レベリオン 放課後の殺戮者
三雲岳斗
イラスト/椋本夏夜
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)国歌|斉唱《せいしょう》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き]終わり
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無駄な命が消えてしまえば 楽園は近くなる
スクイノテハ エラバレタモノノミニ サシノベラレル
[#地付き]Pierrot「青い空の下・・・」
[#地付き]日本音楽著作権協会
[#地付き](出)許諾0003794-00
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レベリオン[Rebellion]
@反逆、反乱。暴動
A不治の病
B制御不能なもの
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序章 〜Overture〜
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CASE-1
快速電車を待つ駅のホームは、乗り換えの乗客で混雑《こんざつ》していた。
部活生らしいジャージ姿の男子の一団を避《さ》けて、向坂《さきさか》南美《なみ》は階段の隅《すみ》に立ち止まる。
すれ違いざまに、誰《だれ》かのヘッドホンから漏《も》れる耳障《みみざわ》りな音が聞こえた。
低音部だけが、いびつに誇張《こちよう》されたロック音楽。心臓がドクンと激しく脈打ち、南美の全身が金縛《かなしば》りにあったように動かなくなる。
そんな南美の様子《ようす》には気づかず、バレー部らしい男子の一団は談笑しながら通り過ぎていった。南美は息を吐《は》いて、再びゆっくりと階段を降り始める。
「……情けないな」
小さくつぶやいて、南美は自分の脇腹《わきばら》を押さえた。痛みはない。
当然だ。あれから、もう一年近く経《た》っているのだから――
昨年秋の文化祭の日、南美はちょっとした事故にあった。
ロックバンドの演奏会場で、興奮した生徒たちがステージに殺到《さつとう》して将棋倒《しようぎだお》しになったのだ。
ステージ上で演奏していた河村《かわむら》という生徒のバンドは、近々メジャーデビューするという噂《うわさ》もあるくらい有名な連中で、それもあって盛り上がりすぎてしまったらしい。
その日、文化祭実行委員としてステージの警備にあたっていた南美《なみ》は、殺到《さつとう》する人波の下敷《したじ》きになった。幸い余に別状はなかったものの、肋骨《ろつこつ》を折ってしばらくコルセットを着けた生活を余儀《よぎ》なくされたのだ。
それからだった。南美が人混《ひとご》みを恐《おそ》れるようになったのは。
恐怖症《きようふしよう》、と呼ぶほど病的なものではない。混み合った電車や、賑《にぎ》わっている映画館などが苦手。そんな程度だ。
普段の生活に支障《ししよう》はない。ただ、駅のホームなどに来ると、つい無意識に人の少ない端《はし》っこのほうまで歩いていってしまう。
人間の身体《からだ》という、もっとも身近な凶器《きようき》に押しつぶされたときの恐怖が癒《い》えるには、まだまだ時間がかかりそうだった。
電車の接近を告《つ》げるアナウンスが流れた。
南美は、軽く頭を振《ふ》って気分を切り替える。
まだ夏休み期間中ということもあって、制服姿の学生の数は多くない。
南美が学校に向かっているのは、文化祭実行委員会の活動が始まっているためであった。事故に遭《あ》ったみじめな気持ちのまま委員をやめたくなかったので、また今年も立候補したのだ。
押しつけられて、やる気のないまま委員になった昨年に比べれば、事故のおかげで、前よりも充実《じゆうじつ》しているような気分さえする。
それに、南美が委員に立候補した理由はそれだけではなかった。
文化祭実行委員のメンバーには、南美が密《ひそ》かに想いを寄せている隣のクラスの杉原悠がいる。
「がんばろっ」
自分自身に言い聞かせるようにつぶやいて、南美は乗車位置のほうへ足を踏《ふ》み出した。
電車は、ホームへと勢いよく滑《すべ》り込んでくる。
南美の背中を強い衝撃《しようげき》が襲《おそ》ったのは、その瞬間《しゆんかん》だった。
激しい痛み。誰《だれ》かに力|一杯《いつばい》背中を突き飛ばされたような感じだ。さもなくば、大口径の銃《じゆう》弾《だん》を撃《う》ち込まれたような。
息がつまった。
南美は、自分の身体がふわりと舞い上がるのを感じた。
どこか、非現実的な光景だ。南美には、何が起きたのかわからない。
電単が迫ってくる。
驚愕《きようがく》に歪《ゆが》んだ車掌《しやしよう》の顔が、やけにはっきりと見えた。
間に合うはずもないブレーキの音が、虚《むな》しく響《ひび》く。
空中で振り返った南美が見たのは、彼女がさっきまで立っていたホーム。
彼女の後ろには、誰もいないホーム。
それが、南美の最後に見た光景だった。
CASE-2
「森川《もりかわ》って最近、生意気じゃない?」
相手先の電源が入っていないことを報告する携帯《けいたい》電話をしまいながら、藤宮優子《ふじみやゆうこ》が言った。
「そ、そうね」
「前から思ってたんだけど、あの子、絶対自分のこと可愛《かわい》いって思ってるよね」
一瞬《いつしゆん》驚《おどろ》いた様子《ようす》だった水谷麻紀《みずたにまき》と佐倉亜由美《さくらあゆみ》も、すぐに優子に同意する。
そんな二人の言葉を聞いて、優子は満足そうにうなずいた。
「森川、明日《あした》からVIP待遇《たいぐう》だね」
残酷《ざんこく》な笑みを浮かべて宣言する。
麻紀と亜由美は緊張《きんちよう》した面持《おもも》ちでうなずいた。
その表情には、友人である森川|結衣《ゆい》への後ろめたさと、優子の気まぐれが自分に向かなかったことに対する安堵《あんど》感が浮かんでいた。
深夜|零時《れいじ》を回っているというのに、この街では人の流れが絶えない。
彼女たちは、安っぽいネオン看板が照らし出す道を、制服のままで歩いていた。
アルコールも少し入っている。顔見知りが働いているクラブで遊んできた帰りだ。
最近では夜遊びするときも、入学したてのころのように、いちいち着替えに戻《もど》ったりはしない。
制服のままでも入れてくれる馴染《なじ》みの店が増えたし、制服を着ているときのほうが声をかけてくる男が多いことに気づいたからだ。
特に優子たちが蒲ている名門女子校の制服は、希少《きしよう》価値があるせいか人気が高い。
「じゃあ、佐倉。いつもみたいに、メール回しといて」
「わかった。今晩のうちにやっとく」
優子に言われて、亜由美がうなずいた。携帯電話を利用した電子メールを使えば、クラスのほとんどに一瞬で連絡をつけることができる。
「優子ちゃん、池澤《いけざわ》はどうするの?」
麻紀の質間に、優子は鼻を鳴らした。
「あの子はもういいわ。飽《あ》きちゃったし、自殺とかされると面倒《めんどう》じゃん」
「あー、あの子は危ないよね。そういうタイプ」
「和美《かずみ》が手首切ったときには、マジ焦《あせ》ったよね」
三人は笑いながら、横断歩道を渡った。バスがもう終わっているので、JRの駅まで歩くことにする。繁華街《はんかがい》を少し離れると、さすがに人通りが少なくなった。
遊び疲れたせいか口数の減った優子《ゆうこ》の顔を、麻紀《まき》は盗《ぬす》み見た。
黒目がちの瞳《ひとみ》が大きな美人。髪の毛は最近では珍《めずら》しい黒髪だが、色白の彼女にはよく似合っている。紫《むらさき》色のロ紅と濃《こ》いシャドーを落とせば、清楚《せいそ》なお嬢《じよう》さんにしか見えないだろう。
彼女がクラスメートをいじめるようになったのは、ずいぶん昔のことだったように思う。麻紀が知り合ったころには、彼女はすでに怖《こわ》い人だった。
初めのころは、彼女と遊んでいるのは楽しかった。VIP――|非常にムカつく奴《Very Irritative Person》という言葉を造ったのは麻紀だ。
だが最近では、その麻紀自身、優子を恐《おそ》れるようになっていた。彼女の気まぐれの矛先《ほこさき》が、いつ自分を向くとも限らないのだ。現に、次のいじめの対象である森川結衣《もりかわゆい》は、ついこの間まで優子の親友だった。
優子の残酷《ざんこく》さは、日増しに高まっているように見える。だが、麻紀には彼女を止めることができない。彼女に逆らえば、次は自分がいじめられることが目に見えているからだ。そんなことになったら、これまで優子と一緒《いつしよ》にクラスメートをいじめていた自分を、誰《だれ》も助けてはくれないだろう。
教師たちもあてにはできない。彼らにとっても優子が厄介《やつかい》な相手であることには違いないが、教師たちは直接の被害を被《こうむ》るわけではない。それに、優子が卒業してしまえば縁《えん》が切れる。
だが麻紀《まき》は違う。卒業したからといって、高校時代の友人全員と別れるなんてことはできない。そして、自分が彼女たちをいじめたという記憶《きおく》は一生残る。
死ぬまで麻紀は優子から逃れることはできないのだ。
「ちょっと、佐倉《さくら》?」
優子が叫ぶのが聞こえた。
振《ふ》り向くと、亜由美《あゆみ》が道路に倒《たお》れている。どうやら転《ころ》んでしまったらしい。
かなり派手に転倒《てんとう》したらしく、亜由美はうずくまったまま動かない。
「だっせー!」
優子の冷ややかな笑い声が響《ひび》いた。
「大丈夫《だいじようぶ》、亜由美?」
投げ出された彼女のプラダを麻紀が拾っても、亜由美は立ち上がろうとしなかった。麻紀は心配になって、彼女を抱《だ》き起こそうとする。
その手に、ぬるりとした感触《かんしよく》があった。白々《しらじら》しく明るい街灯の光が、セーラー服の背中を浸食《しんしよく》する真紅《しんく》の染みを照らし出す。
「血!?」
麻紀は自分の掌《てのひら》を見つめて愕然《がくぜん》とした。
気づくと、倒れた亜由美の周囲に血溜《ちだ》まりが広がっている。これだけ大量の血を見たのは、麻紀も過去に一度きりしかない。
麻紀《まき》たちがいじめていた下級生が自殺|未遂《みすい》をしたときの光景が、突然脳裏に蘇《よみがえ》ってくる。
「優子《ゆうこ》ちゃん、佐倉《さくら》がやばい……」
麻紀が優子を振《ふ》り返ったのと、優子の身体《からだ》がぐらりと揺《ゆ》れたのは、ほぼ同時だった。
長い黒髪が宙を舞って、大きな音を立てて彼女が倒《たお》れる。
「優子ちゃん!!」
麻紀は、仰向《あおむ》けに倒れた優子をのぞき込んだ。
そこにはもう彼女の美しい顔はなかった。かつて右目があった場所を中心に、真っ暗な孔《あな》が大きく口を開けているだけ。
「い……いやあああああ!」
麻紀は夢中《むちゆう》で走り出した。何が起こったのかはわからない。ただ恐怖《きようふ》だけがあった。
だが何歩も行かないうちに、背中に灼《や》けるような痛みが走った。
激痛が胸を突き抜ける。
自分にとって大事な何かが、その痛みとともに抜け落ちていったのがわかった。
地面がゆっくりと昌の前に迫《せま》ってくる。
指先さえ動かせないまま、麻紀はそのまま倒れ込んだ。
自分の頭がアスファルトにぶつかる鈍《にぶ》い音が、どこか遠くに聞こえた。
流れ出す血液に熱を奪《うば》われて、急速に身体《からだ》が冷えていく。こぼれ落ちる涙《なみだ》だけが熱い。
暗くなっていく視界の中で。麻紀は自分が死ぬのだということを理解した。
これで、優子ちゃんから逃《のが》れられる……
麻紀は、最後に少しだけ笑った。
CASE-3
河村《かわむら》雅人《まさと》のバイト先は、駅前のアーケード街にある小さなレンタルビデオ屋である。
賃貸ビルの二階にあるその店を酒井希美《さかいのぞみ》が訪れたのは、夜の一〇時を過ぎたころだった。平日ということもあって、店内は比較的|空《す》いている。
レジカウンターで暇《ひま》をもてあましていた雅人は、希美の服装を見て顔をしかめた。ショートバンツにプリントTシャツだけ。女子高生が夜出歩くには、少々無防備すぎる格好《かつこう》だ。
「お前、なんて格好してるんだよ」
「いいでしょ、別に。暑いんだもの。もうすぐ一〇月だっていうのに……」
雅人の小言《こごと》を、希美は涼《ずず》しい顔で聞き流した。肩《かた》に掛けたカバンから、レンタル店の袋に入ったビデオテープを取り出して手渡す。
「そんな服装で夜中に出歩いてたら危ないって。こないだだって星和大《せいわだい》付属の女子が殺されてたろ、三人も」
「大丈夫《だいじようぶ》よ。まだ人通りも多いし」
「そんなことないって。この辺は酔《よ》っぱらいとか多いんだからさ」
「あら、お客様に向かってお説教?」
冗談めかした口調で、希美が言った。思わずむっとした雅人を見て、彼女はくすくすと笑う。
「うそうそ……ありがと、心配してくれて」
ウェーブのかかった黒髪をかきあげながら、希美は微笑《ほほえ》んだ。いいようにあしらわれているな、と思いながら、雅人は肩《かた》をすくめる。
「面白かったわよ、この映画。正月に続編をやるっていってたから、一緒《いつしよ》に見よ」
「受験生がそんな時期に映画なんか見に行けるのかよ?」
返却《へんきやく》されたビデオテープをバーコードリーダに通しながら、雅人は意地悪を言う。希美は拗《す》ねたように頬《ほお》をふくらませて、雅人を見上げた。
「いいわよね、雅人は。夢があってさ」
「なんだよ、それ?」
「だって、高校生のくせにレコード会社から声をかけてもらってさ。あーあ、あたしも何か楽器でも習ってればよかったわ」
ため息まじりでそんな風に言われると、雅人も居心地の悪いものを感じて言い返す。
「俺《おれ》だって将来《しようらい》に不安がないわけじゃないんだぜ。プロダクションの人とだって、まだ正式に契約《けいやく》したわけじゃないんだからな」
雅人が怒ったように言うと、希美はごめん、と言って顔の前で手を合わせた。悪びれない彼女のそんな態度が、雅人はわりと好きだった。
「そうだよね。雅人もあんなに練習がんばってたんだもんね……うん、あたしもがんばるわ」
「ああ、そうしな」
「まあそれはそれとしてさ、ね、なんか他《ほか》に面白い映画知らない?」
「お前……ほんとは全然やる気ねえな?」
雅人は苦笑しながら、最近見た洋画のタイトルを二、三教える。希美はその中の一本を探すために、新作コーナーの棚《たな》へと歩いていった。
その後ろ姿を見ながら、雅人は彼女の言葉を反芻《はんすう》する。
「夢……か」
店内の有線放送では、ヴァン・ヘイレンが流れていた。彼らのように、ギター一本でヒーローにのし上がる。それが雅人の幼いころからの夢だった。そして、その夢がすぐ手の届くところまできているのだ。
自分たちのバンドの曲を口ずさみながら、雅人はたまってきた返却済みビデオの整理を再開する。希美は何を借りるかまだ迷っているらしく、熱心にパッケージの説明を読んでいた。
とそのとき、入り口の自動ドアがすっと開く音がする。
「いらつしやいませ……」
威勢よく挨拶する雅人の声が、途中で小さくなった。
ガラス張りのドアの向こうに立っていたのが、雅人の知っている相手だったからだ。
「あれ? 久しぶり……」
声をかけようとした雅人は、妙《みよう》な違和感を感じて言葉をきった。
人影は、ドアの向こうに立ったまま。店内に入ってくる様子《ようす》はない。
普段とはまるで違う相手の視線。その瞳《ひとみ》から発散しているただならぬ気配《けはい》は、まるで殺意だ。
影は、すっと片手をあげる。
その指先がきらりと光った。見えない何かに押されるように、雅入の身体《からだ》はレジカウンターの奥まで吹き飛ばされた。
音はしない。店内には、エッジの効《き》いたギターソロが小気味よく流れ統けている。
曲目は、ザ・ドリーム・イズ・オーヴアー。
雅人は無意識に自分の胸元に手をあてていた。手応《てごた》えは、ない。
ないのだ。自分の胸から背中にかけて、ぽっかりと空洞《くうどう》が開いている。
ギターの弦《げん》で傷だらけになった雅人の指先が、真《ま》っ赤《か》に染まっていた。
すくい上げた血が、掌《てのひら》の隙間《すきま》から流れ落ちる。まるで、夢の欠片《かけら》がすり抜けていくように。
雅入は相手の名前を呼ぽうとする。だが、口から出たのは空気が漏《も》れるような「びゅうう」という音だけだった。
人影は背中を向けて、足早に立ち去っていく。その姿は闇《やみ》にまぎれ、すぐに見えなくなった。
「これに決めたわ。雅人、お願い」
ころころと弾《はず》むような希美《のぞみ》の声が響《ひび》いた。
サンダルばきの彼女の足音が、レジのほうへと近づいてくる。その足音が、不意に止まった。
「……雅人?」
震《ふる》える声で、彼女がつぶやく。
音楽が途切れて、希美の悲鳴が店内に響きわたった。
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第一章
殺しにきた少女
〜Crimson Angel〜
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1
月が、紅《あか》く輝《かがや》いていた。
見ようによっては不吉《ふきつ》なその空を、緋村《ひむら》恭介《きようすけ》は単純に綺麗《きれい》だと思う。
恭介はご機嫌《きげん》だった。
同じ高校の友人宅で、ひいきのロックバンドのニューアルバムを聴《き》いてきた帰り道だ。
アルバムは期待通りの出釆映えで、恭介は今、最高にいい気分だった。
姉から譲《ゆず》ってもらったオートバイ、十年落ちのXJR四〇〇も今夜は快調に回っている。
おぼえたての曲を口ずさみながらバイクを飛ばしていた恭介は、立て続けに二回くしゃみをして、アクセルを少し戻《もど》した。
十月になったばかりだとはいえ、夜はさすがに冷える。昼間の天気がよかったせいで、恭介の服装も、この季節にしては薄《うすぎ》着だった。
もうすぐ文化祭の季節というのに、バンドのボーカルが風邪《かぜ》をひいては酒落《しやれ》にならない。
寄り道するのを諦《あきら》めて、恭介は裏道《うらみち》へとハンドルを切った。
狭《せま》い道だが、こちらのほうが自宅に近い。
薄暗《うすぐら》い街灯が照らす道を、恭介ば鼻歌混じりで走っていく。
エンジンの排気音《はいきおん》が住宅街をこだまして、やけに大きく聞こえた。ハードロックの騒音《そうおん》に慣れた耳に、その振動《しんどう》が心地よい。
ちらちらと点滅《てんめつ》を繰《く》り返す街灯の下に、一瞬《いつしゆん》だけ人影が見えたような気がした。
恭介《きようすけ》は、無意識にヘッドライトをハイビームに切り替える。酔《よ》っぱらいに飛び出されたりしては、たまらないと思ったのだ。
そのライトに浮かび上がったものが何なのか、恭介には一瞬理解できなかった。
それが、あまりにも非現実的な光景だったからだ。
まるで、ホラー映画のワンシーンを見ているようだった。血まみれの若い女性が一人、恭介の進路を遮《さえぎ》るように、道路の真ん中に横たわっている。
やばいっー!!
と思ったときには手遅《ておく》れだった。
無謀《むぼう》な急ブレーキで荷重の抜けた後輪はあっさりとロックし、恭介を乗せたXJRは虚《むな》しい排気音《はいきおん》だけを残して宙に舞った。
バイクは見事に一回転し、恭介は背中から地面に投げ出される。比較的安全でうまいとされる転《ころ》び方だ。ただし、それはサーキットにおいての話だが。
もちろんここはサーキットなどではなく、ただの市街地だった。人気《ひとけ》のない夜の住宅街に、XJRが歩道と激突する派手な音が響《ひび》きわたる。ご丁寧《ていねい》にも、クランクケースやエキバイなどの値の張る部品でいっぱいの右側が下になっていた。最も修理代がかさむパターンだ。
しかし、恭介に修理費用の心配をしている余裕《よゆう》はなかった。
全身を襲《おそ》う脱力感に逆らって上体を起こすと、ヘルメットを乱暴に投げ捨てる。
手足の擦《す》り傷を別にすれば、恭介に怪我《けが》らしい怪我はない。
当然だった。見通しの悪い交差点だったが、闘違っても転倒するようなスピードは出していなかったのだ。道路のど真ん中に血まみれの女が倒《たお》れてさえいなければ。
恭介は、ため息をついて周囲を見回した。
彼女は、恭介のすぐ隣《となり》にいた。一歩間違えば、危うくひき殺していたところだ。もっとも、彼女がまだ生きていたのであればの話だが。
何しろ彼女は、夜目《よめ》にもはっきりとわかるほどの重傷を負っているのだ。地面に散った長い髪が、血溜《ちだ》まりの中に沈んでいる。
暗くてよくわからないが、服装から判断する限りまだ若い少女のように思われた。
中学生か、せいぜい高校生。恭介とほとんど変わらない歳《とし》のはずだ。
周囲には、恭介たち以外の人間の姿はない。ひき逃げ、という単語が恭介の頭に浮かんだ。
うつぶせになった少女の背中が、喘《あえ》ぐようにひきつる。
呼吸をするのさえ苦しそうだ。
「呼吸!?」
恭介はあわてて少女へと駆《か》け寄った。
息をしているということは、彼女はまだ生きているということだ。急いで手当すれば、助かるかもしれない。
「おい、あんた。しっかりしろ」
なるべく衝撃《しようげき》を与えないように、少女の身体《からだ》をおそるおそる抱《だ》き起こす。血がべっとりと身体についたが、構ってはいられなかった。
「う……」
少女が短く声を漏《も》らした。
その表情を見て、恭介《きようすけ》は少しショックを受ける。
腕《うで》の中にいる少女が、信じられないほどの美貌《びぼう》の持ち主だと気づいたからだ。
血の気のない蒼白《そうはく》な顔色をしていたが、それを差し引いても彼女はとんでもない美人だった。
モデルやアイドル歌手のような親しみやすい可愛《かわい》らしさではない。もっと非現実的な、たとえば精巧《せいこう》な人形や彫刻や、鉱物の結晶のような美しさだ。
だが今は彼女に見とれている場合ではない。それを思い出して、恭介はポケットから携帯《けいたい》電話を取り出した。幸いなことに、電話機にも転倒のダメージはないようだ。
とりあえず救急車を呼ぼうと思ったときに、恭介は奇妙《きみよう》な点に思い当たる。
交通事故が原因にしては、少女の負傷|箇所《かしよ》があまりにも不白然なのだ。骨折や打撲《だぼく》は見あたらず、脚《あし》や肩《かた》に深々と何かが突き刺《さ》さったような傷口が穿《うが》たれている。
「これって……拳銃《けんじゆう》の痕《あと》なんじゃねえか……」
携帯を握《にぎ》る恭介の腕が震《ふる》えた。
市内で、連続|発砲《はっぽう》事件が起きているのは知っている。数日前、恭介の高校の先輩《せんぱい》がその犠牲《ぎせい》になったばかりなのだ。ひょっとしたら、この少女も同じ犯人に撃《う》たれたのかもしれない。
恭介は電話先を一一〇番に変更した。恐怖《きようふ》と怒りに震える指で、使い慣れない番号をプッシュする。
その電子音が聞こえたのか、少女がうっすらと目を開けた。恭介は少しほっとして、少女をゆっくりと横たえた。
電話はすぐにつながり、受話器の向こうから愛想《あいそ》のない男性の声が聞こえてきた。落ちつかせようとしているのか、やけにのんびりとした口調が歯がゆい。
「……とにかく重傷なんだってば、急いで来てよ。えっ、場所?場所は……」
恭介は、周囲を見回して現在地がわかるような標識を探した。電柱に貼《は》ってある表示板は、街灯が暗くて読みとりにくい。
恭介が立ち上がって電柱に近づこうとしたとき、交差点の奥の暗がりで何かが光ったような気がした。
次の瞬間《しゆんかん》、少女が信じられないほどの速さで起きあがる。
「あぶない!」
少女は鋭《するど》い叫び声をあげながら、恭介《きようすけ》を突き飛ばした。
予期せぬ衝撃《しょうげき》に恭介はあっけなく転倒《てんとう》する。携帯《けいたい》電話は恭介の手を離れ、街灯の届かない暗がりへと転《ころ》がっていった。
「い……いきなりなにしやがんだよ、てめえはっ!?」
恭介が怒鳴《どな》りながら振《ふ》り返る。その直後、少女の右|腕《うで》が鮮血《せんけつ》を噴《ふ》いた。同時に、彼女がさっきまで倒《たお》れていた道路のアスファルトが小さく弾《はじ》ける。
「伏《ふ》せて!」
少女は叫びながら、自らも身体《からだ》を地面に投げ出した。
彼女の背後にあった民家のブロック塀に、次々と穴が開いていく。その様子を、恭介は呆然と見つめた。
「じゅ、銃撃《じゆうげき》?」
「逃げなさいっ! 早く!!」
少女の悲痛な叫びが響《ひび》く。
彼女の言葉は恭介に届いていたが、想像したこともない事態に恭介の肉体は反応できなかった。意識せぬまま、ふらふらと街灯の明かりの下に歩み出る。
「だめえええええ!!」
少女が絶叫した。
次の瞬間《しゆんかん》、何かが突き刺《さ》さったような痛みが恭介の胸を突き抜けた。
空を飛ぶような感覚。一瞬《いつしゆん》の無重力状態。
気がつくと身体がアスファルトの地面に叩《なた》きつけられている。
灼《や》けるように熱い傷口から、とめどなく血が溢《あふ》れ出す。それに気づいたとき、恭介はようやく自分が撃《う》たれたのだと理解した。
「!」
少女が何かを叫びながら跳躍《ちようやく》する。
赤いコートをまとった彼女の肉体が、信じられないほどの高さへと舞い上がるのが見えた。
まるで翼《つばさ》が生《は》えているようだ。
恭介は、ぼんやりと考える。
彼女は天使だったのだろうか。翼を失った、血まみれの天使。
少女の姿が消えた空には、真紅《しんく》の月が輝《かがや》いている。
それはどこか、夢でも見ているような美しい光景だった。
身体が動かない。
つながったままの携帯電話が何かを叫んでいるが、それさえももう聞き取ることができない。
――オレは、このまま死ぬのか……
恭介の意識が闇《やみ》の中に沈《しず》んでいく寸前、冷たくなっていく身体がふわりと暖かい香りに包まれたような気がした。
あの少女の匂《にお》いだ。
薄《うす》れゆく視界の申で、美しい少女が自分を見ているのがわかった。
彼女の息づかいを感じることができた。
少女がゆっくりと近づいてくるのが見える。唇《くちびる》が近づいてくる。
……天使とのキスは、血の味がした。
2
最初に気づいたのは匂いだった。
嫌《いや》な匂い。
子供のころの体験のせいだろうか。それとも生物としての本能がその匂いを恐《おそ》れさせるのか。
次に、この部屋《へや》には音がないことに気づく。それで、ここが天国でないことがわかった。
自然界に音のない場所は存在しない。あるとすれば、それは人間が造り出した空間だけだ。
糊《のり》で固められたシーツの手触《てざわ》り。硬《かた》いベッド。
白い世界ー白い床《ゆか》、白い壁《かべ》、白い天井《てんじよう》……病院?
「気がついたようね」
女性の声がした。
恭介《きようすけ》は、目覚めきってない身体《からだ》をゆっくりと声のほうに向ける。
部屋にあったもう一台のベッドに、白衣を着た若い女が座っていた。
けっこうな美人だが、どこかだらしない印象を与える女性だ。あまり手入れが行き届いていないセミロングの髪に、 ちょっとした寝癖《ねぐせ》がついている。
カバーがかかったままの彼女のベッドには、人型のくばみが残っていた。
看病にかこつけて寝てやがったのだ。こいつはそういう女だ。
恭介は、昔からよく知っている相手を見ながら、ため息をついて起きあがる。
「えーと……何でこんなところにいるんだっけ?」
あたりを見回しながら訊《き》いた。
恭介は、手術をするときに使う薄っぺらなブルーの寝間着を着せられている。
昨日《きのう》まで着ていた服は、ベッドサイドのハンガーにかけられていた。ぼろぼろに背中が擦《す》り切れた革《かわ》ジャンを見て、恭介はようやく思い出す。
「覚えてないとは言わせないわよ。まったく、ちょっと転倒《こけ》たくらいで、警察とか呼ばないでよね。おかげで こっちは手術中に呼び出されて大騒《さわ》ぎだったんだから。ま、たしかに出血は多かったみたいだから、あんたも焦《あせ》ったんでしょうけどね」
「転倒《こけ》たって……それだけか?」
恭介は、半分眠《ねむ》ったままの頭から、必死で記憶《きおく》を探し当てようとした。何か、もっと重大なことがあったような気がする。
「そうよ。しかも、あんたはかすり傷だけ。|XJR《ぺけじえい》のほうがよっぽど重傷よ」
一〇|歳《さい》年上の恭介《きようすけ》の姉、そして現存する唯一《ゆいいつ》の肉親である緋村《ひむら》杏子《きようこ》が、非難がましい口調で続けた。白衣のポケットから煙草《たばこ》を出して、要求する。
「火!」
「あるわけねえだろ。だいたい医者のくせに、病室で煙草なんか吸うんじゃねえよ」
恭介に諭されて、杏子が憎々しげに口を尖らせる。その仕草を見て、恭介の脳裏にフラッシユバックのように蘇《よみがえ》った光景があった。記憶《きおく》を完全に取り戻《もど》す。
「そうだ、キス!」
「キスぅ?」
杏子に怪訝《けげん》そうに間われて、恭介はあわてて言い直した。
「いや違った、傷! 俺が撃《う》たれた傷は?」
「撃たれたあ? 何言ってんの、あんた?」
杏子が、本気でわからないといった表情を浮かべる。嘘《うそ》をついている気配《けはい》はない。
「傷だよ!ライフルだか、拳銃《けんじゆう》だかで撃たれた傷が……あれ?」
恭介は寝間着の前をはだけて、自分の胸を触《さわ》った。肘《ひじ》や背中には気休めのような縛創膏《ばんそうこう》が貼《は》られているが、銃創《じゆうそう》のような深い傷|跡《あと》はどこにも見あたらない。
杏子が、小さく噴《ふ》き出し、憐《あわれ》れむような目つきで見た。
「そうかあ、怖《こわ》い夢を見たんでちゅねえ。もう大丈夫《だいじようぶ》でちゅよお」
「夢なんかじゃねえんだよ! そうだ、あの娘《こ》は? 血まみれで倒《たお》れてた女の子!」
「ああ、警察が言ってたあれ? そんな通報があってあわてて駆《か》けつけたら、あんたが一人で事故ってただけだったって。怒ってたわよ。あんたが場所を言わなかったんで、携帯《けいたい》電話の逆探知とかして大変だったらしいから」
「……いなかった……のか?」
恭介が、ぽかんとした表情で訊《き》き返す。杏子は、火のついていない煙草を弄《もてあそ》びながらうなずいた。
「あたしも現場まで呼び出されたけどね、女の子なんて影も形も見えなかったわ。やっぱり夢でも見たんじゃない?」
「待てよ、服だ! 俺の服にば後ろから撃たれたときの穴が開いてるはず」
「服って、あのボロ布のこと?」
杏子が、親指でハンガーを指差す。
恭介の革《かわ》ジャンは、転倒《てんとう》したときのダメージでずたずたに破れていた。道路との摩擦熱《まさつねつ》で、内張《うちばり》が焦《こ》げついたところもある。おまけに履《は》いていた古着のジーンズは、最初からあちこち破いてあったのだった。これでは本当に銃撃《じゆうげき》を受けていたとしても、どれがその痕《あと》だかわからない。
「まったく、革《かわ》ジャンなんて雑巾《ぞうきん》にもなりゃしないわ。今度買うときには、吸水性のいい綿百パーセントにして欲しいわね」
「そんなこと、どうだっていいだろ。嘘《うそ》じゃねえんだよ。信じてくれよ、姉貴」
「はいはい、わかった、わかった。じゃあ、その子の特徴を言ってみてよ。何かの手がかりになるかもしれないから」
あらたまって訊《き》かれると、彼女の着ていた服など細かいことは覚えていない。とにかく、思いつくことから口にする。
「えーと、とにかく、すげえ美人なんだよ。それで、なんていうか、いい匂《にお》いが……」
「駄目《だめ》だこりゃ。相当たまってるわね……」
下品なことをさらりと口にして、杏子《きようこ》はあきれたように首を振《ふ》った。
「どうする? 脳ミソのほうの検査もする? 脳外科の先生を呼んできてやってもいいわよ」
「……もういいよ」
恭介《きようすけ》は、ひどく疲れた気分になって肩《かた》を落とした。杏子が、自分の手首をちらりと見る。
「そのほうがいいわね。そろそろ着替えないと、学校に間に合わないわよ。一回、家に帰りたいでしょ」
杏子の台詞《せりふ》に、恭介は愕然《がくぜん》とした。
「えー! 休ませてくれないのか?」
「当たり前でしょ。あんたの学費はあたしが出してやってるんだからね。あたしの目が黒いうちは、その程度のかすり傷で病欠なんて認めないよ」
「うぐぐ……」
恭介は観念してベッドを降りた。
二人の両親は、八年ほど前に交通事故で死んでいる。恭介はそれ以来、当時まだ医大生だった杏子に面倒《めんどう》を見てもらっているのだ。それを思うと、姉の命令には逆らえない。
もっとも、両親が死ねずっと前から、恭介は彼女に頭が上がらなかった。恭介の目から見ても姉は完壁《かんぺき》で、尊敬に値する相手だったからだ。
だが、恭介にはときどきわからなくなる。
両親の保険金などもあって、金銭的な面では不白由なかったが、親しくしている親戚《しんせき》がいなかったわけではない。杏子は彼らに恭介を預けて、自分一人で気楽に生きていくこともできたはずなのだ。
けれど姉は、自分の意志で恭介を育てることを選択《せんたく》した。医者になるという決断も曲げなかった。彼女のその強さが恭介にはわからない。
あと一年半もすれば、恭介もあのときの杏子と同じ歳《とし》になる。そのとき自分は、彼女と同じような決断ができるだろうか。そんなことを考えるだけで、恭介はプレッシャーを感じてしまうのだった。それが恭介《きようすけ》の一方的な思い込みだということは、もちろんわかってはいるのだけれど。
「そういえば、|XJR《ぺけじえい》は?」
ふと思いついて、杏子《きようこ》に訊《たず》ねる。あのバイクはもともとは彼女のものだったのだ。学生時代さんざん乗り回した|XJR《ぺけじえい》を恭介に譲《ゆず》って、彼女は今五六○○ccのアメリカ製スポーツカーに乗っている。
杏子は、髪を無造作に束《たば》ねながら答えた。
「ゲンさんの店に電話しておいたから、昨日《さのう》のうちに引き取りに行ってくれたと思うよ。フロントフォークが逝《い》ってたから、修理には二、三日かかるだろうけどね」
「ええ!? じゃあ、俺《おれ》はどうやって学校まで行くんだよ? 姉貴のキャノンデールか?」
「冗談《じようだん》!!」
恭介が訊《き》くと、杏子はとんでもないといった表情で首を振《ふ》った。彼女が海外に特注したマウンテンバイクは、百万円以上するという超高級品だ。
そんな自転車を購入するだけでもどうかと思うが、彼女はそれを自宅の部屋《へや》に飾《かざ》っている。
恭介は、前にこっそり借り出そうとして、危うく殺されそうになったことがあった。
「あんたには、中学のとき使ってたママチャリがあるでしょが」
「げ!」
変速機《デイレイラー》もついていないお買い物自転車を思い出して、恭介は顔を歪《ゆが》める。
恭介の通っている高城《たかじよう》学園高校は、切り開いた山の上に造られているのだ。
正門まで延々と統くニキロの坂道が頭に浮かび、恭介は朝からひどく疲れた気分になった。
3
自宅に戻《もど》ってシャワーを浴びても、銃《じゆう》で撃《う》たれたような痕跡《こんせき》は発見できなかった。
恭介は、昨夜の出来事が夢ではないと確信していたが、それさえも今ではどうでもいいことに思えてくる。
証拠《しようこ》がなければ。夢と現実の区別さえ曖昧《あいまい》になってしまう。人間の記憶《きおく》がいかにいい加減なものかを、思い知らされた気分だった。
濡《ぬ》れてしまった絆創膏《ばんそうこう》を貼《は》り替えるためにはがしていく。傷口はまだ残っていたが、本当にかすり傷だけだった。絆創膏も必要ない程度の浅い傷だ。
「姉貴も、けっこう大げさなところがあるな……」
全身に巻かれた包帯《ほうたい》の様子《ようす》から、もっとひどい傷を想像していた恭介は少しあきれた。警察を呼んだりした手前、それなりの怪我《けが》をしたように見せたかったのかもしれない。
浴窒に持ち込んだ防滴《ぼうてき》ラジオからは、FENのロック番組が流れている。
バスタオルで無造作に身体《からだ》を拭きながら、恭介は鏡に映った自分を見つめた。
ステージ上で映えるようにと、長く伸《の》ばした前髪から水滴《すいてき》がこばれる。
右|肩《かた》にうっすらと残っている傷|跡《あと》は、不良気取りだった中学時代に喧嘩《けんか》で鎖骨《さこつ》を折ったときの名残《なごり》だ。もっとひどい怪我《けが》をしたことも数え切れない。 一度など、死にかけたこともある。
連絡を受けて病院にやってきた杏子《きようこ》は、顔を合わせるなり、麻酔《ますい》から目覚めたばかりの恭介《きようすけ》をぶん殴《なぐ》った。両親が死んだときも泣かなかった彼女が涙《なみだ》を見せたのは、後にも先にもそのときだけだ。もっとも杏子は、殴ったときに挫《くじ》いた手首が痛かっただけだと、今でも言い張っているけれども。
とにかく、それ以来恭介は、いきがって背伸びすることをやめた。
煙草《たばこ》や喧嘩や暴走行為の代わりに心の中の空白を埋《う》めてくれたのは、音楽だった。
一人の高校生だった、というほうが正確かもしれない。恭介に初めて音楽の持つ「力」を教えてくれたのは、ジミ・ヘンドリックスでもジェフ・ベックでもない、ただの無名のギター少年だったのだから。
彼に出会ってすぐに、恭介は友達を集めてバンドを作った。それまでは楽器なんて、学校の授業でしかやったことがなかった恭介たちだ。まともに演奏できる曲など、いまだに数えるほどしかない。それでも恭介は満足だった。ステージに立っているだけで、あの人に近づけるような気がしていたのだ。
だが、彼はもういない。
「くそっ……」
吐《は》き捨てるようにつぶやいて、
恭介は鏡の中の自分を殴《なぐ》りつけた。
「くっそーっ、のんびり風呂になんか入ってる場合じゃなかったぜっ!!」
結局、恭介が制服に着替えて家を出たのは、遅刻《ちこく》するかどうかぎりぎりの時間だった。
錆《さ》びついたチェーンがペダルを踏《ふ》むたびに耳障《みみざわ》りな音をたてる。空気の抜けかけた、抵抗の大きなタイヤに辟易《へきえき》しつつも、恭介は全速力で学校へと急いだ。
そのかいがあって、学校が見えてくるころには登校中の生徒の姿が増えてくる。なんとか遅刻は免《まぬが》れそうな気配《けはい》だった。とはいえ、上り坂の傾斜がきつくなるこれから先が、自転車通学生にはつらい区間だ。
「腹が減ったな……」
昨日《きのう》の昼から何も食べていないことを思い出して、恭介は自転車を止める。
幸いなことに、道路を渡ったところに行きつけのコンビニエンスストアがあった。横断歩道の手前まで行って、信号が変わるのを待つことにする。
通勤ラッシュには早いのか、通行人はあまり多くない。バス停の前に、他校の生徒がぽつぽつと並んでいる程度だ。特に変わったことのない朝の風景だった。道が空《す》いているので、通り過ぎる車はかなりスピードを出している。
信号が変わったのを見て、恭介《きようすけ》の足元にいた子犬がさっと駆《か》け出した。首輪をつけたラブラドール・レトリバー。他《ほか》の歩行者の隙間《すきま》を縫《ぬ》って、真っ先に歩道へと飛び込んでいく。
そのとき交差点に突然、激しいスキール音が鳴り響《ひび》いた。赤信号に変わる直前に無理に渡ろうとした直進車が、信号無視の形で突っ込んできたのだ。
ブレーキの音に驚《おどろ》いた子犬が、道路の真ん中で立ち止まる。だが、それは逆効果だった。
見切り発進をしていた別の車を避《さ》けて、暴走車が子犬のほうへと向かっていく。
恭介の心臓が、どくん、と跳《は》ねた。
その瞬間《しゆんかん》、奇妙《きみよう》な感覚が恭介を襲《おそ》った。
時間がゆっくりと流れているような不思議な気分だ。感覚だけが冴《さ》え渡り、音や、匂《にお》いや、周囲の様子《ようす》がくっきりと認識できる。まるで、よくできた特撮《とくさつ》のスローモーションを見ているみたいに。
立ちすくむ子犬が見える。今まさにそれを轢《ひ》き殺そうとしている暴走車の姿も。そのことに気づいてすらいない、不注意なドライバーの表情も。
子犬を助けるために走り出すような余裕《よゆう》など、どこにもなかった。目を閉じることさえもできない。
「逃げろおおおおおおおおっ!!」
恭介にできたのは、ただ叫ぶことだけだった。
そんなことをしても無駄《むだ》だとわかっていたが、そ弛でも叫ばずにはいられなかったのだ。
だめかっ……
恭介が唇《くちびる》を噛《か》む。
そのとき、信じられないことが起こった。
暴走車の前輪が、破裂音《はれつおん》とともに弾《はじ》けとんだのだ。
車体が突然傾き、焦《あせ》ったドライバーがハンドルをデダラメに動かす。
街中とは思えないようなスピードを出していただけに、その操作は致命的だった。コントロールを失った車体は歩道に乗り上げ、ガードレールを突き破ってコンビニエンスストアに激突する。
ガラス張りの壁《かぺ》が粉々に砕《くだ》け、立ち読みをしていた中学生がしりもちをついた。おでんを作っていた店員が、茫然《ぼうぜん》とした顔で立ちすくんでいる。
気の弱そうな中年のサラリーマンが、エアバックの膨《ふく》らんだ車内でぐったりとしていた。
レトリバーの子犬だけが、何事もなかったように走り去っていく。
突然の大惨事《だいさんじ》に、通行人はみな目を丸くしていた。もちろん恭介も、その光景に言葉を失う。
それにしても最近のフラットレスタイヤを使っているとは思えない、派手なパンクだった。
相当すり減った、丸坊主《まるぼうず》のタイヤをはいていたのだろう。
とりあえず死人が出なかったことで、恭介は胸をなで下ろす。
先ほどの奇妙《きみよう》な感覚は、いつの間にか消え失《う》せていた。
あの店で朝食を買うのは無理そうだと、やけに冷静に考えたりもする。そのとき、
「緋村《ひむら》くん?」
聞き覚えのある声に名前を呼ばれて、恭介《きようすけ》は振《ふ》り返った。
野次馬《やじうま》が集まり始めた歩道の隅《すみ》に、高城《たかじよう》学園の制服に身を包んだ小柄《こがら》な女の子が立っている。
首筋がようやく隠《かく》れるくらいのショートカット。幼さを残した顔立ち。クラスメートの草薙《くさなぎ》萌恵《もえ》だ。
彼女も先ほどの事故を見ていたらしく、びっくりしたような表情を浮かべている。
「見た? さっきの?」
恭介が訊《き》いた。自分の声が少し上擦《うわず》っているのがわかるが、どうしようもない。
萌恵も、興奮冷めやらない様子《ようす》で何度もうなずいた。
「すごかったね」
「ああ。でも、わんこが無事でよかったよ」
わんこという言葉に反応したのか、萌恵がくすっと笑った。その反応を見て、恭介はあわててつけ加える。
「俺《おれ》、犬好きなんだ。でも姉貴は猫《ねこ》が好きで、子供のころペットショップで喧嘩《けんか》になって、そのせいで結局どっちも飼《か》ってもらえなくなっちゃって……」
萌恵がまた笑った。余計なことをしゃべってしまったと、恭介は少し後悔《こうかい》する。
どうも彼女といるときは会話のリズムがつかめない。クラスメートの中でも、彼女はちよっと特殊《とくしゆ》なのだ。
「その自転単、緋村くんの? かわいいね」
萌恵が突然訊《き》いた。古いミニサイクルにまたがった自分を思い出して、恭介が頭をかく。
一八○センチ近い長身の恭介が、二四型の小さな自転車に乗っている姿は、いかにも滑稽《こつけい》だ。
しかも自転車のフレームは、目の眩《くら》むような真紅《しんく》。おまけに、ところどころ錆《さ》びついたフレームには、杏子《きようこ》のイタズラによってキティちゃんのシールがべたべたと貼《は》られている。
「あ、いや、このチャリは、姉貴が小学生のころ買ったやつで……俺、中学のころ、すっげーチビだったからさ、ずっとこれ使ってて、結局ついたあだ名がサルってーほら、猿《さる》回しのサルが三輪車に乗ってるのに似てるじゃん…−それで、中学の謝恩《しやおん》会のときにも俺と潤《じゆん》とで猿回しの真似《まね》をやらせられたりしてさ……」
一気にまくしたてる恭介を見て、萌恵が小さく噴《ふ》き出した。またしゃべりすぎてしまったと、恭介はさらに後悔する。
萌恵はそんな恭介の気持ちを知ってか知らずか、嫌《いや》みのない表情でにっこりと微笑《ほほえ》んだ。
「へえ、あたしも見たかったな。じゃあ、あたしバスだから、もう行くね」
「あ、うん。また教室で」
バス停へと駆《か》け出す萌恵《もえ》に手を振《ふ》って、恭介《きようすけ》も学校へと走り出した。
二人きりでこんなに長く彼女としゃべったのは、ずいぶん久しぶりのような気がする。
ライブの直前のように、胸の鼓動《こどう》が高鳴っていた。
そう。彼女は、クラスメートの中でも特殊《とくしゆ》なのだ。
4
「悠《ゆう》!」
ようやく校舎にたどり着いた恭介は、ちょうど廊下《ろうか》を通りかかった一人の生徒に向かって叫んだ。フェンダーの黒いギターケースを背負った少年が、足を止めて振り返る。
中性的で繊細《せんさい》な美貌《びぼう》の持ち主。クラスメートの杉原《すぎはら》悠だ。恭介とは、一年生のころからの親友で、バンド仲間でもある。クールな外見とは裏腹に温和で面倒見《めんどうみ》のいい悠は、バンドの実質的なまとめ役だった。その性格を見込まれて、クラス委員もやらされている。
恭介の姿を見て、悠は少し驚《おどろ》いたような表情を浮かべた。どうせ、予鈴《よれい》が鳴るよりも早く、恭介が学校に潜いたことを不思議がっているのだろう。遅刻《ちこく》常習|犯《はん》の恭介だけに、驚かれても文句は言えない。
「恭介、その怪我《けが》は……」
と、悠が、怪訝《けげん》そうに目を細めながら訊《き》いてきた。
「ああ、これ?」
恭介は、はがし忘れていた首筋の絆創膏《ばんそうこう》を押さえながら答える。
「いや、ちょっとバイクで転倒《こけ》ちまって……たいした怪我じゃないんだけどさ。それより何でギター持ってるんだ? 今日は練習なかっただろ?」
まさか、絆創膏も要らない程度のかすり傷だとも言えず、恭介は話を逸《そ》らした。まだ何か訊きたそうな顔をしていた悠も、雰囲気《ふんいき》を察したのか追及しない。
「今日は、あれだよ。例のギター教室」
「そっか、気合い入ってんな」
恭介は素直に感心する。恭介のバンドでは、ギター担当の悠が一番うまい。それでいて、一番練習熱心なのもやっぱり悠なのであった。というか、練習熱心だからうまいというべきか。
しかし、そろそろ恭介たち他《ほか》のメンバーも、のんびりしてはいられない。恭介たちのバンドは、文化祭の体育館ライブで演奏することになっているのだ。その文化繁までは、もう一カ月を切っている。まだクラスの出し物などは決まっていないのだが、学校全体も何となくそわそわした空気に包まれ始めていた。
「そういえば恭介、進路希望調査をまだ出してないだろ。不二子《ふじこ》ちゃんが怒ってたぞ」
「あ、やっぱり?」
恭介はうんざりした表情を浮かべる。進路希望を提出していないわけではないのだが、第一志望に一言『スター』とだけ書いて出したのだ。担任教師の矢部不二子《やべふじこ》としては、怒るのが当然だろう。
「でもさ……卒業したあとの自分の姿なんて、まったく想像できないんだよ。何でみんな、自分の進路をあっさり決められるんだろうな……まあ、悠《ゆう》ぐらい成績がよかったら、悩む必要もないんだろうけど」
「恭介《きようすけ》だって、別に成績は悪くないだろ」
「うーん、いやたぶんどっちかっつーと、あんまり良くないな」
悠は、やっかみの入った恭介の愚痴《ぐち》を、いつものように笑顔で聞き流してくれる。とはいえ、毎回|余裕《よゆう》で学年上位をキープしている悠になぐさめてもらっても、十人並みの頭しか持たない恭介は素直に喜べない。
「とにかく昼休みか放課後に、職員室に来いってさ」
「うええ……」
悠が微笑《ほほえ》みながら告《つ》げた言葉に、恭介は力なくため息をついた。
「おーす、恭介」
「お邪魔《じやま》してるぜ」
教室にたどり着いた恭介たちを出迎えたのは、バンド伸閲の潤《じゆん》と臣也《しんや》だった。
金髪を短く刈《か》り込んだ山崎《やまざき》臣也はドラマー。長髪でワイルドな風貌《ふうぼう》の市《いち》ノ|瀬《せ》潤がベース担当である。二人とも、恭介とは中学時代からの友人だ。
「朝っぱらから付き合わされて大変だな、潤」
恭介が言うと、潤は苦笑を浮かべた。臣也は素知らぬ顔でとぼけている。
実はこの二人は、恭介と同じクラスではない。その彼らが恭介の教室に入り浸《びた》っている理由は、臣也が恭介のクラスメートの津島麻子《つしままこ》と付き合い始めたばかりだからである。潤は彼の付き添い、恭介と悠は遊びに来るための口実《ダシ》というわけだ。
「でも、今日は津島さんまだ来てないね」
悠がそう言うと、臣也が照れたようにロを開く。
「昨日《きのう》、夜中二時まで電話しちまったからな。俺《おれ》も今朝《けさ》は起きるのが辛《つら》かったよ」
「……お前ら毎日顔合わせてんのに、よくそんなに話すことがあるな。何の話してるんだよ」
「訊《き》いてくれる? いやあ、実は昨日はさ……」
嬉《うれ》しそうにのろけ話を始めた臣也を見て、恭介たちは顔を見合わせて肩《かた》をすくめる。
ホームルームが始まる直前のざわついた教室。バンドのメンバーと騒《さわ》いでいるひとときが、恭介の一番くつろげる時間だった。この瞬間《しゆんかん》が、このまま永遠に続けばいいとさえ思う。
「ところで恭介、昨日、俺ん家《ち》から帰る途中に事故ったんだろ? 怪我《けが》は?」
廊下《ろうか》を見ていた潤《じゆん》が、思い出したように恭介《きようすけ》に訊いた。
「ああ、大丈夫《だいじようぶ》だよ。ぴんぴんしてる」
そう答えたあと、恭介はふと嫌《いや》な予感をおぼえて訊《き》き返す。
「でも、何で俺《おれ》が転倒《こけ》たこと知ってるんだ? まだ悠《ゆう》にしか言ってなかったんだけど」
「俺《おれ》も知ってるぜ。今朝《けさ》、あれが大騒《おおさわ》ぎしてたからさ」
潤《じゆん》の代わりに、臣也《しんや》が答えた。彼が指差す方角を、恭介はおそるおそる振《ふ》り返る。
「緋村《ひむら》せんぱーい!! 無事だったんですねっ!!」
「げっ」
甲高《かんだか》い声が教室に響《ひび》いて、恭介は頭を抱《かか》えた。
今にもはちきれそうな笑顔とともに、派手な外見の女子が駆《か》け寄ってくる。シャギーを入れた長めの茶髪と、うっすらとメイクを施《ほどこ》した可愛《かわい》らしい顔立ち。一年C組の江崎綾《えざさあや》だ。彼女の友人二名も、そのあとについて教室に入ってくる。
「よかった! 先輩《せんぱい》が事故に遭《あ》ったって志津《しづ》ちゃんに聞いて、心配してたんですよっ!」
きんきんと響く声で騒ぐ彼女の言葉を聞いて、教室が少しざわついた。クラスメートの視線が集まるのを感じて、恭介は彼女たちを睨《にら》みつける。
「お前らさあ、頼《たの》むから二年の教室まで来て騒ぐなよ」
「えー、でもー」
「ねー」
恭介たちを取り囲んだ少女たちは、お互いに顔を見合わせて勝手に納得すると、邪気《じやき》のない笑顔できゃらきゃらと笑う。恭介は思わずため息をついた。
彼女らは恭介たちのバンドのファンの子で、いわゆる『追っかけ』みたいなことをやっている。三人とも可愛らしいし、ライブのときの盛り上げ役でもある。バンドにとっては、ありがたい存在だ。
だが、問題もある。一つは綾の母親である江崎志津が、杏子《きようこ》と同じ病院で働いている女医だということ。おかげで恭介の行動は綾たちに筒《つつ》抜けで、逆に学校で起こした事件もすぐに杏子の知るところとなる。
もう一つは、何かあるたびに彼女らが恭介のクラスまで押し掛けてくることだ。本人たちに悪気はないのだが、恭介にとっては大間題である。なぜなら、このクラスには草薙萌恵《くさなぎもえ》がいるのだから。
萌恵の親友である真島加奈子《まじまかなこ》が、恭介たちのほうを見ながら萌恵に話しかけている。加奈子が騒々しい綾たちを嫌っているのは有名な話だ。その綾たちと仲のいい恭介も、何を言われているかわかったものじゃない。恭介は、何だか暗い気分になる。
「じゃあ、そろそろ俺らは自分のクラスに戻《もど》るわ。お前らも帰ったほうがいいんじゃねえか?」
落ち込んだ様子《ようす》の恭介《きようすけ》を見かねたのか、潤《じゆん》が助け船を出してくれた。どことなくお兄さんっぽい雰囲気《ふんいき》を漂《ただよ》わせている潤《じゆん》は、五人兄妹の長男だ。普段から弟妹たちの面倒《めんどう》を見慣れているせいか、彼は綾《あや》たちの扱いに長《た》けている。
手を振《ふ》りながら出ていった綾たちを見送って、恭介《きようすけ》はぐったりと机に伏せた。澗と臣也《しんや》も自分のクラスに戻《もど》ったので、周りが急に静かになる。
ホームルームが始まる時間になっていたが、捜任の矢部《やべ》はまだ来ていない。几帳面《きちようめん》な彼女にしては珍《めずら》しいことだ。
「そういえば今日から転校生が来るって噂《うわさ》、聞いてる?」
悠《ゆう》に訊《き》かれて、恭介は顔を上げた。
「今ごろ? なんで?」
どういう理由があるのか知らないが、学期の途中からというのはずいぶん中途|半端《はんぱ》な気がする。しかも高校二年生の秋といえば、文化祭の準備や部活動で一番忙《いそが》しい時期ではないか。
「彼女、帰国子女らしいよ。なんでも、ニューヨークだかボストンだかにいたんだって。この時期に転入してくるってことは、たぶん受験の準備じゃないのかな」
「なるほどね」
悠の説明で、恭介は納得した。軽い気持ちで訊《き》き返す。
「それはそうと、さっき彼女って言ったな。ということは、転校生は女か?」
「ああ」
悠が少し意地悪く笑う。
「すごい美人だって評判だよ。でも、恭介には関係ないかな」
「どういう意味だよ?」
「さあ……」
悠はとぼけて、わざとらしく萌恵《もえ》のほうを見る。そんな話をしたおぼえはないが、悠はどうやら恭介の気持ちを見抜いているらしい。となれば、臣也や潤が気づくのも時間の問題だろう。
綾たちだけには知られたくないもんだなと思いつつ、恭介は再び机に突っ伏した。
悠が笑いながら自分の席へと帰っていく気配《けはい》がする。
恭介はそのまま目を閉じていた。クラスの喧曝《けんそう》をシャットアウトして、昨日《きのう》の出来事を思い出そうとする。
血まみれで倒《たお》れていた少女。
転倒《てんとう》。銃撃《じゅうげき》。そして、激痛。
撃《う》たれた瞬間《しゆんかん》の灼《や》けつくような痛みは曖昧《あいまい》になってしまっていたが、少女の叫び声はまだ生々《なまなま》しく耳に残っている。
それでも今では、あれが理実にあった出来事だったのか自分でもわからなくなっていた。
考えてみれば、あの少女はあまりにも綺麗《きれい》だった気がする。どこか人間離れした、非現実的な美しさだった。だからこそ、天使だなんて単語が浮かんできたのだ。
仮に実在の人物だったとしても、腹に穴が開いて死にかけてる見知らぬ男とキスする理由がわからない。白雪姫に出てくる王子様が実は死体愛好家だったという説を聞いたことがあるが、ほとんどそれに近いものがある。
恭介《きようすけ》は、わけもなくがっかりした気分になって顔を上げた。
ちょうど担任教師の矢部不二子《やべふじこ》が入ってきたところだ。
矢部は英語教師で、四十代半ばの独身女性。性格は、押しの強いオバサンそのものである。
何となく憎めないキャラクターで、教え方もうまい。
今日はラメの入った紫《むらさき》のワンピースに、シャネルのネックレスを合わせていた。ハイヒールも服と同じ紫だ。彼女はいつもド派手な服装をしている。豪華《ごうか》なステージ衣装を見慣れている恭介でさえ、しばしば圧倒《あつとう》されてしまうくらいだ。
その矢部の後ろをついて、女生徒が一人歩いてきた。
こちらは普通の制服を着ている。
クラス全体が一瞬《いつしゆん》どよめき、すぐに緊張感《きんちようかん》を伴う静寂《せいじやく》に包まれた。彼女が噂《うわさ》の転校生だということに気づいたのだ。噂《うわさ》に違《たが》わぬ彼女の美貌《びぼう》に、生徒たちは目を奪《うば》われてしまっている。
転校生は、落ちついた動作で教壇《きようだん》に上がると、クラスメートに向かって頭を下げた。緊張している様子《ようす》はない。
矢部不二子が、彼女の名前を黒板に書いて読み上げた。秋篠《あきしの》香澄《かすみ》。
自己紹介などという非効率的なことを矢部はやらせない。香澄がアメリカから来たこと、彼女の両親はまだ海外に残っていること、彼女の特技や経歴などを、矢部自身が大きな声で手際《てぎわ》よく読み上げていく。
転校生はさしたる感情も見せず、自分自身のプロフィールを黙《だま》って聞いていた。
滅多《めつた》にないほど静かな教室に、恭介の椅子《いす》が倒《たお》れる音だけが響《ひび》く。
「あ、あんた……」
恭介は呆然《ぼうぜん》と立ち上がっていた。
秋篠香澄と名乗る少女を、恭介は知っている。
服も、髪型も違ったし、もちろん血まみれでもなかったが、彼女は間違いなく恭介が昨夜《きのう》出会った美少女だった。
「あんた昨日倒れてた人だろ!!……俺《おれ》のこと、覚えてるよなっ!?」
転校生は、困ったような表情で矢部|教諭《きようゆ》を見た。恭介とは、目を合わせようとしない。
クラス中の視線が自分たちに集まっていることに気づいて、恭介ははっと我にかえった。
「知り合いかい?」と訊《き》く矢部に、転校生は黙って首を振《ふ》る。
「ふん……」
矢部は、あきれたように鼻を鳴らした。
「古い手だね、緋村《ひむら》。ナンパならもっとうまくやんな。教室じゃないところでね」
矢部《やべ》の痛烈な言葉に、クラス全体が爆笑する。草薙萌恵《くさなぎもえ》が笑っているのを見て、恭介《きようすけ》はひどく傷ついた。
「とにかく、まだ紹介の途中だ。座んな。秋篠《あきしの》さんも、気にしないでおくれ。緋村《ひむら》はバカだけど、ああ見えて根は悪い奴《やつ》じゃないからね」
ベテラン教師らしい毒のある言葉でフォローしたあと、矢部は香澄《かすみ》の紹介を再開する。幸か不幸か、恭介の言動によってクラスの雰囲気《ふんいき》もだいぶ和《なご》やかになっていた。
「よろしくお願いします」
一言だけの短い挨拶《あいさつ》をして、香澄は自分の席に着いた。窓際《まどぎわ》の席の最後列。
彼女が挨拶を終える直前、恭介は一瞬《いつしゆん》だけ鋭い視線がこちらを向いた気がした。
5
秋篠香澄の行動に、特に不審《ふしん》な点はなかった。
授業中の態度も、いかにも転校生らしく控《ひか》えめなものだ。
転入試験に合格したのだから当然ではあるが、学力面での不安もないようだった。新品の教科書を広げ、真面目《まじめ》に授業を受けている。
授業の合間の短い休み時間には、何人かの積極的な女子に話しかけられていた。香澄は、彼女らの不嬢《ぶしつけ》な質問にも笑顔で答えている。
男子の対応は、もう少し複雑だった。
これまで見た限りで、彼女に話しかけた男子はいない。無関心を装っているわけではなく、美人過ぎて気軽に声をかけられないのだ。
一方で、教室を訪れる他《ほか》のクラスの男子は急増していた。彼女を一目見るために、何か口実を作ってやってきたのだろう。廊下《ろうか》には、わけもなくうろついている上級生の姿もあった。
恭介は、彼女に訊《き》きたいことが山のようにあったのだが、これだけ多くの注目を集めている中では、さすがに話しかけることができない。結局、恭介にできたのは、転校生の様子《ようす》をそれとなく観察することだけだった。
何もできないまま、授業終了のチャイムが鳴る。
「あれ、恭介? 帰らないのか?」
ホームルームの終わったばかりのざわついた教室で、帰り支度《じたく》を済ませた悠《ゆう》が訊いてきた。
「……職員室に行ってくる」
「ああ……」
不機嫌そうな恭介の表情を見て、すべてを悟ったのだろう。「お先」と短い挨拶を残して、悠は帰っていった。恭介は、どんよりと重い気分を背負ったまま、教室を出る。
職員室という場所は、生徒にとってあまり居心地のいい空間ではない。ましてや、怒られに行くとなればなおさらである。呼び出しに応じるのを放課後まで引き延ばしたのもそのせいだ。
一日かけて進路のことは考えたのだが、結局答えは出なかった。
自分が何をやりたいのかがわからない。いや、わからないのは、自分に何ができるのか、だ。
恭介《きようすけ》には杏子《きようこ》のような意志の強さはない。それは自分でもわかっている。悠《ゆう》のように頭がいいわけでもない。音楽は好きだが、それで将来|喰《く》っていけるほどの才能があるとも思わない。
高校生活が夢と希望に満ち溢《あふ》れているなんてのは、嘘《うそ》っぱちだと恭介は思う。迫《せま》り来る現実の前に、しょせん自分が何の取り柄《え》もない普通の人間なのだと思い知らされる日々――それが高校生の実態だ。
そんな当たり前のことを真面目《まじめ》に考えている自分に気づいて、恭介は弱々しく笑った。柄《がら》にもなくそんな自虐《じぎゃく》的な思考に至ったのは、きっと河村《かわむら》雅人《まさと》がいなくなったせいだろう。無味乾燥な現実の中で、ただ一人、恭介に夢を見せてくれたあの人が。
「お、来たか……緋村《ひむら》」
矢部不二子《やべふじこ》は、職員室のドアをくぐった恭介を目敏《めざとく》く見つけると、進路資料と書かれたファイルを抱《かか》えて立ち上がった。まだ教室から戻《もど》ってきていない教師が多いのか、職員室は比較的空《す》いている。矢部の他《ほか》に英語科教師たちのコーナーにいたのは、見慣れない外国人教師が一人品のいいスーツを着込んだ、アッシュ・ブロンドの男。|A ・ E ・ T《アシスタント・イングリツシユ・テイーチヤー》というやつだろう。なかなかのハンサムで、三年生の女生徒が四人ほど、彼を取り囲んで談笑している。
荷物のほとんどない彼の机の上には、片仮名でリチャード・ロウ≠ニ書かれたプラスチックのプレートが置かれていた。
「さてと、聞かせてもらおうかね」
職員室の奥に置かれた会議机に恭介を座らせると、矢部不二子は間髪《かんばつ》入れずに切り出した。
「いったい、どういうつもりなんだ、緋村《ひむら》? スターってのはなんだい? 芸能界にでも入る気か?」
「いや……別にそんなつもりじゃないんスけど」
ぼそぼそと答える恭介を見ながら、矢部はファイルをばらばらとめくる。
「まあ、お前らの気持ちもわからんでもないよ。自分の将来なんて言われても、ピンとこないってんだろ」
「ええ……まあ」
恭介の答えを最後まで聞かずに、矢部は続けた。
「だったら、とりあえず受験するってことにしとくか? お前の成績でも受けられる大学はあるし、あと一年もすればやりたいことが見つかるかも知れんぞ?」
「あ、でも俺《おれ》、姉貴と二人暮らしなんで、なんていうか……できれば早く自立したいんですけど」
「ん、そうなのか?」
矢部《やベ》は少し意外そうな顔をした。金銭面でそれほど不白由していないことも含めて、恭介《きようすけ》の家庭環境については彼女もよく知っている。そもそも本人に進学の意志がなければ、進学科には入学してこないはずなのだ。しかし、生徒のそんな気まぐれには慣れているのか、矢部はてきぱきと話を進める。
「すると就職か……何か就《つ》きたい職業があるのか?」
「いや、別に……ただ……」
「ただ?」
「……ミュージシャン、とか」
恭介の言葉を聞いて、矢部は小さくため息をついた。
「そんな職業、お前らが簡単になれるわけがないだろう」
「そんなの、わからないじゃないですか!! 現に河村先輩《かわむらせんぱい》だって……」
ついカッとなって恭介は叫んだ。だが、その声は途中で小さくなって消える。
河村|雅人《まさと》は恭介の一年先輩−|高城《たかじよう》学園の三年生だった。ほんの二週間ほど前までは。
バイト先のレンタルビデオ店で、彼は何者かに射殺されて死んだのだ。
夏休みごろから発生している高校生速続射殺事件と同じ犯人《はんにん》の仕業《しわざ》だと断定されたことで、マスコミはこぞって事件を報道した。河村雅人本人が、レコードデビュー寸前と言われる有名なギタリストだったことも無関係ではなかっただろう。だが、一週間も経《た》つとそれも沈静化し、学校はあっと言う間に落ちつきを取り戻《もど》した。警察の捜査《そうさ》は今も続いているが、校内で事件について口にする者は、今やほとんどいなくなっている。
「お前たちが河村と仲がよかったことは知つているよ……」
矢部は、静かな口調で言った。
「あたしは音楽のことはよくわからないが、音楽で喰《く》っていこうってくらいだから、河村って奴《やつ》は才能があったんだろう?」
恭介は、うなずく。雅人の才能、それだけは白信を持って断言できた。なぜなら、恭介自身、彼の才能によって救われた一人だからだ。
矢部は続ける。
「その才能ってのは、お前たちが箇単に真似《まね》できる程度のものなのか?」
「………」
恭介は何も言い返すことができなかった。彼女の言葉が、恭介に重くのしかかる。
自分が何の取り柄《え》もないごく普通の人間であること。皮肉にも、誰《だれ》よりも尊敬する河村雅人の存在によって、恭介はその事実を思い知らされたのだった。
「まあいいさ……」
すっかり黙《だま》り込んでしまった恭介を気遣《きづか》ったのか、矢部が軽い口調で言った。
「進路希望は、来週の月曜まで待ってやるよ。それまでゆっくりと考えな。できれば、お姉さんにも相談してな」
恭介《きようすけ》は、黙《だま》って矢部《やベ》に頭を下げると、バイプ椅子《いす》をひいて立ち上がった。
そのまま職員室を出ていこうとする。そのとき、恭介の進路を塞《ふさ》ぐように通路に立った人影があった。
「緋村《ひむら》恭介くん……ですね?」
流暢《りゆうちよう》な日本語でそう言ったのは、さっき見たAETのリチャード・ロウ氏だ。
歳《とし》は二八、九といったところだろうか。細身《ほそみ》だが、一七八センチの恭介よりも頭一つ背が高い。|縁なし《リムレス》の眼鏡をかけて、品のいいスーツを着こなしている。
AETというのは県の教育委員会から派遣《はけん》されてくる教師なので、常に高城《たかじよう》学園にいるわけではない。実際、目の前のアッシュ・ブロンドの男性は、恭介の知らない顔だった。自分の名前が相手に知られていることを、恭介は不思議に思いながらぎこちなくうなずく。
「これ、君の持ち物でしよう?」
彼が差し出したのは、ラミネート加工が施《ほどこ》された一枚のカード。鷲《わし》を象《かたど》った校章の横に恭介の顔写真が貼《は》り付けられた、高城学園の学生証だった。
「落とし物ですよ」
そう言って、リチャードが微笑《ほほえ》む。
「あ、すみません」
恭介は首を捻《ひね》りながら学生証を受け取った。彼に手渡されたのは、間違いなく恭介の学生証だ。だが恭介は普段、財布《さいふ》の中に学生証を入れてある。財布ごとなくすというのならともかく、学生証だけを落とすというのが少々不可解だった。ここ最近は、学生証を財布から出した記憶《きおく》もない。
職員室を出ると、恭介は制服の内ポケットから財布を取り出した。
二つ折りの革製《かわせい》の財布で、札入《さつい》れや小銭入れとは別に、免許証などを入れる独立したボケットのあるタイプだ。そして、そのポケットにはファスナーがついている。たとえファスナーを閉め忘れていたとしても、中に入れたものが簡単に落ちるということは有り得ない。
もちろん財布が破れているわけでもなかった。バイクの免許やCDショップの会員証などは、恭介の記憶通り全部そろっている。
学生証を財布に入れたというのが、そもそも記憶違いだったのだろうか?
