レベリオン 弑殺校庭園《しさつこうていえん》
三雲岳斗
イラスト/椋本夏夜
-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)国歌|斉唱《せいしょう》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き]終わり
-------------------------------------------------------
[#改ページ]
レベリオン[Rebellion]
@反逆、反乱、暴動
A不治の病
B制御不能なもの
[#改ページ]
Prologue
Jane Doe
[#改ページ]
夕暮れの二月の空は暗く、吹きすさぶ風にちらちらと粉雪が舞っていた。
一年ほど前に封鎖《ふうさ》され、解体されるのを待つばかりの古い校舎。破れた窓から射し込む弱々しい太陽に、水原《みずはら》エリは目を細める。
彼女の視線の先、廃教室の奥に、その男は転《ころ》がっていた。
高校の制服を着た若い男だ。
埃《ほこり》の積もった冷たい床《ゆか》の上に、だらりと手足を投げ出して倒れている。
制服の胸ポケットには、吸いかけのラッキーストライク。だらしなく伸ばした長髪。耳元に並んだ安っぽいピアス。今時どこの学校にでもいるような、目立たない印象の男だった。
強《し》いて特徴をあげるとすれば、その身体《からだ》から漂《ただよ》ってくる異臭《いしゆう》だろう。
青白い肌《はだ》と、硬直《こうちよく》した首筋。見開いたままの瞳《ひとみ》が、宙を見上げたまま固まっている。
男は、死んでいだ。
「四人目……か」
エリの漏《も》らした言葉が、白い吐息《といき》となって夕陽《ゆうひ》の中に浮かび上がった。
コートは着ていなかったが、寒さは感じない。彼女が先月まで滞在していたシカゴに比べれば、この国の冬はずいぶん暖かかった。
エリが着ているのは、目立たない濃紺《のうこん》のスーツ。ストレートパーマをあてただけの飾り気のない髪を、几帳面《きちようめん》に後ろで結《ゆ》い上げている。身につけているアクセサリーといえば、両耳の小さな赤いピアスだけ。いかにも新卒の、初々《ういうい》しい臨採《りんさい》教師という外見だ。
ひとけのない廃校舎の中は寒々しく、気温は零度《れいど》に近い。エリのスーツの肩口《かたぐち》には、溶《と》け残った雪がこびりついている。
板張りの床《ゆか》を汚《よご》しているのは、大勢の人間が土足で入り込んだ跡《あと》。
煙草《たばこ》の吸い殻《がら》と、灰皿代わりに使われた空き缶《かん》。読み捨てられたマンガ雑誌。
そして血痕《けつこん》。どす黒く変色した大きな血だまりが、校舎のあちこちに染《し》みついている。
エリは、冷ややかな眼差《まなざ》しで生徒の死体を眺《なが》めた。
校舎の中で見つけた、四体目の死体。幸運な、とつけ加えてもいいだろう。
少なくとも、この死体はまだ人間の姿をしている。
「あなたがやったの?」
エリは静かに呼びかけた。静寂《せいじやく》に慣れた耳に、その声は意外なほど大きく響《ひび》いた。
教室の奥で、エリと同じように死体を見おろしていた男が振り返る。
灰色熊《グリスリー》を運想させる、大柄《おおがら》な男子生徒だった。
身長は百八十センチに少し満たない程度だが。肩幅《かたばば》が広い。おそらく格闘技の心得があるのだろう。刈《か》り込んだ髪は赤く脱色されており、左の額《ひたい》から頬《ほお》にかけて、五センチほどの古い傷跡がある。
「俺《おれ》じゃない」
感情を押し殺したような声で、男が言った。
ゆっくりと頭を上げ、鋭い視線をエリに向ける。
「やったのはインコグニートだ」
「イン……コグニート?」
エリが訊《き》き返した。
男は答えない。目を落とし、床に転《ころ》がっていた小さなカプセルを踏《ふ》みつぶす。
それは薬品だった。人の血を固めて作ったような、真紅《しんく》の錠剤《じようざい》だ。彼に気づかれぬよう、エリは眉《まゆ》をひそめた。
「ところで……水原《みずはら》先生、だっけ?」
低く掠《かす》れた声で、男が訊いた。
赴任《ふにん》してまだ二週間しか経《た》っていないエリの名前を、相手は覚えていたらしい。
彼が足を踏み出すと、古くなった床がぎしぎしと軋《きし》んだ。
「こんなところで、なにをしている? この校舎は、閉鎖《へいさ》されてるはずだぜ」
「見回りをしていたら、彼らが死んでいるのを見つけたのよ」
エリは、わざと声を震《ふる》わせながら言った。動揺しているふりをする。
「うちの学校の生徒だけじゃないわね。あなたの知り合いなの?」
「さあ」
男は無感動に鼻を鳴らす。肯定とも否定ともつかぬ答え。
「それで……どうするつもりだ?」
「決まっているでしょう。警察を呼ぶわ」
「そいつは困るな」
エリのことを観察するように、男子生徒は瞳《ひとみ》を細めた。その表情に一瞬《いつしゆん》、凶悪《きようあく》な相《そう》がよぎる。
「警察が動くと、俺《おれ》たちの手で犯人を殺せなくなる」
「なにを言っているの? 四人も死んでいるのよ。警察を呼ばないわけには――」
「十一人だ」
「え?」
エリは思わず訊《き》き返していた。
「殺されたのは、十一人だよ。七人分はもう始末した」
「どういう……意味?」
「俺の仲間に、尾上《おのうえ》ってやつがいる。そいつが妙《みよう》な力を持ってるんだよ。死体だろうが、生きてる人間だろうが、綺麗《きれい》さっぱり、跡形《あとかた》も残さず消し去ってくれるって能力をな」
「そんな……まさか……」
エリの表情が強張《こわば》った。男の言葉に、ある忌《いま》わしい単語を連想する。彼女は無意識のうちに、右腕《みぎうで》をスーツの背中に回していた。
「まさか、七人分の死体は……その彼が消したの?」
「そう――死体がなければ、警察は動かない。俺たちのような不良がいなくなったところで、誰《だれ》も心配しやしないからな。問題は、あんたに死体を見られたことだが……」
男子生徒の表情が、これまで以上に凶悪なものへと変わった。
彼の体内で、爆発的に膨《ふく》れ上がる感情が伝わってくる。それは、エリにとってなじみ深い感情だった。殺気《さつき》だ。
「あんた、誰だ?」
「誰って……知ってるんでしょう? 赴任《ふにん》したばかりだけど、あなたたちの学校の教師よ。休職中の生嶋《いくしま》先生の代わりに来た……」
「いいや、違うな」
攻撃的な口調で、男は言い切った。
「普通の教師なら、死体を見ただけで大騒《おおさわ》ぎだ。わざわざ人数を数えたりしない。封鎖《ふうさ》された廃校舎を見回るってのも変だ。それに、死体を消す、なんて突拍子《とつぴようし》のない言葉を、あっさり信じるはずがねえ。あんた、何者だ? 教師ってのも嘘《うそ》だろう?」
淀《よど》みない口調で、男が問いつめる。
エリは、目の前の男子生徒に対する認識を少し改めた。
ただ粗暴《そぼう》なだけの不良生徒かと思ったが、なかなかどうして頭の切れる相手だ。これ以上演技を続けても、どうやら得られるものはないらしい。
エリは、脳裏《のうり》に浮かんだ苦々《にがにが》しい言葉を噛《か》みしめる。
『やつら』の見た目にだまされてはならない……
「……その質問に答える前に、こちらからもひとつ訊《き》いていいかしら?」
落ち着いた口調でエリは言った。殊更《ことさら》にゆっくりと、続ける。
「なんだ?」
「もしかして、あなたもその不思議な能力を持っているの? あなたのお友達と同じような」
男はふてぶてしい笑みを浮かべて、うなずいた。
「だとしたら、どうする――」
男子生徒の言葉が終わるより早く、轟音《ごうおん》が響《ひび》いた。
彼は、最後まで言葉を続けることができなかった。
エリが背中のホルスターから抜きはなった拳銃《けんじゆう》が、彼の胸に弾丸《だんがん》を叩《たた》き込んでいたからだ。
使用したのは四五|口径《こうけい》のジャケッテッド・ホローポイント。軍事利用が禁止されている強力|無比《むひ》の殺傷用《さつしようよう》弾頭《だんとう》だ。それが、続けざまに三発、男の胸に吸い込まれた。
大柄《おおがら》な彼の肉体が、たまらず教室の端まで吹き飛ばざれる。
エリは冷静だった。
そう。たとえ『やつら』が相手でも、訓練されたエージェントが不意を突けば、倒せないはずがないのだ。彼女は、それを証明しただけだ。
しかし、『やつら』が――あの化《ば》け物《もの》どもが相手なら、念には念を入れなければならない。
エリはグロックの銃ロを、うなだれた男子生徒の頭に照準《ポイント》した。
無造作《むぞうさ》に、引き金を引く。
銃声が轟《とどろ》き――だが、何も起きなかった。
目標の頭部を西瓜《すいか》のように砕《くだ》くはずのダムダム弾《だん》が、着弾《ちやくだん》の瞬間《しゆんかん》、弾《はじ》き飛ばされてしまったのだ。
「馬鹿な――!」
エリが叫んだ。
男が、目を開けた。
立ち上がる。出血はない。彼は無傷だ。
男の髪が逆立《さかだ》っている。
その全身が水晶のはうに透《す》きとおり、淡く発光を始めている。
「トランスジェニック能力! やはり貴様――」
エリがトリガーを引き絞《しぼ》る。
男が走った。
考えられないほどのスピードだった。
銃弾《じゆうだん》は、その身体《からだ》を捉《とら》えることができなかった。
ぞんざいな動きで、男がエリの腕《うで》を薙《な》ぎ払う。
彼女の手首が砕《くだ》けた。拳銃が床《ゆか》に転《ころ》がった。
男の腕が伸びて、エリの頭をつかんだ。
頭蓋骨《ずがいこつ》が軋《きし》み、衝撃《しようげき》が襲《おそ》った。
彼女は、悲鳴をあげることさえできなかった。
意識を失った彼女の、唇《くちびる》だけが虚《むな》しく動いた。
「……レベ……リオン」
それが水原《みずはら》エリこと、米国防総省《べいこくぼうそうしよう》生物戦防衛統合計画局《せいぶつせんぼうえいとうごうけいかくきよく》エージェント『ジェーンθ』の最期《さいご》の言葉だった。
[#改ページ]
第一章
「殺す?」
Blind Date
[#改ページ]
高城《たかじよう》駅の南口には、噴水《ふんすい》がある。
どこの街にでもあるような、小さな噴水だ。
飽《あ》きることなく単調な放物線を描く水しぶきと、何を表現しているのかよくわからない銀色のオブジェ。噴水の周囲は石造りのベンチになっていて、いわゆる定番の待ち合わせ場所として使われている。
その噴水を覆《おお》うガラス張りの屋根が見えてきたところで、緋村《ひむら》恭介《きようすけ》はウォークマンのヘッドホンを外《はず》した。騒々《そうぞう》しいロック音楽に慣れた耳に、街の冷ややかな空気が新鮮で心地よい。
日曜の午後ということもあってか、人通りは多かった。噴水のある広場の周りは、待ち合わせの若者たちで賑《にぎ》わっている。
恭介は、足を止めて小さく深呼吸をした。柄《がら》にもなく緊張していることを自覚して、思わず苦笑する。学校で毎日顔を合わせているクラスメートと会うだけなのに、こんなに舞い上がっている自分のことが、少し面白かった。
特別に天気がいいわけではなかったが、風のない過ごしやすい日だった。
灰色の雲の切れ間《ま》から、おだやかな陽差《ひざ》しが光のカーテンのように降り注いでいる。
日だまりの中で揺《ゆ》れているのは早咲きのデイジー。その優しい光景に、恭介は、ふと待ち合わせの相手のことを運想した。彼女も、そんな温かい雰囲気《ふんいき》の持ち主だった。
恭介《きようすけ》は、時計代わりに携帯《けいたい》電話の液晶を見る。待ち合わせの時間まで、あと三分。それを確認して、ゆっくりと噴水《ふんすい》のほうへと歩き出す。遅《おく》れていくのは失礼だが、だからと言ってあまり早くから待っているのもみっともない。そんなくだらないことに気を遣《つか》ってみるのも、滅多《めつた》にない経験だった。
携帯電話をコートのポケットに突っ込んだときに、一枚のチケットが手に触《ふ》れる。
そもそも、こうして彼女と待ち合わせをしていられるのも、この紙切れのお陰《かげ》なのだ。
先輩《せんぱい》、恩《おん》に着ます。
恭介は、心の中でつぶやいた。
「緋村《ひむら》くん」
職貝室に向かう途中の廊下《ろうか》で、そう呼び止められたのは一昨日《おととい》の放課後だった。
振り返ると、顔見知りの女生徒と目があった。三年生の酒井《さかい》希美《のぞみ》だ。どことなく落ち着いた雰囲気の彼女は、恭介たちより一つ年上。卒業を間近に控えた受験生である。
「お久しぶりです、酒井先輩」
恭介は、そう言って彼女に頭を下げた。先輩という単語を強調したのは、たまたま恭介と一緒《いつしよ》にいた、クラスメートの草薙《くさなぎ》萌恵《もえ》の目を気にしてのことだ。
もっとも萌恵は、恭介がほかの女性と話をしたからといって、やきもちをやくようなタイプではない。そもそも恭介は、彼女に妬《や》いてもらえるような身分でもなかった――残念ながら。
今日の希美は、私服姿だった。入学試験|真《ま》っ最中《さいちゆう》のこの時期、三年生は学校に出てこなくてもよいことになっている。おそらく彼女は、何かの用事で職貝室に立ち寄っただけなのだろう。
「どうしたんですか、今日は? そんな格好《かつこう》で」
恭介が訊《き》くと、希美は右手でVサインを作りながら答えた。
「担任の先生にね。受験の結果を報告に来たの」
「あ、合格《うか》ったんですね」
恭介はひゅう、と口笛を吹く。
「いちおうね。まだ試験は何個か残ってるんだけど、これでだいぶ気が楽になったかな」
「四月からは女子大生ですか。いいですねえ」
「その感想、おっさん入ってるよ。緋村くん」
そう言って希美は、くすくすと笑った。
大人《おとな》びた顔立ちの彼女だが、笑うとあどけない少女のような表情になる。
だが、希美がそんなふうに笑えるようになったのは、ごく最近のことだった。彼女のかつての恋人は、ある事件に巻き込まれて半年ほど前に命を落としているのだ。そのショックで、彼女はしばらく学校も休んでいたという噂《うわさ》だった。
それでも、彼女は笑顔を取り戻《もど》した。それが恭介《きようすけ》には嬉《うれ》しかった。なぜなら、恭介もまた、その事件に深い関《かか》わりを持つ当事者の一人だったからだ。
「ところで職貝室に、なんの用? また呼び出されたの?」
その希美が、にこやかな口調で訊いてくる。
「違いますよ、今回は」
苦笑しながら恭介が答えた。今回は、という正直な言葉に、希美が微笑《ほほえ》む。
「先輩たちの卒業式の準備があるんです。俺《おれ》たち、受付係をやることになってるんで、今から、その打ち合わせ」
「卒業式の受付? 緋村《ひむら》くんって、そんな面倒《めんどう》くさい役を引き受けるようなタイプだっけ?」
希美は、ちょっと意外そうな口調でそう言った。
それから彼女は、さっきまで恭介の隣《となり》にいた草薙《くさなぎ》萌恵《もえ》に視線を移す。
恭介の小柄《こがら》なクラスメートは、二人から少し離れたところに立っていた。
希美と恭介が、彼女に気兼ねせずに会話できるように。それでいて、恭介が彼女のあとをあわてて追いかけてこなくてもすむように。彼女がなにも言わずに立っているのは、そんな微妙《びみよう》な場所だった。草薙萌恵というのは、そういう少女なのだ。
その萌恵の横顔をしばらく眺《なが》めていた希美が、悪戯《いたずら》っぽい表情で恭介に向き直る。
「彼女も、同じ係?」
「……そうですよ」
「なるほど……そういうことね」
訳《わけ》知《し》り顔で、希美がうなずいた。いつになく彼女は楽しそうだ。
「なんのことです?」
恭介は、素《そ》っ気《け》ない口調でとばける。しかし、逃げるように目をそらしながらでは、説得力がない。そんな恭介の様子《ようす》をみて、希美はますます楽しげな表情になる。
「隠《かく》そうとするってことは、まだ片思いってことよね」
「ほっといてください」
「まあまあ。そういうことなら、あたしがきみにチャンスをあげよう」
憮然《ぶぜん》とする恭介をなだめながら、希美は肩《かた》にかけていたバッグの中から一通の封筒を取り出した。封の開いたダイレクトメール。なにかの懸賞《けんしよう》の景品らしい。
「なんですか、これ?」
「高城《たかじよう》プレジャーランドの無料|招待券《しようたいけん》。ちょうど二枚あるの。これをあげる。タダ券を手に入れたときに、偶然《ぐうぜん》一緒《いつしよ》にいた人を誘《さそ》っても、別に不自然じゃないでしょう?」
「え……」
希美の突然の申し出に、恭介はひどく戸惑《とまど》った。
彼女の言うとおり、遊園地の無料招待券は片思いの相手を誘う口実には十分だ。タイミングも申し分ない。ありがたい話には違いないが、いくら相手が親しい先輩《せんぱい》とはいえ、そこまでお膳立《ぜんだ》てしてもらうのも、なにか情けない気がする。
「でも、これ先輩のチケットじゃないですか。俺《おれ》は遠慮《えんりよ》しますよ」
「うん、まあ、うちの親にもらったんだけどね。学校の友達でも誘《さそ》いなさいって」
「だったら、なおさら」
「でもね。あたし、フリーフォールが好きなのよ」
「は?」
「考えてみてよ。あたしの友達ってみんな受験生だよ。この時期に自由落下《フリーフォール》ってのも、ちょっとどうかなあって気がしない? あ、ここってスケートもあるのよね。落ちる滑《すべ》ると、あと、こけるってのはないのか……さすがに」
希美は、軽く肩《かた》をすくめて笑った。彼女はそのまま、何も答えられないでいる恭介《きようすけ》の手に、チケットの入った封筒を押しつける。
「可愛《かわい》い子じゃない。頑張《がんば》りなよ」
そう言って希美は去っていった。
恭介は、途方《とほう》にくれた表情で、残されたチケットと草薙《くさなぎ》萌恵《もえ》を見比べた。
その視線に気づいた萌恵が、小さく首を傾《かたむ》けて微笑《ほほえ》んだ。
待ち合わせの噴水《ふんすい》にたどり着いた恭介は、空《あ》いているベンチに腰《こし》を降ろした。
見上げた駅ビルの電光掲示板には、今日の日付が映っていた。
二月十二日。
微妙《びみよう》な日付だと、恭介は思う。
バレンタイン・デイは二日後だし、彼女とは明日《あした》も明後日《あさつて》も学校で顔を合わせる。だけど、人目の多い学校を避《さ》けようと思ったら、今日チョコを渡されても別に不思議ではない。
彼女が自分に気があるとは思っていないが、義理チョコくらいはもらえるだろうか。しかし、義理チョコを渡すのに人目をはばかる必要はないわけで――
「……まあ、チョコをもらえるチャンスが増えたと思えばいいか」
恭介は、そうつぶやいて妄想《もうそう》を追い払った。
電車が到着して、駅から出てくる人の数がどっと増える。その人混みの中に、萌恵の姿が見えたような気がして、恭介は立ち上がった。
その瞬聞《しゆんかん》、背後《はいご》からいきなり声がした。
「めずらしいわね。恭介が時間どおりに来るなんて」
振り返った恭介は、声をかけてきた相手を見て絶句《ぜつく》した。
何の気配《けはい》もなく恭介の後ろに立っていたのは、ぞっとするほど綺麗《きれい》な一人の少女だった。
単に顔立ちが整っているというだけではない。触《ふ》れがたい神秘的《しんぴてき》な雰囲気《ふんいき》と、痛々しいほど張りつめた空気をまとった、どこか人間離れした美少女だ。
彼女がそこに立っているだけで、通行人たちが無意識に足を止めて振り返る。
「な、なんであんたが……」
こんなところにいるんだ、という問いかけが、狼狽《ろうばい》のあまり上手《うま》く言葉にならない。
その少女――秋篠《あきしの》香澄《かすみ》は、混乱する恭介《きようすけ》を見て、怪訝《けげん》そうに瞳《ひとみ》を細めた。
言葉も出ないほど驚いている恭介の反応に、彼女も少し驚いているようだ。
「緋村《ひむら》くん」
今度こそ、草薙《くさなぎ》萌恵《もえ》の声で呼ばれて、恭介ははっと我に返った。
人波に流されそうになりながら、萌恵の小柄《こがら》な身体《からだ》が近づいてくる。
だが、恭介を見つけて声をかけてきたのは、彼女だけではなかった。
「あ、緋村《ひむら》だ」
「おっす、恭介。ちゃんとチケット持ってきたか?」
「秋篠さん、お久しぶり」
草薙萌恵と一緒《いつしよ》に歩いてきた、やはり同級生の津島《つしま》麻子《あさこ》。そして山崎《やまざき》臣也《しんや》と市《いち》ノ|瀬《せ》澗《じゆん》の姿を、恭介は呆然《ぼうぜん》と見つめた。そんな恭介の驚きをよそに、
「ごめんね、緋村くん。待った?」
草薙萌恵は笑顔で話しかけてきた。
「あ、いや、全然……でも、何でこいつらが一緒に?」
ようやく気を取り直してそれだけを訊《き》く。こいつら呼ばわりされた麻子たちが睨《にら》んだような気がしたが、無視。
頭恵は、嬉《うれ》しそうに答えた。
「あたしが昨日《きのう》、誘《さそ》ったの。あれ、山崎くんから連絡あったよね?」
恭介はむっとして臣也たちを見る。
潤と臣也は、わざとらしく口笛を吹きながら目を逸《そ》らした。
萌恵に対する恭介の下心を知っている二人のことだ。恭介の落胆《らくたん》する顔を見ようと、わざと黙《だま》っておくくらいのことはやりかねない。
「加奈子《かなこ》たちは、先にプレジャーランドに行って待ってるって。急な話だったけど、みんな予定が空《あ》いててよかったよね。せっかくの団体チケットも無駄《むだ》にならなくて済んだし」
萌恵は、悪意のない柔《やわ》らかな笑顔で続けた。学校の外で友人と会えるのが、楽しくて仕方ないといった表情だ。
「……団体チケット?」
訊き返した恭介を、萌恵が不思議そうな顔で見上げた。はっと気づいて、恭介はポケットからチケットを取り出す。萌恵を誘ったことだけで浮かれてしまって、恭介はろくに券面を確かめてもいなかった。
酒井《さかい》希美《のぞみ》は恭介《きようすけ》に、招待券《しようたいけん》は二枚あると言った。それは嘘《うそ》ではなかった。
だが彼女は、それがペアチケットだとは一言も口にしていない。
チケットの券面に印刷されているのは、ジェットコースターと観覧車《かんらんしや》の写真。遊園地の住所と、付近の地図。
そして無料|招待券《しようたいけん》というロゴの下には、短い文章が書かれていた。
本券一枚で、五名様まで入場できます……
耳障《みみざわ》りな音をたてて、蝶番《ちようつがい》が軋《きし》んだ。
木製の巨大《きよだい》な扉《とびら》が閉ざされてしまうと、あとには暗闇《くらやみ》だけが残った。
闇――
隣《となり》にいる人間の顔すら見分けるのが困難なほどの、深い深い闇だ。
それでも、やがて目が慣れてくると建物の中の様子《ようす》がぼんやりと見えてくる。
分厚《ぶあつ》い鎧戸《よろいど》に覆《おお》われた窓と、錆《さび》の浮いた鉄格子。
頼りなく瞬《またた》く非常灯が照らすのは、古びた煉瓦《れんが》の壁に残された血痕《けつこん》のような黒い染《し》みだ。
かすかに聞こえた女性の叫び声は、通路を吹き抜けていく低い風の音にかき消される。
「ったく……」
意外に凝《こ》った造りの|お化け屋敷《ホーンテツド・マンシヨン》の入口で、順番を待ちながら恭介はため息をついた。
列の先頭では、ちょうど草薙萌恵がローブ姿の係貝に回数券を手渡しているところだ。
萌恵の隣にいるのは、クラスメートの真島《まじま》加奈子《かなこ》。組み合わせを決めるじゃんけんで、彼女が萌恵のペアに決まったのだ。
スピーカーから気味悪げな音楽が流れるたびに、普段は男|勝《まさ》りで強気な加奈子が、大げさに怯《おび》えて萌恵に抱《だ》きつく。すると小柄《こがら》な萌恵が、優しく微笑《ほほえ》みながら彼女をなだめる。女の子同士ならではの、なかなか微笑ましい光景だった。それはいい。だが――
「……なんであんたまでいるんだよ?」
遠目に萌恵たちの背中を見ながら、あからさまに不機嫌《ふきげん》な口調で恭介はつぶやく。
「そういうふうに、じゃんげんで決まったからでしょ」
恭介の隣で、秋篠《あきしの》香澄《かすみ》は淡々《たんたん》と答えた。
ミニスカートにタイツの彼女は、おどろおどろしい装飾を施された屋敷の中を、ものめずらしげに見回している。
「そうじゃなくて、なんであんたまで遊園地に来てるのかってこと」
「だって、草薙さんに誘《さそ》われたんだもの」
香澄は少しむっとしたようだった。
柔《やわ》らかな粟色《くりいろ》の前髪の下から、茶色がかった大きな瞳《ひとみ》が恭介を睨《にら》む。
「それに、忘れないでね。あたしは、あなたを監視《かんし》するためにこの街にいるのよ」
「忘れちゃいねえよ」
恭介《きようすけ》はそう言って、忌々《いまいま》しげに自分の左耳のピアスを弾《はじ》いた。
この小さな紅《あか》いピアスは、米軍《べいぐん》の偵察《ていさつ》衛星と連動した高性能の発信器になっている。世界中のどこにいても、恭介の居場所を数メートルの誤差で特定できるという代物《しろもの》だ。さらに、装着者の体細胞組織の変化を、モニタリングする機能まである。
それだけの技術と政治力を持つ組織が、恭介のような高校生を監視しているというのも奇妙《きみよう》な話だが、それは揺《ゆ》るぎようのない事実だった。恭介自身が体験した、あの血なまぐさい事件の記憶《きおく》が、何よりの証拠《しようこ》だ。
そして香澄《かすみ》は、もしものときに恭介を殺すためにここにいるのだと言う。
「だからって、他人のデートにまでついてくることないだろうに」
「これって、デートだったの?」
ぶつぶつと文句《もんく》を言う恭介に、不思議そうな表情を浮かべて香澄が訊《き》いた。
皮肉ではなく、本気で疑問に思っているという口振りだ。
恭介は、ぐっと言葉に詰《つ》まって、ぼそりと言い返す。
「……その予定だったんだよ、最初は」
順番待ちをしている草薙《くさなぎ》萌恵《もえ》は、ほかのクラスメートたちとじゃれ合いながら楽しそうに笑っている。たしかに、この状態をデートだと主張しても誰《だれ》も認めてくれないだろう。
「ふうん……そういうこと」
内心の落胆《らくたん》を隠《かく》しきれない恭介をみて、香澄が一人で納得する。
「なんだよ」
「別に」
「言いたいことがあったら、はっきり言えよな」
「……お気の毒さま」
香澄が恭介の耳元に唇《くちびる》を寄せて、短く囁《ささや》いた。
恭介は黙《だま》って口元を歪《ゆが》める。表情こそ普段と変わりないが、香澄はどことなく楽しそうだ。
「さっきから不機嫌《ふきげん》なのは、それだけが原因?」
アルバイトの係員に案内されて、屋敷の扉《とびら》をくぐったところで香澄が訊《き》いてきた。
屋敷の中の通路は狭い。ここを訪れたカップルが、嫌《いや》でも密着するように造っているのかもしれない。中世の拷問室《ごうもんしつ》に見立てた小部屋の中には、つくりものの死体が天井《てんじよう》から吊《つ》り下げられている。
「別に機嫌は悪くねえよ」あからさまに不機嫌な声で、恭介が言い返す。
「そう?」
香澄は、納得していない様子で小さく首を傾けた。
「……もしかして恭介、怖《こわ》いの?」
「怖《こわ》い? この子どもだましのお化《ば》け屋敷が? そんなわけ――」
恭介《きようすけ》は肩《かた》をすくめて、廊下《ろうか》に沿って配置された鉄格子をのぞき込んだ。
と、逆さに吊《つ》られていた骸骨《がいこつ》が、いきなり口を開けて笑い出す。壁からは、白いスモークが勢いよく噴《ふ》き出した。観客を驚かせるための、まさに子どもだましのトラップである。
だが恭介の肉体は、その単純な仕掛けに過敏に反応した。
警戒《けいかい》する野生動物のように、全身を震《ふる》わせて背後に跳び退《の》く。頭で考えての行動ではなく、身体《からだ》が本能的に反応したとしか思えない動きだった。もっとも、世間ではそれを怯《おび》えていると認識するのかもしれないが。
スモークの噴出《ふんしゆつ》はすぐに終わり、恭介はばつの悪い口調でつぶやく。
「……ないだろ」
香澄《かすみ》は黙って肩をすくめた。おそらく彼女は、恭介の苛立《いらだ》ちの原因に最初から気づいていたのに違いない。
レベリオン化現象――
R2と呼ばれる、正式な学名すら存在しない新種のレトロウィルスに感染した恭介の肉体は、人類から派生した別種の生物へと進化≠オた。筋力の増大と反応速度の鋭敏化、そして破壊的な特殊能力が、レベリオンに共通した特徴だ。
強大な力を持つがゆえにエネルギーの消耗《しようもう》が激しいレベリオン細胞は、通常、人間の身体に擬態《ぎたい》している。つまり、普通の人閥のふりをしているのだ。宿主の危機や強い感情の高ぶりに反応して、レベリオンは本来の能力を取り戻《もど》す。
そして皮肉なごどに、ジェットコースターやお伊け屋敷による人工的な恐怖《きようふ》でも、細胞変換は起きるのだった。遊びにきたはずの遊園地のアトラクションに入るたびに、自分が普通の人間ではない現実を突きつけられる。それが恭介を苛立たせていた。
「宿主の生命を守るのがレベリオン細胞の目的だから、あなたが感じた恐怖や危険に、敏感に反応するのはしょうがないけどね」
通路を進みながら、香澄はかすかにため息をもらしたようだった。
「それにしても恭介は、肉体のコントロールが未熟すぎるわ。でなきゃ、小心物なのね。この程度のお化け屋敷で緊張してるってことは」
「なにい?」
「だって、そうでしょ。レベリオン細胞が活性化してるってことは、要するに怖がっているってことだもの」
「俺《おれ》は、あんたみたいに神経|図太《ずぶと》くできてねえんだよ。繊細《せんさい》なの」
「失礼ね。精神力の問題でしょう」
香澄が早口で言い返す。あいかわらず冷たい口調だが、彼女の立場を考えれば無理もないだろう。レベリオン化した恭介が暴走した場合、真っ先に責任を問われるのは彼女なのだ。
その香澄《かすみ》が足を止めて、鉄格子の向こうで手招きしている吸血鬼《きゆうけつき》の貴族を眺《なが》める。
真紅《しんく》のスポットライトの照り返しを受けた彼女は、なまじ顔立ちが整っているだけに、妙《みよう》な迫力があった。屋敷の中に立っている蝋《ろう》人形などよりも、はるかに威厳《いげん》と非現実感に満ちている。血染《ちぞ》めのドレスを着せれば完壁だ。
「……あんた、似合うな。こういう場所」
話題を変えようと、思ったとおりのことを口に出すと、さすがに香澄も怒ったようだった。すらりと細い指を鳴らしながら、低い声で言う。
「……どういう意味よ?」
「あ、いや……別に」
恭介《きようすけ》はあわてて首を振った。一見、華著《きやしや》に思える香澄だが、レベリオン化した彼女は超人的な戦闘力を持っている。できれば怒らせたくない相手であった。恭介以外の人間とペアを組んでいれば、おそらく彼女も見た目どおりの美少女として振る舞うのだろうが。
そんなことを考えていた恭介は、ふと気づく。
「あ!」
「どうしたの?」
勢いよく振り返った恭介を見て、香澄が怪訝《けげん》な表情を浮かべた。
「いや……レベリオン化した状態の動体視力と反射神経なら、じゃんけんでズルをするくらい簡単だったんじゃないかと思って……」
「……今ごろ気づいたの?」
「え?」香澄があっさりと肯定《こうてい》したので、恭介は唖然《あぜん》とする。
「じゃあ、あんたが俺《おれ》と組んでるのって……?」
「感謝してよね。あなたの正体が、草薙《くさなぎ》さんにばれないようにしてあげたんだから」
「……はあ?」
恭介は間の抜けた表情で香澄を見つめた。
その視線に気づいたのか、彼女も恭介を見上げて――ふいに美しい瞳《ひとみ》を鋭く細めた。
「……気づいてなかったの?」
「え……」
恭介は顔を上げて、香澄の後ろにあった古い鏡を見た。
鏡の中の恭介の背後には、青白い翼《つばさ》を持つ死神の姿が映っている。鏡の裏側から、プリズムで投影しているのだろう。よくできた仕掛けだった。気の弱い人間なら、悲鳴をあげていたかもしれない。
だが、恭介は自分の背中にとりついた死神《しにがみ》を、ひどく醒《さ》めた表情で見つめた。香澄の言うとおりだった。お化《ば》け屋敷の中のつくりものの化け物を恐《おそ》れる必要はない。
なぜなら、ここにいる自分自身が本物の化け物なのだから。
恭介《きようすけ》は、そのとき初めて自分自身の姿に恐怖《きようふ》する。
鏡に映った恭介の瞳《ひとみ》は、闇《やみ》の中で金色に輝いていた。
突き出した拳《こぶし》から放たれた閃光《せんこう》が、長剣《ちようけん》で武装した男を炎《ほのお》に包んだ。男はゆっくりと地面に崩《くず》れ落ち、それきり二度と動かなくなる。
『YOU WIN』の文字が表示され、筐体《きようたい》の前に座っていた山崎《やまざき》臣也《しんや》が片手を上げてガッツボーズを作った。彼の友人たちが、画面を見ながら歓声をあげる。
遊園地の帰りに立ち寄ったゲームセンター――格闘ゲームのコーナーで、臣也は六人目の銚戦者を返り討《う》ちにしたところだった。
萌恵《もえ》たちは、臣也の筐体を取り囲んで熱心に応援を続けている。
「調子よさそうね、山崎くん」
香澄《かすみ》が淡々《たんたん》とつぶやくのを、恭介はクレーン・ゲームのガラスケース越しに見ていた。無数のぬいぐるみを収めたケースの中で、頼《たよ》りない二本のアームを開いたクレーンが、ぎくしゃくと左右に動いている。
その美貌《びぼう》ゆえに近寄りがたい雰囲気《ふんいき》を持つ香澄だが、本来の彼女は、特別に無口なわけでも人嫌《ひとぎら》いでもない。無意識に他人と距離をおこうとする理由の半分は、集団で行動するのが苦手《にがて》だから――というよりも、ただ単に慣れていないからだ。
彼女の秘密を知る恭介の前でだけは、香澄も普通の女の子のように話をする。
「津島《つしま》が見てるから、いいとこ見せようと思ってんだろ」
冗談《じようだん》めかした口調で言ったつもりだったが、香澄は笑わなかった。もっとも、彼女が愛想《あいそ》笑いを浮かべたところなど、これまでに一度も見たことはないが。
「恭介はやらないの?」
「ん、ああ……」
「弱いんだ」
「ちがうよ。そういう気分じゃないだけ」
縦《たて》移動と横移動だけ。びたすらシンプルな二つのボタンでクレーンを操作しながら、恭介は答えた。その様子《ようす》を、香澄が興味深げに眺《なが》めている。海外育ちで元天才少女の彼女には、この種類のゲームがめずらしいのかもしれない。
「怖《こわ》い?」
なんの前置きもなく、香澄が訊《き》いた。
「え?」
恭介は眉《まゆ》をひそめて訊き返す。クレーンはゆっくりとその腕《うで》を伸ばして、難しい位置にあった白い猫のぬいぐるみを挟《はさ》み込んでいた。
「ゲームに熱中して、また細胞変換が起きるのが怖《こわ》いんでしょう?」
「あのな……子どもじゃないんだから、たかがゲームでそんなに熱くならないって」
「……どうだか」
意味ありげに萌恵《もえ》のほうを見ながら、香澄《かすみ》は言った。どうせ彼女の前だと張り切っちゃうくせに、とでも言いたげな口振りだ。
「気持ちはわかるけど、そうやって逃げているうちは、自分の意志で肉体をコントロールできるようにはならないわよ」
「……逃げてるとか、そんなつもりじゃねえよ」
恭介《きようすけ》は気怠《けだる》げに肩《かた》をすくめて彼女の言葉を遮《さえぎ》った。クレーンから解放されたぬいぐるみが、搬出口《はんしゆつぐち》に向かってふわりと落下する。
「なんかさ、いろいろと面倒くさいだけ……やる」
筐体《きようたい》から転《ころ》がり出てきた景品を香澄に押しつけ、恭介は彼女に背中を向けた。
突然ぬいぐるみを手渡された香澄は、ぽかんとした表情でそれを見つめる。
「え?ちょっと……恭介、どこにいくの?」
「表で飲み物を買ってくる」
背中を向けたまま、恭介はびらひらと手を振った。香澄がため息をつく気配が伝わってくる。
少し離れたところで、萌恵たちの歓声があがった。
臣也《しんや》が、ガッツポーズを作っている。どうやら、七人目の挑戦者も退《しりぞ》けたらしい。
盛り上がっている彼らの背中を見ているのが、なぜか辛《つら》くなって恭介は足早に店を出た。
「……怖い、か」
妙《みよう》に自虐的《じぎやくてき》な気分になって、恭介はふっと笑う。
彼女の言うとおりかもしれないと思った。
怖かった。自分の身体《からだ》が人間以外のものに変わっていくのが――そして、それを友人たちに知られるのが怖かった。彼らとの間に、見えない境界線が引かれているような気がした。誰《だれ》かに、お前は俺《おれ》たちと違うと指摘されそうな気がして、どうしようもなく恐《おそ》ろしかった。
だが本当に恐ろしいのは、自分の中にある別の感情だった。それはレベリオン化するたびにこみ上げてくる荒々しい衝動《しようどう》だ。
高性能のスポーツカーに乗った人間がスピードを出さずにはいられないように、力を手に入れた肉体が戦いの場を求めていた。胸の中で、言葉にならない不快な感情が渦巻《うずま》いている。
身体の奥に潜んだ凶暴なエネルギーの塊が、出口を求めて荒れ狂っているような気分だ。恭介が真に恐れているのは、自分自身の精神《こころ》に潜《ひそ》んだ得体の知れないその感情だった。
なぜなら――おそらくそれが杉原《すぎはら》悠《ゆう》を殺戮者《さつりくしや》に変えたのと同じ感情だからだ。
「……あいつが俺にしつこくつきまとっているのも、あながち間違いじゃないかもな」
