レンタルマギカ
魔法使いVS《と》錬金術師!
三田誠
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――ところでこの生命を吹《ふ》き込むという考え方は錬金術《れんきんじゅつ》全体に一貫《いっかん》して通じている観念である。(中略)錬金術は右のようなことを考えにいれ、たえず石の生命、金属の霊《れい》魂《こん》について語る。
(『錬金術 タロットと愚者《ぐしゃ》の旅』)R・ベルヌーリ著 種村李弘訳論)
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レンタルマギカ
魔使いVS《と》錬金師
序章              7
第1章 魔法使いの道産    19
第2章 魔法使いと空飛ぶ船  15
第3章 魔法使いと翼     115
第4章 魔法使いとホムンクルス185
第5章 魔法使いの家     188
第6章 魔法使いと昔の話   233
第7章 魔法使いVS錬金術師!277
終章             329
あとがき           344
イラスト/pakO
デザイン/中デザイン事務所
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序 章
漆黒《しっこく》のドレスが、薄闇《うすやみ》に|翻っ《ひるがえ》た。
生地《きじ》に銀糸で縫《ぬ》い取られた、いくつもの紋様《もんよう》を残像させ――アディリシア・レン・メイザースは館《やかた》の廊下《ろうか》を逃《に》げていた。
フランス首都、パリの郊外《こうがい》。
革命歴|七月《テルミドール》の熱い夜。
西洋|屋敷《やしき》の最上階をつなぐ、ひどく静かな、寂《さび》しい廊下だった。
少女の呼吸と足音以外、あらゆる音が絶えていた。飛び飛びに据《す》えられた古風なランプも、走る少女の影《かげ》しかとらえていない。間違《まちが》いなく、館にはアディリシア以外の人間は存在しなかった。
なのに、追われていると、アディリシアは確信していたのだ。
(少し甘かったかしらね……ホナミに笑われますわ……)
滅多《めった》にない後悔《こうかい》が、思考に混じる。
明らかに、前準備が足りなかった。
日本の事件でほとんとの装備と呪物《フェティシュ》を使い果たしていたのに、あの名前を見つけただけで、つい飛び出してしまったのである。
(……ツカサ・イバ)
かつて、『業界』を席巻《せっけん》した伝説の名。
魔法《まほう》を便わぬ魔法使い。魔術結社〈アストラル)の先代首領。極東の僻地《へきち》に住みながら、〈協会〉さえ一目置く人材を集め――七年前に失踪《しっそう》した男。
そしで、もうひとつ。
今のアディリシアには、特別な意味があった。
(イツキに……伝えないと)
その刹那《せつな》。
美しい横顔を歪《ゆが》ませ、金髪《きんぱつ》の少女はきっと振《ふ》り返った。
「えぇい、しつこい……っ!」
胸のペンダント――ソロモンの五芒星《ごぼうせい》をつかむ。
その五芭星を掲《かか》げ、こう呟き《つぶや》ながら、手近な窓へと体当たりしたのだ。
「O THOU wicked and disobedient sprit N, because thou hast rebelled, and hast not obeyed nor regarded; they being all glorious and incomprehensible……」
最上階の廊下、空中十数メートルからの落下に金髪をたなびかせ、アディリシアはもう一度|誇《ほこ》り高く叫《さけ》んだ。
「――来たれフォルネウス! 二十九の軍団を支配する|侯爵!《こうしゃく》」
ごおっ!
風が吼《ほ》えた。霊《エーテル》体で待機していた魔神が、実体を持ったことで空気を押しのけたのである。
空中に巨大《きょだい》な|ギンザメ《フォルネウス》が顕《あらわ》れ、そのひらべったい背に着地しながら、アディリシアは続けで魔神の名を呼ばわった。
(せめて、あれが来る前に、手持ちの魔神だけでもっ……)
「――来たれボーティス!・六十の軍団を支配する叡智《えいち》ある伯爵《はくしゃく》」
「――来たれバシム! 三十の軍団を支配する力強さ侯爵!」
だが。
残る魔神たちが、顕現《けんげん》することはなかった。
再び風が唸《うな》り、魔神が実体化する寸前に、ぷつんとアディリシアと魔神たちをつなぐ糸《パス》が断《た》ち切られたのだ。
「あっ……」
魔術の反動で、右手の甲《こう》が裂《さ》ける。噴《ふ》き出る血を押さえながら、アディリシアは悲鳴を呑《の》み込んだ。
(実体化《マテリアライズ》に……失敗した……っ!)
激痛をこらえ、歯噛《はが》みする。
実体化《マテリアライズ》したものはともかく、霊《エーテル》体のままの魔神は、純粋《じゅんすい》な呪力《じゅりょく》の結晶《けっしょう》である。
だからこそ、霊《エーテル》体から実体への置換は、極度に繊細《せんさい》な作業だ。よほど熟達した術者でも、三体連続で喚起《かんき》するなど考えがたい。
――それでも、アディリシアが失敗するはずはなかった。
(やっぱり、ここは……)
少女が地表を見下ろした。
広大な庭に、石の壁《かべ》がうねくっていた。
まるで蛇《へび》のごとく、迷宮《めいきゅう》のごとく、積み重なった石が大地を分断している。どこかプラハの街にも似た――庭の体裁《ていさい》をとった堅固《けんご》な結界。主《あるじ》以外のすべての呪力を拒《こば》み、撹乱《かくらん》する、魔法使いの砦《とりで》。
その玄関《げんかん》に、人影が立っていた。
「お帰りにはまだ早いのではないかな? アディリシア・レン・メイザース――ヨーロッパに冠《かん》たる魔術結社〈ゲーティア〉の首領」
屋敷から漏《も》れる明かりに、白銀の懐中《かいちゅう》時計と、鮮《あざ》やかな赤髪《せきはつ》が燃えていた。
二メートル近い長身――もはや巨身《きょしん》ともいうべき肉体を、純白のインバネスで覆《おお》っている。鷲鼻《わしぼな》の上には、異様にぎらぎらと光るふたつの碧眼《へきがん》が収まっていた。
年齢《ねんれい》は、二十代後半か。
岩のような猪首《いくび》を傾《かし》げ、男は空中のアディリシアへ声をかけた。
「はるばる我が工房《こちぼう》まで来られて、手土産《てみやげ》もなしとはいくまい。ぜひとも、饗応《きょうおう》を受けでいただきたい」
「あら、勿体《もったい》無いですわね」
優雅《ゆうが》な微笑《びしょう》を絶やさず、アディリシアが受ける。
「私こそ、こんなとごろに工房をつくっているとは思いませんでしたわ。!あのツカサ・イバの一番|弟子《でし》たる錬金術師《れんきんじゅつし》、ユーダイクス・トロイデが」
ユーダイクスは、身じろぎもしなかった。
「ふむ」
|瞳が《ひとみ》細まる。ぎらついた視線が収束し、少女の胸を貫《つらぬ》く。
「この世界も、昨今は興廃《こうはい》が激しい。我が師の名も風化しつつあると思っていたが――なぜいまさら、あなたが気にする?」
(――食いつきましたわね)
手応《てごた》えを感じつつ、アディリシアは自分の手札を確認《かくにん》していた。
このわずかな会話の間に、何ができるか。
ギンザメ《フォルネウス》に攻撃《こうげき》を仕掛《しか》けさせるか?――否《いな》。失敗したとき、逃走《とうそう》手段もなくなる。
ふたたび糸《パス》を通し、二柱の魔神《まじん》を実体化《マテリアライズ》させるか?――否。一度しくじった魔術など、種の割れた手品と同じだ。
ならば!
「どうなさった?」
「いいえ。――気にする理由など不要でしよう? 仮にも魔法使いたるもの、時間や距離《きょり》になど惑《まど》わされていては一流とはいえませんわ。その相手が真に力ある対象であれば、惹《ひ》かれるのは理性や欲望など飛び越《こ》えた本能というものです」
「ほう、そうか」
ユーダイクスが、懐中時計を見て笑った。
「……何か?」
「では、先月――千百二十五時間と三十六分前の日本で、〈アストラル〉の二代目と貴方《あなた》が同じ事件にあたったというのは、ただの偶然《ぐうぜん》とおっしゃるのだな」
その瞬間、《しゅんかん》アディリシアは沸騰《ふっとう》した。
脳裏《のうり》に走ったのは、真っ農な眼帯をした――その眼帯がまるで似合わない、ある少年社長の顔だった。
そして、それとは別の、絶対的な予感がアディリシアを衝《つ》き動かしたのだ。
――この男と、あ《い》の《っ》少年《き》を出会わせてはいけない!
「来たれエリゴール! 六十の軍団を治める、堅固なる騎士《きし》!」
男の足元が、いきなり弾《はじ》けた。
地盤《じばん》を砕《くだ》き、刹那《せつな》で実体化《マテリアライズ》したるは、雄々《おお》しき槍《やり》を掲《かか》げた|鋼の騎士《エリゴール》。
わざと顕現《けんげん》させず、屋敷《やしき》に侵入《しんにゅう》する前から地中へ隠《かく》れさせていた、アディリシアの切り札たる魔神だった。
「エリゴール!」
叫《さけ》びが、そのまま命令《コマンド》となる。
斜《なな》め下から猛然《もうぜん》と槍が突《つ》き出され、一直線に男の心臓へ駆《か》け抜《ぬ》ける。
「――それなりだな」
貫かれる寸前、ユーダイクスは何かを振《ふ》った。
フラスコだった。
インバネスの内側から取り出した、小さな曇《くも》ったフラスコが、豪槍《ごうそう》の先端《せんたん》で砕け散ったのである。
異変は、すぐに起こった。
コンマ数秒にも満たぬ時間、男のインバネスへ槍が突き刺《さ》さるまでのわずか数十センチの距離。その隙間《すきま》を埋《う》めることもできずに、槍が――
溶《と》けた。
「…………エリゴールっ?!」
アディリシアが、目を見張った。
その前で、文字通り、騎士は溶けていったのだ。
槍がぐずぐずな液状へと変質し、
|鎧が《よろい》とろけ、
腕《うで》の肉がこそげ、
眼球がとろりと落ちて、
すべて、すべて、とろけてこそげて落ちてばらばらになって――どうしようもなく溶けていった。
「万物融解剤《アルカヘスト》といえばご存じか。第一資料をつくるための、膨大《ぼうだい》な系統樹の副産物のひとつにすぎんがね」
虹色《にじいろ》の水たまりと化した魔神を見下ろし、ユーダイクスがつまらなそうに吐息《といき》をこぼした。
「今のが奥の手だったなら、いささか冴《さ》えぬなソロモンの末裔《すえ》。まだ手札は残っているか?」
「…………」
(…………駄目《だめ》ですわ)
その挑発《ちょうはっ》に、アディリシアは必死で耐《た》えた。
ドレスの胸元《むなもと》を押さえ、屈辱《くつじょく》に唇を《くちびる》白く染めながら、それでもフォルネウスへ逃走《とうそう》を促《うなが》す契《けい》機《き》をはかっていた。
ぴん、と夜気に緊張感が《きんちょうかん》張り詰《つ》める。
どちらも、動かない。
常人だとショック死しかねない、呪力《じゅりょく》さえこもった対時《たいじ》。それを楽しむように、男の唇がゆるりとほころんだ。
「なるほど。なかなか賢明《けんめい》だ。……だがソロモンの姫《ひめ》。たった今、あれが来たぞ」
懐中《かいちゅう》時計の蓋《ふた》を閉じ、ユーダイクスの腕があがった。
一点を指差す。さきほど、アディリシアが体当たりで破った窓だった。
途端《とたん》、少女の肩《かた》が震《ふる》えた。
「あ……っ」
その壊《こわ》れた窓から、影《かげ》が覗《のぞ》いていたのだ。
夜風の舞《ま》い込む廊下《ろうか》へ、小さくわだかまった影。それを見ただけで、アディリシアは硬直《こうちょく》した。
――そう。
ユーダイクスではなかった。
アディリジグが逃《に》げ惑《まど》っていた理由は、たった今|騎士《エリゴール》を溶解《ようかい》させた、この錬金術師《ユーダイクス》ではなかったのだ。
それは――
(ホナミ……イツキ……つ)
|一瞬だ《いっしゅん》けその名に思いをめぐらせ、アディリシアがフォルネウスへ逃走の命令を下しかける。
だが、影の動きはそれより速かった。
屋敷の窓から、夜空へと一気に跳躍《ちょうやく》し、少女とギンザメを包み込む。
同時に、魔的な|衝撃《しょうげき》がアディリシアの芯《しん》まで揺《ゆ》さぶった。
「――――っ!」
視界が暗くなる。
意識が断絶する。
だが、無に落ちでいく自分を感じながら、最後まで少女は悲鳴ひとつあげなかった。
――あるいはその誇《ほこ》り高さゆえ、最後まで、悲鳴ひとつあげることさえ……できなかった。
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第1章 魔法使いの遺産
[#ここから2字下げ]
〈DEAR イツキ
この手紙が着く頃《ころ》には、もう夏休みでしょうね。
終業式ぐらいは出席したかったのですけれど、|忌々《いまいま》しい〈協会〉の手続きでそうもいかなさそうです。書類、書類、書類、書類、書類、書畜類。〈協会〉がお役所仕事だとは知ってましたが、これほどとは! それはまあ……前回の〈夜〉も入札もイレギュラーでしたから面倒《めんどう》なのは分かりますけれど、あの手続きの遅《おそ》さは怠慢《たいまん》すぎです!〈ゲーティア〉の首領として、巨《きょ》大《だい》すぎる組織がいかに腐敗《ふはい》するかの教訓とさせていただきます。
とりあえず、前回の件で〈協会〉ににらまれたものは、おおよそ片付きましたので報告まで。あの強欲《ごうよく》な猫馬鹿陰陽師《ねこばかおんみょうじ》にも伝えておいてくださいませ。
――それと、もうひとつ。
イツキに伝えておくごとがあります。
〈協会〉の支部をたらいまわしにされたおかげで、今私はパリにいます。日本の夏は蒸《む》し暑いそうですし、快適なフランスで過ごせること自体は歓迎《かんげい》ですけどね。そのついでに、〈協会〉の書庫で調べ物をしている際、あなたとも関係のある名前を見っけたのです。
それは……
……いえ、今はよしましょう。
来週には日本へ戻《もど》れるかと思いますので、そのときはっきりしたことを伝えます。
それまでに、イツキは少しなりとも修行《しゅぎょう》をすすめておいてくださいませ。どうせ才能のないあなたのことですから、ろくに魔法《まほう》の勉強も進んでないでしょう? ホナミひとりでは手に余るでしょうし、なんでしたら……帰国した後なら、少しぐらい私がつきあっでもかまいませんわ。ええ、まあもちろん、私なりの報酬《ほうしゅう》はいただきますけれどね。
では、よい魔法を。
[#地付き]|Adilisia=lenn=Mathers《アディリシア・リン・メイザース》〉
[#ここで字下げ終わり]
「――アディリシアさんだなあ」
朝、事務所|玄関《げんかん》の郵便箱前。
眠《ねむ》そうに小さなあくびをした後、伊庭《いば》いつきは思わず苦笑《くしょう》した。
年よりも、少し幼く見える少年だった。柔《やわ》らかい黒髪《くろかみ》を短く切っており、大人しそうな顔の右目には、海賊《かいぞく》のような黒い眼帯をしている。だけど、この少年がすると、そんな眼帯もとこかユーモラスな雰囲気《ふんいき》に変わるのだった。
「よい魔法を、だもんね」
もう一度、手紙を見下ろす。
署名の末尾《まつび》に、鷲獅子《グリフォン》と魔法円を象《かたど》った印章が輝《かがや》いていた。朱肉《しゅにく》ではなく、封筒《ふうとう》と同じ、臓《ろう》で押された印章だ。便箋《びんせん》自体にも淡《あわ》い薔薇《ばら》の透《す》かしと、かすかな花の香《かお》りがついている。
なんとなく、その手紙の向こう側に、「読みたいなら勝手にお読みなさいな」とでも言うような――つんとすました|送り主《アディリシア》の姿が見えた気がして、いつきはそっと眼帯を撫《な》で、それから手紙をポケットへしまった。
(…………)
ひとつ、深呼吸。
気持ちを、切り替《か》える。
「……さ、さあ、逃《に》げなきゃ……」
ゆるんだ表情を引き締《し》め、自分に言い聞かせた。
――思いがけない手紙に気をとられたけれど、作戦《ミッション》は始まったばかりなのである。
「…………」
呼吸を殺し、玄関の扉へ背をつけた。古めかしい木の肌触《はだざわ》りを感じながら、そうっとノブに触《ふ》れる。
爽《さわ》やかな夏の陽《ひ》光が、瞼《まぶた》を差した。
(ああ、夏休みなんだ)
その朝日を見て、いつきはやっと納得《なっとく》した。さっきの手紙にも奮いであったのに、いまだ実感がなかったのだ。
そう、夏休みなんだから遊ばなきゃならない。海も山もまだ行っていないし、例年|山田《やまだ》たちとひらく徹夜《てつや》のゲーム合宿だって、義妹《いもうと》の勇花《ゆうか》とカリフォルニアへ釣《つ》りに行く約束だってまだ果たしてない。
無論、やるべきなのだ。
これはもう至上命題といってもいいはずだった。
どこかで、みーんみーんとセミの声が聞こえる。〈アストラル〉の事務所は、何かの間違《まちが》いみたいにビルとビルとの間に建てられた洋館だが、比較的《ひかくてき》緑は多い。というか、いろんな事情のもと打ち捨てられた空き地を、勝手に庭|扱《あつか》いしているのである。
そんな濯木《かんぼく》のひとつに、隠《かく》れこむ。
きょろきょろと周囲を見回す。
よし、大丈夫《だいじょうぶ》。
右目も痛くない。
以前は、ここでつかまった。一瞬《いっしゅん》の油断とともに魔女《まじょ》に発見され、問答無用で事務所へ押し戻されたのだ。
あれから一週間。いつきも脱出《だっしゅつ》の計画は練りに練った。軟禁《なんきん》状態の中、窓から見える景色やインターネットによって地理を調べ上げ、社員全員のスケジュールから監視《かんし》の甘い時間を突《つ》き止めた。呪的警報《マジックアラーム》についでは右目を使い、効果|範囲《はんい》を確認《かくにん》済みである。
(今度こそ……っ)
決意と期待に胸を焦《こ》がし、いつきは抜《ぬ》き足差し足ビルの谷間を歩き出した。なにしろ、あの魔犬《オルトロス》もまだ居座っているのである。うっかり起こしてしまえば、元の木阿弥《もくあみ》だ。
一歩ずつ、確実に歩を進める。
その一歩ごとに、夏休みが近づいてくる。
(もう少し……)
たらり、と冷や汗《あせ》が流れた。その冷や汗さえいとおしい。
(もう少し……)
大通りまで十メートル……八メートル……六メートル……
(もうちょっと……)
「――いつきくん? どうしたの?」
眼帯を透かしで、右目だけが視た。
前方のビルの壁《かべ》から、にゅるり、と女の子の顔が生えたのだ。
「うわあああああああああああああああああああああああああああああっ」
大声をあげて、いつきが後方へすっころぶ。アスファルトに思い切り尻餅《しりもち》をつき、間髪容《かんはつい》れず尾《び》てい骨の痛みに跳《は》ね上がった。
「あいっ、たたたたたた――!」
「い、いつきくんっ?」
苦悶《くもん》する少年に、少女が壁をすり抜けて駆《か》け寄る。
長い髪の少女だった。
年の頃《ころ》は十四か五。くりくりした|瞳《ひとみ》と撥刺《はつらつ》とした雰囲気が印象的な――クラスにひとりはいて、その子がいるだけで皆《みな》がどこか和《なご》んでしまうような、そんな女の子だった。
ただし、その女の子の場合、身体《からだ》中が半透明《はんとうめい》にすけてしまっているのだけど。
「く、黒羽《くろは》さん……」
「ご、ごめんなさい。いまさらそんなに驚《おどろ》くと思わなかったし……」
ちょっと拗《す》ねた声で、幽霊《ゆうれい》少女――黒羽まなみが頭をさげる。
「い、いや、その、ば、場合が場合で……」
「場合?」
「う、うん。その、あの、いろいろと」
痛みをこらえ、青い顔でばたばたと両手を振《か》った。なんとしてでも誤魔化《ごまか》さなければならなかった。
黒羽は『敵』ではない。
むしろ、この事務所では唯一《ゆいいつ》の、完全な味方といってもいい。ほかの社員と違って、いつきが社長になった後に自らスカウトした見習いなのだ。自分を見つけたのが彼女だったのは不幸中の幸いともいえた。
「いつきくん?」
「あ、えっと…」
脳を猛《もう》回転させながら、いつきはぎこちなくうなずく。彼女なら、事情を話せば、あるいは分かってくれるかもしれない。
「実は……」
――と。
「しゃ〜ちょ〜う、どうしたんですか〜?」
いきなり、冷たい手が、むんずといつきの肩《かた》をつかまえたのである。
「…………っ!」
ぐい、と引っ張られた。視界がくるりと回る。半回転する。
気がつくと、目の前で、青年が扇子《せんす》を広げていた。
平安風の羽織に身を包み、肩や頭や|懐《ふところ》に猫《ねこ》を抱《かか》えた、いぶし銀の髪《かみ》の青年である。
「ね……猫屋敷《ねこやしき》さん……!」
「いやあ、朝っぱらから散歩かなーと思ってたんですけど、なんだか様子がおかしかったので。まだ検査も終わってませんけど、どうしたんですか社長?」
「……にあ」
「にゃあ」
「うにゃ」
「にい〜あ」
ちょうど四|匹《ひき》、黒、白、ぶち、三毛の猫たちが賛同するように鳴く。
「ああああ、今日もよい鳴き声ですわー。三千世界に|響き渡《ひびわた》りますねー。祇園精舎《ぎおんしょうじゃ》の鐘《かね》の声も真っ青、五十六億年の彼方《かなた》で弥勒菩薩《みろくふぼさつ》も御清聴《ごせいちょう》あれ。声といい、肉球といい、毛なみといい、猫とはかくもはずれぎりけり。なんと素晴《すば》らしきかなこの大|霊長!《れいちょう》」
うっとりと讃美《さんび》する猫屋敷|蓮《れん》に、我にかえったいつきが反論した。
「て……それより、もう検査はいいでしょっ? だ、だってもう三日前から徹夜《てつや》で泊《とま》り込んでやってるじゃないですか!」
「なに言ってるんですか社長。やーっと倉庫から器具を出してきたんですから、この機会に全部すませておかないと。せっかくの夏休みが無駄《むだ》になっちゃうでしょ?」
それは違《ちが》うと絶叫《ぜっきょう》したかった。
夏休みはそういうものじゃないだろう。
なんというか、もっと自由で、もっと楽しいはずのものだろう。特に、高校一年生の夏休みといえば……
「……あれ?」
「――あ、猫屋敷さん、いたーっ」
今度は屋敷から、もうひとりてけてけと、真っ赤なランドセルを背負った女の子が走ってきたのだ。
「みかんちゃん?」
ランドセルの通り、年齢《ねんれい》は八歳になるかどうか。
しかも、身体にあわせてアレンジはされているものの、|樺《ちはや》と緋袴《ひばかま》の紅白|貯え《ごしら》は――まざれもない巫女装束《みこしょうぞく》である。
「猫屋敷さん!」
その袖《そで》をぶんぶん振り回しながら、葛城《かつらぎ》みかんは青年を名指しした。
「は? 私なんですか?」
「そう! 猫屋敷さん、あたしの庭に白虎《びゃっこ》と青龍《せいりゅう》いれたでしょうっ!」
「ヘ? その……そうだったんですか?」
猫屋敷があわでて懐を見やる。
すると、頬《ほお》をふくらませたみかんから逃《に》げるように、猫たちの二匹――白猫とぶち猫が羽織の内側へひっこんだのだ。
「あ、こら、白虎、青龍」
「に、にゃあ」
「うにゃ〜」
あからさまに弱々しい声をあげ、二匹の猫がうなだれる。
「もう。あたし、朝顔の自由研究してるから、白虎と青龍を花壇《かだん》にいれないでって言ったでしょ。鉢植《はちう》えがぽんぽんひっくり返されてるんだもんっ。飼い主だったらちゃんと言うこと聞かせなきゃだめ!」
腰《こし》に手をあてて、みかんが説教した。夏休みなのにランドセルを背負っているのは、その自由研究のためだったらしい。
ついで、いつきの方を向き、
「あ、お兄ちゃん社長、おはよっ。ねえ、お兄ちゃん社長からもなんか言ってやってよ」
「う、うん。その、そうだね……」
あははは、と乾《かわ》いた笑いをいつきは漏《も》らした。
「…………」
納得《なっとく》のいかないみかんがもう一度猫屋敷へ振《ふ》り返ったのを見計らい、じわじわとビルの壁《かべ》にそって後じさりする。
この期《ご》に及《およ》んで、いつきは脱出《だっしゅつ》を諦《あきら》めていなかったのである。
まだいける。夏休みは消えてない。
悲壮《ひそう》な思いを胸に、こっそり足を踏《ふ》み出して――黒羽と目があった。
「あ……!」
「あ」
口を小さく開けた後、こくり、と黒羽はうなずいた。
(いいよ、今のうちに……)
|淡《あわ》い唇《くちびる》が、そう動いた。一連の流れでいつきの意図を察してくれたのか、こっそり道を開けてくれている。
(あ、ありがとう……!)
胸の中で、涙《なみだ》を流して感謝する。今度こそ、夏休みを。
走り出す。
刹那《せつな》。
眼帯の下で、いつきの右目がぐりんとよじれた。
「――いっ?!」
「力の円錐《えんすい》のもと、我は乞《こ》う。すなわち風とヤドリギの加護をもて、南西の災《わざわ》いを阻《はば》め」
朝の空気に響《ひび》く、力《ス》|ある《ペ》|言葉《ル》。
同時に、何かが路地裏を斜《なな》めに断《た》ち割った。
足元で、アスファルトが砕《くだ》けた。真横にひびを走らせ、いつきの行く手を遮《さえぎ》る。
|濛々《もうもう》と粉塵《ふんじん》がたち、やがて消えたその中心に、ごく可愛《かわい》らしいヤドリギの矢が生えていた。
「……あ、あ、あ」
絶望とともに、いつきは空を見上げた。
この呪力《じゅりょく》の波形は、嫌《いや》というほど視知っていた[#「視知っていた」に傍点]。というより、この魔女《まじょ》が留守にしているからこそ、今朝を脱出の決行日としたのに。
「――!朝から騒《さわ》がしいけど、どうかしたん?」
|悠々《ゆうゆう》と、箒《ほうき》が空に浮《う》いていた。
オガム文字の刻まれた柄《え》に横座りし、栗色《くりいろ》のセミショートは朝風に揺《ゆ》れている。すっと通った鼻梁《びりょう》は涼《すず》しく、薄緑《うすぶち》の眼鏡《めがね》の下の瞳《ひとみ》は凍《こお》った湖面のように蒼《あお》く澄《す》んでいた。学期中はいつもセーラー服だったマントの下も、今は品のよいワンピースにとって代わられている。
「……穂波《ほなみ》さん」
「あ、おかえりなさい、穂波お姉ちゃん!」
黒羽とみかんの声に、箒の魔女は微笑《びしょう》で応《こた》えた。
「ただいま、黒羽さん、みかんちゃん。それに猫屋敷さん」
穂波・高瀬《たかせ》・アンブラー――〈アストラル〉ケルト魔術・|魔女 術《ウィッチクラフト》課正社員が、空から一礼する。ロンドン留学で仕込まれた礼は、どんな角度からでも優美この上ない。
そして、
「で、どないしたんかな――社長?」
ビルの壁にへばりついていた少年を、穂波が一瞥《いちべつ》した。
「…………」
が、少年の目は、今の魔法とも少女とも違《ちが》うものに釘《くぎ》づけとなっていた。
――箒の端《はし》だった。
穂波の座る箒の端に、巨大《きょだい》なスーツケースが四個もくくりつけられていたのである。
胸を押さえる。予感というよりも確信が、心臓を高鳴らせていた。いや、むしろあからさまな恐怖《きょうふ》という方が近いか。
震《ふる》える指でスーツケースを差す。
「……あの、穂波。それ……は?」
「魔術書《グリモア》と社長業の参考書。とりあえず百冊ずつほど〈協会〉から借り出しできたんや。まともに買うと〈アストラル〉 の金庫がおいつかへんし」
「……百冊、ずつ?」
ずがん、と脳髄《のうずい》の何かが砕かれた音がした。
ああ、これは致命傷《ちめいしょう》だ。とどめだ。人の身には耐《た》えられない必殺の一撃《いちげき》だ。
「まさか……」
「もちろん社長の強化勉強用。せっかくの長期|休暇《きゅうか》なんやから、今日からは本格的にやるつもりやけと?」
暗黙《あんもく》のうちに穂波が兼《か》ねているもうふたつの役職は、こうである。
〈アストラル〉『社長秘書』兼《けん》『社長教育係』
「…………」
絶望とともに、いつきか膝《ひざ》からくずおれた。
ずりおちたビルの壁に、古ぼけた鋼の看板が貼ってあり、浮き彫《ぼ》りでこんな文字が書かれていた。
〈魔法使い派遣《はけん》会社・アストラル
――あなたのご要望にあった魔法使い、お貸しします〉
人が思うより、少しだけ世界には魔法が多い。
人が思うより、少しだけ世界には神秘が多い。
それをいつきが知らされたのは、もう三ヶ月近く前の春のことである。
そして、失踪《しっそう》した父親がそんな業界の会社を経営していたと知ったのも、同じときだった。
――魔法使い派遣会社〈アストラル〉
占《うらな》い師やオカルトライターの派遣会社を装《よそお》いつつ、その実、世界各地から本物の魔法使いを集めた、『業界』でも異色の魔法集団である。ただし、父親が消えでからは、社員も三々五々と散ってしまい、今では廃業《はいぎょう》寸前のおんぼろ会社にすぎない。
その会社で、いつきは社長にまつりあげられたのだった。
とはいえ、『魔法使い』を使う『社長』というものがどれほど過酷《かこく》な職業か、ましてや、クラス一のへっぽこかつ臆病者《おくびょうもの》がそうなるまでどのような地獄《じごく》が待ち構えでいるか、当時のいつきには想像もしえなかったわけで――とりわけ悪質かつ最悪な罠《わな》は、この夏休みに牙《きば》を研《と》いでいたのである。
『――え、いつき兄さん、夏休み来れないの?』
「その、ごめん。ちょっとバイトがたてこんじゃって……」
電話|越《ご》しなのに、思わず頭をさげてしまう。もとより、この義妹には頭があがらないことだらけなのだが、さらにひとつ加わった気分。カリフォルニアの別荘《べっそう》で、勇花が口をへの字にしているのが見えるようだった。
ぱちんと、その義妹の指が鳴った。
『そうだ。バイトなんて、こっちでやればいいじゃない。日本よりアメリカのほうが絶対時給いいっで。別に英語なんで喋《しゃべ》れなくても問題ないし』
「いや、その、それは無茶だろ」
『大丈夫《だいじょうぶ》だよ。日本食のレストランとかなら日本語だけでいけるもん。それに、ホントはバイトなんてしてるのが変! ちゃんと母さんからの仕送りは届いてるでしょ?』
「それは届いてるんだけど……まあいろいろあって……」
少し、間があった。
『――まさか兄さん、カツアゲされたりしてないよね?』
うわ、限りなく真実に近い。当事者たちにはいじあの自覚なんてないだろうけど。
「……そ、それは、うん、だ、大丈夫だから」
『本当に? だって兄さん約束は破ったことなかったのに……』
声のトーンが落ちた。寂《さび》しそうな影《かげ》に、引っ張られそうになる。
そのとき、
「社長ー、まだですかー」
隣《となり》から、お呼びがかかった。
「あ、は、はい。いま終わります」
『兄さん? いま、社長って……』
「ば、バイト先の社長さんが来て! 後でまたかけるから!」
あわでて黒塗《くろぬ》りの受話器をガチャンと下ろした。
「……ふわあ」
息をつく。危ないところだった。もう一歩で本当のことを話しかけていたのである。
どさっと自分の椅子《いす》に腰《こし》かけで、周りを見る。
――洋館。
古ぼけたデスクと椅子が打ち並んだ、〈アストラル〉事務所内である。天井《てんじょう》では、斜《なな》めに傾《かし》いだシーリングファンがぬるい空気をかき混ぜている。冷房《れいぼう》なんで気の利《き》いたものは〈アストラル〉の財政ではありえないわけで、現状、このシーリングファンだけが唯一《ゆいいつ》の空調だった。
で、
「はい社長、電話が終わりましたら、その点眼液を垂らして、こっち来てくださいね!」
その一角で、|嬉々《きき》として猫屋敷が扇子《せんす》を振《ふ》ったのである。
扇子の延長上には、ヘドロ色というかなんというか――実に不気味な色をした目薬が置いてあり、たちまちいつきの顔が情けなく歪《ゆが》んだ。
「……その薬、めちゃくちゃ痛いんですけど」
「そりゃそうですよ。水銀ですから」
「て、毒じゃないですか!」
血相を変えるいつきに、あはははと猫屋敷が軽快な笑いを返した。
「いやいや、ほかにもいろいろ入ってますよ。批素《ひそ》だとか、毒セリだとか、ゴルゴンの毒血だとか」
「あの……毒以外はないんですか……っ」
「半端《はんぱ》に弱い薬いれたら、ほんまに毒薬になってまうやろ。毒と毒との括抗《きっこう》に、ほんのかすかな薬効を見出《みいだ》すのが魔女術《ウィッチクラフト》の秘訣《ひけつ》なんやから」
これはそっぽを向いたまま、穂波が冷たく補足した。
入り口側のデスクにどっきり本を積み上げ、いつき用教科書を選別している最中である。
ちなみに、先週――夏休み前に、この目薬を調合したのも彼女だった。当時、いかにも魔女《まじょ》っぽい釜《かま》を少女がかき混ぜていたときから、嫌《いや》な予感はしていたのだが、やはり的中だったらしい。
これに学校生活を加えたものが、すでに一季節も続いている、伊庭いつきの日常風景であった。
「………………………………………………………………………………はあ」
ふたたび、未練がましいため息をついた後、いつきは猫屋敷の佇《たたず》んている一角を見やった。
いつも護符《ごふ》やら杯《さかずき》やらタロットやらが散乱しているあたりに、巨大《きょだい》な機械が置かれている。
大小数十はありそうなレンズと、鏡と、金属の集合体である。よく眼科にある視力測定機を数百年退化させた後、手当たり次第《しだい》に合体変形させたような機械だった。
普通《ふつう》に歩いただけでみしみしいう床《ゆか》に、その化け物がどでんと居座っているのだ。さすがにデスクやソファなどはとけられているが、なんというか、やたらと緊張感《きんちょうかん》のある光景である。
「それが……倉庫から出してきた検査機ですか?」
「ええ。倉庫のずーっと奥で挨《ほこり》をかぶってましてね。古い分晶質はいいですよー。レンズは三百年もののステンドグラスと琥珀《こはく》から削《けず》り出した品ですし、鏡も職人に磨《みが》き上げてもらった一品物の鋼錬ですからねー。呪力《じゅりょく》反射効率は八十五%以上、補正収束度数は十八度から七十六度まで。いいお仕事してますよねえ」
うっふっふーとハミングしながら、猫屋敷がくるくるレバーを回す。
主人の喜びに応じてか、猫《ねこ》たちまでが踊《おど》りはじめた。
この奇人陰陽師《きじんおんみょうじ》、猫好きの上、マッドサイエンティストならぬマッドマジシャンの趣味《しゅみ》さえ備えでいるのだった。
「……嬉《うれ》しそうですね」
「そりゃもー最高ですとも!――ま、本当はあんまり向いでないんですけど」
「え?」
「以前も話しましたけどね。陰陽道の呪力の波長は、呪組《じゅそ》や占《うらな》い、使役《しえき》の方に合っちゃってますから。純粋《じゅんすい》に学閥としての側面もあるんで、こういう器具も使えますけど、幾分《いくぶん》効率が悪いのは否《いな》めませんねえ」
猫屋敷の語る吉葉は、魔法の真理でもあつた。
あらゆる魔術系統には、それぞれの得意・不得意が存在する。無論個人差も大きいし、それなりに抜《ぬ》け道も存在するが、原則的にはこの属性に縛《しば》られることとなる。
そして、その属怪を突《つ》き詰《つ》めた先に、ひとつだけの究極をもつのだ。
――『魔術特性』。
たとえば、神道《しんとう》にて行う〈|禊    ぎ《Absolite Purification》〉――絶対結界。
たとえば、陰陽道の利用する〈|陰陽五行の式《Formula Of Element》〉――完全|呪波制御《せいぎょ》。
たとえば、ソロモン王の魔術が誇《ほこ》る〈|王命の喚起《Evocation OF Solomon》〉――血脈強制|召喚《しょうかん》。
いつきの場合は、その右目であった。
黒羽のような霊《エーテル》体を視認《しにん》する程度であれば、魔法使いなら誰《だれ》でもやる。だが、いつきの右目は眼帯をも透《す》かし、魔法の源となる呪力そのものを視《み》ることができるのだった。
名を、妖精眼《グラム・サイト》。
……というらしい。
(――そう言われても、よく分からないんだけどなあ)
眉《まゆ》をひそめて、いつきは眼帯を撫《な》でた。
修行《しゅぎょう》して覚えたものでも、望んだものでもない。
ただ――視えでしまうだけなのだ。
その手の気配であれば、たとえ壁《かべ》の向こう側でも「あ、いる!」と認識してしまう。瞼《まぶた》を閉じでも、眼帯の上から手で塞《ふさ》いでも同様である。こうなると霊感《れいかん》というよりも欠陥《けっかん》に近い。逆に化け物の方に目をつけられて、逃《に》げ回ったことも二度や三度ではなかった。
おかげで、極端《きょくたん》に臆病《おくびょう》な性格になってしまい――『ドラえもんで気絶した男』などという不《ふ》名誉《めいよ》な異名をとってしまったわけであるが…
「――でまあ、今のうちに、社長の眼《め》の特性を把握《はあく》しておきたいわけなんですけれど――聞いてますか? 社長?」
「あ、はい。聞いてます聞いてます」
あわてて何度もうなずく。
猫屋敷は、じつと目で見つめた後、「まあいいですけど」と呟《つぶや》いて、機械のレンズを起こした。
「だったら、目薬さしてそこに座ってもらえます? 痛くないですよー」
機械からは、大きな鎖《くさり》と手錠《てじょう》・足伽《あしかせ》が伸《の》びていた。ほとんどフランケンシュタインの実験さながらである。その鎖を伸ばしたまま、猫屋敷がにんまりと笑った。その笑《え》みが、今の言葉が大嘘《おおうそ》だと物語っていた。
「さあさあ|早く早く《ハリーハリー》。|もっと早く《ハリーアップ》!」
「あわわわあわわあわ」
がちゃんがちゃんと頭の上で手錠をかちあわせながら、猫屋敷が顔を寄せてくる。異様な迫《はく》力《りょく》に後じさりながら、いつきは、ふと別の可能性に思い至った。「あ、あの……じゃあそういう器具を|扱《あつか》う魔法使《まほうつか》いもいるんですか?」
「は? そりゃいますよ。あらゆる呪物《フェティシュ》は、なんらかの魔術に従属するものですからね。こういう解析《かいせき》系の呪物《フェティシュ》なら、知り合いにひとり専門家がいましたけれど、あの人なら目薬で呪力を固定化するなんて小細工もいらないでしょうね」
「……じゃ……じゃあその人に頼《たの》んだらどうかな? とりあえず今日は無しにして」
「しゃーちよーうー?」
猫屋敷が、間近でいつきを見下ろす。
「どこからそんなお金が出でくるんですかー? これだってホントは新しい器具が欲しかったんですけと、倉庫からひねりだしで我慢《がまん》してるんですよっ?」
物欲というか私怨《しえん》というか、ぐわあっと、青年の肩《かた》から巨大《きょだい》な炎《ほのお》が立ち昇《のぼ》るようだった。
と――その炎が、急に鎮火《ちんか》した。
「……それに、あの人は音信不通になって長いですからね」
顔を離《はな》し、猫屋敷が呟いたのだ。
「音信不通、ですか?」
「魔法使いなんでそんなもんですよ。まあ生きでいれば――あるいは死んでいても、どこかで道を同じくすることがあるでしょうし」
(あれ……?)
