レンタルマギカ
〜魔法使い、貸します!
三田誠
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)心|優《やさ》しい
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き]終わり
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[#改ページ]
プロローグ
五月、倫敦《ロンドン》。
霧《きり》の都の名にふさわしく、その早朝も、寄宿舎の庭園は白い霧に滲《にじ》んでいた。
かすかに湿《しめ》った芝生《しばふ》を踏《ふ》み、蔦《つた》のからまるチャペルの手前で、穂波《ほなみ》・高瀬《たかせ》・アンブラーはスーツケースを押さえた。
大理石づくりの正門で、見知った顔の老|紳士《しんし》が待っていたのだった。
「マクレガー先生」
「――ミス・ホナミ。故郷へ戻《もど》るとしても、挨拶《あいさつ》ぐらいはしていったらどうかな? 危うく近年の最優秀生《さいゆうしゅうせい》を見送りそこねるところだった」
足元の霧に、とんと杖《つえ》をついて、マクレガーが山高帽《やまたかぼう》を胸へ当てた。
流暢《りゅうちょう》な日本語である。
穂波は、くすりと笑うと、こちらも大きなとんがり帽子を脱《ぬ》いだ。栗色《くりいろ》のセミショートの下から、薄緑《うすぶち》の眼鏡《めがね》と、その奥の|蒼水色の瞳《アイスブルー・アイ》が露《あら》わになる。十五歳の初々《ういうい》しい身体《からだ》に、真っ白なブラウスとタイトスカートが眩《まぶ》しかった。
「お手をわずらわせることもあらへんと思うて。先生、次の論文で忙《いそが》しそうやったし」
「見くびらないでくれたまえ。イギリス紳士たるもの、弟子《でし》の門出《かどで》ぐらい祝えなくてどうする」
整ったコールマン髭《ひげ》を撫《な》でながら、マクレガーが軽く鼻を鳴らす。
もう一度、穂波は微笑《びしょう》した。
こういう人だった。見栄《みえ》っ張りと稚気《ちき》とが見事に同居している。日本語を習いたいといきなり穂波をつかまえたあげく、『訛《なま》りなど我慢《がまん》ならん。いかなる言語であれ、歴史ある標準語こそ紳士にふさわしい』とか言い出して、数ヶ月後には気分転換《てんかん》用のBGMまで落語や歌舞伎《かぶき》にさしかえていたこともあった。事情を知らないほかの生徒は、ついに先生が狂《くる》ったかと噂《うわさ》しあったものだ。
穂波にとっては、この七年、一番世話になった人でもあった。
「さて、お役|御免《ごめん》の教師から、最後にひとつ、卒業試験を課してかまわんかね?」
「はい」
胸の内で、ひそかに装備を確認《かくにん》する。――大丈夫。大掛《おおが》かりな術具は航空便で送ってしまっているが、今身につけているものだけでも最低限はやれる。いざとなったら、スーツケースの中身に頼《たよ》ることとなるか。
「躊躇《ちゅうちょ》なしか。その向こうっ気の強さも大いに結構」
くるくるとマクレガーが杖をまわした。一昔前の映画なら、そのままタップダンスを踏み出しそうだ。
「この庭園内なら、呪波|汚染《おせん》の心配もいるまい。――飛行機の出るまで時間もない。早速《さっそく》はじめよう」
すっと、ポケットの中から何かを取り出した。
小さな陶器《とうき》の酒杯だ《ゴプレット》った。側面には|自分の尾を喰らう蛇《ウロボロス》が刻まれ、上面には蝋《ろう》で蓋《ふた》をしてある。錬金術《れんきんじゅつ》の実験ではしばしば使われる品だ。
「先生の専門は、エジプト魔術《まじゅつ》では?」
「これは君への試験だ。生徒の適性にあわせるのは当然だろう。無論、君用に難度もあげてあるからそのつもりで」
言いざま、マクレガーは無造作に酒杯《しゅはい》を放った。
瞬間、《しゅんかん》異変が生じた。音をたてて割れたそれは、たちまち霧を蹴散《けち》らす煙《けむり》を発して、穂波を包み込んだのだ。ばかりか、まるで意思を持っているかのように、少女の鼻とロへと殺到《さっとう》した。
「‥‥…っ」
「つまるところ、カバラのゴーレムと硫黄《いおう》――|三元素《トゥリア・グリマ》の応用だ」
マクレガーがじっと観察する。
「いまさらEMETHなどとは書かないよ。さあさあ、実体のない怪物《かいぶつ》を相手に、どう対処する?」
ふくれあがった煙は、すでに穂波の身体を覆《おお》い尽《つ》くしていた。
マクレガーの計算通りなら、煙の怪物は少女を昏倒《こんとう》させるまで元には戻らぬはずだった。無論、命までは奪《うば》わぬよう調整しているが、そこまでほ一切《いっさい》手加減なし。肺の空気を押し出すまでは、ずっとまとわりつく設計だ。
だが、煙は突然《とつぜん》動きを止めた。
「む?」
眉《まゆ》が寄る。地面に、ヤドリギが生えていた。実体を持たないはずの煙が、そのヤドリギに貫《つらぬ》かれただけで金縛《かなしば》りにあったのだ。
同時に、煙の中から、一本の矢がマクレガーの杖を打った。
芝生へ転がった杖が、途中《とちゅう》で縦に割れた。塗料《とりょう》で固められた内側にはEMETHと刻まれており、そのEだけが今の一撃《いちげき》で削《けず》れていた。
「呪力《じゅりょく》の源はそちら。嘘《うそ》つきは泥棒《どろぽう》の始まりですよ、先生」
「――ヤドリギの投げ矢、かね。これはまた古典ゆかしい」
痺《しび》れた手を振《ふ》って、尻餅《しりもち》をついたマクレガーが苦笑する。すでに煙は消えていた。右手を差し出している少女は、スーツケースを開いてもいない。かなりの自信作だったのだが、結局切り札を使わせることもできなかったらしい。
「ああああ、もったいないもったいない――」
紳士《しんし》然とした恰好《かっこう》をかなぐりすてて、じたばたとマクレガーは足踏《あしぶ》みした。
「君が残ってくれるなら、研究費どころか秘蔵の魔術書《グリモワール》を公開するという機関もあるのに。せめて、あと一年――いや半年、研究を続けてみんか」
「惜《お》しんでくれはって嬉《うれ》しいです」
ぶすっとしたままのマクレガーが、腕《うで》を組んで、さらにこう訊《き》いた。
「日本に恋人《こいびと》でもいるのかね?」
かあっと、穂波の頬《ほお》が赤く染まった。
「そ、そういうんやないですー」
「ほほう」
マクレガーが、楽しげに頬をゆるめた。
「そういえば、幼馴染《おさななじ》みがいるとか言っていたか? ふむ、紳士たるもの、そういう事情であればやぶさかではないぞ。ぜひぜひ事情を話したまえ」
「どっちかっていうと、それはフランス紳士やないですか」
「ふん、些細《さきい》な違《ちが》いだ」
ほかのイギリス人が聞けば、殺されそうな台詞《せりふ》である。
「まあ、今回はミス・ホナミの珍《めずら》しい顔が見られたことで良しとしよう。――で、日本のどこに行くのだったかな?向こうではケルト魔術はマイナーだろう? ほとんどの霊的《れいてき》地脈はシントーやブッディズムの縄張《なわば》りだと聞いたが」
「――ええ。それについては、十年前から決めてるんです。どうぞ、先生」
悪戯《いたずら》っぽく笑って、穂波は一枚の名刺《めいし》を渡《わた》した。
水晶《すいしょう》の透《す》かしが入った可憐《かれん》な紙片《しへん》には、セピア色の文字でこう書かれていた。
〈魔法使い派遣《はけん》会社・アストラル
――あなたのご要望にあった魔法使い、お貸しします〉
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目次
プロローグ
第1章 魔法使い、貸します!
第2章 魔法使いの入札
第3章 魔法使いの〈夜〉
第4章 魔法使いの禁忌
第5章 魔法使いのカタチ
第6章 魔法使いの終わり
第7章 魔法使いのヒトミ
エピローグ
あとがき
第1章 魔法使い、貸します!
1
では、魔法《まほう》の話をはじめよう
「うわあああああああああああああああああああああああっ!」
伊庭《いば》いつきは、大声をあげてーー失神しそこねた[#「失神しそこねた」に傍点]。
深夜の路地裏に尻餅《しりもち》をつき、その痛みで我に返ってしまったのである。隣《となり》に置いてあったポリバケツが転がって、学生服のズボンを生ゴミで汚《よご》した。
「あ……あ……あ……あ……」
が、まったくそんなことは気にならず、いつきは呆《ほう》けたみたいに頭上を見上げ、右目の眼帯を押さえている。
年よりも、少し幼く見える少年だった。
その性格をあらわすように、髪《かみ》は短く、染めても固めてもいない。服装だって、せっかくの休日だというのに学生服だ。例外は、右目を覆《おお》う海賊《かいぞく》のような眼帯ぐらいで、それさえも少年がつけると、どこかユーモラスな感じがしてくるのだった。
そして、そんな少年が眼帯を押さえたのには、切実な理由があった。
彼の左目には、何も見えていない。
ほかの誰《だれ》が見ても、怯《おび》えるようなものは何もないというはずだ。暗い路地裏には、少年以外の影《かげ》はまるで見当たらなかった。
普通《ふつう》の人間なら。
「………」
だけど、いつきの右目には視《み》えていたのである。
眼帯どころか、押さえた手の平までも透《す》かして、はっきりと視えていた。
――赤い目。
爛々《らんらん》と燃える瞳《ひとみ》たちが、三メートルの高みからいつきを睥睨《へいげい》していたのだ。それも、全部で六つの瞳――三つの頭である。
それは、三頭の首を持つ、恐《おそ》ろしく巨大《きょだい》な犬だった。
いつきの倍近い体高、べっとりと黒いごわごわした皮膚《ひふ》、地獄《じごく》のように赤い瞳――そして、道幅《みちはば》ぎりぎりの肩口《かたぐち》から生えた三つの頭。どれもが魔性《ましょう》の威厳《いげん》に満ちて、相対するだけで魂《たましい》をひしがれそうだった。
――まさしく、資料にあったとおりの姿である。
「……あ、あの……その……」
「GARAAAAAAAA」
左右のふたつの顔から、ごおっと熱い吐息《といき》が漏《も》れた。その余波だけで、いつきの髪は一斉《いっせい》に逆立った。もうすこし熱ければ、発火するんじゃないかというぐらいの温度だった。
無論、そのとおりなのだ。
遠いご先祖である地獄の番犬や、欧州《おうしゅう》を閲歩《かっぽ》した黒犬獣《プラックドッグ》にはかなわぬとしても、その気になれば鉄塊《てつかい》程度は融解《ゆうかい》させるだろう。資料の数字では、最高温度は二千度だったか三千度だったか。どの道、人間なんて一瞬《いっしゅん》で消し炭に違《ちが》いない。魔獣《まじゅう》とはそういう存在だ。
だが、魔眼を持つような人間なら、ひとつぐらいの抵抗《ていこう》は……
直後、
顔の前で、思い切りいつきが両手を振《ふ》った。
「いやっ、あのっ、僕、きっと美味《おい》しくないですからっ!」
それはもう、中学生にカツアゲされた男の子さながらの必死っぷりで、ガクガクと首を打ち振っている。
……訂正《ていせい》しよう。
まったくもって、そんな抵抗は、ひとつたりともできそうになかった。
「GRYYYYIII?」
「JRYYYYIII?」
「ZRYYYIIII!」
三つの頭が、それぞれ別の角度からいつきを観察する。
どこから口をつけようか、と悩《なや》んでいるみたいだった。それとも、どこから焼いたらいいかと悩んでいるのか。
「あ、あの、あはははは……」
いつきが乾《かわ》いた声をあげる。
その反応に気をよくしたか、三頭の首は真っ白な牙《きば》を弾猛《どうもう》に打ち鳴らした。
笑ったのだ。
ゾクン、と冷たいものがいつきの背筋を貫《つらぬ》いた。
「たわわわああわわあああ!」
意味不明な叫《さけ》びをあげながら、両手両足を動かして後じさる。
同時に、魔犬は跳躍《ちょうやく》した。
嘘《うそ》のような身軽さだった。歩いただけでも擦《こす》りそうなぐらい狭《せま》い路地裏なのに、二度三度と壁《かべ》を蹴《け》り上げ、ぴたりいつきの背後へと着地したのである。
「な、なあああっ」
目を剥《む》く。
今度は驚《おどろ》くひまもなかった。一瞬で、いつきの視界は真っ赤に染められたのだ。
それは、真っ赤で、熱くて、異臭《いしゆう》を放つ、
顎《あご》。
――べろん
「………」
――べろん、べろん、べろん、べろん
「………………………………………………………………え?」
瞼《まぶた》を開く。
ねばっこい涎《よだれ》に歪《ゆが》んだ視界で、ほっほっほっ、と魔犬が尾《お》を打ち振っていた。それはもう嬉しくてたまらないという感じの、めちゃくちゃ一生|懸命《けんめい》な振り方だった。
「わあわあわわっ」
三つの頭が猛烈《もうれつ》な勢いで、いつきの顔を舐《な》めまくる。
その後ろから、陽気な声がかかった。
「おお、さすが社長。一番乗りで発見されるとは」
「――ね、猫屋敷《ねこやしき》さん」
涎まみれでいつきが振り返ると、路地裏の向こうで、青年が扇子《せんす》を持ち上げていた。
いつきよりも、頭ひとつ高い。いぶした灰色の髪《かみ》をしており、切れ長の目と通った鼻梁《びりよう》は、相当な美形といってもよかった。なのに、肩《かた》からかけた平安風の羽織と扇子が、その美点をあっさりぶち壊《こわ》している。
ついでに、名前どおり[#「名前どおり」に傍点]のものが、その羽織のあちこちから飛び出したのである。
「……にあ」
「にゃあ」
「うにゃ」
「にい〜あ」
ちょうど四|匹《ひき》、それぞれ白、ぶち、黒、三毛の猫たちであった。
「んーよしよしよし。ちょうど、この子たちの餌《えさ》やりをしてたら遅《おく》れちゃいまして。猫いいですよねえ猫。人類の宝です。地球の宝です。いやいや宇宙、時空、阿頼耶識《あらやしき》の宝。猫一|匹《ぴき》値千金とはけちくさい、この猫屋敷|蓮《れん》の目からは値万両、いや億両」
「……て、そんなことより、これ、どういうことですか?!」
ざらざらした魔犬の舌で、ほとんど肌《はだ》を削《けず》られながら、いつきが訴《うった》える。
対して、猫まみれの青年は、扇子を口元にあてたまま、不思議そうに首を傾《かし》げた。
「は? 何がです? その子は人懐《ひとなつ》っこいって話してたでしょう?」
「人……懐こい?」
確かにまあ、そう言えないこともない。人懐こいというよりは、人が好物という気もするけど。
「あ、社長。また分からないからって、資料読み飛ばしましたね。いいですか、今回のはペット捜索《そうさく》ですよ?」
「ペ、ペット」
思わず鶴鵡返《おうむがえ》しに口にしたいつきである。
「末裔《まつえい》の亜種《あしゅ》とはいえ、使い魔《ま》にするにはもってこいですからね。輸送の途中で逃げ出したからって、ウチに依頼《いらい》が入ったんじゃないですか」
「…………」
声もない。
が、魔犬の方には大きな変化が生じた。
「GRYYYYYY?」
急にいつきから離《はな》れ、現れた青年と猫を警戒《けいかい》するように、唸《うな》りをあげる。そして、反対側へと身を翻し《ひるがえ》た。
「あらら、オルトロスさんっ!」
圧倒《あっとう》的な脚力だ《きゃくりょく》った。
青年の叫びよりも早く、魔犬《オルトロス》が一気に路地裏を突破《とっぱ》しかけたところで――
「――はらいたまい、清めたまう」
今度は、どこか舌ったらずな、でも清例《せいれつ》な声が路地裏へ響《ひび》いた。
「はらいたまい、清めたまう。いわまくもあやにかしこきはらえど大神のおおみいずをこいのみまつり、すべてのまがごとつみけがれをはらいのぞかむと、あまつのりとのふとのりごとのろ――」
突《つ》き出されたのは、白い紙垂れをつけた榊《さかき》の枝《えだ》――玉串《たまぐし》である。その玉串が振《ふ》られるたびに、魔犬は大きく跳《と》び退《すさ》り、こちら側へと押《お》し戻《もど》されていく。ばかりか、まるでいたずらを飼い主に見つかったみたいに、次第《しだい》に魔犬は頭を垂れ、きゅーんと情けない声をあげたのだ。
「えっ?」
いつきが瞬《まばた》きする。
路地裏の向こう側に、ツーテールの少女が立っていた。いや、まだ八歳かそこら。少女というよりも女の子というべき年齢《ねんれい》だ。
服装は、少し蓮に似ていた。
ぞく白く清められ、鶴《つる》の意匠《いしょう》があしらわれた千早《ちはや》。色鮮《いろあぎ》やかな紅袴。《べにばかま》――つまるところ巫女装束《みこしょうぞく》だったのだ。背中に真っ赤なランドセルをしょっているのは、学校帰りのせいだろう。
「もう、猫屋敷さん。この子、はかの魔物の呪力《じゅりょく》の気配にはおくびょうだって聞いてたでしょ?」
ぷんぷんとほっぺたを膨《ふく》らませて、女の子は腰《こし》に手を当てた。
名剛を、葛城《かつらぎ》みかんという。小学三年生で、神道課の契約《けいやく》社員、つまりバイトであるらしい。
「あっはっは。ついうっかりしてまして」
で、呑気《のんき》に笑った青年が、猫屋敷蓮《ねこやしきれん》。専務|取締役《とりしまりやく》にして陰陽道《おんみょうどう》課課長。表裏ともに〈アストラル〉の主力であるという。
「じゃあ、最後は社長に確保してもらいましょうか?」
「へ、ぼ、僕?」
目をぐるぐるさせたいつきへ、猫屋敷が三枚の符《ふ》を渡《わた》した。なにやら、複雑な文字が和紙の上に躍《おど》っている。ちょっと書道をかじったものが見れば、ほおと目を見張ったかもしれないが、そんなことは今のいつきとは無縁《むえん》である。
「ええ、あの子の頭にばんばんと。私が近づいたら、また怯《おび》えちゃいそうですし」
「…………」
いつきが息を止めた。
何度となく、猫屋敷と魔犬とを見やる。よほどみかんに頼《たの》もうかと思ったが、彼女は彼女で魔犬の向こう側である。
「あ……わかり……ました」
すっかり青ざめた顔で、人形みたいにうなずく。
「お願いね、お兄ちゃん社長」
にこにことみかんが応援《おうえん》する。
「あ……あはははは」
乾《かわ》いた笑いを漏《も》らして、いつきほおそるおそる魔犬《オルトロス》に近づいた。
「GRYYYYYYYY?」
「だだだ、大丈夫《だいじょうぶ》だから。悪いことしないから」
べたっ
一枚。
それで、かくんと左の頭が落ちて、心地《ここち》よさそうな寝息《ねいき》をたてる。
「JRYYYYYYYYYY」
「なななななな、な、何もしないから。符|貼《は》るだけだから」
べたっ。
二枚。
「ZRYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYY?!」
「…………!!!!!」
三枚目を貼ると同時に、いつきは今度こそ失神していた。
「お、お兄ちゃんっ、お兄ちゃん社長っ?」
「ありゃりゃりゃりゃりゃ」
「にゃ〜おう?」
遠くで、呼びかける声が聞こえた気がした。
バイバイ。さよなら。ありがとう。
2
「…………!!!!!」
いつきは目を覚ました。
一瞬、《いっしゅん》どこにいるのか分からなかった。
あたりを見回す。赤かった。
夕焼けの教室。
呆《あき》れた顔で、級友の何人かがこちらを見つめている。
「うん、イバイツ?」
代表で、隣《となり》の席の山田《やまだ》が声をかけてきた。碁盤《ごばん》みたいな顔をした物理部のホープである。ちなみに何がホープかって、新入生|歓迎《かんげい》で行われた物理部格ゲー大会で無敗の優勝を果たしたあたりだったりする。
「さすがに一時間目から補習《ほしゅう》まで寝ているのは、何か憑《つ》いているんじゃないかと思うんだが、どうよ?」
「……あ、そんなに倒《たお》れてた?」
「お前、授業中も延々|凄《すさ》まじい形相で唸《うな》っていたからな。誰も触《ふ》れる気にならなかったぞ」
ぎょろり、とこちらを三白眼でうかがってくる。
「三つ首とか化け物犬とか言ってたが、なんだ、また夜中に間違《まちが》えてホラー映画でも見ちまったか?『恐怖《きょうふ》――空飛ぶ殺人トマト対エド・ウッド』とか」
「それ、どこにも犬出てないと思う」
「気にするな。どうせホラーなら全部お前気絶するだろうが」
「……そ、それはさすがにひどいんじゃないかな」
「んにゃ、俺はお前が『のび太《た》の魔界大冒険《まかいだいぼうけん》』で気絶したのを忘れねー」
「がっ」
いきなりトラウマを直撃《ちょくげき》された。
小学校からの付き合いというのは、こういう場合、悪い方向にしか働かない。あずか入学一ヶ月半でいつきの怖《こわ》がりっぷりがクラス中に広まったのも、すべてこの男のためである。おかげで最近は、隣のクラスでも『ドラえもんで失神した男』で通ってしまうありさまだった。
「うけけけ」
ひとしきり悪魔みたいな笑いを漏《も》らした後、
「で、どうした?」
と、山田が訊《き》いてきた。
「どうしたって?」
「……お前さ、先週あたりからちょっと様子が変じゃね?」
片眉《かたまゆ》をひそめて、腕《うで》を組んでいる。
「へ、変?」
「んー、お前が撃沈《げきちん》しているのはいつものことだけど、ちいとばかり頻度《ひんど》増えすぎだろ。なんか妙ち《みよう》きりんなバイトでもしてんのか」
「……まあ、ちょっとね」
曖昧《あいまい》に笑って、いつきは頬《はお》を掻《か》いた。
「ふん、別にいいけどよ。大体、俺は、てっきりお前は日下部《くさかべ》の叔父《おじ》さんと一緒《いっしょ》にアメリカへ行くもんだと思ってたし」
「そうもいかないだろ。日本《こっち》の家にも留守番はいるし、そこまで厄介《やっかい》になるのは気がひける」
「それこそいまさらだろうが。何年一緒に住んでいやがる」
「だからこそ、筋を通すところは通さなきゃ」
いつきの言葉に、山田がため息をついた。
「たく、妙なとこで律儀《りちぎ》なやつ。んじゃ、それはかまわんが、たまにはウチにも寄れ。顔出させろって姉貴がうるさい」
「うん、ありがと」
素直《すなお》に礼を言った。
山田はやれやれと肩《かた》を落とした後、「あり?」と首を傾《かし》げた。
「そーだそーだ。その姉貴から言われてたんだ。――お前、親父《おやじ》さんの件はケリがついたのか。なんか弁護士の人から手紙届いたとか相談してたんだろ。結局、見つかったのか、親父さん?」
「あ……」
いつきが口籠《くちご》もったのを見て、山田はぽんと首の裏を叩《たた》く。
「あん、ちょっといらんこと聞きすぎたか。まあその気になったら、姉貴に電話でもしてやってくれ」
まるで悪びれないところが本当にこいつらしい。
苦笑《くしょう》して、いつきは首を振《ふ》った。
「別に構わないよ。ただ、行方《ゆくえ》不明になって七年経《た》つから、正式に死亡|扱《あつか》いになるんだってさ」
「……そっか。そんなになるか」
「ほとんど実感はないんだけどね。いなくなる前から日下部の家にいるし」
「まああれで文句言ってたら罰《ばち》があたるわな。俺なら勇花《ゆうか》ちゃんだけで満足だ」
「黙《だま》れロリコン」
「うるさい、へなちょこ」
言い合っている最中《さなか》に、いきなりポケットで携帯が震えた。
相手先の名前を見て、心臓が跳《は》ねた。
「あわっ」
「ん? どうした、出ていいぜ」
「う……うん」
ごくりと唾《つば》を飲み込み、通話のボタンを押した途端《とたん》、
「あ、社長−っ」
「は?」
ぴくりと、山田の耳が動いた。
「ね……猶屋敷さんっ、なんです?」
「いえいえ、前に言っていた相続の作業と、新入社員の件がありまして。明日にでも顔出してもらえます、社長?」
「あ、はい…・それは分かりましたけど」
「後、書類関係で先日のオルトロスの捕獲《ほかく》と輸送手続きについてのサインと確認《かくにん》を」
「は……はい、分かりました。じゃあまたっ」
電源を切ると、案の定、山田が目を白黒させていた。
「イバイツ、今……社長とかなんとか言われなかったか?」
「いやあのその間違《まちが》い電話っ」
「受け答えしてたろ?」
「それはその……ご、ごめん。もう帰るから!」
「おい、イバイツ?」
ああてて立ち上がって、いつきは逃《に》げ出すように鞄《かばん》を持ち上げた。
教室を出たときには、とっくに夕陽《ゆうひ》は落ちていた。
失踪《しっそう》した人間は、法律上、七年をもって死亡したものとみなされる。
そんな法律を伊庭《いば》いつきが知ったのは、一道の手紙によってだった。
「……あ、父さんのことか」
破るのがもったいなかったぐらい綺麗《きれい》な白封筒《ふうとう》の中身に、『伊庭|司《つかき》殿の資産のご相続について』と書かれていたのである。
申し訳ない話だけど、手紙が届くまですっかり父のことは忘れていた。行方不明になるずっと前から――いつきが物心ついた頃《ころ》には、叔父《おじ》夫婦のもとへ預けられており、そちらで家族同然に育てられていたためである。
叔父の養育は、申し分ないものだった。
実の娘《むすめ》である義妹《いもうと》の勇花と比べても、その愛情は決して隔《へだ》たりがなかったし、幽霊《ゆうれい》や化け物が視《み》えてしまういつきの体質を知っても、一度も怖《おそ》れたり気味悪がったりしなかった。どころか、自衛のためにと言って、必死でいろんな文献《ぶんけん》や情報をあたってくれたぐらいだった。
下手に視えるせいで、化け物にしょっちゅう追いかけられていたいつきが生き延びられたのは、間違いなく叔父のおかげである。
――結果、少々|怖《こわ》がりになるだとか、イジメに遭《あ》うだとかの弊害《へいがい》はあったにせよ、伊庭いつきの生活は、本当におだやかで平凡《へいぼん》なものだったのだ。
そして今。
はじめて、いつきは父と叔父のことを少しだけ恨《うら》んだ。
そりゃあ、こんな体質だ。預けたのにも理由があるだろうとは思っていた。手紙が来たとき、アメリカ赴任《ふにん》中の叔父に黙《だま》っていたのも、そういう気遣《きづか》いをしたせいである。
が、さすがにこれは予想外だった。
(……というか、反則でしょう叔父さん)
さめざめと、いつきが胸の内で嘆《なげ》く。
(父さんが魔法使《まほうつか》いの会社の社長だなんて、一度も教えてくれなかったじゃないですか)
ましてや、その会社を、自分が受け継《つ》がなきゃならないなんて――
夕食にラーメンを食べた帰り道、いつきは近所の公園で電話をかけた。
『Good Morning……って、はれれ? いつき兄さん? どうしたの?』
勇花だった。時差のせいか、ずいぶんと眠《ねむ》そうな声である。無理もない。日本の午後九時はニューヨークではまだ早朝だ。
「いや――あの、叔父さんいる?」
『出張中だよー。今は五大湖のへん飛び回ってるみたい。定期連絡《れんらく》もさぼってるって、母さんがぷりぷりしてる』
「――そっか」
『ね、ね、それより兄さん、いつこっち来るの?』
いそいそと、毛布のこすれる音が聞こえた。目が覚めて、ベッドの中から乗り出してきたのだろう。
「夏休みまでは無理だよ。せっかく高校通ったんだし」
『えー、兄さんもこっちの学校受けなおせばいいのに』
「無茶言わない。勇花みたいに英語べらべらってわけじゃないんだから」
『そんなの一ケ月もすれば慣れるよ』
気軽に保証してくれる。頭の出来の差もぜひ考えて欲しい。
「……はいはい」
苦笑《くしょう》して、いつきはふと訊《き》いてみた。
「あのさ、勇花は、〈アストラル〉って聞いたことある?」
『え? 何』
きょとんとした声が返ってきた。それから、急にマジメな口調になって、
『兄さん――また何か視たの?』
(うわっ)
図星すれすれをつかれた。
「い、いや、別にそういうわけじゃないんだけど」
『ホントに?』
「うん。じゃあ、もう切るよ。国際電話高いし」
『あ、兄さんってば――』
「また!」
プツッと携帯《けいたい》を切って、大きく深呼吸した。勇花は勘《かん》がいい。これ以上話せば絶対にボロが出ていただろう。
「……さすがに社長にされたとは言えないもんなあ」
思わず、遠い目になるいつきだった。
子供用のブランコに座ったまま、ゆらゆらと足を伸《の》ばす。
先週の洋館での会話を反芻《はんすう》して、もう一度いつきはため息をついた。
――洋館。
魔法使い派遣《はけん》会社〈アストラル〉の事務所である。
知っていなければきっと気がつかないような、ビルとビルとの間に隠《かく》された、本当に小さな洋館だ。相続の手紙を持っていったいつきに対して、猫屋敷は大いにうなずき、さまざまな書類を持ち出した。
経営権の譲渡《じょうと》とか、相続権についてのうんたらとか、なにやら難しい内容が列記されていたが、それ自体は問題なかった。はじめて知る父の姿や過去に、少し浮《う》かれてもいたのである。
が、名刺《めいし》を差し出されたところで、すべては反転した。
水晶《すいしょう》の透《す》かしの入った紙片には、陰陽道《おんみょうどう》課課長・猫屋敷蓮という名前とともに、セピア色の文字でこう書かれていた。
〈魔法使い派遣会社・アストラル
――あなたのご要望にあった魔法使い、お貸しします〉
『…………』
絶句したまま、数秒。
『……え、と、これは、どんな?』
『文字通りですよ? 世界各地からよりどりみどり、コックリさんからブードゥー魔術まで、ご要望どおりの魔法使いでお客様をサポートいたします。あ、今ちょっと人材不足なんですけれど』
にこにこ顔で、猫屋敷蓮は扇子《せんす》をいじくり、最後にこう付け足したのである。
『で、あなたには、この会社を受け継《つ》いでいただきたいんですよ』
『社長さんだ、社長さんだぁ〜−』
いつきの目が点になった。
『――て、待ってくださいよ。僕、高校生ですよ! だいたい、父のことなんて覚えてもいませんし、魔法使い派遣たって何をするんですか?!』
『問題ありませんよ。後見人さえいれば、高校生でも経営は可能です』
湯呑《ゆの》みを手にした猫屋敷は、完壁《かんぺき》な営業スマイルでうなずいたのだった。長身をよじのぼってる猫《ねこ》と服装さえ見なければ、模範《もはん》的な営業マンで通りそうだった。
『で、でも何も僕が相続しなくたっていいでしょう?! たとえば猫屋敷さんが社長になったっていいじゃないですか。それだったら、僕|契約書《けいやくしょ》でもなんでも書きます』
『そのへんがちと業界のしがらみでして』
俗《ぞく》っぽい物言霊、猫屋敷が微笑《びしょう》した。
『〈協会〉からの沙汰《さた》があって、結社の首領――ああウチだと社長のことですが――には、血縁《けつえん》を優先しろと。あそこの言い分無視すると商売になりませんし、お引き受けくださらないと明日から私たち全員路頭に迷ってしまうわけで』
『とうさん? りすとら? ふりょーさいけん?』
隣《となり》で聞いていたみかんが心配そうにいつきを見上げた。
ついで、猫たちがじとーつと無言の圧力をかけてくる。それぞれ愛くるしい姿だけに、なんとも逆らいがたい迫力が《はくりょく》あった。
『あ、あの…‥』
言葉が出ない。
気がつけば、足元の床が奇妙な唸り声で震えていた。うっかり拒絶したら、その床から見たこともない化け物が飛び出しそうだった。
『ま……魔法《まほう》とか、まったく使えませんし……』
『お気違《きづか》いなく。何日かに一回、サインや判子をいただければ、それで十分です』
にこりと猫屋敷がうなずいた。
退路がどんどんなくなっていく。
いつのまにか、みかんがソファの肘掛《ひじか》けをつかんでいた。小さな手できゅっと握《にぎ》り締《し》め、唇《くちびる》をへの字にしている。
『…………』
無言。
『………‥』
沈黙《ちんもく》。
『…………』
静寂。《せいじゃく》
ついに耐《た》えかねたいつきが、
『……は、はい』
こくん、と小さくうなずいてしまったのである。
『さすが社長!』
『お兄ちゃん社長だぁ〜!』
『『『『にゃあにゃあにゃにゃにゃあ〜!!』』』』
たちまち事務所中から喝采《かっさい》があがった。
その歓声《かんせい》を浴びながら、伊庭いつきは絶望にうちひしがれていたのだった。
「……あ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜あ」
大きなため息をついて、いつきはよろよろとブランコの鎖《くさり》に額をつけた。がっくりとうなだれ、体重を預けた姿は瀕死《ひんし》の老人さながらである。
(まずいまずい、まずいよ!)
