レンタルマギカ「魔法使いと肖像画」
三田誠
その|肖像《しょうぞう》|画《が》に――|伊《い》|庭《ば》いつきは見下ろされていた。
逆転した表現だが、そうとしか思えなかった。
死に|瀕《ひん》する、黒い老人。
額を含めると|縦《タテ》|横《ヨコ》二メートルに及ぶ、美術館の中でも最大の肖像画であったが、描かれた老人の|双《そう》|眸《ぼう》は、もはや|凄《せい》|絶《ぜつ》なまでに生々しかったのだ。落ち|窪《くぼ》んだ顔、|斑《はん》|点《てん》の浮いた皮膚、いずれも老人に近付く死を物語っているというのに、その目だけがぎらぎらと|脂《あぶら》ぎった光を湛えていた。
「……う、わぁ」
と、見上げたままのいつきが二、三歩よろめいたところで――
「――『ジョゼッペ・ペラダンの死の自画像』ですわね」
頼りない背中を、上品な声としとやかな手が支えた。
「十六世紀、フィレンツェの画家、ジョゼッペ・ペラダンが死の直前に描いた肖像画ですわ。ルネッサンス期に|興《おこ》ったマニエリスムの|系《けい》|譜《ふ》のひとつですけど、とりわけ極端な遠近法やコントラストで、鑑賞者を取り込んでしまう効果に|卓《たく》|越《えつ》しています。――イツキ? あまり一生懸命に見ると、絵に|囚《とら》われてしまいますわよ?」
「アディリシアさん」
からかうように唇をほころばせたのは――それこそ名画から抜け出してきたような――白人の美少女であった。その|美《び》|貌《ぼう》に劣らぬ|漆《しっ》|黒《こく》のドレスを|纏《まと》い、胸には|五《ご》|芒《ぼう》|星《せい》のペンダントをさげている。
あでやかな金髪の縦ロールをそっと揺らし、アディリシア・レン・メイザースは右手をいつきの額に置いた。
「|目《め》|眩《まい》でもしましたの?」
「あ、いや。なんか、あんまり迫力があるから、くらくらしちゃって」
冷たい感触にドギマギしながら、あわてていつきが手を振る。
「あら。――右目には、何も感じませんでした?」
「え? あ。右目?」
眼帯にふれる。なめし革に似た感触の奥に意識を集中する。
「ううん、こっちには別に――」
と、かぶりを振りかけたとろろで、
「アディリシアさん、うちの社長から情報を引き出すのはやめていただけません?」
背後の通路から、もうひとり、ひょろりとした影が現れたのである。
こちらは、平安風の|羽《は》|織《おり》に|扇《せん》|子《す》を持った青年だった。いつもつむっているような細い目。いぶした灰色の長い髪。それだけならば、なかなかの美形として通りそうなのだが、彼の名前どおりのもの[#「名前どおりのもの」に傍点]がその美点をぶち壊しにしていた。
「……にあ」
「ふにゃあ」
「ふにゃう」
「うにぃ〜〜あ」
と、何匹もの猫が、懐や|袂《たもと》からにょっきり顔をのぞかせていたのである。無論、美術館はペット禁制なのだが、まるでおかまいなしの所業であった。
青年の名前を、|猫《ねこ》|屋《や》|敷《しき》|蓮《れん》という。
〈アストラル〉陰陽道課課長――〈アストラル〉に在籍する中でも、ナンバー2を誇る|貸し出し魔法使い《レ ン タ ル マ ギ カ》であった。
「いくら『入札』中でも、最低限の協力はあっていいと思いますけど?」
アディリシアがつんと|澄《す》まして、唇を|尖《とが》らせる。
態度は|穏《おだ》やかだが、視線は|槍《やり》だ。
その槍を、ゆるい|笑《え》みでいなしつつ、猫屋敷が扇子を開く。
「いえいえ。今回の依頼は、あくまで|呪物《フェティシュ》としての鑑定ですし、社長の目はそれなりに貴重ですよ? くわえて|、〈アストラル〉《う   ち》は〈ゲーティア〉ほど資料に|溢《あふ》れてませんし」
「あら。大部分の資料は本国ですもの。今回頼りになるのは、私の頭脳ひとつですわ」
「〈ゲーティア〉の資料は、最近デジタルに移行しつつあるって聞いてますが。|魔術書《グリモア》ならともかく、鑑定に必要なものはメールで引き出せるんじゃないですか?」
「…………」
「…………」
表面上はにこやかに、ふたりの意見が|交《こう》|錯《さく》する。内容を聞かずに、その顔だけ見ていれば、あるいは仲の良い友人同士に見えるかもしれない。
(……いや、やっぱり無理)
いつきは、だらだら冷や汗を流しつつ、訂正する。
急激に右目が痛くなっていた。アディリシアと猫屋敷と――双方の魔法使いから、|膨《ぼう》|大《だい》な呪力が渦巻いているのだ。猫屋敷の呪力は万華鏡のように色とりどりで、アディリシアの呪力は黄金の輝きに満ちている。|穂《ほ》|波《なみ》の言葉によれば、呪力に個性が現れるのは一流の証拠ということだったが、間違いなくこのふたりは超一流の魔法使いであった。
……それは多分、うかつに手を出したら、魂まで|微《み》|塵《じん》に分解されかねないという意味で。
「……あ、あ、あの……」
それでも、決死の覚悟で、弱々しく声をあげたとき、黄金の呪力が|退《ひ》いた。
「分かりましたわ」
アディリシアであった。
かすかに微笑を浮かべ、ドレスの|裾《すそ》をつまんで一礼する。
「では、ごきげんよう、イツキ。すぐまた会えますわ」
そのまま、|踵《きびす》を返した。
漆黒のドレスと金髪が通路の向こうに消えた後、いつきはふと問いかけた。
「あの……猫屋敷さん。もう少し仲良くしたりは……」
「善哉善哉。だいたいヨーロッパ貴族は猫の敵です。品種改良という美名のもと、どれだけの猫たちが|無《む》|辜《こ》の命を散らしたものか! いえ、もちろんその上で、アビニシアンの芸術的な美しさは否定しないのですが!」
ぐっと、拳まで振り上げて、力説している。
「…………はぁ」
そしていつきは、小さくため息をついたのだった。
ことのはじまりは、三日前まで|遡《さかのぼ》る。
ビルとビルの谷間に建てられた洋館――〈アストラル〉事務所である。
