レベリオン 彼女のいない教室
三雲岳斗
イラスト/椋本《くらもと》夏夜《かや》
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例) 恭介《きようすけ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)|緋村恭介《ひむらきょうすけ》
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(例)[#ここから目次]
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序 章
〜Prologue〜
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輸送機は日付変更線を越え、闇《やみ》の中をすべるように飛び続けていた。
天候は悪くないはずだが、貨物室に設けられた小さな窓では外の様子はわからない。偏西風に逆らっているせいか気流が悪く、不快な振動が絶え間なく続いている。
天井《てんじょう》の薄暗い機内灯が、密閉されたカーゴルームを弱々しく照らす。
広大なその空間は、本来、百名以上の降下兵を輸送するためのものだ。だが、今は違う。
攻撃ヘリ三機を同時に運搬できるという大型輸送機の貨物室には、わずか三名の乗客の姿があるだけだった。軍服に身を包みライフルで武装した二人の兵士。そして彼らに挟《はさ》まれて座る、東洋人の少女が一人。
少女は大きなヘッドホンを耳にあて、少しだらしない姿勢で仮設のベンチシートにもたれてもいる。胸元のヘッドホンステレオから漏れる液晶バネルの光が、暗い貨物室の中でちらちらと揺れて目障《めざわ》りだった。
その緑色の光が、不意に消えた。
舌打ちして、少女は乱暴にヘッドホンをはずす。どうやらプレーヤーの電池が切れたらしい。
わざとらしく大きなため息をついて、彼女はゆっくりと顔を上げた。
流れた前髪の隙間《すきま》から、血統のいい猫を思わせる、つり目がちの大きな瞳があらわになる。
「あと、何時間ぐらいかかるの?」
あまりうまくない英語で少女が訊《き》いた。もともとの癖《くせ》なのか、どこか投げやりで尊大な印象のしゃべり方だ。
少女の隣に座るケンダル二等|軍曹《ぐんそう》は、嫌悪感を押し殺した事務的な声で彼女に告げた。
「到着予定時刻は、現地時間の午前四時だ。まだ六時間ほどかかる」
少女は黙って肩をすくめ、不満そうな目つきでケンダルを見上げた。
「ったく、最悪よね。あと六時間も、こんな場所でどうやって暇をつぶせっていうのよ。そもそもなんで|C−17《グローブマスター》なわけ?|大統領専用機《エアフオース・ワン》とは言わないけど、せめて|政府高官輸送機《ナイチンゲール》くらい用意してくれればいいのに。こんな輸送機じゃ映画も観《み》られないっての。シートもかったいしさ」
少女の身勝手な言いぐさは神経に障《さわ》ったが、ケンダルはなにも言わなかった。相棒のソレル伍長《ごちよう》も唇《くちびる》を噛《か》んだまま黙っている。腹を立てているというよりも、彼は緊張しているようだった。それは自分もおなじだと、ケンダルは手のひらの汗をズボンでぬぐう。
少女は、そんなケンダルたちの反応には目もくれず、退屈そうに鼻を鳴らした。
武装した兵士に挟《はさ》まれていながら、彼女におびえた様子は微《み》塵《じん》もなかった。ひどく生意気で、勝手気ままに振る舞っているようにみえる。
その無邪気なほどの無警戒《むけいかい》さが、むしろ不気味ですらあった。どこからか取り出したメイク道具で、彼女は睫毛《まつげ》をいじり始める。やけに慣れたその手つきを見て、まるで娼婦《しょうふ》のようだとケンダルは思った。
はじめて会ったときから、気にいらない女だった。
皆瀬《みなせ》梨《り》夏《か》。それが彼女の名前だ。年齢《ねんれい》は十七|歳《さい》だと聞いている。国籍は日本。
東洋人は若く見えるといわれるが、彼女の場合はそれほど幼いという印象でもない。長身と、均整のとれたスタイルのせいだろう。コートの下には、ハイスクールの制服。やたらに短いスカートから、すらりとした脚が伸びている。
暗い色調で統一された軍用機の中、彼女の派手な容姿はあきらかに場違いで、異質だった。
「だいたいさあ、なんなの、あんたたち?」
その皆瀬梨夏が、顔を斜めに向けたままケンダルに訊く。
「ボデイガードがつくって聞いてたから、もっとハンサムな兄ちゃんかシブ中年みたいなのを期待してたのに。こんな汗くさそうなオヤジが二人なんて詐欺《さぎ》だわ。ウザい、もう。腹、たつ」
一方的な梨夏の言葉に、ソレル伍長がぴくりと頬を引きつらせた。その相棒を目で制して、ケンダルは忍耐強く告げた。
「ミナセ特捜《とくそう》官、現地との時差は十四時間だ。機内で少し眠《ねむ》ったほうがいい」
「それは、ご忠告どうも」
そう言って、梨夏は皮肉げな笑みを浮かべた。
「あんたたちもさぁ、いつまでライフルなんか構えてるわけ? そんなものおろして休んだら? 肩、こるでしょ?」
「気遣いには感謝するが、任務なのでな」
「任務ねえ」
「なにか?」
「べっつに。でもさ、任務って、そんなものでなにと戦うつもり? こんな誰も乗ってない輸送機の、どこに敵がいるっていうの?高度九千メートルで飛んでる飛行機を襲撃できる敵に、そんな銃で歯が立つと思ってるわけ?」
「敵なら、いるさ」
押し殺した声で、ソレル伍長《ごちょう》がつぶやいた。メイク道具をしまった梨夏《りか》が、怪訝《けげん》な表情で彼を見上げた。
「そう、敵はいる。我々人類の敵がな……」
ケンダルはライフルをおろし、かわりにホルスターから拳銃を抜き出した。銃口を、静かに梨夏のこめかみに向ける。安全装置《セフテイ》はすでに解除され、薬室《チェンバー》には初弾が装填《そうてん》されている。
護衛のはずのケンダルたちに銃を向けられても、梨夏は微笑を絶やさなかった。目を閉じて、あきれたように首を振っただけだ。
「なるほど、やっぱりね……あんたたち、統合計画局の人間じゃないとは思ってたんだ。あの連中が本気であたしを殺そうと思ったら、ミサイルかなんかでこの飛行機ごと撃ち落としてる。あんたたちみたいな雑《ざ》魚《こ》に任せたりはしない。あいつらは、あたしをそこまでなめてない」
「黙れよ、化け物」
ソレルが、ライフルを梨夏に向けながら|怒鳴《どな》った。がらんとした輸送機の機内に、その声が反響し、梨夏は小さく肩をすくめた。
「あたしを暗殺するのが、あんたたちの任務ってわけ? 背後にいるのは、人類至上主義者のヘストン上院議員あたり? それにしてもよく潜《もぐ》りこめたわね。非合法|特捜《とくそう》官の行動は、軍の第一級機密事項だと思ったけど?」
「貴様ら化け物をうとましく思っている人間が、統合計画局の中にもいるということだ」
「ふうん…でさ、あんたたちは恥ずかしくないわけ。こんなカヨワイ女の子に銃を突きつけて、かわいそうとは思わないの?」
「おまえは人間じゃないだろう?」
つぶやいて、ケンダルははじめて微笑《ほほえ》んだ。
「害獣を駆除《くじょ》するのに、心を痛める猟師《ハンター》はいない」
「なるほどね」
梨夏が苦笑する。もう一度、うんざりしたように首を振り、彼女はゆっくりと目を開けた。
「ま、そう言ってもらえると、あたしとしても気がラクだわ」
彼女の言葉を理解するよりも早く、ケンダルは引き金にかけた指に力をこめた。
レベリオン。R2と名づけられた未知のウィルスに感染することで、遣伝子レベルで進化をとげた新たなる生物。入類から生まれて、人類を滅ぼす者。反逆者《レベリオン》―
驚異的な治癒力《ちゆりょく》と、超人的な戦闘能力を持つといわれる彼らだが、この至近距離で頭を撃ち抜けば無事では済まないはずだった。だが、必殺の銃ロを向けられてなお、レベリオンの少女は笑っていた。
乱れた気流にあおられて、輸送機がかすかに揺れた。
その直後、ソレル伍長《ごちょう》の身体《からだ》がくずおれた。糸の切れた操り人形のように、硬直した肉体が力無く床に転がった。
「ソレル!?」
ケンダルは反射的に部下の名前を呼ぶ。
だが、そのときにはすでにわかっていた。ソレル伍長はすでに死んでいる。
空挺《くうてい》部隊の兵士として過酷な訓練を受けてきた彼を、皆瀬《みなせ》梨夏《りか》は、指一本動かさずに殺してのけたのだ。音もなく。にこやかに微笑《ほほ》んだまま。
「貴様、ソレルになにを―」
怒りと、底知れぬ恐怖に駆《か》られて、ケンダルは銃の引き金を引いた。いや、引こうとした。
けれど、右手に伝わってくるはずの反動はなかった。
銃声のかわりに響いたのは、拳銃が、ケンダルの右手首とともに床に落ちる鈍い音だった。
振り返った皆瀬梨夏の目の前で、ケンダルの右腕がなかばから綺《き》麗《れい》に切断されていた。その切断面はあまりにもなめらかで、痛みどころか、血の一滴《いってき》すら噴き出していない。
なにが起きたのかわからぬまま、ケンダルは絶叫した。
梨夏は、そんなケンダルを、冷めた表情で見つめていた。
銃を向けられていたときの姿勢のまま、彼女は微動だにしていない。悪戯《いたずら》っぽく細めたその瞳だけが、金色の強い輝きを放っていた。
それは、人にあらざる者の瞳だ。
「相手が悪かったわね、ケンダル軍曹《ぐんそう》」
淡々とした声で梨夏は言った。そして、ふっと表情をゆるめて口調を変えた。
「あたし、こういうのは慣れてんのよ。誰かに嫌われたり、いやがらせを受けたりっていうの。ていうか、もっと悲《ひ》惨《さん》な目に何度も遭《あ》ってんの。あんたたちのやり方はヌルいのよ」
「な……んだと……?」
感覚の麻《ま》痺《ひ》した右手を押さえたまま、ケンダルはうめいた。
目の前の少女に対して抱いていた嫌悪感は、圧倒的な恐怖に塗りつぶされていた。細胞のひとつひとつが理解していた。理性ではなく本能が告げている。こいつらは人類の天敵だ、と。
「あたしは違う。やられたぶんはきっちりやり返す。あたしを敵に回したこと、必ず後悔させてあげる。あたしは、あの子みたいに甘くない―」
「黙れっ!殺してやる……殺してやるぞ、化け物!」
ケンダルの耳に梨《り》夏《か》の声は届いていなかった。残った左手が、ナイフを抜いた。恐怖に支配された肉体の、無意識の反応だ。
それだけに迷いはなかった。訓練された兵士の身体《からだ》が殺人のための道具と化して、体重ではケンダルの半分にも満たない、ほっそりとした少女に襲いかかった。
「だからぁ、無《む》駄《だ》だって」
つぶやいて、梨夏は左目にかかっていた髪を払った。彼女の動きは、それがすべてだった。
突き出されたナイフを避けようとするでもなく、正面から相手を冷ややかに見《み》据《す》える。
その瞳がケンダルの姿を映したとき、ナイフを振りかざした彼の動きが凍りついた。
「|混 沌 の 瞳《ヴイジヨン・オブ・デイスオーダ》=\あたしの能力《ちから》は、すべてのレベリオンのなかで、もっとも速い」
梨夏の声が、閑散《かんさん》とした貨物室の中で静かに響く。
その言葉が終わる前に、絶禽したケンダルが、ゆっくりと床へと倒れこんでいった。あまりにも静かで、あまりにも迅速《じんそく》な殺戮《さつりく》だ。
投げ出されたケンダルのナイフが、床にぶつかり硬い音を立てる。それが消えると、あとには輸送機のエンジンが立てる低い音だけが残された。
梨夏は無表情に立ち上がり、座席の下に用意されていた毛布を動かなくなった彼らに被せた。
それから反対側の座席に移って、シートの上で膝《ひざ》を抱えた。
頼りない機内灯の下。流れ落ちる明るい色に染めた髪が、梨夏の表情を隠している。
「……ウザいのよ、あんたたち」
誰もいない貨物室に、背中を丸めた彼女のつぶやきが響いて消えた。
*
気だるい音色でチャイムが鳴って、ホームルームの終わりを告げた。
解放感にあふれた放課後の教室は、普段にもまして騒がしかった、先週末に行われた模試の結果が発表されたのだ。
緋村恭介《ひむらきょうすけ》は自分の席に頬杖《ほおづえ》をついたまま、なんともやるせない数字が印刷された成績表を見つめていた。思わず笑ってしまうほどの成績だ。あまりにも悲惨《ひさん》だったので、今さら落ちこむ気にもなれない。ここまで結果が最悪だと、かえって次はがんばろうと素直に思えた。
とはいえ、これは人には見せられないよなあ、などと考えていると、机の横に誰かが近づいてくる気配を感じた。成績表を握りつぶしながら顔を上げると、ショートカットの小柄な女生徒と目が合った。草薙《くさなぎ》萌恵《もえ》だ。
「どうだった、試験?」
萌恵に訊《き》かれて、恭介は首を横に振った。
「かなり、やばい。あとで不二子《ふじこ》ちゃんに呼び出されるかもしれない」
担任の英語教師の名前を出して額《ひたい》を押さえる恭介《きょうすけ》に、萌恵《もえ》は、あたしも今回はちょっと、と言って微笑《ほほえ》んだ。もともとの成績が違うのだから仲間意識を持ってもしょうがないのだけれど、なんとなくうれしくなって恭介は苦笑した。こんなふうに無条件に他入を明るくするカが彼女にはあると、恭介は思う。
「で、なんかあった?」
顔を上げて、恭介が訊《き》いた。クラスでは仲がいいと認識されている恭介と萌恵だが、それは恭介が事あるごとに口実を見つけて彼女に話しかけているからで、萌恵のほうから声をかけてくるのはめずらしい。
「来月の発表会、来てくれるって言ってたでしょう。チケットができたから、渡そうと思って」
「ああ、そうか。いくら?」
「七百円。だけど、二枚で千円でいいよ」
「二枚?」
萌恵が差し出したチケットを見て、恭介は首を傾《かし》げた。
市内の高校の音楽関係の部が合同で行う発表会。彼女は声楽部でピアノの伴奏をすることになっており、それを観《み》に行くと、以前から約束していたのだ。もちろん、ほかの友人連中とも一緒に行くことになっているのだが、彼らのぶんを恭介がおごる義理はないし、立て替えておくにしても二枚では足りない。
「あ、ええと、一枚は―」
困惑《こんわく》する恭介の表情に気づいたのか、萌恵は頭をめぐらせて教室の窓ぎわの席を見た。最前列から二番目の机。午後の日射しを浴びながら、栗《くり》色の髪の女子が一人、どこかぼんやりした表情で、教科書をカバンに詰めこんでいる。
「……香澄《かすみ》のぶん?」
恭介が、萌恵の言葉を引き継《つ》いで言った。萌恵は、小さくうなずいた。
「ちょっと待って、なんで俺《おれ》があいつのぶんまで?」
驚いて訊き返す。と、萌恵は複雑な表情を浮かべた。少し困ったように笑う。
「うん。どこがどうってことはないんだけど、彼女、なんとなく今日は様子が変だったから。緋村《ひむら》くんから渡しておいてもらえるといいかな、って」
「はあ……」
彼女の意図を把握《はあく》できないまま、恭介は暖昧《あいまい》にうなずいた。
たしかに香澄は今朝から少しおかしかった。いつになく機嫌がよかった、とでもいえばいいのだろうか。いつもより積極的に友人たちとの会話に加わっていたし、つまらないことでよく笑っていた。
どちらにしても、落ちこんでいるという感じではなかった。めずらしくはしゃいでいるな、と恭介《きょうすけ》は思っていたくらいだ。だが、萌恵《もえ》が変だというのなら、そういうことがあったのかもしれない。彼女はそういうことに敏感だ。
けれど、仮に、香澄《かすみ》に元気がないからといって、恭介が誘ったら喜ぶんじゃないかと思ってしまうあたり、勘違《かんちが》いしているよなあ、と思う。
恭介たちの関係は、そんな楽しいものではない。ごくあたりまえのクラスメイトですらない。
香澄は、レベリオンの能力を手にいれてしまった人間を監視《かんし》するために、アメリカ国防総省|直轄《ちょつかつ》の、生物戦防衛統合計画局という組織から送りこまれた非合法の特捜《とくそう》官。そして、恭介はその監視対象。それだけの関係に過ぎないのだ。
もっとも、そんなことを萌恵に説明するわけにもいかない。恭介は、素直に代金を払って、二枚のチケットを受けとった。
「わかった。いや、よくわからないけど、とにかくチケットは渡しとく」
「うん、ありがとう。じゃあ、あたし部活あるから、行くね」
そう言うと、萌恵は手を振りながら去っていった。
恭介は、彼女の後ろ姿をばんやりと見送っていたが、クラスメイトの津島麻子《つしまあさこ》がにやにやと笑いながら、そんな自分を見ていることに気づいて、顔をしかめた。恭介が萌恵に惚《ほ》れていることは、友人たちの間ではちょっとばかり有名なのだ。
ため息をついて立ち上がり、恭介は香澄の席に向かった。
香澄は自分の席についたまま、なにも書かれていない黒板をじっと見つめていた。恭介が近づいてきた気配にも気づかず、肩をたたかれて、ようやく振り返った。
「……恭介」
大きな瞳でまばたきしながら、隣に立つ恭介を彼女は見上げた。
思わず息を呑《の》むほどの整った顔立ちは、普段となにも変わらない。だが、いつもの、どこか張りつめたような表情ではなかった。強く、まっすぐな視線が影を潜《ひそ》め、かすかに微笑《ほほえ》んでいるようにも見える。
「これ、草薙《くさなぎ》さんから」
恭介は、受けとったばかりのチケットの片方を、彼女の前に差し出した。
「声楽部の演奏会だって。こないだ、行くって約束してただろ。代金は今度でいい」
香澄は、渡されたチケットを無表情にしばらくながめた。日付を確認してなにか言いたげに口を開き、結局なにも言わずにポケットにしまう。
「ありがと」
と、少し遅れて香澄はつぶやいた。
「あんたさ、もしかして、どっか具合でも悪い?」
恭介が訊くと、香澄は怪訝《けげん》そうに眉根《まゆね》を寄せた。
「べつに、平気。どうして?」
「いや……なんていうか、今日は影が薄いっていうか、威圧感が感じられないから」
半分は誇張だったが、残りの半分は本気だった。怒られるのを覚悟《かくご》していたが、相手の反応は予想外のものだった。香澄《かすみ》は、ため息をつきながら苦笑して言った。
「あなたって、ほんとうに失礼よね」
「……おまえ、やっぱ今日は変だぞ」
恭介《きょうすけ》はうめいて、香澄の机の上に腰をおろした。
「また事件が起きたってわけでもないんだろ。なんか悩みがあるんなら相談に乗るけど?」
「悩んでるわけじゃないわよ」
いつもの素《そ》っ気《け》ない口調で、香澄は言った。だが、それからすぐに、小さく笑って続けた。
「でも、せっかくだから、つきあってもらおうかな」
「どっか行くのか?」
めずらしいなと思いながら、恭介は訊《き》いた。レベリオンがらみの事件の最中をのぞけば、彼女のほうから、なにかを頼まれたことはあまりない。
「ええ」
香澄は一瞬、窓の外の景色に目を向けた。傾きかけた夕陽が、逆光になって市街地を照らしている。まぶしそうに目を細め、香澄は悪戯《いたずら》っぽく笑って言った。
「そうね……そう、カラオケとか」
*
通学バスは、夕方の混みあった道路をのろのろと進んでいた。
途中の停留所でほかの乗客はだいぶ降りたので、車内は比較的|空《す》いている。恭介たちは、誰もいない四人がけのシートを二人で占領して座っていた。香澄はみょうにぼんやりとした表情で、流れる道路脇の風景を眺めている。
「……やっばだめだ」
携帯電話を耳にあてたまま、恭介は首を振った。
ようやく応答した電話機から流れてきたのは、留守電センターの合成された応答メッセージだった。舌打ちして、恭介は回線を切断する。
「おまえさ、カラオケに行きたいとか、そういうことは、もうちょっと早く言えよな。ほかの連中が帰ったあとじゃなくてさ。今ごろ電話しても誰もつかまらないって」
「べつにいいの」
香澄は、文句を言う恭介を、不思議そうな顔で見た。
「あたしは、恭介の歌が聴きたかっただけだから」
「はあ……そうっすか」
なんだそれは、と思いながら恭介《きょうすけ》は言った。
元アマチュアバンドのボーカルとしては、歌を聴きたいと言われて悪い気はしないのだが、その言葉が香澄《かすみ》の口から出たとなると、驚きを通り越して少し不気味だった。統合計画局がらみの、新しいテストかなにかではないかと疑ってしまう。
「……だいたいあんた、日本のカラオケにはいってる曲なんか歌えるのか?」
恭介が訊《き》くと、香澄はきょとんとした表情で振り向いた。
「あたしも歌うの? どうして?」
「なんで俺《おれ》が一人で歌わなきゃならないんだよ。ジャイアンがリサイタルやってんじゃねえんだよ」
「ジャイアンって、なに?」
「なんでもない。とにかく、カラオケってのは、参加者みんなで歌うものなの」
「そうなんだ、じゃあ、やめよう。カラオケ」
「あぁ? なんなんだよ、いったい?」
恭介は目つきを悪くしてうなったが、香澄は気にしていないようだった。バスの窓越しに、駅前の、ひときわ高いオフィスビルをながめながら、彼女はぽつりとつぶやいた。
「あれ、のぼれるのかな」
「たしか、展望室があったと思う。あがったことはないけど」
「どうして?」
「金とるんだよ。けっこう高い」
シートの背もたれに肘《ひじ》をついて、恭介は短く言った。
エレベーターで地上五十階までのぼって、景色を見るだけで五百円というのは、高校生の身にはけっこうこたえる。しかも、見おろせるのが有名な観光地というのならともかく、自分の住んでいる見慣れた町では、ありがたみも薄れるというものだ。
だが香澄は、夕陽に照らされて赤く染まったそのビルを、名残惜しげにじっと見上げていた。
いつも苛立《いらだ》つほどにクールな彼女にしては、めずらしい表情だ。
「のぼってみるか?」
おあずけをくった仔犬《こいぬ》のようなその表情がおかしくて、軽い気持ちで恭介は言った。香澄が髪を揺らして振り返る。
「いいの?」
「べつにいいだろ。ほかに予定があるわけじゃないんだし」
そう言って、恭介はバスの降車ブザーに手を伸ばした。邪魔《じやま》な路駐車両の間に滑《すべ》りこむようにしてバスが停留所につけ、空圧シリンダーの作動音とともに乗降口のドアが開いた。ほかの乗客のあとについて、恭介たちは降車口に向かう。
バスを降りて最初に目にはいったのは、歩道脇にあるクレープ屋の屋台だった。
香澄《かすみ》が恭介《きょうすけ》を振り返って、笑った。
「恭介、お腹《なか》すかない?」
「あんた、ほんとによく食うよな」
恭介は苦笑して、屋台を取り囲む女子中学生たちの行列のあとに並んだ。香澄は、その隣で所在なげに立っている。そういえば、彼女と出会ったばかりのころ、やはりおなじようにクレープを買って食べたことがあるな、と恭介は思った。
「あたし、クレジットカードしかない。統合計画局名義の」
あまり表情を変えないまま、香澄が言った。これだからな、と恭介はあきれた。半年以上、学生のふりをしてだいぶましになったとはいえ、香澄の本職は非合法の特捜《とくそう》官というやつで、そのせいか、やはり彼女の生活感覚は普通の高校生と微妙にずれている。
どうやら統合計画局の連中は、女子高生が、米国防総省の名前がはいったクレジットカードで買い物したら怪しまれるとか、そういうことはあまり考えないらしい。
そういやこいつの生活費とかってどうなってんだろうな、と恭介は思った。もちろん必要な経費は統合計画局から支給されているのだろうが、それ以外の給料や、そういう体系のことはなにも聞いたことがない。休暇や勤務時間なんてものも、やはり決められているのだろうか。
そこまで思考がたどりついたところで、恭介は考えることをやめた。もし、香澄に特捜官として以外の生活が存在しないとしたら。そんなことを想像して怖くなったのだ。
「いいよ、おごってやる」
恭介は二人ぶんのクレープの代金を払って、片方の包みを香澄に押しつけた。なにか文句を。言われるかと思ったが、彼女は黙って目を細めただけだった。機嫌がいいのはけっこうなことだが、どうも調子が狂う。もう少しつっけんどんなほうが香澄らしい。
おなじように二名ぶんの入場券を買って、恭介たちはタワービルのエレベーターに乗る。展望ルームに直通のエレベーターは総ガラス張りで、足下へと流れていく外の景色を見渡すことができた。
巨大な夕陽が、ぎつしりと建ち並ぶビルの向こう側に沈もうとしている。透明な赤い光が、夏を待つ深く澄んだ空を染めている。
「あたし、昔、この町に住んでいたことがあるの」
上昇を続けるエレベーターの中で、ぽつりと香澄が言った。
恭介は振り返って、夕陽に染まった彼女の横顔を見る。香澄は無表情なまま、眼下に広がる高城《たかじょう》市内を見おろしていた。
「生まれたばかりのときだから、ほとんどなにも覚えていないんだけど。両親の仕事の都合で、すぐに引っ越したみたいだし。だけど、姉さん……真澄美《ますみ》は、たぶん覚えていると思う」
「それで、あの人はこの町を選んだのかな。脱走したあとの潜伏先《せんぷくさき》として」
「……かもね」
エレベーターが止まって、扉が開いた。
ほかに高いビルが少ないせいか、予想していたよりも見晴らしがいい。埋め立て地の向こうに、海が見える。ゆっくりと沈んでいく太陽を見ていると、時間が引き延ばされているような錯覚《さつかく》を感じることもできる。
ガラスごしに降り注ぐ夕陽で、展望室の白い墜が燃え立つようなオレンジに染まっていた。
香澄《かすみ》の髪が光にすけて金色に輝いている。恭介《きょうすけ》は、しばらくその姿から目が離せなかった。
光の中で香澄は振り返り、小さく微笑《ほほえ》んで、言った。
「ありがとう、恭介」
香澄が両手で抱いているクレープのことだと思って、恭介は肩をすくめた。
「いいから、早く食えよ。中のアイス、溶けるぜ」
「うん」
香澄は、穏やかに笑って目を伏せた。太陽が完全に沈み、空と海の輪郭《りんかく》がわからなくなってしまうまで、彼女はそこから離れようとしなかった。
それは恭介が、統合計画局非合法|特捜《とくそう》官の少女と過ごした最後の記憶《きおく》だ。
香澄がいなくなったと知らされたのは、その翌朝のことだった。
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1.緋村恭介の章
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Since You Went Away
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教室の雰囲気は、明らかにいつもと違っていた。
朝の予鈴が鳴る直前だ。ほとんどの同級生が顔をそろえて仲のいい者で集まり、それぞれの会話でもりあがっている。誰かが走り回る足音がする。普段よりも少しだけ騒がしい教室。
恭介《きょうすけ》が扉を開けたとき、そのざわめきが一瞬、途切れた。
クラスメイトたちのひかえめな視線が自分に集中するのを感じて、恭介は思わず足を止めた。
慣れない感覚に、眉《まゆ》をひそめる。なにかいやな予感がした。
「緋村《ひむら》、ちょっといい?」
最初に話しかけてきたのは、津島麻子《つしまあさこ》だった。クラスが違うはずの市《いち》ノ|瀬潤《せじゅん》も一緒である。
どちらかといえばマイペースで、他人のことにはわりあい無頓着《むとんちやく》な二人組だ。けれど、なぜか今日は二人とも怖い顔をしている。
「ああ……?」
恭介はとりあえず自分の席に荷物を置いた。隣の席の西崎綾子《にしざきあやこ》が、なにか訊《き》きたげな顔でこちらを見上げていた。わけがわからないまま、恭介は、麻子たちに連れられて廊下に出る。
「なんだよ、いきなり?」
さすがに不安を感じながら、恭介は訊いた。二人がなにも言わずにじっと自分のことを見ているので、白然に、追いつめられたような形で廊下の壁に背中をつける。
「緋村《ひむら》は、知ってたの?」
静かな声で、麻子《あさこ》が訊《き》いた。
「なにを?」
「香澄《かすみ》のこと」
「あいつがどうかした?」
なるべく平静なふりをして、恭介《きょうすけ》はとぼけた。香澄には人に言えない秘密が多すぎて、急に訊かれても、それがなにを指しているのかわからない。だが、麻子が次に続けた言葉は、恭介にとっても意外なものだった。硬い口調で、彼女は言った。
「あの子、学校をやめるって」
「は……?」
恭介はぽかんと口を開けた。そんな恭介の瞳をのぞきこむようにして、麻子がじっと睨《にら》んでいた。黒目がちで一重のシャープな印象の瞳。古風な雰囲気を漂《ただよ》わせた彼女の表情は、恭介をからかっているような感じではない。
「……なんだよ、それ?」
「職員室で聞いたの。ご両親の仕事の都合で、アメリカに戻ったんだって。休学扱いだけど、こっちに戻ってくるかどうかはわからないって。知ってて黙ってたんじゃないの、恭介?」
「アメリカに……帰った? 香澄が?」
恭介は呆然とそれだけつぶやいた。自分の口から漏れた言葉なのに、頭が理解できていない。
実感がまるでわかない。そんな恭介の反応をうかがいながら、麻子と潤《じゅん》は顔を見合わせる。
「ほんとうに知らなかったの、緋村?」
「聞いてねえよ。あいつ、どこにいるんだ?本人の口から説明させろよ」
「それができればやってる」
首を振ったのは潤だった。野性的に長く伸ばした髪を、苛《いらだ》立たしげにかきあげながら言う。
「彼女、来てないんだ。ロッカーの中身も空《から》だった。昨日の夜には日本を離れたって」
「……昨日? うそだろ……? だって、あいつ、そんなこと一言も……」
恭介は声を荒げたが、二人は表情を変えなかった。
「そう。あんたも聞いてなかったの」
麻子が小さくため息をつく。潤は両手を頭の後ろで組んで天井《てんじよう》を見上げた。彼らも、恭介がなにか情報を持っているのではないかと期待していたのだ。
「……あの子らしくないわね」
ぽつり、と麻子が言って、恭介は首を傾《かし》げた。誰にも、なにも言わずに突然いなくなるのは、むしろ香澄らしいと思ったからだ。だが、麻子に、そのことを問いただす余裕《よゆう》はなかった。
ホームルームの始まりを告げるチャイムが鳴り、クラス担任の教師たちが階段をのばってくる靴音が響く。潤《じゅん》が、ちっと舌打ちし、片手をあげて自分の教室に帰っていった。
恭介《きょうすけ》と麻子《あさこ》も教室に戻る。生徒たちはまだざわついていたが、担任教師の矢部《やべ》がやってくるころには、ほとんど全員が自分の席についていた。椅子《いす》の脚がぶつかる音。笑い声。起立、礼の号令が響く。めずらしく、遅刻してきた生徒はいない。一カ所だけ、ぽっかりと隙間《すきま》のできた場所がある。窓ぎわの、最前列から二番目の席。主《あるじ》をなくした香澄《かすみ》の机が、なぜかやけに小さく見える。それで恭介はようやく、自分がショックを受けていることに気づいた。
秋篠《あきしの》香澄《かすみ》はしばらく学校を休むことになった。
ショートホームルームが始まってすぐに、矢部はそう言った。それから簡単に事情を説明したが、それはクラスの全員がすでに知っている内容だったので、誰も、なにも言わなかった。
恭介は、ぼんやりと矢部の言葉を聞き流しながら、香澄のことを考えていた。
彼女がいなくなった本当の理由を、恭介は知っている。
そもそも彼女は、恭介を監視《かんし》するために、この学校に派遣されてきた特捜《とくそう》官なのだ。だから、彼女がいなくなったとすれば、それは彼女の所属する機関、統合計画局の指示だったということになる。それならそれで、いなくなる前に、恭介に一言あってもいいのではないかと思った。
それとも、なにも言わずに立ち去れというのが、彼女に与えられた命令だったのだろうか?
これから先の恭介の立場というのも微妙だった。監視役の香澄がいなくなったということは、恭介が、統合計画局の監視対象からはずれたということなのかもしれない。
だが、そのことで恭介がR2ウィルスに感染した事実が消えるわけではないし、レベリオンの能力が失われたわけでもない。それに、高城《たかじょう》市内に潜伏しているはずの、アーレンや真澄美《ますみ》たち脱走者が捕まったとも聞いていない。わからないことだらけだった。
ホームルームが終わって矢部が職員室に展っていく。恭介はすぐに携帯電話を取り出して、香澄の番号を呼び出した。呼び出し音が鳴る前に、回線がつながる気配があった。だが、聞こえてきたのは、その番号が解約されたことを告げる電話会社の無機質なメッセージだった。
「くそっ……」
予期していたことだが、やはり腹立たしくもあった。ふと考えて、恭介はもうひとつの番号を押した。リチャード・ロウ。香澄を監視する立場の、統合計画局のエージェント。彼ならば、今回の出来事にかかわる、すべてを知っているはずだった。
だが、携帯のスピーカーから、先ほどとまったく同じメッセージが流れ出したときに、恭介は軽い絶望を感じた。アレス部隊。あの怖ろしい強化服に身を包んだ暗殺部隊の連中を除けば、恭介と接触がある統合計画局の人間は、香澄とリチャード・ロウだけだ。その二人と連絡がつかないのでは、恭介にはどうすることもできない。
「いや……」
一限目の授業は現国だった。担当教師の永池《ながいけ》はまだきていない。恭介は、荷物をまとめて立ちあがった。もうひとつだけ、統合計画局の人間と接触する方法に心当たりがあった。
「緋村《ひむら》、どこ行く気?」
走りだそうとしたときに、制服の裾《すそ》をつかまれた。振り向くと、めずらしく心配そうな表情で麻子《あさこ》が恭介《きょうすけ》を見上げていた。
「香澄《かすみ》のマンションだ。あそこの管理人なら、なにか知ってると思う」
「そうか。最悪でも、転居先の住所くらいは聞き出せるかもね」
唇《くちびる》を押さえた麻子が、感心したようにつぶやく。それは望み薄だと思ったが、恭介は黙ってうなずいた。
「つうわけで出欠のほう、頼む。昼までには戻ってこられると思うけど」
「わかった。うまくごまかしておくよ」
微笑《ほほえ》む麻子に手を振って、恭介は扉に手をかけた。教室を出たところで、背後から声をかけられた。草薙《くさなぎ》萌恵《もえ》の声だった。
「緋村くん、待って」
ほかの人間が相手なら、急いでるからということで無視するところだが、彼女が相手ではそうもいかない。恭介は立ち止まって振り返る。
「これ、読んで」
萌恵が差し出したのは、一枚の小さな紙切れだった。息がかすかに弾《はず》んでいる。彼女の席は教室の反対側だ。恭介が出ていくのに気づいて、走って追いかけてきたらしかった。
「なに?」
恭介が訊《き》いた。萌恵はピンで綺麗《きれい》にまとめた前髪の下から、そんな恭介を見上げて言った。
「香澄の机の中に、これだけ残っていたの。なにかのメッセージみたいなんだけど、意味がわからなくて。もしかして緋村くんならわかるんじゃないかって」
「メッセージ?」
怪訝《けげん》に思いながら、恭介はその紙切れを受けとった。
大学ノートを切り取って、丁寧《ていねい》に二つ折りにしている。ただのメモ紙という感じではない。
手紙という表現が、いちばん近いような気がする。
だが、そこに書かれている内容は、手紙とはほど遠いものだった。
読み終えて、恭介は混乱した。どんな表情をすればいいのかわからず、萌恵を見る。彼女もひどく困った顔をしていた。
「なんだ……これ?」
「緋村くんにもわからないんだね。授業とも関係なさそうだし、ただの詩かなにかかな」
「さあ……なんで、あいつこんなもの……」
首を振って、恭介はもう一度、紙片《しへん》に目を落とした。そこに書かれていたのは、たった三行。
香澄らしい、融通《ゆうづう》のきかない几帳面《きちょうめん》な文字が並んでいる。
詩というよりも、まるで呪文《じゅもん》のようだと恭介は思った。家庭用ゲーム機のRPGに出てくるような。だが、香澄《かすみ》にそんな趣味があるとは思えない。クイズやゲームの類《たぐい》は、香澄の生活とは無縁だった。彼女が置かれている現実は、どんなパズルよりも難解だったから。常に。
けれど、あれほど周到に、誰にも気づかれないうちに自分の荷物を運び出していた香澄が、あえて残していったものだ。まったく意味がないとも思えなかった。
「これ、しばらくあずかってもいいかな?」
紙片《しへん》を元どおり二つ折りにしながら、恭介《きょうすけ》が訊《き》いた。萌恵《もえ》はためらうことなくうなずいた。
最初から、そのつもりだったのだろう。
「じゃ、ちょっと行ってくる」
恭介は、そう言って萌恵に笑いかけた。
今すぐにあわてて学校を抜け出さなくても、あと何時間かすれば授業は終わる。だが、それまで待てと、萌恵は言わなかった。恭介たちの知らないところで、なにかが激しく動いている。
そのことに、彼女も薄々《うすうす》気づいているのかもしれない。
進級して受験生になってからは控えていたが、授業を抜け出してさぼることには慣れていた。
途中でほかの学年の教師たちとすれ違いそうになりながらも、危なげなく校舎を脱出して、恭介は裏口からこっそりと学校を出ていく。校門のところまでたどり着くと、ちょうど生徒たちを降ろした最終の通学バスが通りかかったところだった。回送扱いになっていたそのバスに頼みこんで乗せてもらい、誰もいない座席で、恭介は香澄の残したメモを広げた。
たった三行。すべてカタカナで、それだけが書かれている。
詩とも、呪文《じゆもん》ともつかぬ謎めいた文章。筆跡が違っていたら、とても香澄の書いたものだとは信じられない、意味不明の文字の羅列《られつ》。どこか時代がかったその言い回しは、財宝のありかをしめした古文書のようだった。まるで、なにかの謎解きだ。謎解き―いや、
「暗号、か」
そう確信して、そして恭介はもう一度、ゆっくりと文面を読みあげた。
アルジナキネズミタチノヘヤニヒトリタツ
ミズカラヲカケルベキバショニテマツ
ミチビクモノハ カケタルツキノナマエ
2
その建物は、高城《たかじょう》市のほぼ中央に位置する高台にあった。
古い邸宅や、高級分譲マンションが建ち並ぶ閑静《かんせい》な住宅地だ。その中でも、ひときわ目立つ高い建物が、統合計画局の支部だと恭介は聞かされていた。一度だけ、香澄を送ってきたことがある。
地下の駐車場に続く入り口には、ものものしいシャッターが降りている。
恭介《きょうすけ》はやむを得ず、近くの歩道にバイクを止めた。ヘルメットを脱いで時計を見る。学校を出てから一時間以上が経っていた。バイクをとりにいったん家まで戻ったせいもあるが、道に迷ったのも事実である。記憶《きおく》力に自信があるわけではないが、おそらく、あえてわかりにくい場所にある建物を、統合計画局は選んだのではないか。そう考えて、自分をなぐさめた。
もとより一時間早くたどりついたところで、事態が好転していたとも思えない。
ぴりぴりとした緊張を感じながら、恭介はマンションの玄関に向かった。高級マンションの例に漏《も》れず、植えこみに挟《はさ》まれた扉はオートロックになっている。外来者は、インターホンで訪問先を呼び出して、開けてもらわなければ入れないというシステムだ。
「さて、どうするかな……」
つぶやいた自分の喉《のど》が、からからに乾《かわ》いていることに恭介は気づいた。無理もない。統合計画局について、恭介はあまりにも無知だ。得体の知れない連中の懐《ふところ》に、自分から飛びこもうとしているという予感がある。
それでも引き返そうと思わなかったのは、漠然《ばくぜん》とした怒りのせいだった。誰に対して怒っているのか、自分でもよくわからない。それでも香澄《かすみ》にもう一度会って、ひとこと文句を言ってやらなければ気がすまなかった。
インターホンの前に立って、恭介は一度息を吐《は》いた。このマンションに住んでいるのは統合計画局の人間だけだと、香澄は言っていた。ならば、呼び出すのは誰でもいいはずだ。適当にボタンを押そうとして、恭介は気づく。インターホンの電源自体が消えている。
「なんだ……?」
恭介は、周囲を見回してはっとした。
ガラス張りの自動ドアに張り紙がある。この手のマンションにつきものの、ゴミ回収日かなにかの連絡だと思っていたが、まったく違っていた。それは、恭介も名前くらいは知っている大手不動産屋の広告だった。それほど多くのこと載《の》っているわけではない。不動産屋の住所と遠絡先。それ以外に書かれているのは、管理地という白抜きの文字だけだ。
よく見れば、自動ドアの取っ手には不法侵入者をさけるための鎖《くさり》と、見るからに頑丈《がんじょう》そうな南京錠《なんきじょう》がかけられている。
「空《あ》き家《や》になってるっていうのか……? このマンション全体が!?」
冷たい感覚を背筋に浴びながら、恭介は立ちつくした。まるで、出来の悪い怪談の中に迷いこんだ気分だった。昨日までたしかにそこにあったものが、何の痕跡も残さず消えていく。
「冗談《じようだん》じゃないぜ……」
恭介は、ほとんど無意識に駆《か》けだしてマンションの裏側に回った。陽あたりのよさそうな、広々としたベランダが見える方角。だが、人の気配はまるで感じられない。ひとつとして開いている窓はないし、生活用品の類《たぐい》も見あたらない。
背の高いブロック塀《べい》に囲まれて、広い中庭が見える。簡単に乗り越えられる高さの塀ではないが、中に入りこめば、もう少し詳《くわ》しいことがわかるかもしれない。そう思ったとき、路上に停めてあった一台のバイクが目に入った。
逆輸入車とおぼしき大型車だ。朱《しゅ》色と黒に塗り分けられたスポーツバイク。速いことは速いが、あまり趣味がいいとはいえないタイプ。都合のいいことに、マンションの塀《へい》のすぐ隣。足場にしてくださいといわんばかりの位置に停まっている。
「悪い」
その場にはいない持ち主に謝《あやま》って、恭介《きょうすけ》はバイクに足をかけた。シートを踏み台にして、一息に塀を乗り越える。塀の上には、むき出しの黒いコードが、ひっかいた銃のように走っていて、恭介は思わずぞっ上した。一見してもわからないように偽装《ぎそう》されてはいたが、それが高圧電流を流すためのものであることは間違いなかった。だが、今はそのコードも使われていない。塀の両端に設置された監視《かんし》カメラも止まっている。
潜入工作中のスパイにでもなった気分で、恭介は庭の中を見回した。
手入れの悪い芝生《しばふ》が植わっているだけの殺風景な中庭。窓からのぞきこんだ一階の部屋に、人が住んでいる気配は皆無だ。螺旋《らせん》状の非常階段をのぼって、ほかの階に行く。
ベランダづたいにいくつかの部屋をのぞいてみたが、そのすべては無人だった。運び出すのが間に合わなかったのか、多くの部屋には、備えつけの家具がそのまま残されている。だが、ベランダ側のサッシには開閉された形跡がなく、床には埃《ほこり》がたまっていた。ほんの数日前まで決着もつけないままで終わらせるには、あまりにも犠牲《ぎせい》になったものが多すぎる。
統合計画局の人間と接触する方法が、完全に絶たれたわけではない。あとひとつだけ、試していない方法が残っている。
そう思って唇《くちびる》を噛《か》んだとき、突然、背後に入の気配が現れた。
「!?」
声を出すこともできなかった。振り返ろうとする前に右腕をとられて、恭介は身体《からだ》ごと壁に押しつけられた。頬《ほお》に、ざらついた壁の感触があたる。
「くっ……」
恭介は痛みに呻《うめ》いた。肩の関節が極められている。動けない。
唯一自由になる頭を動かして、自分を押さえつけている者の顔を見る。ライダース・ジャケットを着た若い男。知らない顔だ。彫りの深い、鋭い目つきをした日本人。
油断していたことを認めないわけにはいかなかった。サッシの鍵《かぎ》が開いていたときに、当然予想するべきだったのだ。恭介よりも先に、この部屋に侵入していた者がいることを。
「おまえ、何者だ? ここでなにをしていた?」
恭介が動けないのを確認しながら、男はゆっくりと間いかけた。
「そっちこそ……誰だよ? 統合計画局の人間か?」
苦痛を声に出さないよう努力しながら、恭介は訊《き》き返した。自分以外に、この場所を訪れる人間。ほかに心あたりはない。
だが、その言葉を聞いた瞬間、男の表情がはっきりと険《けわ》しくなった。
「……ただの高校生というわけじゃなさそうだな。答えろ、なぜその名前を知っている?」
問いつめる男の言葉は、彼の立場を明かす手がかりでもあった。背後から押さえつけられたこの体勢から、男に反撃する方法はない。普通ならば。だが、相手が恭介《きょうすけ》の正体を知らないのなら話は別だ。普通の人間では不可能な動きが、今の恭介には、できる。
焼けた鉄に触れてしまったときのように、頭よりも先に身体《からだ》が反応した。
眠《ねむ》っていた能力が目を覚ます。可逆《かぎやく》性のファージ変換。人間の身体に擬態《ぎたい》していた細胞が、本来の姿を取り戻す。
「なんだと!?」
男がうめいた。助走も予備動作もなく、足首の力だけで恭介は跳躍した。
人類の常識にはない、レベリオンだけに可能な動き。次の瞬間、恭介の姿は男の頭上にあった。ねじりあげられていた腕関節が自由になる。恭介は身体をひねって、男の背後に着地する。
そのときにはもう、反撃の準備は整っていた。拳《こぶし》を固めて、男の脇腹へと突きあげる。場合によっては、肋骨《ろつこつ》の二、三本はへし折ってやるつもりだった。ただでさえ香澄《かすみ》が失踪《しつそう》して苛立《いらだ》っていたところに、いきなり背後から不意打ちされて、いいかげん頭にきていたのだ。
だが、恭介のその攻撃が、男の身体に触れることはなかった。
殴《なぐ》りかかった恭介よりも速く、男の身体が横に跳《と》んでいた。全身のバネをためるように一歩だけ助走して、人間離れした瞬発力で開けっ放しだった扉を抜ける。制止する暇もなかった。
壁に手をかけることもなくベランダを乗り越え、彼はそのまま地上へと飛び降りた。
「なっ―!?」
怒りを忘れて、恭介はうめいた。
男の行動の意味を理解するより先に、恭介は彼のあとを追ってベランダから飛び出していた。
助けなければと思ったのだ。
香澄の部屋があったのは三階だ。転落して、無傷で済む高さではない。
そう。無事《ぶじ》に済む高さではない。彼がもし、人間ならば。
では、もしもそれ以外の者だったとしたら?その可能性に気づいたのは、一足先に着地した男が、悠然《ゆうぜん》と立ちあがって恭介を待ちかまえている姿を見たあとだった。
落下する恭介に向けて、男は右腕を突き出した。ぞっとするような戦慄《せんりつ》が、恭介の背中を走り抜ける。本能的な恐怖に衝《つ》き動かされて、恭介は吼《ほ》えた。
「|減びの咆吼《ブラステイング・ハウル》―!!」
恭介の口から放たれたのは、声にならない叫びだった。体内で共鳴し、破壊的な圧力にまで高められた超音渡衝撃。荒れ狂う大気の刃《やいば》が、無防備に立つ男を襲う。
その直後、男の姿が揺らいだ。そしてなんの前触れもなく、彼を中心にすさまじい爆風が発生した。マンションの窓ガラスがぴりぴりと振動し、恭介《きようすけ》はバランスを崩して中庭に転がった。
ブラスティング・ハウルの破壊衝撃波を受けてなお、男は無傷で立っていた。彼の指先が淡いY光《りんこう》を放ち、その周囲の空気がゆらゆらと揺れている。
そのとき、恭介は男の正体を知った。立ちのばる陽炎《かげろう》が、金色に輝く彼の瞳をゆがめている。
「炎《ほのお》のトランスジェニック能力……」
つぶやいて、恭介は立ちあがった。男の腕から放たれた超高温の熱波が、周囲の大気を爆発的に膨張させ、ブラスティング・ハウルの超音波衝撃を相殺《そうさい》したのだ。レベリオン細胞の圧倒的なパワーが生み出す、信じられないほどの熱量だった。
「……秋篠《あきしの》香澄《かすみ》に最初に会ったとき、彼女が制服を着ていた理由を考えてみるべきだったな」
ゆらめく陽炎の向こう側から、男は静かに訊《き》いてきた。
「秋篠香澄は、おまえを監視《かんし》していたのか、学生? そのピアス、統合計画局の|認識票《マーカー》だな?」
「あんた……高崗陸也《たかおかりくや》って人だろ?」
肯定するかわりに、恭介は問い返した。ライダース・ジャケットの男は、かすかに目を細めただけだった。
「統合計画局を脱走したっていう、炎を操るレベリオン原種。なんであんたがこんなところにいる?」
「|血塗られし炎《ブレイズ・トウ・ブレイム》と俺《おれ》は呼んでいる。この能力のことはな」
つぶやいて、陸也は手首をひるがえした。彼の指先からまき散らされていた、目に見えない炎の気配が消えた。
「俺がここにきた理由は、おそらくおまえと岡じだ。昨日を境に、統合計画局の連中が姿を消した。俺にとっては邪魔な存在だが、それだけに、やつらの動きがつかめないというのは都合が悪い」
「だから、調べにきた? あいつらがどこに行ってしまったのかを?」
無意識に構えていた両腕をおろしながら、恭介は訊《き》いた。さすがに彼から目を離すことはできなかったが、それでも高崗陸也のことを信用する気になっていた。恭介には彼と戦う理由がない。それは陸也も同じはずだ。
「そういうことだな」
陸也は跳躍して、軽々と塀《へい》を乗り越えた。覚醒《かくせい》したレベリオンの能力ならば、この程度の高さの塀を乗り越えるのは容易なことだ。恭介は、なかば意地で、彼のあとを追った。
陸也は停めてあった大型バイクに歩み寄って、ヘルメットに手をかけたところだった。
「収穫があったか、なんて訊くなよ。見てのとおりだ。手がかりなんかなにも残っていない。連中も混乱しているってことがわかっただけでもよしとするさ」
「混乱している? 統合計画局が?」
「ああ。監視《かんし》対象のレベリオンまで、ほったらかしにしているくらいだからな。内輪でなにかもめてるんだろうさ。指揮系統に、大がかりな首のすげ替えがあったのかもしれない」
バイクのシートに残された恭介《きようすけ》の足跡に気づいて、陸也《りくや》は顔をしかめたようだった。苦笑するような表情で振り返って、訊《き》いてくる。
「名前を訊き忘れていたな、学生」
「緋村《ひむら》だよ、緋村恭介。それより、あんたには訊きたいことがあるんだ」
「悪いが、俺《おれ》にはおまえに教えてやれることなどなにもない」
陸也は素《そ》っ気《け》なく言って、バイクのエンジンをかけた。ひと気のないマンションの壁に響いて、排気音がやけに大きく聞こえた。
「忠告できるとすれば、統合計画局をあまり信用するなということだけだ。それ以上、なにも言えない。自分のことは、自分で決めろ」
そう言い残して、陸也はバイクを発進させた。九〇〇tの大柄な車体を軽々と旋回《せんかい》させて、あっという間に加速していく。
彼が通り過ぎたあとには、空気が焼ける匂《にお》いがした。
3
高崗《たかおか》陸也のCBR九〇〇RRは市街地を抜け、交通量の少ない朝の道路を、サーキットを走るような速度で南下していた。
特に、目的地があるわけではない。
探している娘《むすめ》の居場所について手がかりはなく、捜索《そうさく》の障害となる統合計画局の動きもつかめない。その苛立《いらだ》ちを振り払うためだけに、陸也はスピードをあげていった。バイクと一体化して走り続けている間だけは、なにも考えなくてすむからだ。
スピードメーターはあっけなく二〇〇キロを振り切り、景色は後ろ向きに流れていくだけの線に変わる。前から次々に迫ってくる一般車両を、減速することなく、ぎりぎりの間隔ですり抜けて、陸也は都市高速と併走する幹線道路に乗り入れた。
道路の前方を、見慣れない型の大型トラックが塞《ふさ》いでいる。
さっさと追い越そうと車線変更を始めたところで、陸也はアクセルを握る右手をゆるめた。
ヘルメットの下で、思わず攻撃的な笑みがこばれる。
在日米軍用のナンバープレートをつけているが、米軍で使われているものとは似ても似つかない、明らかに市街戦を想定した特殊な型のトラックだった。十中八九《じゆつちゆうはつく》、統合計画局のものと思って間違いないだろう。
しかも、こんな大型車両で運ばなければならない装備といえば、考えられるのはただ一つだ。
「|対レベリオン強化兵士《Anti-Rebelion Enhanced Soldier》―アレス部隊か……」
つぶやいて、陸也《りくや》はバイクを加速した。
普段なら、慎重《しんちよう》にあとをつけて様子を見るところだ。だが今日は、このままおとなしく引き下がるような気分にはなれなかった。神経が高ぶりすぎている。
「悪いが、おまえらがなにを考えてるのか、あらいざらい訊《き》かせてもらおう」
クラッチを使わずアクセルワークだけでギアをシフトダウンして、陸也はトラックの真横にバイクをつけた。トラックの運転手が陸也に気づいて、バイクから逃れようとする。しかし、陸也が伸ばした左手が、炎《ほのお》を噴きあげるほうが早かった。
「|血塗られし炎《ブレイズ・トウ・ブレイム》!」
陸也の放った高温の熱波が、トラックの前輪を一瞬で熔《と》かし、破裂《はれつ》させた。
耳をつんざくようなブレーキの音が鳴り響いた。バランスを失ったトラックの車体が、ガードレールを突き破って未舗装の道路脇へと突っこんでいく。もうもうと土煙があがり、路面に接触したバンパーがちぎれて破片《はへん》をまき散らした。
だが、その状況でも運転手はあきらめていないようだった。破裂した前輪を引きずったまま、トラックはなおも走り統け、再びガードレールを突き破って道路へと戻ってくる。
それを追いかけようとした陸也の前で、道路が火花を散らした。
トラックの助手席に乗っていた兵士らしき人物が、窓から拳銃を突きだして撃ってきたのだ。
その隣に乗っていた別の兵士が、サブマシンガンを持ちあげるのも見える。
「ちっ」
陸也は舌打ちして、バイクを旋回《せんかい》させた。黒煙を噴きあげながら疾走《しつそう》するトラックの背後に、降り注ぐ弾丸をよけながら回りこむ。
「反対側のタイヤもつぶすか……」
戦闘に巻きこまれそうな車が周囲にいないことを確認して、陸也がつぶやいたときだった。
トラックの荷室のシヤッターが、ゆっくりと開き始めた。荷室の内側を照らすハロゲンランプの光が漏《も》れ出てくる。そのまばゆい光の中に、浮かびあがった影があった。大柄なレスラーよりも、さらに一回り巨大な黒ずくめの影。
「アレス・システム……思ったよりも早く出てきたな」
繊維とも金属ともつかぬ黒い装甲服に包まれた兵士が、右腕と一体化した巨大な銃を構えた。
通常の機関銃とは比較にならない轟音《ごうおん》とともに、銃口が排煙に包まれる。道路をえぐる弾丸の威力を見て、陸也は表情を硬くした。
NATO軍で多用されている七・六ニミリ弾ではなく、対空用機関銃としても使用されている一二・七ミリ弾。直撃すれば、陸也の乗っているバイクなどひとたまりもない。
陸也が以前に戦った斥候《せつこう》小隊のアレス・システムと比較しても、明らかに武装が強化されていた。あのときのような暗殺用の機体ではない。圧倒的な火力で敵を殲滅《せんめつ》するための兵器だ。
そんなものを日本に持ちこんだというだけでも、統合計画局がこれまでの方針を転換したのは明白だった。連中はこの町を戦場にするのも辞さないつもりなのだ。レベリオンを狩り出すために。
「ならば、数がそろわないうちに、少しでも戦力を削《けず》っておくべきか」
自分に言い聞かせるようにびとりこちて、陸也《りくや》はバイクのスピードをあげた。
それを見た黒ずくめの機体も、トラックの荷台を蹴《け》って飛び出した。圧搾《あつさく》空気による補助ブースターが、重厚な機体を加速する。疾走《しつそう》するCBR九〇〇RRとの相対速度は時速三〇〇キロを超えているだろう。まき散らされる機関砲弾を、ブレイズ・トゥ・ブレイムの放熱爪で打ち落としながら、陸也はアレス・システムに突っこんだ。
両者の影が交差する。
「まずは、一機……」
どう猛《もう》に、陸也は笑った。
一瞬の交錯《こうさく》で、陸也の放熱爪は、アレス・システムの左腕の付け根をえぐっていた。強化服に内蔵されたグレネード・ランチャーの、弾倉にあたる部分だ。ブレイズ・トゥ・ブレイムの熱波はグレネード弾の炸薬《さくやく》を誘爆《ゆうぼく》させ、アレス・システム本体を巻きこんだ、すさまじい爆発を引き起こした。
バイクのカウルに身を伏せるようにして、その爆発をやり過ごした陸也は、ふと気づいて急ブレーキをかけた。統合計画局のトラックが、道路をふさぐような形で停まっている。どうやら、もう逃げるのはやめにしたらしい。
開いたままの荷室から、マントをまとった人影が出てくるのが見えた。