いつきは、眉根《まゆね》を寄せた。その日が、なにか懐《なつ》かしいものでも見ているように思えたのだった。まるで、普段《ふだん》のはちゃめちゃさが全部嘘みたいな、うってかわった静かな表情。
「あの……」
「少しええ?」
唐突《とうとつ》に、穂波が割り込んだ。
それまで、興味なさげにいっき用の参考書を積んでいた少女は、いつのまにかすぐそばで立っていた。
「えっ?」
「これ、何かな? 社長」
しなやかな指の間に、一枚、優美な手紙が挟《はさ》まれていた。
「――あ」
「……ふうん。アディからの手紙?」
ちら、と蒼《あお》い|瞳が《ひとみ》裏に捺《お》された蝋《ろう》の印章をなぞる。さっき後じさった時に、床《ゆか》へ落としたらしかった。
「――――」
なぜだか、ひどくまずい気がした。
「あ、あ、うん」
薄緑《うすぶち》の眼鏡《めがね》を正視できず、足元に視線をそらしてうなずく。
「……ま、ええけどね。それで、あたしも〈協会〉から社長|宛《あ》での手紙をもらってたん、思い出したんやし」
手紙をデスクに置き、穂波はマントの裏からもう一通手紙を差し出した。
アディリシアのそれと対照的な――漆黒《しっこく》の封筒《ふうとう》だった。
闇《やみ》を凝《こご》らせた紙面に、血のごとき真紅《しんく》の印章が捺きれている。アディリシアが鷲獅子《グリフォン》と魔法円をかたどった典雅《てんが》な印章ならば、それは剣《けん》と天秤《てんびん》とをもってつくられた、どこか不吉《ふきつ》な紋様《もんよう》だった。
「――〈協会〉から?」
いつきが瞬《まばた》きする。
それは、魔法使いたちを取りまとめる、総元締《もとじ》めの名であった。世界の魔法集団の七割から八割を登録し、隠然《いんぜん》たる影響力《えいきょうりょく》を有する集団。あの、ありとあらゆる表情を削《けず》った男――影崎《かげざき》を擁《よう》する組織。
「そうや。――〈アストラル〉の先代社長・伊庭|司《つかさ》から、後継者《こうけいしゃ》への預かり物があるので、相続手続きをしてほしいって言うでた」
「…………!」
途端《とたん》。
空気が、冷えた。
いつきだけでなく、猫屋敷までが顔をこわばらせたのである。が、それも|一瞬。《いっしゅん》すぐにゆるんだ表情に戻《もど》った陰陽師《おんみょうじ》の前で、少年はいまだ目を見張っていた。
眼帯に、自然と右手が触《ふ》れている。
そして、
「父さん……から、僕への、預かり物?」
と、その|唇が《くちびる》こぼした。
沈黙《ちんもく》は、数秒かそこらだった。
意外な言葉で、綺麗《きれい》に思考が止まっていた時間。
呆《ほう》けて0の字になっていたいつきの唇へ、とても冷たい指が触れた。
「――社長」
「あ……穂波?」
「何、ぼうっとしてんの。そないに変なこと言うた?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど――で、指っ、指っ」
耳まで赤く染めながら、あわでて顎《あご》を引く。
当の穂波は、なんともない風に指を離して、栗色《くりいろ》のセミショートを梳《す》いた。
「そんならええけどね。社長がぼうっとしてるんじゃ、こっちも仕事にならへんし。――で、とりあえず手紙を開けてみたら?」
「あ――うん」
黒い封筒を指で開き、内側の便箋《びんせん》を取り出す。
紙面には、ごく短い挨拶《あいさつ》と手続きの日時が載《の》せられていた。封筒は古式ぼった品なのに、その便箋はごく平凡《へいぼん》なコピー用紙にワープロの文字である。それがまたなんともいえぬ不気味さと無機質さを醸《かも》し出していた。
「何を相続されるのかは……書いてないね」
「契約《けいやく》で、相続時点までは秘密みたいやね。もったいぶったやり方や」
覗《のぞ》きこんだ穂波が、目を細めて感想を漏《も》らす。
その言い方が気になって、訊《き》いてみた。
「あのさ、穂波は父さんのこと知ってるの?」
「……知らへんよ」
「そっか……」
眼帯を撫《な》でる。ちり、と奥の眼窩《がんか》が痛む。その痛みに押されるようにして、言った。
「うん。この手続き、受けてみる」
「ふうん?」
穂波が、意外そうに首を傾《かし》げた。
「な、何?」
「なんでもあらへん。てっきり、そういうのは気味悪がるんちゃうかと思ってたから」
「……いや、だって、一応、社長だしさ」
ぼそぼそと言った答えをどう思ったのか、かすかに唇をほころばせて、少女は踵《きびす》を返した。
「分かってるやん。――なら明日、〈協会〉の支部に連れてく。スーツぐらいは出しといたげるから、社長は先にやることやっとき」
「やることって……?」
ざくっといつきが振《ふ》り返った。
その手首に、がしゃんと鉄の手錠《てじょう》が下ろされたのである。
「ね、猫屋敷さんっ!」
「はーい。じゃあ検査に協力してくださいね。目薬も私がさしてあげますからわー、その後は魔法《まほう》の勉強ですよー猫《ねこ》も一緒《いつしょ》ですよー嬉《うれ》しいですねー」
にこにこと笑う青年が、囚人《しゅうじん》さながらに少年をひきずっていく。
「あ――、あ――、あ――――――――――――――――――!」
「…………」
最後まで見ずに、穂波は事務所を出た。
そして数分後。
世にも恐《おそ》ろしい絶叫《ぜっきょう》が、〈アストラル〉の洋館を駆《か》け巡《めぐ》ったのだった。
昼下がりになって、穂波はひとり書庫へ足を向けた。
ラテン語で『汝《ノリ》、触《メ》れ|るなかれ《タンゲレ》』と書かれた扉《とびら》を開けると、むっと古紙と黴《かび》の臭《にお》いが押し寄せた。
薄暗《うすぐら》い。
〈アストラル〉事務所の外側に設けられた書庫だが、遮光《しゃこう》だけはしっかりしている。直射日光が本の大敵であるためだが、それだけでもない。陽光という概念《がいねん》が、どうしても魔術と相反するからだ。
だから、昼なのに、ランプを灯《とも》す。四方を埋《う》め尽《つ》くした古書の中から厳選した数冊を机に広げ、穂波は革張《かわば》りのノートと羽根ペンを手に取った。
「さ、やろか」
一声いれて、流れるように写しだす。
魔術書の|仰々《ぎょうぎょう》しい文字に対して、丸っこい少女文字だつたが、スピードは凄《すさ》まじかった。ページを開くたびに一瞥《いちべつ》するだけ。それだけで、ノートに的確なまとめが書かれていくのだ。しかも、単なる概要ではなく、自分なりの考察・|注釈《ちゅうしゃく》までもが添《そ》えられていた。
間違《まちが》った魔法円には訂正《ていせい》がされ、自分の流派と異なる呪文《じゅもん》には、その違いについでの論説が加えられた。もともとの書物の骨子《テーマ》には傷ひとつつけず、繊細《せんさい》に、かつ大胆《だいたん》にまったく新しい魔術書が織り上げられていく。
――つくられているのは、|『源  書』《オリジナル・グリモア》であった。
魔法とは、自分の中に世界《システム》を形成することにほかならない。他人の書いたものを吸収するだけでは、魔法使いとはなりえないのである。
ゆえに、魔法使いは、|自分だけ《オリジナル》の魔術書を持つ。
古き酒を自らの器《うつわ》へと汲《く》み、長い時間をかけで醸造《じょうぞう》させる――その行為《こうい》によって、はじめて魔法は魔法使いへと根づくのだ。
「…………」
その途中《とちゅう》で、ふと、穂波は人差し指を持ち上げた。
くすりと、目の端《はし》が和《やわ》らぐ。羽根ペンを持ったまま、その指先にくちづけて、
「いっちゃんやなあ……」
と、呟《つぶや》いた。
思い出したのは、いつも小動物みたいに怯《おび》えている少年の、真っ赤になった顔。
そして、もうひとつ。
羽根ペンは書写を再開しながら――もうひとつの記憶《きおく》が胸の中で明滅《めいめつ》した。
『お前の虚栄《きょえい》は――お前が|償え《つぐな》!』
アディリシアと共闘《きょうとう》したときの、いつきの姿。
『さあ……来い……』
歓喜《かんき》にも似て、震《ふる》える声。
普段《ふだん》のいっきからは考えがたい、しかし忘れることもできない変貌《へんぼう》だった。その変貌のどれもが、眼帯をむしりとり、妖精眼《グラム・サイト》を露《あら》わにしたときに起きていたのだ。
その眼帯を用意した人物こそが、〈アストラル〉の先代社長だった。
伊庭司。
伊庭いつきの、実の父親。魔法を使わない魔法使い。最後の|妖精博士。《フェアリィ・ドクター》
穂波にしても、直接会ったことは[#「会ったことは」に傍点]三度しかない。
(……いっちゃんは、もっと少ないんちゃうかな)
瞼《まぶた》を閉じれば、思い出す。
『――いっちゃん! いっちゃん! いっちゃん!』
泣き叫《さけ》ぶ、昔の自分。
〈幽霊屋敷《ゆうれいやしき》〉。追いかけられていたものから、助けてくれた少年。魔女になると決めた、あの日のこと……
――と。
「検査は終わったん?」
回想を打ち切り、穂波は入り口を振《ふ》り返った。
開け放たれた扉のそばで、困ったように頭を掻《か》いている影《かげ》は、猫屋敷のものだった。
「どない? あの目のこと、分かりそう?」
「あーいや全然|駄目《だめ》です。そもそも呪力の反応がまったくないんで、波長分析《スペクトルぶんせき》も何もできずじまい。あれだけの器具と劇薬使えば、ちょっとぐらい反応が出ると思ったんですけどね」
あっさり青年が首を振る。ちなみにこの場合、最も哀《あわ》れなのは、仮眠《かみん》室で両目を押さえて悶《もだ》えているいつきであろう。
その光景を想像して微苦笑《びくしょう》した穂波に、猫屋敷が問いかけた。
「――さっき、どうして知らないなんで言ったんです?」
「司社長のこと?」
「ええ。会ったこと、ありましたよね?」
首を傾《かし》げる。その除《かげ》で、白猫《しろねこ》の白虎が同じく首を傾げた。
「あるよ。そやけど、社長に言うことはあらへんもの。他人から受け身で聞いても、魔法使いのことなんで分からへん。社長が自分で調べて、自分で解釈《かいしゃく》して、それではじめて分かることやろ」
「なるほど。じゃあ、もうひとつ。手紙を渡《わた》すのを忘れてたってのは、本当ですか?」
「どういう意味?」
「――本当は、黙《だま》っていたかったんじゃないかと思いまして」
猫屋敷の言葉に、穂波が小さく息をついた。
「なんで?」
「〈協会〉と以前の〈アストラル〉――というか司さんとは、あまり仲が良かったわけじゃないですからね。きなくさくないと言えば嘘《うそ》になります」
実際、そうだったのだ。
〈協会〉という古色|蒼然《そうぜん》たる組織において、新しい魔術《まじゆつ》集団などおいそれと認められるものではない。ましてやそれが、〈アストラル〉のような魔術系統さえ統一されていない集団となれば、風当たりは必然的に強くなる。
敵対とは言わないまでも、両者の間にあった空気は険悪なものであった。
「そんな〈協会〉が、なんで司社長から物を預かっていたか? そりゃあ気になりますよ。――でも、穂波さんとしては、まだそんな事情と今の社長を遭《あ》わせたくなかったんじゃないですか?」
「遭わせたくなくても、向こうはこっちの都合なんかおかまいなしやん」
そっぽを向いて、穂波は唇《くちびる》を尖《とが》らせた。
「そりゃそーですが」
「どうせ分からへんのやったら、変に事前情報|吹《ふ》き込むより、でたとこまかせの方がましや。そういうこと」
「ははあ」
うなずいた猫屋敷が、扇子《せんす》で顎《あご》をつついた。
これもまた、わざわざ襟元《えりもと》の白虎までもが前肢《まえあし》を曲げで同じポーズをとる。猫屋敷の四|匹《ひき》の猫の中でも、白虎は一番の目立ちたがり屋で物真似《ものまね》好きなのである。
それから、
「あ。ところで、その本はどうなさるんです?」
「あたしの|『源  書』《オリジナル・グリモア》やけど?」
「いえ、ですけど――わざわざ二冊も写すことないでしょ?」
猫屋敷が扇子で差した方向を、あわでて穂波が背中で隠《かく》した。
ノートは、二冊あったのである。
「こ、こっちは丸写ししただけのやつ。後で呪物《じゅぶつ》商に売るんや」
「は? 呪物商に?」
少し赤くなって、穂波は言った。
「ま、魔法使いが直《じか》に書いた写本なら結構いい値になるし……うちの赤字もちょっとはマシになるやろ。……で、でないと、いっちゃんの教科書もそろえられへんし」
最後を、小声で付け足す。焦《あせ》ったせいか、昔の呼び方になったのも気が付いてない。
「ほほう、いっちゃんですか」
「――っ、猫屋敷さん!」
にやにや笑う猫又陰陽師《ねこまたおんみょうじ》に反撃《はんげき》するように顔をあげで――
突然《とつぜん》、穂波は目を見張った。
その|蒼水色の瞳《アイスブルーアイ》に、書庫の天窓と、その枠《わく》に潜《ひそ》む小さな影が映っていたのだ。
人ならざる――魔の影が!
「猫屋敷さん!」
その響《ひび》きだけで、青年も察した。
「――疾《チツ》っ――」
振《ふ》り返りざま、早九字《ド−マン》を切り、羽織から白い札を解き放つ。
たったひとつの天窓へ、その符《ふ》が弧《こ》を描《えが》いた。この場にいつきがいれば、符が空中に残す白い呪力の線を視《み》たかもしれない。
だが、
「QWJYAAAAAAAAAAAAA!」
その符は、影《かげ》が放つ鳴き声に打ち消された。ただちに魔術の反動が猫屋敷の腕《うで》へ切り傷となって走り、影はばさばさと天井《てんじよう》に羽ばたいた。
「――え?!」
「……今の……禍《まが》つ声は?」
腕を押さえる猫屋敷と、前に出た穂波が、ふたりして影を見上げた。
その頭上で、影は高らかに叫《さけ》んだ。
「我は警告する!」
それは、黒い鳩《はと》だった。
「我は警告する!――〈アストラル〉! 穂波・高瀬・アンブラー! 汝《なんじ》ら、〈協会〉には近寄るべからず! 伊庭司の遺産には――」
喉《のど》も裂《さ》けよと言わんばかりの、甲高《かんだか》い声。
人の魂《たましい》までも届けんとする激しい叫びだった。
その絶叫《ぜつきょう》とともに、鳩はぼおっと蒼《あお》い火を|嘴か《くちばし》ら噴《ふ》き出した。
たちまち火は黒鳩自身の身体《からだ》を包み、一塊《いっかい》の炎《ほのお》と化して、書庫の床《ゆか》へと落ちた。
「…………」
穂波がしゃがんで触《ふ》れでも、床には焦《こ》げ目ひとつ残っていなかった。ただ、一握《いちあく》の灰が散っているばかりだった。
「穂波さん、今のは 」
問いに、茫然《ぼうぜん》と少女がうなずいた。
「うん……。アディの……七十二の魔神《まじん》の一柱……シャックスや……」
見間違《みまちが》えるはずもない。つい二ヶ月ほど前には、〈夜〉の核《かく》を賭《か》けて争ったソロモンの魔神であった。
「じゃあ、アディリシアさんは……」
どちらも、続きを言葉にしなかった。
魔法使いの使い魔が――それも血の盟約で繋《つな》がれたアディリシアの魔神が自ら燃え上がるというのがどういうことか、ふたりとも嫌《いや》というほど分かっていたのである。
よくでも瀕死《ひんし》。悪ければ……
「伊庭司の遺産で、言うとったね」
ぽつり、と穂波がこぼした。
「穂波さん?」
「アディには悪いけと、行かないわけにはいかへん。意地でも確かめる」
顔をうつむけたまま、呟《つぶや》いた。
握《にぎ》り締《し》めた拳《こぶし》の内側で、黒鳩《シャックス》の名残《なごり》の灰が――くしゃりと鳴った。
入道雲が、夕映《ゆうば》えに霞《かす》んでいく。
熟せられたアスファルトも家々の屋根も、皆《みな》同じ色に染まり、時々、寝《ね》ぼすけな蝉《せみ》の声と風《ふう》鈴《りん》の音が路地を吹《ふ》き抜《ぬ》ける。
昼には耳障《みみざわ》りな蝉の声も、不思議とこの時間には柔《やわ》らかい。
そんな、七月も終わりの商店街。
「いったたたたたたた……」
眼帯を押さえたまま、いつきは帰路についていた。
あの後、左目の痛みはすぐに消えたのだけど、肝心《かんじん》の右目の激痛はいまだ断続的に続いていたのだ。
結局、いつもの社長業と魔術の勉強――初期型流動経済学から類感魔術の基礎《きそ》まで――を終えた後も完全には癒えず、「まあ明日には治ってますよ!」という猫屋敷のあてにならないアドバイスを受けて、事務所を後にしたものである。
「ううう、あの目薬も五回目だからちょっとは慣れたと思ったのになあ……」
呟いて、よろよろと夕焼けの道を歩く。おおよそ十六の若人《わこうど》とは思えない、疲弊《ひへい》しきった足取りだった。
いつきの自宅は、〈アストラル〉から電車で一駅ほど離《はな》れた住宅街にある。
アメリカに出張している叔父《おじ》の家だ。勇花を含《ふく》めた家族全員が向こうへ行っているため、いつきがひとりで留守を預かっている形である。
ほかの社員からは〈アストラル〉の事務所に住みついたら、とも勧められているが、そんなことになれば絶対に死ぬと全力で遠慮《えんりょ》――抵抗《ていこう》中だった。そういうわけで、今のところ、自宅は唯一《ゆいいつ》の安住の地なのである。
(……父さんからの、預かり物かあ)
ふと、思う。
父親のことは、ほとんど覚えでいない。
物心ついた頃《ころ》には叔父夫婦《ふうふ》に預けられていて、父と会うことはほとんどなかったためだ。だから、魔法使いの父なんで、いつきには想像もつかない。その父が自分にあてた預かり物とやらにも、まるで思い当たることがなかった。
(――どんな社長だったんだろ)
まがりなりにも一季節、自分もやっできた『仕事』。
名目だけとも、単なるなりゆきともいえるけど、それだけじゃないと、いつきは思う。
多分、好きなのだ。あの〈アストラル〉という会社が。文句は山ほどあっても、ひどい目に遭《あ》っても、あそこにいられることが心地《ここち》よかった。
だけど、それだけでいいのか。
いつきは、考える。
父は、どんな社長だったのだろう。
そして、自分は、どうあるべきなのだろう。
(アディリシアさんならどう言うんだろうな……)
あの、当然のように人の上に立つ、その権利も責任も意味も知っている高慢《こうまん》なお嬢様《じょうさま》なら、どんな風に答えるだろう。
――あるいは。
(穂波なら、どんな風に……)
「あいたたたたたたたたたたたっ」
また、右目に稲妻《いなずま》が走った。
「あわがぎゃばぐらびゃあああああああああああああああっ」
さんざっぱらのたうちまわって、ようやくいつきはよろよろと立ち上がった。
「ぜえっ、はあっ、ぜえ と、とりあえず家に帰ってから考えよう」
でないと、途中《とちゅう》で野垂れ死にしかねない。
ビニール袋《ぶくろ》の特上|水羊糞《みずようかん》を、大事に抱《かか》えなおす。閉店直前の水蜜堂《すいみつどう》で買った、自分へのご褒《ほう》美《び》である。せめて大量の宿題の前に、これとお茶ぐらいは許されると思う。
ほうほうのていで路地を曲がると、急に足が止まった。
「――え?」
きょとんと、声が漏《も》れた。
いつきの近道コースは、商店街の裏道を駆使《くし》した、ほぼ地元民と小学生ぐらいしか知らない直線ルートである。
ゴミ袋や空き缶《かん》が乱雑に打ち捨てられたその路地裏に。
少女が、うずくまっていた。
「――――っ!」
だけど、いつきが絶句したのはそのためではなかった。
少女の様子は、あまりにも不自然だった。東欧《とうおう》系かと思われる十二歳ほどの顔立ちではなく、吸い込まれそうに黒いツーピースや燃えるように赤い髪《かみ》でもなく、そんな少女が商店街の路地裏にうずくまっていることでさえなく、その全体のありざまが危《あや》うかった。
――たとえば、どうしようもなく白い肌《はだ》。
――たとえば、ぴくりとも動かない胸元《むなもと》と指先。
――たとえば、開いているくせにどこも見ていない、虚《うつ》ろな|瞳。《ひとみ》
つう、といつきの頬《ほお》を冷や汗《あせ》が伝う。血液という血液が凍結《とうけつ》し、逆流した。
(まさか……)
いつきは、思う。
ごくり、と唾《つば》を呑《の》む。
どうしようもない予感に心臓を掴《つか》まれながら、壁《かべ》に手を当て、ゆるりゆるりと近ついていく足裏から胃袋にかけて、嫌《いや》なものが流れ込んでいく感覚。なんでこんなに、と思うのに、身体《からだ》が勝手に拒絶《きょぜつ》反応を示す。
だって、それは。
その少女が、あまりにも、生きでいなくて。
「死ん、で……?」
そう。少女が、死んでいるのかと……
「…………?」
少女の顔が、ぎこちなく持ち上がった。
「わわあああああああああああああああああああああああああああああああああああっ」
飛び跳《は》ねたいづきが、その勢いで路地裏の壁に頭を打つ。たんこぶ間違《まちが》い無しの衝撃《しょうげき》で、抱えていた水草車の竹筒《たけづつ》がからからと地面に転がった。
「……び、び、びっくりしたああ」
涙目《なみだめ》になって、後頭部を押さえたまま、顔をあげる。
その前で、少女は白い首を傾《かし》げていた。
「あ、あの、キミ、大丈夫《だいじょうぶ》なの?」
「…………」
返事がなかった。
真っ赤な長い髪を、古風なツーピースの背中にさげ、左右|対称《たいしょう》に切りそろえている。あんまりに赤くて椅麗《きれい》な髪で、袖《そで》や襟元《えりもと》を彩《いろど》った繊細《せんさい》なフリルやレースと比べでも、まるで|遜色が《そんしょく》なかった。
布留郡《ふるべ》市はもともと異人の多い土地|柄《がら》だが、だとしでもこれほど整った――なんというか、フランス人形のような相手は、いつきも見るのは初めてだった。
(アディリシアさんも凄《すご》かったけど、あの人はものすごく生き生きしてたし……)
「あの……」
もう一度声をかけようとして、
「ラピスは大丈夫」
と、答えが返ってきた。
外国語だったらどうしようかと思ったが、幸い日本語だった。
胸を撫《な》で下ろして、いつきは相手の視線まで膝《ひざ》を曲げた。穂波の瞳《ひとみ》とはまた違う、鮮《あざ》やかに透《す》き通った碧眼《へきがん》。美しいガラス玉に似ている。
「あの、ラピスっていうのが、キミの名前?」
訊《き》くと、少女は膝を抱《かか》え込んだまま、相変わらずとつとつとした口調で言った。
「ラピスは待ってる」
「人を、待ってるの? こんなとこで?」
「…………」
「あの、本当にここで大丈夫なの? 間違えてない?」
「…………」
囲ったなあ、と思った。
本当に待ってるのかどうかは分からないけれど、こんなところに置いておくわけにもいかなかった。
かといって、勝手に引っ張っていくわけにもいかない。
困ったので、そのまま地面にしゃがみこんだ。少女――ラピスは何も言わずにずっと壁を見つめていた。
(日本と外国じゃ壁の色とか違うのかな)
能天気なことを考えつつ、ぼんやりといつきも壁を眺《なが》めた。
いつのまにか、右目の痛みも和《やわ》らいでいた。眼帯の下に、時折|疼《うず》きが走る程度のものである。
夏休みの宿題だとか、〈アストラル〉の宿題だとかいろいろ悩《なや》ましい問題もあったが、とりあえず放置することにした。
(夏休みだもんなあ)
と、思う。
蝉《せみ》の声が遠い。
どこかでカラガラと、店のシャッターの閉まる音が聞こえた。
かすかに、夕餉《ゆうげ》の匂《にお》い。ハンバーグだろうか、フライパンで肉の焼ける懐《なつ》かしい香《かお》り。
きゅううう……と可愛《かわい》い音が鳴った。
おなかの音だった。
「あ」
白分かと思ったが、発生源はすぐ隣《となり》であった。うつむくでもなく、恥ずかしがるでもなく、不動で壁を睨《にら》んでいる。
「おなか……すいてるの?」
「…………」
さっき拾い上げた特上|水羊羹《みずようかん》の竹筒を、ビニール袋《ふくろ》から出した。
「あのさ、これ……食べる?」
しばらく惜《お》しそうに特上と焼印の押された表面を触《さわ》ってから、思い切って差し出す。
「…………」
竹筒を受け取ったラピスが、不思議そうにくるくる手の平で回した。
食べ方か分からないようだった。
「えーと、筒の後ろの穴をぶっと吹《ふ》いて」
取り返して、目の前でやっで見せる。
「…………!」
黙《だま》ったまま、ものすごく驚《おどろ》いた顔をした。その顔のまま、もう一度竹筒を受け取って、はむり、と小さな口にはみでた水羊糞をくわえる。
「……!!!」
あ、今度は硬直《こうちょく》した。
「美味《おい》しい?」
「…………」
ぶんぶん首を振《ふ》ってうなずいた。
それまでが彫像《ちょうぞう》みたいだっただけに、落差が微笑《ほほえ》ましかった。さっきのがよほど面白《おもしろ》かったのか、はみでた水草車を食べでは、ぶっ、ぶつ、と少しずつ竹筒《たけづつ》を吹いていく。そのたび、ガラス玉のような臆が輝《かがや》いて――まあこれなら特上水羊糞も仕方ないか、という気持ちになるのだった。
ちょうど水羊糞を食べ終わったところで、ラピスが立ち上がった。
「来た」
「待ってた人? 送ったげようか?」
こくりとうなずいた後、送ったげようかという吉葉には、ふるふると首が横に振られた。
一歩踏《ふ》み出して、振り返り、
「ラピスまた来る」
「へ、ここに?」
間抜《まぬ》けな声が漏《も》れた。
「あ……えーと、それだったらこれあげる。住所書いてあるから、こっちにおいで」
あわでて、ポケットからケースを取り出し、一枚を渡《わた》す。
〈アストラル〉の名刺《めいし》だった。少し――いやかなり迷ったのだけど、ほかに渡せるものがなかったのである。
「うんっ」
水晶《すいしょう》の透《す》かしが入った名刺を握《にぎ》って、ラピスがとてとてと走っていった。
結局、迎《むか》えに来た人の姿は見えなかったけど、その後ろ姿がとでも嬉《うれ》しそうだったので、あれなら大丈夫《だいじょうぶ》だろうといつきは頬を掻《ほおか》いた。
(まあ……魔法使《まほうつか》い派遣《はけん》会社の名刺なんてうさんくさいの見たら、親も気をつけてくれるかもしれないし)
そう苦笑《くしょう》したときに、びり、と右目が痛んだ。
「……つっ」
眼帯を撫《な》でる。そのときにはもう痛みは消えている。
(今のが最後だったかな?)
そんな風に、のんびりと錯覚[#「錯覚」に傍点]した。
――だから、気が付かなかったのだった。
ひとしきり走って、ラピスはある病院に辿《たど》り着いていた。
すでに廃棄《はいき》された、小さな総合病院である。この十年ほど、布留部市のベッドタウン化に伴《ともな》い、いくつもの病院が軒《のき》を連ねたが、結局、その半分以上はより大規模な病院に駆逐《くちく》された後、取り壊《こわ》されることもなく、こうして無残な姿を晒《さら》している。
錆《さ》びた裏口から、ラピスば入つた。
リノリウムの廊下《ろうか》を渡り、こつこつと足音を響かせるうち、別の音が聞こえてきた。
カチ、カチ、カチ。
「――こっち」
その昔を聞いて、ラピスは〈薬剤室《やくざいしつ》〉と書かれた扉《とびら》を開けた。
独特の臭気《しゅうき》とともに、異様な光景が目に入った。
名前どおり、大量の薬壜《くすりびん》が置かれた棚《たな》のほか――壁《かべ》という壁、ばかりか天井《てんじょう》や、床《ゆか》に至るまでに――おびただしい数の時計が取り付けられていたのだ。
種類も、大きさも一定でばない。
骨董《こっとう》品と思《おぼ》しいからくり時計もあれば、ごく新しい掛《か》け時計もある。
だが、見るものが見れば、そのすべてがぜんまい式であり、かつある種の規則に則《のっと》っていることを看破できたかもしれない。
カチ、カチ、カチ。
カチ、カチ、カチ。
カチ、カチ、カチ。
カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ。
「……あにさま、あにさま?」
魔術とは、実のところ規則の集合体である。そのルールに従って配置し、呪力《じゅりょく》を通せば、ただの時計でさえ魔術の媒体《ばいたい》となりうる。
たとえば、あらかじめ決めた人間をのぞき、ほかの誰《だれ》も近づけない結界をつくるような――
「――一分十七秒|遅《おく》れたな」
時計たちのただ中で、重い声が響《ひび》いた。
ラピスの顔がぱあっと輝いた。
「ユーダイクスあにさま!」
薬剤室の奥で、男はあの白銀の懐中《かいちゅう》時計を持って、座っていた。
彫《ほ》りの深い顔立ち。窓からの残照に踊《おど》る、ラピスと同じ色の赤髪《せきはつ》。二メートル近い巨躯《きょく》は座っていても圧倒《あっとう》的で、純白のインバネスが王の纏《まと》うガウンのようにも思われた。
「……明日からは〈協会〉での直接|交渉《こうしょう》になるゆえ、いささか下準備をしていた。――私の帰《き》還《かん》には気がついたろう。なぜ遅れた?」
「あ ラピス、人に会って」
「…………」
ラピスの弁明を、男はろくに聞かなかった。少女の言葉に、何ら関心などないようでもあった。
冷たい眼差《まなざ》しで、すっと少女の腰《こし》のあたりを見やる。
「何か、持っているな? かすかだが、結界と呪波|干渉を《かんしょう》起こしている。新しい呪物《フェティシュ》でもつくったのか?」
「あ」
示唆《しさ》されで、黒いツーピースのポケットを少女が押さえた。
「ラピス……もらった」
「誰に?」
「これ」
少し躊躇《ちゅうちょ》した後、名刺《めいし》を差し出す。
受け取ったユーダイクスが、かすかに眉《まゆ》を寄せた。
水晶《すいしょう》の透《す》かしが入った名刺には、こう書いてあったのだ。
〈魔法使い派遣会社・アストラル
――あなたのご要望にあった魔法使い、お貸しします〉
コピーの横に住所と、取締役《とりしまりやく》社長・伊庭いつきという箔押《はくお》しの名前。
「あにさま?」
ラピスが困惑《こんわく》の声をあげる。
男は、ぶるぶる[#「ぶるぶる」に傍点]と身体《からだ》を痙攣《けいれん》させていた。
自分の肩《かた》を押さえ、痙攣したままうずヾまる。――何かの発作《ほっさ》でも起こしたかのようだったが、すぐその誤解は解けた。
「……くくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくく」
と。
「――あっはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははほほほほははははははははははははははははは!!!!!!!」
と、実に愉快《ゆかい》そうに、ユーダイクスは哄笑《こうしょう》したのである。
「くっくはははははははは、そうか!〈アストラル〉か! 伊庭いつきか! よりにもよっで、お前が先んじて伊庭いつきに出会ったか! これはまあ因果というかなんというか。我らの身に偶然《ぐうぜん》などという言葉はないにせよ、ああ、ああ、まったくもって欠片《かけら》も微塵《みじん》も存在せぬにせよ、これはいささか皮肉すぎてはいないかね」
ようやく笑い終えた後、目を大きく開いたラピスへ笑いかけた。
「ああ、なんでもない。これは返しておこう」
萎縮《いしゅく》したラピスに名刺を押しつけで、ユーダイクスは立ち上がった。そして、懐中時計をぱちりと閉じ、これは『妹』に聞こえぬよう、静かに呟《つぶや》いた。
「伊庭いつき、か。なるほど、あの子供はそんな風に成長していたのだな――」
そのとき。
ガラーンガラーン、と。
時計たちが、時報を吼《ほ》えたでた。すべてというわけではなく、おそらく時計たちの半分ほどであったろうが、それはまるで災厄《さいやく》の訪《おとず》れを告げるように、けたたましい地獄《じごく》の銅鑼《どら》のように廃院《はいいん》を揺《ゆ》るがしたのだった。
そして、ユーダイクスは|唇《くちびる》を歪《ゆが》め、インバネスを打ち振った。
「さて開幕だ。開演だ。我らを迎《むか》える準備はいいか? 我が師よ。我が故郷[#「我が故郷」に傍点]――〈アストラル[#「アストラル」に傍点]〉よ[#「よ」に傍点]
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第2章 魔法使いと空飛ぶ船
「――すっごいすっごい! 格好《かっこう》いい! お兄ちゃん社長、映画の人かなんかみたい!」
「いつきくんて、そんな服似合うんだ……」
ちっちゃな手を叩《たた》いて、みかんがぴょんぴょん飛び跳《は》ねた。その隣《となり》で、幽霊《ゆうれい》の黒羽が軽く瞬《まぱた》きしで類《ほお》を染める。
翌朝の、〈アストラル〉事務所。
魔《ま》よけの香炉《こうろ》が置かれた窓から、斜《なな》めに朝日が差し込んでいる。昨日から放置されっばなしの検査機が不満そうにその光を浴びていた。
そして、検査機の隣では、新しいスーツを着せられたいつきが、ロボットよろしくかしこまっていたのだ。
「え、映画の人……? ていうかこれ、すっごく動きにくいんだけど……」
「それぐらいは我慢《がまん》してくださいな。〈協会〉へ直接|契約《けいやく》に行くんですから、いつものスーツってわけにはいかないでしょう?」
「「「「にゃ〜にゃ〜にゃあ〜」」」」
猫屋敷の返答に、四|匹《ひき》の猫《ねこ》たちまでが同意する。
が、いつきの抗弁《こうべん》もむべなるかな。
数ある紳士《しんし》服の中でも、肩《かた》まわり、腰《こし》しぼりのキツさでは定評のあるジャーマン・コンチネンタルなのだ。軍服にも似た、直線的・鋭角《えいかく》的なデザイン。人間こそが服に合わせろというドイツ主義の真骨頂。オーダーメイドによる逸品《いっぴん》を、年齢《ねんれい》も貫禄《かんろく》も足りない若人《わこうど》に着せようというのだから土台無理がある。
それでも、見かけの滑稽《こっけい》さや不自然さは出ないあたり、もはや服に着られているのを飛び越《こ》えて、服に乗っ取られているというべきか。
「司社長のお古なんですけどね。とりあえず基本サイズは合ってるみたいで良かったですよ、あっはっは」
「基本以外、全部外れてますよ、これ!」
必死の訴《うった》えも、実にあっさりと無視された。
「……………………………………………………………………はぁ」
ため息をついて、いつきはネクタイを締《し》めた。この数ヶ月、会社に来るたび着替《きが》えているせいで、ネクタイの締め方だけはなんとか覚えている。
(……社長っぽいことは何にもしてないけどなあ)
そう考えたところで、玄関《げんかん》の扉が《とびら》開いた。
「どない? そっちは準備できたん?」
「あ……穂波?」
「ふうん」
と、穂波の瞳《ひとみ》が、いつきの頭から足元までをねめつけて、
「悪くないみたいやね。でもネクタイの結びはそれやとおかしいよ。今回はウィンザーノットやっで言うたやろ」
すっと手が伸《の》びた。
しなやかな指が喉元《のどもと》に触《ふ》れる。いい匂《にお》いが鼻孔《びこう》をかすめ――どぎまぎしながら、いつきはしゅっしゅっとネクタイを直された。
「……で、なんで穂波はセーラー服なわけっ?」
「学生の正装が制服なんは当たり前やろ。社長は別やけど」
すげなく切り返して、つんと上を向く穂波である。
「それと、これ持っといて」
「――ん、手帳?」
重厚《じゅうこう》な黒革《くろかわ》の手帳を突《つ》きつけられて、いつきが眉《まゆ》をひそめた。
「気いつけてね。前の半分は普通《ふつう》の手帳やけど、後ろ半分は呪符《じゅふ》になってる。おいおい使い方を教えていくけど、すぐできそうなんば裏にメモしてあるから、読んどいて」
べらべらめくると、その言葉どおり、いくつもの紋様《もんよう》が手帳の後半に描《えが》かれていた。そういえば穂波に習ったような……という程度だが、かろうじて陰陽道《おんみょうどう》の札だとかルーン文字だとかの区別はつく。
呪波|干渉《かんしょう》を起こさぬよう簡略化してはあったが、それらは素人《しろうと》でも扱《あつか》える簡易魔術の呪物《フェティシュ》だったのだ。
こくり、と唾《つば》を飲みこむ。
「――あの、穂波、なんかまずいことあった? それとも〈協会〉の支部って怖《こわ》いとこなの?」
小さく、穂波の耳元で囁《ささや》いた。
「どうして?」
「だって、前にこういうのくれたのも、いろいろまずいときだったでしょ」
社長になった後、最初の大きな事件の夜、同じように名刺《めいし》と社章を貰《もら》ったのだ。それぞれスーツの胸ポケットと襟《えり》にあり、昨日ラピスに渡《わた》したのもそのうちの一枚である。穂波の説明によれば、それぞれが〈アストラル〉の業務に合わせた呪物《フェティシュ》であるということだが、いつきは詳《くわ》しくは知らない。
それでも、分かることはある。
これは、非常用の装備だ。いざというときのために備えた、〈アストラル〉ならではのツールだった。
(あ…そういえば……ホントばあの名刺も気軽にあげちゃいけないとか言われてたっけ)
「ん、何? 冷や汗《あせ》が出てるけどどないしたん?」
「あ、いや、その、何でもないです」
「……ふうん?」
あわあわするいつきに顔をちかづけて、穂波がくすりと微笑《びしょう》する。
「まあ、ええけど?――後、〈協会〉については着いたら分かるんやから、説明せんでもええやろ」
「んな無茶な――」
「だって、もう来たみたいやし」
「え? 来た?」
その言葉の意味を、一瞬《いっしゅん》、いつきははかりかねた。
悪戯《いたずら》っばい笑《え》みを含《ふく》んで、穂波がすっと人差し指を天井《てんじょう》へと向ける。
「わーっ!〈協会〉が来たよ、穂波お姉ちゃんーっ!」
ほぼ同時、窓から外を見上げたみかんが、歓声《かんせい》をあげた。
その天空から、ごぅんごぅん[#「ごぅんごぅん」に傍点]、と重くて低い、不吉《ふきつ》な音が響《ひび》いた。
――そして今。
空が青かった。
太陽が近く、ぎらぎらと輝《かがや》いている。普段見ているそれとは、同じでありながら、まるで別物のようだった。
「あ、あの……」
真っ青な顔で、いつきが口をぱくぱくさせている。
「どうかなさいましたか? 伊庭いつきさま」
紫檀《したん》の机を挟《はさ》んで、応対に出てくれた〈協会〉の秘書が首を傾《かし》げた。
その背後で、布留部市の市街が雲に霞《かす》んでいた。市のシンボルであるクリスタル・タワーがミニチュアのように縮み、その下では豆粒《まめつぶ》みたいな自動車の列が行き来している。つい十五分前までいた〈アストラル〉の事務所なんで、もうビル街に埋《う》もれて見えなくなってしまっていた。
そう。
ふたりは、布留郡市上空――地上二千メートルを渡る飛行船に乗っているのである。
「ご気分が優《すぐ》れないのでしたら、乗り物酔《よ》いの薬もございますが」
「い、いや、大丈夫《だいじょうぶ》です」
「無理せんときや。肝心《かんじん》の話になったときに倒《たお》れたらあかんやろ」
いつきの隣《となり》で、紅茶を飲みながら、穂波が口を挟んだ。
こちらは、いつも通りにすましたものである。むしろ、〈アストラル〉以上に馴染《なじ》んでいる気さえする。
「んなこと言ったって……」
いつきは、もう一度窓を覗《のぞ》いて、上目遣《うわめづか》いに船体を眺《なが》めた。
巨大《きょだい》な気嚢《きのう》のごく一部だけが垣間見《かいまみ》える。全長百メートル、横幅《よこはば》二十五メートルというその白い気嚢に、いつきたちの乗るコントラが吊《つ》り下がっている。
信じがたいことには、この飛行船自体が、〈協会〉の支部のひとつだというのだ。
事務所でのやりとりの後、近くの空き地へ下ろされたリフトに半ば無理やり乗せられて、いつきと穂波は飛行船の乗客となったのだった。
秘書が部屋から出て行った後、
「てっきり……電車か何かで行くのかと思ってたけど」
「布留郡市みたいに小さな街に、いちいち〈協会〉の支部があるわけあらへんやろ。それでなくても、魔法使《まほうつか》いは縄張《なわば》りにうるさいんやから。地脈や霊脈は《れいみやく》いつも奪《うば》い合いやし、そやかて離《はな》れすぎてると細かい事情が分からへん。古くて大きな支部ほど、お役所仕事になる理屈《りくつ》やね」
そういえば、それでアディリシアはたらいまわしにされたのだった。
「特に、日本は国土が小さいくせに人口密集が激しいやろ。〈協会〉が極東地域へ根を張り始めたんはこの五十年くらいのことやから、そのときにはほとんどの場所はほかの魔術集団におさえられとったわけ。結果として、こういう代案が採用されたんや」
「でも、空なんて飛んでたら、法律とか問題ないの?」
「この飛行船は、国に正式登録されてるもん。八神《やがみ》コーポレーションって知ってる?」
「あ……」
その名前は、いつきでも知っている。というか、毎日の新聞とテレビと――穂波の社長業の授業でお馴染みだった。
エネルギーと情報を支配する、世界でも五指に入るコングロマリット。あるいは日本産業の最後の巨人《きょじん》と言い習わすものもいる。全世界百二十二ヶ国に系列会社と支社を持ち、数百の関連、無関連|企業《きぎょう》を傘下《さんか》におさめる、〈アストラル〉とは比較《ひかく》にもならない超《ちょう》巨大企業グループの雄。
その名前をあげて、穂波はこう口にした。
「それ、〈協会〉が使ってる名前のひとつ」
「ヘ?」
間抜《まぬ》けな声をあげた数秒後、いつきはもっと重要な事実に気がついた。
「――ひとつぅっ?!」
「魔術集団いうたかで、表向きの名前も必要やからね。魔術には金がかかるし、誰《だれ》かが馬鹿《ばか》やったときの情報工作や呪波汚染《じゅはおせん》からの隔離《かくり》にも権力がいる。そういう理由で、長年の問に〈協会〉は表の財界とも結びついていったわけ。――そんな不思議がらんでもええやろ? どこぞの大国の大統領やって直属の占《うらな》い師を雇《やと》ってるんやから。現役《げんえき》の魔法使いがその能力を利用したらあかんで法もない」
「……占い師って……自分のことは占えないって……言わない?」
「魔法使いは、もともと自分のためにだけ魔法を使うもんや。その魔法自体が真理に近づくための手段にすぎへんとしてもね」
「じゃ……じゃあ……〈アストラル〉は?」
「うちにはそんなコネあらへんやろ」
至極《しごく》簡潔に切り落とした穂波である。
紅茶の湯気に蒼《あお》い目を細め、薄《うす》く笑って話を続ける。
「たとえば、この飛行船やってそうや。カモフラージュはしてるけど、軽量化から風素《アネモス》による気流|制御《せいぎょ》、浮揚《ふよう》ガスの精製に至るまで、現代技術と魔術とのハイブリッドだらけ。もちろん大量生産はできへんし、採算が取れるもんやないけど、ピンポイントで使えば十二分に有効や」
以前、猫屋敷に適のことを言われたことがある。
現代では、魔法使いなんて必要ない。空を飛ぶには飛行機があればいいし、使い魔が欲しいならアイボでも買えばいい。結局のところ、魔法は現代技術に及《およ》ばないと。
だが、ここにあるのはその融合《ゆうごう》形であった。
それは、〈協会〉と猫屋敷のスタンスの違《ちが》いなのか。それとも、資金とか規模だとかもっと別の理由なのだろうか。
「……………………………………………………………………は!」
驚《おどろ》きと思考が臨界点を超《こ》えて、いつきはソファに沈《しず》み込んだ。
「知恵《ちえ》熱でも出た? いっちゃん」
「……ちょっと」
仰向《あおむ》けた額に、ひやっとした手がおかれる。
「はわっ?」
「じっとしとき」
優《やさ》しい声が、いつきの反応を止めた。
さっきとは違う微笑《びしょう》を瞳《ひとみ》に宿し、穂波が少年を見つめていた。なんだか、とても懐《なつ》かしいような微笑。
かあっと耳が熱くなるのを感じながら、
(……あれ、今、穂波、なんて言ったっけ?)
