レベリオン 炎《ほのお》を背負《せお》う少年《こども》たち
三雲岳斗
イラスト/椋本夏夜
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)国歌|斉唱《せいしょう》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き]終わり
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レベリオン[Rebellion]
@反逆、反乱、暴動
A不治の病
B制御不能なもの
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序章
Prologue:Jane Doe
CASE:01 STYX 14:38, April 17 Srattle, U.S.A.
これはゲームだ。
しゃがれた声でそうつぶやいて、スティクスは薄汚れた町並みを見おろした。
傾きかけた黄色い太陽が、埃《ほこり》に煙るアスファルトを照らしている。
逆光の中に浮かんでいるのは、ダウンタウンの高層ビル群。灰色のコンクリートに囲まれた愚《おろ》かな人間どもの檻《おり》。その隙間《すきま》を縫《ぬ》うようにして、何本もの道路が血管のように延びている。
スティクスが立っていたのは、州と州の間を結ぶ幹線道路、インターステート・ハイウェイの高架《こうか》の|へり《ヽヽ》だった。
地上約三十メートルの遮音壁《しやおんへき》の外側だ。一歩足を踏み出せば、スティクスの身体《からだ》を重力から遮《さえぎ》るものはなにもない。吹きすさぶ強い風に、コートの裾《すそ》が激しくはためいている。
足元には、ハイウェイに沿って走るバイパス道路が見渡せる。
平日の昼間ということもあって交通量は多くない。数マイル先から近づいてくる一台の車を見分けることすらできる。それは、目立たない色に塗られた無骨《ぶこつ》な中型トラックだった。
車体の数カ所で赤色灯が点滅している。防弾ガラスをはめこんだ運転席と、装甲を施された堅牢《けんろう》な車体。厳重に密閉された荷室には、おそらく武装した警備員が乗りこんでいるのだろう。
リベットの目立つ側面には警備会社のロゴ。それは、現金輸送車だった。
「|状況を知《How goes it?》らせろ」
無線機に向かって、スティクスが訊《き》く。
『問題《Perfect》ありません、|ボス《Boss》』
返事が返ってくるのは早かった。やはり無線機から、やや興奮気味の男の声が流れ出す。
『|定刻どおりで《Right on schedule》す、|目標地点まで《just two miles from you》、残り約三千メートル』
「|わか《O.K.》った。総員、配置につけ」
部下たちの返事を待たずに、スティクスは無線の電源を切った。かわりにコートの襟元《えりもと》から、用意してあった道具を取り出す。長さニメートルほどのヒモの先に、プラスチック爆弾と雷管《らいかん》を仕込んだだけの代物《しろもの》。手榴弾《しゆりゆうだん》の原始的な代用品だ。ただし、その威力は本物の比ではない。
そうしている間にも装甲輸送車はゆっくりとロータリーを回り、スティクスの真下へと近づいていた。
スティクスは慎重《しんちよう》にタイミングを測る。すでに輸送車との距離は、百メートルを切っている。
部下たちも配置についていた。しょせんは寄せ集めのチンピラたちだが、三度目の仕事《ヤマ》ともなれば、多少は手際がよくなるものらしい。
「|行くぞ《Here We go》」
スティクスは淡々としたロ調でつぶやいて、そのまま空中へと身を躍《おど》らせた。
内蔵がせり上がってくるような不快な浮遊感が襲い、耳元で風が渦巻《うずま》いた。
意外なほどゆっくりと、アスファルトの路面が近づいてくる。
地上三十メートルからの落下ともなれば、その衝撃《しようげき》は二十トンを超える。だだっ広い道路の中央に、落下のダメージを弱めてくれる街路樹などがあるわけもない。このまま着地すれば、間違いなく全身|打撲《だぼく》で即死だろう。
そんな危機的な状況にありながら、スティクスは笑っていた。
全身の細胞が沸騰《ふつとう》するような高揚《こうよう》感を覚える。五感が増大し、道路を疾走《しつそう》する装甲輸送車の姿がくっきりと見える。野獣のような俊敏《しゆんびん》さで身体《からだ》をひねり、スティクスは装甲輸送車の屋根に音もなく着地した。
そのまま、輸送車の荷室に爆弾を叩《たた》きつける。
「ハッハ――ッ」
スティクスの狂的な歓声は、爆破の轟音《ごうおん》にかき消された。
どんなに頑強《がんきよう》に造られた装甲輸送車も、屋根の装甲は比較的薄い。車体全面を分厚《ぶあつ》い装甲で覆《おお》ってしまうと、重量がかさんで車両としての機動性が低下するし、そもそも地上三十メートルの上空から襲撃《しゆうげき》してくる強盗《ごうとう》がいるとは、誰も想像してないからだ。
爆薬の直撃を受けた荷室の屋根は、あっけなく陥没《かんぼつ》した。
その衝撃で装甲輸送車は制御《せいぎよ》を失った。
限界を超える圧力にタイヤが悲鳴を上げた。前輪が縁石に乗り上げ、なかば横転したような形で道路脇のフェンスに突っこんで停止する。なまじスピードが出ていただけに、その反動は凄《すさ》まじかった。運転席の防弾ガラスが、激突に耐えかねて砕《くだ》け散る。
その強烈な衝撃《しようげき》の中で、スティクスは平然と立っていた。
あれだけの高さから落下し、間近でプラスチック爆弾の爆圧を受けたというのに、苦痛すら感じている素振《そぷ》りはない。その肉体の強靭《きようじん》さと驚異的な運動能力は、明らかに人間のものではあり得なかった。
爆風で焼け焦《こ》げたコートを脱《ぬ》ぎ捨て、スティクスは運転席のほうへと進む。
キャビンに乗っていた警備員の数は二人。運転席と、助手席に一人ずつ。防弾ベストを着ていたせいか、彼らの意識ははっきりしているようだ。運転手が無線で警察を呼び出す声が聞こえてくる。
「貴様《God damm》!」
近づいてくるスティクスの姿に気づいて、助手席の男が銃を抜いた。
だが、スティクスに動揺はない。銃を構えようとした男に向けて、圧倒的な速度で右手を突き出す。
いびつに変形し、透きとおるように淡く発光するその指先から噴《ふ》き出したのは、霧《きり》だった。
汗腺《かんせん》から滲《にじ》み出た粘液《ねんえき》を、加圧して霧状に噴出《ふんしゆつ》させたのだ。
実際の粘液の量は多くない。人間の汗《あせ》と同じ程度、せいぜい数ミリリットルほどしかない。
だが、その無色透明の粘液に包みこまれた男の表情は強張《こわば》った。
どんなに力を入れても、引き金を引くことができない。拳銃が作動しないのだ。
作動不良を起こしやすいオートマチック・ピストルではない。信頼性の高いリボルバーである。安全装置なんてしゃれたものも存在しない。にもかかわらず、シリンダーや撃鉄《げきてつ》が本体に溶接されてしまったかのように動かない。
否。動かないのは、拳銃だけではなかった。拳銃を構えた男の腕が、小刻みに震えている。
警備員の全身を覆った粘液が、半透明の結晶と化して彼の全身を固めていた。もはや彼は、銃を手放すことも、シートから立ち上がることもできない。それどころか、驚愕《きようがく》に見開いた目を閉じることさえできないでいる。
「|く《Shit》、くそっ」
弱々しく呻《うめ》く警備員を見おろして、スティクスは哄笑《こうしよう》した。
続けて、運転席に座っていた警備員にも粘液を噴きつける。隠し持っていた拳銃を抜こうとしていた警備員は、足首に手を伸ばした不自然な姿勢のまま動けなくなり、悲鳴をあげた。
そのころには、スティクスの部下たちも行動を起こしていた。
逃走用のダッジ・ヴァンで乗りつけた六人組が、ライフルを抱えて降りてくる。
油断なく周囲を見回しながら、そのうちの二人が輸送車の荷室へと向かった。爆薬を使って、荷室のロックを破壊するつもりなのだ。この輸送車に五百万ドルの現金が積まれていることは、事前の調査で確認してある。
これはまさにゲームだ、とスティクスは思う。
統合計画局を脱走し、ここ一カ月の間に三台の現金輸送車を襲った。部下たちにくれてやった分け前を除いても、スティクスの儲《もう》けは一千万ドルをくだらない。この豪勢な遊びに比べれば、ラスベガスのカジノなど子どものママゴトも同然だ。
とはいえ、今回は少々派手にやりすぎた。そろそろ潮時だろう。統合計画局の連中も、そろそろ嗅《か》ぎつけてくるころだ。
民間の警備員や警官が何百人やってこようと恐れる必要はない。しょせん彼らはただの人間だからだ。だが、|奴ら《ヽヽ》はまずい。人間と同じ外見を持ちながら、脅威的な筋力と運動能力、そして恐るべき特殊能力を備えた奴ら。スティクスの同類――レベリオン。
人間以上の存在でありながら、人間ごときのために働く愚《おろ》か者どもめ。
湧《わ》きあがる怒りに、スティクスがぎりっと奥歯を鳴らす。
その瞬間、なんの前触れもなく爆音が轟《とどろ》いた。
装甲輸送車が震動し、ダッジ・ヴァンのガラスが砕《くだ》け散った。
一瞬、部下たちが荷室を爆破したのか、と思った。だが違った。続けざまに轟音《ごうおん》が鳴り響き、断末魔の悲鳴があがる。聞き覚えのある声。荷室の爆破作業をしていた部下たちの声だ。
「|なんだっ《What the hell》!?」
スティクスが運転席から飛び降りる。その直後、周囲の警戒《けいかい》にあたっていた残りの部下たちが次々と吹っ飛んだ。銃撃を喰《く》らったのだ。
それも、拳銃のような生易《なまやさ》しい攻撃ではなかった。防弾ベストを貫通して胴体がちぎれ飛んでいる。確認するまでもなく、全員が絶命していた。機関銃並みの破壊力だ。
どうやら重武装の警備員が荷室に残っていたらしい。スティクスたちの襲撃を予想して、ずっと待機《たいき》していたのだろう。
「|ちぃ《Damm it》……」
スティクスの反応は速かった。跳躍《ちようやく》して、一息で装甲輸送車の屋根に躍《おど》り出る。普通の人間には不可能な動きだ。それはつまり、敵が予測できない動きということでもある。
警備貝がどんな重火器で武装していようとも、背後から奇襲をかければどれほどの脅威でもない。接近して一気に片づける。そうスティクスが決意した瞬間だった。
ゆっくりと、|それ《ヽヽ》が振り向いた。
それは、ただの警備員ではなかった。プラスチック爆弾の爆風を受けたはずなのに、半壊した荷台の上に平然とたたずんでいた。全身を防弾ベストのような素材で覆《おお》い、右腕に見慣れない形のライフルを握りしめている。
その全身は黒ずくめだった。普通の人間よりも一回り巨大なその身体《からだ》は、アイスホッケーのプロテクターをまとっているようにも見える。盛り上がった肩となかば一体化したフルフェィスのヘルメット。滑《なめ》らかな表面で構成されたシルエットにスティクスが連想したのは、映画に出てくる未来世界の宇宙服だった。
頭上から襲いかかるスティクスに向けて、そいつがライフルを構えた。ライフルと言っても、車載用の機関銃に近い大きさがある。重量も並のライフルの倍ではきかないはずだ。
だが、そいつの動きは速かった。生物的で、凶悪《きようあく》な動き。
スティクスの反応速度を持ってしてもよけきれない――!
「|ぐあああ《Fuuuuuuuuuuk》あああああっ」
ライフルの銃口が火花を散らし、スティクスが絶叫した。
スティクスの左腕が、消滅していた。
おそらくは七・六ニミリのNATO制式弾薬、それも対航空機用の|炸 裂 弾《エクスプローシブ》を使用しているのだろう。レベリオンの強靭《きようじん》な肉体でなければ、着弾の衝撃《しようげき》だけで絶命していてもおかしくない。それほどの破壊力だった。
激痛と怒りに顔を歪《ゆが》めて、スティクスが吼《ほ》える。
いかにレベリオンの肉体が強力な再生能力を備えているといえども、失った腕を治癒《ちゆ》するには相当な時間がかかる。失血による体力の消耗《しようもう》もばかにならない。
だが、これではっきりした。これほど危険な武器を装備した者が、普通の警備員などではあり得ない。この黒ずくめはスティクスを、すなわちレベリオンを抹殺《まつさつ》するために送りこまれてきた刺客《しかく》なのだ。
「|喰らい《Fuck You》やがれ」
スティクスが、残された右腕から粘液《ねんえき》の霧《きり》を放った。
その正体は、シアノアクリレートと呼ばれる化合物である。ブドウ糖や脂肪酸などと同じ、生体内でも容易に分解される炭水化物の一種だが、この物質は空気中のわずかな水分を触媒《しよくばい》として、周囲の物質を強固に接着してしまうという特性を持っている。
硬化するまでに必要な時間は、わずか数秒。シアノアクリレートは、いわゆる瞬間接着剤の主成分でもあるのだ。
そのシアノアクリレートを体内で合成し、射出する。それが、彼の暗号名の由来《ゆらい》にもなったトランスジェニック能力|粘 着《ザ・ステイック》≠ナあった。
粘着℃ゥ体に、破壊力と呼べるものはほとんどない。だが、粘液の噴出量を加減することで、先ほどの警備員たちのように生かしたまま動きだけを封じることもできるし、垂直のビルの壁に自らの手足を貼《は》りつけて、蜘蛛《くも》のようによじ登ることも可能だ。
そして統合計画局の刺客を相手に手加減してやる必要はない。スティクスは合成能力を全開にして、ありったけの粘液を吐《は》き出した。粘着≠ヘ目標の全身を接着剤で塗り固めて、そのまま窒息死させることも可能なのだ。
「ハッハ――ッ」
スティクスが歓声をあげた。粘液《ねんえき》の霧《きり》に覆《おお》われて、黒ずくめの全身が見る間に半透明の結晶に覆われていく。どんな強力なプロテクターに防御《ぽうぎよ》されていようとも、この攻撃から逃れるのは不可能だ。あとはただ身動きもできないまま死を待つだけ。
そう思われた瞬間、|そいつ《ヽヽヽ》が動いた。
半透明の結晶が、水|飛沫《しぶき》のように砕《くだ》け散る。
全身を包んだ高分子化合物の結晶を、黒ずくめが力ずくで破壊し、打ち砕いたのだ。
あり得ない力だった。シアノアクリレートは、工業用途にも使用されるほど強力な接着力を持っている。指にこびりついたものを無理に引きはがそうとすれば、皮膚ごとはがれてしまうほどだ。その結晶を、内側から破壊する。人間には考えられない力であった。
「|ばか《Jegus》な……|信じられん《It must be joking》……」
混乱するスティクスの前で、そいつは銃口が詰まって使い物にならなくなった銃を捨てた。
そして、腰から巨大なコンバットナィフを取り出す。
キン、と耳障《みみざわ》りな高周波が響いた。スティクスは気づく。ナイフの刀身に超振動波が送りこまれている。
「|まさか……て《I don't believe it.You》めえ!?」
再び粘液《ねんえき》を放つべく、スティクスが右手を構える。
その直後、そいつが跳躍《ちようやく》した。
速かった。数メートルの間合いが、一瞬にしてゼロになる。人間ではあり得ない跳躍力。
ガードしようとしたスティクスの右腕を黒ずくめの圧倒的なパワーが叩《たた》き潰《つぶ》し、高速振動を繰り返す黒塗りのナイフが、さしたる抵抗もなくスティクスの頭部に吸いこまれた。
「……|てめえもレ《You,Rebellion too》ベリオン……か……!?」
致命傷を負いながら、なおもスティクスが呆然《ぼうぜん》とつぶやく。
そのときはじめて、そいつが口を開いた。空気の抜ける低い音とともに、短く吐《は》き捨てる。
「|貴様らと一緒にするな《Don't call us such a fucking name,》、|化け《monster》物」
スティクスは、その言葉を最後まで聞くことはできなかった。黒ずくめの超振動ナイフが、スティクスの頭蓋《ずがい》から胴体へと駆《か》け抜けたのだ。いかに強靭《きようじん》なレベリオンといえども、脳を完全に破壊されては死に抗《あがら》うことはできない。声もなく絶命する。
黒ずくめの影は、スティクスの死亡を確認すると、その死体を大破した装甲輸送車の荷室に投げこんだ。
一瞬のためらいもなく、起爆装置のスイッチを入れる。
これまでとは比較にならないほどの爆音が轟《とどろ》き、装甲輸送車は炎《ほのお》に包まれた。
二人の戦いの証拠となる、すべてのものが燃え落ちていく。スティクスの部下たちも、レベリオンの存在を知ってしまった生き残りの警備員たちも、すべてが。
「|アレス3《This is Ares 3》だ……|目標の抹消を確《Extermination completed》認した」
炎《ほのお》の中を悠然《ゆうぜん》と歩きながら、黒ずくめの影が告げた。
凄惨《せいさん》な殺戮《さつりく》の直後とは思えぬ、淡々とした声だった。それに応《こた》えて、内蔵の無線機から、同じように感情のない言葉が聞こえてくる。
『了《O.K.》解した、|アレ《Ares 3》ス3……|ただちに迎えのヘリを《Stay there, we'll pick you up soon》よこす、|待機せよ。次の作戦が発《Now, you are under the new command》動した』
「|次の作戦《New command》……?|どこ《Where》だ?」
一瞬だけ、アレス3と名乗った男の声に感情がこもった。
その声に、押し殺した歓喜を感じ取ったのだろう。オペレーターが沈黙した。
一連の騒ぎを聞きつけて、野次馬《やじうま》たちが集まり始めていた。
パトカーのサイレンが、遠くから聞こえてくる。今夜のニュース番組では、ただの強盗犯《ごうとうはん》が警備員と撃ち合いになって全滅したとでも報じられるのだろう。
物騒な話だが、人々が恐怖に打ちひしがれるほどのことではない。
人類を超える生物が、人々に紛《まぎ》れて生活しているという絶望に比べれば、その恐怖はどれほどのものでもない。
アレス3は、人々の目をさけてビルの陰に移動する。
穏《おだ》やかな午後の日差しが照らすハイウェイに、陽炎《かげろう》がゆらめいていた。
ヘリの接近に気づいてアレス3が顔を上げた。そのヘルメットの内側で、オペレーターの声が聞こえる。次の作戦区域は――
『…Japan……』
CASE:02 mamiko shimazaki 23:18, April 17 Takayo-City, Japan
島崎《しまざき》麻巳子《まみこ》が目覚めた揚所は、暗く、誰もいない部屋だった。
窓もなにもないので、ほとんど周囲の様子はわからない。だが、音の反響の具合から、それほど大きな部屋ではないと思われた。ひんやりとした床の手触りは、おそらく剥《む》き出しのコンクリートだ。察するに、倉庫のような場所らしい。
目覚めは最悪だった。
吐《は》き気と、軽い頭痛。固い床の上に寝ていたせいか、身体《からだ》のあちこちがズキズキと痛む。
起きあがろうとすると、右足に激痛が走った。触れてみると、足首が腫《は》れ上がって熱を持っているのがわかった。捻挫《ねんざ》か、悪くすると骨折くらいしているかもしれない。買ったばかりのスカートも、膝《ひざ》の部分が見事に裂《さ》けていた。
泣きたいような気分で原因を考えているうちに、しだいに記憶《きおく》がはっきりしてきた。
スクーターが転倒したのだ。
麻巳子は、地元の小さな商社に勤めている。今年の春に就職したばかりの新入社貝だ。正直言って仕事はあまり面白《おもしろ》くないし給料も安いが、職場の雰囲気は悪くない。
今日は、その職場の同僚に誘われて、季節はずれの花見に参加したのだった。お酒もだいぶ飲まされたのだが、同僚の制止を振り切って、スクーターに乗って家に帰ろうとしたところで事故を起こしてしまったというわけだ。
「……私の人生は、とことんツキに見放されているってわけね」
自嘲《じちよう》気味につぶやいて、麻巳子《まみこ》は自分の右手に触れる。
覚えているのは、転倒する直前に、スクーターの前輪が破裂《はれつ》してしまったことだ。いきなりの出来事だったのでひどく慌《あわ》てたのは確かだが、麻巳子の体調が完全なら、それでもどうにか立て直せたかもしれない。
だが、麻巳子は半年ほど前に右手を怪我《けが》している。複雑骨折というやつだった。
リハビリで、どうにか日常生活に支障《ししよう》がない程度には回復したが、今でも右手の握力は怪我をする前の半分ほどしかない。急ブレーキをかけるにも、暴れるスクーターにしがみつくにも、麻巳子の右手はあまりにも非力だった。
思えば、麻巳子が進学をあきらめたのも、元はといえば、この右手のせいだった。
昨年の秋、麻巳子は短大の音楽科に推薦《すいせん》入学が決まっていたのだ。だが、肝心《かんじん》の右手が思うように動かないのでは、楽器を操《あやつ》るどころではない。推薦入学の話は立ち消えになり、麻巳子は就職する道を選んだ。
両親は娘を襲った不慮の事故をひどく嘆いたが、麻巳子自身は意外に平静だった。
かつてプロの音楽家を目指していながら挫折《ざせつ》した両親の、自分に対する過剰な期待にうんざりしていたせいかもしれない。推薦入学が決まった直後の麻巳子は、浮かれていたかもしれないが、ある意味では荒れていた。毎日のように夜遊びしていたし、酒やタバコや、つまらないクスリにも手を出した。右手の怪我は、たぶん、その罰《ばち》があたったのだろうと思う。
それに右手を怪我したときの記憶《きおく》は、今となってはひどく曖昧《あいまい》なのだ。無理に思い出そうとすると頭の芯《しん》がしびれるように痛くなる。おそらく脳が思い出すことを拒否しているのだろう。
それでもいいと麻巳子は思っていた。今の生活には、それなりに満足している。新しい彼氏もできたばかりだ。
「そうだ……携帯《けいたい》……」
ふと、その存在を思い出して、麻巳子は着ていたコートのポケットを探った。
携帯電話はすぐに見つかった。ひょっとして誰かに盗《と》られているのではないかと思ったが、財布《さいふ》や免許証も同じ場所に入っていた。携帯も、壊《こわ》れてはいないようだ。二つ折りのボディを開くと、ぼんやりとした明かりが周囲を照らした。
「どこなの……ここ?」
わずかな光量を頼りに、麻巳子は周囲を見回す。そこは、奇妙な部屋だった。
家具らしい家具もなく、壁は鉄骨とコンクリートブロックが剥《む》き出しである。窓すらない。扉だけは、ごく普通のアルミ製だ。とりたてて頑丈《がんじよう》という感じでもない。さすがに破ることはできないだろうが、叫べば、たぶん外まで声が届くだろう。
奇妙なのは、壁一面が銀色に塗装されていることだった。よく見れば、床の一部も同じ色に塗られていた。汚れ具合からすると、つい最近、塗装を終えたばかりのようだ。
麻巳子《まみこ》は、じわじわと恐怖が這《は》い上がってくるのを感じた。
怪我《けが》をしている麻巳子を、通りがかりの親切な人が運んでくれたのだとばかり思っていたが、それにしてはこの部屋は異常だった。怪我人を介抱《かいほう》するには、まるでふさわしくない。それどころか、麻巳子を閉じこめるために用意されたようにも思える。
不自由な足を引きずって、麻巳子は入り口の扉に手をかけた。
予想どおり、扉には鍵がかけられていた。しかも外側から補強されているらしく、麻巳子の力ではびくともしない。それに、たとえ逃げ出したところで、今の麻巳子は立ち上がることすらできないのだ。
危うくパニックに陥《おちい》りそうになった麻巳子を救ったのは、携帯《けいたい》電話の液晶に表示されたマークだった。電波の受信状態を示すインジケーターだ。屋内にいるせいで電波の状態は良好とは言えないが、それでも圏外にはなっていない。携帯電話は使えるのだ。
麻巳子は自分自身を落ち着かせるために、ゆっくりと登録してあるアドレスを検索《けんさく》する。
警察はダメだ。スクーターで転んだことを調べられたら、飲酒運転のことがばれてしまう。かといって、両親に助けを求めるのは気が進まなかった。右手を怪我して以来、両親との仲は思わしくない。ぐだぐだと説教を聞かされるのはうんざりだった。
やはり彼に迎えに来てもらおう、と麻巳子は思う。時間は深夜零時に近い。いくらなんでも、彼の仕事も終わっているはずだ。
使い慣れた番号を呼び出そうとして、麻巳子はふと動きを止めた。
麻巳子には、自分がどこにいるのかわからないのだ。いったい彼に、なんと説明すればいいのだろう。やはり警察に電話するべきだろうか。最近は、携帯電話でも逆探知のようなことができると聞いたことがある。だがしかし……
電話機を握りしめたまま麻巳子はしばらく悩んでいたが、そのうちに、ふとあることに思いあたった。
匂《にお》い、だ。
ほんのかすかだが、部屋の中に、なにかの匂いが残っている。鼻につく異臭だが、特に不快ではない。よく知っている匂いだ。夏の匂い。
「そうか、ここ……」
その匂いがきっかけになって、麻巳子は自分がどこにいるのか理解する。そう、よく見れば、そこは麻巳子の知っている場所だった。かつて、何度となく利用したことのある場所だ。窓がないのも当然だった。
なぜ自分がそんな場所にいるのかはわからなかったが、とりあえず助けが呼べることに麻巳子《まみこ》は安堵《あんど》した。携帯《けいたい》の電波状況をもう一度確認し、操作ボタンに手をかけようと、
電話が鳴った。
暗闇《くらやみ》に慣れた目に、液晶パネルの点滅がまばゆかった.着信音が、やけに大きく感じられる。
表示された電話番号は非通知設定だ。この時間にかけてくる相手に心当たりはない。
なぜか不吉な予感を感じながら、麻巳子は通話ボタンを押す。
『……気がついたか?』
電話口から流れ出した声は、知らない男の声だった。
しゃべり方は若々しいが、ひどく疲れているようにも聞こえる。それでも、自分とたいして変わらない年代だろうと麻巳子は思った。自然と、刺々《とげとげ》しい口調になる。
「あなた、誰?」
「……」
すぐには、返事はなかった。かすかに、呼吸だけが聞こえてくる。興奮しているようにも、苦悩しているともとれる荒い息づかいだ。
「あなたが、私をこんなところに運んだの? どうして?」
『……おれが、選ばれた人間だからだ』
「はあ……!? なによ、それ……」
男の言葉に、偏執《へんしつ》的なものを感じて麻巳子はぞっとした。幼稚な選民思想を持つタチの悪い宗教を連想してしまう。男の声は奇妙に穏《おだ》やかで、それもまた不気味だった。
『おまえは、犯してはならない罪を犯した』
男が続けた。少なくとも表面的には、それは、ひどく理性的な声だった。
『罪は、裁かれなければならない。それが罪の存在を知ってしまった者の務めだというのなら、おれはあえてその任を引き受けよう……』
「いったいなにを言ってるの!?」
恐怖に耐えかねて、麻巳子は叫んだ。
「罪ってなに!?飲酒運転のことを言っているのなら――」
その言葉が終わるよりも早く、麻巳子の目の前が明るくなった。なにが起きたのかわかったのは、袖口《そでぐち》に刺すような痛みを感じたからだ。
麻巳子のコートが、なんの前触れもなく燃え上がっていた。短い悲鳴とともに、携帯をとり落とす。慌《あわ》てて壁にこすりつけると、炎《ほのお》は消えた。
触れると、袖口のボタンがひどく熱くなっていた。
『……これが運命だと言うのなら、すべてはあの日に始まったんだ……おれが、それまでの自分のすべてを失ったあの日に……』
携帯からは、独りごとのような男の声が流れ続けている。その声に、激しいノイズが混じり始めていた。次第に、聞き取りにくくなっていく。
「ひ、ひいっ!?」
次に燃え上がったのは、背中だった。
麻巳子《まみこ》はマッチなど持っていないし、もちろん部屋の中に火の気などない。気温が上昇した形跡《けいせき》もない。だが現実に、麻巳子の全身が次々に発火し始めている。
なにもない場所に、手を触れることもなく炎《ほのお》を生み出すことができる。昔、そんな超能力を持つ少女の映画を見たことがあった。そんなはずはない、と麻巳子は思う。この部屋はコンクリートで密閉されているのだ。この部屋には、誰もいないのだ。
一度、完全に火がついてしまうと、合成繊維の服が燃え上がるのは早かった。
暗闇《くらやみ》を照らして、明々《あかあか》と炎が燃え上がる。
やがて麻巳子の悲鳴も途切れ、その身体《からだ》は炎の中にぐったりと横たわった。動かない麻巳子の右手の包帯が、じりじりと燃えて行く。炎の爆《は》ぜる音が響く。
通話を続けていた携帯《けいたい》が白い煙を上げたかと思うと、液晶パネルの弱々しい光が、鮮《あざ》やかな炎の赤に包まれた。
男の声が沈黙する。あとには炎だけが残される。
部屋の扉は、今も固く閉ざされたまま。
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第一章
月曜日の事件
Trouble on Monday
1
その朝、緋村《ひむら》恭介《きようすけ》は寝坊した。
背中を乱暴に蹴《け》り飛ばされて目を覚ますと、すぐ後ろに姉の杏子《きようこ》が立っていた。
恭介より十歳年上のこの姉は、けっこうな美人であるにもかかわらず、なぜかいつもだらしない印象がある。今も、よれよれの白衣を着崩《きくず》したまま、火のついていないタバコをくわえていた。
「目は覚めた?」
思いっきり人を蹴飛ばしておきながら、しれっとした口調で杏子が言う。恭介はのろのろと顔を上げ、ヘッドホンを投げ捨てた。
大音量のハードロックが、頭の中でぐるぐると反響していた。昨夜遅くに勉強を始めたとき、眠気《ねむけ》覚ましになるかと思ってかけてみたのだ。が、そのあとの記憶《きおく》が途切れているところをみると、どうやら効果はなかったらしい。机の上に散乱しているのは、手つかずの宿題プリントだった。
「……どうせなら、もうちょっと早く起こしてくれ」
寝起きの不機嫌な声で、恭介が言う。時計を見ても、あわてる気力すら湧《わ》いてこなかった。
HRの開始時間まであと五分。完壁に遅刻である。
そんな恭介《きようすけ》の不満の声を、姉は鼻で笑って一蹴《いつしゆう》した。
「なんであたしがあんたの遅刻の心配をしてあげなきゃいけないのよ」
「じゃあ、なんの用だよ」
少しむっとしながら恭介が言うと、杏子《きようこ》はにやりと唇《くちびる》の端《はし》を吊《つ》り上げた。腕を組んだまま、視線を一瞬だけ窓の外に向ける。
「べつに。ただ、いつまでも待たせとくのも、かわいそうだと思ったの」
「かわいそう……?」
「そう、それだけよ」
そう言って、杏子は部屋を出ていった。あとに取り残された恭介は首をひねる。わけがわからない。
やれやれと嘆息しつつ、それでも恭介は制服に着替えた。急げば、授業の開始時問には、間に合うかもしれないと思い直したのだ。月曜の一限目は英文読解で、担当教師の矢部《やべ》は恭介たちのクラス担任でもある。無断欠席ということにされると、あとでなにかと厄介《やつかい》だ。
手早く身支度をすませ、荷物をカバンに詰めこんで部屋を出る。リビングを振り返ると、姉は優雅に朝のコーヒーなどを楽しんでいた。香ばしい匂《にお》いが空《す》きっ腹を刺激したが、恭介には朝食をとっている暇はない。悲しい気持ちで靴を履《は》いていると、その姉が声をかけてきた。
「恭介、あんた、今日は余計なことに首を突っこんじゃだめよ」
「……なんだそれ?」
訊《き》き返したが、杏子はそれ以上なにも言わなかった。コーヒーカップを片手に、広げた新聞を読んでいるだけだ。どうせワイドショーの『今日の運勢』でも見たのだろうと思って、深く考えないことにする。いい歳こいて占《うらな》いかよ。そんなことを思いながら、恭介はドアを開けた。
その途端、
「遅い」
澄んだ声で怒られて、恭介はおどろいた。
緋村《ひむら》家の門柱にもたれるようにして立っていたのは、恐ろしく綺麗《きれい》な一人の少女だった。
伸ばした栗《くり》色の髪が、きちんと着こなした制服の襟《えり》にかかっている。色素の薄い大きな瞳。整いすぎた顔立ちに、可愛《かわい》らしさよりもむしろ近寄りがたい非現実感を感じてしまう。冷たく透きとおった混じりけのない鉱物の結晶のような少女は、かすかに幼さを残した口調で言った。
「いつまで寝てるの、完全に遅刻じゃない」
「か……香澄《かすみ》?」
上擦《うわず》った声で、恭介はようやく彼女の名前を呼ぶ。
「なんでこんなとこに?」
少女は、無表情に恭介を見上げている。
「待ってたのよ。あなたが学校をさぼったりしないように」
「はあ……」
困惑《こんわく》したまま恭介《きようすけ》はつぶやいた。少し遅れて、姉が自分を起こしにきた理由は、|これ《ヽヽ》だったのかと思いあたる。
秋篠《あきしの》香澄《かすみ》は、恭介の監視者だ。米国防総省から派遣され、軍事衛星まで駆使《くし》して恭介の行動を見張っている。彼女の失策で「特殊な能力」を手に入れてしまった恭介が、その能力を悪用しないように監視しているのだ。それどころか、万一の場合には自らの手で恭介を抹殺《まつさつ》するのだと彼女は言う。
だからといって、ちょっと寝坊したくらいで、家まで押しかけてこられたのではたまらない。
「おまえな……そんなことで、いちいち家まで迎えにくるなよ。小学生じゃないんだから」
「迎えにきたわけじゃないわ」
撫然《ぷぜん》とぼやく恭介に、香澄は淡々と言い返した。
「あたし、今日は学校に行かないから」
「はあ? だったら、なんでまた……」
「だけど、あなたが学校にいないと困るの」
「……なんだそれ? わけわかんねえな」
そう投げやりにつぶやきかけて、恭介ははっと真剣な表情を作った。思わず声が硬くなる。
「まさか……またなにかあったのか?」
問いかける恭介を、香澄は無表情にじっと見返した。
香澄の任務は、恭介の監視だけとは限らない。未確認のレベリオンが犯罪を犯した場合には、その捜査《そうさ》にあたることもある。彼女が学校を欠席する理由として、真っ先に思いついたのが、そのことだった。これまでにも香澄は何度か、「事件」のたびに学校を欠席している。そして何日かすると、何事もなかったかのように教室に戻ってくるのだ。その間になにがあったのか訊《たず》ねても、絶対に彼女は教えてくれない。
だから今回も、まともな返事を期待していたわけではなかった。いつものように、あなたには関係ない、と冷たくあしらわれることを覚悟《かくご》していた。ところが今日に限っては、いつもと違う反応を彼女は示した。
小さくため息をついて、ぽつりと言ったのだ。
「すぐにわかるわ」
「……って……なにが?」
ますます混乱して恭介が訊《き》く。
だが、全度は香澄も答えなかった。さっさと恭介に背を向けて、一方的に言い放つ。
「授業に出るつもりなんでしょ。急がないと間に合わないわよ」
「あ、ああ……」
これからさぼるつもりの人間に言われたくないとは思ったが、それはたしかに事実だった。
恭介《きようすけ》がなにも言えないでいるうちに、香澄《かすみ》は黙って背中を向ける。出会ったころから変わっていない、無言のうちに他人を拒絶する頑《かたく》なな態度。
恭介はこっそりとため息をつく。
と、それを見透かしていたように、香澄が振り返って恭介を見た。
「ひとつだけ忠告しておくけど」
あからさまに不安そうな口調で彼女は言う。
「恭介、あなた、今日は余計なことに首を突っこんじゃだめよ」
そう言い残して去っていく香澄の後ろ姿を、呆然《ぼうぜん》と立ちつくしたまま恭介は見送った。
初夏のさわやかな木漏《こも》れ日の中へと、溶けこむように少女は消えていく。
占《うらな》い……流行《はや》ってるのかな。
ぼんやりとそんなことを思いつつ、恭介は一人で途方に暮れた。
2
恭介の通う高城《たかじよう》学園高校は、切り開いた山の上に造られている。
正門までは急な坂道を延々とニキロも上らねばならず、そのため市内の高校ではめずらしく、生徒のバイク通学が認められていた。
しかし、肝心《かんじん》の駐輪場が校舎から離れたへんぴな場所にあるせいで、実際にバイクを通学に使っている生徒はあまり多くない。恭介自身、最近ではなるべくバスを利用するようにしているほどだ。とはいえ、通学バスの運行時間はとっくに終わっていたので贅沢《ぜいたく》も言えず、恭介は、体育館裏のごみごみとした駐輪場に愛車XJRを乗りつけた。
どうせ遅刻だと開き直って、あえてゆっくりと昇降口に向かう。
空はよく晴れており、このまま授業をさぼって昼寝でもしていたい誘惑《ゆうわく》にかられたが、今日のところは我慢することにした。これでも一応、受験生という自覚はあるのだ。
駐輪場のフェンスを乗り越えると、そこは武道場になっており、その向かい側にはプールが配置されている。プールの脇を横切っていくとだいぶ時間の節約になるのだが、その付近に人影を見かけたので、恭介は近道を断念した。
季節はずれのプール周辺をうろついているのは、背広や作業服を着た大人たちの集団だった。
あたり一面に立ち入り禁止のロープを張り巡らせ、その中を、ぞろぞろと歩き回っている。
テレビで見る刑事ドラマのような雰囲気だったが、恭介は興味を覚えなかった。改修工事の下見か、水質検査の類《たぐい》だろうと思う。どちらにしても生徒には関係のないことだ。とりあえず遅刻を見咎《みとが》められないように、恭介は早足でその場を離れた。
授業はすでに始まっているはずだが、思いのほか校舎内はざわついていた。
昇降口で上履《うわば》きに履き替え、階段を上る。恭介たち三年生の教室があるのは四階だ。
階段を上りきったところで呼吸を整え、どうにかして教壇にいるはずの担任にばれずに席につけないものかと、廊下の陰から様子をうかがう。と、
「緋村《ひむら》くん」
いきなり背後から名前を呼ばれて、恭介《きようすけ》はぎくりと硬直した。
振り返ると、クラスメートの草薙《くさなぎ》萌恵《もえ》が、プリントの束を抱えて立っていた。荷物を持ったままの恭介を見て、なぜか少しほっとしたような表情でくすりと笑う。
「おはよう。また遅刻?」
「う……まあね」
平静を装って答えながらも、恭介は内心ちょっと傷ついていた。どうやら、またと言われてしまうほど、しょっちゅう遅刻してくると思われているらしい。実際そのとおりだからしょうがないのだが、彼女にだらしないところを見られてしまったと思うと、なぜか焦《あせ》ってしまうのである。草薙萌恵は、恭介にとってそういう存在なのだった。
「よかったね」
その萌恵が、ふわりと優しく微笑《ほほえ》んで言った。
「この時間、ちょうど自習だよ。緊急の職員会議だって」
「自習? なんだ……助かった」
恭介もつられて笑う。どうやら彼女の抱えているプリントが自習用の課題ということらしい。
両手がふさがっている彼女のかわりに教室のドアを開けると、クラスの連中は、みなリラックスした雰囲気で雑談や内職にはげんでいた。いくら受験生といっても、そうそう勉強ばかりしていられるわけではないのだ。
恭介の席は廊下側の最後列だった。堂々と正面の入口から入って席につくと、前の席の榛原《はいばら》孝太郎《こうたろう》が、呆《あき》れたような顔で振り返った。
「遅かったな、恭介。一人か?」
「ん、ああ……なんで?」
訊《き》き返した恭介に孝太郎は答えず、黙って視線を窓際に向けた。端《はし》から二番目の最前列に、ぽっかりと空《あ》いている席がひとつある。香澄《かすみ》の席だ。
「もしかしたら二人で学校をさぼって、どこかに行ってるんじゃないかと思った」
孝太郎の言葉に一瞬どきっとした恭介だったが、なるべく感情を表に出さないようにして、あほか、と短く言ってやった。孝太郎は、ふっと笑って肩をすくめる。
「そんなことより、孝太郎、数学のプリント写させてくれ。今日が提出日だったやつ」
「どっちだ。微積のやつでいいのか?」
「いや、ほかのも全部。悪い」
恭介が神妙な顔つきで手を合わせると、孝太郎は苦笑いを浮かべながらも、丁寧《ていねい》に折りたたんだプリントをひとそろい手渡してくれた。プリントの回答欄には、ワープロで打ったような几帳面《きちようめん》な字がびっしりと並んでいる。
「悪いな」
と、もう一度頭を下げて、恭介《きようすけ》はさっそく宿題のコピーを始めた。とはいえ、数学は途中の計算式も書かなければならないので、中身を丸写しにするわけにもいかない。孝太郎《こうたろう》は学年でも指折りの秀才なので、恭介なんかが彼と同じ答えを書いていたら、一目で書き写したことがばれてしまうからだ。
苦心して、いかにも自分でやりました、というふうに答えを書き換える恭介を、孝太郎が楽しそうに見守っている。
「そういや、ほかのクラスも自習なんだろ。なんかあったのか?」
ふと気になって訊《き》いてみると、孝太郎は少し意外そうな顔をした。
「聞いてないのか?」
「なにを?」
恭介は宿題を写す手を休めて顔を上げた。孝太郎が、一瞬だけ言いにくそうに口ごもる。
「……校内で死人が出たんだ」
「死人?」
思わず恭介は声を上げた。クラスメートの何人かが気づいて振り返ったが、誰も興味を示さないところを見ると、どうやら皆すでに知っていることのようだ。
「誰が死んだんだ。俺《おれ》らの学年のやつ?」
身を乗り出して恭介が訊くと、孝太郎は軽く首を振った。
「違う。死んだのは卒業生だ。島崎《しまざき》って人、知ってるか?」
「いや……去年の卒業生?」
「そう。俺たちの一コ上……去年三年生だった女の人が、プール横の更衣室で死んでたらしい。死んだのは金曜の夜で、発見されたのは昨日《きのう》の朝」
「まじかよ……」
恭介はシャープペンシルを放り出して、低く唸《うな》った。プールの周りをうろついていた集団のことを思い出す。あそこにいたのは、本当に刑事だったのだ。
「けど……プールの更衣室? なんで、そんな場所で死んだりする? この時期、あんなところに用があるやつなんていないだろ?」
「ああ」
孝太郎はうなずいて、いつも授業中にだけかけているメガネの弦《つる》に触れた。
「だから、最初は自殺だと思われていたんだ。焼死だったんだが、更衣室のドアも施錠《せじよう》されていて、外からは入れない状態だったらしい」
「自殺、か……」
つぶやいて、恭介は顔をしかめた。名前も知らない卒業生が死んだと言われても、今ひとつ実感がわかない。だが、卒業したばかりの先輩《せんぱい》が、わざわざ高校のプールに忍びこんで自ら命を絶つというのは、やはりどこかやりきれない気分がした。
「なんかあったのかな。学校のプールに恨《うら》み、とかさ。水泳部員だったとか」
