを確信しているような口振りだった。彼女がそんなふうに決めつける可能性を考えてみた。おそらく、前の担任と斎宮瞑の間になにかトラブルがあったのだろう、というのが僕の出した結論だった。
雙羽塾の廊下は床も壁も白く、どこか病院を連想させる。
この時間に講義を受けているのは浪人生が中心で、斎宮瞑を含む現役高校生が登塾してくるまで一時間ほど暇があった。ほかのアルバイト学生もまだ来ていない。僕は仕方なく、控室で生徒用の教材を読んで過ごした。各教科の内容に目を通してみたが、そう難しい内容ではなかったのでホッとした。講師のための詳細なマニュアルも用意されており、それさえ頭に入れておけば、一定水準の講義が誰にでも可能なシステムが確立されているらしい。
眩《まばゆ》い蛍光灯で照らされた控室は妙に人工的で、居心地のいい空間とはいえなかった。時折、自分が備品の椅子や机と同じ、規格品のひとつになった錯覚を感じてしまう。
僕はふと皆瀬のことを思い出していた。
結局のところすべては規格なのだ、と彼女はいつか語っていた。
人間は、世界の摂理や自らの認識を解体し、規格化し、記号としての名前を貼りつけることで道具に貶《おとし》め、利用してきた。信仰や伝統的権威のような無邪気な規格はやがて淘汰され、残ったのは息苦しいほど厳密に規格化されたシステムだけだった。この社会で成功者だと賞賛される人々はもはや、その道具を上手く使いこなせる者という程度の意味でしかない。
その息苦しさから逃れるために人は異常犯罪に惹《ひ》かれる、というのが皆瀬の主張だ。未だに名状《めいじょう》されざる規格外の感情と動機。そこに人は自らの逃げ場所を見出すのだと彼女は言う。
その主張の真偽は僕にはわからない。ひとつだけわかるのは、学力や社会規範という名前で記号化された規格、その一部でしかなくなってしまった現代の教育者が、尊敬の対象になる可能性は絶望的に低いだろう、ということだった。
おそらく快楽殺人などの異常犯罪者のほうが、まだ尊敬される見込みがある。その部分では、僕も皆瀬の意見に共感できた。
午後四時を過ぎたあたりから、塾の廊下や教室に、高校の制服を着た生徒の姿が増えてきた。
斎宮瞑の時間割を調べて、僕は割り当てられた講義室へと向かった。
講義室は、背の高い間仕切りで囲われたブースになっている。進学塾というよりは企業の会議室に似た雰囲気だった。
斎宮瞑に対する挨拶の言葉を考えるのは、正直、気が重いことだった。
あの優等生風の少女なら、きっとこの清潔な空間にも自然に溶けこむことができるのだろう。しかし僕は、ここの空気に馴染《なじ》めなかった。もともと向かないアルバイトだったのだ。
だから、講義の開始時間になっても彼女が現れなかったとき、正直、救われたような気分になった。そのまま十分ほど彼女を待ってから、僕は講師の控室に戻った。遅刻なり欠席なりの連絡が、彼女から届いているのではないかと思ったのだ。
控室にいたのは、ワイシャツ姿の男性が一人だけだった。僕よりも明らかに年上だ。年齢は二十代の後半くらい。アルバイトの大学院生か、正式な塾の社員かもしれない。
「ああ……きみが彼女の新しい担当?」
僕が挨拶するよりも先に、男はそう呟いて愉快そうに笑った。僕が控室に戻ってきた理由も、彼にはわかっているようだった。
「斎宮さんなら、たぶんもう来ているよ」
「そうなんですか?」
なぜそう言い切れるのだろう、と僕は訝《いぶか》った。このビルの入口には磁気カードを使ったチェックゲートがあって、塾生の登塾状況が自動的に記録されるようになっている。しかし、その電子的な記録は、この控室からでは調べることができないはずだ。
「教室では会えなかったんですが」
「だろうね。でも、建物のどこかにはいると思うよ。この季節なら、外かもしれない」
「もしかして、捜しに行ったほうがいいんですか?」
「うん。それが担当者の仕事だからね。頑張って」
からかうような笑みを浮かべて、彼は手を振った。僕は曖昧に礼を言って控室を出た。
足早に廊下を歩きながら、僕はわけもなくため息をついた。
少しずつ事情がわかってきた。たしかにこれは担任という雰囲気ではない。問題児ではないと教務係は言っていたが、その表現が限りなく嘘に近いことに、僕は気づき始めていた。
雙羽塾は大きな塾だった。定期的に通っている現役の高校生だけでも、多い日には一日に四百人を超える。その中から、たった一人の生徒を捜すのは予想外に難儀な仕事だった。
自習室や休憩用のラウンジには、斎宮瞑と同じ制服を着た女子生徒が一割程度の確率で含まれており、それを見かけるたびに僕は足を止めて顔を確認する。その行為は、不審人物のそれに近かった。
そのまましばらくビルの中をうろついて、僕は彼女を捜すことをほとんど諦めた。これ以上の理不尽な努力をしてまで、彼女を捜さなければならない理由が僕にはなかった。
誰かの指示を仰ごうと事務室に戻りかけて、僕は廊下の突き当たりに目を留めた。
そこには非常階段を示す緑色のサインが光っていた。
屋上に出てみようと思ったのは、控室にいた男の言葉を思い出したからだ。
この高さのビルになると窓のほとんどは嵌《は》め殺しで、容易にベランダなどに出ることはできない。雙羽塾の中で屋外と呼べる場所は唯一、非常階段から通じている屋上だけだった。
予想した通り、屋上に通じる扉の鍵は開いていた。
夕陽がビルの正面から射しこみ、二重になったフェンスが複雑な模様の影を落としている。
広い屋上の半分ほどは、給水や空調関係の設備で占められた殺風景な空間だった。しかし残りの半分は、緑化されて、高速道路脇にあるような芝生状のマットと低木の植えこみになっていた。場違いな印象は拭えないが、美しい光景だといえなくもなかった。熱帯魚の水槽を見ているような、人工的で不自然な美しさだ。
風向きのせいで、空調設備の騒音はそれほど気にならなかった。陽射しはまだ強かったが、不快なほどの温度ではなかった。
植えこみから伸びる影の中に、ぼんやりと白く輝いているものがあり、僕はゆっくりとその方向に近づいた。両脚を無造作に投げ出した姿で、セーラー服の少女が座っていた。
正確には座っているというよりも、倒れているという状態に近い。バッグにもたれるような姿で、わずかに上体を起こしているだけだ。
白く輝いて見えたのは、脱ぎ捨てられた彼女のスニーカーの蛍光ラインだった。
僕の気配に気づいているはずだが、少女は身じろぎもしなかった。
夏服の袖口から伸ばした細い腕をだらりと下げて、コンクリートの上に落としている。その姿は死体を連想させて、わずかに僕の心を乱した。
「斎宮さん?」
できるだけ静かに彼女に呼びかけてみる。名前を確認するような口調になってしまったのは、予想していた斎宮瞑と、目の前の少女の印象があまりにも違っていたからだ。
少女はたしかに写真で見た斎宮瞑と同じ顔をしていた。写真よりも髪が長いが、それ自体は些末《さまつ》な変化だといえる。それでも別人のように思えたのは、まとっている雰囲気のせいだった。
彼女は化粧をしていなかった。時計や指輪などのアクセサリーも一切身につけていなかった。裸足《はだし》で、制服のスカーフも外している。
たったそれだけで、彼女は普通の女子高生とは異質な存在に変わってしまったようだった。生活感がまったく消えて、遺棄された身元不明の死体を見ているような気分になる。
そしてなによりも異質だったのは、彼女が身につけているヘッドフォンだった。
携帯プレーヤー用のコンパクトなイヤフォンではない。スタジオ録音などで使う密閉型のごついやつだ。クラブのDJでもなければ持ち歩かないような巨大なヘッドフォンが、小振りな彼女の頭部をすっぽりと包みこんでいる。
死体のように倒れたままの斎宮瞑に、その銀色の機械はひどく馴染んでいた。まるで壊れて洩れ出した彼女の内臓《なかみ》みたいだと僕は思った。
僕は無意識に写真を撮るような姿勢を作って、彼女の姿を目に焼きつける。
カメラを持っていないことが悔やまれた。動かない斎宮瞑は美しい。僕がこれまで見たことのない最高の被写体だった。
斎宮瞑がゆっくりと瞬きをする。
それを見て、僕は不意に現実に引き戻された。彼女は通塾しているただの女子高生で、つまり生きているのだから瞬きするのも当然だった。そんなあたりまえのことをようやく思い出す。
「斎宮瞑さんだよね?」
我ながら間の抜けた質問だと思いながら、僕はもう一度彼女に訊いてみた。しかし瞑は反応しない。ヘッドフォンのせいで聞こえていないのかもしれない、とも思ったが、僕はすぐに彼女のヘッドフォンのプラグが、どこにも差しこまれていないことに気づいた。瞑は、無音のヘッドフォンを耳にあてて、こんなところに一人で倒れていたということになる。
驚いた、というよりも正直、呆れた。無気力にしても徹底している。こんな少女とまともなコミュニケーションが可能なのだろうか、と僕はため息を漏らし、そのとき、
「――写真が好きなの?」
なんの前触れもなく瞑はそう言った。
大人びた、冷たく気怠《けだる》げな声だった。
「どうしてそう思った?」
内心の動揺を押し殺して、僕は訊いた。
「ファインダーをのぞく仕草をしてたでしょう」
斎宮瞑は無表情に告げた。見ていたのか、と僕は少し意外に思った。死体のように倒れたままの彼女は、僕と視線を合わせようともせずに、今もぼんやりと街を眺めている。
「今どき誰だってカメラぐらい持ってるよ」
「構えたときに片目を瞑《つぶ》っていたわ。デジタルカメラの液晶画面に慣れた人は、そんなことはしない。それに左手でレンズの底を支えるような仕草をしていた。重い一眼レフを使い慣れた人の動きに見えたわ」
「そうかな。ごく一般的な仕草だと思うけど……うん、まあ写真を撮るのは好きかもね」
あの一瞬でそこまで観察されていたという事実に驚きながら、僕は彼女の隣に屈みこんだ。それでも瞑は身じろぎしなかった。変わった少女だと思った。被写体としては最高だが、現実に関わるにはあまりにも面倒な相手だ。
「どうしてこんなところに?」と僕は訊いた。
「あなたはどうして?」
「きみを捜してたんだよ。講義室で待っていたけど来なかったから」
「私を講義室に連れていくように誰かに言われたの?」
「……いや」
そうではなかった。無理に彼女を講義に出す必要はない、と教務係の職員は言っていた。それも奇妙な話だった。講義を無断で休むような生徒の存在を、なぜ雙羽塾は認めているのだろう。ここは義務教育の中学校ではないのだ。彼女を監督するためのバイト学生を雇うよりも、面倒を起こすような生徒は、さっさと辞めさせてしまえばいい。
いくら学費の高い個別指導方式といっても、雙羽塾の規模を考えれば、斎宮瞑一人がいなくなったところで、どれほどの損失でもないだろう。彼女の両親が、塾の経営方針に影響を与えるような莫大な寄付金を積んでいる、というのも考えにくい。
そんな金があるのなら、通塾などさせずに家庭教師を雇えばいいのだし、そもそも娘に受験勉強させるまでもなく、名門大学の付属高校にでも通わせているはずだ。
「とりあえず下に降りないか? 屋上って本当は立入禁止だろ?」
目の前にある屋上のフェンスを眺めて、僕は言った。
たとえばここで彼女がフェンスを乗り越えて自殺を企てたら、それはたぶん僕の責任になるのだろう。そういう事態を防ぐために、僕が雇われているのだから仕方ない。
しかし瞑は、やはり振り向きもせずに訊いてきた。
「高いところが嫌いなの? ずいぶん緊張しているみたいだけれど」
僕は屋上を見回してうなずいた。
「好きじゃないね。高いところにいるのは落ち着かない。高所恐怖症気味なんだ」
「それは嘘ね」
思いがけず強い口調で彼女が言った。黒目の大きな瞳が振り返って僕を睨んでいた。
「……え?」
「あなたはさっきから一度も空を見上げていない。あなたが本当に高所恐怖症なら、なるべく地面を見なくて済むように、無意識に視線を上に向けているはずよ」
淡々とした声音で瞑が続けた。事実だけを指摘する口調だった。
「あなたが恐いのは自分が高い場所にいることじゃない。あなたが恐いのは、この夕焼けの空。自分の頭上になにもない、開けた空間が恐いんでしょう?」
僕はなにも答えない。無言のまま、彼女の指摘の根拠を考えていた。
屋上に出てきてからの僕の態度に、不自然な点があっただろうか。まったくなかった、とは言い切れない。たしかに僕は空を見上げるのが恐かった。屋根のない開けた空間が。
瞑の隣に腰を下ろしたのも、本当は植えこみの陰に隠れることで安心したかったのだ。
「めずらしい症例ね。高い建物の傍《そば》に近づけないバトフォビアというのは比較的よく聞くけれど。天空恐怖症《アストロフォビア》に近いのかしら。先天的なものではないのでしょう? 心あたりは?」
瞑がわずかに上体を起こした。乱れた髪が制服の胸元にぱらぱらとかかる。
「さあね」
僕は投げやりに返事をする。死体のような無気力な少女が、そんなことにこだわるのが不思議で少し面白かった。
彼女は気怠げな表情のままゆっくりと瞬《まばた》きをする。
「いいわ。あなたがその話を聞かせてくれるなら、今日は降りてもいい」
「そう?」
お礼を言うべきところなのかどうか迷って、僕は結局なにも言わなかった。
瞑も立ち上がろうとはしなかった。相変わらず遠い街を見下ろしたまま、壊れた人形のように動かない。僕は仕方なく腰を上げ、彼女が脱ぎ散らした靴下とスニーカーを拾い集めた。
その瞬間、すっと自然な動作で瞑は僕のほうに足を差し出した。どうやら靴を履かせろ、という意味らしい。僕は最初唖然とし、それから声を上げて笑いそうになった。女子高生に傅《かしず》いて靴を履かせる。そんな体験をしたのはもちろん生まれて初めてのことだ。
「立ちなよ、斎宮さん」
「瞑でいい。その呼びにくい名前で呼ばれるのは嫌いなの」
「じゃあ、瞑。立って」
「そんな面倒なことは嫌だわ。私はとても疲れているの」
「……話をするなら降りてくれるんじゃなかったのか」
僕は苛々《いらいら》と顔をしかめた。瞑は無表情に首を振り、ぞんざいな口調で、
「私はべつに降りたくないもの。移動して欲しいのなら、あなたが運んで」
僕は長い溜息をついて、操り人形のようにぎこちなく掲げられた彼女の腕を仕方なく手に取った。死体に似た彼女の腕は死体のように温度が低かったが、それでも間違いなく生きている人間の腕で、そのことは僕をほんの少し失望させた。
「あなたの名前は?」
僕の耳元に、抱き上げた瞑の息がかかる。
「高須賀《たかすか》だよ。高須賀|克志《かつし》」
「呼びにくいわね」
「前にも誰かに同じことを言われたことがある」
「その人は今はあなたのことをなんて?」
「スカ……かな。そんな呼び方をするのは皆瀬って女だけだけど」
「……梨夏さん?」
彼女の瞳に、初めて表情らしきものが浮かんだ。眉を上げ、愉快そうに斎宮瞑は笑った。
「ああ、なるほど……いい名前ね」
「いい名前?」僕は呆れたように彼女を見返し、「それ本気で言ってる?」
「ええ。もちろん」
瞑は思いがけず真面目な表情で頷いた。
「だってそれ、腐肉食動物《スカベンジャー》のスカなんでしょう?」
僕は特徴のない人間だ。自分が高潔な人格だとは思わないが、大きな犯罪を犯すタイプでもない。必要以上に目立つことはせず、それなりに小器用に立ち回って生きてきた。
そんな僕にも、ひとつだけ厄介な習性がある。
それは、ある種の特別な風景写真の蒐集癖だった。
僕は、人が殺された場所の写真[#「人が殺された場所の写真」に傍点]を集めているのだ。
雑誌やインターネットで流通しているものをコレクションするだけでなく、自らそれを撮影するために遠くまで出かけていくことも少なくない。
僕が興味を抱くのは、交通事故などの不可避的な死亡現場ではなく、殺意を持って生み出された新鮮な[#「新鮮な」に傍点]殺害現場だった。特に猟奇殺人などの、強烈な負の衝動が感じられる空間にどうしようもなく惹かれた。
自分の中では、それが異常なことだという意識はない。都市の路地裏や建物の写真を撮っている連中と、どう違うのかわからない。廃墟マニアが廃墟の写真を集めるような感覚で、僕は人が殺された現場の写真を蒐集する。
その感覚は、自分の手で人を殺したいという欲求とはまるで違っている。上手く説明できないが、おそらく屍体愛好癖《ネクロフィリア》に近い感情なのだと思う。単純にそれを魅力的な風景だと感じるから、所有したいという欲求を覚える。ただそれだけのことなのだ。
僕は殺人者にも、彼らの動機にも興味がない。それらはおそらくただの器のようなもので、殺人者を捕まえたときにはすでに、本質的な部分はどこかに拡散してしまっているのだ。
だからこそ、僕は場所に意味があるのだと思っている。
僕は幽霊の存在を信じていない。だが、殺意や恐怖などの強烈な感情が、殺害現場に強く焼きつけられて残留しているという理屈は体感的に認めていた。
おそらく僕が欲しかったのは、死者と対話する能力なのだろう。犯罪に巻きこまれた人間が、その瞬間なにを思っていたのか、それを知りたいのだ。欠落してしまった過去の感情を。
しかしそれは叶わない願いだ。だから僕は写真を撮る。殺人事件の犯行現場。あるいは遺体の発見場所。バイト代を注ぎこんで現地に赴き、残された思念をフィルムに焼きつける。
悪趣味だと顔をしかめる大人もいるが、友人の多くは意外にも僕のそんな習癖に寛容だった。心霊写真を狙っているのだと説明すると、本気で怒られることはまずなかった。中には、自分から写真を見せてくれと言ってくる者もいる。最初は気味悪がっていた僕の母親も、ある事件の証拠として僕の写真が採用されたときから、あまり文句を言わなくなった。
普段から新聞などで報道された殺人事件の情報をこまめに集めて、警察の監視が甘くなったころを見計らって殺害現場に忍びこむ。大学生になって一人暮らしを始め、そんな生活のリズムが安定してきたころ、僕は皆瀬に出会ったのだった。猟犬のように殺人者の足跡を追いかけていた彼女に。
「……腐肉食動物《スカベンジャー》? 瞑があなたのことをそう言ったの?」
翌週になって出会った皆瀬は、僕の話を聞いて愉快そうに笑った。
「なるほど。言われてみれば、いい名前かもね。似合ってるじゃない」
「どういう意味です?」
「狩猟動物《プレデター》のあとについて回って、お零《こぼ》れにあずかる掃除屋でしょう。私とスカの関係をよく表してると思わない?」
「はあ……」
僕は憮然とした顔で呟いた。たしかに、誰に頼まれたわけでもないのに執拗に犯罪者を追い回す皆瀬を、虎や狼などの狩猟動物《プレデター》に喩える気持ちは理解できた。そして僕は彼女の研究の手伝いという名目で、堂々と犯罪の現場に入りこんで写真を撮っている。腐肉食呼ばわりされるのは本意ではなかったが、僕たちが一種の共生関係にあるのは間違いなかった。
「瞑はね、私の高校時代の友達の従妹《いとこ》なのよ。私が異常犯罪の研究をしてるなんてことを話した覚えはないけど、頭のいい子だから、なにか気づいていても不思議ではないわね」
「ひょっとして僕のことも彼女に話したんですか。僕の趣味とか」
「あなたの写真の趣味のこと?」
まさか、と皆瀬は大げさに手を振る。
「しないわよ、そんなつまらない話。それに、べつに瞑にあなたの趣味を知られて困るわけでもないでしょう。彼女はきっと気にしないわ」
「でしょうね」
僕はうなずいた。死体のように無気力なあの少女が、その程度のことで感情を乱すとは思えなかった。斎宮瞑の傍若無人な性質は、そんな常識的な態度とは異質のものだ。
「それで瞑とはどんな感じなの?」
「べつに。最初に会ったときの印象そのままです」
僕は重々しくため息をついた。
斎宮瞑は恐ろしく手のかかる塾生だった。彼女はいつも一人で誰もいない場所におり、僕が捜し出さない限り、講義の時間が終わるまで死体のように固まって動かない。
そんなときの彼女は世界から隔絶された存在だった。五体を投げ出し、唇を閉じ、虚ろな瞳は焦点を結ばず、銀色のヘッドフォンで耳を塞いでいる。
想像すればわかるが、これはかなり危険なことだ。ほかの塾生が無防備な彼女に危害を加えないとも限らないし、悪意がなくても、屋上などに彼女が閉め出されるということは起こり得る。そんな事態を防ぐために僕が雇われているわけだが、僕が彼女に接触したからといって、瞑になにか変化があるわけではない。
彼女は基本的に僕に対しても関心を払わない。僕が話しかけても、そのほとんどは無視されて終わりだ。ごくまれに彼女のほうから質問してくることはあるが、それに対して僕が解答を与えると再び沈黙する。当然だが、彼女は僕の意見を聞かない。そして僕は彼女に命令できる立場ではない。
瞑がばらまいた荷物を拾うだけならまだいいが、彼女を安全な場所に移動させようと思うと、どうしても彼女に僕の言葉を受け入れてもらう必要がある。そして彼女が唯一、僕との会話を成立させるのは、彼女の興味を惹くような内容について僕が話しているときだけだった。
すなわち僕自身の過去の体験について。
「そういうの、上手くいってるっていうのよ。瞑はあなたのこと、けっこう気に入ってるみたいね。言ったでしょう、あなた向きのバイトだって」
「またそんな無責任なことを」僕は疲れた声で告げた。「正直、忘れたいことまで思い出させられて、うんざりしているんですけどね」
「そう?」皆瀬は屈託のない笑みを浮かべた。「たとえば、どんな?」
「目の前で人が死んだ話とか、ですね」
「初耳ね。そんなことがあったの?」
「小学生のときの話ですよ。五年生くらいだったと思いますけど」
僕は弱々しく呟いた。瞑と最初に出会った日に、彼女が異様に興味を示した話だった。
「古い話なので記憶が曖昧なんですけど、たしか除幕式の日だったと思うんです」
「除幕式? 彫像の?」
「ええ。よくある校長の銅像とかじゃなくて、ヴィーナス像みたいな彫刻だったんですけど。たぶん誰か偉い人の寄付で校庭に新しく設置するからって、クラスの担任教師と、僕を含めた何人かの児童が式典につき合わされて」
「……それで?」
「その式典の最中に、担任教師が死んだんです。空から降ってきたなにかが頭に当たって。僕のすぐ目の前で」
その光景を思い出して僕は嘆息した。
空はよく晴れていた。突然なんの前触れもなく、僕の前で背広姿の男が苦しみ始め、そして不自然な形に首を曲げて倒れていった。地面に倒れ伏して痙攣している大きな背中を、今でも鮮明に覚えている。あれは夏休みの最中のことだった。
「待って。除幕式って校庭で行われたのよね? なにがどこから降ってきたっていうの?」
皆瀬が僕の話を遮って訊いた。それは当然の疑問だったが、僕は肩を窄《すぼ》めて首を振る。
「それが……正確なところはわからないんですよ。なにが落ちてきたのか僕は見つけられなくて、慌てて頭上を見上げたんですけど、どこから落ちてきたのかもわかりませんでした。その日はやたら天気が良くて、本当に雲ひとつなかったと思います」
「晴れていたのなら、雹《ひょう》ってわけでもないのよね。隕石……だったら、もっと大騒ぎになっていただろうし。近くに建物があったんじゃないの?」
「そうですね。ほかに考えられないし」
諦めに似た心境で僕は頷いた。僕の記憶に焼きついている光景は、見渡す限りの青空だけだ。建物の姿はどこにもなかった。しかしなにしろ古い記憶だ。目の前でそんな事故が起きて動揺もしていただろうし、建物の影を見落としていても不思議ではない。
「でも、今にして思えば、それがきっかけだったと思うんです。だだっ広い開けた場所を僕が苦手になったのは」
「ふうん……まあ、気持ちはわからないでもないわね」
皆瀬はあっさりと納得したが、僕にしてみればそれは深刻な問題だった。街中で暮らしているぶんには、あまり意識しないで済むとはいえ、頭上から降ってくる見えないなにかに常に怯えて生活するのは、傍《はた》から見ているよりもずっと神経を磨り減らす。
「それで結局、その話、あなたの担任の死因はなんだったの?」
「だから覚えてないんですよ。もしかしたら教えてもらえなかったのかもしれないですけど、そのあたりは記憶がすごく曖昧で」
僕はあやふやな思い出を辿るために目を伏せた。
「いちおう心当たりはあるんですけどね。水風船ってわかります? 空気のかわりに水を詰めて膨らませた風船を落として、破裂させる遊びですけど」
「わかるけど」皆瀬ははっきりと苦笑した。「あれってなにが楽しいのかな。男の子の遊びだよね。戦争ごっこの一種?」
「どちらかというと、悪戯《いたずら》に近い心理だと思うんですけどね。わざと他人の目の前に落として、驚く姿を見て喜ぶんです」
「なるほどね、高い所から下にいる人間をめがけて投げるわけだ」
ふん、と皆瀬は短く鼻を鳴らした。
「まさか水風船が除幕式の最中に降ってきたっていうの?」
「ええ。たぶん」
たしかに僕はあの日、落ちてきたものを見ていない。だが、目の前で水飛沫《みずしぶき》が飛び散る様と、僕の全身を濡らした水の生温かさは覚えている。たとえば空の色とよく似た青い風船に、水を詰めて遠くから投げ落としたら、それは見えない凶器になるのではないだろうか。
「水風船が頭に激突して、まさか、その先生ってそれだけで死んじゃったの?」
「そうですよ。夏休みが明けたらクラスの担任も替わってましたしね。警察なんかにも事情を聞かれて、うちの両親はけっこう大変だったみたいですけど、僕はその間ずっと病院みたいなところに隔離された感じで」
「……目の前で人が死ぬところを見た児童には、まあそれくらいは気を遣うだろうけど」
ふうん、と皆瀬は気の抜けた声を出す。納得していない表情だった。
「水風船? あれってそんな威力があるもの?」
「よく知りませんけど、普通の風船でも満タンにすれば水が二、三リットルは入りますよね。小型の鉄アレイと同じくらいの重量ですよ。そんなものが校舎の屋上あたりから落ちてきたら、けっこうな衝撃じゃないですか?」
「まあ、そうかもね。当たり所の問題もあるだろうし……それで?」
「え?」
「その話を聞いて、瞑はなんて言ってた?」
「いえ、特になにも」
僕は感情のこもらない声で呟いた。それは正確ではないが嘘でもなかった。斎宮瞑は、こう言ったのだ。
――全部わかった。だけどそれはあなたが思い出さなくていいこと。
「やはり正解だったみたいね。よかったわ」
ぼんやりと聞き流していた僕の意識に、皆瀬の声が引っかかった。
「……なにがです?」
「あなたを瞑に会わせてあげたこと」
「え?」
心外だな、と僕は思った。そんな言い方をされると、まるで彼女との出会いが、僕になにかメリットをもたらしたように聞こえてしまう。たしかに時給の高いバイトではあったが、労力を考えると、割がいいという表現が妥当かどうかは微妙だった。
「あの子にとっては、しょせん一時凌《いちじしの》ぎでしかないんだけどね。だから今だけでも、あの子には優しくしてあげてよ」
「はあ」
僕は曖昧にうなずいた。
皆瀬は僕の瞑担当のアルバイトが、そう長く続くものではないと確信している様子だった。その理由を僕は考える。最初に思いついたのは、瞑がいなくなってしまうという可能性だった。
たとえば、まもなく海外にでも移住してしまうとか。だがそれでは、彼女が通塾を続けている理由がよくわからない。持病があってそう長くは生きられないという可能性はどうだろう。現実にはありそうにないことだが、それならば彼女の無気力ぶりについても少しは理解できる気がした。
彼女がいなくなったとき、僕は寂しいと思うだろうか。
考えてみたが、結論はでなかった。
普段は死体のように無反応な瞑だが、時折こちらが予想もしない行動に出ることもある。油性ペンで壁に落書きを始めたり、バラバラに引きちぎったノートで紙吹雪《かみふぶき》を作って僕を出迎えたり。そんな彼女の気まぐれの後始末をするのも僕の仕事だった。
そして滅多にないことだが、自分から話をしてくれることもある。
その日の瞑は、地下室に通じる暗い非常階段にいた。もちろん本来は立入禁止の場所で、彼女を捜すのには苦労した。
おそらく無意識だったのだろうが、瞑は歌を口ずさんでいた。
階段の下の薄闇の中で、銀色のヘッドフォンを両手で押さえて彼女は歌う。その歌声に、僕は立ち止まって聴き惚れた。おそらく賛美歌の一節なのだろう。たいした声量ではなかったし、肺活量が追いついていない感じではあったけれど、それでも綺麗な歌声だった。音楽を習っていた人間の歌い方だ。
「すごいな。上手いもんだ」
彼女の歌が途切れるのを待って、僕は拍手しながら階段を下りていった。
壁際の隅に座っていた瞑が、ゆっくりと顔を上げた。いつもと同じ無表情だったが、瞑の瞳ははっきりと怒って僕を睨んでいた。
「ああ、ごめん。勝手に聴いてたのは悪かったけど、でもちょっと感動したよ。いい曲だね」
「……そう思う?」
怯えたような声で瞑が訊いてきたので、僕は少し驚いた。僕が彼女のことをどう評価するかなんて、瞑は気にしないとずっと思っていたのだ。
僕は無性に嬉しくなって、大げさに彼女を褒《ほ》め称《たた》えた。瞑は無反応にそれを聞いていた。彼女がどんな表情をしているのかわからなかったが、もう怒ってはいないようだった。
それからしばらく沈黙が続いた。このまま講義が終わる時間まで無反応な瞑につき合って、彼女が塾から出て行くのを見届ける。それが僕のいつもの日課だった。
そんな彼女の我《わ》が儘《まま》が塾に黙認されている理由は、結局わからないままだ。ほかのバイト講師や事務員に聞いても、適当にはぐらかされるだけだった。
数日前から大学の授業も再開されていたので、正直、僕は疲れていた。
しかし、それは瞑以外の塾生も同じなのだろうと思う。
雙羽塾の講義は九十分間だ。それが毎日、二コマか三コマ。午後四時過ぎに講義が始まって、早い生徒でも終わるのは午後八時前後。受験前の三年生などは、午後九時半近くまで講義が続く。もちろん高校での授業を終えてからのことである。
そんなものが週に三、四日続くのは当たり前の話で、土曜日や休日だって休んでいられるわけではない。僕はそれほど真面目な受験生ではなかったので、そんな生活をしている高校生がいることを、知識としてしか知らなかった。
通塾している彼らが、決して不幸な表情をしているわけではない。彼らは彼らなりに現実に折り合いをつけて生きている。しかしそれが、彼らの中のなにかを削りながら成立している危ういバランスの生活だということを、僕は否定できないでいる。
そんなとりとめのないことを僕が考えていたとき、瞑の頭を包むヘッドフォンが揺れた。僕の反応を窺うようにして、彼女は気怠げな声を出す。
「うちの近くに停留所があるの」
「……路線バスのバス停ってこと?」
瞑のほうから話しかけてきたことに驚きながら、僕はできるだけ自然に訊き返した。瞑は、無表情に目を見開いたまま、
「そう。マンションの正面玄関から、歩いて五十メートルくらい」
「へえ」
僕はおざなりな相槌を打った。ずいぶん便利な場所に住んでるな、という、ありきたりの感想しか思いつかなかった。
「二カ月くらい前に、不思議なことがあったわ」
「そのバス停で?」
「ううん、違う。朝起きてカーテンを開けたら、マンションの真正面にもバス停が出来てたの。これまではなかった新しいバス停よ」
「え? 五十メートルしか離れてない場所に、新しくバス停ができたってこと? あ、最初のバス停が工事中で、ちょっと離れた場所に移転してきたとか?」
「いいえ。最初のバス停は普通に利用されていた。私はそこからバスに乗って、いつもどおりに学校に行った」
「めずらしいね。よほど利用客が多い路線なんだ」
「まさか。郊外の新興住宅地よ?」
抑揚のない瞑の声に、かすかな苦笑の響きが混じる。その反応を見て僕はようやく、彼女が謎かけをしていることに気づいた。その新しいバス停が出現した背景には、少しばかり意外な理由があったのだろう。
彩吹市内には路線バスを運行している会社が三社存在する。しかし営業範囲が地区ごとに割り振られていて、同じ路線を複数のバス会社が走っているということはない。
そして同じバス会社が、わずか五十メートルしか離れていない場所に新しいバス停を作るというのは、考えにくいことだった。
「誰かが悪戯でバス停のポールだけを運んできた、とかそういうこと?」
「待ち合わせのベンチや、灰皿や、時刻表の看板も一緒に運んできたの?」
瞑に訊き返されて僕は沈黙した。それは明らかに、酔っぱらいや子どもが勢いでやった悪戯、という範囲を超えている。
「それに、私たちがバスを待って並んでいるとき、その新しいバス停にもちゃんと並んでいる人たちがいたの。それからしばらくしてバスがやってきて、彼らは普通に乗りこんでいったわ。町内会のバス旅行なんかじゃなくて、ごくありきたりの通勤客の恰好をした人たちよ。背広を着た男性やスーツ姿の女性、学生もいたかな。乗客はみんなそんな感じ」
「普通の路線バスってことか。観光バスなんかではなくて」
「そう。でもね、バスの行き先表示に書かれていたのは私の知らない地名だった」
「……路線バスなのに?」
「ええ」
瞑は瞳の動きだけでうなずいた。いつもと同じ無表情だが、今の彼女はどこか楽しそうに見えた。僕の気のせいかもしれないが。
「いちばん不思議だったのは、私が帰ってきたときのことだけど」
「うん」
「新しく出来たはずのバス停はね、もうなくなっていたの。跡形もなく。それから二度と同じものは見てないわ」
「え?」
僕は唖然として、動かない瞑をじっと見つめた。
まるで怪談話だな、と思った。突然現れて消えた存在しないはずのバス停。見知らぬ行き先が書かれたバス。怪談では、そういうのはたいてい冥界行きのバスということになっている。
もし瞑が気まぐれにそのバスに乗りこんでいたなら、今ごろは彼女もどこか知らない世界に運ばれてしまっていたのだろうか。
普通の女子高生に聞かされたのなら、作り話だと笑い飛ばしていただろうが、語り部は斎宮瞑である。普段から死体のような生活を送っている少女。彼女の言葉がどこまで本当のことを語っているのか、僕には判断することができなかった。
「それって、なにかのクイズなのかな。僕の心理分析とか」
「心理分析?」くす、と瞑は失笑した。「そうね。そうかもしれない」
「そう……」
僕はわけもなく安堵して息を吐いた。
瞑と過ごしている時間というのは、ほとんどそんなことの繰り返しだった。彼女が隠れている場所は非常階段や資材倉庫、空き教室など様々だったが、二週間くらい経《た》つと僕も慣れてきて、彼女を捜すために費やす時間も少しずつ短くなっていった。
瞑のお気に入りはやはり屋上で、よく晴れた風の心地いい日には、たいていそこで夕陽を見ていた。少しだけ僕にも彼女の気持ちがわかる。ゆっくりと変化していく黄昏《たそがれ》の空は、騒々しい教室や街の喧噪とは無縁の異界だった。
しかし屋上から見上げるなにもない空は、相変わらず僕にとっては恐怖の対象であり続けた。瞑はそのことをひどく残念に思っているようだった。
「自分でも奇妙だとは思うんだよ」
言い訳するように僕は彼女に告げた。
「水風船が降ってきたってことは、すぐ近くに校舎かなにか建物があったはずなんだ。だから、背の高い建物に近づきたくない、という理屈ならわかるんだけど。僕が覚えているのは、だだっ広い青空だけで、建物が近くにあったという記憶はないんだよ」
僕の脳裏に焼きついているのは、空を見上げていた男性が、突然、呻き声をあげて倒れた光景だけだった。倒れて苦悶する男の傍に、なにかが落ちていたという記憶はない。
とはいえ小学校のクラスで水風船遊びが流行《はや》っていたのも事実だし、飛び散った生温《なまぬる》い水道水を浴びて、全身がずぶ濡れになったこともよく覚えている。トラウマの原因ははっきりしているわけで、それが今さらどうにかなるとは僕も思っていない。幸いなことに都会で暮らしている限りにおいて、建物の影が視界に入らない、なにもない空を見上げる機会はそれほど多くない。僕のこの名前もない恐怖症は、少なくとも表向きは、ほとんど生活に支障がないのだ。ただ、なにか大事な記憶が欠落しているような気がして、落ち着かないというだけだ。
「そういえば、大学の近くでこんなことがあったよ」
無反応な瞑に向かって、僕は独りごとのように語りかける。
「うちの大学の近所には意外に田んぼや畑が多く残っててさ、今でもたまに案山子《かかし》がいたりするんだよ。あとはカラスよけの風船かな。目玉みたいな模様が描いてあるやつ。あれが片っ端から打ち倒されるって悪戯があって」
「そう」
瞑の素っ気ない声が返ってくる。しかし、それは興味を示しているという、彼女の最大限のサインだった。
「そのときに使われた道具っていうのが、ゴルフボールなんだよ。ものすごく正確に、風船のど真ん中や案山子の頭をゴルフボールが突き破った跡が残っていて。もちろん手で投げたくらいではあんな威力は出せない。普通に考えれば、ロングアイアンあたりの弾道の低いクラブを使ったってことになるんだろうけど」
「…………」
「マナーの悪いゴルファーが、河川敷や人気《ひとけ》のない山の中でゴルフの練習をするってのは、そんなにめずらしいことじゃないらしいけど、それにしても、すごい腕前だよね。たった一発で正確に目標に当てているんだから。そんな凄腕のゴルファーが案山子になんの恨みがあるんだろう、ってことで少し話題になって――」
僕がそこまで言いかけたときに、ひんやりとした腕が僕の手首を握った。
瞑だった。ぐったりと壁にもたれていたはずの瞑が、突然、身を乗り出して僕の腕をつかんでいた。思いがけない強い力だった。それまで人形のように無表情だった彼女の瞳に、見たこともない強い感情の色が浮かんでいる。
「梨夏さんは、その話を知っているの?」
驚くほどしっかりした声で、瞑は僕に訊いた。強烈な意志を感じさせる口調だった。彼女の剣幕に気圧《けお》されて、僕はぎこちなくうなずいた。
「ああ。もともと皆瀬から聞いた話なんだよ」
「そう」
瞑の顔に、紛れもない安堵の表情が浮かぶ。そして彼女は、糸の切れた操り人形のように、ぐったりと僕の腕の中に倒れこんできた。
「よかった……未遂で終わったのね」
ぽつり、と瞑は呟いた。僕は、震えている彼女の細い肩と黒髪を、呆気《あっけ》にとられながら眺めていた。
瞑の存在は僕の生活の一部に組みこまれてはいたが、彼女の面倒を見ているだけで日々の暮らしが完結しているわけではない。
その週は瞑が休みだった。いちおう事前に教務係経由で理由も聞いた。文化祭の準備で忙しいと、もっともらしいことを言う。面白い冗談だと思った。同級生たちに合わせて忙しくしている彼女の姿など想像がつかなかった。
いつもの習慣で彩吹行きの電車に乗った僕は、気まぐれに駅前に買い物に出かけた。
バイト代は相変わらず日払いで渡されていたし、最近は皆瀬に命じられて写真撮影に出かける機会もなかったので、懐具合には余裕があった。カメラ屋を回って新しい機材を物色し、古着の洋服と何冊かの本を買い、遅めの昼食を摂るためにドーナツショップに立ち寄った。
料理を待ちながら買ったばかりの小説をぼんやりと読み進めていると、何気なく近くの女子高生たちの会話が耳に入ってきた。
「ね、あの人ってアレでしょう。斎宮の奴隷」
「奴隷?」
「なにそれ?」
彼女たちの甲高い笑い声を、僕は無表情に聞いていた。
自分と瞑のことが話題になっているという事実を把握するのに、しばらく時間が必要だった。
わけもなく怒りを感じたのは一瞬のことで、冷静になって考えれば彼女たちの評価はそれほど的外れなものではなかった。たしかに僕と瞑の立場は、塾講師と生徒のそれよりは明らかに主人と従僕の関係に近い。奴隷というのは、実にわかりやすい比喩だった。
「でも斎宮っていい性格してるよね。青稜に通ってる友達に聞いたんだけど、あの子ってさ」
少女たちの無責任な噂話は続いていた。
僕はそれを聞くともなしに聞いていた。たぶん今の僕の顔には、塾の屋上で見かけた瞑と同じ表情が浮かんでいるのだろう。心をなくした死体のような表情。彼女がヘッドフォンで耳を塞いでいたように、僕は目の前の小説を眺めることで現実から顔を背けていた。
瞑とは違う高校に通っているらしい少女たちの会話は、ほとんどが嘘と憶測で成り立っていた。しかし、彼女たちの言葉に含まれた断片的な情報から、僕はある仮説にたどり着いた。
二杯目のコーヒーが空になったとき、少女たちは店を出て行った。
それから僕はもう一度コーヒーのおかわりを頼み、小説を百ページほど読み進めた。
腕時計を見て、立ち上がる。ここから雙羽塾までは歩いて十五分ほどだった。顔なじみの警備員に挨拶しながらガラス張りのエントランスをくぐり、アルバイト用に渡されていた磁気カードでチェックゲートをくぐった。それから真っ直ぐに進路指導室に向かった。
指導室の中は無人だった。講義がある生徒たちは自分たちの教室に移動したあとで、すでに講義が終わった生徒は帰宅してしまった。ちょうどそんな時間帯なのだ。
指導室には、参考書や受験資料が収められた本棚と閲覧用の机、そして数台のパソコン端末が置かれていた。生徒たちはその端末を使って、自分の過去の成績の推移と、志望校の合否判定をすることができる。
端末から他人の成績を呼び出すことはできないが、講師は専用のIDとパスワードを使って、自分が担当する塾生の成績を閲覧できるようになっていた。
僕に与えられたIDで閲覧できる生徒は一人だけだった。塾内のネットワークにアクセスするわずかなタイムラグを挟んで、画面には細かい数字のリストが表示された。
その数字を五秒ほど眺めて、僕は端末からログアウトした。それ以上、調べる必要はもうなかった。登録されていたのは、おおむね僕が予想した通りの内容だった。
溜息が洩れた。
皆瀬が口にした一時凌ぎという言葉の意味。そして雙羽塾が瞑の我が儘を黙認している理由。わかってしまえば、あまりにも簡単なことだった。僕がいつ辞めても仕方がないと、教務係が諦観していた理由もわかった。
そして最後に残ったのは、ものすごくシンプルな疑問だけだった。
いくつか思いつく可能性はあったが、それを確認するのは難しい。
「ふん」
もう一度嘆息しながら、僕は携帯電話を取り出した。思いつくままに電話をかけ、四人目で目的のものを持っている友人に当たった。
携帯電話で日付と時刻を確認する。もうあまり時間が残されてはいなかった。瞑の正体を確かめる前に、調べておかなければならないことがあった。
なぜなら瞑に会えるのは、次が最後かもしれないから。
「まあいいさ」
気怠い声で僕は呟いた。
犯行現場に忍びこむのは慣れている。
青稜高校は歴史の古い学校で、市内でも有名な進学校だった。親子代々に亘って青稜の出身という家族も多く、生徒の気風も真面目で保守的だといわれている。
そんな学校だから、文化祭といってもお祭り騒ぎという感じではなく、日頃の校内活動の発表会という雰囲気が強い。お化け屋敷や模擬店などはなく、せいぜいバンド演奏や演劇くらい。
生徒たちはそれなりに楽しんでいる様子だったが、見学に来ている保護者たちは、互いに他人の顔色をうかがっているようでよそよそしかった。
僕は、初めて訪れた見知らぬ校内を、無表情に見回しながら歩いていた。
青稜高校の文化祭を訪れるには、入場券が必要だ。入場券は生徒一人あたりの割り当て枚数が決まっており、親兄弟などを中心に配られる。無関係な人間が文化祭を見るためには、まず、弟や妹が青稜に通っている友人から入場券を譲り受けなければならない。
もしも青稜が有名な女子校だったりしたら、入場券を手に入れるのも大変だったのだろうが、幸いここは共学校だった。大学の友人に声をかけて、券を手に入れるのは難しくなかった。
講堂では開会式が行われていて、ちょうど校長らしき人物が挨拶を終えたところだった。
次に演壇に上がったのは生徒会長だった。講堂内には生徒だけでなく、保護者たちも大勢集まっている。だが、小柄な会長は物怖《ものお》じした様子もなくマイクの前に進み出て、落ち着いた様子で挨拶文を読み上げ始めた。
その様子を僕はぼんやりと眺めていた。
考えていたのは、ゴルフボールの話をしたときの瞑の反応だった。
結論から言えば、あれは事件でもなんでもなかった。
打ち倒された案山子や風船の被害額はゼロではないが、ギリギリ悪戯で済まされる範囲だった。その段階で警察が犯人を特定し、本来の目的を未遂で終わらせたからである。
スリングショットと呼ばれている道具がある。いわゆる投石機。狩猟用のパチンコだ。通常は専用の金属弾を使うのだが、もちろんゴルフボールなどを撃ち出すことも不可能ではない。
ただし弾の直径が違うため、スリング本体の調整が必要だし、練習する必要もあるだろう。そう、あれは練習だったのだ。
河川敷などで練習しているマナーの悪いゴルファーは少なくない。彼らのミスショットで、散歩中の人が怪我をするという、不運な事故の話もしばしば耳にする。
しかしそれはあくまでも事故である。どんな凄腕のゴルファーでも、歩いている人間を狙い打ちするのはほとんど不可能に近い。だが、スリングショットならば話は別だ。
狩猟用具であるスリングショットの命中率は高い。そして十分に人を殺傷する威力がある。ゴルフボールを弾丸に使って通行中の人間を撃てば、アマチュアゴルファーによる事故を偽装して、狙った相手を負傷させることが十分に可能だった。
スリングショットは、国内ではそれなりに入手の難しい武器である。犯行手段さえわかってしまえば、犯人を突き止めるのは、そう難しいことではなかっただろう。
大学の近くで起きた些細な事件の情報から、可能性を推理して、警察を動かしたのが本当に皆瀬梨夏だったのかどうか僕は知らない。しかし皆瀬の性格なら十分にあり得ることだと思うし、彼女にはそれができるだけの人脈や肩書きがある。
そして僕がその話をしたとき、瞑は一瞬で同じ結論に達して皆瀬と同じことをやろうとした。
無気力な死人を装っていた瞑は、あの一瞬だけ、本性を剥き出しにしたのだと思う。本当の彼女は、怠惰な問題児なんかではない。恐ろしいほどに頭の回転が速く、そして病的なまでに潔癖で正義感の強い人間なのだ。自分自身を追いつめて、壊してしまいかねないほどに――
生徒会長の挨拶は続いていた。
僕はゆっくりと演壇のほうに視線を向けた。原稿から顔を上げた会長と目が合った。一瞬、会長の声が途切れたが、すぐに何事もなかったように挨拶は再開された。
僕は演壇に背を向けて、一人で静かに講堂を出た。
大学のキャンパスを見慣れた目には、高校の校舎は、ずいぶん小さく感じられた。
文化祭の飾りつけで散らかっているせいかもしれない。演劇の小道具や、研究発表の模型などが、廊下にまで無秩序にあふれている。
独特の空気に満ちた校舎の中を無意味に彷徨《さまよ》っていると、屋上に通じる非常階段の扉が目についた。気まぐれにノブに手をかけてみる。
施錠され錆びついたままの扉は低く軋んだ。だが決して開こうとはしなかった。
やれやれ、とため息をつきながら、僕は青稜高校をあとにした。
それから僕は大学に向かった。講義に出る気分ではなかったので真っ先に学食をのぞいたが、皆瀬の姿は見あたらなかった。
もっとも彼女に会えると期待していたわけではない。彼女に会いたい気分でもない。
学食の自販機でコーヒーを買うと、僕は人目を避けるようにして写真部の部室に向かった。
有り難いことに部室には誰もいなかった。