恭介は、所在なげに立っている香澄《かすみ》をちらりと振り返った。
香澄《かすみ》が恭介《きようすけ》の監視《かんし》をはじめて三カ月以上が経《た》っている。あいかわらず彼女は他人を寄せ付けない硬質《こうしつ》なオーラをまとっていたが、最近はそれなりに仲良くやっているつもりだった。生真面目《きまじめ》で融通《ゆうづう》が利《き》かないところはあるが、彼女の怜悧《れいり》さと飾《かざ》らない口調は魅力的《みりよくてき》だ。可愛《かわい》らしい部分も、まったくないわけではない。いつも一緒《いつしよ》にいるせいで、恭介と彼女が付き合っていると誤解されがちなのが頭の痛いところではあるが。
だが恭介は、香澄が時折、不安げな瞳《ひとみ》で自分を見ていることを知っていた。
彼女は今も忘れていない。自分が恭介を殺すために、ここにいるのだということを。
天井《てんじよう》に吊《つ》られたボーズのスビーカーから、騒々《そうぞう》しい和製ヘビーメタルが流れていた。男性ボーカルのハイトーン・ボイスが、荒っぽいリフに合わせて意味不明の叫びをあげている。
「え……?」
その曲にまぎれて、かすかな悲鳴が聞こえたような気がして、恭介は動きを止めた。自販機に突っ込もうとしていた硬貨《こうか》をポケットに戻《もど》す。
幻聴《げんちょう》かと思ったが、違った。もう一度――今度は悲鳴だけでなく男たちの罵声《ばせい》も聞こえる。
恭介はゲームセンターの中に視線を戻した。さっきまでそこに立っていたはずの香澄の姿が見えない。臣也《しんや》の応援に行ったのかもしれない。
なぜか、恭介は迷わなかった。
悲鳴は、今も続いていた。まだ若い、女の声だ。
駅ビルとゲームセンターに挟《はさ》まれた細い路地の奥に、その声の主は倒れていた。
小柄《こがら》な少女だった。
緩《ゆる》いウェーブのかかった長い黒髪と、黒のロングスカート、黒いブーツ。コートの袖《そで》からのぞく細い指と、小振《こぶ》りな顔だけがぬけるように白い。
彼女の周囲には、いかにも不良然とした男が五人とバイクが三台。そのうち二人はネイキッドの大型バイクにまたがり、少女の逃げ道をふさぐように威嚇《いかく》していた。
バイクこそ使っていたが、男たちは、いわゆる暴走族といった感じではない。集団としての目的意識や連帯感が、彼らには希薄《きはく》だった。目先の欲望のために、無思慮《むしりよ》に犯罪に手を染めそうな、もっとも性質《たち》の悪いタイプの不良グループだ。
「手間かけさせやがって。さっさと来やがれ!」
安っぽい金の鼻ピアスをつけた男が、少女の髪をつかんで立ち上がらせようとした。
彼女は、あらがうこともできないまま、埃《ほこり》っぽいアスファルトの上を無惨《むざん》に引きずられる。
苦痛に見開かれた瞳が、路地に飛び込んだ恭介《きようすけ》を見た。
「たすけて」
今度は、はっきりと声が聞こえた。
男たちが振り返る。
バイクに乗っていた一人が、アクセルを轟然《ごうぜん》と吹かした。手入れの悪い金髪の下。ただでさえ細い目を、さらに細めて恭介《きようすけ》を睨《にら》む。
痛い目をみたくなかったら引っ込んでろ――
その瞳《ひとみ》は、そう語りかけていた。
恭介の頬《ほお》が我知らず緩《ゆる》む。ライブで演奏する直前のように感情が高ぶっていた。制御《せいぎよ》できない衝動《しようどう》に、身体《からだ》が震《ふる》えた。ようやく力を振るう機会が訪れたと思った。
「やめてあげなよ。嫌《いや》がってるだろ」
わざと軽い口調で、恭介は言った。
金髪は、それを挑発《ちようはつ》と受け取ったようだった。
「なんだ、手前《てめえ》は? カッコつけてっと、殺すぞ、コラ」
バイクから降りて、男が凄《すご》んだ。
革《かわ》ジャンの内懐《うちふところ》に手を入れる。ナイフでも隠《かく》し持っているのだろう。
相手の身長は恭介よりも低いが、横幅は倍近い。その身体でつめよってこられると、けっこうな迫力があった。普通の人間なら、それだけで戦意を失うだろう。
だが――男の言葉を耳にした瞬間《しゆんかん》、恭介の中でなにかが変わった。
「殺す?」
恭介は笑った。
悪魔じみた笑みだった。
「それは、こっちの台詞《せりふ》だ」
「――んだとお!」
金髪が吠《ほ》えた。
彼が懐から取り出したのはスタンガンだった。高電圧で、相手を失神させる道具だ。これならば相手に致命傷を与えることがないぶん、ナイフなどよりも気軽に振り回すことができる。実際、男の動きには、わずかなためらいもなかった。
だが、引き金を引かれたスタンガンから青白い火花が散るよりも早く、男の下顎《したあご》を恭介の拳《こぶし》がとらえていた。ジャブにもならないような軽い一撃《いちげき》だ。しかし、みるからに頑健《がんけん》そうな男の身体はぐらりとよろめき、カを失った腕《うで》からスタンガンが落ちた。
続けてもう一撃。下腹部《かふくぶ》にパンチを喰《く》らって、男は悶絶《もんぜつ》する。
その様子《ようす》を、ほかの不良たちは呆然《ぼうぜん》と見つめていた。
足下に崩《くず》れ落ちて、胃《い》の中身をぶちまけ始めた金髪男を見おろして、恭介は言った。
「まだ、やるかい?」
何が起きたのか、理解するまでに時間がかかったのだろう。一瞬《いつしゆん》の沈黙《ちんもく》があった。
「て、てめえ――っ!」
ようやく事態をのみこんだ別の男が、懐《ふところ》からナイフを抜き出した。
折り畳《たた》みナイフなどではない。刃渡《はわた》り二十センチ近い、肉厚《にくあつ》のボウィナイフだ。こんな町中では、人殺し以外に使いみちのない道具だった。
ならば、遠慮《えんりよ》はいらない――
そんなことを考えながら、恭介《きようすけ》は身を低くして走った。恭介の髪が逆立《さかだ》った。全身が歓喜に震《ふる》えた。
人間の肉体に擬態《ぎたい》していたレベリオン細胞が、本来の姿を取り戻《もど》す。
すべての能力を解放された恭介の動きは、普通の人間では視認《しにん》することもできない。
五メートルほどあった男との間合いは、一瞬《いつしゆん》でゼロになった。
男は、まだナイフを構えてさえいなかった。
恭介の脚《あし》が跳《は》ね上がり、男の右|腕《うで》を粉砕《ふんさい》する。
そのまま振り下ろした踵《かかと》が、悲鳴をあげようとした男の顎《あご》を砕《くだ》いた。
今度は、ほかの不良たちも黙《だま》って見ていたわけではなかった。
|改造マフラー《スーパートラツプ》の爆音が響《ひび》いた。フロントタイヤを浮き上がらせながら、黒いカワサキ製バイクが恭介に突っ込んでくる。バイクで轢《ひ》き殺すつもりなのだ。
輸出仕様九十三馬力のエンジンが、二百五十キロの車体を猛然《もうぜん》と加速させる。
得体のしれない恭介の戦闘力を目の当たりにしたせいだろう。バイクに乗った男は、倒れている仲間を巻き込むことすら、まるで気にしていないようだった。
だが今の恭介には、白煙をあげて突進してくるバイクすら、ひどくのんびりとしたものに感じられる。タイミングを見計らって、渾身《こんしん》の力をこめた回し蹴《げ》りを放つと、一一○〇ccの大型バイクは呆気《あつけ》なくバランスを崩《くず》して建物の壁に激突した。
振り落とされたライダーが左|肩《かた》から地面に激突する。しばらく入院することになるだろうが、自業自得《じごうじとく》だ。破損したマフラーからもれる排気音が、断末魔《ぜんまつま》の悲鳴のように狭《せま》い路地に響《ひび》いた。
残りの不良たちにはもう、恭介とやり合う気力は残っていないようだった。
恭介から一番遠くにいた男が、バイクにまたがってエンジンをかけた。そのまま逃げるつもりなのだ。
少女の髪をつかんでいた鼻ピアスの男も、彼女を放り出してじりじりと後退する。
だが、彼らの口からもれたのは、恭介が予想したような悪態や捨て台詞《ぜりふ》ではなかった。
「乗れっ、拓《たく》。こいつの力は――」
「わかってるっ! 仲神《なかがみ》さんたちと同じだ。まともにやりあったら勝てねえ。逃げるぞ!」
「――なに!?」
男たちの言葉に、恭介は愕然《がくぜん》とする。
恭介と同じ能力――すなわちレベリオンの力を持った人間が、彼らの仲間に存在する。彼らは、そう言ったのだ。
だが、それを問いかける暇《いとま》もなく、男たちを乗せたバイクは走り出す。
「逃がすかっ――!」
恭介《きようすけ》は低く腰《こし》を落として、大きく息を吸い込んだ。
腹部《ふくぶ》から下顎《あご》にかけて――恭介の上半身にひび割れのような紋様《もんよう》が浮かび上がり、淡《あわ》い燐光《りんこう》をつばさ放ち始める。
トランスジェニック能力|滅びの咆吼《ブラステイング・ハウル》
レベリオン化した恭介の肉体が持つ力は、海棲哺乳類《かいせいほにゆうるい》やコウモリの特殊《とくしゆ》能力と同じ、超音波による物理的攻撃力だ。強靭《きようじん》なレベリオン細胞が発生する高周波|震動《しんどう》は、空気中に真空の泡《あわ》を発生させ、バイクのラジアルタイヤ程度なら一瞬《いつしゆん》で破壊することができる。
いかにレベリオンの運動能力といえども、疾走《しつそう》するバイクに追いつくことは不可能だ。
この力で彼らの動きを止めて、ナカガミという人物の正体を聞き出さなければならない。
だが、音速で飛翔《ひしよう》する破壊|衝撃波《しようげきは》を、恭介が放とうとしたとき鮮烈《せんれつ》な平手打ちの音が、恭介の頬《ほお》で鳴った。
「なっ――!」
思いがけない出来事に意表をつかれ、集中していたエネルギーが霧散《むさん》する。
振り返った恭介が見たのは、蒼白《そうはく》な顔色で全身を震《ふる》わせている香澄《かすみ》だった。
彼女が、衝撃波を放とうとしていた恭介の頬を打って、それを制止したのだ。
「なにを――」
「なにを考えているのよっ!」
恭介の声は、香澄の怒号《どごう》にかき消された。
普段の彼女からは考えられないほどの、感情に満ちた叫びだった。
噛《か》みしめた唇《くちびる》は白く、見開かれた瞳《ひとみ》は涙《なみだ》で潤《うる》んでいるようにもみえる。
「か……香澄?」
「自分がなにをやったか、わかっているの? 普通の人間を相手にレベリオンの力を発動して、そのうえブラスティング・ハウルまで使うつもり!?」
香澄は、たなびく栗色の髪を乱暴に払いながら、路地の惨状を見渡した。
腹部《ふくぶ》を押さえたまま悶絶《もんぜつ》した金髪の不良。右|腕《うで》と顎《あご》を砕《くだ》かれ呻《うめ》いている男。壁に激突したバイクは破片をまき散らし、投げ出されたライダーはぴくりとも動かない。
拓《たく》と呼ばれた男を乗せたバイクは、すでに見えなくなっていた。
取り残された少女は、まだ地面にうずくまったまま震《ふる》えている。
通行人は多くなかったが、それでもバイク事故の音を聞きつけて野次馬《やじうま》が集まり始めていた。
「待てよ」
恭介は、ゆっくりと息を吐《は》き出しながら言った。
「……俺《おれ》は、この子を助けようとしただけだ。相手は、問答無用でスタンガンやナイフを振り回すような連中だったんだぜ」
「だけど普通の人間だったわ」
「だったらなにか? この子が襲《おそ》われているのを見過ごせっていうのか?」
香澄《かすみ》は、一瞬《いつしゆん》少女に目を落としたあと、恭介《きようすけ》を見上げて睨《にら》んだ。
「この国の警察は何のためにあるの?」
「なに!?」
「人通りだってないわけじゃないし、ゲームセンターには山崎《やまざき》くんたちもいた。助けを呼ぶこともできたはずよ。何も一人で大勢を相手する必要はなかったでしょう?」
「……間に合わないかもしれなかった」
「恭介、あなた、正義の味方にでもなったつもり!?」
「それに、あいつらはレベリオンのことを知っていたかもしれないんだ。ナカガミという男が、俺《おれ》たちと同じ力を持っているって」
「それは、あたしたちが調べることだわ。あなたの役目じゃない」
とりつくしまもない香澄の言葉に、恭介は猛烈《もうれつ》な怒りがこみあげてくるのを感じた。
「……俺は間違ったことはしていない」
「何を基準にそう言い切れるの? 独《ひと》りよがりの正義で善悪を決めるのなら、杉原悠《すぎはらゆう》がやったことと同じじゃない」
「悠の……悠の名前を出すのかよ、お前がっ!」
「恭介!」
香澄までもが、めずらしく感情を剥《む》きだしにして叫ぶ。そのとき――
「……キョースケ?」
恭介と香澄のやりとりを怯《おび》えながらみていた少女が、初めて声を出した。
香澄が、口にしかけた言葉をのみこむ。
名前を呼ばれた恭介は、初めて正面から彼女を見た。
少女は、明らかに恭介たちよりも年下だった。中学生としても小柄《こがら》な部類だ。
切りそろえた前髪の下の大きな瞳《ひとみ》が、その表情を、さらに幼くみせている。
そして、その瞳に、恭介は見覚えがあった。
「あ……お前、ミコトか?」
「知り合いなの、恭介?」
香澄が、評《いぶか》しげな表情を浮かべる。
ほぼ同時に、遠巻きに路地を眺《なが》めていた野次馬《やじうま》たちに混じって、臣也《しんや》たちの声が聞こえた。
「あ、いたいた」
「おーい、恭介」
「何やってんのよ、あんた。そんなところで」
まさか、ゲームセンターで一緒《いつしよ》に遊んでいたはずの恭介《きようすけ》が、こんなところで事件に巻き込まれたとは思っていないのだろう。倒れている不良たちの姿に驚きながらも、恭介の同級生たちは気楽な足取りで近づいてくる。
そんな彼らをみて、黒服の少女は、一瞬《いつしゆん》怯《おび》えたような表情を浮かべた。
だが、草薙《くさなぎ》萌恵《もえ》の姿を認めた瞬間《しゆんかん》、彼女の瞳《ひとみ》にこれまでとは違う感情が宿る。
それは、ようやく母親と巡《めぐ》り会った迷子《まいご》のような瞳だった。
少女の姿に気づいて、萌恵も足を止める。
知人の顔を見て緊張の糸が途切れたのか、少女の瞳から、ふっと意志の光が消えた。
「……お姉ちゃん」
意識を失う直前、彼女はたしかにそうつぶやいた。
[#改ページ]
第二章
「いいえ……でもね」
Incognito
夕暮れ時――
久しぶりに訪れた緋村家《ひむらけ》は、どこか懐《なつ》かしい感じがした。
だが、あまり居心地がいいとは言えなかった。
恭介《きようすけ》と萌恵《もえ》は、それぞれべつの部屋で電話をかけている。そのため、居間に残っているのは香澄《かすみ》と、あの黒い服の少女だけだった。極度の緊張《きんちよう》と疲労が原因で気絶した彼女は、とりあえず一番近くにあった恭介の自宅に運び込まれたのだ。
恭介は彼女を、自分の従妹《いとこ》だと説明した。
その少女は、テーブルを挟《はさ》んで香澄の向かい側のソファに座っている。
沢渡《さわたり》美古都《みこと》というのが、恭介から聞いた彼女の名前だった。
「お菓子《かし》、食べない?」
香澄が訊《き》くと、美古都は無言で首を振った。
二人きりになってから、彼女は一度も口をきいていない。まるで、香澄と目を合わせることさえ恐《おそ》れているようだ。うつむいたまま、細い腕《うで》できつくクッションを抱《だ》きしめている。香澄は、しかたなく一人で塩せんべいをつまんだ。
恭介の話では、美古都は中学二年生という話だった。年齢《ねんれい》を偽《いつわ》って高校に潜入《せんにゆう》している香澄とは、一つしか歳《とし》が変わらない。
だからといって、香澄《かすみ》と彼女に共通の話題があるわけではなかった。それでなくても、十|歳《さい》から大学の研究室に出入りしていた香澄には、同世代の友人がほとんどいなかったのだ。こんなとき、初対面の人間とどんな会話をすればいいのかわからない。
面識のある萌恵《もえ》や恭介《きようすけ》に対しても、美古都《みこと》は決して自分から口を開こうとはしなかった。
だから、香澄だけが特別に嫌《きら》われているというわけではないのだろう。だが、こうまであからさまに怯《おび》えられると、さすがの香澄も少し傷つく。
それでも、不思議と彼女を嫌いにはなれなかった。
幼さを残した顔立ちの小柄《こがら》な少女。誰《だれ》かに似ている、と香澄は思う。
「お茶のおかわりは?」
もう一度、香澄が訊いた。美古都は怯《おび》えたように肩《かた》を震《ふる》わせ、やはり首を振っただけだった。
彼女に聞こえないように、香澄は小さくため息をつく。
そのとき、電話を終えた萌恵が戻《もど》ってきた。
「沢渡《さわたり》さんのお宅には、古都《こと》ちゃんを預かってるって連絡したから」
そう言いながら、萌恵はソファに腰《こし》をおろす。すると、今まで抱《だ》いていたクッションを手放して、美古都は萌恵の隣《となり》に移動した。まるで母鳥の後ろをついてあるく雛《ひな》のようだった。
彼女にそこまで信頼されている萌恵に、香澄は少しだけ羨望《せんぼう》を感じる。
「あちらのご両親は、なんて?」
「あ、そうじゃないの。古都ちゃんのお父さんとお母さんは、お仕事の関係でずっとイギリスに行ってるから。電話したのは家政婦さんに」
と、萌恵は美古都に向き直って続ける。
「心配してたよ。昨日《きのう》の夜も、家に帰らなかったんでしょう?」
美古都は、泣き出しそうな顔で萌恵を見上げた。萌恵の袖《そで》をぎゆっと握《にぎ》る。
安心して、というふうに、萌恵は彼女の背中を軽く抱《だ》いた。
「古都ちゃんとは、ピアノ教室で知り合ったの」
萌恵が、香澄に説明する。
「二年くらい前かな……あたしと古都ちゃんのお兄さんが、同じ先生に習ってた時期があって。そのころからのお友達なの」
「そう……」
香澄は納得した。そういうことであれば、彼女たちが知り合いであってもおかしくはない。
「じゃあ、美古都さんもピアノを?」
美古都に訊《たず》ねてみたが、もちろん返事はない。代わりに、萌恵が答える。
「上手《うま》いのよ。あたしなんかよりも、ずっと。郁哉《いくや》さんも上手だったけど」
「郁哉さん?」
「あ、古都《こと》ちゃんのお兄さんの名前ね。あたしたちよりも二つ年上で、今は音楽系の大学に通ってるはずだけど」
「へえ……意外。恭介《きようすけ》の従兄《いとこ》なのに芸術家なんだ」
香澄《かすみ》が正直な感想をもらすと、萌恵《もえ》も小さく微笑《ほほえ》んだ。ピアノを弾《ひ》く沢渡《さわたり》郁哉《いくや》と、ステージの上でハードロックをシャウトしている恭介の姿を比べてしまったのかもしれない。
「そういえばね……家政婦さんが変なことを言ってた。郁哉さんのお友達っていう人たちが、美古都《みこと》さんを何度もたずねてきたって。心当たり、ある?」
萌恵が美古都に訊《き》いた。
少女の表情が、傍目《はため》にもはっきりと硬《かた》くなる。
「おともだち……なんかじゃない」
「え?」
「……あのひとたちは、お兄ちゃんの、てき」
美古都の言葉に、香澄は萌恵と顔を見合わせた。
「もしかして、さっきあなたを襲《おそ》った連中も、その仲間なの?」
香澄が質問した。今度は美古都も、小さくうなずいた。
萌恵が統けて訊く。
「だから、昨局《きのう》は家に戻《もど》らなかったの? その人たちに、狙《ねら》われているから?」
「……うん」
消え入りそうな声で美古都が言った。不安そうな彼女の手を、萌恵は優しく握《にぎ》る。
「昨日の夜は、どこに泊まったの?」
「映画館。まえにキョースケが、そこでねたことがあるっていってたから」
なるほど、と香澄は思った。あの場所に彼女がいた理由も、それでわかった。ゲームセンターのすぐ裏は、カラオケボックスなどを併設した二十四時間営業の|複合映画施設《シネマコンプレツクス》になっている。
しかし、美古都のような少女が一人でいれば目立つ場所だ。あの不良グループが、彼女の居場所を突き止めたのも、それが原因だろう。
恭介が、いい加減なことを彼女に吹き込むから――
そんなことを思って香澄が一方的に腹を立てていると、その恭介がのこのこと部屋に入ってきた。携帯《けいたい》電話をポケットにねじ込みながら、言う。
「なんかさ、やばいことになってる」
「郁哉さんが捕まらないの?」
萌恵が訊いた。答える恭介の声は、いつになく深刻だった。
「いや、違うんだ。ほかの親戚《しんせき》連中に片っ端から連絡してみたんだけど、あの人、二過間ほど前から行方《ゆくえ》不明になっているらしい」
「行方不明!?」
不吉《ふきち》な単語に、萌恵《もえ》の表情が曇る。
「ああ……お前も郁哉《いくや》さんの居場所を知らないんだろ、美古都《みこと》?」
恭介《きようすけ》に問われて、美古都は悲しげにうなずく。
「そうか……」
「警察には?」
少し気まずい思いをしながら、香澄《かすみ》が訊《き》いた。
さっき喧嘩《けんか》してからというもの、まともに恭介と目を合わせるのがつらい。
「いちおう家政婦さんが捜索《そうさく》願《ねがい》は出してあるらしいけど、な」
恭介も、香澄のほうを見ないまま肩《かた》をすくめる。
大学生の男が家に帰ってこない――それだけのことで、警察が本腰《ほんごし》を入れて捜査《そうさ》を始めるとは思えなかった。事件性というものが、あまりにも薄弱《はくじやく》なのだ。両親が国内にいないのでは、なおさらである。
「郁哉さんというのは、あなたが喧嘩《けんか》した相手とつきあいがありそうなタイプの人なの?」
「……どういう意味だよ?」
むっとする恭介に、萌恵が事情を説明した。不良グループが、美古都の兄の友人を名乗って彼女を捜《さが》しているというくだりだ。
話を聞くにつれ、恭介の表情が険《けわ》しいものへと変わっていった。
「……郁哉さんの交友関係って言われてもな……俺はあの人、苦手だったからな」
恭介がソファに腰《こし》を降ろす。ちょうど、醗恵と二人で美古都を挟《はさ》んでいるような形になった。
そうしているとまるで、兄妹というよりも歳《とし》の近い親子のようだ。自分の隣《となり》も空《あ》いていたのに、と香澄はなぜか腹が立った。
「ガキのころはよく面倒みてもらってたんだけどさ。歳の近い親戚《しんせき》は、ほかにいなかったし」
恭介が、頭をかきながら続ける。
「乱暴な人だったの? それとも、神経質だったとか?」
香澄の質問に、恭介は首を振った。
「いや、いい人だったよ。優しいし、頭も顔もよかったしな。親戚《しんせき》のおばさん連中にも受けがよかった。妹思いで、話もおもしろい」
「……なんで、そんな人が苦手なのよ?」
「いや、別にこれといった理由はないんだけどな……」
恭介が目を逸《そ》らして曖味《あいまい》な答えを返す。萌恵が小さく噴《ふ》き出した。香澄は少し呆《あき》れる。気持ちはわからないでもないが。
「それって、ひょっとして比較されるのがいやだとか、そんな話?」
「うるせえな。とにかく俺の知ってる限りじゃ、あの人は不良グループとつきあいのあるようなタイプじゃなかったよ。どっちかって言えば、敵《てき》だな」
「敵《てき》?」
「ああ……たしか去年《きよねん》、あの人の友達が死んでるんだよ。バイク事故で……それと昼間の不良たちが関係あるのかどうかは知らないけど」
「……だとしたら、美古都《みこと》さんが狙《ねら》われる余地はあるわけね? もし沢渡《さわたり》郁哉《いくや》が、彼らに復讐《ふくしゆう》しようとしていたら」
「仕返しに美古都を拉致《らち》って、それで郁哉さんを呼びだして殴《ぼこ》ろうってのか?」
恭介《きようすけ》の乱暴な言葉|遣《づか》いに、香澄が顔をしかめ萌恵《もえ》はきょとんとした表情を浮かべた。
美古都が怯《おび》えたような目つきで恭介を見上げる。
「彼らの狙《ねら》いが、美古都さん本人という可能性もあるわ。たとえば、彼女が彼らの犯罪の現場を目撃した、とか……」
「美古都が? まさか?」
恭介がそう言うと、美古都は困ったように首を振った。
わからない、ということらしい。
「どっちにしても、美古都をこのまま家に帰すわけにはいかないな。ほとぼりがさめるまで、うちで預かるか」
恭介の言葉に、美古都の表情が明るくなる。
香澄は何も言わなかった。
美古都の安全だけを考えるなら、恭介の提案は悪くない。
だが、美古都を守るためなら、恭介はためらうことなくレベリオンの力を使うだろう。社会からはみ出した犯罪者といえども、美古都を狙っているのは普通の人間だ。
ただの人間を相手にレベリオンの力を振るうこと――その快楽に恭介がおぼれてしまうこと。
それは香澄《かすみ》が、今もっとも恐《おそ》れていることであった。
「でも、緋村《ひむら》くん一人で大丈夫《だいじようぶ》? もし昼間の人たちが仕返しに来たりしたら……」
萌恵が、香澄とはべつのことを心配する。
「心配ないよ。津島《つしま》たちを送っていったら、潤《じゆん》や臣也《しんや》もうちに来るっていってたし」
恭介が気楽な口調で言った。
「それに姉貴が帰ってくれば……手を貸してくれるかもしれないしな」
「お姉さんが?」
「ん、ああ……あの女の知り合いには、この辺の暴力団の幹部クラスが何人もいるから」
あまり気が進まない調子の恭介の言葉に、萌恵が目を丸くする。
香澄は、あまり驚かなかった。緋村《ひむら》杏子《きようこ》とは、そういう女性だ。恭介が浮かない顔をしているのは、姉に借りをつくるのが不本意だということなのだろう。
「それより草薙《くさなぎ》さんは時間、大丈夫?」
間違っても香澄《かすみ》相手には口にしない、誠実そうな声で恭介が訊《き》いた。
「あ……もう、こんな時間?」
壁の時計を見て、萌恵《もえ》が驚く。
彼女の家は、門限が厳しい。昨年の秋、前の学校の同級生が遵続して殺されるという事件があって以来、両親がひどく心配するのだという。
「送ってく」
恭介《きようすけ》が立ち上がった。
「え、でも……」
「大丈夫《だいじようぶ》よ。恭介が戻《もど》ってくるまで、あたしが美古都《みこと》さんと一緒《いつしよ》にいるわ」
ためらう萌恵に、香澄は言った。
恭介が意外そうな顔でこちらを見たが、目を逸《そ》らす。
香澄自身、白分の感情的な行動に少し驚いていた。だが、喧嘩《けんか》したばかりの恭介と、少し離れて行動したかったのだ。あるいは単に、萌恵に嫉妬《しつと》なんかしていないということを、証明したかっただけなのかもしれないが。
「モエ、かえっちゃうの?」
美古都が萌恵に訊《き》いた。
萌恵は、彼女の瞳《ひとみ》を見ながら微笑《ほほえ》む。
「うん、ごめんね。明日《あした》、また会いにくるから」
「ほんとに?」
「約束する。だから古都《こと》ちゃん、緋村《ひむら》くんと香澄ちゃんをよろしくね」
萌恵は美古都に、いい子にしてて、とも、気をつけて、とも言わなかった。
自分の大切な友達をあなたに預けるから――彼女が言ったのは、そういうことだ。
美古都は、萌恵のその言葉によって忘れていた勇気を取り戻《もど》したように、小さくうなずいた。
萌恵が微笑む。香澄にはきっと真似《まね》できない、あたたかな笑顔だった。
傍《そば》にいる人間の心を癒《いや》し、背中をそっと押してくれる。彼女には、そんな力がある。
きっと恭介も、彼女のそんなところに惹《ひ》かれているのだろう――そう思うとなぜか、香澄の胸は少し痛んだ。
恭介と萌恵が出ていったため、緋村家のリビングには香澄と美古都だけが残される。
気まずい沈黙《ちんもく》が戻ってきた。
美古都は、再びクッションをきつく抱《だ》いている。
その頑《かたく》なな態度に、香澄はふと既視感《きしかん》を覚えた。
自分の無力さに怯《おび》えながら、世界中を敵《てき》に回して戦っている。
心の中に、出口のない重い感情を抱《かか》えたままで。
その姿が、幼い頃の自分と重なった。
緊張が少しだけ緩《ゆる》んだ。
「……あ、あの」
なけなしの勇気をふりしぼるように、か細い声で美古都《みこと》が言った。
腕《うで》を仲ばし、空《から》になったティーカップを、おずおずと香澄《かすみ》の前に差し出す。
「おかわり、ね?」
香澄は、彼女の手からカップを受け取って笑った。
美古都も、ぎこちなく微笑《ほほえ》む。
そして香澄の携帯《けいたい》電話が鳴ったのも、ほば同時だった。
「でも、驚いた。緋村《ひむら》くんが、古都《こと》ちゃんの従妹《いとこ》だったなんて」
バス停へと向かう歩道橋の上で、萌恵《もえ》が言った。
陽《ひ》が沈んでから、風がまた冷たくなったようだ。この季節は、さすがにバイクで女の子を送るわけにはいかない。
「従妹って言っても、かなり遠縁《とうえん》なんだけどな。うちの姉貴に美古都が懐《なつ》いてたから、よく遊びに来てたんだよ。俺《おれ》も、妹ができたみたいな気分で楽しかったし」
わずか数年前の出来事を、やけに懐かしく思い出しながら、恭介《きようすけ》が答える。
「それに、あのころはまだ美古都も帰国したばかりで、あまり日本語がしゃべれなかったしな」
「そうか……そんなころからの知り合いなんだね」
萌恵が、少しうらやましそうに言う。
「あたしも、郁哉《いくや》さんが高校生のころは、よく遊んでもらってたな。コンサートに連れて行ってもらったり」
「え……!?」
萌恵がさらりと口にした台詞《せりふ》に、恭介の心臓が大きく脈打った。
「ええと……コンサートっていうと……」
「あ、うん。アルゲリッチとかアシュケナージとか」
「ああ……そう」
恭介は半《なか》ば上《うわ》の空《そら》のまま相づちをうった。心臓が、締《し》めつけられたようにきりきりと痛む。
少し考えて、その慣れない感覚の正体に気づいた。嫉妬《しつと》だ。
さらさらの髪を伸ばした郁哉の、端整《たんせい》な顔が脳裏《のうり》に浮かぶ。萌恵と郁哉が一緒《いつしよ》にピアノを習っていたというだけでも、恭介にとっては十分に衝撃的《しようげきてき》な事実だった。そのうえ、二人が別の場所で会っているのを想像すると、どうしようもなく不安になる。
いくつもの疑問が頭をよぎったが、口に出すことはできなかった。この動揺した状態で下手《へた》に二人の関係などを訊《き》いて、肯定されたら再起不能になりかねない。
「郁哉《いくや》さん……無事でいるといいけど」
沈黙《ちんもく》した恭介《きようすけ》を気遣《きづか》ったのか、萌恵《もえ》が静かにつぶやいた。それは、恭介が無意識に考えまいとしていたことだった。
あの妹思いの沢渡《さわたり》郁哉が、美古都《みこと》を二週間もほったらかしにしておくということが、そもそも異常なのだ。なにか深刻な問題が、彼の身に降りかかったと考えるのが自然だった。
生きててくれよ――
恭介は、祈るような気持ちで考える。
郁哉のことは苦手だが。決して嫌いなわけではない。たしかに今は、恭介よりも彼のほうが出来がいい。長く生きたぶんだけ大人《おとな》だし、頼《たよ》りがいもあるだろう。
けれど生きてさえいれば、いつか追いつくことができるかもしれない。
そう。生きてさえいてくれれば――
だが、昼間の不良たちが言っていた、ナカガミという人物のことが気にかかる。
もしも、その男がレベリオンの力を手に入れたのなら――その力で郁哉を傷つけ、美古都を悲しませたとしたら、自分は決して許さないだろう。
レベリオンの特殊《とくしゆ》能力は、不可能犯罪をいとも簡単に可能にする。警察は、レベリオンの犯罪を裁《さば》けない。ならば、自分の手で復讐《ふくしゆう》するしかない。
同じレベリオンである、自分の手で――
「そういえば……緋村《ひむら》くん、香澄ちゃんと喧嘩《けんか》したの?」
もの思いにふける恭介に、萌恵が突然訊いた。
「え……いや……喧嘩《けんか》っていうか……あれは」
恭介は、番澄に叩《たた》かれた頬《ほお》にそっと触れる。
彼女が怒った理由を、本当は恭介も理解していた。彼女の言うとおり、美古都を救う方法はほかにあったのかもしれない。あのとき、感情に流れなかったら、恭介自身もっと穏便《おんびん》な手段を選んだのかもしれない。
だが、もしも郁哉の失踪《しつそう》にレベリオンが絡《から》んでいたとしたら――
それでも香澄は恭介の復讐を咎《とが》めるだろうか。
「香澄ちゃんって……」
ふいに黙《だま》り込んだ恭介をみて、微笑《ほほえ》みながら萌恵は続けた。
「古都ちゃんと、少し似てるよね」
「え?」
恭介は思わず訊き返した。
いつも兄の影に隠《かく》れていたような印象のある美古都と、気丈《きじよう》で冷淡《れいたん》な態度の香澄とでは、共通点がまるで思い浮かばない。顔立ちも、二人はあまり似ていない。
「あ、どこがってことはないんだけど……なんていうか、雰囲気《ふんいき》が」
「そうかな……?」
釈然《しやくぜん》としないまま、恭介《きようすけ》は曖昧《あいまい》にうなずく。
「うん……あたしは、そう思う」
萌恵《もえ》はそれ以上何も言わなかったが、恭介には彼女の言いたいことが何となくわかった。
あのとき香澄《かすみ》が怒ったのは、恭介のことを本気で心配しているからだ。単に与えられた任務を遂行《すいこう》するだけのつもりなら、上官の指示を仰《あお》いで恭介を抹殺《まつさつ》すれば済むことなのだ。
表現のやり方は違っているが、美古都《みこと》が兄の身を案じているのと同じように、香澄も恭介のことを気にかけている。
だから彼女にあまり心配をかけるなと、萌恵は遠回しに忠告してくれているのだ。
その冷たい美貌《びぼう》と、圧倒的な戦闘力に目を奪われて忘れがちになるが、香澄も美古都とたいして歳《とし》のかわらない少女である。苦悩することもあれば、きっと不安だって感じる。
それを恭介に思い出させてくれるのは、いつだって目の前の小柄《こがら》な同級生だった。
「ここでいいわ。ありがとう」
バス停の前で、萌恵が言った。路線バスが、ちょうど交差点を曲がってきたところだった。
「じゃあ、また明日《あした》。学校で」
恭介が手をあげる。
「うん、あ、待って」
萌恵が、あわてたように言って、カバンから小さな包みを取り出した。
「これ、ちょっと早いんだけど、よかったら受け取って。あと、こっちは山崎《やまざき》くんと市《いち》ノ|瀬《せ》くんに……」
停車したバスの扉《とびら》が開く。
包みを恭介に手渡して、萌恵は急いで乗り込んだ。
窓際の席に座って、恭介に手を振る。彼女を乗せたバスのテールランプは、混雑した車の群にまぎれて、すぐに見えなくなった。
彼女に手渡された包みは、掌《てのひら》にすっぽりと収まってしまいそうな、小さなチョコレートだった。臣也《しんや》と潤《じゆん》のぶんも、まったく同じ内容である。
あからさまに義理チョコだったが、なぜか残念とは思わなかった。
手作りの可愛《かわい》らしいラッピングが、あまりにも彼女らしかったからかもしれない。
臣也たちのぶんも一人で食べてしまおうかという誘惑《ゆうわく》に、恭介はそれから二十分は悩んだ。
買い物に行ってくるから、と美古都に言い残して、香澄は緋村家《ひむらけ》をあとにした。
美古都の様子《ようす》を見る限り、勝手に家を出ていくことはないだろう。恭介も、しばらくすれば戻《もど》ってくるはずだ。
そして美古都《みこと》を狙《ねら》っている不良グループの動きは、自分自身の手で封じる。
自らにそう言いきかせながら、香澄《かすみ》は顔を上げた。
香澄の目の前には、一年近く前に廃棄《はいき》された古い木造校舎の姿があった。
『すぐに動けますか、カスミ?』
統合計画局《とうごうけいかくきよく》のエージェント――リチャード・ロウは、電話をかけてくるなりそう言った。
『どうやら当たりですね。仲神《なかがみ》という男が率《ひき》いてるグループ、統合計画局の監視《かんし》リストに名前があります。監視の名目は、麻薬流通ルートの端末《たんまつ》』
「彼らが、沢渡《さわたり》美古都を狙っている理由は?」
香澄が訊《き》いた。美古都本人が目の前に座っているのだが、リチャードとのやりとりは早口の英語で行われるので問題ないと判断する。
『不明です――ですが、おもしろい情報がひとつ。仲神グループの構成員が十人近く、二過間ほど前にある事件で死亡しています。統合計画局のほうで圧力をかけて、公にはなっていませんがね」
「ある事件?」
『|悪 性《ヴイルレント》レベリオン症候群《シンドローム》。推定される原因は、|RAVE《レイヴ》の過剰|摂取《せつしゆ》』
淡々《たんたん》としたリチャードの言葉に、香澄は軽い衝撃《しようげき》を受けた。
R2-Ancillary-Virus-Extract――|RAVE《レイヴ》とは、弱毒化したR2ウィルス製剤の暗号名だ。
レベリオン化した人間の血液から精製されるその真紅《しんく》の錠剤《じようざい》は、ごく少量を摂取《せつしゆ》しただけならば、麻薬にも似た高揚感をもたらすという。半年前に香澄が倒したレベリオンの女医は、これを利用して、市内に潜伏《せんぷく》する多くの手下を操っていた。
だが摂取量が許容量を超えた場合や、慢性的な摂取によって免疫力が低下した場合、RAVEには深刻な副作用が発生する。R2ウィルスの直接感染と、ほぼ同じ症状が発生するのだ。
多くの人間は、ウィルスの侵入に肉体が耐えきれない。
感染者は理性を失い凶暴化《きようぼうか》し、自らの命が尽きるまで暴走を続ける怪物《かいぶつ》と化す。それが悪性レベリオン症候群である。自滅《じめつ》する前に動きを封じ、専門の治療を受けない限り、その致死率は百パーセント。仲神《なかがみ》の仲間も、もう生きてはいないだろう。
そして、R2ウィルスの感染者には、もうひとつ別の発症形態がある。
「生存者の中に発症者がいる可能性は?」
