カーマロカ ――将門異聞
三雲岳斗
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)金交《かねまぜ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)甲斐国|検非違所《けびいどころ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)桔梗[#「桔梗」に傍点]
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[#表紙(img/表紙.jpg)]
〈帯〉
朝廷だけは知っていた。
平将門は生き延びて甲斐にあり、と。
坂東の地に独立国の野望を掲げ、国中を揺るがした将門の乱。
天慶三年(九四〇年)、夢破れ、猛将は戦場に散ったはずであった――。
新たな将門伝説を紡ぐ、無双の精妙歴史ロマン!
菅原景行 ……菅原道真の三男。
柊 ……異国の相をした女。
日下部敦隆……甲斐国の官僚。
五月 ……将門の娘。
愚彊 ……天台宗の僧兵。
藤原忠平 ……時の太政大臣。
賀茂保憲 ……大和国葛城の陰陽師。
望月兼家 ……甲賀の民の頭領。
平貞盛 ……追討軍の将。将門のいとこ。
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カーマロカ
――将門異聞
[#地から2字上げ]三雲岳斗
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カーマロカ 目 次
序
第一章 鬼の王
第二章 夜叉
第三章 柊
第四章 甲賀の里にて
第五章 貞盛
第六章 賀茂
第七章 梓川
終 章 涙
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903年
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菅原道真、没。
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926年
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渤海国、滅亡。
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930年
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醍醐天皇が譲位、藤原忠平を摂政とする。
朱雀天皇が即位。
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931年
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群盗横行のため、京中の夜警を行う。
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932年
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備前国などに海賊が頻繁に出現。
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935年
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平将門、常陸で伯父平国香・源護と闘い、国香死亡。
(承平・天慶の乱始まる)
伊勢神宮に海賊平定を祈る。
将門、常陸で伯父平良正らを破る。
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936年
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忠平、太政大臣になる。
将門、下野国で叔父平良兼らを破る。
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937年
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将門、上京して陳謝し、許される。
良兼、下総国で将門を破る。
将門、常陸国で良兼に勝利。
朝廷、関東諸国に将門追捕の官符を下す。
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938年
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将門、信濃国千曲川で平貞盛を破る。
武蔵権守興世王、武蔵介源経基と、同国足立郡武蔵武芝との争いに将門が介入。
空也上人が京中に念仏を広める。
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939年
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源経基が興世王、将門らの謀反を奏上。
出羽国、俘囚が反乱。
将門、常陸国衙を襲い、印鎰を奪う。
将門、下野、上野国衙を陥れ、自ら新皇と称す。
藤原純友、南海で兵を率いて乱を起こす。
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940年
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二月、平貞盛、藤原秀郷ら、下総国辛島にて将門を討つ。
四月、秀郷、将門の首を進上。
この頃、「将門記」できる。
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941年
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純友、降伏。
忠平、関白になる。
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カーマロカ
――将門異聞
Kamaloka
カーマロカ【Kamaloka】
煉獄。天国と地獄の間にあり、死後、魂の浄化が行われる場所。
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序
風向きが変わった。
冬枯れの木々が激しく枝を鳴らし、砂塵が舞った。
低く速く流れる雲が、暗く空を覆っていく。
その風に乗って、読経の声が響いてきた。
兵士たちはみな無言だ。岩陰や野萩の茂みに潜み、亡者のように立ち尽くしている。
彼らの鎧は血と泥にまみれ、手傷を負っている者も少なくない。
四千余りの軍勢の半数は、すでに最初の会戦で失われた。
四百騎足らずの反乱軍は十倍の兵力の差を難なく覆し、官軍をこの平原にまで追いつめていた。逃げ延びた兵士の誰もが、賊将の尋常ならぬ武威を目のあたりにしていた。
言葉にならない畏怖が、沈黙の中に満ちている。
ただ読経の声だけが響く。
オン・ソジリシュタ・ソワカ
オン・マカシリエイ・ヂリベイ・ソワカ――
経は妙見菩薩真言。唱えているのは、僧衣に金交《かねまぜ》の甲冑をまとった屈強な男たちの一団だった。徒歩《かち》ながら八尺近い強弓《ごうきゅう》を構え、鋼の錫杖《しゃくじょう》を帯びている。
僧兵である。
十数名の僧兵が官軍の兵に混じって呪法《じゅほう》を修している。袖の中で秘印を組み、禹歩《うほ》にて歩み、一心に読経する。異様とも思える光景だ。錫杖の遊環が、烈風の中で激しく鳴り続ける。
やがて読経を続ける僧兵団の中から、一人の僧が進み出た。
黒衣をまとった巨躯の僧兵だった。
本陣で休息する武士たちの前で、僧は、手にした錫杖をじゃらりと鳴らし、深く黙礼した。
それに応じて男が一人、立ち上がる。
僧兵に劣らぬ、堂々たる体格の武士だった。
下野押領使《しもつけおうりょうし》、藤原秀郷《ふじわらのひでさと》である。相当に歳をとっているはずだが、筋骨たくましいその姿は若者のようだ。厳《いか》つい風貌には、無数の修羅場を経て生き延びてきた者に特有の、不敵な笑みが浮かんでいる。
「修法《しゅほう》は成りましたかな、愚彊《ぐきょう》殿――」
先に口を開いたのは秀郷だった。
秀郷の視線は、風にあおられて波打つ平原の下草に向けられていた。
この時代の戦において、風向きは勝敗を分ける決定的な要因の一つである。強風に乗れば、放った矢の飛距離は伸び、進軍の勢いは増し、吹きつける砂塵が敵の視界を奪う。
愚彊と呼ばれた僧兵は、無言のまま首肯した。
「結構」
秀郷がゆったりと微笑んだ。
その様子を、秀郷配下の兵たちがどこか不安げに眺めている。僧兵たちの正体を、彼らは聞かされていないのだ。戦場にあってなおも人間離れした気配を漂わせる僧たちと平然と言葉を交わすのは、唯一、勇猛でならした秀郷のみであった。
「状況は?」
鐘を震わすような低い声で、愚彊が訊く。
「貞盛《さだもり》の軍が北山の陣で押さえております、が……」
秀郷は目元に皮肉げなしわを寄せ、笑った。
「……保《も》ちますまいな」
愚彊はうなずき、錫杖を鳴らす。
「あと半刻」
「半刻でこちらまで来ますかな?」
「来る。賊軍は寡兵、戦が長引けば不利になることは承知のはず」
「ふむ」
荒れた唇を歪め、秀郷は顎を撫でた。愚彊は続けた。
「この逆風では、兵数に劣る彼奴らが騎射で我らに抗すること能《あた》わず。必定、太刀での打物戦《うちものいくさ》を狙ってくるであろうが……もはや我らの優位は動かぬ」
無表情な愚彊の口元に、刹那、獰猛な笑みが浮かんだように見えた。
秀郷は冷淡にそれを見返し、薄く笑う。
「それはどうか……聞けばあの男、これまでの戦いで幾度も同様の窮地を乗り切って、勝利を収めているそうですな。そのために常陸大掾平国香《ひたちだいじょうたいらのくにか》も落命し、下総介平良兼《しもうさのすけたいらのよしかね》は彼奴を鬼神と恐れて出家したとか――」
「鬼神か」
愚彊が唇を歪め、烈風が彼の法衣を揺らした。残る僧兵たちも呵々《かか》と哄笑した。
「ならば、我ら仏徒の手で滅するまで」
今や愚彊の貌《かお》には狂気に似た荒々しい相が浮かび、秀郷は険しい表情でそれを眺める。
この屈強な僧兵たちが何者であるのか。思いあたることはいくつかあるが、秀郷もいまだ確信を持てずにいた。表向きは、左馬允《さまのじょう》平貞盛の呼びかけに応じて、秀郷の軍に合流したことになっている。だが、それは事実ではあるまい。彼らが修した呪法はおそらく台密《たいみつ》の秘技だ。遠国《おんごく》の悪僧ごときに授けられる修法ではない。
物言わぬ彼らの背後には、都にいる何者かの思惑が透けて見える。
それも相当に高位の役職を占める人物だ。三公か、あるいはそれ以上の位につく誰かである。秀郷が不審に思うのは、なにゆえ、たかが坂東の一豪族の謀反を、それほどまでに朝廷が重く見ているのかということだ。
「――藤太《とうた》殿」
秀郷の疑念は、愚彊の低い声に断ち切られた。
気がつけば、読経はいつの間にか終わっていた。僧兵たちはすでに錫杖をうち捨て、鎧の具合をあらためている。陣に参集した兵たちの動きが慌ただしくなっていた。左馬允平貞盛の軍が敗走したことを、伝令が伝えてきたのだろう。
「やはり、来たか」
愚彊がつぶやいた。その声に、嬉々と弾むような響きがある。
賊軍の騎馬隊が生み出す土煙は、すでに秀郷にも見えていた。立ち止まり、陣を構える気配はない。貞盛の軍を打ち破った勢いのまま、一気に官軍の本陣を攻め落とすつもりなのだろう。
秀郷は配下の兵たちに命じて、前もって打ち合わせたとおりの陣形をとらせた。
楯を持った兵を前に押し立て、背後の兵たちに弓を構えさせる、いわゆる楯突戦《たてつきいくさ》である。
風向きは官軍に有利であり、兵力、矢数ともに圧倒している。最初の会戦でいたずらに抗戦せず、軍を後退させ、十分に休息させたことによって兵の士気も回復していた。
それでもなお、秀郷の周囲を固める武士たちの表情に余裕がないのは、賊将の誇る神懸かり的な武力のせいだった。屈強の駿馬《しゅんめ》と、それを自在に操る坂東の武者を率いて、関東八州の国府をことごとく制圧した猛将――
その名を、平将門《たいらのまさかど》という。
「楯が破れたところを射落とす――構えよ」
愚彊が吼え、僧兵たちの弓が一斉に引き絞られた。
いずれも皮巻きの長大な強弓である。自軍の楯隊を破って突入してきた賊軍へと至近距離で射掛ければ、誤って味方まで射抜きかねない。だがためらう者はいない。賊軍の放つ矢をものともせず、菩薩像にも似た穏やかな薄笑みを浮かべて、僧兵たちが時を待つ。
「射よ、射続けよ。風に乗れ。神の風は我らが味方ぞ――」
秀郷が野太い声で檄を飛ばし、二千の兵が一斉に矢を放った。
愚彊が予見したとおり、賊軍の騎馬隊は騎射戦ではなく、突撃しての乱戦を望んだ。
三百を超える騎馬が降りそそぐ矢の雨を突き破り、秀郷の軍勢をめがけて進んでくる。
先頭には、ひときわ巨大な軍馬にまたがる男の姿がある。
馬上でかざした太刀が陽光を受けて輝き、飛来する矢を薙《な》ぎ払った。
その凄絶な光景に、秀郷でさえも息を呑んだ。官軍の陣形が崩れた。逃げまどう兵たちを蹴散らして、馬上の武士が太刀を振るう。
「哀れ、将門……我らが定めた運命にあくまで逆らうか」
愚彊がつぶやき、僧兵団の弓が鳴った。
刹那の狂いもなく同時に放たれた十数本の矢が、暗い光と化して賊将の眉間に吸いこまれた。
すべての音が消えたような静寂のあとで、ごう、といっそう激しく突風が吹き抜けた。
ゆらり、と馬上の影が揺れて落ちた。
その姿は、群がる兵と砂塵にまぎれて、たちまち見えなくなる。
天慶三年、二月十四日――
平安の都を震撼させた猛将、平将門の反乱はこうして終わりを告げる。
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第一章 鬼の王
1
巨麻《こま》郡とは甲斐国の西、釜無川流域から富士川左岸にかけての九郷を指した。
名前の由来は、駒の産地であるからとも、高麗《こま》の渡来人が多く住んだからだともいわれている。険阻な山地に四方を囲まれているが、土地は豊かだ。信濃国へと至る交通の要衝として、舟運も盛んで人の往来も多い。
季節は春を迎えていた。朝夕の冷えこみが厳しいのは内陸の土地の常だが、ここ数日はいくらか暖かい。夕霞が薄く山を覆い、芽吹き始めた枝を隠している。
その日、日下部敦隆《くさかべのぶたか》は、巨麻から諏訪へと抜ける間道の巡察を務めていた。
敦隆は甲斐国|検非違所《けびいどころ》の書生《しょしょう》である。
諸国の国府に置かれた検非違使の職掌は、京師《けいし》のそれとまったく同様であり、国司に従い、警察行為を行う。書生とはその検非違所に仕える官僚だった。
まもなく三十歳になるのだが、生来の童顔のためか、年齢どおりに見られることはまずない。背丈も肩幅も人並みにありながら、役人らしい服装が似合わないのもその顔立ちのせいだろう。
都から赴任してきた上司に軽く見られることも少なくない。それでも仲間内からは好かれていた。それは敦隆が馬鹿と呼ばれるぐらいに実直で、彼らが手を抜いた分の仕事まできちんとこなすからだ。間道の巡察などという面倒で、しかも危険な役目に望んで出かけるのは、国府でも敦隆ぐらいのものだった。
「書生――」
どうにか日暮れ前に予定の巡察を終え、木陰で馬を休ませていた敦隆を、部下の一人が呼んだ。
部下といっても彼らは敦隆より年上であり、敦隆に対する扱いも丁寧とは言い難い。
「どうした」
烏帽子を直しながら顔を上げる敦隆を、部下が慌ただしく手招きした。
「来てくれ。不審な者たちを捕らえてある」
「不審者だと」
手に太刀だけを握って、敦隆は駆け出した。
このあたりの間道は迷いやすく、地元の人間以外が通ることは滅多にない。長引く冬の間に道は荒れており、踏み固められた雪がまばらに残っていた。
木々の隙間を縫って、馬の啼く声が聞こえた。
敦隆の部下たちが弓を構えて道をふさいでいる。彼らと対峙するようにして見慣れない連中が立ち止まっていた。旅装の者たちが三人である。不審者というのは、どうやら彼らのことらしい。
たしかに奇妙な連中であった。
一人はかなり背の高い男で、戦場に向かう武士のように、髻《もとどり》を解いて背中で無造作に束ねている。日焼けした骨相は猛々しいが、子どものような愛嬌のある瞳をしていた。そのせいか、初めて出会ったにもかかわらず奇妙な親しみが感じられた。人を惹きつける磁気のようなものをまとった男だと、敦隆は思った。
もう一人の男は、まるで対照的な、すらりとした細面の美男だった。色白く、鼻梁は細く、唇は朱を塗ったように紅い。衣装も端正で、身分のある貴族のように見受けられる。
そしてもう一人の同行者は、女だった。見るからに高価そうな紅の打衣《うちぎぬ》に雑袍《ざっぽう》をまとった旅装束である。市女笠《いちめがさ》と小袖に隠されて顔は見えないが、まだ若い。高貴な身分の娘であるのは間違いないだろう。
なんにせよ、このような間道を通るのにふさわしい者たちだとは思えない。そもそも彼らが、どのようなつながりの一行なのかということすら、まるで見当もつかなかった。
「――この連中に俺たちを捕縛するよう命じたのは、あんたか?」
敦隆に気づいて、乱髪《らんぱつ》の美丈夫が呼びかけた。
荒っぽい口調だが、目が笑っている。特に腹を立てているわけではないらしい。
「甲斐国検非違所の日下部敦隆だ。故あって、この間道の警護にあたっている。無礼は承知の上で、あなたがたの身元と行く先を聞かせていただきたい」
「検非違所?」
男が、からかうようにつぶやいて笑った。
「国府の役人が直々にこんな間道を見回っているのか? 郷長《ごうちょう》あたりの仕事だろう?」
「そうだ」
敦隆は真面目にうなずいた。官が定めた駅路《はゆまじ》ならばともかく、このような間道を国司が直接見張ることはまずあり得ない。
「だが、このあたりには野伏《のぶせり》が出る。とても郡司の手には負えない」
「群盗か。なるほど、俺たちもその仲間ではないかと疑われているわけだ」
愉快そうに笑って、男はちらりと連れの女に目を向けた。
誰も口にこそ出さなかったが、男とその市女笠の女とでは、明らかに身分が違うように思えた。野伏が捕らえた女を売りに行く途中だと言われれば、誰もがそれを信じただろう。しかし、わからないのは、もう一人の男の存在だった。
「失礼した、日下部殿」
笑っている相方を諫めるように手で制し、都人ふうの優男が前に出て一礼した。美声だった。
「我らは能登の珠洲《すず》郡司に仕える者。主《あるじ》の命により、こちらの女性《にょしょう》を珠洲まで送り届ける途中、甲斐国を通りがかったまで。我が名は景行《かげゆき》。女性の名は柊《ひいらぎ》、そちらが――」
「鬼王丸《きおうまる》だ」
仲間の言葉を遮って、乱髪の美丈夫が自ら名乗った。敦隆は怪訝顔で相手を見返した。
鬼とは朝廷に仇《あだ》なす者を称して使う言葉。縁起のいい名ではない。にやにやと笑っているところを見ると、あるいは役人である敦隆をからかっているつもりなのかもしれない。
景行と名乗った男は、余計なことを、といわんばかりに鬼王丸とやらを睨みつけたが、あえて訂正させようとはしなかった。
「しかし能登までとはあまりに遠い。なぜ官道を使わず、このような道を?」
敦隆が素直な疑問を口にすると、景行は苦笑した。
「我らとしても官道を使いたいのは山々ですが、人目を避けよというのが主の厳命なので」
「人目に触れるとなにか不都合でも?」
「いかにも。こちらの柊は、我らの雇い主の思い人なのですが、彼女の父君に結婚に反対されて、今は、このように我らの手で攫《さら》って能登まで連れていく途中ですからね」
「それは……」
敦隆は絶句した。景行の言葉を裏付けるように、柊が市女笠の下で小さくうなずく。
「もちろんそれは柊も承知のこと。しかし彼女の父君は、当然、追っ手を出しているでしょう。こちらは女連れでもありますし、主だった官道を使えばたちまち追いつかれて、連れ戻されるのは間違いありません」
「それで、このような道をたったの三人で?」
「そういうことになりますね」
細く形のいい眉を寄せ、景行は軽くため息をついた。彼の言葉を敦隆は疑わなかった。彼ら一行の顔ぶれにまとまりがない理由にも、その説明でいちおう納得がいく。
「あなた方の主は誰なのです?」
敦隆が訊くと、景行は静かに首を振った。含みのある笑みを浮かべて言った。
「それはお聞きにならないほうがいいでしょう。過書《かしょ》をご覧になりたいと仰るのであれば、武蔵国府発行のものがここにありますが――」
「いや、結構」
敦隆も苦笑した。ここで雇い主の名前を聞いてしまえば、女の父親が甲斐国府に乗りこんできたときに、彼らを見逃したことが敦隆の責任になる。景行はそう示唆しているのだ。彼らが氏や生国を名乗らなかったのも同じ理由だろう。世慣れた都人を思わせる細やかな心配りだった。
敦隆の部下たちの表情が和らいで、みな物珍しそうに市女笠の女を眺めていた。
恋路を邪魔された男が、やんごとなき女を攫っていく。そのような物語を誰もが好きなのだ。
「それで、結局、俺たちはここを通っても構わないのか?」
訊いてきたのは鬼王丸だった。彼は一人で、つないであった馬の背を撫でている。
それは見事な黒駒だった。
軍馬の平均は体高四尺三寸程度。四尺八寸を超えれば名馬と呼ばれるが、鬼王丸たちの馬はいずれも優に五尺三寸を超えている。堂々たる巨馬である。馬体も引き締まって美しい。
「申し訳ないが、そのような事情であれば、なおのことこの道は通らないほうがいい」
「なぜだ?」
鬼王丸が愉快そうに振り返る。
「野伏が出ると言っただろう。女性《にょしょう》連れで夜道を行くなど、みすみす襲われにいくようなものだ」
「それらしい連中に遭ったら逃げるさ。ああ見えて柊の乗馬の腕はなかなかだぞ。それに、こいつらに追いつける馬はそうはない」
「たしかにいい馬だ。坂東の馬か」
敦隆がつぶやくと、鬼王丸が嬉しそうに目を見張った。宝物を自慢する童のような顔になる。
「そうだ。わかるか?」
「ああ」
敦隆はうなずいた。検非違所の書生になるまで、敦隆は巨麻の官牧に勤めていた。馬を見る目には自信がある。
「だが、その馬でもおそらく逃げ切れはしない」
「ほう……なぜそう思う?」
鬼王丸は淡々と笑みを浮かべた。怒り出すかと思いきや、むしろ楽しんでいるようである。それでは試してみるか――今にもそんなことを言い出しそうだ。
「おそらくは野伏どもが乗っている馬も同じ坂東産だからだ。悪いことは言わない。今夜は私の館《たち》に泊めてやるから、夜が明けるのを待って、せめて諏訪まででも官道を使っていけ」
敦隆は真剣に鬼王丸を引き留めた。
なぜそんなことを言ったのか、自分でもよくわからない。
彼らは甲斐の民ではないのだ。ここで別れてしまえば、この先どんな目に遭おうと彼ら自身の問題である。敦隆とはそれだけの縁でしかない。
それでも、このまま彼らを行かせてしまう気にはなれなかった。
柊という女性の境遇や、景行たちの立場に興味を惹かれたということもある。
それにこの鬼王丸という男には、放っておくとなにをしでかすかわからないと思わせる雰囲気があった。なにより敦隆は真面目な男だった。行きずりとはいえ、言葉を交わした者たちが災難に遭うのを、むざと見過ごすのは心が痛む。
そんな敦隆の気持ちを知ってか知らずか、鬼王丸は悪たれ小僧をそのまま大きくしたような瞳で、値踏みするように敦隆を見た。
「気持ちはありがたいが、先を急ぐ」
馬の背を撫でながら、鬼王丸は黄昏の空を見上げた。
「これから甲斐国府まで戻るとなると、ずいぶん遠回りになるだろう?」
「そういうことなら心配はいらない。館はこの先の郷にある。私は小目代《こもくだい》だからな」
「そうか……おまえ、この土地の者か」
鬼王丸が意外そうに見返してきた。
都が任じた官吏とは別に、事務に堪能な者などを国守が私的に雇い入れることがある。多くの場合、国守の子孫兄弟に連なる者や、土地の豪族の子などが選ばれた。これを目代という。
「たいしたもてなしはできないが、それでもよければ来い。心配しなくても、そちらの女性《にょしょう》に手出しはしない。私とて、こんなところで名も知らぬ貴族の恨みを買いたくはないからな」
敦隆は大真面目に言った。冗談を口にする性格ではない。本気でそういうことを思っている。
鬼王丸は苦笑して、あまり乗り気でないように首を振りかけたが、ふと思い出したように敦隆と目を合わせた。
「先ほど、群盗が坂東の馬を使うようなことを言っていたな?」
「言った」
「見たのか?」
いや、と敦隆は首を振った。
「だが野伏の素性はわかっている。馬の扱いで連中に敵う者は、おそらく馬寮《めりょう》の武士にもいない。しかも奴ら、妖《あやか》しの術も使うという」
「……何者だ?」
鬼王丸が目を細めた。敦隆はわずかにためらって、それから深く息を吐いた。
「反逆の大罪者――平将門」
2
敦隆の館は、山麓のゆるやかな高台にあった。
日下部は甲斐の古い豪族の家系。敦隆は傍流の四男だった。
相続した領地は猫の額で、喰いつないでいられるのが不思議なぐらいだ。それだけに、目代とはいえ官位のある敦隆に対する領民の期待は厚かった。敦隆もそれを知っている。だから国府の仕事にも手が抜けない。あいつは要領が悪いと敦隆を笑う同僚たちを、むしろ敦隆は内心で憐れんでいる。
「みすぼらしい館ですまないな。あきれただろう?」
敦隆は笑いながら言う。決して恥じているわけではないが、実際になにもない屋敷だった。むやみに広いだけで、造りは土民のものと大差ない。領主とはいえ、律令に定められた以上の税を取らないので、敦隆の暮らし向きは質素だった。
「いや、助かる。俺は育ちが悪くてな。都の連中が褒めそやすような華美な邸は落ち着かん」
鬼王丸があながちお世辞とも思えぬ口調でつぶやいたので、敦隆は少し驚いた。
「まるで都を知っているような口ぶりだな」
「知っている――が、そうは見えないか?」
にやりと唇を吊り上げて、鬼王丸は敦隆を見返した。やはり目が笑っている。
敦隆は無言で首を傾けた。この男がきちんと髷を結って都を歩いている姿など想像もしなかったが、意外に似合うのではないかという気もした。
敦隆に妻子はいない。館に戻った敦隆を、大勢の家人や小間使いが出迎えた。ほとんどは老人や女子どもだが、みな実の家族以上に親しげに敦隆に話しかけてくる。敦隆が素性も知れない客を連れてきたことを聞いて、またいつもの悪い癖だと、笑いながらこきおろす者もいた。
「ずいぶんと慕われているのだな」
そう言って鬼王丸が敦隆を見たので、敦隆は照れた。
「なめられているというのだ、こういうのは」
鬼王丸はなるほどと笑う。
「しかし細君がいないというわりに、たいした子沢山だ」
「近所の餓鬼どもだ。みな、この館を遊び場かなにかだと勘違いしている」
敦隆は苦笑した。実際には彼らのほとんどが、親を亡くしたり捨てられた子どもたちだった。
早くに妻を亡くして以来、敦隆はそういう子どもを引き取って育てている。噂を聞きつけて、わざわざ敦隆の館の前に赤子を捨てていく親もいた。人が増えれば食い扶持もかさむ。生活を切りつめ、どうにか凌いだ。子どもたちが育って役に立つようになったのは、ようやく最近のことである。
「彼女のための寝間を用意しろ。それから湯殿の支度を」
年長の娘を呼んで、敦隆は柊の世話を任せた。質素な館だが、幸い部屋だけは余っている。
「袿《うちぎ》の替えを用意させます。粗末なものですが、よければお召し替えを」
そう言うと、柊は恐縮したように首を振った。敦隆は笑った。
「妻の遺品なので、貴女のような方をお招きしたときでもなければ、持ち出す機会がありません。いっそ売り払うべきかと考えていたところ。その前に一度だけでも袖を通してもらえれば、私も嬉しい」
柊は顔を覆う被衣《かずき》ごしに敦隆を見つめた。やがて無言のまま恭しく頭を下げた。その一連の仕草から、彼女は口がきけないのかもしれないと敦隆は思った。
むやみに他人に顔をさらさないのは身分のある女の常識だが、柊に限れば、そういうことを気にしない種類の女性《にょしょう》に思えた。馬を操るという鬼王丸の言葉を信じるなら、彼女は都育ちの貴族の子女ではないはずである。男たちの前だけでなく、部屋の中でも衣《きぬ》を被ったままでいるのは、なにかしらの理由があってのことなのだろう。
日が暮れると敦隆の館には人が集まり始めた。来客のことを聞きつけた敦隆の弟や甥たちが、用意される御馳走を目あてに勝手にやってきたのだ。
彼らはそうやって敦隆を慕う素振りを見せ、この館に入り浸っている。一族の中では鼻つまみ者となっている彼らを、敦隆はよく世話していた。気づいたときには、すでに部屋に酒の臭いが漂い始めている。館の中は、図らずも小宴会の趣になっていた。
「このような騒がしいことになって申し訳ない。どうにも礼儀を知らぬ連中で――」
敦隆は景行に謝罪した。景行は酒には手をつけず、静かに白湯《さゆ》を呑んでいる。
「いえ、楽しませてもらっています。鬼王丸も喜んでいるでしょう。ああ見えて、本性は寂しがりな男ゆえ」
そう言って景行は穏やかに微笑んだ。
敦隆は黙って頭を下げた。宴席での作法なら敦隆も心得ているつもりだったが、景行の洗練された振る舞いを見ていると、自分の姿がいかにも泥臭いものに思えて恥ずかしかった。
だが、同時にある疑問が湧いてくる――この男、はたして何者なのか。
姿かたちが美しいだけでなく、頭も切れる。世の中のことにも通じている。これほどの器が、郡司程度の下官に仕えているといわれて素直に信じられるものではない。
実は景行という名を聞かされたとき、敦隆はある人物のことを思い出していた。
生前、右大臣の地位まで昇り詰め、不遇のうちに死して後は、雷神として祀られた北野大臣《きたのおとど》――菅原朝臣道真《すがわらあそんみちざね》公の三男、菅原三郎景行。
だが菅原景行はすでに死んだと伝えられており、仮に生きていたとしても六十五を超える高齢だ。そして彼には息子はいないと聞いている。
敦隆は軽く頭を振って、杯に注がれた酒をあおった。馬鹿げた考えだと思う。景行は柱に背中を預けて、炉端の炎を見つめている。彼の白く端正な頬に、炎の色が映って揺れていた。
「しかし、平将門とはな。下総で討たれたと聞いていたが――」
宴が盛り上がり、誰もが客人の存在に注意を払わなくなった頃、鬼王丸が突然、敦隆の前に荒っぽく座りこんでそう言った。酔いかけていた敦隆も、表情を硬くする。
平新皇《たいらしんのう》、相馬小二郎《そうまのこじろう》将門。
それは近年、朝廷を未曾有の混乱に陥れた反逆者の名前だった。
桓武天皇の御子、葛原親王《かづらはらしんのう》の血脈に連なる鎮守府将軍|平良将《たいらのよしまさ》の子として生まれた将門は、一時は上洛して、帝の身辺を警衛する滝口の武士を務めていたという。
それが突如、職を辞して下総に帰郷。その直後から将門は、伯父たちと争いを始める。
奇妙なことだが、抗争の原因は知られていない。領地をめぐる争いがあったのだとも、将門が伯父の館にいた娘を強引に奪ったためだともいわれている。
いずれにせよ、将門は一族から排斥される形となり、結束した伯父たちの奇襲を受けた。国府の官位を持つ名門の豪族が、孤立した同族の若者を連合して攻め立てたのだ。
誰もが将門の敗北を予想した。
だが、結果は驚くべきものだった。
わずかな手勢で、将門は攻め手の軍をことごとく打ち破った。滅ぼした伯父たちの領地を手に入れ、将門は瞬く間に東国でも巨大な勢力になっていく。
この東国の内戦を、朝廷は静観した。単なる同族間の私闘として、将門の防衛が正当であったことを認め、一時は正式な裁判で無罪とした。が、いかなる理由に因るものか、ある時を境に、その態度は豹変する。
突如として朝廷に謀反の嫌疑をかけられた将門は、逆に自ら常陸国府を襲撃した。その勢いのまま将門は次々に国府を攻め落とし、新皇を名乗り独立を宣言する。
そして、年明けの二月半ば――
下野押領使藤原秀郷と左馬允平貞盛の連合軍によって、将門は滅ぼされたといわれている。
「まもなく将門の首は都で晒されることになっているのだろう? その功績で秀郷は従四位下をもらったと聞いているぞ」
鬼王丸はそう言って、無造作に杯をあおった。笑っている彼を見て、敦隆は首を振った。
「それも、奇妙な話だとは思わないか、鬼王丸殿?」
「奇妙?」
「逆徒の首が都に届く前から、勲功叙位が発せられるのは異例のことらしいな。しかも秀郷は朝廷が派遣した将門討伐軍とは無関係だ。それなのに、正式な将門|追捕《ついぶ》の命を受けていた貞盛よりも格段に上の位が与えられた――裏でなにか行われたと考えるのが自然ではないか?」
「そうかな」
鬼王丸は薄く笑う。
「たかが官位だ。そんな大袈裟なものかよ。おおかた太政大臣あたりの気まぐれだろう」
「官位だけの問題ではないぞ。このところ、都の動きが慌ただしい」
「夏に大雪が降ったり、黄色い蝶の大群が飛んだりとか、そういうことか?」
敦隆をからかうように鬼王丸は言った。それは都で実際に起きたと伝えられる怪異だ。蝶の乱舞は戦乱の兆し。そう噂して人々は恐れおののいたという。
「いや、残党狩りだ――藤原忠舒《ふじわらのただのぶ》が刑部大輔《ぎょうぶたいふ》として、将門軍の残党捜索の任に就くらしい。東国の平定祈願のために、臨時の奉幣使《ほうへいし》を諸社に立てるという噂もある」
声を潜めて敦隆は告げた。それは本当に奇妙な噂だった。
逆賊の掃討が行われるのは当然のことだが、主だった反乱の首謀者は、すでにひと月も前に秀郷の手によって討たれている。
なぜ今さら、新たに軍を編成して、残党狩りを行わなければならないのか――
「これではまるで、将門が今も生きているようではないか」
敦隆が硬い声でつぶやいた。
「それは大事《おおごと》だな――」
冗談めかしてつぶやく鬼王丸を、敦隆は唇を尖らせて睨んだ。鬼王丸は困ったように笑い、
「しかし将門は眉間を矢で射抜かれ、首を落とされたのだろう? それでも生きているとすれば、それはもはや人間ではないぞ」
「なんだ、知らないのか」
敦隆はようやく会心の笑みを見せた。
「将門には七人の影武者がいたというではないか。反乱軍の奇襲がことごとく成功したのは、将門らしき武将があちこちで同時に出現して敵を惑わせたからだそうだ」
「ほう……戦場で討たれたのは、その影武者だったというわけか」
「ああ。それに将門の身体は鉄のように硬く、矢をも撥ね返すという――そんな噂があるほどの男なのだから、生きていたとしても不思議はないだろう。将門が、暗雲に乗って戦場から逃げ出すのを見たという者も少なくない」
「なるほど。その逃げ落ちた将門がこの甲斐国に潜んで、賊に身をやつしているというわけか」
鬼王丸は、少し考えこむような素振りをした。
「ならば、いずれにせよ検非違所の目代の手に負える相手ではないな。巡察などと悠長なことをしている間に、上奏して征夷大将軍を派遣してもらってはどうだ?」
「したとも」
敦隆が語気を荒らげて言う。
「都にいる俺の伯父貴が追捕使だそうだ。だが、あの男は駄目だ。竦《すく》み上がって役に立たない。やれ物忌《ものいみ》だの方違《かたたが》えだのと理由をつけて、都から一歩も出るつもりがないらしい――自分の領地の民が苦しめられているというのにだぞ!」
「…………」
それまで黙っていた景行が、静かな瞳を敦隆に向けてきた。
杯を握る敦隆の腕は興奮で震えていた。宴の盛り上がりに水を差された敦隆の弟や甥たちが、また始まったか、とうんざりしたような目で敦隆を見ている。
「――それが都のやり方だ」
ぽつりと鬼王丸が言葉を漏らした。遠く、暗い目をしていた。
その言葉の重みに背中を押されたように、敦隆はふっと息を吐く。
「すまない……少し呑み過ぎたようだ」
苦笑して、首を振った。立ち上がるとほんとうに足元がふらついた。どこかで一眠りしようと壁づたいに歩き出す。その背中に、鬼王丸がぼそりと声をかけた。
「すまんな、敦隆殿――」
敦隆は怪訝顔で振り返る。
鬼王丸の言葉の意味は、まだ敦隆にはわからない――
3
台盤所《だいばんどころ》近くの小さな寝間で、敦隆は目を覚ました。
広間ではまだ賑やかな宴会が続いている。それほど長いこと眠っていたわけではないらしい。
ふと、闇の中でなにかが動く気配がした。
敦隆が上体を起こすと、肩から布子《ぬのこ》が落ちた。
誰かが掛けてくれたのだろうが、まだ敦隆の体温が移ってはいない。
目を上げると、薄闇の中に女の姿が見えた。死んだはずの妻の名をつぶやきかけたのは、その袿の色に見覚えがあったからだ。
「柊どの……?」
敦隆が問うと、女は静かに振り向いた。起こしてしまったことを詫びるように微笑する。
その姿に、敦隆は目を奪われた。
美しい女性《にょしょう》だった。
だが同時に、敦隆は、彼女が頑なに顔を隠していたその理由を知った。
娘の肌は白粉《おしろい》のそれよりも白く、瑠璃よりも滑らかだった。瞳は宝玉のように澄んでおり、艶やかな黒髪が光の加減か、時折、銀色の輝きを放つ。
眉は不自然に抜かれていない。歯も黒く染めていない。髪は珊瑚色の飾り物で結われている。
それはこの国の風習ではない。異国のそれだ。
「あなたは渡来人なのか――」
大きく目を開いたまま敦隆が訊いた。
甲斐国にも渡来人の子孫は多く、敦隆は役目柄そのような人々と接することも少なくなかった。
だが、柊の姿は、敦隆の知るどの国の部族とも違ってみえる。唐土《もろこし》のものでもなく、高麗あたりのものでもない。
柊は無言のまま首肯して、なぜか寂しげに微笑んだ。
そして闇に溶けこむように消えた。部屋を退出しただけなのだが、月光に照らされた彼女の姿は、美しい残像として敦隆の目に焼きついた。
敦隆は呆然と闇を見つめていた。
柊は、都でもてはやされるような豊満な女性ではなかった。だが、そのような基準を超越した美貌の主だった。あれほどの美女ならば、危険を冒してでも手に入れたいと思う者がいてもむしろ当然だろう。鬼王丸や景行ほどの者が使いを任された理由もわかる。
だが、あれは一介の郡司ごときの手に負える女ではないように思う。
たとえ本人が望まずとも人心を惑わし、国をも傾ける――あれはそういう類の者だ。
殷朝は紂王《ちゅうおう》の寵妃、妲己《だっき》。あるいは天竺斑足《てんじくはんぞく》太子の妃、華陽《かよう》夫人――
敦隆の脳裏をよぎったのは、そのような化生の名前だった。
「…………」
深く息を吐き、敦隆は立ち上がる。まだ少し酒が残っているのかもしれないと思う。
喉の渇きを覚え、敦隆は寝間を出た。
春とはいえ夜になればまだ冷える。襟を合わせながら庭を通りがかると、そこに子どもたちが集まっていた。男の子ばかり四、五人が館の縁の下に潜りこみ、手足を泥だらけにして一心に土を集めている。よくある泥遊びかと思ったが、子どもたちの表情はなぜか真剣だった。
「なにをしている?」
敦隆はそう言って、彼らの手元をのぞきこんだ。
だが、子どもたちは笑うだけでなにも答えない。無理に聞き出そうとすると、ようやく年長の一人が口を開いた。
「お客様に頼まれたんだ」
「頼まれた?」
「床下でなるべく古い土を探して、湧いている塩を集めてくれって」
「塩を?」
敦隆は首を傾げた。たしかに古い館の床下などには白い塊が見つかることがある。
土の中の成分やら焚き火の灰やらが混じり合ってできたもので、小便塩などと呼ばれているものだ。塩といっても不潔で、とても役には立たない。
「鬼王――乱髪の大きな人か、そんなことを頼むのは?」
苦笑して敦隆が訊くと、子どもは首を振って烏帽子の人だと答えた。ふむ、と敦隆は考えこむ。
子どもたちは生き生きとした瞳をしている。畑を耕すにはまだ非力だが、自分たちの境遇をわきまえており、早く一人前になりたいと敦隆に常々訴えているような者たちだ。立派な身なりの客に直々に頼まれて、役に立てるのが嬉しいのだろう。無理にやめさせる必要もない。
「あとできちんと手を洗えよ」
敦隆はそれだけを言い含めて、館に戻った。
土間の水瓶で喉を潤し、広間をのぞいたが、宴席に景行たちの姿はなかった。敦隆の弟たちが酔いつぶれて眠っているだけだ。子どもたちのこともあって、敦隆は景行たちを捜した。
やがて厩舎に灯りが点いていることに気づいた。
普段使っている建物ではない。鬼王丸たちの馬を休ませるために開けた厩舎である。
「――どういうつもりだ?」
近づくと、景行の声が聞こえてきた。やはり美声だ。細いが、艶がある。
その声に今はかすかな怒気が混じっている。
「なにがだ?」
黒駒の背を梳きながら、鬼王丸が言う。馬を見ているときの鬼王丸の目は優しい。心底、馬が好きなのだろう。
「なぜこの館に寄ると言い出した? 敦隆殿に迷惑をかけるとは思わなかったのか」
「なんだ、そんなことか」
鬼王丸は泰然としている。少し思案するように顎を撫で、
「しかし迷惑しているようにも見受けられなかったが……俺は鈍いのかな、なあ景行?」
「なにを今さら。そうではなく、彼らを巻きこむかもしれないと言っているのだ」
「ああ」
馬を梳く手を止めて、鬼王丸は笑ってみせた。
「それは考えないでもなかったが、たまには屋根の下で休みたいだろうと思ってな。あと二日も野営が続けば、熱を出して倒れていたかもしれぬ」
その言葉に、景行の声が静かになった。
「柊か」
「いや――あれはああ見えて強い女だぞ。それよりも心配なのは、おまえだよ」
平然とつぶやく鬼王丸の背中を、景行が睨んだ。
「私のことは気にするなと言っただろう」
「そう言うな。おまえにいなくなられたら俺が困る。寂しくてかなわぬ」
「ばか」
景行が息を吐いた。鬼王丸は平然と笑っている。
「それにしても、本名を名乗ることはないだろう――」
まだ不満そうに景行が言う。
「おまえが先に名乗ったんだ」
「私の名前はいいんだ。珍しくもない名前だからな。だが、おまえの名は知っている者が聞けば、たちどころに身分が知れるぞ」
「そのほうがいいだろう。本気で敦隆殿に迷惑をかけたくないと思っているのならな。我らをかくまったのではないかと、追っ手に無用の嫌疑をかけられずに済む」
そう言われて、景行の表情が曇った。
「だが……まさか、ここまで来て将門の名前を聞くとはな」
鬼王丸は、複雑な笑みを浮かべてうなずいた。壁際で息を潜めたまま、敦隆は訝しげに眉を寄せた。
敦隆の考えすぎなのかもしれないが、景行たちは将門の名前に強いこだわりを持っているように思えた。単純に将門を恐れているということではなく、なにかしら因縁めいたものを感じている。そんなふうに見える。
「当然、予想しておくべきだったな。賊は相手を怯えさせるのが商売だ。逆賊将門の名はさぞ名乗り甲斐があるだろう。なにしろ朝廷の追捕使ですら恐れて手を出せないのだからな」
「そんなことがいつまでも続くものか。いずれ朝廷が本腰を上げれば、たちまち何千もの兵が巨麻の山を埋め尽くすぞ」
「だろうな……」
鬼王丸が目を伏せる。民を苦しめるのは、なにも賊徒だけとは限らない。数千の兵が踏み荒らせば土地は損なわれる。蓄えた食糧が奪われ、家が荒らされ、民が傷つく。
「だが野伏が目立てば、奴らもそれに気をとられて我らの足取りを見失うかもしれない――今はそう思うしかない。わかるな?」
「なぜそんなことを俺に言う?」
鬼王丸が苦笑した。景行は冷淡な表情を変えない。
「敦隆殿につきあって、野伏に会いに行くと言い出しかねないからな、おまえは」
「なんだ、景行は興味がないのか。相手は将門を名乗っているのだぞ?」
含みのある笑顔で告げる鬼王丸を、景行は眉を吊り上げて睨んだ。
「忘れるな、私たちの目的は――」
「わかっている」
言いかけた景行を制して、鬼王丸は遠く空を見上げた。
「……わかっている。敦隆は気持ちのいい男だ。できれば力になってやりたかったが」
彼らの低い声が響き、厩舎につながれていた馬たちが啼く。
敦隆は静かにその場を離れた。結局、なぜか彼らに声をかけることはできなかった。
立ち去り際、風に乗って鬼王丸の声が聞こえたような気がした。
「――俺たちの国はもうないのだ」
4
一夜が明け、館は奇妙に静かな朝を迎えた。風は穏やかに凪いで、鳥たちの声も聞こえない。空は朝焼けに紅く染まり、山の稜線が影絵のように暗く浮かぶ。
敦隆は館の前に立ち尽くしている。
鬼王丸たちは、夜明け前に館を発った。
弁当を用意させると敦隆は言ったのだが、彼らはやんわりと辞退した。それでは館の主人として示しがつかぬと説得し、どうにか水と乾《ほ》し飯《いい》だけを持たせて敦隆は彼らを見送りに出た。
そのとき柊は、すでに再び笠と被衣で顔を覆っていた。もう一度だけ彼女の素顔を見たいと思ったが、もちろんそれを口に出すことはできない。こぼれ落ちる彼女の美しい髪を敦隆が見つめていると、振り返った柊が被衣ごしに静かに微笑んだ。
「世話になったな――」
鬼王丸が馬上からそう言ったとき、敦隆はなぜか胸が詰まるような気分を覚えた。懐かしい友人をどこか遠くへと送り出すような、そんな不思議な感覚だ。
そうして彼らが向かった方角を、敦隆は空が白みはじめるまでずっと見つめていたのだった。
気づくとすでに朝陽が昇りきっていた。
敦隆は軽く息を吐き、身支度を調えるために館に戻った。
巨麻の民の朝は早いが、それは官吏とて同様である。辰の刻までには国府に戻り、敦隆は再度、野伏追討の軍を派遣してもらえるように書状をしたためるつもりでいた。
死んだはずの将門の影に怯える都の官僚たちを、どのようにすれば動かせるのか――そんなことを思案しながら、敦隆は朝餉《あさげ》の支度を待つ。
里が襲われたという報せが飛びこんできたのは、その直後だった。
「東の集落《むら》が焼かれている」
狼狽した家人たちが、次々に敦隆の部屋に駆けこんでくる。
「賊か? 将門の残党なのか」
「そうだ。武士のなりをした連中が、五十騎か六十騎か――」
たちまち敦隆がいた広間は男たちで一杯になった。
内心の動揺を抑えて、敦隆は立ち上がった。
豪族の邸は砦を兼ねているのが常であり、この館の周りにも、戦いに備えての土塁や柵が設けられている。だが、それは本格的な戦闘に耐えられるようなものではない。柵も壁も相手の足を一時止めるだけのもので、矢を射る味方の頭数がなければたいした役には立たないのだ。
武芸の心得があるのは、せいぜい敦隆とその弟たちだけ。だが、その敦隆にしたところで国府では事務を管理するただの書生に過ぎず、本格的な戦闘の経験はない。剛勇で知られた坂東武士――その中でも鬼神と恐れられた平将門を相手に、はたしてなにができるというのか。
「あなたは愚か者だ、兄者」
弟の一人が、敦隆をなじるようにつぶやいた。集まった男たちが、驚いて一斉に彼を見た。
「野伏たちは愚か者の集団ではない。たとえ平将門の名を恐れて、国司あたりが二の足を踏んだとしても、いずれ朝廷からの大軍勢が討伐に訪れることを、奴らは知っているのだ。将門たちが、いつまでも同じ地方に潜むつもりでいるはずがなかった」
「……すると奴らは?」
敦隆は戸惑いながら訊き返した。弟は、そんな敦隆を軽蔑するように見下ろして笑った。
「都からの軍勢が来る前に里を襲い、奪えるものを根こそぎ奪い取って逃げる気だ。おそらく里の人間を皆殺しにするつもりだぞ。生き残りが一人でもいれば、そこから逃げた方角が漏れるからな」
集まった男たちが低くどよめいた。野伏たちはただ通りがかっただけではないのか。腹を満たしたらさっさと引き上げるのではないか――この期に及んでもまだ、誰もがそんな甘い希望を持っていたのだ。
敦隆自身もその中の一人だ。これでは、愚か者と呼ばれても返す言葉がない。
「将門たちは東から来たのだな?」
敦隆が訊いた。べつの弟が青い顔でうなずく。
「わかった。せめて女子どもだけでも逃がしてやりたい。武器を使える者は一緒に来い。できる限り賊を足止めする。その間に西へ逃げろ。川を越えれば野伏も追っては来まい」
張りつめた空気の中、指の震えを隠すように敦隆は微笑んだ。
「いちばん足の速い馬をくれてやる。誰か一人、国府まで駆けて助けを請え。いくら国司の連中が腑抜け揃いでも、身内が襲われているのを見捨てたとあっては立場があるまい」
敦隆の言葉に、何人かの者が一斉に言葉を発した。
「ならば、その役目は俺が――」
「ばかを言うな。それは日下部の本家を母に持つ俺の役目だ」
「いや、それなら父が巨麻の主政を務めている私が――」
敦隆は、いがみ合う男たちの姿を驚いて見つめた。
彼らは豪族の血に連なっていることを事あるごとに自慢し、武士気取りで、畑を耕すことも鳥獣を獲ることも怠けていた連中だ。それが実際に剣を持つ立場になったときにはこの有様だ。これでは、将門を恐れて都にとどまっている役人たちとなにも変わらない。
すでに遠くに賊徒の上げる喊声《かんせい》や、悲鳴のようなものが聞こえてくる。逃げるにせよ戦うにせよ、もう一刻の猶予もない。
そして彼らは、やがて意を決したように敦隆に背を向けた。
「どこに行く気だ、おまえたち」
あわてて呼び止めた敦隆を、弟の一人が冷たく睨《ね》めつけた。
自分に与えられた財産を蕩尽し、敦隆の館に転がり込んできた男。さすがは書生だ、さすがは兄だと敦隆を誉めあげていた男である。
「兄者は俺たちに、名も知れぬ民の楯になって命を落とせというのか――ふざけるな」
「そうだ……そんなことだから、あんたは要領が悪いと言われるんだ。あんたが国府で、もっと上手く立ち回っていれば、今ごろは追捕使の軍だって来てくれていたかもしれないのに!」
彼らが次々に口にする罵りの言葉を、敦隆は呆然と聞いていた。
敦隆は、真剣に自分の領地に住む民を守りたかったのだ。
そのために、与えられた国府の仕事にも本気で取り組んだ。行き場をなくした弟や甥たちを受け入れ、自分の理想を聞かせてきた。口先だけで動こうとしない都の連中に、憤りをぶつけたこともある。だが結果は彼らの言うとおりだ。
野伏が敦隆の領地を襲ったのは、守りが手薄だったからだ。敦隆の領地には民から掠めとった財産がない。だから防御を固めることができず、まともな武士を雇うこともできなかった。
実直に務めを果たそうとした敦隆の領地は襲撃され、都で狡猾に立ち回っている伯父たちの民は今も安全に暮らしている。結果的に伯父たちは自分の民を守っている。
民を殺すのも、無能だったのも敦隆のほうだ。その事実が敦隆を絶望させる。
気づくと広間に残っていたのは敦隆一人だった。日下部の人間だけでなく、検非違所の部下たちまで消えている。逃げることもできない館の子どもたちや老人だけが、ひどく不安げな表情で敦隆を見ていた。
「心配はいらない」
敦隆は、子どもたちの顔を見回して言った。
「今の話は聞いていたね。おまえたちはできるだけ森の中を通って西に逃げなさい。館に隠れていても、火をつけられてしまえば終わりだからね」
子どもたちが表情を強張らせてうなずいた。恐怖で泣くこともできないのだ。野伏たちの襲撃は確実に近づいている。東の空はすでに黒煙に覆われて暗くなっていた。
「大丈夫だ。賊は私が食い止める」
敦隆は微笑んだ。上手く笑えたのだろう。子どもたちが動き出す。老人たちは戸惑っていたが、子どもたちを頼むと敦隆が言うと、彼らも同じように駆けだしていった。
その姿を見送って、敦隆は太刀をつかみ上げた。自嘲するように、もう一度笑う。
――やはり私は無能らしい。
賊徒を食い止める。そんな方法など、まるで思いつかなかった。
5
夜が明けきる前には、鬼王丸たちは巨麻郡のはずれまでたどり着いていた。
この先、信濃国に入るまでは、秩父と赤石の険しい山々に挟まれた狭い地形が続く。選べる道も限られる。追跡者を欺くのは困難で、一方、待ち伏せする側にとっては絶好の土地だ。
そのことは鬼王丸たちにもわかっていた。休むことなく進み続けて、一気に国境を越えるよりほかに方策はない。
幸い鬼王丸が敦隆に語ったとおり、柊の乗馬の腕は確かだった。大の男でも難儀するような荒れた岩山を、平然と乗り越えていく。被衣も笠もしまって身軽になった彼女を挟み、前に鬼王丸、後方に景行という隊列だ。どのみち足場がこの調子では、馬の歩む速度も知れていた。
「……気づいているか、景行?」
先頭を行く鬼王丸が、なにげない口調でつぶやいた。
木々に囲まれた曲がりくねった山道を、ようやく抜けた直後である。この先は急な下り坂になっており、切り立った崖のような斜面に両側を挟まれている。崖の上は深い緑に覆われ、身を隠す場所には事欠かない。
「動くなよ、二人とも」
のんびりと呼びかけて、鬼王丸は馬を止めた。
「鬼王丸、なにが――」
景行が問い返そうとしたとき、鬼王丸の右手が跳ね上がった。
柊の宝玉のような瞳が大きく見開かれる。その眼前に一本の征矢《そや》が止まっていた。柊をめがけて飛来した矢を、鬼王丸が空中でつかみとったのだ。
「なるほど。俺が柊を庇うと踏んだか――狙いは悪くなかったな」
矢を放り捨てながら、鬼王丸はゆったりと笑う。
刺客がいる。それに気づいた瞬間、景行は弓を構えていた。
景行の弓は短く、反りが大きい。大陸の遊牧民が使う弓に似ている。
敵は右の断崖の上にいた。長大な弓を構えた、黒装束の男の姿が見える。
木々に遮られて、男に狙いをつけることができない。だが、景行は構わず矢を放った。
轟音が鳴った。
雷鳴にも似た激しい衝撃が大気を震わせ、閃光とともに炎が散った。
巻き起こる突風に岩塊が舞う。
木々の幹が裂け、なぎ倒されたその向こう側に、苦悶にのたうつ男の姿が見えた。
男の顔は驚愕に歪んでいた。
景行の矢が飛来した瞬間、まるで落雷に打たれたような衝撃が男を襲ったのだ。
飛び散った火の粉に焼かれてちりちりと枯れ葉が燃え、轟音が谷に反響して遠ざかっていく。
折れた弓を投げ捨て、男は逃げだそうとした。
僧衣の上に、黒い腹巻鎧をつけた男――僧兵だ。
剃髪した彼の頭上を、黒い影が覆った。それは巨大な黒駒の影だった。逃げ腰の僧兵の膝を、強靭な蹄があっさりと踏み砕く。馬上には鬼王丸の姿があった。
僧兵には、なにが起きたのかわからなかっただろう。
鬼王丸たちまでの距離はおよそ十五間、崖の高さも五間はあった。
ほとんど絶壁に近いその斜面を、鬼王丸はわずかな足場だけを頼りに、騎乗のまま登りきったのだ。
転倒した僧兵を蹄にかけたまま、黒駒が嘶《いなな》いた。
僧兵は、悲鳴を上げた。
「一人、か――愚彊の命令というわけでもなさそうだな。斥候が功を焦って先走ったか」
鬼王丸は、僧兵を見下ろして淡々と告げた。
「化け物が」
血まみれの貌を歪めて、僧兵がうめく。浮かべたのは凄絶な笑みだった。
「無駄だ。どこまで逃げようと、この地上におまえたちの居場所はない」
「そうかもしれんな」
鬼王丸は苦笑としか表現できない笑みを浮かべた。
「だからといって、この首を貴様ごときにくれてやるほど、俺は気前のいい人間ではなくてな」
「く……」
憎々しげに鬼王丸を睨みつけ、僧兵は喀血した。
すぐさま致命に達する傷ではないが、そう長く保たないのは明らかだ。
「とどめが欲しいか?」
鬼王丸が静かに訊く。僧兵は首を振って、笑う。
「――おまえたちもいずれは同じ運命だ。おとなしく野伏どもと殺し合っていればいいものを」
言い終えるよりも先に、僧兵は苦悶の声を漏らした。手足を震わせ、呼吸を求めるように唇を動かす。隠し持っていた毒を使ったらしい。