僕は自分のロッカーから、分厚いアルバムを引っ張り出した。高架下の路地。コンクリートの地下室。無人の雑居ビル。すべて、これまでに撮り溜めた殺人現場の写真である。
たとえば過去に犯罪に巻きこまれた人間が、事件の記憶を失っていた場合、その代償行為として異常犯罪の現場に執着する。そんなことがあり得るだろうか、と考えてみる。
もちろん結論は出なかった。だが、もしかしたら皆瀬はその可能性に気づいていたのかもしれない、と思う。おそらく瞑も。
しかし記憶の空白が埋まったからといって、僕の異常な執着が消えてなくなるかというと、それはまたべつの問題だ。おそらくこれからも僕は人の死んだ場所の写真を撮り続けてしまうのだろう。どうやって生まれたかとは無関係に、腐肉食動物《スカベンジャー》は死ぬまで腐肉食動物《スカベンジャー》なのだ。
死体のふりをしていた瞑が、狩猟動物の本能を抑えきれなかったのと同様に。
射しこんでくる夕陽で目が覚めた。
ここ数日、寝不足だったせいか、知らない間に眠っていたらしい。いつもなら雙羽塾のアルバイトに出かける時間だが、しかし今日も瞑は休みだ。
瞑は塾を辞めるかもしれない、と僕はぼんやり考えた。辞めるつもりがないのなら、彼女は僕をクビにするように塾側に掛け合うかもしれない。そうなったとしても文句は言えない。そのつもりで僕は青稜の文化祭に出かけたのだから。
もう彼女には会えないかもしれないのだ、と僕は不意に実感する。虚ろな空洞に似た奇妙な喪失感を覚えて、僕は苦笑した。まったく柄にもないことだ。
冷え切ったコーヒーを飲み干し、散らかった部室の中を見回し、それからふと思いついて、僕は備品のパソコンを起動した。CMと打ちこんで、検索をかける。
「なるほど」
やがて予想していたものが見つかって、僕は意味もなく微笑した。
これは謎かけの答えなのか。それとも助けを呼ぶ悲鳴なのか――瞑。
塾生のプライバシーに配慮して、雙羽塾では、講師にも生徒の家族構成や住所などについて知らされないようになっている。だから僕には、瞑の住所がわからなかった。
僕にわかったのは、このバス停の場所だけだった。
やがて沈みかけた夕陽を浴びながら、市営バスの見慣れた車体がそこに停車する。
降りてきた乗客は、セーラー服を着た女子高生が一人だけだった。
うっすらと排気ガスの臭いを残してバスが走り去ると、彼女はガードレールにもたれている僕に気づいて、礼儀正しく頭を下げた。品行方正な優等生の表情で。
「こんにちは。お久しぶりですね」
「ああ……うん」
僕は苦笑しながら挨拶を返した。回りくどい寸劇をしているような違和感がある。世間の規格に合わせて生きるというのは、つまりこういうことなのだろう。
「後夜祭は?」
「そういうのはないんです。うちの学校は、ああいうところですから」
青稜高校の生徒会長は、照れたように小さく舌を出して笑った。聡明で如才ない印象の微笑みだった。道路脇に停めた赤い車を見て、彼女は笑顔のままで目を細める。
「この車は?」
「皆瀬教官に借りたんだ。ガソリン満タンで返せって言われた」
そう言って僕は車のボンネットに触れた。英国製の小型オープンカーである。幌はない。僕は助手席のドアを開けると、無言で彼女を招き入れるような仕草をした。
「空は? 屋根はなくて平気なんですか?」
スカートの裾をつまんで車に乗りこみながら、彼女は夕闇の空を見上げて訊いた。
「たまにはね」と、僕は苦笑した。
「そう……思い出したのね」斎宮瞑は細い声でそう言った。彼女はもう笑ってはいなかった。
夕方ということで道路は混んでいる。僕はゆっくりと車を発進させた。
瞑は無表情にガラスに映る景色を見ていた。死体のような無表情な問題児でも、生徒会長の優等生でもない、憂いに満ちた所在なげな表情だ。
「クイズの答えがわかったのはいつ?」
やがて彼女がぽつりと訊いた。
「さっきだよ。文化祭で演劇の小道具を見たときに気づいた」
僕はミラーの中で遠ざかるバス停を見る。
交通量の少ない早朝の住宅地に、突然現れた二つめのバス停。バスを待っていた乗客の列。見知らぬ地名に向かう路線バス。それらはすべて撮影用に用意されたものだった。瞑のマンションの目の前の道路で、その日、テレビCMのロケが行われていたのだ。
「映画やテレビドラマの撮影を、わざわざこんな地方都市の街中でやるとは思えないからね。CMの可能性は高いと思った。最近は製品CMをインターネットで公開している企業も多いし、出演タレントのファンがロケ地の情報を調べてくれていたから、探すのはわりと簡単だった」
慣れないマニュアルトランスミッションに苦労しながら、僕は車を走らせた。
瞑は黙って僕の説明を聞いている。
彼女の自宅周辺は歩道が広く、整備されたばかりの街並みも綺麗だ。だから撮影現場に選ばれたのだろう。撮影は交通量の少ない早朝に行われて、午後には撮影用のバス停は撤去された。だから瞑が帰宅したときには、跡形もなく消えていたのだ。
「張りぼての偽物のバス停は、あの家の前にはお似合いだわ」
しばらくして瞑がぽつりと呟いた。あの家というのは、たぶん彼女の自宅があるマンションのことなのだろう。あるいは彼女の自宅そのもののことか。自嘲するような口調で瞑は続けた。
「うちの両親はね、仲が悪いの。二人ともほとんど家に居着かないし、たまに顔を合わせれば喧嘩ばかり。夫婦を名乗っているのが不思議なくらい。そのくせ余所《よそ》では、良い教育は良い家庭環境から、なんてしたり顔で語っていたりするのよ」
気の利いた返事を求めている雰囲気ではなかったので、僕はなにも答えずにいた。
瞑も、それ以上なにかを語ろうとはしなかった。
十五分ほど車を走らせて、僕は郊外の丘陵地へと向かった。そこは僕が小学生の頃に住んでいた地区だった。住民の高齢化が進んできた古い団地近くに、こぢんまりとした小学校が見えてくる。
「――昨日の夜、あそこに忍びこんできた。最近は物騒だからなのか、市立の小学校にも警報装置が仕掛けられててさ。けっこう苦労したよ」
「そう」瞑は感情のこもらない声で呟いた。「中庭に、彫像はあった?」
「いや。なかった」僕は自嘲するように口元を緩めた。「きみはいつから気づいてたんだ?」
瞑は静かに息を吐いた。
「変だと思ったのはヴィーナス像だと聞いたとき。ヴィーナスということは裸婦像でしょう? いくら芸術作品だからといって、小学校の校庭にふさわしい彫像とは思えないわ」
「そうだね」
僕は苦笑してアクセルを踏みこんだ。軽量なオープンカーは、急な傾斜の坂道をぐいぐいと加速して上っていく。やがて見えてきたのは、広い芝生に囲まれた美しい建物だった。市立美術館の建物だ。
「中庭にヴィーナス像が設置されているのは、小学校の近くにある美術館のはず。それを思い出したときに気づいたの。あなたは、二カ所でおきた別々の事件を、記憶の中でごちゃ混ぜにしているのではないかって」
「うん」
僕は短く答えて、車を美術館の駐車場に乗り入れた。
高台にある美術館からは、黄昏の空がよく見渡せた。遮るもののなにもない広大な空だ。その光景に僕は身震いした。ここには身を隠すものがない。もしこんなところで空からなにかが落ちてきたら、逃れる方法はどこにもない。
「ここから先はただの想像だけど、あなたが水風船だと思っていたオモチャは、もしかしたらコンドームなどの避妊具だったのではないかと思ったの。小学生が自分でそんなものを買ってくるとは思えないけど、たとえば教師の荷物の中からそれを見つけた児童が、それをわざと先生にぶつけてからかおうとした、というのはあり得るでしょう。水を詰めたのは、本来の目的を知らないままに、恥ずかしい持ち物という知識だけを吹きこまれていたせいかもしれない」
「そうかもね」
僕は無関心に同意した。たぶん僕たちの時代にはまだ、それほど詳しい性教育は行われていなかったと思う。瞑の想像はいかにもありそうなことだった。
「あなたは、たまたまそれに巻きこまれただけだった。その時点では、まだ」
ため息のような声で瞑が言う。僕は無言でうなずいた。
そう、僕が本当の意味で被害者になったのはそのあとだ。
水風船遊びに少しばかり危険があったとしても、よほど運が悪くなければ大人の男性が命を落とすようなことではない。実際、地上に落ちた風船はあっけなく破裂し、僕と担任教師は水浸しになるだけで済んだ。
濡れた服を絞って乾かすために、僕たちは人目につかない部屋に移動した。ここで問題になるのは、なぜ担任教師が小学校に避妊具なんかを持ってきていたのか、ということだ。
たとえば児童を相手に猥褻行為を働こうと考える教師がいたとしても、小学生の少女を相手に避妊を考えるとは思えない。しかし避妊具はべつの目的で使われることもある。たとえば感染症のリスクを避けるために、男性の同性愛者が利用したり、ということが。
教師による性的虐待があり、その犯行が露呈した。
その場合、記憶をなくした被害者の生徒に事件の真相が知らされないまま、担任教師が替わる蓋然性は高い。その先生が死んだ、と誰かが僕に吹きこむこともあり得るかもしれない。
「正直に言えば、そのあたりの記憶がないのは幸いだよ。できれば一生思い出したくないね」
僕は疲れた声でそう言った。
「でしょうね」
瞑は同情するような視線で僕を見た。
「あなたにとって都合がよかったのは、たぶんその事件の直前に、よく似た光景を目撃していたことよ。あなたのすぐ目の前で、突然、倒れた男性がいたの。新聞を調べればわかると思うけど、たぶんあなたの担任に背格好が似ていたのではないかしら。だからあなたは、そんな不自然な状況にも疑問を抱くことがなかったのよ」
「……そう。それだけは今でもわからないんだ」
僕は弱々しく呟いた。水風船が落ちてきて、元担任教師を直撃した。そこにはなんの不思議もない。なぜなら小学校の中庭には、すぐ傍に四階建ての校舎があるからだ。
しかし、この美術館は違う。この美術館の中庭の周囲には、なにもない。だだっ広い芝生が敷き詰められて、ところどころに彫像が点在しているだけ。
僕たちは車を降りて歩き出す。すでに閉館時間を過ぎているので、敷地の中には入れない。しかし鉄製の柵越しに、中庭の様子は見ることができた。十年ぶりに訪れた場所だったが、そこは記憶の中の光景となにも変わっていなかった。
「ヴィーナス像の除幕式に、僕が、近隣の小学校のクラス代表として出席したのは確かなんだ。そして式典の途中で、目の前にいた男性が突然倒れてしまった。その光景ははっきり覚えている。まるで空から降ってきた見えないなにかに殴られたような感じだった」
そう。すべてはそこから始まったのだ。僕がなにもない空を恐れるようになったのは。失われた担任教師の記憶と、見えない凶器で倒された男。その二つの事件の印象が混じり合って、僕の奇妙な恐怖症を形作っていたのだ。
「…………」
瞑が、するりと制服のスカーフをほどいた。高台の乾いた風を受けるように、彼女は大きくスカーフを広げ、そのまま駐車場脇の芝生にぺたんと座りこんだ。
そして瞑は無表情のまま呟いた。
「ダヴィデ症候群、というのを聞いたことがある?」
いや、と僕は首を振った。
「ダヴィデ? 旧約聖書の?」
「そう。でも、ここで言ってるのはフィレンツェにあるミケランジェロのダヴィデ像のこと。ダヴィデの裸像を見た直後に、気分が悪くなって病院に運びこまれる人が相次いだことから名付けられた症状よ」
「……どうしてそんなことが?」
「さあ?」
瞑は素っ気なく首を振る。
「きちんとした病名として認められているわけではないけど、いわゆる旅行者血栓症に近いといわれているわ。長い時間、見上げるような姿勢で彫像を鑑賞しているせいで、頸部の血管が圧迫されて血栓ができるのではないかという説。除幕式のように長い式典の直後では、余計に起こりやすい症状でしょうね」
「そうか……それで、僕は……」
空から降ってきた見えないなにかに、彼が打たれたと思ってしまったのか。
そして、その直後に起きた水風船の事件と、記憶の中の映像を混乱させてしまった。それは水風船事件のあとに生まれた記憶の空白によって、より強固なトラウマとして定着した。
瞑は早い段階でそれに気づいていたけれど、あえて僕には知らせないほうがいいと判断した。僕の過去にある記憶の空白は、自我を崩壊させないために僕が自ら作り出した安全装置だと、彼女は気づいていたから。
やはり僕が犯罪の現場に残された「風景」に固執するのは、僕自身の「記憶」が空白だから、なのだろう。だがそれも今となってはどうでもいいことだ。
星が瞬き始めた空を見上げて、僕は思い切り顔をしかめた。たとえ原因がわかっていても、恐ろしいものはやはり恐ろしい。それとも、すでに恐ろしいものが存在するから、その恐怖を減らすために人は理由を見つけようとするのか。
ぽん、とゴムの弾む軽い音が鳴った。見ると駐車場のアスファルトの上に、瞑が投げ捨てたスニーカーが転がっていた。
裸足になった瞑は両脚を伸ばして、水面に出た人魚のように無防備に息を吐く。
それは普段の彼女が感じている重圧を、僕に想像させるのに十分な深いため息だった。
瞑の両親は不仲だという。その二人をかろうじて繋ぎ止めているのが瞑だった。ドーナツショップで聞いた、ただの噂話だ。だから真偽のほどはわからない。しかし今の瞑を見ていると、それはきっと何割かの真実を含んだ噂なのだろうと確信できる。学校での彼女が、完璧な生徒会長役をこなしているのも、おそらくその噂と無縁ではない。
瞑の母親は何冊もの著書を出している教育評論家。そして瞑の父親は雙羽塾の理事だった。
そんな肩書きの両親にとって、品行方正な優等生の娘は、実に有用な存在だったに違いない。
だから瞑は、彼らの前で理想的な娘の役を演じ続けなければならなかった。学校では成績優秀で人望の厚い生徒会長役を。家庭では大人しく聞き分けのよい愛娘《まなむすめ》の役を。
自宅でも学校でも優等生を演じている瞑にとって、雙羽塾で過ごすわずかな時間が、唯一の休息なのだろう。死体のような無気力さはすり減った神経を癒すための眠りであり、傍若無人な振る舞いは誰にも甘えることのできない反動なのだ。そうしなければ彼女の精神は保《も》たなかったのだと思う。どんなに頭がよくても、洞察力が鋭くても、彼女はただの――人並み以上に愛情に飢えた女子高生なのだから。
そして皮肉なことに、そんな瞑の唯一の安寧を支えているのは、優等生である彼女の学力なのだった。雙羽塾にいる大勢の生徒たちの中でも、瞑の学力はずば抜けていた。全国模試でも常に一、二位を争っており、彼女の存在が進学塾としての雙羽塾の宣伝にもなっている。ましてや彼女は理事の娘だ。雙羽塾の教務員たちが腫れ物に触るようにして、瞑の我が儘を黙認しているのは、それが理由だ。たったそれだけの打算的な理由なのだ。僕が彼女のお目付役として雇われたのも、彼女がなにか問題を起こして、それが彼女の父親の耳に入ることを教務員たちが恐れたせいだった。
「もう会ってくれないと思ってたわ」淡々とした口調で瞑は言った。
「だろうね」僕は苦笑する。
自分よりも遥かに頭がいい年下の優等生。しかも自分を雇っている予備校の理事の娘。そんな少女の我が儘に、自分がいいように振り回されていたことを知ったら、大抵の相手は怒って彼女を見限るに違いない。皆瀬が自分のゼミの大学院生たちに仕事を回さなかったのも、おそらくそれが原因だろう。彼らはすでに瞑の境遇を知っているのだ。
だから彼らには僕の代わりは務まらなかった。瞑は彼らには甘えることができなかったのだ。
皆瀬の言ったとおりだった。瞑のお守りは、僕の仕事だ。最初に彼女に出会ったときから、僕は被写体としての瞑に心を奪われていたのだから。屋上で死人のように横たわる彼女を見たその瞬間から――
「立ちなよ、瞑。そろそろ帰らないと、家の人が心配する」
瞑が脱ぎ捨てた靴やスカーフを拾い集めて、僕は言った。
「嫌よ。だって私はとても疲れているの」
瞑は無表情にそう告げる。そして死体のようにぎこちない動きで腕を上げ、冷ややかな声と尊大な口調で僕に命じた。
「あなたが運んで」
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U 四番目の色が散る前に
その夜、僕は廃業したレストランの跡地を訪れていた。
川沿いの国道脇にあるファミレスだった。
朽ちかけた街路樹の陰に埋もれて、色褪せた建物がひっそりと佇んでいる。無人の敷地内は薄闇に覆われ、遠くを走り過ぎる車の音が細波《さざなみ》のように響いていた。
廃墟には残り香があると思う。それは朽ちた植物が放つ芳香に似ている。人が残した生命の痕跡が、冷たく固いコンクリートに染みついて、独特の気配を発しているのだ。
その建物も例外ではなかった。むしろ、これまでにないほど濃密な意志が焼きつけられていると感じられた。荒々しく攻撃的な人の想い。殺意の残り香だ。
レストランの建物は二階建てだが、地上階は駐車場になっている。吹き抜けの虚ろな空洞に灰色の柱が無数の影を落とし、まるで深い海の底を見ているようだった。
僕は奇妙に興奮した気分で、その駐車場へと入っていった。
こんな場所があったのか、と背後を振り返って少し感心する。
雑然とした市街の中心部に、ぽっかりと生まれた死角。人を寄せ付けない結界のような廃墟。そこは理想的な場所だった。殺人者にとっての最高の狩猟場だ。
建物の基部を兼ねた太い柱の裏側には、立入禁止を示すロープが今も張り巡らされている。
この廃墟で、女子高生の変死体が発見されたのは四日前のことだ。
警察の現場検証がようやく終わり、周囲を覆っていたビニルシートも取り払われた。取材に集まっていたマスコミももういない。警官による監視は続いていたが、その巡回の合間を縫って、僕は殺人現場に忍びこんだのだった。
特に理由があっての行動ではなかった。殺された女子高生と面識があったわけではないし、ましてや犯人が誰なのかも知らない。あえて説明すれば趣味なのだ。猟奇的な殺人事件の現場を訪れて、その風景を写真に収めることが。
僕が自分のこの厄介な性癖に気づいたのは、おそらく中学生になる前のことだった。それから間もなく僕はカメラを抱えて殺人現場を訪れて回るようになり、その習慣は大学に進学した今でも続いている。
あまり褒められた趣味でないことは自覚しているが、これは自分でもどうしようもない衝動なのだった。殺人者が他人を殺さずにいられなかったのと同様に、僕は彼らが残した死の痕跡にどうしようもなく惹かれてしまう。片想いの相手の本心を知りたいと願うのと同じ切実さで、その風景に焼きつけられた記憶を蒐集したいと思ってしまう。それは僕という人間の、心の中の空隙を埋める作業なのかもしれなかった。
ひんやりとした夜の空気が、殺伐とした廃墟の駐車場に澱んでいた。
殺人の痕跡が洗い流された今も、得体の知れない強い感情が、ざらついたアスファルトの地面に深く染みこんでいる気がした。
無意識の衝動に誘われて、僕はゆっくりとカメラを構えた。この場に残された無形の殺意が記録に残ることを信じてシャッターを切る。
そしてファインダーをのぞきこんだまま、僕は小さく呻《うめ》き声を漏らした。
青白く発光したフラッシュが、小柄な人影を映し出したからだ。
それは高校の制服を着た少女の姿だった。
長く放置され、枯れ果てた植えこみの陰に、彼女は無防備に立ち尽くしていた。
幽霊かもしれない、などとは思わなかった。矛盾しているかもしれないが、僕は霊魂の実在を信じていない。人は自分の意思を書き残すことができるし、それと同じように殺意や恐怖を世界に焼きつけることもできるに違いない。しかし死者が人の形をとって現れることなどあり得ない。霊などいない。人は皆、死ねば終わりだ。
「あ……」
少女が短く呟いた。僕がこんな場所にいたことは、彼女にとっても予想外の出来事のようだった。咄嗟《とっさ》に逃げることもできずに、彼女は呆然と僕を見つめていた。
少女が胸元に抱えているのは花束だった。おそらく自分で庭木を摘んで束ねたものだろう。死者に対する手向《たむ》けの花束だ。
殺害された女子高生のために献花に来たのだろうか、と僕は訝《いぶか》る。
こんな夜更けに、たった一人で?
怪訝顔で目を細めた僕を見つめて、少女は立ち去るべきかどうするか、しばらく迷っていた様子だった。無理もない。警察の目を盗んで忍びこんだ殺人現場で見知らぬ男に遭遇したら、にこやかに挨拶する気分になどなれないだろう。僕が彼女の立場なら、すぐにでも悲鳴を上げて逃げ出している。
しかし彼女は逃げなかった。かわりに目を大きく見開いて、小柄な愛玩動物のように首を傾《かし》げた。そして僕のほうに向かって一歩踏みだし、驚いたような口調で言った。
「……先生?」
それが彼女――納戸愛美《なんどまなみ》との出会い。
第一の犠牲者、笹沼茜《ささぬまあかね》が殺されて四日目の夜のことだった。
斎宮瞑は屋上に続く非常階段の踊り場に、うつ伏せになって寝転んでいた。セーラー服のスカートの裾から、裸足の脚が無造作に投げ出されて伸びている。その姿はさながら無人の廃墟に打ち捨てられた、美しい人形のようだった。
死体のように散らばる長い髪にまみれて、銀色の無骨なヘッドフォンが輝き、漏れ出す大音量の音楽を聞きながら、瞑は無表情に目を閉じている。
「スカ、遅い」
階段を駆け上ってきた僕の気配に気づいたのだろう。彼女は瞑目したまま怒ったように短く呟いた。スカ、というのは高須賀という僕の苗字をもじって名付けられた愛称で、瞑は普段から僕のことをそう呼んでいる。おそらく悪意はない、とはわかっていても、年下の少女にそんなふうに投げやりに呼ばれるのは気持ちのいいものではなかった。
身じろぎしない瞑を見下ろして、僕は静かにため息をつく。
雙羽塾は県内でも最大手の予備校だ。
彩吹市内のターミナル駅前に巨大なビルを構えており、近隣の市内から千人以上の生徒を集めている。瞑はそんな雙羽塾の塾生の一人だった。伝統のある進学校の生徒会長で、成績だけならば彼女は全国でもトップクラスである。
しかし塾生としての彼女は、お世辞にも模範的な生徒とは呼べなかった。むしろ非常な問題児ですらある。
そもそも瞑は講義に出席しない。登塾するなり行方をくらまし、ほとんどの講師とは会話すらしない。立入禁止の屋上や地下室など、塾校舎内のあちこちに彼女は専用の隠れ家を持っている。そして講義の時間が終わるまで、ぐったりと死んだように倒れて時間を過ごすのだ。
そんな我が儘が許されるのは、瞑がこの塾の理事の娘だからであり、そして彼女の学力がずば抜けて優れているからだ。進学塾の宣伝材料となるという、ただそれだけの理由で彼女は雙羽塾の教務員から特別扱いを受けていた。腫れ物に触るような扱い、というべきかもしれない。
不安定な彼女の家庭環境のせいで、瞑は自宅でも高校でも隙のない優等生を演じ続けている。
塾内での身勝手な振る舞いは、おそらくその反動なのだろう。彼女の唯一の休息の場所は、皮肉にも、生徒を成績でしか判断しない進学塾の中だけだった。本来の彼女は模範的な生徒会長などではない。むしろ脆《もろ》いほどに孤独で不安定な少女なのだ。
「黙ってないでなにか話しなさいよ」
だらしなく寝そべったままの姿勢で、瞑が告げた。
ずいぶん理不尽な命令だが、僕は文句を言わなかった。彼女のこんな態度には慣れている。僕は、瞑の世話係として雙羽塾に特別に雇われたバイト講師なのだ。
これまでほとんどのバイト学生が一週間と保たずにやめたというこの難役を、僕は奇跡的に長く続けていた。僕に特別な才能があったわけではない。ただの相性の問題だ。
「そういえば、きみに会ったら訊きたいと思っていたんだけど」
「なに?」
「うちの塾生で納戸愛美って知ってるかな。青稜高校の生徒だと思うんだけど」
「二年の納戸さん? 演劇部の?」
瞑が瞼を開けて僕を見た。僕は小さく首を傾げ、
「演劇部?」
「生徒会の予算会議で見かけたことがあったと思う。彼女、副部長だったはず。青稜の演劇部は部員が少ないから印象に残ってるだけだけど」
「へえ」
瞑の言葉を、僕は意外な気分で聞いた。僕が遭遇した納戸愛美という生徒は、少し気弱げな雰囲気のおっとりとした少女で、人前で芝居を演じるようなタイプには見えなかった。
もちろん演劇部員といっても全員が舞台に立つわけではないのだろうし、彼女の大人しい態度そのものが演技だったという可能性もあるのだけれど。
「彼女がどうしたの?」
「いや。ただ、どんな子なのかな、と思って」
「どうしてそんなことを私に訊くの?」
眉間にシワを寄せて、瞑が訊き返してきた。静かに怒っているような瞑の声色に、僕は少したじろいだ。彼女がこんなふうに不機嫌さを表に出すのはめずらしい。
「昨日、会ったんだ。赤根町のファミレスで。僕のことを先生と呼んでいたから、たぶんきみの知り合いだと思ったんだけど」
思わず弁解するような早口になって僕は答えた。瞑の表情は険しいままだ。
「私も直接の知り合いというわけではないけど、きっと優しい子なんでしょうね。あなたのことを先生なんて呼んでくれるのは、彼女だけじゃないの?」
冷ややかな瞑の言葉に僕は苦笑した。たしかに彼女の言うとおりだ。予備校のバイト講師といいながら、僕は瞑以外の生徒を指導したことがない。その瞑ですら僕を先生とは呼ばないし、口の悪い生徒の中には、僕を瞑の下僕扱いする者もいる。
しかしそれを瞑本人に指摘されるのは心外だ。
「可愛い子でしょう? よかったわね。仲良くなれて」
抑揚の感じられない口調で言って、瞑はそれきり黙りこんだ。
「仲良くなるほど話をしたわけではないんだけどね。変な場所で会ったから、気になって」
無反応な瞑の背中に、僕はぼそぼそと言い訳する。
瞑の言うとおり、納戸は可愛らしい少女だった。誰もが振り返るような美人ではないが、丸みを帯びた幼い顔立ちに、大人びた気品が同居していて、彼女に好感を抱く者は多いだろうと思えた。異性よりは同性の友人に支持されそうな、そんなタイプの女子生徒だ。
「待って……もしかして赤根町のファミレスって、先週、殺人事件があった場所?」
瞑が、前触れもなく上体を起こして僕を見た。さっきまでの不機嫌そうな表情が、いつの間にか消えていた。僕は安堵しながらうなずいた。
「殺された女子高生は雙羽塾の生徒だよ。最近は登塾してなかったみたいだけど」
「笹沼茜さん?」
「そう。たしか、そんな名前。大神西高の一年生」
「あなたが興味を持つような事件だったの、スカ?」
「わからない」
僕は正直に返答した。被害者の名前や事件のあらましは、新聞やテレビでも公表されている。
雙羽塾の講師たちの間でも、少し話題になっていた。笹沼茜という少女は、いわゆる「軽い」少女だったらしい。中学時代から何人もの男性と交際し、同時に複数の男友達とも派手に遊び歩いていたという。当然その程度の噂は警察の耳にも入っているはずで、男女関係のトラブルが殺害の動機なのではないか、という推測が一部の新聞でも語られていた。
「恋愛問題が原因の衝動殺人なら、わざわざ調べるほどでもないと思ったんだけどね。妙な噂を聞いてさ」
「笹沼さんの遺体には欠損があったそうね? 殺害後に傷つけられた跡があったって……」
瞑が先回りして訊いてきた。さっきまでとは彼女の声の調子も変わっている。
「うん。新聞ではそういう表現になっていたね。正確な死体の欠損の程度については、警察もまだ公にしていない」
「どんな状況だったの?」
「笹沼茜の死因は絞殺だ。ヒモのようなものを使って、背後から首を絞められてる」
「遺体の欠損というのは?」
「腕だよ」
「……腕?」
「死体の右腕。肘の部分から先が切断されていたらしい。切り取られた腕は見つかっていない」
「犯人が腕だけを持ち去ったってこと?」
瞑が意外そうに目を細めた。女子高生を殺害して右腕だけを持ち去る。理由や動機を考えにくい状況だ。
「凶器は?」
「ノコギリのようなものらしいよ。詳しいことはわからないけど、それほど綺麗な切り口ではなかったみたい」
「……そう」
瞑は納得したように目を伏せる。折りたたみや分解ができるタイプのノコギリならば、持ち歩きにもそれほど不自由しないし、斧や鉈《なた》などに比べれば入手も容易だ。死体を切断する道具としては、妥当なところだろう。
瞑はそれきり興味を失ったように、再びぐったりと踊り場の床に突っ伏した。夏の暑い日に涼しく快適な場所を求めてうろつき回る猫のようだ、と僕は思った。
「起きなよ、瞑。講義の時間が終わる」
「いや。あともう少しこのままで」
瞑はむっと頬を膨らませ、そのまま子どものように身体を丸めた。それから、ようやく聞き取れるくらいの小さな声で、独り言のように呟いた。
「……ABC、でなければいいけど……」
翌日、大学の授業を終えて出てきた僕を、皆瀬梨夏が待ち構えていた。髪を派手なオレンジ色に染めて、やたら露出の多い服を着た教官だ。
「あなたでしょう、スカ。瞑によけいなことを吹きこんだのは」
完全な不意討ちだった。華やかな顔立ちの彼女に睨まれ、気圧された僕は、引きずられるようにして構内のカフェテリアへと連れ出された。周囲に人の少ない隅の席を選んで皆瀬は座り、ケーキセットを買ってくるようにと僕に命じる。
皆瀬は法科学の准教授だった。僕が彼女と知り合ったのは、近くの町で起きた連続殺人の現場でのことだ。いつものように殺人現場の撮影に出かけた僕の前に、皆瀬は突然現れた。自他共に認める美人である皆瀬は、僕に輪をかけた異常犯罪マニアだったのだ。
彼女は僕の直接の指導教官というわけではない。お互いの利害が一致することが多いので、たまにこうして個人的な情報交換をする程度の間柄だった。
正直なところ、僕は彼女の経歴をよく知らない。しかし皆瀬は、警察の上層部になぜか顔が利く。そして時折、個人的に捜査に協力しているらしかった。
なにかしらの裏事情はあるにせよ、法科学という彼女の研究分野を考慮に入れれば、警察が彼女に協力を求めることがあっても、それほど不思議ではないだろう。
とにかく皆瀬が、警察の内部情報を知る立場にいるのは事実である。実際、笹沼茜の事件にしても、右腕が持ち去られていたことを僕に教えてくれたのは皆瀬だった。
「こないだの事件のことはさ、被害者があなたのバイト先の生徒だっていうから、警察の知らない噂のひとつも聞きつけてくるだろうって期待して教えたのよ」
オレンジ色の携帯電話を、くるくると手の中で弄《もてあそ》びながら皆瀬がぼやく。
「なのに瞑があたしに電話してあれこれ訊いてくるのは話が逆でしょ。おかげで、あることないこと全部喋らされたわよ。昨日のことを」
「……昨日のことってなんです?」
不承不承運んできたケーキセットを皆瀬の前に置いて、僕は訊き返した。
雙羽塾でのアルバイトを、僕に紹介したのは皆瀬だった。なんでも彼女は、瞑の従姉の親友なのだそうだ。留学中で不在の友人の代わりに、皆瀬は瞑のことを妹のように可愛がっている。そして色々と問題の多い雙羽塾での瞑の世話を、僕に押しつけた、というわけだ。
「二番目の事件のこと」
「……二番目?」
「そう。あなたが瞑に笹沼茜のことを話したから、あの子、今度の事件のことも気にして、あたしに電話してきたのよ」
「今度って……またなにかあったんですか?」
僕はきょとんと訊き返した。皆瀬がなにを言っているのかわからなかった。昨日の夕方、僕が瞑に語ったのは、笹沼茜の事件のことだけだ。別の事件について話した覚えはない。
困惑している僕を見つめて、皆瀬がやれやれとため息をついた。
「今朝のニュース、見なかったの?」
「はあ……」
僕は曖昧にうなずいた。今朝はテレビの朝番組を見ている時間がなかった。新聞にはざっと目を通したが、僕の気を惹くような猟奇的な事件は載っていなかったはずだ。
「相川《あいかわ》の河川敷で、死体が発見されたの。被害者の名前は藍沢孝明《あいざわたかあき》。彩吹櫻丘《あやぶきさくらがおか》学園の三年生」
「また高校生……今度は男子ですか」
僕は特に感慨もなく呟いた。
彩吹櫻丘学園は男子校だ。授業料が高いことで有名な私立の名門校である。雙羽塾に通っている生徒も多いが、裕福な家庭環境のせいか、総じて大人しく礼儀正しい少年が多いという印象がある。
そんな学校の生徒でも命を落とすようなトラブルに巻きこまれることがある、というのは、多少意外だ。しかし、そういうものなのかもしれなかった。
「それが二番目の事件?」
「そう。鈍器で後頭部を殴られた痕跡が残っていたみたい。死因は頭蓋骨骨折による脳挫傷の可能性が高いそうよ。正式な結果は剖検の結果待ち。でも警察は笹沼茜の事件と同一犯の仕業じゃないかと疑ってる」
「え? でも相川って音瀬《おとせ》市内でしょう? 笹沼茜の殺害現場からずいぶん離れてませんか?」
笹沼茜が殺された赤根町は、彩吹市の南端である。音瀬市は彩吹の隣の都市だが、それでも赤根町周辺からだと車で三十分近くはかかる。それに笹沼茜の死因は絞殺だった。撲殺された藍沢という少年とは、犯行の手口も違っている。
「もしかして藍沢と笹沼は、知り合いだったんですか?」
「どうかしらね。可能性はゼロじゃないかも。藍沢孝明も雙羽塾の塾生よ」
「え?」
「瞑が教えてくれたの。彼女のほうで調べてくれたみたい」
「……瞑が?」
でも、と僕は首を傾げた。
雙羽塾はこの地方では最大手の予備校で、生徒数は非常に多い。特に受験を控えた高校三年生ともなれば、高校の同じクラスに雙羽塾の塾生が五、六人いることもめずらしくないのだ。
それに藍沢と笹沼は学年も違っている。たまたま同じ塾に通っていたというだけでは、共通点と呼べるほどではない。
怪訝そうな僕の表情に気づいたのか、皆瀬は軽く渋面を作ってみせた。
「たしかにそれだけならただの偶然かもね。でも、決定的な証拠があるの」
「……証拠?」
「腕よ。藍沢の左腕は切断されていたの。肘のあたりから、ノコギリのようなもので――持ち去られた腕はまだ見つかってないわ」
僕は一瞬、息を止めた。
「それって……え? 左腕?」
「そう。今度は左腕。警察は笹沼茜の右腕が持ち去られたことを公表してないわ。だから、まったく無関係の人間が模倣するのは無理」
「それって……なんの意味があるんです?」
思わず訊き返すと、皆瀬は怒ったようなため息をついた。
「知らないわよ、そんなの」
「ですよね……」
チーズケーキに喰らいつく皆瀬を眺めながら、僕は真剣に考えこむ。最初に持ち去られたのは女子高生の右腕。次に奪われたのは男子の左腕。似ているようで奇妙にちぐはぐだ。犯人の目的がますますわからなくなってしまう。
「教官、その話って瞑には……」
「話したわよ。あの子に質問されたから」
「……質問された?」
「そう。今朝かかってきた電話でね。藍沢孝明の死体に持ち去られた部分はなかったか、って。あたしはてっきり、またあんたがネットあたりで調べて、瞑に入れ知恵したせいだと思ってたんだけど……違ったの?」
「ええ……いえ」
僕はゆっくりと首を振った。
まったく違う場所で別々に発見された二つの変死体――瞑はそれらを、あっさりと同一犯の犯行ではないかと看破した。そのことがなぜか気になった。ただの偶然かもしれないが、僕が見落としているなにか重要な手がかりを、瞑だけが気づいているような気がして仕方がない。
「そうだ、ABC……皆瀬さん、ABCって知ってます?」
僕はふと、昨日の別れ際に瞑がぽつりと漏らした言葉を思い出す。ABCでなければいい。たしかに彼女はそう言ったはず。
しかし皆瀬はむっつりと眉を寄せ、僕を睨んだ。
「キスとかセックスとか言わせるつもり? あんた、あたしを馬鹿にしてるの?」
瞑から呼び出しの電話がかかってきたのは、その日の午後のことだった。
今日は瞑の登塾日ではない。つまり僕の雙羽塾でのバイトも休みである。だから彼女の一方的な呼び出しに応じる義務はなかったのだが、僕は文句を言わずに瞑の高校へと向かった。皆瀬から聞かされた第二の事件のことが、ずっと頭に引っかかっていたからだ。
瞑が通っている青稜高校は、歴史の古い公立の進学校だった。もともとは男子校だったのだそうで、共学になった今でも男子のほうが多い。おかげで僕が無断で校舎に立ち入っても、特に不審な目で見られることはなかった。
「こんにちは、高須賀先輩。無理にお呼び立てしてごめんなさい」
生徒会室で僕を出迎えた瞑は、そう言って礼儀正しく頭を下げた。
雙羽塾にいるときの、傲岸不遜な彼女とはまるで別人のような愛想の良さだ。
室内にはほかにも数人の生徒がいたが、会長である瞑の親しげな態度を見て、それ以上僕の素性を詮索しようとする者はいなかった。
「こちらへ、先輩。詳しいことは歩きながら説明します」
そう言って彼女は僕を、生徒会室から連れ出した。
こんなふうに雙羽塾の外で瞑に会うのは二度目だが、敬語の彼女にはどうにも慣れない。
普通に微笑んでいる彼女を見ると、今さらながら瞑の容姿が整っていることに驚かされる。
それでも今の彼女を写真に撮りたいとは思わなかった。雙羽塾で死人のように寝転ぶ彼女のほうが、僕にとっては圧倒的に魅力的な被写体だ。
優等生を演じる高校での瞑には、白々しい違和感だけがある。いつもの草むらに伏せた猛獣のような抑圧された生命力を感じないのだ。
幸い、ほかの生徒たちの目がなくなると同時に、瞑はいつもの素っ気ない口調に戻った。呆れるほどの変わり身の速さだった。
「梨夏さんから話を聞いたの?」
「まあ、一通りは」
僕は少しだけ警戒しながらうなずいた。彼女に突然呼び出された理由を、僕はまだ聞かせてもらっていない。
「僕を呼び出したのは、藍沢って少年の件だろ? 彼とは知り合いだったのか?」
「いいえ。塾の中ですれ違ったことくらいはあるのかもしれないけど、覚えてないわ」
残念だけど、と瞑は肩をすくめた。
彼女のその返答は少し意外だった。すると瞑は本当に事件の報道を見ただけで、藍沢孝明を殺したのが笹沼茜と同じ犯人だと気づいたことになる。
解せないという表情の僕を見て、瞑は薄く笑い、
「でも、ちょっと興味深い情報を仕入れたの。あなたに来てもらったのはそれが理由」
「情報って?」
「すぐにわかるわ」
瞑はぶっきらぼうにそう言うと、校舎奥にある渡り廊下へと向かっていった。どうやらその先にある体育館が、彼女の目的地らしかった。廊下の途中で何人かの生徒とすれ違い、その度ごとに瞑はにこやかに挨拶を交わす。
「それから、梨夏さんからさっきメールがあった。藍沢孝明の死亡状況についての新しい情報。彼、屋外で殺されたわけではなかったみたい」
「え……? でも、藍沢の死体は相川の河川敷にあったんだろ?」
「そこで死体が見つかったというだけ。彼の死亡現場は彩吹市内の自宅。藍沢の両親は仕事の関係で県外に住んでいて、受験を控えた彼だけが彩吹に残っていたらしいわ」
「一人暮らしだったのか?」
「そう。それから、その自宅で大量の血痕が見つかったんですって」
瞑は挑むような視線で僕を見つめた。
殺された少年の自宅に、流血の痕跡。もちろん無関係ではないだろう。
「藍沢が自宅で殺されて、死体だけが音瀬市内の河川敷まで運ばれたってこと?」
「その可能性は高いと思う。血液型も藍沢本人のものと一致したみたいだし」
瞑は慎重に言葉を選んで言った。
「でね、ここが重要なポイントなんだけど、藍沢のご両親が残していった藍沢家の自家用車が、つい最近動かされた形跡があったらしいの。もちろん藍沢は免許を持ってない」
「犯人が……藍沢の死体を運ぶのに使った?」
思いつきのような僕の推論に、瞑は小さくうなずいた。
「車のトランクの中でも被害者と同じ血液型の血痕が見つかったそうよ」
「それって……」
どういうことだろう、と僕は自問した。殺人犯が藍沢を彼の自宅で殺した――それはべつに構わない。藍沢が一人暮らしをしていたのだとしたら、殺人には都合がよかったはずだ。
だが、そうやって安全に殺した彼の死体を、犯人は他人の車を使うという危険を冒してまで十数キロも離れた音瀬市の河川敷まで運んでいる。その動機がまったく理解できない。
死体を人目につかない場所に隠したというのなら、まだわかる。しかし無造作に河川敷に投げ捨てられた死体は、翌朝にはあっさり発見されているのだ。意味がない。
「いた……こっちよ。上履きはここで脱いでいって」
瞑に案内されるまま、僕は体育館へと入っていった。
放課後の体育館では生徒たちが部活に励んでいた。屋内コートを半分に区切って、男女のバレー部員たちがそれぞれ熱心に練習している。
そして一段高くなったステージの上には、芝居の練習をしているジャージ姿の女子生徒たちが見えた。おそらく演劇部員なのだろう。書割《かきわり》の背景や階段状の舞台セットなど、大道具の類も配置して、簡単な通し稽古をしているらしい。
芝居を演じているのは五、六人ほど。中でも特に目立っているのが、中央に立っている背の高い少女だった。英語混じりの難解な台詞《せりふ》を、すらすらと淀みなく語っている。彼女がこの劇の主役なのだろう、と思う。僕には演技の良し悪しはわからないが、ほかの生徒と比べると存在感がまったく違っていた。
一方で、彼女の相手役を務めている生徒は、見ていて哀れなくらい緊張していた。
自分の台詞もまだ完全に覚えていないらしく、ところどころつっかえては主役の少女に指導されている。配役が決まって、まだ日が浅いのかもしれない。
演技者以外にもステージには数人の生徒がいて、それぞれ照明や音響などを担当していた。
そしてステージ右側の舞台袖に、小柄な少女の姿を見かけて僕は目を細めた。笹沼茜の殺害現場に、花を供えに来ていた少女――納戸愛美だ。
そう言えば彼女は演劇部員だと、瞑が言っていたのを思い出す。
「百瀬《ももせ》さん。少しお邪魔していいかな?」
通し稽古が一区切りするのを待って、瞑は演劇部のほうへと近づいていった。瞑が声をかけたのは、主役を演じていた長身の少女だ。彼女が演劇部の部長らしい。
「あなた……生徒会長?」
百瀬と呼ばれた少女は、見知らぬ大学生を連れて現れた瞑を、胡乱《うろん》な表情を浮かべて見た。
「ええ……べつに構わないけど……その人は?」
「うちのお姉ちゃんの彼氏」
「お姉さんの……彼氏?」
百瀬は驚いたように目を瞬いた。僕も危うく声を上げそうになった。瞑に姉がいる、なんて話は聞いたことがないし、もちろん彼氏になった覚えもない。瞑は澄ました表情で、ちらりと僕に目配せする。話を合わせろ、という意味らしい。
「その人が私たちになにか用なの?」
百瀬はますます怪訝《けげん》顔になって、瞑に訊いた。瞑は困ったように微笑んで、手を合わせる。
「そう。ちょっと助けてあげて欲しいの」
「助ける?」
「彼ね、浮気を疑われているのよ。うちのお姉ちゃんとの約束をすっぽかして、ほかの女に会ってたんじゃないかって。姉の友達が、彼によく似た人を山手町のカフェバーで見かけたらしくて。だけどそれは誤解なの」
「え?」
一方的に話し続ける瞑に、百瀬は面食らった様子だった。意味もなく僕の顔を見つめて、困惑したように立ち尽くしている。そして、
「少し前に、赤根町の潰れたファミレスで、女子高生が殺された事件があったでしょう?」
唐突に瞑が百瀬に告げた。百瀬が、ほんのわずか表情を険しくする。
「彼にはちゃんとアリバイがあるの。姉と約束していたその時間、彼、殺人現場の見学に出かけてたらしいのね。そのときに納戸さんと会ったらしいの」
「愛美に?」
百瀬の長い髪が揺れた。急に振り返った彼女の視線の先には、納戸愛美の姿があった。芝居用の小道具を回収しながら、納戸は所在なげに立っていた。
「会長、ごめんなさい。ちょっとこっちに来て。愛美、あなたも――」
演劇部員たちに「休憩していて」と言い残すと、百瀬は、僕たちを舞台袖のほうへと連れこんだ。ほかの部員たちに話を聞かせないほうがいい、と判断したらしい。
「会長……なんなの、さっきの話? 愛美が殺人事件の現場にいたって……」
「私もそれを確かめに来たの。自分でもお節介だと思うけど、彼とお姉ちゃんが喧嘩しているのに、知らないふりをしてるのも居心地悪いから」
瞑はそう言って、救いを求めるように百瀬を見上げた。
「この人、雙羽塾の講師をやっていて納戸さんの顔を知ってるのよ。殺人事件の現場で納戸さんに会ったという彼の話が本当なら、一昨日の夜、姉の友達が見かけたのは彼ではなくてよく似た別人ってことになるでしょう?」
「それは……話はわかったけど……」
百瀬はますます困惑の表情を浮かべていた。彼女が迷惑に思っているのは明らかだったが、瞑の話術は巧妙だった。そんなふうに話を運ばれると、百瀬は無下に断ることができない。
「愛美……今の話って本当なの? 一昨日の夜に……この人に会ったって」
短くため息を漏らして、百瀬は後輩の少女に訊いた。
納戸は気弱そうな表情を更に萎縮させて、弱々しくうなずいた。
「どうして……そんな殺人現場なんかに……?」
百瀬が、咎めるように納戸を見つめた。納戸はじっと唇を噛んでうつむいていた。見かねて僕は口を開いた。
「花を供えにいったんだろ。非難されるようなことじゃないと思うけど」
「お花……?」
百瀬が唇を震わせた。言外に、どうしてそんなことを、という糾弾の響きがあった。納戸は叱られた子どものように目を伏せたままだ。
「納戸さんは、殺された笹沼さんと仲が良かったの?」
瞑が穏やかな口調で訊く。
「いいえ、違います。殺された人のことは知りません」
納戸があわてて首を振った。その答えに僕は驚いた。てっきり彼女は、殺された笹沼茜の知り合いだと思っていたからだ。
瞑は、表情を変えないまま、小さく首を傾げ、
「知らない人のために献花を?」
「はい。その人のことは知りません。でも……」
納戸が、ちらりと百瀬を見上げた。演劇部の部長は、軽く肩をすくめて息を吐いた。
「赤根町のファミレスは、昔、私がバイトしていた店なのよ」
「アルバイト?」
瞑が眉を上げて百瀬を見た。
「そう。今ごろになって校則違反だなんて言わないでよ、会長さん。そのころ愛美はあの店によく遊びに来てたから」
「そうか……あの花束は殺された女子高生じゃなくて、お店のために?」
あの日、出会ったときの彼女の姿を思い出しながら僕は呟いた。
「ええ、多分。そうなんでしょ、愛美?」
百瀬に訊かれて、納戸はぎこちなく首肯した。
潰れてしまったレストランのために花を献《ささ》げる。変な話に思えるが、僕にはなんとなく彼女の気持ちが理解できた。楽しい記憶が残る思い入れの強い場所で、血生臭い殺人事件が起きたのだ。せめて花束くらい置いてきたい、と考えるのはそれほど不自然ではないと思う。
「会長も、これで納得した? その人が愛美を見かけたっていうのは、本当みたいよ?」
「そうね。ありがとう。ごめんなさいね、変な質問につき合わせちゃって」
瞑は微笑んで礼を言った。そのまま彼女は、何気ない仕草で納戸愛美へと視線を移した。そして、いかにもたった今思い出したというような口調で告げた。
「そういえば、廊下で誰かが噂していたのを聞いたんだけど――」
その瞬間、納戸の表情がはっきりと強張《こわば》った。血の気をなくした唇が小さく震える。それでも瞑は容赦なく続けた。
「今朝の新聞に出てた、殺された櫻丘の男子ってあなたと――」
「違います!」
瞑の言葉を遮って叫んだのは、納戸だった。小柄な演劇部員は、顔色を蒼白にして激しく首を振った。倒れそうになった納戸の肩を、百瀬があわてて抱き寄せた。
「勝手な憶測で噂を流すのはやめて」
百瀬が感情的な声で、瞑を非難した。僕はただ呆然とそれを見ていた。瞑が仕入れた情報というのはこのことか。殺された藍沢のことを納戸が知っていた?