もっとも、それを人影と呼ぶのは正確ではないかもしれない。外観から受ける印象はだいぶ違っていたが、全身を特殊な装甲服で覆《おお》ったその姿は、まぎれもなく、陸也が倒したアレス・システムと同種のものだったからだ。身体《からだ》に巻きつけたマントのようなものも、よく見れば、たんなる輸送用の保護シートにすぎなかった。
「新型、か……」
停車したバイクにまたがったまま、陸也は歩き出す人影を睨《にら》んだ。
これまでに交戦したほかのアレス・システムに比べて、その新型は、ずいぶん小さく見えた。
いや、実際に小さいのだろう。機械仕掛けの強化服というよりは、せいぜい中世の甲冑《かつちゆう》といった雰囲気である。大型の火器が内蔵されているようにも見えない。
なめらかな曲面で構成された白い装甲は、兵器というより、むしろ競技スキーなどで選手が着る防寒服を連想させた。防御力《ぼカぎよりよく》よりも機動性を重視したのか、関節部分はインナーウェアが剥《む》き出しになっており、着用者の身体のラインがはっきりとわかる。
そのシルエットと、システム全体の大きさから、着用者の正体を特定するのは。そう難しいことではなかった。男性の骨格では、この新型強化服を着るのは不可能だ。
「女!?」
陸也《りくや》が叫ぶのと、新型アレス・システムの右腕が跳《は》ねあがるのは同時だった。マントの下で女性兵士が握っていた大型の機関砲が火を噴いた。
陸也は、リアタイヤから白煙をあげつつバイクを急発進させ、その弾丸をどうにかかわした。
女の射撃は正確で、しかも速い。軽量化されているぶん、絶対的なパワーや瞬発力が低下しているかと思ったが、新型アレス・システムの性能は、どうやら想像した以上のようだった。
「手加減する余裕《よゆう》はない、か……」
苦い思いで、陸也はその事実を認めた。強引な操縦でバイクを旋回《せんかい》させて、一気に相手との距離をつめる。
「悪く思うなよ」
祈るようにつぶやいて、陸也は左腕を突き出す。
伸ばした指先の放熱爪から、強烈な熱波が刃《やいば》のように伸びた。女が構えていた機関砲の銃身が、その高熱に耐えきれずに溶解した。
しかし陸也の攻撃が、彼女の装甲を貫くことはなかった。
ブレイズ・トゥ・ブレイムの炎《ほのお》が彼女を包む直前に、新型アレス・システムの指先から真っ白な霧が放たれる。その純白の霧に包まれて、陸也の炎《ほのお》は消滅した。摂氏《せつし》三千度を超える陸也のトランスジェニック能力を、新型アレス・システムの放出した強烈な冷気が無効化したのだ。
「馬鹿な―!?」
陸也の表情が、驚愕《きようがく》に凍った。
あり得ないことだった。これほどの強力な冷気をまき散らすためには、液体窒素などの巨大なタンクが必要なはずだ。どう考えても、新型アレス・システムのスリムな機体に、そんなものを積みこむ余裕はない。
だが、ブレイズ・トゥ・ブレイムが無効化されたのは、まぎれもない現実なのだ。
そして、新型アレス・システムの冷気は、陸也の攻撃を防ぐためだけに放たれたものではなかった。
「しまっ―」
予期せぬ横向きの加速度を感じて、陸也はうめいた。
女がまき散らした冷気が、周囲の路面を凍りつかせていた。
バイクは凍りついた道路を走るための乗り物ではない。そんなあたりまえの事実が、絶望的な現実となって、陸也を襲った。凍った路面に一四八馬力もの圧倒的なパワーを伝えることができず、CBR九〇〇RRはバランスを崩《くず》して自滅する。レベリオン原種である陸也の反応速度をもってしても、それをくい止めることは不可能だった。
転倒した陸也に向けて、新型アレス・システムが背中に装着していた銃を構えた。
六運装の四〇ミリ・オートマチック・グレネードランチャー。着弾地点の半径数メートル内を完全に制圧する、|溜 弾《シエル・グレネード》を連射する装置。銃と呼ぶよりも、むしろ大砲に近い兵器だ。
転倒し、バイクの下敷きになった陸也《りくや》に、それをよけるすべはなかった。
六発のグレネード弾が、わずか一秒強の間にすべて撃ちこまれた。爆圧が大地に穴をうがち、爆風が竜巻《たつまき》のように吹き荒れた。炎《ほのお》に包まれた高崗陸也《たかおかりくや》の身体《からだ》は、十数メートルも吹き飛ばされ、道路脇にあった川へと転落する。
あとには、黒煙をあげて燃え続ける陸也のバイクと、炎を浴びながら背中を向けた白い甲冑《かつちゆう》の姿だけが残された。
4
走り去った高崗陸也の姿を見送って、恭介《きようすけ》が立ちつくしていたのは、そう長い時間ではなかった。それでも、すぐにその場を離れなかったことには理由があった。
左手で耳のピアスに触れるのが、いつのまにかクセになっていたらしい。そのことに気づいて、恭介は苦笑する。肺から無意識に漏《も》れた空気が、ため息のような音を立てた。
恭介に残された、統合計画局とコンタクトずるための唯一の道具が、このピアスだった。
持ち主がレベリオンの能力を使ったことを感知して、暗号化された信号を送り出す発信器。
軍事衛星とも連動し、常に恭介の位置を補足していると聞かされている。実際、これまでは恭介が能力を使うたびに、必ず香澄《かすみ》が駆《か》けつけてきた。恭介が能力を悪用しないように監視《かんし》するのが、彼女の任務だったからだ。
もし、統合計画局の人間が今でも恭介を監視しているのなら、先ほどの陸也との戦闘にも、とっくに気づいているはずである。いつものように、文句を言いながら香澄が現れてくれれば問題ない。最悪でも、統合計画局の人間からなにがしかの接触があるはず。そう思っていた。
誰も姿を現さないときのことは、考えていなかった。
「香澄っ……あいつ、なに考えてんだよ!」
苛立《いらだ》たしげに怒鳴《どな》って、恭介は天を仰いだ。
五分だけ待つつもりだったのが、すでに二十分近く経っている。初夏の強い日射しが、じりじりと恭介の肌を焼いていた。誰も姿を現さなかったし、携帯電話が鳴ることもなかった。
その無意味な時間を経験して、ようやく恭介は理解した。
香澄はもう、ここにはいない。自分になにも告げないまま、彼女はいなくなってしまったのだと。
落ち着け、と自分に言い聞かせて、目を閉じる。
―あたしは、あなたを殺しにきたのよ。
出会ったばかりのころ、香澄が口にした言葉が脳裏に浮かんだ。
そう。彼女は、恭介の味方ではなかった。
だが、敵と呼ぶには、彼女の存在は身近すぎた。お互いの立場がどうであれ、恭介にとって彼女は、間違いなく秘密を共有した友人だったのだ。そして香澄白身も、そう振る舞うことを望んでいた。
あの子らしくない、と言った麻子《あさこ》の気持ちが、恭介《きようすけ》にもようやく理解できた。香澄《かすみ》はけして人づきあいが得意ではなかったが、友人に対しては誰よりも誠実だった。その彼女が、事情を知る恭介にさえなにも言わずに去っていったのは、たしかに不白然かもしれない。
たんに言い出せなかったというだけなら、あきらめるしかないだろう。恭介だって、彼女があらたまって別れのあいさつを切り出したら、なんと答えていいかわからない。
だが、そうではなかったとしたら。監視《かんし》下にある恭介に対しても事情を説明できないような、そんな深刻な状況に、彼女が置かれているとしたら
「統合計画局のやつら……なにを考えてる……?」
つぶやいて、すぐに、考えても答えが出るはずがないことに気づく。
思いつく限りの方法はすべて試した。ほかに事情を知っている者がいるとすれば、逆に統合計画局と敵対している連中。つまりアーレンたち脱走者だけだ。
そして、統合計画局のエージェントが血眼《ちまなこ》になって探しても見つけられない相手を、恭介が一人でどうこうできるとは思えない。こんなとき、学生という自分の立場が恨《うら》めしかった。
恭介にできるのは、結局このままおとなしく学校に戻ることだけなのだ。
肩を落として、恭介はバイクを停めた表通りへと歩き出した。
姉から譲り受けた十年落ちのXJR四〇〇は、街路樹の脇にぽつんと停まっている。タンクの上に置き去りにしたヘルメットにも、なにも変わったところはない。
だが、そのXJRのシートによりかかるようにして、一人の少女が立っていた。彼女が着ている制服を、恭介はもちろん知っていた。萌葱《もえぎ》色の襟《えり》のセーラー服。高城《たかじよう》学園の制服だ。
「―香澄《かすみ》!?」
思わず走り出そうとして、恭介は足を止めた。この場所に、このタイミングで現れる高城学園の女生徒。ましてや恭介のバイクに勝手によりそうような相手は、香澄以外にあり得ない。
けれど、その少女は香澄ではなかった。少しだけ、香澄よりも背が高い。メリハリのきいた体つきも、どちらかといえば中性的なイメージの香澄とはまるで雰囲気が違う。
近づいてくる恭介に気づいたのか、制服の少女が顔を上げた。前髪の下の、気の強そうな瞳があらわになる。
香澄のような人間離れした美形というわけではないが、十分に美人の範疇《はんちゆう》にはいる顔だちをしていた。名前は思い出せないが、よくCMなどで見かける女性タレントに似ている。化粧のせいでもあるのかもしれないが、いかにも人目を惹《ひ》きそうな、華《はな》やかな雰囲気の少女だった。
「やっと会えたわね、緋村《ひむら》恭介」
待ちくたびれた、というふうに肩をすくめて、彼女が言った。ひょいと立ちあがり、頭からつま先まで、じろじろと恭介の姿を眺め回す。
「ふうん……まあ、そんな悪くないね。好みじゃないけど、許せる範囲って感じ? 写真で見るよりはましだな。ね、髪形変えてみる気ない?」
「おまえ誰だ?」
警戒心《けいかいしん》を隠しもせず、恭介《きようすけ》は訊《き》いた。高城《たかじよう》学園の制服を着てはいるが、少女の顔に見覚えはない。校章の色は赤。恭介たちと同じ三年生だ。
少女は小さく笑ったようだった。一方的に情報を握っている。そんな有利な立場を楽しむように、わざとゆっくり訊き返してくる。
「本気でわからないの? それってちょっと、にぶくない?」
「統合計画局の人間なんだろ。そんなことを訊いてんじゃねえんだよ」
乱暴な口調で恭介は言った。それは当てずっぽうだったのだが、見当はずれというわけでもなかったらしい。つまらなそうに肩をすくめて、少女は唇《くちびる》を尖《とが》らせた。
「あ、そう。なんだ、わかってんじゃん。だったら、なにが知りたいわけ? だいたいあんたさ、人を呼び出しといてそういう態度って普通あり?」
「呼び出した? 俺《おれ》が?」
不満げに恭介が言うと、彼女は自分の左耳に触れてみせた。恭介のものとよく似たピアスが、彼女の両耳にもついている。高崗陸也《たかおかりくや》が認識票《マーカー》と呼んでいた赤いピアスだ。
「こっちは時差ぼけで寝不足だってのに、こんな朝っぱらからいきなり呼び出されて迷惑《めいわく》してんの。それなのに、いきなり質問攻めってのはないでしょってこと」
「ちょっと待て」
少女の言葉を遮《さえぎ》って、恭介は言った。
「俺《おれ》がレベリオン能力を使ったとして、なんでおまえを呼び出したことになるんだよ。香澄《かすみ》はどうした?」
「香澄?」
今度は彼女のほうが怪評《けげん》そうに眉《まゆ》をひそめた。
恭介は、自分が香澄の名前を親しげに呼び捨てにしていたことに気づいたが、口を押さえるには遅すぎた。彼女は、なぜか不満そうな顔つきで恭介を見ていたが、それ以上は突っこんでこなかった。肩をすくめて、無造作《むぞうさ》に答える。
「あの子なら帰ったわよ。あたしと行き違いで、アメリカに」
「帰った?ほんとうに?」
「そんなショックを受けるほどのこと?」
どうでもいいというふうに肩をすくめて彼女は言った。そのまま断りもなく、恭介のXJRのタンデムシートにまたがる。ぎりぎりまで短いスカートから白い脚が伸びている。その脚を無造作に組んで、彼女は恭介に視線を戻した。
「まあ、いいけどさ。それより学校、戻るんでしょ。乗せていってよ」
「なんでだよ?」
恭介《きようすけ》は思いきりいやな顔をしたが、彼女は気にした様子もなく答えた。
「転入の手続きがあるの。ほんとうなら今朝から登校してなきゃいけなかったんだけど、こっちにくる途中にいろいろあって寝不足だったし」
「転入?」
「そ、わかってんだろうけど同じクラスよ。緋村《ひむら》恭介」
くったくのない調子で、彼女は言った。恭介は黙って彼女を睨《にら》んだ。
バイクのキーをとりだして、手の中で握りしめる。自分の神経が、ちりちりと逆立っているのを感じた。奇妙な圧迫感がある。見えない壁が、自分の周囲を取り囲んでいるような気分。
目隠しをされたまま、迷路の中に放りこまれたような感じがした。差し出された手をつかむ以外に、できることはなにもない。
たとえ、手をさしのべた人間が、味方ではないとわかっていても。
「一つだけ、聞かせろよ」
ヘルメットを彼女に手渡しながら、恭介は言った。髪を揺らして、少女が首を傾《かし》げる。
「なに?」
「おまえも、レベリオンなのか?」
「なんだ、そんなこと?」
猫のように目を細めて、少女は笑った。
「当然でしょ。皆瀬《みなせ》梨夏《りか》っていうのがあたしの名前。能力名は、|混 沌 の 瞳《ヴイジヨン・オブ・デイスオーダ》」
最後まで彼女の言葉を聞かず、恭介は乱暴にバイクを発進させた。それから先は、もう聞かなくてもわかっていた。
背中から恭介の身体《からだ》に手を回した少女が、空冷特有の金属的なエンジン音に乗せて、耳元にささやいてくる。
「そう、あたしがあなたの新しい監視《かんし》者よ」
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2.皆瀬梨夏の章
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Transfer student
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恭介《きようすけ》が学校に帰り着いたのは、昼休みがはじまる直前だった。バイクを停めて、梨夏《りか》に職員室までの道順を教えていたら、チャイムが鳴った。
あちこちの教室から椅子《いす》のぶつかる音が聞こえてきて、校舎の中がさわがしくなる。パンを買うために購買部に殺到《さつとう》する生徒たちにまぎれて、誰にも見とがめられることもなく、恭介は校内に戻った。ついでに、サンドイッチとパック牛乳を買っていく。
「……なんなんだあの女」
教室に向かう階段の途中で、思わず不満が口をついて出た。
皆瀬《みなせ》梨夏と名乗る転校生と会話するのは、はっきり言って骨が折れた。演技なのか、もともとそんな性格なのか、彼女の会話は一方的だった。気まぐれで、自分のペースを崩さず、しゃべりたいことだけを口にする。おかげで恭介は、聞きたいことの半分も聞き出せていない。これなら、いくら無口で無愛想《ぶあいそ》でも香澄《かすみ》のほうがましだった。統合計画局に所属している女というのは、どうもクセが強いのが多い。
「……?」
牛乳パックにストローを突き刺しながら階段をのばり、廊下を曲がったところで、教室の前に知り合いが立っているのに気づいた。髪を茶色に染めた小柄な女生徒。同じような雰囲気の友人二人を従えて、いらついたように腕を組んでいる。
皆瀬《みなせ》梨夏《りか》のしゃべり方は誰かに似ていると、ずっと思っていたのだけれど、本人の顔を見て、それが誰だったのかを思い出した。
戻ってきた恭介《きようすけ》を指さして、江崎綾《えぎき あや》が悲鳴のような声で叫ぶ。
「緋村先輩《ひむらせんぱい》! なんなんですか、あの女―!?」
駆《か》け寄ってくる後輩《こうはい》を、恭介は、軽い頭痛を感じながらながめた。同時に、頭の中のどこか醒《さ》めた部分が、彼女たちの教室の窓からは駐輪場が見えるな、と冷静に分析していた。
「あの女、誰? なんで先輩のバイクで学校にくるわけ? どういう関係? 駐輪場で長々となんの話をしてたんですか!?」
「職員室の場所を説明してた」
「……は?」
綾の動きが止まった。意味がわからないというふうに、きょとんとした表情を浮かべる。
「転校生なんだってよ。道で会って、乗せてってくれって言うから、乗せてきた。そんだけ」
唇《くちびる》の端《はし》にストローをくわえたまま、恭介は言った。なるべく淡々と説明したつもりだったのだが、綾につられて声が大きくなっていたらしい。教室に残っていた生徒たちが、恭介たちのほうを振り返るのがわかった。
「で……でも、ずるい! あたしだって先輩のバイクに乗せてもらったことなんかないのに!」
「ああ悪い悪い、また今度な。気が向いたら、ってことで」
じたばたと飛び跳《は》ねる綾を適当にあしらって、恭介は教室に入った。教室に残って食事をしている同級生はクラス全体の半分ほどだったが、全員が例外なく恭介に注目していた。
集まってくる視線が痛かったが、どう対応すればいいのかわからない。まるで自分が転校生になった気分で立ちつくしていると、わりと仲のいい男子が近づいてきた。渡辺《わたなべ》と吉野《よしの》と和田《わだ》。
クラスでも軟派で知られる三人組だ。
「恭介! なんだよ、今の話?」
「転校生って、マジ?」
「女? かわいい?」
わかりやすいやつらだなあと苦笑しながら、恭介はうなずいた。やる気のない声で、適当に相づちをうつ。
「とりあえず胸はけっこうあったな。顔も、まあまあかわいい」
黙って見てるぶんにはな、と心の中でつぶやいたが、もちろんその声は三人組の耳には届かなかった。吉野と和田が歓声をあげ、渡辺は意味もなく恭介に握手を求めてくる。
「転校生で美人で巨乳……? マジ?」
「学年は? クラスどこよ!?」
「まだ校内にいるのか?」
「たぶんうちのクラスにくるってよ。転入の手続きがあるって言ってたから、まだしばらくは職員室にいるだろ。見てくれば?」
冗談《じようだん》のつもりで言ったのだが、三人組は、そうは受けとらなかつたらしい。彼らは互いに顔を見合わせてうなずくと、食べかけの昼食を置き去りにして、そのまま脱兎《だつと》のごとく駆《か》けだしていった。ほかの男子も何入か、そのあとに続く。
彼らの背中を見送って、恭介《きようすけ》は中途|半端《はんぱ》な笑みを浮かべた。あとで皆瀬《みなせ》梨夏《りか》の性格を知ったとき、連中が文句を言ってこなければいいが、と少し不安になる。
とりあえず席について、買ってきたサンドイッチの袋を破ったところで、今度は津島麻子《つしまあさこ》がやってきた。近くの席から空《あ》いていた椅子《いす》を引っ張ってきて、恭介の席の向かい側に座る。
あまり感情を表に出さない彼女にしては、わかりやすい表情をしていた。はっきりと、困惑《こんわく》している。香澄《かすみ》のことを調べにいったはずの恭介がべつの転校生をつれて帰ってきたのだから、まあ、無理もない。
「……ほんとなの?」
怒っているような口調で、麻子は訊《き》いた。
「なにが?」
「転校生。ほんとに、うちのクラスにくるって?」
「ああ。本人はそう言ってた」
サンドイッチをくわえたまま。恭介は答えた。皆瀬梨夏の目的は恭介の監視《かんし》なのだから、統合計画局の政治力を駆使《くし》して、同じクラスに潜《もぐ》りこむぐらいのことは当然やるだろう。
三年生に進級してまだニカ月も経っていないこの時期に転入というのは、不自然といえば、あからさまに不白然である。だが、そのことで梨夏が不審に思われることはないはずだ。
いなくなった香澄のかわり。あるいは、その前に、ある事件に巻きこまれて退学した男子生徒の補充。いくらでも説明をつけることはできる。統合計画局の連中も、それくらいのことはたぶん見越している。
「ふうん……で、香澄のことは? なにかわかった?」
自分を納得させるように首を振って、麻子は話題を変えた。恭介は両手を広げた。
「いや。マンションには誰もいなかった。けど、ほかに心当たりがあるんだ。香澄の知り合いがいるから、そいつを締めあげて訊き出そうと思ってる」
「知り合い……? へえ、そんな人がいたんだ」
麻子は意外そうな顔をしたが、恭介はなにも答えなかった。まさか、その知り合いというのが今度の転校生だとは、いくらなんでも言いづらい。
麻子は、まだなにか訊きたそうな顔をしている。どうやってごまかそうかと思案していると、友人たちと談笑している草薙《くさなぎ》萌恵《もえ》の姿が目に入った。彼女が、いつもと同じように教室にいる。
ただそれだけのことで安心して、恭介は息を吐《は》く。
それから、ふと思いついて、恭介《きようすけ》はポケットから紙片《しへん》をとりだした。萌恵《もえ》から預かった例のメモだ。麻子《あさこ》は、不審そうな顔で目を細めた。
「なに、これ?」
「わからない。香澄《かすみ》の机の中に残ってたらしい」
「……あの子の字、だよね?」
恭介の手からメモを奪って、麻子がつぶやく。カタカナだけで書かれた、たった三行の散文詩。以前、香澄に借りたノートと同じ紙。そして同じ筆跡だった。
アルジナキネズミタチノヘヤニヒトリタツ
ミズカラヲカケルベキバショニテマツ
ミチビクモノバ カケタルツキノナマエ
「どういう意味?」
顔をあげて、麻子が訊《き》いた。
「わからない。ただの落書きかもしれないし、もしかしたら、なにかの暗号かも」
「暗号?」
薄い唇を一文字に結んで、麻子は紙片をじっと睨んだ。それからすぐに教室の中を見回して、同級生の名前を呼ぶ。
「瀬尾《せのお》、ちょっと!」
窓ぎわの席で本を読んでいた瀬尾|亜依《あい》は、めんどうくさそうに振り向いた。色白で、化粧っけのない亜依は図書委員だが、思慮深い文学少女というタイプではなく、話すと意外に気さくでおもしろい人間だ。眼鏡《めがね》をはずすと、わりと美人だという噂《うわさ》もある。そして彼女の愛読書は、海外の古いミステリー小説だった。
「なに、津島? なに見てんの?」
長く伸ばした髪をうっとうしげに払いのけながら歩いてきて、亜依が恭介たちの隣に座った。
麻子が、例のメモを彼女に渡す。眼鏡の下で、亜依の瞳が輝いた。
「……ふうん。暗号? ていうか、メッセージだね。これ、どうしたの?」
「わかんないのよ。あんた、こういうの得意でしょ。読めない?」
「読めるかって言われてもねえ……」
亜依は、紙片をながめたまま低くうなった。
「これがもし本当になにかのメッセージだとしたら、たぶん解読はできないよ」
「解読できない?」
困惑《こんわく》した顔で、恭介が訊いた。その表情がおかしかったのか、亜依が笑って訂正する。
「ああ、ごめん。そういう意味じゃない。あたしには無理ってこと」
「どうして?」
今度は、麻子《あさこ》が訊《き》いた。亜依《あい》は、うなずいて続けた。
「あのね、暗号って、大きくわけて二種類あんの」
「二つだけ?」
「そう。つまり、読まれちゃ困る暗号と、読まれるのを待ってる暗号」
意味がわからず、恭介《きようすけ》と麻子は互いに顔を見合わせた。暗号というのは、普通は読まれては困るものなのだろうと思う。
「言い換えるとね、ある特定の法則に基づいて作られた暗号と、ある特定の知識に依存して作られたものがあるわけ。前者の代表は、ボーの黄金虫に出てくる海賊《かいぞく》の賠号だよね。コナン・ドイルの踊る人形もそう。文字を別の記号に置き換えたり、ならび方を変えたりってやつね」
「はあ……」
恭介は曖昧《あいまい》にうなずいた。亜依の言うことは半分もわからなかったが、まあ、そういうものがあるのだろうと思って納得する。
「普通はさ、暗号ってのは、他入に知られては困る内容を運絡するときに使うわけよ。だから、なるべく複雑な規則を使おうとするわけ。実際、このタイプは、いくらでも難しい暗号を作ることができる。今は、コンピューターもあるしね」
「それが、読まれちゃ困る暗号、ってこと?」
「そう。軍隊だとか、諜報《ちようほう》機関だとかが使ってるのは、このタイプ。だけど、この種の暗号は、暗号化した手順を逆にたどれば、必ず解読することができるんだ」
「っていうか、解読できなかったら、暗号の意味ないよね」
麻子が冷静な感想を漏《も》らす。どうやら彼女は、恭介よりも呑《の》みこみが早いようだ。
「まあね。でも、まったく違う動機から組み立てられた暗号もあるんだな」
そう言って、亜依は得意げに胸を張った。
「たとえば、殺人事件があったとするじゃない。被害者は、なんとか最後の力をふりしばって自分を殺した人間の正体を知らせたい。だけど、犯人がすぐ近くにいるから、普通に書き残したら気づれて消されてしまう」
「あ……それで暗号……」
恭介はつぶやいた。いわゆるダイイング・メッセージというやつ。名前くらいは聞いたことがある。
「そういうこと。この場合重要なのは、メッセージの内容が、伝えたい相手にしか理解できないってことなんだ。つまり、その特定の誰かだけが知っている知識や情報が、暗号を解読する鍵《かぎ》になるってわけ」
ひと呼吸おいて、亜依は続けた。
「まあ要するに、この暗号は、ある特定の人物のためだけに残されたメッセージだってこと。
そして、あたしには、こういう回りくどいメッセージをよこす友達に心当たりがない。つまり、あたしあてのメッセージではない。だから、あたしにはこれは読めない。以上、証明終わり」
一方的にそれだけまくしたてたあと、じゃあね、と言って亜依《あい》は立ち去った。
残された恭介《きようすけ》たちは、毒気《どつけ》を抜かれて、ばんやりと机の上に残された紙片《しへん》をながめた。
香澄《かすみ》が、謎めいた暗号仕立てにしてまで、メッセージを残そうとした相手。たぶん、自分のことなのだろうと恭介は思った。同じ結論に至ったのか、麻子《あさこ》がじっと恭介の顔を見ている。
うんざりした気分で、恭介はメモを拾い上げた。結局、亜依の説明でわかったのは、これを読み解けるのが自分しかいない、ということだけだ。
俺《おれ》がやるのかよ、と絶望的な感想を抱いたとき、昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴った。
2
「……こうして異端審問《いたんしんもん》に名を借りた民衆への抑圧は一八世紀後半まで続き、その間に処刑された人間の数は、三十万人とも九十万人とも言われている」
五時限目の授業は体育で、六時限目は世界史だった。
世界史の担任は広池《ひろいけ》という初老の教師で、眠《ねむ》りを誘う、のんびりとした調子で、魔女裁判について語っている。実際、クラスの半分以上は、その声に誘われるようにして気持ちよさげに寝息をたてていた。そんな中で、恭介は一人、真剣なまなざしでノートを睨《にら》んでいる。
ノートには、恭介の字で、三行だけの短い詩が書かれていた。
香澄の残したカタカナだけのメッセージを、普通の文章に直してみたものだ。
『主《あるじ》なき鼠《ねずみ》たちの部屋に独り立つ
自らを賭《か》けるべき場所にて待つ
導くものは、欠けたる月の名前』
これが正確に香澄の意図した文章なのかと訊《き》かれると自信はないが、文章の意味から考えて、いちばん可能性の高い漢字をあてたつもりだった。しかし、多少読みやすくなったところで、メッセージの意味が読みとれるようになったわけではない。
文章の雰囲気としては、どこかで待っているからきて欲しい、というような意味にとれる。
だが、具体的な内容となるとさっぱりだった。記されているのは、抽象的すぎて、どうとでも解釈できるような語句ばかりだ。
そもそも来るかどうかもわからない相手をいつまでも待ち続けていられるほど、香澄も暇ではないだろう。どこかに時間の指定がされているのかもしれないが、それらしい部分は読みとれない。
「……一方、本国での宗教迫害を逃れて、新教徒の多くが北米に移住した。一六二〇年には、迫害を怖れてオランダに移住していた人々の一部が北米への移住を決意しこれがのちに……」
広池《ひろいけ》の授業は続いていたが、ほとんど耳に入ってはこなかった。
この暗号は、特定の人物のためだけに残されたメッセージだ。そう言った瀬尾亜依《せおあい》の言葉だけが頭に残っていた。
恭介《きようすけ》だけが知っている香澄《かすみ》の秘密といえば、やはりレベリオンのことだろう。レベリオンにかんする知識が、これを読むのに必要になるということだろうか。
R2ウィルス、トランスジェニック能力、悪性レベリオン、RAVE……
思いつく単語は無数にあったが、どれも、この暗号を解く鍵《かぎ》にはなりそうにない。
結局、授業中いっぱい考えて出した恭介の結論は、自分一人の手には負えそうにないということだった。
嘆息《たんそく》して、顔をあげる。
机に突っ伏して眠《ねむ》っている和田《わだ》の背中ごしに、空《あ》いている机が見えた。香澄の席。
教室にチャイムが鳴り響き、眠っていた同級坐たちがもぞもぞと動き出した。授業が終わるのを待たず、ノートを閉じて机の上をがちゃがちゃと片づけはじめる。
さりげなくきつい一言を残して、広池は授業を終えた。
「では、ここまでが来週の試験の範囲です。各自で復習しておくように」
*
「主《あるじ》なき鼠《ねずみ》たち、っていうのは、野生のネズミってことだよね」
と、草薙《くさなぎ》萌恵《もえ》が言った。
たぶん、とうなずいたあと、恭介は首を傾《かし》げた。
「……わざわざ家でネズミを飼ってるやつって、あんまりいないんじゃないかな」
「うん。でも、ハムスターやモルモットだったら……」
「ああ、なるほど」
つぶやいて、恭介はノートに赤ボールペンで書きこんだ。やせいのねずみ。
近くで、掃除当番ががちゃがちゃとモップを引きずっている音がする。
埃《ほこり》っぽい教室。チョークの匂《にお》い。廊下を走る生徒たちの足音。そして、教室のすみに固まっている同級生の笑い声。
帰りのホームルームで担任の矢部《やべ》の口から転校生がくることが告げられて、放課後の教室は、その話題でもちきりだった。皆瀬梨夏の姿を目撃した者は渡辺たちのほがにも何人かいたので、それぞれが自分の理想をまじえて好き勝手なことを言っている。そこそこ嘘《うそ》くさく、ところどころで妙にリアルな理想の転校生像は、雑談のネタとしてはたしかに美味《おい》しい題材だった。異様に盛りあがる男子のグループから少し離れたところで、恭介は草薙萌恵と向き合っている。
「でも、野生の鼠《ねずみ》たちの部屋って、なんだ? 屋根裏部屋? 下水道?」
「ディズニーランドとか……あれは、野生じゃないよね……」
腕を組んで萌恵《もえ》が考えこんだ。
筆記用具を片手に顔をつきあわせている恭介《きようすけ》たちの姿は、なにか深刻なものに見えるらし・く、冷やかしてくる友人はいなかった。実際、恭介も今日ばかりは、下心があって彼女に相談しているわけではない。
草薙《くさなぎ》萌恵は、恭介や香澄《かすみ》が特殊な能力を持っているということを知っている高城《たかじよう》学園で唯一の生徒だ。香澄が失踪《しつそう》し、皆瀬《みなせ》梨夏《りか》も信用できないとなると、恭介にはもはや彼女に頼るしか選択|肢《し》がなかった。それに、おそらく香澄は、恭介が彼女に相談することを計算しているのではないか、とも思う。
そして萌恵は、いつものように、なにも訊《き》かずに恭介につきあってくれていた。彼女には、こんなふうに借りを作ってばかりいる気がする。
「自らを賭《か》けるべき場所っていうのは……?」
その萌恵が、真剣な顔でつぶやいた。恭介は、思いつくままに候補を口にする。
「競馬場、パチンコ、宝クジ、カジノ……ラスベガスって、ディズニーランドの近くだっけ?」
「近いって言っても、けっこう離れてると思う。行ったことないから、よくわからないけど」
「だよな……それに、ギャンブルに自らを賭けるってのも、どうかなって気がするよな」
「もしかして、入試会場とか?」
「う……たしかに、人生賭かってるけど」
受験生である恭介と萌恵は、顔を見合わせ、どちらからともなくため息をついた。
「……実はね、欠けたる月っていうのはね、ひょっとして月食のことじゃないかと思ったの」
萌恵が、気をとり直すように背筋を伸ばして、言った。
「月食……あ、そうか」
恭介は指を鳴らす。そういう発想は、恭介にはなかった。
「うん。月って、満月のとき以外は、だいたいどこかしら欠けてるでしょう。だから、あえて意味があるとすれば、それくらいかなって。もし、近いうちに月食が起きるとしたら、それが日時を表しているってことになるかもと思ったんだ」
そこまで続けて、萌恵は首を振った。
「だけど実は月食が起きるのは満月のときなんだって。それに皆既《かいき》月食のときでも、わずかに暗くなるだけで、日食みたいに見えなくなるわけじゃないらしいの。さっき天文部の子に聞いてみたんだけど」
「ほんとに? なんか、イメージが狂うな……」
「うん。それに、問われているのは月の名前だしね。やっぱり日時を表してるっていうのとは、違うのかも」
自信なさげに萌恵《もえ》がつぶやき、そこで二人の推理は行きづまった。気がつくと、残っていた同級生たちもだいぶ減って、教室はずいぶん静かになっている。
「瀬尾《せのお》さんが言ってたことだけど」
しばらくして、萌恵がぽつりと訊《き》いた。
「このメッセージって、緋村《ひむら》くんに読んでもらうために香澄《かすみ》が書いたんだよね。だとしたら、ここに書いてある内容は、緋村くんに関係あることじゃないのかな。たとえば、二人で行ったことのある場所とか」
「え?」
ふんふんとうなずきかけて、恭介は表情を硬くした。あわてて顔をあげて否定する。
「ちょ、ちょっと待って。俺《おれ》はあいつと二人で出かけたことなんてないよ。そういう関係じゃないんだって。ほんとに」
急に身を乗り出したせいで、無防備にのぞきこむ萌恵の鼻先に顔をつけるような形になった。
萌恵が反射的に身体《からだ》を引いた。そのままの姿勢で、恭介は硬直する。そのせいで、言いかけた言葉を途中でやめることができなかった。
「草薙《くさなぎ》さんにだけは誤解して欲しくないんだけど」
言ってから、すぐに後悔した。自分が口にした言葉がどういう意味を持つのか、それを理解するだけの冷静さはまだ残っていた。
「あ……う、うん。ごめん」
萌恵は、ぎこちなく微笑《ほほえ》んで言った。
動揺している様子は見せなかったが、恭介がどうしてそんなことを言ったのか、わからなかったということはないだろう。心なしか彼女の表情も硬くなっている。
「あの……ごめんね、あたしそろそろ部活に行かなきゃ」
いかにも思い出したばかりという表情で時計を見て、萌恵は言った。
「あ、悪かった、遅くまでつきあわせちゃって」
「ううん。こっちこそごめんね……また、明日」
あわただしく荷物をまとめて立ち上がり、恭介に向かって首を振る。そのときにはもう、萌恵はいつもどおりの態度に戻っていた。
残っていたほかの友人にもにこやかに手を振って、彼女は教室をあとにする。
その後ろ姿が見えなくなるのを待って、恭介は机に突っ伏した。
耳元で鳴っている心臓の音がやけにうるさい。
そのわりに、自分でも意外なほど冷静だった。朝からいろんなことがありすぎて、神経がどこか麻痺《まひ》してしまっているのかもしれない。
「……逃げられた、かな」
落胆《らくたん》しているのか、安堵《あんど》しているのか。自分でもよくわからない気分のまま、恭介《きようすけ》はつぶやいた。
3
「緋村《ひむら》先生、外線4番にお電話です」
午後の回診を終えて戻ってきた緋村杏子《きようこ》に、ナースステーションから声がかけられた。勤務交代の時間が近づいているせいか、若い看護婦の声は弾《はず》んでいた。
「ん、ありがと」
片手をあげて、杏子は白室のドアを開けた。カルテの山に埋もれた机から、鳴り続けている電話を掘り起こし、タバコをくわえながら受話器をとる。
「ハイ、どちらさま?」
『姫《ヒメ》か? 元気そうだな』
男の声が告げたのは、杏子の学生時代の通り名だった。それで電話をかけてきた相手の正体がわかった。杏子は顔をしかめて、タバコに火をつける。
「祐一《ゆういち》? めずらしいわね、あなたが直接電話してくるなんて。なんの用?」
『あいかわらず冷たいな。せっかく、いい知らせをもってきてやったのに』
「聞くだけは聞いてあげる。なに?」
受話器から聞こえる古い友人の声には、雑音が多かった。かすかな時差も感じる。おそらく、東南アジアあたりの第三国を経由して電話してきているのだろう。逆探知防止のためだ。
『気づいていたかもしれないが、今日になってから、きみを尾行していた統合計画局の連中が姿を消した』
「そう」
杏子は無感動にうなずいた。
それは久遠《くどう》祐一が、直接電話をかけてきたときから予測できたことだった。彼の現在の所属は内閣調査室なのである。そして彼は、統合計画局の動きをつかむための杏子の情報源の一つだった。久遠にとっての杏子がそうであるように。日本政府全体が、一方的に統合計画局の言いなりになっているわけではないのだ。
「理由は、わかる?」
『残念ながら。わかるのは統合計画局の内部で、ちょっとした方針の転換があったということぐらいだな』
「ふうん……そういえば。めずらしいものが飛んできたらしいわね」
『耳が早いな』
電話の向こう側で、久遠は苦笑したようだった。
『そのとおり。東海岸にいるはずの|Cl5B《ギヤラクシー》や|Cl17《グローブマスター》が日本にきてる』
「航空機動軍団《AMC》? 本国《ステイツ》から戦車でも運んできたの?」
『戦車ならまだましなほうだな』
冗談《じようだん》とも思えぬ口調で久遠《くどう》は言った。イリノイ州に本部を置く米空軍航空機動軍団は、在日米箪とは別の指揮系統に所属する緊急展開部隊だ。|Cl5B《ギヤラクシー》や|Cl17も《グローブマスター》、本来なら地域紛争の制圧などを目的とした部隊を送りこむための戦略輸送機である。
『どちらにしても、連中の目的地は高城《たかじよう》市内だろう。市郊外の幹線道路で、戦闘らしきものがあったこともわかっている』
「……うちの弟《バカ》がからんでるんじゃないでしょうね?」
『いや、それはない。ついでに言えば、彼に対する監視《かんし》もずいぶん甘くなっている。特捜《とくそう》官が一人張りついているだけだ』
「……彼女のほうは?」
『秋篠《あきしの》香澄《かすみ》の行方《ゆくえ》は追いきれなかった。キルンハウスに呼び戻された可能性が高いが、断言はできないな。悪いがこっちも手一杯なんだ』
久遠が無念そうにつぶやいた。
メリーランド州キルンハウス。統合計画局の研究施設があると目《もく》されている場所だ。香澄はかつて、そこで最年少の研究員として働いていたのである。
「わかった。それは、こっちでなんとかするわ」
淡々と、杏子《きようこ》は言った。
「交通手段《アシ》と入国手続きはどうにかできる?」
『問題ない。もともと彼女は日本国籍だしな。どうとでも根回しできる』
「ありがとう。手間をかけるわね」
『気にするな、きみには借りがある。それより気をつけろ。あんたにもしものことがあると、ほかの仲間に申し訳がたたない』
「心配しないで。あなたこそ飛ばしすぎて事故らないように。運転、ヘタなんだから」
電話こしに本気で悔しがる久遠の声を聞きながら、杏子は素《そ》っ気《け》なく受話器を置いた。
実際、学生時代に何度となく勝負をして、杏子がバイクで彼に負けたことは一度もなかった。
杏子がどうしても勝てなかった相手はこれまでにたった一人だけで、そして、その男はもうこの世にいない。
時計を見ると、勤務時間はとっくに終わっていた。
服を着替えて、杏子は職員駐車場へ向かう。日が長くなったおかげで、外はまだ明るかった。赤く染まった空を飛行機雲がひとすじ横切っている。奇妙に静かで、美しいが、閉塞《へいそく》感のある光景だった。
「さて……どうしたもんかしらね」
つぶやいて、杏子は無造作《むぞうさ》に髪をかきあげた。レベリオン事件《ケース》。それは恭介《きようすけ》の戦いだ。肉親である杏子《きようこ》が、彼のためにできることはそう多くない。おそらく、今度が最後の手助けになるだろうという予感がある。
だが、今はまだ動けない。なにか重大なものが欠けているのだ。ゲームの鍵《かぎ》となる、大切な情報が。
駐車場の入り口をくぐったところで、杏子は足を止めた。
「……ふん」
吸いかけのタバコを近くの灰皿に押しつけながら、小さく鼻を鳴らす。
独特の光沢《こうたく》を持つ杏子のスポーツカーが、駐車場奥の一角に停まっていた。
威圧感のある低い車体。攻撃的なシルエット。戦闘機を思わせるなめらかな樹脂製のボンネットに、不似合いなオブジェが置かれている。
レースとリボンで美しくラッピングされた清楚《せいそ》な花束。
添えられたメッセージカードの名前を見て、杏子は静かな笑みを浮かべた。
4
制服のまま、近所のスーパーで夕飯の買い物をすませて、恭介《きようすけ》は家路についた。
空腹で、体力が底をつきかけている。あちこちで無駄《むだ》な体力を使ったし、がらにもなく頭を使いすぎた。バイクの振動が、疲れた身体《からだ》にけっこうこたえる。
「……なんだ?」
交差点を曲がって自宅が見えてきたところで、恭介はバイクのスピードを落とした。
緋村《ひむら》家の前にエンジンをかけたままのタクシーが停まっていた。トランクから大きな荷物を下ろした直後らしく、いったん車を降りたドライバーが、再び運転席に乗りこもうとしているところだ。客がくるという話は聞いていなかったので、恭介は首を傾《かし》げた。恭介が家に着くのといれかわりに、空車ランプを点灯させた黄色い車体が去っていく。
駐車場には、一足早く帰り着いたらしい姉のコルベットが停まっていた。それを確認して、恭介はXJRを庭先に突っこんだ。ヘルメットを脱いで、ため息をつく。
その直後、いきなり背後からテンションの高い声がした。
「おそーい。どこに寄り道してたのよ」
振り返って、恭介は唇《くちびる》をゆがめる。緋村家の玄関先に、皆瀬《みなせ》梨夏《りか》が立っている。
身体にぴったりとくっついた丈《たけ》の短いシャツと、股上《またがみ》の浅いジーンズ。腰に手をあて、なにやら不満げな表情で恭介を睨《にら》んでいた。
そして彼女の両脇には、どでかいスーツケースが二個ずつ並んでいる。
「……てめ、転校生。人ん家《ち》の前でなにしてんだよ?」
低い声で、恭介は訊いた。ひどくいやな予感がした。皆瀬梨夏は大げさに肩をすくめる。馬鹿にしたような口調で、彼女は答えた。
「見てわかんないの? 引っ越しに決まってるじゃん」
「引っ越し!?」
眉間《みけん》にしわをよせて睨《にら》む恭介《きようすけ》に、つんとあごをあげて梨夏《りか》は言った。
「そ。ホームステイってやつ? 二十四時間体制であんたを監視《かんし》することになってるんだもの。
仕方ないでしょ。ほかにどうしろってのよ」
「……なんだそれ!?香澄のときはそんなことしなかったぜ?」
恭介は、顔をしかめてうなった。それを聞いたとたん、澄ましていた梨夏が、急に不機嫌な顔になった。
「あの子はどうだったかしらないけど、これがあたしの仕事。だいたい、なんで香澄のことはファーストネームなのに、あたしは転校生呼ばわりなわけ? すっこい腹たつんだけど」
「そんなの勝手じゃねえか。ほっとけよ」
「うわ、性格わるい。あんた、何様?」
リズミカルな早口で、梨夏が言った。こいつにだけは言われたくないと思いながら、恭介は玄関の鍵《かぎ》を取り出す。どうして統合計画局は、こんな女を野放しにしているのか不思議だった。
怒りは自動的に香澄に向かった。もとはといえば、香澄がなにも言わずにいなくなってしまうから、こんな面倒なことになってしまったのだ。彼女がいた昨日までのことが、ずいぶん昔のことのように思えてくる。
「だいたい、統合計画局は市内のマンションを借り上げてたんじゃなかったのかよ? あっちにおとなしく住んでろよ。たいした距離でもないだろ」
「あんた記憶《きおく》力ないの? もしかして、ばか? あの基地は放棄して、今はもう使ってないの。
昼間見たでしょ? なんであたしが、あんな廃ビルみたいなとこに住まなきゃならないわけ?」
「だからってうちにくるなよ。どっかホテルでも借りてろ」
「任務だからしょうがないって言ってるじゃん。腹たつなあ。だいたい、こうやって女の子が押しかけてきたら、もっと浮かれるもんでしょ。素直によろこんだら?」
「常識で考えろ。そういうの、普通はひくんだよ! だいたいなんで、二十四時間体制で監視……なんか……」
怒鳴《どな》りかけたままの姿勢で、恭介は動きを止めた。目を見開いて固まっだ恭介を見て、梨夏が怪訝《けげん》な顔をした。
自分が、とんでもない考え違いをしていたことに恭介は気づく。
いろんな厄介事《やつかいごと》がいちどきに押しよせてきたつもりになっていたが、そうではなかった。香澄がいなくなったのも、残された奇妙なメッセージも、無人のマンションで高崗陸也《たかおかりくや》と遭遇《そうぐう》したのも、皆瀬梨夏が押しかけてきたことも。原因はたった一つの出来事だった。
統合計画局が方針を転換したこと。
それがすべての元凶《げんきよう》なのだ。新しいレベリオン事件は起きていない。アーレンたち脱走者の行方《ゆくえ》を特定できたわけでもない。なのに、統合計画局は支部を閉鎖し、現地に慣れたエージェントのリチャード・ロウや香澄《かすみ》を引き上げさせた。なにか重大な変化が、統合計画局の内部で起きている。
それを知らなければいけない、と恭介《きようすけ》は思った。なにか、ほんとうに危険ななにかが、これから起きるのではないか。そんな予感がする。そして残念ながら、恭介に残された統合計画局との接点は、目の前の少女だけなのだった。
「大丈夫? 聞いてる? もしもーし!?」
突然動きを止めた恭介の目の前で、皆瀬《みなせ》梨夏《りか》が手を振った。その手を、恭介は乱暴に払いのけた。大事な手がかりだということはわかっているのだが、やはり彼女の言動は神経に障《さわ》る。
梨夏は思いきり不満そうな顔で、そんな恭介に文句を言おうとした。
だが、その前に恭介の背後で玄関のドアが開く音がした。
気《け》だるい表情を浮かべた長身の女性が歩み出て、睨《にら》みあっている恭介たちをゆっくりと見回した。
梨夏が気圧《けお》されたように一歩あとずさる。いつもにも増してみょうに迫力があると思ったら、めずらしく彼女は化粧をしていたのだった。服装も見慣れないクールなイブニングドレスだ。
「中でしゃべったら? 近所中に聞こえてるわよ」
あまり唇《くちびる》を動かさずに、それでもよくとおる声で、緋村杏子《ひむらきようこ》が言った。
「けど、姉貴。こいつ、うちに引っ越してきたとか、わけのわかんないことを言ってて」
「……引っ越し?」
異議を申したてる恭介を無視して、杏子は梨夏をじっと見つめた。
「あなた、統合計画局の人?」
梨夏がうなずく。彼女はいつもの強気な口調でなにかを言おうとしたが、そのまえに杏子が言葉を続けた。
「いいわよ、部屋はあまってるから。好きなだけ泊まってもらいなさい」
「ちょ、ちょっと、姉貴!?」
すたすたと歩き出した杏子を、恭介はあわてて呼び止めた。コルベットのドアに手をかけたところで彼女はようやく振り返った。
「あたし、今日は帰りが遅くなるから。先に寝てていいわ」
一方的にそれだけ言って、彼女は車に乗りこんだ。重々しい音を立ててドアが閉まる。
V型八気筒五六〇〇tのエンジンが噴けあがり、巨大なスポーツカーが勢いよく走り出す。
恭介たちは、唖然《あぜん》としたまま、その場に取り残された。
「……すご。かっこいい。なんなの、あの人。ほんとにあんたのお姉さん?」
感心したように梨夏がつぶやいた。恭介はだまって肩をすくめる。自分でもときどき疑問に思う、というのは、さすがに口にはしなかった。
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3.大人たちの章
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Hana
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1
キャメロン・インダストリー。
その聞き慣れない外資系企業の敷地は、海崎《みさき》区のはずれの海岸沿いにあった。
埋め立て工事によって十年ほど前に造成されたばかりの高城《たかじよう》市海崎区は、本来なら商工業の新しい中心地となるはずだった地域だ。だが折からの不況で、オフィス街には空《あ》き室が目立ち、工業用地の多くは、さら地のまま放置されている。
そんな中で、埋め立て地の端にぽつりと建つキャメロン社の倉庫だけは、煌々《こうこう》と照明が輝き奇妙な活気に満ちていた。大型のトレーラーが次々に到着し、屈強な体格の従業員たちが続々と運ばれてくる荷物の積み卸《おろ》しに追われている。
その作業はきわめて静かに、そして迅速《じんそく》に行われていた。
無駄《むだ》なく統率された彼らの動きは、企業の従業員というよりも、むしろ軍隊のそれを連想させた。そして事実、彼らが扱っている荷物は、武器弾薬。または、各種の電子兵装といった、明らかに軍事用の物資であった。それも、最新鋭の機械化歩兵師団のものとおぼしき、見慣れない装備が中心である。
それらの荷物には目立たなく、だが例外なく、ある一つの英文が書かれていた。
Anti-Rebelion EnhancedSoldier Battalion―
アレス部隊の正式名称である。
「状況を述べよ、中尉《ちゆうい》」
絶え間なく流れる水音に混じって、彼女の美しい声が響いた。
その部屋に、ドアは一枚しかなかった。その気になれば、バスケットの試合でもできそうな広い部屋だ。床にはかろうじてカーペットが敷きつめられているが、壁紙が張られているのは部屋の半分だけ。天井《てんじよう》に至っては電気の配線が剥《む》きだしである。
とはいえ、建築途中だった工場の一室を、無理やり使えるようにしたのだから、あまり賛沢《ぜいたく》も言えない。シャワー室を隔《へだ》てる磨《す》りガラスの壁が間に合っただけでも上出来だろう。
水音は、今も続いている。漏《も》れ出す湯気に混じって、毒花の放っ香りに似た、甘く息苦しい香水の匂《にお》いがただよってくる。
「順調です、部隊長殿」
直立不動の姿勢のまま、デュラスは答えた。
広い肩幅と長身。猛禽《もうきん》を思わせる鋭い鉤鼻《かぎばな》の、きわめて危険な雰囲気を持つ兵士である。だが、今、その額《ひたい》にはじわりと汗が浮かんでいた。握りしめた拳《こぶし》は、休みなく小刻みに震えている。
「現地調達する予定だったOHl1の到着が遅れていますが、その他《ほか》の装備は、明朝O八〇〇時以降すべて使用可能となります」
「l使用可能なシステムの内訳は?」
シャワーの水音が止まり、エウレリア・ハダレインの美麗《びれい》な声だけが残った。
消え残る湯気にまじって、一糸《いつし》まとわぬ彼女の姿が逆光の中に浮かび上がる。白人としてはむしろ小柄な彼女の肢体《したい》は、磨《す》りガラスごしに見ても完壁な調和を保っていた。
歯を食いしばり、デュラスは苦しげに言葉を続けた。
「フォボス型十九機の整備は。ほぼ完了しました。現在はデイモス型の最終調整中です。旧型アレス・システムを強化しただけのフォボスと違って、新設計のデイモスは運用データが不足しておりますので……」
「ふむ……ああ、そうだ、フォボスの予備機については謝《あやま》らねばならんな。私がついていながら、むざむざと一機を失ってしまった」
「いえ、ご無事《ぶじ》でなによりでした。未調整状態では本来の戦闘能力は期待できません。
|レベリオン原種《オリジナル・セプン》の生き残りが相手では歯が立ちますまい」
「―高崗陸也《たかおかりくや》はどうなった?」
「現在までのところ、死体の発見にはいたっておりません。しかし、環場の状況から判断して、すでに死亡している確率が高いと思われます」
「それは、どうかな」
どこか楽しげな調子で、エウレリアはつぶやいた。デュラスの表情に、さっと緊張が走る。
「掃討《そうとう》部隊を出しますか?」
「よい、放っておけ。あれだけの攻撃を受けたのだ。それなりの手当てが受けられなければ、当分は動くこともできまいよ。作戦の邪魔にはならんさ」
上機嫌でつぶやきながら、エウレリア・ハダレインはデュラスの前に歩み出た。
素肌にボディスーツだけをまとった無防備な姿だ。部隊の指揮官にあるまじき無規律な振る舞いだったが、彼女は気にした様子もない。東欧系特有の抜けるような白い肌に、優雅な金髪の巻き毛が揺れる。
そしてデュラスもまた、威圧されたように身じろぎ一つできないでいた。
「ベル≠ヘ、どうした?」
碧《みどり》色の瞳を細めて、エウレリアは訊《き》いた。
「K・ヒムラと接触しました」
「ならばいい……予定どおりだ」
「は……ですが、サンプルの捜索《そうさく》は、ほんとうに中止してよかったのですか?」
「不安か?」
問いかけられて、デュラスは言葉につまった。エウレリアは、感情のないまなざしでそれを見ている。
「……はい。サンプルがヒムラとの接触を試みる理由が不明ですので。最悪、このまま見失ってしまう可能性もあるのではないかと」
「接触の理由は不明ではない。おまえにそれを知る権利がないだけだよ、中尉《ちゆうい》。サンプルには、緋村《ひむら》恭介《きようすけ》が必要なのだ」
エウレリア・ハダレインは、用意された軍服に袖《そで》をとおす。それは、白を基調にした見慣れない軍服だった。襟《えり》には少佐《しようさ》の階級章。せいぜい二十歳《はたち》そこそこの女性士官としては、異様なほどに高位の肩書きだ。
その若き部隊長は美しい唇《くちびる》をつりあげ、冷ややかに笑って言った。
「それに我々はやつらをけして逃がしはしない。必ず追いつめて、捕らえる……違うか?」
「いえ……そのとおりです、部隊長殿」
返事をするデュラスの声は、震えていた。呼吸が荒い。頬《ほお》を汗のしずくが伝った。
そのデュラスを、愉快そうに見てエウレリアは言った。
「苦しそうだな、中尉」
「……いえ、問題ありません」
「ふふ……無理をするな。作戦行動中だ。体調は、万全にしておかねばな」
「は……」
タイトスカートの士官服を身につけたエウレリアは、部屋のすみに歩いていった。足下に置かれた銀色のケースからとりだしたのは、短い筒状のカートリッジだった。ドライアイスの煙が、部屋に漏《も》れる。
エウレリアが無造作《むぞうさ》に放ったカートリッジを、デュラスはうやうやしく両手で受けとった。
ためらうことなく、先端のゆるくカーブした部分を首筋に強く押しつける。しゅっと空気が漏れる短い音。
「かはっ」
デュラスが目を閉じてぴくりと全身を震わせた。青白かった彼の頬《ほお》に、かすかな赤みがさす。
ぎらぎらとしたどう猛《もう》な表情が彼の頬をかすめ、こめかみに幾筋かの血管が浮いた。
哀れむようなまなざしでそれを見ていたエウレリアが、うすく笑った。
「……では中尉《ちゆうい》、サンプルの確保はおまえに任せる。二個小隊の指揮権をくれてやる。障害はすべて排除せよ。統合計画局は、あらゆる犠牲を容認する」
金髪をなびかせて、エウレリアは窓こしに工場のストックヤードを見おろした。
作業用のスポットライトに照らし出されたのは、人の形をした黒い影だった。専用のハンガーにつるされた、アレス部隊の専用装備。二十体を超える装甲強化服が、じりじりと爪《つめ》とをとぐ獣《けもの》のように、闇《やみ》の中でたたずんでいる。
「残りの小隊は外周に配置。脱走者アーレン・ヴィルトールと秋篠《あきしの》真澄美《ますみ》は、彼らと私のアフロディテが対応する。以上だ」
東欧の訛《なまり》をかすかに残したエウレリアの声が、薄暗い部屋の中で凛《りん》と響いた。
彼女が背を向けて立ち去ったあとには、ただよう白い冷気だけが残された。
2
ガラスばりの展望エレベーターの中で、緋村杏子《ひむらきようこ》は、ゆっくりと下方へ流れていく景色を見ていた。高城《たかじよう》駅に隣接する高層タワービル。奇《く》しくも、それは恭介《きようすけ》が昨日見たものと同じ景色だった。
杏子の服装は、襟《えり》もとを大きくえぐった華《はな》やかなイブニングドレス。薄いレースの|肩かけ《ストール》に、肘《ひじ》まで届く長い手袋をあわせており、さながら豪華客船に乗りこむ貴婦人のようである。