ふと、思う。
すると、また別のことが口をついて出た。
「あの、さ」
「何?」
「前にも訊《き》いたような気がするけど――穂波ってどうして〈|アス《う》ト|ラ《ち》ル〉に来たの?」
「え?」
急に、穂波が硬直《こうちょく》した。
「いや、だって穂波って、イギリスの学院じゃトップで、ほかの魔術《まじゅつ》集団からも引く手あまただったんでしょ? みかんや猫屋敷さんみたいに元から〈アストラル〉にいたわけじゃないし、黒羽さんみたいにほかに行き場所がなかったわけでもないし。てっきりどの魔術集団でもそんなに差がないのかなって思ってたけと、ここ見てると、全然そうじゃないから」
「…………」
「だから、どうしてうちを選んだのかなって……」
「…………」
「……穂波?」
いつきが、驚いて訊く。
――それは。
この数ヶ月、ずっとつきっきりで授業を受けているいつきにしても、初めて見る表情だった。
少年の額に手を置いたまま、かちんかちんに頬《ほお》をこわばらせ、セミショートの下では首筋までも赤くなっていた。
まるで、魔女なんかじゃなくて。
どこにでもいるような――たまさかそれだけ忘れた宿題を指摘《してき》された女子生徒のような――思いがけない不意打ちをくらった優等生のような――そんな顔。
「な、なんか……僕悪いこと言った?」
「も、ちゃう。そういうんちゃう」
穂波が、かぶりを振る。セミショートの下に顔が隠《かく》れた。
しばらくして意を決したように、少女がきゅっと赤い唇《くちびる》を引き結んだ。
「いっちゃん……ほんまに思い出さヘム?」
「思い……出す?」
「あたしは……」
言いかけたときだった。
客室の――扉が《とびら》開いた。
「え?」
「あ」
「――いつき」
さきほどの秘書かと思われたがさにあらず、扉の側《そば》には、古風なツーピースを身に纏《まと》った異国の少女が佇ん《たたず》でいたのである。
「ふぇ? ラピスちゃんっ?」
いつきが、少女の名前を呼んだ。
すると、
「いつき、ラピス来たぞ」
たちまちその少女が駆《か》け寄って、いつきの手を握《にぎ》り締《し》め――嬉《うれ》しそうに頬擦《ほおず》りまでしたのである。
「わっ」
「……その子、社長の知り合いなん?」
問うた穂波の声は、すでにいつもの調子――どころか、ぞくりとする妖気《ようき》まで標《ただよ》わせている。
「あ、あ、うん。この前、帰りに会った子なんだけれども……」
「……ふーん」
|蒼水色の瞳《アイスブルー・アイ》が凍《こお》る。たちまち氷点下。バナナで釘《くぎ》が打てそうな絶対零度《れいど》の地獄《じごく》。
いつきを存分に凍りつかせた後、
「で、その子がここにいるわけを説明してもらえる?」
もう二度、扉に穂波が向いた。
今度こそ、そこには、〈協会〉の秘書が戻《もど》ってきていた。
「はい。……こちらが伊庭司さまよりお預かりしていたケースなのですが、その前に、伊庭いつきさまの遺産相続手続きへ別方面からの抗議《こうぎ》が入りまして」
銀のアタッシェケースを机に置き、申し訳なさそうに頭を下げる。
「抗議?」
「――どういうこと?」
穂波の眉《まゆ》が寄った。
「ええ、それが……」
ためらいの問があった。
その後、秘書はすっとラピスを指した。
「簡潔に申しますと、こちらの魔術集団の首領が、『伊庭いつきには〈アストラル〉の社長の資格がない』とおっしゃられているのです」
「猫屋敷さん、いつきくんは……」
黒羽が、心配そうに半透明の顔[#「半透明の顔」に傍点]をしかめた。その爪先《つまさき》が、数十センチほど床《ゆか》から浮遊《ふゆう》し、〈アス卜ラル〉事務所の窓から飛行船の去った方向を見つめている。
「大丈夫《だいじょうぶ》ですよ。穂波さんも一緒《いっしょ》ですし」
対して、自分のデスクに腰《こし》かけ、のんびりと猫《ねこ》たちをあやす猫屋敷である。
「でも、〈協会〉って、七月に会ったあの人とかのことですよね……?」
「影崎さんですか」
困った風に、猫屋敷は苦笑《くしょう》した。
「あの人なら、飛行船には乗ってないはずですよ。特定の支部には属してませんからね。どっちかというと、〈協会〉でも特殊《とくしゅ》なタイプの人ですし」
「……そう、なんですか」
それを聞いて、やっと安心したように少女は胸を撫《な》で下ろした。
(まあ、最初に会ったのが影崎さんだと仕方ないですかね)
左手では玄武《げんぶ》と白虎の喉《のど》をくすぐりつつ、残る右手では今夜が締め切りのオカルト誌の原稿を仕上げながら、猫又陰陽師《ねこまたおんみょうじ》は新入社員を見返した。
名前どおりのうややかな黒い髪《かみ》と、シンプルな赤いバレッタ。
どこかしら子猫を思わせる、大きな瞳。
そして、少女の霊《エーテル》体は、窓越《ご》しの陽光を綺麗《きれい》に透《す》かしていた。
――黒羽まなみ。
以前の事件で、いつきが〈アストラル〉へ勧誘《かんゆう》した幽霊《ゆうれい》の少女だった。
病院で、ひとりばっちで過ごしていた少女である。
本当の幽霊は、そこらの霊能者《れいのうしゃ》程度には感じることもできない。魔法使《まほうつか》い以外には視《み》ることも話すこともかなわない少女は――誰《だれ》にも振《ふ》り返られず、ずっとひとりで時間を削《けず》ってきたのである。
だから、彼女は孤独《こどく》を知っている。
ひとりばっちというのが、どれだけ辛《つら》く、どれだけ重いかを身にしみて知っている。
それを考えれば、少女が第一の友人であるいつきの安否を案じるのは当然なのだけれど――猫屋敷は別の可能性にこっそり微笑した。
(……うちの若社長も、ずいぶん苦労しそうですねえ)
――と、
「ね、猫屋敷さんっ」
そこに、玄関《げんかん》から幼い悲鳴があがった。
「ほえ? みかんさん?」
「ね、ね、ね……猫屋敷さん〜っ!」
今にも泣き出しそうな顔で、正面から巫女《みこ》服のみかんが飛びついたのだ。羽織の腹部に頭から激突《げきとつ》され、ぐええっと猫屋敷が呻《うめ》く。
「な、何があり――?」
目を白黒させながら訊《き》こうとして――猫屋敷は、呼吸を止めた。同時に、身体《からだ》にまとわりついた猫たちもびくりと毛を逆立てた。
「…………」
みかんの頭を撫で、背中に隠《かく》したまま、立ち上がる。
〈アストラル〉事務所の開いた玄関。
眩《まぶ》しいほどの夏の陽光の中に、ぽっかりと、不吉《ふきつ》な人影《ひとかげ》が浮《う》かび上がっていたのである。
「……影崎さん」
「これはどうも。先の蔵名《くらな》神社での一件以来ですな」
影崎は、教本のように、ぴたり六十度腰を折り曲げた。
だが、そうしても、この男らしさというものは見出《みいだ》せなかった。
おおよそ二十代前半から四十代後半まで、いくつといっても通りそうな容貌《ようぼう》。中肉中背の身体とありふれた背広。目の大きさも、眉《まゆ》の太さも、鼻の高さも、すべてが平均的すぎて、逆に整った印象すら受ける。
まるで、ありとあらゆる特徴《とくちょう》を剥離《はくり》したかのようた――悪魔にも似た異貌。
「何のご用です? 社長でしたら、もう〈協会〉ヘ出頭しましたが」
かぶりを振って、猫屋敷は訊いた。
冷ややかな眼差《まなざ》し。それを前にしても、影崎はうわべだけの笑《え》みを崩《くず》さない。
この、異常なまでに平凡な男は、業界では別の名前で呼ばれている。
禁忌《きんき》を犯《おか》した魔法使いを裁く、〈協会〉の断罪者。
――いわく、魔法使いを罰《ばっ》する魔法使い。
と。
「知ってますよ。それに、今日は〈協会〉の構成員として来たわけじゃありませんから」
「じゃあ、どういう用件で来られたんです?」
ひとつ問をおいて、影崎が薄《うす》く笑った。
「実は昨日、〈アストラル〉の相続に異議申し立てがありまして。!伊庭いつきは〈アストラル〉の社長としての要件を満たしていないと」
「……はっ?」
瞬間《しゅんかん》、
「それっ、どういうこと!」
ふたりが一斉《いっせい》に振り向く。
叫《さけ》んだのは、いままで背中で震《ふる》えていたみかんだった。
猫屋敷の羽織の裾《すそ》をつかんでいたけれど、その手はこわばっていたけれど、みかんは一生|懸《けん》命《めい》に背伸《せの》びして、影崎に詰《つ》め寄っていた。
「お兄ちゃん社長が社長じゃないって! そんなわけないじゃない! なんでそんなこと言ってるのっ?」
「おやこれは。 葛城の姫様《ひめさま》」
影崎が唇《くちびる》を歪《ゆが》めた。表情だけ見れば笑っているようなのに、やはりその瞳《ひとみ》には欠片《かけら》も感情が浮かんでなかった。
「一応申し開きをしておきますと、〈協会〉は申し立てを受けただけですよ。結論が出たわけじゃありません」
「その申し立てをしたのはどなたです?」
猫屋敷が問うた。
対して、影崎はもったいぶるでもなく答えた。
「トロイデの錬金術師《れんきんじゅっし》」
「…………っ」
硬直《こうちょく》した猫《ねこ》まみれの陰陽師《おんみょうじ》を前に、くすくすと影崎が笑む。
「ええ、あの人ですよ。伊庭司に最も近しい――伊庭司に最も心酔《しんすい》していた人。いや、あそこまでいくと執念《しゅうねん》か執着、いやいや盲信《もうしん》か狂信《きょうしん》と言ったほうが正しいですか。魔法使《まほうつか》いは多かれ少なかれ、自分の信念に殉《じゅん》ずるものですが、あの人は伊庭司が死ねと言えば、秒瞬を待たずに自分の喉《のど》をついたでしょうね」
芝居《しばい》がかった台詞《せりふ》なのに、口調には一切《いっさい》感情がこもってなかった。
しかし、誰《だれ》もが耳を貸さずにいられぬ、ねっとりとした吸引力があった。
「――ちよ、ちょっと待ってください。さっきから全然話が分からないんですけれど。伊庭司さんって、いつきくんのお父さんのことですよね? そのお父さんに憧《あこが》れていた入って、一体誰のことなんですか?」
猫屋敷の頭上から、黒羽が身を乗り出した。くりくりした瞳をきりりと寄せて、浮遊《ふゆう》した高みから覗《のぞ》きこむ。
影崎は、ああとうなずいた。
「あなたは〈アストラル〉に入ったばかりですからね。それは分からないでしょう」
そして、こう言ったのだった。
「ユーダイクス・トロイデ――〈アストラル〉の創設メンバーにして、元取締役《とりしまりやく》。つまり、あなたの元上司にあたる方ですよ」
「父さんの……!右腕《みぎうで》?」
茫然《ぼうぜん》と・いつきが漏《も》らした。
〈協会〉の秘書はゆるりとうなずき、銀色のアタッシェケースへ指を滑《すべ》らせる。
「はい。〈アストラル〉の創設時、ユーダイクス・トロイデ氏は伊庭司氏に続く取締役として、経営権の二割を委譲《いじょう》されています。最近まで連絡《れんらく》がどれでいなかったのですが、先週になって、こちらのラピスさんを通じて異議申し立てをされました。そのため、現状ではこのアタッシェケースの中身を引き渡《わた》せません」
「…………!」
いつきと、穂波と――ふたりの視線か、ラピスという少女に集中した。
あどけない、黒いツーピースの少女。みかんより数歳年上という程度だろう。いつきの手を握《にぎ》ったまま、不思議そうに首を傾《かし》げている。
その少女から、もう一度〈協会〉の秘書へと視線を戻《もど》し、
「――どういうことなん?」
穂波が、静かに繰り返した。
けして度を越《こ》してはいない。
だが、その言葉は火を噴《ふ》くようだった。
蒼《あお》く揺《ゆ》れる、激しい炎。《ほのお》若き魔女の瞳が、厳しく〈協会〉の秘書を見据《みす》えた。
「理屈《りくつ》は分かる。経営権の一部を持ってるんやから口出しぐらいできるやろ。でも決定権まではないはずや。それに、前社長――伊庭司の経営権が宙に浮《う》いたとき、後継者《こうけいしゃ》は血縁《けつえん》を優先してくれ言うたのは、〈協会〉 の方ちゃうん?」
「ほ、穂波?」
慌《あわ》てていつきが押さえようとしたが、穂波はきっと手を振《ふ》った。
「社長は黙《だま》って聞いてて。なんばなんでも、こんなん許されへん」
(やって、そんなん、あんまりいっちゃんを馬鹿《ばか》にしてる)
赤い唇を噛《か》む。
その様子に、かすかにたじろぎつつも、秘書はぼそぼそと答えた。
「〈協会《こちら》〉としましても前例のないことですので……」
「じゃあ、そのユーダイクスは、会ってもない社長の何に文句がある言うん。それも言わんと社長の資格だけあげつらうんって、どないいうこと!」
紫檀《したん》の机を、白い手が叩《たた》いた。アタッシェケースと、机に置かれたティーセットか大きく揺れて、危《あや》うくひっくり返りそうになる。
しばし沈黙《ちんもく》がコンドラを支配し――
「いつき」
きゅ、どいつきの袖《そで》を誰かが引っ張った。
「へ、ラピスちゃん?」
「ラピス、あにさまの言葉持ってきた」
「え、どういうこと?」
「よく聞いて」
少女の瞼《まぶた》が閉じる。
もともと感情の色の薄《うす》かった顔から、ありとあらゆる表情が失われた。息を呑《の》むほどに――まるで人形そのものに変わったように滑《なめ》らかな肌《はだ》が透《す》き通り、そのまま、ことんと隣《となり》のソファにくずれおちる。
「ラピスちゃんっ?」
次の瞬間、《しゅんかん》
「聞こえるか?」
と、まったく違《ちが》う男の声が、そのあどけない唇《くちびる》からこぼれたのだ。
「な……」
「ふむ、時間どおりだな。正確に精密に物事が流れることは、それだけでひとつの価値だ。まして魔法使《まはうつか》い同士の時間であれば、一秒は黄金の林檎《りんご》にも勝《まさ》ろう」
「まさか……人間を、|使い魔《アガシオン》にしてるん?」
ぞっとした顔で、穂波が漏らした。
やがて、ラピスの双降《そうぼう》は、別人の威厳《いげん》をもって開き、愉《たの》しげにいつきと穂波とを見上げた。
「はじめまして――と言っておこう。私がユーダイクス・トロイデだ。〈アストラル〉の伊庭いつきに、穂波・高瀬・アンブラーだな」
いつきは、愕然《がくぜん》と息を呑み、眼帯を押さえた。
じりじりと、右目の眼底から焼けつくような痛みが広がってくる。
その痛みこそが、呪力《じゅりょく》の視覚化であった。少女――ラピスの身体《からだ》から一本の糸《パス》が伸《の》びて、彼《かな》方《た》へと繋《つな》がっている。糸《パス》を通じて流れる膨大《ぼうだい》な呪力に、いつきの右目が悲鳴をあげているのだ。
(この人は……)
「昨日は、ラピスが世話になったようだな」
突然《とつぜん》、男の声がそう促《うなが》した。
「あ、あ、あ」
「どうした? 兄として礼を言っているだけだ。かしこまる必要もない」
ラピスの身体で言われると違和感《いわかん》があったが、これはうなずかざるを得ない。
「は、はい……」
いつきは口寵《くちご》もる。
兄、とユーダイクスは言った。
とすれば、自分の妹に対して、この男は糸《パス》を繋いでいることになる。
それがどういう意味かぐらいは、いつきにも分かる。
|使い魔《アガシオン》。
魔女においでは黒猫《ファミリア》。陰陽師《おんみょうじ》ならば武神。――あるいは、アディリシアの扱う《あつか》〈七十二の魔神〉。
そういう契約《けいやく》を、ユーダイクスとラピスがしているということだ。
(…………)
唾《つば》を飲み込んだ。
魔法使いに真っ当な神経などありえないとしても、そんなものは欠片《かけら》も存在しないとしでも――これは、ひどく異様な、異質な兄妹《きょうだい》関係といえた。
「ふん」
くすり、とラピスであるユーダイクスは笑う。
「おおよその話は、ラピスの記憶《さおく》から汲《く》みだしている。今、話題になっているのは、私が〈アストラル〉の後継者《こうけいしゃ》について異議申し立てをしたことだろう?」
男の声に、穂波が反応した。
「そやね。――どういうこと?」
「私が、ツカサ・イバに『続いて』 いるものだからだ」
至極《しごく》当然に、男の声は言ってのけた。
「続いて、いる?」
「当然だろう? 魔法使いは、すなわち、はじまりの異形をずっと『続ける』ためだけに存在しているものなのだから」
座ったまま、いつきの問いにラピス=ユーダイクスが答える。
「魔法使いとは、結局、血の積み重ねだ。個人の意思など関係なく、努力や才能など程遠《ほどとお》く、いかにその血が魔に近いか、それだけを競うために生まれた純血の奇形種《サラブレッド》だ。歯車がひとつずれただけで人間を止めてしまう、こちらとあちらの境界線上の存在だ」
韻《いん》を踏《ふ》んだ、呪文のような言葉がゴンドラを流れた。
少女の――今やユーダイクスのものと化した赤い瞳が《ひとみ》、いつきの怯《おび》える顔と銀のアタッシェケースを映し出している。
ふ、とその瞳が微笑《びしよう》した。
「本来ならば、確かに君が受け取るべきものだろう。血の積み重ねである以上、余人の関《かか》わる余地などない。――だが、君は受け取りたいのか?」
「――――っ」
訊《き》く。
ずくん、といつきの心臓を刺《さ》し貫《つらぬ》いて、まっすくにラピス=ユーダイクスが訊く。
「君が社長になったいきさつぐらいは知っている。この数ヶ月、まがりなりにも〈アストラル〉を率いてきた事実も承知の上だ。その上で訊きたい。純粋《じゅんすい》の異常。純血の異端《いたん》。純白の狂《きょう》気《き》。――君が見てきた魔法使いという生き方に、君は『続いて』いきたいのか?」
〈アストラル〉の社長として、父親の――伊庭司の後に『続きたい』のか。
社員たちの、魔法使いとしての生き方を、背負っていいのか。
それは、今の今まで、誰《だれ》も訊かなかった問い。
伊庭いつきが、ずっと避《さ》けてきた問い。
――右目と、胸が、身体の内側から疼《うず》いた。
「僕は……」
「社長」
穂波が、横から遮《さえぎ》る。
「卑怯《ひきょう》やろユーダイクス。うちの社長が素人《しろうと》や言うといて、言霊《ことだま》にかけるつもり?」
「私に、そんな技術はない。今のはただの問いかけだよ。本当にね。そして、伊庭いつきが『続かない』のであれば、私がその代わりを担《にな》ってもいいと言っているだけだ」
ソファに座ったまま、ラピス=ユーダイクスは悠然《ゆうぜん》と語った。
「担う? 誰もそんなん求めてへん。あんたに担われる理由なんかない」
「だが、〈アストラル〉には担い手が必要なのだろう?」
ラピス=ユーダイクスは知りきった声で言う。
「相続者がいなければ、〈協会〉はすぐさま〈アストラル〉の登録を外すだろう。そうなれば――少なくとも、葛城みかんと猫屋敷蓮は本来の魔術《まじゆつ》集団に戻《もど》ることになるはず。だから、どうしても伊庭いつきを社長にしなければならなかったんじゃないのか」
「こっちの内情はお見通しやって言いたいわけ? でも、血のつながってないあんたがどうやって『続く』いうん?」
「決めるのは、伊庭いつき本人だ。そして、私なら、〈アストラル〉の抱《かか》える内憂《ないゆう》をよりよい形で処理できるというだけだ。加えて言えば、血の問題も、私とツカサ・イバに限っては問題にならん。それを克服《こくふく》するために――私はずっと時間を費やしてきた」
ラピスの顔で、賢者《けんじゃ》の声で、断言した。
さしもの穂波が、その言葉に秘《ひ》められた圧力に、後じさる。
「〈アストラル〉の誕生、発展、衰亡《すいぼう》――そのすべてを、私は見てきた。ツカサ・イバのすぐそばでね。ツカサ・イバという人間に触《ふ》れ、ツカサ・イバという人間にずっと憧《あこが》れ、ツカサ・イバという人間にずづとずっと傾倒《けいとう》しつづけた。ずっとずっとずっと彼に『続く』ためだけに、ずっとずつとずっとずっとずっと時間をやすりにかけつづけできた。
ずっと、ずっと、ずっと、ずっと、ずっと、ずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっと――。
――だからこそ、私は、〈アストラル〉も含《ふく》めた、ツカサ・イバのすべてを継承したい」
「すべて、を……?」
呼吸が、痛かった。
ただの問いかけと言ったラピス=ユーダイクスの言葉は、いつきの四肢《しし》を呪縛《じゅばく》し、肺と気管を怖《おそ》れの炎《ほのお》で灸《あぶ》った。
怖《こわ》い。
この男が、怖い。
この男が垣間見《かいまみ》せた――どうしようもない執念が《しゅうねん》怖い。
これほどまでに根深い執着を、欲望を、いつきはぶつけられたことがない。何世代も何世代も『続いていく』という魔法使いの生き方を直視したことがない。
だから、たとえ魔法でなくても。
「僕……は……」
押しつぶされるように、言葉が漏《も》れる。
委《ゆだ》ねでもいいのかもしれない。
自分と違《ちが》って、本当に社長として〈アストラル〉を率いてくれる相手なら。
「僕……は……」
もう一度、呟《つぶや》く。
そのとき、曖昧《あいまい》にぼやけた視界の中で、いつきは視《み》た。
「穂波……?」
蒼《あお》い瞳《ひとみ》の少女が、セーラー服の胸元《むなもと》を押さえていた。
もどかしそうに、何か言いたげに唇《くちびる》を動かして、だけど何も言わずに、ただいつきをじっと見つめていた。
口にはしなくても、いつかのやりとりが耳に届いた。
――『でも……これは『仕事』だと思う』
――『父さんが受けた『仕事』なんだろ。だったら、二代目の僕にも責任があると思う』
(――そうだ。そう、言った)
だから。
奥歯を、噛《か》み締《し》めた。
「社長?」
「……それ、でも」
穂波の前に出て、自分の弱気を叱咤《しった》する。拳《こぶし》をきつく握《にざ》り締め、震《ふる》える膝頭《ひざがしら》を叩《たた》き、青い顔を無理やりにあげた。
「それでも、僕は〈アストラル〉の社長です。穂波も、みかんちゃんも、黒羽さんも、猫屋敷さんも、僕の大事な社員です。会ったばかりの他人に、任せられるはずがない」
「――社長」
穂波が唇をほころばせ、
「おや」
意外そうに、乗っ取られたラピスが眉《まゆ》をひそめた。
「なるほど、思ったよりも適性があったらしい。――では、どうするね」
「どうする……って?」
「私が二割の経営権を持っているという事実は覆《くつがえ》るまい。君の決意がどうあれ、〈協会〉に承《しょう》認《にん》させるには必然私の推薦《すいせん》も必要になる」
一瞬、《いっしゅん》ラピス=ユーダイクスの視線が〈協会〉の秘書へと投げられ――すぐにいつきへと舞《ま》い戻《もど》った。
すっと、レースの手袋《てぶくろ》に包まれた人差し指が立つ。
「――なれば、〈アストラル〉と『遺産』を賭《か》けたフェーデを提唱しよう」
「ふぇー、で?」
「魔術決闘《フェーデ》……魔法使い同士の主張が不一致《ふいっち》を起こしたとき、勝者を決めるための儀式《ぎしき》や」
穂波が補足した。
|蒼水色の瞳《アイスブルー・アイ》には、力強い光が戻っている。その瞳でラピスの姿をした錬金術師《れんきんじゅつし》を睨《にら》みつけ、「社長、受ける必要はあらへん。社長が来てから、〈臨会〉の入札やってこなしてるんや。いくら〈協会〉でも、実績のある魔術《まじゅつ》集団を簡単に切ったりはできへん」
「だが、ツカサ・イバが残した『遺産』は得られなくなる。私も、君も」
「……このアタッシェケースが……あなたの望みなんですか?」
「…………」
答えはない。
代わりに、ラピスの口はおかしなことを告げた。
「それとも、アディリシアから、遺産には近づくなとでも聞いたかね」
「――え?」
予想だにしなかった名前に、いつきは左目を見張った。
その空白をついて、ラピス=ユーダイクスがさらに告げる。
「アディリシア・レン・メイザース――ソロモンの末裔《すえ》。確かに、あれは素晴《すば》らしかった。魔法使いが魔法使いたるすべてを備えており、かつそれに呑み込まれない。けなげとも言ってもいい。……私の資料など、見つけなければよかったのに」
七十二の魔神を操り、誇《ほこ》らしげに微笑《ほほえ》んでいた〈ゲーティア〉の首領。金髪《きんぱつ》の縦ロールと漆《しっ》黒《こく》のドレス、いつも穂波と張り合っていた隣《となり》の席のクラスメイト。高慢《こうまん》で、勝気で、でもあんな風になれるなら社長って仕事もいいかと、そう思わされてしまった相手。
そして。
――『イツキに伝えておくことがあります』
――『調べ物をしている際、あなたとも関係のある名前を見つけたのです』
――『来週には日本へ戻れるかど思いますので、そのときはっきりしたことを伝えます』
「あ……」
茫然《ぼうぜん》と、いつきは呻《うめ》く。
「あの……手紙……」
「さて。フェーデに乗るかね。私が勝てばツカサ・イバの遺産を貰《もら》う。君か勝てば〈アストラル〉の継承権《けいしょうけん》を渡《わた》そう。――乗ってもらえるなら、懸念《けねん》しているらしいソロモンの姫についても話すが」
切り札を見せたギャンブラーの笑《え》みで、ラピス=ユーダイクスがゆったりと笑う。
「…………」
歯乳《はぎし》りする。悔《くや》しかった。でも、ほかに手が浮《う》かばなかった。
うつむき、ぽつりと訊《き》いた。
「何を、やるの?」
いつきの問いに、ラピス=ユーダイクスが後ろを振《ふ》り返った。
「こちらです」
すっと、〈協会〉の秘書が、机のアタッシェケースの隣へ羊皮紙を滑《すべ》らせる。
ごわごわした革《かわ》の上に赤黒い溶液《ようえき》で走り書きされた、年代物の契約《けいやく》書であった。
「――準備しとったん? 最初から、そのつもりやったんやね」
「いいや。使わずにすめばそれでいいと思っていたよ」
穂波とユーダイクスのやりとりの後、〈協会〉の秘書が説明をはじめた。
「では、契約の説明をしましょう。まず、『遺産』のアタッシェケースを伊庭いつきさまにお譲《ゆず》りします」
「え、これを?」
目の前のアタッシェケースを指して、いつきが瞬《まばた》きした。
「ええ。ただし決着まで『鍵《かぎ》』は〈協会〉で保管します。――そして、これより三日の内、三度まで、ユーダイクス・トロイデと〈アストラル〉の関係者は魔術|戦闘《せんとう》を行うことを許されます。三日が経《た》つか、三度の決闘《けっとう》が終わったとき、『遺産』を奪《うば》うことができればユーダイクスさまが、奪えなければ伊庭いつきさまが勝者となります」
「…………」
つまり、このアタッシェケース自体が、魔術決闘《フェーデ》の争奪《そうだつ》品になるということだった。
「呪波汚染《じゅはおせん》などの禁忌《きんき》に触《ふ》れぬ限り、魔術決闘《フェーデ》の場所、時間は問われません。〈協会〉の名のもと、魔術決闘《フェーデ》とそれに関わる事象は処理きれます。また、これらの魔術決闘《フェ−デ》の結果を保護するため、当事者のふたりには、この契約書を媒体《ばいたい》とした契約儀式《ゲッシュ》を履行《りこう》していただきます」
「契約儀式《ゲッシュ》?」
「誓《ちか》いの儀式《ぎしき》です。伊庭いつきさまとユーダイクスさまの血と言葉をもって、魔術決闘《フェーデ》を破れぬ契約を行います。ゆえに、一度出た魔術決闘《フェーデ》の結果はけして覆せ《くつがえ》ません」
「あの……もし破ったら?」
訊くと、〈協会〉の秘書は淡《あわ》く微笑んだ。
「あらゆる災《わざわ》いが裏切り者を襲《おそ》うでしょう。……過去に破った方の話を聞きますか?」
「い、いや、け、結構です!」
いつきは真っ青になって、ぶんぶんと両手を振った。想像しただけで、気が遠くなりかけたのである。
それから、秘書は、銀のナイフをいつきとラピス=ユーダイクスの間へ差し出した。
「では、おふたりとも心臓に連なる薬指の血にでサインを」
「私は使い魔《ま》の身だ。血は先に封印《ふういん》しであるものでよいかな」
「かまいません。他人の血であれは、契約《ゲッシュ》自体が起動しませんから」
鷹揚《おうよう》にうなずき、ラピス=ユーダイクスは懐《ふところ》から取りだした試験管の血で、契約書に署名する。
「う……」
次に、いつきがこわごわナイフを握《にざ》り、かなりの時間をおいてから薬指の表面を薄《うす》く切り、契約書へ書きこんだ。
「結構です……では、蒼天《そうてん》の落ちて汝《なんじ》らを濃《つぶ》さぬ限り、白き海の荒《あ》れ狂《くる》い汝らを呑み込まぬ限り、緑の大地の裂《さ》けて汝らを呑み込まぬ限り、汝ら、この誓約《ゲッシュ》を破らぬと誓うか?」
「誓おう」
「……誓います。……っ?」
途端《とたん》、心臓に禊《くさび》を打ちこまれた感覚があった。
息苦しさに胸をおさえ、机につっぷしたいつきの隣で、満足げにラピス=ユーダイクスは唇《くちびる》をつりあげた。
「聞いたな〈協会〉。契約《ゲッシュ》は成立した。これよりは魔術決闘《フェーデ》の時間だ。誰《だれ》にも触れられない、誰にも干渉《かんしょう》できない――私と〈アストラル〉 の領域だ」
「承認《しょうにん》します。契約によりで、〈協会〉は決闘に干渉しません」
「それでいい」
一礼して退席した〈協会〉の秘書を追って、ラピス=ユーダイクスもまた立もあがった。
――と、
「ま、待って。アディリシァさんはっ?」
机にうつぶせたままのいつきの言葉に、魔法使いは軽く鼻を鳴らした。
「死んだよ」
「え…………」
「私の工房《こうぼう》に忍《しの》び込んだ罰《ばつ》で死んだ。互《たが》いに魔法使いであれば、仕方のない結末といえるだろうな」
言い捨てて、踵《きびす》を返す。
扉を《とびら》開ける直前、その首が猛烈《もうれつ》に振《ふ》り返り、眉間《みけん》のあたりで右手を振った。
指の間に、ヤトリギの矢が挟《はさ》まっていた。
「――待ち」
厳しい声があがる。
「もう、魔術決闘《フェーデ》の最中や。あんたの使い魔に手を出しても、たとえそこが〈協会〉の支部であっても、誰にもとがめだてはされへん」
「なるほど。確かにそのとおりだな。ならば、この場を、三回の内の一回目とさせてもらおうか。――いずれ私の徒弟になるものの腕《うで》も、見る必要があるしな」
ユーダイクスが――ラピスの身体《からだ》で目を細める。
そうしなければいられないほどの、膨大《ぼうだい》な呪力が《じゅりょく》立ち昇《のぼ》っていたのだ。
「アディの仇《かたき》……とらせてもらう」
部屋の中央で、穂波・高瀬・アンブラーの瞳《ひとみ》は怒《いか》りに燃えていた。
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第3章 魔法使いと翼
〈アストラル〉事務所の庭で、黒羽はやっとその背中に追いついた。
「待って……待ってください」
「おや、どうしました?」
影崎が振り向く。
猫屋敷たちとの話が終わり、事務所を退室したところであった。
正午近くの陽光が、ビルの谷間から庭を照らしている。みかんが丹精《たんせい》をこらした朝顔たちも、その庭の端《はし》で|瑞々《みずみず》しい花を咲《さ》かせていた。
「なんで……さっきのこと、教えてくれたんですか?」
「その方が面白《おもしろ》そうだから、じゃいけませんかね。〈協会〉の人間として来たんじゃないと最初に言ったでしょう?」
「それは、聞きましたけれど」
「なら、それでいいでしよう。それともほかに訊《き》きたいことでも?」
陽光を透《す》かす黒羽の霊《エーテル》体を見ながら、影崎が促《うなが》す。
相変わらず、感情のつかめない顔だった。あまりに平均的な容貌《ようぼう》は、喜怒哀楽《きどあいらく》のどの感情も曖昧《あいまい》にしてしまう。
だから、この男の人の顔は、見たものの心をそのまま映すのかもしれないと、黒羽は思った。
――怖《おそ》れには怖れを。
――怒りには怒りを。
――憂《うれ》いには憂いを。
まるで、それは能面《のうめん》のように。
「……あの、じゃあユーダイクスさんって、どうしてそんなにいつきくんのお父さんに、その、執着《しゅうちゃく》しているんですか?」
「ふむ、執着ですか。それはふさわしい言葉ですね。何より、彼の生き方にふさわしい」
眉《まゆ》をひそめもせず、影崎は顎《あご》へ手をやった。
「もっとも、あのふたりの関係を説明することは、ある意味、〈アストラル〉の成り立ちを説明するのど同じ意味になりますが。果たして部外者の私が説明していいものかどうか」
「だったら、お願いします。だって、あたし、まだ何も知らないんです」
ぺこり、と黒羽が頭を下げた。長い髪《かみ》が生前の重力《ならわし》を思い出して揺《ゆ》れる。
影崎は、少しの間をおいて、
「では」
と、言った。
「いくつかありますが、かいつまんで教えるとなると、やはりあのカタブツ錬金術師《れんきんじゅつし》の出自からでしょうね」
「出自?」
「ええ、魔法使《まほうつか》いにも当然過去はありますから。むしろ魔法使いなればこそ、自分と関係ない過去にさえ因果を持つこととなります。彼の場合は、あの砂の国……」
そこで、台詞《せりふ》が止まった。
「影崎さん?」
黒羽がいぶかしんで、首を傾《かし》げる。
「いや……どうやら交渉《こうしょう》は決裂《けつれつ》したようです」
そう答えて。
遥《はる》か上空を、影崎は見上げたのだった。
一辺八メートルばかりの四角い部屋に、壮烈《そうれつ》な呪力《じゅりょく》が渦巻《うずま》いた。
机とソファとを挟《はさ》み、穂波とラピス=ユーダイクスが向かい合っている。
(六つ……ううん七つ)
自分にある手札を、穂波は冷静に数えていた。
穂波の扱《あつか》う魔術は、魔女術《ウィッチクラフト》とその源流たるケルト魔術。その魔術特性は〈霊樹の末裔〉――自然界より呪力を得る、森と岩と歌の魔術である。人工的な品しかないゴンドラ内では、必然、使える術にも制限が出てくる。
そして、ラピス=ユーダイクスの手の内は謎《なぞ》のままだった。
――錬金術。
一口にそうくくられるが、これほど多様なバリエーションを持つ魔術はほかにない。
ギリシャ、アラビア、中国、ルネッサンス華《はな》やかなりしヨーロッパ。あるいは隔離《かくり》され、あるいは相互《そうご》に交流を持ちながら、世界の各地で発展していった魔術の総称《そうしょう》こそが、錬金術なのである。
(せめて、国だけでも分かったら……)
そうすれば、有効な術を編むこともできるだろうに。
「どうしたね? たかが使い魔相手に随分《ずいぶん》と悩《なや》んでいるようだが」
ラピスが、ユーダイクスの声で訊く。
「好きに言い」
答えつつ、穂波はセーラー服の内側から右手を放った。
「我、霊樹《れいじゅ》の加護もて、呪をつむぐ。されば風と岩の導きにて、北西の忌み児を穿《うが》て!!」
ざあああっ
空気が切れる。ヤドリギの矢。
「……ふん」
半身になってその矢を避《さ》け、だがラピス=ユーダイクズは目を見張った。
矢は、ひとつではなかった。
一斉《いっせい》に解き放たれたヤドリギの矢たちが、ゴンドラの天井《てんじょう》と壁《かべ》ぎりぎりを伝い、あたかも生ける蛇《へび》のように、四方八方からラピス=ユーダイクスへと襲《おそ》いかかったのだ。
「ほう」
肩《かた》をすくめ、ごく小さなフラスコを放り出す。
すると、床《ゆか》で砕《くだ》けたフラスコの中身が、たちまち蒸発し、霧《きり》となって少女とヤドリギの矢をとりまいた。
「あっ!」
その霧に包まれた瞬間《しゅんかん》、ヤドリギにこめていた呪力が消えた。
ばかりか、すべての矢がひるがえっで、穂波白身へと殺到《さっとう》した。
「っ!」
ほとんど勘《かん》だけで穂波は床に転がった。代わりに矢の嵐《あらし》を受けた壁がぐずぐずに破壊《はかい》され、青い空を覗《のぞ》かせる。
ごおっと吹《ふ》き込む風に赤髪《せきはつ》をなびかせ、ラピス=ユーダイクスが微笑《びしょう》した。
「方向感覚の問題だ。生物・無生物を問わず、この霧は方向感覚を失わせる。今風に言えば、慣性をねじまげるとでも言えばいいか」
一歩、進む。
「…………」
無理に立ち上がらず、穂波は膝立《ひざだ》ちのまま錬金術師を見据《みす》えた。
見据えたまま、思考する。
(……中国とかギリシャやない)
そうであれば、硝子《ガラス》のフラスコなどは使わない。例外はあれど、呪物《フェティシュ》はほぼ正確に使い手の魔術をあらわす。
そして、使い魔に同調しながら、魔術を使つたという事実。
(……呪的技術が半端《はんぱ》やあらへん。術式速度もめちゃ速い。多分、猫屋敷さんと同じか、それより上。四階梯《かいてい》から五階梯《最高位》。フラスコを使ってるから対価は触媒《カタリスト》による消耗《しょうもう》式。じゃあ、魔術特性は……)
「基本に正しく相手の術の分析《ぶんせき》からか? 間違《まちが》えてはいないが実戦不足だな」
「なっ……」
「自分の魔術を信じすぎだ愚《おろ》か者。だから無様を晒《さら》す」
「っ!」
惑《まど》わされるな。
自分の魔術《まじゅつ》を信じずに、魔法使いがいられるものか。
「ならば、今度はこちらから」
ラピス=ユーダイクスの指が、続けてふたつの試験管を取り出し、放り投げた。
相打った試験管は、空中で液体を混合させ、凝固《ぎょうこ》した槍《やり》の雨となって、魔女に降り注いだ。
「…………!」
同時に、穂波も両手の指からヤドリギを放った。
「我、再度つむぐ! すなわち天にも地にも属さぬ霊樹の加護もて、我に仇《あだ》なすものを撃《う》たん!」
空気を、激突《げきとつ》の波紋《はもん》が渡《わた》った。
幾十《いくじゅう》の水の槍と、同じ数のヤドリギの矢が乱舞《らんぶ》する。
まるで、時ならぬブリザードのように、砕けた槍が床やソファに飛び散り、じゅっと煙を立てた。
「酸っ?」
強烈《きょうれつ》な酸であった。水の槍は、その実、酸で形づくられたものだったのだ。
「――我、三度乞《みたびこ》う! すなわち霊樹と円石の祝福もて、母なる護《まも》りと憎《にく》しみの剣《つるぎ》を鍛《きた》えん!」
さらに、唱える。
ヤドリギの矢とともに、穂波は護符《ごふ》の|円 石《サークルスト−ン》も転がし、簡易結界を周囲に張る。
だが、飛沫《しぶき》までは押さえきれなかった。部屋の外装が|徐々《じょじょ》に溶《と》けていき、穂波のセーラー服もあちこちが酸に焼けて、焦《こ》げた臭《にお》いを放つ。
なのに、ラピス=ユーダイクスは揺《ゆ》るがない。
ヤドリギの矢も、飛沫も届かない。目に見えていでも、彼女だけは別世界に立っているようだった。
「社長、ごめん!裏の扉《とびら》から逃《に》げて!」
振り返らず、穂波が声をかける。
――返事がなかった。
「社長っ?」
「――穂波」
それは。
脳髄《のうずい》から爪先《つまさき》まで突《つ》き抜《ぬ》ける、抗《あらが》いがたい声だった。
「社長命令だ。右斜め四十五度。下方修正三・六度。ヤドリギの矢、射て」
「――――っ」
聞いた瞬間、《しゅんかん》穂波の指は自らの意思も離《はな》れて、ヤドリギの矢を操《あやつ》っていた。
しゅん――!!
ただ一条。それまで数え切れぬほど撃った矢と違って、その矢は空中で停止した。
いや、停止したその場所からううど白い血[#「白い血」に傍点]が滴《したた》り、もうひとりのラピス=ユーダイクスが姿を現したではないか。
「え……」
と、穂波が息を呑《の》んだ。
「単純な罠《トリック》だ。あの霧《きり》が幻覚剤《げんかくざい》にもなっていただけ。最初から、そいつはそこに立っていた」
確かに、少年《いつき》の声だった。
だけど、それは、まったく異質な声だった。
「……お前、その目は……」
焦げた床《ゆか》から|妖々《ようよう》と立ち上がる姿に、傷ついたラピス=ユーダイクスまでもが絶句した。
右手にアタッシュケースと眼帯を握《にぎ》り、少年はうつむいていた。
うつむいているのに、垂れた前髪《まえがみ》の奥から、右目の色だけが|朧々《ろうろう》と浮《う》かび上がっていた。
まるで、|鬼  火《ウィル・オー・ウィスプ》のように。
まるで、柘榴《ざくろ》のように。
「社長……」
「……報《むく》いは受けてもらうぞ、ユーダイクス」
それは赤く|禍々《まがまが》しい――人間の色素ではけしでありえないはずの――紅玉《カーバンクル》の瞳だ《ひとみ》った。
「……お前、その日は!……」
目前のラピス=ユーダイクスの呻《うめ》きを、いつきは遠く聞いた。
ひどく、現実味がなかった。
世界と自分とが、薄皮《うすかわ》一枚で隔《へだ》てられている。
あらゆるものに実感がなく、自分の身体《からだ》さえ、別人のものとしか思えない。
「…………」
そんな中、右目だけが炎《ほのお》を埋《う》め込んだように熱かった。
いや。
よう[#「よう」に傍点]、じゃない。
これは、まさしく炎だった。マグマであった。眼窩《がんか》が焼け、焦げた肉が剥《は》がれ、脳の爛《ただ》れる感覚まで、いつきははっきりと自覚した。
(でも……それがどうした)
苦痛よりも吐《は》き気よりも激しい何かに、衝《つ》き動かされる。
(アディリシアさんが……死んだ?)
ただの言葉だ。
(僕のために……ユーダイクスの工房《こうぼう》へ忍《しの》びこんで……殺された?)
いつきは、確かめていない。
だが、あの台詞《せりふ》がハッタリじゃないぐらい分かる。分かってしまう。「死」など魔法使《まほうつか》いにとっては日常的な概念《がいねん》ゆえ、それはハッタリにすらならない。
【……見ロ】
ぎちり、と。
右目が[#「右目が」に傍点]、喋った[#「喋った」に傍点]。
ごく稀《まれ》に、脳裏《のうり》に響《ひび》く声。
その声と思考とが、いつきの中で交わり、混濁《こんだく》する。
【……見ロ。視ロ。観ロ。アノ脆弱《ぜいじゃく》ナ魔法ヲ】
そう、見る。
呪力《じゅりょく》の流れを見る。魔法の本質を視る。神秘の真実を観る。
妖精眼《グラム・サイト》。幻《まぼろし》の瞳。伊庭いつきの持つ、たったひとつの魔法。
「……報いは受けてもらうぞ、ユーダイクス」
「それは御免蒙《ごめんこうむ》る。――だが、その眼《め》とやりあう愚《ぐ》は避《さ》けよう」
次の瞬間、ラピス=ユーダイクスの取った行動は、思いがけないものだった。
躊躇《ちゅうちょ》無く、少女の姿は床を斜めに転がり、最初の攻防《こうぼう》で壁《かべ》に開いた穴から身を投げ出したのである。
「えっ――」
穂波が、穴に駆《か》け寄って見下ろす。
眼下に、黒いツーピースが花のごとく広がった。
飛行船のふたりへ微笑《びしょう》を送り、ラピス=ユーダイクスは試験管のコルクを指で抜《ぬ》いた。
「ライモンドゥス・ルルスの秘薬っ?」
それは、霊《エーテル》体の翼《つばさ》をつくる薬であったろうか。
一瞬、雲のように少女を包み込んだ秘薬は、ただちに白い翼となって少女の背中で羽ばたいたのだ。
飛行船の方角と逆に流れ、翼持つ少女が遠ざかっていく。
「――社長」
振《ふ》り返った穂波の手に、棒状の物体が投げられた。
交渉《こうしょう》の前に置いていた、穂波の箒《ほうき》だった。
「追う。僕を乗せろ」
「う、うん」
有無を言わきぬ少年の命にうなずき、穂波は瞬《まばた》きした。
(本当に……これがいっちゃん?)