納戸の叫び声を聞きつけて、ステージに残っていた演劇部員たちが振り返る。彼女たちに聞かれたくないと思ったのか、百瀬は声を落として渋々と説明した。
「愛美は藍沢くんのことが好きだったの。だけどそれだけよ。つき合ってたわけじゃない」
「でも、仲は良かったんでしょう?」
「普通よ。学校も違うし、たまに塾で会って挨拶するくらいじゃないかしら」
「ずいぶん詳しいのね」
「悪い?」
百瀬が表情をきつくした。だがすぐに、瞑が疑問に思うのも当然だと思い直したらしい。無理やりに微笑みを浮かべてみせた。
「藍沢くんのお姉さんが演劇部の先輩だったの。先輩とは仲が良かったし、だから私と愛美も、彼のことを前から知ってたってわけ。先輩は卒業して県外の大学に進学したから、それから私は藍沢くんに会ってないけど、愛美はたまたま塾が一緒だったから――」
「そう……じゃあ、あなたも彼のことはショックだったわね」
「そうね。でも、先輩やこの子に比べたら……ね。だから、愛美のことはそっとしておいて」
「ええ、わかった……いろいろとありがとう。本当に」
瞑は神妙に頭を下げた。そして百瀬たちに背を向け、一人で歩き出した。
取り残された僕はあわてて彼女の後を追った。ようやく追いついたのは、体育館の出口近くになってからだ。振り返ろうともしない瞑の背中を見つめて、僕は思わず嘆息した。
体育館のステージ脇では、泣いている納戸を百瀬が一生懸命に慰めていた。納戸が泣いている本当の理由は片思いの相手の死かもしれないが、直接的なきっかけを作ったのは瞑だ。その片棒を担いでしまったという罪悪感があって、ひどく居心地が悪かった。
ひと気のない校舎に戻ってきたところで、瞑はようやく立ち止まって呟いた。
「さっきのお芝居、本当は納戸さんがヒロインだったのかもしれないわね」
「……え?」
何気ない世間話のような瞑の口調に、僕は少し戸惑った。
「そうか。納戸さんが藍沢の死でショックを受けてたから……」
言われてみれば、百瀬の相手役をしていた生徒の演技は、妙に不慣れでたどたどしく思えた。彼女は、動揺して人前で演技ができない納戸の代役だった、ということか。
片思いの相手が死んだ――それも何者かに殺された直後なのだ。芝居の練習どころではないという納戸の気持ちはよくわかる。
「そう考えると百瀬って子は強いな。彼女だって、殺された藍沢とは知り合いだったんだろ?」
「そうね」
夕暮れのグラウンドを見下ろしながら、瞑はうなずいた。微《かす》かに笑って、僕を見上げる。
「あなたの苦手なタイプでしょう、スカ?」
「そうかもね。皆瀬教官にちょっと雰囲気似てるよ」
「そうか、梨夏さんも帰国子女だものね。うん、初対面の印象は近いかも」
「あの百瀬って子も?」
「そう。アメリカ帰り……でも、彼女は梨夏さんとは違うわ。全然違う」
瞑が奇妙にきっぱりと言った。僕も反論はしなかった。皆瀬は、瞑が信頼している数少ない人間の一人なのだ。それを抜きにしても、皆瀬のような女は捜しても滅多にいないのは確かだ。
「それはそうと、結局さっきの話はなんだったんだ?」
「さっきの話って?」
「僕がきみの姉さんの彼氏だとか、そんな話」
僕は憮然とした口調で呟いた。瞑に姉がいるなんて話は聞いたことがないし、もちろん僕はそんな女性とつき合ってもいない。
「どうしてあんな嘘を?」
「ああ言わないと、彼女たちが協力してくれないと思ったから」
瞑は悪びれもせずにそう言った。苦笑するように軽く首を振り、
「彼氏の浮気とか、そういう色恋沙汰が絡むと、少しくらい無理なお願いでも意外にすんなり聞いてもらえたりするのよ。女子高生は特に」
なるほどね。
「それはそうかもしれないけど、僕が同行する必要はあったのか?」
「ええ。私が一人で訊きに行っても、たぶん答えてくれなかったと思う。赤根町のファミレスに彼女たちが通っていたって話は収穫でしょう?」
「まあ……たしかに」
僕は素直に同意した。笹沼茜が殺された現場。そして藍沢孝明の姉。納戸と百瀬は、二人の高校生が殺された事件と、わずかだが接点を持っている。
しかし、それだけの根拠で、彼女たちが連続殺人犯だと考えるのは少し無理がある。
衝動的な殺人事件とは違うのだ。同世代の二人を殺して、それぞれの腕を持ち去るというのは、よほど強烈な動機、あるいは、なにかしらの歪んだ狂気が必要なはずだ。彼女たちの態度からは、そのどちらも感じられなかった。
僕が考えていたのは、もっとほかのことだった。
もし連続殺人の犯人がほかにいるのなら、次に狙われるのは、彼女たちかもしれない。
「あ……瞑、そういえばさ」
ふと思い出して、僕は瞑の横顔を見た。
「なに?」
「きみはどうして、被害者の腕が持ち去られたことを聞く前から、笹沼茜と藍沢の事件が同じ犯人の仕業だってわかったんだ?」
「まだ気づいていなかったの?」
瞑は呆れたように嘆息した。
「――被害者の名前よ」
「名前?」
「そう。被害者の名前と、殺害場所に関連性を持たせるため。どうして藍沢孝明の死体は、わざわざ音瀬市まで運ばれたんだと思う?」
「え? 河川敷なら人目につかずに死体を捨てられると思ったからなんじゃ……」
そこまで言いかけて、僕は自分の間違いに気づいた。藍沢の死体は川に沈められたり、河川敷に埋められていたわけではない。死体の身元を隠すような工作がされていたという話も聞いていない。わざわざ彼の死体を自宅から持ち出して捨てる理由はなにもないのだ。
被害者の名前と、殺害場所の関連性。
笹沼茜[#「茜」に傍点]は、赤根[#「赤根」に傍点]町に。
藍[#「藍」に傍点]沢孝明は、相[#「相」に傍点]川に。
「色の名前?」
「そう。事件は、被害者の氏名に含まれている色の名前と、同じ音を含む土地で起きているの」
「え、いや。でもそれは……偶然……じゃないか」
僕は呆然と呟いた。笹沼茜の事件はともかく、藍沢の死体は、わざわざ車で隣の市まで運ばれているのだ。これがただの偶然であるはずがない。
瞑は無表情に窓の外を見ている。夕陽を映した彼女の瞳は、燃えるように赤く輝いていた。それは獲物を追いつめる獣の瞳だ。同じように猟奇犯罪に惹かれていても、僕と彼女には決定的な違いがある。彼女が殺人者に向けるのは、僕が抱いているような憧憬ではなく、憎悪。
この人形のように美しい少女は、病的なまでの正義感の持ち主なのだ。
「被害者の頭文字と、殺害現場の土地の名前が同じ……昔、そういう小説があったよな?」
頭の隅から古い記憶を掘り出して、僕は呟いた。たしか有名な推理小説だ。小学生向けの簡易版を、図書館で借りて読んだ記憶がある。
「ええ、そうね」
瞑は薄く微笑んで、そのタイトルを口にした。
「――アガサ・クリスティ。ABC殺人事件」
演劇部部長の百瀬|朋香《ともか》が殺されたのは、その翌週のことだった。
それを知った僕はすぐさま、皆瀬の携帯電話を呼び出した。
『ああ……スカ? そろそろかけてくるころだと思ってたわ』
すでに正午を過ぎていたが、電話口の皆瀬はまだ半分寝ぼけたような声を出していた。彼女も昨夜は、徹夜で情報を集めていたのかもしれない。
『殺された女子高生のことでしょ』
僕が用件を切り出す前に、皆瀬がずばりと本題に触れる。
『たぶんあなたが思ってるとおりよ。彼女が三番目』
僕は無言で唇を噛んだ。百瀬朋香は三番目の犠牲者。つまり、笹沼茜たちを殺したのと同じ犯人の犯行だ、と皆瀬は言っているのだ。
「彼女の死体にもなにか欠損が? また腕ですか?」
『ううん。今度は髪よ。髪の毛がごっそり切られてなくなっていたの』
「……髪?」
僕は、百瀬が髪を長く伸ばしていたことを思い出す。腰近くまで届くストレートの黒髪は、長身の彼女によく似合っていた。犯人はあれを切って持ち去ったのか。
『右手、左手ときて、今度は髪よ。なにが目的なんだか……フランケンシュタインの怪物でも作るつもりなのかしらね』
皆瀬がかすれた笑い声を漏らした。僕はなにも答えない。ただ一連の事件について感じていた座りの悪さが、ますます強くなったように思えた。
連続殺人の犯人には、自らの「儀式」に対して異様な執着があるのが常だ。それはある種の潔癖さと言い換えてもいい。しかし今回の事件にはそれがない。切断する部位はバラバラで、被害者の性別や体格にも共通点が乏しい。
それでいて、これが連続した殺人であるという意志だけは強く刻み込まれている。そのアンバランスさに僕は強い違和感を覚えた。
「彼女が殺された場所は? 新聞だと、彩吹駅近くの喫茶店ってことになってましたけど……」
『ピンク・スマイルってコーヒーショップ、わかる? 西口のボウリング場に行く途中にある、ガラス張りのビルの正面』
「……そうですか。やっぱり」
『知ってたの?』
「今、その店の中からかけてます」
『ふぅん。あんたも色の名前から連想したのね。瞑の入れ知恵?』
「ええ。まあ」
店内を見回しながら、僕はうなずく。簡単な連想ゲームだった。百瀬朋香。桃色。ピンク。
名前に含まれている色名が漢字ではなかったので、見落としていた。本当はもっと早くに気づくべきだったのだ。百瀬も犯人に狙われる理由があるということに。
色彩連続殺人鬼《カラーマニア》に。
ピンク・スマイルは、セルフサービス形式のコーヒーショップだった。フランス風のカフェテラスをイメージした店内は、値段の割に高級感があって落ち着いた雰囲気だ。
店内は三階建てになっている。一階がレジカウンターで、二階が禁煙席。本来は三階が喫煙席になっているのだが、今日は閉鎖されて一般客は上れなくなっている。百瀬が殺されたのは、その三階のどこかなのだろう。
「皆瀬さんはもう百瀬が殺された現場を見たんですか?」
『見てないよ。友達に状況を聞いただけ』
皆瀬は、冗談めかした口調で「友達」という言葉を口にした。おそらく警察内部にいる情報提供者のことなのだろう。
『百瀬朋香が殺されたのは、三階の奥の倉庫よ』
「……倉庫?」
『そう。トイレの奥に倉庫があるの。店内からも入れるけど、ビルの裏手に非常階段があって、店員は普段はそっちを使ってる』
「ああ、なんとなくわかります」
僕は皆瀬の説明を聞きながら、二階のトイレの様子を見に行った。ハンズフリーのイヤフォンとマイクを使っているので、ほかの客には僕が電話中だということはわからない。
レストルームと書かれた木製の扉を開けると、その奥は短い通路になっていた。
通路の左手に男女別のトイレがあり、右手には部外者立入禁止と書かれたスタッフルームの扉が見える。そして通路の突き当たりが、非常階段になっていた。建物の構造は三階もほぼ同様のはずだ。右手にあるスタッフルームの部分が、三階では倉庫になっているのだと思われる。
「犯人は、百瀬がトイレに行こうとしたところを倉庫に連れこんだ?」
『その可能性は高いよね。店内には監視カメラがあって、被害者が一人でトイレに行くところは映ってるのよ。だけど店の裏にまでは監視カメラもないからね。はっきりとは断言できないけど、ほかの可能性はちょっと考えにくいな』
「そうですね……彼女は一人だったんですか?」
『らしいわね。彼女の荷物の中に二人分の映画の前売り券と、読みかけの文庫本があったわ。夕方から部活の後輩と一緒に映画を見る約束をしていて、それまでの時間をここで潰すつもりだったみたいよ』
「部活の後輩……? 納戸愛美ですか?」
『知ってるの?』
電話の向こうの皆瀬が、怪訝そうに訊き返してきた。
「ええ。先週、瞑の高校で会いました。百瀬とも一緒に」
『どういうこと? もしかして彼女たち、前に殺された二人ともなにか関係があるの?』
「いえ、関係があるかどうかは正直よくわからないんですが……」
僕は簡単に先週の出来事を説明した。藍沢孝明が納戸の片思いの相手だったということを、僕が口にしてもいいのかどうか少し迷ったが、隠していてもいずれ警察にはわかることだろう。話を聞き終えた皆瀬の感想は、
『ふうん……よくわからないな』
という簡潔なものだった。
『その話だけ聞いていると、納戸って子が事件と無関係ではないような気もするけど、連続殺人の犯人にするには弱いよね。それに彼女にはアリバイがあるしな……』
「アリバイ?」
『雙羽塾の授業に出てるのよ、彼女。笹沼茜の事件のときも、藍沢孝明が殺された日も』
「……そうなんですか?」
『納戸愛美は百瀬朋香殺しの容疑者だからね。真っ先に警察が調べたわ。それに百瀬の死体が発見されたのは、納戸が彼女の携帯に電話してきたからなの。ほら、映画の待ち合わせに百瀬が遅れていたから、気になって電話したみたい。倉庫の中で携帯の着信音が鳴っていて、それを不思議に思った店員が鍵を開けたのよ』
「……鍵? 百瀬が殺された倉庫には、鍵がかかってたんですか?」
僕は、皆瀬の何気ない一言に眉を寄せた。
『そうよ。ごめん、言ってなかったっけ。百瀬が殺されたとき、倉庫には鍵がかかってたの。店内の倉庫だから普段は開けっ放しらしいんだけど、そのときは間違いなく内側からロックされていた。鍵を持っていたのはアルバイトのフロアチーフ。彼は腰に鍵束をぶら下げたまま、カウンターの中でずっと働いていたらしいわ』
そう言って皆瀬は、困ったような笑い声を漏らした。
『倉庫の裏側の小さな通気窓にも、もちろん鍵がかかっていた。百瀬を殺した犯人は、わざわざ倉庫に鍵をかけて出て行ったことになるわね。ちなみに百瀬の死因は刺殺。太股《ふともも》を刺されて、動脈を切られてる。彼女の髪を切ったのも、たぶん同じ凶器ね』
「その凶器は?」
『見つかってないわ。少なくとも倉庫の中には残されていなかった』
「それって……」
僕は必死で混乱した頭の中を整理しようとしていた。桃色《ピンク》の名を冠した喫茶店で殺された、百瀬朋香。持ち去られた長い黒髪。現場から消えた凶器。そして施錠されていた殺人現場の扉。
トリックが判明すればそれだけで犯人が特定できるような高度な犯罪ではない。倉庫の扉を施錠するだけなら、合い鍵のひとつもあれば事足りる。しかしこれではっきりとわかったこともある。百瀬朋香は、少なくとも連続殺人の犯人ではなかったということだ。彼女を殺した犯人が必ずほかにいる。なぜならこれは――
『そう。密室殺人よ』
疲れたような声で囁くと、皆瀬はそのまま電話を切った。
店内のざわめきが遠く響く薄暗い通路に、僕だけが一人残された。
その日の午後、瞑は屋上のフェンス際に、背中を丸めて座っていた。空はまだ青く高かった。銀色のヘッドフォンできつく耳を塞いだ彼女の姿は、世界のすべてを拒絶しているように思えた。
しかしヘッドフォンの端子はどこにもつながっておらず、細いケーブルが舫綱《もやいづな》のように人工芝の上を漂っている。それは誰かに助けを求めている瞑の、無言の叫びのようだと僕は思った。
僕は淡々と彼女に呼びかける。
「今日は来ないかと思ってたよ」
近づいてきた僕の気配に気づいて、瞑は膝に埋めていた顔を上げた。伏せたままの彼女の目が赤い。泣いていたのかもしれなかった。
「学校はどうだった?」
「たぶんあなたの想像通りよ」
瞑は感情のこもらない声で呟いた。
「今日は午前中だけで授業は終わり。あることないこと、すごい噂になってるわ。あなたのこともね、スカ」
自嘲するように空を仰いで、瞑は微笑む。噂というのは、たぶん先週の、僕が百瀬に会いに行ったときのことだろう。容疑者扱いされているのか、それとも刑事や探偵と誤解されたのか。どちらにしても、あまり気持ちのいいものではなかった。
「大丈夫か、瞑?」
僕は彼女の隣に腰を下ろした。きっと瞑の高校では、今日は大騒ぎになっていたことだろう。先週までとは状況が違う。在校生が一人死んだのだ。それも連続殺人の犠牲者として。
生徒会長の瞑も、学校葬の準備などで気忙《きぜわ》しい思いをしているのかもしれない。
しかし瞑は、無表情なまま首を振る。乾いた風が彼女の前髪を揺らしている。
「平気。ちょっと自己嫌悪に陥ってるだけ」
「自己嫌悪?」
「そう……今回のは私のミス。読み違えたわ。もう誰も死なせないつもりだったのに」
悔しげにそう呟くと、瞑は再びうつむいて膝を抱えた。
「どういうこと? きみは百瀬が殺される可能性に気づいてたのか、瞑?」
「ううん。逆よ。彼女は死なないはずだった。そう思っていたから、打てる手は全部打ったと思って油断した。私が甘かった」
「それって、最初から犯人がわかっていたってこと? 今回の事件の真相も?」
僕は驚いて瞑の横顔を見つめた。瞑はうつむいたまま首を振る。
「確信はなかったの。可能性だけを漠然と考えていただけ。でも、これでようやくわかった」
淡々とした瞑の声。彼女の眼下には遠い街並みが広がっている。絶望的な距離に隔てられた、ありふれた日常の風景。瞑はいつもこうしてフェンス越しの景色を眺めている。憧憬の瞳で。
「警察には?」
「言う必要はない。少なくとも殺人はもう起こらない。警察にはなにもできないわ」
「どうしてそんなことが言い切れる?」
「四番目の被害者は、もう生まれてしまったから」
「え?」
僕は短く声を漏らした。四番目の被害者はすでに生まれている。それは、すでに僕たちの知らない場所で、誰かが命を落としているということか?
僕がこの屋上に来る前の、講義室の風景を思い出してみた。今日は納戸の登塾日のはずだ。しかし彼女の姿は見あたらなかった。親しい先輩が殺されたショックで、塾を欠席しているのだと思っていたけれど。
「ねえ、スカ。私にはわからないの」
瞑が、僕を上目遣いに見上げて、ゆっくりと言った。
「どうして人間は自ら死を選んではならないのかしら。生きて虜囚《りょしゅう》の辱《はずかしめ》を受けず、なんて、ほんの数十年前までは、自害こそが美しいことだと褒め称えられていた時代もあったのよ?」
「……瞑?」
「たとえば私が今ここで死にたいと言ったら、あなたは止める? あなたになんの権利があって、どんな言葉で私を説得するの?」
瞑が冷たい刃物のような言葉を紡ぐ。冗談めかした言い回しだが、彼女は本気でその質問の答えを求めているという気がした。そして僕は彼女に伝えるべき言葉を持っていない。
僕は、投げ出された彼女の掌を強く握った。瞑が一瞬、驚いたように目を見開いた。強く握りすぎたのかもしれない。彼女が苦痛に頬を歪めた。それでも僕は手を離せなかった。手を離すと、彼女が本当に死を選びそうな気がしたからだ。
柔らかな輪郭の曲線。陽射しが照らす淡い金色の産毛。掌ごしに伝わってくる冷ややかな体温。今ここで彼女が死ねば、この美しい少女は永遠に僕の記憶に焼きつくのかもしれない。
だがそれは僕の望みではない。僕は、彼女が醜く老いて朽ちていく姿が見たいのだ。
「……僕はきみに生きていて欲しい。だからきみを死なせない」
「身勝手な理屈ね?」
「そうだね。きみが死にたいと思うのと同じ程度には」
瞑の腕から力が抜けた。僕はため息をついて薄く微笑んだ。
「人間は基本的に身勝手な生き物だよ」
「そうね。そうかもしれない」
瞑は自分に言い聞かせるように短く呟いた。そしてヘッドフォンを脱ぎ捨てると、制服の胸元から携帯電話を取り出した。飾り気のない黒い電話機だ。
「梨夏さんに電話するから少し待っていて。彼女に調べてもらいたいことがあるの」
「いいけど……なにを?」
「藍沢さんのお姉さんに、自宅からなくなっているものがないかどうか訊いて欲しいの。おそらく指輪か腕時計のようななにか」
「藍沢孝明の姉の持ち物?」
「そう。今回の事件は、そこからすべてが始まっていたの」
「わかった」
曖昧にうなずいたまま、僕は瞑が電話をかけるのを見ていた。瞑の頼みを、皆瀬はあっさりと引き受けたらしい。満足げに電話機を畳むと、瞑は制服の裾をはたいて立ち上がった。
「行きましょう、スカ」
どこに、と僕が問い返す。その僕に優しく手をさしのべて、瞑は告げた。
「四番目の色が散るのを止めるの――私にも死なせたくない人がいるのよ」
夕陽が沈む間際になって、彼女はたった一人で現れた。
高校の制服を着た小柄な少女だ。茜に染まる夕映えの空に、紺青の上着の裾がはためいている。血の気をなくした頬が残照を浴びて、その表情は桜色に上気しているようにも見えた。
古い雑居ビルの屋上を、彼女は頼りない足取りで進んでいく。まるでそのまま虚空へと身を投げ出しそうな勢いで。
そのとき、夕凪《ゆうなぎ》の穏やかな空気を震わせ、凜《りん》とした声が響き渡った。
「――アガサ・クリスティのABC殺人事件には、気の弱いセールスマンの男が出てくるのよ」
少女は、その声に打たれたように立ちすくんだ。表情を強張らせて振り返る。
階段の陰に隠れていた瞑が、ゆっくりと姿を現した。僕も静かに瞑のあとに続いた。
二人の少女が、正面から対峙する。怯えたように潤んだ瞳が、瞑の無感情な瞳を映している。
瞑と同じ青稜高校の制服を着た少女。
僕は彼女の名前を知っていた。
納戸愛美。演劇部員。そして笹沼茜が殺された場所で、僕と出会った雙羽塾の塾生だ。
「ABC連続殺人の真犯人は警察の追及を逃れるために、その哀れな男に罪を押しつけ、自分の身代わりに仕立てようとする……知ってた?」
幼い子どもを諭すように、瞑が穏やかに告げた。納戸は、それを呆然と聞いていた。瞑の質問に対して首を振り、かわりに弱々しい声で訊き返す。
「生徒会長? どうしてここが……?」
ふふ、と瞑は安堵したように吐息を漏らした。
「納戸色っていう、色の名前があったのね。辞書で調べるまで知らなかったわ。緑みのかかったくすんだ藍色ですって……あなたが珍しい苗字で本当によかった」
瞑の言葉にうなずいて、僕は自分たちが立っているビルを見下ろした。
南戸病院、というのがこの建物の名前だった。もしも彼女の名前に含まれていたのが、赤や青などの一般的な色名だったら、先回りすることはできなかっただろう。しかし、納戸色にこじつけられそうな地名は、この近辺には、この病院しかなかったのだ。
「死ぬ気なの?」
瞑は、鉄柵の向こう側のなにもない空を見つめた。
銀色の柵は、小柄な納戸の身長よりも高い。彼女がそれを乗り越えようとしても、阻止するのは難しいことではなかった。しかしそれでは意味がないのだ。僕たちが、このまま永遠に彼女を監視し続けることはできない。本気で死のうとしている人間を止める方法は、本人に自殺を思いとどまらせる以外にない。
「来ないでください」
屋上の縁へと後退しながら、納戸が言った。瞑は構わず彼女に近づいた。
「ここからあなたが飛び降りて死ぬ。できれば他殺を装って。それがあなたたちの計画なのね。あなたはそう命じられたの?」
「違います……先輩はなにも……」
「あなたには命令しなかった?」
「はい。これは私が望んだことです」
「そう……でも無駄よ」
瞑が冷たく突き放す。その反応は予想していなかったのだろう。納戸は驚いて動きを止めた。
「え?」
「もともと計画性のある犯罪じゃなかったの。どんな小細工を弄しても、警察の捜査を攪乱《かくらん》し続けることはできないわ。あなたたちもそれがわかっているから、こんなに急いで計画を進めていたのでしょう?」
「そんな……計画なんて……」
納戸の声が弱々しく震えた。小刻みに震える彼女は、今にも倒れてしまいそうに見えた。瞑は静かに息を継いだ。
「無駄よ。私にはもう全部わかってる。警察だってすぐに気づくわ」
「嘘……です……」
「ああ……そうね。ひとつだけあなたに訊きたいことがあったわ。あの日、百瀬さんが笹沼茜に会いに行った理由。あれは彼女の個人的な理由? それとも、あなたのため?」
納戸が肩を震わせた。
すべてわかったという瞑の言葉が、真実だということに彼女も気づいたのだ。納戸は視線を彷徨わせながら、声を絞り出すように呟いた。
「私のためです。笹沼さんが藍沢先輩を誘惑して、お金を貢がせているって聞いたから……」
「百瀬さんは、あなたのかわりに笹沼さんに文句を言おうとした。なぜなら藍沢くんはあなたの片思いの相手だったから。百瀬さんは……あなたのことが好きだったのね、納戸さん」
「はい……そう言ってくれました」
納戸は涙声でそう言った。そう、と瞑はうなずいた。震え続ける納戸に近づき、その肩にそっと手を回す。僕は無言でため息をついた。
百瀬朋香は納戸愛美のことが好きだった。そのことに瞑は気づいていた。そう考えれば、すべての筋道が通るのだ。
おそらく百瀬の本当の気持ちを、納戸は知らない。
百瀬は部活の後輩として納戸のことが好きなのではなく、一人の女性として彼女を愛していたのだ。思春期の女子にありがちな一時的な気持ちなのか、それとも先天的な性癖なのかはわからない。しかし百瀬はそういう女性だった。
百瀬は、かつて藍沢孝明の姉と愛し合っていた。そのことは皆瀬が藍沢の姉から聞き出して確認している。そしておそらく納戸に対しても、百瀬は秘めた想いを抱いていた。
だから彼女は、納戸のために献身的に行動しようとした。それが最初の悲劇を招いた。
「――百瀬さんは笹沼茜に会いに行った。笹沼が弄んでいた藍沢くんから、身を引いてくれと頼むために。もちろん最初から殺そうとしたわけではないのでしょうね。笹沼が警告を受け入れて、大人しく引き下がってくれればそれでよかった」
百瀬と少ししか話をしていない僕でも、彼女の気の強さは感じていた。生意気な年下の女子を呼び出して説教する。それは、いかにも百瀬がやりそうなことだった。
「百瀬さんが、笹沼茜を嫌う理由はもうひとつあった。それは藍沢くんが百瀬さんの先輩の弟さんだったこと。百瀬さんは藍沢くんのお姉さんのことが好きだったし、その弟を弄んでいる笹沼さんは許せなかった。だけど実際に笹沼さんに会ったとき、百瀬さんは信じられないものを見てしまった」
「……あの時計は、百瀬先輩が藍沢先輩のお姉さんにあげた時計だったんです」
納戸が真剣な目つきで瞑を見上げた。それだけで、百瀬を必死で庇《かば》おうとする納戸の気持ちが伝わってきた。
そう。笹沼の右の手首には、百瀬がかつて藍沢の姉に贈った腕時計が嵌っていた。殺された藍沢孝明は、その時計を笹沼茜にプレゼントしていたのだ。彼は笹沼茜の歓心を得るために、姉の時計を勝手に持ち出していたらしい。
藍沢の姉は、百瀬がアルバイトの給料を貯めて彼女に贈ったその時計を、ことさら大切にしていた。普段は自宅に保管して、特別な時にしか使わなかったのだという。
その時計を笹沼茜が無造作に嵌めて、自分の物として使っていた。それを見た百瀬がどんな感情を抱いたのか、想像するのは難しくない。
そのあと百瀬と笹沼の間で、どんなやりとりがあったのかは誰にもわからない。そして我を失った百瀬は、勢いで笹沼を殺してしまう。
「百瀬さんは笹沼茜の時計を回収したかった。大切な時計をその場に残していく気には、とてもなれなかったのでしょうね」
瞑の言葉を、納戸は否定しなかった。納戸もおそらく気づいていたのだろう。笹沼茜の右腕が切断された理由に。
携帯の普及のおかげで、腕時計を使っている女子高生は少なくなった。だから逆に腕時計の存在は目立つし、むしろアクセサリー的な使われ方をすることが増えている。笹沼茜が自分の時計を友人に自慢していた可能性は高いし、あるいは日焼けや時計のベルトの痕が、彼女の手首に残っていたのかもしれない。
そんな状況で時計だけを持ち去ったら、おそらく警察は不審に思う。そのことに百瀬は気づいていた。
だから百瀬は、笹沼の腕を切り取った。腕時計回収の痕跡を隠すために。
彼女がその腕をどうしたのかはしらない。殺人者がもっとも苦労することは、死体の処分だといわれている。しかし切断した腕だけならば、いくらでも処分の方法があったことだろう。
百瀬にとって幸運だったのは、笹沼を呼び出したのが、土地勘のある赤根町のレストラン跡地だったということだ。都会の喧噪からの死角になったあの場所は、殺人現場としても、死体の解体現場としても適していた。それは僕もよく知っている。
そしてもうひとつの幸運は、百瀬が、死体の解体に必要な道具を持っていたことだった。
百瀬朋香は演劇部員だ。そして演劇部は、芝居の通し稽古に、完成したばかりの大道具を使っていた。おそらくあの日、百瀬は、大道具を作るためのノコギリを鞄の中に持っていたのだ。たまたまその日に限って、自宅から持参していたのか。あるいは笹沼との対決にそなえて、護身用として持っていたのかはわからないが。
「最初の事件は、これでおしまい。殺人事件と呼べるのは、厳密にはこれだけね」
瞑が素っ気ない口調で言った。その言葉をきっかけに、納戸の身体から力が抜ける。
「笹沼茜を殺したことを、百瀬さんは藍沢くんに打ち明けた。笹沼茜が殺された理由は、藍沢くんとも無関係ではなかったし、彼としても自分が笹沼茜に遊ばれていたことを表沙汰にしたくはなかったでしょうね。それに百瀬さんには、自分のアリバイを証言してくれる共犯者が必要だった」
百瀬は、藍沢に口止めを持ちかけ、藍沢も一度はそれを了承した。笹沼茜が殺された時間、納戸は雙羽塾で講義を受けていた。百瀬には藍沢以外に頼れる相手がいなかったのだ。
だが藍沢は、自分が殺人事件に関わってしまったという重圧に耐えきれなかった。
「藍沢くんは結局、死を選んだ。彼は自殺だったのよ。違う?」
瞑の質問に、納戸は黙って首を縦に振った。
藍沢の自宅に残された血痕。それは彼の自殺の痕跡だった。彼は手首を切って死のうとしたのだ。利き腕の右手で刃物を持って、自分の左手首を切ろうとした。
「最初にそれを見つけたのは、百瀬さんだった。彼女は焦ったわ。共犯者である藍沢が死んだら、百瀬さんの無実を証明してくれる人がいなくなるから。だから彼女は考えた。架空の連続殺人犯をでっち上げて、そいつに罪をなすりつける方法を」
笹沼茜を、赤根町で殺した。その偶然を、百瀬は覚えていた。偶然という意味では、笹沼の右手を切断したことも同じだ。
藍沢が手首を切って死んだことを隠すために、百瀬は彼の左腕を切断した。それだけで彼のリストカットの痕跡は完全に消えた。問題は、「藍」に関連した名前の土地に、藍沢の死体を捨てることだった。「あい」と読める地名は少なくなかったが、人目につかずに死体を捨てられる場所となるとずいぶん限られる。そして百瀬が選んだのは、隣の市にある相川沿いだった。おそらく不自然な場所に死体を捨てることで、色名にこだわる連続殺人犯という役割を印象づけるという狙いもあったのだろう。
「百瀬さんは帰国子女だった。出生地がアメリカなので、向こうの国籍も持っている。そしてアメリカでは州によっては、十六歳から運転免許が取れるわ。もちろんその免許は日本では使えないけれど、彼女は車の運転ができたのよ」
そして彼女は、首尾良く藍沢の死体を目標の場所に捨てることができた。おまけに警察が、女子高生には車の運転はできない、という先入観にとらわれることで、容疑から逃れられるという可能性もあった。結局のところ、これらが二番目の被害者に関する犯罪のすべてだった。
「偽装工作は上手くいった。だけどこれだけでは完璧ではなかった。百瀬さんは、藍沢くんの遺体を傷つけて彼が撲殺されたように見せかけていたけれど、生活反応というやつを調べることで、それが生前につけられたものかどうかはわかるのよ。彼女は、自分がいずれ容疑者として調べられることを予見していた。だから彼女は第三の事件を起こすことにした」
「……はい」
弱々しい声で、納戸は認めた。
「藍沢先輩が死んだあと、百瀬先輩は私にすべて打ち明けてくれました。百瀬先輩が殺人事件なんかに関わったのも、元はといえば私のせいだし、私も先輩を手伝わなければいけないと思って……」
「ピンク・スマイルの事件のことね?」
「そうです」
「百瀬さんとあなたは、時間を決めて待ち合わせた。百瀬さんは一人で喫茶店三階の倉庫に入って、入口を施錠する。そして束ねた髪を自分で切り落とす。あなたはそのとき屋外の非常階段を上って、髪と、それを切るのに使ったナイフを、通気口の窓から受け取る予定だった」
「ほんとうに全部わかってるんですね」
納戸は寂しげに笑ってうなずいた。
「会長の仰る通りです。百瀬先輩はそのあと気絶した振りをして、誰かに助けられるのを待つ、という約束でした。連続殺人犯に襲われたことにすれば、百瀬先輩が犯人だと疑われることはなくなるからって。あたしはその間、映画館の前に立って自分のアリバイを作る手筈でした」
「だけど……彼女は最初からそこで死ぬつもりだった」
瞑はきっぱりと納戸に告げた。その瞬間、納戸の目から涙があふれ出す。なにも言えないまま嗚咽《おえつ》を始めた彼女を、瞑が優しく抱き寄せた。
やはり納戸は知らなかったのだ。百瀬が初めから自殺するつもりだったことを。
三番目の犠牲者である百瀬朋香が、密室で死ななければならなかった理由。それは、自分が狡猾な連続殺人犯に殺された、ということを周囲に印象づけるためだった。自分が犠牲者になってしまえば、殺人犯だと疑われることはなくなるから。
百瀬は自分で倉庫を施錠し、自分の髪を切り、ナイフで自分の太股の動脈を傷つけ、そして綺麗に拭ったその凶器を自分で外の共犯者に手渡した。そして共犯者である納戸も気づかないうちに、出血多量で死んだのだ。
密室の中に凶器がないのだから、単なる行きずりの殺人や自殺ではあり得ない。しかも持ち去られた髪と色の名前の符合で、計画的な連続殺人を印象づけることができる。それが彼女の目的だった。こうして色彩連続殺人鬼《カラーマニア》の三番目の犠牲者は生み出されたのだ。
「衝動的な殺人の犠牲者が一人と、自殺者が二人。これがこの連続殺人事件の正体よ」
瞑が長く息を吐く。
「百瀬さんはプライドが高い人だった。彼女は、自分が一時の激情に任せて、笹沼茜のような軽薄な少女を殺す愚かな人間だと思われたくなかった。だから架空の連続殺人犯をでっち上げ、自分の身を犠牲にしてまで、殺人の責任を逃れようとした。自分を連続殺人の犠牲者の一人だと世間に思わせようとしたのよ」
「……私のせいなんです」
やがて納戸がぽつりと言った。苦悩するように首を振る。
「私が先輩を止めていれば、こんなことにはならなかった。最初に先輩に、藍沢先輩と笹沼さんのことを相談したのも私だった……私のせいで、先輩が……」
「違う」
突然、瞑が強い声で、納戸の言葉を遮った。納戸は驚いて顔を上げた。
「そんなふうに思わせることが、百瀬さんの目的なの――あなたが四番目の被害者なのよ」
「え?」
「納戸色の名前を持つあなたが、同じ名前のこの場所で死ぬことで、百瀬さんの計画は完成する。死んでしまったはずの百瀬さんは、あなたを殺せない。完璧なアリバイよ。百瀬さんが、あなたを共犯者に使って自殺した本当の理由は、あなたに罪悪感を植えつけるためなの」
僕はぼんやりとすべてを納得した。
四番目の被害者はすでに存在する。間接的に自分を殺させることで、百瀬は納戸に罪の意識を背負わせた。それが百瀬が描いていた、四番目の殺人計画だった。
納戸愛美は、当然、自分の苗字が色の名前と関係していることを知っている。その事実をそれとなく匂わせることで、百瀬は、納戸をこの病院の建物へと誘導した。この場所で納戸が自殺するように、彼女は言葉巧みに暗示をかけていたのだ。おそらく藍沢孝明が死んだ直後から、何日も何日も時間をかけて。
「百瀬さんは、優しいけれど気が弱いあなたの性格をよく知っていた。自分がどんなふうに振る舞えば、あなたを自殺させられるか知っていたの。唯一の真実を知るあなたを自殺させて、あなたにすべての罪をなすりつける――それが彼女の本当の目的」
「嘘です……そんなの……」
長い沈黙を挟んで、納戸はようやくそれだけを呟いた。瞑は優しく首を振る。
「だったら教えて。切り落とした百瀬さんの髪と、彼女に渡された凶器を持っているのは誰?」
「え……それは……」
納戸の表情が驚愕に揺れた。百瀬の死は自殺だ。だが、彼女が自殺に使った凶器と彼女の髪が、納戸の所持品から出てきたときに、世間の人々がどう反応するか――そのことに思い当たったのだ。
「もうひとつ、藍沢孝明が自殺したのを、百瀬さんが最初に見つけたのはなぜだと思う?」
瞑が納戸の耳元に囁いた。
「彼女はね、藍沢くんと肉体関係を持つことで、彼を味方につけたのよ。あの日も百瀬さんは彼と寝るつもりで彼の自宅を訪れた。あなたのためなんかじゃない。彼女は自分の名誉を守るために、藍沢くんやあなたを利用しただけ」
「そんな……だって先輩は……自分が私のために苦労するのは平気だって……言って」
納戸の小柄な身体が、その場にくずおれた。両膝を突いて座りこむ彼女を、瞑は辛そうに見下ろした。
「私があなたに伝えられるのは、それだけよ」
瞑が細くため息をついた。
僕は、彼女が口にしたABC殺人事件の説明を思い出していた。あの作品に出てくる真犯人もまた、最後は善良で気が弱い人間に自分の罪を着せようとするのだ。
ABCでなければいい。いつか瞑が漏らした独り言が、幻聴のように僕の脳裏に甦《よみがえ》る。
「百瀬朋香は少なくとも、あなたが義理立てして後追い自殺するほどの相手だとは思えない。それでも死にたいというのなら止めないけど、たとえあなたが死んでも、私がすべて警察に話すわ。彼女が捏造《ねつぞう》しようとした連続殺人犯なんていないことを」
そして瞑は、この場にはいない誰かに告げるように、語気を荒《あら》げた。
「――友人を自分の名誉のために殺そうとする、そんな人の望みは叶えてあげない」
納戸愛美を保護した刑事の車が、病院の敷地を出て行った。僕は屋上の鉄柵にもたれて、その様子を黙って見送った。
眼下の景色は夕闇に呑みこまれ、箱庭のような無数の家並みがセピアの霧に沈んでいた。街の喧噪も今は遠い。点滅を続ける信号の光だけが、静かな時間の流れを示している。
僕の足元に屈みこんだ瞑は、制服の背中を丸めていた。つい先ほどまでの饒舌が嘘のように、彼女は押し黙って弱々しいため息を繰り返す。
瞑が後悔している理由が、今は僕にも理解できた。
読み違えた、と彼女は言った。瞑はおそらく、比較的早い段階で、百瀬朋香が笹沼茜を殺した可能性に気づくことができた。それは笹沼の殺害現場を納戸が訪れたという情報を、僕の口から聞いていたからだ。
瞑は、納戸が笹沼茜を殺したという可能性を最初から除外していた。
どんな理由があるにせよ、納戸のような気弱な少女が、自分が人を殺した忌まわしい現場に献花に訪れるはずがない。もし彼女が殺害現場を訪れるとすれば、その理由はべつにある。
おそらく納戸は、笹沼茜が殺された現場を、自分の目で見て確認しておきたかったのだ。
つまり彼女は笹沼茜を殺した犯人が、自分の親しい人物だと知っていた。その推論から百瀬の名前を導き出すのは、それほど難しいことではなかっただろう。
「瞑……きみは最初、百瀬が、納戸を第三の犠牲者として殺すかもしれないと考えたんだな」
僕は遠くを見つめたまま、独り言のように呟いた。
「だから、わざわざ僕を連れて彼女たちに会いに行った。もし納戸が殺されたら、それを無差別な連続殺人とは思わず、百瀬の動機を疑う第三者がいる――そのことを百瀬に警告するために」
そうね、と瞑は伏し目がちに答えた。
「彼女が三番目の殺人を計画するのはわかっていた。猟奇的な連続殺人に見せかけるには、藍沢孝明の事件はあまりにも杜撰《ずさん》だったから。彼女は、自分が警察に疑われる前に、なるべく早く次の殺人を犯す必要があったのよ。それに納戸さんの口封じも必要だった」
「ああ」
瞑の考えは正しかった。少なくとも途中までは。彼女の誤算は、百瀬朋香が、自分の名誉を守るために自らの命をも投げ出すという、肥大したプライドの持ち主だということに気づかなかったことだ。
その結果、瞑の行動は、むしろ百瀬を追いつめる方向に働いてしまった。
「私は今でも、私のやったことが正しかったかどうかわからない。たしかに納戸さんの自殺を止めたけれど、その結果として百瀬さんの遺志を踏みにじり、彼女が命を懸けてまで守ろうとした彼女の名誉を傷つけた。納戸さんの心も傷つけたしね」
自嘲するように瞑が首を振る。
納戸を傷つけた、というのは、瞑が彼女に語ったいくつかの嘘のことだろう。百瀬と藍沢に肉体関係があったかどうか、今となっては確認する術《すべ》はない。百瀬が納戸に本気で犯人の役を押しつけるつもりだったのかどうかも、すでに判然としない。
しかしその嘘は、納戸を自殺の欲求から守るためにどうしても必要なものだった。
「あのまま納戸さんを望み通り死なせてあげれば、完全とは言わないまでも、ある程度は、百瀬さんの望む通りの結果が得られたと思う。真実は公にならないまま、憶測だけでひっそりと語られるような――誰もが綺麗なまま傷つかない結末が」
そうかもしれない、と僕は思った。これから先も生き続けなければならない納戸や百瀬たちの家族にとって、瞑の選んだ結末が、望ましいものだったかどうか誰にもわからない。
だが、それでも――
「それでも僕は、きみの決断を誇りに思う」
足元の瞑の頭に手を当て、僕は彼女の髪をくしゃくしゃと撫でた。くすぐったそうに身をよじりながら、それでも瞑は僕のなすがままになっていた。
なぜかふと、僕は、瞑が自殺願望らしきものを口にしたことを思い出していた。
彼女が本気で死にたいと願ったときに、僕は本当に彼女を止めるだろうか。
それははたして僕たちにとって正しいことなのか。
今はなにもわからない。
それでも僕は、このまま掌ごしに伝わってくる瞑の温もりを感じていたいと思う。
もう少し。あともう少しだけ、このままで。
[#改ページ]
V Fallen Angel Falls
虚空に近い場所に少女はいた。
彼女の背後にはなにもなかった。
この季節に特有の乾いた風。流れていく細い筋雲。冷たく澄んだ青空。ただそれだけ。
高層ビルの屋上の端。鉄柵を乗り越えた向こう側が、彼女の立っている場所だった。
小柄で儚《はかな》げな雰囲気の女子高生だ。濃緑色のセーラー服は、市内でも有名な名門女子校の制服だった。緩くウェーブした細い髪が、風に遊ばれて舞っている。
彼女があと少し足を踏み出せば、そこはもう建物の上ではない。
眼下に広がるのは、霞がかった箱庭の街。目を閉じて足を踏み出すだけで、彼女はその街の住人になることができる。一瞬の自由落下の果てに。壊れた人形のような骸《むくろ》と化して。
けれど彼女がその決断を下すことはなかった。
制服の肩をかすかに震わせながら、少女は、遠い地上をいつまでも見下ろしていた。
彼女はただ知りたかっただけなのだろう。
死を選ぶ者と、そうでない者との絶望的な距離の隔たりを。彼女の小さな背中を少し離れた場所から眺めながら、僕はそんなことを考えていた。
「誰……?」
無人だと思っていた屋上に、自分以外の誰かがいたことに気づいたのだろう。それまで無反応だった彼女が、ふと怯えた表情を浮かべて僕のほうを振り向いた。そのせいでバランスを崩しかけたのか、鉄柵にしがみつくような姿勢になる。
僕は彼女を安心させるつもりで両手を広げ、軽く肩をすくめてみせた。
「よかったら手伝おうか?」
ついでに笑顔を浮かべて訊いてみる。
しかし彼女は警戒心も露わに僕を見た。幼さを残した顔立ちに、怒りに似た表情が浮かんでいた。上目遣いに僕を睨んで首を振り、
「違います。私はもう自殺するつもりなんてありません」
声を震わせてそう言った。なにか誤解されてしまったらしい、と僕はため息混じりに苦笑する。無害な一般市民を演じるのは得意なつもりでいたのだが。
「フェンスを乗り越えるのに手を貸す、って意味だよ。きみが本気で死ぬつもりなら、僕が手伝えることはなさそうだしね」
「…………」
素っ気ない僕の言い回しに反発するように、彼女は無言で睨み続けていた。
僕は短くため息をつき、
「でも本当に自殺するつもりで飛び降りるのなら、その場所はやめたほうがいい。転落防止用のネットがあるから」
「え?」
彼女は訝しげに目を細めた。そして僕の言葉を確認するために、鉄柵を握ったまま、上体を乗り出してビルの外壁を見下ろした。
本気で飛び降りるつもりで下を見なければ気づかないだろうが、このビルの南側の外壁にはベランダ状の段差があって、事故防止用の金網が張ってある。飛び降り自殺を防ぐため、というよりは、ビル正面の大通りを歩いている人間が自殺者の巻き添えになるのを防ぐためなのだろう。段差の位置は巧妙に計算されていて、普通に屋上に立っているだけでは視界に入らないし、地上からビルを見上げても誰も気づかない死角になっていた。
しかし彼女が本気で自殺するつもりなら話はべつだ。そこに立ったときにすぐに金網に気づいて場所を変えたはず。彼女が自殺志願者ではないと、僕が判断したのはそれが理由だった。
「止めないの? 本当に自殺するかもしれないのに?」
そんな僕のことを戸惑うように見つめ返して、彼女は訊いた。
僕が危険な人間ではないと、まだ確信できずにいるらしかった。まあ無理もないことだ。
「止める理由がないから。それにきみが本気で死にたいと思っているなら、それを止めるのがいいことなのかどうか僕にはわからない」
素っ気ない口調で僕は告げた。僕としても、彼女に信用してもらわなければ困る事情があるわけではない。怒らせてもいいと思っていたのだが、彼女は意外にも僕の返事に納得したらしかった。どこか安堵したような微笑を浮かべ、
「そうですね……本当に、そうかも」
弱々しいため息とともにうなずいた。
狭い隙間を器用にすり抜けて、柵の内側に戻ってくる彼女を僕は黙って眺めていた。小柄な彼女だからできることである。その姿を見て僕は彼女に興味を持った。
色白で育ちの良さそうな、いかにも女の子という雰囲気の少女だった。清楚な容姿と、計算高さを感じさせない程度に洗練された物腰。少女趣味の抜けきらない母親なら、こんな娘が欲しいと願うのではないだろうか。
そんな少女が、ビルの屋上で自殺志願者の真似事をしていた理由が少し気になった。ただの気まぐれだと思っていたのだが、それだけではないのかもしれない。
「あなたは、誰?」
再び不審な表情に戻って彼女は訊いた。今見たことを誰にも言わないで欲しい、と彼女の無言の瞳が告げていた。
「講師だよ。ここの」
僕は答えた。彼女は値踏みするように僕を見つめ、
「本当に?」
「いちおうね」
うなずく。彼女が浮かべた意外そうな表情には、気づかないふりをする。
雙羽塾。それがこの建物の名前だった。
近隣の都市から千人以上の学生を集める、県内でも最大手の進学塾である。それだけの数の生徒が集まると、中には塾側の管理から器用に逃れる連中も出てくる。
この手の高層ビルの屋上はたいてい施錠されて立入禁止になっているものだが、この塾舎は少し特別だ。管理会社も知らない抜け道がいくつかあって、それに気づいた一部の生徒が、勝手に出入り出来るのだ。たとえば今の彼女のように。
塾側にはそれを大っぴらに取り締まれない理由があって、そこで僕のような暇な大学生が雇われた。極めて取り扱いの面倒な、問題児の監視役として。
彼女は僕に会釈すると、そのまま歩き出して塾舎内に戻ろうとした。そしてふと立ち止まって振り返る。
「ひとつ質問していいですか?」
「なに?」
「どうしてあなたは知っていたんですか? あの場所に、転落防止用のネットがあることに」
「前に教えてもらったんだ。本物の自殺志願者に……」
僕は軽くため息をついた。もう一人の自殺志願者にね、と心の中で訂正する。
「そうか……あなたが、あの斎宮瞑の専属講師……」
彼女はかすかに表情を緩めてつぶやいた。僕の素性を知って安心したのかもしれない。それに彼女も気づいたはずだ。なぜ僕が、自殺をほのめかすような彼女の異様な振る舞いを見ても平然としていたのか、その理由に。