「いや、たぶん関係ないだろう」
孝太郎《こうたろう》が首を振った。真面目《まじめ》に自習している級友たちを気遣《きつか》ってか、声のトーンを落として、恭介《きようすけ》の耳元でささやくように続ける。
「警察も、本気で自殺だと思ってるわけじゃないようだ」
「どういうことだ?」
と、恭介は訝《いぶか》る。
「だって鍵がかかってたんだろう?」
「ああ。だけど、事件の現場には、あるべきものがなかったのさ」
そう言って、孝太郎は問いかけるような視線を恭介に向けた。
わざと回りくどい話し方をするのは、興味を持っている話題について語るときの孝太郎のクセだ。彼がミステリ小説の愛読者だったことを思い出して、恭介は苦笑した。
「なんだよ、あるべきものって。遺書《いしよ》か?」
「いや、違う。凶器《きようき》だ」
「凶器って……焼死じゃなかったのか?」
「焼死だよ。だけど、室内には火種《ひだね》になりそうなものがなにもなかったんだ。ライターやマッチや、もちろん火のついたタバコやなんかも」
孝太郎が真面目な顔で言う。恭介も眉間《みけん》にしわをよせて考えこんだ。
言われてみれば、たしかに不可解だった。安物の合成繊維の服などは、ちょっとした火花に触れただけで、勢いよく燃え上がることもあるらしいが、それにしても火種がなければ引火のしようがない。
「つまり」
と、孝太郎が息を継いだ。
「被害者以外の何者かが、彼女を焼き殺したあとで逃走したということになる」
「待てよ。さっき、更衣室は外から入れない状態だったって……」
説明を遮《さえぎ》って、恭介が言った。孝太郎は、重々しくうなずいた。
「そう。現場の焼け跡の状況から、更衣室が施錠《せじよう》されたのは、被害者の女性が燃え上がる前だったことが確認されている。ということは、犯人は離れた場所から、更衣室の中にいる彼女に火をつけたということになる。なかなか興味深いだろ?」
「……まあな」
曖昧《あいまい》にうなずきながら、なるほど、と恭介は思った。
不可解な密室での変死体。それが、自分たちのテリトリーである学校内で見つかったのだ。孝太郎が興味を持つのも無理はない。しかも、もしこれが本当に殺人事件だとしたら、犯人は高城《たかじよう》学園の関係者かもしれないのだ。
「孝太郎《こうたろう》……おまえ、自分で犯人を見つけるつもりか?」
「まさか」
孝太郎は首を振って笑った。
「どうして?」
「いや、やけに詳《くわ》しいからさ。調べたのかと思った」
恭介《きようすけ》がそう言うと、孝太郎は少し呆《あき》れたような顔をした。
「たまには新聞くらい読めよ、恭介。大学受験には時事問題だって出題されるんだぜ……って、遅刻してきたやつに言っても無理か」
「うっせえ。悪かったな」
ため息をつきながら、恭介は今朝の姉の言葉を思い出していた。
首を突っこむな、と杏子《きようこ》が言ったのは、この事件のことだったのだろう。なにがあったのかすぐにわかるという香澄《かすみ》の言葉の意味も理解できた。彼女たちは気づいていたのだ。この事件に、人間以外のなにか、が絡《から》んでいる可能性があることに。
「けど、たしかに調べてみるのも悪くないかもな。暇つぶしにはなるかもしれない」
まんざらでもない様子で、孝太郎が言った。この男は頭がいいだけでなく、以前に生徒会の役員を務めていたこともあって、職員室や運動部にも顔が利く。探偵《たんてい》ごっこの主人公としては、理想的な人材だろう。その気になれば、香澄たち統合計画局や警察も知らない事実を、案外、簡単に突き止めてしまうかもしれない。
だがそれは、彼が危険にさらされてしまうことを意味している。
「余計なことに首を突っこむのはやめとけよ」
恭介は、姉に言われた言葉を、そっくりそのまま孝太郎に告げた。
孝太郎は笑って肩をすくめた。
「ああ、冗談《じようだん》だ」
3
授業は通常どおり六時限目まで行われた。
自習になったのも午前中の二教科だけで、あとはいつもの退屈な授業だった。学校全体が、どことなく落ち着かない雰囲気に包まれているような気もしたが、それにしても特別になにかが違うというわけではない。
変わったことといえば、職員室に呼び出されて刑事と話をしたという生徒が、恭介たちのクラスにも何人かいたということだった。そのほとんどが、委員会や部活動の関係で過去に被害者の女性と面識のあった生徒だったが、彼女たちに訊《き》いても、特に目新しい情報はなにも手に入らなかった。
「恭介《きようすけ》、今日はどうする?」
放課後になると真っ先に、隣のクラスの山崎臣也《やまざきしんや》がやってきた。彼の恋人である津島麻子《つしまあさこ》や、その友人の真島《まじま》加奈子《かなこ》も一緒だ。
最近の恭介は、下校途中に彼らとつるんで市内の図書館に行くことが多い。いちおう勉強会という名目である。まっすぐに帰宅しても勉強しないのは目に見えているので、それなら気の合う仲間と、何時間か勉強して帰ったほうがいいということになったのだ。無駄話に熱中して勉強にならないことも多いのだが、それはそれで息抜きになる。
だが、さすがに今日は、寄り道をするような気分になれなかった。
「いや、やめとく。ちょっと用があるんだ」
恭介がそう言うと、臣也はあっさりうなずいた。
「そうか。俺《おれ》らも、今日は帰るかって言ってたところだったんだ。ああいう事件の直後だと、麻子《あさこ》ン家《ち》なんかは親が心配するかもしれないしな」
「生徒指導部の連中も、当分はうるさそうだな」
ため息をつくと、臣也は「俺もそう思う」と肩をすくめて笑った。
部活動は自粛《じしゆく》するように、という指示が出されていたこともあって、ホームルームが終わるとすぐに校舎の中はからっぽになった。わずかに残っていた生徒たちも、見回りの教師たちに追い立てられるようにして下校させられている。
恭介はいったん校門から出て駐輪場でしばらく時間を潰《つぶ》し、そのあと、こっそりと体育館の裏から校内に忍びこんだ。体育館の裏手はコンクリート塀《べい》が張り巡らしてあるのだが、恭介の身長なら、よじのぼるのはそれほど難しいことではない。
警察の現場検証はすでに終わったらしく、立ち入り禁止のロープが張られたプールの周囲に、人の気配は感じられなかった。恭介は何度も周囲を見回して誰もいないことを確認すると、植えこみの陰に隠れながら、ゆっくりと更衣室のほうへと回った。
高城《たかじよう》学園のプールは、なんの変哲《へんてつ》もない縦二十五メートルの屋外型だ。もちろん温水設備のような洒落《しやれ》たものはないので、この季節は使われていない。金網越しにのぞいたプールの水は、藻類が繁殖して緑色によどんでいた。
プールの入口側に隣接して、コンクリートブロックで造られた小さな建物がある。
扉は三つ。中央の一つが消毒薬やロープなどを収納する倉庫で、左右がそれぞれ男女の更衣室になっているのだ。当然ながら、この建物に窓はない。更衣室の広さは普通の教室の半分程度で、クラス全貝が一度に着替えようとすると、少し窮屈《きゆうくつ》だったことを恭介は覚えていた。
更衣室の外観は、事件が起きる前と、ほとんど変わっていなかった。
焼け焦《こ》げの跡も残っていないし、特に厳重に封鎖してあるということもない。惨劇《さんげき》の名残といえるようなものは、更衣室から少し離れた場所に積んである真新しい花束だけである。警察の現場検証はすでに終わったらしく、チョークの跡なども残っていない。
恭介《きようすけ》は、少しためらったあと女子更衣室の扉に手をかけた。
だが、扉は開かなかった。スライド式ドアの中央部に硬い感触がある。鍵がかかっているのだ。恭介は小さく舌打ちする。その直後、
「なにをしてるの」
ふいに背後から声がした。若い女の声。
立っていた場所が女子更衣室の前ということもあって、恭介はあわてて振り返る。
と、そこには責めるような目つきで恭介を見上げる秋篠《あきしの》香澄《かすみ》の姿があった。
恭介がほっとした表情を浮かべると、彼女は制服の腰に手をあてて、怒ったようなため息をついた。
「やっぱり来たのね、恭介……余計なことはするなって言ったのに」
「そんなこと言われてもな」
恭介は腕を組んで香澄を正面から見返した。彼女の服装は今朝会ったときと同じだ。一日中、学校をさぼって事件の調査をしていたのだろう。
「学校の中でレベリオンがらみの事件が起きたんだろ。気にするなってのは無理な話だぜ」
「レベリオンがらみ?」
香澄が、認《いぶか》しげに目を細める。
「どうしてそんなことを思ったの?」
「違うのか? 事件のとき更衣室は密室で、しかも外側から火をつけられたって聞いたぜ」
「……よく調べたわね」
「学校の中で噂《うわさ》になってる。考えてみれば、あんたが捜査《そうさ》に乗り出したって時点で怪しいって気づくべきだったよ。俺《おれ》に学校でおとなしくしてうって言ったのも、事件の現場に近寄らせないためだったんだろ」
恭介がそう言うと、香澄は無表情に首を振った。
「まだ、レベリオンの仕業《しわざ》だと決まったわけじゃないわ」
「けど、可能性は高いと思ってんだろ?」
「そうね」
意外にあっさりと香澄は認める。それから彼女は、もう一度ため息をついた。
「できればかかわらないで欲しかったんだけど、これ以上、勝手な行動をされても困るしね。わかったわ……しょうがないから説明してあげる」
学校の備品のキーホルダーを取り出しながら、香澄は言った。
なんだかひどい言われようだなと少し不満に思いながらも、恭介は黙っていた。香澄の態度が冷たいのはいつものことだし、ここで彼女の機嫌《きげん》を損《そこ》ねるわけにはいかない。
彼女が取り出した鍵は、平たい表面に複数の|窪 み《デインプル》がある、あまり見慣れない形をしていた。
半年ほど前に大きな事件があってから、高城《たかじよう》学園の鍵はすべて登録制の特殊なものに変更されている。プロの鍵師でも簡単には破れないし、合い鍵も作れないという特製のやつだ。
「その鍵は?」
と、恭介《きようすけ》が訊《き》く。
「職貝室に保管してあったやつよ。リチャード・ロウに借りてきてもらったの。この更衣室の鍵はふたつしかなくて、もう一個は体育科の教官室にあるわ」
「どっちにしても、部外者が持ち出すのは難しい場所だな」
恭介のつぶやきに、香澄《かすみ》がうなずいた。
「同感ね。でも、逆に言えば、この学校の関係者なら持ち出す機会がいくらでもあるってことじゃない? そのあたりは警察が調べてるでしょうけど、実際のところ、あたしたちにとって鍵の入手経路はあまり重要ではないわね」
たしかにそうだ、と恭介は思った。問題は、どうやって鍵をかけたかということではない。
鍵をかけたあとで、どうやって中の人間を殺したのかということだ。
香澄は鍵を開けて、ためらうことなく更衣室の中に入っていった。
さすがに更衣室の中には、事件の痕跡《こんせき》がまだ生々《なまなま》しく残っている。もちろん死体や遺留品《いりゆうひん》は運び出されたあとだったが、壁や天井が黒く煤《すす》け、床にはぼんやりと人の形に焼け焦げた跡があった。
「殺風景だな」
恐怖を紛《まぎ》らわすために恭介は言った。香澄はなにも答えない。
備えつけの棚をのぞけば、更衣室の中にはなにもなかった。窓もなく、ひんやりとしたコンクリートの壁が剥《む》き出しになっている。女子更衣室といっても、棚の位置が左右対称になっていることと、壁に塗ってある塗料の色が違うことをのぞけば男子の更衣室と違いはない。だがもちろん、外からのぞけるような隙間《すきま》は見あたらないし、天井近くの換気口《かんきこう》も、しっかりとメッシュのふたで覆《おお》われている。外から忍びこむどころか、マッチ一本投げ入れるのも不可能だ。
更衣室の扉はごく一般的な金属製のものだが、屋外で使用されているということもあって、かなり頑丈《がんじよう》に造られている。高熱が加えられたような形跡もない。普通の人間がこの扉ごしに被害者を焼き殺すのは、ほぼ不可能だろう、と恭介は思う。だが、
「レベリオンなら、この状態でも中の人間を殺せるかもしれないな」
「そうね」
と、香澄も同意した。
「あたしのスクリーミング・フィストなら、この壁こしに超振動波を送りこんで目標の内臓を破壊することができるし、あなたのブラスティング・ハウルは、換気口の隙間《すさま》から衝撃波《しようげきは》を撃ちこんで、室内の人間をズタズタにできる」
「同じように、壁こしに中の人間を焼き殺せる能力を持ったやつがいる、ってことだろ」
恭介が言うと、香澄は少し思いつめたような表情を浮かべた。
「そう……でも、だとすれば、逆に納得のいかないことがあるのよ」
「そうか?」
「考えてもみて。それほどの能力を持っている者が、どうしてこんな場所で殺人を犯さなければならないわけ?」
「え……?」
香澄《かすみ》の質問に、恭介《きようすけ》は意表を突かれたような気がした。言われてみればたしかに奇妙だった。
レベリオンとは、R2と名づけられた未知のウィルスに感染することで、遺伝子レベルでの「進化」を経験した新人類の総称だ。その語義は、人類が生み出した反逆者《レベリオン》、の意味である。
そして個々のレベリオンは、その名前にふさわしい破壊的な特殊能力を持っている。
外見的には普通の人間と変わらぬ少年少女が、猛獣《もうじゆう》以上の、それどころか完全武装の兵士をも凌駕《りようが》する戦闘能力を持っているのだ。
レベリオンの能力で犯された犯罪を、現行の法律で裁くことはできない。警察や軍隊もほぼ無力だ。極秘裏《ごくひり》に研究していたR2ウィルスを流出させてしまった統合計画局が、非合法の特捜官《とくそうかん》を組織してまで事態の収拾を図ろうとしたのも無理はないだろう。
そんな圧倒的な力を持つ存在が、人目につかない場所に被害者を連れこんだり、殺害現場を密室に偽装《ぎそう》するような手のこんだ真似《まね》をする必要はなにもない。レベリオンの特殊能力は、それ以上に不可解な完全犯罪を、たやすく可能にしてしまうのだ。
「殺人現場を密室にするメリットというのは」
なにもない更衣室の中を見回しながら、香澄が続けた。
「多くの場合、被害者を自殺に見せかけるためか、あるいは死体の発見を遅らせて逃走に必要な時間を稼《かせ》ぐのが目的よ」
「だけど、どちらもレベリオンには必要がないことだよな」
恭介は腕を組んで考えこむ。香澄は真剣な表情で恭介を振り返る。
「ええ、そのとおり。それに、本当に自殺に見せかけるつもりだったとしたら、今回の事件はあまりにもずさんだわ。遺書《いしよ》もないし、被害者の島崎《しまざき》麻巳子《まみこ》が乗っていたバイクは、現場から何キロも離れた場所で見つかっている。おまけに現場には肝心の凶器《きようき》がない。これでは自殺に見せかけるどころか、逆に、犯人が普通の人間ではないってことを証明しているようなものでしよう」
「犯人は、自分がレベリオンだってことをアピールしようとしているってことか? そのために、わざと完全な密室の中で被害者を殺してみせた……だけど、なんだってまたそんなことを……」
つぶやきかけて、恭介ははっとする。
事件の現場になったのは、レベリオンである恭介が通い、統合計画局からのエージェントが送りこまれている高城《たかじよう》学園なのだ。もし今回の犯行がレベリオンの仕業《しわざ》だとするなら、それがただの偶然だということはあり得ない。
「まさか……挑発してるのか? 俺《おれ》たちを」
恭介《さようすけ》が呻《うめ》いた。香澄《かすみ》が無表情に補足する。
「あるいは、犯人はあたしたちがレベリオンだってことに気づいてないのかも。ただ、自分と同じレベリオンが高城学園の中にいることだけは知っていて、あたしたちを、おびき出そうとしているってこともあり得るわ」
「そうか……だとすれば、直接、俺たちを狙《ねら》わななかった理由も説明できるな……」
ありそうなことだ、と恭介は思った。
あえてレベリオンの仕業《しわざ》としか思えない事件を起こすことで、高城学園の中で不審な反応を示す生徒がいないかどうか確認する。それが犯人の狙《ねら》いなのかもしれない。
香澄が、余計なことをするな、と恭介に忠告したのも、その可能性を考慮してのことだったのだろう。
「待てよ……ってことは、もしかしたらこの更衣室は今も監視されているかもしれないんじゃないのか?」
「そうなるわね。もっとも、もう用は済んだから、犯人はとっくにこの場を離れたと思うけど。いつまでも校内に残っていると目立つしね」
香澄がひどく冷静に返事をしたので、恭介はあわてた。
「お、おい……落ち着いてる場合かよ」
「大丈夫、あたしに考えがあるから」
「考え?」
「ええ。事件の現場を調べにきたからといっても、それだけの理由では、犯人も、あたしたちがレベリオンだと確信することはできないと思うのよ。ましてや、あたしと恭介の両方がレベリオン能力を持っているということまではわからないはずでしょう」
「あ、ああ……そうか」
恭介は少し考えてうなずいた。
「そうだな。仮に俺たちのどちらかがレベリオンだとしても、もう一人は普通の人間かもしれないと考えるよな、普通なら」
「ええ。だとすれば、あたしたちのどちらがレベリオンなのか、犯人は、まずそれをはっきりさせようとするはずよ。つまり、あたしたちが別々に行動しているときに、なんらかの接触を試みるはず……だから、罠《わな》をしかけるわ」
「罠?」
おどろいて訊《き》き返す恭介に、香澄は小さくうなずいた。
「そう。協力して、恭介。あなたは、今から、あたしに追い返されたふりをして、真《ま》っ直《す》ぐに自宅に戻る。あとは、あたしのほうから連絡するまで家から出ないで」
「ふん……それで?」
「それで、もし不自然な形であなたに接触してくる人間がいたら……」
「わかった。そいつを足止めしてればいいんだな」
「言うまでもないことだけど、十分に気をつけて。統合計画局のエージェントがあなたの家を監視するように手配するけど、相手がレベリオンではカバーしきれないと思う」
「心配ねえよ、まかせな」
そう言って、恭介《きようすけ》は力強くうなずいた。
恭介がレベリオンの能力を手に入れて、すでに半年以上が経過している。徐々にではあるが、一時はもてあましていた特殊な能力も、ある程度コントロールできるようになっていた。
どうやら香澄《かすみ》もそのことは認めてくれていたらしい。彼女のほうから協力して欲しいなどと言い出すのは、以前なら考えられなかったことだ。
「じゃあな」
その事実に満足した恭介は、周囲を警戒《けいかい》しつつ、駐輪場に向かってぎこちなく歩き出した。
だから、更衣室に残った香澄が、こっそり申し訳なさそうに舌を出していることに、恭介は最後まで気づかなかった。
4
「まったく……」
恭介の乗ったバイクが見えなくなるのを待って、香澄は大きなため息をついた。
「単純というか素直というか……まあ、おかげで助かったけど」
つぶやいた独り言に、おもわず苦笑が混じってしまう。香澄に年下の家族はいないのだが、もし弟がいたならきっとこんな気分なのだろう。だが恭介のそんな真《ま》っ直《す》ぐな性格は、けして嫌いではない。
協力してくれ、と恭介に頼んだのは、彼を追い返すための方便《ほうべん》だった。
犯人が自分たちをどこかで監視していて恭介を疑ったとしても、実際に接触を試みる可能性は低い、と香澄は思う。もし香澄が犯人の立場なら、危険を冒《おか》してまで二人のうちのどちらがレベリオンなのか確認するよりも、二人とも殺すほうを選ぶからだ。
恭介は追い払われたふりをして犯人をあざむいているつもりなのだろうが、実際には香澄にあざむかれて、本当に追い払われてしまったわけである。もちろん恭介も馬鹿ではないから、そのうちだまされたことに気づくだろう。
だが、とりあえずは彼がこの場所から離れてくれれば、それで十分だった。
本来なら彼は、殺し合いなどとは無関係の場所で、平和にすごすべき人間だったのだ。その運命を歪《ゆが》めてしまったのは、ほかならぬ香澄《かすみ》自身である。そのことを香澄は今も悔《く》やんでいる。
だから今も、できることなら自分の任務に恭介《きようすけ》を巻きこみたくないと思っていた。
たとえそれが、統合計画局の意向に逆らうことになっても、だ。
その香澄の表情から、苦笑が消えた。
きっと校舎の屋上を睨《こら》んで、走り出す。しなやかな脚が大地を蹴《け》り、ぐいぐいと加速する。
一瞬ののちに、その速度は、普通の人間には不可能な領域に達した。
ファージ変換。人間の細胞に擬態《ぎたい》していたレベリオン細胞が本来の働きを取り戻し、香澄の運動能力は十数倍にも跳《は》ね上がる。百メートルを走り抜けるのに五秒とかかっていないだろう。
地面を蹴る。香澄の身体《からだ》は重力に逆らってふわりと舞い上がり、一気に校舎の三階にも達した。ベランダの手すりに手をかけて、腕の力だけで再び跳躍《ちようやく》する。
栗《くり》色の髪が翼のようにたなびき、香澄は瞬《またた》く間に五階建て校舎の屋上にたどり着いていた。
ひゅう、と短い口笛《くちぶえ》が鳴る。
口笛の主は、屋上のフェンスにもたれた一人の男だった。腰のあたりまで銀髪を伸ばした、がっしりとした体格の白人男性。人間離れした香澄の動きを見ても、眉《まゆ》一つ動かしていない。
それどころか、愉快そうな笑みを口元に浮かべている。
「うまく隠れていたつもりだったんだがな……気づいていたのか。さすが、と言っておこう。秋篠《あきしの》香澄」
「アーレン……アーレン・ヴィルトール」
場違いなほど仕立てのよいスーツに身を包んだ男に向かって、香澄は押し殺した声で言った。
香澄の両手が水晶のような淡い輝きを放ち、きん、と大気を震わせている。超振動波を敵の体内に叩《たた》きこむ必殺のトランスジェニック能力|嘆 き の 拳《スクリーミング・フイスト》≠フ輝きだ。
「よくものこのこと顔を出せたものね。今回の事件、やっぱりあなたたちの仕業《しわざ》だったの?」
「心外だな……」
アーレンは苦笑したようだった。スーツのポケットに手を突っこんだまま、皮肉げな口調で答える。
「今回は俺《おれ》たちは傍観者だよ。レベリオンをおびき出そうとしているヤツがいるってことで、面白《おもしろ》そうだから見学に来ただけだ」
本当は見つかる前に帰るつもりだったんだがな、とアーレンが肩をすくめる。
「どうかしらね」
香澄は油断なく身構えたまま言った。
アーレン・ヴィルトールは、かつて統合計画局に所属していた強力なレベリオンであり、R2ウィルス流出事故を引き起こした脱走者の一人だ。
六十人以上の警備貝を壊滅《かいめつ》させ、追跡にあたったレベリオンの特捜官《とくモうかん》を、すでに四人も返り討《う》ちにしている。香澄といえども、楽に勝たせてもらえる相手ではない。
「あなたの能力……サンダーヘッド≠ネらば、密閉された部屋の内部の人間を焼き殺すことができるはずだわ」
「あいにくだが、俺《おれ》にはできんよ」
アーレンは、にやりと笑った。
「つまり、それが今回の事件の重要なヒントというわけだ。この敵は、おまえさんたちが想像している以上に、たちが悪いぜ」
香澄《かすみ》は黙ってアーレンを睨《にら》みつけた。
彼の言葉が事実かどうかは別として、たしかにアーレンには島崎《しまざき》麻巳子《まみこ》を密室で殺す理由がない。それに、彼はこれまでに何人もの人間を殺してきた凄腕《すごうで》の暗殺者だったのだ。今さら、人を殺したことを隠す必要もないはずだ。
「……それでも、あなたが統合計画局から手配されている犯罪レベリオンであることにかわりはないわ」
「ほう……俺をここで捕まえるつもりかい?」
アーレンはにっと歯を見せて笑う。
「やめとけよ。おまえさんの能力では俺には勝てない」
つぶやくアーレンの銀色の髪が揺らめいて、彼の周囲で青白い火花が散った。
アーレンのトランスジェニック能力|神の雷槌《サンダーヘツド》≠フ正体は、レベリオン細胞の圧倒的なパワーが生み出す超高電圧の電撃だ。しかも、イオン化した大気をコントロールすることで、きわめて精密な攻撃が可能である。格闘戦タイプのレベリオンである香澄にとっては、たしかに戦いにくいタイプの敵だ。
「緋村《ひむら》弟を帰してしまったのは失敗だったな、カスミ。俺のサンダーヘッドに対抗できるのは、同じ風≠フ属性−大気を操《あやつ》るヤツの能力だけだ」
「恭介《きようすけ》を戦いに巻きこむつもりはないわ」
アーレンを見据《みす》えたまま、香澄は言った。
「あなたたちにも、彼には手を出させない」
「ふむ……」
と、アーレンが、一瞬だけ奇妙な表情を浮かべた。いつも瓢々《ひようひよう》としているこの男にしては、めずらしい反応だ。困ったように唇《くちびる》を歪《ゆが》めて、真面目《まじめ》な声で訊《き》いてくる。
「好きなのか、あいつが?」
「なっ……」
思いがけないアーレンの質問に、香澄は絶句した。アーレンを攻撃することも忘れて、怒ったような顔で彼を睨《にら》む。
「なにをくだらないことを……そんなこと、あなたには関係ないでしょう!?」
「たしかにな」
アーレンは、ひょいと肩をすくめた。一見、無防備にも思える仕草《しぐさ》だが、こうしている今も彼の周囲を強力な雷撃がガードしていることを、ぴりぴりと帯電した空気が伝えてくる。
「だが、ひとつだけ教えてやるよ、カスミ。おまえさんが緋村《ひむら》弟を守りたいと思っているのと同じように、マスミは今でもおまえのことを愛している」
「――っ!?」
思いがけず語られた姉の名に、香澄《かすみ》は自分でも思いがけないほど動揺した。
その隙《すき》を、アーレンは見逃さなかった。
まばゆい閃光《せんこう》が香澄の視界を染めた。足元の地面が、高電圧の直撃を喰《く》らって弾《はじ》ける。
香澄は反射的に後方に跳び退《の》き、そして顔を上げたときにはアーレンの姿は消え失せていた。
レベリオンの運動能力を持ってすれば、五階建ての校舎の屋上から飛び降りるくらいはなんでもない。ましてや、逃げた方角もわからないのでは追跡することも不可能だ。
大きく傾いた太陽が、誰もいない屋上にフェンスの影を落としている。
「くっ……」
乱れた髪をはらって、香澄は唇《くちびる》を噛《か》んだ。
香澄を倒そうと思えばできたのだ。だがアーレンには、香澄を傷つける意志はなかった。
その事実に香澄は、屈辱《くつじよく》と、形容しがたい恐怖を感じた。
アーレンの最後の言葉が、耳の奥によみがえる。そんなことを、絶対に認めるわけにはいかなかった。香澄は屋上のフェンスを殴《なぐ》りつけた。
――マスミは今でもむまえのことを愛している。
その言葉を振り払うように、香澄は、何度も何度も首を振った。
赤く錆《さ》びたフェンスが、そのたびにぎしぎしと悲しい音をたてた。
5
夕|闇《やみ》に浮かぶ高城《たかじよう》学園の校舎が、ルームミラーの中で次第に小さくなっていく。
アーレン・ヴィルトールの乗った銀色のAMGメルセデスは、しだいに速度を上げながら、市街地に向かう幹線道路へと乗り入れた。
カーステレオの電源は消えている。車内で聞こうと思っていた音楽MDを、うっかりスーツのポケットに入れていたせいで、だめにしてしまったのだ。
サンダーヘッドは強力なトランスジェニック能力だが、身につけている磁気製品を破壊してしまうのだけが困りものだった。おかげで時計や携帯《けいたい》電話さえも、おちおち持ち歩くことができない。
――予定外《イレギユラー》のレベリオン事件《ケース》か。
V型八気筒エンジンの排気音に身を任せながら、アーレンは考える。
――今回はカスミと緋村弟のお手並み拝見だな。問題は、そろそろ『彼女』の『実験』を、統合計画局の連中も嗅《か》ぎつけるだろうということだが……
「ふむ……そうきたか」
ちらりとミラーに目をやって、アーレンはアクセルを踏みこむ足に力を入れた。唇《くちびる》の端《はし》に、にやりと戦闘的な笑みが浮かぶ。
途中で大きな交差点を曲がったあたりから、間に二台ほど無関係な車を挟《はさ》んで、大型の四輪駆動車がずっとくっついてきている。尾行車だ。乗っているのは、統合計画局が派遣《はけん》したエージェントだろう。おそらく、香澄《かすみ》と接触したときに発見されてしまったのだ。
「さて……どうするかな」
アーレンがつぶやく。尾行《びこう》をまくのはそれほど難しくない。AMGメルセデスの性能なら、鈍重《どんじゆう》な四輪駆動車など、簡単に置き去りにすることができるだろう。
それに、身につけている磁気製品を破壊してしまうということは、逆に言えば、アーレンの肉体には、いかなる発信器や盗聴器も仕掛けることができないということだ。軍事衛星まで自在に駆使《くし》する統合計画局が、脱走したアーレンたちをどうしても捕まえられなかった原因が、そこにあった。
アーレンの車は駅前の繁華街《はんかがい》を抜けて、湾岸沿いへと近づいていた。このあたりは比較的最近になって開発された地区で、高層ビルが建ち並ぶ高級オフィス街なのだが、不景気のためか入居者はあまり多くない。道路もがらがらに空いている。
結局、町はずれの立体駐車場にメルセデスを停めて、アーレンは車を降りた。停まっている車は多くないので、結果的に敷地の広さばかりが目立つ寂しい建物だった。
愛車を戦闘に巻きこみたくなかったので、アーレンは長身を軽々と翻《ひるがえ》して、見晴らしのいい屋上近くの階へと移動する。ぴったりと追跡していたはずの四輪駆動車の姿は、いつの間にか見えなくなっていた。
「戦闘を避けて、離れた場所から監視する気か……」
アーレンは、追われている立場とは思えない堂々とした足取りで歩いていく。
ひと気のない駐車場に自分自身の足音が大きく反響している。
そしてアーレンは、ふいに足を止めた。だらりと両手を下げて、わずかに足を開く。
「それとも……奇襲をかけるつもりか」
つぶやくアーレンの身体《からだ》を、うっすらと青白い火花が包んだ。
その直後、ほとんど同時に三つのことが起きた。
アーレンが弾《はじ》けるように横に跳躍《ちようやく》し、その背後にあった壁が爆音とともに破片をまき散らした。そして銃声が響き渡る。
「ちっ」
コンクリート製の柱の陰に着地して、アーレンは振り返る。
銃撃。しかも、その破壊力は拳銃弾などの比ではない。アサルトライフルか、さもなければ軍用機関銃を使っているのは間違いない。
だが、それ以上にアーレンを驚かせたのは、敵の射撃の精度と反応の素早さだった。反動の大きいライフル弾のフルオート射撃ぞ、常人をはるかに超えるアーレンの動きを正確に捉《とら》えている。普通の兵士に可能な攻撃ではない。そんなことができるのは――
「レベリオンの非合法|特捜官《とくそうかん》か……ならば、手加減は無用だな」
アーレンは、唇《くちびる》をどう猛《もう》に吊《つ》り上げた。
ファージ変換によって鋭敏になったアーレンの聴覚は、すでに敵の位置を正確につかんでいる。距離は約十五メートル。サンダーヘッドの射程距離内だ。
再び銃声が轟《とどろ》いた。
アーレンはあえてよけようとせず、銃弾の前に身をさらした。
飛来する弾丸の向こう側に、黒いフードに身を包んだ大柄《おおがら》な敵の姿が見える。
銀色の長髪が逆立った。強烈な静電気によって大気がイオン化され、特有のオゾンの匂《にお》いが鼻をつく。そしてレベリオン化した体細胞が凄《すさ》まじい電力を放出し、アーレンの全身を青白い光が包んだ。
「――サンダァァァァーへーッド!!」
閃光《せんこう》が走った。
アーレンが放った雷撃は、飛来するライフル弾を静電誘導で弾《はじ》き飛ばしながら、機関銃を構えた黒ずくめの敵に襲いかかった。
轟音《ごうおん》に大気が震えた。爆発的な衝撃波《しようげきは》が黒ずくめを吹き飛ばす。
大電圧が生み出す熱波によって、機関銃の弾倉が誘爆した。
爆炎《ばくえん》が建物を満たし、アーレンの銀髪が炎《ほのお》を反射してきらきらと舞った。
黒ずくめの影は、爆発の衝撃で壁際まで吹き飛ばされている。崩《くず》れ落ちたコンクリートの柱や天井の瓦礫《がれき》が、その上に容赦《ようしや》なく降り注いだ。
「……少しやりすぎたか」
乱れたスーツを直しながら、アーレンはつぶやいた。
黒ずくめの敵が羽織《はお》っていたフードが、ずたずたに引き裂かれて消《け》し炭《ずみ》のようになっていた。
着ていた本人は、間違いなく即死だろう。これでは、情報を聞き出すこともできない。
アーレンは苦笑を浮かべ、そのまま立ち去ろうとした。
その瞬間、再び銃声が鳴った。
「――なにっ!?」
アーレンは愕然《がくぜん》とした。埋もれた瓦礫の山から黒ずくめの腕が突き出し、その手首のあたりで、銃身が鈍い光を放っている。それはショットガンの銃口だった。
広範囲にばらまかれた無数の散弾は、いかにレベリオンといえどもよけきれるものではない。
急所をかばった左腕と、両足に数発の弾を喰《く》らってアーレンが呻《うめ》く。
「馬鹿な――」
激しく動揺しながらも、アーレンは咄嵯《とつさ》に地面に転がっていた。
コンクリートの瓦礫《がれき》を鬱陶《うつとう》しげに払いのけながら、黒ずくめの影が立ち上がる。
その全身は、金属とも樹脂ともつかぬ鎧《よろい》のようなもので、すっぽりと覆《おお》われていた。全身を包むプロテクターは、アメフトやホッケーのプロテクターに似ているが、はるかにスマートで洗練された印象がある。
サンダーヘッドの直撃やライフルの暴発が、そいつにダメージを与えている様子はない。やはり黒ずくめのヘルメットの奥で、真紅《しんく》の瞳が燗々《らんらん》と輝いている。
「なんだ……こいつは……?」
アーレンのつぶやきに、黒ずくめは答えない。ショットガンの銃身を手首の内側に収めると、前触れもなく跳躍《ちようやく》する。アーレンでさえ舌を巻くほどの瞬発力だ。
「くっ……」
アーレンはかろうじて、敵の攻撃をかわした。レベリオンの治癒力《ちゆりよく》を持ってしても、散弾に撃ち抜かれた傷を一瞬で回復させるのは不可能だ。
黒ずくめの放ったパンチが、アーレンの背後にあったコンクリート柱を粉砕《ふんさい》する。秋篠《あきしの》香澄《かすみ》のスクリーミング・フィストにも匹敵《ひつてき》する破壊力だ。まともに喰《く》らえば、アーレンとて耐えきれる保証はない。
ちっ、と短く舌打ちし、アーレンは再びサンダーヘッドを放つ。
強烈な雷撃が、至近距離で再び黒ずくめに炸裂《さくれつ》した。超高電圧が生み出す熱衝撃波《ねつしようげきは》が、強引《ごういん》に黒ずくめを弾《はじ》き飛ばす。
だが、それだけだった。
人間離れした敏捷《びんしよう》さで、黒ずくめは体勢を立て直して平然と着地した。
最大出力のサンダーヘッドの直撃は、目標の全身の血液を一瞬で沸騰《ふつとう》させて死に至らしめる。だが、黒ずくめは、それを二発も受けて平気な顔をしている。おそらく、そいつの全身を包むプロテクターに、完全な絶縁処理がなされているのだろう。
「厄介《やつかい》な野郎だ……」
アーレンは皮肉げな口調で言って、顔を歪《ゆが》める。トランスジェニック能力を封じられた上に、この負傷では分が悪い。
そして黒ずくめに、対策を考える時間をアーレンに与えるつもりはないようだった。
雷撃の余波が治まるのと同時に、アーレンに向かって再び跳躍する。
立て続けに大きな力を使ったアーレンには、それを突き放すだけの体力が残されていない。
不利な接近戦を覚悟《かくご》して、ぎりっと歯がみする。その直後――
「ぐっ!?」
まるで側面から銃撃を喰らったみたいに、黒ずくめの身体《からだ》が吹き飛んだ。
転倒した黒ずくめの周囲に、淡い虹《にじ》がいくつも浮かんだ。高圧で圧縮された水の固まりが、そいつの表面で弾けた名残だ。
「インビジブル・ブリット――!? Y《はな》かっ!」
アーレンが振り返る。
そこには、黒いワンピースに身を包んだ幼い少女が立っていた。年齢はせいぜい十歳ほど。人形のように整った顔立ちの、無表情な少女だ。大きな瞳が青い輝きを放っている。
そしで彼女の左腕は水晶のように透きとおり、伸ばした指先が銃口のように鋭く尖《とが》っていた。
暗殺型のトランスジェニック能力|視えない弾丸《インビジブル・ブリツト》=Bレベリオンの強靭《きようじん》な筋力によって圧縮された水の弾丸は、至近距離ならば同重量の弾丸をも凌《しの》ぐ破壊力がある。
その直撃を受けたにもかかわらず、黒ずくめは無傷だった。新たな敵の出現に動じた様子もなく、ゆっくりと立ち上がる。無表情なYの頬《ほお》が、かすかにひきつるように動いた。
ライフル弾の誘爆に耐えたことからも明らかだったが、その黒いプロテクターは、かなりの防弾性能を持っているようだ。残念だが、今のアーレンたちには歯が立たない。
そう判断してしまえば、アーレンの行動は素早かった。
「逃げるぞ、Y」
背を向けてYを抱き上げたアーレンに、黒ずくめが手首に内蔵したショットガンを向けた。
その黒ずくめを狙《ねら》って、Yがインビジブル・ブリットを放つ。
黒ずくめは、その攻撃を正面から受け止めた。常人をはるかに凌ぐ圧倒的な筋力が、着弾の衝撃《しようげき》を無効化す|る《しの》。
Yの小さな身体《からだ》を抱えて走りながら、まずい、とアーレンは直感した。
この駐車場は、アーレンたちの監視下にある施設のひとつだ。誘いこんだ敵に苦戦しているアーレンを見て、真澄美《ますみ》がYを送りこんだのだろうが、今回はそれが裏目に出た。
黒ずくめの運動能力は、アーレンと互角《こかく》か、それ以上だ。さすがのアーレンも、Yを抱えたままで逃げ切る自信はなかった。が、
「大丈夫」
あどけない口調でそう言ったYの首筋が、青い燐光《りんこう》を放っていた。新たなるトランスジェニック能力を発動するために、レベリオン細胞が活性化しているのだ。
「その能力《ちから》……緋村《ひむら》恭介《きようすけ》の……」
Yの狙《ねら》いに気づいたアーレンは、にやりと笑って加速した。吹き抜けになっている駐車場の端《はし》。なにもない空間に向けて疾走《しつそう》する。
その肩に可愛《かわい》らしく腰かけたYは、目を閉じて静かに歌い始める。
少女期特有の美しい声が奏でたのは、賛美歌に似た華やかな旋律《せんりつ》だった。その歌声はやがて人間の可聴域を超え、少女の体内で反響し増幅《ぞうふく》し加速して、破壊的な衝撃波に変わる。
トランスジェニック能力――|滅びの咆哮《ブラスティン・ハウル》
Yの放った破壊|衝撃波《しようげきは》が、追走していた黒ずくめを横|殴《なぐ》りに襲った。
プロテクターに覆《おお》われた腕を十字に交差して、そいつはYの攻撃を防こうとする。だが、標的の内部に直接ダメージを与える高周波振動を完全に防ぎきるのは不可能だった。ぐらり、とよろめいて地面に片膝《かたひざ》をつく。
そしてなによりも、駐車場の建物自体がブラスティング・ハウルの威力に耐えられなかった。
ライフル弾の誘爆や、サンダーヘッドの衝撃で弱っていた天井が真っ先に崩《くず》れ落ち、それにつられて柱や床が連鎖的に崩壊した。数トン――いや、数十トン近いコンクリート片が頭上に振りそそぎ、黒ずくめの姿が見えなくなる。
崩壊する立体駐車場の外壁を乗り越えて、Yを抱いたアーレンは地上へと舞い降りた。
野生のホワイトタイガーを思わせるしなやかな動きで、音もなく着地する。散弾で負傷した脚は、すでに動きに支障が出ない程度には治癒《ちゆ》している。
「そうか……」
崩壊した駐車場の上部を見上げて、アーレンはつぶやいた。
「アレス・システム……完成していたのか……」
かろうじて無事だったAMGメルセデスに向かうアーレンの目つきは、いつになく鋭かった。
その肩に抱かれたYが、小さな声で、おなかすいた、とつぶやいた。
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第二章
火曜日の告白
Engage on Tuesday
1
彼女は、闇《やみ》の中を疾走《しつそう》していた。
月が異様なまでに紅《あか》い夜。真紅《しんく》のコートをはためかせて、異国の町並みを走り抜ける。
自分が追いかけているのか、追われているのか、それすらもすでに曖昧《あいまい》になっていた。
「――!?」
強烈な殺気を間近に感じて、彼女は咄嵯《とつさ》に身構える。その胸に、激痛が走った。
なすすべもなく背後の壁に打ちつけられ、彼女は固い地面の上を転がった。
狙撃《そげき》されたのだと思った。だが、銃声も聞こえなかったし、飛来する銃弾も見ていない。
彼女の能力は、飛来する弾丸を打ち落とすこともできるはずなのに。
力の入らない腕を叱蛇《しつた》して、彼女はどうにか顔を上げた。
一瞬、気を失っていたのかもしれない。気がつくと、周囲の景色が変わっていた。
それは見覚えのある風景だった。じじじ、と点滅を繰り返す消えかけた街灯。歩道に乗り上げる形で転倒したオートバイ。
そして血だまりの中で倒れている少年−緋村《ひむら》恭介《きようすけ》。重傷を負って、死にかけている。
助けなければ、と思った。だが、彼女は立ち上がることができなかった。
心臓が苦しい。身体《からだ》が思うように動かない。
――そうだ、あたしは……
パジャマを着せられた、無力な子どもの姿をした自分に気づいて、彼女は絶望した。
残念ですが……
大人たちの会話が聞こえてくる。
寝たふりをした彼女の隣で、声をひそめて交わされた医師の言葉。
お嬢《じよう》さんの命は、保《も》ってあと……年でしょう……
世界が闇《やみ》に変わる。血の臭《にお》いが、鼻をつく。
「大丈夫よ」
声がした。この上もなく冷静で、揺るぎのない、絶対の自信に満ちた声。恐ろしい声―― 見上げれば、そこにはぞっとするほど美しい一人の女性が立っていた。
およそ欠点というものが見あたらない、完壁なまでの美女。栗《くり》色の長い髪が、紅《あか》い月の光に照らされて、揺れる。
そのしなやかな腕が、血まみれの恭介《きようすけ》を抱き上げる。
返り血に濡《ぬ》れた白い肌が、異様なまでに艶《なま》めかしく輝いている。
やめて、と彼女は叫ぽうとした。だが、その言葉は声にならなかった。
胸が苦しい。
「大丈夫……あたしが、助けてあげる」
そうつぶやいた唇《くちびる》の端《はし》から、つ、と血液が一筋、流れ落ちる。
血塗られた紅い唇が微笑《ほほえ》みの形を作り、ゆっくりと恭介の口元に近づいていく。
いや、と彼女は声にならない叫びを放った。やめて――
二つの影が重なる。目を閉じた恭介の頬《ほお》を、栗色の髪が覆《おお》い隠す。胸が苦しい。
――やめて、姉さん!