僧兵の最期を見届けて、鬼王丸は崖を降りた。その表情が硬く強張っている。
「なぜだ、景行」
鬼王丸の声から感情が剥落している。怒りを抑えているようにも見えた。
「なぜ妙見の悪僧が野伏のことを知っている? 殺し合えとは、どういう意味だ?」
「もしかしたら、とは思っていた」
弓をしまいながら景行は言った。その声も硬い。
「朝廷は賊を恐れて手を出しかねていたわけではない。おそらくは、わざと連中を見逃していた」
「なに?」
訊き返す鬼王丸を、景行は正面から見返した。
「朝廷は将門を恐れている。平将門という名前を、だ。将門にことごとく国府を陥とされて、東国における朝廷の権威は地に堕ちている。いつかまた東国の民や豪族が、自治を求めて反乱を起こすのではないかと恐々としているはずだ」
鬼王丸は怪訝な顔をした。それが、なぜ将門を名乗る野伏を見逃すことにつながるのか――
「民が将門を慕うのは、将門が、東国の利益のために朝廷と対立したのだと信じているからだ。その将門が凶賊と成り果てて民を襲い、その将門を朝廷が討伐する――将門の名を貶《おとし》め、朝廷の権威を取り戻すのに、これほど都合のいい話はないだろう。朝廷が賊を見逃していたのは――」
「噂が広まるのを待っていたというのか? 誰の目にも明らかなくらい残虐非道な振る舞いを、将門が繰り返すのを待っていたと」
鬼王丸が押し殺した声でうめいた。
そのとき柊がはっと息を呑む気配がした。
彼女が見ていたのは空だった。幾筋もの黒煙が、空に向かって伸びている。
それは戦場で幾度となく目にした光景だった。
村が、焼かれている。
「――敦隆殿の領地の方角だ」
鬼王丸がつぶやき、手綱を握った。その手を景行が押さえつけた。
「よせ、行くな!」
「見捨てろと言うのか?」
鬼王丸が愕然と問い返すが、景行は首を振る。
「なぜこうも都合良く、私たちが通りがかった村が襲われたのだと思う? 妙見の僧兵が、偶然このような場所で我らに出会ったとでも思うのか?」
「だからなんだ?」
「罠だと言っているのだ。おそらく野伏を手引きした者がいる。罠だ。これは私たちを足止めするための――」
「そんなことはわかっている」
こともなげに鬼王丸が言い返し、景行は絶句した。
「そんなことはわかっているんだ、景行。いかにも朝廷の考えそうなことではないか。ならば尚更、戻らぬわけにはいくまい。ここで民を見捨てる者と、凶賊に身を堕とした者――どれほどの違いがあるのか俺にはわからぬ」
「だが、おまえは」
言いかけて、景行はため息をついた。
鬼王丸は獰猛に笑う。そういう男なのだった。
だからこそ、誰からともなくその名前で呼ぶようになったのだ。
まつろわぬ者たちの王――鬼王と。
「おまえと柊は、ここに残れ」
言い捨てて、鬼王丸は黒駒の腹を蹴った。
その姿は見る間に小さくなっていく。
景行は柊と顔を見合わせ、どちらからともなくうなずいた。
6
敦隆は自らの館に火をつけた。
木造りの古い邸に炎は簡単に回り、黒煙を巻いて燃え上がる。
これだけのことで賊徒の目から、逃げ出した子どもや老人たちを隠せると思ったわけではない。
それでもわずかな気休めにはなった。少なくともこれで敦隆の覚悟は固まった。
夜が明けてからのわずかな時間に、敦隆はなにもかもを失った。
今の敦隆に残されているのは、将門に対する怒りだけだ。
将門は、東国の民の自治のために朝廷と戦ったのだと聞かされている。敦隆はそんな彼に、ある種の共感を覚えていた。都の腐敗に憤る外官の一人として、尊敬の念すら抱いていた。
だが、その将門が敦隆からすべてを奪った。
将門を斬ろうと敦隆は決意する。賊を率いているのが、本物の将門でなかったとしても同じだ。将門を名乗るものを、生かしておいてはならないのだ。
野伏の襲撃は組織的で、明らかに訓練されたものだった。
馬を走らせたまま、弓を構えて正確な射撃を繰り返す。国府の軍勢を恐れさせた、坂東武者の騎射である。
五十騎とも六十騎ともいわれた賊たちは、実際には二十騎足らずだった。狭い領地とはいえ、敦隆の所領にはその十倍近い男たちがいたはずだ。だが、突然の襲撃に浮き足立った彼らは、なす術もなく蹂躙され、逃げまどうことしかできずにいる。
「将門ォォ!」
炎を背にして、敦隆は絶叫した。
振り向く者がいたら討とうと決めた。敦隆にできることなどなにもない。ただ一矢、報いたかった。
そして一人の賊が振り向いた。まさか、抵抗する者が残っているとは思わなかったのだろう。身体の正面を剥き出しにした、無防備な姿だった。
すでに構えていた弓を引き絞り、敦隆は全霊をかけて矢を放った。狙いはそれたが、ツキがあった。矢は相手の馬の首筋を貫き、転倒する馬から投げ出された男は、声もなく地面に叩きつけられた。
まず一人――そう独りごちて、敦隆は二の矢をつがえる。
だが、敦隆の運もそれまでだった。落馬した男はたいした傷も負わなかったとみえ、太刀を抜いて起きあがった。そして仲間の落馬に気づいた賊が、次々に敦隆めがけて殺到してくる。
敦隆はもうなにも考えられなかった。ただ、ひたすら射続けた。
四本の矢を射て、五本目をつがえたときに、賊の放った矢に左肩を射抜かれた。敦隆の放った四本のうち、三本がはずれて、一本は賊の鎧に弾かれた。左肩から滲み出た血を、敦隆は他人事のように見つめた。痛みはないが、腕がしびれて弓が引けない。
弓を捨て、太刀を抜いた。不思議と逃げようとは思わなかった。
落馬した男が、ゆっくりと近づいてくる。
敦隆も、太刀を振り上げた。その切っ先ががくりと落ちた。
気づくと太ももに矢が刺さっていた。馬上の賊の一人が放ったものだ。
そのときになってようやく敦隆の心臓を恐怖が締めつけてきた。もう立っていられない。
膝をつき、せめてもの意地で顔を上げた敦隆の目に、弓を構える賊徒の顔が映る。
薄汚れた獣じみた顔。下卑た笑み――その表情が、ふいに強張った。
敦隆の視界が、ふと暗く翳る。
蹄の音が耳を打った。
信じられない勢いで飛びこんできた一頭の騎馬が、野伏たちの前を駆け抜けた。
長大な銀光がきらめき、くぐもった悲鳴のようなものが漏れる。
それが太刀の一閃だと敦隆が気づいたときには、賊の身体は宙を舞っていた。
彼らの首が奇妙な方向にねじ曲がり、噴き出した鮮血が飛沫を散らす。地響きを残して騎馬が走り去ったとき、あとには野伏たちの死体だけが残されていた。
「鬼王……丸?」
敦隆は呆然とつぶやいた。
乱髪を振り乱し、血に濡れた太刀を掲げて、鬼王丸が走り出す。
野伏たちも応戦する。だが、疾走する鬼王丸を彼らの矢がとらえることはなかった。
騎射の基本は追物射《おものい》――つまり、逃げる獲物を狙って射るということである。自分よりも速い相手を射抜くのは、相当な技量があっても困難なことなのだ。
鬼王丸の太刀が閃くたびに、次々と野伏の数が減っていく。立派だと思われた賊たちの馬も、鬼王丸の黒駒に比べればまるで驢馬《ろば》のようだった。
巨大な愛馬を自在に操って、鬼王丸が戦場を駆ける。
その姿はまさに鬼神だ。信じられない強さだった。
「無事でしたか……敦隆殿」
呆然とする敦隆に、景行が声をかけてくる。
景行は奇妙な形の短弓を提げている。その景行を、正面から野伏が五人ばかり、弓を構えて狙っていた。景行も同じように弓を構える。だが、その弓につがえられているのは一矢のみ。景行は乙矢《おとや》すら握っていない。
このままでは先ほどの自分の二の舞になる――敦隆がそう思ったとき、景行はろくに狙いもつけず、無造作に矢を放った。
矢は山なりの軌跡を描いて、野伏たちの密集する中央の大地に突き立った。
その直後、天を裂く白光に敦隆は息を呑んだ。
雷鳴のような轟音とともに、熱風が吹きつける。大地がびりびりと震えている。
激しい爆煙が収まったあとには、負傷してのたうつ賊徒の姿だけが残された。錯乱した馬たちが地面を転がり、それに押しつぶされた者もいる。
「雷槌《いかづち》を、落としたのか……」
敦隆が、かすれた声でつぶやいた。なかば放心したまま、景行を振り返る。
「やはりあなたは菅家の……雷神菅原朝臣道真公の末裔……」
「違う、と言っておきましょう」
景行は薄く微笑んだ。箙《えびら》から新しい矢を取り出して、敦隆の前に見せる。普通のものよりもいくらか短い矢の先端には、鏃《やじり》のかわりに、見慣れない黒い筒が取り付けられていた。
「焔硝《えんしょう》ですよ、敦隆殿」
「……焔硝?」
「そう。長い年月を経た建物の床下の土には、人の営みと土の成分とが練り合わさって、硝石ができる。これに木灰をまぜて水を加え、濾した汁を煮詰めて作った結晶。この筒には、それを細かく砕いて、炭と硫黄の粉を混ぜたものを詰めてあります」
「それが……先ほどの雷槌の正体なのですか?」
敦隆のつぶやきに、景行はうなずいた。
彼の弓、そして焔硝。明らかにこの国の技術ではないだろう。大陸からの渡来のものか――そう頭では理解しても、やはり信じられなかった。妖術といわれたほうがまだ納得できる。
そうしている間に、鬼王丸は、残っていた野伏をほとんど片づけてしまっていた。
残っているのは、馬を捨てて太刀を構えた鎧の男だった。
どうやらその男が野伏の頭目らしい。仲間たちよりも格段に身体が大きく、鎧の意匠は、噂に伝え聞く将門のものとそっくり同じである。
対峙する鬼王丸はろくな防具も身につけておらず、無造作に太刀を担いだ姿は、敦隆の目から見ても隙だらけに思えた。なのに、圧倒的な威圧感を感じるのは鬼王丸のほうだ。
「何者だ……貴様。たったこれだけの人数で……」
鎧の男が低い声でうめく。鬼王丸は屈託なく微笑んだ。
「ほう、俺の名を忘れたか……だが、俺はおまえの顔を知っているぞ。藤原玄明《ふじわらのはるあき》の手下だな」
「な……!?」
鎧の男の表情が強張った。敦隆も同時に絶句していた。
藤原玄明は、天慶の乱で将門軍に荷担した義賊の頭目だった。もとは常陸国府の下級役人だったが、やがて群盗の頭目となり、将門とともに行動して討たれている。
「なぜそれを――」
鎧の男が声を震わせた。
鬼王丸がそれに答えようとしたとき、彼の背後で血まみれの男が立ち上がった。
死体のふりをして息を潜めていた賊が、鬼王丸の背中から斬りかかったのだ。
「惜しかったな」
鬼王丸は、まるでそうなることを知っていたように身を翻して、あっさりと賊を斬り捨てた。
その鬼王丸めがけて、鎧の男が突っこんだ。
敦隆が悲鳴じみた声を上げる。
鬼王丸の太刀は斬り捨てた男の身体に半ばまで埋まって、すぐには引き抜けない。よけられる距離でもない。
鬼王丸は左腕で鎧の男の太刀を受けた。
鎧も籠手もない、素手である。だが、甲高く硬い音を立て、折れたのは太刀のほうだった。
半ばから叩き折られた太刀を見つめて、鎧の男はよろよろと後退した。
「唐土の技でな――硬功夫という。体内の気を漲らせて肉体を鉄のように変える。長続きするものではないが、上手く呼吸を合わせれば、まあこの程度の芸当はできる」
鬼王丸は苦笑しながら、左手を軽く振ってみせた。
「おまえは……いや、あんたは……」
鎧の男が嗄れた声を漏らす。敦隆の喉も乾いていた。
あの卓越した馬術。矢や刀を跳ね返すという鉄の身体。風が吹いて鬼王丸の乱髪が揺れると、右のこめかみから眉間にかけて、古い傷跡が現れた――まるで、矢傷のような。
「――せっかく戦場で拾った命を無駄に使ったな」
疲れたように息を吐くと、鬼王丸は無造作に太刀を振った。鎧の男が声もなく倒れる。
あとには漂う血の臭いと、焦土と化した里だけが残された。
鬼王丸は風にゆるゆると髪をなびかせている。景行は無言だ。
遠くに柊の姿が見えた。燃えさかる炎を背にしていても、彼女はやはり美しかった。
「将門……」
強く太刀を握りしめ、敦隆は立ち上がった。
矢の刺さった脚を引きずって、鬼王丸の前まで歩いていく。鬼王丸は無言でそれを見返した。
「あんたが、将門だったのか」
血を吐くような声で、敦隆は言う。
鬼王丸は黙っている。
敦隆はなにもかもを失った。野伏が甲斐国に流れこんできたのも、国府の追捕使が動かないのも、すべては将門という男のせいだ。逆賊の残党。そして朝廷。そんな巨大な力を相手に、敦隆はあまりにも無力だった。だが――
「だとしたら、どうする? ここで俺の首級をあげるか?」
鬼王丸が自嘲めいた笑みを浮かべる。
「都の官僚たちの鼻も明かせるし、おまえを見限り、離れていった連中を見返すこともできるはずだ。領民たちの尊敬も得られる。褒賞もおそらく望みのままだぞ」
鬼王丸の声にふざけた響きはなく、俺はそれでも構わない、と言っているようにも思えた。
敦隆は黙って鬼王丸を見つめ、太刀を握る指先に力を入れる。
「……なぜだ」
ぽつりと敦隆が訊いた。敦隆の視線は、倒れている野伏の頭目に向けられている。
激しい横殴りの一撃を受けて昏倒していたが、男は生きていた。最後の瞬間、鬼王丸は太刀の峰で男を打ったのだ。
「なぜ、斬らなかった?」
鬼王丸は、ふ、と不思議そうに笑った。
敦隆は、太刀を置いた。思い出す。敦隆がほんとうに憎んだのは目の前のこの男ではなく、巨大な力の前で、なにもできない無力な自分自身ではなかったか。
「野伏どもの正体や、連中が働いた民への非道――それを証言する者が必要だろう? とはいえ、俺は生憎とこの男の首級を都に持ち込んで褒賞をもらえる立場ではないし、ましてや此奴を裁きの場まで連れていき、追捕使どもの怠慢を証言させるなんて面倒事は真っ平だがな――」
「そうだ」
敦隆は倒れている男の鎧を解き、その紐を使って男を縛り上げた。
生真面目な口調で、言った。
「それは俺の役目だ――礼を言う、鬼王丸」
7
平安京。大内裏の東南、二条大路から三条坊門にかけて、広大な藤原北家一門の邸宅が並ぶ、その一画。堀河に面して門を開いた寝殿造りの豪奢な邸が、後に堀河院と呼ばれる前太政大臣、藤原基経《ふじわらのもとつね》の邸宅だった。今は基経の子、現太政大臣|藤原忠平《ふじわらのただひら》が移り住んで使っている。
その正殿の最奥部、蔀戸《しとみど》で囲まれた広い板間に、一人の男が座していた。
鋭い目をした男である。年齢はよくわからない。物腰には壮年の落ち着きがあるが、外見はまだ若い。位袍《いほう》ではなく暗い色の直衣《のうし》をまとっており、そのせいか都人というよりも修験者のような雰囲気を漂わせていた。
簾ごしに人の気配を感じて、男は形ばかり叩頭する。
「まずは、突然の呼び出しですまなかったと言おう――」
前置きもなにもなく、ふいに老人の声がした。
太政大臣藤原忠平――随従も遠ざけ、たった一人で簾の向こう側に座している。ほう、と男は眉間にしわを寄せた。
温厚な性質で知られた忠平だが、それでも彼ほどの男が無位無官の者を相手に直接語りかけてくるのは、やはり普通のことではない。
「東国の平将門、西国の藤原純友《ふじわらのすみとも》――東西の兵乱を鎮めるために白衣観音法《びゃくえかんのんほう》を修するよう、師輔《もろすけ》に進言したのは、そなたであったな」
忠平の言葉に、男は無言でうなずいた。白衣観音法とは、星の運行を計算して修する陰陽道の色彩の濃い修法で、九曜の星の災禍を祓うといわれている。
だが、実際にその法が修せられることはなかった。
その高度な技を操れる者が、当時の密教僧の中にはいなかったのだ。
「差し出がましい真似をいたしました」
男は悠然と頭を下げた。
右大臣藤原師輔は忠平の実子だ。白衣観音法の噂も、彼の口から忠平に伝わったのだろう。
「結局、純友は上洛を諦め、将門はすでに敗死――白衣観音に頼るまでもなかったようですな」
軽く自嘲するように男が言う。忠平は、御簾《みす》の裏側で首を振ったようだった。
「それはどうか――その将門が、今も生きているとしたらどうする?」
「ほう」
最近、都で頻発する怪異は、将門の怨霊の仕業である――誰もがそう噂して恐れている中で、その男は平然と微笑んだ。
「それはまた難儀なことで。浄蔵《じょうぞう》殿も、それでは気が休まりますまい」
苦笑めいた声で男が言う。
浄蔵は天台密教の名高い高僧。将門調伏のために二十一日間にも亘って大威徳明王法を修し、人々に、矢を受けて倒れる将門の幻影を見せたと言われている。
仮にその将門が生きていたということになれば、浄蔵のみならず天台密教の威信が揺らぐ。
「――台密からは、すでに刺客が送り出されている」
太政大臣が平坦な声でつぶやき、男の表情からも笑みが消えた。忠平がふざけているわけではないと気づいたのだ。
「朝廷も密かに討伐軍を派遣してはいるが、おそらく連中の手には負えまい――今日そなたを呼んだのは、そのことで頼みがあったからだ。将門の追捕に手を貸してもらいたい」
「この私に、朝廷の討伐軍に加われと?」
「いや。将門を追うのはそなたではない。そなたにはたしか息子がいたな」
「は、しかし、奴は……」
「将門には同行者がいる。一人は渡来人の女性《にょしょう》だが、もう一人――その者、雷神公の三男の名を名乗っているらしい」
「……菅家の?」
男がかすかに眉を上げる。
「しかし、あの方はすでに亡くなっているはずでは」
「真偽のほどはわからぬ。が、もし菅家の血に連なる者だとすれば、雷神公の知識を受け継いでいても不思議はない。彼《か》の男にしか読み解くことができなかった渡来の漢籍――記されていたのは、なにも詩や歴史だけだったとは限らぬぞ」
忠平の声は冷たく、重い。その重さの理由を男はよく知っていた。
「そなたの息子たちもまた菅家の弟子――ならば、相手の術を破ることもできよう。他の追跡者に先んじて、将門と、奴の連れている女を捕らえよ。あれをほかの者に渡すわけにはいかぬ」
「……何者です、その女性?」
問い返す男の言葉に、忠平は長い沈黙で答えた。答えを待たず、男はふっと笑う。
「たしかに承りました」
男が低くつぶやいた。もとより、当世最大の権力者の意向に逆らうつもりなどはない。だが、薄笑みを浮かべた男の瞳には、はっきりと喜びの色があった。まるで、己の息子を死地に送り出す機会を待ちわびていた、とでもいうような――
そして忠平の口から、おお、と驚嘆の息が漏れた。
隠れる場所など、どこにも存在しない板張りの広間。その中央にいたはずの男が飄然と消えていた。立ち去る足音も、気配さえもない。
四方を囲む蔀戸すら微動だにさせず、男は瞬時に部屋から立ち去ったのだ。
最初から誰もいなかったと言われたら信じただろう、それほど完全な消滅だった。
「……これが、賀茂《かも》か」
つぶやいて忠平は目を閉じる。
古の先達にも恥じず、当代、肩を並べる者なしと謳われた陰陽師――
賀茂忠行《かものただゆき》が消えたあとの板間に、一切れの、人の形の呪符だけが残されていた。
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第二章 夜叉
1
陰陽家賀茂氏――賀茂忠行は大和国|葛城《かづらぎ》地方の豪族の末裔。孝霊天皇の血脈に連なるとも、賀茂役君小角《かものえだちのきみおづぬ》の子孫であるともいわれるが、定かではない。
役君小角とは修験道の開祖とされる伝説的な人物であり、葛城山中での厳しい修行の末に、鬼神をも従える呪力を身につけ、様々な奇跡をなしたとされる異能の霊能者である。そして忠行もまた、役君の裔《すえ》を名乗るに足る非凡な才を持つ術者だった。
葛城の一族が伝える呪術は、古代から存在する原始的な道教や仙術を礎とするもので、その実力は、形骸化した儀式を偏重する朝廷の呪禁師《じゅごんし》や陰陽師のそれを凌いだ。
だがそれを嫉む者も少なくなかった。事実、役君小角は、彼に師事していた呪禁師の誣告《ぶこく》によって、流刑の憂き目に遭っている。
忠行にしたところで、朝廷より下された位は正六位でしかなく、正統な陰陽師として陰陽寮に仕えているわけでもない。その忠行にとって、太政大臣藤原忠平の知遇を得たことは、たしかに幸運なことではあった。
さて、どうしたものか――
鋭い眼差しをさらに細めて、忠行は独りごちる。
ひどく醒めた表情だった。
藤原忠平がこれほど早く動き出したことは少し意外だったが、いずれ彼が忠行に接触してくるのはわかっていた。
人心が不安なとき、陰陽道はいっそう栄える。
菅原道真が憤死して以来、都を騒がしている怨霊騒ぎ。
相次ぐ疫病の流行や、飢饉。そして東西の戦乱。
これらの怪異や災厄に対して、古い律令に縛られた官僚に打つ手は乏しく、結局は陰陽師や密教僧の加持祈祷に頼るほかなかった。
けれど朝廷に仕える術者のほとんどは、天文や暦学の知識を伝えられただけの学者である。
治世においては、知識を基に政の吉凶を占う程度のことはできようが、天災を鎮め、他者を呪殺するほどの方術を使える者が多くいるはずもない。
世の混乱が長く続けば、彼らに対する帝の信頼は失われる。
忠行も、天文や暦学の知識を持たないわけではない。が、賀茂氏の本分はむしろ祈祷や禁厭《まじない》、そして鬼神をも従えるという並はずれた方術にあった。それゆえ人々の間では、忠行こそが当代随一の陰陽師であるという評判がすでに広まり始めている。
東西の戦乱のうち、東の平将門は討たれたが、西の前|伊予掾《いよのじょう》藤原純友の水軍は健在であり、都に攻め上る機会を今も狙っているという。
そのような時勢であるからには、藤原忠平ほどの男が忠行に目をつけないはずがなかったのだ。ましてや、討たれたはずの将門が今も生き延びているというのならば――
「無理もない。だが……厄介な」
つぶやく忠行の声に、どこか愉しげな響きが混じった。
藤原忠平の望みが将門の呪殺であれば、忠行はそれを引き受けなかっただろう。
呪殺には相応の危険がつきまとう。そして将門は、表向き、すでに死人だ。死んだはずの男を呪うために命を削るのは、いかに太政大臣の頼みでも受け容れられるものではない。
だが忠平は、将門と、彼が連れている女性を捕らえよと言ったのだ。
朝廷や天台宗門がすでに将門暗殺の刺客を放っているにもかかわらず、忠平は独自に彼らを手に入れようとしている。太政大臣にまで昇り詰めた権力者が、それだけの価値を逃走中の賊将に認めているのである。その事実に、忠行は興味を惹かれた。
将門に同行しているという、菅原景行を名乗る人物も気にかかる。
忠平の命令をどこまで忠実に果たすかはべつにしても、調べてみる価値はあるだろう。
とはいえ、将門は神懸かり的な武勇を誇る猛将である。さらに、朝廷や台密の刺客らも将門を追っている以上、事の成り行きによっては、彼らを敵に回すことも起こり得る。
いかに方術に長けていようとも、武士ならぬ陰陽師には厳しい任務だ。
藤原忠平の依頼が内密のものである以上、忠行が自ら表立って動くわけにはいかない。だが、そのような過酷な役目を任せられる者は、忠行の弟子の中にもいない。例外はただ一人。
「やはり、奴を使うよりほかにないか――」
忠行は歩く足を止め、一瞬、薄く微笑を浮かべた。
酷薄さと畏怖をない交ぜにした笑みだった。
賀茂保憲《かものやすのり》は、川岸にある小さな邸にいた。
保憲は、忠行の長男である。忠行にはほかに三人の息子がいるが、保憲だけは明らかに毛色が違った。他の異母弟たちが勤勉だが凡庸であったのに対して、保憲は奔放であり異才だった。
「ようこそ、父上――思いのほか早いご来訪でしたね」
如才のない笑みを浮かべて、保憲は忠行を出迎えた。
長身で痩躯。保憲の背格好は忠行によく似ている。だが、面立ちから受ける印象はまるで違った。ひとことで言えば忠行は峻厳であり、保憲は端整である。
修験者の血筋を思わせる父に対して、息子はいかにも都人らしい洗練された雅《みや》び男《お》だった。
唇には常に微笑を張りつかせ、およそ渋面を作るということを知らないように思える。
近寄りがたいようでいて、奇妙な愛嬌がある。放蕩な優男かと思えば、瞳の奥には底知れぬ才知の気配を隠している。相反する印象が同居した、とらえどころのない男だ。
差し出された杯を、忠行は苦い表情で受け取った。
「実の父親を、よくもこのような場所に呼びつけられたものだな、保憲――」
保憲は悠然と微笑みながら、忠行の杯に酒を注いだ。
忠行が訪れた邸は、実は保憲のものではない。保憲の通う女房の邸である。
より正確にいえば、彼が通う数多《あまた》の女房たちの邸の中の一つ、ということになる。
家人に保憲の行方を尋ねたところ、この邸にいるから用があれば来るように、との本人からの言づてがあったと言われたのだ。保憲の帰宅がいつになるかわからない以上、忠行には従うよりほかに道がなかった。
「申し訳ありません、父上」
保憲はやはり微笑を浮かべたまま答えた。
「ですが、わたしにも、都を離れる前には挨拶を交わしたい者たちがおりますので」
「都を離れる、だと?」
怪訝に眉をひそめて、忠行は息子を見た。保憲は、おや、と首を傾げ、
「そのことでわたしをお捜しだったのではないのですか?」
涼しげな表情で訊き返す。
忠行はかろうじて内心の動揺を押し殺し、唇をきつく引き結んだ。保憲はさらに微笑み、
「太政大臣のお屋敷からお戻りになるころには、私のほうから父上をお訪ねするつもりでいたのですが――」
心にもないそのようなことを平然と口にする。
忠行の背筋を、ぞろりと冷たい感触が走り抜けた。
藤原忠平の邸を訪れるということを、忠行は家人の誰にも明かしていない。
忠行が藤原の邸から戻ったばかりだということ、ましてや、保憲を遠国に派遣しようと思っていることなどを、こうして言いあてられるはずがないのだ。
「……なぜ、わかった?」
忠行が訊くと、保憲は意外なほど短く答えた。
「父上のお召し物です」
「なに?」
「失礼ながらその直衣は、父上の衣装の中では群を抜いて仕立ての良いもの。ですが、位袍を身につけていないということは、父上が向かったのは内裏ではない。どなたか身分の高い方の私邸ということになります。あえて地味な暗い色の直衣を選ばれたのは、隠形《おんぎょう》の術で気配を消し、余人の目を眩ますのに好都合だからでありましょう? 方術の準備をして出かけたのは、おそらく訪問先で力量を試されることを見越してのこと。だとすれば、これまでに面識のない相手をお訪ねになったのだろうと思ったのです」
保憲は穏やかな声でそう言った。まるで幼子に道理を言い聞かせているような口調だった。
「その上で、父上が堀河方面へと向かったのだと聞けば、思いあたるのは藤原忠平殿かと」
「…………」
忠行には言葉もない。わずかそれだけの手掛かりで、保憲は、忠行の行動を予見し、家人に言づてまで残していたのだ。そのように筋道を立てて説明されても、なお保憲の洞察力には空恐ろしいものがあった。忠行は険しい表情で、異能の息子を見つめ返した。
未来を予知し、あるいは過去を占うのは、方術使いとしては初歩の技能である。
忠行自身、射覆《せきふ》と呼ばれる占法を得意とし、大勢の貴族が見守る中、彼らが匣《はこ》の中に隠したものを言いあててみせることで名を広めた。知り合いの法師が盗賊の難に遭うことを予見して、その命を救ったこともある。
だが実際のところ、それらはただ小手先の技術に過ぎない。
あらかじめ調べてあったことを託宣のように告げて相手を驚かせたり、巧みに言葉を操って、人々の反応から自分の知りたい情報を引き出しているだけだ。詐術である。
保憲がやっていることも基本的にはそれと変わらないはずだ。なのに忠行には時折、息子がほんとうに目に見えないものを見ているのではないかと疑うことがあった。
保憲が、その才能の片鱗を見せ始めたのは、十歳にも満たない幼少のころである。
それは忠行が、さる高貴な筋より私的な祓《はらえ》を頼まれたときのことだった。
祓とは、その名の通り穢れや災厄を祓い落とす儀式のことである。儀式であるがゆえに、射覆などとは違って、その効果が目に見えてわかるというものではない。依頼主に暗示をかけることによって、本人の望む方向に物事を運んでいく。せいぜいその程度のものだ。
あとになってわかったことだが、その場には忠行の陰陽師としての資質を疑う者たちが多く同席していた。中には陰陽の道を聞きかじった者も含まれていた。信頼されていないがゆえに暗示のかかりが悪く、手の内を知られているので忠行としてもやりにくい。
このままではどれほどの効果もなく儀式が終わってしまう。忠行がそのような危惧を抱き始めたとき、たまたま供として同席させていた幼少の保憲が、突然、奇妙なことを口走った。
父上、この者たちは何者なのですか。
おぞましい、人ではないが人のような形をした者たちが見えます。どこからともなく忽然と現れ、供物を喰い荒らし、供物で作った車や舟に乗って去っていきます、と。
驚いたのは忠行よりも、同席していた貴族たちのほうであった。
よもや十歳に満たない子どもが、父親の儀式を遮って演技をしているとは、誰も思わない。それどころか、保憲は、わけもわからず本気で怯えているようにみえる。
その恐怖は、同席していた大人たちにも、あっけなく伝染した。陰陽師たる忠行ではなく、幼い保憲が彼らを暗示に落としたのだ。そして祓は成功した。
皮肉にも、その一件が、陰陽師としての忠行の名声を揺るぎないものにした。
息子のたぐいまれな才能に気づいた忠行は、それ以来、己の知る限りすべてのことを保憲に伝えた。期待に違わず、保憲は、それをたちまちのうちに自分のものとした。そして陰陽師としての保憲の腕は、今や忠行のそれをはるかに凌ぐようになっている。
そのことを恐ろしいと思う気持ちもあるが、父として、この怪物がどこまで成長するのか、見てみたいという想いがないわけではない。
将門の追捕は、その意味で、保憲の力を見極める絶好の機会となるはずであった。
その結果、保憲が命を落とすのであれば、それでもいいと忠行は思っている。
「太政大臣の依頼がなんであったのか、わかるか。保憲?」
重々しく尋ねる忠行の言葉を、保憲は軽く受け流して笑った。
「平将門、ですか」
「……気づいていたか」
忠行は静かにうなずいた。それは保憲が都を出ると口にしたときから、なかば予期していたことであった。驚きはしないが、やはり感嘆せざるを得ない。
「将門が今も生きているという風評、様々な場所で耳にしていますからね。忠平殿が父上に目をつけるとすれば、おそらくは例の白衣観音呪のからみだと思ってました」
保憲は気負いのない口調で言った。
「ですが、わかりませんね。なにゆえ、敗軍の将に過ぎぬ将門に忠平殿が今さらこだわるのか――」
「それは、わたしにもわからぬ」
忠行は首を振る。
「ただ逃走した将門を捕らえろというのが、あの方の望みだ」
「神将将門の追捕、ですか……まさかそれを、わたしに果たせと?」
「そうだ、保憲」
「まいりましたね、これはどうも。わたしは都育ちで山歩きは苦手なのですが」
たいして堪《こた》えていないような口調で、保憲がつぶやいた。
忠行は息を吐き、太政大臣より聞かされた話を保憲に伝えた。
ほかにも刺客が将門を追っていること。将門に同行している菅原景行と名乗る人物のこと。
そして、将門と同じく追捕の対象となっている女性《にょしょう》のこと。
「女性――」
保憲が、ふと考えこむように目を閉じた。唇からふっと囁くような笑声を漏らす。
「心あたりがあるのか、保憲」
驚く忠行の質問をはぐらかすように、保憲は首を振る。
「さて、心あたりと呼べるかどうか。ただ一つ、以前から気になっていたことはありますが」
「なんだ?」
「将門が得たという託宣のことですよ。上野《こうづけ》の国府で官位の除目を行おうとしたとき、将門の前に神懸かった巫女が現れ、帝位を授けると告げたとか――」
「八幡菩薩の神託か」
忠行は短く鼻を鳴らした。
それは将門が逆賊となる直前に起きた出来事だった。
朝廷が将門の真意を推し量れず、扱いに苦慮していたころの話だ。
八幡大菩薩が率いる八万の天兵をもって、将門に帝位を授ける。その位記――すなわち叙位の旨を記した文書を捧げるのは、菅原道真朝臣の御霊《みたま》である。
つまりは都にいる帝に代わって皇位につけと――
将門のもとを訪れた素性の知れぬ巫女がそのような神託を告げ、それに応じた将門は、以後、自ら新皇を名乗るようになったとされている。
それは都の天皇に対する明確な反逆行為であり、結果として、その新皇宣言が将門の滅びを決定づけることとなった。
「その神託、将門に敵対する者たちが仕組んだ茶番だったと聞いているが……」
忠行が冷たく言い放った。保憲はゆっくりと杯を傾けながら、うなずいた。
「わたしもそのように聞いております。ですが、それでは説明のつかぬこともあるのです」
息子の言葉に、父は黙って眉をひそめた。
「わたしが伝え聞いている限りでは、平将門という男、朝廷から下される官位や肩書きになどなんの興味も示さぬ人物なのですよ。あの藤原忠平殿に目をかけられていながら、さしたる猟官運動をしていた形跡もない。坂東に戻った後も、国府を攻め落とし、官印を奪っておきながら、自ら国司を名乗ることはしなかった」
忠行は無言でうなずいた。
将門が無位無官のまま都を去ったのは、推薦してくれる有力な後援者を持たなかったからだと言われている。だが、都で将門が仕えていたのは太政大臣藤原忠平である。出世の後ろ楯として、彼以上の人物は望めない。
にもかかわらず将門に官位が与えられることはなかった。
となれば、これは将門の資質の問題ではあるまい。本人がそれを望まなかったのだと考えるほうが、むしろ自然だろう。
そして父親の死をきっかけに、滝口の武士という名誉ある職をあっさりと辞して、将門は、坂東の領地に下っている。彼の従兄弟である平貞盛が左馬允という官職を得て、父親の死後も都にとどまり続けたのとは対照的だ。
「将門が求めていたのは、帝から下賜された姓や官名などではなく、おそらく遠国による自治でしょう。馬鹿げた理想ですが、そう思えば彼の反乱の目的は理解できます。そのような男が、はたして偽りの託宣に踊らされて、新皇などと名乗るかどうか――」
「なにが言いたいのだ、保憲?」
忠行が厳しい眼差しで息子を睨んだ。保憲は、不敵に唇の端を吊り上げた。
「――その神託が、本物であればなんの疑問もない、という話です」
「保憲」
忠行が鋭く制止した。
八幡菩薩が真に将門に帝位を授けた――保憲が口にした言葉は、帝の権威に対する侮辱である。軽々しく口にすべきことではない。だが保憲は気にした様子もなく続けた。
「実を言えば、神託の真偽になど、わたしは興味はないのですよ。ですが、父上。その巫女、どうやら渡来人であったとか」
底の知れぬ夜の湖のような瞳を向けて、保憲は微笑む。
「なにゆえ異国の血を引くものが、将門の帝位を託宣するのか。どのような業《わざ》がそのような神懸かりを可能にするのか。忠平殿が、帝を出し抜いてまで彼らを手に入れようとしているのはなぜか……正直、都には少し居づらくなってきたところです。ほとぼりが醒めるまでの退屈しのぎに、調べてみるのも悪くない」
声を潜め、保憲はちらりと帳の向こう側を見やった。この邸の持ち主だという女房が控えている場所だ。都に居づらくなったというのは、別れ話がこじれたという程度の意味だろう。
冗談めかした口調ではあったが、保憲の瞳はもう笑ってはいなかった。
「保憲……」
忠行はかすかな胸騒ぎを覚えてつぶやいた。保憲は異才であり、陰陽の術においてはすでに師である忠行を凌いでいる。それでも保憲には一抹の危うさがつきまとう。
保憲は異才であるがゆえに孤独であり、それゆえ常に他人との触れ合いに餓えていた。
その人恋しい性格はいずれ保憲自身に災いを為すだろう。
そのことを指摘するべきか否か、忠行はめずらしく逡巡した。
父としては、もちろん賀茂の後継者である保憲の身を案じている。
だが、己が長年かけて身につけた陰陽師としての実力を、あっさりと抜き去った息子に対して、忠行が羨望と嫉妬を覚えなかったわけではないのだ。憎悪にも似た羨望を。
その鬱屈した迷いが晴れぬうちに、保憲は杯を置き、立ち上がっていた。
「葛城の土蜘蛛《つちぐも》をお借りしますよ、父上。明朝、将門を追って出立しますゆえ」
忠行は、ただ無言でうなずいた。
2
闇を裂いて、笛が鳴った。
平安の都。四条大路をはずれた左京の一画である。
右京に比べれば栄えているとされるこのあたりにも、治安の悪化による荒廃は押し寄せていた。壮麗だった建物の多くが打ち捨てられ、風雨にさらされて荒れ果てている。
夜になれば人通りも絶え、わずかな月明かりが照らすほかは真の闇だ。
その場には数人の男たちがいた。武士らしい。さすがに大鎧を身につけている者はいないが、全員が佩刀《はいとう》し、弓を構えている。戦にでも出かけていくような格好だ。
彼らがいる場所は、寺院の跡地であった。
堂塔こそ先日の落雷によって焼け落ちていたが、丹塗りの壁や伽藍の一部は残されている。敷地の隅には弱々しく篝火が焚かれ、男たちの長い影を落としていた。
その廃墟に、笛の音が反響する。
粗末な龍笛《りょうてき》の響きである。だが上手い。
聞き慣れない異国風の旋律だが、美しく哀切な曲だった。
鬼が吹いているのではないか。その場にいる誰もがそう思い、身体を震わせた。
笛を奏でているのは、女だった。
男子のような水干の狩衣をまとい、裾を袴に着込めている。長い黒髪が夜の闇に溶けていた。ゆらめく炎が、白い肌に複雑な影を落としている。
女は焼け残った塔の上に立ち、男たちを頭上から見下ろしていた。
焼け焦げた塔もまた闇に溶けこみ、女の姿は、まるで宙空に浮いているようにも見える。
その姿を認めて、武装した男たちがざわめいた。
「我らをここに呼び出したのは、おのれか――女」
男たちの中の一人が、懐から文を取り出して言った。
文は短く、この場所と時間が記されているだけである。達筆ではないが、危なげのない筆致だ。
だが、したためられた文字は、墨の色ではなかった。血を水で溶いたもののように、まだらにどす黒い。
「いかにも」
笛の音が止んで、女が告げた。凜とした静かな声だった。
「……なにが望みだ?」
文を破り捨てながら男が訊く。重籘《しげどう》の弓を携えたその者は、男たちの中でもいっそう屈強な体格をしていた。
「そなたらの首を」
そう言って、女は微笑んだ。紅をさした唇が闇の中で笑みの形を作る。
「我らの首が望みだと?」
「おのれ、我らが坂東の武士と知ってのことか?」
男たちが口々に叫び、弓を構えた。
女はそれを冷ややかに睥睨する。その唇から嘲笑が漏れた。
「将門を恐れて、戦いもせずに下野の国府を明け渡した下官どもが武士か。それはいい。坂東武者も地に堕ちたものよ」
男たちの表情が憤怒に染まった。女の言葉は、男たちの急所を正確にえぐったのだ。
彼らは前下野守|藤原公雅《ふじわらのきみまさ》の部下たちであり、将門が国府を襲撃した際に無抵抗で印鎰《いんやく》を譲り渡し、都へと逃げ帰ってきた者たちであった。
「……何者だ、女?」
弓を引き絞ったまま、男たちの一人が問うた。
戦わずして逃げた恥辱を、自ら口にする者がいるはずもない。彼らの正体を知っている者は、あのとき下野にいた者に限られるはずである。
でなければ、人外《じんがい》の化生か。
「怨霊よ」
女がつぶやき、妖艶に微笑んだ。龍笛を再び唇に押しあて、告げる。
「首を奪われしわが主上、将門公のため、代わりとなるそなたらの首をもらい受けに参った」
「――将門の眷属《けんぞく》か!」
男たちが叫び、弓弦が鳴った。
恐怖に耐えかねて、女の正体を見極める前に矢を放ってしまったのだ。
放たれた矢は三本。それらは狙い違わず、女の胸を貫いた。
だが、それきりだった。女の身体は揺らぎもせず、崩れかけた塔の上に立っている。
そして笛の音が響いた。尖矢に貫かれたはずの女が平然と笛を吹き続けているのだ。
「怨霊……本物か!?」
男たちの声が上擦り、悲鳴が混じった。
再び何人かが矢を放つが、やはりそれらは女の身体を虚しくすり抜けただけだった。
男たちの中の一人が、弓を投げ捨てて逃げ出した。続けて、もう一人。無防備に背中を向け、這うようにして逃げ去っていく。
美しい笛の旋律に、女の哄笑が混じるようになった。
笛の音は反響して、どこから聞こえてくるのかわからない。
残った男たちはみな青ざめて、矢をつがえる気力さえ残っていないように思えた。
ただ一人、最初に文を破り捨てた大柄な男だけが、笛を奏でる女ではなく、ゆっくりと廃墟の周囲を見回している。篝火の位置を見て眉をひそめ、
「――狭霧か。なるほど」
つぶやいて、男はようやく弓を構えた。
戦慣れした者だけに可能な、流れるような動きだった。
面白い女がいる。
保憲がそれに気づいたのは、まったくの偶然だった。通っていた女房の一人に別れの歌を贈ってきた帰り道、たまたま聞こえてきた笛の音に誘われて近づいたのだ。
女がやろうとしていたことを保憲はすぐに理解した。そして興味をかき立てられた。忠行が今の保憲の姿を見たら、悪い癖だと顔をしかめたことだろう。
「ふむ、こちらはまずいか」
袍の袖口を唇に押しあて、保憲は風上へと回る。破れた唐塀の隙間から、女の姿がはっきりと見えた。武士らしき男たちが、ちょうど二人ばかり逃げ出していくところだ。女に向けて放たれた矢が、すり抜ける様子もはっきりと見えた。時折、笛を吹く手を休め、女が笑う。
そのとき、地上に残された武士の一人が、新たに弓を構えるのが見えた。
狙っているのは、塔の上に立つ女ではなかった。女の背後にある篝火だ。
男の位置からはかなりの距離があったが、放たれた矢は正確に篝火の中央を射抜いた。
台座ごと撃ち倒されて炭が飛び散り、炎が消える。
それに気づいた女が、あっ、と短い悲鳴を上げた。
「――そこか」
武士が再び弓を構えた。その鏃は、今度こそ塔の上に向けられている。
ただし先ほどまで女が立っていた塔ではない。それよりもわずかに下方にある、なかばから折れた低い塔だ。先ほどよりも一回り小さく見える女の姿が、その塔の上に移っている。
女があわてて飛び降りようとする。だが武士の弓が早かった。
屈みこんだ女のすぐそばで、布地と肉が裂ける音がした。
女は今度は悲鳴を上げなかった。ただ音もなく落下する。
いかんな、と保憲は独りごちた。思わず袍の袖口を手が探っている。
「追え」
女を射落とした武士が叫び、それまで呆然としていたほかの男たちが、あわてて女が落ちた場所へと駆け出した。その直後、
「おお」
彼らはうめき、再びその場に立ち尽くした。
女を射落とした武士までもが驚嘆の声を上げた。
何者かの甲高い叫び声が響き、女が落下した塀の向こう側から、一匹の黒い獣が走り出していったのだ。獣が逃げ去っていった薄暗い路地を、男たちは恐ろしげに振り返って見つめた。
「……狐狸の類であったか」
やがて大柄な武士がぽつりと言った。
その言葉に、残っていた男たちが大きく安堵の息を吐いた。
大柄な武士は、それからもしばらく周囲を油断なく見回していたが、ほかの者たちが怯えていることに気づいて、とりあえず帰ることにしたらしかった。
最初に逃げ去った二人の仲間を笑いながら、男たちは寺院跡を離れていった。
篝火の消えた廃墟は暗く闇に沈んでいる。
彼らの声が聞こえなくなるのを待って、保憲は女が落下した場所へと近づいた。
「無事かな――そこな方?」
のんびりとした声で呼びかける。
しばらくの間、塀の向こう側では、息を潜めている獣のような気配が続いていた。だが、保憲に敵意がないと判断したのか、やがて瓦礫を蹴散らすような音とともに水干姿の女が顔を出した。
ずいぶん小柄な女だった。
しかも若い。女童といっても通用するほどである。
あと数年も経てば美しい娘に成長するかもしれないが、今はまだ幼い印象のほうが強い。闇の中に浮かんでいた、あの妖艶な姿がまるで嘘のようだ。
意志の強そうな大きな瞳が保憲を睨んでいる。
生気にあふれたその顔を、保憲は好もしく思った。都の女性《にょしょう》には、まず見たことのない表情だ。
「……なぜ、助けた?」
唇の紅を乱暴に拭い落としながら、娘が訊いた。
彼女の水干の肩口が破れ、周囲が赤く血に染まっている。幸い出血の量はそれほどでもなく、心配するほどの深手ではないと保憲は判断した。
「おもしろいものを見せてもらった礼だよ」
残された篝火の跡を眺めて、保憲は言った。
「この匂い、麻の雌株を焚いたのだね。興奮して吸いこめば、この程度の量でも十分に相手を酔わせることができる。闇の中で揺れる炎には暗示にかかりやすくさせる働きがあるし……そうそう、人の耳には聞き取れない音が混じっているその笛もなかなかおもしろい。そうやって幻覚を見やすい環境を整えておいて、背後に置いた光源から、正面の狭霧に自分の影を映したのだね。うん、なかなか見事な方術だった――が、相手が悪かった」
「……何者だ?」
娘がふてくされたような口調で言った。保憲は穏やかに笑う。
「あの武士、たしか藤原千種《ふじわらのちぐさ》だよ。前下野押領使、藤原秀郷殿のご子息だ」
「俵藤太《たわらのとうた》の息子だろう。そんなことは知っている」
娘が苛立たしげに保憲を睨んだ。俵藤太とは、藤原秀郷の異名だった。若いころから勇猛で知られた男で、龍神に請われて蜈蚣《むかで》の化け物を退治したという伝説を残している。
そして彼は、猛将平将門を討ち取った英雄でもあった。
「わたしが訊いているのは、おまえの名だ」
警戒した態度を崩さず、娘が訊いた。保憲はやれやれと息を吐く。
「賀茂保憲だ。いちおう陰陽師の端くれということになっている」
「陰陽師……そうか、それでわたしの術を見破ったのか?」
「そうなるね。うちの一族は葛城山の出身だ。霧に映る自分の影を見るのは、山の中ではありふれたことだし、それを応用した方術も少なくない」
「わたしの身代わりになってくれた黒い獣も、おまえの術か?」
「さあ、どうかな」
保憲は微笑して、娘を見下ろした。
「それよりも不思議なのはあなたのほうだ」
「誰に術を習ったのか、とでも訊きたいのか。教えると思うか?」
「いや、言いたくなければ黙っていても構わないよ。わたしにはもう、その方の名前の見当がついているからね」
「そんなこと……信じられるものか」
娘は、疑わしげな視線を保憲に向けてそう言った。保憲はただ微笑する。
「それよりも今の話では、あなたはあの武士が藤原秀郷の息子だと知っていたのだね」
「……知っていたとも」
「なぜあのような無意味なことを?」
「意味ならある。復讐だ」
「復讐?」
「そうだ」
娘は、暗い目をしてうなずいた。そのときになって保憲はようやく気づいた。
娘の手も足も傷だらけで、身につけた服もあちこちが傷んでいた。
まるで長い旅を終えたあとのような姿だ。それも一人きりの逃亡の旅だ。男の服装をしているのも、旅の途中で自分の身を守るためだったのではないかと思われた。
「俵藤太の息子を殺すつもりはなかったのだ。奴らはまだいい。互いの立場はどうあれ、戦場で堂々と戦ったのだ。父も藤太を恨みはすまい。それよりも憎らしいのは、策を弄して父を死に追いやった貞盛や、朝廷の者たちだ」
娘が声を震わせる。保憲は無言のまま、かすかに眉を上げた。
「父君……そうか、あなたは将門公の」
つぶやいた保憲を、娘は炎のような眼差しで睨んだ。それも無理からぬことだった。将門の軍が壊滅して以来、朝廷は徹底的に将門の残党追捕を行っている。
将門の一族は、女子どもまで徹底的に掃討された。温情をかけて見逃すには、将門の血族に対する恐怖はあまりにも大きすぎたのだ。こうして都にたどり着くまでに、この娘が、どれほどの地獄をかいくぐってきたのか、保憲には想像もできなかった。
「将門公の怨霊が出るという噂が広まれば、奴らは、これまで以上に眠れぬ夜を過ごすことになるだろう。そうやって彼らを恐怖で弱らせて殺す。それがわたしの復讐だ」
「……なるほど、父上が不安がる気持ちもわからないではないな。たしかにわたしは甘いようだ。いつかほんとうにこれで身を滅ぼすのかもしれない」
思わず保憲は苦笑していた。
突然、自嘲するように笑い始めた保憲を、娘は怪訝な顔つきで見つめた。
「……なにを言っている?」
「わたしは愚かだと言っているのさ。わたしにはあなたを助ける理由がない。むしろわたしはあなたの敵だ。だが、あなたが偶然わたしと同じ方角に旅をするというのなら、それをあえて止めないことにしよう」
「ほんとうに愚かだな、おまえは。わたしは旅をするつもりなどはない。貞盛たちに復讐するまでは泥を喰らってでも都にとどまる」
「――将門公が、無事に逃げ延びているとしてもか?」
「なんだと」
娘は驚いたように目を大きく開き、そして首を振った。吐き捨てるように言う。
「馬鹿な。わたしは何人もの兵に聞かされたのだ。戦場で、父上の額を矢が貫くのを見たと――」
「わたしも見たよ。つい先ほど、あなたの身体を何本もの矢が貫くのをね」
「それは」
反論を試みようとして、結局、娘は沈黙した。保憲は静かに首を振った。
「信じるも信じないもあなたの好きにすればいい。わたしは明朝、都を出る。将門公は甲斐を抜けて、諏訪湖あたりへと向かっているそうだ。彼らは追っ手を避けながら進まねばならないから、足が遅い。急げば公が信濃にいる間に追いつくだろう」
「……父上が……諏訪に」
微笑んで告げる保憲を見返し、娘は一瞬、泣き出しそうな顔をした。そのまましばらく目を伏せる。
その間、保憲はまるで違うことを考えていた。娘に方術を伝えた者のことだ。
狭霧に影を映す技は葛城の一族にも伝えられているが、麻を焚いて幻像を見せる技は渡来のものである。保憲にそれを教えたのは父、忠行ではなく、賀茂家とも親交の深い文章博士|菅原文時《すがわらのふみとき》だった。すなわち、漢籍に堪能な菅家の裔である。
やがて再び顔を上げたとき、娘は不敵に笑っていた。
「急ぐと言ったな、保憲とやら。だが信濃の険しい山中で、おまえははたして馬に乗れるか? 望むなら、坂東仕込みの乗馬の技を、このわたしが直々に伝授してやってもいいのだぞ」
芝居がかった娘の言葉に、それは頼もしい、と保憲は苦笑して言った。
娘は精一杯に胸を張って、告げた。
「名乗ろう。我は平将門の女《むすめ》、五月《さつき》――今は夜叉《やしゃ》と呼ぶがいい」
3
湿原の夜は明るかった。水面にいくつもの月が揺れ、緑に覆われた大地を照らしている。
このところ天候は穏やかで、夜風も野営が苦にならない程度には暖かい。鬼王丸たち一行は、湿地からほんの少し離れた森の中に石を積み、火を焚いた。
ようやく馬たちに腹一杯の秣《まぐさ》を与えることができ、鬼王丸は満足そうにしている。馬が餓えるのを見るのが、なによりも耐えられない男なのだ。
柊が、水を沸かし乾し飯を煮る。
その間に、景行は野営地の周りに糸を張っていた。
黒く染めた絹糸は、夜であれば仕掛けた本人でさえたやすく見失う。風の影響は受けにくいが摩擦には弱く、切れれば糸につないだ鳴子が音を立てるようになっていた。野犬や熊に対する備えであるが、闇に乗じて近づく刺客を警戒する意味もある。
手持ちの食糧は野草と乾し飯、それに薫製にした猪肉があった。
戦場の騎射で鍛えた鬼王丸の狩りは巧みで、渡来人の柊は肉を長く保存する方法をよく知っていた。一行が、人里を離れた逃避行をこれほど長く続けてこれたのも、そのためだ。
食事を終えた三人は、それぞれ手近な木にもたれて休息をとった。
障害物の少ない岩場ならともかく、夜の湿地は見通しが利かない。できれば人に見られる危険の少ない夜のうちに先に進みたかったのだが、今は身体を休めるしかなかった。
闇の中で揺れる焚き火を眺めていると、かすかな歌声が聞こえてきた。聞き慣れない曲調。異国の歌だ。歌っているのは柊だった。
どこか懐かしく美しい彼女の歌声を聞きながら、鬼王丸は黙って闇を見ていた。
鬼王丸は変わった、と景行は思う。
何者にも縛られない豪放な性向は今も変わっていない。だが時折、ぞっとするほど虚ろな瞳をしていることもある。喪《うしな》ったものの大きさが、彼にそうさせるのかもしれない。
日下部の里での一件もそうだ。
敦隆の招きに、鬼王丸たちは応じるべきではなかった。その結果として鬼王丸たちの足取りは僧兵たちの知るところとなり、さらに敦隆を助けに戻ったことで、彼らに追いつくための時間を与えてしまった。
それでも鬼王丸には戻らなければならない理由があったのだ。
将門には七人の影武者がいたと人々は噂する。それは正確ではないが、一面の真実を含んでいた。影武者とは将門の血を分けた兄弟であり、また腹心の武士たちであり、理想を同じくする友のことであった。
平将門の名を騙る群賊が出ると聞いたとき、景行は真っ先に彼らのことを思った。それは鬼王丸も同様であっただろう。だから彼は、敦隆の招きに応じたのだ。戦場で行方知れずとなったかつての仲間たち――喪われた自らの半身に会うために。
愛する妻子や兄弟、そして将門を慕う民と彼らの希望。そのすべてを奪われたとき、鬼王丸の身体からも、ごっそりとなにかが喪われたのではないか。景行はそれを恐れている。
いや、とつぶやいて、景行は暗闇に浮かぶ柊の美しい横顔を見つめた。
まだ、希望のすべてが喪われたわけではない。
一行は八ヶ岳の山麓を抜け、間もなく諏訪にさしかかろうとしていた。
諏訪は建御名方神《たけみなかたのかみ》を祀る地だ。建御名方は、天照大神《あまてらすおおみかみ》の命を受けて天下った天津神《あまつかみ》に逆らい、敗走して諏訪に鎮められた武神である。
その諏訪の地を、朝廷に戦いを挑み、敗れた将門が訪れようとしている。
そんな奇妙な符合に、景行は苦笑した。
「景行、なにを笑う?」
鬼王丸が振り向いて訊いた。景行は白く息を吐いて言った。
「気にしないでくれ。諏訪までたどり着けば、追捕使たちを引き離せるだろうと思っただけだ」
「なぜそう思う?」
「建御名方神は恭順せぬ神だ。今でも諏訪の豪族たちは朝廷の支配を受けつけない。信濃国司や朝廷の追捕使といえども、彼らの庭で好き勝手なことはできないはずだ」
「そうか」
鬼王丸は複雑な表情でつぶやいた。当然だ。彼が理想に描いた国こそが、まさにそのような場所だったのだから。微苦笑を浮かべて、鬼王丸は静かに言った。
「だが朝廷に従わないというだけで、そやつらが俺たちの味方になるとは限らぬ」
「――そうだな」
景行もうなずいた。
それからしばらく沈黙が降りた。風が葉を揺らす音だけがさわさわと響く。光が漏れぬように石で覆った炉の中で、ぼんやりと輝いている熾火を景行は見ていた。
ふいに柊が歌うのをやめた。彼女の大きな瞳が、鬼王丸たちを見た。
「妙だな」
鬼王丸が声を低くした。手元に太刀を引き寄せている。
「馬たちが騒いでいる」
「敵か?」
景行は張り巡らせた糸の結界を見た。鳴子を結んだ糸の末端は揺れていない。
「わからぬ。が、血の臭いだ」
鬼王丸がつぶやき、柊が無言でうなずいた。景行も風の匂いを嗅ぐが、周囲の草木の匂いが強すぎて、血の臭いまではわからない。
「調べる。結界の中から動くな、鬼王丸」
そう言って、景行は立ち上がった。愛用の弓を引き寄せる。
「一人で行く気か」
驚いたように訊き返す鬼王丸に、景行はうなずいた。
「柊や、馬たちだけを置いていくわけにはいかないだろう?」
そう言うと鬼王丸は沈黙した。
目立ちすぎる鬼王丸の姿形は、戦はともかく偵察には向いていない。そのことは本人にもわかっているのだろう。不満げに唇を歪めただけで、鬼王丸は景行の言葉に諾々と従った。
景行は茂みに紛れてゆっくりと歩き出した。敵の姿を、相手より先に見つけなければ、逃げることも隠れることもかなわない。
湿地に分け入ると、濡れた地面が深履《ふかぐつ》を濡らした。
進むにつれて生臭い臭いが強くなった。
時折、遠方から金属を打ちつけるような音が響いてくる。
獣の叫びに聞こえたのは人の声だった。断末魔の絶叫だ。
なにが起きている――?