そう思って、恭介は財布をしまおうとした。そのときに気づく。
財布の内張りの布の部分に、どす黒い染みが残っている!
考えるまでもなかった。血の跡《あと》だ。なまなかな出血量では、二つ折りの財布の中にまで血が染み込むことなど有り得ない。昨夜の恭介の負傷は、夢ではなかったのだ。
恭介はもう一度自分の財布をまじまじと見つめる。
財布の外側に、血は付着していなかった。だが冷静に考えれば、それはおかしい。咋日《きのう》の出血量を考えても、恭介の財布《さいふ》に血がついていないわけがないのだ。だとすれば、誰《だれ》かが血を拭《ふ》き取ったことになる。
警察か? 恭介《きようすけ》がバイク事故で負傷したと思った警官は、恭介の所持品を調べたはずだ。
そのときに、彼らが拭いたのだろうか?
あるいは杏子《きようこ》か? 恭介のバイク事故の後始末は、事故現場に呼び出された彼女がやってくれたと言っていた。そのとき、恭介の所持品も彼女に返却《へんきやく》されたはずだ。
だが、それでは、恭介の学生証をリチャード・ロウが持っていたことの説明がつかない。いくらなんでも、警察が恭介の学生証を道端《みちばた》に落とすなんてヘマはしないだろう。
だとすれば……
恭介の脳裏に閃《ひらめ》いたのは、真紅《しんく》のコートを翻《ひるがえ》らせて空へと舞い上がる少女の姿だった。
秋篠《あきしの》香澄《かすみ》−彼女が気絶した恭介の身体《からだ》から、学生証を抜き取ったのだとしたら!?
何のために、という疑問は湧《わ》かなかった。恭介の身元を調べるために決まっている。
免許証ではなく、学生証を抜き取った理由もそれでわかる。すりとられたのが免許証なら、駆《か》けつげた警察官がすぐに気づいただろう。その点、学生証ならば問題ない。現に、恭介本人でさえ、学生証がないことに今まで気づかなかったくらいだ。
そして今日、転入先の学校で恭介を確認した彼女は、学生証をどこかに捨てた。リチャードは、たまたまそれを拾ったのだろう。すべての鍵《かぎ》は、やはり彼女が握《にぎ》っているのだ。
そう考えた恭介は、教室に向かって駆《か》け出していた。
6
恭介が職員室から戻《もど》ったときには、クラスの生徒たちは三分の一ほどしか残っていなかった。
あとの生徒はみな、下校したか部活に行ってしまったらしい。掃除当番を除けば、明日《あした》提出の課題を写している男子が何人かと、女子のグループが二組ほど。その中に、秋篠香澄の姿はない。
「緋村《ひむら》、あんた掃除当番でしょ」
「うわっ!」
いきなり目の前に雑巾《ぞうきん》を突きつけられて、恭介は悲鳴をあげた。その驚《おど》きようを見て、真島加奈子《まじまかなこ》があきれかえる。
「そんなにびっくりしないでよ。まったく、きょろきょろしちゃって、秋篠さんでも探してるの?」
「ば、バカ! そんなんじゃねーよ!」
水泳部に所属している加奈子は、ちょっと太めだが可愛《かわい》い顔立ちをしている。さっぱりとした性格で男子にも人気があるが、いかんせん体育会系だけあって声がでかい。
やはり掃除当番だったらしい草薙萌恵《くきなぎもえ》が振《ふ》り返るのが見えて、恭介はあわてて否定した。加奈子《かなこ》もそれ以上は突っ込んでこない。
「……さぼったのは悪かったよ。進路のことで不二子《ふじこ》ちゃんに呼ばれてたからさ」
「別に謝《あやま》ることはないわよ。あんたの分の仕事はきっちり残してあるから」
加奈子はにんまりと笑うと、教室の隅《すみ》にあるごみ箱を指差した。大型のポリ容器には、紙屑《かみくず》やビニール袋《ぶくろ》などがあふれんばかりに詰《つ》まっている。恭介《きようすけ》は、うげ、と小さく口元を歪《ゆが》めた。
「じや、よろしくね」
そう言って加奈子は、黒板を拭《ふ》きに戻《もど》っていく。恭介はしぶしぶとごみ箱に向かった。秋篠《あきしの》香澄《かすみ》に訊《き》きたいことは無数にあったが、帰ってしまったのでは仕方ない。
どうやら昨日《きのう》の掃除当番が手を抜いたらしく、ごみ箱の中身はぎゆうぎゅうに押し固められていた。中身は可燃物の紙類だけのはずなのに異様に重い。持ち上げるだけでも一苦労だ。
「それ、一人じゃ無理でしょう?」
ふらふらしながら教室を出ようとした恭介に、横からすっと差し出された手があった。振《ふ》り返ると、草薙萌恵が立っている。
「手伝うね」
そう言うと、萌恵はごみ箱の取っ手に手を伸《の》ばした。ひんやりとした彼女の手が一瞬《いつしゆん》|触《ふ》れて、それだけで恭介はどきりとする。
「あ、サンキュ……」
恭介が短く礼を言うと、萌恵はにっこりと微笑《ほほえ》んだ。夕暮れどきの薄《うす》暗い廊下《ろうか》がばっと明るくなるような、そんな笑顔だった。彼女がそばにいるだけで、さっきまで焦《あせ》っていたのが嘘《うそ》のように神経が和《やわ》らぐ。
不思議な子だよな、と恭介は思う。
顔立ちは可愛《かわい》らしいが、とりたてて目立つほどではない。大人《おとな》しくて人見知りするような雰囲気《ふんいき》があるけれど、こうして向こうから積極的に話しかけてくれることもある。そのあたりの心配りが絶妙《ぜつみよう》で、恭介はやはり彼女が特別な人だと感じてしまう。それに、何というか、彼女はいつも楽しそうだ。
廊下を擦《ず》れ違った下級生の女子が、ごみ箱を抱《かか》えた恭介たちに向かって会釈《えしやく》した。萌恵が、空《あ》いている左手で彼女たちに小さく手を振る。
「今のは?」
「あ、声楽部の後輩《こうはい》。みんな背が高いでしょう。あたしのほうが後輩みたいだって、よく言われるの」
萌恵が笑いながら言う。後輩たちにとっても、彼女はいい先輩《せんぱい》なのだろう。挨拶《あいさつ》をするときの下級生の顔を見ただけで、何となくそう思える。
「あれ、草薙さんって声楽部だっけ?」
もちろんそんなことはチェック済みなのだが、いかにも初めて聞いた風に恭介が訊《たず》ねる。
「そう。ピアノ担当なの。緋村《ひむら》くんはバンドやってるんだよね、杉原《すぎはら》くんたちと」
「ああ。今度の文化祭でもやるからさ、聴《き》きにきてよ」
「うん」
萌恵《もえ》がそう言ってくれたので、恭介《きようすけ》は幸せな気分になった。ごみ箱の重さも、今はまるで気にならない。
ごみの集積場は校舎の外にある。廊下《ろうか》を歩いていた恭介たちは、昇降口を取り囲む異様な雰囲気《ふんいき》に気づいた。放課後になったというのに、妙《みよう》に生徒の数が多い。それも男子生徒ばかり。
気のせいか、恭介たちのクラスの靴箱が見張られているような気配《けはい》がある。
「……かわいそう」
萌恵が小さな粛でつぶやいた。
「え?」
彼女の言葉の意味がわからず、恭介は訊《き》き返した。だが、萌恵は何も答えなかった。
集積所にゴミを出して、二人は教室へと戻《もど》る。
恭介たちのクラスは四階だ。もちろんエレベーターなんてものはない。
残っていた生徒も大半《たいはん》が下校したらしく、校舎はだいぶ静かになっていた。恭介が口にする無駄《むだ》話と、萌恵の澄《す》んだ笑い声だけが響《ひび》く。とそのとき、「あ……」とつぶやいて萌恵が足を止めた。階段の踊《おど》り場に立つ人影を、彼女は不思議そうな顔で見上げる。
「緋村《ひむら》恭介くん……だったよね」
恭介に向かってそう言ったのは、萌恵の視線の先にいた一人の女生徒だった。
凜《りん》とした冷たい美貌《びぼう》−秋篠《あきしの》香澄《かすみ》だ。
「あんた!?」
恭介は驚《おどろ》いて転校生を見つめる。彼女から接触してくるとは予想外だ。
香澄はカバンを持っていない。帰りがけに偶然《ぐうぜん》出会ったというよりは、恭介が戻ってくるのを待っていたような感じだった。
「ちょっと話をしたいんだけど、いいかしら?」
恭介は、混乱しながら萌恵を見た。
萌恵が気を利《き》かせて、空《から》のごみ箱を恭介の手から引き取る。
「あとは、あたし一人で大丈夫《だいじようぶ》だから」
香澄にも挨拶《あいさつ》して、萌恵は教室へと戻っていった。
何もできないまま萌恵を見送って、恭介は転校生のほうへと向き直る。
せっかく二人きりでいい雰囲気《ふんいき》だったのが、彼女のせいで台無しだった。萌恵に誤解されてしまったかもしれない。そう考えると猛然《もうぜん》と腹が立ってくる。恭介の気持ちを知らないにしても、もう少し気を使ってくれてよさそうなものだ。
「屋上に行きましょ」
冷たい声で香澄《かすみ》が言った。
恭介《きようすけ》はむっとしながらあとに続く。香澄は、恭介がついてくるのを確かめもしない。恭介も、いざ本人を目の前にすると、何から話を切り出せばいいか思いつかなかった。
転校してきたばかりだというのに、香澄は何の迷いもなく屋上への通路を選んでいく。彼女の足取りは軽く、とても昨夜あれほどの重傷を負っていたとは思えない。
重傷だって……!?
血まみれだった彼女の姿を思い鎧して、恭介は愕然《がくぜん》とした。肩《かた》や脚《あし》を深々とえぐられたあの怪我《けが》が、一晩かそこらで治《なお》るものではない。
なのに香澄が怪我をしている様子《ようす》はなかった。午後の体育のときも、体操服姿の彼女は包帯《ほうたい》すら巻いていなかったはずだ。
同じだ……
恭介はつぶやいて、自分の胸を押さえる。致命傷だったはずの銃創《じゆうそう》が、一晩で完治《かんち》する異様な治癒力《ちゆりよく》。それは、間違いなく彼女と同じものだった。やはり彼女は、恭介の身に起きた異変の原因を知っているのだ。
彼女の選んだ通路は、恭介の知らない非常階段だった。事故防止のため、屋上へと通じる扉《とびら》は全部|閉鎖《へいさ》されているのだが、この階段にだけは鍵《かぎ》がかかっていない。
「こっちよ」
間違った方向に行こうとした恭介を、香澄が呼び止めた。どうやら彼女は、この学校の構造を隅《すみずみ》々まで熟知しているようだ。これではもう、どちらが転校生だかわからない。
屋上にたどり着くと、ちょうど陽《ひ》が沈むところだった。
見下ろした街が、陽射《ひざ》しを浴びて金色に輝《かがや》いている。
美しいが、どこか寂しい光景だ。恭介は、漠《ばく》とした不安に襲《おそ》われるのを感じた。
「身体《からだ》は何ともない?」
誰《だれ》もいない屋上のフェンスに寄りかかって、香澄が訊《き》いた。
彼女の長い髪が、風の中をひらひらと舞っている。彼女は髪を染めていない。陽に透《す》けた栗《くり》色の髪が新鮮《しんせん》でとても綺麗《きれい》だ。だがそれは、冷たく近寄りがたい美しさだった。迂闇《うかつ》に触《ふ》れれば、切り裂《さ》かれてしまいそうな。
「どういう意昧だよ?」
恭介は間い返した。
彼女の質問には、何通りもの回答がある。
健康状態は良好。バイクで転倒《てんとう》したときの負傷はかすり傷。撃《う》たれた傷のことなら跡形《あとかた》さえも残っていない。それと、もう一つ……
「今日、あなたの身体に異常がなかったかという意味よ」
「異常?」
「そう。たとえば手に持った物を握《にぎ》りつぶしちゃったり、無性《むしよう》に暴れたくなったり。あるいは、もっと特殊《とくしゆ》な、普通では考えられないような現象を引き起こしたりなんてことがなかった?」
「はあ? 何だそりゃ?」
恭介《きょうすけ》は最初、香澄《かすみ》がふざけているのかと思ったが、彼女の瞳《ひとみ》は真剣《しんけん》だった。怖《こわ》いくらいに澄《す》んだ眼差《まなざ》しだ。射すくめるという表現が、これほど似合う表情もあるまい。
「心当たりがないのね? あなたは、運がいいわ……それはあなたが生きていた時点で、ある程度わかっていたことだけど……もっとも、あのまま命を落としたほうが幸せだったかもしれないわね」
「あんた……俺《おれ》が撃《う》たれたのを知っているのか? やっぱり咋日《きのう》俺が会ったのは、あんただったんだな……でも、傷はなかった。あんたの傷も!」
「賭《か》けだったの」
恭介の質問には答えず、香澄は淡々《たんたん》と言った。
「あなたを助けるには他《ほか》に方法がなかった。感染する確率は低かったけど、運が良かったのね。でもね……」
恭介には、彼女の言うことがまったく理解できなかった。ただ彼女の視線に気圧《けお》されたように、動くことができない。
香澄がつぶやく。
「あたしは、あなたを殺しにきたのよ」
7
あなたを殺しにきたのよ――
香澄の言葉に、恭介はナイフを突きつけられたような寒気《さむけ》をおぼえた。彼女が嘘《うそ》をついていないことを瞬間《しゆんかん》的に悟《さと》ったのだ。
恭介は、無意識のうちに重心を低く落としていた。香澄のどんな動きにも対応できるように肩《かた》の力を抜く。
「あわてないで」
表情を変えないまま、香澄が言った。
「何も、今ここで殺そうってわけじゃないわ。あなただって、自分に何が起きたのかを知りたいでしょう?」
彼女の言葉を聞いても、恭介は緊張《きんちよう》を解くことができなかった。
本能が、この距離は危険だと告《つ》げている。
身体《からだ》が冷えているのに、汗《あせ》が止まらない。狭《せま》い檻《おり》の中で、猛獣《もうじゅう》と対時《たいじ》している気分だった。
「それに……」
香澄《かすみ》が、屋上の入り口のほうへと目を向ける。二人が上がってきた階段から他《ほか》の誰《だれ》かが近づいていることに、恭介《きようすけ》も気づいた。
足音の数や歩調から判断して、見回りの事務員などではない。
「ゲストもきたみたいだしね……」
恭介の身体《からだ》を、すっと押しのけて香澄が前に出た。
昨夜感じた彼女の香りが、鼻腔《びこう》をくすぐる。
「ゲスト?」
恭介は振《ふ》り返った。彼女の言葉通り、開けっ放しになっていた非常口から男たちがぞろぞろと出てくる。
その数は五人。うち、一人は恭介の知っている顔だった。
F組の佐久閲秀明《さくまひであき》。お世辞《せじ》にも品行方正とは呼べないが、不良というほど素行《そこう》も悪くない。
どこにでもいるような、ごく普通の学生だ。
他の四人は恭介と違う学年だが、彼らも同じような感じだった。無難《ぶなん》な髪型に流行のファッション。集団に埋没《まいぼつ》してしまう目立たない生徒たち。それだけに、彼らがどういうつながりで行動しているのかがわからない。
五人は錠剤《じようざい》か何かを噛《か》むように、しきりに口を動かしている。その瞳《ひとみ》はどこか虚《うつ》ろで、それでいてぎらぎらと凶悪《きようあく》な光を放っていた。危険な目つきだ。
それほど荒事《あらごと》が得意な連中には見えないし、恭介も喧嘩《けんか》には少し白信がある。だが、五人がかりでこられたら、さすがにつらい。
「知り合い……ってことはないよな?」
香澄にいちおう確認する。
退路は、彼らの背後にある非常口だけ。自分一人ならどうにかなるが、彼女を連れて逃げるとなると厄介《やつかい》だ。そんなことを考えている恭介に向かって、香澄が静かに言い放った。
「下がってなさい」
恭介は一瞬《いつしゆん》唖然《あぜん》とする。
ふと気づくと、佐久間たちも恭介を見ていなかった。
血走った目で香澄を睨《にら》みながら、彼女を取り囲むように動いている。どうやら恭介は、彼らの眼中にないらしい。
「思ったより動き出すのが早かったわね。やっぱり、顔を見られたのが失敗だったかしら」
香澄は、自らの失敗を悔やむような口調でつぶやいた。
着慣れない真新しい制服を気にしてか、《うで》を軽く回す。準備運動のような気安さだ。
「……まだ答えられる? その薬、どこで手に入れたの?」
「ぐるううううう」
人間が発したとは思えない声で、佐久間が喰《うな》った。
それを見て、恭介《きようすけ》は驚《おどろ》く。佐久間《さくま》の顔は、まるで別人のように変形していた。
額《ひたい》や喉《のど》に血管が浮き上がり、全身の筋肉が膨張《ばうちよう》している。袖口《そでぐち》や襟《えり》のボタンが、圧力に耐えかねて飛び散った。彼の肉体が、突如|巨大《きよだい》化したみたいだった。
変貌《へんぼう》していたのは佐久間だけではない。五人の姿がみな、いびつに歪《ゆが》んでいく。彼らの口から漏《も》れる言葉は、もはや意味をなしていなかった。
「ヴイルレントか……もう……無理みたいね」
香澄《かすみ》の表情に、憐《あわ》れむような翳《かげ》りが浮かぶ。
「があああっ!」
それが合図になったように、佐久間が香澄に殴《なぐ》りかかった。
その動きに、恭介は驚《おどろ》く。
速い――!!
信じられないぼどの速度で拳《こぶし》を繰《く》り出す佐久間に向かって、香澄は足を踏《ふ》み出した。
彼女の動きを、恭介は完全にとらえることができなかった。
恭介にわかったのは、佐久間の顎《あご》が突然跳《は》ね上がったということだけだ。まるで、ヘビー級ボクナーのパンチを喰らったみたいに。
統けざまに、鉄板をマシンガンで連打したような轟音《こうおん》が響《ひび》いた。佐久間の巨体《きよたい》が軽々と宙を舞う。
香澄が佐久間を殴《なぐ》り飛ばしたという事実が、恭介にはしばらく理解できなかった。
スタイルがいいので背が高く見えるが、香澄の身長はせいぜい一六〇センチと少ししかない。
巨漢《さよかん》の佐久間とは身長で二〇センチ、体重なら倍は違うだろう。軽自動車がダンプトラックを跳《は》ね飛ばしたような、とてつもなく馬鹿《ばか》げた光景だった。
「な……」
唖然《あぜん》とする恭介に向かって、佐久間の後ろにいた下級生が拳を振《ふ》り上げる。
黒縁《くろぶち》眼鏡《めがね》をかけた、五人の中では一番|大人《おとな》しそうな少年だ。だが今の彼は、鋼《はがね》を引き絞《しぼ》ったような筋肉を浮かび上がらぜた、恐《おそ》ろしい形相《ぎようそう》に変わっていた。
そのスピードも尋常《じんじよう》なものではない。
「しまっ――」
衝撃《しようげき》に備えて恭介が身を硬《かた》くしたとき、少年を横から香澄が殴り飛ばした。
彼女の凄《すさ》まじいパワーに少年の身体が吹き飛ばされ、骨が砕《くだ》ける鈍《にぶ》い音が響く。だが少年は倒《たお》れない。香澄は舌打ちして、もう一度少年へと襲《おそ》いかかる。
増大した血流量により尋常《じんじよう》でない太さに盛り上がった少年の腕《うで》が、香澄の拳を受け止めた。
捕《つか》まえられてしまっては、香澄の圧倒的なスピードも発揮《はつき》できない。彼女の華奢《きやしや》な肉体に、今の彼を振りほどくカがあるとは思えなかった。
「秋篠《あきしの》!」
恭介《きようすけ》が叫ぶ。飛び出そうとする恭介を、香澄《かすみ》は空《あ》いている左手で制した。彼女の表情には余裕《よゆう》がある。
少年が、香澄の拳《こぶし》を握《にぎ》る腕《うで》にカを込めた。肩《かた》の筋肉が盛り上がる。
その腕がいきなり鮮血《せんけつ》を噴《ふ》いた。栓《せん》が抜けたシャンパンのように、全身の血管から血を流し始める。まるで香澄の腕から放たれた、目に見えない衝撃波《しようげきは》を受けたかの如《ごと》く。
立ち上がる力も失って、少年はずるずると血溜《ちだ》まりの中に沈んだ。
香澄は何事もなかったように立っている。
それを見ていた別の少年が、背後から香澄に殴《なぐ》りかかった。香澄は軽くステップしてかわす。
少年の右拳が凄《すさ》まじい勢いでコンクリート壁《かべ》に激突した。骨が砕《くだ》ける嫌《いや》な音が響《ひび》く。
つぶれた右腕を気にする素振《そぶ》りも見せず、少年は左拳を振り上げた。右手の痛みは、まったく感じていないようだ。
だが、その動きよりも香澄の反撃《はんげき》のほうが速い。左右のバンチを一発ずつ、相手の顔面に叩《たた》き込む。あまりのスピードに、激突音は一度しか響かない。
無様《ぶざま》に痙攣《けいれい》しながら、少年は倒《たお》れた。あおむけになって動かなくなる。
残った二人のいるほうに、香澄は走った。立ちつくすジャージ姿の下級生に向かって、スカートが捲《まく》れ上がるのも構わず回し蹴《げ》りを放つ。
次の瞬間《しゆんかん》、恭介は己《おのれ》の目を疑った。
香澄の攻撃《こうげき》を受けた下級生は、彼女の蹴りを垂直に跳躍《ちようやく》して避《さ》けたのだ。重力に逆らって、身長の二倍近い高さまで跳《は》ね上がる。
「嘘《うそ》だろ……」
恭介が呆然《ぼうぜん》とつぶやいた。
信じられない筋力だ。プロリーグのバレーボール選手にも、これほどの跳躍力の持ち主はいないだろう。その力で攻撃されたら、どれくらいの破壊力があるのか見当もつかない。
「ふっ」
香澄は冷ややかなため息を漏《も》らした。
回し蹴りを放ったそのままの姿勢で、黄昏《たそがれ》の空にふわりと舞い上がる。
超一流のバレリーナを思わせる、優雅な動きだった。
相手の異常な動きを、あらかじめ想定していたとしか思えない、おそろしく滑《なめ》らかな動きだ。
香澄のその反応には、男子生徒も完全に意表をつかれたようだった。彼の頭上で、香澄が腕を振り上げる。攻守《こうしゆ》が完全に入れ替わっていた。
彼の異様《いよう》な筋力も、足場のない空中では力を発揮《はつき》することができなかった。強引《ごういん》に香澄のほうへ身体を向けたが、それが限界だ。
香澄の二|撃目《げきめ》を正面から受けて、下級生は地面に叩《たた》きつけられた。悲嶋をあげることもできない。小さく二、三度バウンドして、それきりもう動かなくなる。
香澄《かすみ》は、本当に翼《つばさ》があるかのように音もたてずに舞い降りた。最後に残された茶髪の男に向き直る。
最後の一人は、不完全ながらまだ理性を残しているようだった。
次々とやられていく仲間たちを見て、恐怖《きようふ》したようにじりじりと後退する。
香澄はその男に向かってゆっくりと歩き出した。
男が身を翻《ひるがえ》して逃げようとする。
血走ったその瞳《ひとみ》が、呆然《ぼうぜん》と立つ恭介《きようすけ》をとらえたのは、その瞬間《しゆんかん》だった。
男が突進してくる。
信じられないスピードの男の動きに、恭介の身体《からだ》が硬直《こうちよく》する。
非現実的な光景にただ見とれていた恭介は、そのときようやく我にかえった。初めて恐怖をおぼえた。
その瞬間、不思議な感覚が再び恭介を襲《おそ》った。一流のスポーツ選手が極限まで集中したとき、一秒がまるで何倍の長さにも感じられるという、その状態に限りなく近い。スローモーションのビデオのように、世界がゆっくりと回り始める。
身体中の神経が研《と》ぎ澄《す》まされていた。突っ込んでくる茶髪の男を、冷静に観察する余裕《よゆう》すらある。男の動きに、先ほどまでの爆発的な速さはなかった。
おそらく薬品によって強化されている男は、普段まともに喧嘩《けんか》をしたことなどないのだろう。
その動きは、隙《すき》だらけだった。おまけに、やけに不自然な姿勢で拳《こぶし》を構えている。まるで、男の骨格そのものが、どこか歪《ゆが》んでしまったみたいに。
何もかもが異様《いよう》なこの世界で、香澄の動きだけが普通だった。視認《しにん》できないほどのスピードは失われていたが、相変わらず機敏《をびん》で、優雅《ゆうが》な動きだ。
彼女の様子《ようす》に気づいたときに、恭介にもこの不思議な感覚の正体がわかった。
時間の流れが遅《おそ》くなっているのではない。恭介の反応速度が速くなっているのだ。
すべてがゆっくりと動く空間で、恭介の肉体だけが自分の思い通りに動く。
それだけでなく、最高に爽快《そうかい》な気分だった。重い荷物から開放された直後のように、信じら拠ないほど身体が軽い。
蛹《さなぎ》から孵《かえ》ったばかりの蝶《ちよう》の気分だ。本来の姿を取り戻《もど》した――そんな感じだった。
「があああああっ!」
男が吼《ほ》えた。力任せに、拳を突き出そうとする。
その能力を開放された恭介の身体は、次の瞬間、男の身体に強烈《きようれつ》なフックを叩《たた》き込んでいた。
香澄が佐久聞《さくま》を吹き飛ばしたときと同じだ。轟音《ごうおん》とともに男の身体が宙を舞う。
床《ゆか》に叩《たお》きつけられ、なおも立ち上がろうとする男の頭に、静か忙歩み寄った香澄が触《ふ》れた。
男の全身が電気に撃《う》たれたように震《ふる》え、それっきり動かなくなる。
「本人が出てくるかと思っていたけど……甘《あま》かったわね」
乱れた服を整えながら香澄《かすみ》が言った。彼女は汗《あせ》一つかいていない。
恭介《きようすけ》は荒い息を吐《は》いた。感覚はすでに平常に戻《もど》っている。
「何だったんだ、こいつら……」
恭介は、昏倒《こんとう》している佐久間《さくま》たちを見回した。いびつに――まるで戦闘能力を増すためだけに変形した彼らの肉体。まぎれもなく人間の骨格でありながら、人間以外の生物に変わってしまったかのような姿だ。
「|悪性《ヴイルレント》レベリオン症候群《シンドローム》。そうね……狂犬病が一番近い症状かしら。新種のウィルス性|疾患《しつかん》よ」
「ウ、ウィルスって……」
「大丈夫《だいじようぶ》、そう簡単に感染したりはしないわ。特に、あなたにはね……」
意味|深《しん》な台詞《せりふ》をさらりと挟《はさ》んで、香澄は統ける。
「ウィルスは、脳下垂体《のうかすいたい》や肝臓《かんぞう》、副腎皮質《ふくじんひしつ》を乗っ取って、特殊《とくしゆ》なホルモンを過剰《かじよう》に分泌《ぶんびつ》するの。
結果は、ご覧《らん》のとおり。筋力の異常発達や狂暴化、理性の喪失《そうしつ》……一時的なものだけれど」
恭介はごくりと唾《つば》を呑《の》み込んで、昏倒《こんとう》している佐久間《さくま》たちを見つめた。
膨《ふく》れあがった彼らの血管は激しく脈打ち、毛細血管を破って内出血を起こしていた。意識を失って動けないはずの彼らの肉体は、なおも戦いを求めるように激しい痙攣《けいれん》を続けている。
それは、強力な生命力を持つガン細胞が、その生命力ゆえに宿主の肉体を蝕《むしば》むさまによく似ていた。
「ちょっと待てよ。じゃあ、あんたは何なんだ? そのヴィルレントとかって奴《やつ》らを、一撃《いちげき》で吹っ飛ばすなんて……」
「|嘆きの拳《スクリーミング・フイスト》=v
香澄が、自分の腕《うで》を恭介の前にかざす。
彼女の、すらりと伸びた指先から腕の半ばまでが、陽光を反射してきらきらと輝いていた。
まるで彼女の肘《ひじ》から先が、水晶の彫刻に変わってしまったかのようだ。
その腕は、明らかに人類のものではない。だが、断じて機械などではなかった。美しい半透明の皮膚《ひふ》の下に、骨や血管が走っているのがわかる。人間以外の、いや、地上にいるいかなる生物のものとも違う手≠セ。
「スクリーミング……フィスト?」
「そう。それがあたしの能力。そして、あなたの中にも同じような力が眠《ねむ》っているわ。レベリオンとしての能力がね」
「……なんだよ、それは? 俺《おれ》にはそんなわけのわからない力なんて……」
恭介は、そう言いかけてはっと気づく。
何度も恭介を襲《おそ》った不思議な感覚――圧倒《あっとう》的な反応速度。そして、あの異常な治癒《ちゆ》力。それらが、彼女のいうレベリオンの能力というやつなのだろうか?
だが、なぜだ。いつ、自分がそんな得体の知れない存在に変わってしまったというのだ?