「――!!」
荒い息を吐《は》きながら、香澄《かすみ》はベッドの上で跳《は》ね起きた。
全身に汗《あせ》が滲《にじ》んでいた。心臓が、どくどくと激しく脈打っている。
ブラインドの隙間《すきま》を照らす朝陽《あさひ》を見て、ようやくここが自分の部屋だということに気づき、両手で胸を押さえたまま、香澄は深くため息をついた。
なんて夢だ、と思う。
胸のあたりが、苛立《いらだ》ちに似たわけのわからない感情で、今も苦しかった。自分らしくもない。アーレン・ヴィルトールがくだらないことを言うから、こんな夢を見てしまったのに違いない。
腹立ち紛《まぎ》れに枕をなぐりつけて、香澄《かすみ》はベッドを降りた。時計を一瞥《いちべつ》して、バスルームに向かう。予定の時間よりもだいぶ早かったが、今日はもう眠《ねむ》れそうになかった。
シャワーを浴びて、身支度を整えていると電話が鳴った。
香澄に電話をかけてくる人間は、一人しかいない。受話器を上げると、聞こえてきたのは、予想したとおり、リチャード・ロウの流暢《りゆうちよう》な日本語だった。
「カスミ、すみませんが急いで|作 戦 会 議 室《ブリーフイング・ルーム》に来てください」
挨拶《あいさつ》もなく、リチャードはそれだけを言った。めずらしく、彼の声がかすかに疲れている。
最低限の休息が義務として与えられている実戦部隊の香澄と違って、支援要員である彼らは不眠不休で事件の捜査《そうさ》にあたっているのだろう。
なにか犯人を特定する手がかりがつかめたのかもしれない。そんなことを考えながら、香澄はマンションの部屋を出た。
統合計画局が基地として使っているのは、高城《たかじよう》市のほぼ中央に位置する豪華《ごうか》なマンションだ。外国人や、防弾装備を備えた高級車が出入りしていても怪《あや》しまれないし、セキュリティも厳重というのが、その理由である。
住民のための公共スペースとして用意されていた集会所や娯楽室は、統合計画局の指揮所や情報室として使われている。地下のアスレチック・ジムは、武器庫と射撃練習場に改造されていた。もちろん、外部からの侵入者を排除する警備システムも完備されている。香澄は、特殊な電子式のカードキーを使って、そんな設備のひとつである作戦会議室に足を踏み入れた。
学校の教室ほどの広い室内には、リチャード・ロウ以外に四人の男がいた。
それは、香澄にとって予想外のことだった。
統合計画局は、少なくとも数十人のエージェントを高城市周辺に送りこんでいるのだが、これまで香澄が接触を許されているのは、リチャード・ロウただ一人だったからだ。当然ながら、リチャード以外の四人は、全員、香澄の知らない顔だった。
四人は見慣れない軍服に身を包んでいた。白人が二人、黒人と東洋系が一人ずつ。四人ともNFLの選手といっても通用する巨漢である。白人の一人は軍服の上に白衣を羽織《はお》っていたが、それがあまりにも不似合いで滑稽《こつけい》だった。
「彼らは?」
リチャードに向かって、香澄が訊《き》いた。軍服の男たちは会議室のイスに座ったまま、値踏みするように香澄の全身を眺めている。それは、濫《おり》の中の実験動物を見る研究者の目つきだった。くちゃくちゃと響くガムの音が、ひどく耳障《みみざわ》りだ。
「紹介しよう」
リチャード・ロウが立ち上がって言った。
「統合計画局アレス部隊の責任者デュラス中尉《ちゆうい》と、第一|斥候《せつこう》小隊のメンバーだ」
「……アレス部隊!?」
香澄《かすみ》は軽い驚きを感じた。アレス・システム。その名前は香澄も聞いたことがある。
「まだ研究段階で、彼らの実戦配備は当分先ではなかったんですか?」
「早まったのだよ。君たちがもたもたしていたおかげでな」
香澄の疑問に答えたのは、リチャード・ロウではなく、デュラスと呼ばれた白衣の男だった。
年齢は三十前後だろう。ひどい鉤鼻《かぎばな》で、鋭い、猛禽《もうきん》のような目つきをしている。
「統合計画局はすでに、脱走者アーレン・ヴィルトールと、やつの協力者が高城《たかじよう》市内を拠点に活動していることを確認している。彼らの掃討《そうとう》が我々の任務だ」
「し、しかし……」
香澄は、困惑《こんわく》してリチャード・ロウを見た。だが彼の端整な横顔からは、なんの感情も読みとることができない。しかたなく香澄は言葉を続ける。
「それは危険です」
「危険?」
デュラスが短く訊《き》き返す。香澄はゆっくりとうなずいた。
「彼のトランスジェニック能力は、これまで確認されたレベリオンの中でも、もっとも強力なもののひとつです。それに、彼は特殊部隊兵士としての訓練も受けている。市街地での戦闘で彼を捕獲するのは、現段階ではほとんど不可能だと思われます」
「なるほど……」
デュラスは、あからさまに軽蔑《けいべつ》したような視線を香澄に向けた。くっくっと喉《のど》の奥で笑う。
「それが、昨日《きのう》、君が彼を取り逃がした言い訳かね」
「……」
香澄は言葉に詰まった。デュラスの指摘は事実だ。なにも言い返せない。
白衣の軍人は、冷ややかな口調で続けた。
「安心したまえ。私も君と同じ意見だよ、特捜官《とくそうかん》。君がアーレン・ヴィルトールを倒せるとは、これっぽっちも思っていない。しょせん、君たちは同類だからな」
「な……!?」
香澄はデュラスを睨《にら》みつけた。
だが、デュラスは意に介《かい》した素振りも見せなかった。デュラスの仲間の男たちが、身体《からだ》を揺すって下品な笑い声を漏《も》らす。
「昨晩、彼らのチームは脱走者アーレン・ヴィルトールと接触しています」
アッシュ・ブロンドの前髪に触れながら、リチャード・ロウが言った。
それは香澄の知らない事実だった。眉《まゆ》をひそめて、リチャードを見返す。リムレスの眼鏡《めがね》の下で、彼は目を閉《と》じていた。
「ヴィルトールは負傷したものの、逃走に成功。戦場となった海崎《みさき》区の市営駐車場は大破しましたが、アレス部隊に被害はありませんでした」
「……負傷して……逃走?」
香澄《かすみ》は信じられない気持ちで、リチャードの言葉を聞いた。
あのアーレンが、一方的にやられて命からがら逃げ出したというのか? 同じレベリオンの香澄ですら手出しできなかった、あのアーレン・ヴィルトールが?
「途中で邪魔《じやま》が入ったんだ」
デュラスの後ろにいた黒人の男が、分厚《ぶあつ》い唇《くちびる》をめくり上げるようにして笑った。どうやら、直接アーレンと接触したのは、この男らしい。
「それさえなければ、仕留めていた」
「昨日《きのう》は日本に到着したばかりで、こちらも十分な戦力を投入できなかったからな」
デュラスが続けた。
「だが、これでヴィルトールの能力は把握《はあく》した。次は確実に処分する」
冷淡に告げるデュラスを、香澄は黙って睨《にら》んだ。
処分という言葉をデュラスは使った。彼らには、レベリオンを逮捕《たいほ》するという発想はないのだ。ただ追いつめて、抹殺《まつさつ》するだけ。レベリオンを、まるで害獣程度にしか思っていない。
「カスミ、あなたに統合計画局からの指令を伝えます」
ぴりぴりとした沈黙を破って、リチャード・ロウが口を開いた。
「現時点から、対レベリオン戦闘の第一優先権はアレス部隊に移管。各工ージェント、および非合法|特捜官《とくそうかん》は未確認レベリオンの所在確認を最優先課題とし、目標との接触後は両者が連携《れんけい》して事態に対処することを希望する、以上」
リチャードの言葉が終わると同時に、アレス部隊の何人かが低い笑い声を漏《も》らした。
香澄はそれを屈辱《くつじよく》的な思いで聞いた。要するに、香澄たちはアレス部隊の使い走りをしろと統合計画局は言っているのだ。だが、それが命令であれば従わざるをえない。香澄の能力では、アーレンを捕まえられなかったのも事実なのだ。
「まあ、そういうわけだ」
デュラスが言った。
「よろしく頼む、特捜官。我々はこの地に不慣れなのでね」
「……わかりました」
香澄はうなずいて、右手を差し出した。デュラスは、その手を見おろして、冷ややかに首を振った。
「悪いが、握手は遠慮させてもらおう。妙な病気が伝染《うつ》ったら困るのでな」
その言葉に、アレス部隊の兵士たちが爆笑した。
香澄の頬《ほお》が、さっと紅潮する。思わず怒鳴《どな》りそうになった香澄を制したのは、リチャードの鋭い視線だった。穏《おだ》やかな声で、彼がデュラスに向かって言う。
「中尉《ちゆうい》、R2ウィルスが日常的な接触で感染することはあり得ません。今の発言は不当です」
「ほう、それは失礼」
デュラスは軽く肩をすくめた。そのまま背を向けて、会議室を出ていこうとする。彼の部下も、一斉《いつせい》に立ち上がってそれに続いた。
「言っておくが、くれぐれも我々の邪魔《じやま》だけはしてくれるな」
部屋を出る直前、背中を向けたままデュラスは言った。
「せいぜい探偵ごっこに励むんだな、特捜官《とくそうかん》」
香澄《かすみ》は、うつむいたまま唇《くちびる》を噛《か》んだ。
やり場のない怒りに、その肩が震えていた。
2
恭介《きようすけ》が、めずらしく早めに家を出ると、やはり今朝も秋篠《あきしの》香澄《かすみ》が待っていた。今日は彼女も普通に登校するつもりらしく、ちゃんと通学カバンを持っている。
恭介は黙って肩をすくめた。なにも文句を言わなかったのは、香澄が、なぜか怒っているようにみえたからだ。なかば無理やり連行されるような形で、恭介は手近のバス停へと向かった。幸い、時間が早かったこともあって通学バスの中は空《す》いていた。
「アレス・システム?」
乗りこんだバスの中で香澄の説明を聞いた恭介は、疑わしげに眉《まゆ》をひそめた。
「……なんだそれ?」
「ARES――|対レベリオン強化兵士《Anti Rebellion Enhanced Soldier》の略称なの」
バス最後尾《さいこうび》の奥まった座席に座った香澄が、ささやくような声で説明した。
恭介は、彼女の座席のすぐ傍《そば》で、つり革《かわ》につかまって立っている。ちょっと見ただけなら、たまたま同じバスに乗り合わせたクラスメート同士の姿に映るだろう。
「防弾能力および|対核・生物・化学兵器《NBC》防御《ぼうぎよ》能力を備えたプロテクターに、筋力増幅《ぞうふく》装置を組みこんで、通常の兵士の何倍もの戦闘能力を発揮する――一種の強化服みたいなものね」
「ふうん……」
強化服という言葉から恭介が真っ先に連想したのは、昔、映画で見たアメリカン・コミックの主人公だった。なるほど、たしかに彼らなら、レベリオンを相手に戦うことができそうだ。
「アレス・システムの主力武装は、ドイツ製の汎用《はんよう》機関銃を改造したもので装弾数は二百発。
両腕には、それぞれショットガンとグレネード・ランチャーを内蔵しているわ。ちょっとした軍用装甲車と同等の火力よ。さらにシステムを装着する人間は、薬物で反応速度を強化される。それこそレベリオンなみにね」
「ちょ、ちょっと待てよ……装甲車なみの機関銃やショットガンを抱えたやつが、アーレンを追い回して、市内をうろついてるってのか?」
さすがに驚いて恭介《きようすけ》は訊《き》き返した。
「それって、ものすごくヤバいんじゃないのか? 流れ弾とか飛んできたらどうすんだよ?」
しばらく沈黙したあと、香澄《かすみ》が苛立《いらだ》ったような口調で言った。
「正直……どうしようもないわね」
「お、おい……」
「もちろん、市街地で無闇《むやみ》に発砲するような真似《まね》はしないと思う。アメリカ国内ならともかく、ここでは、いくら統合計画局でもそんな無茶をもみ消すことはできないもの。それにアーレンだって正面きってアレス部隊と戦うような愚《おろ》かな真似はしないだろうし」
「なんてこった……」
恭介は猛烈《もうれつ》な不安を感じて首を振った。
アーレンに対しては、恭介も少なからず怒りを抱えている。彼らがばらまいたR2ウィルスのせいで、何人もの知人が命を落としたし、恭介自身、危うく殺されそうになった。だからといって、彼が殺されればいいとは思えない。
「とにかく、不用意にレベリオンがらみの事件に首を突っこんで、彼らと接触するような真似は避けることね。アレス部隊は、たぶん平気であたしやあなたを巻き添えにすると思うわ」
「かんべんしてくれよ」
うんざりした口調で恭介は言った。そして、ふと重大なことに気づく。
「……まさか、そいつら、うちの学校の事件にも手を出してくるんじゃないだろうな?」
「当面は、大丈夫だと思う。彼らの第一の目標はアーレンだから」
香澄はいつにもまして無表情に言うと、ため息をついた。
「ただ……もしも彼らのほうが先に犯人を見つけたとしたら、間違いなく連中は犯人を殺そうとするでしょうね。アレス部隊の装備は、あくまでもレベリオンを殺傷するのが前提で、捕獲というのは考えられてないのよ」
「……ってことは、どうにかして、そいつらより先に犯人を見つけないとまずいんじゃないか」
香澄は少しためらったあと、無言でうなずいた。
恭介は、めずらしく彼女が積極的に情報を流してくれたわけを理解した。レベリオンというだけの理由で、問答無用で殺そうとするアレス部隊のやり方も乱暴だが、さらに厄介《やつかい》なことに、今回の敵は高城《たかじよう》学園の周囲に普通の人間として紛《まぎ》れこんでいるのだ。この両者が激突したら、一般市民にも犠牲が出る恐れがある。
それを避けるためには、できる限り早く犯人を見つけ出さなければならない。彼女としては不本意なのだろうが、この際、恭介でもなんでも使えるものを惜しんではいられない状況なのだろう。それに、犯人がレベリオンをおびき出そうとしているのなら、恭介も事件に無関係というわけではない。
「けど……結局、昨日《きのう》はなにもなかったしな」
恭介《きようすけ》は、昨晩なにも連絡してこなかった香澄《かすみ》に対する不満をこめて言った。
「そっちは、なにかないのかよ。新しい手がかりとか情報とか」
「残念だけど」
と、香澄は首を振った。考えてみれば、彼女がおとなしく登校してきているということは、捜査《そうさ》が行き詰まっているという証拠なのかもしれない。
恭介たちを乗せたバスが、駅前の大きなバス停に到着した。生徒たちが次々に乗りこんで、車内が混雑してきたため、恭介たちの会話はそこで終わりになった。
バスを降りた恭介と香澄は、いちおう気を遣《つか》って別々に校門をくぐった。
なにしろ香澄は美人なので、一緒に登校すると嫌《いや》でも目立ってしまうのだ。やっかみ半分で冷やかされる程度ならまだいいが、いろいろとありもしない噂《うわさ》を流されるのはうんざりだった。
その手の面倒ごとには香澄のほうも嫌気がさしているらしく、最近は学校の中でも、恭介と少し距離を置いたような行動をとることが多い。しかし、ほかの生徒に隠れてこっそり二人で会ったりするのは、それはそれで本物の恋人らしく見えてしまうのだった。
恭介が学校に着くと、昇降口の近くにいた真島《まじま》加奈子《かなこ》と目が合った。加奈子は、国語教師の竹中《たけなか》睦美《むつみ》と話をしていたが、恭介の姿を認めると、話を切り上げて駆《か》け寄ってきた。
「おはよう、緋村《ひむら》」
「おっす」
「教室に行くんでしょ。これ、萌恵《もえ》に渡しておいてくれない? あの子に借りてた古文のノートなんだけど」
「ああ、わかった」
恭介は気軽に返事をして、加奈子の差し出した紙袋を受け取った。真島加奈子は草薙《くさなぎ》萌恵の親友だが、去年までクラスが同じだったので恭介とも仲がいい。少し太めだが、さっぱりした性格で、男子にも人気のある女生徒だ。
「タケちゃんと、なに話してたんだ?」
教室に続く階段を一緒に上りながら、恭介は訊《き》いた。教師になって二年目の竹中は、年齢が近いこともあって、生徒からタケちゃんと友人のように呼ばれている。
「家業の手伝いよ」
と、加奈子は笑った。彼女の実家は生花店だ。
「亡くなった卒業生の自宅に挨拶に行くときは、どんな花を持っていけばいいのかって訊かれてたんだ」
「それって、プールのとこで殺されてた島崎《しまざき》って人のことか?」
恭介《きようすけ》が訊《き》くと、加奈子《かなこ》は少し神妙な顔で首を振った。
「違う違う。二週間くらい前にも、去年の卒業生が一人死んでるんだよ。交通事故だったかな」
「本当に? そんな話、はじめて聞いたぜ?」
恭介はひどく驚いた。香澄《かすみ》はそのことを知っているのだろうか、と考える。
交通事故と、密室殺人。事件の性格はまったく違うが、立て続けに高城《たかじよう》学園の卒業生が命を落としているのだ。両者は無関係ではないかもしれない。
「まあね。死んだのは目立たない男子生徒だったみたいだし、あんまり騒がれなかったけど、職貝室で聞けば、だいたいみんな知ってると思うよ。ま、あんな事件がすぐあとに起きたら、どうしても影は薄くなるわよね。世間なんか薄情《はくじよう》だからさ」
「そうだよな……そういや、真島《まじま》ってたしか水泳部じゃなかったっけ?」
恭介が訊くと、加奈子は勢いよくうなずいた。どうやら、誰かに文句を言いたくてうずうずしていたところらしい。
「そうなのよ。だからさ、もう大変。プールの女子更衣室って、うちらの部室みたいなものじゃない。そこで人が死んでたってだけでもショックなのに、いきなり日曜に刑事に呼ばれてさ、しつこく訊かれたわよ。部員の誰と誰がつき合ってたか、とか、全然関係ないことまで」
「そりゃ大変だったな」
恭介は本気で彼女に同情した。もしレベリオンが犯人だとすれば、そういう常識的な捜査《そうさ》はたいして役に立たないだろう。捜査につきあわされた加奈子は丸損だ。
「そうよ。それに水泳部って冬の間は市内の温水プールで練習するの。最後に更衣室を使ったのは、去年の九月でしょ。更衣室の中の様子なんて、覚えてるわけないじゃない。それなのに現場に連れて行かれて、なにか変わったことはありませんか、とか訊かれてさ。こっちは壁が何色だったかも覚えてないっていうのにさ」
「現場に連れて行かれた? 更衣室の中を見たのか?」
「あ、うん。でも、あたしが行ったときには、死体は運び出されたあとだったけどね」
加奈子は、恭介の真剣な口調におどろいたような顔をした。
「更衣室の床に、チョークで死体のあとが描かれててさ。あと、携帯《けいたい》の落っこちた跡と」
「携帯……?」
「うん。被害者が死ぬ直前に、誰かがかけてきた電話を受けた形跡があるんだって言ってた。
でも、それって変だよね。被害者から電話して、誰かに助けを求めたっていうんならわかるけどさ」
「あ、ああ……そうだな」
恭介は曖昧《あいまい》に返事をする。それは、恭介がはじめて聞く情報だった。
更衣室に閉じこめられたあとでかかってきたというのなら、電話の相手が犯人だという可能性も低くない。警察が携帯《けいたい》の通話記録を調べているのなら、その結果を香澄《かすみ》もつかんでいるはずだった。米国防総省をバックにもつ統合計画局は、日本の公的機関に対して、かなりの影響力を持つからだ。
「たぶんさ……」
恭介《きようすけ》たちの教室がある四階に着いたところで、加奈子《かなこ》が深々とため息をついた。
「しばらくしたら、プールの女子更衣室に幽霊《ゆうれい》が出る、なんて噂《うわさ》がたつんだろうね。まったぐ、水泳部の新入部員が減ったらどうしてくれるのよ……」
本気で悩んでいる様子の加奈子に苦笑して、恭介は自分の教室に向かった。
3
授業には、まったく集中できなかった。
恭介はノートをとるふりをしながら、香澄に借りた今回の事件についてのレポートを読んだ。
おかげで授業中、教師に指名されたときには質問に答えることができず、榛原《はいばら》孝太郎《こうたろう》に解答をこっそり教えてもらってどうにか切り抜けた。
恭介が真島《まじま》加奈子から手に入れた情報は、香澄にとっては目新しいものではなかったらしい。
彼女のレボートには、それらについての調査結果もすでに記述されていた。
二週間前に亡くなった卒業生は松井《まつい》信《しん》という浪人生で、部活などにも所属していない地味な印象の生徒だった。予備校への通学途中に、乗っていたオートバイの前輪がいきなりパンクし、コントロールを失って対向車線に突っこんでしまったらしい。トラックに激突して、ほぼ即死という状態だった。松井信と島崎《しまざき》麻巳子《まみこ》は、彼らが一年生のとき同じクラスだったことがあるが、それ以外にこれといった接点は見あたらなかった。共通の友人もいない。
また、事件の直前に島崎麻巳子の携帯に電話してきた人物は、盗品《とうひん》の携帯電話を使っていたらしく、発信元を特定することはできないということだった。
そのレポートの中で、恭介は、松井信や島崎麻巳子の顔写真をはじめて見た。
恭介は、どこかで二人に会ったことがあるような気がして奇妙な気持ちになったが、考えてみれば、彼らはほんの二、三カ月前まで同じ高城《たかじよう》学園の生徒だったのだ。見かけたことがあるのも当然だった。
「恭介、昼飯はどうする?」
四時限目の授業が終わったときに、孝太郎が声をかけてきた。恭介は、あわててレポートを教科書で隠すようにして、机の中にしまう。
「いや、べつに。なにも決めてないけど」
「学食に行かないか。ちょっと話したいことがあるんだ」
「あ、ああ、いいぜ……?」
孝太郎の思い詰めた表情を少し疑問に感じながらも、恭介はうなずいた。べつに断る理由はなかった。
高城《たかじよう》学園の学食は、特別に美味《うま》いというわけではないのだが、とにかく安くて量が多いので、運動部の男子には人気がある。そのぶん女子の利用者は少なめなので、秘密の話をするときは学食を利用するというのが男子の間の伝統だった。
学食でたまたますれ違った坊主頭《ぼうずあたま》の男子生徒が、孝太郎《こうたろう》に気づいて挨拶する。おそらく野球部の後輩《こうはい》だろう。孝太郎は中学時代、県内でも名の知れた野球選手だったのだ。
だが、本人はそのことについて語りたがらない。孝太郎は中学を卒業する直前に肩を壊《こわ》して、野球を断念したのだった。
セルフ・サービスのカウンターで適当にメニューを選ぶと、恭介《きようすけ》たちは学食の隅のテーブルに向かい合って座った。恭介が選んだのは、ミートスパゲティ。孝太郎は日替わり定食だ。
「で、なんだよ、話って?」
料理を半分ほど平らげたところで、恭介が訊《き》いた。
「うん……」
孝太郎が、めずらしく歯切れの悪い口調で言った。どことなくナーバスになっているような雰囲気である。こいつでも緊張することがあるんだな、と思って恭介は少しおかしかった。
「たしかめたいことがあるんだ。正直に答えてくれないか、恭介」
「なんだよ、恐い顔して」
恭介は苦笑を浮かべてみせたが、内心では少なからず困惑《こんわく》していた。孝太郎の表情が、恐ろしく真剣だったからだ。
「おまえと秋篠《あきしの》香澄《かすみ》、どういう関係だ?」
「ど……どういう関係って、どういう意味だよ」
動揺を抑えきれなかったのは、孝太郎の質問が、恭介の弱みを的確に突いていたせいだった。
考えてみれば、恭介は香澄のことをなにも知らない。恭介と彼女のつながりは、二人がレベリオンであるという、それだけのことでしかない。香澄ともっとも親しい人間が自分だというのは誰もが認めるところだが、その理由を訊かれると、恭介には説明ができないのだ。
黙りこんだ恭介を見て、孝太郎が低い声で訊いた。
「つきあってるのか?」
「……はい?」
たぶん、そのときの恭介は、かなり間の抜けた顔をしていただろう。孝太郎がまじめな顔でそんなことを訊いてきたのが予想外で滑稽《こつけい》だったし、その質問に答えるのは簡単だった。
「つきあうって、俺《おれ》とあいつが? まさか」
しかし、孝太郎の目つきは真剣なままだ。
「今朝、おまえと秋篠さんが一緒にバスに乗るのを見た」
「ああ、あれか……」
恭介《きようすけ》は、こっそりと舌《した》を出す。うかつだった。バス停で待っているところを見られるという可能性を失念していた。たしか孝太郎《こうたろう》もバイク通学だ。たまたまバス通りを通りがかったときに、恭介たちの姿を見かけたのだろう。
「今日は、たまたまバス停で会ったんだ。べつに待ち合わせてたわけじゃない」
「けど、秋篠《あさしの》さんの家は方角が違うだろう……?」
孝太郎の追求は手厳しい。よく調べてるな、と焦《あせ》りながらも、恭介はとぼけた。
「知らね。学校にくる前に、どっか寄り道してたんじゃないか?」
「なるほど、そうか」
我ながら苦しい言い訳だと思ったが、孝太郎は信用してくれたようだった。緊張がとけて、どこかほっとしたような表情を浮かべる。
それを奇妙に思って、今度は恭介が質問した。
「秋篠|香澄《かすみ》がどうかしたのか?」
「あ……いや。誰かつきあっている相手がいるのか、気になっただけだ」
「あいつが? そりゃないだろ」
声をあげて笑いながら、恭介は言った。しかし孝太郎は笑わなかった。そこで恭介は笑うのをやめた。はっと気づく。
「孝太郎……おまえ、まさか」
「ああ」
孝太郎は、箸《はし》を置いてうつむいた。その頬《ほお》が少し赤い。
「好きなんだ、彼女のことが」
恭介は絶句した。スパゲティを口に含んだまま、孝太郎を凝視《ぎようし》する。学食の喧噪《けんそう》が、どこか遠くなったような気がした。
「そ、そうか」
恭介はどうにかそれだけを言った。
その飛び抜けた容姿のせいで、香澄を好きだという男子はたしかに多い。
だが、なにしろ彼女は無愛想だ。気の利いた会話をするわけでもない。おまけに成績や運動神経も抜群ときては、たいていの男子は気後《きおく》れしてしまい、積極的に仲良くなろうとする者は、恭介の知る限り、これまで誰もいなかった。
「話っていうのは、そのことなんだ」
そう言って、孝太郎は顔を上げた。
「協力してくれないか、恭介?」
恭介は返事に詰まった。たしかに孝太郎はなかなかの男前だし、成績のほうも文句なしだ。人望も厚い。香澄と並んで歩いていても、彼ならばサマになるだろう。
けれど、そういう問題ではないのだ。香澄は普通の高校生ではなく、統合計画局の任務で高城《たかじよう》学園に潜入している特捜官《とくそうかん》なのである。その彼女が、ただの高校生である孝太郎《こうたろう》と交際することは、万一にもあり得ない。と恭介《きようすけ》としては、報われないとわかっている恋に、友人をけしかける気にはなれなかった。
しかし、香澄《かすみ》にだって人を好きになることくらいはあるだろう、とも思う。望みがないからあきらめろ、恭介が一方的に決めつけることはできない。無責任なようだが、こういうのはやはり当人同士の問題で、周囲の人間が口を出すことではないのだ。
結局、恭介は「わかった」と言うしかなかった。
「俺《おれ》にできる範囲でなら、協力するよ」
「そうか、悪いな」
孝太郎が、うれしそうに手を合わせて笑う。
残りのスパゲティをかきこみながら、困ったことになった、と恭介は思った。
4
午後になっても、授業はまるで手につかなかった。
目の前の席にいる孝太郎の背中と、窓際に座った香澄の後ろ姿が、どうしても気になってしまうのだ。何度もため息をついていたせいで、隣の席の西崎綾子《にしざきあやこ》に、訝《いぶか》しげな視線を向けられてしまうほどだった。
恭介は、なるべく事件のことに意識を集中しようとした。
といっても、新しい手がかりが手に入ったわけではない。恭介が気になったのは、松井《まつい》信《しん》と島崎《しまざき》麻巳子《まみこ》の死に方に関することだった。
彼ら二人の事件に関連性があると仮定しても、ひとつの大きな疑問が残る。すなわち犯人は単独《ひとり》か、それとも複数のレベリオンによる犯行か、ということだ。
確たる証拠があるわけではないが、犯人は一人なのではないか、と恭介は考えた。
その根拠のひとつは、昨日《きのう》の犯人の行動だった。
犯人が、自分以外のレベリオンを見つけるために密室殺人を仕組んだ、という香澄の仮説が正しいとすれば、まんまとおびき出されてしまった恭介たちは、とっくに襲われていてもおかしくなかった。しかし実際には、恭介たちに犯人は接触してこなかった。なぜなら、犯人には、二人のうちのどちらがレベリオンかわからなかったからだ。
恭介と香澄のどちらか片方だけを先に殺してしまった場合、残された片割れは当然警戒するだろう。そのとき、生き残ったほうが手強いレベリオン能力者だったとすると、犯人としても、いろいろと厄介《やつかい》なことになる。つまり、恭介と香澄のどちらがレベリオンかを確認するまでは、犯人は手出しができなかったのだ。
だがそれは、順番に一人ずつ殺そうとするから、そんな面倒なことになってしまうのだ。
もしも二人以上のレベリオン能力者が共謀《きようぼう》して殺人の計画を立てたのならば、恭介と香澄を同時に別々の場所で襲えば済む。いや、そもそも二人がかりで襲うつもりなら、そんな慎重《しんちよう》な行動をとる必要もない。恭介《きようすけ》たちが更衣室を訪れたときに、その場で襲撃すればよかったのだ。
――それができなかったってことは、やはり犯人に仲間はいないんじゃないか……
それはなかなか説得力のある推論だと、恭介は思った。
犯人が一人だと考えるもうひとつの根拠は、松井《まつい》と島崎《しまざき》の殺され方だった。
ふたつの事件には大きな共通点がある。それは、殺された二人が、両方ともバイクに乗っているところを襲われたということだ。密室の不可解さにばかり目を奪われがちになってしまうが、実はその部分に敵の能力を探る手がかりがあるのではないかという気がした。
最近のオートバイ用のタイヤは、金属や防弾チョッキの材料でもあるケプラー素材が編《あ》みこまれていて、そう簡単に破裂したりしない。走行中のバイクのタイヤを、誰にも気づかれずに破壊する。おそらく敵の能力は、恭介のブラスティング・ハウルと同じ遠距離攻撃タイプだと考えて間違いないだろう。
――けど、それがわかったからって、犯人の目星《めぼし》がつくわけじゃないんだよな……
まいったな、とつぶやいて恭介は机に突っ伏した。
その直後に、授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。
「恭介、ちょっと」
ホームルームが終わって帰り支度をしていると、香澄《かすみ》に後ろから呼び止められた。彼女は、掃除当番だったらしく、右手に長いモップを持ったままだ。
「今日は、これからどうするつもりなの?」
香澄の質問の意図がわからず、恭介は困った。敵に襲撃されるかもしれないから、真《ま》っ直《す》ぐ家に帰れというつもりなのか、それとも捜査《そうさ》につきあえというのか。
ふと見ると榛原《はいばら》孝太郎《こうたろう》が、少し離れたところから、さりげなく恭介たちの様子をうかがっでいた。恭介は立ちつくしたまま途方《とほう》に暮れる。もちろん事件を放置するわけにはいかないが、だからといって、孝太郎に協力すると言ってしまった手前、このまま香澄と一緒に帰ることもできない。おまけに、その理由を香澄に説明するのもだめだ。孝太郎の気持ちを、恭介が勝手に彼女に伝えるわけにはいかないからだ。
明らかに不審な恭介の様子に、香澄が疑わしげな視線を向ける。
そんな恭介の窮地《きゆうち》を救ってくれたのは、山崎臣也《やまざきしんや》だった。廊下側の窓から顔を出して、遠慮なく大声で恭介を呼ぶ。
「恭介、帰ろうぜ」
「あ、ああ。悪い、すぐ行く」
恭介《きようすけ》は、ほっとしながら怒鳴《どな》り返した。
「急げよ。みんな待ってんだからよ」
そう言う臣也《しんや》の傍《そば》には、市《いち》ノ瀬|潤《せじゆん》や津島麻子《つしまあさこ》といったいつものメンバーのほかに、草薙《くさなぎ》萌恵《もえ》の姿もあった。部活動休止の指示は今日も続いていたので、部活生の彼女も一緒にくることになったのだろう。
「え……と、事件についての情報を聞けるかもしれないし、あいつらと図書館に寄って帰ろうと思うんだけど……いいかな?」
恭介は、おそるおそる香澄《かすみ》に訊《き》いた。つい丁寧《ていねい》な口調になってしまう。
「べつにいいわ。好きにすれば」
やけに索《そ》っ気《け》ない態度で香澄が言った。なぜか彼女が怒ってるような気配を感じて、恭介の額《ひたい》に汗《あせ》が浮かんだ。
「香澄も行かない?」
と、臣也の後ろから麻子が誘う。香澄は、モップをちょっと掲げて首を振った。
「ごめんなさい。掃除当番だし……今日はちょっと」
「そっか。じゃあ、あとでこれたら来なよ。市立図書館。わかるよね?」
「うん、ありがとう」
そう言って香澄は麻子に微笑《ほほえ》んだ。それから、怒っているような顔で恭介を睨《にら》んで、少し拗《す》ねたように早口で言った。
「ごゆっくり……草薙《くさなぎ》さんと仲良くね」
「え……」
恭介はぽかんと口を開けて、掃除に戻っていく香澄を見送った。どうして彼女の機嫌《きげん》が悪いのかわからない。
「なんだ、あいつ?」
呆然《ぼうぜん》とつぶやいて、孝太郎《こうたろう》のほうを振り返る。孝太郎は、香澄の背中をしばらく目で追っていたが、恭介が見ていたことに気づくと、照れたように肩をすくめて教室から出ていった。
5
駅前でバスを降りたあと、香澄は街を一人で歩いた。
意味もなくビルの屋上に上ったり、ひと気のない地下道をくぐってみたりする。もし犯人が襲ってくるなら、友人たちと一緒にいる恭介よりも、単独行動をしている自分を狙《ねら》うだろうと思ったのだ。
だが、誰かに監視されている気配はまったく感じられなかったし、もちろん襲われることもなかった。途中、何度かリチャード・ロウに定時連絡を入れたが、統合計画局のほうでも捜査《そうさ》に進展はないということだった。
――馬鹿みたいだ、あたし……
あてもなく一人きりで彷徨《さまよ》い歩いているうちに、香澄《かすみ》は自分がひどく惨《みじ》めに思えてきた。
自己嫌悪で、胸がいっぱいだった。恭介《きようすけ》との別れ際、どうしてあんなことを言ってしまったのだろう、と思う。あれでは、自分が草薙|萌恵《もえ》に嫉妬《しつと》していると受け取られても、おかしくなかった。
きっと今ごろ恭介は怒っているだろう。もしかしたら完全に嫌われてしまったかもしれない。
香澄《かすみ》自身、自分の感情が乱れている原因がなんなのか、よくわかっていなかった。あのとき、恭介が、自分と一緒にいるのを嫌《いや》がっているように思えて、それだけで香澄の頭の中は真っ白になってしまったのだ。
これでよかったんだ、と香澄は考えようとした。
自分の存在は、恭介を苦しめることしかできない。香澄は彼の監視者であり、万一の場合には、彼を抹殺《まつさつ》するために派遣された特捜官《とくそうかん》なのだ。それならば、いっそ恭介に嫌われてしまったほうがいい。そんなふうに自分に言い聞かせる。
胸が痛い。
いつの問にか、香澄の足は駅前のショッピング・モールに向いていた。同世代の少女たちがけたたましく笑いながら通り過ぎていく。銀色の街灯やネオンがまぶしくて、目が滲《にじ》んだ。
少しお腹が空《す》いていたが、香澄は一人でお店に入るのが苦手だった。
交差点の近くの花壇に腰かけて、ぼんやりと行き交う人の波を見つめる。歩行者用の信号が何度か青に変わったころ、香澄は近くで車のクラクションが鳴っていることに気づいた。
鳴らしているのは、ド派手なアメリカ製のスポーツカーだ。
「……杏子《きようこ》さん」
歩道側の運転席から顔を出している女性に気づいて、香澄は急いで立ち上がる。
本革《ほんがわ》のステアリングにだらしなくもたれて手を振っていたのは、すらりとした長身の、気怠《けだる》い感じの美人だった。
「なにをやってるんですか、こんなところで」
あわてて近くに駆《か》け寄りながら、香澄が訊《き》いた。
緋村《ひむら》杏子は、端整《たんせい》な口元を歪《ゆが》めてにやりと笑った。今日の彼女はめずらしく化粧をしており、格好いい原色のスーツで決めている。
「ショッピングよ。今日は早番で仕事が早く終わったからね。さ、乗って乗って」
「え……でも、あたし」
「いいからいいから。ちょうど香澄ちゃんに話したいことがあったのよ」
信号が変わって、杏子の後ろに止まっていた車が苛立《いらだ》ったようにエンジンを吹かした。
香澄は、杏子の強引《ごういん》さに押し切られるような形でクーペの助手席に乗りこんだ。クラッチを乱暴につないで、杏子《きようこ》が車を発進させる。
「お腹空《す》いてるでしょ、おごるわよ。なに食べたい?」
ものすごい加速で追い越し車線に乗り入れながら、杏子が訊いた。一方的に決めつけながら、少しも押しつけがましくないところが彼女の特徴だ。
香澄は不思議な安心感を覚えながら、彼女の提案を受け入れることにした。
「なにかあった?」
と、その杏子が、いきなり訊《き》いた。香澄《かすみ》は「え?」と訊き返す。
杏子は、ステアリングをせわしなく左右に動かしながら、素《そ》っ気《け》ない口調で言った。
「泣きそうな顔してたわよ」
「そんなことないですよ」
香澄は微笑《ほほえ》んで首を振った。上手《うま》く笑ったつもりだった。
杏子はそれ以上、追求しなかった。ふっと唇《くちびる》を緩《ゆる》めて、さらにスピードを上げる。
「ちょっと寄り道するわね」
「あ、はい。どちらに?」
「洋服屋。あと、靴も買わなきゃね。高校の制服じゃお酒は飲めないものね」
「え……服って、まさか、あたしのぶんですか」
「当然でしょ。任せて。知り合いの店が近くにあるから。もう着くわ」
杏子はあっさり言うと、特攻するような勢いで駐車場に車を突っこんだ。そのまま香澄の手を握って、無理やりブティックの中に引きずりこむ。ファッションにうとい香澄でさえ、一目でそれとわかる高級な雰囲気の店だった。
試着室に放りこまれた香澄は、次から次に、杏子の持ってくる衣装を着せられた。着せ替え人形にされた気分だった。香澄が呆然《ぼうぜん》としている間に、杏子は手際よく支払いを済ませ、車のトランクに入りきれないほどの服を買った。学校の制服や靴も一緒にトランクに突っこまれてしまったので、香澄はひらひらのワンピースを着たまま店を出る羽目《はめ》になってしまった。
「あの、あたし、お金払います。今はそんなに持ち合わせがないですけど」
香澄がそう言うと、杏子は大きく口を開けて笑った。
「いいわよ、べつに。どうせ、うちの院長から賭《か》けゴルフで巻き上げたお金だし」