彼女はもう一度だけ軽く頭を下げると、今度こそ振り返らずに歩き去った。
傾きかけた陽射しが、彼女の背中を照らしている。その姿を僕は目に焼きつける。正確には、彼女の細い腕を。
制服の袖口からのぞく白い手首。
そこには一筋の傷跡が、美しい装飾のようにくっきりと残されていた。
浦澤華菜《うらさわかな》、という彼女の名前を知ったのは、それから何週間か経ったある日のことだった。
その日、僕は塾の控室で、先輩のバイト講師と雑談をしていた。
ありふれた世間話だった。主に東欧のマイナーな映画監督の話題で、丸顔の大学院生が嬉々として語るマニアックな説明を、僕は黙って聞いていた。その監督に僕はなんの関心もなかったが、先輩はそれに気づかないまま、得意げに話を続けている。
こうやって誰かと話を合わせるのは得意だった。意識して身につけた特技といってもいい。
それは猟奇的な殺人事件の犯行現場を訪れて写真を撮るという、あまり大っぴらにできない趣味に目覚めた頃からの僕の習性だった。善良な小市民として目立たず生きていくのに便利だし、調べたい事件について情報を集めるにも都合がいいからだ。
それに殺人事件について調べていると、結果として新聞やネットのニュースサイトを隅々まで読み漁ることになる。必然的に雑談のネタには困らない。あまり自慢にもならない僕の特技は、そうした特殊な嗜好の副産物だった。
講義が始まるまでには、少し時間があった。登塾してきている生徒の数もまだ多くない。
雑談の内容はいつの間にか、何日か前に起きた事故の話題に変わっていた。そうなるように僕が仕向けたのだ。彩吹駅のホームで、女子高生が階段から転落したという事故である。新聞にも載らないような日常の小さな出来事だ。僕はその事故に興味を持っていた。
「階段から落ちたのはうちの塾の生徒だよ。たいした怪我じゃなかったらしいけど」
予想どおり先輩はそう言った。事故の起きた時間帯からして、被害者が雙羽塾の塾生である蓋然性は高く、その手の噂が広まるのは早い。そろそろ塾講師の耳に情報が届いてもおかしくない頃合いだった。
「ただの事故ではなくて、誰かに突き落とされたんじゃないか、って噂を聞いたんですけど」
何気ない口調を装って僕は訊いた。ほかのバイト講師に聞いた噂を確認するだけのつもりだったが、先輩の反応は少し意外なものだった。僕のほうに身を乗り出して、わざとらしく声を低くする。
「らしいな。なんか変な話も広まっているみたいだし」
「……変?」
「俺の受け持ちのクラスに、その子が落ちた瞬間を見たって生徒がいてさ。まあ、目撃者っていっても、そいつがいたのはだいぶ離れた場所だったらしいけど」
「はい」
僕はうなずいて、先輩の話の続きを待った。
戸惑っているような彼の口振りのせいで、逆に興味が湧いてきた。雑談につき合って彼の口を軽くしておいたのは、正解だったかもしれないと思う。だが僕のそんな目論見は、慌ただしいノックの音にあっさりと邪魔された。
僕たちは怪訝な表情で振り向いた。講師控室の入口を勢いよく開けて入ってきたのは、線の細い真面目そうな生徒だった。
僕の知らない顔だった。どことなく中性的な雰囲気の、綺麗な顔立ちの男子生徒で、そのせいか、短い髪と少し野暮ったい印象の眼鏡が目立つ。この辺りではあまり見かけない暗い灰色のブレザーは、音瀬市の公立高校の男子の制服だ。
「すみません。怪我人が出たんですけど、ちょっと見に来てもらえませんか」
青ざめた頬を強張らせ、その塾生は甲高い早口でそう言った。
僕と先輩は互いに顔を見合わせた。その手のトラブルを処理するのは、本来は塾の事務室の仕事である。しかし負傷の原因が塾生同士の揉め事だった場合には、事務室の職員に任せるとなにかと面倒なことになりがちだった。それを恐れて、わざわざバイト講師の控室を訪ねてきたのかもしれないと思う。
「きみは?」
億劫げに立ち上がりながら先輩が訊いた。
「内藤真純《ないとうますみ》です。国立理系F3クラスの」
「そうか。怪我人っていうのは誰? きみの知り合いが喧嘩でもしたの?」
「いえ、喧嘩というわけではないんですけど、もっとタチが悪い……悪戯のような感じです。実際に見てもらえばわかると思います」
内藤と名乗った生徒は、言葉を選ぶように途切れ途切れに答えた。
「悪戯? 怪我をするような悪戯を仕掛けたやつがいるのか?」
「ええ。あ、怪我っていっても手を少し切っただけみたいですけど」
「ふうん……わかった。ちょっと見てみよう」
先輩の最後の言葉は、僕に向けられたものだった。
僕は控室に置かれていた救急箱を取り出して、案内してくれ、と目配せで内藤真純に告げた。
歩き出した内藤が向かったのは、塾舎ビルの各階に設けられた自習室のひとつだった。
塾生たちが空き時間に勉強するための教室である。中途半端な広さの白い部屋には衝立《ついたて》を備えた自習用の机が並んでおり、雙羽塾の塾生なら学年を問わず、空いている席を自由に使っていいことになっている。
しかし時間帯のせいなのか、自習室は空いていた。夕陽に照らし出された窓際に制服姿の女子が一人で立ち尽くしており、教室内にいる塾生は彼女だけだった。
「浦澤さん。いちおう講師の人を呼んできたよ」
内藤は、窓際に立つ少女にそう呼びかけた。どうやら彼女が、怪我をした本人らしかった。
白いシャツの彼女は、無言で内藤に頭を下げた。
内藤はそれを確認して、僕たちのほうへと振り返り、
「彼女です。僕も詳しいことはわからないので、あとは本人から直接聞いてもらえますか」
やはり早口でそれだけを言った。面倒な事件とは関わり合いになりたくない、という本音が透けて見える、少し素っ気ない態度だった。浦澤と呼ばれた彼女とは、特に親しい友人というわけではなく、たまたま自習室に居合わせただけの関係だったらしい。
内藤の態度を冷たいということもできたが、それは主観の問題だった。本人にしてみれば、僕たちに彼女の負傷を知らせたことで、自分の責任を果たしたつもりなのだろう。
そして、どちらかといえば浦澤のほうも、内藤が立ち去ることを望んでいるように見えた。怪我をした姿を親しくない男子に見られたくない、という彼女の気持ちは理解できる。それに誰かの悪戯で怪我をしたという内藤の言葉が事実なら、彼女には他人を警戒する理由があった。
荷物をまとめて出て行く内藤を肩をすくめながら見送って、僕たちは浦澤に近寄った。
僕の顔を見て、彼女が小さく声を漏らした。
少し遅れて僕も思い出す。袖口からのぞく彼女の白い手首には、一条の傷跡が走っていた。いつか屋上で出会った自殺志願者の真似事をしていた彼女だ。
しかし僕たちはお互いに、それに気づかないふりをする。
「怪我をしたって聞いて来たんだが、大丈夫か?」
衝立の陰にいる浦澤をのぞきこむようにして、先輩が訊いた。
浦澤は自分の左手で、右手の甲を押さえていた。
周囲には金臭い臭いが漂っていた。左手に握られた彼女のハンカチは、吸い上げた血で赤く染まっている。見ると彼女の机の周りに、飛び散った血がいくつか小さな染みを作っていた。
内藤の口振りではたいした怪我ではないような印象だったが、少なくとも出血の量は相当なものだ。そのような光景に慣れていないせいか、先輩は明らかに動揺した口調で、
「血が……」
そう言ったきり絶句した。動かなくなった彼の代わりに、僕は仕方なく前に進み出た。
周囲の様子をざっと見回して確認する。誰かと争ったような形跡はない。飛び散った血を本人以外の誰かが踏みつけた跡もなさそうだ。
怪我をしたのは彼女が登塾してきた直後だったらしく、机の上には、バッグから取り出したばかりの荷物と、磁気カードを兼ねた塾生証が出しっぱなしになっている。
塾生証の表面に、浦澤華菜という彼女のフルネームが読み取れた。
「病院に連れていかないと……いや、救急車を呼んだほうがいいんじゃないのか?」
僕の背中越しに先輩がつぶやいた。自分で判断するという選択はすでに放棄したらしい。
狼狽する先輩に比べれば、負傷した浦澤のほうが落ち着いている。
救急車を呼ぶという先輩の提案に対しても、彼女は困ったような顔で僕を見て首を振るだけだ。あまり騒ぎを大きくしたくないのだろう。それは賢明な判断だと思う。
だが、そんな彼女の落ち着きぶりが逆に少し気になった。誰かの悪戯でこれだけの傷を負ったのだから、もっと感情を露わにして取り乱してもいいのではないかと思ったのだ。
最初に出会ったときから感じていたことだが、とらえどころのない雰囲気の少女だった。
清楚で大人しい彼女の立ち居振る舞いは、名門女子校の生徒という印象そのままだ。怯えたような表情を浮かべているのは、この状況では普通の反応だろう。
それだけに彼女の落ち着きぶりが奇妙に思える。最初に屋上で見かけたときの印象を、僕が引きずっているせいかもしれないが、まるで怪我をした自分を誇っているようだとすら思う。
「傷口を見せてもらえるかい」
救急箱から取り出したガーゼに消毒液を吹きながら、僕は訊いた。
血まみれになったハンカチを除けて、彼女は僕の前に手の甲を差し出してきた。
親指と手首の中間あたりから肘に向かって、五センチほどの傷が見えた。滲み出た血がすぐに傷口を隠してしまったが、柔らかい肉をえぐられたような痕が痛々しい。
「それほど深い傷じゃないけど、病院には行ったほうがいいね。縫わないと傷痕が残るかも。でも、これって刃物の傷じゃないよね」
僕の質問に、彼女は複雑な表情でうなずいた。
「私はただ机の中に荷物を入れようとしたんです。そのときに」
彼女が指さしたのは、机の天板の下にある荷物入れだった。その中に、彼女を負傷させたなにかが置かれていたということなのだろう。
ガーゼを彼女に渡して僕は机の中をのぞきこんだ。荷物入れの中身は空だ。だが、その奥の不自然な輝きに気づいて目を細める。
「……ガラス?」
荷物入れに手を入れると、伸ばした指の先に尖ったものが触れた。
ガラス瓶だった。
砕けたガラス瓶の破片が、荷物入れに仕掛けられている。底の丸い部分を天板に接着して、ナイフ状に尖ったガラス片が、入口側に向けられていた。そうしておけば、荷物を入れようとした生徒が手を負傷する確率が高い。何者かが明白な悪意をもって仕掛けたものだ。
「酷《ひど》いことをするやつがいるな」
僕と同じように机の下をのぞきこんで先輩が告げた。ええ、と僕は曖昧に返事をする。
内藤が言っていた悪戯というのはこのことか。たしかに悪質な悪戯だ。これが本当にただの悪戯ならば、だが。
僕は近くにあるほかの机の中ものぞいてみた。しかし似たようなガラス片を隠してある机は見あたらない。罠が仕掛けられていたのは、この机だけらしい。
「きみは普段からこの席を使っているの?」
唐突な僕の質問に、負傷した彼女は戸惑うような表情を浮かべた。
「いいえ。いつも適当に空いてる席を選んで座ってますけど」
「前にこの自習室を使ったのは?」
「先週です。学校の宿題を済ませておこうと思って」
そう言って彼女は小首を傾げた。なぜ僕がそんなことを質問するのか、怪訝に思っている様子だった。
「たまたま座った席に、こんなものが仕掛けてあったなんて災難だったな」
先輩が彼女を慰めるようにそう言った。
無差別な悪戯に偶然巻きこまれた災難。たしかにそう考えるのが自然だった。この自習室が混み合うのは夕方遅くになってからで、今はまだほとんどの席が空いている。彼女が習慣的にこの席を選んでいたのならば話は別だが、そういうわけでもないらしい。
この罠は彼女だけを狙って仕掛けられたものではない。それは動かしようのない真実に思えた。それでもなにかが僕の心に引っかかった。二十四人収容の自習室のほとんどの座席は空いていた。なのに罠が仕掛けられた座席を選んで彼女は座り、犯人の目論見どおり負傷した。単なる確率の問題だとすれば、彼女はかなり不運だったということになる。
しかし彼女は、そんな不幸を従容と受け入れているように見えた。諦めに似た淡い微笑みを浮かべて先輩を見返すと、
「私は呪われてますから」
どこか挑むような口調でそう言った。
彼女の表情は穏やかだった。呪われているという言葉にも、それほど深い意味があるとは思えなかった。それでも、誰かの悪意で自分が怪我をした直後に、そんな自嘲するような言葉が出てくるものだろうかと思う。浦澤華菜というこの少女を、僕は少し面白いと思った。
結局、僕たちは事件のことを事務室に届けることにした。ただの不注意による事故ではなく、タチの悪い悪戯だと判明した以上、もはやバイト講師だけでこっそり処理するような問題ではなくなっていた。
怪我をした浦澤華菜は塾の事務員に付き添われて病院に行った。
僕と先輩は成り行きで塾舎内を調べることになった。ほかの教室の机にも、似たような罠が仕掛けられている可能性があったからだ。
「あの浦澤華菜って子だよ。ほら、さっき話していた」
机の内側を見回っている途中に、先輩が言った。
なんのことです、と僕は訊き返す。
「彩吹駅で起きた転落事故。彼女が階段から突き落とされた被害者だよ」
「……え?」
僕は驚いて顔を上げた。丸顔の先輩は少し得意げな表情で僕を見た。それから大げさに顔をしかめて、声を潜めて長い説明を始めた。
斎宮瞑は、非常階段の手すりにもたれて座っていた。
どこか人工的な雰囲気の漂う、端整な顔立ちの少女だ。
うつろに見開いた大きな瞳と無防備に投げ出した裸足の脚が、美しい人形を連想させた。小振りな頭を銀色の巨大なヘッドフォンが覆って、錆びた階段には長い黒髪が散らばっていた。生気の感じられない死体のような彼女の姿は、いつも僕を冷たく魅了する。
午後六時を過ぎていた。講義の時間はだいぶ前に始まっている。
もっとも講義が始まったからといって、瞑は教室で待っているわけではない。登塾してきた瞑を捜し出して、彼女の相手をするのが本来の僕の仕事だった。
薄暗い非常階段に、瞑は無気力に座っている。
滅多に感情を表に出さない彼女だが、長く観察しているうちにわかってきたこともあった。たとえば彼女が鼻歌を口ずさんでいるのは機嫌のいいとき。そして壁や床に落書きをするのは、気分を害したときである。
そしてどうやら今日の彼女の機嫌は最悪だった。
彼女が座っていた非常階段の周りには、前衛的なアートのような落書きが一面にびっしりと描かれていた。余程退屈を持てあましていたのだろう。この後始末も僕の仕事だ。缶スプレーの塗料を洗い落とす手間を想像して、僕は長くため息をついた。
僕が近づいたことに気づいて、瞑は静かに顔を上げる。しかし彼女はなにも言わなかった。眉一つ動かさずに僕を睨む。
「遅くなったこと、もしかして怒ってる?」
僕は彼女と向かい合うように屈みこんで訊いた。
「どうして私が怒ると思うの?」
ヘッドフォンのコードを指先で弄びながら、瞑は冷ややかな瞳で僕を見た。いつもの静かな声色だったが、不機嫌さは隠しきれていない。
「安心して。あなたの職務怠慢を事務室に報告するつもりはないから」
刺々《とげとげ》しさの目立つ瞑の言葉に、僕は軽く肩をすくめた。
「怠けていたわけじゃないよ。わけがあってさ」
「どんな理由?」
「呪われている、っていう生徒に会ったんだ」
「そう……」
瞑は抑揚のない口調でつぶやいた。呆れているわけではなさそうだった。そんな彼女の反応に僕は少し落胆した。
「もっと驚くかと思った」
「どうして?」
「雙羽塾に通っているような生徒が、本気で呪いを信じているというのは興味深くないかな」
「そう? 呪いなんてありふれてるでしょう?」
「ありふれてる?」
そうかもしれないと僕は思った。本気で呪いを信じている大人というのは、たしかにめずらしい存在ではない。特別に宗教に入れあげている人間でなくても、ちょっとした縁起を担ぐ程度のことなら、誰もが実践していることだ。
「まあね、特に女子高生は占いやまじないの類が好きかもしれないけどね」
「そんな話をしているのではないわ」
瞑はきつい口調で言った。女子高生として一括《ひとくく》りに扱われたのが気に入らなかったらしい。無表情のまま彼女は前髪を鬱陶《うっとう》しげに払い、
「呪いというのは、他人の強い意志に影響されて人の運命が変わることでしょう?」
「そうかな……まあ、そうかもね」
いわゆる呪いとされているもの。丑《うし》の刻参りや死者の祟《たた》りなどを想像して、僕は首肯した。
「だとすれば、呪いというものは、実体と力を持つリアルな現象だわ。この世界にいる誰もが、呪いの影響を受けながら暮らしている。あなたもよ」
そう言って瞑は、黒い瞳を僕に向けてきた。その瞳をしばらく見つめ返して、僕は苦笑した。そんなにムキになるような話題でもないだろうに。
「わかった。この話はやめよう。恐いから」
「そう? 私はべつに構わないけど」
「いや、遅れることを連絡しなかったのは僕が悪かった。怪我人の世話をしてたんだ」
「怪我人?」
「浦澤華菜という子が手を怪我して、たまたま控室にいた僕たちが呼ばれた」
「それが呪われていると言ってた生徒?」
「そう」
うなずく僕を見て、瞑は奇妙な表情を浮かべた。眉を寄せ、なにか考えるように目を閉じる。
「どうかした?」
「いえ、なんでもないわ。続けて」
「自習室の机の中にガラス片が仕込んであったんだ。彼女は荷物を置くために手を入れようとして、手首のあたりを傷つけた。深刻な怪我ではないけど、だいぶ酷い出血だったよ」
「ガラス片? 机の中に?」
瞑はかすかに表情を硬くした。僕は簡単に状況を説明する。砕けたガラス瓶の破片を誰かが机に固定していたこと。仕掛けを施されていた机は、結局その一卓だけだったこと。
「ガラス片を仕掛けた犯人の目的は悪質な悪戯でしょう? それが呪いなの?」
「違う。呪われてるというのは、自分の不幸に対して彼女が使った言葉だよ」
「……自分で自分が呪われていると言ったの?」
瞑は少し驚いたように目を瞬《またた》く。僕はうなずき、
「事故が起きたのは講義時間の前で、自習室は空いていた。それなのに、たまたま彼女が座った机だけに罠が仕掛けられていたというのは、不幸だろ?」
「それはただの確率の問題でしょう? 呪いという言葉を使うほどではないと思うけど」
瞑は独り言のようにつぶやいた。
呪いという表現に不満があるのではなく、なにか別のことを考えているような口振りだった。
「もしかして浦澤華菜の自作自演を疑っている?」
その可能性なら僕も考えた。机にガラス片を仕込んだのは実は浦澤本人で、自分でその中に手を入れて負傷する。だとすれば、彼女があの席を選んだのは偶然ではなくなる。少なくとも、それを不幸と呼ぶのは適切ではないだろう。
「そうね、自作自演なら、その子が呪いなどという強い言葉を使う理由もわかる」
「どうして?」
「自分を傷つけるような真似をするのは、注目されたいからだと思うから。それを本人が自覚しているかどうかはわからないけど」
「ああ、なるほど」
瞑の理屈は明快だった。彼女が、呪いという表現にこだわっていた理由もよくわかる。
不幸な被害者を演じて同情を惹き、周囲の人間の関心を集めようとする。幼稚な発想かもしれないが、悲劇性を高めるためにも、自分が呪われていると吹聴するのは効果的だろう。
自習室の机に仕掛けられた罠は卑劣で、浦澤華菜の怪我は軽傷とはいえ見た目かなり派手なものだった。それがまさか被害者の自作自演だとは、普通、誰も疑わない。
「でも、浦澤華菜の場合は違うんだ。呪われていると彼女が言うのは、それなりの理由があるんだよ」
「理由?」
「うん。浦澤華菜が負傷したのは、実は今回が最初じゃないんだ。先週、彩吹駅で転落事故が起きたのは知ってる?」
いいえ、と瞑は首を振った。それは不自然なことではなかった。話題になるほどの事件ではないのだ。ただの転落事故だけならば。
「ホームに降りる階段から女子高生が落ちて救急車で運ばれた。幸い、軽い脳震盪《のうしんとう》と脚の捻挫で済んだそうだけど」
「その女子高生というのが浦澤華菜?」
「そう」
「たしかに不幸だと思うけど、それも自作自演を疑おうと思えば疑えるわね」
「いや……目撃者がいるんだ。彼女は自分から落ちたわけではなくて、誰かに突き落とされたように見えたって。浦澤本人がなにも言わなかったから、うやむやになったらしいけど」
「誰かに突き落とされた……?」
瞑がすっと目を細くした。気怠げだった彼女の表情の下に、一瞬だけ獰猛《どうもう》な気配がよぎったような気がした。僕は薄く微笑した。傍目にはほとんど変化がないが、彼女のご機嫌はだいぶよくなったらしい。
「浦澤華菜と同じ高校の生徒だったらしいよ。彼女を突き落とした犯人は」
「彼女と同じ制服を着ていた……ということ?」
「そう。聖マグダレナ女学院の制服」
瞑は考えこむようにしばらく目を伏せた。それから淡々とした口調で僕に訊いた。
「浦澤華菜は、自分が誰に突き落とされたのか知っていたの?」
「え?」
「彼女は、自分を突き落とした犯人を庇っているんじゃないかって意味。それなら呪われてると自分から主張する理由にもなるわよね?」
「ああ……なるほど」
それは面白い発想だと思った。名門私立校である聖マグダレナ女学院は、一学年あたりの生徒数が少ない。生徒同士、互いに顔見知りである可能性も高いはず。突き落とされる寸前にでも相手の姿を見かけていれば、浦澤華菜が犯人を特定できたとしても不思議ではない。
その浦澤が、自分が突き落とされたと主張しなかったのは、犯人を庇うためだった、というのはあり得ることだ。さらに呪いという超自然的な要素を持ち出すことで、結果的に人の手による傷害事件という印象を弱めている。そこまでは僕も考えていなかった。
「たぶんそれは当たってる」
少なくとも考え方の方向性は間違っていない、と僕は言った。はっきりと目撃したかどうかはわからないが、彼女には自分を突き落とす相手の心当たりがあったのだ。
「ただ、庇っていたというのとは少し違うかもしれない。浦澤は自分を恨んでいる相手がいることを知っていた。けど、それを誰にも言えなかったのだと思う」
「なぜ?」
瞑が鋭く訊き返してくる。僕は曖昧に微笑んだ。自分でも整理しきれていなかった情報が、次第に形になってくるのがわかる。複雑な謎の形として。
なぜ浦澤華菜は、階段から突き落とされたことを証言しなかったのか。
なぜ仕掛けられた罠で傷ついた運命を、あっさり受け入れていたのか。
なぜ屋上で自殺志願者の真似事をしていたのか。そして彼女の手首に残された傷跡の意味。
「それが呪いだからだよ。彼女を呪っている相手は、もうこの世にはいないんだ」
翌週の同じ水曜日、僕は瞑を自習室で見つけた。
事故があった先週の部屋ではない。第一自習室と呼ばれている、休憩室を兼ねた広い部屋だ。
機能的な真新しい机で参考書を広げている瞑は、全国上位の成績保持者にふさわしい、隙のない優等生の姿をしていた。殺風景な屋上や薄暗い地下室で背中を丸めている普段の彼女とは似ても似つかない。それは長年かけて彼女が作り上げた仮面。瞑のもうひとつの顔である。
自宅や学校にいるときの彼女は、常に模範的な生徒として振る舞っている。両親の不和で崩壊寸前の家庭を、理想的な優等生の娘を演じることで彼女は繋ぎ止めているのだ。
明るく健康的な彼女の笑顔は、僕の目には脆く痛々しいものとして映る。それは、鎖でつながれたしなやかな猛獣の姿によく似ていた。
「こちらです、先生」
瞑が、自習室の入口で立ち尽くす僕を呼んだ。僕は渋面を作って彼女の隣の席に座った。瞑に敬語で話しかけられるのは、何度体験しても慣れない。
人目を避けたがる雙羽塾での瞑が、今日に限って自習室を訪れていた理由はすぐにわかった。
自習室の窓際に、小柄な塾生の姿が見える。右手に真新しい包帯を巻いた女子高生。浦澤華菜。名門女子校の大人しそうな生徒は、大判の洋書を広げて見ている。
瞑はここで彼女を観察していたのだろう。
「見せて、スカ」
いつもの口調に戻って、瞑が囁《ささや》いた。自習室の机には間仕切りがあるので、傍目には担当の講師が生徒の進路相談を受けているようにしか見えないだろう。少人数制と個別指導が売りの雙羽塾では、時間外の補習もそれほどめずらしくない光景だった。
「見せるって、なにを?」
僕はいちおう訊いてみた。瞑は作り物めいた微笑みを浮かべたまま、
「新聞記事。調べてあるでしょう?」
「……まあね」
嘆息しながら、僕は荷物からファイルを取り出した。ファイルに挟みこんであったのは、三月の日付の新聞記事である。先週のうちに図書館で調べてコピーしておいたものだ。僕がその記事を探してくることを、瞑は予想していたらしい。
社会面の記事だった。それなりに大きな記事である。見出しに刷られた二つの異質な単語が目を惹いた。心中。そして、名門女子校。
半年以上も前の事件だった。三学期の終業式の終わった翌日のことだ。
聖マグダレナ女学院に通っていた生徒二人が自殺を図った。一人が死亡。残る一人も重傷を負ったという。
校舎の屋上からの飛び降り自殺だった。原因については、ほとんど触れられていなかった。成績や進路のことで悩んでいたという、クラスメイトの証言が小さく掲載されているだけだ。遺書は残されていなかった。
未成年の自殺ということもあって、ほとんどの新聞で二人の名前は伏せられていたが、死亡した生徒の名前を調べるのはそれほど難しくなかった。
彼女の名前は、橘真由里《たちばなまゆり》。芸術科の二年生だったそうである。地元の新聞が一紙だけ、校長の談話とともに彼女の顔写真を小さく掲載していた。
生き残った生徒の名前を公表している新聞はなかった。
快方に向かっていることを伝えたきり、その後の彼女の様子は一切報道されていない。つまり彼女は今も生きているということだ。
「この助かったほうの女子高生というのが、浦澤華菜なのね?」
最後まで記事を読み終えて、瞑が言った。
「本人は隠してるつもりらしいけどね。彼女は生前の橘真由里の親友だったし、春休みが終わって新年度になっても、しばらく入院していたらしい。噂になるのは避けられない」
「……不思議な話ね」
彼女は、一瞬だけいつもの無表情に戻ってつぶやいた。
「どうして?」
瞑の言葉は、僕には少し意外だった。
自殺未遂の少女。浦澤華菜という生徒を形容するのに、これ以上|相応《ふさわ》しい表現はなかった。
つかみどころがないと思えた彼女の淡泊な言動も、一度は死を選んだ人間の反応だと考えればすべてが腑に落ちた。彼女にとって、自分の身体が傷つくことは恐怖ではないのだ。むしろ、当然の報いという感覚なのかもしれないとすら思う。
そんな僕の困惑が瞑に伝わったのだろう。彼女は僕を見上げて言った。
「橘真由里という亡くなった生徒のことよ。私が不思議だと思ったのは」
「え?」
「この新聞記事を信じるなら、浦澤華菜と橘真由里は仲のいい友人同士だったのよね。一緒に死ぬことを決意するくらいに」
「そうなるね。実際に彼女たちは心中を図ったわけだから」
僕は答えた。それはバイト講師の先輩から聞いた噂話の内容とも一致していた。浦澤華菜と橘真由里は親友だった。そして二人は共に将来を悲観して死を選んだ。
「仲のいい友人同士が心中しようとして、一人が死んで一人が生き残った。そして生き残った浦澤華菜は、自分が呪われていると主張している。ねえ、不思議だと思わない?」
瞑は冷ややかに微笑する。
「浦澤華菜を呪っているのは、誰?」
「それは……死んだ橘真由里じゃないのか?」
瞑の疑問に答えながら、僕は漠然とした違和感を覚えた。
橘真由里には浦澤華菜を呪う理由があったのだろうか。浦澤が橘を死に追いやったわけではない。浦澤は橘と一緒に自殺を図って、たまたま生き延びてしまっただけ。だが、
「浦澤は、自分が今も生きてることで、橘への罪悪感を抱いているのかもしれない。例えば、心中しようと最初に言い出したのが浦澤のほうだったとか、そんな理由で」
「そうね。それはあり得ることだと思う」
瞑は、意外にあっさりと僕の言葉を受け入れた。
「でも、もしそうなら浦澤華菜は、自分が橘真由里に呪われた、なんて言うかしらね」
「罪悪感から出た言葉なら、それほど不自然だとは思わないけどね」
たしかに、理屈では橘が浦澤を呪うのはおかしい。しかし浦澤は、結果的に友人を死なせてしまった立場である。たまたま自分の身に不運が重なったときに、死んだはずの友人の呪詛《じゅそ》を疑うのは、理解できる心情だと思う。
「本気でそんなことを思っているの、スカ?」
瞑が視線を鋭くして僕を見た。その表情の意味が僕にはわからなかった。瞑はなぜ、浦澤のそんな些細な言い回しに固執するのだろう。ひどく落ち着かない気分になる。
戸惑う僕を見て瞑は嘆息し、
「思い出して。彼女は彩吹駅で誰かに突き落とされたのでしょう?」
「……え?」
「死んだ人間には、浦澤華菜を突き落とすことはできないわ」
あ、と僕は小さく息を呑んだ。最初に噂を聞かされたときに感じた疑問を思い出す。浦澤は、なぜ自分が階段から突き落とされたことを証言しようとしなかったのか。
浦澤を呪っているのは、橘真由里だと思っていた。
だが橘真由里はもういない。つまり橘が犯人ということはあり得ないのだ。浦澤には彼女を庇う理由がない。
瞑は続けた。
「自習室の罠が、彼女を狙って仕掛けられたものかどうかはわからないけど、それだって生身の人間の仕業なのは間違いない。なのにどうして、彼女はそれを自分にかけられた呪いのせいにしようとしたのだと思う?」
僕は息を止めて思考を続けた。
浦澤を傷つけようとしたのは、橘真由里ではあり得ない。それでも浦澤が自分は呪われていると主張するのなら、彼女を呪っているのは、橘ではないほかの誰かということになる。
導き出される結論はひとつだけだった。
「橘真由里以外に、浦澤を恨んでいる人間がいるってことか」
僕のつぶやきを聞いて、瞑は無言でうなずいた。出来の悪い教え子の面倒を見ている家庭教師のような態度だ。
「そう。彼女には自分にかけられた呪いの正体がわかっている。つまり自分を恨んでいる相手を知ってるってこと」
「だけど、彼女はそれを他人に知らせることができない?」
「気になるでしょう?」
そう言って、瞑は窓際に一人で座る浦澤華菜へと視線を向けた。
死者の呪いなどではない。誰かが、悪意をもって彼女を傷つけようとした。だから瞑は彼女に興味を持ったのだ。
「きみは、浦澤華菜を傷つけた犯人を捜し出すつもりなんだな」
僕は瞑の横顔を見つめた。瞑はなにも答えなかった。気怠げな表情も冷ややかな口調も相変わらず。だが、彼女の瞳の奥に一瞬だけ、歓喜にも似た攻撃的な光が浮かんだのを僕は見逃さなかった。
たぶん僕だけが知っていることだ。瞑の本性は、間違っても真面目な優等生なんかではない。塾での彼女が死体のように無気力な振る舞いをするのは、無理な演技で疲れ切った心を休めているからだ。傷ついた獣と同じなのだ。
僕と瞑はよく似ている。どうしようもなく犯罪に惹かれるという性癖を持っている。僕は、自らの忌まわしい記憶の空白を埋めるため、そして瞑は犯罪への憎悪故に、真実を求める。
本人もおそらく気づいていない。だが、病的なまでに肥大した正義感を持つ瞑は、犯罪者そのものを狩ることに快楽を覚える種類の人間だった。彼女の本質はある種の狩猟動物なのだ。
「気持ちはわかるけど、それは無意味だと思う」
僕はため息混じりにつぶやいた。瞑は怪訝な目で僕を見た。
「なぜ?」
「犯罪を立証するのが難しすぎる。被害者本人が一度否定してしまった以上、駅での転落事故を今さら事件として扱ってもらうのは困難だし、目撃者を捜すにしても事件発生から時間が経ちすぎた。机の中に仕掛けられたガラス片だって、本当に浦澤華菜を狙ったものかどうかはわからない。犯人の目星がついたとしても、それを自供させるのは不可能だと思うよ」
「ええ、そうね。それは私もそう思う」
瞑は素直にうなずいた。僕は続けた。
「きみが心配しているのは、浦澤華菜を狙った第三の事件が起きることじゃないのか、瞑?」
階段での転落事件。机の中の罠。そのふたつの事件で、犯人は目的を果たしている。最初の事件で浦澤は捻挫し、気絶して病院に運ばれた。二番目の事件でも、手の甲を縫う傷を負っている。それでも犯人が満足していなかったとしたら。次はさらに危険な罠を仕掛けてくる可能性が高い。瞑はそれを不安視しているのではないかと思ったのだ。
「でもそれは僕たちが考えることじゃない。本人に直接事情を訊いて、必要なら警察なり塾の事務室なりに届けて保護してもらえばいいと思う。そのほうが安全だし、彼女のためだ」
「そうかもね」
感情のこもらない声で瞑が答えた。彼女が納得していないことは明白だった。思わず唇を歪めた僕を見て彼女は微笑し、
「だけど、あなたはひとつの可能性を失念しているわ」
「……可能性?」
「そう。浦澤華菜は、自分を恨んでいる人間の存在を他人に言えなかったわけじゃない。ただ言わなかっただけ、という可能性」
「どういう意味?」
僕は戸惑いながら訊き返した。そのふたつの立場に、どんな違いがあるのかわからない。
他人に知られると不都合があるという意味では、どちらも同じだ。
だが前者の場合は、困るから言えなかった、ということであり、後者の場合は、そのほうが都合がいいから黙っていた、という意味にも受け取れる。
しかし実際問題として、彼女はすでに二度も負傷している。一歩間違えば大怪我をしていた可能性だってあるのだ。それなのに、黙っているほうが都合がいい、という状況を考えるのは、あまり現実的ではないと思う。
「でも、あなたの言うことにも一理あると思う。やはり本人に接触してみないとわからないこともあるから」
僕の質問には答えず、瞑はなにかを思いついたようにつぶやいた。
「なにか知りたいことがあるのなら、話しかけてみようか?」
浦澤が怪我をしたところに僕は居合わせている。その後の様子を訊くために彼女に話しかけたとしても、不自然ではないはずだ。
しかし瞑はきっぱりと首を振る。
「彼女に話しかけるのは私がやるから。スカは口を出さないで」
思いがけない瞑の命令に僕は眉を寄せた。役に立たないから大人しくしていろ、という意味か。それともなにか考えがあるのか。瞑は無言でペンケースを取り出したが、浦澤華菜に話しかけようとする素振りはなかった。
「……瞑?」
「あと五分待って」
腕時計を確認して瞑は言った。
彼女の意図がわからないまま、僕は仕方なく浦澤華菜の様子を観察した。
遠目からでも人目を惹く瞑と違って、浦澤は特に目立たない普通の女子高生だった。黙っていれば、とても自殺未遂を起こすような生徒とは思えない。多少なりとも目立つといえるのは、彼女がいつも一人きりで行動していることだった。それはいかにも親友を自殺で亡くした少女に相応しい態度で、僕は初めて彼女に同情した。
やがて彼女は、広げていた本を閉じて荷物を片づけ始めた。洋書のように見えた大判の本の正体は、楽譜だった。演奏時の注意点などを書き写していたらしい。
荷物を鞄に詰め終えて彼女は席を立った。講義が始まる時間なのだろう。
それを確認して瞑も立ち上がる。あと五分と言ったのは、このタイミングを見計らっていたらしい。
濃緑色のセーラー服を着た小柄な少女が、講義室に向かうために近づいてくる。
そして彼女が僕らの前を横切ろうとしたとき、瞑は思いがけない行動に出た。
ペンケースから取り出した消しゴムを、突然、浦澤に向けて投げつけたのだ。
それほど強く投げたわけではない。飾り気のないシンプルな製図用消しゴムは、なだらかな放物線を描いて正確に浦澤華菜の顔面へと向かった。
あまりにも唐突な瞑の攻撃に、彼女は反応することができなかった。
呆然と立ちすくむ彼女の眉間を直撃し、瞑の消しゴムは床に落ちて弾む。
「ごめんなさい。大丈夫でしたか?」
浦澤の前に立って、瞑は微笑んだ。これまで僕が見たことのないくらいの見事な笑顔だった。
その表情に気圧されたように、浦澤は吐き出そうとした文句を呑みこんだ。
自習室に居合わせた数人の生徒が彼女たちを見ている。今ここで怒ったら、悪者になるのは浦澤のほうだ。そのことを一瞬で計算したのだろう。
「知っている人と間違えてしまったの。本当にごめんなさい」
瞑はよそ行きの声で謝罪する。
「あなたは、知り合いに消しゴムをぶつけるような人なの?」
浦澤華菜は、足下の消しゴムを拾い上げて瞑に渡した。静かだが辛辣な口調だった。小柄で大人しそうな彼女の、意外に気の強い一面を見たような気がした。しかしまさか、瞑は彼女のそんな性格を確かめたかったわけではないだろう。
気まずい雰囲気のまま浦澤は立ち去り、瞑は消しゴムを握ったまま戻ってくる。
「なんのつもりだ、瞑?」
顔をしかめて僕は訊いた。今の彼女の行動に意味があったとはとても思えなかった。浦澤は間違いなく気分を害したはずだし、これで瞑が彼女から話を聞き出すのは極端に難しくなった。
しかし瞑が浮かべた微笑は、冷ややかで、そして哀しげなものだった。
「ねえ、スカ……この世で絶対に許せない裏切りがあるとすれば、それはなんだと思う?」
「……裏切り?」
まったく予想外の瞑の質問に、僕は混乱した。なぜ彼女が突然そんなことを言い出したのかわからなかった。しかし、今までの話の流れから、おそらく浦澤華菜の「呪い」に関わることなのだろうと気づく。
裏切りというのは、重い言葉だ。ただ単に約束を破っただけでは裏切りとは言わない。
人の信頼に背くこと。味方だったはずの人間が、敵になること。
一緒に死ぬという橘真由里との約束を反故《ほご》にして、浦澤華菜は生き延びた。はたしてそれは裏切りだろうか。
黙りこんだ僕を静かに見据えて、瞑は優しく微笑んだ。
「ひとついいことを教えてあげる。スカが私に黙っていたこと。あなたが浦澤華菜に会ったのは昨日が初めてじゃない。この建物の屋上で、あなたが彼女と話をするのを私は見ていたの」
「え?」
思い出す。自殺の真似事をしていた浦澤華菜のこと。
あの日、僕が屋上にいたのは、講義に出てこない瞑を探していたからだ。だから、僕たちが会話している姿を、瞑があのときどこかで盗み見ていたとしても不思議ではない。
だけど、どうして今になってそんな話を持ち出すのだろう。
僕は間の抜けた表情で、感情の読めない瞑の微笑を怖々と眺めた。瞑はすっと目を細くする。そして独り言のように、誰にともなくつぶやいた。
「飛び降り自殺に失敗して重傷を負った人間が、再び屋上のフェンスを越えて自殺の真似事をするとしたら――そこにはどんな意味があったのかしらね?」
瞑の疑問に、僕は最後まで答えることができなかった。
浦澤華菜が雙羽塾に通っているのは、週に二回だけ。それ以外の日にはピアノの練習をしているらしかった。彼女の志望校は国立の芸術大学なのだ。
彼女が登塾しない日を使って、僕は何人かの生徒に彼女の評判を尋ねて回った。自習室でのガラス片の事件は公になっていたため、それについて調べていると言えば、話を聞き出すのは難しくなかった。
膨大な生徒数を誇る雙羽塾だが、エスカレーター式に進学できる大学を持っている聖マグダレナ女学院の生徒は、実は少ない。浦澤と同様に外部の大学を受験する三年生の一部が、数人通っているだけである。
そして彼女たちの証言でわかったのは、浦澤華菜を悪く言う者はいないということだった。正確にいえば、春の自殺騒動を経て彼女の評価は上がった。
それ以前の彼女には、演奏技術を鼻にかけての身勝手さや、子供っぽい我が儘さが目立っていたのだという。たとえば文化祭のクラス発表直前に、自分の曲目や演奏順を入れ替えたり。自分だけが目立つ衣装を選んだり。些末なことだが、それが原因で浦澤を嫌う者も多かった。
そんな浦澤と同級生たちの仲を取り持っていたのが、橘真由里だった。明るく社交的な橘は成績もよく、同級生たちからも信頼されていた。そんな橘を浦澤も慕っていたという。
その橘とともに心中事件を起こして、浦澤は変わった。自己中心的な言動を止め、控え目に振る舞うようになった彼女に周囲は好意的だった。親しい友人を作らず、同級生たちと距離を置くようになったが、親友を亡くした直後では、それは仕方がないことだろう。
僕が知っている浦澤華菜という少女の印象と、周囲の証言に齟齬《そご》はない。
浦澤が自習室で怪我をして二週間が過ぎていた。
その間、瞑は塾を休みがちだった。浦澤華菜には興味をなくしたのかと思ったが、そういうわけでもないらしい。どうやら瞑は、一人で勝手になにかを調べているようだった。
午後四時を過ぎたあたりから、塾舎内で見かける高校生の数が増えてくる。
その日、自習室で浦澤華菜を見つけたのは偶然だった。彼女はいつものように窓際に一人で座っていた。
少し迷ったが、僕は彼女に声をかけることにした。幸い、自習室内にほかの生徒はそれほど多くない。近づく僕の姿に目敏《めざと》く気づいて、浦澤華菜は顔を上げた。
「怪我はもう大丈夫?」
僕は彼女に訊いた。浦澤は戸惑ったような曖昧な微笑を浮かべてうなずいた。
「はい。まだ少し痕が残ってますけど」
彼女が掲げてみせた手の甲には、見覚えのある傷痕の形に淡い染みが浮いていた。それほど目立つものではないが、やはりまだ痛々しい。
「演奏は大丈夫? 芸大志望だって聞いたけど」
「ええ……それはもう平気です」
浦澤はそう言って、やはり怪訝な顔で僕を見た。なぜそんなことを訊くのか、という表情だ。
彼女が疑問に思うのも当然だった。僕が瞑の関係者であることを彼女は知っているし、その瞑は彼女に意味もなく消しゴムをぶつけて怒らせている。
僕は遠回しに話を聞き出すのを諦め、仕方なく直接訊くことにした。脇に挟んでいたクリアファイルを取り出し、彼女の机の上に置く。
「悪いけど、少し気になったので調べさせてもらったよ」
クリアファイルの中身は新聞記事だった。瞑に見せたものと同じ、三月に起きた心中事件の記事である。浦澤の顔から微笑が消え、怒りとも怯えともつかない表情が浮かぶ。
「きみは僕に自分が呪われていると言った」
「……それが、なにか?」
硬い口調で、浦澤が訊き返す。僕はクリアファイルと彼女を交互に見つめる。
「本当は呪われているのではなく、恨まれているんじゃないのか。たとえば自殺した橘真由里の家族や友人の誰かに」
学校での浦澤の評判は悪くない。少なくとも、露骨な恨みの対象になるようなタイプではないはずだ。そんな彼女が恨まれるとすれば、この心中事件が原因である可能性が高い。
橘真由里が死んで、浦澤華菜は生き残った。
だからといって浦澤が責められる理由にはならない。浦澤が橘を殺したわけではないのだから。だが橘真由里に親《ちか》しい人間までもが、そんなふうに割り切れるとは限らない。
橘を唆《そそのか》して自殺させた浦澤だけが、今ものうのうと生きている。それを快く思わないということもあり得るだろう。
「なにを仰《おっしゃ》りたいのかよくわかりませんけど……」
浦澤は細い声でつぶやいた。かすかな怒気が滲み出ていた。無理もないが。
「たしかに恨まれてると思います。でも、それで私にどうしろって……」
「きみは、きみを恨んでいる相手を、利用しようと思っているんじゃないのか?」
「……利用?」
怪訝顔で訊き返す浦澤に、僕はうなずいた。
それは瞑が漏らした断片的な言葉から、僕が導き出した結論だった。
瞑がなにを考えているのかは、僕にもわからないことが多い。だが今回は少し違った。彼女はずいぶん多くの手がかりを残してくれていた。
浦澤華菜を恨んでいる人間がいるということ。彼女は、それを言えないのではなく、ただ言わなかっただけではないかということ。
そして瞑自身の奇妙な行動。
浦澤華菜が巻きこまれているトラブルは、重大な犯罪というわけではない。せいぜいタチの悪いイジメか、その延長だ。仮に犯人を見つけたとしても、告発できる可能性は低い。なのに、瞑は強迫観念に近い執拗さで事件のことを調べている。
「自殺の続きがきみの望みだ。きみは自分を恨んでいる相手の行動がエスカレートして、自分を殺してくれるのを待っている。僕はそう思ったんだけど、違うかな?」
自分の身が危険にさらされているという事実を、彼女が望んで受け入れているように見える理由。それを僕はほかに思いつかなかった。
その瞬間、彼女が浮かべた表情は僕にとって意外なものだった。
浦澤華菜は笑ったのだ。満足そうに。そして僕に訊いてくる。
「どうして私がそんなことを?」
僕は黙って首を振った。それを訊くために彼女に話しかけたのだ。浦澤華菜に自殺願望があることはわかっている。それなのに、彼女は誰かに自分が傷つけられるのを待っているように見える。その理由が僕にはどうしてもわからなかった。
「お話はそれだけですか。だったら私は次の授業の準備がしたいんですけど」
浦澤は、控え目な口調で僕との会話を拒絶した。
「邪魔したね。悪かった」
僕はため息をついて立ち上がる。仮に彼女が誰かに殺されるのを待っているのだとしても、それを僕に打ち明けてくれるとは思えなかった。
「いえ」
浦澤は首を振った。そして立ち去ろうとする僕の背中に、
「先生、私はもう死にたいなんて思ってませんから」
囁《ささや》くような声でそう言った。
僕は浦澤を振り返って苦笑する。嘘をついているようには見えなかったが、彼女の言葉を証明する方法はない。むしろ彼女の机の上に置かれているカッターナイフの存在が気になった。浦澤の細い手首の傷痕を連想して、落ち着かない気分になる。
担任でもないバイト講師が、いつまでも浦澤につきまとうわけにもいかないが、このまま彼女から目を離すのもためらわれた。僕は自習室の壁にもたれて、時間を潰すフリをしながら、ぼんやりと周囲を眺めていた。
浦澤は飲み物を買うために、ジュースの自販機に近づいていくところだった。古い型の紙コップ式の自販機だが、塾の外で売られているものに比べて安いので、生徒たちの評判はいい。
僕のすぐ近くの出口を、見知らぬ女子生徒が出て行った。一瞬、おや、と思ったのは、彼女が浦澤と同じ制服を着ていたからだ。聖マグダレナ女学院の濃緑色のセーラー服である。追いかけて浦澤の話を聞いてもよかったが、今となってはそれも無駄に思えて気迷いする。
鋭く息を呑むような悲鳴が聞こえてきたのは、その直後だ。
浦澤華菜の声だった。
白煙が立ちこめていた。
自販機が炎上したのだと思った。ジュースの取り出し口から白煙が噴き出して、浦澤華菜が震えながら後ずさるのが見えた。爆発音は聞こえなかった。だが、噴き出す煙の勢いはかなり強い。発火装置か爆薬のようなものが、自販機に仕掛けられていたのかもしれない。
自習室にいた塾生たちは皆、立ち上がってそれを遠巻きに眺めていた。近くの席にいた生徒の何人かが、あわてて逃げ出すのが見える。だが、いちばん近くにいる浦澤は、硬直してその場を離れられないでいるらしい。
これも彼女を恨んでいる人間の仕業なのか、と思って愕然とする。自販機に爆発物を仕込むなんて、そんな大がかりな罠を用意するとは、完全に予想の範囲外だった。
僕は小さく舌打ちして、彼女のほうへと駆け出そうとした。
その僕を背後から誰かが呼んだ。
「こっちよ、スカ」
驚いて振り返る。瞑だった。彼女も自習室にいたらしい。黒髪を翼のように翻して彼女は立ち上がり、僕を抜き去って廊下に飛び出していく。
「今、あなたの横を通っていった聖マグダレナの生徒。彼女を捕まえて」
「えっ?」
僕は激しく戸惑いながらも瞑のすぐあとに続いた。自販機から噴き出す白煙の勢いは衰えていたし、ほかの生徒が浦澤を助けに行くのも見えたからだ。
濃緑色のセーラー服を着た女子生徒が、長い廊下の角を曲がるのが見えた。彼女が、自販機に爆発物を仕掛けた犯人なのだろうか?