「どう? レベリオンになった気分は?」
香澄《かすみ》が恭介《きようすけ》のほうへと歩いてきた。その表情が、少しだけ寂しげに曇《くも》っている。
「レベ……リオン……」
「意味は、制御《せいぎよ》できないもの、不治《ふち》の病、そして反逆者………人類に対する反逆者《レベリオン》よ」
香澄がつぶやいた。
風が吹いて、彼女の髪が翼《つばさ》のように広がっている。
夕闇《ゆうやみ》が街を覆《おお》い始めていた。残照を受けて、空は血の色に染まっていた。
香澄の美しい瞳《ひとみ》が、静かにそれを見つめている。
恭介は思った。彼女はやはり天使だと。
血まみれの、紅《あか》い天使。
運ぶものは、死。
8
高城《たかじよう》学園の北側には、まだ造成されていない裏山が残されている。
樹木のほとんどは切り倒《たお》され、低木や雑草がまばらに生《は》えているだけの小さな丘陵《きゆうりよう》だが、荒廃《こうはい》した林道が一本走っているだけの危険な場所だ。近づく者はほとんどない。
だから、その荒れた岩壁《がんぺき》に立つ人影に気づく者もいなかった。
夕陽《ゆうひ》に赤く照らされたその岩壁からは、高城学園の姿を一望することができる。
もちろん、校舎の屋上で人知れず行われた死闘も、その場所からは悠然《ゆうぜん》と傲瞰《ふかん》することができた。
美しく光|輝《かがや》く腕《うで》で、男たちを薙《な》ぎ倒《たお》す少女の姿も。
五人のヴィルレント・レベリオンたちが動かなくなったのを見届けて、影はふっと口元を緩《ゆる》めた。
「あれが秋篠《あきしの》香澄……ね」
形のよい唇《くちびる》に、酷薄《こくはく》な笑みを浮かベて声もなく笑う。
「その能力……たしかに見せてもらったわ」
影はそう蓄い残して、崖下《がけした》へと瞳を向けた。
一〇メートル近い高さの岩壁から、ためらうことなく身を翻《ひるがえ》す。
そして、まるで翼《つぼさ》でも生《は》えているかのように軽やかに舞い降りていった。
あとには、じりじりと地平線を焦《こ》がす緋色《ひいろ》の暮色だけが残されていた。
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第二章
嘆きの拳
〜Screaming Fist〜
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1
河村《かわむら》雅人《まさと》と初めて出会った場所は病院だった。
鎖骨《さこつ》を折って入院した恭介《きようすけ》の、隣《となり》のベッドにいたのが彼だったのだ。ギプスでがちがちに固められた左足を、ベッドの上で吊《つ》っていた。
第一印象は最悪だった。ライオンのたてがみを思わせる威圧的なロン毛に、不敵な眼差《まなぎ》し。
恭介の体調が万全《ばんぜん》だったら、その場で喧嘩《けんか》を売っていたかもしれない。
向こうも恭介を見て、似たようなことを思ったのだろう。
最初の二、三日は、お互い一言もロを聞こうとしなかった。
だが、もう一人の入院|患者《かんじや》だった品のいいじいさんが退院した翌日、意外にも話しかけてきたのは雅人のほうだった。いわく――
「音楽かけてもいいか?」
ぶすっとした顔で恭介がうなずくと、雅人はベッドサイドにあったラジカセのスイッチを入れた。流れ出した曲は騒々《そうそう》しいハードロックで、恭介は内心あきれた。病室でこんな曲を鳴らしていたら、いつ看護婦《かんごふ》が怒鳴《どな》り込んできてもおかしくない。だが、雅人は気にも留めていない様子《ようす》だった。
常識ねえのか、こいつ――
そう憤慨《ふんがい》したのは束《つか》の間《ま》、恭介《きようすけ》はその曲に心を奪《うば》われてしまう。
美しいメロディと荒々しいギターの音色。それは恭介の知っている流行曲とは、まるで別次元の存在だった。心が揺《ゆ》さぶられた。身体《からだ》が熱くなり、なぜか哀《かな》しくなった。自分の中にある欠損した部分が、その曲を聴《き》いている間だけは、忘れられるような気がしたのだ。
「いい曲……っすね」
曲と曲の合間を縫《ぬ》って、恭介はぽつりと感想を言った。
その言葉を聞いたときの雅入《まさと》の表情を、恭介は一生忘れないだろう。
無邪気《むじやき》な子どものような、世界中の誰《だれ》よりも幸せそうな微笑《ほほえ》み。
それは誇《ほこ》りに満ちた笑顔だった。
それからの雅人は、別人のようによくしゃべった。
好きなロックバンドのこと。彼が通っている高校のこと。自分たちのバンドのライブのこと。
彼が足を骨折して入院する羽目《はめ》になったのも、実はライブ会場で調子に乗って飛び跳《は》ねたのが原因らしい。
彼の話を、恭介はいつも黙《だま》って聞いていた。恭介には、彼に話せるようなものが何もなかったからだ。だがその時間は苦痛ではなかった。雅人の話に出てくる人名や曲は恭介にはほとんどわからなかったが、そんなときいつも恭介は考えていた。いつか俺《おれ》も、この人みたいになれるだろうか、と。
やがて退院することになった雅人が、病室を出ていく直前に手渡してくれたのは一枚のチケットだった。家庭用のコピー機で作った、手作りのチケットだ。券面には、雅人のバンドの名前が書かれていた。
「その日までに退院しとけよ。……あの曲も演《や》るからよ」
そう言って、雅人はまた笑った。
それからの恭介はずっと、あの笑顔を追い続けてきたのだった。
2
「いい曲ね……」
香澄《かすみ》に言われて、恭介は自分が知らぬ間に歌を口ずさんでいたことに気づいた。
あのときの曲――そして、あの日の自分と同じ言葉。
香澄の表情は読みとれない。彼女が、本心からそう思っているとは限らない。
それでも恭介は、泣きそうな気分になった。
眼下には頼《たよ》りなく瞬《またた》く夜景。すっかり暗くなってしまった屋上。わけもわからずこんな場所に取り残された自分が、ひどく情けなく思えてくる。自分の身体に異変が起きているという、心細さもあったかもしれない。
実際、恭介はほとんどパニック寸前の精神状態だった。
取り乱さずにいられたのは、目の前にいたのが秋篠《あきしの》香澄《かすみ》――まがりなりにも女の子だったからだ。それがどんなに気に入らない相手でも、平然としている女子の前で取り乱すわけにはいかない。女性宇宙飛行士が同乗していると男性の飛行士が無重力|酔《よ》いにかかる確率が低くなるらしいが、杏子《きようこ》に言わせると、男というのは遺伝子レベルでエエカッコシイ、なのだそうだ。
「……で、いつまで、こんなところにいればいいんだ?」
不安を隠《かく》すための攻撃《こうげき》的な口調で、恭介《きようすけ》は訊《き》いた。
香澄が昏倒《こんとう》させた少年たちは、入り口近くにまどめて寝かせてある。呼吸はしているが、いっこうに意識を取り戻《もど》す気配《けはい》はない。おそらく、それが彼女の言うスクリーミング・フィストとやらの効果なのだろう。
彼らを倒《たお》してすぐに、香澄は携帯《けいたい》電話で誰《だれ》かと連絡を取り合っていた。彼女は英語で話していたので、恭介にはほとんど内容が理解できない。ひとつだけわかったのは、香澄には他《ほか》に仲間がいるということだ。
「彼らの搬入先《はんにゆうさき》を確保している最中なの。もうすぐ指示があるはずだから待っていて。そうしたら、もう少し暖かいところに移動できると思うわ」
「俺《おれ》は腹が減ってるんだよ。 一回、家に帰っても構わないか?」
「悪いけど……」
香澄の瞳《ひとみ》がすっと細められる。冷酷《れいこく》な暗殺者の瞳だった。
「あなたは、当分の間あたしが監視《かんし》させてもらうわ」
「監視? なんで俺があんたに監視されなきゃならないわげ?」
「危険だからよ」
「どういう意味だよ」
彼女の言葉にむっとする。男五人をあっさりと昏倒させた彼女には言われたくない台詞《せりふ》だ。
香澄は、恭介を睨《にら》んだまま小さくため息をつく。わかっていたことだが、愛想《あいそ》のない女だった。にこりともしない。
「レベリオンってのはね、R2と呼ばれるウィルスに感染した人間の総称よ」
「それはさっき聞いたよ…−それで発病すると、あいつらみたいになっちまうんだろ」
顔をしかめながら恭介は言った。インフルエンザ、日本脳炎、エイズ、エボラ、ラッサ熱。
ウィルスという言葉から連想する単語は、ろくなものがない。
「発病すれば、ね。でもね、発病しなかったからといって、増殖《ぞうしよく》したウィルスが死に絶えるわけではないわ。プロ・ウィルスという言葉を知っている?」
「知らねえよ」
恭介が乱暴に答える。だが、香澄は気分を害した様子《ようす》もなく続けた。
「細胞の中に入り込んで、遺伝子を書き換えてしまうウィルスのことよ。そして遺伝子を書き換えられた生物は、それ以前とは異なる能力を獲得《かくとく》するの。本来無毒のはずのジフテリア菌《きん》が、人を殺せるほどの猛毒《もうどく》を精製するように変わったりね」
「それって……!」
恭介《きようすけ》ははっと気づく。それまでとは異なる能力――それを人間の細胞が手に入れたならどうなるのか。たとえば強力な治癒《ちゆ》能力や、異様《いよう》な反射速度、あるいは彼女のスクリーミング・フィストのような……
「どうやら、わかったみたいね」
抑揚《よくよう》のない口調で香澄《かすみ》が言った。だが恭介には、それに答える余裕《よゆう》はなかった。
「……それが、R2ウィルスのもうひとつの発病形態――あたしたち真性《プロ》レベリオンの正体よ」
「プロ・レベリオン……」
恭介は、昨夜、最後に見た光景を思い出す。ゆっくりと近づいてくる、瞳《ひとみ》を閉じた彼女の表情を。
R2ウィルスは、そう簡単には感染しないと彼女は言った。つまり空気感染や接触《せつしよく》感染ということではあるまい。だとすれば、体液を介した粘膜《ねんまく》感染か……あるいは血液感染か。
そういうことなのだろう。だから彼女は恭介に口づけをしたのだ。彼女自身の血液を、恭介に飲ませるために。死にかけた恭介を救うには、恭介がプロ・レベリオン化する可能性に賭《か》けるしかなかったのだ。
「あんた……何者なんだ」
恭介が、震《ふる》える声でつぶやいた。香澄が、かすかに眉根《まゆね》にしわを寄せる。
「なぜ、この街に来た? いったい何のために……?」
「それは……」
香澄が何かを言いかけたとき、再び彼女の携帯《けいたい》が鳴った。
3
相手が二言三言しゃべっただけで電話は一方的に途切れた。香澄は電話機の液晶画面で何かを確認する。
「彼らの搬入先《はんにゆうさき》が決まったわ。運ぶのを手伝ってもらえる?」
「何だって監視《かんし》されてる上にあんたの手伝いまでしなきゃならないんだよ」
香澄に訊《き》かれて、恭介は不満げに言った。そもそも、恭介を殺しにきたと言ったのは彼女のほうではないか。恭介が、そんな相手の手伝いをしなければならない理由はどこにもない。
だが香澄は、恭介の喬葉を無視して五人の身体《からだ》を抱《かか》え上げ始めた。
中身はどうあれ、彼女の見た目は華奢《きやしや》な美少女だ。それが一人で黙々《もくもく》と働いているのをぼけっと眺《なが》めているのは、さすがに気が咎《とが》める。恭介は、くそっ、とつぶやいて、昏倒《こんとう》したままの男子生徒たちを肩《かた》に背負った。
香澄《かすみ》はそんな恭介に一瞥《いちべつ》をくれただけで、何も言わなかった。まるで、そうするのが当然と言わんばかりの態度だ。彼女自身よりはるかに重い男子生徒を二人かつぎ上げて、平然と階段を降りていく。
そんな香澄の態度に、恭介《きようすけ》は激しくむかついた。彼女だけが自分のやるべきことを知っていて、恭介には何の事情も知らさ畑ていない。その事実が恭介の神経に障《さわ》る。
閉門時刻を大幅に過ぎているので、校舎の中には誰《だれ》もいなかった。数年前から校内にも警備会社のセキュリティシステムが導入されていると聞いていたが、香澄はそのセンサーを無効化する方法も心得ているらしい。
途中で、廊下《ろうか》に備え付けてあった担架《たんか》に少年たちを移したときも、恭介は何も訊《き》かなかった。
行き先も。どうせ訊いても、答えてもらえないような気がしたからだ。
しかし、香澄が靴を履《は》き変えて職員駐車場に向かったときには、さすがの恭介も驚《おどろ》いた。中庭の奥の目立たない場所に、見慣れないトヨタの四輪|駆動《くどう》車が停まっている。
「……これでこいつらを運ぶのか?」
「そうよ」
香澄はそう言って、無造作に車のドアを開けた。キーの抜き忘れを警告する、耳障《みみぎわ》りな電子音が鳴り響く。運転手はいないが、キーは挿しっぱなしになっていたらしい。
フィルムを貼《ま》って外から見えなくしてある荷室に、香澄は佐久間《さくま》たち五人を放り込む。
「……ひょっとして、あんたが運転するのか?」
「ええ。心配しなくても、免許《めんきよ》は用意してあるわ」
冗談《じようだん》半分で訊いた恭介の言葉に、香澄はあっさりとうなずいた。恭介は唖然《あぜん》とする。
「車の免許って、一八|歳《さい》以上じゃなきゃとれないだろ。まさか……あんた、年齢《ねんれい》をサバ呼んで高校生のフリを……」
「ち、違うわよ! 偽造《ぎぞう》よ、偽造。あたしはこう見えても……」
「え?」
「……何でもないわ。失礼な人ね!」
香澄が初めて感情をあらわにして怒ったので、恭介は口を閉ざした。はっきり言って彼女は得体の知れない化け物だ。忌々《いまいま》しいが、ここで怒らせるのは得策ではない。
荷室に寝かせた五人の上に、香澄は車に積んであった毛布を被《かぶ》せた。これで、外からのぞき込んだだけでは人が乗っているとはわからない。この種の作業に慣れているとしか思えない手際《てぎわ》のよさだ。
「……あんた、いったい何者なんだ?」
恭介の口調は、これまでよりもはるかに真剣《しんけん》だった。彼女がこれまでに見せた力はたしかに衝撃《しようげき》的だったが、恭介の想像の範疇《はんちゆう》を超越《ちようえつ》していたために、いまだにだまされているような非現実感が拭《ぬぐ》いきれない。
だが、これは違う。免許を偽造《ぎそう》したり、負傷者を運ぶことを想定して車を準備しておいたり。
日常的な出来事であるがゆえに、その異常さが際立《きわだ》っていた。彼女の言っていることが妄想《もうそう》などではないことが、実感として感じられるのだ。
香澄《かすみ》も、恭介《きようすけ》の心境の変化に気づいたのだろう。何かを決心したように小さく肩《かた》をすくめる。
「そうね……説明しておいたほうがいいかもね」
香澄は運転席に乗り込みながら言った。助手席に乗り込んだ恭介は、真っ先にシートベルトに手を伸《の》ばす。香澄の運転が信用できなかったからだ。
香澄は薄手《うすで》のコートを羽織《はお》ると、一番上までボタンをかけた。高校の制服を着ていることを隠《かく》すためだろう。
「生物戦防衛統合計画局って聞いたことがある?」
――生物……なに?」
異様《いよう》に堅苦《かたくる》しいその名前に、恭介は首を捻《ひね》った。その反応を予期していたのか、香澄は淡々《たんたん》と続ける。
「ペンタゴンーアメリカ国防総省の内部機関よ。伝染病などの細菌《さいきん》兵器が使用された場合に備えて、さまざまなウィルスの研究やワクチンの開発を行う部門。R2ウィルスも、そこで開発されていたの」
香澄は言葉を切った。
車を発進させ、山道を下り始める。彼女の運転は手慣れていて、とても無免許《むめんきよ》とは思えなかった。少しほっとしながら、恭介は訊《き》く。
「それが流出したってことか? でもさ、だったら、何もあんたみたいな学生を雇《やと》って調べなくても、日本の役所か何かを動かせば済む話なんじゃねえの?」
「そうね、もしもウィルスの流出が、単なる事故だったとしたらね」
香澄は、ひどく冷たい口調で答えた。表面上は平静を装っているが、妙《みよう》に苛立《いらだ》っているような感じだ。ほとんど八つ当たりじゃないかと、恭介は腹立たしい気分になる。
「誰《だれ》かが、悪意を持ってウィルスをばらまいてるっていうのか? ひょっとして、そいつが日本にいるとか?」
香澄は、少し驚《おどろ》いたように眉《まゆ》を動かした。思ったより鋭《するど》いところもあるのね、と言わんばかりの表情だ。だが、結局彼女は何も言わない。
車はいつの間にか、表通りへと向かっていた。今朝《けさ》、事故のあったコンビニエンスストアは、早くも営業を再開している。青いビニールシートで覆《おお》った店舗《てんぽ》を香澄は一瞬《いつしゆん》だけ振《ふ》り返ったが、ちょうど信号が変わったので、そのまま何事もなく通り過ぎた。恭介も、この愛想《あいそ》のない相手に、訊かれもしない事故の様子《ようす》を教えてやるほど、お人好しではない。
つけっぱなしのカーラジオからは、マイルス・デイヴィスが流れていた。たしか、|遠くから《ネフエル》|来た美女《テイテイ》、とかいうタイトルだったと思う。
そういえば。香澄《かすみ》はなぜ高城《たかじよう》学園にわざわざ転校してきたのだろう。米国防総省《ベンタゴン》ともつながりのある彼女が、建て前どおり受験のために帰国したとは思えない。
恭介《きようすけ》の監視《かんし》のためかとも思ったが、そうではあるまい。恭介が彼女と出会ったのは昨日《きのう》の夜のことだ。しかし転校生の噂《うわさ》は、すでにその前日には広まっていた。
つまり彼女は、何かほかの明確な目的を持って、高城学園に転入してきたのだ。
「えーと、秋篠《あきしの》さん?」
「香澄でいいわ。あたしも、恭介と呼ばせてもらうから」
「あ、ああ……あのさ、さっき佐久間《さくま》たちに、薬がどうとかって言ってたよな。その薬をばらまいている奴《やつ》ってのが、昨日あんたと闘っていた相手か?」
「たぶん……ね」
「何者だい、そいつ?」
何気なく訊《き》いた恭介の言葉に、香澄の表情が険《けわ》しくなる。怒り、だろうか? それとも悲しみか? いずれにしても、彼女が感情を表に出すのは珍《めずら》しい。
「わからない……でも、ひとつだけ確実に言えるのは、相手もレベリオン化した人間だということよ。しかも、ある程度R2ウィルスに関する知識を持った人間だと考えていいわ。そうなると、容疑者もかなり絞《しぼ》れるはずなんだけど……事件との関連惟がよくわからないのよね」
「事件って?」
質閥した恭介を、香澄は値踏《ねぶ》みするように見つめた。
「あなた、新聞読む?」
「え?」
君もむろに訊かれて、恭介は返答に困った。そういえばもう何週間も、新聞をきちんと読んだ記憶《きおく》がない。
「読まないの? じゃあ、ニュースは?」
「あ、スポーツニュースくらいなら……」
香澄は疲れたように大きくため息をつく。
「まったく、日本の高校生ときたら……説明すると長くなるから、あとで教えてあげるわ」
そんな彼女を見て恭介は、姉に叱《しか》られているような気分になった。考えてみれば、彼女の態度には杏子《きようこ》に通じるものがある。よく言えば自立しているということだし、悪く言えば目的のために手段を選ばず、強引《ごういん》で傍若無人《ぼうじやくぶじん》だということだ。どちらにしても、今の恭介には欠けている部分ではある。それを見せつけられているみたいで、恭介はさらにむかついた。
ちょうどラッシュの時間帯なのか、市内の道路の車の流れは遅《おそ》い。市街地に入って交通量が増えたせいか、香澄の口数も減っていた。きつく唇《くちびる》を結んだ彼女の横顔を、対向車のヘッドライトが照らす。
国道へ続く交差点を曲がったあたりで、彼女はようやく口を開いた。
「統合計画局が表だって動けない理由は、もうひとつあるわ」
「はあ……」
「悪性《ヴイルレント》レベリオンと真性《プロ》レベリオン、この二つの症状を引き起こすR2ウィルスの聞に、差異はないの」
「は……?」
「理性を失って狂暴化するか、それとも人外の者のカを手に入れるか。それは、感染した人間の体質によって左右されるってことよ。プロ・レベリオンになる確率は、そうね、多く見積もって一割ってところかしら」
平然と言い放つ香澄《かすみ》を見つめて、恭介《きようすけ》は背筋《せずじ》が寒くなるのを感じた。あなたは運がいいわ、という香澄の言葉の意味を、遅《おく》ればせながら理解する。
恭介は屋上で、自身の筋力《きんりよく》に耐えきれずに肉体を損傷するヴイルレント・レベリオンたちの姿を見ている。彼らには、プロ・レベリオンのような治癒《ちゆ》能力はないのだ。もし恭介の体質が、R2ウィルスに適合していなければ、間違いなく昨夜のうちに命を落としていたはずだ。
「もし俺《おれ》が、ヴィルレント・レベリオンになっていたら……」
ぼそりとつぶやいた恭介の言葉に、間髪《かんぱつ》入《い》れずに香澄は答えた。
「そのときは、苦しまないようにあなたを殺してあげたわ」
「……俺を殺しにきたってのは、そういう意味か……でも、だったらさ、俺がプロ・レベリオンだって判明した時点で、あんたが俺を監視《かんし》する必要もなくなったんだろ?」
ほっとしながら言う恭介を見て、香澄があきれたような表情を浮かべた。
「楽天的な人ね。だからって、あなたがもう普通の人間でないことに変わりはないのよ。あなたが未来|永劫《えいごう》、絶対にその能力を悪用しないってことを、いったい誰《だれ》が証明してくれるの?」
「未来永劫って……」
恭介は絶句する。
「そ、そんなの証明できるわけねえだろうが!」
「だったら、あなたを自由にするわけにはいかないわね。とにかく、その能力を悪用される恐《おそ》れがある以上、プロ・レベリオンの存在もR2ウィルスの存在も公にはできない。レベリオンの犯罪を裁《さば》けるのは、レベリオンだけ――つまり、あたしにはあなたを監視する義務があるわ。でなければ、あなたを殺すしかない」
「あんたなあ……」
あまりにも勝手な香澄の言いぐさを聞いて、恭介は無性《むしよう》に腹が立ってきた。
そもそも恭介が死にそうな目にあったのは、血まみれで倒《たお》れていた彼女を助けるためだったのだ。それを勝手に助けて輸いて、理不尽《りふじん》な理由で監視した上に、今度は殺すと恐喝《きようかつ》だ。恭介でなくても怒るだろう。
香澄《かすみ》の美貌《びぼう》も、今は恭介《きようすけ》神経を逆《さか》なでするだけだった。妙《みよう》に訳《わけ》知り顔の、大人《おとな》ぶった態度も癪《しやく》に障《さわ》る。
「どうやったら、俺《おれ》を信用してもらえるわけ?」
「そうね……とりあえず今後は、あたしの指示に全面的に従ってもらうわ。そして、あなたが協力的だと判断されれば、抹殺《まつさつ》の対象からは外してあげる」
「ふ……ざけんじゃねえ! なんで俺がお前なんかに命令されなきゃならねえんだよっ!!」
思わず怒嶋《どな》った恭介をじろりと睨《ほら》んで、香澄が短く言った。
「殺されたいの?」
「おもしれえ。やれるもんならやって……」
シートベルトを外して身構えようとした恭介の言葉が、不意に途切れた。
ハンドルを握《にぎ》った香澄が、恭介の見覚えのある建物へと車を向けたからだ。
植木に囲まれただだっ広い駐車場と、その奥にそびえ立つ白亜《はくあ》の巨大《きよだい》な建物――恭介が昨晩泊まった高城《たかじよう》医大付属病院だ。
「お……おい、香澄。まさか、佐久間《きくま》たちの搬入先《はんにゆうさき》って……」
「……この病院だけど?」
香澄が怪訝《けげん》そうな口調で答える。あわてたのは恭介だった。
「じょ、冗談《じようだん》じゃねえ。おい、やめろ、止めろ。行くなら俺を降ろしてから行ってくれ」
「何言ってるのよ。あなたはあたしの監視下《かんしか》に置くって言ったばかりでしよ」
「わかった! 俺が悪かった、協力する! 絶対に逃げたりしないないから、とりあえず俺を降ろせって!」
「もう着いたわ」
彼女の言葉通り、二人を乗せた車は緊急《きんきゆう》車両用の患者《かんじや》搬入口へと滑《すべ》り込むところだった。
香澄の仲間から連絡されていたのか、入り口ではご丁寧《ていねい》に医師や看護婦《かんごふ》たちの一団が待ち構えている。
その中の一人――白衣のポケットにだらしなく両手を突っ込んだロングヘアの女医と目が合ってしまい、恭介は悲鳴をあげそうになった。
女医――緋村《ひむら》杏子《きようこ》は、一瞬困惑《いつしゆんこんわく》したような表情を浮かべ、それからすぐに笑顔に変わった。
身の毛もよだつような、どう猛《もう》な笑顔だった。
4
「お姉さん!?」
香澄の困惑した声は、見舞客たちで賑《にき》わう食堂の雑音にかき消された。渋《しぶ》い表情で、恭介はうなずく。
「それは……まずいわね」
「だからこの病院にくるのは嫌《いや》だったんだ。あいつは別に仕事熱心ってわけじゃねえけど、隠《かく》し事をされると意地になって暴こうとするタイプだからな。俺《おれ》が絡《から》んでるってことに気づいた以上、絶対に詳《くわ》しい事情を知りたがるぜ」
「信用されてないのね」
冷たい口調で香澄《かすみ》が言う。恭介《きようすけ》は、黙《だま》って口元を歪《ゆが》めた。昔の恭介の素行《そこう》が悪かったのは事実だからだ。
「何か、もっともらしい理由をでっちあげられないかしら?」
明るい茶色の瞳《ひとみ》を少し細めて、香澄はため息をつく。
米国防総省《ペンタゴン》が背後に控《ひか》えているのだから当然であるが、香澄を派遣《はけん》した機関とやらは、日本政府やその関連部門に対してかなりの影響力を持っているらしい。当然、国立であるこの高城《たかじよう》医大付属病院もその例外ではないわけだ。
香澄が言うには、彼女の伸間がその影響力を駆使《くし》して、この病院に協力を要請《ようせい》したということであった。要するに、圧力をかけて病院の施設《しせつ》を一時的に利用させてもらっているというわけだ。
従って病院の医療《いりよう》スタッフは、彼らが治療《ちりよう》している患者《かんじや》の身元や、用意された部屋《へや》が何に使われるのかということを一切《いつさい》知らない。香澄の仕事――佐久間《さくま》たちの尋問《じんもん》が終われば、患者に関わるすべての記録は抹消《まつしよう》され、その存在を示す痕跡《こんせき》すら残らない。そのはずだった。
香澄たちの唯一の誤算は、何も知らないはずの医療スタッフに杏子《きようこ》が含まれていたことだ。
実の弟が絡《から》んでいることに気づいた以上、彼女がこのまま大人《おとな》しくしているわけがない。
今は佐久間たち五人の治療に当たっているからいいが、それが終われば恭介たちに説明を求めてくることは明らかだった。そのことが香澄を悩ませている。
「無理だな。あいつをだまそうとして、上手《うま》くいったことは一度もないんだ。悪魔《あくま》みたいに知恵が回る女だからな」
「困ったわね。あまり深入りすると、彼女の身も危険になるわよ」
「あいつを脅《おどか》そうとか思ってるんならやめとけよ。かえってあいつのやる気を煽《あお》るだけだぞ」
「難儀《なんぎ》な人ね……」
香澄は軽く肩《かた》をすくめる。
相変わらず感情の読めない落ち潜いた口調だが、彼女が苛《いら》ついているのはよくわかった。恭介がレベリオン化したことといい、杏子のことといい、彼女にとってはイレギュラーな出来事ばかりなのだろう。だが同情する気にはなれない。厄介事《やつかいごと》に巻き込まれたのは、むしろ恭介のほうなのだ。
時計を見ると、午後七時を回っていた。高城医大付属病院の面会時間は八時までなので、食堂は患者《かんじや》の家族などで意外と混雑している。
「しかし……よく喰《く》うな、あんた」
恭介《きようすけ》、二|杯《はい》目のオレンジジュースに手を伸《の》ばした香澄《かすみ》を見て、感心したようにつぶやいた。
彼女のトレイには、綺麗《きれい》に片づけられた三種類のパスタ皿とリゾットの器が置かれている。
残された一ニインチのビザとアップルパイを平らげるために、香澄は再びフォークを手にとった。彼女はどうやら左|利《き》きだ。
「いったい、どこに入ってるんだ?」
野生の豹《ひよう》を思わせるしなやかな四肢《しし》に、折れそうなくらい細いウエスト。いくら食べてもスカートをゆるめる気配《けはい》すらない香澄を見て、恭介《きようすけ》は半《なか》ばあきれる。ダイエットに悩むクラスの女子が見たら、逆上しそうな光景だ。
「失礼ね。恭介だって、カレーライスばかり五|杯《はい》目じゃない。見ているこっちが気持ち悪くなるわ」
「俺《おれ》はいいんだよ。昨日《きのう》からなんにも喰《く》ってなかったんだから」
恭介は、取り放題の福神《ふくじん》漬《づ》けを山ほどよそいながら、大きくため息をつく。
まさか病院の食堂で転校生と夕食をとる羽目《はめ》になるとは、昨日《きのう》の時点では夢にも思わなかった。夜中、ご機嫌《きげん》にバイクを飛ばしてたのが、遠い昔の出来事のようだ。
「しかし、わかんねえな。結局病院に来るのに、なんで救急車を呼ばなかったんだ? そしたら、姉貴と鉢合《はちあ》わせしても、もうちょっとましな言い訳ができたのに……」
まじめな顔で言う恭介に、香澄は家庭教師みたいな口調で答えた。
「馬鹿ね。R2ウィルスの存在は、世界でもほんの一握《ひとにぎ》りの人間にしか知らされてないのよ。
そんなものが患者《かんじや》の体内から発見されでもしたら大騒《おおさわ》ぎになるわ。だから、政治的に圧力をかけることができる、あたしみたいな非合法特捜官《イリーガル・インスペクター》が必要なの」
「……でもさ、なんでウィルスの存在白体も公表できないんだ?そりゃレベリオンの力を軍事利用されたり、そんなのをアメリカが開発してたってことがばれたりしたら、大変だとは思うけどさ」
そう言った恭介を、香澄は睨《にら》むような目つきで見つめた。睨まれる原因がわからず、恭介は弱気な声でつぶやく。
「……なんだよ?」
「……なんにもわかってないのね」
香澄は目を伏せると、寂しげに小さな声でつぶやいた。
その態度に恭介はむっとする。香澄はそんな恭介を無視して、アップルパイを片づけ始めていた。恭介も黙《だま》って、残りのカレーライスを口に運ぶ。
食堂の中央に置かれたテレビでは、ニュース番組を放映していた。高城《たかじよう》市内の、高校生連続射殺事件の続報だ。
若いアナウンサーが、たどたどしい口調で事件の概要《がいよう》を告げる。市内の名門女子校に通っていた女生徒が三人、一晩の間に連続して殺されたのが四週間前。そして、恭介の高校の先輩《せんぱい》である河村《かわむら》雅人《まさと》が殺されたのが先々週のことだ。モノクロームの顔写真ー幾度となく報道された被害者たちの写真がブラウン管に映し出される。
雅人《まさと》の扱いは小さかった。殺された少女たちの学校が全国的にも有名な一流校であったことから、マスコミの視線は自然と彼女たちに集中したのだ。雅人が殺されたのが、校則違反のアルバイト中だったのも不幸だった。三人の女生徒の素行《そこう》が普段からよくなかったため、雅人もその同類だと思われたらしい。彼の普段の生活や音楽活動について報道される回数はしだいに少なくなり、先日|執《と》り行われた学校|葬《そう》も形式的な上辺《うわべ》だけのものだった。
撃《う》たれた傷口の状況や犯行《はんこう》の手口から、同一人物の犯行である可能性が高い。だが、いずれの事件も銃弾《じゆうだん》が発見されていないため、特定には至っていない。アナウンサーがそう締《し》めくくって、番組は次の話題へと移った。咲き乱れる秋桜《コスモス》をバックにした天気予報の画面を、恭介《きようすけ》は怒りを込めた目つきで睨《にら》み続ける。
「見つかるわけがないわ」
「え?」
「弾丸《だんがん》なんて、見つかるわけがない」
抹茶《まつちや》アイスを黙々《もくもく》と口に運びながら香澄《かすみ》がぽつりと言った。恭介は、怪訝《けげん》な顔で彼女を見る。
「人間の皮膚《ひふ》を貫通するのに必要な弾丸の終端《しゆうたん》速度は、秒速四五メートルから六〇メートルと言われているわ。秒速四五メートルってのは、時速一六ニキロよ。逆に言えば、それだけの速度でぶつければ、弾丸じゃなくても人間を傷つけられるっていうこと」
「だから何なんだよ。いくら警察でも、銃で撃《う》たれた傷かそうじゃないかぐらいはわかるだろう? だいたい時速一六ニキロなんて、大リーグのピッチャーでも滅多《めつた》に投げられるもんじゃないぜ」
「そうね。人間には、無理でしょうね」
香澄は淡々《たんたん》と言ってお茶をすする。子どものように両手で湯飲みを抱《かか》えて、ふうふうと息を吹く仕草《しぐさ》が妙《みよう》に可愛《かわい》らしい。だが、それに気づく余裕《よゆう》は恭介にはなかった。彼女の言葉の意味に気づいたからだ。人間には無理――では、人間に非《あら》ざるものならば?
「……まさか、あの事件にレベリオンが絡《から》んでいるって言うんじゃないだろうな?」
「プロ・レベリオンの筋力ならば、銃弾程度の質量のものを時速一六ニキロで投げるくらい簡単なことだわ。あたしには無理だけど、拳銃《けんじゆう》なみの秒速三00メートル以上の速度で、何かを撃ち出せるタイプのレベリオンもいるかもしれないし」
「だけど……だけど、なんで河村|先輩《せんぱい》が殺されなければならないんだよ。あの人は、R2ウィルスなんかと何の関係もないだろう!?」
「人が他人に殺意を抱《いだ》くのに、理由なんてないわ。あなた、自分が昨日《きのう》殺されそうになったことを忘れたの?」
ぐっと恭介は返答に詰《つ》まった。たしかに恭介が撃たれたのは、たまたまその場を通りかかったというだけの理由だ。雅人《まさと》だって同じように巻き込まれただけかもしれない。あるいは、犯人の気まぐれで殺されたのかもしれない。
香澄《かすみ》は感情をたたえぬ瞳《ひとみ》で、恭介《きようすけ》をじっと見つめる。
「……彼が殺された理由を調べて犯人を見つけ出す――それが、あたしたちの仕事よ。どう?協力する気になった?」
「……少し……考えさせてくれないか?」
香澄は表情を変えず、瞳の動きだけで恭介にうなずいた。恭介の返事が、遠回しな肯定《こうてい》であることに気づいているのだろう。
恭介自身、雅人が死んでからずっと胸の中にあったもやもやが、急速に形をとっていくのを感じていた。怒りという、はっきりとした形に変わっていく。
「昨夜、あんたが戦っていたのが……その犯人なのか?」
恭介の間いかけに、香澄は小さく首を振《ふ》った。
「わからない。ここ数日、あたしは聞き込みをして回ってたの。河村《かわむら》雅人《まさと》や、星和大《せいわだい》付属高校の女子たちが殺される現場を見た人がいないかどうか」
「それを向こうに気づかれたのか」
「ええ、最初から相手をおびき出すつもりだったんだけどね。いわゆる囮《おとり》捜査《そうさ》ってやつ……でもまさか、離れた場所から狙撃《そげき》できるようなレベリオンがいるとは思わなかった。おかげで死にかけたわ。それに、相手の顔も見れなかった……」
香澄の言葉に、ようやく感情らしい感情がこもった。自分自身を責めているような口調だ。
彼女の周囲の張りつめた空気に耐えかねて、恭介は深いため息をついた。
「そっか。相手が拳銃《けんじゆう》を持っていたとしても、あんたが普通の人間に後れをとるとは思えないものな……そういえば、昨日《きのう》の怪我《けが》は大丈夫《だいじようぶ》なのか?」
「ええ。それは大丈夫。もう跡形《あとかた》も残ってないわよ」
香澄は脚《あし》をテーブルの横に出して、制服のスカートを少し持ち上げた。昨夜負傷していた部分を、恭介に見せようとしたのだ。
すらりと引き締《し》まった太股《ふともも》を目の前に出されて、恭介は思わず身を乗り出す。
その刹那《せつな》――
「緋村《ひむら》センパイっ!!」
生睡を飲み込んだ瞬間に後ろから怒鳴られて、恭介は激しく咳き込んだ。
振り向くと、高城《たかじよう》学園の制服を着た女子高生が、肩《かた》を怒らせながら立っている。シャギーの入った長めの茶髪。恭介の後輩《こうはい》の江崎綾《えざきあや》だ。
綾は相当ご機嫌《きげん》斜めの様子《ようす》だった。あからさまな敵意をかくそうともせずに、香澄を睨《にら》みつけている。
香澄は気にした様子もなく平然と座り直した。それが綾の神経を逆なですると、どうやらわかってやっているようだ。
「え、江崎《えぎき》?なんでこんなところに……」
恭介《きようすけ》は、とりあえずこの場を取り繕《つくろ》おうと質問する。
「志津《しづ》ちゃんに、お小遣《こづか》いをもらいに来たんです!」
綾《あや》は香澄《かすみ》を睨《にら》んだまま、つっけんどんな態度で答えた。
考えてみれば、彼女はただの追っかけで、恭介の恋人でも何でもない。だから恭介が彼女に気を遣《つか》う必要もないし、綾に文句《もんく》を言われる筋合《すじあ》いもないはずだ。しかし、そんな理屈は今の彼女には通用しそうになかった。
恭介と一緒《いつしよ》にいたのが草薙萌恵《くさなぎもえ》などであれば、きっと綾もここまで怒りはしなかっただろう。
しかし香澄は転校してきたばかりであり、しかもとびきりの美人ときている。それが転校初日に、恭介と二人で食事をしているのを見れば、綾が対抗意識を燃やすのも当然だと言えた。
「こんばんは。恭介くん」
「あ、どうも」
短い白衣をまとった理知的な女性に声をかけられ、恭介は行儀《ぎようぎ》よく頭を下げた。綾の母親で、杏子《きようこ》の同僚《どうりよう》でもある江崎志津だ。専門は臨床《りんしよう》心理学で、月に二日ほど高城《たかじよう》学園にもカウンセラーとしてやってくる。
「可愛《かわい》い子ね。恭介くんの彼女?」
「お母さん!」
にこにこと微笑《ほほえ》みながら訊《き》く志津に、綾が短く抗議した。
憲津はまだ若い。たしかまだ三十代前半のはずだ。当然ながら彼女は綾の実の母親ではない。
綾の母親は綾がまだ小学生のときに亡《な》くなっており、志津は綾の父親とほんの一、二年前に結婚したのだった。端《はた》から見ると二人は実の姉妹のようであり、恭介の知る限りでは親娘《おやこ》関係は良好だった。
「お邪魔《じやま》しちゃ悪いわね。綾、行きましょう」
「どうしてー!?」
気を利《き》かぜようとした志津に、綾が不満を表明する。
それまで優雅《ゆうが》に紙ナプキンで口元を拭《ふ》いていた香澄が、おもむろに立ち上がった。恭介は嫌《いや》な予感がする。
「いえ、おかまいなく。あたしたちも、もう出るところですから。行きましょう、恭介」
「きょ、恭介ですって! ちょっと、あんた。転校生のくせにいきなりセンパイのこと呼び捨てにするなんて、ずうずうしい……」
「こら、綾! そんな言い方、失礼でしょ」
「だ、だって!」
周囲の注目が自分たちに集まるのを感じて恭介は赤面した。
香澄《かすみ》はすたすたと先に歩いていってしまう。
そのあとを追いながら、恭介《きようすけ》はつぶやいた。
「今日《きよう》は……女難《じよなん》か……?」
5
香澄たちが訪れた佐久間秀明《さくまひであき》たち五人の病室は、新|病棟《びようとう》一階の一番奥にあった。
渡り廊下《ろうか》を挟《はさ》んでいるので、一般患者《かんじや》が入院している病棟からは少し離れている。閉鎖《へいさ》してあった部屋《へや》を開けるよう、香澄の所属する組織――統合計画局が依頼《いらい》したのだ。
五人の手術は終わっていたが、数日間は彼らが意識を取り戻《もど》すことはない。それでも彼らは恵まれていた。香澄は、そう自分自身に言い聞かせる。
速《すみ》やかに活動を止められなかった場合、悪性《ヴイルトレント》レベリオン症候群《シンドローム》の患者の致死率は一〇〇パーセントに達する。特殊《とくしゆ》ホルモンの作用で活性化した筋肉に、内臓や骨格が耐えきれないのだ。命が助かっただけでも、希《まれ》にみる幸運だった。
香澄は、彼らに遭遇《そうヰう》したときの様子《ようす》を思い出す。
彼らが一様《いちよう》に口にしていた錠剤《じようぎい》――それは香澄の知識にないものだった。それに、理性を喪失《そうしつ》しているはずのヴィルレントたちが、集団行動をしていたことも気にかかる。
しかし、佐久間たちがまともにしゃべれるようになるまでは、彼らから何一つ情報を引き出すことはできない。その事実が、香澄を苛立《いらだ》たせた。恭介は恭介で深刻な表情のまま、黙《だま》って香澄のあとをついてきている。
病室の前には、先客がいた。
私服に着替えた緋村《ひむら》杏子《きようこ》が、廊下で煙草《たばこ》を吸っている。ジーンズにセーターというラフな格好だ。けっこうな美人なのに気取った感じがまったくなく、それでいて男っぽいという印象でもない。不思議な女性だった。
「あなたが秋篠《あきしの》香澄ちゃん?」
紫煙《しえん》を吐《は》き出しながら杏子が言った。香澄はうなずく。
香澄の名前は、おそらく統合計画局と接触《せつしよく》した病院関係者から聞き出したのだろう。恭介が、彼女の狡猾さを恐れていたことを思い出す。どうやら杏子は、香澄たちがやっていることを見逃《のが》すつもりはないようだ。
「ちょっと話を聞かせて欲しいの。いい?」
「はい……」
短くなったキャメルを灰皿に放り込んで、杏子は歩き出した。
香澄がそのあとに続く。
「ちょ、ちょっと待ってくれよ。俺《おれ》は?」
追いかけようとした恭介を、杏子がじろりと睨《にら》んだ。低い声で宣告する。
「お前はいい」
その一言で、恭介《きようすけ》は沈黙《ちんもく》した。病室前の廊下《ろうか》で立ちすくむ。
それを無視して、香澄《かすみ》たちは階段を上った。
病院の面会時間は、しばらく前に終わっている。消灯時間にはまだ早いが館内の廊下は暗く、二人の足音が反響《はんきよう》してやけに大きく聞こえた。
「さて……と」
待合室のベンチに腰《こし》を降ろすと、杏子《きようこ》は香澄に向き直った。薄《うす》暗い部屋《へや》の中で、自販機の照明だけがやけに眩しい。キャメルをくわえながら、彼女がおもむろに口を開く。
「いきなりで悪いんだけどさ、香澄ちゃん。恭介のことをどう思う?」
「え?」
てっきり自分たちと負傷者との関係を訊《き》かれると思って身構えていた香澄は、杏子の質問に不意をつかれた。そんな香澄を、彼女はにやにやと笑いながら見つめている。まるで、純情な友人をからかっているクラスメートのような表情だ。
「どうって……まだ知り合ったばかりで、よくわかりませんけど……」
硬《かた》い表情で香澄は正直に答えた。杏子は、その答えを興味深そうに聞いている。
「よくわからないっていうのは、とりたてて言うほどの個性がないってことかな? まあ、日本人の男の子ってのは、よくそんな風に言われるけどね」
「いえ……そんなつもりじゃ……」
「いいのよ、別に。あたしもそう思うもの」
「はあ……」
香澄は困惑《こんわく》しながらうなずいた。杏子の思考が読めない。ただ彼女が、何かの目的を持って話していることだけは確実だ。何となく、恭介が姉のことを恐《おそ》れていた理由がわかるような気がした。
「うちの両親が死んだのは、あいつがまだ九|歳《さい》のときだったかしらね。それ以来ね、あの子は無意識に逃げていたのよ。死というものからね」
「死……ですか?」
「そう……子どものころって、死んだらどうなるんだろうとか、生まれる前はどこにいたんだろうとか、生と死についていろいろと悩んだりするのが普通じゃない? その結果として、自分の生きてる意味とか、将来の夢とかってのを考えるようになるわけよ」
杏子は、そう言いながらジーンズのポケットをごそごそと探る。ライターを探しているらしい。火のついてない煙草《たばこ》をくわえたまま、しゃべりにくそうに続ける。
「恭介は、その辺のプロセスを全部すっとばしちゃってるから、確固たる夢とか信念とかを描けないのよね。本人も、そのことに漢然《ばくぜん》とは気づいてるみたいだけど……けど、そろそろ自覚するでしょ。尊敬する先輩《せんぱい》が亡《な》くなって自分も死にかけたとなれば、いつまでも逃げてるわけにはいかないものね」
杏子《きようこ》はそう言って、口元だけに笑みを浮かべた。
だが香澄《かすみ》には微笑《ほほえ》みかえす余裕《よゆう》はなかった。杏子の口にした何気ない言葉に戦慄《せんりつ》が走る。
彼女は、恭介《きようすけ》が昨夜死にかけたことを知っているのだ!! 最初に駆《か》けつけた警察官ですら、気づかなかったその事実に。出血量に比して恭介の負傷が軽すぎたことを不審《ふしん》に思ったのだろうが、恐《おそ》るべき観察力だと言えた。ひょっとすると彼女は、恭介の身体《からだ》に起きた異変を、ある程度予測しているのかもしれない。
杏子は、香澄の動揺《どうよう》に気づかなかったのか、ようやく見つけたジッポーで嬉《うれ》しそうにキャメルに火をつけた。立ち上る煙《けむり》を見つめながら、彼女は突然話題を変える。
「ああ、ごめんなさい。未成年のいるところで吸うものじゃないわね。肺ガンにでもなったら、大変だわ」
「あ、いえ……いくらなんでも、そんな急には……」
「そういや、ガン細胞ができる最初のきっかけってのはウィルスの仕業《しわざ》なのよね。でも、ウィルスに感染したからってすべての人間がガンになるわけじゃないし、身体のどの部分がガンになるのかについても個体差がある」
「ええ、そうらしいですね……」
反射的に答えてから、香澄はしまったと思った。普通の女子高生なら、こんな話題に興味はないはずだ。
「……でもまあ、煙草《たばこ》はやっぱりよくないわね。特に女の子の前じゃね」
そう書うと杏子は、ろくに吸わないままの煙草をさっさと灰皿でもみ消した。まるで、煙草を吸うのが目的ではなく、ガンの話をふるために煙草に火をつけたような感じだ。
それに気づいたときに、香澄ははっとする。初めから杏子には、香澄に説明を求めるつもりなどなかったのではないだろうか?
香澄が自分の正体や目的についてごまかそうとすることを、彼女は最初から予測していたのだ。無駄《むだ》話を続けているのは、単に香澄を観察するためだろう。彼女は、何かを知っているのに違いない。
表情を強張《こわば》らせた香澄に気づいたのか、杏子がじっと見つめてきた。何かを確信した目つきで、口を開く。
「ところで香澄ちゃん……お姉さんはお元気?」
「あ、あなたは……!?」
香澄は絶句して立ち上がる。
その横顔を、ブラインドから漏《も》れてきたヘッドライトが照らした。
杏子が眉《まゆ》をひそめる。
病院の中庭に車が止まる気配《けはい》がした。乱暴にドアが開く音に続いて、窓ガラスが割れる音が響《ひび》く。――そして、悲鳴。
「今の声……恭介《きようすけ》?」
「――しまった!!」
香澄《かすみ》は、恭介を残してきた病室のほうを振《ふ》り返る。病室には、佐久間秀明《さくまひであき》たち五人の患者《かんじや》がいるはずだ。
佐久間たちが、R2ウィルスを撒《ま》き散らしている何者かと接触《せつしよく》していたのは間違いない。彼らの口を封じるために、相手が襲撃《しゆうげき》してくるという可能性を、香澄は完壁《かんぺき》に失念《しつねん》していた。
「香澄ちゃん?」
「杏子《きようこ》さん、防火シャッターを閉めてください。一般|病棟《びようとう》に被害が及ばないように。そのあとは、逃げて。警察は呼んじゃだめ。普通の人間の手に負える相手ではないわ」
レベリオンの力を持ってすれば、シャッターなど破るのは簡単なことだ。だが、理性を失っているヴィルレントが相手ならば、十分足止めの効果があるはず。そう計算して、香澄は叫ぶ。
杏子がうなずくのを確認して、香澄は駆《か》け出した。
信じられないほどの速さで走り去ったその後ろ姿を、杏子はしばらく黙《だま》って見つめていた。
6
香澄が、佐久間たちを収容した病棟に戻《もど》ってきたときには、すでに戦闘が始まっていた。
中庭に面した窓を破って侵入《しんにゆう》してきたヴィルレント・レベリオンは、ざっと見ただけでも一〇人を越えていた。彼らの服装に統一性はない。ネクタイ姿の社会人から、中学生にしか見えない少年もいる。突き破った窓ガラスの破片で全員が血まみれになっているが、まったく気にしていないようだ。
どうやって彼らを集め統率しているのかはわからないが、それを確かめている余裕《よゆう》は、今の香澄にはなかった。突然の侵入者との戦闘に、否応《いやおう》なく巻き込まれている恭介の姿が目に入ったからだ。
「何なんだ、手前《てめえ》らっ!?」
恭介の叫び声が、ヴィルレントたちの怒号《どごう》にかき消される。圧倒《あつとう》的な数の敵に囲まれていながら、恭介はよく持ちこたえていた。
ヴィルレントたちの動きは、信じられないほど速い。だが、プロ・レベリオンとして覚醒《かくせい》した恭介は、そのさらに上をいく。ヴイルレント・レベリオンは人間の極限状態のカを発揮《はつき》するが、プロ・レベリオンはそもそも人間以上の存在なのである。
レベリオン化したばかりでありながら、恭介はその能力をある程度使いこなしていた。喧嘩《けんか》慣れしていたのが、功《こう》を奏《そう》したのだろう。走りながらその様子《ようす》を見ていた香澄は、恭介のことを少しだけ見直す。
だが、恭介にいくら殴《なぐ》りとばされても、ヴィルレントたちは立ち上がる。理性と痛覚が麻痺《まひ》した彼らは、完全に動けなくなるまで攻撃をあきらめることはないのだ。
ゾンビーを思わせるその光景に、恭介《きようすけ》が徐々《じよじよ》に圧倒《あつとう》されていくのがわかる。
「恭介、伏せて!!」
駆《か》けつけた香澄《かすみ》は、恭介の頭上を飛び越えて、密集するヴイルレントたちのど真ん中に飛び込んだ。
人間の細胞に擬態《ぎたい》していたレベリオン綱胞が、ファージ変換により本来の姿と能力を取り戻《もど》す。五感が鋭敏《えいびん》化し、反応速度が増大した。両|腕《うで》が、水晶のような輝《かがや》きを放ち始める。
着地すると同時に、香澄は正面にいた大柄な男に拳を叩き込んだ。激しい痙攣《けいれん》を残して男が倒《たお》れる。香澄の持つレベリオン能力スクリーミング・フィスト≠フカだった。
その力は、正式には異種間特性発現《トランジエニツク》能力と呼ばれている。
大部分が休眠状態にある細胞の遺伝情報のうち、使われるはずのない部分が活性化する。その結果、人間が本来持つはずのない異種生物の特質が使えるようになるのだ。
スクリーミング・フィストの原型となっているのは小型の飛行生物が持つ無酸素性の白筋《はつきん》運動だと推測されている。その正体は、目標との激突《インパクト》の瞬間《しゆんかん》、拳が生み出す超高速の震動波《しんどうは》だ。
七〇パーセントが水分と言われる人間の体内において、その威力は劇的に作用する。撃《う》ち込まれた震動エネルギーは全身を伝わり、ヴィルレントの三半規管や脳髄《のうずい》を激しく揺《ゆ》さぶった。
いかに彼らが凶悪《きようあく》な闘争本能に衝《つ》き動かされているといえども、もはや自分の意志で動き続けることはできない。
「すげえな……」
恭介が感嘆の声をあげる。その間にも、香澄は別のヴィルレントを昏倒《こんとう》させていた。ようやく余裕《よゆう》の生まれた恭介が、香澄のほうに駆《か》け寄ってくる。
「スクリーミング・フィストってやつか!?俺《おれ》にもできるのか?」
「無理ね」
恭介の質問に、香澄は冷たく首を振った。恭介が不満げな表情を浮かべる。
「なんでだよ。俺も、あんたと同じタイプのレベリオンなんだろ?」
「生命は多様性を好む≠チて言葉を聞いたことはない? レベリオンの能力ってのはね、個体差が信じられないくらい大きいの。二人以上のR2ウィルス感染者が、同じ特殊《とくしゆ》能力を発現したケースはこれまでに報告されていないわ」
「じゃあ、俺の能力は?」
「知らないわよ! 全員が特殊能力を持ってるとも限らないし。とりあえずこっちは任せるから、脚《あし》を折るなりして彼らが動けないようにして。こいつらは囮《おとり》よ」
「囮?」
わかっていない様子《ようす》の恭介を無視して、香澄は病室のほうへと駆け出した。残っているヴィルレントだけなら、能力の使えない恭介でも何とかなるだろう。
理性を持たないヴィルレントたちに、個別の攻撃目標を指示するのは無理だ。佐久間秀明《さくまひであき》たちの口封じをするつもりならば、プロ・レベリオン本人が直接手を下す必要がある。
「邪魔《じやま》よっ!!」
正面に立ちはだかったヴィルレントをスクリーミング・フィストで吹き飛ばして、香澄《かすみ》は荒い息を吐《は》く。疲労が徐々《じよじよ》に蓄積《ちくせき》され始めていた。
校舎の屋上で佐久間《さくま》たちを倒《たお》してから、まだ数時間しか経《た》っていない。こんな短時間にファージ変換を繰り返すのは、さすがに負担が大きかった。敵がこれほど多くのヴイルレントを操るというのも予想外だ。
佐久聞たちのいる病室から、窓ガラスが割れる音が響《ひび》いた。
「ちっ……!!」
香澄は、病室の扉《とびら》に向かって拳《こぶし》を構える。キーは預かっていたのだが、鍵《かぎ》を開けている時間が惜しい。
「スクリーミング・フイストっ!!」
香澄は分厚いスチール製のドアに、連統して拳を叩《たた》き込んだ。
震動波《しんどうは》には、干渉《かんしよう》と呼ばれる性質がある。複数の波動を重ね合わせることにより、互いの波動を打ち消し合ったり、逆に威力《いりよく》を増すことができるのだ。撃《う》ち込まれた同位相の波動が扉の内部で激突し、増幅《ぞうふく》された震動波に耐えかねて金属製のドアが引き裂《さ》かれる。
「動かないでっ!!」
叫びながら香澄は病室に飛び込んだ。すぐに横に転《ころ》がって伏《ふ》せる。
長いこと閉めきっていた部屋《ヘや》特有の埃《ほこり》っぽい匂《にお》いに混じって、消毒液と血の臭《にお》い、そして病室に飾ってある花束の香りがした。薔薇《ばら》の香りだ。
電気の消えた病室は暗いが、増幅《ぞうふく》された香澄の五感が壁際《かべぎわ》に立つ影を認めた。サングラスで隠《かく》された相手の顔までは見えない。
影の腕《うで》が、狙《ねら》いを定めるかのように伸《の》びる。
その腕から爆炎《ばくえん》が散った。
銃撃《じゆうげき》!!
「ちいっ!」
香澄はスクリーミング・フィストで弾丸《だんがん》を撃ち落とした。ファージ変換した香澄の指先は、体内の炭素分が結晶化してできた皮膚装甲に覆われている。超震動波と合わせれば、弾丸を弾き飛ばすくらいは造作もないことだ。
だがそれを見ても、影が動揺《どうよう》する気配《けはい》はない。
「さすが格闘戦タイプのレベリオンね。ピストル程度じゃ倒せないか……」
影がつぶやいた。その口調から、相手が女性だと香澄は気づく。
彼女の口からレベリオンという単語が蹟たことで、相手が今回の襲撃《しゆうげき》の張本人だということは明らかだった。
香澄《かすみ》が駆《か》け出す。相手が同じプロ・レベリオンならば、手加減する余裕《よゆう》はない。最大出力でスクリーミング・フィストを放つ。
だが、拳《こぶし》を突き出そうとした瞬間《しゆんかん》、相手の姿が目の前からかき消えた。
「えっ!?」
気づいたときには、香澄は床《ゆか》に転《ころ》がっていた。
ダメージはないが、何が起きたのかわからない。
再び銃声《じゆうせい》が響《ひび》いた。ほとんど無意識に香澄は横に跳《と》んだ。
弾丸《だんがん》のかすめた右|腕《うで》から、鮮血《せんけつ》が散る。
――後ろからっ!?
香澄は混乱を覚えながら振《ふ》り返る。
病室の入り口付近。むしろおっとりとした動作で、拳銃《けんじゆう》を構え直す女のシルエットが逆光に浮かび上がる。
「私の能力は、あまり戦闘向きではないのよ……」
影はうそぶいた。弾丸を打ち落とすために、香澄が構える。
「でも、あなたの能力では私は倒《たお》せないわ」
銃声が鳴った。
香澄は、自分の肩《かた》から噴《ふ》き出した血を、信じられない思いで見つめた。
さっきは簡単に打ち落とせた弾丸を、今回はまったく視認《しにん》できなかったのだ。
影は余裕を見せつけているのか、のんびりと弾倉《だんそう》の交換を始める。
「意外と当たらないものね……拳銃って」
「くっ……」
香澄は、影に向かって走った。
相手は今、病室の隅《すみ》にいる。今度は逃げ場所がない。
再び、影の姿が消えた。
香澄の放ったスグリーミング・フィストが虚《むな》しく病室の壁《かべ》を砕《くだ》く。
「言ったでしょう。あなたの能力では、私は倒せないって……」
背後から声が聞こえ、香澄は振り向いた。
香澄の反対側、病室の窓|際《ざわ》で、影はおかしそうに笑う。
プロ・レベリオンである香澄でさえ、影の動きを捉《とら》えることができなかった。瞬間移動したとしか考えられないスピードだ。
有り得ない――!!
香澄は唇《くちびる》を噛《か》む。プロ・レベリオンの特殊《とくしゆ》能力は、休眠遺伝子内に保存されていた異種生物の能力の応用にすぎない。たとえ超常《ちようじよう》環象としか思えなくても、必ず何か物理的に説明できるトリックがあるはずなのだ。
「綺麗《きれい》な顔に傷をつけるのは忍《しの》びないけど、許してね。すぐに楽にしてあげるわ……」
影がゆっくりと銃口《じゆうこう》を向ける。
敵の死角へと移動しようとして、香澄《かすみ》は愕然《がぐぜん》とした。
身体《からだ》が動かないのだ。金縛《かなしば》りにでもあったみたいに、身体をぴくりとも動かせない。
やられる……!