店を出て運転席に戻りながら、杏子がつけ加える。
「あたしギャンブルで負けたことないんだわ」
なるほど、と香澄は妙に納得してしまった。
あまり着飾った経験がないのと、ワンピースのスカートが短いせいで、香澄は落ち着かない気分だった。だが、きらびやかな服を着ているせいか、先ほどまでの沈んだ気分は嘘《うそ》のように消え去っていた。きっと、これが杏子の狙《ねら》いだったのだろう。
杏子が再び車を発進させた。帰宅ラッシュの時間なのか、道がだいぶ混んでいる。
彼女もさすがにスピードを落としていた。それで、ようやく香澄《かすみ》は訊《き》くことができた。
「あたしに話したいことって、なんですか?」
「べつにたいしたことじゃないの」
杏子《きようこ》は前を向いたまま言った。彼女はもう笑っていなかった。
「調べてるんでしょう? あなたたちの学校で起きた殺人事件のこと」
やはりそのことか、と香澄は思った。
緋村《ひむら》杏子は、レベリオンの存在を知る数少ない人間の一人だ。事件が不可解な密室殺人だと報道されたときに、レベリオンのことを連想しても不思議はない。
「だから、少し気になったの。島崎《しまざき》麻巳子《まみこ》さん、だっけ? 殺された彼女。あたし、あの子のことを知ってるわ」
「どういうことですか?」
怪訝《けげん》に思って香澄は訊《き》いた。杏子と島崎麻巳子では十歳近く年齢が離れている。住んでいた場所や職場も遠い。二人の間に接点があるとは思えなかった。
杏子は、シャツの胸ポケットから煙草《たばこ》を取り出して、火をつけないまま口にくわえた。
「彼女、うちの病院に入院してたことがあるのよ」
唐突なその言葉に、香澄は少なからず驚いた。それは統合計画局が警察から入手した資料の中にもない情報だったからだ。
「いつごろのことですか?」
「そうね、半年くらい前……ちょうどあなたが転校してきたころだと思う」
「! それって……まさか!?」
香澄が、杏子のほうに身を乗り出す。
その瞬間、なんの前触れもなく杏子が急ハンドルを切った。遠心力で香澄はドアに押しつけられ、二人を乗せた車は、細い脇道を狂ったように加速していく。
杏子の右手が、なにかの精密な機械のように、シフトレバーをめまぐるしく操作した。四〇扁平の巨大なタイヤが白煙を上げ、耳をふさぎたくなるようなスリップ音が鳴り響いた。
車はあっという間に市街地を抜けて、急な勾配《こうばい》の山道へと進んでいった。
スピードメーターは、軽く制限速度を超え、ときおり二百キロ近くまで跳ね上がる。常人の何倍もの運動能力を持つレベリオンの香澄でさえ、悲鳴をあげたくなる速度だった。
「ちょ、ちょっと杏子さん……す、スピードが……」
顔を強張《こわば》らせて、香澄が振り向く。驚いたことに、杏子の表情にはうっすらと笑みすら浮かんでいた。三百四十馬力のエンジンが一・七トンの車体を弾丸のように疾走《しつそう》させる。カーブのたびにタイヤがずるずると横に滑《すべ》り、そのたびに香澄は谷底に落下するような恐怖を味わった。
くわえていた煙草をポケットに戻しながら、杏子が言った。
「ふうん……なかなか根性があるわね」
「きょ、杏子《きようこ》さん……なにを……」
香澄《かすみ》が恐々《きようきよう》としながら声を出す。すると杏子は、ステアリングを握った手でバックミラーを指差した。
「後ろを見てごらんなさい」
言われたとおりに、香澄が振り返る。と、窓越しに一台の大型バイクが見えた。赤いカラーリングの、レーシングバイクだ。暴走する杏子のあとを、ぴったりと離れずについてくる。
「……あれは1?」
「|CBR九〇〇RR《フアイヤーブレード》か、手強《てごわ》いわね……知り合い?」
「いえ」
香澄は首を振った。バイクに乗っているのは、黒革《くろかわ》のライダースジャケットを着た男だった。ヘルメットはかぶっていない。サングラスの下の顔は若い東洋人だと思われた。香澄の知らない顔だ。
だが、バイクに不利な下り坂で杏子の無謀《むぼう》な運転にくらいついていることからしても、彼が普通の人間ではないことは間違いない。
「いつ気づいたんですか。尾行《びこう》されていることに」
「最初からよ。あなたを乗せたときから」
事もなげに杏子は言った。香澄は唖然《あぜん》とした。軍で工作員としての訓練を受けた香澄ですら気づかなかった相手を、彼女は平然と連れ回していたというのか。やけに運転が乱暴だったのも、本当に尾行されているのかどうか確かめていたのに違いない。
「車を止めてください、杏子さん。私が相手をします」
シートベルトを外しながら、香澄は言った。
買ってもらったばかりの上着を脱《ね》ぐと、その下の細い腕が、淡い燐光《りんこう》を放っていた。危険を感じた肉体が、レベリオン細胞の能力を解放したのだ。
「この先に、展望駐車場があるわ。周囲に民家もないし、この時間なら誰もいないはずよ」
スピードを緩《ゆる》めないまま、杏子が言った。それから彼女は、なにも言わずに天井を指差した。
その意味に気づいて、香澄はうなずく。
曲がりくねった山道を抜けると、杏子の言ったと諮り、崖《がけ》から突き出すような形で建設された市営の展望駐車場が見えてきた。幸い、停まっている車は一台もない。
杏子のスポーツカーは、悲鳴のようなブレーキ音をまき散らしながら駐車場に突っこんだ。十メートルほど離れて、赤いオートバイが追跡してくる。それを確認して、香澄は車の天井についているロックを解除した。杏子の車は、屋根の中央部分が取り外せるようになっていたのだ。
風圧で吹き飛んだ屋根が、真後ろにつけていたバイクを襲った。続いて香澄が、車から飛び出した。手に持っていた上着を、バイクの操縦者めがけて投げつける。
追跡者の男は、飛んできた樹脂製の屋根を片腕で払いのけた。だが、続けて襲ってきた上着をよけることはできなかった。まとわりついた上着が男の視界を奪ったところを攻撃しようと、香澄《かすみ》は空中で身構える。
だがそのとき、思いがけないことが起きた。
男を包み込んだ香澄の上着が、なんの前触れもなく炎《ほのお》を噴《ふ》き上げたのだ。炎はまたたく間に燃え上がり、炭化《たんか》した上着は粉々にちぎれて消滅した。
「炎のトランスジェニック能力――!?」
香澄は咄嵯《とつさ》に空中で身体《からだ》をひねり、豹《ひよう》のように着地した。
その眼前を、眩《まばゆ》く輝く白い閃光《せんこう》が駆《か》け抜けた。赤いレーシングバイクに乗った男が、香澄のすぐ傍《ぞぱ》をかすめて過ぎたのだ。直後に、猛烈《もうれつ》な熱波が襲う。
香澄は後方に飛び退《すさ》って、その攻撃をどうにかかわした。
バイクが旋回《せんかい》し、香澄から少し離れた場所に、正面を向けて停まった。
「……久しぶりだな」
サングラスを投げ捨てて、男が言った。日本語だ。
男の指先から、輝く爪《つめ》のようなものが突き出していた。その周囲を、ゆらゆらと陽炎《かげろう》がたちのぼっている。
|恒 常 性《ホメオスタシス》だ、と香澄は直感した。
哺乳《ほにゆう》類や鳥類などが持つ、体温の調節機構。それを暴走させることで、この男は自らの体温を無制限に上昇させることができるのだ。
突き出した爪《つめ》のようなものは、おそらく体内の炭素分を結晶化させて作ったダイヤモンドの放熱器だろう。ダイヤモンドは地上でもっとも硬い物質であると同時に、すべての物質の中で、もっとも熱伝導性が高い物質でもある。しかも、その限界温度は摂氏三五五〇度。これは航空材料に使われるチタニウムですら沸騰《ふつとう》してしまう温度である。
その指先から繰り出す超高温が、この男のトランスジェニック能力なのだ。
炎を操《あやつ》るレベリオン。否応《いやおう》なく、高城《たかじよう》学園の密室殺人を連想せずにはいられない。
「預けていたものを、返してもらおう」
もう一度、男が言った。香澄は、立ち上がって男を睨《にら》み返した。
身長は恭介《きようすけ》よりもわずかに高い程度だろう。年齢は二十歳前後。細身だが、骨太の野性的な顔立ちをしている。引き締まった唇《くちびる》が、強い意志の力を感じさせた。
「……なんのことを言ってるの?」
香澄はゆっくりと言った。男の頬《ほお》が、ぴくりと引きつった。
陽炎のゆらめきが勢いを増す。
「今さら、とぼけるつもりか?」
怒りを押し殺した、低い声で男が言った。香澄はその殺気に気圧《けお》されるようにして叫んだ。
「だって、本当にわからないもの。あなた何者なの!? 統合計画局の人間?」
「忘れたとは言わさんぞ、秋篠《あきしの》っ!」
男が叫ぶ。CBR九〇〇RRのエンジンが爆音を上げた。前輪を高々と持ち上げて、男のバイクが加速する。
「あくまでもとぼけるつもりなら、腕ずくで思い出させてやる」
くっ、と香澄《かすみく》は唇《ちびる》を噛《か》んだ。男の体重と合わせて、バイクの重量は二百キロを超える。それが猛《もう》スピードで突っこんでくるのだ。まともにぶつかったら、ただでは済まない。
だからといって左右のどちらかに逃れたら、今度は男の熱攻撃をくらってしまうだろう。
「だったら――」
香澄は逃げずに、正面から男のバイクに向かっていった。交差させた両腕が発光する。
「なにっー!?」
激突の衝撃《しようげき》と、男の坤《うめ》きが漏《も》れたのは同時だった。バイクの前輪を殴《なぐ》りつけた香澄の拳《こぶし》が、働契《どうこく》にも似た美しい響きを放った。
トランスジェニック能力|嘆 き の 拳《スクリーミング・フイスト》
香澄の両腕が放つ超高速の微振動波は、バイクの前輪内部の空気と、タイヤを支えるフロントフォークに封入されたオイルによって増幅《ぞうふく》され、爆発的な衝撃と化した。
体重五十キロにも満たない華奢《きやしや》な少女が大型バイクの突進を跳《は》ね返し、大きくバランスを崩《くず》したライダーは、バイクを捨てて地面を転がる。圧倒的ともいえるスクリーミング・フィストの破壊力だった。
反撃しようと駆《か》け出した香澄は、しかし、男の寸前で足を止めた。
男の周囲のアスファルトが溶解《ようかい》し、突然、猛烈《もうれつ》な炎《ほのお》が噴《ふ》き上げたからだ。
炎の障壁《しようへき》に守られた男が、ゆらり、と立ち上がった。
「その技……そうか、おまえ……似ているが、違う。秋篠の妹か……」
「――!?」
予期せぬ言葉に香澄は立ちすくんだ。燃え上がる炎を挟《はさ》んで、男の姿をまじまじと見つめる。
炎を背負ったまま、男はゆっくりと歩き出した。
「妹がいる、とは聞いていたが……真澄美《ますみ》を捕まえるために利用するつもりか。やつらのやりそうなことだ」
「……あなた、誰? どうして姉さんのことを知っているの!?」
香澄の質問に男は答えなかった。倒れたままのバイクに歩み寄り、片手で軽々と引き起こす。
「おまえ、名前は?」
男が訊《き》いた。その声に、もう敵意は感じない。
それでも油断なく身構えたまま、香澄は言った。
「香澄……秋篠香澄よ」
「俺《おれ》の名は高崗《たかおか》……高崗|陸也《りくや》だ」
「高崗陸也!?」
香澄《かすみ》は、自分が戦っているということも忘れて、呆然《ぼうぜん》と男を見つめた。高崗陸也という名前には、それほどの衝撃《しようげき》があった。
男の周囲を包む炎《ほのお》はすでに消えかけていたが、香澄は動くことができなかった。
「|レベリオン原種《オリジナル・セブン》の生き残り……どうして、こんなところに……」
「おまえの姉……秋篠《あきしの》真澄美《ますみ》に奪われた、俺《おれ》の半身を取り戻すためだ」
陸也は、傷ついたバイクにまたがりエンジンを再始動する。
「間違って、おまえを襲ったことは謝《あやま》る……だが、次に会ったとしても、俺の邪魔《じやま》だけはしてくれるな。もし俺の敵になるなら、俺はまよわずおまえを殺す――」
そう言い残すと、陸也はバイクのアクセルを開けた。
甲高《かんだか》い排気音を残して、陸也を乗せた真紅《しんく》のCBRが夕闇《ゆうやみ》の中に消えていく。
あとには、消え残る炎の熱気と、呆然《ぼうぜん》と立ちつくす香澄だけが残された。
「追わなくていいの?」
ふと気づくと、すぐ傍《そば》に、車に寄り添って緋村杏子《ひむらきようこ》が立っていた。
香澄は小さく微笑《ほほえ》んで首を振る。
「いいんです」
「そう」
杏子は静かにうなずいただけだった。
香澄は、顔を上げて周囲を見回した。いつの間にか太陽は地平線に沈み、残照の残る空にも、無数の星がまたたき始めていた。頭がすっかり混乱している。今はなにも考えられない。
「ごめんなさい」
とりあえず香澄は謝《あやま》った。
「車の屋根と、それからせっかく買ってもらった服も、だめにしちゃって」
「ああ、そんなのどうでもいいわ。たまには屋根を開けて走るのも悪くないし、服はまだまだいっぱい予備があるからね」
そう言って杏子は、オープンカー状態になった愛車のトランクを指差した。激しい戦闘で傷だらけになった香澄に、悪戯《いたずら》っぼく微笑んでみせる。
香澄は、思わずつられて笑ってしまった。
高崗陸也に焼かれたアスファルトが、夕闇の中でじりじりと煤《くすぶ》り続けていた。
6
すでに午後六時を過ぎていたが、自習室の中はそれなりに混んでいた。
市立図書館の開館時刻は午後七時までで、閉館ぎりぎりまで粘《ねば》ってから帰るのが、恭介《きようすけ》たちの最近の習慣となっている。だが、一緒に来た仲間たちの中で、今も自習室に残っているのは、恭介《きようすけ》と萌恵《もえ》の二人だけだった。
臣也《しんや》たちは、ちょっと本を借りてくる、と言い置いてどこかに行ったまま、いまだに戻ってきていない。彼らが恭介のために気を利かせて、萌恵と二人きりにしてやろうと画策《かくさく》したのは明らかだった。恭介が萌恵に惚《ほ》れていることは、彼らの問では常識なのだ。
余計なことを、と思わないではないが、まったくうれしくないかと訊《き》かれると、答えに迷うところだった。
幸いなことに萌恵本人は、周囲のそんな気配りにまったく気づかず、真剣な表情で参考書を睨《にら》んでいた。他人には人一倍気を遣《つか》うくせに、自分のことになると彼女は呆《あき》れるほど鈍感で、そんなところも恭介にとっては魅力なのである。
今日の午後に新しく渡された数学の課題を終えたところで、恭介は、その萌恵が自分を見ていることに気づいた。
前より少し伸びたショートカットの前髪の下で、優しげな瞳が微笑《ほほえ》んでいる。
「どうかした?」
恭介が訊《たず》ねると、萌恵は驚いたように首を振った。自分がそんな表情を浮かべていることに気づいていなかったらしい。ごめんなさい、とはにかんだように笑う。
「ちょっと、ほっとしてた」
「……なにが?」
恭介が訊《き》き返すと、彼女は、ううん、と首を振った。
「ひょっとして、今回の殺人事件のこと?」
少しためらって、恭介はそのことを口にした。草薙《くさなぎ》萌恵は、恭介たちの特殊な能力を知っている高城《たかじよう》学園で唯一の生徒だ。もちろん萌恵も詳《くわ》しい事情を知っているわけではないが、彼女は以前に恭介が戦っている姿を見たことがあるのだった。
「……殺人だったの? 自殺じゃなくて?」
その彼女が、急に不安そうな顔をした。
「あたし、緋村《ひむら》くんが、事件のことを調べてるんじゃないかと思ったの。だって自殺の場所にわざわざ鍵がかかっている外の更衣室を選ぶなんて変だと思ったし、刑事さんたちもずいぶん大勢やってきてたし」
恭介はうなずいた。今朝《けさ》読んだ新聞では、警察は、事故とも自殺とも断定できない、というコメントを発表しているだけだった。密室については、ほとんど触れられていない。
「だけど、緋村くんも香澄《かすみ》ちゃんも今日は普通に学校に来てたから、ちょっと安心してた」
「べつに俺《おれ》たちも、事件に首を突っこみたいわけじゃないんだよ。自殺なら、しょうがないし、普通に警察が犯人を捕まえられるんならそれでいいんだ」
苦笑しながらも、恭介はうれしかった。彼女は、恭介たちが事件を起こしたのではないかと疑っているわけではないのだ。それどころか、恭介《きようすけ》たちが危険な目に遭《あ》うことを心配してくれている。
「でも――」
と言いかけて、恭介はやめた。
自分と同じレベリオンの能力を手に入れた者が、その能力を悪用しているとしたら、恭介はどんなことをしてでもそいつを止めたいと思っている。だが、それを口にすることはできなかった。なぜなら、その恭介の行動は、正義感から出たものではないからだ。
同じようにレベリオンと化して苦しんでいた親友を、恭介は過去に見殺しにしてしまった。
レベリオンの力を悪用する者に対して自分が激しい怒りを感じるのは、その負い目があるせいではないのか、と思う。その罪を償《つぐな》うために、自分は犯人を追っているのではないだろうか。
だとすれば、まだ足りないと恭介は思った。
恭介が感じている苦しみも怒りも、罪の償《つぐな》いにはまだ足りない。
「亡くなった島崎《しまざき》さんに、あたし会ったことがあるの」
黙りこんでしまった恭介に気を遣《つか》ったのか、ふいに萌恵《もえ》が言った。
「あの人もピアノを弾いてて、県のコンクールで入賞したこともあるから。何度か、話をしたこともあるんだ」
「え……そうなのか?」
恭介は持っていたシャープペンシルを置いて顔を上げた。はじめて聞く内容だった。
「優しい、普通の人だよ。殺されるような人には見えなかった。どこかの大学の音楽科に合格したって聞いてたのに」
萌恵は悲しそうな顔をする。恭介は黙って考えこんだ。香澄《かすみ》から見せてもらった資料では、島崎|麻巳子《まみこ》は市内の会社に勤めていることになっていた。
「それって、いつの話?」
恭介が訊《き》くと、萌恵は少し考えるように天井を見た。
「あれは、秋の大会のときだから、去年の九月くらいだったと思うな。推薦《すいせん》入学だって言ってたから、結果が出るのが早かったんだと思う」
「そうか……ひょっとしたら、そのあとで彼女になにかあったのかも……」
恭介は、自分が重大な問題を見落としていたことに気づいた。
犯人は、恭介たちをおびき出そうとしている。そう考えることで、密室が作られた理由は説明できる。だが、密室の中で殺されたのが、どうして島崎麻巳子でなければならなかったのかという疑問は残ったままだ。
本当に犯人の狙《ねら》いが恭介たちだけなら、卒業生である彼女をわざわざ学校に連れてきて殺す理由はない。犯人には、島崎麻巳子を殺さなければならない理由があったのだ。
そして、その動機がわからない以上.犯人は次の殺人を犯す可能性がある。襲われるのは、なにも恭介《きようすけ》たちだけとは限らない。それを恭介は完全に失念していた。
自分の迂闊《うかつ》さに腹を立てながら、恭介は眉間《みけん》にしわを寄せて考えこむ。
そのとき突然、すぐ傍《そば》で舌足《したた》らずな声が聞こえた。
「すみません。ここ、座ってもいいですか?」
振り向くと、恭介のすぐ隣に、小さな女の子が立っていた。小学校の高学年くらいだろう。柔らかな髪を腰のあたりまで長く伸ばした、可愛《かわい》らしい少女である。
見たところ日本人のようだが、人形のような華奢《きやしや》な体つきで、白人の血が混じっているのか灰色がかった青い瞳をしている。恭介は、統合計画局のエージェントであるリチャード・ロウの瞳を連想した。
「ああ、ごめんな」
恭介は少女に謝《あやま》って、隣の席に置きっぱなしだった山崎臣也《やまざきしんや》の荷物をどけた。
「ありがとう、恭介」
少女は礼を言って、さっそく恭介の隣に座った。恭介は、ん、と怪訝《けげん》に思う。
「あれ……なんで俺《おれ》の名前を知ってるんだ?」
恭介が訊《き》くと、少女は不思議そうな顔で見返した。
「だって、恭介って名前なんでしょ」
「まあ、そうだけどさ」
恭介は首を傾《かし》げながら、向かい側の席の萌恵《もえ》を見た。萌恵は、にこにこと微笑《ほほえ》んでいる。
臣也たちが自分のことを呼んでいる姿を、この少女は見ていたのかもしれない。そう思って、恭介は考えるのをやめた。
少女は、分厚《ぷあつ》い本を何冊も抱えていた。童話かなにかだと思ってのぞいたら、それらはみな難解そうな科学の専門書だった。英語で書かれた書物も混じっている。
「これ、みんなあなたが読むの?」
萌恵が驚いて訊《き》く。少女は大きくうなずいた。
「うん。こっちがサイバーグ・ウィッテン方程式の解説書で、こっちがパーミアン紀大絶滅の論文で、これとこれはレギュラシオン・アプローチによる開発経済論」
「はあ……」
恭介と萌恵は、唖然《あぜん》として顔を見合わせた。そんなふうに説明されても、なんのことかさっぱりだった。試《ため》しに一冊借りてめくってみると、恐ろしく複雑な数式がところせましと印刷されていた。なんてかわいげのないガキだ、と恭介はこっそり思った。
「おもしろいのか、これ?」
恭介が訊くと、少女は当然のようににっこりと笑った。それから彼女は、恭介が広げている数学の問題集を、興味深そうにのぞきこんだ。
「ここ、間違ってるよ、恭介」
「なにい?」
少女に指摘されて、恭介《きようすけ》は捻《うな》った。萌恵《もえ》も、びっくりしたような表情を浮かべている。
「ほら、ここ。右辺を微分《びぶん》したときに、この関数も消えるはずだから解は整数になって割り切れるでしょ。あと、こっちは計算ミス。三四三は七の三乗だから、こっちのルートが……」
少女の指摘は正確で、どうしてもわからなくてつまついていた場所が、あっという間に解けてしまった。てきぱきとした彼女の指示に従っているうちに、恭介は自分が情けなくなってくる。萌恵は、すごいすごいと手を叩《たた》いている。
少女は、そんな萌恵がすっかり気に入った様子で、うれしそうに笑いながら早口でいろんなことを話し始めた。今日食べたお昼ご飯のこと、日本に来る前はアメリカに住んでいたこと、お気に入りの音楽のこと。
彼女の話には、真澄美《ますみ》という名前が何度も登場した。その女性が、どうやら彼女の保護者らしい。真澄美はなんでも知っていて優しいけど、怒ると恐い。ときどき意地悪、と彼女は言った。保護者ってのはそんなもんだよな、と恭介は、なぜかものすごく納得してしまった。
両親と学校の話題だけは出なかったが、恭介も萌恵《もえ》も、あえてそれを訊《き》こうとはしなかった。こんなずば抜けた才能を持つ少女が、日本の学校でどんな目に遭《あ》うのか、なんとなくわかってしまったからだ。
少女はまだしゃべりたそうにしていたが、しらばくすると、閉館時間を告げる音楽が鳴り始めた。外はすっかり暗くなっている。臣也《しんや》たちは戻ってこないし、この少女をほったらかして勝手に帰るわけにもいかない。
まいったな、と恭介が思い始めたとき、一人の女性が近づいてくるのが見えた。
黒いロングのタイトスカートを身につけた若い女性だ。栗《くり》色の長い髪。建物の中だというのに、大きなサングラスをかけている。
ほっそりとした、美しい女性だった。
「帰りましょう、Y《はな》」
「あ……真澄美だ」
彼女に呼びかけられて、少女がちょっと残念そうにつぶやいた。
恭介は、真澄美という女性が、想像していたよりもずっと若かったことに驚いた。
自分たちと同い年か、せいぜい二十歳そこそこにしか見えない。少女の保護者だというから、もっと年輩の女性を想像していたのだ。
と、そんな恭介のぶしつけな視線に気づいたように、真澄美が振り向いた。
「遊んでもらってたの?」
「うん」
駆《か》け寄ってきた少女が勢いよくうなずく。真澄美は、恭介たちの顔を見て、かすかに驚いたような表情を浮かべたが、すぐににっこりと微笑《ほほえ》んだ。
「そう……よかったわね、煙《はな》」
あいさつなさい、と真澄美《ますみ》にうながされ少女はうなずいた。恭介《きようすけ》たちを見上げて、少し寂しそうに言う。
「……バイバイ」
「さようなら、Yちゃん」
萌恵《もえ》が、優しく微笑《ほほえ》んで手を振った。また遊ぼうね、と彼女が言うと、少女の顔が、ぱっと明るくなった。
「うん、きっとだよ、萌恵。恭介も」
あまりにも少女がうれしそうだったので、恭介もつられて手を振った。彼女は何度も何度も振り返りながら、サングラスの美女に連れられて去っていく。
「なんだったんだ、あいつ」
苦笑しながら恭介が言った。ちょうど、臣也《しんや》たちが大声で笑いながら戻ってくることろだった。少女の後ろ姿をずっと見送っていた萌恵が、不思議そうな声でつぶやいた。
「ね、今の女の人……香澄《かすみ》ちゃんにそっくりだったね」
恭介はうなずいた。それは、恭介自身、ずっと気になっていたことだった。
[#改ページ]
第三章
水曜日の失踪
Missing on wednesday
1
一夜明けた水曜の朝、恭介《きようすけ》はカバンとヘルメットを持って家を出た。
事件の被害者は、二人ともバイクに乗っているところを襲われている。だとすれば、自分がバイクで登下校することで、犯人をおびき出せるのではないか。そう恭介は考えたのだ。
それに、昨晩、香澄《かすみ》が遭遇《そうぐう》した高崗《たかおか》陸也《りくや》と名乗る男も、バイクに乗っているという話だった。放課後になったら、その男を捜すために市内を走り回ってみるのも悪くないと思った。
炎《ほのお》を操《あやつ》るというそのレベリオン能力者のことは、すでに姉の杏子《きようこ》から聞かされている。なかなかいい男だったわよ、というのが、彼女の高崗陸也に対する評価だった。
さすがに今日は、香澄も迎えにきてはいなかった。
孝太郎《こうたろう》のことを考えて、恭介は少しほっとする。
香澄と二人乗りで学校に登校するところを見られたりした日には、彼にどう言い訳すればいいのか見当もつかない。なにやら面倒なことになっちまったな、と恭介はヘルメットの下でため息をついた。
教室に着くと、日直の女子生徒が、時間割の変更を黒板に書きつけているところだった。
警察の取り調べで使えない教室が出てきたり、殺された島崎《しまざき》麻巳子《まみこ》の葬儀《そうぎ》に参列する教師がいたりして、授業に影響が出ているのだ。けれど、校内を出入りする警察官の数は目に見えて減っていたし、事件のことが教室で話題になることも少なくなっていた。
ほとんどの生徒にとって、事件はすでに過去のものになりつつある。それはつまり恭介《きようすけ》たちや警察が、新たな情報を手に入れにくくなるということでもあった。
「しかたないさ」
そのことについて恭介がぼやくと、孝太郎《こうたろう》は達観したような口調で言った。
「それが正常な反応ってやつじゃないのかな。今回の事件は連続殺入ってわけじゃないんだし、殺人か自殺かわからないような曖昧《あいまい》な状態で、いつまでも緊張していても仕方ないだろ」
「それは、そうなんだろうけどさ……」
「いや、おまえが心配する気持ちもわかるよ」
と、孝太郎はうなずいてみせた。
「本当に恐ろしいやつらってのは、正常な入間のふりをして、普通の人々の中に紛《まぎ》れて堂々と生活してるものだからな。案外、俺《おれ》たちの身近なところに、犯人はいるのかもしれない」
思いがけず物騒《ぶつそう》な彼の言葉に、恭介は不安を覚えた。だが、孝太郎は、すぐに興味を失ったように小さく笑う。
「だけど、どんなに上手《うま》く演技をしてても、これだけ周りが騒いでれば、そうそう隠しきれるもんじゃない。どうにかなるだろ」
「まあな……」
恭介はいちおう同意してみせたが、漠然《ばくぜん》とした不安は強くなる一方だった。
犯人は、そんなふうに無関係な人間のふりをして、次の犠牲者の警戒心が薄らぐのを待っているのかもしれないと思った。けれど、それを口にすることはできなかった。孝太郎の言うとおり、これが連続殺人だということを知っているのは、恭介たちだけだ。それも確実な証拠があるわけではない。
「そんなことより、訊《き》きたいことがあるんだが……いいかな」
昼休み、例によって恭介を学食に連れこんで、少しはにかみながら孝太郎が言った。
今日の孝太郎はカレーライス、恭介はうどん定食を食べている。
「わかる範囲でいいんだが、秋篠《あきしの》さんのことを知りたいんだ」
「……香澄《かすみ》の?」
「ああ。あるだろ、趣味とか、よく行く店とか、家族構成とか……転校してくる前のこととか」
「そんなこと急に訊かれてもな……」
うどんの麺《めん》をすすりながら、恭介は眉間《みけん》にしわをよせた。
好きな女の子のことを知りたいと感じる孝太郎の気持ちはよくわかるし、できれば協力してやりたいとも思う。だが、考えてみれば、恭介自身、彼女のことをほとんどなにも知らないのだった。その事実に、恭介は、自分でも思いがけないほど動揺した。
恭介《きようすけ》が知っているのは秋篠《あきしの》香澄《かすみ》という女の子ではなく、あくまでも統合計画局の特捜官《とくそうかん》としての彼女でしかない。香澄にとって自分は、しょせんただの監視対象でしかないのだと言われてしまったような気がした。
だが、ほかの友人のことだって自分はどれだけ知っているのだろう、とも思う。
親友だと思っていた杉原悠《すぎはらゆう》や、草薙《くさなぎ》萌恵《もえ》のことでさえ、恭介はなにもわかっていなかった。
同じように、恭介自身、彼らに隠していることがある。目の前にいる榛原《はいばら》孝太郎《こうたろう》だって、恭介の知らない秘密をきっと持っているのだろう。そう思うと恭介は、自分がひどく孤独であるような気分になった。
「孝太郎……おまえ、兄弟は?」
「なんだよ、いきなり」
唐突に話題を変えた恭介に、面食《めんく》らったように孝太郎は笑った。
「弟がいるよ。西江《にしえ》実業の二年だ」
「西江か。それはまた……意外だな」
恭介は、うーんと捻《うな》った。西江実業は市内のはずれにある高校で、はっきり言って、かなりガラの悪い学校だ。ろくな噂《うわさ》を聞かないし、実際に街でもおっかない顔をした連中しか見ない。
「それがどうかしたか?」
「いや、同情してたんだ。できのいい兄姉がいると、弟ってのは苦労するんだよ」
妙に実感のこもった恭介の言葉に、孝太郎が噴《ふ》き出した。
「言っておくが、できのいい兄貴を演じ続けるのも、それなりの苦労があるんだぜ」
「まあ、そういうことにしといてやるよ」
恭介はうなずいた。たしかに、そんなものなのかもしれない。これまで知らなかった孝太郎の一面を見たことに少しだけ満足して、恭介は定食の残りをかきこんだ。
「香澄の趣味やなんかは、俺《おれ》も知らないんだ。訊《き》いといてやるよ。好みのタイプとかもな。そのうち機会があったらな」
「ああ、頼む」
孝太郎が神妙に頭を下げた。ばれないようにうまくやれよ、とつけ加えるのも忘れなかった。
2
弁当を 緒に食べた友人たちに見送られて、彼女は自分の教室を出た。
昼休みは、あと十五分ほど残っていた。廊下の窓から、校庭でバレーをしている男子の声が聞こえてくる。
下足室の靴箱の陰に隠れて、彼女は革靴に履《は》き替えた。あとをつけてくる人間が誰もいないのを確認して、彼女は下足室をあとにする。弾《はず》むような足取りだった。
折り畳《たた》まれたルーズリーフの用紙を、彼女は大切に握っていた。歩きながら、彼女は用紙に記された時間をもう一度たしかめた。時計の針は、指定された時間を、ちょうど回ったところだった。もう少し時間に余裕《よゆう》があったらメイクを直せたのにと、彼女は少し残念に思った。
体育館の裏手に回ると、プールをとりまく金網が見えてきた。更衣室の周囲に張ってあった立ち入り禁止のロープは、いつの間にか撤去《てつきよ》されている。彼女は霊《れい》の存在など信じていないが、さすがに、このあたりを一人でうろつくのは遠慮したいな、と思った。
目的の建物が見えてきたので、彼女は少し小走りに近づいた。
彼女には、普段あまり縁のない場所だった。どうしても暑苦しいイメージがあるので、なるべく近寄らないようにしている。だが間近でみると、建物の外観は意外に小綺麗《こぎれい》だった。
なるほど、と感心する。意外にムードがあるかもしれない。
指定されたドアに手を伸ばすと、鍵はかかっていなかった。蝶番《ちようつがい》が軋《きし》むような音を立てて、アルミ製のドアが開いた。
外見から想像するよりも、部屋の中は狭かった。彼女の自宅の勉強部屋よりも狭いだろう。採光用の小窓が天井近くにあるだけで、あまり通気性がいいとも思えない。電灯のスイッチを捜したが、建物自体の電源が落ちているのか、スイッチを入れても蛍光灯は点灯しなかった。
待ち合わせの相手は、まだ来ていない。
彼女は少し拍子抜けして、壁にもたれた。自分がここにいることを、ほかの誰かに見られると厄介《やつかい》なので、ドアはもとどおり閉めておく。
今は使われていないとは聞いていたが、それにしてもなにもない部屋だった。
ロッカーのひとつすら置かれていない。コンクリートの壁はスプレー塗料で色をつけているだけで、ブロックの継《つ》ぎ目が剥《む》き出しだった。
――遅いな、先輩《せんばい》……
彼女はため息をついて、もう一度時計を見た。
あと五分もしないうちに昼休みが終わる。そろそろ教室に戻らないと、次の授業に間に合わない。
待ち合わせに遅れたせいで、怒って先に帰ってしまったのかもしれない。だが、急に呼び出しておいて、それはあまりにも失礼だと思った。それとも、自分は、単にからかわれているのだろうか。友人たちの言ったとおり、ほかの誰かにだまされているのかもしれない。
――あとちょっとだけ待ってみよう……
彼女がそう思ったとき、部屋の入口付近で小さな金属音が鳴った。
一瞬、なにが起きたのかわからなかった。
ほとんど本能的な動作で、ドアに近づき取っ手を回す。だが、ドアは開かなかった。
外から、鍵がかけられている。
「なんで……!?」
なかばパニックに陥《おちい》りながら、彼女はノブの周りを探った。たとえ外から鍵をかけられても、部屋の中からならば簡単に解除できるはずだと思った。だが、鍵を解除する金具らしきものは、どこにも見あたらなかった。本来それがあるはずの部分には、ぽっかりと穴があいている。
最初から壊れていたのか、それとも、意図的に壊されたのか……
閉じこめられた、とようやく理解した。ほんの数日前、同じように密室で殺された卒業生の顔写真が頭に浮かんだ。
――そうだ、携帯《けいたい》……
彼女は、震える手で制服のポケットを探った。
――携帯で、助けを呼べば……
ポケットの中で、その指先が硬直する。
あるべき場所に、携帯電話の感触はなかった。
少し遅れて、彼女は、悲鳴をあげた。
3
香澄《かすみ》と二人きりで話をする機会は、意外に早く訪れた。
六時限目の授業が自習だったのだ。
それはちょうど選択授業の時間だったので、教室に残っている生徒は、恭介《きようすけ》と香澄を含めて、十人ほどしかいなかった。ほかの者は、それぞれが選択している理科教室へと移動している。
「あれ、リチャード・ロウ……か?」
たまたま空《あ》いていた窓際の席に座った恭介は、向かい側の校舎をながめてつぶやいた。
英語科の資料室に、眼鏡《めがね》をかけたアッシュ・ブロンドの男が座っていた。パソコンの画面を睨《こら》みつけて、一心不乱に操作している。遠目に見ても、それは鬼気《きき》迫る光景だった。
「あいつ、なんか最近やつれてないか?」
「そうね……ここのところ忙しそうにしてたから、そのせいだと思うんだけど」
隣で香澄が、ため息混じりの声で答える。
「今日は特に、ちょっと近寄りがたい雰囲気だったの。高南陸也《たかおかりくや》のことを報告したあたりから、なにか思い詰めてる感じで」
「例の、炎《ほのお》使いのレベリオンか……」
恭介は、香澄のほうに振り返って身を乗り出した。
「島崎《しまざき》って人を殺したのも、そいつの仕業《しわざ》なのかな」
「わからない」
と、香澄が首を振る。
「たしかに彼の能力なら、人間を焼き殺すくらい簡単にやってのけると思うけど、だとしたら、わざわざ密室をこしらえる理由がないし、あたしたちを挑発するメリットもない。だいいち、レベリオン原種である彼が島崎《しまざき》麻巳子《まみこ》を殺す必要性なんて、あり得ない」
「レベリオン……原種?」
聞き慣れない言葉に、恭介《きようすけ》は目を細めた。
「なんだそれ? そいつは、俺《おれ》たちとどう違うんだ?」
恭介の質問に対して、香澄《かすみ》は一瞬、口を滑《すべ》らせたことを悔《く》やむような表情を浮かべた。美しい瞳を苦悩するようにきつく閉じて、ほどなく、意を決したように口を開く。
「そうね……あなたには聞く権利があるかもね。もう十年以上前の話よ。日本とアメリカの生物学者が中心になって、海洋学者と共同で、あるプロジェクトを実行したの」
「……海洋学者?」
「そう」
聞き違いかと思ったが、香澄はあっさりとうなずいた。
「プロジェクトの名前は、地球深部探査計画。深海の奥底に堆積《たいせき》している地層を掘り出して、古代の地球の環境の変化や、生物の進化の歴史を調べようとする実験よ」
「ああ……なるほどな」
恭介は納得した。海底の地層は、地上と違って風雪に侵されたり人間に荒らされたりすることがない。それに、もともと生物の多くは海から発生したとされているのだ。だから古代生物について研究するには、陸上よりも海の底のほうが適しているのかもしれなかった。
「だけど、それとレベリオンになんの関係があるんだ?」
「深度数千メートルの海底で掘削《くつさく》された何億年も前の地層の中に、仮死状態で生き延びていた未知のウィルスが発見されたの」
淡々と告げる香澄の言葉に、恭介の心臓が大きく跳《は》ねた。
「まさか、それって……」
「そのウィルスは高い感染力と驚異的な致死力で、深海探査船に乗りこんでいた人間を全滅させた。偶然ウィルスへの耐性を持っていた、わずか七人の科学者をのぞいて」
香澄はそこで小さく息を吸った。
「彼らの体内から発見されたウィルスはすでに感染力を失っていたけれど、そのかわり彼らに驚異的な治癒《ちゆ》能力と高い戦闘能力を与えていた。そして、彼らにつけられた名前が|レベリオン原種《オリジナル・セブン》。米国防総省は、その能力を兵器として転用するために、彼らを隔離《かくり》して密かに研究することにしたの」
「じゃあ、R2ウィルスっていうのは……」