どう考えてもまずかった。一体全体、何を間違《まちが》えたら、クラス一のへなちょこが魔法使いの社長をやれるというのか。というか、社員自体が謎《なぞ》のままだ。
『私とみかんのはかに、ヨーロッパ周遊中のヘイゼル取締役《とりしまりやく》と最近入った新入社員、それと不定期に手伝ってもらっているバイトの人が三人ほどの、アットホームな会社ですよ〜』
とは猫屋敷の弁である。
それに誤魔化《ごまか》されて、いつのまにやら十日あまりも経《た》ってしまった。そして今日に至っては、ついに化け物|捕獲《ほかく》にまで付き合わされてしまった次第《しだい》だ。帰る足取りが重く、つい公園で立ち止まってしまったのも当然とはいえる。
小さな公園だった。
家の近所で、幼稚園《ようちえん》の頃《ころ》からしょっちゅう逃《に》げ込んでいた場所だった。学区のエアポケットのようなところで、いつ来てもほとんど人通りがない。当時は、木陰《こかげ》でふんぞりかえっている土管に隠《かく》れると、やっと安心して眠《ねむ》れたものだった。
「隠れてもなんともならないよねえ……」
未練がましく土管を見つめてしまう。いっそのこと本当に隠れてしまおうかと、真剣《しんけん》に悩《なや》んだ。勇花の言う通りアメリカで雲隠《くもがく》れしていれば、猫屋敷たちも諦《あきら》めてくれるのではなかろうか。
――だが、こんなときこそ、不幸は固め打ちしてくるものだ。
いつきの場合、五十六度目のため息をついて、やっとブランコから立ち上がったときに訪《おとず》れた。
びくん!
いきなり、背中から右目にかけて、灼熟《しゃくねつ》した鉄棒で貫《つらぬ》かれたのだ。
「――――っ!」
もちろん幻覚《げんかく》だった。
だが、ただの幻覚ではなかった。
確実に、絶対的に、死を予感させる感触。死に匹敵する気配。公園が一瞬で地獄に変じたかのような、どうしようもない何か。
……振《ふ》り返っちゃ駄目《だめ》だ。
何があっても振り返っちゃ駄目だ。
振り返れば、そこには……
「あなたが〈アストラル〉の社長ですわね?」
「うわあああああああああああああああああああああああああああっ!」
背後からかけられた声に、いつきが飛び跳《は》ねた。
公園には、ほかに誰《だれ》もいないはずだった。入り口がふたつしかないのだから、見過ごしようもない。
だのに、少女はそこへたたずんでいた。
運命のように、悪夢のように、くすくすと微笑《びしょう》していたのである。
「…………ぁ」
いつきは声もない。尻餅《しりもち》をついたまま、ぱくぱくと口を開くだけだ。
「あらあら」
そんな様子に少女が唇《くちびる》をほころばせる。
「ご自宅におられないようでしたので、失礼ながら、直接居場所を占い《リーディング》させていただきました。――お初にお目にかかりますわ。アディリシア・レン・メイザースと申します。どうぞお見知りおきを」
漆黒《しっこく》のドレスの裾《すそ》をつまみ、優雅《ゆうが》に一礼した。
まるで、洋画からそのまま抜《ぬ》け出したような、美しい少女だった。
夜目にも鮮《あぎ》やかな金髪《きんぱつ》の縦ロール。強気にこちらを見下ろす碧《みどり》の瞳《ひとみ》。ドレスを彩《いろど》る金糸銀糸は、ところどころで複雑な紋様《もんよう》を描《えが》いていた。年の頃は、いつきと同じぐらいであろうか。
「……………………き……きみ……は…………」
いつきの言葉を、少女が微笑しながら待つ。
が、次の台詞《せりふ》で、その微笑が崩壊《ほうかい》した。
「……リーディングって、まさか、君も〈アストラル〉の社員なの? そういえば、僕の教育用に、今日あたり新入社員が来るとか言われてたし」
「なっ」
少女――アディリシアの白い頬《ほお》が一気に紅潮したのだ。
同時に、またとんでもない圧力が、少女からいつきの右目へと突き抜けた。
(あつっ!)
その痛みで、分かった。
これは呪力《じゅりょく》だ。
あらゆる神秘のおおもととなる、偉大《いだい》なる『力』そのものだ。あの魔犬にすら勝《まさ》る呪力を、この少女は魔術《まじゅつ》もなく発露《はつろ》させているのだ。
「言うにことかいて、この私を〈アストラル〉の社員ですって!」
ごおっと、肌《はだ》がびりびり痺《しび》れるほどに、アディリシアの呪力が渦《うず》を巻く。眼帯の下で、いつきの右目が弾《はじ》けそうなぐらいだった。
「えっえっ……ち、違《ちが》うの?」
「――――!」
「うわっ」
少女の表情が凍《こお》りついたのを見て、いつきが咄嵯《とっさ》に眼帯を押さえる。
「まさか……知らないとでも?」
優《やさ》しすぎるぐらい優しい声で、アディリシアが訊《き》いた。
「…‥え?」
「アティリシア・レン・メイザースと聞いて、分からなかったとお言いですか?」
右目と――喉《のど》が痛かった。
唾《つば》を飲み込むのが、石を飲み込むように思えた。
……うかつな返答をしたら、今度こそ死ぬと実感した。一切《いっさい》合切、髪《かみ》一本から魂《たましい》の欠片《かけら》に至るまで死に絶える。そんなことばかり確信できる、小動物な自分がちょっと悲しい。
ばっくんばっくん鳴る心臓を意識しながら、必死に首を縦に振った。
「は……はい」
「……ふうん、そう」
アディリシアの瞳がぞっと冷える。
「〈アストラル〉の社長が……メイザースの姓《せい》を聞いて……誰のことだか分からなかったと?」
(だ、だって、社長たって、ついさっきなったところですし!)
「…………」
声も出せずうなずくだけのいつきを、少女がじっと睨《にら》みつけた。まるで、蛇《へび》に脱まれた蛙《かえる》の気分である。
「嘘《うそ》じゃないですわね……あなた、本当に伊庭いつきですの?」
「そ、そう……なんですけど……」
口ごもって、いつきは目の前の少女を改めて見上げた。
恐《おそ》るべき呪力は変わってない。だけど、それと融合《ゆうごう》した鬼気《きき》はほんのわずかだが緩《ゆる》んでいた。
どちらかというと、呆《あき》れた感じである。
「――いいですわ。なんであろうが、あなたが〈アストラル〉の社長として届けられていることに違いはありませんもの」
金髪をかきあげ、アディリシアが小さく吐息《といき》をこぼした。そんな仕草までいちいち様になっている。
ゆっくりと歩を進め、尻餅をついたいつきの側《そば》まで寄る。
女王の風情《ふぜい》で、少女は命令した。
「――次の入札から手を引きなさい」
「入、札?」
いつきが目を白黒させる。
分からないことだらけである。
(というか、社長は判子とサインだけでいいって言ってたじゃないですか、猫屋敷さん!)
「やっぱり――それも分からないのですわね?」
「は……はあ」
「よろしいですわ。それならそれで方法はあります」
そう言った少女は、ドレスのどこからか、一枚の紙を取り出したのだ。
羊皮紙であった。
それもなんか、明らかに禍々《まがまが》しい。ざらついた表面はどくどく脈打っているように見えるし、走り書きされた赤い文字はひょっとしなくても人の血ではなかろうか。
「あ……あの……それ」
「決まってるでしょう? こちらの言葉が通じないのなら、直接〈協会〉へかけあわせていただきます。あなたにはサインを一筆いただければ結構」
アディリシアが微笑《びしょう》する。
実に華《はな》やかな笑《え》みだったが、いつきはどっと冷《ひ》や汗《あせ》が噴《ふ》き出るのを感じた。
「サイン……?」
「そう、今回の仕事からは引き下がると、それだけでいいわ」
かつて、哲学者《てつがくしゃ》の魂を奪《うば》った|悪 魔《メフィストフェレス》の囁《さきや》きも、さもあらん。
だけど、アディリシアの差し出した羽ペンと羊皮紙に、いつきは躊躇《ちゅうちょ》した。
「どうしたの?」
「いや、あの……」
顔をひきつらせて、いつきが曖昧《あいまい》に笑う。さすがに、独断で社長としてサインするというのはためらわれたのだ。
その様子をどう判断したか、アディリシアはひとつうなずいて、
「でしたら、手もお貸ししましょう」
「え?」
「――来たれポーティス。大十の軍団を支配守る叡智《えいち》ある伯爵《はくしゃく》」
すると、アディリシアの手の平に、しゅ〜つと喉を鳴らす蛇が現れたのだ。
「う、わっ――」
血相を変えて叫《さけ》びかけたいつきの前で、その蛇の瞳が爛《らん》と光った。
瞬間、《しゅんかん》いつきの声は喉の奥でくぐもり、ばかりか身体《からだ》中が石になったように麻痺《まひ》したのである。
「さあ、続きをどうぞ」
(……えっ)
身体が勝手に動きだした。
羽ペンと羊皮紙を手にとって、虚《うつ》ろな瞳のまま、いつきの身体はアディリシアの言葉に従おうとする。
(えーっ! だ、駄目《だめ》だってばーっ)
いつきの意識をよそに、ひたり、と羽ペンの先が羊皮紙に触《ふ》れた。
「……そう」
アディリシアの唇が《くちびる》、花のようにほころぶ。
そのときだった。
「そこまでにしとき」
第三の、涼《すず》しい声が降り落ちたのだ。
そう――降り落ちた[#「降り落ちた」に傍点]のだった。
3
何かが、夜の闇《やみ》を裂《さ》いた。
ぞんっと音をたてて、羊皮紙が真っ二つに破かれる。ちぎれた羊皮紙はたちまち炎《ほのお》をあげて燃え上がった。
「うわちっ」
反射的にいつきは手を振《ふ》った。羊皮紙の消滅《しょうめつ》と同時に、麻痺状態も解けていた。
「――ヤドリギの、投げ矢」
足元へ突《つ》き立った小さな枝を拾い上げ、アディリシアはきっと宙を見上げた。
「ホナミ!」
その夜空に。
もうひとりの、新たな登場人物は浮いていた。
月を背に、古びた箒《ほうき》へ横座りしている。栗色《くりいろ》の髪《かみ》にかぶっているのは、赤いリボンを巻いた、驚く《おどろ》ほど大きなとんがり帽子《ぽうし》。ねじくれた樫《かし》の木の杖《つえ》に、しなやかな指をからめていた。
――そう、おとぎばなしに出てくるような、典型的な魔女《まじょ》の恰好《かっこう》だ。
だが、それと異なるのは、月を背にした魔女がセーラー服を着ていたことである。とんがり帽子と闇色のマントの下は、驚くほどあどけない十五、六歳の少女だったのだ。
こんなときにもかかわらず、綺麗《きれい》だ、といつきは思った。
アディリシアを豪奢《ごうしゃ》な宝石とすれば、この少女は丹精《たんせい》をこらして育てられた一輪の蒼《あお》い番薇《ばら》だった。宝石の輝《かがや》きはなくとも、そのたたずまいは唯一《ゆいいつ》無二。決して勝《まさ》るとも劣《おと》りはしない。
「余裕《よゆう》がなさすぎちゃう、アディ?――七十二の魔神はやりすぎやと思うんやけど」
薄緑《うすぶち》の眼鏡《めがね》の奥で、|蒼水色の瞳《アイスブルー・アイ》が微笑した。
「馴《な》れ馴れしく愛称《あいしょう》で呼ばないで!」
アディリシアが大きく手を横に振った。
今までの優雅《ゆうが》さが嘘《うそ》のような、荒《あら》っぽい仕草だった。
めらめらと、瞳に怒《いか》りが燃えていた。不倶戴天《ふぐたいてん》の宿敵を見つめるような視線である。
「貰っておきますけれど、次の〈夜〉の件は〈協会〉に有ランクと認められましたわ。〈アストラル〉の出る幕などありません!」
「そう」
ホナミ――穂波と呼ばれた少女は、中空で、興味なさげに首肯《しゅこう》した。
「でも、いくら有ランクやからって〈ゲーティア〉が――それも史上最年少の首領が、こんな極東の僻地《へきち》まで来るはどなん?」
「余計なお世話です。私は私が選んだ仕事を最優先しているだけですわ」
「それで、ウチの社長にちょっかいかけたんなら、あまりいい趣味《しゅみ》やあらへんね」
穂波が肩《かた》をすくめる。
傍《はた》で見ているいつきでも、アディリシアの意気込みは分かる。せっかく忘れていた右目の痛みが、急激にぶりかえしはじめたぐらいだった。
なのに、箒に座った魔女はあっさりと受け流していた。
それは、同格以上の立場であって、はじめて成しうることだ。
(…………っ)
やっと気がついて、いつきが息を飲む。
(それって、これが魔法使い同士の対時《たいじ》ってことじゃないか!)
しかも、明らかに巻き込まれる位置に自分がいる。命の危機を通り越《こ》して魂《たましい》の危機といっていい。
だが、退くこともできなかった。
アディリシアの身体へ、これまでにも倍する呪力《じゅりょく》が凝集《ぎょうしゅう》していた。それが弾《はじ》けた瞬間《しゅんかん》に、想像を絶する魔戦が幕を開くのだろう。
眼帯越しに、右目へ錐《きり》を差し込まれる感覚。
痛みよりも――右目から侵食《しんしょく》されていく、侵略されていく感触が《かんしょく》、いっきにはたまらなくおぞましかった。
やがて、公園自体が、ゆるゆると異界に化けていき――
「……やめておきますわ。今宵《こよい》は、時間と場所が良くないですもの」
アディリシアが、すっと腕《うで》を下ろした。
「同じ仕事に契約《けいやく》している以上、嫌《いや》でもかちあいますわ。あなたとの優劣《ゆうれつ》は、そこではっきりつければよろしいですもの」
「好きにしたらいいんちゃう?」
「――――!」
そっけない言葉に、アディリシアが唇《くちびる》を噛《か》んだ。
だけど、すぐに首を振り、
「――来たれバシム。三十の軍団を文配する力強き侯爵《こうしゃく》」
と呼ばわった。
一瞬、蒼白《そうはく》の馬の幻影《げんえい》が、すぐ隣《となり》に召喚《しょうかん》される。そして次の瞬間、夜風が公園を過ぎたときには、アディリシアの姿は消えていた。
「人を瞬時に移動させる、ソロモン七十二の魔神の一柱か。いくら魔術特性の補助《ほじよ》があるにしても、ひどい大盤振《おおばんぶ》る舞《ま》いやね」
穂波の呟き《つぶや》も、風にまざれる。
小さくため息をついてから、彼女は公園を見下ろした。
「こんだけ呪力を撒《ま》き散らしっぱなしで消えてもうて。呪波|汚染《おせん》になったら、どうするつもりなんやろ」
困った風に帽子を押さえ、とん、とん、と公園の四隅《よすみ》へ細い枝を投げる。
「あ……」
いつきが声をあげた。
みるみる内に、右目の痛みが退いていったのだ。公園に残留していた呪力が、今の簡易|儀式《ぎしき》で払拭《ふっしょく》されたのである。
「これでよし、と」
箒《ほうき》に座った魔女が、手をはたく。
それから視線をいつきへ向けて、
「右目、大丈夫《だいじょうぶ》なん?」
「あ……あ、うん」
心配してもらっているようだったので、慌《あわ》ててうなずく。痛みは欠片《かけら》も残っていなかった。
「そう。ならええけど」
抑揚《よくよう》なく言って、魔女《まじょ》はゆっくりと降下し、いつきの前に立った。
目の前に立たれると、なお魔女は可憐《かれん》だった。栗色《くりいろ》の髪《かみ》と瞳《ひとみ》の色は、多分ハーフのものだろう。
かあっと顔に血がのぼる。
息のかかるほどの距離《きょり》まで歩み寄って、魔女はいつきの頬《ほお》へ手を差し出した。
「うわっ」
「血、出てる」
眼帯の下を、白い指が拭《ぬぐ》ったのだ。柔《やわ》らかくて、ひんやりしてて、いい匂《にお》いのする指だった。
その指がすっと黒い眼帯に滑《すべ》る。
「…………」
魔女の目が、かすかに細まった。
「な、何?」
「――なんでもあらへん。感度が高いと、呪力で失明することもあるから注意したほうがええよ。それと、これ持っとき。猫屋敷さんからの預かりもん」
いつきの手に、小さなバッシを握《にぎ》らせた。銀の鏡に五芒星《ごぼうせい》をあしらったバッジで、どうやら社章らしかった。
「社章……じゃあ、やっぱり〈アストラル〉の社員なの?」
その質問には答えず、穂波は箒を斜《なな》めに倒《たお》した。転がるはずの箒はふわりと宙に浮《う》き、魔女の小柄《こがら》な身体《からだ》を支える。
「――穂波《ほなみ》・高瀬《たかせ》・アンブラーや」
「え?」
「あたしの名前。ちゃんとした挨拶《あいさつ》はまた明日。帰りはこんな目に遭《あ》わんようにね――社長」
淡《あわ》く笑うと、魔女の姿はたちまち空高く舞い上がった。
ひとり残されたいつきの手の中で、社章が月の光を受けてきらめいていた――
4
翌朝。
いつきは、教室の机で社章とにらめっこしていた。結局昨夜は眠《ねむ》れず、やむなく早朝から学校へ来ていたのだ。
(なんとか逃《に》げられないかなあ……)
ずーっと悩《なや》んでいた思考を、もう一度いつきは繰り返した。
はっきりいって身がもたない。あの魔犬といい、昨夜の公園といい、生きて戻《もど》ってこれたのが不思議なぐらいだ。そりゃあこれまでだって霊《れい》現象に巻き込まれてはいたが、到底《とうてい》今回の比ではなかった。
(いや、一回だけあったっけ)
社章を持ったまま、つるりと眼帯を撫《な》でる。
――この眼帯をつけることになった事件。
いつきはよく覚えてないのだけど、幼稚園《ようちえん》のときだったらしい。何かの拍子《ひょうし》で化け物に追っかけられたいつきは、右目を失いかけるほどの大|怪我《おおけが》を負ったのだ。一週間|昏睡《こんすい》状態にあったいつきの右目は、普通《ふつう》の光には耐《た》えられなくなっており、こんな眼帯をつけるのが必須《ひっす》になってしまった。
(……眼帯つけてても化け物だけは視《み》えるんだけど)
はあ、と大きくため息をついた。なんというか、とりとめなく不幸である。むしろ出血|奉仕《ほうし》のバーゲンセールか。
その動作を受けて、ちりん、と風鈴《ふうりん》みたいに社章が鳴る。
(……あの子、今日事務所に来てるのかな?)