穂波も、いままでに何度か見た。
妖精眼を解放した、いつきの姿。
普段《ふだん》の弱気が反転した、圧倒《あっとう》的な威厳《いげん》。
穂波の知らない、もうひとりのいつき。いや、それとも、こちらこそが本当の少年なのだろうか。
「どうした?」
「……………………………………………………………………………………ううん。行くで」
悩《なや》みを振り切り、ふたりもまた、蒼考《そうきゅう》へと飛び出した。
「決裂《けつれつ》――って、いつきくんと〈協会〉の?!」
黒羽は思わず叫《さけ》び、宵に浮《う》いていた。
飛び立った飛行船が見えるはずもないが、一生懸命《けんめい》に目を凝《こ》らす。その黒羽へ手を振って、影崎が落ち着くよう促《うなが》した。
「いえ、おそらくはユーダイクスでしよう。〈協会〉内部で呪力の気配があったということは――多分|魔術決闘《フェーデ》でしようね」
「フェーデ?」
「要は、〈協会〉の許可を得た決闘《けっとう》ですよ。騎士《きし》だろうが魔法使いだろうが、結局、最後の考え方に大差はありません。欲しいものは力ずくでももぎとるというだけのことです」
「でも、あの飛行船の中で! そんなの滅茶苦茶《めちゃくちゃ》です!」
「むしろ、〈協会〉にとっては好都合でしょう。あの領域であれば、呪波汚染《おせん》の心配もないですし、隠蔽《いんぺい》もしやすい。実際に墜落《ついらく》でもしない限りは、偽装《ぎそう》魔術が補ってくれますしね」
「でも、そんなの……」
「まだ、普通の人間の考え方が抜けてないようですね」
苦笑するでもなく、影崎が指摘《してき》した。
「…………」
黒羽は.黙《だま》り込む。
生身でないはずの身体《からだ》が――ぞっと冷えた気がした。
ビルの谷間にある〈アストラル〉の庭。その向こう側の商店街からは、そろそろ昼休みということもあってか、雑多な話し声や足音も聞こえる。
明るい太陽の下。頭上の空では、異能の戦いが行われているとも知らず。
ああ。
こちら側と向こう側――こんなに近いのに、とてつもなく遠い。
「こちら側[#「こちら側」に傍点]は、ずつと昔からそういう場所です。魔法《まほう》といえば|賢者の作業《アルス・マグナ》にも聞こえるでしょうが、やっていることは野蛮極《やばんきわ》まりない。〈協会〉のやっていることはその野蛮や禁忌《きんき》が世俗《せぞく》を侵食《しんしょく》せぬように目を光らせている――それだけのことにすぎません」
「魔法使いなのに?」
「魔法使い、だからこそ」
影崎が、三日月のように唇《くちびる》を歪《ゆが》める。
「魔法なんて、とうの苦に忘れ去られた遺物にすぎませんよ。――そんな過去に『続こう』とするものなど、最初からどこかがおかしいんです。目的のために手段を選ぶような人間なら魔法使いになどなりません。ユーダイクス・トロイデという錬金術師《れんきんじゅつし》はその筆頭です」
「…………」
「もっとも、命の心配をする必要はないですがね。仮にも伊庭司の血脈を、ユーダイクスが途《と》絶《だ》えさせるとは思えません。半死半生とか、それよりもっとひどい目には遣《あ》わされるかもしれませんが」
「いつきくんは、大丈夫《だいじょうぶ》です!」
唐突《とうとつ》に、黒羽が強く言った。
「ほう?」
「だ、だって、穂波さんが一緒《いっしょ》にいるんです。絶対、穂波さんはいつきくんに怪我《けが》させたりしません。それに……いつきくんには、あの赤い目があるんだもの」
黒羽も、何度か〈アストラル〉の事件に携《たずさ》わってきた。
|貸し出し魔法使い《レンタルマギカ》、魔法がらみのトラブルに派遣《はけん》されるスペシャリストたち。ケルト魔術の穂波、陰陽道《おんみょうどう》の猫屋敷、神道《しんとう》のみかん……皆《みな》、強くて、凄《すご》くて、格好《かっこう》良くて……
だから、憧《あこが》れた。
見習いである自分も、いづかそうなりたいと。あのとき、手を伸《の》ばしてくれたいつきみたいに、自分もなりたいと。
ひとりぼっちだった黒羽にとって、それは幽霊《ゆうれい》になってから、はじめて見つけた目標でもあった。
そんな黒羽の様子をあの無表情[#「あの無表情」に傍点]で見つめ、影崎は訊《き》いた。
「妖精眼《グラム・サイト》、ですか?」
「あ、あたしのときも、あの目で助けてくれたんです。だから、いつきくんは……」
「妖精眼を使わずにいられればいいですがね」
静かに、口にした。
「えっ――?」
「あの若社長は、社長ではあっても魔法使いではないでしょう」
庭の雑草を踏《ふ》み、影崎が言う。
なぜだか、ひどくまずいことを聞いた気がした。
「どういう……意味です?」
影崎が、そっけなく肩《かた》をすくめる。
「対価のない魔法なんてありません。たとえ、すぐには分からないものであろうと、強力な魔術であればあるほど、膨大《ぼうだい》な対価を支払《しはら》うことになる。ですが、魔法使いならぬいつき社長はまだそのことを身にしみては理解していますまい」
「対、価……」
黒羽にも、その意味は理解できない。
魔法使いでない彼女に分かるのは、ただ不吉《ふきつ》な予感だけ。悪魔と取引するような、暗澹《あんたん》とした重い感覚。
「等価|交換《こうかん》ともいいます。――それと、もうひとつ。最初の質問に答えておきましよう。ユーダイクスは、〈アストラル〉の結成時、唯一《ゆいいつ》伊庭司の推薦《すいせん》で加入した人物です」
「いつきくんのお父さんの?」
「ええ。〈アストラル〉はもともと別の魔法集団なり、独立した魔法使いなりが寄り集まってできた組織ですからね。その中で、ユーダイクスだけは、ほぼ無名のまま、伊庭司の肝煎《きもい》りで入ってきたんですよ。でも、彼の能力は誰《だれ》もが認めざるを得なかった。中でも、|呪力の解析《じゆりょくかいせき》についてはずば抜《ぬ》けていましたよ。今に至るまで、私はあれ以上の魔法使いを知りません。そう〈アストラル〉にとっては、あれが黄金時代だったでしょうね」
事務所を振《ふ》り返り、影崎が語る。
「ですが、ユーダイクスはその黄金時代から何も受け取ろうとはしませんでした」
「受け取らない?」
「文字通りですよ。金銭も、宝物も、呪物《フェティシュ》も、魔術も、その他一切《いっさい》の報酬《ほうしゅう》を彼は受け取らなかった。例外は〈アストラル〉の経営権ですが、これは伊庭司白身を含《ふく》む創始メンバー全員に分け与《あた》えられたものです」
からっぽの手をあげて、影崎がひらひら振った。
「目的のために手段を選ばない、とさきほど言いました。でも、本当のところ、彼の目的は誰も分からなかった。ただただ伊庭司に付き従う――目的はなくても手段は選ばない――そういう魔法使《まほうつか》いでしたよ」
「…………」
黒羽は、呼吸を止めた。
無欲な人間の、執着《しゅうちゃく》。
そういう人間の執着は、この世で壕も恐《おそ》ろしいのではないだろうか。
「何にせよ、ユーダイクスはただ伊庭司の命令だけを聞きつづけました。そして、伊庭司が姿を消すと、最初に〈アストラル〉から脱退《だったい》した」
そこで、話は終わった。
庭では、変わらず夏の光が輝《かがや》いていた。どこかで、みーんみーんと蝉《せみ》が鳴いていた。
「では、これで」
一礼して、離《はな》れようとした影崎へ、
「……あ、待ってください。お話、ありがとうございました」
と、黒羽は丁寧《ていねい》に頭を下げた。
「別に。礼を言われるほどのことでもありませんよ」
「でも、ありがとうございます。親切にしてもらったら御礼《おれい》を言うものだと思います」
「は? 親切――ですか」
真顔で言う幽霊《ゆうわい》少女に――これはほとんど奇跡《きせき》的なことに――影崎が目を丸くした。なんというか、歯車の調子が狂《くる》ってつい人間に戻《もど》ってしまった、という感じだった。
こほんと咳払《せきばら》いしてから、影崎は口を開いた。
「……最後にひとつ、私から訊いていいですか?」
「え? あ……はい。あたしに答えられることなら、なんでも」
ひどく神妙《しんみょう》にうなずいた黒羽へ、ゆっくり問う。
「あなたは、〈アストラル〉が好きなんですか」
「――はいっ! もちろんです」
夏にふさわしい、天真爛漫《らんまん》な笑顔《えがお》だった。
その笑みを、どこか眩《まぶ》しそうに見つめてから、影崎はもう一度くたびれたスーツの背を屈《かが》めた。
「……では、これで」
さきほどと同じ言葉を告げ、魔法使いらしくもなく、その足で歩いてビルの谷間へと消えていったのだった。
流星か、稲要《いなずま》だった。
太陽と入道雲しかない青空を、魔女の箒《ほうき》と天使とが、絡《から》み合いながら翔《と》んでゆく。
箒を操《あやつ》る穂波の髪《かみ》が、ちぎれそうなぐらいたなびいていた。雲に突入《とつにゅう》するたび身体《からだ》が濡《ぬ》れ、しかし、あまりの速度にすぐさま乾《かわ》いてしまう。水分が染《し》み込む前に、風圧で吹《ふ》き飛んでしまうのだ。
「いつっ――!」
かじかむ手で、握《にぎ》り締《し》める。
すっとんでいきそうな箒を、力ずくで押さえ込む。
(――滅茶苦茶《めちやくちや》や!)
珍し《めずら》くも胸中で弱音をこぼし、穂波はラピス=ユーダイクスを見定めた。
少女は、いまだ箒の前を飛んでいた。
――ライモンドゥス・ルルスの秘薬。中世、イギリス国王に逆らったため、倫敦塔《ロンドンとう》に幽閉《ゆうへい》された錬金術師《れんきんじゅつし》が作ったという飛翔《ひしょう》薬だった。穂波も、イギリスの学院にいたとき、その伝説ぐらいは習っている。
だが、こんな異常な速度が、霊体の翼だけで出せるとは!
「社長っ、大丈夫《だいじょうぶ》?」
「――大丈夫だ。こんなもの」
背中から、よどみない声が返る。少年は自分の背後に座っている。
なのに――こんなに近くにいるのに、ひとりぽっちな気がしてならなかった。
「穂波、向こうに呪力《じゅりょく》集中」
「――あっ」
ラピス=ユーダイクスが、新たなフラスコを放ったのだ。
割れた硝子《ガラス》が、酸を纏《まと》った散弾《さんだん》と化して・穂波たちに迫《せま》った。
だけど、
「高遠詠唱《えいしょう》。魔力強度は一|階梯《かいてい》で十分。|円  石《サークルストーン》による簡易結界を二時方向、下方十五度に一秒展開」
「――わ、我は繰り返す! 風と岩の加護もて災《わざわ》いを弾《はじ》く盾《たて》となす! 存《あ》れ!」
命令のまま形づくったわずか十センチばかりの結界が、穂波たちに命中する散弾「だけ」を的確に防いだ。
(――――!)
その結果に、穂波は戦慄《せんりつ》する。
あまりにも精密すぎる命令と、その命令に瞬時《しゅんじ》に従えた自分に愕然《がくぜん》とする。
それこそ――魔法使《まほうつか》いが言ってはならないことに――魔法を見ているようだった。
「……どこまで……食い下がる……!」
こちらを振《ふ》り向いたまま、ラピス=ユーダイクスがこぼす。
背面飛行でも、速度はまるで緩《ゆる》まない。安定性や最大速度については、向こうの方が上らしかった。
「加速、右六度|旋回《せんかい》」
再び放たれたフラスコの散弾の間を、箒がぎりぎりで抜《ぬ》けていく。
「下降六度、右|捻《ひね》り七度」
「最大加速、左きりもみ、五度|上昇《じょうしょう》」
「左下方六度、結界展開。最大加速」
フラスコは雹《ひょう》となり、嵐《あらし》となり、穂波たちに降り注いだ。
なのに、そのすべてを避《さ》けて、跳《は》ね返して、箒は少女への距離《きょり》を大胆《だいたん》に詰《つ》めていった。
「馬鹿《ばか》な……」
懐《おのの》くラピスの右方向から、箒は入道雲へ突入した。
「穂波、後部のみ最大減速、機首上昇二百七十度」
「えっ――」
雲の中で、ぐるりと視界が回る。
スピードはそのまま、箒が縦回転する。最大速度で前進しながら、箒の先だけがでんぐり返りして下方向へ向いた。
(クルビット――っ?)
イギリス空軍で、そう呼ばれた極限の曲芸飛行。
強烈《きょうれつ》な遠心力に悶絶《もんぜつ》しながら、穂波は見た。
「いっちゃん……」
いつきの右目を。
凄《すき》まじい機動の中、悠然《ゆうぜん》と身を満ち上げたいつきの右目が、さらに赤く輝《かがや》くのを。
入道雲を抜けた瞬間、直立した自分たちが、ぴたりラピス=ユーダイクスの真上数十センチへ出現したのを。
「ユーダイクス――!」
「なっ……」
頭上を見上げたラピス=ユーダイクスが、大きく喉《のど》を鳴らす。
「……お前は……! なんという……」
そして、その眼前へ、いつきは高々と、これまで魔性《ましょう》を打ち崩《くず》してきた拳《こぶし》を振り上げた。
「お前の執着は《しゅうちゃく》――」
息を吸って、
「――お前が償《つぐな》」
【――我ガ喰《く》ラオウ】
「?!」
刹那《せつな》。ラピス=ユーダイクスの鳩尾《みぞおち》を強打した、まきにその瞬間。
ぐらり、といつきの上半身が揺《ゆ》らいだ。
直立した箒《ほうき》から、いつきが放り出されるのはあっという間のことであった。
――上空三千メートルから。
「いっちゃん――!」
穂波の叫《さけ》びが、届いたかどうか。
そのとき、すでに、いつきの意識は右目だけに捕《と》らわれていた。
(あ……あ……あああああああああああ……)
身体《からだ》は完全に硬直《こうちょく》し、五感は脳と切り離《はな》され――なのに、少年の右目だけが、おぞましく哂《わら》っていた。
【我ガ、喰ラウ】
最後に、そんな声が遠く響《ひび》き。
「いっちゃん――っ?!」
気絶したラピスとともに、少年の身体は、青空を逆しまに流れていった。
カチ、カチ、カチ
カチ、カチ、カチ
カチ、カチ、カチ。
カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ。
百の時計。百の秒針。一秒ごとに百度時間の刻まれる部屋。
カーテンに遮光《しゃこう》された薬剤《やくざい》室で、ユーダイクスはかっと瞼《まぶた》を開いた。
「げほっ……がばっ……」
同時に唇《くちびる》を押さえ、激しく咳《せ》き込む。
膝《ひざ》を落とし、四つん這《ば》いになって、巨大《きょだい》な肩《かた》を上下させる。純白のインバネスが波打ち、裾《すそ》に触《ふ》れた時計と薬剤が、床《ゆか》でけたたましい音をたでて割れた。
「がはっ、ごほおっ……ぐごおおおおっ……」
悪臭《あくしゅう》と歯車の中、インバネスの背骨が折れそうなほどに痙攣《けいれん》する。
ほとんど内臓を吐《は》き出さんばかりの勢いで床にうつぶせ、そのくせ吐瀉《としゃ》物の欠片《かけら》も吐かずに、ユーダイクスは悶《もだ》えていたのだ。
やがて――
カーテンが風に揺れ、似つかわしからぬ夏の光をもって巨漢の顔を照らし出したとき、その頬《ほお》は別人のように削《そ》げ落ちていた。
幽鬼《ゆうき》か、亡者《もうじゃ》か。
魔術《まじゅつ》の反動――返《かや》しの風ともいわれる現象であった。
空間を超《こ》え、いつきの一撃《いちげき》は恐《おそ》るべき威力《いりょく》をもって、この錬金術師を打撃《だげき》していた。使い魔を破られたとき、魔法使い本人もまた傷を負ったのである。
「……糸《パス》を構成していた呪力《じゅりょく》を、直接|断《た》ち切ったか」
分厚い唇を拭《ぬぐ》い、椅子《いす》にすがりついて、ユーダイクスが立ち上がる。
足元はいまだ定まっていなかった。
「なるほど、予想以上だった」
硝子《ガラス》と歯車をにじり潰《つぶ》しながら、呟《つぶや》く。
だが、見るがいい。
その唇には、会心ともいっていい笑《え》みが刻まれていた。
そして、巨漢の白き錬金術師は、窓の端《はし》からたぎり落ちる陽光を見つめ、にんまりと囁《ささや》いたのだった。
「しかし、私の唯一《ゆいいつ》の懸念《けねん》は見たぞ。妖精眼《グラム・サイト》」
と。
「――いつきくんっ?」
「お兄ちゃん社長?!」
〈アストラル〉の事務所へいつきが運び込まれたのは、すでに夕陽《ゆうひ》も落ちようかという頃合《ころあい》であった。
地面に激突《げきとつ》する直前、ぎりぎりで穂波がすくいあげたのだ。
だが、ラピスはともかく、いつきは無事とはいかなかった。
駆《か》け寄った黒羽とみかんが、昏睡《こんすい》したいつきに眼《め》を見張る。特にみかんの方は、すぐさま大《おお》粒《つぶ》の涙《なみだ》を浮《う》かべて、いつきの身体へすがりついた。
「あー駄目《だめ》です駄目です。どういう状態か分からないんですから、昏睡した人を無理やり揺《ゆ》さぶっちゃ毒ですよ」
「やーっ、やーっ、だってお兄ちゃん社長、眼覚まさないんだよつ」
「だ、だからとりあえず大人しくしてくださいってば」
そんなみかんを猫屋敷がなんとか羽交《はが》い締《じ》めにし、
「一体、何がありました?」
と、玄関《げんかん》をうかがった。
「…………」
少女――穂波はうつむいたまま、玄関で唇を噛《か》んでいた。
栗色《くりいろ》の髪《かみ》が、べったりと夕陽の色に染まっていた。アタッシェケースを握《にぎ》った手が小刻みに震《ふる》え、眼鏡《めがね》の奥は逆光になって見えなかった。
「フェーデで、やられた」
「ユーダイクスさんに?」
「ううん。社長が眼帯を取って、あの状態になって、ユーダイクスの使い魔の糸《パス》を断つのと同時に倒《たお》れた」
声は、冷静なままだった。
むしろ、いつもよりも平静なぐらいだった。寒冷地《ツンドラ》の、凍《こお》った湖面を思わせた。
「なるほど」
うなずいた猫屋敷の懐《ふところ》で、にゃあと首を出した白虎が鳴いた。
その白虎の鳴いた方角を向いて、
「では、こちらの女の子は?」
「ラピス。ユーダイクス・トロイデの妹や。さっき言った使い魔」
「……ははあ」
さすがに一瞬、《いっしゅん》猫屋敷の眉《まゆ》がひそまった。
「…………」
女の子……ラピスは黙《だま》って、ただいつきを見つめていた。敵意どころか、自意識すら朧《おぼろ》な様子だった。白い手首には魔封《まふう》じとして、穂波のリボンが|魔女結び《ウィッチ・ウィット》で縛《しば》ってある。ユーダイクスに再び糸《パス》を繋《つな》がれないための処置だった。
「ふむ……ま、いいでしょう。とりあえず大変なのは社長の方ですし」
顔を撫《な》でて、猫屋敷はもう一度いつきを見据《みす》えた。
「外傷はないですが、呪力の乱れが激しいですね。特に右半身がひどい。半ば、呪波|汚染《おせん》になりかけでますよ」
「にゃあ〜お」
「なあなあ」
「ふにゃーおう」
ぽろぽろと羽織からこぼれたさらに三|匹《びき》の猫《ねこ》――青龍、玄武、朱雀《すざく》が歩み寄り、いつきの頬《ほお》を舐《な》める。
舐められた個所《かしよ》だけが猫の体温でかすかに赤くなり、だけど、少年の瞼《まぶた》はぴくりとも動かなかった。
「うん。――すぐ治療《ちりょう》始める。|呪力の洗浄《じゅりょくせんじょう》から徹底《てってい》的にやるから、猫屋敷さんも手貸して。後、〈アストラル〉の呪物《フェティシュ》も借りる」
「まあ待ってくださいな」
横を通り過ぎようとした穂波の手首を、猫屋敷がつかんだ。
「猫屋敷さんっ?」
「今日は、私がお茶を掩れますよ。治療はそれを飲んで、事情をゆっくり聞いてからです」
少しして、ほっとする焙《ほう》じ茶の香《かお》りが、事務所のキッチンに広がった。
いつきとラピスのことをひとまず黒羽たちに任せ、猫屋敷が急須《きゅうす》に熱湯を流れたのである。
蒸《む》らしている間にううんと背筋を伸《の》ばして、青年はふと隣《となり》を向いた。
「アディリシアさんが?」
と、穂波に訊《き》いたのである。
「そう、あいつは言ってた。それで魔術戦になったときに、社長が眼帯取ってT」
「――まあ、無理はないですかね。もとより強い情動は魔術に影響《えいきょう》を及《およ》ぼしますし、特に社長の場合、自分ではまともに制御《せいぎょ》できてないわけですから」
蒸らした急須を、軽く播らした。ついで茶碗《ちゃわん》を並べ、ごぼごぼと注《つ》いでいく。どこが、というわけでもないのに、猫屋敷の手並みは茶道を思わせる優雅《ゆうが》なものだった。
「アディリシアさんは、イギリス時代の同級生でしたっけ」
「一応。あたしは中途《ちゃうと》入学やったけど」
「首席は穂波さん?」
「首席はね。アディは〈ゲーティア〉を継《つ》ぐために途中で退学してもうたし。――テストやと、三回に二回はアディが上やったかな。あたしはテスト期間も外でフィールドワークしてる方が多くて、そしたら、いつもアディに怒《おこ》られてた」
「おや、どうしてです?」
「――そんなのあたしが気に入らないからもゃんと勝負しなさい、やって。アディらしいやろ?」
「そうですね」
柔《やわ》らかく笑って、猫屋敷が倍じ茶をすすめた。
その笑《え》みがすっと消えた。
受け取った穂波の手の中で、焙じ茶の水面が小刻みに揺《ゆ》れていたのだ。指が震えていたためだった。
「ん、お茶ありがと。……もう話はええやろ。あたしも、社長の呪力洗浄手伝う」
「穂波さん」
「何?」
「穂波さんは、まだ待っててください」
「なんで! フェーデはまだ二回も残ってるんやで。早く社長に復帰してもらわへんとやられたい放尾やんかっ」
激昂《げっこう》が、猫屋敷の顔を叩《たた》く。
かすかに眼《め》を細めて受け流し、青年陰陽師《おんみょうじ》はこう訊いた。
「アディリシアさんについて、どう思ってます?」
「……どう思ってるも何も、魔法使いが死ぬなんて、そんなん当たり前やろ。現代でこんなことをやってるんやから仕方あらへん。それやのに……それやのに、あたしがここで止まってから、それこそアディが無駄死《むだじ》にやんか!」
「前向きなのと浅慮《せんりょ》なのは違《ちが》いますよ」
あっさりと、猫屋敷は首を振《ふ》った。
「整理できないことを無理に整理するのが大人というわけでもありません。立てないときに無理に立ち上がるのは、治る傷も治らなくする、愚《おろ》か者の行為《こうい》ですよ」
「…………っ」
びくりと、穂波の肩《かた》が震《ふる》えた。抗議《こうぎ》しようと持ち上がった顔は、結局何の言葉も発することがなかった。
「呪力の洗浄はみかんさんと私でやります。その間、休んでいてください。――では」
「ふにゃあ」
「にい〜あ」
お盆《ぼん》を猫たち――白虎と朱雀の背中に載《の》せて、猫屋敷が背中を見せた。
そうしても、今度は引き止められなかった。
(さてさて……ここが、いろいろ正念場ですかね)
「……にあ」
と心配げに鳴く玄武の喉《のど》をくすぐり、猫屋敷は廊下《ろうか》の角を曲がった。
「あれ黒羽さん?」
「あ、猫屋敷さんっ」
廊下の端《はし》に、長い髪《かみ》の少女が立っていたのである。
「あ、あの、ごめんなさい。なんか、キッチンに入りづらくて」
「かまいませんよ。で、どうしました?」
促《うなが》すと、黒羽はややも慌《あわ》てた口ぶりで、
「地下室で、みかんちゃんが――お兄ちゃん社長を傷つけた人なんかと一緒《いっしょ》にいられないって、ラピスちゃんと喧嘩《けんか》になっちゃって」
「それはそれは」
聞き終わる前に、猫屋敷は急ぎ足で歩き出していた。
階段を降りる。
〈アストラル〉事務所・地下室。大がかりな儀式魔術《リチュアル・マジック》用に、複雑な選択《せんたく》的結界を張り巡《めぐ》らせた部屋であった。ある意味において、地上の事務所以上に〈アストラル〉の肝《きも》といえた。
「――はらいたまい、清めたまう」
その長い階段を降り、青銅の大きな扉を《とびら》開けた途端《とたん》、
「はらいたまい、清めたまう。いわまくもあやにかしこきはらえどおおかみのおおみいずをこいのみまつり、すべてのまがごとつみけがれをはらいのぞかむと、あまつのりとのふとのりとごとのる――」
舌っ足らずな祝詞《のりと》が、十メートル四方の地下室に反響《はんきょう》した。
ぱん!
くわえて、拍手《かしわで》が打ち鳴らされる。
目には見えず、しかし清らかな何かが、結界の中にさらなる線を引いた。
「ふーっ、ふーうっ」
その中央で、巫女《みこ》服のみかんは、獣《けもの》さながらに威嚇《いかく》していた。背中には昏睡《こんすい》したいつきとそのベッドが置かれており、いまの〈禊《みそ》ぎ〉によって凛《りん》と澄《す》んだ空気に浴している。
「…………」
対して、ラピスは黙《だま》ったまま、今みかんが拍手を打った少し前で、立ち往生していた。
いつもどおりの無表情だが、同じ場所で小さく足踏《あしぶ》みしているのは、なんだか困っているようにも見えた。
「――みかんさん」
と、猫屋敷は声をかけた。
「あ」
「あ、じゃないですよ。喧嘩しないようにって言いましたよね?」
たじろぎつつも、みかんは反論した。
「だ、だって、この子が、お兄ちゃん社長を怪我《けが》させたんでしょ。だから離《はな》れてって言ったのに、ずーっとお兄ちゃん社長にくっついてるし。それに……この子の身体《からだ》、絶対なんかおかしいもん!」
みかんの――神道《しんとう》の魔術《まじゅつ》特性〈禊ぎ〉は、あらゆるケガレを祓《はら》う絶対結界だ。ほとんどの魔術・呪力《じゅりょく》を拒《こば》むが、逆にいうと人間そのものにはまったく影響《えいきょう》を与《あた》えない。
「……じゃあ」
視線を滑《すべ》らせる。
黙ったままのラピスの肩口《かたぐち》に、白いものが惨《にじ》んでいた。
最初、ペンキか何かと思った。今の〈禊ぎ〉の衝撃《しょうげき》で、机か何かの塗料《とりょう》が剥離《はくり》したのかと。
だけど。
それは白いのに、確かに馴染《なじ》み深い臭《にお》いを放っていた。やっと生地《きじ》へ渉む程度の量なのに、ねっとりとした錆《さ》びた鉄の臭いを、潮のように広げていた。
「白い……血……?」
黒羽が、大きな目を見開いた。
「なるほど」
と、猫屋敷は得心した。
「……ホムンクルス、というわけですか」
「な、なんですかそれ? なんのことです?」
後ろで、黒羽が瞬《まばた》きする。霊《エーテル》体である彼女もまた、みかんの〈禊ぎ〉に近寄ることができないのである。
「錬金術《れんきんじゅつ》による人工生命ですよ。ラテン語でいえば『|小さな人《ホムルス》』。パラケルススの論文通りなら、試験管の中だけでしか生きられない生物ですけど、あの人はそのくびきから逃《のが》れたのですね」
「あにさまは、天才だから」
ラピスは、無表情に言った。誇《ほこ》らしく、と見えないこともなかった。
裏腹に、ツーピースに惨んだ血を押さえようともしない。あるいは、痛覚がないのかもしれなかった。それとも、痛覚があっても、傷を癒《いや》すという思考がないのかもしれなかった。
――ホムンクルス。魂《たましい》なき小人《ホムルス》。
その能力は、伝承によって大きく異なっている。
生まれながらに自然界のあらゆる知識を身につけているという文献《ぶんけん》もあれば、人間の乳幼児と変わらないという伝説もある。その製作方法や材料についても、人間の精液と数種のハーブであるとか、馬糞《ばふん》と生き血が必要だとか、一定する記述が極端《きょくたん》に少ない。ゆえに、ホムンクルスを創造できる錬金術師は〈協会〉でさえ数人しかいないはずだった。
(……ばかりか、新しく手を加え、ほとんど人間と変わらないホムンクルスを形づくる?)
ユーダイクス・トロイデ。
伊庭司が失踪《しっそう》してからの七年で、彼は何を得たのか。
なんとなくため息をつくと、ラピスはその顔を猫屋敷へ向けていた。
「あなた、知ってる。あにさまが言ってた。猫屋敷蓮。〈アストラル〉にひとりだけ残った後《こう》輩《はい》だって」
「あの人は〈アストラル〉のことなんて、すっかり忘れてると思ってましたけどね」
猫屋敷が頭を掻《か》く。いぶした銀色の髪《かみ》がわしわしと揺《ゆ》れる。
「――で、みかんさんの言うとおり、ここから離れるつもりはありません?」
「ラピスは、いつきのそばにいる」
短く言って、ラピスはまたいつきに向いた。
「あの……」
「嫌《いや》」
一言で拒絶《きょぜつ》した。首を振《ふ》りさえしない。
どこか、忠犬にも似ていた。昏睡《こんすい》した少年へのまなざしは、ひたむきでさえあった。
断固として、少女は言う。
「ラピスここにいる」
「……ふむ」
頭を捻《ひね》って、猫屋敷は代案を出した。
「でしたら、この部屋の前にいることまでは許可しましょう。徹底《てってい》的に呪力を洗浄《せんじょう》するとなるとホムンクルス程度の呪波干渉《かんしょう》でも避《さ》けたいところですし」
「猫屋敷さんっ?」
その譲歩《じょうほ》に、みかんが目を丸くする。
「それ、おかしいよ! その子がお兄ちゃん社長に何かするつもりだったらどうするのっ?」
「ホムンクルスに、他人を傷つけるほどの自我はありませんよ。ユーダイクスの指令がない限りは、社長を傷つけることもないでしょう。穂波さんの|魔女の結び目《ウィッチ・ウィット》がある以上、新たな糸《パス》は繋《つな》げませんしね」
「でも……」
「ラピスは、いつきを怪我させない」
と、ホムンクルスの少女がきっぱり答えた。
「むーっ、何言ってんの。じゃあ、なんでお兄ちゃん社長がこんなになってるのさっ」
「あれはあにさま。――ラピスは、いつきを怪我させない」
「…………」
猫屋敷と黒羽は、無言で少女を見詰《みつ》めた。
なぜだか、みかんもそれで黙《だま》りこくった。いつきを背中にかばったまま、不満たらたらに頬《ほお》をふくらませながらも、「……じゃあ分かった」とうなずいたのだ。
それはそんな、ひどく切実な物言いだった。
「ではそれで決まりというごとで。待っている問、お茶でもどうですか。でないと冷めちゃいますし」
「お茶?」
ラピスが首を傾《かし》げる。
「にゃあ」
「ふにい〜あ」
その足元で、ずっとお盆《ぼん》を持たされていた白虎と朱雀が、小さく抗議《こうぎ》の鳴き声をあげた。
穂波は、ソファの上で膝《ひざ》を抱《かか》えていた。
スプリングが効《き》かなくなった〈アストラル〉事務所のそれは、その上でうずくまるだけだったら、まだ十分な柔《やわ》らかさを備えていた。
目の前のデスクには、飲めなかった焙《ほう》じ茶が放置してある。ソファとデスクの間の床《ゆか》には、銀色のアタッシェケースが転がっていた。
そのアタッシェケースへ、穂波が人差し指を向ける。
「我、月の光のもと乞《こ》い願う」
すると、窓からさしていた月《ヽ》光《ヽ》が《ヽ》す《ヽ》う《ヽ》と《ヽ》伸《ヽ》び《ヽ》た《ヽ》。
「されば、霊樹《れいじゅ》と月の加護をもって南方の呪縛《じゅばく》を解き放たん。撃《う》て!」
月光の絡《から》まったヤドリギの矢が、アタッシュケースへ一直線に走った。淡《あわ》い白熱灯だけの室内に月光が弾《はじ》け、二度三度とアタッシェケースの表面に激突《げきとつ》した。
だが、砕《くだ》けたのは、一方的にヤドリギの矢の方であった。
「:傷ひとつなし、か」
苦渋《くじゅう》の顔で、穂波が呟《つぶや》く。
すでに、かなりの数の魔術《まじゅつ》を試《ため》してみたが、アタッシェケースの材質すら正確に知ることはできなかった。ばかりか、アタッシェケースには鍵穴《かぎあな》も継《つ》ぎ目さえもなかったのである。
唯一《ゆいいつ》分かったのは、このアタッシェケース自体が、最小規模の結界として機能しているらしいことだけだった。
(さすがは伊庭司の遺産やね……)
〈協会〉がフェーデの決着の前にアタッシェケースを渡《わた》したのは、『鍵』なしには開けられないという絶対の自信があったからだ。伊庭司が何を残したかは知れないが、このアタッシェケースの結界だけでも、十分|稀有《けう》な呪物《フェティシュ》といえた。
(ユーダイクスが欲しがるのも、当然かな……)
息をつく。
呪力とともに、どっと力が抜《ぬ》ける。脱力が《だつりょく》、あの言葉を思い出させた。
『立てないときに無理に立ち上がるのは、治る傷も治らなくする、愚《おろ》か者の行為《こうい》ですよ』
(…………!)
奥歯を噛《か》む。
分かってはいるのだ。
猫屋敷の指摘《してき》は正しい。今、穂波が無理をしてどうなるものでもない。それでも、悔《くや》しいのはどうしようもなかった。怖《こわ》いのが、許せなかった。
そう。
怖かったのだ。
『自分の魔術を信じすぎだ愚か者。だから無様を晒《さら》す』
魔法《まほう》になってしまった|魔法使い《オズワルド》とは違《ちが》う、あくまで同じ土俵での魔法戦闘《せんとう》。それで敗北を予感したのは、穂波にとって初めてのことだったから。
なにより。
――なにより悔しくて、怖かったのは。
「――あたしは……また[#「また」に傍点]……いっちゃんに……」
――PRRRRRRR……
突如《とつじょ》、思索《しさく》にデジタル音が割り込んだ。
携帯《けいたい》の着信音だった。いつきの携帯《けいたい》電話である。昏睡《こんすい》した少年から脱《ぬ》がしたジャーマン・コンチネンタルのスーツに入れっぱなしになっていたのだった。
「あ……」
――PRRRRRRR………
着信音は諦《あきら》めずに鳴りつづけた。粘《ねば》り強いともいえる。
その根気に負けて、穂波はスーツのポケットから携帯を取った。胸に手をおいて、おそるおそる着信ボタンを押して、『やっとでたあ! どうしてたの、いつき兄さん?』
いきなり、快活な少女の声が耳朶《じだ》を叩《たた》いた。
「えっ? 兄さん?」
『はいっ?』
しまった。迂闊《うかつ》に返事をしてしまった。深呼吸。気持ちを落ち着けで、もう一度。
「あ、あたし……穂波・高瀬・アンブラーいうで、社長……やなくて伊庭くんのクラスメイトで……」
『クラスメイト? でも、今の日本って夜の九時だよね?』
「あ」
虚《きょ》をつかれる。なんて、らしくない失態の連続。
が、驚《おどろ》いたのはこちらばかりではなかった。
『あ、あ、あ! あの、ま、まさか! 兄さんのガールフレンドだとか?』
「ええっ」
『あー! だから、兄さんあんなに言ったのにアメリカに来なかったんだ!』
一人合点して、電話の向こうの妹がうなずく気配があった。明らかにまずい方向に進んでいるという感覚が穂波の胸を粟立《あわだ》たせた。
「ちゃ、違《ちゃ》います! そういうんやなくて、そう、クラスメイトで、それでバイト友達で!」
『ふぇ、違うの?』
きょとんと、妹が訊《き》く。
『じゃあ、いつき兄さんはそこにいる?』
「それは……あの……伊庭くんがバイト先に携帯を忘れてたから、あたしが預かってるんです」
『ちぇ。つまんないの。でも、相変わらずだね!』
妹は人懐《ひとなつ》っこく笑って、手を叩いた。
『いつき兄さんね、昔っからあっちこっち忘れ物するのよ。筆箱とか消しゴムとかならいいんだけど、ひどいときはランドセルごと忘れて学校行ったりしてたもの。結局高校に入っても治ってないんだ』
「ランドセルごと?」
『うん。えっとー……内緒《ないしょ》だけどね。お弁当忘れていっちゃって、べそべそ泣いて帰ってきたりしてたよ。最近もあったりする?』
「さすがに、それはあらへんね……」
微笑《びしょう》しながら、罪悪感に心を刺《さ》される。
あんまりに、それは日常的な会話だった。
少年は、こんな普通《ふつう》の生き方ができるはずだったのだ。
それを引きずり込んだのは自分たちだ。魔法使《まほうつか》いの『遺産』があるからと、勝手な都合で呼び出して、勝手な都合で社長に据《す》えた。
そして、あんな目に遭《あ》わせた。
(勝手な都合で……勝手な約束や)
――『……いっちゃん! いっちゃん! いっちゃん!』
――『あたし、ここの魔女になる』
たとえ、それがずっと昔の約束であったとしでも、本人が忘れているなら、何の意味もないというのに。
『あ、あれ、どしたの? なんか、あたし、悪いこと言った?』
「ううん。そうやないです」
弱々しく、穂波は否定した。
でも、これ以上話す気力はなかった。話せば話すほど、自分の罪をつきつけられる気がした。
それを直視する力は、今は失われていた。
『じゃあ……いつき兄さんにひとつ伝言をお願いできます?』
「あ……うん。かまわへんよ」
『ありがとう。えーと父さん――いつき兄さんの叔父《おじ》さんからの伝言。なんか、ずつと昔、司さんから言われてたんだって』
と言って、妹はこう続けた。
『もし、ユーダイクスって人が来たら……』
穂波の表情が、まるでメデューサの顔を見たように固まった
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第4章 魔法使いとホムンクルス
――いつきは、闇《やみ》の中にいた。
光の一片《いっぺん》だにない、完全な闇。夜というよりも黒。黒というよりも虚無《きょむ》。
虚無の闇。
その間の中で、何かが喋《しゃべ》った。
【見タカ?】
「え……っ」
振《ふ》り返る。何も見えない。
音もない。
臭《にお》いもない。
気配だけがあった。
重く、黒く、ほとんど物質的なまでに密度の濃《こ》い気配がすぐそばにあった。
小さな島にも匹敵《ひってき》するのではないかという――桁外《けたはず》れに巨大《きょだい》な気配が、息のかかりそうなほど近くに生まれていたのだ。
「…………っ!」
【見タカ、ト、キ寸テイル】
気配が訊《き》いた。
鼓膜《こまく》を叩《たた》いているのか、直接|脳裏《のうり》に響《ひび》いているのか、それすら分からなかった。ただ気配と自分とが渾然《こんぜん》となり、境界がなくなり、 「誰《だれ》……っ?」
動揺《どうよう》するいつきに、気配は哂《わら》う。
【オ前ハ、見ルダケデイイ。見テ、視《み》テ、観《み》ルダケデイイ】
「あ………………っ」
目が。
いつきの右目の瞼《まぶた》が、勝手にあがった。
いつきの意思を離《はな》れて、眼球が剥《む》き出しになる。その瞳《ひとみ》に触《ふ》れそうな距離《きょり》で、気配が覗《のぞ》き込んでいる。
「ひ……あ……ひ……」
尖《とが》った何かが、瞳の表面を優《やさ》しくなぞり、
――ぶつっ
「あああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」
何かが、眼球を破った。
どろりと粘液《ねんえき》が噴《ふ》き出し、目玉に異物が潜《もぐ》り込む。痙攣《けいれん》するいつきを無視して、深く深く、奥へ奥へと食い込んだ。吐《は》き気と涙《なみだ》がいっぺんにごみあげ、内臓が裏返る。
発狂《はっきょう》しそうな激痛なのに、意識だけははっきりと冴《さ》えて、右目に侵入《しんにゅう》するそいつ[#「そいつ」に傍点]を認識《にんしき》していた。
【オ前ガ我ヲ見ル時、我モマタオ前ヲ見ヨウ】
いつきの脳を、業火《ごうか》が灼《や》いた。
「――いつき?」
誰かに、呼ばれた。
「…………っっっ!!!」
その声で、ひきずられるように覚醒《かくせい》する。破裂《はれつ》した眼球が再生し、裏返った内臓が表返る。
嘔吐《おうと》感と涙が引き戻《もど》って、鉛《なまり》のように重い瞼がぎこちなく開いた。
「はぁっ……はぁっ、はぁっ……」
仰向《あおむ》けのまま、荒《あら》い息が肺から搾《しぼ》り出される。自分でも驚《おどろ》くほど、額から胸にかけてが寝汗《ねあせ》でぐっしょりと濡《ぬ》れていた。
どうやら、ベッドで寝《ね》ていたようだった。
蝋《ろう》の煤《すす》に汚《よご》れた石天井《いしてんじょう》に、見覚えのある何重もの魔法円《まほうえん》が描《えが》かれていた。
「……〈アストラル〉の……地下室?」
切れ切れに呟《つぶや》くと、隣か《となり》らもう一度、硬質《こうしっ》の声がかかった。
「いつき、起きた?」
「あ……ラピスちゃんっ」
慌《あわ》てて、ベッドの上から瞳だけを向ける。地下室の扉《とびら》のそばに、黒いツーピースの少女が立っていたのである。
まじまじとその少女を見つめて、いつきはほっと息をついた。
「えっと……今は、本当のラピスちゃん……だよね。――なんで、そんなに離れてるの?」
「入らないように言われた。呪波干渉《じゅはかんしょう》が起こるから」
「じゃあ……ずっと、そこで待っててくれたの?」
ラピスが、無表情にうなずいた。軽くウューブした赤髪《せきはつ》が、ある種の蠱惑《こわく》を漂《ただよ》わせて、陶器《とうき》のように白い胸元《むなもと》でそよぐ。
――その、人形的な美の極致《きょくち》。
「――――っ」
ぞくり、と思い出す。
いつきの意識ではついさっきのことだ。眼帯を取った自分。いくらアディリシアのことがあったにせよ、怒《いか》りに任せ、ユーダイクスに乗っ取られたラピスへ、拳《こぶし》を振《ふ》るった自分。
すんでで気絶したからこそ助かったが、あのままだと、自分は何をしていただろう。
あるいは。
この少女を殺してしまったのではないか。
(殺す……?)