「香澄っ!!」
香澄が死を覚悟《かくご》した瞬閲《しゆんかん》、病室に恭介《きようすけ》の声が響《ひび》いた。
不意に全身から力が抜けて、香澄は崩《くず》れ落ちるように座り込む。
「緋村《ひむら》恭介かっ!?」
恭介の姿を認めて、女は続けざまに発砲《はつぽう》した。
「う、うわっ!?」
恭介は横っ飛びに跳《と》んで避《よ》ける。恭介の意志ではなく、彼の肉体を支配したレベリオン細胞の反射的な動作だ。恭介はまだ、弾道《だんどう》を見切れるほどには自分の能力を使いこなせていない。
香澄たちは、六人分のベッドがある広い病室の対角線上にいる。銃《じゆう》を持っている敵のほうが圧倒《あつとう》的に有利な距離だ。
「逃げなさい、恭介!」
香澄が叫んだ。
恭介の視線が、血を流してうずくまっている香澄の姿を捉《とら》えた。その顔に、ストレートな怒りの感情が浮かぶ。
「てーてめえの仕業《しわぎ》かーっ!!」
影に向かって恭介が叫んだ。彼がアマチュアバンドのボーカルであるということは聞いている。だが、その叫びには香澄の想像をはるかに上回る声量があった。大型スピーカーの真正面にいるかのように、香澄の全身がびりびりと震《ふる》える。
ただならぬ気配《けはい》を感じて、女の動きが止まった。
次の瞬間、彼女の背後で残っていた病室の窓ガラスが粉砕《ふんさい》された。
同時に、女の右|腕《うで》が鮮血《せんけつ》を噴《ふ》く。残った左手で頭を押さえ、彼女は片膝《かたひぎ》を着いた。
苦しんでいるのだ。
彼女の顔を隠《かく》していた、サングラスが砕《くだ》け散る。
「くっ!」
恭介が駆《が》け寄ろうとする前に、ガラスのなくなった窓から女は身を翻《ひるがえ》した。
走り去っていく足音が、あっという間に小さくなる。
「ま、待てっっ!!」
「待ちなさい、恭介。深追いしてはだめっ!!」
香澄《かすみ》が叫ぶ。敵が撤退《てつたい》したのは、未知数である恭介《きようすけ》能力を警戒《けいかい》しただけのことだ。今戦えば、まだ自分の能力を使いこなせていない恭介に勝ち目はない。
病院の近くで車のエンジン音が響《ひび》いて、やがてそれも遠くなっていった。
恭介が悔《くや》しそうに舌打ちする。
香澄は左|肩《かた》を押さえて立ち上がり、部屋《へや》の明かりをつけた。蛍光灯もほぼ壊滅《かいめつ》状態だったが、生き残っていた数本だけが何とか点灯《てんとう》して弱々しく室内を照らす。
病室は、悲惨《ひさん》な有り様だった。
ドアはぐちゃぐちゃに引き裂《さ》かれて吹き飛び、ガラスはすべて割れている。床《ゆか》には鮮血《せんけつ》が飛び散っており、壁《かべ》にはいくつもの弾痕《だんそう》が残されていた。
残された銃弾《じゆうだん》はようやく手に入った物的|証拠《しようこ》だが、河村《かわむら》雅人《まさと》たちを殺した凶器《きようき》が特定されていない以上、有力な手がかりとは言えない。敵のトランスジェニック能力も、結局正体がわからないままだ。
幸いにして、佐久間《さくま》たち五人は無事だった。それに、敵が兵隊として使ったヴィルレント・レベリオンたちの身柄《みポら》を押さえられたのが、せめてもの救いだ。彼らのつながりを洗えば、何か敵の正体に連なる接点が見つかるかもしれない。
「おい……大丈夫《だいじようぶ》か」
血まみれの香澄の姿を見て、恭介が心配そうに言った。右|腕《うで》の負傷はかすり傷だが、左肩を撃《う》ち抜かれた傷はけっこう深い。新晶の制服が、スカートまでべっとりと血で汚《よご》れている。
「恭介は無事?」
「あ、ああ……」
「そう……よかった」
香澄は力のない声でつぶやいた。視界がかすむ。
ふらふらと倒《たお》れ込んだ彼女を、恭介があわてて支えた。
「おい、どうしたんだよ。まさか、こんな怪我《けが》くらいで……おい!」
恭介の呼ぶ声が、やけに遠く聞こえた。
香澄は意識を失っていた。
7
携帯《けいたい》電話の回線につないだ杏子《きようこ》のモバイル端末《たんまつ》に、長文の電子メールがダウンロードされる。
メールの送り主は、ずいぶん昔に別れた杏子の元彼氏だった。彼女が数分前に依頼《いらい》した資料を、さっそく取りそろえて送ってくれたのだ。杏子は、そんな風に電話一本で動いてくれる友人≠、今でもたくさん抱《かな》えている。
今回依頼した友人の本職はプログラマー。だが副業として、企業のコンピューターネットワークのセキュリティを調査するために、当該《とうがい》企業の依頼を受けてネットワークへの潜入《せんにゆう》を試みるという仕事を請《う》け負っている。
それは、俗にハッカー≠ニ呼ばれる職業である。
香澄《かすみ》と別れた待合室には、静けさが戻《もど》っていた。病室での騒《さわ》ぎは、どうやらケリがついたらしい。
銃声《じゆうせい》らしきものも何度か聞こえたが、病院関係者が駆《か》けつける気配《けはい》はない。貸し出した病室での出来事に一切《いつさい》関わらないよう、日本政府から圧力がかかっているからだ。
「……そんな……」
メールに添付《てんぷ》されてきた膨大《ぼうだい》なファイルを斜め読みしながら、杏子《きようこ》の表情は険《けわ》しくなっていく。
秋篠《あきしの》香澄――杏子の記憶《きおく》にかすかに残っていた少女の名前をキーワードに、杏子の友人がたどり着いたのは、米国防総省《ペンタゴン》の中でも最奥部《さいおうぶ》にある機密ファイルであった。
専門用語の羅列《られつ》された難解《なんかい》な論文。その論文を裏付ける臨床《りんしよう》データ。それに関わった、膨大《ぼうだい》な数の医師のリスト。
そして、記録――ある事故の記録。
「……R2ウィルスが……実在していたというの!?」
呆然《ぼうぜん》としてつぶやく杏子は、不意に何者かの気配を感じて振《ふ》り返った。
誰《だれ》もいないはずの待合室に、長身の男が一人立っていた。
アッシュ・ブロンドの金髪に、縁無し《リムレス》の眼鏡《めがね》を合わせたスーツ姿の外国人だ。
見えるはずのない距離から、モバイル端末《たんまつ》の画面をのぞき込むように目を細めている。
「……まいりましたね、こんな簡単にセキュリティを破られるとは。統合計画局のファイアウォールも、見直さなければいけませんね」
「どちらさま?」
足音も立てずに背後に現れた外国人を、杏子は柔《やわ》らかな微笑《びしよう》で迎えた。
その度胸に敬服したのか、相手も杏子に対して微笑《ほほえ》みかける。
「米国防総省《ペンタゴン》の生物戦防衛統合計画局から来た、リチャード・ロウと言います。よろしく」
流暢《りゆうちよう》な日本語でそう言ったリチャードを、杏子は笑顔のまま睨《にら》みつけた。
「リチャード・ロウ……ね。もう少し、マシな名前は思いつかなかったの?」
リチャード・ロウとは、身元不明の被疑者《ひぎしや》に対する一般名詞である。日本で言えば、山田一郎《やまだいちろう》と名乗っているようなものだ。あからさまな偽名《ぎめい》である。
「統合計面局のエージェントは、みなリチャード・ロウと呼ばれています。ミス緋村《ひむら》」
「そのエージェント様が何のご用かしら? あなたたちの秘密を知ったあたしたちを、暗殺でもする?」
「まさか。その必要はありませんよ――そうでしょう? その資料を見てしまった以上、あなたは、レベリオンの存在を公表しようとは思わないはずだ」
リチャードは自信に満ちた口調で言う。杏子《きようこ》は肩《かた》をすくめた。
「たしかにね……こんなものを見せつけられたら、口止めされるまでもなく沈黙《ちんもく》するしかないわ。下手《へた》をすれば、あたしの一言がきっかけで、人類が減《ほろ》ぶことにもなりかねないものね」
「あなたが聡明《そうめい》な女性であったことに、感謝します」
リチャードはそう言って、十字を切った。芝居じみた仕草《しぐさ》だが、その動きは手慣れている。
杏子は心の中で、気取ってんじゃーねーよ、と突っ込みを入れた。
「しかしわかりませんね? なぜ、あなたはこの短い時間で統合計画局までたどり着けたんですか? まさか秋篠《あきしの》香澄《かすみ》の名前が意味するところを知っていたとでも?」
「ああ、別にたいしたことじゃないわよ。学生時代に、教授のお供《とも》でアメリカの学会に一回だけ行ったことがあるの。そのときにね、彼女たちを見かけたってわけ」
「なるほど……それでR2ウィルスの基礎理論を……」
「そういうこと」
杏子は、モバイル端末《たんまつ》を畳《たた》んで立ち上がる。
階下から、杏子を捜《さが》している恭介《きようすけ》の声が聞こえた。緊迫《きんぱく》した口調から、何かトラブルが発生したのがわかる。香澄が負傷したのかもしれない。
「ひとつだけ、こちらからも訊《き》かせてもらってもいい? 恭介をどうするつもり?」
「我々は、行きがかりとはいえ彼の命を救いました。その見返りとして、彼にも我々に協力して欲しいと思っています。よろしいでしょうか?」
「そういうことは、本人に訊いてちょうだい。自分のことは自分で決めるってのが、緋村《ひむら》家の方針なの」
「では、そうします。今の我々には、一人でも多くの特捜官《インスペクター》が必要なので」
慇懃《いんぎん》に頭を下げるリチャードを無視して、杏子は待合室を出た。いつの間にか、彼の姿は消えている。
血まみれで気を失った香澄を抱《だ》いた恭介が、杏子を見つけて駆《か》け寄ってきた。
その姿を眺めながら、杏子はぽつりとつぶやく。
「特捜官ですって? 兵士《ソルジヤー》の間違いでしようが……」
8
杏子が用意した病室は、昨夜恭介が泊《と》まったのと同じ部屋《へや》だった。
ベッドが二つあるだけの小さな個室だ。
受付を通していないので、部屋には何も置かれていない。シーツは、知り合いの看護婦《かんごふ》が内緒《ないしよ》で持ってきてくれたものだった。
ハンガーには香澄の制服がかかっている。染み抜きは済ませてあったが、弾痕《だんそう》の残った上着は仕立て直しが必要だろう。香澄《かすみ》は杏子《ようこ》のパジャマを着て眠《ねむ》っていた。杏子のロッカーや車の中には、お泊《と》まりセットと称する各種の着替えが常に準備されているのだ。
月明かりに照らし出された香澄の寝顔は、昼間の彼女からは想像できない可愛《かわい》らしいものだった。普段よりずっと幼く見える。
「こら、女の子の寝顔を見てるんじゃない」
恭介《きようすけ》が香澄を見つめていると、部屋《へや》に入ってきた杏子が言った。中央にあるカーテンを閉めて、部屋を仕切る。
「あたしがいない間に、香澄ちゃんに変なことしなかったでしょうね」
「するか! 実の弟を何だと思ってやがる」
「よしよし」
杏子は笑いながら、煙草《たばご》を取り出した。病室では吸えないので、しかたなく手で弄《もてあそ》んでいる。
空《あ》いているベッドに姉が座ったので、恭介はしかたなく床《ゆか》に脚《あし》を投げ出した。
「あんたたちの喧嘩《けんか》の相手は、何かごつい連中がやってきて運んでいったわ」
少しトーンを抑《おさ》えた声で、杏子が言った。喧嘩の相手というのは、言うまでもなくヴィルレント・レベリオンたちのことだ。香澄の組織が手を回したのだろうかと、恭介は眉《まゆ》をひそめた。
「ごつい連中? 誰《だれ》だ?」
「知らないわよ。ただまあ、あたしの勘《かん》では在日米軍ってとこかしらね。いいんじゃない?
米軍基地なら、彼らを狙《ねら》っているヤツもそうそう入り込めないでしょ」
杏子の推論を、恭介は認めざるを得なかった。米国防総省《ペンタゴン》につながる香澄の組織が、在日米軍を動かせるのは至極《しごく》当然だ。むしろ、香澄のような少女が一人で危険な任務を与えられていることのほうが異常である。
今さらながら恭介は、彼女が戦っている理由を知りたいと思った。自分が単に特殊《とくしゆ》な能力を持つレベリオンだからというだけの理由で、こんな過酷《かこく》な任務を受け入れられるものなのだろうか?
「……じゃあ、そっちは心配してもしょうがないな。あとは、彼女の容態だけど……」
恭介がカーテン越しに香澄を見ながら訊《き》く。彼女の治療《ちりよう》は非番の杏子がこっそり行ったのだが、恭介はその間、もちろん外に追い出されていた。
「怪我《けが》のほうは心配ないわ。弾丸《だんがん》は貫通していたし、骨にも異常はなかったので縫合《ほうごう》と消毒だけ。朝までにはたぶん完治《かんち》するでしょう。あんたと同じよ」
「……知ってたのかよ」
恭介は、ふてくされた表情でつぶやく。彼女は、どうやら昨夜の恭介の負傷のことも気づいていたらしい。
不思議と驚《おどろ》きはなかった。彼女は、いつだって恭介の上を行っているのだ。
「まあ、それはいいや。じゃあ、なんであいつの意識は戻《もど》らないんだよ?」
「空腹だからでしょ」
杏子《きようこ》は事も無げに言った。
意表をつかれて、恭介《きようすけ》は声も出ない。
「空腹……!?腹ぺこで倒《たお》れたってことか?」
ようやくそれだけ言って、恭介は唖然《あぜん》とした。香澄《かすみ》は、ついさっき大食いコンテストで優勝できるくらいの量を食べたばかりなのだ。あれからまだ数時間しか経《た》っていない。
しかし言われてみれば、同じくらいの量を食べたはずの恭介もだいぶ腹が減っていた。
「恭介、熱力学の第一法則ってのを知ってる?」
「聞いたことあるな。エネルギー保存の法則ってやつだろ。孤立した系の内部におけるエネルギーの総量は一定である、だっけ?」
恭介が教科書の記述を棒《ぼう》読みする。ちょっと前に試験範囲になったばかりなので、たまたま覚えていたのだ。恭子がうなずく。
「さっき彼女が吹っ飛ばしたドアを見てきたけどね、あれだけの仕事をするエネルギー量ってのは相当なものよ。つまり香澄ちゃんは、戦闘中ずっとそれだけのエネルギーを撒《ま》き散らしてるってことでしょ。なのに、彼女の体内に蓄積《ちくせき》されたエネルギーは一定。つまり、普通の人間と変わりないわけ。それを使いきったら、倒《たお》れもするわよ」
「他人より強い力を使えるってことは、当然それだけ燃費も悪いってことか」
彼女の説明には恭介も納得する部分があった。恭介の腹が減っているのも、おそらく同じ理由だろう。レベリオンとしての能力を解放すると、短時間で膨大《ぼうだい》なカロリーを消耗《しようもう》するのだ。
「たぶん彼女の特殊《とくしゆ》な細胞が普段は活動していないのもそのためね。エネルギーの消費を最小限に押さえるために、人間の細胞に観態《ぎたい》しているんだわ。可逆性の恣意《しい》的なファージ変換ってことかしら。公表したらノーベル賞ものね……」
「お、おい、姉貴……」
平然とした口調で言う杏子を見て、恭介は急に不安になる。
レベリオンのことを公表できないと言い張った香澄のことが気になったのだ。下手《へた》をすると、彼女が口封じのために杏子を殺すと言い出す可能性もある。
恭介の心配そうな視線に気づいたのか、杏子は笑った。
「心配しなさんな。あんたたちのことを他《ほか》の誰《だれ》かに言うつもりはないから。いくら何でも、実の弟を実験材料にするわけにはいかないものね……」
冗談《じようだん》めかしてつぶやいた杏子の言葉に、恭介はショックを受ける。彼女は、恭介がR2ウィルスに感染していることを知っているのだ。
困惑《こんわく》する恭介を見つめながら、杏子は少しまじめな顔になった。
「ねえ、恭介。人間とチンパンジーのDNAって、何パーセントくらい違うか知ってる?」
「え……いや、知らないけど、一割ぐらいしか違わないんじゃねーの? だって、チンパンジーって人間に一番近い動物なんだろ?」
その程度の知識は恭介《きようすけ》も持っている。白信を持って答えた恭介に、杏子《きようこ》は笑って首を振《ふ》った。
「正解はね、一パーセント以下、よ。たったそれだけの違いで、ヒトとサルくらい違った生物が生まれるの。わかる? 逆に言えば、人間の遺伝子が一バーセントでも変わってしまえば、それはもはや人間ではない別の生物だわ。それが、進化か退化かは別にしてね……」
「そ、それって……」
恭介は、香澄《かすみ》が車の中で口にした言葉を思い出して絶句する。彼女は言ったのだ。R2ウィルスは、細胞の中に入り込んで遺伝子を書き換えてしまうのだと。
杏子は続けた。
「突然変異ってのはね、親から子へと世代が変わるときに、偶発《ぐうはつ》的に発生するとは限らないの。たとえばガンのことを正式な統計では、悪性新生物って呼ぶのは知ってるでしょ。人間の細胞から生まれた、別種の生物ってわけ。もっとも、連中は進化と呼ぶには失敗作だけどね」
「悪性の……進化の失敗作……!?」
「ウィルス進化論って学説があってね、たとえばネアンデルタール人からクロマニヨン人に人類が進化したのは、人類が進化するウィルス≠ノ感染したからだっていうの。だけど、もしもそのウィルスで進化できる人間が、人類全員じゃなくて一部の特殊《とくしゆ》な体質の持ち主だけだとしたらどうする?」
「あ……ああ」
恭介にも、R2ウィルスのもたらす恐怖《きようふ》がようやく理解できた。
理性を喪失《そうしつ》し狂暴化して死に至るか、それとも人間以上の力を手に入れるか。生まれつきの体質によってそれが決定されている――その事実が人々の心に与える影響は計り知れない。
ひとつだけ確実に言えることは、人種差別どころの騒《さわ》ぎではないということだ。
「先に進化した人類は、進化から取り残された人々を支配しようとするかもしれない。進化に取り残された連中だって黙《だま》ってないわ。今の人類は、石器時代にいるわけじゃないのよ。戦争になれば、どれだけの人間が死ぬかしらね……」
「香澄は……それを止めるために戦っているのか? だから、あんな必死になって……」
恭介は、呆然《ぼうぜん》とつぶやいて自分の腕《うで》を見つめた。
気絶した香澄を抱《だ》き上げたとき、彼女は信じられないほど軽かった。あの華著《きやしや》な身体《からだ》が力尽《つ》きて倒《たお》れるまで、彼女はずっと一人で戦っていたのだ。
年齢《ねんれい》に似合わぬ大人《おとな》びた物腰《ものごし》。笑うことを知らない、愛想《あいそ》のない態度。それもすべて、悲壮《ひそう》なまでの使命感が原因だったのだろうか?
「姉貴、教えてくれ……俺《おれ》は、どうすればいい……?」
杏子は、真剣《しんけん》な恭介の表情を見て、あきれたようにため息をついた。
小さな声で「男ってのはどうしてこうすぐ人に頼《たよ》ろうとするのかしらね……」とつぶやいて、彼女は意地悪く微笑《ほほえ》む。
「緋村《ひむら》家の家訓《かくん》を教えてあげるわ、恭介《きようすけ》。自分のことは自分で決める。わかったわね」
「家訓……って、そんなのあったのか?」
恭介が、不思議に思って訊《き》き返す。そのようなものがあるという話は、初耳だった。
杏子《きようこ》は、しれっとした表情で威張《いば》って答える。
「あたしが作ったのよ。さっきね」
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教室の風景
〜Portrait of Schoolscape〜
[#改ページ]
1
翌朝、恭介《きようすけ》は、窓の外から響《ひび》いてくるV型八|気筒《きとう》エンジンの爆音で目を覚ました。
極太《ごくぶと》の扁平《へんぺい》タイヤがスリップする音とともに、特徴的な排気音《はいきおん》が遠ざかっていく。
杏子《きようこ》が出勤していったのだと思った。あのような近所|迷惑《めいわく》な音を撒《ま》き散らして走る車に乗っているのは、このあたりでは彼女だけだ。
普段はバス通勤の彼女が車で出かけたということは、今夜は帰りが遅《おそ》くなるのだろう。研修医だったころに比べれば暇《ひま》になったと本人は言っているが、杏子の仕事は部外者の恭介から見ても忙《いそが》しい。
特に昨夜は、勤務時間が終わってからも香澄《かすみ》の治療《ちりよう》などをしていたので、彼女はほとんど寝ていないはずだ。こんなとき、恭介は自分が非力な学生であることが口惜《くちお》しくなる。
目覚まし時計を見ると、アラームをセットした時刻までまだ一五分あった。
もう一度寝るかしばらく迷ったが、結局あきらめて起きあがる。寝直せば昼までは起きられないことが確実だったし、何より腹が減っていたからだ。それに、香澄のことも気にかかる。
秋篠《あきしの》香澄は今、緋村《ひむら》家の客間で眠《ねむ》っているはずだった。
昨夜、意識を失った状態の彼女を遵れて帰ると言ったのは杏子。危険だからというのが、その理由だ。香澄が動けない状態で再度敵の襲撃《しゆうげき》があったときに、彼女を守れるのは同じレベリオンである恭介《きようすけ》しかいない。そう言われてしまうと、恭介には反対する理由がなかった。
理由はどうあれ、あんな可愛《かわい》い子と一緒《いつしよ》にいられて嬉《うれ》しいでしょ。
杏子《きようこ》はそんな風に言っていたが、恭介に言わせれば、あの女を可愛い≠ニ形容する神経からしてすでに理解できない。鉄製のドアを引きちぎる腕力《わんりよく》といい、他人を見下《みくだ》したような偉そうな態度といい、彼女は可愛いという言葉とは対極に位置する存在だ。
「だいたい、あの女と同じ家から出てくるところを学校の人間にでも見つかったら、なんて言い訳すりゃいいんだよ……」
そんなことをぼやきつつ、恭介はバスルームに通じるドアを開けた。
その動きが凍りつく。
「……!?」
磨《す》りガラス越しにきらきらと輝《かがや》く朝の光に包まれて、バスルームには一人の少女が立っていた。突然入ってきた恭介に気づいて、びっくりしたように振《ふ》り返る。
「か……香澄《かすみ》!?」
真っ先に目に入ったのは、眩《まぶ》しいほどに白い肌《はだ》。
人形を思わせる細い腕《うで》に、少年のような引き締《し》まった体躯《たいく》。まだ完全に膨《ふく》らみきらない、柔《やわ》らかな胸の隆起《りゆうき》。その上に流れ落ちる黒髪。
いやらしい雰囲気《ふんいき》とは無縁《むえん》なその姿は、まるで絵画の中から抜け出した天使のようだ。
彼女が解《ほど》き終えたばかりの白い包帯《ほうたい》が、舞い落ちた羽根《はね》のようにバスルームに散乱している。
その上に点々と残された、紅《あか》い染みが痛々しい。
ワゴンの上に置かれていたのは、下ろしたてのバスタオルと清楚《せいそ》な下着、袋《ふくろ》に入ったままの新品の制服。それに気づいたとき、恭介はようやく彼女が着替えている最中だということを認識した。
香澄が胸元を両腕で隠《かく》しながら、感情のない声で言う。
「……いつまで見てるつもり?」
「あ! わ、悪い!!」
恭介は、あわてて彼女に背を向けると力|一杯《いつぱい》ドアを閉めた。
そのままの姿勢で、深いため息をつく。寝起きのぼんやりした頭には、いささか強烈《きようれつ》すぎる刺激だ。おかげで、一気に目が覚めた。
「まいったな……」
恭介はつぶやいて寝癖《ねぐせ》のついた髪をかき上げる。
今さら女の子の裸《はだか》を見たくらいで大騒《おおさわ》ぎする歳《とし》でもないが、付き合っているわけでもないクラスメートの着替えをのぞいたとなると、さすがに罪の意識を感じる。それに、何かが心に引っかかるのだ。単に着替えの現場に遭遇《そうぐう》したということだけではない、違う種類の罪悪感を感じる。その理由がわからず、恭介は首を捻《ひね》った。
しばらくすると、バスルームからシャワーの水音が聞こえてきた。新品のバスタオルも出ていたことだし、杏子《きようこ》が出勤前に彼女にシャワーの使い方を教えていったのだろう。ああ見えて杏子は、目下《めした》の人間に対しては面倒見《めんどうみ》がいいのだ。
しばらくバスルームには入れないと判断して、恭介《きようすけ》は食堂に向かった。
緋村《ひむら》家の食堂は、キッチンと別になっていて、カウンターテーブルがその境界線を兼ねている。恭介たちの母親が家を建てる際にこだわったので、食堂は明るく開放的だった。家事|一切《いつさい》を嫌《きら》っている杏子も、母親の思い出の染み着いたこの場所だけはいつも綺麗《きれい》に保っている。
テーブルの上には、パンケーキとフルーツサラダが用意されていた。量が尋常《じんじよう》でないので、一目で香澄《かすみ》が作ったものだとわかる。別に驚《おどう》くほどのことではないが、あの殺伐《さつばつ》とした雰囲気《ふんいき》の彼女が料理を作るというのは、やはり予想外だった。コーヒーメーカーから噴《ふ》き出す蒸気で、食堂にはいい香りが充満《じゆうまん》している。
「あれ?」
恭介は、食堂の窓際《まどぎわ》に見慣れないノートパソコンが置かれていることに気づいた。側面の拡張スロットから、高速データ通信力ードのアンテナが突き出している。
「……高城《たかじよう》市逮続射殺事件対策本部資料?」
恭介は、見慣れないアプリケーションで展開された文書ファイルを見て眉《まゆ》をひそめた。河村《かわむら》雅人《まさと》たちが殺された事件に関する資料だ。
資料には、事件の内容が詳細《しようさい》に記されていた。いや、あまりにも詳細すぎた。数百人に及ぶ容疑者の個人名や個々のアリバイまでが、克明《こくめい》に記載《きさい》されている。マスコミ向けに公表されるような内容ではない。おそらくは、警察の内部資料だ。
だが警察の捜査《そうさ》内容は、恭介から見ても的《まと》外れだと言わざるを得なかった。レベリオンの存在を警察は知らないのだから当然だが、銃器《じゆうき》の入手経路や、逃走手段など、重要な扱いを受けているのは、まるで無関係なことばかりだ。これでは、警察が真犯人にたどり着くことは絶対にありえない。
レベリオンを裁《さば》けるのはレベリオンだ――香澄の言葉を、恭介はようやく実感する。
「協力してくれる気になったの?」
振《ふ》り返ると、いつの間にか香澄が背後に立っていた。恭介が警察の資料を読みふけっている間に、彼女はすっかり身支度《みじたく》を整えてしまったらしい。たいして時間がなかったはずなのに、きっちりとまとめられた彼女の髪を見て、まるで魔法のようだと恭介は思う。
彼女はもう制服の上着を着ていた。彼女の左肩《かた》を見てみたが、撃《う》たれた痕《あと》は残っていない。
予備の制服をあらかじめ準備してあったのだろう。つまり彼女は、最初からある程度の負傷を覚悟《かくご》していたということだ。
「あ……さっきは悪かった。ごめん」
「え?」
「いや……その……見るつもりはなかったんだよ……けど……」
恭介《きようすけ》は、とにかく頭を下げる。言いたいことがないわけではないが、ノックをしなかったのは、恭介の非だ。
「……そんなのいちいち謝らないでよ」
香澄《かすみ》は、怒ったような口調で言った。その頬《ほお》がうっすらと赤い。着替えを見られた程度で彼女が動揺《どうよう》するというのが、恭介には少し意外だった。話題を変えるためなのか、香澄は早口で続ける。
「で、どうなの? 協力してくれるの? くれないの?」
「その前に教えてくれよ。河村先輩《かわむらせんぱい》を殺したのは本当にレベリオンなのか?」
「だとしたら、どうなの?」
冷たい声で香澄が訊《き》いた。恭介は、拳《こぶし》を固めながら答える。
「決まってるだろ!見つけだしてぶっ殺してやる!!」
「……私怨《しえん》を晴らすために、レベリオンのカを使うつもりなの?」
香澄が、きつい眼差《まなざ》しで恭介を睨《にら》んだ。だが恭介は、目を逸《そ》らさなかった。
「それがいけないのかよ? だったら、あんたは何のために戦ってるんだ?」
「あ、あたしは……ただR2ウィルスの拡散を防こうと……」
「悪いけど……」
めずらしく口ごもる香澄の言葉を遮《さえぎ》るようにして。恭介は続けた。
「俺《おれ》は、あんたと違ってウィルスがどうなろうが興味ないな。人類の進化なんか知ったことじやない。だけど、そいつが俺の大切なものを奪《うば》おうとするのなら、俺ば許さない。あんたが何と言おうが、河村先輩を殺した奴《やつ》は、俺がこの手で捕まえてやる……」
「わかったわ……」
恭介の剣幕《けんまく》に押されたように、香澄はため息をついた。
興奮気味の恭介を落ちつかせるためだろう。彼女は二人分のカップにコーヒーを注ぐと、カップの一つを恭介に差し出す。アメリカ育ちのせいかどうかは知らないが、子どもが好きそうなミルクたっぷりの薄《うす》いコーヒーだ。
「……当面は、あたしたちの利害は一致しているというわけね。でも、その先はどうするの?
河村|雅人《まさと》を殺した犯人を捕らえて裁《さば》いたとして、それから先あなたはどうするつもり?」
「ああーそうだ、忘れてた……畜生《ちくしよう》」
香澄の言葉に、恭介は頭を抱《かか》える。いきなり弱気になった恭介を見て、香澄が怪訝《けげん》そうな表情を浮かべた。
「……どうしたの?」
「進路希望を、来週までに提出しろって言われてたんだよ」
「提出すればいいじゃない?」
「人の気も知らないで簡単に言ってくれるな、あんた」
「知らないわよ。あなたの気持ちなんて」
冷たく言い放つ香澄《かすみ》を、恭介《きようすけ》は恨《うら》めしげに見つめる。
「……どうせ、姉貴に相談しても同じこと言われるんだろうな。いっそのこと、お前も医者になれとか命令してくれりゃ楽なのによ……」
ぶつぶつとつぶやく恭介を見て、香澄が呆《あき》れたような表情を浮かべた。美しい眉間《みけん》にしわをよせながら、押し殺した声で訊《たず》ねる。
「恭介って……シスコン?」
「……どういう意味だよ!?」
「だって、そうじゃない。あなた、早く一人前になって自立して、杏子さんに認めてもらいたいって思ってるんでしょ。そのくせ、実際に難《むずか》しい問題に直面したら、すぐに彼女に頼《たよ》ろうとして。要するに甘《あま》えてるのよね」
「ぐ……」
香澄の辛辣《しんらつ》な言葉に怒りを覚えながらも、恭介は反論できなかった。
たしかに彼女の言う通りだったからだ。こうしてあらためて指摘《してき》されると、自分がいかに姉に頼っているのかということを痛感させられる。
「だったら、あんたはどうなんだよ?」
「あたし? あたしに姉妹《きようだい》なんか、いないわ」
香澄が思いがけないきつい声音で言った。それまでの、淡々《たんたん》とした口調とはまるで違う、どこか思い詰《つ》めたような言葉だ。何か悪いことを訊《き》いてしまったような気がして、恭介はあわてて首を振《ふ》る。
「いや、そうじゃなくて将来の夢とかないのかよ。R2ウィルスをばらまいている犯人ってのを捕まえたら、そのあとはどうするんだ?」
「夢……ね」
香澄はつぶやいてコーヒーをすする。
「そんなの、あなたに教えなければいけない理由はないわ」
「か……可愛《かわい》くねえ女だなあ」
恭介は絶句してつぶやいた。ストレートな物言いもここまでくると、もはやクールとかそういうレベルではない。この女を見て騒《さわ》いでる男子生徒どもは、絶対に何か間違っている。
恭介の台詞《せりふ》に傷ついた素振《そぶ》りも見せず、香澄は平然と奮い返す。
「失礼ねえ、あたしはただ事実を言っているだけよ」
「あー、そうかよ」
むくれる恭介を無視して、香澄はメイプルシロップとバターをたっぷり塗《ぬ》ったパンケーキを黙々《もくもく》と口に運んだ。ほっとくと用意した分を全部一人で食べてしまいかねない勢いだ。
恭介《きようすけ》も、あわてて自分の席につく。
「なあ……昨日《きのう》病院を襲《おそ》った奴《やつ》が、河村先輩《かわむらせんぱい》を殺したレベリオンなのか?」
「それは……今は何とも言えないわ。最初はあたしも、そうだと思っていたのだけど……それにしては敵の目的が見えない」
「目的?」
「だってそうでしょう? ヴィルレント・レベリオンたちを手足のように操るなんて、R2ウイルスについての生半可《なまはんか》な知識じゃ不可能だわ。それほどの能力を持ちながら、一般人を乱暴な手口で撃《う》ち殺したり……行動に一貫性がないのよ。最初の連続殺人は、自分の能力を試しただけという可能性もあるけれど……」
「能力って、昨日言ってたトランスジェニック能力ってヤツのことか。そういや、あいつのまわりの窓ガラスとかが、手も触《ふ》れないのにいきなり割れたよな……」
真面目《まじめ》な顔で恭介がつぶやく。それを聞いた香澄《かすみ》が、目を大きく見開いて恭介を見つめた。
彼女のその表情に、恭介のほうが驚《おどろ》いてしまう。
「な……なんだよ?」
「あなた……気づいてないの? あれは、あなたがやったのよ」
「え? 俺《おれ》!?」
思いがけない彼女の言葉に、恭介は困惑《こんわく》した。あわてていたのでよく覚えていないが、恭介はただ病室に飛び込んで叫んだだけだ。香澄が戦っていた相手は、単純に敵の数が増えたがら逃げたものだとばかり思っていた。
それに、たとえ恭介のトランスジェニック能力が発現したのだとしても、どうやれば何メートルも離れた相手にダメージを負わせられるというのだ?
「超音波……じゃないかな」
その恭介の疑問を先読みしたように、香澄が言った。
「え?」
「あなたのレベリオン能力。たぶん、叫んだときに無意識に発動したんだわ。そうね、=b滅びの咆吼《プラステイング・ハウル》≠ニでも呼べばいいのかな。可聴域《かちよういき》外の超音波によるキャビテーション現象《フエノメノン》……おそらく人間の骨格を瞬時《しゆんじ》に粉砕《ふんさい》するくらいの威力《いりよく》があるはずよ」
「でも、超音波って、要するに空気の振動《しんどう》だろ? そんな威力があるのか?」
「野生のイルカは超音波を使って餌《えさ》になる魚を気絶させるし、虫を撃ち落として捕食するコウモリもいるわ。工業用としても、超音波で金属に孔《あな》をあけたり、プラスチックを溶接する技術が実用化されてる。たかが音だと思って、侮《あなど》らないほうがいいわ」
「すげえな……」
恭介は、怖《こわ》くなって自分の喉《のど》に手をあてた。「あー」と叫んでみるが、超音波らしきものが発射されている気配《けはい》はない。
「すぐにコントロールするのは無理よ。今まで接続されてなかった神経を使うんだから。そうね、耳を白由に動かせる人っているでしょう。あんな感じかな、きっと」
「あ、俺《おれ》できるんだ、それ」
恭介《きようすけ》は、そう言うと自分の耳をぴくぴくと動かしてみせた。
耳を動かすときに目が寄って、間の抜けた顔つきなってしまうのが、この技《わぎ》の最大の欠点だ。
得意げな恭介の表情を見た香澄《かすみ》が、冷たい声でつぶやく。
「変な顔」
2
「あれ、ランドクルーザーはどうしたんだよ」
恭介の自転車は学校に置きっぱなしだったので、必然的に今朝《けさ》はバス通学になる。
ふと気づくと香澄がバス停までついてこようとしたので、不審《ふしん》に思って恭介が訊《き》いた。
昨夜、杏子《きようこ》が彼女を緋村《ひむら》家まで運ぶのに使ったので、香澄の車は緋村家の駐車場に停めてある。彼女の着替えも、車に積んであったスーツケースから持ち出したもののはずだ。
「制服姿で学校に車で乗りつけろっていうの?」
香澄が冷静な声で言った。感情のこもっていない口調だが、何となく恭介はまたバカにされたような気がしてむっとする。
「ほっとけば、そのうちリチャードが回収にいくわ」
「リチャード?」
「会わなかった? 高城《たかじよう》学園に入り込んでる、もう一人の統合計画局のエージェントよ」
「あーっ! あの外人教師!」
どこかで聞いたような名前だと頭を捻《ひね》っていた恭介は、昨日《きのう》職員室で会った見慣れないAETの顔を思い出した。リチャード・ロウと名乗っていたあの男が、香澄の行動をバックアップしていたのだ。それで、香澄がすりとった恭介の学生証を、彼が持っていたことも合点がいく。
「あいつも、プロ・レベリオンなのか?」
恭介の質問に、香澄は首を振《ふ》った。
「いえ、彼は普通の人閲よ。だから表だって動くことはできない。犯人は、結局あたしたちが捕まえるしかないの」
「そうか……あのオッサンはサポート要員ってとこか。たしかに病院や警察に圧力をかけるっていっても、未成年のあんただけじゃ説得力がないものな……」
恭介はうなずいた。だが、納得すると同時に、別の疑間も沸《わ》き上がってくる。
いくら彼女たちの組織が絶大な政治力を持っているとはいえ、身分を偽《いつわ》ってAETとして赴任《ふにん》してくるためには相当な無理をしなければならなかったはずだ。
リチャード・ロウといい、香澄といい、なぜそうまでして高城学園に入り込む必要があったのだろう?
そんなことを考えながらバス停に並んでいると、恭介《きようすけ》は、自分たちのほうをじろじろと眺《なが》めている通行人がやけに多いことに気づいた。バスを待つ他《ほか》の客たちも同じだ。中には、あからさまに恭介たちを指差す男子生徒の姿もある。
正確には、彼らは恭介を見ているわけではなかった。彼らが注目していたのは、香澄《かすみ》だ。
その辺のモデルや女優では及びもつかぬ彼女の美貌《びぼう》が、磁石《じしやく》のように周囲の視線を惹《ひ》きつけている。男たちは身勝手な欲望の対象として。女たちは羨望《せんぼう》と嫉妬《しつと》の矛先《ほこさき》として。彼女の隣《となり》に立っている恭介にまで、やっかみの視線が突き刺《さ》さるようだ。
自分にまとわりつく一方的な想いを拒《こぱ》むようにして、香澄は表情を硬《みた》くする。それが、彼女の神秘的な雰囲気《ふんいき》をより一層強くする。だが、恭介の目には、そんな香澄の頑な《かたく》な態度が、むしろ痛々しいものに感じられた。
この場の空気によく似た光景を、恭介は最近見たことがあった。
昨日《きのう》、萌恵《もえ》と一緒《いつしよ》にごみ捨てに行ったときの昇降口の様子《ようす》にそっくりだ。今にして思えば、あそこにたむろしていた大勢の男子生徒は、下校する香澄を一目見ようとして集まっていたのだろう。
もしも香澄とこんな形で出会っていなければ、その輪の中に恭介も加わっていたかもしれない。それが、どんなに彼女を傷つける行為なのか、今の恭介にはよくわかった。
かわいそう……
そうつぶやいた萌恵の言葉を思い出す。
彼女は気づいていたのだ。彼らが集まっていた目的も、それを見たときの香澄の気持ちも。
なぜ萌恵がそれを理解できたのかはわからないが、いかにも彼女らしいと恭介は思った。
バスが来る。
高城学園方面の路線は便数が少ないので、車内は通学の生徒でいっぱいだった。
さすがにバスの中でまで露骨《ろこつ》な視線を向けてくる者はいないが、ちらちらと香澄のほうを盗《むす》み見る乗客は少なくない。そんな異様な雰囲気《ふんいき》の中でバスに乗り込んだ恭介は、つり革《かわ》につかまっていた草薙《くさなぎ》萌恵とばったり目が合った。
萌恵は恭介たちに気づいて、にっこりと微笑《ほほえ》む。しらじらしい車内の雰囲気を吹き飛ばすような柔《やわ》らかな笑みだ。だが彼女は、恭介と香澄が一緒《いつしよ》に乗り込んできたことに少し驚《おどろ》いている様子《ようす》だった。
そういえば、昨日の放課後、萌恵と別れたときにも香澄は恭介と一緒にいたのだ。これでは、二人が一晩一緒に過ごしたと疑われても仕方ない。いや、疑われるも何も、実際その通りなのだ。それに気づいた恭介の背筋を、冷や|汗《あせ》が伝う。
「おはよう。緋村《ひむら》くん、秋篠《あきしの》さん」
「あ……お、おはよ」
「おはようございます。えっと、草薙《くさなぎ》さん、だよね」
香澄《かすみ》が愛想《あいそ》良《よ》く挨拶《あいきつ》を返した。彼女の態度は堂々としたもので、やましい素振《そぶ》りなど微塵《みじん》も見せない。当たり障《さわ》りのない受け答えは、普段の彼女とはまるで別人だ。
香澄の見事な変貌《へんぼう》ぶりに、恭介は内心舌を巻く。
「秋篠さんの家《うち》って、この近くなの」
「え、ええ。そう」
香澄は曖味《あいまい》な返事をした。萌恵はそれを肯定の意味に受け取ったようだ。
「へえ。でも、ご両親はまだアメリカにいるんでしょ? 一人暮らし、大変だよね」
「そうでもないよ。慣れればね」
萌恵は、香澄の私生活について、恭介の知らない情報を仕入れているようだった。香澄が、それに合わせて受け答えをする。もちろん、その情報は香澄が流した表面的なものなのだが、女の子同士の情報ネットワークの速さに、恭介は密《ひそ》かな脅威《きようい》を感じた。
なにしろ、昨夜、恭介と香澄が一緒《いつしよ》にいるところを目撃した生徒はもう一人いるのだ。しかも萌恵と違って、香澄に対する悪意に満ちた相手――江崎綾《えざきあや》。
せめてもの救いは、綾が自分から積極的に噂《うわさ》を流したりはしないだろうということだった。
恭介のバンドのファンである綾にとって、突然現れて恭介と親しくなった香澄は天敵のようなものである。彼女と恭介が付き合っているなんて噂を流しても、綾にとっては不利なだけだ。
綾としては、噂を流してる暇《ひま》があったら、香澄に対する嫌《いや》がらせでも考えていたほうが。マシ、という心境のはずである。それはそれで、厄介《やつかい》なことには変わりないが。
「でも、夜とか一人で怖《こわ》くない? ほら、この街って、連続射殺事件とかも起きてるし」
香澄と会話していた萌恵が、声のトーンを落としながら言う。
恭介は萌恵の言葉に思わず反応して振《ふ》り向いてしまったが、香澄は平然としていた。怖いよね、と相づちをうちながら笑っている。
「あの事件で殺された星和大《せいわだい》付属の女の子ってね、あたしの知ってる人たちだったの。だから、うちの母親なんか、もう、すごく心配しちゃって……」
萌恵が言った。
恭介は驚《おどろ》いたが、香澄はその事実を知っているようだった。いちおう驚いてみせてはいたが、その演技は彼女にしてはうまくない。
山頂にある校舎が見えてきたところでバスは止まった。混みあった車内から少しでも早く解放されようと、生徒たちが我先にとバスを降りる。
「あ、加奈子《かなこ》!」
バスを降りた萌恵が、真島《まじま》加奈子の姿を見つけて手を振《ふ》った。
「あたし、先に行くね。お邪魔《じやま》しちゃって、ごめんね」
そう言って、萌恵《もえ》がちょこんと頭を下げる。
「え、ちょっと!」
恭介《きようすけ》が言い訳する前に、彼女は駆《か》け出していた。自転車を押して歩いている加奈子《かなこ》と合流して、そのまま並んで行ってしまう。
「くそ、どうしてくれんだよ。完《かん》っ壁《ぺき》に草薙《くさなぎ》に誤解されちまったじゃねえか……」
恭介が香澄《かすみ》に恨《うら》みがましい視線を向ける。
「誤解って何?」
香澄は、いつもの冷たい声で訊《き》き返した。そして恭介が答えるより早く、何かに気づいたように片眉《かたまゆ》を上げる。それから、ふーん、と悟《さと》ったような口調で言った。
「ああ……恭介、あの子のことが好きなんだ?」
「……悪いかよ?」
やけくそ気味に恭介が答える。ごまかしても無駄《むだ》だと思ったのだ。
香澄は、難《むずか》しい顔をして考え込む。妬《や》いているわけでは、もちろんないだろう。その証拠《しようこ》に、恭介を気遣《きづか》うようにじっと見上げている。
「あの子は、やめておいたほうがいいと思うわ」
「なんでだよ?」
恭介が不機嫌《ふきげん》な声で訊く。香澄は一瞬《いつしゆん》ためらったあと、恭介の耳元に顔をよせて囁《ささや》いた。
「彼女……今回の事件の容疑者よ」
「何だって!?」
恭介が叫んだ。表情が険《けわ》しくなるのが自分でもわかる。
突然大声を出した恭介を、登校中の他《ほか》の生徒がじろじろと眺《なが》める。声が大きいと言わんばかりに、香澄が唇《くちびる》の前に人差し指を立てた。
「……草薙が……あいつが、そんなことするわけないだろ」
人目につかない校庭の隅《すみ》へと移動しながら、恭介は言い返した。
「あたしは事実を言っているだけよ。警察にも、彼女は二度ほど呼び出されて事情|聴取《ちようしゆ》を受けているわ。あなたも呼ばれたでしょう?」
「ああ……あれか……」
河村雅入《かわむらまさと》が死んだ翌日、雅人と仲がよかった生徒はほとんどが生徒指導室で簡単な聴取を受けている。恭介や悠《ゆう》たちバンドのメンバーは学校外でも雅人と付き合いがあったために、特に念入りに質問された。しかし、恭介の知る限り、雅人と萌恵の間に接点らしきものは思い当たらない。
「河村雅人のライブ会場で、草薙萌恵は何度か目撃《もくげき》されているわ。もちろん、クラスの友人と一緒《いつしよ》だったけど」
「草薙が?」
香澄の言葉は、恭介にとって衝撃的《しようげきてき》なものだった。
声楽部でピアノを弾《ひ》いている萌恵《もえ》は、自宅でもクラシックばかり聴《き》いているのだと、本人に聞いたことがある。対して雅人《まさと》の音楽は、正統派のハードロック。間違っても、彼女が気に入るようなサウンドではない。
それに、もし彼女が雅人のライブを見に行ったとして、なぜそれを恭介《きようすけ》たちに何も言ってくれなかったのだろう? 雅人たちのライブに恭介たちは欠かさず足を運んでいるし、三回に一回くらいは前座としてステージに立たせてもらっている。見に来たのなら、一言声をかけてくれてもよさそうなものだ。
「だけど……一回や二回、ライブを見に行ったぐらいで容疑者になるか、普通?」
恭介は、ようやく冷静さを取り戻《もど》して言い返す。
雅人が率いるバンドのライブは、市内のライブハウスでほぼ毎月のように行われている。百人収容のライブハウスが満員になるのだから、アマチュアバンドとしては大人気と言っていいだろう。恭介が萌恵の存在に気づかなかったのもそれが原因だが、逆に言えば、直接雅人を知らない人間がライブに来てても、おかしくない状況だということだ。
「言ったでしょう、彼女が事情聴取を受けたのは二回だって」。「……あ!」
恭介は、バスの中で萌恵が言っていたことを思い出した。
殺された星和大《せいわだい》付属高校の女生徒とも、彼女は知り合いだったと言ったのだ。つまり彼女は、殺された被害者の全員を知っている数少ない人間ということになる。
「草薙さんが転校生だったってこと、知ってる?」
「いや……そうなのか?」
恭介が萌恵と同じクラスになったのは、二年に進級してからのことだ。考えてみれば、それ以前の彼女のことを、恭介はほとんど知らない。
「彼女は高校一年の一学期に、星和大付属高校から転校してきてるの」
「星和大付属から? 同じ市内じゃないか」
それに高一の一学期と言えば入学した拭かりだ。よほどのことがない限り、転校する必要などあり得ない。
「原因は、いじめよ。特に彼女が何をしたってことでもないんだけど、星和台付属の中では以前からあったみたい。かなり悪質で、自殺|未遂《みすい》を起こした生徒も何人かいるわ」
「まさか、殺された女の子たちって……」
「そう、そのときのいじめの主犯格よ。動機としては十分でしょ」
萌恵が犯人かもしれないということ以上に、恭介には香澄が語った内容が驚《おどろ》きだった。
転校しなければならないほどのいじめにあっていたことなど、萌恵は微塵《みじん》も感じさせなかったからだ。自分が、彼女のことを何も知らないのだと思い知らされた気分だった。
たしかに何かのきっかけでR2ウィルスに感染すれば、小柄《こがら》な萌恵《もえ》でも簡単に人を殺せる力を得るだろう。それは香澄《かすみ》の戦闘能力を見れば明らかだ。
「……そうか、あんたがいきなり俺《おれ》のクラスに来たのは、俺じゃなくて、彼女を監視《かんし》するためだったんだな? おかしいとは思ったんだ。でなきゃ、あんたがうちの高校に潜入《せんにゆう》する理由なんてないものな……」
香澄はその質問には答えなかった。どうやら図星《ずぼし》だったようだ。
「だけど……草薙《くさなぎ》は違う。あいつは、人殺しなんかじゃない……」
「どうしてそんなことが言い切れるの?」
「……証明してやるさ! 俺が真犯人を捕まえればいいんだろう?」
冷徹《れいてつ》な表情の香澄を睨《にら》み返して、恭介《きようすけ》がきっぱりと言う。
「いいわ……でも、もし本当に草薙|萌恵《もえ》。がレベリオンだったときに、あなたは彼女と戦える?」
感情のない機械のような声で香澄が言った。
言葉に詰《つ》まる恭介に背を向けて、彼女は先に教室へと向かう。
その背中を、恭介は無言のまま見送った。
彼女の質問が、頭の中でいつまでも鳴り響《ひび》いていた。
3
「学校生活はどうですか、カスミ? 授業を受ける立場になったのは、久しぶりでしょう?」
昼休みの英語科資料室。人気のないがらんとした教室の窓辺で、リチャード・ロウは背を向けていた。
窓から見下ろす校庭では、男子生徒たちが制服のままバスケットボールをして遊んでいる。
「問題ありません」
抑揚のない声で香澄は答えた。
転校二日目だというのに、彼女の様子《ようす》を見に来る他クラスの生徒はあとを絶たない。彼らの目を盗《ぬす》んで、香澄はこの人目につかない教室を訪れていた。
アメリカにいたころから、奇異《きい》の目で見られることには慣れている。その視線は相変わらず鬱陶《うっとう》しかったが、それは間題ではなかった。男子生徒に騒《きわ》がれていることで敬遠されるかとも思っていたが、クラスの女子は香澄に好意的で、いろいろと世話を焼いてくれる。これまで普通の学校生活とは無縁《むえん》だった香澄にとっては、むしろそのことが驚《おどろ》きだった。
彼女たちのその態度が、かすかな罪悪感を香澄に抱《いだ》かせる。普通の転校生ではない香澄は、いわば彼女たちをだましているのと同じだ。それを考えると、彼女たちの親切に対して申し訳ない気持ちでいっぱいになる。そして恭介に対しても。
「そうですか……それはよかった」
リチャードが丁寧《ていねい》な英語で言う。
幼い妹を気遣《きづが》う兄のような、優しげな声。いつもの彼の口調だ。
だが、仲間であり、そして唯一《ゆいいつ》の味方であるはずの彼の言葉に、香澄《かすみ》はかすかな違和感を覚える。これまで感じたことのない、ほんのわずかな戸惑《とまど》い。
それは、彼がときおり見せる冷めた表情が、荒々しいほどに豊かな感情をぶつけてくる恭介《きようすけ》と、あまりにも対照的だったからかもしれない。
そんな疑念を押し隠《かく》すように、香澄は硬《かた》い口調で報告を統けた。
「主要感染容疑者《プライマリ・サスペクト》の草薙萌恵《くさなぎもえ》、および、他《ほか》の容疑者にも目立った動きはありません」
「昨夜はあれほど強硬な手段をとってきた相手にしては妙《みよう》ですね。敵のトランスジェニック能力が判明していない以上、警戒《けいかい》は怠《おこた》らないようにしてください」
柔《やわ》らかな口調とは裏腹《うらはら》に、彼の言葉には二度の交戦にもかかわらず敵の能力を暴《あば》けなかった香澄への失望が込められていた。
香澄は無言でそれを受けとめる。敵の正体がわからないという苛立《いらだ》ちを、誰《だれ》よりも痛切に感じているのは香澄自身だ。
「……捕獲《ほかく》したヴィルレント・レベリオンの容態は?」
「二週間――昨夜捕獲した一七人のヴィルレントが、R2ウィルスの影響から回復するには最低でもそれだけの期間が必要です。後遺症による記憶《きおく》障害などを考えると、たとえ回復しても、
どれだけの情報が引き出せるかわかりませんが」
「結局、私が囮《おとり》になって敵をおびき出すという作戦を続けるしかないわけですね」
「やれますか、あなた一人で?」
リチャードの言葉に、香澄は眉《まゆ》をひそめた。
背を向けたままのリチャードの態度からは、何の感情も読みとることはできない。
「……どういう意味ですか?」
「緋村《ひむら》恭介……咄嵯《とつさ》の判断によるやむを得ない処置だったとしても、彼をレベリオン化させたことで我々の作戦計画は大幅《おおはば》に狂いました。このまま彼の監視《かんし》を続けてリスクを増大させるよりは、彼の身柄《みがら》を拘束《こうそく》し、隔離《かくり》したほうがあなたの負担も軽くなるのではありませんか?」
「そ―そんな!?」
蒼白《そうはく》な表情で、香澄は叫んだ。
彼の命を救うためとはいえ、恭介をR2ウィルスに感染させたのは香澄である。そもそも彼が事件に巻き込まれたのも、香澄が敵のレベリオンとの戦闘で負傷したのが原因なのだ。
恭介自身はまだ気づいていないが、その結果として、彼はすでに多くのものを失っている。
普通の人間としての平穏《へいおん》な暮らし――いや、ただ人間として生き統けることすら、恭介にはもう許されないのだ。統合計画局は、その彼を友人や家族からも引き離そうとしている。
振《ふ》り返ったリチャード・ロウが、そんな香澄《かすみ》の反応を意外そうに眺《なが》めていた。
香澄は、平静を装って首を振《ふ》る。
「……その必要はありません」
「なぜです? 現にあなたは、彼の監視《かんし》のために行動に大幅《おおはば》な制約を受けているはずですが?」
「ですが、昨夜は彼の協力によって、敵レベリオンの撃退《げきたい》に成功しました」
「……ふむ。では、彼を我々の特捜官《インスペクター》として正規に採用したほうがよいと?」
「いえ……彼は、何の医学的知識もない素人《しろうと》です。性格的にも、特捜官には不適格だと思います」
「それは彼が協力的でないということですか?」
「そうではありません。ですが……」
いつになく真剣《しんけん》な口調の香澄に、リチャードは特有の作りものめいた表情で微笑《ほほえ》みかけた。
「……わかりました。今回の件については、上層部に判断を一任します。それまでは、現状通り緋村《ひむら》恭介《きようすけ》を貴女の保護|監察下《かんさつか》におく。それでいいですね」
香澄はうなずいた。リチャードの言う保護監察とは、要するに恭介を監視し、命令に従わない場合|抹殺《まつさつ》しろということだ。たとえ殺さないまでも、記憶《きおく》消去や強制暗示などの処分を伴うこともある。だが、他《ほか》に方法はないのだ。超人的な戦闘能力を持つレベリオンと化した彼は、人間社会に無防備に解き放つわけにはいかない危険な存在なのである。
「しかし、忘れないでください、カスミ。緋村恭介が、人類に対する脅威《きようい》と認められた場合には、我々は彼を速《すみ》やかに処分しなければなりません。彼の。周囲の人間も含めて」
「わかっています……」
「では結構です……任務に戻《もど》りなさい」
香澄はリチャード・ロウに背を向けると、資料室を出た。
初秋の昼下がりだ。窓の外の雲一つない空は、どこまでも深く青い。
活気に満ちた校庭。どこか郷愁をそそる居心地のいい校舎。優しいクラスメートたち。
だが、そんな光に満ちた光景の中にも、必ずどこかに暗い影の部分は存在する。
彼女は、その闇《やみ》の世界に生きているのだった。
4
「あれ、転校生は?」
昼休みが始まるとすぐにやってきた潤《じゆん》が、恭介たちの教室を見回して開ロ一番そう言った。
「知らね。学食にでも行ったんじゃねえか?」
「しまった……そうきたか」
恭介が気のない声で答えると、潤が残念そうな表情を浮かべる。
彼の手には、購買部で買ったパンの袋が握られていた。どうやら今日は、香澄の顔を見ながらこの教室で食べるつもりだったらしい。だが彼のお目当ての彼女は、午前中の授業が終わると同時に姿を消してしまっている。
「それにしても、秋篠《あきしの》さんってすっげえ美人だよな。同じクラスで嬉《うれ》しいだろ、恭介《きようすけ》」
「まあな」
恭介は適当に相づちをうった。実態を知らないというのは幸せだよな、と心の中でつけ加える。控《ひか》えめで大人《おとな》しい美人転校生の正体が、鋼鉄《こうてつ》のドアを素手《すで》で引き裂《さ》く無感情|冷酷《れいこく》女だと知ったら、学校中の男子が女性|恐怖症《きようふしよう》に陥《おちい》りかねない。
少し遅《おく》れて臣也《しんや》もやってきたので、悠《ゆう》が近くにあった机を動かして四人が座れるテーブルを作った。恭介と潤はパン、悠と臣也は弁当だ。津島麻子《つしままこ》の手作りである臣也の弁当と比べても、タコのウィンナーやウサギ型の林檎《りんご》で彩《いろど》られた悠の弁当は可愛《かわい》らしい。悠の弁当は、一歳違いの妹が毎朝作っているという話だった。
「いいよな、あの転校生。うちのクラスの女全員と交換してくれないかな」
「そんなこと言っていいのか、臣也。津島にぶっ殺されるぞ」
「潤、てめ、密告《ちく》ったら殺す!」
「なら最初から言うなよ、そんなこと」
わいわいと騒《さわ》ぎながら昼食を平《たい》らげていく友人を見ながら、恭介はふうっとため息をついた。
それに気‘いた悠が、心配そうに口を開く。
「……恭介、暗いな。どうかしたのか?」
「あ、いや……悪い、ちょっと考え事……」
「ヤらしーことだろ?」
臣也の素早い突っ込みに、恭介は苦笑する。
「違うって。あのさ潤、お前らのクラスにいた、向坂《さきさか》南美《なみ》ってどんな子だった?」
「向坂か……」
潤と臣也の顔が曇《くも》った。彼らのクラスメートだった向坂」南美はニカ月ほど前に自殺している。
彼女の死は夏休み期間中だったということもあり大きな騒ぎにはならなかったが、潤たちは級友として葬儀《そうぎ》にも参列したはずだ。
「どんなって、普通の子だったよ。どっちかっていうと、あんまり目立たないタイプだ。真面目《まじめ》だったけどな」
「自殺するような感じには見えなかったな。文化祭実行委員とかやってたけど……悠も知ってるだろ?」
臣也に話をふられて、悠がうなずいた。彼は、クラス委員と掛け持ちで、恭介たちのクラスの文化祭実行委員をやらされている。人望がありすぎるのも考えものだ。
「うん。彼女、たしか去年も文化祭実行委員だよ。それで副委員長に任命されて、けっこう忙《いそが》しそうだった。それでプレッシャーを感じてたんじゃないかって。彼女がどうかした?」
「いや、ちょっとね……」
恭介《きようすけ》は、彼らの言葉を上《うわ》の空で聞いていた。頭の中に浮かんでいるのは、授業中に香澄《かすみ》から渡された連続射殺事件のレポートのことだ。
いかにも彼女らしい、タイプライターで打ったような無個性な筆跡《ひつせき》で、冒頭《ぼうとう》に書かれていたのが向坂《さきさか》南美《なみ》の名前。その後ろには、最初の犠牲《ぎせい》者という単語が踊《おど》っている。
遺書《いしよ》も動機もない向坂南美の死。それが自殺として処理された決め手は、駅構内にいた多数の目撃《もくげき》者の証言《しようげん》だった。列車がホームに滑《すべ》り込んだ瞬間《しゆんかん》、弾《はじ》けるように彼女は線路に飛び込
んだというのだ。そして、彼女の周囲に他《ほか》の人影がなかったと、その場にいた全員が断言した。
だが、恭介は考える。同じ学校の生徒が、ニカ月も経《た》たないうちに二人も変死している。それも恭介たちの比較的身近な人間が。
ただの偶然《ぐうぜん》で片づけることも不可能ではない。だが、香澄たちはそう思っていないようだ。
しかし、いくらレベリオンでも、衆人|環視《かんし》の中、自殺に見せかけて人を殺すことができるのだろうか? 銃《じゆう》を使えば銃声がするし、不審《ふしん》な傷|跡《あと》も残るだろう。駅の外から狙撃《そげき》するには命中率の高いライフルが必要だが、貫通力の高いライフル弾《だん》ではうまく彼女が線路に転落するとは限らない。たとえ成功したとしても、弾丸《だんがん》という言い逃《のが》れのできない証拠《しようこ》が残る。
不意に|見えない弾丸《インビジブル・ブリツト》≠ニいう単語を思いついて、恭介は背筋が粟立《あわだ》つのを感じた。すぐには思い出せないが、どこかで聞いた響《ひび》きだ。
レベリオン化した香澄の動体視力でも認識できない弾丸。そして、証拠として残らない弾丸。
だが、そんな弾丸を撃《う》ち出す生物がいるとは思えない。原型となる生物がいなければ、それを応用したトランスジェニック能力もあり得ないはずなのだ。となれば、やはり向坂南美の死と一連の事件は無関係ではないのだろうか?