ふと考えて、また暗い顔になった。
猫屋敷からは、放課後事務所に来てくれと言われている。が、それは泥沼《どろぬま》に足を踏《ふ》み入れる行為《こうい》じゃないだろうか。逃げるのであれば、今こそ勇花に連絡《れんらく》してアメリカに飛び立つしか――
「――なんだそのバッジ」
後ろから、山田の声がかかった。
「あ、いや、なんでもない」
慌ててひっこめて、いつきが右手を振《ふ》る。どうやら、かなりの時間ぼおっとしていたらしい。
気がつくと、教室はホームルーム前の騒《さわ》がしい雰囲気《ふんいき》に変じている。
そのまま、二、三、益体《やくたい》もない話をしているうち、始業の予鈴《よれい》が鳴り、前方の扉《とびら》がガラリと開いた。
「――――」
……いつきは、脳細胞《のうさいぼう》の一片《いっぺん》に至るまで、見事に凍《こお》りついた。
対照的に、教室中から歓声《かんせい》があがる。八割は男で、声をあげなかった女性も驚《おどろ》きに目を丸くしていた。
担任が連れてきた、見慣れぬ少女のためであった。
いや、間違《まちが》い。
訂正《ていせい》。
少女たち[#「少女たち」に傍点]のためであった。
「あー……聞いているかもしらんが、ふたりとも、今日からクラスに加わることになった転校生だ。まずは自己|紹介《しょうかい》してもらおうか」
眠そうな教師の声も、いつきはろくに聞こえなかった。多分、耳が聞くことを拒否《きょひ》していたんだと思う。
「アディリシア・レン・メイザースと申しますわ。ほんの数ヶ月の留学期間だけですけれど、どうぞよろしくお願いいたします」
「穂波・高瀬・アンブラーいいます。よろしく」
どおっと喝采《かっさい》が響《ひび》き渡《わた》る中、何かが壊《こわ》れる音を、確かにいつきは聞いた。
安住の地が、根こそぎ失われた音だった。
*
舞台《ぶたい》は移る。
その日の夕方|頃《ころ》、ある公園へ、ひとりの男が足を踏み入れた。
昨夜、いつきが穂波とアディリシアに出くわした公園である。子供たちの姿はすでになく、 真紅《しんく》に染められた世界の中で、錆《さ》びたブランコだけが寂《さび》しそうに揺《ゆ》れていた。
「――ああ、やっぱりここだ」
男が、のっぺりした顔をゆるませる。
一見して、特徴《とくちょう》のとらえづらい人物だった。柔《やわ》らかい風貌《ふうぼう》は二十《はたち》半ばから四十前半までのどの年にもとれるし、着ている服も何の変哲《へんてつ》もない背広だ。身体《からだ》は中肉中背で――鼻の高さも唇《くちびる》の厚みも眉《まゆ》の長さも瞳《ひとみ》の深さも、すべてが中ぐらい。
まるで[#「まるで」に傍点]、徹底して特徴というものを削ったかのような[#「徹底して特徴というものを削ったかのような」に傍点]、そんな男だった[#「そんな男だった」に傍点]。
唯一、《ゆいいつ》その掟《おきて》から外れていたのが、両手に持ったL字形の針金だ。
真《ま》っ直《す》ぐ平行に並んだ針金が時折右か左かに大きく揺れて、男はリモコンに操縦されるラジコンみたいにその方向へと進路を変えた。
ダウンジング、と呼ばれる魔術《まじゅつ》だった。
人の無意識を利用して、失われた財宝や水源を探し当てるための術。イギリスにおいて古くより知られた呪術《じゅじゅつ》のひとつである。
「うんうん」
うなずきながら、ジャングルジムの手前や雲梯《うんてい》の下など、二本の針金が交差したところで立ち止まる。
そのたび、男はべろりと舐《な》めた赤ペンで小さな地図へメモしていった。
布留部市《ふるぺし》の地図だ。三十万分の一の縮尺の、あちらこちらへ×印と細かい注釈が《ちゅうしゃく》入っている。
「――呪波汚染七級から六級。洗浄し《せんじょう》た跡《あと》もあるけれど、その後復活と。うん、霊脈《レイライン》の波動も予想通りの数値だし、どうやら〈夜〉は近そうです。では、今回の入札相手は……」
地図を折りたたみ、続いて手帳を取り出した。
おや、と呟《つぶや》きが漏《も》れた。
「〈ゲーティア〉と……〈アストラル〉。ずいぶん懐《なつ》かしい名前ですね」
ひどく楽しそうな声。
なのに、瞳は少しも笑っていない。ただ唇だけが、極端《きょくたん》に両端へひきつれていた。引き裂《さ》けているようにも見えた。
男の赤い影《かげ》が――ひどく不吉《ふきつ》に、べったりと公園の地面を汚《よご》していた。
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第2章 魔法使いの入札
1
「あ〜、お兄ちゃん社長死んでる〜」
「おやおや、見事な討《う》ち死にっぷりですね」
「「「「にゃあにゃあにゃにゃにゃにゃあ〜」」」」
相前後して、みかんと猫屋敷《ねこやしき》と数|匹《ひき》の猫が、いつきの頭をつんつんとつついた。
「…も、もう勘弁《かんぺん》してください」
突《つ》っ伏《ぷ》したいつきは、瀕死《ひんし》の様相でやっと指先だけを動かす。 あの洋館であった。
いつきの倒《たお》れた木製の机には、膨大《ぼうだい》な書類やら書物やら、ビーカーやら三角フラスコやら、顕微鏡《けんびきょう》に似た機械やら干からびた猿《さる》の腕《うで》やらが、もうでたらめに積み重なっている。そのガラクタの山脈の中で、かろうじていつきの頭だけがはみでているという惨状《さんじょう》だった。
「まだ検査も勉強も終わってないんやけど?」
ばんばんと書類を叩《たた》いて、穂波《ほなみ》が厳しくねめつける。
「あ、は、はい。分かってます!」
「じゃあ、『アルベルトゥスの書』邦語《ほうご》訳、『栄光《えいこう》の手《て》』から」
死にかけたいつきがカクカク首を振って、古びた書物を手に取った。もはや条件反射に近い。
アディリシアに乗っ取られたとき以上に虚《うつ》ろな日で、魔術書《グリモワール》の通読を再開する。
――あれから、さらに一週間が経過していた。
その間、同じクラスに転校してきた穂波は、見事なまでのスパルタ教師ぶりを発揮したのである。それも、社長業・魔法使《まほうつか》い業、両面に至ってだ。
学校まで見張られていては逃《に》げることもままならず、こうして勉学に励《はげ》まされている次第《しだい》だった。
「どんなもんですかね?」
必死にテキストを読む後ろで、猫屋敷が呑気《のんき》に質問する。
「才能はゼロやね」
あっさり穂波が断言した。
「簡易|呪術《じゅじゅつ》との相性も《あいしょう》試してみたけれど、どれも最悪や。多分十年かけても使い物にはならへん。二十年かけても低級|霊《れい》を呼べれば御《おん》の字ちゃうかな」
これを背中で言われるのだから、ぐっさり来る。いや、じゃあなんのために勉強しているのですか自分は。
「ふむむ、幽霊《ゆうれい》や化け物は視《み》えるってことですから、なにかしら素質はあるんじゃないかと思ってたんですけどねえ」
「魔術の素質というより、純然たる体質みたい。見鬼《けんき》とか浄眼《じょうがん》とかに近いと思う」
「見鬼から仙人《せんにん》になったという伝説もありますが」
「それ自体例外中の例外やろ? 理屈《りくつ》があるわけやらないから、計算にはいれられへん」
「仙丹《せんたん》とか霊薬《れいやく》による肉体改造なら? 穂波さん、ケルト魔術のはか、魔女術も《ウィッチクラフト》習得してらっしゃいましたよね?」
「それももちろん試したんよ。動物にして植物なるマンドラゴラの根から、水銀で煮立《にた》てた蝙蝠《こうもり》の羽、すりつぶしたヒキガエルの内臓に普遍《ふへん》的マグネシアの溶剤《ようざい》。これで魔術のひとつも感応せえへんねんから、才能不足としか苦いようがあらへんやろ」
うん、生のトリカブトを食わされたときは真面目《まじめ》に死にかけました。ていうか、あんなものを口にいれる日が来るとは思ってませんでした。
「まあそういうことやから、魔術よりは、社長業に専念してもらった方がええんちゃうかな」
「なるほど。でしたら、どこからいきましようか? こちらでも学習用のセットは一通りそろえてますけれど」
がらっと、猫屋敷が裏の押入れを開く。
横目に見ると、挨臭《ほこりくさ》い押入れの中にずらりと蔵書が並んでいた。
「最初はポイントを押さえた方がええね。へイゼル取締役《とりしまりやく》とも後で相談するけれど、あたしやったら『経済評価各論・総論』全十二冊、『モザイク的組織構造|基礎《きそ》理論』全六冊あたりから入るかな」
生まれて初めて見るような、学問書の類《たぐい》が取り分けられていく。どれもが人を撲殺《ぼくさつ》できそうな厚みと装丁を備えていた。おまけに、ちらっと見えた内容だけでも十分脳が焼けつきそうである。
「……あの、サインと判子だけでいいって……」
細々と抗議《こうぎ》の声をあげてみたが、
「その判子は、どういう基準で押すつもりなん?」
|蒼水色の瞳《アイスブルー・アイ》をさらに冷たく凍《こお》らせて、穂波が訊《き》いた。多分、あの瞳はギリシャ神話の極寒地獄《コキュートス》よりもなお冷たいだろう。
「最高決議権を持っている以上、会社の経営状態と他社との相対評価ぐらいは知っておいてもらいます。魔術にしても、各社員の得意分野と応用法ぐらいは覚えてもらわへんと、仕事にならへん。ただでさえ、ず―――っと仕事ないねんから」
ぴしっと、しなやかな指がいつきの心臓を突き刺《さ》した。
ちなみに、〈アストラル〉の表向きの業務は、占《うらな》いセンターやオカルト雑誌への人材|派遣《はけん》で成り立っているらしい。
というか、現在、収入の九割まではそちらである。
「|貸し出し《レンタル》の魔法使いだから『レンタルマギカ』っていうんだ。えへへー、ちょっと格好いいでしょ」
こう言って胸を張ったのは、みかんである。
小学校から直接来ているらしくて、巫女装束《みこしょうぞく》に赤いランドセルを背負っていた。――いや、巫女装束は事務所で着替《きが》えてると思うのだけど。
「ふうん? じゃあみかんちゃんは?」
「あたしは巫女さんだから、地鎮祭《じちんさい》とかお祭りとか。だから、いりつも夏場が忙《いそが》しいんだよ」
「そっか。夏はお祭り多いもんね。あれ? じゃあいつも来てるのは?」
「むっ。じゃあ、あたしがいなかったら、お兄ちゃん社長がおるとろすに餌《えさ》やりしてくれるの?」
「そ、それだけは勘弁《かんべん》してっ」
弱々しく左手を振《ふ》った。右手は、穂波から貸し出された『あなたでも分かる経済学――お金の貯《た》め方使い方』を広げたままだ(穂波にかけあって、やっとここまでレベルを落としてもらったのだ)。
「にゃあ」
「にゃあにゃああ」
「ん?」
事務所の猫《ねこ》たちがズボンの裾《すそ》を引っ張っている。
そのまま連れられると、机の上にファッション雑誌が置かれていた。その雑誌の開いたページを指して、「にゃあ」と猫たちは尻尾《しっぽ》を振った。
「猫屋敷さん、これ――」
「ああ。うちの一番人気は、『猫又陰陽師《ねこまたおんみょうじ》・猫屋敷|蓮《れん》の猫|占《うらな》い』 でして」
ちょうど隣《となり》に座っていた猫屋敷が顔をあげる。
「……なるほど」
なんだか、とても納得《なっとく》できてしまった。確かに人気が出そうな気はする。写真には性格出ないし。
(どんな世界でも、生きる苦労はあるもんだなあ)
と、妙《みょう》に所帯じみた感想を持ったいつきであった。
猫屋敷は、猫を膝《ひざ》に乗せたまま、筆で頬《ほお》を押さえていた。目の前の机には、重そうな硯《すずり》と和紙が鎮座《ちんざ》している。
どうやら、『呪符』をつくっていた最中らしい。
すっすっと筆を滑《すべ》らせて、数枚のお札を書き上げていく。
「じゃあ、それが本業用ですか?」
「いえ、雑誌用の読者プレゼントですよ。アンケートを送ってくれた方に抽選《ちゅうせん》で五名様へ大当たり」
「ぷ、プレゼント」
絶妙《ぜつみょう》に間を外されて、いつきが顎《あご》を落とす。
その様子に、猫屋敷はくすりと微笑《びしょう》し、
「社長――魔法使《まほうつか》いというのをどう思ってるんですか?」
と、訊いた。
「え? うーん。まだ全然分からないんですけど」
そもそも、魔法使いは見ても、ほとんど魔法は見ていないのだ。この前の公園ぐらいだろうか。あれも、どんな魔術なのかはよく分からないし。
「正直で結構ですね。でしたら、ちょっと質問を変えてみましよう。現代で魔法使いなんて必要ですか?」
「えっ」
いきなり根本的な質問をされて、いつきは瞬《まばた》きした。
「え、あの、その、必要だからいるんですよね?」
「あはは。遠慮《えんりょ》しなくていいですよ。普通《ふつう》に考えたら、どう考えてもいらないじゃないですか。空を飛ぶには飛行機があればいい。遠くの人と話すには携帯《けいたい》電話があればいい。そこらの使い魔《ま》よりもアイボの方がよっぽど頭いいし可愛《かわい》いし高性能じゃないですかね。あ、もちろん猫は例外ですけど」
最後を特に強調してから、猫屋敷は神妙な《しんみょう》顔になった。
「――でもね、魔法は魔法であるってだけで、世界だって滅《ほろ》ぼせるんですよ」
すっと、日本刀を突《つ》き通すような鋭利《えいり》さで、猫屋敷が告げた。
「…………っ」
思わず、いつきが唾《つば》を飲み込む。
「そ、それって、そういうすごい魔法があるってことですか?」
「いえ。人間が使える呪力は《じゅりょく》限られてますから、どんな魔法にも限界はありますよ。たとえば、今世界一の炎《ほのお》使いは、イスラム圏《けん》の妖霊《ようれい》術師イスマイル・クーリブあたりですが、彼でも街ひとつ焼き払《はら》うのが精一杯《せいいっぱい》でしょう。しかも、その準備にえらい費用と時間がかかりますね。多分、爆撃《ばくげき》機でナパーム弾《だん》落としたほうがよっぽど安上がりでスマートですよ」
猫屋敷が隣に置いていた緑茶をずずっとすする。冷めていたのか、不満そうな顔になった。
「じゃ、じゃあ、魔法でできた怪物《かいぷつ》にすごいのがいるとか」
「ああ、なるほど。さっきょりはいい線いってますね。カバラのゴーレムだとか、錬金術《れんきんじゅつ》のホムンクルスだとかは、人間以上の力を持つこともあります。まあ、そのへんでいうと、〈ゲーティア〉はメイザース家の『七十二の魔神《ましん》』あたりが最高ランクですかね」
聞いた名前が出てきて、いつきの顔がこわばった。
「あれ、どうかしました?」
「い、いえ、なんでもないです」
アディリシア・レン・メイザース。
そう名乗った少女が今クラスの右隣の席です、とは言い出しにくかった。穂波がいるせいか、あれ以来ちょっかいをかけられることもなかつたが、時々じーつとあの碧《みどり》の眼《め》で見られては、肝《きも》を冷やしていたのである。
(……最高ランクかあ)
感心半分|恐怖《きょうふ》半分のいつきに、猫屋敷が話を続ける。
「でも、その最高ランクの魔神をもってしても、限界はあります。どの道、使役者《しえきしゃ》の実力を超《こ》えたモノは扱《あつか》いきれませんからね。召喚《しょうかん》系の魔法使いはそれに特化できる分有利な側面もありますが、所詮《しょせん》は効率がいいというだけの話です」
「……なら、さっきの魔法が……ってのは?」
「ああ、それは――」
猫屋敷がうなずきかけたとき。
柱の側《そば》にある年代物の黒電話が鳴った。
一瞬《いっしゅん》顔を見合わせ、猫屋敷の方が受話器を取る。
「お電話ありがとうございます。こちら魔法使い派遣《はけん》会社〈アストラル〉ですけど――えっ、あ、はい、はいはいっ。分かりました!」
受話器を置いて、猛烈《もうれつ》な勢いで猫屋敷が振《ふ》り返る。
「社長っ、急な依頼《いらい》が!」
「えっ何っ、やっぱり妖怪《ようかい》退治とか?」
慌《あわ》てていつきが訊《き》き返す。
が、
「いえ、雑誌のライターが風邪《かぜ》で倒《たお》れたらしくて! 急いで代理の原稿《げんこう》がいるそうです。ちょっと出版社まで行って直接書いてきます」
――実に、平和な理由であった。
「わ……分かりました。いってらっしゃい」
疲《つか》れた風に笑ったいつきへ背を向けて、猫屋敷が数匹《ひき》の猫《ねこ》を引き連れ、風呂敷《ふろしき》片手に駆《か》けていく。
扉を《とびら》出る前に、振り返った。
「そうそう。さきほどの話ですけれど――」
「ん?」
もともと細い目を三日月みたいに細めて、猫屋敷はこう言ったのだ。
「一番危険な魔法《まほう》はね――魔法使いが魔法になってしまうことですよ」
2
次の日、いつきは昼休みに学食のカレー定食――を止《や》めてうどん定食を選んだ。
学生たちの間ではここのカレーは『ロシアンルーレット』と呼ばれている。一種類しかないくせに、毎日激甘と激辛《げきから》がくるくる入れ替《か》わるせいだ。トウガラシそのものの激辛とシロップと紛《まが》う激甘を同じ匂《にお》い同じ見かけでつくられては、もはや罠《わな》としか思えなくなるのも当然だろう。
人間の波をかいくぐり、端《はじ》っこの空いたテーブルにつく。穂波に渡《わた》された参考書を片手に食べていると、
「前の席、いいかしら」
と、鈴《すず》を振るような声が降ってきた。
アディリシアだった。さすがに学内ではあのドレスでなく、セーラー服で、学食のトレイを持っている。金髪碧眼《きんぱつへきがん》にセーラー服はずいぶんな違和感《いわかん》があって、いつきはぱちぱちと瞬《まばた》きした。
「……何、馬鹿《ばか》みたいにぽかんとしてますの?」
「い、いや、なんか絶対学食なんかじゃ食べないように思ってたから」
「私の勝手ですわ」
つんと顔をそむけて、前に座る。
トレイからは美味《おい》しそうなカレーの匂いが漂《ただよ》っていた。
「あっ……」
優雅《ゆうが》な姿勢で、アディリシアがスプーンを口へ運んで、
「!!!!!」
悶絶《もんぜつ》した。
「な、なんですのこれはっ。甘いカレーなんてありえていいのですか!」
どん、と机を叩《たた》く。あ、また眼帯の下が痛い。ぎゅんぎゅん呪力《じゅりょく》が凝集《ぎょうしゅう》してる。
「多分、ここにしかないと思うけど……」
「まさか、私がこんな罠にひっかかるなんて――」
「む、無理して食べなくてもいいんじゃないかな?」
「お黙《だま》りなさいっ。自分で選んだ以上、最後までいただきます」
半ば涙目《なみだめ》になって、怪《あや》しげなカレーを頬張《ほおば》っていく。「……おい、見ろよあれ」
「……イバイツ、転校生泣かしてるよ」
「……えー、あたしは、イバイツは転校生の下僕だって聞いてるんだけど?」
「……何、俺が聞いてるのだと、転校生はイバイツの婚約者《こんやくしゃ》だっていうんだがっ」
「……じゃあ、もうひとりの転校生は?」
「……やだ、ひょっとして修羅場《しゅらば》っ?」
その様子に、ひそひそと周囲から噂話《うわさばなし》が漏《も》れ聞こえていた。
(ああー、また変な誤解されてるんだろうなあ)
最近になって、クラスの話題はいつきでもちきりであった。無論、いつき自身のためではない。それぞれ、いつきの右隣左隣についた、ふたりの転校生によるものだ。ハーフの美少女とイギリスのお嬢様が《じょうさま》、クラス一のビビリを中心に睨《にら》みあっているとなれば、これは想像をかきたてられない方が変だろう。
「……はあ」
うどんをすすりながら、いつきがため息をつく。
なんだか癖《くせ》になっているような気がしたが、それに反応してか、やっと半分ほどを食べたお嬢様が視線をあげた。
「イツキ」
「はいっ?」
「勝手ながら、調べさせていただきました。あなた、つい最近社長になったばっかりというのは本当かしら?」
「ま、まあそうだけど」
「でしたら、魔法使いでさえないというのも?」
じろりとあの碧《みどり》の瞳《ひとみ》で睨みつけられる。
「い、いや、今いろいろ頑張《がんば》ってるつもりだけど……」
しどろもどろに、いつきが答えた。実際のところ、魔法使いとしての訓練は停止気味である。諦《あきら》められたという方が正しいか。
だけど、それを聞いたアディリシアはまさに血相を変えた。
「じゃあ……魔法使いでもないのに、あの〈アストラル〉の……あのごたまぜ集団の首領をなさっているわけですかっ?」
ざわっと、学食がさんざめく。
遠巻きにしていたので、魔法使いとか首領とかの単語は聞き取れなかったようだが、アディリシアが激昂《げっこう》しているのは、誰《だれ》にも見てとれたからである。
が、当のお嬢様はそんなことは気にも留めず、テーブル越《ご》しにいつきへ掴《つか》みかかった。
「うわっ!」
「そんな……そんないいかげんなことで……あなたがたは『夜』を越えられるおつもりですか……」
(〈夜〉……っ?)
疑問に思う余裕《よゆう》もなかった。すぐ鼻先まで、アディリシアがその日いかんばせを寄せていた。
じっといつきの瞳を覗《のぞ》き込んで、
「よろしいですわ」
と、お嬢様は手を放した。
「どうやら、それもご存じないようですから、私が予言してさしあげます。――あなた、そんな調子ですと三日の内には死にますわよ」
「死っ……」
その言葉の冷たさが、いつきの芯《しん》まで染《し》み入った。
「…………」
「…………」
しばらく、ふたりとも黙ったまま、向かい合っていた。
箸《はし》を置いたときに、気がついた。
「あれ」
「なんですの」
「……アディリシアさん、ひょっとして心配してくれた?」
かあっと、少女の顔が耳まで真っ赤になった。
「ば、馬鹿《ばか》なことを言わないでください! 素人《しろうと》と知らず先週の公園ではやりすぎたから、そのお返しをしただけです」
憤然《ふんぜん》と立ち上がる。
「いいですか。もしも、命を大事に思うなら、今回の入札だけは見送りなさい」
それだけを告げて、少女が諷爽《さっそう》と踵《きびす》を返した。
「あ、ちょっと待って」
追いかけようとしたいつきは、妙《みょう》に痒《かゆ》い眼帯の下を拭《ぬぐ》って、席を立ちかけた。
ぬるり
という感触が《かんしょく》あった。
「え?」
拭った右手の指が、かすかだけど赤く染まっていたのである。
『――あなた、そんな調子ですと三日の内には死にますわよ』
「……っっっ」
そして、自分の血を見たいつきは――そのまま貧血で、仰向《あおむ》けに失押したのであった。
放課後、『おらおら、あたしはもう帰りたいんだからとっとと起きやがれ』と保健室の先生に叩《たた》き起こされ、いつきはほうほうのていで帰路についた。
一応、血は止まっている。というか、たいした出血でもなく、保健室についたときにはもう止まっていたそうである。保健室の先生とは顔|馴染《なじ》みなため、眼帯を取らずに放置してくれたのもありがたかった。
(血を見たなんて、久しぶりだったもんなあ)
自分に言い訳しながら、夕焼けの商店街を歩いていく。
すでに多くの店は閉まっていた。人通りも少なく、古びた町並みはどこか影絵《かげえ》めいて見える。
布留部市は、新旧の町が混じってできた都市だった。
古くは平安あたりまでさかのぼるとかいう小さな町が、バブル期の人口流入で一気にベッドタウン化したものだ。くわえて、最近は庁舎による企業誘致《きぎょうゆうち》の流れもあり、繁華街《はんかがい》周辺から多くのビルが建てられ始めていたりもする。
落ち着いた、だけど確かに生まれ変わりつつある商店街通り。
その坂道をのぼり、事務所へとつながる路地裏にさしかかったところで、いつきは足を止めた。
「ま、また、あれ、いるのかな?」
魔犬《オルトロス》のことを思い出して、憂鬱《ゆううつ》な顔になった。
あの魔犬――まだ引き取りが終わっておらず仕方なく〈アストラル〉で飼っているのである。
ここの路地裏を通るたび、あの魔犬にじゃれつかれるのは、もはや恒例《こうれい》行事となっている。ある時など、屋上にのぼっていた魔犬がまっさかさまにダイビングしてきて、あやうく圧死するところだったのである。
眼帯を押さえて、きょろきょろと路地裏を覗き込もうとすると……
「――(アストラル)の伊庭《いば》いつきさまですね」
「うえっ」
横合いから声をかけられ、思わず飛び跳《は》ねた。
夕焼けにまざれて、人影《ひとかげ》がたたずんでいたのである。気がついてみれば、確かに視界には入っていたのだけど、まるで意識していなかった。
なんというか――およそ、特徴《とくちょう》というものに欠けた男だった。
ひどくのっぺりした顔立ちで、中肉中背の身体《からだ》にくたびれた背広を纏《まと》っている。片手に持っているのも、ありふれた形の小さなトランクだ。人ごみにまざれこまれたら、すぐさま見失ってしまいそうだった。
「伊庭いつきさんじゃないですか?」
もう一度、男が訊《き》いた。
「え? あ、は、はいっ」
「ああ、やっぱり。司《つかさ》さんによく似てらっしゃる」
と、男は懐《なつ》かしげに相好を崩《くず》した。
「父さんのこと、知ってるんですか?」
「ええ。伊庭司社長には昔お世話になりましたから。――申し遅《おく》れました。私、〈協会〉の影《かげ》崎《ざき》と申します」
「〈協会〉」
その名前は、穂波の教えてくれた知識の中にあった。
確か――魔法使《まほうつか》いたちをとりまとめる総元締《もとじ》めだ。まだ詳《くわ》しくは教わっていないが、百を超《こ》える魔術集団の頂点に立つ組織だと聞いていた。
「このたびは、社長ご就任おめでとうございます。どうぞこれからもお引き立てをよろしく」
「は、は、はいっ、よろしくっ――で、そのあのっ、〈協会〉の人がどうして?」
「ええ、契約《けいやく》の件でお話がありまして」
柔和《にゅうわ》な笑顔《えがお》を浮かべ、影崎がトランクを持ち上げる。
「契約っ?」
一瞬、《いっしゅん》アディリシアのときのことを思い出して、いつきの頬《ほお》がひきつった。
「どうかなさいました?」
「あ、いや、たいしたことじゃないんですけど……」
あはははは、と冷や汗がたらり。
「じゃ、じゃあ、事務所まで案内しま」
「不要ですよ、社長」
突如《とつじょ》、路地裏から、言葉が割り込んだ。
「猫屋敷さん」
「おや、これは猫屋敷さま。おひさしぶりです」
夕闇濃《ゆうやみこ》い路地裏に、灰色の髪《かみ》の青年――猫屋敷が立っていたのである。独特の和服と扇子《せんす》、肩《かた》や懐《ふところ》のあちこちに大量の猫《ねこ》を纏《まと》わりつかせている様子は、いつもの通り。
なのに、その表情はどことなく不機嫌《ふきげん》そうにいっきには見えた。
「影崎さん。入札は待っていただけるように連絡《れんらく》したはずですけど?」
「ああ。それはそうなんですが」
笑顔を崩さず、影崎がうなずいた。
「実はさきほど、〈ゲーティア〉さまが入札契約を終えられましたもので。規則上、〈アストラル〉さまが一両日内に正式入札されないなら、今回の〈夜〉からは手をひいていただくことになります」
「分かってますよ、そんなこと」
猫屋敷の扇子がひらひらと振《ふ》られる。
嫌《いや》がっているのを、微塵《みじん》も隠《かく》す風がない。普段《ふだん》が、いかにもとらえどころのない青年だけに、いつきは軽い驚《おどろ》きを感じた。
影崎が唇《くちびる》をほころばせる。
「ああ、それなら結構です。なにしろ〈アストラル〉さまは、ここ六年はど入札されてないでしょう? 今回も見送られますと、(協会《こちら》)としても、そろそろ登録|抹消《まつしよう》など考えなければなりませんし」
実に遺憾《いかん》そうな素振《そぷ》りで、影崎はこう続けた。
「――そうしますと、いつきさんはともかく、猫屋敷さんやみかんさんは本来の所属に戻《もど》っていただくことになるんじゃないですか?」
「えっ?」
本来の、所属?
瞬《まばた》きしたいつきの前で、猫屋敷がかすかに眉《まゆ》を曇《くも》らせた。
「分かってます。要は、登録を続けさせるだけの仕事をしろってことでしょう」
「ええ、まあ」
影崎が困ったように苦笑する。
その笑みも、欠片《かけら》も印象に残らない。映画のエキストラのような、そこにあるのにないような、希薄極《きはくきわ》まりない顔。
(…………!)