期末試験前の休みだったのだが、自分のデスクにつっぷしたいつきは|悲《ひ》|壮《そう》な顔をしていた。
無理もない。
机の上に積み上がった魔術と社長業のテキスト群――その隣に、やや小振りながらも学校の勉強という第三の大敵が積み上がっていたのである。
で、その大量のテキストの|隙《すき》|間《ま》に埋まっていたいつきが、
「〈協会〉からの……『仕事』?」
と、弱々しく口にした。
「うん、昨日連絡があった。入札の意志があるんやったら、今日中に知らせるようにやって」
対して、隣で収支報告をまとめていた穂波が、薄縁の眼鏡を持ち上げる。〈アストラル〉にパソコンを導入する資金がないのと――こっそり穂波が機械類に弱いせいである。実のところ、穂波の機械|音《おん》|痴《ち》はかなり致命的なレベルに達していて、学校でも各種のトラブルを巻き起こしているのだが、これはまた別の話だろう。
「それで、〈協会〉には、もう受けるって連絡しといたから」
「ふえっ」
あやうく目覚ましの紅茶を教科書に噴き出しかけて――寸前で、いつきはとどまった。
「て、て、なんでもう受けてるのっ」
「なんで?」
ひどく、冷たい声で、穂波が答えた。
「今……なんでって聞いた? 社長」
冷たいどころじゃなかった。肌どころか、身体の芯まで凍りつかせる|極寒地獄《コキュートス》だ。穂波の瞳だけがつくれる仮想地獄に、一瞬でいつきは放り込まれていた。
「なんやったら、今書いてる収支報告書を読む? 社長が就任してから今月まで、一度も黒字やったことがないんやけど」
穂波が翻したリストに、|燦《さん》|然《ぜん》と赤字の輝きが連なっていた。
「いやその……こことか、こことかは」
「うん、いいとこ気がついたね。月単位やなくて、週単位のグラフなら時々黒もある。――やのに、すぐ次の週には赤字に転落してるのはなんでやと思う?」
「な、なんでかな?」
「『仕事』少なすぎ! 格付け低すぎ!」
ばあん、と穂波が机を叩いた。
「ただでさえ魔法は費用のかかる学問なんや。あたしのヤドリギもそうやけど、猫屋敷さんのお札や猫の|餌《エサ》も馬鹿にならへんし、みかんの玉串や|幣《ぬき》は毎回新しいのが必要や。ウチの格付けやと〈協会〉の補助も受けられへんし、これだけの『仕事』でまかなえるわけあらへんやろ!」
「あ…は、はい」
押し切られたいつきが、カクカクとうなずいた。人形さながらのぎこちなさである。むしろ、人形の方が顔色はいいかもしれない。
「じゃ、じゃあ……どんな内容の仕事?」
「ランクはEで――絵の鑑定やって」
「えっ、お絵かきなのっ?」
嬉しそうに、みかんがソファから飛び跳ねた。
ちなみに、みかんの通う私立小学校は、校長の方針で一足早い夏休みに入っている。おかげで一日の半分は〈アストラル〉事務所に常駐しており――いつきの勉強が進まないのもそのせいが大きかったりする。
「絵を描くんちゃうよ。絵を見るの。――なんでも、呪波汚染を起こした可能性があるから、それなりに知識を持った魔法使いに鑑定してほしいんやて。当の絵は、明々後日に美術館に搬入されるそうや」
「知識……ってじゃあ誰がいくの?」
「ぷー、見るだけってつまんない」
あっさり手の平を翻したみかんである。
「あ、あの、あたしはちょっと……」
自分のデスクで聞いていた|黒《くろ》|羽《は》も、半透明の首を横に振る。こちらは現状、いつきと一緒に魔術の勉強を進めつつ、〈アストラル〉の事務を手伝っている。|騒霊現象《ポルターガイスト》で動く鉛筆が、すらすらと伝票の上を動いていた。
ひとつうなずいて、穂波はバルコニーへ水を向ける。
「うん。|呪物《フェティシュ》の知識や扱いやと、私も専門とは言いがたいしね。――そやから、猫屋敷さんにお願いできる?」
「は? 私が何か?」
ちょうど猫の散歩を終えて、事務所へ戻ってきた青年に、全員の視線が集中した。
「もちろん、社長も一緒に行ってもらうで。現場での学習もしてもらわなあかんしね」
「ちょ、ちょっと待って。僕、明日から期末試験なんだけど!」
「……試験と会社と、どっちが大事なん?」
にっこり少女が微笑んだ。その微笑たるや、瞬時にいつき――ばかりか猫屋敷をのぞくまわりの社員までも|硬《こう》|直《ちょく》させた。
しかも、言葉はこう続いたのである。
「猫屋敷さんも、今回の『仕事』失敗したら、猫の餌のランク落とさせてもらいますから」
「な、な、なんですってー!」
たちまち、猫屋敷も|凍《こお》りついた。
「わ、わ、分りました。やります! やらせてください!」
羽織の懐で、「……にあ?」と黒猫の|玄《げん》|武《ぶ》が眠そうな鳴き声をあげた。
そして今日の昼過ぎ。
〈協会〉の仲介によって、ふたりは閉館日の美術館へ向かったのだった。
今回ばかりは猫屋敷も積極的に、いつきがたじたじになるぐらいの勢いで乗り込んだものだが――その入り口に、もうひとり、魔法使いが待っていた。
いつきたちの到来を見受けると、魔法使いは|艶《えん》|然《ぜん》と笑った。
「あら。〈アストラル〉はずいぶんごゆっくりですわね」
「あ……アディリシアさん?」
いつきにとっては、|既《き》|知《ち》の相手であった。
同時に、〈アストラル〉にとっても因縁浅からざる人物である。
アディリシア・レン・メイザース。
学校では、いつきの隣の机に座る、イギリスよりの転校生。そしてもうひとつの顔は――ヨーロッパに冠たる魔術結社、〈ゲーティア〉の首領たる|6=5《アデプタス・メジャー》。
ある意味においては、伊庭いつきを〈アストラル〉の社長として確定させてしまった、張本人ともいえる。
「なんで……アディリシアさんが、ここに?」
「もちろん『仕事』ですけれど?」
「――『仕事』っ?」
驚くいつきの顔を見て、アディリシアはすっと頭を下げ、漆黒のドレスの裾をつまんでみせた。
「私の〈ゲーティア〉も、こちらの『仕事』に入札させていただきましたの。どうぞよろしくお願いいたします」