『不明です――ただし』
「ただし?」
『仲神の通っている高校に送り込んだ統合計画局のエージェントが、先々週から消息を絶っています』
「殺された、ということですね?」
香澄《かすみ》の声音《こわね》が硬くなる。
統合計画局《とうごうけいかくきよく》のエージェントは、格闘技や銃器の扱いに精通したプロの戦士だ。その彼らが、高校生の不良グループ相手に遅《おく》れをとることはあり得ない。
だが相手がR2ウィルスの真性発症者――――プロ・レベリオンだとしたら話は別だ。
香澄や恭介《きようすけ》のような、ごく少数の適格者の肉体は、ウィルスに感染することで遺伝子レベルの細胞変化を誘発《ゆうはつ》する。強靭《きようじん》な肉体と驚異的《きよういてき》な治癒《ちゆ》能力、そして破壊的な特殊能力を備えた、別種の人類へと変化するのだ。
そして普通の人間には、レベリオンは倒せない。猫《ねこ》が虎《とら》に勝てないのと同じように、二つの種は存在する次元が違うのだ。
人類の中から生まれ、そして人類を滅《ほろ》ぼす者――
R2ウィルス感染者が、反逆者《レベリオン》と呼ばれるゆえんである。
『現時点で断言できるのは、仲神《なかがみ》たちのグループにレベリオン化した人間がいる可能性が極めて高いということだけです。これ以上の情報は、あなたに調べてもらわなければなりません』
「私に?」
『彼らがたまり場にしている場所を特定しました。弓ヶ崎《ゆみがさき》高校旧校舎。わかりますか?』
「弓ヶ崎高校? ええ、わかります」
香澄は、この街に初めて来たときに渡された地図を思い出しながら答えた。
弓ヶ崎高校は、市内西部にある工業高校だ。もとは男子校だったが、昨年春の共学化を機会に新しい校舎に移転し、老朽化《ろうきゆうか》して手狭になった旧校舎は、取り壊されることもなく放置されている。緋村家《ひむらけ》からは、徒歩でも十五分はかからない。
統合計画局がエージェントを派遣《はけん》したということは、その時点で仲神たちがマークされていたということだ。彼らのたまり場がすぐに判明したのも、事前に下調べがなされていたからだろう。手持ちの武装を確認しながら、香澄は立ち上がる。
「では、現在より緋村《ひむら》恭介の監視を一時中断、直《ただ》ちに感染容疑者の捜査を開始します」
「一時中断? 緋村恭介を連れて行かないつもりですか?』
リチャード・ロウが訝《いぶか》しげな声を出した。
『敵《てき》の能力の詳細《しようさい》はいっさい不明です。彼の協力を仰《あお》いだほうが賢明《けんめい》だと思いますが?』
彼の提案に、香澄は表情を曇らせた。
嬉々《きき》として力を振るう昼間の恭介の姿が、脳裏《のうり》をよぎる。
「いえ……今回は、私一人でやります」
『緋村恭介に、なにかありましたか?』
静かな声音で、リチャードが訊いた。
あいかわらず恐《おそ》ろしく勘《かん》の鋭い男だ、と香澄は思う。かすかに体温が下がった気がした。
「いえ、特に問題はありません。ですが、今回の事件には彼の従妹《いとこ》が絡《から》んでいます。感情的になって暴走されては困りますので……」
『……なるほど』
リチャードは、何かを思案するように一瞬《いつしゆん》だけ沈黙《ちんもく》した。
『そういうことであれば、あなたの判断を尊重しましょう。ですが、くれぐれも気をつけて。根拠《こんきよ》はありませんが、今回の件、前回の事件の単なる事後処理では終わらないかもしれません……』
高い塀《へい》を乗り越えて学校の敷地に潜入《せんにゆう》すると、校舎からもれる明かりが見えた。
配線をいじって、無断で電気を使えるようにしているのだ。電気科の学生がいれば、そのくらいの芸当《げいとう》は簡単にやってのけるだろう。
中庭には、バイクが六台ほど停まっている。美古都《みこと》を襲《おそ》って逃げた二人組のバイクを探したが、あいにく香澄《かすみ》はバイクの形式には詳《くわ》しくない。おおよその色や形から、それらしいと判断するしかなかった。
「厄介《やつかい》だな……」
香澄がつぶやく。バイクの数から考えて、中にいる人間は最低六人。おそらく全員が同じ部屋に集まっているだろうから、誰《だれ》か一人を捕まえて情報を訊《き》き出すという技は使えそうにない。
てっとり早いのは、全員を気絶させてから場所を移して尋問《じんもん》するというやり方だが、それをやるとグループの残りのメンバーが警戒《けいかい》を強める恐《おそ》れがある。
「どうしたものかしらね」
香澄がしばらく逡巡《しゆんじゆん》していると、破れたガラス窓を乗り越えて、若い男が校舎から出てきた。
都合のいいことに、一人きりだ。財布《さいふ》を開けて小銭《こぜに》を数えているところをみると、仲間のぶんの煙草《たばこ》か何かを買いに行かされているのかもしれない。いわゆる使いっぱしりというやつだ。
香澄は植え込みの中から姿を現すと、男のほうへと歩き出した。
バイクのキーを取り出そうとしていた男が、香澄に気づいて振り返った。
香澄はそのまま歩き続ける。相手は不良少年で、香澄は見た目にはごく普通の少女だ。
正面から声をかけても、怪《あや》しまれこそすれ、いきなり攻撃されることはないだろうと踏《ふ》んだのだ。普段は鬱陶《うつとう》しいだけの自分の美貌《びぼう》も、こんなときには相手を油断させるための役に立つ――はずだった。
「う、うわあああああっ!」
男の反応は、香澄の意表をつくものだった。
香澄の姿を見るなり、なりふりかまわず大声で悲鳴をあげたのだ。
握《にぎ》りしめていた小銭をばらまき、上着の懐《ふところ》から折りたたみ式のナイフを取り出す。
男の悲鳴を聞きつけて、にわかに校舎内が騒がしくなった。
「くっ――!」
香澄《かすみ》は舌打《したう》ちして駆《か》け出した。
「人の顔見て悲鳴あげるなんて……なんて失礼なやっ!」
人間の身体《からだ》に擬態《ぎたい》していたレベリオン細胞が、本来の能力を全開にする。三十メートル近い距離を、香澄はほんの一瞬《いつしゆん》で駆け抜けていた。
男がばらまいた硬貨が地面に落ちるよりも早く、香澄の拳《こぶし》が彼の顔面をとらえる。
軽く触れただけにしかみえない一撃《いちげき》。だが、男は悲鳴をあげることもできずに崩《くず》れ落ちた。
「女だっ!」
校舎のほうから声がした。
男の仲間が、次々と窓枠《まどわく》を乗り越えて飛び出してくる。人数は七人。
彼らは、手に手に木刀《ぼくとう》や鉄パイプといった得物を携《たず》えていた。香澄の姿をみても、油断するどころか、さらに警戒《けいかい》を強めたように感じられる。異常なまでに攻撃的だ。
いくら凶暴《きようぼう》な不良グループといえど、明らかに異常な態度だった。まるで、敵対するグループの殴《な》り込みに備えて待ち受けていたようにも思えた。
「こんな小娘《こむすめ》がインコグニートなのかっ!?」
聞き慣れない単語に、香澄が眉《まゆ》をひそめる。
だが、問い返す暇《ひま》もなく、武器を振りかざした男たちが香澄に向かって突進してきた。
「こんなとこに、のこのこ出てくるやつがほかにいるかよっ!」
「亮《りよう》たちの仇《かたき》だ――かまうごたねえ、ぶち殺せっ!」
「待ってー待ちなさい!」
香澄が叫ぶ。だが、男たちの誰一人として、耳を貸す者はいない。
完全に予想外の事態だった。美古都《みこと》を狙《ねら》っているはずの彼らが、ここまで追いつめられているとは思っていなかったのだ。薬物で正気を失っているわけでもなさそうだ。
もはや香澄に選択肢《せんたくし》は残ってなかった。
とにかく、この場にいる全員を一人残らず気絶させるしかない。
香澄の両腕《りよううで》が硬質化《こうしつか》し、淡《あわ》く透《す》き通って発光を始める。震《ふる》える両の拳《こぶし》が共振《きようしん》して、哭《な》いているような音を立てた。
スクリーミング・フィスト――
大出力の振動波を目標の体内に叩《たた》き込み、防ぎようのないダメージを与える格闘戦型のトランスジェニック能力だ。
喧嘩《けんか》慣《な》れした不良たちも、レベリオン化した香澄の敵ではない。スクリーミング・フイストの威力は、身体《からだ》の一部に接触するだけで相手を昏倒《こんとう》させることが可能なのだ。
脳震盪《のうしんとう》を引き起こされて、不良たちは次々に倒れていく。彼らの振り回す凶器《きようき》は、香澄に触れることすらできない。
あと、二人――
香澄《かすみ》がそう思った瞬間《しゆんかん》、銃声が鳴った。
無造作《むぞうさ》に、四発……五発……
「なっ!?」
香澄は少し驚きながらも、飛来《ひらい》する弾丸《だんがん》を叩《たた》き落とす。レベリオンの反応速度とスクリーミング・フィストの超振動波をもってすれば、銃弾を弾《はじ》き返すのは、さして難しいことではない。
跳弾《ちようだん》を至近《しきん》距離で喰《く》らって、香澄に殴《なぐ》りかかろうとしていた男がのけぞって倒れた。
「やれやれ……さすがに銃じゃ倒せねえか」
校舎の中に残っていた最後の一人は、悠然《ゆうぜん》と姿を現した。
ねじけたような顔つきの、小柄《こがら》な男だ。ニワトリのトサカのように髪を逆立《さかだ》てているが、身長だけならおそらく香澄よりも低いだろう。
だが、それを補うように面構《つらがま》えは凶悪《きようあく》だった。怒らせたら何をするかわからないタイプだ。
仲間を巻き込むのもかまわず銃を乱射したことからも、それがわかる。
「まあ、無理もねえか。どうやらあんたも、俺《おれ》たちのお仲間みてえだからな」
「その銃……どこで手に入れたの?」
余裕《よゆう》ぶった態度の男の問いかけを無視して、冷え冷えとした声で香澄が訊《き》いた。
四五|口径《こうけい》のグロック。あまり出回っているモデルではない。
「ん……これか? 俺たちのことを嗅《か》ぎまわっている女がいて、そいつが持ってたんだとさ」
弾《たま》を撃ち尽くした拳銃《けんじゆう》を弄《もてあそ》びながら、男はあっけらかんとした口調で言った。
「その女は、俺が綺麗《きれい》さっぱり、跡形《あとかた》もなく消してやったけどな……びゃははは」
男は、顔を歪《ゆが》めて笑った。
香澄は無言で、袖口《そでぐち》から引き抜いたスローイング・ダガーを放る。
弾丸に匹敵《ひつてき》する速度で男の両肩《りようかた》を貫くはずだったダガーは、しかし、あっさりと避《さ》けられた。その反応速度は、明らかに人間のものではない。
「いきなり投げナイフかよ。危《あぶ》ねえ女だな」
拳銃を放り出して男が言った。
「あれ、怒ってんの? ひょっとして、あの女も、あんたの仲間《なかま》だったわけ? そりゃ悪いことしたなあ。ひゃははは」
「あなたが、仲神《なかがみ》?」
挑発的《ちようはつてき》なトサカ頭の言葉を無視して、香澄が訊いた。
その瞬間《しゆんかん》、男の表情が変わった。
唇《くちびる》を歪《ゆが》め、ぎらぎらとした目つきで香澄を睨《にら》みつける。
「……手前も仲神が目当てかよ」
低い声で男が言った。
「どいつもこいつも仲神《なかがみ》、仲神、仲神、仲神……なぜだ! なんでみんな、あいつのことを認めて俺《おれ》を認めねえ!? この力を手に入れたのは、あいつだけじゃねえんだよっ!!」
正気と狂気《きようき》の狭間《はざま》にいるような口調で、トサカ頭の男が叫んだ。
拳銃《けんじゆう》を放り出しながら、右腕《みぎうで》を香澄《かすみ》のほうに向ける。
その右腕が裂《さ》けて、鮮血《せんけつ》がほとばしった。 否《いな》――裂《さ》けたのは革《かわ》ジャンの袖《そで》だけだ。
鮮血にみえたものは、男の腕から噴《ふ》き出した禍々《まがまが》しい深紫の霧だった。
「トランスジェニック能力!?」
香澄の表情が強張《ごわば》る。
男と香澄を隔《へだ》てていた校舎の壁が、霧に包まれて白煙を噴きあげた。
異臭が立ちこめ、壁が崩《くず》れた。木造とはいえ。一般家屋とは比較にならない強度を持つ分厚《ぶあつ》い土壁が、ぐずぐずに溶《と》けて崩れたのだ。
「これは―酸!?」
「見たかよ!これが俺の力|虐殺者の煙霧《スモーク・オン・ザ・スローター》≠セ。仲神なんかよりよっぽど恐《おそ》ろしい、この尾上吾郎《おのうえごろう》様のな!」
尾上と名乗った男が、勝ち誇《ほこ》ったように笑う。
風に乗って流れてきた深紫の霧を避《け》けて、香澄《かすみ》が後退した。跳弾《ちようだん》を受けて苦しんでいた男が、霧に包まれて苦悶《くもん》の悲鳴をあげる。霧を浴びた彼の肉体は、濃硫酸に侵《おさ》されたようにひどく焼けただれていた。
香澄は戦慄《せんりつ》とともに確信する。尾上という男のトランスジェニック能力は、酸だ。
アリが蟻酸《ぎさん》を分泌して頑丈《がんじよう》な木壁を喰《く》い破るように、このレベリオンの少年は、体内で恐るべき強酸の霧を生成することができるのだ。
「気にいらねえんだよ……」
鬱屈《うつくつ》した表情で笑いながら、尾上が言った。
「手前《てめえ》みたいな、とり澄ました女……どうせ俺みたいな人間を最初《ハナ》っから見下してやがんだろ!? その綺麗《きれい》なツラ、どろどろに溶かして笑ってやるよ……びゃはははは!」
尾上は狂《くる》ったように笑いながら、強酸の霧をまき散らす。
香澄はたまらず、跳躍《ちようやく》して逃《のが》れた。
途中で二階の窓枠《まどわく》に手をかけ、一気に屋上まで上りつめる。
「ひゃはははは、逃がすかよっ!」
尾上も跳躍して追ってくる。同じプロ・レベリオン同士、香澄にできることが、彼にできても不思議はない。
「殺してやるよっ。インコグニートだろうが何だろうが知ったことか! いつか仲神《なかがみ》の野郎《やろう》も殺してやる。俺《おれ》が頭《ヘツド》だ!」
「くっ……」
不安定な木造校舎の屋上で尾上《おのうえ》と対時《たいじ》して、香澄《かすみ》は歯がみした。
実際のところ、香澄の知っているほかのレベリオンに比べて、尾上の戦闘能力が格段に優れているわけではない。軍隊流の戦闘訓練を積んだ香澄の目からみれば、トサカ頭の少年は隙《すき》だらけである。
だが、彼のトランスジェニック能力は厄介《やつかい》だった。霧というのが、始末《しまつ》に負《お》えない。
香澄のスクリーミング・フィストには、接触しなければ使えないという弱点がある。だが、強酸の霧に阻《ばば》まれて、尾上には近づくことができない。尾上の|虐殺者の煙霧《スモーク・オン・ザ・スローター》≠ヘ、恐《おそ》ろしい武器であると同時に、彼の身を守る鉄壁の防護壁でもあるのだ。スローイング・ダガーを飛ばしても、さっきと同じように避《さ》けられてしまう可能性が高い。
「……どうすればいい?」
香澄が自問する。じりじりと後退した彼女の脚《あし》が、屋根の端《はし》に触《ふ》れた。あとがない。
「死ねやっ!」
尾上が再び深紫の霧を放った。
香澄は、校舎の屋根から跳躍《ちようやく》する。
飛び降りた場所はグラウンドではなく、校舎に隣接《りんせつ》して建てられた平屋の小さな建物だった。
瓦葺《かわらぶ》きの屋根をスクリーミング・フィストで破壊して、香澄は建物の中へと侵入した。
「ひゃははは、逃がすかよっ!」
尾上も屋上から飛び降りてくる。
強酸の霧で屋根を溶《と》かして、やはり彼も建物に入った。
「……体育倉庫か? なんだこりゃ?」
建物の中に窓はない。
屋根から射し込む月明かりに照らし出されたのは、かび臭《くさ》い体育倉庫の中にこもった白い煙だった。もうもうと舞い上がる粉塵《ふんじん》に、尾上が目を細めて小さく咳《せき》き込む。
倉庫の隅《すみ》の暗がりに、香澄は静かに立っていた。
「この煙は、目くらましのつもりかよ?」
尾上が訊《き》く。
「いいえ……でもね」
香澄が、手近に積まれていた麻袋《あさぶくろ》に拳《こぶし》を打ち込んだ。スクリーミング・フィストの振動にあおられて、袋に詰《つ》まっていた白い粉が舞い上がる。
「あなたの負けよ、尾上|吾郎《ごろう》」
「ざけんなっ、女っ!」
トサカ頭を怒《いか》らせて、尾上が吼《ほ》えた。
右腕《みぎうで》を突き出し、深紫の霧を放つ――いや、放とうとした。
「ぎゃああああああああああ!」
絶叫が響《ひび》いた。
何かが焼ける異臭《いしゆう》が、倉庫の中にたちのぼる。
赤く焼けて煙を上げているのは、むきだしになった尾上《おのうえ》の右腕《みぎうで》だった。
「ぐ……な、何だこりゃあ……手前《てめえ》、まさか俺《おれ》と同じような能力を……?」
腕を押さえてうずくまりながら、尾上が言った。
香澄《かすみ》はゆっくりと首を振る。
「だったら、なんで……この粉は何なんだよっ!」
「消石灰《しようせつかい》よ……グラウンドのライン引きに使う、ね」
「なにい?」
「普通に学校に行ってれば、たぶん知ってることでしょうけどね。消石灰は酸性|土壊《どじよう》を中和するのにも使われる強アルカリでもあるの。そして酸とアルカリが反応すると、熱が発生する」
「うるせえ! 何をわけのわかんねえことを――!!」
無防備に立つ香澄に向かって、尾上は左腕から能力を放とうとした。
だが、結果は同じだった。焼けただれた左手を抱《かか》えて、のたうち回ることになっただけだ。
「あなたのその能力の……異常なまでの酸化速度が仇《あだ》になったわね。噴《ふ》き出す酸の酸化力が強力であればあるほど、中和されたときに発生する熱量は大きくなるわ」
香澄が、すっと脚《あし》を踏《ふ》み出す。
尾上が気づいたときには遅《おそ》かった。
燐光《りんこう》を放つ香澄の拳《こぶし》が、尾上の顔面に繰り出される。
ただ一撃《いちげき》。それだけで十分だった。
尾上の身体《からだ》は壁際まで吹き飛び、閉鎖《へいさ》されていた体育倉庫の扉《とびら》を破って校庭に転《ころ》がり出た。
同時に、スクリーミング・フィストの超振動が、彼の内臓に回復不能の大ダメージを与えている。
「ふう……」
尾上の戦意が失われたのを確認して、香澄はようやく息をついた。
|虐殺者の煙霧《スモーク・オン・ザ・スローター》≠ニ呼んでいた彼のトランスジェニック能力、恐《おそ》ろしい力だった。
使い手に人並みの知性があれば、おそらく勝つことはできなかっただろう。それに――
「ああ……もうっ!」
香澄はもう一度ため息をついて、頬《ほお》にかかる髪を払った。
髪にかかっていた消石灰の粉が、目の前で派手に飛び散る。
それから香澄は、石灰まみれになったおろしたての服を眺《なが》めて、一瞬《いつしゆん》だけ普通の女の子のような悲しげな表情を浮かべた。
そのとき、廃校舎の校庭にすさまじい絶叫が響《ひび》いた。
突然の悲鳴に、香澄《かすみ》の身体《からだ》は反射的に動いた。
姿勢を低くして、積み上げられたマットを盾《たて》に外の様子を窺《うかが》う。
舞い上がった石灰《せつかい》の粉で、視界が悪い。この状態で、外に飛び出すのは危険だった。
悲鳴をあげたのは間違いなく、あの尾上《おのうえ》という男だった。
スクリーミング・フィストの直撃《ちよくげき》を受けて、彼の意識は朦朧《もうろう》としていたはずだ。
その彼が、あれほどの絶叫を放った。
それだけでも、深刻な事態が発生したのだとわかる。新手のレベリオンかもしれない。
「のんびりしている余裕《よゆう》はない、か……」
香澄は、掌《てのひら》を壁にあてた。
正面の扉《とびら》から、堂々と出ていくのは危険だ。スクリーミング・フィストの振動波で、体育倉庫の壁をぶち破る。
そのまま校庭へと飛び出したが、攻撃はなかった。
香澄は、周囲を見回す。校庭に、尾上の姿はない。
「そう遠くへは行ってないはず……」
そうつぶやいて、香澄は駆《か》けだす。
先ほどの攻撃で、尾上の三半規管《さんはんきかん》は破壊してある。まともに立って歩くことも困難なはずだ。
身体を引きずるようにして逃げた彼の姿は、すぐに見つかった。
仲間のところに戻《もど》ろうとしたのだろう。校舎の角を曲がったところで、力尽きて倒れている。
駆《か》け寄ろうとして、香澄は足を止めた。
すでに戦闘能力を失った、感染者《かんせんしや》の不良少年。
その姿に、奇妙《きみよう》な違和感《いわかん》がある。
「膨張《ぼうちよう》――している!?」
香澄よりも小さかった尾上の身体が、肥大化《ひだいか》していた。最初に見たときよりも、二回り以上|膨《ふく》れあがっている。
「う……ああ……」
彼の口から、声が漏《も》れた。それは、彼の意志ではない。圧迫された肺の空気が、気管から漏れ出ているのだ。尾上はすでに死んでいる。
「ああ……」
尾上の死体から、真紅《しんく》の霧が噴《ふ》き出した。
香澄は、咄嵯《とつさ》に後退する。
猛烈《もうれつ》な臭気《しゆうき》が鼻をついた。煮えたぎった血の臭《にお》い。
尾上を包んだのは、彼が|虐殺者の煙霧《スモータ・オン・ザ・スローター》≠ニ呼んでいた深紫の霧ではなかった。沸騰《ふつとう》した、尾上《おのうえ》自身の血液だ。
煮えたぎった彼の血が、真紅《しんく》の蒸気として全身の毛穴から噴《ふ》き出したのだ。
紅《あか》く染《そ》まった尾上の身体《からだ》から、ゆらゆらと陽炎《かげろう》がたちのばる。
全身の血をまき散らして、尾上の身体は落下した水風船のように弾《はじ》けてつぶれた。
その凄惨《せいさん》な光景に、戦い慣れした香澄《かすみ》ですら吐《は》き気を覚えた。
「……インコグニート」
香澄は、不良たちが口にしていた、聞き慣れぬ単語を思い出す。
そして気づいた。
彼らは、狙《ねら》われていたのだ。正体不明の暗殺者に。
美古都《みこと》を拉致《らち》しようとした男たちが、問答無用で凶器《きようき》を振り回した理由も、それでわかった。下《した》っ端《ぱ》の少年が、香澄《かすみ》の姿を見るなり悲鳴をあげた理由も。
彼らは恐《おそ》れていたのだ。いわば、彼らは手負《てお》いの獣《じゆう》だった。美古都を狙っている彼ら自身、何者かに追われる立場だったのだ。
匿名希望《インコグニート》――
それが、彼らを狙う正体不明の暗殺者を指す符丁《ふちよう》なのだろう。不良グループが名付けたにしては詩的にすぎるから、暗殺者自身がどこかに書き残していった単語なのかもしれない。
そして、その暗殺者は人間ではない。間違いなくレベリオンの力を持っている。
「なんてこと……」
香澄が呆然《ぼうぜん》とつぶやいたとき、校舎の裏側で爆発が起きた。
窓ガラス越しに黒煙と。明々《あかあか》と燃え上がる炎《ほのお》が見える。
燃えているのは、不良たちのバイクが停めてあった辺りだ。
「まさか――!」
香澄は、激しい焦《あせ》りを感じながら走り出した。
あの付近には、スクリーミング・フィストで昏倒《こんとう》させた不良少年たちが倒れている。
完全に香澄のミスだった。
暗殺者インコグニートの狙いが仲神《なかがみ》のグループ全体ならば、尾上の次に彼らが襲《おそ》われることは、当然予測すべきことだったのだ。
鼻をつくガソリンの臭《にお》いと、猛烈《もうれつ》な熱風が吹きつけてきた。
香澄が駆《か》けつけたときには、身動きできない不良少年たちの身体は、すでに紅蓮《ぐれん》の炎に包まれていた。バイクの燃料タンクに入っていたガソリンを、火種として使用したのだろう。火の回りが異常に早い。
タンクに引火《いんか》したバイクが、轟音《ごうおん》とともに爆発した。
乾燥の激しい真冬である。風にあおられた炎は、古い木造校舎に簡単に燃え移った。
灼熱《しやくねつ》の炎に阻《はば》まれて、香澄は少年たちに近づくことさえできなかった。
考え得る限りで、最悪の事態だった。
苦労して捕獲《ほかく》したレベリオンの男は殺され、証人である不良少年たちは全滅《ぜんめつ》した。
残された証拠《しようこ》は、香澄《かすみ》の目の前で、すべて燃え尽きようとしている。
香澄がやったことは、結果的にインコグニートの殺戮《さつりく》を手助けしただけだった。
激しい無力感に苛《さいな》まされて、香澄は唇《くちびる》を噛《か》んだ。
そのとき、炎の中を近づいてくるものが見えた。
重々しい鉛色《なまりいろ》をした、筒状の金属の塊《かたまり》だ。
灼熱《しやくねつ》の炎に炙《あぶ》られながら、ゆっくりと香澄の立っている方向に転《ころ》がってくる。
それが、給湯室などに備えつけてある|液化プロパンガス《LPG》のタンクだと気づいたときには、手《て》遅《おく》れだった。
全開のバルブから噴《ふ》き出す炎が、タンクの中に吸い込まれていく。
「しまっ――!!」
香澄の悲鳴は、爆発の轟音《ごうおん》と炎の中にまかれて消えた。
[#改ページ]
第三章
「あなたが戦う必要なんて」
Don‘t Leave Me
面会時間は、しばらく前に終わっていた。
ようやく静けさを取り戻《もど》した、高城《たかじよう》医大付属病院の外科病棟。一息ついた看護婦たちに声をかけて、緋村《ひむら》杏子《きようこ》は帰り支度《じたく》を始めた。白衣を無造作に脱《ぬ》いで、ロッカールームに向かう。
「……たく、よくよく人使いの荒い病院だこと」
すっかり暗くなった外の景色を見て、杏子は呆《あき》れたように言った。
休日のはずの日曜日、当直でもないのに急患《きゆうかん》で呼び出されて挙げ句の果てに残業だ。いつものことなので今さら疲れも感じないが、腹は立つ。
「そういや、恭介《きようすけ》のやつはデートだとかって浮かれてたわね」
いつになく気合いをいれて家を出ていった弟の姿を思い出して、杏子はふっと笑った。
両親を事故で亡《な》くしてから、もう十年になる。いつも杏子のあとをくっついてまわっていたあの小僧《こぞう》も、ずいぶん生意気になったものだ。手がかからなくなったのはけっこうなことだが、そのことに、少しばかりの寂しさを感じないでもない。
「……腹いせに、あとで肩《かた》でも揉《も》ませてやろうかしらね」
そんなことを考えながら、杏子は手早く着替えを済ませた。
更衣室《こういしつ》を出て、杏子は駐車場に停めたコルベットへと向かう。
ひとけのない研究病棟を横切って近道していたその歩みが、ふいに止まった。
白一色に塗られた、おもしろみのない廊下《ろうか》。ぶん、と耳障《みみざわ》りな音をたてる天井《てんじよう》の蛍光灯《けいこうとう》。
特になんの変哲《へんてつ》もない病院の風景だ。
だが杏子《きようこ》は、その光景にかすかな違和感《いわかん》を覚えた。
ふと、その原因に気づいて、閉鎖《へいさ》されているはずの研究室の扉《とびら》に手をかける。
扉は、抵抗もなく開いた。
杏子は、研究室に足を踏《ふ》み入れる。
さして広くもない研究室の中には、スチール製の椅子《いす》と机が一セット。あとはハンガーとカルテなどが入ったキャビネット。ここ数ヶ月ほど閉めきられていたせいで、床《ゆか》にはうっすらと埃《ほこり》が積もっている。
机の上は綺麗《きれい》に片付けられており、部屋の持ち主の私物などはいっさい残っていない。
それらはすぺて持ち出されたのだ。米国防総省《べいこくぼうそうしよう》生物戦防衛《せいぶつせんぼうえい》統合計画局《とうごうけいかくきよく》によって。
この研究室のかつての持ち主の名前は、江崎《えざき》志津《しづ》といった。
「驚いたな」
研究窒には、一人の男がいた。
背の高い、白人の男だ。身長は百九十センチを優に超えているだろう。肩幅《かたはば》はがっしりと広いが。絞《しぼ》り込まれた肉体はむしろ痩《や》せた印象がある。年齢《ねんれい》は三十代|半《なか》ばか。長身を包む瀟洒《しようしや》なスーツに、腰《こし》まで伸ばした銀色の髪が不似合いだった。
穏《おだ》やかな表情をしているが、目つきだけが鋭い。その表情に、杏子は野生のホワイトタイガーを連想する。
「なぜ、俺《おれ》がここにいることがわかった?」
流暢《りゆうちよう》な日本語で、男が訊《き》いた。古いハードボイルド映画に出てくる、私立|探偵《たんてい》のような話しぶりだ。威圧感《いあつかん》はあるが、どこか瓢々《ひようひよう》としている。敵意《てきい》は感じない。
忍び込んだ現場を押さえられたというのに、男は異様なほどに堂々としていた。この状況を楽しんでさえいるようだ。
「鍵《かぎ》」
杏子はすぐに答えた。
男が、怪訝《けげん》そうに目を細める。
「電子|錠《じよう》の作動ランプが消えていたの。だから、誰《だれ》かが鍵を壊《こわ》して侵入したんだなって思ったのよ。あのタイプの鍵《かぎ》は、合い鍵が作れないらしいからね。部屋に入ろうと思ったら、壊《こわ》すしかない」
「あの小さなランプが消えていることに、よく気づいたな」
薄暗い部屋の奥で、男は苦笑を浮かべたようだった。
「優秀な医師に必要なのは、注意力と観察力よ」
怯《おび》えもせずに、杏子《きようこ》が続ける。
「知ってる? シャーロック・ホームズのモデルになった人物も医者だったらしいわよ。ちょっと見ただけで、患者《かんじや》の素性や職業を言い当てたんですって」
「ふっ……」
たまりかねたように、男が噴《ふ》き出した。
「不審《ふしん》な侵入者を前にして、ずいぶん落ち着いているんだな」
「このくらい普通でしょ。あわてるのなら、忍び込んだあなたのほうだと思うけど?」
スチールデスクによりかかって、男は愉快《ゆかい》そうな表情を浮かべる。
「たしかにな。なるほど……あんたが緋村《ひむら》杏子か」
「そっちは江崎《えざき》志津《しづ》のお仲間?」
「お仲間というほどの知り合いじゃないが……まあ、同族という意味ではそうかもな」
「レベリオン……」
杏子がつぶやく。男は、その言葉を肯定《こうてい》するように薄く笑った。
「彼女が残した資料を探しにきたの? だったら手遅《ておく》れよ。統合計画局《とうごうけいかくきよく》がべ彼女の私物だろうが病院の備品だろうが、手当たり次第に持っていったわ。彼女が手がけてた患者のカルテも」
杏子の言葉は、嘘《うそ》ではなかった。江崎志津の背後関係や、彼女が生み出したR2ウィルス感染者の数を調ぺるために、統合計画局は徹底的な調査を行ったのだ。
その結果が、あまり芳《かんば》しいものでなかったこともわかっている。この部屋からは、これまでのところ何の手がかりも発見されていない。研究室を閉鎖《へいさ》して、そのままの状態で保存してあるのが、なによりの証拠《しようこ》だ。
「まあ、そうだろうな。連中のやり口は、よく知っている。そんなことだろうと思っていた」
落胆《らくたん》した素振《そぶ》りも見せぬ男の様子《ようす》に、杏子は眉《まゆ》をひそめた。
「たしかに、めぼしい備品は残っていないみたいだが、しかし支給品はどうかな?」
「支給品?」
「そう……たとえば白衣とか」
男は、ハンガーの傍《そば》まで歩いていくと、クリーニングの袋に入った白衣に手を伸ばした。
江崎志津が生前使っていた白衣。統合計画局の捜査《そうさ》が終わったあと、クリーニング業者から戻《もど》ってきたものだ。
「ところで……日本のクリーニング屋というのは親切だな。ボタンがとれかけていたらつけ直してくれるし、ポケットに入っていた小物は、わざわざ別の袋に入れて届けてくれる……」
男は、白衣のハンガーにくっついていた小さなビニール袋《ぶくろ》をむしり取った。
袋に入っていたのは、切手ほどの大きさの小さなチップ。デジタルカメラなどに使われる、不揮発性《ふきはつせい》のメモリーカードだ。
「これ一枚で、フロッピィ百枚以上の情報が記録できる。便利な時代になったものだな」
「……統合計画局《とうごうけいかくきよく》も善良なクリーニング業者までは疑わなかった、ってことね」
「やつらは有能だが、レベリオンを特別扱いしすぎる。俺《おれ》たちだって人間と同じように風呂に入るし、洗濯《せんたく》もするってことを忘れちまうのさ。だから、こんな単純な手にひっかかる」
男は楽しげにそう言うと、メモリーカードをスーツのポケットにしまった。
「さて……ここであんたに出会ったのは、お互い不幸だったな」
「口封じに、あたしを殺す?」
「いや……だが、人質《ひとじち》としての役には立ちそうだ。できれば、俺たちは緋村《ひむら》恭介《きようすけ》を殺したくないのでね。あんたと引き替えに、彼には手を引いてもらう。悪い取引じゃないだろう?」
「恭介を抱《だ》き込むためのダシに、あたしを使おうってわけ?」
杏子《きようこ》は宙を見上げて嘆息《たんそく》した。
「それはまた……あたしも安く見られたものね」
男を睨《にら》んだまま、杏子は煙草《たばこ》をくわえて火をつける。
薄明かりの中に浮かび上がる紫煙《しえん》に、男は訝《いぶか》しげな表情を浮かべた。
皮肉っぼく笑って、言う。
「病院内は、禁煙《きんえん》じゃなかったのか?」
「ええ、そうね」
杏子は、不敵《ふてき》な笑みを浮かべて男を見た。
「最近は消防署もうるさくてね。この部屋の火災報知器もけっこう感度がいいのよ。たぶん、あたしが一歩踏《ふ》み出すだけで、スプリンクラーが作動するでしょうね」
平然と告げる杏子と対照的に、男の表情が変化した。
驚愕《きようがく》と戦慄《せんりつ》、そして疑惑《ぎわく》と賞賛《しようさん》。それらがないまぜになった感情が、一瞬《いつしゆん》だけ浮かんで消える。それは質問となって、彼の口からもれた。
「なぜ……わかった?」
「電子|錠《じよう》の破損状況……それに、靴」
「靴?」
「それだけ気障《きざ》ったらしいスーツを着ていながら、靴だけが無骨《ぶこつ》なワークブーツっていうのは、まともなファッションセンスじゃないでしょう」
くすくすと笑いながら杏子が言う。
その無邪気《むじやき》な笑顔につられたように、男も苦笑した。
いくつかの足音が、廊下《ろうか》を近づいてくるのが聞こえる。解放感に満ちた、明るい声。勤務時間を終えた看護婦たちだろう。アーレンが強引《ごういん》に杏子を拉致《らち》しようとすれば、彼女たちに気づかれるのは確実だった。
「なるほど……たしかに、あんたを見くびっていたようだ。聡明《そうめい》で冷静で……度胸もある。任務中でなければ、何としてでも口説き落とすところだが……」
男は、杏子《きようこ》に背を向けて、窓際へと歩み寄った。クレセント錠《じよう》を降ろし、ガラスサッシを無造作《むぞうさ》にあける。設置されているはずの電子警報装置は――作動しない。
「そのお誘いはまた今度にしよう。うちの女王様も、怒らせると怖《こわ》いのでね」
「名前ぐらい名乗っていったら?」
杏子が訊《き》く。男はもう一度苦笑して、
「アーレン――アーレン・ヴィルトール」
窓の外に身を翻《ひるがえ》した。
この部屋は三階だが、彼にしてみれば、どうということはない高さなのだろう。着地した音すら聞こえない。
「ふん……」
一人薄暗い部屋に残されて、杏子は鼻を鳴らす。
なかなか興味深い相手だった。ある種の訓練を受けた人間であることは間違いない。
雰囲気《ふんいき》は統合計画局《とうごうけいかくきよく》のリチャード・ロウに似ているが、匂《にお》いが違う。
リチャードが軍人ならば、彼は――そう、戦士だ。
ああいう人間は嫌《きら》いではない、が――
「アーレン・ヴイルトール、ね……」
杏子は彼が出ていった窓に近づくと、何の感情も見せずにサッシを閉めた。
夜の闇《やみ》を見据《みす》えて、なげやりにつぶやく。
「……言いにくい名前だこと」
午後九時を過ぎたころ――
香澄《かすみ》は、ひどく疲れた様子《ようす》で緋村家《ひむらけ》に戻《もど》ってきた。
「香澄……てめ、美古都《みこと》を一人にしてどこに行って……」
文句《もんく》を言いながら居間から出てきた恭介《きようすけ》は、彼女の姿を見るなり言葉を失った。
そこに立っていた香澄の姿が、あまりにも無惨《むざん》なものだったからだ。
乱れた髪は灰をかぶったみたいに真っ自になっており、頬《ほお》は黒く煤《すす》けている。しかも彼女の全身はずぶ濡《ぬ》れで、そこはかとなく腐臭《ふしゆう》が漂《ただよ》っていた。
怪我《けが》らしい怪我がないのが、せめてもの救いだ。
「……どうしたんだ。ドブ川にでも落ちたのか?」
「そんなわけないでしょ」
香澄が恭介を睨《にら》む。
「ガス爆発に巻き込まれたの。たまたま近くにあったマンホールをスクリーミング・フィストで撃ち抜いて難を逃れたけど」
「はあ……」
恭介《きようすけ》が、間抜けな相づちをうった。
居間から顔を出した美古都《みこと》が、香澄《かすみ》の姿を見てびっくりした表情を浮かべる。
「ようするに、下水に転落したとか。そういや、そんな臭《にお》いだな」
「言わないでよ……気にしてるんだから」
香澄が怒ったように言う。
「お風呂、貸してもらえる? あと、できたら着替えも……」
「あ、ああ……そのまえに、何か拭《ふ》くものを……」
持ってくる、と言おうとしたとき、廊下《ろうか》をばたばたと走る音が聞こえた。
バスタオルを抱《だ》いて、美古都が戻《もど》ってきたのだ。
心配そうな表情で、美古都が訊《き》く。
「……カスミ、だいじょうぶ?」
「ええ……ありがとう」
香澄は微笑《ほほえ》んでタオルを受け取った。それをみて、恭介は少しほっとする。いつの間《ま》にか、この二人も、多少はうち解けていたらしい。
姉の部屋で着替えを物色して戻ってくると、香澄はバスルームで、濡《ぬ》れた靴下を脱《ぬ》いでいるところだった。よく見ると、彼女の服のあちこちに、焼け焦《こ》げたような痕《あと》がある。
まさか……またどっかで戦ってきたんじゃないだろうな?