急に、いつきは怖《こわ》くなった。
わずかな戸惑《とまど》いが不安へと変わり、不安が恐怖《きょうふ》を後押しする。アディリシアのときのような明白な異常でも、異端《いたん》でもない。だけど、あまりに平凡《へいぼん》であることは、逆に異常を浮き上がらせるのだ。
――まるでそれは、漂白《ひょうはく》された表情。
唾《つば》を飲み込む。うなじに冷たいものを感じながら、やっといつきは口を開いた。
「ちょ……ちょっと待ってください。話が見えないんですけど。登録抹消ってどういうことです? 仕事って何ですか?」
「おや」
影崎が、いつきの方にちらと視線を向けた。
「説明されてなかったんですか?」
「社長の引き継《つ》ぎがあって、まだ二週間ほどでして」
猫屋敷が答える。
ああなるほどと笑って、影崎は首を縦に振った。
「でしたら、私から説明しましょうか? それとも……」
影崎がまた笑う。
ただし、今度は猫屋敷が相手でも、いつき相手でもなかった。
ちょうど坂道の下から、もうふたり、新たな人物が歩いてきたのである。
いつきが保健室にいた間に、下校した彼女たちは買い物をすませていたのだろう。
「影崎の……おじさん」
一緒《いっしょ》にスーパーのビニール袋《ぶくろ》を持っていたみかんが、少女のセーラー服の裾《すそ》をつかみ、びくっと震《ふる》える。
そのみかんをそっと後ろへやって、
「あたしが教える」
と、穂波・高瀬《たかせ》・アンブラーはきっぱり言いきった。
3
「――では、こちらに書類を置いておきましよう。今回の件の資料もありますので、どうぞご一読を」
トランクを置き、ひとつお辞儀《じぎ》して、影崎は立ち去っていった。魔法使《まほうつか》い然として消えることも飛ぶこともなく、二本の足で坂道を下っていく。
その背が見えなくなるまで、厳しい|蒼水色の瞳《アイスプルー・アイ》で睨《にら》みつけてから、
「社長、そのトランク持ってもらえへん?」
と、穂波がうながした。
「あ、分かった。……みかんちゃん、大丈夫《だいじょうぶ》?」
トランクを持って、いつきは隠れっぱなしのみかんに訊《き》く。
「うん、平気……」
青ざめた顔で、みかんがこくりとうなずいた。よほど怖かったのかいまだに手が震えている。
きゅうっといつきの学生服をつかんで、
「……じゃないっ。うわ〜ん!」
と、ぼろぼろ涙《なみだ》をこぼしながら、腹のあたりに顔をおしつけたのだ。
「ひ、ひっ……怖かった……怖かったよー……」
「あ、あ、分かった、分かつたから」
鼻水をすりつけないで、とも言えず、おろおろと頭を撫《な》でる。
「ひっ、ひっく……お兄ちゃん社長は……びええええ……おじさんに……ひ、い、いじめられなかった?」
「う、うん」
戸惑いながらも、頬《ほお》にあふれる涙を拭《ぬぐ》ってやった。あまりぼろぼろとこぼれるので、ズボンにまで染《し》みになっていく。
すると、
「……ふーん」
なぜだか、穂波がひどく冷たい目でこちらを見ていた。
「な、なに?」
「別に。社長がそういう趣味《しゅみ》なのは、個人の勝手やしね」
「だ、だから、なんでそんな話にっ」
「まあまあ。おふたりとも落ち着いて」
猫屋敷が、すっかりいつもの調子でとりなす。
「では、とりあえず事務所に戻《もど》りましようか」
「にゃあにゃ〜お」
賛成と言わんばかりに、三|匹《びき》の猫《ねこ》がそろって鳴いた。
十数分後。
散らかった〈アストラル〉の事務所内に、ほのかな紅茶の香《かお》りが満ちた。
「はい、みかんちゃん」
「ありがと、穂波」
白いティーカップを受け取って、ぐすりとみかんが鼻をすする。
ちなみに、いつきはぐしゃぐしゃになった学生服から普段着《ふだんぎ》へと着替《きが》えていた。毎回、魔犬《オルトロス》に舐《な》められるため、ついに会社へ服を預けるようになった自分が悲しい。
「あ、あの、僕の分は?」
「あら、いるん?」
じろり。
「……で、できましたら」
患わず首をすくめて言うと、かなり遅《おく》れてティーカップが差し出された。
応接用のテーブルである。ぎしぎし音をたてる年代物のソファに、いつきとみかんは並んで腰掛《こしか》けていた。猫屋敷は少し離《はな》れた自分のデスク、最後に穂波がいつきの前のウィンザーチェアへ腰掛けて、自分のティーカップを前に置いた。
ひとつ、間をおいて、
「じゃあ、さっきの話やね」
「あ、うん」
いつきがうなずいた。
さっきから分からないことばかりである。入札だとか、登録だとか、〈夜〉だとか。本来の所属、とかいうのもあった。
「なら、順繰《じゅんぐ》りに説明してく」
ティーカップの緑《ふち》にくちづけて、穂波は言った。少し前までイギリスに留学していたらしいけど、実際、少女のそうした姿はとてもよく似合っていた。
琥珀色《こはくいろ》の液体を一口だけ飲み、穂波はこう切り出した。
「〈協会〉のことは、もう教えたよね?」
「魔法使いとその集団の――確か七割だか八割だかが属している組織だよね。〈アストラル〉も入ってるんだっけ?」
いつきの答えに満足したのか、穂波は首を縦に振《ふ》った。
「そう、〈アストラル〉も〈ゲーティア〉も登録してる。もともと<協会>は、中世に欧州《おうしゅう》の魔法《まほう》使いたちがつくりあげた互助《ごじょ》組合や。直接的な介入《かいにゅう》ほとんどせえへんけど、世界中に影響《えいきょう》力を持ってる。たとえ正式に登録していなくても、〈協会〉と関係してない魔法使いなんてまずおらへん」
簡単におさらいして、穂波がいつきを見た。
復習、ということなんだろう。覚えてませんなんて言ったら、どんな目に遭《あ》わされるか分からないし、素直《すなお》にうんと答えた。
「じゃあ続ける。――入札っていうのはね、登録した魔術集団たちを対象に、〈協会〉が公募《こうぼ》する一連の『仕事』のこと」
「『仕事』?」
いつきが訊《き》く。
「うん、『仕事』。さっき言ったけど、〈協会〉は直接的な介入はほとんどせえへん。それは、魔術集団が縄張《なわば》りに敏感《びんかん》なことが多いせい。うかつに他人の縄張りへ手をだしたら、それこそ喧嘩《けんか》になりかねへん。やから、〈協会〉は入札という形で、問題を解決できる魔法使いを募《つの》る」
つまり、自分が手を汚《よご》さないかわり、解決能力のある他人を派遣《はけん》するってことだ。なるほど互助組合らしい考え方だった。
少し考えて、いつきは口を開いた。
「なら、影崎って人が来たのは――」
「『仕事』――〈協会〉が解決を要求する事件が発生したからや」
「…………!」
穂波の言葉に、ざあっと血の気がひいた。
魔法使いの『仕事』というのがどんなものかはともかくとして、ひとつ、確実なことがあったからだ。
「た、たんま! ちょい待って! じゃあ、アディリシアが来てたのも……」
「〈ゲーティア〉が入札したからややね。〈アストラル〉も入札するなら、『仕事』の報酬《ほうしゅう》は早いもの勝ち。つまるところ実力勝負」
ぶわっと、鳥肌《とりはだ》が立つ。
先週の公園で、アディリシアの怖《こわ》さは身にしみている。魔法使いの実力勝負つてことは……
「そ、それ、つて、やっぱり……あの、魔法……で?」
「普通《ふつう》はそうやろ。魔法使いなんやから」
あっさり穂波がとどめを刺《さ》した。問いたいつきは、まるで糸が切れたようにがっくりとうなだれる。
「社長?」
「いや、その……」
途方《とほう》に暮れたまま、帰ってこない。実に悲壮《ひそう》感あふれる討《う》ち死にっぷりであった。
対して、少女は小さくため息をついて
「まあ、入札するかどうか決めるのは社長やけど?」
「えっ」
途端《とたん》、ぱっといつきの顔が輝《かがや》いた。
「そ、それだ! じゃあ今回はパスしておけば……」
「――まあ、そこで、さきほどの話に戻《もど》るわけですけどね」
傍《はた》で猫《ねこ》をあやしていた猫屋敷が、デスクから釘《くぎ》を刺した。
「はいっ?」
「あー、ワケありというかなんというか、話すといろいろ長くなってしまうんですけれど、ほかの魔術結社と違《ちが》って、〈アストラル〉は純粋《じゅんすい》な魔術集団じゃないというか、先代の司社長が強引《ごういん》に他から引っ張ってきた、つまり寄り合い所帯みたいなとこがありまして……」
そういえば、アディリシアがそんなことを言っていたような気がする。ごたまぜ集団だとかなんだとか。
「どういうこと?」
いつきが眉《まゆ》をひそめる。
「簡単にいえば、〈アストラル〉が登録から外された場合、猫屋敷さんやみかんちゃんはもともとの団体へ引き戻されるいうこと」
穂波が、補足を加えた。
「え、えええええっ」
「で、〈アストラル〉は、前社長が失踪《しっそう》して以来、入札に参加してへん。〈協会〉側もそういう組織をずっと登録しておくことはでけへんからね。影崎が言うてたのは、そういう脅《おど》しや」
薄緑《うすぶち》の眼鏡《めがね》にすっと手をやり、魔法使いの少女はうなずいた。 気まずい沈黙《ちんもく》が広がっていく。
「あ、あの……」
やがて、いつきが周囲を見回すと、
「……お兄ちゃん社長……あたし、帰りたくないよ?」
ティーカップを両手で持ち、隣《となり》のみかんがじーつと上目遣《うわめづか》いに見つめてくる。
「………」
「にあ」
「にゃあ」
「な〜ぁ」
「にゃあなあにゃ〜あ」
続いて、事務所のあちこちから見やる猫たちのプレッシャー。
「…………………」
「可愛《かわい》いですよねえ猫。世界の至宝ですよねえ猫、地球が生んだ最高の芸術ですよねえ猫。でも、こんなにたくさんの猫は連れて帰れませんよねえ。ああ、まさか社長、この子たちに死ねなんていいませんよね?」
なんとも芝居《しばい》がかった様子で、大袈裟《おおげさ》に嘆《なげ》く猫屋敷。
「………………………………………………」
「どうするん、社長?」
そして、あくまで冷ややかに訊《き》いてくる穂波・高瀬・アンブラー。
「…………………………………………………………………………」
なんだか、半月はど前にも似たようなことがあった気がしたが。
「……わ、分かった。分かりましたっ」
ほとんど泣きそうな顔で、いつきはテーブルを叩《たた》いた。
ここまで来ると、いっそ見事なほどのへなちょこぶりである。――というか、自分でもこれほどとは思ってなかった。
深い深いため息を、胸の内でこぼす。
それから、半ばやけっぱちに胸を張って、
「じゃあ、一体、今回の『仕事』 ってのは何なんですか――?!」
と、涙《なみだ》ながらに口にしたのだった。
4
そこは、お化け工場と呼ばれていた。
丹生山《にゅうやま》中腹から突《つ》き出た怪《あや》しい煙突《えんとつ》たちは、布留都市のものなら誰《だれ》でも知っている。
周囲には赤|錆《さ》びた有刺鉄線《ゆうしてっせん》が張られ、空き地の雑草が荒《あ》れ放題に伸《の》びている。外壁《がいへき》のコンクリートも、ところどころが大きく罅《ひび》割れており、まるで悪魔《あくま》の爪跡《つめあと》のように不気味な色に変じているのであった。
閉鎖《へいさ》されたのは、もう何十年も前の話。よくある事業の失敗で工場主と家族が首を吊《つ》った後、放棄《ほうき》された土地と建物だけがゆっくりゆっくり朽ち果てていった。
ついでに、自殺した工場主たちが夜な夜な遭《ま》い回っているだとか、壊《こわ》れたはずの機械が動く音を聞いたとか、それっぽい怪談《かいだん》話も枚挙にいとまがない。
いつきがいるのは、そんな工場の入り口だった。
しかも――異様に空気の生温い、初夏の夜である。
「……っっっつ」
「お兄ちゃん社長っ? どうしたの?」
「いや、あのっ、その、なんでも、ないんだ、けど」
みかんの一歩後ろを歩き、巫女《みこ》服の裾《すそ》をきゅっとつかみながら、いつきはぎごちない笑顔《えがお》で首を振《ふ》った。
山に入ったあたりから、膝《ひざ》がガクガク震《ふる》えっばなしである。むしろよくここまで歩いてこれたと自分を誉《ほ》めてやりたい。ちなみに、みかんは思いのほか健脚《けんきゃく》で、結構急な山道をのぼってきたのに、汗《あせ》ひとつ掻《か》いていなかった。
んーとみかんは、小首を傾《かし》げて、
「怖《こわ》いの?」
「ぐえ」
直球だ。
剛速球《ごうそっきゅう》だ。
図星のど真ん中を挟《えぐ》るストレートボールだった。
「んっふふふ、大丈夫《だいじょうぶ》大丈夫。お兄ちゃん社長はあたしが守ったげるから」
鼻にかかった声で、得意満面にみかんが玉串《たまぐし》を振る。
「ま、守るって……?」
「んーとね、」
ほっぺたに玉串をつけて、みかんが説明しかけると、
「――みかん、おしゃべりより先に禊《みそぎ》は済んだん?」
隣で《となり》、穂波が釘《くざ》を刺《さ》した。
こちらはいつものセーラー服姿である。ただし、栗色《くりいろ》の髪《かみ》には大きなとんがり帽子《ばうし》を、ほっそりした肩《かた》には闇《やみ》色のマントを羽織っている。前に公園で見たままの、おとぎばなしの魔女の姿だった。
「はーい」
唇を尖《くちびるとが》らせたみかんが玉串で巫女服や手先のあちこちを触《ふ》れる。どうやらそれが禊《みそぎ》らしい。
その様子を見届けて、穂波はいつきへ向き直った。
「社長。こっちも準備しとくから、社章出して」
「えっと……これ?」
ポケットに入れていたバッジを出すと、穂波はそれをつまみ、一度月光にかざしてから、いつきの襟《えり》につけた。
少し傾げた頭越《ご》しに、驚《おどろ》くほど白いうなじが垣間《かいま》見える。 ふわ、と鼻孔《びこう》へほのかな香《かお》りが忍《しの》び入った。
「あ……」
頬《ほお》がかっと熱くなる。
「ん、何?」
「い、いや、なんでもないったらなんでもない。こ、これは何?」
「要するにお守り。聖なる五芒星《ごぼうせい》を、銀鏡《ぎんきょう》の霊性で強化してる。どちらも東西両方で使われる品やから呪波干渉《じゅはかんしょう》を起こす可能性も低いしね。ほかにも使い方はあるけど、また後で教えるわ。――それと、これ」
「あ、名刺《めいし》」
銀色の薄《うす》いケースに、十数枚ほどの名刺が詰《つ》め込まれていた。しかも、〈魔法使い派遣《はけん》会社・アストラル〉という文字の横には、取締役《とりしまりやく》社長・伊庭いつきと、ハッキリ箔押《はくお》しで刻まれていたのだ。
「い、いつのまにこんなものっ」
「あ、その名刺、あたしが清めたんだよー」
えっへんとみかんが胸を張る。
さらに、うなずいた穂波が補足した。
「紙は富士の霊水で漉《す》いた後、みかんの儀式《ぎしき》で清めてる。内側にはヘイゼル呪物課課長が刻んだカバラ十字入りや。一枚一枚が意味を持った呪物《フェティシュ》やから、あんまり気軽にばらまかんようにね」
「う、うん」
ていうか、こんな名刺、誰《だれ》に渡《わた》せというのか。
――なんか、どんどん泥沼《どろぬま》に足をつっこんでいる気がする。
「で……これが準備って……どういうこと?」
おそるおそる訊《き》くと、穂波は眼鏡の奥で片目を細めた。
「決まってるやろ。『仕事』の前に、お守りぐらい渡しておかへんと、よう庇《かば》いきらへんし」
「でっ、でも……今はそう変なものは視《み》えないけど」
慌《あわ》てて抗弁《こうべん》する。
化け物が視える以上、そこが本当に心霊スポットかどうかははっきりと分かる。いつきの右目からすれば、ここはおどろおどろしいだけで、普通《ふつう》の土地でしかなかった。
それでも怯《おび》えているのは――まあ、本当にいるかどうかと、怖いかどうかはまた別物ということである。いや、自分でもちょっと情けないと思うけど。
「今は、ね」
穂波は、くすりと笑みを漏《も》らして、手首の腕《うで》時計を見下ろした。
「でも、この山には確かに霊脈が《レイライン》通ってるし、小さいけどここは竜穴《りゅうけつ》や。資料どおりなら、すぐに『夜』が来るで。計算では後三十秒……二十九……二十八……二十七……」
「え?」
「……十七……十六……十五……」
静かなカウントが、深山《みやま》と廃工場に響《ひび》く。
ただの数字が奇怪《きかい》な呪文であるかのように、夜気を渡る。
「…………」
いつきは、身じろぎもできず、固唾《かたず》を飲んだ。
「八……七……六……」
カウントが一桁《ひとけた》になった。
「五… 四……三……」
みかんが工場の入り口を見据《みす》える。
「……二……一……」
ぐら、り
――右目が、よじれた
「……な、何っ?!」
眼帯へ触《ふ》れる。
突如《とつじょ》として、世界が変じたのである。
いや、違《ちが》う。
この気分は『変じた』なんてものじゃない。
まるで、世界が本来の姿を取り戻《もど》したような――違和感《いわかん》あふれる既視感《デジャヴュ》。膨大《ぼうだい》な呪力。右目が内側から爆発《ばくはつ》しそうなほどの、圧倒《あつとう》的な変容。
「にゃあ〜お」
「呪波汚染――第六級から第三級へ移行確認《かくにん》。資料どおりの数字ですね」
懐《ふところ》の猫《ねこ》をあやしながら、猫屋敷がにんまり呟《つぶや》く。
やがて、|蒼水色の瞳《アイスブルー・アイ》の魔女《まじょ》は、冷ややかに告げた。
「……|魔術の夜《マギナイト》の始まりや」
*
ぐん、と身体《からだ》に襲《おそ》いかかる圧力を、アディリシア・レン・メイザースも感じていた。
重力が急に増した感覚。身体の|隅々《すみずみ》まで行き渡《わた》らせた呪力《じゅりょく》が、土地に反発して、荒《あ》れ狂《くる》った。
「……っつ!」
胸元にかけたソロモンの五芒星《ごぼうせい》を握《にぎ》り、一呼吸でその呪力を押さえ込む。血の逆流する感触《かんしょく》をこらえて、少女は赤い唇《くちびる》を吊《つ》り上げた。
「――〈夜〉が来たわね」
彼女はちょうど工場の裏側に立っていた。無論〈アストラル〉の面々の到着《とうちゃく》も理解している。
後ろに、十人の黒服が待機していた。
それぞれ、胸にはアディリシアと同じソロモンの五芒星をかけ、霊的《れいてき》加護《かご》を高めるための指輪をはめていた。日本での仕事に備えて、アディリシアが選《え》りすぐった〈ゲーティア〉の徒弟《とてい》たちである。
「最後にもう一度だけ、『仕事』の確認をしておきますわ」
振《ふ》り向かず、工場の裏口を見据《みす》えたまま、アディリシアが囁《ささや》く。
小さな声ではあるが、だからといって聞き逃《のが》すようなものは魔法使いになどなれはしない。
発音ひとつ、抑揚《よくよう》ひとつ間違えただけで、呪文《じゅもん》はまったく違う意味に変わってしまうのだから。
「(協会〉からの依頼《いらい》は、この〈夜〉を破却《はきゃく》すること。誰《だれ》の目にも触《ふ》れさせず、何の被害《ひがい》も出さず、闇《やみ》から闇へと封《ふう》じること。〈アストラル〉の方々も、そう考えていることでしょうね」
アディリシアの声が、静かに響《ひび》く。
どこか、美しい鳥みたいな声だった。
「ですが、今回の私たちの目的は、それではありません」
黒服――徒弟たちが、すっと頭を下げる。年齢《ねんれい》は関係ない。魔法使いにとって、位階の差は絶対だった。
彼らの位階は、|3=8《プラクティカス》と|4=7《フィロソフィス》。通常の才能と努力によって得られる位階としては、まず最高位といってもいい。それでも、アディリシアには遠く及《およ》ばない。
血のゆえである。
結局のところ、ただの才能など、魔術には意味を持たないのだ。
異能であること、異端《いたん》であることこそが魔法使いの証《あかし》なれば、最初から人を外れたものこそが頂点に立つのは必然。わずか一代の努力などに意味はなく、何千年と積み重ねた血脈こそが――執念《しゅうねん》こそが、魔術という禁断の実を結ぶ。
生まれる前から、彼女は魔法使いであった。
だから、堂々と、徒弟たちの上に立つものとして言い放つ。
「我々は、大兄《たいけい》の……を回収します。そのためならば、あらゆる手段、あらゆる魔術をいといません。あなたがたの呪力、命の一滴ま《ひとしずく》で、そのためだけにお使いなさい」
咳《しわぶき》ひとつなく、もう一度黒服たちの頭が下がった。
いつもの景色。
いつもの眺《なが》め。
魔術集団ならば当然の、ひどく無機質なやりとり。
「分かってらして?」
ふと、すっとぼけた顔の、もうひとつの魔術集団の首領を思い浮《う》かべて、アディリシアは唇を噛《か》んだ。
「警告はしましたわよ。――この〈夜〉にさえ関わらなければよろしかったのに」
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第3章 魔法使いの〈夜〉
1
いつきは、空にいた。
「あいたたたたたた――っ」
「社長、箒《ほうき》は太股《ふともも》か膝《ひざ》で挟《はさ》みつける。ゆるめたら、痛《いた》なるって言うたやろ」
前に座った穂波《はなみ》が、冷たい声で釘《くざ》を刺《さ》す。だが、到底《とうてい》、素直《すなお》にうなずけそうにはなかった。
「そ、そんなこと言っても、箒の方が股に食い込んで……あたたたたたっ」
少女の華著《きゃしゃ》な腰《こし》へしがみついたまま、必死に両膝をしめつけて、いつきは悲鳴をあげた。
箒の上である。
穂波の箒の後ろに乗せられ、上空へと連れ去られていたのだ。ある意味うらやましい体勢だが、そんなことを考える余裕《よゆう》は微塵《みじん》もなかった。
「運動神経以前の問題やね」
ようやく体勢を立て直したところへ、身も蓋《ふた》もない台詞《せりふ》。さすがにむっとして、言い返した。
「仕方ないだろ。箒乗る練習なんかしたことないんだから」
「あ」
「な、何」
「はじめて口答えや」
くすくすと笑う。
なんだか決まりが悪くて、いつきは口篭《くちご》もった。
「ええよ。そういうのがないうちは成長もあらへんもん。でも、口答えした分はちゃんと社長してもらうからね。――まずはあれ」
すっと地上を指差した。
しなやかに揺《ゆ》れる爪先《つまさき》の下には、お化け工場が広がっている。
「…………っ」
「分かる? あれ」
息を飲んだいつきに、もう一度穂波が問いかけた。
「……う、うん。渦《うず》を巻いてる」
工場を中心に、呪力が《じゅりょく》台風のような渦を巻いていた。地表で見たときは変貌《へんぼう》だけに気をとられていたが、こうしてみれば一定の法則に則《のっと》っていることが分かる。
うなずいた穂波が、こう続けた。
「あれが……〈夜〉の始まり」
「〈夜〉?」
「簡単にいえば、霊脈《レイライン》を流れる呪力の嵐《あらし》や。もともと呪力は変質しやすいエネルギーやからね。その変質を制御《せいぎょ》するのが魔法なわけやけど――放《ほう》っておくと、すぐ杜おかしなことになる。これが呪波|汚染《おせん》。〈夜〉っていうのは、この呪波汚染の特大版やと思ったらええ」
穂波の言葉に、いつきは瞬《まばた》きする。
「呪波……汚染?」
「見てみ」
少女が樫《かし》の杖《つえ》で指し示す。
ほぼ同時に、呪力はさらに変化した。
――まず、煙突《えんとつ》がねじれた。
熟したガラスみたいにぐにゃりと曲がり、ついで工場のコンクリートがすうと透《す》き通った。
雑草の生えた空き地からは白い波が湧《わ》き立ち、潮騒《しおさい》が鳴り、ついには工場の敷地《しきち》全体が怒涛《どとう》の水へと飲まれたのである。
それは、わずか百メートル四方ばかりであったが――確かに黒い海原《うなばら》だった。
「山が……海に……つ?!」
「この山はもともとは海の底やったからね。それを思い出してる[#「思い出してる」に傍点]んやろ。回帰は〈夜〉の中でもポピュラーな現象のひとつやし、この範囲《はんい》ならまだ小さいうちや」
とんがり帽子《ぼうし》を押さえて、穂波が目を細める。
いつきは茫然《ぼうぜん》としたままだった。
自分の見下ろした光景が、いまだに信じられていない。大きく目を見開いて、はたと気がついた。
「そうだ……みかんちゃんはっ?」
慌《あわ》てて見下ろす。
そして、もう一度|顎《あご》を落とした。
地表で手を振るみかんのまわり!およそ直径八メートルばかりの空間だけ、海水が退《ひ》いていたのである。まるで、そこだけが空間を切り取られたような不自然さだった。『こっちは大丈夫《だいじょうぶ》ですよー』
「えっ?」
突然《とつぜん》、背中から猫屋敷の声がした。直後、いつきの肩口《かたぐち》に白い猫《ねこ》の手が置かれ、くるりと胸元へおさまったのである。
「びゃ、白虎《びゃっこ》くんっ?」
猫屋敷が可愛《かわい》がっている純白の子猫だった。どういう仕組みになっているのか、「にゃあお」と鳴いた喉《のど》から、同時に猫屋敷の声が響《ひび》く。
『あっはっは。最初から背中にへばりつかせておいたんですけど、気がつきませんでした? 驚《おどろ》きました? びっくりしました?』
「き、気がつかなかった……」
愕然《がくぜん》と漏《も》らすいつきへ、白虎くんがえへんと胸をそらす。空飛ぶ箒の上でそうしているのだから、いかに猫とはいえ器用なものであった。
『式神ならぬ式猫ってとこですかね。――で、こっちですけど、みかんさんの結界のおかげで平和なものですよ』
「みかんちゃんの?」
『そうそう。神道《しんとう》の魔術《まじゅつ》特性は、一切合切《いっさいがっさい》の不浄《ふじょう》を祓《はら》う(禊《みそ》ぎ)ですからね。みかんさんの呪力が重なれば、よっぽどの呪波汚染のただなかでも完全|遮断《しゃだん》の楽園つてあいなるわけですよ。おかげで私も白虎くんとの同調に専念できてます』
楽しそうにうんちくを振り撒《ま》く猫屋敷――もとい猫屋敷の声で喋《しゃべ》る白虎くんである。
「魔術特性?」
『ええ、前に少し話しましたよね。魔術はすべて呪力を扱《あつか》うものだって。で、扱う形式によって、得意・不得意が生まれるわけですよ。みかんさんの神道だとさっき言った結界の強度、私のような陰陽道だ《おんみょうどう》と式神――使い魔の制御に優《すぐ》れていますね。こういう性質を指して、魔術特性といっているわけです』
器用に前肢《ぜんし》を曲げて、白虎くんが一礼までこなす。
「あ、そっか。召喚《しょうかん》系の魔法使いはそれに特化できるとかいってたやつ」
『はい、それです。まあ、特化といっても抜《ぬ》け道は結構ありますし、個人差もあるんで絶対じゃあないんですけどね。それに、結局どんな魔術にしても、行き着くところは似たような境地になるわけで――』
「猫屋敷さん、おしゃべりすぎ」
少しく不満そうに、穂波が口を挟《はさ》んだ。
『あ、はーい』
「……あたしが教えるつもりやったのに」
ぼそっと、誰《だれ》にも聞こえないぐらいに呟《つぶや》いて、少女は別のことを問いただした。
「で、この〈夜〉の核《かく》は見つかりそうなん?」
『あー、今さっき、卜占《ぼくせん》もやってみたんですけどねえ。規模のありに呪力《じゅりょく》の濃度《のうど》が高くて混乱中です。相当近づかないと見分けがつかないかと』
「〈夜〉の核?」
いつきが訊《き》いた。
「さっき言ったやろ。これは自然の魔法やって」
「あ、うん」
「やから……」
『つまり、魔法だろうが、呪波汚染だろうが、呪力を変質させている核があるってわけです。呪文だとか、儀式《ぎしき》だとか、魔法円だとか、呪符《じゅふ》だとか――まあ、なんでもいいんですけどね。解呪《ディスペル》する方法も同じで、結局はこの核を潰《つぶ》すのが一番早い方法ということです。〈ゲーティア〉さえいなければそう苦労するものでもないんですが』
「ね、猫屋敷さんっ」
穂波が真っ赤になって振《ふ》り向いた。
『ありゃりゃ、ごめんなさい。訊かれるとつい説明したくなっちゃいまして。あっはっは』
陽気に笑う白猫を睨《にら》んで、少女が小さく鼻を鳴らした。
それから、
「じゃあ、いまので分かったん?」
と、いつきに訊く。
「あ……う、うん、まあ大体は」
「そう」
穂波は少しの間、その顔を見つめていたが、やがて前に向き直った。
「あ、そうだ。解呪って、失敗すると……どうなるのかな?」
「嵐《あらし》と一緒《いつしよ》や。〈夜〉が終了《しゅうりょう》するまで、さんざっぱら暴れまくる。名前どおり、だいたい朝には終わるけど、ひどいときはツングースみたいに一帯が消滅《しょうめつ》する」
「………っ」
言葉をなくしたいつきを無視して、穂波はすっと箒《ほうき》に指を滑《すべ》らせた。
「猫屋敷さん。〈夜〉に接近するから、呪波汚染の少ないルートを教えて」
『はいはい。では、方違《かたたが》えでいきましよう。今日の星と霊脈《レイライン》の流れからいきますと……南南西から入っていくほうが……』
猫屋敷の声が流れた。
そのすすめに従って、箒は海面へ急降下していった。
*
「神道《しんとう》は大祓《おおはらい》の結界で拠点《きょてん》を保ちつつ、陰陽道の方違えでルートを確保、捜索《そうさく》はホナミのケルト魔術ってわけかしら。……なんて非効率な話」
幻《まぼろし》の海の波打ち際《ぎわ》で、アディリシアが呟いた。
「複数の魔術に役割を分担するなど、呪力《じゅりょく》・時間・能力のロスでしかありませんからな」
徒弟《とてい》のひとりが後ろでうなずく。
「まして、異なる魔術同士では、他人が補助することもできませんわ。あれでは、なんのための魔術集団なのだか。理解に苦しみますわね」
ほとほと呆《あき》れたように言って、アディリシアは振り向いた。
すでに、準備は終わっている。
背後の地面には、清めた大きな紙が置かれ、その上には『EHYEHに始まりLEVANAHに終わる』神聖なる名前と魔法円、そしていくつかの三角形と六芭星《ろくぼうせい》が描《えが》かれていた。
「はじめてちょうだい」
少女の言葉に、控《ひか》えていた徒弟たちが詠唱を《えいしよう》開始した。
「……|我、訴え、喚起せん《I do livocate and conjure thee》」
「……|我、訴え、喚起せん《I do livocate and conjure thee》」
全員が同じ言葉を呟き、それぞれ胸にかけた『ソロモンの五芒星』を握《にぎ》る。
「……I do strongly command thee,by Beralanensis,Beralanensis,Paumachia,and Apologle Sedes:by the most Powerful Princes,Genii,Lichide,and Ministers of the Tartarean Abode;and by the Chief Prince of Seat of Apologia in the Ninth Legion――」
抑揚《よくよう》もなく、ひたすらに続く長い呪文。蛇《へび》か螺旋《らせん》を思わせて、ゆるゆると流れていく言葉は、夜空の星をからめとるようでもあった。
やがて。
魔法円の内側に、白い霊《エーテル》体がぽっかりと浮《う》いた。
「〈ゲーティア〉のやり方を見せてあげますわ、ホナミ」
アディリシアの唇《くちびる》が吊《つ》りあがった。
月下に金髪《きんぱつ》をなびかせ、少女は誇《ほこ》り高く唱えた。
「親が命に応じよ、シャツクス! 三十の軍団を支配する偉大《いだい》なる侯爵《こうしゃく》!」
2
空から見ても恐《おそ》ろしかったが、近づけばそれはもはや魔境《まきよう》であった。
海原《うなばら》のあちこちが大渦《うず》を巻き、間欠泉のように激しい水流を噴《ふ》き上げる。夜空を映した真っ黒な海面が、時に赤、時に膏とありえない色へ変わり、水底に潜《ひそ》む魔物《まもの》の影《かげ》を映し出す。
その魔境すれすれに、ふたりと一|匹《ぴき》は浮いていた。
「な……に、これ?」
やっと目眩《めまい》から立ち直って、いつきが呻《うめ》く。
『原始の海――ずいぶん呪力に汚《けが》されて、ユニークになってるみたいですけどねえ』
呑気《のんき》な猫屋敷の声をよそに、白いうなじを撫《な》でて、穂波も魔海を見やった。
「思ったより深そうやね。核《かく》を探すんも手間取りそうや」
「その、核っていうのは、どこに?」
「分からへん。でも、この海の中で何かに形を変えてるはずや、魚かもしれんし、海の底の石かもしれへん。それに――」
「それに?」
少女が山頂の方角を振《ふ》り返る。
「――あっちは、物量作戦できたみたい」
その向こうから羽ばたいてきたのは、何十――いや何百羽とあふれかえった黒鳩の群れであった。それも、一羽一羽が黒々とした呪力を発散している。明らかに普通《ふつう》の鳩たちではなかった。
いつきが血相を変える。
「……あれ、ひょっとしてアディリシアのっ?」
『えーっと、シャックス――隠《かく》れたものを探し出す、ソロモン七十二の魔神の一柱ですね。あの様子ですと、核の捜索ついでに私たちも妨害《ぼうがい》しようって腹みたいですが』
「アディらしい、厄介《やっかい》なんを喚起するわ。――社長、箒と猫《ねこ》をちゃんと掴《つか》んどいて」
「な、何するの?」
「舌噛《か》むで」
たちまち、鳩の群れは距離《きょり》を詰《つ》めた。
邪気《じゃき》に濁《にご》った無数の瞳が《ひとみ》、まず弱いもの――いつきへと狙《ねら》いをつける。
「……っ」
悲鳴よりも早く、鋭《するど》い喋《くちばし》が少年の目玉へと迫《せま》り、
瞬間《しゅんかん》。
箒《ほうき》ごと、ふたりが弾《はじ》けた。
「――――わあっ!!!」
「ふにゃっ!」
咄嗟《とっさ》に噛み締《し》めた口の奥から、内臓がもぎとられそうな勢いで、箒が急発進したのである。
ばさばさばさばさはさっ!