景行は眉根を寄せながら、歩調を早めた。手探りで武器を確かめる。
焔硝を仕込んだ火矢は残り六本だった。野伏程度が相手ならば十分な数だが、本格的な戦闘になると心許ない。このような湿地帯では、焔硝の威力は半減する。
そのまま湿地帯の対岸までたどり着き、さらに三十間ほどの距離も歩いただろうか。
「う……」
茂みの中にうつ伏せているなにかに気づいて、景行は立ち止まった。
それは人の骸《むくろ》だった。
小具足をつけた男性の死体が、血まみれになって転がっている。
驚愕に歪んだ骸の顔に見覚えはなかった。だが、骸は小具足の下に位襖《いあお》をまとっていた。地方武士の姿ではない。都の武官の服装である。
「朝廷の追捕使……か」
つぶやいて、景行は表情を硬くする。景行たちが諏訪に入る前に片づけようと、彼らも必死で追ってきたのだろう。思いがけず近くまで敵が迫っていたことに気づいて、景行はぞっとした。あらためて自分たちがどれほど危うい立場にいるのか、悟らされた気分だった。
だが、その追捕使を倒した者は誰なのか。
野営の支度をしていたところを襲われたらしい。弓はなく、手にした太刀はなかばから断ち割られていた。太刀を喪い、逃げ出したところを背後から討たれたように見える。
仲間割れという可能性もあるが、景行が不審に思ったのは、男が受けた傷のことだった。
背後から深々と貫かれている。
太刀で斬られてできた傷ではない。矢傷に似ているが、突き刺さった矢が見あたらないのは奇妙だった。槍を突き立てられてできた傷だというのなら、納得できる。だが、走り去ろうとしている人間を、背後から槍を突き出して貫くことなどできるのだろうか――?
ここで引き返すべきかもしれないとは思ったが、景行はあえて先に進んだ。
せめて、追捕使を襲ったのが何者かということだけでも知りたかった。
歩くにつれて、漂う臭気がひどくなっていった。
むせかえるような血の臭いだ。
景行が端整な顔をしかめたそのとき、茂みが途切れ、視界が開けた。
広がる光景に息を呑む。
追捕使の軍は予想外に多かった。つながれている馬の数は五十に近い。景行たちわずか三人を捕らえるには、過剰ともいえる戦力だ。
それほどの数を揃えた軍が、壊滅していた。
湿地を抜けた丘陵の麓。そのいたるところに武官たちの屍が散っている。
景行たちの野営地から、そう遠くない場所で行われた殺戮だ。にもかかわらず、争いの音が聞こえなかった理由がようやくわかった。
武官たちのほとんどは、抵抗することもなく殺されていた。
眠っているところを斬られた者。用を足しに陣から離れたところを一突きにされた者。無防備な頭上から射抜かれた者。転がっている死体の数はざっと数えて二十ほど。ほかの者たちはなにが起きたのかわからぬまま、馬を捨てて逃げたのだろう。
「――なにがあった?」
木立の陰にまだ息のある武官を見つけて、景行は近づいた。
「頼む……連れて逃げてくれ。やつら、ゆいまの……」
袍をまとう景行を見て、味方だと判断したのだろう。傷ついた武官は上体を起こし、助けを求めるように手を伸ばした。
その直後だった。
肉がえぐれる厭な音とともに、武官の身体が痙攣した。
激しい喀血とともに武官は倒れた。景行が低くうめく。確認するまでもない。絶命している。倒れた武官の背中には新たに深い傷が残されている。
湿地で見た骸と同じだ。槍で刺し貫かれたような深い傷。
だが、殺人は景行の目の前で行われたのだ。武官の背後に、槍を構えた人の姿などなかった。
油断なく弓を構え、景行は後ずさった。
戦慣れしていない景行にもわかる。これ以上、この場にとどまるのは危険だ。
だが、鬼王丸たちがいる野営地に戻ることもできない。あとをつけられる恐れがある。姿なき殺戮者は、今もこの近くにいるはずなのだ。
丘陵の坂を背に、景行は足音を殺して歩く。
繁茂する草木と泥炭地の柔らかい地面に深履をとられながら、景行は湿地帯へと戻り始めた。
木立に隠れることはできなかった。この状況で、見通しの利かない林の中はかえって不利だと考えたのだ。弓を構え続ける景行の額に、汗が噴き出る。
その景行の努力を嘲笑うように、声がした。
「……悪くない判断だ。さすがと言っておく、菅原景行殿。都の軟弱な武官とは違うようだ」
景行は弾かれたように振り返る。
声の主は、湿地を見下ろす小さな岩場の上に立っていた。
鬼王丸ともそう歳のかわらない男だ。戦装束ではなく、貴族が着るような仕立てのいい狩衣をまとっている。これは戦ではなく、ただの狩りだとでもいうつもりなのかもしれない。
痩身で小柄だが、奇妙に手足の長い男だった。手の指までもが長い。白皙《はくせき》で、細く通った鼻筋が目立つ。決して醜いわけではないが、独特の顔立ちと酷薄そうな瞳が、どこか蛇を連想させた。
「私の名前を知るおまえは、誰だ?」
景行は冷静な声で訊いた。岩場の上で、男が薄い唇を吊り上げた。
「信濃国司諏訪左衛門| 源 重 頼 《みなもとのしげより》の男《むすこ》、望月三郎兼家《もちづきさぶろうかねいえ》――」
「諏訪氏……もしや甲賀の民か?」
「知っていたか。菅家の血脈を名乗るだけのことはある。博識だな」
白皙の男が、唇だけで笑ってみせた。
甲賀の民とは、安寧天皇の遠縁、甲賀三郎の末裔を名乗る者たちである。
美しい妻をめぐる兄弟の諍いで地底に落とされた三郎は、冥界七十二カ国を巡った末に蛇神となって生還したという半神――諏訪大社に祀られる伝説上の人物だ。その子孫である甲賀の民には、剣や唐鏡などの神器とともに、彼の妖しの体質までもが伝えられているという。
望月三郎兼家が、実際に甲賀の民の血を引いているのかは定かではない。
だが真に彼らが恐ろしいのは、妖しの体質などではなく、彼らの一族に伝わる技術である。
甲賀望月氏の本業は修験山伏――陰陽の流れを汲む者なのだった。
「その甲賀の民が、なぜ朝廷の追捕使の軍を襲う?」
白皙の男を睨んで、景行は訊く。兼家はあざけるような声で言った。
「ただの余興だ。見せしめだよ」
「余興だと?」
「そうだ。もの知らずの都の役人どもが、信濃の国府でいささか横暴な態度をとってくれたのでな。諏訪の地を土足で踏み荒らすような真似は、許さないと警告してやったのだ。この地には、奴らの神の威光は届かないと、これで身をもって知っただろう」
兼家はそう言って、くつくつと喉を鳴らした。それに続いて、湿原のあちこちで同じような嗤笑《ししょう》が漏れる。兼家の仲間が潜んでいるのだ。囲まれている。
「さて景行殿。同じまつろわぬ者同士、俺としてはあんたたちを見逃してやりたいところだが、あれで朝廷にもなかなか話のわかる奴がいる。諏訪に逃げ込んだ将門公を首尾よく捕らえれば、この俺に一郡を預けてくれるそうだ。それに」
兼家が薄い唇を裂いて、蛇のように笑った。
「――都の連中が恐れる神将将門を、俺の手で捕らえるというのも悪くない」
「貴様」
景行はぎりぎりと奥歯を噛んだ。兼家がわざわざ自分の姿をさらしたのは、景行を捕らえて、鬼王丸を呼び寄せる人質にするためだったのだ。兼家の今の長広舌は、おそらく追捕使たちを追いかけて散っていた仲間が戻ってくるまでの時間稼ぎだ。
「ところで、俺もあんたのことは少し知っている、景行殿。本物の菅原景行公は老いさらばえてとっくにくたばっているはずだ。奴には息子もいないはず――」
兼家が値踏みするような視線を景行に向けた。異様に黒目の小さい瞳で見つめ、
「……そうか、おまえは――」
兼家が口にするよりも早く、景行は火矢を放っていた。
狙ったのは兼家が立つ足元の岩場だ。
鏃に仕込んだ焔硝の筒に火種が触れ、岩肌に突き立つと同時に爆発が起きた。雷鳴のような爆音とともに紫色の閃光が迸り、轟音を残して岩が崩れ落ちる。
だが、兼家の動きは速かった。
爆発が起きることを見越していたように、その場から跳びずさっている。
爆炎に照らされた彼の顔には、すさまじい笑みが浮かんでいた。
「はは……それが菅公の雷槌か――なるほど、噂に違わぬたいした威力だ」
「くっ」
逃げる兼家めがけて、景行が二の矢を放つ。
けれど湿地に刺さった火矢が、再び爆音を放つことはなかった。泥炭地の湿気に冒されて、焔硝に着火する前に火種が消えたのだ。
「――こんなときに!」
景行がうめき、兼家の哄笑が勢いを増した。異様に長い兼家の腕がしなり、その指先からなにかが放たれる。
「匕首《ひしゅ》か――!?」
兼家が放ったのは、掌に収まるほどの小さな刃物だった。
懐剣の類かと思われたが、違った。それでは、あの槍のような傷跡の説明ができない。景行のいる場所を大きくはずれて、鈍色の刃物は飛び去っていった。その直後、
「うっ」
火矢を収めていた箙が、景行の腰から撥ね飛んだ。まるで、背後から誰かに蹴飛ばされたような勢いだった。
湿原に落下する直前、その箙が、宙に浮いた。そのまま兼家の手の中に、するすると吸い寄せられるように入っていく。妖術を見ているとしか思えない。
「なんだ、今の技は――?」
激しく困惑しつつも、景行は駆け出した。矢を奪われては、もう弓は使えない。剣で太刀打ちできる相手でもあるまい。
「逃がすものかよ」
兼家が叫び、再び腕を振るった。
その瞬間、景行の足が何者かにつかまれたように止まった。
勢い余って景行は転倒し、湿原に膝をつく。兼家は何事もなかったかのように、倒れた景行に近づいてくる。彼の仲間たちも景行を囲んで次々と姿を現した。
そのとき。
風が、ごうと鳴った。
「なんだと」
兼家の仲間が、振り返って叫んだ。
湿原に馬の嘶きが轟いた。銀色の月を背景に、巨大な黒駒が立っている。
その背には、大太刀を手にした乱髪の美丈夫の姿があった。
倒れている景行の姿を認めて、眼光が鋼のような輝きを放つ。
「鬼王丸――!」
なぜ来たのだ、という景行の悲鳴は、兼家の怒号にかき消された。
「将門っ!」
愉悦に顔を歪めながら、兼家が吼えた。その腕から、銀色の光が放たれる。
景行は息を呑んだ。鬼王丸はあの武器の働きを知らない。背後から襲ってくる攻撃を、馬上でよけるすべはない――
「甲賀の民か……めずらしい技を使う」
鬼王丸が気合いとともに太刀を一閃した。銀光が、なにもない虚空を薙ぎ払う。
その刹那、兼家の表情が歪んだ。
彼が投げはなった匕首は、鬼王丸を襲うことなく飛び去り、湿った音を立てて湿原に落下した。兼家の手に残されたものは、黒く塗られた細縄だ。
そういう技か、と景行は驚いた。
長い縄の先に懐剣を結びつけただけの武器。唐土で縄《じょう》ひょうなどと呼ばれる武器に似ている。
縄ひょうは離れた場所から敵を攻撃し、振り回した勢いで槍のように深く突き刺すことができる武器だった。縄を巻き取れば掌に収まるほどの大きさしかなく、隠し持って敵の不意をつくのに都合がいい。しかも、直線的にしか攻撃できない投剣とは違って、縄を操り、思いがけない方角から敵を狙ったり、縄を巻きつけて相手の動きを封じることも可能な理屈だ。
しかし口にするのは簡単だが、空中でひょうを思いどおりに操るのは、相当な修練が必要になるだろう。見えにくい黒縄を使っているのでは尚更だ。鬼王丸に見破られたとはいえ、それを自在に使いこなす兼家は、やはり普通ではない。
「退くぞ、景行! 馬に乗れ!」
兼家の仲間を蹴散らしながら鬼王丸が叫び、景行の背後で新たな嘶きが響いた。柊だ。自らも騎乗した柊が、手綱だけでもう一頭の馬を御しながら走りこんでくる。
その神懸かり的な乗馬の技に、刹那、兼家たちですら呆然と見とれた。
「すまない、鬼王丸、柊――だが、どうして」
柊に渡された愛馬に跨って、景行は叫んだ。鬼王丸は笑っていた。
「雷鳴が聞こえたからな。よほど追いつめられているのだろうと思ったのだ、なあ」
馬を走らせながら、柊を振り返る。美しい渡来人の娘は、いつもの儚げな微笑でうなずいた。
走り去る景行たちの背後で、取り残された兼家が叫ぶ。
「おもしろい――このまま諏訪を抜けられると思うな、将門。甲賀の民が――この三郎兼家が、貴様を追う!」
兼家の白皙には、消えることのない笑みが刻まれていく。
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第三章 柊
1
夜が明けた。
濡れたような緋色の朝焼けが、薄明の空を華やかに染めていた。
風はない。しかし、早朝の大気は冷え切って、吐き出す息が白く凍える。
薄く朝霧に包まれた駅路に、馬を引いて歩いていく人影があった。
旅装の男女。長身の都人と、垂れ衣で顔を覆った小柄な女だ。ほかに供の者はいない。
男はようやく二十歳を過ぎた程度だろう。左腰に飾り太刀を吊っている。物腰は流れるように穏やかで、隙がない。涼やかな顔立ちの文官だ。女はその男よりもさらに若い。せいぜい十三、四ばかりの娘に見えた。
保憲と夜叉である。
稚《いとけな》さの残る唇を、夜叉は不機嫌そうに結んでいる。
この霧の中では、危なくて馬は飛ばせない。それがわかっていてもなお、彼女の足取りには、焦りに似た苛立ちのようなものが滲んでいた。
「どういうつもりだ、保憲――」
ついに耐えかねたように、夜叉が口を開く。都の公家や貴族が好むような美女ではないが、素朴な生命力にあふれた彼女の面立ちは、荒野《あらの》に咲く野茨の花に似て好ましい。しかしそれも今は、ふてくされたようにしかめられている。
「我が父が信濃にいる間に、追いつくつもりなのではなかったのか。それなのに、このように緩緩《ゆるゆる》と進んでいるのはなぜだ」
猫のように眦《まなじり》を吊り上げてつぶやく夜叉を、保憲は愉快そうに見返した。
「緩緩としているように見えたかな。これでもずいぶん早起きしたつもりだったが」
「……よくもぬけぬけとそのようなことが言えるな」
夜叉は、とぼける保憲を睨んで息を吐く。
平将門の実の娘と称する彼女と、保憲が出会ったのは一昨日のこと。死んだはずの将門の行方を追っていると保憲が告げたからこそ、夜叉は同道することを承知したのだ。
しかし保憲が都を発ったのは、ようやく今朝になってからだ。それまで保憲は夜叉をあちこち連れ回し、湯浴みをさせたり、服を替えさせたりしていただけだった。
「これでは父との距離が開く一方ではないか。昨夜とて、おまえが知人の邸に立ち寄るなどと言い出さなければ、もう二刻は早くに都を出られたはずだ」
「ふむ……彼らの歓待では気に入ってはもらえなかったか。わたしの友人たちの態度がなにか、あなたの気に障ったのかな、夜叉姫」
からかうように保憲が微笑んだ。冷淡な性質《たち》で知られた保憲にしてはめずらしい、無防備な笑みだった。それを上目遣いに睨んだまま、夜叉は渋々と首を振る。
「そうは言っておらぬ。たしかに彼らにはずいぶんよくしてもらった。どういう魂胆なのかはしらないが――」
「素性の知れないあなたを丁寧にもてなしたことを言っているのなら、心配には及ばないよ」
「なぜだ」
「彼らはあなたを、どこぞの身分のある御方の女《むすめ》だと思っているのだろう。それだけのことだ」
「だましたのか?」
問い返す娘を見据えて、保憲は薄く笑った。
「わたしはただ、妻にするためにあなたを攫って、都から逃げ出す途中だと言っただけだよ」
「妻……!」
夜叉はあきれたように目を見開いた。
「やはりだましたのではないか。邸の女房たちが、奇妙にわたしに親切だったのはそのせいか」
「喜んでもらえたのなら、なによりだ」
「誰も喜んでなどはいない」
「ふむ。では、ご不満か?」
保憲が神妙な顔で訊き返す。夜叉は困ったように声を小さくした。
「……なにもそのようなことは言っておらぬ」
「それは結構」
笑い出した保憲を見て、夜叉はからかわれたことに気づいたらしい。唇をきつく結んだまま、恨めしげに保憲を睨め上げた。
保憲はひとしきり笑ったあと、ふと表情を変えた。霧に閉ざされた遠くの景色に目を向ける。
「――それに将門が諏訪に向かったという報せが真実なら、そう焦らずともいずれ追いつく。彼がそう容易《たやす》く諏訪を抜けることはできないはずだ」
「なぜそんなことが言い切れる。信濃の国司ごときに易々と捕らわれるような父ではないぞ」
夜叉が拗ねたようにつぶやいた。保憲は小さくうなずいて、
「将門の相手は国司ではないよ。諏訪にはもっと恐い連中がいるからね。もしも将門の行く手を遮る者がいるとすれば、それは間違いなく彼らだろう」
「……何者だ」
「甲賀の民――維摩《ゆいま》の末裔だ」
「維摩?」
「知らないか。まあ、無理もない。律令が定められるはるか以前より、諏訪の地を治めている古い一族だ。朝廷の権威をもってしても、彼らを完全に従わせることはできないでいる」
「まさか……そのような者たちがいるのか」
驚いたように夜叉が言った。彼女が疑うのも当然だった。今や朝廷の支配は、奥羽や壱岐対馬といった遠国にまで及んでいる。坂東よりもさらに都に近い諏訪の地に、そのような一族がいると聞かされても、素直に信じられるものではない。
保憲は夜叉の一瞬の戸惑いを見逃さず、いる、と力強く言い切った。
陰陽師は言葉と音を支配する。普通のそれよりも強く響いた保憲の声が、夜叉の不信の念をたちどころに奪い去った。
「――表向きの理由は、諏訪の豪族たちが建御名方神を祀っていることだよ。建御名方神は、天照大神の命を受け高天原より天下った使者、武甕槌神《たけみかづちのかみ》にすら従わぬ恭順せぬ神。それゆえに、彼らを無理に従わせなくても朝廷の面目は立ったのだ」
そう言って、保憲は小さく笑った。
「逆に言えば、そのような理屈をつけてまで手出しを控えねばならないほどの脅威が、諏訪の地にはあったということになる」
「……それが甲賀の民か」
夜叉のつぶやきに、保憲はうなずいた。
「伝説によれば、彼らは、生きながら冥界に赴き、蛇神となって帰還したという半神、甲賀三郎諏方《こうがのさぶろうよりかた》が、冥界の果て維縵《ゆいまん》国で娶った妻――維摩姫に生ませた子らの末裔だとか。冥界の姫の血を引く一族――尋常ならぬ力を持っていたとしても、不思議はないだろう?」
「そのような一族が諏訪の地に……」
夜叉が不安げに眉を寄せた。保憲は微笑しただけだ。
実際のところ、保憲も、甲賀の民の伝承というものを、言葉どおりに信じているわけではない。
しかし諏訪は、無数の湿原と山地に囲まれて、大軍を動かし難い土地だ。
たとえ少数でも、地形を熟知した兵たちがいれば、それだけで脅威となる。ましてやそれが、異能の力を持つとまでいわれる一族であれば尚更のことだ。朝廷が、諏訪の豪族たちへの手出しを控えてきた真の理由もそれだろう。
「だが、なぜそのような民が父の敵になると思うのだ」
訝しげに問い返す夜叉に、保憲は告げた。
「あなたの父上を追っている連中も、命が惜しいということだよ。将門と直接刃を交えるということになれば、どれだけ勇猛な武官とて怯むだろう。彼らが、相応の恩賞を約して甲賀の民を雇うというのは、いかにもありそうなことではないかな」
「まつろわぬ民が、褒美に釣られて追捕使どもに手を貸すのか?」
夜叉が嘲るように言った。恩賞に目が眩んだ兵は、戦場において命を惜しむ。そのような連中に将門は倒せないと確信しているのだろう。
そもそも諏訪の民が、なかば独立国的な立場でいられるのは、彼らが恭順せぬ一族だからだ。
いかなる理由であれ、朝廷の命に従ってしまえばそれはもはや脅威ではない。朝廷にとっても、将門にとってもだ。しかし保憲は静かに首を振る。
「将門を追っているのは、朝廷の追捕使だけとは限らない」
夜叉は、ますます蔑むような視線を保憲に向けた。
「おまえと同じように、ということか」
「否定はしないが、それは事実とは少し違うよ、姫」
保憲は苦笑した。
追捕使たちを動かしているのは、彼を逆賊として危険視している朝廷内の高官である。軍勢は多いが、兵の多くは将門が生きていることを本心から信じているわけではない。その意味で、将門たちにとってより危険なのは、彼の存命を確信している一部の勢力が差し向けた刺客だろう。
朝廷の助力を受けながらも、ひっそりと将門を追っている暗殺者の集団。
事実、太政大臣藤原忠平は、すでに比叡山の僧侶たちが動いていることを保憲の父に告げたと言う。そのような連中を出し抜いて将門たちに接触するのは、保憲の伎倆《ぎりょう》をもってしても、おそらく生やさしいことではない。
「我ながら面倒なことを引き受けたと思わないでもないが、わたしの役目は、将門公の捕縛ではないらしいよ。彼に同行しているという、巫女殿を都にお迎えすることなのだそうだ」
他人事のようにうそぶく保憲を、夜叉は怪訝そうに見返した。
「巫女?」
「そうだ。あなたは知っているのではないのかな、姫。上野の国府で将門に八幡神の神託を告げたという、渡来人の娘のことだよ」
「……柊」
夜叉の唇が震え、かすれた声を紡ぎ出した。
大きく目を見開いた娘の顔が、死人のように青ざめている。気丈な彼女らしからぬ態度に気づいて、保憲は眉間にしわを刻んだ。夜叉は怯えていたのだった。
「あの女が、今も父とともに在るというのか。八幡神の巫女だと……違うぞ、保憲。あれは、そのようなものではない。急ごう……早くわたしを父の元へ連れて行け……頼む」
弱々しい声でつぶやく娘を、保憲は感情のない瞳で見つめる。
夜叉はやはり渡来人の巫女を見知っているのだ。柊というのがその名前か。
だが、巫女ではないとはどういう意味なのか。
朝廷に報告されたとおり、八幡神の託宣とやらが将門に敵対する者たちが仕組んだ茶番だったという意味だろうか。だがそれでは、将門が巫女を連れて逃げていることや、藤原忠平が、彼女の捕縛を賀茂家に命じた事実に説明がつかない。
それとも渡来人の娘が将門を惑わし、一族を滅亡に導いたことを言っているのか。
しかし、この夜叉の怯えようは――
「あれは、魔だ……保憲」
保憲の袖を強く握って、夜叉が言った。
「妖しですらない――完全な、魔」
霧を透かして射しこんできた朝陽が、濃い翳を彼女の肌に落としていた。
2
大衆《だいしゅ》とは、俗界を離れて寺院において戒律を守り仏道に精進する僧侶を指す。
神仏の威光によって一種の自治が許された寺院では、大衆たちの選挙によって、戒臈智徳《かいろうちとく》に優れた者が僧官、僧職に任ぜられた。
彼らの地位は貴族に比肩し得るほどのものであり、そのため庶民の俊才は競って僧侶となったという。大衆とは、いわば庶民に開かれた唯一の立身出世の道であったのだ。
しかし律令体制の崩壊にともなって、寺院の姿もまた変貌した。
課役を逃れるために、僧侶としての素養に欠ける者までが多く僧となり、濫悪な大衆が増えていく。さらに、貴族が私的に寺院を建立寄進するようになったため、一部の有力な寺院の大衆の数は莫大なものとなった。後に延暦寺が擁する大衆は三千人と称し、その中には中流下流の貴族の子弟も少なくなかったという。
こうして寺院の勢力が増していく流れの中で、学問のみならず武芸に秀でた者たちが、膨大な数となった大衆をまとめるようになった。時には自らの権利を守るため、朝廷に対して強訴《ごうそ》を行う彼らは、やがて武士に対抗するために武装し、巨大な勢力となっていく。
悪僧。いわゆる僧兵の誕生である。
後の世において、白河法皇をして思いのままにならぬと言わせしめた延暦寺の僧兵。その日、諏訪の地を訪れた者たちもまた、彼らに匹敵する屈強の僧兵団であった。
漆黒の僧衣をまとう、二十名あまりの僧侶。
僧衣の下には甲冑を身につけ、鋼の錫杖を軽々と握っている。巌のごとき顔面もまた、鋼に似た無表情であった。鍛え抜かれた筋肉は張りつめ、僧衣ごしにその圧力を感じるほどだ。
なまじの武士では、彼らの相手は務まるまいと納得できる。
兵団の先頭に立って甲賀の民――望月三郎兼家の陣を訪れたのは、彼らの中でも飛び抜けて巨躯の僧兵だった。頭頂骨の隆起した、霊骸とも呼ばれる骨相を持つ男。傷だらけの僧衣を着たその僧兵は、愚彊、と名乗った。
「……妙見衆徒」
板間に無造作に足を投げ出し、匕首を研ぎながら兼家はつぶやいた。
兼家もまた異相である。小柄な体格に似合わず、異様なほどに両腕が長い。唇の薄い特徴的な顔は白皙で、瞳に酷薄な光を宿している。愚彊を巌にたとえるならば、兼家はその巌の隙間にうごめく蛇だ。
僧兵たちの身体から滲み出る重々しい殺気を、兼家とその部下は、野営地の狭い庵の中で、怯むことなく受け流していた。
「なるほどな――善相公の息子が、台密の修法で平将門を呪殺したとは聞いていたが。実際に働いたのは、おぬしらかよ」
兼家は軽く嘲弄するように言う。
愚彊はなにも答えない。
善相公とは、先の文章博士|三善清行《みよしきよゆき》のこと。彼の八男が、将門調伏のために大威徳明王法を修した天台宗の祈祷僧、浄蔵であった。
いかなる法力の持ち主とはいえ、祈祷のみによって武将を討ち滅ぼすことができるとは兼家は思っていない。だが、もしも怨敵の死を祈祷する陰で、確実に敵を討つことが可能な刺客を密かに差し向けていたら――その祈祷は間違いなく成就するであろう。
呪殺とはすなわちそういうことだ。
愚彊の立場でそれを認めることはできまいが。
妙見衆徒。彼らが信仰する妙見菩薩とは、元来は道教において、北極星を神格化した神である。
星辰《せいしん》の中心に位置することから尊星王とも呼ばれ、武神であるともされていた。愚彊はなにも語らないが、そのことが彼らと天台宗門との関係を、雄弁に物語っている。なぜなら他の宗派に見られない天台密教の特徴こそが、星辰信仰だからである。
「だが、解せんな――愚彊殿」
兼家は、動かぬ僧兵をじろりと睨め上げた。
「呪殺したはずの将門が生きていたら、彼奴の調伏で名を挙げた天台宗門の立場が悪くなるというのはわからないでもないが……しかし、将門はすでに死んだことになっているのだろう? 今さら危険を冒して追討せずとも、今生きている将門は彼奴の名を騙る偽者であると、噂の一つも広めてしまえば十分だと思うがな――」
愚彊はなにも答えない。彼の配下の僧兵たちも同様だ。
匕首を手の中で弄びながら、兼家は薄く笑う。
「それとも、あんたらにはどうしてもあの男を捕らえねばならない理由でもあるのかな」
「貴殿が聞いても無益なことよ。それよりも――」
愚彊がようやく口を開いた。重々しく錆びた声で言う。
特に合図をしたようにも見えなかったが、愚彊の背後から、数名の僧兵が進み出た。
彼らが運んできた行李には、大量の絹地と刀剣類が詰められている。
「約束の品だ」
愚彊の右隣にいた僧が言う。愚彊には劣るが、この僧も相当な巨躯の主だ。頬に大きな傷跡があり、ひきつれたように唇がめくれている。
兼家は、置かれた荷物を一瞥し、素っ気なく答えた。
「数が足りぬ」
「残りはおぬしらの役目が終わってからだ。受領《ずりょう》についての約束の文書も、それから渡す」
頬傷の僧が居丈高に言う。
「我らの役目か。さて、なんであったかな」
兼家がいかにもわざとらしく訊き返した。周りにいた兼家の部下たちが、一斉に忍び笑いを漏らす。頬傷の僧が、かすかにこめかみを震わせた。
「忘れたとは言わさんぞ――将門がこの諏訪の地を抜ける前に、奴と、奴の連れた渡来人の娘を捕縛する。それができると言ったのは貴様だろう」
声を荒げた僧兵をあざけるように、兼家はのんびりとうなずいた。
「ああ、もちろん覚えているとも。将門と我らが太刀を交えたのは、一昨日の夜だ。奴らはまだこの諏訪を出ていない。いかに神将将門とはいえ、我らに気づかれずこの地を立ち去ることは不可能よ。だが、あんたたちのほうはどうか――」
「どう、とは?」
「我ら一族が報酬に見合う働きをするかどうか、試すような真似をしたのは気に入らないと言っているのさ。ならば今ここで俺が貴様らを試しても、よもや文句は言うまいな?」
「なにを試す」
「知れたことよ。我らの役目が終わるまで――すなわち」
酷薄に輝く目を細め、兼家は笑った。
「将門と一戦交えても、あんたらが生きていられるかどうか――!」
「ぬ!?」
頬傷の僧が瞠目してうなった。
兼家が手の中で弄んでいた匕首が、前触れもなく忽然と姿を消した。
そして頬傷の僧の背後で、突如、苦悶の声が漏れた。僧兵の一人が、血を噴き出してうめいている。肩口に、深々と匕首が刺さっていたのだ。酷薄に笑う兼家は、その場を動いてさえいない。
「兼家、貴様!」
頬傷の僧が、気色《けしき》ばんで兼家に打ちかかろうとする。その刹那、
「動くな、伯強《はくきょう》」
低い声とともに、僧の眼前を鈍色《にびいろ》の風が吹き抜けた。誰もが動きを止めていた。
声の主は愚彊。そして、頬傷の僧の鼻先を薙いだのは鋼の錫杖だった。
愚彊の振るった錫杖が、兼家の匕首を壁に叩きつけて止めている。
匕首の柄に結びつけられたのは糸のように細い黒縄である。それを使って、兼家は匕首を自在に操って見せたのだ。
「縄ひょうか。さすがは甲賀の民。奇怪な技を使う」
愚彊が静かにつぶやいた。部下の一人が負傷したというのに、なんの表情も浮かべていない。
「――将門は闇の中で、縄が風を切る音だけを頼りに、これを見切ってみせた。真似できるか、あんたに?」
兼家がにやりと笑って言った。愚彊は無感動に兼家を見据えた。
「同じことができずとも、将門は倒せる」
つぶやいて、愚彊は錫杖を戻した。
兼家の匕首は、錫杖の触れていた箇所から、ぼろぼろと砂のように崩れて落ちた。
おう、とどよめいたのは兼家の仲間たちだ。はたして、どれほどの怪力で叩きつければ、このようなことができるのか――
「どうやって倒す?」
兼家が愉快そうに問い返す。愚彊は、冷ややかに頬傷の僧を一瞥し、
「将門の太刀が、伯強を貫けば、その瞬間に我が錫杖が彼奴の頭を砕く。我が身を将門の太刀が貫けば、この伯強が将門を討つ」
抑揚のない声で告げた。
兼家は、ほう、と唇を歪め、満足げにうなずいた。
「なるほど。それがあんたたちのやり方――そのための手勢か。いいだろう。都の腑抜けどもに雇われてたにしては、気が利いている」
「貴様……」
ぎり、と頬傷の僧が奥歯を鳴らした。それだけのことを確かめるために、仲間が傷つけられ、自らも狙われたことに憤っているのだ。しかし兼家はそれを意に介す素振りもなく、
「将門を追うことには手を貸してやる。ただし、条件がひとつ」
薄笑いを浮かべたまま、僧兵たちを見上げた。
「この上、我らの足下を見るつもりか」
頬傷の僧が憤慨したように低くうなる。それを愚彊が、視線だけで制止した。
「――言ってみろ」
「なに。簡単なことよ。将門に同行している、菅原三郎景行――彼奴の身柄は俺が預かりたい。もちろん生かしたままだ」
「菅原景行、か」
「あんたらの望みは、将門と彼奴が連れている渡来人の娘なのだろう? そちらには手を出さずにおいてやる。悪い話ではないと思うがな」
微笑む兼家の瞳に、剣呑な光が宿る。庵の中に、短く沈黙が降りた。
「――景行の捕縛には、我らは手を貸さぬ」
やがて愚彊は抑揚のない声で短く告げる。兼家は破顔した。
「取引は成立だ。九郎丸《くろうまる》、蒼頡《そうけつ》、白那恰《はくなは》、浮游《ふゆう》――来い。狩りの時間だ」
かすれた哄笑で兼家の声に応えたのは、庵の奥から姿を現した、修験者ふうの男たちだった。
黒い獣に似た姿の者、顔をすっぽりと布で覆った者、相撲人《すまいびと》ような体躯の持ち主、そして童形の小柄な男。皆、どこか常人離れした雰囲気を漂わせ、僧兵たちのそれとは異質な威圧感をまき散らしていた。
「追いつくのか。将門に」
頬傷の僧が、疑わしげにつぶやいた。すでに空は白みはじめ、山の稜線を太陽が赤く染めている。いかに諏訪の地形が複雑とはいえ、馬を駆けさせるには十分だ。対する僧兵団は健脚とはいえ、ほとんどが徒歩。普通ならば、追いつける道理はない。そう。
普通ならば。
「――追いつくとも。我ら維摩の末裔の力があればな」
兼家はそう言って、薄く蛇のように微笑んだ。
3
泥炭層の続く湿地帯を抜けて、諏訪湖の東岸と、広大な蓼科の麓に挟まれた道筋に、将門らの足跡は残っていた。信濃を抜けるのに都合のいい方角ではない。最初の湿原での遭遇の後、彼らを追った兼家の配下の者たちが、うまく誘導したらしい。
兼家たちが陣を出てすでに半日。兼家は、確実に将門らを追いつめているという手応えを感じていた。うまく運べば、日が暮れて夜が明けるまでに、彼らと再び出会えるだろう。
「どうだ、蒼頡」
兼家が、具足を鳴らしながら訊いた。
錫杖を鳴らしながら無言で行軍する僧兵団を従えて、先頭を歩いているのは顔をすっぽりと布で覆った奇怪な男だ。蒼頡と呼ばれたその男は、しばらく無言で地面を見つめ、
「――軍馬が三頭と、人の足形が二組。馬のうち一頭だけが、蹄跡が深い。十三貫あまりの荷を背負っている。足跡を残してまだ一晩は経っていない」
聞き取りにくい嗄れた声でつぶやいた。
それを聞きつけた愚彊が、わずかに眉をひそめた。
「岩地で足跡を見分けられるのか」
「この蒼頡は特別よ。真昼の星を見分ける男だからな」
兼家が、不敵に微笑んで愚彊を見返す。
蒼頡は無言だ。布に覆われた表情を読みとることはかなわない。
「なぜ顔を覆っている」
愚彊が無表情のまま問い返す。
「見えすぎてしまうのさ。特に昼間はな」
兼家は軽く首を振って、岩肌に残された見えない足跡を眺めた。
蒼頡はうなずいて、そっと顔を覆う布地を撫でた。
布地に描かれた模様は瞳。人の目玉を模した刺繍が、左右に二つずつ縫いこまれている。
「軍馬が三頭。将門たちと見て間違いないだろう。人の足形が二組しかないのは、一人が馬に乗っているのだ。おそらく菅原三郎景行」
足先で地面を払いながら、兼家が言った。
「なぜそう思う」と愚彊。
「湿地で遭ったときに傷を負わせた。足を挫いた程度だが、この様子では満足に歩けまい」
「それが将門に追いつくという自信の根拠か」
「そう思ってくれてもかまわぬよ」
兼家はそう言って、腰に提げた箙を愛おしげに撫でた。箙には、切斑《きりまだら》の矢が五本ほど残されているだけだ。まともな弓では飛ばせそうにもない短い矢柄である。
「九郎丸――この先は、おぬしの出番だ」
兼家が仲間の一人を呼ぶ。足音もなく進み出たのは、獣に似た姿の男だった。
背中を丸め、頭を突き出すようにして歩く。髪は伸び放題に伸ばしていた。鼻先が狗《いぬ》のように突き出しており、長い犬歯が目立つ。肌の色は浅黒い。獣のようでもあり、しかしその姿は、間違いなく人のものだ。
「この箙の持ち主だ。辿《たど》れるか?」
獣人の鼻先に、箙を突き出して兼家が問うた。しばらく臭いを嗅ぐような仕草をして、九郎丸はうなずいた。蓬髪の下で、血走った瞳が輝いている。
「……辿れる。血の臭いもするからな」
喉の構造も常人と違っているのか、独特のかすれた声で獣人が言った。
「血の臭い?」兼家が訝しげに眉を寄せる。
「狩りの跡だ。猪や、兎……ここに来る途中で肉を削ぎ落とした死骸を見つけた。猪だけで五蹄」
「逃走の途中で狩りだと。しかも、とても食べきれぬほどの量を――」
「間違い……ない」
「気に入らんな」
愚彊が沈黙を破ってつぶやいた。蒼頡や九郎丸――甲賀の民の異様な姿を見ても、僧兵たちに動じた様子はなかった。彼らもまた並の人間ではないのだ。
「しかし、ここで思案していてもどうにもならぬ。九郎丸、追いつくまでにどれだけかかる?」
兼家が、懐の匕首に触れながら訊いた。獣人が短く鼻を鳴らす。
「あと二刻。夜半《よわ》までには」
「いいだろう。あんたたちも、それで文句はあるまい――追うぞ」
兼家の言葉に、愚彊がうなずいた。僧兵たちの鳴らす錫杖の音が、岩肌に幾度も反響する。
その兵団からわずかに離れ、蒼頡だけが、岩に登って遠くを見ていた。
四つ眼の刺繍を施した布の下で、異能の男が眉をひそめる。
「……奇怪なものが、ある」
諏訪を囲む山地を、傾きはじめた太陽が黄昏の色に染めていく。
その光を反射して、はるかな西北の空に浮かんでいるものがあった。
宙空を漂う、鬼火のような発光体。
風に流されてたゆたうそれは、方形の白い箱だった。
4
竹を割いて作った骨組みに、紙を貼って吹き抜けの箱を作る。その底に蝋燭を灯すことで、温められた空気を含んだそれは、風に乗ってふわりと浮き上がった。
後世でいう熱気球の原理であるが、実際の構造としては凧《たこ》に近い。
仏教とともに伝来したといわれるこの時代の蝋燭は、蜂の巣から絞る蜜蝋だ。高価ではあるが、特別にめずらしいものではない。一方の凧は、中国大陸でこそ「鳶」の名で春秋時代から広く知られていたが、この国には伝わってきたばかりのまったく新しい技術であった。
「なるほど……面白いものだな。風筝《ふうそう》とは」
暗い夜空を見上げて、鬼王丸が感心したように言う。
残照はすでに半刻ほど前に消えていた。わずかな月明かりのほかに地を照らすものはなく、草原を闇が覆っている。
薄曇りの空のせいで星は見えない。
かわりに空を照らしていたのは、中に蝋燭を納めた箱――風筝だった。
これより数百年の後には、同様の原理のものが、行燈《あんどん》凧の名で江戸の空を照らすことになる。
しかしこの時代、風筝の原理を知る者は、漢籍に堪能な一握りの学者に限られた。そう――たとえばかつての文章博士、菅原道真公のような。
空中に漂う風筝の数は全部で九つ。
そのうちの三つは、鬼王丸たちのすぐ傍に。残る六つは周囲を取り囲むように、少し離れて配置されている。蝋燭を納めた風筝はぼんやりと輝いているが、地上を照らすほどではない。
細い絹糸で地上につなぎ止められたそれらは、まるで自らの意思で空中を漂い、呪術的な陣形を描いているようにも見えた。
「――すまぬ……柊、鬼王丸」
弱々しい声で、景行が言った。
文官の衣装をまとった貴族ふうの男。端整な顔立ちの美男である。
しかし今は、その貌にも疲労の色が濃い。朽木に背中を預けて伸ばした右の足首は、痛々しく腫れ上がっていた。
湿原で望月兼家と遭遇した際に、彼の縄ひょうに絡めとられて挫いた傷である。副木《そえぎ》をあて、だましだましこの草原まではたどり着いたものの、すでに景行の体力は限界に達していた。
これ以上の逃走を続けても、いずれ敵に追いつかれるのは目に見えている。
そう判断した鬼王丸が、この場で追跡者を待ち受けると言い出したのだった。
「できる限りの策はめぐらせたつもりだが、正直、これだけで追っ手のすべてを阻めるとは思えない。もし敵を防ぎきれなかったら、そのときは私を置いて逃げろ」
景行は、太刀に身体を預けている鬼王丸を睨んで言った。
野営地に火は焚いていない。
月明かりだけが照らす薄闇の中、鬼王丸は無言で首を振る。
「鬼王丸」
「だめだ、景行」
「なぜだ」
「――おまえまで俺を置いていくのか、景行」
乱髪の美丈夫が、刹那、頼りない子どものような瞳で景行を見返す。
景行は絶句し、今さらながら彼が喪ってきたものの大きさを思った。
友と、兄弟と、自らの一族と国をなくした孤独の王。ほんとうに死を望んでいるのは、この男のほうかもしれないのだ。
それでも景行は毅然と首を振る。
「おまえは生きなければならない」
冷酷に言い放ち、景行は傍らにいる柊を見た。
美しい渡来人の娘は、小袖で顔の半分を隠したまま、水を浸した布で景行の足首を冷やしている。それが気休めにしかならないことは景行にもわかっているが、彼女は決してそれをやめようとはしなかった。
「そんな顔をするな、鬼王丸。私は死なない」
景行は痛みを隠して笑って見せた。空中に頼りなく浮かぶ風筝を見上げて、満足げに告げる。
「甲賀の民がどれほどの異能の力を誇ろうと、この陣は破れぬよ」
「……兼家か。やつらだけならいいがな」
鬼王丸が遠くを見るような目でつぶやいた。
その言葉が意味することに気づいて、景行は、はっと表情を強張らせた。
甲斐国で妙見衆の斥候と接触して、まもなく十日が経とうとしている。愚彊たちがすでに動いているとすれば、諏訪に着いていてもおかしくない頃合いだ。
黙考する景行の傍で、柊が無言のまま立ち上がった。
景行の足首を冷やしていた布がぬるくなったので、水場まで濡らしにいこうとしたのだろう。その彼女を何気なく見上げた景行の視界の隅で、炎が揺れた。
野営地を取り囲むように浮かぶ九つの風筝。
そのうちの一つが消えている。何者かによって射落とされたのだ。
「……来たか」
鬼王丸が太刀を抜いて立ち上がる。彼の背後で巨大な黒駒が低く嘶いた。
景行もまた、朽木で身体を支えて立ち上がった。弓弦を鳴らしながら歩き出し、ふと渡来人の娘の前で足を止めて、囁く。
「柊、あとを頼む――」
美しい玻璃《はり》のような双眸を伏せ、娘は静かにうなずいた。
5
風筝を射抜いたのは、頬傷の僧――伯強だった。
八尺近い強弓で打ち放たれた矢は、二十間近くも離れた場所から、空中の箱を貫いた。浮力を失った風筝はあっさりと墜落し、蝋燭の炎で燃え上がる。
「この炎は蜜蝋……竹籤《たけひご》と紙でできた、このようなものが空を飛ぶのか」
落下した風筝のもとに、最初にたどり着いたのは兼家だ。燃え上がるそれを見下ろして、感心したように言う。
「このような方術に心あたりは?」
愚彊が冷静な声で問い質した。
空中に浮かんで輝く箱。逃亡者である将門たちが、なんの目的もなくそのようなものを配置するとは思えなかった。警戒して手を出しかねている兼家らにかわって、箱を射落とすよう部下に命じたのが愚彊だったのだ。想像したよりも早くに将門たちに追いついたことで、すでに僧兵たちは将門の野営地を包囲している。
「……いや、知らんな」
真面目な表情を作って、兼家は言った。
甲賀の民の先祖は修験山伏である。朝廷で儀礼化される以前の、古来の陰陽の技には精通している。しかし単純に鬼火を生み出す技ならばともかく、このような奇怪な絡繰《からく》りについての知識はない。
「焔硝を仕掛けてあるのではないかと警戒していたが、そういうわけでもないらしい。どうやら彼らの手持ちの焔硝は、俺が奪ったものですべてだったようだな」
静かに燃え尽きつつある風筝を眺めて、兼家がつぶやく。愚彊は無言でうなずいた。
「我らを攻めるために準備したものではないとすれば、我らの接近を知るための道具か、それとも呪術のつもりか。笑止な――伯強!」
「――は」
愚彊の隣で、頬傷の僧が錫杖の金輪を打ち鳴らした。それに呼応するように、他の僧兵たちも錫杖を振るう。彼らの口から、一斉に経文が漏れだした。
妙見菩薩呪。それが攻撃の合図だったらしい。
将門たちを包囲した僧兵たちが、四方から、経文と錫杖の音を鳴らしながら歩き出す。
宵闇の中で響き渡るそれらは、実際にいる人数よりもはるかに僧兵たちの軍勢を巨大に思わせ、追いつめられた獲物たちを恐怖させる効果があるのだろう。
彼らは僧兵。兵であると同時に聖職者であり、これらは戦であると同時に、強力な怨敵調伏の呪術でもあるのだ。
オン・ソジリシュタ・ソワカ
オン・マカシリエイ・ヂリベイ・ソワカ――
響き渡る真言とともに、僧兵たちの包囲の輪が狭められていく。
彼らは松明を持っていない。闇の中を、漆黒の僧衣の軍団が侵攻する。月光が照らし出すのは鈍く輝く鋼の輝きだけ。それは、追われる者に恐怖を与えずにはおかない光景だった。
「さすがに台密の連中が送りこんできた刺客だけのことはあるな――」
兼家は、唇を歪めて冷笑した。将門への同情から生まれた笑いだ。
もとより兼家は将門に恨みを持っていない。同じまつろわぬ民として、むしろ好感を抱いている。彼を追う立場になったのはほんの成り行きだ。
それだけに兼家は冷静だった。決して将門を侮ってはいない。
たしかに空中に風筝のようなものを浮かべておけば、追っ手はそれを射落とさずにはいられないだろう。だからといって、あのような面倒な絡繰りを、それだけのために浮かべておいたとは兼家にはどうしても思えなかった。敵の接近を知る手段なら、ほかにいくらでも手軽なやりようがあるからだ。
「我らも将門を追いますか――?」
そう尋ねてきたのは、兼家が連れてきた童形の男だった。声変わりする前なのか、女のように甲高い声だ。
懐の中で匕首を弄びながら、いや、と兼家は首を振る。
「九郎丸、蒼頡――景行を捜せ。彼奴が真に菅家の血に連なる者なら、おそらくまだなにか仕掛けてくるはずだ」
獣じみた男と、布を被った男がそれぞれ無言でうなずいた。兼家は、残る二人の仲間を軽く手招きする。
「白那恰と浮游は、俺とともに来い。将門の首、僧兵どもにくれてやるには惜しいが、まずは彼奴らの手並みを見せてもらおう」
「――頭領」
仲間の二人を連れて歩き出そうとした兼家を、蒼頡が鋭く呼び止めた。
彼が被った絹紗の布ごしに、爛々と輝いている瞳が見える。その瞳が見据える先は、岩場を背にした草原のほぼ中央であった。
傍らに一頭の馬だけをつなぎ止めて、烏帽子姿の男が一人立っている。
景行だ。
弓はなく、飾り太刀だけを手にしている。ほかに仲間の姿はない。
宙空に浮かぶ風筝が、ぼんやりとその姿を照らしている。
その足元には影。方術による幻影などではない。
「景行! 一人だと!?」
兼家がうめき声を漏らした。迫り来る僧兵たちの姿に気づいていながら、景行に動きはない。
その足首には、兼家の予想どおり副木があてがわれている。逃げようとしても逃げることができない――そんなふうにも見える。
「愚かな。将門たちを逃がすために一人で残ったのか――いや」
兼家は、はっと目を見開いて仲間の一人を振り返る。
九郎丸。獣に似た常人離れした嗅覚を持つ男は、兼家を見返し、沈黙のままうなずいた。
6
錫杖の響きが、大気を裂いて耳に触る。
僧兵たちの真言が、荒波のうねりのように押し寄せてくる。
殺到する黒衣の僧兵団の姿を、景行は奇妙に平静な気分で見つめていた。
読経の声と錫杖の音が岩肌に幾度も反響して、はたして実際の僧兵の数がどれほどのものなのか、判断するのを難しくしている。
数百の軍勢のようにも思えるが、いかに台密の刺客とはいえ、それほどの僧兵団を一度に動かせるとは考えにくい。多く見積もっても、せいぜい三十ほどだろう。追跡者が兼家たちだけではなかったのは誤算だが、その程度ならばどうにかなる。
景行が立つ草原の茂みは深い。
何年もかけて溜まった腐葉土の上に、冬枯れの草が積もり、腰のあたりまで伸びた茂みが、屈強な僧兵たちの歩みを邪魔している。
それでも僧兵たちは、着実に景行までの距離を詰めていた。
前方と、そして左右。景行の逃げ場を塞ぐように壁を作り、じりじりと押しつぶすように迫ってくる。彼らを指揮する、ひときわ巨躯の僧兵は愚彊。将門にとっては因縁浅からぬ相手である。彼の命を受けた、頬に古傷を持つ僧兵が、先頭に立って迫ってきている。
ここにいるのが鬼王丸――将門であれば、彼らもそこまで不用意には近づいてこなかっただろう。遠方から弓で狙い撃たれれば、人数に劣る景行たちに勝機はなかった。
景行一人であるからこそ、彼らは迷わず近づいてきたのだ。景行を捕らえ、逃げた鬼王丸たちの行方を聞き出すために。
「菅原三郎景行か――」
頬傷の僧兵が、鋭く怒鳴る。並の文官であればそれだけで喪心しかねない、威圧感のある怒号だった。景行はそれを正面から受け流し、
「いかにも」
と穏やかに首肯する。すでに僧兵たちとの距離は、彼らが振りかざす錫杖の、金輪の数までもが数えられるほどに詰まっていた。そして景行は、ゆっくりと飾り太刀を引き抜いてみせる。
頭上に掲げた白刃が、月明かりを浴びて反射した。
まるでそれがきっかけになったように、闇の中で細く弦が鳴った。
「――弓鳴りだと!?」
頬傷の僧兵が声を上げる。
地上から放たれた矢が貫いたのは、空に漂う風筝のひとつだった。景行の立つ、ほぼ正面――今まさに迫ってくる僧兵たちの頭上に浮かんでいた風筝である。
矢を放ったのは、景行の背後の岩場に立つ小柄な人影だった。
浅葱の袿をまとった美しい影。渡来人の娘。
脱ぎ捨てた笠の下からこぼれ落ちたのは、艶やかにたなびく長い髪。
瑠璃のように滑らかな肌と、宝玉のごとく輝く瞳――柊だ。
射抜かれた風筝は、たちどころに炎に包まれ、地面へと落下した。
だが、その程度のことで歩みを止める僧兵たちではなかった。
彼らはすでに、風筝の正体を見ているからだ。たとえそれに触れたところで、どうなるものでもないと知っている。
それこそが景行の狙いだった。
「――なに!?」
頬傷の僧兵が叫んだ。それまで、仏像のように表情を動かさなかった他の僧兵たちの顔にも、動揺が広がった。その表情は、たちまち苦痛のそれに変わった。
風筝が地上に落下した直後、彼らの立つ大地が、炎をまき散らして燃え上がったのだ。
景行の背後で、柊が再び矢を放った。
それは頭上に残された二つの風筝を、正確に貫き、撃ち落とした。
残る風筝が地上に落ちた瞬間、景行の左右でもそれぞれ炎が噴き上がる。
炎はたちまち広大な草原を覆い尽くし、左右から迫る僧兵たちを巻きこんだ。僧兵団が誇る完璧な統制を逆手にとったのだ。正確に同じ距離を保って迫ってきたために、二十名あまりの僧兵たちのすべてが、今や炎の中に閉じこめられていた。
「おおおっ――」
僧兵団の背後で、絶叫が上がった。
炎に照らされた夜空に、血飛沫が舞った。
巨大な軍馬が嘶き、闇の中に白刃が煌めいた。岩場の陰に潜んでいた鬼王丸が、炎から逃れていた僧兵たちへと斬りこんだのだ。
突然の襲撃になす術もなく、数人の僧が絶命する。返り血と炎で赤く染められた鬼王丸の姿は、鬼神と呼ぶにふさわしいものだった。
「火計か――そうか、最初からこれを狙って――」
炎に焼かれながら、頬傷の僧兵が吼えた。
飾り太刀を構えたまま、景行は静かにうなずいた。
外周に配置した六つの風筝は囮《おとり》だった。もちろん敵の接近を探るという意味合いもあったが、その真の目的は、風筝が脅威ではないという事実を敵に知らせることだった。
追跡者たちは、風筝を、おそらくなにかの呪物の類だと想像しただろう。
しかし僧である愚彊たちはもちろん、陰陽の道にも長けた兼家たちが呪物を恐れるはずもない。そのために彼らは自信を持って、景行たちを襲ってきたのだ。
冬枯れの草原。兵法の心得がある者ならば、誰もが火計を疑う地形である。
もしも景行たちが野営地に火を焚いていれば、愚彊たちも普通に警戒していたはずだ。だが、野営地には火種はなかった。それゆえに彼らは火計のことを失念した。しかし火種はあったのだ。火種は、最初から彼らの頭上に置かれていた。追跡者が呪術に長じているのを逆手にとること。それが景行の編み出した策だった。
炎が、竜巻のように渦を巻いて燃えさかる。
ただでさえ燃えやすい状態の草原には、逃走中に狩った獣たちから絞った獣油を、ふんだんに撒いてあったのだ。鬼王丸がこの地で追っ手を迎え撃つと決意した、その理由がこれだった。
とはいえ風筝はそう長い時間、浮かべていられるものではない。実際に敵が策に乗ってくるかどうかは、賭けだった。
それがどうにか上手くいった。
その僥倖に、張りつめていた景行の気が緩む。それが致命的な隙を生んだ。
「――景行!」
炎の向こう側から届いた、鬼王丸の絶叫が耳を打つ。
我に返った景行の前で、炎が割れた。
その向こう側から姿を現したのは、黒衣の僧兵。頬傷の僧だ。
炎に焼かれた仲間の僧を踏みつけ、あるいは盾にして、炎の壁を突き抜けて来たのである。恐るべき精神力。恐るべき殺戮への執着だった。
僧兵の握る錫杖が、景行の眼前で振り上げられた。
鋼の錫杖の先端は、研ぎ澄まされて鈍く輝いている。その切っ先が、景行に向けられていた。
よけきれない――瞬時にそれを悟った直後、横殴りの衝撃が景行を襲った。
視界が暗転し、背中に激しい痛みを感じた。地面に叩きつけられたのだ。
仰向けに倒れた景行の頬が、生暖かいもので濡れる。
鮮血。
景行のものではない、誰かの鮮血だ。
「……柊」
上体を起こした景行が目にしたのは、柊の姿。景行を突き飛ばして僧兵の攻撃から救ったのは、美しい渡来人の娘だったのだ。
そして景行を貫くはずだった鋼の錫杖は、彼女の細い身体を反対側まで貫いている。
目を見開いたままの彼女は動かない。
背後の岩肌に錫杖で縫い止められて、くずおれることすらできないのだ。
「柊!」
景行は絶叫した。その叫びは、炎と錫杖の音に呑みこまれて消える。
紅蓮《ぐれん》の炎を浴びて立ち尽くす柊の美しい唇を、つっと一筋の鮮血が流れ落ちた。
7
噛みしめた唇から、真言が漏れる。
鋼の錫杖を握りしめたまま、伯強は荒い息を吐いた。
槍のように研ぎ澄ました錫杖の先端が、美しい女性の胴体を貫き、岩肌に深々と縫い止めている。炎の壁を突き抜けたそのままの勢いで突き刺したのだ。その苦痛はとても生身の人間が耐えきれるようなものではない。確認するまでもなく即死だった。
伯強は忌々しげに舌打ちする。娘が景行を庇ったのは誤算だった。渡来人の娘は生かしたまま捕らえよとの厳命を受けていたのである。
だが殺《や》ってしまったものは仕方がないと、伯強は小さくかぶりを振った。
血まみれの錫杖を岩から引き抜くことは諦めて、無造作に背後を振り返る。
炎の壁の向こう側から、鋼を打ち合わせる音が響いてきた。将門だ。将門が振るう巨大な太刀が、鋼の錫杖と激突し、青白い火花を散らしている。
鬼神と呼ばれた武士と互角の打ち合いを演じているのは愚彊。
ほかにも数名の僧兵たちが、炎の中から抜け出してきているようだった。
もとより伯強たちは、ほとんど痛みを感じない。死への恐怖もない。真言と錫杖の響きによる自己暗示。そして常用している薬物のせいである。それゆえに炎に巻かれても怯むことなく、仲間を平然と犠牲にして脱出することができたのだ。並の兵であれば、炎の恐怖と苦痛だけで間違いなく全滅していただろう。敵ながら見事な策としか言いようがなかった。
――実に殺しがいがある。
その策を編み出した本人のほうへと、伯強は振り返る。
だが、倒れたはずの景行の姿は、見あたらなかった。
かわりにそこにいたのは、白皙の男だ。
望月三郎兼家。蛇を思わせる痩身が、ぐったりと気絶した景行を肩に背負って立っている。
「その男を渡せ、兼家」
伯強が低い声で恫喝した。だが、兼家は動じない。薄い唇を裂くようにして笑ってみせる。
「断る。こいつは俺がもらう約束だ」
「そやつのせいで、我らの仲間が大勢死んだ」