美古都が傍《そば》にいないのを確認してから、恭介が小声で訊《き》いた。
「……ええ」
香澄は、どうやってごまかすか思案したようだったが、結局あきらめてうなずいた。
「ガス爆発に巻き込まれたというのは本当だけどね」
「どういうことだよ? まさか、相手は美古都を狙《ねら》ってた連中か?」
「そうとも言えるし……そうでないとも言えるわね」
意味不明な香澄の言葉には、かすかな苛立《いらだ》ちがこもっていた。瞬《まばた》きを忘れた美しい瞳《ひとみ》が、火のような激しい光を放っている。
「……なんだよ、それは?」
「あとで、説明するわ」
「そうじゃなくて、どうして俺《おれ》に黙《だま》って一人で行ったんだよ?」
「どうしてあたしが外出するのにあなたの許可が必要なの?」
「どうしてって――」
いつになく辛辣《しんらつ》な彼女のロ調に、恭介は言葉を詰まらせた。
「……一人じゃ危険だろ。相手も同じレベリオンなんだぜ!」
「そうね……」
香澄《かすみ》が冷たく笑う。
「でもね、それがあたしの役目なの。勘《かん》違いしないで、恭介《きようすけ》。あなたが戦う必要なんてない。あなたが。ほかの誰《だれ》かと戦う必要なんてないの。心配なんてされたら、迷惑《めいわく》だわ」
香澄は、恭介を無視してコートを脱《ぬ》いだ。水に濡《ぬ》れたシャツが透《す》けて、彼女の華奢《きやしや》な肢体《したい》があらわになる。
「で、いつまでそこにいるつもり?」
「うっ……」
香澄に微笑《ほほえ》みかけられて、恭介は彼女に背中を向けた。
後ろ手にバスルームのドアを閉めながら、つぶやく。
「あのバカ……」
香澄の気持ちが、わからないわけではなかった。彼女は、恭介を戦わせたくないのだ。
もともと無関係だった恭介を危険な戦いに巻き込みたくないというのが理由の一つ。だが、それだけではない。
「結局、信用されてないってことか」
昼間、彼女に叩《たた》かれた頬《ほお》が、うずいたような気がした。
「無理もないかな……」
自嘲気味《じちようぎみ》につぶやいて、顔を上げる。
すると、廊下《ろうか》の隅《すみ》に座っていた美古都《みこと》と目があった。
「キョースケ、カスミと喧嘩《けんか》したの?」
言葉はたどたどしいが、そのぶん美古都《みこと》の感性は普通の子よりも鋭い。それだけに彼女は傷つきやすい。
それを知っている恭介は、平静を装って答えた。
「違うよ」
「でも、バカっていってた。カスミのこと、きらいなの?」
「あー、あれは違うんだ。その……」
「きらいじゃないのに、けんかしてるの?」
困り果てて頭をかく恭介に、美古都は言った。
「しってる。そういうの、ちわげんか、っていうんでしょう?」
「いや……それも違うんだが」
無邪気《むじやき》な瞳《ひとみ》にみつめられて恭介が途方《とほう》に暮れていると、玄関のチャイムが鳴った。
助かった、と思いながら玄関に向かう。
恭介の上着の裾《すそ》をつかんで、美古都もそのあとをついてくる。
「おーい、恭介」
「お邪魔《じやま》するぜ」
勝手にドアを開けて入ってきたのは、ゲームセンターで別れた臣也《しんや》と潤《じゆん》だった。手に手に、大きなスーパーの袋《ふくろ》を持っている。どうやら、酒やつまみを山のように買いこんできたらしい。
「わりい、遅《おそ》くなっちまった。麻子《あさこ》や真島《まじま》とカラオケに行ってたからさ」
「草薙《くさなぎ》は帰っちまったのか? あれ、秋篠《あきしの》さんは?」
玄関に残された靴をみながら、潤が訊《き》く。
「あ……今ちょっと、な……」
恭介《きようすけ》の背中に汗が噴《ふ》き出る。なんとか言いくるめる方法を考えようとするが、思いつくより先に、臣也が耳ざとくシャワーの音を聞きつけた。
「おい恭介……まさか……」
「秋篠さんか? なんであの子が、お前んちで風呂に入ってるんだ?」
「……あ、いや、話すと長くなるんだが……」
「するってえとなにか?」
潤が、じとっとした目つきで恭介を睨《にら》む。
「……お前、ここで彼女と、終わったあとにシャワーを浴びなきゃならんような淫《みだ》らな行為に及んだと、そういうことか?」
「ば、ばか。違う!」
「こ、このケダモノっ。子どもの前でフケツだぞ!」
必死で言い訳をしようとする恭介の首を、がっちりと脇《わき》に挟《はさ》み込んで、臣也がぐいぐいと締めあげる。そのこめかみを、潤が拳《こぶし》でぐりぐりとえぐる。
「だから人の話を聞けって――いてててて!」
二人の容赦《ようしや》ない攻撃に、恭介は涙目《なみだめ》になって悲鳴をあげた。
その様子《ようす》を唖然《あぜん》としながら見ていた美古都《みこと》が、やがて可愛《かわい》らしい声で笑い出した。
恭介と同じ中学出身の潤は美古都と面識があるし、臣也は昔から妙《みよう》に子ども受けがいいタイプだ。恭介の家にいるという安心感も手伝ったのだろう。それは、再会したあとの彼女が初めてみせる、晴れやかな笑顔だった。
とはいえ、喜んでばかりもいられない。
「ああもう、お前らいい加減にしろよな!」
恭介が怒鳴《どな》ると、彼らは意外なほどあっさりと攻撃をやめた。
だが、ようやく解放された恭介が、ふらふらと立ち上がったとき、
「ぐあっ……」
激しい衝撃《しようげき》が、恭介の額《ひたい》を襲《おそ》った。
眉間《みけん》に銃撃《じゆうげき》をくらったような痛み――痛烈な、でこぴんだった。
「ずいぶん楽しそうねえ、恭介」
開きっぱなしだった玄関のドアから、のんびりとした声が響《ひび》く。
おふざけでは済まないダメージに文句《もんく》を言おうとした恭介《きようすけ》は、その声の主をみて、凍《こお》りついたように動きを止めた。なじみ深い、煙草《たばこ》の残り香が鼻をくすぐる。
バスルームからは、今もシャワーの音が漏《も》れ聞こえていた。
「さあて、なんの騒ぎなのか、聞かせてもらおうかしら」
香澄《かすみ》の靴と、潤《じゆん》と臣也《しんや》とビールとおつまみ、そして美古都《みこと》の顔を順番に見回したあと、緋村《ひむら》杏子《きようこ》は微笑《ほほえ》んだ。
凶悪《きようあく》なアメリカ製スポーツカーを乗り回している普段の彼女からは想像できないが、杏子の自室は意外にも、バステルカラーで統一された女性らしい部屋である。
ローズウッドのベッドの上には、古いクマのぬいぐるみ。杏子たちの母親が元気だったころ、まだ小学生だった彼女に買い与えたものだ。そのぬいぐるみを抱《だ》いて眠《ねむ》っているのは、だぶだぶのパジャマを着た沢渡《さわたり》美古都だった。
「眠ったの?」
美古都の様子をみにきた恭介に、香澄が訊《き》く。
「ああ……やっぱり疲れてたみたいだな。夕ベも、あまり寝ていないみたいだし」
規則正しい寝息が聞こえてくるのを確認して、恭介は静かにドアを閉めた。
階下からは、ほろ酔《よ》い気分で盛り上がっている杏子たちの声が聞こえてくる。彼女は、未成年の飲酒がどうこう、と固いことを言うタイプではなかったが、目の前に注がれた酒を遠慮するほど奥ゆかしい女性でもなかった。おまけに、うわばみだ。年齢差を微塵《みじん》も感じさせぬテンションで、潤たちをはべらして盛り上がっている。
「恭介! 氷が足りないわよ」
戻《もど》ってきた恭介を目敏《めざと》くみつけて、杏子が微笑む。水割りを作るための氷が、ちょうど空《から》っぽになったところだ。
「……へいへい」
恭介は、言われるがままにキッチンに向かった。彼女に抵抗するのが無駄《むだ》だということは、十七年の人生で嫌《いや》というほど学習している。
カウンターテーブルに座った香澄は、そんな二人のやりとりをどこか羨《うらや》ましげに眺めていた。
今の彼女は、三つ編みにした髪をカラフルな紐《ひも》やビーズで飾った、妙《みよう》に少女趣味な髪型をしていた。それも杏子の仕業《しわざ》だ。自分の外見には無頓着《むとんちやく》な彼女だが、他人を飾り立てるのは好きらしい。
「ねえ、恭介……」
ふいに真剣な口調で、香澄が訊いた。
「美古都《みこと》さん、もしかして海外で暮らしていたことがある?」
「なんだよ、突然?」
「どうなの?」
「ああ……あいつは生まれてから、ずっとイギリスだったからな。今でも、日本語より英語のほうが得意なはずだぜ」
「そう……」
恭介《きようすけ》の回答を、香澄《かすみ》は予想していたのだろう。小さくうなずいて、何かを考えるように目を閉じる。
「それがどうかしたのか?」
「インコグニートって呼ばれてる、未確認レベリオンのことは話したわよね」
「ああ……あんたを下水道に突き落とした張本人だろ」
恭介の皮肉に、香澄は本気でむっとしたようだった。
「……とにかく」
気を取り直して統ける。
「ずっと考えていたの。やつが現れたタイミングについて。あたしをまるで自分の手駒《てごま》のように使ったわ……偶然《ぐうぜん》にしては、あまりにもできすぎている」
「そいつが、仲神《なかがみ》たちのグループをずっと見張ってたってことだろ?」
「でも、やつにだって、あたしの正体はわからなかったはずなのよ。咄嗟《とつさ》の判断で、あたしの行動を利用するなんてことができるとは思えない」
「ふうん」
恭介はグレナデインシロップをステアしたオレンジ色のカクテルに、レモンを飾って香澄の前に差し出した。やけに慣れたその手つきに、香澄が疑わしげな顔をする。
「……ずいぶん上手ね」
「昔、バイトでちょっとな」
「いやらしい」
「なんでだよ! で、いったい何が言いたいわけ?」
「つまり、あたしの動きが読まれていた、としか思えないってことよ」
「あんたの正体を知らないやつが、なんで、あんたの動きを読まなきゃならないんだ?」
「では、むこうがあたしのことを知っていたとしたら?」
「はあ?」
残り物のジンジャーエールを飲んでいた恭介が、困惑《こんわく》の声をだす。
「そんなこと言ったって、あんた、リチャードの電話を受けたらさっさと勝手に出かけちまったじゃねえか。俺《おれ》にも言わずに」
非難するような口調の恭介に、香澄は静かに言った。
「美古都《みこと》さんがいたわ」
「な……に?」
恭介《さようすけ》は思わず彼女を睨《にら》む。だが、香澄《かすみ》は表情を変えずに続けた。
「あたしとリチャードの会話を、美古都さんは聞いていた。だとすれば、考えられる可能性はふたつ。たとえば美古都さん自身が、インコグニートである場合――」
「あり得ないな。俺《おれ》が帰ってきたとき、美古都はたしかにこの家にいたぜ」
恭介は彼女の意見を鼻であしらう。香澄は引き下がらなかった。
「それでも、彼女には自由な時間が三十分以上あったわ」
「あいつが、人殺しなんかするタイプに見えるのかよ?」
「いいえ」
香澄はあっさりと首を振る。
「それに彼女がレベリオンだと仮定するのは現実的ではないわね。もしそうなら、昼間襲われたときに、あなたに助けを求める必要もなかった。手足の擦《す》り傷も、とっくに治っているはず」
「だったら……」
口を開きかけた恭介を、香澄は目線だけで制した。
「でも、可能性はもうひとつある。インコグニート自身が、美古都さんのことを監視していた、としたら?」
「美古都を?なんであいつがそんな……」
そう言いかけて恭介は、はっと気づく。その声は、震《ふる》えていた。
「まさか……郁哉《いくや》さんか? インコグニートの正体が、あの人だってのか!?」
香澄は、しばらく沈黙《ちんもく》した。瞳《ひとみ》を伏せたまま、グラスの中で溶《と》ける氷をみつめている。
「あくまでも推測よ。でも、そう考えると、ほかの疑問も説明できるの。沢渡《さわたり》郁哉が行方《ゆくえ》をくらましている理由も、なぜ仲神という男が、美古都さんを拉致《らち》しようとしたかということも」
「郁哉さん……」
恭介は呆然《ぼうぜん》とつぶやいた。
懐《なつ》かしい従兄《いとこ》が、人外の力をふるって次々に人を殺している――その光景が瞼《まぶた》に浮かんだ。
「……んなはずはない」
香澄が、不安げな眼差《まなざ》しで恭介を見る。
「そんなこと、あるわけねえだろ! 信じられるかよ!」
「昨年の夏、沢渡郁也の友人が交通事故で死んだ。それを教えてくれたのは、恭介よね?」
「……だからなんだよ?」
恭介は怒りを押し殺した声で訊《き》いた。
「加害者は、彼女を轢《ひ》き殺したあと逃走したそうよ。そして未だに捕まっていない。目撃者の証言で、不良少年ふうの若い男だったと特定されただけで」
「だから郁哉《いくや》さんには仲神《なかがみ》たちを恨《うら》む動機はある、とでも言いたいのか?」
「そう。たとえ、仲神たちが沢渡《さわたり》郁哉の恋人を殺したという確証がなくてもね。それに――」
香澄《かすみ》は、一呼吸おいて続けた。
「事故の被害者が収容されたのは、高城《たかじよう》医大付属病院。江崎《えざき》志津《しづ》が勤めていた病院よ」
臨床《りんしよう》心理学者として働いていた江崎志津が、傷心の沢渡郁哉に接触したとしても不思議はない――香澄の言わんとしていることは、恭介《きようすけ》にもわかった。
「でも……だとしたら仲神って男はなんなんだ? どうして郁哉さんの敵が、レベリオンの力を持っている?」
「それも江崎志津の仕業《しわぎ》でしょうね。彼女はR2ウィルスを麻薬代わりに使って、この街の不良少年たちを手懐《てなず》けていたわ。仲神たちが、彼女と関わりを持っていたとしても不思議はない」
「だけど、彼女は郁哉さんが仲神たちを憎んでいると知ってたんだろ?なんでわざわざ自分の部下の敵を作るような真似《まね》を……?」
「部下……ね」
香澄は、厳しい表情を作って目を伏せる。
「ねえ、恭介。巫蠱《ふこ》というのを知ってる?」
「いや?」
「呪術《じゆじゆつ》の一種よ。動物や昆虫を狭い壺《つぼ》の中で戦わせて、最後まで生き残ったものを生《い》け贄《にえ》として使用するの。もっとも強い生命力を持つものが、もっとも優れた供物《くもつ》になるんですって」
「なんの話だ? それと志津さんにどういう関係が――」
「それと同じことを彼女がやろうとしていたとは考えられない? 優秀なレベリオンのサンプルデータを手に入れるために」
「……わざとレベリオン同士を戦わせようとしてたっていうのか? まさか……」
恭介は、力のない声で香澄の言葉を否定した。同時に、心のどこかで納得している自分に気づく。
江崎志津は、レベリオン化した恭介を支配しようとはしなかった。むしろレベリオンの能力を使って人々が殺し合うのを歓迎しているような素振りさえあった。R2ウィルスの拡散を進めていた彼女の本当の目的は、まさにその点にあったのではないだろうか。
「冗談《じようだん》じゃないぜ……」
恭介は、震《ふる》える右手で顔を覆《おお》いながらつぶやく。
R2ウィルスは、たしかに恭介たちの肉体を変えた。
だが、心にまでは影響を及ばさなかった。殺し合いを望んだのは、彼ら自身だ。
レベリオンの圧倒的な力は、人の心の闇《やみ》に潜《ひそ》む暗い欲望を暴《あぼ》き出す。
だとすれば呪《のろ》われているのはウィルスではない。人間の魂《たましい》そのものだ。
「……てことかよ……」
恭介《きようすけ》が掠《かす》れた声で言った。
「仲神《なかがみ》と戦わせるために郁哉《いくや》さんをレベリオンにしたってことかよ……んなことはさせない。俺《おれ》が郁哉さんを止めてやる……」
「……恭介」
「止めるなよ、香澄《かすみ》……あんたが止めても俺は行くぜ。俺の前では、もう誰《だれ》も殺させない……力ずくでも、郁哉さんを捕まえてやる。でなけりゃ、俺と悠《ゆう》が殺し合ったのも、あの人の思い通りってことになっちまう!」
「だめよ、恭介」
「なぜだ!」
「それが江崎《えざき》志津《しづ》の――いえ、彼女の背後にいる存在の思うつぼだってことがわからないの?」
静かに落ち着いて、香澄は言った。
美しい彼女の横顔は、氷を削《けず》りだした人形のように無表情だった。有刺《ゆうし》鉄線のような冷たい感情が、彼女の唇《くちびる》からこぼれ出す。
「今のあなたに殺し合いなんて――絶対にさせない」
「だから自分一人で戦おうっていうのか!? ふざけんなよ!」
恭介は唸《うな》りのような低い声でつぶやいた。
「あんた一人でなにができる! 少なくとも俺がついていれば、インコグニートなんてふざけたやつに、むざむざ不良たちを殺させやしなかった!」
「――!」
瞬間《しゆんかん》、香澄の瞳《ひとみ》が大きく見開かれ、彼女の右手が恭介の頬《ほお》を打った。
その自分自身の手を、信じられないような表情で見つめて――
「あなたに……あなたなんかに、なにがわかるっていうのよ」
香澄の口から、掠れた声が漏《も》れた。喉《のど》を詰《つ》まらせたように途切れ途切れに、言葉を続ける。
「あなたが草薙《くさなぎ》さんとでれでれしている間に…あたしがどんな思いをしてたと思ってるの?そのあなたにそんなこと……言われたくない」
香澄の瞳が、涙で潤《うる》んだように揺れていた。
それを見て、恭介はようやく気づいた。
彼女の目の前で不良たちが火だるまになってから、まだ何時間も経《た》っていない。
いくら超人的な戦闘力を持ち、特殊な訓練を受けているといっても、香澄も恭介とたいして歳《とし》のかわらない少女だ。目の前で、何人もの人間が死んでいく姿をみて、平気でいられるはずがないのだった。彼女は、ずっと一人でその苦悩に耐えていたのだ。
「……悪かった」
恭介《きようすけ》は、ひどく苦《にが》い感情を覚えながら言った。
彼女の頬《ほお》に手を伸ばして、涙を拭《ぬぐ》う。ひんやりとした感触。香澄《かすみ》がかすかに息を呑《の》んだ。
「だけど、もう悠《ゆう》のときみたいな思いをするのはいやなんだよ。俺《おれ》のいないところで、知ってるやつが傷つくのは――だから、俺をおいていくのはやめてくれ」
「恭介……」
香澄は小さく首を振った。編み込んだ髪が揺れる。
「だったらなおさら、あたしとあなたは一緒《いつしよ》にいないほうがいいわ」
「どういうことだよ?」
「あなたは美古都《みこと》さんと一緒にいてあげて」
「美古都と? だけど、あんたは……」
「あたしは一人で大丈夫《だいじようぶ》だから」
「大丈夫なわけないだろ。敵は仲神《なかがみ》ってやつだけじゃないんだぜ」
「平気だって言ってるでしょう。お願いだから、あたしのことはほっといて!」
「いや……だけど……」
泣き顔を見せてしまった照れもあるのか、いつになく意固地な香澄の態度に恭介は途方にくれた。言葉だけ聞いていると、本当に痴話喧嘩《ちわげんか》をしているみたいだ。そんなことを考えていると――
「あんまりしつこいと、嫌《きら》われるわよ、恭介」
「え?」
背後から突然、のんびりとした声が聞こえて、恭介は背後を振り返った。キッチンのドアに寄りかかるようにして、杏子《きようこ》がにやにやと微笑《ほほえ》んでいる。
「あ、姉貴……」
香澄の頼《ほお》に手を仲ばしたままの恭介の顔が青ざめた。
「……いつからそこに立ってやがった?」
「大丈夫、なんにも聞いてないから安心なさい」
水割りのグラスを片手に、杏子は一人でうなずいてみせる。
「でも、だめよ。久しぶりに再会した従妹《いとこ》に目がくらんで、香澄ちゃんを泣かせるような真似《まね》をしちゃ」
「ば、ばか何言って――」
「ち、違います! あたしたち、そんな……」
恭介と香澄が、顔を真っ赤にして反論する。
逆に誤解を助長しそうなリアクションに、杏子は満足そうな笑みを浮かべた。氷がいつまでも届かないので自分から取りに来たのだろうが、そのことには一言も文句《もんく》を言わない。
「まあいいわ。統けて、続けて」
言い訳を続ける恭介《きようすけ》たちを無視して、杏子《きようこ》はひらびらと手を振った。
笑いを噛《か》み殺したような声で、鼻歌を口ずさみながら去っていく。
彼女が歌っていたのは、ジョン・サイクスの「Plece Don't Leave me」だ。なにも聞いていないと言いつつ、都合のいいところはしっかり記憶しているらしい。
恭介はため息をつきつつ、なんとか気を取り直して香澄《かすみ》のほうに向き直った。
杏子の脳天気な歌声を聞いていると、なにやら意地を張り合っているのが馬鹿馬鹿しく思えてくる。香澄も、同じような気分だったらしい。彼女にしてはめずらしく、うんざりしたような表情を浮かべていた。だが、もう怒ってはいないようだ。
「とりあえず、俺《おれ》とあんたで美古都《みこと》を護衛するってことでどうだ」
恭介が疲れた声で提案する。香澄の答えは素《そ》っ気《け》なかった。
「……好きにすれば」
[#改ページ]
第四章
「無駄だよ」
Armored Saint
ハーフェズ≠ヘ、バス通りに面した可愛《かわい》らしい雰囲気《ふんいき》のティーラウンジだった。
男だけで入るには少し勇気がいる、そんな店だ。英国風の優雅《ゆうが》な店内には、オルゴール調にアレンジされたポップスが控え目なボリュームで流れている。
「こっちよ、恭介《きようすけ》」
きょろきょろと店内を見回していると、香澄《かすみ》が声をかけてきた。
藤霞《とうか》学院中等部の校庭が見渡せる窓際の席に、彼女は座っていた。
「……なんて格好《かつこう》してんだよ」
香澄の顔を見るなり、恭介は呆《あき》れる。
変装のつもりなのだろうか。今日の彼女はセルフレームの伊達《だて》メガネをかけ、髪を三つ編みのおさげにしていた。コートの下に着ているのは、藤霞学院の制服だ。
「ちょっとね、昼休みに学校の中に忍び込んできたの。美古都《みこと》さんの様子《ようす》を見るためにね」
窓の外――下校する女子中学生をみながら、香澄が答える。
藤霞学院は、美古都が通っている中学校だ。意外にも美古都が、どうしても学校に行きたいと主張したため、恭介と香澄は自分たちが送り迎えをするという条件で同意した。
藤霞学院は私立の、いわゆるお嬢様《じようさま》学校である。学校の中にいるぶんには、仲神《なかがみ》たち不良グループも彼女に手出しできないだろう、というのが恭介《きようすけ》たちの読みだった。
「それで学校を休んだのか。クラスの野郎《やろう》どもが心配してたぜ。あんたが学校に来なかったから。明日《あした》はちゃんと来るかなってさ」
「どうして? あたしが欠席するのは、今さらめずらしくないでしょう?」
「いや、それはそうだけど」
明日はバレンタインだからな、と言おうとして、恭介《きようすけ》は口をつぐんだ。
そんなイベントに香澄《かすみ》が興味を持っているとは、とても思えなかったからだ。それに彼女はアメリカ育ちである。むこうには、女性が男性にチョコを送るという風習はないと、何かで読んだような気がする。
「……まあいいや。それで、美古都《みこと》は?」
ウェイトレスに適当な飲み物を注文したあと、恭介が訊《き》いた。
「まだ学校よ。部活があるから、遅《おそ》くなるって言ってた」
「部活?あいつが?」
「園芸部ですって。知ってた?」
「いや……でも、そういや、あいつ花が好きだったな」
恭介は、今朝方《けさがた》、着替えを取りに立ち寄った沢渡《さわたり》家《け》の様子《ようす》を思い出す。玄関やベランダ、そして美古都の部屋は、色とりどりの草花で華《はな》やかに彩《いろど》られていた。
主《あるじ》のいない郁哉《いくや》の部屋も、飾ってある花瓶《かびん》の花だけは新しかった。美古都が、毎日のように世話をしていたのだろう。家を出る前に、あわただしく花に水をやる彼女は、とても寂しそうだった。
「美古都を狙《ねら》っているやつらの情報は?」
「仲神《なかがみ》という男の素性《すじよう》はわかったわ。仲神|昭《あきら》。弓ヶ崎《ゆみがさき》高校の三年生よ」
「弓高《ゆみこう》ね……」
恭介は舌打ちする。市内では、ガラが悪い生徒が多いことでちょっと知られた学校だ。
「彼の所在は不明。家にほとんど寄りつかないタイプのようね。仲神の命令で動く人数は、多いときには二十人を超えていたらしいわ。組織というよりは、彼を慕《した》う連中が集まっているって感じだけどね」
香澄は、下校する女子中学生たちを眺《なが》めながら続けた。
「もっとも、彼らの半分以上は二週間前に悪性レベリオン化して命を落としているわ」
「……RAVEか」
恭介は顔をしかめた。レベリオン化した人間の血液から作り出したという真紅《しんく》の錠剤《じようざい》。
それを大量に服用した同級生たちが理性を失って凶暴化《きようぼうか》する姿は、恭介の記憶にまざまざと焼きついている。
「仲神の仲間のうち十人前後は、ヴィルレント化による暴走で死んでいるわ。生き残った人間の多くも、インコグニートに殺されている。残っているのは、せいぜい四、五人と言ったところね」
「そいつらが美古都《みこと》を狙《ねら》っているわけか……来るかな?」
「たぶんね。美古都さんが自宅に戻《もど》っていないことは気づいているはずだから。当然、通学途中を狙ってくるはず」
「ったく……郁哉《いくや》さんも、美古都をこんな危《ヤバ》い目に遭《あ》わせて何やってやがんだか……」
恭介《きようすけ》は何気なくつぶやいて、その自分の言葉に違和感《いわかん》を感じた。
もし本当に郁哉がレベリオン化しており、そして仲神のグループを恨んでいるのなら――レベリオンの能力をもってすれば彼らを皆殺しにすることだっで可能なはずだ。
インコグニートと名乗る暗殺者が郁哉だとして、なぜ彼は仲神たちを一度に殲滅《せんめつ》しようとしないのだろう?
仲神という男のトランスジェニック能力を恐《おそ》れているのだろうか。それにしても――
「失礼します」
店員が近づいてくる気配がして、恭介は思考を中断した。
さきほど注文した飲み物が届いたのかと思ったが、違った。ウェイトレスが両手に抱《かか》えているのは、ケーキやサンドイッチ、チョコレートパフェなど十人分ほどのデザートだ。何かの間違いかと思っだが、香澄《かすみ》は平然と座って注文の品がそろうのを待っている。
「……あいかわらず、よく喰《く》うな」
恭介は、半《なか》ば呆然《ぼうぜん》としながら言った。甘《あま》ったるい匂《にお》いが鼻をつく。テーブルの上の皿を眺《なが》めているだけで、こっちが満腹になってしまいそうだ。
「しょうがないじゃない。あたしのスクリーミング・フィストは、大量のエネルギーを消耗《しようもう》するの。知ってるでしょ? レベリオン化しても体重は変わらないし、体内に蓄積されたエネルギー量の総和も一定。だから、なるべく補給できるときに補給しておかないと」
香澄は、大学の講師のような口調で講義する。
その間アイスクリームを口元に運ぶことも忘れない。
「いや、べつにいいんだけどな……」
まわりの人の目さえ気にしなきゃな、と恭介は心の中で付け加える。
ほっそりとした美少女が、摂取《せつしゆ》カロリーなど無視してデザートを食べ放題だ。それをみている女性たちの、嫉妬《しつと》にも似た視線が恭介の背中にも突き刺《さ》さってくる。
「ところで、美古都は今晩もうちに泊めるとして、あんたはどうする?」
「あたしも一緒《いつしよ》に泊まるわよ」
香澄は即座《そくざ》に答えた。
「……なによ、その嫌《いや》そうな顔? 杏子《きようこ》さんには了解《りようかい》をとってるわよ」
「いや、べつにいいんだけどな……」
学校を休んでいるはずの香澄《かすみ》が昨夜、恭介《きようすけ》の家に泊まっていたことを潤《じゆん》と臣也《しんや》は知っているし、このあと草薙《くさなぎ》萌恵《もえ》も美古都《みこと》に会いに来ることになっている。彼らにどう言い訳しようかと考えて、恭介《きようすけ》は軽い頭痛を感じた。
「でも……どうやら、その必要はなさそうよ」
香澄が、シフォンケーキを切り分けていたフォークを置いた。
「えっ?」
恭介は顔を上げる。
香澄の鋭い視線は、藤霞《とうか》学院の校門をくぐる、一台の車に注がれていた。
荷台に大きな脚立《きやたつ》と植木を載《の》せた、造園業者のピックアップ・トラックだ。
「校庭の桜の手入れでもするのかな?」
のんきな口調つぶやく恭介に、香澄が張りつめた声で言う。
「車に乗ってる男をよくみて」
「あ……あいつ!?」
恭介は思わず身を乗り出した。 殺気だった表情でトラックの助手席に座っている男は、昨日《きのう》、美古都を襲った不良グループの一人だった。たしか拓《たく》とか呼ばれていた男だ。たまたま不良少年の本職が造園業者で藤霞学院に呼ばれてきた、というのは出来すぎだろう。美古都を狙《ねら》って、堂々と正門から侵入してきたのだ。
「あたしが、彼らの相手をするわ。恭介は、美古都さんの護衛を」
香澄はそう言い残すと、ためらうことなくティーラウンジを飛び出した。驚くほどの反応の早さだった。温かい店内で、彼女がコートを着たままだったのは、このためだったのだ。
恭介も、あたふたと彼女を追う。
美古都の居場所は聞いていないが、園芸部だというのだから、校庭のどこかにいるのだろう。
何としても、彼らより先に美古都をみつけて保護しなければならない。
だが、店を出ようとしたそのとき、
「お客様!」
ウェイトレスにコートの裾《すそ》をつかまれた。
猛烈《もうれつ》に悪い予感を覚えて、恭介は振り返る。
「お会計をお願いします」
にこやかな笑顔の彼女と目が合った。
恭介は、香澄が綺麗《きれい》に平らげた山のような食器と、手渡された伝票を見比べて絶句した。
ピックアップ・トラックから降りたのは、三人だった。
拓《たく》と呼ばれていた、鼻ピアスの男。トラックを運転してきた髭面《ひげづら》の男。そして、刈り込んだ髪を赤く脱色《だつしよく》した長身の男。その額《ひたい》から頬《ほお》にかけて、古い傷跡《きずあと》が斜めに走っている。
モスグリーンの作業服《ツナギ》に身を包んだ彼らに、香澄《かすみ》は無造作《むぞうさ》に近づいていった。
藤霞《とうか》学院の制服を着た香澄は、彼らの目に、ただの女子中学生として映っているはずだ。それが香澄の変装の、もう一つの目的だった。
「ちょっと、君……」
髭面の男が、香澄に声をかける。道を訊《き》くつもりなのだろう。
香澄が、顔をあげた。
その表情に見惚《みほ》れたように、男がぽかんと口を開けた。
隙《すき》だらけだった。
香澄の左拳《ひだりごぶし》が、何の前触れもなく跳《は》ね上がる。活性化したレベリオン細胞による超高速の一撃が、完全な死角から男の顔面を襲った。
苦悶《くもん》の悲鳴をあげて、男がのけぞる。
スクリーミング・フィストの超振動波が、脳震鑑《のうしんとう》を引き起こしていた。意識を失った男は、一メートル近く吹き飛んで、そのまま背中から地面に落ちた。
「まず一人――」
鼻ピアスの男の表情が変わった。だが、遅《おそ》い。男が身構えたときには、すでに香澄は攻撃態勢に入っている。
厄介《やつかい》なのは三人で別々の方向に逃げられた場合だ。昨夜《さくや》と同じ過《あやま》ちを繰り返すつもりはない。
不意打ちで、一気にケリをつけるつもりだった。が――
「えっ!?」
吹きつける殺気を感じて、香澄は咄嵯《とつさ》に身体《からだ》を捻《ひね》った。
その眼前を、猛烈《もうれつ》な勢いの回し蹴《げ》りが駆《か》け抜けた。
風圧だけで、香澄の身体が浮き上がったような気がした。肌《はだ》が粟立《あわだ》つ。
常人の目にはとらえられない、圧倒的な速さの攻撃だった。その速度ゆえに、もう一人の男がその蹴りを放ったのだと気づくまで、少し時間がかかった。
香澄は間合いを取って、体勢を立て直す。いつの間にか、右側の三つ編みがほどけていた。
結《ゆ》わえていた紐《ひも》を、かすめただけの蹴《け》りが切断したのだ。同時に断ち切られた髪が、はらはらと数本、風に舞った。
長身の男が、両腕《りよううで》をわずかに広げた姿勢で立っていた。
空手《からて》か拳法《けんぽう》の心得があるのだろう。その構えには、無駄《むだ》がない。そして彼の目は、明らかに香澄の動きを見切っている。
「拓……コージを連れて、先に帰っていろ」
香澄から目を離さずに、男が言った。
「俺《おれ》はこの女の相手をしていく」
「わ、わかった……」
鼻ピアスの男が、気絶した仲間の傍《そば》へ駆《か》け寄る。
香澄《かすみ》には、それを阻《はば》む余裕《よゆう》がなかった。目の前の男が、冷ややかな眼差《まなざ》しで香澄の隙《すき》を窺《うかが》っていたからだ。
彼は、一人で香澄の相手をすると言った。そして、おそらく、それだけの力を持っている。
「沢渡《さわたり》の妹を誘拐《ゆうかい》するとき邪魔《じやま》が入ったとは聞いていたが……その仲間か」
男が言った。荒っぽい口調だが、下卑《げび》た印象はない。厳然《げんぜん》とした意志――ある種の知性を感じさせる。昨夜戦った尾上《おのうえ》などとは、格《かく》が違う。
「あなたが、仲神《なかがみ》?」
香澄が訊《き》いた。男は表情を動かさない。喧嘩《けんか》の相手から名前を訊かれるのには慣れているのだろう。
「だったらどうする?」
「なぜ美古都《みこと》さんを狙《ねら》うか、教えて」
「……復讐《ふくしゆう》だ」
伸神は、低い声で言った。ぞっとするような光が、その瞳《ひとみ》に宿っている。
「復讐の相手は、沢渡|郁哉《いくや》?」
「やつは、もう生きてはいない」
「え……!?」
仲神の言葉に、香澄は動揺した。
その一瞬《いつしゆん》を仲神は見逃《みのが》さなかった。
灰色熊《グリズリー》を彷狒《ほうふつ》とさせる仲神の巨体《きよたい》が、信じられない敏捷《びんしよう》さで動いた。
真上から撃《う》ち下ろされる正拳《せいけん》を、香澄は真上に跳《と》んでかわした。そのまま身体《からだ》を一回転させて、建物の屋根に着地する。
伸神も香澄のあとを追って跳んだ。間違いなく真性《プロ》レベリオンだけが持つ運動能力であった。
しかも伸神は、その力を見事に使いこなしている。
「速い……」
香澄は仲神の動きに舌を巻いた。
格闘戦タイプのトランスジェニック能力を備えた香澄の反応速度は、これまでに統合計画局《とうごうけいかくきよく》に確認されている全レベリオンの中でも、最速を誇《ほこ》る。
だが、仲神のスピードは、その香澄とほば互角《ごかく》だった。
加えて、巨漢《きよかん》の仲神と香澄では、大人《おとな》と子どもほどの体格差がある。単純なパワー比べでは、香澄の不利は歴然だ。
「沢渡郁哉が死んだ? どういうことなの、仲神|昭《あきら》!?」
「お前には関係のないことだ!」
「力ずくでも聞かせてもらうわ」
「やってみろ!」
作業服の襟元《えりもと》からのぞく仲神《なかがみ》の胸や、彼の両腕《りよううで》が燐光《りんこう》を放ち始めた。レベリオン細胞が活性化している。トランスジェニック能力を使うつもりなのだ。
彼の能力も、おそらく香澄と同じ格闘戦タイプ。だが、香澄には一撃必殺の切り札がある。
「はっ!」
「おおおおっ!」
両者は、ほぼ同時に動いた。
仲神の放った牽制《けんせい》の前蹴《まえげ》りをかわして、香澄が彼の懐《ふところ》に飛び込んだ。
連打で左腕のガードをこじ開け、がら空《あ》きになった伸神の心臓に超振動波の一撃を放つ――
スクリーミング・フィスト。
いかに強靭《きようじん》なレベリオンの肉体といえども耐えようのない、内臓への直接攻撃だ。振動波をまともにくらって、仲神の巨体《きよたい》が吹き飛んだ。轟音《ごうおん》とともに壁に激突し、コンクリートの破片がばらばらとこぼれる。
大口径《だいこうけい》ライフルの直撃にも匹敵《ひつてき》する破壊力だった。その衝撃《しようげき》が、すべて仲神の肉体に叩《たた》き込まれたのだ。常人であれば、即死はまぬがれないだろう。
しかし、伸神は倒れなかった。
「なるほどな……」
彼の口元に、ふてぶてしい笑みが浮かんだ。
ぎらぎらとした双眸《そうぼう》が光を帯《お》び、再び低く身構える。
「それがお前の超能力ってわけか。尾上《おのうえ》では相手にならないわけだ」
振動波の直撃を喰《く》らった胸元を、仲神が軽く叩《たた》く。
ずたずたに破れた作業着の隙間《すきま》から、白く変色した肌《はだ》が盛り上がっていた。
その姿は甲殻類《こうかくるい》の強靭《きようじん》な甲羅《こうら》を連想させる。
あるいは、サイなどの哺乳類《ほにゆうるい》が持つ、鋼《はがね》のような皮膚《ひふ》にも似ている。剥《む》きだしの骨のような、半透明の結晶。それはまるで、硬質《こうしつ》な鎧《よろい》のような――
「ばかな……手加減なんてしてないのに!?」
香澄は呻《うめ》いた。
スクリーミング・フィストを放った左腕に、異様な手応えが残っている。それは、ゴムの塊《かたまり》をハンマーで殴《なぐ》ったような不快な衝撃《しようげき》だった。
「|聖 者 の 鎧《アーマード・セイント》」
仲神がつぶやく。彼の作業服の袖《そで》を突き破って膨《ふく》らんだ両腕の筋肉が、やはり燐光を放っ甲羅と化した。それはまさに、鎧であった。硬質化した皮膚で形成されたその鎧こそが、レベリオン化した仲神《なかがみ》のトランスジェニック能力なのだ。
シンプルだが、恐《おそ》ろしく合理的な能力だった。敵《てき》がどんな能力を持っていようが、ダメージを受けなければ同じことである。堅牢《けんろう》な装甲《そうこう》に包まれた仲神の肉体には、おそらく恭介《きようすけ》のブラスティング・ハウルでもダメージを与えることができないだろう。
「ちっ……」
香澄《かすみ》は、再び閃光《せんこう》の速さで動いた。
一撃で倒せないのならば、攻撃の回数を増やせばいい。単純な理屈であった。振動波には干渉《かんしよう》と呼ばれる性質がある。同位相《どういそう》の波動が複数重なることによって、振動のエネルギーは何倍にも増幅《ぞうふく》されるのだ。
フェイントを織《お》り交ぜた香澄の遠打が、鎧《よろい》に覆《おお》われた伸神の身体《からだ》をとらえる。
レベリオンとしての能力を全開にした香澄の攻撃は、機関銃の連射にも匹敵《ひつてき》する速度があった。防御《ぼうぎよ》した仲神の巨体《きよたい》が、じりじりと後退する。だが、それだけだった。
「スクリーミング・フィストが――効かない!?」
香澄の背中を。冷たい戦慄《せんりつ》が走った。
仲神の鎧は、単に硬いというだけではない。強靭《きようじん》なレベリオン細胞で構成される筋肉が、その衝撃を受け止め緩和《かんわ》しているのだ。スクリーミング・フィストの超振動波でさえ、その防御を突き破ることができないでいる。
「おおおっ!」
香澄の連打が途切《とぎ》れた一瞬《いつしゆん》を、伸神は見逃さなかった。
体重の乗った正拳突きが、唸《うな》りをあげて香澄《かすみ》を襲《おそ》う。香澄は、両腕を交差させてブロックしたが、体重の差はどうすることもできなかった。
体勢が崩《くず》れ、あっけなく後方に撥《は》ね飛ばされる。
地上に落下しながら、香澄は豹《ひよう》のように身体を捻《ひね》って受け身をとった。
伸神が、香澄のあとを迫って飛び降りてくる。あれだけの連打を受けていながら、まったくダメージを負っている様子《ようす》はない。
香澄は立ち上がって、慎重《しんちよう》に間合いをとっだ。
全身はしっとりと汗《あせ》で濡《ぬ》れ、息があがっていた。伊達《だて》メガネを外して投げ捨てる。
あらわになった香澄の顔をみて、仲神の表情がかすかに動いた。
「お前……似てるな……」
「……なんの話?」
油断なく身構えたままで、香澄が訊《き》く。
仲神は、香澄のその表情をみて、ますます確信を深めたようだった。
「その顔……それに、その力……お前、あの女の身内か?」
「あの女?」
香澄《かすみ》の表情が凍《こお》った。
「まさか、あなたたちに|RAVE《レイヴ》を与えた人物のことを言っているの?」
「レイヴ? ああ……あのクスリのことか」
仲神《なかがみ》は、吐《は》き捨てるように言った。
「関係ねえな……あんなもの。それより、あの女はどこにいる?」
「そんなことを訊《き》いて、どうするの?」
仲神に問いただしたいことは山のようにある。その葛藤《かつとう》を押さえて、香澄はとぼけた。
今の香澄に必要なのは、時間だ。
体力を回復させるための時間。そして、仲神の能力を破る方法をみつけだすための時間を、どうにかして稼《かせ》がなければならない。
だが仲神も、おめおめと香澄を回復させるつもりはないようだった。
「約束を果たしてもらうのさ」
香澄の攻撃が、通用しないことを確信しているのだろう。仲神は、無防備とも思える挑発的《ちようはつてき》な姿勢で近づいてきた。
スピードは互角《ごかく》。パワーでは、はるかに伸神のほうが上だ。スクリーミング・フィストが通用しない以上、正攻法では香澄に勝機《しようき》はない。
仲神を倒す方法があるとすれば、唯一、鎧《よろい》に覆《おお》われていない眼球から、脳の内部に振動波を直接送り込むことだけだ。だが、それをやれば、確実に彼を殺してしまうことになる。
それに仲神自身、自分の弱点は承知しているだろう。むざむざと香澄の攻撃を受けてくれるとは思えない。
だが、やるしかない――
香澄は、絶望的な思いで拳《こぶし》を握《にぎ》る。
そのとき校庭に、すさまじい爆音が鳴り響《ひび》いた。
藤霞《とうか》学院の中庭には、全面をガラスで覆《おお》われた美しい建物がある。
真冬の穏《おだ》やかな陽差《ひざ》しを閉じこめた屋舎《おくしや》の中では、一足早い春が訪れたように鮮やかな緑と無数の花弁が揺《ゆ》れていた。
扉《とびら》をくぐると、温かく湿った空気とともに、満開の花々の艶《つや》やかな匂《にお》いがする。
そこは、大温室だった。
「すごいな……これは」
恭介《きようすけ》は、感嘆の声をもらしながら温室の中を見回す。中庭の面積の大半を占めるガラス張りのドームは、ちょっとした植物園ほどの規模があった。
美古都《みこと》は、ガラス越しの夕陽を浴びながら、咲きかけのビオラに水をあげている。
温室の中に、彼女以外の人影はない。土まみれの軍手を着けた美古都《みこと》は、突然現れた恭介《きようすけ》に気づいてびっくりした表情を浮かべた。
「これ、全部お前一人で面倒みてるのか?」
恭介が訊《き》くと、美古都ははにかんだようにうなずいた。
「いまは、そう。せんぱいたちが、みんな卒業しちゃったから」
「そうか。大変だな……」
美古都は首を振って微笑《ほほえ》む。
「お花、すきだし」
「そうか……そうだな」
狙《ねら》われている美古都が、どうしても学校に行きたいと言い張った理由。それを恭介は理解した。彼女は、この温室のことが気がかりだったのだ。
これだけの規模の温室である。土日をはさんで三日も手入れしなかったら、枯《か》れてしまう花もあるかもしれない。彼女にはそれが耐えられなかったのだろう。
「キョースケは、お花、きらい?」
「いいや。俺《おれ》もわりと花は好きだな」
「ほんと?」
「本当だよ。花の名前にも詳《くわ》しいぜ。桜だろ、キクだろ、ツバキだろ……あとはホウセンカに金蓮花《ナスタチウム》とかな」
思いつくままに花の名前を並べていると、美古都がくすくすと笑い出した。
「たべられるお花ばっかり」
「え……そうか?」
「このバンジーや、スイートピーもたべられるよ。もってかえって、カスミやキョウコにあげる? モエにも」
「花か……喜びそうだな、みんな」
少なくとも萌恵は喜ぶだろう、と恭介は思う。美古都が育てた花だといったら、なおさらだ。
「だけど、勝手に持って帰っていいのか? 学校の花なんだろ、一応」
「うん。おともだちにも、ときどきあげてるし。ないしょだけどね」
「友達、できたんだな」
恭介は、実の兄のような優しい目で美古都を見た。
美古都がまだ小学生のころ、日本語がうまくしゃべれない彼女はクラスで孤立して、不登校になりかけたことがあるのだ。それが、遠縁の従兄《いとこ》に過ぎない恭介が、彼女と親しくしている理由の一つだった。
「よかったな」
恭介《きようすけ》が、美古都《みこと》の頭をなでる。彼女は、くしゅっと照れたような笑顔を浮かべた。
「すぐにすむから、まってて」
美古都は、園芸用のハサミを持ってきて、丁寧《ていねい》に花束を作りはじめる。
恭介は、その様子を黙《だま》って眺《なが》めていた。
仲神《なかがみ》たちと遭遇《そうぐう》している香澄《かすみ》のことが気がかりだったが、美古都には言い出せない。楽しそうな彼女に、いたずらに不安を与えたくなかった。
「あれ……キョースケ。けがしてる」
完成した花束を恭介に手渡そうとして、美古都が言った。
恭介の左手の甲に、浅い切り傷があった。温室の扉《とびら》をあけるとき、突き出ていた針金で切ったものだ。ほとんど痛みはなかったが、血の珠《たま》がぽつぽつと噴《ふ》き出ている。
「ああ、たいしたことねえよ」
「だめ。ちゃんとあらわなきゃ」
手洗い場に遵れて行こうと、美古都が恭介の手を引っ張る。恭介はおとなしく従った。心配そうな彼女の表情を見てしまうと、断るわけにはいかない。
恭介と美古都は温室を出て、校舎へと向かう。
女子校だから、というわけでもないのだろうが、校舎の中は狭《せま》く、そのぶん小綺麗《こぎれい》な造りだった。下校時間が近いせいか、校内にほかの生徒の姿はない。
温室の暖かい空気に慣れていたせいか、コンクリート張りの渡り廊下《ろうか》は少し寒かった。淡いパステル調に塗られた通路を、美古都は跳《は》ねるようにして歩いていく。
その足取りが、ふいに止まった。
狭《せま》い通路の奥に、 一人の男が立っていた。
恭介は最初、彼を美古都の学校の先生だと思った。だが、違った。その男は恐《おそ》ろしく背の高い白人で、白銀の髪を腰《こし》まで仲ばしていた。
バランスのとれたしなやかな身体《からだ》つきが、密林に棲《す》む大型の肉食獣を連想させる。それは、戦士の肉体だった。ゆったりとしたスーツに身を包み、静かに美古都を眺《なが》めている。
一つだけ確実に言えるのは、そんな教師は絶対に存在しないどいうことだけだ。
「美古都、さがってろ」
恭介は、美古都を背後に庇《かば》って、男の前に立ちはだかった。
灰色の双眸《そうぼう》が恭介をとらえて、かすかに細められた。微笑《ほほえ》んだのだ。
男の巨体《きよたい》には底知れぬ威圧感《いあつかん》があったが、殺気は感じられなかった。にもかかわらず、恭介の全身は冷たい恐怖《きようふ》に縛《しば》られていた。
「緋村《ひむら》恭介……か」
男が口を開いた。気障《きざ》な印象はあるが、流暢《りゆうちよう》な日本語だった。
「あんたは?」
恭介《きようすけ》の問いに、男は髪をゆらりとかき上げて答えた。
「アーレン・ヴイルトール。そうだな……お前さんの友達のカスミや、リチャード・ロウの昔なじみといったところだ」
「アーレン……? 統合計画局《とうごうけいかくきよく》の人間なのか?」
「いいや……やつらの敵《てき》、ってことになるんだろうな。今はな」
悪びれた様子《ようす》もみせずに、銀髪の男は言った。
香澄《かすみ》たちの組織、米国防総省生物戦防衛《べいこくぼうそうしようせいぶつぜんぼうえい》統合計画局は、少なくとも表向きR2ウィルスの汚染《おせん》を防こうとしている。それを敵《てき》と言い切るからには、彼もまたレベリオン――それも、ウィルスを流出させた側の人間だ。
「……それで、俺《おれ》を殺しに来たってわけか?」
「殺す? おいおい野蛮《やばん》だな。何だって俺がお前さんと殺し合わなきゃならないんだ?」
「だったら、何のために俺の前に現れた?」
「用があるのはお前さんじゃなくて、そっちのお嬢《じよう》ちゃんのほうさ」
「なんだって?」
恭介は愕然《がくぜん》として、背後にいる美古都を振り返った。彼女の表情が傍目《はため》にもはっきりと強張《こわば》っている。
「なぜ、あんたみたいなのが美古都を狙《ねら》う? 仲神《なかがみ》って奴《やつ》を動かしてるのも、あんたか?」
「なんだ……気づいていなかったのか? その娘《むすめ》の価値も知らずに、護衛していたとはな」
アーレンは、少し驚いたように片眉《かたまゆ》をあげた。おどけた瞳《ひとみ》に、哀《あわ》れむような光が浮かぶ。
「それを知りたければ、その子を運れてお前さんも一緒《いつしよ》に来たらどうだ、緋村《ひむら》恭介?」
「なに!?」
「統合計画局の奴らから、お前は何を知らされている? なぜレベリオンが生み出されたのか。なぜ奴らがそれを隠《かく》そうとしているのか。なぜカスミのような年端《としは》もいかぬ少女を戦いに駆《か》り出しているのか。そのすべてを教えてやる。俺たちの本当の目的もな。悪い取引じゃないだろう?」
アーレンは、にやにやと笑いながら続ける。感情の読めない男だった。恭介の反応を値踏みするように、その瞳《ひとみ》だけが笑っていない。
「この場で言えよ。聞いてやるからよ」
「あいにく、男と立ち話する趣味はなくてな」
アーレンがうそぶく。
「それにカスミとは顔を合わせづらい事情もある。悪いが、さっさと用件を済まさせてもらうぜ」
「腕《うで》ずくでも話してもらう……」
恭介は、美古都に「逃げろ」と囁《ささや》いて、いつでも戦える姿勢をとった。全身の細胞が沸騰《ふつとう》したように熱を帯び、身体《からだ》が燐光《りんこう》を放ちはじめる。
「無駄《むだ》だよ……お前さんの力では、俺《おれ》は倒せない」
その言葉と同時に、恭介《きようすけ》の耳元を何かがかすめた。左頬《ひだりほお》から鮮血が飛び散る。
「なっ!?」
恭介の表情が強張《こわば》った。
統けて放たれた攻撃に、頭ではなく肉体が反応した。咄嵯《とつさ》に身体を低くして、横に転《ころ》がる。
その行動が、一瞬《いつしゆん》でも遅《おく》れていたら、両脚《りようあし》を撃ち抜かれていただろう。
床《ゆか》に何かが突き刺《さ》さる鈍《にぶ》い音が響《ひび》いた。それでようやく、恭介は敵《てき》の攻撃の正体に気づいた。
アーレンは動いていない。その両手は、だらりと身体の横におろしたまま。
だが、先ほどまでポケットにだらしなく突っ込んでいたアーレンの掌《てのひら》には、おはじきほどの大きさの金属片がいくつか握《にぎ》られていた。彼は、指の力だけで金属片を飛ばして、恭介を攻撃してきたのだ。中国|拳法《けんぽう》の一派などに伝承されている、指弾《しだん》と呼ばれる技術だった。達人《たつじん》ともなれば、普通の人間でも厚《あつ》さ数センチの杉板を撃ち抜くと言われている。
レベリオン化した肉体の超人的な筋力に裏打ちされているとはいえ、アーレンの攻撃の速度と正確さは桁《けた》違いだった。拳銃弾《けんじゆうだん》と同等か、それ以上だ。
恭介は、全身が恐怖《きようふ》にわななくのを止めることができなかった。
目の前の男は本物の殺し屋だ。血みどろの訓練を積み、人殺しの技を極めた暗殺者だ。
恭介がこれまで相手をしてきた連中とは次元が違う。彼は、レベリオンの力など使わなくても人を殺せるのだ。
「どうした、緋村《ひむら》弟? 腕ずくで、情報を訊《き》き出すんじゃなかったのか?」
挑発的《ちょうはつてき》な口調で、アーレンが言った。
美古都《みこと》は温室の扉《とびら》に隠《かく》れて、不安そうに恭介の様子《ようす》を見守っている。もし恭介が、アーレンを止められなければ、彼女の脚力《きやくりよく》では逃げ切れない。
恭介の心の奥から、獰猛《どうもう》な感情が噴《ふ》き出した。
敵《てき》までの距離は約十メートル。恭介のトランスジェニック能力の有効射程内だ。
アーレンの右腕で、金属片が輝いた。
やらなければ、やられる。
その恐怖が、恭介の迷いを振り切った。
「おおおおおおおおおっ」
恭介の吐《は》き出す呼気《こき》が、可聴域《かちよういき》をはるかに超えた静かなる咆吼《ほうこう》と化す。
爆発的な破壊音波が、通路の窓ガラスを一枚の例外もなく叩《たた》き割った。
無数の真空の刃《やいば》ですべての物質を破壊する衝撃波が、無防備に立つアーレンを襲った。恭介たちがいるのは、狭《せま》く強固なコンクリートの通路。逃げ場はない。
そして――
「がっ!」
すさまじい衝撃を受けて、吹っ飛んだのは恭介《きようすけ》であった。
ずたずたに切り裂かれた全身から、血煙が舞った。美古都の絶叫が響き渡る。
暴風と衝撃波に全身を翻弄《ほんろう》され、地面に激突した恭介の身体《からだ》が転《ころ》がった。
アーレンはほとんど無傷で立っていた。
表情すら動かさぬまま、血まみれで倒れた恭介を冷ややかに見おろしている。
「ぐ……」
恭介には何が起きたのかわからなかった。わかったのは、ブラスティング・ハウルを放った瞬間《しゆんかん》、アーレンのほうからも強力な衝撃波が撃ち込まれたということだけだ。それも、恭介をはるかに上回る出力で。これが彼のトランスジェニック能力なのだろうか?