恭介は、そう自分に言い聞かせようとする。その理由は、向坂南美のプロフィールに書き加えられてあった一文にあった。′坂南美――声楽部所属=B
「……恭介、聞いてるか?」
「え?」
臣也《しんや》に肩《かた》をつつかれて、恭介ははっと我に返った。
食事を終えた三人が、物思いに耽《ふけ》っていた恭介をじっと見つめている。
「あれ、なんだっけ?」
きょとんとした顔で訊《き》き返す恭介を見て、臣也たちが、はあ、と息を吐《は》いた。
「あのな……明日《あした》、麻子《まこ》の誕生パーティをするって話は覚えてるよな?」
「ああ。五時にハウス・オブ・ホリィだろ」
恭介は行きつけの喫茶店の名前をあげた。
明日《あした》は金曜日だが、模擬試験があるので少し早めに学校が終わる。ちょうど津島《つしま》麻子の誕生日だったので、テストの打ち上げを兼ねて、仲のいい連中で集まろうという計画を立てていたのだ。
「で、それに転校生を誘《さそ》ってくれって話」
「は? 転校生って、秋篠《あきしの》香澄《かすみ》のことか? 誘うって……俺《おれ》が!?」
自分を指差したまま、恭介《きようすけ》の表情が固まる。
ただでさえ、恭介は監視《かんし》だの協力しろだのと言われて香澄につきまとわれているのだ。この上、友人との団らんのびとときまで彼女に邪魔《じやま》されては、気の休まる暇《ひま》がないではないか。
「じょ、冗談《じようだん》じゃねえ。なんで俺があいつを誘わなきゃなんねんだよ!? 第一、他《ほか》の女の子たちが嫌《いや》がるだろ?」
「転校生を誘おうって言い出したのは、麻子《まこ》なんだよ」
臣也《しんや》が、恭介の言葉をあっさり否定する。
「真島《まじま》とかも賛成してる。彼女、まだクラスに親しい友人がいないみたいだから、みんな気を遣ってるのさ。で、なぜか一番仲がよさそうなお前に頼《たの》んでるわけ」
お前らの目は節穴《ふしあな》か、と恭介は叫びたい気分になる。どこをどう取り違えたら、恭介と彼女が仲良しに見えるというのだ。
「ぜったいイヤだ。俺は、学校の終わったあとまで、あの女の顔なんか見たくない!」
「俺は見たい」
間髪《かんぱつ》入れずに臣也が言った。潤《じゆん》もうなずく。
「俺は臣也と違ってフリーだからな。女の子が多いほうが嬉《うれ》しい。悠《ゆう》もそうだろ?」
「まあそうかな。クラスメートだし、嫌がる理由はないよ」
いたってマイペースな態度で悠が言う。悠の場合、香澄を誘うことよりも、恭介が嫌がるのを見て楽しんでるといった感じだ。
そんな悠を見て、臣也が思い出したように訊《き》いた。
「あれ。悠って、こないだ一年の女子に告白されてたじゃん。あれはどうしたんだ?」
「断ったよ」
悠はあっさりと答えた。恭介は知っていたので驚《おどろ》かなかったが、臣也がさも意外そうに叫ぶ。
「うそだろ!? すげー可愛《かわい》い子だったじゃん。もったいねー」
「うん、でも興味ないから」
「まあ、いっものことだからな」
潤が達観《たつかん》したような口調で言った。顔も頭もよくて人望も厚く、おまけにミーハー・ロックバンドのギタリストだ。女の子にもてても何の不思議もない。
高校生になってからだけでも、告白された回数は一〇回に近いはずだ。おまけに、それを毎回「興味ないから」の一言でふってしまっている。それを間近で見続けていれば、潤でなくてもそういうものだと納得するしかないだろう。羨《うらや》ましいとかいうレベルを超越しているのだ。
もっともそんな悠《ゆう》にも、大事にしている女性が一人だけいるのだが。
「っと、そろそろ行かないと」
そう言って、悠は立ち上がった。食べ終わった弁当箱を鞄《かばん》にしまい始めた彼を見て、恭介《きようすけ》が訊《き》く。
「帰るのか、悠?」
「うん、今日は早退する。届けは一応出してあるけど、誰《だれ》かに訊かれたらそう言っといて」
「ああ……わかった。いつも大変だな」
恭介はそう言って、教室を出ていく悠を見送った。
忙《いそが》しい彼の両親に代わって、悠は病弱な妹を月に一度病院に遵れていく役を引き受けている。
彼の妹は心因性の病気で、今は学校にも行かず自宅|療養《りようよう》中らしい。恭介は、悠が前に医者になりたいと言っていたことを思い出した。それもたぶん、彼の妹のためなのだろう。
ちゃんとみんな先のことを考えてるんだよな、と恭介は口の中でつぶやく。何だか、自分一人が取り残された気分だ。
「……恭介! 恭介って!!」
暗い気分に沈んでいた恭介は、再び臣也《しんや》につつかれて正気を取り戻《もど》した。
臣也と潤《じゆん》が、呆《あき》れたような顔で恭介をのぞき込んでいる。
「あ、悪い。なんだっけ?」
「大丈夫《だいなようぶ》か、恭介? お前、なんか昨日《きのう》あたりから変だぞ?」
「恋でもしたか?」
冗談《じようだん》めかして言う潤に、恭介は猛然《もうぜん》と首を振《ふ》る。
潤はにやにやと笑いながら続けた。
「まあいいや。とにかく、明日《あした》は転校生遵れてこいよ。津島《つしま》へのプレゼントは、お前の分まで用意しておいてやるからさ」
「だからヤだっつってんだろ。あの女を連れてくくらいなら、俺《おれ》は参加しないし」
「あっそう……」
臣也と潤が、顔を見合わせて笑う。
「そうそう、言い忘れてたんだけど、明日は草薙《くさなぎ》さんも来るらしいぜ」
「お前が来ないってんなら、来ないでいいんだけどな」
「て……手前《てめえ》ら……」
ぐぐぐと苦悶《くもん》する恭介を、二人は楽しそうに眺《なが》めている。どうやら恭介の片思いは、とっくに彼らにも見抜かれていたようだ。恭介は自分の境遇《きようぐう》を呪《のろ》いながら、泣く泣く彼らの要求を受け入れる。
「……声をかけるだけだからな」
5
「パーティ!?」
人気《ひとけ》のない校舎に、香澄《かすみ》の甲高《かんだか》い声が響《ひび》きわたった。
誰《だれ》もいない放課後の屋上。この季節に特有の広大な青空をバックに、彼女はフェンスにしなだれて立っている。
秋の気配《けはい》を運ぶ澄《す》んだ風に吹かれながら、恭介《きようすけ》は渋《しぶ》い表情でうなずいた。
「そういうこと。いちおう誘《さそ》うだけは誘ったからな」
「あなたねえ……自分の立場ってものがわかってるの? この街に潜《ひそ》んでいるレベリオンは、あなたがレベリオン化してるって知ってるのよ。もし他《ほか》の人と一緒《いつしよ》にいるところを襲《おそ》われたらどうするのよ」
香澄の口調は、非難《ひなん》しているというより、むしろ呆《あき》れているようだった。
彼女の指摘はもっともだと思うが、恭介にも都合というものがあも。現実|逃避《とうひ》と言われても仕方ないが、たまにはウィルスや射殺事件のことは忘れて普通の高校生らしく遊びたい。
「しょうがないだろ、前から約束してたんだから。だから、無理に参加してくれなくてもいいってば」
「駄目《だめ》よ。あたしには、あなたを監視《かんし》する義務があるんですからね」
「だったら一緒《いつしよ》に来ればいいだろ。それとも、何か他にすることがあるのかよ?」
鋭《するど》い香澄の視線が、一瞬《いつレゆん》だけ恭介から離れて逡巡《しゆんじゆん》する。
こちらから敵を発見する有効な手段はない。ついさっき、そう言ったのは香澄自身だ。
だからこそ、人気のない屋上に二人は残っている。
相手をおびき出すしかないのであれば、なるべく敵が襲撃《しゆうげき》をかけやすい場所にいたほうが手っ取り早いからだ。
しかし昨日《きのう》あれほど執拗《しつよう》だった敵が、今日はまるで姿を見せない。明日《あした》が模試であるということもあってか、こうしている間にも生徒のほとんどは下校してしまっていた。
「それにな、明日《あした》のパーティには、草薙《くさなぎ》も来るぜ」
「え!?」
「あんたが草薙を疑うのは勝手だけど、あいつがそんなことをする人間かどうか、直接会って確かめてみたらどうだよ?」
力強い口調でそう言ったものの、恭介にも萌恵《もえ》が犯人ではないという確固たる自信があったわけではない。河村《かわむら》雅人《まさと》のライブのこと、そして彼女が転校生であったということ、そして萌恵と同じ声楽部に在籍《ざいせき》していた向坂《さきさか》南美《なみ》のこと。これまで知らなかったいくつもの事実が、恭介の心を混乱させていた。
それでも恭介は彼女を信じていたかった。彼女がこれまで見せてくれた、あの特別な笑顔を疑いたくはなかった。彼女が犯人かどうかはっきりさせたいのは、むしろ恭介のほうだったかもしれない。
「……だめよ」
香澄《かすみ》が、彼女らしからぬ弱々しい口調で言った。
思いがけないその反応に。恭介《きようすけ》は唖然《あぜん》とする。
「なんでだよ。どうせこっちは、向こうの出方を待つしかないんだろ。だったら、パーティでもなんでも出歩いていたほうがいいんじゃないのか?」
「そう……それはそうよ……でも、あたし」
香澄の声が急に小さくなった。
「……服がないんだもの」
「はあ?」
場違いなシンデレラのような彼女の台詞《せりふ》に、恭介は気の抜けた声を出す。
香澄は頬《ほお》を赤くしながら、怒ったような口調で言った。
「あたし、制服と戦闘服しか持ってきてないの。パーティに着ていくような服なんて用意してないわ」
「いや、パーティっつってもサ店を借りきってクラスの連中と騒《さわ》ぐだけだから、そんな着飾っていく必要はないと思うぜ」
「だからって制服で行くわけにはいかないでしょ」
「まあ……そりゃそうだけど……」
言いながら、恭介は強烈な違和感に翻弄《ほんろう》されていた。
どうでもいいようなことを真剣《しんけん》に主張している今の香澄は、まるで普通の女の子のようだ。
そして、冷酷《れいこく》でつっけんどんな普段の彼女よりも、今の彼女のほうが何倍も扱いにくい。しどろもどろになりながら、恭介はとりあえず思いついたことを口にする。
「……じゃあ、今から買いに行けば?」
「なんで俺《おれ》が……こんな……」
三〇分後、ぶつぶつと文旬《もんく》を言いながら、恭介は駅前のショッピング・モールを歩いていた。
その隣《となり》には香澄の姿がある。土地|勘《かん》のない彼女のために、恭介は女子高生が好きそうな店を片《かた》っ端《ぱし》から案内させられているのだ。
端《はし》から見ればデートだと思われかねない光景だが、恭介の足取りは重かった。香澄にずっとつきまとわれているというのも気が重いが、恭介は女性と一緒に買い物に行くのが嫌いなのだ。
似たような店を延々《えんえん》と回らされるし、試着した服を似合うと誉《ほ》めないと怒られをし、挙《あ》げ句《く》の果てに荷物持ちをさせられる。姉のショッピングに付き合わされるたびに、恭介は二度と行くものかと固く心に誓《ちか》うのだ。しかし、結局いつも引きずり回される羽目《はめ》になっている。それは今日も例外ではない。恭介《きようすけ》は、そんな星の下に生まれてきた自分の運命を嘆《なげ》いた。
金曜日の夕方ということもあってか、駅前のショッピング・モールは混《こ》み合っていた。
香澄《かすみ》は、しっかりと恭介の袖口《そでぐち》をつかんで、少し遅《おく》れてついてきている。
知らない人間には、二人が仲のよい恋人同士に見えるのだろう。外見だけなら香澄はとんでもない美少女だ。すれ違う通行人が、みな足を止めて振《ふ》り返る。
そんな女の子を連れて歩いていること自体は、悪い気分ではない。しかし、実際には二人は恋人でも何でもないのだから、その優越感には一抹の虚《むな》しさがつきまとう。
「恋人どころか、上司《じようし》と部下っつーか、女王さまと下僕《しもべ》って感じだもんな……」
「え!? 何か言った?」
恭介のつぶやきを聞きつけて、香澄が訊《き》いてくる。恭介は、ぶるぶると首を振った。
「いや、なんでもないっす。それより、気に入った服はあったのかよ?」
「わからない……」
今度は香澄が首を振った。商店街に近づいたころから彼女は急に無口になって、何かに怯《おび》えているように、せわしなくあたりを見回している。
「……恭介が決めて」
「はあ? 何言ってんの、あんたの着る服を買いにきたんでしょうが」
「だって、日本の高校生の流行《はやり》の服なんて、あたし知らないんだもの……お願い」
「はあ……」
そんなものなのだろうかとは思いつつ、恭介は近くにあったファッション・ビルに向かった。
タウン情報誌などで取り上げられることの多いしゃれた建物で、恭介でさえ名前を知っている有名なブランドが軒《のき》を連ねている。それに、恭介たち以外にも多くのカップルが来店していて、何となく入りやすい雰囲気《ふんいき》だった。
「いらっしゃいませ」
若い女性の店員の挨拶《あいさつ》が響《ひび》くと、香澄は驚《おどろ》いたように身体《からだ》をすくませた。その反応を見て、恭介は、おや、と思う。
「あんた、ひょっとして、こういうところに買い物に来るの初めて?」
「そ、そんなことは……ない……けど」
自信なさげにつぶやく香澄を見て、恭介は少し唖然《あぜん》とする。凶暴《きようぼう》化したヴィルレント・レベリオンを相手に戦いを挑《いど》んだ少女とは、まるで別人のようだ。その変化が恭介には信じられなかった。よくわからないが、何かだまされているような気分だ。
「……これなんかどう?」
香澄は、近くのハンガーに掛けられていた上着をとって、自分の肩《かた》に合わせてみせる。強《きよう》烈《れつ》なフリルのついたびらびらのジャケット。そのすさまじい色《いろ》使いと、香澄の凛《りん》とした顔立ちとのギャップに、恭介は軽い頭痛を感じる。
「あんた……実はファッション音痴《おんち》か?」
恭介《きようすけ》が言うと、香澄《かすみ》は拗《す》ねたように顔を背《そむ》けた。
「失礼ね……だから恭介に選んでって言ったのに……」
「わかった……その理由がよーくわかった。あんた、身長は?」
「あ、五フィートと四インチ」
「……わかるか、そんな数字。一六〇センチちょっとくらいか」
恭介は適当にサイズのあたりをつけると、展示されていたマネキンを参考に選んだ服を一式、香澄に手渡した。
柔《やわ》らかな感じの色使いでまとめたのは、そのほうが彼女に似合うと思ったからだ。
香澄は文句《もんく》を言わずに受け取ると、いそいそと試着室のほうに向かった。心なしか、その足取りが弾《はず》んでいるように見える。
「今度はのぞかないでね」
「のぞくかっ!!」
怒嶋《どな》り返したあとで、恭介ははっとする。いつもの淡々《たんたん》とした口調で言われたので気づかなかったが、ひょっとして今のは彼女が冗談《じようだん》を言ったのではないかと思ったのだ。
「まさか……な…」
恭介はつぶやいて、店の隅《すみ》に移動した。女性向けのブティックに男が一人でいるのは、非常に居心地が悪くて気を使う。
所在なさげに立っている恭介に気を使ったのか、髪を金髪に染めた女性店員が近づいて話しかけてきた。
「可愛《かわい》い彼女ですね」
「え!?」
恭介は驚《おどろ》いて、店員の顔を見返す。恭介たちと何|歳《さい》も違わない、若い店員だ。恭介が照れているとでも思ったのだろう。金髪の店員は邪気《じやき》のない顔でにっこりと笑った。
「いや、俺《おれ》らそんなんじゃないですよ……それに、可愛いっすか、アレ?」
「可愛いですよお。さっきもね、あっちの女の子たちと、君たちを見て噂《うわさ》してたの。お似合いだねって」
「はあ……どうも……」
恭介は頭を下げた。営業卜ークだとはわかっているが、やはり誉《ほ》められると素直に嬉《うれ》しい。
「高校生だよね、二年生? いいですねえ、若くて」
「そっちだってまだ若いじゃないですか」
「いえいえ、あたしらなんかもうダメですよ。学生のころは早く大人《おとな》になりたいーって思ってたんだけど、今思えば、あと一〇年ぐらい高校生でいたかったわあ」
「……だけど、高校生もいろいろ大変ですよ」
恭介《きようすけ》は、まったく対策を立ててない明日《あした》の模試と、期限が間近に迫っている進路希望調査を思いながら言った。
「ははは、そーなんですよねえ」
店員が、笑いながらうなずく。それから彼女は、ふと遠い目をしてつぶやいた。悲しんでいるとも、懐《なつ》かしんでるともいえない、不思議な表情だ。
「でもやっぱりね、卒業しちゃうと、みんな変わっちゃうから」
「……そんなもんですか、やっば?」
恭介は、彼女の何気ない言葉に自分がひどく傷つくのを感じていた。
卒業すれば、生活だって変わる。仲のよい友人たちとも離ればなれになってしまう。そんなことはわかりきったことなのに、やはり誰《だれ》かに否定して欲しい気持ちがあった。
藩ち込んだ気分が顔に出てしまっていたのだろう。店員があわててつけ加える。
「あ、でもね。変わっていくのも悪いことばかりじゃないから、うん。とにかく、がんばってね!」
どこかで聞いたようなことを言いながら、別のお客に呼ばれて店員は離れていった。
「変わっていくのも悪いことばかりじゃない、か」
自分の腕《うで》を見つめて、恭介は店員の言葉を反芻《はんすう》する。だが、彼女もまさか、恭介たちが人間以外のものに変わってしまったのだとは思うまい。
そう考えると不意に恭介は悲しくなった。自分が、違う世界に足を踏《ふ》み入れたのだということが、今になってようやく実感できた。
着替えを終えた香澄《かすみ》が、試着室のカーテンを開けて出てくる。
「どう?」
香澄が恭介の前で両腕を広げてみせる。丈長《たけなが》のドレスシャツとスエードのスカート。少し大人《おとな》しすぎるかもしれないが、まずまず無難《ぶなん》な服装だ。
「あー、似合う似合う」
「真面目《まじめ》に見てよ」
「だから似合うって」
不安そうな表情の香澄に、恭介は投げ遣《や》りに言った。もともと美人でスタイルがいいのだ。
コーディネートさえ間違わなければ、たいていの服は着こなしてしまうだろう。
「……そう? じゃあ、こっちのも着てみる」
香澄はそう言うと、別の服を抱《かか》えて試着室にこもった。たいして乗り気じゃなかったくせに、現物を目にすると、やはりいろいろと目移りしてしまうのだろう。この調子では、彼女が満足するのは当分先のことになりそうだ。
「最初から、こうなると思ってたんだよな……」
試着室の外にぽつんと残された恭介は、あきらめたようにつぶやいた。
結局、香澄《かすみ》が買い物を終えたころには午後九時を回っていた。
駅前には予備校や塾も多いので、恭介《きようすけ》たちのほかにも制服姿の高校生は多い。同じ学校の制服を見るたびに、知り合いに会うのではないかと恭介はひやひやしていた。ただでさえ香澄と仲がいいと思われているのに、これ以上|噂《うわさ》になるのはまっぴらだ。
靴やカバンも揃《そろ》えたために、香澄の荷物は抱《かか》えきれないほどに増えている。もちろん、その半分以上を持たされているのは恭介だ。二人は駅のロータリーに座り込んで、帰りのバスを待っていた。
「ほら……」
次のバスまで時間があったので、恭介はクレープを買ってきて、一つを香澄に差し出した。
クレープを受け取った香澄が、不思議そうな顔で見上げる。
「……レベリオン化したせいかどうか知らないが、やけに腹が減るんだ。さっきおごってもらったメシだけじゃ足りなかった。あんたも同じだろう」
恭介が言うと、香澄が小さくうなずいた。
「ありがとう……でも、言ってくれればあたしが買ってきたのに」
「クレープ屋の屋台でクレジットカードが使えるかよ」
恭介が照れ隠《かく》しのぶっきらぼうな口調で答える。
香澄は買い物を全《すべ》てカードで済ませていた。アメリカン・エクスプレスのゴールド・カード。
どうせ統合計画局とやらから予算が出てるのだろうが、豪華《ごうか》なものだ。
そんな彼女に高校生の恭介が買ってあげられるのは、せいぜいこんなものしかない。
「じゃあ、これ。お返し……」
香澄がそう言って、ポケットから小さな袋《ふくろ》を取り出す。電子部品を入れるようなビニールパックに包まれていたのは、赤い石をはめ込んだ金色のピアスだった。
「プレゼントよ。あたしが選んだから、気に入ってくれるかどうかはわからないけど」
「俺《おれ》に?」
驚《おどろ》きながら、恭介はピアスを受け取った。彼女なりに恭介に気を使っていたのだと思うと、普段が普段だけに少し感動する。だが、ふと嫌《いや》な予感を覚えて、恭介は訊《き》いた。
「……中に発信器とか入ってるんじゃないだろうな?」
「入ってるわよ。あと、あなたのファージ変換を感知するセンサーも。あたしに二四時間つきまとわれたくなかったら、絶対にそれを外さないでね」
あっさりと首肯《しゆこう》されて、恭介は落胆《らくたん》した。考えてみれば、この可愛《かわい》げのない女が恭介へのプレゼントなど用意するはずがないのだ。
憤慨《ふんがい》する恭介の気持ちも知らず、香澄は無邪気《むじやき》にクレープを口に運ぶ。
「美味《おい》しい……」
「……だろ。この店は穴場《あなば》なんだよ。悠たちとも前はよく食べにきてたな」
「男の子同士でクレープなんか食べるの? なんかイヤ……」
「ほっといてくれ! ……顔のとこ、クリームついてるぜ」
「え、うそ!?」
恭介《きようすけ》に指摘され、香澄《かすみ》があわててハンカチを取り出す。そんな香澄を見ていると、恭介はふと、彼女が強力な戦闘力を持つレベリオンだという事実を忘れそうになる。
考えてみれば、彼女も恭介とほとんど変わらぬ年齢《ねんれい》なのだ。こんな事件に巻き込まれなければ、お互いごく普通の高校生として出会う可能性だってあったのかもしれない。
恭介は、香澄がなぜレベリオンになったのか、そのわけをまだ訊《き》いていなかったことを思い出す。
「……きたみたいね」
ロータリーに進入してきたバスを見て、香澄が立ち上がった。彼女は、学校に近いところにマンションを借りて一人で住んでいるのだと言う。恭介の家とは違う路線だ。
「あとはあたし一人で持てるから大丈夫《だいじようぶ》」
香澄は荷物を引き取ると、恭介に向かってふっと口元を緩《ゆる》めた。
彼女がそんな表情を浮かべたのは、出会ってから初めてのことだった。
その笑顔に、なぜか恭介はどきりとする。
「今日は付き合ってくれてありがとう……じゃあね」
香澄は背中を向けると、振《ふ》り返りもせずにバスに乗り込んだ。
その後ろ姿を呆然《ぼうぜん》と見送りながら恭介は、思わず頭に浮かんだ単語を必死で打ち消そうとしていた。
可愛《かわい》いじゃないか……
6
翌日、恭介がハウス・オブ・ホリィのドアをくぐったのは、約束の午後五時を五分ほど過ぎたころだった。昼間の模擬試験が、予定より長引いてしまったのだ。
高城《たかじよう》学園の麓《ふもと》近くにあるハウス・オブ・ホリィは、雑居ビルの半地下にあるこぢんまりとしたカフェバーだ。間接照明とアンティーク家具で彩《いろど》られた店内は女の子受けがよく、料理も安くてそこそこうまい。
クラプトンが流れる店内を抜け、奥のパーティールームをのぞく。持ち込みOKのその部屋《へや》には、しゃれたパンツスーツに身を包んだ真島加奈子《まじまかなこ》の姿があった。
「ちっす。早いな、真島。他《ほか》の連中はまだか……」
部屋《へや》に入った恭介を見て、部屋の飾りつけをしていた加奈子が首を傾《かし》げる。テーブルの上には、津島麻子《つしままこ》の誕生日を祝う豪華《ごうか》な花束。加奈子の実家は生花店だ。
「あれ、緋村《ひむら》一人? 香澄《かすみ》ちゃんは?」
「ああ、一回家に帰って着替えて来るって」
「ふうん……ねえ、あんたたちって付き合ってるの?」
割り切りのいい彼女ならではの率直《そつちよく》さで、加奈子《かなこ》が訊《き》いてくる。恭介《きようすけ》はきっぱりと首を振《ふ》った。萌恵《もえ》の親友の彼女にまで、誤解されてはたまらない。
「違う。全然違う」
「そう? でも、昨日《きのう》あんたたちが一緒《いつしよ》に買い物してたのを見たって子がいるよ?」
「げっ……いや、それは違うんだ。俺《おれ》は、ちょっとした事情であいつの面倒《めんどう》を見てるだけ」
向こうは自分が俺の面倒を見てるつもりだろうけどな、と思いながら恭介は言った。
まるで信じていない加奈子の気配《けはい》を察して、恭介はさらにつけ加える。
「それに俺には、他《ほか》にちゃんと好きな人がいるって」
「あっそうなの? ふうん……」
加奈子は、何か思い当たる節《ふし》でもあったのか、思わせぶりな態度で相づちをうった。
パーティの参加者は一二、三人ほどなので、余った椅子《いす》は壁際《かべぎわ》によせてある。そのうちの一つに彼女は腰《こし》掛けて、真面目《まじめ》な顔で恭介に向き直った。
「ねえ……萌恵《もえ》のことなら、いい加減な気持ちであの子にかまうのだけはやめてよね」
そう断言する加奈子を、恭介は愕然《がくぜん》とした表情で見つめる。
「な……なんで!?」
「あんた、まさか気づかれてないとでも思ってたの? ばかねえ」
「なんでそんなことがわかるんだよっ!? 俺は誰《だれ》にも言った覚えはないぞ」
「ばればれなのよ、態度で。だって視線がいっつも萌恵を追ってるんだもの。気づいてないの萌恵だけよ。あの子、そういうのは鈍《にぶ》いから」
「うそだろ……俺ってそんなに露骨《ろこつ》だったっけかあ?」
頭を抱《かか》える恭介を、加奈子は面自そうに眺《なが》めた。実際のところ、彼女は口で言うほど自信があったわけではなく、単にカマをかけただけだったのかもしれない。
今さらそれに気づいても、恭介にはどうすることもできないが。
「別に反対してるわけじゃないけど、あたし、あの子には幸せになって欲しいのよ。あの子、昔、いろいろあってつらい思いしてるからさ」
「……いじめのこととか?」
恭介が訊《き》くと、加奈子は少し驚《おどろ》いたような顔になった。
「知ってたの? そう……ひどかったらしいよ。なんか、生《い》け贄《にえ》みたいな感じで、とにかく誰でもいいからいじめてたいって集団がいたらしいの。萌恵以外にもね、クラスメートとか下級生とか……自殺|未遂《みすい》した人もいるんだって。言わないでよ、こんなこと他《ほか》の人に」
「ああ……」
恭介《きようすけ》はうなずいた。どうやら加奈子《かなこ》は、草薙萌恵《くきなぎもえ》をいじめていた集団というのが連続殺人ぞ殺された相手だということは知らないようだ。あるいは、知ってて黙《だま》っているのか。どちらにしても、彼女の萌恵に対する真摯《しんし》な友情は十分に伝わってくる。
「ま、あんたも萌恵に目をつけるあたり、女の子を見る目だけはあると誉《ほ》めてあげるわ。無駄《むだ》だと思うけど、がんばってね」
「……なんだよそれ。全然|励《はげ》ましになってねえよ」
恭介がふてくされた声で答えた。加奈子が、普段の明るい声で笑う。
その直後に、わいわいと声が響《ひび》いてドアが開いた。
「ごめんねー、遅《おそ》くなっちゃって」
そう言いながら現れたのは、草薙萌恵本人だった。
綺麗《きれい》にラッピングされた大きなケーキボックスを持っている。どうやら、彼女はケーキを焼いてくる係だったらしい。
ショートカットの前髪は、ビンで大人《おとな》っぽい雰囲気《ふんいき》にまとめられていた。考えてみれば、私服姿の彼女を見るのは初めてだ。魂《たましい》を抜かれたような顔で見とれていた恭介に気づいて、加奈子が横で笑っている。
萌恵に統いて入ってきたのは潤《じゆん》と臣也《しんや》。そのあとに、恭介の知らない麻子《まこ》の友人の女生徒が何人か続く。それから――秋篠《あきしの》香澄《かすみ》。
「バス停を降りたところで、一緒《いつしよ》になったの」
萌恵が恭介に説明した。いかにも親切な彼女らしい気遣《きづか》いだが、恭介は何と答えればいいかわからずに困る。ただ、恭介と香澄が親しい間柄《あいだがら》だと、彼女が思いこんでいるのは確実だ。
せめてその誤解だけは解いておかねばと恭介が口を開こうとしたとき、萌恵と恭介の間に割り込むような形で、香澄がついと近寄ってきた。
萌恵はその聞に、加奈子に呼ばれて行ってしまう。タイミングを失った恭介は、むっとして香澄を睨《にら》んだ。
「何のつもりだよ?」
恭介が訊《たず》ねると、香澄は不思議そうな顔で見上げてきた。
草薙萌恵を警戒《けいかい》して恭介と引き離そうとしたのかと思ったが、どうもそうではないらしい。
どうやら、特に用があって恭介の隣《となり》にきたわけではなさそうだ。
萌恵がケーキを広げ、加奈子たちが、その周囲に運ばれてきた料理を配置する。その様子《ようす》を見ながら、香澄はいつもの淡々《たんたん》とした口調で言った。
「テストどうだった?」
「いいわけないだろ。前日に全然勉強してないんだから」
恭介の嫌《いや》みを、香澄は軽く肩《かた》をすくめて聞き流す。それから彼女は、誰《だれ》に言うともなくぽつりとつぶやいた。
「……緊張《きんちよう》するわね。こういうの」
恭介《きようすけ》は驚《おどろ》いて彼女を見る。
一見しただけでは、香澄《かすみ》が緊張しているとはわからない。控《ひか》えめで大人《おとな》しい転校生を演じている彼女は、教室にいるときと何も変わりないように思える。だが、本人が緊張するというからには、彼女なりに緊張しているのだろう。少なくとも、普段の彼女ならそんな台詞《せりふ》は決して口にしない。
そう思うと恭介はなぜかおかしくなった。
「あんたでも緊張することがあるんだな?」
恭介が言うと、香澄はひどく傷ついたような表情を浮かべた。
「……あなたって、本当に失礼だわ」
パーティは、主役である津島麻子《つしままこ》本人の司会で始まった。
「あー、どもども。みんな、ありがとね」
麻子がバースディケーキのキャンドルを吹き消して、それを合図に全員が乾杯《かんぱい》する。どちらかといえば世話焼きの加奈子《かなこ》や萌恵《もえ》と違って、麻子はひたすらマイペースの人だ。今日も、みんながめかしこんできている中、一人だけジーンズにパーカという男の子のような格好《かつこう》をしてきている。それがまた、ロングヘアでおしとやかな印象の彼女によく似合っていた。
パーティルームの席の配置は、麻子を中心に女の子たちが固まっていて、恭介たち男子は端《はし》っこのほうに追いやられている。麻子の彼氏である臣也《しんや》も例外ではない。こんなとき、女子の結束は固い。
香澄はというと、萌恵に誘《さそ》われて彼女の隣《となり》に座っていた。にこやかに談話しているが、内心では相当神経をすり減らしていることだろう。恭介としては、萌恵がレベリオンでないという決定的な証拠《しようこ》を香澄がつかんでくれるのを祈《いの》るばかりだ。
「ごめん、だいぶ遅《おく》れた」
料理も一通り出そろい話が盛り上がってきたころ、一人|遅《おく》れていた杉原悠《すぎはらゆう》がやってきた。
「おそーい、杉原!」
「ごめんごめん。津島さん、誕生日おめでとう」
悠はそう言って、麻子に紙袋《かみぶくろ》を手渡した。その中身を恭介は知っている。臣也がドラムを演奏している姿を撮《と》ったビデオテープだ。麻子がそれを見て、嬉《うれ》しそうに笑う。
「あ、杉原くん……荷物、こっちに置こうか?」
女の子の一人が、悠に声をかける。ほんの少しだけ不自然な彼女の態度を見て、恭介は、彼女が悠のことを好きなのだと気づく。
もちろん悠は、そんなことを夢にも思っていないようだ。ああ、と気軽に返事をして、脱《ぬ》いだコートを彼女に渡す。女の子は、嬉《うれ》しそうにそれを畳《たた》んで自分の席の隣に置いた。
その様子《ようす》を、滑稽《こつけい》だとは思わなかった。きっと、草薙萌恵《くさなぎもえ》と話しているときの恭介《きようすけ》の態度も、周囲の人間の目には同じように映っていたに違いない。
「なるほどね……自分のすぐ近くにいる人間のことってのは、かえってわからなかったりするもんだな……」
自分でつぶやいた台詞《せりふ》に、恭介はかすかな違和感を感じた。忘れていた何かを、思い出したような気がしたのだ。だが、その思考は、パーティの喧躁《けんそう》にまぎれて幻《まぼろし》のように霧散《むさん》する。
「そうなんだよお。わかってくれるだろ、きょーすけ。俺《おれ》の気持ちがさあ」
恭介のつぶやきを聞きつけて、隣《となり》に座っていた臣也《しんや》が絡《から》んできた。彼の目はしっかりと据《す》わっており、吐《は》く息は強烈《きようれつ》に酒|臭《くさ》い。
「潤《じゆん》、ちょっと飲ませ過ぎじゃねえのか?」
「いや、俺はさっきから止めてるんだぜ」
臣也がこぼしそうになったタンブラーをあわてて奪《うば》い取りながら、潤が弱ったように言った。
会場を予約するときに身分を大学生ということにしてあったので、酒を注文することには支障《ししよう》はない。だが、あまりヘベれけに酔《よ》っぱらうとボロがでないとも限らないし、万一急性アルコール中毒で救急車など呼んだ日には大騒《おおさわ》ぎになる。
「めずらしいな、臣也がこんなに酔うなんて。何かあった?」
恭介の隣に腰掛けながら、悠が訊《き》く。
「ああ、ちょっとな」
「……津島《つしま》が、留学するんだと。ロンドンに」
恭介と潤が順番に言った。恭介たちも、麻子《まこ》の口から今それを聞いたところだ。悠が驚《おどろ》く。
「ロンドン?」
「ああ……つっても来年の話なんだけどさ」
「ああ、そうか。津島さん、前に翻訳家《ほんやくか》になりたいって言ってたね……」
恭介の説明を聞いて、悠は臣也が荒れている原因を悟《さと》ったようだ。付き合い始めたばかりの彼女が外国に行くと言い出したら、それは酔いたくもなるだろう。
「臣也はそれでいいのか?」
「……しよーがねえだろ……」
悠の言葉に、臣也はろれつの回らない口調で答える。
「自分の夢をかなえようと努力してるやつの邪魔《じやま》なんかできねえよ……惚《ほ》れた女が相手なら、なおさらだ」
がらにもなく気取った臣也の台詞《せりふ》に、潤が、ひゅうと口笛《くちぶえ》を鳴らす。
「お前もついていったら?」
我ながら無責任だと思いつつ、恭介は言った。臣也はぶるぶると首を振《ふ》る。
「……俺には、俺の夢があんだよ……」
ぐったりと椅子《いす》にもたれたままつぶやく酔いどれの友人を、恭介は心から格好《かつこ》いいと思った。
臣也《しんや》は昔から、将来は建築デザイナーになるのだと公言している。その夢を実現するために、彼は好きな相手と別々の道を行く決断をしたのだ。
そう思うと、恭介《きようすけ》たちはもう何も言えなくなる。
「そういえば、恭介は進路決めたのか?」
悠《ゆう》に訊《き》かれて、恭介は首を振《ふ》る。
「潤《じゆん》は?」
「俺《おれ》は就職組だな。親父《おやじ》の知り合いの店で修行させてもらって、夜は専門学校だ」
余《あま》った酒を調合した怪《あや》しげなカクテルを傾《かたむ》けながら、潤が答える。彼の実家は、市内でも有名な製菓店だ。五人兄妹の長男である潤は、しょうがねえな、って感じで家を継《つ》ぐことになったのだろう。週末に実家でバイトしているときの潤は、実はそれなりに楽しそうにしている。
「みんなけっこう考えてるよな……」
比較すればするほど自分自身が情けなく思えて、恭介は深いため息をついた。
すると突然、さっきまで寝ていたはずの臣也《しんや》が、むくっと起き出して叫ぶ。
「はいはい、俺からも質問ーっ、恭介と秋篠《あきしの》さんってどういう関係なんですかーっ?」
「ば、ばか、関係ねーだろうが! うるせえ、寝てろっ酔《よ》っぱらいっ!!」
恭介はあわてて、臣也の顔をクッションで殴《なぐ》りつけた。だが、時すでに遅《おそ》く、臣也の叫びを聞きつけた女の子たちが口々に叫ぶ。どうやら、彼女たちも訊きたくてうずうずしていたらしい。
「あー、あたしも知りたいーっ!」
「なんで二人伸良しなのー?」
「緋村《ひむら》くんが、ホームルームの時間にナンパしたってほんと?」
「彼のどこがよかったのーっ?」
その場にいた人々の視線が、恭介と香澄《かすみ》に集中した。
「あ、あたし、緋村くんのお姉さんと知り合いで……」
香澄が澄ました顔でしれっと嘘《うそ》をつく。恭介もすかさず相づちをうった。
「そ、そうなんだよ。そう、うちの姉貴の知り合いでさ。いやー偶然《ぐうぜん》だなー」
だが、麻子《まこ》たちの追及の手は緩《ゆる》まない。萌恵《もえ》の手前、恭介は彼女たちの興味本位の質間をひたすら否定し続ける。
「えーっ、怪《あや》しーっ!!」
「ほんとにそれだけ!?」
「ち、違うって、ほんと、絶対違うって……」
「あたし、昨日《きのう》二人で買い物してるの見たよー!」
「べ、別人。見間違い、気のせいっ!」
「はいはーい、もうキスとかしましたかーっ!?」
「えっ!?」
酔《よ》っぱらって分別のつかなくなった臣也《しんや》のとんでもない質問に、恭介《きようすけ》の返事が一瞬《いつしゆん》遅《おく》れた。
最初に出会った夜、口移しで自分の血を飲ませようとした香澄《かすみ》の姿が、フラッシュバックのように脳裏を横切ったのだ。
その不自然な♀ヤ≠ノ気づいて女の子たちが目を丸くする。「ばか」とっぶやいて、香澄が頭を抱《かか》えた。
「ち、違うんだーっ!!」
恭介の絶叫は、女の子たちの歓声と男性|陣《じん》の怒号《どごう》にかき消された。
7
盛り上がった一同は、結局カフェバーが閉店する間際《まぎわ》まで粘《ねば》って解散した。
他《ほか》の女子はみんな、門限、門限と叫びながらあわただしく帰っていったので、恭介はなし崩《くず》し的に香澄を送っていく羽目《はめ》になっている。
本来の目的からすれば、それは好都合だった。もし今日のパーティの参加者に敵のレベリオンがいるとすれば、帰宅途中の恭介や香澄を狙《ねら》ってくる可能性が高いからだ。
しかし、恭介としては不満が残る。香澄との関係を、草薙萌恵《くさなぎもえ》に誤解されたままだったからだ。真島加奈子《まじまかなこ》がフォローしてくれるという可能性もないではないが、夕方の彼女の口|振《ぶ》りでは、あまり期待できそうにない。
香澄が歩きたいといったので、二人は川沿いの小綺麗《こぎれれい》な歩道を歩いている。火照《ほて》った肌《はだ》に、湿った風が心地よい。
「それで結局、草薙がレベリオンだって証拠《しようこ》はあったのかよ?」
対向車のヘッドランプに目を細めながら、恭介が訊《き》く。
隣《となり》を歩いていた香澄は、無言のまま首を振った。
「わからない。せめて、彼女がどこか怪我《けが》でもしてくれれば見極めようもあるんだけど……」
「あんたなあ……」
物騒《ぶつそう》なことを平気で口にする香澄に、恭介は呆《あき》れる。
たしかに、レベリオン細胞の持つ治癒《ちゆ》能力は、人間に擬態《ぎたい》しているプロ・レベリオンを見分けるのに有効な手段だ。だが、ほっといても治《なお》るような浅い傷では意味がないし、かといってレベリオンで巷い普通の人間に深い傷を負わせるのは危険すぎる。それに、自分の正体がばれたのを知った犯人が自暴自棄《じぼうじき》になって暴れ始めたら、周囲の人間にも被害が及びかねない。
香澄もそれを慮《おも》って、強硬《きようこう》な手段に出られなかったのだろう。
「……草薙以外の人間が犯人じゃないって可能性も検討してくれよな」
「それはリチャードが調べてるわ。でも、高城《たかじよう》学園の関係者が、R2ウィルスの流出に関与していることだけは間違いない」
「なんでこんな地方都市の公立学校に、R2ウィルスが流れてきたんだろうな……」
恭介《きようすけ》は、そう言って首を傾《かし》げる。香澄《かすみ》は答えない。彼女たちにもその理由は把握《はあく》できていないのだろう。それがわかっていれば、犯人の特定もできるはずだ。
「あとは……動機ね。河村《かわむら》雅人《まさと》や向坂《さきさか》南美《なみ》を殺すのに十分な動機があれば、そこから切り崩《くず》していけるかもしれない」
「動機か……河村|先輩《せんぱい》たちが死んで得をした人間ってことだよな……」
R2ウィルスの正体を知る者であれば、レベリオンの力を使って犯罪を犯せば統合計画局が捜査《そうさ》に乗り出してくることもわかっていたはずだ。そのリスクを冒《おか》してまでも彼らを殺さなければならない理由とは何だろう。
恭介は黙《だま》って首を振《ふ》る。
三人の女生徒が死によっていじめは影を潜《ひそ》めたかもしれないが、向坂南美や河村雅人の死では何も変わらなかった。彼らの死で同級生が得られる利益など、ほとんど何もないはずだ。
香澄も同様に肩《かた》をすくめていた。恭介がちょっと考えてわかる程度のことならば、自分はとっくに事件を解決しているとでも言いたげだ。
それは実際その通りだろう。恭介は、つい数日前まで、R2ウィルスの存在すら知らなかったのだから。だが逆に、部外者の香澄たちにはわからないことが、自分にはわかるかもしれないと、恭介は思う。
「……今日のところは、襲撃《しゆうげき》してくる気配《けはい》はないみたいだな」
「そうね。でも、油断しないで。あたしのマンションにはセキュリティ・システムを張り巡《めぐ》らせてあるけど、あなたの家は無防備だわ……いっそのこと、事件が解決するまで、あなたはあたしの部屋《へや》に住むほうがいいかもしれない」
香澄は、平然とした態度で恐《おそ》ろしい提案をする。恭介は思わず後退《あとずさ》った。ただでさえ周囲に誤解されているというのに、この上、同棲《どうせい》しているなんて噂《うわさ》がたったら身の破滅《はめつ》だ。
「いいーいいです。遠慮《えんりよ》します。結構です!」
恭介のあわてぶりを見て、香澄も自分が口にした言葉の意味を悟《さと》ったらしい。ばつが悪そうに目を逸《そ》らしてうつむいてしまう。
「……そういうイミじゃなかったんだけど」
「い、いや。わかってる。それは、わかってるけど……」
香澄が、柄《がら》にもなく照れたりするので、恭介は余計に焦《あせ》ってしまう。混乱する恭介を見て、彼女はくすっと小さく笑った。
「――夢」
「え?」
「あたしの将来の夢はなにかって訊《き》いたよね。教えてあげる……あたしね、普通の人になりたかったの」
香澄《かすみ》は、そう言って空を見上げる。
青自い月の光がほのかに彼女の横顔を照らした。吐《は》く息が白い。きらきらと輝《かがや》く淡《あわ》い結晶が、粉雪のように彼女の頼《ほお》に降り積もって消える。
「あたし自分の顔が嫌《きら》い。ほんとは草薙《くさなぎ》さんみたいな可愛《かわい》い人になりたかった。こんな力もいらないから、普通の女の子と同じように学校に行って、普通に暮らしていたかった……」
「香澄……」
あっさりとした彼女の口調が、逆に彼女の苦悩の深さを表していた。
いつも超然としていた香澄の思いがけない告自に、恭介《きようすけ》の胸が痛む。彼女だって、好き好《この》んでレベリオンの力を手に入れたわけではない。自ら望んで、戦いに身を投じたわけではなかったのだ。そんな自明のことに思い至らなかった自分を、恭介は恥《は》じた。
そんな恭介の気持ちとは裏腹に、香澄は幸せそうに微笑《ほほえ》む。たぶん、本人でさえ気づいていない無意識の微笑。
「だから、今日は楽しかったわ……夢が、少しだけかなったような気がした。誘《さそ》ってくれて、ありがとう」
香澄はそう言って、道路の向かい側にある建物を見上げた。建造されたばかりの新しい高級マンション。どうやら、彼女はそこに住んでいるらしい。
単に賛沢《ぜいたく》をするためにそのマンションを選んだのでないことは、すぐにわかった。高城《たかじよう》市のほぼ中央に位置し、市街を見渡せる高層マンション。外国人が多く出入りしても、どれだけ警備を厳重にしても、この豪華《ごうか》な建物ならば怪《あや》しまれまい。おそらくは、彼女だけでなく、リチャード・ロウや他《ほか》のエージェントたちもこの建物を拠点《きよてん》にしているのだろう。
「あなたの家まで、車で送っていくわ」
「いや、いいよ。まだバスが動いてる時間だ」
「そう……じゃあ、また明日《あした》、学校で」
香澄はそれだけ言うと、恭介に背を向ける。その後ろ姿がどこか寂しそうで、恭介は思わず叫んでいだ。
「香澄!」
彼女が、怪訝《けげん》な表情で振《ふ》り返る。
「あんたは……たぶん、自分で思ってるよりずっと普通の女の子だよ……だから……」
「……だから?」
問いかえされて恭介は言葉に詰《つ》まった。香澄は、いつもの冷淡な表情に戻《もど》っている。
「だから……その……もうちょっと可愛らしくしろよな」
自分でも何を言えばいいのかわからないまま、恭介はうっかりと口を滑《すべ》らす。香澄の表情が、険悪《けんあく》なものに変わる。
「どうせそうでしょうよ。可愛《かわい》げがなくて悪かったわね」
「あ、いや……そうじゃなくてさ」
「失札しました。じゃあね、おやすみなさい」
香澄《かすみ》はそう言い残すと、さっさと走り去ってしまった。
恭介《きようすけ》は、半分は意固地《いこじ》な彼女に、残りの半分は自分自身に向けて、ため息をつく。
考えてみれば、自分の無責任な言葉なんかで彼女が救われるわけもないのだ。それを口にするのはただの自已満足でしかなかった。
「ったく……俺《おれ》は何をやってるんだろうな……」
恭介はつぶやいて、バス停のほうへと歩き始める。五分も歩けば、恭介の自宅に通じているバス路線にぶつかるはずだ。
出会ったばかりのころに比べれば、香澄の印象はだいぶよくなっている。無表情な彼女が何を考えているのかも、少しずつわかるようになってきた。だが、それはせいぜい悪印象を抱《いだ》かなくなったというレベルで、萌恵《もえ》と話しているときのような、ときめくような感じはない。しかし現実には、恭介は彼女と組んで、その草薙《くさなぎ》萌恵を疑っている。恭介には、そんな自分が、ひどく嫌《いや》な人間に思えてきた。
恭介は、明《あした》日からは自分なりのやり方で犯人を探そうと決意する。それが、死んだ河村《かわむら》雅人《まさと》のためでもあり、萌恵のためでもあり、ひいては香澄のためにもなるはずだ。
「問題は、具体的にどうやって犯人を探すかってことだな……」
そう口にした瞬間《しゆんかん》、恭介は風を切り裂《さ》くような鋭《するど》い音を聞いたような気がした。
直後に、恭介の真横にあった自販機のライトが砕《くだ》け散る。
――銃撃《じゆうげき》!?
気づいたときには、恭介の身体《からだ》が反応していた。人間の姿に擬態《ぎたい》していたレベリオン細胞が活性化し、反応速度が拡大する。夜だというのに、周囲の様子《ようす》がはっきりと見えた。獲物《えもの》のいかなる動きも見逃《のが》さぬ、狩人《ハンター》としての瞳《ひとみ》だ。今の恭介になら、飛来する弾丸《だんがん》をつかみ取ることすらできるに違いない。
だが、その恭介にさえ、敵の攻撃《こうげき》を見切ることはできなかった。
「くっ!?」
鋭《するど》い擦過音《さつかおん》とともに、恭介の右|肩《かた》が鮮血《せんけつ》を噴《ふ》く。続いて、左肩。
致命傷ではない。かすり傷だ。
なぶり殺しにしようとしているわけでもない。これは警告だ。いつでも、恭介を殺せるという警告。圧倒的な力の差を見せつけ、恭介に刃向《はむ》かおうという気を起こさせないようにしている。正体不明の攻撃に、恭介は成す術《すべ》もない。
銃撃じゃないのか――!?
消音器《サイレンサー》をつけたからといって、拳銃《けんじゆう》の音を完全に消せるものではない。それに、レベリオンの反応速度をもってしても、飛来する弾丸《だんがん》を見極められないのは不可解だ。
しかし、この破壊力は銃弾《じゆうだん》以外の何物でもない。香澄《かすみ》が言っていたように、何かを投げつけただけでは、これほどの破壊力を実現するのは不可能だ。たとえレベリオンの力をもってしても。
「くっそおおおおおおっ!!」
激しい屈辱《くつじよく》を感じながら、恭介《きようすけ》が怒鳴《どな》る。
香澄がブラスティング・ハウルと呼んだ恭介のトランスジェニック能力が使えれば、反撃《はんげき》できたかもしれない。だが恭介はまだ、その力を使いこなすことができないのだ。今の恭介の声は、ただの苦し紛《まぎ》れの叫びでしかない。
絶え間なく続く銃撃《じゆうげき》は、恭介の背後にあった自販機を鉄クズに変えて、ようやく途絶えた。
月光に照らされて、走り去っていく影が映し出される。
「ま、待ちやがれっ!」
恭介はその跡《あと》を追った。無駄《むだ》だということはわかっている。能力が使えない恭介では、たとえ追いつけても、敵を倒すことはできない。返り討ちにあうのが関の山だ。
それでも恭介は追った。せめて敵の顔だけでも見ないことには、一方的に脅《おびやか》されるのには我慢《がまん》できない。
しかし、同じプロ・レベリオンの能力を持つ相手に追いつくのは不可能だった。敵が恭介を狙撃《そげき》するのに使った雑居ビルの屋上にたどり着いたときには、すでに相手の姿は消えている。
「ちっくしょう……」
恭介は捻《うな》って、腹立ちまぎれにコンクリートの壁《かべ》を殴《なぐ》りつける。
とそのとき、恭介は、その壁から真新しいラッカーの匂《にお》いが立ち上っていることに気づいた。
うちっぱなしのコンクリート壁に、缶《かん》スプレーによる短い文章が殴《なぐ》り書きされている。
「これは……」
わざと乱暴に書いたらしいその文字を読んで、恭介は呻《うめ》いた。
それは、犯人から恭介に宛《あ》てられたメッセージだったからだ。
アキシノカスミに近づくな!