思っただけで喉《のど》がひきつった。自分の思考に、自分で恐怖《きょうふ》する。ぶり返した吐き気を飲み込んで、強く奥歯を噛む。うるさいほどに鳴る心臓に、必死で耐《た》えた。
「――いつき?」
そんな少年の様子に何かを感じたのか、赤髪の少女が、小さく首を傾《かし》げた。
「なんでも、ないよ」
曖昧《あいまい》に笑う。
とにかく、無理やりに、自分への違和感《いわかん》を押し込めた。そうだ。今やるべきは、こんな葛藤《かっとう》じゃないだろう。
(ああ、そうだ)
まず――――――――――――――――謝らなきゃ。
ぬるま湯な考えと思うけれど、そんな考え方ができることに、ちょっとだけ、いつきは安堵《あんど》した。自分の知っている自分。臆病《おくびょう》でも、情けなくでも、中途半端《ちゅうとはんぱ》でも、十六年間付き合ってきた伊庭いつきの思考法である。
「ラピスちゃん――」
呼びかけ、上半身を持ち上げようとした。
持ち上げようとしたのに、だらんと右手がベッドから落ちた。
「えっ……」
「どうか、した?」
「あ……うん。……ちょっと……力が入らなくて」
実際は、それどころじゃなかった。
まるっきり身体《からだ》が動かなかったのである。
力を入れた端《はし》から、虚空《こくう》に消えていくような感じだった。
以前にアディリシアと〈夜〉を視《み》たときにも同じことがあったが、あのときよりもずっとひどい。肩《かた》から上と、かろうじて指が動くけれど、ほかはさっぱりである。痛みはないのだが、その分暑いとか寒いとか、そういう感覚も朧《おぼろ》だった。
「寝てていい。いつきの声、聞こえるから」
「……あ、ありがと」
恐縮《きょうしゅく》して、いつきは緒こまった。……といっても、首がちょっぴり動いただけだが。
「……………………それと、ごめん」
ラピスは怪訝《けげん》そうに眉《まゆ》をひそめる。
「何がごめん?」
「あの……痛かったでしょ。眼帯取ると、気が大きくなるっていうか、怒《おこ》りっぽくなるっていうか……なんか喧嘩《けんか》っ早くなっちゃうみたいなんだ。それで……ああ、えっと……とにかくごめんなさい!」
「意味が分からない。殺そうとしたのは、あにさまも同じ。いつきが謝る理由がない」
「でも……あれはラピスちゃんじゃないでしょ?」
反論するいつきへ、赤髪の少女は振り子のようにかぶりを振る。
「ラピスは、あにさまのホムンクルスだから。優先されるのは、ラピスの嗜好《しこう》じゃなくてあにさまの意思。ラピスはいつきを怪我《けが》させないけど、あにさまは怪我させる。だから同じ」
ひどく、単純な論理。
あまりにも、魔法使《まほうつか》いらしすぎる結論。
「……ホムン、クルス?」
「擬似《ぎじ》人間。無から生み出された錬金術《れんきんじゅつ》の小人《ホムルス》。分からなかったら化け物でいい」
ラピスは、ツーピースの肩口《かたぐち》を指してみせた。黒いサテンの生地《きじ》に滲《にじ》んだ、真っ白な血。
その血を見て、いつきはたちまち青ざめた。
「…………」
一瞬《いっしゅん》だけ、ラピスが泣きそうに表情を歪《ゆが》め、すぐ元に戻《もど》る。
いつもの反応だったからだ。
魔法使いなら興味|津々《しんしん》で近づき、そうでないなら逃《に》げ去っていく。それまでラピスを可愛《かわい》がってくれた相手でも、それまでラピスが懐《なつ》いていた相手でも関係なく、その反応だけはいつだって同じだった。
真実、といってもいい。
ホムンクルスの少女にとっては、短い生涯《しょうがい》でたったひとつ信用できる真実。
――そして、
「血っ……て、手当てしないとっ」
と、少年は血相を変えてわめいた。
「だ、だって、服に滲むような怪我でしょ。すぐ手当てしないとばい菌《きん》入っちゃうよ!」
「…………」
「ああもう、なんで皆《みな》、怪我人ほったらか」てどっか行ってるのっ? ラピス、悪いけど穂波か猫屋敷さん呼んで。あ、猫屋敷さん分からない? あの、ちょっと灰色の羽織着てで猫《ねこ》を纏《まつ》わりつかせてる人なんだけど。うん、見たらきっと分かるから!」
「…………」
「ラピス?」
いつきが、きょとんとする。
ラピスは、びっくり」たような顔で固まったのである。
間をおいて、少女が言う。今度の声には、苛立《いらだ》ちに近い何かがこもっていた。
「もう、止まってる。滲んだのはさっき喧嘩」たから、傷口が開いただけ」
「け、喧嘩? 誰《だれ》とっ?」
「みかん。いつきに触《さわ》っちゃ駄目《だめ》って言ったから」
「だ、駄目だよ! 喧嘩なんかしちゃ駄目。一応、ここ、皆の会社なんだから」
「…………」
目を白黒させるいつきに、ラピスはなぜか苛々した様子でそっぽを向く。
「え、と……怒った?」
「違《ちが》う」
どこが違うのか、と訊《き》きたかった。普段《ふだん》表情がないだけに凄《すご》みのあるオーラを纏《まと》って、少女は床《ゆか》を見つめている。どうかすると、石の床に穴が開くんじゃないかと思えるほどだった。
そのまま、ぼそりと、こう告げた。
「いつきは、この会社|嫌《きら》いなんだから関係ない」
「ふえっ?」
「あにさまから、いつきは最近になって、無理やり会社を受け継《つ》がされたって聞いた」
ラピスの面が《おもて》あがる。
いつもと同じ――でも、遥《はる》かに真剣《しんけん》な瞳が《ひとみ》言う。
「――だったら、嫌いなはず」
「…………」
しばらく、いつきには答えられなかった。
いいかげんな返事はできなかった。それだけの何かが、ラピスの台詞《せりふ》にはあった。思想とか信念とか、正体は分からなくでも、誤魔化《ごまか》せないものを感じてしまった。
「……う〜ん」
腕《うで》を組めないので、天井を《てんじょう》見上げて考える。
ラピスの言葉に、応《こた》えうるもの。
匹敵《ひってき》するもの。
沈思《ちんし》し、黙考《もっこう》」、省察する。
さして、時間はかからなかった。
「――いつき?」
と、答《とが》めるようなラピスの声に、
「あ、うん。少なくとも――今、僕はここが好きだよ」
と、きっぱり答えたのである。
「……どうして?」
「最初は無理やりだったよ――今だって滅茶苦茶《めちゃくちゃ》だ。社長だからって、わけのわからない魔法の勉強させられるし、経営学のドリルだとか株式講座の本だとかもう何百冊も読まされちゃう」ね……。頭おかしくなっちゃうんじゃないかって、何度も思った。しかも、怖《こわ》い目にもいっぱい遭《あ》っちゃうしさ」
いつきが微笑《ほほえ》む。
その弱々しい微笑《びしょう》に、ラピスは小さく息を呑《の》む。
「じゃあ、やっぱりどうして?」
「それでも、ここは……うん、穂波も、みかんちゃんも、猫屋敷さんも、黒羽さんも、僕の家族だもの。目を閉じでも、耳を塞《ふさ》いでも、逃《に》げ出したくなっても、そのことには変わりないよ」
「……家族」
ラピスには分からない。
家族というのが、社会生活を営む上での共同体|概念《がいねん》であるという、それぐらいの知識しかない。血縁《けつえん》でなくてもそういうのだろうかという、その程度の疑問しか湧《わ》かない。
でも、目の前のいつきは、当たり前のように、ひどく穏《おだ》やかな顔をしている。
(…………)
だから――不意に怖くなった。
自分の知らない何かが、自分を侵食し《しんしょく》ているような気がして。
「最初は……無理やりだったけどね。でも、途中《とちゅう》から楽しくなってきて……やりたいこととは違ったけど、楽しい。そんなこともあると思う」
「……たいせつな、ところ?」
ラピスがまたうつむく。
「うん、そう」
照れくさくなって、いつきもそっぽを向いた。鼻の頭も掻《か》けないのがもどかしい。
「――お兄ちゃん社長っ」
いきなりの声に、その顔を引き戻《もど》された。
慌《あわただ》しい足音が、外の階段を駆《か》け下りてきたのである。
「お兄ちゃん社長、お兄ちゃん社長、お兄ちゃん社長っ!」
「あ、みかんもゃ――ぐええええっ!」
ラピスの後ろから現れたのは、不意打ち気味に首元へ飛びついてきたみかんと――穂波だったのだ。穂波はどうやら着替《きが》えたらしく、ワンピースの上に魔女《まじょ》のマントととんがり帽子《ぼうし》をかぶっていた。
「社長、起きたん?」
「あ、穂波も。よかった、穂波も帰ってたんだ」
抱《だ》きつかれたままいつきが漏《も》らすと、穂波は、無言でずけずけと地下室に入ってきた。いつきのすぐ側《そば》まで歩み寄り、間近で眼帯を覗《のぞ》き込む。
よく見ると――その頬《ほお》が妙《みょう》に赤かった。
「あり、どしたの?」
「な、なんでもあらへん。……あたし、そんな、無茶な勉強はさせてへんもん」
「え、何?」
「や、やからなんでもないっ。……だいたい……あ、あたしは自分がでけへん勉強を他人に押しつけたりせえへん。それでついてこれへんのほ、あたしのせいちゃうもん。社長が、もつと集中して勉強したらええわんっ」
「あ、はいっ、はいっ!」
支離滅裂《しりめつれつ》な勢いに押されて、いつきが思わずうなずく。
穂波は耳まで赤くなったまま、ぱんぱんとワンピースの裾を叩《すそたた》いて、そのいつきに尋《たず》ねた。
「そんなことより……身体《からだ》はどないなん?」
「あ、うん。うまく動かないんだけど……でも、ちょっとずつましになってきたかな。うん、大丈夫《だいじょうぶ》そう。痛くないし」
あはは、と笑う。なんとか動く肘《ひじ》を使ってー、ひらひらと左手を振《ふ》った。
が、穂波は――急に表情を凍《こお》りつかせたのだ。
「動かない? 右目やなくて、身体が?」
「え……うん」
「みかん、ちょっとどいて。――社長、手貸して。ううん借りるで」
ぐいっと、穂波が手を引っ張る。感覚はないけれど、柔《やわ》らかそうな手首と、ほのかに甘い匂《にお》いを感じて、いつきはかすかな目眩《めまい》を覚えた。
「な、何、穂波?」
「動かないのは、全部? 右、左?」
「え、え〜と、どっちかっていうと、右かな。左は感覚戻ってきたし」
「そう」
すると、右手と左手を交互《こうご》に取って、穂波が試行|錯誤《さくご》しはじめた。手の皮をつねったり、撫《な》でたり、引っ張ったりする。
「あ、あいたたたた! 穂波、だから左は感覚あるんだってば!」
「いいから!」
一喝《いっかつ》されて、いつきの文句が引っ込んだ。
「ど、どうしたの?」
「いいから黙《だま》ってて。ちゃんとあたしの言うこと聞いて」
「う、うん。分かった――」
いつもの調子で言い負かされたいつきだが、「え?」と――すぐに眉《まゆ》をひそめた。
眼鏡《めがね》の奥で、穂波の|蒼水色の瞳《アイスブルー・アイ》が、涙《なみだ》に滲《にじ》んでいたのである。
「すぐ治療《ちりょう》するから。じっとしてて!」
いつきが確かめる前に、少女はとんがり帽子を引き下げて、顔を隠《かく》してしまった。
――一方、その頃《ころ》。
〈アストラル〉洋館・バルコニーの安楽椅子《ロッキングチェア》で、猫屋敷はへたばっていた。
月光《げっこう》の呪力を《じゅりょく》取り込むべく、庭へと張り出した半円のバルコニーである。
膝《ひざ》や足元では、四匹の猫《ひきねこ》たちもバターみたいに伸《の》びている。どうかすると、そのまま猫屋敷の羽織に溶《と》け込んでしまいそうなぐらいであった。
「――気分、どうですか? 紅茶掩れましたけど」
淡《あわ》い月光を透《す》かして、黒羽が覗き込も。その隣《となり》では、騒霊現象《ポルターガイスト》――念動力によって、ティーポットとカップが浮遊《ふゆう》していた。
「やあ、すみません」
と、猫屋敷が手をあげた。
それでも安楽椅子から身を起こさないのだから、疲労《ひろう》はよほどのものなのだろう。
「あの……本当に大丈夫ですか?」
「いやいや、大したことじゃありませんよ。ただ本格的な魔術|儀式《ぎしき》がひさしぶりだったんで、思いのほか消耗《しょうもう》しちゃっただけです。同じ魔術系統ならいいんですが、みかんさんと私みたいに別系統で協力すると、どうしても呪力のロスが大きいですしね。いやはや、年はとりたくないもんです」
「一応、前に穂波さんに習ったハーブティーにしました。疲《つか》れがとれるそうです」
「や、それはありがたい」
拝むように指を伸ばすと、その手の平へカップがふわふわと載《の》った。
ついで、ティーポットが傾け《かたむ》られ、琥珀《こはく》色の液体をごぼごぼ満たしていく。
ちなみに、ここまで黒羽が騒霊現象《ポルターガィスト》を制御《せいぎよ》できるようになったのは、ごく最近のことである。
最初のころはティーカップをひっくり返しては、いつきに熱湯を浴びせていたものだった。
それを思い返しでか、くすりと微笑《ほほえ》んで、猫屋敷が訊《き》いた。
「でも……黒羽さんも社長のところに行きたかったんじゃないですか」
「あ、あの、あたしはいいんです。だって…:みかんちゃんも疲れてたのに、絶対お兄ちゃん社長が起きるまで得つって、あんなに頑張《がんば》ってましたし。穂波さんも、きっと責任感じてたと思いますから」
「……なるほど」
苦笑《くしょう》して、猫屋敷はカップを唇《くちびる》に近づける。
花の香《かお》りが広がった。身体《からだ》の奥までも染《し》み入る、慎《つつ》ましやかで優《やさ》しい香りだった。紅茶には掩れた人の性格が出るというけれど、確かにこの紅茶ならそうだろう。
「うん、美味《おい》しいですよ」
「ありがとうございます。……あの、ひとつ訊いていいですか?」
「はい、何でしょう」
のんびりと返事をすると、黒羽は逡巡《しゅんじゅん》した後、思い切った顔でこう尋《たず》ねた。
「いつきくんの眼《め》の対価って、何なんですか?」
「――黒羽さん」
「え」
猫屋敷が、上半身をもたげていた。
普段《ふだん》から薄目《うすめ》な験が《まぶた》はっきりと開いている。その奥の瞳《ひとみ》には、驚《おどろ》いた顔の黒羽が映し出されていた。
「あ、あの、訊いていけないことだったら、ごめんなさい。でも……」
「いいですよ。あなたも〈アストラル〉の社員なんです」」
弁解する少女を、猫屋敷がとりなす。
「それより、眼の対価って話は、どこから聞きました?」
「あ……影崎さんが、そう言ってましたから」
「影崎が?」
一瞬《いっしゅん》、瞳に影《かげ》をよぎらせて、
「相変わらずですね。何を考えているのやら」
と、青年陰陽師《おんみょうじ》は複雑な顔で、膝の猫の頭を撫《な》でた。
「まあいいでしょう。……先の質問ですが、対価っていうのは、今の私の疲労みたいなもんですよ」
「疲れ、なんですか?」
おずおずと訊く黒羽の口調は、どこか不安げであった。
「あくまで、例のひとつですよ。軽いものなら、単なる精気《オド》の欠乏《けつぼう》やちょっとした触媒《しょくばい》、ある程度ひどくても、まあ数ヶ月ほど寝込《ねこ》むぐらいですむでしょう。ですが、それは危険度や呪詛《じゅそ》対価の低い魔術《まじゅつ》なら、の話です」
ひとつ間をおいて、猫屋敷が紅茶を飲む。
「危険度と呪詛対価。前者は制御の難しさで、後者は文字通り対価の大ききのことです。対価の大きい魔術は、時に術者の知らぬところで、ひとつの呪詛をも形成します。未熟な魔法使いが魔術に失敗した場合、本人はおろか、肉親や一族の身体が腐《くさ》れたり……小さな国ひとつを呪波|汚染《おせん》に蝕《むしば》むことだってありえます」
夏の夜にうかのまの静寂が《せいじゃく》流れた。
黒羽に実体があれば、大きく唾《つば》を呑《の》み込む音がしただろう。空になったカップを机へ戻《もど》し、猫屋敷が自分の手で二杯《はい》目を掩れる。二杯目からはたっぷりとミルクも入れ、猫たちの口にも軽く含ませてやった。
「じゃあ、社長の眼は……」
「分かりません」
青年が、じっと幽霊《ゆうれい》少女を見た。
「あの眼について、詳《くわ》しく知っているのは前の社長――伊庭司ぐらいなものでしょう。伝説ならばいくつかありますが、妖精眼《グラム・サイト》は稀少《きしょう》すぎて、その実態は分かっていません。どんな対価があるかも……あるいは、その対価が他人に降りかかるかも分かりません」
まして、猫屋敷はいつきの呪力《じゅりょく》に触《ふ》れたばかりであった。
ここまで彼が疲労《ひろう》したのは、単にみかんとの呪力調整のためだけではない。いつきを蝕んでいた呪力を刺激《しげき》せず、払拭《ふっしょく》するために、極度の集中力を必要としたからだ。万が一、洗浄に《せんじょう》失敗した場合、どれほどの呪詛が生まれたか。
だけど、
「じゃあ、あたしたちが頑張らなきゃですね」
と、黒羽は目の前でガッツポーズをつくってみせた。
「は?」
「だって、あの眼をいつきくんに使わせないようにしなきゃいけないんでしょ。いつきくんだって危ないし、他の人がひどい日に遭《あ》っても、いつきくん絶対傷つくから」
すると、猫屋敷は目を丸くしていた。
一瞬呆《ほう》けた顔が、すぐ笑《え》み崩《くず》れ、腹部を抱《かか》えて笑い出したのである。
「――あっはははははははははは!」
「な、何ですか、猫屋敷さん。あたし、変なこと言いましたっ?」
「いえいえいえいえ。いや、確かにそのとおりですよ。うん間違《まちが》いありません」
笑いながら、手を振《ふ》る。恥ずかしそうにしゅんとなった黒羽を眺《なが》めて、猫屋敷はふといつきのことを思い返した。
(皆《みな》、あなたを慕《した》ってますよ)
それは、人の上に立つものの、第一の資質だ。
単純な能力ではなく、その人に何かをしてやりたいと自然に思わせる天性の魅力《みりょく》。
(いや、天性というのは失礼ですかね)
そう、多分。
彼らがいつきのために何かをしてやりたいというのは、ちゃんと理由がある。
だから!
「――あなたがその理由に気がつけば、ひとつは進んだことになりますけどね……」
「え?」
「独り言ですよ。じゃあ、社長も起きてる頃《ころ》で」ようし、迎《むか》えにいきますか」
まだ疲《つか》れのとれぬ身体《からだ》をゆっくりと持ち上げ、猫屋敷が黒羽に手を伸《の》ばす。
――そのとき、猫屋敷は気づいた。
「――|乞い願う《ハイル》。我が力の円錐《えんすい》と霊樹《れいじゅ》の加護もちて、千年の森の命を分け与《あた》えたまえ。されば、成せ」
ひとくさりの詠唱《えいしょう》とともに、穂波は緑色の軟膏《なんこう》をいつきの右手から右肩《みぎかた》、眼帯にまで塗《ぬ》りつけていく。インディアンの刺青《いれずみ》みたいな塗り方で、ところどころで円や三角の紋様《もんよう》を描《えが》く。感覚はないのだけど、その動き方だけでなんだかくすぐったくなった。
「それ、何かな?」
誤魔化《ごまか》すように、視線をそらして訊《き》く。
「パナケア。――月齢《げつれい》六日の夜に、黄金の鎌《かま》で切り取ったヤドリギは呪力を持つ。そのヤドリギを魔女の大釜《おおがま》で煮詰《につ》めてつくった軟膏。もともとのドルイドのそれからは、ずいぶんアレンジしてるんやけどね。前の授業でも教えたやろ?」
「ふ、ふうん?」
正直、半分も分からない。
ドルイドが穂波のケルト魔術の元祖だとか、ヤドリギと石と歌とがその呪力《じゅりょく》の源だとか聞いたようにも思うのだが、ぐだぐだである。
穂波も、普段《ふだん》ならそんないつきに冷たい視線を投げかけるのだが、今回ばかりは少し様子が違《ちが》った。
ひどく厳粛《げんしゅく》に――祈《いの》るように、軟膏を塗りつける。
その横顔に打たれて、いつきも身を預けた。
みかんも、ラピスも何も言わなかった。
しばしの後、
「どう?」
と、穂波が訊いた。
「え?――あ、す、すごい! 動く動く!」
くるくると手を回して、いつきは仰天《ぎょってん》した。眼帯の奥にかすかな疼《うず》きはあるが、代わりに感覚も戻《もど》っていた。ぎゅっ、ぎゅっ、と二、三度|拳《こぶし》を握《にぎ》り締《し》めて、
「良かったあ。なんか、すぐには治らないのかと思ってた」
「――社長」
穂波が、今度こそいつも通りの|蒼水色の瞳《アイスブルー・アイ》で睨《にら》めつける。
「は、はい」
「仮にも社長が、そんないもかばちかをして、どないすんねん! 確かに、どうしようもないこともあるやろ。でも、それ以外で賭《か》けをするんは、人の上に立つ人間のやることちゃう。アディやったらそんなん絶対……」
途中《とちゅう》で、穂波は言葉を詰《つ》まらせた。
いつきも沈黙《ちんもく》し、うなだれる。
「ごめん穂波。……アディリシアさんまで巻き込んで」
ケルトの魔女《まじょ》は、ただ首を横に振っただけだった。
さきほどの名前には触《ふ》れず、
「約束して」
と、右手の小指を突《つ》き出した。
「その眼帯は、自分の命が危ないと思ったとき以外は、取ったらあかん」
「あ、お兄ちゃん社長、あたしとも約束」
隣《となり》で聞いていたみかんも、それを聞いて身を乗り出した。
「へ、みかんちゃんも?」
「だって、お兄ちゃん社長の呪力|洗浄《せんじょう》するの、すっごい大変だったんだもん。あんなの絶対身体に悪いんだから!」
毛布を掴《つか》んで、無理やりにいつきの小指を引きずり出す。
その小指に自分の小指と穂波の小指を絡《から》ませて、
「ん、約束約束♪」
と、にっこり一人合点したものである。よほど約束が嬢《うれ》しかったのか、「えへへ、お兄ちゃん社長と約束だー!」なんて言って、赤い糸を小指に巻き、ぴょんぴょんその場で跳《は》ねていた。
困った風に眉《まゆ》を寄せて、いつきはふと、まだ小指が温かいのに気がついた。
「……え?」
穂波が両手で、いつきの小指を握っていた。
普段の|凛々《りり》しさや、力強さはまるでない。
代わりに、ひどく繊細《せんさい》な――童女のような表情がのぞいていた。魔女というにはあまりに清らかな、可憐《かれん》な、眼鏡《めがね》の奥の瞳《ひとみ》。その蒼《あお》さに打たれて――胸と、小指が熱を持った。
「……ほ、なみ?」
「あっ」
呼びかけられて、ぱっと、穂波が手を離《はな》した。栗色《くりいろ》の髪《かみ》が揺《ゆ》れて、真っ赤な頬《ほお》を隠《かく》す。
「な。なに、社長!」
「いやー、何って……その、小指」
「……なんでもあらへん! しゃ、社長が約束を守るようにおまじないしてただけ!」
ぶんぶん首を振《ふ》って、穂波が主張する。
「お、おまじない?」
「そうや! や、破ったら、ひどいことなるんやから! 契約儀式《ゲッシュ》なんか目やないもん! 身体《からだ》は八つ裂《ざ》きになって、首は破裂《はれつ》して、十三代の間は死ぬこともできずに|無間地獄《タルタロス》を彷檀《さまよ》うんやから!」
いくらいつきでも嘘《うそ》と分かる。
が、この場合、むしろ勢いに押されて、少年は青くなった。
「う、うん。分かった。分かったから」
「ほんまにっ?」
「ほんま、ほんま! 絶対破らへんから! 誓《ちか》うから!」
なぜだか関西弁になって、かくかく首を上下させるいつきである。
でも、心のどこかで――ほっと安心した。
それが、やっと見られた、いつもの穂波だったからかもしれない。
(……そっか)
すでに、こんなやりとりは、いつきの日常として馴染《なじ》んでいる。穂波にとっちめられるのも、こんな風にはしゃぐのも、とっくの昔に伊庭いつきの一部だ。
なくなったら、きっと悲しい。
そのとき、もうひとつ、かぼそい声があがった。
「いつき」
ラピスであった。
「――――?」
部屋の入り口で、人形のように黙《もく》して佇《たたず》んでいた女の子は、
「それが、いつきの『たいせつ』?」
と、訊《き》いた。
羨《うらや》むような、遠いものを見るような声だった。
「まあ……うん、そうなるかな」
「そう」
冷たく、ラピスは切り落とした。そうしなければ、立っていられないという風でもあった。
ぽつりと――こう呟《つぶや》く。
「見なかったら、良かった」
「え――?」
「知らなかったら良かった。気づかなかったら良かった。いつきなんかに会わなかったら良かった」
優《やさ》しい三人を見つめ、ラピスは言い募《つの》る。
顔は無表情なままなのに、その声は激情に震《ふる》えていた。いままで人形のようだった雰囲気《ふんいき》は跡形《あとかた》もなく消え去り、代わりにひどく人間的な――怒《いか》りに似た感情が少女を支配していた。
「ラピスちゃ……」
言いかけたいつきが、急に右腕《みぎうで》を押さえた。
少女が、一歩部屋へ踏《ふ》み込んだのだ。
それだけで、今軟膏《なんこう》を塗《ぬ》られた右半身が、びりびりと痒《しび》れた。呪波干渉《じゅはかんしょう》。少女から放たれた呪力がパナケアのそれに反応し、その癒《いや》しの力に干渉している。
(……きっと、分からない)
ラピスは、思う。
ホムンクルスだから、|そんなもの《ヽヽヽヽヽ》に縁《えん》はないと思っていた。魔法使《まほうつか》いに、|そんなもの《ヽヽヽヽヽ》はないと思っていた。
思っていたかった。
なのに。
あるはずのないものを、見せつけられた。
魔法使いなのに、魔法使い同士なのに『家族』だなんて見せつけられて――自分の生きてきた現実が、ただ単に不幸なだけだと思い知らされた。世界にはちゃんと幸福な現象があって、自分には手が届かないだけだと認識《にんしき》させられた。
――そう、どうやっても届かない。
だから。
理不尽《りふじん》だろうが、不合理だろうが。
嘘っぱちだろうが、でたらめだろうが。
必死で、ありったけで、いつきを憎《にく》む。そうしないと立ってもいられない。そうしないと意地を張ってもいられなかった。
「いつきは――」
と、少女は口にした。
「いつきは、死ぬまで届かないって分かってたらどうする?」
「何、だって……?」
困惑《こんわく》するいつきに、ホムンクルスの少女は問いかける。
「自分の死ぬときまで、絶対に欲しいものには手が届かないって分かってたら? そうしたら、いつきはどう時間を過ごす?」
「…………」
もとより答えを期待した問いではない。
返答に窮《きゅう》したいつきへ微笑《ほほえ》むと、ラピスは身を翻《ひるがえ》した。赤い髪《かみ》を波打たせ、地上への階段へと姿を消す。
「ラピスちゃんっ――?」
「――あにさま、来るよ」
追いかけようとするいつきへ、少女が囁《ささや》くのと同時に。
それは、起きた。
――そのとき、猫屋敷は気づいた。
「あ、れは……」
「え? 猫屋敷さん?」
きょとんと黒羽が首を傾《かし》げる。
その顔を透《す》かして、見えたのである。
〈アストラル〉を見下ろすビルの谷間。昼には〈協会〉の飛行船が舞《ま》い降りた夏の空で。
夜が[#「夜が」に傍点]、歪んだ[#「歪んだ」に傍点]。
「――――っ!」
ビルの屋上にいれば、もつとはっきりと見えたろう。
夏の星座!こと座のベガ、わし座のアルタイル、ばくちょう座のデネブからなる夏の大三角がぐにゃりとひずんだのである。ばかりか、ほかの星をも巻き込んで急速に収束し、巨大《きょだい》な光の柱と化した。
槍《やり》、と猫屋敷は感じた。
神代、天帝《ゼウス》が放ったという滅《ほろ》びの雷《いかずら》!いいや、これは、星の光を集めた神の槍!
「玄武、朱雀、青龍、白虎!」
黒羽の前へ立ち、猫屋敷が続けて四|匹《ひき》の名前を呼ぼうのと、
ズドオ……ンッッッ!!!!
〈アストラル〉の洋館が、大きく揺《ゆ》れたのは同時だった。
[#改ページ]
第5章 魔法使いの家
〈アストラル〉事務所を襲《おそ》った光の柱は、まずその外緑《がいえん》で激しくぶれた[#「ぶれた」に傍点]。
何か、見えない壁《かべ》へ衝突《しょうとつ》したかのようにねじくれ、蛇《へび》を思わせて蠕動《ぜんどう》した後、一気に事務所を覆《おお》い尽《つ》くした。
三階の天井《てんじょう》を踏《ふ》み砕《くだ》き、庭を容赦《ようしゃ》なく焼き、壁面《へきめん》を灼熱《しゃくねつ》の舌で舐《な》める。大地を穿《うが》ち、硝子《ガラス》を融《と》かし、静謐《せいひつ》な夜気を喰《く》らい尽くした。
爆発《ばくはつ》し、破裂《はれつ》し、炸裂《さくれつ》し、呑み込んだ。
映画でも、稀《まれ》にしか見られぬような惨事《さんじ》。
そのくせ、敷地《しきち》の外の人間は誰《だれ》も気が付かず、一メートル先に落ちたビニール袋《ぶくろ》さえ吹《ふ》き飛ばさない――実にささやかな破壊《はかい》劇であった。
魔術《まじゅつ》による死とはこれだ。
魔法による罰《ばつ》とはこれだ。
ミサイルにも核爆弾《かくばくだん》にもなせぬ、闇《やみ》から闇へと葬《ほうむ》る破壊の御手《みて》。あるいは、過《あやま》ちなく罪人のみを屠《ほふ》る劫罰《ごうばつ》の雷火《らいか》。
――だが。
それでも、〈アストラル〉の洋館は原形をとどめていた。
無残に焼け焦《こ》げ、イオン化した空気に爆《は》ぜた壁面を撫《な》でられながら――それでも頑《がん》として崩《くず》れてはいなかった。
「……さすがは、我が古巣。我が三年を費やした〈トートの槍〉にも耐《た》えたか」
乾《かわ》いた拍手《はくしゅ》が響《ひび》く。
「それとも、あの刹那《せつな》に結界を強化した猫屋敷の腕《うで》を誉《ほ》むべきかな。もっとも、その腕ゆえにヤツは怖れるに足りんが[#「その腕ゆえにヤツは怖れるに足りんが」に傍点]」
〈アストラル〉の洋館を見下ろす夜空に、純白のインバネスが浮《う》いていた。月光を浴びて、炎《ほのお》のごとき赤髪《せきはつ》が燃えている。ごつい手には精緻《せいち》な懐中《かいちゅう》時計を握《にぎ》りこみ、削《そ》げた頬《ほお》へうっすらと笑《え》みを浮かべ、夏の夜風に戯《たわむ》れていた。
ユーダイクス・トロイデ。
倣慢《ごうまん》なる錬金術師《れんきんじゅつし》。
にっと、その笑みが、さらに深くなった。
「では、始めようか。魔術決闘《フェーデ》第二幕の始まりだ」
懐《ふところ》から、新たなるフラスコを取り出し、男は夜空へと放り投げた。
衝撃《しょうげき》は、地下室までも達した。
床《ゆか》が躍《おど》り上がり、壁に亀裂《きれつ》が走った。青銅の扉《とびら》は弾《はじ》け飛び、けたたましい音をたでて横倒《よこだお》しになった。
「うわあああああああ――っ!!!」
ラピスを追いかけたいつきも、足をもつれさせ、派手に石床へと転倒《てんとう》する。みかんと穂波も、転ばないように身体《からだ》を固定するだけがやっとであった。
永遠にも思えながら――激動はわずか数秒。
やがて静寂《せいじゃく》が訪《おとず》れ、真っ先にみかんが声をあげた。
「――お兄ちゃん社長っ」
「社長――大丈夫《だいじょうぶ》なんっ?」
「な……なんとか」
たんこぶができたなと思いながら、いつきがよろよろ起き上がる。右半身がじくじくと痛んだけれど、どうにか動く程度はできそうだった。
打ち身した部分を押さえ、情けなく顔を歪《ゆが》めながら訊《き》く。
「今の――何?」
「外部からの、投射魔術や。館《やかた》が悲鳴をあげてる」
天井を見上げて、穂波が唇《くちびる》を噛《か》んだ。
「じゃあ、ユーダイクスの魔法っ?」
「多分……そうや」
いつきは、信じられなかった。
これまでの事件で、少年も多くの神秘を見てきた。山中に海をつくりだす呪波汚染《じゅはおせん》の〈夜〉も、拳《こぶし》ひとつで地震《じしん》を起こす『神』の所業も目《ま》の当たりにした。
それでも、ここは〈アストラル〉の館だった。
知識にはなくても、その強固さは右目が知っていた。眼帯|越《ご》しに視《み》るたびに、その泰然《たいぜん》とした呪力構成を実感していたのである。
それが、たったひとりの魔法にこうも打ち壊《こわ》されるとは。
「しっかりし、社長」
茫然《ぼうぜん》とするいつきを、穂波が叱咤《しった》した。
「『遺産』は、あたしが確保しとく。――社長とみかんは、先に猫屋敷さんと合流して、ラピスを迫って」
「う、うん」
うなずいたいつきの手をみかんがとった。
「じゃ、行こ、お兄ちゃん社長!」
みかんに引きずられて、亀裂の入った階段を駆《か》け上っていく。
その途中《とちゅう》で、一度だけ。
振《ふ》り返った。
「あ……」
穂波が、こちらを見ていた。
眼鏡《めがね》ととんがり帽子《ぼうし》に隠《かく》れて、どんな顔をしているのかは分からなかった。
分からなかったけれど、なぜだか――ひどく不吉《ふきつ》な予感がして、たまらなかった。
「――猫屋敷さんっ?」
悲痛な黒羽の声が、青年の意識を揺《ゆ》さぶり起こした。
「にゃあっ」
「……にあ」
「ふなあ」
「にい〜あ?」
ついで、白、黒、ぶち、三毛、四|匹《ひき》の猫《ねこ》の鳴き声が、青年の耳朶《じだ》を叩《たた》く。
青年を中心として、東西南北の四方へと散らばった猫たちだった。いかにも駆け寄りたそうなのにそうしないのは、それぞれの立つ位置が、結界の要所であるからだった。
四神相応――四柱の神のおわす土地は、あらゆる災害から免《まぬが》れるという。その神の名を冠《かん》した猫たちは、確かに青年の意に沿って、強靭《きょうじん》な結界を発動させた。
あちこちが陥没《かんぼつ》し、煙《けむり》さえあげる庭の中で、猫屋敷と黒羽の霊《エーテル》体だけが無事でいられたのも、その猫たちのおかげに違《ちが》いない。
だが、代償《だいしょう》は大きかった。
「……これは、どうも。情けない……ところをお見せしまして」
ゆらりと笑った猫屋敷の顔は、真っ青を通り越《こ》して――白蝋《はくろう》と紛《まが》うほどに色を失っていたのである。
「……猫屋敷さん」
黒羽が胸を押さえる。泣きそうになるのをこらえて、何かできないかと思考をめぐらす。実体のないのが悔《くや》しかった。そうすれば、せめて背中ぐらいさすってあげられるのに。
「重力レンズ……ですかね」
「え?」
「正確には……重力レンズを模した呪力の偏向《へんこう》現象といったところですか。……なかなか馬鹿《ばか》馬鹿《ばか》しいですが……大気|圏《けん》を流れている呪力流を偏向して……月と星座の導きで収束して……直接叩きつけられました。あはは……ほとんど竜脈《りゅうみゃく》を……ぶつけられたようなもんですね」
切れ切れに、口走る。
「場所も時間も……極《きわ》めて限られるタイプの魔術《まじゅつ》です……。おそらく……この事務所に使えるのは……十年に三日とないでしょうに……。よほど前から……この日を狙《ねら》いすましていたと……見えますね……」
苦笑《くしょう》した。
もともと、呪力の洗浄《せんじょう》で疲労《ひろう》した分も大きかった。いや、これほどの綿密な魔術を組み立てているなら、いつきの暴走で呪力の洗浄を迫《せま》られることも、ユーダイクスの計算のうちだったろうか。
(そういう人ではありますね……)
古い記憶《きおく》を脳裏《のうり》によぎらせつつ、猫屋敷は四匹の猫たちの結界を解く。
次の瞬間、《しゅんかん》月光が翳《かげ》った。それを異常と感じるより早く、猫屋敷は余力を膝《ひざ》に込めた。大地へ身を投げ出すのとほぼ同時に、
――ジュウッ
滴《したた》り落ちた液体が、寸前まで猫屋敷の立っていた地面を溶《と》かした。わずか数滴《てき》の雫《しずく》さえ、深々とした穴を穿《うが》ち、赤色の煙をあげたのである。
「え、何っ……?」
咄嗟《とっさ》に見上げた黒羽の頭上に、ふわふわとそれ[#「それ」に傍点]は浮《う》いていた。
あえていうならば、海月《くらげ》に似ていた。
半透明《はんとうめい》のぶよぶよとした頭を持ち、触手《しょくしゅ》に似た何かを夜に伸《の》ばしている。その触手の先からはねばねばとしたさきほどの液体を垂らしていた。
猫屋敷の表情が変わる。
「――人工精霊《エレメンタリィ》?!」
「あ、あたしが……」
黒羽が浮遊《ふゆう》した。その身体《からだ》を中心に、小石や砂が浮き上がり、渦《うず》を巻いた。
騒霊現象《ポルターガイスト》。
幽霊《ゆうれい》の身体には、物理的な攻撃《こうげき》など効きはしない。あんな海月、騒霊現象《ポルターガイスト》で動きを封《ふう》じてしまえば………
「駄目《だめ》ですっ。黒羽さん…… その液はあなたも溶かしますっ!」
「えっ」
反射的に身をよじる。
それでも、海月の吐《は》いた液が、長い髪《かみ》の端《はし》にかかった。
「熱――っ」
黒羽の髪の一房《ひとふさ》が、それで蒸発したのである。髪とはいえ、霊《エーテル》体の黒羽にとっては、腕《うで》や心臓と変わらぬ魂《たましい》の一部であった。
「水の元素《エレメント》を使って……霊《エーテル》体そのものを分解してるんです。……物質だろうが……霊《エーテル》体だろうが関係ありません」
しかも、脅威《きょうい》はそれにとどまらなかった。
慌《あわ》てて猫屋敷とともに逃《に》げ出そうとした黒羽が、振《ふ》り返った瞬間、硬直《こうちょく》したのである。
「そんな……」
絶望的な苦鳴が、喉《のど》からこぼれた。
夜の向こうから、次々と影《かげ》が持ち上がっていた。
あるいは大地から。
あるいは天空から。
三体……六体……十体……二十体……全部で三十体以上の海月が、新たに〈アストラル〉事務所を囲んで、湧《わ》いてきたのだ。
おびただしいまでの、半透明の精霊の群れであった。
「人工精霊《エレメンタリィ》は……ホムンクルスの創造においでも……必須《ひっす》の材料《ヽヽ》です。ユーダイクスにしてみれば……倉庫さらえ程度の代物《しろもの》でしょうね……」
猫屋敷の言葉を、黒羽は茫然《ぼうぜん》としたまま聞いていた。
絶望というよりも――放心。
あまりに突然《とつぜん》の危機に、心が追いついていない。新入社員とベテランとの、修羅場《しゅらば》を踏《ふ》んだものと踏んでないものとの、どうしようもない落差。
(仕方ないところでは……ありますね)
「……無理ぐらいは……しますか」
猫屋敷の手に、何枚もの符《ふ》が並んだ。それぞれが必殺の威力《いりょく》を込めた退魔の符。だが、それを繰り出す体力の方は心もとなかった。
ぐらり――と上半身が泳ぐ。
「にゃあああ」「なあ?」「にい〜あっ」「……にあー」
硬直した猫屋敷へ、四|匹《ひき》の猫《ねこ》たちが駆《か》け寄ったとき。
轟《ごう》、と人工精霊《エレメンタリィ》たちが一斉《いっせい》に雪崩《なだ》れ落ちて――
「――はらいたまい、清めたまう!」
凛《りん》、と振られた玉串《たまぐし》の前に、阻《はば》まれた。
「はらいたまい、清めたまう。いわまくもあやにかしこきはらえど大神のおおみいずをこいのみまつり、すべてのまがことつみけがれをはらいのぞかむと、あまつのりとのふとのりとごとのる――」
さらに、幼い手から、白い塩が盛大に撒《ま》かれる。
青年と猫たちを中心に、綺麗《きれい》な円を描《えが》いた塩に弾《はじ》かれ、海月たちはぞぞぞぞと退いていった。
「猫屋敷さんっ、黒羽さん、大丈夫《だいじょうぶ》ですか!」
「……社長、みかんさん」
半壊《はんかい》した事務所の玄関《げんかん》から、いつきとみかんが駆け下りてきたのだ。
そしで、雲霞《うんか》のような人工精霊《エレメンタリィ》たちに、いつきが左目を剥《む》いた。
「これって……」
「いやはや……まさか、直接ここに殴《なぐ》りこまれるとは思わなかったもので……。少しばかり油断しました……」
「て、顔真っ白じゃないですか!」 「それより……今は、迎撃《げいげき》が先です。黒羽さん、大丈夫ですか?」
「あ……あ……はいっ」
やっと我に戻《もど》った黒羽が、一生懸命《けんめい》にうなずく。
それから、猫屋敷はみかんの結界に視線を滑《すべ》らせる。
「みかんさんは? どれぐらいもちます?」
「だ、大丈夫。穂波お姉ちゃんが来るまでぐらい、もつもん……っ。お兄ちゃん社長は……」
「う、うん。ラピスちゃんを……」
言いかけた、ときだった。
「…………!」
ずん、と凄《すさ》まじい圧迫感《あっぱくかん》が、四人をとらえた。
じわ……と、地面に撒かれた塩が、ゆっくりと黄ばんでいく。
みかんの〈禊《みそ》ぎ〉が、侵食《しんしょく》されつつあるのだ。これだけの数に詰《つ》め寄られれば、その分|呪《じゅ》力《りょく》の干渉《かんしょう》も激しい。だが、まだみかんの〈禊ぎ〉が圧倒《あっとう》されるほどの数ではないはずだった。
――いや。
「な……」
見上げて、いつきは言葉を失った。
雲霞のよう、とさきほど言った。
ならば、今は天蓋《てんがい》のようとでもいうべきか。
半透明《はんとうめい》の海月たちは、その数を倍にも三倍にも増やし、完全に夜空を埋《う》め尽《つ》くしていた。うぞうぞと這《は》い回る触手が《しょくしゅ》、いつきたちの頭上から逃《に》げ道までも塞《ふさ》ぎ、時折、あの粘液《ねんえき》を地面にじゅわっと垂らした。
そして。
その人工精霊《エレメンタリィ》たちの中に、もうひとつ、人影《ひとかげ》が落ちていた。
「……いつき。ラピスはちゃんと言った」
「――ラピスちゃんっ」
言った瞬間《しゅんかん》、右目が焦《こ》げた。
軟膏《なんこう》で描かれていた紋様《もんよう》が、ばちっと音をたでて、剥離《はくり》する。抑《おき》えられていた激痛がぶりかえし、たまらず膝《ひざ》を折ったいつきを、ホムンクルスの少女はうってかわった表情で[#「うってかわった表情で」に傍点]脾睨《へいげい》していた。
「ラピスはいつきを怪我《けが》させない。でも、優先されるのはラピスの嗜好《しこう》じゃなくて、あにさまの意思だって。あにさまが言うんだったら、ラピスは〈|アストラル《ここ》〉を終わらせる」
少女が手をあげると、隣《となり》にいた人工精霊《エレメンタリィ》の触手が伸《の》び、手首へ触《ふ》れる。
すると、その手首に巻かれていた穂波の魔女の結び目《ウィッチ・ウィット》が、ぶつりと千切れた。
「あ……」
糸《パス》が繋《つな》がったのが――視《み》えた。
「うん。あにさま……ラピスはそうする」
糸《パス》が、ユーダイクスの命令を伝えたのか、ラピスはゆっくりとうなずいた。
「――それに、今はラピスもそうしたい」
四人を前に、人工精霊《エレメンタリィ》たちを後ろに、ラピスの唇《くちびる》がぎこちなく微笑《びしょう》の形をつくる。
とても優《やさ》しく、惨《はかな》い笑《え》み。
それは――はじめていつきが日にした、ホムンクルスの少女の笑みだった。
少し欠けた満月が、その寺の境内《けいだい》を照らしていた。
〈アストラル〉事務所のすぐ近く――徒歩で五分ほどの、坂上に建つ寺――「竜蓮《りゅうれん》寺」である。参拝客が少ないわりに歴史だけ長いこの寺は、本堂の裏に五百|坪《つぼ》近い敷地《しきち》を持ち、樹齢《じゅれい》三百年以上の松や楠《くすのき》の森を擁《よう》している。
以前は隻蓮《せきれん》という僧侶《そうりょ》が住職をしていたが、現在はなり手がおらず、やむなく昼の間だけ近くの寺から代理を呼んでしのいでいる。
ゆえに、この夜の争いを目撃するものは、当事者たちを除いては、月と星と――鬱蒼《うっそう》と茂《しげ》る森自身しかいなかった。
「……懐《なつ》かしいな」
と、男が呟《つぶや》いた。
湿《しめ》った地面を踏《ふ》み、木の幹に触れながら、歩を進める。言葉どおり、勝手知った場所であるのか、歩みにはまったく迷いがなかった。
ユーダイクスである。
最前まで〈アストラル〉の事務所を見下ろしていた錬金術師《れんきんじゅつし》は、森の半ばで足を止め、巨木《きょぼく》のひとつへ笑みを向ける。
「まずは誉《ほ》めておこう。迎《むが》え撃《う》つには戦力不足と見て、ひとり囮《おとり》となったか」
「好きに想像し」
その巨木の麓《ふもと》に、穂波が立っていた。
右手には箒《ほうき》を携《たずさ》え、足元には『遺産』のアタッシェケースを置いている。
いつきたちと別れたすぐ後、穂波はアタッシェケースを持って、この寺まで飛翔《ひしょう》してきたのである。それも、わざとユーダイクスに見つかるょうにだった。
思惑《おもわく》通り、ユーダイクスはおびきだされた。
(……いっちゃんは無事かな)
唾《つば》を飲む。
あの衝撃《しょうげき》は、ただごとではなかった。館《やかた》の結界は焼ききれ、侵入者《しんにゅうしゃ》を排除《はいじょ》するための霊的《れいてき》設備もほとんどが無効化されていた。だからこそ、あそこでユーダイクスを迎え撃つことだけは避《さ》けたかった。
そして、もうひとつ――いや、ふたつ。
穂波には、訊《き》かねばならないことがあった。
「ユーダイクス」
「何かな?」
「あの〈幽霊屋敷[#「幽霊屋敷」に傍点]〉で――あたしといっちゃんに会った魔法使《まはうつか》いは、お前やったんやね」
それが、いつきの義妹――勇花から聞いた話であった。
『ユーダイクスさんって人が来たら、眼帯のお礼を言っておいて』
いつきの眼帯をつくってくれた魔法使いが、ユーダイクス・トロイデであったことを、穂波はその耳で確かめたのだった。
「……思い出したかね」
と、にんまりユーダイクスは笑った。
「ならば、あの妖精眼《グラム・サイト》がどういうものであるかも、あのとき説明していたはずだな」
穂波は、戦慄《せんりつ》する。
そう、あのとき説明を受けた。
いつきの眼《め》がどういうものか。
どれほどに危《あや》うく、どれほどに脆《もろ》い瞳《ひとみ》か。
――そして、自分が、そういう眼にしてしまったことを。
ユーダイクスが不思議そうに眉《まゆ》をひそめた。
「ふむ? ひょっとしてお前は……その責任を取るために、〈アストラル〉ヘ来たのか」
『穂波ってどうして〈|アストラル《うち》〉に来たの?』
昨日の〈協会〉で、いや以前からいつきが訊いていた質問。
「……そうや」
「なるほど。確かに、あの少年の眼については、お前のせいともいえる。そうでなければ、妖精眼《グラム・サイト》とはいえ、身体《からだ》を蝕《むしば》まれることはなかったろう。――ある意味においては、僥倖《ぎょうこう》だったかもしれんな。あれほどほかの魔術集団から嘱望《しょくぼう》されていた人間が、わざわざ廃業《はいぎょう》寸前の〈アストラル〉を選んだわけだ」
穂波は、耳を貸さない。
肝心《かんじん》の、自分が訊きたかったことだけをつきつける。
「あんたが眼帯をつくった魔法使いなら、分かるはずや。社長の眼と――身体の治し方」
「ふむ?」
「社長の右目は、確実に進行してる。眼帯をつくったんがお前やったら、その治し方も考えられるやろ」
パナケアは――けしていつきを治したわけではなかったのだ。ただ単に、暴走していた呪力《じゅりょく》を鎮《しず》め、応急処置を施《ほどこ》しただけのことである。あの右目は、穂波の手も届かないところで、着実にいつきを侵食している。
だからこそ、彼女はここにユーダイクスを呼ぶ必要があった。
「教えねばならん義理はないぞ。ましてや魔法使いがただ[#「ただ」に傍点]で何かを教えるなど、道義的にも問題だろう。君が考える、あの二代目の命と等価の交換《こうかん》とはなんだね? まさか、その『遺産』がそうとは言うまいな?」
愉《たの》しそうに、ユーダイクスは笑った。
ただし、目は笑っていなかった。ユーダイクスもまた、彼女の目的を悟《さと》ったのである。ここに呼ばれた意味と、その理由を。
「――交換するのは、これや!」
唐突《とうとつ》に。
どん、と箒が地面を叩《たた》いた。
「歌え……我らが友! 霊樹《れいじゅ》の末裔《まつえい》が乞《こ》い願う! 汝《なんじ》が内にありし災《わぎわ》いを、汝の腕《うで》もちて刺《さ》し貫《つらぬ》け!」
大地が蠢《うごめ》き――鋭《するど》い根が、ユーダイクスめがけてひた走った。
まるで達人の槍《やり》のごとく、十重二十重《とえはたえ》の樹木の根が、錬金術師《れんきんじゅつし》へと殺到《さっとう》したのである。
「それが、ケルトの魔術特性か」
斜《なな》めに跳《と》んで避けながら、ユーダイクスの声には好奇《こうき》の響《ひび》きが混じった。
――魔術特性。
ケルト魔術のそれは、〈|霊樹 の 末裔《Descendant of Taliesin》〉。自然界の呪力を利用する、森と岩と歌の民《たみ》の魔術。
しかも、ここは〈アストラル〉に来て以来、何くれとなく穂波が訪《おとず》れ、話しかけ、水を与《あた》え、世話をしてきた森であった。この森にある限り、少女は万の軍勢を得たに等しかった。
「|乞い願う《ハイル》! 我らが友、汝の衣《ころも》をもって、我が敵を切り裂《さ》け!」
根についで、葉が舞《ま》い、枝が踊《おど》った。
呪力を秘《ひ》めた松葉が氷雨《ひさめ》となって降りかかり、長い枝は自然の鞭《むち》となってユーダイクスの身体を呪縛《じゅばく》しようとする。
さらに、その葉と枝の間を縫《ぬ》って、穂波のマントから幾十《いくじゅう》本というヤトリギが飛んだ。
それぞれが異なる弧《こ》を描《えが》き、タイミングも角度も変えて奇襲《きしゅう》する、ドルイドの魔性《ましょう》の矢。かつて常勝無敗のローマ軍を翻弄《ほんろう》した魔術に、現代の魔女術《ウィッチクラフト》の秘儀《ひぎ》さえ取り入れた、これこそが穂波の奥の手であった。
「|我は願う《ハイル》! |我は願う《ハイル》! |我は願う《ハイル》! 月の女神《めがみ》のもと、力の円錐《えんすい》のもと、天にも地にもあらざる霊樹もて、南東の禍《まが》つ事を悉《ことごと》く打ち減《ほろ》ぼせ!」
魔術が、完成する。
森ひとつ――並の魔法使い百人にも勝《まさ》る膨大《ぼうだい》な呪力をもって、全方向からユーダイクスの身体を穿《うが》った。純白のインバネスがたちまちボロクズと変わり、森の中空で、枝や蔓《つる》に捕《と》らえられて静止する。
「……死んでは……ないはずや」
肩《かた》で息をしながら、穂波は低く囁《ささや》いた。
さしもの魔女にとっても、これだけの大魔術は強烈《きょうれつ》な精神の集中を必要としたのである。こめかみを伝う嫌《いや》な汗《あせ》を拭《ふ》いて、少女はくっと奥歯を噛《か》み締《し》めた。
「でも、その傷は普通《ふつう》のやり方じゃ塞《ふさ》がらへん。助かりたかったら、社長の眼《め》についても教えてもらう。命と命、交換条件には不服がないはずや。――もちろん魔術決闘《フェーデ》もこれで終わってもらう」
「不服あり」
「…………っ!」
見上げた。
枝と蔓に縛《しば》られながら、ユーダイクスの笑《え》みは消えていなかったのである。ばかりか、穴だらけになったインバネスからは、血の一滴も流れていなかった。
「な……んやて……」
「お前は、誤解している」
ユーダイクスの唇《くちびる》は、ことさらゆっくりと告げた。
「〈協会〉で、実戦不足とは言った。だが、それは魔術の使い方の問題じゃない。そういう問題なら、お前は一流といってもいいだろう。この魔術ひとつとっても――これほどの精度で古代ケルト魔術を再現できるものは、世界に数人といまい」
蜂《はち》の巣のようにされながら、不自然なほどよどみない口調。
(幻影《げんえい》や……ない)
穂波が、自分の目を疑う。
手応《てごた》えはあったのだ。
〈協会〉では、この錬金術師の幻覚《げんかく》に騙《だま》された。だからこそ、今回は相手の先攻《せんこう》を許さず、自分から仕掛《しか》けたのに。
「お前は――あまりに完成されすぎている」
|淡々《たんたん》と言い、ユーダイクスが軽く腕に力を込めた。
それだけで、穂波の腕ぐらいありそうな、太い枝が千切れたのだ。
錬金術師の巨躯《きょく》が落下し、柔《やわ》らかな森の土にへこみをつくった。不自然なほど大きなへこみに、穂波が目を見張る。
「以前、猫屋敷にも同じことを言ったがな。どんな劣悪《れつあく》な条件でも百%の力を発揮するということは、裏返せば、どんな状況下《じょうきょうか》でも百%の力を発揮してしまうということに過ぎん。選択肢《せんたくし》が狭《せば》まれば、自然、計算はしやすい」
静かに、歩み寄りながら、ユーダイクスは呟《つぶや》く。
その歩行には、一切《いっさい》のよどみがない。身体《からだ》中穴だらけのまま、何の支障も、何の苦痛もなく歩む。
――このときはじめて、
穂波は自分の無力を思い知った。
無意識に、穂波の足が後じさる。
この化け物から、身体が先に逃《に》げようとする。頭が敗北を理解する前に、身体が序列を悟《さと》ってしまった。
今の秘儀で勝てないならば、穂波・高瀬・アンブラーは、どうやっても目の前の怪物《かいぶつ》に敵《かな》わないと。
「ユーダイ……クス……」
震《ふる》える声音に、錬金術師《れんきんじゅつし》がかぶせた。
「それに、向こうには人工精霊《エレメンタリィ》を残してきた。加えて、ラピスにも命令をくだした。疲弊《ひへい》した猫屋敷や未熟な巫女《みこ》の相手ぐらいは十分つとまるだろう。ましてや、あの二代目ぐらいは当然にな」
(! いっちゃん――!)