背後で、猫屋敷がごおっと燃え立つ音を、いつきは聞いたような気がした。
「あのー猫屋敷さん?」[#底本ではこの行は極小フォント]
静まりかえったロビーの中央で、ぼそぼそと囁く。
「…………」
「……猫屋敷さーん」
遠慮深く、抑えた声で|訊《き》いてみる。
「…………」
「あのっ、その、猫屋敷さ――」
すると、巨大な肖像画を睨んでいた猫屋敷が、ぽつりと|漏《も》らした。
「分かりませんね……」
「絵の、ことですか?」
「いえ? 装備も整えてきましたし、絵の方は時間の問題かと。もともと|出《で》|拠《どころ》は確かな品ですしね。……ただ、まさか、こんなランクの低い『仕事』に、〈ゲーティア〉が入札してくるとは予想外でしたから……」
うん、と背を伸ばした猫屋敷が、|画架《イーゼル》に立てられた肖像画から、三枚目の霊符をはがす。
今回の鑑定用に、〈アストラル〉で準備してきた符だった。名刺と同じく、みかんの|禊《みそ》ぎで清めた紙に、猫屋敷自ら朱字を記した品である。なんでも、霊感だけではつかみかねる微妙な呪力や、その種類を判別する効果があるらしい。
「ランク……て穂波も言ってましたけど、どういうことなんです?」
いつきの質問に、猫屋敷は思い出したようにうなずいた。
「ああ。魔術集団にも格付けがあるんですよ」
「それって……あの、よく株とか投資とかでついてるやつですか」
新聞に載ってる、企業の評価がどうとかこうとか、それぐらいの知識しかいつきにはない。穂波からもらったテキストに、いくつか書いてあったような気もするが、当然のように忘却の|彼方《かなた》である。
「まあ似たようなものですね。〈協会〉が公表する、各魔法集団の公式評価ですよ。格付けが高いほど、身入りのいい――つまりランクの高い『仕事』をまわしてもらえますし、|呪物《フェティシュ》なんかの優遇措置も受けられます」
袂から顔を出した白猫・白虎の頭を撫でながら、猫屋敷が表情をゆるませる。
「じゃあ……〈アストラル〉は?」
「えー、〈アストラル〉は最近までずーっと開店休業状態でしたからね。……|CCC《トリプルシー》っていうことになってるんですが」
「それって格付け的には……」
「事実上の最低値ですね」
がっくりといつきの両肩が落ちた。
「いや、これでも一応あがったんですよ!? 社長が来るまでは|CC《ダブルシー》だったんですから!」
それって、今までは最低値以下だったんですか。
思わずそう言いたくなるのをこらえて、いつきはもう一つ訊いた。
「……じゃあ、〈ゲーティア〉は?」
「|AAA《トリプルエー》です」
即答された。ぐうの音もでない。いっそすがすがしいぐらいの、歴然とした差であった。
「まあ……なんとなくそうじゃないかと思ってましたけど」
「〈協会〉では歴史と伝統がものを言いますからね。特に〈ゲーティア〉は、入札した『仕事』を失敗したことがないので有名です。その『仕事』もほとんどがBランク、Cランクなんで、評価の落としようがないわけで」
ひらひらと猫屋敷が手を振るのに合わせて、面白そうに|白《びゃっ》|虎《こ》の尻尾が|踊《おど》る。
「で……問題は、どうしてその〈ゲーティア〉が、Eランクの『仕事』にわざわざ入札したのか、ですよ」
猫屋敷の言葉に、いつきの眉があがった。
「――あ」
「あるいは、この絵に何か関係があるのか」
巨大な肖像画の額を、猫屋敷の指が|滑《すべ》る。
さきほど壁から見下ろしていた絵の中の老人は、|画架《イーゼル》へと降ろされて、さらに眼光をきつくしていた。その炯炯たる眼差しも、死相といっていい深い|皺《しわ》も、他人と触れ合わずに生きた芸術家の一生をあらわすようだった。
アディリシアの言っていたことを思い出す。
ジョゼッペ・ペラダン。十六世紀、フィレンツェの画家。
「呪波汚染……て結局、何が……あったんですか?」
唾を飲み込んで、訊く
「確定じゃないですよ。あくまでそうだったかもしれない[#「そうだったかもしれない」に傍点]というだけで、だからこそ事態のひどさのわりに、Eランクでとどまっているわけです」
猫屋敷が片目をつむる。おかしくなった遠近感を取り戻すように、瞬きしてから、いつきを見返す。
「この絵を、夜にひとりで見つめたものは――」
|一《いっ》|拍《ぱく》、間があった。
すっかり青くなった少年に、続きを話していいものかどうか、|逡巡《しゅんじゅん》する間。
「……もの……は?」
それでも訊いたいつきに、仕方なさそうにため息をついて、猫屋敷はこう告げた。
「――皆、自殺した、と言われています」
「…………」
黙ったまま。
いつきが後ろ向きに倒れこんだ。
「しゃ、社長! 気絶しないでくださいよっ」
あわてて、猫屋敷が駆け寄る。
そうしながら――これは、胸の内だけで|呟《つぶや》いた。
少年にも告げなかった、〈ゲーティア〉の目的についての予想であった。
〈あるいは〈協会〉からこの絵について……何か吹き込まれましたかね……?〉
首元を|撫《な》でる。嫌な予感のせいか、空調は効いているのに、かすかに汗ばんでいた。
「――I do strongly command thee, by Beralanensis, Baladachiensis, Paumachia, and Apologle Sedes; by the most Powerful Princes, Genii,Lichide, and Ministers of the Tartarean Abode; and by the ChiefPronce of the Seat of Apologia in the Ninth Legion――」
広間に、切々たる詠唱がこだまする。
「O THOU wicked and disobedient spirit N, because thou hast rebelled, and hast not obeyed nor regarded; they being all glorious and incomprehensible……」