「知らんよ。むざむざと策にかかるほうが間抜けなのさ」
「貴様」
伯強が奥歯を噛み鳴らす。
殺意に満ちた伯強の視線を受けても、やはり兼家は動じなかった。その彼の肩に抱かれていた景行の身体が、ふわりと浮かんだ。
幻術《めくらまし》のようにも見えたが、そうではない。景行の全身に、網が巻きつけられている。
岩場の上から、それを巻き上げている者がいるのだ。兼家の配下の、白那恰とかいう巨漢である。人を一人持ち上げているとは思えぬ速度で、網をたぐり寄せていく。伯強のそれに匹敵する、想像を絶する怪力であった。
「ここもずいぶんと暑くなってきたのでな、俺もそろそろ失礼させてもらおう」
兼家がとぼけた口調で言った。
「逃がすと思うか」
「ふむ。まあ、そう言うだろうとは思っていたさ――浮游、少し遊んでやれ」
兼家を睨む伯強の前に、小柄な影が進み出る。
童子の服装をした奇妙な男。兼家配下の甲賀の民だ。
その小男に気を取られた隙に、兼家は岩場を駆け上がっていた。岩場に絡みつかせた縄ひょうをたどって、人間離れした速度で、絶壁に近い崖を登っていく。
「逃がさんぞ、兼家――」
伯強の口から呪詛の言葉が漏れる。
その伯強の前に立ちはだかったのは、浮游と呼ばれていた童形の男だ。伯強の腿までしかない小柄な相手である。しかも武器すら手にしていない。
「邪魔だてするか、貴様」
伯強の唇から真言が漏れる。
死を前にして人は皆平等だ。たとえ相手が脆弱な童子でも、伯強に手加減する意思はなかった。強力な自己暗示と薬物で増幅された殺意が、伯強の肉体を突き動かしている。
「――無駄だ、僧兵」
にっ、と童形の唇に笑みが浮かぶ。その顔面を、頭上から伯強の拳が襲った。頭蓋を一撃で砕くほどの勢いだった。だが、伝わってくる手応えのなさに、うめいたのは伯強のほうだった。
「……傀儡《くぐつ》」
僧兵の唇が醜く歪む。
浮游と呼ばれていた童形のものは、ばらばらになって伯強の足元に転がっていた。紙を貼り合わせて作ったそれは、降り注ぐ火の粉を浴びてたちまち燃え上がる。
つい先ほどまで人間と思われていたそれは、紙で作られた張りぼての人形でしかなかった。その人形を操って、人のように見せかけていた者こそが、本物の浮游なのだろう。
「くっ」
燃え上がった人形には目もくれず、伯強は身体を翻した。
将門と愚彊の戦いは続いている。
戦況はいまだに互角である。暗示と薬物で力を引き出した愚彊と対等に戦うとは、やはり将門は並の武士ではない。
しかし愚彊との戦いに気を取られて、さすがの将門も、炎の向こうにいる伯強の存在までは気づいていない。今なら背中から彼を討つことができる。将門の首を獲れるのだ。
それに気づいて、伯強は岩肌に突き刺したままの錫杖へと手を伸ばした。
岩肌には、絶命した娘が縫い止められたままである。その胸元に手を伸ばし、錫杖を握る。両腕で力任せに引くと、思いの外あっさりと錫杖は抜けた。
返り血に濡れた錫杖を完全に抜き取ると、娘の身体がぐらりと揺れた。
それには構わずに伯強は振り返って、将門の背中へと狙いをつける。
その瞬間、伯強の首が、背後から何者かにつかまれた。
信じられない力だった。抵抗することもできぬまま、伯強の巨体が引きつけられる。
「な、貴様!?」
伯強の腕から、錫杖が落ちた。深々と僧兵の喉に食いこんでいたのは、しなやかな細い指。
柊の指先だ。
僧衣に絡みついた長い黒髪が、炎を映して銀色に輝く。
身体を刺し貫かれて絶命したはずの渡来人の娘。その細腕が伯強の巨体を力ずくで引き寄せ、喉を絞め上げていた。頸骨が軋んで、悲鳴を上げる。
「そうか、やはり貴様……貴様も……」
潰れかけた伯強の喉から、ひゅうと苦しげな息が漏れた。
そして、鮮血が散った。
激しく音を立てて倒れたのは僧兵の巨躯。引き裂かれた喉から鮮血があふれ出す。
あとに残された渡来人の娘は、無表情に、指先から滴る返り血を払う。
浅葱色だった彼女の袿は、自らが流した鮮血で真紅に染まっていた。
吹き荒れる灼けた風の中で、柊は一人立ち尽くしている。
濡れたように輝く彼女の唇からも、鮮血が流れ落ちていった。
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第四章 甲賀の里にて
1
炎が天を暗く焦がす。
獣脂の燃える臭いが草原に満ち、荒れ狂う風に乗せて読経の声が響いていた。業火に赤く染められた闇の中を、黒衣の人影が蠢いている。
僧衣の下に鎧をまとった兵士。妙見衆の悪僧たち。炎の渦から逃れ出た彼らをめがけて、鬼王丸は愛馬を躍らせた。巨大な黒駒が炎をかすめて疾走し、大気を裂いて銀光が閃く。
それは、かつて坂東の騎馬隊が得意とした、暴風のごとき奇襲であった。
景行の火計によって陣形を崩した僧兵たちを斬り伏せるのは、容易だった。鬼王丸の太刀が闇を薙ぐたびに、鮮血が舞い、絶叫が漏れる。
仲間たちの身体を押しのけ、あるいは踏みつけて、炎から逃れようとした僧兵たちを、鬼王丸は容赦なく斬り捨てた。二人を斬り、三人目を愛馬の蹄で蹴り倒したとき、その行く手を遮るようにして、ゆらりと立ち上がる闇色の人影があった。
鋼の錫杖を構えた、巨躯の僧兵。愚彊だ。
「|※[#「口+奄」、第3水準1-15-6]《おん》!」
裂帛の気合とともに、愚彊の巨体が宙へと舞った。単調な呪文の繰り返しによる自己暗示が、戦闘中の彼ら僧兵に常人離れした筋力を与えている。僧衣をひるがえして跳ぶその姿は、漆黒の怪鳥《けちょう》を思わせた。
「愚彊――!」
自らの頭上へと舞った僧兵を、鬼王丸が迎え撃つ。だが、錫杖の重みに落下の勢いを加えた愚彊に対して、馬上の鬼王丸は明らかに不利であった。
鋼同士が激突する轟音とともに、鬼王丸の長身が撥ね飛ばされる。
しかし落馬したはずの鬼王丸は、空中で危なげなく体勢を入れ替えて、駆け出す直前の狼に似た姿勢で着地していた。自ら馬を捨て後方へ跳ぶことで、愚彊の攻撃の勢いを打ち消したのだ。
伝わってくる手応えのなさに、着地した愚彊が舌打ちする。ゆらりと立ち上がる愚彊の動きに合わせて、錫杖の金輪が重々しく鳴り響いた。
炎が勢いを増していた。
深い闇に包まれた夜の草原を、揺らめく灼熱の影が舐め尽くしていく。
鬼王丸たちが撒いた獣脂や枯れ草がきっかけとなって、地面を覆う下草や樹木までもが燃え出しているのだ。風筝による炎を逃れていた僧兵たちも、逃げ場をなくして、次々にその新たな火勢に呑みこまれていく。
その凄まじい炎の壁を、光背のように背負って愚彊は立っていた。
鬼王丸もまた、降りかかる炎の断片を避けようともせず、太刀を掲げる。
「…………」
互いに言葉もなく睨み合っていたのは一瞬のことだ。
それまで巌のごとき無表情だった愚彊の顔に、はじめて驚愕に似た相が浮かんだ。鬼王丸が弾かれたように背後を振り返る。
燃え広がる炎を透かして、そこには一人の女の姿があった。柊だ。
だが、その様子は尋常ではない。彼女のまとう浅葱色の袿は、彼女自身の血で真紅に染まっている。そのおびただしい出血は、彼女が絶命していてもおかしくないほどの深手を負ったことを示していた。それを裏付けるように、柊の背後の岩に深々とひび割れが走っている。僧兵の錫杖が、彼女の細い身体を刺し貫いた痕跡だ。
しかし柊は立っていた。
彼女の白い肌は、炎の照り返しを浴びてなおも蒼白で、唇には一筋の血が流れた跡がある。それでも彼女は自らの足で立っていた。そして彼女の足元には、頸骨を砕かれ、喉を引き裂かれた僧兵の死体が倒れている。柊の白く細い指先は、返り血で赤く濡れていた。
「――伯強を斃したのか……あの娘が」
愚彊の唇から声が漏れた。柊が殺めた僧兵は、愚彊にも匹敵する巨躯の持ち主だ。体重では柊の三倍はあるだろう。
それを柊は、右手の指先だけで縊《くび》った。まるで野の花を摘み取るようにあっさりと。
彼女の長い髪が、風にあおられて舞っている。
美しい瞳は呆然と見開かれ、燃えさかる炎を見つめていた。血の気をなくした肌はあまりに滑らかで、よくできた面を見ているようだった。
その美しすぎる姿を見れば、誰もが迷うことなく直観することだろう。
化生の者――彼女は、人外の魔物であると。
「胴体を貫かれても生き長らえるか――八幡の巫女。外《と》つ国《くに》の伝承も、あてにならぬとばかりはいえないようだな」
愚彊が、一歩、足を踏み出す。
鬼王丸も、背後の柊を庇うように前に出た。
「巫女などおらぬよ、悪僧。退け。俺の邪魔をするな」
「笑わせる。その妖しを巫女に祀り上げたのは貴様らだろう。なるほど、八幡神は渡海外来の神。ならばその巫女には、渡来人こそがふさわしいか」
「……なぜだ、愚彊」
鬼王丸の構えた太刀が、炎を浴びて赤く輝いた。
乱髪が風に流されて、額の古い傷痕があらわになる。
将門と呼ばれていた当時の鬼王丸に、この傷を刻んだ僧兵こそが愚彊。そのために将門の軍勢は敗北し、彼が護ろうとした坂東の地は焦土と化した。仇敵を目の前にして、鬼王丸はそれでも飄然と訊いた。
「密教僧ならそれらしく、普賢延命の呪法でも修していればいいものを。なにゆえそこまで柊に執着する? 貴様も不死を望むか、愚彊?」
「不死だと……笑止な。僧たる我らが、滅度に入ることを恐れるとでも思うたか」
愚彊が蔑むようにつぶやいた。互いにじりじりと歩み寄る二人の間合いは、もう一丈半ほども残されていない。
「ならばなぜだ。今さら帝のためでもあるまい。不死を求めぬ貴様が、なぜ柊を追う!?」
「呵々……ならば問おう、将門。神将とまで呼ばれた貴様が、なにゆえ妖しごときに導かれて逃げ延びようとする!」
哄笑とともに、愚彊が走った。
信じがたい速度で鬼王丸の眼前へと迫り、六尺余りの長大な錫杖を袈裟懸けに叩きつける。
鬼王丸は、その一撃を太刀の峰で受け流した。
愚彊の錫杖は鋼製で、その重量はおそらく五貫をくだるまい。並の膂力では振り回すことも困難な代物だ。鬼王丸の太刀とて、まともに受ければ確実にへし折れる。太刀の背を滑らせることで、かろうじて威力を殺《そ》いだのだ。
「東瀛《とうえい》、方丈、蓬莱、崑山――何処へ向かう? 始皇の代より長生種が伝えし金銀宝珠と焚書以前の叡智。貴様ごときに受け継ぐ資格はない!」
愚彊が錫杖を旋回させる。やはり、疾《はや》い。しかも、その身のこなしには隙がなかった。鋭く研ぎ澄まされた錫杖の先端が螺旋を描き、鬼王丸はそれを捌ききれずに後退する。
燃え広がる炎が、すでに二人の周囲にも及んでいた。渦を巻く炎が壁となって、鬼王丸の退路を断っている。
「それだけのために我が民を滅ぼしたのか、愚彊!」
鬼王丸の太刀が走った。総長ゆうに三尺を超える、平造りの大刀である。頭上を駆け抜ける錫杖をかわし、愚彊の懐に飛びこんで横薙ぎに払う。
愚彊はそれを錫杖の握りで受け止め、押し返す。力任せの強引な反撃だった。刃に絡まった僧衣の袖が裂け、青白い火花が僧兵の胸元で散る。
「――俘囚《ふしゅう》や渡来人にまぎれて暮らす、仙族を狩り出すだけのために!」
「天魔波旬の類が、仙を名乗るか。驕傲な!」
愚彊が怒号とともに錫杖を振るった。鬼王丸の太刀がそれを弾く。炎の草原に、鋼を撃ち合わせる音が何度も鳴った。
組討での実力では鬼王丸が上だ。幼少時より手練《てだれ》の坂東武者たちを相手に磨いた剣技に、戦場で鍛えた太刀筋が加わり、鬼神の名に相応しい絶え間ない連撃を繰り返す。
しかし愚彊には、常人離れした怪力と、疲れを知らぬ肉体があった。
そして炎の中に立ち尽くす柊の姿が、鬼王丸を焦らせていた。
半身を鮮血に濡らした柊は、背後の岩壁にもたれて荒い息をついている。腹部の傷は、やはり彼女の肉体に並ならぬ負担を強いているのだろう。迫り来る炎からも逃れられないでいる。
柊と共にいるはずの、景行の姿は見あたらなかった。ほぼ壊滅状態の僧兵団に討たれたとは考えにくい。愚彊たちを手引きした望月兼家の手に落ちたのかもしれない。
「吽《うん》!」
鬼王丸の頭蓋をめがけて、愚彊が錫杖を打ちつけた。爛々と輝く僧兵の瞳は、狂信の光に支配されている。その濁った双眸が、驚愕に大きく見開かれた。
巨岩をも砕きかねない錫杖の一撃を、鬼王丸が素手で受け止めてみせたのだ――唐土の戦技。硬功夫。動きを止めた愚彊の腕をめがけて、鬼王丸が斬撃を放つ。
呻き声とともに、愚彊の巨体が揺らいだ。
僧衣の左腕から血飛沫が散っていた。具足に阻まれ、撃ち込みは十分ではなかったが、おそらく骨にまで達する深手である。並の兵なら、失血と苦痛だけで意識を失っていても不自然ではない。
しかし愚彊の動きは止まらなかった。右腕だけで、乱暴に錫杖を振るって反撃する。まるで苦痛を感じている様子がないのは、暗示と薬物で痛覚を遮断しているからだろうか。
「無慚僧《むざんそう》めが」
鬼王丸の唇が苦悶に歪んだ。
愚彊の打撃を完全に受け流すには、間合いが近すぎた。太刀を伝わってきた衝撃に腕が痺れた。炎はすでに鬼王丸の足元近くにまで及んでいた。愚彊の哄笑が響き渡る。
「吽!」
錫杖が闇を裂いて、鬼王丸の頭蓋を上から襲った。その打ち込みをかわして鬼王丸は跳躍する。
左腕の負傷のせいか、愚彊の錫杖の切り返しがわずかに遅い。錫杖を打ち下ろした直後、上体に隙が生まれる。それが狙いだった。
鬼王丸の太刀が、一条の銀光と化して愚彊の肩口を襲った。
だが鬼王丸が感じたのは、鋼同士が噛み合うような鈍い響きと、岩塊を斬りつけたような異様な手応えだった。大鎧すら破砕するはずの鬼王丸の太刀が、愚彊の生身の肉体に弾かれたのだ。愕然とする鬼王丸を睨んで、愚彊が黄色い歯を剥いた。
「気力を漲らせることによって肉体を鉄と化す硬功夫――体得しているのが自分だけだと思っていたのではあるまいな、将門!」
愚彊が勝ち誇った声を上げたとき、鬼王丸はすでに後方へと跳んでいた。寸前まで鬼王丸が立っていた空間を、愚彊の錫杖が薙ぎ払う。
愚彊が鬼王丸の太刀を弾いたことへの驚きは消えていた。硬功夫は、渡来人より伝えられた唐土の戦技だ。入唐《にっとう》して異国の秘儀を学んだ台密の高僧たちが、帰国した後、同様の技を門下の僧兵たちに伝えていたとしても、驚くほどのことではない。
しかし生半可な斬撃が愚彊に通じないという事実は、鬼王丸の苦境に一層の影を落とす。
景行は攫われ、柊は深手を負って炎の中に取り残されているのだ。戦いが長引けば、不利になるのは鬼王丸たちのほうだ。
「兼家の郎党がまだうろついている――我だけを相手にしているわけにもいくまい。どうする、将門!?」
錫杖の金輪を鳴らして、愚彊が言った。
「三善の走狗が……よく喋る」
鬼王丸が、唇をめくり上げてふてぶてしく苦笑した。
炎を背負い、太刀を大上段に構えたその腕の筋肉が膨れ上がる。
「やはり景行を連れ去ったのは、甲賀の民か。たしかに貴様の相手をしている場合ではないな。退け、悪僧――」
「不承知……将門、貴様の首、今度こそ都の大路に晒してくれる――」
「愚彊!」
鬼王丸が無造作に間合いを詰めた。
がら空きのその胸板をめがけて、愚彊が錫杖を繰り出した。これまでのように膂力に任せて振り回したのではない。なんの前触れもなく、突然、鋭く研いだ先端を突き出したのだ。
必殺のその一撃は、しかし鬼王丸の身体をすり抜けた。
鬼王丸の長身が、陽炎のようにゆらりと揺れる。その足の運びは、武士のものというより、祭祀を執り行う陰陽師の動きに近い。
「……四縦五横禹為除道蚩尤、避兵令吾周遍天下帰還――」
鬼王丸の唇が静かに呪を紡いだ。
「その呪――滝口の技か!?」
愚彊の表情がかすかに震えた。滝口とは清涼殿の北東にある御溝水《みかわみず》の落ち口のこと。転じて、その場所に詰めていた禁内警衛の武士――帝の護衛兵のことである。
滝口の武士はその職務上、単純に武芸に長じているだけでなく、帝を脅かす怨霊や物の怪の類に対抗し得ることが要求された。かつて滝口の武士を務めた鬼王丸が、それら破魔の剣技を身につけていたとしても不思議はない。
それは、荒々しい戦場の太刀筋とはまるで異なる、精妙に構築された剣技であった。
鬼王丸の姿が幻影のごとく揺らめき、愚彊の表情に初めて焦燥が浮かんだ。再度打ち下ろされた錫杖も、鬼王丸の前を虚しくすり抜ける。
「オン・ソジリシュタ・ソワカ――」
愚彊が真言とともに躍りかかった。巨躯を生かして鬼王丸を組み伏せようとしたのだ。
だが、その真言を唱え終わらぬうちに、鬼王丸の右手が一閃していた。
身につけた鎧ごと、僧兵の脇腹を深々と断ち割って、鬼王丸が駆け抜けた。
噴き出した鮮血が、たちまち愚彊の僧衣を濡らす。硬功夫は、敵の攻撃に呼吸を合わせねば使えぬ技。滝口の剣技に惑わされたことで、愚彊は機会を逸したのだ。
だがそれでも、薬物にて気を昂じさせた愚彊は倒れなかった。
「……オン・マカシリエイ・ヂリベイ・ソワカ……」
地面に突き立てた錫杖で身体を支え、背後の鬼王丸を振り返る。唇からは真言が漏れ続ける。戦意はいささかも衰えていない。
その愚彊の目に映ったのは、鬼王丸の背中ではなかった。炎を突き抜けて駆けてくる巨大な軍馬の姿。鬼王丸の黒駒だ。
すれ違いざまに鐙《あぶみ》に足を掛け、鬼王丸は馬上へと躍り上がる。
「将門――!」
愚彊が吼えた。その愚彊の眼前で、人馬一体となった鬼王丸が跳躍する。
軍馬の蹄にかけられて、さしもの愚彊の巨体も吹き飛んだ。地面に突き立ったままの錫杖が、墓所の板塔婆《いたとうば》のように揺れた。
鬼王丸はそのまま速度を落とすことなく、炎の渦へと飛びこんだ。そこには、眩《まばゆ》い炎に包まれて、血まみれの柊が立っている。
柊の肌に血の気はなく、美しい宝玉のような彼女の瞳は虚ろだ。ほとんど意識は残されていないのだろう。それでも鬼王丸の接近に気づいて、彼女は細い腕を差し出した。
その血まみれの腕をつかんで、鬼王丸は、彼女を馬上へと引き上げる。
黒駒が嘶き、やがて炎が彼らの姿を覆い隠した。
蓼科の麓。深い諏訪の森へと、手負いの逃亡者たちは消えていく。
あとに残されたのは無数の僧兵の骸と、燃えさかる炎。
そして――
オン・ソジリシュタ・ソワカ……
オン・マカシリエイ・ヂリベイ・ソワカ……
低く、真言を唱える声が闇に響く。
全身を朱に染めた巨躯の僧兵が、炎の中で、ゆらりと立ち上がっていた。
左腕には骨まで達する裂傷。左脇は深々と斬り裂かれている。蹄の一撃を受けた胸部の鎧は陥没し、腫れ上がった頭部はいびつに歪んでいた。
しかし、その表情は、異様なほどに醒めていた。いまだ血を流す左腕の傷口を、炎にかざして熔着させる。肉の焼ける嫌な臭いが漂ったが、巌のようなその無表情は揺るがなかった。狂信に燃える瞳だけが、闇を睨んでぎらぎらと輝いている。
拾い上げた鋼の錫杖が音を立てる。
「無碍《むげ》無碍無碍無碍……逃がしはせぬ。逃がしはせんぞ――将門」
唇から再び真言が漏れる。そして愚彊は、ゆっくりと歩き出した。
2
午後の陽は、春霞にかすんでいた。
人々を拒むような険しい地形。奥深い樹海の上空を、数羽の猛禽が舞っている。
広げた灰黒色の翼の長さは、いずれも二尺近い。白地の腹面には特徴的な黒の横帯が、美しく描き出されていた。大鷹である。
樹海の奥の谷間には、古い社を中心にした集落があった。
往来が容易とも思えぬ辺地にしては、意外なほど大きな集落だ。まるでそこに近づく者を警戒するように、谷間の複雑な気流に乗って、鷹たちはその上空を舞っている。
そして奇妙な装束に身を包んだ一人の男が、細い滝の上流から、鷹の行方を見守っていた。
四つの瞳を刺繍した不気味な布で、顔を覆った男。蒼頡である。
流れ落ちる滝の音を聞きながら、蒼頡は飽くことなく猛禽の姿を追っている。大鷹は蒼頡の私鷹であった。
甲賀の民といえども、自らの集落を維持するために畑を耕すし、狩りも行う。
豪族同士の諍いがあれば、その異能の力をもって手を貸すこともあるが、戦そのものを生業《なりわい》としているわけではないのだ。
その中で蒼頡は狩りを得手としていた。
公家たちの遊戯とは違う、本物の鷹狩りである。鷲鷹に匹敵するほど遠くを精確に見通す蒼頡の瞳は、鷹を操る際に、その異能を最大限に発揮した。鷹たちもまた蒼頡にはよく馴れた。
しかし今の蒼頡は、狩りのために鷹たちを飛ばしているわけではない。
蒼頡の役割は集落の見張りと将門の捜索である。将門たちの一行が、火計によって妙見衆の僧兵団を壊滅させたのは昨日未明のこと。一昼夜が過ぎてなお、彼らの行方はつかめていない。
だが将門に同行していた菅原景行は、今は甲賀の民の頭領である望月兼家に捕らわれて、甲賀の民の集落にいる。
その景行を奪還するために、将門が乗りこんでくることを蒼頡は警戒しているのだった。
「…………」
旋回する鷹たちを眺めながら、蒼頡はふと思いを巡らせていた。
平将門と呼ばれる男のことだ。
僧兵団の一件で、蒼頡たちも将門の戦《いくさ》ぶりは目にしている。
たしかに優れた武士だった。噂に違わぬ勇猛ぶりであり、戦況の判断も的確だ。
為政者としても傑物であり、いまだに坂東の民には、彼を慕う者が少なくないと聞く。
あの男が再び戦力を集めて挙兵するようなことがあったなら、はたして今度は、歴戦の強者である藤原秀郷をもってしても、止められるかどうかはわからない。
朝廷の者たちが、将門の存命を恐れる理由はよくわかった。
将門と同様にまつろわぬ民である蒼頡には、そのことが小気味よくもある。
それだけに、戦に敗れた後の将門の行動の真意を、蒼頡は量りかねていた。
あれほどの傑出した兵が、戦死した仲間の仇を討つこともなく無目的に逃げているだけとは思えない。
やはり、あの渡来人の女性《にょしょう》か――
蒼頡は嗄れた声で独りごちた。鋼の錫杖に身体を貫かれてなおも起きあがり、巨躯の僧兵を素手で絞め殺した女の姿は、蒼頡の目にも鮮烈に焼きついていた。
八幡の巫女。僧兵たちが追っていたのも、あの女性だ。
将門が彼女を護っているのではなく、あの女性が将門を導いているのだとすれば、話が通る。
しかし、ならば彼らが目指しているのはどこなのか。
朝廷の追捕使から逃れるためなら奥羽あたりに向かうべきだろうし、逆に朝廷への報復を望むなら都を目指すべきだろう。だが、将門が選んだのは、そのいずれの方角でもない。
甲斐国から信州諏訪を抜けた、その先にあるのは――
「…………」
そこまで考えたとき、蒼頡は奇妙な感覚を覚えた。
蒼頡の足元は細い沢。数歩も前に進めば断崖となり、水は飛沫を上げて一段ほども流れ落ちている。沢の両脇は荒れた岩場。そして、その奥は昼なお暗い鬱蒼とした樹海である。
その樹海のどこかで、何者かが蒼頡を見ている。
姿はない。だが、その気配をはっきりと感じた。
「……何者か?」
つぶやいて、蒼頡は目を凝らした。上空を舞う鷹たちの動きに変化はない。
はるか遠方を見通す猛禽の目をごまかすのは容易なことではない。武装して集落に近づいてくる者があれば、真っ先に彼らが騒いでいるはずである。
ざわり、と低木の茂みが揺れた。
蒼頡は肩衣の懐に手を入れて、細い笛を取り出した。その笛を鳴らせば、上空にいる鷹たちがたちまち舞い降りてきて敵を襲う。あまりにも見えすぎる目が災いして、剣も弓も満足には扱えぬ蒼頡だが、そうやってこれまでに何人もの敵を葬り去ってきたのである。
しかし、これはほんとうに人か。
布で覆われた蒼頡の額に、汗の珠が浮いた。
ざわり、ざわり、と少し離れた茂みが揺れる。暗い茂みの奥までは、いかに蒼頡の目をもってしても見通せない。ただそこにいるなにかの気配だけが強くなっていく。
蒼頡が恐れているのは熊だった。信州に棲む熊は総じて凶暴ではないが、この季節、子連れの母熊は神経質になっていて、遭遇すれば襲われることもあり得る。蒼頡も、そのことは十分に承知して、警戒していたつもりだった。
思いがけず、近くの茂みが大きく割れた。
その奥で、ぎらりと緑色の瞳が輝いた。その凶暴な光に、蒼頡の表情が凍った。
その巨大な獣の名前を、蒼頡はもちろん知っていた。
だが、それは絵姿として知っているだけだ。実際に生きて目にすることがあるとは、これまで考えたこともなかった。暗い金色の地に、墨で描いたような黒い縦縞が散っている。
「馬鹿な……虎だと!?」
蒼頡の唇から、震える声が漏れた。
茂みを割って、のそりと全身を現したのは、まさしく巨大な虎であった。
かすかに開いた顎から、長い牙がのぞいている。
蒼頡の全身は凍りついたように動けない。鷹たちを呼び寄せたところで、どうにかなるような相手ではなかった。虎がゆっくりと足を踏み出した瞬間、蒼頡は死を覚悟した。
雷鳴のように喉を鳴らして、虎が、全身をたわめるように低く伏せた。
獣の身体が、立ち尽くす蒼頡をめがけて跳び上がろうとする、その直後。
蒼頡の背後で、滝の落ちる音がにわかに勢いを増した。
振り返った蒼頡の全身に、水飛沫が降りそそぐ。
そこには虎に輪を掛けて奇怪なものの姿があった。巨大な、あまりにも巨大な蛇《くちなわ》である。
頭だけで蒼頡の半身ほどもある異形の白蛇が、滝壺から鎌首をもたげて虎を睨んでいる。
「な……」
蒼頡は呆然と息を漏らした。目の前で繰り広げられている光景が、現実のものとは思えない。
虎が白蛇を威嚇するように咆吼し、その虎をめがけて白蛇が躍りかかる。
蒼頡が覚えていたのは、そこまでだ。
何倍もの大きさに膨れ上がった白蛇が虎を一息に呑みこんだ瞬間、虎の姿も、蛇の姿も、蒼頡の視界から消え失せていた。
あとに残ったのは穏やかな春霞の大気と、風に揺れる樹海の茂みだけである。
先ほどまで感じていた獣の気配の余韻さえ残されていない。上空を見上げれば、鷹たちが、何事もなかったかのように旋回を続けていた。取り出したつもりでいた笛さえも、懐の中に納まっている。ただ蛇の落とす水飛沫を浴びた衣服だけが、しっとりと濡れそぼっている。
白昼夢か、と蒼頡は疑う。
そのとき、背後で茂みをかきわける音がした。
今度は獣などではない、はっきりとした人の足音だった。
「――危ないところでしたね」
ほのかな香木の香りとともに、男の涼しげな声がした。
振り返った蒼頡が見たのは、若い男女の二人組だ。
男は都人ふうの優男である。旅装ではあるが、飾り太刀すら帯びていない。顔立ちは端整と言えなくもないが、それ以上に、人をからかうような皮肉な笑みの似合う印象である。
連れの女性《にょしょう》も旅装であった。女童といっても通用するほどに幼い面差しの、小柄な娘だ。
男は、右の手首に細い白蛇を巻きつかせていた。小さな三角形の頭から、二股にわかれた赤い舌が時折のぞいている。その隣で娘はなぜか、憮然とした表情を浮かべていた。目尻を吊り上げた大きな目が、どことなく猫を連想させる。
「おまえたちが俺を助けてくれたのか?」
戸惑いながら蒼頡は訊いた。奇怪な二人組ではあったが、彼らの瞳に敵意は感じない。
「そう。まあ、そのようなものだね」
男は、朗らかな微笑を浮かべてうなずいた。
娘がちらりと咎めるような眼差しを向けたが、男は気にした様子もない。彼が無造作に手首を撫でると、巻きついていた紐がするりと抜けた。先ほどまで蛇に見えていたものは、今はただの白い紐であった。
「方術士か」
蒼頡がつぶやいた。そうでなければ、目の前の優男が、蒼頡に気づかれることなく、このような樹海の奥深くまで入りこめたことに説明がつかない。
男は微笑して蒼頡を見る。蒼頡の異様な風体にも、まるで動じた様子がなかった。
「あなたは甲賀の民とお見受けしたが」
「だとしたら、どうする?」
蒼頡が表情を硬くする。この男は、この先にあるのが甲賀の民の集落と知って近づいているのだ。ただの都人とは思えない。しかし男の瞳をのぞきこんでも、そこにはなんの感情も浮かんでいなかった。それどころか、蒼頡の心の底まで見透かされてしまいそうだ。
「望月三郎兼家殿にお取り次ぎを願いたい」
「我らが頭領に何用だ?」
「いや、兼家殿には特に用はないのだけれどね――兼家殿が連れ去った菅家の御方に、我らは少しばかり縁があるのだよ」
「貴様、何者だ。なぜ菅原景行が我らの里にいることを知っている――」
蒼頡はとっさに懐の笛に手をかけた。だが、その手に伝わってきた異様な感触に、たまらず悲鳴を上げそうになる。そこにあったのは笛ではなく、ぬらぬらと輝く一匹の白蛇であった。
蒼頡が思わず蛇を投げ捨てると、その蛇はふわりと宙に舞って、優男の腕の中へと吸いこまれた。その直後、蛇はやはり一本の紐に変わる。白い紐の先端には、蒼頡の笛が結ばれて揺れていた。蒼頡にはなにが起きたのかわからない。
呆然とする蒼頡に向かって、優男はにこやかに笑う。
「名乗るのが遅れた非礼は詫びよう――陰陽寮|大允《だいいん》、賀茂保憲だ。見知りおけ」
3
景行は、粗末な庵の中で目を覚ました。
格子を埋めこんだ板窓から陽光が射しこみ、景行の横顔を炙っていた。わずかに頭を傾けて目を庇い、菰《こも》を押しのけて身体を起こす。土間に敷き詰めた藁の上に、景行は寝かされていたらしかった。全身が硬く強張っていたが、意識は意外に澄んでいる。傷めた足首には、薬草のようなものが巻かれていた。痛みはまだ残っているが、まったく歩けないほどではない。
「気がついたようだな」
庵の奥で声がした。
薄闇の中に、奇妙に滑らかな白皙の顔が浮かび上がる。
寝そべっていた男が上体を起こしたのだ。望月三郎兼家である。
「おまえは――」
立ち上がろうとした景行の視界が、大きく揺れた。膝に力が入らず、その場に倒れこんでしまったのだ。それでも気丈に顔を上げて睨みつける景行を、兼家は愉快そうに見下ろして笑う。
「無理をするな。菅原景行殿」
板間に脚を投げ出したまま、からかうような口調で兼家は言った。薄い唇を吊り上げて浮かべたのは、思いのほか人懐こい笑みである。
「あんたは一昼夜あまりも眠っていた。すぐに立ち上がるのは無理というものだ」
「一昼夜……?」
景行は、窓の外の陽射しに目を細めた。
僧兵団の追撃を受け、彼らを火計に陥れたところまでは覚えている。
その直後、僧兵の一人が仲間の身体を盾にして炎の囲いを破り、囮になった景行を襲った。
結局、景行は柊に庇われ、そのあとの意識は途切れていた。あの炎の中で、景行を気絶させて攫ったのは、どうやら兼家たちだったらしい。
「鬼王丸はどうなった?」
「将門か。やつなら無事だ。愚彊を――あの化け物を斃して逃げ延びた。まだ諏訪から立ち去ってはいないようだがな」
兼家が、なぜか満足そうにそう言った。抜け目のない彼らは、鬼王丸と僧兵団たちの戦いの一部始終を、離れた場所から見届けていたらしい。
安堵するように息を吐く景行を見て、兼家の、虹彩の小さな瞳が闇の中ですっと細められた。
「あの娘も、無事だ」
何気ないふりを装ってつぶやいた兼家の言葉に、景行が表情を硬くした。
動揺する景行の瞳をのぞきこむように身を乗り出して、兼家はゆっくりと言葉を続けた。
「俺はあのとき間近で見ていた。柊、とか呼ばれていたか……あの娘。あんたを庇って、僧兵の錫杖にたしかに貫かれた。一目でそれとわかる致命傷だ。だが、蘇生した」
「……見たのか?」
「ああ。大抵のことでは驚かない俺たちも、さすがにあれには肝を冷やした。あれは何者だ?」
「知らぬ」
「ふむ……答えたくないか。まあ、そう言うだろうとは思ったが」
「違うよ、兼家。わたしもほんとうに知らないのだ。おそらくは鬼王丸もな」
「ほう。なるほど」
兼家が、意外そうに顎を撫でた。景行の言葉を素直に信じたとは思えないが、多少は興味を惹かれたらしい。
庵の中は狭かった。
本来は高貴な捕虜や、攫ってきた有力者の子どもなどを捕らえておくための庵なのだろう。一見すると粗末な建物に見えるが、頑丈に造られている。
庵の中には、兼家以外の人影はない。手足を縛られているわけではないが、景行の手元に武器はなく、無防備に寝転んでいるようにみえる兼家にも隙はなかった。
「――なぜわたしを攫った、兼家?」
せめて兼家を睨みつけて、景行は訊いた。
「ふむ。なぜだと思う?」
「人質に使うつもりなら、無駄だ。わたしはすでに死んだ人間。死人のために、自らを危険にさらす者がどこにいる?」
「死人か。だが、将門という男、たとえ死人であっても、簡単に見捨てることができるような性格ではないと聞く。俺たちが最初に出会ったときも、やつは危険を顧みず、あんたを助けに来たのではなかったかな?」
兼家は、空惚《そらとぼ》けるように遠くを見てつぶやく。景行は強く唇を噛んだ。
「……鬼王丸はどこだ、兼家」
「知らんよ。残念ながら、あの炎ではな。いくら我らとて、馬で逃げる将門の行方を見届けることはできなかった。とはいえ、柊とやらがあれだけの深手を負っていては、そう遠くまで逃げられるとも思えぬ。それとも、あの娘の身体、致命に達するほどの傷もたちどころに癒えるような性質のものなのか?」
「わからぬ。だが刃で斬られれば傷つくし、血も流れると聞いている。あれほどの傷を負って、平気ということはないだろうな」
「ふむ。道理だな」
兼家は軽く肩をすくめた。景行の言葉の真偽には、それほどの興味がないらしい。口にする言葉の端々に、どこか楽しんでいるような余裕が感じられた。そのことが景行を焦らせる。
辛そうに息を吐く景行を見て、兼家が思い出したように、おう、と手を打った。
「――誰かいるか。景行殿がお目覚めだ。白湯の一杯もお持ちしろ」
兼家の声が終わらぬうちに、何者か近づいてくる気配がして戸が開いた。
重々しい足音を響かせて、両手にそれぞれ瓦笥《かわらけ》を持った男が入ってくる。相撲人を思わせる、肩衣姿の巨漢である。その男の姿を見て、兼家がふと眉を寄せた。
「白那恰――貴様だけか。ほかの連中はどうした?」
巨漢は、白湯を注いだ器を景行に差し出して、首を振った。
「蒼頡は物見に出た。九郎丸と浮游は、将門を追った」
「将門を? やつらめ、勝手な真似を」
兼家が短く鼻を鳴らした。景行は、それを訝しげに見つめた。
「貴様が命じたのではないのか、兼家?」
「いいや。生憎、俺たちは貴族様の子飼いの雅な武士団などではないからな。動くなと命ずれば連中は殺されても動かないが、そうでなければ獲物を狩りに行くのに、いちいち俺にお伺いなど立てやせんよ」
そう言って、兼家は薄く笑った。その何気ない言葉の裏に、仲間の能力に対する強い信頼が滲んでいる。逃亡者である将門たちにとって、信濃の地形を熟知した彼ら甲賀の民は僧兵団よりもはるかに恐ろしい追っ手なのだと、景行はようやく実感した。
その景行の足元に、白那恰と呼ばれた巨漢が座りこんだ。彼が手にしている器には、どろりとした緑色の液体がひとすくい盛られている。
思わず身をすくめて逃れようとした景行に、
「心配いらんよ」
と、兼家が言った。白那恰も同様にうなずいてみせる。
「ニワトコやらイヌザンショウやらの類だ。こう見えて、白那恰は薬草の調合に長じていてな。その足も、だいぶ楽になっただろう?」
「薬草……手当てをしてくれていたというのか?」
驚いて、景行は兼家たちの顔を見比べた。
白那恰は、人好きのする笑顔で赤児のように笑う。しかし薬草は毒草と紙一重でもあるのだ。この巨漢を、ただの力自慢と侮るわけにはいかないのだと、景行は密かに心に刻んだ。
そのような景行の心中を知ってか知らずか、兼家は無防備に笑う。
「まあ、九郎丸たちも馬鹿じゃない。あの将門と、真正直にやり合うような無謀な真似はするまいよ。将門が隙を見せるまで、何日でも張りつくつもりなのだろうさ」
「……どうあっても、鬼王丸を追うつもりか?」
「さて……そのことなのだがな」
非難するように睨めつける景行を、兼家は心底楽しそうに眺めている。
「妙見の僧兵どもがあのざまだ。俺たちとしては無理に将門を追う理由はない。とはいえ朝廷の連中が約束した報酬を、むざむざと諦めるのも惜しいだろう? それなりの代償があれば、話は別だがな」
「……なにが言いたい?」
「条件次第では見逃してやらないでもないと言っているのさ。それどころか、無事に信濃を抜けられるように、俺たちが手を貸してやってもいい」
「条件?」
「そう。条件のひとつは、あんただ、景行殿」
兼家が、少しだけ真面目な表情を作って言った。
「俺はあんたが気に入っているんだよ。風筝とやらを使った火計は、実に見事だった。都の識者どもの水準を超えた大陸の知識を持ち、度胸もある。それに器量も悪くない。きちんと女性《にょしょう》の姿をすれば、それなりに見られるんじゃないか。ええ?」
景行が、びくりと肩を震わせた。引き結んだ唇から血の気が失せている。
「兼家、貴様……」
「気づかないとでも思っていたか? 菅原三郎景行――いやさ、景行公のご息女殿よ」
勝ち誇るでもなく、兼家が淡々とつぶやいた。
「将門を見限って、俺の女になれ。それが、やつを見逃す条件だ」
細めた目は、もう笑ってはいなかった。
4
やがて、景行が細く息を吐いた。
「いつ、気づいた」
兼家は冷笑を浮かべ、板間の上にあぐらを組む。
「最初からわかっていたさ――故右大臣正二位、菅原道真公は子沢山でも知られていたが、公の失脚のあおりを受け、息子たちも一時期、遠国に左遷されている。三男、景行殿が下った先は真壁郡。将門の父の領地である豊田郡は目と鼻の先だ」
真壁郡は常陸国筑波山の北西の里。菅原景行は常陸介であり、菅家はこの地にささやかな荘園を持っていた。延長七年、景行はこの地に道真を祀る天神塚を築いている。我が遺骨は故郷に帰ること願わぬ、という道真の遺言に沿ったものである。
社の創始には、将門の伯父である平良兼も手を貸していた。このことからも、菅家と将門の一族に親交があったことがうかがえる。
「――聞くところによれば、景行殿は将門の弟たちの学問の師でもあったという。将門が景行殿を信頼していたのは疑いようがない。よくできた話だが、しかし将門が生まれたのは、奇しくも道真公が太宰府で没したその年だ。道真公の息子である景行殿が、仮に生きていたとしても、すでに齢六十五歳余り――将門とともに戦場に出られるような歳ではないな」
兼家が淡々とつぶやき、景行は無言で唇を噛んだ。
諏訪の奥地に住む名もない豪族の頭領と侮っていたが、この望月兼家という男の情報への通じ方は半端ではない。おそらく普段から、都や周辺地域の情勢を細かく探っているのだろう。
菅原道真は延喜三年死す、将門此の歳に生る故に菅公の再生という評あり――道真の死の直後に将門は生まれ、そのため将門は道真の生まれ変わりと噂されていた。つまり道真から見れば、将門は孫以上に歳が離れているということになる。道真の息子である景行と、ここにいる景行とでは年齢が合わないのではないか。兼家はそう指摘しているのだ。
「ならば、あんたは何者だ、という話になる。名を騙っているだけの別人かとも思ったが、唐より伝えられた新たな技術に精通し、弓の腕も立つ――菅家と無関係とは思えない。それで思い出したのさ。景行殿には息子はいないが、娘が一人いたはずだ。名前は、たしか――」
「桔梗様――!」
兼家の言葉を遮るようにして、甲高い声が響いた。
景行は驚いて顔を上げた。兼家がいつの間にか、膝を突いて身構えていた。人並み外れて長い彼の異形の腕には、数本の匕首が忽然と現れている。
その匕首を油断なく構える兼家の表情が、困惑したように歪められた。
庵の入口に立っていたのは、小柄な娘だった。
浅縹《あさはなだ》色の細長をまとい、市女笠を被っている。垂れ衣ごしに見えるその娘の名を、景行は知っていた。まだ幼さを残してはいるが、くっきりとした彼女の目元には、たしかに将門の正妻であった女性《にょしょう》の面影がある。
「……五月姫!?」
景行が呆然とつぶやいた。匕首を構えたままの兼家が、怪訝そうに振り返る。
笠を脱いだ娘の背中に、長い黒髪がこぼれた。
北山の麓で、将門が藤原秀郷の軍勢に敗れて間もなく二月。その寸前に別れ、二度と会うこともないと思われていた将門の娘が、今、諏訪の地に立っている。
「なぜ貴女がこのような場所に――奥羽に逃れたのではなかったのですか」
尋ねる景行を見返して、娘は男童のような口調で言った。
「父上が生きていると聞いたから来た。本心から信じていたわけではなかったが……桔梗様、あなたがここにいるということは、どうやら噂は真実だったようですね」
嬉しそうに告げる娘の姿に、景行は複雑な思いでうなずいた。
「……桔梗ではありません、姫。今は、景行と名乗っています」
「では、わたしも夜叉と――将門公の娘、五月はすでに亡き者となっておりますゆえ」
大きな瞳を猫のように細めて、娘は寂しげに笑う。
夜叉とは、彼女が逃亡に際して使った偽名なのだろう。報復を恐れた朝廷は、将門の一族を女子どもに至るまで、徹底的に処刑した。そのことは将門と行動を共にした景行が、誰よりもよく知っていた。おそらく夜叉の母や弟妹も、もはやこの世の者ではあるまい。
いまだに事情が呑みこめない様子で、兼家が、手にした匕首を苛立たしげに床に突き立てる。
「どういうつもりだ、蒼頡――」
彼が睨みつけたのは、庵の入口に立つ痩身の男であった。顔をすっぽりと布で覆った奇怪な男だが、今は、どこか所在なげに立ち尽くしている。
この集落が、兼家たち甲賀の民の隠れ里であることは景行にも容易に想像できた。その場に、なぜ素性の知れぬ娘を連れてきたのか――兼家はそのことで彼を責めているのだ。
その蒼頡の背後から、ふいに一人の男が歩み出る。
「わたしがそう頼んだのだよ、兼家殿」
ゆったりとした微笑みを浮かべて、男は言った。都人のような服装をした、若い男だ。身のこなしは優雅だが、どこかとらえどころのない、不思議な雰囲気をたたえた若者だった。兼家の匕首を前にしても、まるで怯えた様子がない。
ちっ、と舌打ちして、兼家が訊いた。
「誰だ」
「賀茂保憲。そちらの蒼頡殿にとっては、命の恩人ということになる」
「おまえのような男に、蒼頡が命を救われた、だと?」
兼家は、面食らったように蒼頡を見る。蒼頡は、表情を布で隠したまま、嗄れた声でぼそりと言った。
「……虎に襲われた」
「虎だと?」
「西の滝で、虎に出会った……そのとき、保憲殿が白蛇を操って――」
「操ってどうしたのだ?」
「その虎を喰らわせた」
「は……」
兼家が、唖然として保憲を見た。やがてその白皙に、得心したような表情が浮かんだ。
「賀茂……そうか、葛城に賀茂武津身命《かものたけつのみのみこと》を祖とする一族がいたな。役小角の流れを汲む修験山伏の末裔……貴様、陰陽師か」
「ご名答。さすがは甲賀の民の頭領だ、兼家殿」
「……蒼頡に、虎なり白蛇なりを見せたのも貴様か」
「そうでもしなければ、あなたに会わせてもらえないと思ったからね」
悪びれもせずに、保憲が言った。彼の腕には、一本の細い紐が巻きついていた。
「――人は、目で物を見るわけではないのだよ。目を支配するのは人の心だ。心の持ちようで、たおやかな女性《にょしょう》が虎の姿にも見えるし、このようなただの紐が大蛇にも見える。蒼頡殿はなまじ遠くを見通せるだけに、それに頼りすぎるきらいがあるようだ」
「よく言う……要は幻術の類だろうが」
兼家が忌々しげに嘆息した。
「それで、なんの用だ、陰陽師。お互い人質の頭数は足りている。今さら取引でもあるまい?」
「――人質? ああ、なるほど。そういう考え方もあるな」
保憲が、感心したようにつぶやいた。
その保憲を、夜叉が振り返って睨みつける。景行は、そのことに戸惑った。そもそも夜叉とどのようにして知り合ったのか、この若い陰陽師の考えていることが、まるで読み取れない。
それは兼家も同様であるらしい。先ほどから、手の中の匕首を神経質に弄んでいる。
「もう一度訊くぞ、陰陽師。なんの用だ。いや、それよりも貴様、どうしてこの里に現れた? なぜ俺が菅原景行を攫ったことを知っている?」
殺気を隠そうともしない兼家を、保憲は立ったまま涼しげに見下ろした。
「まつろわぬ民は、維摩の末裔だけではないということだよ。我が大和葛城にも、國樔《くず》などと称する民がいる――賀茂家とも縁の深い連中でね。なにかと役に立つ」
「吉野國樔……土蜘蛛か」
兼家が苦々しい声で言う。
土蜘蛛――都知久母《つちぐも》などとも呼ばれる彼らは、朝廷が国を統べる以前に、山野に跋扈していた先住民族である。その多くはすでに朝権に帰順しているが、古の縁のすべてが断絶したわけではない。おそらく賀茂家は、彼らの一部を眷属として、今も密かに使っているということなのだろう。
「陰陽師などということをやっているとね、そういう者たちを重宝するのだよ。失せ物の行方を探させたり、宮中の噂を自在に操ったりとね――」
保憲は、そう言って実に楽しそうに笑った。
その隣で、夜叉が、あきれたように首を振る。景行はなかば唖然として、目の前の若い陰陽師を見つめた。
陰で土蜘蛛と呼ばれる人々を操り、依頼主に代わって失せ物を探させたり、自分たちに都合のいい噂を流す。そうやって、帝や有力な貴族たちになにか頼み事をされたときに、あたかも呪力をもって占ったかのように、あらかじめ用意した答えを告げてみせるのだ。
そのような陰陽の術の内幕を、隠すことなく、あっさりと明かしてみせる。そのことが逆に、この賀茂保憲という男の底知れぬ実力を示しているように思えて、不気味である。
兼家が荒々しく息を吐き、保憲を睨んだ。
「そうか、保憲……貴様、諏訪に窺見《うかみ》を放ったな」
窺見とは間諜、斥候の類のことである。保憲は、おそらく将門追捕の命を受けてすぐ、山野での行動に長けた土蜘蛛たちを密かに諏訪に送り込み、鬼王丸たちの行動を監視させていたのだろう。それで彼らは、迷うことなく兼家の集落を訪れることができたというわけだ。
兼家にしてみれば、自分の庭とでもいうべき諏訪の地に、それら斥候の侵入を易々と許してしまったことになる。それが彼の不満げな表情の理由だ。
「そういうふうに思ってくれても構わないよ――とはいえ、いかに葛城の土蜘蛛が優秀でも、見知らぬ諏訪の地でこれ以上の働きを望むのは酷だ。それで、こうやって無礼を承知で出向いてきたのだけれどね」
「ふん――おおかた昨日の火計で、土蜘蛛どもが将門の行方を見失ったというところだろうが。それで仕方なく俺たちを雇う気になった、というところか?」
「近いな。だが、雇うのではないよ。手を貸してもらいたいと言っているのさ」
「断る。人質の数は足りていると言ったはずだ。貴様らに用はない――去《い》ね」
「わたしが将門の真の目的地を知っている、と言ってもか?」
「……なに!?」
その場にいる全員が、驚いて保憲を注視した。その中には夜叉の姿も含まれている。当然だ。彼女ですら、鬼王丸の逃走の目的地は知りようがなかったのだから。
もちろん葛城の土蜘蛛とやらがどれほど優秀でも、それを知り得るはずはない。そのことを知っているのは、鬼王丸本人を除けば、柊と景行のみである。
なのにその景行を前にして、保憲は悠然と微笑んだ。
景行は、戦慄してその笑顔を見つめた。口の中だけで、静かにつぶやく。
これが賀茂……賀茂保憲か……
5
受領という言葉がある。
国府を治めるのは本来、国守の職掌であるが、皇族や二位三位の高官は国守に任ぜられても実際には赴任せず、都に残る。そのため、次官である介が専ら政務を司ることになる。そのような次官を受領と呼んだ。そして受領の多くは、自らを監督する国守の不在を利用して、私腹を肥やすために奔走することとなる。それは主として重税という形で、領民たちを苦しめた。それが、緩やかな崩壊を始めた律令政治の実態であった。
任地の実態も知らず都で暮らす国守には、しょせん遠国の情勢は理解できない。その想いが、将門を戦に駆り立てた。国府を襲って国印と鍵を奪う。それはすなわち、受領から政権を奪うということである。将門が望んだのは、都に攻め上って、帝に代わる支配者となることではなかった。彼は、遠国の自治を望んだのだ。
「それが平将門の乱の真相か……無謀なことをしたものだな」
保憲が始めた説明に、冷ややかな言葉で答えたのは、兼家だった。気怠そうに壁にもたれた彼を、夜叉がきっと睨みつける。
「性急に事を運びすぎたのは事実だね――結果として将門は、同じ一族の平貞盛を敵に回してしまった」
「貞盛など――」
夜叉が悔しげにつぶやいた。彼女にとって貞盛は、数多くの肉親を奪った仇敵なのだ。だが保憲は冷ややかに首を振る。
「――武技ならば将門は貞盛に勝るかもしれないが、真に恐いのは貞盛のほうだよ。あの老獪な藤原秀郷を自在に動かし、今や都でも殿上人の位を手に入れている、恐ろしい策士。彼がいなければ、あるいは将門の理想は実現していたかもしれない」
「坂東の自治が?」兼家がせせら笑うようにつぶやいた。「馬鹿な。そんなことが上手くいくものか」
「そうでもないさ。朝廷は西国に将門よりもはるかに凶悪な海賊――藤原純友という敵を抱えている。将門が秀郷の軍を破っていれば、朝廷が譲歩したとしてもおかしくはない」
「だが、将門は負けた」
兼家が冷たく言った。そして保憲はうっすらと笑った。
「そう。それが謎を解く鍵だ」
「謎だと……なんのことだ?」
「八幡の巫女――あの渡来人の娘のことだよ、兼家殿」
「なんだと?」
兼家が匕首を弄んでいた手を止めた。思わず立ち上がろうとした景行を、保憲が無言のまま目で制した。景行はようやく保憲の真意に気づく。
保憲は景行を試そうとしているのだ。こうやって危険を承知で、兼家の前に現れたのは、唯一、鬼王丸の真の目的地を知る景行に、この話を聞かせるため。景行の反応を見ることで、保憲は自分の考えが正しいかどうか確かめるつもりなのだ。しかし、それがわかっても、景行にはどうすることもできない。保憲は淡々と言葉を続ける。
「将門は上野国府で一人の巫女と出会っている。彼が不自然な行動を取り始めるのは、その直後からだ。自ら新皇を名乗り、多くの郡司を罷免した」
景行は沈黙する。保憲の言葉はすべて事実だ。不可解なことに将門は、罷免した官をその後、安全な信濃の国界まで護衛をつけて送り届けている。
「当時の将門の軍勢は約八千。だが彼は、藤原秀郷の軍四千との決戦を直前に控えて軍を解き、兵士たちを帰休させた。その兵たちを呼び戻すこともなく、わずかな手勢だけで秀郷の軍と戦い、敗れている」
「……そいつは、たしかに妙な話だな」
兼家が、声を低くしてつぶやいた。庵の中を沈黙が支配する。今や誰の目にも、将門の異様な行動の軌跡は明らかだった。
「その理由を、あなたはご存じなのではないか、景行殿?」
保憲が、はじめて景行に向かって呼びかける。
長い沈黙ののち、景行は嘆息してうなずいた。
「柊は――あれは八幡の巫女などではなかった」
「…………」
夜叉が、細い肩を小さく震わせた。景行は知らないことだが、その言葉は、かつて夜叉が保憲に語ったものと同じだったのだ。
「彼女は、たしかに鬼王丸――将門に託宣を告げた。だが、それは……」
「――将門の敗北を告げるものだった」
無表情に告げる保憲の顔を見返して、景行はうなずいた。
「そうだ」
「それは託宣というよりも、報せに近いものだったはずだ。藤原忠平が将門を見限り、都が総力を挙げて征夷将軍の軍を東下させるというような内容の。そう考えれば、すべてつじつまが合う。将門は有能な官吏を国外に逃がし、決戦になる前に兵たちも帰した――最後まで将門と行動を共にしたのは、彼の一族と、あとはほかに生きる道のない咎人たちだけだったはず――」
景行は、弱々しく微笑んで保憲の言葉を認めた。
賊軍の常として、将門の軍にも都から追われる罪人が加わっていた。藤原玄明を中心とする、野伏たちの一党である。彼らは将門の新皇宣言によって叙任され、結果として捕縛され、斬られている。罪人は、罪人として処断されたのだ。
夜叉から伝えられたわずかな手掛かりだけを頼りに、この賀茂保憲という男は、そのすべてを見通してしまったらしい。それは、今や景行たちだけしか知らないはずの、あの反乱の真実であった。
「待て、陰陽師……巫女でないというのなら、あの渡来人の娘は何者だ? なぜ僧兵どもは、あの娘を追っている?」
兼家が、苛立ったように口を挟んだ。
「彼女が追われている理由まではわからない。ひとつふたつ思いあたることはあるがね」
「なんだ?」
「あなたも死んだはずの彼女が蘇生する姿を見たのだろう? ところで、太政大臣の藤原忠平あたりは、ずいぶんとご高齢で身体もあちこち弱っているご様子――」
「まさか不老不死の人間の肉を喰らえば、自らもそうなれると思っている、というのではあるまいな。くだらん。鳥を喰って空を飛べるようになった人間がいるものか」
吐き捨てるようにつぶやく兼家を見て、保憲は楽しそうに首を振った。
「寡聞にしてわたしもそのような話は聞かないがね……それはそれとして、台密の僧兵どもは、もう少しまともな理由で将門たちを追っているはずだ」
「……そう願いたいものだな。なんだ?」
「彼らの教典の多くは唐土より伝えられたものだ。ほかの者たちよりは、彼の地のことに精通している。そして唐土では、人でありながら不老不死の境地に達した者を、仙と呼ぶのだよ」
「……仙だと?」
兼家が眉を跳ね上げる。彼ら甲賀の民の始祖である甲賀三郎諏方もまた、仙薬を食して不死に近い存在となった者――半神だ。巫女ではなく仙人だと言うのなら、柊は、むしろ兼家たちの同類ということになる。
「始皇本紀には、秦国皇帝が、不老不死の仙薬を求めて、三十隻の大船に、三千の童男童女、金銀宝珠と五穀百工を積み、東海に送り出したと伝えられている」
「――あの娘が、そいつらの末裔だというのか?」
「実際に彼らが仙薬を手に入れたのかどうかはわからないが、そうだとしても驚かないよ。実際に、瀕死だった彼女が蘇生したと聞かされたからにはね」
「ぬ……」
「秦国の時代より伝えられた知識や技術に、不老不死の秘密――それらを手に入れれば台密は、間違いなくこの国における人々の信仰を独占することができるだろう。多少の犠牲は厭うまい。仙族の国があるとすれば、なんとしてでもその場所を聞き出そうとするはずだ」
「まさか将門は、その国に赴き、不老不死を手に入れて、その力で、かつて敵対した者たちに報復するつもりなのではないだろうな」
兼家の言葉に、夜叉がはっと顔を上げた。期待と不安が入り交じった瞳で、娘は保憲の答えを待つ。保憲は思わせぶりな様子で首を振り、