彼女をエスコートする男性もまた、異様に目立つ容姿をしていた。
それは、長身でがっしりとした体躯《たいく》の外国人の男だった。見るからに気障《きざ》なスーツを適度に着崩《きくず》しており、どこか猛獣《もうじゆう》めいた、危険な雰囲気をまき散らしている。そしてなによりも、腰まで届く、嘘《うそ》のような白銀の髪が人目を惹《ひ》く。
「さすが、抜け目ないわね」
隣に立つアーレン・ヴィルトールを見上げて、杏子がつぶやいた。エレベーターは最上階に近づいて、少し速度をゆるめたようだった。かすかな浮遊感がある。
「なんのことだ?」
「今更とぼけるのはやめにしたら? こんな場所にあたしを呼び出した理由。一緒に夜景を見たかった、なんて言うつもりじゃないでしょう?」
愉快そうに問いかける杏子《きようこ》を見て、アーレンは黙って肩をすくめた。
ほかのビルよりも、格段に高い場所にある展望レストラン。周囲の建物から狙撃《そげき》される危険は、ほとんどないと思っていい。しかも全面がガラスばりだから、外で不穏な動きがあってもすぐにわかる。万が一、ビルごと爆破されるようなことがあっても、最上階ならば瓦礫《がれき》に押しつぶされる危険はない。あらゆる事態を想定して、どんなことがあっても生き延びられるよう、周到に選んだシチュエーションであるのは間違いなかった。
だが、まさかそれを見抜く民間人の女がいるとは思っていなかったのだろう。苦笑まじりに、アーレンは言い訳した。
「いちおう、夜景を見たいという気持ちに嘘《うそ》はなかったんだがな」
「そう、ね……まあ、そういうことにしておいてあげるわ」
杏子は、どうでもいいような口調でそう言った。実際に、そんなことはどうでもいい。
エレベーターが止まって、扉が開いた。タワービル最上階にある展望レストラン。老舗《しにせ》の高級フランス料理店の看板を掲げているだけあって、客の入りは悪くない。しつけの行き届いた従業員《メートル・ドテル》に案内されたのは、見晴らしのよい窓ぎわの席だった。
「飲み物は?」
ワインリストをながめながら、アーレンが訊《き》いた。
「なんでもいいわ。高いやつ。どうせ、あなたのおごりなんでしょ?」
「……なかなか手厳しいね」
今日だけでも何度目かの苦笑を浮かべて、アーレンはソムリエに指示を出す。どうやら、律儀《りちぎ》に、いちばん高いシャンパンを注文しているらしい。
タバコに火をつけながら、杏子はそんな彼の姿を観察する。
脱走者アーレン・ヴィルトール。かつてR2ウィルスの流出事故を引き起こし、さらに統合計画局が派遣した追跡者を何人も返り討ちにしたという、最重要手配の危険人物。
たしかに彼は危険な匂《にお》いがする。硝煙《しようえん》にまみれた空気を呼吸し、血を吸った大地を歩んできた者の匂い。その気になれば、彼は、このレストランにいる全員を、眉《まゆ》一つ動かさずに殺してのけるだろう。
けれど、彼の瞳は、無軌道な殺戮《さつりく》者のそれではなかった。誰かの言いなりなって人を殺す暗殺者の目でもない。己の信念のためだけに戦う、誇り高き戦士の貌《かお》。
そんな貌を持つ男が、なんのために、この小さな街に隠れて逃亡生活を送っているのか―。そのことに、杏子は興味を覚えた。彼の誘いに応じて夕食をつきあう気になったのも、それが理由だ。
「―で、用件はなに?」
乾杯、とアーレンがつぶやくよりも早くグラスを飲み干して、杏子《きようこ》は訊《き》いた。
「やれやれ……予想以上におカタいね。口説き落とすには骨が折れそうだ」
渋《しぶ》い表情を浮かべて、アーレンが言う。それを無視して、杏子は続けた。
「統合計画局に狙《ねら》われる危険を冒《おか》してまで、あたしに会いに来たんでしょう? なにか訊きたいことがあるんじゃない?」
「べつに。言っただろ、あんたみたいな美人と夜景を観賞するのが趣昧なんだ」
軽口をたたいてはぐらかそうとするアーレンを、杏子は黙ってじっと見つめた。
視線を固定したまま、にっこりと唇《くちびる》だけの笑みを浮かべてやる。
沈黙のあとで、先に目をそらしたのはアーレンだった。表情をゆがめ、髪をかき上げる。敗北を認めた印に、彼は両手を広げてため息をついた。
「……どうも俺《おれ》の周りにいる女は、マスミといい、あんたといい、聡《さと》すぎて可愛《かわい》げに欠けるやつが多い」
つぶやいて、彼もタバコをくわえた。甘ったるい香りのガラム煙草。テーブルの上のキャンドルを使って、火をつける。
「ま、つまらない駆《か》け引きが通用する相手だとは、最初から思ってなかったがな……訊きたいことってのは、要するに、あんたの弟のことだ」
杏子は目の動きだけでうなずいた。アーレンの返答は、ある程度予想できたことだった。
かつて彼は、同じレベリオンである恭介《きようすけ》を仲間に引き入れようとしたことがある。さらには、窮地に陥った恭介たちを、救ったこともあると聞いている。そのアーレンが杏子を呼びだしたのだから、恭介についてなにかを調べていると考えるのは、むしろ当然のことだった。
しかし、アーレンの次の言葉には、さすがの杏子も驚きを隠すことができなかった。
「教えてくれ、緋村《ひむら》杏子。あんたの弟……緋村恭介は、」
こめかみを押さえ、眉間《みけん》に深いしわを刻んだまま、真剣な口調でアーレンは訊いた。唇から紫煙《しえん》が漏《も》れた。タバコの先から灰がこぼれる。音もなく。
「―秋篠《あきしの》香澄《かすみ》とつきあっているのか?」
平静を装うこともできぬまま、杏子はぽかんと口を開けて、言った。
「……はあ?」
3
目覚めは、最悪だった。
傷口の疼《うず》きは、痛みというより物理的な衝撃に近い。失血が引き起こす寒気《さむけ》よりも、焼けただれ、腫《は》れあがった患部の熱が勝《まさ》っていた。全身を流れる血液が沸騰《ふっとう》してしまったような気分。
絶え間なく襲う激痛に耐えながら、高崗陸也《たかおかりくや》は上体を起こした。
見慣れない景色に、目を細める。。
「……ここは、どこだ?」
声に出したつもりだったが、実際には、ひきつるように痙攣《けいれん》する肺が、わずかな空気を吐《は》き出しただけだった。汗にぬれた額《ひたい》をぬぐおうとして、腕が動かないことに気づく。反射的に目を向けると、両腕にからまる、ひものような細い管が見えた。
しばられているのかと思ったが、そうではなかった。細い管の先に、医療用の点滴《てんてき》のパックがつながっている。
「病院……じゃない?」
傷がふさがりきっていないらしく、身体《からだ》のどこかを動かすたびに鈍《にぶ》い痛みが襲った。それにかまわず、陸也は部屋の中を見回した。
それほど広い部屋ではない。実体は病室と大差ないが、ベッドは無駄《むだ》に柔らかく、置かれているテーブルやデスクも見た目だけは豪華だった。壁に、落ち着いた絵柄の銅版画《メゾチント》がかけられている。おそらく、どこかのホテルの一室なのだろう。
見覚えのない、知らない部屋。つまり、自力でここにたどり着いたわけではないのだけは確実だった。記憶《きおく》が混乱している。眠《ねむ》る前、自分がなにをしていたのか思い出すことができない。
無理に思い出そうとすると、激しい頭痛が、発作のように頭蓋《ずがい》を締めつけた。
皮肉なことに、記憶を取り戻すきっかけとなったのも、その痛みだった。
「―至近距離でグレネード弾の直撃を受けたの」
意外なほど近くで女の声がした。穏やかに澄んだ、静かな声。
負傷のことを忘れて、陸也は振り返る。窓に映る夜景が、壁ぎわに立つ女の姿を映し出していた。全身を黒い服に包んだ、若い女。
「普通の人間なら……いえ、並のレベリオンでも、間違いなく死んでいたわ。|血塗られし炎《ブレイズ・トウ・ブレイム》の熱波でダメージを最小限に押さえたとはいえ、さすがは|レベリオン原種《オリジナル・セブン》の生き残り、といったところかしら」
「―!?」
歌うように言葉を紡《つむ》ぐ女の姿に、高崗陸也は硬直した。
薄暗い常夜灯《じようやとう》の光の下でも、彼女の尋常《じんじよう》ならざる美貌《びぼう》ははっきりと認めることができた。
栗《くり》色の長い髪。闇《やみ》に浮かぶ月の光にも似た白い肌。鉱物の結晶のように整った顔立ち。
その女を、陸也は知っていた。
「久しぶりね、陸也―三年ぶり、かしら」
「おまえっ―」
考えるよりも先に身体のほうが動いていた。噛《か》みしめた歯の隙閤《すきま》から、怒気《どき》が漏《も》れる。毛布を跳《は》ねとばし、陸也《りくや》は猛然《もうぜん》と彼女に襲いかかった。
だが、動けたのはそこまでだった。陸也の意志を裏切り、両脚の筋肉が攣《つ》った。ベッドから無様《ぶざま》に転げ落ち、襲ってくる眩彙《めまい》と吐《は》き気に耐えた。激しく咳《せ》きこんだ息に、血の匂《にお》いが混じる。それでも声を出さず、陸也は真澄美《ますみ》を睨《にら》みつけた。
その精神力を賞賛するように、彼女はわずかに微笑《ほほえ》んだ。
「完全に傷がふさがるまでには、最低でもあと半日は必要よ。しばらくは、おとなしく寝てなさい。友人としての忠告よ」
「友人、だと?」
限界を超えてしまえば、怒りはむしろ滑稽《こつけい》ですらあった。ベッドにもたれたまま、荒い息の下で陸也は笑った。
彼女を友人と呼べたのは、もう思い出せないほど昔のことだ。今の彼女は、陸也の敵以外の何者でもない。それでも陸也には、まだ彼女に訊《き》くべきことが残っていた。
「……Y《はな》は、どこだ?」
「それを聞いて、どうするつもり?」
壁にもたれたまま、真澄美は訊いた。感情のこもらない声だった。
「取り戻す。邪魔をするならば、殺す。たとえ相手がおまえでもだ、真澄美」
陸也の声には本物の殺気がこもっていたが、仮面のような彼女の表情が動くことはなかった。
皮肉な笑みを浮かべ、彼女は言った。
「取り戻して、それからどうするの?」
「Yは俺《おれ》の娘《むすめ》だ。誰にも利用させはしない。おまえらにも、統合計画局にも」
「あなたの娘、そうね。でも、それだけではない」
「……なにが言いたい?」
比較的負傷の軽い右腕に意識を集中しながら、陸也は言った。
真澄美のいる壁ぎわまでの距離は約ニメートル。ぎりぎりで、陸也のトランスジェニック能力の射程圏内だ。
今の身体《からだ》で長時間の戦闘が無理なことはわかっている。だが、一瞬だけでいいのだ。一瞬でも本来の能力を解放できれば、ブレイズ・トゥ・ブレイムの炎《ほのお》は秋篠《あきしの》真澄美の肉体を焼きつくせる。彼女が油断している今ならば、陸也にも勝機はある。
「やめておきなさい、陸也」
そんな陸也の心を読んだように、絶妙のタイミングで真澄美が言った。陸也は、ぞっとする気配を感じて動きを止めた。驚いたわけでも、威圧されたわけでもない。ただ、気づいたのだ。
陸也には、彼女は倒せない。それを確信しているから、真澄美は陸也の前に現れたのだと。
「私のトランスジェニック能力は、とても弱い」
そして彼女は、あくまでも穏やかに続けた。
「あなたやアーレンのような破壊的な力はないし、香澄《かすみ》の能力のように精確でも便利でもない。
けれど、戦えば、誰も私には勝てない。私の能力は、限りなく無力に近く、そしてそれゆえに最強なの」
荒々しく息を吐《は》き出しながら、陸也《りくや》は真澄美《ますみ》の瞳を見上げた。彼女が嘘《うそ》をついているとは思えなかった。だが、その言葉が真実だという確証も持てない。そもそも、彼女がそれほど危険な能力を持っているのなら、それを知った統合計画局が黙っているわけがない。
それとも、脱走してからの二年半あまりの間、彼女は一度も自分の能力を使わずに過ごしてきたとでもいうのだろうか―?
「あなたが考えていることはわかるわ、陸也」
真澄美は表情を変えず、ただ唇《くちびる》だけを動かして言った。
「私は、これまで一度も能力を使わなかった。使えなかったのよ、Y《はな》のために、ね。だから、あなたにもお願いするわ。私に能力を使わせないで」
「Yのため、だと?」
陸也が訊《き》いた。真澄美は黙って目を伏せた。
「どういうことだ? おまえの能力と、Yになんの関係がある?」
「……そう、残念だけど、陸也。結局、あなたはまだなにも理解していないのよ。Yのことも、彼女の能力のこともね」
「Yの……能力?」
陸也は、真澄美を睨《にら》みつけたままつぶやいた。そこまでが、陸也の体力の限界だった。視界が暗転し、肩から床に倒れこむ。ざらざらとした絨毯《じゆうたん》の感触に、陸也は顔をしかめた。
その頬《ほお》に、ふっとなにかが触れた。大理石の彫像《ちようぞう》のような、なめらかで冷たい感触。
それが真澄美の指先だと気づいたのは、彼女の腕に抱かれて、陸也の身体《からだ》がふわりとベッドまで運ばれたからだった。
「教えてあげるわ、陸也。なにもかも」
傷ついた陸也を見おろしながら、美しい声で真澄美は言った。
「Yのことを。あなたたちの娘《むすめ》が、私たち人類にもたらす希望と、そして絶望のことを―」
4
「なにしてんの、恭介《きようすけ》?」
テーブルに頬杖《ほおづえ》をついた梨夏《りか》が言って、そのまま彼女は猫のように背中を丸めた。退屈そうに、目を細めてあくびをする。
「見てわかるだろ。皿、洗ってんだよ」
振り返りもせずに、恭介は答えた。洗い桶《おけ》の中には、洗剤にまみれた二人分の食器が沈んでいる。飛び散った水しぶきで、袖《そで》が濡《ぬ》れて冷たい。そんな恭介を、めずらしい動物でも見るような顔で、私服の皆瀬《みなせ》梨夏《りか》が見つめている。
「ったく、食うだけ食って後かたづけもなしかよ。ちょっとぐらい手伝えっての」
ぶつぶつとつぶやく恭介《きようすけ》の言葉を聞きつけたらしく、梨夏が、べえ、と舌を出した。
「あーやだやだ、頭カタっ。今どき家事を女に押しつけようなんて、考え方がちょっと古いんじゃないの」
「そうじゃなくて、少しは手伝えっつってんだよ。居候《いそうろう》のくせに、おまえ態度でかすぎ」
「うわっ、なにそれ。監視《かんし》対象のくせに、上司に向かってそういう口のきき方ってアリ!?」
「ざけんな、いつ俺《おれ》がおまえの部下になったよ!?」
なんというむかつく女だと思いながら、恭介は歯を剥《む》いた。そんな恭介を無視して、梨夏はリビングまで歩いていき、だらしなくソファに寝転がった。ごそごそと、なにか暇《ひま》つぶしの道具を探している気配がする。
「あ、アルバム見っけ」
みょうに弾んだ梨夏の声が聞こえて、恭介は、ぎくりと皿を洗う手を止めた。
「いやーなにこれ! 恭介、あんた中学のとき不良《ヤンキー》だったの!? なにこの髪形! すっごい変。笑えるー」
「てめ、勝手に人のアルバム見てんじゃねえよ!」
「いーじゃん、べつに。あれ……あんた、バンドなんかやってたんだ」
なにげない梨夏の言葉に、恭介はぴくりと動きを止めた。彼女がアルバムのどのページを開いているのか、手にとるように恭介にはわかった。四人の高校生が、スポットライトを浴びながら、汗まみれで肩を組んでいる写真。たった一枚だけ残った記憶のかけら。
「ふーん、このギターの彼とか、ちょっとかっこいいね。誰?」
無邪気《むじやき》に訊《き》いてくる梨夏を、恭介は一瞬だけ本気で睨《にら》んだ。アルバムに熱中している梨夏はそれに気づいていない。恭介は無言で水を張った流し台に視線を戻し、ざぶざぶと乱暴に皿をゆすぐ。
「―杉原《すぎはら》悠《ゆう》。俺《おれ》の親友、だった。この町で最初の、レベリオン事件の被害者だ」
「ああ、そう……そういうこと」
恭介の声が沈んだことに、さすがの梨夏も気づいたのだろう。ほんの少しだけ気まずそうな反応が伝わってきた。
「ごめん、それならいいんだ、うん」
「なにがだよ?」
「べつに。たださ、男同士で抱き合ってる写真を大事に飾ってるってのも、ちょっとどうかなって思っただけ。あたしが一緒に住んであげるっていってるのに、あんまりうれしそうじゃないし。もしかして恭介って、ほもなのかもって思ってたから。いや、それでもいいんだけどね」
「……おまえな、普段からそんなことばっか考えてるのかよ。ていうか、その写真見ただけで思うか普通そういうこと!?」
「だからあ、ごめんって言ってるじゃん」
拗《す》ねたような口調で言って、梨夏《りか》は唇《くちびる》をとがらせる。読み終えたアルバムを放り出すと、今度はソファの背もたれから身を乗り出して、目を輝かせながら彼女は訊《き》いた。
「じゃあさ、香澄《かすぬ》とは、もうセックスした?」
「なっ―」
不意をつかれて、恭介《きようすけ》は危うく持っていた茶碗《ちゃわん》を落っことしそうになった。いきなりなにを言い出すのだこいつは。
「なんでそういう話になる!?」
「やらせてもらってないの? うっわー、悲惨」
「だから、どうしてそうなるんだよ! 俺《おれ》はあいつのこと好きだなんてひとことも言ってないだろうが!」
ムキになって言い返す恭介を、梨夏は不思議そうに見返した。淡々とした、事実だけを告げる口調で、彼女は言った。
「だけどさ、あたしたちって、普通の人間《ヒト》とはそゆことできないんだよ。聞いてるんでしょ、高崗陸也《たかおかりくや》の話」
「……」
恭介は反論しようと口を開きかけて、やめた。考えたことがないわけではなかった。
レベリオン化の原因となるウィルス、R2の感染力はきわめて弱い。日常的な生活ではまず無害だ。だが、体液を介した直接的な接触の場合は話が違う。ひとたび相手の体内に入ってしまえば、R2ウィルスは正常な細胞の遺伝子を次々に書き換え、数時間も経たないうちに別の生物に変化させてしまう。香澄がかつて、白らの血液を口移しで与えることで、恭介をレベリオンにしたのと同じように。
そして、恭介たちのような完全体―真性《プロ》レベリオンに進化≠キる確率は、一割にも満たないといわれている。ほとんどの場合、感染者は悪性《ヴイルレント》レベリオン症候群《シンドローム》と呼ばれる凶暴《きようぼう》化現象を引き起こし、理性を喪失《そうしつ》した状態のまま戦い続け、やがて死に至る。
|レベリオン原種《オリジナル・セプン》高崗陸也は、普通の人間の女性を愛してしまった。そのために悪性レベリオンに変わってしまった彼女を、彼は自らの手で殺さなければならなかった。恭介が聞かされていることは、それだけだ。
「ま、悲惨な話よね」
他人事《ひとごと》だと割り切ったような、冷めた口調で梨夏が言った。
「とにかく、あたしたちって普通の人間とはキスもやばいって言われてんだからさ、だったら身内同士でくっつくしかないじゃん。そのくらい、あんたにだってわかるでしょ」
少し考えて、恭介《きようすけ》は首を振った。梨夏《りか》の言っていることはスジが通っているかもしれないが、共感することはできなかった。納得できない。
「全然わかんねえよ。そういうふうに理屈で割り切れるものは、恋愛っていわないだろ。そんなことを言えるのは、おまえが人を好きになったことがないからだよ」
「なによそれ? なんかすっごく腹たつんだけど」
めずらしく本気でむっとしたように梨夏は言い返した。意地悪く訊《き》いてくる。
「そこまでいうからには、恭介には誰か好きな相手がいるんだ?」
「ああ」
「え?」
「いるよ、好きな人。つきあってるわけじゃないけどな」
あっさり認めるとは思っていなかったのか、梨夏は目を丸くして動きを止めた。
「え……それ、まじめに言ってんの? そんなこと、香澄の報告書には書いてなかったわよ」
「驚くほどのことかよ。普通は書かないだろ、そういうことは。プライバシーの侵害だ」
「そんなわけないでしょ。そういうやらしいことさせないために、あたしらが学生のふりまでして、あんたのことを監視《かんし》してるんじゃない」
「違うだろ、それ!? ていうか、やらしいことってどういう意味だよ!?」
思わず声を荒げる恭介を無視して、真剣な顔つきで梨夏が訊いた。
「で、誰よ、あんたの好きな人って?」
「そんなこと言われて誰が教えるか」
「香澄は知ってるの? そのこと?」
「ん……ああ、たぶんな」
なるべく暖味《あれきい》に聞こえるように、恭介は言った。
香澄が報告書のようなものを統合計画局に提出しているというのは、考えてみれば当然のことだった。そして香澄は、恭介が草薙《くさなぎ》萌恵《もえ》のことを好きだと知っている。たぶん、間違いなく。
知っている。そのことを報告しなかったせいで、もしかしたら香澄の立場は悪くなってしまうのかもしれない。それでも彼女は、報告書で草薙萌恵について触れなかった。
そのことに、恭介は、香澄の好意を感じたような気がした。恭介たちのことを、ただの監視対象としてしか見ていないのなら、そんなふうに気をつかう必要もなかったはずだ。
「そう……か、そういうことね」
だが、どうやら梨夏はべつの感想を抱いたようだった。みょうに納得したような表情で、腕を組んで何度もうなずく。なぜかひどくうれしそうだ。
「ふーん、なるほど。そうかそうか、なるほどねー」
「なんだよ、にやにやして。気持ち悪いな」
顔をしかめて恭介は訊いた。梨夏は得意げに笑ってあごをあげてみせた。
「だって、おもしろいじゃない。要するにあの子、嫉妬《しつと》してたんだ」
「……嫉妬?」
「そうだよ。半年以上も一緒にいたのに、あんたに相手にしてもらえなかったんでしょ。それは認めたくないわよねえ、香澄《かすみ》としては。なまじちょっと綺麗《きれい》な顔をしてるだけに、あの子のプライドが許さなかったんでしょうきっと。うん、それは報告書には書けないわ」
「……そうなのか?」
洗い終えた皿を食器棚に戻しながら、恭介は首をひねった。
自分の美貌《びぼう》を鼻にかけたり、萌恵《もえ》に対抗意識を燃やしたり。そういうのは、恭介の知っている香澄のイメージではない。とくに恋愛|沙汰《ざた》については、彼女はきまじめで融通がきかないという印象があった。そんなふうに簡単に好きな相手を乗り換える人間を、彼女はむしろ軽蔑《けいべつ》するのではないかという気がする。
とはいえ、香澄のことをどれだけ知っているのかと訊かれると、恭介にはなにも答えられない。もともとあまり感情を表に出すタイプではなかったし、彼女がなにを考えていたのかなんて、恭介にはいまだにわからないことのほうが多いのだ。
それとは対照的に、梨夏《りか》が考えていることはあきれるくらい簡単にわかった。香澄がいない間に恭介を口説《くど》き落として、あとで彼女に勝ち誇るつもりに違いない。なんのことはない、対抗意識を燃やしているのは梨夏のほうなのである。
どうしたもんかな、と恭介は思う。そういう目的で彼女につきまとわれたら、ものすごく迷惑《めいわく》するのは目に見えている。だが、やめうと言ったところで素直に聞き入れてくれるとも思えない。明日からのことを想像すると気が重くなる。
だから、無理やり話題を変えた。
「なあ……なんで香澄はアメリカに戻ったんだ?」
梨夏は、口を途中まで開けて眉《まゆ》を寄せた。なに言ってんのあんた、という声が聞こえてきそうだった。
「知らないわよ、そんなこと。こっちだって、昨日いきなり任務を押しつけられて迷惑してんだから。香澄に聞かなかったの?」
「ああ。あいつ、挨拶もせずにいなくなったからな」
「ふうん……喧嘩《けんか》でもした?」
梨夏に訊かれて、恭介は孝えこんだ。自分と一緒にいるのがいやになったから、担当を変えてもらった。そういうことなのだろうか。気が滅入る事件に巻きこまれたり、途中でいろいろあったのはたしかだが、最近はそれなりに仲良くやっていたつもりだったのに。
「でも、なんか、それもよくわかんないよね」
頭の後ろで手を組んで、梨夏が天井《てんじよう》を見上げた。
「なにが?」
「だってさ、学生のふりして高校に通ってればいいなんて、こんなちょろい任務、あたしならよっぽどのことがない限り手放さないよ。あんた、香澄《かすみ》になんかひどいことしなかった?」
「してねえよ」
とりあえず恭介《きようすけ》は即答した。梨夏《りか》の考えるひどいことというのが、具体的にどういうものを指すのかだいたい見当はついたし、少なくとも、それはなかったと断言できる。
なにか期待していたのか、梨夏はちょっと残念そうに肩をすくめた。
「だけど、おまえが理由を知らないってことは、香澄がいなくなったのは統合計画局の新しい作戦とか、そういうことじゃなかったんだな」
「まあね。あたしはあんたを見張ってろって言われただけだし、香澄になにか特殊な任務があるなんてことも聞いてないわよ。ていうか、本当に香澄はなにも言ってなかったの? 手紙なんかもなかったわけ?」
「……手紙、か」
恭介は、苦々《にがにが》しい気分でつぶやいた。痛いところを突かれた、という気がした。結局、最後はそこに戻ってくるというわけだ。
「あったんだよ、置き手紙らしきものは。だけど、わからなかった」
「なにが? 手紙があったんならそれでいいじゃない」
「だから、手紙はあったんだけど読めなかったんだよ。暗号みたいなので書かれてて、意味が全然わからない。こういうの、統合計画局で流行《はや》ってんのか?」
恭介は、ポケットからとりだした紙片《しへん》を、梨夏の前に放り投げた。香澄が書いたオリジナルではなく、帰りがけにコンビニでコピーしてきたやつだが、彼女の筆跡を知っている者には、誰が書いたのかすぐにわかるはずだ。
梨夏はしばらくその紙片をながめていたが、急にまじめな顔になって、勢いよくソファから起きあがった。それから、ため息のような口調で、言った。
「あんたって、ちょっと鈍《にぶ》すぎ」
意外なことに、梨夏の表情には香澄に対する同情が浮かんでいた。それに気づいて、恭介は少し複雑な気分になった。
「読めるのか、そのメツセージ?」
「そんなわけないでしょ。でも、読めないけど、わかるよ。ここになにが書いてあるのか」
「どういうことだよ?」
訝《いぶか》しげに恭介が訊き返す。と、梨夏は、今度こそはっきりとため息をついた。
「……あのね、ちょっと考えたらわかることでしょ。あたしがあんたのことを監視《かんし》しているみたいに、あたしたちのことも、統合計画局は監視している。どうして、その程度のことが想像できないかな」
「監視してる……? 身内のおまえらを、あいつらが?」
「身内じゃない。雇われているだけだよ。無理やりにね。統合計画局に協力するかどうか、あたしたちに選択の自由があったなんて思わないでよ。あんたもレベリオンならわかるでしょ?」
「あ、ああ……悪い」
梨夏《りか》が本気で怒っているみたいだったので、恭介《きようすけ》は思わず謝《あやま》った。
言われてみれば、今までそういうことを考えたことはなかった。だが、レベリオン能力の悪用を防ぐということならば、当然、統合計画局は香澄《かすみ》のことも監視《かんし》していたはずなのだ。
尾行がついているのか、それとも発信器や盗聴器が仕掛けられているのか。具体的な監視の手段はわからない。それはおそらく、彼女たちにも知らされてないことなのだろう。
「それを知ってても、まだ書き置きを暗号にした理由がわからない? 香澄は、統合計画局にメッセージの内容を知られたくなかったんだよ。あとはもう考えるまでもないでしょ。統合計画局以外で香澄と接点のあるものなんて、思いっきり限定されてるじゃない」
そこで一度言葉を切って、梨夏は、特徴的な大きな目を恭介に向けた。
「つまり、このメッセージの内容は、あんたと、高城《たかじよう》学園に関係があるものってこと」
5
「ES細胞?」
メインディッシュの魚料理を切り分けながら、杏子《きようこ》は軽くうなずいた。
地上五十階のスカイレストラン。間接照明だけの暗い店内に流れているのは、静かなフランス歌曲だった。外にはそれなりに見事な夜景と、星の見えない夜空が広がっている。
「聞いたことはあるわね。骨や内臓や筋肉のような、特定の役割を与えられる前の状態の細胞でしょ。赤ん坊が生まれる前、細胞分裂を始めたばかりの受精卵の内部にあるってやつ」
「そうだ。胚《はい》性幹細胞―または、万能細胞と呼ばれている」
つぶやいて、アーレンはブランデーのグラスを揺らした。蒸留酒のきつい匂《にお》いが鼻をつく。
「人体には、それぞれ機能が異なる約二百種の細胞が存在するといわれているが、ES細胞は、そのどれにでも変化することができる。イモリなどの両生類が、うしなった手足や眼球を再生できるのも、この万能細胞を利用しているからだ」
「だから、それを応用して移植用の人体臓器などを作る研究が進められたりもしてるんでしょ。
―で、それと恭介たちにどんな関係が?」
「ん……まあ、実際のところたいした話じゃない。問題になるのは、その未分化の幹細胞ってのが、成長した人間の体内にも、同じように存在するということ。それだけだ」
「ああ……なるほど。そういうこと」
杏子は、ナイフを置いた。挑戦的な瞳で見つめるアーレンを見返して、薄く笑う。
「そのES綱胞をあやつるのが、第二段階レベリオンの真の能力―というわけね」
「生まれながらの純血のレベリオン―受精直後から|レベリオン原種《オリジナル・セプン》としての遺伝子を発動していたY《はな》は、他《ほか》のレベリオンとは、まったく異なる特性を身につけてしまった」
聖母のような表情で、秋篠《あきしの》真澄美《ますみ》が見おろしている。傷ついた身体《からだ》を横たえたまま、陸也《りくや》はそんな彼女の瞳を睨《にら》んでいた。
「Yは、自分の細胞を、あらゆる種類の細胞に変化させることができる。肉体すべてが、ES細胞で構成されているといってもいい。だから彼女は、それが存在することさえ理解すれば、ありとあらゆるトランスジェニック能力を再現することができる。一度でも目にした能力は、とりこんで自分のものにできる、というわけ」
「能力の獲得《コピー》か……。それが、Yのトランスジェニック能力だと……?」
「そういうことになるわね」
薄暗い部屋の中で、真澄美は笑ったようだった。
彼女の言葉を、陸也はだまって聞いた。わかりきっていたことだが、真澄美の話は、陸也がはじめて耳にすることばかりだった。
驚くほどのことではない。死んだ母親の胎内《たいない》からYを救い出し、それから二年半もの間、彼女を育ててきたのは秋篠真澄美だ。自分ではない。真澄美がYについて詳しいのは、むしろあたりまえのことだ。
そして、Yが生まれる前に監禁《かんきん》された陸也は、彼女のことをなにも知らない。抱きあげたことすらない。それでも陸也は、Yを救わなければならない。
彼女の父親として陸也にできることは、ほかに残されていないのだから。
沈黙した陸也に、淡々とした声で真澄美は続けた。
「実際、彼女は現時点でも十二、三種類の能力を自由に使うことができるわ。アーレンの|神の雷槌《サンダーヘツド》や、あなたの|血塗られし炎《レイズ・トウ・ブレイム》。それに、まだ統合計画局の人間が知らない能力も含めてね」
「統合計画局が……知らない能力?」
陸也は訝《いぶか》しげに眉根《まゆね》を寄せた。すぐに、彼女が口にしたことの意味に気づく。
「そうか……高城《たかじよう》市内に、|R2ウィルス製剤《RAVE》をばらまいたと言ってたな……」
つぶやいた自分の言葉に、陸也は戦慄《せんりつ》を感じた。
レベリオンの血液に含まれる特殊なホルモンは、普通の人間に対して麻薬に近い効果を示す。
服用した直後は一時的に体力や集中力が増し、服用者は最高に幸せな気分を感じるという。
だが、RAVEと名づけられたその錠剤《じようざい》にも、もちろん副作用があった。
大量に服用すれば、適性のない人間がR2ウィルスに感染したときと同じ、|悪 性《ヴイルレント》レベリオン症候群《シンドローム》を引き起こす。その場合、服用者は理性を失って凶暴《きようぼう》化し―ほぼ間違いなく死に至る。一時的な快楽の代償《だいしよう》としては、まちがいなく最悪の結来の一つだといえるだろう。
そして、もう一つの最悪の結末は、RAVEに微量に溶け残っていたR2ウィルスに感染し、真性《プロ》レベリオンになってしまうことだ。
なんの知識もなく、ただ超人的な戦闘能力だけを与えられて野放しにされたレベリオン―
それは、いかなる凶器《きようき》よりも怖ろしい最悪の猛獣《もうじゆう》だといえる。この街では実際に、レベリオンの力を手に入れた人間が原因で、いくつもの残虐《ざんぎやく》な事件が起きたはずだ。
「その危険性がわかっていて、RAVEを素人《しろうと》に売りつけるなんて、おまえらしくない稚拙《ちせつ》なやり方だと思っていた。だが……違った。そうじゃなかった……」
怪我《けが》の痛みよりも、怒りにうめきながら、陸也は上体を起こした。意外なほど近くにあった真澄美《ますみ》の顔を、まっすぐに見る。
「おまえは、わざとレベリオンを増やしたんだ。Y《はな》に学習させるための、トランスジェニック能力のサンプルを集めるために!」
陸也の問いかけに、真澄美はおだやかな微笑で答えた。
それは、美しく、そして絶望的な微笑《ほほえ》みだった。陸也は、激しく頭を振った。
「なぜだ、真澄美。Yを―俺《おれ》の娘《むすめ》をそんな化け物に育てて、おまえはいったいなにをするつもりだ!?」
「いいえ……なにも」
真澄美は、はっきりと首を振った。嘘《うそ》のない口調だった。
「私は、なにも望まない。彼女になにも求めていない。私は、彼女が望むカを与えているだけ」
「彼女? ―Yの望む@ヘ=H」
「そう。忘れないで、陸也。レベリオンの能力を利用しようとしているのは私たちではない。統合計画局ーアメリカ政府のほうよ」
陸也はなにも答えなかった。真澄美も陸也に返事を期待していたわけではなかったのだろう。
息を継《つ》いで、すぐに彼女は言葉を続けた。
「暴力の本当の怖ろしいところは、その恐怖が被害者にしかわからないということ。銃の怖さは撃たれた者にしか、ナイフの痛みは刺された者にしかわからない。レベリオンを兵器として利用することが、どんな結末を招くか、彼らは身をもって体験する必要があった」
「だから……統合計画局を脱走したというのか? Yを巻きこんで?」
「違うわ、陸也」
真澄美は首を振った。長い髪が、それにあわぜてゆっくりと揺れた。
「そうではない。私たちは、Yを統合計画局に利用させるわけにはいかなかった。それだけのことなの。力≠望んだのは、私たちではない―彼女自身よ」
「Yが……力を望んだ……? なんのために?」
さあ、と軽く首を振って真澄美は、無邪気な笑みを浮かべた。
「……たぶん人類を滅ぼすため、じゃないかしらね」
「レベリオン細胞は、通常、人間の姿に擬態《ぎたい》している」
つぶやいて、アーレンはガラム煙草の煙を吐《は》き出した。
「覚醒時《かくせいじ》には常識を超えた能力や治癒力《ちゆりよく》を見せるが、それ以外の状態では、一般の人間と大差ない。普通に成長するし老化もする。代謝速度も人間とほとんど変わらない」
「それは、あたしも気づいていたわ」
杏子《きようこ》は、手の中のロックグラスを傾けた。溶けかけた氷がぶつかる音を聞きながら、ぼんやりと、窓に映る景色をながめる。
「戦闘時のレベリオンは、生物として、あまりにもバランスが悪すぎる。ものすごい勢いでエネルギーを消耗《しようもう》するし、肉体にかかる負担は細胞の代謝《たいしや》能力を超えている。それでも生命活動を維持するために、人間という生物の枠《わく》組みを利用しているということなんでしょ? ちょうど、ある種の寄生生物のように」
「そうだ……だが、Y《はな》は違う」
アーレンがかすかに首を振った。
「純血種であるYは、自分の肉体を完全にコントロ―ルすることができる。必要があれば、本来人間にはないはずの器官―翼や、触覚を作り出すこともやってのける。そして彼女は、今現在も、ものすごい速度で成長を続けている」
「……成長? 言葉どおりの意味で?」
杏子は怪訝な表情を作って訊き返した。アーレンが目を伏せる。
「ああ。彼女は生まれてまだ三年足らずだが、外見だけなら、すでに十二|歳《さい》前後にまで達している。この急激な成長は、あと半年程度……彼女が十六、七歳の肉体を手に入れるまで続くだろう、というのがマスミの推測だ」
「十六、七歳……女性の運動能力がピークに達する時期、ということね?」
「|戦《ヽ》闘《ヽ》能《ヽ》力《ヽ》がピークに達する時期、だな」
皮肉げに唇《くちびる》をゆがめて、アーレンは訂正した。
「その時点で、Yは成長をやめるだろう。それから先、そのままの姿で彼女が何年生きることになるのか、俺《おれ》たちにはわからない。もしほんとうに彼女が細胞レベルで肉体を完全に制御《せいぎよ》できるというのなら、永遠に生きることすら不可能ではないと、俺は思っている」
「雷《かみなり》や炎《ほのお》を自在にあやつり、ときには動物に姿を変え、そして不老不死《ふろうふし》……」
思わず笑い声を漏《も》らしながら、杏子は言った。
「まるで、神話に出てくる神のようね」
「そうだな」
アーレンは、笑わなかった。グラスに残っていた酒を一息で飲み干して、言った。
「実際、彼女は人間よりも、はるかに神に近い存在だ。今はまだ不完全だが、このまま成長を続ければ、いずれ、ほんとうに人類を滅ぼすほどの能力を手にいれるかもしれない」
「それがわかっていて、あなたは彼女を守っている」
「―俺《おれ》は戦場にいたことがあるからな」
瞳の奥にかすかによぎった感情を隠すためか、アーレンは目を閉じた。不思議におだやかな笑みを浮かべてみせる。
「人間がどんなに残虐《ざんややく》で怖ろしい生き物かということは、よく知ってる。もし人間以上の誰かが、俺たちを裁《さば》いてくれるというのならば、それでもいいと思っているさ」
「ぶっそうな話だこと……」
杏子《きようこ》は小さく鼻を鳴らして、タバコをくわえた。
「だけど、レベリオンは神にはなれないわ。人が、神になれないのと同じように」
「だが、人は神を作り出した。神という存在を定義し、名前をつけることによって」
どこか楽しそうに、アーレンは言った。
「人類が生み出した、気まぐれで、無邪気で、そして制御《せいざよ》不能な存在。人工の女神。それがY《はな》だ。彼女が成長したとき、世界にどんな影響を及ぼすか―マスミはそれを実験と呼んでいた。俺は、もっと単純に―賭《か》けだと思ってる」
「私たちは、そのゲームに否応《いやおう》なしに参加させられている、というわけ?」
杏子は静かにつぶやいた。その声には、非難も怒りも存在しなかった。アーレンは愉快《ゆかい》そうに笑って片|眉《まゆ》をあげた。
「人生ってのは、もともとそういうものだろう?」
「かもね……で、そのゲームで香澄《かすみ》ちゃんと恭介《きようすけ》の役割は、なに?」
「それがわかれば苦労はない、ってのが、正直な気持ちだな。最後に開けてみるまでは、その手札にどんな意味があるのか、誰にもわからない」
「だけど、もしかしたらそれが切り札になるかもしれないと思っている?」
つぶやいて、杏子は鋭い視線を向けた。とぼけた表情のアーレンと睨《にら》みあう。
しばらくして、先に目をそらしたのは彼のほうだった。
「……Yは知性においても、人間をはるかにしのいでいる。自然科学、哲学、心理学、政治、経済、それに歴史―あらゆる知識を彼女は貪欲《どんよく》に吸収し、今では各分野の専門家でなければ、Yの話し相手にはならない。人類を裁く者として、これ以上の適任者はいないだろう?」
「―なるほどね」
杏子はうなずいで、首を振った。
「だけど、それは裏を返せば、知識として知っているだけ、ということでしかない」
「そのとおり。実はそいつが問題でね」
否定するかと思ったが、あっさりとアーレンは認めた。苦笑する。
「……ゲームというものは、公平でなければいけないと俺《おれ》たちは思っている。だから、Y《はな》が必要とする情報を、マスミは彼女にすべて与えてきた。だが、俺やマスミでは、どうしても教えてやれなかったことがある」
「それを恭介《きようすけ》たちに求めているわけ?」
苦笑に似た表情を浮かべて、杏子《きようこ》は肩をすくめた。
「それはまた……ずいぶん期待過剰じゃない?」
「仕方ない。なにしろ、俺やマスミは、とっくになくしてしまったものだからな。教えたくても、教えてやれなかった」
アーレンはそう言って、わざとらしく悲しげな表情を作ってみせる。そのときにはもう、彼が言おうとしていることがなんなのか、杏子にはわかっていた。
知識として知っているだけでは、なんの役にも立たないもの。けれど、もしかしたら人類を救うことになるかもしれない、最後の切り札。
そして、特殊な能力を持つ数多いレベリオンの中で、恭介と香澄《かすみ》だけに彼らが執着する理由。
アーレンや秋篠《あきしの》真澄美《ますみ》や、そしておそらくは杏子も失ってしまった、ある感情。
言いにくそうにしているアーレンのかわりに、杏子はその名前を口にした。微苦笑とともに。
「愛―ってやつね?」
「急激な成長の代償《だいしよう》として、Yは人間らしい感情を持たずに育った。まあ、私や死んだ江崎《えざき》志《し》津《づ》が、いい母親がわりではなかったのは認めるけれど」
冗談《じようだん》のつもりだったのか、そう言って秋篠真澄美は陸也に微笑《ほほえ》みかけた。
「それが、急激な変化をはじめたのが、半年ほど前―ちょうど、私たちが緋村《ひむら》恭介の存在を知った直後よ」
「緋村恭介―?」
陸也《りくや》は、はっと息を詰めた。その名前には、聞き覚えがあった。
「あの学生か? おまえの妹が監視《かんし》していたという民間人のレベリオン?」
「そう。彼のどこが気にいったのかわからないけれど、Yが特定の個人に興味を示すようになったのは、それがきっかけだった」
「……Yが緋村恭介に好意を抱いている、とでもいうのか?」
我知らず、陸也は顔をしかめた。顔も知らない実の娘《むすめ》に好きな男がいる、と聞かされるのは、ひどく複雑な気分だった。
「さあ……どうかしら?」
真澄美は、なぜか楽しそうな顔で小首を傾《かし》げた。
「誰かに興味を持っているということと、好意を感じているということ。どうやってあなたは区別するの、陸也《りくや》?」
「……」
陸也はなにも言わず、真澄美《ますみ》の顔を睨《にら》みつけた。真澄美は軽く肩をすくめ、首を振った。
「今のY《はな》は、普通の女の子と変わらない感情を身につけている。私が知らない間に緋村《ひむら》恭介《きようすけ》と接触し、それどころか危機に陥った彼を助けることまでしている。こんなことは今まで一度もなかった。予定外だけど、きわめて興味深い反応だわ」
「統合計画局が嗅《か》ぎまわっていることを知っていて、それでもおまえらがこの町を離れなかった理由は、それか?」
「ええ……そう。おそらく、統合計画局の人間も、うすうすは気づきはじめているでしょうね。そのことに」
さしたる動揺も見せずに真澄美はつぶやいた。音もなく、立ちあがる。
「そこであなたにお願いよ、陸也」
「お願い―?」
思いがけない真澄美の言葉に、陸也は不快な感情を隠さなかった。こみあげてくる乾《かわ》いた笑いを抑えきれない。
「理由はどうあれ、俺《おれ》たちを裏切りYを勝手に連れ去ったおまえが、今さら頼み事だと? ずいぶん都合のいい話だな!?」
「陸也……あなたにYの父親を名乗るつもりがあるのなら、彼女にとってほんとうに必要なことをなさい。感情を手にいれたのと引き替えに、唯一にして完全無欠な生命だったYにも弱点が生まれた。彼女のかわりに、それを守ってあげて。彼女が人類に絶望せずにすむように」
薄闇《うすやみ》の中に光る美しい瞳で、真澄美はまっすぐに陸也を見据えた。揺らぎのない強靭《きようじん》な意志と明確な知性、迷いのない感情がこめられた強い視線。
圧倒されたように動きを止めた陸也に、秋篠真澄美は静かに言った。
「陸也―緋村恭介を、守りなさい」
友人の真島加奈子《まじまかなこ》と電話していると、つっけんどんなノックの音が聞こえた。返事をする前にドアが開いて、むっつりとした様子の母親が顔を出した。
「萌恵《もえ》、お風呂はいっちゃって。片づかないから」
優しい口調のわりに容赦《ようしや》のない母の小言を聞かされて、萌恵は小さく舌を出す。その気配が伝わったのだろう。電話の向こうで、加奈子が明るく笑った。
「ごめんね、加奈子……聞こえた?」
「あはは。いやいや、こっちこそ悪かったね、長電話して。それじゃああたしは、きみの入浴シーンのことなど想像しながら寝るとしよう」
「もう。―うん。じゃあ、また明日。学校で」
『切』と書かれたボタンを手探りで探しあて、受話器を耳にあてたまま、萌恵《もえ》は電話を切る。
母にひとこと文句を言ってやろうと思ったが、振り向いたときにはもう彼女の姿は消えていた。
ため息をついて、萌恵は寝転がっていたベッドの上から起きあがる。時計を求めて部屋を見回すと、つけっぱなしだったパソコンの画面が目に入った。
「え……と……勝手に電源を切っちゃまずいんだっけ」
机の上を占領する読みかけのマニュアルを押しやりながら、萌恵はキーボードの前に座る。
昨日届いたばかりの新品のパソコンは、萌恵がこれまで借りていた兄のものとはOSとやらが違うのだそうで、見慣れない画面と二時間ほど格闘して、ようやく設定を終えたところだった。
加奈子《かなこ》に電話をかけたのも、もともとはそのやり方を教えてもらうためである。
とはいえ、加奈子が機械に強いかというと実はそうでもない。うろ覚えの彼女の説明は今ひとつ要領を得ず、せいぜい、一人で悩んでいるよりはマシ、という程度のレベルだった。
こんなときになんで香澄《かすみ》がいないのよ、と文句を言う加奈子の気持ちがよくわかった。こういう場面で頼りになる友人として真っ先に名前があがるのは彼女だったし、それくらい身近にいたはずの仲間が、なにも言わずに突然いなくなったというのがショックでもあった。
いなくなった香澄のこと。彼女が残したメモのこと。緋村《ひむら》恭介《きようすけ》のこと。そして、彼らの持つ異様な能力ー
あふれだしたとりとめのない思考を頭を振って追い払い、萌恵は画面に向き合った。と、
「―?」
システムを終了しようとする直前、画面の右端でなにかが点灯していることに気づいて、萌恵はマウスを握る手を止める。
封筒の形をした小さなアイコン。電子メールの着信を示す案内だ。小さく微笑《ほほえ》んで、萌恵はメールソフトを起動した。
メールの差出人は、ここ二、三週間ほど、頻繁《ひんぱん》にメールをやりとりするようになった新しい友人だった。貯金をはたいて自分用のパソコンを買ったのも、実は、彼女のメールを受けとるためである。ここのところ、メールの返事を書くために真夜中までパソコンを占領していたら、兄にいやな顔をされてしまったのだ。
彼女から送られてくるメールは、いつも驚くほど長い。
けれど、読んでいて飽《あ》きることはなかった。話題が豊富で、文章もうまい。そしてなにより、萌恵の知らない興味深いことが書かれていたからだろう。
寝る前に返事を書かなければ、と萌恵は思った。彼女に伝えなければいけないことがある。
秋篠《あきしの》香澄がいなくなってしまったことを。
それから萌恵はふと、プラスチック製のマウス本体からしっぽのように伸びるコードに目をとめた。そして、息を呑《の》んだ。
萌恵《もえ》はそのまましばらく動かずに、ただ呆然《ぼうぜん》とパソコンの画面を見つめた。
廊下から萌恵を呼ぶ母の声も、もう聞こえなかった。
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4.秋篠香澄の章
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Kikn House
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1
アメリカ東海岸メリーランド州。
人口は約五百万。大西洋に面した白い砂浜と、西部に連なる山脈を抱える美しい地域であり、同時に、重化学工業やハイテク産業の盛んな工業地帯でもある。
そして首都ワシントンDCに隣接したこの州は、連邦政府や軍の研究機関が数多く存在する地区でもあった。国家安全保障局《NSA》や国立衛生研究所《NIH》、世界初の電子計算機を実用化したことで知られるアバディーン弾道研究所、さらには過去に生物兵器の研究をしていたともいわれる軍事施設フォート・デトリック―
統合計画局|直轄《ちよつかつ》のR2ウィルス研究施設―通称キルンハウス≠ヘ、それらの有名な組織の陰にまぎれるようにひっそりと、州郊外の森林地帯に建っている。
キルンハウスは、美しい場所だ。
深い霧に覆《おお》われた湖畔《こはん》の土地。広大な敷地は深緑の芝生《しばふ》に覆われ、目につく建物のほとんどは煉瓦《れんが》造りの古風なたたずまいを見せていた。軍の研究施設というよりも、高級なリゾート地や地方の名門大学といった雰囲気である。
けれど、それは表向きだけのことだ。
敷地内のあらゆる場所に無数の監視《かんし》装置が設置され、網膜照合や声紋《せいもん》チェックといった厳重な検査を受けなければ建物の中には入れない。警備にあたる兵士は人数こそ少ないものの、各軍|選《え》りすぐりの精鋭ばかりである。その彼らですら、自分たちがなにを守っているのか正確には知らされていないという。キルンハウスは、あらゆる公文書から記述を抹消《まつしよう》されたあり得ないはずの場所≠ネのだ。
その、あり得ないはずの場所に秋篠《あきしの》香澄《かすみ》が戻ってきたのは、二年半ぶりのことだった。
「変わったわね、ここも―」
日本語で小さくつぶやいた香澄を、案内役の若い警備兵が不思議そうな瞳で見た。
病院を思わせる白い廊下。靴音が反響する硬い床。人の気配が感じられない、廃墟《はいきよ》のような静寂。キルンハウスの外観は、香澄が暮らしていたころとほとんど変わっていない。
だが、実際に足を踏み入れてみると、建物から感じる印象は、記憶《きおく》の中の風景とは驚くほど違っていた。
変化したのは自分なのか、それともキルンハウスのほうなのか、香澄には判断できなかった。
わかっていたのは、この場所で知り合った人々―幼い香澄に優しくしてくれた大人《おとな》たちは、もう誰も残っていないということだけだ。
二年半前のあの日、R2ウィルス流出事件が起きた夜。
レベリオンがはじめて人類に牙《きば》を剥《む》いた、あの忌《い》まわしい日をきっかけに。
「……この道?―研究棟のほうに向かっていたんじゃないの?」
今度は英語に切り替えて、香澄は警備兵に訊《き》いた。
通じなかったということはないはずだが、警備兵はなにも答えなかった。ライフルを背負った肩ごしに振り向き、黙って首を振っただけだ。
香澄と口をきかないように命令されているのかもしれない。それは、いかにも統合計画局がやりそうなことに思われた。
香澄は唇《くちびる》をきつく結んで、警備兵の背中を追った。
かつては最年少の研究員として、そして、R2ウィルス人体投与実験の被験者として、この施設で暮らしていた香澄だったが、広大なキルンハウスの内部をすべて知り尽くしているわけではない。警備兵が案内する通路の先には、香澄がこれまで見たことのない、ひどく奇妙な建物があった。ドーム型の屋根を持つ、白塗りの巨大な館《やかた》。
ビルと呼ぶには背が低いが、人が住むのに向いているとも思えない。実験室、病院、工場、寺院―いくつかの候補が頭に浮かんだが、最終的にこの建物にふさわしいと思えたのは一つしかなかった。収容所《アサイラム》、だ。
「―これが、シスターン?」
建物を見上げながら、香澄が訊いた。警備兵はうなずいて、無言のまま正面の扉を指さした。
中にはいれということらしい。
「……」
小さくため息をついて、香澄《かすみ》は扉へと進んだ。振り返ったが、警備兵はついてこない。ここで彼の役目は終わりなのだろう。
扉は巨大な金属製の自動ドアで、取っ手のかわりに、半透明のガラスに覆《おお》われたタッチバネルがしつらえてある。香澄が手のひらをパネルに押しあてると、扉は、軋《きし》むような音を立ててゆっくりと開いた。
窓がほとんど見あたらないことをのぞけば、建物の中は明るく、快適な印象だった。
ゆるやかに湾曲した廊下が奥までずっと続いている。通路の両脇にいくつもの部屋が並んでいたが、人の気配は感じられない。香澄は一人で、その見慣れない建物へと足を踏みいれる。
―セブンス・シスターンと呼ばれている建物で、グウェンという人物に会え。
それが、香澄が統合計画局から最後に受けた指令だった。
第七調整槽《セブンス・シスターン》という建物の名前がなにを意味しているのか、香澄にはわからなかったし、興味もなかった。新しい指令のことも、なにもかもがどうでもいいと思えた。
一昨日、突然、緋村《ひむら》恭介《きようすけ》の監視《かんし》という役目を解任されて以来、まるで頭の中のスイッチが切れてしまったみたいに、自分の存在が希薄《きはく》になっている。人形のように無表情なまま、香澄はシスターンの廊下を進んだ。
と、その足がふいに止まる。
「―?」
怪訝《けげん》に思ったのは、なんの変哲もない研究室らしき部屋の入り口だった。
飾り気のないスチールのドアの表面に、真新しいプラスチック製のプレートがかかっている。
その白いプレートに描かれていたのは『Kasumi Akishino, Ph. D』の文字。
「……あたしの、研究室!?」
笑いだしたいような気分で、香澄はそのプレートを見上げた。
なにかの冗談《じようだん》だとすれば、それはひどく悪趣味で、悪意に満ちたものだと思えた。香澄が、ここで研究員として暮らしていたのは、もうニ年近くも前のことだ。そして、その記録はすでに抹消《まつしよう》されている。
ほとんど無意識に、タッチパネルに手を触れる。グリーンのランプが点灯し、ドアは音もなくスライドした。
「………」
最初に視界に飛びこんできたのは、病室を思わせる白い壁だった。
だだっぴろい空間に、機能的なシンプルな家具がぽつりぽつりと置かれている。備えつけの巨大なデスクだけを見れば、たしかに研究室のようにもみえる。だが、全体の印象としては、そこはまるでリゾートホテルの一室か、あるいは、核シェルターのようだった。
そして、その部屋には先客がいた。
立ちすくむ香澄《かすみ》を待ちかまえていたように、彼女《かのじよ》は振り返り、にっこりと微笑《ほほえ》んだ。
「お待ちしてました、特捜《とくそう》官―シスターンへようこそ」
その人工的な笑顔に不意をつかれたまま、香澄は声の主を見つめた。はじめて見る顔だった。
香澄とほとんど同じ年齢《ねんれい》だと思われる、小柄な白人の女性。
髪の色はブルネット。白い肌に、かすかにそばかすが浮いている。可愛《かわい》らしいが、とりたてて目立つ顔だちではない。少なくとも、彼女が着ている衣装ほどには。
濃紺《のうこん》のロングスカート。白いエプロンとレース飾り。英国統治時代のメイドを気取っているつもりなのか、それは、ひどく時代がかった少女趣味なドレスだった。常識的に考えて、軍事施設であるキルンハウスで目にするような服装ではない。
「―あなた、誰?」
思わず顔をしかめながら、香澄は訊《き》いた。
警戒《けいかい》心がにじみ出た硬い口調だったが、相手は気分を害した様子もなく微笑んだ。
「グウェンーグウェン・マイルズです。ここに滞在している間、私があなたの面倒をみるように言われています、特捜官」
「あなたがグウェン?」
驚いて、香澄は彼女を見つめた。
その名前は、てっきり新しい上官の暗号名だとばかり思っていた。目の前の、フランス人形のような格好をした女とは、まるでイメージが結びつかない。
困惑《こんわく》する香澄の反応を楽しむかのように、グウェンはにこやかに笑って続けた。
「ええ、特捜官。とりあえず当面の生活に必要な荷物は、こちらで用意させていただきました。ごゆっくり、おくつろぎください」
「……くつろぐ?」
グウェンの言葉が、なかば麻痺《まひ》していた香澄の神経に刺さった。訊き返す。
「どういう、こと?」
「言葉どおりの意味です」
グウェンは微笑みを絶やさぬまま、一方的に言った。
「あなたには、本日を含めて十四日間の待機《たいき》命令が出されています。この間の行動は自由です。ただし通信には、クラスBの制限がかけられます。施設外との直接通信はできません」
「―待機、ですって?」
信じられない気分で、香澄はグウェンの言葉を聞いた。
そんなことをさせるために、統合計画局は、香澄を恭介の監視《かんし》任務から解任したというのか?