美しい声だった。
古代の歌といっても、疑うものはいないだろう。一定のリズムに乗って、高く低く流れる詠唱は、高度な歌唱能力をも必要とするからだ。
拍子がひとつ、音程がひとつずれただけで、魔術は致命的な|破《は》|綻《たん》をきたす。
それは、目の前の魔法円も同じである。
アディリシアの周囲に記された円――EHYEHにはじまりLEVANAHに終わる、術者の守護円。その円から離れて描かれる三角形――赤と黒のアルファベットを刻まれたソロモンの三角形。
どれが間違えていても、|喚《かん》|起《き》された魔神は術者へ反旗を翻す。|獰《どう》|猛《もう》なる魔神は、|卑《ひ》|小《しょう》な人間を喜んで喰らうに違いない。
ゆえに。
その名は広く知られていても、真にこの魔術を行使できるものは、世界にもわずかしかおらぬ。
――ソロモン王の魔術。
かつて七十二の魔神を従え、古代イスラエルを統治せし、偉大なる王の名を冠する魔術。
「従え!」
と、猛々しく、アディリシアは胸元のペンダントを掲げた。ソロモンの五芒星。聖別された銀による、強大な|護符《タリスマン》。
「――|我が手にあるソロモンの五芒星を見よ!《Behold the Pentacle of Solomon which I have brought here》 されば、汝、王の御名において我が命に従うべし!」
三角形の内側に、不定形の|霊《エーテル》体が揺れた。それこそが、アディリシアの喚起せし魔神の本体でもあった。
「――来たれフォルネウス! 二十九の軍団を支配する侯爵!」
風が巻く。
ごおっと広間中の空気を巻き上げ、少女の金髪をなびかせ、その空気を核として、|アッシャー界《現  実》へと受肉する。
空を泳ぐ、岩のごときギンザメ――七十二の魔神の一柱、フォルネウス。
その姿を見て、ほっとアディリシアが表情をゆるめると同時に、
「わああああああっ」
と、背後で誰かがひっくりかえる音がした。
「フォルネウス!」
ただちに、主の指示をギンザメは察した。
美術館の広間を泳ぎ、ガラスケースの間を縫って、長い牙を声の出処へ踊らせる。
すぐ、犯人はその牙につりあげられた。
が、アディリシアは目を|剥《む》いた。
「――イツキ!」
ギンザメの顎で、情けなく|四《し》|肢《し》を投げ出しているのは、伊庭いつきだったのである。
「何のおつもりですの?」
「いや、その……」
「スパイ? そういうことでしたら、いくらイツキでも容赦はできませんわよ」
ガチンガチンと、フォルネウスの牙が鳴らされる。人間の|頭《ず》|蓋《がい》|骨《こつ》くらい、砂糖菓子より容易に|噛《か》み砕きそうだった。
「ち、違う違う! そうじゃなくて!」
「じゃあ、どういうつもりで?」
「その……絵を夜にひとりで見たら自殺するっていうから……」
「言うから……?」
アディリシアの細い眉がよった。
「まさか、心配になって、とでも言うつもり?」
「……いや、あ……まあ……その」
いつきの顔が、いかにも図星をつかれた風に変化する。
はぁ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜と、長いため息をついて、アディリシアは額を押さえた。
「ホナミにも言われてませんこと? 入札した敵の魔術集団を|気《き》|遣《づか》ってどうしますの!」
激しい語調で詰め寄る。
「だいたい、私を誰だと思っていますの。アディリシア・レン・メイザースがそこらの呪いに負けるようなひ弱な魔法使いだとでも! それに、あの陰陽師よりも私は信用できないとでも言いますのっ?」
「……そうじゃないけど」
困った風に、宙吊りのいつきが頬を掻く。
「そうじゃないけど……アディリシアさんは女の子でしょ?」
「――――っ」
アディリシアの顔が――一瞬で真っ赤に染まった。
「…………………………………………………………はぁ」
もう一度、長いため息を少女はついた。最初のため息とは少し感じが違っていた。どこか暖かなものの混じった吐息であった。
「本当に、イツキは――」
言いかけてかぶりを振り、真っ赤な顔が落ち着くまでうつむいてから、アディリシアはゆっくり手をあげた。
「いいですわフォルネウス。降ろしてさしあげて」
命令を受けて、意外な|丁《てい》|寧《ねい》さで、いつきが床に降ろされる。
まるで、象の鼻から降ろされる感じだった。ぺたんと尻餅をついたいつきにアディリシアが歩みより、なんとも複雑な顔で見下ろす。
「――なんだか、馬鹿らしくなっちゃいましたわ」
と、金髪の少女は首を傾げた。
「え?」
「どうせイツキは、私がどう言っても、勝手に心配するのでしょう? だったら、こっちが肩肘張ってる方が非効率的ですわ。あなたにも手伝わせてあげますから、早く立ちなさい」
「て、手伝わせる?」
「――あなたの目の代わりに、こちらの情報も提供します。でしたら、あのごうつく陰陽師も文句言わないでしょ」
ぷいと顔をそむけて、アディリシアが言った。
横顔は元に戻っていたけれども――その耳だけが、まだ先っぽまで赤いままだった。
「にぃ〜〜あ」
「ふにゃあ」
「うにゃ」
ロビーで、猫たちが鳴き声をひしりあげる。三毛猫の朱雀、白猫の白虎、ぶち猫の青龍の順である。怠け者の黒猫、玄武だけは猫屋敷の懐で「……にあ」と眠そうな声を上げた。
「帰ってきませんねえ、社長」
そんな猫たちを可愛がりつつ、猫屋敷は難しい顔で腕をまわした。面白いぐらい肩胛骨のあたりがこきこきと鳴った。
(最近、ライター仕事ばっかりでしたからねえ)
ぼんやりと思う。
つい先週まで、オカルト雑誌の編集部でカンヅメ続きだったのである。猫屋敷の担当している『猫又陰陽師・猫屋敷蓮の猫占い』も含め、総計百ページの怪奇記事を書き下ろしたばかりだった。