「だから、言っただろ。お前さんに俺《おれ》は倒せないってな」
アーレンはのんびりとした仕草《しぐさ》で、頭上から降ってきた蛍光灯《けいこうとう》の破片を払《はら》った。
恭介は、よろめきながらも立ち上がった。ダメージはまだ回復していない。足下がふらつき、視界がかすむ。
「こっちにも、いろいろと事情があってな。お前さんは殺さない。だが、これ以上、邪魔《じやま》されるのも面倒だからな。しばらく眠《ねむ》っていてもらおう」
アーレンの右手から放たれた指弾《しだん》が、恭介の両脚《りようあし》を撃ち抜いた。
恭介は為す術もなく、血だまりの中に倒れる。
「肺に孔《あな》が空《あ》いてれば、その物騒《ぶつそう》な能力も使えないだろう?」
冷ややかにつぶやいたアーレンの瞳《ひとみ》が、うつぶせになった恭介の背中に向けられた。
放たれた金属片が、美しい軌跡《きせき》を描いて恭介の背中へと飛ぶ。その瞬間だった。
「だめ――っ!!」
アーレンの攻撃の軌道《きどう》上に、黒髪の小柄《こがら》な少女が飛び込んできた。
「なにっ!?」
予想外の美古都の行動に、アーレンが表情を強張《こわば》らせた。
だが、攻撃を止めることはできなかった。指で金属を弾《はじ》いて飛ばす。その単純な動作ゆえに、指弾の攻撃を防ぐことは難しく、同時に攻撃を中断することも不可能なのだ。
「ミ……コ卜」
恭介は、その光景を信じられない気持ちでみつめた。
彼女の華著《きやしや》な肩口《かたぐち》から、鮮血が散っていた。
恭介をかばって大きく両腕《りよううで》を広げた身体が、ゆっくりと倒れた。
美古都は悲鳴をあげない。彼女が抱《だ》いていた花束だけが、地面に落ちて乾《かわ》いた音をたてる。
「うああああああああっ!」
恭介《きようすけ》は叫んだ。満身の傷口から血が噴《ふ》き出し、激痛が走る。
それを無視して、恭介は立ち上がった。アーレンの能力のことも、彼が訓練を積んだ暗殺者だということも、今の恭介の頭からは消えていた。
「アあああああーレンっ!!」
「ちっ……」
恭介の咆吼《ほうこう》が、再び破壊衝撃波へと変化する。それに気づいたアーレンは舌打ちして、窓の外へと身を翻《ひるがえ》した。
「逃がすかよっ!」
彼のあとを追おうどして、恭介は倒れた。
意識がふいに遠ざかる。血を流しすぎたのだ。
身体《からだ》を動かすだけの力は、もう残っていなかった。
「くっそおおおおっ!」
恭介は、血だまりで紅《あか》く染まった床《ゆか》を殴《なぐ》りつけながら吼《ほ》える。
「美古都《みこと》さん! 恭介!!」
ようやく駆けつけた香澄《かすみ》が、渡り廊下《ろうか》での惨状《さんじよう》を見て息を呑《の》む気配が伝わってきた。
[#改ページ]
第五章
責様は今も
Jesusphobia
古い雑居ビルの地下にある、こぢんまりとしたジャズクラブだった。
月曜の夜ということもあって客はまばらだ。四人組の黒入奏者が演奏する、気怠《けだる》いバラードが、ほの暗い店内を満たしている。
無数の酒瓶《さかびん》が雑然と並べられたカウンターの隅《すみ》に、アーレン・ヴィルトールは座っていた。
ゆったりとしたトランペットの音色《ねいろ》にあわせて、腰《こし》まで伸ばした銀色の髪が揺れる。
絵になる光景だが、寡黙《かもく》な背中には、どこか近寄りがたい雰囲気《ふんいき》があった。
その背中に声をかけたのは、アッシュブロンドの髪を持つ長身|痩躯《そうく》の男であった。
「ここにくれば、いつか会えるのではないかと思っていました」
リムレスのメガネのズレを直しながら、男は当然のようにアーレンの隣《となり》に座った。
男の身長も、アーレンとほぼ同じだ。しなやかに絞《しぼ》り込まれた体型や、なめらかで隙《すき》のない物腰も共通。ただ、気配だけが違う。
アーレンの持つ荒々しさは男にはない。彼が放つ気配は、もっと無機質で冷たかった。アーレンを猛獣《もうじゆう》にたとえるなら、この男は兵器だ。命令のままに人を殺す、感情を持たぬ人造の凶器《きようき》。
「クリスか……」
振り向きもせずに、アーレンがつぶやいた。
「リチャード・ロウ、ですよ。今はね」
男が静かに訂正《ていせい》する。
「ふ……懐《なつ》かしい名前だな」
「でしょうね。あなたが捨てた名前ですからね、脱走者アーレン・ヴィルトール少佐」
「それが許せないか?」
「いいえ。私が許せないのは、あなたたちレベリオンの存在そのものですよ」
リチャード・ロウは平然と言う。
アーレンが、くっくっと面白《おもしろ》そうに喉《のど》を嶋らした。
傾《かたむ》けたグラスの中で、小気味《こぎみ》よい音をたてて氷が割れる。
「あいかわらずだな、クリス・レイトナー……生真面目《きまじめ》なことだ」
「いいえ、変わりましたよ。二年前の私なら、一人であなたに会いに来たりはしなかった。今頃、海兵師団を総動員してこの店を取り囲んでいたでしょうね」
「なるほど」
「それに、二年前には、リサはまだ生きていました」
リチャード・ロウは右腕《みぎうで》を、音もなくアーレンの前に突き出した。
その手には、銀色の回転式拳銃《リボルバー》が握《にぎ》られていた。。
カウンターの中の店員が取り乱さなかったのは、銃を向けられているアーレンが平然とした表情で酒を飲み統けていたからであろう。玩具《おもちや》だと思ったのだ。
「この距離では、たとえレベリオンの反応速度でも避《さ》けきれないでしょう?」
銃を構えているリチャードにも、気負《きお》いや力《りき》みのようなものはまったくない。
ただ、鋼鉄の銃口だけが揺《ゆ》らぎもせずに、アーレンの側頭部を見つめている。
「撃てればな」
「撃ちますよ。でも、その前に――彼女は、どこです?」
「それを訊《き》いてどうする?」
「復讐《ふくしゆう》、ですよ」
「復讐……ね。妹の仇《かたき》でもとるつもりか? それとも、捨てられた恨《うら》みを晴らすのか?」
リチャード・ロウの瞳《ひとみ》に、一瞬《いつしゆん》だけ炎《ほのお》のような感情が浮かびあがった。
引き金が絞《しぼ》られ、撃鉄《げきてつ》が降りた。
銃声は、鳴らなかった。
弾倉《だんそう》は空だったのだ。
「やはり、撃てなかったな」
アーレンが、悠然《ゆうぜん》と笑う。彼は、身じろぎ一つしなかった。
「あなたはまだ質問に答えてませんから――でも、次は撃ちますよ」
「ふむ……」
アーレンは、少し困ったような表情を浮かべる。
「彼女の目的は、なんです? あなたが、この街にきた本当の理由は?」
「感傷……かもしれんな」
思いがけないアーレンの言葉に、リチャード・ロウは眉《まゆ》をひそめた。
「……どういう意味です?」
「いや……そんなふうに考えてしまうことが、感傷か」
アーレンは独《ひと》り言《ごと》のようにつぶやくと、はじめてリチャードのほうを向いた。
いつもの皮肉げな口調で続ける。
「クリス、一つだけ教えてやる。彼女は、お前や香澄《かすみ》を捨てて、俺《おれ》たちを選んだわけじゃない。彼女が本当に生き延びて欲しいと思っているのは、お前たちのほうかもしれないんだぜ」
「それは、選ばれた者の優越感が言わせる台詞《せりふ》ですよ、アーレン。虫酸《むしず》が走ります。あなたたちレベリオンの特権意識にも、おためごかしの言い訳にもね」
「そう思うのは、貴様が彼女の本当の目的を理解していないからさ」
アーレンは、グラスに残されていたバーボンを一気にあおった。
顔色一つ変わらぬ己の姿に、少しだけ寂しそうな表情を浮かべる。
レベリオン化したアーレンの肉体は、アルコールを常人の何十倍もの速さで分解してしまう。
酔《よ》いに身を任せることすらできないのは、進化しすぎた者の悲劇であろう。進化とは、常に進歩であるとは限らない。
「嘘《うそ》だと思うのなら、まず貴様の組織を調べてみるがいい。たかが新種のレトロウィルスごときを最高機密として秘匿《ひとく》している理由。貴様ら統合計画局《とうごうけいかくきよく》に、無尽蔵《むじんぞう》に近い予算と強大な権限が与えられている理由。それがわかれば、おのずと彼女の目的もわかるだろうさ」
そう言い残して、アーレンは席を立った。
財布《さいふ》から札《さつ》を二、三枚抜き出して、適当にカウンターに置く。外国暮らしのクセが、まだ抜け切れていないのだ。ジャズの演奏は、続いている。
「……待ちなさい、アーレン」
リチャード・ロウは、彼の背中に拳銃を向けたまま言った。次は撃つと言ったのは脅《おど》しではない。わざと抜いてあった初弾以外は、きちんと装損《そうてん》されている。
アーレンは、それを無視して冷ややかに続けた。
「……クリス、貴様は今も神を信じているか?」
「ええ……私にはもうほかに何も残されていませんから。あなたは、無神論者でしたね」
「いいや……俺《おれ》も信じているさ。やつらが存在するということはな」
「宗旨《しゆうし》替えですか? 意外ですね……」
リチャード・ロウは、銃を降ろす。
最初から、ここで彼を撃つ気はなかった。せっかくの演奏を、無粋《ぶすい》な銃声で邪魔《じやま》することもあるまい。
「そうでもないさ」
アーレンの銀髪が揺《ゆ》れる。その口元に獰猛《どうもう》な笑みが浮かんでいた。
「その神を殺すことが、この俺《おれ》の目的なんだからな」
見慣れない病室で、恭介《きようすけ》は目を覚ました。
外は暗かったが、窓越しに鳥の鳴き声や車の音が聞こえた。夜明けが近いのだろう。
白い天井《てんじよう》を見上げながら考えたのは、前にも一度似たようなことがあったということだった。
あれは、はじめて香澄《かすみ》と出会った夜だ。
重傷を負った恭介を、彼女は自らも負傷した状態で助けてくれたのだった。そして、今回も。
「結局……何も変わっちゃいないってことか……」
声を出さずに、恭介はつぶやく。
あの日――親友を目の前で死なせてしまったあの事件から、なにかが変わったと思っていた。
レベリオン化した己の身を疎《うと》ましく思いながら、その一方で知らぬうちに慢心《まんしん》していた。力を手に入れたつもりになっていた。
だが、同じだった――自分一人の力では、誰《だれ》一人守ることができない。
唇《くちびる》を噛《か》みながら上体を起こすと、恭介の頬《ほお》を水滴《すいてき》が流れた。
目の前に、そっとハンカチが差し出される。
顔を上げると、常夜灯《じようやとう》の下で佇《たたず》んでいる香澄と目が合った。恭介はあわてて頬を拭《ぬぐ》う。
「……仲神《なかがみ》昭《あきら》には逃げられたわ」
先に口を開いたのは香澄だった。
「あなたのブラスティング・ハウルの轟音《ごうおん》を聞きつけて、人が集まってくるのを恐《おそ》れたみたい」
「やつは、やはりレベリオンだったんだな?」
恭介の質閲に、香澄は黙《だま》ってうなずく。無機質な病室の天井《てんじよう》を見上げて、恭介は嘆息《たんそく》した。
「あたしが駆《か》けつけたときには、あなたと美古都《みこと》さんが折り重なるようにして倒れていたわ。血まみれでね」
「……美古都は?」
掠《かす》れた声で、恭介が訊《き》いた。身体中《からだじゆう》に巻かれた包帯《ほうたい》が邪魔《じやま》で動きにくい。
「無事よ」
香澄が慣れた手つきで、恭介の腕に刺《さ》さっていた点滴《てんてき》の針を外す。レベリオン化した恭介の肉体は、人間離れした治癒力《ちゆりよく》を持つが、そのためには外部からのエネルギー補給が欠かせない。
負傷して意識を失った恭介《きようすけ》を、彼女がずっと看《み》ていてくれたのだろう。
「手術を終えて、今は麻酔《ますい》が効いて眠《ねむ》ってる。草薙《くさなぎ》さんが、ついてくれているわ」
「草薙が?」
「ええ。昨夜《さくや》から泊まりがけで」
郁哉《いくや》が行方《ゆくえ》不明になった現状では、美古都《みこと》の肉親は日本にはいない。それを知っている萌恵《もえ》は、無理をして病院に泊まり込んだのだろう。昨日《きのう》の夜、彼女は美古都に会うために恭介の家を訪れることになっていた。
「あなたのことも心配していたわ。杏子《きようこ》さんが、なんとかごまかしてくれたけど。あとで顔を見せてあげてね」
「ああ……」
恭介は、全身いたるところを覆《おお》った包帯《ほうたい》を強引《ごういん》にほどいていく。
すでに傷口は完全に癒着《ゆちやく》し、再生を終えていた。痛みもない。レベリオン化した肉体は、条件さえ整えば破壊された心臓すら再生してのけるのだ。普通の人間では、こうはいかない。
「美古都の傷は?」
「左肩《ひだりかた》を銃弾《じゆうだん》のようなもので撃ち抜かれていたわ。傷は急所をはずれていたけど、出血がひどかったから、しばらくは安静にしておかないと……いったい何があったの?」
「アーレン・ヴイルトールって男だ。美古都は、俺とやつの戦闘に巻き込まれた」
「アーレン!?」
香澄《かすみ》の肩《かた》が撥《は》ねた。振り返った彼女の瞳《ひとみ》が、恭介を凝視《ぎようし》する。
「彼が……彼がこの街に来ているの?」
「知ってるのか? 何者だ、あいつ?」
「統合計画局《とうごうけいかくきよく》のエージェントだった男よ……二年前の、R2ウィルス流出事故の首謀者《しゆぼうしや》の一人と言われているわ。彼と戦って、よく無事で……」
香澄の声は震《ふる》えていた。彼女が必死で感情を抑制しようとしているのが、恭介にもわかった。
「無事じゃねえだろ」
恭介は、包帯だらけの自分の腕《うで》を掲げてみせる。
だが香澄は、うつむいたまま首を振った。
「統合計画局を脱走するとき、彼は六十人以上の警備兵を皆殺しにしているわ。彼を抹殺《まつさつ》するために派遣《はけん》されたレベリオンの特捜官《とくそうかん》も、これまでに四人が返り討《う》ちにあってる」
「ろくでもねえオッサンだな……」
恭介は、今さらながらに相手の恐《おそ》ろしさを痛感する。
アーレンは、レベリオンである以前に一流の暗殺者だった。もし彼が最初から恭介を殺すつもりだったならーそう思うだけで背筋が凍《こお》る。
「あなたの負傷は、アーレンの仕業《しわざ》だったのね」
「ああ……たぶんな」
暖味《あいまい》な恭介《きようすけ》の答えに、香澄《かすみ》が首を傾《かし》げた。
意識を失う直前の記憶を確かめるように、恭介はゆっくりと説明する。
彼が待ち伏せていたときの状況や、彼が使った指弾《しだん》のこと。
そして恭介のトランスジェニック能力が、彼には通用しなかったこと――
「なるほど……ね」
恭介の話を聞き終えた香澄の答えは明快だった。
「恭介……あなたのブラスティング・ハウルが効かなかったのは、アーレンのトランスジェニック能力のせいではないわ」
「なんだって?でも、現に……」
「反響、よ」
「反響?」
淡々《たんたん》と告げる香澄を、恭介は訝《いぶか》しげに見返した。
「反響って、音が反射して帰ってくるあれか?」
「そう……アーレンは、四方をコンクリートで覆《おお》われた狭《せま》い通路の奥に立っていた。その彼に向かって放ったブラスティング・ハウルの衝撃波は、反射し、増幅《ぞうふく》されて、通路の出口に立っていたあなたへと帰ってきた」
恭介は、包帯《ほうたい》をほどく手を休めて考え込んだ。
ダメージを受けたのは、たしかに恭介自身が破壊衝撃波を放った直後だった。アーレンは、ただ恭介を挑発しただけだ。むしろ、恭介が能力を使うのを待っていたようにも思える。
「瓶《びん》の中に、思いっきり息を吹き込んだのと同じよ。風圧は、そのままの勢いで息を吹き込んだ人間へと跳《は》ね返ってくる。けれど通路の中央にいたアーレンは、前後左右から押し寄せる衝撃波が相殺《そうさい》しあって結果的に影響を受けない。彼は、そうなるように計算して、あの渡り廊下《ろうか》を戦場に選んだのね」
「あ……の野郎《やろう》……」
恭介は、自分が病院にいることも忘れて大声を出した。
「何が、俺《おれ》には用はない、だ。めちゃめちゃ意識してやがるじゃねえか!」
アーレンが、あの寒々しい渡り廊下で待っていた理由もそれでわかった。ブラスティング・ハウルを封じるためには、狭く強固な密閉空間が必要になる。彼は、大温室で恭介と戦うわけにはいかなかったのだ。
「そう……ね」
香澄が同意するようにうなずいた。
「彼は、最初からあなたの能力を警戒《けいかい》していた。だから、あえて攻撃に耐えてみせることで、自分にはブラスティング・ハウルが通用しないというイメージを植えつけたのよ」
「せこいまねしやがって……なんだってそんな面倒なことを」
恭介《きようすけ》が、自分の右拳で左の掌《てのひら》を殴《なぐ》った。単なる敗北ではなく、弄《もてあそ》ばれたという屈辱感《くつじよくかん》がある。それは美古都《みこと》を守りきれなかった自分自身に対する怒りでもあった。
「理由の一つは、あなたの身体《からだ》に能力を使うことへの恐怖感《きようふかん》を植えつけるためでしょうね」
「恐怖感?」
「ええ。トランスジェニック能力の制御《せいぎよ》は、極めて微妙《びみよう》なバランスで行われているわ。本来、人間が持っていない能力を、無理やりに扱ってるんだから当然だけど。だから、ちょっとしたきっかけで、その能力を一時的にせよ使えなくなってしまう可能性があるの」
「……事故に遭《あ》ったスポーツ選手が、無意識に怪我《けが》した場所をかばってフォームを崩《くず》してしまうようなものか……」
恭介は、自分ののどに触れてみる。もちろん今は違和感《いわかん》を感じない。だが、逆流したブラスティング・ハウルへの恐怖が身体に刻み込まれているとしたら――実戦でもう一度、衝撃波を放てるかどうかはわからない。
「もう一つの理由は、おそらく――自分のトランスジェニック能力を、あなたに知られたくなかったんでしょうね」
「やつの能力って……知らされてないのか? あいつ、統合計画局《とうごうけいかくきよく》にいたんだろ?」
恭介は怪訝《けげん》に思って訊《き》き返した。アーレンが香澄たちの組識に所属していたレベリオンならば、その能力に関する資料も残っているはずだと思ったのだ。
だが、香澄は硬《かた》い表情で首を振った。
「彼の能力に関するデータは、なにも残ってないわ。それを知っていた人間は、すでに全員が死んでいる」
「……殺されたのか?」
香澄は無言でうなずく。恭介は目を覆《おお》った。
「なんてこった……」
「でも、指弾《しだん》なんてものを使っているところから想像して、直接攻撃力をもたないタイプの能力である可能性が高いわね。たとえば、江崎《えざき》志津《しづ》のアロマティックスのような」
「いや、違うな……」
恭介が不機嫌《ふきげん》な声を出す。
「あいつが指弾を使ったのは、俺を殺すためじゃない。手加減するためだ」
「え?」
「自分の能力を使えば必ず俺が死ぬと知って、手ェ抜いてやがったんだよ、あの野郎《やろう》は!」
根拠《こんきよ》はないが、それは確信だった。
アーレンは、恭介を殺したくないと言った。だから彼は自分の能力を使わなかったのだ。
彼のカは、おそらくブラスティング・ハウルと同等か、あるいはそれ以上に破壊的な能力だ。
「待って、恭介《きようすけ》。あなたを殺す気がなかったのなら、どうして彼はあなたに接触してきたの?」
「やつは、美古都《みこと》を狙《ねら》ってた」
「……え!?」
「美古都の本当の価値を、俺《おれ》たちはわかってない……やつは、そう言った」
「……どういうこと?」
「知るかよ」
アーレンの言葉を聞いたとき、恭介の脳裏《のうり》に浮かんだのは、美古都がすでにR2ウィルスに感染しているという可能性だった。だがレベリオンには、超人的な治癒力《ちゆりよく》という特徴がある。
負傷して手術まで受けた彼女が、レベリオン化しているはずがない。
「でも……それでわかったわ」
「え?」
「アーレンが、目的を果たさずに帰った理由。あなたが二回目に力を使おうとしたとき、美古都さんは、あなたの傍《そば》にいたでしょう?」
「そう……か」
恭介が再びブラスティング・ハウルを放てば、反響した衝撃波が今度は美古都を巻き込んでしまう。それに気づいて、アーレンは通路の外に出たのだ。
「理由はともかく、彼が美古都さんを狙っているというのは嘘《うそ》じゃなさそうね。だとすれば、彼女はまた襲われる可能性があるわ」
「くそっ……」
恭介はベッドを殴《なぐ》りつける。
「仲神《なかがみ》といい、アーレンといい……なんだって美古都を狙う? あいつが、いったい何をしたっていうんだ!?」
「落ち着いて、恭介」
香澄が冷たく言い放った。
「落ち着いてられるかよ! 郁哉《いくや》さんは行方《ゆくえ》不明で、美古都まで怪我《けが》して……おまけにアーレンの野郎《やろう》にはコケにされて――」
「あなたが焦《あせ》っても、何も解決しないわ」
恭介は、むっとして黙《だま》り込んだ。だが、彼女のいうとおりだった。すべてを見透《みす》かしたように行動するアーレンたちに対して、恭介はあまりにも無力だ。何も言い返すことができない自分がもどかしい。
子どものように拗《す》ねる恭介をみて、香澄がお姉さんぶったため息をついた。
それと同時に、恭介の腹が鳴った。戦闘で大量のエネルギーを放出した肉体が、さっそく空腹を訴えている。
「果物《くだもの》……食べる?」
「え?」
「お腹《なか》空《す》いてるでしょ?」
香澄《かすみ》が立ち上がって、ベッドの横に置かれていたフルーツバスケットを引き寄せた。
「これ……どうしたんだ?」
「杏子《きようこ》さんが持ってきたの。よその患者《かんじや》さんがもらったお見舞いだって」
「そんなの勝手に持ってきたら怒られるだろ」
「いいんじゃない? その患者さん、さっき亡くなったそうだから」
「あ……あの女は……」
頭を抱《かか》えた恭介《きようすけ》を見て、香澄がくすっと笑った。
着替えた彼女は、シンプルなワンピースに大判のストールを羽織《はお》っている。ベッドの横に座ってリンゴを剥《む》いている姿は、ごく普通の女の子のようだ。果物ナイフの代わりに、軍用のスローイング・ダガーを使っているのも、ご愛敬《あいきよう》といったところか。
肉体の存在を感じさせない水晶|細工《ざいく》のような面立ちに、今はうっすらと隈《くま》が浮かんでいた。
自分も戦って疲れているはずなのに、徹夜《てつや》で恭介についていてくれたのだ。
それに気づく余裕《よゆう》すらなかった自分に、恭介は少し腹が立った。
「あのさ……香澄」
「なに?」
香澄が顔をあげた。彼女の栗色《くりいろ》の髪が、薄明《はくめい》の中で揺《ゆ》れた。
言いたいことはたくさんあった。謝《あやま》らなければいけないことも。
自分の感情に振り回されて、彼女を苦しめたこと。彼女を泣かぜたこと。それになにより、ありがとう、と伝えたかった。だが、口をついて出たのは違う言葉だった。
「……お前さ、実は料理ヘタだろ」
「う……」
危《あぶ》なっかしい手つきでナイフを使っていた香澄は顔を赤くして、でこぼこになったリンゴを投げつけるふりをした。
「悪かったわねっ!」
沢渡美古都の個室は、高城《たかじよう》医大付属病院の最上階に準備されていた。もっとも警戒《けいかい》が厳重《げんじゆう》な、VIP用の病室だ。米国防総省《べいこくぼうそうしよう》を背後に持つ統合計画局《とうごうけいかくきよく》は、国営施設に対して圧倒的な影響力を持つ。
ドアをノックすると、草薙《くさなぎ》萌恵《もえ》が顔を出した。
一睡《いつすい》もしていないのか、目が少し赤い。学校帰りに美古都《みこと》の負傷を知った彼女は、制服姿のままだった。
「緋村《ひむら》くん……怪我《けが》は?」
包帯《ほうたい》はおろか絆創膏《ばんそうこう》すら巻いていない恭介《きようすけ》を見て、萌恵《もえ》は驚いたようだった。信じられない、という表情を浮かべる。
「いや。俺《おれ》の傷は、たいしたことなかったから」
下手《へた》な言い訳は逆効果だと思って、恭介はさらりと受け流した。
萌恵は戸惑《とまど》っていたが、それでもほっとしたように胸の前で手を合わせた。
「美古都は?」
「……まだ眠《ねむ》ってる」
静かにね、と身振りで示しながら、萌恵は恭介を病室に招《まね》き入れる。
空《あ》いている付き添い用のベッドに、二人は並んで腰《ごし》を降ろした。
分厚《ぶあつ》いカーテンの隙間《すきま》から、陽光がうっすらとこぼれている。夜が明けたようだった。
「草薙さん、学校は?」
「……今日は休む。古都《こと》ちゃんが目を覚ましたときに、知っている人が誰《だれ》もいないなんて、かわいそうだもの」
「そうだな……」
恭介はうなずいて、美古都の寝顔をみつめた。麻酔《ますい》が効いているのか、彼女の寝顔は安らかだった。艶《つや》やかな黒髪が、枕《まくら》の上に散っている。
狙《ねら》われているのは彼女のほうだ。
アーレンが告げた言葉が、はじめて実感として感じられた。それは、耐え難い重さで恭介の心を締めつけた。
「何が、あったの?」
しばらくの沈黙《ちんもく》のあとで、萌恵が訊《き》いた。
「ただの喧嘩《けんか》じゃないんでしょう? 緋村くんは、あんな傷だらけになって……古都ちゃんも撃たれたような傷を負って……いったい、何が……」
萌恵の口調は穏《おだ》やかだったが、その目は恭介を真《ま》っ直《す》ぐに見ていた。
彼女の瞳《ひとみ》は優しく、それゆえに容赦《ようしや》がなかった。恭介は、目を逸《そ》らすことさえできなかった。
恭介は、ふと彼女にすべてを打ち明けたい衝動《しようどう》に駆《か》られた。
それは、強烈《きようれつ》な欲求だった。恭介は、小柄《こがら》な萌恵が芯《しん》に秘めた強さを知っている。杏子《きようこ》や香澄《かすみ》にさえぶつけられなかったやり場のない苦悩も、彼女になら話せるような気がした。
だが恭介は、その誘惑《ゆうわく》をどうにか断ち切った。レベリオンの存在を知れば、萌恵の身にも危険が及ぶ。彼女を巻き込むことだけはできない。絶対に。
「ごめん……」
ようやく絞《しぼ》り出したのは、その一言だけだった。彼女の瞳《ひとみ》を見てしまっては、ごまかすことも、嘘《うそ》をつくこともできなかった。
萌恵《もえ》は、それだけですべてを察したのだろう。寂しげに微笑《ほほえ》んで目を伏せた。
「なにか……わけがあるのね?」
恭介《きようすけ》はなにも言わなかった。その沈黙《ちんもく》が、答えだった。
萌恵はそれ以上追求しようとせず、静かな口調で訊《き》いた。
「いつか……話せるときがきたら、あたしにも説明してくれる?」
「するよ……約束する」
「ありがとう」
萌恵が、ふわりと微笑む。緊張がほどけ、いつもの柔らかな空気が彼女を包んだ。
美古都《みこと》は眠《ねむ》り続けていた。麻酔《ますい》と鎮痛剤《ちんつうざい》の効果で、お昼近くまでは眠り続けるらしい。
美古都の寝顔を見ながら、萌恵がぽつりと口を開く。
「でも……悔《くや》しいな」
「え?」
「古都《こと》ちゃんが、こんなつらい目に遭《あ》ってるときに、あたしだけ何もしてあげられなくて悔しい」
「そんなこと……ないだろ」
恭介は、思っていることをそのまま言った。
「美古都だって草薙《くさなぎ》さんがいてくれるだけで、どんなに救われてるか」
「ううん――それは逆。古都ちゃんに救ってもらったのは、たぶん、あたしのほうだもの」
恭介は振り返って、自分が彼女と美古都の関係について何も知らないのだと気づいた。
「あたしが、いじめられていたって話、したことあったよね」
忌《い》まわしいはずの過去を、萌恵はさらりと口にする。
「……今にして思うとね、あのころのあたしは、自分のことが怖《こわ》かった。世界中の人が、知らないところであたしを嫌《きら》っているような気がして、自分のことが信じられなかった。そんなふうに思っていたら、ますますいじめられるってわかってたのにね」
でもね、と萌恵は首を振った。
「そんなときに、彼女と出会ったの」
「……美古都と?」
「うん。彼女は、あたしのことをすごく心配してくれたの。そのころは自分も学校で孤立していたはずなのにね。でも、それがどれだけ救いになったかわからない。彼女がいてくれなかったら、今ごろあたしはここにいなかったかもしれない」
「わかる、ような気がするよ」
恭介は眠っている美古都に目を落とした。
「こいつ……俺《おれ》をかばったんだ」
つぶやいた恭介《きようすけ》に、萌恵《もえ》が瞳《ひとみ》を向けた。
「……美古都《みこと》が怪我《けが》をしたのは、俺のせいだ。俺の代わりに撃たれたんだ」
恭介の声が震《ふる》えた。鮮血をまき散らして倒れる美古都の背中が、脳裏《のうり》にはっきりと甦《よみがえ》る。
彼女は見ていたはずだ。恭介の身体《からだ》が変貌《へんぼう》し、人外の力を振るうところを。
それでも美古都は、恭介をかばった。自分の身体を犠牲《ぎせい》にして。昔から彼女はそうだった。
「……だから今度は、俺が美古都を助ける。これ以上は、誰《だれ》にも傷つけさせない」
「そう……」
萌恵が、恭介を心配そうに見つめる。
「でもね、古都《こと》ちゃんが緋村《ひむら》くんをかばった理由を忘れないで。また緋村くんが無茶《むちや》をしたら、悲しむのは彼女だからね」
思いがけない萌恵の言葉に、恭介は不意をつかれた気分だった。ぎこちなくうなずいて、それからふと訊《き》いてみる。
「草薙さんは?」
「え?」
「草薙さんも悲しんでくれるかな?」
「当たり前でしよ」
萌恵は本気で怒ったように恭介を睨《にら》んだ。恭介は彼女に微笑《ほほえ》んで立ち上がる。
今の一言でどれだけ自分が救われたか、彼女にはきっとわからないだろう。それでいい、と恭介は思った。レベリオン化した自分の運命に納得はできないし、アーレンに対する恐怖もある。だけど今は彼女の言葉だけで十分だった。それだけで、もう一度戦える。
不思議そうな表情を浮かべた萌恵に、またあとで、とだけささやいて病室を出る。
扉《とびら》を閉めて何歩も歩かないうちに、廊下《ろうか》の突き当たりにいた白衣の女性と目があった。壁にもたれて、黙《だま》って煙草《たばこ》をふかしている。
「また立ち聞きかよ?」
恭介が言うと、緋村《ひむら》杏子《きようこ》はにやりと唇《くちびる》を歪《ゆが》めた。
「なによ。せっかく人が気を利かせて二人きりにしてやった礼が、その言い種なわけ?」
「……なんだよ、気を利かせてってのは?」
恭介が低い声で訊《き》き返す。杏子は素知らぬ顔で、
「なかなか可愛《かわい》い子ねえ」
「な……」
言い訳するより先に、恭介の頬《ほお》が赤くなった。
「でも、あの子、見た目よりずっとしっかりしてるわよ。あんたの手には余《あま》るんじゃない?」
「うるせえな、知ってるよ」
「ふうん」
杏子《きようこ》はにやにやと楽しそうだ。どうやら、何もかもお見通しのようだ。いつものことだが。
「で、なんの用だよ?」
恭介《きようすけ》が、まだ少し上擦《うわず》った声で訊《き》く。
「べつに用ってほどのもんでもないけどね」
杏子は煙草《たばこ》をもみ消して、親指で足下に置いたトランクを指した。見るからに頑丈《がんじよう》な造りの長方形のトランクだ。形や大きさはカメラバックに似ているが、それよりもずっと重量感がある。ところどころはげた白いペンキからのぞく地肌《じはだ》は、鉛色《なまりいろ》の鈍《にぶ》い光を放っていた。
トランクの側面に描かれた、黄色と黒のマークを見て恭介は驚く。
「アーレンとやりあうつもりなんでしょ。持っていきなさい」
「アーレン? なんで姉貴があいつの名前を知って……」
「香澄《かすみ》ちゃんなら、これの使い方がわかると思うわ」
「……姉貴、おい……これって、まさか……」
恭介の質問には答えず、杏子が笑った。彼女が時折見せる、もっとも魅力的《みりよくてき》な表情。攻撃的な笑顔。恭介は気圧《けお》されて、それ以上なにも言えなくなる。
「恭介、あたしがあんたにチャンスをあげる」
彼女は白衣を翻《ひるがえ》すと、恭介に背中を向けた。
「あの気障《きざ》男の泣きっ面《つら》を拝《おが》むチャンスをね」
三時間ほど仮眠をとったところで、電話が鳴った。
香澄は、寝癖《ねぐせ》がついた前髪を気にしながら、病院の駐車場へと向かう。
昨日《きのう》までの穏《おだ》やかな天気が嘘《うそ》のように、冷たい風が吹いていた。吐《は》く息が白い。午後からは雪になると、看護婦たちが噂《うわさ》していた。
リチャード・ロウのBMWは、地下駐車場の目立たない場所にひっそりと停まっていた。香澄は周囲を確認して、後部座席に素早く乗り込む。
飾り気のないリアシートには、綺麗《きれい》に束ねられた銀色のワイヤーロープが置かれていた。
「注文の品です、カスミ」
運転席のリチャード・ロウが、振り返らずに言った。
「破断強度も、延性率も、あなたの要求どおりの性能を満たしているはずです。重量は試作品の約八十パーセント。現在の技術力では、それが限界でした」
「ありがとう、リック・ロウ。十分です」
香澄は礼を言って、ワイヤーロープの端《はし》を持ち上げる。高張力《こうちようりよく》合金で造られた一体成形の握《にぎ》り部分は、彼女の手に吸いつくようにぴったりとなじんだ。
「忘れないでください、カスミ。威力《いりよく》が大きければ大きいほど、あなたの肉体にかかる負担も増加します。多用は禁物ですよ」
「ええ……わかっています」
リチャード・ロウの言葉に、香澄《かすみ》はかすかに微笑《ほほえ》んだ。彼が、自分の心配をしてくれたのが意外だった。
リチャードの態度は、普段と何も変わらない。丁寧《ていねい》で優しく、そして機械のように冷静で無感情だ。だが、それが彼の本質ではないことを、香澄は最近になって気づいていた。
リチャード・ロウという男は、超人的な精神力をもって感情を殺し、自らを任務を果たすための機械へと近づけようとしている。その自制心にかすかな綻《ほころ》びが生じたとしたら、それはアーレン・ヴィルトールが姿を現したことと無縁《むえん》ではあるまい。
「なにか……おかしかったですか?」
香澄の微笑《びしよう》に気づいて、リチャードが訊《き》いた。
「いえ……似合わない、と思っただけです」
そう言って香澄はごまかした。指差したBMWの助手席には、黒いナイロン地のギターケースが置かれていた。
「やむを得ません。適当な大きさのゴルフバッグが手に入らなかったものですから」
照れた様子《ようす》もなく、リチャードは答えた。
青く深い、聖職者にも似たリチャードの瞳《ひとみ》は、今はグリーンのシューティング・グラスに覆《おお》われている。先ほど感じた違和感《いわかん》は、そのせいなのかもしれない。
「アーレン・ヴィルトールのトランスジェニック能力について、何かわかりましたか?」
香澄の質問に、リチャード・ロウは首を振った。
「目新しい情報はありません」
「では、彼と遭遇《そうぐう》した場合、あたしたちの判断で行動してかまいませんね?」
香澄が訊いた。エアコンの利いていない暗い車内は、寒かった。
「いえ……その必要はありません。あなたたちは、彼の注意を惹《ひ》いてくれればそれでいい」
リチャードの答えは、簡潔だった。
「彼は、私が倒します」
左手で抱《かか》えたワイヤーの束は思ったよりも軽く、少し頼《たよ》りないくらいだった。
走り去るリチャードのBMWを見送って、香澄は病院の中庭に出た。
雪が、ちらつきはじめていた。外来の患者《かんじや》や見舞客は、コートの前を合わせて震《ふる》えている。
ビルの隙間《すきま》を縫《ぬ》って吹きつける風が痛かった。白亜《はくあ》の建物を見上げて、香澄はため息をつく。
病院は、嫌《きら》いだった。
統合計画局《とうごうけいかくきよく》の研究所時代を思い出す。それに、もっと昔の、病弱だった子どものころも。
お見舞いの花束を持った小さな姉妹が、ホールではしゃいで母親に怒られていた。
その光景が、香澄《かすみ》の古い記憶を呼び起こす。
「そういえば……姉さんが一度だけお見舞いにきてくれたことがあったわね」
香澄の姉は優《すぐ》れた人間だった。十二|歳《さい》で博士号を取得し天才少女と呼ばれた香澄だが、姉に勝ったと思ったことは一度もない。彼女は、本物の天才だった。
彼女は香澄に優しかった。
だが香澄は最後まで、恭介が杏子《きようこ》に抱いているような無条件の信頼感を、姉に対して感じることができなかった。それは、ある種の予感だったのかもしれない。
その予感は、当たったといってもいいだろう。
二年前のあの日、彼女は香澄の――いや、人類の敵《てき》になったのだから。
香澄は、ふいに足を止めた。
病棟へと向かう見舞客の中に、若い男が混じっていたのだ。