「なにか、質問がありますか?」
素知らぬ口調でグウェンが言った。色素の薄い彼女の瞳を、香澄は正面から睨《にら》みつけた。
「……高城《たかじよう》市でのミッションは、どうなったの?」
「ミナセ特捜《とくそう》官が引き継《つ》ぎました」
「―ミナセ? ……梨夏《りか》?」
特捜官という肩書きから皆瀬《みなせ》梨夏のことを連想するのに、少し時間がかかった。
だが、それほど意外な人選というわけではなかった。統合計画局に所属する非合法特捜官で、高校生のふりができる者は、香澄《かすみ》以外には彼女しかいない。
それよりも、グウェンがあっさりと質問に答えたことに、香澄は少し驚いた。
数少ないレベリオンの特捜官である香澄のポジションは、統合計画局の中でも、けして低いわけではない。その香澄が与えられていない情報を、グウェンは知っている。
考えてみれば、彼女は、警戒《けいかい》厳重なキルンハウスに立ち入ることが許されている人間なのだ。
場違いな服装のせいで先入観を持っていたが、けして侮《あなど》っていい相手ではなかった。
「ミナセ特捜官は、すでにK・ヒムラとの接触に成功しているという情報がはいっています。これまでのところ、特に問題は発生していません」
グウェンの報告を、香澄は黙って聞いた。
皆瀬梨夏が恭介《きようすけ》と出会った。当然だ。彼女は、そのために日本に行ったのだから。
そんなことは最初からわかりきっていたはずなのに、香澄は軽い眩暈《めまい》を感じていた。自分がどうしてこれほど動揺しているのかわからない。ただ、自分の知らないところで恭介が梨夏と会うのはいやだと思った。
レベリオンであること。二人だけで秘密を共有していることが、香澄と恭介の唯一の絆《きずな》だ。
なのに、その居場所が奪われてしまうような気がした。
胸の奥が締めつけられて、息が苦しい。
「そう―言い忘れました」
香澄の動揺に気づかなかったということはないだろうが、グウェンは何事もなかったように手をたたいて続けた。
「待機《たいき》期間中は、キルンハウスの敷地内から出ないようにしてください。シスターンから外出するさいには、護衛がつきます。私のほうで手配しますので、ほかの建物に行く前には、声をかけてくださいね。机の上の呼び鈴を鳴らしてもらえれば、すぐに来ますから」
「護衛……?監視《かんし》の間違いでしょ?」
かすかな憤《いぎどお》りを感じて、香澄は皮肉げに言った。
基地の外に出られないだけならまだしも、建物からも自由に外出できないとなると、まるで軟禁《なんきん》されているようではないか。統合計画局とかかわって以来、不愉快な扱いには慣れているつもりだったが、さすがに、ここまでひどい目に遭《あ》うのははじめてだった。が、
「監視だなんて、まさか」
グウェンは、おおげさに首を振って否定した。
「これは、あなたを保護するためのやむを得ない処置です」
「保護? ……あたしを?」
訝《いぶか》しげに眉《まゆ》をひそめた香澄《かすみ》に、彼女はうなずいてみぜた。
「肯定です、特捜《とくぞう》官」
「誰から、守るっていうの? アーレンたちのことを言っているのならー」
「いいえ、特捜官」
グウェンが香澄の言葉を遮《さえぎ》った。機械に似た、抑揚のない声で告げる。
「あなたを狙《ねら》っているのは、レベリオンではありません。人間です……政府内の不穏《ふおん》分子」
「……感染者《キヤリア》に対する風当たりが強くなっているということ?」
表情をこわばらせて、香澄は訊《き》いた。
R2ウィルスの存在を知っている者は、連邦政府の中でも、ごく少数の限られた人間だけだ。
そして、その全員が、レベリオンに対して必ずしも好意的なわけではない。
レベリオンに人権を認めないと主張する人類至上主義者は、統合計画局の中にも少なくない。
香澄の直属の上司であったリチャード・ロウですら、基本的には、彼らに近い立場だった。
そのため、香澄たちを含めたレベリオンの多くは、日常的に誰かに監視《かんし》された不自由な生活を送っている。それでも、これまで両者はどうにかうまくやってきたはずだった。だが。
「残念ですが―」
そう前置きして続けられたグウェンの言葉に、香澄は思わず息を呑《の》んだ。
「状況はもっと危機的です。昨日もミナセ特捜官が、搭乗《とうじよう》していた輸送機の内部で、統合計画局の職員に扮《ふん》した兵士から襲撃を受けました」
「梨夏《りか》が!?」
弱々しく叫んだ香澄に、グウェンは優しく微笑《ほほえ》みかけた。
「ミナセ特捜官の反撃により、襲撃者二名は死亡。現在、彼らの背後関係を捜査しています。状況が、おわかりいただけましたか?」
「………」
香澄は、無表情にうなずいた。ほかに、なにもできなかった。
グウェンはうなずいて、そのまま部屋を出ようとする。その背中を、香澄は呼び止めた。
「待って―ひとつだけ、質問に答えて」
「なんなりと」
表情も変えずに言ってくるグウェンを睨《にら》んで、香澄は訊いた。
「この建物に閉じこめるのは、私を保護するためだと言ったわね?」
「ええ」
彼女は苦笑したようだった。タッチパネルに右手をあて、ドアを開ける。
いやな笑い方だと香澄は思った。このグウェンという女は、どこか香澄の神経に障《さわ》る。
「閉じこめるという表現は、私たちの意図とは違いますが―おっしゃることは理解できます」
「だったら、この建物の中には、私のほかにも保護されているレベリオンがいるの?」
「結論から言えばイエスです。ただし、現時点では、一名だけですけれど」
そう言って、彼女は、なぜか少しだけ困ったような表情を浮かべた。
「シスターンの中は自由に歩き回ってもかまいませんから、そのうち彼にも会えると思います。お気をつけて」
「……どういう意味? 誰なの、そのレベリオンは?」
廊下に出たところで振り返り、意味ありげな笑みを浮かべてグウェンは最後の質問に答えた。
「彼は、|紫 焔《ツイイエン》と呼ばれています。|レベリオン原種《オリジナル・セプン》の、最後の生き残りです」
2
「えーっ、バスう?」
皆瀬梨夏のきんきんとした声が早朝のバス停に響き渡り、スーツ姿の社会人や他校の制服を着た学生たちが、迷惑《しいわく》そうな顔で振り返った。恭介《きようすけ》は、他人のふりをして朝焼けの空を仰いだ。
寝不足のせいか、太陽がやけに黄色く見える。それでなくても頭が重いのは、夕ベ、なけなしの脳みそを酷使《こくし》しすぎたせいかもしれない。
香澄《かすみ》が残していった怪《あや》しいメモの文面が頭に焼きついて離れず、恭介が眠《ねむ》ったのは、明け方近くになってからのことだ。その直後、カラオケでがらがらに声を嗄《か》らした杏子《きようこ》が帰ってきて、大騒ぎしながら仕事に出かけていったので、結局、夢を見る暇もなかった。
そして、どうせなら夢であって欲しいと願っていた現実は、もちろんなにも変わっていない。
周りの迷惑をかえりみず、恭介の腕にしがみついた梨夏が大声で言う。
「かったるいなあ、バイクで行こうよお」
「うちのガッコは|二人乗り《タンデム》通学禁止」
恭介は、半眼で梨夏を睨《にら》んで言った。寝不足のせいで目が据《す》わっている。
「だいたい、なんで俺《おれ》がおまえとニケツで登校しなきゃなんねんだよ?」
「うわ、なにその態度! なによ、あたしの着替えのぞいたくせに!」
梨夏は頬《ほお》をふくらませて、勢いよくまくしたてた。恭介は思わずかっとなる。
「お、ま、え、が下着で家の中うろついてたんだろうが!」
「しょーがないじゃん! 制服に化粧ついたらヤじゃん!」
「知るかっ! つうか、なんで朝からメイクに一時間もかけてんだ!?こっちは洗面所が使えなくて困ったっての」
「恭介だってトイレ長いじゃない!」
「長くねえ!」
「いーや、長いねっ!」
「長くねえっ!」
ぜえぜえと荒い息を吐《は》きながら言い返して、ふと恭介《きようすけ》は我に返った。
朝のラッシュ時。バス停に並ぶ人々の冷たい視線が、恭介たちにそそがれている。梨夏《りか》は、なぜか知らないが勝ち誇っている。口をむっつりと結んで、恭介は腕を組んだ。
と、その頭が、ふいに後ろからはたかれた。
「―なにを朝から騒いでんだ? 恥ずかしいやつだな、恭介」
「潤《じゆん》? あれ……なんで?」
振り返った恭介は、思いがけない友人の姿に首をひねった。長髪を後ろで束ねた市《いち》ノ|瀬《せ》潤が、ビアンキの自転車に乗ったまま笑っている。
「ここって、おまえの通学路だっけ?」
「いや、今日はトモダチん家に泊まり。今から荷物とりに家に戻るとこ」
「泊まり……って、もしかして女っスか?」
思わず訊《き》いてしまった恭介に、澗は充血した目を細めて笑ってみせた。
「もちろんっスよ、と言いたいところだけど野郎《やろう》だよ。和田《わだ》の家で、朝までプレステ2。で、そっちは? 誰?」
「あ、ああ……」
きょとんとしている皆瀬《みなせ》梨夏を振り返って、恭介はうなった。どうせすぐにばれることだし、隠してもしょうがない。そう判断して、素直に説明する。
「うちのクラスの転校生。噂《うわさ》、聞いてないか?」
「転校生?」
さすがに潤も驚いたようだった。自転車から降りて梨夏の顔をのぞきこむ。と、その表情が、いきなり険《けわ》しくなった。呆然《ぼうぜん》とした声で、潤はつぶやいた。
「……皆瀬……?」
「え……?」
紹介するより先に彼女の名前を呼んだ潤を、恭介は驚いて見た。
梨夏は、いつになく硬い表情を浮かべている。こころなしか、その顔は青ざめて見える。
「皆瀬梨夏だろ? 俺《おれ》のこと、覚えてない?」
間いかける潤から目をそらして、梨夏は小刻みに首を振った。うつむいたまま、気弱な笑みを浮かべて言う。
「ごめんなさい。あたし、ちょっと……」
まるで別人のような梨夏の態度に、またもや恭介は唖然《あぜん》とした。
潤は髪をかきあげて、恭介に困ったような視線を向けた。残念そうに笑って、肩をすくめる。
「そっか、しょうがないな。小学校のときの話だもんな。でも、なんで恭介と一緒に登校?」
「う……」
今度は恭介《きようすけ》が青ざめる番だった。
市《いち》ノ瀬《せ》潤《じゆん》は、中学時代からの恭介の友人だ。けれど、彼は恭介がレベリオンであることを知らない。
当然、統合計画局の名前を出すわけにもいかない。だが、梨夏《りか》の正体を隠したまま、彼女が恭介と一緒に暮らす理由を説明するのは不可能に近い。
だからといって、一緒に住んでいるということをいつまでも隠し通せるとも思えない。
脂《あぶら》汗を流しながら恭介が立ちつくしていると、突然、梨夏が口を開いた。
「―あたし、心臓が悪いの」
「え?」
いきなりの彼女の言葉に、潤と恭介は固まった。反応できないでいる恭介に、黙って、と目くばせして、梨夏は、早口でさらに続けた。
「普通に生活しているぶんには、ほとんど支障《ししよう》はないんだけど、たまに発作が起きることがあって、それで今は緋村《ひむら》くんの家でお世話になってるわけ」
「あ……ああ、そうか。杏子《きようこ》さんって医者だもんな」
潤は、恭介に同意を求めるようにつぶやいた。ウソは突飛なほうが信じやすいとはよく言うが、病気を引き合いに出されると、たしかにそれ以上は問いつめにくい雰囲気が生まれる。
タイミングのいいことに、信号が変わってバスが近づいてきたのは、そのすぐあとだった。
ドアが開いて、バスを待っていた人々の列がぞろぞろと動き出す。
自転車によいしょとまたがって、潤は軽く手をあげた。
「じゃあな、恭介。またあとで」
「ああ、遅刻すんなよ」
潤の背中に声をかけて、恭介はバスに乗りこんだ。あとにくっついてきた梨夏が、はあーっ、と大きく息を吐《は》くのが聞こえた。恭介もつられて緊張をとく。
ずかずかとほかの乗客を押しのけ、シートに座って、彼女はもう一度ため息をついた。うんざりしたように天井《てんじよう》を見上げる。
「まいったなあーなんでいるのよ、あいつ」
「なんだ、やっば知り合いだったのか?」
「ん……まあね。小学校のとき、おんなじクラスだったの。そんだけよ」
ぼんやりと、梨夏はつぶやいた。焦点があわない感じの彼女の瞳からは、なんの感情も読みとれない。
「ふうん……」
つぶやいて、恭介ははっとした。
「ーって、おまえ、この近所に住んでたのか?」
「うー、昔ちょっとね」
梨夏《りか》は渋《しぶ》い表情で、恭介《きようすけ》を見上げた。唇《くちびる》を尖《とが》らせ、声をひそめて訊《き》いてくる。
「……恭介さ、あたしが、なんでレベリオンになったと思ってた?」
「え?そりゃR2ウィルスに感染して…あ…」
言いかけて、恭介はこめかみに手をあてた。
統合計画局で極秘裏に研究されていたR2ウィルスが漏《も》れだしたのは、秋篠《あきしの》真澄美《ますみ》たちが、そう仕組んだからだ。そして、研究施設を脱走した彼らは、実験の舞台にこの高城《たかじよう》市を選んだ。
つまり、香澄《かすみ》のような統合計画局の関係者をべつにすれば、日本人がレベリオン化する可能性があるのは、ここ―高城市内だけだ。
「……でも、それじゃあ、おまえがレベリオンになったのは、わりと最近じゃないのか? なんでまた……?」
つり革《かわ》にもたれる恭介に、梨夏は不機嫌な声で言った。
「それを言うなら、恭介だってそうじゃない。あなたは、どうしてレベリオンになったわけ?」
恭介は、無言で奥歯を噛《か》んだ。恭介に自らの血液を与えて、R2ウィルスを感染させたのは香澄だ。その理由は、そうしなければ恭介が死んでいたからだ。重傷を負った恭介の命を救うには、レベリオンの治癒《ちゆ》能力に賭《か》けるしかなかった。
そして、恭介が、それほどの傷を負ったわけは―
「……答えたく、ない」
「でしょ。あたしも同じよ」
素《そ》っ気《け》なくつぶやいて、梨夏は窓の外に目を向けた。その横顔を、恭介は複雑な心境で見つめた。彼女の過去にも、恭介が抱えているのと同じような陰鬱《いんうつ》な記憶《きおく》があるのだろうか。そんなふうには見えないけれど。
朝の渋滞《じゆうたい》に巻きこまれて、バスはのろのろとしか進まない。足早に歩道を歩く人々をながめながら、恭介は話題を変えた。
「―けど、おまえ、すごい嘘《うそ》つくな」
「心臓病の話? 嘘って……なによそれ、人聞き悪いなあ」
むっとしたように眉《まゆ》を寄せる梨夏を、恭介はやれやれと思いながら見おろした。潤《じゆん》のやつ、よくこれが心臓病だなんて言われて信じたものだ。
「感心してんだよ。普通はあんなの思いつかないだろ」
「べつに、嘘じゃないもの」
「は?」
恭介はぽかんと口を開けた。
梨夏《りか》は自分をレベリオンだと言った。レベリオン化した細胞は、驚異的なカで宿主を守ろうとする性質がある。その治癒力《ちゆりよく》は、吹き飛ばされた心臓を一晩で再生してしまうほどだ。そのレベリオンである彼女の心臓が弱いといわれても、にわかには信じることができない。
「言っとくけど、あたしのことじゃないわよ」
そう言って、梨夏は立ちつくす恭介《きようすけ》を見上げた。
「身近にそういう例があったでしょ。だから思いついただけ」
「―身近な例?」
ますますぽかんとした顔になって、恭介はつぶやいた。梨夏はそれをじっと見つめて、あきれたように首を振った。
「あんた、ほんとになんにも知らないんだ。あの子のこと」
「……あの子? 誰のことだ?」
「あたしたちの共通の知り合いっていったら、決まってるでしょ。秋篠《あきしの》香澄《かすみ》よ」
「香澄?あいつが、心臓病?」
なにかの冗談《じようだん》かと噴き出しかけた恭介は、梨夏の目が笑ってないことに気づいて困惑した。
「……ほんとなのか? まさか?」
「だから、そう言ってるじゃない」
真顔になった恭介を突き放すように、梨夏が言った。もう一度、首を振る。
「……あの子ってさ、頭いいのよ。知ってた?」
「あ、ああ……それくらいは」
いきなり話が飛んだことに戸惑《とまど》いながらも、恭介はうなずいた。
校内の定期試験では、香澄は常に成績上位者に名前をつらねている。転校してきたばかりのころは国語や日本史がさっぱりだったのだが、いつの間にか、それらでも恭介の成績をあっさりと追い抜いていた。香澄に言わせると、それでも、あまり目立ちすぎないように毎回わざと何問か間違えるようにしているのだそうだ。たしかに、恭介とは頭の出来が違う。
「あの子って、十|歳《さい》になる前にアメリカの大学に主席で合格して、十二歳のときには、博士号持ってたんだって。それも聞いてる?」
「……まじで?」
恭介はぶるぶると首を振った。十二歳といったら、日本ではまだ小学生だ。いくら飛び級の制度がある国とはいえ、尋常《じんじよう》ではない。そんなことを聞かされたら、必死で大学入試のために勉強している自分の立場がない。だが、梨夏が言っていることが、まるっきりのでたらめとも思えなかった。
「しかもあの子ってさ、言いたかないけど、あの顔だちじゃない。向こうの学会じゃちょっとした有名人だったそうよ。ま、実際、才能もあったんだろうけど」
でもね、と梨夏はつぶやいた。
「それだけじゃないんだ。そんなガキンチョに博士号をくれてやることに、反対する人が誰もいなかった理由。あの子には、時間がなかったの」
「……時聞?」
「そう。あの子はね、そのとんでもない才能とひきかえに、重度の心臓病を持っていた。十五|歳《さい》になるまでは生きられないだろう、って言われてたんだって」
「うそ、だろ? だって……」
「そう。あの子は今も生きている。どうしてだと思う?」
怒ったような調子で、梨夏《りか》は訊《き》いてきた。答えは、恭介《きようすけ》の口をついて出た。
普通の人間には耐えられないような大がかりな手術を可能にする、たった一つの方法―
「あいつが、真性《プロ》レベリオンだから……」
「そういうこと」
梨夏は、だらしなくバスの座席によりかかった。
「あの子の姉さん―秋篠《あきしの》真澄美《ますみ》が、いったんは失われたはずの、レベリオン原種ウィルスの感染力を復活させようとしたのはどうしてだと思う? 研究員である香澄《かすみ》が、R2ウィルスに感染している理由はなんだと思う?」
信号が変わり、バスがブレーキを踏んだ。金属がこすれるような耳障《みみざわ》りな音が車内に響いた。
だが、恭介にはなにも聞こえていなかった。その音も、梨夏の言葉も。
ようやく見えたような気がした。香澄が、自らの心にはりめぐらせた壁の正体。彼女がR2ウィルスを憎み、レベリオンの能力を嫌っていたそのわけが、おぼろげにわかった。
皆瀬《みなせ》梨夏が、ひとことずつ言葉を切るように、ゆっくりと言った。
「あの子は、R2ウィルスの、最初の、人体実験の被験者だったの。レベリオンという存在は、たった一人、秋篠香澄の命を救うためだけに生み出されたのよ」
3
窓のない白い部屋。香澄はベッドの上に転がって、ぼんやりと天井《てんじよう》を見上げていだ。
時差の関係で、同じ日付をもう一度くり返す形になっている。高城《たかじよう》市の基地の撤収や移動でまる二日近く寝ていないはずなのに、少しも眠気《ねむけ》を感じなかった。
考えていたのは、恭介のことだった。
自分が残してきたメッセージに、彼は気づいただろうか。
あの謎かけはごく初歩的なものだが、恭介の手には少し余るだろう。そう簡単に読み解けるとは思えない。だが、あのメッセージを受けとる資格があるのは恭介だけだ。
恭介に別れの挨拶をすることはできなかった。統合計画局にもいっさいの説明を禁じられていたし、それ以前に、どんな顔で別れを切り出せばいいのかわからなかった。
監視《かんし》役である自分がいなくなる。それを聞いたときの彼の反応が怖かったのだ。彼の喜ぶ顔を見たくなかった。
ーだから、あのメッセージを残した?
違う。そうではない。だが香澄《かすみ》にはほかに方法がなかった。香澄が頼れるのは、もう彼しかいなかった。それが、ひどく身勝手なことだとわかってはいたけれど、それでもほかに方法はなかったのだ。
香澄は、ハンガーにかけた高城《たかじよう》学園高校の制服を見つめる。
もう二度と着ることはないだろうと思ったのに、捨てることができなかった。
この服を着た皆瀬《みなせ》梨夏《りか》の姿を想像してみる。
そして、彼女が自分よりもはるかにうまく高校生を演じるだろうということを、香澄は苦《にが》い気持ちで認めた。梨夏は、生まれてこのかた、普通の学校生活というものをほとんど経験したことのない香澄とは違う。ほんの一年ほど前まで、彼女は高城市内の高校に通う、ごく普通の女子校生だったのだ。きっとあのクラスにも、すぐになじんでみせるだろう。スタイルもいいから男子にはもてるかもしれない。
恭介は、彼女のような女の子をどう思うだろうか―?
「……ばかみたい」
つぶやいて、香澄は首を振った。どうして自分が、こんなくだらないことばかり考えているのかわからない。
香澄は起きあがって服を着替える。ブレザーとチェックのスカート。待機《たいき》中と言われているのだから、軍の制服や白衣は必要ないはずだ。
タッチパネルに触れてドアを開け、与えられた部屋を出る。どこか、外の景色が見える場所に行きたかった。
温帯モンスーン気候に属するメリーランドには、日本と同じように四季がある。この季節は、緑の若葉が綺麗《きれい》な時期だ。そんな風景でもながめていれば、少しは気がまぎれるかもしれないと思う。どうせほかにすることもない。
シスターンと呼ばれる建物は、しかし不思議な構造をしていた。
館内にある部屋のほとんどは、香澄が与えられたのと同じタイプの個室だ。それだけなら、宿舎や寮のような役割の建物だと考えられないこともない。アスレチック・ジムやプールなども用意されている。廊下や階段には手すりが設置されており、雰囲気としては病院などのリハビリテーションを目的とした施設に似ている。
だが、それにしては窓がないのが不自然だ。部屋を隔てる壁の厚さも普通ではない。それに自家発電の設備も備えているらしい。まるで核シェルターのように。
核シェルターなみの強度を持っ、リハビリテーション施設。ばかげているが、そう考えるとしっくりくる。
ひとつだけ理解できたのは、シスターンは、単純に誰かを監繁《かんきん》するために造られたものではないということだ。レベリオンを閉じこめるために造ったとしたら、無駄《むだ》な部分が多すぎる。
つまり、この施設は、なにかほかの目的があって建てられたのだ。たとえ今は、レベリオンを閉じこめるために使われているのだとしても。
館内を歩き回ってようやく見つけたのは、最上階に近いサンルームだった。観葉植物の植木|鉢《ばち》と、ベンチがいくつかおかれている。
サンルームの採光窓はひどく高い位置にあり、実際には、自由に外の景色が見られるというわけではない。だが、少なくとも空は見える。すでに太陽は沈んでおり、ぶあつい防弾ガラスごしに見えたのは、満天の星空だった。
「―?」
ぼんやりと夜空を見上げていた香澄《かすみ》は、ふと眉《まゆ》をひそめて、ベンチの上によじのぼった。
窓から見える限られた景色のすみに、なにかがあった。ゆらゆらと立ちのばる、白い蒸気。
周囲の明るい昼間だったら、おそらく気づかなかっただろう。それほどかすかな気配だったが、たしかに高温の蒸気がシスターンから排出されている。
エアコンなどの排熱という可能性は、もちろんある。だが、それにしては吐《は》き出されている蒸気の温度が高すぎるような気がする。
外部に熱を出しているということは、建物の内側は冷やされているということだ。最新鋭のスーパーコンビューターでも、これほどまでに冷却する必要はないのではないかと思えた。
もっとよく見ようと、香澄がベンチの上から身を乗り出したときだった。
「いいながめじゃの」
と、すぐそばで誰かの声がきこえた。
「っ―!?」
香澄は、ぎくり、と身体《からだ》をこわばらせて振り返った。が、背後には誰もいない。気配さえ感じることができない。
警戒《けいかい》する香澄をあざわらうかのように、再び、のんびりとした男の声が響いた。
「うむうむ。やっぱりばんつは白がいちばんじゃの。なにごとも基本が肝心じゃ」
声の主がどこにいたのか、今度こそわかった。香澄の足下。ベンチの上で背伸びする香澄のスカートの中をのぞきこむようにして、小柄な男があぐらをかいている。
「きゃああっ―!?」
香澄は反射的にスカートを押さえて跳《と》びのいた。
だが、狭いベンチの上で、その動きは無謀《むぼう》だった。あっけなく脚を踏み外して、香澄はベンチから転落する。
「おやおや、気をつけんと危ないぞい、嬢《じよう》ちゃん」
「なっ!?」
他人事《ひとごと》のように、のんきな声で言ってくる男を香澄は睨《にら》んだ。
それは、男というよりも老人と呼んだほうがふさわしい人物だった。東洋系の顔だちには、深いしわが刻まれており、長いひげも、髪も真っ自だ。
柔和《にゆうわ》な、どこか憎めない顔だちをしている。だが、憎めないのも時と場合による。
「なんなんですか、あなた! 痴漢《ちかん》!?」
尻もちをついたまま叫ぶ香澄《かすみ》を、老人は悲しそうな表情で見た。
「失敬じゃの、嬢《じよう》ちゃん。わしはただ星を見とっただけじゃぞ。ろまんちっくじゃろ?」
「う、嘘《うそ》ばっかり! だいたい誰なの、あなた。統合計画局の人間?」
「おや、わしのこと、聞いておらんか? ふむ……?」
「え……」
香澄は、唖然《あぜん》として、あらためて老人を見つめた。特に筋骨《きんこつ》逞《たくま》しいという雰囲気でもない、
なんの変哲《へんてつ》もないただの老人。退役した軍人が持つ、特有の威圧感のようなものも感じられない。ましてや、政府関係者とはとても思えない。
だが、このシスターンの中にいる人間が、ごく普通の民間人ということもあり得ない。だとすれば―グウェンの言っていたことを思い出す。
「まさか……|レベリオン原種《オリジナル・セブン》の最後の生き残りって……あなたが?」
戸惑《とまど》いながら訊《たず》ねる香澄に、老人は騒々《ひようひよう》とうなずいた。
「いかにも。最後の生き残りかどうかは知らんがの」
「……はあ」
香澄はひどい頭痛を感じた。
|レベリオン原種《オリジナル・セプン》。毒性の強いレベリオン原種ウィルスR054に感染して生き延びた、最初の、そして最強のレベリオン。そのイメージと、目の前の老人はあまりにもかけ離れている。
香澄が注視していることに気づいて、老人は、にっと人好きのする笑顔を浮かべた。
と、彼の視線が、乱れたスカートの裾《すそ》から伸びる自分の脚に向けられていることに気づく。
きっと相手を睨みつけて、香澄は服装を直しながら立ちあがった。
「あなたが、紫焔《ツイイエン》さん?」
もう一度、念押しするように香澄は問いかける。しかし老人は、うーむ、とつぶやいて首をひねった。
「……さあのう」
「さあ?」
「覚えておらんのだ。この年になると、もの忘れがひどくての。ま、この施設にいる人間が、わしのことを、その名前で呼ぶのは事実じゃよ」
「じやあ、あたしもそう呼ばせてもらいます」
この老人とまともに話すのは時間の無駄《むだ》だ。そう判断して、香澄は一方的に告げた。
「いくつか質問させてください。いいですか?」
「ああ、いいとも。わしの今日の下着の色なら……はて、なんじゃったかのう。ちょっと待っておれ。いま確認するからの」
「そんなことは訊《き》いてません!」
がちゃがちゃとベルトをゆるめはじめた紫焔《ツイイエン》老人に、香澄はたまらず声を荒げた。
「なんじゃ、違うのか」
紫焔はなぜか残念そうに言って、香澄《かすみ》を見上げた。
「では、なにが訊《き》きたいのかの?」
「あなたが……そう、あなたが、いつからここにいるのか教えてください」
むっつりとした表情のまま、香澄《かすみ》は訊いた。紫焔は愉快そうに笑う。
「ふぉふぉ……そんなこと、わしが覚えていると思うのかね? そうさのう、けっこう前からじやのう……」
「……もういいです」
わけもなく暴れ出したい衝動に駆《か》られながら、香澄は低い声で言った。
「では、この施設のことを教えてください。ここは、いったいなんなんですか?」
「はて? 嬢《じよう》ちゃんは、なんと聞かされたのかね?」
「それは……」
片眉《かたまゆ》をあげて訊き返してくる紫焔に、香澄は少し戸惑《とまど》った。
「レベリオンの暗殺を狙《ねら》っている違邦政府内部の人間から保護している、と」
「なるほどのう……」
立ちあがった紫焔は、後ろ手に手を組んで背中を向けた。
「だったら、それでいいんじゃないんかの?」
「あたしには、それが真実だとは思えません」
「ふぉふぉ……真実か。都合のいい言葉じゃの」
「どういう意味ですか?」
思わずむっとして香澄は訊いた。紫焔は背を向けたまま、小さく笑った。
「そういう便利な言葉に頼っておるうちは、真実などなにも見えてこないということじゃよ」
「―それは、ご忠告どうも」
これ以上、彼になにかを期待するのは無理だと、香澄は確信した。
とげのある口調でそれだけ言い残すと、老人に背を向け、サンルームをあとにする。
あちこち歩き回ったおかげで、館内の構造はだいたいわかっていた。白い蒸気を吐き出していたのが、どの区画かも見当がつく。
香澄は早足で、その方角へと向かった。排気口があったのは、中庭に隣接したシスターンの地下。キルンハウス内のほかの建物からは見えない位置だ。
館内のエレベーターには地階の表示はなかった。香澄は迷わず、非常階段へと向かった。
迷路のように入り組んだ通路を抜け、地下への入り口を発見する。
と、香澄《かすみ》は足を止めた。
地下室に通じる通路の途中に、金属製のシヤッターが降りている。そして、そのシヤッターの前で待ちかまえている人影があった。
濃紺《のうこん》のロングドレスに身を包んだ小柄な女性。グウェン・マイルズ。
「どちらにお急ぎですか、特捜《とくそう》官?」
静かに微笑《ほほえ》みながら、グウェンは訊《き》いてきた。だが、その瞳が笑っていない。
逆に香澄は、笑い出したい気分だった。やはり、この先にはなにかがあるのだ。統合計画局が、香澄から隠そうとしているなにかが。
「答える必要はないわね。この建物の中は、自由に動いていいと言ったのはあなたでしょ?」
「ここから先は例外です、特捜官。お引き取りください」
「そんな都合のいい命令を、素直に聞くと思う?」
「それは命令違反です。上層部に報告しますよ」
「好きになさい。でも、今は通してもらいます」
強い口調で言って、香澄はグウェンを押しのけた。その腕を、グウェンがつかんだ。優雅な服装に似合わぬ、強い力だった。
「残念ですが、あなたを通すわけにはいきません。力ずくでも止めますよ」
「カずくで?」
香澄は思わず苦笑した。相手がそういうつもりなら、遠慮する必要はないというわけだ。それに、こちらはいろいろあって、少々むかついていたところだった。
「できるものなら、やってみなさい」
言い放った香澄の瞳の色が変わった。ブレザーの袖《そで》から伸びる両腕が、淡いY光《りんこう》を放ちはじめる。トランスジェニック能力―|嘆 き の 拳《スクリーミング・フイスト》。
超振動波が放たれる気配を察して、グウェンが香澄の腕を放した。
だが、遅い。常人の反応速度をはるかに超えるスビードで、香澄の左腕がグウェンを襲う。
十分に手加減した、軽いジャブ。けれど、その攻撃には一瞬で相手を気絶させ得る超高速の微振動波がこめられていた。が―
「―!?」
驚愕《きようがく》に凍ったのは、香澄のほうだった。
グウェンの右手が、スクリーミング・フィストの攻撃を受け止めていた。正確に言えば、グウェンの右手から伸びたなにかが、香澄の拳《こぶし》を阻《はば》んでいた。
濃紺のドレスの袖口から、巨大な猛獣《もうじゆう》の爪《つめ》にも似た青白い塊《かたまり》が伸びている。
「なっ……?」
なにが起きたのかわからないまま、それでも香澄はためらわなかった。自由になった右手に渾身《こんしん》の力をこめて、最大出力でスクリーミング・フィストを放つ。
「無駄《むだ》です、特捜《とくそう》官」
冷ややかにグウェンが言った。
「……これは―この能力。あなたは―!?」
香澄《かすみ》は息を詰まらせた。
グウェンは、手首の付け根から伸ばした巨大な爪《つめ》を交差させて、香澄の拳《こぶし》を受け止めていた。
否、それは爪などという生やさしいものではない。
直径は数センチ。長さは三十センチにも迫る硬質の鋭い突起。青自くY光《りんこう》を放つその姿は、蹴爪《けづめ》、あるいは、ツノと呼ぶのがふさわしい。
「あなたも―レベリオン!?」
叫びながらも、訓練された香澄の身体《からだ》が無意識に反応していた。
右腕を相手の蹴爪と交差させたまま、今度は左腕でスクリーミング・フイストを放つ。位相《いそう》の違う二種類の振動波を干渉させることで、威力を何倍にも高める。銅鉄の壁すらも引き裂く、必殺の攻撃だった。
しかし、グウェンは今度もその攻撃を受け止めてみせた。
彼女の蹴爪は、強靭《きようじん》なレベリオン細胞を極限まで硬質化させて生み出されたものだ。
しかも、単に硬いだけでなく、相手の攻撃を受け流すしなやかさも兼ねそなえている。その性質が、香澄のスクリーミング・フィストの威力を分散させてしまうのだ。
そして、グウェンは唇《くちびる》だけで冷ややかに笑った。
「……カリブーを知っていますか、特捜官? 日本ではトナカイとも呼ばれていますね。サンタクロースのそりをひっぱる、あの愛らしい動物です」
「くっ……グウェン……あなた……」
香澄は、返事をするかわりに苦悶《くもん》のうめきを漏《も》らした。チェックのスカートから伸びる白い脚に、鮮血が伝った。
グウェンの腰。肋骨《ろつこつ》のあたり。濃紺《のうこん》のドレスと、フリルのエプロンの隙間《すきま》から、第三の蹴爪が生《は》えていた。両腕のものよりもやや細く、そのかわりはるかに長いその衝角《しようかく》が、香澄の脇腹を貫いている。
「カリブーのツノは、毎年|生《は》えかわるのだそうです。あの巨大なツノは、わずか数ヶ月で成長したものなのですよ。それと同様に、私は自分の肉体の好きな場所に、このような蹴爪を生成することができる。それが私のトランスジヱニック能力、|絶望の衝角《ラム・イツト・ダウン》=v
グウェンの言葉が終わると同時に、彼女の蹴爪がゆっくりとエプロンの下に戻っていった。
彼女が、なぜこんな場違いな服装をしていたのか、香澄はようやく理解した。
パニエでふくらませたスカートや、派手なフリルのついたエプロン。このような無用の装飾は擬装《ぎそう》なのだ。衣装《いしよう》のあちこちに設けた、蹴爪を通すスリットを隠すための。
彼女は衣装の下の好きな場所から、自由自在に攻撃を放つことができる。この攻撃を防ぐのは、そう簡単なことではない。香澄《かすみ》が、彼女と同じ格闘戦タイプのレベリオンだけに尚更《なおさら》だ。
「さて……特捜《とくそう》官。おとなしく、部屋に戻っていただけますか?」
変わらない淡々とした口調で、グウェンが訊《き》いた。貫かれた脇腹を押さえながら、香澄は首を振った。
「お断りよ。必ず、そのシャッターを通してもらうわ」
「そうですか……では、約束どおり力ずくで戻っていただきます」
両腕の蹴爪《けづめ》を交差させながら、グウェンは言った。香澄は、きつく唇《くちびる》を噛《か》んだ。必殺のスクリーミング・フィストが通用しない以上、香澄には彼女を倒すすべがない。
それはグウェンにもわかっているのだろう。彼女は、ひどく無造作《むぞうさ》に両腕を振りあげた。
刹那《せつな》。
グウェンの胸元のガードに隙《すき》が生まれた。香澄は、そのわずかな隙を見逃さなかった。
はじけるように跳躍して、彼女の胸元に滑《すべ》りこむ。このタイミングならば、昏澄の攻撃のほうが速い。たとえ相打ちでも、スクリーミング・フィストのほうが威力は上だ。相手の身体《からだ》に触れさえすれば、自分の勝ちだ。そう思った瞬間だった。
グウェンの唇がかすかに震え、微笑の形を作った。
「しまっ―!?」
絶望的な思いで、香澄はそれを見上げた。
グウェンが振り上げた両腕はおとりだった。それは香澄にもわかっていた。今度は反対側の腰から、グウェンの蹴爪が伸びた。防げる、と香澄は判断した。
けれど、それもおとりだということまでは読めなかった。
グウェンのスカートが勢いよく跳《は》ねあがった。彼女の足首から、さらに数十センチもの長さの蹴爪が生《は》えている。とっさに背後に跳躍しても、逃れられる距離ではなかった。
そのとき、どこか場違いな、間延びした声が聞こえた。
「気にいらんのう」
「―!?」
驚愕《きようがく》に顔をゆがめたのは、今度こそグウェンの番だった。
彼女の蹴爪が突き刺さり、鮮血が舞う。だが、刺し貫かれたのは香澄ではなかった。香澄の背後から伸びた老人の腕が、グウェンの蹴《け》りを止めていた。自らの腕を犠牲にすることで。
「ツ、紫焔《ツイイエン》―!」
グウェンの表情に一瞬浮かんだのは、まぎれもなく恐怖だった。
小柄な老人の表情は柔和《にゆうわ》なまま、ただ眼光だけが鋭さを増す。
「いい年増《としま》が、か弱い生娘《きむすめ》の嬢《じよう》ちゃんをあんまりいじめるもんじゃないぞえ」
おっとりとつぶやいた紫焔の身体が、ぐん、と沈んだ。
足をもつらせてよろけたとしか思えぬ頼りない動き。だが、老人の身体が肩口からグウェンに触れたとき、鳴り響いたのはすさまじい轟音《ごうおん》だった。
両腕の|絶望の衝角《ラム・イツト・ダウン》によるブロックごと、グウェンの身体《からだ》が吹き飛ばされて壁に激突する。
なにが起きたということもない。ただぶつかっただけの老人の身体から、すさまじい衝撃がたたきこまれたのだ。グウェンの能力でも防ぎきれないほどの。
もはや悲鳴すらなかった。激突したままの姿勢で跳《は》ね返ったグウェンの身体が床に転がり、そのままぴくりとも動かなくなる。
香澄《かすみ》は、呆然《ぼうぜん》とその光景を見つめた。状況が、すぐには理解できなかった。
「……大丈夫かの、嬢《じよう》ちゃん」
老人は、何事もなかったかのように香澄を見てふぉふぉと笑った。立ちつくしていた香澄は、それでようやく金縛《かなしば》りから解放された。うわずった声で訊《き》く。
「紫焔さん……どうして助けてくれたんですか?」
「そうさのう……」
紫焔《ツイイエン》は、片眉《かたまゆ》をあげてとぼけた表情を作った。
「まあ、嬢ちゃんにはぱんつも見せてもらったしの。やっぱりタダ見はいかんじゃろ、のう?」
「はあ……」
なんと答えたものかわからずに、香澄は渋《しぶ》い顔をした。倒れているグウェンに目を移して、それからもう一度、老人のほうに向き直る。
どんな能力で紫焔は彼女を倒したのか、香澄にはまったくわからなかった。
「……今のが、|レベリオン原種《オリジナル・セブン》のトランスジェニック能力ですか?」
「能力?」
紫焔は、不思議そうに訊き返した。
「いやいや、そんなたいしたもんじゃない。ちょっと脳を揺らしてやっただけじゃ。気絶してしまえば、レベリオンも人間も変わらんからのう。そんな大げさなものは要らぬよ」
「人間の能力で、彼女を倒したって言うんですか? トランスジェニック能力を使わずに?」
ますます呆然《ぼうぜん》と立ちつくして、香澄はつぶやいた。
スクリーミング・フィストでさえ通用しなかっだ相手を、なんの特殊能力も使わず、一撃で倒したというのか、この老人は。
「拳法《けんぽう》、というやつじゃよ。今どき流行《はや》らん、名もない武術じゃ。それに、原種とやらの能力なら使っておるよ」
紫焔は、すっと右手をあげた。グウェンの蹴爪《けづめ》で賃かれたほうの腕だ。ゆったりとした服の袖口《そでぐち》から深い傷口がのぞいている、はずだった。
そこにあったのは、ただの傷跡だった。完全に貫通していたはずの攻撃の名残は、いまや、わずかに残るかさぶただけになっている。
若々しい肉芽が盛りあがり、老人の傷口を塞《ふさ》いでいた。。目に見えて、傷跡が薄くなっていく。
「これは……」
香澄《かすみ》が息を吐《は》いた。常人《じようじん》をはるかに超えた治癒力《ちゆりよく》を持つレベリオン細胞。それでも骨にまで達する傷となると、半日やそこらでは回復しない。
だが、老人の治癒力は異常だった。ビデオテープの早回しのような速度で、傷口がふさがり、乾《かわ》いていく。
「これがわしの能力じゃよ。|汝、死を忘れるなかれ《メメント・モリ》≠ネどと統合計画局の連中は呼んでおったがの。ま、便利な能力じゃよ。医者いらずでな」
彼の言葉に、香澄は小さくうなずいた。常識を越えた超回復能力。それ自体に攻撃力があるわけではない。だが、この老人の拳法《けんぽう》とやらと組み合わせると、それはおそるべき存在と化す。
いかなる攻撃も受けつけず、一撃必殺の技を身につけた最強の拳士。彼といい、高崗陸也《たかおかりくや》といい、レベリオン原種が怖れられる理由がよくわかる。
「さてと」
老人は、倒れているグウェンを見やり、通路をへだてているシャッターを見やり、そして最後に香澄を見た。
「この先に進むつもりかの、嬢《じよう》ちゃん?」
ふいにまじめな顔で、老人が訊いた。訝《いぶか》しく思いながらも、香澄はうなずいた。思いがけない乱入者はあったものの、この先に隠されたものを見るために、香澄は厳罰を覚悟《かくご》の上でグウェンと死闘を演じたのだ。だが、
「そうか……じゃがな、嬢ちゃん」
と、老人は首を振った。その表情から笑みが消えていた。シャッターを背負い、香澄の前に、立ちはだかる。
ただならぬ気配を感じて、香澄は一歩あとずさった。
そして紫焔《ツイイエン》は、ゆっくりと言った。
「ここを通すわけにはいかんのじゃよ。悪いが、わしを倒さぬ限りは、な」
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5.紫焔の章
―――――――――――
Mement Mori
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1
時季はずれの転校生のせいでどこか浮き足だっていた教室も、昼休みが後半に突入するころには、普段の落ち着きを取り戻していた。
教室に残っている生徒の多くは、友人同士で固まって、適当にしゃべったりふざけあったりしている。そのひときわ大きな集団の中心に、皆瀬《みなせ》梨夏《りか》の姿があった。
「前の学校ってどんな感じだった?」
「趣味、なに? スポーツだったら?」
「好きな異性の|タイこは?」
「胸でかいと肩|凝《こ》るってほんと?」
彼女を取り囲んでいるのは男子ばかりで、浴びせられる質間の一つ一つに、彼女は愛想《あいそ》よく答えている。とすおり、楽しげに笑う彼女の声が聞こえてくる。
恭介《きようすけ》は、その悪目立ちする一群から少し離れたところで、机を挟《はさ》んで、萌恵《もえ》と向かい合っていた。
「―暗号が解けた?」
声を潜《ひそ》めて、恭介が訊《き》いた。机の上にカモフラージュの宿題プリントを広げてはいるが、話の内容は、もちろん香澄《かすみ》が残していったメモのことだ。
「完全に解けたわけじゃなくて、ひょっとしたら、手がかりになるかもしれないと思っただけなんだけど」
自信なさげに前置きして、萌恵《もえ》はオリジナルのメモの紙を指さした。
「香澄《かすみ》は、このメモをわざわざ机の中に残していったわけでしょ。もしほんとうに緋村《ひむら》くんに読んで欲しかったのなら、郵送でも手渡しでもよかったはずなのに。だからね、この文章は、学校の中のどこかを指しているんじゃないかと思ったの」
「ああ、わかる」
同じことを梨夏《りか》も言っていたな、と思いながら、恭介《きようすけ》はうなずいた。
昨夜、恭介の頭の中を占めていたのも、そのことだったのだ。だが、結局、恭介には見当もつかなかった。アルジナキネズミタチノヘヤ―?