――実のところ、〈アストラル〉の収入のうち、およそ八割はこういう表向きの業務で成り立っていたりする(最近まで九割だった)。経営状態に悩む穂波と黒羽からは、いっそライター仕事を増やしてはという提案さえされるほどだった。
(かといって、魔法使いが〆切で死ぬのはいささか不本意な気もしますが……)
「……にあ?」
ふと、玄武の鳴き声のトーンが変わった。
「ん?」
その響きに、悩む猫屋敷の視線も流れる。
すると、青年の唇に淡い笑みが含まれた。
「ふむ、社長が帰ってこないのは、ちょうど都合がよかったですかね。――少なくとも、先回りはできそうだ」
折りしも、窓の外は|夕《ゆう》|映《ば》え。赤く染まった最後の一片が、山際に落ちようとしているときであった。
「条件としてはだいたい|揃《そろ》うことになりますが……いかがですかね?」
言葉はすぐ前に立つ肖像画にぶつかり――飲み込まれた。
そう。
のみこまれた、のである。
猫屋敷の髪がびょうびょうと妖気の風にさざめき、肖像画の額に張っていた霊符はぼうっと青白い炎を上げた。
それでいて、炎は肖像画へは燃え移らなかった。
「……私を、自殺させてみますか?」
静かな問いに。
肖像画の老人が、嘲るようににたり[#「にたり」に傍点]と笑った。
「ジョゼッペ・ペラダンは悪魔と契約したと言われていた、画家にして魔法使いですわ」
「画家で……魔法使い?」
「あら。そんなに不思議かしら」
アディリシアが金髪をかきあげる。
「歴史上、芸術と魔術とは深い相関関係にあります」
かすかに目を細めた。
長い|黄金《きん》の|睫《まつげ》が揺れて、いつきの心臓がどきりと鳴った。
「そうですね。同じマニエリスムに、ミケランジェロやレオナルド・ダ・ヴィンチも入るといえば、少しはお分かりかしら?」
「それって……魔法使いなの?」
「少なくとも、レオナルド・ダ・ヴィンチを錬金術師と呼んでも間違いはありませんわね。魔術と科学とはある一点まで切り離せませんし、芸術の霊感を魔術に応用した人――またその逆は枚挙にいとまがありませんわ」
それは、闇に|葬《ほうむ》られた歴史。書物に記されながらも誰も意識せぬ、真実の影。
「…………」
いつきは、息を飲む。
「優れた芸術には魔力が宿る。そのような考え方は、俗にもあるものでしょう。まして魔術師ならばなおさらです。絵画がそのまま|呪物《フェティシュ》と化したとて、何ら奇異でもありません。むしろ問題があるとすれば――魔法使いなればこそ、です」
「え? なんで?」
きょとんと瞬きしたいつきに、呆れたようにアディリシアが息をついた。
「やっぱり、気がついてなかったですわね」
呟きは、床を這った。すぐ頭上を泳ぐフォルネウスを仰ぎ、ソロモンの|末裔《すえ》はこう続けた。
「ただの天才の手になる絵なら、何らかの要因が重なり、偶然呪いを呼び寄せてしまうこともあるでしょう。ですが、魔法使いなら話は別ですわ。魔法使いが偶然[#「偶然」に傍点]| 呪物《フェティシュ》をつくりだしてしまうなどあり得ません。そこには、必ず意図があり、目的があります」
「意図と……目的」
ぞっと、冷たいものがいつきの背筋に伝わった。
何百年も隔てて、見たものを自殺させるような意図。そんな方法で達成する目的を想像し、肌が泡立つほどに忌まわしかったからだ。
「じゃあ……アディリシアさんは、それでこの『仕事』に……」
「……はい?」
そのときだった。
いつきの右目が、ぎちりとよじれた。
「…………っ!」
「イツキっ?」
アディリシアが駆け寄っても、いつきはうずくまったままだった。突然の激痛であり、灼熱であった。視神経を直接|炙《あぶ》られる感覚に呻き、やっと顔を持ち上げたとき、アディリシアが口元を押さえた。
「イツキ……」
「だ、大丈夫。ちょっと右目が痛んだだけだから」
ちょっとどころか――肌に食い込んだ爪のせいで、眼帯は涙のような血を垂らしていた。
その眼帯を優しく撫でかけて、アディリシアが硬直した。
「右目……? まさか……」
振り返る。ロビーへと続く通路。
「あの陰陽師だけが、肖像画の前に残ってるんですか?」
いつきも、その意味を悟って、愕然とした。窓の外では、すでに日が暮れている。あの絵の前で人が死ぬ条件は、これで揃ったことになるまいか。
駆け出したアディリシアの後を追って、通路を走り出す。
「――人を出し抜きましたわねっ」
そして。
ロビーの空気は、すでに一変していた。
|死を想え《メメント・モリ》。
|死を想え《メメント・モリ》。
|死を想え《メメント・モリ》。
|死を想え《メメント・モリ》。
|死を想え《メメント・モリ》。|死を想え《メメント・モリ》。|死を想え《メメント・モリ》。死を想え死を想え死を想え死を想え死を想え死を想え死を想え死を想え死を想え死を想え死を想え死を想え死を想え死を想え死を想え死を想え死を想え死を想え死を想え死を想え死を想え死を想え死を想え死を想え死を想え死を想え死を想え死を想え死を想え――
その声だけが、こだまする。
耳の奥で。鼓膜の内側で。頭蓋骨の奥底で。
何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も――声ならざる声で、言葉ならぬ言葉で、いつきの脳裏へ囁きかける。
指が震える。波がガチガチと鳴る。膝が笑い、冷や汗が|喉《のど》をつたう。
――死ぬ方法なんて、いくらでもある。
ぞっとするほど、優しい『声』が告げた。
――この指を眼窩にねじこめ。脳髄をひきずりだせ。
――舌を噛みきれ。溢れた血で窒息しろ。
――ガラスを割れ。喉を裂け。
考えてもみなかった、死に至る方法。はかない命。永遠の死。身体中の細胞がそれを願って打ち震える。
「あ……」
手が動く。
「あ……あ……」
指が動く。
「あ……あ……あ……」
死は優しい。
死は慈悲深い。
死こそは幸いなり
さあ――おまえが選んだのは、どの死に方だ?