突《つ》っ走った思いがうかのま、身体をねじ伏《ふ》せる。
「――霊樹《れいじゅ》よ!」
だが、ヤドリギの矢を振《ふ》りかぶろうとした手首を、ユーダイクスが握《にぎ》り締めた。
そのまま、ぐいと片手で吊《つ》り上げる。いくら穂波が軽いといっても、尋常《じんじょう》な腕力《わんりょく》ではない。呻《うめ》く魔女《まじょ》の耳元へ顔を寄せ、錬金術師が囁《ささや》く。
「もう、遅《おそ》い」
ずん、と穂波の鳩尾《みぞおち》を重い拳《こぶし》が挟《えぐ》った。
少女の脆《もろ》い身体は――まるで試《ため》し割りの板みたいに、ひどく簡単にくの字に折れた。
「ラピス――」
喉《のど》の奥で、いつきの声はくぐもった。
右目の痛みに、奥歯を食いしばる。せっかく穂波の塗《ぬ》ってくれた軟膏《なんこう》が、ばりばりと黒ずんで剥離《はくり》していった。その欠片《かけら》を操り締めて、もう一度、呼びかける。
「ラピスちゃん――」
少女は、ただ微笑《ほほえ》むばかりだった。
壊《こわ》れた庭に佇《たたず》み、生まれてはじめての微笑《びしょう》に唇をほころばせ、少女はゆるやかに指を舞《ま》わせる。
すると、ラピスの周りで、人工精霊《エレメンタリィ》たちが蠢《うごめ》いた。
「…………!」
まるで、女王蜂《じょおうばち》に仕える兵隊のようだった。あるいは、母鳥に懐《なつ》く雛《ひな》のようでもあり、指揮者に従う音楽隊のようでもあった。
ただひとつ言えることは、ホムンクルスの少女が現れたことで、人工精霊《エレメンタリィ》たちが勢いづいたという事実だ。
「――あそこ」
ラピスが、人差し指を向ける。
そのたび、次から次へと湧《わ》き出す人工精霊《エレメンタリィ》が〈禊《みそ》ぎ〉の結界へと体当たりしたのだ。
無論、人工精霊《エレメンタリィ》程度の呪力《じゅりょく》ではみかんの〈禊ぎ〉を破れはしない。しないのだが、彼らは止《や》むことなく、延々と自爆《じばく》的な攻撃《こうげき》をしかけつつける。
「あ、あ、あ……お、お兄ちゃん社長……っ」
みかんが、泣きそうな声で振り向いた。
|徐々《じょじょ》に徐々に、撒《ま》かれた塩が黄ばんでいった。最初いつきたちを中心に直径八メートルほどもあった〈禊ぎ〉の結界は、もはや三メートル前後まで縮小していた。
その分だけ、人工精霊《エレメンタリィ》が近づいてくる。
時折、粘液《ねんえき》が滴《したた》り、〈アストラル〉の庭を汚《きたな》く焦《こ》がす。
「……う……」
いつきにも、この状態のまずさは理解できていた。
この組み合わせだと、猫屋敷以外に、決め手をもつものがいないのだ。
みかんの魔術はほとんどが守護に偏《かたよ》っており、黒羽の騒霊現象《ポルターガイスト》はまだまだ発展|途上《とじょう》の代物《しろもの》だ。
なのに、その猫屋敷が疲弊しきり、ほとんどの術を使えない状態では、袋小路《ふくろこうじ》もいいところだった。
「……く、う……」
拳を握る。
怖《こわ》くて怖くて、がちがちと歯が鳴りそうになる。膝《ひざ》なんて震えっぱなしで、さっきから視界が小刻みに揺《ゆ》れる。
でも。
怖い以上に――悔《くや》しかった。
何もできないことが。できないまま、終わってしまうのが。
(社長だって……言った……)
他人には任せられないと。ここが自分の『たいせつ』だと。
(だったら……)
【――呼ベ】
右目が、弾けた。
「うあっ……」
【我ヲ、呼べ】
あの声。
いつも、いつきの内側を軋《きし》ませる、重く激しい声。
怒《いか》りも何もかもないまぜにするあの声が、鈍痛《どんつう》とともに、右目から響《ひび》く。
(でも、この眼帯を取ったら……)
今度こそ――殺す――かもしれない。あの自分には容赦《ようしゃ》がない。躊躇《ちゅうちょ》がない。少なくとも、敵対するものにかけるような慈悲《じひ》はない。
『約束して。その眼帯は――取ったらあかん』
『あ、お兄ちゃん社長。あたしとも約束』
小指を意識する。ついさっき、約束したばかりだ。いつき自身も嫌《いや》というほど納得《なっとく》した。自分だって、あんな痛みも動けなくなるのも、もう繰り返したくはない。
だけど。
(ほかに、方法が――)
半ば無意識に、いつきの手が眼帯へと伸《の》びたときだった。
「眼帯を取ったら、勝てると思ってる」
冷ややかな指摘《してき》が、いつきの思考を貫《つらぬ》いた。
〈禊ぎ〉の結界の向こうで、ラピスが自分の目に触《ふ》れていたのだ。
「――?!」
何かの予感が、無意識的に眼帯を外させようとし、
「無駄《むだ》」
ラピスの碧眼《へきがん》が――まるで違《ちが》う色に輝《かがや》いた。
【――ヲヲヲヲヲォォォォアアアアアアア!】
その色彩《しきさい》を視《み》た瞬間、《しゅんかん》いつきの右目は吼《ほ》えた。
「――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――!!!!!!!!!」
苦痛ではなかった。
ただ、暗黒であった。
突然《とつぜん》、盲目《もうもく》がいつきを襲《おそ》ったのだ。霊的《れいてき》な視力も、物質的な視力も根こそぎ奪《うば》われ、少年は顔を押さえて、転がった。
「社長っ」
「いつきくんっ」
「お兄ちゃん社長!」
悲痛な叫《さけ》びも、ろくに耳へ届かなかった。猫《ねこ》たちが駆《か》け寄り、頬《ほお》を舐《な》めでも、その感触《かんしょく》さえ不確かだった。
「これが――ラピスの魔法《まほう》」
と、ホムンクルスの少女は、とりわけ優《やさ》しく囁《ささや》いた。
「妖精眼《グラム・サイト》は稀少《きしょう》。でも、史上いつきがはじめての保持者じゃない。最高の魔法でも最強の魔法でもない。たとえばあにさまぐらいなら、封《ふう》じこめる方法も知ってる。――これも、そのひとつ。あらゆる視力を奪う邪視《イーブル・アイ》」
「……砂漠《さばく》の国の魔眼ですね」
咄嗟《とっさ》に視線をそらし、みかんの目を塞《ふさ》いで、猫屋敷が切れ切れに漏《も》らした。
「砂漠の民《たみ》には……ことさら邪視《じゃし》避《よ》けのお守りが多い。……それは……あの国には本当に邪視《じゃし》を放つ……怪物《かいぶつ》がいたから……。プリニウスの『博物誌』にも描《えが》かれた……小さな王……。ユーダイクスは……あなたをどうやって作りました……?」
「答える必要ない」
片手で顔を隠《かく》し、ラピスが腕《うで》をあげた。
それに従い、人工精霊《エレメンタリィ》たちが密集し、壁《かべ》となって〈禊《みそ》ぎ〉の結界を押し包む。
ぎしり、と音がした。
表面で何度も何度も人工精霊《エレメンタリィ》が弾《はじ》け、塩と玉串《たまぐし》によって構築された〈禊ぎ〉が悲鳴をあげているのだ。
「……うううう〜〜〜〜っ」
みかんが真っ赤な顔でふんばる。黒羽も結界の中から、いくつかの人工精霊を騒霊現象《ポルターガイスト》で食い止める。
だが、それだけだ。
所詮《しょせん》は、相手の数に追いつかない。
「――疾《チッ》!」
疲労《ひろう》をこらえ、猫屋敷が符《ふ》を放つ。それでも一瞬《いっしゅん》人工精霊《エレメンタリィ》たちの壁がへこむ程度で、根本的な解決にはつながらぬ。
(……あ、ぐ……あ……)
「これで、終わり」
悶絶《もんぜつ》するいつきへ、ラピスが愛《いと》しそうに告げて、
「――あら。それは、残念ですわね」
天空からの、優美な声に、硬直《こうちょく》したのだった。
「え――――?!」
刹那《せつな》、人工精霊《エレメンタリィ》たちの壁が、大きく破れた。
猫屋敷たちの抵抗《ていこう》が蟷螂《かまきり》の斧《おの》なら、それは巨人《きょじん》さえも薙《な》ぎ払《はら》う紅蓮《ぐれん》の魔剣《まけん》であった。
ざぐんっ――と振《ふ》るわれた一撃《いちげき》が、人工精霊《エレメンタリィ》もみかんの〈禊ぎ〉も、なにもかも真っ二つに切り裂《さ》き、切り開いた。
砕《くだ》き、飲み干し、平らげた。
そして、多数の気配が隣《となり》へ降り立つのを、いつきは感じた。
(え……っ)
「しっかりなさいイツキ。仮にも魔術結社の首領なら、それはただの義務ですわ」
どこか耳慣れた――クイーンズ・イングリッシュ訛《なま》りの日本語。それとともに、何かが瞼《まぶた》に押し付けられついで胸元《むなもと》にかけられる。多分、薬か魔除《まよ》けか。一瞬、鋭《するど》い痛みが泌み渡《わた》ると、すぐに暗黒は退《ひ》いていった。
――眼が、開く。
「あ……」
同時に。
言葉を忘れた。
信じられないものを見て、いつきも、さっきまでとは別の意味で固まった。
「あ……あ……あ……っ」
「どうしましたの? 人のことを幽霊《ゆうれい》みたいに見るのは失礼ですわよ」
にっこりと、彼女は微笑《ほほえ》んだ。
「それとも、再会の感動のせいかしら? だったら、もう少しロマンチックに告げてほしいものですけど」
優雅《ゆうが》な口調で告げる。
その口ぶりにふさわしく、身に纏《まと》うは漆黒《しっこく》のドレス。おとがいに流れるは金髪《きんぱつ》の縦ロールであった。胸元にかかった護符《タリスマン》『ソロモンの五芒星《ごぼうせい》』さえ、少女が身につけると極上の宝飾品《アクセサリー》に思えた。
「なんで……キミが……生きて……」
「あらご挨拶《あいさつ》。もちろん、イツキに会うためです。――それと、ちょっとした返礼をかねて」
華《はな》やかに一礼し、彼女は踵《きびす》を返した。
少女の周囲をとりまく――たった今人工精霊《エレメンタリィ》たちを切り裂いた魔物も、それに従った。あるいは空を泳ぐギンザメ、あるいは黄金の獅子《しし》、あるいは鷲《わし》の翼《つばさ》を持つ狼《おおがみ》といった、異形の魔神の群れである。
――七十二の魔神と、人は呼ぶ。
「光栄に思いなさい。――ここからは、〈ゲーテイア〉が首領、アディリシア・レン・メイザースがあなたの相手です」
微笑《びしょう》し、堂々と胸を張って、アディリシア・レン・メイザースは宣戦布告したのであった。
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第6章 魔法使いと昔の話
「アディリシア・レン・メイザース……〈ゲーティア〉の首領……」
ラピスが後じさった。
その瞳《ひとみ》に映るのは、華麗《かれい》な金細工にも似た少女であった。
天上の職人が丹精《たんせい》をこらした、黄金造りの薔薇《ばら》。だが、その薔薇には、鋭《するど》い棘《とげ》と地獄《じごく》の猛毒《もうどく》も潜《ひそ》んでいる。
「あら。お忘れじゃなくて嬉《うれ》しいですわ。前回は結界に阻《はば》まれて、芸のひとつも見せられませんでしたもの」
艶然《えんぜん》と、アディリシアは笑《え》みを深くした。
ラピスの微笑が無垢《むく》ならば、アディリシアのそれは絢爛《けんらん》か。
「…………」
黙《だま》ったまま、ラピスは手をあげた。
人工精霊《エレメンタリィ》たちが、戦列をつくる。さきほどの一撃《いちげき》を警戒《けいかい》したのだろう。まんべんなく広がった陣形《じんけい》から、研《と》ぎ澄《す》まされた突撃槍《ランス》のように、密度をあげた。
ごっ、と風が爆《は》ぜた。
無数の人工精霊《エレメンタリィ》たちが、ただ一|匹《ぴき》の『獣《けもの》』と化して、牙《きば》を剥《む》く。先にこれを使われていれば、みかんの〈禊《みそ》ぎ〉も一瞬《いっしゅん》で砕《くだ》けていたろう、獰猛《どうもう》なる突撃《チャージ》。
それを前に、アディリシアは、
「――喰らいなさい」
たった一言、呟《つぶや》いた。
それだけで、魔神たちが解き放たれた。
黄金の獅子が――マルバスが。
猛《たけ》きギンザメが――フォルネウスが。
鷲の翼持つ狼が――グラーシャ・ボラスが。
びしり、と音が鳴った。
『獣』の身体《からだ》が、獅子の爪《つめ》で八つ裂《ざ》きにされた音だった。『獣』ばかりか、振《ふ》り下ろした爪はその威力《いりょく》で大地をも引き裂いた。
それでも『獣』はあがいた。自らの身体を固定してなお突撃《とつげき》しようとし、ギンザメに体当たりされ、ことごとく粉砕《ふんさい》される。
最後に――翼持つ狼が、轟然《ごうぜん》と羽撃《はばた》いた。
巻き起こった風は、竜巻《たつまき》となった。
呪力《じゅりょく》のこもった、煉獄《れんごく》の颶風《ぐふう》であった。
粉砕された『獣』はその烈風《れっぷう》を受け、さらに微塵《みじん》となって分解された。
「あっけないですわね」
と、アディリシアはラピスにうなずいてみせた。先の言葉どおり、ちょっとした芸を披露《ひろう》したという――ただそれだけの風情《ふぜい》である。
「雑霊《ざつれい》をいくら集めようが、星霜《せいそう》を閲《けみ》したソロモンの魔神《まじん》には勝てませんわ。――本気をお出しなさい。でなければ、私の気も晴れません」
「しない」
だが、ラピスは、元の無表情に戻《もど》って、かぶりを振った。
「〈ゲーティア〉は魔術決闘《フェーデ》の相手じゃない。――それに、もう役目終わった」
「? どういうことですの?」
「話す必要ない」
「――待ちなさい!」
とめる間もなかった。
一瞬目を細めるや、ラピスは強く大地を蹴《け》った。
常識外れの跳躍《ちょうやく》力であった。
とんとーんとリズムよく、二メートル近くも後方に跳躍するや、残った人工精霊《エレメンタリィ》たちが集まり、一斉《いっせい》に粘液《ねんえき》を吐《は》いたのである。
「っ――グラーシャ・ポラス!」
アディリシアの命に従い、翼《つばさ》持つ狼《おおかみ》が凄《すさ》まじい吐息《といき》でその粘液を吹《ふ》き飛ばす。だが、そのときにはラピスは人工精霊《エレメンタリィ》のぶよぶよした頭に乗って、ビルの谷間へと遠ざかっていた。
「――逃《に》げ足だけは立派なものですわね」
それを憤然《ふんぜん》と見送って、アディリシアは振り返った。
だが、いつきは、いまだぱくぱくと口を開いたままであった。
「アディリシア……あの……本当に……?」
「あら。あの錬金術師《れんきんじゅつし》に死んだとでも間いたんですの」
こくこくとうなずく。言葉もないとはこのことである。思わずまじまじと、足があるかどうかを確かめてしまったぐらいだった。
「七十二の魔神を舐《な》めてらっしゃいますの?」
と、アディリシアは金髪《きんぱつ》をかきあげた。
「身代わりになれる魔神の一柱や二柱ぐらいいますわ。……まあ、私もあの目を見てしまったせいで、最近まで魔神をまともに扱《あつか》えませんでしたけどね。その魔除《まよ》けは、そのときにつくったあまりです」
さきほどいつきの首にかけた、瞳《ひとみ》の形のお守りを指す。
「……『ホルスの眼』、ですね。エジプト圏《けん》で使われる|邪 視《ィーブル・アイ》除けのお守りです」
これは、疲弊《ひへい》しきり、尻餅《しりもち》をついていた猫屋敷が言う。
「ええ、さすがにご存じですわね」
「じゃあ、本当に……」
「偽者《にせもの》のわけがないでしょう。それとも、イツキの目は、私が本物かどうか分からないほど腐《くさ》ってますの?」
うん、とすまして答える。
その唇《くちびる》が、次の瞬間、小さな悲鳴をあげた。
「きゃっ――」
アディリシアの身体に、がばっといつきが抱《だ》きついたのである。
「イっ、イっ、イツキ、気でも触《ふ》れましたか! や、やめなさい!」
白いかんばせが、面白《おもしろ》いほど茹《ゆ》で上がる。ルビーもかくやというほど赤くなったアディリシアは、でも、すぐ後の台詞《せりふ》に胸をつほらせた。
「よかった…… 」
「え……」
「本当に……本当によかった……」
抱きついたまま、いつきが、ぽろぽろ泣きながら言う。
「……イツキ……あなたはそんな……」
恥《はじ》も外聞もない泣き方だった。
それだけに、いっそ快かった。涙《なみだ》の量にともなって、抵抗《ていこう》するアディリシアの力も抜《ぬ》けていった。
「イツキ………………………………………………………………」
頬《ほお》を紅潮させた少女の表情が和《やわ》らぎ、瞳が潤《うる》んだ。
非力な腕《うで》で抱きしめてくる少年に、アディリシアの手も応《こた》えようとして――
「お兄ちゃん社長!」
「いつきくん!」
直前、みかんと黒羽の念動力が、いつきを引きずり戻した。
「うわあっ」
「お、女の子にいつまで抱きついているんですか! いくら嬉《うれ》しかったからって、表現方法は考えてください」
黒羽が、こちらも真っ赤な顔でたしなめる。
「べ、別に不快ではありませんでしたけど……」
ちょっと拗《す》ねたような、残念そうな声で、アディリシアが唇を尖《とが》らせる。
それから、こう訊《き》いた。
「……で、私もある程度の事情は知っておりますけど、やはり相手はユーダイクス・トロイデですのね?」
「あ……うん」
「では、大事なお話があります。〈アストラル〉の方全員を集めてくださいませ。……そういえば、ホナミはどうしましたの?」
途端《とたん》、いつきが再び呼吸を止めた。
「そうだ! 『遺産』の確保をするって言ってたけど……!」
半ば崩壊《ほうかい》した洋館の中へ、矢も盾《たて》もたまらず走り出す。
だが、そこには穂波の姿もアタッシェケースもなかった。
そして、日付が翌日に変わっても、ケルトの魔女《まじょ》が戻《もど》ってくることはなかった。
……記憶《きおく》は、いつもあのときまで遡《さかのぼ》る。
そこは、〈アストラル〉の事務所にも少し似た洋館だった。ひびの入った壁《かべ》には何重にも蔦《つた》が絡《から》んでいる。打ち捨てられた庭には、枯《か》れた薔薇《ばら》や石像を押しのけ、ねじくれた雑草が伸《の》び放題となっていた。
周囲の森のせいで昼なお暗く、夕暮れともなると伸びた影《かげ》と赤色によって、ことさら不気味に彩《いろど》られる廃墟《はいきょ》。
〈幽霊屋敷《ゆうれいやしき》〉、と幼稚園《ようちえん》で噂《うわさ》されていた場所。
(でも……)
――本当は。
あの男の子に言われる前から、そこに「悪いものがいる」という事実を穂波は知っていた。
ばかりか、近づかないようにも釘《くぎ》を刺《さ》されていた。魔法使いとして名を馳《は》せていた祖母から、その場所にいるものの性質《タチ》の悪さを教わっていたのだ。
(なのに、どうして行ってしまったんやろ?)
穂波は、ぼんやりと思う。
もちろん、答えは分かっている。
幼い穂波が、見栄《みえ》っ張りだったせいだ。
あの男の子に――怪談《かいだん》のさわりだけで気絶するぐらい臆病《おくびょう》で、そのくせ喉元《のどもと》を過ぎるとひどく楽しそうに笑う少年に、えへんと胸を張りたかったからだ。
すでに、そのときの穂波は、初歩の魔術を身に付けていた。ダウジングやいくつかのタロットは習い覚えていたし、祖母の呪物《フェティシュ》を使えば、エクソシストの真似《まね》ぐらいはすることができた。
そう。
多分、秘密を共有したかったんだと思う。
秘密基地をつくるのと同じ感覚。魔法使いだったなんて、誰《だれ》にも言えない秘密を打ち明けられる、そんな相手が欲しかった。そして、その男の子も特別な目を持っていると知って、その思いを我慢《がまん》できなくなったのだ。
知ってるんだから、って言いたかった。
『――キミ、本当は幽霊《ゆうれい》とか見えるんでしょ?』
『――でもね、でもね、あたしも本当は魔法使いなの!』
実に子供っぽい、罪のない顕示欲《けんじよく》。
だけど、罰《ばつ》は与《あた》えられた。
最悪の形で。
――穂波も、そのときの細かいことは覚えていない。
とにかく、あれにあった瞬間、《しゅんかん》幼い矜持《きょうじ》はすべて消え失《う》せた。男の子に見せようと思っていた魔法も魔術も脳裏《のうり》から失せ、穂波はただ泣きじゃくる子供に戻って、逃《に》げ惑《まど》っていた。
すると、あの臆病な男の子が、自分の背中を突《つ》き飛ばしたのだ。何がなんだかわからず、倒《たお》れこんだ穂波をよそに男の子は走り去っていったのである。
最初、怒《いか》りで頭の芯《しん》が燃えた。
すぐに――その怒りが、ぞっとするような恐怖《きょうふ》に変わった。
男の子は、あれも連れていってしまったのだ。しかも、穂波を正門へ突き飛ばして、わざわざ自分は遠回りな裏口の方へ走っていたのだった。
なんで、と思った。
あんなに怖《こわ》がりなのに。この〈幽霊屋敷〉にだって、何度も言い聞かせて、結局は無理やりに引っ張って、やっと来てくれたぐらいだったのに。なのに、なんで、あいつがこんなことをするのか。
分からないまま、がむしゃらに迫った。
追いついたときには、もう終わっていた。
男の子は、倒れていた。
自分の覚えている魔法も呪文《じゅもん》も、男の子を起こすことはできなくて、その内にやってきた本当の『魔法使い』は言った。
「この男の子は、業《ごう》を背負った」
「ブッディズムの概念《がいねん》だがな。おそらく、生きている限り、この目はあらゆる魔《ま》を呼び寄せるだろう。封じてはおくし、魔より遠ざけでもおく。だが、長くはもつまい。この少年の運命はもはや決定された。――いずれは、自分の目に食い殺されよう」
至極《しごく》当然とばかりに、『魔法使い』は運命と告げた。
「…………」
それに、幼い穂波は何も言えなかった。自分のやった結果が怖くて、逃げ出したくて――でも、涙《なみだ》をいっぱい溜《た》めながら、そのときにはもうやることを決めていた。
本当に、一番の魔法使いになるって。
今度こそ、あの男の子をちゃんと守れるようになるって。
穂波・高瀬・アンブラーは、伊庭いつきを守れる魔法使いになるって。
(そう、決めたのに……)
意識が……浮《う》かび上がる。
カチ、カチ、カチと音がした。
いやになるほど精密な、正確な、機械の呼吸。その昔が何重にも何重にも重なり、世界を歯車に取り替《か》えようとしているみたいだった。
「う……ん……」
穂波は、夢からさめて、瞼《まぶた》を開く。
そこは、時計だらけの四角い部屋で、いやに薬臭《くさ》かった。
壁《かべ》にも天井《てんじょう》にも、穂波が横たわらされた床《ゆか》にも、満遍《まんべん》なく時計が敷《し》き詰《つ》められていた。窓にはカーテンが引かれていたが、そのカーテンを透《す》かした陽光で、とりあえず朝らしいということだけは分かった。
(……ユーダイクスに、やられたんか?)
かすかに痛む腹部をおさえ、ベッドから上半身を起こす。
まだ意識は朦朧《もうろう》としていたが、手錠《てじょう》などはされてなかった。ワンピースやマントもそのままである。ただし内側に仕込んだ呪物《フェティシュ》や箒《ほうき》、力の円錐《えんすい》たるとんがり帽子《ぼうし》などはすべて奪《うば》われてしまっていた。
くわえて、この部屋には、呪力の欠片《かけら》もなかった。
いや、呪力はあるのだ。完全に呪力がない場所というのは、現実世界に存在しない。だが、それらの呪力は、すべて時計たちの間を循環《じゅんがん》し、穂波には一滴たりとも漏《も》れてこないのであった。
「この時計が……あたしを出さないための結界も兼《か》ねてるんやね」
だったら、いつきたちが助けに来ようとしでも、穂波を見つけることすら難しいだろう。穂波を捜《さが》すための魔術《まじゅつ》も、この時計たちの内部までは探《さぐ》れないということになる。
「起きた?」
「ラピス――」
振《ふ》り返ると、入り口のあたりに赤磐《せきはつ》の少女が立っていた。これだけ近くにいたのに、まったく気配に気がつかなかった。今もほとんど感じられないのは、やはりこの少女が人ではないからだろうか。
「社長たちは、無事なん?」
「…………」
「ほかはええ。でも、それだけは答えて」
「……邪魔《じゃま》はいった。〈ゲーティア〉の首領」
「アディがっ?」
「――どうやら、ソロモンの末裔《すえ》は、私の目もたばかったらしくてな」
最後は、二メートルの身体《からだ》をかがめ、新たに入り口の扉《とびり》から入ってきたユーダイクスであった。
純白のインバネスは穴だらけのままだ。やはり、今目を凝《こ》らしても、一滴の血も滲《にじ》んではいなかった。
「あにさま!」
「だが、お前のおかげで、こちらは手に入った。礼を言おう」
すっと、右手のアタッシェケースを持ち上げてみせる。
「『遺産』……」
おののく穂波が、かぶりを振って、こう訊《き》いた。
「お前は、なんでそれを……」
「影崎なら興味本位というかもしれんがね」
急に影崎の名前が出て、穂波は眉《まゆ》を寄せた。
「私の場合は――〈協会〉で会ったとき、もう言っただろう。伊庭司を知りたいから。それだけだ」
「知り、たい?」
「見せてやろう」
問いに、ユーダイクスがアタッシュケースを置いた。
すっと、表面に指を滑《すべ》らせる。複雑な図形であった。指は二秒間に三十を超《こ》える図形を完成させた。さしもの穂波が軽い目眩《めまい》を感じたとき、異変が起きた。
かちり、とアタッシェケースの内側から音がしたのだ。
「そんな! 『鍵《かぎ》』は〈協会〉やって……」
「そちらにもあるだろうがね。もともとこの『遺産』のケースは私がつくったものだ。私に開けられないはずがあるまい」
そう言った前で、アタッシェケースに真っ直《す》ぐな線が走った。たちまち真っ二つになり、両側に倒《たお》れたアタッシェケースの残骸《ざんがい》から、あるものをユーダイクスは取り出した。
「ノート……」
至極平凡《しごくへいぼん》な、大学ノートだった。
「――ああ。これが、ツカサ・イバの『|源  書《オリジナル・グリモア》』だよ」
「伊庭司の――!」
穂波が息を呑み、だけど、すぐに切り返す。
「ユーダイクス……自分が何をしたか分かってるん? その中身は魔術決闘《フェーデ》の勝利者に与《あた》えられるものや。それを破った以上、今にも契約儀式《ゲッシュ》の呪《のろ》いが襲《おそ》ってくるで」
「ゲッシユ? ああ、契約儀式《ゲッシュ》ね。残念だが、あの契約《けいゃく》に使った血は私のものではない。〈協会〉の契約書を騙《だま》しとおせるだけの調合にはいささか苦労したがね」
「…………!」
――今度こそ。
穂波は、言葉をなくした。
それは、あからさまに〈協会〉と敵対する行為《こうい》だったからだ。
「なんで……そこまでして……」
「私には、契約に使える血も――そもそもは、この魔術決闘《フェーデ》に参加する資格もないからな。ふむ。どうせ、あの〈ゲーティア〉の首領が生きていた以上、〈アストラル〉の面々には知れているだろう」
そつと、ユーダイクスは胸元《むなもと》に触《ふ》れた。
ぱらぱらばら、と音がした。
歯車の落ちた音だった。ぱらぱらばらばらばらばらと、無数の歯車や螺子《ねじ》が零《こぼ》れ落ち、ユーダイクスの足元を埋《う》めたのだ。
そして、開いたインバネスに、穂波ははっと目を剥《む》いた。
ユーダイクスの身体の中に、それらの歯車と螺子は埋まっていたのである。
「その身体……」
ユーダイクスは笑った。
それまでの笑《え》みとは違《ちが》う――自嘲《じちょう》的なものが混じった笑みだった。
「そう、私も人間ではない。――自動人形《オートマタ》だ。そして」
一拍《いっぱく》の間をおき、ユーダイクスは口にした。
「ツカサ・イバは、私を直して、私に目的を与えてくれた人だった」
朝になって、穂波を捜《さが》すためのいくつかの呪術《じゅじゅつ》が失敗した後、アディリシアは被害《ひがい》が少なか
った応接室へ、他の人問を招集した。
勝手知ったる他人の家――とばかりに、我が物顔で机の中央へと座っている。いつきはその際で《となり》、順に猫屋敷、みかん、黒羽が座っていた。
そして、少女の開口一番の台詞《せりふ》に、いつきが思わず叫《さけ》んだのである。
「魔術決闘《フェーデ》が……無効だってっ?」
「ええ」
アディリシアは悠然《ゆうぜん》とうなずいた。コーヒーに、芸術品のような唇《くちびる》をつける。ちなみに、いつきに淹《い》れさせたものである。なぜだか〈アストラル〉事務所にはアディリシアご用達《ようたし》のコーヒー豆が常備されているのだが、あまりに当然に置かれているので、文句をつけるものもいない現状だった。
「で、でも……どうして?」
「〈協会〉に登録する際にはいくつかの条件があります。ひとつめが〈協会〉の『仕事』を受けられる能力があること。ふたつめが禁忌《きんき》を犯《おか》していないこと。――これは前の事件でお話ししましたわね」
アディリシアの横顔に、一瞬影《いっしゅんかげ》がかすめた。
「そして三つめが、魔術《まじゅつ》集団の首領が人間であること。この業界には、人以外のものもおります。知性を持つものもまた。ホムンクルスはもちろんのこと、いくつかの魔獣《まじゅう》には人間以上の知性が確認《かくにん》されてます。――ですが、少なくとも〈協会〉はそれらのものが魔術集団の首領であることを認めてはいません。ゆえに、ユーダイクスは〈アストラル〉の首領となることはできません」
「ちよ、ちょっと待って。最後の『ゆえに』ってつながってないと思うんだけど」
「…………ふぅ」
抗弁《こうべん》すると、アディリシアは出来の悪い生徒を見る教師みたいに、息をついた。
「そちらの強欲|陰陽師《おんみょうじ》でしたら、想像がついてるんじゃないですの?」
「……自動人形《オートマタ》……ですか」
水を向けられた猫屋敷が、かすんだ目で言う。
昨夜の戦闘《せんとう》で疲弊《ひへい》しきった体力が戻《もど》っておらず、秘蔵の強精薬《エリクシール》を飲んでようやく話に加わっているありさまである。猫《ねこ》たちもそれにならって、主《あるじ》の膝《ひざ》や足元でぐでーっと横たわっていた。
「自動人形《オートマタ》って……人間じゃ、ないの?」
「つまり、からくり人形ですよ。中世から近世のヨーロッパ――特にプラハの錬金術師《れんきんじゅつし》通りではよく造られていたそうです。……とはいえ、私も今言われるまでまったく気がつきませんでしたが」
あの人との付き合いも長かったんですけどね、とこれは情けなさそうに付け足す。
――実際、そうだった。
(……分かっていても、おかしくなかったですよね)
どこまでも無欲に、ただただ伊庭司に付き従う――目的はなくても手段は選ばない男。それは、まさしく人ならざる自動人形《オートマク》の思考だったではないか。
「一応、こちらが資料ですわ」
いくつかのレポート用紙を、アディリシアが差し出す。書かれた文字はろくに読めなかったが――フランス語らしいということだけ分かった。
「これ……」
「〈協会〉のフランス支部から持ち出したものです。要約すれば、ユーダイクスが自分のメンテナンスに使った道具や材料ですわね。これらの物品を、失踪《しっそう》前の伊庭司も定期的に個人輸入していた形跡《けいせき》があります。輸入を始めた時期は、〈アストラル〉の創設時期――ユーダイクスが〈アストラル〉に入った時期と一致《いっち》しますわ。
これを〈協会〉に突《つ》きつければ、おそらく魔術決闘《フェーデ》を侮辱《ぶじょく》したという理由で、彼は抹殺《まっさつ》――いえ破壊《はかい》されるはずです。もっとも、私としては、わざわざ契約儀式《ゲッーシュ》までやっておいて、偽《いつわ》りを見抜《みぬ》けない〈協会〉の無能も糾弾《きゅうだん》したいですけれど!」
憤然《ふんぜん》と、アディリシアが唇を尖《とが》らせる。
「ですから、私の準備が済むまで〈協会〉に近寄らないよう、黒鳩《シヤックス》を使いにだしたんです。……こうも無視されているとは思いませんでしたわ」
「まあ、その、いろいろありまして」
猫屋敷が頬《ほお》を掻《か》く。
その隣で、ぽつりと、いつきが言った。
「じゃあ ユーダイクスは、どうして 『遺産』と〈アストラル〉を欲しがるんだろう」
「え?」
「――自動人形《オートマタ》にも、感情ってあるの?」
少年の質問に、アディリシアは黄金《きん》の眉根《まゆね》を寄せた。
「厳密な意味での――私たちと同じような感情はありませんわ。ただ、与《あた》えられた人格設定どおりに、答えを返すだけ。それは、あくまで感情を持っているふりに過ぎません」
「だったら……どうして『遺産』を?」
「それは……分かりません。誰《だれ》かに命令されているのか、あるいは長い時間の末に思考回路のどこかが壊《こわ》れたのか。いずれにせよ、彼自身の意思なんてありえませんわ」
本当、だろうか?
いつきが見た中で、あれはもっとも強烈《きょうれつ》な感情だった。
――執念《しゅうねん》。
伊庭司に続くと言い放った、凄《すさ》まじく根深い意志の塊《かたまり》。あれが偽物《にせもの》だというなら、本物の感情なんて、世界にはない気がする。
「――イツキ?」
アディリシアが、小首を傾《かし》げた。
「…………」
いつきは、うつむいたまま――震《ふる》えていたのだつた。
(……〈協会〉に、任せる?)
確かに、〈協会〉なら解決してくれるに違《ちが》いない。戦力も捜査力《そうさりょく》もけた違いだ。自分たちが無理してやるよりも、きっとうまくいくだろう。
なによりも、いつきは恐《おそ》ろしかった。
あの意志が。
偽物だと言われた、ユーダイクスの意志が。
思い出しただけで、こうして震えが止まらない。
もう一度、向かい合ったなら、自分の意志なんて微塵《みじん》に砕《くだ》かれるだろう。なりゆきで〈アストラル〉の社長になった自分などうくりものの意志にだってかなう自信がない。皆《みな》だって、先の襲撃《しゅうげき》でボロボロになっていて、戦う力なんて残ってない。心のどこかで頼《たよ》っていた妖精眼《グラム・サイト》だって、物の役に立たなかった。
なのに。
なのに、胸の底が、否《いな》と唱えている。
怖《こわ》くて怖くてたまらないのに、逃《に》げようと、そう思わせてくれない。
(どうして――?)