黒鳩たちの中央を、箒がつんざく。
まるで一本の矢であった。雲霞《うんか》のごとき農場の群れが、箒の前に二分していく。彗星《すいせい》の別名をほうき星ともいうが、まさにその眺《なが》めであった。
夜空を断《た》ち割り、一直線に月へと舞《ま》い上がる。上空へ飛び出すと同時に、少女の手がかすんだ。
「我が上にありしは月の女神《めがみ》! すなわち月光とヤドリギの加護をもって北の呪《のろ》いを阻《はば》まん!」
呪文《じゅもん》とともに投げ打つ、ヤドリギの投げ矢!
「JQWZYAAAAAAAAAAAAA!」
黒鳩の群れから、形容しがたい絶叫が《ぜっきょう》あがった。
ぼっと炎が《ほのお》ともり、群れの一部が欠ける。
だが、黒鳩たちは仲間の安否《あんぴ》など気遣《きづか》いもせず、そのまま群れを三つに分けた。三分の一は海中へ、三分の一は海面すれすれへ、そして残りの三分の一は舞い戻《もど》って、ふたりへ殺到《きっとう》したのである。
ばかりか、ふたりへ群がった黒鳩たちは、その翼《つばさ》を広げ、もう一度|奇怪《きかい》な鳴き声をあげたのである。
「――社長、耳をふさいで!」
「ZWQTYUUUUUUUUUUUUUUUUUU!」
古来、犬の鳴き声は神気を帯び、魔を祓《はら》うという。
この黒鳩たちの声は、それとは真逆――呪いを放ち、人の骨までも腐《くさ》らせる禍《まが》つ声であった。
「…………!」
錐揉《きりも》み回転しながら墜落《ついらく》する箒を、黒鳩たちは歓喜《かんき》とともに追った。
全体で一個の、巨大《きょだい》な魔物と化したかのようだった。魔物は顎《あご》を開き、ちっぽけな箒と人間を喰らわんと舌なめずりした。
だが。
その寸前、急角度で箒が上昇《じょうしょう》した。
鮮《あざ》やかな半円を描《えが》きながら、その半ばで反転し、逆に黒鳩たちの後ろをとったのである。
『をを、インメルマン・ターンっ』
いつきの胸の中で、白猫が目を輝《かがや》かせた。
インメルマン・ターン。
第二次世界大戦で編み出された、戦闘《せんとう》機用の空戦術だ。だけど、まさか空飛ぶ魔女が使いこなすとは!
「我は繰り返す! 月とヤドリギの加護もて、北東の災《わざわ》いを打ち滅《ほろ》ぼせ!」
今度の投げ矢は、群れに直撃《ちょくげき》する直前で、自ら四散した。
破裂《はれつ》したヤドリギの欠片《かけら》が、黒鳩たちの一羽一羽へと突《つ》き刺《き》さる。一瞬、《いっしゅん》動きを止めた黒鳩たちは、次の瞬間、大きな炎の塊と《かたまり》なって黒い海面に落下していった。
とりあえず、自分たちを襲《おそ》った群れには、生き残りがいないのを確認《かくにん》して、穂波はふうと息をついた。
「さすがにタチが悪いわ。社長、大丈夫《だいじょうぶ》?」
「の……のりもの酔《よ》いと、ちょ……ちょっとしたかんだけど」
口元を押さえて、青い顔でいつきがうなずく。自分でも振《ふ》り落とされなかったのが不思議なぐらいだった。
あげく、舌が痛いのと気分が悪いのとで、散々なありさまである。
「良かったやん。耳を塞《ふさ》ぐのが一秒でも遅《おそ》かったら、いまごろ心臓ぐらい止まってるかもしれへん」
「…………っ!」
一言でいつきを悶絶《もんぜつ》させて、穂波は海面へと頭をめぐらせた。
黒い水を、さらに黒く染め上げるように、残った黒鳩《シャツクス》たちが羽ばたいている。黒土をうごめく黒蟻《くろあり》の群れを思わせた。
『おや、どうしました?』
「数が全然|違《ちゃ》う。まともにやつたら、核《かく》は絶対アディに取られる」
珍し《めずら》く、細い眉《まゆ》をひそめて、穂波は呟《つぶや》いた。
その後ろから、いつきが声をかけた。
「〈夜〉を終わらせるのって、そんなに大事な『仕事』なわけ?」
『はい?』
「え?」
穂波が問い返す。
たちまち、その目つきが険しくなった。
「まだ分かってへんの、社長」
「いや、いや、違《ちが》うよー 〈アストラル〉が今回の入札をこなせないと、登録|抹消《まっしょう》されたり大変なのは分かったんだけど……それってアディリシアも同じなの?」
「アディは……」
穂波が言葉に詰《つ》まる。
(確かに、ここまで本気でやってくるとは思わんかったけれど…)
同じ魔神《ましん》であっても、呪力《じゅりょく》や儀式《ぎしき》によって、その能力は大きく上下する。いくら黒鳩が《シャックス》鳩の群体であるとはいえ、これだけの規模で召喚《しょうかん》するとなれば、相当な術具や力を費《つい》やしたはずだった。
〈ゲーティア〉。
数ある魔術集団の中でも、とりわけ古く由緒《ゆいしょ》正しい、遥《はる》かソロモンの末裔《まつえい》たち。
だけど、その〈ゲーティア〉がここまで本腰《ほんごし》をいれるような『仕事』だろうか。
穂波には分からない。
〈夜〉とは、結局のところ、呪力による自然災害だ。
被害《ひがい》の大きさから、〈協会〉の仕事の中でも有ランク扱《あつか》いされているが、難度のありに見返りは大きくない。〈アストラル〉はともかく、いまさら〈ゲーティア〉がほかの魔術集団を押しのけるほどのメリットがあるとは思えなかった。
(それとも……何か、あるん?)
ふとした疑念を追いかける。
今回の〈夜〉には、何か含《ふく》むところがあるのか?
「穂波?」
「分からへん。猫屋敷さんはどない?」
正直に、穂波が吐露《とろ》した。
『ふーむ、確かに標準的な〈夜〉と比べると、幾分《いくぶん》呪力の流れが緻密《ちみつ》というか人工的な気はしますけれど……みかんさんはどうです?』
『分かんないよう。あたし、呪力|解析《かいせき》苦手だもん』
白虎くんの喉《のど》から、みかんがぷうと膨《ふく》れる音がする。
『ふむ、まあ、こちらでも解析しておきますので、とりあえず穂波さんは核の捜索《そうさく》を――』
と、
「――それは、駄目《だめ》ですわね」
涼《すず》しい声が、夜気に響《ひび》いた。
ちょうど箒《ほうき》の真下――刻々と色を変えていく〈夜〉の魔海である。
その海面に、巨大《きょだい》なギンザメが浮《う》いていた。岩のようにごつごつした面構《つらがま》えから、恐《おそ》ろしく長い牙《きば》を剥《む》き出しにしている。同じ名の鮫《さめ》どころか、鯨《くじら》でも引き裂《さ》いてしまいそうな牙だった。
そして、その平べったい背中から、金髪《きんぱつ》の少女がこちらを見上げていたのだ。
「アディ」
「アディリシア」
いつきと穂波の言葉に、少女はにんまり赤い唇《くちびる》を歪《ゆが》めた。
「徒弟《とてい》たちが言うのでやらせてみましたけど、やはり時間|稼《かせ》ぎにもなりませんでしたわね。そうでなくては、いささか興に欠けますけれど」
可憐《かれん》な笑《え》みだった。
花も手折《たお》らない――と見せかけて、猛毒《もうどく》を秘《ひ》めた笑みだ。ぞっと冷汗《ひやあせ》がたどるのを感じながら、いつきは瞬《まばた》きする。
「じゃあ、今度は直々に相手してくれるん? そのフォルネウスで」
穂波が冷ややかに訊《き》いた。
フォルネウスとは、どうやらアディリシアを乗せたギンザメの名前らしい。いつきの眼帯|越《ご》しでも、さきほどの黒鳩《シャックス》とは比較《ひかく》にならぬ呪力が見てとれた。
単純な、畳の比較ではない。
それは次元の問題だ。黒鳩たちがでたらめにかきあつめられた百本のナイフとすれば、このギンザメはたった一挺《いつちょう》で殺戮《さつりく》する機関銃《きかんじゅう》――それほどの差があった。
「この子で? まさか。そんなことはいたしませんわ」
いつきが安堵《あんど》するより早く、もう一度アディリシアは微笑《ほほえ》んで、右手へ三つの真鍮《しんちゅう》の器《うつわ》を掲《かか》げ、
「私は[#「私は」に傍点]、それほどあなたを過小評価していません[#「それほどあなたを過小評価していません」に傍点]」
こう叫《さけ》んだのだ。
「――来たれマルバス。三十六の軍団を統《す》べる王!」
荒《あ》れる海面に、黄金の獅子《しし》がそびえたつ。
「――来たれグラーシャ・ボラス。三十六の軍団を制する力強き伯爵《はくしゃく》!」
月下、鷲《わし》の翼《つばさ》を持った狼《おおかみ》が羽ばたく。
「――来たれエリゴール! 六十の軍団を治める、堅固《けんご》なる騎士《きし》!」
最後に、少女の隣《となり》へ、槍《やり》と蛇《へび》を持った銀の騎士が現れた。
「さ、さ、三体――っ」
のけぞったいつきは眼帯を掴《つか》んだ。
フォルネウスとあわせて、四体。すべての魔神《ましん》を視界におさめて、右目がもげるように痛んだのである。
それだけで十分に分かった。
――これは違《ちが》う。
黒鳩はおろか、フォルネウスすらほかの三体の前には見劣《みおと》りする。ただ存在するだけで、人間を狂《くる》わせてしまうような鬼気《きき》がその三体からは発散されていた。
獅子と、狼と、騎士。
特に、三体目のあの騎士といったら……。
見上げるアディリシアは、華《はな》やかに笑った。
「七十二の魔神から選《え》りすぐった、血と戦《いくさ》の悪霊《あくりょう》たちですわ。これなら楽しんでいただけるかしら」
「えらい評価してもらえて嬉《うれ》しいわ。一体、何年かけて喚起《かんき》したん?」
「ざっと一年半かしら。こちらこそ、開陳《かいちん》する機会をいただけて嬉しいわ」「光栄やね」
穂波がうそぶく。
だけど、今回ばかりはその態度にも虚勢《きょせい》の色が濃《こ》かった。
『ほ、穂波さん? ちょーっと、あれは現状の装備で対抗《たいこう》できる気がしないんですけれど』
いつきの懐《ふところ》から、白猫《しろねこ》が耳打ちする。
「……分かってる。でも、ただで逃《に》がしてくれるとも思えへん」
苦渋《くじゅう》の声。
アディリシアがすっと胸へ手をあてる。
「さあ、魔神たちが餓《う》えておりますわ。存分にやりましよう」
ゆるやかに殺気の糸がふたりをつなぐ。
一週間前、あの夜の公園の再現。
しかし、攻守《こうしゅ》は完全にところを変えていた。あのときアディリシアが言った「時間と場所がよくない」という台詞《せりふ》の意味が今ならはっきり分かる。彼女は、ずっとこの機会を待ち構えていたのだ。
「…………」
喉《のど》がからからに干《ひ》からびる。
全身に鳥肌《とりはだ》が立ち、血管へドライアイスでもぶちまけられたような悪寒《おかん》が広がる。
だけど。
「――ちょ、ちょっと待ってよ、アディリシアさんっ」
(……あ)
言ってから、いつきが口を押さえた。
介入《かいにゅう》するつもりなどなかった。なのに、勝手に口が動いてしまっていたのだ。目を白黒させたクラスメイトに、アディリシアがほんの少しだけ表情をゆるめた。
「あら」
その表情も、すぐ冷たいものへと戻《もど》る。
「一体なんですの? 私はちゃんと忠告しましたわよ。今回の入札だけは見送りなさいと」
「そ、それは……」
まさか、忘れていたとも言えなかった。
「どうしました?」
「あ、いや、その……どうして、そんなに今回の『仕事』が必要なわけ? もし理由があるんだったら、ひょっとしたら協力しあえるかもしれないし」
「…………」
アディリシアは、一呼吸だけ沈黙《ちんもく》し、
「答えるいわれはありませんわ。まして、魔法使いに収める矛《ほこ》などありはしません」
はっきりと告げた。
とりつくしまもない拒絶《きょぜつ》だった。
「ありがと、社長。――大丈夫《だいじょうぶ》や」
口籠《くちご》もったいつきへ、穂波がそっと囁《ささや》いた。
そして。
ふたりの魔女は対略《たいじ》した。
「…………!!!」
ついさっきの、凍《こお》りつくような空気がまだマシだったことを、いつきは嫌《いや》というほど思い知った。
以前、穂波は言っていた。
――本当の魔法使《まほうつか》い同士の戦いは、始まったときにはもう終わってるんや。
――え、なんで?
――どんな魔法にも、ある程度の準備がいるからね。呪文《じゅもん》や動作だけで使える魔法なんてほとんどあらへん。限られた手札でやりあうカードゲームみたいなもんや。手札を持ち寄った段階で、だいたい勝負は決まってまう。
つまり、先の読みあい、ということだ。
戦いが始まる前どころか、仮想敵を定めた瞬間《しゅんかん》から、すでに火蓋《ひぶた》は切られている。あらゆる攻撃《こうげき》を想定して、あらゆる防御《ぼうぎょ》を推理して、魔法使いはかなう限りの手札をそろえていく。
アディリシアは、一年半と言った。
この戦いは、アディリシアが費《つい》やした一年半にどう穂波が対抗するかという、そういう類《たぐい》の争いなのだ。
YIJYAAAAAAAAAA!
ふと、耳障《みみざわ》りな声が背後から届いた。
振《ふ》り返れば、黒鳩《シャックス》たちが海原《うなばら》の一点へ群がっている。
「――この〈夜〉の核《かく》も、見つかったようですわね」
完全な勝利を誇《ほこ》るように、見上げるアディリシアが笑った。
そのとき、異変は起きた。
*
地面には、直径約八メートルの円状に、薄《うす》く塩が撒《ま》かれていた。
その塩の線こそが、神なる場所の清めである。
結界とは仏教の用語だが、つまるところは神道《しんとう》における結界に違《ちが》いなかった。あちらとこちらとをはっきり区分けし、決して交わらせぬという峻厳《じゅんげん》たる意思の顕《あらわ》れだ。
だからこそ、〈夜〉――原始の海さえも、塩の内側には入り込めない。直径八メートルの円筒《えんとう》型にくりぬかれた海は、どこかシュールな趣《おもむき》があった。「猫屋敷さんっ?」
その円筒の中で、玉串《たまぐし》を振るみかんが声をあげた。
「それでっ? それでお兄ちゃん社長どうなってるのっ?」
「いや、そっちもまあ一触即発《いっしょくそくはつ》という感じなのですけど、ちょうど玄武《げんぶ》くんから呪力《じゅりょく》の解析《かいせき》報告が出てまして……」
困った風に頬《ほお》を掻《か》く。
隣《となり》で座禅《ざぜん》を組んだ猫屋敷は、膝《ひざ》の上に黒猫《くろねこ》を抱《だ》いていた。
いつも眠《ねむ》そうな、でぶっちょの猫である。猫屋敷の式猫は四|匹《ひき》いるが、その内、白虎は遠隔《えんかく》同調に、玄武は呪力の解析に長《た》けていた。
「報告? なんかあったの?」
みかんが大きな目を見張る。
「はあ、なんといいますか、どうもはっきりしないんですけれど」
玄武くんの頭を撫《な》でながら、猫屋敷が眉《まゆ》を逸《くも》らせた。ちなみに開いているのは右目だけだ。
左目は白虎くんと同調させているため、ぴたりと閉じられている。
「もう。変な隠《かく》し事するんだったら、禊《みそ》ぎ解いちゃうからね。そしたら猫屋敷さんなんかこの海に流されてしおしおのぷーなんだから」
ぷう、とみかんが唇《くちびる》を尖《とが》らせる。
それに苦笑《くしょう》して――かすかに焦《あせ》りを滲《にじ》ませながら、猫屋敷はこう言った。
「どうも……この解析が確かだと……〈夜〉の核の裏に、誰《だれ》かの魔法があるみたいでして。というか、その魔法のせいで呪波|汚染《おせん》が悪化してるみたいなんですが」
みかんが、呼吸を止めた。
数秒して、女の子はロにした。
「それって……この〈夜〉がほかの魔法の副作用で起きてるってこと…?」
3
異変は、その瞬間起きた。
一点に群がっていた黒鳩たち――シャックスが蒸発したのだ。
蒸発。
そうとしか呼べない消え方だった。
「えっ……」
「なっ……」
穂波とアディリシアが言葉を失う。
ばかりか、海面に異様な虹色《にじいろ》の波紋《はもん》が広がり、空気へまでも伝導し、いつきたちの座標にも押し寄せてきたのである。
「そんな、もう起きたのっ?」
いち早く我に返ったアディリシアが、胸にかかったソロモンの五芒星《ごぼうせい》へ触《ふ》れた。
「マルバス!・グラーシャ・ボラス! エリゴール!」
その叫《さけ》びを受けて、三柱の魔神《ましん》は動いた。
血と戦《いくさ》の悪霊《あくりょう》たち。その名にふさわしい、迅雷《じんらい》のごとき速度であった。まはたきひとつの間に、波とアディリシアの間に立ちふさがり、彼らは呪力を集中させた。
おそらく、どれもが驚天動地《きょうてんどうち》の魔力を振るおうとしていたのだろう。
だが。
すべて無益に帰した。
それより早く、虹色の波紋が彼らをとらえた。
それだけで。
黄金の獅子《しし》マルバスが。
鷲《わし》の翼《つばさ》を持つ狼《おおかみ》グラーシャ・ボラスが。
槍《やり》と蛇《へび》とを携《たずさ》えたる銀の騎士《きし》エリゴールが。
すべて、一瞬《いっしゅん》で霧散《むさん》した。
砂細工を砕《くだ》くような。水風船を握《にぎ》りつぶすような。落書きを塗《ぬ》りつぶすような。あっけないというよりも、あまりにぞんざいな消え方だった。
「嘘《うそ》……」
穂波が漏《も》らす。
魔法じゃない。
魔法ですらない。
魔法なればこそ[#「魔法なればこそ」に傍点]、同じ魔法相手に[#「同じ魔法相手に」に傍点]、こんな理不尽な結果はありえない[#「こんな理不尽な結果はありえない」に傍点]。
「魔神の霊《エーテル》体が……根こそぎ分解された……?」
「なっ、な、何っ?」
状況が《じょうきょう》つかめず、いつきは箒《ほうき》にしがみつく。
その懐《ふところ》で、白猫が動転した声をあげた。
『穂波さん――こっちも呪力解析《じゅりょくかいせき》してたんですけれど、ちょっとまずそうな感じで』
「う、うん。社長! 離《はな》れるで!」
叫んで、穂波が箒に指を滑《すべ》らせた。
命令を受けた箒がぐんとしなり、たちまち急上昇《じょうしょう》して海面から離れていく。それにつれて広がっていく俯瞰《ふかん》の景色の中で、いつきは息を飲んだ。
「――穂波、あれ、何っ?」
指差した。
最初に黒鳩《シャックス》たちが蒸発した海上の地点である。
分解された霊《エーテル》体が、その場所に集《つど》っていく。ばかりか、〈夜〉の海さえもその地点で漏斗《ろうと》みたいにすぼまっていた。
「まさか……喰《く》らってるん?」
ほとんど喘《あえ》ぐように穂波が言う。
「魔神を四柱も……ううん……海まで退《ひ》いていってる……。周囲の全部の呪力を喰らつて……新しいカタチを受肉してる……」
茫然《ぼうぜん》とした言葉。
いつきもまた、目を離すことができなかった。
いや。
違《ちが》う。
目が[#「目が」に傍点]、離れなかった[#「離れなかった」に傍点]。
眼帯の下で、右目がいつきの身体《からだ》を支配した。内側から漏斗状にすぼまった海へ、ずっとずつと貼《は》りついていた。
【……見《ミ》ロ】
ぎちり、と。
何かが、頭の中で軋《きし》んだ。
遣う。
右目が[#「右目が」に傍点]、喋った[#「喋った」に傍点]。
【見ロ。視《み》ロ。観ロ。アレコソガ……本物ノ魔法ダ】
「な……何?」
眼帯を押さえる。食い込むほどに指を立てる。異常に熱かった。疼《うず》いて、痺《しび》れて、ひりついた。
その右目に、映る。
漏斗状の海の渦《うず》から、確かに結ばれていく実体。
魔神を四柱喰らい、〈夜〉の海を喰らい、その圧倒《あっとう》的な呪力をもって生まれ落ちようとしている何か。
いつきの右目だけが、それを視ている。
いつきの視界が、それだけに集中している。
【アレガ……◆▲〓……ノ種……】
「………」
『社長っ?』
いきなり、白虎くんに呼ばれた。
「えっ」
いつのまにか、身を乗り出していたのだ。
多分、そのときすぐに身を引けば、まだ体勢は立て直せたはずだった。
だけど、ああてて箒の柄《え》を握りなおそうとしたとき、いつきは真下の人影《ひとかげ》を、普通《ふつう》の左目で見てしまった。
アディリシアは、海面に立ち尽《つ》くしたままだった。
フォルネウスの背中で放心したまま、まるで待ちかねた恋人《こいびと》と出会ったような、そんな顔をしていた。
その横顔が、虹色《にじいろ》の波紋《はもん》に染まる。
四柱の魔神を喰らい、数瞬停滞《すうしゅんていたい》していた波紋が、金髪《きんぱつ》の少女とギンザメの魔神を飲み込まんとする。
「アディリシアさんっ?」
それで、バランスが崩《くず》れた。
「あ……」
『社長!』
「社長っ」
振《ふ》り返りざま、穂波の手が伸《の》びた。間に合わなかった。
気がついたときには、箒《ほうき》から放《ほう》り出されていた。
〈夜〉の魔海と虹色の波紋の中へ、いつきはまっさかさまに落下していった
最後に、
「……いっちゃん!」
どこかで、昔のあだ名を呼ばれた気がした。
そしてすべてが暗くなった。
右目以外。
[#改ページ]
第4章 魔法使いの禁忌
1
右目が視《み》ていた。
そこは、地下室。
一ミリの狂《くる》いもなく、それぞれの面を東西南北へ向けた直方体の部屋。
暗く、小さな、魔法使《まほうつか》いの工房《こうぼう》だった。
空気には神秘のエーテルが満ち、床《ゆか》には古い魔法陣《まほうじん》がいくつも描《えが》かれている。柵《たな》にそろえられたものは、ビーカーやフラスコや五芒星《ペンタグラム》の酒杯《ゴブレット》。部屋の隅《すみ》には、エーテルが邪気《じゃき》に染まらぬよう、調合されたインセンス。――そして、落書きされた絵本とお人形。 その工房を訪《おとず》れるのは、ふたりだけだ。
金髪の生意気そうな少女と、いつも黒い長衣《ローブ》を纏《まと》った老人。
「お父様、今日は何を喚起《かんき》するの?」
「ねえ、お父様、さっきの魔法教えて」
弾《はず》んだ声。
少女は、いつも嬉《うれ》しそうに老人についていた。老人の喚起した使い魔に驚《おどろ》き、ちょっとした占《うらな》いにも瞳《ひとみ》を輝《かがや》かせ、瞬《またた》く間に老人の術を習い覚えていった。
老人は、いつも目を細めていた。年取って授《さず》かった娘《むすめ》が可愛《かわい》くてならず、その娘の素晴《すば》らしい才能に歓喜《かんき》し、自らの秘術を惜《お》しげもなく教授していった。
「アディ、シャックスを喚起する場合、ソロモンの三角を使う必要がある。かの魔神は嘘《うそ》が好きだからな。三角形の象徴《しょうちょう》については……」
「アディ、その前に人形を置いて、清めをしておきなさい。心身ともに清らかでなければ、逆に魔神に使役《しえき》されるぞ」
厳しく、低い声。
だけど、優《やさ》しかった。
小さな地下工房は、魔法使いにふさわしからざる平凡《へいばん》な幸せに満ちていた。
その日まで。
(…………?)
急に、視界が変わった。
鏡|仕掛《じか》けの採光窓から月光が降り落ちる、多分満月の夜。
「それ……何?」
首を傾《かし》げる少女。
淡《あわ》い光の中、老人は――ひどくこけた頬《ほお》を歪《ゆが》ませて、ぎごちなく笑った。
「種だよ」
「種?」
「ずっとずうっと探していた種だ」
尋常な《じんじょう》瞳の色ではなかった。少女は気がつかなかったようだけれど、それは何かに憑《つ》かれたような、どうしようもなく爛《ただ》れた色だった。
皺《しわ》深い両手の平には、ちっぽけな真紅《しんく》の種が置かれていた。
(真っ赤な……種?)
「触媒《カタリスト》?」
「ああ、試《ため》したい魔法がある。やっとこれで成就《じょうじゅ》できる」
「でも、お父様、七十二の魔神はすべて喚起したんでしょ? これ以上何をするの」
少女の知る限り、老人は世界で最高の魔法使いだった。
無論、ほかの魔術であれば超《こ》えるものもあろうが、七十二の魔神を喚起するというソロモンの魔術において、老人以上の存在はありえなかった。同時に、ソロモンの魔術である以上、そこが限界のはずでもあった。
魔術特性。
得意があるということは不得意があるということだ。どんな魔法でも万能《ばんのう》ではない。人が人である限り、限界は常にそびえたつ。
だけど。
一呼吸おいて、老人は異様に粘《ねば》っこく口にした。
「私はな――魔法になりたい」
また、時間が流れた。
(――――っ!)
工房は、あの種と同じ色に染まっていた。
赤。
真紅。
引き裂《さ》かれ、引き破られ、噛《カ》み破られ、噛み砕《くだ》かれ、腕《うで》が、足が、腹が、胸が、バラバラに工房に落ちていた。
血が、血が、血が、血が、血が、肉が、血が、血が、血が、骨が、骨が歯が血が血が血が血が髪《かみ》が血が血が血が血が血が血が爪《つめ》が血が血が血が血が唇《くちびる》が血が血が指が血が血が血が血が腸が血が血が血が耳が血が血が血が――工房を濡《ぬ》らしていた。
そして。
魔法円の内側に転がったモノが、潤えた。
老人の、生首が。
(っわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ)
(あああああああああああああああああああああああああ――!)