ほっそりとした体型の、黒髪の男。この寒空の下、コートも羽織《はお》らずにたたずんでいる。
遠目にもはっきりとわかる繊細《せんさい》な顔立ちをしていたが、とりたて目立つ男ではなかった。それなのに香澄が目を留めたのは、その顔に見覚えがあったからだ。
「――沢渡《さわたり》郁哉《いくや》!」
統合計画局の資料で見た写真とはかなり外見が変わっていたが、間違いなかった。兄妹だけあって、美古都《みこと》と雰囲気《ふんいき》がよく似ている。
香澄の叫び声が聞こえたわけではないだろうが、沢渡郁哉は歩き出した。幽鬼《ゆうき》のように存在感の希薄《きはく》な足取りで、病院の外へと向かっていく。
「待って――待ちなさい!」
香澄は、彼を追って駆《か》けだそうとした。
「――!」
その刹那《せつな》、猛烈《もうれつ》な悪寒《おかん》が背中を駆《か》け抜けた。ちりちりと、不快な臭《にお》いが鼻をつく。
それがガソリンの匂《にお》いだと気づくより早く、香澄は手近にあった柱の陰へと飛び込んだ。
一瞬《いつしゆん》遅《おく》れて、轟音《ごうおん》が轟《とどろ》く。音は、物理的な衝撃《しようげき》と化して無差別に周囲を襲《おそ》った。
熱風と爆煙が、病院の中庭を包んだ。爆心地は、中庭にある駐輪場だった。びしめきあって停められていたバイクが、連鎖的《れんさてき》に燃え上がって爆発したのだ。
猛烈《もうれつ》な熱気に包まれて、呼吸ができなくなる。砕《くだ》け散った窓ガラスが、香澄の周囲にも降り注いだ。飛び散ったガソリンに引火《いんか》して、火災《かさい》は病院の中庭全体に広がろうとしていた。
「この手口……インコグニート!?」
押し寄せる熱風に翻弄《ほんろう》されながら、香澄は愕然《がくぜん》とする。
だが、間違いなかった。何の前触れもなくバイクを爆発させるこの手口には、見覚えがある。
仲神《なかがみ》たちを狙《ねら》っていたはずのインコグニートが、姿を現したのだ。よりによって美古都《みこと》の入院しているこの病院に。しかも沢渡《さわたり》郁哉《いくや》らしき人物とほぼ同時に。
「くっ……」
香澄《かすみ》の肉体は、爆発の衝撃から立ち直りつつあった。感覚が研《と》ぎ澄《ず》まされ、全身に力がみなぎる。ファージ変換――危険を感知したレベリオン細胞が、本来の能力を解放したのだ。
香澄は、郁哉のあとを追って、ためらうことなく燃えさかる炎《ほのお》の中へと飛び込んだ。
駐輪場にあったのが、燃料タンクの容量が少ないスクーターばかりだったのが幸いした。爆発の規模そのものは、先日の廃校舎のときより遥《はる》かに小さい。
香澄は火傷を負うこともなく、炎の壁をくぐり抜けた。風上に立って、周囲を見渡す。
だが、プラスチック類や焼ける特有の匂《にお》いと黒煙に阻《はば》まれて、郁哉の居場所はつかめない。
と――
「なっ!?」
ひゅん、と空気を切り裂《さ》く音を残して、香澄の耳元を金属片がかすめた。
弾丸かと思ったが、そうではない。もっと、大きくて無骨《ぶこつ》な金属の塊《かたまり》だ。
それが、二発、三発と立て続けに撃ち込まれる。
もはや疑う余地はなかった。インコグニートは、香澄を狙《ねら》っている。
「この――っ!」
飛来する金属の塊を、香澄はスクリーミング・フィストで叩《たた》き落とした。
地面に転《ころ》がったものをみて、香澄は驚く。撃ち込まれた弾丸の正体は、バイクから飛び散ったボルトやベアリングなどの部品だったのだ。何の変哲《へんてつ》もないパーツが、まるでライフル銃で射出《しやしゆつ》されたように高速で飛来して、香澄を襲《おそ》ったのである。
黒煙がもうもうと立ちこめ、視界は悪い。その状態で攻撃をかわし続けるのは、香澄の力をもってしても容易ではなかった。香澄は歯がみしながら建物の影に隠《かく》れる。この煙の中では、射手《しやしゆ》の位置を特定することすらできない。
さらに十数発の弾丸を撃ち込んだところで、インコグニートの攻撃は終わった。
燃えやすいパーツはほとんど燃え尽きてしまったらしく、駐輪場の火災は衰えつつある。
黒煙も晴れてきていたが、暗殺者の気配もすでに消えていた。
香澄は、唇《くちびる》を噛《か》みながら戦闘姿勢を解いた。周囲を見回す。またしても何の手がかりもつかめなかった。それが、無性《むしよう》に悔《くや》しかった。
破壊されたバイクの様子《ようす》も不可解だった。
燃えやすいはずの樹脂部品ではなく、燃料タンクの暦囲だけが異常なまでにダメージを受けている。ガソリンが、タンクの中でいきなり気化して燃え上がったとしか思えない。奇妙《きみよう》な現象だった。
火災《かさい》が落ち着いてきたこともあって、駐輪場の周囲には野次馬《やじうま》が集まりはじめていた。
爆発に巻き込まれた人間も少なくないが、重傷を負った者はいないようだ。近くに通行人がいなかったのが幸運だった。どこかで子どもの泣き声が聞こえたが、それは単に爆発に驚いただけらしい。
「香澄《かすみ》ちゃん!」
柱の陰《かげ》に戻《もど》って服についた煤《すす》を払っていると、誰《だれ》かに名前を呼ばれた。
振り返ると、草薙《くさなぎ》萌恵《もえ》が立っていた。
走り回っていたのか、彼女の息が弾《はず》んでいる。顔色が悪い。
常の彼女に似ず、うろたえている様子《ようす》だった。単に、爆発に驚いただけではなさそうだ。
「……どうしたの?」
香澄が訊《き》く。萌恵は、震える声で言った。
「古都《こと》ちゃんを見なかった?」
「え?」
香澄は意味もなく訊《き》き返した。さっき見た沢渡《さわたり》郁哉《いくや》の姿が脳裏《のうり》をかすめる。
すでに状況は理解していたが、認めるのが怖《こわ》かった。途切れ途切れに萌恵が続ける。
「いなくなったの……看護婦さんの話だと、まだ麻酔《ますい》が効いているはずなのに」
「……そん……な」
香澄は燃え残る炎《ほのお》を振り返って呆然《ぼうぜん》とつぶやいた。
立ちつくす二人を嘲笑《あざわら》うように、雪が勢いを増した。
[#改ページ]
第六章
「そこにすべての答えが」
Thuunder HEAD
こびりついた雪で視界の悪くなったヘルメットを、恭介《きようすけ》は乱暴に脱《ぬ》ぎ捨てた。
気温が低いせいで、キャブレターの調子が悪い。回転数の安定しないエンジンを切って、その余熱を惜《お》しみながらバイクを降りる。
マンションの前には、すでに香澄《かすみ》のランドクルーザーが停まっていた。十二階建ての、わりと高級な分譲マンションである。その八階に沢渡《さわたり》美古都《みこと》の実家はあった。彼女が失踪《しつそう》して、すでに四時間以上が経《た》っている。
「ざっと見た感じ、美古都さんが帰ってきた形跡《けいせき》はないわ」
香澄は、マンションのエレベーターホールで、恭介が来るのを待っていた。
彼女は、身体《からだ》にぴったりとフィットした黒革《くろかわ》の上下に、光沢《こうたく》のあるナイロン生地のジャケットを着ている。足にはナイフを仕込んだ編み上げブーツ。防弾、防刃《ぼうじん》性能を持つ、統合計画局《とうこうけいかくきよく》の戦闘服である。物騒《ぶつそう》な格好《かつこう》だが、似合っていないわけではない。ただし、軍人というよりもテレビゲームのキャラクターに見えてしまうのは、香澄の外見を考えれば仕方ないところだ。
エレベーターのボタンを押さえながら、香澄が続ける。
「……病室から彼女の制服がなくなっていたから、ひょっとして自分の意志で病院を抜け出したんじゃないかと思ったんだけど」
「そんなはず――」
ないだろう、と恭介《きようすけ》は言いかけてやめた。
美古都《みこと》は、自分が狙《ねら》われていることをアーレンの口から聞いている。恭介たちに迷惑《めいわく》をかけるのを恐《おそ》れて、姿を隠《かく》そうとしても不思議はない。
「……ああ、くそ。こんなことなら、美古都にも発信器かなにか持たせとくんだったぜ」
苛立《いらだ》たしげにつぶやきながら、恭介はエレベーターに乗り込む。香澄《かすみ》は、さらりと答えた。
「持たせてたわよ」
「え?」
「こっそり仕掛けた、というほうが正確かしらね。彼女の髪と包帯《ほうたい》と、胃の中に呑《の》み込ませるタイプと合わせて三個」
「な――だったら、なにもこんなところに手がかりを探しにこなくても……」
恭介が唖然《あぜん》とした表情を浮かべると、香澄は素《そ》っ気《け》なく首を振った。エレベーターが上昇を始める。
「……発信器の反応が最後に途絶えたのは、午前九時四十分――美古都さんが失踪《しつそう》する直前ね」
「途絶えた、って……」
「故障《こしよう》ってことはないわよね。三個同時だもの。どこかで強力な電磁波を浴びたか……でなければ、何者かが気づいて意図的に破壊したと考えるのが自然ね」
エレベーターの上昇が止まり、扉《とびら》が開いた。溶《と》け残った雪が混じった、冷たい風が吹き込んでくる。すでに周囲の安全は確認したあとだったのだろう。香澄は特に警戒《けいかい》する素振《そぶ》りも見せずにエレベーターを降りた。
平日の昼間ということもあってか、マンションの中はひっそりとしている。通路を歩いていくと、やがて沢渡《さわたり》の表札がでた部屋に突き当たった。ドアの横には、紅《あか》い花を生けた小さなプランターがある。通いの家政婦も今日は休んでいるらしく、沢渡家には人の気配がなかった。
「で……これからどうする?」
ドアの前に立って。恭介は訊いた。当然のことだが、ドアには鍵がかかっている。美古都が持っていた鍵は、彼女の服とともに失踪《しつそう》。マンションの管理会社にでも連絡すれば、開けてもらえないこともないのだろうが――
「退《ど》いてて」
香澄は短く言って、ドアノブに手を触れた。
きん、と耳に突き刺《さ》さるような音が響《ひび》く。次の瞬間《しゆんかん》、鈍《にぶ》い音を残して鍵が開いた。スクリーミング・フィストの振動波を使って、外部から強制的に解除したのだ。
「便利なもんだな」
恭介が感心したように言う。
「こんな乱暴なやり方が通用するのは、安物のシリンダー錠《じよう》だけよ」
香澄《かすみ》は嬉《うれ》しくもなさそうに、早口で答えた。
その口調で、恭介《きようすけ》は気づく。ごく単純な、あたりまえの事実――香澄も、望んでレベリオンの身体を手に入れたわけではないということに。自分の力を疎《うと》ましく感じていたのは、恭介だけではなかった。彼女だって、普通の人間でいたかったのだ。
「……あのさ」
「なに?」
香澄が、慎重《しんちよう》に室内の様子《ようす》を窺《うかが》いながらドアを開けた。室内に、人の気配は感じられない。
無人の家屋に特有の、乾《かわ》いた匂《にお》いが漂《ただよ》ってくる。
「この部屋に踏《ふ》み込むの……俺《おれ》が来るまで待っててくれたんだな」
恭介が訊《き》くと、香澄は心なしか身体《からだ》を硬《かた》くして顔を背《そむ》けた。ほとんど聞き取れないような声で、ばそぼそとつぶやく。
「……あなたがおいていくなっていったんじゃない」
「え……ああ……そうだけど」
「とにかく、そんなことはどうでもいいのよ」
香澄は、照れたように少し声を大きくして言った。
「なんでもいいから、美古都《みこと》さんか郁哉《いくや》さんの行き先を特定できそうなものを探さないと」
「あ、ああ……」
恭介も、これ以上その話題を続けたくはなかったので、彼女の言葉に索直に従った。ゆっくり訪れるのは数年ぶりになる従兄《いとこ》たちの部屋を、注意して見回す。
沢渡家《さわたりけ》はごく一般的な間取りの3LDKだが、一カ所だけ普通のマンションと違う部屋があった。防音設備を施した、広々とした造りのピアノ室だ。絨毯《じゆうにん》を敷き詰《つ》めた部屋の中央に、豪華《ごうか》なグランドピアノが置かれている。年代物のブリュートナーだ。
日当たりのいいリビングには、多くの観葉植物が飾られている。だが、昨日《きのう》の朝ちらりと見たときに比べて、主《あるじ》を失った花々はどこか色|褪《あ》せてしまったような気がした。
「あなたは、そっち!」
美古都の部屋に入ろうとした恭介を、香澄があわてて押しとどめる。女の子の部屋に無断で入るな、ということらしい。不法侵入しておいて今さらという気がしないでもなかったが、恭介はおとなしく郁哉の部屋に向かった。なんの変哲《へんてつ》もない木製のドア。美古都が作ったとおぼしきプレートに、アルファベットで郁哉の名前が刻まれている。
二|歳《さい》年上の従兄の部屋は、ほぼ想像したとおりの様相だった。まず目立つのは、音楽関係のコンクールで獲《と》った盾《たて》や賞状。あとは楽譜や本。CDラックには、恭介の知らないクラシックのアルバムが、演奏者ごとに分類されて積まれている。本人が長いこと部屋を空《あ》けているせいか、机の上やベッドは綺麗《きれい》に掃除されていた。
なにかの手がかりになりそうな、日記や手紙の類《たぐい》は見あたらない。ただ一つだけ目を惹《ひ》いたのは、机の上に伏せられていた一枚の写真だった。
ガラス製のフォトフレームの中で笑っているのは、夏服を着た美古都《みこと》と郁哉《いくや》。そして郁哉に寄り添うようにして、ロングヘアの若い女性が微笑《ほほえ》んでいる。彼女が、交通事故に遭《あ》ったという郁哉の友人であることぐらいは、恭介《きようすけ》にも薄々《うすうす》見当がついた。その親しげな雰囲気《ふんいき》は、ただの友人というよりは、むしろ恋人と呼ぶのがふさわしいのかもしれない。
そこに写っていたのが萌恵《もえ》の姿でなかったことに安堵《あんど》しつつも、後ろめたい気分を感じて恭介は写真を元に戻《もど》した。郁哉の部屋を出て、ピアノ室のほうに向かう。恭介はなぜか、不良に襲われていた美古都が気絶する寸前に、萌恵をお姉ちゃん≠ニ間違えて呼んだことを思い出していた。
しばらく使われていなかったのか、ピアノ室の中の空気は、かすかによどんでいた。
恭介は、ふと思いついてピアノの鍵盤《けんばん》に触れてみる。唯一のレパートリーである『エリーゼのために』を弾《ひ》こうとして――気づく。
調律が、狂《くる》っていた。素人《しろうと》の恭介が聴いてもわかるくらいはっきりと。
あの几帳面《きちようめん》な郁裁が、この調律の乱れを放置しておくとは、とても思えなかった。つまり、彼はこのピアノに触れていないのだ。少なくとも数カ月――下手《へた》をすれば半年以上……
「どういう……ことだ?」
恭介は我知らず、つぶやきをもらす。
郁哉が行方《ゆくえ》不明になったのは、二週間ほど前からだと聞いている。だが、それ以前から異変は静かに始まっていたのだ。恋人を亡《な》くしたショックで、音楽に対する情熱を失ってしまったということだろうか。あり得ない話ではない。が――
ぎし、とドアが軋《きし》む音を聞きつけて、恭介は振り返った。
いつの間に入ってきたのか、ピアノ室の入口に寄りかかるようにして一人の男が立っていた。
着古《きふる》して薄汚れた印象のある白のコート。ばさばさの髪。頬《ほお》はひどく痩《や》せこけ、死人のような不健康な顔色をしている。
「い……郁哉さん!?」
恭介は、男を見て呆然《ぼうぜん》とつぶやいた。
端整《たんせい》だった顔立ちは見る影もなくやつれ、別人のように変わり果てている。だが、それは間違いなく沢渡《きわたり》郁哉の顔だった。恭介の言葉が聞こえたのか、郁哉はゆっくりと視線を向けた。
「やあ……」
沢渡郁哉が掠《かす》れた声を出す。彼の瞳《ひとみ》はうつろだった。単に憔悴《しようすい》しているというだけでは説明がつかない。正気を失ったまま、身体《からだ》に染《し》みついた記憶だけを頼《たよ》りに自宅にたどり着いた――そんな印象だった。
「郁哉さん……なにがあったんだ!?」
恭介は郁哉に駆《か》け寄った。郁哉がのろのろと顔を上げる。その表情を見て、恭介は気づいた。
今の郁哉の状態は、麻薬中毒|患者《かんじや》の末期《まつき》症状にそっくりだ。おそらく彼は、恭介《きようすけ》がここにいることさえ理解できていない。
「まさか……|RAVE《レイヴ》に手を出したんじゃないだろうな、郁哉《いくや》さん?」
「れ……い"う?」
「思い出してくれ、郁哉さん! あんたをこんな目に遭《あ》わせたのは、仲神《なかがみ》なのか? それとも、インコグニートってやつなのか!?」
「いん……こぐにーと……」
それまで、ほとんど無反応だった郁哉が、はじめて表情を変えた。
両腕《りよううで》で、耳を押さえる。うつろだった瞳《ひとみ》は大きく見開かれ、その肩《かた》は小刻みに震えていた。
「あ……ああ……」
郁哉の喉《のど》から、鳴咽《おえつ》がもれる。彼は、明らかに怯《おび》えていた。震えが、はっきりとわかるほど大きくなる。
「インコグニート……やめろ……」
「い、郁哉さん?」
「やめろ……もうやめてくれっ! 誰《だれ》か、美古都《みこと》を助けてくれ――誰かっ!」
「郁哉さんっ!」
恭介が震える郁哉の身体《からだ》を押さえつけようとした。その瞬間《しゆんかん》、信じられない勢いで、恭介は後ろに弾《はじ》き飛ばされる。郁哉が振り回した腕の力は、人間の限界を超えていた。その姿もまた、人間以外のものへと変わっていく。
「ぐっー!」
防音室の頑丈《がんじよう》な壁に打ちつけられて、恭介は激しく咳《せ》き込む。
その間も、郁哉の変貌《へんぼう》は続いていた。本来、脳や内臓に送り込まれるべき血液が筋肉に回され、血流量の増大した両手足が膨《ふく》れあがった。肥大《ひだい》する筋肉の収縮に耐えきれず、骨格がぎしぎしと軋《きし》む。剥《む》きだしになった歯と、血走った瞳《ひとみ》は、野獣《やじゆう》のそれであった。
引き裂《さ》かれた彼のコートのポケットから、ばらばらと真紅《しんく》の錠剤《じようざい》がこぼれる。
「――ヴィルレント・レベリオン!」
恭介が叫んだ。ほぼ同時に、かつて沢渡《さわたり》郁哉と呼ばれていた男も動いた。
人間離れしたスピードとパワーで、郁哉はブリュートナーを粉砕《ふんさい》した。多くのピアニストが憧《あこが》れる名器も、理性を失い凶暴《きようぼう》化したヴィルレント・レベリオンにとっては、進路を邪魔《じやま》するだけの障害物《しようがいぶつ》でしかなかった。
「ち……っ!」
恭介は、ヴィルレント化した郁哉の攻撃を空中に跳《と》んでかわす。そのときにはもう、すべてがわかっていた。郁哉の身体《からだ》は、もう何カ月も前から|RAVE《レイヴ》に侵されていたのだ。
免疫力《めんえさりよく》の低下した彼の肉体は、おそらくヴィルレント化する寸前の状態で踏《ふ》みとどまっていたのだろう。そのギリギリのバランスは、恭介《きようすけ》のもらした不用意な一言で、呆気《あつけ》なく崩壊してしまった。暗殺者インコグニート――それこそが、彼を追いつめ脅《おびや》かしていた存在なのだ。
「があああああああっ!」
雄叫《おたけ》びとともに、郁哉《いくや》の拳《こぶし》が恭介めがけて振り下ろされた。恭介は、わずかに上体を傾《かたむ》けただけでかわし――目標を失った郁哉の拳は、コンクリートの柱を直撃して鈍《にぶ》い音とともに砕《くだ》けた。増大した筋力に、骨や腱《けん》がついていけないのだ。
ヴィルレント化した人間は、肉体の暴走に耐えきれずに遠からず自滅《じめつ》する。ましてや衰弱《すいじやく》した今の郁哉では尚更《なおさら》だ。内臓に深刻なダメージが及ぶ前に、無力化して動きを封じなければならない。
「おおおおおおおっ…」
恭介は突進してくる郁哉に向かって、鋭い咆吼《ほうこう》を放つ。
トランスジェニック能カーブラスティング・ハウルだ。
不可聴域《ふかちよういき》の衝撃波《しようげきば》は目標となった相手の脳を直接|揺《ゆ》さぶり、香澄《かすみ》のスクリーミング・フィストと同様に、無傷で相手を昏倒《こんとう》させることができる、はずだった。が――
「な――っ!?」
恭介の叫びは、何も引き起こさなかった。むなしく大気を震わせ、防音室の壁に反響しただけだ。郁哉の突進は止まらず、殴《なぐ》られた恭介はピアノの残骸《ざんがい》へと叩《たた》きつけられた。
「ぐっ……」
予期せぬ事態に。郁哉の攻撃をまともに喰《く》らってしまった。恭介の視界が真紅《しんく》に染まる。続けて殴《なぐ》りかかってきた郁哉の攻撃を、恭介は無様《ぶざま》に転《ころ》がりながら、どうにかかわした。
「――ブラスティング・ハウルが……撃てない!?」
額《ひたい》から流れ出した血を拭《ぬぐ》いながら、恭介はふらふらと立ち上がる。
どうやら、香澄の不安が的中《てきちゆう》したようだった。アーレンとの戦闘で、恭介の身体《からだ》には能力を使うことへの恐怖《きをようふ》が刷《す》り込まれていたのだ。そして無意識のうちに、力を封印してしまった。
もう一度ブラスティング・ハウルを撃とうとするが、その叫びはやはり意味をなさぬまま空気中に霧散《むさん》する。
「ぐるうっ!」
毛細血管から噴《ふ》き出した血で全身を朱《しゆ》に染めながら。郁哉が吼《ほ》えた。すでに砕けているはずの右腕《みぎうで》を、高々と振り上げて恭介に殴りかかる。
恭介のダメージは、まだ抜け切れていなかった。絶望とともに直感する――避《よ》けられない!
「恭介――!」
凜《りん》とした声が響《ひび》き、栗色《くりいろ》の髪が翼《つばさ》のように舞った。
燐光《りんこう》を放つ拳《こぶし》が大気を切り裂《さ》き、慟哭《どうこく》のような音を奏《かな》でる。
不意を突《つ》かれた形になった郁哉は、部屋に飛び込んできた香澄の攻撃を受けて、為《な》す術《すべ》もなく吹き飛ばされた。脳に直接|叩《たた》き込まれた超振動波により、声も出せないまま昏倒《こんとう》する。
「恭介《きようすけ》、無事《ぶじ》なの?」
郁哉《いくや》の顔を見てかすかに眉《まゆ》をびそめながら、香澄《かすみ》が訊《き》いた。
「ああ……なんとか」
恭介は、壁にもたれたままうなずいた。香澄が、ほっとしたような表情を浮かべる。
「沢渡《さわたり》郁哉……まさかヴィルレント化してたなんて……」
彼女のつぶやきに、恭介はびどく苦《にが》い感情がこみ上げてくるのを感じた。
優雅で面倒見《めんどうみ》がよく、才能に恵まれ、周囲の人間には無条件に信頼され――恭介が避《さ》けたくなるほど多くのものを持っていたはずの男が、変わり果てた姿で倒れている。それが、たまらなくつらかった。
草薙《くさなぎ》萌恵《もえ》とのことで郁哉に嫉妬《しつと》したときの息苦しさが、再び襲《おそ》ってくる。今の彼の姿を見たら、彼女はきっと傷つくだろう。それは、恭介にとっても悲しい想像だった。
「沢渡郁哉はもう死んでいるだろうって――」
動かなくなった郁哉の隣《となり》にひざまずきながら、香澄が言った。
「仲神《なかがみ》が言っていたのは、このことだったのね。知ってたんだわ、あいつ。彼が、|RAVE《レイヴ》に侵されていることを……」
「……インコグニートだ」
恭介は、吐《は》き捨てるように言った。香澄が振り返る。
「郁哉さんは、インコグニートのことを恐《おそ》れてた。美古都《みこと》を助けてくれって……それが、彼の最後の言葉だ」
「……そう」
香澄は、曖味《あいまい》にうなずいて郁哉に目を落とした。ずたずたに破れた彼のコートに、興味を惹《ひ》かれたように眉《まゆ》を上げる。コートの裾《すそ》には泥《ビう》がこびりついていた。乾《かわ》きかけた泥の中には、植物の葉脈の名残《なごり》が残っている。
「……腐葉土《ふようど》?」
香澄が眉間《みけん》にしわを寄せた。郊外の田園地帯ならともかく、市街地では土が剥《む》きだしになっている場所も限られている。
ほぼ同時に、恭介も気づいていた。郁哉の無事なほうの手の甲に、数センチほどの浅いひっかき傷が残っている。その傷跡《きずあと》に、恭介は見覚えがあった。いや、正確に同じものではない。同じ場所、同じような深さの傷を見たことがあったのだ。すでに完治《かんち》してしまっているが、それは恭介の手の甲《こう》にあった傷と同じものだった。
郁哉と恭介の身長はほとんど変わらない。その二人が、同じ場所で似たような行動をとれば、同じような傷ができるはず――
「……そうか……そういうこと……」
香澄《かすみ》は瞳《ひとみ》を閉じてつぶやいた。恭介《きようすけ》は、黙《だま》って彼女を見た。
おそらく彼女と同じ答えにたどり着いているはずなのに、思考がまとまらない。
まるで、心が考えることを拒否《きよひ》しているみたいに。
「行きましょう、恭介。もう、ここには用はないわ」
香澄は、そう言って静かに立ち上がった。
「……どこに、行くって?」
恭介が訊《き》く。郁哉《いくや》との戦闘によるダメージは、もう残っていない。ただ心の中に冷え冷えとした怒りが溜《た》まっている。その怒りが、何に対して向けられたものなのか、自覚していたわけではなかったが――
「藤霞《とうか》学院の大温室よ」
香澄の声は、冷たく澄んでいた。
「――そこに、すべての答えがあるわ」
「答えがわかってしまえば――単純なことだったのよ」
XJR四〇〇の後部座席《タンデムシート》で、香澄が言った。疾走《しつそう》するバイクの上で、彼女の声はなぜかはっきりと聞き取れた。
「レベリオンではない美古都《みこと》さんを、なぜアーレンは連れ去ろうとしたのか。仲神《なかがみ》昭《あきら》は、なぜ彼女を狙《ねら》っていたのか。沢渡《さわたり》郁哉は、どうして失践《しつそう》しなければならなかったのか。インコグニートは、なぜ彼女を病院から連れ出したのか――たった一つの簡単な仮説で、その疑問はすべて説明できるの」
香澄の説明を、恭介は黙《だま》って訊《き》いていた。雪は激しさを増していたが、切りつけるような冷たい風も、今の恭介にはどこか他人事《ひとごと》のように感じられる。並列四気筒のエンジン音だけが、唯一現実感を持って耳の奥に響《ひび》いていた。
「――香澄!」
藤霞学院の建物が見えてきたところで、恭介はそれに気づいた。消防車のサイレンの音と、鼻をつくきな臭《くさ》い香り。薄曇りの真冬の空を、黒煙が覆《おお》い尽くしている。
「火事!?」
香澄が叫ぶ。藤霞学院の敷地内にある施設や、隣接《りんせつ》する民家が燃えていた。遠目に見ただけでも、火災《かさい》の規模が尋常《じんじよう》でないことがわかる。単に空気が乾燥していたとか、風が強かったというだけではあるまい。何者かの手によって、意図的にそれは引き起こされたのだ。
「まさか……またインコグニートが……」
「違う――仲神たちの仕業《しわざ》だわ! 藤霞学院の敷地から生徒や関係者を追い払うために――」
「放火しやがったのか!?」
恭介《きようすけ》は愕然《がくぜん》としてバイクを止める。言われてみれば、藤霞《とうか》学院を取り囲むように燃えている炎《ほのお》は、巧妙《こうみよう》に大温室のある中庭を避《さ》けているようにも見える。だが、陽動と呼ぶには、それはあまりにも稚拙《ちせつ》で暴力的なやり方だった。無関係な人間を、あまりにも大量に巻き込んでいる。
「恭介、急いで」
「ああ!」
恭介は、ぎりぎりと奥歯を噛《か》みしめながら、アクセルを開けた。野次馬《やじうま》たちが呆然《ぼうぜん》と立ちすくむ中、白煙にまかれた藤霞学院の中に突入する。下校時刻を過ぎていたことが幸いした。わずかに残っていた生徒たちも、すでに避難《ひなん》を終えているようだ。
雪でぬかるんだ地面に強引《ごういん》にタイヤを押しつけながら、恭介は藤霞学院の中庭へと向かった。
風向きのせいか、火災《かさい》の影響はほとんどない。ガラス張りの大温室は、昨日《きのう》と変わらぬ姿で煉瓦《れんが》造りの校舎の狭間《はざま》に佇《たたず》んでいる。違っているところがあるとすれば、屋根にうっすらと白いものが積もっていることぐらいだ。それが雪なのか、灰なのかまではわからない。あるいは、その両方なのかもしれない。
温室の中には、一人の男が立っていた。
恭介は彼の姿を見て驚いたが、考えてみれば、その必要はなかったのかもしれない。事情を知っていれば――あるいは恭介たちと同じように情報の断片をかき集めれば、行き着く場所はここしかないのだから。
季節|外《はず》れの花が咲き乱れる大温室の光景が、男には不思議とよく似合っていた。
あまり機能的とはいえない高価そうなスーツも。腰《こし》まで伸ばした白銀の髪も。もっとも彼が、どんな場所にでも溶《と》け込むような訓練を受けている、としても驚きはしないが。
恭介はXJRを停めて、エンジンを切った。静寂が校庭を包み、耳が痛んだ。
「思ったより、時間がかかったな――」
大温室の扉《とびら》を開けて、男はゆっくりと歩き出す。
「……とはいえ、おめでとう、というべきなのだろうな。ここに来たということは、たどり着いたということだからな――真実に」
「アーレン・ヴイルトール……」
香澄《かすみ》は、きっと彼を睨《にら》みつけた。その声が小さく震えている。
「そう……本当なら、あなたの名前を聞いた時点で気づくべきだった。結局、二年前となにも変わっていない! あなたたちが求めているものは、レベリオンのサンプルだけなんだわ!」
「サンプル……か」
アーレンは、苦笑したようだった。
「言葉は悪いが、あながち的《まと》はずれというわけでもないな。少なくとも、江崎《えざき》志津《しづ》がやっていたこととは矛盾《むじゆん》していない……」
「あなたがやっていることは、違うとでも言うつもり?」
「やっていることは同じだよ。違うのは、目的だ」
「目的?」
香澄《かすみ》が眉《まゆ》をひそめて訊《き》き返した。恭介《きようすけ》は黙《だま》って二人のやりとりを見守っている。周囲を見回しても――当然のことながら――美古都《みこと》の姿はない。
アーレンが一歩だけ前に踏《ふ》み出した。
「俺《おれ》が求めているのは、サンプルではなく戦力だということさ。必要なのは、反逆者だ。殺戮者《さつりくしや》でも復讐者《ふくしゆうしや》でもなく、な」
「そんな、言葉遊びを――」
「ただの言葉遊びだと思うか、カスミ? お前ほどの女でも――?」
からかうような調子のアーレンの言葉に、香澄はめずらしく動揺を見せた。彼女の唇《くちびる》が動きかけたが、紡《つむ》がれるはずの言葉は声にならない。
代わりに口を開いたのは、恭介だった。
「……なんでもいいけどさ、おっさん」
アーレンは振り向いて、香澄に罵《ののし》られたときよりもはるかに傷ついた表情を浮かべた。おっさんと呼ばれたのが気に入らないらしい。
「仲神《なかがみ》たちをレベリオン化させたのも、あんたの仕業《しわざ》か?」
「いや――それは彼女たちのやったことだ」
「彼女たち?」
「お前さんもよく知っている連中さ。江崎志津とインコグニート……」
そう言ってアーレンは右腕《みぎうで》を降ろす。握《にぎ》られているのは、鉛色《なまりいろ》に輝く金属片――指弾《しだん》だ。
「これ以上の情報が欲しければ、俺《おれ》たちと一緒《いつしよ》に来い。そう言ったはずだ」
「こっちも言ったはずだぜ」
恭介は、いつでも戦えるように身構えた。
「腕ずくでも聞かせてもらうってな」
「二対一よ、アーレン。おとなしく投降しなさい」
香澄もヘルメットを捨てて、片腕を突き出した。その腕が、燐光《りんこう》を放ちはじめる。
「……二対一、ね」
アーレンは、にやにやと笑いながら言った。彼の視線を追って、恭介と香澄は振り返る。
その先に立っていたのは、頬《ほお》に古傷を持つ長身の男だった。黒革のライダージャケットに、すり切れたジーンズ。どうということのない服装だったが、ジャケットのあちこちに残る傷と返り血の跡《あと》が雄弁《ゆうべん》に物語っていた。彼ははじめから殺し合いをするつもりで、ここに来たのだ。
厳《きび》しい表情を作って、香澄がつぶやく。
「仲神……昭《あきら》」
「大物ゲストのご到着だな……」
アーレンの口調から、普段のおどけたような気配が消えていた。
伸神《なかがみ》は、大温室の前で対時《たいじ》している三人のレベリオンを無表情に眺《なが》めている。恭介《きようすけ》が仲神を見たのははじめてだったが、その男の目には見覚えがあった。友人を殺された復讐者《ふくしゆうしや》の瞳《ひとみ》。
かつての恭介と、同じ瞳だ。
誰《だれ》であろうとも、邪魔《じやま》をするならば殺す――
伸神の冷ややかな視線は、無言でそう告げている。いやむしろ、彼は邪魔者である恭介たちを殺すために、この場所に現れたのであろう。
その殺気を微風のように受け流して、アーレンは静かに言った。
「一人で来たってことは、仲神クンのお友達は、今ごろ血眼《ちまなこ》になって沢渡《さわたり》美古都《みこと》を探しているってところか。だとすれば彼女が見つかるまで、せいぜい五分か十分――まあ、大方《おおかた》は予想どおりだな」
誰も反応しなかったが、アーレンは気にした様子《ようす》もなく統ける。ちらりと、恭介のほうを見やって、
「さて……おだやかに話し合いをしよう、なんて雰囲気《ふんいき》じゃないのは認めるだろう、緋村《ひむら》弟?ついでに言うと、俺《おれ》もそういうのは趣味じゃない。手っ取り早く、三《みつ》つ巴《どもえ》といこうか。勝った者が沢渡美古都を手に入れる――わかりやすいだろう?」
「三つ巴じゃねえよ……二対一が二組だ」
「――恭介!」
足を踏《ふ》み出した恭介を見て、香澄《かすみ》が悲鳴に似た叫びをもらした。だが、彼女はそれ以上、動くことはできなかった。仲神が、アーレンの捷案に同意するかのように、ゆっくりと前に進み出たからだ。
香澄が声をあげたのは、恭介がブラスティング・ハウルを使えないということを知っていたからだろう。黙《だま》っていたつもりだったが、彼女が気づかなかったはずがない。
そして彼女が言葉を切ったのは、恭介が能力を使えないということを、アーレンに見抜かれないためだろう。だが、その不自然な一瞬《いつしゆん》の間で、おそらくアーレンは気づいたはずだ。
それでも恭介は構わなかった。恭介には、自分の手でアーレンを倒さなければならない理由がある。全身の細胞が変化していくのを感じながら、恭介は叫んでいた。
「……美古都の怪我《けが》の仇《かたき》――とらせてもらう、アーレン!」
わかっていることは、いくつかあった。
研《と》ぎ澄《す》まされた感覚が、世界から遊離《ゆうり》していく。ゆっくりと流れていく時間の中で、恭介は考えていた。
前触れもなく飛来するアーレンの指弾《しだん》を、かわせるものはかわし、かわせないものは叩《たた》き落とす。銃弾をも凌《しの》ぐ威力《いりよく》の金属片だが、銃弾と同じ原理の武器である以上、銃弾と同じ弱点を持っていた。すなわち――命中しなければダメージを受けない。
単純な事実だが、それはレベリオン同士の戦いにおいては、致命的な欠点となり得る。
当然、アーレンもその欠点を熟知しているのだろう。簡単には避《さ》けきれない部位や、死角を狙《ねら》って撃ち込んでくる。だが、その事実が、また別の情報の手がかりとなる。
「どうした緋村《ひむら》弟!」
からかうような声で、アーレンが言った。恭介《きようすけ》を逆上させるのが目的ではないのだろうが、試《ため》しているような雰囲気《ふんいき》ではある。
「自慢《じまん》の声を聴かせてみろよ!」
アーレンが指弾《しだん》を放つ。一挙動《いつきよどう》で、三発。
恭介は、多少の傷を負うのは無視して、その攻撃の中へと飛び込んだ。頬《ほお》と肩《かた》、太股《ふともも》に浅い傷を負う。だが、次の瞬間《しゆんかん》には、手の届くところにアーレンの身体《からだ》があった。
「おおおおおっ!」
走ってきた勢いのまま、アーレンの下腹に向けて拳《こぶし》を叩《たた》き込む。食いしばった歯の隙間《すきま》から、呼気がもれた。見栄えのいい格闘技向きの技ではない。ボクシングなら、間違いなく反則となる場所への攻撃だ。
だが、それは恭介が喧嘩《けんか》の中で身につけた実用的な技だった。もっとも避けにくい、身体の重心となる部位への一撃。たとえ拳《こぶし》をかわしたところで、突っ込んでくる人間の身体すべてを避《よ》けきれるものではない。
「ふむ……」
恭介の狙《ねら》いに気づいたアーレンが、舌打ちして握《にぎ》っていた金属片を捨てる。素早く、そして適切な判断だった。この距離では、指弾はもう使えない。
そして彼は、恭介の攻撃を避ける代わりに、自ら前に突っ込んで恭介の攻撃を受け止めた。腕《うで》が伸びきる前に抑《おさ》えつけることで、パンチの威力《いりよく》を減じたのだ。
そのままアーレンは恭介の腕をつかむ。軍隊流の関節技《サブミツシヨン》――!