「来たれサブノック! 五十の軍団を統治する、強壮なる大侯爵!」
突如。
その問いかけを砕くように、輝く言葉が|轟《とどろ》いた。
周囲に不可視の砦が生まれ、死の言葉を防ぐ。砦の中央には獅子の頭をした戦士と――そしてアディリシアが立っていた。
「イツキ? まだ死んでませんわね?」
軽くかぶりを振って、アディリシアが訊いた。
「……う……うん。なんとか……」
四つんばいのまま、いつきは、かろうじて答える。冷たいリノリウムの床が、まるで泥沼のように頼りなかった。
ロビーには違いがない。
だが、明らかにここは異界であった。
よどんだ瘴気。重苦しい気配。眼帯を透かして、変質した呪力が、霧のように世界を蝕むのが視えた。
(呪波汚染……)
いままで何度も経験してきた、魔法の禁忌。現実を浸食する魔術現象。
でも、
(何かが……)
ひっかかっている。何かが、違うと。
呪波汚染としては、あまりに整然とした呪力の流れ。
見極めようと眼帯の内側へ意識を集中して、いつきはもう一度、喉を引きつらせた。
「――――っ!」
ロビーの奥、肖像画を中心として床に広がる、いくつもの光る目。
雪と紛うほどに白い、滑らかな物体。
骨。
骨。骨。骨。
カラカラカラと、嗤うしゃれこうべの群れ。けたたましく鳴る肋骨の塊。手や足や指や首の骨もまんべんなく溢れ、ロビーを異様な白に染めている。
その中に、
「――社長」
四匹の猫に守られた青年がいた。
「ごうつく陰陽師! 何をしましたの!」
「少しばかり|祓《はら》ってみただけですよ。どうもこの呪式、一度発動すると自殺者がでるまでは延々エスカレートするみたいで」
その横顔がさすがに青白い。いつきが聞いた死の誘いを、この青年も受けたらしかった。
「でしたら、私がいただきますわ」
力強く、アディリシアが宣言した。
「フォルネウス! 喰らいなさい!」
命令一下、砦の中から、ギンザメが飛び出した。
獰猛な牙を剥き出しにして、床にはびこる頭蓋骨を噛み砕こうとしたとき、霊符がその前を阻んだのだ。
「陰陽師!」「猫屋敷さん!」
「これは――〈|アストラル《う   ち》〉の『仕事』ですよ」
抗議の言葉をよそに、猫屋敷の手へ、ずらっと何枚もの霊符が並んだ。
「|疾《ちっ》!」
二本の指で切られたるは、縦四本、横五本――邪を征する|早九字《ドーマン》。
その中央から放たれるは、深紅の紙に、水銀より取り出された朱で、|急急如律令《きゅうきゅうにょりつれい》と書かれた霊符。
いわく、|泰《たい》|山《ざん》|府《ふ》|君《くん》|炎《えん》|羅《ら》|符《ふ》|呪《じゅ》。
霊符は、飛翔|半《なか》ばで地獄の炎を呼び出し、怒濤のごとく白骨たちを包み込んだ。
「…………!」
だが、いつきは|視《み》た。
白骨は退かず、ばかりか炎に焼け|爛《ただ》れた中から、さらに数を増やしたのである。
「なんですって……」
猫屋敷の驚きの声に続いて、
「なら、直接肖像画を叩けば!」
フォルネウスが、海面から弾けるように身を躍らせ、肖像画へ襲いかかる。
寸前、異変が生じた。
フォルネウスがその牙を、自らの身体へ突き立てたのである。
紙の破れるような音とともに、腹から尾にかけてが引き裂けた。|霊《エーテル》体の黒い血と内臓がぶちまけられ、ロビーに一時黒い雨を降らせた。
「七十二の魔神を……自害させるですって……」
茫然と、アディリシアも呟く。
その隙をかいくぐり、不可視の砦を破って、一体の頭蓋骨が少女へと飛びつこうとした。
「あ――っ」
「アディリシアさんっ」
|咄《とっ》|嗟《さ》に飛び出したいつきの肩口に、灼熱が走った。
しゃれこうべは、その肩に噛みついていた。華奢な黒いスーツに、たちまち赤いものが滲んでいった。
「――イツキっ」
声は、ひどく遠く聞こえた。
世界が、白く染まった。
――|死を想え《メメント・モリ》。
誰かが、そう言った。
そこには、死が積み重なっていた。子供も、老人も、男も、女も関係なく、大量の屍と腐臭が積みあがっていた。
恐ろしいのは、それがそれだけ[#「それだけ」に傍点]ではないことだった。
死体と同じように苦しみながら、まだ生きているものたちがいた。
あるいは死病に、あるいは腐れた傷にうめきながら、それでも生きて這いずっていた。
――|死を想え《メメント・モリ》。
また、誰かが言う。
戦乱の時代だった。
誰もが|飢《う》え、傷つき、それでいて楽には死ねぬ時代であった。
命とは、思いのほかに強い。血を流しても、身体を患っても、息絶えるまでには遙かに遠い。死はすぐ近くにありながら、簡単には手が届かない。
――|死を想え《メメント・モリ》。
三度、誰かが言う。
そこに、老人が立っていた。
キャンバスを持ち、絵の具を握りつぶし、ひたすらに筆を振るっていた。
目は血走り、肌には骨が浮き、|吐《と》|息《いき》は糸のように細くなり、それでも筆を叩きつけていた。
描かれているのは――であった。
見ることなどできぬ、聞くことなどできぬ、嗅ぐことなどできぬ、味わうことなどできぬ、触れることなどできぬ――を、老人は描こうとしていた。
老人が描きたかったものは――
どうあっても、老人が描こうとした理由は――
その、目的は――
何かを――いつきは|視《み》た。
「イツキ――っ」
昏倒した少年の身体を抱え、アディリシアが叫んだ。怖くて、揺さぶることさえできなかった。
頭蓋骨は、少年に噛みついた次の瞬間には崩壊していた。
その灰をはたき落としたとき、声がかかった。
「見せてください」
「陰陽師」
いつのまにか、白骨たちを遠ざけ、猫屋敷が側まで近寄っていたのだ。サブノックのつくる不可視の砦は害意なきものを遠ざけない。
人の結界を勝手に利用して、と怒鳴りつけるのをこらえ、一瞬の|躊《ちゅう》|躇《ちょ》の後、いつきの身体を託す。
「――さっきの頭蓋骨に、直接死を囁かれましたね」
と、猫屋敷は診断した。うにゃあと足元のぶち猫、知性派の青龍もうなずく。
「大丈夫ですよ。これで案外、社長は呪力への耐性が高いですから。即死しなかったなら、命に別状はないでしょう」
「そう……ですの」
「ええ」
安堵の息を漏らしたアディリシアの隣で、猫屋敷は視線を砦の外へ戻した。
「アディリシアさんも、もう種が分かってますか?」
「だいたいでしたら」
|蠢《うごめ》く白骨を、アディリシアも見据える。