「あたしが来たあとで、部屋を出て行ったのはさっきの人だけなの。それだけで犯人と決めつけることはできないけど――」
全力疾走を続けながら、瞑が叫んだ。納得した。彼女は彼女で浦澤華菜のことをずっと監視していたのだろう。再び浦澤が狙われることを想定して。
しかし自販機に罠を仕掛けるという犯人の行動は、瞑の予想をも裏切っていたのに違いない。なぜなら、自販機を使う可能性があるのは浦澤だけではないからだ。
たまたま今回は目論見どおり浦澤が自販機を使ったが、そうでなければほかの塾生が巻き添えになっていたかもしれない。犯人が無差別に周囲の塾生を巻きこむつもりなら、もはや浦澤一人を護衛するだけでは済まなくなる。今ここで犯人を捕まえなければ、次の罠は防ぎようがないのだ。
僕と瞑はほぼ同時に廊下の角を曲がった。
この先の廊下は一本道で、突き当たりはエレベーターホールになっていた。雙羽塾のビルに設置されているエレベーターは四台。そのうち二台は高層階専用で、この階には止まらない。使えるのは残りの二台だが、その両方とも上からこの階に向かって降りてきている最中だった。どう考えてもタイミング的に、逃走中の女子高生がエレベーターを使うのは不可能だ。つまり、
「階段か……!」
僕はエレベーターホール横の階段を見た。普段の瞑の気まぐれな習性のおかげで、僕たちはこの建物の構造を熟知している。
瞑はうなずき、迷いなくスチール製の扉を開けて階段へと飛びこんだ。
僕たちがいるのはビルの二階。そしてこの階段は、中二階のトイレを挟んで、一階ロビーにつながっている。一階と二階を結ぶ専用階段なのだ。
「先に行って、スカ」
瞑に命じられるまま、僕は階段を駆け下りて一階ロビーに続く扉を開けた。
その直後、女性の短い悲鳴が聞こえた。
受付担当の事務職員の声だった。非常階段の扉のすぐ前で、若い女性事務職員が、塾の案内パンフを整理していたのだ。いきなり目の前で扉が開いたことに驚いたらしく、尻餅をついたような姿勢で僕を見上げている。
「すみません。今ここから塾生が出てきませんでしたか?」
なおざりに謝りながら、僕は訊いた。時間がなかった。
塾の外への出入りはICカードで記録されているからまだマシだが、一階ロビーから再びほかの生徒に紛れて講義室に入られてしまうと、追跡はほぼ不可能になる。
しかし事務職員は、散らばったパンフを拾いながら、少し怒ったような口調で答えた。
「いいえ。誰も」
「緑のセーラー服を着た女の子なんですけど。聖マグダレナ女学院の」
「ええ。ですから誰も出てきてません」
僕は困惑しながら周囲を見回した。ロビーでエレベーター待ちをしていた生徒たちが、不思議そうな表情で僕を見ていた。この事務職員が嘘をついているとは思えない。本当に誰もここから出てきてはいないのだ。
すみませんでした、と答えて僕は非常階段へと戻る。
中二階の踊り場で、瞑は僕を待っていた。そこでようやく僕は、彼女がトイレの出口を見張っていたのだと気づいた。たしかに、容疑者の少女がトイレに隠れて僕たちをやり過ごそうとする可能性は高かった。いや、もうそれ以外に方法は残っていない。
中二階の左右に、それぞれ男子トイレと女子トイレが配置されている。
「ここで待ってて」
戻ってきた僕を見て、瞑はすぐに状況を理解したらしい。踊り場で待機するよう言い残して、慎重に女子トイレの扉を開ける。相手が刃物などを持っていることを考えているのだろう。
しかし、瞑の背中からはすぐに緊張が抜けた。女子トイレには誰もいなかったらしい。彼女の困惑が伝わってきた。詳しく調べるために、瞑は奥へと入っていく。
瞑に危険はなさそうだと判断して、僕は男子トイレへと向かった。容疑者の逃げ道はほかにない。必ずこの中に隠れているはず。この階のトイレには人が出入りできるような窓はないはずで、つまり容疑者は自ら袋小路に逃げ込んだということになる、そのはずだった。
「え……」
しかし、僕はトイレの扉を開けたまま立ち尽くす。
トイレの中が無人だったわけではない。その逆だ。トイレには男子生徒がいた。それも四人。そのうち三人はトイレの奥で談笑していた。かすかにタバコの臭いがしたが、それはこの際、あまり問題ではなかった。残る一人は鏡の前でコンタクトレンズを弄《いじ》っている。
個室の扉はすべて開いており、誰かが隠れている様子はなかった。掃除用具入れのロッカーは、もともと人が入れる大きさではない。
「あれ……どうしたんですか?」
鏡の前にいた生徒が、眼鏡をかけながら訊いてきた。見覚えのある生徒だった。浦澤が手を怪我したときに、僕たちを呼びに来た内藤という少年だ。
「いや、人を捜してるんだ。聖マグダレナの女子生徒なんだけど……」
「……男子トイレで?」
笑いをこらえているような顔で、内藤は僕を見た。
たしかに自分でも馬鹿げたことを言っていると思う。誰もいなければともかく、ガラの悪い男子がたむろしているトイレに、名門校の女子が一人で飛びこんでくればちょっとした騒ぎになってもおかしくない。ここにいる男たちが全員犯人の仲間とも考えにくい。
なぜならトイレはいつ誰が出入りするかわからない空間だからだ。容疑者の少女が逃げこんできた瞬間に、都合良く彼女の仲間だけがトイレにいるとは限らない。
「トイレにいたのはきみたちだけか……わかった」
僕は戸惑いながらトイレを出た。踊り場では瞑が僕を待っていた。
彼女は僕の顔を一目見るなり、眉間にしわを寄せて険しい表情を浮かべた。それを見て僕はなぜか安堵した。作り物のような笑顔よりも、今の彼女のほうが何倍も魅力的だ。
「私はもう行くわね」
瞑は言った。僕は目を細めて彼女を見返した。
「行くって……どこに?」
「屋上。風が気持ちよさそうだから」
唖然とした。容疑者を見失ってしまったから、興味をなくしたということか。瞑らしいといえなくもないが、浦澤のことは心配ではないのだろうか。気まぐれにもほどがある。
「待った。もう、さっきの女子を捜さなくていいのか? それに自販機も調べないと」
「必要ない。たぶん、なにも見つからないわ。もう消えてしまったから」
「……え?」
消えてしまった、とはどういう意味だ。証拠がなにも残っていない、という意味か。だが、今回の事件はこれまでとは違う。れっきとした破壊行為。犯罪だ。警察の捜査が始まれば、僕たちでは調べられなかった科学的な物証も手にはいるはず。
だがもしも、それでもなにも見つからなかったとしたら――
「あなたが調べたいというのなら止めないけど、無駄だと思うわよ。なにかわかったら教えて」
瞑はそう言い残すとエレベーターホールへと出て行った。
僕はその姿を、ただ呆然と見送った。
結論から言えば、瞑の予言は当たった。
浦澤華菜の前で白煙を噴き上げた自販機は、その日のうちに販売会社の整備員によって検査された。
結果は、異常なしだった。立ち会った警察官たちの目の前で、自販機は正常に作動したのだ。
発火装置のようなものが仕掛けられた痕跡もなかったのだという。自販機の抽出口には、こぼれたジュースと紙コップだけが残されていたそうだ。
もちろん大勢の目撃者がいたので、浦澤華菜が責められるような事態にはならなかった。念のためにということで、自販機は使用禁止になって、来週には新しいものに交換されるらしい。
残ったのは謎だけだった。
なんの仕掛けもなく白煙を噴き出した自販機。
そして袋小路の階段室から、忽然と消え去った容疑者。
これではまるで、本当に呪いのようだ――と僕は思った。そうでなければ、どうして犯人は都合良く、浦澤華菜だけを被害に遭わせることができるのか説明できない。
モヤモヤとした感情を抱えて、僕はそれから二週間ほどの時間を過ごした。
その間、浦澤華菜は塾を休んでいたのだ。だから瞑とも彼女の話はしなかった。
その日、大学の講義を終えてバイトに訪れた僕は、瞑の姿を少し意外な場所で見つけた。
それは自習室だった。塾舎七階の第六自習室。最初に机の中にガラス片が仕込まれていた、二十四人収容の小さな教室である。
強い夕陽が射しこんでいるその部屋で、瞑は一人の男子生徒と話をしていた。
近くで向かい合ったまま、深刻な表情で会話する二人が、逆光に浮かび上がっている。
僕は彼らに話しかけることができずに、廊下からぼんやりと外を眺めていた。
彼らが別れたのは、それから十分近く経ってからのことだった。
自習室を出ようとした少年が、そこでようやく僕に気づいた。
線の細い小柄な男子だ。内藤真純と名乗っていた彼である。
彼は、眼鏡がずれないように、軽く手で押さえて会釈した。その姿に僕は違和感を覚えた。だが、なにが気になるのか言葉に出来ないまま、その感覚はすぐに消え去った。
そのまま立ち去ろうとした彼は、しかし僕の目の前で足を止めた。
彼の視線の先、廊下の向こう側から、誰かがゆっくりと近づいてくる。
やや幼い雰囲気を残した女子の塾生。浦澤華菜だ。
いつもの聖マグダレナの制服ではなく、私服姿である。
彼女は内藤の正面まで来て、足を止めた。
無言のままで睨み合う。
二人の身長差は十五センチほどだ。
見上げる形だった浦澤が、不意に顔を歪めた。怒りの相だ。
パァン、と派手な音が鳴った。
浦澤が内藤を平手で打ったのだと僕が気づくまで、少し時間がかかった。大人しい浦澤のイメージに、あまりにもそぐわない光景だったからかもしれない。
内藤はなにも言わなかった。弾け飛んだ眼鏡を拾い上げ、そのまま浦澤に背中を向けて歩き出す。僕は呆然とその姿を見送った。なにがどうなっているのかわからない。
浦澤は、立ち去る内藤の背中を憎々しげに睨みつけている。
ふと気づくと、瞑が僕を手招きしていた。
僕は乱暴に首を振って、自習室の中へと入っていった。
「どうなっているんだ、瞑。いったいなにが……?」
「なにもないわ……もうなにも起こらない」
瞑はいつもの無表情で首を振った。
その表情を見たときに、僕は彼女がすべてを理解していることを知った。もう終わったのだ。この事件はなにもかも。おそらく今の一瞬に。
「斎宮瞑……」
遅れて自習室に入ってきた浦澤が、瞑を呼んだ。瞑は穏やかに微笑んで彼女を見つめ、
「少し約束の時間よりも早かったようだけど……どう、気が済んだ、浦澤さん?」
浦澤がかすかに唇を引きつらせた。彼女が浮かべたのは、満足とはほど遠い複雑そうな表情だった。言葉を選ぶように何度も息を吐き、
「説明してもらえますか?」
浦澤はようやくそれだけを訊いた。瞑はうなずく。
「あなたがそれを望むなら」
「ありがとう。お願い」
ため息のような声でつぶやいて、浦澤は瞑の言葉を待った。瞑は制服の肩をすくめると、話の糸口を探すような表情で僕を見た。
「浦澤さんが怪我をしたガラスの破片――罠が仕掛けられてあったのは、教室のこのあたり?」
瞑が僕に質問する。彼女が指さしたのは自習室の一角。四席ほどの空間だった。
「そう。その窓際の席だよ……だけど」
どうしてわかるんだ、と僕は驚いた。
悪戯の後始末が済むまで、この自習室は立入禁止になっていた。瞑には、罠が仕掛けられていた正確な場所を知る方法はなかったはずだ。
そういえば、浦澤を傷つけた犯人も、彼女がその場所に座ることを最初から知っていたかのように正確に罠を仕掛けていた。そのことが、呪いなどという言葉に信憑性を増したのだ。
「簡単なことよ。少なくとも浦澤さんにとっては、それは最初から謎でもなんでもなかった。浦澤さんは、罠の仕掛けられた席を選んで座ったわけじゃない。無意識のうちにそこを選ぶように仕向けられたの」
「……罠のある席を選ばされた?」
「そう。たとえばマジシャンは、観客に思い通りのカードを引かせることができるとよく言われる。実際そのためのテクニックもたくさんある。ねえ、スカ。この自習室とほかの教室には決定的に違うことがひとつだけあるの。なんだかわかる?」
瞑に問いかけられて、僕は部屋を見回した。
雙羽塾のビルには各階ごとに自習室が設けられている。休憩室を兼ねた二階の第一自習室は別にして、このあたりの階のレイアウトは、どこも似たようなものだ。
だが、僕はふと思い出す。逆光の中に浮かび上がっていた瞑と内藤のシルエット。
「ブラインドか……!」
夕陽に照らし出された窓を見て、僕は呻いた。
採光用の大きな窓にかかっているはずの電動制御のブラインドカーテンがない。巻き上げられたままになっているのだ。そのせいで、夕陽が教室の中に濃い影を落としている。
「この部屋は、午後のこの時間だけ、強い西陽が射しこんでくるの。それを遮るはずのブラインドは壊れている。勉強しようと思っている人間にとって、強い陽射しは邪魔にしかならない。だから教室のこちら側にわざわざ座る生徒はいない」
瞑は、教室の中に見えない線を描くように腕を伸ばした。それだけで、選べる席は三分の一ほどに減ってしまった。
僕たちが事故の知らせを聞いて駆けつけてきたときは、動顛していて陽射しを気にするどころではなかったし、その後、教室を詳しく調べたときには、すでに太陽は沈んでいた。だから気づかなかったのだ。この教室で、まともに座れる席が十席にも満たないことに。
「あとはもっと簡単。この時間帯なら、自習室はどこも空いているけど、あと三十分もすれば混み合うことはわかっている。そして浦澤さんはたいてい一人で行動しているわ。だとすれば、相席になる可能性の低い一人がけの席を選ぶと思う」
そういうことか、と僕は思った。そうやって条件に合わない席を消去していった結果が、さっき瞑が指さした一角だったというわけか。
「もっと完璧を期すなら、座って欲しくない席に荷物を置いておくなり、水や消しゴムのカスをまいておくなりすればいい。ほかの席が空いているのに、わざわざ汚れた席を選んで座る生徒はいないもの。教室の座席が、ひとつやふたつ汚れていても、べつに不自然ではないしね」
「……たしかにそれなら、罠を仕掛けた机に相手を誘導できるかもしれないな」
僕は低くつぶやいた。前もって電動ブラインドを故障させ、いくつかの座席の上を散らかすだけ。浦澤が普段この自習室を使っていることを知った犯人は、それだけの手間で彼女を罠に誘導した。予定どおりに座ってくれなかったとしても、次の機会を待てばいいだけだ。
それではもしも、浦澤以外の生徒が先に来て、罠のある席に座ろうとしたら――?
簡単なことだ。犯人が先にその席に座るなり、相手に警告するなりすればいい。
犯人は、そのために犯行現場で待機していたのだから。
「自習室に罠を仕掛けた犯人は、内藤だったのか……」
僕のつぶやきを、瞑は否定しなかった。
「自販機に罠を仕掛けたのも、あの人の仕業よ」
「罠か……自販機からはなんの痕跡も発見されなかったって聞いたけど?」
「ええ。痕跡は残らなかった。溶けて消えてしまったから」
「消えた?」
「そう」
困惑する僕を見て、瞑は意地悪く微笑んだ。
「あなたは一人でケーキを買ったりしないだろうけど、女の子の何人かは、あの場ですぐに気づいたと思う。あれはドライアイスの煙よ」
「ドライアイス? コンサート会場で焚いたりするあれか……」
「紙コップ式の自販機は、中身がこぼれたときに備えて水受けがついている。そこにドライアイスの破片を敷いておくの。あの自販機は古くて、次の人が使う紙コップの底が注ぎ口から見えているわ。だから、その底に画鋲程度の小さな穴を開けておけばいい」
想像する。浦澤が自販機を操作する。最初に紙コップだけが落ちてきて、その上に飲料が注がれる。そして紙コップの底には穴が穿たれていた。当然、注がれた飲料は流れだし、水受けに敷かれたドライアイスを急激に気化させるのだ。
見慣れた自販機とはいえ機械である。機械から白煙が噴き出したら、普通の人間が連想するのは火災、そして爆発だろう。
「驚くほど簡単な仕掛けよ。だから犯人は、一瞬で仕掛けることができた。浦澤さんの挙動を観察して、ジュースを買いに行くと判断したらすぐに先回りすればいい。そうすれば、確実に浦澤さんだけを罠に陥れることができる」
説明を終えて、瞑は軽くため息をついた。種明かしはこれでおしまい、と言われた気がした。
たしかに不可解な現象はもうなにもない。
駅での転落事故は、単に浦澤を突き落としただけだからだ。せいぜい人目につかないタイミングを見計らうだけで、トリックと呼べるものはなにもない。
それに、階段室で僕たちが女子生徒を見失ったことについても、今ならば説明できる。
「内藤が共犯者だったんだな?」
彼が出て行った廊下を振り返って、僕は訊いた。
聖マグダレナの制服を着た少女と、内藤真純。彼ら二人が共犯者だったなら、残るいくつかの謎も解ける。あのとき少女は、やはり男子トイレに隠れていたのだ。内藤がそれを匿《かくま》っていたのだと思う。問題は無関係の三人の男子生徒の存在と、トイレには人が隠れられる場所がなかったという事実だが、それは単に僕が見落としていただけだと考えれば――
「違うわ、スカ。あなたはなにもわかっていない」
瞑が、突き放すような口調で告げた。僕は、自分でも意外なくらい動揺した。
さらに追い打ちをかけるように、浦澤華菜が吐き捨てるようにつぶやく。
「――内藤真純なんて男子生徒はいないのよ」
唖然とした。
だったら、さっきこの部屋を出て行った少年は何者だったのだろう。浦澤が平手打ちした彼は、存在しない幽霊だったとでもいうのか。
「簡単な理屈よ、スカ。浦澤さんが狙われたのは、雙羽塾とその周辺にいるときだけだった。そのことを奇妙だとは思わなかった?」
「それは……」
たしかに思った。共犯者の片割れが、聖マグダレナ女学院の生徒ならば、浦澤を襲う機会はいくらでもあるはずだ。雙羽塾で罠を仕掛けるのは犯人にとってもリスクが大きい。なぜなら、聖マグダレナの制服はここでは異様に目立つからだ。
一方で、学校外の人間にとっては、聖マグダレナの生徒の振りをするメリットは大きい。自分の身元を偽るのに、これほど効果的な手段もあるまい。
「変装……内藤は女装していたのか……いや……」
違う。逆だ、と直感する。
男子高校生である内藤が、名門女子校の制服を入手するのは難しい。不可能とはいわないが、サイズの合う制服を手に入れ、さらに誰にも気づかれずに女子として振る舞うことができるかといえば疑問である。
街中を歩いているだけならともかく、雙羽塾には同年代の女子が多く集まっているのだ。そのような不自然さには、彼女たちは敏感だ。
一方で、女子が男子に化けるのは、本人の資質にもよるが、かなり難度が下がる。男子としては小柄な内藤だが、平均的な女子の身長よりはだいぶ高いし、細身の体型は女性らしさを隠すにも向いているだろう。
犯人である内藤が、浦澤が罠にかかるのを同じ自習室で見ていたというのは、異様に大胆な話だと思った。だが、それも変装していたとすれば納得できる。
「内藤真純は女子生徒なの。音瀬市にある県立武岡高校の二年生。そして彼女は、去年までは聖マグダレナ女学院の生徒だったのよ」
犯罪者でもない人間の素性を調べるのは面倒だったわ、と瞑は微笑んだ。
僕はうなずく。浦澤を突き落とした少女は、聖マグダレナの制服を着ていたという。
もし内藤が本当にマグダレナ女学院の生徒なら、そんなことはしない。わざわざ男子に変装して雙羽塾に潜入したのが無意味になるからだ。
「内藤真純は、武岡高校の男子生徒と聖マグダレナの女子生徒という、ふたつの変装を使い分けて雙羽塾に潜りこんでいたの。雙羽塾の塾生は、ICカードで出入りをチェックされてるけど、誰がどの制服を着ているかまで機械は調べないものね」
そして瞑は立ち上がって、僕の前で突然、自分のスカートの裾をめくってみせた。
彼女がスカートの下に着ていたのは、裾の部分を折って丸めたジャージだった。思わず頬を赤らめた僕を見て、瞑はなぜか満足そうに微笑み、
「これが、彼女が私たちの追跡を巻いたトリックよ。さすがに制服の下に制服は着られないけれど、運動着ならべつにめずらしくない。内藤真純は階段室にたどり着いたところで制服を脱いだの。聖マグダレナの制服は、古風なワンピースのセーラー服よ。脱ぐだけなら、何秒もかからずに脱げたと思う」
そういうことか、と僕は嘆息した。名門校である聖マグダレナの制服のスカートは、今どきめずらしいくらい長い。下に運動着を着こんでいても、傍目には誰にも気づかれないだろう。それに、塾の中にいる生徒は、常に自分の荷物を持ち歩いている。荷物の中に入っているのが、教科書ではなく変装用の男子の制服だったとしても、誰にもわかりはしないのだ。
「制服を脱いで運動着になった彼女は、そのまま男子のフリをして男子トイレに入った。たとえば部活帰りの生徒が、運動着のまま塾に来てトイレで着替えるって、不自然かしらね?」
「いや……」
僕は首を振った。今どき、ジャージで街中を歩いている高校生などめずらしくもない。僕が実際にそういう現場に遭遇したとしても、特に気にも留めずに見逃すだろう。
謎は解けた。聞かされてみれば、どれも単純でリスクの高いやり方だと思う。
だが、それも無理はない。ただの女子高生が、たった一人で考えて実行したのだ。これ以上の緻密な計画など望むべくもない。
瞑の説明から僕が感じた印象は、粗暴さよりも、むしろ悲壮なまでの決意だった。
なぜ内藤真純はそこまでして、浦澤華菜を傷つけなければならなかったのか――?
「内藤は……きみを恨んでいたのか、浦澤?」
小柄な少女を見つめて、僕は訊いた。浦澤華菜はなにも答えない。かわりに口を開いたのは瞑だった。
「違うわ、スカ」
瞑は挑むような視線を浦澤に向けた。普段の無気力な彼女とは、別人のような獰猛な瞳だ。
「内藤真純は呪いをかけられたの。これは、その復讐だったのよ」
浦澤華菜は、瞑の説明を黙って聞いていた。そして最後、乱暴につぶやいた。
「……馬鹿じゃないの」
彼女は大きく息を吐き、眉を吊り上げて僕たちを睨む。そして軽蔑するような声音で笑った。名門校の生徒らしく、嘲笑しながらでも彼女の口調は上品だった。
「彼女も馬鹿だと思うけど、あなたたちも相当の暇人ですね。頼まれもしないのにそんなことを調べて、なにが望みなんです?」
「内藤さんを死なせたくなかったの」
瞑もまた同じ口調で即答した。その瞬間、浦澤の表情が大きく歪んだような気がした。
僕は驚いて瞑を見る。内藤を助けたい、と瞑は言った。それは話が逆ではないのか、と思う。浦澤を傷つけようとしていたのは内藤のほうなのだ。
「安心して。彼女はもうあなたには手を出さない。二度とあなたの前には現れないわ」
瞑は、体温を感じさせない冷たい微笑で浦澤を見つめた。
浦澤は大きく息を吐いた。
「あなたに礼を言うべき……なの?」
要らない、と瞑は首を振る。
「でも、そうね……ひとつだけ質問してもいいかしら?」
「ええ、なに?」
「自殺幇助って知ってる?」
「え?」
「自殺を決心している人に対して、自殺を容易にする援助を行うと罪になるの。たとえ直接、手を下さなくても」
「あなたは……いったいなんの話を……」
浦澤は、青ざめた顔で瞑を見た。瞑は微笑む。
「質問をしているのは私よ、浦澤華菜。たとえば、すぐに処置すれば助かったはずの自殺者に頼まれて、通報せずに相手を放置した場合、なんてどうかしら?」
そのとき浦澤が浮かべた表情は、見たこともないような奇妙なものだった。喩えるなら、ステージの上にいるつもりで、実は綱渡りをしていたことに気づかされた舞台女優のような、そんな恐怖とも絶望ともつかぬ表情だ。
貧血を起こしたような足取りで出て行く浦澤を、僕と瞑は黙って見送った。
瞑は、やれやれと声に出してため息をつき、気怠げに窓際で頬杖をついた。
僕はひどく据わりの悪い気分を抱えて、彼女を見つめた。沈みかけた夕陽が、瞑の端整な横顔を照らしていた。そのまま瞑は沈黙を続け、呆れるほど長い時間が過ぎたころ、
「あなたと浦澤さんが二人で屋上にいたとき、私はけっこう頭に来ていたの」
ようやく彼女は僕に視線を向けた。人形めいた黒い瞳が、僕を正面から映し出す。いきなりなにを言い出すのだろう、と僕は怪訝に思う。
「あなたは、私が内藤さんと二人だけでいたとき、なにを考えていたの?」
僕はなにも答えずに、ただ質問の意味がわからない、というふうに肩をすくめた。瞑はわざとらしくため息をついた。
「それが、あなたが最後まで真実に気づかなかった理由」
「……真実?」
「馬鹿馬鹿しいくらい簡単なことよ。浦澤華菜は芸術科の生徒で、芸術大学への進学を希望している。私が彼女に消しゴムを投げつけたときのことを覚えてる?」
覚えている。
顔に向けてなにかが飛んできたとき、普通の人間なら咄嗟に手で庇うはずだ。瞑の投げた消しゴムは、それができないほどの速度ではなかった。
しかし浦澤は手を出そうとはしなかった。
そして世の中にはそんなふうに訓練されて育つ職業の人々がいる。転んだときに手を衝かないように言い聞かされて育つ――たとえばピアニストのような。
「彼女はそういう種類の人なの。そんな人が、自殺するつもりだからといって、自分の手首を切ったりすると思う?」
それは、わからない。人間には、大切だからこそ壊したいと思う瞬間があるからだ。だから証拠にはならない。だが、疑念を覚えるには十分な違和感がある。
「そもそも飛び降り自殺をしたはずの彼女が、どうして手首を切らなければならなかったの?」
「それは……」
飛び降り自殺に失敗したからだろう、と思う。もう一度死のうとして、手首を切った。それだけのことではないのだろうか。
ふと、いつかの瞑の言葉を思い出す。
飛び降り自殺に失敗して重傷を負った人間が、なぜもう一度、自殺の真似事をしなければならなかったのか――?
いくら考えてもその答えは思いつかない。否、答えはない、が正解なのだ。本当に飛び降りたことがある人間なら、そんな追体験の儀式は必要ない。飛び降り自殺の真似事をしなければならないのは、経験したことのない人間だけだ。作り話のリアリティを高めるために。
「そうか……橘真由里と一緒に自殺を図ったのは、浦澤華菜じゃなかったんだ……」
「そう。未成年でしかも自殺未遂だったから、橘真由里と一緒に飛び降りた少女の実名が報道されることはなかった。だから、浦澤華菜が、自ら自殺未遂を犯したという噂を流したときに、それを疑う者はいなかったの」
新学期が始まってしばらくした頃、自殺した橘真由里の親友だった少女が、手首に自殺の痕をつけて登校してくる。それだけで彼女を疑う者はいなくなる。
浦澤華菜の手首に、なぜリストカットの痕が刻まれているのか。あれは無言のアピールなのだ。自分が自殺志願者であったことの。
だから彼女は、腕時計などで隠しもせずに、左手首の傷痕を晒している。
「もしかして……橘真由里と一緒に飛び降りたのは、内藤真純だったのか……?」
僕の疑問に、瞑はうなずいた。
「内藤真純は浦澤華菜たちの後輩、ひとつ下の学年にいたの。彼女と橘真由里に親交があることを知っている者は少なかった。そしてもうひとつ、彼女は、新年度からは転校することになっていた。両親が離婚して苗字が変わり、名門校の聖マグダレナから、学費の安い武岡へと」
塾を休んで瞑が調べていたのは、内藤真純の過去だったらしい。おかげでいくつかの疑問が解けた。なぜ、浦澤は自分が橘の心中相手だったかのように振る舞うことができたのか。
それは本物の心中相手が、すでに聖マグダレナにはいなかったからだ。
本当に重傷だった内藤真純が退院したとき、世間では、橘真由里と一緒に飛び降りたのは、浦澤華菜であるという噂が定説になっていたのだった。内藤の驚きは想像に難くない。
瞑の謎めいた言葉の意味がようやくわかった。
内藤は、浦澤のかけた呪いによって奪われたのだ。橘真由里との命懸けの思い出を。
「それが内藤の復讐の理由か……」
「そうね。内藤真純は、自分の一番大切なものを奪われたように感じたのだと思う。だから、かわりに浦澤華菜の一番大切なものを奪おうとした」
「ピアノ……か」
それでわかった。転落しても軽い捻挫で済む程度の階段から突き落としたり、悪戯のようなガラス片を仕込んだり。そしてドライアイスを仕込んだ自販機。ドライアイスは、直接触ると火傷《やけど》するのだ。
内藤は、浦澤の手を傷つけようとしていた。ピアノを演奏する手だけを。
「浦澤華菜は、志望校の推薦入試を控えていたの。実技試験のときに演奏できなければ、もちろん合格の可能性はないわね」
「内藤には……最初から浦澤を必要以上に傷つけるつもりはなかったのか」
僕は肩の力を抜く。そしてふと思う。内藤にとって死は神聖なものなのだと。
橘真由里の待つ冥界へと、浦澤を送り届けるような真似はしたくなかったのではないかと。
「危険だったのは、むしろ内藤真純のほうだと思う。浦澤華菜には彼女を殺す理由があるから」
瞑のつぶやきに、僕は浦澤の机の上に置かれていたカッターナイフのことを思い出した。
そう。浦澤には、内藤真純の口を封じるメリットがある。なぜなら浦澤華菜の現在の評判は、自殺未遂の経験者という、嘘の上に成り立っているからだ。
かつて自己中心的と評価されていた浦澤にとって、親友を自殺で亡くした悲劇のヒロインという立場は居心地がよかったはず。だがそれは、内藤真純の存在によって簡単に崩れ去る幻想に過ぎないのだ。
「内藤の罠で傷ついても、浦澤が平然としていたのは……自分が被害者だという事実を周囲に知らしめるためだったんだな」
そうやって正当防衛という立場を確立した上で、内藤に復讐するつもりだったのだろう。
たぶんね、と瞑はうなずいた。
「浦澤華菜は、当然、内藤真純が自分を恨んでいることを知っていたはずだし、だから彼女が変装していることにも気づいていたと思う。そんな状況で、二人が刑事事件を起こしたら、警察はどちらの証言を信じたと思う?」
考えるまでもない。明らかに不利なのは内藤真純だ。浦澤華菜は、彼女に復讐されているという状況を逆に利用しようとしていた。自分を恨んでいる相手の名前を言えなかったのではない。言わなかったのだ。
「内藤さんには、その話をしたの。そして復讐を諦めてもらった」
瞑は何気ない口調で言った。だが、それが並大抵の苦労ではなかったことくらい僕にも想像できた。浦澤を追いつめようとする内藤の執念は、僕にも容易に理解できる。
「よく説得に応じてくれたな……」
「ええ、そうね。でも、ひとつだけ交換条件を出したから」
「交換条件?」
訊き返すと、瞑は美しく微笑んだ。
「浦澤華菜に、呪いをかけること」
「呪いって……」
気づいた。瞑が最後に浦澤華菜に告げた言葉。自殺幇助罪。
浦澤華菜は、どうして事件が公になる前に、あたかも自分が心中したような噂を流すことができたのか。浦澤は、知っていたのではないだろうか。
橘真由里の遺体が発見される前に、彼女が自殺したことを。
つまり浦澤は、橘真由里の自殺現場を、誰よりも先に訪れたことになる。
遺書がなかったせいで、橘真由里の死の真相は不明だ。だが、彼女は一人で衝動的に自殺したわけではない。心中事件を起こすような女子高生が、遺書のひとつも残さないということがあり得るだろうか。誰かに持ち去られたのではないだろうか――
もし浦澤が、まだ生きている橘真由里に遭遇した上で、彼女を見殺しにしたのなら、それは刑法に触れる可能性がある。瞑はそのことを指摘した。
浦澤華菜の心に恐怖を刻むために。
それが、内藤真純が諦めた復讐の代償。瞑は呪いをかけたのだ。
「結局……痛み分けか。内藤も浦澤も、同じように傷ついて……」
「そう。呪いは、かけた人間にも跳ね返ってくるということ。復讐では誰も幸せにはならない。理屈ではわかるけれど……ね」
そう言って、瞑はどこか遠い目で黄昏の空を眺めた。
僕は黙って彼女の頭に手を置いた。それでも瞑はよくやったと思う。少なくとも、内藤が殺されるかもしれない最悪の事態だけは回避したのだから。
瞑はなにも言わずに目を閉じて、黙って僕にされるがままになっていた。
そしてぽつりと質問した。
「浦澤華菜が、なぜ自分が心中未遂したように振る舞っていたか、わかる?」
僕はうなずいた。
「彼女は許せなかったんだ。親友だと信じていた相手が、自殺するような悩みを自分に打ち明けもせずに、自分以外の人間と心中しようとしたことが――」
だから彼女は遺書を持ち去った。親友が自分を裏切った、その事実を永久になかったことにするために。そして自らが心中の相手だったという演技を始めた。自分を騙すための演技を。
この世で絶対に許せない裏切りがあるとすれば、それは、自分以外の人間を死の伴侶として選ぶことだ。一度失われた命は二度とは戻らず、自分が共に死を選ぶことは永遠に叶わなくなってしまうのだから。
「約束して、スカ――あなたが死にたくなった夜には、必ず私を呼びなさい。私を」
瞑がふと僕を睨みつけて言った。ようやく聞き取れるくらいの弱々しい声だった。彼女の瞳が揺れているように見えたのは、僕の錯覚かもしれないが。
誓うよ。声に出さず、心の中だけで僕はつぶやく。あなただけは、と瞑は唇を動かし、
「裏切ったら許さない……許さないから」
ほんの少し、安心したように目を瞑った。
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W あなたを見ている
「幽霊――だったんです」
躊躇《ためら》いがちに何度も視線を泳がせた後、森澤恵里《もりさわえり》はそう告白した。
そして僕の反応を待つように沈黙した。
晩秋の夕暮れは早かった。窓の外の景色は闇に沈んで、残照が高層ビル街の輪郭を赤く浮き上がらせている。僕は無言で、ガラスに映る彼女の輪郭を眺めた。怯えたような横顔だと思う。
雙羽塾の進路相談室だった。
JR彩吹駅前にある、大手予備校ビルの九階である。
講義時間中ということもあって、入試関係の資料を見に来ている生徒はそれほど多くない。
それでもこの教室を訪れた生徒の中には、深刻な表情で向き合っている僕たちを、怪訝そうに見ている者もいた。めずらしい取り合わせだとでも思っているのかもしれない。
実際のところ、僕自身もまだ少し戸惑いを感じていた。
だからなにも答えられなかったのだ。
しばらく考えても気の利いた相槌を思いつかなかったので、結局、最初に感じた疑問を口にすることにした。
「興味深い話だと個人的には思うけど、どうして僕にそんなことを聞かせてくれるのかな」
恵里は困惑した表情で僕を見た。
全体的に線の細い、物静かな雰囲気の女子高生だった。顔立ちは派手ではないが、身嗜《みだしな》みやちょっとした仕草が洗練されていて好感が持てる。少しクセのある栗色の髪を肩のあたりで切り揃えて、色白の肌にそれがよく似合う。
森澤恵里は市の南東にある彩吹市立女子校の二年生で、雙羽塾には高一の春から通っていた。成績は取り立てて良くも悪くもない。彼女について僕が知っているのはその程度の、塾の登録用紙に記された表面的な情報だけだった。挨拶以上の長い会話を交わしたのも今日が初めてだ。
本来なら、塾の講義とは無関係の個人的な相談を持ちかけられるような関係ではないだろう。しかし恵里は、こうして僕に相談することを特に不自然とは思っていないらしかった。
「高須賀先生のことは、大那《だいな》先生に紹介していただいたんです」と恵里は言った。
「大那先生?」
「はい。大那|裕佳《ゆか》先生です。国文コースの英語の……私の担任なんですけど、ご存じですか」
たぶんわかると思う、と僕は答えた。
雙羽塾という進学塾は、少人数制の個別指導を売りにしており、一人の生徒に複数の講師が担任としてつくシステムになっていた。多くの場合、正規採用の社員一人と、残りは大学生のバイト講師という組み合わせで生徒の面倒を見るようになっている。
大那裕佳は、塾全体でも四十人ほどしかいない、正規社員の講師の一人だった。
年齢はまだ二十四、五歳のはずだが、大学生のころから雙羽塾で働いていたらしく、実際にはそれなりのベテランである。だからといって先輩風を吹かせるということもなく、世話好きの明るい性格で、生徒やバイト講師の受けはいい。
「高須賀先生は、生活面で悩みを抱えている生徒のカウンセリングを担当していると聞きました。大学でそういう科目を専攻なさってるんですよね?」
「まあ、本当は少し違うんだけどね」
誤魔化すように曖昧に答えて、僕は苦笑した。
僕の専攻は認知工学系で、広義の心理学には含まれるのだろうが、臨床心理学とは畑が違う。
悩みを抱えた生徒を担当しているのは本当だが、それは恵里たちが想像しているようなものではなかった。僕は、その生徒が塾内で問題を起こさないように面倒を見ている、ただの世話係なのである。カウンセラーの真似事をしているわけではないし、講義らしい講義もしていない。とはいえ、それを大っぴらにほかの講師や生徒に喧伝するわけにもいかないということで、表向きはカウンセリング担当という扱いになっているのだと思われた。
恵里や大那裕佳の勘違いも、そのあたりの事情が原因なのだろう。
「でも、今の森澤さんの話は気になるね」
専門家じゃないから期待されても困るけど、と前置きして僕はそう言った。
はい、と頷いて、恵里は驚いたように僕を見た。
「信じてくれるんですか。私の話?」
「そのつもりで話したんじゃなかったの?」
怪訝顔で問い返すと彼女は顔を伏せ、すみません、と小声で謝った。僕は慌てて首を振った。
「ああ、ごめん。皮肉を言ったつもりじゃないんだ。最近ずっと性格のひねくれた生徒の相手をしていたから、彼女の口調が移ったかもしれない」
「そう……なんですか?」
意外そうな声で呟く恵里に、僕は無言で微笑んでみせた。僕が唯一担当している塾生で、全国模試トップの優等生――斎宮瞑の本性について、他人に説明するのはとても難しい。
「さっきのきみの話のことだけど」
僕は気を取り直すようにため息をついた。
「嘘をついているようには見えなかったよ。僕を騙してきみが得をするとも思えないし」
「先生を騙すつもりはありません。でも、私は……」
恵里は頼りない笑顔のまま、言い淀んだ。
「自分自身の記憶が信用できない?」
「記憶……そうですね。そうかもしれません」
そう言って彼女は自分の掌を見つめた。手入れの行き届いた細い指先が、怯えたように小さく震えていることに僕は気づいた。彼女の動揺が演技でないのは明らかだ。
その震える手で人を殺そうとしたのだと、森澤恵里は僕に相談してきたのだ。
私が殺そうとした相手は幽霊だったんです――と。
「もう一度、詳しく聞かせてもらえないかな。その男を刺したときのこと、覚えてる?」
「あ……はい」
彼女は薄い唇を噛んで頷いた。恐怖を振り払うように何度か首を振る。
「十日……いえ、二週間くらい前です。私はその日、体調が悪くて、学校で嫌なことがあって、塾もない日だったし、早退して二時頃には家に帰ったんです。そしたら一階の教室に」
「――教室?」
僕は思わず話を遮って訊き返した。恵里は、あ、と思い出したように呟いた。
「ごめんなさい。うちはアクセサリーの教室をやってるんです。ハンドメイドの」
「アクセサリー教室って、ビーズとか?」
「そうですね、もう少し本格的なものです。銀細工のリングとかペンダントヘッドとか」
「ああ、銀粘土ってやつかな?」
「アートクレイシルバーですね。はい。それも扱います」と恵里は言った。
僕の大学の知人にもシルバーアクセサリーに凝っている者がいる。自分でそれらをデザインするための道具も市販されていると、彼に教えてもらったことがあった。材料はそれほど高価ではないらしいが、素人が簡単に良いものを作れるとも思えない。だから、そのような教室に需要があるのは理解できた。
「その教室に、あいつが勝手に入りこんでいたんです」
「きみにつきまとっていた例の男?」
「はい……そうです」
恵里は表情を硬くして頷いた。そのときの恐怖を思い出したのかもしれない。彼女は指先が白くなるくらい強く手を握り締めていた。
僕は薄くため息をついた。
森澤恵里は、ずっと以前から、一人の男につきまとわれていたのだという。
ここ一年や二年の話ではないのだそうだ。中学生の頃か、もしかしたらその前から。彼女が物心ついたときにはすでに、その男は恵里の周りに出没していたらしい。
見知らぬ若い男だった。
最初に恵里が男に気づいたとき、彼は二十歳過ぎだった。それから数年が経った現在でも、おそらく二十代の後半だろうと思われる。傍目にも明らかな不審人物というわけではないが、勤め人という雰囲気でもない。昼夜の別なく目撃されていることからしても、定職には就いていない人間の可能性が高かった。
いわゆるストーカーの一種ではあるのだろう。
しかし男は、恵里に対して特になにかを要求するわけではなかった。
つきまとうといっても、せいぜい月に一度か二度、外出中の恵里の姿を離れた場所から見つめていたり、登校時の彼女のあとを尾《つ》けてきたり。その程度のことだったらしい。
薄気味悪いのは事実だが、実際の被害はなにもなかった。偶然で片づけられない話ではないし、近所に住んでいれば、その程度の遭遇は不思議ではないという考え方もある。若干の不安を抱きながらも、それから数年間、恵里はどうにか平穏無事に暮らしていた。
そんな恵里の生活に変化が訪れたのは、彼女が高校生になってからのことだという。
ストーカーの被害が本格化したのだ。
最初は無言電話だった。郵便物を勝手に開封されたり、盗まれるようにもなった。具体的な証拠はないが、私生活が監視されていると感じられることが何度もあった。
状況が特に悪化したのは今年の夏頃から。男が露骨に恵里の自宅周辺をうろつき回るようになったのも、ちょうどその辺りからなのだそうだ。恵里の母親が警察にも相談したが、有効な対策が提示されることはなかった。
真夜中過ぎ、道路に立って部屋を見上げていた男と目が合ったときには、さすがに泣きそうになりました、と恵里は言った。
そんな生活が数カ月も続いて、恵里は精神的にだいぶ弱っていたらしい。
彼女が自宅で彼に遭遇したのは、まさにそんなときだった。
自分を出迎えてくれるはずの母親の代わりに、その男が自宅に上がり込んでいたのだ。
「そのあとのことは、あまりよく覚えてないんですけど」と恵里は掠れた声で言った。
とにかく男がいなくなればいい、と咄嗟に強く思ったのだそうだ。
そして気づいたときには、彼女は男を刺していた。
「使ったのは、教室に置いてあった切り出しです」
「切り出し?」
「はい。あの、小刀っていうのか、和製のナイフみたいなやつなんですけど……」
そう言って恵里は、長さ二十センチほどの刃物の形を指で示して見せた。聞き慣れない名前だと思ったが、日本刀と同じ玉鋼《たまはがね》で作った伝統的な刃物なのだそうで、工具として高い評価を受けているらしい。海外の楽器職人が日本まで買い付けに来ることもあるそうだ。カッターナイフよりも遥かに鋭利な肉厚の刃は、あっさりと男の脇腹に突き刺さった。
男は自分の腹に突き立った刃物を、しばらく呆然と眺めていたという。
やがて男の服に血の染みが広がり、滴り出た血が刃物の柄を伝って床に零れ落ちた。
その段階になって、恵里はようやく自分がなにをしたのかに気づいた。そして彼女は悲鳴を上げた。よろめいて倒れた男を放置して、恵里は階段を駆け上がり、そのまま三階の自分の部屋に戻って施錠した。そしてしばらく泣きながら震えていた。
「部屋に籠もっていたのは十分か、長くても十五分くらいだったと思います」
冷静さを取り戻したというよりも、恐くなったのだ、と恵里は言った。
「その日は夕方からスクールの授業があったし、誰かがすぐに男の死体を見つけると思いました。それに母のことも気になりましたし」
だから恵里は携帯電話で警察を呼んだ。さすがにもう一度下に降りて、男の様子を確認する勇気はなかった。警察は五分もかからずにやってきた。
しかし、そのとき男の姿はすでになかった。
男が存在したという、すべての痕跡もろとも消えていた。
「教室に男はいませんでした。飛び散った血の痕もありませんでした」
そもそも教室のドアが表も裏も施錠されていた、と恵里は言った。森澤邸の鍵は警備保障会社の電子ロックだった。ストーカー対策ということで、合い鍵が作れないものに変えてあったのだそうだ。刺された男が姿を消したというだけでなく、彼は最初から部屋に入ることさえできなかったのだ。
「それに母は私が男を刺した頃、事務所裏の倉庫にいたそうです。私の悲鳴は聞こえたような気もするけど、騒ぎには気づかなかったし、怪しい人物が出入りするのも見ていないと言って」
集まってきた警官たちは困惑していた、のだそうだ。
被害者は不在で、不法侵入の形跡もない。通報してきた人物は、以前からストーカー被害をしつこく訴えていた女子高生で、精神的に不安定な状態だったことを自ら認めている。虚偽通報を疑われるのは当然だった。
それでも警察はそれなりに真摯《しんし》に対応した。
母親が娘を庇うため、犯行の痕跡を隠蔽したのではないかと疑ったのだろう。任意の家宅捜索も行われたし、不審者の目撃情報を聞き込んだり、教室内での血痕鑑定も行ったらしい。
結果はいずれも、森澤邸に異常がなかったことを示していた。
その日に限っては、森澤邸の周囲で不審者の姿は目撃されていない。
凶器に使われた切り出しは教室内に何本も常備されているもので、被害者が持ち去った可能性はあるものの、それを確かめる方法はなかった。
なによりも血痕が見つからなかったのが決定的だった。恵里が男に遭遇して、通報を受けた警官が駆けつけるまでの時間は、長く見積もっても三十分足らず。そのわずかな時間に被害者の身柄をどこかに移し、犯罪の痕跡すべてを隠蔽するのは不可能と判断されたのだ。
母親は恵里を叱らなかった。警察署に連れて行かれて面倒な調書作成につき合わされたが、刑事たちも概ね恵里には同情的だった。
恵里には、それが余計に堪《こた》えたそうだ。
その翌日からもストーカーからの陰湿な嫌がらせは続いた。前となにも変わらなかった。
数日前にはこの塾の近くで、刺したはずの男の姿も目撃した。
仮に男の怪我が酷いものでなかったとしても、自分を刺し殺そうとした娘が近くにいるのだ。普通ならなにかしらの反応があるだろう。しかし男は、黙って恵里を観察しているだけだった。
たしかにそれは恐いだろう、と僕は思った。
男を刺したと思ったのは、恵里の妄想だったのかもしれない。それでも彼女がストーカー被害に遭っているという事実は変わらないのだ。