衝撃が《しょうげき》、麻痒《まひ》した身体《からだ》に意識だけを呼び覚ました。
ずる、ずる、ずる。
誰《だれ》かに引きずられる感触が《かんしょく》する。
ずる、ずる、ずる、ど、ずる。
多分、床《ゆか》はコンクリート。ひんやりしてて、少し痛い。肩口《かたぐち》をつかまれているらしく、時々足首が何かにひっかかった。
視界は真っ暗なままだ。身体も、指一本動かない。
なのに、眼帯に覆《おお》われた右目だけがややこしい図形をいくつも映していた。穂波に習ったソロモンの五芒星《ごぼうせい》だとか、悪魔《あくま》から身を守るための月桂樹《げっけいじゅ》をかたどった指輪だとかが、目の前や肩口にちらついた。
ああ、そうか。
これはアディリシアのつけていた呪物《フェティシュ》だ。
(あれ? なんで、そんなものが視《み》えるんだろ)
思考まで、散漫《さんまん》としたまま。
ずる、ずる、ずる。
どうやら終点に着いたらしい。はあはあ、と荒《あら》い呼吸音。たいした距離《きょり》じゃなかったと思うのだけど、きっとこいつは運動不足なんだろう。女の子並みの筋力じゃないか。
少しして、柔《やわ》らかな手が、つるりと顔を撫《な》でた。
「……どうして」
泣いてるような声。
「どうして……あなたまでここにいらっしゃいますの?」
責めるみたいな言葉。
よく分からない。
でもまあ生きているらしいと安心して。
もう一度――今度こそ完全に――伊庭《いば》いつきは気を失った。
*
「社長! アディっ?」
『だ、だ、駄目《だめ》ですよ! うかつに近づいてまたあの波紋《はもん》が起きたら、ミイラ取りがミイラですよっ?』
海面へ突進《とっしん》しかけた魔女を、ああてて白猫《しろねこ》が引き止める。
「そ、そやけど」
穂波は、白い首を伸《の》ばし、悔《くや》しそうに奥歯を噛《か》み締《し》めた。
真っ白な海を見つめる。
そう、白い海だ。
いつきとアディリシアを飲み込んだ後、海面は突如凍《とつじょこお》りついたのである。約百メートル四方に渡《わた》る海が、白く霜《しも》を張り詰《つ》めている。
鼻の頭から頬《ほお》へと冷気が滑《すべ》り、鼻孔《びこう》の粘膜《ねんまく》を痒《しび》れさせた。
あまりにも信じがたい変化だったが、どうしようもなく現実の光景だった。
『どういうわけか分かりませんが、めちゃめちゃ大掛《おおが》かりな儀式《ぎしき》魔術になっている感じですね。向こうの魔神が喰われていたところからすると、〈ゲーティア〉の仕業《しわざ》とも思えませんが』
見下ろした白虎《びやっこ》くんがふむと片目を細めた。こちらも寒さに凍《こご》えているようで、ぶるんと身体《からだ》を震《ふる》わせてから、長い髭《ひげ》をひゅるんと動かす。
『とりあえず、一旦《いったん》引き返して合流しましょう。多分、近くに〈ゲーティア〉の構成員もいるでしょうし、そっちを捕《つか》まえれば、事情が判明するかもしれません』
「…………」
『あの、穂波さん?』
「…………」
『――穂波お姉ちゃん』
みかんの声だった。
「………………分かってる。飛び込んだりせえへん」
長いこと黙《だま》って、穂波はとんがり帽子《ぼうし》の鍔《つば》をきゅっと押さえた。
大きな帽子に隠《かく》れて、強い声で言った。
「飛び込まへんから、大丈夫《だいじょうぶ》。……それより、あれがなんか調べへんと社長も取り返されへんし」
うなずいた白虎くんが、箒《ほうき》の前に立って、穂波を誘導《ゅうどう》する。
それに従って、箒へ指を滑らせながら、
「……ごめん、いつちゃん」
と、穂波は小さく呟《つぶや》いた。
みかんたちは、凍《こお》りついた海の中で待っていた。
極地を思わせる氷の海の端《はし》に、直径八メートルの穴がぽっかりと開いている。みかんの結界の跡《あと》だった。その穴の中から、穂波の箒で、ひとりずつ外へと連れ出したものだ。
とりあえず、冷気の範囲外《はんいがい》――〈夜〉が届いていない丹生山《にゅうやま》の林から、穂波たちは氷海を見下ろした。
「いやあ、冷えた冷えた。なんせ冷凍庫《れいとうこ》みたいなものでしよう? このまま凍《こご》え死《し》ぬかと思いましたよ」
林の中、四|匹《ひき》の猫たちにくるまれた格好で、猫屋敷《ねこやしき》が両手にはあはあ息を吹《ふ》きかけて摩擦《まさつ》する。
その台詞《せりふ》にきっと眼光を飛ばしてから、穂波は訊《き》いた。
「中は……大丈夫なんやろか」
「ふむ。魔法の呪式《じゅしき》にもよりますが、海の中までは、この冷たさは伝播《でんぱ》してない気がしますけどね」
「なんで?」
「〈ゲーティア〉の首領とウチの社長が落ちた途端《とたん》、狙《ねら》いすましたように凍りついたでしょう?」
氷海を指差して、猫屋敷が答える。
「ということは、この〈夜〉を撒《ま》き散らした迷惑《めいわく》な魔法使いは、あのふたりに対して特別な思惑《おもわく》があると考えられませんかね?」
「それって、お兄ちゃん社長を?」
みかんが猫屋敷を見上げ、口を挟《はさ》む。
「いえ、社長は何も関係ないでしょう。つい最近まで素人《しそうと》だったんですし。――でも、さっきもちょっと話してましたけど、今回はずいぶん過剰《かじょう》に〈ゲーティア〉からの妨害《ぼうがい》が入っていたじゃないですか」
「…………」
猫屋敷の言葉に、穂波がロをつぐんだ。
先週の、公園でのことを思い出したのである。
「普通《ふつう》に実力勝負にしたところで、〈ゲーティア〉がウチに負ける理屈《りくつ》はほとんどないんですよね。わざわざ妨害なんかした方がデメリットが大きい。なのに、そんなことをした理由は……これを見られたくなかったからじゃないですか?」
推理、というほどでもない。
少し考えれば、当然知れてくる理屈だ。結局のところ、「ではこれはなんなのか』という問題にはなにひとつ答えになっていない。
「猫屋敷さんはどう思ってるん?」
「〈ゲーティア〉の首領が隠したかった事情ですよね。ですがその前に……」
ふわ、と舞《ま》うように猫屋敷の羽織の袖《そで》が流れた。
振《ふ》り返りざま、その袖から一|迅《じん》の白い紙が飛び出したのである。
符《ふ》であった。
背後の木に、その符がぴたりと貼《は》りついた瞬間《しゅんかん》、樹木は内側から破裂《はれつ》した。まるで、幹の中に爆薬《ばくやく》でもしかけていたような有様だった。
「……出てきてもらえます?」
「これはこれは。結構なご挨拶《あいさつ》で」
ゆるりと流れる声。
ぷすぷすと焼け焦《こ》げる木の陰《かげ》から、その男は|仰々《ぎょうぎょう》しく上半身を折り曲げた。相変わらず表情の読めないのっぺりした顔を見て、みかんが穂波の腰《こし》にすがりついたのである。
「……影崎《かげざき》のおじちゃん」
「半口ぶりでございますね」
影崎が、汚《よご》れた背広を軽く叩《たた》く。
その様子は、ひどく平凡《へいぼん》で、それだけにこの場に似つかわしくなかった。
〈協会〉の構成員。
それ以上のことは、穂波も知らない。いろいろな組織に顔のきく男で、イギリスの学院にいた頃《ころ》から何度か顔を合わせてもいたが、彼がどのような魔術を得意としているかも知らなかった。
平凡すぎるせいで逆に浮《うわ》ついてくる――ある意味で、異形以上に不気味な存在。
「見張ってたん?」
かぶりを振って、穂波は訊いた。
対して、影崎は薄《うす》っぺらく笑い、揺《ゆ》さぶるように言葉をつむぐ。
「そういうわけでもないのですが、『仕事』の査定もありますしわ。それに……〈ゲーティア〉は禁忌《タブー》を犯《おか》しているという噂《うわさ》が立っていましたから、その確認《かくにん》まで」
それは――特別な意味を持った――狙い済ました単語であった。
穂波よりも、みかんよりも、猫屋敷の意識が影崎へと集中する。その変化に驚い《おどろ》たのか、まとわりついた猫《ねこ》たちまでそろって影崎の方を向く。
「……禁忌《タブー》、ですか?」
「ええ」
漂白《ひょうはく》されたような顔に、もう一度、上《うわ》っ面《つら》だけの笑《え》みを浮《う》かべて、影崎はゆるゆると言葉を続けた。
「オズワルド・レン・メイザース――〈ゲーティア〉の元首領にしてアディリシア・レン・メイザースの父親にあたります――は、生前、魔法になろうとした疑いをもたれています」
2
後頭部に柔《やわ》らかな感触《かんしょく》があった。
妙《みょう》に安心する、いい匂《にお》い。このままずっとたゆたっていたいような気分。
喉元《のどもと》を何かにくすぐられ、目を開くと、すぐそばに金色の髪《かみ》と碧玉《エメラルド》色の瞳が《ひとみ》あった。
「え…?」
「はい……っ?」
わずかに指一本分ほどもない隙間《すきま》で見詰《みつ》め合う瞳と瞳。
数瞬《すうしゅん》、どちらも硬直《こうちょく》して、
「きゃ……」
「えええええええええええええええええええええええええええっ」
物凄《ものすご》い勢いで、いつきが叫んだ。その拍子《ひょうし》に膝《ひざ》から転げ落ち、したたかに後頭部をコンクリートへぶつける。
「あ痛っ」
その痛みのおかげで、やっと正気に戻《もど》った。
手前に座り込んだ金髪《きんぱつ》の少女を見て、パチパチと瞬《まばた》きを繰《く》り返す。
「――あ、あ、アディリシアさんっ?」
「……さ、先にあれだけ驚かれては、私が驚く隙《すき》もありませんわね。それも〈アストラル〉流の交渉《こうしょう》術のひとつですか?」
「いや、その、そんなんじゃないけど……な、何を」
「単に熱をはかろうとしただけですっ。あれだけ呪力《じゅりょく》に汚《けが》れた海を渡《わた》っては、身体《からだ》に妙な呪《のろ》いが残留していてもおかしくないでしょう?」
「それは……そうかもしれないけど」
それで、やっと気がついた。
「あ、そうだ。アディリシアさんは、大丈夫《だいじょうぶ》なの?」
「知りません」
真っ赤な顔で、アディリシアがそっぽを向く。
「いや、あの変な意味じゃなくて、怪我《けが》とかないの?」
「え……」
きょとんと、少女が細い眉《まゆ》をひそめた。
「ほら、あの強そうな魔神《ましん》とかバラバラになってただろ。アディリシアさんは大丈夫なの?」
いつきの言葉に、小さくため息をついて、アディリシアは微笑《びしょう》した。
「相変わらず、何もお知りでないのですね。純粋《じゅんすい》な霊《エーテル》体の魔神と違《ちが》って、私たちは生身を持っていますわ。呪力の干渉《かんしょう》を帯びたからって、たやすく分解されるものではありません」
「……そうなの?」
「そうですよ。ましてや、あなたと違って、生まれたときよりの修練を経ている身です。なまじっかな呪力に左右されたりはいたしません」
気高く、漆黒《しっこく》のドレスの胸を指す。
すっかりいつものアディリシアであった。落ちる瞬間|垣間《かいま》見た、あの弱々しい表情が嘘《うそ》のようである。
いつきは、なんとなくその仕草に嬉《うれ》しくなって、
「で……ここはどこ?」
きょろきょろとあたりを見回す。
とりあえず、〈夜〉の海ではなかった。コンクリート剥《む》き出しの部屋の一角。駐車場《ちゅうしゃじょう》みたいなどでかいスペースに、いくつも角張った柱がそびえたっている。罅《ひび》割れた床《ゆか》は挨《ほこり》まみれで、錆《さ》びついた怪《あや》しげな機械たちが転がっていた。ほの暗い明かりは、天井《てんじょう》にへばりついた白色灯によるものである。
「あれ……ひょっとして……」
妙に、見覚えがあった。
ここに来る前に資料で見た気がする。というか、その前から、布留部市の地方テレビで時々オカルト番組に出ていたような……
(……あ、お化け工場?)
ぽんと手を打った。
…………
……………………
「……わ―――――――――――っ!!!」
途端《とたん》、爪先《つまさき》から頭頂まで、絶叫《ぜっきょう》が突《つ》っ走る。
「――――!」
両手で耳を押さえたアディリシアが、抗議《こうぎ》の声をあげた。
「な、なんですの、あなたはっ」
「だ、だってその……お、お化け工場だなんて思わなかったし! そ、そう思うと、あのへんの染《し》みが急に番組で出た幽霊《ゆうれい》みたいに見えて……」
しどろもどろに説明するいつきを、少女はなんとも不思議そうな表情で見つめた。
「あなた……私の魔神を怖《おそ》れなかったくせに、どうしてこんな子供だましを怖《こわ》がる理由があるんですか?」
「それは、そうかもしれないけど……」
さっきと同じ台詞《せりふ》を言いつつ、それとこれとは別だし、とうつむいて愚痴《ぐち》るいつきである。
正真正銘《しょうしんしょうめい》、情けないことこの上ない。
男っぽさとかそのへんを、叩《たた》いて、壊《こわ》して、切り捨てて、ついでに宇宙空間へ投棄《とうき》したような駄目《だめ》っぷりであった。
「まあ、あなたにはお似合いですけれど」
アディリシアは軽く首を振《ふ》る。金髪《きんぱつ》の縦ロールが優雅《ゆうが》に揺《ゆ》れた。
「……そういえば、濡《ぬ》れてない?」
「何かしら」
「海に落ちたと思うんだけど……空気もちゃんとあるし、どういうことかな?」
「あら。画の回転は案外まともですわね」
確認《かくにん》するように一拍《いっぱく》おいてから、「よろしいですわ」とアディリシアはうなずいた。
「何が?」
「まず、現在の状況《じょうきょう》をその日で見ていただきましょう。説明するよりもそれが早いかと思いますから」
立ち上がって、少女は窓へと寄った。
窓といっても、壊れたシェードが降りているだけの粗末《そまつ》なものだ。サッシやガラスさえとうに無く、そのシェードと錆びた枠《わく》だけが、かろうじて窓の原形をとどめていた。
アディリシアの指がそのシェードを引き下げる。
「――――!」
いつきは、顎《あご》を落とした。
窓の外には、凍《こお》りついた海が広がっていたのである。
もちろん、こんなオンボロ工場が氷の重畳を支えきれるわけがない。また、これだけの氷だというのに、わずかな冷気も感じられなかった。
「ここは……あの海の底なの?」
「ええ、まだ〈夜〉は終わってませんから」
アディリシアは、目を閉じて、もう一度うなずいた。
思考を整理してみよう。
〈協会〉からの『仕事』で、自分たちはこの〈夜〉を消しにやってきた。そして同時に入札した〈ゲーティア〉と争っていたはずだった。
だけど、いきなり〈夜〉に異変が生じた。
海に発した波紋《はもん》と渦《うず》で、アディリシアの呼び出した魔神《ましん》は消滅《しょうめつ》。戦いは中断。いつきもアディリシアと一緒《いっしよ》に〈夜〉へと落下した。あげく、落ちた後の海は凍結《とうけつ》するありさまだ。
何が起きたのか?
(……さっぱりだよねえ)
ぼんやりと思う。
幽霊が見えるだけの高校生には、手に余るというか身が保《も》たない。大体、まともに魔法使いっぽい仕事自体、社長になってからまだ三度目なのである。これだけ本格的なのは完全に初めてだ。
がっくりとうなだれて、ため息をついていると、隣《となり》のアディリシアが訊《き》いた。
「どうしましたの?」
「いやその……脱出《だっしゅつ》できないかなあとか」
「でしたら、ひとりでお好きにしたらいかがです? 私には探し物がありますもの。せっかく〈夜〉の内側に入れましたし、ここまで来れば私ひとりでも十分ですわ」
一刀両断された。
わずかでも足手まといになれば、瞬時《しゅんじ》に見捨てられそうだった。むしろその手で介錯《かいしゃく》してくれそうな勢いである。
少女は、コンクリートにしゃがみこんで、鉄片《てつへん》で何かを刻み込んでいた。どうやら魔法円のようだ。大きな円の内側に四つの五芒星《ごぼうせい》と四角形が絡《から》み合っている。そして、それらの図形をとりまくように、小指を噛《か》んで滲《にじ》ませた血文字を書いていた。
その痛そうな作業にいつきは唾《つば》を飲み込んでいたが、ふと、
「……探し物?」
と、首を傾《かし》げた。
「…………」
アディリシアの指が止まる。
あからさまに、しまった、という顔をしていた。
「それってこの〈夜〉の中に? それ探してたから入札の妨害《ぼうがい》したわけ?」
「……い、言っておきますが」
きゅっと手を握《にぎ》って、少女が顔をあげた。
「私たちは非常事態ゆえ、やむなく一緒にいるだけです。必要以上の手札をさらす義務などありません」
「あ、は、はい。分かりました!」
碧《みどり》の眼光に撃《う》たれて、即座《そくざ》にいつきが敬礼する。
だが、もう十分ほどして、アディリシアの方が悔《くや》しそうに魔法円を叩いたのである。
「……駄目ですわ」
「ど、どうしたの?」
「呪物《フェティシュ》が足りませんの。今の装備と即席《そくせき》でつくった魔法円だけでは、霊的《れいてき》意味が足りません。せめて私の血を使って補強はしてみましたけれど」
苛立《いらだ》たしげに、綺麗《きれい》な親指の爪《つめ》を噛む。普段《ふだん》なら、そんな説明もしないことから考えると、本当に手詰《てづ》まりなのだろう。
(呪物……)
「あ、これならどうかな?」
いつきが、襟《えり》についていた社章を外す。
途端《とたん》、アディリシアの目の色が愕然《がくぜん》となった。
「か、貸しなさい、それっ」
少女が身を乗り出す。
だけど――珍し《めずら》くも、いつきはそれに待ったをかけたのである。
「ちょ、ちょっと待って」
「なんですの?」
「さすがに、ただで渡《わた》すわけにはいかないよ」
「……脱出を手伝え、ということですか。でしたら、力ずくでも奪《うば》わせていただきますが」
アディリシアの声音《こわね》に、ただならぬ殺気がこもる。それだけで指先まで凍りつきそうな、絶対|零《れい》度の音階だ。
「ち、違《ちが》う違う! 探し物があるつてなら、それはそれでいいよ。だったら、僕も協力する。代わりに、その後でアディリシアさんも僕が脱出するのを協力してくれるってのでどう?」
値踏《ねぶ》みするように、アディリシアは睨《にら》みつけてくる。
「……あなたが、私に協力ですって?」
「そうそれ! 変な講じやないだろ。呉越同舟《ごえつどうしゅう》ギブ&テイク」
微妙《びみょう》に意味のあわない四字熟語を話しながら、いつきは心臓をばくばく鳴らしていた。魔術《まじゅつ》ではもちろん、正直なところ、腕力《わんりょく》でもアディリシアに勝てる自信はない。だから、この交渉《こうしょう》はまさに命がけだったのである。
「………」
アディリシアは、戸惑《とまど》った風に一呼吸おいて、
「ですが、まだ問題は残ってますわ」
「ひょっとして探し物を秘密にしたいとか?」
いつきが水を向けると、少女は黙《だま》り込んだ。図星だったらしい。
「あのさ、僕、これでも社長だよ。もし秘密なんだったら、絶対口にしない。猫屋敷さんやみかんちゃん、穂波にだって秘密にさせる。……それでも駄目《だめ》?」
「その言葉を信用しろとおっしゃいます? 魔法使い同士が正式な契約《ゲッシュ》も立てずに?」
「僕のことをさんざっぱら素人扱《しろうとあつか》いしたのは、アディリシアさんの方でしょ。その分ぐらいは信用してもいいんじゃないかな」
最後はちょっと弱々しく、いつきが頬《ほお》を掻《か》く。
金髪《きんぱつ》の少女は肩《かた》を落とした。
「等価|交換《こうかん》、というわけですか」
「あ、なんか魔術の基本だとか穂波が言ってたやつ?」
「ええ、もちろん単純に取引の意味もありますけれど、もうひとつ、持てることと持たざることは同価値だという意味もあります。この場合、あなたが魔法使いでないことが、魔法使いであるということと同じだけ価値があるという意味ですわ」
「ヘっ、どういうこと?」
いつきが目をぐるぐるさせる。
「自分が魔法使いでないから信用しろとおっしゃってるんでしょう?……それならいいですわ」
「え?」
ふたたび訊《き》き返すと、アディリシアはかすかに頬を赤く染めて、そっぽを向いた。
「ですから、あなたを信用すると言ったのです! それ、貸しなさいっ」
「は、はい」
ぽかんとしたいつきの手の平から、もぎとるように社章を奪って、魔法円の中央へと置く。
ついで、
「これだけ洗練された銀の五芒星《ごぼうせい》でしたら、霊的意味は十分です。鏡を使って増幅《ぞうふく》の象徴《しょうちょう》にもできますわね。――ふん、社長はともかく、会社自体はあの穂波が入っただけのことはありますわ」
「あ、そういえば、穂波とは知り合いなの? アディって呼んでたから、気になってたんだけど」
「イギリスの学院では同級生でしたから。失われたケルト魔術を復活させたということで、あの子は有名でしたしわ」
「それって……すごいことなの?」
「もともとが、大量の詩や呪歌《ガルドル》を口伝だけで二十年かけて暗記するという代物《しろもの》ですから」
「に、二十年っ」
「後期はオガム文字などもありますが、前期中期のケルト魔術――ドルイドの学習方法は完全に口伝のみです。あの子の場合、イギリス中をフィールドワークして、語《かた》り部《べ》からの口伝をつぎはぎしたということですわ。おかげで提出したレポートの束が天井《てんじょう》まで績みあがってましたけど、あのときの教授の顔だけはなかなか見物でした」
「…………」
先週の、デスクを埋《う》め尽《つ》くした契約書類のことを思い出して、いつきは暗い顔になった。
(ということは、『なんでこれぐらい一日でできへんの?』ってあれ本気で言ってたんだなあ)
道理で、きょとんとしていたはずである。
あまりにできすぎる生徒は、教師としては不都合がある気がする。
「……儀式《ぎしき》をはじめてよろしいですか? 五芒星から類感して、即席《そくせき》儀式で魔神を喚起《かんき》します。少し離《はな》れてくださらないと魔神に取り憑《つ》かれますわよ」
「あ、は、はいっ」
あわてて、後じさった。
そんな様子に呆《あき》れた顔を見せてから、アディリシアは言葉をつむいだ。
「……|我、訴え、喚起せん《I do livocate and conjure thee》」
静かに、ゆるやかな声が響《ひび》く。
「……|我、訴え、喚起せん《I do livocate and conjure thee》」
再び、同じ呪文《じゅもん》を呟《つぶや》き、胸にかけたソロモンの五芒星を握《にぎ》る。
「……I do strongly command thee,by Beralanensis,Beralanensis,Paumachia,and Apologle Sedes:by the most Powerful Princes,Genii,Lichide,and Ministers of the Tartarean Abode;and by the Chief Prince of Seat of Apologia in the Ninth Legion――」
「…………」
異様な緊迫感《きんぱくかん》を秘《ひ》めた光景を、いつきは固唾《かたず》を飲《の》んで見つめた。
右目に、かすかな痛み。
(……あれはなんだったんだろ)
眼帯へ触《ふ》れて、自問する。
落ちる直前、脳裏《のうり》に響いた声。けして忘れてはいない。でも、普段《ふだん》なら気絶しそうな事態だったのに、奇妙《きみょう》に恐怖感《きょうふかん》が薄《うす》かった。
(薄い……?)