「ちっ――!」
関節を極められるよりも早く、恭介はアーレンの顔面に頭突《ずつ》きを叩《たた》き込もうとした。アーレンは信じられない反応速度でそれをブロックしたが、その結果、恭介の腕は自由になる。
「やるな……」
アーレンは残念そうな表情を作って、一歩後退した。恭介は、すぐに追いすがる。アーレンの顔に、はっきりと困惑《こんわく》の色が浮かんだ。
「……なるほど」
恭介の攻撃をかわしながら、アーレンはつぶやいた。
「それがお前さんの作戦というわけか……悪くない。たとえ俺《おれ》が訓練を受けた暗殺者だとしても、殴《なぐ》り合いの喧嘩《けんか》なら条件は互角《ごかく》というわけだな」
「ああ、そうだ。格闘技の訓練をしようにも、あんたには相手がいないだろうからな!」
友人たちと本気で遊ぶこともできない。そんなレベリオンとしての苦悩を、アーレンも、同じように味わったことがあるはず――それが恭介《きようすけ》の目算《もくさん》だった。
それは、まるで誤解でもなかったのだろう。アーレンの口元に徽苦笑《びくしよう》が浮かぶ。
「気づいたことは、もう一つあってな――」
接近しすぎて苦し紛《まざ》れに放った肘撃《ひじう》ちが、アーレンのこめかみをとらえた。
恭介も、特別に格闘技を習ったことがあるわけではない。その攻撃には必殺と呼ぶほどの威力《りよく》はなかったが、それでもアーレンの長身をぐらつかせる程度の効果はあった。
「あんたが、香澄《かすみ》じゃなくて俺《おれ》を危険視していた理由――それに、銃でもナイフでもなく、指弾《しだん》なんてものを使っている理由――」
無防備になったアーレンの腹に、恭介は手加減抜きのフックを叩《たた》き込む。レベリオン化した肉体による、渾身《こんしん》の一撃だ。アーレンは苦悶《くもん》の声こそあげなかったが、その表情をかすかに歪《ゆが》めた。
「……あんたのトランスジェニック能力は、俺《おれ》のブラスティング・ハウルと同じ、遠距離攻撃タイプなんだろう。だから相討《あいう》ちになる恐《おそ》れのある俺の能力を封じようとした。指弾を使っていたのは、おそらく、あんたの能力の射程距離と、指弾の間合いがほぼ一致するからだ」
「……なるほどな」
アーレンは、戦意を失ったようにふらふらと後退した。強化ガラス製の大温室の壁に、背中をつけて目を閉じる。
「格闘戦に持ち込んだのは、俺のトランスジェニック能力を封じるためでもあったわけだ……たいした推理力だ、と言ってやりたいところだが……五十点だ」
アーレンの髪が、ふわりと舞い上がった。風に舞ったのか、とも思う。だが違った。孔雀《くじやく》の羽のように――あるいは、古いパンク・ロックバンドのように、アーレンの銀髪が意志を持った生き物のように揺《ゆ》らめいて、逆立つ。
「――っ!?」
恭介は、何が起きたのか理解できぬまま――ただ本能的な恐怖《きようふ》に突《つ》き動かされるように、アーレンに殴《なぐ》りかかった。
恭介の全身に、ぴりぴりとした感覚が走る。
アーレンの全身を取り囲むように、無数の火花が散った。
空気が、帯電《たいでん》している――!
「|神の雷槌《サンダーヘツド》!!」
アーレンが叫んだ。
恭介《きようすけ》の視界が、青白く染まる。
一瞬《いつしゆん》の閃光《せんこう》。そして――
強烈《きようれつ》な衝撃を受けて、恭介の身体《からだ》は十メートル近く吹き飛ばされていた。声も出ない。
かろうじて意識は残っていたが、身体《からだ》が痺《しび》れて動けなかった。
全身が、びくびくと痙攣《けいれん》して震えている。
香澄《かすみ》が、遠くで自分の名前を呼んだ気がした。気のせいだったかもしれない。意識が、混濁《ごんだく》している。なにも考えられない。
「……どうやら、まだ生きてるみたいだな」
衝撃波のせいで、聴力が一時的に麻痺《まひ》してしまったようだった。金属がこすれ合うような耳障《みみざわ》りなノイズに紛《まぎ》れて、アーレンの声がぼんやりと聞こえる。
「見てのとおり、この電撃が俺《おれ》のトランスジェニック能力だ。電気ウナギに電気エイ……特に目新しい能力ってわけじゃない。人間だって、体表には微弱な電流が流れている。レベリオン細胞の出力なら、スタンガンの十倍や二十倍の威力《いりよく》があっても不思議はないだろう?」
アーレンは、倒れた恭介に近づこうとしなかった。その必要がないのだ。髪を逆立《さかなだ》てた彼の周囲で、再び帯電《たいでん》した空気が火花を放っている。
「俺の能力は、たしかに遠顕離攻撃タイプだが、接近戦でも使えないわけじゃない――その可能性を失念したのがお前さんの敗因だ。緋村杏子《ひむらきようこ》なら、もう少しマシな手段で俺の能力を封じることができたのかもしれないが……」
アーレンの周囲を包む火花が、勢いを増した。
恭介は、震える手足を押さえつけて、かろうじて膝《ひざ》を立てる。だが、それが限界だった。次の攻撃はかわせない。いや、文字通り電光の速さで襲《おそ》いくるアーレンの攻撃を、どうやってかわすことができるというのだ。
「――お前さんは殺さないつもりだったが、俺の能力を見られてしまったとなれば話は別だ。悪く思うなよ、緋村弟……」
アーレンの言葉は、淡々《たんたん》としていた。
天空に向かって逆立った銀色の髪と、それを包む青白い光。かすんだ瞳《ひとみ》に映ったその姿は、どこか幻想《げんそう》じみた光景だった。アーレンの腕《うで》が、恭介へと伸びる。そして――
銀色の雷撃《らいげき》が、恭介の視界を塗りつぶした。
[#改ページ]
第七章
「にげて」
Plasma Shaft
アーレンを一方的に殴《なぐ》りつけていた恭介《きようすけ》が、閃光《せんこう》とともに吹き飛ばされる。
リチャード・ロウはその光景を、狙撃用《そげきよう》のスコープ越しに見つめていた。
藤霞《とうか》学院の校舎を見おろす、高層ビルの屋上である。気温は零度《れいど》。吹きつける風のせいで、体感温度はもっと低い。粉雪がちらつく中、リチャード・ロウは身じろぎもせず、狙撃のチャンスを狙《ねら》っている。
恭介たちまでの距離は、約四百メートル。五・五六ミリという小口径弾頭《しようこうけいだんとう》を使うXM一七七は、長距離の狙撃に適した銃とは言えないが、十分に実用的な射程である。火災《かさい》の煙も、この位置ならば影響を受けない。
スコープに刻まれた十字のレティクルがとらえているのは、アーレン・ヴィルトールの頭部であった。超人的な治癒力《ちゆりよく》を持つレベリオンといえども、破壊された脳を再生することは不可能だ。ライフルによる遠距離射撃は、普通の人間がレベリオンに対抗する、もっとも確実な方法なのである。
「次は撃つ――そう警告したはずですよ、アーレン……」
リチャードは、声に出さずに胸中でつぶやく。ほんのわずかな振動、計測できないほどのかすかなプレが、四百メートル先では致命的な誤差になる。饒舌《じようぜつ》な人間は、狙撃手には向かない。
スコープの中では、銀髪を逆立《さかだ》たせたアーレンが恭介《きようすけ》に何かを告げていた。獲物を前にしての口上か、死にゆく者への祈りの言葉か。いずれにしてもリチャードの知っていたアーレンには、ふさわしくないような行為に思える。
――貴様は今も神を信じているか?
昨夜《さくや》のアーレンの言葉が、耳の奥に甦《よみがえ》った。
二年という時間はけして長くない。だが、人が変わらずにいられるほど、短くもない。
彼が少しばかり変化したとしても、驚くほどのことではないのだろう。
そう、彼は変わった。
自分が、変わってしまったのと同じように……
リチャード・ロウは、唇《くちびる》の端《はし》をわずかに歪《ゆが》めて微笑《なほえ》んだ。
感情を消し去り、スコープの中の世界に全神経を集中する。
音速の倍以上の速度で飛翔《ひしよう》するライフル弾《だん》だが、レベリオンが相手では、絶対に避《さ》けられないとは言い切れない。 予期せぬ方角からの不意打ち――それも、相手の注意力が途絶えた瞬間《しゆんかん》を狙《ねら》わなければ、確実とは言えない。しかも、チャンスは一度きりだ。
緋村《ひむら》恭介は、アーレンの能力をまともに喰《く》らって戦闘不能に陥っていた。
しかし彼は、予想以上によくやったといえるだろう。
恭介自身は気づいていないようだが、アーレンは実は最初から狙撃を警戒《けいかい》していた。無造作《むぞうさ》に行動しているように見せかけて、巧妙《こうみよう》に建物の死角に隠《かく》れていたのだ。
しかし、恭介の予期せぬ奮闘《ふんとう》により、アーレンの注意は彼一人に向けられることになった。アーレンがトランスジェニック能力を放つ寸前――レベリオンがもっとも無防備になるその瞬間こそが、リチャードが狙っている狙撃《そげき》タイミングであった。
アーレンの銀髪が揺《ゆ》れ、周囲の空気が帯電《たいでん》していく。彼の呼吸を盗《ぬす》み、技を放つ瞬間を予測する。リチャードの指が、引き金にかかる。
そして――
「なっ――!?」
着弾《ちやくだん》の衝撃《しようげき》とともに、ライフルの銃口が跳《は》ね上がった。
まったく予期せぬ方向から飛来した銃弾《じゆうだん》を受けて、リチャードの手からライフルが跳《と》んだ。
狙撃されたのは、リチャードのほうだった!
「くっ!」
リチャード・ロウは、咄嗟《とつさ》に身体《からだ》を投げ出して近くにあったコンクリートの出っ張りに隠《かく》れた。地面に投げ出されたライフルは、続けざまに数発の弾丸を受けて、手の届かない場所へと跳《は》ね飛ばされる。
スコープが砕《くだ》け、ストックが折れた。だが、リチャードを驚愕《きようがく》させたのは、銃声も着弾の火花も知覚できなかったという事実であった。弾丸が飛来する軌跡《きせき》すら見えず、ただ着弾《ちやくだん》と同時にうっすらと虹《にじ》が浮かび上がるだけ。
「――インビジブル・ブリット!?」
愕然《がくぜん》としながら、リチャード・ロウは振り返る。
同じビルの屋上――給水タンクの上に、一人の少女が立っていた。
小柄《こがら》な少女だ。日本人の年齢《ねんれい》はリチャードにはわかりづらいが、香澄《かすみ》や沢渡《さわたり》美古都《みこと》より幼いのは間違いないだろう。肩《かた》から足首までをすっぽりとマントで覆《おお》っている。ときおりマントの裾《すそ》からのぞく脚《あし》は、裸足《はだし》ではないかと思われた。
あどけなさを残した顔立ちは、人形のように無表情であった。瞳《ひとみ》が青く輝いているように見えるのは、レベリオン細胞が活性化しているせいなのだろうか。
そう――彼女はレベリオンだった。
突き出された左腕《ひだりうで》が、水晶のように透《す》きとおり、淡《あわ》い燐光《りんこう》を放っている。変形したその指先は、銃口のように鋭く尖《とが》っていた。
杉原《すぎはら》悠《ゆう》が持っていた暗殺型トランスジェニック能力|視えない弾丸《インビジプル・ブリツド》≠ニ同じものだ。二人以上のレベリオンが同一のトランスジェニック能力を発現することはあり得ない――その例外を目《ま》の当たりにして、リチャード・ロウは戦慄《せんりつ》していた。
いや、戦慄していた本当の理由は別にあった。
少女の背後に立っている、もう一人の女性のせいだ。
翼《つばさ》のように風に舞う栗色《くりいろ》の髪と、茶色がかった大きな瞳。精巧《せいこう》な人形や彫像《ちようぞう》や、鉱物の結晶にも似た冷たく硬質《こうしつ》な美貌《びぼう》――彼女は、秋篠《あきしの》香澄《かすみ》によく似ていた。
香澄と違うところがあるとすれば、それは外見ではなく内面だろう。
弱さや儚《もろ》さ、不安定さ。香澄が無意識にまとっている揺《ゆ》らぎのようなものが、目の前の女性からは欠落していた。
彼女の瞳は苛烈《かれつ》なまでに美しく、そして冷たい。世界のすべてを見透かしているのに、そこには何も映っていない。
その冷ややかな視線は、リチャード・ロウに向けられている。少なくとも今は、そう見える。
「秋篠……真澄美《ますみ》」
リチャード・ロウは、掠《かす》れた声で彼女の名前を呼んだ。動揺を表に出さないように努力し、それはある程度は成功しているはずだった。だが、それが彼女にとって、どれほどの意味を持つのかはわからない。
「見抜いていたんですね。私が、ここでアーレンを狙撃《そげき》することを」
「ええ。あなたなら、きっとここを選ぶと思っていたわ」
敵《てき》になったはずの女は、二年前と変わらぬ口調でつぶやいた。ぎこちない微笑《ほほえ》みも昔のまま。
「超長距離から脳を狙撃……個人レベルの装備で実行できる対レベリオン戦術としては、最良の方法の一つですものね。トランスジェニック能力の制御《せいぎよ》だけでなく、レベリオン細胞の活性化や肉体の再生も、脳の休眠領域がコントロールしているのだから」
「それは、あくまでも推測です。実証はされていませんよ」
リチャード・ロウの反論を聞いて、真澄美《ますみ》は残念そうな表情を浮かべた。
「そう……まだ気づいていなかったの。実証は終わったのよ。そのためのサンプルにも、もうあなたは出会っている。たぶん、香澄《かすみ》は気づいているはずよ」
「――アーレンを動かしたのは、そのサンプルを確保するためですか?」
リチャードは、ゆっくりと立ち上がる。
レベリオンの少女――インビジブル・ブリット使いの前に姿をさらすのは勇気が要《い》ったが、彼女たちには攻撃の意志はないようだった。それが予想外、というわけでもない。殺すつもりならライフルなど狙《ねら》わず、最初から自分を撃ったはずだからだ。
「そんなところね。だから、今は彼を殺させるわけにはいかないの」
それに、と言って彼女は微笑《ほほえ》む。
「……あなたにアーレンを殺させたくはないしね」
「それは感傷ですよ、マスミ。今の私は――」
どこかで聞いた台詞《せりふ》だったが、ごく自然にロから滑《すべ》り出た。
リチャードは彼女に向けて右腕《みぎうで》を伸ばす。その掌《てのひら》には、黒光りする自動|拳銃《けんじゆう》が握《にぎ》られていた。
「……あなたを撃てる」
銃声が轟《とどろ》いた。
秋篠《あきしの》真澄美は動かない。
動いたのは、マントを羽織《はお》った少女だった。
真澄美の前に出て、右腕を構える。燐光《りんこう》を放つその拳《こぶし》は、慟哭《どうこく》のような唸《うな》りをあげていた。
リチャードの表情が強張《こわば》る。
少女の前で、火花が散った。澄《す》んだ音色《ねいろ》が、高層ビルの屋上に響《ひび》き渡る。
超振動波が生み出す、美しい音色。弾《はじ》き飛ばされた9ミリ弾が、一瞬《いつしゆん》遅《おく》れて地面に落ちた。
「――スクリーミング・フィスト!?」
撃ち尽くした弾倉《だんそう》を交換することも忘れて、リチャードは叫んだ。
インビジブル・ブリットに続いて、香澄《かすみ》のスクリーミング・フィストまで。しかも、一人で複数のトランスジェニック能力を使いこなしたのだ。目の前の少女が、これまでのレベリオンとは異質な存在だということを、認めないわけにはいかなかった。
「……ば、ばかな……」
愕然《がくぜん》とするリチャードに、秋篠真澄美が微笑《ほほえ》みかける。
「紹介《しようかい》が遅れたわね……彼女の名前はY《ハナ》。推測でしか存在しないと言われていた、第二段階のレベリオンよ」
「なっ……!?」
真澄美《ますみ》の言葉が終わると同時に、Y《ハナ》と呼ばれた少女は羽織《はお》っていたマントを脱《ぬ》ぎ捨てた。 現れたのは、光り輝くような裸身《らしん》。
降りしきる雪の中で全裸《ぜんら》の少女は、活性化したレベリオン紬胞の燐光《りんこう》に包まれていた。
彼女の背中に、ひときわ眩《まばゆ》い光が広がる。
それは、翼《つばさ》だった。翅《はね》と呼んだほうが正確かもしれない。
妖精《ようせい》の翼を思わせる美しい半透明の翅が、少女の背中で広がっていく。
「香澄《かすみ》に伝えて……今のあなたでは、私たちには勝てない、と」
二|対《つい》の翅が、輝きを増した。羽ばたきを始めたのだ。
単純な飛行効率だけを比べれば、昆虫の翅は鳥類のそれをはるかに凌《しの》ぐという。ましてや、レベリオン細胞の強大な出力を持ってすれば、人間の身体《からだ》を浮かせるくらい、どうということもないのだろう。 真澄美を抱《だ》いた少女の身体が、ふわりと浮かび上がる。 激しい雪が、抜け落ちた羽根のように風に舞う。
リチャード・ロウは、シューティング・グラスを投げ捨てた。 空《から》になった弾倉《だんそう》を落とし、予備の弾倉を装損《そうてん》する。一連の無意識の動作。だが、再び拳銃《けんじゆう》を構えたときには、二人の女性の姿は消えていた。
あとに残されたのは、破壊されたライフルと撃ち落とされた弾丸《だんがん》だけ。
「さようなら、クリス……また会いましょう」
真澄美の声が、遠くで聞こえたような気がした。
リチャード・ロウは、舌打ちして銃をしまう。 二年間追い求めてきた相手と接触できたというのに、結局なにもわからなかった。彼女の目的も、その手がかりさえも。
「第二段階レベリオン――か」
クリスは絶望して天を仰《あお》ぐ。胸の前で切った十字は、その絶望をより深くしただけだった。
たった一つだけわかっていること。
それは――緋村《ひむら》恭介《きようすけ》を救う手段が、すべて失われたということだった。
雪が、降り続いていた。
陽光が翳《かげ》り、視界が白さを増していく。
だが、肌《はだ》が切りつけられたように傷《いた》むのは、寒さのせいばかりではない。吹きつける殺気は、二月の風よりもはるかに鋭く尖《とが》っていた。
粉雪が積もり始めた校庭で、香澄は無言で仲神《なかがみ》昭《あきら》と対時《たいじ》していた。
長身に、がっしりとした肩幅《かたはば》。服の上からでもはっきりとわかる、盛り上がった筋肉。
短く刈《か》り込んだ茶髪と、額《ひたい》から頬《ほお》にかけて残る古い傷跡《きずあと》。そして、全身にまとう静かな殺気。
もしサムライというものが実在したとしたら、それは彼のような男だったに違いない。
雪の中で細められた仲神《なかがみ》の瞳《ひとみ》が、何も映していないことに香澄《かすみ》は気づいていた。
いや、映しているのは、絶望か。
目の前で十数名の仲間を惨殺《ざんさつ》された。
その男の心が凍《い》てつき、復讐《ふくしゆう》を誓《ちか》ったとしても、驚くことではないだろう。
「答えがわかってしまえば、単純なことだったのよ」
そのうつろな瞳を見つめて、香澄は口を開いた。返事を期待していたわけではなかったが。
「江崎《えざき》志津《しづ》は、この街に|RAVE《レイヴ》という麻薬の流通経路を持っていた。彼女が死んでも、その構成員が全滅《ぜんめつ》したわけじゃない。その生き残った流通経路の一つが、あなたのグループだった。そうでしょう、仲神昭?」
仲神は、黙って香澄の言葉を聞いていた。
答えはない。それはつまり、肯定《こうてい》ということなのだろう。
香澄は続ける。
「クスリの供給源を絶たれて、あなたたちは、慢性《まんせい》の飢餓《きが》状態に陥《おちい》っていた。そこに、江崎志津の遺産《いさん》とでも呼ぶべき大量の|RAVE《レイヴ》を抱《かか》えて現れた者がいた。それが、インコグニート」
仲神たちは、貪《むさぼ》るようにして与えられた|RAVE《レイヴ》を服用したことだろう。恐《おそ》ろしい副作用があることも知らず。そして、|悪 性《ヴイルレント》レベリオンに変わった伸神の仲間は、互いに殺し合った。あるいはインコグニートの手によって抹殺《まつさつ》された。かろうじて殺戮《さつりく》の手を逃《のが》れたのは、その場にいなかった数人と、真性《プロ》レベリオンの適性があった仲神と尾上《おのうえ》だけだった。
「沢渡《さわたり》郁哉《いくや》は、あなたたちを恨《うら》んでいたわ」
香澄の言葉に、仲神はかすかに反応した。
「あなたたちは沢渡郁哉の友人を殺した。だから、インコグニートは、あなたたちを殺そうとした。沢渡郁哉に喜んでもらうためだけに――それだけの、単純な話だったのよ。たった一つ、誰《だれ》もが勘違いしていたのは……」
仲神が、ゆっくりと脚《あし》を踏《ふ》み出した。ジャケットの下にのぞく胸元が、透《す》きとおるように変色していく。トランスジェニック能力|聖者の鎧《アーマード・セイント》=B
「――沢渡|美古都《みこと》とインコグニートが、同一人物だと思ってしまったこと!」
仲神が、駆《か》けだしていた。香澄に向かって、真《ま》っ直《す》ぐに。 格闘戦型レベリオンならではの、圧倒的な速度。野生の肉食獣をも凌《しの》ぐ瞬発力《しゆんぱつりよく》だった。
香澄がスローイング・ダガーを放つ。 伸神は、その攻撃を無視した。
銃弾《じゆうだん》に匹敵《ひつてき》する速度で飛んだダガーは、仲神の鎧《よろい》≠ノ当たってむなしく弾《はじ》かれる。
だが、彼の攻撃を――そのタイミングをずらす程度の効果はあった。
突き出される正拳《せいけん》を避《さ》けて、カウンターでスクリーミング・フィストを叩《たた》き込む。
超振動波の直撃を受けて仲神《なかがみ》の突進は止まった。だが、体重の軽い香澄《かすみ》は反動に耐えきれず、大きく後方に飛ばされた。香澄はその衝撃《しようげき》に逆《さか》らわず、宙返りを決めて体勢を立て直す。
レベリオン細胞の鎧《よろい》に覆《おお》われた仲神には、香澄の能力は通用しない。
「あなたの気持ちはわかるわ」
低く身構えたまま、香澄は言った。
「だからって、インコグニートに復讐《ふくしゆう》してどうなるというの? ここは、あたしたちに任せて、退《ひ》きなさい、仲神|昭《あきら》!」
「復讐がなにも生み出さないと思っているのなら、それは間違いだ」
仲神が、はじめて口を開く。己の防御力《ぼうぎよりよく》に、絶対の自信を持っているのだろう。無造作《むぞうき》に、踏《ふ》み出しながら――
「仲間を殺されたときから、俺《おれ》の時間は止まった。インコグニートをこの手で殺さなければ、先に進むことはできない――それに、あの女との約束もある」
「真澄美《ますみ》のことを言っているの!? いったい彼女は、あなたになにを――」
「……お前には、関係のないことだ」
静かな声音とともに、仲神の身体《からだ》が再び動いた。
彼の瞳《ひとみ》を見て、香澄は説得をあきらめた。
決定的に時間がないのだ。トランスジェニック能力を使えない恭介《きようすけ》が、アーレンを抑《おさ》えていられる時間はそう長くあるまい。
「あなたを……倒すわ。伸神昭」
香澄のつぶやきを聞いて、仲神は笑ったようだった。 彼の巨体《きよたい》がぐっと沈み、次の瞬間《しゆんかん》。香澄の眼前に現れる。
本気になった、ということなのだろう。少なくとも直線的な動きに関する限り、伸神のスピードは香澄をも凌駕《りようが》していた。
「くっ――!」
爆発的なパワーで繰り出される連打を、香澄はかろうじて避《よ》けた。下手《へた》に防御すれば、確実に骨まで破壊されていただろう。スクリーミング・フィストの威力《いりよく》をもってしても、仲神の攻撃を完全に相殺《そうきい》する自信はなかった。
視界の隅《すみ》を、閃光《せんこう》が染める。 振り返る余裕《よゆう》はなかったが、直観的にアーレンの仕業《しわざ》だと感じた。
仲神の注意が一瞬《いつしゆん》だけそれた。彼はアーレンの素性《すじよう》を知らない。
その隙《すき》に、香澄は跳躍《ちようやく》していた。 七、八メートルほどの距離をおいて、仲神に向き直る。
その腕《うで》に、一束の金属ワイヤーが握《にぎ》られていた。統合計画局《とうごうけいかくきよく》に特注した、香澄《かすみ》の切り札。ジャケットの内側に吊《つ》ってあったものだ。先端《せんたん》に向けて細くなっていく、銀色のワイヤーロープ。
長さはおそらく十メートルを超えている。
「できれば、使いたくはなかったのだけど――」
香澄が腕を振り上げると、ワイヤーはまるで意志を持っ生き物のように空中へと舞った。殺伐《さつばつ》とした高張力|鋼《はがね》のワイヤーが、新体操のリボンのように優雅な軌跡を宙に描く。
いや、もっと正確に言えば――
「ムチ――か」
仲神《なかがみ》が、ふてぶてしい笑みを浮かべた。
「道具に頼っても同じことだ。お前の能力では、|聖者の鎧《アーマード・セイント》は破れない」
「いいえ……」
ムチを握《にぎ》る香澄の右腕が、眩《まばゆ》い閃光《せんこう》を放ち始める。慟哭《どうこく》にも似た響《ひび》き――スクリーミング・フィスト。仲神が動いた。巨大《きよだい》な体躯《たいく》からは想像もつかぬ鋭い踏《ふ》み込み。
長大なワイヤーを振り回しているせいで、身動きのとれない香澄に、突っ込んでくる。
香澄が、腕を振り下ろした。
空中を舞っていたワイヤーが、唸《うな》りとともに、四方から仲神に襲《おそ》いかかった。
仲神は、避《よ》けない。全身を覆《おお》う鎧《よろい》を発光させ、正面からワイヤーを迎え撃つ。そして――
「波動を伝える媒質《ばいしつ》が変われば、振動波の性質も変化する――あなたの負けよ、仲神|昭《あきら》」
まるで何千トンもの金属同士がぶつかるような轟音《ごうおん》が響《ひび》き渡り、血煙が舞った。
地面に叩《たた》き伏せられた仲神が、絶叫《ぜつきよう》した。
彼の右腕が、あらぬ方向にねじ曲がっていた。 全身を覆《おお》う装甲《そうこう》は砕《くだ》け、無数の亀裂《きれつ》からは鮮血がほとばしっていた。
彼に絡《から》みついた銀色のワイヤーが、返り血を浴びて真紅《しんく》に染まっている。
空中を舞うワイヤーに送り込まれた振動波は、行き場を見失い、無限に反射と干渉を続けた。そして激突の瞬間《しゆんかん》、蓄積《ちくせき》された全エネルギーを仲神に向かって吐《は》き出したのだ。
その威力《いりよく》は、通常のスクリーミング・フィストの数十倍にも及んでいた。逆流してくる振動波の反動を、香澄はかろうじて抑えつける。
仲神の絶叫は、まだ続いていた。
その口元から、血塊《けつかい》がこばれた。スクリーミング・フィストの超振動波により、内臓がずたずたに破壊されているのだ。驚異的な生命力を誇《ほこ》るレベリオンといえども、急いで処置をしなければ命にかかわる。
「退《ひ》きなさい、仲神昭!」
香澄《かすみ》が叫ぶ。
それを無視して、仲神《なかがみ》は立ち上がった。その瞳《ひとみ》からは未だに闘志が消えていない。全身から放つ殺気は、激しさを増しているようにも思える。
「おおおおおおっ!」
伸神が吼《ほ》えた。
その気迫に気圧《けお》されるようにして、香澄《かすみ》はワイヤーを放った。
超振動波を蓄積したワイヤーが、大気を軋《きし》ませて伸神へと落下する。
銀光は、仲神の右腕《みぎうで》に巻きつき骨を砕《くだ》いた。
「くはっ――!」
仲神が、歯を剥《む》きだして笑った。
彼の左手が香澄のワイヤーをつかみ、裂吊《れつぱく》の気合いとともに引きちぎった。折れた右腕を犠牲《ぎせい》にして、香澄の武器を破壊したのだ。恐《おそ》ろしいまでの執念《しゆうねん》だった。香澄は全身が震えるのを止められない。
だが、それが仲神の限界だった。全身を覆っていた燐光《りんこう》の鎧《よろい》が次々にはがれ落ち、力尽きたように膝《ひざ》をつく。
香澄は、破壊されたワイヤーを捨てて、拳《こぶし》を握《にぎ》った。疲労は激しいが、もう一度スクリーミング・フィストを放つ程度の力は残っている。今の仲神なら、通常の攻撃でも倒せるはず――
「動くんじゃねえ!」
いきなり背後から響《ひび》いた野太《のぶと》い声に、香澄ははっと動きを止めた。
大温室の中、結露《けつろ》で曇ったガラス越しに、近づいてくる不良少年たちの姿が見えた。
男たちの数は四人。その中には香澄が昨日《きのう》、昏倒《こんとう》させたコージとかいう若者の姿もある。
どうやら、仲神グループの残党が勢揃《せいぞろ》いしたということらしい。
そして、拓《たく》と呼ばれていた鼻ピアスの男は、小柄《こがら》な黒髪の少女を抱《かか》えていた。
「美古都《みこと》さん――!?」
少女の首筋に当てられているナイフを見て、香澄の表情が凍《こお》った。
気絶しているのか、美古都はうつむいたまま動かない。
手ひどく殴《なぐ》られたのだろう。彼女の横顔は無惨《むざん》に腫《は》れ、切れた唇《くちびる》から出血していた。昨夜、萌恵《もえ》が染《し》み抜きしたばかりの制服の上着を、真新しい血が汚《よご》している。
「……なんてことを」
香澄が呆然《ぼうぜん》とつぶやく。
それを見て、ナイフを構えた鼻ピアスの男が勝ち誇った表情を浮かべた。
「仲神さん。今度こそ、このガキ捕まえましたよ」
しゃべっている間も、男は香澄から目を離さなかった。
彼らまでの距離は三十メートル以上。香澄が彼らに殴りかかるよりも先に、男のナイフは美古都の頚動脈《けいどうみやく》を切り裂《さ》くだろう。温室の壁が邪魔《じやま》をして、スローイング・ダガーを投げることもできない。
「それが、笑っちまう話で。花壇の奥で寝てやがったんです」
「よっぽどその場で、ヤっちまおうかと思いましたよ」
「ついでに、そこの女も拉致《らち》っていきますか?」
「あとは、この女のクソ兄貴を呼びだして――」
男たちは休むことなく口を開き、下卑《げび》た笑い声をあげていた。
血まみれの仲神が、ゆっくりと立ち上がる。ダメージから完全に立ち直ったわけでもないだろうが、レベリオン特有の治癒力《ちゆりよく》により出血はすでに止まっていた。
恭介《きようすけ》とアーレンの戦闘は、まだ続いている。
「……げなさい」
香澄の口から、無意識に声がもれた。
その声が聞こえたはずもないが、美古都《みこと》の身体《からだ》が、ぴくりと動いた。
男たちは、気づいていない。美古都が顔を上げたことにも。
彼女の出血は、いつの間にか止まっていた。腫《ふく》れあがっていたはずの顔も、いつものあどけない顔立ちを取り戻《もど》していた。髪の色は――変わるはずもない、艶《つや》やかな黒。
だが、目を開けた彼女の瞳《ひとみ》は、金色に輝いていた。
「逃げなさい――逃げて!」
香澄の叫びが、自分たちに向けられたのだと、彼らは最後まで気づかなかっただろう。
鼻ピアスの男の手から、なんの前触れもなくナイフが吹き飛んだ。男は驚いて、自分の手を見る。
黒髪の少女の腕《うで》が、その男の肩《かた》に回された。
艶《なま》めかしい仕章《しぐさ》で、少女の掌《てのひら》が男の頬《ほお》を撫《な》でる。
その掌は、淡《あわ》い燐光《りんこう》を放っていた。
「……あは」
無邪気《むじやき》な微笑《ほほえ》みが、少女の唇《くちびる》からもれる。
男の顔色が変わった。赤から、そして紫へ。男の顔が膨張し、変形していく。
血液が煮えたぎる異臭《いしゆう》が立ちこめた。
そして、男の身体が弾《はじ》けた。沸騰《ふつとう》した返り血を浴びて、残りの不良少年たちは悲鳴をあげた。
常軌《じようき》を逸《いつ》した事態に、彼らは逃げまどうことすらできなかった。
無様《ぶざま》に尻餅《しりもち》をついたまま、それでも少女から離れようとあがく。
「あははははははは」
大温室の中に、少女の笑い声が反響した。
いつも気弱げに揺《ゆ》れていた眼差《まなざ》しが、今は燗々《らんらん》と輝いていた。
唇《くちびる》からもれるのは、世界のすべてを嘲《あざけ》るような哄笑《きようしよう》。
美古都《みこと》と同じ顔をしていたが、それはもはや美古都ではない。
彼女が、インコグニートだった。
眩《まばゆ》い閃光《せんこう》に包《つつ》まれて、何も見えない。
スポットライトのせいだ、と恭介《きようすけ》は思った。素人《しろうと》がライティングを行うアマチュアバンドのライブでは、別にめずらしくもない失敗だ。そのうち目が慣れれば、客席の様子《ようす》も見えるようになるだろう。
耳元で、激しいノイズが鳴っていた。激しい雨のような、絶え間ない騒音《そうおん》。きっとスビーカーのハウリングだろう。どちらにしても、たいした問題ではない。
まずいのは、声が出ないことだ。ボーカルが歌えなくては、演奏にならない。
たしか前にもこんなことがあった。本番直前のリハーサルで、緊張しすぎて声が出なくなったことが。それはきっと、特別にめずらしい症状というわけでもないのだろうが。
――あのときは、杉原悠《ずぎはらゆう》がいてくれた。
「悠……」
つぶやいた声だけが、耳元でやけにはっきり聞こえた。
なにビビってんだよ――らしくないな。
昔聞いた、懐《なつ》かしい友人の言葉を思い出す。あのころは、どんな緊張や不安も、歌ってさえいれば忘れることができた。歌っている自分の傍《かたわ》らには、いつも彼がいてくれたからだ。
彼が口にするのは、いつだって平凡な言葉だった。だが、彼の声を聞くと、本当になんでもできそうな気になった。彼が傍《そば》にいるだけで、それだけでどんな壁も乗り越えられると思えたのだ。そして心のどこかで――今でもそう思っている。
「――ンダァアアァヘーッド!」
アーレンの叫び声が聞こえた。帯電《たいでん》した空気がちりちりと肌《はだ》に突き刺《さ》さる。
殺意が押し寄せる気配と同時に、恭介は動かないはずの身体を投げ出していた。
どこに逃げる、という明確な目標があったわけではない。
実際のところ、それの存在を思い出す余裕《よゆう》などありはしなかった。
だが心の片隅《かたすみ》に、なにかが残っていたのだろう。恭介は、無意識に乗り捨てたバイクのほうへと転《ころ》がっていた。
青白い光の奔流《ほんりゆう》が、恭介を襲《おそ》う。まるで映画の特殊効果のような、くっきりとした稲妻《いなずま》が視界に映った。アーレンの全身から放たれた雷光《らいこう》は、真《ま》っ直《す》ぐ恭介へと押し寄せ、収束《しゆうそく》した。
そして――驚きの声をあげたのは、アーレンだった。
「なにっ!?」
恭介《きようすけ》を直撃するはずだった雷撃《らいげき》は、寸前でその軌道《ぎどう》を変えていた。
ほば直角にねじ曲がり、乗り捨てられていたXJR四〇〇へと吸い込まれる。
帯電《たいでん》した空気が引き起こす衝撃波でバイクは吹き飛んだが、火災《かきい》は発生しなかった。
金属製のスタンドが地面に接地している。電流はそこから逃げていったのだ。
「ちっ――」
アーレンが大きく舌打ちする。彼の攻撃がそれた原因は、恭介にはわからない。わかるのは、エネルギーのチャージを終えしだい、アーレンがすぐに次の攻撃を放つということだけだ。
ふらつく脚《あし》を引きずるようにして、恭介は倒れたバイクへと近寄った。
金属製のバイクのフレームに、青みを帯びた金属の塊《かたまり》が縛《しば》られている。その金属塊《きんぞくかい》は、病院で杏子《きようこ》から手渡されたものだった。その正体を、恭介は知らない。だが、アーレンの攻撃が外《はず》れたのが偶然《ぐうぜん》でないとしたら、おそらくこれが原因だ。
「消し飛べ――緋村《ゆむら》恭介!」
アーレンが叫ぶ。逆立《さかだ》った髪が閃光《せんこう》を放ち、恭介に向かって稲妻《いなずま》が走る。
「くうっ――!」
恭介は倒れたバイクを引き起こし、、それを盾《たて》にするように身体《からだ》を伏せた。避雷針《ひらいしん》の原理くらいは、恭介だって知っている。アーレンの意志によって自在にコントロールされる雷撃《らいげき》に、どれほどの効果があるかは疑問だったが――
「――まさか」
|神の雷槌《サンダーヘツド》は、再び軌道《きどう》をねじ曲げ、今度こそ間違いなく青い金属塊に吸い込まれた。
雷撃が地面へと伝わり、数百万ボルトの電圧が無力化する。
アーレンの顔が、驚愕《きようがく》に歪《ゆが》んだ。
「まさか、その金属――!?」
動揺したことで、精神集中が乱れたのだろう。
アーレンの身体《からだ》を包んでいた雷光《らいこう》が消えた。
逆立《さかだ》っていた髪が、重力にとらわれてふわりと落ちる。
どこかで見たような光景――恭介の脳裏《のうり》になにかが閃《ひらめ》く。
空気は、強力な絶縁体だ。最大十億ワットと言われる雷《かみなり》のエネルギーでも、その分厚《ぶあつ》い壁を突き破るのは容易ではない。それでも雷が落ちてくるのは、大気中に電気の通り道が形成されるからだ。すなわち高電圧によってイオン化した空気の存在である。
アーレンの髪が、高圧の静電気を放出していることは、想像に難くない。その静電気が周囲の大気をイオン化し、放出される稲妻に指向性を与えているのだ。透《す》きとおるような銀色の髪。考えてみれば、それは活性化したレベリオン細胞の色ではないか。
「……あんたが、言ったんだぜ」
呆然《ぼうぜん》とするアーレンに、恭介は苦笑いを浮かべてみせた。
「うちの姉貴なら、あんたの能力を封じる手段を思いつくだろう、ってな」
「……その金属――コバルト60か」
アーレンが唇《くちびる》を歪《ゆが》めた。彼も苦笑したのかもしれない。
イオン化した大気の銃身は、間違いなく恭介《きようすけ》に向けられていた。だが、アーレンの誤算は、恭介が人工コバルトの塊《かたまり》をこの場に用意していたことだ。医療用のガンマ線源として使用されるこの放射性元素は、周囲の大気をイオン化する働きを持っている。