「学校の中に限定して考えたとき、主《あるじ》なき部屋、っていったらどこだと思う?」
「え?」
萌恵に突然|訊《き》かれて、恭介はあわてて悩みはじめる。
「ええと……主なき、ってことは誰のものでもないってことだろ? けど、そんなこと言ったら学校の持ち主って誰だ? 理事長、じゃないとすると……校長? 先生?」
考えこむ恭介を、萌恵が真摯《しんし》な表情で見つめている。わけもなく緊張しながら、必死で頭を働かせていると、思いがけず簡単に答えは浮かんだ。
「クラス……どの学級にも所属していない教室? ―特別教室!」
「あたしも、そうだと思う」
萌恵がうれしそうに同意した。恭介は少しほっとする。けれど、すぐさまべつの疑問も浮かんだ。
「だけど、今どき鼠《ねずみ》がいる特別教室ってどこだ? 学食……は、べつに教室ってわけじゃないのか。調理室、とか? あ、生物室!」
「ううん、たぶん違うと思う」
すでに答えにたどり着いている萌恵は、きっぱりと首を振った。
「そうじゃないの。ほんとうにあるんだよ。ネズミたちがいっぱいいる教塞が」
「ネズミが……いっぱい?」
「うん、ざっと四十匹ばかり」
「……うそだろ?」
それだけ一カ所に集まると、たかがネズミといえども壮絶な光景だ。その様子を想像して、恭介はぞっとした。それだけの数が学校の中にいると思うと、衛生上なにか問題があるのではないかという気になる。なにしろ一つのクラスにいる生徒の人数と同じなのだから―
「……生徒の数と、同じ……ネズミ……って」
はっと顔を上げた恭介を見て、萌恵がにっこりと微笑《ほほえ》んだ。
「そう、英語で言ったら?」
「……そうか、マウス! 情報処理教室!」
つぶやいて、恭介《きようすけ》は隣の特別教室棟校舎に目を向けた。
数年前から高城《たかじよう》学園でも、授業にパソコンが取りいれられている。最近になって整備された情報処理教室には、一クラスの生徒の人数と同じ数のパソコンがそろっていた。
そしてパソコンには、もちろんマウスがついている。
ネズミに似ていることからその名前がつけられたという、ごくありふれたポインティング・デバイス。それくらいは恭介も知っている。だが、
「情報処理教室のどこかに、なにか手がかりがあるっていうのか……」
うんざりした口調で、恭介はつぶやいた。
情報処理教室は普通の教室よりも格段に広いし、ごちゃごちゃとものが置かれている。なにしろパソコンと、その周辺機器だけでも四十台以上あるのだ。
そのうちのどれかに細工《さいく》がされていたとしても、探しあてるには、相当な苦労が必要だろう。
「それにね、この文章にはまだ続きがあるんだよ」
言われて、恭介はもう一度メモに視線を戻した。
「主なき鼠《ねずみ》たちの部屋に―独り立つ。このヒトリタツの部分で、なにかがわかるって?」
「うん。まあ、正直に言うとズルしたんだけど」
「ズル?」
恭介が訊《き》き返すと、萌恵《もえ》は申し訳なさそうにうなずいた。
「ネズミが英語だったから、これも英訳してみたの。香澄《かすみ》って帰国子女だったから」
「あ、ああ……そうか、それもヒントか。でも英訳って……立つってスタンドアップ? 独りってことは、えーと、ワンマン……?」
恭介は腕を組んで低くうなった。と、萌恵が優しい口調で訂正した。
「アローン。独り立つ、はスタンド・アローンだよ」
「あ、なるほど……」
言われてみれば、そんな気もする。だが、そう言われてみても、それがなにを意味するのかわからない。
「で、とりあえず、それを調べてみたの。コンピューターに関連する用語で、なにかそういう特別な言葉があるんじゃないかって」
「……あったのか?」
「うん。スタンドアロンっていうのは、独立して単体で使われているコンピューター。つまり、ネットワークに接続されていないパソコンのことを指すんだって」
「……ネットワークに接続されていない? あ!」
今度こそ恭介は納得した。
たしかに情報処理教室には、たくさんのパソコンが置かれていた。だが、そのほとんどは、授業中に教師が生徒の使用状況を管理できるよう、ネットワーク回線で結ばれている。
ところが、実は教室のすみに何台かだけ、ネット接続されていない旧式のパソコンが転がっているのだ。なんでも学校の備品には減価|償却《しようきやく》期間というものがあるらしく、使わなくなったからといって、勝手に処分するわけにはいかないのだそうだ。
しかし今どきインターネットも使えないようでは、あまりたいした役にも立たない。たまに一部の生徒が勝手にゲームをコピーして遊んでいるくらいである。
「たしかに、あのへんのやつならなんか細工《さいく》をしても、見つかることはないだろうけど……」
「でしょ。いちおうね、スジはとおってると思うんだ。だから、あとで放課後にでも情報処理教室に行って調べてこようと思うんだけど……」
そう行って、萌恵《もえ》はふと表情を曇らせた。
「だけど、そのあとの文章の意味はやっぱりわからなかったの。なんとなく、それが解けないうちは、パソコンをいくら調べてもだめなんじゃないかっていう気がする」
「そうかもな……香澄《かすみ》のやつ、意外に性格悪いとこがあるから」
恭介《きようすけ》はしみじみとうなずいた。萌恵は、微笑《ほほえ》んで首を振った。
「香澄と友達になりたがってる子は多いよ。女子の間では、評判いいんだ。媚《こ》びないし、強いから。ほら、彼女って、自分で立ってる感じがするじゃない。そういうの、あこがれるよ」
「うん……まあ。もうちょっと、他人に頼ってもいいんじゃないかとは思う」
考えながら、ゆっくりと言った。香澄はたしかに強いが、それは張りつめたギターの弦《げん》のような強さだと思う。下手《へた》に手を触れると、自分自身も周りも傷つけてしまうような。
ただ、なんとなく今の萌恵の言葉を、香澄に聞かせてやりたいという気はした。無関心なふりをしてきっちり戸惑《とまど》っている、いつもの彼女の顔が見たい。
「んで、あっちは男子にだけ評判のいい女、か」
嘆息して、恭介は男子をはべらせて盛りあがっている皆瀬《みなせ》梨夏《りか》を見た。
梨夏は口を大きく開けて笑いながら、調子に乗ってふざけている渡辺《わたなべ》や山崎臣也《やまぎきしんや》に、きついつっこみをいれている。まるで入学したときから同じクラスにいたような態度である。
あきらかに任務とは無関係に楽しんでやがるな、と恭介は思った。
そのとき、突然、萌恵が口を開いた。遠慮がちに声をひそめて訊《き》いてくる。
「彼女も、やっぱりレベリオンなの?」
「う……」
恭介は言葉に詰まった。やっぱり気づいてたのか。まあ、普通そうだよなあ、と複雑な心境で考える。いくらなんでも香澄が失跨《しつそう》した直後に転校してきたのでは、あまりにも不自然だ。
「ああ。まぁ……」
煮えきらない態度で恭介がうなっていると、萌恵が急に視線をそらした。
つられて恭介《きようすけ》もそちらを振り向く。と、教室の端《はし》に立っている津島麻子《つしまあさこ》と目が合った。
涼《すず》やかな目で恭介を睨《にら》んで、一方的に手招きする。なぜか、怒っているような顔だった。その迫力におされて、恭介は立ちあがった。
「緋村《ひむら》、あんたちょっと来なさい」
「え……お、おい?」
近づくと、麻子はいきなり恭介の腕をつかんだ。
抵抗する暇もなく、恭介は教室の外にひっばりだされる。すると、麻子の周りにいたクラスの女子数人が、すかさず恭介を取り囲んで壁ぎわに迫いつめた。逃げられない。
「……な、なんだよ?」
少々びびりながら、恭介は訊《き》いた。その恭介をじっと睨《ね》めつけながら、麻子が言った。
「香澄《かすみ》とは、連絡がついたの?」
「いや……まだなにも」
なんで責められなきゃいかんのだと思いながらも、恭介は正直に首を振った。麻子の口調はおだやかだった。いつもの少し眠《ねむ》そうな顔をしている。それが、今はかえって怖い。
「じゃあ、あの女はなに?」
「あの女?」
皆瀬《みなせ》梨夏《りか》のことだとはわかっていたが、無関係であることをアピールするために、いちおうとぼけてみる。が、しょせんむなしい抵抗だった。
「緋村、あの女と一緒に住んでるって話は本当なの? なんで香澄がいなくなったとたんそういうことになるわけ?」
「え、いやちょっと待てって」
麻子が怒っている理由がわからずに、恭介は激しく混乱した。
彼女の言いぶんを聞いていると、まるで恭介が、香澄から梨夏に乗り換えたかのようだ。あらゆる意味で、まずい状況だ。このままでは、恭介が浮気したせいで、香澄が失意のまま転校していったという話になりかねない。
「だいたい、あの女の心臓が悪いって話、ほんとなの?」
麻子の鋭い指摘に、恭介は曖昧《あいまい》な笑顔のまま固まった。すぐさま、ほかの女子も口々に騒ぎはじめる。
「なんかおかしいよ。全然そんな感じじゃない」
「それにさ、いくらお姉さんが医者だからって、身内でもない患者を預かったりする?」
「昨日はじめて会ったんでしょ? どうしてあの女、あんなに緋村くんと仲がいいわけ?」
「ていうか緋村って、ほんとうは香澄のこと、どう思ってたの?」
がやがやと耳元でまくしたてられて、恭介はひたすら圧倒された。これは、悪性レベリオンよりもたちが悪いかもしれないと思う。
教室でご機嫌に笑っている皆瀬《みなせ》梨夏《りか》をちらりと見て、恭介《きようすけ》は恨《うら》みがましい気持ちになった。
あの女が、もう少しおとなしくしていれば、こんなことにはならなかったのだ。
と、
「そうか―わかった」
女子の質問攻撃が途切れたところで、ふと思いついて、恭介は言った。勝ち誇って、麻子《あさこ》を指し示す。
「……おまえ、妬《や》いてんだろ。臣也《しんや》が、あの転校生にでれでれしてるから。そんなことで俺《おれ》に文句を言われてもおかどちが、い―!?」
にっこりと満面に笑みを浮かべた麻子が、なんの前触れもなく膝蹴《ひざげ》りを放った。手加減ぬきの予期せぬ一撃に、脇腹を押さえて恭介はうずくまる。涙が出た。
その背中を冷ややかに見おろして、麻子は涼《すず》しげな口調で言った。
「あんた、最低」
麻子に呼ばれて教室を出ていった恭介と入れ替わりに、誰かが近づいてくる気配を感じて、草薙《くさなぎ》萌恵《もえ》は顔をあげた。立っていたのは、真島加奈子《まじまかなこ》だった。
去年まで同じクラスだったせいで、彼女は恭介とも仲がいい。水泳部員で、いかにも体育会系らしく声が大きい彼女だが、男女間わず友人が多いのは、開けっぴろげな性格に似合わぬ、細やかな心遣いの持ち主だからである。
そして、萌恵と彼女は、中学時代からの親友だった。
その加奈子が、めずらしく深刻な表情で萌恵を見た。きつく結んでいた唇《くちびる》を、なにか決心したようにかすかに震わせる。
「一つだけ聞かせてもらってもいいかな、萌恵」
見開いた瞳を、萌恵はゆっくりと伏せてうなずいた。
そのときには、加奈子がなにを訊こうとしているのか、萌恵にはもうわかっていた。
2
―|汝、死を忘れるなかれ《メメント・モリ》。
自らの能力を、紫焔《ツイイエン》はそう呼んでいた。
腕の反対側まで貫通する深い傷を、またたく間に完治してしまう超再生能力。レベリオンが普通に持っている高い治癒《ちゆ》能力と比較しても、群を抜いている。実際、同じようにグウェンの蹴爪《けづめ》で受けた香澄《かすみ》の傷は、いまだふさがりきっていないのだ。
坐物の傷が再生するのは、新しい体組織が、細胞分裂によって増えるためである。
だが、通常、皮膚や筋肉の細胞は、数週間に一度の割合でしか分裂しない。
レベリオン細胞は、普通の人間にくらべて数倍の増殖能力を持っているが、それでも細胞分裂の速度には限界がある。細胞が分裂して成長するためには大量のエネルギーが必要なため、それを抑制するメカニズムが遺伝子に組みこまれているのである。
しかし、たった一つだけ例外もある。通常の細胞をはるかに超える増殖力を持つ細胞。そのあまりの分裂速度により、ほかの正常な細胞を食いつぶしてしまいかねないほどの―
「ガン細胞……」
脇腹の負傷の痛みも忘れ、香澄《かすみ》は静かにつぶやいた。
「あなたの身体《からだ》は、ガンに冒《おか》されているんですね?」
「ほほう……やはり気づくのが早いの」
紫焔《ツイイエン》老人は、あっさりと認めた。瓢々《ひようひよう》と、うなずいてみせる。
「わしはもともと末期の肺ガンでな。レベリオン原種ウィルスに感染しなければ、今ごろとっくにくたばっておったじゃろ。こういうのも怪我《けが》の功名《こうみよう》というのかのう? おかげで嬢《じよう》ちゃんのばんつも見れたし、長生きはするもんじゃの」
「……だから、ほかの|レベリオン原種《オリジナル・セブン》のように統合計画局の実験台にされることもなく、高崗陸也《たかおかりくや》のように監禁《かんきん》もされなかった、というわけ?」
老人の軽口を無視して、香澄は訊《き》いた。
「でも、なぜです? なぜ、そのあなたが統合計画局に手を貸して、この施設の秘密を守ろうとするんですか!?」
「わしゃなにも、統合計画局に手を貸しとるわけじゃない」
そう言って、紫焔は通路の床にどっかりとあぐらをかいた。
「わしがこの先にあるものを見るなと言っておるのは、おぬしのためじゃよ。生娘《きむすめ》の嬢ちゃん」
居酒屋にいる酔っぱらいのような、緊張感などみじんもない声で紫焔は言った。香澄はむっつりと顔をしかめる。
「……その呼び方、やめてもらえませんか?」
「ん……? 気にいらんかの、ほんとうのことじゃろ?」
「そうだけど……じゃなく! とにかくやめてください!」
まともにこの老人にとりあったことを後悔しつつ、香澄はいらいらと叫んだ。
「だいたい、あたしのためって、どういう意味です? あたしには、真実を知る資格がないとでも言いたいんですか」
「ふぉふぉ……真実、か。かたいのう、おぬし。だから、生娘じゃろうと言っておる」
あいかわらずの、のらりくらりとした口調で紫焔は言った。このすけべじじいが、と睨《にら》みつけた香澄を、思いがけず鋭い眼光が見返してきた。
老人の声色が、ふいに変わる。
「では訊《き》こう、秋篠《あきしの》香澄《かすみ》博士。おぬしは何故《なぜ》に真実を求める?
真実を知ることで、おぬしはなにもかも失うかもしれん。それでも真実を知ることに価値があるかの? 怖いもの、都合の悪いものにはふたをして、見なかったことにするのも、一つの知恵ではないのか?
真実など、そんな薄っぺらなものに命をかける必要がどこにある? おぬしのように無力な人間は、自分の幸せだけ考えておれ。それ―よいではないか」
老人の口調は、おだやかだった。表情もやわらかい。香澄を責めているわけでも、説き伏せているという感じでもない。
彼の言葉は香澄の心の奥に染《し》みこんで、なにか大切なものを探している。そんな感じだった。
香澄は絶句して立ちつくす。老人はなにも言わない。細めた瞳が、じっと香澄を見つめている。香澄はなにも答えられない。だが、その沈黙は不快ではない。
いつまでも、この老人は自分の答えを待っていてくれるだろうという確信があった。おそらく、彼に残されたわずかな命がつきるまで。
「……私は、それでも、ほんとうのことが知りたい」
かすれた小さな声で、香澄はつぶやいた。
「あなたも知っているんでしょう? R2ウィルスは、私のせいで生み出されたの。そのせいで、何人もの罪のない人が死んだ。それなのに、私だけが真実から顔をそむけて逃げるなんてできない」
「逃げればいい、おぬしはただ理屈をこねておっただけじゃ。実際にウィルスを作ったのも、それを流出させたのも、すべておぬしの姉がやったことではないか」
「そんなことできるわけ―!」
「できるとも、簡単なことじゃよ。このまま階段をのぼって、部屋に戻ればいい。責任とは、力のあるものが負うものじゃ。おぬしごときの責任を問うものはおらんよ。たとえレベリオンと人類が殺し合おうが、どちらかが絶滅しようがな」
「――!」
「R2ウィルスがほんとうに怖ろしいのは、これまで普通の人間だったものを、ある日突然、レベリオンに変えてしまうことじゃ。拳銃もナイフも要《い》らない。好きなときに、好きなように他人を殺すことができる化け物にの。
人類はその恐怖に耐えられない。だから、レベリオンを迫害せずにはいられまい。だが、レベリオンを根絶やしにしようとすれば、生き残ったレベリオンは、ウィルスをばらまいて、仲間を増やそうとするじゃろう。憎しみが憎しみを生む。愚《おろ》かなことよ。
悪性レベリオンと化して暴走して死ぬか、トランスジェニック能力で殺されるか。それとも自らが生み出した兵器で自滅するか……
レベリオンになれなかったものは、どちらにしても滅ぶしかない。もはや誰にも止められぬ。
それでもおぬしは、この運命に対して責任を負えると言い張るか、秋篠《あきしの》香澄《かすみ》? 笑止《しょうし》!
小娘《こむすめ》が―うぬばれるでないわ!」
「……」
辛辣《しんらつ》な紫焔《ツイイエン》の言葉に、香澄はなすすべもなく打ちのめされた。
頭の中が真っ白になっている。もはや自分がどこに立ち、どんな表情をしているのかもわからなかった。
それほど的確に、紫焔の言葉は昏澄の急所を突いた。
そう―わかっていたのだ。ほんとうは、なにもかも。
香澄は無力だ。姉を止めることも、統合計画局を正しく動かすことも、なにもできなかった。
ましてや人類を救うことなど、できるはずがない。
どれだけ悔《く》やんでも、恭介《きようすけ》を普通の人間に戻すことはできない。命を落とした彼の友人は、二度と戻ってはこない。それでも―
それでも、香澄は願ったのだ。
誰のためでもなく、自分のために。たった一つだけ、ささやかな望みがかなうことを。
そんな簡単なことさえ、自分が忘れてしまっていたのだと気づいた。香澄がやるべきことは、はじめからわかりきっていたはずなのに。
「……そこを、通してください―紫焔さん」
ゆっくりと、香澄は言った。
ほう、と老人が片眉《かたまゆ》をあげた。その頬《ほお》にしわが寄った。笑ったのだ。
「あたしには、守らなきゃいけないものがあるんです」
紫焔老人の鋭い瞳から、香澄は視線をそらさなかった。
彼の能力は知っている。その怖ろしさも。だが、もう威圧感も恐怖も感じなかった。
まっすぐに向きあったまま、言葉を続ける。
「あたしの好きな人と、その人がいるべき場所を。だからあたしは、この先になにがあるのか、たしかめます。自分の目で―あたしの大切なものを守るために」
香澄が一歩足を踏み出したとき、老人が突然笑い出した。胸のすくようないい笑い声だ。
「……肩の力は抜けたようじゃの、嬢《じよう》ちゃん」
思いがけない反応に虚《きよ》を突かれて、香澄は立ちすくんだ。
老人は、満足げに深くうなずいた。成長した孫を見るような、幸せそうな表情だった。
「それでいい、その気持ちを忘れんことじゃ。なかなか、ちゃーみんぐな顔になったの」
「え……?」
訊《き》き返す香澄の前で、紫焔老人は立ちあがった。
閉ざされたシャッターを打ち破ろうとした香澄を片手で制止して、倒れているグウェンに歩み寄る。紫焔は、服の上からグウェンの身体《からだ》にぺたぺたと触りはじめ、いきなり服に手を突っこんだかと思うと、彼女のポケットから一枚のカードキーを抜き取っていた。
とばけた表情で、ふおふおと笑う。
「……いいかの、嬢《じよう》ちゃん。おぬしは無力じゃ。無力なものが己の力のみにこだわってなんとする。遠慮はいらぬ、すべてを受け入れ力を借りよ。敵も味方もない。この世界にあるすべてのものが、おぬしとつながっておる」
そう言いながら、紫焔《ツイイエン》はカードキーを壁のスリットに差しこんだ。
ランプが赤から緑に変わり、ぎしぎしとシヤッターが巻きあげられていく。香澄《かすみ》はだまって紫焔の言葉を聞いた。今ならば、彼の言うことが少しは理解できるような気がした。
が、その直後、紫焔老人が反対側の手に握っていたものに気づいて、香澄は思いっきり顔をしかめた。グウェンのものとおぼしき黒いブラジャー。どんな技を使ったのか、カードキーを奪うさいに、ついでに掠《かす》め盗《と》ったらしい。ふおふお、と笑いながらポケットにしまいこむ。
一瞬でも彼を尊敬した自分を、香澄は猛烈《もうれつ》に恥じた。もっともらしく理屈をつけてはいるが、この老人は、やはりただのすけべじじいかもしれない。
シャッターが完全に開放されると、短い通路の突きあたりには一枚のドアがあるだけだった。
そのドアを開ける直前、香澄に背を向けたまま、紫焔老人がつぶやいた。
「わしが、おぬしにこの中を見せたくなかったほんとうの理由は……これが、我々|大人《おとな》たちが犯した罪だからなのかもしれぬ」
「……罪?」
「それを忘れないでくれ。恨《うら》みや憎しみにとらわれるな。若さとは、大人たちの罪をあがなうためのものではない。自らの理想を現実にする力だ。真実がゆがんでいるのならば、そんなものは壊《こわ》してしまえばいい。過去は変えられなくとも、未来はおぬしらの手の中にある―いや、そこにしか存在しないのだ」
「―なにを言ってるんです? この中には、なにが……」
思わず香澄が訊《き》き返したときに、紫焔がドアを開けた。その異様な光景に、香澄はたまらず怠を呑《の》んだ。
最初に感じたのは冷たさだった。室内の空気が強烈な空調で、真冬のように凍てついている。
部屋自体は、予想していたよりも大きかった。学校の体育館ほどもあるだろう。そのわりに広さを感じないのは、部屋中を無数の機械類が占拠《せんきよ》していたからだ。
それは、大がかりな液体窒素生成装置と、医療用の生命維持装置を兼ねたような構造をしていた。そしていずれの装置にも、中央部分に円筒形の大きな水槽《すいそう》がそなえつけられている。
水槽には、美しい青色の溶液が満たされていた。
その溶液に浮かんでいるシルエットを認めて、香澄は息を呑んだ。それは、人の形をしていた。
整然とならぶいくつもの水槽の中には、それぞれ、死んだように眠《ねむ》る人間が、無数の電極やチューブに囲まれて浮かんでいたのである。
そして、水槽《すいそう》の中でたゆたう一人の少女の姿に、香澄《かすみ》は愕然《がくぜん》と叫んだ。
「―美古都《みこと》さん!?」
駆《か》けだそうとして、香澄は膝《ひざ》をついた。足に力がはいらなかった。
青い水槽の中で眠《ねむ》る黒髪の少女。それは恭介《きようすけ》の従妹《いとこ》であり、R2ウィルスの感染者でもある少女ー沢渡《さわたり》美古都だった。彼女は制御《せいぎよ》不能なレベリオン能力を矯正《きようせい》するため、キルンハウスで保護されているはずだったのだ。
だが、よく見れば、そこにいたのは彼女だけではなかった。
榛原《はいばら》裕次《ゆうじ》、あるいは報告書の写真でしか見たことのない脱走者。過去に、香澄たち非合法|特捜《とくそう》官が検挙した犯罪レベリオンの多くが、水槽の中に閉じこめられて眠っている。
「……これは、なに?」
ひどい吐き気を覚えて、香澄はうずくまった。かたわらに立つ紫焔《ツイイエン》を睨《にら》みつけて、訊く。
[なにが……なにが……行われているの。ここは、いったい……!?」
「……セブンス・シスターン」
老人は、目を閉じて悲しげに首を振った。
「これが第七調整槽《セブンス・シスターン》のほんとうの意味じゃよ。アメリカ政府が開発した。七番目の、そして唯一の実用化された医療用長期生命維持施設。ここは、冷凍睡眠《コールド・スリープ》装置の実験場だったんじゃ」
3
「午前中が英語と社会科選択科目、午後が数学だから間違えないように。残りの教科は日曜の九時から。三十分前には席に着いておくこと、以上、いいね?」
傾きかけた日射しが差しこむ午後の教室。
次の過末をつぶして行われる公開模試のスケジュールを発表して、クラス担任の矢部《やべ》は午後のホームルームを終えた。同級生たちのうんざりとしたため息を聞きながら、恭介は机の上に突っ伏した。ここのところろくに勉強してないな、と暗い気持ちで考える。
「恭介!」
と、その元凶《げんきよう》のひとつである皆瀬《みなせ》梨夏《りか》が、いきなり近づいてくるのが見えた。なにやら肩をいからせて、怒ったような口調で言う。
「ちょっと、聞いてないわよ。転入早々、週末に模試だなんて!」
「……俺《おれ》に文句を言うな。こっちだってまいってるんだから」
脱力した表情で梨夏をながめながら、恭介は言い返した。
「うー、週末は服を買いに行こうと思ってたのに」
あきらめきれない様子で、梨夏がつぶやく。緋村《ひむら》家の客間を占拠《せんきよ》している彼女の巨大なスーツケースのことを思い出して、恭介は顔をしかめた。
「……まだ荷物を増やすつもりだったのか……だいたい、おまえ二十四時間体制で俺《おれ》を見張るんじゃなかったっけ?買い物になんか行く暇あるのか?」
「なに言ってんのよ、あんたもいっしょにくればいいじゃない」
「誰がいくか」
あたりまえのように言ってくる梨夏《りか》に、恭介《きようすけ》はぼそりと言った。梨夏が不満そうに頬《ほお》をふくらます。そんな彼女を追い払うように、恭介は手を振った。
「で、なんの用だよ。合い鍵《かぎ》なら今朝、渡しただろ? さっさと帰ってろよ」
「なによそれ? 恭介は?」
「もうちょっと残る。用事があるから」
恭介はぶっきらばうに言って視線をそらした。梨夏が、む、と唇《くちびる》を結んだ。
「用事って……あの草薙《くさなぎ》って子といっしょに?」
「……う」
恭介が、渋《しぶ》い表情で顔をあげた。じっとそれを観察していた梨夏は、みょうに納得した顔で小刻みにうなずいた。
「ふうん。彼女が昨旦言ってた子なんだ。休み時間のたびに、二人でこそこそ話をしてたから、怪《あや》しいとは思ってたんだ」
前の席の椅子《いす》に逆向きに腰かけて、梨夏は恭介の机に頬|杖《づえ》をついた。
「なるほどねー、まあ、可愛《かわい》いっちゃ可愛いわよね」
「なにが言いたいんだよ?」
もったいぶった態度の梨夏に、愛想《あいそ》のない声で恭介は言った。
「……べつに」
梨夏は軽く肩をすくめた。頬杖のまま、恭介から目をそらす。派手な化粧のせいで気づかなかったが、彼女の横顔は意外に幼く、やわらかい印象だった。
「べつに、あんたのことだから、好きにすればいいとは思うけど。そういうの、たぶんあとでつらくなるよ。早めにどこかでキリつけとかないと」
思いがけず静かな口調で梨夏が言ったので、恭介は驚いた。まるで、ほんとうの友人が相談に乗ってくれているような錯覚を感じてしまった。
硬直したまま口をぽかんと開けていると、梨夏がむっと眉《まゆ》をつり上げた。
「なによ、その顔」
「あ、いや……おまえも、たまにはまじめなことを言うんだな、と思って」
「うわ、今のすっこいむかついた。いいけどね、べつに! それなら言わせもらうけど、彼女、もう教室にいないわよ。帰っちゃったんじゃない?」
「え?」
恭介は立ちあがって教室を見回した。たしかに梨夏の言うとおり、教室に残っている生徒の
中に、萌恵《もえ》の姿は見あたらない。
「あれ……へんだな。このあと、情報処理教室に行く約束をしてたんだけど」
「情報処理教室? なんでそんなとこに行くわけ?」
梨夏《りか》が怪訝《けげん》そうに訊《き》いてきた。疑わしげに、すっと目を細める。
「怪《あや》しいなあ。なんかあんたやらしいことたくらんでるでしよ?」
「だから、なんでそっちに発想がいくかな。例の暗号にそれっぽいことが書いてあったんだよ」
「とか言って、あの子も、あんたの下心に気づいたから逃げたんじゃないの?」
「そんなわけあるか!」
恭介《きようすけ》は歯を剥《む》いて、それから少し弱気になった。
「けど……おかしいな。おまえといっしょにいたから、遠慮されたのかな……」
梨夏の表情が変わったのは、そのつぶやきを聞いた直後だった。
「なにそれ……あたしのせいだって言うの?」
「え、いや?」
彼女がいきなりなにを言い出したのか、わからなかった。見上げた恭介の顔を、梨夏は見ていなかった。きつく噛《か》みしめた唇《くちびる》が白くなっている。
がたがたと乱暴に椅子《いす》を蹴《け》って、彼女は立ちあがった。
「おい、皆瀬《みなせ》?」
呼び止めようとした恭介を、一瞬、怒りに満ちた瞳で振り返ってから、彼女は自分の席へと戻った。カバンを抱え、そのまま教室から出ていく。
「……なんだ、あいつ?」
梨夏の後ろ姿を見送って、恭介は首を傾《かし》げた。
追いかけるかどうするか迷ったが、結局、放っておくことにした。とりあえず香澄の暗号が解けるまでは、彼女がつきまとわないでくれるのなら、それに越したことはない。
一人でも情報処理教室に行ってみるべきかと思い、恭介は香澄のメモを机の中からびっばりだす。と、その直後、教室の扉が開いて、市《いち》ノ瀬《せ》潤《じゆん》がはいってくるのが見えた。
恭介があわててメモを隠したところで、澗は、さっきまで梨夏が使っていた椅子に座った。
周囲をきょろきょろと見渡して、訊いてくる。
「あれ―転校生は? さっきまでいっしょにいなかったか?」
「俺《おれ》にもよくわからないんだけど……あいつがどうかした?」
「いや、彼女が俺のことを覚えていないと言ってたんで、証拠物件をな。今朝、うちに戻ったときにとってきた」
そう言って潤が取り出したのは、小学校時代の卒業アルバムだった。恭介たちが通っていた学校の、隣の学区の小学校のものだ。
「ああ……なるほど。朝のやつは、なんか下手《へた》なナンパみたいだったもんな。昔の知り合いを装ったりして」
「だから装ってたんじゃないって。ほんとに知り合いだったって言ってるだろ」
力説する潤《じゆん》の手からアルバムを取り上げて、恭介は集合写真のぺージを探しあてた。
昨夜は、梨夏《りか》が恭介のアルバムを勝手に見たが、まさかこんなに早く、その仕返しができるとは思わなかった。
「けど、小学生のころのアルバムを見てもなあ……まあ、面影はあるか。ていうか、あいつ、あんま変わってないな」
「このころから、わりと目立ってたよ。背も高かったし、クラスをしきってるような感じで」
「う……なんかすごく想像できる」
みょうに納得しつつ、恭介《きようすけ》はアルバムのページをめくった。厚めの卒業アルバムの後半は、春の遠足や運動会など、学校行事の写真を集めたコーナーになっている。
そこに写った児童の中から、皆瀬《みなせ》梨夏を見つけだすのは、そう難しいことではなかった。
当時の梨夏は飛び抜けて身長が高かったということもあるが、なにより、彼女の勝ち気な瞳が印象的で目立っていたからだ。ほかの生徒より、写っている写真の枚数が多いことからも、彼女が活発な性格だったことが想像できる。そのへんも、今とあまり変わっていない。
が、ひとつだけ奇妙なことに気づいて、恭介は顔をあげた。
「この子……いつも皆瀬といっしょにいるみたいだけど」
恭介が指さしたのは、ほとんどの写真で梨夏の隣に写っている一人の女の子だった。
小柄で、おとなしそうな顔だちをしている。梨夏とならぶと、同級生というより姉妹という雰囲気だ。けれど写真の中の二人は、いつも仲良さげに手をつないで笑っていた。
「そう……実は、そのことを確認したくて、このアルバムを持ってきたんだ」
潤が、ふと表情を曇らせた。集合写真のページに戻って、その少女の名前を探す。
「彼女、宮田《みやた》祥子《しようこ》っていうんだけど、見てのとおり、皆瀬さんとすごく仲がよかったんだ。家も近所同士で、たしか同じ中学に進学したと思った」
「……ああ。仲がよかったのは、わかるけど」
いつになく暗い潤の表情の理由がわからず、恭介は首を傾《かし》げた。
「もしかして、この宮田って子は今なにをしてるのかって話? だったら、皆瀬に訊《き》いておいてやろうか?」
「いや、そうじゃないんだ」
無造作《むぞうさ》に伸ばした長髪ごと、潤は首を振った。
「その必要はないんだよ、恭介。それはわかっている。彼女は、もう死んでいる」
「―死んだ?」
さすがに意表を突かれて、恭介は固まった。潤が、苦々《にがにが》しげな表情でうなずく。
「ああ、けっこう古い話なんだ。もう二年近く前。俺《おれ》たちが高校に入学したばかりのころの話。
宮田祥子《みやたしようこ》が通っていたのは女子校だったから、俺は詳しいことを知らないんだけど」
「……死因は?」
「知らね。ただ、ちょっと気になる噂《うわさ》を聞いたんでな。おまえにだけは言っておこうと思った」
「噂?」
「ああ……証拠もなにもない。ただのうわさ話だぜ。だけど、あちこちでみんなが同じことを言っている」
恭介《きようすけ》はだまって窓の外を見た。うっすらと流れる雲が、夕陽で赤く染まりはじめている。
校庭から運動部のかけ声が聞こえた。
潤《じゆん》が次になにを言うのか、なんとなく予想できた。だからだまっていた。
「彼女を殺したのは、皆瀬《みなせ》梨夏《りか》だ」
低い声で、潤が言った。
「……噂は、ただの噂だろ」
少し間をおいて、恭介は首を振った。無理やりに笑ってみせる。
「それに、もしそれがほんとだからって俺の知ってる皆瀬が別人になっちまうわけじゃない」
潤は脚を無造作《むぞうさ》に投げ出して、両腕をだらりと挟《はさ》んだ気の抜けた姿勢で恭介をじっと見つめていた。やがて、くつくつと愉快そうに笑い出す。
恭介が訝《いぶか》しげにそれを見ていると、かなわんなあ、という感じで潤が頭をかいた。
「……おまえが女に好かれる理由が、ときどきわかる気がする」
「なんだよ、いきなり?」
ほめられているのか馬鹿にされたのかわからず、恭介は顔をしかめた。だいたい、言われるほどもてた記憶《きおく》なんかない。せいぜい、ミーハーな後輩《こうはい》につきまとわれているくらいで、片思いの相手には約束をすっぽかされたばかりである。
潤は、これ以上、その話を続けるつもりはないようだった。普段どおりのへらへらした顔にもどって、アルバムのページをぱらぱらとめくる。
「お、これこれ、臣也《しんや》が好きだった女」
「どれ? おお、なんか麻子《あさこ》に似てる」
「髪形だけじゃねえか? 性格はぜんぜんちがったぜ。臣也にいじめられて、しょっちゅう泣いてた」
「うわ、ガキだなー、あいつ……」
あはは、と笑いながら、恭介は、なにげなく情報処理教室のある特別教室棟校舎を見た。
「―!?」
見間違いかと思って、まばたきをした。その直後、表情がこわばった。
「……恭介《きようすけ》?」
いきなり険《けわ》しい表情になった恭介を見て、潤《じゆん》がおどろいたように訊《き》く。恭介は、どかどかと椅子《いす》を蹴散《けち》らしながら立ちあがって、叫んだ。
「悪い、潤。急用を思い出した、先に帰っててくれ」
あわてふためいて教室を出ていく恭介を、潤がぽかんとした顔で見つめている。それを気遣う余裕《よゆう》が、恭介にはなかった。特別教室棟校舎の屋上から、目が離せない。
いるはずのない人間がそこにいた。生徒ではない。スーツ姿の白人。銀色の髪を腰までのばした男。恭介は、呆然《ぼうぜん》とつぶやきながら、走り出す。
「アーレン!? あいつ?…なにを!?」
4
小柄な少女が、水着のような薄い服だけを着せられて、青い溶液の中に浮かんでいる。短く切りそろえられた髪が、水槽《すいそう》にただよう姿のまま凍《い》てついている。
その光景を前にして、香澄《かすみ》は呆然と立ちつくしていた。生命維持装置が振動する鈍《にぶ》い音だけが、セブンス・シスターンの地下に響く。
|冷 凍 保 存《コールド・スリープ》。
人間を氷|潰《づ》けにして、仮死状態のまま長期間保存する技術。
不治《ふち》の病に冒《おか》された患者を、その治療法が開発されるまでの間、存命させることなどを目的として、世界各地の研究期間で実験が続けられている。長期に亘《わた》る宇宙旅行にも応用できるのではないかと期待されている、応用範囲の広い技術だ。
すでに、原始的な生物では、実用的なレベルに到達しているといわれている。だが、人間のような複雑な生物になると、いまだ解決されない技術的な問題がある。それは、細胞の劣化《れつか》の問題だ。凍ら也た肉の鮮度が落ちてしまうように、冷凍された人間を蘇生《そせい》するさいに、組織が破損してしまうのである。
では、凍らせたのが、人間よりもはるかに強力な細胞を持つレベリオンだったとしたら―?
「なんだ、きみたちは? ここで、なにをしている!?」
放心状態だった香澄の耳に、ふいに耳慣れない男の声が聞こえた。
研究員らしき白衣姿の男性だ。眼鏡《めがね》をかけ、バインダにまとめたプリントアウト用紙を持っている。
「――!!」
その姿を認めたとたん、香澄の身体《からだ》は反射的に動いていた。
床を蹴《け》り、長い髪が閃光《せんこう》のように流れた。噛《か》みしめた唇《くちびる》の隙間《すきま》から、怒りとも絶叫ともつかぬ短い息が漏《も》れる。手負《てお》いの美しい猛獣《もうじゆう》のようなその姿に、研究員の男は悲鳴をあげた。その前に香澄《かすみ》は男の腕をねじりあげていた。そのまま激しく床にたたきつける。
衝撃に男の呼吸が一瞬止まり、悲鳴がやんだ。
「答えなさい!」
男の関節を極めたまま、抑揚のない声で香澄は訊《き》いた。
「この施設はなに? ここで彼らになにをしているの!?」
「ひっ……」
恐怖で顔を蒼自《そうはく》にした男は、なにが起きたのかわからない様子で、低くうめくだけだった。
だが、彼が立ち直るのを待つほどの余裕《よゆう》は、香澄にはなかった。関節を固めている腕に、力をいれる。男は床をかきむしり、涙声で叫んだ。
「レ……レベリオンを眠《ねむ》らせておくための、施設だ……です」
「なんのために、こんなことをしてるの!?」
「……|RAVE《レイヴ》」
男の関節が、ぎしぎしと音をたてている。苦痛にうめきながら、彼は、かろうじてそれだけを言った。
「―え!?」
「|弱毒化R2ウィルス製剤《R2-Ancillary-Virus-Extract》を精製するための……レベリオンの血を集めるために……」
「!?」
香澄の腕から、力が抜けた。男はぐったりと床に倒れる。気絶したわけではないが、立ちあがる気力も残っていないようだった。
水槽《すいそう》の中で眠っている沢渡美古都《さわたりみこと》を見上げて、香澄は絶望的な思いで嘆息した。
彼女のまわりを囲むチューブの中を循環しているのは、まぎれもなく美吉都から採取された血液であった。|RAVE《レイヴ》の原料となるレベリオンの血液。それが、生命活動に支障のない程度の少量ずつ、けれど絶え間なく抜かれ続けている。
この建物の異常なまでの堅牢《けんろう》さ。そして自家発電やリハビリテーションの設備も、すべては、シスターンが長期間の冷凍睡眠の実験場として造られたことを意味していた。
生かさず、殺さず。麻酔薬が効かないレベリオンを眠らせておくためだけに、この地の冷凍睡眠施設は、使われているのだった。
「……レベリオンを嫌っておる人類至上主義者の勢力が増していることは聞いておるじゃろ?」
いつの間にか近くにきていた紫焔《ツイイエン》が、静かな声で言った。香澄はのろのろと顔をあげた。
「統合計画局がこれまでレベリオンを保護してきたのは、兵士としての有効性を確信しておったからじや。じゃが、強力すぎる兵士は、戦争中には役に立つが、ひとたび平和が訪れると、たちまち厄介《やつかい》な存在に変わる。制御《せいぎよ》不能な兵器ほど、危険なものはないからの」
「それで……|RAVE《レイヴ》を? だけど……」
「そう。あの麻薬には激しい副作用がある。理性を失って凶暴《きようぼう》化してしまうというやつじゃの。じゃが、その欠陥を改良した薬剤が完成したとしたらどうじゃろう?」
「そんなことが……」
香澄《かすみ》は背筋が寒くなるのを覚えた。
従来のRAVEでも、大量に服用しだ場合、人間離れした筋力と運動能力を引き出すことができた。けれど、それは一時的なもので、しかも暴走という副作用があったために利用価値はないと思われていたのだ。だが、もしもその副作用をとりのぞくことに成功したら?
軍が管理できる、時間限定《パートタイム》の超人兵士。それこそが、統合計画局が求めていたものではなかったのか?