「さて……都では、そうやって恐々としている者は少なくないだろうが、はたして彼が、そんなものを望むかな」
そう言って景行を見た。景行は、思わず苦笑して首を振る。
実の娘である夜叉よりも、鬼王丸とは言葉を交わしたこともない保憲のほうが、鬼王丸の性格をよく知っているようで、そのことがおかしかった。
「――望みはすまいよ。自分の国と民を失ったときに、あの男の身体からは、なにかが抜け落ちた。今のやつは虚ろだ。報復など望みはすまい」
「同感だ……景行殿」
なにか言いたげな夜叉に代わって、保憲がうなずいた。
「それに……たどり着きたくとも、もう彼女の国はない」
「どういうことだ?」
訊き返したのは、兼家だった。
「言葉どおりの意味だよ。こちらにおわす夜叉姫によれば、柊は、この国の言葉を理解はできるがまだ話せないという。それは、彼女が異国の生まれだからではないのか?」
「渡来人の末裔ではなく、真の渡来人だというのか――?」
兼家が驚いたようにつぶやく。
「だが、なぜそれが将門の元にいる? 遣唐使はもうないのだぞ。たしかに将門は渡来人を優遇していたらしいが、西国あたりに流れ着いた渡来人が坂東までたどり着けるとは思えぬ」
「ならば、将門はどこに向かっているのだ、兼家?」
「なに?」
「景行殿が言うように、自らの国と民を失い、虚ろになった男が、それでも望むものがあるとしたらそれはなにか――その男が、国土を異民族に蹂躙され、正統な帝を失い離散した民の存在をもしも知ったら、どのような行動に出ると思う?」
「……将門は、文字どおりの新皇として、新たな国と民を手に入れようとしているというのか? あの渡来人の娘は、そのために将門の元を訪れたと……だが、そのような国がどこに――」
戸惑うようにつぶやいた兼家が、なにかを思い出したように動きを止めた。
わずか十四年ほど前のことだ。異民族に蹂躙されて滅びた国がある。それまでに三十四度もの公式使節の往来を数え、日本とも関係の深い大陸の国。
「――渤海国……そうか、将門が目指しているのは、能登か――」
兼家が立ち上がる。遣唐使が廃止されて、すでに五十年近く。西国での藤原純友の乱の影響もあって、大陸へ渡れるほどの大船は、そう易々と手に入るものではない。
だが能登国|福良津《ふくらのつ》は古来からの造船の地であり、渤海使のための船の修理や建造が、渤海の滅亡直前まで行われていた。将門が大陸に渡るつもりならば、目指す場所はその地以外にない。それならば、将門が逃走経路として諏訪を選んだのもうなずける。
「面白い……将門だけなら、このまま見逃してもいいと思っていたが、仙族の娘をおめおめと逃がす手はないな――」
「それは交渉が成立したと受け取っていいのかな」
保憲が微笑して言った。兼家が、獰猛に口元を歪めて首を振る。
「さて……それなんだが、どうしたものか。将門の目的地がわかった以上、俺にはもう貴様らに用はないのだがな?」
「ふむ、まあそう言うだろうとは思っていたよ」
保憲は鷹揚につぶやいた。
無造作に手を伸ばした彼の指先に、一羽の鳩が舞い降りてきて止まる。普通の鳩よりも、ずいぶんと小さな白鳩である。蒼頡と白那恰が身構えた。彼らも、保憲が油断のならない相手だということには気づいているのだ。
保憲が、右手の中に収めた鳩をふわりと握りつぶす。再び広げた手の中に鳩はなく、それはいつの間にか一枚の紙片に変わっていた。
「――だが、悪いことは言わない。わたしと手を組むのが、あなたがたのためだ、兼家殿」
「ほう、俺を脅すつもりか? その鳩も幻術の類かよ?」
兼家が、匕首の刃先を保憲に向けた。
「いや。これは、ただの言づてだよ」
保憲は、手の中に出現した紙片を開く。その表情が、はっきりと曇った。
「……どうした?」
「よくない報せだ――信濃国に追捕使の本隊が入った。兵数は少なくとも四百余り」
「多いな。だが、多すぎるというほどじゃない。予想どおりだ」
「だが、彼らを率いている将が厄介だ」
「誰だ?」
「ある意味で将門に一番近い男。将門をもっとも憎み、そして恐れている男だ。そして卓越した策士でもある――」
保憲が、手の中の紙片を破り捨てた。引き裂かれた紙片は、白い鳩の羽根となって彼の足元に散らばった。その羽根を見つめて、景行は背中を震わせる。
「正五位上常陸|掾《じょう》――平貞盛だ」
保憲は静かにそう告げた。
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第五章 貞盛
1
今昔物語集に、名もない法師の話が伝えられている。
法師が住んでいたのは都の下辺《しもわたり》付近。没落貴族や下級の官人が多く居住する土地であるが、この法師に限れば存外に裕福で、心安く暮らしていたという。
その法師が近々危難に遭うと予言した男がいた。
陰陽師、賀茂忠行である。
「其月其日、物忌を固くせよ。盗人事に依て命を亡さむ物ぞ」と占なひたりければ――
盗賊に遭い命を落とす兆しがあるため、その日は物忌をして用心するとよい、と伝えられ、恐怖した法師は、忠行の言葉に忠実に従った。
物忌とは、飲食を慎み心身を清め、不浄を避けて家にこもっていることである。
固い物忌をしてその日を過ごす法師のもとを、日暮れ間近になって、一人の武士が訪ねてきた。遠方より旅してきたその武士は、門を閉ざす法師を説得し、自分を屋敷に泊めることを承諾させる。
そしてその夜、忠行の予言どおり屋敷を襲った盗賊団を、武士は、たった一人で撃退した。仲間のふりをして盗賊たちを巧みに誘導し、奇襲を仕掛けて次々に射殺《いころ》したのだ。
物忌の禁を破って迎え入れた武士の機知と武勇が、法師を救った。そういう話だ。
その武士は、名を――平貞盛という。
然れば、賢き、貞盛の朝臣の来り会て命を存したる法師になむ有ける
貞盛のことを、物語集の作者はそのように讃えている。
武芸を極めながら、それ以上に知略に優れた彼の性格を、よく表した逸話だといえるだろう。
貞盛は、常陸大掾平国香の子。桓武天皇の御子葛原親王の玄孫にあたる。人臣の武士であるが、貴種の末裔ともいえる。
同じく葛原親王の流れを汲む将門とは、従兄弟同士ということになる。彼らはほぼ同時期に都に上ったが、無位無官のまま去った将門に対して、貞盛は当時すでに左馬允の職を得ていた。将門は単に傑出した武人であったに過ぎないが、貞盛は官吏としても有能だったのだ。
彼ら二人が決定的に対立する契機となったのは、貞盛の父国香が、将門に戦を仕掛けたことである。国香が同族の将門を攻める理由はなかったが、縁戚である前常陸大掾| 源 護 《みなもとのまもる》の命で、将門に縁の深い真壁郡の侵攻に加わったのだ。
将門にしてみれば、いずれにせよ自衛のための戦いである。戦闘を回避する手段はなかった。
優れた馬と練度の高い騎馬隊を備えた将門の軍は、圧倒的な兵数を誇る国香たちの連合軍を一方的に蹂躙した。その戦で源護は三人の息子を失い、国香もまた敗死する。
父親を殺された貞盛は、否応なく将門の敵に回ることになる。
だが奇妙なことに、彼は、正面切って将門に報復戦を挑もうとはしなかった。
積極的に将門を敵視し、国香の仇を討とうとしたのは実は貞盛の叔父たちである。貞盛は、叔父たちにつきあって何度か将門と剣を交えているが、形勢が不利と見るなり兵を退いている。その結果、将門は、彼にとっても伯父である者たちをことごとく撃破することになった。
神将とまで謳われた将門に対して、武将としての貞盛の評価は高くない。事実、将門との戦いにおいて、貞盛が直接的に勝利したことはなかった。
だが、将門が伯父たちを打ち破ったことによって、平氏一門の最大の実力者となったのは、ほかならぬ貞盛であった。皮肉なことに、将門が斃した武将たちはいずれも、坂東における貞盛の政敵でもあったのだ。
あるいは、こうも言い換えることができる。
貞盛は、将門を利用して、目障りな叔父たちを滅ぼしたのだと――
さらに老将藤原秀郷を担ぎ出すことによって、貞盛は、その将門をも斃している。
将門の乱を平定した功績により貞盛が得た位は正五位上。ついには殿上人の地位にまで昇り詰め、鎮守府将軍の地位についた彼を、人は平将軍と呼んだ。
その貞盛が、四百余りの兵を率いて諏訪の地に到着したのは、ほんの数刻前のことである。
「…………」
蓼科の西に設けられた貞盛の宿営地を、望月三郎兼家は、数人の従者を連れて歩いている。普段の兼家と雰囲気が違うのは、身を包む深縹《ふかはなだ》の位袍のせいだろう。異様に長い両の腕は袖の下に隠れ、白皙の横顔はいつになく険しい。
「兼家様」
従者の一人が小声で呼んだ。兼家は無言でうなずき返す。虹彩の小さなその瞳は、油断なく、周囲の兵たちの様子をうかがっている。
貞盛が連れてきた兵の数が四百余りと聞いたとき、兼家は、それを彼にしては少ないと感じた。今の貞盛ならば、その数倍の兵力を集めてきても不思議ではないからだ。
だが、貞盛が連れてきた軍勢は、兼家が知るいかなる兵士たちとも違った。
身につけた鎧は大陸式の騎兵甲。金具廻には鍍銀《とぎん》の覆輪《ふくりん》が施され、見慣れぬ長大な弓を手にしている。彼らが連れている馬はいずれも、鬼王丸たちの黒駒と比べても見劣りしない屈強な軍馬たちだった。地方領主に仕えている武士が、容易く手に入れられるようなものではない。
兵たちは若く、体格にも恵まれた者ばかりである。隙のない立ち居振る舞いからも、彼らが相当な技量を持った武人であることが推し量れる。
おそらく彼らは、草深い農村から連れてこられた武士ではないのだろう。
彼らの正体は、戦闘そのものを職能とする兵士たちだ。都に雇われ、都を守護するためだけに鍛え上げられた、半農ではない生粋の戦闘集団。
彼らの一人一人が、並の兵卒数人、あるいは数十人分の働きをするのは間違いない。かつて将門が率いていた坂東の騎馬隊ですら、おそらくこの軍勢には及ぶまい。
兼家は、宿営地の中央に設けられた陣屋へと通された。信濃の国司が貞盛のために用意した建物である。陣屋の奥で兼家を出迎えたのは、大太刀を傍らに抱いた一人の男だった。
「――わざわざ呼び立ててすまなかったな、兼家殿。平貞盛だ」
杯を差し出しながら、男がにやりと唇の端を吊り上げた。
その姿に、兼家は驚いた。貞盛という男は、東国の武士でありながら都での処世術に長けた、官僚肌の人物だという思いこみがあったのだ。
だが目の前にいるその男は、堂々たる体躯の武人だった。髻《もとどり》を解いて乱髪にしているせいか、その印象は驚くほどに将門に似ている。考えてみれば、似ているのも当然だろう。彼は将門の従兄なのだから。顔立ちそのものは若い将門のほうが端整であるが、不格好な笑みを浮かべた貞盛の表情は人間臭く、それなりに魅力的である。
「信濃国司諏訪左衛門源重頼の男《むすこ》、望月三郎兼家――お召しにより参上した」
兼家は、貞盛の前で平伏しようとした。諏訪の地は朝廷の支配の及ばぬ半自治領ではあるが、いちおうは兼家も廷臣であり、位階では貞盛のほうがはるかに上だ。ましてやあれだけの軍勢を率いる将が相手では、表向きだけでも恭順の意思を示しておく必要があると考えたのだ。
だが、その兼家を制したのは貞盛本人だった。
「意に添わぬことはやめておけよ、兼家殿――ここは戦場だ。戦場で位袍の色を気にする者もおるまいよ。俺はおまえを平伏させるために呼んだわけじゃない」
そう言って貞盛は、自分の杯を傾けた。不敵に微笑んで、目を細める。
「だから、袖の下のその物騒なものから手を離せよ」
「……!」
兼家は表情を凍らせた。貞盛は微笑している。この男は、兼家が袍の袖の内側にひょうを隠し持っていることに気づいていたのだ。兼家は諦めて袖から手を出し、貞盛が差し出す杯を受け取った。貞盛は、何事もなかったかのように、その杯に気前よく酒を注いだ。濁酒ではない。都人の好む澄んだ酒である。
「さて、兼家殿――耳聡いことで知られたおまえのことだ。呼びつけた理由は、もうわかっているのだろう?」
「……将門か」
兼家は土間にあぐらをかいた。ぞんざいな口の利き方になったのは、目の前の男を相手に、表面を取り繕うのが無駄な行為だと気づいたからだ。そのような駆け引きでは、都での処世に長けた貞盛には敵《かな》うまい。また、貞盛もそんなことを兼家に望んでいるわけではないだろう。
貞盛は、新しい酒を杯に注いだ。
「そうだ。やつの居場所まで道案内を頼みたい。相応の礼はする」
「――妙見の僧兵どもが将門に敗れた話は?」
「聞いている」
「あれ以来、我らにも将門の行方はつかめていない。山狩りなら国司にでも頼むのだな」
「地方の下官ごときに、あの将門が追えるものか。やつの行方を知ることができるものがいるなら、それは土地を知悉し、異能の力を備えた甲賀の民だけだろう」
そして貞盛は、兼家の心の裡を読んだように薄く笑った。
「――言っておくが、我らを出し抜こうなどと考える必要はないよ。おまえの手柄を奪おうというのではない。手を貸してくれるのなら、場合によっては功を譲ってもいい」
「先だっての戦のときの藤原秀郷のように、今度は俺に手柄を立てさせてくれるというのか。信じられんな……なぜだ? あんたは、どうしてそこまでして将門を追う?」
兼家は顔を上げ、貞盛の脇にある大太刀をしばらく見つめた。
「朝命だからさ」
貞盛は静かに微笑んでみせた。それが建前に過ぎないことを、隠そうともしていなかった。兼家は短く息を吐く。
「放っておくことはできないのか?」
思いがけない兼家の言葉に、貞盛は愉快そうな表情を浮かべた。
「やつを見逃せというのなら、無理な話だな」
「将門を討ったことにすればいい。代わりの死体なら用意してやる。従兄のあんたが、将門の首だと言い張れば、あえて首検分しようとする者もいないだろう。それでいいのではないか?」
「断る」
つぶやく貞盛の口元を、凄絶な笑みが走り抜ける。
「悪くない話だがな。将門の首は、ほかの誰でもない、この俺が欲しいのだ」
「なぜ、そこまで将門を憎むのだ。父の仇だからか?」
「仇? 違うな。民のためだ」
「民だと?」
兼家は唖然として貞盛を見た。彼の言葉が、あまりにも予想外だったからだ。
「わからんな……将門は坂東の民のために謀反を起こしたのではなかったのか?」
「そのようだな。だから、やつは討たねばならない。今度こそ確実に」
「……将門が再び謀反を起こすことを恐れているのか? だが、もはやそれはあり得ぬ。いや、やつには最初から謀反を起こすつもりはなかった。やつは坂東の民が、自らの手で国を治めることを望んだだけだ。あんたは、それを知っていたのだろう?」
「…………」
貞盛は無言だった。その沈黙が事実を雄弁に物語っていた。だが、貞盛の考えがどうであれ、彼の立場ではそれを認めるはずもない。そのことも兼家は知っていた。
「名ばかりの遥任国守は税だけを搾り取って都で遊び呆け、受領国司どもは私田を拓いて財を貯めこんでいる――そんな連中よりも、土地と民に愛着を持った者が治めたほうが、税も増えるし、民も潤う。将門はそう考えたのではないのか?」
貞盛はやはり答えない。兼家は手の中の杯を弄び、
「それでも将門を討たなければならないのか? やつの考えたことは、そんなにも許されないことなのか?」
「そうだ」
ようやく貞盛が答えたとき、今度は兼家が押し黙る番だった。
「そのような考え、おまえ一人で思い至ったものなのか、兼家殿?」
兼家は黙って首を振る。では誰に聞かされた――とは、貞盛も問わなかった。
「将門は討つ。死して後に怨霊となって鎮められようとも、神として祀られようとも構わぬ。だが、やつが、追捕使の手を逃れて逃げ延びたという事実があってはならぬのだ」
「なぜだ?」
「朝権が揺らぐ」
貞盛は愉快そうに目を細めた。兼家は無言で酒をすすった。いくら飲んでも酔えそうにないのは、飲み慣れない酒だということだけではないだろう。
空になった杯に、貞盛が新しく酒を注ぐ。
「土地を愛するだの、民を思い遣るだのという言い草は、一握りの思い上がった連中の妄言よ。民にしてみれば、国守の名にも血脈にも興味はない。普段はそんなものを思い出すこともあるまい。なぜなら彼らは日々の糧を得るだけで精一杯なのだ。自ら国を治めることなど望みはしない。それを望むだけの余裕も器量もない。賭けてもいい。そのような者たちに国を任せれば、今よりももっと悲惨な暮らしが訪れよう――将門とて実際に国を治めたことはないのだ」
「……ああ」
「隣に肥えた土地があればそれを自分のものにしたいと願う。他国の税が軽いと知ればその国の民になりたいと願う。民とはしょせんその程度のものだ。だからといって闇雲に人の移動を認めれば争いが起き、法を歪めて税を減らせばべつの土地で人が餓える。それを防いできたのは、律令だ。その律令に人々が従うのは、朝廷に権威があるからだ」
貞盛は静かに杯を口に運ぶ。
「一郷では防ぎきれぬ群盗が出れば、都が追捕使を派遣する。どれほど非道な国守がいようと、任期が切れればその土地を離れる。俺は朝廷を無能者の群れとは思わぬ。受領のために必死で歌をしたため、管弦の巧拙で任官を決めることのなにが悪い? そのせいで血を流した民がどこにいる? それに比べて、身勝手に律令を曲げようとした将門は、どれだけの民を殺したのだ?」
兼家は、答えることができなかった。ゆったりと微笑む貞盛の瞳の奥に、隠しきれない怒りが浮かんでいた。
「将門の理想とはしょせんその程度の、手前勝手で粗末な代物よ。だがな、その粗末な理想を甘美なものと思い違える愚か者が、いずれ必ず現れる――」
「……そのときのために将門を滅ぼすのか?」
兼家の問いかけに、貞盛はどこか寂しげな笑みを浮かべて、そうだ、と言った。
「あの神将将門ですら都の権力の前には屈した――後世に伝えられるのは、そのような物語でなければならない。たとえ根も葉もない噂であっても、将門が生き延びたなどという風評を残すわけにはいかないのだ。ましてやそれが真実であってはな」
「そのほうが民のため、か」
「納得がいかないか?」
「……いや」
兼家は首を振る。貞盛の言うことはよくわかった。
朝廷の力が絶対であることを信じているのは、実は都人ではなく、遠国に住む民衆たちなのだと、兼家も気づいていた。
律令に緩みはなく、帝の政に瑕疵はない。そう信じているからこそ、彼らはわずかな都人が支配する国守に従い、黙々と働く。そのほうが自分たちの暮らしが安泰だと認めているからだ。
だが、と貞盛は傍らの太刀を撫でた。
「大逆の徒である将門が今も生きているということになれば、朝廷に対する彼らの信は揺らぐ。将門が生き延びれば、いずれやつの子孫を名乗る者が現れるかもしれない。そやつの言葉に惑わされて蜂起する民衆がいれば、そのときはさらに多くの血が流れることになろう」
「……それが、この諏訪の地で起きないとは言い切れない。そう言いたいのだろう、あんたは」
「そうだ。俺に手を貸す気になったか?」
兼家を試すように、貞盛が問い返す。
「……渡来人の娘はどうする?」
「滅ぼす」
貞盛はためらいもなくそう言った。兼家は驚いて眉を上げる。
「不死の秘密も、秦国の遺産も諦めるというのか?」
屈託のない表情で、貞盛は笑う。抜き身の刃に似た笑みだ。
「この俺が望んでも手に入らぬものは、ほかの誰にも渡さぬ。最初からなかったものと思えば、腹も立つまい」
「……なるほど。たしかにあんたは将門とは違うようだ」
兼家は苦笑混じりに酒をあおった。立ち上がる。
「一晩くれ。その間に、将門を追った手下どもと連絡をつける。出立は明朝だ」
「賢明な判断をしたな、兼家殿」
貞盛が、満足げに笑う。兼家は冷え冷えとした視線でそれを見返した。はっきりと自覚する。兼家は、将門の従兄だというこの男のことが、嫌いだ。
空になった杯を床に投げ落とし、兼家は吐き捨てる。
「……相応の礼とやらの準備、忘れるな」
2
その夜、集落に戻った兼家は、真っ先に景行の庵を訪れた。見張り役の手下たちを追い払い、格子で補強した木戸をくぐる。薄暗い庵の中には、毅然と背筋を伸ばして座る景行と、退屈を持てあましたように寝そべる若い娘がいた。夜叉である。
気配を殺して入ってきた兼家に気づいて、夜叉は、はっと身構える。
人に馴れない獣の子に似たその仕草に、兼家は思わず苦笑した。
思えば、将門にも猛々しい獣に通じる雰囲気があった。
獣の戦いは仲間を守り、自らが生き延びるためのものだ。その爪や牙が血にまみれていても、それを悪と咎める者はいない。将門の手は血塗られているのかもしれないが、彼の魂は赤子と同様に今も汚れていないのではないか。そんなことを兼家はふと思う。
一方で、貞盛が身に帯びた返り血は、すべて彼の野心に喰われた人々が流したものだ。怨念にまみれた濁った血。そして兼家の手もまた――
「なんだ、二人だけか? あの小生意気な陰陽師の若造はどうした?」
庵の中を見回して、兼家が問う。と、夜叉は意外そうに目を瞬いた。
「保憲のことを言っているのか。ならば、そこに――」
振り返った夜叉は、そこで唖然としたように言葉をなくした。
彼女が指さした場所に、若い陰陽師の姿はない。茅で作った人形が座しているだけだ。人の背丈ほどもある茅人形の頭部には、賀茂保憲の名を記した紙が貼りつけられている。
「そんな……さっきまで、たしかに保憲はここにいたはず……」
ようやくのことで夜叉は声を出す。
兼家は、無言で人形に触れた。茅は、夜露に濡れた様子もなく乾いている。つまり保憲は、まだ陽が高いうちにこの人形を置いて出て行ったということになる。
「またしても幻術か。紐を蛇に見せかけたのと理屈は同じだが、こちらのほうが手がこんでいるな。見知った名前を目にすればその者の姿を思い描く……その心の働きを利用した術だろう」
「……幻術だと」
夜叉が信じられないというふうに首を振った。
「なぜ保憲がわたしに術を仕掛けるのだ。保憲は……保憲はどこに行ったのだ?」
「将門を追ったのだろうさ。おまえさんをここに足止めしたってことは、やつとやり合うのを邪魔されたくなかったんだろう」
「保憲が父上とやり合うだと!?」
「なんだ、知らなかったのか? そのためにやつは諏訪に来たのだろう?」
「そんなことは、わかっている……だが……」
言いかけた夜叉の声が小さくなる。兼家は笑って息を吐いた。
「まあ、驚く気持ちはわからないではないがな。あの陰陽師も、本来ならもうしばらく様子を見るつもりだったのかもしれぬ。が、貞盛が出てきた以上はそうも言っていられなくなったということだろう」
「貞盛か」
つぶやいたのは景行だった。切れ長の瞳が、兼家を正面から静かに見据える。すべてを見通しているような眼差しだ。
「――おまえはどうするつもりだ、兼家? 貞盛につくのか?」
兼家はうなずいた。
「明朝、やつを案内して出立する。その前にこれを返しておこう」
そう言って、左手に提げていた荷物を放る。短い角弓と箙。景行の持ち物だ。箙には焔硝を詰めた竹筒が、元どおり収められたままである。受け取った景行が、はっきりと困惑の相を浮かべた。
「兼家……これは?」
「貞盛は必ず将門を追いつめる。俺が手を貸そうと貸すまいとな――だが、ここまできたからには、俺にも最後まで見届ける権利があるだろう。あんたと同様にな」
「わたしにも貞盛の軍に同行しろというのか、兼家」
「そうだ。自分の目で確かめねば納得できぬことがある、というのは承知しているつもりだ。俺がこの里から離れれば、あんたは無理にでも将門を追おうとするだろう。それならば、俺の手元にいてもらったほうがいい」
そして兼家は、呆然と立ち尽くしたままの夜叉を見やる。
「さて、姫君よ。あんたとはここでお別れだ。夜が明ければ、ここにも貞盛の配下の兵が来るだろう。その前に出て行くんだな」
「な……」
夜叉は目を吊り上げて言った。
「なぜだ。わたしも連れて行け、兼家!」
「やめておけ。その姿形《なり》で従軍するつもりか。貞盛なら、一目でおまえが将門の血縁だと見抜くぞ。父親の足手まといになりたくはあるまい」
「しかし……わたしは……」
「忘れるな。俺がおまえを見逃すのは、ここにいる景行や、あの陰陽師の若造に免じてのこと。貞盛に疑われる危険を冒してまで、おまえを庇う理由はない」
夜叉は沈黙した。保憲が彼女をこの場所に残したのも、兼家がこのような態度に出ることを見越していたせいかもしれなかった。たしかに、この地で、夜叉を説き伏せることができるとすれば、それは兼家以外にはなかっただろう。相手が将門の娘では、人買いに売りつけるわけにもいかない。兼家にできるのは、夜叉を追放することだけだ。
「――蒼頡と白那恰をつけてやる。夜が明ける前に、どこなりと好きなところに行くがいい。せっかく拾った命だ。無駄にするな」
兼家は突き放すように告げた。怒り出すかと思われた夜叉は、しかし静かに目を伏せただけだった。彼女は無謀だが愚かではない。自分の立場は理解しているのだ。
顔を上げ、彼女はほんのわずか大人びた表情で笑う。
「わかった。礼を言う、兼家殿――世話になった」
それが、兼家が最後に聞いた夜叉の言葉だった。
3
九郎丸と浮游が将門――鬼王丸の追跡を始めて、三日が過ぎていた。
怪我人を連れているとはいえ鬼王丸たちには馬があり、九郎丸たちは徒歩である。火計の炎と煙で見失った鬼王丸の足取りをつかみ直すのは、骨が折れることだった。
それでも彼らは着実に鬼王丸との距離を詰めていた。相手の姿を見たわけではないが、獲物に近づいているという確固とした気配を感じている。
「……足跡が……新しいな」
独特のかすれた声で九郎丸が言った。
露に濡れた草むらの上に深い蹄の跡が穿たれていた。
一頭だけではない。少なくとも二頭以上。蒼頡がいれば、えぐられた土の深さから乗り手の癖や体格までも言いあてるのだろうが、九郎丸にはそこまでのことはわからない。
かわりに九郎丸には並はずれた嗅覚があった。
生まれつき鋭敏だった九郎丸の鼻は、長年の訓練によって、今では人の体調や精神状態まで嗅ぎわけるほどになっていた。それに加えて地形や獲物の習性に対する知識を備えた九郎丸は、追跡能力にかけては狗《いぬ》をも凌ぐ。天性の狩猟者なのである。ひとたび臭いをとらえてしまえば、返り血を浴びた武士や馬の臭いを追うのは容易かった。
その九郎丸に同行しているのは、浮游。
童形の背の低い男である。
小柄な身体に不似合いなほどの大きな櫃を背負っている。そのせいか、山道を進む足取りはぎこちない。武器はなく、腰に笙を差しているのが奇妙である。
「ようやく追いついたということか?」
木と木が擦れ合っているような声で浮游が訊く。九郎丸は狗のように尖った顔でうなずき、
「……臭いも強い。おそらく将門たちがこの地を通って、まだ半刻も経っていないはず……」
「もう少しだけ近づこう。気取られるな、九郎丸。将門の力はあなどれぬ。今やつとまともにやり合うのは避けたい」
「問題……ない……こちらは風下だ」
「我らの臭いを将門が嗅ぎとることなど心配してはおらぬわ。そうではなく近づきすぎるなと言っておるのだ」
抑揚のない浮游の言葉にも、歓喜の響きが感じられた。
九郎丸も浮游も、都人の規範から見れば異形の、醜いともいえる容貌の持ち主である。だが、それだけに自分の能力には誇りを持っている。功を上げることへの執着も強い。
維摩の末裔などと呼ばれる甲賀の民だが、実際には、維摩姫の時代から続く純血の民は多くない。九郎丸も浮游も、異形ゆえに親に見捨てられたところを、甲賀の民によって引き取られたものである。
だが人の標準から外れたその姿こそが、九郎丸たちに人並み外れた能力を与えているのだった。九郎丸たちの力は、彼らの異形の代償だった。そのような異質な者たちを受け入れ、育て上げる余裕が、国司すら手出しできない甲賀の民の強さの源であった。
そのことを誰よりも理解しているがゆえに、九郎丸たちの忠誠心は高い。
鬼王丸を捕らえることができれば、信濃国司や都に対して、甲賀の民の実力を示す格好の機会となる。そのことが、彼らの気持ちを昂らせているのだ。
「臭いが……強いな……」
つぶやいて九郎丸は足を止める。九郎丸は四頭の狗を連れている。その狗たちも、明らかに戸惑い、警戒していた。
「どうしたのだ、九郎丸?」
「臭いが強すぎる……馬の尿の跡だ」
「馬を連れていれば、そのような痕跡も当然あるだろうよ。なにが問題なのだ」
浮游があきれたように訊いた。だが、九郎丸の表情は硬い。
「……将門は、自分たちが追われていることを知っている……これまでは巧みに糞尿を始末し、足跡を消すための策を講じていた。それが、これほど無防備に尿の跡を残す……俺は……それが気に入らない」
「おおかた油断したのだろう。我らでなければ、とっくにやつを見失っているはずだからな」
「……ならばよいが」
九郎丸は唇を噛んで歩き出した。
実際のところ、鬼王丸はそれほど遠くまで逃げていたわけではない。普通に土地を過ぎるだけなら、三日もあれば、徒歩でも諏訪の地を抜け出すことは容易い。それでも鬼王丸がこの土地にとどまっているのは、一つには菅原景行が捕らえられているためであり、もう一つの理由は、彼が連れている渡来人の娘が重傷を負っていたためである。娘を手当てし、休ませるための安全な場所が必要だったのだ。
その隠れ家は、このあたりにあるはずだと九郎丸は踏んでいた。なのに、あの鬼王丸が、これほど鮮明な痕跡を残すような無警戒な真似をするものだろうか。
「――九郎丸」
そのとき、浮游が驚いて足を止めた。そこは見通しのよい、開けた場所だった。道の両側はなだらかな丘陵になっていて、視界を遮るような樹木や岩などはない。どこにも身を隠せるような場所はないのだ。なのに、足跡が消えていた。
真っ直ぐに続いていた鬼王丸たちの蹄の跡が、道の途中で不意に途切れている。
「どういうことだ、これは」
浮游がぎくしゃくと振り返る。九郎丸は呆然と首を振った。
道はぬかるんで軟らかい。足跡を残さずに先に進むことは不可能だ。しかし現実に足跡は途切れている。そして鬼王丸たちの姿もない。煙のように消え失せたとしか思えない。
「……まさか」
「思いあたることがあるのか。なんだ?」
浮游が焦りの浮いた口調で訊いた。
「……欺歩《ぎほ》だ。羆《ひぐま》や鼬《いたち》が巣穴に戻るとき、追跡されぬよう……わざと違う方角へと進んで敵を欺くことがある」
「しかし、足跡が消えたのはどう説明する?」
「自分が進んできた足跡の上を……同じように踏んで引き返したのだ。そうやって……足跡を残さず戻り、途中でどこぞの岩肌に飛び移ったのだろう」
「馬に乗ったまま、蹄の跡を踏み戻ったと言うのか? どれほどの騎乗の腕があれば、そんな芸当ができるというのだ!?」
「わからぬ……それよりも気をつけろ……浮游。この地形は……」
九郎丸は、連れてきた狗たちを呼び集めて身構えた。
見通しのよい丘陵の麓。身を隠す木立も岩陰もない。この場所であえて欺歩を仕掛けてきたというのならば、その目的は、追跡者をまくことではない。その逆だ。
「……狩られているのは、我らのほうだ……」
九郎丸のつぶやきに、浮游が身体を強張らせた。
鬼王丸の臭いはしない。風上には鬼王丸はいない。追跡者が狗を連れていることを予想していれば、当然、鬼王丸は風下に潜んでいるはずだ。それを嗅ぎあてられないようにするために、彼はわざと馬の尿をまき散らしておいたのだ。つまり、鬼王丸がいるのは、九郎丸たちの背後である。
そのことに気づいて、九郎丸は背後を振り返る。
まさにそのとき、馬が隠れるほどの深い茂みを割って、一人の騎馬武者が現れた。
その姿に、九郎丸は動きを止めた。
見惚れたのだ。
巨大な黒駒に跨り、大太刀を構えた美丈夫である。鎧兜は身につけておらず、長い乱髪が風に揺れる。猛々しいと呼ぶには、その表情はあまりにも無邪気だ。敵である九郎丸たちを憎むというよりは、ここまで自分を追ってきたことを素直に讃えているようにも思える。
「――将門!」
九郎丸と浮游が、ほぼ同時につぶやいた。
馬上の鬼王丸は、二人を見下ろして屈託のない笑みを浮かべる。
「……愚か、将門。我らの前に姿をさらすとは――」
浮游がうめく。鬼王丸の傍に渡来人の娘はいない。やはりどこかで休ませているのだろう。
ここで鬼王丸を斃してしまえば、娘を捜すのは困難になる。だがそれでも、こうなった以上は鬼王丸と戦うよりほかに道はなかった。鬼王丸もそのつもりで姿を見せたはずである。
「なるほど、兼家の手の者か――あの炎でも俺を見失わず追跡してくるとは、並の兵ではないとは思ったが」
鬼王丸の口調はのんびりとしたものだった。
弛緩しているわけではないが、明確な敵意は感じられない。
「訊くだけは訊いておく。退く気はないか、甲賀の民? ついでに景行も返してもらえれば、なお有り難いのだがな」
「ふざけたことを」
浮游が歯を軋ませる。
「他人のことよりも、まずは自分の心配をするのだな。我ら二人を同時に敵に回して、命があると思うな。太刀を捨てておとなしく我らに降《くだ》れ」
「諏訪の民は、朝廷に尻尾を振らないのではなかったのか?」
「朝廷のためなどではない。貴様の首を獲るのは我らのためよ。太刀を捨てろ、将門――さもなくば、貴様は我らの実力を示すための贄《にえ》となるぞ」
「どうしてもやり合う気か――」
鬼王丸の瞳に、哀しみの色が浮かぶ。
浮游は笑った。
「是非もなし――やれ、九郎丸!」
その言葉が終わるよりも早く、九郎丸は狗たちを解き放っていた。
九郎丸の狗は、のちに甲斐犬と呼ばれることになる品種である。別名を虎犬。けっして巨大な体格ではないが抜群の敏捷性を誇り、熊や猪にも怯まぬ勇猛さを持つ。狩猟犬としてこれ以上のものはないともいわれている。
狩りに対する甲斐犬の天分は、猟師たちに虎の一芸とまで呼ばれている。相手の反撃を避けながら獲物を追いこんでいくことを、本能的に体得しているからだ。
いかなる剣の達人でも、この狗たちに同時に襲われて無事で済むとは思えなかった。そもそも人の扱う太刀や剣術は、狗を斬るようには作られていないからだ。
しかし鬼王丸は動じなかった。むしろ薄笑みすら浮かべて、迫り来る狗たちを見下ろしていた。
太刀を抜き、跨っている馬の脇腹を蹴りつける。
鬼王丸の馬が身を沈め、狗たちに向かって正面から駆けだした。
体高五尺を超える巨馬である。しかし狗たちは怯まない。左右に分かれ、まるで打ち合わせたように同時に跳躍して鬼王丸を襲う。険しい山野で鍛えた甲斐犬の跳躍力は、馬上の鬼王丸の喉笛を易々と狙えるほどであった。
だが、狗たちが宙に舞った直後、疾走する馬上から鬼王丸の姿が消失した。
「……なに!?」
九郎丸が愕然と声を漏らした。
その直後、ごつ、と激しい殴打の音が響いた。
狗たちの中の一頭が、背中から道の脇の茂みに突っこんだ。続けてもう一頭が、悲鳴も上げずに地面に落ちて跳ねる。
鬼王丸だ。馬の鞍上から消えた鬼王丸が、馬の腹側にしがみつき、死角となる真下から狗たちを太刀で突き上げたのだ。さらに鬼王丸は、そのまま馬を、砂浴びでもさせるような姿勢で横転させた。手綱も握らず、片側の鐙に足をかけただけの姿勢で、鬼王丸は自在に愛馬を操っている。
この男が、都で「馬の将門」などと呼ばれていた理由を、九郎丸はようやく理解した。信じられないほど高度な騎乗の技だった。
甲斐犬は、唯一人の飼い主に一生忠誠を尽くす一代一主の狗。九郎丸の命令には、死をも厭わずに服従する。だが、そのことが仇となった。
野生の狗ならば、深追いせずに逃げることもできただろう。だが、なまじ猟犬として鍛えられていたために、狗たちは、なおも鬼王丸を攻撃しようとした。
絶え間なく蹴り出される蹄を避けるため、狗たちは、無謀な跳躍を仕掛ける。
いかに敏捷な甲斐犬といえども、空中ではその動きは封じられる。それが鬼王丸の狙いだったのだろう。太刀の銀色が闇を薙ぎ、二頭の狗はことごとく地面に叩きつけられて悶絶した。
「見事な狗たちだ……」
つぶやく鬼王丸の声には、称賛の響きがあった。
鬼王丸は手綱を操って、横たえていた馬を起き上がらせる。どうやれば、ここまで馬と心を通じ合うことができるのか――それは、巨大な黒駒が、鬼王丸の身体の一部となったような動きだった。四頭の最高の猟犬たちは、この人と馬の力を併せ持った武将に敗北したのだ。
「俺一人でその狗たちを斃せていたとは思わぬ。惜しかったな」
ねぎらうような鬼王丸の言葉に、九郎丸は歯を剥いて軋ませた。
かわりに前に出たのは浮游だった。
「――下がれ、九郎丸。狗たちは十分に刻を稼いでくれた」
浮游の言葉どおり、彼は戦いの準備を終えていた。
背中の櫃を下ろし、その中から奇妙なものたちを取り出していたのだ。四体もの人形である。
人形はそれぞれ、巻物と大鎌を持った男性神、玉串と刀を持った男性神、腕だけが異様に巨大な男性神、そして肌もあらわな美しい女性神を模している。
天岩屋戸《あまのいわやど》の神話である。
大鎌を持った神は天児屋命《あまのこやねのみこと》。刀を持った神は布刀玉命《ふとだまのみこと》。腕の巨大な神は天手力男命《あまのたぢからおのみこと》。そして女性神は天鈿女命《あまのうずめのみこと》を象っているのだ。
だが、神々を模したにしては、その人形たちは皆どこか邪悪で禍々しい。
浮游が、笙を演奏する。
それにあわせて、神々が動き出す。
天鈿女命がゆらゆらと舞い踊り、天児屋命と布刀玉命が左右から、天手力男命が正面から鬼王丸に近づいてくる。
人形の背丈は、どれも鬼王丸の胸までもない。傀儡としては大きな部類だが、せいぜい小柄な娘程度である。しかし、その動きは生きている人間とほとんど見分けがつかない。
浮游の笙の音色にあわせて、四体が、まるで一つの生き物のように移動する。
「……面白い技を使うな」
つぶやいて、鬼王丸が馬から降りた。騎乗したままでは、背の低い人形まで太刀が届かない。逆に人形によって馬の脚が傷つけられるのを恐れたのだ。
浮游の奏でる笙の音が、ひときわ甲高くなった。
天鈿女命が乳房を突き出し、鬼王丸を幻惑するように激しく踊る。同時に三体の男神が動いた。一斉に鬼王丸に向けて飛びかかる。
鬼王丸は太刀を一閃させた。その動きには、普段の彼の剣撃ほどの鋭さはなかった。呼吸をしない人形が相手では、攻撃の間合いを上手く計れなかったのだ。
それでも鬼王丸の太刀のほうが早かった。
鈍い打突音を残して、人形の額が割れ、手足が歪んだ。
しかし人形の動きは止まらない。しょせんは造りものである。額を断ち割られようと手足が砕けようと、痛みを感じることもなければ、恐怖に怯むこともないのだ。
天手力男命の両腕が、棍棒のように鬼王丸をめがけて振り下ろされた。天児屋命の大鎌と、布刀玉命の刀が、それぞれ鬼王丸の手足を狙う。
鬼王丸はそれらを地に転がってよけた。紙一重の間合いだった。鬼王丸の乱髪が、切り裂かれて何条か宙に舞った。
起きあがりざまに鬼王丸は太刀を振るった。人形たちに向けて斬りつけたわけではない。空中を薙いだのだ。ちょうど笙を奏でる浮游と、男性神三体の人形たちの中間の場所である。
鬼王丸は、浮游が笙で人形たちを操っているとは思っていない。
傀儡であれば、そこには細い糸が張ってあるはずなのだ。それを断ち切ろうとしたのである。人形たちを操っている糸を断ち切れば、もう人形を相手にする必要はない。しかし――
「なに……?」
手応えのなさに、鬼王丸がうめいた。
笙を抱く浮游の唇に、笑みが浮いた。浮游と人形たちの間には、糸などは張られてはいなかった。鬼王丸の太刀は虚空をすり抜けただけである。
「馬鹿な――ほんとうに笙の音色で人形たちを操っているというのか?」
鬼王丸の表情に、驚きが浮いた。焦りというよりも、不可思議な手妻を見せられた子どものような、好奇心に満ちた表情だった。
三体の人形が、くるりと鬼王丸のほうを振り返る。残る一体――天鈿女命も移動していた。
もしも浮游が人形たちを糸で操っているのなら、その三体と一体を操る糸は、交差して絡まってしまう。そのような位置関係である。
浮游の笙が鳴り、天鈿女命の腕が小さくひるがえる。
三体の人形が、鬼王丸を背後から襲った。それらをかわして鬼王丸は走った。彼が向かったのは、浮游のいる方角である。人形たちの動きを止めることができないのならば、その人形たちを操っている人形遣い本人を斃すしかない。それは当然の考えである。
浮游の笙の音が怯えたように乱れ、それにあわせて人形たちの動きが素早くなる。
人間には真似のできない奇怪な動きで、天児屋命と布刀玉命が、鬼王丸の前に回りこんだ。主人である浮游を守るような動きだった。
しかし鬼王丸は、その二体の人形を破壊しようとはしなかった。
鬼王丸が狙っていたのは浮游でもなかった。彼は、浮游の眼前で突然くるりと向きを変え、なにもない虚空に向けて再び斬りつけたのだ。
「あっ……!」
笙が止み、浮游がうめく。だが、その声は童形の小男の口から漏れたものではなかった。美しい半裸の娘――天鈿女命が表情を動かしている。造りものの仮面であるはずのその表情を。
笙を奏でていた男が、ゆっくりとくずおれた。それはまさしく糸の切れた人形のような動きであった。かたかたと硬い音を立てて倒れ伏し、それきり男は動かなくなる。
その身体から、細い糸が伸びていた。鬼王丸の太刀が切断した糸である。
人形を操っていると思われた浮游こそが、実は人形。
そして人形だと思われていた娘こそが、浮游の本体だったのだ。
「……なぜ、わかった……」
娘が、浮游の声でつぶやく。
造りものの人形のように美しい娘。しかし彼女の左右の手には、それぞれ指が六本ずつあった。その手があればこそ、娘は同時に四体もの人形を、あれほど自在に操れたのだ。
笙を奏でていた男と、他の人形の間に操り糸があるわけもなかった。なぜなら彼らは人形同士だったからだ。すべての糸は、天鈿女命――彼女のほうに伸びていたのだ。
「都で帝の護衛などしていれば、めずらしい手妻の類を目にすることもある」
鬼王丸の声は苦笑しているようだった。
「俺が見たのは、紙人形を踊らせるというものだった。真上から糸で吊り下げているように見せかけて、実は斜め方向から吊っている。だから人形の頭上や背後に手をかざしても、糸には触れない。誰も人形を操っていないように思える――そのときのことをふと思い出した」
娘はなにも答えない。
地面に倒れ伏した人形の身体から、油のようなものが滲み出る。もし鬼王丸がその仕掛けに気づかず笙を奏でていた男を斬っていたら、その瞬間、全身に油を浴びることになっていただろう。そこに種火を投げつけられたら、たちまち火だるまになっていた。
それが浮游の術。笙を奏でていた男は、本体に見せかけた囮だったのだ。
娘の華奢な手が、ゆっくりと舞った。
「よせ――」
鬼王丸が鋭く言った。だが、娘の動きは止まらなかった。
その舞にあわせて、残る三体の人形が動き出した。鬼王丸をめがけて突っこんでいく。
ちっ、と短く舌打ちし、鬼王丸が跳んだ。
人形たちが斬りかかるよりも早く、鬼王丸は、無防備に舞い続ける娘の首筋に手刀を叩きこんでいた。声もなく娘は失神し、人形たちは魂を抜かれたように地面に転がった。
九郎丸はそれを立ち尽くしたまま見つめていた。
「まだやり合うか?」
鬼王丸がゆっくりと振り返る。呼吸一つ乱していないわりに、彼の声には疲れたような響きがあった。
「なぜ……斬らなかった」
九郎丸は、倒れた娘を見下ろしながら訊いた。
浮游だけではない。九郎丸の狗たちも、鬼王丸は斬ろうとはしなかった。しばらくは起き上がれなかったり、足を引きずるようなことになるかもしれないが、すぐに命にかかわるような深い傷は負わせていない。
「なにも死ぬことはあるまいと思っただけ――気まぐれだ。今さら不浄の血を避けたところで、どうなる身の上でもないが、さすがに物言わぬ獣や娘を斬るのは本意ではないしな」
太刀を無造作に下げたまま、鬼王丸はため息をつく。
九郎丸は無言のまま歩き出し、気絶した娘――浮游を抱え上げた。
「……菅原景行のことは、心配無用だ……我らの頭領が客分として丁重に扱っている」
かすれた声のつぶやきに、鬼王丸が眉を上げた。九郎丸の言葉が意外だったのだろう。自分でも、どうしてそんなことを言う気になったのかわからない。
九郎丸は彼に背を向けた。倒れている狗たちを起こし、傷の具合を確かめる。
「我らが追わずとも、朝廷の追捕使は、すでに諏訪に入っている……おそらくその将は……」
「――貞盛か」
九郎丸は黙ってうなずいた。
「諏訪を出ろ、将門……景行のことは悪いようにはしない。我らの頭領は……ああ見えて義に厚い男だ」
違う形で出会っていればおまえともいい友人になっただろう――とは口に出せなかった。が、鬼王丸が面白そうに目を細める気配がした。
「そのようだな。甲賀の民――おまえを見ていると、よくわかる」
「……九郎丸だ」
狗たちが息を吹き返すのを待って、九郎丸は歩き出した。背後から、鬼王丸の声がする。
「覚えておこう……さらばだ、九郎丸――」
九郎丸はなにも言わず、小さくうなずいた。
死ぬな、と口の中だけでつぶやく。祈るように。
振り返るともう鬼王丸の姿は消えていた。
あとに残っていたのは、隠しようもない孤独の臭いだけだった。
4
平安京は大内裏の南西――談天・藻壁門内、典薬寮の西に左馬寮《さまりょう》。その南、諸陵寮の西には右馬寮《うまりょう》がある。馬寮とは、御所の御厩の馬、馬具を掌る役所。その職掌の一つとして、官牧の馬の取り扱いがあった。
官牧とは御牧。勅旨にて諸国に置かれた牧場のことである。『延喜式』によれば甲斐、武蔵、上野、そして信濃の四カ国に計三十二牧があったという。
そのうちの半数が信濃にあり、諏訪郡には岡谷牧、山鹿牧など五牧が置かれていた。
夜明け前――鬼王丸が戻ってきたのは、その官牧の牧司の領地であった。
北向きに広がるなだらかな牧草地である。
木々の隙間からのぞく夜空の色が薄くなり、少し前から風が止んでいる。
野馬除けの柵で囲まれた領地の脇を、鬼王丸は愛馬を引いて歩いていた。細い捷径を抜けたところで、その足が不意に止まる。
見知らぬ男が、道を遮るように立って鬼王丸を見つめていた。
都人ふうの装束をまとった男である。まだ若い。
鬼王丸に劣らぬ長身だが、受ける印象は大きく違っている。口元には穏やかな微笑が浮かび、近寄りがたいようでいて奇妙な愛嬌のある男だ。空を漂う雲に似た、とらえどころのない若者。自由なようでいて、その姿にはどこか翳《かげ》がつきまとう。
「――何者だ?」
鬼王丸は太刀を握った。男が腰に提げているのは、短い飾り太刀。鬼王丸の太刀とまともに打ち合えば、それだけで折れてしまいそうな儀礼用のものだ。が、それでも斬りつければ人の命を奪うことぐらいはできる。それ以上に、男の姿には底知れぬ恐怖を感じた。只者ではない。
「陰陽道賀茂家――賀茂保憲」
静かな声だった。静謐な水面を思わせる、冷ややかな声。
「大和葛城の陰陽師がなぜこのような場所にいる」
鬼王丸の目は男を見据えて動かない。男はその視線を正面から受け止めて、笑った。
「太政大臣藤原忠平の命を受けた」
「――忠平様の?」
鬼王丸は眉を寄せた。その言葉を聞いて、保憲はからかうように言った。
「忠平様か……今でもあの男のことをそう呼ぶのだね。逆賊の将とも思えぬ律儀さじゃないか」
「恩人だからな。都にいたころは世話になった。温厚でものの道理のわかったお方だ」
「そのような男でも権力の座に長く在れば腐る。あの男は、あなたが連れている渡来人の娘をご所望なのだそうだ」
「……柊を?」
鬼王丸は低くつぶやいた。驚きはなかった。
忠平ほどの男が、柊の存在にいつまでも気づかないということはないだろうし、気づいてしまえば手に入れずにはいられない。都で地位を得るとはそういうことだ。不死の秘密と秦国の遺産――手に入れれば、藤原家の栄華を盤石のものにする格好の武器となる。それよりも、
「なぜ、俺がここに戻ることがわかった――尾《つ》けていたわけではあるまい?」
鬼王丸は息を吐く。異能の力を誇る甲賀の民ですら、鬼王丸に追いつくのに三日かかったのだ。その彼らを出し抜いて、待ち伏せなどできるはずがない。
「占った――」懐から取り出した羅板を見せて、保憲は笑った。「と言いたいところだけれど、残念ながら陰陽の術とはそれほど都合のいいものではない。つまらない謎解きだ」
「謎解き?」
「傷ついた柊殿を休ませるために、あなたは身を隠さなければならなかった。だがここは敵の地元で、しかもあなたは目立つ馬を連れている――となれば、隠れられる場所は多くない。馬を隠すのに牧の中は最適だろう。官牧は朝廷の直轄地だから、兼家もおいそれと手が出せない」
「なるほど……」
「もともと諏訪は、朝廷に対する反感が根強い土地だ。しかも馬の飼育には、多くの渡来人の末裔が携わっている。傷ついた渡来人の娘を庇ってくれと頼めば厭とは言うまい。代価として、その見事な馬の一頭も差し出せば尚更だ」
「で……なにが狙いだ、保憲とやら――」
鬼王丸は苦笑しながら、気怠げにつぶやく。
「そこまでわかっていて、なぜ俺の留守中に柊を連れ去らなかった?」
保憲は、わずかな沈黙の間を置いた。かすかに漏れたため息とともに、彼の気配が変質する。鬼王丸は無意識に太刀の柄を握る手に力をこめた。
それに気づいた保憲は、歯を見せて笑う。この男には似つかわしくない空虚な笑みだ。
「忠平の依頼を果たす前に、少しばかり自分の望みを叶えたいと思った」
「望み?」
「そうだよ、鬼王丸――わたしは知りたいのだ。この世に真に揺るぎないものがあるとすれば、それは一体なんなのかということをね」
「なんだ、それは」
油断なく構えたまま、鬼王丸は苦笑した。なぜそのようなことを俺に訊く、と。
「陰陽道とはしょせん詭道《きどう》だ。人心を惑わし、それを操る。望めばわたしは朝廷そのものすら操ってみせる――だがそれは、武力や恐怖で他人を押さえつけているのと変わりない。いずれ人々の心は反撥し、彼らにかけた呪いはわたしの身に返ってわたしを滅ぼすだろう」
保憲は笑わない。袖口から出した彼の手には、数枚の呪符が握られていた。
人を呪わば穴二つという。呪詛は、いずれ必ず術者に返って災いをもたらすのだ。
「だが、鬼王丸。あなたは違う。同じように武力と恐怖で人々を支配したはずなのに、戦いに敗れたあとも、あなたを慕う者はあとを絶たない――その揺るぎない想いの源を、わたしは知りたい。でなければ我ら陰陽師は救われぬ」
「そんなことのために俺と戦うというのか、保憲?」
鬼王丸が低くつぶやいた。
保憲は無言で掌をひるがえす。そこに握られていた呪符たちは、いつの間にか同じ数の刃に変じていた。握りのない細身の短刀である。
「……神仏の力の成り立ちを知り、死すら絶対でないことを知ってしまった我ら陰陽師には、すがるべき信心の道すら残されていない。ならばせめてあなたの首を獲って、この世の栄華を極めるまで。それがおそらく我が父の願いでもあるはず――」
「俺を……鬼王丸と呼んだな、保憲?」
鬼王丸は太刀を抜く。その名は将門の幼名。今となっては、一族のわずかな生き残り以外に知るはずのない名前である。保憲は冷ややかに微笑んでみせる。
「――夜叉姫を、わたしはこの地に連れてきた」
その言葉に、鬼王丸の肩が一瞬だけ震えた。夜叉とは鬼王丸の娘、五月姫のこと。娘らしい習い事に興味を示さず、弓射や方術などにばかり没頭した彼女を、鬼王丸がたわむれにそう呼んだのだ。保憲がその名を知るはずはない――本人の口から聞かない限りは。
「これでお互いに戦う理由ができたようだ、鬼王丸」
保憲の腕が、右から左へと緩く舞った。その指先から銀光が放たれた。
指の間に挟みこんでいた数本の短刀が、鬼王丸をめがけて飛んだのだ。
ゆるりとした腕の振りと、短刀を投げ放つ直前の鋭い手首の返し。相反する二つの動きが、間合いを狂わせ、いくつもの刃が時間差で鬼王丸を襲った。
だが、そのときすでに鬼王丸は、刃の軌道上にはいなかった。
投げ放たれた刃をも凌ぐ速度で、鬼王丸は跳んでいた。抜刀した太刀を背中に乗せるように構え、乱髪の長身が、獣のように低く沈む。
疾走する鬼王丸の速度に、保憲は振り返るのが精一杯だった。
立ちすくむ彼の痩身を、鬼王丸は横薙ぎに斬り払う。だがその腕に手応えはない。
「くっ……」
鬼王丸は短くうめいた。太刀が走り抜けた瞬間、保憲の身体がさらさらと崩れ落ちたのだ。
呪符。無数の呪符が、人の形を象って、まるで保憲がその場にいるように鬼王丸に思いこませたのだ。幻術だ。
形代《かたしろ》のどこかに火種を仕込んであったのだろう。鬼王丸が舞い散らした呪符が、空中で次々に燃え上がった。
その一枚がはらりと落ちた瞬間、鬼王丸の周囲を取り囲むように、地面に五芒星の紋様が浮かび上がる。炎で描かれた五芒星――火計である。保憲は、この場所に前もって火計の準備を整えていたのだ。浮游が鬼王丸に仕掛けた罠と同質のものだが、保憲のそれははるかに洗練されている。鬼王丸の目をもってしても、保憲の幻術を見破ることはできなかったのだ。
「これが……賀茂か」
炎の中で、鬼王丸は凄絶に笑った。
その呼びかけに応じるように、鬼王丸の背後に保憲の姿が現れた。
吾是天帝所使執持金刀
非凡常刀 是百錬之刀也――
保憲もまた同じように笑っている。炎の五芒星は見事に鬼王丸の退路を断ち、同時に保憲の盾になっていた。これほどの方術を、この若さで平然と使いこなす保憲に、鬼王丸は正直あきれた。おそらく父親の賀茂忠行ですら、この男には遠く及ぶまい。
そして鬼王丸はようやく保憲の気持ちを理解した。
この男は、自分に似ているのだ。
ありあまるほどの実力を持ちながら、都はそれを受け入れてくれなかった。彼のすごさを理解してくれる者はどこにもいない。彼の力を高めてくれる敵もいない。
それでも鬼王丸は、坂東の地に理想を追うことができた。しかし、保憲にはそれすらもない。
だから彼は鬼王丸に戦いを挑んだ。かつての将門が、朝廷に弓引いたように。
いいだろう、と鬼王丸は思う。ここで彼に敗北を教える。それは、鬼王丸に与えられた使命なのかもしれない。だが、勝てるか――?