「彼らが深海から持ち帰ったウィルス、RO54の感染力を復活させたものが、R1。R2はその改良版よ。感染力や、非適合者に対する副作用をかなり弱めているけれど、そのぶんRO54に比べて、|進化促進媒体《プロモーター》としての機能は低下していると言われているわ」
「つまり……レベリオン原種の戦闘能力は、R2ウィルスでレベリオン化した俺《おれ》たちよりも上、ってことか?」
驚く恭介《きようすけ》に、香澄《かすみ》は小さくうなずいた。
「そう考えて間違いない、と思う。同じ猫科の猛獣《もうじゆう》でも、ライオンとチーターでは戦闘能力に格段の差があるでしよう?」
「本当かよ……」
恭介はうんざりとつぶやいて頭を抱えた。
「アレス部隊だけでも厄介《やつかい》なのに、なんでそんなやつまで出てくるんだ。隔離《かくり》されてたんじゃなかったのか?」
「逃げ出したんでしょ。隔離すると言っても、犯罪者でもない人間を牢《ろう》に閉じこめておくわけにはいかないわ。それにレベリオン原種の存在を知っている人間は、統合計画局の中にも一握りしかいないの。脱走しようと思えば、アーレンたちよりも、はるかに簡単だったはずよ」
「じゃあ、なんでそいつがこの街をうろついてるんだよ。日本でもアメリカでも、ほかに隠れる場所はいくらでもあるだろ?」
「そう……ね」
そう言ったきり、香澄は黙りこんだ。その沈黙から、彼女はなにか知っているのではないかと恭介は思った。だが、それを訊《き》き出す方法は思いつかなかった。
香澄は前を向いて、真剣な表情で考えこんでいた。澄んだ瞳が、瞬《まばた》きもせずに景色だけを映している。息継ぎすら忘れているようにも見えた。
こんなときの彼女は、たしかに魅力的に見える、と恭介は思った。素《そ》っ気《け》ない態度や愛想《あいそ》の悪さを補って余りあるほどに。
だが恭介は、香澄のそんな表情があまり好きではなかった。完壁すぎて、人間らしさを感じないのだ。彼女がときおり見せる無防備な笑顔のほうが、断然いかしている、と恭介は思う。もっとも恭介自身、そんな香澄を見たのは数えるほどしかない。
「あのさ……今さらこういうことを訊くのもどうかと思うんだけどさ」
孝太郎《こうたろう》との約束を思い出して、恭介は、なるべく彼女の機嫌を損ねないように、無難な質問から切り出した。
「……なに?」
「おまえの家族とかって、今どうしてるんだ?」
突然の質問に、香澄の表情が険しくなった。はっきりと警戒した目つきで恭介を睨《にら》む。
「……なんで急にそんなことを訊くの?」
恭介は、困り果てた。本当のことを言うわけにはいかないが、ここで黙っているのは、あからさまに不自然だった。だから、それを思い出したとき、恭介は迷わず口にした。
「いや、昨日《きのう》、図書館で会った女の人がさ、あんたによく似てたから」
苦しい言い訳だな、と自分でも思った。香澄は、じっと恭介のことを睨んでいる。
「もしかしたら姉妹《きようだい》かなって。たしか、真澄美《ますみ》って名前だった。ほら、名前の響きも……」
似てるし、と言いかけた恭介《きようすけ》の胸ぐらをつかみそうな勢いで、香澄《かすみ》が身体《からだ》を乗り出した。
「真澄美に会ったの!? どうしてっ!?」
彼女の声に驚いて、教室に残っていたクラスメートたちが振り向いた。だが、香澄はそれにすら気づいてない様子だった。恭介は、反射的に両手を上げる。
「え、いや……だから図書館で……偶然ばったり」
自分の声が硬直しているのがわかった。香澄の呼吸が、全力|疾走《しつそう》を終えた直後のように荒い。
「知り合いなのか?」
おそるおそる恭介が訊《き》いた。
香澄は目を閉じて、小さく首を振りながら席に戻った。
「……姉よ」
「姉? お姉さん? あれ、むまえ、姉弟《きようだい》はいないって前に言ってなかったっけ」
「ええ。あたしはあの人を、もう姉だとは認めてないもの」
「はあ……」
よく理解できずに、恭介は気の抜けた声を出した。香澄は唇《くちびる》を噛《か》んでいる。
「とにかく彼女には近づかないで、恭介。絶対に彼女の言葉を聞いてはだめ」
「あ、ああ……」
話もするな、というのはずいぶん乱暴だと思ったが、真剣な香澄の表情を見てしまっては、素直にうなずくしかなかった。
「でも、そんな悪い人には見えなかったけどな」
「彼女が、江崎志津《えざきしず》やアーレン・ヴィルトールの仲間だとしても?」
首を捻《ひね》る恭介に、香澄がたたみかけるように言った。恭介は息を呑《の》んだ。考えてみれば当然のことだ、香澄の肉親が、統合計画局やR2ウィルスと無関係でいられるはずがない。
「……ってことは、彼女も真性《プロ》レベリオンなのか?」
「わからない。でも、その可能性は極めて高いはず」
香澄は、ようやく落ち着いた声で言った。ため息を漏《も》らす。
「昨年の事件、覚えているでしよう?」
「ああ……忘れられるわけないだろ」
恭介は、少しむっとして言った。半年ほど前、高城《たかじよう》学園を中心にRAVEという麻薬の形をとったR2ウィルスが出回り、多くの人間が重傷を負ったり命を落としたりした。その事件の渦中《かちゆう》で、恭介はレベリオンの力を手に入れ、そして親友を失っている。
「あの事件を背後で操《あやつ》っていたのが真澄美よ。彼女は、この高城市を臨床実験の舞台にしたの」
「うそ、だろ……」
恭介《きようすけ》は、呆然《ぼうぜん》として、無表情なままの香澄《かすみ》を見つめた。
無数の記憶が一度に甦《よみがえ》って、恭介の心をかき乱した。
夕暮れの図書館で見た美しい女性の姿が、江崎志津《えざきしず》の面影と重なる。
戦場と化した学校。血まみれになった白衣。そして、闇《やみ》に閉ざされたライブハウス
それは、何度も悪夢で見た、忘れられない光景だった。R2ウィルスに適応できず、凶暴化《きようぼうか》した一般人たち――悪性《ヴイルレント》レベリオンたちの哀れな姿が脳裏《のうり》をよぎる。
その瞬間、恭介の記憶の中でなにかがつながった。
「思い出した……」
目を見開いてつぶやく恭介を、香澄が怪訝《けげん》な顔で見た。
恭介は、もう一度同じ言葉を繰り返した。
「思い出した……どこかで見た顔だと思ったんだ。あいつら、悪性レベリオンだ」
「え?」
「島崎《しまざき》麻巳子《まみこ》と、その前に殺された松井信《まついしん》だよ。彼らは、江崎志津の事件のときの被害者だ。俺《おれ》が保健室で戦った悪性レベリオンの中に、彼女たちがいたんだ」
「――本当に!?」
香澄の表情も変わった。そのときのことを思い出そうとするように、うつむいて目を伏せる。
「そうか……それでだわ」
つぶやいて、香澄は携帯《けいたい》電話を取り出した。すぐに慌《あわ》ただしく文字盤を操作し始める。暗号化されているらしいそのメールの内容を読むことはできなかったが、かなりの緊急事態だということは、恭介にも理解できた。
まるで他人事《ひとごと》のようにのんびりと、授業の終わりを告げるチャイムが鳴る。
「杏子《きようこ》さんが言ってたの」
メールの返信を待ちながら、香澄は言った。
「島崎麻巳子を病院で見かけたことがあるって。だけど、警察の調査では、そんな事実は見つからなかった。当然よね。レベリオン事件《ケース》に関するすべての公式記録は、ほかならぬ統合計画局の手によって完全に抹消《まつしよう》されているんだもの。警察なんかに調べられるわけがない」
「犯人は、悪性レベリオン化したことのある人間を襲っていた」
恭介はゆっくりと自分に言い聞かせた。そう考えるとつじつまが合う。殺されたのが、彼らでなければならなかった理由。そして、島崎麻巳子が高城《たかじよう》学園の中で殺された理由。
「犯人が狙《ねら》っていたのは、俺《おれ》たちだけとは限らなかった……ということは……」
恭介のつぶやきに、香澄が硬い表情でうなずいた。
次に狙われるのは、過去のレベリオン事件の被害者かもしれない――
恭介たちの教室に、息を切らせて二人の少女が駆《か》けこんできたのは、その瞬間だった。
4
「緋村先輩《ひむらせんぱい》!」
甲高い声が響いて、恭介《きようすけ》は振り返った。二年生の校章をつけた女子生徒が二人、勝手に教室に入りこんで、ばたばたと足音を立てながら近づいてくる。
「なんでこんなとこにいるんですか!?」
「綾《あや》のことはどうしちゃったの?」
勢いよく訊《き》いてくる二人の顔を、恭介は交互に見比べた。痩《や》せていて髪の長いほうが、藤澤由佳《ふじさわゆか》。丸顔で目の大きいのが、たしか津上春奈《つがみはるな》という名前だったはずだ。二人の同級生の江崎《えざき》綾が、恭介たちのバンドの追っかけをやっていた関係で、彼女たちとも何度か一緒にカラオケに行ったり、合コンの相手を世話してやったことがある。
先輩、先輩とつきまとわれるのは、妹ができたみたいで悪い気分ではないのだが、こんなふうに恭介たちの教室まで押しかけてきて一方的に騒ぐのが、彼女たちの致命的な欠点だった。
「なに言ってんだ、おまえら?」
憮然《ぶぜん》とした表情で恭介は言った。香澄《かすみ》や、教室に残っていたクラスメートたちの視線が痛い。
けれど、二人は引き下がらなかった。
「昼休みに先輩に呼び出されたっきり、綾が帰ってきてないんですよ」
「先輩がなにかひどいこと言ったんじゃないですか?」
「なんのことだよ? 俺《おれ》が江崎を呼び出したって?」
恭介が眉間《みけん》にしわを寄せて訊《き》き返す。すると、さすがに彼女たちも、様子がおかしいことに気づいたようだった。お互いに顔を見合わせて、ひどく困惑《こんわく》した表情を浮かべる。
「説明しろよ。なにがあったんだ?」
恭介が言うと、少し迷って、藤澤由佳が口を開いた。
「今日の三時限目、あたしたちのクラスは体育で」
言葉を切った由佳に変わって、津上春奈が続ける。
「で、授業が終わって帰ってきたら、昇降口の綾の靴箱に手紙が入ってて」
「その差出人が、俺《おれ》の名前になってたわけか」
恭介の言葉に、二人がうなずく。
「内容は?」
「あたしたちも見てないから詳しいことはわかんないんですけど、昼休みにどこかに呼び出されたんだと思うんです」
「それで綾は、そのまま出かけていって、午後になっても帰ってこなくて。あたしたち、あちこち探したんだけど」
「……ばかだろ、あいつ」
恭介《きようすけ》は頭を抱えて唸《うな》った。
「なんで俺《おれ》が、江崎《えざき》を手紙なんかで呼び出すんだよ。用があったら、直接声をかけるに決まってんだろうが」
「それは……そうですよね」
「あたしたちも変だとは思ったんだけど」
由佳《ゆか》と春奈《はるな》は、そろって困った顔をした。それまで黙って話を聞いていた香澄《かすみ》が、低い声で恭介にささやく。
「恭介、彼女は……」
「わかってる」
激しい焦《あせ》りを感じながら、恭介はうなずいた。江崎|綾《あや》は、昨年の事件で悪性レベリオン化し、入院を余儀《よぎ》なくされた犠牲者の一人なのだ。連続殺人の犯人に、彼女が狙《ねら》われたとしても不思議はない。しかも悪いことに、統合計画局で処理されて、彼女は当時の記憶を失っている。
「おい、俺も一緒に捜《さが》してやる。心当たりの場所を教えてくれ」
恭介が言うと、綾の友人たちは、ほっとしたような表情で礼を言った。おそらく彼女たちも、島崎《しまざき》麻巳子《まみこ》の事件のことを連想して、不安になっていたのに違いない。
「恭介、あたしも行くわ」
「おまえはくるな」
立ち上がろうとした香澄に、恭介は冷たく言った。
「綾が見つかったときに、おまえがいると話がややこしくなる」
香澄は不満そうな顔をしたが、文句を言おうとはしなかった。
恭介の妹分を自認する江崎綾にとって、なにかと恭介につきまとっている香澄は、天敵のような存在らしい。とにかく綾は香澄を嫌っているし、もちろん香澄も綾と仲良くするつもりはまったくないようだ。
そんな香澄に、恭介が自分を助ける手伝いを頼んだと知ったら、綾が激怒するのは目に見えていた。それだけは恭介としてもさけたいところだった。これがただの悪戯《いたずら》だという可能性も、まだ消えてしまったわけではないのだ。
「江崎の携帯《けいたい》には連絡しなかったのか?」
教室を飛び出して、渡り廊下を走りながら恭介が訊《き》いた。
「それが……あの子、今日は携帯持ってないんです」
「今日の朝、授業中にメール打ってたのがばれて、地理の横井《よこい》に没収されちゃって」
由佳と春奈が交互に答えた。恭介は舌打ちする。
「しょうがねえな。よりによって、こんなときに――って、うわっ!?」
ろくに確かめもせずに曲がり角を曲がった恭介は、ちょうどその場所に立っていた相手と、危うくぶつかりそうになった。
咄嵯《とつさ》にかわして正面|衝突《しようとつ》はまぬがれたが、勢いあまって、恭介《きようすけ》は廊下の壁に激突してしまう。
「……大丈夫か、恭介?」
背後から、なかば呆《あき》れたような声が聞こえた。榛原《はいばら》孝太郎《こうたろう》の声だった。
理科教室棟で行われていた授業が終わって、教室に戻ってくるところだったのだ。恭介は、ぶつけた額《ひたい》の痛みも忘れて、孝太郎の腕をつかまえた。
「孝太郎! 悪い、ちょっと人を捜《さが》してるんだ。手を貸してくれ」
「……人捜し?」
「ああ。見たことあるだろ、江崎《えざき》綾《あや》って二年の女子。茶髪で、スカート短くて化粧が派手目の」
「その子がどうかしたのか?」
孝太郎に訊《き》かれて、恭介は首を振る。
「俺《おれ》にもよくわからないんだ。誰かに呼び出されて、そのまま帰ってきてないらしい。学校の中にいるとは思うんだが」
「どういうことだ?」
事情が呑《の》みこめていない様子の孝太郎に、由佳《ゆか》と春奈《はるな》が、もう一度最初から説明した。
孝太郎は、顎《あご》に手をあててなにか考えこんでいたが、話を聞き終えると、わかった、とすぐに言った。急いだほうがいいな、とつぶやいたところをみると、孝太郎も密室殺人との関係を真っ先に思い浮かべたのだろう。
――犯人は、やはり次の獲物の警戒心が薄らぐのを待っていた……
孝太郎の言うとおりになった、と恭介は思った。
5
恭介たちが最初に向かったのは、屋上だった。
南校舎の屋上は、表向き立ち入り禁止ということになっているのだが、消防法などの関係で通路を完全にふさいでしまうことができないらしく、生徒たちの間では密会の穴場として知られている。江崎綾が呼び出されたと聞いて、真っ先に思い浮かんだのがこの場所だった。
だが、その期待は、すぐに失望に変わった。
のどかな午後の日差しに照らされた屋上には、たまたま授業をさぼっていた不良生徒が二人いただけで、彼らも、江崎綾の姿は見ていないと証言した。反対側の校舎の屋根にも、誰かが隠れている気配はなかった。
「思ったんだけどな、恭介」
肩を落とす恭介たちに、冷静な声で孝太郎が言った。
「もし、その江崎って子が、こないだの事件の犯人に呼び出されたのなら、彼女は校舎の中にはいないんじゃないかな」
「どうしてですか?」
訊《き》き返したのは藤崎由佳《ふじさきゆか》だった。走り回って疲れたのか、額《ひたい》に汗《あせ》の珠《たま》が浮いている。相棒《あいぼう》の津上春奈《つがみはるな》は、まだ階段を上っている途中だ。
その春奈が到着するのを待って、孝太郎《こうたろう》は説明を続けた。
「火災報知器だよ」
孝太郎が廊下の天井を指差し、恭介《きようすけ》たちも頭上を見上げた。
「うちの学校の防犯装置はけっこう新しいから、校内で火の気を関知したら、すぐに警報が鳴ってスプリンクラーが作動する。こないだ殺された島崎《しまざき》って人は、屋外の更衣室にいたから、焼死するまで誰にも気づかれなかったんだ」
「そうか……だから校舎の外に……ありえるな」
恭介は、眉《まゆ》を寄せてつぶやいた。言われてみれば、つい先日、トイレに隠れて煙草《たばこ》を吸っていた新入生の不良が、警報を作動させて騒ぎになったばかりだった。
もし犯人が人間を焼き殺すほどの炎《ほのお》を使えば、当然、その能力は火災センサーに関知されてしまう。たとえ犯人がレベリオンだったとしても、火災報知器の存在は警戒しているはずだ。
「もちろん、犯人が前の殺人と同じ手口を使うとは限らないが……」
孝太郎は、あくまでも慎重《しんちよう》な姿勢を崩《くず》さない。だが、恭介には確信があった。レベリオンのトランスジェニック能力は強力だが、決して万能ではない。多種多様な殺し方を選べるほど、便利な能力ではないのだ。島崎|麻巳子《まみこ》が焼死させられたのなら、次の犠牲者も同じように焼き殺される可能性は高い。
「いや、ほかに手がかりがないんだ。とりあえず、外を捜《さが》してみよう」
せわしなく階段を駆《か》け下りながら恭介が言った。そうだな、と孝太郎も同意する。授業が終わったばかりの騒がしい廊下を、生徒たちの波をかきわけるようにして四人は走った。
下足室の近くに着いたところで、孝太郎は藤崎由佳たちを振り返った。
「江崎さんの靴箱に、上履《うわば》きが残ってるかどうか確認してくれないか?」
下級生の二人は、すぐに孝太郎の意図に気づいてうなずいた。彼女たちのクラスの下足箱を確認して、あわてて駆《か》け戻ってくる。
「上履きは残ってます」
「かわりに革靴がなくなってる!」
口々に叫ぶ二人を見て、孝太郎の表情が険しくなった。
「これで江崎さんが校舎の外にいる可能性は、極めて高くなったというわけだ……まずい状況だな」
「手分けして捜したほうがよくないか?」
上履きをスニーカーに履き替えながら、恭介が訊《き》く。孝太郎は、首を振る。
「いや……闇雲《やみくも》に捜し回っても意味がない。それより、彼女が行きそうな場所を見極めるのが先だ。個人的な用件で呼び出されたということは、ある程度、周囲にひと気のない場所だろう。しかも授業が始まっても見つからない場所だ」
「すると、校庭側ってことはないな……中庭か、体育館の裏……学校の外に出たということはないのかな」
「それは考えにくいな。江崎《えざき》さんは、彼女たちと昼御飯を食べたあとに出かけている。つまり、呼び出されたのは、そう遠い場所じゃないはずだ。それに、あまり不自然な場所に呼び出すと、いくらおまえの名前を騙《かた》っていても彼女も警戒しただろうからな」
「なるほど……」
恭介《さようすけ》は、孝太郎《こうたろう》の洞察力《どうさつりよく》に舌《した》を巻いた。
彼の推理は理路整然としていて、反論の余地がない。たいした名探偵《めいたんてい》ぶりだ。これならば、生徒会の役員として周囲の人望を集めていたのもうなずける。同級生である恭介の目から見ても、孝太郎は頼りがいのある男だった。
だが、さすがの彼も、レベリオンの存在を知らない以上、今回の事件を完全に解決することはできない。事件に巻きこんでしまったことで、孝太郎の身に危険が及ぶことだけはさけなければならない、と思う。それでも、今だけは彼の力を借りなければどうしようもなかった。江崎|綾《あや》は、こうしている今も命の危険にさらされているのだ。
「とりあえず体育館裏に行ってみよう」
そう言って孝太郎は歩き出した。
「江崎さんは、おそらくどこかに閉じこめられているはずだ。だとすれば、中庭にいるとは思えない。あそこは職貝駐車場の目の前だし、建物といってもプレハブの倉庫しかないからな」
「体育館裏だって、武道場と体育倉庫しかないぜ。プールの更衣室は、まだ立ち入り禁止になっているはずだからな」
恭介が言うと、孝太郎は、いや、とつぶやいた。
「部室棟があるだろう。ちょうど体育館を挟《はさ》んで校舎の反対側だ」
「! そうか……」
思わず恭介は叫び声をあげた。もたついている由佳《ゆか》たちを置き去りにして走り出す。
高城《たかじよう》学園の敷地内には、体育館と平行になる形で、運動部のための部室棟が建てられている。運動部員が着替えをしたり、競技に使う道具を保管しておくための場所だ。それぞれの部室はたいして広くないのだが、全部で二十個の部屋が横につながっているので、全体としてはかなり細長い感じになる。コンクリート造りの仮設の建物で、雰囲気としてはプールサイドの更衣室によく似ていた。
「江崎っ! いないのか、江崎っ!」
恭介は、部室棟の前を走り抜けながら大声で怒鳴《どな》った。
そろそろ午後のホームルームが終わる時間だ。普段ならば、このあたりは出入りする運動部員でごった返すのだが、今日に限って誰も姿を見せなかった。まだ部活動は休止状態なのだ。当然、部室棟に近づく人間もいない。
――それも計算してやがったのか、犯人は……
恭介《さようすけ》がそんなことを思ったとき、どんどんと誰かがドアを叩《たた》く音が聞こえた。
「江崎《えざき》かっ!?」
「緋村先輩《ひむらせんぱい》!?」
部室棟のいちばん端《はし》のドアから、女子の叫び声がした。江崎|綾《あや》に間違いなかった。
「先輩、なんてことするんですか。ひどい……早く……早く出してください」
「ばか、閉じこめたのは俺《おれ》じゃねえ!」
憤慨《ふんがい》しながら、恭介はドアに手をかけた。だが、ドアノブは、がちゃがちゃと音を立てただけだった。鍵がかかっているのだ。
「江崎、中から開けられないのか?」
訊《き》いたあと、我ながらばかげた質問だと恭介は思った。縛《しば》られているわけでもないようだし、内側から開けられるのならば、江崎綾はとっくに脱出しているはずだ。
予想どおり、綾が、だめっ、と泣き出しそうな声を出す。
「鍵が壊れてるんだ」
ようやく追いついてきた孝太郎《こうたろう》が言った。見るとたしかに、この扉だけ、運動部名を示すプレートが空欄になっている。どうやら、長いこと使われてなかった部屋らしい。
「生徒会室にマスターキーがある。借りてくるよ」
そう言って、孝太郎は再び駆《か》け出した。部室棟の中の綾が、焦燥《しようそう》した様子でドアを叩《たた》く。
「先輩、早くして……お願い……」
「江崎!?」
ドアこしに聞こえた苦しげな声に、恭介は汗《あせ》が噴《ふ》き出すのを感じた。ここで恭介がレベリオンの能力を発動させたとしても、彼女を助け出すことはできない。恭介のトランスジェニック能力|滅びの咆哮《ブラステイング・ハウル》≠ヘ、密閉された建物の内部にいる綾にまでダメージを与えてしまうからだ。
「おい、江崎……無事なんだろ!? どこか怪我《けが》してるのか?」
「先輩……あたし、もう……だめかもしれない……」
弱々しい綾のつぶやきを聞いて、恭介は香澄《かすみ》を連れてこなかったことを後悔した。香澄のスクリーミング・フィストならば、この程度の扉を破壊するのは簡単なのだ。
「綾……なにがあったの!?」
「しっかりして!」
由佳《ゆか》と春奈《はるな》がドアに向かって叫んでいる。綾は、ほとんど返事もできない状態だ。
恭介の背筋に冷たい絶望がはい上がってきた。なんとか力ずくでドアを破れないか、と恭介が考え始めたとき、孝太郎が戻ってくるのが見えた。
「恭介《さようすけ》!」
孝太郎《こうたろう》が投げたマスターキーを受け取って、恭介はさびの浮いた鍵穴に突っこんだ。手が震えてうまく動かなかったが、それでも鍵はすぐに開いた。
次の瞬間、中から飛び出してきた江崎《えざき》綾《あや》に、恭介はドアごと突き飛ばされた。
ものすごい勢いだった。綾の表情は苦しげにゆがみ、明らかに顔色が悪かった。
綾の身体《からだ》に目立った外傷はない。制服も綺麗《きれい》なものだ。だが、彼女は恭介や友人たちに一瞥《いちぺつ》をくれると、猛然《もうぜん》と校舎に向かって駆《か》け出した。
「綾!」
「待って!」
由佳《ゆか》たちが、彼女のあとに続いて走り出した。恭介も、あわててそれを追いかけようとする。
「おい、おまえら――」
「やめろ、恭介。追うな」
「なんでだよ!?」
恭介は苛立《いらだ》たしげに叫びながら、肩をつかんだ孝太郎の手をふりほどこうとした。
だが、孝太郎はひどく冷静な声で、目を伏せながらつぶやいた。
「トイレだ」
「……なに?」
「昼休みの途中から、三時間近くも閉じこめられてたんだ。途中でトイレに行きたくなって我慢してたとしても、不思議はないだろ? 彼女の行き先はトイレだよ」
「……それだけ?」
呆然《ぼうぜん》と訊《き》き返して、恭介は全身の力が抜けていくのを感じた。
振り返ると、綾が閉じこめられていた小部屋には、焼け焦《こ》げた跡や怪我《けが》の痕跡らしきものはなにひとつ残っていなかった。もちろん、彼女を傷つけるための仕掛けらしきものも見あたらない。それどころか、部屋には荷物らしい荷物すら置かれていなかった。
たしかに孝太郎の言うとおりだ。綾は、ただ閉じこめられていただけだった。
恭介はなかば放心状態で、ぺたりと地面に座りこんだ。
「やっぱり、ただの悪戯《いたずら》だったのかもしれないな」
孝太郎はそう言ってドアを閉め、もとどおり鍵をかけて、ため息をついた。
6
生徒会室に鍵を返しに行った孝太郎とは三十分後に喫茶店で落ち合うことにして、恭介は一人で教室に戻った。教室では掃除当番の生徒たちが、掃除道具の後片づけをしているところで、その中には香澄《かすみ》の姿もあった。落ち着いた様子で戻ってきた恭介に気づいて、彼女は少しだけ安堵《あんど》したような表情を浮かべる。
「江崎《えざき》さんは無事だったの、恭介《きようすけ》?」
恭介がカバンに荷物を詰めこんでいると、すぐに香澄《かすみ》がやってきて訊《き》いた。のけ者にされたことに拗《す》ねているような口調である。
「ああ、あいつは無事だ。怪我《けが》もない。ぴんぴんしてるよ」
「どういうこと? 彼女、犯人に襲われたわけではなかったの?」
「いや……それがよくわからないんだ。あとで説明するよ」
「あとで?」
「喫茶店に寄っていく時間ぐらいあるだろ?」
ロッカーから予備のヘルメットを出して渡すと、香澄は目を大きく見開いて恭介を見た。
「乗せていってくれるの?」
「ああ。言っとくけど、おごりじゃないぜ。ワリカンだからな」
恭介が言うと、期待してないわよ、と答えて香澄は笑った。まだ半信半疑といった表情だ。
そういえば、恭介のほうから彼女をお茶に誘ったのははじめてだった。それにしても、そこまで驚かないでもいいだろうに、と恭介は思う。
駐輪場へと歩いていく途中、恭介は江崎|綾《あや》が監禁《かんきん》されていた状況について簡単に話し始めた。あまり要領がいいとはいえない説明を、香澄はだまって訊いている。今日の彼女はめずらしく機嫌がいい、と恭介は感じた。
恭介が向かった喫茶店パティスリィは、高城《たかじよう》学園からバイクで五分ほどの国道沿いにあった。特大のパフェが名物で、食欲|旺盛《おうせい》な高校生には人気のある店だ。店の内装も洒落《しやれ》ている。
「たしかに不可解な話ね」
店に向かう道の途中、恭介のバイクの後席から香澄が言った。
「ただのいたずらにしては、手がこみすぎているような気がするわ。プールの更衣室のかわりに部室棟の空《あ》き部屋を利用するなんてこと、冗談《じようだん》で考えつくとは思えない」
「そうだな」
バイクの風圧に負けないように、恭介は大声で返事をする。
「それは俺《おれ》もそう思った」
「でしょう? それに、狙《ねら》われたのが江崎さんというのも引っかかるわ。彼女はR2ウィルスの感染経験者という、これまでの被害者の条件を満たしている。偶然にしては出来すぎよ」
「ああ。だけど、だったらどうして犯人は江崎をすぐに殺さなかったんだ?」
「わからない」
背中こしに、香澄が首を振る気配が伝わってきた。
「ほかの生徒が帰宅するのを待っていたのか、それとも、なにか別の理由があったのか……でも、今回は犯人も失敗したわ。手がかりを多く残しすぎた」
「たしかにな」
恭介《きようすけ》は、喫茶パティスリィの駐車場にバイクを乗り入れながら大きくうなずいた。
江崎《えざき》綾《あや》を呼び出したというメモ、それに、彼女を閉じこめるときに使ったはずの部室棟の鍵。統合計画局の人間が調べれば、それらから犯人を特定する物的証拠が見つかるかもしれない。それに、恭介と江崎綾の関係や、部室棟の鍵が壊れていることを知っている人間というだけで、容疑者の範囲はずいぶん狭《せば》まるだろう。
恭介たちは、ようやく犯人を追いつめる手がかりを手に入れたのだ。香澄《かすみ》の機嫌がいいのは、もしかしたらそのせいなのかもしれない、と思う。
パティスリィの駐車場には、すでに孝太郎《こうたろう》のバイクが止まっていた。
それを確認して恭介は店に入った。案内役のウェイトレスが近づいてくる前に、店内を見回して孝太郎の姿を捜《さが》す。
植えこみの陰に座っていた孝太郎が、恭介たちに気づいて手をあげるのが見えた。彼が座っているテーブルには、すでに三人分のお冷やとおしぼりが用意されていた。
恭介の隣にいた香澄が、ぴくりと身体《からだ》を震わせて足を止める。
「……どういうこと、恭介?」
恭介の学生服の裾《すそ》を引っ張りながら、香澄が訊《き》いた。やけに硬い声だった。
「なにが?」
と、訊き返す恭介を、香澄は無表情に睨《にら》みつけた。
「どうして榛原《はいばら》くんがいるのよ?」
「あれ? 言ってなかったっけ?」
恭介はとぼけた。もちろん香澄には孝太郎と待ち合わせていたことを教えていない。途中で何度もうち明けようと思ったのだが、上手《うま》い説明を思いつかなかったのだ。
とりあえず恭介は孝太郎の向かい側に腰を降ろした。
香澄はむっつりと押し黙ったまま、その隣の席に座った。一方、孝太郎は上機嫌だ。
「いや……よかった。秋篠《あさしの》さんとは、一度ゆっくり話をしてみたかったんだ」
メニューを香澄に手渡しながら、孝太郎が楽しそうに言う。
「それはどうも」
香澄の返事は素《そ》っ気《け》ないものだった。横で聞いていて、恭介ははらはらする。
さいわい孝太郎に、気を悪くした様子はなかった。にこやかな口調で、おすすめのメニューを解説し始める彼を、恭介は密《ひそ》かに心の中で応援する。
「昔、野球やってたころ、この店によく来てたんだ。坊主頭《ぼうずあたま》の男が集団で、パフェを食べにさ。今にして思うと異様な光景だよね。俺《おれ》たちが入ってきたとたんに、いちゃついてたカップルが気まずそうに出ていったりしてさ」
ウェイトレスを呼びながら、孝太郎がそう言って微笑《ほほえ》んだ。なかなか面白い話だと恭介は思ったが、香澄はにこりともしなかった。
「秋篠《あきしの》さんは? うちの学校に来る前はなにをしてたの?」
それでもめげずに孝太郎《こうたろう》が訊《き》く。まずいな、と恭介《きようすけ》は思う。統合計画局の特捜官《とくそうかん》である香澄《かすみ》に、昔のことを訊いても教えてくれるわけがない。
思ったとおり、べつに、と冷たく首を振る香澄をみて恭介は頭を抱えた。さっきまでの機嫌のよい彼女とは、まるで別人のようだった。
「どうしてそんなことを訊くの?」
「ああ、ごめん。ちょっと興味があってさ」
孝太郎は大人っぽく笑って、コーヒーに手を伸ばした。
「やっぱり自分より成績のいい人のことは気になるだろ。秋篠さんの志望校とか、今のうちに訊いておきたいと思ってね。ほら、きみは受験のために帰国したって聞いてたから……」
「そう……そうね」
「まあ、秋篠さんなら、どんな大学でも楽勝で入れるだろうけど」
そう言う孝太郎も、香澄に負けず劣らず成績がいい。いつも平均点すれすれで苦しんでいる恭介は、少々居心地が悪かった。
「でも……先のことは、あたしにはわからないわ」
香澄がぽつりとつぶやいた言葉に、恭介はどきりとした。
恭介も、香澄も、もう普通の人間には戻れない。このまま高校を卒業したあと、自分たちはどうなっていくのだろう、と何度も考えた。香澄だって、いつまでも恭介の監視を続けていられるわけではないはずだ。
統合計画局が香澄を高城《たかじよう》市に駐留させているのは、アーレンたち脱走者が潜伏《せんぷく》しているから、というだけの理由なのかもしれないと、恭介は思っていた。いわば恭介たちは、彼らに対する囮《おとり》として、かりそめの自由を与えられているだけなのだ。そんな自分たちが、人並みに将来の夢を語るのは、ひどく虚《むな》しいことだという気がする。
「でも、驚いただろ?」
黙りこんだ恭介たちに気を遣《つか》ったのか、孝太郎は明るい声を出した。
「ちょうど秋篠さんが転校してきたころ、うちの学校で何人か死んだりしたじゃない。麻薬が出回ってたって噂《うわさ》もあったしさ。おまけに今回の密室殺人だろ。日本の治安が外国よりもいいってのは嘘《うそ》だ、って思わなかった?」
「そうね……本当に」
香澄はいちおう笑ってみせたが、その笑みはいかにも弱々しかった。
「いったい、どうなってしまったんだろうな。うちの学校」
孝太郎のつぶやきに、香澄はひどく傷ついた表情を浮かべた。無理もない。それらの事件が起きた原因は、彼女が研究していたウィルスにあるのだ。もちろん、意図したわけではないのだろうが、孝太郎の言葉は的確に香澄の急所をえぐったのだった。
「ごめんなさい……あたし、やっぱり帰るわ」
そう言って香澄《かすみ》は立ち上がった。
孝太郎《こうたろう》は驚いた顔をしたが、無理に引きとめようとはしなかった。香澄は、一瞬だけ恭介《きようすけ》の顔を睨《こら》んで、それから一人で足早に店を出ていく。恭介はその後ろ姿を見送ったあと、黙って小さく肩をすくめた。
「俺《おれ》……なにか、悪いこと言ったかな?」
孝太郎が、自信なさげに訊《き》いてくる。恭介は首を振って嘆息した。
「気にするなよ。べつにおまえに対して怒ってるわけじゃない」
「そうか……」
孝太郎は大人びた瞳で恭介をじっと見つめて、ふっと笑った。寂しげな笑みだ。
「残念だな」
「なにが?」
「それはつまり、そういうことなんだろ」
「だから、なにがだよ?」
「彼女は、おまえの……いや、やっぱりやめておこう」
孝太郎はめずらしく歯切れの悪い口調で言って、一方的に話題をうち切った。それきり恭介がなにを訊いても、彼はにやにやと笑うだけで答えようとはしなかった。彼がなにを考えているのか薄々見当はついたが、誤解だと言い訳するわけにもいかず、恭介は黙っていた。
孝太郎が二杯目のコーヒーを注文し、その間に恭介は噂《うわさ》の特大パフェを試す。少し気まずい雰囲気で一時間ほど世間話をしたあと、恭介たちは店を出た。並んで停めたバイクに跨《またが》って、ヘルメットをかぶる。黄昏時《たそがれどき》。世界がモノクロームに色あせて見える時間。
喫茶パティスリィの駐車場に、壮絶《そうぜつ》な破裂音《はれつおん》が鳴り響いたのは、その瞬間だった。拳銃の暴発にも似た残響に、大気が震える。
「……なんだ!?」
前触れもなく、孝太郎のバイクが傾いたことに恭介は気づいた。銀色のRGVガンマニ五〇。その前輪が、ズタズタに裂《さ》けてつぶれている。
「パンクか……? こんなところで?」
孝太郎が、訝《いぶか》しげにつぶやきながら、自分のバイクの前に屈《かが》みこんだ。無防備に背中を見せている。恭介の背筋に緊張が走る。
「やばいっ! 伏せろ、孝太郎!」
恭介の髪が逆立《さかだ》ち、全身に力がみなぎった。全身の感覚が研《と》ぎ澄まされていく。危険を感じた肉体が細胞レベルで変質し、本来の能力を解放したのだ。
金色に輝く恭介の瞳が、弾丸のように高速で飛来するきらめく光の奔流《ほんりゆう》を知覚する。
「恭介――なにを!?」
のんびりと立ち上がろうとした孝太郎《こうたろう》の身体《からだ》を、恭介《きようすけ》は突き飛ばした。普通の人間には反応できない圧倒的な速度だ。大柄《おおがら》な孝太郎が、受け身もとれずに転倒する。
その直後、光の奔流《ほんりゆう》がかすめた恭介の肩が鮮血《せんけつ》を噴《ふ》いた。
「ぐっ……」
「恭介!?」
孝太郎が呆然《ぼうぜん》とする。恭介は左肩を押さえて味《うめ》く。なにが起きたのかわからない。爆発したような衝撃《しようげき》を受けて、上腕部の筋肉がずたずたにささくれている。
あふれ出す血液の隙間《すさま》からぼんやりと白いものが見えた。恭介の骨だ。
気が遠くなるほどの痛みに耐えながら、恭介は再び閃光《せんこう》が飛来するのを見た。
地面に転がって咄嵯《とつさ》にかわす。恭介が投げ捨てたヘルメットが、内側から膨張して爆《は》ぜた。
「恭介……いったいなにが!?」
「動くな。そこで伏せてろ、孝太郎」
叫びながら、恭介は孝太郎をかばって前に出る。
閃光が飛来する方向を振り仰ぎ、そして恭介はその男を見た。
パティスリィの屋根の上に、そいつは立っていた。
見るからに凶悪《きようあく》な面構《つらがま》えをしていた。まだらに刈《か》りこんだ金髪。落ちくぼんだ眼窩《がんか》。額《ひたい》から頬《ほお》にかけて、くっきりと残る大きな傷痕《きずあと》。
黄昏《たそがれ》の空の下、恭介と同じように金色の瞳を輝かせている。真性《プロ》レベリオンの瞳――
「おまえが、殺したのかっ!?」
恭介は叫んだ。それだけで、意味が通じるはずだった。
金髪のレベリオンは、黙って恭介を見おろした。
思ったよりもずっと若い男だ。せいぜい恭介と同い年か、でなければ年下だろう。
考えてみれば、それは不思議なことではない。島崎麻巳子《しまざさまみこ》たちを殺した犯人は、高城《たかじよう》学園に出入りしても怪しまれない人間でなければならないからだ。
まずい、と恭介は思った。このまま、ここで戦うのはまずい。孝太郎が傍《そば》にいるせいでレベリオンの能力が使えないし、最悪、彼を攻撃に巻きこんでしまう危険もある。おまけに出血がひどすぎた。恐ろしく不利な状況だ。
だが、圧倒的な優位にいるはずの金髪の男は、なぜか攻撃をしかけてこなかった。
恭介にとどめをさすことなく、そのまま背中を向けて去っていく。恭介を殺さなかったのか、それとも殺せなかったのか。だが、それを確認するだけの余力は、恭介にはなかった。血を流しすぎたせいで、意識が朦朧《もうろう》としている。
「恭介……なにがあったんだ。その傷は!?」
ようやく立ち直った孝太郎が、めずらしく取り乱した様子で叫んでいた。
「……おい、恭介……しっかりしろ、恭介!?」
恭介《きようすけ》は、歯を食いしばって薄く笑ってみせた。ポケットから放り出した携帯《けいたい》電話を孝太郎《こうたろう》に渡して、膝《ひざ》を着きながら弱々しい声で言う。
「悪い、孝太郎。こいつでうちの姉貴《あねき》を呼んでくれないか……ああみえていちおう、医者……」
それきり、恭介は意識を失った。
[#改ページ]
第四章
木曜日の空隙、そして
Blank on Thursday and...