「その改良型|RAVE《レイヴ》―|RAVE+《レイヴ・ブラス》が実用化の段階に入ったことで、統合計画局の内部の反レベリオン勢力は勢いを増しておる。皮肉なものじゃの、レベリオンが自衛のために作りあげた統合計画局が、今やレベリオンの最大の脅威《きようい》になっておるのじゃから」
「え……」
香澄は、押さえつけていた研究員を放りだして立ちあがった。紫焔《ツイイエン》に向き直る。
「レベリオンが統合計画局を作った……? そんなばかな。だってレベリオン原種が発見されてから、まだせいぜい七年かそこらしか経っていない……」
「……おやおや、科学者らしからぬ発言じゃの、嬢《じよう》ちゃん」
そう言って、紫焔は無邪気に笑った。
「発見されていなかったからといって、存在しなかったということにはなるまい? それどころか、レベリオンがはるか人類の過去から存在しておったという傍証《ぼうしよう》はいくらでもある」
「……傍証?」
「いかにも……」
つぶやいて、紫焔は極低温の水槽に浮かぶ沢渡美古都の姿を見上げた。青く輝く水の中で眠る妖精《ようせい》のような、どこか幻想的なその姿を。
「雷《かみなり》を操り、炎《ほのお》をまとう神々の伝説を思い出してみよ。超人的な力を持っていたとされる歴史上の武将。秘薬を調合し人の身でありながら神になったといわれる中国の仙人。西洋の獣人伝承など、まさに|悪 性《ヴイルレント》レベリオンそのままの姿ではないか」
老人の言葉を聞きながら、香澄は、遺伝子工学を表現する使い古された常套句《じようとうく》を、わけもなく思い出していた。曰《いわ》く―神の領域に足を踏み入れた学問。
紫焔が、一息ついて、言葉を続けた。
「そして人類の歴史上、そのような異形《いぎよう》の人々は時の支配者に狩りたてられる運命にあった。神話の中の巨人族、古代日本の鬼《おに》や土|蜘蛛《ぐも》、なかでも悲惨だったのが西洋の魔女狩りじゃの。だがのう、なかには、そのような陰惨《いんさん》な血の歴史とは無関係だった国がある。たとえば、ここのようにの」
「……アメリカ合衆国」
「そうじゃ……」
紫焔《ツイイエン》が重々しくうなずいた。
「かつて、この地に住む人々は、それら異形《いぎよう》の人々を精霊《せいれい》としてあがめ、調和して暮らすことを選んでいた。そして、本国での迫害からのがれて渡航してきた宗教難民を寛容《かんよう》に受けいれた。
それらヨーロッパから流入してきた者たちの中に、レベリオンがまぎれていてもおかしくないとは思わんか?」
「建国当時から、この国にはレベリオンがいた、ということ?」
「そうなるの。そして、長い年月をかけて政府の中枢《ちゆうすう》に巧妙《こうみよう》にはいりこみ、作りあげてきたんじゃろう。レベリオンの秘密を守り、仲間を保護するための組織を」
「それが、統合計画局……」
「そう。じゃが彼らにとっての最大の誤算は、わしら|レベリオン原種《オリジナル・セプン》の出現と、おぬしたち姉妹の存在だったじゃろう。だが、それは彼らにとってチャンスでもあった。これまでまったく謎だった自分たちの肉体の秘密を知る機会が、はからずも手にはいったんじゃからの」
「だけど……今やその統合計画局そのものが、レベリオンを擁除しようとしている」
「R2ウィルスの秘密が解き明かされたとき、彼ら古代種≠ニでも呼ぶべきレベリオンも、ただの人類の突然変異体でしかないことがわかってしまった。彼らは、神の座から追われたのじゃよ。今や、統合計画局の主導権は人間に奪いとられ、古代種は、その走狗《そうく》となっているに過ぎぬ。あのグウェンのようにな」
「グウェン……彼女も、古代種レベリオン……」
香澄《かすみ》は、紫焔老人がグウェンのことを、年増《としま》、と呼んでいたことを思い出した。
レベリオンの遺伝子は、宿主の肉体を、もっとも戦闘能力の高い状態に保とうとする性質がある。すなわち老化が遅いのだ。香澄とほとんど変わらない年齢に見えたグウェンだが、実際には、何十年……場合によっては、それ以上生きてきたとしても不思議ではない。
だが、老化が遅いということは、必ずしも肉体が劣化《れつか》しないということを意味しない。
細胞分裂が、いわば遺伝子のコピーである以上、コピーを重ねれば重ねるほど画像はゆらぎ、不鮮明になってしまうのだ。グウェンたち古代種レベリオンがR2ウィルスの秘密を探ろうとしたり、統合計画局の言いなりになっているのも、案外そのあたりのことに理由があるのかもしれない。
「さて……嬢《じよう》ちゃん」
話し疲れたのか、紫焔は小さくため息をついた。それを見て、ようやく香澄は気づいた。
末期のガンに冒《おか》されている彼の肉体は、こうしている今も、想像を絶する苦痛を訴えているはずなのだ。レベリオンの肉体は、命を長らえさせることはできても、苦痛までは減じてくれない。だが目の前の小柄な老人は、そのような気配をみじんも感じさせていない。
すさまじい、精神力だった。
「これが、おぬしが知りたがっていた真実じゃよ。わしに案内できるのはここまでじゃ。あとのことは自分で決めればいい。後悔のないようにな」
老人が言った。限りなく優しい声だった。
「あなたは……これからどうするんですか?」
香澄《かすみ》の質問に、老人は微笑《ほほえ》んで首を振った。
「わしは、ここにおるよ。ここで眠《ねむ》ってる連中の面倒を見ねばならんでな」
ひどく悲しい気持ちで、香澄《かすみ》は彼の言葉を聞いた。だが、紫焔《ツイイエン》は微笑みを絶やさなかった。
「のう、嬢《じよう》ちゃん。こうして眠《ねむ》っていられるのは、考えようによっては彼らにとって幸福《しあわせ》かもしれん。そうは思わ鍛か。この騒ぎがおさまって、レベリオンの治療法が生み出されるまで、悪夢にうなされることもなく、ただ静かに待っていればよい」
「……あたしが……彼らを救います。何年かかるかわからないけど……必ず……」
「期待しておるよ。じゃが、おぬしには、その前にやることがあるのじゃろう?」
「……」
香澄はだまってうなずいた。その頼《ほお》に、老人がそっと手を触れた。硬く、温かい手だった。
香澄の知らない種類の感情が、そこから流れこんでくるような。
「ならば、泣くな」
静かな声で、老人が言った。それで香澄は、自分が涙を流していることを知った。
息を吸って、涙をふく。老人が満足げにうなずいた。
「紫焔さん……最後にひとつだけ、訊《き》いてもいいですか?」
老人は黙ってうなずいた。奥深いまなざしが、香澄をおだやかに見つめている。
「あなたは、誰ですか?」
ふおふおと老人が笑った。
「……わしには名前がないんじゃよ。他人《ひと》にくれてやったでの」
彼は悪戯《いたずら》っぽい口調でそう言った。それから、ゆっくりと香澄に背を向けた。
「名前になどたいした意味はない。それでええんじゃないかの?」
そうつぶやいた老人の背中には、誰にも侵《おか》すことのできない誇りが感じられた。
だから、香澄はそれ以上なにも訊かなかった。無言で深く頭をさげる。
そして二度と振り返ることなく部屋を出た。
それは、別れの挨拶だった。
5
特別教室棟の屋上にたどり着いたとき、そこにアーレンの姿はなかった。
だが、見間違いだったとは思わなかった。あんな場違いで目立つ男が、そう何人もいるとは思えない。
屋上につながっている階段はニカ所ある。恭介《きようすけ》が使った校舎中央のやつと、もう一つ。校舎の外側の非常階段。アーレンがどちらを使ったかは、考えるまでもなかった。恭介は上履《うわば》きのまま、三段抜かしで非常階段を駆《か》けおりる。
二階までたどり着いたところで、のんびりと中庭を歩いているスーツの背中が見えた。
「アーレン―!」
怒鳴《どな》り声を聞きつけて、アーレンが振り返った。
恭介の姿に気づいて、ポケットに突っこんでいた右手をあげる。やけに堂々とした、なれなれしい仕草だった。息を切らしている恭介を見て、愉快そうに眉を上げる。
「よう……緋村《ひむら》弟。奇遇だな」
「奇遇だな、じゃねえだろ」
気の抜けたようなアーレンの態度に、少々|戸惑《とまど》いながら恭介は言った。アーレンの声が、なぜか普段よりも嗄《か》れている。
「今度は、なにしに来たんだよ? なにが狙《ねら》いだ?」
「おいおい、そう殺気立つなよ。今のところ、おまえが俺《おれ》と敵対する理由はないと思ったがな」
「んなわけあるか。人の学校にまで押しかけてきやがって」
いつでも飛びかかれるように身構えて、恭介は歯を剥《む》いた。が、さすがに戦意のない相手に、一方的に殴《なぐ》りかかることもできなかった。放課後とはいえ、校内にはまだ大勢の生徒が残っている。できたら、ここで戦うのはさけたいところだ。
それに、彼の言うことに一理あるのもたしかだった。
アーレンは統合計画局の脱走者だが、今は特に恭介の知人を狙っているわけではないのだ。
したがって、恭介が彼と戦わなければならない理由もない。
とはいえ、一度は殺しあいを演じた相手と、仲よく談笑するというのも、ひどく気まずい。
結局、やる気があるのかないのか、中途半端な口調で恭介は言った。
「で、なんの用だよ? またなにかたくらんでるんじゃねえだろうな」
「たくらんでる……って悪の秘密組織か、俺は?」
心外《しんがい》そうな口調でアーレンは言った。似たようなものだ、と恭介は思ったが、口には出さないでおいた。ちらりと体育館のほうを見て、アーレンがつぶやく。
「女子の新体操部の練習を見にきたと言ったら、信じるか?」
「……まじで?」
「冗談《じようだん》だ」
唖然《あぜん》として訊《き》き返した恭介に、アーレンは真顔で言った。ポケットからタバコをとりだして、火をつけずにくわえる。
「……なにしにきたんだ、おまえ、ほんとに」
完全に戦闘意欲をなくして、恭介《きようすけ》は構えていた腕をおろした。アーレンが軽く首を振る。
「Y《はな》が勝手に出かけてしまってな。心あたりの場所を探しにきたんだが……見なかったか?」
「いや……見てないけど」
恭介は素直に首を振った。|レベリオン原種《オリジナル・セプン》、高崗陸也《たかおかりくや》の娘《むすめ》。第二段階レベリオンの少女、Y。
一時期は、なんやかやと理由をつけてよく遊びに来ていたが、自分の正体を恭介に知られてからは、一度も姿を見せていない。
「そうか、ならいいんだが……なにを笑っている?」
肩を震わせている恭介を見て、アーレンが怪訝《けげん》そうに訊《き》いた。それがよけいにおかしくて、恭介はたまらず噴き出した。
「いや、悪い……なんか、あんたが保父みたいなことをしてるってのがおかしくてさ。軍の特殊部隊出身とか聞いてたのに」
「失礼なやつだ」
特に気分を害した様子もなくつぶやいて、アーレンは近くに落ちていたバスケットボールを器用に脚で蹴《け》りあげた。二、三度ドリブルして、壁ぎわの練習用ゴールへと放る。
綺麗《きれい》な放物線を描いたバスケットボールは、見事にリングの中央をすり抜けた。
ひゅう、と恭介は口笛を吹く。
「意外だ……上手《うま》いな」
「ハイスクール時代はバスケットの選手だった。クリス……おまえらの知っているリチャード・ロウも同じチームにいたよ」
「……そうなのか?」
恭介は目を丸くした。言われてみれば、とりあえず二人とも身長は高いし、バスケが似合いそうな感じではある。だが、今のアーレンたちの姿から、高校生のころの彼らを想像するのは、難しい。彼らに、そういう時代があったことさえ、なんとなく不思議な感じがする。
「リクヤとも、よく1オン1の試合をした。キルンハウス―統合計画局の研究施設のコートでな。あいつ、ああみえて意外に卑怯《ひきよう》でな。フェイントが異常にうまい。性格が悪いんだな」
「仲、よかったんだな」
恭介はつぶやいた。アーレンはだまって、もう一度シュートを放った。今度はリングに蹴《け》られて、ボールは遼くに転がっていった。アーレンが肩をすくめる。
「Yの両親のことは、聞いているだろ?」
「……ああ」
恭介はうなずいた。
Yの父親は高崗陸也。そして、母親はリチャード・ロウの妹リサ。アーレンは、友人の娘であり、姪《めい》でもある少女を奪って、統合計画局を脱走したことになる。
アーレンが、これほどまでにY《はな》を気にかけ、守ろうとしている理由が、恭介にもなんとなくわかったような気がした。
彼は、統合計画局を裏切ったが、友人まで裏切ったわけではないのだ。自分の命にかえてもYを守るのが、彼に残された最後の友情の証なのだろう。
「それで、そんな声が嗄《か》れるまで、Yのことを探し回ってたってわけだ?」
からかうような口調で、恭介は言った。アーレンが、む、と首を傾《かし》げた。
「いや、これは昨日カラオケに朝まで無理やりつきあわされて―」
なにか言い訳するように口を開きかけたアーレンが、ふいに表情を硬くした。長い銀髪が、重力に逆らうようにかすかに浮き上がり、彼の周囲に青白い雷光を散らした。
その直後、恭介の頬《ほお》をなにかがかすめた。ほば同時に、アーレンを包む雷光が輝きを増し、彼の背後にあった花壇の植木が火花を散らした。がさがさと音を立てて、枝が折れる。
否。折れたのではなく、それは切断されたのだった。女性の手首ほどもある枝が、見えない刃物で薙《な》ぎはらわれたみたいに、すっぱりと斬《き》られている。
「―なんだ!?」
「恭介、伏せて!」
愕然《がくぜん》とする恭介の背後から姿を現したのは、皆瀬《みなせ》梨夏《りか》だった。
勝ち気な瞳をさらにつり上げて、アーレンを睨《にら》んでいる。その瞳が赤く輝いていた。レベリオン特有の金色の瞳ではなく、ルビーのような深い紅《あか》。
その瞳が、輝きを増した。再びアーレンの周囲が青白く発光し、今度は彼の足下がはじけた。
恭介にはなにが起きているのかわからない。
「|混 沌 の 瞳《ヴイジヨン・オブ・デイスオーダ》―皆瀬梨夏か!?」
アーレンが目を細めて梨夏を睨んだ。梨夏は、きっと唇《くちびる》を噛《か》んで、さらに攻撃を放とうとする。その前に立ちはだかったのは恭介だった。
「やめろ、皆瀬!」
「どきなさい、恭介。そいつが何者か知ってるんでしょ!」
「よせって! こんなとこで戦うな。ほかの生徒を巻きこんだらどうするんだ!」
「くっ―」
梨夏がぐっと拳《こぶし》を震わせた。恭介の肩越しに、アーレンを睨みつける。
「やめておけ、皆瀬梨夏。おまえの能力は、俺《おれ》には通用しない」
「なっ……!?」
落ち着いた態度のアーレンの言葉に、梨夏は激昂《げつごう》した。飛び出そうとした彼女の肩を、かろうじて恭介が押さえる。アーレンのトランスジェニック能力|神の雷槌《サンダーヘツド》≠フ破壊力は強烈だ。
こんな日中に、学校のど真ん中で使われたら、どんな被害がでるかわからない。
「蛍《ほたる》などが持つのと同じ発光細胞と、眼球の水晶体を利用した生体レーザー……それがおまえの|混 沌 の 瞳《ヴイジヨン・オブ・デイスオーダ》の正体だろう、皆瀬《みなせ》梨夏《りか》? だが、神の雷槌《サンダーヘツド》の強力な電磁場の中ではレーザーは直進しない。おまえの攻撃は、俺《おれ》にはあたらんよ」
「―!?」
梨夏が息を呑《の》むのがわかった。恭介《きようすけ》もまた、驚いて梨夏の瞳を見つめた。
聞いたことがある。細胞内のエネルギーを直接光に変換する蛍《ほたる》などの発光メカニズムは、きわめてエネルギー変換効率の高い光源として研究されているらしい。
圧倒的な出力を持つレベリオン細胞の能力で、それを再現したら。しかも、それを自由に収束して撃ち出すことができたら―
「光と同じ速さで飛来する見えない刃《やいば》。か。たしかに、もっとも速く、危険な暗殺型トランスジェニック能力だろう。だが、今回は相手が悪かったな」
アーレンは、かすかに安堵《あんど》したようなため息をついた。その瞳に、ふと疑問の色が浮かんだ。
青白い雷光をまとったまま、恭介に向き直って訊《き》いてくる。
「……なぜ、皆瀬梨夏がここにいる? カスミはどうした、緋村《ひむら》弟」
「帰ったわよ、アメリカにね」
答えたのは梨夏だった。アーレンに無視されたのが、よほど腹に据《す》えかねたのだろう。自分の能力が敗れたショックなど、みじんも感じていないようだ。
「―帰った、だと!?」
アーレンにも勝ち誇った様子はなかった。声を荒げて訊き返してくる。彼がここまで狼狽《ろうばい》を表に出すのを見たのは、はじめてだった。
恭介と梨夏が訝《いぶか》しげに見つめる前で、アーレンは誰に言いきかせるともなく、険《けわ》しい表情でつぶやいた。
「カスミ、じゃない……だったら……Y《はな》が会いにいったのは、誰だ?」
6
与えられた個室に戻って、香澄《かすみ》は血まみれになった服を脱いだ。
身の回りの荷物は、日本から持ってきた小さな旅行バッグに詰めこんだままだった。
着替えを選ぼうとして、香澄は、ふっと微笑を浮かべる。今の気分にふさわしい服は、壁ぎわのハンガーにすでに用意されていた。香澄にとっての、自由と幸福の象徴。いつの間にか、どの服よりも自分の身体《からだ》になじんでいた―高城《たかじよう》学園の制服。
部屋を出て、なにもない殺風景な廊下をまっすぐに歩いた。
シスターンの扉をくぐると、キルンハウスの緑がまぶしかった。長い夜が明けようとしている。地平線を染める朝焼けに、香澄は、恭介と二人で見たあの美しい夕陽を思い出した。
まっすぐにキルンハウスの出口に向かって歩く香澄の姿は、とっくに監視《かんし》カメラにとらえられているはずだ。今ごろ、警備の担当者たちは泡《あわ》をくっていることだろう。
それでも誰も止めにこないことを、香澄《かすみ》は確信していた。
武装した兵士を何人投入したところで、非合法|特捜《とくそう》官は止められない。レベリオンを倒せるのは、レベリオンだけなのだ。すなわち―
「……グウェン」
立っていた小柄な影を見て、香澄は思わず笑った。いつものドレスではなく、統合計画局の戦闘服に身を包んだブルネットの髪の女が、四人の兵士を従えて香澄を睨《にら》んでいた。
「どちらにお急ぎですか、特捜《とくそう》官?」
低い声でグウェンが言った。彼女のやることが神経に障《さわ》る理由がなんなのか、香澄はやっと思い出した。彼女のしゃべり方は、小学生のころに嫌いだった英会話の教師にそっくりなのだ。
シェークスビアの時代から抜け出してきたような、つんと澄ました感じの|イギリス英語《クイーンズ・イングリツシユ》。
ただし、グウェンの時代がかった言い回しは、|ほ《ヽ》ん《ヽ》も《ヽ》の《ヽ》だ。
「見てわからない?」
彼女を見据《みす》えて、香澄は静かに言った。グウェンのこめかみが、ぴくりと震えた。
「高城《たかじよう》市における、あなたの役目は終わりました。シスターンにお戻りなさい」
「……戻る?」
香澄は微笑《ほほえ》んで首を振った。この期におよんで任務の枷《かせ》にしばられたグウェンが滑稽《こつけい》で、そして哀れだった。まるで、ほんの少し前までの自分をみているようだ。
「いいえ、あたしが戻る場所はあんな場所ではないわ、グウェン」
「それは命令違反です、特捜官」
グウェンが足を踏み出した。彼女の周りにいた警備兵たちが、訓練された動きで展開した。
常人《じようじん》離れした機敏な動き。異様なまでの反応速度だった。
「―彼らが、|RAVE+《レイヴ・プラス》を服用した兵士たち?」
自分に向けられたM16ライフルの銃ロを見回して、香澄は訊《き》いた。グウェンは一瞬表情をこわばらせ、そしてうなずいた。
「そう。標準的な兵士の倍以上のスピードと、筋力を持っています。いくらあなたでも、彼らと戦っては無事《ぶじ》ではすみません。シスターンに戻りなさい、特捜官。今ならば、まだ反逆者にならずにすみます」
「それは無理よ、グウエン……忘れたの、私の名を? あなたたちが名づけたのでしょう?」
「―!?」
香澄がおだやかに微笑んだ。刹那《せつな》、グウェンが息を呑《の》んだ。
警備兵たちの反応は迅速《じんそく》だった。香澄がわずかに腕を動かすと同時に、一瞬の迷いもなく、引き金を引いた。容赦《ようしや》のない銃声が美しい緑の中庭に響く。その瞬間。
朝焼けを浴びた香澄の髪が翼のように広がり、真紅《しんく》の残像を残して消えた。兵士たちの銃が放った弾丸が、その残像を貫いてむなしく空《くう》を切る。
「我が名は、反逆者《レベリオン》―私は、それを誇りに思う」
香澄《かすみ》の両腕が淡く発光し、慟哭《どうこく》にも似た美しい振動音を放った。
トランスジェニック能力―|嘆 き の 拳《スクリーミング・フイスト》。超高速の微振動波を帯びた拳《こぶし》が、三発バーストで撃ち出された弾丸を撃ち落とし、強化された兵士たちを横|殴《なぐ》りに襲った。
近接戦闘に特化した、格闘戦タイプの真性レベリオン―本気になった香澄のスピードは、薬物によって反応速度を強化しているはずの兵士たちよりも、さらに上だった。青白く輝く香澄の腕が、銃を構えた屈強な男たちに次々と、むしろ静かな、繊細な動きで触れていく。
すさまじい振動が兵士たちの脳を揺さぶり、彼らは声をあげることもなく昏倒《こんとう》する。
「|RAVE+《レイヴ・プラス》が……そんなー!?」
グウェンが驚愕《きようがく》に顔をゆがめた。倒れた兵士たちを見おろして、香澄は静かにつぶやいた。
「どんな薬物で強化された兵士も、気絶してしまえば同じ―彼の言ったとおりね」
「……秋篠《あきしの》、香澄―」
ぎり、と歯ぎしりの音を響かせて、グウェンが低くうなった。彼女の両腕から、胸元から、腰から、つま先から―無数の蹴爪《けづめ》が、戦闘服を破って木々の枝のように突き出す。
全開にした、|絶望の衝角《ラム・イツト・ダウン》の真の能力。
全身を鋭利な刃物で覆《おお》った彼女の姿に、かつての優雅なメイドの面影はなかった。異形《いぎよう》としか形容できぬその姿は、任務の達成にかける彼女の執念《しゆうねん》を具現化したようにも思える。そして彼女の蹴爪には、スクリーミング・フィストの振動波は通用しないのだ。
「お望みどおり、あなたを処分します」
宣言と同時に、グウェンが跳躍した。
さすがに速い、RAVEで強化された兵士など、比較にもならぬ速度だった。横っ飛びに逃れた香澄のすぐわきを、うなりをあげて蹴爪が通過した。そして逆方向からも、べつの蹴爪が襲った。横|薙《な》ぎに襲うその攻撃を、香澄は頭を沈めてかわした。風圧で髪が浮くのを感じた。
「けえ――っ!」
グウェンが奇声を放った。両手足から伸びる何本もの蹴爪が、次々に香澄を襲う。
人体の構造を無視した、予期せぬ方向からの連続攻撃。攻撃範囲の広さも、攻撃の角度も、まるで予想することができない。そんな攻撃が、銃弾すら叩《たた》き落とすレベリオンの反応速度で、絶え間なく放たれるのだ。どんな武道の達人でも、それをよけ続けることは不可能だと思われた。
だが、香澄はことごとくそれらをかわした。まるで、ひらひらと舞う羽根のように。
自分のことを無力だと言った紫焔《ツイイエン》の言葉が甦《よみがえ》った。そう、香澄のスクリーミング・フィストでは、彼女の|絶望の衝角《ラム・イツド・ダウン》は破れない。ならば、無理に逆らう必要はない。その思いが、香澄の動きに余裕《よゆう》を持たせていた。
すべてを受けいれ、力を借りよ―紫焔《ツイイエン》老人は、そうも言った。
己の能力に固執する必要はない。グウェンを倒す方法はあるのだ。スクリーミング・フイストに頼らなくても、彼女を倒す方法はある。紫焔が、それを実証してくれた。常人《じようじん》の何倍もの動体視力を持つ香澄《かすみ》は、あのときの彼の動きを、しっかりと目に焼きつけている。
きん、と甲高《かんだか》い音を放ち統けていたスクリーミング・フィストの振動が止まった。香澄は、ぐっと身体《からだ》を沈めた。絶え間ない激しい攻防の中に、一瞬、空隙《くうげき》のような静寂が訪れる。
動きを止めた香澄を見て、グウェンが勝ち誇ったように腕をかかげた。
「絶望を味わえ反逆者―|絶望の衝角《ラム・イツト・ダウン》!」
「……いいえ。あなたの負けよ、グウェン・マイルズ」
地面を蹴《け》りつけた香澄の身体が、疾風《しつぷう》のようにグウェンの懐《ふところ》へと飛びこんだ。グウェンが、反射的に両腕でガードを固めた。交差した蹴爪《けづめ》が、彼女の胸部を守る。だが、香澄はそれに構わず腕を突き出した。淡くY光《りんごう》を放つ拳《こぶし》がグウェンの蹴爪に触れた。これまでの香澄の攻撃には存在しなかった爆発的な衝撃がグウェンを襲ったのは、その直後だ。
衝撃に息を止めるグウェンの心臓に拳が到達したとき、香澄はためこんできたスクリーミング・フィストのパワーを無制限に開放した。
つぶやきとともに、静寂が絶叫へと変わった。
紫焔が使った拳法《けんぽう》の技に、スクリーミング・フィストの威力を上乗せしたのだ。衝撃が標的の体内に直接たたきこまれ、超振動波がその全身を駆《か》けめぐる。
グウェンの蹴爪が、内側から砕けた。ゆがんだ彼女の唇《くちびる》から、声にならない悲鳴が漏《も》れた。
鮮血が散り、空中を舞ったグウェンの身体が、ばろきれのように地面に跳《は》ねた。全身の筋肉と、血管がずたずたに引き裂かれ、受け身すらとることができなかったのだ。
もはや、グウェンに戦いを続けるだけの力は残されていなかった。その姿は、悲壮ですらあった。レベリオンの治癒《ちゆ》、再生能力を持ってしても、数日は身動きがとれないに違いない。
それでも同情する気にはなれなかった。あの冷たい水槽《すいそう》の中に閉じこめられた美古都《みこと》たちの苦しみは、きっとこんなものでは足りないはずだ。
キルンハウスに、耳が痛くなるほどの静けさが戻った。
香澄は目を伏せ、静かにため息をついた。
まだ、なにも終わっていない。キルンハウスを出たところで、香澄の手元にはわずかな現金があるばかりだ。パスポートも身分証も、航空券さえもない。
統合計画局からの追っ手を振りきり、高城《たかじよう》市へと戻る方法など、なにも思いつかなかった。
犯罪者として帰国して、恭介《きようすけ》の足手まといになっては意味がないのだ。
それでも、ここでじっとしているわけにはいかない。覚悟《かくご》を決めて歩きだそうとしたとき、ふいに背後から、しわがれた声が響いた。
「……待ちなさい、特捜《とくそう》官」
振り返る。と、そこには、血まみれのまま立ちあがったグウェンの姿があった。携帯電話に似た、小さな黒いケースを持っている。
グウェンが、唇《くちびる》の両端を吊《つ》りあげた。そして彼女は、勝ち誇った声で告げた。
「これが……なにかわかる? 空気感染のおそれがある危険なウィルスが流出した非常時に、キルンハウスごと消滅させるための、緊急設備の起動スイッチよ」
「―まさか!?」
香澄《かすみ》は愕然《がくぜん》とした。対バイオハザード用の緊急設備。細菌レベルの、あらゆる生物を焼きはらうための―
「アハハハ……顔色が、変わったわね、特捜官……そう、戦術核よ。この半径三十キロ内は、跡形もなく消滅するわ……」
グウェンが哄笑《こうしよう》した。だが、彼女は狂気に侵されているわけではなかった。狂信的なまでに、彼女は真摯《しんし》だった。最初に香澄と会ったときと同じように。
「やめなさい、グウェン! そんなもの使ったら、あたしだけじゃなくてキルンハウスにいるほかの人々も―」
香澄が叫んだ。グウェンは、ゆっくりと首を振った。彼女は―幸せそうに微笑《ほほえ》んでいた。
「それでいいのよ、特捜官。あなた一人を逃がしたりしない……任務に失敗して、おめおめと生き残るよりも―」
「くっ」
グウェンの言葉が終わるよりも早く、香澄は駆《か》けだした。だが、彼女までのわずかな距離が、絶望的なまでに遠く思えた。グウェンは、スイッチをただ押しつけるだけでいいのだ。
いくら彼女が重傷を負っていても、それだけの余力は残っている。
―間に合わない!
「かはっ」
絶望的な思いが香澄の脳裏をよぎったとき、グウェンの身体《からだ》が奇妙に揺れた。ぐらり、と頭を傾け、そのまま仰向《あおむ》けにゆっくりと倒れこんだ。幸福そうな笑顔のまま。
血まみれの彼女の手から、スイッチが落ちる。
一瞬遅れて、銃声が響いた。音速を超える、ライフル銃による狙撃《そげき》。能力の制御《せいぎよう》を司《つかさど》る脳は、レベリオンの最大の急所だ。眉間《みけん》の中央を撃ち抜かれて、グウェンは一瞬で絶命していた。
「……」
香澄は静かに嘆息《たんそく》し、グウェンの手を離れた核爆弾の起動スイッチを拾いあげた。スクリーミング・フィストで、粉々に握りつぶす。
驚きはなかった。誰がグウェンを撃ったのか、振り向く前に香澄にはわかっていた。
「―リチャード・ロウ……」
香澄《かすみ》は呆然《ぼうぜん》と頭をめぐらせて、グウェンを撃ち抜いた狙撃手を見た。
アッシュブロンドの髪を持つ長身の男。高城《たかじよう》市で香澄と行動をともにした、統合計画局のエージェント。狙撃《そげき》用ライフルを構えたまま、彼はBMWのオープンカーから降りた。
キルンハウスの無人ゲートをくぐり、まっすぐに、香澄のほうへと歩いてくる。
「なぜ、助けたの?」
声が届く距離になるのを待って、香澄が訊《き》いた。リチャード・ロウは、首を振った。
「あなたを助けたわけではありません。核兵器の無断使用を防ぐための、緊急避難措置です」
淡々とした声だった。
丁寧《ていねい》だが、感情の読めない、彼のいつもの口調だった。シューティング・グラスに隠れた無表情な瞳が、じっと香澄を見据《みす》えている。
「私は―やはり、あなたを止めなければならないのでしょうね」
「……」
リチャード・ロウの言葉に、香澄はうなずいた。
今の香澄は、もう彼の部下ではない。ただの脱走者だ。統合計画局のエージェントである彼には、香澄を止める義務がある。今の香澄は、彼の敵だ。
リチャード・ロウが、背負っていたバッグを投げ出した。飾り気のない無地のバッグ。
香澄は、だまってそれを拾い上げた。
中にはいっていたのは、彼のBMWのキーと、いくばくかの現金。そして、香澄の名前が書かれた書類だった。
「これは……」
「日本政府発行の|偽《ヽ》造《ヽ》パスポート、航空券《チケツト》や査証《ビザ》、そしてあなたの新しい戸籍……緋村杏子《ひむらきようこ》に頼まれていたものです。あなたに、渡してくれと」
「杏子さんが……」
香澄は絶句した。これだけのものが、そう簡単に手に入るわけがない。おそらく彼女は、何カ月も前から、これが必要になることを予測して準備をしていたのだろう。
おそろしい人だ、と香澄は思った。同時に、今の香澄にとっては、この上ない贈り物だった。
「だけど……どうして……」
リチャード・ロウを見上げて、香澄は訊いた。
彼には、これを香澄に渡す理由がない。リチャード・ロウがレベリオンを嫌っていることは、言葉ではなく、彼の態度の端々《はしばし》から常に感じられることだった。統合計画局の意向に逆らってまで、香澄を助ける必要などないはずなのだ。
ふっ、と笑い声が聞こえたような気がした。
「高城市の廃ビルで、私が高崗陸也《たかおかりくや》を殺そうとしたとき、あなたはそれを止めましたね」
リチャード・ロウが、ライフルを構えた。銃口が、ぴたりと香澄を向いた。
「―あのとき、妹のことを思い出しました。彼女がまだ生きてたころ、私が陸也《りくや》を責めたときは、いつもああやって彼女が止めた……ただ。それだけです。あなたとリサの面影を重ねたというほどのことでもない……私はレベリオンを許さない」
香澄《かすみ》は、右手を胸の前で握った。その腕が、青白いY光《りんこう》を放ちはじめる。
「忘れないでください、カスミ。次に会うときは―私はあなたの敵です」
リチャード・ロウが引き金をしばった。弾丸が香澄の耳元をかすめ、銃声が鳴り響いた。
彼の胸元に飛びこんだ香澄の拳《こぶし》は、リチャード・ロウのみぞおちに触れていた。
香澄の腕が、ひときわ激しく輝いた。スクリーミング・フィストの爆発的な衝撃が彼の身体《からだ》を駆《か》け抜け、アッシュブロンドのエージェントは目を閉じた。ライフルがゆっくりと落下し、硬い金属音だけが耳に残る。
やがて、かすかに唇《くちびる》を動かして、リチャード・ロウの長身がくずおれた。声もなく、地面に倒れ伏す。
昏倒《こんとう》した彼を、香澄は一度だけ見おろした。思わず笑みがこぼれたのは、リチャード・ロウが最後にささやいた言葉を聞いたからだ。|幸運を《グツド・ラツク》#゙はたしかにそう言った。
彼が遺《のこ》した荷物を拾い上げ、香澄はまばゆい朝陽に目を細めた。
流れない涙のかわりに、異形《いぎよう》の両手が美しく哭《な》いた。
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6.Yの章
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Message
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1
砲声が、闇《やみ》の中に轟《とどろ》いた。
飛び散る無数の火花が照らしたのは、ぶあついコンクリートに四方を覆《おお》われた巨大な地下|壕《ごう》だった。八|対《つい》―十六個の深紅《しんく》の瞳が、巨大な獣《けもの》のような素早さで、闇の中に散っていく。
跳弾《ちようだん》の火花を浴びて闇の中に浮かびあがったものは、黒ずくめの人の姿をしていた。鋼鉄とも、繊維ともつかぬ特殊な皮膚《ひふ》が、消え残る光の中でぬらりと輝いている。
アレス・システム。対レベリオン用の装甲強化服に身を包んだ兵士が、常人《じようじん》離れした速度と正確さで一斉《いつせい》に巨大な機銃を構えた。レーザー照準の赤い光が、刃《やいば》と化して闇を貫く。
彼らが狙《ねら》っていたのは、やはり闇の中に浮かび上がる、純白の影だった。
黒ずくめの機体に比べれば、その純白の影ははるかに小柄で、ひどく頼りなく思える。その美しいシルエットに向けて、アレス・システムの銃弾が容赦《ようしや》なく降りそそいだ。
「―っ!!」
だが、うめき声とともに膝《ひざ》をついたのは、黒い機体のほうだった。同時に二機、いきなり制御《せいぎよ》を失ったように転倒する。動きを止めたその機体から、闇に光る赤い液体がしたたった。
「六号機、八号機、システムダウン」
「フォボス・リーダー、目標をロスト―」
「三号機被弾―電子回路に損傷、四号機、フォローに回れ」
「五号機システムダウン、着用者死亡」
激しい銃撃戦がはじまると同時に、無線交信がにわかに激しくなった。
だが、それも一時的なことだった。反撃に転じた白い機体が銃弾をばらまくたびに、一機、また一機と黒ずくめの姿が減っていく。対して、数で勝《まさ》る黒い強化兵の弾丸は、目標の姿にかすることさえできずにいた。パワーではもちろん、反応速度や筋力増加準でも圧倒的に不利なはずの白い新型が、八機の重装強化兵を、完全に圧倒しているのだ。
「く、くそっ―」
最後に残った二機のアレス・システムが、ほぼ同時に障害物の陰から飛び出した。相討ち覚悟《かくご》の、捨て身の攻撃だ。だが、彼らが狙《ねら》うべき目標は残像だけを残して消えていた。
「なっ!?」
「―遅い」
冷ややかな声が無線にまぎれた。黒い強化服の蒲用者が絶句した。突如、彼らの背後に出現した純白の強化兵が、引き金を絞《しぼ》る。
吐《は》き出された弾丸を全身に浴びて、最後の黒ずくめが転倒した。それで、終わりだった。
硝煙《しようえん》が消えたあとには、ゆっくりと銃をおろす白い新型強化兵と、ペイント弾を浴びて電源をカットされた八機のアレス・システムが残された。
銃声がとぎれ、完全な闇《やみ》に戻った地下|壕《ごう》に、ゆっくりと明かりがともりはじめる。管制窒の戦術コンピューターが、無情な声で着用者の死亡を告げた。
「一号機、二号機システムダウン―全機の破壊を確認。演習を終了します……」
その放送を聞きながら、白い強化兵の着用者―エウレリア・ハダレインは、屋内戦を想定して作られた地下の演習場を出た。
激しい模擬戦闘を終えたばかりだというのに、強化服を脱いだ彼女の呼吸はおだやかだった。
氷のような美貌《びぼう》には汗すらも浮かんでいない。ヘアバンドを取り去ると、優雅な金髪の巻き毛が照明を反射して美しい光を放った。
「お疲れさまでした、少佐《しようさ》」
管制室から降りてきたオペレーターが、彼女に対して敬礼した。やや興奮した口調で、プリントアウトしたデータを読みあげる。
「―戦闘時間は二分十五秒。被弾率ゼロ。総使用弾数六十八、有効命中弾数五十四。命中率七十九パーセントです」
「低いな……」
専用のハンガーに純白の甲冑《かつちゆう》を脱ぎ捨てながら、エウレリアは無感動に言った。
「目標を照準してからの右腕部の追従性が低すぎる。火器管制の反応速度も鈍《にぶ》い。制御《せいぎよ》装置のクロック周波数を百二十パーセントに。反動の増加分に関しては、私のほうで対応する」
「は……はい」
「作業にはどのくらいかかる?」
「演習後の調整も含めて、二時間以内には」
「わかった、任せる」
畏怖《いふ》の表情でうなずくオペレーターに背を向け、エウレリアは執務室へと向かった。
高城《たかじよう》市|海崎《みさき》区にある統合計画局のダミー会社、キャメロン・インダストリーの私有地内部。
急ごしらえのアレス部隊前線基地だったが、運びこまれた機材は、いずれも最新鋭のものばかりだった。エウレリアの執務室にある電子機器だけでも、ちょっとした軍艦《ぐんかん》の戦闘指揮所なみの規模がある。
その中の一つ、統合計画局本部との衛星通信回線がつながっていることに気づいて、エウレリアは目を輝かせた。周囲に誰もいないことを確認すると、飛びつくようにしてマイクのスイッチを入れる。
正面のモニタに映ったのは、白い将校服に身を包んだ二十代なかばの女性だった。東欧系のしなやかな美貌《びぼう》。豊かな金髪と碧《みどり》色の瞳も、エウレリアによく似ている。
「―お姉さま!」
エウレリアが、うっとりとしたように叫んだ。普段の彼女からは想像もできない、子どもっぽい表情だった。
「状況を述べなさい、エウレリア」
「問題ありません。アレス・システムの稼働《かどう》率は九十五パーセントの高水準を維持しています。現在は引き続き、ベルによるサンプルの確認待ちです。アフロディテの調子も最高ですわ」
「そう、順調なのね」
はしゃぐようなエウレリアの報告に、画面の中の女は満足したようだった。彼女の質問に、エウレリアは何度もうなずいた。
「こちらからは、少しやっかいな報告よ。秋篠《あきしの》香澄《かすみ》がキルンハウスから脱走したわ」
「……逃亡?」
「現時点では、その後の消息はわかっていません。彼女が独力で日本に戻れるとは思えないけれど、高城《たかじよう》市内で発見した場合には……わかりますね、エウレリア?」
「処分してかまわないのですね、お姉さま」
「任せます。サンプルが手にはいったあとなら、彼女には、まだ利用価値があると思ったのですが……ばかな子……」
「ええ、ほんとうに」
そう言って、エウレリアは酷薄《こくはく》な表情を浮かべた。口元を押さえて、くすくすと笑う
「こちらからの報告は、以上よ。エウレリア、なんとしてもサンプルを手に入れなさい。できる限り早く。裏切り者たちに、ほんとうの支配者が誰なのか、教えてあげなければなりません。あなたには期待していますよ」
「お姉さま……」
回線が切断され、暗くなった画面を、エウレリアはしばらく陶酔《とうすい》したような瞳で見つめた。
ひと気のない執務室に、電子機器のかすかな作動音だけが響く。
だが、しばらくして執務室のドアがノックされたとき、振り返った彼女の顔には、もとの凍てついたような無表情さが戻っていた。
「デュラスか?」
エウレリアの静かな声に、その猛禽《もうきん》のような瞳を持つ副官は無言で敬礼した。
「……お呼びでしょうか、部隊長?」
「そうだ、デュラス。C−130Hが欲しい。どこからか都合できないか?」
「ハーキュリーズですか……必要ならば用意させますが」
つぶやいて、めずらしくデュラスが眉《まゆ》をひそめた。
「しかし、あんな戦術輸送機をなんのために?」
「余輿《よきよう》だよ。懸案《けんあん》事項だった撤退《てつたい》時の偽装《ぎそう》工作に、いい趣向を思いついた。それだけだ」
そう言って、エウレリアは目を伏せた。彼女の背後の大型スクリーンには、高城《たかじよう》市内の地図が映っている。形のよい唇《くちびる》がすっとつり上がり、笑みの形を作った。
「この町には、まもなくちょっとした事故が起きるだろう。不幸な事故が、な」
それは、ぞっとするほど美しい微笑《ほほえ》みだった。
2
照りつける日射しを、街中よりも強く感じた。
この季節に特有の深い青空の下で、体操服姿の女子生徒たちが、歓声をあげながらテニスに興じている。校舎の窓から見えるのは、退屈な授業中の教室。ありふれた学校の風景だった。
「やはり……だまされた、か?」
学校裏の高台で軍用の双眼鏡をのぞいていた高崗陸也《たかおかりくや》は、苦々《にがにが》しい気分でそうつぶやいた。
自分が、ひどく間抜けなことをしているような気がする。実際、真っ昼間から木陰に隠れて高校生を監視《かんし》している姿など、他人に見せられたものではなかった。
自嘲《じちよう》気味な気分で買ってきたあんパンを、陸也は白牛乳で流しこんだ。
アレス部隊との戦闘で受けた負傷が完治し、陸也が再び意識を取り戻したのは昨夜だった。
目覚めたときには、もちろん秋篠《あきしの》真澄美《ますみ》の姿は消えていた。あとに残されていたのは焼け焦《こ》げたライダースジャケットと、新品のヘルメット。そして新しいバイクのキーだけだ。
キーに合うバイクは、ホテルの駐車場ですぐに見つかった。GSX1100S―刀《カタナ》。アレス部隊に破壊された、|CBR900RR《フアイヤーブレード》のかわりということらしい。
そして、それ以来、陸也は、緋村《ひむら》恭介《きようすけ》を見張っている。
真澄美《ますみ》にうまく言いくるめられた気がしないでもないが、Y《はな》につながる手がかりはほかにない。陸也《りくや》に選択の余地はなかった。だが、のんびりとした学校生活を送っている学生たちをながめていると、やはり自分がやっていることがばかばかしく思えてくる。
幸い、緋村《ひむら》恭介《きようすけ》を見張るのは、それほど難しいことではなかった。
高城《たかじよう》学園高校の敷地は、山の斜面を切り開いて造られている。付近に民家はないし、出入りの業者をのぞけば、通りがかる車も多くない。それに陸也がいる裏山からなら、学校全体の様子が一望に見渡せる。
さすがに、出入りする人間の一人一人まで見張るのは無理だが、少なくとも、アレス部隊のような目立つ連中が近づくのを見落とすことはあり得なかった。が―
ふと思いついて、陸也は顔をしかめた。
学校に近づく者が少ないということは、学校の中でなにかが起きても、気づく者がほとんどいないということでもある。
「……考え過ぎか」
苦笑して、陸也は空を見上げた。高城学園には、千人以上の生徒と教員がいるのだ。なにか事件が起きたとき、目撃者が足りないということはないだろう。統合計画局にも、その程度のことはわかっているはずだ。
太陽の位置は、まもなく正午にさしかかろうとしている。
青い空が、果てしなくどこまでも続いている。
3
置いてある備品が高価だし、イタズラする生徒も絶えないため、授業で使うとき以外、情報処理教室には入れないことになっている。
だが、それは表向きのことで、その気になれば侵入するのはそう難しいことではない。
授業が終わった直後の掃除時間。清掃を担当している一年生のクラスの人間に頼んで、恭介は、あっさりと教室のカギを手にいれた。放課後の校舎に独特の奇妙な静けさの中で、カーテンごしに射しこんだ西日が、埃《ほこり》をきらきらと浮かびあがらせている。
目当てのパソコンは、だだっぴろい情報処理教室の窓ぎわのすみにあった。ネット接続されていない、スタンドアロンのPC。うっすらと埃をかぶった状態で、旧式のCRT方式モニタが三台、並んでいる。
「あんたさ、まだあきらめてなかったわけ?」
とりあえず三台とも電源をいれて、OSが立ちあがるのを待っていると、皆瀬《みなせ》梨夏《りか》が背後から、あきれたような口調で言った。
「うるせえな、誰もつきあってくれとか言って較いだろ。文句があるなら帰れよ」
「態度悪いなあ。萌恵《もえ》にふられたあんたがかわいそうだからと思って、いっしょに来てあげてるのに」
「ふられてねえよ。用事があるっていうんだから、しょうがねえだろ!」
思わず恭介《きようすけ》は声を荒げた。とはいえ、半分は図星をさされたせいだった。たしかに昨日から、なんとなく、萌恵に避けられているような気は、する。
梨夏《りか》は悪びれた様子もなく、ぺろりと舌を出した。転校二日目で、草薙《くさなぎ》さん、がいきなり、萌恵、に変わっていた。その程度のなれなれしさでは、今さら驚く気にもなれないが。
「っていうか、ほんとにその中に香澄《かすみ》がなにか残していったわけ?」
「それを今からたしかめるんだろ……って、うわ。なんだこれ」
表示されたデスクトップの画面を見て、恭介は思わずうめき声をあげた。
なにしろ何年も前のパソコンである。生徒が実習で作ったあやしげなファイルやプログラム。
こっそりインストールしたゲームソフトのアイコンなどが、所狭しと並んでいる。デスクトップの壁紙自体、アニメの美少女キャラクターに変わっていた。
なんの手がかりもなしに、この中から目当てのファイルを探し出すのは、ほとんど不可能に思われた。ハードディスクの中に入っている無数のファイルをいちいち確認していたら、一週間やそこらでは足りないだろう。かすかな希望にすがって、ファイルの更新日などで検索をかけてみる。だが、見つかったのは、あきらかに無関係と思われる書類ファイルなどばかりだ。
恭介のパソコンに対する知識では、これ以上はお手上げだった。
後ろからのぞきこんでいた梨夏が、無責任な口調で言ってくる。
「やっば、違うんじゃない?」
「……なんか、そんな気がしてきた」
弱気になった恭介は、立ちあがってパソコンの周りを調べることにした。
案外、キーボードの裏にメモが貼《は》りつけてあるとか、そういう原始的なことをちょっと期待してみたのだ。だが、もちろんなにも見つからない。それどころか、PC本体の周辺には、長年の埃《ほこり》が堆積していて、ここしばらく誰かが手を触れた形跡すらなかった。
「だいたい、わけわかんないのよね。なによ、ミズカラヲカケルベキバショって。電話番号かなんか?」
「ちがうだろ……このパソコンにも、電話線なんかつながってないし」
「ふーん。ま、どうでもいいけどさあ」
そう言って、梨夏は教室の空《あ》き机の上にごろりと横になった。短いスカートから伸ばした脚を、ぶらぶらと揺らしてあくびする。
「それより、今度の模試ってやつ、どうにかしてよ。数学とかさあ、あたし受けるのヤだよ」
「俺《おれ》だっていやだっての」
あきらめきれずにキーボードをぱかぱかと叩《たた》きながら、恭介は投げやりに言った。
「しょうがねえだろ。まあ、統合計画局で高校の数学が役に立つとも思わないけど」
「そうだよ。あたしなんか、高一の後半から数学の授業なんか受けてないんだから」
うつぶせに寝ころんで、梨夏《りか》がぶつぶつと文句を言う。
「今日の課題のやつだって、なにあれー。なんで2の0乗が1なんだっての。なにもかけてないんだから普通は0じゃんよ。三重根とかさー、もうわけわかんない」
「だから俺《おれ》に文句言うなって。おまえ、高校生のふりするのなんか楽勝だって言ってたじゃねえかよ」
「時と場合によるわよ。そりゃ香澄《かすみ》はいいだろうけどさー。あいつはどうせルート2の値とか、小数点以下三十桁とかまで覚えてるんだろうけどさ。なんだっけ、三・一四一五九二……」
それはルートじゃなくて円周率だろ、とつっこみたかったが、また文句を言われそうだったのでやめておいた。
自らを賭《か》けるべき場所。その意味がわからない限り、やはりこの暗号は解けないのかもしれない。ミズカラヲカケルベキバショ。なぜ香澄は、暗号文をカタカナで書いたのか。賭ける、ではなく、駆《か》ける、かもしれないし、書ける、かもしれない。最初から漢字で書いてくれたら、もう少し、わかりやすかったのに。それとも、カタカナで書いたことになにか意味があったのだろうか。だとすれば、その意味とはなんだ?
たとえば、この『かける』が最初から漢字ではなかったとしたら? その不自然さを隠すために、あえてすべての文章をカタカナで書いた?
「あー」
恭介《きようすけ》が、無意識に声を漏《も》らした。それを聞きつけた梨夏が、勢いよく上体を起こした。
「わかったの?」
「いや、全然」
「なんだ……まぎらわしい声ださないでよ」
「ああ、悪い。やっぱだめだ。帰ろうぜ」
恭介が言うと、梨夏は無言で肩をすくめた。最初からそうすればよかったのに、という表情だった。机から、ひょいと飛び降りる。
しん、と静まりかえっていた情報処理教室を出ると、がやがやと廊下を行き交う生徒たちの声がやけに大きく聞こえた。普段はあまり縁がないので気づかないが、特別教室棟には、居残っている生徒が多い。委員会や部活動で、特別教室を使うことが多いからだろう。
生物部や化学部、華道部や茶道《さどう》部、美術部など、文化系のクラブは、大半がこちら側の校舎を使っている。声楽部に所属している草薙《くさなぎ》萌恵《もえ》も、四階にある音楽室を使っているはずだ。
階段をのぼって、自分たちの教室に続く渡り廊下を歩いていたところで、恭介はふと足を止めた。先を歩いていた梨夏が、怪訝《けげん》そうに振り返る。
「―どうしたの?」
「悪い、カギかけてくるの忘れた。先に戻っててくれ」
「ほっとけば?」
梨夏《りか》が軽い口調で言った。恭介《きようすけ》は駆《か》け出しながら首を振った。
「そうもいかないだろ。カギを貸してくれたやつに悪い」
上履《うわば》きをぱたぱたと鳴らしながら走っていく恭介を見て、梨夏は、やれやれとため息をついた。ぽつんと一人きりになった廊下で、所在なげに窓際によりかかる。
思ったよりも、校内に残っている生徒は多かった。だらだらと校庭を走っている運動部員、教室でおしゃべりを続けている集団、居残り学習中の補習組。
何気なく見上げた屋上に見知った顔を見つけて、梨夏は眉《まゆ》をあげた。
ショートカットの小柄な女生徒、草薙《くさなぎ》萌恵《もえ》。屋上のフェンスにもたれて、誰かと話をしているように見える。微笑《ほほえ》むその表情は、いつになく楽しそうだ。
「恭介のやつ、これは本格的にふられたかな……」
苦笑しようとして、梨夏は息を止めた。草薙萌恵の話し相手が、一瞬だけ姿を見せた。
その横顔を、梨夏は知っていた。
まばゆい初夏の日射しが、校庭に強い影を落としている。
4
「一つだけ聞かせてもらってもいいかな、萌恵」
昨日―皆瀬《みなせ》梨夏が転校してきた聞の昼休み。
萌恵を呼び出した真島加奈子《まじまかなこ》は、そう言って話を切りだした。
いつも明るくおどけている彼女の瞳が、めずらしいほど真剣だった。
だから、萌恵はごまかすことも、はぐらかすこともできなかった。できたのは、目を伏せて沈黙することだけだ。
それを相談した彼女から、メールが送られてきたのは昨夜のこと。
あした、会いに行くね。
メッセージは、その一行だけだった。
そして、その言葉どおり彼女は現れた。三週間ほど前、はじめて会ったときよりも、ほんの少し、おとなびた姿で。
Y《はな》―それが彼女の名前だった。
屋上のフェンスの金網によりかかって、二人は空を見上げていた。
深く澄んだ空気の層が見えるような、ひどく透明な青い空。これがそのまま宇宙につながっているのだということが、実感としてわかるような気がする。
「―加奈子《かなこ》にね、言われたんだ」
その空に向かって手を伸ばしながら、萌恵は、ぽつりとつぶやいた。
「緋村《ひむら》くんのこと、どう思ってるのか、って……」
顔を空に向けたまま、萌恵は目を閉じた。まぶたの裏に、心配そうな加奈子の表情がよみがえった。
「萌恵は、どう思っているの? 恭介《きようすけ》のこと」
そんな萌恵を大きな瞳で見つめながら、Y《はな》が訊《き》いた。前よりも少し背が伸びたので、萌恵との身長差は以前ほどではない。思いがけないほど近くに、彼女の青い瞳がある。
それでも、彼女の持つ、妖精《ようせい》めいた非現実感は、失われていなかった。
親友」にすらうち明けられない気持ちを相談しようと思えたのは、彼女の持つ、その希薄《きはく》な存在感のせいかもしれなかった。
「わからない」
と、萌恵は首を振った。
「緋村くんが、あたしのことを好きなんだってことも言われるまで気づかなかった……ううん、ほんとうは、気づいてたかも。でも、気づいてないと思っていたかったんだ」
「どうして?」
Yが訊き返した。
あけっぴろげな好奇心が感じられたが、不思議と不快ではなかった。Yが真剣に萌恵の感情を理解しようとしているのが、彼女の全身から伝わってくる。
「恐いから、かな」
つぶやいて、萌恵は目を伏せた。
「恭介が、恐いの?」
「ううん。緋村くんは優しいよ。だけど、緋村くんのことを信じるのが恐いんだ」
「恭介が、レベリオンだから?」
Yの声が小さくなった。なぜか傷ついているような表情で、彼女は言った。
「……人間じゃ、ないから?」
「違うよ、そうじゃない」
萌恵は、ゆっくりと首を振った。
レベリオン。その単語を萌恵がYに聞かされたのは、数日前のことだった。最初は、なんのことだかわからなかった。それが、恭介や香澄《かすみ》の持つ不思議な能力のことを表していると知ったとき、萌恵は、これまでに自分の周囲で起きたいくつかの事件の真相を知った。
恭介たちが背負った重い宿命のことも。
「あたしね、いじめに遭《あ》ったことがあるんだ」
「いじめ? ―弱い者をいためつけること?」
国語辞典をそのまま読みあげているようなY《はな》の言葉に、萌恵《もえ》はくすくすと笑った。この小さな友人は、賢いけれど、時折こんな一面をみせる。知識が身の丈《たけ》に合っていない感じ。それがいかにも子どもらしくて微笑《ほほえ》ましい。
「そうじゃないよ。いじめられるのは弱い人とは限らないし、人間が傷つくのは暴力だけじゃない。いじめがほんとうに恐いのは、これまで仲間だと思ってた人たちが、ある日突然、自分とは違う人間になっちゃうからだよ。最初から、自分と彼女たちが違うと思っていられたなら傷つかずに済むのに」
「仲間だった人が、仲間じゃなくなっちゃうの? 同じ人間なのに?」
「そう……だから、そのうち怖くなるんだ。今そばにいて優しくしてくれている人も、いつか違う人になって、あたしを傷つけるんじゃないかって。そうなっちゃったら、もう誰も信じられなくなる。ずっとひとりぼっちで、おびえながら生きていかなきゃいけない」
「萌恵も、怖いの?」
「ううん」
萌恵は振り返って、校舎を見おろした。
「あたしは知ってるから。けっして変わらない人もいるって」
Yがきょとんとした顔をした。萌恵は屈《かが》みこんで、そんなYを見上げた。
この子はほんとうに真っ白なんだ、と萌恵は思った。昔なにかの本で読んだ、白紙《タプラ・ラサ》という言葉を思い出す。人間は、真っ白な状態で生まれ、やがてさまざまな色に染まっていく。善にも、悪にも。
「緋村《ひむら》くんは人間にはない能力を手にいれたかもしれないけど、やっぱりあたしの知っている緋村くんのままだった。そんな人が、あたしのことを好きだって言ってくれたら、うれしいよ。
だから、緋村くんは怖くない。信じられる。でもね……」
萌恵は、まばたきもせずに見開かれているYの瞳を見つめて、静かに言った。
「あたしは、自分が信じられない。緋村くんや香澄《かすみ》のカをねたんで、なにげない言葉で彼らを傷つけてしまうかもしれない。あたしは自分が変わってしまうのが、怖い」
Yは、しばらく無言だった。風が吹いて、彼女の色素の薄い、柔らかな髪が揺れた。遠くで飛行機が飛んでいる音がする。
そして、次に彼女の口から漏《も》れた言葉に、萌恵ははっと息を止めた。
「それでもいい、って恭介が言ったら?」
萌恵は考えて、ゆっくりと首を振った。自分が息を止めたままだったことに気づいて、微苦笑とともに深呼吸をする。
「……そんなこと、考えたことなかった」
Y《はな》が白い歯を見せて笑った。
「恭介《きようすけ》は、萌恵《もえ》といると楽しそうだよ。萌恵は、楽しくない?」
「そうだね……楽しいかも」
「よかった。あたしもね、楽しい。恭介と会うと、どきどきするよ」
「そう……Yちゃんは、緋村《ひむら》くんのことが好きなのかもね」
「……好、き?」
ふいに動きを止めて、Yはゆっくりと発音した。
その青い瞳が、一度だけ大きくまばたきした。彼女の視線は、萌恵が立っている場所の向こう側。はるか遠くの空を見ていた。萌恵もゆっくりと振り返った。
思いがけず低い場所を飛んでいる、見慣れない灰緑色のずんぐりとした飛行機が見えた。
ひとすじの白い雲が、まっすぐに高城《たかじよう》学園の方向へと伸びてくる。
「来た……」
Yが、透明なガラスのような声でつぶやいた。
5
情報処理教室に戻った恭介は、硬い表情のまま、窓ぎわに置かれた三台のパソコンを起動した。処理の遅い旧式のプロセッサがのんびりとシステムを立ちあげるのを、いらいらとした気分で待つ。
頼りないプラスチックのマウスを握りながら、恭介は、梨夏《りか》が言った言葉を考えていた。
ルート。自乗すると、自然数を生み出すことを表す記号。自らをかけるべき数―
そしてコンピューターの用語でルートと言えば、ある特定の場所を指す。ルート・ディレクトリ。記憶《きおく》ディスクの、もっとも上の階層に置かれたファイルを表す言葉。
この記憶ディスク内部の特殊な場所には、通常、システム関係のファイル程度しか置かれていない。この位置に無制限にデータを置いていくと、ファイルの整理ができなくなってしまうからだ。だが、ここにファイルを置くこと自体は、たいして難しいことではない。通常はデスクトップ画面に表示されないルート・ディレクトリを、恭介は次々に表示していく。
見慣れないシステム・ファイルが羅列《られつ》されるウィンドゥの内部。三台目のパソコンのルート・ディレクトリの中にまぎれこんだファイルを見つけて、恭介はごくりとつばを呑《の》みこんだ。
震える手でマウスを操作し、ファイルを開く。
だが、表示されたのは、ファイルの中身ではなかった。パスワードを要求する、愛想《あいそ》のないプロンプト・メッセージ。
「……パスワードか……念のいったことで」
やっぱあいつ性格悪いんじゃないだろうかと思いつつ、恭介は、彼女が残した最後の文章を思い出していた。
ミチビクモノハ、カケタルツキノナマエ
恭介《きようすけ》のために香澄《かすみ》はこのメモを残した、と皆瀬《みなせ》梨夏《りか》は言った。だったら、恭介はこの文書が意味する言葉を知っているはずだ。ほかの誰にもわからなくても、恭介にだけはわかる。そういうものでなければ、意味がない。この暗号は恭介にしか解けないはずなのだ。そう思ったからこそ、カギを締め忘れたふりまでして、恭介は梨夏を置いてきた。
導くものは、欠けたる月の名前。
恭介は、悩まなかった。キーボードの前に座り直す。頼りない手つきで、英単語を打ちこむ。香澄が、なぜこの単語を選んだのか、恭介にはもうわかっていた。
redish moon
表示されたパスワードを見て、恭介の胸がかすかに痛んだ。
|紅 月《レデイシユ・ムーン》=\かつて恭介が所属していたバンドの名前。そしてギタリストの杉原《すぎはら》悠《ゆう》は、恭介がレベリオンとなるきっかけを作った男だった。
それはつまり、恭介と香澄《かすみ》が出会うきっかけを作ったということでもある。今はもういない、恭介の親友だった少年。彼がいなくなったことで、|紅 月《レデイシユ・ムーン》には欠員ができた。
欠けてしまった、月の名前。
震える手で、恭介はリターンキーを押す。ハードディスクが回転する低い音が響き、CRTの画面が暗転した。 一瞬の静寂が訪れる。
「―恭介」
スビーカーから流れ出したのは、聞き慣れた少女の声だった。その響きが、あまりにも自分の耳になじんでいたことに、恭介はひどく驚いた。
まるで、何年も前から彼女が隣にいて、その声で自分を呼び続けていてくれたような。
「……きっとこれを見ているのは恭介、だよね。そう信じて、今、この映像を残しています」
暗闇《くらやみ》の中に小さく浮かび上がったのは、今の恭介と同じ席に座る、制服姿の美しい少女だった。栗色の長い髪。どこか無機質なほどの美貌。秋篠香澄。
周りを見回すと、小型のCCDカメラのレンズを見つけた。これで自分の姿を撮影して、映像として残したものなのだろう。単純にファイルサイズが大きくなれば、外部から侵入して盗聴するのが難しくなる。いかにも彼女らしい配慮だった。
あるいは、この彼女の姿こそが、謎を解き終えた恭介への餞《はなむけ》なのかもしれなかった。
「―これをあなたが見ているとき、あたしはもう、あなたのそばにはいないと思う。こんなまわりくどいやり方でしかメッセージを伝えられなくて、ごめん。願わくば、あなたがこれを見るときが、手遅れになっていないことを祈っています」
「手遅れ……?」
思いがけず真剣な香澄の言葉は、恭介にとってまったく予想外のことだった。彼女が残したメッセージの中身は、照れくさい別れの挨拶だとか、その程度のものだと思っていた。
「あたしがあなたのそばにいられなくなった理由は、あたしの存在が、統合計画局にとって、障害になってしまったからだと思う。あたしは、あまりにも長くここにいすぎた。あたしがここで出会ったもの、あたしに優しくしてくれた人々、あたしの、愛したもの。それらすべてが、統合計画局の計画にとって邪魔だった」
「……」
彼女の言葉に、恭介《きようすけ》は眉《まゆ》をひそめた。香澄《かすみ》は、言葉を切って目を閉じた。
「―統合計画局は、アーレンたち脱走者を追っている。だけど、それは、あたしが考えていたように、R2ウィルスの拡散を防止するためではなかった。組織が彼らを追っている理由は、いえ、アーレンや真澄美《ますみ》が脱走したわけは、組織が、あるものを欲しがっていたせいだった」
再び香澄が目を開いたとき、そこに現れていたのは、いつになく厳しい表情の彼女だった。
「……Y《はな》。第二段階レベリオンの少女。彼女こそ、統合計画局が求めている存在よ。彼女を使って、組織がなにをしようとしているのか、あたしにはわからない。けれど、ひとつだけ言えることは、彼女があなたに興味を持っているということ。あなたに自分から接触し、あなたを助けたことからもそれはわかる。組織はそこに目をつけた」
「Y、を狙《ねら》っている? 統合計画局が?」
恭介にとって、それは意外なことだった。恭介の知るYは、ただ無邪気で可愛《かわい》らしいだけの少女だ。その印象は、彼女のとんでもない戦闘能力を見たあとでも変わっていない。
そして、香澄が続けた言葉に、恭介は絶句した。
「―恭介、組織が狙っているのは、ここよ。市街地から隔離《かくり》され、社会的な影響力の少ない高校生だけが集まっている場所―高城《たかじよう》学園。統合計画局は、Yがあなたに会うために、この学校に来るのを待っている。そして、どんな手段を使ってでも、Yを手にいれるつもりなの」
画面の中の香澄が、泣きそうな顔で首を振った。
「あたしには……あなたをこんな事件に巻きこんだあたしには、こんなことを言う資格はないのかもしれない。でも、あたしはこの場所が好きだった。ごく普通の高校生として、あなたにここを卒業して欲しかった。そのとき……あたしがあなたの隣にいられたらいいと思った。それだけが、あたしに残されたたった一つの希望だった」
映像が途切れた。香澄が残した最後の言葉が響いて、恭介は、暗くなった画面をただ見つめることしかできなかった。
「ごめんなさい……恭介、ほんとうに……」
風が吹きこんで、西日で赤く染まったカーテンを揺らした。慣れない教室は、けれど恭介の知っている学校の匂《にお》いがした。知っていた。彼女が、この場所をどんなに愛していたか。
恭介がここで普通の高校生活を続けられるようにするために、香澄がどんな犠牲をはらっていたのか気づいていた。なのに、恭介にはなにもできなかった。彼女に、なにもしてあげられなかった。
プログラムが終了し、自動的にパソコンの電源が切れても、恭介《きようすけ》は画面に向かったまま動かなかった。目を伏せて、切れるほど強く唇《くちびる》を噛《か》む。
やがてのろのろと顔をあげ、ぼんやりと窓の外を見た。
飛行機が上空を通過する音が、異様なほど大きく聞こえた。
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ロッキードCl130H輸送機―ハーキュリーズ。
全幅四○・四一メートル。全長二九・七九メートル。四発のアリソン・ターボプロッブエンジンを備え、九二名もの降下兵を迅速《じんそく》に戦場に投入するための、傑作《けつさく》中距離戦術輸送機である。
その独特の機影が、今、驚くほど低い高度で高城《たかじよう》学園の上空に侵入しようとしていた。
巨大なエンジンのかなでる轟音《ごうおん》が、ごうごうと大地に反響する。
対地高度は、すでに五百メートルを切っていた。そして、飛行中にもかかわらず、機体後部の大型ハッチが大きく口を開《あ》けていた。
本来なら、パラシュート部隊が降下するためのそのハッチから見えたのは、ぎらぎらと輝く無数の赤い瞳だった。強固な装甲と筋力増幅機構、高度な制御《せいぎよ》装置を組みこんだ対レベリオン装甲強化服―アレス・システム。巨大な銃器で武装したその数は、三十を優に超えている。
その中に、ひときわ目立つ白い甲胃《かつちゆう》を着こんだ女性将校の姿があった。
エウレリア・ハダレイン。そして彼女専用の新型アレス・システム―アフロディテ。ほっそりとした優雅な機体が、ゆっくとハッチへと歩み寄る。
「|ベルは鳴った《The Bell Rings》!」
エウレリアの美しい声が、アレス・システムの専用回線に流れた。
「これより、サンプル―ハナ≠フ奪回を開始する。各機、すみやかに降下。パターン2Bの手順により、任務を遂行せよ」
C−130Hが、ついに高城学園の上空に到達する。アレス・システム内部のヘッドアップ・ディスプレイに投影されていた、作戦開始のカウントダウンがゼロになる。
「障害は、あらゆる手段をもって排除せよ。統合計画局はあらゆる犠牲を容認する。繰り返す」
アフロディテの白い機体が、機外へと跳躍した。背中に装着された飛行ユニットが圧搾《あつさく》空気を吐《は》き出し、降下速度を調整する。
それに続いて、次々と黒ずくめの強化兵士たちが降下を開始した。
風が、激しく渦《うず》巻く。エウレリアの声が響く。
「―統合計画局は、あらゆる犠牲を容認する」
そのとき高城学園にはまだ、四六一名もの生徒が残っていたという。
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7.草薙萌恵の章
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The Classroom without her
[#改ページ]
1
最初に|そ《ヽ》れ《ヽ》に気づいたのは、グラウンドに筋力トレーニングの道具を運んでいた陸上部員だった。
「―?」
地面を横切った黒い影に気づいて、なにげなく空を見上げた。その表情がこわばったのは、舞い降りてくる黒ずくめの姿に、不吉《ふきつ》なものを感じたせいだ。
「なによ、あれ?」
「……なんだ?」
やがて、ほかの多くの生徒たちも上空を振り仰ぎ、口々に疑問の声をあげた。だが、そんな余裕《よゆう》があったのは、アレス・システムが着地するまでだった。
誰もが、すぐに気づいた。
夕陽を反射して、ぎらぎらと輝く装甲。赤く浮かびあがる対人センサーの瞳。そして彼らが椿える巨大な機関砲―それが、まざれもなく兵器であることに。
放課後の校庭に、絶叫が響き渡った。
「アレス・システム―!?」
情報処理教室の窓から身を乗り出して、恭介《きようすけ》は叫んだ。上空を通過する巨大な軍用機から、次々と黒ずくめの装甲強化服が降りてくる。
それが、高城《たかじよう》学園を包囲するための動きだということは、素人《しろうと》目にもはっきりとわかった。
上空で白在に方向を調整しながら、統制された動きで学園の敷地に降下していく。南北の校門はすでに封鎖され、残っていた生徒たちは完全に閉じこめられていた。
「ばかなーあいつら、なに考えてやがる!」
考えている余裕《よゆう》はなかった。恭介は情報処理教室を飛び出して、校舎わきの非常階段を駆《か》けおりた。統合計画局はこれまでレベリオンの存在を世間から隠そうとしていたはずなのに、今回はそれどころではない。今、学校の中に残っている人間で、この騒ぎに気づいていない者は誰もいないはずだ。
どこかで銃声がぱらぱらと響き、それで、ぽかんと空を見上げていた生徒たちも我に返ったようだった。学校のあちこちで、悲鳴があがった。恭介が昇降口から外に出たとき、パニックになった女生徒の一団とすれ違った。軍や、その装備にうとい者でも、アレス・システムが危険な存在であることは直感したらしい。テロリストの集団だとでも思ったのかもしれない。
実際、彼らがやろうとしていることはそれと大差ない。いや、テロリストよりも憾るかにタチが悪い。統合計画局は、米国防総省を通じて日本政府に圧力をかけることができる。警察の救援はあてにできないということだ。
もっとも、仮に自衛隊が来たところで、アレス部隊をどうにかできるとは思えない。彼らは、レベリオンですら簡単には倒せない相手なのである。
とりあえず、責任者を見つけだして、このばかげた行為をやめさせなければならない。そう思って、恭介が走り出そうとしたとき、いきなりその足下がはじけた。
「―っ!?」
振り返ると、昇降口の屋根に着地したアレス部隊の強化兵が、恭介に銃口を向けていた。どうやら、生徒たちを校舎から出させないつもりらしい。
地面にうがたれた深い着弾の跡を見て、恭介はぞっとした。威嚇《いかく》射撃のつもりだったのかもしれないが、少しでもそれがずれていたら間違いなく死んでいた。
それで、わかった。彼らは本気だ。もし任務遂行の妨《さまた》げになると判断したら、なんのためらいもなく、無関係の生徒でも殺すだろう。
身動きもできないまま、恭介は、黒ずくめの強化兵と睨《にら》みあった。向こうは恭介がレベリオンだと、まだ気づいていないらしいが、それでもどうすることもできなかった。少しでもあやしい行動をとれば、間違いなく彼らは恭介を殺そうとするだろう。そして、恭介の能力では、彼らを倒すことはできない。
と、恭介の背後で、銃声が一発だけ鳴った。なにが起きたのかわからなかったが、次の瞬間、恭介《きようすけ》に銃を向けていた強化兵の機体が、ぐらりと揺れた。アレス・システムの胸部の装甲が、かすかに火花を散らしている。
続いて、もう一発。今度は、驚くほど近くで銃声が聞こえた。恭介の目の前で、黒ずくめの機体があおむけに倒れていく。振り返る。と、そこにいたのは、スーツを着こんだ銀髪の白人。
とんでもなく巨大なライフルを構えたアーレンだった。
どうやら彼は、そのライフルを使ってアレス・システムを沈黙させたらしい。対戦車ライフルなみの威力の銃を、片手で軽々と振り回しているのはレベリオンならでこそだ。
「アーレン……」
「―緋村《ひむら》弟、か。なぜおまえがここにいる? Y《はな》はどうした?」
「Y!?あいつが来ているのか?」
恭介は愕然《がくぜん》と訊《き》き返した。
「それでか……それで、アレス部隊が?」
「―ほんとうにYといっしょじゃなかったのか?」
アーレンの表情に、めずらしく焦《あせ》りが浮かんでいた。恭介は奥歯を鳴らした。苦《にが》い味が口の中に広がった。香澄《かすみ》のメッセージは手遅れではなかったが、間に合ったとも言えなかった。
そのわけは香澄も、そしてアーレンたちも、考え違いをしていたからだ。
誰もが、Yが頻繁《ひんぱん》に高城《たかじよう》学園に訪れる理由を、恭介に会うためだと思っていた。だが、違った。
彼女は、恭介の知らないところにいる。
どうしてそんなことになったのか、恭介にはわからない。
同じレベリオンである恭介以外に、Yが興味を示すような相手がいたということだろうか。
香澄ではない。Yは昨日もここを訪れている。だとすれば誰だ、と恭介は自問する。
それは、高城学園の中にいる人物だ。そして、Yが会ったことのある人物。
反射的に思い出したのは、、一人の少女の言葉だった。ずっと心の片隅で感じていた、かすかな違和感の正体に気づく。皆瀬《みなせ》梨夏《りか》のことを訊くときに、たしかに彼女はこう言ったのだ。
―彼女も、|レ《ヽ》ベ《ヽ》リ《ヽ》オ《ヽ》ン《ヽ》なの?