ましてや男が実際に恵里に刺されて、それでも平然とつきまといを続けているのだとしたら。
恐怖だ。
なにしろ教室の施錠や血痕の問題がある。入り込めないはずの場所に現れて、痕跡も残さず消え去ったのなら、それは幽霊以外の何者でもない。殺されても死なないのであれば尚更だ。
半ば恐慌をきたした恵里は、大那裕佳に相談した。恵里は以前にもストーカー対策について、彼女にアドバイスをもらったことがあるらしい。学校の友人に打ち明けられることではなかったし、ほかに相談できる相手もいなかった。塾通いを続けるかどうかも迷っていたのだ。
大那は最初ひどく驚いていたが、恵里が実際に人を刺したとは考えていないようだった。
至極、常識的な反応だった。
幽霊を刺したなどと唐突に言われて、にわかに信じられるものではない。しかも恵里の場合には、警察が本格的に調べた上で何事もなかったと判断を下したのだ。疑うとすれば、恵里の精神状態のほうだった。
だからといって、塾の講師である大那が、塾生に勝手に心療内科を紹介するわけにはいかなかったのだろう。そこで僕が呼ばれたのだ。
つまり大那も、本気で僕にセラピストの真似事ができると思っているわけではないのだろう。
彼女はただ、大学で心理学を履修している学生のアドバイス、という体裁を整えたかっただけなのだ。それならば最悪、なにか問題が起きても、塾側が直接責任を問われずに済む。もしも僕に相談するだけで恵里の気が晴れるのなら、それはそれで丸く収まる。上手く利用された気がするが、そう思っていれば僕としても気が楽だった。
しかし僕には、恵里が錯乱しているとは思えなかった。
たしかに彼女は憔悴しているし、怯えてもいるかもしれないが、彼女の話は理路整然として、妄想の産物という雰囲気ではなかった。
「正直な感想を言ってもいいかな」
話を聞き終えて僕が尋ねると、恵里は少し身を硬くして、はい、と頷いた。
「僕はきみが体験したことは事実だと思う」
「え?」恵里は困ったように眉を寄せた。「でも」
「きみにつきまとっている男が、本物の幽霊だと思ってるわけではないよ。死体が消えたとも思ってない。だけど、きみがそんなふうに誤解するような出来事が実際にあった、と仮定するのは、そんなに馬鹿げた話じゃないと思う」
僕の説明を聞いて、恵里はしばらく黙って考えこんだ。
「あの、それは……私が騙されているということですか?」
やがて彼女は困惑したように言った。僕は迷いなく頷いた。
恵里が幻覚を見たと考えるよりは、実際に彼女の目の前で非日常的な光景が繰り広げられたと考えたほうが、すんなりと腑に落ちる。
「悪意を持ってきみにつきまとっている男なら、それくらいするかもしれないと思っただけ。たとえば彼が撮影用の血糊のようなものを持ち歩いていて、きみに刺されたふりをして、それを床にばらまいた、とかね」
ほんの思いつきの仮説だったが、それほど的はずれな考えではないはずだった。少なくとも血痕鑑定に反応が出なかったことについては、それで合理的に説明できる。
「でも」と、恵里は口ごもった。
「わかってる。実際にきみがそいつを刺すとは限らないわけだし、どうやって部屋を施錠して出て行ったのかもわからない。それが事実だとは僕も思ってないよ。でも幽霊を信じるよりは、手の込んだ嫌がらせの可能性を疑うべきだと思うな」
「そう……ですね」
恵里は少し唖然とした表情で呟いた。手の込んだ嫌がらせ、という僕の言葉に、彼女は強い説得力を感じたらしかった。自分の精神状態に対する不安や、警察や母親に迷惑をかけたという罪悪感。それらが、自分につきまとう男への怒りに転嫁されたのかもしれない。彼女の表情に、ようやく年相応の瑞々しさが戻った気がした。
「それよりも問題なのはストーカー被害だと思う。そちらは正直、あまり力になれないけど、警察に顔が利く知り合いがいるから、その人に少し相談してみる。もし証拠になりそうなものがあったら、捨てずに取っておいてくれるかな」
頼りない約束しかできなくて悪いね、と僕は言った。
恵里は、とんでもないという風に首を振った。そして僕に深々と頭を下げた。
「高須賀先生に相談して良かったです。ありがとうございました」
微笑みながら立ち去る彼女の後ろ姿を、僕はホッと息を吐きながら見送った。
慣れない役回りを演じたせいで疲れたが、それほど悪い気分ではなかった。あまり柄ではない面倒な役目を、どうにか無難にこなせたという達成感がある。滅多に味わえない感覚だった。ささやかな満足を覚えながら、僕は荷物をまとめて立ち上がる。
背中に、突き刺さるような強い視線を感じたのはそのときだった。
僕は驚いて振り返る。
進路相談室の片隅。資料閲覧用のソファ席に女生徒が一人で座っていた。
品のいいセーラー襟の制服の肩に、艶やかな黒髪が落ちている。色白で顔貌の異様に整った、近寄りがたい雰囲気の少女だった。
斎宮瞑である。
瞑は僕と目が合ったことに気づくと、眺めていた資料を閉じて立ち上がった。そして無言で、音もなく部屋を出て行った。彼女が無愛想なのはいつものことだが、今日はひときわ不機嫌に見えた。それは僕の目の錯覚だけではないだろう。
講義時間の終わりを告げる電子音のチャイムが遠くで鳴っていた。
僕は黙ってため息をついた。
皆瀬梨夏に呼び出されたのは、その翌々日の午後だった。
赤い英国製のオープンカーを堂々と大学の正門前に停め、皆瀬は僕を待っていた。
いちおう美人の範疇に入るのだろうが、それ以上に皆瀬は派手な女だ。今日も目が覚めるような純白のフェイクファーコートを着て、橙色《オレンジ》に染めた髪を風に遊ばせている。スカートの丈の短さは、見ていて不安になるほどだ。無関係な通行人の注目を一身に浴びていながら、彼女は一向に気にしていなかった。そういう女性なのである。とても大学の教官には見えない。
「遅いわよ、スカ!」
気後れして僕が声をかけあぐねていると、目敏く僕を見つけた皆瀬に大声で呼ばれた。
彼女は僕をスカと呼ぶ。高須賀という僕の苗字をもじった渾名《あだな》なのだが、事情を知らない通りすがりの人々には、僕が皆瀬に罵られたように見えるのだろう。哀れむような彼らの視線に晒されながら、僕は渋々と彼女の車に乗り込んだ。
僕のシートベルト着用を確認して、皆瀬は乱暴に車を発進させた。まるで僕が逃げられなくなるのを待っていたようなタイミングだった。
「行き先はどこです?」と僕は訊いた。
「斧瀬《おのせ》市」皆瀬は素っ気ない口調で答えた。
それきり彼女は黙り込んだので、僕はそれ以上の追求を諦めた。斧瀬市は彩吹市から川ひとつ挟んだ隣町である。行政区分上は隣県ということになるが、車なら十五分もかからない。無理に今すぐ聞き出す必要もないと思ったのだ。
皆瀬は僕の直接の指導教官というわけではないのだが、妙な縁で知り合って、時折こんなふうに気まぐれに呼び出されることがあった。
大抵は単なる暇潰しの道連れという役回りだ。しかし、ごく希に写真撮影が主な目的という日があって、その場合の被写体となるのは、ほとんどが凶悪犯罪の事件現場だった。女子大生といっても通用しそうな見た目だが、これでも皆瀬は法科学を研究している准教授なのだ。
そして写真部員である僕には、殺人事件の現場写真を蒐集するという、あまり大っぴらにできない悪癖があった。皆瀬はそれを面白がって、こうして自分の研究に利用しているというわけだ。ある意味それは一種の共生関係といえなくもない。後ろめたい感情を覚えずに事件の現場に入れるのは、僕としても有り難いことなのだ。そして今日の呼び出しの目的も、どうやらその撮影関係らしかった。
道すがら僕は皆瀬に、森澤恵里が巻きこまれた事件の話をした。
世間話の種にしようと思ったわけではない。森澤恵里に説明した、警察に顔が利く僕の知人というのが、この皆瀬梨夏のことなのだ。彼女の研究分野の関係なのか、皆瀬は警察と仲がいい。妙な情報を仕入れてくることも多く、たまに無理な注文をつけたりもしている。
もちろん皆瀬に頼んだからといって、警察が恵里につきまとう男を排除してくれるわけではないだろうし、僕もそこまでは期待していない。しかし恵里に約束してしまった手前、皆瀬に伝えるだけは伝えておこうと思ったのだ。
皆瀬は最初、僕の説明をつまらなそうに聞いていた。
ストーカー絡みの事件というのが不満らしかった。
彼女の気持ちはわからないでもなかった。犯人を特定できても、犯行を防ぐ効果的な方法がなく、十分な処罰もままならない。そんな陰湿な犯罪者の相手は皆瀬の好みではないのだろう。
今回の森澤恵里の事件にしても、つきまとっていた男の罪科はせいぜい住居不法侵入であり、下手をすれば殺人犯になっていた恵里のほうが罪が重いくらいだ。それは僕でも遣りきれない。
それでも皆瀬は僕の説明を最後まで聞いた。そして少し意外な部分に反応した。
「アクセサリー教室を経営している森澤って……もしかして森澤|敦子《あつこ》の娘ってこと?」
「森澤敦子?」僕は怪訝顔で運転席の皆瀬を見た。「知り合いですか?」
「直接の知り合いってわけじゃないけど」皆瀬は肩をすくめて言った。「リトルダッドってブランドの名前、聞いたことない?」
「ブランド?」
「そう。シルバーアクセの……ちょっと待ってて」
皆瀬はダッシュボードの中を手探りで漁《あさ》って、大振りのペンダントヘッドを取り出した。これよ、と言いながら僕の膝の上に放り投げる。
無骨で荒々しい印象のあるシルバーアクセサリーだが、皆瀬に渡されたそのペンダントヘッドはずいぶんイメージが違った。コサージュを思わせる女性的で繊細な造形だった。
モチーフになっているのは天使像だろう。レジンというのか透明な硬質プラスチックで造られた羽根に、いくつもの貴石が埋め込まれた様が優美で美しい。アクセサリーの価値は僕にはよくわからないが、これなら多少高価でも欲しいと思う女性は多いだろう。
「何年か前にブームになって、今でも新作が出たら予約だけで即完売よ。このブランドの社長兼デザイナーが森澤敦子。そういえば彼女が、若い職人を育てるための工房を自宅に開いたって、前に雑誌でも紹介されてたかも」
「工房……」
それが恵里のいうアクセサリー教室のことなのだろう。主婦向けのカルチャースクールのようなものを想像していた僕にはあまり実感がなかったが、たしかにそれは本格的だ。とにかく森澤恵里の母親というのは有名人らしい。
「森澤恵里につきまとっている男……もしかして森澤家の財産目当てという可能性はありますかね?」僕はふと思いついて訊いてみた。
「まさか」と皆瀬は笑った。「財産目当てで娘を恐がらせてどうするのよ」
「いや……金を払うまでつきまとうのをやめない、とか」
「ずいぶん志の低い恐喝ね」皆瀬は呆れたようにため息をついた。「リトルダッドは手作りの少量生産だし、人気のわりに値段も安いから、社長といってもそんなに儲けてはいないと思うわよ。さっきの工房の話もそうだけど、安易な金儲けに走らない姿勢も人気の理由だもの。それはまあ、普通の母子家庭に比べれば裕福だとは思うけど」
「母子家庭?」
「娘さんに聞かなかった?」
「いえ」
僕は首を振った。森澤恵里の説明に父親が出てこないことには気づいていたが、特に気にしてはいなかった。
皆瀬はしばらく無言で運転を続けた。
何個目かの信号を通り過ぎるまで、彼女はずっと黙っていた。
「――森澤敦子は十八で子供を産んでるのよ。一時期、女性誌なんかに書き立てられたから、これもわりと有名な話。父親は不明。いわゆるシングルマザーね」
やがて、めずらしくあまり感情のこもらない声で皆瀬は言った。
「父親は……不明?」
「あんまり素行のいい女子高生じゃなかったみたいね。もちろん本人に聞いたわけじゃないから実際のところは知らないけど。ただ、娘を産んでからの彼女は凄かったの」
森澤敦子は通っていた高校を退学になり、実の両親からもほとんど絶縁された状態で、幼い娘を抱えてジュエリーデザインを学び始めた。学歴のない彼女を大手メーカーは雇ってくれず、最初の数年間の暮らしぶりは悲惨だったらしい。
しかし作品が海外の大物女優に気に入られたことから、彼女の人生は大きく開けた。意欲的な作品を次々に発表し、数年後にはオリジナルブランドのリトルダッドを設立した。要は一種のサクセスストーリーだ。
そんな森澤敦子自身のカリスマ性もあって、リトルダッドは人気ブランドになったらしい。森澤敦子が若い職人の世話を焼いているのも、彼女自身のつらい修業時代を支えてくれた人々への恩返しの意味があるのだという。
「森澤敦子は有名人だし、妬《ねた》まれたり恨まれてる可能性もないとはいえないけど、彼女の娘につきまとうっていうのは筋が通らない気がするわよねえ。つきまとっているのが女性ならまだあるかもしれないけど男なんでしょ?」
「ですね」
そう聞いています――としか僕には答えられない。しかし、森澤敦子に対する憧れが昂じて娘に嫉妬する、という動機は、恵里の話に出てきた男の行動には当て嵌まらないように思う。
それよりも僕が気にしていたのは、恵里の父親のことだった。もし皆瀬が語った森澤敦子の半生が事実なら、恵里は自分の父親のことをほとんどなにも知らないということになる。
「兄弟かも」と僕は無意識に呟いた。
「は?」皆瀬が間の抜けた声を出す。「恵里さんにつきまとってる男が、彼女のお兄さんかもしれないって意味? それはないわよ。森澤敦子が幾つのときの子よ?」
そう。恵里につきまとっている男は恵里よりも十歳以上も年上なのだ。そして恵里は、森澤敦子が十八歳で産んだ一人娘なのである。だが、
「森澤敦子の息子じゃなくて、森澤恵里の父親の息子なら不思議ではないですよね?」
「恵里さんの異母兄ってこと?」
「ええ。実の兄に限らなくても、従兄や親戚でもいいんですけど」
それならば、男が恵里に数年間も無言でつきまとっていた理由の説明になる気がした。しかし皆瀬は蔑むような目つきで僕を見返し、
「だったら最初からそう名乗ればいいじゃん。なんで後をつけ回して、妹にコソコソ嫌がらせする必要があるのよ?」と言った。
僕は答えられなかった。たしかに皆瀬の言う通りだ。
たとえ兄と名乗れない理由があるにせよ――否、そんな理由があるのなら尚更、嫌がらせの材料としては効果的だろう。たとえば森澤恵里が不倫の果てに生まれた子だとしても、それを糾弾する兄の側には、自分の身分を隠す理由がない。
それにもしストーカーが恵里の親族なら、少なくとも敦子には男の正体がわかるはずだ。森澤親子は、今頃もっと具体的な対策を講じることができたはずである。
「だいたいね、身内の確執とか嫉妬とか、そんな高度な理屈でいい歳したオッサンが女子高生につきまとうわけないでしょう。そういうのを考えるのはたぶん無駄よ。無駄」
住宅街の細い路地に車を向けながら、皆瀬が言った。
あの男は、僕や皆瀬よりも若い頃から恵里につきまとっていたわけで、彼をオッサンと呼ぶのは抵抗があったし、皆瀬の感覚的な言葉には裏付けもなにも感じられない。しかしそれなりの説得力はあった。
実際、男性のストーカーが目当ての女性につきまとう理由の大半は、歪んだ性欲の発露なのだと思う。彼らの中では社会的な論理は、本能と感情によって偏向されて都合良くねじ曲げられてしまうのだ。それを読み解こうとするのは、たしかに徒労かもしれないと思う。
「てかさ、普段から偽の血糊を小脇に挟んで持ち歩いているストーカーって、どこの売れない手品師よ。そんなことあり得るわけないじゃない。女の子の前で恰好つけたいなら、もう少しマシな推理を開陳しなさいよ。馬鹿なんだから」
「べつに恰好つけたくて言ったわけじゃありませんよ」
僕はふて腐れた声で反論した。たしかに欠陥だらけの推理だとは思うが、少なくもあの場では恵里の気休め程度の役に立ったはずなのだ。
「じゃあマシな推理ってどんなやつです?」拗ねたような口調で僕は訊いた。
「狂言」皆瀬は即答した。
「え? 作り話って意味ですか?」
「そうよ。全部嘘。べつにあなたが直接その男を見たわけじゃないんでしょ」
「それは……見てないですけど。でも彼女、警察を呼んでるんですよ?」
「本当に警察に通報したのかどうか調べてみないとわからないし、警察にだって嘘をついてるかもしれないし」
「そんなの……それこそ動機がないですよ。そんなことして彼女になんの得が?」
「動機ならあるわよ。憧れの高須賀先生とお話しできたじゃない」
そう言って皆瀬は、せせら笑うような流し目で僕を見た。
「はあ?」
僕は胡乱《うろん》げに顔をしかめた。なにを言ってるんだ、この女は。
「だから、彼女があなたに気があると仮定すれば話の筋は通るでしょう? 全部作り話なら、刺された男が消えたことも血痕が残ってなかったこともなんの疑問もないわ。なにか問題が?」
問題は――ない。論理はなにも破綻していない。たしかに話の筋は通っている。だが、違う。自分が好かれているかどうかぐらいは、僕でも理屈抜きでわかるのだ。
森澤恵里は本気で怯えていたし、彼女の話におそらく嘘はなかった。筋の通らない異常な出来事に思えたとしても、彼女は体験した事実をありのままに語っていたと思う。しかしそれを証明することはできないのだ。僕にも森澤恵里本人にも。
「あたしも本気で恵里さんが嘘をついていると思っているわけじゃないけど、今の話だけでは、あたしにできることはほとんどないわね。警察の対応に不手際があったとも思えないし」
皆瀬が不意に真面目な口調で言った。彼女らしからぬ常識的な言葉だったので僕は驚いた。少し調子が狂ってしまう。
「いえ、そうですよね。すみません」
聞いてくれてありがとうございます、と僕は頭を下げた。皆瀬はもともと警官でもなんでもないのだから、彼女に文句を言うのは筋違いなのだ。
「いいのいいの。そのぶんスカにはこれから働いてもらうから」
すぐにいつもの口調に戻って、皆瀬がニヤリと唇の端をつり上げた。
彼女が車を乗り入れたのは、高層マンションが建ち並ぶ大きな団地の駐車場だった。もちろん皆瀬の自宅ではない。初めて訪れる場所である。
怪訝な表情で周囲を見回す僕に、皆瀬は悪戯っぽい微笑を向けた。
「ここが今日の目的地。あたしはここで起きた通り魔事件の犯人を探してるのよ」
脚のない幽霊の通り魔をね――と、彼女は言った。
皆瀬が僕を連れて行ったのは、東西と北側の三方を十数階建てのマンションに囲まれた、広場のような場所だった。小学校の運動場くらいの面積だろうか。冬枯れの芝生の上に児童用の遊具や休憩用のベンチが設置されて、付近の住民の憩いや交流の場に供されている空間だ。
広場を取り囲む幅十メートルほどの歩道は、木材を敷き詰めたウッドデッキになっており、港の桟橋風の雰囲気を漂わせている。
「先々週の水曜日……だから、森澤恵里さんが幽霊を刺したのと同じ日に、この場所にも幽霊が出たのよ。といっても、刺されたわけじゃなくて刺した方。通り魔事件よ」
「ああ……」
周囲の様子を見回して僕は唸った。
どこか見覚えのある景色だと思ったら、ワイドショー番組の中継で見た風景なのだ。
斧瀬市内に在住の大学生が、見知らぬ男に突然腹部を刺されたという事件である。犯人の男は逃走し、今もまだ捕まっていないはずだ。
「刺されたのは平木野巧己《ひらきのたくみ》という彩吹工科大学の大学院生。事件が起きたのは夕方過ぎ。平木野がたまたまこの歩道を歩いてたら、前からやってきた男がいきなりナイフで彼を刺したの。出血多量で一時は危なかったらしいけど、どうにか持ち直して今はもう退院してるわ」
「被害者は、生きてたんですね」
僕はひどく失礼な感想を告げた。平木野が死ななかったことに落胆したわけではない。刺された当人が生きているのなら、詳しい目撃証言が得られるだろうと、そう思ったのだ。
皆瀬も僕を咎めずに頷いた。
「そう。だけど咄嗟のことで混乱していて、犯人の顔はよく覚えていないっていうのよね」
「それは……まあ、そうでしょうね」
状況にもよるのだろうが、すれ違う通行人の顔を普段からじっくり眺めて歩く人間は少ない。見知らぬ男にいきなり刺されて、混乱するなというのも無理があるだろう。
「被害者がこの辺りの住人だったら、少しは事情も違ったんでしょうけど」
「違ったんですか」
「そう。彼もただの通りすがり。博士論文執筆の資料だかで、この先の公立図書館に用があったらしいのよ。駅からだと、この団地を突っ切ると近いでしょう」
建ち並ぶマンションの隙間を指さして皆瀬は言った。僕はようやく被害者に同情を覚えた。つまらない調べ物をするために近道をして、それで刺されたら堪らない。
被害者が事件に遭ったのは、不幸な偶然という、ただそれだけの理由なのだ。
しかし通り魔犯罪というのは、結局そういうものなのだろうと思う。
皆瀬につき合ってこんなところまで来たことを、僕は少し後悔し始めていた。彼女がどうしてこんな事件に興味を持っているのかわからない。
「これ……たぶん、このあたりよ」
西側のマンションの正面あたりまで来たところで、皆瀬がウッドデッキの歩道を指さした。その辺りが犯行現場だったらしい。特にそれらしい痕跡は残っていないが、不幸な大学院生はここで唐突な奇禍に見舞われたのだろう。
「被害者はここで倒れていたの。出血量からみて五分から十分……かなり長い時間、放置されていたと考えられてるわ。被害者は携帯電話で救急車を呼ぼうとしてたみたいだけど、その前に意識をなくしたみたい」
「目撃者はいなかったんですか?」
「みたいね。小さな子供の多い地区なら、もう少し事情が違ったのかもしれないけど」
そう言って皆瀬は背後を振り返った。
芝生に覆われた広場は、昼間だというのに閑散としていた。
見通しのいい場所ではあるが、広場が中央に向けて盛り上がっているため、倒れている人間を遠くから見つけるのは難しそうだ。誰かが近くを通りかかるまで、被害者はここで血を流し続けていたらしい。
「その話だと……普通の通り魔事件に聞こえますけど」と僕は言った。
「そうね。ここまでのところはね」皆瀬はあっさりと同意した。
「本当は違ったんですか?」
「違うってことはないんだけど、あるはずのものがなかったのよ」
「あるはずのもの?」
なんだ、と僕は眉を寄せた。そういえば皆瀬は、通り魔が幽霊だったとか言ってたか。
「ここ最近は天気がよかったから、まだ残ってるかもね。少し屈んでみてくれる?」
皆瀬はスカートの裾を押さえながら、歩道の上に片膝を突いた。
僕も彼女に倣って姿勢を低くした。皆瀬が見ていたのは幅広のウッドデッキのちょうど中央あたりだ。晩秋の午後の日差しに照らされた歩道に、点々と続く白っぽい染みが浮かび上がる。
「足跡……ですか」と僕は訊いた。
「そう」皆瀬は首肯した。「これは本当に偶然なんだけど、事件が起きた日は、芝生の手入れで散水が行われていたの。被害者を発見したのも実はその作業員だったんだけど」
皆瀬は周囲の芝生やウッドデッキを眺め、見栄えはいいけどお金かかるのよね、と投げ遣《や》りな口調で呟いた。
「平木野が歩いてきたときは、実はそのときに撒《ま》かれた水が、まだ完全に乾いてなかったみたいなのよ」
「え?」僕は驚いてうっすらと残る白い足跡を眺めた。「じゃあ、この足跡って」
「そう。被害者の足跡。履いてた靴の足形も一致してる」
「でも」
「うん。まあ、それはいいのよ。被害者が証言した犯行時刻が裏付けられたってことだから。でも、それならここには、ほかにも残っていなければならないものがあるでしょう?」
「……ですね」と僕は頷いた。
ウッドデッキに残された足跡は一組だけ。被害者が残したものだけだ。ここには彼を刺した通り魔の――犯人の足跡が残っていない。
「被害者はここまで普通に歩いてきて、このあたりで揉み合ったような形跡が残ってるの」
皆瀬はそう言って、足跡が乱れた場所を指さした。
たしかにそこには被害者が不自然に前後した形跡があった。しかし残っている足跡はやはり一組だけだ。当然あるべき犯人の足形は残っていない。まるで透明人間と争ったようである。いや――だから、脚のない幽霊の通り魔、なのか。
「普通なら、被害者の自作自演を疑うところなんだけど」と皆瀬は肩をすくめた。「それなら、凶器が近くに残ってないとおかしいでしょう」
「凶器は残ってなかったんですか?」
「なかったわ。そもそも平木野にはそんなことをする動機がないのよ。金に困ってる様子もないし、人に好かれる性格で学校の人間関係も上手くいってるし」
自作自演はないだろう、と僕も感じた。自殺にしてももっと上手いやり方があるだろうし、二十歳をすぎた大学院生が今更リストカットでもないだろう。このあたりのマンションに彼の知り合いがいて、嫌がらせがしたかったという可能性もないではないが、それなら通り魔に刺されたなどという証言をする必要もないはずだ。
「平木野って男は評判いいのよね。女性関係のトラブルもなし。あまり興味がなかったみたい。合コンなんかにも滅多に顔を出さなかったっていうし」
顔がいいからそれなりにもてたらしい――とは、皆瀬が個人的に調べた情報である。
女性の友人は多かったが、いい人止まり、だったのだそうだ。口の悪い友人たちには、枯れているとか爺臭いなどともいわれて、本人は笑っていたらしい。なんにせよ悪い評価ではない。
「両親は大学教授だけど、家庭教師に任せっきりで育てられたらしくて、過保護とか教育熱心とかって感じでもないしね。まあ、仲のいい普通の家庭よ」
通り魔事件を自作自演して世間の注目を集めようとするような――そんな歪んだ空気は彼の周囲にはなかったのだそうだ。
善良な大学院生が、運悪く通り魔事件の被害者になった。やはりそう考えるべきなのだろう。
しかしそれなら、現場には犯人の足跡が残っていなければおかしい。
逃走したという犯人が、未だ捕まる気配もない。
「こういう割り切れないの、嫌なのよね。据わりが悪いっていうか、落ち着かなくて」
皆瀬はぽつりと独り言のように呟いた。
その言葉に彼女の本性が垣間見えた気がした。皆瀬はこの手の不可解な犯罪に、異常な執着を見せるのだ。まるで獲物をつけ回す猟犬のように。狩猟本能にも似たその荒々しい感情が、彼女を法科学などという特殊な分野の研究に向かわせる原動力なのだろう。
「瞑だったら……なんて言うかしらね」
皆瀬がさりげない口調で言った。
それで僕はようやく皆瀬の意図を理解した。彼女が僕をこんな場所に連れてきた理由。
皆瀬は僕を利用して、瞑にこの話を聞かせたかったのだ。ある意味、皆瀬よりも危なっかしい病的な正義感の塊の彼女に。
僕は陰鬱な気分になって、足下の歩道を見下ろした。
幽霊に刺された不幸な被害者の足跡は、その先でぽつんと途切れていた。
少女はその日も寒々しい屋上の片隅にうずくまっていた。夕陽に照らされた黒髪が風に舞い、丸めた制服の背中が灰色のコンクリートに長い影を落としていた。
彼女の頭半分を覆い隠していたのは、銀色の巨大なヘッドフォンだった。足下に放り出された携帯プレーヤーが、大音量のクラシック音楽を流している。
それは時間が凍りついたような美しい光景だった。
降り積もった薔薇の花弁のような、甘い屍臭の錯覚を覚えた。
許されることなら、その全てをフィルムに焼きつけたいと思った。けれど僕はシャッターを切れなかった。生きたまま美しい死蝋となっているこの少女が、その瞬間に崩れてしまうような気がしたからだ。壊れかけの少女の止まった時を、正しく写し撮る自信が僕にはない。
「瞑」
僕は彼女の名前を呼んだ。砕ける寸前のガラスのように揺らいで、瞑はゆっくり振り向いた。
斎宮瞑は雙羽塾の塾生だった。全国模試では常にトップクラスの成績を誇り、通っている高校では先日まで生徒会長も務めていた。見目麗しく快活で品行方正。理想的な女子生徒として教師生徒の信頼も厚い――そんな都合のいい少女がいるはずもないのに、だ。
塾での瞑はどうしようもなく自堕落な問題児だった。講義には出ない。立入禁止区域に好んで出入りし、人目を避けるようにうずくまって動かない。それらはすべて塾外での無理の反動なのだった。完璧な優等生を演じ続けてきた彼女は、まるで傷を癒す野生動物のように、塾の屋上を隠れ家にして死人のような眠りを貪っているのだ。
ほかの生徒の邪魔になるわけではないし、正規の授業料も支払われている。それになにより彼女の成績はずば抜けていたから、塾の事務室も彼女の行為を黙認していた。
とはいえ塾舎の中で彼女に事故があっては困るということで、事務室は臨時雇いの大学生に彼女の世話係を押しつけた。その哀れな生《い》け贄《にえ》というのが、つまり僕のことだった。
前に一度だけ、瞑が明かしたことがある。
壊れるような無理をしてまで、彼女が完璧な優等生を演じている理由。
彼女は自分の存在が、不仲な両親を繋ぎ止める最後の絆だということを知っていた。両親の離婚を防ぐために彼女は理想の娘を演じ続けなければならなかったのだ。
やめておけばよかったのに――
おそらく斎宮瞑という少女の最大の不幸は、そんな無理な演技を可能にするほど、頭が良すぎたことなのだと思う。
それでも僕たちはこれまでどうにか上手くやってきた。少なくとも僕はそのつもりだった。
しかしなぜか今日の彼女は、いつもより格段に強い屍臭を放っているように思う。
もちろん屍臭というのはただの比喩で、実際の瞑は恵まれた容姿の少女なのだが、彼女にまとわりつく不穏な空気は、やはり屍臭としか表現できないものだった。
黒目がちの大きな目を無理やりに眇《すが》めて、瞑は僕を不機嫌そうに睨んだ。
顔の造作が整っているだけに、そんなときの彼女は妙に迫力がある。
おそらく怒っているのだろう、と思う。心当たりがないわけではない。たぶん進路相談室の一件が原因なのだろう。
「昨日、斧瀬市の通り魔事件の現場を見てきた」
沈黙の重さに耐えかねて、僕は早口でそう告げた。瞑に追い払われる前に、皆瀬からの依頼を果たすことにする。
少女は黙って僕を睨み続ける。
相槌を打つどころか身じろぎひとつしないが、続きを話せという意味なのだろうと思う。
まるで人形を相手にしているようでやりにくかったが、僕は仕方なく説明を続けた。現場の状況や被害者の素性。現像を終えたばかりの現場写真も取りだして、詳しく解説する。
瞑はその間ずっと沈黙を保っていた。そしてすべてを聞き終えたところで、
「――共犯者」ぽつり、と呟いた。
「通り魔が二人いたってこと?」僕は少し驚いて訊き返した。
平木野を刺す役と足跡を消す役がいた、という意味だろうか。しかし平木野の足跡を残したままで、犯人の足跡だけを消すということが可能なのか?
それに共犯者がいたということは、ただの通り魔事件ではなく、計画的な犯行ということになる。そんなことをしてなんの意味があるというのだろう。
しかし瞑はゆるゆると無言で首を振り、
「違う。平木野巧己の共犯者」と言った。
「被害者の平木野に……共犯者?」僕は少し混乱する。
「通り魔事件は平木野の自作自演。あとは彼を刺した凶器を持ち去った共犯者がいれば、事件の状況は再現できる」
「……平木野は、自傷だったってことか」
瞑は興味を失ったように、呆然と呟く僕から目を逸らした。
僕は無言で彼女の言葉を反芻する。
通り魔の存在を裏付けているのは、たしかに平木野の証言だけだった。
現場には犯人の足跡がなかったし、被害者以外の目撃者もいない。
それでも平木野の証言が疑われなかったのは、彼に動機らしい動機がなかったこと。そして、現場に凶器が残されていなかったせいだ。
しかし平木野に仲間がいたなら話は変わってくる。
同伴していた人間と口論になって、平木野は腹いせに自分を刺した。同伴者に罪を着せようとしたのかもしれない。それを恐れた同伴者は、凶器を持ち去って一人で逃げた。
警察に保護された平木野は冷静さを取り戻し、自分の馬鹿げた行動を隠すためにいもしない通り魔をでっち上げた――あまりありそうもない話だが、少なくともこの筋書きならば、物理的に不自然な状況は起きていないことになる。
しかし、どこか中途半端な印象は残る。
同伴者の足跡が現場に残っていないことも気になるし、平木野の動機や共犯者の心理も不自然だ。それらは警察に任せなければ調べようもないし、消化不良に感じるのはそのせいかもしれない。なんにせよ僕が語った情報だけで、それ以上の結論が出るはずもなかった。
「ありがとう。皆瀬も喜ぶと思う」僕はうつむく瞑の横顔に微笑みかけた。
「そう」と瞑は無感動に呟いた。
「あのさ」僕はうんざりとため息をついた。「怒ってるの?」
「どうして私があなたに怒るの?」瞑が恐い顔で僕を見た。
僕は黙って肩をすくめた。
焼き餅を焼いているのではないか、などと本人に向かって言えるものではない。
「森澤さんには個人的な相談を持ちかけられただけだよ。彼女の担任の大那先生が僕のことをカウンセラーかなにかと勘違いしてたみたいでさ」
瞑の返事は素っ気なかった。
「森澤さんって誰?」
「こないだ僕と一緒に進路相談室にいた生徒」
「そう。それと私になんの関係が?」
「特に関係がないことは認める」僕は降参するように両手を上げた。
瞑は呆れたようにため息をついた。綺麗な横顔によく似合う、年相応の少女のため息だった。
僕はしばらくその横顔を見つめた。
「彼女は幽霊を殺そうとしたんだ――」
思わず言葉が口を衝いて出た。
瞑は恐いくらいに澄んだ瞳で僕を見つめた。
相談者の秘密を口外するようではカウンセラー失格だが、生憎《あいにく》と僕はプロではないし、森澤恵里を貶めるつもりもない。強いていえば、僕が瞑に相談したかったのだ。
瞑にもそれはわかっていたのだろう。彼女の瞳に僕を非難する色はなかった。
そして僕は、もうひとつの幽霊譚を語り始めた。
森澤恵里につきまとっている男のこと。
そして森澤敦子の過去。
瞑はなにか気になることでもあるのか、胸の前で掌を合わせて、祈るような姿勢で話を聞いていた。そうしていると彼女は妙に幼く見える。
恵里が男を刺したと聞いて、瞑は露骨に顔をしかめた。
先ほどの通り魔事件に対する反応とは別人のようだ。少しは機嫌が直ったのかもしれない。
やがて話を聞き終えた瞑は、長く沈黙して考えこんでいた。
「リトルダッド……森澤敦子……」
どこか遠くを見るような表情で瞑がつぶやく。
女子高生の彼女がアクセサリーのブランドを知っているのは不思議ではないが、ほんの少しだけ違和感がある。その違和感の正体は僕にはよくわからない。
それから瞑はしばらくの間、躊躇《ためら》うように空を見上げていた。
そして彼女はなにかを決意したように、肩の力を抜いて僕に微笑んだ。
「ねえ、スカ――さっきの通り魔事件のこと。平木野巧己が刺された団地の住所はわかる?」
「え?」思いがけない瞑の質問に、僕は少し戸惑った。「調べればすぐにわかると思うけど」
「お願い。今からすぐに調べて」
振り払うようにヘッドフォンを投げ捨て、瞑はその場に立ち上がる。夕陽を浴びた彼女の髪が、ふわりと翼のように広がった。
「そのあと手紙を二通書くから、清書して、それを森澤恵里さんに渡してくれる?」
「手紙?」
誰と誰に宛てた手紙だろう、メールではまずいのだろうか、とぼんやり考える。
それにどうして僕が清書しなければならないのか。そんなものは瞑が自分で書けばいい。彼女のほうが僕よりも格段に字が上手いのだ。
僕が困惑に目を細めていると、瞑は苛立ったように僕を睨んで冷たく言った。
「急いで。平木野巧己[#「平木野巧己」に傍点]の身が危険だわ――!」
僕が一人で森澤恵里の自宅を訪れたのは、それから二日後の早朝だった。
その日の僕は余所行きのコートを着て、旅行用のボストンバッグを提げていた。財布にはコンビニのATMから引き出したばかりの十数万円が入っている。これまでの雙羽塾でのバイト代ほとんど全てだが、二人分の旅費ということになると、少し心許ない金額だ。
白い息を吐きながら、僕は電柱の陰に隠れて立っていた。
五分ほど過ぎた頃、森澤邸の門が開き、ほっそりと華奢な人影が、人目を避けるように外に出てきた。見覚えのある森澤恵里の制服の背中だった。
帽子を目深《まぶか》に被ったまま、彼女は周囲を不安げに見回した。やがて立っている僕に気づいて、小走りに駆け寄ってくる。
「ちょっと調べてみたけど、家の周りには誰もいなかったよ」と僕は言った。
「はい」彼女は小声で頷いた。ホッとしたように息を吐く。
「駅まで少し歩くけど、いい?」
質問したあとで、間の抜けた台詞だったと僕は反省した。ここは恵里の地元なのだ。駅までの距離なら彼女のほうがよく知っているはずだ。
「もうすぐ始発の時間だから」
誤魔化すように僕は続けた。彼女は黙って控え目に頷いた。
それから僕たちは二人並んで歩いた。
沈黙したままというのも気恥ずかしく思えて、僕はつまらないことを一人で話し続けた。大学のことや昨夜テレビで見た映画のこと。あまり内容のない僕の話を、彼女は不思議と楽しそうに聞いていた。いつもとは勝手が違って緊張する。だが、こういうのも悪くないと思う。
秋の夜明け前は暗かった。澄んだ空の色彩は海の底を見ているような群青色だった。波打つ雲が朝焼けで黄金色に染まっている。遠くの街並みが白く朝霧に霞んでいた。
やがて駅が見えてきた。私鉄の小さな駅である。二駅ほどで彩吹駅に出る。その先の目的地はまだ決めていなかった。
「僕たちは……どこまで行けばいいんだろう」
無意識に疑問を口にしていた。隣にいる少女に向けて告げた言葉ではない。幸い、彼女には聞こえなかったらしい。見慣れない女子校の制服にマフラーを巻きながら、彼女はかじかんだ手に息を吹きかけている。
瞑が僕の名前で恵里に宛てた手紙には、母親に内緒で二、三日身を隠しておくように、と書かれていた。今日の朝、僕が護衛を兼ねて恵里を迎えに行く。そして恵里が彩吹市を離れている間に、僕の知り合いがストーカー騒ぎに決着をつけるから、と。
しかし恵里の行き先までは、瞑の手紙には指定されていなかった。
それは僕が勝手に決めろ、ということなのだろう。
少し複雑な気分で、僕は隣にいる少女の横顔を盗み見た。こんな事件にでも巻きこまれなければ、誰もいない早朝の街を、僕が彼女と二人で並んで歩くことなどあり得なかった。
ほんの少しだけそのことに感謝する。たまにはこんな特別な朝があってもいい。
「このまま旅に出るのもいいね」と僕は呟いた。
「旅?」彼女は怪訝顔で僕を見上げた。
「ヨーロッパでも南極でも。どうせ一緒に逃げるならどこか遠くに――」
呆れたわけではないのだろうが、彼女は小さく声を洩らして笑った。そして冷え切った小さな指先で僕の手を頼りなく握った。思いがけない反応に僕は戸惑った。
「とりあえず彩吹駅まで出よう。新幹線を使うかどうかは時刻表を見て決めればいいから――」
つい早口でそう言って、僕は改札へと向かった。
カツカツとヒールの靴底を鳴らして誰かが駆け寄ってきたのは、その直後だった。
「――待ちなさい、森澤さん」
小さな駅の構内に響き渡るような声で、その人は叫んだ。
そこにいたのは二十代半ばの痩せぎすの女性だった。不器量というわけではないのだろうが、顔色が悪い。乱れた髪を引っ詰めているせいで、頬骨がやけに浮き出て見える。
雙羽塾講師の大那裕佳だった。
大那は手をつないだままの僕たちを、険しい表情で睨みつけた。
偶然で片づけるにはタイミングが悪すぎた。いや、むしろ良すぎるというべきか。
「高須賀くん――いえ、高須賀先生も、雙羽塾の講師が、こんな時間から生徒を連れてどこに行くつもりなの?」
「ええ、まあ」大那の剣幕に圧倒されて、僕は気の抜けた声を出した。「ちょっと旅行に」
「旅行?」大那が唖然と目を見開いた。「そんなこと……森澤さんのお母様はご存じなの?」
「いえ、それは……内緒ですけど」
「……あなた、正気なの?」
大那の顔色は蒼白になっている。怒りを堪えているのだろう。
勤め先の塾生が――それも自分が担任している女子生徒が、大学生のバイト講師と、二人で駆け落ち同然に旅に出ようとしているのだ。
予備校としては許されない不祥事である。
だが、
「僕からも、ひとつ質問して宜しいですか?」
渋い表情を浮かべて僕は訊いた。彼女に会った最初の驚きは薄れて、頭はむしろ醒めていた。
大那は苛立った様子で僕を睨んだが、それを無視して僕は続けた。
「どうして大那先生は僕たちを呼び止めたんですか?」
「なにを言ってるの? 私は、あなたが森澤恵里を連れて駅に入っていくところが見えたから、なにか間違いが起きては困ると思って――」
「……もう一度、訊きます」
僕は静かに呟いた。
「あなたはどうして森澤恵里の名前を呼んだんです?」
僕の隣に立っていた女子高生が、すっと前に歩み出た。目深に被っていたニット帽を外すと、その下から彼女の髪が流れ落ちた。栗色の、森澤恵里の髪ではない。艶やかな長い黒髪が。
大那の表情が強張った。
見間違いようもない美しい少女が、人形のような表情でにっこりと笑う。残酷に。
「……斎宮……瞑? あなたが、どうして……?」大那が呻いた。
「質問しているのは私たちのほうですよ――大那先生」
冷たく澄んだ声で瞑が告げる。森澤恵里の制服に身を包んだ瞑が。
「ご覧の通り、私は彩吹市立女子校の制服を着てますけど、雙羽塾の塾生だけでも市女の生徒は何十人もいるんです。どうして私と森澤さんを見間違ったんです?」
それは、と大那はくぐもった声で反論した。
「私が前に森澤さんに……高須賀くんのことを紹介したから……それでつい」
「思いこんでしまった、というわけですか」
ふふん、と瞑は大那を哀れむように目を細めた。
「でもね、先生――私たちが新幹線の切符を買ってからならともかく、この駅であなたが血相変えて飛んでくる理由なんてないんですよ。だって高須賀先生はこの通り旅装ですけど、私は普通の制服で、荷物だって、ほら」
そう言って瞑は通学用のスクールバッグを掲げてみせる。
瞑はごく普通の通学姿だ。たとえ僕たちが並んで歩いているところを目撃しても、これから一緒に旅に出ると真っ先に考える者はいないだろう。たまたま仲のいい男女が駅まで同行している――そう思うのが明らかに自然だ。
僕たちを呼び止めた大那の激昂ぶりは、不自然というよりも異常だった。
「私は一昨日、高須賀先生の名前で、森澤さんに二通の手紙を書きました」と瞑は言った。
「二通?」大那がこめかみを震わせた。
「一通は、彼女につきまとっている男から身を隠すために家出しようという誘い。もう一通は、その手紙が本物のストーカーを呼び出すための罠であるという説明書き」
「罠――」
「そう。偽の手紙は雙羽塾の個人ロッカーに入れておくように、彼女に指示しておきました。その偽の手紙を読んだ人間以外に、森澤恵里さんが今日この時間に駅に来ることを知っている人間はいないんです――あなた以外に」
僕は薄くため息をついて、うう、と唸り続ける大那裕佳を眺めた。
すべては瞑の策略だった。森澤恵里に制服を借りたのも、彼女の自宅から瞑が出てきたのも。大那裕佳が、恵里に嫌がらせを続けている本物のストーカーだと証明するための策だった。
手紙二通と、ほんの少しの早起き。
たったそれだけで瞑はストーカーの正体を暴いてみせた。
恵里につきまとっていた人物は、二人いた[#「二人いた」に傍点]のだ。
「――あなたが本物のストーカーですね、大那先生」
瞑は淡々と指摘した。
大那は否定しなかった。血色の悪い額から脂汗を流し、低く唸り続けていただけだ。
森澤恵里には、彼女が中学生になる以前からつきまとっている男がいた。
その人物を隠れ蓑にして、大那は恵里に嫌がらせを続けていたのだ。
本格的な嫌がらせが始まったのは、高一の夏頃からだと恵里は証言していた。大那が恵里の担任になったのもその頃だ。担任であれば教え子のロッカーの合い鍵を手に入れる機会もあるだろうし、個人的な情報を聞き出すのも容易だろう。それどころかストーカー対策と称して、彼女の自宅に上がり込む機会すらあったのかもしれない。
「最初のきっかけは森澤敦子ですか? 恵里さんが妬ましかったから?」
「うるさいッ!」瞑の言葉を大那の絶叫が遮った。「あなたには関係ないでしょう。いくらあなたが理事の娘だからって、そんな身勝手な理屈が通ると思っているの。ちょっと成績がいいだけで、家来をあてがわれて調子に乗って……!」
声を荒げて自分を睨《ね》めつける大那を、瞑は哀れむように見返した。
瞑が大那の正体に気づいたのは、その家来の存在が原因だ。大那が僕を森澤恵里に紹介したせいなのだ。
バイト講師の大学生ならともかく、雙羽塾の正規社員である大那が、僕と瞑の関係を知らないわけがない。僕が心理学専攻のカウンセラーなどではなく、ただの問題児の世話係だと彼女が知らないはずがないのだ。
それなのに大那は、苦悩している森澤恵里に僕を紹介した。
まともな心療内科に通い始めて、恵里が塾通いを辞めるようなことになったら、嫌がらせの材料が手に入りにくくなる。それを恐れて、恵里の気休めになる人材を、先にあてがおうとしたのだろう。その時点で彼女の計画はすでに破綻していたのだ。
大那はそれに気づいていない。だからこうして無用な醜態を晒している。彼女が森澤恵里につきまとう狂った論理など、僕にも瞑にも興味のないことだ。
そして瞑は優しく彼女に微笑んだ。
「ええ、私には関係ありません。だからあなたを救ってあげる義理もない――」
「救う?」
大那の唇が引き攣るように震えた。笑おうとしたのかもしれない。
しかし彼女が浮かべるはずだった笑顔は、瞑が続けた言葉で凍りついた。
「――血塗《ちまみ》れのナイフはどうしました?」と瞑が静かに訊いた。
大那の首筋に血管が浮いた。
彼女は、きいっ、と甲高い怒声を上げた。持っていたハンドバッグの中に手を突っこんで、銀色の塊をつかみ出した。それは玉鋼を鍛えて作った鋭利な刃物だった。
切り出し[#「切り出し」に傍点]だ。
鈍色《にびいろ》に輝く刃先を突き出し、大那は瞑を目がけて突進した。
僕は咄嗟に瞑を庇って、彼女の前に立ちはだかる。
しかしどうにか身構えた時には、大那はすでに僕の目の前に迫っていた。
彼女の攻撃を防ぐ余裕はない。悲鳴を上げる余裕すらなかった。
その刹那、全身を硬直させた僕の眼前に、純白の影が舞い降りてきた。
それはフェイクファーコートの背中だった。
派手な橙色に染めた髪が僕の視界を流れた。
皆瀬梨夏――!