1
夜明け前、恭介《さようすけ》が意識を取り戻したときには、左肩の傷はほとんど治っていた。レベリオン細胞の持つ驚異的な治癒《ちゆ》能力の影響である。
だが、結局、その日は学校を休まざるをえなかった。
それは、孝太郎《こうたろう》に怪我《けが》の深さを目撃されていたからだ。治療にあたった緋村杏子《ひむらきようこ》は、出血のわりにたいした傷ではないとごまかしてくれたらしいが、それでも、あれだけの怪我が一晩で完治したことを知ったら、彼が怪しむのは間違いなかった。
無理やり病室に閉じこめられて、恭介はひどく退屈していた。個室なので話しをする相手もいない。仕方なくベッドに寝ころんで音楽を聴いていると、午後になってようやく誰かがドアをノックする気配があった。
時計をみたが、まだ午後の授業が始まったばかりの時間である。学校の友人が見舞いにきたとは思えない。少し警戒しながら、どうぞ、と恭介は声をかける。
隙《すき》のない動作でドアを開けて入ってきたのは、思いがけない人物だった。
「元気そうですね、緋村恭介くん」
目深《まぶか》にかぶっていた帽子《ぼうし》をとって、彼は優雅に挨拶する。恭介は、ぽかんと口を開けてそれを見つめた。
「あんた……リチャード・ロウ? どうして見舞いになんか……」
「統合計画局も人手不足でしてね」
空《あ》いているベッドに腰かけながら、アッシュ・ブロンドの白人が苦笑する。
「カスミの代理です。彼女は、今、高城《たかじよう》学園から動けませんから」
「それって、江崎《えざき》のやつがまだ狙《ねら》われているかもしれないから、ってことか?」
恭介《きようすけ》が眉間《みけん》にしわをよせて訊《き》いた。リチャード・ロウは静かにうなずく。
「ええ。学園内を自由に動き回れる特捜官《とくそうかん》は、今のところカスミだけですからね。ですが、それだけというわけでもありません」
「どういうことだよ?」
「狙われているのは、江崎|綾《あや》だけではないということです」
淡々とした彼の口調のせいで、恭介は一瞬なにを言われたのかわからなかった。
「……え?」
「敵の狙いが悪性《ヴイルレント》レベリオン感染経験者ではないかと最初に言い出したのは、あなたでしたね。統合計画局で再調査した結果、島崎《しまざき》麻巳子《まみこ》たち以外にも三人の感染経験者が、ここ数カ月の間に変死していることが判明しました。おそらく同じ犯人の手によるものと考えて間違いないでしょう」
「なんだって……?」
恭介は全身の血液が凍りつくような錯覚《さつかく》を覚えた。
犯人は、恭介たちの知らないところで、すでに何人もの人間を殺していたというのか。しかも、ある意味でR2ウィルスの犠牲者だといえる悪性レベリオン感染経験者ばかりを……
「犯人の標的が、悪性レベリオンを含むR2ウィルス感染者すべてだということは、ほぼ確実です」
リチャード・ロウが、感情の読めない、穏《おだ》やかな口調で言った。
「統合計画局では現在、高城市内すべての悪性レベリオン感染経験者に監視をつけています。ですが、監視対象が高城学園の中にいる間は、我々も手が出せません」
「それで香澄《かすみ》が学校から動けないってわけか」
恭介は納得した。リチャード・ロウがうなずく。昨日《きのう》のように学校内で江崎綾やほかの生徒が襲われたときに、レベリオン能力を使える人間がいないと犯人に手も足も出ないからだ。
「でも、もう容疑者の顔はわかってるんだ。なにも、相手が行動を起こすのを無理に待ってる必要はないだろ。こっちが先に犯人を見つけだせば……」
「ええ。すでに榛原《はいばら》孝太郎《こうたろう》くんから聞き出した情報をもとに、あなたを襲った金髪のレベリオンに関する捜査《そうさ》を始めています。我々は、その未確認レベリオンを『ザ・ニードル』と名づけました」
「……ニードル? 針?」
「そう。彼のトランスジェニック能力は針です。性質的には、むしろ魚類や昆虫のとげに近いものですが」
「針だって? あれが?」
恭介《きようすけ》は自分の左肩を押さえて、疑わしげに言った。
昨日《きのう》遭遇《そうぐう》した金髪のレベリオンは、光の奔流《ほんりゆう》のようなものを腕から発射していた。それに、あの破壊力。とても針という言葉から連想できるものではない。
「針といっても、あなたの想像しているようなものとは違います」
表情すら変えずにリチャード・ロウが言う。
「直径がミクロン単位の微細な針を同時に数万本近く、高圧でサボテンのように噴射《ふんしや》しているのです。一本一本の破壊力はたいしたことはありませんが、これらの針は、あらゆる繊維の隙間《すきま》に入りこみ、目標を内部からずたずたに破壊してしまいます。最新鋭の防弾チョッキでも、この攻撃を防ぐことはできないでしょう」
「そうか……その能力で走行中のバイクを……」
恭介は、喫茶パティスリィの駐車場で受けた攻撃のことを思い出した。あの距離で、あれだけの破壊力。狙《ねら》いもきわめて精確だ。原付バイクのタイヤなど、ひとたまりもないだろう。
「我々としても、これ以上、犠牲者を出すわけにはいきません」
リチャード・ロウは恭介の目をのぞきこんで言った。
それは、これ以上、騒ぎが拡大すると、統合計画局の政治力でも、レベリオンの存在を隠し続けることができないという意味だろう。
「カスミはあなたを戦いに巻きこむのを嫌っているようですが、あいにく我々には、もう手段を選んでいる余裕《よゆう》がない……」
「俺《おれ》に……協力しろと?」
彼の瞳を睨《にら》み返しながら恭介は訊《き》いた。なるほど、と思う。わざわざ彼が、香澄《かすみ》の目を盗《ぬす》んで恭介に会いにきたのは、正式に協力を依頼するためだったというわけだ。
「なにをすればいい?」
「そう難しいことではありません」
リチャード・ロウは目を逸《そ》らさなかった。
「明日《あした》一日だけでかまいません。高城《たかじよう》学園にいる生徒の護衛をお願いしたい」
「香澄は? その間、あいつになにをさせるつもりだ?」
「我々は、全戦力を投入して犯人を狩り出します」
恭介は、首にかけていたヘッドホンをはずして、腕を組んだ。
悪くない取引だと思った。彼は、恭介が学校の中でレベリオンの能力を使うのを黙認すると言っているのだ。それは、恭介にとっては、むしろ当然の話だった。自分の友人や後輩《こうはい》たちを、自分の手で守るというだけのことだからだ。
「要するに、俺《おれ》は、普通に学校に行って中で見張ってればいいんだな」
「そういうことです。ただし、あなたが危機に陥《おちい》ったとしても、我々にはどうすることもできません。援護が遅れるのは覚悟《かくご》してください」
「わかった。覚えておくよ」
恭介《きようすけ》が言うと、リチャード・ロウは小さくうなずいた。そのまま立ち上がって、部屋を出ていこうとする。
「……ちょっと訊《き》いてもいいかな」
その背中を恭介が呼び止めると、彼は少し意外そうな顔をした。
無言のリチャード・ロウにかまわず、恭介は続けた。
「高崗《たかおか》陸也《りくや》、とかっていったな。炎《ほのお》使いのレベリオン。そいつが、今回の事件にからんでいる可能性はないのか?」
「なぜです?」
「針《ザ・ニードル》≠ニかいう能力じゃ、島崎《しまざき》麻巳子《まみこ》が殺されたメカニズムが説明できない」
「……なるほど」
リチャード・ロウは、少し感心したように口元を緩《ゆる》めた。
「その可能性は我々も検討しています。が、実際に彼が関わっているとなれば、我々の手には負えない。べつのチームが相手をすることになるでしょうね」
「アレス部隊ってやつか……」
恭介のつぶやきに、リチャードはなにも言わずに微笑《ほほえ》んだ。苦悩しているような微笑だった。
「どんな人間なんだ、そいつ?」
恭介が訊いた。リチャードが首を傾《かし》げる。
「アレス部隊のことですか?」
「いや、違う。高崗陸也だよ。知ってるんだろ?」
リチャード・ロウは、一瞬、不意を突かれたように黙りこんだ。
恭介から目を逸《そ》らし、窓の外に見える景色をまぶしそうに見上げる。そして彼は、懐《なつ》かしいものを見るような瞳で、病室の中を見回した。自嘲《じちよう》するように、笑う。
「……病院は、あまり好きではありません。どうしても、妹のことを思い出してしまう」
突然の彼の言葉に、恭介は眉《まゆ》をひそめた。アンドロイドのように生活感の希薄《きはく》なこの男が、自分の家族の話をするとは想像することもできなかった。
そんな恭介の表情に気づいたのか、リチャード・ロウは振り向いて苦笑した。灰色がかった青い目を、一瞬だけ鋭く細めて冷淡につぶやく。
「|レベリオン原種《オリジナル・セプン》、高崗陸也は、私の妹を殺した男です」
それきり、彼は恭介に背を向けて病室を出ていった。
2
翌日の金曜日、恭介《きようすけ》はリチャード・ロウとの約束を果たすために学校に向かった。いつもどおり駐輪場にバイクを停めて、めずらしく近道せず、普通に正門へと向かう。
ちょうど登校してくる生徒がいちばん多い時間帯らしく、通学路は混み合っていた。横断歩道のところでは、生徒会の連中が交通整理の真似事《まねごと》をやらされている。
その横断歩道を渡ってきた集団の中に草薙《くさなぎ》萌恵《もえ》の姿を見つけて、恭介は手を振った。萌恵がにっこりと笑って手を振り返す。
と、その彼女の背後から、さっと走り出た小柄な影があった。
知っている顔だった。柔らかそうな長い髪と青い目が特徴の、幼い少女。Y《はな》だ。
「恭介! おはよう!」
彼女の澄んだ声が響き渡り、周りにいた連中の視線がすべて恭介たちを向いた。
Yはそれを気にもとめずに、恭介に抱きついてきた。いきなり首筋にしがみつかれて、恭介は、なす術《すべ》もなく立ちつくす。少し遅れて、萌恵がくすくすと笑いながら歩いてきた。
「な……なんで、おまえがこんなとこにいるんだ!?」
ようやくYをふりほどいて、恭介が言った。Yは不満そうな顔をする。
「恭介に会いに来たんだよ」
「なにい?」
「だって恭介、怪我《けが》したんでしょ。心配したんだよ。痛かった?」
切りそろえた前髪の下から大きな瞳で見上げて、Yはにこにこと訊《き》いてくる。今日の彼女は紺色《こんいろ》の、セーラー衿《えり》のワンピースを着ていた。どこかの私立小学校の制服なのかもしれないが、恭介にはわからない。
「どうしておまえが、おれの怪我のことを知ってるんだ?」
恭介が訝《いぶか》しげに訊《き》く。その質問に答えたのは萌恵だった。
「昨日《きのう》、また図書館で会ったの。あたしがそのときに話しちゃったから」
ごめんなさい、と萌恵が頭を下げた。
恭介はあわてて首を振る。謝《あやま》られるようなことではない。
「そうか。それで様子を見にきてくれたのか。ありがとな。でも、もう大丈夫だから」
彼女と目の高さを合わせて恭介が言うと、Yは綺麗《きれい》に並んだ白い歯を見せて笑った。
萌恵は、穏《おだ》やかに微笑《ははえ》みながら、それを見ている。恭介の怪我の理由や、事件との関係など、本当は訊きたいことがたくさんあるはずだが、彼女は決してそれを口にしない。訊けば恭介が嘘《うそ》をつかなければならないことを知っているからだ。そんな彼女に、恭介は密《ひそ》かに感謝する。
「おまえ、一人で来たのか?」
恭介が訊くと、Yは胸を張ってうなずいた。褒《ほ》めてもらえると思ったのだろう。
「通学バスの中で、偶然会ったの」
萌恵《もえ》が横から補足した。そうか、と恭介《きようすけ》はつぶやいた。
たしかに周りを見渡しても、真澄美《ますみ》と呼ばれていた女性の姿は見あたらない。彼女が本当に香澄《かすみ》のいう統合計画局の脱走者なのかどうか確かめたかったのだが、そう都合よくはいかないということなのだろう。
「一人で帰れるか?どこから来たんだ?」
「帰れるよ」
と、Y《はな》は言った。
「真澄美のところからきたの」
「だから、その真澄美さんはどこにいるんだ?」
恭介は根気強く訊《き》く。するとYは、少し疑わしげな顔で恭介を見た。
「……真澄美に会いたいの、恭介?」
「ん……ああ、まあ、ちょっと……」
しどろもどろな返事になってしまったのは、もちろん隣に萌恵がいるからだ。
本当のことを説明するわけにはいかないが、かといって、恭介が真澄美に一目惚《ひとめぼ》れしたなどと誤解されるのは困る。
ハナは、そんな恭介をじっと見上げていたが、やがてにっこりと目を細めた。
「真澄美も、恭介に会いたいって言ってた」
「え?」
「きっと、すぐに会える、って。よかったね」
そう言って、彼女はポケットから手紙を取り出した。はい、と両手を添えて恭介に差し出す。
「これは……?」
その手紙を、恭介は困惑《こんわく》しながら受け取った。白地に青いラインが入った綺麗《きれい》な封筒だが、意外に重い。中にぎっしりと紙が詰まっているようだ。
「あたしが調べたんだよ」
青い瞳を輝かせて、Yが言った。
「真澄美がね、恭介が困ってるから持っていってあげなさいって」
「え?」
恭介は驚いて、もう一度手の中の封筒を見た。その隙《すき》をついて、背伸びしたYが恭介の頬《ほお》にキスをした。続けて、萌恵の頬にも。
「じゃあね、恭介。萌恵もありがとう」
「ばいばい、Yちゃん」
呆気《あつけ》にとられている恭介の隣で、去っていくYに萌恵が手を振る。
それを目撃したほかの生徒たちは、恭介たちを好奇《こうき》の視線で見つめていた。ヒュウ、と冷やかしながら通り過ぎていく知り合いもいる。
「なんだったんだ、あいつ……」
顔を真《ま》っ赤《か》にしながら、恭介《きようすけ》は渡された封筒を透《す》かしてみた。
「ラブレターかしら?」
恭介の手元をのぞきこんで、まじめな顔で萌恵《もえ》が言った。
3
予想したとおり、授業が始まっても香澄《かすみ》は姿を現さなかった。
おかげで、今日は、孝太郎《こうたろう》とも気兼ねなく話ができた。
恭介が金髪の男に襲われて気絶したあと、いかに警察の取り調べが大変だったかということを、孝太郎は延々《えんえん》と説明してくれた。もっとも彼を調べたのは、警察ではなく、警官に化けた統合計画局のエージェントである。苦労しただろうな、と孝太郎には少し同情した。
事件が解決するまでは、彼や草薙《くさなぎ》萌恵と一緒に行動するのを避けよう、と恭介は思う。
彼らが近くにいてはレベリオンの能力を使えない。それに、これ以上、彼らを事件に巻きこみたくなかった。
「頼むぜ……」
ぽっかりと空《あ》いた香澄の席を見つめて、恭介はつぶやいた。
護衛を任されたといっても、いつもと違うことができるわけではない。
せいぜい休み時間に校内を見回ったり、授業中に学校を抜け出す生徒がいないか気をつけて見ている程度のことだ。
こんなことが役に立つのだろうかと、途中で不安になることもあったが、さいわい事件らしい事件も起こらぬまま、昼休みに突入していた。
恭介は、購買で買ったパンの袋を持って、誰にも見つからないように屋上へと向かった。
学校全体を見渡せる場所を、ほかに思いつかなかったのだ。生徒全員の動きを見張るのは無理だが、校内に入ってくる人間をチェックするだけなら、一人でもどうにかなりそうだった。
「少なくとも、俺《おれ》を襲ったあいつは、高城《たかじよう》学園の生徒じゃなかったしな……」
金髪のレベリオンの凶悪《きようあく》な顔立ちを思い出しながら、恭介はひとりごちた。
高城学園は、比較的おっとりとした校風だ。たとえ彼が同じ制服を着て忍びこんだとしても、あの面構《つらがま》えでは、すぐに目立ってしまうだろう。
そこまで考えて、恭介は奇妙なことに思いあたった。
恭介は最初、犯人は高城学園の関係者だと考えた。それは、犯人が部室棟の鍵を使ったり、江崎《えざき》綾《あや》と恭介の関係を利用したりしたことからも、まったくの的はずれだとは思えない。
しかし、現実に恭介《きようすけ》が遭遇《そうぐう》したレベリオン針《ザ・ニードル》≠ヘ、高城《たかじよう》学園の人間ではなかった。
「つまり、共犯者がいる、ってことか……」
自分の考えを、恭介は認めたくないと思った。だが、そう考えると多くのことに合点がいく。更衣室で島崎《しまざき》麻巳子《まみこ》が焼き殺されたことについても説明できる。
レベリオンは二人いたのかもしれない。
「だとすれば……誰だ?」
そこで恭介の思考は途絶える。
香澄《かすみ》の話では、統合計画局は、春の健康診断にかこつけて、高城学園の全生徒を対象に血液検査を実施したのだそうだ。その結果、恭介たち以外のレベリオンが、生徒の中に潜《ひそ》んでいる可能性はないと証明されている。
それに、仮に高城学園の関係者にレベリオンがいたとしても、無害化された悪性《ヴイルレント》レベリオンたちを襲う動機が説明できない。
自分たちは、なにかとんでもない勘違いをしているのではないか、と恭介は思う。
「高崗陸也《たかおかりくか》……か」
恭介は、唇《くちびる》を噛《か》んだ。
この高城市に忽然《こつぜん》と現れた、炎《ほのお》を操《あやつ》るレベリオン。彼は、秋篠《あきしの》真澄美《ますみ》に預けたものを返してもらうために来たのだと、香澄に語ったらしい。
そんな彼が、連続殺人を続ける理由があるのだろうか……
「だめだ……わかんねえ」
恭介は、屋上のフェンスにぐったりとよりかかった。と、胸に堅いものがあたる。それは、Y《はな》に手渡された封筒だった。
「あいつもなあ……なに考えてやがるんだか」
恭介は、制服の内ポケットから封筒の中身を取り出して嘆息した。
彼女の手紙は、ぎっしりと英語で書かれていたのだった。
「ああ……これはダメだね」
恭介の渡した手紙を一目見るなり、クラス担任の矢部不二子《やべふじこ》は冷たく言った。
「ダメ……って?」
不安になって恭介は訊《き》いた。ベテランの英語教師でもわからないほど、難解な文章ということだろうか? それでは日本語になっても、恭介の手には負えないかもしれない。
と、矢部は恭介に手紙を突き返して、理科棟の校舎を指差した。
「これは、あたしじゃダメだってことさ。島田《しまだ》にでも頼みな」
「島田……って、物理の島田先生?」
「そう。ほら、ここにフィジクス・アーティクルって書いてあるだろ。これは、なにかの論文だよ。どっからそんなもの見つけてきたんだい?」
「はあ……いや、ちょっと……」
曖昧《あいまい》にうなずきながら、いちおう矢部《やべ》に礼を言って恭介《きようすけ》は職貝室を出た。その足で理科棟の物理準備室に向かう。物理の論文だと言われても、恭介の英語力では、それが本当かどうかさえわからなかった。
幸い、島田《しまだ》教諭は在室だった。いつもよれよれの白衣を着た島田は、今年の春に大学を出たばかりの新米《しんまい》教師だ。年齢が近いこともあって、物理を選択していない恭介にも、話しやすい相手である。都合のいいことに、物理準備室にいるのは彼一人だった。ガスバーナーで沸《わ》かしたお湯で、美味《うま》そうなコーヒーを淹《い》れている。
「うわ……これは面倒くさいな。全部訳さないとダメかい?」
恭介が差し出した手紙を見て、島田は小さく悲鳴を上げた。恭介は首を振る。正確に訳してもらったとしても、物理の論文をきちんと理解する自信はない。
「なにが書いてあるかだけわかればいいんですけど」
「そうか……うーん、これは物性物理学……アンダーソン局在に関する解説だね」
「……なんですか、それ?」
恭介は顔をしかめて訊《き》き返した。この時点ですでに恭介の理解を超えている。
「電子がランダムなポテンシャル中を運動するときに、その波動関数が空間的に集中する現象のことだよ」
島田は、そう言ってコーヒーをすすった。途方に暮れた表情の恭介を見て、彼も困ったような顔をする。どう言えば恭介に理解してもらえるのか、考えているらしい。
「そうだな……たとえばこのコーヒーに砂糖を入れたとするだろ。よくかき混ぜると、砂糖はコーヒーの中に溶けて、コーヒー全体が甘《あま》くなる。それはいいかな?」
「ええ、まあ。そのくらいは」
情けない声で恭介は言った。そんなのは小学生でもわかることだ。
島田は、ほっとしたような声で続ける。
「ところが、もっと質量の小さな物質、たとえば電子や光子《こうし》の場合は、媒質《ばいしつ》の中で散乱したそれぞれの波動が干渉して、局在と呼ばれる現象を起こす。このコーヒーにたとえると、一カ所だけ異様に甘い場所ができてしまうわけだ」
「……それが、なにかの役に立つんですか?」
ふと思って訊いてみる。島田は自信たっぷりにうなずいた。
「そうだね。この現象を利用して電気の流れない金属というものを作ることができるし、逆に空気中を送信されている電磁波の電圧が変動する現象も説明できる」
「それって……振動波の千渉《かんしよう》とは違うんですか?」
恭介《きようすけ》は、以前に香澄《かすみ》が言っていたことを思い出した。彼女は、スクリーミング・フィストの超振動を干渉《かんしよう》させることで増幅《ぞうふく》して、金属の扉をも引き裂《さ》く破壊力を得ているのだ。
「うん。スケールの違いはあるけど、両者の原理は同じものだよ。ただし、アンダーソン局在の場合は、エネルギーの集中が桁《けた》外れに大きいからね。電波などの高周波なら、瞬間的に数千倍以上に増幅されることもあるはずだ。そうだな、それから……」
島田《しまだ》はさらに詳しく説明を始めたが、恭介にはもはや理解できなかった。
さいわい、すぐに午後の授業開始を告げる予鈴が鳴ったので、恭介はさっさと物理準備室をあとにする。結局、Y《はな》が手紙を渡しにきた理由はわからないままだった。
「まったく……天才少女のやることは、さっぱり理解できねえな」
手紙をポケットに突っこみながら、恭介は教室へと駆《か》け戻った。
4
彼女は、高層ビルに挟《はさ》まれた、舗装の美しい道路を歩いていた。
傾き始めた太陽が、ビルの窓に反射して長い髪を照らす。すれ違ったスーツ姿の会社員が、サングラスに隠された美貌《びぼう》に見とれて足を止めた。
彼女は、黒ずくめの衣装《いしよう》に身を包んでいた。黒いヘアバンドと黒いシャツ。黒いロングのタイトスカート。わずかに露出した肌は抜けるように白い。形よく整った唇《くちびる》だけが、くっきりとあかく輝いている。
美しい女性であった。だが、冷たい美貌《びぼう》だ。
見る者に、寒気《さむけ》すら感じさせるほどの。
そんな彼女が立ち止まって見上げたのは、オフィス街のはずれにある古いビルだった。
いちおう八階建てなのだが、最新の高層建築が並ぶこの地区では、貧相《ひんそう》な印象が否めない。施設が老朽化《ろうきゆうか》しているため入居しているテナントも少なく、取り壊しの噂《うわさ》もある建物だ。
そのビルに、彼女は迷うことなく足を踏み入れた。
六人乗りの小さなエレベーターに乗って最上階まで上がり、それから階段を使って屋上へと向かった。
向かい側のビルとビルの隙間《すきま》に、太陽がちょうど降りていくところだ。オレンジの日差しが、色|褪《あ》せたコンクリートの屋上を華《はな》やかに染めている。
錆《さ》びたフェンスの近くまで歩いて、ようやく彼女は振り返った。
「……そろそろ出てきたらいかが?」
優雅に腕を組んで、澄んだ声でつぶやく。その声は、外見に比べて少し幼く聞こえた。
そのかすかなつぶやきが聞こえたのか、漏《も》れ出す笑い声とともに、階段からゆっくりと姿を現した影があった。
黒革《くろかわ》のライダースジャケットを羽織《はお》った、しなやかな体躯《たいく》の男性だ。
彫りの深い野性的な顔立ち。二重《ふたえ》の瞳は理知的で、そして鋭かった。
「まんまと罠《わな》にはまったというわけか」
皮肉な口調で言って、男は唇《くちびる》の端《はし》を吊《つ》り上げた。
彼女はかすかにうなずいて、栗《くり》色の髪を払う。
「また、会ったわね。高崗《たかおか》陸也《りくや》」
サングラスをはずして、秋篠《あきしの》香澄《ヽヽ》は微笑《ほほえ》んだ。
陸也は逃げようとはしなかった。香澄は油断なく身構える。
慣れないハイヒールはエレベーターの中で脱《ぬ》ぎ捨てて、用意してあったブーツに履《は》き替えてあった。動きにくいタイトスカートには、太股《ふともも》まで切れこむスリットが入っている。
「俺《おれ》が真澄美《ますみ》を捜《さが》していることを逆手《さかて》にとって、姉のふりをしていたわけか。やってくれたな」
陸也は苦々《にがにが》しげな顔をした。
だが、それは香澄も同じ気分だった。姉と比較されて、愉快な思いをしたことは一度もないのだ。おまけに、慣れない化粧には二時間近くかかってしまった。これで陸也がひっかかってくれなかったら、危うく、ひどい自己嫌悪に陥るところである。
「だが……どうして、俺《おれ》のいる場所がわかった?」
陸也が訊《き》いた。彼の態度には余裕《よゆう》がある。この状況を切り抜ける絶対的な自信があるのだ。レベリオン原種である彼には、たしかにそれだけの力がある。
「あなたの行動は、ある程度分析できていたの。あなたが真澄美を捜しているように、あたしたちも彼女の行方《ゆくえ》を追っている。半年以上前からね。目的が同じならば――」
「そのデータを基に、俺の現れそうな場所を予測すればいい、というわけか」
陸也のつぶやきに、香澄はうなずいた。
「そういうことよ、高崗陸也。あなた個人の力では限界がある。本当に真澄美を捕まえるつもりがあるのなら、統合計画局に投降して、あたしたちに協力しなさい」
警告しながら、香澄は、ビルのフェンスに巻きつけてあった銀色のムチを手に取った。
強靭《きようじん》なワイヤーを寄り合わせたこの武器は、スクリーミング・フィストの振動波を増幅《ぞうふく》して、半径十数メートル内の敵を攻撃できる。陸也のトランスジェニック能力が生み出す超高温の障壁《しようへき》にも、これならば対抗できるはずだった。
だが、陸也は警戒する様子もみせずに目を伏せた。その肩が小刻みに震えている。
喉《のど》から、くっくっと呼気が漏《も》れた。香澄は思わずかっとなる。彼は、笑っているのだった。
「なにがおかしいの!?」
スクリーミング・フィストの超振動を与えられたムチが、美しい響きをたてて震え始める。だが、陸也《りくや》の笑いは止まらなかった。
ひとしきり声を上げて笑ったあと、彼は悲しげな表情で首を振った。
「協力、しろだと……?」
陸也《りくや》が、押し殺した声で言った。
彼の見せた瞳の色に、香澄《かすみ》は気圧《けお》されて動けなかった。そこに映っていたのは、たとえようもない悲しみだった。
「よくそんなことが言えたものだな、秋篠《あきしの》香澄《ヽヽ》博士。俺《おれ》たちレベリオン原種が、おまえらの研究のためにどれだけ献身的に尽くしてきたか、忘れたとは言わせんぞ」
陸也の言葉に、香澄の表情が硬直した。銀色のムチの振動が止まる。
「だが、その結果どうなった? おまえらが生み出したあのくだらないウィルスで、誰が救われたんだ、言ってみろ。おまえらがやったことは、俺の仲間を奪い、友を奪い、人間としての尊厳すら奪い去っただけだ。違うのか?」
「それは――」
絶句する香澄を、冷ややかに陸也は見つめた。
反論することはできなかった。結果だけみれば彼の言うとおりだったからだ。
人類を救うために開発されたはずのR2ウィルスは、多くの犠牲者を出し、なおも感染者の多くを苦しめている。そして、そのウィルスの構造を解明したのは、ほかならぬ香澄たち姉妹なのである。
驚異的な治癒力《ちゆりよく》、生存能力、そして不老不死の可能性。
人類の救世主《メサイア》となるはずだったレベリオン原種は、あのR2ウィルスの流出事故によって、血塗られた十字架を背負わされてしまった。
そして彼らは監禁された。
人類から生まれて人類を滅ぼす存在。反逆者《レベリオン》の汚名を着せられて。
「あなたに、彼女を責める資格があるとは思えませんね、リクヤ」
蒼白《そうはく》な表情で立ちつくす香澄に背を向けて、陸也は歩き出そうとした。
その足を止めさせたのは、ゆっくりと階段から姿を現した長身の影だった。
アッシュ・ブロンドの髪が夕陽にきらめき、高崗《たかおか》陸也の表情に、今度こそはっきりと動揺が浮かぶ。
「クリス……クリス・レイトナー……まさか、おまえが……」
「リチャード・ロウですよ。今はね」
銀色の拳銃を構えて静かに彼は言った。
無感情な青い瞳が高崗陸也を冷たく見据《みす》えていた。
「……私の名は、あなたを殺すために捨てました」
5
「緋村《ひむら》くん……緋村くん……」
耳元で聞こえる優しい声で、恭介《きようすけ》は目を覚ました。
甘《あま》い香りに鼻腔《びこう》をくすぐられて目を開けると、すぐ隣に草薙《くさなぎ》萌恵《もえ》の顔があった。
夢ではないかと思う。
だが、気づいてみればなんのことはない、そこは図書館の自習室だった。近くには臣也《しんや》たちもいて、にやにやしながら恭介を見ている。
「電話、鳴ってるみたい」
萌恵が恭介の耳元でささやいた。見ると、消音モードにした恭介の携帯《けいたい》が発光し、ぶるぶると小刻みに震えている。
「ありがとう、助かった」
寝ぼけた声で礼を言って、恭介は立ち上がった。さすがに図書館の中で携帯を使うわけにはいかない。切れるなよ、と祈りながら、恭介は外に向かって駆《か》け出した。
図書館に着くなり眠《ねむ》ってしまったのは、くたくたに疲れていたせいだ。
一人で全校生徒の安全に気を配るというのは、まったく想像した以上の重労働だった。気が散って授業は全然頭に入らなかったし、緊張のあまり、同級生には目つきが悪いと言われてしまう始末である。だから、何事もなく放課後になったときには、重圧から解放されて、身体《からだ》まで軽くなったような気がした。
同時に、肩すかしをくらったような気分でもあった。
喫茶パティスリィで恭介を襲った強引《ごういん》なやり方を考えても、絶対に針《ザ・ニードル》≠ヘなにかを仕掛けてくると思っていたのだ。
時間が経てば、江崎《えざき》綾《あや》に渡した手紙などから、自分の正体が特定されて、不利になることを知っているはずだし、ましてや、彼は恭介に、自分の顔とトランスジェニック能力を目撃されている。絶対に焦《あせ》って尻尾《しつぽ》を出すはずだ、と恭介は楽観していた。
しかし、これまでのところ、針≠ノ目立った動きはない。それが恭介には意外だった。
香澄《かすみ》たちが首尾よく彼を見つけ出したのか、それとも、これからなにかするつもりなのか。
漠然《ばくぜん》とした不安を感じながら、恭介は自動ドアをくぐって外に出る。
夕陽《ゆうひ》に染まった雲が赤い。
表示された電話の相手は、榛原《はいばら》孝太郎《こうたろう》のものだった。
疑問を感じながら、恭介は通話ボタンを押す。孝太郎とは、つい三十分ほど前に教室で別れたばかりである。
「恭介《きようすけ》か?」
電話越しに聞こえた孝太郎《こうたろう》の声はかすれていた。
めずらしく緊張しているようだ。息が少し弾《はず》んでいる。
「なにがあった、孝太郎?」
なにか事件が起きたことを直感して、恭介が訊《き》いた。こんなふうに興奮した孝太郎の声を聞くのは、はじめてだった。
「見つけた」
声を潜《ひそ》めて、孝太郎は言った。その言葉から伝わってくるのは、ぴりぴりとした緊張感だけだ。恐怖は、感じない。
「見つけた? なにを?」
「あいつだ。パティスリィでおまえを襲った金髪の男。どうやら、俺《おれ》のことを追いかけているみたいだ」
「なんだって!?」
恭介の声が裏返った。背筋にどっと汗《あせ》が噴《ふ》き出す。
迂闊《うかつ》だった、と思った。針《ザ・ニードル》≠フ顔を見たのは、恭介だけではない。あの場にいた孝太郎も、当然彼を目撃した証人だ。
孝太郎はレベリオンと無関係だと、油断していた。針≠ノは、彼を狙《ねら》う理由がある。
「孝太郎、今どこにいるんだ!?」
「海崎《みさき》区の五号|埋《う》め立て地だ。バイク屋に、修理したガンマを引き取りにいく途中だったんだ。オレンジ色のでかいビルがあるだろ。あの前にいる」
恭介はぞっとした。たしか、元結婚式場だったというその建物は、親会社が倒産して、数年前から空《あ》きビルになっているはずだ。
よりによって、どうしてそんなひと気のない場所にいるのだろう、と思う。
「俺が尾行《びこう》に気づいていることは、まだ向こうにはばれていないはずだ」
孝太郎が強い口調で言った。
「あいつをおびき出して、捕まえてやる」
「よせ、孝太郎!」
ぞっとしながら恭介は叫んだ。孝太郎には、レベリオンの恐ろしさがわかっていない。普通の人間が太刀打《たちう》ちできるような相手ではないのだ。
「すぐに行く。だから、俺《おれ》が着くまでそこを動くな」
「だめだ、恭介。その前に逃げられたら元も子もない」
自信に満ちた声で孝太郎が言った。
「心配するな、このあとで、警察にも電話する。けど、その前におまえの仇《かたき》をとってやるよ」
「だめだ、孝太郎――孝太郎!? くそっ」
一方的に切断された電話を握ったまま、恭介《きようすけ》は走り出した。
駐輪場に停めたバイクがやけに遠く感じる。海崎《みさき》区まで、どんなに飛ばしても十分はかかるだろう。それまで孝太郎が無事であってくれと願う。
こんなときに限って、香澄《かすみ》やリチャード・ロウの携帯《けいたい》はつながらない。
「馬鹿野郎……」
ヘルメットの下でつぶやいて、恭介は猛然《もうぜん》とXJRを発進させた。
6
銀色の銃口は、高崗《たかおか》陸也《りくや》の胸に向けられたまま、微動だにしなかった。
「よせ、クリス……」
陸也が坤《うめ》く。ほぼ同時に、彼の周囲の空気が揺らめいた。陸也の両腕に、結晶化した放熱爪が形成されていく。
香澄《かすみ》はその光景を、呆然《ぼうぜん》と立ちつくしたままで見つめた。
「頼む……退《ひ》いてくれ。俺《おれ》はおまえを殺したくない」
苦しげな声で、陸也が言った。
「なぜです……自分の愛した女さえも、ためらうことなく殺したあなたが?」
リチャード・ロウの言葉は、彼自身が放った銃声にかき消された。
レベリオン細胞の瞬発力が、至近距離で放たれたその銃弾から陸也を救った。宙を舞った陸也の身体《からだ》が、音もなく屋上の縁に着地する。
「聞け、クリス! たしかにリサを殺したのは俺だ。だが俺《おれ》たちの娘《むすめ》はまだ生きている。俺は、あいつを取り戻すまでは、おまえに殺されてやるわけにはいかないんだ!」
「なにを勝手なことを――」
リチャード・ロウは無表情に陸也へと銃を向けた。引き金にかけた指に力がこもる。それを止めたのは香澄だった。横から伸ばした手で、リチャードの腕を押さえつける。
「放しなさい、カスミ」
「やめてリチャード・ロウ……彼は抵抗していないじゃない」
レベリオン化した香澄の腕力は、リチャード・ロウの動きを完全に押さえこんでいた。動きを封じられたリチャード・ロウが唇《くちびる》を歪《ゆが》める。
「それに、そもそもなんの話をしているの? リサって誰? 私怨《しえん》で彼を殺そうとするのなら、あたしにはあなたを止める義務があるわ」
「私怨――そう、これを私怨と呼ぶのなら、否定はしません」
つぶやくリチャード・ロウの瞳は、高崗陸也を睨《にら》みつけたままだった。陸也は、無言のまま、その視線を受け止めている。
「ですが、これはあなたたちレベリオンの存在が招いた出来事です。私は、レベリオンの存在を許さない」
低く冷徹なリチャード・ロウの声に、胸の奥が痛んだ。それは、香澄《かすみ》がはじめてかいま見るリチャード・ロウの本心だった。
「リサ、というのは、その男の実の妹だ……」
ぽつり、とつぶやいたのは、高崗《たかおか》陸也《りくや》だった。
それが合図になったように、リチャード・ロウの腕から力が抜けた。香澄は黙って陸也を睨《にら》む。陸也もまた、リチャード・ロウによく似た傷ついた表情を浮かべていた。
「彼女は、やはり統合計画局の医療スタッフで、俺《おれ》たちレベリオン原種の研究者――そして、いちばんの理解者だった。あんたや真澄美《ますみ》のようなずば抜けた才能はなかったが、少なくとも、俺にとっては、もっとも大切な存在だった。彼女だけは、俺たちレベリオン原種を同じ人間として接してくれたんだ」
陸也の言葉に、香澄の心が軋《きし》んだ。今の香澄には、彼の気持ちがよくわかった。
それは、香澄が恭介《きようすけ》や、高城《たかじよう》学園で出会った友人たちに対して感じている感情と同じものだからだ。
「俺と同じように、リサも俺のことを必要としてくれた」
弱々しい声で、陸也が言った。リチャード・ロウはなにも言わない。彼の青い瞳は、まるで壊《こわ》れた人形のようになにも映していなかった。
「俺たちの交際に、表向き反対するものはいなかった。RO54……レベリオン原種ウィルスには、感染能力がないからな。リサを通じて、俺の世界も広がった。統合計画局で出会ったクリスやアーレンたちのことを、親友だと思えるほどになった」
「なにが……あったの?」
香澄は訊《き》いた。アーレンはすでに統合計画局を裏切り、そして陸也自身も、それを追って脱走している。彼らの問に、なにか事件が起きたのは間違いなかった。
それを知ることは、自分にとっても恐怖なのではないか、と香澄は思った。だが、訊かないわけにはいかなかった。
陸也が薄く笑う。
「リサが、俺の子を身ごもった」
「……妊娠《にんしん》……した、ということ?」
香澄は呆然《ぼうぜん》とつぶやいた。リチャード・ロウの肩が、ぴくりと震えたような気がした。
「そうだ。それが俺たちの幸せの絶頂だった。彼女の胎内《たいない》で、俺たちの子どもは順調に成長し、このままなにもかもが上手《うま》くいくと思った。そんなとき、あれが起きたんだ」
「……なに?」
「悪性《ヴイルレント》レベリオン症候群《シンドローム》」
香澄は、自分の目の前が暗くなるのを感じた。
レベリオンの遺伝子を受け継いだ胎児《たいじ》。その胎児が成長し、分泌を始めた特殊なホルモンに、普通の人間である母親の肉体は耐えられなかったのだ。
子宮を循環する血液によって自家中毒を起こし、そして、彼女は暴走した。
「悪性レベリオンに対する知識のとぼしかった時代だ。凶暴化した彼女の手によって、大勢の医療スタッフが命を落とした。そして――」
「あなたが、リサを殺した。そうですね、リクヤ」
リチャード・ロウが、押し殺した声で言った。
「仕方なかったんだ。彼女を止めるには、ほかに方法がなかった」
陸也《りくや》が悲しげな瞳でつぶやいた。香澄《かすみ》の腕が震えた。愛する入を、自らの呪《のろ》われた力で手にかけた。そんな陸也の絶望は、どれほどのものだっただろう、と思う。
「リサを殺した俺《おれ》は、統合計画局の手によって監禁された。だが、俺にとっては、そんなことはどうでもよかった。俺には、もう生きる意味はないと思った。だけど本当は、まだなにも終わっていなかったんだ」
「生きていたのね……彼女の子どもは」
香澄の言葉に、陸也はうなずいた。
「そうだ。リサは死んだが、胎児はレベリオン細胞の持つ驚異的な生命力で生き延びた。それを知ったときには、俺は狂喜したよ。とはいえ、ひどく衰弱《すいじやく》していた胎児は、当時の医療班の最高責任者だった秋篠《あきしの》真澄美《ますみ》の手に引き渡された。それでも、よかったんだ。俺たちの子どもが生きていてくれさえすればよかった。なのに……」
目を伏せた陸也の周囲で、陽炎《かげろう》がゆらめいた。
陸也の感情の乱れに呼応して、トランスジェニック能力が暴走しかけているのだ。
「彼女は統合計画局を裏切り、脱走した。俺の娘《むすめ》……Y《はな》を連れてね」
「Y!?」
香澄は思わず息を呑《の》んだ。
ハナ。リチャード・ロウが遭遇《そうぐう》したという、青い瞳のレベリオンの少女。
真澄美は、彼女のことを、第二段階レベリオンと呼んでいた。
レベリオン原種の父親を持つ、レベリオンとして生まれた少女。それはつまり、第二世代のレベリオンということではないのか?