「……草薙《くさなぎ》」
つぶやいて、恭介は呆然《ぼうぜん》とした。アーレンが怪訝《けげん》そうに振り向いた。
「―なに? 誰だ?」
「草薙|萌恵《もえ》だ! 俺《おれ》の同級生。ショートカットで小柄な女子。今日は、青いピンで髪を止めている」
「どうしてYが、その女といっしょにいる?」
「Yは、草薙と何度か会ったことがあるんだ。俺といっしょにいるときに」
「待て―その女、おまえとどういう関係だ、緋村弟?」
アーレンが、やけに真剣な顔で訊いてきた。恭介は、一瞬ためらって怒鳴《どな》り返した。
「関係なんかねえよ。ただの同級生だ。俺《おれ》が一方的に彼女を好きなだけで」
「なん、だと……」
そのときのアーレンの表情はちょっとした見物《みもの》だったのだが、それをながめている余裕《よゆう》は、恭介《きようすけ》にはなかった。
草薙《くさなぎ》萌恵《もえ》は、恭介たちの特殊な能力について知っている。けれど、恭介も香澄《かすみ》も、彼女の前でレベリオンという言葉を口にしたことはない。その単語を彼女が知っているとすれば、それは、萌絵が、恭介たち以外のレベリオンと接触しているということだ。すなわち、Y《はな》と。
おそらく、こうしている今も―
Y一人ならば、アレス・システムの一機や二機を相手にするのはわけもない。だが、一緒にいる萌恵のほうは話がべつだ。
彼女はレベリオンでもなんでもない。ごく普通の女子高生に過ぎない。もしYとアレス部隊の戦闘に巻きこまれたら、それだけで命の危険がある。
「その女、どこにいる?」
アーレンが訊《き》いた。恭介は激しく首を振った。
「知るか!だいたいアレス部隊が、なんでYが学校に来てるってことを……」
つぶやきながら、恭介ははっとした。
「皆瀬《みなせ》梨夏《りか》ーしまった、あいつ!」
自分のうかつさに恭介は歯がみした。
皆瀬梨夏は、統合計画局の特捜《とくそう》官だ。もしYが学校にいることに気づいたら、それを組織に報告するくらいのことはやりかねない。それどころか、もしかしたら彼女は最初からそのために恭介を監視《かんし》していたのかもしれない。
もしこれが香澄だったら、統合計画局に報告するのをためらっただろう。半年以上も通ったことで、香澄は高城《たかじよう》学園に愛着を持っている。その場所を戦場にするような報告には二の足を踏んだはずだ。それがわかっていたからこそ、統合計画局は彼女を解任したのだ。
「ちっ―緋村《ひむら》弟、案内しろ。その女がいそうな場所を」
「言われなくても―」
恭介はうなずきもせずに走り出した。アーレンがついてくる。その表情が、いつになくぴりぴりと緊張していた。どんなときも余裕を崩さなかったアーレンらしからぬ態度である。
それほどまでにYは、彼にとって大事な存在だということなのだろうか。二年以上もいっしょに暮らしてきたからということか? わからないが、それだけではないような気がした。彼のような男が他人のために命をかけるには、もっと強い理由が必要だ。
「……アーレン、あんた、もしかしてYの母親のことを……」
普通教室棟の入り口に向かって走りながら、恭介は訊いた。意外にも、アーレンは否定しなかった。表情を動かさずに、逆に訊いてくる。
「おまえは、自分が惚《ほ》れた女がほかの男を選んだからといって、彼女のことを嫌いになるのか、緋村《ひむら》弟?」
恭介《きようすけ》は、唇《くちびる》をゆがめて黙りこんだ。 杉原《すぎはら》悠《ゆう》が好きだと萌恵《もえ》が言ったときのことを思い出した。そんなことで彼女を嫌いにはなれない。考えるまでもないことだった。だが、その悠を恭介は救えなかった。恭介は萌恵に借りがある。彼女には、借りばかり作っているような気がする。
「―惚れた弱みってやつだな」
同意を求めた恭介に、アーレンはニヒルに首を振って見せた。
「ただのアフターサービスだ。昔の思い出に対する、な」
「ははっ……」
恭介は笑った。もしかしたらただの強がりかもしれないが、それがアーレンのプライドなのだろう。―介は、はじめて、この怖ろしい男に好感を持った。
「止まれ―緋村弟!」
中庭にたどり着いたところで、アーレンが怒鳴《どな》った。彼の構えたライフルが吼《ほ》えた。
曲がり角から現れたアレス・システムが頭部を撃ち抜かれて転倒した。IWS二〇〇〇。オーストリア製の巨大な対物|狙撃《そげき》銃を、アーレンは連射する。さらに二体のアレス・システムが破壊された。
だが、優勢だったのはそこまでだった。
「―なんなんだよ、これは!?」
恭介がかすれた声で言った。アーレンも、さすがにうめき声をあげた。弾丸を撃ちつくしたライフルを投げ捨て、忌々《いまいま》しげに舌打ちする。
恭介たちの前に立ちはだかっていたのは、見慣れない型の白いアレス・システムだった。ほかの強化服に比べて、明らかに軽装で洗練された雰囲気がある。全体のシルエットから、それを着ているのは女性兵士だと知れた。
そして、彼女の周囲で待ちかまえていたのは、信じられないほど多くのアレス・システムの姿だった。
黒ずくめの強化兵の群れが、恭介の視界を埋めつくす。
一体でもレベリオンと対等以上に渡り合う強化兵が、すぐには数えきれないほど―全部で二十体近くはいるだろう。
そのうちの半数ほどは、ほかのものよりもさらに一回り以上大きな、新型アレス・システムを着用していた。戦車の砲塔《ほうとう》に備えつけられているものに似た、大口径の機関銃を構えている。
鈍く光るその銃口は、すべて恭介たちのほうを向いていた。
「これまで、ずいぶん手こずらせてくれたようね……脱走者アーレン・ヴィルトール」
白い甲青《かつちゆう》に身を包んだ女性兵士が静かに言った。外部スビーカーをとおして、なおも美しい氷のような声だった。
「でも、これで終わり。統合計画局の名において、あなたを処分します」
その言葉を、恭介《きようすけ》は絶望的な思いで聞いた。
恭介のブラスティング・ハウルも、アーレンのサンダーヘッドも、ともに、弾丸をはじき飛ばし、大勢の相手を一度に攻撃できる破壊型のトランスジェニック能力だ。
しかし、アレス・システムには、それらの直撃を受けても平然と活動を続ける、きわめて高い防御力《ぼうぎよりよく》がある。しかも、相手は数の上で圧倒的に勝《まさ》っているのだ。アーレンに勝ち目はない。
そして、今やアレス部隊は、あきらかに恭介とも敵対する立場だった。
Y《はな》をおびき出すことに成功した以上、統合計画局には、もはや恭介を監視《かんし》し続ける意味はない。彼らはアーレンたちと一緒に、恭介のことも処分するつもりなのだ。統合計画局の予定にない、イレギュラーなレベリオンとして。それは、彼らが高城《たかじよう》学園高校を戦場として選んだときに、はっきりとわかったことだった。
「―緋村《ひむら》弟。俺《おれ》が合図をしたら、身を低くして伏せていろ」
その絶望的な状況下で、アーレンがふと恭介に笑いかけた。
「……なにをする気だ、あんた?」
「いいものを見せてやろうと言ってるんだ。トランスジェニック能力の、ほんとうの使い方を、な……」
「―?」
恭介は意味がわからずに、アーレンの背中をながめた。
腰まで届く彼の銀髪が、ざわざわとうごめいている。|神の雷槌《サンダーヘツド》。レベリオン細胞が生み出す、強力な生体電流が、彼の周囲の大気をイオン化しているのがわかる。
だが、強化服で完全に絶縁されたアレス・システムを破壊するには、その強力な生体電流でさえも不足なのだった。アーレンのサンダーヘッドは、アレス部隊には通用しない。だから彼は、かさばる対物|狙撃《そげき》銃などを持ち歩いていたのである。
それがわかっているからだろう。アレス部隊は発砲しようとはしなかった。レベリオンの能力が無力であることを思い知らせて、その上でなぶり殺しにするつもりなのだ。
にもかかわらず、アーレンは笑っていた。
「いいか、緋村弟……俺たちの力は、本来、それが単独で存在しているわけじゃない。自然の力の流れを見極め、それをあやつる。かつて、巫女《みこ》や祭司《さいし》と呼ばれた人々が、古代から受け継《つ》いできた権能《ちから》。それが、トランスジェニック能力の正体。レベリオンの真の姿だ……」
「アーレン? あんた……なにを?」
恭介は訝《いぶか》しげに訊《き》き返し、足を踏み出そうとした。
そのとき、気づいた。すさまじい静電気で地面が帯電している。通常、雷撃として放たれるはずのサンダーヘッザのエネルギーが、すべて地面へと流れこんでいるのだ。
「これは……」
恭介《きようすけ》は唖然《あぜん》として、空を見上げた。晴れた空。特に雲が出ているわけではない。だが、ざわざわと空気が騒いでいた。独特の、この感覚―
そのことに、白い甲腎《かつちゆう》の兵士も気づいたようだった。勝ち誇っていた彼女の姿に、かすかな動揺が浮かんだ。部下たちに、射撃の指示を出そうと手を振り上げる。
だが、アーレンのほうが早かった。彼の銀髪が逆立ち、まばゆい閃光《せんこう》を放つ。
」見ろ、緋村《ひむら》恭介―これが、本物の|神の雷槌《サンダーヘツド》だ―!!」
アーレンが叫んだ。その叫び声に従って―というよりは、本能に突き動かされて、恭介は地面に伏せた。
巨大な、閃光が走った。これまで体験したことのないような衝撃が身体《からだ》を揺さぶり、遅れて轟音《ごうおん》が響いた。揺れ動く大地の上で、こみあげる吐《ま》き気と戦いながら恭介は、なにが起きたのかを知った。
神の雷槌―それは、まさに雷槌《いかづち》だった。
単純に空から降ってくるだけだと思われがちな雷《かみなり》だが、実際にはそうではない。雷は、互いに呼び合っているのだ。上空に帯電した負《ふ》の電気と、地表に帯電した正《せい》の電気が。
そしてアーレンは、自らの生体電流で地表の自由電子を帯電させ、強引に呼び出したのだ。
大気が生み出す最大最強のエネルギー。最大級の発電所にも匹敵する電力を一瞬で放出する、|ほ《ヽ》ん《ヽ》も《ヽ》の《ヽ》の《ヽ》雷《ヽ》を。
文字どおりの、青天《せいてん》の霹靂《へきれき》だった。
その熱量と衝撃波は、トランスジェニック能力中最大の破壊力を持つと言われる通常のサンダーヘッドの威力をも、はるかにしのいでいた。大地がびりびりと振動し、校舎の窓ガラスが次々に吹き飛んだ。
そして、雷の直撃を受けたアレス部隊は、凄惨《せいさん》な有様だった。あるものは衝撃波で圧壊《あつかい》し、あるものは感電して強化服ごと蒸し焼きになっていた。弾薬が誘爆し、爆音とともに炎《ほのお》が巻きあがった。装甲の破片が、恭介の背中にばらばらと降りそそぐ。
高城《たかじよう》学園の中庭に火の手があがった。黒煙が舞って、視界を閉ざした。
「……これが……あいつの本当のトランスジェニック能力……なんて威力だ」
のろのろと立ちあがりながら、恭介は咳《せ》きこんだ。
これほどのすさまじい破壊を引き起こしたアーレンもまた、無事《ぶじ》ではなかった。雷の爆心地にいた彼の筋肉はあちこちが焼けただれ、血まみれの肉体が白い蒸気を上げている。
だが、彼は生きていた。ふらつきながらも立ち続け、にやりと笑ってみせる。レベリオンの生命力だけが可能にする芸当だった。焦《こ》げたタバコを取り出して、火をつける。
恭介はため息をついて、燃えあがるアレス・システムの残骸《ざんがい》を見つめた。
降下してきたアレス部隊が何機いたのか正確にはわからない。だが、その半分以上が壊滅《かいめつ》したのは間違いなかった。少なくとも、この中庭には、もう動ける機体はない。
そう思った瞬間、恭介《きようすけ》の表情は凍った。
「まだ! ―まだだ、アーレン!」
叫ぶ恭介を見て、アーレンが訝《いぶか》しげに顔をしかめた。
その背後に、ゆらりと立ち上がった影が封った。白い新型アレス・システムに身を包んだ、女性兵士。アーレンが振り返るよりも早く、彼女の伸ばした右腕から純白の霧が噴き出す。
「―!?」
振り返ろうとしたアーレンの動きが、途中でぎこちなく止まった。彼の表情が苦痛に歪《ゆが》む。
左肩から腹部にかけて、アーレンの身体《からだ》が光に包まれていた。白く煙る水晶のような輝き。
氷、だ。アーレンの上半身が完全に、筋肉の内側まで凍りついている。
なにが起きたのか、恭介にはわからなかった。
アレス・システムの防御力《ぼうぎよりよく》を持ってしても、|神の雷槌《サンダーヘツド》の真の威力には耐えられない。それは女性兵士が着ていた新型アレス・システムとて例外ではなかった。
全身の関節が白煙を噴き上げ、装甲表面には無数の亀裂《きれつ》が走っている。ヘルメットのバイザーは砕《くだ》け散り、着用者の美しい素顔がさらけ出されていた。着用者が受けたダメージも、生半可《なまはんか》なものではないだろう。普通の人間なら、とっくに絶命しているはずだ。
そう。普通の人間なら―
「そうか……貴様か、エウレリア・ハダレインー」
アーレンがうめいた。傷だらけの白い甲胃《かつちゆう》をまとった金髪の女性は、壮絶に微笑《ほほえ》んだ。
破壊され、装甲も人工筋肉も剥《は》げ落ちた彼女の右腕から、純白の冷気が噴きだしている。
その生身《なまみ》の指先が放っていたのは、淡いY光《りんこう》。活性化したレベリオン細胞の放つ光だ。
「やってくれたな、アーレン・ヴイルトール……でも、これで終わり」
アーレンの銀髪が舞い上がり、傷ついた彼の身体《からだ》が青白い電流を放とうとした。
だが、その前に、エウレリアが動いた。彼女の細くたおやかな腕が、アーレンの胸元めがけて突き出された。
「おやすみ、アーレン……」
エウレリアが、淫蕩《いんとう》な瞳で笑う。
凍りついたア―レンの左肩が、美しい音を立てて砕《くだ》け散った。
2
屋上にいた草薙《くさなぎ》萌恵《もえ》は、もっとも近い場所で、飛び去っていく四発エンジンの大型輸送機と、降下してくる黒ずくめの兵士たちを見た。現実離れした光景に、ただ呆然《ぼうぜん》と立ちつくす。
「なにが……起きている、の?」
つぶやいた萌恵《もえ》に、すぐ隣からY《はな》が言った。
「敵だよ」
萌恵は驚いて、Yを振り返った。
「敵?」
「うん……あたしのことをつかまえようとしてるの」
「……どうして?」
無邪気に言ってのけるYに、萌恵は訊《き》いた。声が、震えた。Yは、彼女自身、不思議そうに首を振った。
「知らない。でも、つかまったら、きっと萌恵や恭介《きようすけ》に会えなくなるって真澄美《ますみ》が言ってた」
「……!?」
なにげなく告げられたYの言葉に、萌恵は絶句した。平和な学校を包囲する、まがまがしい武器を携《たずさ》えた兵士たち。ほんとうに彼らがYをつかまえようとしているのなら、それは彼女の持つ不思議な能力を狙《ねら》ってのことに違いない。
それがなにを意味しているのか、想像するのは簡単だった。ひとつだけ確実なのは、この無垢《むく》な少女の自由は奪われ、彼女の純粋さは永遠に失われてしまうだろうということだけだ。
「逃げなきゃ……」
Yの手を握って、萌恵は言った。微笑《ほほえ》んで、Yは首を振った。
「逃げられないよ」
「でも、だったら……」
「大丈夫、やっつけちゃうから。だから、萌恵は隠れてて」
「やっつけちゃう、って……あなた一人で?」
萌恵は校庭を見おろしながら訊《き》き返した。降下した兵士の数は、ここから見えるだけで二十体を超えている。しかも、見るからに凶悪《きようあく》な銃器で武装しているのだ。とても、この小さな少女の手に負えるとは思えない。だが、Yはごく自然にうなずいた。
「簡単だよ」
Yがそう言ったとき、二人の背後で、激しく空気が漏《も》れるような、かすれた音が聞こえた。
「―え!?」
振り返った萌恵が見たものは、圧搾《あつきく》空気を噴きだして、十数メートルの高さを跳躍してきた黒ずくめの影だった。その数は四機。いずれも巨大な機関銃を構え、ぎらぎらと深紅《しんく》の双眸《そうぼう》を燃やしている。
「こちらフォボス8……サンプルを確認」
「フォボス9より、デイモス・リーダー。これより障害を排除する」
装甲服をまとった黒い兵士たちが、萌恵には聞きとれない早口の英語でなにかを言った。そう思った直後だった。彼らの銃口がいきなり萌恵に向けられた。
「―!?」
悲鳴をあげることもできなかった。激しい横|殴《なぐ》りの衝撃を感じて、萌恵《もえ》は屋上に転がった。
ほとんど同時に銃声を聞いた。なにか柔らかいものが吹き飛んで壁に激突する鈍《にぶ》い音。
擦《す》りむいた膝《ひざ》や手のひらが熱い。だが、撃たれた痛みを感じることはなかった。
萌恵は膝をついて、上体を起こした。そして、なにが起きたのか知った。
Y《はな》の小柄な身体《からだ》が屋上のフェンス脇に倒れていた。上半身と下半身を九十度ひねった、不自然な姿勢のまま動かない。
狙《ねら》われた萌恵をかばって、撃たれたのだ。撃たれたのはYのほうだった。
「Yちゃん―!?」
萌恵が叫んだ。引き金を引いた黒い兵士が、銃口を向けたままの姿勢で固まっていた。仲間らしきべつの機体が乱暴な口調でなにかわめいている。なぜ撃った、とか、そういう意味のことを言っているのだろうと、混乱した頭のすみでぼんやりと思う。
べつの強化兵が銃口を自分に向けるのを、萌恵は他人事《ひとごと》のように感じていた。
間違ってYを撃ってしまった腹いせに、自分のことも殺すのだろうか? なにが起きているのかわからないまま。あんがい死とはそんなものなのかもしれない。半年ほど前に事故で死んだ友人の顔が頭をよぎった。
轟音《ごうおん》が鳴った。
それは銃声というよりも、暴力的な音の洪水《こうずい》だった。十二・七ミリ炸裂《さくれつ》弾のフルオート射撃。
毎分六百発もの速度でばらまかれた弾丸が、萌恵に銃を向けていた黒い機俸に吸いこまれた。
「え―!?」
装甲の破片をまき散らしながら吹き飛んだ強化兵の姿を、呆然《ぼうぜん》と萌恵は見つめた。
仲間であるはずの機体を撃ち抜いたのは、先ほどYを撃った機体だった。自分を殺そうとした兵士が、今度は逆に自分を助けた? あり得ない事態に、頭が混乱する。目を見開いたまま、萌恵は動けない。
仲間を撃ち殺した強化兵が、今度はべつの仲間に銑を向けようとした。だが、その前に背後にいた第四の兵士が、後ろから彼を羽交《はが》い締めにした。二機の黒い兵士が、操《も》み合いながら、なにかを怒鳴《どな》った。
「催眠香気《アロマテイックス》―! シヅ・エザキのトランスジェニック能力だ!!防護フィルターを対BCモードに―」
再び機関銃が火を噴いた。つかみ合いを続ける二機の仲間を、向かい側にいたべつの兵士が撃ったのだ。アロマティックス。香気《フエロモン》を利用した強制的な催眠《さいみん》暗示。
強固な装甲に覆《おお》われたアレス・システムといえども、内部に人間が乗っている以上、呼吸をしないわけにはいかない。それを利用して、仲間同士で殺し合いを演じさせたのだ。
だが。その能力を発現したレベリオン―江崎《えざき》志津《しづ》はすでに死んでいる。彼女以外にその技を使える者は、今や一人しかいなかった。
「……Y《はな》ちゃん」
萌恵《もえ》は見た。至近距離から機銃弾を撃ちこまれたはずのYが、人形のような無表情な瞳を、青く輝かせて立ちあがる。
その身体《からだ》から、血は一滴《いつてき》も流れていない。
かわりに彼女の身体全体が水晶のように光り輝く殻《から》に覆《おお》われている。瞬間的にサイのように硬質化した彼女の皮膚《ひふ》が、銃弾の直撃を跳《は》ね返したのだ。
その能力が。かつて|聖者の鎧《アーマード・セイント》≠ニ呼ばれていたことを、萌恵は知らない。
Yがすっと右手を伸ばす。
その動きにあやつられたように、生き残った最後の兵士が、自分の頭に機関銃を向げた。
「―!?」
銃声が鳴り響き、頭部を失ったアレス・システムがゆるやかに倒れて動かなくなった。萌恵は屋上の屋根に座りこんだまま、こわばった表情でそれを見届げた。
淡い光に包まれていたYの全身が、やがてもとの姿に戻る。
「ね? 簡単だったよ」
Yが、笑った。
3
「なによ……これ」
学校の敷地を完全に包囲した黒ずくめの兵士たちを、皆瀬《みなせ》梨夏《りか》もまた、呆然《ぼうぜん》と見つめていた。
時折、聞こえてくる銃声が、ひと気のない渡り廊下に反響する。その残響を、悪夢のような気持ちで聞いた。
なにが起きたのか、理解していなかったわけではない。だが、とても信じられなかった。自分の行動がこの事態を引き起こしたなどと、認めるわけにはいかなかった。
地響きのような音を立てて、校舎が揺れた。
アレス部隊の誰かが、グレネード弾を使って校舎の壁を撃ち抜いたのだ。その振動と衝撃で、ようやく梨夏は我に返った。
携帯電話に似せた無線機を開いて、もう一度暗号コードを打ちこむ。
「デュラス―!」
相手の応答を待つのも忘れて、梨夏は叫んだ。
「聞いてんの、デュラス! これは、いったいなに!? サンプルを尾行《びこう》して、捕獲するのではなかったの? こんなところで制圧戦をはじめるなんて聞いてないわよ!!」
「……ベルか」
ぎらぎらとした雑音とともに、低い声が梨夏《りか》のコールサインを読んだ。
「たしかにサンプルの所在を確認した。ご苦労だったな」
「なんのつもりかって訊《き》いてんのよ!? 答えなさい!」
「悪いが、貴様にはもう用はない。おとなしくしていれば処分はしない。そこで待機《たいき》していろ」
「―はぁ!?ちょっと、デュラス!」
梨夏の叫びもむなしく、交信は一方的に切断された。梨夏は、無線機を廊下にたたきつけた。
おとなしくしていれば処分はしない、とデュラスは言った。つまり、作戦の妨《さまた》げになるなら、梨夏を処分することも辞さないというのである。アレス部隊には、その権限が与えられているということだ。
「……冗談《じようだん》、じゃないわよ」
小刻みに拳《こぶし》を震わせながら、梨夏はつぶやいた。
いいように利用されてしまった自分。そして裏切られた自分。それが梨夏には許せなかった。
アレス部隊は、残っていた生徒たちをただの障害物として扱っている。わざわざ撃ち殺しはしない。だが、気を遣《つか》うこともない。進路上にいれば押しのけ、殴《なぐ》り倒す。うかつに動いて邪魔だと判断すれば、萎縮《いしゆく》させるために発砲もする。
渡り廊下の窓から見える狭い範囲だけでも、負傷して動けなくなった生徒が大勢いる。
「これが……全部あたしのせいだっていうの?」
梨夏は唇《くちびる》を噛《か》んで。うめいた。目眩《めまい》がした。
リカチャンノセイデ……
うっとうしい幻聴が、耳元で鳴った。
梨夏ちゃんのせいで。梨夏ちゃんのせいで。梨夏ちゃんのせいで……
「そんなの……認められるわけないでしようが!」
梨夏は叫んだ。校舎のすぐ上で、ホバリングしている軍用ヘリが見える。OH―1。日本の自衛隊が開発した前線指揮用の観測ヘリだ。
アレス部隊はあくまでも強化された兵士である。このような大規模な作戦行動には、指揮官の存在が不可欠だ。あのヘリからの情報を直接受けとれる位置に、指揮官機デイモス・リーダーを着用したデュラスがいるはずだ。
探し出して、彼を止めなければ。そう考えて走り出そうとした梨夏の背後で、何人かぶんの悲鳴が聞こえた。
「―なに?」
振り返った梨夏が見たのは、階段を転げ落ちるように降りてくる男子生徒たちの姿だった。
そんな彼らの周囲に、コンクリートが砕《くだ》け散る白い煙が舞った。狭い廊下に、銃声が響く。
「なにやってんのよ、あんたたち―ばかっ!」
梨夏の表情が蒼自《そうはく》になった。
アレス部隊のうちの一機が、スチール製の手すりをねじ曲げながら階段を降りてくる。本来、黒ずくめのはずの装甲表面が、なかば以上真っ白く染まっていた。消火器の泡《あわ》をかぶっているのだ。
おそらく先ほどの男子生徒たちが、消火器を使って、余計なちょっかいを出したのだろう。
気分を害した強化兵が、任務を忘れて生徒たちをいたぶっているということらしい。
もともと、薬物によって無理やり反応速度を強化したアレス部隊の兵士たちは、自制心がとぼしくなる傾向にある。圧倒的な力を手に入れたことによる優越感が、それに拍車をかけるのだ。それを知らなかった男子生徒たちは不幸だった。自業自得《じごうじとく》だとつっぱねることもできた。
だが、梨夏《りか》は叫ばずにいられなかった。
「やめなさい!」
近寄ってくる梨夏に気づいて、強化兵がかすかに頭をあげた。だが、それだけだった。梨夏は髪をかきあげて、着耳のピアスを見せる。軍事衛星とリンクした統合計画局の認識慕《マーカー》。その仕章《しぐさ》で、このアレス部隊の兵士にも、梨夏が非合法|特捜《とくそう》官であることは伝わったはずだった。
しかし、強化兵は、それを取るに足らないことと判断したらしい。梨夏を無視してきびすを返すと、逃げまどう生徒たちめがけて、一二・七ミリの大口径ライフルを向ける。
「あったまきた―!」
梨夏の瞳が輝きを増した。深紅《しんく》の光。トランスジェニック能力。|混 沌 の 瞳《ヴイジヨン・オブ・デイスオーダ》。
焦点温度一千度超の生体レーザーが、アレス・システムの持つ機関銃の弾倉に向けて放たれる。誘爆が起きるまで、数秒とかからなかった。廊下のガラスが吹き飛び、爆風が梨夏の髪を乱した。剥《は》がれ落ちた天井《てんじよう》の内装が舞う。粉塵《ふんじん》で、視界が曇る。
「……どうよ?」
梨夏がおそるおそるつぶやいたとき、その粉塵の向こう側に、深紅の瞳が浮かんだ。
「皆瀬《みなせ》―!」
いきなり聞き覚えのある男の声で呼ばれた。右腕が強く引かれた。
その直後に、銃声が響いた。粉塵の向こう側から姿を現した装甲強化服が、右腕に内蔵されたショットガンを構えていた。誰かに手を引かれなかったら、もろに散弾をくらっていたところだ。
「あ、あなた、イチノセ!?」
「しっ……黙ってろ!」
市《いち》ノ|瀬《せ》潤《じゆん》は、女子にしては背の高い梨夏を軽々と抱きかかえて、手近にあった教室に連れこんだ。世界史やなにかの教材をしまっておく準備室のような場所らしい。雑多な荷物が、ろくに整理もされないまま積みあげられている。
「こっちだ」
幅広の整理棚の奥に身体《からだ》を押しこんで、潤は、ちらりと教室の入り口を振り返った。息を殺して、耳を澄ます。アレス・システムの特徴的な足音が、ゆっくりと遠ざかっていく。それを確認して、彼はほっとため息をついた。驚いている梨夏《りか》を見て、にやりと笑う。
「……やっぱり、覚えてたな。俺《おれ》のこと」
「……」
梨夏は唇《くちびる》を結んで黙りこんだ。潤《じゆん》は、はは、とかすれた声で笑った。
「恭介《きようすけ》に、知られたくなかった? 俺《おれ》との関係を」
「なによそれ。それじゃあたしが緋村《ひむら》に気があるみたいじゃない。誤解だっての。だいたい、あんたとの関係って、なによそれ?」
「バレンタインにチョコくれたこととか」
「ばっ―」
梨夏は耳まで赤くして声をあげた。
「あ、あんなの義理にきまってるでしょ。だいたいそれっていつの話よ、ばか!」
「しっ」
潤が、梨夏の口を押さえた。もう一度、教室の入り口を振り返る。
「なんなんだ、あいつら? どっかの軍隊か? あんなの見たことないぜ」
「でしょうね……」
つぶやいて、すぐに梨夏は自分の失言に気づいた。まるで梨夏が彼らの正体を知っているような口振りで言ってしまった。だが、幸い、潤はなにも言ってこなかった。目を細めて、アレス・システムの足音に神経を集中させている。
「あの、ちょっと離れてもらってもいいかな」
スカートの裾《すそ》を直しながら、梨夏が言った。
「え?」
潤が、ぼんやりした声で訊《き》き返した。思わずむきになって、彼の耳元で梨夏は言った。
「放してって言ってるの。いつまで抱いてるつもり?」
「あ、ああ……悪い」
そう言って、潤は梨夏を抱いていた手をゆるめた。彼の隣に座り直そうとして、梨夏は足下のぬるりとした感触に気づく。驚いて下を見ると、ぞっとするほど綺麗《きれい》な赤が目に入った。
血。潤の学生ズボンの右足がすっぱりと切り裂かれて、その奥からどくどくと血液が漏《も》れている。
「ちょっと、イチノセ!あんたこの傷……」
「ん、ああ……ちょっとな。だんだん痛くなってきちまった」
脂汗《あぶらあせ》を浮かべて、潤は笑った。梨夏は絶句した。
「もしかして、あたしを助けたときに……」
潤は首を振ったが、そのタイミングが不自然に早すぎた。開きかけた唇が途中で閉じたのは、うまい言い訳を探そうとして、結局、見つからなかったということなのだろう。
「……あなた、変わってないわね」
ぽつりとつぶやくと、潤《じゆん》は不思議そうな顔をした。
「おまえもな。すぐにわかったぜ」
「……変わったわよ、あたし」
梨夏《りか》は弱々しく微笑《ほほえ》んで、首を振った。
「聞いてるでしょ、祥子《しようこ》のこと」
「……なにがあったんだ? おまえら、あんな仲良かったのに」
「だから、よ。祥子がいじめにあったのは、あたしのせいなんだから」
「いじめ?」
潤が、眉《まゆ》をひそめた。顔色が悪い。ひどく呼吸が苦しそうだ。それでも、彼が梨夏のことを心配しているのはわかった。だから、梨夏は笑みを絶やさずに続けた。
「入学したばかりのとき、むかつく女がいてさ。あたしが目立ってんのが気に入らないって、ハブろうとしたから、逆にいびり倒してやったのよ」
そう言って、梨夏は制服のスカーフで潤の傷口を縛《しば》る。スカーフは、たちまちのうちに赤く染まった。できるだけ早く病院につれていかなければならない。だが、今の彼を動かすのは無理だ。
「そしたら、その女……腹いせに祥子をいじめるようになったの。あたしの知らないところで」
ゆっくりと息を吐《は》いて、梨夏は言った。瞼《まぶた》が熱くなる。
「祥子は、半年間、耐えたんだよ。だけどある日、ふっ、と糸が切れたみたいに……自殺した」
「……それで、おまえが祥子を殺した、なんて噂《うわさ》になったわけか」
潤が深いため息をついた。梨夏は首を振った。
「そんなこと、どうでもいいよ。あたしがつらかったのはさ、祥子がひとこともあたしに相談してくれなかったってこと。あの子、遺書にさ、梨夏ちゃんといっしょにいて楽しかった、嬉《うれ》しかったって……そんな良かったときのことばっか書いてて……肝心《かんじん》のことはなんにも……」
途中で胸が苦しくなって、それだけ言うのに、ひどく時間がかかった。けれど、潤は聞き終わるまで、ひとことも口を挟《はさ》まなかった。
そう。誰に言われるまでもなく、梨夏にはわかっていた。
祥子が死んだのは、自分のせいだ。ほかの人間が思っているほど、自分が強いかどうかなんて梨夏にはわからない。だが、そう思われるようにずっと振る舞ってきた。そのつけが、全部祥子に回ってきた。なのに、彼女は死ぬまで、自分のことを責めなかった。
ひとことでもなじってくれたら、それだけでもずいぶん救われたのに。
それからの梨夏の記憶《きおく》は、暖味《あいまい》だ。なにもかもがどうでもよくなって、ひどく乾いた気分で毎日を過ごした。祥子を死に追いやった女のことさえ、思い出さなかった。家にも帰らない日々が続いた。つまらないクスリに手を出し、気がついたときにはレベリオンなんてものになっていた。もう市《いち》ノ|瀬《せ》潤が知っている梨夏はどこにもいない。
祥子《しようこ》が、どこにもいないのと同じように。
「要するに、祥子はおまえの足手まといになりたくなかったんだろ」
そう言って、潤《じゆん》が立ちあがろうとした。あわてて押しとどめようとした梨夏《りか》の顔を見て、笑う。
「今の俺《おれ》と同じだな」
片足を引きずって、潤が教室の入りロへと歩き出す。廊下を歩いているアレス・システムの足音が、再び大きくなりつつあった。梨夏たちを探して、戻ってきたのだ。
梨夏は歯がみして、アレス・システムの装備のことを思い出していた。熱源探知。遮蔽《しやへい》物に隠れていても、強化服着用者の目はごまかせない。
「……なにする気?」
「俺が、あいつの気を引きつけるから、その間に―」
「逃げろっていうの。ばかじゃないの、そんなこと言われて誰が……」
「違う」
思いがけない強い口調で、潤が言った。気圧《けお》されて言葉を切った梨夏に、へへ、と笑ってみせる。
「―恭介《きようすけ》を助けてやってくれ。おまえも、あいつと同じ力を持ってるんだろ?」
「―!?」
梨夏は今度こそ絶句した。潤は、教室の壁にもたれて、苦しげな恵をついた。壁に貼られていた世界地図が、じわりと赤く染まっていく。
「イチノセ……あんた、気づいて……」
ようやく梨夏は、それだけを言った。潤は軽く目を伏せた。
「俺だけじゃねえ。臣也《しんや》や麻子《あさこ》、それに草薙《くさなぎ》……みんな口には出さないけど薄々感じてはいるだろ。あいつは、まあ、昔っから隠し事がヘタでな」
くっくっと笑って、潤は梨夏に視線を戻した。
「あいつが言いたくないってんなら、無理には聞かない。ザッツ・友情っスよ」
「イチノセ……」
つぶやいた梨夏に、潤は一度だけ小さくうなずいた。
「だから、おまえも祥子のことを誇りに思ってやればいいんじゃねえの。俺も、死ぬまで人に言いたくない秘密はあるしさ。最後まで隠しとおしたことを、ほめてやれよ」
「……なに勝手なことを言ってんのよ」
梨夏は、はっ、と鼻を鳴らした。思わずゆるみそうになった涙腺《るいせん》を引き締め、歯を剥《む》いて、潤を睨《にら》む。
「おっさんくさいのよ、あんたは昔から。分別あるっぽいことばっか言って……恭介を助けろ。ええ……言われなくても助けてやるわよ!」
言い終わるよりも先に、梨夏が潤の足を払った。もともとふらついてた潤は、なすすべもなく転倒した。傷口の痛みにうめく。
「皆瀬《みなせ》……てめ……なんてことしやがる」
「うるさい!あんたが死んだら、恭介《きようすけ》が一番悲しむに決まってるでしょ。だから、あたしがあんたを助けてやるわよ。恭介のかわりにね。わかったら、そこでおとなしくしてなさい」
梨夏《りか》は一方的にそれだけ怒鳴《どな》ると、社会科準備室を飛び出した。
すでに廊下に立ちこめていた粉塵《ふんじん》はおさまっている。さっきの強化兵は、すぐに見つかった。
なにも遮《さえぎ》るもののない渡り廊下の向かい側、梨夏の姿を認めて、ゆっくりと振り返る。
梨夏の瞳が深紅《しんく》に輝いた。狙《ねら》いは、アレス・システム左腕部内側。グレネード・ランチャーの弾倉だった。高い耐熱性能を持つアレス・システムの装甲だが、きわめて狭い面積に熱量を集中する生体レーザーは、それすらも貫通する威力がある。
が。
「っ―!?」
梨夏がうめいた。装甲強化服の背中から圧搾《あつさく》空気が噴きだし、四百キロを超える重さの機体を、すさまじい勢いで加速した。高速で移動する目標に対しては照準が甘くなる、ヴィジョン・オブ・ディスオーダの欠点を突かれた形になった。またたくまに距離を詰めた強化服の腕が、梨夏の胸ぐらをつかんで締めあげた。
空中に吊《つ》りあげられた苦しい姿勢のまま、梨香の背中が渡り廊下の壁に激突した。息が詰まった。悲鳴すらも漏《も》らせない。
常人《じようじん》をはるかに超える筋力を持つレベリオンだが、単純なパワー比べでは、機械仕掛けのアレス・システムにはかなわない。呼吸できない梨夏が、苦しげに首を振った。それに勢いを得たように、強化兵がさらに締めつける力を増す。
梨夏の視界に、観測ヘリの姿が映った。遠のきかけた意識に、ヘリのエンジン音がやけにうるさく響く。梨夏は唯一自由になる両足で装甲強化服の腹を蹴《け》りつけたが、ぶあつい装甲はびくともしなかった。それでも梨夏は蹴り続けた。特殊な複合材料で作られたアレス・システムの外装が、がんがんとやかましい音を立てる。その騒音に耐えかねたのか、強化兵が、梨夏を投げ飛ばした。
床に激しくたたきつけられて、梨夏はくぐもった悲鳴を上げた。息ができず、むなしく胸を上下させる。それなのに、笑みがこみあげてきた。声にならない哄笑《こうしよう》を漏らす。
そんな梨夏を怪訝《けげん》そうに見おろし、そこでようやく強化兵が窓の外を見た。
高城《たかじよう》学園の上空を飛んでいたはずの観測ヘリが、ふらふらと制御《せいぎよ》を失って、梨夏たちがいる場所―校舎を連結する渡り廊下へと向かっていた。
ヘリはその構造上、同じ場所にとどまっているように見えても、実際にはこまかい姿勢の変更を繰り返している。梨夏は、ヘリが自分たちのほうに向いた瞬間に、パイロットの網膜を、レーザーで灼《や》いたのだ。
視界を失ったパイロットに操縦はできない。あとはそのまま、ヘリがつっこんでくるのを待てばよかった。無駄《むだ》と知りつつ装甲板を蹴《け》り続けたのは、もちろん、着用者にヘリが近づいてくる音を気づかせないためだ。それで、相手が梨夏を放り出してくれたのは、予想外の幸運だった。できすぎだ。
電子機器を満載し、簡易装甲を施された観測ヘリは意外に重い。
それが上空から勢いをつけてつっこんできたのだ。鉄筋コンクリート製の渡り廊下はその衝撃に耐えきれず、逃げ損ねた装甲強化服ごと地上に落下した。渡り廊下そのものの質量と、落下の加速度が中にいるアレス・システムに加わったのだ。いかに強固な装甲といえども、無事《ぶじ》では済まない。
雪崩《なだれ》のように、コンクリートの破片が降りそそいだ。引火したヘリの航空燃料が爆発し、すさまじい炎《ほのお》が吹き荒れた。黒煙が視界を奪い、震動が大地を揺らす。
どうにか息を整えた梨夏《りか》が地上に降り立つのと、小破したアレス・システムが瓦礫《がれき》の中からはい出してくるのは同時だった。
堅牢《けんろう》な装甲強化服の一部が剥《は》がれ落ち、着用者の頭部が剥《む》きだしになっている。
どうという特徴もない粗暴《そぼう》そうな白人の兵士は、とっさに装甲の残る両腕をあげて、梨夏《りか》の視線から自分の姿を隠そうとした。
だが、それよりも梨夏が前髪をはらうほうが早かった。
「あたしの能力《ちから》は、すべてのレベリオンの中で、もっとも速い―」
淡々と、梨夏はつぶやいた。それで終わりだった。梨夏の瞳から放たれた生体レーザーは、兵士の眉間《みけん》を貫き、一瞬で絶命させた。アレス・システムの巨体が、ゆっくりと崩れ落ちる。
「とはいえ……これはしんどいわね……」
そう言って、梨夏は弱気な笑みを浮かべた。
渡り廊下での異変に気づいたアレス部隊の新たな装甲強化服が二体、銃を構えて接近してくる。その二体を同時に相手するだけの体力は、今の梨夏には残されていなかった。
距離を置いて、それぞれの機体が大口径の機関銃を構える。梨夏は、素直に死を覚悟《かくご》した。
ふと校舎を見上げて、潤《じゆん》を残してきた社会科準備室が無事《ぶじ》だったことを確認する。それだけで、不思議と満足だった。
いなくなった親友の顔を思い出すために、目を閉じる。
銃を構えていた装甲強化服の一機が、前触れもなく動きを止めたのは、その瞬間だった。
残されたもう一体の強化兵が、あわてて銃を向け直す。校舎の影から現れたほっそりした影が、羽根のようにふわりと舞って、その黒ずくめの機体に触れた。
むしろゆっくりとしたその動きからは信じられないほどの強烈な激突音が響き、四百キロの機体が宙に浮いた。背中から仰向《あおむ》けに転倒し、それきり二機のアレス・システムは沈黙する。
「……遅いわよ」
肩をすくめて、梨夏《りか》がつぶやいた。顔をしかめて、舌を出す。
「だいたいあんたは、かっこつけすぎなの。助けにくるならくるで、もうちよっと早くすればいいのに。だから嫌いなのよ、あんたのこと」
そう言って、梨夏は、命の恩人でもある制服姿の少女を睨《にら》む。その少女は、少し困ったように小首を傾《かし》げた。
栗《くり》色の長い髪が、風に乗って宙に舞う。
「そう……? あたしはあなたのこと、わりと好きよ、梨夏」
淡々と無表情に、秋篠《あきしの》香澄《かすみ》はつぶやいた。
4
凍りついた鮮血が、紅《べに》水晶のように破片《はへん》を散らした。
左肩から右胸までを失ったアーレンの身体《からだ》が、驚くほど静かに倒れた。長い銀髪が、さらさらと流れ落ちる。
「……まず、一人」
優雅な金髪の巻き毛を散らして、エウレリア・ハダレインはそう言った。アーレンによって壊滅《かいめつ》した部下たちの姿を冷ややかに見回し、そして立ちつくす恭介《きようすけ》に視線を止める。
「アーレン……」
動かなくなったアーレンの姿を、恭介は呆然《ぼうぜん》と見つめていた。
まだ息は、ある。だが、それだけだ。胸部の大半をごっそりと失って生き続けるのは、レベリオンといえども不可能だ。アーレンの身体が原形をとどめていられるのは、たんに全身が凍りついているからにすぎない。
「う……うあああああああああ!」
恭介は絶叫した。彼は恭介の味方ではなかった。だが、知っている人間を目の前で殺されて、だまっていられるほど恭介は大人《おとな》でも強くもなかった。
無制限に開放されたレベリオンの咆吼《ほうこう》は、可聴域《かちよういき》を超えた超音波衝撃と化した。無数の真空の刃《やいぼ》と大気の振動が、凶器《きようき》となってエウレリアを襲う。
「|滅びの咆吼《ブラステイング・ハウル》か―」
つぶやいて、エウレリアが跳躍した。
恭介の―レベリオンの感覚からしても、異常なまでの運動能力だった。ダメージを受けているとはいえ、白いアレス・システム。アフロディテ≠フ機能がまだ残っていたのだ。
恭介が放った超音波衝撃は、目標を失ってむなしく消える。そして、
「甘いな……緋村《ひむら》恭介」
最大出力で攻撃を放ったがゆえに、かわされたときの隙《すき》は大きかった。
信じられないほどの速度で接近するエウレリアに、恭介《きようすけ》は恐怖した。
彼女のトランスジェニック能力の威力は、間近で見せつけられたばかりだ。生身《なまみ》の人間を、一瞬で氷|漬《づ》けにしてしまうほどの冷気。いかに強靭《きようじん》なレベリオン細胞といえども、細胞の働きが停止した冷凍状態では、どうすることもできない。ただ一瞬の衝撃で、粉々に崩れ去ってしまうだけだ。
その恭介の窮地を救ったのは、とんでもない速度で突っこんできた一台のバイクだった。銀色の|GSX1100S《カタナ》。恭介とエウレリアの間に割りこんだその車体は、大気をゆがめるほどの熱気をまとっていた。
「高崗陸也《たかおかりくや》!?」
エウレリアの美しい貌《かお》が、かすかにゆがんだ。陸也が放つ、|血塗られた炎《ブレイズ・トウ・ブレイム》の熱波を避げて飛びすさる。
かろうじて金を拾った恭介は、突然現れた|レベリオン原種《オリジナル・セブン》の姿に困惑《こんわく》した。なぜ彼がここに姿を現すのかわからない。陸也もまた、複雑そうな表情で恭介を見た。
だが、それも一瞬のことだ。バイクを降りた陸也は、瀕死《ひんし》のアーレンの傍《かたわ》らに片膝《かたひざ》を着く。
口を開くだけの体力も残されていないのか、アーレンはなにも言わず、ただ残された右腕をあげた。陸也もまた沈黙で答えた。同じように右腕を伸ばし、アーレンの腕を握った。
それだけだった。かすかにうなずいて、アーレンが目を閉じる。
憎みあっていたはずの友人同士の再会にしては、奇妙に静かで、神聖な光景だった。
「……なんのつもり?」
静寂の中で、エウレリアが眉間《みけん》にしわを寄せた。
「和解の握手? それとも、あとは任せたということか……? 理解に苦しむな。どうせここで全員死んでしまうというのに……」
「おまえにはわかるまい。レベリオン古代種……エウレリア・ハダレイン。何十年も生きてきて、実の姉以外、誰にも相手にしてもらえないおまえになど」
「……死に損ないが、いっぱしの口をきく」
エウレリアの表情が険しくなり、彼女がまとう冷気が勢いを増した。だが、陸也は動じなかった。恭介を振り返って、静かに言う。
「緋村《ひむら》恭介……この女の相手は俺《おれ》がする。おまえは、Y《はな》を守れ」
「え?」
恭介はとまどった。彼は、自分の娘《むすめ》を取り戻すために戦っているのだと聞いている。その彼が、どうしてそんなことを言い出すのかわからなかった。
「だけど……」
「おまえには、この女は倒せない……おまえはまだ自分の能力の正しい使い方を知らない。それに、この女には、俺は少々借りがある」
陸也《りくや》は、そう言って、恭介《きようすけ》に背中を向けた。
少しためらって、恭介は駆《か》けだした。
陸也の言うことに従ったというわけではなく、Y《はな》といっしょにいるはずの草薙《くさなぎ》萌恵《もえ》のことが気になったのだ。もしほんとうに統合計画局の狙《ねら》いがYならば、今いちばん危険な立場にいるのは、実は彼女だということになる。
恭介が立ち去ったのを確認して、陸也はエウレリアに向き直った。
「……なるほど。アレス・システムをるこんだレベリオンか。どうりで、アーレンほどの男が不覚をとるわけだ。もっとも、アーレンと戦って、さすがに無傷というわけにはいかなかったようだな」
白い甲冑《かつちゆう》に身を包んだエウレリアは、苦々《にがにが》しい表情で陸也の言葉を聞いていた。
XRA−03A。アフロディテは、エウレリアのためだけに作られたアレス・システムだ。
人間ではなく、レベリオンを着用者とすることで、武装や筋力増加機構を大幅に削減し、軽量小型でありながら、高い機動性と防御力《ぼうぎよりよく》を確保することに成功した。
そして、アフロディテのもう一つのメリットは、相手の油断を引き出せる、ということだ。
アレス・システムの着用者は人間であるという先入観を逆手《さかて》にとって、敵対するレベリオンの隙《すき》をつく。現実にアーレンも、そして陸也も、それで一度は彼女に破れている。
「だが、タネが割れてしまえば、どうということもない。アーレンの仇《かたさ》、とらせてもらう」
「てきんよ。高岡《たかおか》陸也……」
エウレリアはうっすらと微笑《ほほえ》んだ。凍《こご》えるような冷気が、空気中の水分を凍らせて実体化し、鎧《よろい》のように彼女を包む。
「おまえには私は倒せない。倒せない理由がある。たとえアレス・システムなどなくてもな」