唐突に乱入してきた新たな人影に、大那は為すすべもなく吹き飛ばされた。
なにが起きたのかわからなかったが、おそらく柔術や護身術の類――なのだろう。皆瀬が、大那の腕を搦《から》め取って、そのまま彼女を投げ飛ばしたのだ。
僕が我に返ったときには、昏倒した大那が床に倒れていた。切り出しナイフを握った彼女の腕を、皆瀬が逆向きに捻り上げている。
異変に気づいた駅職員が、あわてて駆け寄ってくるのが見えた。
「こんなこともあるかと思って、梨夏さんに隠れて尾けてきてもらってたの」
瞑が眉ひとつ動かさないまま、僕の背中に囁くように告げた。
僕は呆然とその言葉を聞いた。大那が刃物を持っているなんて、僕は聞かされていなかった。
しかも彼女が持っていたのは切り出しだ。森澤恵里が男を刺して、そして消えてしまったはずの凶器である。大那がそれを持っている理由が、僕には理解できなかった。
途方に暮れたまま僕は立ち尽くし、それでも瞑の無事を確認して安堵の息を吐く。
そんな僕の姿を見上げて、
「上出来よ、スカ」と皆瀬が言った。
あまり褒められた気はしなかった。
大那裕佳の後始末や面倒な些事は、皆瀬に任せることになった。
経緯はどうあれ暴行罪の成立は免れないところだし、刃物を振り回した以上、殺人未遂の適用もあり得る――というのが皆瀬の見解で、そういうものなのだろう、と僕は思った。
駅での一件については目撃者も多かったし、大那の自宅を捜索すれば、おそらく森澤恵里に対するストーキング行為の証拠も出てくるだろう。なにもかもがスッキリ片づいたわけではないが、ここから先は警察や裁判所の領分だった。僕や瞑に出来ることはもうなにもない。
瞑は制服を返すために森澤家に立ち寄ったが、着替えを終えるとすぐに辞去すると言い出した。いずれ警察から連絡があると説明しただけで、彼女が大那の名前を明かすことはなかった。
最初は狐につままれたような顔をしていた恵里にも、なにか予感めいたものがあったのかもしれない。彼女も無理には説明を求めようとせず、ただ僕に何度も繰り返し礼を言った。それが僕には少し後ろめたかった。正直、僕にもほとんど事情がわかってなかったからだ。
朝早く騒がせてしまったことを恵里に詫び、僕たちは森澤家を後にした。
門の前で僕たちを見送ってくれたのは、恵里によく似た小柄な女性だった。
森澤敦子だ。
すでに三十五、六のはずだが、ずいぶん若い。恵里から事情を聞いていたのか、敦子は僕たちに深く頭を下げ、落ち着いたらまた遊びに来てください、と言った。
瞑も丁寧に挨拶を返し、物怖じせずに真っ直ぐ敦子を見つめた。
「ひとつだけ訊かせていただけませんか?」
「ええ」と敦子は微笑んだ。
「恵里さんのお父様のこと、今でも愛していらっしゃいます?」不躾《ぶしつけ》な口調で瞑が訊いた。
敦子はクスクスと声を洩らして笑った。細めた目尻に小さな笑い皺が浮かぶ。
「ええ。もちろん」
「――よかった」
ホッとしたように呟いて、瞑は敦子にもう一度だけ頭を下げた。
そのとき瞑が一瞬だけ、ひどく弱々しい表情を浮かべたことに僕は気づいた。
瞑はそのまま無言で歩き続けた。僕はただ黙って彼女のあとに続いた。
再び駅前に戻ってきたときには、午前八時を過ぎていた。瞑は完全に遅刻である。
「今日は学校には行かない」と瞑は言った。
「学校では優等生じゃなかったのか?」皮肉っぽい口調で僕が尋ねると、
「いいのよ、もう」瞑は乾いた声で笑った。
テイクアウトのハンバーガーを買って、僕たちは近場の公園へと向かった。
慣れない早起きで眠かったが、別れる前に瞑に訊いておきたいことがあったのだ。
「さっきの敦子さんとの会話は、どういう意味だったの?」
なにから訊けばいいのかわからなかったので、最初に思いついた質問を僕は口にした。
しかし瞑はそれには答えず、
「彼女が、幽霊の生みの親よ」と言った。
「え?」僕は驚いて瞑を見つめた。話が飛躍しすぎてついていけない。
瞑は行儀良くベンチに腰掛け、しばらくの間、寄ってきた鳩たちにちぎったパンを分け与えていた。そして少しうつむいたまま、たとえばね、と彼女は言った。
「お屋敷の中で殺されそうになった被害者が、部屋の中に逃げ込んで扉に鍵をかけ、そのまま力尽きて死んじゃう――って話、聞いたことない?」
「古典的な密室殺人のトリックだね」と僕は頷いた。
「森澤恵里が遭遇した幽霊の正体は、基本的にそれと同じものなの」
「……密室?」
そんな馬鹿な、と僕は思った。
施錠された教室の中に死体なんてなかった。そもそも事件の痕跡すら残っていなかった。だから恵里は自分の記憶に不信感を覚えて、苦悩していたのではなかったのか?
「つまりね、恵里さんの自宅で彼女に刺された男は、刺されたまま事件の現場から逃げたのよ」
「え?」僕は更に困惑した。「だったら血痕を消したり教室の施錠をしたのは――」
「それをやったのは別の人間」
「別人?」
「敦子さんよ」
ああ、と僕は妙に納得して呻いた。幽霊の生みの親、とはそういう意味か。
瞑はゆっくりと顔を上げ、黒目の大きな瞳で僕を見た。
「男を刺した恵里さんが動揺して自室に籠もっている間に、事情を察した敦子さんは、まず娘の犯行の痕跡を消したの。血痕を拭き取り、モップをかけて足跡を消し、乱れた家具を直して、すべての入口を施錠した。不特定多数が出入りする教室だから、指紋や毛髪までは気にしなくても平気だった」
「だけど警察の血痕鑑定は?」
「たぶん――レジンを使ったんだと思う」
「レジンって……プラスチックの?」
「そう。歯科技工や模型製作に使う合成樹脂。装飾品用のレジンは透明度が高いから、血痕が飛び散った部分に薄く塗り広げれば、透明な樹脂の膜で床を覆うことができると思う。多少の色ムラは残るかもしれないけど――」
「……レジンに遮られて血痕反応は出ない……!」
「そのための材料には事欠かない場所だし、森澤敦子ならレジンの取り扱いは慣れたものよね。教室を施錠したのは、レジンが硬化するまでの時間を稼ぎたかったのかもね。ものによっては、数分で固まるらしいから」
「数分……って」
それなら警察が通報を受けて駆けつけたときには、レジンは完全に血液の痕跡を覆い隠していたことになる。その上にいくら薬剤をまいても、血痕反応は出ないわけだ。
「だったら刺されて逃げた男はどうなったんだ? まさかそれも敦子さんが処分を……」
表情を強張らせて僕が呟くと、まさか、と瞑は苦笑した。
「いくら敦子さんでも、そんな短い時間に死体の処分まではできないわよ。敦子さんは彼を、こっそり逃がしたの」
「逃がした?」
「ええ。彼は今も生きているわ。恵里さんもそれを目撃してるでしょう?」
刺したはずの男が何事もなかったかのように再び現れた――たしかに恵里はそう言っていた。
「恵里さんに刺された男は敦子さんの手引きで森澤家を出た。そして逃げたのよ。行き先は、県境を越えた斧瀬市の某団地」
「え?」僕は驚いて食べかけのハンバーガーを取り落とした。「斧瀬って……まさか通り魔に刺された平木野巧己のことを言っているのか?」
「そう。平木野巧己を刺した犯人は恵里さんよ」
「そんな馬鹿な……あり得ない」
「どうして?」
「だって斧瀬までは二十キロ以上は離れてるんだ。電車やバスを使っても四、五十分はかかる。そんな長時間、彼はナイフを腹に刺したまま出歩いてたっていうのか?」
それは誰かが気づくだろう――と思う。その前にぶっ倒れないのが不思議なくらいだ。
しかし瞑は優雅に首を振る。
「移動に使ったのがバイクなら?」
「……バイク?」
そんなものは――発見されていない。平木野は駅から図書館に行くためにあの団地を通っていたと証言したはずだ。
「マンションには駐輪場があるでしょう? そこに堂々と駐車していれば、少なくとも警察が見落とす可能性は高いと思わない?」
「それは――」
おそらく見落とすだろう。平木野のバイクは盗難車というわけではないのだ。警察が調べる理由がない。そして森澤家から斧瀬まで、バイクでなら電車の半分以下の時間で着く。たとえ腹になにかが刺さっていたとしても、気づかれる確率は格段に低下する。
「だけど、どうして平木野はそんなことを?」
「もちろん恵里さんを庇うためよ。彼女を傷害犯にしないために、平木野は可能な限り遠くに逃げたの。なぜなら斧瀬は――」
「そうか」僕は低く呟いた。「警察の管轄が違う――」
あたり、という風に瞑は無言でうなずいた。
もちろん各県警間で協力して、逃げた通り魔の行方を追うことはあるだろう。だが、恵里の通報と平木野の負傷が同じ事件として扱われる可能性は極端に低下する。平木野が虚偽の供述をすれば尚更だ。恵里の事件に至っては、被害者すら存在しないのだ。
しかし、なぜ平木野はそこまでして恵里を庇ったのだろう、と思う。
所詮ストーカーのやったこと――とはいえ、少し肌触りが異質で噛み合わない。平木野の行動の根底にあるのは、歪んだ欲望というよりは、むしろ無償の愛に近いものだからだ。彼は、なんの見返りも求めずに、ただひたすら恵里を守っている。
「ここから先はすべて私の想像よ。証拠もなにもないし、確認する意味もないと思うから」
瞑は僕の返事を待たずに、独り言のように淡々と続けた。
「平木野はある事情で、恵里さんが幼い頃から彼女を見守っていた。遠くから本当にただ見ていただけ。ところが彼は恵里さんがストーカー被害に遭っていることを知った。そこで恵里さんの護衛のため、平木野は時間が許す限り彼女につきまとうようになった――」
一致している、と僕は思った。それは恵里から聞いた話と整合する。
違っていたのは順番だけだ。男が頻繁に現れたせいで、ストーカー被害が増えたのではない。
ストーカーの被害が始まったから、男の出現頻度が増したのだ。
「そして敦子さんと平木野は古くからの知り合いだった――」
「えっ?」
「そう考えれば辻褄が合うの。むしろ平木野に恵里さんの苦境を知らせたのは、敦子さんかも知れない。恵里さんのことを心配していた敦子さんは平木野に娘の護衛を依頼した。そして、恵里さんが不在の時間を見計らって、平木野を森澤家に招き入れた。たとえば森澤家に盗聴器が仕掛けられていないか調べてもらうため――とかね」
「あ……」
だからなのか、と僕は思った。だから敦子さんは恵里が平木野を刺したとき、即座に平木野を外に逃がして、事件の痕跡を消すような真似が出来たのだ。平木野を招き入れたのが敦子さん自身だったから。
「負傷した平木野は森澤家を離れたけれど、そこで途方に暮れたのだと思う。すぐに病院で手当てを受けたかったけれど、たぶん医者は一目でナイフで刺された傷だと見抜く。そうなれば警察沙汰になる。架空の通り魔に責任を負わせることはすぐに思いついたけれど、彼が本当に困ったのは凶器の処分なのよ。なぜなら、恵里さんが使ったのは――」
切り出し[#「切り出し」に傍点]、だ。
「日本刀と同じ技法で作られた切り出しナイフは、ほとんどが手作りなのよ。良い品はほぼ間違いなくね。それを調べれば、いずれそれが森澤家で購入されたものだと判明する。警察の手に渡すわけにはいかなかったの」
凶器を処分するまでは、平木野は病院に行けなかった。しかし腹に刺さっている凶器を抜いたら、堰き止められていた鮮血がたちまち溢れ出して動けなくなることは容易に想像できた。
投げ捨てるだけではすぐに発見されるだろう。川や海に流しても、確実とはいえない。
架空の通り魔に罪をなすりつけるためには、凶器を処分してくれる共犯者が絶対に必要だった。しかし恵里のすぐ傍にいる敦子さんは頼れない。
「追いつめられた平木野は、そこで大胆な賭けに出た。彼が共犯者に選んだのは、誰も思いつかないような人物だった」
「大那裕佳、か――」
「そういうこと」と瞑は頷いた。「恵里さんをずっと護衛していた平木野は、ストーカーの正体が大那だとほぼ確信していたんだと思う。彼が森澤家に上がり込んだのは、証拠集めのためだったのかもね。そして大那が本当にストーカーなら、彼女が凶器を警察に渡すことはないと平木野は考えた。恵里さんが警察に捕まって困るのは彼女も同じだから」
そして平木野は、大那のマンションのベランダへと血塗れの切り出しを放り込んだ。失血で倒れる寸前に。雙羽塾の講師名簿で確認した。平木野が倒れていた広場前のマンションには、大那裕佳の部屋があったのだ。
彼が斧瀬市に向かったのは、単に県境を越えるためだけではない。そこが、凶器を処分してくれる唯一の共犯者の居住地だったからだ。
「平木野の目論見通り、大那は凶器を隠匿してくれた。でもその結果、平木野が大那の正体に気づいたことを、大那本人に知らせてしまった。血塗れの切り出しナイフは大那が手に入れた切り札よ。大那の行為を告発する前に、平木野は彼女の手からそれを取り返さなければならなくなった――」
「だから大那は、あのとき切り出しをバッグに入れて持ち歩いていたのか」
僕は深くため息をついた。幽霊とともに消えたはずの凶器が、大那の手の中に忽然と出現した謎がようやく解けた。
あんなものを持ち歩いて、不用心だと思ったがそうではなかった。大那は平木野を警戒していたからこそ、切り出しを肌身離さず持ち歩いていたのだ。
そして平木野がそれを取り返そうとすれば、いずれ大那と争いになるのは確実だった。
二人が凶器を奪い合うことになれば、どちらかが負傷する確率は極めて高い。
瞑は、そうなる前に大那の動きを封じようとした――というわけだ。それが今朝の騒ぎの真実だった。
「結局、平木野は何者だったんだ?」と僕は訊いた。
「父親よ――恵里さんの実の父親。おそらくね」殊更に素っ気ない口調で瞑は告げた。
「父親?」僕は唖然として呟いた。「待ってくれ。平木野はまだ二十六、七だろ。森澤恵里が高二だから――」
森澤恵里は、平木野が十歳かそこらのときの子供ということになる。
あり得ないことではない――のか。森澤敦子が恵里を生んだのは十八の時だ。たとえば女子高生が、知り合いの小学生男子の家庭教師に雇われるということは、それほど奇妙な話ではない。そして二人が、幼い好奇心からそのような行為を試す可能性も――絶無ではない。
平木野が恵里の前に名乗り出ることができなかった理由も、それならわかる。
おまえは母親が女子高生の時分に小学生との間にもうけた子供であるなどと、娘にそうそう語れることではない。
森澤母子が人生でもっとも過酷な生活を送っていた時期、平木野はまだ小学生だったのだ。そんな無力な過去の自分を平木野が恥じているのなら、彼の恵里に対する献身的な態度も少しだけ納得できる。しかしそれは、あまりにも――
「森澤敦子のブランドの名前を覚えてる?」
呆然と考えこむ僕に、囁くように瞑が訊いた。
そうか――と僕は、ようやくそれを受け入れた。
|小さな父親《リトルダッド》。それが敦子さんのブランドの名前だ。
瞑が敦子さんと交わした短い会話のことを思い出す。
恵里の父親を今でも愛しているかと尋ねた瞑に、敦子さんは、もちろん――と答えた。
「だからあのとき、よかった――と言ったのか」
世間一般の枠組みからは外れていても、彼女たちは今でも愛し合っているのだ。そして二人で命懸けで娘を守ろうとした。
瞑の言葉はほとんどが憶測だったけれど、今回の出来事についてはそれで全てが説明できる。謎はもう残っていない。離れた場所に現れた、ふたつの幽霊は消えてしまった――
「本当に、よかったと思ったのよ」
瞑は寂しげに微笑んで言った。彼女のその表情に僕はわけもなく胸騒ぎを覚えた。
なにか大切なものを手放した後のような、妙に晴れ晴れとした微笑だった。
そして瞑は唐突に立ち上がった。その場で両手を大きく広げてくるりと回り、悪戯っぽい瞳で僕を見た。
「うちの両親、離婚するのよ――そう決まったの」
ザッ、と大きな羽音が鳴った。瞑の背後で、白い鳩の群れが飛び立っていく。
「もう無理に優等生の振りをする必要はないの。雙羽塾に行く理由もなくなっちゃった」
そういって瞑は空を見上げた。眩しい陽射しに目を細めた彼女は、まるで泣いているようにも見えた。
僕は思い出した。ここ数日、どうしようもなく不機嫌で怒っていた瞑。あれは僕の態度に苛立っていたわけではなかったのだ。いくら大人びて見えても彼女はまだ高校生で――そんな簡単なことすら僕はすぐに忘れてしまう。
「瞑!」
彼女はゆっくりと振り向いて僕を見た。逆光に浮かぶその輪郭は、僕の記憶の中の彼女より遥かに華奢で、頼りなく見えた。そして瞑は、僕の知らない優しい表情で笑った。
「ねえ、スカ。あなたは自分で思っているよりもずっといい人よ。あなたに会えてよかった。梨夏さんにもいつかお礼を言わなきゃね」
どうしてそんな顔をするんだろう、と僕はぼんやり思った。まるで別れの挨拶のようだ。
瞑はそのあとなにか言おうと口を開きかけ、そしてただ苦笑して首を振った。
「さよなら」
ふわり、と髪をなびかせて瞑は僕に背中を向け、そのまま後ろを振り向かずに歩き出した。
呼び止めようとしたが言葉が出なかった。耳を塞ぐように銀色のヘッドフォンを被った彼女に、僕の声はもう届かない。僕は無言で立ち尽くしたまま、人混みに紛れていく彼女の後ろ姿を見送った。胸の奥に生まれた大きな隙間が鈍く痛む。失恋によく似た痛みだった。
目の前を白い花弁のようなものが舞っている。
雪。
それは僕の頬にあたって涙のように冷たく融けた。
[#改ページ]
X 静かな密室
殴られたような衝撃が襲ってきた。
痛い痛い痛い痛い苦しい苦しい苦しい苦しい。
激しい眩暈《めまい》で視界が歪んだ。壁に叩きつけられた頭が割れそうだった。胸郭が軋《きし》んで息ができない。前触れもなく僕の全身を包みこんだのは強烈な爆風。激流に呑まれた木の葉のように翻弄されて、気づくと僕は床に倒れ伏していた。
突然の強い光に目の奥が痛んだ。視界が赤く染まっている。
激しく揺れる光源が、暗室の壁に、ゆらゆらと揺れる不気味な模様を浮かび上がらせている。
不思議と恐怖は感じなかった。感覚が麻痺して現実感が遠い。
ただ、何かが焼けるような嫌な臭いだけが、強く鼻の奥を突く。
自分が火災に巻きこまれたのだと理解するまで、ずいぶん時間がかかった。
写真部の部室が燃えている。
火事というよりも爆発に近かった。炎は一瞬で燃え広がって、部屋中を覆い尽くしていた。眩しかった視界は、煙に覆われてすぐに何も見えなくなった。刻々と勢いを増していく炎が、時折、闇の中を稲妻のように照らすだけだ。
吸いこんだ煙に噎《む》せ返り、そのたびに全身が引《ひ》き攣《つ》るような感覚が走った。
鳴り響く火災報知器の音が耳に障る。
部室は燃え移る材料で溢れていた。フィルム。アルバム。置き捨てられた古雑誌や紙ゴミの束。黒煙に視界を遮られたままでも、炎が勢いを増していくのがわかる。
逃げ出そうにも方向の感覚は最初に失われ、すでにたっぷりと煙を吸った身体が重かった。
ごく自然に死を覚悟した。
あまりにも呆気なさ過ぎて実感が湧かない。だから怖いとは思わなかった。
こんなものか、と朦朧《もうろう》とした意識の中で考える。
自分に相応しい惨めな死に様かもしれないとすら思う。
心残りなのは、ひとつだけだ。
できることなら、もう一度だけ会って話がしたかった。
あの雪の日にいなくなってしまった彼女に。
瞑……
病室の窓から見えたのは、うっすらと霞がかった花曇りの空だった。
街路の桜は、冬枯れの殺風景な姿のまま、乾いた風に枝を揺らしていた。それは今の自分の陰鬱な気分を映しているように思えて、眺めているだけで気が滅入る光景だ。
病院に運びこまれて三日目の午後だった。突然の入院だったので、準備らしい準備は何も出来なかった。おかげで、慌ただしかった最初の日を過ぎてしまえば翌日からは暇を持て余した。
平日の昼間から付き添ってくれる世話焼きの家族はいない。携帯電話が使えないので友人とも気軽には連絡が取れない。同室にいたもう一人の怪我人は昨夜のうちに退院して、話し相手もいなくなった。彼らが僕を訪ねて来たのは、そんな退屈な時間帯のことだった。
「――意外に元気そうだね、高須賀くん。安心したよ」
堅苦しいノックのあとで顔を出したのは、黒い背広を着た背の高い男だった。
年齢は三十代の後半だろうか。白人のように彫りの深い顔立ちをしている。知らない顔だが、僕の名前を呼んだということは、部屋を間違えたわけではないらしい。
彼に続いて入ってきたのは恰幅のいい壮年の男性で、そちらは見覚えのある人物だった。
先週、雙羽塾に来ていた刑事だ。たしか荻原《おぎわら》と名乗っていたと思う。するともう一人の男もおそらく刑事なのだろう。ただの見舞客というわけではないらしい。
「突然で済まないね」
黒い背広の男が言った。端整な顔立ちに似合わない、砕けた口調だった。
「私は県警捜査一課の杉田《すぎた》という。少し話を聞かせてもらえるだろうか」
僕は黙って頷いた。病室に置かれていたパイプ椅子を勧めると、二人はそれを僕のベッド脇に移動させてから腰掛けた。荻原が手帳を取り出すのが見えた。
「災難だったね、立て続けに事故に巻きこまれて」
そう言って杉田は、なぜか愉快そうに微笑んだ。
「そうですね」
僕は素直にそう答えた。ほかに答えようもない。
杉田は僕をじっと見つめて口元だけで笑い、
「怪我の具合はどうなのかな」と訊いた。
「火傷は、たいしたことはありませんでした。それほど目立つような傷が残ることはないだろうと医者《せんせい》からも言われています」
僕は両手足に巻かれた真新しい包帯を彼らに見せた。
「そう……一酸化炭素中毒は?」
「いえ。救助が早かったので今のところは特に。いちおう酸素洗浄して経過観察中です」
「骨折したって新聞に出ていたね」
「ああ、そうですね。爆発のとき、どこかにぶつけたみたいで右の肋骨を」
「そうか」
杉田は僕の胸元あたりに視線を向けて頷いた。
「まあ、その程度で済んでよかったよ。きみたちの部室は全焼だったんだろう?」
「そうらしいですね。僕は見ていないので人に聞いた話ですけど」
「なるほど」
杉田が長く息を吐いた。そして二人の刑事は互いに顔を見合わせ、少しだけ表情を硬くした。
「きみはあの事故についてどう思っている?」
質問する杉田の表情から笑みが消えていた。
「どうって……ガス爆発だったそうですね」
「ガス爆発、か。なるほど」
杉田が怪訝そうに首を傾げた。僕は困惑した。
三日前、大学の写真部の部室で火災事故があった。
僕は、それに巻きこまれた被災者だった。だからといって、その状況や事故の原因を詳しく理解しているわけではない。あの事故がガス爆発だったということ自体、警察の人間に教えてもらったのだ。杉田が何を気にしているのかわからない。
「きみはそれを偶々《たまたま》起きた事故だと思っているのだろうか?」と杉田は続けた。
「……仰っている意味がわかりませんが?」僕は静かに訊き返した。
「言い直そう。きみが自分が誰かに命を狙われた、とは考えていないのかな?」
「僕が……命を狙われた?」
「それほど奇妙な話ではないと思うよ。きみは名上遥香《ながみはるか》の事件の目撃者で、貴重な参考人だ。犯人にとって不都合な何かを、きみが知っていたとしても不思議ではない」
「うちの部室が、放火されたということですか」
僕は驚いた。どうやら杉田は、僕が巻きこまれた火災事故と、雙羽塾で起きた事件の関連を疑っているらしかった。
戸惑う僕の顔をのぞきこむような姿勢で、杉田が訊いた。
「心当たりがあるだろうか?」
「いえ。ただ少し意外な気がしただけです」
「……意外?」
訊き返してきたのは、手帳を開いている荻原のほうだった。僕は自嘲気味に笑ってみせた。
「ええ。僕は、貴方たちに疑われているのは自分だと思っていましたから――名上遥香を殺した最有力の容疑者として」
「それは……」
反論しようとした荻原の言葉は、尻すぼみになって気まずく途切れた。
杉田は何も答えなかった。
斎宮瞑という少女が僕の前から姿を消して、三カ月が過ぎていた。
彼女の自宅は引き払われていたし、高校には欠席届が出ていた。この時期の高校三年生なら受験のために学校に出てこない生徒も少なくないし、出席日数も十分に足りている。不在のまま瞑が卒業を迎えたとしても、誰も気に留めないのかもしれなかった。
彼女が僕にとってどういう存在だったのか、それを語るのはひどく難儀なことだ。自分でも本当のことは未だに理解できていないのだと思う。
傲慢で気まぐれで病的なほどに正義感が強く、ずば抜けて頭の切れる少女だった。
そのくせガラス細工のように繊細で、いつも人知れず深く傷ついていた。僕は彼女の働きでいくつかの犯罪の真実を知る機会を得たが、今にして思えば、それは彼女の孤独と苦悩を深めていただけなのだろう。僕は結局、彼女のことを何もわかっていなかったのだ。
その瞑も今はもういない。
両親の離婚をきっかけにして、彼女はふらりと僕たちの前から姿を消したのだ。
だから、彼女に対して僕が抱いていた感情の名前を確かめる機会も、もはやない。
予備校のバイト講師と元生徒。それだけが、僕たちに与えられたそれぞれの肩書きだった。
そして彼女が不在のまま、年が明けて季節が変わった。
僕は相変わらず大学に通いながら、週に何度か予備校でのアルバイトを続けていた。
予備校の名は、雙羽塾という。
雙羽塾はこの地方では有名な大手進学塾だった。徹底的な少人数制個別指導が売りで、大学入試の合格率も高い。ターミナル駅前に大きな塾舎を構えており、生徒数の多さでも知られている。当然アルバイトで雇われている大学生の講師も多かった。
ただし僕の場合は、瞑の友人の紹介で、彼女の世話をするためだけに特例で雇われた講師だった。だから瞑本人が退塾してしまった今となっては、ここで働き続ける理由もなかった。
それでも講師を辞めずにいたのは、ただの惰性だ。講師のバイト代はそれなりに魅力的だったけれど、瞑の相手をしていた頃のような熱意はすでに失われていた。その惰性の代償として、あんな面倒な事件に巻きこまれることになったのならば、それはひどい皮肉だと思う。
その日の僕は、試験監督を任されていた。
進級時に塾生たちを能力別に振り分ける。そのクラス分けのための試験である。
試験時間は八十分。試験を受ける塾生は八名だった。
試験の監督をするバイト講師は、僕以外にもう一人。同じ大学に通っている名上遥香という女子大生だった。それほど親しい同僚ではなかったが、どのみち試験中の私語は禁じられているのだから、あまり関係ない。それに共同作業というほどの大層な仕事でもない。
この時期になれば試験を受ける塾生たちも慣れているし、本番の入試と違って深刻な不正が行われるようなこともあり得ない。退屈だが、基本的には気楽な役目だった。
最初に問題用紙と解答用紙を配り、注意事項を説明する。定められた時間になったら試験を始め、試験時間が終われば解答用紙を回収する。それまでの間、不正行為が行われないように監視して、いくつかの雑務をこなすだけ。そんなふうに淡々と過ぎていく一日のはずだった。
備品の時計で試験時間の終了を確認し、僕は塾生たちに鉛筆を置かせた。疲れた顔の塾生たちが一斉に大きく息を吐いた。安堵とも落胆ともつかぬ、試験直後に独特のあの溜息だ。
あとは回収した解答用紙を講師控室に持ち帰れば、試験監督の役目は終わる予定だった。
しかしそうはならなかった。
異変は試験の終了直後に起きた。用紙を回収する係の遥香が、いつまで待っても立ち上がらなかったのだ。
名上さん、と僕は彼女を呼んだ。僕の座っていた場所からは、彼女が居眠りしているように見えたからである。だがそれは僕の間違いだった。
「ひっ……」
最後列の席に座っていた女子生徒が、背後を振り返って短い悲鳴を上げた。
そのときになって僕はようやく、教室に漂っている異臭に気づいた。空調のせいで、あまり目立たなかったけれど、饐《す》えたような独特の臭いだった。失禁して漏れた汚物の臭いだ。
殺風景な講義室。模試の案内などで埋もれたホワイトボードを背にして、遥香は試験監督用の椅子に深々と腰掛けている。
脱力したように俯く遥香の鼻から、鮮血が滴り落ちていた。さっきの女子生徒は、その血を見て悲鳴を上げたのだ。
僕は塾生たちを席に着かせたまま、ゆっくりと遥香に歩み寄った。
身体に触れて確認する必要はなかった。遠目からでもはっきりとわかる。
だらしなく弛緩した筋肉と、血の気をなくした青白い肌。
名上遥香は死んでいた。
「彼女の死因は頭蓋骨陥没骨折による脳挫傷。凶器はまだ特定されていないが、金槌のようなもので頭を殴られている。ほぼ即死だったそうだ」
杉田は手帳も見ずにスラスラと言った。僕は、ベッドの上に上体を起こしただけの姿勢で、彼の言葉を黙って聞いていた。
普通、病院で怪我人相手に持ち出すような話題ではないと思う。しかし、杉田たちが最初からこの事件のことを調べるつもりで見舞いに来たのは明らかだった。本当だったら僕のほうが警察に呼び出されて事情聴取されていてもおかしくなかったのだ。
それができなかったのは、事件の翌日に発生した火事のせいだった。
大学の写真部の部室で起きた火災事故に、暗室作業中だった僕は巻きこまれた。そしてこのように入院しているというわけだ。
名上遥香が殺されて、すでに四日が経っている。それなのに彼らが僕の話を聞きに来たのは、まだ犯人が捕まっていないということなのだろう。
「きみと名上遥香さんは、あの日、二人で試験監督をしていたんだね。試験が始まったのは、十六時三十分。間違いないだろうか?」
「正確には十六時四十分です」
僕はやんわりと訂正した。杉田が怪訝そうに眉を動かした。
「最初の十分間は出欠の確認や用紙の配布に使うので、実際に試験を始めたのは講義開始の十分後です。試験が終わったのは十八時ちょうど」
「なるほど」
杉田が納得したように頷いた。無言の荻原が手帳の上にペンを走らせている。
「試験を始めたときには、名上遥香さんはまだ生きていたんだね?」
「ええ、もちろん」
僕は皮肉っぽく呟いた。いくら最近の若者が他人に無関心だといわれていても、死体の転がっている部屋で平然と試験問題を解けるほど剛胆ではないだろう。
「名上さんには試験用紙を配るのを手伝ってもらいました。出欠の確認用紙に署名したのも彼女です。その時間まで彼女が生きていたのは間違いありません」
「そのあとはどうかな。試験中に彼女と何か話をした?」
「いえ」
僕は首を振った。
「試験中、僕と彼女は講義室の前後に分かれて監督をしていましたから。彼女は講義室の後ろの壁際に椅子を運んできて座って、僕は前の教卓に」
E442教室は四十人収容の比較的広い講義室だった。前後に分かれてしまうと、声を潜めて会話するのはほとんど不可能だ。
「……椅子を運んできたというのは、どこから?」
杉田が眉間に皺を刻んだ。
「講師控室です。試験会場になっていたE442教室の椅子は据え付け式だったので、別の部屋の備品を」
そしてその椅子の上で名上遥香は殺されたのだな、と僕は思い出す。簡易な肘掛けがついていたおかげで、彼女の遺体はずり落ちることもなく椅子の上に座っていたのだ。生きていたときとほぼ同じ姿勢のままで。
「椅子を運んだのは、名上さん本人なのかな」
「いえ。試験前日のうちに誰かが運んで来てくれていたみたいです。たぶん森川《もりかわ》くんあたりが」
「森川くんというのは……誰?」
杉田がかすかに身を乗り出した。どうやらそれは、彼の知らない名前らしかった。
「僕たちの同僚というか、雙羽塾のバイト講師です。本当は彼が試験監督をする予定だったんです。ただ彼が急にバイトを休むことになって、それで僕が代役として呼び出されました」
説明しながら苦笑が滲んだ。そう、僕は彼の代理で事件に遭遇したようなものだった。ひどく損な役回りだ。火事に巻きこまれたことといい、不運にもほどがある。
しかし杉田の声に同情の響きはなかった。
「呼び出されたのはいつ?」
「当日の昼頃です。亜沙子《あさこ》先輩から電話がかかってきて」
「亜沙子先輩というのは伊藤《いとう》亜沙子さんのことかな。きみたちと一緒に雙羽塾で講師の仕事をしていた女性の」
「そうです、理系クラス担当の大学院生の」
「……彼女がバイト講師のまとめ役を?」
「ええ、まあ。まとめ役というほどではないですが、あの人は雙羽塾でのバイトも長いですし、試験の準備なんかはだいたい亜沙子先輩が仕切ることが多いですね……あ、僕が彼女を先輩と呼んでいるのは、彼女が本当に同じ大学の先輩だからですけど」
「ふむ。名上さんもたしかきみと同じ大学だね」
何気ない口振りで杉田が訊いた。僕は無愛想に頷いた。
「そうらしいですね。でも、彼女とはキャンパスが違うので」
「塾以外の場所で会ったことは?」
「名上さんとですか? それはありません」
きっぱりと否定する。僕はもともと名上遥香とは親しくなかった。彼女が所属している教育学部は、僕たちの通う理工学部のキャンパスから電車で二駅も離れている。同じ大学の学生といっても、ほとんど交流がないのが実情だ。
「森川くんの欠勤の理由は聞いてるかな?」
「食中毒と聞きましたけど。腹を壊して病院に担ぎこまれたとか」
「なるほど。それは調べてみよう」
そう言って杉田は荻原に目配せする。しかし彼らが森川の事情をそれほど重要視していないことは明白だった。彼らが気にかけているのは、僕が彼の代役だったという一点だけだろう。
もしも僕が本当に森川の代役で、かつ名上遥香を殺した犯人だった場合、その犯行は突発的なものだった可能性が高くなる――そんなふうに思われているのだろうと思う。
「済まなかった。話を戻そう。十六時四十分の試験開始時刻には名上さんは確実にまだ生きていた、ということだったが……」
杉田が記憶を辿るように目を細めた。
「すると問題は彼女がいつ殺されたのか、ということになる。きみたちが彼女の死に気づいたのは、試験終了の直後で間違いないだろうか?」
「そうですね。十八時ちょうどを過ぎて一分は経っていなかったと思います」
本来ならすぐに用紙を回収するはずの彼女が動かなかったことで、僕たちは異変に気づいたのだ。最初に気づいた生徒が悲鳴を上げるまで、三十秒もかかっていないはずだった。
「それまでに異変に気づいた者は?」
「いません。少なくとも僕は気づきませんでした。正直なところ、僕は名上さんが居眠りをしていると思っていたので」
「……居眠り?」
「はい。あまり褒められたことではないですけど、試験監督は暇ですからね。わざわざ起こすほどでもないと思って」
ばつの悪い表情で僕は答えた。警察に責められることではないのだが、明らかな職務怠慢だ。僕の落ち度といわれても仕方がない。しかし杉田は黙って頷き、
「そのときにはもう彼女は殺されていたと考えてもいいのかな」
「そうなのかもしれません」
僕は慎重に言葉を選びながら答えた。名上遥香が居眠りしていると思ったのがいつからだったのか、正確な時刻を訊かれてもたぶん思い出せないと思う。
杉田は、わざとらしく考えこむような表情を浮かべてみせた。
「いずれにせよ、名上遥香さんが殺されたのは八十分間の試験時間の出来事ということになる」
「異論はありません」
「その間に教室にいたのは、きみ以外に塾生が八人だけだね?」
「そうですね。殺された名上さんを別にすれば」
「……その十人のほかに教室に入ってきた者はいただろうか?」
「いなかった、と思います。あの教室には人が隠れられる場所はありませんし、試験前に教室内の様子は確認していますから」
「試験中に講義室に出入りしたという可能性はないのかな」
「それは、かなり難しいと思います」
僕はしばらく考えて、そう結論した。杉田が怪訝そうに眉を上げた。
「なぜ?」
「雙羽塾の講義室はだいたいどこもそうなんですけど、わりと気密性の高いスチール製の扉で、開け閉めの際に音がするんです。休憩中の騒がしい時間ならともかく、試験中の静かなときに出入りすれば必ず誰かが気づきます」
塾生たちは試験問題に集中していたはずだが、それでも大きな音がすれば無意識にそちらに目を向ける。誰かが気配を殺して入ってきたとしても、八人の生徒のうち、一人も気づかないという可能性は少ないだろう。
「なるほどね……あの部屋には、前後の二カ所に出入口があったはずだが」
「扉はどちらも同じ作りですね。僕が講義室を出て戻ってきたとき、扉の音で顔を上げた何人かの塾生と目が合いました――」
「待ってくれ」
杉田が驚いたように僕の言葉を遮った。
「もしかして、きみは試験中に講義室の外に出たのか?」
「はい。あれはたしか十七時を少し過ぎたころに。教務課に行きました」
「なぜ?」
「試験が始まって二十分経ったので人数の報告に」
荻原が、メモを取る手を止めて困惑の表情を浮かべた。僕は包帯を巻いた手で、寝癖のついた髪を掻き上げた。説明するのが面倒臭い。
「昨日の試験では二十分までの遅刻が認められていたんです。逆にいえば、それを過ぎた時点で受験者の人数が確定するので、それを教務課に報告して、余った試験用紙を返却するという作業があったんです。試験監督の義務として」
「そういうことか」杉田が頷いた。「すると……きみが講義室を離れている間は、名上さんが一人で試験監督を?」
「そうなりますね」
「そのときに名上さんとは挨拶しなかった?」
「教室の出入りのときにですか? いえ、特には。僕が教務課に行くのは最初に打ち合わせてありましたし……そういえば、そのときには彼女はもう居眠りを始めていたような気が……」
「本当に?」
「いえ……」僕は首を振った。「会釈しても彼女が僕のほうを見なかったというだけなので、確実なことはなにも言えませんけど」
「そうか」
杉田はなぜか愉快そうに笑って頷いた。冷ややかな悪意を感じる笑みだった。
「きみが講義室を離れていた時間はどれくらい?」
「往復で五、六分だと思います。エレベーターが空いていましたから」
「途中で寄り道は?」
「いえ。特には」
「きみが講義室を離れた五分間ほどの時間に、名上さんが殺された可能性はあるだろうか?」
「……それは僕ではなく試験を受けていた塾生たちに訊くべき質問だと思います。少なくとも誰か講義室に入ってきた人間がいるなら、彼らがそれを見ているはずなので」
「うん。もちろん彼らの話は聞いてる」
杉田が僕をからかうように目を細めた。
「試験監督の二人と試験を受けた塾生八人。それ以外の人間は、あの講義室では見ていないと全員が証言している。きみが講義室を離れている時間について特に質問したわけではないが、それを訊いてもたぶん結果は同じだろうね」
「でしょうね」と僕は同意した。
それを聞いた杉田は一瞬、面食らったような表情を浮かべ、それから声を上げて笑い出した。荻原が杉田をたしなめるように渋面で睨む。
「きみは変わっているね、高須賀くん。なかなか興味深い」
「……なんのことですか」
僕は憮然と彼を見返した。杉田はさらにくつくつと失笑し、
「いや、もちろん貶《けな》しているわけではないよ。感心しているんだ。きみは冷静だし、頭がいい。本当は気づいているはずなのに、その場凌ぎの言い逃れをする気配が一向にないからね。うん、こちらもそれなりに誠意をもって話をしたほうが良さそうだ」
「…………」
僕は黙って杉田を見返した。杉田は一人で納得したように頷き、
「名上遥香さんが死んだときの状況はこうだ。十六時四十分から、十八時までの試験時間中に、彼女は何者かに殺された。その間、講義室内には八人の塾生と試験監督だけがいて、それ以外に入ってきた人間はいない。さっきのきみの話だとそういうことになるね」
「そうですね」僕は認めた。
「その証言を信じるなら、名上さんを殺せる人間はきみを含めた講義室内の人間だけ、ということになる」
「はい」
「では、塾生の中の誰かが試験中に名上さんを殺す方法はあるだろうか? きみはどう思う?」
「不可能です」と僕は迷わずに答えた。「塾生は四人ずつ一列に横に並んで、前後二列で試験を受けていました。誰かが試験中に立ち上がったら、試験監督が不在の時間でも、必ず同じ列の誰かに気づかれます」
E442教室の座席は、教壇を中心にして扇形に配置されていた。たとえ後列に座っていても、完全に誰かの死角になるということはあり得ない。
「なるほど」杉田が満足げに頷いた。「それでは、八人の塾生全員が共犯だとしたら?」
「……共犯?」
「全員で口裏を合わせて犯人を庇っているということだね。きみが講義室を離れた五分ほどの時間を利用すれば、名上さんを殺すのはそれほど難しくない」
「それは不可能ではありませんが、現実的ではないと思います。理由がありません」
「理由?」
「雙羽塾は基本的に少人数制ですから、八人の塾生はクラスメイトというわけではないんです。あの日、たまたま同じ教室で試験を受けることになったというだけの関係です。たとえ誰かが名上さんに怨みを抱いていたとしても、ほかの七人が協力する理由がありません。少なくとも、五分で全員を説得するのは無理でしょう」
「妥当な判断だね」
杉田は本気で感心したように呟いた。彼の口元からは、いつの間にか笑みが消えていた。
「だが、そうなると、名上さんを殺害できた人間は、ほかに一人しかいなかったことになる。名上遥香の同僚の試験監督。つまり……」
「僕、ですね」
うんざりした気分で僕は答えた。杉田は黙って頷いた。
死体の状況からして、名上遥香は自殺ではない。自分の頭を殴って即死した人間が、凶器を処分するのは不可能だからだ。誰かが彼女を殺したのだ。
一つの部屋に十人の人間。一人が殺されて、それ以外の八人は犯人ではない。ほかに部屋に出入りした人間もいない。すると当然、残る一人が犯人ということになる。ごく簡単な推論だ。
「試験監督だったきみは、講義室の中を歩き回ることができた。試験中に怪しまれることなく名上遥香に近づける唯一の人間だ。たまたま試験会場を割り振られただけの塾生たちよりは、アルバイトの同僚であるきみのほうが殺害の動機についても疑わしい。それにきみには凶器を処分する機会があった」
「え?」
僕は思わず訊き返した。杉田は人の悪そうな笑みを浮かべ、
「きみは教務課に報告に行くために試験会場を一度離れた。そのときに凶器を隠すことができたはずだ」
僕は唇を歪めて杉田を見た。どこかしら不自然な気がするが、否定するだけの根拠はない。
「……それだと僕は、十六時四十分から十七時までの二十分間で名上さんを殺したことになりますけど」
「そうだね」杉田は認めた。
「司法解剖で犯行時刻はわからないんですか?」
「いや、さすがに分刻みで死亡時刻の推定を出すのは無理だよ。どうしても前後一時間程度の誤差は出る。ただし、確実にわかることもあるけどね」
「わかること?」
「たとえば薬物が検出された場合だね」
「……杉田さん」
それまで黙って聞いていた荻原が、ぼそりと杉田を咎めるように言った。杉田は、いいんだ、というふうに荻原に掌を向けた。
「薬物?」
僕は表情を険しくした。殺された名上遥香の体内から、薬物が検出されたというのか?