これは――強烈な思念だ。
ほとんど物質的なまでの思念が、あの肖像画を通じて、受肉しているのである。動かしている呪力は、おそらく自殺者の命そのものだろう。数百年、あの絵の前で自殺した人間が何人にのぼるかは分からない。
だが、あの肖像画は、それらの命を呪力へと変換して溜め込んでいたのである。
「全然呪波汚染じゃありませんわ。恐ろしいほど緻密な構成の|呪物《フェティシュ》です」
言って、アディリシアは怪訝に眉根を寄せた。
「前から思ってましたけれど――あなたがた、〈協会〉にどんな恨みをかっているんですの? これがEランクの『仕事』とはとても思えないのですけれど」
「おや――お聞きになってない?」
「何をですの?」
「いえその……〈ゲーティア〉がこの『仕事』を受けたのは、てっきり〈協会〉からなにか差し金があったからかと」
「冗談じゃありませんわ!」
一言で、アディリシアは一蹴した。
「仮にもこの〈ゲーティア〉が、そんな裏取引に応じるとでも思いまして! ……でも……そういうことは、やはり身に覚えがありますのね?〈協会〉が差し金を使うような、こんな『仕事』をEランクと偽るような」
「まあ、いろいろとありまして」
困ったように、猫屋敷が苦笑した。
少しの間、それを見つめてから、アディリシアは肩をすくめた。
「よろしいですわ。今回は、イツキの顔に免じて、不問にしてさしあげます。ですけど、いつまでも不問というわけにはいきませんわよ」
「お手柔らかに」
猫屋敷が身をかがめる。
それから、
「――さて、どうします?」
「――さあ、どうなさるの?」
ふたりとも、含みを持たせて囁き、すぐに踵を返した。
「よろしいですわ。――私、少々腹を立てておりますの。この程度の思念、根こそぎに滅ぼし、虚無に還してさしあげます」
「いえいえ、私も腹に|据《す》えかねてますので。この思念を消滅ぐらいさせないと、安んじられません」
互いに口にして、横たわらせたいつきを庇うように、背中を見せる。
アディリシアは|真鍮《しんちゅう》の容器を取り出し。
猫屋敷は四匹の猫へうなずく。
――しゃれこうべたちが、かすかに震えた。
|怯《おび》えたのかもしれなかった。
魔術的に固定された――もはやただの現象でしかない思念も、敵にまわした魔法使いたちが何者かをやっと悟ったのかもしれなかった。
にこりと笑い、猫屋敷の扇子が広がる。
「ひとつがふたつ、ふたつがよっつ、よっつがやっつ、やっつがじゅうろく――」
扇子が、ゆらりとまわる。
猫屋敷の口上とともに、複数の影が盛り上がった。
「太極より両儀生じ、両儀より四象に至り、四象は八卦へと変わり、八卦は六十四卦の大成卦となる。されど、我はその|爻《こう》を押し開き、三百八十四の爻を結ばん――」
猫が――いや、猫の影が増えていく。
一匹や二匹ではない。玄武、白虎、朱雀、青龍、四匹の猫の姿を模した影が、ほとんど倍々ずつにその数を増し、ロビーの床を埋めていくのだ。
「そんな……」
アディリシアが目を見開く。
通常、魔法使いの|使い魔《アガシオン》は一体きりである。よほどの腕の魔法使いでも二体か三体。四体となれば、それに特化した一流の魔法使い以外には成しえない。七十二の魔神を従えるアディリシアにしても、一度に扱える魔神は四柱が限界だった。
だから、猫屋敷の四匹の猫を見たときから、彼の腕は十分に分かっていた。分かっているつもりだった。
なのに。
「今宵の|演《だ》し物は、四神相応がひとつ――六十四卦三百八十四爻の陣」
芝居がかった言葉とともに、猫たちと、圧倒的な猫たちの影が駆け出した。
蹴散らすとは、まさにこのことであった。
当たるを幸いとばかり、猫たちの影と白骨がぶつかり、相殺していく。
どちらも呪力を凝縮させた|霊《エーテル》体だ。同質の|霊《エーテル》体が激突しあえば、結果は互いの消滅しかない。
普通なら、膨大な量の白骨たちが有利だろう。
だが、この場合は違った。
無限ではないかと思える猫の陣が、白骨の山を崩していく。ぶつかりあう波と波みたいに、激烈な消耗戦へ持ち込んでいく。
い〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜あ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
ひしりあがる、猫たちの|凱《がい》|歌《か》。
たまらず、白骨が動きを示した。
ごおおっと、白い渦が巻いた。
しゃれこうべを中心に、白骨が組み上がる。人体模型みたいにヒトの形をなす。そうすることで、数は減ったが、全体の呪力が膨れ上がった。小さな猫たちでは相殺しきれぬだけの呪力を|纏《まと》い、骸骨兵が進軍する。
「でも、その数でしたら!」
今度は、アディリシアが真鍮の容器の蓋を弾いた。
「――来たれマルバス。三十六の軍団を|統《す》べる王!」
ロビーの床に、黄金の獅子がそびえたつ。
「――来たれグラーシャ・ボラス。三十六の軍団を制する力強き伯爵!」
天井へ、鷲の翼を持った狼が羽ばたく。
「――来たれエリゴール! 六十の軍団を治める、堅固なる騎士!」
最後に、少女の隣へ、槍と蛇を持った銀の騎士が現れた。
フォルネウスとは違う。
そのすべてが、戦いのために選ばれた血と戦の悪霊たち。
組み上がった骸骨兵たちへ突進する。獅子の爪が切り裂き、狼の牙が喰らい、騎士の槍が|薙《な》ぎ払った。いくら受肉しようが、いくら溜め込もうが、たかが数百年程度の思念が、ソロモンの魔神に敵うべくもない。
「たっぷりと、魂の底から後悔していただきますわよ」
アディリシアの微笑とともに。
老人の肖像画が、『叫び』を発した。
――|死を想え《メメント・モリ》。
「同じ手が何度もきくと――」
「――思わないでくださいませ!」
唱和した声とともに、ふたりの身体からも呪力が放たれる。
魔術として練られる前の、純粋な呪力。それが肖像画の『叫び』とぴたりと重なり――『叫び』を打ち消した。
「ふん。結局のところは、呪力を乗せた言霊の類でしょう? 種がばれた手品ぐらいなら、私にだってできますわ」
アディリシアが艶然と胸を張る。
すでに、骸骨兵も、ほとんどが崩れていた。
猫たちが、ソロモンの魔神が、肖像画をねめつける。
「さて……」
アディリシアが面白そうに隣を見た。