一下何鬼不走 何病不癒
千妖万邪皆悉済除、急急如律令――
炎の中で鬼王丸は剣を構える。
その顔に獰猛な笑みが浮かぶ。肉体がぎりぎりと緊張して、興奮に震えた。
保憲は印を結び、呪言を唱える。
左の掌中に呪符が現れ、右手でゆっくりと太刀を握る。そして、
「――神兵火急如律令」
呪言を終えた保憲が太刀を抜いた。
それが、始まりの合図だった。
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第六章 賀茂
1
その軍勢が、甲賀の民の集落に向けて動き出したのは、夜が明けて間もなくのことだった。
黒備えの鎧具足をまとう武士団。兵数は四百騎余。平貞盛が率いる追捕使の軍である。
足場の悪い狭い山道を平然と進む彼らの姿を、蒼頡は、数里ほど離れた場所から見下ろしている。蒼頡の隣には白那恰。そして彼らを従えるようにして、一人の娘が、断崖から身を乗り出していた。数えで、せいぜい十三、四歳。まだ女童の衣装のほうが似合いそうな若い娘だ。
夜叉である。
「――あと一刻、集落を出るのが遅れていれば、まともに行き会っていたかもしれぬ。危ないところだったなあ」
大きく迫《せ》りだした腹を揺らして、白那恰が息を吐く。糸のように目を細くして、彼は笑っていたらしかった。一見すると愚鈍そうな巨体に反して、白那恰は饒舌で頭が回る。貞盛の軍の進路を予想して、それを避けるこの峠道を選んだのもこの男だった。
夜叉は、貞盛が追う将門の娘だ。奥州に逃れたはずの夜叉がこの地にとどまっていることを貞盛が知れば、間違いなく彼女にとって面倒な事態を招いたことだろう。
その夜叉は、瞳に怒りの色を映して貞盛の軍を睨みつけている。彼女にとっても、貞盛は敵。朝廷を動かして父親を攻め、彼女の一族を虐殺した仇敵なのだ。
「……奇妙な弓を持っている……な」
蒼頡が目を凝らしてつぶやく。
尋常ならぬ視力を誇る蒼頡の視界には、追捕使たちの軍勢が持つ奇妙な武具の姿が映っていた。反りの強い漆塗りの弓。彼らの馬が背負う馬具も、馴染み深い大和鞍とは少し違っている。
「弓幹《ゆがら》の背と腹に、それぞれ苦竹《まだけ》を張った打弓《うちゆみ》だ。七尺五寸ほどの長さで、梓弓あたりの九尺に匹敵する強弓が作れる」
そう告げたのは夜叉だった。幼さの残る彼女の声に、今は口惜しそうな響きが混じっている。
「舌長《したなが》の鐙は馬を速く走らせるには向かないが、馬上で太刀を振るう際に足場となる――元は乗馬に不慣れな者のために都で編み出された技術らしいが、それを父上が坂東に持ち帰った。戦場ではこのほうが扱いやすいだろうと言って」
「その技術を貞盛が奪って、配下の兵に与えたということか。噂に聞くとおり、目敏い男だの」
白那恰が、感心したように低くつぶやく。夜叉は腹立たしげに白那恰を睨みつけたが、反論しようとはしなかった。無言で下唇を噛みしめる。
「……単純に良い武具を揃えている、というだけではあるまい」
蒼頡は静かに息を吐いた。おう、と白那恰が重々しくうなずいた。
「将門が去った今、平一門を束ねているのは貞盛よ。その貞盛の私兵ということであれば、勇猛で知られた坂東の丈夫の中でも、特に優れた兵をかき集めてきたと思って間違いなかろう。しかも奴ら、これまでに幾度も将門の軍との戦を経験している。血統や官位を振りかざすだけの都の兵どもとは違う。手強いぞ」
「早々に……諏訪を離れたほうがいいな」
夜叉を振り返って蒼頡は告げた。抜け目のない貞盛のことである。四百騎の本隊とはべつに、多数の斥候をこの地に放っていることは容易に想像できた。彼らに見つかる前に、安全な土地まで夜叉を連れ出さねばならない。それが甲賀の民の頭領、望月三郎兼家が蒼頡たちに下した命令だった。
「母や兄弟の敵を目の前にして、逃げろと言うのか。坂東の武人の血に連なるこのわたしに?」
懐の短刀を握りしめて、夜叉が薄く笑った。ふざけているような表情だったが、その声には、貞盛に対する憎悪がはっきりと滲んでいる。
「勘違いするな、娘……我らがそなたを護衛するのは、頭領の命令に従っているだけのこと。頭領の温情に感謝して、おとなしく我らについてくるがいい……」
なかば脅しの意味もこめて、蒼頡が言う。
蒼頡は彼女に良い印象を抱いていない。彼女の前で、賀茂保憲の幻術に惑わされて醜態をさらしてしまったという負い目もある。そのせいで、物怖じしない夜叉の態度が小癪なものに感じられる。しかし夜叉はなおも笑い、
「温情か……しかしな、兼家殿は、なにもわたしの身を案じて諏訪を離れろと言ったわけではないのであろう?」
「なに?」
「わたしが貞盛に捕らえられて人質に使われるようなことがあれば、追われている父上が一方的に不利になる。そのことを兼家殿は恐れたのではないのか?」
「…………」
蒼頡はなにも言えなかった。夜叉の指摘が真実を衝《つ》いていたからだ。口ごもる蒼頡を見て、夜叉は猫のように目を細めた。
「どうやら兼家殿は、まだ貞盛を出し抜くことを諦めたわけではないようだな。もとより兵数では貞盛が圧倒的に優位なのだ。さらに人質まで与えては、父上の身柄を奪う隙をうかがうこともできぬ。それでは甲賀の民としては面白くないのではないか?」
「む……」
蒼頡が苦々しげに唇を噛む。
正直に言えば驚いていた。夜叉の言葉はことごとく蒼頡たちの思惑を言いあてている。
甲賀の民は、誰一人として、兼家が素直に貞盛の言いなりになっているなどと思っていない。
将門を討つにせよ捕らえるにせよ、最終的な手柄を手に入れるのは自分たちだと確信している。
そのためには、夜叉という有利な手札を貞盛に与えるわけにはいかなかった。夜叉を捕らえる理由があったのはむしろ兼家のほうだ。
その兼家が、夜叉を生かして送り出したのは、半分は景行の歓心を買うためであり、残る半分は彼の気まぐれに過ぎない。そして夜叉自身、そのことを十分に理解しているらしい。
都の陰陽師に連れてこられただけの小娘だと侮っていた。物怖じしない態度は無知の裏返しに過ぎないと。しかしそうではなかった。彼女は、自分の置かれている危うい状況をわきまえている。その上で怯むことなく自らの目的を果たそうとしている。
徹底して行われた将門の残党狩りを、彼女だけが生き延びてこの諏訪までたどり着いたのも、ただ運が良かっただけではないらしい。
「驚いたなあ、蒼頡よ。いや――さすがは将門の娘。つまらない駆け引きは無用のようだ」
白那恰が声を上げて笑った。大きな掌で蒼頡の肩を叩き、ゆったりと夜叉に向き直る。
「そこまで自分の立場がわかっているのなら、我らが今さら説き伏せる必要もあるまい。さて、どこに行く、夜叉姫? 貞盛の放った斥候のことなら気にせずともよい。諏訪の外まで無事に送り届けることは約束する……我らの頭領の命令だからな」
力強く言い切る白那恰を見返し、夜叉は短く返答した。
「ならば我が父、将門公の許まで」
その答えに白那恰もしばし絶句した。
追捕使に追われている将門と合流するということは、自ら死地に赴くのとほぼ同義だ。それでは兼家が夜叉の命を救おうとした意味がない。
「本気か? あの軍勢は……みな将門を追っているのだぞ?」
眼下の追捕使たちを見下ろして、蒼頡が訊き返す。しかし夜叉は平然とうなずいた。
「わたしの望みは父上と再びまみえることだ。ほかにない。景行殿のように貞盛の軍にまぎれることができない以上は、わたしはわたしで公を追うしかない」
「……悪いが、その望みは聞けぬ。そなたをむざむざと危険な目に遭わせては、我らが頭領との約束を違えることになってしまう……」
蒼頡が怒気をこめた声で言う。それでも夜叉は微笑を浮かべた。
「兼家殿はわたしに、どこなりと好きなところへ行け、と言った」
「それは」
「案ずるな、そなたらに最後までつきあえとは言わぬ――諏訪を抜けるまででいい。将門公の通った道筋を案内してもらいたい。できないものを無理にとは言わないが」
あどけなさの残る眼差しで、夜叉はからかうように蒼頡たちを見上げた。甲賀の民の実力を見届けてやろうという、若者ならではの無邪気で挑戦的な視線だ。
「――将門のあとを追うだけでいいのか?」
嘆息まじりに言ったのは白那恰だった。蒼頡は、咎めるように彼を睨んだ。
「よせ……白那恰」
「いいではないか、蒼頡。ここまで言われて引き下がれるものか――姫よ。将門が信濃を出て能登に向かうというのならば、おそらく梓川に沿って飛騨へと向かうはず。我らが手を貸せば、奴の行く手に先回りすることも不可能ではないぞ」
「いや。それでは意味がないのだ、白那恰殿――わたしは父が通った道を知りたい」
「なぜだ? 貞盛の目を逃れるためにも、ひとまず迂回したほうがいいと思うが?」
「それでは、保憲に会えないだろう?」
夜叉が短くため息をつく。意外な人物の名が出たことに、蒼頡は驚いた。
賀茂保憲。夜叉を諏訪に導いた都の陰陽師だ。
「保憲が、ただの気まぐれで姿を消したとは思えぬ。藤原忠平が奴に下した使命は、父上から柊を奪うことだ。ならば保憲が一人で集落を出た理由はひとつしかない――」
「……将門と戦うつもりだと言うのか? たった一人で?」
驚いて問い返す蒼頡に、夜叉はうなずいた。
「保憲はこの土地に不慣れなのだ。急げば、まだ追いつけるかもしれぬ。わたしならば保憲を止められる――父と戦わせてはならぬ」
「しかし、相手はあの将門だろう?」
怪訝な表情で白那恰が顎を撫でた。
「陰陽師ごときが一人で戦いを挑むのか? あの幻術で、渡来人の娘とやらを奪い去るというのならわからんでもないが、まともな戦いにはなるまい?」
「……いや……あの賀茂の術ならば……」
蒼頡は思わず言い返していた。
たしかに将門の武力は圧倒的だ。それは妙見衆徒の僧兵団を壊滅させた際の、鬼神のごとき戦いぶりが証明している。一対一の戦いでは、おそらく貞盛や兼家でも遠く及ぶまい。
だが、その将門に戦いを挑んでいるのは、武士ならぬ陰陽師である。それも大和葛城の流れを汲む賀茂家の嫡男。彼の操る方術のすさまじさを、蒼頡は身をもって味わっている。あの男の技ならば、将門を討ち取れるのではないか――そんなふうに思えてならない。
夜叉も同じ不安を抱いているのだろう。そうでなければ、仇敵である貞盛の姿を前にして、彼女がこの場をおとなしく立ち去ろうとするはずがない。あるいは、夜叉がそのように振る舞うということまで見越して、保憲は単身、将門を追ったのかもしれなかった。あの底知れぬ才を持つ陰陽師ならば、そのような流れを読んでいたとしても驚くにはあたらない。
「……いずれにせよ……我らも将門のあとを追うしかない……な」
蒼頡は北西の山並みを睨んでつぶやいた。今から追って、将門たちの戦いを止められるとは思えない。それでも結末だけは知っておく必要がある。もし保憲が将門を打ち破り、渡来人の娘を連れ去ったとしたら、場合によっては蒼頡たちが保憲と戦うということもあり得た。
それに、先に将門の行方を追って出て行った九郎丸たちのことも気にかかる。
「追えるか、蒼頡よ?」
白那恰がのんびりと訊いてくる。蒼頡はうなずき、
「……追える。九郎丸たちが、目印を残してくれている……」
「目印?」
夜叉が訝しげに周囲を見回した。ごくありふれた山道である。普段は通る者も少なく、道は下草に覆われて荒れていた。苔むした岩肌から湧き水が流れ出し、小さな石塊が転がっている。
「……これは我らが仲間との合図に使うものだ……」
蒼頡は屈みこんで、散らばった石を拾い上げる。どこにでも転がっていそうな小石だが、丸く削られたその形は、本来であれば川の下流でしか目にすることはないはずだった。その石の数や配置で、蒼頡たちは必要な情報を仲間に伝えることができるのだ。
「……その石が?」
夜叉が驚いたように目を大きくする。
「細石《さざれし》も君し踏みてば玉と拾はむ――というやつだな」
白那恰が得意げにつぶやいた。やめておけ、と蒼頡は白那恰を睨む。
白那恰が口にしたのは、東歌の一節だ。
信濃なる筑摩の川の細石も君し踏みてば玉と拾はむ――ただの小石も、あなたがそれを踏んだと思えば玉と思って拾おう、という意味である。
「万葉集か……よくすらすらと思い出せるものだな」
夜叉が愉快そうにつぶやいた。隔離された地に住む甲賀の民が、そのような知識を持っていることが意外に思えたのだろう。
あまり知られていないことだが、蒼頡たち甲賀の民の多くは文字を読みこなし、都の事情にも通じていた。他国の領民に比べれば、識字率ははるかに高い。朝廷の支配を受けないということは、その庇護も得られないということであり、その中で生き延びるためには、教養も決して疎かにできない「力」のひとつだったのだ。
だが、都の貴族たちにしてみれば、地方の一部族が都人を真似て、和歌や漢籍を学んでいる姿は滑稽に思えるだろう。諏訪の豪族たちは甲賀の民に敬意を抱いているが、それはあくまで戦乱の際の傭兵としての働きを認めているだけである。
どれだけの教養を身につけたとしても、蒼頡たちが甲賀の民である限り、決してそれが報われることはない。長年の経験から、蒼頡はそのことを学んでいた。だから、やめておけ、と白那恰に告げたのだ。白那恰自身、歌を詠んだときの唇には自嘲の笑みが浮いていた。
しかし、夜叉が彼らを蔑むことはなかった。むしろ感心したように笑って言った。
「うらやましいな。わたしにはその方面の素養はないのだ……そなたたちは、ほんとうに色々なことを知っている」
本気の眼差しで、白那恰を見上げてつぶやく。そのような夜叉の反応は予想していなかったのだろう。白那恰は、面食らったように蒼頡と顔を見合わせた。
蒼頡は無言で、夜叉の姿を見下ろした。
将門は領内の和人はもとより、渡来人や俘囚からも慕われていたという。その理由が、この娘を見ているとわかるような気がした。
血統や出身とは無関係に、その者の能力が優れていると知れば、夜叉は素直にそれを認める。おそらく将門という男も、そのような人間だったのだろう。
「それで……我らはどちらに向かえばいいのだ? その石はなんと伝えている?」
石を拾い上げた蒼頡の手元を無遠慮にのぞきこんで、夜叉が訊いた。
頭巾で覆った蒼頡の口元に、我知らず微苦笑が浮かんでいた。
もしかしたら保憲が、足手まといでしかない夜叉をわざわざこの地まで連れてきたのも、彼女のこのような邪気のなさに惹かれたせいなのかもしれなかった。
「九郎丸たちがこの場所を通り過ぎたのは、一昨日の夕刻。怪我人を抱えている将門が相手なら、奴らが国界を越えるころには追いつく……」
そう言って、蒼頡は握っていた石を地面に落とす。
夜叉は、まるで石遊びをする子どものように、その石を踏んで元どおり地面に埋めた。そして市女笠で顔を隠す直前、蒼頡を見上げて、華やかな笑顔を見せた。
「急ごう――案内を頼む」
2
狭義の陰陽師とは、律令に定められた陰陽寮における役職を指す。官位相当で従七位下。職掌は占筮相地《せんぜいそうち》――占いである。律令下における陰陽師とは方位や地相の吉凶を判断し、天候や国事の成否を占断する技術職だった。今日でいうところの占術家ということになる。
陰陽道は呪術的な側面を色濃く持ち合わせた思想だが、陰陽師とは本来、呪術や祭祀をその職務の中心としていたわけではない。陰陽寮の職掌は、あくまでも占術と天文観測や暦の作成、そして漏刻――時刻の管理であった。
にもかかわらず、時代の流れとともに、物忌や方違えなどの陰陽道的習慣が一般にも浸透し、朝廷では盛んに陰陽道祭祀が行われるようになった。かつては典薬寮の呪禁師や在野の呪術師が担っていた役割を、陰陽師が請け負うようになったのだ。
すなわち奈良時代から平安時代にかけて、陰陽師の呪術面が強調されるような変化が起き、それが陰陽道の権威を増していったということになる。
それは奇しくも、大和葛城の修験者を祖に持つ賀茂家の一族が、台頭を始めたのと同じ時期であった。
天為我父 地為我母
在六合中南斗北斗三台玉女――
四方を囲む炎の熱気を浴びて、鬼王丸は歯を軋ませる。響き渡るのは賀茂保憲の呪言。
その声に操られ、無数の呪符が宙を舞っている。
早朝の空は暁の光を浴びて赤く、地を這う炎と一体になって、鬼王丸の周囲のすべてを真紅に染めていた。大地に炎で描いた紋様は巨大な五芒星。保憲があらかじめ火計の準備を整えていたものだ。
火勢はそれほど強くない。鬼王丸の脚力をもってすれば、炎の壁を乗り越えることも不可能ではない。それでも鬼王丸は動けなかった。
真に恐ろしいのは炎ではない。鬼王丸の視界を奪うように宙を舞う呪符と、炎の向こう側で待ち受ける保憲だ。陰陽道は詭道であると言い切った保憲である。鬼王丸と戦うにあたって用意した策が、火計だけということはあるまい。視界を奪われたまま炎を突き抜けようとすれば、その瞬間、鬼王丸は無防備になる。保憲はそれを待っているのだ。
「――さすがは神将。これだけの炎に囲まれて、よくもそれほどまでに落ち着いていられる」
炎の爆ぜる音に交じって、保憲の声が聞こえてくる。その声音には、素直な賛嘆の気持ちがこめられていた。この状況で鬼王丸が動かないとは、保憲も予想していなかったのだろう。
それでも保憲の優位に揺らぎはない。
炎は着実に鬼王丸の足元に押し寄せ、宙を舞う呪符の数も一向に減る気配を見せない。
「呪符が燃え尽きるのを待っているのならば、無駄なこと――その札は、あなたを焼き尽くすまで落ちることなく舞い続ける」
保憲の声が遠くから響いてくる。恐怖を誘うその言葉もまた、彼の方術の一部なのだろう。音と言葉を支配し暗示をかけること。それが陰陽師の常套手段なのだ。
「そうか、この炎は……」
鬼王丸は額に浮いた汗を拭った。五芒星をかたどって地面に描かれた炎。この図形は単なる虚仮威《こけおど》しの紋様などではなかった。
炎によって温められた空気は、上昇する気流の流れを作りだして風を生む。それは誰もが、経験的に知っている事実だ。そして保憲は五方向に複雑な炎の陣形を配置することで、旋風《つむじかぜ》に似た気流の流れを作りだし、その上向きの気流に乗せて呪符を舞わせていた。
地面を炎が覆っている限り、呪符は空中を舞い続ける。その呪符が保憲の姿を覆い隠し、鬼王丸は炎の中から抜け出すことができない。ひとつの方術が、次の方術を生み出す礎となる。恐るべきはそれを可能とする保憲の才能だった。
気流を自在に操ると言葉にするのは簡単だが、それを実現するのは容易ではない。風向きや周囲の地形、天候の動きまでも知悉しておく必要がある。
だが、それこそが陰陽道の本分なのである。陰陽師は気象の行方を占い、地相を観る。その同じ技をもって敵を呪い、他者に禁厭《まじない》を施すのだ。
左青龍右白虎前朱雀後玄武
前後扶翼 急急如律令――
「……!」
保憲の呪言がいっそう大きく聞こえた。鬼王丸が左腕に激しい痛みを覚えたのは、その直後だった。服の袖が裂け、流れ出した血が布地を赤く染めている。
深傷《ふかで》ではなかった。だが明らかに炎によって焼かれた傷ではない。尖った鏃のようなものが、鬼王丸の腕をかすめたのだ。
炎を透かして、保憲の姿が見える。右手に飾り太刀を持ち、左手には呪符の束。その姿ではどうやっても矢を射ることができるはずはない。仮に保憲以外の誰かが近くに潜んでいたとしても、矢を射掛けられたなら鬼王丸にはそれに気づく自信があった。
太刀が届く距離ではなく、矢で狙われたわけでもない。
「――まさか、ほんとうに呪殺ができるとでも言うのではあるまいな」
唇を歪めて、鬼王丸は独りごちた。血に濡れた袖口に、呪符が貼りついていることに気づく。保憲は身動きしていない。ただ彼が放った呪符が、鬼王丸に触れただけ。それだけで鬼王丸の袖が裂けた。呪術による攻撃としか思えなかった。
「さすが……厄介な技を使う……」
鬼王丸の唇にうっすらと笑みが浮いた。
賀茂の流れを汲む陰陽師には、このような噂があった。彼らがちぎった柳葉の一枚に触れただけで、蝦蟆《がま》は押し潰され、亀の甲羅は砕け散るのだと。
その呪力をもってすれば、太刀も矢も使わずに人を傷つけることも可能だろう。信じがたい話だが、真にそのような方術があるのなら、鬼王丸といえども対抗する手段がない。
炎を噴き上げながら呪符が舞い降りてくる。
鬼王丸は舌打ちする。右肩と左の腿。新たに呪符が触れたその二カ所が、ほぼ同時に鮮血を噴いていた。まるで矢で射抜かれた痕のように、深々と肉がえぐれている。しかし矢ではない。いくら保憲でも、同時に二本の矢を放つことは不可能だ。ましてや目に見えない矢など――
「これが真の賀茂の方術だよ、鬼王丸。我が父、忠行ですら習得することの叶わなかった、大和葛城の秘術。本来ならば、これほどの術をたった一人に対して使うことはないのだけれど、あなたならば相手に不足はない」
保憲は、炎の照り返しを浴びて笑っていた。彼が無造作に投げ上げた呪符が、気流に乗って吹雪のように舞う。その呪符のすべてが鬼王丸を傷つける力を持っているとすれば、それは、数百の軍勢の矢衾《やぶすま》に匹敵する恐るべき光景であった。
まさに一騎当千。陰陽の技を極めた保憲は、かつての将門に匹敵する益荒男《ますらお》なのだ。
これほどの方術を操る才能を持ちながら、保憲が朝廷から与えられた役職は陰陽寮の下官でしかない。保憲の傑出した能力に、都は報いることができなかった。
陰陽寮に仕える彼に与えられた役目は、形骸化した祈祷を繰り返し、些事に悩む上役の吉凶を占うこと――己の才能を無益にすり減らすような長い日々を、彼がどのような思いで耐えてきたのか、鬼王丸には理解できる。なぜならかつての鬼王丸も、都で同様の日々を送っていたからだ。それでも鬼王丸には帰るべき坂東の土地があった。しかし保憲にはそれすらもない。
やり場のないその苦悩を、鬼王丸という敵を得て、保憲は今ようやく晴らそうとしている。
彼をこの地に導いたのが、鬼王丸の旧主である藤原忠平だったというのは、奇しき縁というほかない。あるいは忠平だけは気づいていたのかもしれない。かつての鬼王丸と保憲の相似に。
「ここで俺を討ち功を上げたところで、都では余計に疎まれるだけだぞ――保憲」
太刀をだらしなく下げたまま、鬼王丸は苦笑して言った。
手を伸ばし、頭上を舞っている呪符の一枚をつかみ取る。陰陽師が怨敵を呪詛するために用いる霊符である。薄墨で複雑な紋様と禍々しい文字の列が描かれている。だが、それだけだ。ありふれた白紙に呪言を記しただけの札。刃や槍穂を仕込み得るはずもない。
「――承知している。そのようなことはもうどうでもいいのだ、鬼王丸」
保憲はうっすらと微笑した。彼の言葉が終わるよりも早く、鬼王丸の腿から新たに鮮血が散った。保憲の呪術は続いている。
炎はしだいに勢いを増し、鬼王丸の足元まで達しようとしていた。それでも呪符は地に落ちることなく、鬼王丸の視界を奪って舞い続けている。この計算され尽くした方術を破るのは、容易なことではないと思われた。せめて景行の雷槌があれば、気流を乱すぐらいはできただろうが。
「なぜ動かない、鬼王丸。天佑を期待しているのならば無駄なこと――この時刻この地に自然の風が吹くことはないし、雨も降らぬ。天候を占うのは陰陽師の本分。わたしの方術が破れることはない」
無反応な鬼王丸に苛立ったように保憲が叫ぶ。それでも鬼王丸は動かなかった。その唇には、むしろ愉しげな笑みが浮かんでいる。
呪殺が可能だなどと鬼王丸は信じてはいない。どれだけ複雑な呪文を書き連ねようと、ただの札に人を殺める力などあるわけがない。呪符に触れたことで肉体が傷ついたというのなら、そこになにかしらの仕掛けがあるのだ。なにゆえに保憲は火を焚き、これほどの呪符をばらまかねばならなかったのか。
帝にまで反旗を翻した鬼王丸が、陰陽師ごときの呪詛を恐れて冷静さを失うとは、保憲も思ってはいないだろう。この炎や呪符はただの儀式などではない。必ずなにか目的がある。
「雨は降らない、か」
左腕の傷口を舐めて、鬼王丸はつぶやいた。
頭上から無数の呪符が雪のように降ってくる。太刀を振るえば、そのうちの何枚かを打ち落とすことはできるだろう。だが、呪符のすべてを払いのけるのはとても不可能だった。それでなくとも、不規則な動きで舞い降りてくる呪符を避けるのは困難なのだ。
そうしている間にも、数枚の呪符が燃え上がりながら、鬼王丸の身体へと触れてくる。だが、鬼王丸は逃げようとしない。そして、獰猛な笑みを浮かべて、鬼王丸は激しく息を噴いた。それを見た、保憲の表情が強張った。
「――そうでもないさ」
地平線から漏れ射す朝陽を浴びて、鬼王丸の姿が真紅に染まる。
鬼王丸が噴いたのは霧だった。口に含んでいた赤い液体を、霧のように噴き出したのだ。
「まさか、鬼王丸!? 自分の傷口から吸い上げた血を――!」
愕然とつぶやく保憲の声。鬼王丸は、血まみれの歯を剥いて凄惨に笑った。
吐きかけられた血を吸って、その重みで宙を舞っていた呪符が次々に落下する。
ほんの一瞬だけ、鬼王丸の視界が開けた。
そうでなければ、永遠に気づくことはなかっただろう。保憲の立っている方角から、炎を突き抜けて飛来してくるものがあった。小指の先ほどの小さな飛礫《つぶて》だ。
本来なら、呪符が舞い降りてきたであろう場所を、正確に狙っている。
「――指弾か!」
撃ちこまれた飛礫を、鬼王丸は太刀で打ち落とした。鉄と鉄がぶつかる音が響き、青白い火花が小さく散った。炎に遮られて保憲の表情は読み取れない。だが彼が唱え続けていた呪言が止んでいた。そのことが、彼の術の正体を物語っていた。飛礫。
「吉野の修験者が、似たような技を使う姿を見たことがある。その男は親指だけで小石を弾き、半寸もの厚さの杉板を撃ち抜いた。鉄や鉛の飛礫を飛ばすのなら、尚更だな……」
そう言って、鬼王丸は打ち落とした飛礫の正体を見る。
鏃ほどの大きさの鉄の塊。四方を尖らせた正四面体の形をしている。額や鳩尾《みずおち》などの急所にまともにぶつければ、人の命を奪うことも不可能ではないだろう。熟練した指弾の使い手なら、身構えることなく、指先の動きだけでこの恐ろしい凶器を飛ばせるのだ。
「蝦蟆を潰し、亀の甲羅を割った術というのもこれと同じ原理か――なるほどな」
いまだ空中を漂い続ける呪符を、鬼王丸は無造作に払いのける。
この呪符や柳葉は、目眩ましだったのだ。ゆっくりと舞い降りる柳葉に人々が目を奪われている間に、蝦蟆などに飛礫を撃ちこんでいただけ。潰された蝦蟆のいた場所に、小石のひとつふたつが転がっていたところで、誰も気にとめる者はいない。無数の呪符に気を取られていたために、鬼王丸でさえ飛礫の存在に気づけなかったのだ。
「まだだ、鬼王丸――まだわたしの術が破れたわけではない!」
保憲が、持っていた飾り太刀と呪符を投げ捨てた。彼が意味もなく太刀を抜いていたのは、指弾の存在に気づかせないようにするためだ。その技が見破られた以上、もはや太刀を握っている意味はない。かわりに保憲は、袖口から新たな飛礫を取り出して握る。
「無駄だ、保憲――おまえは戦う相手を間違えた」
鬼王丸が太刀を構えた。保憲は答えず、躊躇いなく指弾を撃ちこんだ。
矢をつがえる必要もなく、弓を引き絞る暇も要らない――この距離では、指弾は、弓矢などよりもはるかに恐ろしい武器だ。しかし鬼王丸は平然とそれを避けてみせた。
呪符による目眩ましはもう通用しない。闇夜ならばまだしも、指弾はしょせん人の手によって放たれた武器。その存在に気づいてしまえば、避けるのは決して不可能ではない。
そして鬼王丸は、そのままの勢いで保憲に向かって駆け出した。炎の壁は厚いが、怯むことなく走り抜ければ、せいぜい軽い火傷を負う程度で済む。そう判断したのだ。
もちろん、保憲は対抗する策を用意している。
炎の中に踏みこんだ鬼王丸の動きが止まった。動けない。保憲は、炎の中に細い鋼線を仕込んでいた。その鋼線が絡みつき、鬼王丸の動きを封じたのだ。
そして動きを止めた鬼王丸へと指弾を撃ちこもうとして、保憲の表情が凍りついた。
鋼線に絡めとられていたのは、鬼王丸の上衣だけ――
「幻術……だと!?」
保憲の声が初めて震えた。
鋼線にかかった鬼王丸の上衣が燃えている。
だが、それに袖を通していたはずの鬼王丸の姿はない。逆方向に跳んで、すでに炎の陣を抜け出している。術を仕掛けたのは、鬼王丸のほうだった。
幻術とも呼べない、あまりにも稚拙な牽制だった。それでも保憲を惑わすことができたのは、燃えさかる炎のせいだ。炎によって視界が歪められていたせいで、保憲はただの上着を鬼王丸と見誤ってしまったのだ。
「くっ」
保憲が、立ち上がる鬼王丸に向けて新たな指弾を放とうとする。
その腕が血を噴き、保憲の表情が苦悶に歪んだ。飛礫だ。打ち落とした鉄製の飛礫を鬼王丸が拾い上げ、逆に保憲に向けて撃ち返したのだ。
「破れた呪詛は、術者に返って仇を為すのだろう――保憲?」
保憲が、新たな飛礫を握り直したときには、すでに鬼王丸は彼の眼前まで詰め寄っていた。長大な太刀の峰が、陽光を受けて眩く光を放つ。
「おまえの空虚を埋めるのは、俺の役割ではない――おまえの負けだ」
つぶやきとともに、鬼王丸の太刀が深々と保憲の胴にのめりこむ。衝撃に耐えかねて、保憲の長身が宙を舞った。保憲は声を上げなかった。背中から地面に落下して何度か跳ね、それきりもう動かなくなる。
ただ喪心して倒れた彼の唇には、薄く苦笑に似た表情が浮かんでいた。
「…………」
太刀を降ろして、鬼王丸は息を吐く。
白く燃え尽きた呪符の灰が風に乗って、本物の雪のように大地に降りそそいでいく。
3
閉めきった板窓から、細い陽光が差しこんでいた。
暗い部屋。硬い板間。胸の上に粗末な衾《ふすま》がかけられている。
そのせいか、ひどく息苦しい。浅く呼吸を繰り返すたびに、脇腹のあたりが鈍く疼く。心臓の鼓動に合わせて、砕けた肋骨が音を立てて軋んでいるようだった。
一人きりで眠ると、決まって思い出す情景がある。古い記憶の中の情景だ。
場所は、時に険しい大和葛城の山中であり、時に獣や罪人たちが跋扈する夜の都であったりした。そして、そこにいるのは厳しく叱責する父の姿だ。
修行といえば聞こえはいいが、父のそれは狂気に近いものだった。己が蓄えてきたものを、そっくり移し替えようとでもするように、父は息子にすべてを押しつけた。経験と知識と、長く虐げられてきた一族の歴史と野望までも。そのすべてを受け容れて、なおも余力があったことは、はたして幸福だったのか不幸だったのか――息子の才が己の器を超えたと気づいたとき、父の瞳に浮かんだ羨望と憎悪の光を、今も彼は忘れていない。
一方で歳の離れた弟たちは、父親が自分たちを顧みない理由を、長兄である彼に求めた。
弟たちは彼を嫉み、父を恨み、家名を憎んだ。彼を庇い、兄弟の仲を取り持つべき母親は、すでに鬼籍に入っていた。自らが学んだ道の無力さを、彼が知ったのはそのときだ。
陰陽道はしょせん詭道に過ぎないのだ。冥府の王を祀りながら、真に死者を蘇らす術を持たないのだから。
「……※[#「(「にんべん+欠」の「人」に代えて「小」)/心」、第4水準2-12-47]睡醒了※[#「口+馬」、第3水準1-15-14]?」
不意に背後から声がかけられた。
聞き慣れない言葉。だが、美しい声だった。
ゆっくりと頭を巡らすと、薄闇の中に、彼を見下ろしている女性《にょしょう》の姿がある。色褪せた袿をまとった若い女だ。滑らかな白い肌と、光を反射して銀色に輝く髪――渡来人の娘。
現実感のない光景だった。
もしも天女というものがいるのなら、それはこのような姿なのだろうと素直に思えた。
汗ばんだ額に、娘の細い指が触れた。体温をまるで感じさせない冷たい指先。傷ついた彼を世話してくれていたのだろう。濡らした布切れが押しあてられて、熱を持った身体が、ほんのわずか楽になる。娘はそのまま黒い玻璃のような瞳を向けてきた。
不自然に身をよじりながら、彼は無理やりに半身を起こそうとした。苦痛を訴える肉体には、その程度のことですら難儀だった。ひどい眩暈に襲われ、視界が暗くなる。
「あなたは……?」
漠然とした彼の問いかけに、娘は黙って首を振った。言葉が通じなかったのか、それとも今は答えられないということなのか。軽く首を傾げながら、彼の胸をそっと押さえる。
さほど力をこめていたとも見えなかったが、彼は容易く平衡を失い板間の上に倒れこんだ。
「稍微恢傷了。然而、再休息是必要的。去睡※[#「口+巴」、第3水準1-14-86]」
かけなおされた衾の上から、子どもを寝かしつけるように彼の胸を軽く叩いて、娘は微笑む。何気ないその仕草に、彼はふと遠い記憶を思い出す。
――母上。
彼は再び眠りに落ちた。
賀茂保憲は目を開けた。瞼は重く、まだ夢の続きを見ているような気がする。
「――お気づきか?」
薄暗がりの中で、人が振り返る気配がした。雑袍を着た若い男だ。保憲の知らない顔である。
背丈はそれほどでもないが、振る舞いは敏活そうだった。生真面目で、いかにも実直そうな風貌をしている。正直に言えば保憲はこのような男が苦手だった。暗示にかけるのは難しくないが、陰陽の術をもってしても容易には操れない頑固さがあるからだ。
「傷の具合は? まだ痛みますか?」
問われて、保憲はようやく思い出す。鬼王丸に戦いを挑んで、敗れたのだ。
左の脇腹から鳩尾にかけて、深く脈打つような痛みがある。鬼王丸の太刀をまともに受けた傷痕だ。どうやら腰に提げていた飾り太刀の鞘が、盾がわりとなって鬼王丸の斬撃の威力を弱めてくれていたらしい。でなければ、こうして目覚めることはなかっただろう。幾多の戦場で磨き上げた鬼王丸の剣技は、噂以上の凄まじさだった。
「――ここは?」
息を吐いて、保憲は斜めにかしいだ低い天井を見上げた。粗末な建家だが、手入れは行き届いている。
「官牧の牧司の別宅です。生憎と主人は留守ですが、好きに使ってくれて構わないと言われていますので、お気遣いなく」
男はそう言って、白湯の入った瓦笥を差し出してくる。
保憲は上体を起こして、それを受け取った。それほど苦労はしなかった。傷の痛みはだいぶ退いている。白湯が干涸らびた喉を潤し、保憲は生気を取り戻した。
「あなたは、この屋敷の方ではないのか?」
保憲が訊くと、男は笑って首を振った。
「違います。あなたをここに連れてきたのも、わたしではない。鬼王丸殿が」
「――鬼王丸?」
「ええ。明け方になってふらりと戻ってきたかと思うと、傷ついたあなたを担いでいたので、驚きました。都でも名の通った陰陽師だから、面倒をみてやって欲しいと頼まれまして」
「鬼王丸が……わたしを……」
熱を持って疼く脇腹を押さえながら、保憲はつぶやいた。飾り太刀の鞘が身を護ってくれたのは運が良かったからだと思っていたが、そうではなかった。
鬼王丸は最初から、保憲を助けるつもりで鞘の上から斬ったのだ。
保憲は部屋の中を見回して、ひび割れた飾り太刀の鞘を見つけた。
「…………」
負ければ当然、命を落とすと思っていた。それを恐いと思ったことはない。敗北して、その先があるとは考えたこともなかった。
なぜ鬼王丸が自分にとどめを刺さなかったのか、その理由が保憲にはわからない。ひとつだけはっきりしているのは、保憲が負けたということだけだ。完敗だ。
不思議と悪い気分ではない。折れた肋骨は痛むが、得体の知れない憑きものが落ちたような、むしろ晴れやかな気分がある。父や弟たちの憎悪の視線も、今はもう思い出せない。
「……あなたは?」
保憲はようやく男の顔をゆっくりと眺めた。実際には保憲よりもずいぶん年上らしい。しかし童顔のせいで若く見える。あまり官人らしく思えないのもそのせいだろう。
「わたしは甲斐国府の書生。日下部敦隆と申します――賀茂保憲殿」
男は屈託のない笑顔を見せた。保憲は驚いて男を見返した。
「甲斐国の国官がなぜ、このような場所に?」
「――鬼王丸殿には恩義がありましてね」
敦隆は真面目な口ぶりでそう言った。嘘をついているわけではないらしい。男の言葉遣いが丁寧なのは、保憲のほうが官位が上だからだ。
「彼らがこの牧を訪れたということを聞きつけて追いかけてきたのです。わたしは以前、巨麻の官牧に勤めていたことがあるので、こちらの牧司とも旧い友人でしてね――」
もしも鬼王丸たちに出会うことがあれば知らせて欲しいと、文を送っておいたのだ、と敦隆は言った。見かけのとおり律儀な男らしい。
「鬼王丸たちは?」と保憲は訊いた。
「出立しました。昨夜」
「昨夜?」
保憲は窓のほうに目を向けた。正確に覚えているわけではないが、陽光が射しこむ方角が、再び眠る前とはたしかに違っているような気がする。
「――わたしはどれくらい眠っていた?」
「ほぼ一昼夜お休みでした。間もなく日が昇ります」
「一昼夜――鬼王丸たちは」
まさか兼家たちの集落に向かったのだろうか、と保憲は恐れた。
兼家の許に夜叉がいることを鬼王丸に伝えたのは保憲だ。だが、今ごろはすでに貞盛の軍勢が、兼家の集落を包囲しているはず。鬼王丸とて迂闊に近づけば確実に命を落とすことになるだろう。
敦隆は柔らかく首を振った。
「今はもう諏訪を出た頃合いでしょう」
「諏訪を出た? まさか能州に向かって?」
「能州に向かったかどうかは存じ上げないが、飛騨のほうへ向かうと――わたしがここに残ったのは、あなたの世話を頼まれたということもありますが、景行殿あての言づてを頼まれたからです。今は諏訪にある望月氏の集落に身を寄せておられるとか」
「そうか……景行殿は」
保憲は軽く唇を噛んでうなずいた。鬼王丸は、景行を兼家から取り返すことを諦めたのだ。諦めたというよりは、景行の身の上を慮ったというほうが正確かもしれない。
景行は本来、将門の反乱とは無関係な人間。鬼王丸に同行していなければ追捕使に狙われることもない。少なくとも彼女の素性が貞盛に暴かれない限りは。
信州から飛騨――目的地が能登なら、梓川左岸の山道を使わざるを得ない。
貞盛も当然それは読んでいるだろう。無理に諏訪で鬼王丸を狩り出そうとしなかったのも、そのためだ。兼家たち甲賀の民に協力を求めたのは、鬼王丸の退路を断つのが目的。貞盛は、梓川沿いで鬼王丸を待ち受けるつもりなのだ。
そして、おそらく鬼王丸もそのことを知っている。だから景行を残していく決断をした。鬼王丸は景行を護りきれないと判断したのだ。それほどまでに梓川での戦いは過酷なものになる。
「景行殿は望月の集落に残られた? ならば、昨日の娘は――」
独言するように、保憲はつぶやく。敦隆は、ふっと微笑んだ。
「それは柊殿のことだろう。出立の直前まで、彼女があなたのことを看護しておられた」
「夢では……なかったのか。彼女は……」
「気持ちはわかりますよ。賀茂殿――わたしも、初めて彼女を見たときは同じように思った」
頭を掻きながら、敦隆は苦笑する。保憲は無言でうなずいた。
美しすぎる渡来人の娘。東国の人々が彼女を八幡神の巫女と信じたのも無理はない。夜叉が彼女を、魔と表現した気持ちもわかる。保憲にも、あれが普通の人間だとはとても思えなかった。
仮に柊が、秦国の遺産や不死の秘密などと無縁だったとしても、やはり藤原忠平は彼女を手に入れようとしたのではないか。そう思えた。美しすぎるものには魔性が宿るのだ。
「彼女の傷は?」
「すでに癒えた、と聞いています。少なくとも今のあなたよりは浅傷《あさで》ですよ、賀茂殿」
「癒えた――」
保憲は物思いに沈んだ。
僧兵団との戦いで柊がどれだけの重傷を負ったのか、そのことは聞いている。胴体を貫かれ、瀕死の重傷を負いながら、それでも彼女は立ち上がり、屈強な僧兵を絞め殺したと。
兼家たちは、そのことで彼女の不死性を信じたようだが、保憲は違った。不死などないと信じていた。
陰陽道にも死者を復活させる術はある。だがそれらは、生きている人間を死んだと思わせることで成り立っている。たとえば、瞳孔を開いたままにする眼薬を作り出す薬草や、脇に珠を挟みこんで血の脈を止まったように見せかける方法。一時的に心の臓を止める経穴など。
柊は細い女性だった。胴体を貫かれたように見えても、実際には、衣服に隠れて急所は外れていたのではないかと考えていた。無傷ではないまでも、落命に至るほどの傷ではなかったのだろうと。
僧兵を縊殺したことについても同じだ。人間の骨格や関節の仕組みを知っていれば、女性の力でも十分に人は殺せる。怪異の力など借りなくても、彼女の行動は十分に説明できる。そんなふうに思っていたのだ。
けれどその確信は、柊の姿を目にした瞬間に揺らいでいた。もしかしたら彼女は、真に化生のものではないか――そのような疑惑が保憲の胸の中に根付き始めていた。
「あなたは、柊殿の正体を知っているのか――日下部殿?」
保憲は訊かずにはいられなかった。他人に意見を請うなど、かつての保憲ならば考えられなかったことだ。だが、今はなぜかそのようなこだわりに、頓着する気にはなれなかった。
敦隆は、穏やかに笑って首を振った。
「いえ――ですが、薄々は感じるところもあります。たとえば彼女が人外の妖しであったとしても驚きません――人の身に生まれながら、なまじの妖しよりも性質《たち》の悪い者も多い。わたしは、それを最近になってようやく知りました」
それは敦隆の謙遜だったのかもしれない。だが、保憲は黙ってうなずいた。そのような手合いは都に行けば腐るほどいる、とは口にしなかったが。
「柊殿とは少しだけ、文字を介して話をしました」
敦隆は筆談をする素振りをして見せた。
「私の漢語の知識では、それほど詳しいことが聞けたわけではありませんが――彼女は故郷に帰りたいと言いました。滅んだ国を再興したいとも、離散した民を集めたいとも言わなかった。ただ故郷に帰りたいと」
保憲はただうなずいた。柊は亡命渡来人なのではないか、そう兼家たちに告げたのは、保憲自身だ。だから驚きはしなかった。
「鬼王丸――将門は、そのためだけに彼女を連れて逃げているのだろうか?」
不思議なのはそのことだった。しかし敦隆は、なにかを思い出したように笑う。
「いえ、そうではありません。あの人の目的はそんなものじゃない。馬です」
「馬?」
「大陸には、わたしたちが見たこともないような速い馬、逞しい馬がいるそうですね。彼は、それを見たいのだと言っていました。この国で彼は一度死んだ――だから、ほかに望むことは、その大陸の馬を駆って行けるところまで行くのだと」
「……たった、それだけのために生きて海を渡るつもりなのか、あの男は――」
保憲は呆然とした。にわかには信じられなかった。とても新皇を名乗って朝廷に逆らった者の言葉とも思えない。あまりにも無邪気で、馬鹿馬鹿しすぎる。
だが一方では、なにかがすっと吸いこまれていくように、得心できるのを感じていた。都で、かつて馬の将門と異名をとっていた鬼王丸。馬を愛し、誰よりも馬の扱いに長けていた彼が、大陸の駿馬に興味を示さないはずがない。
そして彼が将門の名を捨て、鬼王丸と名乗っている理由も。
将門はすでに死んだのだ。あの日、北山の麓で、藤原秀郷の弓に討ち取られた男こそが将門なのだ。妙見の僧兵も、貞盛も、そして保憲もその亡霊を追っていただけだ。
「――そうか。勝てるはずがない、な」
保憲は初めて心からの笑みを浮かべた。
どこまでも自由に駆けていきたいということ。思えば、彼は最初からそれを求めていたのかもしれない。将門が反乱を起こしたのも、彼の伯父や国府の者たちが、そのささやかな望みを阻止しようとしたからではないのか。
鬼王丸が命を賭して海を渡ろうとしている間、都の者たちは、彼の報復や呪いを恐れて震えていたのだ。都の人々が愚かなようでもあり、鬼王丸の思いきりの良さが小気味よくもある。
ただ保憲には、自分が敗北した理由がよくわかった。
都の中のしがらみに囚われていた保憲が、はるかな遠くを見ている鬼王丸に敵うはずもない。
「わたしは、戦う相手を間違えたのだそうだ」
そう言って保憲が苦笑すると、敦隆は不思議そうに目を瞬いた。
「あまり認めたくはないが、彼の言うとおりだったのかもしれない。わたしは彼にわたしの才を認めさせたかった。朝廷を敵に回して怯むことなく戦った彼になら、わたしのことが理解できると思っていた。ほかの誰でもなく、あの男ならば――」
保憲は、遠くを見るように顔を上げた。敦隆は黙っている。この行きずりの男になら、恥じることなく胸の内を明かせると保憲は思った。
たとえ保憲が鬼王丸を討ち果たしていても、その功が都で認められることはなかっただろう。賀茂の名が上がるわけでもない。ただ余計に恐れられ、疎まれるだけ。
それでも鬼王丸だけは理解してくれると信じていた。
ほかの誰も討ち取れなかった神将将門を、武将ならぬ陰陽師の自分が討つ。その記憶があれば、血統を誇るしか能のない、朝廷の高官たちの専横にも耐えられると思った。あるいは人心を操って、第二の将門として都を滅ぼすのも悪くないと思っていた。だが、
「ああ」
無言で保憲の告白を聞いていた敦隆が、なにかに気づいたようにつぶやいた。
年相応の大人びた眼差しで保憲を見て、優しげに笑う。ひどく落ち着かない気分になったのは、自分以外の大人に、そんなふうに笑いかけられたことがなかったせいだ。
「あなたは、寂しかったのですね――賀茂殿」
保憲はなにも言わず苦笑した。そのとおりなのかもしれないと思う。笑うたびに痛む脇腹の傷が、今は少しだけ心地よかった。
それきり二人は黙って外の景色を眺めた。
緩やかに傾斜した草原を、朝霧が風に乗って流れていく。時折、馬の嘶きが聞こえてくる。官牧の朝は早い。牧司が屋敷を空けているのも、馬の世話に追われているせいだろう。
「実は賀茂殿あてに文を預かっています。鬼王丸殿から」
しばらくして敦隆が話を切り出した。
「わたしに?」
「ええ。あなたが腹を立てていないようなら渡してくれと――」
少し困ったように笑んで、敦隆は懐から紙を取り出す。
保憲は怪訝に思いながらそれを受け取った。まさか傷を負わせたことに対する詫び状でもあるまい。今さら彼が保憲に伝えることがあるとは思えない。
「――日下部殿」と屋敷の家人らしい者が敦隆を呼びに来た。失礼、と言い置いて敦隆は部屋を出て行った。家人の表情は強張っており、なにかしらの問題が起きたことが知れた。
一人部屋に残された保憲は、その間に鬼王丸の書き置きを開いた。
いかにも彼らしいおおらかな文字が、まだ新しい墨の臭いとともに連ねられている。
文章はそう長くない。
牝馬を一頭預けたい。手に負えぬ跳ね馬だが性根は優しい。器量も悪くないだろう。うまく手懐けてやって欲しい――そのような内容だ。
保憲の唇に微苦笑が浮かんだ。牝馬というのが、夜叉のことだというのはすぐにわかった。
諏訪の地を立ち去る前に、鬼王丸は、娘である夜叉を保憲に託していったのだ。
身勝手な話だったが、腹は立たなかった。都からこの諏訪まで。ほんの数日だが、夜叉との旅は保憲にとって決して不快なものではなかった。人に馴れない獣のような娘だが、一方で父親に似て他人を惹きつけずにおかない磁力のようなものがある。
兼家のもとに置き去りにしたことで、今ごろは怒っていることだろう。それでおとなしく逃げ去るような娘でもない。案外、保憲のあとを追って、この辺りまで来ているということもあり得る。そのときは鬼王丸の望みどおり、彼女を託されてやってもいいと思う。将門の娘を妻に娶ると告げたとき、父である賀茂忠行がどんな顔をするか――想像するだけでも痛快だった。
そしてなにより、彼女が傍にいてくれれば、自分はもう孤独の影に怯えることもないのではないかとも思う。馬鹿げた考えだとわかっていても、そんなことを思わずにはいられなかった。
「――賀茂殿」
荒々しい足音を立てて、敦隆が戻ってくる。彼の顔色が、先ほどの家人と同様に蒼白になっている。保憲もまた、彼の姿を見て眉をひそめた。空気に、血の臭いが混じっている。
「なにがあったのです?」
上着だけをまとって、保憲は立ち上がった。脇腹は痛んだが、構ってはいられなかった。
「歩けるならば、ついて来てください。急いで。もう時間がない」
敦隆が強い口調で言った。保憲は壁に手をつきながら、彼の後ろ姿を追う。
なにが起きたのか見当もつかなかった。鬼王丸たちが戻ってきたというわけではないだろう。
貞盛ならば、たとえ保憲がここにいることを知っても、訪ねてくる道理がない。そのほかに保憲のあとを追える者たちがいるとすれば、それはひとつしか思いつかなかった――甲賀の民。
「賀茂殿」
敦隆が振り返って保憲を呼んだ。彼が案内していったのは、屋敷の前の土手だった。矢傷を負って疲れ果てた様子の馬が一頭、与えられた水桶を舐めている。
その馬の背から落下したような姿勢で、一人の男が倒れていた。
頭から布をすっぽりと被った痩身の男だ。頭巾には大きな四つの瞳が刺繍されている。彼の名を保憲は知っていた。
「――蒼頡!?」
保憲の声を聞いて、蒼頡がゆっくりと上体を起こした。
その姿を見て、保憲は息を呑んだ。蒼頡の肩衣がぬらぬらと赤く濡れていた。血だ。蒼頡の背中から胸腹にかけて、いくつもの矢で射抜かれた痕がある。
「なにがあった、蒼頡?」
屈みこみ、上擦った声で保憲が訊いた。致命傷だと一目でわかった。蒼頡はもう助からない。ここまで馬で駆けてきたことが、信じられないほどの重傷だった。
「保憲様……夜叉姫を……」
聞き取りにくい嗄れた声で、蒼頡が告げた。続けて彼が口にした言葉は、ただ息が漏れているだけの雑音でしかなかった。それでも保憲にだけは彼の声がはっきりと聞き取れた。
「貞盛か? 貞盛の部下が夜叉を――」
保憲が訊き返す。それを聞いて蒼頡は、頭巾の下ではっきりと微笑んだ。自分の役目が果たされたことを彼は知ったのだ。
保憲の腕の中で、蒼頡の身体の重みが増した。
血が流れ出すのと同じ勢いで、蒼頡の身体から力が失われていく。
「あとは頼みます……暗い……よかった……これで眠れる……もう、なにも見ないで……」
仰向けに空を見上げて蒼頡はつぶやいた。
彼の腕が地面に落ちるのを、保憲は為す術もなく見つめていた。背後で敦隆が家人たちに、大声でなにかを叫んでいる。しかしその声は、保憲の耳には届かなかった。
蒼頡の最後の言葉が、いつまでも頭の中で回っている。
彼の身体に突き刺さった矢の、矢羽の色は漆黒。貞盛の軍の黒備えの鎧を嫌でも連想せずにいられない。鬼王丸が残した書き置きを、保憲は黙って握りしめる。
食いしばった歯の隙間から、我知らず娘の名が漏れていた。
「――夜叉」
鬼王丸が梓川に向かった、その同じ朝の出来事である。
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第七章 梓川
1
森の中を、夜叉は駆け抜けていく。
背後の闇には誰の姿も見えなかった。ただ無数の音だけが聞こえてくる。馬たちの蹄の音と、具足をまとった兵たちの足音。必死で走り続ける夜叉を嘲笑うかのように、その音は次第に鮮明になっている。近づいている。
馬はすでに失われていた。蒼頡たちともはぐれている。夜叉にできるのは、ただ逃げることだけだった。見知らぬ細い山道を、夜叉はひたすらに走り続ける。
「…………」
思えば諏訪を出る前に前兆はあった。
夜叉たちが望月兼家の集落を出たその日の夕刻、蒼頡がそれを見つけたのだ。
それは山中の道端に、無造作に打ち捨てられていた。
九郎丸と浮游の死体だった。
「父上が――将門公が、これをやったのか?」
思わず夜叉がそう訊いたのは、九郎丸たちの死体が、あまりに無惨な姿をさらしていたためだった。浮游の背中にはいくつもの矢傷。逃げようとしたところを射られたものらしい。
そして九郎丸は彼女を庇おうとしたところを、頭を砕かれて絶命していた。圧倒的な膂力で打ちのめされたのだ。
「これは将門の仕業ではない」
白那恰が、押し殺した低い声でつぶやいた。仲間の死を前にして、それでも彼ら甲賀の民は冷静だった。
「――九郎丸たちが将門とやり合ったのは事実だろうが、これは大勢の兵に取り囲まれて討ち取られたのだ。仮に将門が九郎丸たちを討ったのなら、亡骸をそのまま置き去りにはしない」
「そうか……」
夜叉は細く息を吐いた。
将門は逃亡者だ。やむを得ず九郎丸たちの命を奪うことになったとしたら、彼はその死体を隠さなければならない。ほかの追っ手に自分の足取りを教えてしまうことになるからだ。
しかし現実に九郎丸たちの遺体は放置されていた。
つまり九郎丸たちを斃したのは将門ではない。これは誰かに追われることを気にする必要がない者たちの仕業だ。すなわち自らが追跡者である兵たち――貞盛配下の追捕使の軍勢。
「だが、なぜ貞盛の手下が甲賀の民を襲うのだ?」
怪訝な顔で夜叉が問うと、白那恰は不愉快そうに鼻を鳴らした。
「甲賀の民だからという理由で襲われたわけではあるまい。将門を狩り出すために、少しでも不審な者は問答無用で捕らえようとしたのだ。都の追捕使どものやりそうなことだ」
夜叉はただ沈黙した。
九郎丸たちは将門の消息を知っていた。将門がどこから来て、どこへ行こうとしているのかということを。だから追捕使たちに捕らわれるわけにはいかなかった。