「お兄ちゃん社長?」
「――え?」
みかんが、心配そうに見上げていた。その小指に赤い糸が巻《ま》いてあった。
ふと、いつきは自分の小指を見た。
祈《いの》るように、その小指を両手で握《にぎ》っていた少女。あの温かさ。失われた日常。約束。
(あ……)
一瞬《いっしゅん》の、沈黙《ちんもく》。
次の瞬間――ひどくあっけなく覚悟《かくご》ができていた。
「……うん[#「うん」に傍点]」
「イツキ? どうしましたの?」
「なんでもないよ。アディリシアさんは……穂波が、どうなってると思う?」
「――おそらくは、ユーダイクスの手中でしょうね。アタッシュケースごとなくなってますから、一緒《いっしょ》に捕《と》らわれたんでしょう。もし死んでいるなら、それはそれで|占い《リーディング》にひっかかるはずですし、結界に閉じ込められてると見て間違いないでしょう」
「そっか。だったら……その資料は、〈協会〉には提出しない」
アディリシアが、がたんと立ち上がった。
「どうしてですの!」
「それじゃ間に合わない。〈協会〉が来るまでには時間がかかるだろ。多分、通達を知ったらユーダイクスだって逃げ出すはずだ。お役所仕事だって言っていたのは、アディリシアさんじゃないか」
「それは……そうですけど。では、どうなさるつもりです?」
「穂波を助ける。――魔術決闘《フェーデ》が、あと一回残ってるからそれで勝つ。勝って助ける」
言い切ったいつきを、猫屋敷と黒羽が驚《おどろ》いた目で見つめた。そして、アディリシアを含《ふく》めた三人とも胸の中で同じことを思い、注目した。
時折、本当にごく稀《まれ》にだが、この少年は化ける。
今がそうだった。
アディリシアが、かすかな興奮を抑《おさ》えて、わざと|淡々《たんたん》とした声で指摘《してき》する。
「確実性に欠けます。勝ち目がない勝負なんで、子供でもしはせんわよ」
「ううん。確実性に欠けるのは一緒だ。もともと〈アストラル〉は〈協会〉と折り合いがよくないんだろ。それで今回の件を任せたら、いろいろと言い訳つけて、こっちにも干渉《かんしょう》してくるに決まってる。たとえば、魔術決闘《フェーデ》の決着後、一旦《いったん》ユーダイクスを首領に据《す》えてから、さっきの資料をもとに〈アストラル〉ごと解散させるだとかね。それとも、そんなことはしないと思う?」
「…………」
さすがのアディリシアが、自分の失策に息を呑《の》んだ。
「……いえ、それは十分ありえますわね」
曲げた人差し指を、赤い唇《くちびる》に持っていく。
「むしろ、〈協会〉の考え方からすれば、そうしない方が不思議ですわ。穏便《おんびん》に潰《つぶ》すには最高の機会ですもの。――でも、仮にもう一度|魔術決闘《フェーデ》を挑《いど》むとして、どうやってユーダイクスを捜《さが》すつもりですの?」
アディリシアの質問に、いつきはうなずいた。
「ひとつだけ、心当たりがあるんだ。だから、アディリシアさんにお願いがある。――ううん、〈アストラル〉の社長として、〈ゲーティア〉の首領と取引したい。この前言ってたよね。魔法使《まほうつか》いは、等価|交換《こうかん》であれば、取引に応じるんでしょ」
「あら? それは、本当に等価だったらですわよ?」
その台詞《せりふ》は、もう楽しんでアディリシアは言っていた。
唇を三日月の形にして、ソロモンの末裔《すえ》は、堂々と促《うなが》したのだ。
「でも――そこまで言うなら聞いてさしあげますわ。さあ、言ってごらんなさい? 〈アストラル〉の社長さま」
数十分後。
取引と計画を終え、いつきは朝日の差す屋上に出ていた。
もともとは占星術《せんせいじゅつ》のための設備があったらしく、柵《さく》の側《そば》には大型の望遠鏡やホロスコープが備えつけであったのだが、さすがに昨夜の襲撃《しゅうげき》を受けて、ほとんどが壊《こわ》れてしまっている。屋上そのものも、ところどころにひびが入って、危なっかしいったらない。
(……次の雨降りまでにはなんとかしないとなあ)
と、ぼんやり考えたいつきである。
その背中を、抗議《こうぎ》の声が叩《たた》いた。
「――イツキ。この計画は、愚《おろ》かですわよ」
アディリシアであった。
「あ……やっぱり、駄目《だめ》かな?」
「いいえ。一度|請《う》け負ったからには、最後までやらせていただきますわ。ですが、ここまで危険を軽視されていると、さすがに愚かという言葉以外出ませんわね。陳腐《ちんぷ》な言い方ですけれど、命が惜《お》しくありませんの?」
「よしてよ。……考えるだけで、膝《ひざ》が震《ふる》えるんだから」
膝こそ震えてなかったが、本当に顔は青ざめていた。結局のところ、いつきほどの筋金入りの臆病《おくびょう》が早々治るはずもない。
「ただ、社長だしさ。やるときはやらなきゃだめかなって」
「――首領というのは、部下を守るだけが仕事じゃありませんわよ。部下に死ねと命令するのも、仕事のうちでしよう。彼らの思いを首領が背負わなくてどうすると言いますの」
ごく当たり前に、気負いひとつなく、黄金の魔女は言う。
いつきは苦笑いして、眼帯を撫《な》でた。
「うん……多分、そうなんだろうけどね。僕には、できそうにないや」
弱々しい笑《え》み。
どっちが本当なんだろう、とアディリシアは思う。ついさっきの少年と、今と。たとえ妖精眼《グラム・サイト》を使わなくても、この少年の顔は多すぎる気がする。
「別に、いいですけれどね。私は十分な対価を受け取ってますし」
「ありがとう。……あのついでにひとつ、訊《き》いていい?」
「何ですの」
「あの……アディリシアさんなら、穂波がうちに来た理由が分かるかなって」
いつきの質問に、アディリシアは唇を尖《とが》らせる。
「……分かるとしても、それは、私の口から言うことじゃありませんわよ」
「あ、うん。そうだね。そうだとは思うんだけど」
いつきが、困ったように笑う。
その笑顔を見て、アディリシアは何か言いたそうに口を開き、すぐに閉じた。
なんだか、騙《だま》されている気分だった。いつきのそういう顔を見るとうい答えたくなってしまうのだ。
小さく、胸の内でため息をついて、
「――ホナミは、学院では、いつもひとりでしたわ」
と、語り始めた。
「ひとり?」
「ええ、いつもひとりで、何かにせかされてるみたいに、魔法を覚えてました。それは異常なぐらいでしたわよ。以前にも話しましたけど、一度|途絶《とだ》えた魔術系統を復活させるなんて、普通《ふつう》は天才中の天才が一生をかけて成すものですのよ。それを、ホナミはあの年で成しえた」
遠くを見つめるようにして、一呼吸、間を置く。
「魔法使いとは、外れた人間ですが、それでも、そんなことをするものは、さらなる例外にならざるを得ません。孤高《ここう》の中の孤高。孤独の中の孤独。そう、まるで蠱毒《こどく》を煮詰《につ》めるみたいに、あの子は必死にケルト魔術を突《つ》き詰《つ》めていった。グレートブリテンでのフィールドワークを始めて、たったの二年で」
静かな言葉。
羨《うらや》むというよりも、寂《さび》しそうな声が、朝の空気に響《ひび》く。
「才能がどうとかいう問題じゃありませんわ。結局のところ、誰《だれ》よりも一生|懸命《けんめい》だっただけ。どんな素晴《すば》らしい才能も、情熱というエネルギーなしには動きません。その点において、彼女には並外れた情熱がありました。当時は、その情熱が、一体何を源にしているのか分かりませんでしたけれど」
「今なら、分かる?」
何をいまさらと、アディリシアが呆《あき》れた顔になった。
「あの子は、卒業して真っ先に〈|アストラル《ここ》〉に来たのよ」
「あ……」
いつきが、間抜《まぬ》けな吐息《といき》をこぼす。
それを見て、アディリシアは――子供のように笑って言った。
「誰かとの、約束だったのかもしれません」
声の質が変わった。
寂しさから、微笑《びしょう》へと。
「それとも、もっと不確かな――自分の内だけに秘《ひ》めた、誓《ちか》いや償《つぐな》いなのかもしれません。でも、あなたが社長だというのなら――いいえ、社長だとか関係なしに、いつかは知る必要があるんじゃなくて」
「……うん」
いつきは、はっきりとうなずいた。
その顔を、アディリシアはどこか不満そうに見ていたが、次の質問に硬直《こうちょく》した。
「あ、そうだ。穂波は、アディリシアさんのこと、アディって愛称《あいしょう》で呼ぶよね。あれはどうして?」
「…………っ! そ、それは」
「?」
「…………」
「??」
「……………………」
金髪《きんぱっ》に隠《かく》れた耳が、先端《せんたん》まで赤くなった。そのままとことこといつきの前まで近づいて、ぴたりと止まった。
「?」
「――えいっ!」
「……ごわあっ!」
思い切り断り上げられた脛《すね》を押さえて、跳《は》ね上がったいつきが、屋上に転がったのである。
「い、い、痛たたたたっ、な、何するのっ」
「癖《しゃく》にさわったからです。だ、だいたい、イツキは卑怯《ひきょう》です! 女性の過去をいちいちほじくりかえさないでください!」
「そ、そんないきなり……」
つんとアディリシアはそっぽを向いた。
それから、少し間をおいて、陶器《とうき》みたいに白い手がいつきへ下ろされた。
「……私と、契約したんですからね」
かぼそく、アディリシアが囁《ささや》いた。
「イツキは、〈ゲーティア〉の首領と、このアディリシア・レン・メイザースと取引したんです。ですから、私の目が節穴だったなんて、誰にも言わせないようにしてくださいませね」
「うん……頑張《がんば》るよ」
はにかんで、いつきはその手をとった。
朝の空の下、ふたりの手は、確かに結ばれたのだった。
廃院《はいいん》の〈院長室〉に、ユーダイクスは佇《たたず》んでいた。
だが、〈院長室〉と名づけられてはいでも、すでにそこは、まったく別の異界と化していた。
魔法円《まほうえん》の描《えが》かれた蒸留器《レトルト》が極彩色《ごくさいしき》の煙《けむり》をあげ、蛇《へび》を模したフラスコの中では、鼠《ねずみ》と蝙蝠《こうもり》とが入り混じった合成魔獣《キメラ》が内側を引っ掻《か》いている。部屋の中の空気は、窒素《ちっそ》七割・酸素三割の比率ではなく、錬金術《れんきんじゅつ》の成果を高めるため、高濃度《こうのうど》の第五元素《エーテル》を付与《ふよ》されていた。
そう、錬金術。
ここは、いまや錬金術の坩堝《るつぼ》であった。
同時に、ユーダイクスにとっては、自らが生まれた胎内《たいない》でもあった。
「……ふん」
修理した青銅の肺に、空気を吸い込む。取り込んだ空気と第五元素が身体《からだ》に泌み渡《わた》り、歯車と発条《バネ》を駆動《くどう》させる。
穂波の魔術は――確かにユーダイクスへ、重傷を負わせていたのである。が、人間ならざるユーダイクスにしてみれば、よほどの傷でない限り動作に支障なく、また傷を負ったところで頭脳以外なら交換《こうかん》すればすむというそれだけのことであった。
ましてや、今は伊庭司の『|源  書《オリジナル・グリモア》』――かつて自分を修理した、偉大《いだい》な魔法使いの奥義書が手にあった。
「…………」
机の上にある平凡《へいぼん》なノートを見て、ユーダイクスはきつく眉《まゆ》を寄せる。
その表面を撫《な》でた。パピルスと香料《こうりょう》でつくられた指の皮膚《ひふ》に、懐《なつ》かしい感触《かんしょく》が滑《すべ》った。
「社長……」
呟《つぶや》く。
ツカサ・イバ。
魔法を使わない魔法使い。〈アストラル〉の初代社長。|貸し出し魔法使い《レンタルマギカ》のシステムを生み出した男。
ユーダイクスが、その男と出会ったのは、もう二十年以上前のプラハであった。
――プラハ・錬金術師通り。
無数の塔《とう》と原色で区分けされた、世界にも稀《まれ》な魔法街。
オカルトに偏執《へんしつ》した皇帝《こうてい》・ルドルフ二世が、御用達《ごようたし》の錬金術師を集めてつくりあげた通り。
いまだ猥雑《わいざつ》な魔術の空気が混じる街の――小さな呪物《じゅぶつ》商人の店で、ユーダイクスは買われたのだった。
そのとき、ユーダイクスはほぼ壊《こわ》れかけていた。
元々のユーダイクスは、ルネッサンス期の錬金術師につくられた、人間型の自動人形《オートマタ》である。当時の錬金術師たちは、賢者《けんじゃ》の石やホムンクルスの創造と同じく、人間とまったく同じ機能を誇《ほこ》る自動人形《オートマタ》の製作にも熱意を燃やしていた。
山のような二メートルの巨躯《きょく》も、ごつごつとしたひとつひとつの身体のパーツも、「人に似せてつくる」ためには大きめに造ったほうがやりやすいという、そういう理屈《りくつ》で選ばれたものだった。自動人形《オートマタ》ながらに錬金術を仕込まれたのも、単に創造主の錬金術師に似せたかったからという、それだけの理由だ。
だが、長い時間の内に、彼の所有者は次々と変わり、やがて彼のパーツも失われていった。
あるいは壊れ、あるいは貴重だという理由で売り払《はら》われ、あるいは別の実験に使うからといって切り刻まれ――ユーダイクスはそのすべてにただうなずいてきた。
もとより、否《いな》という言葉のあろうはずもない。
彼は自動人形《オートマタ》であった。
人にかしずくものだ。
腕《うで》をもがれようが、足を断《た》ち切られようが、どうして文句をつける筋合いがあろう。
そう思って!いや、計算していた。
そして最後は、ほとんど中身だけになり、頭脳装置を剥《む》き出しに晒《さら》された状態で、ある呪物《じゅぶつ》商人の倉庫に放り込まれ、ただ歯車と発条《バネ》だけを動かしつづけていた。
倉庫から取り出されたのは、百三十五年と八ヶ月と十三日と七時間五十三秒後のことだった。
自分を持ち上げて、男は嬉《うれ》しそうに笑っていた。
あきらかに吹《ふ》っかけられた値段を、こんなに安くていいのかと大袈裟《おおげさ》に喜んで払い、極東の地へ連れ帰って――それから三年五ヶ月と八時間二十四秒もかけて、ユーダイクスを整備したのである。
そのときには、足も腕も、心臓も肺も残らず取り戻されていた。
世界中に散ったはずのユーダイクスのパーツを、男は根気良くかき集め、あるいは設計図を手に入れて自作したのであった。
俺は魔法を使えないからね、と男は笑っていた。
会社をつくる前に、魔法が使える弟子《でし》が欲しかったんだ。自動人形《オートマタ》の弟子なんて、ちょっと格好《かっこう》いいだろう。
子供っぽい笑い顔だった。
対して、弟子とは何かとユーダイクスは訊《き》いた。私は自動人形《オートマタ》だ。そのように遇《ぐう》すればいい。
うん、最初はそれでいいよ。お前が好きなようにいればいい。俺はそういう会社にするつもりだから。
そうして、ユーダイクスは〈アストラル〉に入った。|貸し出し魔法使い《レンタルマギカ》という男の仕事はやたらと忙《いそが》しかった。
やたらと大きな呪波|汚染《おせん》を片付けたかと思えば、翌日には怪《あや》しげな三流オカルト誌の原稿《げんこう》を書かされた。妙《みょう》ちきりんな猫《ねこ》好き陰陽師《おんみょうじ》の新人研修をさせられたり、時には〈協会〉と対立することさえあった。
ただ……妙に時間が過ぎるのが早かった。
それを『愉《たの》しい』と考える思考は、ユーダイクスにはなかった。
なかったが、確かにそこには――疑いようのない、心地《ここち》よい時間があったのだ。
そして、ある日、幻《まぼろし》のように消えうせた。
後は、語るまでもない話だ。
主《あるじ》をなくしたユーダイクスは、〈アストラル〉を出て、ヨーロッパに戻《もど》った。フランス首都郊外《こうがい》に買われたその屋敷《やしき》は、ずっと以前、男が〈アストラル〉の別荘《べっそう》として買った場所であった。
ホムンクルスをつくったのも、男を真似《まね》てみようと思った、それだけのこと。かつての〈アストラル〉のように人を増やしてみようともしたが、結局それは〈アストラル〉ではない。
だから。
ユーダイクスは、もっと男のことを知ろうとした。
あの時問がなんだったのかを知るために、あの男について調べられることならなんだって調べようとした。
ツカサ・イバ。
彼が知っていたことを、彼が持っていたものを、彼の背負っていた〈アストラル〉をすべて手に入れようとした。
「……お前なら、あの人になれるのか? 伊庭いつき。ツカサ・イバの息子《むすこ》」 ユーダイクスは、無機質な表情で漏《も》らす。
それは、無機質のゆえにどこまでも真摯《しんし》な――地獄《じごく》のような執念《しゅうねん》に満ちた顔であった。
「やから、ユーダイクスは――〈アストラル〉が欲しいんや」
穂波の声が、悲しそうにリノリウムの床《ゆか》を這《は》った。
あの、時計にまみれた薬剤《やくざい》室である。
残ったラピスは、静かに穂波を見つめていた。彼女にしてみれば、訊かれたことに答えただけのことである。自動人形《オートマタ》の事実をユーダイクス自身が明かした以上、いまさら隠《かく》すことなど残ってはいない。
「あにさま、ずっとツカサ・イバのこと言ってた」
ラピスが告げる。時計の結界と呪波|干渉《かんしょう》を起こさぬよう、彼女の立っているのは部屋の入り口だ。地下室で、いつきが倒《たお》れていたときと同じである。
「あにさまが欲しいなら、ラピス手伝う。それだけ」
「あたしは、どうなるん?」
「魔術決闘《フェーデ》が終われば、あにさまの〈アストラル〉に組み込まれる」
と、ホムンクルスの少女は答えた。
「その後は好きにしたらいい。〈アストラル〉を辞《や》めるのでもなんでも」
ラピスの言葉はそっけない。
だが、それは真実をついてもいた。
結廟のところ、ユーダイクスの欲しいのは〈アストラル〉という『形』だけなのだ。今の〈アストラル〉ではなく、かつて伊庭司が率いていたその残骸《ざんがい》を真似《まね》たいだけなのである。
「…………」
かぶりを振《ふ》って、穂波はもうひとつ訊いた。
「じゃあ、ラピスはどうしたいん?」
「何もない」
短く、ラピスは言った。
「何、も? だって、ラピスは」
言いかけた穂波に、ラピスが割り込んだ。
「あにさまは、ツカサ・イバのことしか興味ない。ラピス、家族じゃない」
「……あ」
穂波は、唇《くちびる》を押さえた。
ラピスと、ユーダイクス。
|使い魔《アガシオン》と魔法使《まほうつか》い。
ホムンクルスと創造者。
それだけの関係。けして、ラピスが〈アストラル〉に垣間見《かいまみ》たような――『家族』ではない。
それでもラピスにとっては、たったひとりの肉親であるという、それだけの話。
「だから――届かない」
こんがらがった紐《ひも》のようだと、穂波は感じた。十年もの間に、紐は硬く、きつく結ばれすぎて、誰《だれ》にもほどけなくなっている。
ひどく、やるせなかった。
「…………」
ベッドに座ったまま、きゅっとワンピースの裾《すそ》を掴《つか》む。
でも、穂波には穂波で目的があるのだ。
いつきの、右目。妖精眼《グラム・サイト》。
少年を蝕《むしば》む――あの目を止める方法。
ユーダイクスでも、伊庭司の『|源  書《オリジナル・グリモア》』 でもいい。その手がかりの欠片《がけら》なりとも、穂波はなんとしてでも知りたかった。
いつきがこれ以上あの目を使う前に。
(いっちゃんは馬鹿《ばか》やから――)
もしも、それしか方法がなければ、あの少年は、震《ふる》えながら、怖《こわ》がりながら、それでも眼帯をもぎとるだろう。アディリシアを助けたように、黒羽を救ったように、誰かのためにあの瞳《ひとみ》を使ってしまうだろう。
(やから、あたしが止めなきや――)
そう、思ったときだった。
ピ――――――――――――――ッ!
突如《とつじょ》、魔法使いにしか聞こえない、呪力《じゅりょく》に制御《せいぎょ》された音波が廃院《はいいん》を圧した。
「えっッ……」
病院の周囲に敷《し》かれた、呪的警報《マジック・アラーム》が唸《うな》りをあげたのだ。
ゾクン、と心臓が冷たくなった。
「まさか、いつちゃん――!」
「きっと、そう。ラピス行く」
うなずき、ホムンクルスの少女が底《きびす》を返す。
「ラピス−ー――!」
穂波は追いかけようとした。せめて、少女とは戦わせたくないと手を伸《の》ばした。
その手が、時計の並べられた線の上で、ばちっと鮮血《せんけつ》を弾《はじ》けさせた。
「痛っ!」
「……さよなら、穂波」
振り向かず、ラピスが告げた。
その瞳は――穂波は知らなかったが――いつきが最初に会ったときと同じ、ひどく虚《うつ》ろなものに戻《もど》っていた。
[#改ページ]
第7章 魔法使いVS錬金術師!
廃院《はいいん》の入り口は――いつきたちを迎《むか》え入れるかのように開いていた。
広いロビー。
もともとは、観葉植物の植えられていたろう花壇《かだん》が無残に枯《か》れ果て、散乱した長椅子《ながいす》が空間の隅《すみ》で挨《ほこり》をかぶっている。
いつき、みかん、黒羽、猫屋敷。
四人の前に、すうっと、霊《エーテル》体の海月《くらげ》――人工精霊《エレメンタリィ》が流れた。
すると、その人工精霊《エレメンタリィ》の表面が波打ち、ユーダイクスの顔の形を取ったのである。
「――わっ」
「なぜ、ここが分かった?」
声も、ユーダイクスのものであった。
「あ――ラピスちゃんに、前、名刺《めいし》を渡《わた》してたから」
と、いつきが答える。
〈アストラル〉の名刺は、呪的連絡《コール》の機能を持ち合わせている。依頼者《いらいしゃ》が危機に陥《おちい》ればもちろん、魔法使《まほうつか》いが正確に糸《パス》を辿《たど》れば、それを追跡《ついせき》することも容易なのだった。
「なるほど、失念していた。あれはヘイゼ沖の作品だったな」
人工精霊《エレメンタリィ》――ユーダイクスの顔が上下に揺《ゆ》れ、うなずいた。
「では、なぜ逃《に》げなかった? 魔術決闘《フェーデ》が無効になることを、ソロモンの姫《ひめ》からは聞かなかったか。姿が見えんようだが」
視線を四人にめぐらせ、問いかける。
「聞いたよ。その上で、僕はあなたに、最後の魔術決闘《フェーデ》を申し込みたい」
「ほう?」
面白《おもしろ》そうに、ユーダイクスの眉《まゆ》が動いた。
「そう来るとは思わなかった。だが……もし、断ったら?」
「受け入れられないなら――僕は、魔術決闘の終わるより先に[#「魔術決闘の終わるより先に」に傍点]〈アストラル[#「アストラル」に傍点]〉を解散する[#「を解散する」に傍点]」
「…………!」
ぞっとする殺気が、いつきの顔面に吹《ふ》きつけた。
(……う、わっ……)
見えない鑢《やすり》に、骨を削《けず》られる。
内側からふくらむ恐怖《きょうふ》に、くずおれそうになる。
……なんとか、耐《た》えた。
震《ふる》える手を背中に隠《かく》し、できるかぎりの虚勢《きょせい》を張って、いつきはユーダイクスへと言い放った。
「あなたが父さんに続くことを望むなら、少なくともそのひとつは永遠に叶《かな》わなくなる。それが嫌《いや》なら、最後の決闘《けっとう》を受けろ。ユーダイクス」
「……いいだろう。上まであがるがいい」
かすかな遽巡《しゅんじゅん》だけで、ユーダイクスはそう示唆《しさ》した。
そして、消えた。
「ラピス! ラピス! ラビス――!」
穂波がいくら呼びかけても、ホムンクルスの少女は戻《もど》ってこなかった。
一刻の猶予《ゆうよ》もなかった。もしもいつきが来ているなら、一秒でも早く止めなければならないのに。
(この結界がなかったら……)
歯噛《はが》みする。
だが、どうしようもなかった。呪力が《じゅりょく》結界に閉鎖《へいさ》されている以上、今の穂波は、見かけどおりの高校生と大差ない。ここで戦う限り、ほとんどの魔法は封《ふう》じられたままだ。
いや。
本当は、ひとつだけある。
「……そやけど」
すぐに我に返り、うなだれる。
とても、現実的な手段とは言いがたかった。
いつきの臆病《おくびょう》がやっと理解できた気がした。
世界には、こんなに自分を殺せるものが満ちている。ひとつつまずいただけで、自分のような脆《もろ》い存在はあっさりと壊《こわ》れてしまう。
――その視界に、ちょうどそれ[#「それ」に傍点]が入った。
穂波の瞳《ひとみ》に、ちょうど右手の小指が映っていた。
誰《だれ》かと、約束した小指だった。
『その眼帯は、自分の命が危ないと思ったとき以外は、取ったらあかん』
『そうや! や、破ったら、ひどいことなるんやから! 契約儀式《ゲッシュ》なんか目やないもん! 身《から》体《だ》は八つ裂《ざ》きになって、首は破裂《はれつ》して、十三代の間は死ぬこともできずに無間地獄《ダルダロス》を彷律《さまよ》うんやから!』
苦笑《くしょう》がこみあげる。
本当に、お馬鹿《ばか》な嘘《うそ》。でも、あんまり馬鹿だったから、昔の自分と重なった。
学院に入った頃《ころ》の自分。最初の一年、英語の読み書きは出来でも、会話が出来ずまともに授業をこなすことさえできなかった自分。
――最初、ケルト魔術《まじゅつ》へ手を出したのは、草れが難しいとさえ分からなかったからだ。
「……草やな。考えすぎるんはもう止めや」
眼鏡《めがね》の奥で、|蒼水色の瞳《アイスブルー・アイ》が燃えた。
すっと、穂波は右手を唇《くちびる》に近づけた。
眉根《まゆね》が歪《ゆが》む。草の小指を――白い歯が噛《か》み破ったのだ。
こぼれた血をベッドの毛布へ垂らし、穂波は複雑な図形――魔法円を描《えが》いていく。
「|乞い願う《ハイル》! 我は、我の加護のもと[#「我の加護のもと」に傍点]、我が血をもって描く――ッ」
だが、詠唱《えいしょう》が始まるや、驚《おどろ》くべき事態が生じた。
「ぐ――!」
穂波の首に、肩《かた》に、太股《ふともも》に、見えないカッターで裂かれたような傷が走り、たちまちワンピースを朱《あか》く染めていく。穂波の顔が苦痛に揺《ゆ》れ、それでも措いた魔法円を汚《よご》さぬよう片手で守りながら続ける。
――呪力には、ふたつの種類がある。
世界に満ちる源力《マナ》と、生物の内側を巡《めぐ》る精気《オド》。
だが、ケルト魔術も魔女術《ウィッチクラフト》も本来、世界の呪力を扱《あつか》う魔術だ。稀《まれ》に精気《オド》を使うとしても、それはあくまで源力《マナ》を呼び起こすための触媒《しょくばい》か、生贄《いけにえ》など、精気《オド》を絞《しぼ》りつくす呪術だけの例外|行為《こうい》だ。
ゆえに、自分の精気《オド》を使うことなど、自分を生贄に捧《ささ》げるのと何の違《ちが》いもない。
ごぼり、と唇から血が溢《あふ》れた。生贄になった内臓が軋《きし》み、気管へ熱い血を逆流させたのだ。
それでも言い尽《つ》くせ。
「我は――っつ――霊樹《れいじゅ》の末裔《まつえい》なり! されば、末裔の血を――ぐ――もって贖《あがな》う!」
目標《ターゲット》は、結界の起点となる、ひときわ大きな振《ふ》り子時計。
百を超《こ》えるぜんまい時計の中で、たったひとつの特別な因子《ファクター》。描き終えた魔法円を叩《たた》きつけ、壁《かべ》の振り子時計に叫《さけ》ぶ。
「我が血を剣《けん》となし、南西の呪《のろ》いを打ち滅《ほろ》ぼせ!」
集まった呪力《じゅりょく》は、普段《ふだん》に比べれば欠片《かけら》に等しい。
それでも、結界の起点を壊すだけなら十分な力だ。
問題はむしろ、崩壊《ほうかい》した結界からなだれ込む源力《マナ》が、穂波の身体をも壊してしまわないかどうか。
バチバチと、結界が軋む。
真空地帯だった結界へ、源力《マナ》が押し寄せる音。人間ひとりどころか、この部屋ごと破壊してしまいそうな、エネルギーの塊《かたまり》。
時計たちが弾《はじ》け、たでつづけに壁へひびがはいる。
(いっちゃん――!)
硬《かた》く目をつむり、両手を握《にぎ》った。
轟音《ごうおん》が木霊《こだま》する。
だが――予想していた圧力は、一向に穂波を襲《おそ》わなかった。
エレベーターが昇《のぼ》っていく。
軽い圧迫感《あっぱくかん》の中で、いつきは深呼吸した。
「いつきくん?」
「大丈夫《だいじょうぶ》? お兄ちゃん社長」
「うん、まあ……なんとか」
見上げる黒羽とみかんへ、ぎこちなく笑顔《えがお》をつくる。あまりいい出来とは思えなかった。
体温が下がっているのが、実感できる。背筋を悪寒《おかん》が走りっぱなしで、現実味がなかった。
恐怖《きょうふ》、だけではない。
この廃院《はいいん》を蝕《むしば》んでいる呪力のせいだ。
「――結界で隠《かく》してはいますが、内部は明らかに四級以上の呪波|汚染《おせん》ですね」
と、同じく半病人のような猫屋敷が言う。
「それって……まずくないの?」
「そりゃ問題ですよ。鉛《なまり》のペトンの中で放射能実験をしているようなもんです。魔法使いなら耐性《たいせい》はありますが、多かれ少なかれ汚染されるのは防げません。この濃度《のうど》なら三日もいれば身《から》体《だ》が腐《くさ》ってくるでしょう」
さすがの猫屋敷の口調にも、冗談《じょうだん》めかしたものは残ってなかった。羽織は壁にもたれかかったままで、横顔にも粘《ねば》っこい疲《っか》れが底に貼《は》りついている。それは猫《ねこ》たちも同様で、この廃院に入ってから、鳴き声ひとつたでていなかった。
「自動人形《オー卜マタ》だから……大丈夫だってこと?」
「いえ。たとえ無機物でも、呪波汚染の影響《えいきょう》を免《まぬか》れることはできません。おそらく定期的に身体を交換《こうかん》してるんだと思いますよ」
「でも、なんでそんなに?」
「――禁忌《きんき》に近いほど、『力』はあがります」
その言葉に、いつきのみならず、みかんと黒羽も表情をこわばらせた。
思い出したのである。
いつきとみかんは、アディリシアの父――王《ソロモン》となれなかった魔法使いを。黒羽は、かつて自分を呑み込んだ肉塊《にっかい》の怪物《かいぶつ》――魂喰《たましいく》らいとなった達人《アデプト》を。
どちらも禁忌を犯《おか》した、魔法《まほう》になろうとした魔法使いのなれの果てであった。
「だけど、ユーダイクスは……」
「ええ。もちろん、ユーダイクスが魔法になってしまってるわけじゃありません。結局のところ、バランスです。魔法になる直前に身をおいているという――そのことが、魔法使いの扱《あつか》える呪力を劇的に増強させます」
猫屋敷の言葉は、廃院の瘴気《しょうき》をさらに濃《こ》くするようでもあった。
――禁忌《タブー》。
魔法が世俗《せぞく》から遠ざけられた理由。
いともたやすく魔法使いを誘惑《ゆうわく》し、代償《だいしょう》に現実を侵食《しんしょく》する、そのシステム。
オズワルドもまた。
魂喰らいもまた。
そして、今またユーダイクスも。
「それだけ 思いつめてたってこと?」
「いえ、手段を選ばないだけのことでしょう。だからこそ、〈協会〉を偽《いつわ》ってまで魔術決闘《フェーデ》をしかけてきたんですし」
「――つきました」
黒羽が声をかけて、エレベーターが止まる。
両側に開いていく扉《とびら》の先は、そのまま〈院長室〉になっていた。
だが、その部屋はすでに〈院長室〉とは呼べなかった。
広い部屋中にたちこめる硫黄《いおう》の臭《にお》い。人の背丈《せたけ》ほどもあろうかという巨大《きょだい》な蒸留器《レトルト》。床《ゆか》には金属のフラスコが散乱し、壁《かべ》と天井《てんじょう》にはやはり、剥《む》き出しになった大量のぜんまい時計が敷《し》き詰《つ》められていた。
「――――っ!」
いつきが、強烈《きょうれつ》な痛みに眼帯を押さえた。
異界と化した〈院長室〉の向こう際《ぎわ》。あらゆる窓に封印《ふういん》がなされ、煤《すす》のこびりついたランプだけが照らす机の側《そば》。
エレベーターからは対角線上にあたるその場所に、純白のインバネスと黒いツーピースの姿があった。
かたや、二メートルの巨躯《きょく》と、石像のごとき不動の面相。
かたや、不自然なほどに白い肌《はだ》と、死者もかくやという虚《うつ》ろな瞳。《ひとみ》
そこに。
ユーダイクス・トロイデと、ラピスがいた――。
錬金術師《れんきんじゅつし》の姿を認めた瞬間《しゅんかん》、いつきの右目はギチリとよじれた。
いつきは、本物のユーダイクスを見るのは、これがはじめてだった。
世界から隔絶《かくぜつ》した巨躯。双障《そうぼう》だけで心臓にナイフを滑《すべ》り込はされたように感じる、どうしようもない威圧《いあつ》。
呪波汚染《じゅはおせん》による悪寒が畏怖《いふ》へ変換《へんかん》され、喉《のど》は砂漠《さばく》を歩いたみたいに干上《ひあ》がった。
「……まず、聞こうか」
と、ユーダイクスは重く口にした。
「なぜ、私との魔術決闘《フェーデ》を続けることを選んだ?」
「…………」
いつきは、固い唾《つば》を呑《の》み込む。
禁忌の怪物の方がましだと、そのときには思い知っていた。
たとえ自動人形《オートマタ》だろうが、禁忌に足を踏《ふ》み込んでいようが、この男は自分と対等のヒトであった。対等の存在ゆえに、その言葉も威圧も、遥《はる》かに強くいつきの内側へと響《ひび》いた。
(そうか。このヒトは……)
やっと、いつきは納得《なっとく》した。
道を踏み外していようが、ユーダイクス・トロイデは、かつての〈アストラル〉の――先輩《せんばい》であったのだ。
きゅ、と誰《だれ》かが服の裾《すそ》を掴《つか》んだ。
「……お兄ちゃん社長」
「……うん、大丈夫《だいじょうぶ》」
みかんへと囁《ささや》き、汗《あせ》をじっとりかいた手の平を、握《にぎ》り締《し》める。
猫屋敷と黒羽を一度ずつ見て、
「それが……僕のやり方だから」
最初はとつとつと、次にもう一度はっきりと、いつきは言った。
「今の僕の――今の〈アストラル〉 のやり方だから」
「〈アストラル〉のやり方だと」
ユーダイクスの面持《おもも》ちがさらに厳しく変わる。
彼にとって、それは無視できない言葉だった。自動人形《オートマタ》として、記憶《きおく》の残骸《ざんがい》に依存《いぞん》するユーダイクスが、〈アストラル〉についての発言を看過できるはずもない。
「なりゆきで社長になった者が、自分のやり方と説くか。魔法使《まほうつか》いでさえない者が〈アストラル〉のやり方と騙《かた》るか。たかだか一季節ばかりの就任でおだてられて、一体、どんな夢幻《ゆめまぼろし》をその瞳に刷り込んできた」
ひとつひとつ、ユーダイクスは喝破《かっぱ》する。
その芯《しん》が通った正しさに、脳髄《のうずい》を殴《なぐ》られる。打ちのめされそうになる。
だけど、
「……それでもいい。……それでも僕は〈アストラル〉の社長で、そうありづづけるって決めた。これから変わるかもしれないし、きっと変わっていくだろうけど、今はこれが僕のやり方だ。……やるべきだと思ったから逃《に》げない。納得してないことを見過ごさない。だから、これからはこれが〈アストラル〉のやり方だ」
とても青臭《あおくさ》い、答えにもならない答えで――いつきは精一杯《せいいっぱい》胸を張る。
それはそうだ。
いつきは魔法使いでも賢者《けんじゃ》でもない。
陰陽師《おんみょうじ》でも巫女《みこ》でも、幽霊《ゆうれい》でも魔女でもない。
だけど、それは後悔《こうかい》しないための答え。この一季節、怒《いか》り、悲しみ、喜び、傷ついて得てきた、自分の身体《からだ》で覚えた答え。
「……馬鹿馬鹿《ばかばか》しい。あの人の息子《むすこ》だと思い、期待しすぎたか。所詮《しょせん》、遺伝子に思想や経験は残らんというのにな」
侮蔑《ぶべつ》の念をこめて、ユーダイクスは吐き捨てた。
「それならそれでいい。望みどおり、魔術決闘《フェーデ》を受けて、私が〈アストラル〉も貰《もら》い受ける。あの人がやったように、あの人ならそうしたように、私が〈アストラル〉を元に戻《もど》す」
錬金術師から、明らかな敵意が膨《ふく》れ上がる。
それが弾《はじ》ける前に、いつきは最後の、一番大事なごとを訊《き》く。
「穂波は――どこに?」
「お前の知る必要はない。もしも終わって生きていたら返してはやる。どんな形であろうともな[#「どんな形であろうともな」に傍点]。――起動しろ、ラピス」
「……はい」
それまで――最初に会ったときと同じ――死者のようだったラピスがうなずく。ゆるゆると、壁《かべ》から床《ゆか》から天井か《てんじょう》ら、無数の人工精霊《エレメンタリィ》たちが生まれでた。
刹那《せつな》。
ガラーンガラーンと。
百も集まった時計たちが、獅子《しし》の吼《ほ》えるように、けたたましく廃院《はいいん》を揺《ゆ》るがした。まるで、主の怒りに応《こた》えたかのように、凄《すさ》まじい怒号《どごう》で世界を圧したのである。
そして。
〈アストラル〉とユーダイクスの――最後の魔術決闘《フェーデ》が始まった――。
「――マルバス」
茫然《ぼうぜん》と穂波が呟《つぶや》く。
破裂《はれつ》した時計の残骸の中で、黄金の獅子が立ちはだかっていた。
まさしくその獅子が、爆発《ばくはつ》の直前、崩壊《ほうかい》した結界から飛び込み、身を挺して穂波を守りぬいたのであった。
黄金の獅子マルバス――〈七十二の魔神〉の一柱。
「相変わらず、無茶ばかりなさいますわね、あなたは」
「アディリシア!」
のっそりとマルバスが部屋を出て、扉《とびら》の側に立っていたアディリシアに顔をこすりつけた。
「もっとも、あの手の結界を外側から破るのは骨が折れますし、そういう意味では手間が省けたのですけれども。よくもまあ、木乃伊《ミイラ》にならなかったものですわ。ケルト魔術で生贄《いけにえ》といえば本道でしように」
ソロモンの姫《ひめ》は、からかうように微笑《びしょう》し――だけど、淡《あわ》い憂慮《ゆうりょ》を含《ふく》んだ瞳《ひとみ》で穂波を見下ろす。
少女は、血まみれであった。
鋭《するど》い裂傷《れっしょう》が首や太股《ふともも》に何|箇所《かしょ》も走っており、見てるだけで痛くなってきそうなほどだった。
だけど、荒《あら》らげた息を整え、その血をぬぐって、第一声に穂波はこう訊いた。
「――いっちゃんは?!」
「そろそろ、ユーダイクスと争っている頃《ころ》ですわ」
天井を見上げて、アディリシアが憂鬱《ゆううつ》そうに答える。
「――――!」
その答えに、穂波は沸騰《ふっとう》した。
「じゃあ、なんでいっちゃんの方を助けてくれへんの!」
思わず、傷も忘れて怒鳴《どな》る。
しかし、
「イツキがそう頼《たの》んだからですわ!」
怒気《どき》を満面にたたえて、アディリシアが叫《さけ》び返した。
「あなたを優先してくれって。ユーダイクスが魔術決闘《フェーデ》を申し込んだのはあくまで自分たちなんだから、どうしようもなくなるまで私が出てきちゃいけないとまで言いましたわよ?! ええ、信じられませんわ、あの頑固《がんこ》者!」
「信じ……られへん」
絶句する。
仁義だとかそんな問題ではない。
魔法使《まほうつか》いが、世界の法則の裏技を使うものが、そんな正々堂々とした規則にこだわってどうするのか。
だけど、言葉と裏腹に、あまりにそれはいつきらしすぎた。
臆病な《おくびょう》くせに、怖《こわ》がりなくせに、大事な一点だけけして譲《ゆす》ろうとしない、あの少年の言いそうなことだった。
「早く!」
焦《あせ》りも露《あら》わに、穂波は声をあげた。
「早く――早く! いっちゃんのところへ!」
「――ええええええぇえぇええええい!!!」
戦端《せんたん》を切ったのは、黒羽の騒霊現象《ポルターガイス卜》であった。
部屋に置いてあった巨大《きょだい》な蒸留器や金属のビーカーが浮《う》き上がり、渦《うず》を巻いて、ユーダイクスとラピスに襲《おそ》いかかったのである。
そのすべてが、空中で人工精霊《エレメンタリィ》の粘液《ねんえき》によって溶《と》かされた。
「子供騙《だま》しだ」
ユーダイクスが低く笑う。
打ち振《ふ》られたインバネスから、水晶《すいしょう》のフラスコが飛んだ。
地面で割れたそれは、たちまち氷結し、氷河の津波《つなみ》と化して、いつきたちを足から呑《の》み込まんとする。
「かくのらばあはつかみはあまのいわとをおしひらきて、あめのやえくもをいつのちわきにちわきてきこしめさむ、くにつかみはたかやまのすえひきやまのすえにのぼりまして!」
だが、その氷結が、今度はみかんの〈禊《みそ》ぎ〉によって打ち消された。
神道《しんとう》の清らかな塩がつくる絶対結界。
その結界を、膨大《ぼうだい》な数の人工精霊《エレメンタリィ》が押しつつもうとし、寸前、その〈禊ぎ〉が消えて、
「疾《チッ》!」
猫屋敷の放った符《ふ》が炎を《ほのお》放つ。
泰山府君《たいざんふくん》の名を記した符が、人工精霊《エレメンタリィ》をも燃やし尽《つ》くす。
そのすべてを足しでも、わずか十秒にもならぬ魔術合戦であった。
「…………」
いつきは、その光景を吐きそうな恐怖《きょうふ》の中で視《み》ている。
脳髄《のうずい》のさらに芯《しん》まで泌み渡《わた》る戦慄《せんりつ》に耐《た》えている。
そして、思考する。
(切り札は……あくまで向こうだ)
今は、人工精霊《エレメンタリィ》を指揮している、ホムンクルスの少女。
ラピス――|邪 視《イーブル・アイ》。
少女がいる限り、妖精眼《グラム・サイト》は使えない。
いや、たとえ使えたとしでも……
(この日は……僕を……)
「どうした、二代目!」
ユーダイクスが笑い、打ちつけるように手を振った。
今度は、ごく小さな赤い糸玉であった。
「――――!」
同時に、その糸玉の凄《すさ》まじい威力《いりょく》を、いつきの右目は視た。
「――黒羽さん! 騒霊現象《ポルターガイスト》で防壁《ぼうへき》!」
叫《さけ》ぶや否《いな》や、床《ゆか》に落ちた糸玉は、数十本の鋭《するど》い刃《は》と変じ、いつきたちに斬《き》りかかったのである。その行くところ、時計は斬れ、蒸留器《レトルト》は斬れ、椅子《いす》は斬れ、電灯も斬れた。いつきの首筋をかすめ、猫屋敷の羽織の裾《すそ》も、みかんの髪《かみ》の一房《ひとふさ》も持っていかれた。
おそらくは、現代でいうところのカーボンナノチューブを、錬金術《れんきんじゅつ》によっでさらに研《と》ぎ澄《す》ました品だったに違《ちが》いない。
ほとんど呪力《じゅりょく》がないだけに、みかんの〈禊ぎ〉にも反応しない。
かろうじて防げたのは、この四人では、黒羽の念動力のみであった。
「…………………………………………………………………………お前、まさか」
ユーダイクスが、低く漏《も》らした。
いつきは――眼帯に手をかけたままだった。
ただし、強く強く、右目が眼帯につぶされそうなほどに、その眼帯を押さえつけていた。
胃の底からこみあげるものを噛《か》み殺しつつ、いつきは自分の小指を見る。
『その眼帯は、自分の命が危ないと思ったとき以外は、取ったらあかん』
『そうや! や、破ったら、ひどいことなるんやから! 契約儀式《ゲッシュ》なんか目やないもん! 身《から》体《だ》は八つ裂《ざ》きになって、首は破裂《はれつ》して、十三代の間は死ぬこともできず杜無間地獄《タルタロス》を彷律《さまよ》うんやから!』
笑ってしまうぐらい、他愛無《たわいな》い嘘《うそ》。
でも、約束には違《ちが》いが無い。
心を繋《つな》ぎとめている――大事な約束。
そうだ。
だったら、何を怖《こわ》がる。
でなければ――なんのために来たか分かりやしない!
「ね、猫屋敷さん……上|斜《なな》め、ちょい右下――す、水行符呪!」
「…………はっ?」
ユーダイクス同様に驚愕《きょうがく》していた猫屋敷が、しかし、すぐさまその言葉に応じた。
「――疾《チッ》!」
目の前にかある五芒星《セーマン》を切り、その星の頂点を通して、符を放つ。
漆黒《しっこく》の紙に、水銀から採られた朱《しゅ》で、|急急如律令と《きゅうきゅうにょりつりょう》書かれた霊符《れいふ》。
いわく、黒竜|北斗水帝《ほくとすいてい》符呪。
霊符は、黄河のごとく大量の水を吐き出し、列を組んで押し寄せんとした人工精霊《エレメンタリィ》の群れを逆に押し流し、分解せしめた。
「やはり……妖精眼《グラム・サイト》を顕《あらわ》さずに……呪力を視《み》るか!」
ユーダイクスを前に、いつきはもっと強く眼帯に指を食い込ませる。
「…………!!!!」
激痛は、さきほどの比ではない。眼底をつたわり、脳髄が焼けそうだった。
だが、耐えられない痛みじゃない。
そう、眼帯をつけたままでも、呪力を視られなかったわけじゃない。ただ、正確な計算や先読みまではできないだけ。
なら、精度をあげればいい。
右目に限界まで集中し、術の本質を、発動前に見極《みきわ》めてしまえば、その頭を押さえるぐらいはできる。
なによりも――これならば、いつきはいつきのままで手伝える。
〈アストラル〉の皆《みな》を手伝える。
「黒羽さん……騒霊現象《ポルターガィスト》……右上からユーダイクスの氷結フラスコ」
「みかんちゃん……禊《みそ》ぎ……三秒後に――ああ、ごめん! 五秒後!」
たどたどしくも、その指示がユーダイクスの計算を上回っていく。
魔術《まじゅつ》戦とはつまるところ先読みだ。あらかじめ揃《そろ》えた手札で、いかに相手の上を出しつづけるか、そういう競争だ。たとえ未完成であっても、その瞳《ひとみ》は絶大な効力を発揮した。
(いける……?)