「入札は、どうなさいます? |呪物《フェティシュ》だというのは明らかになりましたし、〈協会〉へは〈ゲーティア〉から届けておきましょうか? なんでしたら、〈アストラル〉の協力もあったぐらいは|添《そ》えておきますけれど」
「おや、それはこちらから言おうと思ってましたが」
|牽《けん》|制《せい》するように、猫屋敷とアディリシアが言い合う。
とはいえ、どちらも笑みを含んだやりとりであった。
「仕方ないですわね。でしたら、今この場でどちらが上か試して――」
言いかけて、ぴたりと止んだ。
また、ロビーのあちこちに、しゃれこうべが湧き上がりつつあったのだ。
「しつこいですわね!」
「呪力を解除するほど……ヒマを与えてくれそうにもありませんね」
「でしたら!」
アディリシアの示唆を受けて、|獅子《マルバス》の爪が振りあがった。
振り下ろされる直前、それは止まった。
「――イツキ」
「――社長」
肖像画の前に少年が立ち上がっていた。
背中を向けて、守るように両手を広げて。
「ふたりとも……駄目だよ。頼まれてるのは……絵の鑑定なのに」
「何言ってますの! そういう場合じゃないでしょうっ?」
「うん……でも、これは、僕にやらせて」
少年の横顔の――消えそうなぐらい淡い笑みに、アディリシアが言葉を失う。
代わりに、ぽっと、白い頬が上気した。
「い、いいですけど! ちゃんと後で|償《つぐな》っていただきますわよ!」
「……ありがと」
と、イツキが言葉をつむいだ。
その手が、眼帯をむしりとる。
わずかに一瞬、アディリシアは垣間見た。
人間の色素ではありえない――|紅玉《カーバンクル》の瞳。|妖精眼《グラム・サイト》と呼ばれる、伝説の魔眼。
「もういい」
と、この少年だけどこの少年ではない[#「この少年だけどこの少年ではない」に傍点]声で、いつきは肖像画に囁いた。
「おまえの優しさは――」
しゃれこうべたちに群がられながら、すっと、肖像画の老人へ手を伸ばす。
「――お前を救え」
描かれた老人の胸元を、かすかに指がこする。
塗り重ねられた絵の具の破片とともに、何かが剥離した。
それは、分厚い絵の具の中に埋め込まれた、一房の髪であった。
髪が落ちると同時に――死の『叫び』と白骨たちもまた、潮のように去っていった。
――|死を想え《メメント・モリ》。
それは本来、死を考えることで、今生きていることに感謝せよという、そういう意味合いの言葉らしい。
いつか人は死ぬ。だからこそ、ここにある命がどれだけ素晴らしいか。ひどく忘れがちな、当たり前のことを励起しようという、そんな言葉。
いい言葉だなって、いまさらになっていつきは思う。
「終わったんだな……」
ロビーは嘘のように片付いていた。
あの肖像画だけが、失せている。
すでに、〈協会〉には、猫屋敷が連絡に行っていた。
傷ついた絵の方は、そちらで処理してくれるはずだった。おそらくは猫屋敷の報告をふまえた上で、修復されることになるだろう。だとしても、いつきが剥離した髪が戻らぬ以上、元のような――死を誘う肖像画にはならないはずだった。
「――じゃあ、イツキ。どういうことか、説明していただけます?」
アディリシアが、ぐっと詰め寄ってきた。
見上げる碧眼が怒ったように煌いていて、いつきは困って頭を|掻《か》いた。
それから、
「あの絵は、呪いなんかじゃなかったんだ」
と、寂しそうに笑った。
「呪いじゃ、ない?」
「うん。あれは――」
右目の眼帯へ触れ、いつきは、かすかに視たあの絵の顛末を思い出す。
戦乱の時代。疫病の|溢《あふ》れた時代。
死ぬことすらできず、地面を|這《は》いずっていた傷病者たち。
そんな人間たちの放り込まれた、下町の病棟へあの絵は寄贈されていたのだ。
『|死を想え《メメント・モリ》』
――それは、安楽なる死への誘い。
病で、怪我で、生きながら|煉《れん》|獄《ごく》にいるものたちを救おうとした、無力な魔法使いのせめてもの手立て。
だから老人は、自らの|醜《みにく》い死を描いた。
そんな醜い死でも直面しようというものであれば、それは死に焦がれるものであろうと考えて。
「必要なときが、きっとあったんだと思う」
と、いつきはこぼした。
「あんな『絵』でも、あんな『死』でも、きっと優しかった時代があったんだと思う」
なんとなく、悲しかった。そんなことが優しさになる――かつて確かに存在した時代が、今も瞼に残っていた。
そんな風にうつむいたときだった。
――PRRRRRRR……
携帯が鳴ったのである。
「――はい、もしもし」
『社長? 今猫屋敷さんから連絡あったんやけど、大丈夫やったん?』
『いつきくん?』
相次いで、穂波と、後ろから黒羽の声。
『お兄ちゃん社長っ、なんか大変だったんだってっ!』
乗り出してきたのは、まぎれもなくみかんだ。ほかのふたりを押しのけるところまで、まざまざと浮かぶようだった。
いつきは、思わず苦笑した。
本当に、落ち込んでいるヒマもありはしない。
「あ、うん。こっちは――」
答えようとした|刹《せつ》|那《な》、横合いから手が入って、携帯の電源をぷつりと切った。
「――アディリシアさんっ?」
「何か文句でも? 今回の『仕事』を譲ってさしあげたんですから、約束はきちんと守ってもらいますわよ」
「あ……」
いつきが口を開ける。すっかり忘れていた。魔法使いの償いなんて、いつきには想像もつかない。
「あ、あの、それって、どうしたら……」
「そうですわね。――ええ、紅茶につきあってもらうのなんていかがです?」
|悪戯《いたずら》っぽく、アディリシアは微笑んだ。
「えっ?」
返事を待たず、金髪の魔女はいつきの手を取って、抵抗できないような優しさで引っ張った。
「――さ、イツキ。今日はたっぷり償っていただきますわよ」
「おやおやおや」
数分後、美術館の正門。
引っ張られていく社長を見ながら、ふと猫屋敷は、さきほどのやりとりを思い出した。
『――ひとつ、訊いていいですか?』
『なんですの?』
『いえ、結局〈ゲーティア〉は、どうしてこの“仕事”に入札されたんですか?〈ゲーティア〉にしてみれば、こんなランクの低い“仕事”はなんのメリットもないでしょう?』
『あら。ありますわよ?』
まるで花のように、アディリシアの唇はほころんだ。
少女は、こう言ったのだった。
『イツキと美術館でお茶をするって――それが目当てじゃ、何かいけない理由があるかしら?』[#地付き]end