それが甲賀の民の利益を思ってのことなのか、貞盛に対する反撥から出た行動なのかはわからない。あるいは将門との出会いが彼らにそうさせたのかもしれない。いずれにせよ九郎丸たちは追捕使からの逃走を選び、そして叶わず、殺されたのだ。
「九郎丸の狗も、浮游の人形も、おそらく将門と戦った際に失われていたのだろうな。さぞかし無念だろうよ。九郎丸も浮游も、本来なら貞盛の部下ごときに討たれる者たちではないのだがな」
つぶやいて白那恰は目を伏せた。
「……そうかな?」
ぼそり、と問い返したのは蒼頡だった。白那恰は不満げな表情を浮かべて振り向いた。
「仲間を侮辱する気か、蒼頡?」
「違う。おまえは……気にならないか? 戦う術を失った九郎丸たちが……むざむざと貞盛の部下に気づかれるような……過ちを犯すと思うのか?」
「それは……」
「並はずれた嗅覚を持つ九郎丸が……貞盛の部下たちの待ち伏せに気づかなかったとは思えぬ。九郎丸は……やつらとの接触をできる限り避けようとしたはずだ」
「かもしれぬ。だが蒼頡よ」
白那恰が、息を漏らしながら首を振った。
「では貴様は、この諏訪の地で本気で逃げる九郎丸たちを、追いつめられる者がいると思うのか?」
蒼頡は、頭巾ですっぽりと覆った顔を伏せ、無惨な九郎丸たちの骸をただ眺めた。
「……わからぬ。だが……それでも九郎丸たちは逃げ切れなかったのだ」
それきり蒼頡はなにも言わず、白那恰もまた沈黙した。
夜叉はせめて九郎丸たちを弔うべきだと主張したが、それは蒼頡たちが止めた。下手に九郎丸たちの亡骸に触れれば、今度は夜叉たちの存在を貞盛に知られる恐れがあったからだ。
追捕使たちが路上に死体を遺したのも、それが狙いかもしれない――そうまで言われては、夜叉に反論の余地はなかった。それでも九郎丸たちの死は、蒼頡たちの心理に少なからず影響を与えたらしい。諏訪の地を離れても、彼らは夜叉の護衛を続けた。あと二日あれば将門に追いついてみせると白那恰は豪語し、夜叉もまたその言葉を信じた。
しかし夜叉たちは、蒼頡が抱いた疑念を忘れるべきではなかった。
忘れるべきではなかったのだ。
夜叉たちはすでに筑摩《ちくま》郡を抜け、安曇《あずみ》に近い山中にいた。
筑摩は信濃国府が置かれた土地である。兵の数は多く警備も厳しい。だがこの地は、険しい地形の続く信濃の地にあって、例外的に平坦な土地が広がる盆地だった。数の限られた山道を無理に通る必要はなかったのだ。夜叉たちにしてみれば、国官に気づかれることなく筑摩を通り抜けるのは、時間こそかかるがむしろ容易いことだった。
しかし安曇の地に入ると、様相は一変した。
雪解けで水量を増した川が容赦なく行く手を遮り、複雑な地形は時に蒼頡たちをも惑わせた。そして、なによりの誤算は、夜叉たちよりも先に貞盛の軍がこの地に入って布陣していたことだった。屈強な軍馬を与えられた追捕使の兵たちの進軍は想像以上に速かった。夜叉たちが、信濃国府の目を避けて移動している間に、梓川までたどり着いていたらしい。
それでも夜叉たちは楽観していた。
貞盛の配下の兵は四百騎あまり。とてもではないが国界のすべてを封鎖できる数ではない。
たしかに信濃から飛騨へと抜けるには、梓川左岸の細い道筋をたどらなければならないが、それでも間道を注意深く進めば彼らの目を欺くことができるはずだった。
なのに、どのような策を用いたのか、追捕使の軍は夜叉を追いつめようとしている。どれほど必死で逃げようとも、確実に近づいてくるのだった。
「はあ……はあ……」
夜叉は、何度も背後を振り返りながら走った。
最初に出会った敵はわずかに四人だった。
先に相手に気づかれてしまった以上、逃げるよりも戦うことを選んだのは当然だろう。目の前のわずかな敵を斃してしまえば、それだけで貞盛の包囲を抜けられる可能性があったのだ。
四人のうちの二人までを、白那恰が一瞬で絶命させた。
一見すると鈍重に思える白那恰だが、その実、彼は信じがたいほどの瞬発力を見せた。
身を低く屈めた体勢から三間余りの距離を突進し、敵兵たちが弓を引くよりも早く、彼らの懐へと潜りこむ。
白那恰の武器は並みはずれた膂力だった。鎧具足は打突には強いが、それを着た兵の関節は無防備である。白那恰は彼らの首を折り、声を出す間もなく彼らの命を奪った。貞盛の部下はたしかによく鍛えられていたが、自らが着こんだ鎧の重みに負けて、白那恰の動きについていくことができなかったのだ。
蒼頡もまた、連れてきた自分の鷹を使って、一人の兵を斃していた。訓練された猛禽に目と喉を潰され、大柄な兵が地面をのたうち回っている。
だが残る一人の兵は、戦いの始まりと同時に逃げ出していた。
夜叉は拍子抜けした思いでそれを眺めた。
都が派遣した精鋭の兵にしては、お粗末な胆力である。蒼頡たちも呆然とあきれていた。仲間を見捨てて逃げ出した兵を、追う必要があるとは思えなかった。
しかしそれが誤りだったのだ。
やがて逃げ出した兵は、増援の部隊を連れて戻ってきた。
最初の増援はわずか三人。だが、その三人と交戦しているうちに、新たに六人の敵が駆けつけた。そして次には十人を超える敵が。
悪霊の群れにでも襲われているような気分だった。
山中に広く散らばって布陣していた敵兵が、なぜこれほど早く、的確に集まってくることができるのか。その理由がどうしてもわからなかった。大軍であればあるほど、その末端にまで指令が行き届くには時間がかかる。それは決して覆すことのできない宿命のはずだ。
なのに貞盛の部下たちは、まるで巨大なひとつの生き物のように、自在に陣形を変えて夜叉たちを追ってくる。白那恰も蒼頡も奮闘したが、絶え間なく押し寄せる敵兵を押しとどめることはできなかった。
最初に射られたのは、夜叉たちの馬だ。
蒼頡の鷹たちも次々に射落とされ、彼自身も矢傷を負っていた。
白那恰の全身は血に染まっていた。
敵兵の流した返り血と、白那恰の巨体に刻まれたいくつもの刀傷のせいである。
殺気だって押し寄せる兵たちを前にして、夜叉はなにもできなかった。
幼少から習い覚えた方術は、都の貴族たちを怯えさせるには十分でも、戦を生業とする武士を前にしては無力だったのだ。
「――逃げろ」
白那恰が怒鳴り、夜叉の手が強く引かれた。蒼頡が夜叉を引きずるようにして、鬱蒼とした森の中へと飛びこんだ。木々が生い茂る森の中では、重い鎧を着こんだ兵たちの動きは鈍り、蒼頡の卓越した視力が有利に働く。そう考えての行動だったのだろう。
だが、その蒼頡を、背後から飛来した数本の矢が貫いた。
「ぐあ……!」
夜叉は、斜面を転がり落ちていく蒼頡の姿を呆然と見つめた。
助けに行くことなど考えられなかった。
恐怖に駆られて夜叉は逃げた。どこに逃げるという考えがあったわけではない。ただ背後に聞こえる足音から、逃れるためだけに夜叉は走った。
兵たちの黒備えの鎧は木々が落とす影にまぎれ、誰の姿も見えなかった。けれど足音は夜叉の背中から離れない。
自分がどうやって逃げてきたのかさえ、もはやわからなくなっていた。
尖った小枝に幾度も肌を裂かれ、知らぬ間に足も血まみれになっていた。
やがて木の枝に足を取られて、夜叉は転倒した。硬い地面に胸を打ちつけて、息が詰まった。
一度倒れこんでしまうと、もう立ち上がる力は残されてはいなかった。挫いた足がじんじんと痺れ、立ち上がろうとするだけで激痛が走る。それでも夜叉は必死で逃れようとした。
地面を這って、二股に分かれた太い木の幹が作る隙間に身体を押しこんだ。
「はあ……はあ……」
闇の中で夜叉は肩を震わせた。
荒い呼吸を聞きつけられるかもしれないと思ってはいたが、声を出さないようにするだけで精一杯だった。貞盛の部下たちは声を出さない。擦れ合う鎧の音は、今や兵たちの動作を聞き分けられるくらいにまで近づいている。
闇の中に一人で身を潜めているのは恐ろしかったが、顔を上げるのはもっと恐ろしかった。夜叉はうつむいたまま、ただ震え続けている。
そして前触れもなく、鎧擦れの音が途切れた。
突然訪れたその静寂に、夜叉の心臓が激しく跳ねた。迷いなく近づいてきていたはずの兵が、なぜ立ち止まったのか。夜叉を見失ったのか。それとも――
「――!?」
沈黙の恐ろしさに耐えかねて、夜叉は顔を上げた。
そして闇の中に輝く光を見た。
狩りの喜びに輝く人間の瞳。黒備えの兵の双眸だった。
「ああああああっ!」
夜叉は絶叫した。
なにも考えられなかった。
それでも身体が無意識に反応したのは、夜叉に流れる坂東武者の血のなせる業《わざ》だろう。
気づいたときには、夜叉は目の前の敵に斬りかかっていた。
夜叉の手の中には銀色に輝く刃。懐に隠し持っていた短刀である。予期せぬ夜叉の反撃に、兵はその攻撃を避けきれなかった。太刀を握る右腕を浅く斬り裂かれて、顔をしかめた。
それだけだった。
舌打ちして兵は太刀を構え、夜叉のほうへと突きつけた。傷の痛みが彼を凶暴にさせていた。刃を向けられて硬直した夜叉を、兵は力任せに蹴りつけた。
夜叉の小柄な身体は、毬のように弾んで背後の幹へと叩きつけられた。
爆発したような衝撃に目が眩んだ。遠のきかけた意識を引き戻したのは苦痛だった。肋骨が軋んで、耐え難いほどの痛みが襲ってきた。肺が潰れて息ができない。
夜叉は全身を震わせながら、上体を起こした。立ち上がることもできないまま、歪んだ笑みを浮かべる兵の顔を睨みつける。
兵は斬り裂かれた腕の内側を舐めて、口に含んだ血を苛立ったように吐き捨てた。
夜叉を見下ろしていた無感動な蛇のような瞳が、不意にぎらついた輝きを放った。
夜叉の衣服、乱れた襟元から、白い胸元があらわになっている。
とっさに隠そうとしたときには、伸びてきた兵の腕に強引に引き寄せられていた。
汗ばんだ兵の体臭に夜叉の息が詰まった。おぞましい感触に背筋が凍った。黒ずんだ指が伸びてきて、わずかにふくらみかけた夜叉の胸を乱暴に揉みしだく。
「――ぐっ!?」
その指が、突然ひきつるように震えた。
夜叉に勝る苦悶の表情を浮かべて、兵は自らの喉をかきむしった。血走った瞳が、うつろに宙をさまよっている。
夜叉は、はだけた衣服をかき寄せながら、自らが握っている短刀を誇らしげに見つめた。
その刃が、うっすらと濡れている。それは附子《ぶし》の毒だった。夜叉の護り刀の鞘の内側には、毒を含ませた布を収めてあったのだ。
附子とはすなわち烏頭《うず》。後の世にいうトリカブトである。
かつての将門の領地である筑波山麓の湿地帯には、附子が多く繁茂していた。この根から採れる猛毒を、矢や山刀に塗りこんで狩りをするのは古くからのアイヌの風習だった。
俘囚として坂東の地に流された彼らアイヌの民を、将門は決して冷遇せず、むしろ積極的に彼らの技術を学んだ。そして夜叉にこの護り刀を残したのだ。
附子の毒は人の神経の働きを麻痺させ、やがて呼吸麻痺で窒息死に至らしめる。
「く……」
苦しげに胸を押さえたまま、黒備えの兵は夜叉へと近寄ってきた。
自らの死が近いことを知って、執念で夜叉を道連れにしようとしているのだ。それがわかっていても夜叉は立ち上がることができなかった。半身が苦痛で麻痺したように動かない。
夜叉は短刀を構えたが、力無く突き出されたその尖先を、兵は易々と避けて夜叉の右腕ごと蹴り飛ばした。
夜叉の手を離れた短刀は、木立の向こう側の暗闇へと吸いこまれていく。
無防備になった夜叉の右手を、兵が乱暴に踏みつけた。そのまま渾身の力で踏みにじる。
「あああっ……」
骨が砕けていく鈍い苦痛に、夜叉はたまらず悲鳴をあげた。
その声を兵は満足げに笑って聞いていた。
醜く歪んだその顔に、背後からするりと巻きついたものがあった。粗末な肩衣を着た太い腕だ。兵が異変に気づいて振り向くよりも早く、その腕が彼の首を圧倒的な力で絞め上げた。
鈍く、嫌な音が鳴った。
頸骨を異様な方向に曲げて絶命した兵を、太い腕の主は無造作に投げ捨てた。
「……白那恰?」
夜叉はかすれた声でその男の名を呼んだ。
全身を血で濡らした傷だらけの巨漢が、息を弾ませて立っていた。厚い胸板にはいくつもの傷が刻まれ、射抜かれた左腕がだらりと垂れ下がっている。脚も引きずっているようだった。
これほどの傷を負いながら、白那恰はなおも夜叉を護ろうとしていた。
なぜそこまで、と夜叉は思う。
胸に熱いものを感じるとともに、ひどい重責を感じずにはいられなかった。
白那恰と蒼頡。たった二人の行きずりの男たちの命でさえ、これほどまでに夜叉の肩に重くのしかかる。数千の民に慕われた将門が、どれほどのものを背負ってきたのか、そのことを夜叉はようやく理解した。
人の命の重さに耐えられる者など本来いるはずもない。
なのに都の廷臣たちは、あまりにもそれを蔑《ないがし》ろに扱っているように思えた。だから将門は都に戦いを挑んだ。挑まずにはいられなかったのだ。
「無事か……姫」
白那恰が、倒れたままの夜叉にそっと手を伸ばす。
夜叉は、微笑んで彼の手を取った。もうそれで十分だと思った。父である将門が坂東の地でなにを喪い、なにを求めて海を渡ろうとしているのか今の夜叉にはよくわかった。彼を追ってここまで来たことは間違ってはいなかったのだ。
もう父に会って訊くべきことも、伝えるべきことも残されてはいない。あとは蒼頡を助けて諏訪へと戻るだけだ。それから奥羽に逃れてもいいし、保憲に頼るのも悪くない。夜叉の旅は終わったのだ。
我知らず、夜叉は笑っていたのだろう。
夜叉を見下ろしていた白那恰が、糸のように目を細めた、いつもの微笑を浮かべた。
その微笑が、ぐしゃりと歪んだ。
夜叉は呆然と目を開けてそれを見た。
白那恰の身体が揺らいで、ゆっくりと音もなく倒れていく。
彼の後頭部に、鈍く光る鋼がめりこんでいた。鋼の錫杖が白那恰の頭蓋を打ち砕いていた。闇の中から滲み出るように、黒い影が輪郭を作る。
血まみれの袈裟と漆黒の具足。それは黒ずくめの僧衣をまとった僧兵だった。
全身に火傷の痕を残した巨躯が、呆然と立ち尽くす夜叉をじっと見ていた。
「――オン・マカシリエイ・ヂリベイ・ソワカ」
薄い唇から真言が漏れ、錫杖の金輪が音を立てる。
夜叉は、絶叫した。
2
平貞盛が布陣したのは、飛騨の国界に近い川縁の峠道だった。
周辺の多くの河川が流れこむ梓川水系は流量が多い。周辺の木々の緑を映した暗い水面が、対岸を遠く隔てている。
斥候として放っていた兵たちを呼び戻し、安曇に到着した追捕使の兵数は五百に増えていた。貞盛はそのうちの百騎だけを手元に置いて、残る四百騎を途中の山道に散開させている。
「こちらから将門を捜しに行く気なのか?」
眉をひそめて訊いたのは望月三郎兼家。兼家が連れてきたのは、護衛を兼ねた十人余りの部下だった。男子の戦装束を着た景行は、その中にまぎれて貞盛の挙動を見つめている。
「ただの残党狩りならそれが常道だろうが、相手はあの将門だ。たとえそれで将門を見つけることができたとしても、分散して少人数に分かれた軍ではやつを止められまい」
「――この俺に軍略の講義か、兼家殿?」
貞盛は、からかうように兼家を見上げてそう言った。
黒備えの鎧をつけた追捕使の将。その背格好は従弟である将門によく似ていた。髻を解いた乱髪を風に遊ばせながら、貞盛は手の中で重厚な太刀を弄んでいる。
兼家は軽くため息をついた。
「悪く思うな。俺とて命は惜しいのだ。もしも将門が兵たちの包囲を抜けたら、この陣に斬りこんでくるかもしれない。正直、やつと正面きって戦う気にはなれんな」
「ふふ……ここに残した百騎だけでは不安か」
貞盛はわざとらしく考えこむふりをして、布陣した兵たちを見回した。
さすがに貞盛が自ら鍛えた兵だけあって、休息中にもかかわらず彼らに気の緩んだ様子はない。貞盛の言葉には、ここにいる部下たちが手に入る限りの最強の兵であるという自負が滲んでいる。
しかし兼家は、
「不安だな」
と、口にして貞盛を睨めつけた。
自慢の部下たちを貶《けな》されて怒り出すかと思われた貞盛は、しかし予想とは裏腹に、満足げに笑ってうなずいた。
「それでいい、兼家よ。おまえはこのような辺境の豪族にしておくのは惜しい男だ」
「なにを言い出すかと思えば……今さら懐柔のつもりか?」
兼家があきれたように肩をすくめた。しかし貞盛は真面目な顔で言う。
「世辞ではない。俺の父は数百の兵を率いて将門の領地を襲ったが、百騎にも満たない将門の軍に返り討ちにあって落命した。戦場ではしばしばそのようなことが起きる――」
「よくある話だ。都の連中には、その理屈がわからないだろうがな」
素っ気ない相づちを打つ兼家に、貞盛はうなずいた。
「そうだな。殴り合いの喧嘩ならば一人よりは二人、二人よりは三人のほうが強いかもしれないが、戦は別物だ。一の力を持つ兵が百人いたとして、その強さはまず決して百には届かない」
「……誰も死にたくはないのさ」
兼家がやはり素っ気なくつぶやく。貞盛は愉快そうに笑う。
「そのとおりだよ。数を誇る兵には油断と慢心がつきまとう。勝利を確信した兵は死を恐れる。それでは本来の力は発揮できない。都の連中にはその理屈がわからんのだ。将門とて、一人で百の武力を持っているわけではない。優れた将とは、百人の兵に常に百の力を出させることができる将だ。それだけだ――」
そうなのだろう、と兼家は思う。
将門という武将には、そのような天性の素養があった。他者を惹きつけずにはおかない、言葉にならない磁気のような魅力が。人々は彼のためになら、自ら進んで命を投げ出すことも厭わない。それゆえに将門は、幾度もの絶対的な窮地を乗り越えて勝利してきた。
そして死んだといわれながらも、なおも多くの者たちに慕われ続けているのだ。
「しかし、あんたには勝算があるのだろう?」
兼家の言葉に、景行がはっと顔を上げるのが見えた。
「そうだ」
言って、貞盛は不敵に笑った。景行は黙って唇を噛んでいる。
貞盛。この男にだけは油断も慢心も無縁だった。なぜなら彼ほど将門の恐ろしさを知悉し、そして、それを嫉んでいる者はいないからだ。
「残念ながら俺は将門とは違う。やつのような神懸かり的な武威はない。正直に言えば、俺はやつを恐れてさえいる。だから色々と思いつくこともある――」
「策か? 兵を散開させたのが?」
「意味もなく兵を散らせたわけではないさ。さて、兼家殿。たった二人で、五百の兵からなる包囲を破るとして、おまえならどうする」
「……俺が思いつく方法はひとつだけだ」
兼家はすっと目を細めて失笑した。
「将であるあんたを殺す」
「なるほど。悪くない」
貞盛も同じような微苦笑を浮かべた。
「ではどうやってこの俺まで近づく?」
「それは――」
答えようとして、兼家は言葉を失った。
兼家が将門の立場に置かれたら、まずは人目を惹く渡来人の娘をどこかに隠すだろう。そして、自分は陣から離れた兵を密かに斃し、鎧を奪う。あとは味方のふりをして陣に忍びこめばいい。
だが貞盛の部下の大半は、本陣から離れた山中に散っている。
渡来人の娘を一人にするのは危険だし、別行動をして再び落ち合える見込みは少ない。
本陣に残ったわずかな手勢は、きっちりと統率され、一人で陣に近づいてくる者がいれば、すぐに気づかれるようになっている。
答えに窮した兼家を、貞盛は人の悪い笑顔を浮かべて見つめた。
「五百もの兵が一所《ひとところ》に固まっていれば、それを統率し続けるのは容易でないし、侵入者がいたとしても気づくのが遅れる。指令を末端まで伝えるだけでも無駄に時間がかかる。それでは、たった一組の逃亡者を追いつめることはできない」
「それが兵を散らせた理由か?」
「そうだ。四百の兵は四人ずつ百組に分けて、この周辺の要地に配置した。おまえたち甲賀の民の情報に間違いがなければ、その百組に気づかれずに飛騨へと抜けることはできないはずだ」
「……情報は確かだ。どうせ信濃の国司どもにも確認したんだろうが」
兼家は皮肉っぽい声でつぶやいた。
「だが、言ったはずだ。貴様の兵はたしかに精鋭だろうが、たった四人であの将門を斃せるとは思えぬ」
「……三人だ」
兼家の言葉を、貞盛がやんわりと訂正する。
その意味がわからず、兼家は黙って眉を寄せた。貞盛は笑い、
「四人のうち、将門に戦いを挑むのは三人だけだ。無理に将門を討ち取れなくてもいい。わずかばかり足止めができれば十分だ」
「残る一人は?」
「仲間を呼ぶ。すぐ隣にいる四人組≠な」
「……しかし、たった四人ばかりを増援に呼んでも……」
「違う。増援に向かうのはやはり三人だ。最初の連絡役ともう一人の連絡役は、さらにべつの仲間を呼びに向かう。最初の増援は三人。だが、その次の増援は、一度に六人が訪れる計算になる。次の次は十二人。その次は二十四人――計算どおりに運ぶとは思っていないが、少しずつ包囲の輪が縮まっていくのは確実だ」
「…………」
兼家はその光景を想像してぞっとした。兵隊蟻の群れのように、絶え間なく押し寄せてくる敵の増援。しかもその数は倍々で増えていく。第五波の増援が訪れたときの兵の総数は百人近く。将門といえども、そのすべてを斃すことは不可能だろう。
「さっきの話と同じだよ、兼家殿」
沈黙する兼家に、貞盛は軽く両手を広げてみせる。
「俺は武将としては二流でね――この俺のために命を捨ててくれる兵がいるとは思っていない。だが、たった三人であの将門を相手するとなれば、兵たちも命を惜しんでいる暇はないだろう。本気の兵を百人も相手にすれば、いかに将門とて無事では済むまい?」
「部下を絶え間なくけしかけて、将門の体力を殺ぐのが狙いか、貞盛……そのために部下の何人か……何十人かは犠牲になってもかまわないと?」
「力が及ばなければ命を落とす。戦とはそういうものだ」
貞盛は傲然と言い放って笑う。兼家は沈黙した。
「この策に欠点があるとすれば、一度布陣してしまうと、俺の指示も届かなくなってしまうことだな。将門を討ち果たすまで、我が兵たちは巨大な猟犬の群れとなって、この地に足を踏み入れるすべての者を襲い続ける――」
「正気か? この街道を使うのは、将門だけではないのだぞ」
「関係ないな。巻き添えになる無辜の民には気の毒だが、こうでもしなければ将門は斃せぬ」
「将門がその布陣に気づいて、この街道を避けたらどうする?」
「ふむ、それは困る。だが、そのようなことがあり得るかな?」
「なに?」
問い返す兼家に、貞盛は薄笑みを浮かべてみせた。
「将門が姿を現さなければ無関係な民が命を落とす。それを知って逃げ出すような真似が、はたしてあの男にできると思うか? 坂東の民のために反乱を起こしたあの男が?」
「それは……」
「もし将門がここで逃げ出すというのなら、俺はやつという人間を見誤っていたことになる。あえて狩り出して始末するほどの相手ではないということだ。それは願ってもないことだが、おそらくそうはならないだろう……その理由はおまえにもわかっているはずだ」
「――俺が?」
何気なく告げられた貞盛の言葉に、兼家は瞬間、身が凍るような動揺を覚えた。
貞盛は薄笑みを浮かべたまま。その表情からは、なんの感情も読み取れない。けれど、刃のように細めた彼の視線は、兼家の肩越しに、違う人物の横顔を見ていた。
「こちらには人質がいるということさ――そうだろう、桔梗[#「桔梗」に傍点]? いや、今は菅原景行殿の名を名乗っているのだったかな」
貞盛の言葉が終わるよりも先に、景行が、細い肩を大きく震わせるのが見えた。
3
「おっと――動くなよ、桔梗。兼家もな。俺の部下たちは、この距離でも正確におまえたちの眉間を射抜くぞ」
変わらず淡々とした口調で、貞盛が告げた。
咄嗟に弓に手を伸ばそうとした景行は、そのままの姿勢で動きを止めた。
二十間ほど離れた場所で、十人ほどの貞盛の部下たちが弓を構えていた。距離が離れていたことと、彼らの動きがあまりにも自然だったために見落としてしまったのだ。
兼家は無言だ。だらりと両腕を下げて貞盛を見ている。薄い唇の端を上げて、彼は苦笑しているのかもしれなかった。さすがに並の胆力ではない。
「この俺を――追捕使の軍を利用して将門と再び合流するつもりだったのか? それとも隙あらばこの俺の首級を上げるつもりだったか、桔梗よ」
貞盛はそう言って、懐かしげな瞳で景行を見た。正五位上。平将軍とまで呼ばれる男が浮かべた親しげな表情に、景行は驚きを隠せない。
「惜しかったな。だが、男装した程度で俺の目を欺けると思われていたのなら、それは実に残念なことだ」
「――なぜだ? これまでわたしは、あなたとは一、二度、顔を合わせたことがあるかどうか……」
「成人してからは、あるいはそうかもな。ふふ、おまえほどの聡明な女でも、自分自身のことはよく見えないものらしい」
「なに?」
「俺は、本物の景行殿がご存命の頃から――幼いおまえが将門の館に入り浸っていた頃から、おまえのことをずっと見ていた。おまえの目には、将門しか……鬼王丸しか見えていなかったようだがな」
景行は黙って貞盛を見つめた。貞盛の表情には例の薄笑みが張りついたまま。その言葉が、彼の本心なのかどうかもわからない。
桔梗とは菅原道真公の三男、菅原景行の息女の名。
そして将門がもっとも信頼していた若い愛人の名前でもあった。
「――今さらおまえをどうこうしようというつもりはない。俺も女の恨みで寝首をかかれたくはないからな。だが、それでもおまえを殺さずに済めばいいとは思っているのだ。無駄な抵抗はしてくれるな。頼む」
「……殺せ」
無意識に低くつぶやいて、景行は箙に手を掛けた。
その腕を上から押さえつけた者がいた。兼家だ。貞盛に弓を引くことで、彼の部下に射殺されようとする景行の行動は、兼家に読まれていたらしい。
「離せ、兼家――貞盛、人質として使うくらいならわたしを殺せ。さもなくば、いずれ必ず後悔することになるぞ、貞盛!」
「落ち着け、景行!」
兼家が、耳元で鋭く叫んでいる。
腕の自由を奪われたまま震える景行を、貞盛は哀れむような視線で見つめた。
「殺す気はない、と言っている。それに残酷なようだが、ここでおまえが命を捨てても無駄だ。鬼王丸がおまえの死を知ることができない以上、おまえが捕らわれているという噂を聞けば、やつは助けにこないわけにはいかない。それに、実を言えば人質は一人ではないからな」
「……なに!?」
声を漏らしたのは景行ではなく、兼家のほうだった。彼の白皙に浮かんだ動揺に気づいて、貞盛は、ほう、と冷ややかに告げた。
「心あたりがあるようだな?」
「貞盛……おまえ……」
「生きていたという鬼王丸の娘、やはり本物の五月姫だったか。それはいい。苦労した甲斐があったというものだ」
「――夜叉を、捕らえたのか」
兼家がつぶやいたのは、その一言だけだった。ほとんど表情を動かさなかったのは、甲賀の民の頭領としての矜持だろう。
夜叉には、蒼頡と白那恰が護衛としてついていた。
そして彼らに夜叉の護衛を命じたのは兼家だ。ならば彼らは命をかけて使命を果たそうとするだろう。夜叉が捕らえられたということは、彼ら二人はもはや生きてはいまい。
おそらく夜叉は独自に将門を追おうとして、貞盛の陣に嵌まったのだ。そうでなければ、常人離れした力を持つ甲賀の民が、易々と討ち取られるとは思えない。
「我らが陣を敷いた直後に、迷いこんできたのだそうだ。俺の部下がずいぶん大勢返り討ちにあった。兼家殿――おまえは部下に恵まれていたようだな」
「……なぜだ」
沈黙を挟んで、兼家はつぶやいた。抑揚の感じられない声だった。
「貞盛、貴様、夜叉が俺たちの集落にいたことを知っていたな? 俺たちに気づかれることなく、どうやってそれを知ったのだ?」
貞盛は、ふてぶてしく微笑むだけで答えない。ただ、意識しているわけではないのだろうが、彼の腕が太刀を握り直していた。そして彼が口を開こうとしたとき、
「――それはわたしもお訊きしたいですね、貞盛殿」
背後から誰かの声が聞こえた。
穏やかだが、静かな怒りを滲ませた口調だ。
聞き覚えのある声だった。雅な都人の訛りがある。
「……この声、賀茂保憲か!?」
兼家が振り返る。つられて景行も視線を巡らせた。兼家の護衛や、貞盛の周囲の兵たちも。
だが、そこに陰陽師の姿はない。一羽の鴉が、崖から張り出した木の枝に留まっているだけだ。
「幻術か――」
貞盛だけが、太刀を手に悠然と構えている。彼の唇に浮かんでいるのは笑み。理由はわからないが、景行には、それが貞盛の安堵を示しているように思えた。
「そうだ。俺の敷いた陣を破って、ここにたどり着ける者がいるとすれば、それは幻術を操る、おまえのような陰陽師だけだと思っていたよ、賀茂保憲」
姿を見せない陰陽師に向かって貞盛は淡々と告げていく。保憲の答えはなく、ただ漆黒の野鳥が爛々と輝く瞳を貞盛に向けているだけだ。
「俺が恐れていたのは、おまえが鬼王丸と手を組むことだった。その決断の機会はあったはずだ。だが、おまえは愚かにも鬼王丸に戦いを挑み、敗北した……惜しかったな。おまえがやつと手を組んでいれば、あるいは鬼王丸は今度こそ都との戦に打ち勝つことができたかもしれんぞ」
「――夜叉はどこです?」
貞盛の長広舌を遮るように、保憲が短く問うた。
「なぜあの娘にこだわる、陰陽師? 飼い慣らしているうちに情でも移ったか?」
「夜叉はどこです、貞盛殿」
保憲が繰り返す。苛立ちを隠しきれていないその声に、貞盛はゆるゆると首を振って笑う。
「この俺に問うべきことはそれだけか? おまえももう気づいているのだな。誰がこれを仕組んだのか――大儀だった、賀茂保憲。おまえの役目はもう終わりだ」
「貞盛っ!」
保憲がついに声を荒らげた。
同時に弓の鳴る音がした。貞盛の部下の一人が、枝に留まる鴉を狙ったのだ。
矢は正確に足元の枝を射抜き、驚いた鴉が荒々しく声を上げて飛び去った。保憲の術が解けたのだろう。しかし保憲の気配は、依然として近くに残っている。
「おまえは期待以上に働いてくれたよ、保憲……鬼王丸の目指す場所を正確に言いあて、途中、やつの娘まで手懐けてくれた。兼家がすんなりと俺に協力してくれたのも、おまえが前もって取り引きを持ちかけていてくれたからだ」
貞盛の顔には、言葉どおり満足げな笑みが浮かんでいた。対照的に兼家は渋面だ。
保憲はなにも答えない。しかし貞盛は構わず、言葉を続けた。
「おまけに、鬼王丸に手傷のひとつも負わせてくれたというではないか。上出来だ。あとの始末は我らに任せて、都へと戻るがいい」
「……わたしをずっと監視していたのだな、貞盛……それは藤原忠平の差し金か?」
再び保憲の声がした。声の源は貞盛の真横。低木の茂みから、野鼠が顔を出している。
貞盛は動じた様子もなくうなずき、
「もう少し早くに気づくべきだったな、保憲」
年若い友人に諭すような声で告げる。
「太政大臣の地位にある忠平様が本気で鬼王丸を追うつもりだとして、たった一人の陰陽師しか動かさないということがあり得るかどうか――あの方が望めば、五百どころか五千の兵を動かすこともできたのだ」
「……将門を捜し出すためだけに、わたしを利用したのか……いや、賀茂の技を……」
屈辱に耐えるような声で保憲がつぶやく。貞盛は笑い、
「陰陽師の職掌は占筮相地――ならば人捜しは本来の領分だろう。不満に思う理由はあるまい」
保憲は無言だ。
「勘違いするなよ、賀茂保憲。この俺におまえの動向を報告していたのは、土蜘蛛衆だ。賀茂の一族に仕える斥候だろう?」
そうか、とだけ保憲はつぶやいた。
それで景行にもようやく話が呑みこめた。
保憲はずば抜けた才を持つ陰陽師だが、賀茂家の現当主は、保憲の父――賀茂忠行である。
そして土蜘蛛衆が忠誠を誓うのは、あくまでも当主の忠行に対してのみ。保憲は父親から、彼らを借り受けているのに過ぎない。
その土蜘蛛衆が、保憲の動向を貞盛に伝えていたということは、賀茂忠行がそれを承知していたということになる。太政大臣藤原忠平と賀茂忠行の間には密約があったのだ。彼らは最初から、保憲を、将門の居場所を突き止めるためだけの捨て駒として扱っていたということだ。
「それが政治というものだ、保憲」
貞盛の言葉が、むしろ場違いなほどに優しく響く。
「たった一人の陰陽師が、神将とまで謳われた将門を捕らえられるはずがない――おまえは、なまじ人よりも優れた能力を持っていたがために、そんな自明の理に気づかなかったのだ」
辛辣なその指摘は、保憲の急所を正確にえぐったのだろう。保憲が奥歯を噛み鳴らす気配があった。
「優れた才能の持ち主は、その才能に頼るがゆえに過ちを犯し、周囲の者を不幸に陥れる。おまえは鬼王丸と同じだ、保憲……おまえたちには人を治める資格はない。政《まつりごと》を嘆き、為政者に弓引く権利はないのだ――」
言い終えた貞盛が深く息を吐く。あとには短い沈黙が残された。
景行は、握りしめた指の先から力を抜いた。
貞盛の言葉には、賀茂保憲という卓越した陰陽師を通じて、将門に向けたような響きがあった。そこには将門に対する貞盛の、拭いがたい劣等感と嫉妬が、たしかに刻みこまれていた。
貞盛は、やはり将門という男を誰よりも理解していたのだ。誰よりも将門に近い存在であったために、彼を憎まずにはいられなかった。賀茂忠行が、息子である保憲の才能に嫉妬せずにいられなかったように。それが彼にも伝わったのだろう。保憲は、静かに一言だけ問い返した。
「……夜叉はどこです?」
意外なほど近くで聞こえたその声に、驚いて景行は振り向いた。
誰も動いた者はいない。そこには兼家が集落から連れてきた、彼の護衛がいるだけだ。
しかし、かすかな違和感を覚えて景行は目を細めた。護衛たちの背後の茂みを透かして、若い男の姿が見える。仕立てのよい衣装をまとった長身の男である。
賀茂保憲。
その姿を見て景行は驚いた。今の彼の表情からは、いつもの余裕ぶった態度が消えている。別人のように頬肉が削げ落ち、顔には疲労の色が濃い。
将門との戦いで負った傷が癒えていないのか、あるいは馬を駆け通しでここまでたどり着いたせいなのか。確実に言えるのは、彼が、それほどの無理を押してまで、夜叉を助け出そうとしているということだ。
「夜叉か……」
貞盛がつぶやいた。少し思案するように唇に手をあて、やがて彼は、ため息とともに視線を遠くに向けた。
数頭の馬たちをつないである木立の隙間。
貞盛の視線を追って、景行は初めてそこに一人の男がいることに気づいた。
「やつは……!」
兼家が息を呑む気配がした。景行もまた動揺した。
木立の狭間から姿を現したのは、漆黒の僧衣に身を包んだ僧兵だった。その男の名を、景行は知っていた。
僧兵の全身には、いくつもの傷痕が残されている。
厚い筋肉に阻まれて内臓にまでは及んでいないようだが、どれもが普通の人間であれば命を落としていてもおかしくないほどの壮絶な傷だ。手足にはうっすらと火傷の痕。それは景行の火計が彼に負わせた傷だった。
「愚彊……生きていたのか……」
景行は無意識にそう漏らしていた。
そのつぶやきを聞きつけたかのように、巨躯の僧兵が笑った。
かつて将門に傷を負わせ、彼の軍を敗北に導いた僧兵団の長。逃げ落ちた景行たちのあとを執拗に尾けてきた追跡者。その男が、なぜ再び追捕使の軍と行動を共にしているのか、理由は考えるまでもなく明白だった。
忠平だ。
愚彊たち妙見衆徒は、傭兵的な性格を持つ僧兵団だが、本来は天台密教の門流である。台密は朝廷と深い関係にあり、太政大臣である藤原忠平ならば、おそらく彼らを動かすことができた。
忠平こそが妙見衆徒の雇い主。表で平貞盛を、裏で愚彊らを操って、将門を滅ぼそうとしていたのは、かつて将門を庇護していた彼なのだ。
その理由は先ほど貞盛が教えてくれた。
忠平は温厚な人柄と、時流を読み、政敵を作らない平衡感覚で帝に次ぐ地位まで昇り詰めた男だ。傑出した才能ではなく、凡庸なる官僚たちとの駆け引きが、彼の権力の源なのである。
彼が望んだのは、自らが不死になるという夢想ではなく、藤原北家が未来永劫栄えるという現実的な目標だった。それゆえに忠平は将門を恐れた。武将として傑出した才能を持つ将門が、不死を手に入れることを恐れたのだ。
藤原家の繁栄という忠平の矮小な目的のために、東国の自治という将門の理想は潰され、多くの無益な血が流れた。海を渡るという彼の夢までもが潰《つい》えようとしている。そして――
愚彊が乱暴に引きずっていたなにかを、無造作に前に投げ落とした。
藁束が落ちるような軽い音を残して、それは地面に小さな膨らみを作った。
景行には、それがなんであるのか、すぐにはわからなかった。
艶やかな黒髪が乱れて散っている。
折れた腕は、あり得ない方向に曲がったまま動かない。
こぼれた血が、袿にまだらな染みを作っている。
瑞々しかった肌は土気色に色褪せ、あどけなさを残した横顔が今は少しだけ大人びて見えた。
夜叉だった。
4
倒れた彼女の背中を見て、まだこんなにも小さかったのかと景行は思った。
小気味よく弾むような彼女の声が、耳の奥にまだ残っている。もうそれを聞くことはないのだと、まだ実感できないでいる。
目を閉じた彼女の表情は、思いのほか穏やかで、そのことだけがわずかな救いだった。
苦しまずに済んだのだ。
「ああ……」
耳元で誰かが叫んでいた。絶望の声。魂を引き裂かれているような絶叫。それは景行自身の喉から漏れている声だった。
「あああああああああっ――!」
同じように保憲も叫んでいた。袍の袖を払って、彼は怪鳥のように両手を広げた。
貞盛が弾かれたように立ち上がり、重厚な太刀を身体の前に構えた。
その貞盛の両脇で、護衛の兵たちが血を吐いた。まったく突然の出来事だった。見えないなにかに喰いちぎられたように、彼らの喉が深くえぐられている。
「――指弾か」
貞盛が唇を歪めて言った。構えた彼の太刀の鞘に、金属の鋲がめりこんでいる。とっさに太刀で防がなければ、貞盛もまた、護衛の兵たちと同じ運命をたどっていただろう。
貞盛が手元に残した百騎の兵。彼らの動きが慌ただしくなっていた。
立ち上がり、叫び続ける保憲に向けて矢をつがえる。
それでも保憲は叫び続けていた。景行が知る限り、彼がこれほどまでに感情をあらわにしたことはなかった。その表情に浮かんでいたのは絶望だった。そして怒りだけがあった。
新たに数人の兵が、保憲の指弾に撃ち抜かれて絶命した。
彼らの身体を盾にしながら、貞盛は残る部下たちに向けて吼えた。
「射殺せ!」
無数の矢が風を裂いて飛び、保憲の身体へと飛来した。しかし的中したものはない。すべて保憲の身体をすり抜けていく。幻術だ。
「足元だ――やつの足元、川縁を狙え。保憲は陽の光に温められた地面と、川面の冷えた空気の温度差を利用して光を歪めている。恐れるな、ただのまやかしだ」
兵たちの動揺に気づいてすぐに、貞盛は的確な指示を出す。
貞盛は智将だ。ただの力押しの武士ではない。彼の言葉に励まされたように、兵たちは保憲に矢を浴びせる。若き陰陽師は表情を歪め、飛来する矢を避けるために地面を転がった。
数本の矢が保憲をかすめ、彼の服を地面に縫い止める。
動きを止めた保憲に向けて、新たな矢をつがえた兵たちが弓を構えた。
その直後、兵たちの中央で炎が弾けた。
轟音が木々を震わせ、爆風が兵たちを薙ぎ倒す。まともに炎を浴びた数人の兵が、苦悶の声を上げて地面に転がった。貞盛が、舌打ちして景行を振り返る。
「焔硝――菅家の雷槌か!」
景行は返答にかえて、新たな矢を箙から引き抜いた。
大陸風の角弓に合わせて作られた、短い矢である。先端には鏃のかわりに、竹筒が結びつけられている。竹筒に詰めた中身は焔硝。唐土で実用化されたばかりの黒色火薬だ。
景行の放った焔硝の矢が、密集した兵たちの中央に落ちて爆発を起こす。それが菅原道真が伝えた菅家の雷槌の正体だった。
「桔梗――!」
貞盛が景行を睨んで叫ぶ。同時に貞盛配下の兵たちが、景行をめがけて無数の矢を放った。とても避けきれるものではなかった。景行は自らの死を覚悟する。
その景行を庇って立ちはだかった影があった。
甲賀の民。兼家が連れてきた護衛たちだ。名も知らぬ甲賀の民が二人、自らの身を盾にして、降りそそぐ矢の雨から景行を護る。
「な……」
景行はその姿を呆然と見つめた。
全身に矢を突き立てられて、なおも彼らは誇らしげに笑っていた。彼らは、景行の護衛を兼家に命ぜられた者たちだった。他者と容易に交流しないかわりに、忠誠を誓った者からの指示には命を懸けて従う。それが彼らの生き方なのだ。
「ちっ――すまんな、貞盛。悪く思うなよ」
苦々しげに吐き捨てながら、兼家が身体を低くして走った。
彼が目指した先には貞盛がいた。このまま無為に乱戦に巻きこまれれば、甲賀の民も無事では済まない。敵将である貞盛を捕虜にしてこの陣を脱出する――それ以外に生き延びる方法はないと判断したのだろう。
貞盛を護って立ちはだかる兵たちの喉を、兼家は数間も離れた場所からかき切ってみせた。縄ひょうである。兼家の袖口から放たれた匕首が、自在に空中で向きを変えて、兵たちを襲う。
ただの投擲武器とは違う。兼家の縄ひょうは、遠心力や縄の弾力を巧みに利用して、太刀に劣らぬ威力を発揮する。血の滲むような修練の賜物だ。
それでも貞盛は並の武将ではない。複雑な軌跡を描いて飛来するひょうを、太刀であっさりと打ち落とした。
それが兼家の狙いだった。貞盛の打撃によって推力を与えられたひょうは、彼の背後の枝に巻きついて向きを変え、背中側から貞盛を襲った。
信じられないほどの敏捷さで貞盛はそれを避けたが、完全には避けきることができなかった。背中を浅く切り裂かれて、貞盛の動きに遅延が生じる。
兼家は新たに二本の縄ひょうを放った。貞盛を絡めとって動きを封じようとしたのだ。彼を殺すことは容易だが、殺しては意味がない。そう思った。
甘かった。
「オン・ソジリシュタ・ソワカ――」
真言の声に乗せて、錫杖が大気を切り裂いた。信じがたいほどの威力だった。兼家の放った縄ひょうを、愚彊の錫杖が空中で粉砕する。
「愚彊!」
兼家が新たな縄ひょうを放つ。今度は手加減なしに急所を狙った。愚彊といえども、そのすべてを防ぐのは不可能だ。
愚彊は防ごうとはしなかった。
兼家の攻撃のすべてを無防備に受け止めた。
太刀の斬撃に匹敵する威力のひょうは、愚彊の肉を浅く切り裂いただけ。狗が水滴を払うように、愚彊は、軽く身体を振ってそれを弾き飛ばす。兼家は絶句した。
「オン・マカシリエイ・ヂリベイ・ソワカ――」
愚彊の頬に笑みが浮かぶ。その彼の首筋と、剥き出しの胸が、新たに何カ所も血を噴いた。
保憲の指弾である。厚い杉板すら撃ち抜く金属の鋲が、愚彊の身体に突き刺さっている。しかし、その指弾でさえも、愚彊の筋肉の鎧を撃ち抜くことはできなかった。
薬物と暗示で痛覚を遮断することで、僧兵は戦場において怪物的な力を振るうことになる。人体の急所を攻められても、その苦痛が彼らの行動を妨げることはないのだ。
「下がれ、二人とも!」
立ちすくむ兼家と保憲に向かって、景行が叫ぶ。
二人はすぐにその意味を察した。左右に分かれて、身を伏せる。
かっ、と目を見開く愚彊へと、景行の放った矢が襲いかかった。焔硝を詰めた矢は、狙いを過たず、僧兵の足元に着弾した。
響き渡る爆音に、陣にいた誰もが動きを止めた。
酸化した硫黄の臭いが立ちこめ、濃い白煙が視界を埋めた。それほどの爆発が足元で起きたのだ。いかに屈強の僧兵とはいえ、生きていられるはずがなかった。
なのに。
「馬鹿な……」
兼家の口から低いつぶやきが漏れた。
風に流された白煙の切れ間から、のっそりと僧兵の巨躯が現れる。無傷とまではいかないが、愚彊は平然と立っていた。
僧衣は裂け、鎧はひび割れ、その隙間からは盛り上がった筋肉がのぞいている。焔硝の爆圧をまともに喰らって、なおも愚彊は戦意をなくしていなかった。
「そうか、硬功夫――」
景行の独白に、愚彊が歯を剥いて笑う。全身に気力を漲らせることで、打撃に耐える格闘術。鬼王丸が得意とするその技を、愚彊もまた身につけていたのだ。並はずれて強靭な彼の肉体と、硬功夫の技があれば、焔硝の直撃に耐えることも不可能ではない。この僧兵には、菅家の雷槌が通用しないのだ。
愚彊がゆっくりと足を踏み出し、それに気圧されたように兼家が後退した。
片膝を落とした保憲の息が上がっている。将門との戦いで受けた傷が、まだ癒えていないのだ。
貞盛の配下の兵たちは、まだその大半を残している。貞盛が優雅に太刀を振り上げ、彼らが一斉に弓を引き絞るのが見えた。
次の射撃を逃れる術はない。増水した川に飛びこんだところで、生き延びられる確率は皆無に近い。敵兵の中に飛びこんで乱戦に持ちこめば矢は防げる。だが、そのためには愚彊を斃さなければならない。そして愚彊を斃す術は、景行たちには残されていない。
今度こそ確実な絶望を覚えて、景行は唇を噛みしめた。
貞盛が一瞬、哀れむような視線を浮かべ、そして彼自身、太刀を手に前へと歩き出した。
歌が聞こえてきたのは、そのときだ。
その場にいた誰もが硬直した。
それほどまでに美しい歌声だった。
鳴物の音はなかった。若い女の歌声だけだ。ただそれだけ。
それが殺気だった兵たちの動きを止めていた。場の雰囲気が一変してしまっている。
歌声は今も聞こえていた。
聞きなじみのない哀切な響きの曲。
異国の歌。
「柊」
景行がつぶやいた。
保憲は呆然と言葉をなくしていた。だが、彼の唇にじんわりと苦笑に似た翳が広がっていく。兼家に至っては、はっきりと笑みを浮かべていた。
「……なぜだ」
矢を放つことも忘れて、貞盛がつぶやいた。兵たちに、動揺が波紋のように広がっていく。
さして広くもない山道を抜けて、ゆっくりと近づいてくる馬影がある。
堂々たる体躯の漆黒の巨馬。
背に乗せているのは二人。一人はほっそりとした娘だった。垂れ布で顔を覆ってはいるが、その隙間から見える姿だけでも、彼女の美貌はうかがい知れた。
そしてもう一人は、乱髪の美丈夫だ。
申し訳程度につけた具足の下に、よく日焼けした肌がのぞいている。ふてぶてしい口元に浮かぶのは人懐こい笑み。腕には長大な太刀が握られている。
銀色に輝くその刃に、血の曇りは見あたらない。
娘の歌声は続いている。
その声に怯えたように、周囲の兵たちが道を開けていく。
「正面から……堂々と俺の陣に乗りこんできたというのか……!?」
貞盛の声が震えていた。握っていた太刀を落として、拳を強く握りしめる。
その間にも兵たちは後退し、現れた巨馬の主に道を譲った。
「そうやって……兵たちと刃を合わせることもなく……気迫だけで兵を圧倒して俺の布陣を抜けてきたというのかっ――!?」
怒りに顔を歪めて、貞盛は絶叫する。
その叫びを、渡来人の娘の美しい歌声がかき消していく。
景行は、ふ、と笑みを漏らした。
保憲も笑っていた。兼家は声を上げて笑い出している。
貞盛が弄した策も、鍛え抜かれた四百の兵も、あの男を止めることはできなかった。
男のまとう王の風格を目のあたりにして、兵たちは刃を向けることすらできずにいたからだ。
誰にも同じことはできまい。だが、この男にだけはそれができる。
兵たちは無意識のうちに、その将のために道を開けていく。
娘は、衣を揺らして音もなく馬を下りた。男は無言で太刀を掲げ、炎のような視線を貞盛に向けた。
「……将門……っ!」
貞盛が、その男を睨んで顔を歪める。
鬼王丸はただ猛々しく微笑んでいた。
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終 章 涙
1
黒駒が重々しく蹄を鳴らした。
強い風にちぎれた雲が、夕刻の空を吹き流されていく。西方、飛騨の山稜に沈みかけた陽は、濃い影の中から歩み出た鞍上の男を赤く照らしていた。
誰もが一時その姿に目を奪われた。
ほどいた乱髪が宙を舞っている。申しわけ程度にまとった具足の下に、しなやかな肉の筋がのぞいている。ゆったりとした男の姿勢は、寺院の戦神像を連想させた。全身に刻んだ無数の傷痕も、その魅力を損なうことはできなかった。ふてぶてしく歪めた唇の端には笑みが浮かび、猛々しい男の顔立ちを、奇妙に憎めないものに変えている。
手にした太刀が夕陽を浴びて、炎に包まれたように輝いていた。
その太刀を掲げたまま、男は馬を進ませる。まるで無人の野を往くがごとく。
「将門だ……」
放心したようにつぶやいたのは、はたして誰が最初だったのか。互いに響き合う鐘の音のように、その言葉は何度も繰り返されて、布陣した兵たちの間に広がっていく。
「本物の将門公が――」
「……生きておられたのか……やはり」
「あれが……将門……」
葉擦れに似た静かなざわめきの中で、黒駒の蹄が再び鳴った。
兵たちが無意識に後ずさる。貞盛が自ら鍛えた屈強の武士団が、弓を引くことも太刀を抜くことも忘れて道を開けていく。その様子を、鞍上の鬼王丸は厳然と睥睨した。
感情をたたえぬ醒めた瞳。それは、はるかな高みから人の生死を見下す者のみが浮かべ得る、非情な眼差しだった。
兵たちは、ただ驚愕の相を浮かべて立ち尽くす。
彼らは皆、選び抜かれた精鋭の兵である。だからこそ理解していた。
四百の兵を自在に操る貞盛の陣形の強固さを。
そして、その陣を一太刀も交えることなく圧倒してみせた、鬼王丸の底知れぬ胆力を。
驚嘆は、やがて恐怖をない交ぜにした畏敬の念へと形を変えた。
前進する鬼王丸の一挙一動を、兵たちは息を呑んでただ見つめていた。武士として都に仕え、戦そのものを生業とする武人であるがゆえに、彼らは勇猛さと信義を重んじる。謀略に頼らず、堂々たる姿を戦場に現した鬼王丸の行動が、彼らの心を動かした。鬼王丸に刃を向ける者はなく、ただ感嘆の吐息だけが無数に漏れた。
それは知将と呼ばれた貞盛にとっても、誤算だったに違いない。
官位や律令に頼らず、ましてや身分や血筋などにも拠らず、真に力のある者が時代を動かす。坂東の地に根づき始めたその新しい価値観に、都暮らしの長い貞盛は気づくのが遅れたのだ。
これまでの曖昧な噂とは違う。一度は落命したはずの将門が、こうして追捕使の軍勢の前に姿をさらしたのだ。噂は風のように広がるだろう。帝の耳にも届くだろう。将門は死してなお朝廷に仇なす怨霊である、と――あるいは荒ぶる神である、と。
「…………」
そして鬼王丸は、自分が今このとき、真に人外の魔物になったことを知った。
星斗稀 鐘鼓歇 簾外暁鶯残月
蘭露重 柳風斜 満庭堆落花――
漏れ出しそうになる自嘲の笑みを、鬼王丸はかろうじて噛み殺す。
迷いがなかったわけではない。自ら戦いを望んだわけでもない。身罷《みまか》った父に領地を託され、その領民を護るためには戦うよりほかに道を選べなかった。
けれど受け継いだ領地は滅び、護るべき民も今はない。鬼王丸の――将門の役目は、すでに終わったのだ。いや、むしろ滅びることこそが、鬼王丸の使命だったのかもしれない。怨霊として人々の記憶に名を残し、東国に暮らす人々の拠り所となることが。
ならば自分は怨霊になろうと鬼王丸は思う。
将門の一族は滅んだが、かつての領民は今も東国に残されている。
朝臣たちが将門の名を恐れるなら、それは都の搾取に苦しむ民にとっての救いにもなるだろう。何十年か、何百年か後、貴族の支配に立ち向かう気概を坂東の武士たちが取り戻したなら、将門の名が彼らにとっての護符代わりとなることもあるだろう。
そのために今ここで、怨霊として、追捕使の軍勢を退ける――鬼王丸はそう思い定めている。
鬼王丸の醒めた眼差しは、誰にも気づかれることのない決意の裏返しなのだった。
虚閣上 倚欄望 還似去惆町悵
春欲暮 思無窮 旧歓如夢中――
その悲壮な決意を後押しするように、澄んだ歌声が流れていた。鬼王丸の傍らで、若い娘が、ゆるやかに舞い奏でながら歌っている。
翻る薄絹の下に現れたのは、仙女を思わせる儚い美貌だった。
宝玉のように輝く瞳と、ふとしたはずみで銀色がかって見える長い髪。
渡来人――それも大陸西方の胡人の血をひいているのだ。柊である。
舞い散る花弁のように踊る彼女は、同じ人間とは信じがたい、妖しめいた美しさだった。
それでいて彼女の姿は、見る者になぜか奇妙な懐かしさを感じさせた。母を慕う者は母の姿を、妻を想う者は妻の姿を、無意識に彼女に重ねて見てしまうらしい。
単に娘が美しいからというだけではない。彼女が浮かべる、すべてを見透かしたような瞳のせいである。鬼王丸の冷めた眼差しにも、どこか似ている。
それは、愛する土地を追われた者の瞳だった。
大勢の同胞をなくした者の姿――何千という人々が命を落とすのを、その目で見てきた者の表情だった。そのことが彼女の儚げな視線に、不思議な優しさを与えていた。あまりにも深い悲しみは、ときとして慈愛と表裏一体であるらしい。
「…………」
娘の歌う韻律に合わせて、鬼王丸は慎重に馬を歩ませる。
漆黒の巨馬に跨った鬼王丸と、それに付き従うように舞い踊る美貌の娘。あまりにも異様な二人の対比は、戦慣れした追捕使の兵たちをも萎縮させ、戦意を奪う効果があった。
これが彼女の――柊の仕掛けた術なのだ。