滲《にじ》んだラッカースプレーの筆跡《ひつせき》は、まるで犯人が自らの血でしたためたような生々《なまなま》しい真紅《しんく》、だった。
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第四章
叫び
〜Silent Scream〜
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恭介《きようすけ》は、ひどい寝不足のまま土曜日の朝を迎えた。
表向きは週休二日制が導入されている高城《たかじよう》学園だが、実際には補講《ほこう》という名目で土曜日も登校しなければならない。腫《は》れぼったい目をこすりながら、恭介は起き出してシャワーを浴びる。
眠《ねむ》れなかったのは、もちろん昨夜の敵襲《てきしゆう》が原因だ。
これまで問答無用で殺人を繰《く》り返してきた犯人が、なぜか恭介にだけは警告のような真似《まね》をした。そして、香澄《かすみ》に近づくなという、その理由が、いくら考えてもわからない。
香澄にもらったピアスが恭介のファージ変換を感知して信号を発したらしく、昨夜、犯人を取り逃がした直後に彼女も現場に駆《か》けつけてきた。しかし、破壊された自販機を調べてみても、敵の能力を特定できるような手がかりは何も得られていない。
恭介の気分は重かった。敵のレベリオンが香澄の名前を知っていたということで、犯人は高城学園の関係者だという香澄の説が裏付けられてしまったからだ。
恭介が着替えて出てくると、杏子《きようこ》はすでに出勤したあとだった。
恭介のぶんの朝食は用意されていたが、台所のシンクには使いっぱなしのフライパンが突っ込まれている。どうやら、後片付けはお前がやれ、ということらしい。
恭介《きようすけ》は一人で朝食をすませ学校へと向かった。
土曜日に行われるのは正規の授業ではなく、プリントが主体の自習みたいなものだ。朝のホームルームの時間に間題用紙を渡されて、あとで解答と解説が配られる。テストと違って自己採点方式なので、受験を間近に控《ひか》えた三年生ならともかく、ほとんどの生徒は好き勝手なことをして過ごしていた。
「緋村《ひむら》ー、おはよー」
睡眠不足を解消するため居眠《いねむ》りをしていた恭介を、脳天気な声が叩《たた》き起こす。まぶたをこすりながら顔を上げると、恭介をのぞき込んでいたロングヘアの少女と目があった。
「……なんだ、津島《つしま》か」
「すいませんねえ、津島で」
麻子《まこ》は笑いながら、恭介の机に腰《こし》掛ける。それから、彼女はきょろきょろと教室の中を見回した。誰《だれ》かを捜《さが》しているようだ。
「杉原《すぎはら》は?」
「生徒会室。文化祭実行委員の会議だってさ。悠《ゆう》に何か用?」
「あ、そうなの? 授業出なくていいんだ、いいなあ。たしか、あの会議、生徒会の予算でお菓子が出るのよね」
麻子はうらやましそうに言ってから、続けた。
「じゃあ、緋村さ、あとで伝えといてよ。あんたもだけど、臣也《しんや》から伝言。文化祭でやる曲の練習、明日《あした》の五時にスタジオ予約したって」
「あ、そう。場所は?」
「いつものとこって言えばわかるって言われたけど?」
「|H・S《ホツト・スポツト》か……」
恭介は、郊外にある貸スタジオの名前をつぶやく。閉鎖《へいさ》されたライブハウスを布内の楽器店が買い取って、アマチュアバンドの練習用に貸し出している場所だ。設備は古いが、そのぶん使用料金が格段に安い。
「ね、それよりさ……」
麻子が興味|津々《しんしん》といった眼差《まなざ》しで、恭介に顔を近づけてくる。
「昨日《きのう》さ、あのあと、どうなった?」
「あのあと?」
「香澄《かすみ》ちゃん」
麻子は、その名前をわざとゆっくり発音した。恭介は思わず間抜けな声をあげる。
「はあ?」
「もう……せっかくあたしたちが気を利《き》かせて二人きりにしてあげたのに、何もなかったの?」
「あるわけねえだろ。余計なことすんじゃねえよ」
「なーんだ。緋村《ひむら》って、意外と奥手ねえ」
麻子《まこ》が、心底残念そうな顔で言った。恭介《きようすけ》は頭を抱《かか》える。
「……なんでどいつもこいつも、俺《おれ》とあいつをくっつけようとするんだ!?」
「なに照れてんのよ」
「照れてねえよ!! お前ら、絶対なにか勘《かん》違いしてるぞ!」
「そんなこと言って、他《ほか》の人にとられてもしらないわよ」
麻子が、意味ありげな口調でつぶやく。彼女の視線の先には、香澄《かすみ》の机があった。だが、その席には彼女はいない。
「……あれ、あいつどこ行ったんだ?」
「ふふん、あたし見ちゃったのよねえ。香澄ちゃんが朝来たときにさ、彼女の靴箱に手紙が入ってたの」
「手紙?」
訊き返すまでもなかった。靴箱に入っている手紙といえば、ラブレターと相場は決まっている。もちろん香澄の外見に惑《まど》わされたどこかの男が、そういうものを書いたとしても不思議はない。だが、香澄がそんなものに律儀《りちぎ》に対応するというのが、恭介にはむしろ不思議だった。
恭介の知る彼女なら、きっぱりと無視するか、読まずに突き返すかするような気がしたのだ。
それとも、彼女があんな冷たい態度をとるのは、恭介に対してだけなのだろうか?
それはそれで、なんとなく腹立たしいことに思える。
「お、悩んでる悩んでる」
考え込んだ恭介を見て、麻子が楽しそうに冷やかした。
2
初秋の空は、怖《こわ》いくらいに澄んでいた。
一片の雲も存在しない青空を見ていると、天地の感覚を喪《うしな》って吸い込まれそうな気分になる。
校庭に吹く風は、少し肌《はだ》寒かった。いちおう授業中ということもあってか、学園内は静かなものだ。校舎の外に人影はない。
体育館の裏には、古いバスケットリンクだけがぽつんと残されている。雨ざらしになっているフープには、片方だけにしかメッシュがついていなかった。
「ふう……」
香澄は、薄紅《うすべに》色の便せんをたたむと、制服のポケットに突っ込んだ。今朝《けさ》、昇降口の靴箱に入っていたものだ。いまどきラブレターでもないだろうと思っていたが、手紙の内容はさらに前近代的なものだった。果たし状、だ。
差出人の江崎綾《えざきあや》は、指定した場所で先に待っていた。
「よく来たわね」
きつい口調で、綾《あや》が言う。
香澄《かすみ》は黙《だま》って綾を観察した。
少し派手めな髪型も、取り立てて目立つわけではない。うっすらと化粧《けしよう》をしているが、大人《おとな》びた彼女の雰囲気《ふんいき》にはよく似合っている。
どこにでもいるごく普通の女の子だ。香澄の描いていた犯人像からはまるで外れているし、そもそも、彼女が真にレベリオンならばこんなところに香澄を呼び出す必要性はない。
失敗したかな、と香澄は思う。
普通なら無視するような手紙だったのだが、何か手がかりになればと来てみたのだ。彼女が事件と何の関わりもない人間なら、相手をするだけ時間の無駄《むだ》である。おおかた、自分と恭介《きようすけ》が親しくしているのが気に入らないとか、そんな理由だろう。
「……言われたとおり、恭介には内緒《ないしよ》にしておいたわ。で、何の用?」
あまりやる気のない口調で香澄が言った。
恭介、と呼び捨てにした瞬間《しゆんかん》に、綾の目つきが鋭《するど》くなる。
「緋村《ひむら》センパイに近づかないでください」
「どうして?」
ばかばかしいなと思いながら、香澄は訊《き》いた。
もし彼女が恭介のことを好きなのであれば、恋敵を排除《はいじよ》するのに理由など必要ないだろう。
そして、それ以外に綾が自分を呼び出す理由を思いつかない。自分と恭介が、そういう関係ではないと、どうやって説明すれば彼女は納得してくれるだろうか?
そんなことを考えながら、香澄は彼女の答えを待つ。
だが綾の返答は、香澄の意表をつくものだった。
「ある人が、あなたと緋村センパイが一緒《いつしよ》にいることを望んでいないからです」
「……どういう……意味!?」
香澄の脳裏に、恭介が昨日《きのう》遭遇《そうぐう》したという未確認レベリオンのメッセージが蘇《よみがえ》る。ヤツもまた、自分と恭介が一緒にいることを望んでいない。
「誰《だれ》なの、あなたにそう言ったのは?」
「あなたには関係ありません」
「あたしを呼び出したのも、その人の意志?」
「いいえ。あたしが勝手にやったことよ。そんなことより、早く返事を聞かせなさいよっ!」
綾が怒鳴《どな》った。香澄はひるまない。足を踏《ふ》み出して綾に近づく。
「……嫌《いや》だと言ったら?」
「殺すわよ、あんた」
押し殺した声で言うと、綾は制服のポケットから何かを取り出そうとしだ。その腕《うで》を、香澄がつかむ。レベリオン化した香澄のスピードに、綾は対応できない。彼女の掌《てのひら》から、赤い錠《じよう》剤《ざい》がばらばらとこぼれる。
「これは……!」
彼女が落とした錠剤《じようざい》に、香澄《かすみ》は見覚えがあった。転校してきた最初の日に、屋上で交戦した佐久間秀明《さくまひであき》らが噛《か》んでいたあの薬だ。
「放しなさいよっ!!」
香澄に腕《うで》をつかまれたまま、綾《あや》が暴れる。だが、普通の人間である彼女に、香澄をふりほどくほどのパワーはない。
どうする――このまま、スクリーミング・フイストで眠《ねむ》らせるか!?
生身《なまみ》の人間にトランスジェニック能力を使うことを、香澄は一瞬《いつしゆん》ためらった。その瞬間《しゆんかん》、人間ばなれした咆吼《ほうこう》が轟《とどろ》き、香澄の耳朶《じだ》を打つ。
「――!?」
体育館の窓ガラスを打ち破って姿を現したのは、制服姿の女生徒だった。ガラスの破片で傷つき全身を朱《しゆ》に染めながら、彼女たちは香澄たちへと飛びかかる。
「ヴィルレント・レベリオン!!」
綾を突き飛ばし、香澄は自ら後方に跳《と》んで敵の攻撃をかわした。
香澄の前に降り立った女生徒は二人。校章の色は一年生のものだ。香澄の知らない顔――おそらく綾の友人だろう。万が一の場合に備えて、香澄をカずくで排除《はいじよ》するために待機していたのに違いない。
R2ウィルスの中毒症状により、彼女たちの肉体は限界を超えたカを発揮している。筋肉は骨格そのものを歪《ゆが》めるほどに収縮《しゆうしゆく》し、脈拍数は軽く三O〇を突破しているはずだ。人間の細胞が、進化したホルモンの要求する力に耐えきれず、崩壊《ほうかい》を始めている。それは超人的な戦闘能力を手に入れるための、あまりにも大きな代償《だいしよう》であった。
「……なんてことを!!」
香澄は呻《うめ》く。
彼女たちは、香澄と戦うために自らR2ウィルスに感染した。つまり、R2ウィルスの正体を知っていることになる。それが、どのような結果を招くのか理解してなお、ヴィルレント化することを選んだのだ。
「あんたなんかに……邪魔《じやま》はさせないわ」
綾が叫ぶ。彼女の言葉の最後はかすれていた。香澄がヴィルレント化した少女たちに気をとられて目を離した隙《すき》に、綾は再び取り出した錠剤を飲み下していたのだ。
早くも血流量が増大し血管が太く浮き出た彼女の姿を見て。香澄は愕然《がくぜん》とする。
いくら彼女たちがR2ウィルス製剤を欽んだとしても、発症するのが早すぎる。考えられる理由はひとつだけ――彼女たちは、これまでも慢性的に薬を摂取《せつしゆ》したことがあるのだ。
香澄は、嘆《なげ》きにも似たため息を漏《も》らす。
ファージ変換した両|腕《うで》が、水晶のような輝《かがや》きを放ち始める。スクリーミング・フィストの輝きだ。彼女たちを救う手段は、香澄《かすみ》にはもう他《ほか》に残されていない。
綾《あや》たちが咆吼《ほうこう》した。
猛々《たけだけ》しい狂気の叫び。
そして美しく哀《かな》しい響《ひび》き。
彼女らの声は、香澄の耳からいつまでも離れなかった。
3
「感染者の身柄《みがら》は、とりあえず保健室に収容しました」
香澄と渡り廊下《ろうか》で合流したリチャード・ロウは、要点だけを淡々《たんたん》と伝えた。
いちおう授業中だが、自習時間を使って二者面談などが行われることもあるため、香澄が廊下を歩いていても見咎《みとが》められることはない。それに、アメリカ帰りの香澄とAETのリチャードが英語で話しているのを、不思議がる者はいなかった。
「夜になって他《ほか》の生徒が帰宅したあとに搬出《はんしゆつ》します。それまでの護衛はお願いできますね、カスミ?」
香澄はうなずく。
江崎綾《えざきあや》たちとの戦闘による肉体的な疲労は、ほとんど残っていない。だが、精神的には少なからず消耗《しようもう》していた。もっとうまく立ち回っていれば、江崎綾だけでも救えたかもしれないという後悔がある。
だが、今はそれを悔いている場合ではなかった。ようやく、犯人につながる手がかりを手に入れたのだ。
「念のために、授業が終わりしだい学校関係者は全員帰宅させてください。生徒も教師も……」
「目標《ターゲツト》が、また襲撃《しゆうげき》してくると?」
「ええ、確実に」
香澄め言葉に、リチャード・ロウは説明を求めない。彼らの関係に要求されるのは結果だけだ。憶測《おくそく》も、判断の根拠《こんきよ》も、さして重要なことではない。愛も友情も、善悪も正義も、それら人間的な感情を排除《はいじよ》したところで、統合計画局は動いている。
「緋村《ひむら》恭介《きようすけ》には何と伝えますか?」
リチャード・ロウの青い瞳《ひとみ》が、香澄を見下ろす。感情をたたえぬ、全《すべ》てを見透かすような瞳。
それはどこか、聖職者のそれに似ている。
「伝える必要はありません。すべてが片付いたら、あたしが説明します」
「……高城《たかじよう》学園内部には予想以上の潜在《せんざい》的感染容疑者がいます。もはや、あなた一人のカでは限界でしょう。これ以上、緋村《ひむら》恭介《きようすけ》にかまっている場合ではないのではありませんか?」
「……どういう意味?」
「彼を不確定要素のまま放置するのはリスクが大きすぎる。彼は、統合計画局で教育を受けさせるべきです。さもなくば、抹殺《まつさつ》を」
「リチャード……恭介は、被害者なのよ。彼には、普通の人生を送って普通に幸せになる権利があるわ!」
「しかし、彼の肉体はもはや人間のものではない。なぜです、カスミ? 統合計画局が抱《かか》える特捜官《インスペクター》のほとんどは、彼と同じようにレベリオン犯罪によって大事な人を奪《うば》われ、自らも人間としての生を失った者ばかりだ。なぜ彼だけを特別視するのです?」
「それは……」
香澄《かすみ》は言葉を失った。リチャードの質問は、香澄自身がこの数日間|抱《いだ》き続けていた問いと同じものだったからだ。
いや、本当はわかっていた。恭介に、惹《ひ》かれていたからだ。自分が失ってしまった多くのものを、今も持ち統けている彼を香澄に与えてくれた彼をまぶしく感じていたからだ。
プロ・レベリオンはもはや人間ではない。人間以上の存在とは、すなわち人間以外のものである。人類は、自分たちより優れた生物を認めない。
その香澄の正体を知ってなお、彼は普通の女の子と同じように接してくれた。
傷ついた身体《からだ》を介抱《かいほう》し、冗談《じようだん》を言い、笑い、ときには怒る。
香澄にとって、それはちょっとした事件だった。誰《だれ》かと一緒《いつしよ》に食べる食事が楽しいなんて、何年も忘れていたことだ。
あんたはたぶん、自分で思ってるよりずっと普通の女の子だよ
恭介はそう言ってくれた。彼は何も知らない。理解していない。香澄の犯した、本当の罪を。
けれど彼はそう言ってくれた。
その言葉だけで、香澄は失ったものを取り戻《もど》せたような気がしたのだ。
「……お願いよ、リチャード。すべての責任はあたしが負います。だから、彼に手を出さないで。でないと……」
「でないと……?」
「あたしはあなたたちの敵になるわ」
「………」
リチャード・ロウはレンズの奥の瞳《ひとみ》をわずかに細めた。
その瞳《ひとみ》から、香澄は目を逸《そ》らさない。反逆ともとられかねない香澄の台詞《せりふ》は、しかし彼女の本心であった。それを見抜いたのであろう。あきらめたように、リチャード・ロウはため息をつく。
「わかりました……我々としても、今あなたを失いたくはありません。ただし。被害がこれ以上拡大するようであれば、再度対応を考えます」
「ありがとう……リチャード」
香澄《かすみ》の言葉を聞いたリチャードは、驚《おどろ》いたような表情を浮かべ、ふっと笑った。香澄の口から、そんな台詞《せりふ》が出るとは思っていなかったのだろう。それは、彼が香澄の前で初めて見せた、人間らしい仕草《しぐさ》だった。
「カスミ、ひとつだけ追加の情報です。先日|捕獲《ほかく》したヴィルレント・レベリオンが所持していた錠剤《じようざい》。あれは……」
「……弱毒化したR2ウィルスと、プロレベリオンの血液から精製したホルモン製剤、でしょ? ごく少量を服用しただけなら、LSDやMDMAのような麻薬に似た作用があるはず。だけど、大量に摂取《せつしゆ》すれば、確実にレベリオン化するわ……」
「さすがですね、カスミ。ですが、統合計画局の技術をもってしても、そのような薬物を精製することはできません。それが可能なのは……」
「わかっています……」
香澄はうなずいて、リチャード・ロウに背を向ける。
江崎綾《えざきあや》が現れたときに。香澄はすべてを理解していた。誰《だれ》があの真紅《しんく》の錠剤を造ったのかということも。なぜなら、その製法を知っているのは、この世界に二人だけしかいないのだから。
4
自分なりのやり方で、河村《かわむら》雅人《まさと》を殺した犯人をつきとめる。
そう決意した恭介《きようすけ》が考えついたのは、草薙萌恵《くさなぎもえ》を直接問いつめるという方法であった。乱暴なやり方だが、恭介の頭では他《ほか》に思いつかなかったのだ。
香澄に話せば、反対されることはわかっている。危険だし、こちらの手の内を相手に見透かされる可能性が高いからだ。だが、萌恵の無実を証明するには、この方法が一番手っ取り早い。
しかし、そんな恭介の計画も、実行しようとするといきなり壁《かべ》に突き当たった。考えてみれば、教室で意中の女子と二人きりになる機会など、そうそう訪れるわけがないのだ。
萌恵はたいてい女友達に囲まれているし、授業の合間の短い休み時間に、彼女を呼び出すわけにもいかない。じっと彼女のほうを見つめていると、萌恵の隣《となり》の席の真島加奈子《まじまかなこ》と何度も目が合ってしまい、その度に無言の高築いを浴びせられた。
そうこうしている間に、帰りのホームルームが終わってしまう。
「恭介、帰るだろ?」
放課後になっても席に座ったままの恭介に、杉原悠《すぎほらゆう》が不思議そうな顔で訊《き》いてきた。恭介はあきらめてうなずく。
萌恵はどうやら声楽部の友人たちと一緒《いつしよ》に帰るらしく、声をかけるのは無理そうだ。自習中、いつの間にか帰ってきていた香澄《かすみ》も、気づかないうちにまたいなくなってしまっている。
香澄は用があれば向こうから連絡してくるだろうし、萌恵《もえ》にだって、必要なら電話すればいい。クラスメートだし、休日に呼び出してもけして不自然ではないはずだ。そう考えて恭介は、いそいそと帰り支度を始める。
「どうだった、文化祭実行委員会は?」
「うん、まあ、あれは雑用係みたいなものだから」
そう言いながら悠《ゆう》は、レポート用紙でいっぱいになったカバンを広げて見せた。どうやら、各クラスの出し物の計画書を、とりまとめる役を押しつけられたらしい。
「ご苦労だな、手伝うか?」
「いや。いいよ、適当にやっておくし。ま、これと引き替えに、コンサート会場はばっちり体育館のメインステージを確保しておいたから」
「おー、いいねえ。去年の会場は、めちゃめちゃ狭《せま》かったからなあ」
「うん。それで事故が起きたりもしたからね。今年はそれを盾《たて》に、いい場所を引き当てたよ。
うちのバンドもこれが最後のステージになるかもしれないしね」
悠の言葉を聞いて、恭介《きようすけ》は急にしんみりした気分になる。そんなこと考えてもみなかったが、言われてみればその通りだ。悠や臣也《しんや》はそろそろ本格的に受験勉強を始めるだろうし、潤《じゆん》は来年からもう本格的に修業を始めるようなことを言っていた。
「そっか、早いよなあ。受験とか就職とか、ずっと先のことだと思ってたのに。つーか、まだ実感わかないけどな……」
「そうだね。これからは、面倒《めんどう》なことばかり増えるからね。今の状態が永遠に続けばいいのに
と思うよ……そういえば、恭介、進路は決めた?」
「あ、いや……まだ。もうちょっとで、その……何か、つかめそうな気がするんだけどさ」
「……何か?」
うまく説明できずに唸《うな》る恭介を見て、からかうように悠が訊《き》く。悠がそんな意地悪な表情を見せるのは、恭介たちといるときだけだ。どうも、そちらが彼の素顔らしい。
「ああ……今まではさ、姉貴に迷惑《めいわく》かけないよう早いとこ自立しなきゃとか、河村先輩《かわむらせんぱい》が目指してた場所に行きたいとか、そういうのが頭の中をぐるぐる回ってたんだけど、それは違うんじゃないかって気がしてきたんだよ」
「何かやりたいことがわかったってこと?」
「いや、何かさ……うまく言えないげど、自分で決めなきゃって思ったんだ。今回だけはさ」
そう思ったのは、たぶん秋篠《あきしの》香澄に出会ったからだ、と恭介は思う。
あまり認めたくはないが、彼女は自立している。彼女の態度がどんなにつっけんどんに見えても、少なくとも自分の責任で行動している。独自に犯人を見つけようと決意したあとも、無意識に香澄を頼《たよ》っている自分に気づいて、恭介はそれを思い知らされた。香澄の目には、恭介は、姉や先輩の後ろをついて歩くだけの頼りない子どもに映っているのだろう。
それを我慢できるほどには、恭介《きようすけ》は柔順《じゆうじゆん》な性格ではない。自分が成長したということを、何としても香澄《かすみ》に見せつけてやりたかった。
そう考えてふと気づく。この街に潜《むそ》んでいるレベリオンと決着をつけたら、香澄は去っていってしまうのだろうか?
彼女がいなくなるのを寂しいと感じる自分に、恭介は驚《おどろ》く。
「悠《ゆう》、時間ある? メシ食っていこうぜ」
「あれ、秋篠《あさしの》さんと帰らなくていいのか、恭介?」
「お前まで……もう勘弁《かんべん》してくれよ。俺《おれ》とあいつはそういう関係じゃないんだって」
「へえ……」
力説する恭介を見て、悠が楽しそうに笑う。そういえば、ここ数日は香澄に振《ふ》り回されっぱなしで、ろくに男友達と遊んでいない。彼女ができたせいで付き合いが悪くなったんじゃないかと勘《かん》ぐられても、仕方のないところだ。しかし本当に香澄は彼女でも何でもないのだから、必死で否定するのもばかばかしい。
悠は、夕方から予備校に行かなければいけないというので、昼食は学校の近くのハンバーガー・ショップで済ませることにした。客席には、恭介たちの他《ほか》にも高城《たかじよう》学園の生徒をちらほらと見かける。
窓際《まどぎわ》の席に一人で座っている女子高生は、たぶん車持ちの彼氏を待っているのだろう。駐車場の広いこの店は、その手の待ち合わせに使われることが多い。
「予備校は何時から?」
照り焼きバーガーを食べながら恭介が訊《き》くと、同じくポテトを頬《ほお》張りながら悠が答えた。
「三時から。八時まで」
「マジ? 今日の授業より長いじゃん。大変だな……まあ、悠ぐらい頭がよければ、勉強も楽しいだろうけどさ」
何気ない口調で恭介が言うと、悠は苦笑を浮かべる。
「恭介に言われると、なんか嫌《いや》みに聞こえるな」
「なんで?」
恭介は驚いて訊き返す。常に学年一〇位以内に入っている悠と、平均点スレスレのところをうろうろしている恭介では、成績に関してはまるで比較にならない。
「必死でテスト勉強してる人間から見ると、ろくに勉強もしないで、そこそこの点をとっちゃう恭介のほうが、よっぽど頭がいいように感じるってこと」
「……はあ? そんなもんかな……」
恭介は納得できずに首を捻《ひね》る。しかし、悠が自分のことをそんな風に思っているというのは意外だった。はっきり言って買いかぶりだと思うが、認めてもらっているということが嬉《うれ》しくもある。
「あれ……あの車、江崎《えざき》先生じゃないかな?」
恭介《きようすけ》の背後の窓を見ていた悠《ゆう》が、目を細めながら言った。
恭介は振《ふ》り返る。駐車場の入り口近くに、見覚えのある銀色のオープンカーが停まっていた。
九一一カレラ・カブリオレ。左側の運転席には、白衣にサングラス姿の女性が座っている。
緩《ゆる》くウェーブした栗《くり》色の髪と理知的な印象の横顔は、高城《たかじよう》医大付属病院の江崎|志津《しづ》だ。
「志津さん? なんだろ、綾と待ち合わせでもしてんのかな?」
運転席に座ったままの彼女の様子《ようず》を見る限り、食事のために店を訪れたという感じではなさそうだ。携帯電話を持ったまま、下校する生徒たちの姿を眺めている。
「俺《おれ》、ちょっと挨拶《あいさつ》してくる。姉貴がいつも世話になってるからな」
恭介は悠にそう言い残して立ち上がった。開放的なガラス製のドアを開けて、志津の乗ったポルシェに向かう。
彼女のほうでも、恭介に気づいたようだった。彼女がパワーウインドゥを降ろすと、つけっぱなしだったカーステレオが流れてくる。曲はシン・リジィのブラック・ローズ。
「志津さん。どうしたんですか?」
「こんにちは。恭介くん、綾を見なかった?」
恭介は首を振った。綾《あや》の継母《けいぼ》を「おばさん」と呼ぶのは本人も綾も嫌がるので、恭介は名前で呼ぶことにしている。
「待ち合わせですか?」
「いえ、そうじゃないの。ただ、あの子があたしの持ってる薬を勝手に持ち出しちゃったものだから、ちょっと心配になって迎えに来たのよ」
「クスリって……まさかヤバいやつ?毒薬とか……」
恭介は、少し怖《こわ》くなって質問した。綾が、香澄《かすみ》に対して猛烈《もうれつ》に怒っていたことを思い出したのだ。医師である志津が、青酸のような劇薬を持っていても不思議ではない。いくら綾でも、腹いせに香澄に一服盛るような真似《まね》をするとは思えないが……
「いいえ。ちょっとした実験用の薬よ。患者《かんじや》を判定するためのね」
志津はそう言うと上品に笑った。
オープンで走ってきたはずなのに、カレラの車内には優しい香りが立ちこめている。
以前、杏子がアロマテラピーに凝ってたころによく嗅《か》がされた匂いだ。精神不安や抑鬱《よくうつ》状態の改善に効果があるという、薔薇《ばら》の香り。
「こないだの可愛《かわい》い彼女は?」
「……さあ、たぶんまだ学校だと思いますけど……」
顔をしかめながら、恭介は答える。どうやら彼女も、香澄のことを恭介の恋人だと思っているらしい。だが志津は、恭介を冷やかすでもなく、小さくうなずいただけだった。
曲が変わる。やはりシン・リジィのレネゲイド――反逆者《レネゲイド》≠セ。
お昼時ということもあってか、ハンバーガーショップの前の道路は渋滞《じゆうたい》していた。ドライブスルーに入ろうとした車がつかえて、通れなくなった後続車が腹立ち紛《ばぎ》れにクラクションを鳴らす。
「こんな狭《せま》い街に車が多すぎるわよねえ。私も人のことは言えないけれど」
志津《しづ》が言った。水平対向エンジン独特の排気《はいき》音が、彼女の声をさりげなく引き立てる。
「……それとも、多すぎるのは人聞かもね。そうは思わない、恭介《きようすけ》くん? 人類が今の十分の一ぐらいに減っちゃえば、環境問題もエネルギー問題も、国際間の紛争《ふんそう》も、もうちょっとマシになるような気がしない?」
「はあ……まあそうですね」
恭介は気のない声で返事をした。どうもこの手の真面目《まじめ》な話は苦手だ。
「この世界に、本当に必要な人間がどれくらいいるのかしら。目的もなく惰性《だせい》で生きている人間たちや、自分たちの利益しか考えられない人間を生かしておくことに意味があるの? そう思ったことはない?」
「そりゃないとは言わないですけど、医者の志津さんが、そういうことを言うのはまずいんじゃないっすか?」
恭介は、志津とそれほど親しいわけではない。せいぜい何度か一緒《いつしよ》にお茶をしたことがあるという程度の間柄《あいだがら》だ。だが恭介の知る限り、こんな過激なことを突然言い出すような人間ではなかった。
怪訝《けげん》に思いながら訊《き》く恭介に、志津はにこやかな表情のままうなずく。
「そうね。人類はみな平等、というのが医学の建て前ですものね。その人間に価値があるかどうかぞ、生かしたり殺したりはできないわ。でもね、その人類が、もしも平等でなかったとしたらどうかしら?」
「え……?」
「選民思想の宗教論なんかじゃないわよ。純粋な生物学的観点から、より過酷《かこく》な環境に耐えうる生き残るための人類と、彼らを生み出すための土壌《どじよう》に過ぎない、減《ほろ》ぶべき人類に分けられるとしたら?」
彼女の言葉は、恭介の知るある単語を連想させる。それに気づいて、恭介ははっとする。
一部の人間だけに強靱《きようじん》な生命力を付与《ふよ》し、それ以外の人間を死に至らしめる存在――R2ウィルス!
「……そう。医療の進歩が、本来死ぬべき人間まで救うようになったから、現在のような事態を招いてしまったの。でもね、それは必要なことだったのよ。私たちの体内に蓄積される汚染物質、これまでに存在しなかった都市という特殊《とくしゆ》な生活空間、そして極度の社会不安と異常に発達したバイオ技術……これが必要だったの。人類が新しい段階に到達するためにはね」
そう言って志津《しづ》は、サングラスを少しずらした。ダークグリーンのレンズからのぞく、彼女の瞳《ひとみ》は笑っていた。
その表情に、恭介《きようすけ》は寒気を感じる。そこにいたのは、もう恭介の知る女医の江崎《えぎき》志津ではなかった。
「志津さん……何を言って……」
「あなたにはもうわかってるはずよ、恭介くん。人類は遠からず滅びるでしよう。だけど、それを嘆《なげ》く必要なんてないのよ。あなたがこれまでに、北京原人の絶滅《ぜつめつ》を悲しいと思ったことがある? 鳥が恐竜の絶滅を嘆いたりしないように、ホモ・サピエンスの絶滅を新しい人類が嘆く必要はどこにもない」
「……志津さん……まさか、あんたが……R2ウィルスを」
恭介は、病院での戦闘のことを思い出す。なぜ、敵のレベリオンは、佐久間《さくま》たちが高城《たかじよう》医大付属病院に搬入《はんにゆう》されたことを知っていたのだろう。そして、病室の位置や間取りを計算に入れた、あまりにも手際《てぎわ》のよい襲撃《しゆうげき》計画。鮮《あぎ》やかな逃走ぶり。
それもすべて、彼女が犯人だったとすれば納得がいく。
「これはレクチャーよ、恭介くん。あたしたちは、もはや人間ではない。人間の法律や道徳は、あたしたちを縛《しば》ることはできないわ。だからこそ、あたしたちは人間を超えられるのよ」
「だからって、人を殺していいってのかよ!?」
恭介は叫ぶ。そして、彼女に殴《なぐ》りかかろうとする。志津はポルシェのシートに座ったままだ。
たとえ彼女が今レベリオン化したとしても、恭介の攻撃はよけられない。だが――
「ぐ……」
恭介は呻《うめ》きを漏《も》らした。踏《ふ》み出そうとした足も、固めた拳《こぶし》も、ぴくりとも動かすことができなかった。志津に睨《にら》まれた全身が、硬直《こうちよく》して動けないのだ。強力なレベリオン細胞を持つ恭介が、今は満足に話をすることさえもできない。
「なぜ私を敵だと思うの? あなたはだまされているのよ、秋篠《あきしの》香澄《かすみ》に」
「な……んだと?」
「なぜ米箪がR2ウィルスを研究していたのか、考えたことはある? 彼らは、レベリオンのカを独占しようとしていた。アメリカ国民の、そのごく一部のエリートだけを超人類《ホモ・スペリオール》に進化させようとしていたのよ。それでも彼らが正義だと思える?」
志津は、幼い子どもを諭《さと》すように訥々《とつとつ》と話し続ける。
「あたしたちは、より多くの人々に進化の機会を与えようとしているだけ。偶発核戦争か食糧危機か……それとも資源の枯渇《こかつ》か疫病《えきびよう》か、いずれにしても、このままでは人類は緩慢《かんまん》な死滅《しめつ》を迎えるだけよ。だけど、R2ウィルスは、人類にその危機を乗り越える力を与えてくれるわ。今はプロ・レベリオン同士で殺し合っているときではないの……それだけは覚えていて」
志津が運転席のウィンドゥを閉めた。白衣の右|腕《うで》が、シフトレバーに伸《の》びる。
「また会いましょう、恭介《きようすけ》くん。次は、仲間として……」
銀色のカレラが走り出す。その特徴的なテールランプを見送りながら、恭介は膝《ひざ》をついた。
全身を、じっとりと汗《あせ》が濡《ぬ》らしている。それは、恐怖《きようふ》の汗だった。彼女は、殺そうと思えばいつでも恭介を殺せたのだ。
「恭介?」
かがみ込んだ恭介を心配して、店を出た悠《ゆう》が駆《か》け寄ってきた。
彼を制止して、恭介は叫ぶ。
「悠、悪い――ちょっと用ができた。俺のカバンを預かっといてくれ!」
恭介はそう言い捨てると、悠をおいて走り出した。悠がぽかんとした表情で恭介を見ているが、説明している時間はない。
行き先は、学校だ。おそらくは香澄《かすみ》も――そして江崎《えざき》志津《しづ》もそこにいるはず。
「仲間、だと……?」
走りながら恭介はつぶやく。
「……だけど……だけど、志津さん。あんたは殺したんだ……河村先輩《かわむらせんぱい》を殺したんだっ……」
5
誰《だれ》もいない午後の学校は、驚《おどろ》くほどに殺風景《さつぷうけい》だった。
コンクリート造りの校舎は、どこか廃嘘《はいきよ》の景色に似ていると香澄《かすみ》は思う。酸性雨で腐食《ふしょく》したコンクリートも、錆《さ》びついた手すりも。誰もいない廊下《ろうか》を照らす火災報知器の真紅《しんく》のライトも。
ハイテクを駆使《くし》した建造物の内側は、この世界で最も滅《ほろ》びに近い場所だ。
江崎綾《えぎきあや》とその友人は、保健室のベッドに寝かされていた。ワクチンの投与や鎮静剤《ちんせいざい》の注射など、必要な措置《そち》はすでに終わっている。あとは、安全な場所に運び込むだけだ。だが、その前にやらなければならないことが残っていた。
誰もいないはずの廊下から、ハイヒールの硬《かた》い足音が響《ひび》いてくる。それを聞きつけて、香澄は保健室を出た。
鋭敏《えいびん》化した香澄の嗅覚《きゆうかく》が、薔薇《ばら》のような甘《あま》い香りを嗅《か》ぎつける。香水のものではない、もっと自然で、濃密な匂《にお》いだ。そして、香澄はその匂いを知っていた。佐久間《さくま》たちを隔離《かくり》していた病室に漂《ただよ》っていた匂いだ。
「また会えたわね」
女性の声が廊下に響いた。
これから世間話でも始めるような、のんびりとした口調だ。
聞き覚えのある声だった。
病院の食堂で出会った女性の声。そして、その夜、香澄を撃《おそ》った女の声。
「江崎|志津《しづ》……」
廊下《ろうか》を曲がって姿を現した女医に、香澄《かすみ》は呼びかけた。
志津《しづ》は足を止める。彼女のトランスジェニック能力はまだわかっていないが、少なくとも香澄のような格闘戦タイプではない。距離をおいて戦うつもりなのだろう。
「うちの愚《おろ》かな娘の始末をつけに来たわ。しょせんは進化から落ちこばれた存在。あなたにかなうはずがないと言っておいたのにね……おかげで、あなたたちを観察する楽しみを、途中で切り上げなければいけなくなったわ」
サングラスを外しながら、江崎《えざき》志津が微笑《ほほえ》む。
その瞳《ひとみ》を見て香澄は確信する。
志津の本質は殺人者ではない。、彼女は研究者。観察する者だ。人間の命など、彼女にとっては被験体《サンプル》以上の価値を持たない。
だが、それと同時に別の疑問も湧《わ》き起こってくる。そんな彼女が、単純な射殺事件など起こすだろうか?
「……ずっと、不思議だった。なぜ、こんな平均的な都市のごく普通の学校にR2ウィルスが広まったのか。でも、やっとわかったわ」
「そう。あたしはデータを採っていたのよ。学校という場所は、実験には理想的な環境だわ。
同じ年齢《ねんれい》の男女が千人以上もいて、彼らの身体データも、成績や性格、生活態度などの資料もそろっている。プロ・レベリオン化する人間に何らかの規則性や類似点があるのかどうか、それを見極めるには格好の施設だと思わない?」
「そのために、弱毒性R2ウィルスの錠剤《じようぎい》を作ったの? 高校生の間にばらまいて、レベリオンに適合する体質の人間を探すために?」
「ええ。そうよ」
志津が楽しそうに笑う。香澄が彼女の意図を見抜いたことが、心底うれしいといった表情だ。
「カウンセリングに来た生徒たちに与えたり、綾《あや》に売りさばかせたり。ちゃんと麻薬だって説明したのに、みんな喜んで受け取ったわ。あたしの患者《かんじや》に配った分もあるわね。サイコセラピーの過程で麻薬を投与するのは、欧米では常識的に行われていることよ」
「……屋上で、あたしたちを襲《おそ》わせたのも、あなたの仕業《しわざ》?」
「あたしは彼らに薬を与えただけ。あなたのせいで、薬が手に入らなくなるかもしれないと言ったら、彼らは自主的にあなたを排除《はいじよ》しようとしてくれたわ。正直、進化し損ねた彼らに薬を与え続けるのは鬱陶《うつとう》しかったけれど、おかげであなたの能力がつかめたのだから、それも無駄《むだ》ではなかったわね」
「そのせいで、彼らは死にかけたわ」
香澄は志津を睨《にら》みつけた。
志津は意外そうな表情を浮かべる。
「……だから?」
「何も知らない彼らを実験材料にしたあげくに捨て駒《こま》に使うなんて。彼らの命をなんだと思っているの!?」
「彼らにはちゃんとした教育の機会が与えられている。麻薬がいけないなんてこと、小学生でも知っているわ。それなのに、彼らは自分の欲望を抑えることができなかった。無知なのは彼ら自身の罪ではなくて?」
そう言ったあと、志津《しづ》はくすりと笑ってつけ加えた。
「それとも、こう言ったほうがいいかしら? モルモットの猿《さる》の命を気にする科学者はいない」
「あ、あなたはー!!」
激昂《げつこう》した香澄《かすみ》は、志津に殴《なぐ》りかかろうとした。
怒りがレベリオン細胞を活性化させる。ファージ変換した両|腕《うで》が、眩《まばゆ》い光を放ち始める。
だが、志津はさしたる動揺《どうよう》も見せず、冷めた笑みを浮かべる。
「悪いけど、あなたの相手は私ではなくてよ……」
「何を……っ!?」
志津の警句を無視して、香澄は彼女との間合いを詰《つ》める。
その刹那《せつな》、深閑《しんかん》としていた校舎に、窓ガラスやドアが砕《くだ》け散る音が響《ひび》いた。
さらに、無数の砲吼《ほうこう》が続けざまに轟《とどろ》く。
「ヴィルレント・レベリオン!?」
香澄が叫んだ。
閉鎖《へいさ》されていた教室や廊下《ろうか》の窓を破って、無数のヴィルレント化した学生たちがなだれ込んできたのだ。いや、学生だけではない。明らかにサラリーマン風の男や、主婦然とした風貌《ふうぼう》の女性も含まれている。江崎《えざき》志津は、残っている彼女の手下をすべてここに呼び集めたのだ。
理性を失い、暴走した彼らが狙《ねら》っているのは、香澄と保健室に寝ている綾《あや》たちだけ。無防備に立っている江崎志津には目もくれない。
もはや疑問の余地はなかった。明らかに彼らは志津の命令で動いている。知性など残っていないはずの彼らを支配する、彼女の能力に香澄は愕然《がくぜん》とする。
「くっ」
襲《おそ》いかかる敵をスクリーミング・フィストで薙《な》ぎ倒《たお》しながら、香澄は唇《くちびる》を噛《か》んだ。
一対一なら、ヴィルレント化した人間など香澄の敵ではない。だが、敵の数が多すぎる。彼ら全員を倒す前に、香澄の体力が先に尽《つ》きるのは確実だ。
その破壊力ゆえに長時間の戦闘に耐えられないという、香澄の弱点を志津は知っているのだ。
「言ったでしょう、私の能力は戦闘向きではないの。荒事《あらごと》は彼らに任せるわ」
そう言って、志津は香澄に背を向ける。
今の香澄に、彼女を追う余裕《よゆう》はなかった。目の前に立ちはだかる、二〇体以上のヴィルレント・レベリオンを撃退《げきたい》するだけで手|一杯《いつぱい》だ。
閉鎖《へいさ》されたドアを破って、ヴィルレントたちの一団が保健室へとなだれ込んだ。
常人の数倍の筋力を持つ彼らの前には、昏睡《こんすい》状態の綾《あや》たちなどびとたまりもない。彼女たちの全身が引き裂《さ》かれる姿を想像して、香澄《かすみ》は悲鳴をあげる。そのとき――
「おらあっ!」
怒号《どごう》とともに、保健室に突入したヴィルレント・レベリオンたちが、逆に廊下《ろうが》へと吹き飛ばされた。
背中から倒《たお》れた彼らは、立ち上がることができずにリノリウムの床《ゆか》の上でのたうち回る。両脚《あし》の骨を折られているのだ。ヴィルレント化した彼らを、一撃《いちげき》で行動不能にする力を持つのはレベリオンだけ――
「何なんだよ、こりやあ!?」
保健室の壁《かべ》からむしり取った鉄バイプでヴィルレントを威嚇《いかく》しながら、学生服の男が叫ぶ。
ふてぶてしい面構《つらがま》えの、長身の影。長く伸《の》ばした前髪。紅《あか》いピアス。
その姿に、なぜか香澄は涙《なみだ》が出そうなほどの感動を覚えて、叫ぶ。
「恭介《きようすけ》!! ――何しに来たのよ、バカっ!!」
6
恭介は、混乱していた。
息せき切って学校にたどり着いてみれば、カレラ・カブリオレに江崎志津《えぎきしづ》の姿はなく、ただならぬ気配《けはい》を察して保健室に駆《か》けつけたら、とてつもない勢いで学生が二人、ドアをぶち破って襲《おそ》いかかってきたのだ。
咄嵯《とっさ》に反撃できたのは、プロ・レベリオンの反応速度の賜物《たまもの》であった。彼らを撃退《げきたい》してからようやく、恭介は相手がヴィルレント化した学生だと気づく。
ふと見ると、ベッドに寝ているのは江崎綾《あや》とその友人たち。さらに廊下《ろうか》に出てみれば、黙《だま》っていなくなったはずの香澄《かすみ》が、数え切れないほどのヴィルレントたちと交戦していた。
それで何とか恭介は状況を理解する。
「何しに来たのよ、バカっ!」
「ああっ!?」
いきなりバカ呼ばわりされて、恭介は反射的に怒嶋《どな》り返そうとした。だが、香澄の顔を見て言葉を呑《の》み込む。
平静を装う彼女の表情から、隠《かく》しきれない安堵《あんど》と喜びが伝わってきたからだ。
「志津さんは!?」
「とっくに逃げたわよっ!!」
「なにい? なんで追っかげないんだよっ!?」
恭介《きようすけ》は、次々に襲《だそ》いかかるヴィルレントたちを殴《なぐ》りつけながら叫んだ。香澄《かすみ》はすでに一〇体以上のヴィルレントを昏倒《こんとう》させているが、それだけに消耗《しようもう》も激しいはずだ。
「でもっ……」
香澄は不安そうに恭介の倒《たお》したヴィルレントたちを見る。
脳に直接ダメージを与える香澄のスクリーミング・フィストと違って、ただ殴《なぐ》っただけの恭介の攻撃《こうげき》では、ヴィルレントたちを一撃《いちげき》で倒すことはできない。いくら恭介が喧嘩《けんか》慣れしていても、これだけの数の敵が相手では不覚《ふかく》をとる恐《おそ》れがある。彼女はそれを心配しているのだ。
それを知りながらも、恭介は叫ぶ。
「いいから行けっ! ここは俺《おれ》が何とかする!」
その声に気圧《けお》されたように、香澄はうなずいた。
目の前に立ちふさがるヴィルレントたちを倒して、夕陽《ゆうひ》の射《さ》し込む廊下《ろうか》を駆《か》け出していく。
その背中を見送って、恭介は額《ひたい》に浮いた汗《あせ》を拭《ぬぐ》う。
「……とは言ったものの……まいったね、これは……」
周囲を取り囲むヴィルレントたちは、喧嘩《けんか》の場数を踏《ふ》んだ恭介にも十分な脅威《きようい》だった。
残った敵の数は、まだ二〇体を優に上回る。恭介の手にした鉄パイプを警戒《けいかい》してか、すぐには襲いかかってこないが、一瞬《いつしゆん》でも目を逸《そ》らしたらたちまち攻撃されそうだ。
ヴイルレントたちの発する、低い唸《うな》り声が廊下に反響《はんきよう》する。
肥大《ひだい》した心臓の圧力に耐えかねて、毛穴から吹き出した血液が彼らの全身を紅《あか》く染めていた。
裂けるほどに開いた唇《くちびる》から、唾液《だえき》が滴《したた》る。拡大した瞳孔《どうこう》、血走った目つき。そして輝《かがや》きを失った虚《うつ》ろな瞳《ひとみ》。
彼らの姿に、恭介はいい知れぬ恐怖《きようふ》を感じた。
それは彼らが異質な存在だったからではない。あまりにも自分に近しい存在だったからだ。
一歩間違えば自分も彼らと同じ姿になっていた――その事実が、恭介を恐怖《きようふ》させるのだ。
「じゃあっつっっ!!」
恭介の背後から一人のヴィルレント・レベリオンが、跳《と》びかかってきた。
強化された筋肉による爆発的な攻撃に対抗するため、恭介の全細胞が擬態《ぎたい》を解《と》く。
レベリオンとしての本来の能力を解放した恭介は、彼の太股《ふともも》を一撃で蹴《け》り砕《くだ》いた。その不気味な手応《てごた》えに、恭介は吐《は》き出しそうになる。
「畜生《ちくしよう》っ!!」
やり場のない怒りに、恭介は絶叫する。
「志津《しづ》さん……これがあんたの望んだことなのかっ!? こんなものがっ!?」
スーツ姿の〇Lが、プロレスラーのように肥大した腕《うで》で恭介の身体《からだ》を締《し》め上げた。
ファージ変換した恭介《きようすけ》の肉体が、圧倒《あつとう》的なパワーでそれを引き剥《は》がす。OLの関節が砕《くだ》ける鈍《にぶ》い音が響《ひび》いた。
中年のビジネスマンが、背後から襲《おそ》いかかる気配《けはい》がする。〇Lに下半身をつかまれたまま、恭介は腕《うで》を振《ふ》った。ビジネスマンの拳《こぶし》を粉砕《ふんさい》して、恭介の放った鉄パイプが彼の胸を撃《う》つ。
「畜生《ちくしよう》……手前《てめえ》らも、本当にこれでよかったのかよっ!!」
恭介の叫びも、彼らの耳には届かない。
どんな原理かはわからないが、彼らは志津《しづ》に操られているらしい。だが、志津が彼ら全員を無理矢理ヴィルレント化させたとは思えない。それを望んだのは彼ら自身だ。
彼らは自ら、死の危険を冒《おか》してまでR2ウィルスがもたらす快楽に溺《おぼ》れたのだ。
ヴィルレントの何人かは、恭介の知っている高城《たかじよう》学園の生徒たちだった。成績の伸《の》び悩んでいる優等生や、ドロップアウト寸前の不良少年もいるが、基本的にはみな目立たない普通の生徒ばかりだ。
志津の能力によって初めて目標とする敵を――偽《いつわ》りの生き甲斐《がい》を手に入れた彼らの姿は、生命力に溢《あふ》れていた。ある意味では、ヴィルレント化する前よりも輝《かがや》いている。
だが、彼らの前に未来はない。R2ウィルスの力に頼るのも、自分より上位の存在に従うことも、しょせんは現実からの逃避《とうひ》に過ぎない。この先に彼らを待ち受けているものは、崩壊《ほうかい》する肉体と絶望だけ。
いったん戦闘が始まってしまえば、もはやそれを止める手だてはなかった。
痛覚の麻痺《まひ》したヴィルレントたちは、倒《たお》しても倒しても立ち上がってくる。負傷し動けなくなった仲間を踏《ふ》みつけ、次々におしよせる彼らに恭介は圧倒《あつとう》された。自分自身を傷つけることも厭《いと》わぬ彼らの攻撃を、防御《ぼうぎよ》するだけで精一杯《せいいつっぱい》だ。
狭《せま》い保健室の中では、プロ・レベリオンの圧倒的なスピードも十分には発揮できない。恭介には、今や自分が何人の敵を相手にしているのかさえ把握《はあく》できなかった。自分の立っている場所も、殴《なぐ》りつけた相手が誰《だれ》かもわからない。そもそも、彼らと戦う意味などありはしないのだ。
それでもひとつだけわかっていることがある。
「……あんたは間違ってんだよ!! 江崎《えざき》志津っ!!」
たしかに彼女の言う通り、人間は多すぎるのかもしれない。そして、人類という種の未熟さが、自らを滅亡《めつぼう》へと駆《か》り立てているのかもしれない。香澄《かすみ》のやっていることだって、正義とは言い切れないのかもしれない。
だが、人類を救う者があるとすれば、それはわけのわからないウィルスなどではないはずだ。
人の心の弱い部分につけこんで、進化か死かの二者択一を突きつけるようなやり方は、絶対にどこか間違っている。それだけで、恭介が彼女と戦う理由には十分だった。
ヴィルレント・レベリオンの体当たりを受けて、恭介は壁際《かべぎわ》まで後退する。目標を失ったヴイルレント・レベリオンの一人が目をつけたのは、ベッドの上で昏睡《こんすい》している江崎|綾《あや》だった。
彼女たちを戦場から隔てていたカーテンが、力任せに引きちぎられる。
「そいつに手を出すんじゃねえ!!」
綾《あや》に襲《おそ》いかかろうとしたヴィルレントを見て、恭介《きようすけ》は絶叫していた。
その叫びは、声にならない。レベリオンの筋力が生み出す圧倒《あつとう》的な音圧が、可聴域《かちよういき》をはるかに超えた超音波と化したからだ。人間の肉体が生み出したとは思えぬ衝撃波《しようげきは》が、大気をびりびりと震動《しんどう》させる。
窓ガラスが砕《くだ》け散った。無差別に発生したかまいたちで、観葉植物の葉がちぎれた。
そして綾を攻撃《こうげき》しようとしたヴィルレント・レベリオンが、膝《ひざ》をついて苦悶《くもん》する。
超音波による共振《レゾナンス》と空洞現象《キヤビテーシヨン》は、筋肉を透過《とうか》し骨格を直接破壊する。ヴィルレント・レベリオンの強化された筋力をもってしても、そのカの前にはまったくの無力。それが、香澄《かすみ》が名付けた恭介のトランスジェニック能力<uラスティング・ハウル≠フ威力《いりよく》だった。
衝撃波を放った恭介自身が、その威力に愕然《がくぜん》とする。
これまでは半信半疑だったが、もはや疑問の余地はなかった。香澄を射殺しようとした江崎《えざき》志津《しづ》を攻撃したのは、恭介自身が無意識にやったことだったのだ。おそらくは、車に轢《ひ》かれそうになった子犬を救ったのも。
そして、それ以上に恭介を驚《おどろ》かせたのは、ヴィルレントたちの反応だった。
直接はブラスティング・ハウルの射線上にいないはずのヴィルレントまでもが、恭介の叫びに反応して動きを止めてしまっている。理性を喪失《そうしつ》し、闘争本能だけに衝《つ》き動かされているはずのヴィルレントたち。その彼らにも、通常の人間には聞き取れないブラスティング・ハウルの声は届くのだ。
それはつまり、江崎志津の支配力を、恭介のトランスジェニック能力が凌駕《りようが》するということでもある。その能力を使えば、彼らを傷つけずに戦闘を止められるかもしれない。
――できるのか、俺《おれ》に!?