「試してみるさ―ブレイズ・トゥ・ブレイム!」
陸也の指先から放熱爪が伸びた。摂氏三千度を超える灼熱《しやくねつ》の炎《ほのお》が、エウレリアを襲った。
それを迎え撃ったのは、エウレリアが放つ凍気《とうき》だった。相反する互いの能力が、正面からぶつかりあって相殺《そうさい》される。
「高崗陸也―空気はなんでできているか知っているか?」
エウレリアが跳躍した。アレス・システムの補助を受け、その跳躍高度はやすやすとレベリオンの限界を突破する。
「生命にとって重要なのは酸素だが、もうひとつ、大気中の実に八割を占める窒素の存在を忘れてはならない。ある種のバクテリアは、通常では化学反応を起こしにくい、この窒素を化学変化させ、養分へと変えることができる」
冷却された空気は、常温よりも重くなる。エウレリアは、さらに自らの落下の加速度を加えて、凍気を陸也にたたきつけた。陸也は、自らを取り巻く炎の壁で、それを受け止めた。だが、完全には耐えきれない。凍気そのものは相殺しても、その衝撃までは吸収できずに後退する。
「そして、同量の窒素と酸素を化合させ一酸化窒素を生み出すとき、その反応熱はマイナスとなる。すなわち周囲の熱を急速に奪う。炎《ほのお》が熱を発するのと、逆の反応が起きるわけだ。それが我が能力=b氷結世界《アイスド・アース》=I!」
エウレリアの凍気《とうき》に対抗するために、陸也《りくや》は放出する熱波を増した。急激な温度変化に巻きこまれて、陸也の周囲を突風が吹き荒れた。
風に乗ってエウレリアの哄笑《こうしよう》が響き渡る。
「貴様のブレイズ・トゥ・ブレイムは、たしかに強力な能力だ。我がアイスド・アースの対極にある能力。だが、威力が互角である限り、おまえはけっして私には勝てぬ」
「なにっ―?」
「なぜなら貴様の技は、体内に蓄積されたエネルギーを熱として放出する能力だからだ。その強烈な熱波を、あとどれくらい維持していられる? 三分か? それとも五分か―?」
陸也の表情がこわばった。彼女の言葉は、限りなく真実に近かった。
熱力学の第一法則―閉じた系の中のエネルギーの総量は一定だ。|レベリオン原種《オリジナル・セブン》といえども、無から有を生み出しているわけではない。ブレイズ・トゥ・ブレイムとて、無限に熱波を放ち続けられるわけではないのだ。
「だが、我がアイスド・アースの性質は、すなわち触媒《しよくばい》。大気中に無限に存在する窒素と酸素を反応させているだけにすぎない。貴様の技に比べれば、体力の消耗《しようもう》ははるかに少ない。
これがおまえの敗北の根拠だっ! ―納得したところで死ね、高崗《たかおか》陸也」
エウレリアが、これまでの数倍もの勢いで凍気を放った。
それを防ぎきるだけの体力は、もはや陸也には残っていなかった。かろうじて炎で自分の身を守り、逃げ回るだけで精いっぱいだ。
エウレリアの笑いは、もはや止まらない。美しい顔を無邪気にゆがめ、幸福の絶頂にいるかのように笑い統ける。そのとき、陸也がぽつりとつぶやいた。
「ばか笑いがすぎると、しわが増えるぜ―おばさん」
「―!?」
瞬時に、笑い声が途絶えた。
エウレリアの美しい顔が、一変した。白い肌が紅潮し、憤激《ふんげき》で醜《みにく》くゆがむ。その鬼気《きき》迫る表情をながめながら、高崗陸也はのんびりと訊《き》いた。
「おまえらがY《はな》を手にいれて、なにをするつもりだ? そんな厚化粧せずに済むよう、若い娘《むすめ》の肌でも移植するか?」
「黙れ……おまえごときになにがわかる、高崗陸也。私たちの崇高《すうこう》な目的が……」
「そうか……では、訊くのはやめておこう。そのかわり、俺《おれ》もひとつ講義してやる」
「なに……?」
エウレリアの凍気が弱った一瞬の隙《すき》をついて、高崗陸也は足下に落ちていた鉄アレイを拾いあげた。筋力トレーニングに使う、重さ六キロの鉄の塊《かたまり》だ。
「空気は加熱すると膨張《ぼうちよう》し、冷却すると縮む性質がある。つまり、冷却すると単純に気圧が下がるわけだ。そして風は、気圧の高いほうから低いほうへと吹く……つまり、温度の高いほうから低いほうへと」
「だからどうした?」
エウレリアは、いっそう強力な凍気《とうき》をまといながら訊《き》いた。
つまらない話を聞き終えたら、いっきに陸也《りくや》を殺すつもりなのだ。そんな殺気を感じつつ、陸也はふっと唇《くちびる》をゆるめた。
「ところで貴様の能力、触媒《しよくばい》だと言ったな……すなわち、一酸化窒素を発生させるためには、まず窒素と酸素を体内に取りこまなければならないわけだ。しかも、それだけの量の凍気を発生させるためには、相当な量の空気を吸うことになる。生物の身体《からだ》で、大量の空気を取りこめる器官は一つしかない。肺、だ」
陸也は、鉄アレイを持った右腕をかかげた。
ブレイズ・トゥ・ブレイムの高熱を浴びて鉄アレイは一瞬にして溶解し、灼熱《しやくねつ》の蒸気へと変わる。
それを見たエウレリアの表情に、はじめて恐怖が浮かんだ。
「貴様―なにを!?」
「大量の空気を吸いこむということは、そのぶん、空気中の不純物を取りこむということでもある。さて……この気化した超高温の鉄分子が混じった空気を、肺の中に取りこんで冷却したらどうなるか―」
「や、やめ―!?」
陸也は、止まらなかった。残されたすべての体力を使って熱波を放った。
放熱爪から生み出された炎《ほのお》が渦《うず》を巻いた。白い甲冑《かつちゆう》をまとったエウレリアへと殺到する。
だが、エウレリアは動けない。六キロの鉄分子が空気中を漂《ただよ》い、エウレリアの周囲を渦巻いている。それらが冷却されて肺の中でいっきに実体化したら、どうなるか―
だからといって、空気を取りこまぬことには凍気を生み出すことはできない。凍気が使えなければ―
「|血塗られし炎《プレイズ・トウ・ブレイム》…」
陸也の生み出した炎が、エウレリアを包んだ。エウレリアは声を出すこともできず―
「―なにっ!?」
その直後、すさまじい爆発が彼女を包んだ。陸也はとっさに炎でガードしつつ、顔をしかめた。爆風と爆圧でなにも見えなくなる。
エウレリア専用アレス・システム―アフロディテの背中に装着されていた六連装のグレネード弾が、陸也の炎で誘爆したのだ。
爆煙が晴れたとき、彼女が立っていたはずの場所には何一つ残されていなかった。深さ数メートルもの、生々しいクレーターがぽっかりと穴を開《あ》けていただけだ。
爆心地にいたエウレリアは、跡形さえも見あたらない。
「―やった、か……?」
自問して、陸也《りくや》は膝《ひざ》をついた。
すさまじく消耗《しようもう》していた。これ以上は、戦闘状態を保つことができそうにない。エウレリアのアレス・システムが完全だったなら、おそらく陸也でも勝てなかっただろう。
そう、陸也がほんとうに一人きりで闘っていたのなら……
むなしい気分で首を振り、アーレンの隣に座りこむ。
「……一本、もらうぜ」
アーレンのタバコを拾い上げて、陸也は自らの指先で火をつけた。
空を見上げて、煙を吐《は》き出す。こうして煙ごしの空を見上げたのは、何年ぶりだろうと思う。
さらさらと吹く初夏の風に、ふいにキルンハウスの景色を思い出す。深緑の芝と、空の青。
バスケットボールの革《かわ》の手触《てざわ》り、彼女の声。
甘ったるいはずのガラムの匂《にお》いが、今は、なぜかひどく苦《にが》い―
「とりあえず、借りは返したか。なあ……アーレン……」
つぶやいて、陸也は答えを待った。
風が、懐《なつ》かしい煙草の匂いをかき消すまで、いつまでも待ち続けた。
5
きらきらと輝く光の奔流《ほんりゆう》が、黒ずくめの装甲強化服を襲った。
トランスジェニック能力ザ・ニードル=Bミクロン単位の微細な針の集合体が、アレス・システムの繊維強化系複合材料のわずかな隙間《すきま》に入りこみ、内側からぐずぐずに破壊する。
と、その背後から、破壊された機体を踏み越えて、新たな強化兵が現れた。
「……まだいるの?」
うんざりしたようにつぶやいたのは、Y《はな》だった。
それなりに広い高城《たかじよう》学園の屋上も、十体以上の大破した装甲強化服の残骸《ぎんがい》で、ひどくとり散らした状態になっている。最初は楽しんでいる様子だったYも、少し飽《あ》きてきたようだった。
遊び疲れた子どものような、眠《ねむ》そうな表情をちらちらと浮かべる。
「……逃げよう、Yちゃん」
Yの後ろで、萌恵《もえ》はささやいた。
たしかにYの言ったとおりだった。彼女は強い。だから、彼女一人なら、もっと簡単に逃げられるのではないかと思った。だが、
「え、どうして?」
Y《はな》は不思議そうに訊《き》いてきた。
「だって、この人たち、みんなあなたを狙《ねら》ってるんでしょう。だったら……」
「大丈夫。みんなやっつけちゃえばいいよ」
気楽な表情でYは言って、すっと伸ばした右腕を光らせた。また新しい能力を、発動させるつもりらしい。ほとんど同じように見える黒ずくめの機体だが、どうやら、機種ごとに仕様が異なっているようで、能力の有効性が微妙に違っている。ある機体に有効だった攻撃が、次の機体にも有効かというと、必ずしもそうとは限らないのだ。
「それに、こいつらをやっつけとかないと、萌恵《もえ》や恭介《きようすけ》だって困るでしょ」
「だけど……」
「大丈夫、大丈夫」
萌恵の心配をよそに、Yは軽やかに跳躍した。
大型ナイフを抜いて迫ってくる強化兵めがけて、紫色の濃霧を放つ。強酸性の霧が装甲強化服を包み、防毒フィルタごと着用者の呼吸器系を灼《や》いた。絶叫をあげて、強化兵が苦悶《くもん》する。
「おっとっと……」
その直後、着地したYの足取りがかすかに乱れ、萌恵はどきりとした。Y自身まだ気づいていないが、彼女はあきらかに疲れている。立て続けに大きな能力を使ったことで、肉体に相当な負担がかかっているのだ。
一瞬だけためらって、萌恵はすぐに決断した。こんなとき萌恵にできることは、あまりにも少ない。迷っている場合ではなかった。
彼女のそばを離れ、校舎の中に続く階段へと走りだす。びっくりしたように振り返るYに、萌恵は大きな声で叫んだ。
「Yちゃん、待ってて! 緋村《ひむら》くんを呼んでくるから」
うなずきかけたYが、青い目を見開いた。むっと唇《くちびる》をとがらせる。
「萌恵、だめ―! 動かないで!」
Yの叫びを聞いて、萌恵は反射的に立ち止まった。一瞬遅れて、地上から跳躍してきた二機のアレス・システムが、萌恵の眼前に着地した。
立ちすくむ萌恵は、彼らの眼中にない。乱暴に左手をあげて、萌恵を吹き飛ばそうとする。
その前にYが立ちはだかった。前に突き出した両腕が、まばゆいほどの輝きを放つ。
「このっ!」
Yのかけ声とともに、二体のアレス・システムの機体が奇妙に歪《ゆが》んだ。装甲表面から、ばちばちと音を立てて火花が散り、まるで内側からはじけ飛ぶように分解する。
トランスジェニック能力―<vラズマ・シャフト=B
圧倒的に強力な生体磁場で金属を加熱し、ねじ曲げ、破壊し、人体を一瞬で沸騰《ふつとう》させる。最強ともいわれるレベリオンの能力。強力すぎるがゆえに制御《せいざよ》が困難なこの能力を、Yは完全にコントロールしていた。
だが、使った力が強力であるがゆえに、その代償《だいしよう》も大きかった。
「あれ―?」
ふいにY《はな》がつぶやいた。意外そうな声だった。いきなり目眩《めまい》に襲われたようにふらついて、がっくりと膝《ひぎ》をつく。顔色が青白い。極度の貧血や、栄養失調に近い症状だった。
そんなYに駆《か》け寄って、萌恵《もえ》は倒れかけた彼女をどうにか支えた。
「……おかしいな……こんな、はずじゃ……」
つぶやいて、それきりYは沈黙した。失神したのだ。
彼女の身体《からだ》は、小柄な萌恵の腕力でも軽いと感じられるほど細かった。こんな華奢《きやしや》な身体で、これまで戦っていたのかと思うと、あらためてぞっとした。彼女があやつっていた力を考えると、それが肉体におよばす負担は想像を絶していたはずだ。
気絶した彼女に肩を貸して、萌恵は、なんとか屋内に逃げこもうとした。
獣《けもの》の咆哮《ほうこう》にも似た独特の駆動音《くどうおん》が萌恵の耳に届いたのは、その直後だった。
「……ようやく力を使い果たしたか……」
戦慄《せんりつ》しながら、萌恵は振り返った。
今までどこかに隠れていたのか、屋上のすみに、三体の装甲強化服が無傷で立っていた。
左右の二機は見慣れた黒ずくめだが、中央の一機だけは、シルエットが大きく違う。塗装も灰色がかかった艶《つや》消しの黒。武装の強力さよりも、指揮管制能力に優れている。そんな感じの装甲強化服だった。
「……生き残ったのは、これだけか。予想以上に強力だったな。もう少し成長されていたら、ほんとうに手に負えなくなるところだった」
低くしゃがれた声で、そいつが言った。なぜか、萌恵は動けなくなった。
ヘルメットの中央部、バイザーに隠れた双眸《そうぼう》が、猛禽《もうきん》のような視線で自分たちを見ている。
ひどく酷薄《こくはく》な視線だと、萌恵は思った。
「どけ、女。その娘《むすめ》を置いて行け」
灰色の強化兵が、萌恵の額《ひたい》に銃を向けた。銃口が自分を狙《ねら》っている。目眩がする。手足の感覚がなくなり、力がはいらない。はじめての怖ろしい経験に、萌恵は身体の震えを止められなかった。
それでも萌恵は、Yを放そうとしなかった。ゆっくりと首を振って、灰色の強化兵を睨《にら》んだ。
動こうとしない身体のかわりに、質問した。
「どうして―?」
声も震えた。Yの華奢な身体を抱きしめた。彼女は、こんなになるまで萌恵を守ってくれた。だったら、今度は自分の番だと、萌恵は思った。
「どうして、こんなびどいこと、するの?」
萌恵《もえ》のような人間が、まさか銃を向けられた状態で質問してくるとは思わなかったのだろう。
灰色の強化兵は、小刻みに肩を揺すった。笑ったのかもしれなかった。
「我々が人間だから、だよ」
「え?」
萌恵もまた、相手が返事をしてくるとは思わなかった。発音はたどたどしいが、正確な日本語で、その強化兵は言った。
「自分たちよりも優れた生物を、利用し、支配し、喰らい、滅ばす。そうやって人類は進歩し続けてきた」
彼がなにを言っているのか、理解できた。そのことが萌恵には怖ろしかった。
人間は、生物としては最強ではない。だが、人間よりも強く、優れた生物は、すべて人間に利用され、そしてそのいくつもが絶滅した。象牙《ぞうげ》のために殺された何万もの象たち。婦人のコルセットを作るために狩られ続けたクジラたち。毛皮のために、あるいはスポーヅとして狩られ、絶滅に瀕《ひん》した猛獣《もうじゆう》は数限りない。
それと同じように、彼らはレベリオンを狩ろうとしている……
「……それは人間同士でも同じことだ。優れた者が勝つのではない。制圧し、支配したものが勝者なのだ。我々は、そういう生物なのだよ。そんなふうにしか生きられない」
そう言って、灰色の装甲強化服が巨大な銃を突き出した。
萌恵はまばたきせずに、それを見た。Y《はな》の無邪気な笑顔が、脳裏をよぎった。萌恵よりも、強く、美しく、優れた生き物。だけど彼女は……
萌恵の唇《くちびる》に、微笑が浮かんだ。
「―あなたの言うとおりかもしれない」
目をそらさないで、言った。そして、首を振った。
「でも……あたしは、そういうのは、いやだ」
面食《めんく》らったように、強化兵は身体《からだ》を震わせた。自分の言葉が、なにか決定的な形で男を否定したのだと、萌恵は思った。一瞬、小刻みに震えた銃口が、止まった。
萌恵は目を閉じた。その灰色の強化兵は具現化した死のイメージ―死神だ。死、そのものと戦って勝てる人間などいない。けれど、負けないことはできる。
負けたくない、と萌恵は思った。
そのとき、すさまじい轟音《ごうおん》が放課後の屋上を吹き荒れた。
6
屋上にたどりついた恭介《きようすけ》が見たものは、動かないYをかばう萌恵と、彼女に銃を向けた灰色のアレス・システムだった。
突き動かされるように、叫んだ。|滅びの咆吼《プヲステイング・ハウル》―
恭介《きようすけ》のトランスジェニック能力である超音波衝撃が、高圧の音の弾丸と化して、デュラスの着るアレス・システムデイモス≠襲った。
装甲強化服に覆《おお》われた巨体が仰向《あおむ》けに転倒し、デュラスの左右にいた黒ずくめが、あわてて銃を向けるのが見えた。
振り返った萌恵《もえ》が、叫ぶ。
「緋村《ひむら》くん!!」
「無事《ぶじ》か、草薙《くさなぎ》?」
「うん、あたしは……」
萌恵がうなずいて、すぐに首を振った。髪を揺らして、肩を貸しているY《はな》を見た。
「ても、Yちゃんが、力を使いすぎて……」
「ああ、わかる……それなら大丈夫だ」
そう言って、恭介は彼女たちの前に出た。恭介自身にも覚えがある。レベリオン細胞は強力だが、そのぶんエネルギーの消耗《しようもう》が激しい。ましてや、Yの肉体は未成熟で、蓄積されているエネルギーの絶対量が少ない。そのためにガス欠に陥ってしまったのだろう。
「とりあえずここは逃げ、―っ!?」
逃げよう、と恭介が言いかけたとき、なんの予告もなく銃声が響いた。
恭介は、萌恵とYを抱いて、横っ飛びによけた。さっきまで恭介が立っていた場所が、大口径の機銃弾でえぐられる。デュラスの部下たちが発砲したのだ。
「くそっ―」
こわばった萌恵の身体《からだ》を抱いたまま、恭介は顔をあげた。
超音波衝撃を放とうとして、一瞬、躊躇《ちゆうちよ》する。萌恵の目の前で、レベリオンとしての能力を使うことに抵抗があった。
動けない恭介めがけて、黒ずくめのうちの一機が左腕をかまえた。その手首から、黒い筒《つつ》がのぞいていた。四十ミリ口径のグレネード・ランチャー。至近距離で爆発すれば、Yや恭介はどうにか耐えられても、萌恵は無事では済まない。彼女を助けようと思ったら、恭介はよけずに攻撃を受けるしかない。それを計算した上での、。巧妙な武器の選択だった。だが、
「うっ―!?」
グレネード弾が発射される直前。そのランチャーごと、黒ずくめの左腕が吹き飛んだ。
激しい爆炎が、強化服の本体を覆う。残っていたほかの弾薬が次々に誘爆し、恭介を狙《ねら》っていた装甲強化服は、あっけなく四散《しさん》した。
暴発したのかと思った。だが、そうではなかった。何者かが黒ずくめを攻撃して。装損《そうてん》されたグレネード弾の信管を撃ち抜いたのだ。
高速で撃ち出されるグレネード弾を、正確に撃ち抜く。そんな攻撃ができる能力を、恭介はひとつしか知らなかった。生体レーザ――|混 沌 の 瞳《ヴイジヨン・オブ・デイスオーダ》。
「なにやってんのよ、恭介《きようすけ》―!」
皆瀬《みなせ》梨夏《りか》の、きんきんとした声が屋上に響いた。階段からのぼってきたところに、腰に手をあてて、仁王立《だおうだ》ちで彼女が立っていた。
「今さら力を出し惜しみしてる場合じゃないでしょ。萌恵《もえ》に抱きついて、でれでれ鼻の下伸ばしてる場合じゃないっての!」
「抱きついてねえし、でれでれしてねえ!」
怒鳴《どな》り返しながら、恭介はあわてて萌恵から離れた。もう一機の黒ずくめの機関銃が、自分を狙《ねら》っていることに気づいたからだ。彼女たちを巻きこむわけにはいかない。
それに、梨夏が言うのももっともだった。今は、萌恵たちを守らなければならない。
「―ブラスティング・ハウル―!!」
恭介の放った衝撃波が、強化兵の機関銃を破壊し、アレス・システム本体を跳《は》ねとばす。だが、強靭《きようじん》な装甲に覆《おお》われた機体は、ブラスティング・ハウルの衝撃に耐えた。ぎしぎしと全身を軋《きし》ませながらも、立ちあがる。
「わっ! なんてしつこいやつ!」
梨夏が毒づいた。恭介もまったく同感だった。
アレス・システムが、右腕に内蔵したショットガンを構える。グレネードを使わないのは、梨夏の能力を警戒《けいかい》してのことらしい。銃声が鳴り響き、同時に二十発もの大型散弾がまき散らされる。
「ちっ!」
「もうっ!」
恭介と梨夏は、地面に転がってそれをかわした。レベリオンの反応速度なら、この距離で散弾をかわすのはそう難しいことではない。
だが、Yを抱いたまま、萌恵は固まっている。それに気づいて、恭介は愕然とする。
そのとき、働哭《どうこく》にも似た高音の振動が、大気を震わせた。美しい影がふわりと舞い、萌恵の周りで火花が散った。
「―香澄《かすみ》!?」
スクリーミング・フィストで散弾を撃ち落とした秋篠《あきしの》香澄は、恭介を見てうなずいた。なんの感動も感情も読めない、いつもどおりの彼女の顔で。
どうして彼女が、ここに現れるのかわからなかった。けれど、恭介はそれを不思議だとは思わなかった。香澄も、なにも説明しない。まるで、それが当然だとでも言うように。
恭介は思わず苦笑を浮かべ、そして、ショットガンを構えたままの黒ずくめのほうへと向き直った。単純にブラスティング・ハウルが直撃しても、アレス・システムの装甲は破れない。
その自信があるからだろう。三人ものレベリオンと対時《たいじ》していながら、強化兵はやけに堂々としている。
だが、恭介《きようすけ》は、不思議と落ち着いていた。
意識がクリアだ。世界中の音が、やけに鮮明だった。梨夏《りか》がなにか叫んでいる。脈打つY《はな》の鼓動を感じる。萌恵《もえ》のぬくもりが伝わってくる。そして、香澄《かすみ》の存在を感じる。
アレス・システムが駆動《くどう》する、独特の音が聞こえた。人工筋肉が収縮する音。装甲がこすれあい、関節がぎしぎしと軋《きし》む。世界は、音で満ちている。
ーそういうことか……
なんの前触れもなく、恭介は理解した。
恭介はまだ自分の能力の正しい使い方を知らない。高崗陸也《おかおかりくや》がそう言ったわけが、ようやくわかった。微笑が漏《も》れた。アレス・システムの銃口が、恭介を狙《ねら》う。
恭介は、静かに口を開いた。歌を歌う。声にならない声で。その旋律が、世界に溶けこむ。
ブラスティング・ハウルの衝撃波が、ふたたびアレス・システムを襲った。
生み出されたのは爆音ではなかった。壮大で優美な、そしてシンプルで純粋な音の奔流《ほんりゆう》。世界を、美しい構成が埋めつくしていく。
その力は、ぶつかるのではなく浸《し》みこんだ。装甲強化服の人工筋肉、関節、装甲、そして、着用者の心臓の鼓動。あらゆる音と溶けあう。そして、そのリズムを狂わせる。
すべての物質が持つ、固有振動数―その、音の調和を壊《こわ》していく。
離れた場所にある音叉《おんさ》の片方を鳴らすと、もう一方の音叉が震えだす。それが激しくなれば、
やがて物質は自ら崩壊する。音をぶつけるのではなく、あやつること。
それが、|滅びの咆吼《プラステイング・ハウル》の真の能力だった。
「不協和音《デイスコード》……」
最初に気づいたのは、萌恵だった。
アレス・システムの装甲がひび割れた。骨格が軋《きし》み、関節が砕《くだ》けた。心臓の鼓動が狂わされ、激しい筋肉の痙攣《けいれん》に、兵士がうめいた。
うなずいて、香澄は静かに続けた。
「そう……ブラスティング・ハウル・ディスコード」
黒ずくめの装甲強化服が、がらがらと音を立てて崩れ落ちる。恭介は振り返りもしなかった。
その必要はなかった。彼らの放つ音《コード》は、もう消えている。この世界から、消滅した。
「……緋村《ひむら》恭介……予定外《イレギユラー》のレベリオン、か……」
灰色のアレス・システムが、低くつぶやいた。
「おまえがいなければ、ハナ≠ヘ感情を持たず、それゆえに無敵だった。他人のために能力を使って、力を使い果たすこともなかった。だが、おまえのせいで、我々の特捜《とくそう》官が二人も裏切った。高崗陸也が、脱走者たちと協力することもなかっただろう。はたしておまえは、誰にとってのイレギュラーだったのか……」
そう言って、デュラスは低く笑った。
近づいてくるヘリの音に気づいて、恭介《きようすけ》は振り返った。兵員輸送に使う、米軍の多目的ヘリ。デュラスがぶつぶつとしゃべっていたのは、その到着を待つ間の時間|稼《かせ》ぎだったらしい。
彼の灰色の強化服が、手に持っていた機関銃を構えた。
「だが、しょせんそれだけのことだ。予定どおり、ハナ必は取り返させてもらう―」
デュラスが叫んだ。灰色のアレス・システムが、背中から圧搾《あつさく》空気を噴《ふ》きだした。彼の目当は、Y《はな》だ。無理やりかっさらって、ヘリに逃げこむつもりなのだろう。機銃弾をばらまいてレベリオンたちを牽制《けんせい》しながら、デュラスの強化服が加速する。
「恭介―!!」
「ああ!」
香澄《かすみ》が叫んだ。うなずく必要はなかった。|滅びの咆吼《ブラステイング・ハウル》がデュラスを襲い、機関銃を破壊した。超音波衝撃が、飛行中の彼の進路をそらす。その前に立ちはだかったのは香澄だった。
彼女の両腕が放っていた振動音が途絶えた。沈みこんだ彼女の身体《からだ》が、突進するデュラスを正面から迎え撃つ。むしろゆるやかな動きで彼女がデュラスに触れたとき、沈黙していたスクリーミング・フイストが、すさまじい爆音を放った。
それは、かつて香澄が使っていた能力とは、まるで異質で、強大な力だった。無駄《むだ》のない最小の動き。体内を巡るカの流れが収束《しゆうそく》する。恭介の放った攻撃と、彼女を支える校舎の巨大な質量、それどころか突進してくる敵の動きまでもが、香澄に力を貸していた。
その威力は、圧倒的だった。
爆発的な衝撃とともに一点に集中された超振動波が、強固なアレス・システムを破壊する。
胸部のプロテクターが完全に吹き飛び、着用者であるデュラスの姿があらわになった。全身の血管から血を噴きだした、壮絶な状態で転倒する。
「やった……」
恭介は安堵《あんど》の息を漏《も》らした。香澄も戦闘態勢を解く。まるで打ち合わせたように息のあった二人の最後の攻撃に、梨夏《りか》が目を丸くしていた。
逃走用のヘリは、すでに恭介たちの真上にたどり着いている。
だが、Y《はな》を連れて乗りこむはずだった兵士は、もう誰も残っていない。ほっといても構わないと、誰もが思った。
そのとき、しゅっと空気が漏れるような低い音がした。
「―なんの音?」
梨夏がつぶやいた。その声に振り返った恭介が見たのは、筒《つつ》状のカートリッジを首筋に押しあてているデュラスの姿だった。
血走らせた両目を見開いて、デュラスが、かはっと息を漏らす。
「なんだー!?」
恭介《きようすけ》がうめいた。その恭介の目の前で、デュラスの身体《からだ》が、はじけるように跳《と》んだ。
アレス・システムを脱ぎ捨てたデュラスが、走り出した。レベリオンである恭介たちですら反応できない速度で屋上を駆《か》け抜け、気絶したままのY《はな》へと向かった。
「|RAVE+《レイヴ・プラス》っ!?」
香澄が叫んだ。恭介は、デュラスが自分に撃ちこんだ薬品の正体を知った。|RAVE《レイヴ》。レベリオンの血液から作られた特殊な麻薬。人間に、肉体の限界を超える能力を与える―
「しまった―|悪 性《ヴイルレント》レベリオンかっ!!」
恭介は愕然《がくぜん》とした。アレス・システムを失った以上、デュラスはヘリまで飛行することができない。だが、|悪 性《ヴイルレント》レベリオンの筋力なら―
「草薙《くさなぎ》っー!!」
恭介が叫んだ。そのときには、デュラスはもう蟀の身体をつかみあげていた。気絶した彼女を抱きしめている、草薙|萌恵《もえ》ごと―
「草薙さんっ!?」
「萌恵っ!」
香澄と梨夏《りか》が、口々に彼女の名前を呼んだ。その声が、ヘリのエンジン音にかき消された。
デュラスは、少女二人を抱えたまま、垂直に数メートルを跳躍してヘリにとりついた。
ヘリが上昇を開始する。
「撃ち落としてやる!」
梨夏が叫んだ。
「だめ! あの高さからヘリが落ちたら―」
香澄の鋭い制止を聞いて、梨夏と同じように、ヘリを撃墜《げきつい》しようとしていた恭介は、動きを止めた。
香澄の言うとおりだった。すでにヘリの高度は四、五十メートルに達している。
あの状態から墜落《ついらく》したら、生身《なまみ》の人間である萌恵はもちろん、気絶したYも無事《ぶじ》では済まない。うかつに手を出すことはできない。
「草薙……」
恭介たちは立ちつくしたまま、飛び去ったヘリを呆然《ぼうぜん》と見送った。
校舎のあちこちから、新たな悲鳴があがったのはそのときだった。
なかば放心状態のまま、恭介は、声の方角に振り返った。空を見上げ、そして気づいた。
暗い夕焼けが西の空を染めている。ヘリが飛び去ったのと、反対の方角。そこに、黒い影が浮かんでいた。ずんぐりとした、空に浮かんでいるのが奇妙に思えるほど重そうな飛行体。
四発のターボプロップエンジンを持つ、軍用輸送機。C−130H。
先ほどアレス部隊を降下させたその機体が、奇妙な角度で、機首を高城《たかじよう》学園のほうに向けていた。じりじりと高度を下げてくる。巨大な機体が、意外なほどの速度で近づいてきているのがわかる。それがなにを意味しているのか、恭介《きようすけ》は、すぐには理解できなかった。
沈みかけた太陽が、灰緑色の機体を不吉《ふきつ》な赤に染めている。
「……突っこんでくる……」
秋篠《あきしの》香澄《かすみ》が、ぽつりと言った。
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終章
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Epilogue
[#改ページ]
夕闇《ゆうやみ》の広がる静かな空と、その輸送機の組み合わせは、ひどく不似合いで怖ろしかった。
「突っこんでくる、って……」
皆瀬《みなせ》梨夏《りか》が、恭介《きようすけ》たちのほうを振り返って叫んだ。その声が少しうわずっている。
「なに落ち着いてんのよ、あんたたち! 逃げなきゃ」
「だめ……」
香澄《かすみ》が切って捨てるように言った。
「なんでよ!?」
「距離が近すぎる。あのC−130H、最大巡航速度に近い速さで飛んでる。今から逃げても間に合わない」
「そんなこと言ったって、ぼーっと待ってたってしかたないでしょ! ちょっとでも遠くに離れないと。あんなの落っこちてきたら、あたしの能力でもどうにもならないわよ!」
「うん……でも、もう遅い」
「なにがっ!?」
淡々と告げる香澄に、梨夏が噛《か》みつくようにして言った。香澄は、表情を変えない。長い睫毛《まつげ》にふちどられた美しい瞳で、近づいてくる輸送機の姿を見ている。
「あの機体、四千五百馬力のエンジンを四発積んで、無補給で八千キロ以上飛べるの」
「……だからなによ」
「それだけたくさんの燃料を積んでるってこと。墜落《ついらく》して火災が起きたら……たぶん、この学校の敷地内にいる人間は全滅ね……」
「全滅!?」
「ええ……生徒がまだ半分近く残ってる学校で、機密兵器のアレス・システムを使うなんて変だとは思っていたけど…−最初から、目撃者は皆殺しにするつもりだったんでしょうね。この学校は市街地から離れているし、軍用機の航空事故という形にすれば、銃弾などが飛び散っていても怪しまれない。証拠は、なにも残らない」
「なによそれ。きったないやり方……」
嘆息《たんそく》して、梨夏《りか》が首を振った。両手を広げて、訊《き》いてくる。
「けど……じゃあ、どうしろってのよ。このまま、ほかの生徒も見捨てるわけ?」
「……」
香澄《かすみ》は黙って目を伏せた。梨夏の質問には答えずに、ぼんやりと空を見上げている恭介《きようすけ》のほうに歩み寄る。
「……恭介?」
恭介の顔を見上げて、香澄が訊いた。目を閉じて、恭介がつぶやいた。
「……音が、聞こえる」
「はあ!?」
梨夏が怒鳴《どな》った。
「なによそれ。ぼけてる場合じゃないでしょ。こんだけ近づいてたら、そりゃ音だって聞こえるわよ」
彼女の言葉どおり、C−130Hの巨体が驚くほど近くに迫っていた。機体表面のパネルの継《つ》ぎ目まではっきりと見える。風を切る翼の音や、プロペラを回すエンジンの排気音が、直接|身体《からだ》に響いてくる。
だが、恭介は首を振った。視線を落として香澄を見る。自分でも不思議なくらい平静な声で、恭介は言った。
「……アーレンが、死んだよ」
香澄は、刹那《せつな》、目を見開いて恭介を見た。なにも言わずに、恭介の言葉の続きを待った。
「あいつが、最後に教えてくれた。俺《おれ》たちの力は、自然の力の流れを見極め、それを操《あやつ》るためのものだって。それが、トランスジェニック能力の真の姿だって……」
恭介の言おうとしたことを、香澄はそれで理解したようだった。学校に向かって落ちてくる輸送機をちらりと見上げ、それから、恭介に、短く訊いた。
「……できるのね?」
「ああ……」
そう言って、恭介は香澄と見つめ合った。
二人の会話についていけなかった梨夏《りか》が、その隣でわざとらしく咳払《せきばら》いをした。
高城《たかじよう》学園の裏側。整地されていない山の斜面に立って、エウレリア・ハダレインは飛び去ったヘリを見つめていた。
「デュラス……よくやった……」
つぶやいて、満足げに笑う。だが、彼女の姿は悲壮なものだった。
着用していた専用アレス・システムアフロディテ≠ヘ半壊《はんかい》し、全身の六割ほどが剥《む》きだしになっている。高崗陸也《たかおかりくや》の火炎《かえん》とグレネード弾の暴発で全身は焼けただれ、特に損傷のひどい右肩は、肩甲骨《けんこうこつ》から鎖骨《さこつ》にかけて肉が残っていなかった。凍気《とうき》によって傷口を凍らせ止血していなければ、出血多量でとっくに動けなくなっているだろう。
美しかったその顔も、こびりついた血が固まった凄惨《せいさん》なものに変わっている。
それでも、エウレリアは満足げだった。当初の目標である『サンプル』の奪取には成功した。
目撃者を消すための輸送機も、予定どおり落下しつつある。
あとは、このまま、誰にも見つからずに逃げればいい。レベリオン古代種であるエウレリアは、人間はもちろん、|レベリオン原種《オリジナル・セブン》や真性《プロ》レベリオンと比較しても長命だ。とりあえずは、この身体《からだ》を癒《いや》し、あとでゆっくり高崗陸也に対する復讐《ふくしゆう》の機会を待てばいい。
そうだ―あの男の娘《むすめ》を切り刻んで送りつけてやったら、やつはどんな顔をするだろうか?
「はは……やった……やりましたわ、お姉さま」
ぼろぼろの身体《からだ》を引きずりながら、エウレリアは声を出して笑っていた。
と、その笑みがふいに凍った。
逆光が、エウレリアの正面に、美しい影を浮かび上がらせていた。栗《くり》色の髪が、夕陽に赤く透《す》けている。長い影が、エウレリアの足下にまで伸びていた。
「お久しぶりね、エウレリア・ハダレイン」
おっとりと澄んだ声で、彼女は言った。
「ユルキナは? あなたのお姉さまはお元気?」
「秋篠《あきしの》……真澄美《ますみ》……」
エウレリアの声が震えた。悪い夢を見ているような気分だった。なぜ、この女がここにいるのかわからない。グレネードの自爆にまぎれて、うまく逃げのびたつもりだったのに。
それに、この女は美しすぎる。まるで、呪《のろ》われた魔物のように……
「Y《はな》を、連れていったのね?」
飛び去るヘリを見送って、真澄美が淡々と言った。なんの動揺も感じられない口調だった。
焦《あせ》りも、いらだちも存在しない。それがエウレリアには怖ろしかった。この女は、心まで鉱物でできているのに違いないと思った。何者も、彼女を傷つけられない。
その恐怖を隠すために、エウレリアは言った。
「知ってるわよ……」
真澄美《ますみ》が、ちょこんと小首を傾《かし》げた。少女のような仕草《しぐさ》だが、おそろしく優雅だ。わけもなく屈辱《くつじよく》を感じて、エウレリアは声を荒げた。
「あなた、トランスジェニック能力が使えないんですってね。それなのに、この私に勝てるとでも思っているの? のこのこと出てきたこと、後悔なさい」
エウレリアの背中が淡く発光をはじめた。トランスジェニック能力氷結世界《アイスド・アース》=B空気中の窒素と酸素を結合させて、強力な冷気を発生させる。この能力があるからこそ、あれほどの爆発にもエウレリアは耐えたのだ。
「致死遣伝子というのを知っている?」
訊ねたのは、真澄美だった。凍気《とうき》を放つべく手を伸ばしていたエウレリアは、その言葉に、眉《まゆ》をびそめた。
「すべての細胞は、この致死遺伝子を持っている。老化して役目を終えた細胞は、自らこれを活性化させて死に至る」
「……だから、なに?」
エウレリアはつぶやいた。純白の冷気が彼女の周囲を覆う。どんな物理攻撃も、もはやエウレリアには届かない。
「では、もしも外部からの働きかけでこの遣伝子が動き出すとしたら、どう? たとえばサンゴ。ある種のサンゴは、ある個体が死ぬと次々に仲間も死にはじめ、やがて群れが全滅する」
「……まさか、あなた……!?」
エウレリアは、はっと真澄美を見た。真澄美は無表情にそれを見ている。
「それが、私のトランスジェニック能力|不 滅 な る 闇《スターレス・アンド・バイブル・ブラツク》=c…この能力だけは、Y《はな》にコピーさせるわけにはいかなかった。なぜならこれは、彼女を止められる唯一の能力。いつか、彼女を殺すためにあるのだから……」
「死を……死、そのものを伝染させる能力だと……」
エウレリアは、うめいた。
秋篠《あきしの》真澄美の能力は、とても弱い。物理的な破壊力はゼロに等しい。けれど、誰も彼女には勝てない。彼女の能力は、限りなく無力に近く、そしてそれゆえに最強なのだ。
ゆっくりと首を振って、エウレリアが訊《き》いた。
「まさか、それを私に……」
「ええ……」
真澄美は、美しく目を細めて微笑《ほほえ》んだ。
「Yがいなくなってしまったのだから、もう隠す必要もないでしょう?」
「い、いや……やめて……助けて……助け……て……」
叫びだしたエウレリアの声が、途中で消えた。
かわりに彼女の表情に浮かんだのは、笑みだった。
突如、幸福の絶頂にたどりついたような、陶酔《とうすい》したような表情で、天を仰《あお》ぐ―
死こそ最大の快楽。生き統けることをあきらめた脳が、大量の脳内麻薬を分泌し、エウレリアに楽園の幻想を見せた。
「……お姉さま」
奇妙に安らかな表情で、彼女はわずかに唇《くちびる》を震わせた。長い人生で、唯一愛した人の名前を呼ぶ。そして、沈黙―
真澄美は、無言で彼女に背を向けた。空を見上げ、感心したように眉をあげた。
夕闇《ゆうやみ》の空に浮かぶ、灰緑色の輸送機が崩壊をはじめている。
高城《たかじよう》学園にたどり着く前に、機体の各部が分解し、ばらばらと部品が飛び散っていた。目的の高度を維持することができず、輸送機の進路がずれはじめている。
「緋村《ひむら》恭介《きようすけ》……」
真澄美がふっと笑った。かすかに歌が聞こえた。人間の耳には届かない高さで。
そのかすかな旋律《せんりつ》が飛行中の輸送機を振動させ、機体を崩壊に導いている。
歩き出した真澄美の背後で、エウレリアが倒れる音がした。
「まさか、ほんとうに落としちゃうなんてね……」
屋上のフェンスから身を乗り出して、梨夏《りか》が言った。なにかふっきれたような、小気味《こぎみ》いい口調だった。明るく染めた彼女の髪が、風を受けてなびいている。
燃えあがる炎《ほのお》が、校舎を照らしていた。
市街地と高城学園をへだてる山の斜面。その中腹に、無人の輸送機が激突して黒煙をあげていた。山火事の延焼を怖れて、うじゃうじゃと集まってきた消防車のサイレンがやかましい。
校庭や、校舎のあちこちで、生徒たちがぼんやりとそれをながめていた。
負傷した者は少なくないが、命にかかわりそうなものはなさそうだ。屋上から見渡す限り、生徒たちのほとんどは、やけに明るく元気そうに見えた。興奮して、一時的な躁《そう》状態に陥っているのかもしれない。
ほとんどの者は、なにが起きたのか、最後まで理解できなかっただろう。
統合計画局がまた圧力をかけてもみ消すのか、それとも日本政府がどうにか対処するのか。
武装したテロリストが学校を占拠《せんきよ》しようとした上で、仲間割れして自滅……おそらく、そんなシナリオが描かれるのだろうと思われた。
「恭介」
屋上のすみに座っていた恭介《きようすけ》は、のろのろと顔をあげた。
香澄《かすみ》がひどく無表情なままで立っていた。自分もきっと、同じような顔をしているのだろうと恭介は思った。
「隣にいってもいい?」
と、香澄が訊《き》いた。恭介は無言でうなずいた。
同じように黙って腰を降ろした香澄を、恭介は不思議な気分で見た。訊きたいことは無数にあるはずなのに、なにも思いつかない。彼女は、ずっとそばにいてくれてたような気がした。
そのくせ、いなくなる前の彼女とは、なにかが決定的に違うような気もする。
のんびりと考えて、気づいた。今の彼女は、恭介といっしょにいるために戻ってきたのだ。
ただ、それだけのために。
「おかえり」
ようやく話すべき言葉を思いついて、恭介は言った。
「……うん」
香澄はうなずいて、微笑めいた顔を恭介に向けた。なかなかいい表情だと、恭介は思った。
墜落《ついらく》した輸送機は今も燃え統けている。パトカーのサイレンが聞こえてくる。教師たちを取り囲んで騒いでいる生徒たちの声が聞こえる。萌恵《もえ》たちを乗せて飛び去ったヘリの姿は、もうどこにも見あたらない。
「追いかけなきゃね」
まっすぐに瞳を向けたまま、香澄が言った。彼女の指が触れて、恭介の手を強く握った。
「ああ……」
恭介はうなずいて、夕陽を浴びる校舎を見つめた。
彼女のいない教室を。
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あとがき
この作品を書くちょっと前に引っ越しをしました。で、そのお祝いにと、知人に、ライブに誘《さそ》ってもらいました。ちょうど来日していた、とある北欧系ハードロックバンドの日本公演。
なにせいい曲を書くバンドで、生で聴《き》くと感慨もひとしお。有名アーティストの大がかりなコンサートというのも安心感があってよいものですが、やはりライブハウスの雰囲気ってのは、ちょっと独特でわくわくします。
そして、最近はライブに行くたびに、恭介《きようすけ》と香澄《かすみ》の能力のことを思い出します。
ステージの上から、スピーカーごしにダイレクトに身体《からだ》に伝わってくる唄《うた》だとか、観客席からステージに向けて突きあげられた腕だとか。
もしかしたら、そういうのが、この作品の原風景なのかもと思ったり、思わなかったり。
そんなわけで、『レベリオン 彼女のいない教室』を、お届けします。
早いもので、このシリーズも四冊目になりました。今回も、だいぶ話が動いてる感じですか。
実は、このシリーズをはじめるときに、ひとつだけ決めていたことがありまして、それは、『放課後の殺戮《さつりく》者』二冊目です)が出たとき高校に入学したばかりだった人たちが、卒業するまでには、物語を完結させよう、ということでした。
しかし、最近、知人にそのことを説明するたびに言われるのが、 そんなのどうでもいいじゃん。
という、ありがたいお言葉。まあ、たしかにどうでもいいような気もしますが。
それでも、いちおうの目標なので、なるべく早く続きも出せるとよいなあと思ってます。 次が、最終巻です。
今回の英文タイトル『SINCE YOU WENT AWAY』は、古い映画の題名からいただきました。ちなみに邦題《ほうだい》は′N去りし後=B高橋留美子《たかはしるみこ》さんの『うる星やつら』にも同名の作品がありまして、あの回の、めっちゃスウィートな感じのストーリーがとても好きでした。
今回の『レベリオン』も、まあ、そんな話です。……違うか。
さて。
近況報告、というほどのことでもないですが。
十一月のなかばに、大阪に遊びに行きました。在阪《ざいはん》の知人に、USJを案内してもらう約束なんかをとりつけて。計画では、この作品は十月の末には書き終わっている予定だったので、余裕《よゆう》、のはずだったのですが、なぜか予定を三週間も過ぎた出発日になっても原稿が全然終わらない……
で、結局、大阪に行くのは行ったのですが、一人でホテルに閉じこめられて、徹夜で原稿を書き続ける羽目《はめ》になりました。もちろんUSJには行けずにお留守番。それどころか、大阪に四泊もしておきながら、コンビニと薬局でしか買い物してないって……どういうことだ?
それでもどうにか原稿は書き終えたのですが、関係者の皆様には、たいへんご迷惑《めいわく》をおかけしました。特にイラストの椋本《くらもと》夏夜《かや》さま、いつも原稿遅くてすみません。
原稿が遅いといえば、先日、あるえらい方にくっついて、なんというかすごいお店に連れてってもらった席でのこと。あとがき書くの苦手なんですよ、と、どうにかあとがきのページ数を減らしてもらおうと交渉するワタクシに、電撃文庫の某《ぼう》編集さん曰《いわ》く。
「でも、あとがきなんて、一、二時間でちょちょいと書けるものじゃないですか」
あ、あう……? そうなんですか?
では、これっぽっち書くのに毎回ひいひい言ってる私は、ひょっとしてダメダメですか。
やっぱり。
話をもとに戻します。
いいライブの条件というのは、演奏者のパフォーマンスが優れているのも大切ですが、それ以上に観客の役割が大きいのです。それはたぶん小説も同じで、いい作品ってのは、いい読者が作るものだと思います。
その意味で、この『レベリオン』というシリーズは、とても恵まれていました。
どうか最後まで、恭介《きようすけ》と香澄《かすみ》の物語を見届けてあげてください。
それでは、三雲《みくも》岳斗《がくと》でした。
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底本
『レベリオン 彼女《かのじょ》のいない教室《きようしつ》』 発行 二○○二年二月二十五日 初版発行
発行元 電撃文庫、角川書店
2008年12月20日作成