「睡眠薬だよ」
杉田は答えた。
「市販の、効き目の強くないやつだが、きみもさっき言ってただろう。試験監督は退屈だって。それなりに効果が出たのではないだろうか」
「じゃあ、名上さんが居眠りしているように見えたのは……睡眠薬が?」
「彼女は犯人の接近には気づかなかったし、殺される瞬間も悲鳴を上げることはできなかったのではないかと思う」
「…………」
僕は無言で唇を引き結ぶ。驚いていたのだ。たしかに今回の殺人は不可解な事件だったが、鈍器で殴るという荒っぽい手口からして、もっと衝動的な犯罪だと思っていた。
しかし事前に被害者に薬物を盛っていたとなると話は別だ。
名上遥香が試験監督をしてる最中に殺されることも、そして殺害可能な人間が僕以外に存在しないという事態も。すべてが最初から綿密に計画されていた、ということになる。
これは罠なのだ。獲物を殺し、愚かしい囮《おとり》の動物を捕らえるための罠。
そして僕には、その罠から逃れるすべが何もない。
「今までの話で、何か言いたいことがあるだろうか?」
杉田が穏やかな口調で訊いてきた。
答えは最初から決まっていた。静かに頷いて僕は一言だけ告げる。
「僕は彼女を殺していない――」
名上遥香が殺された夜。
事情聴取は長くかかったが、結局は日付が変わる前に解放されることになった。
僕は名上遥香を殺していない。はっきりとそう主張すると、警察としてもそれを覆すだけの論拠は持ち合わせていないらしかった。
たしかに疑われても仕方がない状況ではあった。事件現場は試験中で外部からの侵入が極めて困難だったし、そこで唯一怪しまれることなく自由に動ける人間が僕だった。
しかし講義室に外部からの侵入者がなかったと証明する手段はないし、僕が名上遥香に近づくのを目撃した塾生もいない。凶器も発見されていない。
さすがに、その状態で僕の身柄を拘束できるとは警察も考えなかったらしい。いつでも連絡がとれるようにしておけと何度も強く念を押され、ようやく帰宅が許された。
真夜中過ぎに、疲れ果てた姿で僕は自宅に辿り着いた。そしてそのまま泥のように眠った。
翌朝、悪夢にうなされながら目を覚ますと、簡単に身支度だけを調えて僕は大学に向かった。
行き先は写真部の部室だった。どうしてもその日のうちに現像しておきたいフィルムがあったのだ。薬液を用意して準備を整えたところで、食事に出かけた。昨日の昼間から何も食べていなかったことに気づいたからだ。事件のせいで食事どころではなかったのだ。
簡単に腹ごしらえを済ませて戻ってくると、部室の前には意外な人が待っていた。
「――亜沙子先輩?」
驚いて足を止める僕を見上げ、彼女は微笑んで手を振った。
そこそこに美人だが、化粧っ気のあまりないボーイッシュな女性だった。実験の途中で抜け出してきたのか、白衣を羽織った胸元にノートパソコンを抱えている。彼女は電気電子工学科の大学院生なのだ。
目の下にうっすらと隈が浮いているのは昨日の事件のせいだろう。亜沙子先輩はバイト講師のまとめ役で、遥香とも割合に親しかった。事情聴取から解放された時間は、僕よりも遅かったのではないかと思う。
「どうしたんですか、こんなところで」
出がけに施錠していった部室の扉を開けながら僕が訊くと、
「昨日の話をするために決まってるでしょう。名上のこと、きみ以外に相談できる人がいないんだから」
そう言って彼女は怒ったように息を吐く。僕は首を傾げて彼女を見た。
「相談ってなんですか?」
「いろいろよ。名上を殺した犯人のこととか、今後の身の振り方とか」
「身の振り方?」
「講師を辞めるってこと。人死にが出た塾でなんかこれ以上は働けないでしょう。生徒だって減ると思うしさ。あーあ、あのバイト、給料良かったのにな」
大げさに嘆く亜沙子先輩の姿に僕は苦笑した。
彼女は僕のあとに続いて堂々と部室に入ってきた。亜沙子先輩は写真部員ではないが、たまに僕に会うために、こうして部室に遊びに来ることがあった。
ちょうど瞑が僕の前から姿を消した頃からだ。
そもそも僕が彼女と親しくなったきっかけが、瞑の失踪だったのだ。瞑が退塾したのを機に、雙羽塾の講師を辞めようとした僕を、亜沙子先輩が強引に引き留めたのである。
同じ時期に亜沙子先輩はつき合っていた男性と別れたらしく、寂しい者同士、仲良くしようというのが彼女の主張だった。僕はべつに瞑と交際していたわけではないのだが、面倒なので敢えて訂正はしなかった。
「そうだ、いちおう確認しておくけど、きみが名上を殺したわけじゃないわよね」
部室のパイプ椅子に深々と腰掛けたあとで、思い出したように亜沙子先輩が訊いてきた。
「違いますよ」僕は投げやりに返事をした。「それに、もし僕が本当の犯人だったとしても、自分から殺したなんて言うわけないじゃないですか」
「ああ、そうね。それはそうだわ」
彼女は納得したように深く頷いた。どうやら、僕が遥香を殺した犯人だと本気で疑っているわけではないらしい。
「だったら、誰が名上を殺したんだと思う?」
「わかりません」僕は首を振った。「ただ、外部の人間ではないですよね」
「あ、そうか」亜沙子先輩が頷く。「ゲートチェックがあるものね」
「ええ」
雙羽塾にはICカード方式のセキュリティがあり、外部の人間は建物に入れないようになっていた。清掃業者などのスタッフも同様だ。ゲートをくぐった人間は、それが誰であれ入退出時刻が自動的に記録される。塾長といえども例外ではない。
「ということは犯人は、あの時間に雙羽塾にいても不自然ではない人物か……でも、あれって、いちばん塾生が多い時間帯だったわよね。該当者が二、三百人はいたんじゃない?」
「そうですね。でも逆に言えば、その中に確実に犯人がいるということになります」
「うん……でも、だったらどうして、そんなところで名上を殺したのかしら?」
「あの教室で殺したかったから、じゃないですか」
僕は素っ気なく返事をした。
なんだか瞑の言いそうなことだな、と自分でふと思った。自分でも知らないうちに彼女に影響されているのかもしれない。
亜沙子先輩が愉快そうに笑った。
「面白いことを言うね、高須賀くん。あの教室で殺すことに何か意味があった、ってこと? たとえば見せしめとか、復讐とか」
「そうですね。または、あの教室で名上さんを殺すことで、犯人にとって有利なことがあったのかもしれない」
「有利なこと?」
「自分が犯人だと疑われないとか、誰かに罪を押しつけることができるとか」
「すごいね……」
亜沙子先輩が、ほぅ、と息を吐いた。
「罪を押しつけられる誰かって、それって自分のことでしょう。よくそんな冷静でいられるね」
「冷静じゃないですよ」
僕は自嘲気味に微笑んだ。ただ慣れているだけだ、と言いかけて言葉を呑みこむ。
殺人事件の現場には何度も足を運んだことがあるし、過去に一度だけ、本物の殺人犯と対話したこともあるが、そういえば自分が容疑者になったのは初めてだった。僕はこれまで何の根拠もなく、自分はただの傍観者だと信じていたのだ。傷つくことを厭わずに事件と対峙して、誰かを救おうとしていたのは瞑だった。そして彼女はもういない。
「高須賀くんって名上とは仲良かったんだっけ?」
亜沙子先輩が頬杖をつきながら訊いてきた。
「いえ。そんなには」
「そっか。じゃあ、彼女が殺された理由はわからない?」
「そうですね」
「あたしは男性関係だと思うんだよね」
「何か知ってるんですか?」
「うん、まあね……あの子、昔あたしがいたサークルを潰したことがあるのよ」
「潰した? 何か不祥事を起こしたってことですか?」
僕が怪訝顔で訊き返すと、
「不祥事って、きみね、高校野球じゃないんだから」
亜沙子先輩がけらけらと肩を揺らして笑った。
「よくある話よ。同じサークルの中で次々に男を乗り換えて、そのたびに中の雰囲気が悪くなっちゃってさ。わりと居心地のいい音楽関係のサークルだったんだけどね。最後はもう泥沼よ。あたしは院生だから直接は関係なかったんだけど……」
「そのときの関係者が雙羽塾に……?」
「ううん。さすがにそれはない。でも、そういう子だから、あたしたちの知らないところで似たような問題を起こしてても不思議ではないかなって」
「ああ……」
僕は頷いた。しかし名上遥香を殺害した動機は、あまり重要ではないだろうと思う。問題は、なぜ彼女が殺されたのか、ということではない。どうやって誰にも気づかれずに彼女を殺せたのか、ということだ。それが説明できない限り、僕にかけられた嫌疑が晴れることはない。
「それでさ、きみはこれからどうするつもりなの?」
亜沙子先輩が、ふと顔を上げて訊いてきた。
「暗室に籠もります。現像したい写真があるので」
僕は部室の奥の小部屋を指して言う。先輩は薄く溜息を漏らし、
「そういうことじゃなくて、犯人のこととか、雙羽塾のバイトはどうするの?」
「犯人を捜すのは警察の仕事だし、どうせ僕たちは現場には入れてもらえないと思いますよ。余計なことをして変に疑われたくないですしね」
「まあね……それはそうだけどさ」
「バイトのほうは、べつにどうでも。無理に続ける理由もないし」
「ふうん」
亜沙子先輩が憮然とした表情で呟いた。
それきり彼女は何も言わなかったので、僕は暗室に入ることにした。亜沙子先輩はしばらく不機嫌そうに何かぶつぶつと呻いていたが、
「またあとで来るわ」
やがてそう言い残して立ち去った。
写真部の部室で火災が起きたのは、それから二時間ほど後のことだ。
炎は部室棟の三分の一ほどを焼き尽くし、僕が意識を取り戻したときには、そこに置かれていたすべての写真は灰になっていた。
電話をかけてくるよ、と言って荻原が退席した。杉田は無言だ。仕方なく僕が会釈して恰幅のいい刑事を送り出すことになる。
それから僕は、ベッドサイドに置いたヘッドフォンをぼんやりと眺めた。
機械を剥き出しにしたような、銀色のごついヘッドフォンだ。
かつて斎宮瞑という少女が使っていたものと同じ型を、気まぐれに買い求めたやつだった。部室の焼け跡で、なぜか無傷で焼け残っていたのを皆瀬が持ってきてくれたのだ。
皆瀬梨夏というのはうちの大学の特任准教授なのだが、とにかく不思議な女性だった。
警察関係者に顔が利き、法科学の専門家というだけでなく、彼女自身、怪しげな武術のようなものを使う。三日前の火災の現場から、僕を連れ出してくれたのも彼女だった。消防士たちですら二の足を踏む猛火の中へと平然と飛び込み、何事も無かったかのように僕を担いで出てきたらしい。
命の恩人ではあるのだが、散々恩着せがましいことを言われた上に、高価なディナーを奢る約束までさせられた。今ひとつ素直に感謝する気になれないのが、ある意味、彼女の人徳かもしれない。
「――火災の原因は、漏電だったそうだね」
しばらく無言で僕を見ていた杉田が、ふと思い出したようにそう呟いた。
「漏電?」僕は首を傾げた。
「おや、聞いてなかったのか。直接の出火原因は、きみたちの部室にあった電気製品らしいよ。そういうのは後で調べてわかるものらしいね」
「……ガス漏れではなかったんですか」
ずっとガス爆発だと聞かされていたので少し戸惑う。杉田は大げさに首を振り、
「いや、それはまた話が別。ガスの出所はカセットコンロのボンベだったそうだ。焼け跡から破裂した残骸が見つかっている。たぶん口金が歪んでガスが漏れてたんだろう。漏電の火花で引火した、というところかな。ガスの臭いには気づかなかった?」
「写真の現像中でしたから。薬液の臭いが強くて」
「換気扇は?」
「もちろん回してました」
「そうか。きみの怪我がその程度で済んだのは、そのせいかもしれないね」
杉田が妙にすっきりと腑に落ちたような口調で言った。
「カセットコンロは以前から部室に?」
「ええ。撮影旅行に持っていくことがあるので。あとは花見で使ったり」
「なるほど。楽しそうだ」
無表情のまま杉田は頷く。
「するとコンロの存在は部員なら誰でも知っていたわけだ。きみも含めて」
「そうなりますね。ただ、ガスボンベは置いてないはずだったんですけどね」
「そうか。ほかには? なにかお友達から聞いているだろうか?」
「ええまあ……部室の修繕に関しては大学側の火災保険が下りそうだと聞きました。コンロの持ち込みには厳重注意があったそうですけど、重大な過失や故意ではない、ということで」
僕が説明すると、杉田は皮肉っぽく微笑んだ。
「故意ではない……か。それはどうだろうね?」
「どういう意味ですか?」
「さっきも少し話したけれど、きみが誰かに命を狙われたという可能性はないかな」
僕は困惑気味に首を振った。
「それは、絶対にあり得ないとは言いませんけど、狙われる理由を思いつきません」
「名上遥香さんが殺された事件について、きみが何か重要なことを知っている、と考えるのは、それほど突飛な話ではないよね」
杉田は少し意地の悪い表情を浮かべている。
「たとえば、きみが犯人を庇っているというのは? いや……きみが犯人の共犯者だった、と考えるほうが自然かな」
「共犯者?」
「試験監督だったきみが協力すれば、試験中の塾生に気づかれずに講義室を出入りすることができるのではないかな。こういうのはどうだろう。きみが教務課に報告に行くときに、当然、講義室の扉を開けるよね」
「そのときに僕と入れ替わりで犯人が講義室に入ってきて、名上さんを殺した、と?」
僕は失笑した。呆れるのを通り越して少し感心する。
「よくそんなことを思いつきますね」
「現実的だとは思っていないよ。ただ、可能性は否定できないからね。今の時点では」
そう言って杉田は冷ややかに唇の端を吊り上げた。
「それにね、外部の人間の犯行だと立証できれば、きみにとっても有利になる」
「…………」
僕は何も答えなかった。講義室の外に犯人がいないのなら、僕が名上遥香を殺した犯人ということになる。訊き返すまでもない、当然の理屈だった。
杉田が続けた。
「だが、そうではなかったというのなら、きみたちの部室で起きた火災についても、少し意味合いが変わってくるだろうね」
「え?」
「正直なところ、我々はあの火災を起こしたのはきみ自身ではないかと疑っている」
「僕が……部室に火を?」
さすがに驚きを隠せなかった。あの状況では殺人犯として疑われるのは仕方ないと思うが、放火の嫌疑は予想外だ。笑い出したくなる衝動を堪えて、僕は呆然と声を震わせた。
「どうしてそんなことに? 僕はあの火事で危うく死にそうになったんですが……」
「それが目的ではないのかな」
杉田は冷淡な微笑を浮かべている。
「事故の被害者として扱われれば、殺人犯として疑われることはなくなる。たとえ火災で命を落としても、殺人犯の汚名を着せられることはないだろうね」
「……自殺が目的だったということですか?」
「結果的にそうなっても構わない、ときみが考えていたとしても私は驚かないよ。殺人事件の現場に居合わせた人間が、その翌日に火災に巻きこまれる――偶然だと考えるのは少し都合が良すぎないだろうか」
「それはそう、ですが……なぜ火災を? 事故の被害者を装うだけなら、もっと確実な方法がある気がしますけど。自殺するにしても苦痛ですよね、焼死は」
僕は薄く溜息をついた。生物は本能的に火を恐れるというが、間近で体験した火災の恐怖は、今になって思うと想像を絶するものがあった。呼吸すらままならず、自由に動けない我が身を焼かれるという絶望感。望んで体験したいものではない。昨今増加する自殺者の中でも、焼死を選ぶ者は極めて少数派なのではないだろうか。
しかし杉田は余裕の表情で首を振った。
「それは事故に遭うのが二義的な目的だったからだよ。きみの本当の目的は別にあった」
「僕の目的?」
警戒の色を浮かべて訊き返す僕を楽しげに眺め、
「きみには隠さなければならない秘密があったのではないだろうか」と杉田は言った。
「なんのことです?」
「写真だよ」
「写真?」
「失礼とは思うが、きみのことを少し調べさせてもらった。きみには殺人事件の現場を訪れて写真に収めるという趣味があるそうだね」
僕は黙った。ヒヤリとした感覚が背中を駆け抜けた。
身に覚えのある話だった。異常犯罪や猟奇事件に、僕は尋常ではない関心を抱いている。殺人者の残り香を辿る腐肉食動物のように、彼らの犯行現場を訪れたりもする。それ以上の行為に対する渇望は今はない。おそらく僕は殺人者ではなく、被害者に近い側の人間なのだ。恐怖から逃れようと足掻《あが》くために、必死で殺人者の心を覗きこもうとしている。
しかし、その背理した感覚を他人が理解してくれるとは思えない。
表情を強張らせた僕を、杉田は静かに見据えて勝ち誇ったように笑い、
「一般的にあまり褒められた趣味とはいえない。裁判所あたりの心証は良くはないだろうね。そうなる前にきみは写真を処分しようとしたのではないだろうか。些か乱暴な手段を使って」
ストックされた写真を焼き捨てるために、部室を焼いた。杉田は婉曲にそう主張しているのだ。そして僕にはそれを否定する材料がない。火事が起きたのは、最後の訪問者である亜沙子先輩が立ち去った二時間後で、その間、僕はずっと一人きりで作業をしていたのだから。
「今のところ根拠のないただの推論だけどね」
そう言って杉田は表情を柔らかくした。
「裏付けを取るのはそれほど難しいことではないと思う。次に来るときには、もう少しはっきりしたことが言えるようにしておくよ。その前にきみの方から連絡をくれれば、手間が省けて幸せだと思うよ。お互いにね」
「自首しろ、と仰りたいのですか?」
無感情な声で僕は訊いた。杉田は立ち上がって曖昧に微笑んだ。言いたいことを言って気が済んだのだろう。荻原が戻るのを待たずに帰るつもりらしい。
「僕は彼女を殺していない――」
溜息混じりに僕は告げた。
「残念だ」
独り言のように呟いて、杉田が僕に背中を向ける。
病室のドアがノックもなく乱暴に開けられたのは、その直後だった。
荻原が戻ってきたのだと僕は思った。
もちろん杉田も同じことを考えていただろう。たしかに病室の前の廊下には、荻原が困惑した表情で立っていた。ほっそりと小柄な人影と共に。
「きみは……?」
杉田が怪訝そうに眉を顰《ひそ》めた。
小柄な影は答えない。荻原刑事をまるで家来のように従えて、そのまま無造作に病室に足を踏み入れる。艶やかな髪が翼のように広がる。その光景を僕は呆然と見つめた。
長い純白のコートを羽織った女性だった。歳はせいぜい十代後半。少女と呼んでも通用する幼い顔立ちに、大人びた涼しげな瞳が印象的だ。
引きずっていたキャリーバッグを、彼女は空いているベッドの上に荒っぽく投げ出した。
その取っ手に巻きつけられた航空会社の保安シールに気づいて、僕は驚く。出発地として記されていたのは、アメリカ東海岸の空港名を表す略号だったからだ。
そして彼女は自分の耳元を覆っていたアクセサリを、鬱陶しげに引き剥がした。
銀色のごついヘッドフォンだった。
立ち尽くす杉田を押しのけるようにして、彼女は僕のベッドへと歩み寄る。なぜか怒っているような冷淡な目つきで僕を見下ろし、淀みなく澄んだ声で、叱責するように言い放った。
「――なぜ生きているの、スカ」
僕は言葉もない。
杉田たちも呆気にとられている。スカというのは高須賀という苗字を捩《もじ》った僕の渾名だが、この状況では罵倒されているようにしか聞こえないだろう。
その酷い名前で僕を呼ぶのは、この世に二人しかいない。
名付け親である皆瀬梨夏と、その友人――斎宮瞑だった。
「瞑……」
僕はひび割れた声で呟いた。
見慣れた制服姿ではなかった。髪も少し伸びている。ずいぶん痩せたようにも思う。しかしどこか現実感の乏しい、人形のような美貌は間違いなく僕の知っている彼女だった。
三カ月前に姿を消したきり行方の知れなかった、かつての教え子。全国模試で常にトップを張っていた、元雙羽塾主席の優等生だ。
間の抜けた表情で見上げる僕を、瞑は苛立ったように睨みつけ、
「あなたが、事故に遭って死にかけているって……梨夏さんに言われて、私は……なのに……」
怒りで声を出せずにいる瞑の言葉を聞きながら、僕は何となく事情を察していた。
瞑の従姉がアメリカの大学で働いていると、皆瀬梨夏から前に聞いたことがあった。両親の離婚を機に行方知れずになった瞑は、それからずっとアメリカにいたのだろうか。
そして僕が事故に遭ったと聞かされて会いに来てくれたのか。
いつも恐ろしいほどに頭が切れる彼女が、そんな簡単な嘘に騙されて。
「なに笑ってるの!」
瞑が握っていたヘッドフォンを僕に投げつけた。僕は肩を震わせて、必死で笑いを堪えている。
杉田も、そのあたりでようやく我に返ったらしい。瞑の前に割りこむように立ち塞がり、
「きみは誰だ?」
高圧的に問い糾《ただ》そうとした。
「あなたこそ誰?」
瞑は路肩の石ころを見るような視線を、杉田に向けた。杉田は気圧されたように言い淀み、代わりに答えたのは荻原だった。
「警察だ」
「そう……その警察が怪我人の病室に何の用?」
「わ、我々は殺人事件の捜査をしている。すまないが、高須賀くんの友人なら、きみにも少し話を聞かせて欲しいのだが」
気を取り直すように咳払いして杉田が言う。瞑は表情を硬くし、可愛げのない口調で、
「こんな人と友達になった覚えはないわ」
僕は思わず苦笑する。
「しかし……」
無理もないことだが、杉田は途方に暮れた表情を浮かべた。瞑は溜息。
「私の話を聞いている暇があったら、さっさと犯人を捕まえたら?」
「そのためにこうして事情を聞きに来ている」
さすがに杉田もムッとしたようだった。それでも瞑は表情を変えない。
「事件があったのは知っているわ。雙羽塾で講師の女子大生が殺されたのでしょう」
「あ、ああ……そうだが……」
「犯人を捕まえたいのなら、こんなところをうろついてないで、音響機器の業者に聞きこみをすれば? さしあたって大学の研究室に出入りしている業者あたりから」
「……待ってくれ。それは、なんのことだ?」
虚を衝かれたように杉田が目を瞬く。長身の彼が、華奢な少女に振り回されている様子は、不謹慎だが見ていて少し面白い。普段なら瞑に言い負かされるのは、彼ではなく僕の役目で、だから余計にそう思えた。瞑の異様とも思える洞察力に、普通の人間はついて行けないのだ。
「容疑者の中に音響用のアクティブ・アクチュエータを買った人がいるはずだから」
「アクティブ……?」
「薄型スピーカーを製作するための部品。ありふれた電子部品だけど、個人向けに多く出回っているわけではないから、証拠としてはそれがいちばん手っ取り早いと思う」
「なんだって……?」
杉田は軽く混乱しているようだった。それは荻原も同様だ。僕にも瞑が何を言っているのか、わからない。犯人がその電子部品を使って、名上遥香を殺したとでもいうのだろうか。
しかし瞑はそれ以上は説明しようとせず、再び僕を見下ろした。
「そういえば、スカ……あなたが火事に遭う前に、写真部の部室に来客があったわね?」
きっぱりと断定する口調だった。
僕が何も答えられないでいると、瞑は念押しするように繰り返す。
「あなたに会いに来た雙羽塾の関係者がいるでしょう」
「え、ああ……うん」
あまりにも唐突だったので、思い出すのに少し時間がかかった。そう。たしかにあの日は、亜沙子先輩と話をした。だがしかし、なぜ瞑がそのことを知っている――?
驚いているのは杉田たちも同様だ。火災の前に僕を訪ねてきた雙羽塾関係者がいたことは、警察も知らなかった情報なのだから。しかもそれを指摘することに、どのような意味があるのか僕たちにはわからない。
困惑する僕と二人の刑事が見守る中、
「その人が雙羽塾で起きた殺人事件の犯人よ」
彼女は事も無げにそう言った。
「事件のあらましは、梨夏さんにメールで教えてもらったの」
瞑は気乗りしない様子だったが、二人の刑事に執拗に請われて、渋々最初から説明を始めた。
杉田は彼女に椅子を譲り、病室の壁際に立っている。彼は今も割り切れない様子で、憮然と腕を組んでいた。荻原は黙って額の汗を拭っている。
瞑は面倒臭そうに目を閉じたまま天井を見上げ、
「名上遥香が殺された事件は、たった一つの条件を除けば、とても単純よ。犯行があったのは、十七時からの五分間弱の間。後ろ側の扉を開けて講義室に入ってきた犯人は、眠っている被害者の頭を持っていた凶器で殴りつけた。そのまま入ってきた扉から出て行った――それだけ」
「なんだって……?」
杉田が苛立たしげに瞑の説明を遮った。
「待った。そんなはずはない」
「どうして?」
涼しげに瞑が問い返す。杉田は酷くやりにくそうな調子で、
「犯行時刻については、まあ、いいとしよう。高須賀くんが不在だったのは、その時間だけだから」
「ええ」頷く瞑。
「しかし、犯行現場になった教室は試験中だったんだ。扉が開いたり、頭蓋骨が陥没するほどの殴打を加えて、誰も気づかないはずがない」
瞑が、やれやれと首を傾げた。
「なぜ気づかないと言い切れるの?」
「気づかないほうがおかしいだろう。試験中とはいえ……いや、試験中だからこそ異様な物音がしたら反射的に振り返るのではないだろうか。一人、二人なら聞き落としがあるかもしれないが、あの講義室には八人もの塾生がいたのだから」
「ええ、そうね」
瞑はおっとりと上品に微笑んだ。
「それは逆に言えば、こういうことではないかしら。異様な物音がしない限り、塾生たちには背後を振り返る理由がなかった」
「え……」
杉田は不意打ちされたような表情になった。
瞑は更に微笑みを増す。
「人間の感覚というのは意外に鋭敏で、目を閉じていたとしても、空気の震動や音の反響で、他人の存在や動きがわかることがある。だけど逆に言えば、音が聞こえない限り他者の気配に気づくことはできないんです。それともオーラや霊感なんてものを信じておられます?」
「いや、しかし……」
杉田は声をかすかに上擦らせた。
「音がしなかったというのはどういうことだ。あの部屋には音を遮る道具や間仕切りのようなものはなにもなかった……」
瞑がゆるゆると首を振った。
「先ほどあなたはスカ……高須賀くんに面白い仮説を話していたわね」
「仮説?」
「高須賀くんは犯人の共犯で、彼が教務室に報告に行くのと入れ替わりに犯人が教室に入ってきたのではないか、と」
「ああ。しかし、それは……」
「どうして、そんな突飛な仮説を思いついたのかしら」
瞑の鋭い質問に、杉田の表情が強張った。少し皮肉っぽい笑顔で瞑は目を細め、
「高須賀くんが犯人だと疑っているのなら、わざわざそんな面倒な状況を仮定する必要はない。もしかしてあなたは、高須賀くんに隠していることがありませんか?」
「なんのことだろうか?」
杉田が声を震わせた。それを無視して瞑は続けた。
「あの日、雙羽塾では隣の教室でも同じ試験が行われていた」
「あ、ああ」
「たとえば、隣の教室で試験を受けていた塾生が、十七時から十七時五分までの間に、異音を聞いていたのではないでしょうか。E442教室の扉が開いたり、もしかしたら誰かが殴られたような音を」
うっ、と杉田が息を呑んだ。荻原も驚きをはっきりと顔に出していた。
僕は唖然として瞑の横顔を見つめた。
名上遥香が殴られたときの音を、隣の教室にいた塾生たちが聞いていた? 同じ部屋にいた塾生たちの誰も気づかなかったというのに?
瞑は悠然と頷いて続けた。
「だからあなたは、その時間、教務課にいた高須賀くん以外の共犯者の存在を仮定しなければならなくなった。犯行時刻が十七時からの五分間だと特定できていたから」
「ああ……」と杉田が弱々しく呻く。
「だけど、本当はそんなことを考える必要はなかったの。犯人は彼が不在の間に、堂々とE442教室の扉を開けて中に入り、目的を果たしたのだから」
「どういうことだ、瞑?」
僕は驚いて彼女の言葉を遮った。
「E442教室で試験を受けていた塾生には、犯人の気配や犯行時の物音が聞こえなかった。だけど余所の教室にいた生徒には、それが聞こえていたというのか。それは矛盾だろう」
「いいえ、それでいいのよ」
瞑の回答は明快だった。
「E442教室の塾生にだけ、犯人の出した音は聞こえなかった。それがあの教室に仕掛けられたトリックの正体なの」
「馬鹿な……あのだだっ広い教室の中で音を消すなんて……」
そう呟いたきり、杉田が絶句する。
瞑は薄く溜息をついた。出来の悪い教え子を相手にしている家庭教師のような嘆息だった。
「べつにめずらしい技術じゃありませんよ。ほら、そこにも見本があります」
「み、見本……?」
杉田が瞑の視線を追って頭を巡らせた。そこには、さっき彼女が僕に投げつけた銀色のヘッドフォンが転がっていた。
「このヘッドフォンのことを言っているのか?」
疑わしげな口調で杉田が言った。瞑は頷き、
「それはただのヘッドフォンじゃありません。ノイズキャンセリング機能がついているんです。飛行機や地下鉄のような騒音の大きい乗り物の中でも、快適に音楽が聴けるように、騒音を聞こえなくするアクティブノイズコントロールという技術です」
「騒音を……聞こえなくする技術だって?」
ぽかん、と杉田が口を開けた。
僕は黙って聞いていた。ようやく瞑が考えていることが、少しだけわかってきた気がする。
瞑は壁に寄りかかりながら、面倒臭そうな口調で、
「べつにヘッドフォンでなくてもいいんです。音というのは波ですから。山を削りだして海を埋め立てるように、逆位相の波をぶつけてあげれば消えてしまいます。高級車の中には運転席に不快なエンジンの音を伝えないように、この機能を搭載した車種があるし、高速道路の防音壁やビルの排気ダクトにも同様の技術が使われた例があります」
「しかしそんな高度な技術を、一般人が使えるわけが……」
信じられない、という表情で杉田が呻いた。瞑はちらりと白い歯を見せて笑った。
「原理的には単純です。人工的に作った逆位相の音を、スピーカーから流してやるだけ。材料が少し特殊ですけど、電子工作に慣れた人なら簡単に自作できますよ」
どこか懐かしいヘッドフォンを彼女は拾い上げる。
「ただしアクティブノイズコントロールは万能ではありません。すべての音を打ち消せるわけではないし、打ち消せるのは基本的に音源の位置に対して一つの方向だけ」
瞑は音の広がりをイメージさせるように、左右の掌をハの字に開いて見せた。つられて杉田が同じポーズをする。
「E442教室の場合は、それでも特に問題はなかった。なぜなら騒音《ノイズ》が発生するのは講義室の後方だけ。致命的な騒音《ノイズ》の発生源となる扉や被害者の位置も、講義室の構造も、塾生たちの着座位置もすべてあらかじめわかっているのだから。実験場としては理想的な環境です」
そういうことか、と僕は頷いた。
ついでにいえば、犯人は、納得がいくまで何度でも実験を繰り返すことができたはずだ。殺害計画の当日でさえ、ギリギリまでやり直すチャンスがあったのだ。教室に忍びこんだ時点で、塾生の誰かに気づかれたら、何食わぬ顔で計画を中止すればよかったのだから。
「おそらく塾生たちの耳には、犯人が立てた物音は、どこか遠い別の教室の音に聞こえたはず。耳栓越しに聞いた音のように。だから振り返る理由はなかったし、特に記憶にも残らなかった」
「……だけど、アクティブノイズコントロールの効果の外にあった隣の教室には、はっきりと音が響いていたわけか」
僕がぼそりと呟くと、瞑は黙って肩をすくめた。そういうこと、とでも言いたげな懐かしい仕草だった。
「犯人が試験中の講義室を殺人の現場として選んだのは、そのほうが安全だという自信があったからでしょうね……実際に警察は、こうして名上遥香と同じ教室にいた無関係のバイト講師を疑っていたのだから」
「高須賀くんに罪を着せるために……わざと密室状況を選んだわけか」
杉田が悔しそうに顔を歪めた。犯人の企みを見抜けなかった上に、それを二十歳近くも年下の少女に指摘されたのだ。さぞ腹立たしいことだろう。僕は少しだけ彼に同情する。
「しかし、その……ノイズコントロールにはスピーカーが必要なのだろう? 現場にはそれらしいものはなにもなかったが……」
それまで黙って聞いていた荻原が、ぼそり、と唐突に呟いた。杉田がハッと顔を上げた。
たしかに荻原の言う通りだった。瞑の主張が正しかったとして、名上遥香を殺害したあとで、犯人にはスピーカーを持ち出す手段がなかった。殺害現場にそんな不自然な電子機器が置かれていれば、当然、警察の捜査で発見されているはずである。
しかし瞑は自信に満ちた表情で首を振る。
「いえ、スピーカーはありました。おそらくは別の姿に偽装して」
「はあ……偽装……」
荻原が間の抜けた相槌を打った。瞑は微笑して、
「私も三カ月前までは雙羽塾に通ってましたから、講義室の作りはよく覚えています。講義室の壁には、連絡事項の伝達や掲示物を貼りつけるためのホワイトボードがありますね?」
「あ、ああ……」
「たぶんそれがスピーカーです」
「え?」
「パネルスピーカーというのがあるんです。普通のスピーカーのような磁石ではなく、磁歪《じわい》素子や圧電素子というものを使います。それらの素子で出来たアクチュエータを裏面に貼りつけるだけで、ただのアクリル板などがスピーカーに変わります。アクチュエータの厚みは……そうですね、ものによっては数ミリ程度から」
「数ミリ……」
荻原は感心したように呟き、手帳にそれを書き留める。杉田は無言だ。数ミリ程度の厚みで済むのなら、瞑が言うように余裕でホワイトボードの裏側に仕込むことが可能だろう。
そして名上遥香は、そのホワイトボードの前に置かれた椅子に、何も知らずに座っていた。
そこは殺人者の音と気配を消し去るように設計された、静寂の密室だったのだ。
「亜沙子先輩が……それを仕組んだのか?」
頼りない声で僕は独りごちた。それを聞き咎めて、瞑が振り向いた。
「それが、火事の起きた日に写真部の部室に来た人の名前?」
「ああ……」僕は虚ろな表情で言った。「そういえば名上遥香が殺された日に、欠席した別のバイト講師の代わりに、僕に試験監督を依頼してきたのも彼女だった」
そして亜沙子先輩は、電気電子工学専攻の大学院生だ。スピーカーの自作程度の電子工作は、彼女にとっては朝飯前だろう。
「そう」
瞑がすげなく頷いた。なにかに納得したような表情だった。
「だけどなぜだ……僕に罪を着せようとしたのなら、なぜ彼女は僕を殺そうとした?」
「そうね」
瞑が長い溜息をついた。
「口封じにしてはずいぶんお粗末な計画だと思ったけれど、予定外だったんだわ。あなたの行動が。彼女はスカのことをよく知らなかったのよ」
「……予定外? 僕が?」
「ええ。その人はあなたを殺すつもりではなかった。罪を着せようと思っていただけ。でも、名上遥香の死体を見つけたあと、あなたが予想外の行動をとったせいで彼女は写真部の部室を燃やさなければならなくなった」
「どういうことだ、それは?」
杉田が真剣な顔で身を乗り出してきた。
僕は慌てて首を振った。瞑が何を言おうとしているのか、僕にもさっぱりわからない。
「証拠が残ってしまったのよ」と瞑は答えた。「彼女にとって致命的な証拠が」
「何のことだ?」困惑して訊き返す。僕にはまったく心当たりがない。
「写真よ」と瞑。
「……写真?」
怪訝そうに呟いたのは杉田だった。瞑は頷き、
「あなたも彼の趣味をご存じなんでしょう。彼には、殺人事件の現場を写真に撮りたがる変な性癖があるんです」
「あ、ああ……それは知っているが」
「そんな人が目の前で変死体を見つけたら、何をすると思います?」
「え……あ、まさか……」
杉田が驚いて振り返る。僕は座りの悪い気分で目を逸らした。
瞑が呆れたように長い溜息をつく。
「そう。彼は、写真を撮ったんです。名上遥香さんが殺された現場の写真を。嬉々として」
「……そこに……なにかが写っていたのか。犯人にとって致命的な何かが」
絶句していた杉田が、しばらくしてようやく訊き返した。
「たぶんマイクだと思います。ワイヤレスの」
「……マイク?」
「アクティブノイズコントロールは、原理的に周囲の音を拾うためのマイクが必要なんです。その音を打ち消す逆位相の音波を生成するために。それだけはホワイトボードの裏に隠すわけにはいかなかった」
瞑は、そう言って握っていたヘッドフォンを僕たちの前に差し出した。同様の原理で動いている彼女のノイズキャンセリング・ヘッドフォンにも、やはり音を拾うためのマイクが内蔵されていた。音を再生するだけの普通のヘッドフォンには必要のない装備だ。
「マイク自体は、警察が到着する前に犯人が回収しておいたのでしょう。だけど、彼の撮った写真には、それがはっきり写っている可能性があった。もしその写真を警察が証拠として差し押さえたら、あの教室に仕掛けられたトリックに誰かが気づくかもしれなかった」
「そういうことか……」
無数のノイズが打ち消されて、シンプルな旋律が紡ぎ出されていくような新鮮な感覚を僕は味わっていた。
アクティブノイズコントロールは、瞑の言うように、特殊な技術ではないのだろう。しかし、それを雙羽塾の講義室に設置できる人間は限られている。ホワイトボードを調べれば使われた部品がまだ残っているだろうし、販売経路を調べればいずれ犯人に行き着くだろう。
事件現場の写真を撮る僕を見たときの、亜沙子先輩の驚いた顔を覚えている。
僕は元々、急病で入院した森川の代役だった。そしてその代役が気まぐれに撮影した写真が、犯人の唯一の誤算。致命的な証拠品になったのだ。
「しかし……伊藤亜沙子のアリバイは我々も一応調べている」
杉田が弱々しい最後の抵抗を見せた。
「あの火災が発生した時刻、彼女はゼミの講義に出ていたんだ。証人も大勢いる。火災現場で時限式の発火装置のようなものが発見されたという報告も受けていないし」
「そうか」
僕も思い出した。
亜沙子先輩が部室に来たのは、火事が起きる二時間以上前のことだ。その間、部室には何の異変もなく、僕は黙々と暗室作業に没頭していた。彼女が放火犯だと考えるのは無理がある。
しかし瞑はあっさりと首を振り、
「そんなの簡単よ。現場にはガスが充満していたんでしょう。そして現像液を使っていたスカは、その臭いには気づかなかった。あとはほんの小さな火種を作ってあげればいい。たとえば携帯電話やノートパソコン。濡らしたり、破損して変形したバッテリーを充電すれば、そのうち高温になって発火する可能性が高い。現場に彼女が残していったものはない?」
「あ……」
僕は小さく息を呑んだ。写真部の部室を訪れたときに、亜沙子先輩が抱えていたノートパソコン。彼女が部室を出て行くときに、彼女はそれを持っていただろうか……?
青ざめる僕の顔を眺めて、瞑はつまらなそうに首を振った。
そして唖然としている二人の刑事の顔を見比べ、少し挑発的に優雅に問いかける。
「なにかほかにご質問は……?」
「本当に……どうしてまだ生きているのかしら」
病院の屋上に寝転んだまま、瞑は憮然とつぶやいていた。
春の風はまだ冷たいが、夕陽が霞んだ空を赤く染めて美しい。
無造作に脚を投げ出す瞑の隣で、僕は苦笑混じりに彼女を見つめる。妙に懐かしく居心地のいい感覚だった。時差ボケで眠いと主張する瞑のために、こっそり病室を抜け出してきたのだ。
「ごめん。心配かけたみたいで」
いちおう素直に礼を言ったつもりだったが、
「心配なんかしてないわ。もともと飛行機の中では眠れない体質なの」
瞑は素っ気ない口調でそう言った。あまりにも彼女らしい言い草に僕は思わず失笑し、瞑がムッと唇を尖らせる。
「言っておくけど、あなたを心配して帰国したわけじゃないのよ。せめて葬儀に参列くらいはしようと思って」
「ああ。うん、ごめん」
僕は肩をすくめて笑う。真面目な態度を装っても、思わず口元が緩んでしまう。
「もう、なにがそんなにおかしいのよ」
瞑はふて腐れたように寝返りを打った。艶やかな髪がさらさらと流れ落ち、赤くなった彼女の頬を隠す。彼女の手の中で大きなヘッドフォンが、鈍く銀色に輝いていた。
しばらく無言でそれを眺めたあと、僕はぼそりと独りごちた。
「亜沙子先輩はどうして名上遥香を殺したんだろう……」
瞑は何も答えない。
杉田刑事から連絡があったのは、ほんの十五分ほど前のことだった。
警察から任意同行を求められた亜沙子先輩は、あっさりと罪を自白したのだそうだ。部室の火災で僕が生き残ったのを知ったとき、いずれ捕まることを予期していたのかもしれなかった。
しかし彼女の動機は今も不明のままだ。
名上が亜沙子先輩の昔のサークルを潰したのが原因だったのかな、と僕が呟くと、バカね、と瞑が寂しげに笑った。
「名上遥香が次々に彼氏を乗り換えたってことは、その男を好きだったほかの女から奪ったということでしょう。好きな相手を奪われた中の一人が伊藤亜沙子だったとしても、私は不思議とは思わないわ」
「ああ……そうか」
僕はようやく思い出す。
たしかに亜沙子先輩は彼氏と別れたばかりだと言っていた。ちょうど瞑が失踪したあの頃に。だから彼女は寂しい者同士で仲良くしようと僕に言ってきたのだ。
そんな僕の呟きを聞きつけて、瞑がふと僕を見上げてきた。そして妙に弾んだ声で、
「ふうん。あなたも寂しかったんだ?」
「いや、違うよ。それは、亜沙子先輩が……」
咄嗟《とっさ》に言い繕おうとした言葉を、僕は途中で呑みこんだ。僕を見つめる瞑の大きな瞳が、笑っているのがわかったからだ。まあいいか、と僕は思う。
両親が離婚で揉めていたこの三カ月ほどの間、彼女はやはりアメリカの従姉のもとに身を寄せていたのだそうだ。異国の空気に触れたせいか、最後に彼女を見たときの悲壮な雰囲気は影を潜め、代わりに開き直ったような前向きな明るさが感じられた。
従姉の影響なのかもしれない、と思う。あの皆瀬の高校時代の友人だったというだけでも、彼女の人柄が知れようというものだ。
「……これからどうするんだ、瞑?」
何気ないふりを装って僕は訊いた。瞑はいつもの素っ気ない口調で、
「べつに決めてないわ。向こうにいるのも飽きたから、戻ってきてもいいとは思っていたけど。でも、日本の大学入試はもう終わっているのよね……」
失ってしまった季節を惜しむように、瞑が空へと両手を伸ばした。その指先にひらひらと降ってきたものがあった。雪の結晶のように思えたそれは花弁だった。淡く色づいた桜の花弁だ。
「そうね、とりあえずは浪人生かしら」
不意に楽しげな口調で瞑が言った。彼女は仔猫のように僕の膝に頭をすり寄せ、
「予備校に通うのもいいわね。ちゃんと講師をやってるスカも見てみたいし」
勘弁してくれ、と僕は呟いた。
瞑は華やかな微笑を浮かべ、僕の指になにかを引っかけた。
絶縁皮膜に覆われた灰色の細い紐。彼女のヘッドフォンから伸びるコードだった。
そして彼女はもう一方のコードの端を、自分の左手の小指に搦めた。
その指を空に掲げて彼女は笑った。
赤い糸を見つけた幸せな少女のように――
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◆初出◆
T Crumbling Sky     「ジャーロ」23 二〇〇六年春号
U 四番目の色が散る前に 「ジャーロ」24 二〇〇六年夏号
V Fallen Angel Falls  「ジャーロ」25 二〇〇六年秋号
W あなたを見ている   「ジャーロ」27 二〇〇七年春号
X 静かな密室      「ジャーロ」28 二〇〇七年夏号
三雲岳斗(みくも・がくと)
一九七〇年大分県生まれ、横浜市在住。九八年『コールド・ゲヘナ』で第五回電撃ゲーム小説大賞〈銀賞〉受賞。九九年二月、同作で電撃文庫よりデビュー。九九年『M.G.H.』で第一回日本SF新人賞、二〇〇〇年『アース・リバース』で第五回角川スニーカー大賞〈特別賞〉各受賞。ジャンルを超えて活躍する才気溢れる気鋭作家。近著に『旧宮殿にて』、『アスラクライン』シリーズなど。
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底本
光文社 単行本
少女《しょうじょ》ノイズ
著 者――三雲岳斗《みくもがくと》
二〇〇七年十二月二十五日 初版一刷発行
二〇〇八年 一月 十五日   二刷発行
発行者――駒井稔
発行所――株式会社 光文社
[#地付き]2008年7月1日作成 hj
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修正
ホワイトーボード→ ホワイトボード
置き換え文字
唖《※》 ※[#「口+亞」、第3水準1-15-8]「口+亞」、第3水準1-15-8
頬《※》 ※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]「夾+頁」、第3水準1-93-90
噛《※》 ※[#「口+齒」、第3水準1-15-26]「口+齒」、第3水準1-15-26
蝋《※》 ※[#「虫+鑞のつくり」、第3水準1-91-71]「虫+鑞のつくり」、第3水準1-91-71
顛《※》 ※[#「眞+頁」、第3水準1-94-3]「眞+頁」、第3水準1-94-3