恭介は自問する。
昏睡《こんすい》状態の江崎綾たちを救うために、ヴィルレントたちを解き放つために、そして何よりも恭介が生き残るためには、ブラスティング・ハウルの力が不可欠だ。だが、十分な訓練を受けた香澄と違い、レベリオン化したばかりの恭介には自分の能力を制御《せいぎよ》することができない。
これまでにブラスティング・ハウルを発動できたのは三回だけ。それも、自覚して意識的に使ったわけではない。本能的に使ってしまっただけだ。
いや、違う!
本能的に使ったのではない。その本能こそが、プラスティング・ハウルを発動させるカギなのだ。
太古の昔、まだ十分に言葉すらしゃべれなかった時代から、仲間に危険を知らせ、敵を威嚇《いかく》するのに使われた声は、人間の持つ根元的な武器のひとつだ。恭介の能力は、その究極の進化形に過程ない。
誰《だれ》かを守るために恭介《きようすけ》は叫び。その叫びが秘められたレベリオンとしての力を呼び覚ました。
魂《たましい》が放った真実の言葉だけが、知性を失ったヴィルレントたちの心を揺《ゆ》さぶるのだ。
恭介には、香澄《かすみ》や志津《しづ》のように高度な理論を操ることはできない。杏子《きようこ》のような、過酷《かこく》な体験から身につけた力強い言葉もない。
けれど、魂を揺り動かす言葉は知っていた。どうしようもなく心を揺さぶる、美しい律動と旋律《せんりつ》を知っていた。
歌≠セ。
河村《かわむら》雅人《まさと》から、恭介が受げ継《つ》いだもの。何の取り柄《え》もない不良だった恭介が、ただ一つだけ他人に誇《ほこ》れるもの。
恭介の歌が真に魂に届くものであれば、目の前にいる人々を救えるはず。
恭介は大きく息を吸う。
身体《からだ》が熱い。自分の肉体が、急速に姿を変えていくのを感じる。自分の腹筋や肺が、凶器《きようき》へと進化する。制服の隙間《すきま》からのぞく喉元《のどもと》から顎《あご》、頬《ほお》にかけて皮膚《ひふ》が硬質《こうしつ》化し、水晶のような輝《かがや》きを放ち始める。
自らが変貌《へんぼう》する恐怖《きようふ》を押し殺すため、恭介は全身でリズムをとる。何度も何度も聴《き》いて、身体に刻みつけたリズム。
ヴイルレント・レベリオンが吼《ほ》えた。動きを止めた恭介へと殺到する。
攻撃を再開したヴィルレントたちに、恭介は無祇抗のまま殴《なぐ》られた。江崎綾《えざきあや》たちを背後にかばって、ただびたすらに耐え続ける。
そして恭介は歌い続けた。あの日、雅人が聞かせてくれた曲を。恭介に初めて、音楽の持つ力を教えてくれたあの曲を。
ブラスティング・ハウルの静かなる咆吼《ほうこう》は、今も部屋《へや》を揺さぶり続けている。だが、指向性を失った今の状態では、ヴィルレントたちを倒《たお》すほどの威力《いりよく》はない。ヴィルレントたちは、ひるむことなく攻撃を続ける。
人間の筋力を限界まで発揮《はつき》する彼らの攻撃は、プロ・レベリオンの強靱《きようじん》な肉体を持ってしても耐えられるものではなかった。
頭部を守る恭介の両|腕《うで》は腫《は》れ、ハンマーで叩《たた》きつけられたような衝撃《しようげき》に視界が揺らぐ。
それでも恭介は歌い統ける。
やがて、息は絶え絶えとなり、ヴィルレントの攻撃に膝《ひざ》をつく。
それでも恭介は歌い続ける。
――だめか……
横殴《よこなぐ》りに襲った衝撃《しようげき》に、恭介はついに倒れ伏した。
次の攻撃は防ぎきれない。江崎綾《えざきあや》を守りきることも、もはやかなわない。
恭介《きようすけ》は目を閉じて、最後の瞬間《しゆんかん》を待った。
ぐおおおおおおおおん!
途絶えた恭介のブラスティング・ハウルの代わりに、ヴィルレントの雄叫《おたけ》びが、誰《だれ》もいない校舎を満たす。
だが、倒《たお》れた恭介を襲《おそ》うヴィルレントの一撃《いちげき》は、いつまで待っても振《ふ》り下ろされることはなかった。ただ、ヴィルレントたちの絶叫が響《ひび》いているだけだ。
輪唱のようにいつまでも響いているだけだ。
……よくやったな
朦朧《もうろう》とした意識の下で、恭介は、もういないはずの男の声を聞いたような気がした。
もちろんただの幻聴《げんちよう》だ。鳴り響いているのは、美しくも哀《かな》しいヴィルレントたちの咆吼《ほうこう》のみ。
「くっ……」
恭介は、のろのろと傷だらけの顔を上げた。
周囲には、全身を血で染めたヴィルレントたちが立っている。
全身の骨格を歪《ゆが》め、血管を浮き出させた恐《おそ》ろしい姿で。
だが彼らの表情を見て、恭介は満足げに笑った。
動きを止めた彼らの頬《ほお》に、止めどなく溢《あふ》れ続ける涙《なみだ》のきらめきが見える。
彼らは、哭《な》いていたのだった。
7
突然校舎に響きわたった咆吼に気づいて、江崎《えざき》志津《しづ》は足を止めた。
「……これは?」
予想外の現象が発生したことに興味を感じたのだろう。志津は、ヴィルレントたちがいる保健室に戻《もど》ろうと振《ふ》り返る。
その彼女の行く手を遮《さえぎ》るように、香澄は階段から降り立った。
夕陽《ゆうひ》に染められて、血の色に輝《かがや》く廊下《ろうか》。天井《てんじよう》を走っているのは火災報知器のセンサーだけで、警備会社に連絡がいくような警報装置も、戦闘の邪魔《じやま》になるようなシャッターもない。
最後の決潜をつけるには、悪くない戦場だ。
志津がかすかに眉《まゆ》を動かす。
「……秋篠《あきしの》香澄《かすみ》? ということは、今ヴィルレントたちの相手をしているのは恭介くんと言うわけね……」
「そう。残念ね、江崎志津。やはり、あなたにはあたしの相手をしてもらうわ」
彼女をきつく睨《にら》みつけながら、香澄は言い放った。その言葉を聞いて、志津はふっと笑う。
「ほんと……残念だわ。彼は、もっと頭のいい子かと思っていたのに、どうやら買いかぶりだったようね。進化に取り残された人間なんかを救おうとするなんて……」
「愚《おろ》かなのはあなたよ、江崎《えざき》志津《しづ》……あなたを姉のように慕《した》っていた娘を、ヴィルレントたちに殺させるつもりだったの?」
香澄《かすみ》の口調からは、押さえきれない怒りが濠《にじ》み出ていた。それに気づいた江崎志津が、面自そうに唇《くちびる》をつり上げる。
「ふふ……ばかね。あたしたち二人に、自分たち姉妹の姿を重ねていたの?」
志津の言葉に、香澄の表情が凍《こお》る。それを見た志津の口元が、今度ははっきりとした笑みを形作る。
「……あなたは何を知っているの?」
「そうね……たとえば、あなたが一二|歳《さい》で遺伝子工学と分子生物学の博士号を取得した天才少女だったということ? それとも、R2ウィルスを発見しレベリオンの基礎理論を構築したのが、あなたたち姉妹だったということかしら?」
香澄は全身の血がさっと引いていくのを感じた。
心臓が耳元で激しく脈を打つ。
「まさか……まさか、あなたをR2ウィルスに感染させたのは――」
「秋篠真澄美《あきしのますみ》博士――あなたのお姉さんよ。私に弱毒化R2ウィルス製剤の精製方法を教えてくれたのも彼女。別に不思議はないでしょう? あなたたち二人の他《ほか》に、あの薬の製法を知っている人間はいないのだから」
「姉さんが生きているの!? どこに!?」
「真澄美博士は今のあなたには会う価値がないと思っているようね……私も、そう思うわ。今のあなたは、愚《おろ》かな人間と同じ。だから、必要ない……」
志津は自衣の胸元に右手を入れる。
――私の能力は戦闘向きではない。
彼女はそう言った。だから、殺すためには道具を使わなければならない。たとえば、拳銃《けんじゆう》のような。だが、だとすれば彼女のトランスジェニック能力は一体何なのだ?
「ちっ!」
香澄は拳銃を警戒《けいかい》して後方へ跳《と》び退《ずさ》った。
そのまま振《ふ》り下ろした左手から、銀光が走る。
スクリーミング・フィストにより超高速の微震動《びしんどう》を与えられたナイフが、コンクリートの壁《かべ》に易《やすやす》々と突き立った。本当は志津の心臓を狙《ねら》ったのだが、レベリオンと化した彼女の反応速度はヴィルレントたちとは桁《けた》が違う。
「投げナイフとは考えたわね」
二本目のナイフを背後に跳躍《ちようやく》して避《さ》けながら、志津がつぶやく。
「素晴らしいわ。強力な力を振るうだけなら猛獣《もうじゆう》と同じ。近接戦闘しかできない自分の能力の欠点を、道具を使って補う。それでこそ、超人類たるレベリオンだわ」
志津《しづ》は笑っていた。
その嬉々《きき》とした表情を見て、香澄《かすみ》はぞっとする。
彼女にとってはこの戦闘すら、いや自分の命すら単なる実験材料に過ぎないのだろうか?
「やはり、あなたを殺すのは惜《お》しいわ。どうしてあなたほどの知能の持ち主が、ペンタゴンなんかに協力しているの? 人類のためを本当に思っているのなら、私たちに協力なさい!」
「人類のためですって!?無力な高校生を実験材料にして、死に至らしめるのが人類のためだって言うの!?」
志津《しづ》は拳銃《けんじゆう》を撃《う》った。
香澄はスクリーミング・フイストで弾丸《だんがん》を叩《たた》き落とす。病室で志津と交戦したときとは違う。
弾道《だんどう》が見える。
「――R2ウィルスが生み出すものは疫病《えきびよう》でも突然変異でもない。R2ウィルスは遺伝子に仕組まれたプログラムの引き金、|進化した人類《ホモ・スペリオール》を生み出す起爆剤《きばくざい》である……これはあなたの論文ではなかったかしら、秋篠《あきしの》香澄博士?
「違う!」
香澄は絶叫した。
その仮説は間違っているのだ。それを書いたときの香澄は、何もわかっていなかった。何も知らない子どもだったのだ。
姉が、まだそれを信じているというのか? そんなもののために、罪もない多くの人間を犠牲《ぎせい》にし続けていると。
香澄は左|腕《うで》を振《ふ》り上げた。それ以上、志津の言葉を聞きたくなかったのだ。
握《にぎ》られたナイフは三本。 一気にカタをつける。
だが、そのナイフを放った瞬間《しゆんかん》、香澄の視界がぐらりと揺《ゆ》れた。
身体《からだ》から力が抜ける。香澄は壁《かべ》に腕をつき、かろうじて倒《たお》れ込むのを防いだ。
目標を失ったナイフが。志津の足下に虚《むな》しく突き刺《さ》さる。
志津が冷ややかに笑った。
実験のデータでも採っていたのか、腕時計にちらりと目を落とす。
「……さすがにヴィルレントを相手にしているときのようにはいかないわね。完全にこちらの意志に従わせるのは無理か……身体の自由を奪うのがせいぜいね」
「まさか……そんな……」
無感動に告げる志津の言葉に、香澄は愕然《がくぜん》とした。
志津との距離は詰《つ》まっていないし、彼女が何らかの能力を使った気配《けはい》もない。
彼女の攻撃がすでに開始されていたとは、香澄にすら予測できなかったのだ。
志津がゆっくりと拳銃を構えた。
彼女はもう笑っていなかった。
「あなたも科学者なら、何も知らずに死んでいくのは心残りでしょう。だから特別に教えてあげる。あたしの能力――アロマティックスの正体は香り≠諱B女王|蟻《あり》がフェロモンを分泌して兵隊蟻を操るように、あたしはこの香気で他《ほか》の人間を支配することができるの」
「そうか……それで、あれだけの数のヴィルレントを……」
今さらながら香澄《かすみ》は、廊下《ろうか》に充満《じゆうまん》する薔薇《ばら》の香りに気づく。
他の動物に比較すれば劣《おと》っているとはいえ、人間の肉体は想像以上に匂《にお》いに対して敏感だ。
悪臭は人間の体調をたやすく狂わせるし、異性を惹《ひ》きつけるための香水も数多く売り出されている。香りを焚《た》いて精神を安定させたり、逆に昂揚《こうよう》させたりするアロマテラピーという療法《りようほう》も一般化している。匂いは人間の精神状態すら左右するのだ。
さらに、匂いによって敵味方を識別するのは、動物の世界では日常的に行われていることだ。
その匂いを使って他人を意のままに操るのが、志津《しづ》のトランスジェニック能力アロマティックスなのだろう。
それは、一種の催眠術《さいみんじゆつ》にも似た効果となって現れる。病室で志津が瞬間《しゆんかん》移動したように見えたのは、彼女の動きが速かったのではない。香澄自身の反応速度が低下したのだ。彼女に支配された香澄の意識は、攻撃《こうげき》の瞬間、 一瞬《いつしゆん》途絶えていたのかもしれない。
香澄の身体《からだ》が動かないのは、おそらく志津の香気にエーテルやクロロホルムのような成分が含まれているせいだ。今の香澄は、もはや立ち続けることも困難な状況だった。
香澄は、唯一《ゆいいつ》自由になる左|腕《うで》で、スクリーミング・フィストを壁《かべ》に撃《う》ち込んで身体を固定する。志津の前で膝《ひざ》をつくような無様《ぶざま》な姿だけは、さらしたくなかったのだ。
遠くなりそうな意識を気力だけで奮《ふる》い起こして、彼女の顔を睨《にら》みつける。
それを見ていた志津が目を丸くして言った。
「意地っぱりね。そういうの嫌《きら》いではないけれど、あまり理性的とは呼べないわね……−やはり、あなたは必要ないわ」
いつでも香澄を殺せるという自信のせいだろう。志津の表情には余裕《よゆう》があった。
銃口《じゆうこう》は香澄を向いていたが、引き金にかけた指はあそんでいる。
香澄はゆっくりと呼吸を整えながら口を開いた。
「殺戮《さつりく》にしか使えない能力が進化だなんて、あたしは認めないわ。レベリオンは人間の正しい進化の形なんかじゃない。進化の袋小路《ふくろこうじ》に入っただけの哀れな生物よ……神話の中の怪物《かいぶつ》と同じように、滅《ほろ》びるだけの存在だわ」
志津は黙《だま》って肩《かた》をすくめる。
「そう……最後まで意見が食い違ったままだったのは残念ね。他《ほか》に言い残すことはある?」
「最後にひとっだけ訊《き》かせて……あなたは綾《あや》さんを愛していた?」
「愛? 人間とレベリオンの間で愛を議論するのはナンセンスだわ。そうね、うちで飼《か》っている熱帯魚と同じ程度には愛していたかしら」
「……可哀想《かわいそう》な人ね」
香澄《かすみ》は本心からそう思った。志津《しづ》が軽蔑《けいべつ》するように鼻を鳴らす。
「それだけでいいの? 恭介《きようすけ》くんに言いたいことがあったら伝えてあげるわよ」
志津が引き金に力を込めた。
香澄は静かに首を振《ふ》る。
「その必要はないわ……あなたの負けよ。江崎《えざき》志津……」
志津の表情が強張《こわば》った。
無音だった廊下《ろうか》を、突然激しい震動《しんどう》音が満たしたからだ。
音は壁《かべ》の中から聞こえる。何かが壁の中を伝わっていく音がする。
「ま、まさか……」
志津は壁の中に半《なか》ばまで埋《う》もれた香澄の腕《うで》を、次に自分の頭上を見上げた。
香澄に銃《じゆう》を突きつけている間、志津は一歩も動いていない。
彼女の足下には、香澄が投げたナイフが刺《さ》さっていたからだ。
香澄が外したナイフが。
いや、外したと思いこんだナイフが。
志津の直上には、スプリンクラーの射出口《しやしゆつこう》があった。
「まさか!」
次の瞬間《しゆんかん》、銀色の槍《やり》が志津を襲《おそ》った。
スプリンクラーから弾丸《だんがん》のように吐《は》き出された超高圧の水が、志津の身体《からだ》を突き抜け、廊下に無数の穴を開ける。
「ぎゃああああああああああああっ!」
志津が絶叫した。
香澄は、壁に震動を送り込み、その反射を利用して内部に埋まっているものの配置を知ることができる。壁の中で香澄は、消火|栓《せん》のパイプをつかんでいたのだ。そしてスクリーミング・フイストの超震動で極限まで内部を加圧した。
銑を突き立てたコーラの缶《かん》をシェイクしたのと同じだった。出口を求めて荒れ狂った高圧の水は、パイプの最も弱い部分から噴《ふ》き出したのだ。
超高圧、超高速で放たれた水流は。分厚い鉄板を切断するほどの威力《いりよく》がある。いかにレベリオンの生念力でも、金身をずたずたに切り裂《さ》かれてはどうすることもできない。
全身から鮮血《せんけつ》を撒《ま》き散らしながら、地面に叩《たた》きつけられて志津は絶命した。
自分が死んだことさえも認識できなかったかもしれない。
あまりにもあっけない幕切れだっだ。
バルブが破損したスプリンクラーからは、止めどなく熱水が降り注いでいる。
その水が、アロマティックスの香気を洗い流してくれたのだろう。ようやく身体《からだ》の自由を取り戻《もど》して、香澄《かすみ》はぐったりと座り込んだ。
スプリンクラーの飛沫《しぶき》が香澄の髪を濡《ぬ》らす。
「可哀想《かわいそう》な人……」
動かなくなった志津《しづ》を見て、香澄はぽつりとつぶやいた。
綾《あや》が目を覚ましたとき、彼女に何と言えばいいのだろう。
いかなる理由があったにせよ、義理の母親を殺した自分を、彼女は許してくれるだろうか。
香澄はふっと笑った。
許してもらえるはずがない。これは贖罪《しよくぎい》なのだ。生き統ける限り、自分はこの罪を背負い続けなければならない。
濡《ぬ》れた頬《ほお》を拭《ふ》いて立ち上がる。
そう……まだ闘いは終わっていない。
8
R2ウィルスの分泌する生物毒の効果が薄《うす》れてきたのだろう。慟哭《どうこく》を続けていたヴィルレントたちは、やがて一人、また一人と倒《たお》れていった。
限界を超《こ》えた肉体のダメージで、彼らは次々と昏睡《こんすい》状態へと移行していく。
恭介《きようすけ》が、ようやく立ち上がれる程度に回復したころには、もはや動けるヴィルレント・レベリオンは残っていなかった。
あたり一面に転《ころ》がる犠牲《ぎせい》者たちの姿は無惨《むざん》だったが、今の恭介にできることは何もない。
香澄たちを追いかけようと恭介が立ち上がったとき、澄《す》んだ声が校舎の静寂を破った。
「ずいぶん派手にやったわね……」
何が起きたのか、ずぶ濡《ぬ》れになった香澄が保健室の入り口に立っていた。前髪から滴《したた》る水滴を振《ふ》り払《はら》いながら、保健室の惨状《さんじよう》を見渡している。
彼女の言う通り、あたりはひどい有り様だった。
窓ガラスも蛍光灯も植木|鉢《ばち》も、壊《こわ》れそうなものはすべて壊れてしまっている。無差別に解放されたブラスティング・ハウルの影響で、校舎の壁《かべ》一面に、細かな亀裂《きれつ》が無数に走っていた。
無数のヴイルレントたちが屍《しかばね》のように累々《るいるい》と横たわり、恭介の姿も傷だらけだ。昏睡している綾たちが、この中では一番まともに見えるかもしれない。
淡々《たんたん》とした香澄の口調が、今はなぜかやけに優しいものに思えた。
「よかった、無事だったんだな……志津さんは?」
恭介の質問に、香澄は黙《だま》って首を振《ふ》った。
さすがにその表情が暗い。
「そうか……」
恭介《きようすけ》はつぶやく。
複雑な思いが胸の中を渦巻《うずま》いていたが、それを言葉にすることはできなかった。
それほど多いわけではない志津《しづ》との記憶《きおく》も、今は本当に断片的なことしか思い出せない。
「トランスジェニック能力が使えるようになったのね……よかった」
香澄《かすみ》が本当に安堵《あんど》したような表情で言う。恭介は自分が破壊した校舎の姿を見ながら、複雑な思いで答えた。
「ああ……こんな、破壊するしか能のない力でも少しは役に立つもんだな」
「そうじゃなくて……恭介が無事でよかったって言ってるの。それに……助けてにきてくれてありがとう……」
「え?」
思いがけなく素直な香澄の言葉を、恭介はすぐに理解できなかった。
自分でも似合わないことを言ってしまったと思ったのだろう。香澄は、照れたように背中を向けてしまう。
その仕草《しぐさ》は、まるで拗《す》ねた子どものようだった。びしょ濡《ぬ》れの彼女が、くしゃみをする。かすかに震《ふる》えるその背中が、思っていたよりもずっと小さかったことに、恭介は気づく。
「……そうか、香澄。あんたは……」
「なに?」
恭介のつぶやきを聞きつけて、香澄が振《ふ》り返った。
「はは……そういうことか……あはは」
「どうしたのよ?――。変な人ね……」
突然笑い出した恭介を、香澄が訪《いぶか》しげな表情で見た。
いつだって無遠慮な彼女の視線は、ある意味で無邪気と表現してもいい。
感情を押し殺した無表情な態度も、淡々《たんたん》とした辛辣《しんらつ》な口調も、彼女が、精一杯《せいいつばい》背伸び≠している結果なのだとしたら?
恭介は、彼女の寝顔を目にしたときから、ずっと感じていた違和感の正体にようやく思い当たった。転校してきたあの日に、香澄が怒って言おうとした言葉を思い出す。
あたしはこう見えても……
「そうか……あんた、本当は俺《おれ》たちより年下なんだ」
恭介の言葉を、彼女は少し驚《おどろ》いて、しかし素直に認めた。
「ええ、日本のシステムだと今は中学三年生になるのかな。編入試験でズルしたわけじゃないのよ。海外にいたときに|飛び級《スキツプ》してるから……でも、どうしてわかったの?」
「あ、ああ。いつだったか、あんたが着替えてるのを見たときにさ、ちょっと思ったんだよ。高校生にしてはちょっと発育が……」
そこまで言って恭介は、はっと我に返った。
「……発育が遅《おそ》くて悪かったわね」
香澄《かすみ》が低い声で続ける。その瞳《ひとみ》が、真剣《しんけん》に怒っていた。どうやら、本人も気にしていたらしい。そう思うと余計におかしくなったが、ここで笑うとスクリーミング・フィストが飛んできそうだったので、恭介《きようすけ》は必死で笑いをこらえる。
「もう……あなたって本っ当に失礼な人ねっ!!」
香澄は、普段と変わらぬ冷徹《れいてつ》な口調で言った。だが、その態度は明らかにへそを曲げた女の子のものだ。
恭介は、これ以上彼女を怒らせないように話題を変える。
「これで……とりあえず事件は解決したのか?」
何気なく聞いた恭介の言葉に、香澄はびくっと背中を震《ふる》わせた。
その反応に恭介のほうが驚《おどろ》く。香澄はすでに、いつもの真剣《しんけん》な表情に戻《もど》っていた。
「残念だけど……そうではないわ。とりあえずR2ウィルスの感染経路を絶ったというだけ」
「え? でも志津《しづ》さんが犯人だったんじゃないのか? だから、俺《おれ》たちは……」
「違うのよ。たしかに彼女はレベリオンだった。だけど、違うの」
「だから何がだよ?」
恭介には香澄の言っていることが、まったく理解できなかった。
香澄がいらいらしたように続ける。
「だから違うのよ。彼女は犯人じゃないの。彼女が直接手を下したわけじゃなかったの」
「なんだって? じゃあ、まさか……綾《あや》が?」
「違う。あたしたちは、考え違いをしていたのよ。高校生たちを殺したのは、江崎《えざき》志津ではなかった……レベリオンは……」
香澄が言葉を切った。
その瞬間《しゆんかん》、恭介の背中を強烈《きようれつ》な悪寒《おかん》が走り抜けた。
凄《すさ》まじい殺気を感知して、レベリオンとしての本能が危険を告《つ》げている。
同じものを感じて、香澄が振《ふ》り返ろうとしていた。
鋭《するど》い士目が、空気を切り裂《さ》く。
その音に、恭介は聞き覚えがあった。津島麻子《つしままこ》の誕生パーティの日に、恭介を襲《おそ》った見えない弾丸《だんがん》の音だ。
香澄の身体《からだ》が、ぐらりと揺《ゆ》れた。
「……香澄!?」
栗《くり》色の髪がふわりと散った。
彼女の胸に真紅《しんく》の花が咲いた。
そのまま彼女は、ゆっくりとくずおれる。口元から鮮血《せんけつ》がこぼれる。
「……恭介……この街には……」
倒《たお》れながらも彼女は必死に声を振り絞《しぼ》る。メッセージを遺《のこ》すために。恭介《きようすけ》に伝えるために。
「……この街にはレベリオンが……二人……いた……の」
香澄《かすみ》の身体《からだ》が着地した。音もなく。羽根《はね》のようにふわりと舞い降りる。
その背中から、真紅《しんく》の染みが広がっていく。
「香澄――っ!」
恭介は絶叫した。
香澄は胸元を撃《う》ち抜かれて倒《たお》れている。
駆《か》け寄ろうとした恭介の周囲に、次々と弾丸《だんがん》が撃ち込まれた。
あの夜と同じだ。初めて彼女と出会った夜と。
あのときは香澄が恭介を助けてくれた。
だが彼女は今、倒れている。
心臓を撃ち抜かれて。
血まみれで……
「うああああああああああああ!」
恭介が吼《ほ》えた。
その声が、爆音に変わった。
無制限に解放されたブラスティング・ハウルが、校舎の壁《かべ》を粉砕《ふんさい》し、校庭の木々を薙《な》ぎ倒す。
隠《かく》れていた暗殺者が低い呻《うめ》きを漏《も》らすのが聞こえた。
その方角に向けて、恭介はさらに叫び続ける。
荒れ狂う音の奔流《ほんりゆう》に、引き裂かれた大気が悲鳴をあげた。
それでも恭介の咆吼《ほうこう》は続く。
恭介は今、初めて自分の意志で人を殺そうと思った。
レベリオン細胞の生み出す圧倒《あつとう》的なパワーが、音の届く範囲にいる全《すべ》ての生物を塵《ちり》に変える。
それはまさに滅《ほろ》びの咆吼だった。圧倒的な力を持つ、神の裁《さば》きだ。
破壊超音波の嵐《あらし》は、逃走した暗殺者の気配《けはい》が消え去るまで続いた。
周囲の風景が一変したころ、ようやく恭介の絶叫が止んだ。
すべての力を使い尽くした恭介が、片膝《かたひざ》をついて荒い息を吐《は》く。
「 香澄! 香澄……しっかりしろ!」
恭介が駆《か》け寄ったとき、彼女の身体は血溜《ちだ》まりの中に沈んでいた。
青白い顔で、香澄が弱々しく微笑《ほほえ》む。
「……ありがとう……恭介」
「可愛《かわい》らしいこと言ってんじゃねえ! そんなの、らしくねえだろうが!」
「あたしね……あなたと一緒《いつしよ》にいるときだけは、自分が普通の女の子に戻《もど》れたような気がしたの……バカよね……あたしにそんな資格なんてあるわけないのに……」
「しゃべるな! すぐ、姉貴のところに連れていってやるから!」
「ふふ……残念だわ……もう一度あなたとデートしてみたかった……今度は、本当に普通の恋人同士みたいに……」
「してやるよ! そんなの何度だってしてやるから、弱気なこと言ってんじゃねえ! あきらめるなっ!!」
恭介《きようすけ》は、香澄《かすみ》の身体《からだ》を抱《だ》き上げた。
彼女の身体は、本当に羽が生えているのではないかと思うほど軽かった。
初めて会った夜、彼女のことを天使だと信じたことを思い出す。
香澄の身体から力が抜ける。
呼吸が止まる。
最後に唇《くちびる》だけが動いた。
「恭介……あたし…………死にたくない……」
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第五章
永遠の終わり
〜Forever Ever〜
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1
当直明けで寝ていた緋村《ひむら》杏子《きようこ》が高城《たかじよう》学園に到着したのは、恭介《きようすけ》が電話して五分後のことだった。どんな飛ばし方をしたらそんな短時間で着けるのか、恭介は知らない。三四四馬力のパワーに負けて、四〇扁平《へんぺい》の野太《のぶと》いタイヤがじりじりと自煙を上げている。
「乗りなさい、恭介!」
派手なアクセルターンで車を回転させながら、杏子が叫ぶ。
血塗れの香澄《かすみ》を抱《だ》いた恭介は、言われるままに助手席に乗り込んだ。
香澄の胸の傷|跡《あと》をちらりと見たあと、杏子はコルベットを発進させる。
「……姉貴、香澄は助かるのか?」
不安に震《ふる》えながら、恭介は訊《き》く。人形のように力を失った香澄の身体《からだ》からは、絶望的な勢いで体温が失われていく。
「助かるかどうかなんか関係ない……助けるのよ」
六速マニュアルのシフトをせわしなく動かしながら杏子は乱暴に答えた。ドアミラーに反射した残照が、彼女の頬《ほお》を紅《あか》く照らしている。
「恭介、今のうちにリチャード・ロウってヤツに電話しなさい。香澄ちゃんの携帯《けいたい》に番号が入っているはずよ」
「リチャード・ロウ!? なんで姉貴があいつの名前を知って……」
「話はあとよ。彼に言って、うちの病院の手術室の手配をさぜて。急いでっ!」
恭介《きようすけ》は黙《だま》って彼女に従う。普段は怠惰《たいだ》を装っている姉が、こんな非常時には世界中の誰《だれ》よりも頼りになることを、恭介は知っていた。
姉の予想通り、香澄《かすみ》の持っていたノキアの携帯《けいたい》にはリチャード・ロウの名前が登録されている。震《ふる》える指先で恭介が電話をかけると、彼は数コールで応答した。
「手術の執刀《しつとう》はあたしがやるわ。そう伝えなさい」
「姉貴が?できるのか?」
「保証はできないわね。心臓が半分吹っ飛んでる患者《かんじや》の治療《ちりよう》法なんて、大学でも教えてくれなかったしね……」
「心臓が……!?」
あまりにも率直な杏子《きようこ》の言葉に、恭介は絶句する。だが杏子は、自分自身に言い聞かせるように続けた。
「でも、あたしができなければ、他《ほか》の誰にもできないわ」
杏子の言葉を、恭介はリチャード・ロウに伝える。リチャードは、了解したとだけ言って、事情も聞かないまま電話を切った。
香澄のために、病院側に圧力をかける手続きに入ったのだろう。杏子もリチャードも、自分の役割を知っているのだ。唯一《ゆいいつ》恭介だけが、何もできないまま震えている。
「ちくしょう……」
その自分の不甲斐なさを、恭介は激しく呪った。レベリオン化して人間以上の力を手に入れたはずなのに、今の自分は目の前の女の子のために何一つしてあげることができないのだ。
そんな恭介に、杏子はいつになく優しい声で言う。
「あなたはよくやったわ、恭介。とりあえず、あたしを呼んだだけでも上出来よ。あとはあたしたちに任せて今のうちに休んでなさい。あなたにも、まだやらなきゃいけないことがあるんだから……」
「俺《おれ》に……?」
杏子はうなずく。
彼女が操るコルベットは、高城《たかじよう》学園から市街埴に続く下りのワインディングロードを信じられない速度で下っていた。コーナーが近づくたびに滑《すべ》り出す車体を、強引《ごういん》なカウンターステアで押さえつける。どこで身につけたのかしらないが、その辺の走り屋も真っ青のテクニックだ。
それよりも恐《おそ》ろしいのは、そんな状態でも顔色一つ変えない杏子の剛胆《ごうたん》な神経だった。今の杏子は、不良時代の恭介でさえ頭が上がらなかったキレた姉の姿に戻《もど》っていた。
だが、狂ったように飛ばす彼女のコルベットでさえも、今の恭介には遅《おそ》く感じる。こうしている間にも、香澄《かすみ》は刻一刻と死に近づいているのだ。
「いい、恭介《きようすけ》? 考え得る限りすべての方法を駆使《くし》してはみるげど、正直言って今の医療《いりよう》技術で彼女の命を救うことはできないわ。あたしたちにできるのは、レベリオン化した彼女の生命力に賭《か》けるしかないの」
「あ、ああ……」
「あなたも知ってる通り、レベリオン細胞は強力な力と引き替えに膨大《ぽうだい》な量のエネルギーを消費するわ。香澄ちゃんの体内に残されたエネルギーだけで、彼女の心臓を再生できるとは思えない。流出した血液を補って、外から送りこまなきゃ」
「わかったぜ、姉貴……」
恭介はうなずく。香澄の血液型はわからないが、恭介の血液型はO型だ。それに、どのみち普通の人間の血液では意味がないのだ。
「俺《おれ》にその分の血をよこせっていうんだな?」
「……献血みたいにはいかないわよ。下手すれば、あんたの命まで危なくなるかも」
「かまわないさ。どうせ、一度は香澄に救ってもらった命だ」
「そう……そうだったわね」
杏子《きようこ》のつぶやきは、コルベットのエンジン音にかき消された。
少しでも体力を回復させようと、恭介は目を閉じる。
だが、浮かんでくるのは香澄のことばかりだった。
真剣《しんけん》な表情で服を選んでいた香澄。慣れないパーティで緊張《きんちよう》していると漏《も》らした香澄。そして、ありがとうと言って微笑《ほほえ》んだ香澄。
彼女はいつだって戦っていた。初めて出会った夜も、転校してきたあの日も、そして今日も。
だが、それでも彼女は普通の女の子だった。彼女自身が言ったように、恭介の前でだけは、彼女は飾らない本心を打ち明けてくれたのだ。
その彼女を守りきれなかった自分に、恭介は歯がみする。
「……ねえ、恭介。もしも……R2ウィルスを作ったのが香澄ちゃんだったって言ったら、あなたは怒る?」
沈黙《ちんもく》を嫌《きら》ったのか、杏子がぽつりと言った。
「そんな……そうか……だから……」
彼女の言葉に恭介は驚《おどろ》く。だが同時に、恭介にはわかったような気がした。
だからこそ、彼女は憎《にく》んでいたのだ。R2ウィルスを。そして、プロ・レベリオンとなった自分自身を。そして、誰よりもウィルスの拡散を恐《おそ》れていた。
自らが生み出したR2ウィルスを滅《ほろ》ばすために、彼女は一人きりで戦い続けていたのだ。
恭介は、自分の腕《うで》の中で眠《ねむ》る香澄の姿を見つめた。
血塗れのその横顔は、気高く美しい。だが、どんなに美しくても彼女は天使などではなかった。恭介《きようすけ》たちと何も変わらない、ただの女の子だ。
「……でも、姉貴。香澄《かすみ》は言ったんだ……」
「……え?」
恭介の言葉の意味がわからなかったのか、杏子《きようこ》が聞き返した。
彼女に答えるでもなく、恭介は静かにつぶやく。
「……あいつだって普通の女の子でいたかったんだよ……」
「そう……」
恭介の返事に、杏子はふっと満足そうな笑みを浮かべた。
そして、爆音とともに彼らを乗せたコルベットは高城医大付属病院へと滑り込んだ。
2
香澄の手術が終了したのは、深夜一時を回ったころだった。
彼女は意識不明のままICUに隔離《かくり》されている。意識を失う寸前まで輸血を続けた恭介も、今は眠《ねむ》ったままだ。
非常口を指し示す緑のランプが、キャメルの紫煙《しえん》を闇《やみ》の中に浮かび上がらせていた。
疲れた身体《からだ》を深々とソファに座らせて、緋村《ひむら》杏子は煙草《たばこ》をくゆらす。手術着のまま、手袋さえ外していないその姿は、教授連中に見つかったらまた説教をくらってしまうだろう。
だが、それさえも気にする余裕《よゆう》もないほど、杏子は疲れていた。
最終的に手術は八時間にも及ぶ大がかりなものだったし、そもそも即死状態の患者を手術するのは生まれて初めての経験だったからだ。
ようやく人心地がついた杏子は、すぐ近くに立っていた気配《けはい》のない男に気づく。
「はあい、リチャード……」
馴《な》れ馴れしい口調で杏子は彼の名前を呼んだ。
リチャード・ロウは、気にした様子《ようす》もなく杏子に歩み寄る。深夜だというのに、彼のスーツには着崩《きくず》れた様子など微塵《みじん》もない。相変わらずアンドロイドのように生活感のない男だ。
「……あなたにはお礼を言わなければいけませんね、ミス緋村《ひむら》……」
「お礼? 何の?」
「あなたのおかげで我々は貴重な特捜官《インスペクター》を失わずにすみました。正直に言って、あきらめていたのですが……あなたは素晴らしい技術をお持ちだ」
「あたしだって、普段ならとっくに投げ出してたわよ。いくらあたしでも、死人を生き返らせる自信はないものね……」
杏子は、そう言って新しい煙草に火をつける。
「ただまあ、恭介の見てる前で弱音を吐《は》くわけにはいかないものね……けっこうツライのよ。パーフェクトな姉を演じるのもね……」
「お察ししますよ……」
リチャードが真面目《まじめ》な顔で答えたので、杏子《きようこ》はくすくすと笑った。
それから杏子は、冷ややかな眼差《まなざ》しで彼の顔を睨《にら》みつける。
「……残念だったわね。彼女が助かって」
杏子の言葉に、リチャードの表情が強張《こわば》った。それは、傍目《はため》にはわからぬほどの小さなものだ。杏子は、何事もなかったように煙を吐《は》く。
「……なぜ、我々が味方である彼女の死を願うと?」
「そうね……統合計画局とやらは、彼女に生きていて欲しいでしょうね。今はまだ、彼女の利用価値は計り知れないもの。でも、あなた個人はどうかしら?」
「どういう意味です……?」
「さっきの手術中に気づいたわ。レベリオン化した人間の細胞には。ヘイフリック限界が存在しない……これがどういうことか、あなたも知っているんでしょう?」
杏子の閥いかけに、リチャードは重々しくうなずく。
「……不老不死《ふろうふし》、ですか?」
「そ。人類の永遠の夢よ……それでもあなたは、彼女を妬《ねた》んでいないと言い切れて?」
杏子は、深々と煙を吸い込んで、リチャードを値踏《ねぶ》みするように見つめる。
「あたしはね、人種平等なんてお題目、これっぽっちも信じてないの。有色人種《カラード》の彼女たちが人間以上の存在へと進化して、自分たちが取り残されるなんて、白人のあなたたちには耐えきれない屈辱《くつじよく》ではないの?」
リチャードの端正《たんせい》な顔に、笑みが浮かんだ。それは普段の作為《さくい》的な笑顔ではなく、悪戯《いたずら》を指摘された子どものようなバツの悪い苦笑だった。
「そう。米国政府がR2ウィルスの根絶にやっきになっている背景に、そういう感情があることは否定しません。白人のエリートである彼らを差しおいて進化する異民族など、あってはならないことなのでしょうね……でも、私は彼女の味方です。少なくとも、その意味では……」
「そうか……あなた、力トリック教徒だったわね……」
杏子は、彼女の前で鮮《あぎ》やかな十字を切ったリチャードの仕草《しぐさ》を思い出す。
米国政府にとって香澄《かすみ》が異人種なら、リチャード・ロウもまた、アメリカの歴史からみれば異教徒だ。同じ虐《しいた》げられる者同士だから、味方であると彼は言いたいらしい。表向き信教の自由が認められている彼の国での宗教事情など、杏子の知識の及ぶところではないが。
「……あなたの言う通りR2ウィルスが白人だけを進化させるものであればよかったのかもしれません。あるいは黄色人種や黒人だけを進化させるものであれば、初めから彼らも研究しようとは思わなかったでしょう」
「だけど、あなたたちの神は平等だった」
「そう……あまりにも平等すぎました」
リチャードはつぶやく。その静かな口調が、R2ウィルスに対する抑圧された彼の怒りを表していた。
言葉とは裏腹に、彼も彼の組織も、香澄《かすみ》たちの存在を疎《うと》んじている。おそらく昏澄もそれを知っているはずだ。彼らはお互いに、共通の敵を排除《はいじよ》するという目的で手を組んでいるにすぎない。半《なか》ば予想していたことだったが、杏子《きようこ》は嘆息せずにはいられなかった。
種の革新の可能性さえも、血塗られた形でしか受け入れることができない。人類という種《しゆ》の業《ごう》の深さを、あらためて痛感させられる。
考えてみれば、香澄は人類にとっての反逆者であると同時に、新たなる種《レベリオン》にとっての裏切者でもある。彼女は、そんな孤独な戦いを、ずっと一人で統けてきたのだ。
「……ここで命を落としていたら、そのほうが幸せだったかもしれないわね。彼女は……」
杏子のつぶやきが聞こえたのか、立ち去ろうとしていたリチャードが、不意に振《ふ》り返って口を開いた。
「私からも、一つ質問していいですか、ミス緋村《ひむら》? あなたは、レベリオンが本当に人類の進化した姿だとお考えですか?」
リチャードの問いかけに、杏子はくすくすと笑う。
「進化ってのは、環境に適応して生き残ったものが、あとから決めた理屈だわ。個体レベルでの優劣で決まるものではないでしょう?」
「では……彼らと戦って生き残れますか、私たちは?」
「人類を滅《ほろ》ぼすのが、レベリオンだけとは限らないんじゃない? あたしには、むしろ絶滅《ぜつめつ》に瀕《ひん》した人類という種が、生き延びるために強靱《きようじん》な生命力を備えた変異体を生み出したように思えるけど?」
「……なるほど……それはおもしろい意見ですね」
リチャードは、嘲笑《ちようしよう》と苦笑の入り交じった曖味《あいまい》な笑みを浮かべた。
「……では、そのレベリオン同士を殺し合わせている私たちは、いずれにしても滅《ほろ》びるしかないわけだ」
「それを知っても、まだ戦いを続けるつもり?」
咎《とが》めるような杏子の言葉を肯定するように、リチャードはうなずく。
彼はすでに、いつもの作りものめいた表情に戻《もど》っていた。
「それが私たちの使命ですから」
そう言い残して去っていくリチャードの背中を見ながら、杏子はため息をつく。
進化だの、正義だのという言葉を掲げてはいても、しょせんは自分と所属する組織の利害しか見えていない。それが彼の、そして人類の限界なのだろうと、杏子はひどく冷静に考えていた。灰皿に短くなった煙草《たばこ》を押しつけて、杏子は立ち上がる。
新鮮《しんせん》な空気が吸いたくなって外に出ると、満月が紅《あか》い光を病院の中庭に落としていた。
そろそろ風に冷たさを感じる季節だ。
ほどいた髪を風に遊ばせながら、杏子《きようこ》はひとりごちる。
「さて……これからどうする、恭介《きようすけ》?」
3
翌日の日曜日、恭介は夜明けと同時に目を覚ました。
目覚めの直接の原因は空腹だ。体内の養分を使いきったせいで、フル・マラソンを終えた直後のように身体《からだ》が重いが、それ以外は特に変わったところはない。意識が朦朧《もうろう》となるほど血を抜いたにも関わらず、だ。レベリオンの肉体の持つ回復力に、あらためて恭介は驚嘆《きようたん》する。
恭介が寝ていたのは、相変わらず殺風景な病室のベッドの上だった。今回は、病室に杏子の姿はない。香澄《かすみ》に付き添っているのか、どこかで寝ているか。どちらにしても、探し出して手術の結果を聞くということはできそうになかった。
それに、香澄の容態に関わらず、恭介にはやらなければならないことがある。それは、自分自身で決めたことだ。だから、たとえ一人でもやらなければいけないのだった。
恭介は勝手に病院を抜け出して、自宅に戻《もど》る。制服はまだ血で汚《よご》れていたが、朝早いこともあって誰《だれ》かに見咎《みとが》められることもなかった。家の冷蔵庫を空《から》にするほどの勢いで朝食を済ますと、意を決して電話を一本かける。
そして、恭介は公園へと出かけた。
その日は、心地よい風が吹いていた。
深く澄《す》んだ青空の下で、満開の秋桜《コスモス》の花弁がそよいでいる。
噴水の前の広場では、鳩《はと》が人間に餌《えさ》をねだっていた。
鳩の羽根《はね》はみな薄汚れたような灰色をしている。恭介が子どものころに見かけた真っ白な鳩は、ほとんど残っていなかった。
「光学迷彩だな……」
誰《だれ》に言うともなく、恭介はつぶやく。コンクリートで固められた都会では、保護色になるグレイの鳩のほうが生き残る率が高いのだろう。人間の創《つく》り出した環境に適応して彼らも生きているのだ。
それは進化とは呼べない。だが間違いなく、生き延びるために彼らが手に入れた力だ。
ならば、自分のこの力は何のためにあるのか?
恭介はレベリオン細胞の眠《ねむ》る自分の腕《うで》を見つめながら、そんなことを考える。
公園の中央に立っている飾り時計は十時ちょうどを指していた。
約束の時間より早く来たのは、恭介の人生でも初めての体験だ。来ないかもしれない相手を待つというのが、こんなに緊張《きんちよう》することだとは思わなかった。
この次、誰《だれ》かとデートするときには遅刻しないようにしようと、恭介《きようすけ》は堅《かた》く心に誓《ちか》う。
「緋村《ひむら》くん?」
不意に女性の声で呼び止められて、恭介は振《ふ》り返った。
そこに立っていたのは、恭介の待っている相手ではなく、長身で大人《おとな》びた雰囲気《ふんいき》の女子高生だった。ほっそりとした美人だが、少しやつれた印象を受ける。緩《ゆる》くウェーブのかかった髪が、肩口《かたぐち》で切りそろえられていて、それが少し不似合いな感じだった。
「あ、酒井《さかい》先輩《せんぱい》?」
恭介は少し驚《おどろ》いて聞き返す。恭介に声をかけてきたのは、高城《たかじよう》学園三年の酒井|希美《のぞみ》だった。
すぐにわからなかったのは、彼女が髪を短くしていたせいだ。スカートの長い落ちついた服を着ており、それも恭介の知っている彼女のイメージから少し外れていた。
「待ち合わせ?」
希美に訊《き》かれて、恭介はうなずいた。
「あ、はい……酒井先輩は……?」
「あたしはただの散歩」
「あ……すみません……」
恭介はそう言って頭を下げる。
ひどく緊張《きんちよう》している恭介に気づいて、彼女は優しい微笑を浮かべた。
「雅人《まさと》のことなら、もう気を遣《つか》わないでいいわよ」
「え、でも……」
恭介は口ごもる。
酒井希美は、死んだ河村《かわむら》雅人の恋人だった女性だ。そして、雅人の死の第一発見者でもある。
そのショックで、彼女は学校もしばらく休んでいたという噂《うわさ》だった。
しかし今の希美は、むしろ開き直ったような笑顔で続ける。
「死んでしまったものはしょうがないし……それに、お葬式《そうしき》のときだって、あたしよりあなたのほうがダメージを受けてたみたいだったわよ」
「……え、いや、そんな……」
雅人の葬式の日のことを思い出して、恭介は赤面する。潤《じゆん》や臣也《しんや》たちとともに恭介は子どものように号泣《ごうきゆう》し、悠《ゆう》や希美になだめてもらったのだ。遺族《いぞく》の人々にも、かなり迷惑《めいわく》をかけてしまったことだろう。彼女の言う通り、雅人の死を引きずっているのは恭介のほうなのかもしれない。
「……たしかに、ショックでしたよ。河村先輩がいなくなっちまって、俺《おれ》、何をすればいいかわかんなくなっちゃって……」
「そんなこと言わないで」
希美が静かに首を振《ふ》った。
「……雅人《まさと》はね、よく緋村《ひむら》くんのことを自慢してた。珍しいのよ、あいつが他の人を褒めるなんて。あたし、君に嫉妬《しつと》してたこともあったんだから。その君が、そんなこと言ったら、あいつが悲しむわ」
「だけど……俺《おれ》は先輩《せんぱい》みたいな才能があるわけじゃないし……褒めてもらうことなんて何も」
「才能がない? 本気で言っているの?」
恭介《きようすけ》の言葉を聞いて、希美《のぞみ》は目を丸くした。それから、不意に笑い出す。
「あはは……その台詞《せりふ》、雅人が聞いたら喜ぶわね。怒るかも。あはは……」
「え?」
「……だってね、雅人はいつも言ってたのよ。君のことを天才だって。技術的には、まだぜんぜんだけど、君の声は聴《き》いてる人の魂《たましい》に響《ひび》くって。だから、君のことをスカウトしようって話しになったのよ」
「スカウト? 何です、それ?」
恭介は怪訝《けげん》な声で訊《き》き返す。河村《かわむら》雅人は自分のバンドで、ギターとボーカルを兼任している。
その彼が、恭介をスカウトしようとしているという話は、初耳だった。
「聞いてなかった? デビューする条件として、いいボーカルを捜《さが》してくるようレコード会社に言われてたの。それで雅人が、緋村《ひむら》くんがいいって言って」
今度は恭介が目を丸くする番だ。
あの雅人が、自分の才能を認めてくれていた? 自分自身でさえ気づいていなかった才能を?
恭介は、胸の奥から、何か熱いものがこみ上げてくるのを感じた。彼が生きているときに、その話を聞いていたらどんなに素晴らしい気分だっただろう。だが、その望みはもはやかなわない。それゆえに、恭介の感動は純粋で、そして自分の心を深く傷つけた。
恭介の反応に、希美が首を傾《かし》げる。
「変ね……たしか、雅人と同じギター教室に通ってる君たちのバンドの子に、話をしておくよう頼《たの》んだって言ってたけど?」
「……悠《ゆう》に?」
「タイミングが悪くて、話しそびれちやったのかしら。無理もないよね。その話が出て、すぐだったもの、雅人が死んだの……」
「ああ……」
恭介は納得《なつとく》する。それは、いかにもありそうなことに思われた。恭介が、よけいにつらい思いをしないですむようにと黙《だま》っていたのだろう。悠らしい気遣《きづか》いだ。
もしそれが本当なら、夢のような話だった。メジャーデビューが、ではない。雅人と同じバンドで演奏できることが、だ。それは、ずっと彼の背中を追いかけてきた恭介の、最大の目標だったのだから。
だが、一人のレベリオンの存在によって、その夢は永遠に失われた。
そして雅人《まさと》を撃《う》った犯人は、まだこの街に潜《ひそ》んでいる。たとえ私怨《しえん》と言われようとも、恭介《きようすけ》にはそれを憎《にく》む理由がある。
犯人を捕らえなければならない。その思いが、一種の強迫《きようはく》観念として恭介を衝《つ》き動かしていた。同じ人物に香澄《かすみ》が撃《う》たれたことで、その感情はさらに強くなっている。
そんな恭介の放つ怒りを感じとったのだろう。希美《のぞみ》が、寂しそうに笑う。
「……でもね、雅人はたぶん、デビューなんてどうでもよかったのよ。あいつはただ、好きな音楽を演《や》れればそれでよかったの。それは、最後はあんな終わりかただったけど、それでも雅人は十分に幸せだったと思うわ」
「え……なぜです?」
「君がいるからよ。あいつが伝えたかったことは、きっと君が受け継《つ》いでくれている。だから、あいつが生きていたことは無駄《むだ》ではないわ……音楽って、そういうものでしょう?」
自分に言い聞かせるようなゆっくりとした口調で言って、希美はもう一度笑う。
彼女が細めた瞳《ひとみ》の端《はし》に、涙《なみだ》が一粒《ひとつぶ》浮かんでいた。
4
草薙萌恵《くさなぎもえ》が現れたのは、恭介が希美と別れた直後だった。
約束の時間を一○分ほど過ぎているが、当日の朝にいきなり呼び出したのだから、その程度は仕方ないだろう。
公園横のバス停で降りた彼女は、息を切らせながら走ってくる。
彼女は、フリースの黒いパーカーに男物ジーンズという服装だった。スクエア・トゥのブーツを履《は》いているので、いつもより少しだけ背が高い。思ったよりずっと活動的なファッションだったので、恭介は少し驚《おどろ》いた。
「ごめんね、待たせちゃったよね?」
「いや。こっちこそごめん。せっかくの日曜に呼び出して」
「ううん。どうせ暇《ひま》だったから」
萌恵が笑いながら首を振《ふ》る。
それから彼女は、きょろきょろと周囲を見回した。どうやら、恭介が一人でくるとは思っていなかったらしい。
香澄が一緒《いつしよ》だと思われていたのだろうか。たしかに萌恵は、クラスメートとはいえ男子の誘《さそ》いに簡単に応じるようなタイプには見えない。二人きりではないと思ったから、すんなりと呼び出しに応じてくれたのかもしれない。
だとすれば、萌恵は香澄が昨日《きのう》撃《う》たれたことを知らないということになる。それとも、彼女の今の態度は演技なのだろうか?