唯一《ゆいいつ》の不安。ラピスの|邪 視《イーブルアイ》から、目をそらしつづければ、十分に勝てる……。
そう思ったとき、ユーダイクスが唇《くちびる》を歪《ゆが》めた。
「なるほど。その瞳、確かに厄介《やっかい》だ。|使い魔《アガシオン》に乗り移ったときの私が、一度は敗北しただけのことはある」
「…………?」
その発言に含《ふく》まれた余裕《よゆう》に、いつきはかすかな逡巡《しゅんじゅん》を覚えた。
「ならば、少々|強引《ごういん》にでも封《ふう》じねばなるまい。いささか高くつくが、仕方ない代償《だいしょう》ではある」
「高くつく……」
「ああ、よく視るがいい」
ユーダイクスが、すっとラピスの肩《かた》を抱《だ》き寄せた。
「――――っ」
あわてて、いつきが視線を足元へそらす。
(盾《たて》にするつもりか……っ)
その程度であれば問題ない。人の身体どころか、分厚い壁《かべ》を通してでも、いつきの右目は呪《じゅ》力《りょく》を視られる。視てしまう。
だが、
「その邪視[#「その邪視」に傍点]、返してもらうぞ[#「返してもらうぞ」に傍点]、ラピス[#「ラピス」に傍点]」
抱き寄せたラピスの顔へ、すっと指を近づけて。
そのまま、ぐちゅり、と少女の綺麗《きれい》な左目を挟《えぐ》り取った。
「――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――!」
「なっ……!」
誰《だれ》もが、動きを止めた。
想像外の行動に、呼吸も瞬きも止まった[#「呼吸も瞬きも止まった」に傍点]。
「――闇《やみ》で覆《おお》え、バジリスクの瞳」
言葉とともに、ずるずると視神経をひきずった瞳が、いつきたちへと投げられた。
それを、いつきたちは見てしまった。
「「「「――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――!!!」」」」
暗黒が、すべてを奪った。
音はなかった。
劇的な光芒《こうぼう》も、衝撃も《しょうげき》なかった。
ただ、その瞳を見た四人が――幽霊《ゆうれい》である黒羽さえも――倒《たお》れ伏《ふ》した。
「……ふん、やはりホムンクルスの呪力でまかなうより、我が呪力で触媒《しょくばい》として叩《たた》き込んだ方が効果が高い。この四人、魂《たましい》から盲目《もうもく》と化したか」
見下ろして、ユーダイクスが観察結果を述べる。
その隣《となり》では、左目を挟られたラピスもまた倒れていたのだが、まるで気にかけられることはなかった。
「……あに……さま」
背痛の中から呼ぶ声も、届きはしなかった。
「結局、この程度のものか」
つまらなげに、口にする。
ユーダイクスにとって、興味のあるものとはヅカサ・イバのほかにない。そのための魔術決闘《フェーデ》も、ここに終わった。ゆえに、ほんのひとときの熱情は消えうせ、ユーダイクスの胸には、空虚《くうきょ》だけが残されていた。
「私の眼帯を透《す》かして、それでも呪力を視《み》たことは興味深いが――それもどうでもいい」
踵を《きびす》返す。
「あに……さま……」
ラピスの訴《うった》えは、鼓膜《こまく》を震《ふる》わせてはいでも、ユーダイクスの行動に何の影響《えいきょう》も与《あた》えない。
ただ、最初から言うつもりだったことを、そのとおりに口にした。
「早く起きろ。それ以上寝《ね》てるままなら、もう片方の目も抉って廃棄《はいき》する。私としては、その方が効率がいい」
ユーダイクスにとっては、ごく当たり前のこと。
ラピスにとっては、単なる日常。
だから、思ったのだ。
(どうやっても、届かない。)
「…………」
涙《なみだ》のように血を流す左の眼孔《がんこう》を押さえ、ラピスは両膝《りょうひざ》に力をこめる。激痛と出血多量ではほならぬ足元を固定し、急速に体温の下がっていく身体《からだ》を抱いて、ユーダイクスへと歩み寄る。
残った目はうつろ。
死者のように、心を殺す。
そのとき、ご――んと、エレベーターの駆動《くどう》音が聞こえた。
もう誰もいないはずの廃院《はいいん》で、エレベーターは動き、やがて扉が《とびら》開いた。
中から現れたのはふたりでうかのま惨状《さんじょう》に目を剥《む》くと、すぐ片方が悲壮《ひそう》な声をあげた。
「イツキ……っ」
漆黒《しっこく》のドレスに、金髪《きんぱつ》の縦ロール。大きく見開いた碧眼《へきがん》は、心底から少年を案じていることを告げていた。
そして、もう片方が冷たい声で訊《き》いた。
「何を、したん?」
かつ、と床《ゆか》に鳴る足音からも、その激怒《げきど》はうかがえた。
栗色《くりいろ》の髪《かみ》から、闇色のマントから、手に持った箒《ほうき》から、眼鏡《めがね》の奥の|蒼水色の瞳《アイスブルー・アイ》から、その怒《いか》りは発散されていた。
「ユーダイクス――。いっちゃんと、猫屋敷さんと、みかんちゃんと、黒羽さんと――それに、ラピスに何をしたん?」
不覚にも。
最後の言葉に、ラピスは本当に泣きそうになった。
穂波・高瀬・アンブラーと、アディリシア・レン・メイザース。
怒れるふたりの魔女《まじょ》が、そこに立っていた。
アディリシアは、いつきの側《そば》へ駆《か》け寄った。
穂波は、少年の小指と、自分の小指とを見比べて、きゅっと可憐《かれん》な拳《こぶし》を握《にぎ》り締《し》めた。
「……それは、バジリスクの瞳《ひとみ》?」
「さすがにご存じかね」
足元に転がった、血みどろの眼球を拾い上げ、ユーダイクスが言った。
「『エレミヤ書』にもある毒蛇《どくじゃ》の王。すでに滅《ほろ》びた古代の種だ。――グリニウスの『博物誌』によれば、触《ふ》れたものはもちろん、吐息《といき》のみで木は枯《か》れ、草は焼け爛《ただ》れ、岩さえも砕《くだ》けた。また、その視線を受けたものは、それだけで息絶えたという。――安心したまえ、この瞳だけでは、人を殺すほどの力はない。せいぜい霊《エーテル》体から六感を奪《うば》う程度のものだ」
ユーダイクスの言葉に、穂波はかすかに安堵《あんど》した。
確かに、いつきたちの身体からは、精気《オド》の流れが感じられる。黒羽にしても、霊《エーテル》体そのものは傷ひとつない。ならば、すぐに治療《ちりょう》すれば、命に別状はないだろう。
一歩進む。
いつきと、ユーダイクスの問に立ちはだかる。
「ふむ、魔術決闘《フェーデ》を続行するつもりか? 確かに、キミが倒《たお》れていない以上、〈アストラル〉が敗れたことにはなるまい」
「違《ちが》う。先に、もうひとつ訊かなあかん」
穂波は、否定する。
「ほう? なら、なんだ?」
「…………」
いつきを、横目に見る。
倒れた少年の姿が、涙で滲《にじ》みそうになるのを振《ふ》り払《はら》った。
(――いっちゃんは――来てくれた)
社長として。〈アストラル〉を率いて。
(だったら――今度はあたしの番や)
きっと、顔をあげる。
「何を、したん?」
「何?」
「あたしは、うちのへっぽこ社長の代わりに、社長が起きてたらきっと訊いていることを、訊いているんや。あんたは――ラピスに何をしたん?」
その言葉には、有無を言わせぬかがある。|蒼水色の瞳《アイスブルー・アイ》がユーダイクスを貫《つらぬ》き、ユーダイクスは不快げに眉《まゆ》をひそめて答えた。
「単に、私のやったものを返してもらっただけだ。バシリスクの瞳が分かるなら、その希少性も分かるだろう。試験管の外に出られるホムンクルスは貴重だが、それは私ならいくらでも量産できるものにすぎん」
当然、とユーダイクスは言う。
その台詞《せりふ》で、穂波は覚悟《かくご》を決めた。
――いつきの気持ちが分かった。
こいつとはきちんと戦わなければならない。最初はどうだったか知らないけれど、今のこいつは魔法使いとしても明らかに間違《まちが》えている。同じ〈アストラル〉から出発し、〈アストラル〉を賭《か》けて戦っている以上、こいつから逃《に》げることはできない。
それは、誇《ほこ》りの問題だ。
社長が、社員が、ひとりずつ持たねばならない矜持《きょうじ》の問題だ。
「穂波……」
ラピスが、かすれた声で呼んだ。
いまや隻眼《せきがん》となった右目で、必死に訴《うった》えている。
――近づかないで。
――これ以上戦わせないで。
(ごめん……)
それでも、穂波は、箒《ほうき》を持ち上げ、剣《けん》のように突《つ》きつけた。
「だったら――魔術決闘《フェーデ》は続行や」
「なるほど。ソロモンの姫《ひめ》はいかがする?」
「無論。参加いたしますわ。もとより〈アストラル〉の社長とは契約《けいやく》しておりますので、私には正式に参加する資格があります。――それに、私も少々立腹しております」
アディリシアもまた、毅然《きぜん》と胸に手を置き、いつきを守るように立ち上がった。
唐突《とうとつ》に、戦いのときはきた。
「――来たれグラーシャ・ボラス! 三十六の軍団を制する力強き伯爵《はくしゃく》!」
「|乞い願う《ハイル》! 力の円錐《えんすい》のもと、ヤドリギの加護もて、北西の災《わざわ》いを砕け!」
剛風とともに翼持つ狼《おおかみ》グラーシャ・ボラスが喚起《かんき》され、八本のヤドリギがその竜巻《たつまき》を迂回《うかい》して飛ぶ。
対して、ユーダイクスは軽く手を捻《ひね》った。
「ここは、私の部屋だ」
硫黄《いおう》の臭《にお》いを巻き込むようにして、一回転させる。
すると、そこにぶよぶよした海月 《くらげ》――人工精霊《エレメンタリィ》が生まれたのである。
ヤドリギはあっさりと人工精霊《エレメンタリィ》の壁《かべ》を貫き、グラーシャ・ボラスは一薙《ひとな》ぎで人工精霊《エレメンタリィ》を破る。
だが、人工精霊《エレメンタリィ》の数は無尽蔵《むじんぞう》であった。分解された端《はな》から、新たに再構成され、結局のところ、ユーダイクスに近づくことはままならなかった。
「病院は――古代より死と生にまみれた場所だ。雑霊《ざつれい》と第五要素《エーデル》に呪力《じゅりょく》を混ぜ合わせれば、人工精霊《エレメンタリィ》は無限につくれる。そして、今宵《こよい》はもうひとつ披露《ひろう》してやろう」
生み出した人工精霊《エレメンタリィ》たちに、ユーダイクスはラピスを指し示した。
「あにさま……っ。それは……」
「変われ」
途端《とたん》、人工精霊《エレメンタリィ》の洪水《こうずい》が、ラピスを押し包んだのだ。
「ラピスっ――!」
穂波の悲鳴は――途中《とちゅう》で呑《の》み込まれた。
みるみる人工精霊《エレメンタリィ》に纏《まと》わりつかれ、ホムンクルスの少女の姿が変じていったのだ。
皮膚《ひふ》には醜い鱗が《みにくうろこ》生え、指の間には水かきが生えた。目と目の間が異様に離《はな》れ、舌は唇《くちびる》の先でふたつに分かれた。痙攣《けいれん》する少女に、まるで着ぐるみのように人工精霊《エレメンタリィ》は新たな形を強《し》いたのである。
「これも、バジリスクの瞳《ひとみ》を利用した類感|魔術《まじゅつ》の一種だな。不定形の人工精霊《エレメンタリィ》と魂《たましい》なきホムンクルスを使って、呪物《フェティシュ》の昔の形を取り戻《もど》させた。――ああ、ソロモンの姫には二度目のお目見えになる」
無残にも、体高三メートル近い|禍々《まがまが》しい蜥蜴《とかげ》と化したラピスを前に、ユーダイクスは誇らしげに告げた。
「ラピス……」
穂波が震《ふる》える。
何か絶望的な予感に背筋を貫かれる。
「いいや、神代に滅《ほろ》びし毒蛇《どくじゃ》の王――バジリスクそのものだ」
「――ホナミ、離れて!」
アディリシアの言葉に、条件反射的に穂波は飛び離れた。
異変はほぼ同時に起きた。
これこそが、ユーダイクスの奥の手であったか。
みるみる内に、バジリスクの立つ床《ゆか》が変色し、空気が腐《くさ》れていったのだ。すぐさま飛び離れた穂波でさえ、膝《ひざ》を折り、血の混じった咳《せき》を吐《は》いた。
「言ったろう。寿蛇の王だと。槍《やり》を持って殺した勇者は槍を伝った毒で死に、ばかりか勇者の乗った馬さえも絶命した。その伝説程度の能力は持ち合わせているとも」
「あんたは……どこまで……」
咳き込む穂波が、怒《いか》りの眼を向ける。
よりにもよって、あの少女にそのような魔力を与《あた》える、その思想に吐き気がするほどの憤怒《ふんぬ》を覚え――すぐその眼《め》を見張った。
「なぜだ……」
と、ユーダイクスもまた同じように狼狽《ろうばい》していた。
「なぜ……お前が……立っている……?」
視線の延長上。
つまり、バジリスクの目の前。
そこに、伊庭いつきが直立していた。
当然、その身体《からだ》は毒で蝕《むしば》まれているはずだった。実際、顔は紫《むらさき》に変色し、|邪 視《イーブルアイ》を受けた瞼《まぶた》は閉じている。身体だけではなく、スーツの表面や色までもぐずぐずに腐敗《ふはい》し、退色していった。
なのに。
いつきは、動こうとしなかった。
まるで、毒を受けることがせめてもの贖罪《しょくざい》であるかのように、ただ立ち尽《つ》くしていた。
じゅうっ、と音がした。
優《やさ》しく、バグリスクの鱗を撫《な》でた手の平であった。
「くっ、バジリスク! なぎ倒《たお》せ!」
主たるユーダイクスの怒号《どごう》。
だが、バジリスクは動かない。
いまも、じゅうじゅうと音をたでて水ぶくれをつくっていくいつきの手の平。その手の平に呪縛《じゅばく》されたように、バジリスクは動けない。
「ラピス……」
と、いつきは毒にやられた嗄《しゃが》れ声で呟《つぶや》いた。
「だから……言ってたんだね……死ぬまで……届かないって……」
スーツの襟元《えりもと》も毒気で破け、胸元《むなもと》のペンダントが露《あら》わになる。エジプトの香《かお》りを色濃《いろこ》く残す眼球を象《かたど》ったアクセサリー。
「…………それは……〈ホルスの眼〉……」
|邪 視《イーブル・アイ》を破る、エジプトの護符《タリスマン》。
優しく表皮を撫でた後、ポロポロの右手を、いつきはゆっくりと眼帯へ伸《の》ばした。
「いっちゃん――!」
穂波が叫《さけ》ぶ。
対して、いつきはにっこりと笑った。
「穂波……約束破るよ……」
眼帯を、むしりとる。
――頭の中で、ガチン、とスイッチの切り替《か》わる音がした。
まるで、爆弾《ばくだん》。
それまで百ボルトで一定していた電線に、一億ボルトの高圧電流を流した気分。脳のどこか
で回路が壊《こわ》れて、壊れた場所に無理やり呪力がねじこまれる。
視界が変わる。
世界が変わる。
根底から覆《くつがえ》され、検証され、新しく生まれ変わる。
「…………」
その内側から現れた瞳《ひとみ》は、いままでの紅玉《カーバンクル》の瞳とは違《ちが》っていた。
真紅《しんく》の色は同じながら――その瞳からこぼれる涙だ《なみだ》けは透明《とうめい》な、いつき自身の涙であった。
倒れているときから、いつきは視《み》ていた。
バジリスクの中で――無数の人工精霊《エレメンタリィ》の内側で悶《もだ》える少女の姿を、はっきりと認識《にんしき》していた。
同時に、ラピスの想《おも》いも視ていた。
――いつきは、死ぬまで届かないって分かってたらどうする?
――自分の死ぬときまで、絶対に欲しいものには手が届かないって分かってたら? そうしたら、いつきはどう時間を過ごす?
そう告げた少女の想い。あにさまへの思慕《しぼ》。
――見なかったら、良かった
――知らなかったら良かった。気づかなかったら良かった。いつきなんかに会わなかったら良かった。
いつきを、〈アストラル〉を見て覚えた感情。嫉妬《しっと》。胸を焼く羨望《せんぼう》。
(だから……)
いつきは、悔やむ。
分かってあげられなかった自分。あの少女の前で、魔法使《まほうつか》いにあるまじき――温かな関係なんてものを見せてしまった自分。
(だけど……)
間違《まちが》えてるとは、思わない。
うかつに見せてしまったことは悔いる。でも、温かな関係があるという、そのことが間違ってるはずがない。
間違ってるとすれば――いままでラピスがあった環境《がんきょう》の方だろう。
ユーダイクス・トロイデ。
希代の錬金術師《れんきんじゅつし》にして、自動人形《オートマタ》。
かつての〈アストラル〉で――父の右腕《みぎうで》だった男。
(だったら……)
もう、逃《に》げない。
魔法から。
〈アストラル〉から。
ユーダイクスから。
そして、何よりも――
【見ルカ?】
誰《だれ》かが、訊《き》いた。
「見てやる」
いつきは、そう答えた。答えて拳《こぶし》を握《にぎ》り、さらに吼《ほ》えた。
「見てやる! 視てやる! 観《み》てやる! もうお前からも――逃げてなんかやらない!」
手を伸ばす。
自分の弱きを振《ふ》り払《はら》うように。
自分の強さに振り回されないように。
【ナラバ――見ルガイイ。我ガ見ル世界ヲ】
右目が、嗤《わら》った。
その刹那《せつな》、いつきは眼帯をむしりとっていた。
「…………」
ユーダイクスが呼吸を止める。青銅の肺が軋《きし》み、ガラスの眼球が大きく見開かれて、その少年を映し出す。
いつきは、ただ静かに佇ん《たたず》でいた。
紅玉《カーバンクル》の瞳を露《あら》わにして、バジリスクの前に立つ。
あえて言うならば――その在りざまがすでに違っていた。
昂《たかぶ》るでもなく、憤《いきどお》るでもなく。
悲しむでもなく、悦《よろこ》ぶでもなく。
あまりにも自然に、あまりにも当然に、そこに在った。
「――バジリスク!」
その姿に、衝《つ》き動かされるようにして、ユーダイクスが命じる。
叫《さけ》びに呼応して、バジリスクの口が開いた。
たとえ呪力《じゅりょく》の流れが読めようが、回避《かいひ》不可能・迎撃《げいげき》不能な毒の吐息《ブレス》を、いつきへぶつけようとする。
――だけど。
「穂波、アディリシア、社長命令だ」
吐息の吐《は》き出される直前、
「上方修正六度右方修正コンマ六度ケルト系呪術にてヤドリギの射出」「連続強制|喚起《かんき》開始七十二の魔神は三十六の軍団を統《す》べる王と三十の軍団を支配する侯爵《こうしやく》」
たてつづけに、いつきの口から言葉がこぼれた。
それは、とても人間の実行可能な速度ではない。
なのに、いつきが口にした瞬間《しゅんかん》、ごおっと呪力が膨《ふく》れ上がった。普通《ふつう》ならば制御《せいぎょ》不能なほどの圧倒《あっとう》的な呪力の増幅《ぞうふく》。
「なっ……」
それが、穂波とアディリシアに不可能を可能とさせた。
普段の数倍の速度でヤドリギが飛翔《ひしょう》し、バジリスクの口を縫《ぬ》った。同時に、凄《すさ》まじい速度で喚起された二体の魔神は、バジリスクの身体《からだ》を横転させ――しかも、毒の影響《えいきょう》さえ受けずにいつきを回収した。
どおっとバジリスクが倒《たお》れ、魔神とともに着地したいつきは、ゆるやかにユーダイクスに向いた。
「覚悟《かくご》はいいか――ユーダイクス」
「なんだ……それは……呪力の……増幅だと……」
『敵』の言葉も認識《にんしき》できず、ユーダイクスは困惑《こんわく》する。
確かに、いつきの眼帯をつくったのはユーダイクスである。
妖精眼《グラム・サイト》という稀少《きしょう》な現象に対して、ツカサ・イバかち教わったとおりの材料を使い、構築した呪物《フェティシュ》である。
いわく、伝説の魔眼《まがん》。
いわく、神代の魔法使いたちが持っていたという、神秘の瞳《ひとみ》。
普通の魔法使いのように霊《エーテル》体が見える程度にはとどまらぬ。その瞳が本物であれば、呪力の流れそのものを、魔法の本質を掴《つか》むという。だが、あまりに視《み》えすぎる瞳は観測者の精神を蝕む《むしば》という。それゆえに、ユーダイクスの眼帯をもって、妖精眼を封《ふう》じ込めたはずだった。
(いや……もうひとつあった……)
妖精眼《グラム・サイト》が、魔物の『すべて』を見抜《みぬ》くという伝説。
魔物の快楽を、魔物の悲哀《ひあい》を、魔物の激怒《げきど》をすべて見抜いてしまうという――ユーダイクスでさえ眉唾《まゆつば》に思っていた伝説。
(確かに……この少年はそうだった……)
〈幽霊屋敷《ゆうれいやしき》〉で発見されたとき、少年の瞳は、すでに『すべて』を映していた。人間の精神では捉《とら》えきれぬ何かに、穢《けが》れきっていた。
(だとすれば……)
これは……もう単なる妖精眼《グラム・サイト》ではありえない……それは……もはや……
「ああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!」
ユーダイクスの手が、呪力を凝《ここ》ちせ、何かを掴むように動いた。
いままでに倍する数の人工精霊《エレメンタリィ》たちが彼の周囲に集《つど》う。これまでが壁《かべ》であれば、それはまさに砦《とりで》であった。
「溶《と》かせ!」
この廃院《はいいん》ごと、すべて溶かしてしまえ、とそうユーダイクスは命令した。
バジリスクならざる人工精霊《エレメンタリィ》に、命令に反逆する余地はない。また、いかに妖精眼と《グラム・サイト》といえども、単純に量で押す相手に対してはいかんともしようがあるはいと考えた。
だが。
それもまた、粉砕《ふんさい》された。
ユーダイクスの前に集った人工精霊《エレメンタリィ》たちが、ことごとくしゅうしゅうと音をたで、ひとりでに分解されだしたのだ。
「それだけか」
と、少年が言った。
次々と人工精霊《エレメンタリィ》が墜落《ついらく》し、第五要素《エーテル》の霧《きり》を立ち昇《のぼ》らせる向こうで、赤い瞳だけが真紅《しんく》の色を滲《にじ》ませていた。
「お前は……まさか……呪力を視ているだけじゃなくて……」
直感し、ユーダイクスは喘《あえ》いだ。
「視るだけで……呪力の流れを……直接操って……人工精霊《エレメンタリィ》を分解させたのか……!」
「いっちゃん……」
茫然《ぼうぜん》と、穂波は幼馴染《おさななじ》みの少年の名を呼ぶ。
呪力《じゅりょく》の流れを視るというだけでも、信じがたい現象である。しかも、他人の呪力を操《あやつ》るとくれば、これはもう穂波の想像を超《こ》えていた。
(ううん、違《ちが》う……)
勘《かん》が、囁《ささや》く。
こちらこそが、本当なのではないかど。
本来、いつきの瞳は視ることではなく、操るものなのではないかと。
だからこそ、いつきの拳《こぶし》は魔性《ましょう》に対して絶大な効力を発揮してきた。ただ殴《なぐ》りつけるだけで、オズワルドや魂喰いまでも破却《はきゃく》し、ラピスとユーダイクスを繋《つな》ぐ糸《パス》をも断《た》ち切ったのである。
それでもユーダイクスは善戦していた。
必死に呪力をかき集め、少ない呪力で発動できる媒体《ばいたい》を投げ、いつきの接近を妨《さまた》げる。フラスコは炎《ほのお》と化し、氷山と化し、時には鋭《するど》い刃《やいぱ》と化した。
だが、足りなかった。
「…………」
いつきは、かすかに右眼《みぎめ》を細める。
――魔力《まりょくく》強度。魔術の力を見切り
――霊的《れいてき》加護。守護の力を見極《みきわ》め
――術式速度。発動までの速度を考え
――呪詛《じゅそ》対価。術による疲労《ひろう》も、触媒《しょくばい》の浪費《ろうひ》も考慮《こうりょ》にいれ
――呪的技術。基本から応用、仕組まれたトリックを見破り
――危険度。魔術の制御《せいぎょ》の難しさも、失敗の可能性も計算にくわえ
そのすべてをないまぜにし、時には避《さ》け、時には呪力ごと消失させ、いつきは一歩ずつユーダイクスへ近づいていく。その一歩のたびに、ユーダイクスの命が縮まっていく。
後一歩の距離《きょり》まで近づいて、いつきはゆっくりと右手を振《ふ》り上げた。
その瞬間、《しゅんかん》ユーダイクスの背後から影《かげ》が差した。
バシリスクが上半身を持ち上げ、毒気を吐いたのだ。
「いっちゃん――!」
叫《さけ》んだ瞬間、穂波は見た。
手帳が破られたのだ。
〈協会〉支部に行く直前、穂波から預かった手帳――そこから引き破った魔法円が、バジリスクの毒気を一瞬防いだのだった。
一瞬で、十分だった。
「お前の執着《しゅうちやく》は――」
息を吸って、
「――お前が償《つぐな》え!」
いつきが拳を突《つ》き出す。
明らかに、殺意のこもった拳。
「…………」
穂波は、眼をつむった。たとえ自動人形《オートマタ》とはいえ、人格を持ったものをあの少年が壊《こわ》すのを見るのは嫌《いや》だった。
だが、その昔は一向に聞こえてこなかった。
「え……?」
眼を、開く。
拳は、ユーダイクスを逸《そ》れ、バシリスクに突き立っていた。
そして、いつきは、剥《む》き出しになった右目――妖精眼《グラム・サイト》を押さえていたのである。
眼帯を握《にぎ》り締《し》め、無理やりに押さえていた。
ひきつった頬《ほお》で微笑《ほほえ》む少年は、いつもの怖《こわ》がりのいつきであった。
「お前……」
「僕は、父さんじゃない……」
見上げるユーダイクスに、ぽつりと言った。
「父さんのような、社長にはなれません……」
泣き言でもなく、決心として告げていた。
「だけど、僕は、僕になります」
拳を、ゆっくりと引く。
「まだ、僕は僕にさえなってない。だけど、いつかきっと、そうなります。だから……あなたは……父さんに胸が張れるような……父さんが胸を張れるような……そんな人であってください…」
そのまま、前のめりに倒《たお》れながら、拳が完全に引かれた。
人工精霊《エレメンタリィ》で形づくられたバジリスクの姿は、そのときには消えていた。
そして。
「おかえり……ラピス」
そのまま意識を失ったいつきの上に、バジリスクから引きずり出されたラピスもまたくずおれ、覆《おお》い被《かぶ》さったのだった。
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終 章
時計は、すべて死に絶えたようだった。
『院長室』に据《す》えられた百のぜんまい時計たちは、どれもが動きを止めていた。
「ツカサ・イバに胸が張れるような……だと」
その中央に倒れたユーダイクスが、ぽつりと呟《つぶや》いた。
すでに、いつきたちはいない。魔術決闘《フェーデ》の争奪《そうだつ》品である『|源 書《オリジナル・グリモア》』とアタッシェケースを持って、去っていたのだつた。
「ツカサ・イバが胸を張れるような……だと」
また、ユーダイクスが言った。
ひどく、虚《うつ》ろな声であった。
そんな考え方は、想像したこともなかった。
自分の生涯《しょうがい》は――いや動作は、ただ伊庭司の残骸《ざんがい》を追いかけるためだけにあった。『もしも伊庭司が生きていると仮定した場合、どのように生きるか』など、そんな意味のない思考は検証したこともなかったのだ。
だが――。
あるいは、そんな『続き方』もあるのか。
「…………」
ユーダイクスは、冷たい床《ゆか》に横たわったまま沈思《ちんし》する。
時間は長い。呪波汚染《じゅはおせん》が四肢《しし》を蝕《むしば》む。思考回路が蝕まれるまではまだまだあるだろうが――それでも、この課題に答えは出るのだろうか。
一生は短いと、はじめてユーダイクスは悟《さと》った。
何かを達成するのに、命は短すぎる。たとえ人間の十倍以上の動作時間を誇《ほこ》ろうと、そのことに違《ちが》いはない。
重く、細いため息をついたとき、足元で音がした。
ガチャンと、呪波汚染に蝕まれた右足のパーツが換装《かんそう》された音であった。
「ラピス……」
ユーダイクスがその名を呟いた。
彼の足の螺子《ねじ》を緩《ゆる》め、新たな部品を嵌《は》め込んだのは、傷ついたホムンクルスの少女だった。
「やつらと……一緒《いっしょ》に行かなかったのか」
「…………」
返事はない。
|黙々《もくもく》と、ラピスは螺子を締《し》めている。そのまま、左足にも取りかかる。
「行きたければ行け。お前は必要ない……」
投げつけるように、ユーダイクスは言った。
それでも、ラピスは動かなかった。
「ラピス」
「――ラピスは、行かない」
ふるふると、幼い首が横に振《ふ》られた。
「ラピスは、あにさまとずっといる」
「…………」
ユーダイクスが言葉を失う。
それが、ラピスが創造主に逆らった、はじめてのことだったからだ。
「ラピスは、あにさまとずっといる」
もう一度、ラピスが繰り返した。
とても強い、いままでにはなかった物言いだった。
「……………………………………………………………………お前は……」
ユーダイクスが長い沈黙《ちんもく》の後、何かを言いかけたとき。
そのとき、ご―――――ん、とエレベーターが昇《のぼ》ってきた。今度、その扉から部屋に入ってきたのは、中肉中背の人影《ひとかげ》だった。
あわててかばおうとするラピスを制し、
「……いや、古い知人だ」
と、ユーダイクスは告げた。
「お久しぶりです。満足がいきましたか?」
と、〈協会〉の構成員――影崎が訊《き》いた。
倒《たお》れたまま、ユーダイクスは、かすかに肩《かた》をすくめる。
「……おかしなやつが.二代目になったものだな」
「ほほう。興味が湧きましたか?」
影崎が、上っ面《つら》だけ面白《おもしろ》そうに尋《たず》ねた。
「……ふん。やり方が、その場しのぎに過ぎるがな」
対して、ユーダイクスはなんら表情を浮《う》かべず、ぎしぎしと立ち上がった。
「あにさま――っ」
換装しきってない左足や、ほかのあちこちからこぼれた歯車やぜんまいが、リノリウムの床を転がった。
ラピスの小さな悲鳴にも構わず、ユーダイクスはエレベーターではなく、非常階段の方へ歩いていく。
その背中を、影崎の声が叩《たた》いた。
「まだ、司さんを追いますか?」
「追うとも。犬には主《あるじ》の跡《あと》を追う以外の目的などない」
断言する。
その意志には何の曇《くも》りもない。
「お前は……あの少年の何を見守っている?」
「さて」
「相変わらずの秘密主義か」
吐《は》き捨て、扉《とびら》を開いたところで、その足が止まった。
背中を向けたまま、ユーダイクスはぴたりと停止していた。
「あにさま?」
「……………………………………………………………………………………………………………………」
長い沈黙があった。
それから、背中はこう告げた。
「来い、ラピス」
「…………!」
ぱあっと、ラピスの顔が輝《かがや》いた。
とてとてと走り、ユーダイクス《あにさま》の手をしっかりと摘《つか》んだ。
そのまま、ふたりの姿が扉の向こうへ消えていった後、影崎はおやおやと顎《あご》を撫《な》でた。
「――これは予想しなかった結果ですね」
唇《くちびる》に触《ふ》れる。瞳《ひとみ》は笑ってないのに、その唇が三日月に歪《ゆが》んでいた。
愉悦《ゆえつ》が、悦楽が、どうしようもなくこぼれてしまうという風でもあった。
そして、部屋を出ていく寸前、ふと耳を澄《す》ませた。
「なるほど。最後の趣向《しゅこう》としては洒落《しゃれ》てます」
小さく、呟《つぶや》いた。
――カチ、カチ、カチ。
どれかは分からない。
だけど、百の壊《こわ》れた時計の中で、どれかひとつが息を吹《ふ》き返し――今、新たな時を刻みはじめていたのだった。
そして、一週間後。
トンテンカンテン、と〈アストラル〉事務所の屋上には槌《つち》の音が木霊《こだま》していだ。
無論、修理なのである。もうひとついえば、完全に自助努力だっだりするのだ。かくて、〈アストラル〉事務所では、怪奇《かいき》ミイラ男となっだいつきが彷徨《さまよ》いつつ、雨漏《あまも》りになりそうな場所にひだすら補強材を打ち付けていくという事態になっているのだっだ。
「まあなんというか……うん、骨折がなかっだだけ、はしっていうのはどうでしょうか。入院費も馬鹿《ばか》になりませんし」
と、これは猫屋敷の弁である。
実際、馬鹿にならないどころか、財政は大幅《おおはば》に悪化していた。
今回のだだ仕事のせいである。
そう。
なにしろ、ただ[#「ただ」に傍点]なのだ。これまでの仕事で地道に貯《た》めてきた貯金は、修理の材料費だけで完全赤字。目下、猫屋敷のライター稼業《かぎょう》や、みかんの巫女《みこ》バイトを増やして、借金返済強化期間|実施《じっし》中である。
ちなみに『遺産』というノートも、一応貴重品ではあるようなのだが、内容がわかるまでは売るわけにもいかない。魔術書《まじゅつしょ》というものは、多くが暗号を使って書かれているようなので、穂波をもってしても、解読には最低半年はかかるそうであっだ。
「……しんどいなあ」
屋上で、大の字になって寝《ね》そべるいつきである。
「いつきくん、お疲《つか》れ?」
――と、
上から、さらさらした黒髪《くろかみ》とともに、黒羽が見下ろしてきた。
「あ……えーと、うん、ちょっと!」
あわでてうなずき、サボリを誤魔化《ごまか》す。
が、悪事千里を走るとは本当である。
「あー、お兄ちゃん社長、怠《なま》けてる」
途端《とたん》、みかんまですっとんできたのだ。
「うわ」
「ひとりだけ怠けちゃ駄目《だめ》っていってるでしょ! みかんだってお掃除《そうじ》してるんだから!」
こちらは、巫女服に三角|頭巾《ずきん》、片手にモップで片手に箒《ほうき》という、機能的なんだか和洋|折衷《せっちゅう》なんだかさっぱり分からないいでたちである。
「「「「にゃにゃにゃ〜あ」」」」
と、その巫女服のたもとや懐《ふところ》から猫《ねこ》たちはでもが顔を出して、抗議《こうぎ》する。肝心《かんじん》の猫屋敷がいまだへたばっているので、一時的にみかんの方へ移住しているのだった。
そんなこんなで、昼は屋根から滑《すべ》ったり転げ落ちたりしつつ、夕方からは屋敷《やしき》の中で、あのどーしよーもないテキスト群との戦いである。
「ふうん。ちょっとは真面目《まじめ》に勉強するようになった?」
目の前のデスクで採点し、薄緑《うすぶち》の眼鏡《めがね》を持ち上げるのは穂波だ。
「じゃあ、量を増やしてみよか。週に五十冊ぐらいなら読める?」
「いやそのどうか勘弁《かんべん》してください。本当に死にます。ええ、ホントに」
めちゃくちゃ真剣《しんけん》に拝み倒《だお》す。今だって、自分の脳の限界と格闘中なのである。これ以上増やせば、ストライキでぶっ倒れかねない。
穂波は、そんな様子を見て楽しそうに笑った。
いつもの日常。
つい一季節前までは、想像もしなかった、でも今となってはかけがえの無い日々。
なんとなく苦笑《くしょう》して続きに励《はげ》んでいると、穂波が身を乗り出してきた。
「な、何?! なんか間違《まちが》えた?」
「社長」
と、とても優《やさ》しい声で言った。
「ひとつだけ、教えて」
「ほえ?」
「なんで、魔術決闘《フェーデ》にこだわったん?」
この質問には、ずいぶんと悩んでから、
「……父さんに勝ちたくなったから……かな」
恥《は》ずかしそうに、いつきは頭を掻《か》いた。
もう顔も覚えてない父である。
それでも、これから〈アストラル〉を率いていくのならば、正面から競《きそ》ってみたかった。かつて、ユーダイクスや猫屋敷のいた〈アストラル〉とはまったく別物だとしても、自分のつくりあげていく〈アストラル〉をきちんと認識《にんしき》したかったかち。
なお、あの後――一度だけ、手紙が届いた。エジプトからだった。
『目を知りたければ、|源   書《オリジナル・グリモア》をあたれ』
そしてもう一言。
『元気にしてます』
そのふたつの言葉だけを裏に書いた小さな写真が入っていた。ピラミッドを背景に、屈託《くったく》なく笑ったラピスと、ユーダイクスと思《おほ》しい背中の映った写真だった。穂波の説明によれば、エジプトは錬金術《れんきんじゅつ》の故郷《ふるさと》にあたるらしい。多分、ユーダイクスもまた、何かを見つめなおそうとしているのだろう。
少なくとも、ラピスのあの笑顔は嘘じゃないって、いつきはそう思う。
「どしたん?」
穂波が訊《き》く。
「え? ちょっと考え事してて――――――――――――あ」
そこで、ふと思い出した。
『でも、あなたが社長だというのなら――いいえ、社長だとか関係なしに、いつかは知る必要があるんじゃなくて』
やがて、いつきが口籠《くちご》もりながら
「あ、あのさ、穂波は……」
「え、何?」
穂波が、首を傾《かし》げる。
「穂波は昔僕か、〈アストラル〉の誰《だれ》かと会ったこと、あるのかな?」
「――――!」
すると、かちーんと穂波は硬直《こうちょく》した。
「あ……穂波?」
「あ、それはその、あのやね……」
珍し《めずら》くも大きくうろたえて、視線が定まらない。あたふたと屋敷の中を行き来する。
「え、あ、うん……」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………あの」
何かを穂波が言いかけたとき。
ノックとともに、玄関《げんかん》が開いた。
「こんばんはイツキ。ようやく、〈協会〉のお役所仕事が終わったので寄ってみましたわ。 ――あ、穂波、コーヒー淹れていただけます? いつものキリマンジャロで」
前半はこれ以上ない笑顔で、後半はメイドにでも言うような口調で、アディリシアが手近なソファに座る。
「て、アディ! なんで終わったからって、関係ない人が〈アストラル〉に来るん」
完全に出鼻をくじかれた格好《かっこう》の穂波が、全面的に抗議《こうぎ》する。
(げ)
と、いつきが胸の中で呻《うめ》いた。
そして、予想通りの答えを、アディリシアは返しだ。
「あら。確かに所属は〈アストラル〉じゃありませんけど、関係はおおありですわよ?」
「は?」
「ホナミ、まだ聞いてはせんの?」
ふふん、と余裕《よゆう》の笑顔でアディリシアが進める。
非常にまずい予感がした。むしろ確信がいつきの心臓をわしつかみにした。
「私、先週のいつきとの取引で、ユーダイクスの持っていた経営権二割を受け継ぐことになりましたもの」
随分《ずいぶん》長い間、沈黙《ちんもく》があった。
部屋の向こうのソファで猫屋敷が額を押さえ、デスクのみかんと黒羽が顔をそむけ、穂波はただ茫然《ぼうぜん》と目を見開いていた。
「……………………………………………………………………………は?」
「ええとつまり大株主ということになるのかしら。平の新入社員とはいささか差がついてしまいましたわね。とても残念ですわ」
「な、なんで猫屋敷さん、そんなこと許して!」
「いや、だって、私|疲《つか》れてぼーっとしてましたし! 実際に取引をしたのは社長ですから、やはり最終的な責任はそちらじゃないかと!」
「「「「にゃにゃにゃ〜あ」」」」
猫《ねこ》たちはでもがこぞって大賛成する。
「社長!」
大声が、逃《に》げるいつきの背中を叩《たた》いた。
こうやって。
この夏休みの日常は――いつきの元へと帰ってきだのだった。
[#地付き]〈了〉
[#改ページ]
あとがき
お待たせしました!
レンタルマギカ2巻『魔法使《まほうつか》い|VS《と》錬金術師《れんきんじゅつし》!』をお送りします!
さて、ここでちょっと問題を。
――哲学《てつがく》の炉《ろ》に、地の鉛《なまり》と太陽の国の第一資料を入れる。時の満つるまで熟し、結晶《けっしょう》化したものを錬金術師自らの手にて変成し、しかるべく切断した水の元素を配合する。
見るからに怪《あや》しげな文章ですが、何だと思います?
実はこれ、錬金術独特の隠喩《いんゅ》で、筆者がかなり適当にあてはめた「お寿司《すし》」のつくりかただったりします。
魔術の多くがそうなのですが、錬金術はとりわけ隠喩や象徴《しょうちょう》の多い学問でして、書いてあることがまったく鵜呑《うの》みにできなかったりするのです(鵜呑みにすると、どこかの皇帝《こうてい》さまみたいに鉛中毒や水銀中毒になります)。しかも、十七世紀の錬金術は詐欺《さぎ》の代名詞だったりするので、ありとあらゆる方向で分かりづらくなってたりします。
担当さんに出演してもらって、この言い回しを現実生活に応用してみると、こういう感じになります。
担当「そろそろ締《し》め切《き》りなんですが、原稿《げんこう》いかがでしょう?」
三田「えーと、そのあの、炉で天と地が燃えさかっています! 変成はついに形成《フルマティオ》の段階に至ったかど」(※キャラとアイディアだけは決まりましたよ。原稿は書きはじめたばっかりですけどね!)
担当「そ、それって……終章ぐらいには入ったってことですか?」
三田「はっはっは、任せてくださいよ。|大いなる作業《アルス・マグナ》のごとく、変成の終わりは常に幻視《げんし》の中ですとも!」(※神様の助けでもなければ終わりませんね!)
おお、結構使える?
というか、会話の中身自体は限りなく身に覚えがあるような……ええ、気のせいです、きっと、はい。そうですよね、担当さん?(不安げに覗《のぞ》き見る)
ちなみに、いつきがさせられている魔法の勉強も、半分方はこんな文章の読み解きです。
しょっちゅう彼が悲鳴をあげている理由がお分かりになったでしょうか? 「え? 簡単でしょ」というあなたは錬金術師の素養があるかもしれません (笑)。
今回のキーパーソン・ユーダイクスは、いつきにとってはじめての壁《かべ》です。
かつての社長――いつきの父親を知る彼を前に、いつきはどう立ち向かうのか。自分が向かうべき道を、どうやって決めるのか。
一巻と比べると分量が三割増ぐらいになってますけど、いつきの大変さも順調にふくれあがっている模様です。
それを見守る穂波《ほなみ》やアディリシアも、いろんな意味で苦労が絶えないわけですが。
そうそう、大事なことを忘れてました。
皆さんのご声援《せいえん》のおかげで、『レンタルマギカ』は雑誌『ザ・スニーカー』上での連載《れんさい》をはじめています。二ヶ月に一度確実にやってくる締め切りを前に、毎回ギリギリの戦いをやっております。長編版のレンタルマギカは〈協会〉の謎や〈アストラル〉の存亡やをめぐるわりと大きな事件を取り扱ってますが、連載版では文字通りの|貸し出し魔法使い業 《レンクルマギカ》――魔法使いを欲して〈アストラル〉に持ち込まれる、不思議な依頼たちが主題となっています。四月未発売の『ザ・スニーカー』では、カラー特集を組んでもらえるそうなので、よかったちお手にとってくださいませ。長編のこれからにも関係する、ちょっと趣向《しゅこう》をこらしたページになっていますよ。
では、最後に、このあとがきを書いている最中、ちょうど激戦中のはずのイラストレーターpakoさんにエールを。今回の錬金術ならびに連載短編の各種|魔術《まじゅつ》の資料を提供してくださっている三輪清宗氏にお礼を(あなたがいなければ資料で五倍は苦しんでいたでしょう)。
そして、いつもすさまじい修羅場《しゅらぱ》で戦っている担当《戦友》の難波江さんに感謝を。
次は夏頃《ごろ》、短編集でお会いできるかと思います。
二〇〇五年三月十日
和月伸宏の 『武装錬金』を読みながら
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[#改ページ]
平成十七年四月一日 初版発行
平成十七年十二月一日 四版発行