違《ちが》う。薄いなんてものじゃない。あの瞬間《しゅんかん》、動揺《どうよう》はあっても恐怖《きょうふ》なんて欠片《かけら》もなかった。むしろ、あの言葉を聞いた瞬間の感情は、噴《ふ》き上げるような昂揚《こうよう》感だった。
(ずっと前にも、あの声を聞いたような……)
とりとめなく思考だけが続く。
(あれは……)
思い出す。
――幼稚園《ようちえん》の頃《ころ》。
――化け物に追いかけられた〈幽霊屋敷《ゆうれいやしき》〉。
――挨《ほこり》だらけの廊下《ろうか》。涙《なみだ》でどろどろになった園児服のアップリケ。転がった拍子《ひょうし》に見えたあいつ[#「あいつ」に傍点]
――「いっちゃん! いっちゃん! いっちゃん!』
遠くから女の子の泣き声がして……
「従え!」
「あ」
その一喝《いっかつ》で、現実へ戻《もど》った。
社章の真上、魔法《まほう》円の内側へ浮《う》かんだ霊《エーテル》体に、アディリシアがソロモンの五芒星《ごぼうせい》を突《つ》きつけている。
「――我が手にあるソロモンの五芒星を見よ! されば、汝《なんじ》、王の御名《みな》において攻が命に従うべし!」
白い、煙《けむり》のような霊体が揺《ゆ》れる。
とどめとばかりに、金髪《きんぱつ》の魔女はこう続けた。
「来たれエリゴール! 六十の軍団と治める、堅固《けんご》なる騎士《きし》!」
「!」
エリゴール。
海上の戦いで、最後にアディリシアが喚起した、貴強の騎士。視《み》た瞬間、いつきが敗北を覚悟《かくご》した不破《ふわ》の英霊《えいれい》。
が。
――ぽよん
と、それはアディリシアの肩《かた》に跳《は》ねた。
「ぽよん?」
無論、実際にたてた音ではなく、いつきが脳内で処理した擬態《ぎたい》語である。しかし、あまりにもその昔が似合いすぎる相手だった。
白色灯に照りかえる銀の鎧《よろい》。勇ましい真紅《しんく》の旗。鋭《するど》い槍《やり》と腕《うで》にからまった碧《みどり》の蛇《へび》。
紛《まが》うことなく、あのときの銀の騎士だ。
……ただし、手の平サイズ。
「な、な、なにそれっ?」
「わ、笑わないでください! 仕方ないでしょうっ! もともとのエリゴールは一年かけて呼んだんです。即席《そくせき》で喚起したところで、本体の影《かげ》のきれっぱししか出てこないに決まってます」
「あ……は、は……」
ぽかんと口を開けて、いつきは納得《なっとく》した。
魔術特性。
魔術にはそれぞれ得意・不得意がある。
アディリシアのソロモン魔術は、喚起できる魔神も幅広《はばひろ》く、汎用《はんよう》性があって強力だが、その魔神を本来の力で呼び出すために膨大《ぼうだい》な時間と準備を必要とするのだ。
それが足りない場合、こういう結果になるというわけだ。
「…………っ」
かあっと耳まで真っ赤になって、アディリシアが抗議《こうぎ》する。
「い、言っておきますけど、これでも魔神としての性質にはほとんど衰《おとろ》えはありません。戦力にはなりませんが、今回には十分役立つのですよ!」
「わ、分かった。笑わない。笑わないから、槍で刺《さ》させないで」
ちくちく刺してくるエリゴールから逃《に》げまわりながら、いつきは頭を抱《かか》えてお願いしたのだった。
*
同じ頃。
穂波たちと同じ、丹生山の中腹へ、一羽の鴉《からす》が降り立った。
夜の闇《やみ》である。まともな鳥であれば、飛ぶはずもない。
その鴉を腕に止まらせて、黒服は二、三度、大きくうなずいた。
「――首領が、エリゴールを再|喚起《かんき》したようです」
隣《となり》の壮年《そうねん》の男へと、通達する。
アディリシアとともに来訪していた、〈ゲーティア〉の魔法使《まほうつか》いたちだった。アディリシアといつきが氷海に飲み込まれた後、彼らはひそかに山中へと散っていたのである。
「よし、そのまま首領の命があるまで待機。万が一〈アストラル〉からの妨害《ぼうがい》があれば、各自で排除《はいじょ》する。――首領が〈夜〉に捕《つか》まえられたのは予想外だったが、この件、欠片《かけら》といえど外部へ漏《も》らすことは許されん」
壮年の男が、指示を下した。
そして、もう一度、鴉を上空へと飛び立たせた。
もしも、鴉に魔法使いの知識があれば驚《おどろ》いたかもしれない。
氷海を中心として、山の中腹には、ずらりといくつもの魔法円が並んでいたのだ。
それは――ひとつの山を舞台《ぶたい》とし、十数個の魔法円同士を組み合わせた、巨大《きょだい》な複合魔法円であった。
*
「禁忌《タブー》……」
猫屋敷の声が途切《とぎ》れた。
いつも瓢々《ひょうひょう》としていた陰陽師《おんみょうじ》が、まるで石みたいに顔をこわばらせる。身体《からだ》にまとわりついていた四|匹《ひき》の猫《ねこ》が、残らず毛を逆立てた。
みかんもきゅっと身を縮めこませ、マントの裾《すそ》を掴《つか》まれた穂波までもがその言葉の重さに息を飲む。
「まさか……ほんまに?」
「いえ、まだ容疑だけですよ? 証拠《しょうこ》が見つかったわけではありませんから」
影崎はいつもの様子で肩をすくめる。人形か何かのような、嘘《うそ》っぽい仕草。
「ですが、容疑だけあれば監察《かんさつ》するには足ります。魔法使いが魔法になることが、どれほどの罪か、皆《みな》さんご存じでしよう?」
「…………」
沈黙《ちんもく》が落ちた。
その三人を挑発《ちょうはつ》するようにして、影崎は言葉をつむぐ。
「呪力《じゅりょく》は非常に変質しやすいエネルギーです。その変質を制御《せいぎょ》するのが魔術。漏出《ろうしゅつ》した呪力によって起きるのが呪波|汚染《おせん》。普通《ふつう》なら、呪波汚染は長くは続きませんし、その規模もしれています。この〈夜〉のように大規模な呪波汚染でさえ、夜が明ければ、跡形《あとかた》も無く消えてしまうでしょう」
自浄《じじょう》作用は、呪波汚染にも働く。
川が海へと流れるごとく、動物の死骸《しがい》が土くれと変わるごとく、呪力もいずれは流れて消える。それが自然の理《ことわり》だった。
くすり、と唇《くちびる》だけを影崎が歪《ゆが》める。
「しかし、魔法使いが魔法になった場合に限り、これは当てはまりません。そう、炎《ほのお》と原子力の違《ちが》いとでもいいましょうか。魔法となった魔法使いは、そこにあるだけで[#「そこにあるだけで」に傍点]呪波汚染を撒《ま》き散らしつづけます。それも、この場合の呪波汚染は自然には浄化《じょうか》されません。半永久的に残留しつづけ、近くの土地や生物や――時には人間にも「感染』しつづけます。一部の人魚や狼《おおかみ》男といった奇形《きけい》種は、そうやって生み出されたそうですよ。現代だと、放射能めいているといえばいいですかね?」
ただ能面のような笑《え》みとともに、影崎は最後にこう囁《ささゃ》いた。
「――もちろん、その見返りとして、ただの魔法とは比較《ひかく》にならない力を得ることができるわけですが」
魔法が世俗《せぞく》から遠ざけられたのは、秘儀《ひぎ》だからではない。
危険だからだ。
異界の力は、いともたやすく魔法使いを誘惑《ゆうわく》し、その代償と《だいしょう》して、いともたやすく現実を侵《しん》食《しょく》するからだ。
〈協会〉という互助《ごじょ》組合ができたのは、その理由が大きい。つまり、互《たが》いに禁忌を犯《おか》きぬよう、見張るための組織。制裁のための、禁忌を犯した魔法使いを消去するための、断罪機関。
だからこそ、誰《だれ》もが恐《おそ》れる。
影崎――魔法使いを罰《ばっ》する魔法使いを。
「そんなん、分かってる」
意地悪い笑みに抗《あらが》って、穂波がきっと|蒼水色の瞳《アイスプルーアイ》を光らせる。
「やから、何やって言うの」
「いえいえ、単なる確認《かくにん》です。〈ゲーティア〉がもし本当に禁忌を破っていたとしたら、〈協会〉からも相応のペナルティを加える必要がありますから」
儀礼的な響《ひび》きの言葉。
と、睨《にら》み合いかけたふたりを、甲高《かんだか》い声が止めた
「――ほ、穂波お姉ちゃんっ?」
「何、みかん?」
「あの、だったら、お兄ちゃん社長、大丈夫《だいじょうぶ》なのっ? だってお兄ちゃん社長も呪波汚染に『感染』しちゃったら――」
「あ……」
穂波が絶句した。
普通の呪波汚染ならば、害があっても数日でおさまる。
あるいは、これが本当に禁忌《きんき》の起こした呪波汚染であっても、魔法使《まほうつか》いであれば最悪の事態は免《まぬか》れるだろう。
だけど、いつきは――。
(あたしは、またいっちゃんに――)
「――――っ?」
唇を噛《か》んだ穂波が、ふとセーラー服の襟《えり》に手をやった。
「穂波さん?」
「今、社長の社章が――」
一瞬《いつしゅん》、呆《ほう》けたように自分の社章を触《さわ》り、はっと硬直《こうちょく》した。
「猫屋敷さん、間に合うかもしれへん」
「何が、です?」
「社長のこと!」
言いながら、穂波は氷海の方向へ駆《か》け出した。慌《あわ》てて猫屋敷とみかんがそれを追う。
「……間に合いますかね?」
走り出した三人の背中を、虚《うつ》ろな目で影崎は見つめていた。
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第5章 魔法使いのカタチ
1
時間が過ぎていく。
エリゴールを喚起《かんき》した後、アディリシアは動かずに待機しているよう話していた。
「…どういうこと? 探し物するんじゃなかったっけ」
「どうもしませんわ。〈夜〉の中で魔術を使った以上、遅《おそ》かれ早かれ向こうから出てきてくあるはずですし」
疑問を掲《かか》げたいつきに、隣《となり》のアディリシアは、手の平へちびエリゴールを座らせながら答さた。
「向こうから?」
「ええ。ここは、あれ[#「あれ」に傍点]の身体《からだ》の中のようなものですもの。魔術の気配には嫌《いや》でも気がつくはずです」
「あれって何さ」
「聞かない方がよろしいですわ」
「秘密にするって言ったつもりなんだけど」
いつきが唇《くちびる》を尖《とが》らせる。
すると、困ったように息をついてから、
「――私たちは、禁忌を犯《おか》した同朋《どうほう》を捕《と》らえに来たんです」
と、金髪《きんぱつ》の少女は口にした。
「禁忌?」
「やはりご存じないのですね。魔法使いの世界には、いくつか絶対的な禁忌が存在します。――そのひとつが、魔法になってしまうこと」
「それ……猫屋敷《ねこやしき》さんから聞いたことある。どういうことなの?」
「たいして難しいことじゃありませんわ。肉体という殻《から》を捨てて、自らの練る魔術と同化する――世界と一体化するということです。ある種の宗教にとっては、悟《さと》りの極地でもあるでしょうね」
たちまち、いつきの眉《まゆ》が難解に寄った。
「い、いや? 半分も分からないんですけど」
「それはイツキが馬鹿《ばか》だからです」
さくっと断言された。
しかも、いつの間にやら呼び捨てだった。親愛の情というより、あからさまに下僕か何かに対する言葉遣《ことばづか》いである。
「えーっと……じゃあ、この〈夜〉は禁忌を犯した魔法使いの仕業《しわざ》ってこと?」
「仕業ということもありませんわ。魔法になってしまった魔法使いは、存在するだけで呪波汚染《じゅはおせん》を撒《ま》き散らします。それが〈夜〉に酷似《こくじ》した現象になるだけですわ。おかげで〈協会〉の『仕事』にされてしまったときは慌《あわ》てましたけど」
なるほど。
それで、やっと納得《なっとく》がいった。アディリシアの妨害《ぼうがい》は、単に『仕事』のためだけではなかったのだ。
納得がいくと同時に、いつきはにわかに表情を曇《くも》らせた。
「じゃあ……アディリシアさんは辛《つら》いね」
「え?」
「だって、仲間だったんだろ。それ追いかけて、捕《つか》まえなきゃならないって辛いじゃない」
「そんなこと。――仮にも私は〈ゲーティア〉の首領です。禁忌《きんき》を犯したものの責任を取るのは当たり前ですわ」
誇《ほこ》り高く、ドレスの胸を張った。
いつきは、それを聞いて思う。
(首領だから、か)
考えてみれば、自分も社長なのだった。たとえ押しっけにしろ何にしろ、穂波《ほなみ》たちの上に自分は立っている。この『仕事』だって、一応――本当に一応だけど――彼女たちは自分に選択《せんたく》させてくれたのだ。
だったら、自分はそれに報《むく》いるようなことができただろうか。
ずっと逃《に》げ回って、貰われるままに従ってきたけれど、社長らしい何かをしようとしただろうか。
(――してる、とは言えないよなあ)
「どうしましたの?」
黙《だま》りこんだ少年を案じたのか、アディリシアが覗《のぞ》き込む。
だから、何の気なしにいつきは思った通りのことを口にした。
「いや、そういうのは格好いいなって」
「…………」
「何?」
「い、いえ、何も。い、いきなり言われたから驚《おどろ》いただけです。……ええ、この身は何千年という歳月で培わ《つちか》れた魔法の結晶《けつしょう》ですもの。力に伴う《ともな》責任を果たすのは当然です。それに、イツキだって、霊《エーテル》体が視《み》えるんですから、まったく普通《ふつう》の人間というわけじゃないでしょう……?」
拗《す》ねたように鼻を鳴らしてから、ふと何かに気がついたみたいに、ぐっとアディリシアが顔を寄せた。
「えっ」
どくんといつきの心臓が跳《は》ねた。
黒い革《かわ》の眼帯を、少女がすっと撫《な》でたのである。
「そういえば、この眼帯は何ですの? 怪我《けが》でもしてらっしゃいますの?」
「えっ、う、うん、たいしたことないんだけどね」
「ですけど、学校でもずっとつけてらっしゃるでしょ。人目に見せられないような痕《あと》が残っているとか?」
下から見上げて、遠慮《えんりょ》なくアディリシアが訊《き》く。
漆黒《しっこく》のドレスからのぞく――微妙《びみょう》な胸元に上気しながら、いつきは必死で首を横に振《ふ》った。
「や、その、昔、〈幽霊屋敷《ゆうれいやしき》〉で化け物に追っかけられちゃって。太陽とか見るのは駄目《だめ》って言われてるから。――おかげで、今は化け物とか呪力の流れぐらいしか視えないけどね」
眼帯を外すのは、寝《ね》るときぐらいのものである。
日常はほとんどシャワーだし、顔を洗うぐらいはつけたままでも気にならない。まあ最初の頃《ころ》は遠近感がつかみにくくて苦労した覚えがあるけれども、それも十歳ぐらいには慣れてしまっていた。問題の化け物を見ることだって……まあ一年に二、三回ぐらいだったし。
「……十分多いかな」
見るたびに倒《たお》れたり気絶したりひどい目に遭《あ》ってたし……
なんか、ここにいるのも、当然の結果のような気がしてきた。
「……イツキ」
考えていた頻《ほお》を、いきなりアディリシアの両手が挟《はさ》み込んだ。
「ぶあっ! ふぁ、ふぁ、にゃ、にゃに?」
「イヅキ、あなた、その眼帯をつけていても……霊《エーテル》体が視えるんですか? しかも、呪力の流れ自体が視えるですって?」
ひどく冷ややかな声だった。
公園で会ったときと――つい数時間前、海上で対噂《たいじ》したときと同じ――非情な魔法使《まほうつか》いの声だ。
「……ふぇ? ふ、うん。でも別におかしいことじゃないだろ。霊体を視る目と普通のもの見る目って違《ちが》うだろうし」
「そういう問題じゃありません!」
魔女が一喝《いっかつ》した。びくっと震《ふる》えたいつきへと厳しい瞳を突《ひとみつ》きつける。その碧《みどり》の瞳は、疑惑《ぎわく》と怒《いか》りに満ちていた。
「いくら霊的《れいてき》な視力と普通の視力が異なるものであれ、結局は肉体の眼球に依存《いぞん》するものです。目を塞《ふさ》がれていても祝えるなんていうことはありえません。仮にあなたが透視能力《クレアポヤンス》を使えるとしても、透視《とうし》と霊視を同時にこなすなんて、よほど熟達した魔法使いでない限り不可能ですわ。そんなもの、望遠鏡|越《ご》しに顕微鏡《けんびきょう》をのぞくようなものですもの」
「で、でも、現に視えているわけだし…」
「だから、おかしいと言っているのです。イツキ、あなたは気がついてないようですけれど、そのような目は人間の目とはいえません。意識もせずに普段《ふだん》からそのような視力を発揮できる瞳があるとすれば……」
烈火《れっか》のごとき物言いが、途切《とぎ》れた。
ますます顔を近づけていつきを怒鳴《どな》りつけようとしたアディリシアが――急に手を離《はな》して立ち上がったのである。
「…………?」
「どうしたの?」
「エリゴールが」
言葉につられて、アディリシアの肩《かた》を見ると、そこに乗っかったちびエリゴールが勇敢《ゆうかん》に旗を掲《かか》げている。
その旗と、兜《かぶと》の面頻《めんぽお》に隠《かく》れた瞳が、窓の向こうへ釘付《くぎづ》けになっていた。
(――窓?)
背筋に悪寒《おかん》を感じながら、いつきも振り返った。
そのときだった。
突然 《とつぜん》――大きく、お化け工場が揺《ゆ》れたのである。
地震《じしん》とも紛《まが》うそれは、はじまりと同じく唐突《とうとつ》に止《や》み、代わりに膨大《ぼうだい》で濃密《のうみつ》な気配へと取って代わった。
「――――っ」
吐《は》き気がするほどの、どうしようもない気配。
ガチガチと歯が鳴った。すぐに震えは身体《からだ》全体に広がり、足から力が抜《ぬ》けて、いつきは膝《ひざ》立ちになりながら、自分の身体をかき抱《いだ》いた。
そして、気配が声をあげた。
見・ツケタ
「え――――?」
「イツキ!」
同時に、アディリシアの叱咤《しった》が響《ひび》いた。
「来ましたわ!」
びきっ
さきほどの震動《しんどう》に耐《た》えかねたか、もとより崩《くず》れかけた天井《てんじょう》の罅《ひび》が大きく広がった。
悪魔《あくま》の爪痕《つめあと》とも見えるその時から、どろどろと落下してきたのである。
……それは、真っ黒でタール状の。
汚泥《おでい》。
腐汁《ふじゅう》。
ヘドロ。
そうとしか言いようのない、凄《すさ》まじい異臭《いしゅう》を放つ、液体だった。
ずるじゅるずる
天井からこぼれた汚泥が、自ら蠢《うごめ》く。蠢いて、集まっていく。
「な、んだ、あれ……」
いつきが茫然《ぼうぜん》と漏《も》らす。
コンクリートにひきずった跡《あと》を残しながら、汚泥が積み重なる。
どろどろと。
ずぶずぶと。
ゆっくりゆっくりと、四肢《しし》を生やし、首をもたげ、カタチを取る。
そのカタチが、伝説で出てくるような竜《ドラゴン》とかの魔物であれば、どれほどよかったか。どれほど救われたか。
だけど、それは。
「人…」
あまりにも、人のカタチであった。
【魔法《まほう》ダ……】
また、右目から声がした。
だけど、そのことにも気づかず、いつきはただ切れ切れの吐息《といき》をこぼす。
「あれが……魔法だって……?」
(じゃあ、これが――魔法になった魔法使い?)
――こんなものが[#「こんなものが」に傍点]?
見る間に、カタチが整っていく。じゅるじゅると粘液《ねんえき》を循環《じゅんかん》させながら、それでも指らしい突起《とっき》が、耳らしい隆起《りゅうき》が、口らしき空洞《くうどう》が穿《うが》たれる。
ぐちり、ぐちりと黄色い粘液をぶちまけながら、それが近寄ってくる。
「・・可愛・イ・アディ」
口が、動いた。
「ワシィ・ノ可愛・イ・アデ寸寸寸・探シタ・ヨ」
ひどく耳障《みみざわ》りな発音。聞くものの耳が爛《ただ》れてしまいそうな。
「魔・神ヲォ・オ返・シィ・・・」
半ば崩れながら、同時に再生しながら、汚泥の手が伸《の》びる。
「…………っ」
あまりのおぞましさに言葉もなく、いつきが尻餅《しりもち》をついて後じさる。
対して、金髪《きんばつ》の少女は、うつむいたまま呟《つぶや》いた。
その単語に、いつきは恐怖《きょうふ》も忘れた。
「……オズワルドお父様」
と、少女は静かに言ったのだ。
「お父様がこれ以上|醜態《しゅうたい》をさらすなら、私が滅《ほろ》ぼします」
*
氷海の側《そば》――開けた林の一角で、穂波はヤドリギの陣《じん》を組んでいた。
特殊《とくしゅ》な文字が刻まれた枝を四方に配置し、その中央で小さな篝火《かがりび》を焚《た》いている。その筆火に照らされた穂波はひどく神妙《しんみょう》な顔でいくつかの石を投げ込んでいた。
「穂波お姉ちゃん、何するの?」
手伝って、ヤドリギを地面に刺《さ》していたみかんが訊《き》いた。
「ちょっと強引《ごういん》やけどね。この炎《ほのお》と――氷海の中をつなぐ」
「つなぐって――どうやって?」
「さっき、社長の社章に、呪力《じゅりょく》の反応があったから」
自分の襟元《えりもと》の社章へ、穂波が触《ふ》れた。
「多分、アディが喚起《かんき》に使ったんやと思うけど、あたしの社章にも類感で通じた。そやったら、凄《すご》く薄《うす》いけど、糸《パス》が通じてると思う」
「なるほど。緑《えん》がある、というわけですね」
感心したように、猫屋敷が手を打った。
もとより、喚起《かんき》魔術というのは、異界から霊《れい》を呼び出すための術だ。遥《はる》か離《はな》れた相手とつながる術といってもいい。そんな術を同じ社章で使った以上、穂波や猫屋敷の持つ社章にも緑が通じるのは、魔法としては当然の論理であった。
「そういえば、ケルト神話には、神々のドルイドがふたつの空間をつないだという逸話《いつわ》がありましたっけ。それに倣《なら》うおつもりで?」
質問にあわせて、「にゃあ?」と黒猫《くろねこ》――玄武《げんぶ》くんも鳴き声をあげる。
「うん。伝承だけは昔ウェールズの語《かた》り部《べ》から聞いたことがある。試《ため》すのははじめてやけど」
少しく不安そうに、穂波が炎を見る。
ヤドリギと炎。
ドルイド・サークル――別名をストーンヘンジとも呼ばれる巨石《きょせき》群と同様の配置である。アディリシアが使う魔法円と同じく、ケルト魔術にとってはこのヤドリギと炎でつくられる祭祀《さいし》場こそが、最も呪力を行使しやすい『場』である。
「…………」
ひとつ、息を吸った。
社章に触れる。
ケルト魔術自体、いまやほとんど忘れ去られた魔術系統である。まして、空間接合などほかに使ったものはおるまい。
「――でも、やる」
はっきりと、穂波は口にした。
2
工場の空気が、すべて濃硫酸《のうりゅうさん》に置き換《か》わったようだった。
喉《のど》がひりつく。目眩《めまい》がひどい。ぐらぐらと世界が歪《ゆが》み、その汚泥《おでい》を中心に異界へと汚染《おせん》されていく。
まるで地獄《じごく》だ。
――禁忌《きんき》を犯《おか》した魔法使《まほうつか》いは、呪波汚染を撒《ま》き散らす。
その意味を、はじめて肌《はだ》でいつきは感じた。
これは間違《まちが》いなく禁忌。
罪の塊《かたまり》。
何があろうと、この世にあってはならないモノ。
だけど。
「お父……さん……?」
その単語に、いつきは戸惑《とまど》う。
「…………」
アディリシアは答えない。
ただ、蠢《うごめ》く汚泥――オズワルドに正対し、堂々と言葉をつむぐ。
「お父様、言葉を喋《しゃべ》れるなら、もう一度だけ言いましよう。これ以上醜態をさらすのなら、私が滅ぼしてさしあげます」
あくまで前を見たまま、宣言する。人のカタチを持った汚泥に言い放つ。
「醜《しゅう》・態《た》イ」
汚泥が、口をきいた。
ぶるりと、身を震《ふる》わせた。
途端《とたん》
汚泥の一部が、いきなり別のカタチを取ったのだ。
ばさばさと音をたてて飛んだそれは――つい数時間前に見た黒鳩の群れ!
「――シャックス?!」
コンクリートをついばみ、壊《こわ》れた機械を穿《うが》ち、アディリシアのいた場所を黒鳩が埋《う》め尽《つ》くした。
少女が転がったのは、間一髪《かんいっぱつ》でしかなかった。
再び立ち上がったときには、黒鳩は汚泥へと戻《もど》っており、アディリシアの立っていた床《ゆか》は原形をとどめていなかった。まるでクレーターみたいに、巨大《きょだい》な球形の穴だけを残していた。
しかも、それだけにとどまらなかった。
同時に、もうひとつ、カタチを成した汚泥がいつきへと飛びかかったのだ。
「マルバス?!」
黄金の――今は汚泥にまみれた魔神の獅子《しし》。
その脚力《きゃくりょく》は、まさしく獣《けもの》。
秒断とかからず間合いを詰《つ》め、いつきを喰らうべく顎《あご》を開いた。
「――――!」
あ。
死んだ。
確実に死んだと自覚するタイミング。身動きひとつもとれぬまま、生臭《なまぐさ》い息が顔を包む。白い牙《きば》が首元へ触《ふ》れる。
「GISYAAAAAAAAAAAAAA!」
だというのに、あがったのは、獣の悲鳴だった。
マルバスの目玉が弾《はじ》けていた。
びしゃ、と霊《エーテル》体の黒い血が、いつきの頭へかかる。そのまま、茫然《ぼうぜん》としたままのいつきの首元が、誰《だれ》かに引っ張られた。
「イツキ! しっかりなさい!」
アディリシアに引きずられたいつきの視界の中で、マルバスが泥《どろ》に戻った。その目玉を貫《つらぬ》いたちびエリゴールが、大きく跳躍《ちょうやく》して、アディリシアの肩口《かたぐち》へ着地する。
「あ……はあっ……はっ……」
いつきは、激しく息を切らせた。
身体中の酸素が、一気に消費された気がした。吸っても吸っても、ちっとも楽にならなかった。
「アディリシア……さん……」
やっとのことで、囁《ささや》く。
「……まさか……この泥のひとかたまりずつが……魔神……?」
「正確には、そのなれの果てですわ」
アディリシアが感情のない声で答える。
「オズワルドお父様は……結局魔法になり損《そこ》ねました。ひそかに弟子《でし》を集め、七十二の魔神と同化しようとして、同化しきれず、欲望や本能だけを転写してしまったのがあの汚泥《おでい》。七十二の魔神の内――六十五までと混じり合った、もう何物でもありえない、霊《エーテル》の肉塊《にくかい》」
「…………」
いつきの右目が見た、あの工房《こうぼう》の光景。
床を汚《よご》す血の海。散らばった肉体の破片《はへん》。魔法円に転がった、生首。
あのとき、アディリシアの父親は死んだのか。
死んだのに、罪だけがカタチを成したのか。
それは、いくら禁忌を犯《おか》したとしても、なんて――
――なんて、苦い。
「……あ」
間抜《まぬ》けなことに、いつきはそこではじめて気がついた。
「アディリシアさん、そんなのどうしようも……」
同じ七十二の魔神を使うものならば、勝敗を分けるのは魔神の数と質だ。だけど、アディリシアは、ここにたどりつくまでに、最高の魔神たちを喰われてしまっている。いくらなんでも、ちびエリゴールだけで対処できるはずが……
「ありますわ」
だけど、淡《あわ》く淡く、アディリシアは微笑《びしょう》した。
「だって、私はお父様を滅《ほろ》ぼしに来たんですから」
「ア・デイ・・」
汚泥《オズワルド》が、またぶるりと震《ふる》える。
次に出てくるのは、グラーシャ・ポラスか、ポーティスか、それともいつきのまだ知らぬ七十二の魔神か。
弾丸《だんがん》のような速度で、三柱の黒い影《かげ》がひた走った。
しかし、それよりも早く。
アディリシアが、ソロモンの五芒星《ごぼうせい》を掲《かか》げた。
「――退去せよ[#「退去せよ」に傍点]!」
*
「――来ました!」
中腹で待機していた〈ゲーティア〉の黒服が、声をあげた。
「術式、開始!」
同時に、氷海を囲んでいたすべての魔法《まほう》円に呪力が《じゅりょく》通じる。
瞬間《しゅんかん》、巨大《きょだい》な複合魔法円は意味を成した[#「意味を成した」に傍点]。
*
「ほほう、魔法円同士の複合とは」
山の中腹で、影崎が無表情に呟い《つぶや》た。言葉面《ことばづら》こそ感心した風なのに、声の調子にはまるでそんな感情が見受けられなかった。
「これが〈ゲーティア〉の秘儀《ひぎ》ですか」
*
三柱の魔神が、アディリシアへと殺到《さっとう》する。
ひとつは、炎《ほのお》を吐《は》く狼《おおかみ》であり。
ひとつは、巨大なる豹《ひょう》であり。
ひとつは、翼持つ雄牛であった。
三つの魔物は、たちまち無力な少女を覆《おお》い、喰《く》らいつくさんとした。
――一瞬で、終わった。
「退去せよ!」
そのたった一言で、三柱の魔神が、跡形《あとかた》も残さず消滅《しょうめつ》したのだ。今度は、汚泥にさえ戻《もど》れなかった。
アディリシアは、ただソロモンの五芒星を掲げている。
「アディリシアさん……」
「喚起《かんき》できるものなら、退去もできる。ごく当たり前の理屈《りくつ》ですわね」
驚愕《きょうがく》するいつきに、少女はもう一度|微笑《ほほえ》んで見せた。
「もちろん、相手以上の呪力は必要なわけですけれど。私自身に加えて、〈ゲーティア〉の魔法使い二十人分もあれば――さすがにお父様にも劣《おと》りません」
外部で布陣《ふじん》された魔法円の、それが正体だった。
退去の魔法円を幾重《いくえ》にも重ね、この瞬間のためだけに待機していたのである。
「・・・ア・ディ・・!」
汚泥《オズワルド》が、狂《くる》おしく悶《もだ》える。
「本当は、〈アストラル〉を排除《はいじょ》した後で、こうするつもりでした。〈ゲーティア〉にとっても秘儀のひとつですから。――ですが、この期《ご》に及《およ》んでは仕方ないでしょう」
アディリシアの面差《おもざ》しは、勝ち誇《ほこ》るというよりも、悲しそうだった。
「退去せよ!」
ソロモンの五芒星を握《にぎ》り締《し》め、叫《さけ》ぶ。
ごっ、と呪力が汚泥に叩《たた》きつけられた。
「――迫去せよ! 退去せよ! 退去せよ!」
それは、喚起の逆を成す手順だった。
喚起に対して――退去。
汚泥《オズワルド》のカタチを構成する魔神たちを、一体一体逆順に異界へと送還《そうかん》していく。汚泥が剥《は》がれ、のたうち、削《けず》られていく。
みるみる内に、汚泥が縮んでいった。
炎で灸《あぶ》られるようだった。
最初、いつきよりも一回り大きかったそれは、たちまち子供ほどとなり、すぐに子犬か猫《ねこ》ほどへ圧縮され――その数秒後には消えうせた。
あっけない最期だった。
「は――――」
はは、と乾《かわ》いた笑いをいつきは漏《も》らした。
心配したのが馬鹿《ばか》みたいだ。
最初から、アディリシアは奥の手を持っていたのだ。〈ゲーティア〉という魔術結社にふさわしい、とっておきの手を。
「あら、どうかしましたか? イツキ」
振《ふ》り返って、いたずらっぽくアディリシアが笑う。
「あ、アディリシアさん――」
「私、言いましたわよ。今回の入札は見送りなさいと。だって、私たちだけで十分対処できるのですもの。〈アストラル〉が邪魔《じゃま》しなければ、もっとずっと簡単でしたわ」
ドレスの裾《すそ》をつまんで、金髪《きんぱつ》の少女が一礼する。
「でも、少しだけ感謝してあげます。あんな父でも、あなただけは悼《いた》んでくれたようですから」
「…………」
なんともいえず、いつきは頬《ほお》を掻《か》いた。
――そのときだった。
虚空《こくう》から声が響《ひび》いたのだ。
「――|我、訴え、喚起せん《I do livocate and conjure thee》」
「え?」
振り返った。
その眼前へ、声が続いた。
「――|我、訴え、喚起せん《I do livocate and conjure thee》」