「緋村《ひむら》くん、昨日《きのう》の午後、学校でガス爆発があったって聞いた?」
萌恵《もえ》に訊《き》かれて、恭介《きようすけ》は驚《おどろ》く。
リチャード・ロウの仕業《しわざ》だということは、すぐにわかった。昨夜の戦闘の痕跡《こんせき》をもみ消すために、統合計画局が手配したのだ。だが、それを萌恵の口から聞かされたのが意外だった。
「え……いや、知らないけど、そうなの?」
「うん、保健室で爆発があったみたいで、生徒だけで二〇人近くが入院したんだって。うちのクラスの人は、名前が載《の》ってなかったけど」
「そうか……うちの学校って、何か事故が多いな」
恭介は素知らぬ顔でとぼける。
「ほんとね」
萌恵もうなずいた。
二人は、特にあてもなく商店街のほうへと歩き始める。
まだ十月だというのに、アーケードの中には赤鼻のトナカイが流れていた。曲に合わせて萌恵が歌詞を口ずさむ。さすがに声楽部だけあって、彼女は綺麗《きれい》な声をしていた。恭介が彼女の歌に合わせてコーラスをハモると、彼女は照れたように微笑《ほほえ》んだ。
普通の喫茶店がまだ開いていなかったので、恭介たちはフランチャイズのコーヒーショップに入った。
恭介は猫舌《ねこじた》なので、真冬でも大抵《たいてい》アイスコーヒーを注文する。レベリオン化しても、この辺の嗜好《しこう》は変わらないらしい。
萌恵はティーオレと、二人分のチョコレート・クッキーを注文した。「美味《おい》しいんだよ」と言いながら、一皿《ひとさら》を恭介のトレイに移す。
恭介は、アイスコーヒーをかき混ぜながら萌恵を観察していた。
相談があると言って突然呼び出したにも関わらず、萌恵は特に緊張《きんちよう》しているようには見えなかった。柔《やわ》らかい物腰は普段とまったく変わらない。
席に着いても、いつものにこやかな笑みを浮かべて、恭介が話し始めるのを待っていた。
「えーと……」
彼女には訊きたいことが山ほどあったのに、実際に目の前にいると何から訊けばいいのかわからない。恭介がしばらく躊躇《まよ》っていると、気を遣ったのか彼女のほうから口を開いた。
「緋村くん……て」
「え?」
「秋篠《あきしの》さんと仲がいいよね」
萌恵が笑う。そこには、冷やかしているような雰囲気《ふんいき》はまったくなかった。友達同士が仲良くしてくれて嬉《うれ》しいといった感じの屈託《くつたく》のない笑顔だ。
「いや、違うんだ。ちょっとワケありで、たしかによく一緒《いつしよ》にいるけど、そういうんじゃないんだよ。全然」
ムキになっていると思われそうだったが、とにかく恭介《きようすけ》は懸命《けんめい》にそれを否定しようとした。
その様子《ようす》がおかしかったのか、萌恵《もえ》が笑う。
「うん、わかってる」
「え?」
あっさりと肯定《こうてい》されて、恭介は思わず拍子《ひようし》抜けした。萌恵が、微笑《ほほえ》みながら続ける。
「最初はね、女子の間でもけっこう噂《うわさ》になってたんだけど。緋村《ひむら》くん、加奈子《かなこ》に直接訊《き》かれたでしょ?で、あれはどうも違うみたいよ、ってことになって。秋篠《あきしの》さんも大変よね。あれだけ美人だと、いろいろと噂されて」
「あ、ああ。無責任な噂って怖《こわ》いよな……」
「本当にね。今、あたしたちが会ってるのだって、知り合いに見られたら、きっとすぐに噂になっちゃうよね。恭介くんのファンの子に怒られちゃう」
萌恵はそう言ってカップを口に運んだ。
彼女の言葉で、江崎綾《えざきあや》たちのことを思い出して、恭介は少しせつなくなる。アイスコーヒーがやけに苦かった。
「でも、真島《まじま》には感謝しなきゃだな。誤解をといてくれて。あいつ、いいとこあるじゃん」
「うん。加奈子はいい子だよ」
友人が褒《ぼ》められたのが嬉《うれ》しいのか、萌恵は力強くうなずいた。それから、少し遠い目をして語り始める。
「……あたしね、昔、いじめに遭《あ》ったことがあるの」
恭介は、驚《おどろ》きとともに彼女の告白を聞いた。それは、恭介が彼女に聞きたいことの一つだったからだ。そして、もっとも聞きづらい話題でもあった。
それを今、彼女は自ら語ってくれている。
「いじめってね、伝染病みたいに広まるのよ。昨日《きのう》まで仲がよかった人たちが、急に口もきいてくれなくなるの。あたしは毎|日怯《おび》えていた。あたしは、何もしていないのにって。いじめの中心になってた人たちを、殺してやりたいって思ったりもした……」
そう言って、萌恵は自分の過ちを悔《くや》やむような表情を浮かべた。彼女をいじめていた少女たちが、実際に殺されていることを思い出したのだろう。
「そのときにね、中学校のときに同級生だった加奈子が、心配して遊びに来て言ってくれたの。
そんな学校辞《や》めちゃて、うちにきなよって。イヤになったら逃げちゃってもいいんだ、逃げるのも戦いのうちなんだからって」
恭介は、ふっと笑う。戦いという勇ましい単語を使うのが、いかにも加奈子らしいと思ったからだ。
「それで気づいたの。あたしは、何もしていないのにいじめられてたんじゃない。何もしなかったから、いじめられてたんだなって。助けて欲しかったら、助けてって叫べばよかったのに、怖《こわ》くてそれもできなかった。でも、加奈子《かなこ》の言葉で、戦おうって思えたの」
「それで転校を?」
「うん、一年生の一学期が終わる直前に」
彼女の返事は、香澄《かすみ》に聞かされていた情報と同じだった。萌恵《もえ》が通っていた星和大《せいわだい》付属高校は全国的に有名な名門校だ。いじめのような事情があったのならば、それを隠蔽《いんぺい》するためにも、彼女の転出には協力的だっただろう。
だが、同じ市内での出来事だし、転校先でもいじゆに遭《あ》わないとは限らない。学校を変わるのも、萌恵には相当な勇気が必要だったはずだ。
「復讐《ふくしゆう》、だったの」
萌恵がつぶやく。その言葉に、恭介《きようすけ》は一瞬《いつしゆん》どきりとする。
だが、萌恵の表情は、彼女特有の柔《やわ》らかな笑顔のままだった。
「転校した先では、がんばって幸せになろうって思ったの。それがあたしをいじめた人たちへの復讐になるって。今はね、転校してよかったって思ってる。だからね、加奈子はあたしの恩《おん》人《じん》なの」
恭介は、萌恵の言葉に、ちょっとした感動をおぼえた。
そして、恭介がどうしようもなく惹《ひ》かれる彼女の魅力《みりよく》の正体に気づく。
おそらくは、何度も何度も傷つきながら彼女が手に入れた力。それは、強さ――戦う意志だ。
心を許せる友人がいて、つまらない授業があるごく普通の暮らし。恭介が当然のように感じていた日常の風景さえ、彼女にとっては孤独な戦いの果てにようやく手に入れたものだった。
だからこそ彼女は愛している。彼女の日常を。彼女の周りにいるすべての人を。
だから彼女は優しいのだ。誰《だれ》よりも今の生活を愛しているから。彼女は、ごく普通の日常を守るために、いつだって精一杯《せいいつばい》戦っている。そのために、自分が傷つくことを恐《おそ》れていない。
それは、今までの恭介にどうしようもなく欠けていた部分だった。
恭介はふと、香澄のことを思い出す。
萌恵は、クラスの誰よりも彼女に優しかった。バスに乗り合わせたときも、パーティのときも、彼女は積極的に香澄に近づいていった。
普通の女の子になりたかったと打ち明けた香澄の想いは、傷つき苦しんでいたころの萌恵と同じなのではないだろうか。萌恵は、おそらく初めからそれに気づいていたのだ。だから彼女は、香澄のことをしきりに気にしていた。昔の自分に似ている香澄のことを。
違う……
恭介は確信する。彼女は、絶対に犯人ではない。
こんな強い心を持った彼女が、卑劣な暗殺者などであるわけがない。
萌恵《もえ》のことを一度でも疑った自分を、恭介は恥《はじ》じた。
だが、彼女がレベリオンでないとすれば、いったい誰《だれ》が犯人なのだ?
「ごめんね、変な話ししちゃって」
急に黙《だま》り込んだ恭介《きようすけ》を気遣《きづか》って、萌恵《もえ》が明るい口調で言った。恭介はあわてて首を振《ふ》る。
「何か、相談があるって言ってなかった?」
萌恵が優しく訊《き》いた。
恭介は正直にうなずく。彼女が犯人でないとわかっても、まだいくつか気になることが残っていた。
「紅 月《レデイツシユ・ムーン》≠フ……河村《かわむら》雅人《まさと》さんのバンドのライブのことなんだけど……」
「え……?」
「草薙《くさなぎ》さんも来てたんだって?」
恭介の質問に、萌恵は口元を手で覆《おお》う。
クラシックしか聴《き》かないはずの萌恵がライブハウスに来るからには、何らかの理由があったはずだ。恭介はそれを知りたかった。
それが事件と、どこかでつながっているような気がしたのだ。
「もう、麻子《まこ》でしょう! 内緒《ないしよ》にしておいてって言ったのに……」
萌恵の表情が変わった。ちょっと照れたような、困ったような表情。
いつもより少し早口でつぶやいたあと、萌恵はちらりと上目《うわめ》遺《づか》いに恭介を見た。
恭介は、そんな彼女をじっと観察する。
「お願い。正直に言うから誰《だれ》にも言わないでね……」
萌恵はやがて、観念したようにため息をついた。恭介がうなずく。
「あたしね、好きな人がいたの」
「え?」
まったく予想しなかった萌恵の言葉に、恭介はぽかんと口を開けた。
「……その人もバンドをやっていて……それで……河村先輩《せんぱい》のバンドのライブの日に、一緒《いつしよ》に演奏してたりしてて……」
「だ、誰? 俺《おれ》の知ってる奴《やつ》?」
うわずった声で恭介が聞く。雅人たちと同じ日に演奏していたバンドとは、つまり恭介たちのことではないか。
萌恵は小さくうなずいた。
「……杉原《すぎはら》くん」
彼女が、普段よりずっと小さな声で言う。だが恭介の胸には、彼女の言葉がマーシャル・アンプのフルパワーよりも激しく響《ひび》いた。
「ゆ、悠《ゆう》ぅ!?」
恭介が唖然《あぜん》としてつぶやく。立ち上がった恭介を、萌恵はあわてて押し止めるように言った。
「あ、だけど誤解しないで。あたしたちが、一方的に想ってただけなの。本当にただ見てるだけでよかったの。それに、もういいの」
「え……?」
彼女が、あたしたちと言ったことに、恭介《きようすけ》は気づいた。もういいとは、どういう意味なのだろう?
恭介の怪訝《けげん》な表情に気づいて、萌恵《もえ》が言いにくそうに続ける。
「たぶんね、本当の恋愛じゃなくて、アイドルを追いかけてるみたいな感じだったと思うの。
サキちゃん……向坂《さきさか》南美《なみ》ちゃんとかと一緒《いつしよ》に、杉原《すぎはら》くんのことを話しているのが楽しかったんだと思う」
「向坂……南美……」
萌恵の口から向坂南美の名前が出たことに、恭介は愕然《がくぜん》とする。
彼女が……悠《ゆう》のことを好きだった?
萌恵はうつむいて言葉を切った。彼女と向坂南美は、互いに好きな相手の話をするほど親しかったのだ。そして彼女は、南美の死を自殺だと思っている。友人が自殺するほど悩んでいたことに気づいてやれなかった自分を、萌恵は責めているのに違いない。
「悠には……妹がいた」
恭介は、不意に思いついてつぶやく。
「え? ……ええ、そう。一|歳《さい》違いなんでしょう? たしか星和大《せいわだい》付属に通ってるって……」
「そうだ……俺《おれ》は、知ってたんだ……最初から」
恭介の言葉が途切れた。
萌恵が、不思議そうな顔で恭介を見る。
だが、その姿はもう恭介の目には映っていなかった。
麻子《まこ》の誕生パーティの夜、缶《かん》スプレーで描かれた警告の文章を思い出す。
アキシノカスミに近づくな!
犯人は、香澄の名前を知っていた。それはいい。
だが、なぜ犯人は恭介を撃《う》たなかった? あの夜も、昨夜も 本当は考えるまでもなかったのだ。萌恵は、最初から香澄《かすみ》を撃つことなどできなかった。なぜなら彼女は、昨日《きのう》、友人と一緒に買い物に出かけたのだから。そもそも彼女は、香澄が学校に残っていたことを知らない。
それを知っていたのは、誰《だれ》だ? 志津《しづ》が、香澄と戦うために学校に向かったのを知っていたのは?
ぞくり、と鳥肌《とりはだ》がたつ。
麻子の誕生パーティの席で感じていた違和感が、今度こそ実体をともなって再構成される。
悠には妹がいた。彼女は、殺された女子高生と同じ高校に通っていた。そして悠の妹は心因《しんいん》性《せい》の病気で自宅|療養《りようよう》中だという。詳《くわ》しいことは知らないが、自殺|未遂《みすい》だったとも聞いている。
その原因が、学校でのいじめにあったとも。
香澄《かすみ》が萌恵《もえ》を疑った理由は、彼女だけが、すべての被害者と接触《せつしよく》していたからだ。
だが、そうではなかった。香澄たちの組織でも、調べきれなかった情報を恭介《きようすけ》は持っていた。
萌恵と同じ条件に当てはまる人物が、もう一人いることを、恭介は最初から知っていたのだ。
そして、その可能性を無意識のうちに否定していた。なぜなら、あまりにも身近な存在だったから。距離が近すぎて、疑うことなど思いもつかなかったのだ。
「緋村《ひむら》くん?」
萌恵が心配そうに訊《き》いた。恭介は、彼女がいたことを思い出して、頭を振《ふ》る。
「……ごめん、草薙《くさなぎ》さん」
恭介は立ち上がった。
「俺《おれ》、ちょっと急ぎの用事ができた。悪いけど……」
「そう? うん、わかった」
恭介の一方的な言葉にも、萌恵は笑ってうなずいた。
行き過ぎようとして、恭介はちょっと立ち止まる。
「……そうだ。草薙さん、進路希望って、もう出した?」
「うん。だって、あれ先週締切だよ」
萌恵がおかしそうに言う。恭介が未だに進路で悩んでいることは、クラス中に知れ渡っているのだろう。
「あたしは、いちおう音大志望。麻子《まこ》は留学だし、加奈子《かなこ》は看護《かんご》学校に行きたいって言ってた」
「そっか……みんな、ばらばらになっちゃうんだよな」
いつまでも一緒《いつしよ》にはいられない。わかっていたことだが、こうして実際にその時期が近づくと、寂しさを感じずにはいられなかった。だが、そんな恭介に、萌恵は笑って首を振《ふ》る。
「でも、離れたって友達は友達だよ。それだけは変わらないから」
「……ああ……そうか」
恭介はふと、これまで忘れていた、大切な何かを思い出したような気がした。
香澄は、自分がレベリオンになったことですべてを失ったと思っている。
恭介は、何かを決断することで、今ある何かを失うと思っていた。
だけど、それはどこか間違っていたのかもしれない。本当は何もなくしてなど――
「ありがとう、草薙さん」
恭介は、本心から彼女に礼を言った。萌恵が、とんでもないといった風に首を振る。
「え、そんな……あたし別に……」
「じゃあ、ほんとにごめん。俺《おれ》、もう行くから」
「うん。今日から、文化祭の練習なんでしょう? がんばってね」
「サンキュ」
恭介《きようすけ》が親指を立ててガッツポーズをする。萌恵《もえ》がにっこりと微笑《ほほえ》んでうなずいた。
彼女に背を向けて歩き出す。
――もし本当に草薙《くさなぎ》萌恵がレベリオンだったときに、あなたは彼女と戦える?
自動ドアをくぐったとき、恭介は、ふと香澄《かすみ》の言葉を思い出す。
草薙萌恵はレベリオンではなかった。だが、恭介には戦うべき相手が残っている。
ある意味では、萌恵よりもはるかに大切な存在が。
「……ちくしょう」
恭介はつぶやく。
なぜかはっきりとわからぬまま、涙《なみだ》が溢《あふ》れた。
様々な思いが、頭の中で渦巻いて思考がまとまらない。
「ちくしょう……なんでなんだよ……なんで……」
涙を拭《ぬぐ》うことも忘れて、恭介は走り出す。
そのつぶやきは、季節外れのクリスマスソングに紛《まぎ》れて虚《むな》しく消えた。
5
スタジオ|H・S《ホツト・スボツト》は、高城《たかじよう》駅の裏口から歩いて一〇分ほどの場所にある。
閉鎖《へいさ》されたライブハウスを流用しているだけあって、建物の中は広々としていた。ちょっとしたミニシアター程度の面積といったところか。少々くたびれているが、ステージの照明機材やアンプ、スピーカー類も当時のまま残されている。
もっとも、ステージ裏の楽屋は閉鎖《へいさ》されているし、壁際《かべぎわ》には使われなくなったテーブルが積み上げられている。ソファは埃《ほこり》まみれで、座ろうという気にはなれなかった。
この近辺はオフィス街なので、日曜日は極端に人通りが少ない。もともと建物自体に防音対策が施《ほどこ》されているし、少々の騒《さわ》ぎでは外に聞こえることはないだろう。
たとえそれが、ブラスティング・ハウルの爆音でも。
――翼《つばさ》の代わりに、涙を固めた見えない弾丸《だんがん》を
未来《あした》と引き替えに、永遠に続く今日を
ください――
薄《うす》暗いスポット照明が照らすステージに腰《こし》掛けて、恭介は歌詞を口ずさむ。
恭介《きようすけ》と潤《じゆん》が作った曲に、悠《ゆう》が詞をつけたものだ。あれは、たしか夏休みが終わる直前のことだった。臣也《しんや》はクサイと評したが、恭介は悠のセンスに素直に感動したものだった。
なぜ、そんな言葉を今になって思い出すのだろう。
その答えはわかっていた。恭介が、それに気づきたくなかったからだ。
気づかないふりをして、恭介は何もしなかった。その結果、香澄《かすみ》は命を落としかけたのだ。
あいつに謝《あやま》らなければならない。と恭介は思った。
恭介に罪があるとしたら、それは真実から目を背《そむ》けたことなのだろう。その罪は償《つぐな》われなければならない。そのために恭介はここにいる。
ぎい、と立てつけの悪いドアが鳴った。眩《まぶ》しい蛍光灯の明かりに包まれて、ギターケースを抱《かか》えた男が現れる。
「恭介だけか? 他《ほか》の連中は?」
ギターを降ろしながら、杉原《すぎはら》悠が訊《き》いた。
彼は、黒のタートルネックにブルージーンズというシンプルな服装だ。そのラフな格好《かつこう》が、悠の中性的な美貌《びぼう》を強調している。濃《こ》いサングラスに隠《かく》された、彼の表情はわからない。
「あいつらはまだこない。待ち合わせの時間は、五時だからな」
「五時?」
悠が怪訝《けげん》な表情を浮かべた。五時までには、あと一時間以上もある。
「恭介、さっき電話で練習は四時からだって言わなかったか?」
「悪いな、悠。あれは嘘《うそ》だ。どうしても、お前と二人で話したいことがあってさ……」
「なんだよ、マジな顔で。怖《こわ》いな……」
そう言って悠が呆《あき》れたように笑う。
だが、恭介は笑わない。いや、笑うことができなかった。
「で、話って?」
悠は、ステージと客席を隔《へだ》てていた、錆びついた鉄製のバーに腰《こし》掛ける。そして、気楽な口調で訊《き》いた。恭介は、彼の顔から目を逸《そ》らさない。
「……昨日《きのう》、悠と別れてから何があったか、訊かないんだな」
恭介の言葉に、悠の表情が凍《こお》る。
沈黙《ちんもく》が、スタジオを支配した。その一瞬《いつしゆん》の沈黙で、恭介は、わずかに残されていた可能性がすべて失われたことを知った。
「訊く必要なんてないか。お前は、俺《おれ》のあとをつけて学校に来て、一部始終を見ていたんだから」
「恭介……それは……」
「志津《しづ》さんは、死んだよ」
悠《ゆう》の声を遮《さえぎ》って、恭介《きようすけ》は続けた。
「姉貴に聞いた。彼女、悠の妹の主治医《しゆじい》だったんだってな。妹さんの病状は、極度のストレスによる自律神経失調と自殺未遂」
「……そう……どちらも、和美《かずみ》の学校の先輩《せんぱい》のおもしろ半分のいじめが原因だよ」
悠の口元から笑みが消えた。繊細な美貌《びぼう》に、凄惨《せいさん》な影が浮かぶ。
「和美は、今もひどく怯《おび》えた目をしている。学校にも行ってない」
「だから殺したのか? 妹さんの復讐《ふくしゆう》のために」
「さあ、どうかな……」
開き直ったような口調で、悠がつぶやく。
だが、その表情は恭介の知っている彼のままだった。
その姿を見るのが、恭介にはつらい。
いっそ、ヴィルレントたちのように変貌《へんぼう》してくれたら、どんなに楽だっただろうと思う。
「そこまで明確に意識していたわけじゃない。江崎《えざき》志津《しづ》にも、そそのかされたしね。けど、復讐《ふくしゆう》か……たぶん、そうなんだろうね。あるいはお前が褒《ほ》めてくれたからかもな。仲のいい兄妹で羨《うらや》ましいって……」
「志津さんは知ってたのか!? お前がレベリオンだってことを?」
「当然だ。僕《ぼく》にR2ウィルスを感染させたのは、彼女なんだから」
悠は、あっさりと認める。
「彼女の目的は、仲間であるレベリオンを増やすことだったらしい。被験者がそのカを何に使おうが興味ないみたいだったよ。だから彼女は、恭介にも手を出さなかった。違うかい?」
恭介はうなずいた。
たしかに彼女は、恭介を傷つけようとはしなかった。その気になれば、いくらでも機会はあったはずなのに。香澄《かすみ》を殺そうとしたのは、彼女が志津の目的を妨害《ぼうがい》しようとしていたからだろう。だが……
「向坂南美《さききかなみ》を殺したのも、悠の仕業《しわざ》なのか?」
押し殺した声で、恭介は訊く。
「ああ、彼女か……知ってたかい? 彼女が、文化祭でのバンド発表を中止させようとしてたってこと」
「……え?」
「何の恨《うら》みがあるのか、けっこう周到に根回しをしててさ。おかげで苦労したよ。危うく、僕《ぼく》らのバンドの最後のステージが潰《つぶ》されるところだった……」
「だから……彼女を殺したのか? たったそれだけの理由で……」
恭介は悠を睨《にら》みつけた。
悠は言葉を途切ると、少し寂しげな微笑を浮かべる。
「ちがうよ、恭介《きようすけ》……僕《ぼく》は失いたくないだけなんだ。もう、何も……」
恭介は、その言葉でようやく悠《ゆう》の本心を垣間《かいま》見たような気がした。
悠は、恐《おそ》れているのだ。
現在という居心地のいい空間と、その中の人間関係を失うことを。
将来のことや、友情という見えない絆《きずな》に対して不安を抱《いだ》くのは、ごく自然なことだ。だが悠には、尋常《じんじよう》ならざる力があった。
彼はその力を使って、現在≠脅《おびや》かす者を排除《はいじよ》しようとしている。
だから、彼は河村《かわむら》雅人《まさと》を殺したのだ。悠のそばから、恭介を連れ去ろうとする敵として、彼は排除された。雅人は、恭介に関わったせいで殺されたのだ!
「間違ってるよ……悠…お前は、間違っている……」
恭介は繰《く》り返す。草薙萌恵《くさなぎもえ》は言った。離れても、変わらないものがあると。
何かを失うことなんて恐れる必要はなかったのだ。恭介たちは、まだ何も手に入れてなかったのに。失うものなんて、最初からなかったのに。
非難する恭介に、悠は薄笑いを浮かべて首肯《しゆこう》した。
「そうかもしれないね……だったら、どうする?」
「……罪を償《つぐな》わせるさ」
「どうやって? 秋篠《あきしの》香澄《かすみ》の組織とやらに、僕を突き出すかい?」
「ああ……あいつらなら、きっと何とかしてくれる。だから……」
「言うなっ!!」
悠が怒鳴《どな》った。
彼の周囲の空気が変質する。冷んやりとした鋭利《えいり》な気配《けはい》――殺気だ。
「なぜだ……恭介……」
悠の左|腕《うで》が変形し、水晶のように白く透《す》けていく。
香澄のスクリーミング・フィストに似ているが、少し違う。盛り上がった二《に》の腕の筋肉と、手首へ向かって収束《しゆうそく》していく靱帯《じんたい》、そして掌《てのひら》の中央部に出環した小さな孔《あな》が、SF映画に出てくる光線|銃《じゆう》を違想させる。
「……なぜ僕よりあの女を選ぶ!?」
「悠……やめろ!!」
サングラスを外した悠の瞳《ひとみ》の色が変わっていた。ファージ変換した細胞が、レベリオン本来の姿を取り戻《もど》したのだ。
一個の兵器と化した左腕を、悠はぐっと握《にざ》りしめた。
その仕草《しぐさ》は、ショットガンに弾丸《だんがん》を装損《そうてん》する動作に似ている。
「なぜだっっっっ!!」
「よせっ!!」
叫びながら恭介《きようすけ》は、反射的に左に飛んでいた。
右肩《かた》に激痛が走り、鮮血《せんけつ》が散る。
「くっ!」
恭介は、ステージの上を転《ころ》がり、積んであったアンプの影に隠《かく》れた。そのアンプに次々と、ドリルで突き破ったような孔《あな》が穿《うが》たれる。
弾丸《だんがん》だ。悠《ゆう》のレベリオン細胞は、左|腕《うで》をライフル銃《じゆう》のように変化させるという、恐《おそ》るべき殺人能力を彼に与えたのだ。悠の動作からみても、何かを射出していることは間違いない。その貫通力や破壊力は、大口径の拳銃弾《けんじゆうだん》にも匹敵《ひつてき》する。
だが見えないのだ。たしかに弾丸が撃《う》ち出されているのに、避《よ》けられない。レベリオンの反応速度をもってしても、悠の|見えない弾丸《インビジプル・ブリツト》を捉《とら》えることはできない。
鋭《するど》い擦過《さつか》音とともに、恭介の頬《ほお》が裂《さ》けた。
孔だらけになったアンプは、もはや盾《たて》の用をなさない。
「悠っ!!」
恭介は叫ぶ。生命の危機に直面して、無意識のうちにトランスジェニック能力が発動したのだろう。その叫びは、ブラスティング・ハウルの破壊超音波と化した。
凄《すさ》まじい音圧が空気を震《ふる》わぜ、攪乱《かくらん》された大気の障壁《しようへき》を造る。
悠の撃ち出したインビジブル・プリットが、震動《しんどう》する大気に阻《ばば》まれ空中で散った。
薄暗《うすぐら》いスタジオの明かりの下に、一瞬《いつしゆん》だけ鮮《あざ》やかな虹《にじ》が浮かび上がる。
「ちっ!」
悠の舌打ちが聞こえた。それを聞いて、恭介はインビジブル・ブリットの正体に気づく。
「……水っ!?」
恭介は、孔だらけになったアンプの表面に触《ふ》れた。悠の放つ見えない弾丸が突き抜けた跡《あと》は、表面がしっとりと濡《ぬ》れている。
「そうか……そういうことか……」
絶え間なく続く銃撃を転《ころ》がって避《さ》けながら、恭介はようやく理解した。
インビジブル・ブリットの正体は、超高圧の水の弾丸だ。おそらくレベリオンの圧倒《あつとう》的な筋力で体内の水分を加圧して、高速で撃ち出しているのだ。
たかが水とはいえ馬鹿にはできない。高圧水流を使って金属を切断することは、工業分野では常識的に行われていることだ。圧縮された水は、なまじの金属カッターなどより、はるかに滑《なめ》らかな断面を形成できると言われている。
考えてみれば、自然界にも体液を射出する生物は少なくない。ある種のコブラは、相手に激痛を与え視力を奪《うぼ》う毒液を数メートル以内の敵にほぼ確実に命中させるというし、水流を吐《は》き出して餌《えさ》を撃ち落とすテッポウウオという魚もいる。
事件で使われた銃が特定できないのも当然だった。彼らを殺した弾丸は、最初から存在しなかったのだ。目標を貫通したあとは、霧散《むさん》し蒸発してしまっていたのだから。
「もうやめろ、悠《ゆう》っ!!」
恭介《きようすけ》は、頬《ほお》から流れた血を拭《ぬぐ》いながら立ち上がる。
悠が再び左|腕《うで》を構えた。
恭介は、その悠を睨《にら》みながら、人間には聴《き》こえない声で叫ぶ。
ブラスティング・ハウルが生み出した大気の揺《ゆ》らぎが、射出された見えない弾丸《だんがん》を撃墜《げきつい》した。
音速の衝撃《しようげき》波は、そのまま悠を襲《おそ》う。
両耳を押さえて、悠が苦悶《くもん》の悲鳴をあげる。
「悠、やめてくれ! 俺《おれ》は、お前と戦いたくなんかないんだよっ!!」
恭介の言葉に、血塗れの悠は不敵な笑みを浮かべた。かすれた声でつぶやく。
「……気に入らないな……恭介。まるで、僕の能力じゃお前に勝てないみたいな言いぐさじゃないか」
「何言ってんだよ……勝つとか負けるとか、そんなん関係ないだろうっ!?」
「いつだって、お前はそうだったよ……僕《ぼく》が必死で努力して手に入れたものを……お前はいつも当然のように持っていた……だけど!!」
悠は、左手を天井《てんじよう》に向けると、スタジオを照らしていた照明を次々に撃《う》ち抜いた。
周囲が突然|闇《やみ》に包まれる。恭介が気づいたときには、悠の姿が消えていた。
「悠!」
恭介が叫んだとき、脇腹《わきはら》に鈍《にぶ》い衝撃を感じた。
いつの間にか恭介の左側に移動した悠が、インビジブル・ブリットを撃ち込んだのだ。
「たしかに、僕の能力は暗殺向きだからね。正面から撃ち合うのは分《ぶ》が悪い。でもね……」
「うおおおおおおっ!」
脇腹の激痛に呻《うめ》きながらも、恭介はブラスティング・ハウルを放つ。だが、そのときには悠はすでに別の場所に移動していた。恭介の破壊超音波は、積み上げられたテーブルを粉砕《ふんさい》して虚《むな》しく消える。
「恭介! お前の能力は発射までに一瞬《いつしゆん》のタイムラグがある。たしかに威力《いりよく》では僕よりも上だが、どこから撃ってくるかわからなければ防ぎようがないだろう!」
「くそっ」
悔《くや》しいが悠の言う通りだった。暗殺型トランスジェニック能力を備えた悠の瞳《ひとみ》は、暗闇でもある程度見えるように進化しているのだろう。悠には、恭介の位置がわかるのだ。
恭介に悠の位置はわからない。声を頼《たよ》りにブラスティング・ハウルを放っても、そのときには悠は移動してしまっている。自分の能力を気兼ねなく使えるようにと選んだこの場所が、逆に恭介を追いつめる結果になった。密閉されたスタジオの中では、恭介には勝ち目がない。
「悠!! どうして河村先輩《かわむらせんぱい》を殺したんだ!? なんで香澄《かすみ》を撃った!? 他《ほか》に方法はなかったのかよっ」
恭介《きようすけ》は、柱の影に隠《かく》れながら怒鳴《どな》る。
撃《う》ち込まれた水の弾丸《だんがん》が、鉄柱を貫いて美しい音をたてる。
「黙《だま》れよっ!?」
悠《ゆう》の声が、スタジオの中に反響《はんきよう》した。その叫びに、ヒステリックな響《ひび》きが混じっている。
「なら、なぜ恭介は、あの女の味方をする!? あの女が現れるずっと前から、僕《ぼく》たちは仲間だったじゃないか!! なのになんでっ!?」
インビジブル・ブリットに削《けず》られたコンクリートの破片が、恭介の皮膚《ひふ》を突き破った。
転倒《てんとう》した恭介の太股《ふともも》を、悠の弾丸が撃ち抜く。
「ぐっ!!」
バランスを崩《くず》した恭介は、そのまま壁《かべ》に激突した。
太股の傷は予想以上に深い。普通の人間なら致命的なほどの出血量だ。
今の恭介なら一晩で完治する傷だが、状況が悪かった。この脚《あし》では次の攻撃を避《さ》けきれない。
闇《やみ》の中から、悠が姿を現した。
「……最初、恭介を誤って撃ったときには、どうしようかと思ったよ。だから、次の日、お前が平気な顔で学校に来たときは驚《おどろ》いた」
銃口《じゆうこう》と化した左|腕《うで》を恭介に突きつけて、悠がつぶやく。
恭介は、あの朝、昇降口で会った悠がひどく驚いていたことを思い出した。あれは、恭介が早く学校に着いたことを意外に思っていたわけではなかったのだ。
その前日、重傷を負わせた香澄《かすみ》にとどめを刺《さ》さなかったのも、偶然《ぐうぜん》通りかかった恭介を撃ったことで、動揺《どうよう》していたからに違いない。
「すぐにわかったよ。お前がレベリオン化したんだって……それに、嬉《うれ》しかったかな」
「嬉しい?」
「だってそうだろう……恭介と僕は同じ秘密を共有している仲間になれたんだから。なのに、お前はあの女の味方になった。僕の敵に……」
「悠、ちがう。あいつはただR2ウィルスの拡散を防こうとしているだけだ。あいつは、お前の敵なんかじゃない!!」
「まだ……秋篠《あきしの》香澄をかばうのか。あの女、もっと早く殺してやればよかったよ……」
「悠っ!!」
恭介はぎりと奥歯を噛《か》みしめる。ブラスティング・ハウルを放つ余裕《よゆう》はなかった。悠の能力のほうが早い。
悠の左腕の筋肉が、体液を加圧するために痙攣《けいれん》した。そして、悠がつぶやく。
「さよならだ、恭介」
恭介は動けない。悠の左腕が、見えない弾丸を吐《は》き出す。
弾丸《だんがん》が迫り来る、
その刹那《せつな》――
痛いような気配《けはい》だけが突き刺《さ》さる。
グゴォォォォォォォォォォォォォォォォーーン!!
地響《じひび》きのような爆音がスタジオを満たした。
そして恭介《きようすけ》の真横から、横殴《よこなぐ》りの衝撃《しようげき》が襲《おそ》った。
貸スタジオのコンクリート壁《へき》が、内側から爆発したのだ。
飛び散った瓦礫《がれき》が恭介の前で、飛釆するインビジブル・ブリットをかき消した。
「なにっl!?」
悠の驚愕《きようがく》する声が響《ひび》く。
もうもうと土煙が立ちこめる中、スタジオの壁《かべ》には人が通れるほどの大穴が開いていた。
厚さ一○センチ以上のコンクリート壁《へき》が、ダンプトラックの突進を喰《く》らったように吹き飛んだのだ。
恭介の知る限りで、これだけの破壊力を持つ技《わざ》は一つしかなかった。
超震動であらゆるものを粉砕《ふんさい》する必殺のトランスジェニック能力――
「スクリーミング・フィストっ!?」
恭介が叫んだ瞬間《しゆんかん》、世界が紅《あか》く染まった。
紅だけではない、青、緑、紫《むらさき》、シアン……様々な光の洪水《こうずい》が、漆黒《しつこく》の空間を切り裂《さ》き照らしていく。
スポットライトだ。ステージの上に残されていた、カラーセロファン越しのスポットライトが、煌々《こうこう》とスタジオの中を照らし出している。
その光に包まれて、一人の少女が姿を現す。
風に舞い上がる栗《くり》色の髪、力強い輝《かがや》きを放つ瞳《ひとみ》、紅い唇《くちびる》ーそして、きらめく水晶のような光に包まれた美しい拳《フイスト》。
恭介は無意識に左耳の真紅《しんく》のピアスに触《ふ》れていた。恭介のファージ変換を感知して信号を送るこのピアスが、彼女にこの場所を教えたのだ。
「秋篠《あきしの》香澄《かすみ》l生きていたのかっ!?」
悠が叫んで、左|腕《うで》を香澄に向ける。
鋭《するど》い擦過音《さつかおん》が、空気を切り裂く――インビジブル・ブリット!!
「無駄《むだ》よ……」
香澄が、冷酷《れいこく》なほど澄《す》み切った声でつぶやいた。軽いジャブのような動きで放たれたスクリーミング・フィストが、何もない空間を薙《な》ぎ払う。輝く彼女の拳《こぶし》の前で、美しい虹《にじ》が浮かび上がった。
「撃《う》ち落とした!? 馬鹿な――!!」
叫びながら悠《ゆう》は、体液の弾丸《だんがん》を連射する。
しかし香澄《かすみ》は、それをことごとく撃墜《げきつい》した。彼女のきつい眼光が、愕然《がくぜん》とする悠を射抜《いぬ》く。
「馬鹿なっ! 馬鹿なっ! 馬鹿なっ!!」
悠の攻撃《こうげき》は続く。だが、今やその攻撃の軌跡《きせき》は、恭介《きようすけ》にもはっきりと見えていた。
ステージから仲《の》びる紅《あか》いスポット光に照らされて、空気中を漂《ただよ》う塵《ちり》や埃《ほこり》がくっきりと浮かび上がっている。
これと同じものを恭介は化学の実験で見たことがあった。ティンダル現象だ。
拡散する光によって、肉眼では見えないはずの徹少な粒子が浮かび上がっているのだ。
微少な粒子……煙や、水蒸気。そして圧縮された水の弾丸!
香澄の拳《フイスト》が放たれ、可視《ヴイジブル》と化した水滴をすべて叩《たた》き落とす。
おそらく彼女は、自分が撃たれたときにインビジブル・ブリットの正体を見抜いたのだろう。
そして、恭介が戦場として選んだスタジオの機材を利用して、それを破る方法を編み出したのだ。
「くそっくそっ――なぜだっ!!」
自分の能力を破られた悠が、絶叫する。
その身体《からだ》から、肉が焼ける焦《こ》げ臭《くさ》い匂《にお》いが立ちこめ始めていた。透明《とうめい》だった悠《ゆう》の左|腕《うで》が今は赤黒く変色し、インビジブル・ブリットの威力《いりよく》も目に見えて衰えている。
「悠……もうやめろ……」
恭介はつぶやく。
物質は、圧縮される際に高い熱を放出する。絶え間ない遵射で蓄積された熱に、レベリオン細胞でさえも耐えられなくなってきているのだ。体液を限界以上に吐《は》き出している悠の肉体は、もはや発汗《はつかん》によって体熱を発散させることもできない。
それでも悠は、撃ち続ける。今や悠の肉体は、自らの能力によって焼けただれ崩壊を始めていた。
「もういいんだ、悠……やめろ」
恭介は立ち上がった。全身の傷口からは血が流れ続けているが、その痛みさえも悠の悲痛な姿の前ではどうでもいいと思えた。
「やめろーーーっ!!」
恭介の咆吼《ほうこう》が大気を揺《ゆ》るがし、傷ついた悠を直撃する。
鮮血《せんけつ》が闇《やみ》の中で散った。
悠の身体が、床《ゆか》に叩《たた》きつけられて跳《は》ねる。
ブラスティング・ハウル――悠を止める方法は、他《ほか》に残っていなかったのだ。
「悠……」
恭介《きようすけ》が息を吐《は》いた。
香澄《かすみ》が、ゆっくりと悠《ゆう》のほうに歩き出す。
撃《う》ち抜かれた脚《あし》を引きずりながら、恭介もそのあとに統いた。
悠がぎこちなく上半身を起こす。恭介の攻撃《こうげき》が、敵意から出たのではないとわかっているのだろう。悠の秀麗《しゆうれい》な顔には、微笑が浮かんでいた。
「杉原《すきはら》悠……どうして、あなたが……」
香澄《かすみ》が訊《き》く。彼女の々淡《たんたん》とした口調にも、かすかな驚《おどろ》きと悲しみが含まれていた。
その香澄の言葉を遮《さえぎ》って、恭介がつぶやく。
「悠……やり直そう……」
恭介は、涙《なみだ》声になっていた。
悠の口元から、血がこぼれている。ブラスティング・ハウルが、彼の肩口《かたぐち》から胸にかけて、ばっさりと切り裂《さ》いていた。悠は、苦痛に顔を歪《ゆが》めながらも、笑っている。
「やり直そう……まだきっと聞に合うから……」
「恭介……お前にはわからないよ……」
悠はそう言って瞳《ひとみ》を閉じる。
「ようやく、手に入れたんだ……僕《ぼく》を認めてくれる場所を……失いたくないんだよ。みんなに認めてもらっているお前にはわからない!」
「認めてるよ。お前のことは、みんなが認めてるじゃないか……草薙《くさなぎ》だって、お前に殺された向坂《さきさか》南美《なみ》だってお前のことが好きだったんだ! 俺《おれ》たちだって……」
「……だからだよ……だから、もう何かをなくすのは嫌《いや》なんだ……」
悠が寂しそうに微笑《ほほえ》んだ。
それを見た香澄が、はっとする。
「恭介……すまない……僕は、やり直せるほど強くない……」
「やめてっ!!」
香澄が叫んだ。悠に向かって駆《か》け出そうとする。
恭介も気づいた。
だがその前に、悠は焼けただれた左|腕《うで》を自分の頭に押し当てていた。
最後のインビジブル・ブリットが、真紅《しんく》のスポット光の下できらめく。
恭介の絶叫が、観客のいないステージに鳴り響《ひび》いた。
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終章
〜Coda〜
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照明が落ちて、ステージは闇《やみ》に包まれた。
まばらな拍手が、安普請《やすふしん》の壁《かべ》越しに小さく聞こえてくる。
「やべえ……しくじっちゃったよ」
「MCすべってなかった?」
わいわいと騒《さわ》ぎながら戻《もど》ってきたのは、演奏を終えた三年生たちのグループだった。入れ替わりに、女の子ばかりの一年生バンドが、はしゃぎながら舞台へと飛び出していく。
「市《いち》ノ瀬《せ》くんたち、彼女たちの次が出番だから:」
進行表を片手に駆《か》け込んできた文化祭実行委員の男子が、あわただしく叫んで、すぐにまた駆《か》け出していった。文化祭の当日ともなると、彼らには立ち止まる時間も許されないらしい。
「やれやれ……」
「やっと本番だな」
パイブ椅子《いす》の上でぐったりと待ちくたびれていた潤《じゆん》と臣也《しんや》が、指をぽきぽきと鳴らして立ち上がる。体育館のステージ裏にあつらえた仮設の控《ひか》え室。窓から射《さ》し込む晩秋の陽射《ひざ》しが、闇《やみ》に慣れた目には少しまぶしい。
「恭介《きようすけ》、準備いいか?」
「……ん、まだ。もうちょっと……」
壁際《かべぎわ》の隅《すみ》っこに座り込んで、恭介はチューニングメーターを眺《なが》めていた。
恭介《きようすけ》が弦《げん》をかき鳴らすたびに、メーターの針が小刻みに振《ふ》れる。いつも練習の前に同じことをしていた悠《ゆう》の姿を、恭介はなぜか思い出していた。
杉原《すぎはら》悠がいなくなってから、一月近くが経《た》っている。
統合計画局の手により、彼の死はバイク事故に偽装《ぎそう》された。連続射殺犯人の正体が明かされることはなく、もちろん犯人も捕まっていない。だが、マスコミの報道は、いつの間にかすっかり影を潜《ひそ》めていた。警察の捜査《そうさ》本部も、縮小が決定されている。
江崎綾《えざきあや》たちヴィルレント化した生徒たちも、回復した者から順に学校に復帰し始めている。
彼女たちは強制暗示による記憶《きおく》操作を受けており、R2ウィルスに関する記憶は何も残ってないらしい。
そして香澄《かすみ》は、あれから学校に姿を見せていない。
おそらく事後処理に忙殺《ぼうさつ》されているのだろう。それに香澄が転校してきた目的はレベリオン捜索《そうさく》のためだったのだから、彼女が学校に来る必要はもうないのだ。
「それにしても、挨拶《あいさつ》ぐらいあってもよさそうなもんだけどな……」
恭介はつぶやいて、無意識に左耳のピアスに触《ふ》れる。
彼女の存在は夢だったのではないか――一瞬《いつしゆん》そんなことを考えたからだ。
今となっては、このピアスだけが彼女が本当に存在した証《あかし》のように思われた。
恭介は、悠の遺品《いひん》でもあるストラトキャスターの弦を、もう一度、一本一本調整していく。
いなくなってしまった彼の代わりに、せめてこのギターだけでも一緒《いつしよ》にステージに上げてやりたかった。彼が、他《ほか》の誰《だれ》かを殺してまで守ろうとしたこのステージの上に。
今の状態が永遠に続けばいいのに――
そうつぶやいた悠の言葉を、恭介は今も鮮明《せんめい》に覚えている。
お前にはわからないと言い切った、彼の最後の言葉も。
「……わかんねえよ……ちくしょう」
恭介はつぶやいて、チューニングメーターをジヤックから引き抜いた。
「あれえ!?」
女の子たちの演奏に紛《まぎ》れて、臣也《しんや》の素《す》っ頓狂《とんきよう》な声が楽屋に響《ひび》く。
その声に振り返った恭介を、楽屋の入り口に立っていた潤《じゆん》が手招きで呼んだ。
「恭介、お客さんだ。お前に」
「客? 今ごろ?」
怪訝《けげん》な表情を浮かべながら、恭介は立ち上がる。
にやにやと笑いながら、すれちがいざまに潤が恭介の肩《かた》を叩《たた》いた。
「にくいね、この」
「何言ってんだ、お前?」
潤は答えない。恭介は首を捻《ひね》りながら、控《ひか》え室の扉《とびら》をくぐった。
緞帳《どんちよう》の影に立っていた女生徒が、恭介《きようすけ》に気づいて近づいてくる。
ステージから漏《も》れてくる、かすかな光に照らし出された彼女の横顔を見て、恭介は思わず声を上げた。
「か、香澄《かすみ》!?」
「久しぶりね、恭介」
相変わらずの、冷たいほど澄《す》んだ声で秋篠《あきしの》香澄が言った。ほぼ一カ月ぶりの再会だというのに、彼女はまったく無感動だ。
「お前…−今までどこに行ってたんだよ!?」
「忙しかったのよ、いろいろと。今回の事件の後始末もあったし、引っ越しの手配もあったしね……」
「引っ越し……そうか、行っちまうのか……」
「……?」
恭介の言葉に、香澄が小首を傾《かし》げる。
「また、他《ほか》の街に行ってR2ウィルスをばらまいているってヤツを追っかけるんだろ?」
「ええ……そうね。そういう命令があればね……」
「そうか……気をつけろよ。あんたみたいなのでも、いなくなると寂しくなるよ」
それは恭介の本当の気持ちだった。
彼女が抱《かか》えているささやかな夢を知ってしまった以上、できればここに引き留めたいと思う。
だが自分にそんな権利がないことも、恭介は知っていた。彼女の人生を決めるのは、彼女だけだ。恭介は自分にそう言い聞かせる。
「……何言ってるの、恭介? 何か勘《かん》違いしてない?」
そんな恭介の反応に、香澄が眉間《みけん》にしわを寄せた。まるで話がかみ合っていないとでも言いたげな口調だ。
「あたし、この街に長期滞在するために、アメリカから荷物を取り寄せたのよ?」
「……長期滞在?」
恭介は、彼女の言葉を理解できずに訊《き》き返す。混乱している恭介を無視して、香澄は続けた。
「統合計画局の方針を伝えるわ。日本国籍のプロ・レベリオン緋村《ひむら》恭介は抹殺《まつさつ》対象から除外。
引き続き保護|監察《かんさつ》対象へと移行する。なお、監督《かんとく》責任者として、同じく日本国籍のプロレベリオン秋篠香澄を任命する。以後、別命あるまで待機」
「な……に?」
「要するに、殺されたくなかったら、これからもあたしの命令に従いなさいってこと」
香澄の言葉を、恭介はぽかんとした表情で聞いた。
やがて、腹の底から猛然《もうぜん》と怒りが湧《わ》いてくる。
「な……な……何で俺《おれ》がお前の命令に従わなきゃいけないんだよっ!!」
「当然でしょう。あなたは人間じゃないの。伝染性ウィルスのキャリアなの。危険人物なの。歩く凶器《きようき》なの。野放しになんてできないわ」
「そ……そりゃお前のことだろうがっ!」
「失礼ねえ……とにかく、決まったことなんだから、男らしく従いなさい」
香澄《かすみ》は、子どもを叱《しか》りつけるような口調で言った。
恭介《きようすけ》は吐《は》き出しかけた言葉を、ぐっと呑《の》み込む。
「……もう知らん。勝手にしろ。俺《おれ》はお前なんか今後|一切《いつさい》相手しない」
「何よその態度。またデートしてくれるって言ったのは、ウソだったわけ?」
不満そうな態度で、香澄が言った。聞き捨てならない彼女の台詞《せりふ》に、恭介は思わず振《ふ》り返って怒鳴《どな》る。
「俺がいつそんなこと言ったよっ!!」
「あたしが撃《う》たれて死にかけてたときよ。何度でもデートしてやるって言ったわ」
「……お、お前、おぼえて……!?」
「ふふん」
香澄が愛くるしい顔に意地悪な表情を浮かべて微笑《ほほえ》む。
「草薙《くさなぎ》さんに、ばらしちゃおっかな?」
「……ぐぐ……」
からかっているような言葉とは裏腹に、淡々《たんたん》とした香澄の口調は冷静そのものだ。脅《おど》しとも本気ともつかぬ彼女の言葉に、恭介はひたすら圧倒《あつとう》される。
結局、香澄の圧力に屈する形で、恭介は深々と頭を下げた。
「……お願いです、やめてください……言うことを何でも聞きますから……」
「最初から素直にそう言えばいいのよ」
香澄が勝ち誇《ほこ》ったように微笑んだ。
その表情に、年相応《としそうおう》の彼女の素顔が垣間《かいま》見えた。それそようやく、彼女がふざけていたのだとわかる。
「……ちくしょう……なんでこんなことに……」
「何か言った?」
香澄に睨《にら》まれて、恭介は目を逸《そ》らす。
それを見て香澄は、ふふ、と楽しそうに笑った。
「恭介、出番だぞ!」
楽屋から臣也《しんや》の声が聞こえた。いつの間にか演奏を終えた女の子たちが、控《ひか》え室へと戻《もど》ってきている。
あわてて振《ふ》り返った恭介の背中に、香澄が囁《ささや》いた。
「あなたの歌で、ガラスを割ったりしないでね」
「するかっ!」
「ふふ、頑張《がんば》ってね……」
香澄《かすみ》が微笑《ほほえ》みながら手を振《ふ》る。
「ちぇっ……」
恭介《きようすけ》はガッツポーズを残してドアをくぐった。潤《じゆん》や臣也《しんや》たちは、すでに準備を終えている。
体育館の客席には、萌恵《もえ》や麻子《まこ》たち、それに酒井希美《さかいのぞみ》も来てくれているはずだ。
悠《ゆう》が愛用していたギターを抱《かか》えて、恭介はステージに上る。
最初に演奏するのは、雅人《まさと》が遺《のこ》したあの曲だ。
彼らはいなくなってしまったけれど、彼らの思いは受け継《つ》がれる。
それが音楽――そしてたぶんきっと、それが生命《いのち》の役割なのだろう。
恭介は、歓声《かんせい》とスポットライトに包まれながらマイクへと向かった。
この歌が、いつか彼らにも届くだろうかと思いながら。
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あとがき
どちらかというと物忘れは激しいほうで、昔の記億《きおく》はかなり暖昧《あいまい》なのですが、それでも高校時代のことは、なぜか鮮明に覚えてます。楽しかったしね。ヤなことも、そりゃもちろんたくさんあったけどさ。まあいいや。
実際のところ、あんまりマジメな生徒じゃなくって、授業中は居眠りばかりしてましたけど。
学校って場所は嫌いではありませんでした。
特に放課後の、あの何とも言えない独特の雰囲気《ふんいき》が好きでした。
疲れてるんだけど開放感があって騒《さわ》がしくて、かったるくて寂しくてわくわくしました。
自分にとっては、放課後ってそんなイメージです。
そんなわけで、『レベリオン放課後の殺戮者《さつりくしや》』をお届けします。
三雲《みくも》にとって初の現代もの。学園ものです。
そして、ずっと前から書きたかった物語でした。
この作品は三雲の中に最も古くからあるプロットの一つで、原型ができたのは作家になろうと思うずっと前。第一稿を編集者さんにお渡ししたのも、デビューするより前でした。
それもあって、細部の設定について、今さら……ってのもなあ、とか思わないでもないですが、現在の力で書き直せて良かったな、と思う部分も多いです。
最初に書いたころは、まるでリアリティのなかった、女子高生が電子メールを使うシーンも今じゃ当たり前の光景になってしまいました。
そのうち、電子メールなんて懐《なつ》かしー、って言われる日も来るんでしょうね。きっと。
この作品は、ある人の死と、彼に対して贈られた、ある曲がきっかけで生まれました。
そのせいか、並行して書いてる「コールド・ゲベナ」のシリーズとは少々毛色の連う作品に仕上がっています。チョコレートに例えれば、ゲヘナがスイートで、こっちがハーフビターって感じでしょうか。
どっちが上ってことはありませんが、こちらのほうが深いです。
そして、読み手の力量を信頼してないと書けない話です。まあ、正直な話、こういうのって賭《か》けなんですけどね。信じていいよね。感想お待ちしてます。
とはいえ、あいかわらずな部分もたくさんあって。女の子たちはやっぱりオトコマエだし、戦闘シーンも盛りだくさん。シリアスにもなりきれてません。
でもきっと、楽しんでいただけると思います。
お気に召《め》していただければ幸いです。
それから、念のため。
この作品はフィクションです。実在の人物や団体、地名とは一切無関係です。生物戦防衛統合計画局という部署は実在するのですが、そこで怪《あや》しげな微生物が研究されてるという話は聞いたことがありません。されてたら……ヤだなあ。
宗教的、人種的問題ってのもね。いろいろあると思いますが、物語の本筋とはまったく関係ありません。本作ではこの手の問題について、これ以上|踏《ふ》み込むつもりはないので、気を悪くした人がいたら、先に謝《あやま》っておきます。ごめんなさい。
そういうのに興味がある人は個人的に勝手に調べてください。何事もそうですけど、大事なのは、自分で情報を集めて自分で判断することです。いやほんと。
さて。この本の挿画《そうが》は、無理を言って、椋本《くらもと》夏夜《かや》さんに引き受けていただきました。
小説に挿絵《さしえ》は必要ないと言う人がいます。文章で表現できないものなんてないから、と。
それは嘘《うそ》ではありませんが、自分の中にないものは描《か》けない、というのも真実です。三雲《みくも》のように何かが欠落した人間には、どうしても表現できない感情があります。
その欠落を埋《う》める何かを、彼女が与えてくれるでしょラ。彼女のイラストは、レベリオンというパズルを完成させるために、どうしても必要な最後のピースでした。
三雲もまだ、この本の現物を見ていませんが。きっと素敵なものに仕上がっていると思います。楽しみ。
恭介《きようすけ》と香澄《かすみ》のお話は、まだまだ続きます。
そう遠くない日に、またお会いできることを祈《いの》っています。
それでは、ここまでおつきあいくださったことに感謝。三雲|岳斗《がくと》でした。
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底本:『レベリオン 放課後の殺戮者』 電撃文庫、角川書店
2000年05月25日 初版発行
このファイルは(一般小説) [三雲岳斗] レベリオン 第01巻.rar 538BBE2803626DF7D42E2E9FA2964430 24,227,102byteをOCRソフトで解析し校正し、挿絵を付けたものです。
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