楚の覇王、項羽の例にもあるように、歌はときとして戦場における数百数千の刃をも凌ぐ働きをすることがある。戦うまでもなく、大軍の士気をくじく結果をもたらすことがあるのだ。
怨霊のごとく死の淵から甦った猛将が、たった一騎で兵たちを威圧する。
妖魔のような美貌の娘が、彼の傍らで優雅に舞い続ける。
その上で彼女が歌うのは、哀切な異国の歌である。都の精鋭である武士たちが、恐怖を覚え、戦意をなくしても無理はない。
将門の勇名と、異郷の血をひく自らの姿形《すがた》を利用して、巧みに兵たちの恐怖をあおる。それが彼女の役割。なにもかもが極めて繊細に謀られた方術なのである。
しかし危険な賭けでもあった。具足を身につけ、馬に跨った鬼王丸はまだしも、舞い続ける柊はまったくの無防備。方術が破れれば真っ先に標的になるのは彼女である。そして彼女が、少しでも怯えた素振りを見せれば、即座にこの術は綻びるだろう。
それでも柊は優々と歌い続ける。
かつて北山の麓で、戦に敗れた鬼王丸たちを救い出したときと同じだった。あのときも柊は、美しい歌声で掃討役の兵たちを惑わし、傷ついた鬼王丸と景行を救ったのだ。思えば鬼王丸が怨霊であると噂され始めたのは、それがきっかけなのかもしれなかった。
春欲暮 思無窮 旧歓如夢中――
同じ詞《ことば》を繰り返して、柊が静かに視線を巡らせる。
彼女の瞳が向いた先には、鬼王丸とも縁の深い人々の姿があった。
扇形に散った兵たちのほぼ中央、太刀を握り直して動かない武士は平貞盛。
鬼王丸の一族を滅ぼした仇だが、不思議なことに、こうして正面からまみえても憎しみの気持ちは湧いてこなかった。互いに心許せる唯一の友として都で酒を酌み交わした――懐かしい日の思い出が、かすかに心をよぎっただけだ。
その貞盛と対峙するように、男装の菅原景行が立っている。
端整な顔かたちは別れたときと変わっていない。少し痩せたかもしれないが、景行の表情は鬼王丸との再会に輝いているようだった。
景行の傍に立つ白皙の男は、望月三郎兼家だろう。
直接に言葉を交わしたことはないが、九郎丸が語っていたとおり、信用に足る男らしかった。貞盛を敵に回す危険を冒してまで、彼が景行を護ろうとしているのがわかる。鬼王丸と目が合った瞬間、兼家は唇の端を歪めてみせた。同じまつろわぬ民同士、このような形で鬼王丸に手を貸す羽目になった自分を嘲るような、そんな微苦笑だった。
そして保憲――鬼王丸との戦いで負傷し、諏訪の官牧に残してきたはずの賀茂保憲の姿がある。いまだ癒えぬ傷のせいか、顔色は青ざめ、額を汗が滴っていた。それでも普段と変わらぬ薄笑みを消さないのは、陰陽道賀茂家の意地だろう。
保憲の足元近くには、血の染みで斑にそまった着物が、小さな膨らみを作っている。
長い黒髪が地面に散って、その隙間からのぞいていたのは蝋のように真白い肌だった。
「鬼王丸、済まない……夜叉姫が……」
近づいてきた景行が、顔を悲痛に歪めながら告げた。ふた月の間、ともに過ごして、景行は柊のことをよく理解している。柊の歌声を聞いた驚きから、すぐに立ち戻ることができたのもそのせいだ。
「わかっている」
鬼王丸は短くつぶやいた。夜叉が自分を追ってきていると保憲に聞かされたときから、このような結末になるのではないかと恐れていたのだ。
だが、実際に倒れ伏した娘の姿を見ても、鬼王丸は表情を変えなかった。
唯一人生き残った最後の娘。その死を鬼王丸は嘆くことができないでいる。ただ胸の奥底に開いた虚無の穴が、深さを増したような感覚があるだけだ。
夜叉だけではない。同じような怒りを朝廷に対して抱き、鬼王丸の理想を信じてくれた同胞たち。彼らが寄せてくれた愛情と信頼に、最後まで報いることができないまま、鬼王丸は海を渡ろうとしている。そのことを思っても、やはり心は動かない。
もう二度と、悲しみに心動かすことはできないのかもしれなかった。
そのような鬼王丸の反応に、景行は一瞬、落胆にも似た表情を浮かべた。無理からぬことだった。かつての鬼王丸を支配していた、あの炎のような怒りはもう残されていないのだ。
思えば、その怒りこそが将門と名乗っていた時代の、鬼王丸という人間の本質だったのだろう。ならば、怒りをなくした今の自分は、やはり怨霊以外の何者でもないということだ。
「すまんな、景行――」
口の中で独りごちて、鬼王丸は夜叉の亡骸に視線を向けた。
歌い続ける柊が、その小さな骸の傍らに、屈みこもうとするところだった。
美しい宝玉のような瞳から、大粒の涙が流れ出て頬を濡らしている。
そして彼女は、奇妙な行動を取り始めた。倒れ伏した夜叉の身体を仰向けにして、その胸に、そっと両手をかざす。自らが歌う曲に合わせて、柊は自らの掌を、夜叉の胸に強く押しあてた。
絶命したはずの夜叉の身体が、その衝撃で小さく震えた。
己の体内で練り上げた気力を、夜叉の心臓に叩きつけるように、柊は繰り返し掌を押しつける。規則正しいその動きには、先ほどまでの彼女の舞いにも通じるものがあった。
幼い娘の骸の上で舞う、渡来人の女性。それは、柊が娘の骸を喰らおうとしているようにも、あるいはなにかの呪《まじな》いを施そうとしているようにも見えた。
兵たちは呆然とその光景に見入っている。
「反魂の法……蘇生術を使えるのか」
つぶやいたのは保憲だった。
陰陽道賀茂家には、泰山府君と呼ばれる神が伝えられている。泰山府君とは、道教でいう泰山五岳の筆頭――東岳大帝のこと。人間の寿夭生死《じゅようせいし》をつかさどり、死者の生前の行為の善悪を裁く冥府の神である。
伝承に拠れば奈良時代の遣唐使、吉備真備《きびのまきび》が、この泰山府君に関わる陰陽道の秘伝を唐から持ち帰り、賀茂家に託したと言われている。それはすなわち、死者の蘇生を行うある種の医術を伝えたのだと考えるのが妥当だろう。だが、
「無理だ。時間が経ちすぎている……夜叉は、もう……」
保憲は弱々しく首を振る。
稚さを残した夜叉の顔には、たしかに目立つ傷はない。しかし、着物を染めるおびただしい量の鮮血からも、彼女が絶命していることは間違いなかった。もはや、いかなる蘇生術も間に合わないのは、誰の目にも明らかだ。経穴を押さえ、心の臓にどれだけの刺激を与えたところで、夜叉が生き返るとは思えない。
それでも柊は休むことなく、蘇生の試みを続けた。異国の歌を歌い奏でながら。
銀色に輝く髪が、風にうたれて夕闇の中を舞う。
それもまた幻想的な光景だった。奇跡が起きる期待を、人々の心に抱かせるような――
本来なら彼女を止めるべきなのだろう。貞盛たちの動揺が解けぬ間に、この陣を駆け抜けるべきなのだろう。
それでも鬼王丸は柊を止めることができなかった。
神懸かった巫女を思わせる、彼女の舞いは続いている。彼女の掌が押しあてられるたびに、夜叉の小さな身体が、雷に打たれたように震える。
そして風を裂く鋭い音が、柊の歌声を遮って鳴った。
「――!?」
鬼王丸は、かっと目を見開いた。
絶えることなく続いていた、異郷の歌と舞いが止んでいた。
柊を止めたのは鬼王丸ではなかった。一本の矢だ。漆黒の矢羽を植えつけた征矢が、彼女の胸を深々と貫いている。
「柊!」
景行が細い叫び声を上げた。
返事はない。歌うのを止めた柊の唇を、あふれ出した鮮血が赤く染める。矢は深々と彼女の身体を貫き、背中側に抜けている。
「……愚彊」
愛馬の背で、鬼王丸は歯を軋ませた。
放心した兵から弓を奪い取って柊を狙ったのは、漆黒の僧衣をまとう僧兵だった。長身の貞盛と並んでも、さらに抜きんでた巨躯の持ち主である。厳めしい顔つきは火傷の痕で歪んでいたが、その双眸に浮かぶ光は酷薄で、柊の歌による動揺は見えない。
「そうか、愚彊……貴様、鼓膜を……」
景行が、己の過ちに気づいて唇を噛んだ。
鎧の上に着込んだ愚彊の僧衣は、苛烈な炎と嵐にさらされたように裂けている。それが意味するところは明らかだった。菅家の雷槌だ。
景行が放った焔硝の爆発に、愚彊は間近で巻きこまれていたのだ。
硬功夫の技と愚彊の強靭な肉体があれば、焔硝の威力に耐えたとしても不思議はない。だが、爆音と激しい気圧の変化を受けて、今の愚彊は、ほとんど耳が聞こえていないのだろう。
そのために歌を媒介とした柊の方術が、彼にだけは通じなかった。術に落とそうにも、落とすことができなかったのだ。
新たな矢を、愚彊は黒塗りの強弓につがえて引き絞る。
彼が狙ったのは鬼王丸ではなく、すでに傷を負った柊のほうだった。
柊の傷は、並の人間なら苦痛だけで絶命していてもおかしくないほどだ。それでも彼女は、最後の力を振り絞るようにして、血まみれの唇を、夜叉の青ざめた唇に押しつけた。
それもおそらく反魂の法のひとつなのだろう。自らの呼気を、直接、夜叉の肺腑に送りこむことで、彼女の息を吹き返させようとしているのだ。
強引に呼気を吹きこまれて、夜叉の胸が膨らんだ。
柊は、再び夜叉の胸に掌をかざし、それを押しあてようとした。
そして夜叉の細い肩が、小さく震えたように見えたそのとき――
「!?」
新たな矢が、柊の胸元に突き立った。愚彊が歯を剥いて笑っている。
誰にも、どうすることもできなかった。
ほっそりとした柊の身体は、衝撃に耐えかねたように吹き飛ばされていた。
噴き出した鮮血が、夕闇の空に溶けこんだ。
彼女の背後は、砂の浮いた岩肌の斜面になっていた。力を失った柊の身体は、二、三度だけ地面に弾んで、そのまま斜面を滑り落ちていく。
美しい彼女の横顔が、苦痛を訴えていなかったのがせめてもの慰めだった。
柊の身体が宙を舞った。斜面の先は梓川の水面。冷たく澄み切った深い流れが、娘の身体を呑みこんでいく。
雪解けで増水した川の流れは速かった。
柊の身体はゆっくりと沈みながら、たちまち押し流されて見えなくなる。
誰もが声をなくしていた。
景行も、保憲も――貞盛や彼に従う兵たちも。
唯一、僧兵の錫杖の金輪だけが、耳障りな音を立てて鳴り響く。役目を終えた弓を投げ捨て、僧兵は笑っていたのだった。
「愚彊――!」
鬼王丸が咆吼した。
心を満たしたのは怒りではなく、冷たい氷のような憎悪だった。その憎悪が鬼王丸を衝《つ》き動かした。身体に引きつけるように太刀を構え、それに応じるように黒駒が疾走を始める。
「呵々……無碍無碍無碍無碍……滅せよ、将門! それこそ我らが座主《ざす》の望み、妙見大菩薩の慈悲と知れ!」
愚彊が哄笑とともに説く。
錫杖の金輪が、じゃらじゃらと揺れた。鬼王丸の突進を、正面から迎え撃つつもりらしい。
黒駒の巨体を見据えて、愚彊には怯《ひる》む様子もない。入滅を恐れぬ僧兵に死の恐怖はないのだ。
実際、愚彊の膂力と鋼の錫杖の威力があれば、一撃で馬の脚を叩き折ることも不可能ではないだろう。そうなれば鬼王丸とて無事では済まない。
そして馬上の鬼王丸の太刀は、正面にいる敵に対しては無力なのだ。
「――鬼王丸!」
景行がたまりかねたように叫んでいた。焔硝を詰めた矢をつがえてはいたが、鬼王丸の姿が邪魔をして愚彊を狙うことができないでいる。
それを知ってか、愚彊がさらに笑う。しかし鬼王丸は、それを無表情に見下ろしただけだった。
「|※[#「口+奄」、第3水準1-15-6]《おん》!」
愚彊が、鋼の錫杖を渾身の力をこめて振り上げる。
だが、その錫杖が黒駒の身体に向けて放たれることはなかった。
愚彊の眼前から、鬼王丸を乗せた黒駒が姿を消していた。跳んだのだ。疾走してきた勢いのままに、愚彊の頭上を跳び越している。
頭上をよぎる巨大な影を、僧兵はゆっくりと振り仰いだ。
いかに鬼王丸の愛馬が駿馬といえ、愚彊は身の丈六尺を優に超える巨漢である。普通ならば、その頭上を馬が越えることなどあり得ない。鬼王丸の比類なき騎乗技術がそれを可能にしたのだと、はたして愚彊が気づいたかどうか――
「最後だ、愚彊――」
鬼王丸が吐き捨てる。馬から飛び降りざまに突き出した鬼王丸の太刀は、無防備な背中側から、愚彊の身体を深々と刺し貫いている。
肉体に気を漲らせて打突や斬撃に耐える硬功夫も、背後からの攻撃に対しては使えない。呼吸を合わせることができないのだ。己の胸から突き出した太刀の刃を、愚彊は、信じられないものを見るように眺めていた。
やがて僧兵の口元から、血塊が勢いよく噴きこぼれた。
これまでどれほどの攻撃を受けても苦痛を見せなかった愚彊だが、胴体を貫かれては、もはや耐えようがなかったのだろう。真言を紡ごうと唇をわななかせ、そのままゆっくりと地面に倒れこむ。具足が重々しい音を響かせて、それきり僧兵は動きを止めた。
鬼王丸は地面に膝を落とし、荒くなった呼吸を整える。
短い静寂が訪れた。
愚彊の哄笑は途切れ、柊の歌声ももう聞こえない。
残されたのは、駆け抜けていった黒駒の蹄の音と、風の音だけ。そしてもうひとつ――
すらりと太刀を抜き放つ音が響いた。
無造作に鞘を地面に投げ捨て、太刀の持ち主は、膝をついた鬼王丸のほうへと近づいてくる。
全身を黒備えの鎧に包み、脱ぎ捨てた兜の下から、解いた乱髪が流れ落ちていた。
太刀の尖先を鬼王丸に向けて、男は無言で目を細める。
鬼王丸も同じように目を細めて、その懐かしい相手の顔を見上げた。
貞盛だった。
2
見上げた貞盛の輪郭には、鬼王丸に通じる面影があった。
背丈は鬼王丸のほうがわずかに高い。身体の至るところに傷痕が刻まれ、肌もよく陽に灼けている。それでも遠目に見る二人の姿は、やはりどこか似通っている。
けれど浮かべた表情は対極だった。
どこか思い詰めたような気配の貞盛に対して、鬼王丸の顔に気負いはなかった。仇敵に対する憎悪ではなく、感じたのは、むしろ奇妙な懐かしさだった。
鬼王丸にとって、貞盛は残された数少ない同胞。同じ祖父の血をうけた従兄なのだ。そんな思いが表情に出ていたのかもしれない。かすかに口元をゆるめた鬼王丸を見て、貞盛が目つきを険しくした。侮られたと感じたのだろう。
「――鬼王丸、これを」
景行が、自らの飾り太刀を鬼王丸に向けて放った。鬼王丸の太刀は愚彊の背中に突き立ったままだ。目の前の貞盛に隙を見せずに、引き抜くことは容易ではない。
だが飾り太刀を受け取っても、鬼王丸はそれを構えることをためらった。
殺気をまとう貞盛に微笑み、平然と問いかける。
「やめにしないか、なあ――貞盛」
その呼びかけに、貞盛は無言で応じた。
鬼王丸は立ち上がり、寂しげに笑って首を振る。その場に残された誰もが、声をなくして、対峙する鬼王丸たちを凝視している。
「気づいているのだろう、貞盛。俺はこの国を離れて、海を渡る――都を脅かすことはもはやない。おまえが坂東を治めるというのなら好きにしろ。我らの争いにもう意味はないのだ」
「――将門」
短いつぶやきを終えるよりも早く、貞盛が太刀を走らせた。
先触れを感じさせない、見事な太刀筋だった。鬼王丸ですら受け止めるのが精一杯の、重い斬撃だ。都で殿上人の地位を手に入れ、政務に忙殺されながらも、貞盛が武士としての修練を怠っていないことが、それだけでわかる。
「そうやっておまえは、今度も俺の夢を踏みつけにしていくのか――」
食いしばる歯の隙間から絞り出すように、貞盛が低くつぶやいた。その表情からは憎しみが抜け落ち、ただ哀しみだけが浮かんでいた。まるで鬼王丸自身を鏡で映したように。
「なぜ俺を裏切ったのだ、将門――この俺がどれほど望んでも得られぬほどの信頼を忠平様に与えられておきながら、あの方の下知に逆らって坂東に戻り、どうして都に楯突くような真似をした。おまえは俺の片腕になるべき男だった。それがなぜ――」
「貞盛、俺は――」
「坂東の民にあれほどまでに慕われておきながら、それを治める役を俺に譲るというのか――そうやって俺を哀れむのか、将門。おまえはいつもそうやって俺が望むすべてを踏みにじり、奪っていく。俺はおまえの生き方を認めぬ――認めるわけにはいかないのだ」
「貞盛……」
生々しい感情をぶつけてくる貞盛に、鬼王丸は返すべき言葉を持たなかった。
貞盛は鬼王丸の反乱の理由を、誰よりもよく理解している。
都の一方的な支配が、遠国の民を苦しめていることくらい貞盛にもわかっているのだ。
それでも貞盛は朝臣として生きることを選んだ。その貞盛にしてみれば、鬼王丸の生き方は、彼の決断と苦悩を踏みにじっているとしか思えなかっただろう。
鬼王丸と貞盛は似すぎていた。同じ一族に生まれ、同じ土地に育ち、同じように都へと上った。それゆえに、二人が初めて互いに違う道を選んだとき、敵味方という形でしか、前に進むことができなくなった。鬼王丸が朝廷に対して戦いを挑まずにいられなかったように、貞盛も鬼王丸を許すことができないのだ。
反乱に至るまでに鬼王丸は貞盛の父を滅ぼし、彼の一族の多くを討った。そうしなければ、自分が討たれていたからだ。そのときに鬼王丸は、幼いころに貞盛と共に見た夢をも滅ぼしたのだ。その鬼王丸が海を渡ろうとしていると知ったとき、貞盛の心を満たしたものが、怒り以外であったはずもない。
「おまえは生まれるべき時代を誤ったのだ、鬼王丸――」
貞盛が、再び鬼王丸へと攻撃を仕掛けた。ぶつかり合う刃が火花を散らした。
鬼王丸の手の中で太刀が軋んだ。
華奢な造りの飾り太刀では、貞盛の野太刀を受けきれないのだ。刀身も柄も、このまま打ち合いを続ければ長くは保たないだろう。
それがわかっていても鬼王丸は迷っていた。貞盛の言葉は真実だ。今は遠国の民が遠国の民として胸を張って生きていられる時代ではない。どれほど律令が乱れていても、いまだに民は都の権威を信じている。いずれは唐が滅んだように、朝廷の支配が途絶える日もくるだろう。けれどそれは今ではない。鬼王丸は急ぎすぎたのだ。だが。
「それはおまえも同じだろう――」
鬼王丸の言葉に、貞盛が表情を歪ませる。
そう、貞盛も同じなのだった。彼の知略と政の才は、朝臣の中でも図抜けている。けれど、しょせん彼が手に入れた位は正五位上。殿上人としては最低の位階でしかないのだった。
血筋の貴賤で身分が決まる。そんな朝廷の流れが変わらない限りは、貞盛もまた時代の流れからはずれた異端者でしかない。それでも貞盛は時代に従い、そして鬼王丸は時代に戦いを挑む道を選んだ。それだけのことだったのだ。
再び刃が交錯し、鋼が散った。
貞盛がなにを求めているのか、鬼王丸は知っていた。
そして鬼王丸がなにを求めているのか、貞盛も気づいていてくれたと思う。
皮肉なものだと鬼王丸は笑う。宿敵同士になってしまった二人が、結局、互いのことを誰よりも理解していたのだから。
貞盛が自分を止めに来ることを、鬼王丸は知っていた。
鬼王丸の反乱を潰しただけでは、貞盛の望みは果たせない。海を渡るという鬼王丸の最後の望みを絶ちきること。それだけが貞盛に残された手段なのだ。自分の選んだ生き方が間違いでなかったことを証明するための。
道を誤った旧友が、これ以上、苦しみながら足掻《あが》くのを止めさせる――自らの手で鬼王丸を討つことが、貞盛の慈悲であり、彼の信じた生き方なのだ。彼にはほかにどうすることもできなかった。鬼王丸がほかの生き方を選べなかったのと同様に。
だから鬼王丸は太刀を構えて、告げる。
「道を譲れ、貞盛――この俺が戦う相手はおまえではない」
「無駄だ、将門。おまえが望む場所などありはしないのだ――異国にも、この地上のどこにもありはしない。おまえはただ夢を見ているだけだ。見失った自分の理想を海の向こうに夢見ているだけだ。おまえがどれだけの理想を説こうと、この国の民が変わることはない。おまえは変わらないこの世界に負けたのだ――」
「違う――貞盛。世界は変わる」
鬼王丸が静かに言った。
「俺には、変化の兆しが見える。この国が変わっていく姿が見える。だから俺の役目はもう終わったのだ。おまえたちは変わることを恐れて、気づかないふりをしているだけだ。どれほど揺るぎないものに見えても、世の中に変わらぬものなどない」
「あり得ぬ!」
貞盛が低く叫ぶ。
「我らが生まれ出《いず》るはるか過去から、都の支配が崩れることはなかった。それはこれからも同じことだ。変わるのは都を動かす人の顔ぶれのみ――だから俺は殿上人の地位を手に入れた。変わるのは国ではなく、人だ。俺は俺の手に入れた力で人を動かす――」
「東国の民を豊かにするために、我らは共に都に上ったのではなかったのか。都に与えられた肩書きにささやかな満足を覚えて、真実に目を背けて暮らすことが貴様の真の望みだったのか。答えろ、貞盛――負けたのは誰だ!? 真にこの世界に敗北したのは――」
「黙れ、将門!」
貞盛が荒々しい吠え声とともに、力任せに太刀を振るった。
その太刀を頭上で受け止めて、受け止めきれずに鬼王丸は膝を落とした。貞盛の重厚な野太刀の刃が、鬼王丸の飾り太刀に半ば近くまで食いこんでいる。
柊の歌が止んだことで術が解け、すでに貞盛の兵たちも正気に返っていた。
それでも鬼王丸たちの戦いに手を出そうとする者はいなかった。それは景行や保憲たちも同じだ。誰もが息を呑んで二人の将の戦いを見つめている。
誰もが。
否、ただ一人を除いて――
「……鬼王丸[#「鬼王丸」に傍点]!」
それは貞盛自身、無意識のつぶやきだったのだろう。
驚愕に目を見開き、貞盛がわずかに太刀を引いた。鬼王丸はその機を逃さなかった。貞盛の太刀を瞬時に跳ね上げ、体勢を入れ替えながら立ち上がる。しかし、貞盛が見つめていたのは、鬼王丸ではなかった。まるで魂を抜かれたように、鬼王丸の背後の薄闇に目を凝らしている。
そして、金属が擦れ合うような耳障りな声が、流れ出した。
オン・ソジリシュタ・ソワカ
オン・マカシリエイ・ヂリベイ・ソワカ――
「なに!?」
鬼王丸が弾かれたように振り返る。
その視界を銀光が満たした。錫杖だ。鋼鉄の錫杖の横殴りの一撃が、貞盛ごと巻きこんで、鬼王丸を打ちつける。落雷にも似た衝撃に、鬼王丸らは苦悶した。
錫杖を受けた飾り太刀が砕けた。
咄嗟に使った硬功夫の技も、錫杖の威力を封じ込めることはできなかった。
為す術もなく地面に転がり、鬼王丸はうめいた。錫杖に打たれた左腕が痺れている。硬功夫を使って、それでもこの状態だ。これでは技の使えない貞盛は――
「……貞盛!」
鬼王丸は上体を起こして、倒れた貞盛の姿を見た。
鎧の胸当てが無残に砕け、その破片が散っている。貞盛は動かない。
今たしかに、貞盛は鬼王丸と呼びかけた。互いに青年だったころのように。
錫杖を受ける直前、貞盛の太刀が緩んでいなければ、鬼王丸は間違いなく死んでいた。貞盛が動揺したからこそ、鬼王丸は背後からの攻撃を避けられたのだ。そして、貞盛が攻撃に巻きこまれることもなかった。真実はわからない。貞盛自身にもわからないのかもしれない。けれど結果的に貞盛の行為が鬼王丸を救った。貞盛は鬼王丸を庇ったのだ。
真言の読経が響き渡り、錫杖の金輪が音を立てた。
「おまえは……そうか……」
鬼王丸は、そこに立つ漆黒の僧衣の男を見上げた。
愚彊だった。左胸から太刀を生やしたまま、僧兵団の最後の一人が立っていた。
顔の下半分から喉にかけて、自らが吐き出した血で赤く濡れている。垂直に刺さった太刀の先からも、赤い滴が止めどなく滴り続けている。
それでも愚彊は笑っていた。その瞳には、一片の痛苦の色も浮かんでいない。
彼の唇から真言が漏れ続ける。
オン・ソジリシュタ・ソワカ
オン・マカシリエイ・ヂリベイ・ソワカ――
追捕使の兵たちが、ついに悲鳴を上げた。
愚彊の姿は、傷を負った衝撃だけで、驚死していても不思議ではないほどの有様だ。死者が生き返ったのだとしか思えない。
太刀に貫かれて鮮血を吐きながら、なおも笑い続ける愚彊は、もはや悪鬼そのものだった。
その悪鬼の手によって、将である貞盛が討たれている。そして、追捕の対象である鬼王丸も健在なのだ。いかに精強の兵たちといえども、これで動揺しないはずがなかった。
最初の一人が逃げ出してしまえば、それで終わりだった。
恐怖の臨界に達していた彼らは、鬼王丸たちに背を向け、悲鳴を上げながら我先にと散っていく。錯乱して闇雲に太刀を振るう者もいれば、仲間を馬で踏みつけていく者もいた。なまじ完璧に規律がとれていただけに、それが崩れたときの反動も大きかったのだ。
傷ついて倒れた貞盛の身体を、愚彊が無造作に踏みつける。
鬼王丸の心の奥で、なにかが、ぎりぎりと音を立てた。
湧き上がる感情が、虚無の穴を埋めていく。炎のように揺らめくその感情の命じるまま、鬼王丸は絶叫し、愚彊を睨めつけた。その懐かしい感情の名を鬼王丸は思い出す――怒りを。
「鬼王丸、離れろ」
景行が弓を構えて駆け出した。残された焔硝を続けざまに射放つ。だが愚彊の錫杖が、それらをことごとく弾き飛ばした。地面に落ちた焔硝が爆炎を上げるが、それが愚彊を傷つけることはなかった。
「――!」
その愚彊の左腕に、黒塗りの匕首が突き刺さる。ひょうに結んだ縄を操って、皮肉っぽく笑っていたのは兼家だった。
「……悪いが、そいつらを殺されては俺がやりにくくなる。死に損ないはおとなしくしていろ」
槍ほどの威力を持つ兼家のひょうは、愚彊の腕をほぼ貫通していた。しかし愚彊は、突き出した刃を見て薄く笑うだけだ。そしておもむろにひょうから伸びる縄をつかむと、それを強引に引き寄せた。
「なに!?」
愕然とうめいたのは兼家だった。けっして非力ではない兼家を、愚彊は、左腕だけで無理やり引きずり寄せる。常軌を逸した膂力だった。縄の端を結んだ、兼家の手首が軋んだ。咄嗟に自ら縄を断ち切らなければ、そのまま腕ごと引きちぎられていたかもしれない。愚彊から解き放たれた反動で、兼家は地面に転がった。
両腕の痛みに、白皙をしかめて息を吐く。
「|※[#「口+奄」、第3水準1-15-6]《おん》!」
愚彊は、腕に刺さったひょうを引き抜くこともせず、錫杖を振り上げた。いまだ起き上がることができない鬼王丸をめがけて、乱暴に振り下ろす。
鬼王丸を救ったのは、保憲だった。
陰陽師の放った指弾が、愚彊の眉間を正確に撃ち抜く。衝撃に愚彊がのけぞった。その隙に鬼王丸は立ち上がる。貞盛が落とした太刀を拾い上げ、愚彊に向ける。
しかし僧兵に斬りかかることはできなかった。
眉間は人体の必殺の急所だ。硬功夫でも、人体の急所までは覆い隠すことはできない。だがそこに指弾を喰らっても、愚彊はなんの苦痛も感じていないようだった。瞬く間に立ち直り、再び錫杖を鬼王丸に向ける。
「……そうか……鬼王丸。やつは……」
鬼王丸の傍らに歩み寄り、保憲が硬い声で告げた。
「やつは彼女と、柊と同じなのだな――無痛症か!」
「……気づいていたのか。さすがだな、賀茂保憲」
鬼王丸は無表情にうなずいた。
無痛症――それが愚彊や柊の見せる、不死性の正体なのだった。
彼らの肉体はいかなる痛苦も感じない。そのように生まれついている。体内の痛みや苦しみを感じる経路の、どこかに障害があるのだろう。
普通なら痛みで動けなくなるほどの傷を負っても、彼らはなにも感じない。
苦痛が他の臓器に伝わらないために、肉体のどこかに重大な傷を負っても、変わりなく動き続けることができるのだ。
もちろん、それは完全な不死とは呼べない。
満足な治療や安静なしに傷がふさがることはないし、回復が追いつかないほどの傷を負えば、やはりいずれは死に至る。だが、その緩慢な死を迎えるまでは、どれだけ傷ついても戦い続けることができる。痛みを恐怖することもなく。まさに今の愚彊のように。
そして苦痛を覚えることがないゆえに、彼らは、自らの筋肉が持つ力を、物理的な限界まで引き出すことができる。普通の人々が肉体を保護するために無意識に抑えている力を、ぎりぎりまで引き出すことができるのだ。異様ともいえる愚彊や柊の膂力は、そうやって生み出されたものだった。
「言ったはずだ、将門――我は滅度を恐れぬ」
血まみれの相を歪めて、愚彊が笑う。
僧兵は歩き出しながら、ゆっくりと錫杖を振り上げ、それを地面に叩きつけた。保憲の指弾が次々と愚彊に撃ちこまれる。しかし愚彊の歩みは止まらない。
「ならば……望みどおり彼岸へと渡してやる」
鬼王丸は疾走した。腕の痺れはすでに消えていた。それを隠していたのは、愚彊を油断させるためだ。重い錫杖を振り下ろしたことで、愚彊の動きは鈍っている。
がら空きになった僧兵の右肩から左脇にかけて、鬼王丸は太刀を叩きつけた。
「しまった――!」
太刀が砕けた。
腕に伝わってきた異様な感触に、鬼王丸は唇を噛んだ。まるで岩を斬りつけたような手応えだ。あまりにも無防備な愚彊の姿に、失念していた――硬功夫。不死身に近い肉体に加えて、愚彊にはこの技があったのだ。
「オン・ソジリシュタ・ソワカ――!」
張りのある真言とともに、錫杖が翻る。
それを防ぐことは鬼王丸にもできなかった。
衝撃に息が詰まって、視界が暗転する。気づいたときには、鬼王丸は、身体をくの字に折り曲げて、数間離れた地面に叩きつけられていた。
悲痛に歪んだ景行の姿が見える。
だが、耳元でごうごうと音が鳴って、なにも聞こえない。
幸い、身体はまだ動く。しかし、手足にはほとんど力が入らない。
今の鬼王丸に、愚彊を斃すだけの力は残されていなかった。うつろな笑みを浮かべた愚彊が、錫杖を引きずりながら近づいてくる。鬼王丸は武具を失った腕で地面をつかむ。
「…………」
そのとき、すぐ傍で、誰かに呼ばれたような気がした――
鬼王丸が無意識に伸ばした指先が、なにかに触れた。
まだかすかな温もりを残した、小さな身体。眠るように、仰向けに倒れたままの夜叉の骸。その胸元からなにかがのぞいていた。
ひび割れた短い筒のようなそれを、鬼王丸は手に取った。
愚彊が錫杖を振り上げた。
酷使に耐えかねて歪んだ金輪が鈍く鳴り、かすれた真言が響き渡る。
「オン・マカシリエイ・ヂリベイ……」
その言葉が終わる寸前に、鬼王丸が地面を蹴った。
手に持った筒を、愚彊に向けて突き出した。
突き出して、なにがどうなると思ったわけでもない。だが、ひび割れて尖った筒の先端は、誰かに導かれたように愚彊の腕に浅く突き立った。兼家の匕首と、保憲の指弾でえぐられた愚彊の傷口へと。
腕に刺さったそれを、愚彊が不思議そうに眺めた。
その瞬間、鬼王丸は筒の正体を思い出していた。そして――
「ぐ」
突然、愚彊が苦悶のうめきを漏らした。
錫杖が、からん、と音を立てて地面に落ちた。
「なんだ、これは?」
自らの体内に起こった変化を、信じられないというように愚彊は首を振った。
喉を押さえて天を仰ぎ、胸をかきむしるようにして咆吼する。
僧兵は苦痛を感じているのだった。
「……附子だよ、愚彊」
娘の骸を抱えて、鬼王丸は立ち上がる。
愚彊の腕に突き立っていたのは鞘だった。夜叉の護り刀の鞘。その内側には附子の毒に浸した布が収めてあったのだ。
附子の毒は速効性だ。延髄と脊髄を刺激し、神経を狂わせ、最後は呼吸麻痺で、人を素早く死に至らしめる。どれだけ強靭な肉体を誇ろうと、人である限りそれに抗う術はない。
「――痛苦を感じぬ肉体とはいえ、呼吸なしで動けるわけではあるまい。覚えておけ、愚彊。それが苦しみだ。それを抱いて望みどおり入滅するがいい」
「苦しみ……か」
まるで鬼王丸の声が届いたかのように、自らの両手を見下ろして、愚彊がつぶやく。その唇は激しく震えて、まともな言葉にはならなかった。恐怖に歪んだ双眸から、とめどなく涙があふれ出し、
「……涅槃が……」
愚彊は倒れた。
それきり巨躯の僧兵は動くのを止めた。彼の瞳に最後に映ったものが、真に涅槃であったのか、鬼王丸たちにわかるはずもない。ただひとつわかっていたことは、呪詛のひとつが終わりを告げたということだけだ。
長く続いていた、悪夢のような呪詛が終わった。
呪詛に縛られていたのは、はたして鬼王丸だったのか。それとも愚彊のほうか。
暗さを増していく空に、星が瞬き始めていた。
鬼王丸は抱き上げた娘の骸を、保憲にそっと差し出した。
保憲は無言でそれを受け取る。
誰も、なにも言わなかった。鬼王丸はそのまま彼らに背を向け、歩き出す。
風が鬼王丸の乱髪を揺らした。
誰かに呼ばれたような気がして、鬼王丸はふと足を止めた。
「……父上」
弱々しいつぶやきが、そう聞こえた。
あどけなさを残した声だった。保憲が肩を震わす気配がした。
鬼王丸は振り返らなかった。黒駒が、鬣《たてがみ》を揺らしながら鬼王丸を待っている。その傍らには、菅原景行。黒駒の頬を撫でながら、鬼王丸を見上げて訊く。
「行くのか?」
「……ああ」
二人の会話はそれだけだった。
まるでそうすることが当然だというように、彼らはともに手綱を引いて歩き出す。
最後まで鬼王丸が背後を振り返ることはなかった。
ただ唇に、不敵な微笑がよぎって消える。それが、別れの挨拶だった。
3
「…………」
平貞盛は、闇の中で目を覚ました。
眠っていたのは硬い寝台の上。薄い衾が申し訳程度にかけられている。造りは粗末だが、部屋は広かった。どうやら国府の下官の屋敷らしい。
「気がついたか?」
貞盛が身体を起こしたとき、背後から声がした。闇の中、淡い月の光を浴びて、白皙の男が斜に構えた笑みを浮かべている。
彼の右手には、ひび割れた杯。どうやら月を肴に酒を飲んでいたらしい。
貞盛はゆっくりと部屋を見回す。太刀はなかったが、鎧は身につけたままだ。愚彊の錫杖で打たれた傷痕には、貞盛の知らない薬草がまかれていた。そのせいか、痛みは耐えきれないほどではなかった。
「兼家か……ここは?」
「筑摩の外れだ。この屋敷の主は俺の身内で、信用できる男だ。心配はいらない。国府までは馬で半刻もかからないが、あんたとしても国府の連中に今は会いたくないだろうと思ってな」
「――なぜ、俺を助けた?」
深く息を吐いて、貞盛が訊く。兼家は苦笑を隠すように杯を傾けた。
「雇い主を助けるのに理由は必要ないだろう? それとも山の中に置き捨てられて、野伏だの野犬だのの餌食になったほうがよかったか」
「……愚彊は?」
貞盛は冷たく訊き返す。兼家は無表情に首を振った。
「死んだ。あんたも見ただろう。あの傷で助かるはずがない。これで少なくとも、政にかぶれた台密の坊主どもに、これ以上のさばる口実を与えずに済むということだ。浄蔵も今ごろはさぞかし荒れているだろうよ」
「鬼王丸……将門は?」
「死んだよ。愚彊と相打ちになってな」
兼家は、にや、と笑って告げた。杯を持った手で部屋の隅を指さし、
「やつの首なら、その首桶に入っている。都の大路に晒すんだろう? 腐らないように酒と塩に漬けておいたが――どうする? 検分するか?」
「……いや」
貞盛は静かに首を振った。
たしかめるまでもなく、その首が本物かどうか貞盛にはわかっていた。
それに酒漬けにされた首が、生前と人相が変わってしまうのはよくあることだ。そう、たいしたことではない。
「しかし……厄介な目に遭わせてくれる、将門め」
貞盛はにやりと微笑んで言った。
怪訝な表情を浮かべる兼家に向かって、
「――やつはもうふた月も前に死んだことになっているのだ。今から都に運んで首を晒しても、日付が合わない。やつの首は新しすぎる。どうしたものかな」
「放っておけばいいさ」
兼家は愉快そうに笑ってみせた。
「将門は化生の者だ、首を落とされてもいつまでも生きているように腐らない――とでも噂を流しておけば、疑う者はおるまいよ。その化生の者を斃したあんたの名も上がる」
「ふん……悪くない。考えておこう」
貞盛は長くため息をついた。
鬼王丸と打ち合った自分の腕を見つめて、強く拳を握りしめる。
「飲むか? いい月だぞ」
兼家が、空の杯を差し出して言った。
「もらおう」
そう言って貞盛も窓辺に移動する。兼家が飲んでいたのは、玻璃の壺に半分ほど残った香りの強い酒だった。果実を漬けこんで作った赤い酒だ。
「見慣れない酒だな」と貞盛は言った。
「だろうな。大陸から運んできた酒だそうだ」
「……海を渡った国の酒か」
貞盛はつぶやいた。兼家は無言で酒を注いでいく。
赤い血のような液体を満たした杯を、貞盛は、軽く月に向かって持ち上げてみせた。
まるで遠く離れた懐かしい友と、杯を打ち合わせるように。
これから数年の後、貞盛は伊勢の国司に任命され、坂東の地を離れることになる。
一説には、蛮行を繰り返す叔父たちとの争いに倦んだためとも、将門を討ったことで坂東の民を敵に回したためとも言われているが、伊勢は下野よりも上位に位置づけられた大国であり、地理的な要所であることを思えば、単に重職を任ぜられたと考えるほうが自然だろう。
貞盛の子孫は伊勢平氏と呼ばれ、のちの平氏政権を担うことになる。将門を滅ぼした貞盛の子孫が、やがて都の貴族政権を崩壊に導くのは歴史の皮肉というべきだろう。
一方、望月三郎兼家は、間もなく都から信濃国司に任命されることになる。その名目は将門の反乱を鎮圧する際の兼家の働きに報いるためとされている。
だが兼家の立てた戦功がはたしてどのようなものであったのか、のちの歴史書に記述はない。
4
渤海とは黄河の終《つい》の海。その東の海上には時折うっすらと島の影が浮かび、半日も消えずに残ることがあるという。蜃気楼にも似たこの島々を、三神山に違いないと人々は噂した。
三神山とはすなわち蓬莱、方丈、瀛洲《えいしゅう》のこと。その地には数多くの仙人が住まい、不老不死の妙薬があるとも伝えられている。古い口伝。伝説である。
しかし、その渤海の名前を冠した国家が、かつて大陸には存在した。唐から政治と文化を取り入れて、平和な王朝として栄え続けた文治国家。彼らは隣国である日本にも友好を求め、奈良時代から平安時代にかけての約二百年間に、三十四度の公式使節を派遣した。
非公式の往来に至っては限りなく、来着の主たる窓口となった能登の地には、渤海使のための客院が設けられていたともいう。
その渤海王朝も、やがて異民族の侵略を受けて滅亡することになる。
王朝の終焉は西暦九二六年。平将門が反乱を起こす、十年ほど前の出来事である。
「――とはいえ、国が滅んだからって、そこに住む俺たちのような連中が死に絶えたわけじゃないからな。それに渤海との私貿易は日本の律令で禁じられていたんだ。俺たちにしてみれば、むしろ交易がやりやすくなったって話でね」
喋り好きな船長《ふなおさ》は、そう言って大きく笑ってみせた。
福良津《ふくらのつ》は港である。能登半島の西岸で、唯一の深い湾入を持つ良港。そして造船の地として知られていた。
渤海が滅亡した今も、その沿岸に住んでいた者たちとの交易は、細々と続いている。数隻の荷船で船団を組んで、日本産の銀や絹織物を、大陸の高価な品々と引き替えるのだ。
嵐や高波、海賊などの危険も多いが、それを補って余りあるほどの儲けが出る。
それに加えて、今度の航海には船客がいた。尼僧が一人。そして、よく陽焼けした長身の男。二人とも、荷物はほとんど持っていない。男が太刀を一本ぶら下げているだけだ。
全身に古傷を刻んだ姿形《すがた》は物騒だったが、奇妙に魅力的な瞳をした男だった。浮かべる笑顔は船長が見ても惚れ惚れするほどで、悪人ではないと一目で知れる。おそらく元は軍人だったのだろうと、船長はあたりをつけた。もしかしたら名のある将だったのかもしれないとも思う。
闇を溶かしたように暗かった夜明け前の海も、朝凪が終わるころには、美しい布を広げたような群青色に変わっていた。男は眩しげに目を細めて、遮るもののない水平線を見つめている。
その様子を見て、船長は呵々と明るく笑った。
「あんた、海が珍しいのかい?」
男はうなずき、訛りの強い言葉をゆっくりと発音した。
「北に広がる海は初めて見る」
「へえ。ならあんた、この国の対岸から来たのか。ずいぶん遠くから来たんだな」
あんたほどじゃない、と男は短く答えた。それを聞いて船長はさらに笑った。男の言うとおりだったからだ。
「まあ、嵐が来ないことを祈ってるんだな。この季節、うまく風に乗れば四日で大陸に着く。そうすればあんたも晴れて異郷人の仲間入りってわけだ。水を積みこんだらすぐに出るぜ」
「わかった――いや、少し待っていてくれるか」
「あん?」
船長は怪訝顔で男を見返した。だが、男がそんなことを言い出した理由はすぐにわかった。
客だ。見送りの客が一人きり、港近くの海岸に立っている。
すらりと背の高い女だった。男のように陽焼けしているが、綺麗な顔をしている。
この国では崩れたくらいに豊満な女性《にょしょう》が好まれると聞いていたが、そういう意味では美人とはいえない。だが渡来人である船長の感覚でいえば、かなり別嬪の部類に入る。
「行くのか?」
まるで男のような言葉遣いで、その女が、船客の男に言った。ことさら無表情に細めた瞳が、別離の悲しさを物語っているようだった。
「世話になったな――おまえがいなければ、ここまでたどり着くことはできなかった」
そう言って男は、女の髪にそっと触れる。感傷ではない。ただ事実のみを語る口調だった。
「できることなら私も一緒に行きたかった」
つぶやいて、女は自分の下腹をそっと撫でた。晴れやかに笑う。
「だが、この身体ではな」
男は無言でうなずいた。
「これからどうする?」
「能州にいる叔父の家に身を寄せる。祖父殿は子沢山だったからな。こんなときには有り難い。私のことなら心配ない。だから、もう忘れろ――」
女が、何度も息を継ぎながら、途切れ途切れにつぶやいた。男は黙って、その言葉を聞いている。やがて女は、盛り上がる涙を隠すように微笑んだ。
「――さらばだ、鬼王丸」
「ああ」
男は唇を不敵に歪めて笑みの形を作った。無造作に束ねた髪を振って、きびすを返す。
そんな二人のやりとりを、甲板から尼僧が見守っていた。
その尼僧が、渡来人の仲間内で姫と呼ばれていることを、船長は知っていた。
どの家柄の姫ということもない。ただ姫と。そして並ならぬ敬意を払われている。
まだ若い渡来人の娘だった。西方の部族の血を引いているのか、瞳が玻璃のように澄んでいる。尼僧にするのが惜しいほどの美女であるが、その美しさはどこか近寄りがたい気配を感じさせた。邪悪ではない。ただひたすらに孤独な美貌だ。だが、
「なあ、あんた……前にどこかで会ったことがなかったかな?」
ふと気になって船長は訊いた。そう、あれは船長がこのような私貿易に手を染めるずっと前。まだ唐の都が華やかだった時代のことだ。
「……いや……そんなはずはないな。あれは、もう三十年あまりも前のことだからな。あんたの母親ならまだしもな」
そう言って船長は額を撫でた。
娘はなにも答えない。ただ儚げな表情で微笑んでいるだけだ。
船長は深く息を吐き、懐から紙束を取り出した。名簿だ。娘を見上げて遠慮がちに訊く。
「ところで、名前を聞かせてもらってもいいかね?」
娘は静かにうなずいた。
そして告げた。
唐風の発音で、一文字だけ。
花の名前を。
5
将門の首が都に晒されて半月ほどが過ぎた。
その日、陰陽道賀茂家嫡男、賀茂保憲は従者一人を連れて堀河院を訪れていた。
平安京、堀河に面して門を開いた寝殿造りの建物。太政大臣、藤原忠平の邸である。
保憲が通された広い板間には、すでにもう一人の来客の姿があった。
暗い色の直衣をまとった痩身の男――賀茂忠行。保憲の父である。
こうやって父と顔を合わせるのは、保憲が帰京して以来のことだ。淡々と頭を下げる我が子を見て、忠行はそっと目をそらした。保憲の内《なか》で起きた変化を、見極めかねているという態度だった。
御簾が揺れ、その背後に老人が姿を現した。小柄だが覇気のある老人だ。忠平本人に間違いないだろう。なるほど、と保憲は唇を緩めた。鬼王丸たちに出会う前の保憲なら、彼の雰囲気に気圧されていたかもしれない。
だが、今の保憲には、そこにいる者が権力に憑かれた、ただの老人にしか見えなかった。
「賀茂保憲、事情は貞盛のほうからも聞いている。今回の将門追捕の際のそなたの働き、見事なものであったそうだな。まずは礼を言おう」
「――過分な言葉を賜り、この保憲、恐れ入りましてございます」
保憲が慇懃に頭を下げた。このような如才ない振る舞いは、保憲の得意とするところだ。忠平は満足そうにうなずいた。
「事が事だけに、公の場で論功行賞をするわけにはいかないが、悪いようにはしないつもりだ。これからもどうかよろしく頼む」
「もちろんでございます――ですが、恐れながら私からもご報告申し上げたいことが――」
「保憲!」
忠行が声を潜めて叱責した。保憲のような下官が太政大臣に奏上するなど、明らかに作法に反している。失態である。
「よい。申してみよ、保憲」
忠平は鷹揚にそう言った。しかし彼の言葉には、これまでなかった警戒の響きが滲んでいた。
保憲はそれに気づかぬ素振りで、そっと頭を下げ、
「実は此度《こたび》の役目、無事に果たせたのは私一人の力ではありませぬ。この者の持つ、類い希な方術の才能を借りました」
振り返る保憲の視線を追って、忠平たちが頭を巡らせた。
保憲が指し示したのは自らの小柄な従者――女童と言っても通用しそうな、美しい顔立ちの少年だった。年齢は、せいぜい十三、四といったところか。気品のある仕草で叩頭する。
しかし目を引くのは、その従者の髪の色だった。陽に透けたように色素が薄く、光の加減で銀色に輝いているようにもみえる。
「その者は――」
「申し上げましたとおり、類い希なる験力の持ち主。先日より、私の弟子と致しました。以後、どうか見知りおきを」
「――弟子だと、保憲……貴様……」
忠行が声を震わせてつぶやいた。彼は気づいたのだ。保憲が都に連れこんだ、銀髪の従者の正体を。そしておそらくは忠平も。
「この者は東岳大帝、泰山府君の技を能くする者。いずれ賀茂と並び立つほどの陰陽師となり、朝廷にとって欠くことのできぬ存在になるでしょう。それまではこの私の庇護下に置きます。僭越ながらそのことを忠平様にはお認めいただきたく――」
保憲が静かに叩頭する。
名状しがたい、殺気すら含んだ沈黙が部屋を満たした。
長く密度の濃い沈黙だった。
やがて、脇息に身をもたせた忠平が息を吐いた。
「その者、名は?」
銀髪の従者が顔を上げ、娘のような美声で密やかに告げた。
「大膳大夫《たいぜんだいぶ》安倍益材《あべのますき》殿に養父となっていただき、安倍姓を名乗ることを許されました。名を、晴明《せいめい》と」
「…………」
忠平は、御簾ごしに従者の瞳をじっと睨んだ。従者はそれを真っ直ぐに見つめ返す。
息が詰まるほどの沈黙に、忠行も保憲も身動きができない。
そして忠平の双眸に宿ったのは安らかな光だった。まるで、なくしたかつての寵臣と、遠い再会を果たしたかのような――
「安倍晴明。その名前、覚えておこう」
忠平が厳かな口調で告げた。
保憲はそっと安堵の息を吐き、目を閉じた。
数刻後――
川沿いにある小さな屋敷を、保憲は訪れていた。夜叉のために保憲が用意した屋敷だ。信用できる女房と従者が数人通うだけの、ひっそりとした住まいだった。
「これでほんとうによかったのか?」
右手の包帯をさすりながら、夜叉が訊いた。
一度命を落としたはずの彼女は、柊の術で息を吹き返し、傷の名残を留めているのも今ではその右手だけになっていた。行くあてのない彼女を都に連れ帰り、新たな名前や住居の手配をしたのは保憲である。そして忠平の黙認を取りつけた以上、彼女に危害を加えようとする者は残されていないはずだった。
唯一残された問題は、彼女の髪の色である。
柊の血を享《う》けて蘇生したときから、夜叉の髪は銀色に変わってしまっていたのだ。それが、死の淵から生き返った代償なのか、それとも一過性のものなのかはわからない。いずれにせよ、人目につくのは避けられなかった。だから保憲は彼女を陰陽師に仕立て上げたのだ。
この世と彼岸の橋渡しをする陰陽師ならば、妖しい姿をしていても、信頼されこそすれ、怪しまれることはない。幸いにして夜叉には方術を扱う素養があった。いずれ彼女が賀茂と並び立つ術者になるという、保憲の言葉は嘘ではない。
「あなたの父上に頼まれたのだ。このくらいのことはやらせてもらうさ」
持参した酒を口に含みながら、保憲は微笑する。
「それとも、怖いかい? 都で暮らすのは?」
「恐くなどはない」
夜叉がむっと唇を尖らせた。保憲は少し意地悪く目を細めて、
「それにしては今日はずいぶんおとなしい」
「べつに恐れているわけではない。ただ父上たちのことを考えていただけだ」
「鬼王丸か」
遠い目で星空を見上げ、保憲はつぶやく。彼が生きていれば、今ごろは海を渡り終えたころだろう。どこかでこの同じ空を見ているのだろうかと、そんなことを想像する。
「それに柊……あの人は……」
夜叉が、自分の髪に触れながらつぶやく。
彼女が言いかけた言葉を保憲は知っていたが、答えてやることはできなかった。柊は愚彊に射抜かれて激流に落ちたまま、ついに見つかることがなかったのだ。
痛苦を感じぬ身体とはいえ、人間があの激流に呑まれて生きていられるはずがない。
だが、信濃国府の捜索にもかかわらず、彼女の遺体は結局上がらなかったのだという。
柊が生きているのかどうか、それを確かめる術はもはやない。
だから保憲は話題を変えた。
「伝説を聞いたことがある」
「……伝説?」
夜叉が訝しげに問い返す。保憲は薄く微笑んで、
「そう。唐土の、さらにはるか西方から伝わった伝承だ。遠い海のどこかにある島に、美しい女の姿をした半人半魚のあやかしが棲むという。そのあやかしは歌を歌って人の心を惑わし、歳をとることがない。そのあやかしの血肉を喰った人間は、不死の身体を得るともいう――」
「……保憲」
「伝説だ。ただの御伽話だよ――」
保憲は杯を口に運びながら、からかうような視線を夜叉に向けた。
そう。鬼王丸はきっと無事に海を渡り終えたはずだ。あの美しい渡来人の娘が傍にいる限り。
「……そうだ。これを渡しておくよ」
保憲はつぶやいて、懐から袋を取り出した。掌にすっぽりと収まるほどの小さな袋だ。中には丸い石のようなものが詰まっている。
「あなたを助けようとしたとき、彼女が――柊が落としたものだ。夜叉、あなたが持っているのがいいと思う」
柔らかな声で保憲に言われて、夜叉は袋の口紐を解いた。
中に収められていたものを一粒取り出して、あっと短く息を漏らす。それは純白に光り輝く、小さな珠だった。宝珠だ。
「……真珠」
細くつぶやいた夜叉を見つめて、保憲は優しく首を振った。
風が吹き、夜叉の髪がさらさらと音を立てて揺れた。
「――人魚の涙、とも呼ぶのだそうだ」
保憲のつぶやきは空に溶ける。娘の手に載った純白の宝珠を、異国と変わらぬ月の光が淡くさやかに照らしていた。
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本書は「小説推理」'04年4月号〜'04年11月号に連載された同名作品に加筆、訂正を加えたものです。
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三雲岳斗●みくも がくと
1970年大分県生まれ。上智大学外国語学部英語学科卒業。オートバイメーカー勤務を経て、98年『コールド・ゲヘナ』で第5回電撃ゲーム小説大賞銀賞を受賞し、デビュー。99年『M.G.H.』で第一回SF大賞新人賞受賞。2000年、第5回スニーカー大賞特別賞を『アース・リバース』で受賞。ライトノベル、SFなど多彩なジャンルで作品を発表、支持を得る。他の著書に、「聖遺の天使』、『海底密室』など。
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底本
双葉社 単行本
カーマロカ ――将門異聞《まさかどいぶん》
著 者――三雲岳斗《みくもがくと》
2005年1月25日 第1刷発行
発行者――佐藤俊行
発行所――株式会社双葉社
[#地付き]2008年7月1日作成 hj
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置き換え文字
唖《※》 ※[#「口+亞」、第3水準1-15-8]「口+亞」、第3水準1-15-8
躯《※》 ※[#「身+區」、第3水準1-92-42]「身+區」、第3水準1-92-42
頬《※》 ※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]「夾+頁」、第3水準1-93-90
噛《※》 ※[#「口+齒」、第3水準1-15-26]「口+齒」、第3水準1-15-26
蝋《※》 ※[#「虫+鑞のつくり」、第3水準1-91-71]「虫+鑞のつくり」、第3水準1-91-71
祷《※》 ※[#「示+壽」、第3水準1-89-35]「示+壽」、第3水準1-89-35
ひょう ※[#「金+票」、第4水準2-91-35]「金+票」、第4水準2-91-35
|※《ニン》 ※[#「(「にんべん+欠」の「人」に代えて「小」)/心」、第4水準2-12-47]「(「にんべん+欠」の「人」に代えて「小」)/心」、第4水準2-12-47
|※《マ》 ※[#「口+馬」、第3水準1-15-14]「口+馬」、第3水準1-15-14
|※《おん》 ※[#「口+奄」、第3水準1-15-6]「口+奄」、第3水準1-15-6
|※《バ》 ※[#「口+巴」、第3水準1-14-86]「口+巴」、第3水準1-14-86