この世に存在する、唯一の――生まれながらにしての純血のレベリオン。
だが、陸也の言葉が真実ならば、Yはまだ生後三年にも満たないはずだ。なのに、リチャードが遭遇《そうぐう》したレベリオンの少女は、少なくとも十歳前後だったという。
なにか、香澄の知らないなにかが、Yには隠されているのだ。そして、真澄美はそれを知っている。だからこそ、Yを連れて統合計画局を裏切ったのに違いない。
「待って――高崗《たかおか》陸也」
脳裏《のうり》の混乱を振り切るように、香澄《かすみ》は叫んだ。
「だったら、どうしてあなたは島崎《しまざき》麻巳子《まみこ》を殺したの!?あなたが彼女を殺す理由はないはずよ!」
香澄の問いかけに、陸也《りくや》は訝《いぶか》しげな表情を浮かべた。小さく首を振る。
「島崎麻巳子……誰だ?」
「知らないの……先週、密室で焼き殺された悪性レベリオン感染経験者よ」
「なんのことだ。なぜ俺《おれ》が、悪性レベリオンなんかの相手をしなければならない?」
「なぜ……って」
嘘《うそ》をついているとは思えぬ陸也の態度に、香澄は激しく困惑《こんわく》した。
たしかに、彼の言うとおりだ。悪性レベリオンがどれだけ凶暴でも、レベリオン原種である陸也の敵ではない。個人的になんらかの恨《うら》みがあるならともかく、陸也には、悪性レベリオンを恐れる理由などないのだ。
娘《むすめ》を取り戻すために動いている陸也が、無駄な殺獄《さつりく》をするとは思えない。
だが、
だとすれば、
いったい誰が、なんの目的で――
陸也には悪性レベリオンを恐れる理由がない。
では、恐れているのは、誰だ――
「そうか……」
銀色の銃を陸也に向けたリチャード・ロウの姿が、脳裏をよぎった。
鳥肌が立った。
「だから、あのとき……」
香澄はすべてを理解した。
統合計画局には、犯人を見つけられなかったわけがある。
犯人は、江崎《えざき》綾《あや》を殺さなかったのではない。
そして、狙《ねら》われていたのは、恭介《きようすけ》ではない。
喫茶パティスリィで、本当に犯人が殺そうとしたのは――
香澄は呆然《ぼうぜん》と動きを止めた。
その瞬間を、リチャード・ロウは見逃さなかった。
力の抜けた香澄の腕を振りほどき、陸也の正面へと転がる。
陸也の反応が遅れた。リチャードが彼の胸に照準《ポイント》した。
「やめて、リチャード・ロウ!」
香澄は叫んだ。陸也の中で殺気がふくれあがっていくのがわかる。このままでは、両者ともにただでは済まない。間に合わないことを承知で香澄は駆《か》け出そうとした。
嗄《しやが》れた声が響いたのは、その瞬間だった。
「その小娘《こむすめ》の言うとおりだな、リチャード・ロウ」
リチャード・ロウが動きを止めた。
夕陽《ゆうひ》が陰った。頭上から黒い影が迫ってくる。
隣接する高層ビルの屋上から飛び降りてきたのだ。
それは、人の形をした、黒ずくめの大柄《おおがら》な影だった。
「アレス・システム!?」
香澄《かすみ》が叫んだ。陸也《りくや》が眉《まゆ》をひそめ、リチャード・ロウは唇《くちびる》を噛《か》む。
老朽化《ろうきゆうか》したビルを揺らして、漆黒《しつこく》のプロテクターをまとった兵士が着地した。
ぎしぎしと全身を軋《きし》ませて、滑《なめ》らかな動きで立ち上がる。それは、獲物をとらえた歓喜に震える、残虐《ざんぎやく》な獣《けもの》の動きだった。
「抜け駆《が》けはいかんよ、リチャード・ロウ。対レベリオン戦闘の優先権は我々にあること、よもや忘れたわけではあるまい」
アレス・システムをまとった兵士が、スピーカーごしのくぐもった声で言った。
自らの力に対する絶対の自信と、香澄たちに対する軽蔑《けいべつ》の滲《にじ》み出た口調だ。
「あたしたちのことを、尾《つ》けてたのね」
黒ずくめの兵士を睨《にら》みつけて、香澄が言う。鋼鉄のマスクの下で、兵士は笑った。
「貴様らが非協力的なのだ。やむを得まいよ」
「待って、高崗《たかおか》陸也は犯罪レベリオンではないわ。殺す必要は――」
「それは我々が判断することだ」
にべもなく、兵士が宣告する。香澄は怒りで目がくらむ思いだった。
彼らアレス部隊にとって、戦う理由など必要ないのだ。ただ、レベリオンを狩って、殺す。そのためだけに動いている。話が通じる相手ではない。
「ここから先は、俺《おれ》たちの仕事だ。とっとと失《う》せろ、特捜官《とくそうかん》。邪魔《じやま》だてするならば、貴様らもまとめて処刑する」
「な――!?」
憤《いきどお》る香澄を落ち着かせたのは、高崗陸也の醒《さ》めた視線だった。
香澄と、リチャード・ロウを順に見回し、ゆっくりとうなずいて口を開く。
「香澄、クリスを連れてここを離れろ。おまえには行くところがあるのだろう?」
「だ、だけど――」
「行け……巻きこまれたくなければな」
つぶやいて、陸也は両腕をかざした。きらめく指先がゆらめき、彼の周囲を覆《おお》う炎《ほのお》が勢いを増す。
「行きなさい、カスミ……」
立ちすくむ香澄《かすみ》に、リチャード・ロウが言った。
「ここはアレス部隊に任せて私も離脱します。リクヤの狙《ねら》いがY《はな》という少女だとわかった以上、ここにとどまる理由はありません。彼が生き延びていれば、また会う機会もあるでしょう」
冷静さを取り戻した彼の言葉に、香澄は黙ってうなずいた。
どちらにしても、強大な戦闘力を持つアレス・システムとレベリオン原種が戦おうとしているのだ。香澄たちにできることはもうなにもない。
香澄は、リチャード・ロウのためにビルの屋上を打ち抜いて、彼の避難《ひなん》経路を確保した。
それから彼女はフェンス際《ぎわ》へと駆《か》け寄って、そのまま八階建てのビルの外へと身を躍《おど》らせる。階段を降りている時間が惜しい。香澄の能力なら、この程度の高さはどうということもない。
そして、高崗《たかおか》陸也《りくや》とアレス・システムは、それ以上の能力を持っているのだった。
ふわりと音もなく舞い降りる香澄の頭上で、その陸也たちが巻き起こす、巨大な爆発が巻き起こった。
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第五章
金曜日の終焉
Friday
1
その建物は、地元の人間にミラージュ会館などと呼ばれていた。
もちろん正式な名称ではない。もともとはマリアージュ・ホールという、いかにも結婚式場らしい名前だったのだが、閉鎖される前から、何度も幽霊《ゆうれい》騒ぎが起きたり、火の玉を見たという人間が絶えなかったために、いつの間にやら|幽 霊《ミラージユ》会館という呼び名が定着してしまったのだ。
親会社が消滅し、建物を差し押さえた債権者も倒産したとかで、ろくに管理されていないビルの内部は、ひどく荒れ果てていた。浮浪者がねぐらにしていた痕跡や、スプレー缶《かん》の落書きがあちこちに残っている。内装や家具は勝手に持ち出され、ビルが使われていたころの面影《おもかげ》は、ほとんど感じられなかった。
「孝太郎《こうたろう》――いるのか!?」
ビルの中に足を踏み入れ、危険を承知で、恭介《きようすけ》は叫んだ。
返事はない。恭介の声だけが、虚《むな》しく廊下に反響する。
「くそっ……」
恭介は舌打ちして、正面の階段を駆《か》け上った。
けして巨大な建物ではないのだが、それでも高城《たかじよう》学園と同じくらいの広さがある。すべての階を回るには、かなりの時聞がかかりそうだった。
恭介《きようすけ》の心臓が、焦燥《しようそう》で、じわりと締めつけられるように痛む。
孝太郎《こうたろう》のバイクは建物の中庭に無造作に停められていた。この建物に彼が入ったのは、間違いない。
だが、どうして、こんな場所を選んだのだろう、と考える。
孝太郎は馬鹿ではない。きっとなにか考えがあるはずだ。
「地下か!」
恭介のひらめきは、すぐに確信に変わった。
孝太郎は、喫茶パティスリィで針《ザ・ニードル》≠ニ遭遇《そうぐう》している。レベリオンの存在は知らなくても、やつがなんらかの飛び道具を持っていることは彼にもわかっているはずだ。
その孝太郎が針≠ノ戦いを挑《いど》もうとするのならば、構造が入り組んでおり、しかも暗くて見通しの利かない地下に誘いこもうとするのではないか――
そう思ったときには、恭介はもう駆《か》け出していた。
途中で、孝太郎のヘルメットを見つけて、ぞっとする。床に転がっていたヘルメットは、左側の半分が、ずたずたにささくれてつぶれていた。
間違いなく、針≠フトランスジェニック能力ザ・ニードル≠ノよる攻撃だ。
「孝太郎――」
恭介が呆然《ぼうぜん》とつぶやいたとき、背後で、こそり、となにかが動く気配がした。
はっとして恭介は身構える。
すると薄暗い男性用トイレの扉から、学生服の男が現れた。理知的な顔立ちをした、大人びた雰囲気の男子生徒。恭介を見て、彼は蒼白《そうはく》な表情に弱々しい笑みを浮かべる。
「恭介か……よかった……」
榛原《はいばら》孝太郎は、そう言うなり背中を壁につけて座りこんだ。彼がそれまで立っていた場所に、かすれた赤い軌跡《きせき》が残る。
「孝太郎!?むまえ、怪我《けが》を……あいつにやられたのかよ!?」
「大丈夫だ、たいした傷じゃない」
恭介を見上げて、孝太郎は気丈《きじよう》に笑って見せた。
「油断したよ……丸腰だと思ってたのに、なにか飛んできて……よくわからないが、たぶん、ボウガンみたいなものだと思う。銃声がしなかったからな」
「わかった……で、やつは?」
孝太郎は、にやりと勝ち誇った顔で奥の扉を指差した。従業員が使う通用口のような、飾り気のないスチール製の扉だ。
「俺《おれ》があっちに逃げたと勘違《かんちが》いして、追いかけていったよ。狙《ねら》いどおりだ。建物の構造上、あの扉の向こうは、行き止まりになっているはずだからな」
「警察には?」
「電話した。おまえに電話したあと、すぐにな」
「そうか……」
恭介《きようすけ》は、あらためて孝太郎《こうたろう》のことを見直した。警察に通報したのなら、統合計画局の連中もすぐに動き出すだろう。それに、あれほど恭介たちを手こずらせた針《ザ・ニードル》≠焉A逃げ場のない袋小路に閉じこめている。恭介たちがもたもたしている間に、孝太郎はたった一人でこれをやってのけたのだ。
「わかった。孝太郎、動けるか?」
「ああ」
孝太郎がうなずいて、震える足で立ち上がろうとする。その制服の裾《すそ》から、ぽつぽつと赤黒い滴《しずく》がこぼれ落ちた。
「だったら、このまま表に出て、警察の連中を誘導してくれ」
恭介が手を貸しながら言うと、孝太郎は驚いたように首を回した。
「おまえはどうするんだ、恭介?」
「あいつを取り押さえる」
「やめろ、恭介。警察が来るまで余計なことは――」
「頼むぜ、孝太郎」
孝太郎の制止を振り切って、恭介は奥の扉へと近づいた。
一度大きく深呼吸して気合いを入れると、ゆっくりと扉を押し開ける。
近くに誰もいないことを確認して、恭介は忍び足で扉をくぐった。
扉の中は、倉庫になっていたらしく、思ったよりも広い空間が広がっていた。真新しい塗料のような臭《にお》いがする。電気がきていないので、中は暗い。普通の人間ならば、ほとんどなにも見えないだろう。レベリオン化した恭介でさえ、ぼんやりとしかものの形がわからない。
これならば、少なくとも針≠ノ狙撃《そげき》されることだけはなさそうだ。恭介は、ここに敵を誘いこんだ孝太郎の判断の正しさに舌《した》を巻いた。
目が慣れるのを待って、恭介は奥へと進む。だが、針≠フ気配はつかめない。
緊張しているせいか、自分の呼吸がひどく荒々しく感じられた。
剥《む》き出しのコンクリートの壁に、恭介の足音が反響する。
と、十メートルほど進んだところで、突然、背後に風圧を感じた。
ばたん、という、むしろ間の抜けた音とともに扉が閉まり、小さな金属音が鳴る。
あわてて駆《か》け戻ろうとした恭介は、そこに突然現れた壁に激突した。
なにもない廊下を進んでいるつもりだったのだが、気づかないうちにべつの小部屋に入りこんでいたらしい。その出入口を閉ざされてしまった。
つまり、閉じこめられた、というわけだ。
「くそっ!」
ぼんやりとした気配だけを頼りに、恭介《きようすけ》は壁を殴《なぐ》りつけた。
閉じこめたはずの相手に、逆に閉じこめられてしまっては洒落《しやれ》にならない。それにこのままでは、外にいる孝太郎《こうたろう》の身が危険だ。
焦《あせ》りながら動き回るが、閉ざされた扉は、防火シヤッターのような頑丈《がんじよう》なものだったらしい。壁と一体化して、見分けがつかない。それに地下室ということもあって、壁全体が頑健《がんけん》な鉄筋コンクリート造りだ。香澄《かすみ》のスクリーミング・フィストでもなければ、これを打ち抜くのは無理だろう。
「――そうか、香澄!」
恭介は携帯《けいたい》電話を取り出した。あわてていたため、彼女に連絡することを、すっかり忘れていたのだ。閉じこめられて女の子に助けを求めるのは情けないが、人の命がかかっている。体面を気にしている場合ではなかった。
キーロックを解除すると、液晶パネルの明かりによって、ぼんやりと周囲の風景が浮かび上がった。思ったとおりの狭い部屋だ。荷物らしい荷物のない殺風景な部屋。島崎《しまざき》麻巳子《まみこ》が殺された更衣室に似ていると、恭介は思う。壁の色もそっくりだった。
地下ということで不安だったが、電波状態は、かろうじて携帯の受信範囲内だった。
天井すれすれにつくられた小さな換気口《かんきこう》の部分から、電波が出入りできるらしい。
登録してあるメモリーから香澄の携帯電話を選んで、やけにのんびりと響く呼び出し音に、神経を集中する。周りが暗闇《くらやみ》ということもあって、ひどく心細い。
江崎《えざき》綾《あや》も、閉じこめられたときはこんな気分だったのだろうか、と恭介は思った。
島崎麻巳子が、死の直前まで携帯電話を握りしめていたという気持ちも理解できる。
「……死の直前まで……」
恭介の腕から力が抜けて、携帯電話が落ちた。
それを拾い上げることも忘れて、恭介はぼんやりと暗闇を見ていた。
真島《まじま》加奈子《かなこ》が文句を言っていたこと。
江崎綾が無事だった理由。
そして、Y《はな》に手渡された手紙。
ばらばらだったいくつもの断片が、急速に恭介の中で形を成していく。
「そうだったのか……だから……」
恭介は、床に落ちた携帯電話をつかんで、そのまま制服のポケットに突っこんだ。
天井を見上げて、少しでも脆《もろ》そうな部分へと意識を集中する。
密閉された部屋で、この能力を試すのは危険だ。
だが、ほかに方法がない。孝太郎が危険だ――
「行けええええええっ――」
恭介が吼《ほ》えた。
その声は叫びにならず、入間の可聴域をはるかに超えた爆発的な衝撃波《しようげきは》へと変貌《へんぼう》した。
撹拌《かくはん》された大気が渦巻《うずま》き、恭介《きようすけ》の皮膚が裂《さ》けていく。だが、恭介の咆哮《ほうこう》は止まらなかった。狭い部屋の中で干渉《かんしよう》を繰り返した超音波衝撃に、巨大な建造物が揺れた。
トランスジェニック能力滅びの咆哮《ブラステイング・ハウル》
荒れ狂う衝撃にコンクリートの壁が削《けず》られ、高まっていく大気の圧力に耐えかねて、地下室の天井が内側から弾《はり》け飛ぶ。
局地的な竜巻《たつまき》と化した衝撃波が破片を巻き上げ、そのあとを追うようにして、恭介が地上に跳び出した。血まみれの頬《ほお》を拭《ぬぐ》って、周囲を見回す。
ミラージュ会館と呼ばれる、不気味な廃ビルの中庭。
そこには、ぐったりと倒れ伏す榛原《はいばら》孝太郎《こうたろう》と、はなれた場所からそれを見おろす金髪のレベリオンの姿があった。
「どうやら……間に合ったようだな」
金髪のレベリオンを睨《にら》みつけたまま、恭介は孝太郎の傍《そば》へと歩み寄った。
苦しげな表情を浮かべているが、孝太郎の呼吸は力強い。だが、失血のせいか、立ち上がることはできないようだった。うつぶせに倒れたまま、驚いた表情で恭介を見ている。
「恭介……今の力は、いったい……」
「話はあとだ、孝太郎。もうすべてがわかった。これ以上、こいつの思い通りにはさせない」
「……どういうことだ?」
「電磁波だよ」
恭介は、握っていた携帯《けいたい》電話を振ってみせた。
「密閉された空間で電磁波を干渉《かんしよう》させて、その威力を何千倍にも増幅《ぞうふく》する。そのときに発生する火花を利用して、こいつは狙《ねら》った人間を焼き殺そうとしていたんだ。プールの更衣室や空《あ》き部室と同じ塗料が、この建物の地下室にも塗られていた。たぶん電波を反射する特殊なヤツだ。塗料が揮発するときのガスで、火災を起こしやすくする働きがあるのかもしれない」
金髪のレベリオンは、無表情に恭介の説明を聞いていた。
彼の左腕が、青白い燐光《りんこう》を放って変形していく。それを見据えたまま、恭介は続けた。
「こいつ自身には、火災を起こす能力なんて必要なかったんだ。閉じこめられた人間が、勝手に携帯を使って電磁波をまき散らすのを待てばいい。だから、俺を閉じこめたあと、こいつはさっさと地下室を脱出して、おまえを追ったんだ……」
間に合ってよかった、と恭介は思った。あのまま地下室でのんびり助けを待っていたら、危うく孝太郎を見殺しにしてしまうところだった。
孝太郎は、まだ半信半疑といった表情ぞ、恭介の背中を見上げていた。
レベリオンの存在をしらない人間が、立て続けに、その能力を目にしたのだ。信じられないのも無理もない。やがて、その驚きは恐怖へと変わるはずだ。それでも恭介《きようすけ》は、この場で針《ザ・ニードル》≠倒すつもりだった。ここで逃げられてしまったら、この次に孝太郎《こうたろう》を守れるという保証はないからだ。
「警察が来るまで、おとなしくしててもらうぜ」
恭介が言った。警察という言葉に、金髪のレベリオンがぴくりと反応した。
その直後、彼の左手が跳《は》ね上がる。
光を反射する微細な針の奔流《ほんりゆう》――ザ・ニードル
恭介はブラスティング・ハウルでそれを迎え撃った。超音波によって歪《ゆが》められた大気が、針≠フ軌跡《きせき》をねじ曲げ、金髪のレベリオンを襲う。
予期せぬ攻撃に、彼の体勢が崩《くず》れた。恭介は冷静だった。冷静に、自分の優位を確信する。
金髪のレベリオンは、レベリオン同士の戦闘をこれまで経験したことがないのだろう。経験不足が、彼の動きに隙《すき》を生み出していた。強力なザ・ニードル≠フ能力を生かし切れていないのだ。今なら、彼を傷つけずに捕らえられるかもしれない
「はああああああっ!」
恭介の放った咆哮《ほうこう》が地面を切り裂《さ》き、もうもうと土煙を上げた。
金髪のレベリオンが再び針を放つ。だが、土煙に視界を奪われて照準《しようじゆん》がつけられない。その隙に恭介は彼の懐《ふところ》に飛びこんでいた。渾身《こんしん》の力をこめて、右のフックを彼の腹《ボデイ》に叩《たた》きこむ。
素手《すで》とはいえ、常人の何倍もの筋力を誇るレベリオンの一撃だ。
金髪のレベリオンの動きが止まった。
悲鳴をあげることもできないまま、なかば意識を失った状態で、恭介の足元に倒れこむ。
変形していた左腕が、ゆっくりと元に戻り始めた。恭介が与えたダメージで、戦闘状態を維持できなくなったのだ。
「やった……」
荒い息を吐《は》いて、恭介はつぶやいた。恭介の足元で呻《うめ》いている金髪のレベリオンを見おろして、小さくガッツポーズを取る。
あとは、香澄《かすみ》に連絡すればいい。密室の謎《なぞ》が解けてしまった以上、これで事件は解決する。
そう思った。
なにかが空気を切り裂《さ》いて飛来する音とともに、灼《や》けるような痛みが恭介の腹を貫いたのは、その直後だった。
「なっ――!?」
鋭い衝撃《しようげき》と痛みに、恭介は呻いた。耐えたつもりだったが、脚がもつれた。頭から地面に倒れこみ、そのまま衝撃に半回転する。
「ああ……やってくれたな、恭介。おかげでずいぶん手間取ったよ」
背後から、大人びたつぶやきが聞こえた。恭介《きようすけ》は、それを信じられない気持ちで聞いた。
恭介の背中から腹にかけて、金属製のパイプが突き刺さっている。その先端には、プラスチック製の羽根が生《は》えていた。ボウガンの矢、だ。
「だけど、これで終わりだ」
新しい矢をボウガンに装着しながら、孝太郎《こうたろう》が立ち上がる。
その表情に、うっすらと笑みが浮かんでいる。
「そういう……ことか、 よ」
苦痛に呻《うめ》く恭介の中に、いつかの孝太郎の言葉が甦《よみがえ》った。
――本当に恐ろしいやつらってのは……
恭介は、ようやく真実を理解した。
2
ヴァリッジ・クリチーバの父親は、彼が八歳のときに殺された。
目の前で射殺されたのだ。
だが、ヴァリッジの父を殺した男が、処罰《しよばつ》されることはなかった。ヴァリッジの父は銀行に立てこもった強盗犯《ごうとうはん》であり、射殺した男は警察官だったからだ。
人質《ひとじち》を救ったことで表彰されたその男を、ヴァリッジは恨《うら》んだりしなかった。
ただ幼心に、自分は世の中にルールがあることを学んだのだ、と思った。
それは、単純なルールだった。そして絶対的なルールでもあった。
世の中には二種類の人間がいる。殺す側の人間と、殺される側の二種類が。
それが、ヴァリッジの信じるルールだった。
成長したヴァリッジは軍隊を志願した。
そして、いくつかの戦争を経験した。
そこでヴァリッジは、多くの異邦人《いほうじん》を手にかけた。当然だろう。父が死んだあの日に、彼は自分が殺す側の人間になることを神に誓《ちか》ったのだから。
やがて、多くの戦功をあげたヴァリッジは、優れた兵士としての高い評価を手に入れた。
当然だと思った。なぜなら、自分は殺す側の人間なのだから。
そしてヴァリッジは考えた。
もっと強い力が必要だ、と。
力を手に入れて、もっと多くの敵を殺さなければならない。
なぜなら、自分は――
こうして、ヴァリツジ・クリチーバはアレス部隊の一員となった。
「はははははははは」
哄笑《こうしよう》が口からあふれ出した。アレス・システムが装備する汎用《はんよう》機関銃が、強力なNATO制式弾をまき散らす。それは、ヴァリッジにとって歓喜の瞬間であった。
「くっ……」
陽炎《かげろう》をまとった高崗《たかおか》陸也《りくや》が、狩人《かりゆうど》に追われたウサギのように跳《は》ね回る。
全身を覆《おお》う熱波で拳銃弾の弾道をねじ曲げることすら可能な彼のトランスジェニック能力も、さすがに対航空機用の炸裂弾《さくれつだん》が相手では無力らしい。至近距離に受けた弾丸の破片で、彼の全身は傷だらけだった。
「レベリオン原種の能力とは、その程度か――高崗陸也」
ヴァリッジは、あくまでも冷静に彼を迫いつめる。これは、|戦 い《フアイテイング》でも|狩 り《ハンテイング》でもない。あくまでも、|殺し《キリング》だ。熱くなる必要はない。なぜなら、ヴァリッジは殺す側の人間なのだから。
高崗陸也の炎《ほのお》はたしかに強力だが、あくまでも格闘戦タイプの能力だ。その射程距離は、せいぜいニメートル。機関銃に太刀打《たちう》ちできるはずがない。
仮に射程内に接近されたとしても、アレス・システムには、近距離戦闘用のショットガンが内臓されている。いかにレベリオン原種の反射速度が優れていても、眼前から発射される二〇発もの|散 弾《バツク・シヨツト》を回避できるものではあるまい。
絶対に負けるはずのない戦いだった。
機関銃の弾倉が空《から》になる。コンピューターによってアシストされた精確な動作で、ヴァリッジは弾倉を交換する。その時間はわずか○・四秒。反撃される心配は皆無《かいむ》に近い。
だが、その一瞬の隙《すき》を逃さず、高崗陸也は跳躍《ちようやく》した。これまでに測定された、あらゆる真性レベリオンを凌《しの》ぐ跳躍力で、隣接する高層ビルの屋上へと舞い上がる。
「さすがは、レベリオン原種、というわけか……」
静かにつぶやき、ヴァリッジもまた跳躍する。総重量が四百キロに迫るアレス・システムは、けして空中戦闘に適した機体ではない。だが、圧搾《あつさく》空気を利用した補助ブースターの効果で、その跳躍高度は、軽々と高崗陸也を追い越した。
陸也も、そこまでは予測できなかったのだろう。
着地の瞬間を空中からヴァリッジに狙《ねら》われて、太股《ふともも》に深い傷を負う。床の上に転がる陸也に、アレス・システムのショットガンが降り注いだ。瞬間的に放出した熱波で急激な上昇気流を生み出し、陸也はかろうじて散弾の直撃を防ぐ。
「ふむ……やるな」
ヴァリッジは満足げにつぶやく。
単独でアレス・システムと戦って、ここまで長く生き延びたレベリオンははじめてだった。最強のレベリオンという称号も、あながち伊達《だて》ではないらしい。
殺される側の人間が優れていれば、それだけ殺す側の評価も上がる。それもまた、この世界のルールだ。その意味で、高崗《たかおか》陸也《りくや》は理想的な獲物だと言えた。
「だが……その脚ではこれはよけられまい」
ヴァリッジは、機関銃のトリガーを引き絞る。レベリオン並に強化されたアレス・システムの反応速度で照準《しようじゆん》したのだ。たとえ高崗陸也が完全な状態でも、防ぎきれるものではなかった。
そして、陸也はよけなかった。
透明にきらめく両腕をビルの屋上に突き立て、これまで以上の強烈な熱波を放出する。
「ぬ……!?」
次の瞬間、陸也の身体《からだ》がかき消えた。ビルの天井を突き破って、下の階へと落下したのだ。
目標を失ったライフル弾が、虚《むな》しく火花を散らして屋上に跳《は》ねる。
「悪あがきを……」
ヴァリッジは、滑《なめ》らかな動きで、右腕に内蔵されたグレネードを発射した。
戦車の側面装甲をも貫く強力な弾頭が、ビルの屋根に炸裂《さくれつ》し、膨大《ぼうだい》な破片をまき散らした。崩《くず》れ落ちる瓦礫《がれき》の山に、階段とエレベーターシャフトが埋もれる。これで、高崗陸也の逃走経路はなくなった。たとえビルの外壁をつたって降りようとも、アレス・システムの三次元レーダーから逃れるのは不可能だ。
「そもそも床下に隠れることが無駄なのだよ……」
ヴァリッジはつぶやいて、アレス・システムの視覚系を熱源探査に切り替える。
炎《ほのお》をまき散らして攻撃する高崗陸也の肉体は、赤外線を測定することで、壁越しにもはっきりと確認することができるはずだった。
「やつの居場所は……後ろ、か」
機関銃を構えて振り返り、そしてヴァリッジは首を傾げた。その場所にあったのは、ビルに水を供給する大型の給水タンクだったからだ。
「そんなところに隠れて、盾《たて》にでもするつもりか……!?」
ヴァリッジは再びグレネードを構えた。給水タンクごと陸也を吹き飛ばそうと考えたのだ。だが、その瞬間、ヴァリッジは奇妙なことに気づく。
赤外線モニタに映る給水タンクの姿が、徐々に輝きを増していく。給水タンク自体の温度が、異常に熱くなっている。
「ま、まさか――」
アレス・システムのセンサーが警告音を発したときには手遅れだった。
三千度を超える高崗陸也の放出熱が、給水タンク内部に充満していた水を沸騰《ふつとう》させて高温の蒸気に変え、超高圧の水蒸気爆発を巻き起こしたのだ。
床下にいた陸也の被害は最小限で済む。だが、正面にいたヴァリッジはその爆発をまともにくらった。
グレネードとは比較にならない爆圧に、アレス・システムの骨格が軋《きし》んだ。装甲がゆがみ、内側にいるヴァリッジの肋骨《うつこつ》がへし折れる。
それでもヴァリッジは補助ブースターを全開にして衝撃《しようげき》に耐え、かろうじて地上への落下を免《まぬが》れた。
「ばかな……ばかな……ばかな……」
呪文《じゆもん》のようにヴァリッジは繰り返す。あり得ないことだった。ヴァリッジは殺す側の人間なのだ。こんなふうに傷つくことなどあり得ない。
主要な機関に損傷を受けて、・アレス・システムの出力が低下している。たちこめる水蒸気によって、あらゆるセンサーが使用不能になっていた。
ヴァリッジは、なす術《すべ》もなく身を隠すしかない。あり得ないことだった。
これはヴァリッジのスタイルではない。
これではまるで、ヴァリッジが狙《ねら》われているみたいではないか――
「ばかな……あんな膨大《ぽうだい》な熱量を放出するなど……そんなことがあってたまるか……」
「いいや、あるさ」
耳元で、声が聞こえた。ヴァリッジは悲鳴を上げる。
引き金を引こうとした右腕の感覚が消失した。一瞬遅れて、なにかが落ちる音がした。
床に転がっていたのは、アレス・システムの機関銃と、ヴァリッジ自身の右腕だ。
「これが、レベリオン原種の能力だよ……」
ヴァリッジは絶叫しようとした。だが、声が出なかった。
いつの問にか背後に回っていた高崗《たかおか》陸也《りくや》が、アレス・システムのバックパックごと、ヴァリッジの胸を貫いている。
やめろ、とヴァリッジは唇《くらびる》を動かした。
俺《おれ》は殺す側の人間なのだ。なのに、なぜおまえは俺を殺そうとする。おまえは殺される側の人間ではなかったのか。だとしたらおまえはなんだ……そうだ、むまえは人間ではない…… おまえは――|人類を滅ぼす者《レベリオン》。
「|血塗られし炎《ブレイズ・トウ・ブレイム》……」
高崗陸也が、静かにつぶやいた。
それがヴァリッジ・クリチーバの最後だった。
3
本当に恐ろしいやつらってのは、普通の人々の中に紛《まぎ》れて、堂々と生活してるものだからな。
たしかに榛原《はいばら》孝太郎《こうたろう》は、そう言った。
「レベリオン、というらしいな」
孝太郎は、ボウガンを構えたまま、普段どおりの口調でしゃべり続けていた。
背中を刺し貫かれて、恭介《きようすけ》は倒れている。傷の痛みよりも、心に受けた衝撃《しようげき》のせいで、立ち上がることができなかった。
「俺《おれ》がそいつの存在を知ったのは、裕次《ゆうじ》のやつが、たまたまそいつに感染したからだ。裕次というのは、そこにいる俺の弟だよ。昔からどうしようもないやつで、つまらないクスリなんかに手をだしやがった」
そう言って孝太郎は、うずくまったままの金髪のレベリオンを顎《あご》で指した。
「おまけに、その能力を制御《せいぎよ》できずに喧嘩《けんか》相手を殺して鑑別所《かんべつしよ》行きだ。そんなやつだから友達もいないし、親も相手にしない。だけど俺の役には立った。おまえらみたいな化け物の存在を知らせてくれただけでもな……」
「おまえが、殺させていたのか……弟に……悪性レベリオン感染者を……なぜだ?」
痛みをこらえながら恭介は訊《き》いた。突き刺さった矢の先端には、かえし、がついているらしく、簡単には抜げそうにない。
「なぜ……か。奇妙なことを訊くな」
孝太郎は、眉《まゆ》をひそめたが、すぐに考え直したように首を振った。
「いや、そうだな……おまえにはわかるまい。俺は恐かったんだよ、恭介」
「恐い?」
恭介は驚いた。冷静に人を何人も殺してきた人間の言葉だとは思えない。
「そうだ、恭介。考えてもみろ。おまえらのような化け物がこのまま増え続けたら、俺たち普通の人間はどうなる。いつ自分が凶暴化《きようぼうか》するか……それとも人間以外の化け物になってしまうのか、それに脅《おび》えながら暮らせというのか?」
「だけど……悪性レベリオンたちには、もう……」
「同じことだよ、恭介。彼女らは罪を犯した。自分らの無知で安易《あんい》に触れてはならない領域に触れて、人類を危機に陥《おとしい》れた。罪は、裁かれなければならない」
「それを裁くのは、おまえじゃない」
恭介は膝《ひざ》をついて頭を上げた。睨《にら》みつけると、孝太郎は寂しげに微笑《ほほえ》んだ。
「そのとおりだ。だが、俺は選ばれたんだよ、恭介。俺には裁きを実行する力があった。現に、こうしてレベリオンであるおまえを追いつめている。おまえには、俺は止められない」
孝太郎は言葉を切って、弟を見つめた。金髪のレベリオンは、ようやく恭介が与えたダメージから立ち直ったのか、無表情に恭介たちを見つめている。
そういうことか、と恭介は思った。統合計画局が、 針《ザ・ニードル》≠捕まえられなかったわけだ。
彼自身には江崎《えざき》綾《あや》たちを狙《ねら》う動機がないし、捜査《そうさ》にあたった統合計画局に、彼の目撃情報を伝えたのは孝太郎だった。偽《にせ》の情報を教えられて、まんまと混乱させられてしまったわけだ。
おまけに針《ザ・ニードル》≠ヘ、江崎|志津《しず》の事件よりも一足早く、少年|鑑別所《かんべつしよ》に隔離《かくり》されていた。その結果、統合計画局の調査でも、彼がレベリオン化していたことをつかめなかったのだろう。
「孝太郎《こうたろう》、おまえ……まさかレベリオンを皆殺しにするつもりなのか?」
「当然だろう」
恭介《きようすけ》の質問に、孝太郎はくっくっと笑った。
「もちろん、俺《おれ》一人の力でそれが可能だと思っているわけじゃない。俺たちは、そういう生き物なんだ。どちらかが、どちらかを滅ぼすしかない」
「香澄《かすみ》を好きだって言ったのは……」
「ああ……」
孝太郎は苦笑した。
「もちろん、嘘《うそ》に決まっている。ほかに秋篠《あきしの》香澄のことについて調べる上手《うま》い方法を思いつかなかったんだ。もっとも、あまり得るものはなかったが……それでもおまえが彼女の仲間だと確信できたことだけでも無駄《むだ》ではなかった」
「そんなことのために……」
平然と言い切る孝太郎に対して、恭介ははじめて怒りを覚えた。
香澄にだって感情はある。それを踏みにじるようなやり方だけは、許せないと思った。考えてみれば、江崎《えざき》綾《あや》を呼び出したときのやり口も同じだ。平然と彼女たちの気持ちを利用し、傷つけている。孝太郎は、レベリオンに人格を認めていないのだ。
「秋篠香澄が普通の人間ではないってことは、最初からわかっていた。だって、そうだろう?