「放射性コバルトで空気をイオン化して、雷撃《らいげき》の進路を歪《ゆが》めたってわけか……病院の防犯装置を破壊したときのわずかな痕跡《こんせき》だけで、サンダーヘッドの原理を見抜くとはね。実にたいした女だよ……だが!」
自らの言葉が終わるより早く、アーレン・ヴィルトールは駆《か》けだしていた。 彼の身体《からだ》を、再び雷光が包む。今度は、銀髪は動かない。
青白い火花は、彼の両腕《りよううで》だけから散っていた。
「こうも言ったはずだ――俺《おれ》の能力は、接近戦でも使えないわけじゃない!」
アーレンの意図は明自だった。
たとえ指向性の雷撃を封じても、直接身体に電流を流してしまえば同じことだ。
そして、全身にまとった高圧電流は、アーレンの肉体を守る鎧《よろい》となる。 格闘戦では、恭介は絶対にアーレンに勝てない。
そう――勝てないのは、格闘戦ならば、だ。
「借りは返すぜ――アーレン!!」 恭介は、叫ぶ。
アーレンの表情から、はじめて余裕《よゆう》が消えた。飄々《ひようひよう》とした態度の裏で、常にあらゆる可能性を警戒《けいかい》していたプロの戦士。その彼が、最後の最後に、一瞬《いつしゅん》だけ無防備になる瞬間《しゆんかん》――
絶対の勝利を確信する瞬間を、恭介は待っていた。
無意識に身体を縛《しば》りつけていた、恐怖《きようふ》という名の鎖《くさり》を引きちぎる。その方法を、恭介は知っていた。かつての親友の幻影が、それを思い出させてくれたのだ。
身体の奥からわき上がる感情のままに、恭介は叫ぶ。 その叫びは咆吼《ほうこう》となり、咆吼は破壊的な衝撃波と化した。
大温室のガラスが砕《くだ》けた。吹き荒れる暴風に、粉雪が渦《うず》を巻く。 トランスジェニック能力――|滅びの咆哮《ブラステイング・ハウル》
「っ――!」
ブラスティング・ハウルの直撃を受けて、アーレンの長身が宙を舞った。 見えないはずの攻撃から咄嵯《とつさ》に急所を避《さ》けたのは、戦士としての本能が為《な》せる技なのだろう。
それでも真空の刃《やいば》と高周波振動は、彼の身体に容赦《ようしや》なく降り注ぐ。
銀色の髪が真紅《しんく》に染まり、アーレンは地面に叩《たた》きつけられた。
致命傷ではない。だが、もはや戦闘を続けるのは不可能だ。
レベリオンの超回復力をもってしても、しばらくは立つこともできないはず
。「油断したわけではなかった……」
仰向《あおむ》けに倒れたアーレンが、苦笑混じりに口を開く。
「お前さんの能力、たしかに使えなかったはずだ……」
「ああ……」
恭介《きようすけ》はうなずいた。演技ではなかった。たしかに能力は使えなかったのだ。香澄《かすみ》も、恭介自身もそう思いこんでいた。だから、プロフェッショナルであるアーレンも信じたのだ。
消え残る耳鳴りを振り払うように、恭介は軽く頭を振る。最初に喰《く》らった雷撃《らいげき》のダメージも、どうにか回復しつつあった。
「だけど思い出しちまったからな」
「思い出した?」
「ああ……ビビッてんのは、俺《おれ》らしくないんだとさ」
恭介の言葉の半分は、自分に対して向けられたものだった。
その意味がわかったということはないのだろうが、アーレンはふっと笑って瞳《ひとみ》を閉じる。
重傷だが、すぐに命を落とすことはないだろう。逃げられても困るが、この傷ではしばらく動けまい。少なくとも――決着をつける時間くらいはあるはずだ。
恭介は、大温室へと目を向けた。
黒髪の少女の、無邪気《むじやき》な笑い声が響《ひび》いてくる。
爆砕《ばくさい》した不良少年の返り血を浴びて、インコグニートは立っていた。
聞き慣れた少女の声、見慣れた従妹《いとこ》の顔――そして見知らぬ暗殺者の瞳《ひとみ》。
恭介は、ようやくすべてを理解していた。
レベリオンの能力は、極めて微妙《びみよう》なバランスによって制御《せいぎよ》されている。
そう教えてくれたのは、香澄だった。そして彼女は、こうも言った。
だから一時的に能力が使えなくなることもあり得る、と。
「……沢渡《さわたり》兄妹が、江崎《えざき》志津《しづ》と接触した――その経緯《けいい》はたぶん、あたしたちが推理したとおりだったのよ。実際、沢渡|郁哉《いくや》をRAVE漬けにしたのは、彼女だったわけだし」
美古都《みこと》に駆《か》け寄ろうとした恭介を制止するように、香澄が静かに口を開いた。
砕《くだ》けたガラスから風が吹き込んで、大温室の中で雪が舞っていた。 破壊された銀色のワイヤーを投げ捨てて、香澄は続ける。
「違っていたのは、彼女が興味を示したのが沢渡郁哉ではなく、美古都さんのほうだったということ。そしてレベリオンの能力に目覚めたのが、美古都さんの中に眠《ねむ》る、もう一つの人格だけだったということ」
「二重人格……か」
奇妙《きみよう》な静寂の中で、恭介《きようすけ》の声は意外なほど大きく響《ひび》いた。
言葉にしてしまえば簡単なことだった。専門的なことは恭介にはわからないが、表面的な現象を説明するなら、その象徴的な単語で十分に事足りる。 仲神《なかがみ》たちが、美古都《みこと》を執拗《しつよう》に追っていた理由――
インコグニートが、タイミングよく廃校舎を襲撃《しゆうげき》できた理由――
アーレンが、貴重なサンプルとして彼女を欲しがっていた理由――
にもかかわらず、沢渡《さわたり》美古都がレベリオンでなかった理由――
すべては、その一言で説明がつく。
「沢渡美古都の人格が目覚めている間は、レベリオンの力は何一つ使えない。戦闘能力だけでなく、治癒力《ちゆりよく》や回復力という基本的な能力すら。その結果、彼女の行動は、いくつか決定的な矛盾《むじゆん》を抱《かか》えることになった。襲《おそ》われても、身を守ることすらできなかった。もっとも、そのおかげで、恭介たちの庇護《ひご》を受けることができたのだけど」
血まみれの仲神|昭《あきら》は、香澄《かすみ》の言葉を黙《だま》って聞いていた。
インコグニートは、にこやかに笑っている。不良少年たちは、その隙《すき》に彼女から離れようと必死だ。恐怖《きようふ》のせいか、その速度は絶望的なまでに遅《おそ》い。
「美古都が、病院からいなくなったのは……」
恭介が訊《き》いた。その答えは、もうわかっていたが――
「彼女の意志よ。インコグニートの人格が目覚めれば、レベリオン細胞の働きで怪我《けが》は治るし、麻酔薬《ますいやく》も中和される。人知れず抜け出すのは簡単だったはず。その彼女が、この温室に現れた理由は……」
香澄は言葉を切って、一瞬《いつしゆん》つらそうな表情を浮かぺた。
「――おそらく、彼女にとって、ここが一番心安らぐ場所だったんでしょうね。途中で美古都《みこと》さんが意識を取り戻《もど》したのか、それともインコグニートのまま、無意識に戻ってきてしまったのかはわからないけれど」
「ちょっと待てよ」
恭介が、香澄の説明を遮《さえぎ》った。
「じゃあ、病院での騒《さわ》ぎはなんだったんだ。なんで、インコグニートが、あんたを殺そうとするんだよ!?」
「それは――たぶん、あたしがあなたと喧嘩《けんか》していたからだわ」
「なに?」
「あたしは初対面の美古都さんの前で、あなたのことをびっばたいた。その光景が潜在意識に焼きついて、彼女の中であたしは敵として認識されたのよ」
「そうよ――あんたなんて大キライ」
「――!」
香澄《かすみ》の身体《からだ》が、弾《はじ》かれたように横に跳《と》んだ。
直前まで彼女がいた空間を、銀光が貫いた。光の正体はナイフだった。
美古都《みこと》の足下に転《ころ》がっていたナイフが前触範もなく浮き上がり、香澄に向かって飛んだのだ。まるで強力な磁石《じしやく》同士が反発したような光景だった。
沢渡《さわたり》美古都の口から、インコグニートの無邪気《むじやき》な嘲笑《ちようしよう》がもれる。
「……キライなのよ。みんなキライ。あたしから、お兄ちゃんや恭介をとっちゃう人は、みんな死んじゃえばいいのよ。それに……」
金色の瞳《ひとみ》が、大温室の床《ゆか》に這《ほ》いつくばる不良少年たちに向けられた。
香澄が、はっと全身を強張《こわば》らせる。
「――お兄ちゃんを悲しませるような人たちも、要らない。みんな、死んじゃえ」
美古都のか細い腕《うで》が、逃げ遅《おく》れた不良少年に向けられた。 なにも起こらない。閃光《せんこう》や、衝撃波が放たれた気配はない。
ただ少年の身体《からだ》だけが、ぶるぶると小刻みに震えた。
顔色が変わっていく。不健康そうな土気色《つちけいろ》から、赤ん坊のようなビンクへ。そして鮮やかな真紅《しんく》へと。彼の全身から、汗《あせ》が噴《ふ》き出していた。その汗は、すぐに蒸気へと変わる。やがて、蒸気は霧に変わった。沸騰《ふつとう》した血液が生み出す、真紅の霧に――
「あは」
インコグニートが笑う。狂気《きようき》と紙一重の無邪気な笑みで。
「あはははははは」
男の身体が膨張《ぼうちよう》して。弾《はじ》けた。まるで電子レンジの中で爆発した生卵のように。
煮えたぎった血液が、うっすらと雪の積もった校庭を紅《あか》く染める。
「――生体|磁場《じば》!」
香澄が叫んだ。
「強力な電磁《でんじ》パルスで、血液中の水分子を沸騰《ふつとう》させたんだわ! これが彼女のトランスジェニック能力!」
「――プラズマ・シャフト」
英国仕込みの美しい発音でインコグニートが告げる。|電離原子と血漿《プラズマ》――|矢と稲妻《シヤフト》……
生物が磁気《じき》をまとっていることは広く知られている。磁気に水分子を振動させる作用があることも。彼女のプラズマ・シャフトの原理は、その応用に過ぎない。強力な磁界《じかい》を発生させて、その中にある水分を一瞬《いつしゆん》で沸騰させる。人間の血液といえども例外ではない。
だが、それだけ強力な磁界を無制限に展開できるものではないのだろう。彼女の能力の射程距離は、せいぜい二、三メートルといったところだ。しかし、その内側に入ってしまえば、磁場を防ぐ手だてはない。たとえレベリオンの肉体でも、一瞬《いつしゆん》で沸騰《ふつとう》して死に至る。
インコグニートは、次の獲物を探して頭を巡らせた。
大温室の壁に追いつめられて、震えている少年に目を留める。コージと呼ばれていた、髭面《ひげづら》の男。
「ひいいいいっ!」 男の悲鳴を、インコグニートは微笑《ほほえ》みながら聞いた。 彼女の白い手が、ゆっくりと伸びて彼を指差す。
「スクリーミング……」
香澄《かすみ》が叫んだ。
彼女の腕《うで》には、銀色に光るスローイング・ダガーが握《にぎ》られていた。超振動波を送り込まれた鋼《はがね》の刃《やいば》は、分厚い装甲板《そうごうばん》をも撃ち抜く威力を持っている。
「――フィストっ!」
香澄が放ったダガーは、銀色の軌跡《きせき》を描いてインコグニートへと飛んだ。
金色の瞳《ひとみ》を細めて、彼女は腕を振るう。虫でも追い払うように、無造作《むぞうさ》に。
ダガーが、見えない壁にぶつかったように止まって、弾《はじ》かれた。
インコグニートが展開した磁界《じかい》によって、金属製のダガーが跳《は》ね飛ばされたのだ。
プラズマ・シャフトの電界強度を考えれば、当然起こり得る現象であった。おそらく対戦車ライフルの弾丸でも、彼女の電磁障壁《でんじしようへき》は撃ち抜けまい。
「あは、あははははは……」
インコグニートが笑った。プラズマ・シャフトの電磁場を浴びて、不良少年の身体が爆砕《ばくさい》する。
生き残った二人の少年たちは、恐怖《きようふ》のあまり失神していた。
「く……っ!」
香澄が苦しそうな表情を浮かべて、恭介《きようすけ》のほうを振り返った。何かを言おうとして、言い出せないというふうに唇《くちびる》を噛《か》む。
「沢渡《さわたり》美古都《みこと》を撃て、緋村《ひむら》弟」
彼女の代わりに声を出したのは、負傷して倒れていたはずのアーレンだった。
校舎の壁に寄りかかるようにして、それでも淡々《たんたん》とした口調で恭介に命じる。
「このままだと、ここにいる人間は全滅する。もうサンプルだなどと言ってる場合じゃない。彼女を止めたければ、お前の能力でやつを撃て」
「な……なにを……」
恭介は呻《うめ》いた。香澄が悲しげな表情で見つめている。おそらく彼女も同じことを言おうとしたのだろう。
本当は、恭介にもわかっていた。
プラズマ・シャフトの磁界《じかい》に阻《はば》まれて、香澄《かすみ》はインコグニートに近づけない。アーレンもサンダーヘッドを撃てる状態ではない。この場でインコグニートを止められるのは、恭介のブラスティング・ハウルだけだ。だが――
「撃てるわけねえだろ……」
恭介《きようすけ》が、絶望的な声をもらす。
「インコグニートの身体《からだ》は、美古都の身体でもあるんだ。俺《おれ》に美古都《みこと》を撃てというのか!? 殺してしまうかもしれないのに!?」
「恭介っ!」
香澄《かすみ》が叫んだ。彼女が言いたいことはわかっている。どんな思いで、それを口に出すのかも。だが、どうしようもない。理屈ではないのだ。美古都を撃つことなど、できはしない。
アーレンが、失望したように天を仰《あお》ぐ。
そんな恭介の苦悩をよそに、インコグニートが高らかに笑う。
「あはは……やさしいのね、恭介」
無邪気《むじやき》な言葉とは裏腹《うらはら》に、彼女の瞳《ひとみ》は冷酷《れいこく》だった。
気絶した二人の不良少年に向かって、ゆるやかに掌《てのひら》を向ける。
「だから――好きよ」
彼女はつぶやいて、プラズマ・シャフトを展開した。
強力な磁界《じかい》に包まれて、少年たちの身体《からだ》が変色を始める。
と――
「インコグニィィィトォーっ!」
大温室のガラスを突き破って彼女に突進したのは、仲神《なかがみ》昭《あきら》の巨体《きよたい》だった。
香澄との戦いで負傷した身体から、おびただしい鮮血がこぼれる。
だが、仲神の圧倒的なスピードは、まだ衰えてはいなかった。そして彼のパワーなら、美古都《みこと》の小柄《こがら》な身体を一撃で破壊することができるだろう。
「この――っ!」
インコグニートの表情に、はじめて焦《あせ》りの色が浮かんだ。
「あんたなんか――死んじゃえっ――!」
彼女が、これまでとは比較にならない強力な磁界を展開したのがわかった。
大温室を支える金属製の支柱が、磁場《じば》の奔流《ほんりゆう》に耐えきれずに吹き飛んだ。砕《くだ》け散ったガラスが、雪崩《なだれ》のように降り注ぐ。
「おおおおおおおっ!」
仲神が吼《ほ》えた。
彼の全身から、沸騰《ふつとう》した血液が噴《ふ》き出した。|聖 者 の 鎧《アーマード・セイント》の防御力《ぼうぎよりよく》でも、血液に浸透《しんとう》する磁場を防ぐことはできなかったのだ。
それでも、仲神《なかがみ》は止まらなかった。
「――っ!」
彼の最後の言葉は、もはや声にならなかった。
燐光《りんこう》の鎧《よろい》に覆《おお》われた身体《からだ》は、真紐《しんく》の血煙とともに爆発した。
だが、死の直前、彼の拳《こぶし》は美古都《みこと》の身体をとらえていた。仲神の執念《しゆうねん》は、見事に目的を果たしたのだ。
「美古都っ!」
恭介は叫んだ。それ以外、何もできなかった。
美古都の唇《くちびる》から、悲鳴がほとばしった。
インコグニートの小柄《こがら》な身体は、信じられないほど高々と宙を舞っていた。
大温室の柱にぶつかって、花壇の中に落下する。
「くっ!」
恭介は駆《か》けだす。香澄《かすみ》も続いた。
ほとんど原型を留めぬまでに破壊された大温室の中。華やかな草花に囲まれて、インコグニートは倒れていた。かすかに呻《うめ》いて、彼女は上体を起こす。
無傷ではないが、彼女は生きていた。そして――
「……みんな、死んじゃえ……」
駆け寄ろうとした恭介たちに、インコグニートは掌《てのひら》を向けた。
「なっ!?」
恭介たちは動きを止めた。彼女が受けたダメージを読み違え、不用意に接近しすぎたのだ。
最大出力で放出されたプラズマ・シャフトの有効範囲は、予想以上に広い。この距離では、避《さ》けられない。
プラズマ・シャフトの強電|磁場《じき》に包まれて、彼女を囲んでいた草花が溶《と》け落ちた。展開された磁場が、恭介たちを覆《おお》い尽くす。
その寸前、彼女が叫んだ。
「だめ――っ!」
沸騰《ふつとう》して弾《はじ》け飛んだのは、恭介たちとは違う方向にある樹木だった。
プラズマ・シャフトの放出は、まだ続いている。だが、その目標が、微妙《びみよう》にずれていた。インコグニートが、自分の腕《うで》を別の腕で押さえつけている。
彼女は、震えていた。唇《くちびる》からもれるのは、苦しげな呼吸。
金色に輝いていた瞳《ひとみ》の色が、元に戻《もど》りかけていた。
「美古都――美古都なのか!?」
恭介が叫んだ。震える少女の表情を見て、確信する。
インコグニートの意識を抑《おさ》えて、美古都の人格が目覚めようとしている。
おそらく、プラズマ・シャフトの圧倒的な破壊力と、美古都たちの人格が分裂していることは無関係ではないのだろう。レベリオンの肉体が持つエネルギーの総量には限りがある。あまりにも強力すぎる能力ゆえに、インコグニートは人格を長時間保っていられないのだ。過剰《かじよう》なエネルギーの放出で、自らの肉体が崩壊《ほうかい》するのを防ぐために。
仲神《なかがみ》との戦闘で、限界以上に力を使ったインコグニートの支配力は弱まっていた。その結果、美古都《みこと》の意識が身体《からだ》を奪《うば》い返したのだ。だが――
「にげて……キョースケ、カスミも……はやく」
美古都が、掠《かす》れた声で言った。
「おさえられない……やくそくした……のに」
磁場《じき》の放出は続いている。彼女の真横にあったパンジーの花弁が、白い蒸気に包まれて崩《くず》れ落ちた。足下の雑草が、茶色に変色して萎《しお》れていく。
「暴走……しているんだわ。トランスジェニック能力が……」
香澄《かすみ》が、呆然《ぼうぜん》と呻《うめ》いた。
「インコグニートの支配を強引に解除《かいじよ》したせいで、肉体と精神にズレが生じてる。身体は戦闘状態にあるのに、美古都さんの人格は、レベリオンの能力を制御《せいぎよ》できない……」
美古都の周囲の植物が、次々と蒸気を噴《ふ》きあげて消滅《しようめつ》していく。 磁場の暴走は、今や大温室全体を包み込もうとしていた。
激しい熱気を感じて、恭介《きようすけ》たちは為《な》す術《すべ》もなく後退する。
「……にげて」
美古都がつぶやく。 自分が傍《そば》にいるだけで、愛していた花たちが死んでいく。それを見て、彼女は泣いていた。その涙《なみだ》さえも、彼女の頬《ほお》からこぼれた瞬間《しゆんかん》、沸騰《ふつとう》して白い蒸気と化す。
美古都の腕《うで》から、真紅《しんく》の霧が噴き出した。暴走したプラズマ・シャフトの反作用が、ついに彼女の肉体にまで及び始めたのだ。
美古都の人格が表に出ている上体では、レベリオン細胞の治癒力《ちゆりよく》も期待できない。
このままでは彼女は死ぬ。全身の血液を沸騰させて……
「恭介……彼女を撃って」
香澄が震えた声で言った。
「な……!?」
怒鳴《どな》り返そうとした恭介は、彼女の表情を見て言葉を失った。感情を失った美しい人形のような顔――触れただけで、粉々に砕《くだ》けてしまいそうな。
その瞳《ひとみ》には、苦悩と絶望と悲壮《ひそう》な決意が映っていた。瞬《まばた》きもせず、香澄がつぶやく。
「これ以上……苦しませないであげて……」
恭介は何も答えなかった。一歩だけ、前に踏《ふ》み出す。
それが必要なことはわかっていた。それをやらなければならないのが、自分だと言うことも。 香澄《かすみ》は、目をそらさなかった。最後まで見届けるのが、自分の義務だというように。
恭介のやろうとしていることに気づいたのか、美古都《みこと》が微笑《ほほえ》んだような気がした。
絶望の衝撃波を放つべく、恭介が静かに身構えた。
その恭介の前に、ふいに歩き出た人影がいた。高城《たかじよう》学園の制服を着た、ショートカットの小柄《こがら》な少女。彼女の姿を認めて、美古都が驚いた表情を浮かべる。
「――草薙《くさなぎ》!?」
「どうして!?」
恭介と香澄が、口々に叫ぶ。
草薙|萌恵《もえ》は、ちらりと振り返って微笑《びしよう》を浮かべた。そして、すぐに美古都《みこと》に向けて歩き出す。 その落ち着いた足取りを見て、恭介《きようすけ》は気づいた。
萌恵は状況を把握《はあく》している。おそらく、美古都を探して藤霞《とうか》学院を訪れて、そして恭介たちの戦いをどこかで目撃していたのだろう。くわしい事情はわからないまでも、美古都がどんな状態にあるのか、彼女は知っているはずだ。
「……だめ! こないで!!」
美古都が叫んだ。その感情の乱れを反映するように、磁場《じば》が荒れた。萌恵のすぐ近くで観葉植物《ベンジヤミン》の葉が蒸気を上げた。
萌恵は一瞬《いつしゆん》、驚いたように足を止めたが、すぐに再び歩き出した。
美古都に向けて、優しく微笑《ほほえ》む。
「約束、守ってくれたんだね」
萌恵の言葉に、美古都が動きを止めた。
「緋村《ひむら》くんと香澄ちゃんを、助けてくれたんでしょう?」
彼女の口調は、いつもと同じだった。 恐怖《きようふ》を感じていないわけがないのに、彼女の口調は同じだった。傍《そば》にいる人間の心を癒《いや》し、忘れていた勇気を思い出させてく範る。そんな口調だ。
「草薙さん!」
萌恵を違れ戻《もど》そうとした香澄の腕《うで》を、恭介はつかんだ。
香澄が唖然《あぜん》として振り返る。恭介はそれを、不思議な気持ちで見つめた。
無謀《むぼう》な選択《せんたく》だとわかっていた。萌恵が、レベリオンでもない彼女が、おそるべきプラズマ・シャフトの能力をどうこうできるはずがないのだ。
それなのに、恭介は確信していた。いや、わかっていたのだ。彼女は――
「ありがとう、古都《こと》ちゃん……だから、もう大丈夫《だいじようぶ》よ」
萌恵がゆっくりと美古都に近づく。
美古都の瞳《ひとみ》から、ぽろぽろと涙《なみだ》がこぼれた。その涙は彼女の頬《ほお》をつたい、顎《あご》から落ちる。そ
して地面に吸い込まれた。蒸発しないまま。
「大丈夫《だいじようふ》よ……もう、大丈夫……」
萌恵《もえ》はひざまずいて、倒れかけた美古都《みこと》をそっと抱《だ》いた。 ひどい火傷《やけど》を負《お》った美古都の腕《うで》が、萌恵の背中に回る。そのまま彼女は、萌恵の胸に頬《ほお》を埋めて泣きじゃくった。
その光景を、恭介《きようすけ》と香澄《かすみ》は呆然《ぼうぜん》と眺《なが》めた。
暴走したインコグニートは、プラズマ・シャフトの傷跡《きずあと》だけを残して消滅《しようめつ》していた。犠牲者《ぎせいしや》たちの亡骸《なきがら》を、雪が白く染めていく。
アーレンの姿も、いつの間《ま》にか消えていた。逃走《とうそう》したのだろう。香澄もそれに気づいたはずだが、彼女は何も言わなかった。代わりに、安堵《あんど》したように口元をゆるめて、つぶやく。
「レベリオン細胞を無意識に活性化させていた原因……自分自身に対する恐怖《きようふ》から解放されたことで、能力の暴走が収まった――とでも説明するべきかしらね」
「いや……」
恭介は、小さく首を振った。脱力して、校庭の記念樹に寄りかかる。 枝に積もった雪片がぱらぱらとこぼれて、疲れた身体《からだ》に心地よかった。
「美古都は、一度だけ、自分の意志でレベリオンの力を使ったことがあったんだ」
「え?」
「ほんの一瞬《いつしゆん》、おそらくは彼女自身、理解できないほどのわずかな時間だったし、俺《おれ》も死にかけてたんで気づかなかったけど……」
香澄が怪訝《けげん》そうな表情で振り向いた。訊《き》かれる前に、恭介は答える。
「アーレンに、美古都が撃たれたときだよ。銃弾並みの速度を持つ指弾《しだん》が発射されたあとで、美古都は俺の前に回り込んだんだ。でなけりゃ、アーレンほどの男が、狙《ねら》いをはずすわけがない」
「……大切な人を守ろうとしたときだけ、無意識にレベリオン細胞を制御《せいぎよ》していたってこと?自分が死にそうになっても、コントロールできなかったのに?」
香澄は、信じられないというふうに肩《かた》をすくめる。だが、眩《まぶ》しそうに目を細めた彼女の顔は、どこか笑っているようにも見えた。
「美古都の優しさが、インコグニートの殺戮衝動《さつりくしようどう》に勝った……そういうことだろ」
恭介は、つぶやいて空を見上げる。
鉛色《なまりいろ》の暗い空から、雪は飽《あ》くことなく降り続けていた。無数の白い花弁のように。
泣き疲れて眠《ねむ》った美古都を抱《だ》いて、萌恵がゆっくりと顔を上げた。
[#改ページ]
終章
Epllogue:Snowman
翌日の水曜日は、晴天だった。
一晩降り続いた雪も、午後の授業が終わるころには、すっかり溶《と》けてなくなっていた。
校舎の陰《かげ》で溶け残っているのは、誰《だれ》かが置き去りにした小さな|雪だるま《スノーマン》。下校する生徒を見送りながら、無邪気《むじやき》な笑顔を浮かべている。
恭介《きようすけ》が放課後の屋上を訪れたとき、呼び出した相手はすでに来ていた。
振り返った彼女の、ショートカットの前髪が撥《は》ねる。
春を待つおだやかな陽差《ひざ》しの中で、草薙《くさなぎ》萌恵《もえ》は屋上のフェンスにもたれていた。
「ついこのあいだ、入学したような気がするのにね」
かすかに聞こえてくる校歌の伴奏に気づいたように、萌恵が言った。体育館では、卒業式のリハーサルが行われている。
「来年の今ごろは卒業だなんて、実感わかないよね」
「あ……ああ」
気の利いた返事を思いつかず、恭介は無意味にうなずいた。
萌恵の反応は、恭介にとって意外だった。もっと、激しく問いつめられると思っていたのだ。美古都《みこと》のこと――レベリオンのこと。彼女には訊《き》きたいことがたくさんあるはずだし、たぶん、訊く権利もある。
「来年も、同じクラスになれるといいね」
萌恵《もえ》がにこやかに話しかけてくるので、恭介《ぎようすけ》は奇妙《きみよう》な錯覚《さつかく》に襲《おそ》われた。まるで、こうやって世間話をするために、彼女を呼びだしたような気がしたのだ。おそらく知らない人間がみたら、恭介が萌恵《もえ》に告白していると思うだろう。
告白、か―― 恭介は胸の中でひとりごちる。
ある意味で、これも告白には違いない。
恭介たちが戦う姿を、彼女は見てしまったのだ。殺人的な特殊能力をぶつけ合う、レベリオン同士の戦いを。そして美古都《みこと》がトランスジェニック能力を暴走させる瞬間《しゆんかん》を、はっきりと目撃している。
そんな彼女に通用する言い訳などあるはずがない。恭介にできるのは、せいぜい彼女に真実を告げて口止めをすることくらいだ。 と――ふいに萌恵が口調を変えた。
「約束」
「え?」
「約束したよね。いつか話せるときがきたら、あたしにも説明してくれるって」
恭介は黙《だま》ってうなずいた。美古都の病室で交わした、彼女との約束を思い出す。
「だから」
萌恵は、目を伏せて微笑《ほほえ》んだ。
「今はなにも訊《き》かないわ。昨日《きのう》あたしが見たことも、古都《こと》ちゃんのことも、なにも訊かない。いつか、話してくれるまで待ってる」
「草薙《くさなぎ》さん……」
恭介は、放心したような表情で萌恵を見た。拍子抜けしたような気分と安堵《あんど》と、じわりと暖かい感情が、胸の中に広がる。
「じゃあ、あたし部活があるから、もう行くね」
そう言って、萌恵は恭介に背中を向けた。何歩か歩いたところで、思い出したように足を止めて振り返る。それから彼女は、微笑んで言った。
「緋村《ひむら》くん――古都ちゃんを助けてくれて、ありがとう」
深々と恭介に頭を下げて、萌恵は手を振って屋上から去った。
恭介は思わず苦笑した。さっきまでの彼女と同じようにフェンスにもたれて、青い空を仰《あお》ぐ。
「美古都を救ったのは、あんただよ」
恭介は力無くつぶやいた。 結局のところ、恭介にはなにもできなかったのだ。アーレンを捕まえることも、暴走したインコグニートを止めることも。仲神《なかがみ》たちも、目の前でむざむざと死なせてしまった。今回の事件で誰《だれ》かを救った者が一人でもいるとしたら。それはなんの力を持たないはずの彼女だった。
「そうね」
澄んだ声が突然聞こえてきて、恭介《きようすけ》はそちらに顔を向ける。コンクリートの壁に肩《かた》をつけて立っていたのは、制服姿の香澄《かすみ》だった。
驚きはない。気配を消して。屋上のどこかに隠《かく》れていたのだろう。
「本当にいい人ね、彼女。だから、美古都《みこと》さんも無条件に信頼したんだわ」
「……聞いてやがったな」
半眼になった恭介が、低い声で咎《とが》める。
香澄は、それを気にする素振りも見せず、恭介の隣《となり》に歩いてきた。
二人はしばらく無言のまま、屋上から見おろす高城《たかじよう》市街を眺《なが》めた。
藤霞《とうか》学院は死角になっていたが、美古都《みこと》が入院している病院は見えた。負傷した彼女は、明日《あした》にでも統合計画局《とうごうけいかくきよく》の医療施設に移送されることになっている。そこで専門のスタッフによる治療とリハビリが行われるはずだ。アーレンたちも、とうぶん彼女には手が出せないだろう。
「沢渡《さわたり》郁哉《いくや》の恋人が交通事故で死んだとき、美古都さんもその場に居合わせたそうよ」
フェンスに手をかけ、その向こう側の空に向かって囁《ささや》くように香澄が言った。
「彼女は、美古都さんをかばって事故に遭《あ》った。そのことで、美古都さんは自分を責めたんだと思う。その後悔が、彼女の中にもう一つの人格を生み出したの」
「あのインコグニートの残虐《ざんぎやく》さは……美古都の繊細《せんさい》さの裏返しだったってことか」
恭介のつぶやきに、香澄はうなずいた。
「インコグニートというのは、江崎《えざき》志津《しづ》が、美古都さんのもう一つの人格につけた名前だったそうよ。いえ、逆かもね。名前を与えることで、江崎志津はインコグニートという人格を確立しようとしたんだわ。レベリオン細胞と、脳の関わりを究明するサンプルとして」
「インコグニートが仲神《なかがみ》たちを殺すことに固執《こしつ》してたのは……」
「彼女が生まれた原因が、仲神たちの引き起こした事故だったからでしょうね。沢渡郁哉に喜んで欲しかっただけなのよ。彼女は……」
「郁哉さんは、そのインコグニートを恐《おそ》れて逃げ回っていたってのにか……救われないな」
恭介は呻《うめ》いて、右手で目を覆《おお》った。
沢渡郁哉が失踪《しつそう》した理由は、おそらく今回の事件でもっとも簡単なものだった。
彼が恐れていたのは、仲神たちではなかった。美古都を――彼女の中に眠《ねむ》る暗殺者インコグニートを恐れていたのだ。
だから彼は、美古都の前から姿を消した。彼女が学校に行っているはずの平日昼間を狙《ねら》って、こっそり自宅に戻《もど》ってきたのもそのためだ。
「でもね……恭介」 香澄が、めずらしく微笑《びしよう》を浮かべて恭介を見た。
「沢渡郁哉は、病院に現れたのよ。藤霞学院の大温室にも彼が訪れた形跡があった。RAVEに溺《おぼ》れずにいられないほどインコグニートを恐《おそ》れていたのに、それでも彼は美古都《みこと》さんのことが心配だったのね、きっと……」
「兄妹だからな」
恭介《きようすけ》は安堵《あんど》を押し殺した投げやりな口調でつぶやいた。|RAVE《レイヴ》の大量|摂取《せつしゆ》とヴィルレント化で消耗《しようもう》した郁哉《いくや》は、今もまだ昏睡《こんすい》状態にある。傷ついた身体《からだ》が完全に回復するには、かなりの時間がかかるはずだ。
だが、次に意識を取り戻《もど》したときには、彼はきっと美古都を見捨てたりはしないだろう。 根拠《こんきよ》はないが、そう信じたかった。
ふと恭介は。きょうだいという響きを聞いて香澄の表情が曇ったことに気づく。
なにかを訊《き》こうとして――なにを訊けばいいのかわからなかったが――恭介が口を開きかけたとき、その気配を察したのか、香澄が身体ごと振り返った。
小脇《こわき》に抱《かか》えていた小さな包みを、恭介の前に差し出す。
「……なんだ?」
反射的に包みを受け取って、恭介は首を傾《かし》げた。
「言っておくけど……」
香澄が、睨《にら》むような目つきで恭介を見上げる。
「それは、ただのお礼だからね。勘《かん》違いしないでよ」
「勘違い?」
と、言われて恭介は気づく。 コーヒー色の包装紙と薄紅色《うすべにいろ》のリボンでラッピングされた四角い包みの正体に。事件に巻き込まれていたせいで思い出しもしなかったが、昨日《きのう》は二月十四日だった。
「ええと……お礼ってのは……」
「ぬいぐるみ、くれたでしょ。そのお礼」
香澄は、普段よりさらにぶっきらぼうな口調で言う。
それ以上訊き返すと、なぜか怒られそうな気がしたので、恭介は必死で記憶を遡《さかのぼ》ってどうにか思い出した――ゲームセンターの景品。
「本当は昨日あげたかったんだけど……まあ、いいわよね。ただの義理だし。じゃあね」
早口でそれだけ言うと、香澄は身体を翻《ひるがえ》した。ぎこちない動きで足早に屋上から立ち去っていく。
恭介は、その光景をぽかんと眺《なが》めていた。
しばらくして、唇《くちびる》から苦笑いがこぼれる。いつも忘れがちになってしまうこと――彼女が年下で、そして普通の女の子だということを、なんとなく思い出す。
「……また雪でも降るんじゃないだろうな」
恭介はつぶやいて、もう一度フェンス越しに街を見おろす。
溶《と》け残った白い雪が夕陽《ゆうひ》を浴びてゆっくりと彩《いろ》づき始めていた。
[#改ページ]
あとがき
西暦二〇〇〇年の夏は、たいへんでした。
火山の噴火《ふんか》とか、洪水《こうずい》とかいろいろありましたしね。それに、なんというか暑かった。
個人的にも、ちょっとしんどい思いをしました。
夏バテで体調悪かったり、周囲のやくたいもない雑音にあれこれ振り回されたり、それもあってホームページを一時|閉鎖《へいさ》しなければいけなくなったり。でも、いちばんつらかったのは、とにかく思うように小説が書けないことでした。小説を書くのをつらいと思ったのは、たぶん生まれて初めてのような気がします。貴重《きちよう》な体験ですね。
それでも、こうやってあとがきを書かせてもらえるところまでたどりつきました。
ありがたいことです。
そんなわけで、レベリオン『弑殺校庭園《しさつこうていえん》』をお届けします。
この作品で描《か》いているのは、シリーズの本筋から少し外《はず》れたエピソードです。だから、前作『放謀後の殺戮者《さつりくしや》』とは少々雰囲気が違うことに気づいた方がいるかもしれません。
二作目に、いきなり毛色《けいろ》の違う作品を持ってくることに抵抗がなかったわけではないのですが、今後の展開のことも考えて、あえて今回は舞台を高城《たかじよう》学園の外に設定してみました。
その代わりと言ってはなんですが、三作目はなるべく早くお届けしたいと思っています。
次作では舞台が再び高城学園にもどり、ようやく本当の物語が動き出すことになるはずです。乞《こ》うご期待。って、こんなことを書くのは、なんだか自分の首を絞《し》めてるだけのような気がしないでもないですが。
まあ、実際のところ今回の作品に関しては、いろいろ反省しております。
ひとつには沢渡《さわたり》美古都《みこと》の扱いですね。実は彼女、当初はもっと悲惨《ひさん》な役回りの予定でした。それこそ「電撃文庫初のR指定か」ってな感じで。結局そのエンディングは、あまりの後味《あとあじ》の悪さゆえにセルフボツとなったのですが、それがよかったのかどうかは未だにわかりません。本作のタイトルと内容に若干《じやつかん》の齟齬《そご》が生じているのは、その辺の迷いが原因です。
あとは、締め切りが本気で危《あぶ》なかったりしたことですかね。その節は、関係者の皆様に大変ご迷惑《めいわく》をおかけしました。すみません。
そしてイラストの椋本《くらもと》夏夜《かや》さま。スケジュールが遅れたことも含めて、今回もたくさん無理を聞いていただきました。温かい励ましのお言葉に、途中で何度救われたかわかりません。これからも、どうかよろしく。
最初の話にもどりますが、今年の夏は、たいへんでした。
だけど、それとひきかえに学んだことあります。
自分にとってなにが大切なのかということ。
そして、その大切なものを守るためには、それなりの覚悟《かくこ》が必要だということ。
いわゆる大人《おとな》の事情だとか無責任な他人の言葉だとか、あるいは自分の中の弱い部分だとか、そういうものに惑《まど》わされずに、本当に書きたい物語を書き続けられるようになりたい、です。
なに書いてんだかワケわかりませんね。すみませんです。
それでは、これから三作目にとりかかります。
だまされたと思って、次もお付き合いいただければ幸い。三雲《みくも》岳斗《がくと》でした。
発行 二〇〇〇年十一月二十五日初版発行
作成 二〇〇九年〇一月二四日