あの女が来てからだ。うちの学校で大勢死んだのも、江崎って校医が姿を見せなくなったのも」
孝太郎の声が、冷たく響いた。
「だけど、あいつを最初に殺すわけにはいかなかった。ほかの仲間が誰か、わからなくなってしまうからな。それで、島崎《しまざき》麻巳子《まみこ》をあんなふうに殺してみたんだ。でも、驚いたよ、恭介。正直、おまえがアンダーソン局在のことを見抜くなんて思ってもみなかった。こんなことなら、やはりパティスリィで殺しておくべきだったかな。試す、なんて面倒なことをせずにね」
「そうか……あのとき……」
喫茶パティスリィで針《ザ・ニードル》=\―榛原《はいばら》裕次《ゆうじ》があっさり立ち去った理由が、ようやくわかった。
彼が恭介を襲ったのは、恭介がレベリオン化しているのかどうか確認するためだったのだ。そして、途中で攻撃をやめたのは、恭介が孝太郎の前に立ちはだかって、彼をかばおうとしたからだ。流れ弾で、孝太郎が傷つくことを恐れたのである。
自分を狙《ねら》っていた孝太郎をかばったことで、逆に救われたというのは、ひどい皮肉だと恭介は思った。
「正直、この裕次のやつが途中でびぴったりしなければ、もっと簡単に殺せたんだ。おまえも、ほかの悪性レベリオンとやらもね。だが、こいつが人を殺すのは嫌だなんて言い出したから、しようがなかった」
「それで、閉じこめて焼き殺したのか……」
あまりにも普段と変わらない孝太郎《こうたろう》の態度に、恭介《きようすけ》は気分が悪くなるのを感じた。なぜ、こんなに冷静でいられるのだろうと思う。
孝太郎はうなずいた。たしかに彼ならば、高城《たかじよう》学園の内情にも詳《くわ》しい。更衣室や空き部室の鍵をこっそり持ち出すのも、呆気《あつけ》ないほど簡単だったはずだ。
江崎《えざき》綾《あや》を助けたのは、彼女が携帯《けいたい》を持っていないとわかったからだろう。電磁波の発生源がなければ、当然アンダーソン局在も起こらず、どのみち彼女は殺せないはずだ。綾の居場所を正確に推理してみせたのも、当然だった。なにしろ彼女を閉じこめたのは、ほかならぬ孝太郎自身だったのだ。
「警察に連絡した、というのも嘘《うそ》か」
「当然だな」
孝太郎は、そう言って弟に目配せした。金髪のレベリオンは硬い表情でうなずいて、ゆっくりと左手を掲げた。夕陽《ゆうひ》に照らされたその腕が、再び燐光《りんこう》を放ち始める。
トランスジェニック能力ザ・ニードル≠セ。
「だけど、あまりのんびりもしていられない。すまないな、恭介」
「よせ」
恭介は、孝太郎ではなく、裕次《ゆうじ》と呼ばれた金髪のレベリオンに言った。
「おまえもレベリオンなんだ。なぜ、孝太郎を止めようとしない。なぜおとなしく言いなりになってるんだ!?」
「無駄《むだ》だよ、恭介」
孝太郎が、かすかに苛立《いらだ》った声で口を挟《はさ》んだ。
「言っただろ。そいつには、なにもないんだ。親にも友人にも愛されず、社会の役に立つ能力もない。俺の言いなりになる以外、そいつに生きる価値なんてないんだよ」
「黙れよ、孝太郎……それは、おまえが決めることじゃない」
「そう、俺が決めたわけじゃない」
激高《げつこう》する恭介に、孝太郎は冷ややかに言った。
「決めるのは、人間という生き物だ。人間は、肩書きでしか人を判断することができない。俺が肩を壊《こわ》して野球ができなくなったとき、俺をちやほやしていた連中はみんないなくなった。生徒会の役員になったとたん、それまで頭ごなしに叱《しか》るしか能のなかった職員室の連中が俺の意見を聞いてくれるようになった。おまえだってそうだろう、恭介。学年トップの秀才という俺の肩書きに惹《ひ》かれて、宿題を借りに来てたんじゃないのか?」
「違う……俺は、友達としておまえのことを尊敬していた!」
恭介は叫んだ。動揺がなかったと言えば嘘になる。だが、それを認めるわけにはいかなかった。それだけではないと、信じていたかった。
「友達として、か」
孝太郎《こうたろう》が、微笑を浮かべる。
「クラスが変わって、おまえが俺《おれ》と仲良くなろうとしていたのも、本当は香澄《かすみ》のことを調べるためだったのかもしれない。それでも、俺《おれ》はおまえのことを友達だと思っていたよ、孝太郎」
「そうか……」
孝太郎が、ゆっくりとボウガンを構えた。ほぼ同時に、彼の弟も針《ザ・ニードル》≠フ銃口を向ける。
恭介《きようすけ》は顔を歪《ゆが》めた。負傷のせいで本来の瞬発力が発揮できない。この至近距離から、二人の攻撃をかわすのは無理だろう。どちらかの攻撃だけなら、ブラスティング・ハウルで防御《ぼうぎよ》することもできるだろうが、両側から同時に攻撃されたら防ぎようがない。絶対絶命だった。
「残念だな、恭介……おまえが、普通の人間ならばよかった」
つぶやいて、孝太郎がボウガンの引き金に指をかけたとき、美しく澄んだ声が聞こえた。
「同感だわ――本当に」
孝太郎の身体《からだ》が強張《こわば》った。
ひゅん、と風を切り裂《さ》く振動が響いた。
舞い上がった銀色のワイヤーが、まるで意志を持つように襲いかかる。
孝太郎の腕からボウガンが吹き飛び、榛原《はいばら》裕次《ゆうじ》の左腕が折れる鈍い音がした。
夕陽《ゆうひ》に染まった髪を翼のようになびかせて、美しい少女が舞い降りてくる。
「秋篠《あきしの》……香澄――」
右手を押さえて孝太郎が呻《うめ》いた。咄嵯《とつさ》に制服の下から、ナイフを引き抜こうとする。そんな彼の首筋に香澄のワイヤーが巻きついた。手加減したスクリーミング・フィストの振動を送りこんで、彼を気絶させようとする。
それを防いだのは、武器を失って戦闘能力を奪われたはずの榛原裕次だった。
咄嵯《とつさ》にワイヤーにしがみつき、超振動波を受け止めようとする。
「なっ!?」
「ぐあっ」
咄嵯《とつさ》に香澄が、スクリーミング・フィストの威力を増す。その反動に耐えきれず、裕次の右腕はずたずたに裂けた。だが、裕次はワイヤーを放さない。ワイヤーの呪縛《じゆばく》から逃れて自由になった孝太郎が、そんな裕次の姿を見て呆然《ぼうぜん》とする。
「逃げろ、兄貴!」
香澄の攻撃を受けながら、裕次がはじめて声を張り上げた。
「ここは、俺がくい止める。だから、逃げてくれ――」
「馬鹿な……やめろ、裕次。おまえがそんなことをする理由はない!」
孝太郎が叫んだ。ひどく苛立《いらだ》ったような表情を浮かべている。裕次の非論理的な行動が、孝太郎の理解を超えているのだ。
「勝手なことをするな、裕次《ゆうじ》! そんなことで、俺《おれ》がおまえに感謝するとでも思っているのか!?その手を放せ!」
孝太郎《こうたろう》の怒声が響き渡る。だが、その命令に従おうとはしなかった。
「逃げてくれ……兄貴《あにき》……」
力つきた裕次は、ワイヤーにしがみついたまま倒れこむ。
その姿を、香澄《かすみ》も、恭介《きようすけ》も、そして孝太郎さえもが声もなく見つめた。
香澄がワイヤ!から手を放す。ボウガンの矢を抜いて、恭介もようやく立ち上がった。
孝太郎が、倒れたままの裕次にふらふらと歩み寄ろうとした。
そのとき、背後に異様な気配を感じて、恭介と香澄が振り返った。
「兄貴っ」
ほとんど同時に、猛然《もうぜん》と立ち上がった榛原《はいばら》裕次が孝太郎を突き飛ばした。
そして、動きの止まった裕次の全身から血しぶきが舞った。
「なっ――」
一瞬遅れて、無数の銃声が轟《とどろ》いた。
吹き飛ばされた孝太郎の目が見開かれたまま固まる。
榛原裕次がぐらりと倒れる。
振り返った恭介たちの目に、ゆっくりと建物の隙間《すきま》から姿を現す、黒ずくめの影が映った。
荒々しい獣の息づかいにも似た駆動《くどう》音。光を反射しない漆黒《しつこく》の装甲。そして、黒いマスクの奥で、ぎらぎらと輝く紅《あか》い瞳――
「中途|半端《はんぱ》な攻撃はいかんな、特捜官《とくそうかん》」
冷酷《れいこく》な声で、アレス部隊の兵士が言った。
4
「なぜ……だ」
ぽつり、と恭介はつぶやいた。
「なぜ撃った……もう勝負はついていたはずだ。こいつに抵抗する意志はなかったー!」
「知らんな」
重々しい音を響かせて近づいてくる二機のアレス・システム。そのうちの一体が、へたくそな日本語でそう言った。
「我々の任務は、犯罪レベリオンの抹殺《まつさつ》だ。それ以外のことは、関知しない」
「なにも、殺さなくてもよかった――」
つかみかかろうとする恭介を、傍《そば》にいた香澄が制止した。
もう一機のアレス・システムが、離れた場所から銃口を向けている。恭介は、それを睨《にら》みつける。
「それが我々の任務なんだよ、小僧《こぞう》。貴様《きさま》らを生かしておいてやるだけでもありがたいと思え」
スピーカー越しに響く侮蔑《ぶべつ》の声に、恭介は身体《からだ》を震わせた。
目の前に香澄《かすみ》がいなければ、殴《なぐ》りかかっていたかもしれない。だが、恭介の勝手な行動で、彼女を苦しめるわけにはいかないと思った。なぜなら、香澄もまた蒼白《そうはく》になるまで握りしめた拳《こぶし》を、ぶるぶると震わせていたからだ。
孝太郎《こうたろう》は、全身を撃ち抜かれて倒れた弟の傍《そば》に、脱力して座りこんでいる。
「……なぜだ?」
弱々しい声で、孝太郎が言った。
「なぜ、おまえが俺《おれ》を助ける? おまえをあれだけ馬鹿にして利用し続けていただけの俺を?」
その言葉に答えるように、金髪のレベリオンはひゅうひゅうと喉《のど》を鳴らした。
かすれた声で、かすかに笑ったようだった。
兄貴《あにき》にもわからねえことがあるんだな。そう言ったように、恭介には聞こえた。
アレス・システムの一体が、それに気づいて首を巡らせた。その動きに恭介は愕然《がくぜん》とする。
「まだ、生きていたか」
そうつぶやいて、そいつは絶命寸前の裕次《ゆうじ》に銃口を向けたのだ。
その瞬間、恭介の頭の中は真っ白になった。もうなにも考えられなかった。怒りにまかせて、アレス・システムに攻撃を放とうとする。
だが、それより速く、香澄《かすみ》が動いていた。
恭介にさえ視認《しにん》できないほどの速度で大地を蹴《け》り、渾身《こんしん》の力でスクリーミング・フィストを叩《たた》きこむ。
「なに!?」
アレス・システムを着こんだ兵士が呻《うめ》いた。
凄《すさ》まじいとしか言いようのない、 スクリーミング・フィストの威力だった。みるからに強靭《きようじん》としれるアレス・システムの装甲が、大きく陥没《かんぼつ》して白煙を噴《ふ》いている。
だが、それだけだった。
数メートルほどよろよろと後退しただけで、アレス・システムはその機能を損なうことなく立っている。
そして、今度こそ、明らかに戦闘態勢で恭介たちに銃を向けた。
「なんの真似だ、特捜官《とくそうかん》の小娘《こむすめ》?」
訝《いぶか》しげに訊《き》くアレス・システムを、香澄はきっと睨《ね》めつけた。むしろ小柄な香澄の身体《からだ》が、圧倒的な威圧感を放っていた。これほどまでに感情をあらわにした香澄を、恭介は今まで見たことがなかった。
「あなたたちの役目は終わりよ」
冷え冷えとした声で、香澄《かすみ》は言った。
「あとの処理はあたしが引き受ける。だから、さっさと帰還《きかん》しなさい」
「任務遂行の邪魔《じやま》をする気か?」
手前側のアレス・システムを着こんだ兵士は、呆《あき》れたような口調で言った。
「忘れるな、我々は、貴様《きさま》たちレベリオンに対する最優先の抹殺権《まつさつけん》を持っている。邪魔をするなら貴様《きさま》ら特捜官《とくそうかん》といえども――」
機関銃の銃口が香澄を向いた。威嚇《いかく》射撃ではない。見せしめに、手足の一本くらい吹き飛ばすつもりなのだ。
そう気づいたときには、恭介《きようすけ》の肉体が反応していた。
ブラスティング・ハウルの衝撃波《しようげきは》が銃を構えた機体を襲い、ねじ曲がった銃口が暴発する。
本体にほとんどダメージはないが、火力は明らかに低下したはずだ。
「貴様――っ」
無事だったほうのアレス・システムは、即座に恭介を敵だと認識したらしい。唸《うな》り声に似た駆動音とともに、機関銃を乱射する。
だが、香澄もそれを黙ってみていたわけではなかった。拾い上げたワイヤーが、美しい哭《な》き声を上げて大気を切り裂《さ》き、増幅《ぞうふく》された振動波をアレス・システムに叩《たた》きこむ。
さすがのアレス・システムも、それを完全に防ぐことはできなかった。破片をまき散らしながら転倒し、がくりと片膝《かたひざ》をつく。機体そのものは無事でも、内部の人間が衝撃《しようげき》に耐えきれなかったのだ。
けれど、それも、そう長い時間ではなかった。傷ついた仲間をかばうように、銃を失った機体が前進する。片膝をついていた兵士も、すぐに体勢を立て直した。
「今ので……止められないなんて……」
香澄が小さくつぶやいた。恭介は黙って肩をすくめる。
どうやら恭介たちの能力では、アレス・システムに致命的な損害を与えることができない。悔しいが、それは認めざるを得なかった。
それに対して、彼らの武器は強力だ。そしてなによりも、生身《なまみ》である恭介たちは、これまでの戦いによって消耗《しようもう》していた。いくら恭介でも、この状態で勝てると思えるほど楽観的にはなれない。
「ごめんなさい、恭介……あたしのせいで」
「ばか、そんなこと言ってる場合か」
恭介はわざと乱暴に言った。不思議と恐怖は感じなかった。
「こんなところで、こんなやつらに殺されてたまるかよ」
自分自身に言い聞かせるように、恭介はつぶやく。すぐ傍《そば》で、香澄がうなずく気配がした。
アレス・システムが、一斉《いつせい》に武器を構えた。それぞれの左手首に内蔵されたショットガンが、恭介《きようすけ》たちのいる場所を狙《ねら》っていた。やばい、と恭介は思う。ブラスティング・ハウルの発動が間に合わない。この距離でショットガンを連射されたら、おそらく恭介たちの能力でも、完全には防ぎきれない――!
ぽっかりと黒く空《あ》いた銃口が、まさに火を噴《ふ》くと思われた、そのときだった。
「大丈夫――」
舌足《したた》らずな声とともに、閃光《せんこう》が白く視界を染めた。轟音《ごうおん》が大気をびりびりと震わせた。帯電した空気に、恭介たちの髪が逆立《さかだ》つ。
「この技――|神の雷鎚《サンダーヘツド》=I?」
香澄《かすみ》が叫んだ。
強力な雷撃の直撃を受けて、アレス・システムの二機は完全にバランスを崩《くず》していた。絶縁されていなかった機関銃の弾倉が誘爆し、一体は炎《ほのお》に包まれている。
恭介は、廃ビルの屋上に立つ銀髪の男の姿を見上げた。
気障《きざ》なスーツに身を包み、肩に担《かつ》いでいるのは見慣れない巨大なライフルだ。どう猛《もう》に細められたその瞳には、いつになく好戦的な光が燃えている。
そして彼の傍《かたわ》らには、長い髪を風に遊ばせる、あどけない少女の姿があった。
「Y《はな》……」
恭介のつぶやきに、香澄が表情を凍らせた。
対照的にYは、無邪気《むじやき》な笑みを浮かべて両手を伸ばす。その動きにあわせて、彼女の背中を光が包んだ。
そこに現れたのは翼だった。昆虫のように透《す》きとおった、光り輝く二対の翅《はね》。
その翅をはばたかせて、彼女は空へと舞い上がった。まるで、おとぎ話の妖精《ようせい》のように。
「見つけたぞ――脱走者アーレン・ヴィルトール!」
最初に立ち上がったのは、最初に恭介が攻撃したほうの機体だった。すでに機関銃を失っていたために、雷撃による誘爆の影響を受けなかったのだろう。弱っている恭介たちには目もくれずに、アーレンめがけて跳躍《ちようやく》する。
「Y……任せた」
アーレンの言葉に、翼持つ少女がうなずいた。
柔らかく波打った長い髪が重力に逆《さか》らって舞い上がり、彼女の周囲を青白い火花が包む。
そして、一瞬の閃光《せんこう》。Yの放ったサンダーヘッドの熱|衝撃波《しようげきは》が、不安定な空中にいたアレス・システムを地上へと突き落とす。それは、アーレンの操《あやつ》るオリジナルのサンダーヘッドに、なんら遜色《そんしよく》ない威力だった。
それどころか、Yは続けざまに二発、三発と、連続して精密な雷撃を叩《たた》きこんでいく。その圧倒的な攻撃力に、アレス・システムの防御《ぼうぎよ》機構が悲鳴をあげていた。全身の関節から白煙を噴《ふ》き上げ、沸騰《ふつとう》したオイルが漏《も》れ出ている。
空中に浮かんでいるからだ、と恭介《きようすけ》は思った。
本体が空中に浮かんでいるために、Y《はな》が蓄えた電流は、地上へと流れ出すことができない。エネルギーのロスが生まれないから、あれほどの威力の雷撃を連射することができるのだ。
「あれが……第二段階レベリオン……」
香澄《かすみ》が、呆然《ぼうぜん》と空を見上げたままでつぶやいた。聞き慣れない言葉に、恭介が眉《まゆ》を寄せる。
その直後、ひときわ強大な閃光《せんこう》が地上に降り注ぎ、直撃を受けたアレス・システムがついに爆発四散する。Yは空中に浮かんだまま、無邪気《むじやき》な笑顔を見せている。
「殺してやる……殺してやるぞ、化け物っ!」
生き残った最後のアレス・システムが、そんなYにグレネードの銃口を向けた。
どれだけレベリオンの反応速度が優れていても、空中にいる限り、その速度には限界がある。そう考えたのだろう。だが、そのグレネードが発射されることはなかった。
銃声が一発だけとどろき、その瞬間、アレス・システムの右腕が消滅していた。
文字通り、根こそぎ粉砕《ふんさい》されたのだ。
ずいぶん遅れて、システムを着こんだ兵士の絶叫が響いた。肩の付け根から、信じられないほどの勢いで、鮮血《せんけつ》が飛び散る。
なにが起きたのかわからないまま振り返った恭介の前に、巨大なライフルを構えたアーレンが立っていた。.銃口から、うっすらと煙が立ち上っている。
「貴様《きさま》には、借りがあったな……アレス3」
ゆっくりとつぶやいて、アーレンが笑った。
その腕に握られているライフルは、狙撃銃《そげきじゆう》というよりも対戦車砲に似た、巨大なものだった。
IWS二〇〇〇。口径一五・ニミリという大口径|徹甲弾《てつこうだん》を撃ち出す、オーストリア製最新鋭の対物狙撃銃だ。四〇ミリ厚の防弾装甲を貫通するこの銃の前では、アレス・システムの装甲といえども紙くず同然だといえる。
もちろん、ライフルのように片手で振り回せる代物《しろもの》ではない。それを可能にするのは、レベリオンの超人的な筋力と、アーレンの卓越した射撃技術であった。
「返してやるよ、受け取れ」
アーレンが銃口を、目の前の機体に向けた。
アレス部隊最後の一機が、意味不明の絶叫とともに、アーレンめがけて突進する。
その胸元へと、アーレンが弾丸を撃ちこんだ。軍用装甲車をも貫通する大口径弾が、黒ずくめの鎧《よろい》を吹き飛ばし、やがてその機体は炎《ほのお》に包まれた。
アーレンは醒《さ》めた表情でそれを見ていたが、すぐに興味をなくしたように、恭介たちのほうを振り返った。ライフルの銃口を、香澄に向けて、にやりと笑う。
「さて……とりあえず、俺《おれ》たちの用事はこれで片づいたわけだが……」
そこで一瞬、傷だらけの恭介《きようすけ》を見て、アーレンは肩をすくめた。
「どうする……やるかい?」
瓢々《ひようひよう》と訊《たず》ねるアーレンを、毒気《どつけ》を抜かれたような顔で香澄《かすみ》は睨《にら》んだ。
大きなため息をひとつ漏《も》らして、首を振る。
「やめておくわ」
「ああ。それがいいだろうな」
悪びれもせずに、アーレンが言う。彼はどこか楽しそうだった。
「どうせまた、すぐに会うことになるさ」
「そうね……」
香澄はうなずいて、ゆっくりと地上に降り立ったYを見やった。
あどけない輪郭《りんかく》の少女は、透《す》きとおった青い瞳で恭介たちをじっと見つめたあと、ゆっくりと背中を向けて歩き出した。ばかでかいライフルを抱えたアーレンも、いつの間にか姿を消している。
街灯が、ぽつぽつと輝き始めていた。黄昏《たそがれ》の空は、いくつもの色が入り交じった不思議な色で、美しくも暗くもなく、ただどこか寂しい光景だと恭介は思った。
榛原《はいばら》孝太郎《こうたろう》は、弟の隣にひざまずいて、黙ってその腕を握っていた。
近づいてきた恭介に気づいて、泣き出す寸前の子どものような表情を浮かべる。
目を閉じた金髪のレベリオンの顔はどこか穏《おだ》やかで、よく見れば、この二人にはどこか共通する面影《おもかげ》があった。
「大丈夫……まだ息があるわ」
倒れ伏す榛原|裕次《ゆうじ》の身体《からだ》を調べて、香澄が言った。
「すぐに病院に運べば、助かると思う」
「そう……か」
孝太郎の唇《くちびる》が、よかった、とつぶやくように動いた。感情をなくしたような瞳で、孝太郎は恭介を見上げる。そして、ひどく頼りない声で静かに訊《き》いた。
「こいつ……なぜ、俺《おれ》を助けたんだと思う?」
恭介はじっと孝太郎を見おろしたまま、訊き返した。
「……本当に、わからないのか?」
孝太郎は黙って恭介を見ていた。恭介は目を逸《そ》らさなかった。呼吸の音が大きく聞こえた。
自分は、ほかになにを言えばいいのだろうと思う。彼に撃たれた傷口が熱い。恭介はわけもなく泣きたくなる。
やがて孝太郎が、ゆっくりと首を振った。そして言った。
俺《おれ》はどこで間違ってしまったんだろう、と。
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終章
Epilogue
授業の終わりを告げるチャイムが鳴って、教室の中がざわめきと歓声《かんせい》に満ちた。
主《あるじ》を失った目の前の机を飛ばして、解答用紙をもうひとつ前の席の同級生に回す。
これで、憂欝《ゆううつ》だった試験期間も、あと一日を残すばかりだった。試験の出来については、今は考えないことにしようと思いつつ、恭介《きようすけ》は少ない荷物をカバンに突っこんだ。
寝不足気味の頭で、ぼんやりとホームルームを聞き流して放課後を待|つ《せい》。それから特に誰と待ち合わせることもなく、恭介は一人で図書館へと向かった。
榛原《はいばら》孝太郎《こうたろう》が警察に自首して、二週間が経っていた。
犯人が現役高校生ということもあってマスコミは大騒ぎしたし、学校内も一時、騒然《そうぜん》とした。
だが、その時期の出来事について、恭介自身の記憶はひどく曖昧《あいまい》だ。そして、騒ぎは始まったときと同じように、急速に過ぎ去り、表向き校内には平穏《へいおん》が戻りつつあった。
孝太郎は|一人で《ヽヽヽ》実行した犯行の手口については詳《くわ》しく自供したが、動機については、沈黙を守りなにも告げようとはしなかった。
彼の口からレベリオンという言葉が出ることは、最後までなかった。
いつもより時間が早かったせいか、図書館の自習室は空《す》いていた。
眺めのいい窓際の席に陣取《じんど》り、ぼんやりと外の景色を眺めていた恭介は、すぐ隣に誰かが近ついてきた気配で振り返った。最初に目に入ったのは、高城《たかじよう》学園の制服と、綺麗《きれい》な栗《くり》色の髪だった。そういえば、事件以来、落ち着いて彼女と話すのははじめてだったな、と恭介《きようすけ》は思う。
「隣、いい?」
秋篠《あきしの》香澄《かすみ》はそう言うと、恭介の返事を待たずに勝手に座った。真っ白なままの恭介の問題集をのぞきこんで、ちょっと笑う。
「アレス部隊が全滅したことに対する処分が出たわ」
香澄の言葉に、恭介は顔をしかめた。アレス・システムにとどめをさしたのはアーレンたちだが、その前に彼女と恭介が連中と戦ったことは間違いない。場合によっては、統合計画局に対する反逆と受け取られても仕方のない状況だ。だが、香澄は明るい表情で、呆《あき》れたように小さく肩をすくめただけだった。
「あたしたちに関しては、おとがめなし、よ。正当防衛という扱いで、なんの罰則《ばつそく》も適用されないことになったわ」
「……いいのか、そんなんで?」
恭介は半信半疑で訊《き》き返した。情状|酌量《しやくりよう》にしても、ひどく適当というか、大雑把《おおざつば》な処分に思える。
「あたしたちの行動がどうこうってことじゃなくて、政治的な処置なのよ。膨大《ぼうだい》な予算をつぎこんで造られたアレス・システムが、レベリオンにまるで歯が立たずに敗北した、ってことになると都合の悪い人たちがいるの。彼らにしてみれば、アレス・システムが悪いのではなく、操縦者《そうじゆうしや》に問題があったということにしたいわけ」
「そいつらにしてみれば、俺《おれ》たちがあの場でアレス部隊に反抗したのは、むしろ好都合だったってことか……」
恭介は腕を組んで、眉間《みけん》にしわを寄せる。ずいぶん曖昧《あいまい》で、納得のいかない説明だと思った。だが、結果として、これで恭介たちの命は首の皮一枚でつながったというわけだ。
「榛原《はいばら》くんの弟は、例によって統合計画局で身柄《みがら》を拘束《こうそく》することになるわ」
香澄が、少し沈んだ声で言った。
「もっとも、彼自身は事件に対して積極的ではなかったし、態度も従順《じゆうじゆん》だから、そんなひどい扱いにはならないと思う」
「おっかない顔してたけどな……話してみたら、案外いいやつだったのかもな」
最後まで兄をかばおうとした、金髪のレベリオンのことを恭介は思い出した。彼は恭介と戦っている間も、絶対に急所を狙《ねら》おうとはしなかった。
「孝太郎《こうたろう》は……なんであんなことをしたんだと思う?」
恭介が、ぽつりと訊《き》いた。誰かに話を聞いて欲しかったのだと、口に出してから気づいた。
香澄はゆっくりと一度だけ首を振った。
「わからない、けど……彼は自分が何者なのか、わかってなかったんだと思う。名選手だとか、生徒会役員だとか、秀才だとか、そんな肩書きでしか判断されない自分が恐かったんじゃないのかな。怪我《けが》をして野球ができなくなったときのように、いつか誰もが自分を見捨ててしまう日がくるんじゃないかって……その不安が、レベリオンに対する憎しみに転嫁《てんか》されたんじゃないかしらね」
恭介《きようすけ》は、黙って彼女の言葉を聞いた。そう、レベリオンの能力を手に入れた者は、一夜にして人間を超える力を手に入れる。その存在は、孝太郎《こうたろう》の不安をあおるのに十分だっただろう。なまじ彼自身が普通の人よりも優れた才能を持っていただけに。
「憶測《おくそく》よ。本当のことは、誰にもわからないわ。きっと、本人にも……」
香澄《かすみ》のつぶやきに、恭介はうなずいた。
皮肉なものだ、と思った。あれほど肩書きで判断されるのを嫌《いや》がっていた孝太郎が、レベリオンという肩書きで周囲の人間を決めつけ、殺し続けていたのだから。
俺《おれ》はやはりなにもわかってなかった、と恭介は思った。
自分のなにもかもが、ひどく無力に思えた。
黙りこんでうつむく恭介を、香澄はなにも言わずにじっと見つめていた。
その視線を感じて、振り返る。香澄が、あわてて目を逸《そ》らした。その不自然な行動を、恭介は怪訝《けげん》に思った。香澄は、なにか言いたげに、唇《くちびる》を少し歪《ゆが》めている。
「なに?」
恭介が訊いた。香澄がぎこちない仕草《しぐさ》で顔を上げた。
「あ、ごめん……」
つぶやいて、もう一度うつむく。それから、意を決したように、弱々しい声で言った。
「ごめん……話を聞かせて欲しいと思って」
「え?」
恭介は認《いぶか》しげに眉《まゆ》を寄せた。香澄はますますあわてた顔をする。
「あの、いつか、喫茶店で榛原《はいばら》くんに訊かれたでしょう。いろいろ、昔のこととか……それで、あたし、恭介のことをなにも知らないんだなって思って……ごめんなさい、嫌ならいい」
「いや……べつに嫌ってわけじゃないけど」
なかば呆気《あつけ》にとられたままそう言って、恭介は香澄の顔を見返した。
こうやって言葉を重ねても、本当に他人を理解することはできないのだろう、と思った。だが、不思議と、それでいいんじゃないかという気がしてくる。結局、それでも人間はこうして生きていくしかないのだから。
なにから話そう、と恭介は考える。香澄は、恭介の次の言葉をじっと待っている。
目と目が合ったまま、しばらく無言の時間が過ぎた。
そのとき、背後から、図書館だということを無視したような大声が響いた。
「お、いるじゃん。早いな、恭介《きようすけ》! 一人……」
声のした方角を、恭介と香澄《かすみ》が同時に振り返った。
そこには、一人か、と訊《たず》ねようとした表情のままで、山崎臣也《やまざきしんや》が立っていた。
顔を寄せて見つめ合っていた恭介たちの姿勢に気づいて、露骨《ろこつ》に、しまった、という表情を浮かべる。
そして臣也は自分の荷物を近くの席に放り出すと、恭介たちに背を向けて、片手を上げた。
「俺《おれ》ちょっと、借りたい本があったんだ。さがしてくる」
そう言って、引きとめる間もなく走り出してしまう。臣也と一緒にやってきた津島麻子《つしまあさこ》は、にっこりと恭介たちに微笑《ほほえ》んで、ごゆっくり、と言い残して彼のあとを追った。
恭介と香澄は、ちょっと情けない表情で互いに顔を見合わせ、やがて、どちらからともなく笑い出した。
久しぶりに見る、香澄の笑顔だった。
夏を待つ空は、青く澄んで高かった。
その空に向けて、鳥たちが舞い上がる。若々しい緑の木々が、強い日差しの下で揺れている。
「……こんな景色は、できれば防弾ガラスなしで見たいものだな」
そうひとりごちて、リチャード・ロウは自嘲《じちよう》した。そんなふうに思う感性が、自分にもまだ残っていたことが、愉快で、そして滑稽《こつけい》だった。
そのかすかな微笑《ほほえ》みも、すぐに消えた。
無数のセンサー類と侵入者迎撃装置を隠した廊下を、リチャード・ロウは歩いていく。
立ち止まったドアは、統合計画局の作戦会議室だった。数週間前、香澄をアレス部隊に引き合わせた場所だ。
電子ロックがリチャード・ロウの網膜を認識して、防弾鋼板を仕込んだドアを開ける。
照明を落とした薄暗い会議室には、たった一人の男の姿があった。
猛禽《もうきん》ような目をした、白衣の軍人――
「お待たせしました、デュラス中尉《ちゆうい》」
リチャード・ロウが静かに言うと、デュラスは座っていたイスごとリチャード・ロウを振り向いた。攻撃的な視線が、ぶしつけにリチャードの全身をなめ回す。
「ご足労《そくろう》感謝するよ、クリス・レイトナー特務官《とくむかん》」
大柄《おおがら》な身体《からだ》を揺すって、デュラスが言った。リチャード・ロウは眉《まゆ》をひそめる。
「私の名は――」
「リチャード・ロウ、か……残念だが、君にはもうその名前を名乗る資格はない」
「……どういう意味です?」
リチャード・ロウは、努めて無表情に訊《さ》いた。
デュラスが口元だけで笑った。無造作に、手にしていたファイルをリチャード・ロウの前に放る。それは、統合計画局の作戦指令書だった。発効は今日の日付になっている。
「統合計画局の本部は、アレス第一|斥候《せつこう》小隊の壊滅《かいめつ》を知って、高城《たかじよう》市に、アレス本隊の派遣《はけん》を決定した。これを受けて今後の作戦行動の指揮権は、君たち特捜部《とくそうぶ》から、我々作戦部に移管される」
「なんですって……!?」
リチャード・ロウの表情が凍《こお》りついた。
これまでの統合計画局の活動は、あくまでも潜入《せんにゆう》工作が主体だった。政治力を駆使《くし》して日本政府に圧力をかけることはあっても、レベリオンの存在自体が表に出ることは決してない。
だが、作戦部のやり方は違う。あらゆる手段を使ってレベリオンを狩りたて、その周囲に存在したものを根こそぎ破壊する。アレス部隊は、本来そのために生み出された存在なのだ。
「……統合計画局は、レベリオンを狩るために、高城市で戦争を起こすつもりですか?」
「これは決定事項だよ、クリス・レイトナー特務官《とくむかん》」
デュラスは、威圧感に満ちた低い声で言った。
「本部の指示を伝える。きみたち特捜部のエージェントは明|朝零時《れいじ》をもって解任される。本国への送還《そうかん》は在日米軍基地側の準備が整い次第、別途連絡がある。これと同時に、高城市で活動していた非合法特捜官も解任。別命あるまで本国で待機《たいき》」
リチャード・ロウは、震える手で作戦指令書をつかみ上げた。
そこには、たしかにデュラスの言ったとおりのことが書かれていた。
最優先事項は、高城市内に潜伏する全レベリオンの抹殺《まつさつ》。これに伴うあらゆる損害を、統合計画局は容認する――
ひどく喉《のど》が乾いていた。
もう一度、念を押すように繰り返すデュラスの声が、やけに遠く聞こえた。
「非合法特捜官、秋篠香澄《あさしのかすみ》は、明朝零時をもって解任する――」
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あとがき
はちがつさんじゅういちにち生まれ。
というわけで、高校を卒業するまでずっと、三雲《みくも》の誕生日は夏休みの最後の日でした。
そのせいか、誕生日にはあまりいい思い出がありません。えーと、つまり宿題に追われてて誕生日どころではありませんでした。当然、友達を集めての誕生パーティや、家族そろっての外食なんてのも経験なし。かわりに、学校でも指折りの秀才だった友人Sくんの家に押しかけて、完成した宿題を写させてもらうというのが三雲の毎年の習慣でした。
今にして思えば、我ながらずいぶん傍迷惑《はためいわく》なヤツですが、そんな三雲を見捨てずに最後までつきあってくれた彼のことは、今でも密《ひそ》かに尊敬しているのです……
いや、今回の話を書いてる途中になんとなく思い出してしまったので。ただそれだけ。
今度会ったら、あらためてちゃんと謝《あやま》っておこう。
そんなわけで、お待たせしました。
『レベリオン――炎《ほのお》を背負う少年《こども》たち』をお届けします。
シリーズ第三作目。今回は密室殺人です。とはいえ、超人的な戦闘能力の持ち主がごろごろしている世界の中での密室なので、はたして論理的なミステリとして成立しているかどうかは、読んでからのお楽しみということで。
もちろん本作の本当のウリは、そんな謎解きの部分ではなくて、ようやく動き始めた物語のほうです。ついに恭介《きようすけ》と出会ったY《はな》や真澄美《ますみ》。そして、統合計画局の対レベリオン部隊と、レベリオン原種、高崗《たかおか》陸也《りくや》。役者もだいたい出そろって、ストーリーの核心に少しずつ近づいてきたという感じですね(ほんとか?)。
今回は終わり方がこんな感じだったので、次の巻は、できるだけ早く出したいな、と思っています。どうか(ちゃんと書き上がるように)応援よろしく。
シリーズ第四作『彼女のいない教室』は、二〇〇二年二月刊行の予定です。
さて、応援といえば、感想のお便りなど送ってくれる皆様、いつもありがとうございます。
大学受験のとき、担任の先生に「最後までちゃんと試験を受けろよ」と不安そうに言われてしまったくらい、飽《あ》きっぽくて怠《なま》け者の三雲ですが、それでもどうにか作品を書き続けることができるのは、やっぱり応援してくれるみんながいるおかげです。これからもよろしく。
そういえば、単独では香澄《かすみ》のほうが人気があるのですが、なぜかカップリングでは、恭介と萌恵《もえ》をくっつけてという方が多いんですよね。いや、なんとなくわかるような気はしますが。
このへん、いろいろ分析《ぶんせき》してみると面白《おもしろ》そうだな、なんて思っています。もしよかったら、あなたの意見も聞かせてください。
今回も、挿画《そうが》は椋本夏夜《くらもとかや》さんにお願いしました。毎回しんどいスケジュールの中で、三雲《みくも》のワガママを聞いてくださって本当にありがとうございます。
それから今回アレス・システムのデザインを、拙作《せつさく》『アース・リバース』でもお世話になっている中北晃二《なかきたこうじ》先生に引き受けていただきました。このあとがきを執筆《しつぴつ》している時点では、三雲もまだデザインを見てないのですが、きっとブキミカッコイイ強力なヤツが仕上がってくると確信しています。その他大勢の関係者の方々も含めて、信頼できるスタッフと一緒にお仕事できるっていいなあ、などと、あらためて幸せを噛《か》みしめる毎日です。
それから、パロディ4コマのこと。
この本が出たとき、ちょうど店頭に並んでいる雑誌『電撃hp』14号には、レベリオン・シリーズのパロディ4コママンガが掲載されています。作画は、もちろん椋本夏夜さんです。
タイトルは『まんがでわかるレベリオン』。というわけで、これまでレベを読んだことがない初心者はもちろん、すでにこの本を読み終えた貴方《あなた》なら、いっそう楽しめること間違いなしです。よかったら、ぜひ手にとって笑ってやってください。
あと、例によって、ネタバレを含めた補足など。
本文中にもあるように、ダイヤモンドの融点《ゆうてん》はおよそ摂氏《せつし》三五五〇度です。が、空気中では、それよりも低い温度(九〇〇度くらい)で酸化が始まります。つまり燃えてしまうわけですな。
なので、お手元にダイヤモンドをお持ちの方、くれぐれも試したりしないように。
ちなみにトランスジェニック能力砲ブレィズ・トゥ・ブレイム≠フ放熱|爪《つめ》は、それを防ぐために、珪素《けいそ》化合物で表面を覆《おお》っているという設定になってます。どうでもいいことですが。
もうひとつ、アンダーソン局在というのも実在の物理現象です。量子の波動的性質が引き起こすミクロな現象なのですが、いわゆる火の玉などの怪奇現象の原因のひとつではないか、などとも言われているそうです。これもまあ、どうでもいいことですな。
あと、念のため。
毎年、宿題を丸写ししていたせいで、夏休み明けの実力テストで三雲の成績は散々《さんざん》でした。
余計なお世話ですが、やっぱり宿題は自分の力でやりましょう。
というわけで、そろそろ枚数も尽きてきたようなので、今回はこのへんで。
では、次巻の巻末でお会いしましょう。三雲|岳斗《がくと》でした。
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レベリオン炎《ほのお》を背負《せお》う少年《こども》たち
発行 二〇〇一年十一月二十五日初版発行
発売元 角川書店、電撃文庫