「……I do strongly command thee,by Beralanensis,Beralanensis,Paumachia,and Apologle Sedes:by the most Powerful Princes,Genii,Lichide,and Ministers of the Tartarean Abode;and by the Chief Prince of Seat of Apologia in the Ninth Legion――」
突然《とつぜん》、コンクリートへわだかまっていた汚泥の残りがカタチを取って――
「アディリシア、後ろ!」
「なっ……!」
少女が背後を振り向く。
だが、到底《とうてい》間に合わない。
今度こそ、退去の言葉を告げる間もなく、鷲《わし》の翼を持った狼《おおかみ》――汚泥にまみれたグラーシャ・ポラスが少女を背中から押し倒《たお》した。
「可愛・イ・アディ・惜《お》シカッ・夕」
しゃがれた声を漏らし、消え去ったはずの汚泥が再び盛り上がった。
人の!半ば崩《くず》れた老人のカタチを取って。
「喚起《かんき》・ガ・デキレバ・退去・モ・デキル。ソレ・ナラ逆・モ同ジ。ワズカ・デモ・残ッティレパ・再ビ喚起・デキル」
「………」
アディリシアの顔に、苦痛と驚愕《きょうがく》が浮《う》かんだ。
――勘違《かんちが》いしていたのだ。
いつきもアディリシアも、この汚泥に知性などないと思っていた。人間としての知恵《ちえ》や知識などかなぐりすてた、凶獣《きょうじゅう》のようなものだと思っていた。
違ったのだ。
魔法使《まほうつか》いとしての秘儀《ひぎ》を、魔法を、すべてそれ[#「それ」に傍点]は覚えていた。
そして、少女が除《すき》を見せる瞬間を《しゅんかん》待っていたのだ。
なんという、狡猾《こうかつ》さ。
「お父……様……」
「サア・オ前ノ魔神・ヲ・喰《く》ラワセテ・オクレ」
ゆっくりと、汚泥《おでい》が――汚泥でできた老人《オズワルド》が、アディリシアヘと近づく。
いつきなど眼中にもなかった。
ただ視《み》えるだけの――魔法使いでもない少年になど、この場でできることは何もない。
実際に、そうなのだ。
魔法は、理不尽《りふじん》をかなえる神秘なんかじゃない。異界に属しているだけの、結局は弱肉強食でしかない、ヒエラルキーに則《のっと》ったシステム。
老人の指から、ぽとぽとと腐汁《ふじゅう》が垂れる。
狼に押し倒されたアディリシアの唇《くちびる》へ、その腐汁が――
――垂れる直前、ぐい、と引っ張られた。
「オ・前・・・?」
汚泥が《オズワルド》、はじめて声に疑問を生じさせた。
いつきの手が、老人の手首を掴《つか》んでいたのだ。
「……ま……ま、ま……待……て……」
言葉にならない。
歯の根がまるで噛《か》みあわない。
掴まえた手首から伝わる、異様な触感《しょっかん》だけで吐《は》いてしまいそうだった。
それでも、この手を離《はな》せなかった。
「何・ダ・オ前」
ぐにゃりと、ありえない角度に老人が首を曲げる。目玉らしいでっぱりが、こちらを緩慢《かんまん》に見つめた。
「――――!」
見つめられた個所から、筋肉がひきつる。金縛《かなしば》りに遭《あ》う。
まるで邪眼《じゃがん》。
固まった手が外れ、老人の指がぐちゃりといつきの顔へ伸《の》びた。
「ソノ・眼」
汚泥の喉《のど》が、轟《うごめ》く。
「ソノ・眼・ハ・面白《おもしろ》イ」
腐汁が垂れ、眼帯が、じゅうと白い煙を《けむり》あげた。
「ひ……っ」
動けない。
眼帯越《ご》しに、崩れる指の感触が《かんしょく》眼球の表面を撫《な》でる。ぷよぷよというおぞましい触感が、眼球から伝わった。
そして、
じゅっ――
と、いきなり、社章に触《ふ》れた汚泥の指が溶《と》け崩れた。
「――――!」
襟《えり》につけた社章が、焼けるように熱を持っていたのだ。
「ナ・二」
老人が飛び離れる。
その身体《からだ》が、また揺《ゆ》らいだ。
曲がった背中へ、連続して小さな矢が突《つ》き刺《さ》さったのだ。
ヤドリギの矢。
そして、アディリシアが刻んだ魔法円に、新たな人影《ひとかげ》が現れていた。
「ほ、穂波っ」
「社長――おまたせ」
笑ったのは、栗色《くりいろ》の髪《かみ》の少女であった。
炎《ほのお》と魔法円で空間をつなげた代償《だいしょう》に、マントととんがり帽子《ぼうし》の一部が焦《こ》げているのはご愛《あい》嬌《きょう》か。
いつのまにか、アディリシアを押し倒《たお》していた狼《おおかみ》――グラーシャ・ポラスも泥《どろ》となって消え、ふたりは寄り添《そ》って立ち上がった。
「……嫌《いや》なところを見られたわね」
アディリシアが小さく呟《つぶや》く。こちらも押し倒された際にいくらかドレスが裂《さ》けていたが、幸いひどい外傷はないようだった。
「だいたいのとこは分かってるわ。さっきの複合魔法円で打ち止めやろ。なんやったら休んどく?」
「――ふん、まだまだですわ」
きっとアディリシアが奥歯を噛む。
ふたりして、汚泥でできた老人を睨《にら》みつけた。
「…………」
が、
「マタ・〈夜)二会・ウ」
汚泥が――突然溶《とつぜんと》けた。
顔から肩《かた》から足から腕《うで》から、順序も無くどっと粘液《ねんえき》と化して床《ゆか》に広がる。
そのまま床に沿って流れ、ずるじゅる[#「ずるじゅる」に傍点]と、コンクリートの罅《ひび》へ消えていった。
「消え……た?」
信じられなくて、いつきは目をこすった。
どうやっても一戦は避《さ》けられまいと覚悟《かくご》していたのに。
「社長……大丈夫《だいじょうぶ》?」
穂波が、駆《か》け寄ってくる。
「……あ……うん」
返事をして、いつきはぽてんと腰《こし》を落とした。
「社長っ?」
「あ……いや……腰が抜《ぬ》けた」
ははは、と疲《つか》れた笑《え》みを漏《も》らす。いや、実際、この一晩で数ヶ月分ぐらい疲れた気がする。
特に最後の一分ぐらいは数年分重みがあったような。
「……もう。少しはマシになったか思たのに」
穂波がぽつりと呟く。
こんなの慣れるわけないよ、と言いかけて、唇《くちびる》がまともに動かないのに気がついた。
あ、こりゃ駄目《だめ》だ。
「穂波――倒れそうなんで、先言っておく」
「え、え、何?」
珍《めずら》しくも心配そうに訊《き》いた穂波へ、大事なことだけを告げておく。
「うん。さっきの泥の爺《じい》さんのことだけどさ――秘密だから」
「秘密?」
「そう……アディリシアさんとそう約束したから。猫屋敷さんとみかんちゃんにも……よろしく言っておいて」
「イツキ……」
アディリシアが胸元《むなもと》を押さえる。
「……じゃあ、後まかせた。ちょっと……疲れた」
「ちょ、ちょい、社長」
ぐら、と穂波へ寄りかかる。不謹慎《ふきんしん》だけど、ちょっとだけ心地いい。
最後に、サッシの錆《さ》びた窓から、外の光景が見えた。
――ああ、そうか。
化け物が消えた理由が、やっと分かった。
壊《こわ》れた窓から、うっすらと朝日が差していたのである。
氷海も何もかも消えうせ、当たり前の山の景色だけが――ただのお化け工場だけが、敷地《しきち》にはぽつんと残されていた。
「お兄ちゃん社長っ!」
みかんの飛び込んでくる声が、聞こえた気がした……
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第6章 魔法使いの終わり
1
「よくもまあ、それで無事だったもんですねえ」
呆《あき》れたように猫屋敷《ねこやしき》が口にした。
言いながら、上半身|裸《はだか》のいつきの腕《うで》をぐい、と持ち上げる。
「あいたたたた……動かさないで……あたたたたた!」
折り曲げられた腕が悲鳴をあげる。〈夜)の海に落ちたときの打ち身が、いまさらになって響《ひび》いているのだ。くわえて、さっきからいつきの腕をあげたり足を動かしたりして、大量の経《きょう》文《もん》を書き込んでいるのである。痛いやらこそばゆいやらで、顔の七|変化《へんげ》も忙《いそが》しい。
つまるところ、今のいつきは耳無し芳一《ほういち》状態なのであった。
「――我慢《がまん》してください。あれだけ濃《こ》い呪波汚染《じゅはおせん》にあったんですから、最低限の予防と検査は必要です」
「て……経文書き込むのは普通《ふつう》お坊《ぼう》さんじゃないんですか?」
「まあ、門前の小僧《こぞう》みたいなもので。陰陽道《おんみょうどう》は呪詛《じゅそ》の面が強いんで、どうしてもこういう汚染の処置には向かないんですよ。みかんさんもこういう細かいのは不得意ですし。昔は隻蓮《せきれん》さんがいたから楽できたんですけどねえ」
「にゃーお」
猫屋敷の膝《ひざ》の黒猫《くろねこ》――玄武《げんぶ》くんが同意するようなあくびをした。
〈アストラル〉の事務所、その仮眠《かみん》室である。部屋の端《はし》に置かれた白いベッドの上へ、いつきは座り込んでいた。
時刻は午後の三時過ぎ。
昏睡《こんすい》していたいつきが目覚めてからでも、すでに二時間が経《た》っていた。いつきを事務所に運び込んだ後、穂波《ほなみ》たちは疲労困憊《ひろうこんぱい》した〈ゲーティア)の魔法使《まほうつか》いたちを回収していたらしい。
「もともと、喚起《かんき》魔術は、ほかの魔法に比べても疲労が激しい魔法ですからね。特に失敗した魔法は、ブーメラン効果で数倍の体力を奪《うば》います。まあ死人がでなかっただけマシというところでしょう」
とは猫屋敷のうんちく。
アディリシア以外の魔法使いは、あの複合魔法円を破られたことで精根尽《せいこんつ》き果てていたそうだ。その前に、シャックスを穂波にやられたことで倒《たお》れた人間もいるようだが、これは自業《じごう》自得だと思う。
経文を書き込み終わり、しばらく見つめた後で、
「……ふむ。とりあえず、呪波汚染の症状《しょうじょう》は出ていませんね。思ったより社長の霊的抵抗《れいてきていこう》力は高いようで」
と、猫屋敷が太鼓判《たいこばん》を押した。
「はあ、一安心ですか」
「とりあえず、ですけどね。禁忌《きんき》まわりの呪波汚染は、後になってから発症《はっしょう》することもあるそうですし」
「て、て言うと……?」
んー、と神妙《しんみょう》な顔になって、猫屋敷が玄武くんの頭を撫《な》でた。
「……訊《き》いて、いいんですか?」
「え、ええっ?」
ため息をついて、青年が羽織の肩《かた》をすくめる。
そして、急に低い声になって、
「たとえば……数ヶ月後に目と目がこーんな離《はな》れたり、指と指の間に水かきができたり、海に帰りたくなってしまったり……」
「そ、それってほとんど化け物に……」
「ほかにも……生ける死体になって永久に洋館をうろつくはめになったり……朝起きたら虫になってたり……」
「――ッ」
いつきの頬《ほお》がひきつる。
経文だらけの顔を真っ青というか、真っ白にしたところで、
「まあ、全部|冗談《じょうだん》ですけど」
「ね、ね、ね、猫屋敷さんっ?」
「いやあ、ついつい悪ノリしてしまいまして。あっはっは。まあ、呪波汚染が残留していればどういう症状を起こすか分からないのは本当なんですが、社長の場合それも見当たらないんで、大丈夫《だいじょうぶ》だと思いますよ」
「――それならそうと、最初から言ってください」
泣きそうな声で言い募《つの》る。
そこで、玄関《げんかん》の扉が《とびら》開く音がした。
「ただいま!」
巫女《みこ》服の袂《たもと》を真横に広げて、飛行機よろしくみかんが駆《カ》け込んできたのである。
で、真っ先に仮眠室へ押し入り、いつきの顔を見て、おっきな日をますます大きくして笑い転げた。
「あーっ、お兄ちゃん社長、変な顔〜」
「わ、笑わないでよっ」
「どうしたん?」
続いて部屋へ入ってきた穂波が、いつきの上半身にかあっと顔を赤らめ――ついで、ぶっと口元を押さえたのである。
「ほ、穂波まで」
「そ、そやけど、その漢字だらけの顔……あはははははっ」
おなかを抱《かか》えて、|蒼水色の瞳《アイスブルー・アイ》に涙を滲《にじ》ませる。
あんまり楽しそうな様子に文句も言えずにいると、さらに奥から三人目の客が入ってきた。
「あら、なかなか可愛《かわい》らしいファッションだと思いますけれど?」
こちらも、かすかに頬を染めたアディリシアが、くすくすと笑う。
「はあ……」
なんだか、もうヤケという感じだった。そそくさとシャツだけを着る。顔はもう洗顔クリームで落としてよいとのことである。
ベッドから出たところで、アディリシアが訊いた。
「あの、呪波汚染の方はよろしかったんですの?」
「うん、大丈夫だって。アディリシアさんはどうなの?」
「前も言いましたわよ。私は生まれながらの魔法使いですもの。ほかの呪力の影響を寄せつけるほど修行を怠《おこた》ってはおりません」
「……そりゃ僕は素人《しろうと》だからね」
拗《す》ねて唇《くちびる》を尖《とが》らせる。
父親が魔法使いっていうのはひょっとしたら同じかもしれないけど、少なくとも経験は百倍がた違《ちが》うだろう。
洗面所でバシャバシャとやったところで、玄関からノックされる音がした。
「お客さんかな?」
タオルで顔を拭《ふ》き、出迎《でむか》える。
すでに、穂波が扉を開けていた。
そして、空気がこわばっていた。
「きて、おふた方の首領が揃《そろ》っているようですが、こちらで経過の確認《かくにん》をさせていただいてよろしいですか?」
〈協会)の人間――影崎が、漂白《ひょうはく》されたような笑顔《えがお》を浮《う》かべた。
十数分後。
応接室とは名ばかりの、間仕切りで隔《へだ》てただけの机に、皆《みな》が集《つど》っていた。
〈協会)の影崎、〈ゲーティア〉のアディリシア、〈アストラル)の猫屋敷、穂波、みかん――そして、いつき。
その机の中央で、影崎が分厚い書類を揃《そろ》え、話を続けている。
「以上の理由から、先日の〈夜〉を――第二級から第三級相当の呪波汚染《じゅはおせん》と〈協会)は認定しております。入札されたどちらの集団も、核《かく》を潰《つぶ》しておられないようですので、もうしばらくは近隣《きんりん》で〈夜〉が起こるでしょう。その間は、『仕事』の契約《けいやく》も続行ということになります」
自分の言葉の内容に、幾程《いくほど》の感想も抱《いだ》いていない声音《こわね》であった。
顔をしかめて、いつきは坤《うめ》いた。
「また……あんな〈夜〉が起こるってこと?」
「ええ、あれが本当に、普通《ふつう》の〈夜〉でしたら」
うかがうように、影崎がアディリシアを見やる。
びくり、といつきの肩《かた》が震《ふる》えた。
だけど、アディリシアの表情は、層《まゆ》一筋たりとも揺《ゆ》らがない。
「何か、私に?」
と、ほころぶような笑みとともに訊《き》いた。額にいれて飾《かざ》りたくなる、芸術品の微笑《びしょう》だ。綺麗《きれい》なのに、見ているだけで胃が痛くなる。
「いえ、〈ゲーティア〉には、少し確認したいこともあるのですが?」
「どうぞ? ここで話して構いませんわよ」
しなやかな指を組んで、アディリシアが促《うなが》す。
「でしたら遠慮《えんりょ》なく」
と、影崎は続けた。
「〈ゲーティア〉の魔法使《まほうつか》いのひとりが、ひそかに禁忌《きんき》を犯《おか》したという噂が《うわさ》流れているのですが」
(うわ)
いつきが内心で唸《うな》る。
アディリシアの微笑は崩《くず》れない。
「まさか。禁忌は絶対ですわ。そんな風聞に耳を貸されるとは〈協会〉らしくもありませんわね」
「心強いお言葉です。では、こちらの資料を」
会釈《えしゃく》した影崎が新しい書類を用意する。数枚の紙と写真、中には衛星写真も混じっていた。
いつきが、眉をひそめる。
「この写真は……?」
「オーラを映し出すキルリアン写真の応用でして。〈協会〉では、霊脈《レイライン》を特定するためにも使われています」
キルリアン写真――生体エネルギーを感知するための写真術を、いくつかの魔術集団では呪力を撮影《さつえい》するための技《わざ》として昇華《しようか》させていた。だが、だからといって衛星写真まで導入するのは、ほかの魔術結社とは規模・思想ともに一線を画する〈協会〉だけであろう。
「ご存じの通り、〈夜〉は霊脈を流れる呪力の嵐《あらし》です。霊脈の流れを調査すれば、いつどこで〈夜〉が呪波汚染を撒《ま》き散らすかは予想がつきます。だからこそ、あらかじめ入札を募《つの》ったりできるわけです」
影崎が説明を続ける。
「今回の〈夜〉の発端《ほったん》となった呪力は、海底山脈を渡《わた》り、遥《はる》か欧州《おうしゅう》の霊脈から渡ってきていますね。源をたどると――四ヶ月前、イギリスはウェールズのあたりにまで遡《さかのぼ》ります。〈ゲーティア〉の工房《こうぼう》が確かこの霊脈上に建てられていたはずですが」
「えっ……」
狼狽《ろうばい》するいつきに対し、アディリシアは優雅《ゆうが》に手の平を振《ふ》った。
「工房を霊脈の上に建てるのは当たり前のことですわ。何の証拠《しょうこ》にもなりません」
「ははあ、確かに」
納得《なっとく》した風に影崎がうなずいた。
(……はあ)
いつきがほっと胸をなでおろす。
だが、それは早すぎた。
取って返して、影崎はこう切りつけたのである。
「では――同じ四ヶ月前、ウェールズに最初の〈夜〉が発生した日、〈ゲーティア〉の先代首領とその腹心たる|5=6《アデブタ・スマイナー》に達していた魔法使いたちがことごとく工房で変死したことについては?」
「!」
アディリシアが黙《だま》り込んだ。
黙秘権《もくひけん》というのではない。なぜ、それを知っているのかという類《たぐい》の沈黙《ちんもく》だった。
「ああ、なかなか見事に隠蔽《いんぺい》工作してらっしゃいましたね。――いえ、責めてるわけじゃありませんよ。魔術|儀式《ぎしき》中に魔法使いが変死なんて記事が新聞で出回っても困りますから。ですが、〈協会〉への報告まで、心臓|麻痒《まひ》とか脳梗塞《のうこうそく》とかで通されるのは、いささか意図不明ですね」
「それは……」
「なにか、言い訳が?」
言葉面《ことばづら》と違《ちが》い、影崎の口調に責める色はない。
ただ、事実をつきつけている――本当にそれだけの弁舌《べんぜつ》だった。
「――で、あなたが〈ゲーティア〉の首領となったのは、この事件のためでしたよね。穂波さんと机を並べていた学院を退《や》あたのも」
ひどくゆっくりとした、独特のリズムの言葉。
どこか催眠《さいみん》術にも似た響《ひび》き。
(……アディリシアさん?)
いつきが横目で少女を見やる。〈ゲーティア〉の首領は、うつむいたままだった。
「あ、あの、僕も質問していいですか?」
「なんでしょう」
影崎がうながす。
「も、もし、そんなことがあったとしても、どうして禁忌を犯した魔法使いが、〈夜〉と一緒《いっしょ》に日本まで来てるんですか?」
すると、ああそんなことですか、という風に、影崎は椅子《いす》に背をもたせかけた。
「たとえば……ですよ。誰《だれ》か魔法使いが禁忌を犯していたら? 魔法になりそこねて、霊脈に溶《と》け込んでいたとしたら?」
すうっと、影崎の指が、川の流れを示す。
「禁忌を犯すといってもいくつかの種類がありますが、最も分かりやすく困難な方法がそれですね。自らの身を、文字通り魔法と変える。これも例にしかすぎませんが――喚起《かんき》魔術であれば、本来|喚起《かんき》する魔神に自らの身を置き換《か》えてしまうとか」
心臓が、ぞくりと冷たくなった。
汚泥《おでい》となった老人。
何十の魔神の塊《かたまり》となった、元魔法使い。
そんな化け物であれば、霊脈に溶け込み、〈夜〉という呪力の嵐にまざれることだって、できるのではないか。
「…………」
言葉をなくしたいつきを見て、影崎が肩《かた》をすくめる。
「まあ、いまのところ、これも確証はないんですけどね」
「……えっ」
薄《うす》っぺらく影崎は苦笑《くしょう》した。
「ですから、確認《かくにん》しただけです」
「それは……」
いつきの質問へ、ちらりとアディリシアを見やる。
そして、呟《つぶや》いた。
「もしも、禁忌《きんき》を隠《かく》しているのが首領ひとりでしたら、断罪はそのひとりだけで済みますから」
瞬時《しゅんじ》に、いつきの顔色が変わった。
その一言で、影崎が何を言いたいか悟《さと》ったのだ。
「ですが、もしも、〈ゲーティア〉の皆《みな》が知っていて隠していたりしたら、全員を処分することになってしまいますね」
……なんてこと。
つまり、スケープゴートになれと言っているのだ。
お前ひとりが断罪されるなら、ほかの全員は見逃《みのが》そうと。
「…………」
アディリシアは赤い唇《くちびる》を噛《か》んでいた。多分、逆転の一手を探しているのだろう。
でも、駄目《だめ》だ。
これは、もう詰《つ》んでいる。
それに、いつきは知っている。
『――仮にも私は〈ゲーティア〉の首領です。禁忌を犯《おか》したものの責任を取るのは当たり前ですわ』
『……ええ、この身は何千年という歳月で培《つちか》われた魔法《まほう》の結晶《けっしょう》ですもの。力に伴《ともな》う責任を果たすのは当然です』
彼女は、そういう人だ。
自分とは違う。
お飾《かざ》りの社長なんかとはまるで違って、本当に格好いい、人の上に立つという意味を知っている人。
「さて、どうでしょうね」
影崎が|淡々《たんたん》と詰め寄る。とどめを刺《さ》そうとする言葉。
「確認が取れたなら、この一件は〈協会〉から直接人材を派遣《はけん》しましょう。禁忌を犯した魔法使いといえど、我々の戦力なら討ち逃《のが》すことはありえません」
淡々とした、事実。
「…………」
アディリシアが、唇を開く。
「私は……」
「……知らない!」
その言葉は、アディリシアのものではなかった。
影崎が振《ふ》り返る。
「伊庭《いば》社長?」
「……イ、ツキ。何を?」
「そんなこと……僕は知らないって言ってる。僕だって、一緒に〈夜〉の海へ潜《もぐ》ったけど、そんな魔法使いなんかちっとも見なかった。だから、アディリシアは隠し事なんかしてない」
強く、臆病《おくびょう》を振り払《はら》えるぐらい強く、いつきは拳《こぶし》を握《にぎ》った。
視線をそらしたいのを懸命《けんめい》にこらえ、まっすぐに影崎を見据《みす》える。
「――これはこれは」
意外そうに、影崎が息をつぐ。
「なるほど。〈アストラル〉の社長がそう言われるなら、尊重せざるを得ませんね。では、この話はよしましょう。――ですが、〈ゲーティア〉の魔法使いは、ほとんどが衰弱《すいじゃく》していると聞きました。これでは入札には参加できないのでは?」
話の切り口を変える。あくまで〈ゲーティア〉の介入を《かいにゅう》貴小限にしようという腹帯もりらしかった。
「……それは」
「魔法使いなら、ここにいるで」
今度は、いつきの横から凛《りん》とした声が立ち上がった。
「穂波?」
栗色《くりいろ》のショートヘアを払って、穂波が目を細める。
仕方ないなあ、という仕草だった。
「社長、忘れたん? 〈アストラル〉って魔法使いを派遣する会社なんやで。同業者に貸したらあかんなんて決まりはあらへん。形式上は〈ゲーティア〉との共同入札になるけどええかな」
「あ……う、うん!」
「ホナミ……」
あっけにとられた様子で、アディリシアがいつきを、ついで穂波を見つめる。なんだか急に子供に戻《もど》ったような表情だった。
「仕事やからね。いろいろあるけど私情は抜《ぬ》き。どう? 契約《けいやく》するん、アディ?」
軽く、穂波が片目をつむる。
アディリシアはなぜだか赤くなって、ぼそぼそと答えた。
「……け、契約してさしあげても、かまいませんわ」
「じゃあ契約成立や。それでもまだ文句ある? 影崎さん」
立ち上がった穂波が、薄緑《うすぶち》の眼鏡《めがね》を押さえた。
「……いえ、もう何も」
かぶりを振って、影崎は散らばった書類をアタッシュケースへと戻した。
そして、ひどく印象に残らない――希薄《きはく》な笑《え》みで一礼した。
「では、確認《かくにん》を終わります。どうぞ、よい魔法を」
背広姿が事務所を出て行った後、思い切り椅子《いす》にもたれかかったいつきへ、みかんが頭から突撃《とつげき》した。
「ぐえわっ」
「お兄ちゃん社長、すごいすごい! 影崎のおじさん追っ払っちゃった!」
興奮した顔で、みかんが飛び跳《は》ねる。
その後ろで猫屋敷が猫《ねこ》まみれの格好で頬《ほお》を押さえている。
「うーむ、喧嘩《けんか》売っちゃいましたねえ、社長」
「え……ええっ? そんなことっ」
「いや、だって、せっかく影崎さんが追い詰《つ》めていたところへ、見事に横槍《よこやり》入れちゃったじゃないですか。あんなに怒《おこ》っている影崎きん、はじめて見ましたよ」
「お、怒ってたの、あれ」
全然まったく、これっぽっちも表情が読めなかった。
「はい、それはもう」
猫屋敷がにっこりとうなずく。
膝《ひざ》と肩《かた》にまとわりついた白虎くん、玄武くんも「ふにゃあ」とうなずいた。
なんというか、医者に死病宣告された患者《かんじゃ》のような気分になれた。
「――で、とりあえず調子は合わせてあげたけど、どうするん、社長?」
穂波が微妙《びみょう》に冷たい目で、こちらを見やっていた。
「どうするって――あの〈夜〉というか、魔法使いを捕《つか》まえるんだろ」
「でも、〈協会〉のサポートがあらへんと、次に〈夜〉が出る場所の特定は難しいよ。せいぜい候補までしか絞《しば》られへん」
「あ……」
しまった。そんなことはまったく考えてなかった。
穂波もまた、小さくため息をついて、腰《こし》に手をやる。怒っているというよりは、呆《あき》れている風だった。
ただ、いつきは気がつかなかったが、ほんの少し嬉《うれ》しそうでもあった。
「いっちゃ――社長ね……」
「あら。それなら簡単ですわ」
横合いから、アディリシアが口を出した。
「えっ」
視線が集中する。
この期《ご》に及《およ》んで、金髪《きんぱつ》の少女はまったく遠慮《えんりょ》と躊躇《ちゅうちょ》もせず、堂々とドレスの胸へ手をやった。
「私を囮《おとり》にすればよろしいのです」
2
夕暮れになった。
そろばん勘定し《かんじょう》ている猫屋敷とアディリシアをおいて、いつきは散らかり放題のバルコニーへ出た。大量の観葉植物がでたらめに置いてあり、一種密林じみた気分になれる場所だった。
ちなみに、猫屋敷とアディリシアの戦いはなかなか凄《すさ》まじかったことも補足しておく。
「魔法使《まほうつか》いひとりにつき、こういう値段設定になっておりまして」
ぱちぱち、とそろばんを弾《はじ》く猫屋敷に、
「あら、それは御無体《ごむたい》すぎますわ。だいたい魔法使い個人の能力差がほとんど加味されてませんわね。せいぜい、こんなものでしょう」
ぱちん、と珠《たま》を切り捨てるアディリシア(というか、そろばんの読み方を知っているとは思わなかった)。
「そ、それでは三分の一以下に!」
ぱちん!
「まるで変わってないじゃないですの! どんなに譲歩《じょうほ》してもこれです」
ぱちん、ぱちん!
「この人、何も譲歩してませんよっ? だいたい穂波さんのヤドリギの輸入や私の猫の世話にどれだけ費用がかかっていると!」
ぱちん、ぱちん、ぱちん!
「魔法使いでしたら、呪物《じゅぶつ》の節約も腕《うで》のうちですわ! 私自身も戦列に加わっている以上、そんな出費までは認められません!」
ぱちん、ぱちん、ぱちん、ぱちんっ!
互《たが》いの指が、残像をつくるほどの高速でそろばんを行き来する。
「……う、わあ」
もう見てるだけで胸焼けがして、いつきはひとり退避《たいひ》してきた次第《しだい》である。
「どうしたん、社長?」
振《ふ》り返ると、穂波がいた。
こちらは夕涼《ゆうすず》みというところか、手にはいつもの小さな杖《つえ》を持って、柔《やわ》らかく首を傾《かし》げている。
「えっと、ちょっと休憩《きゅうけい》」
「休憩ばっかりやん」
ぐさっとくる一言を告げて、穂波はバルコニーの手すりに腰掛《こしか》けた。
ちょうど背中から夕陽《ゆうひ》を浴びる格好。白い肌《はだ》ととんがり帽子《ぼうし》が、赤い光の中で一層映えていた。
「でも、お疲《つか》れ様」
笑って、穂波が言った。
「あ……うん」
それが意外で、いつきは鼻の頭を掻《か》いた。
「それと……あの……ごめん」
「へっ?」
「ただの〈夜〉や思ってて、まさか、あんなになるなんて思わへんかったから。ごめん、社長」
きゅっと膝《ひざ》を閉じ、片手でとんがり帽子の緑《ふち》を下ろしていた。だから表情が見えない。
いつきは、慌《あわ》てて両手を振った。
「あ、いいよいいよ。なんとか大丈夫《だいじょうぶ》だったんだし」
「やから、良かった。ありがと、社長」
「う、うん」
普段怒《ふだんおこ》られてばかりいるせいか、妙《みょう》に照れくさい。頬《ほお》が熱くなるのが自覚できる。
ふと、訊《き》いてみる気になった。
「……そういえば、穂波は、どうして〈アストラル)に来たの?」
「なんで?」
優《やさ》しい声で、穂波が尋《たず》ねた。
「アディリシアが、穂波はすごい天才だったって言ってたから。ほかの魔術集団からもひっぱりだこだったって。――でも、うちってどう考えても零細企業《れいさいきぎょう》でしょ?」
「うち?」
「ん?」
杖をあげて、穂波が指摘《してき》する。
「うちって言うた。少しは社長の自覚が出てきた?」
「か、からかわないでよ」
ムキになるいつきに、穂波は微笑《びしょう》した。
ぼそっと呟《つぶや》く。
「……いっちゃんがいたからなんやけどな」
「何?」
「何でもあらへん」
手すりから飛び降り、穂波の指が伸《の》びた。
いつきの眼帯へ触《ふ》れる。
「まだ痛い?」
「えっ……いや、普段《ふだん》はそんなことないよ」
(あれ? 目が痛むなんて話したことあったっけ)
いつきが考えていると、穂波は革《かわ》の上に指を滑《すべ》らせた。
「社長は――いつきは、この眼帯をしたときのこと、覚えてへんのやね」
「うん、よっぽど怖《こわ》い目にあったみたいなんだけど」
〈幽霊屋敷《ゆうれいやしき》)だとか、泣きじゃくりながら逃《に》げてたとか、そういう記憶《きおく》の断片《だんぺん》しかない。小さい頃《ころ》のことだから無理もないのだけど、その前後半年ぐらいはなんだかあやふやだった。結構長い間、病院に入院したのは覚えているのだが。
と、そこにもうひとつ人影《ひとかげ》が現れた。
「イツキ! いくらなんでも、あの男はふっかけすぎです」
ぶりぶりしながら、アディリシアが唇《くちびる》を尖《とが》らせる。その姿があんまり彼女らしくて、いつきばかりか穂波まで噴《ふ》き出した。
「な、なんですの」
「い、いや、なんでもないんだけどさ。アディリシアさんは、そういう方が似合うかなって」
「あまりいい意味とは思えませんけれど」
つんとすまして、拗《す》ねたように答える。
「――社長!、契約《けいやく》条件が決まったんで判子くださーい」
事務所の内側から、猫屋敷の呼ぶ声がした。
「あ、はいはーい」
返事をして、いつきは小走りに戻《もど》っていく。
「…………」
その背中を見やって、アディリシアは困った風に眉根《まゆね》を寄せた。
隣《となり》の、穂波を向いた。
「……ひとつ、訊いてよろしい?」
「何?」
「イツキの、あの目……」
「アディの考え通りやと思うよ」
穂波の言葉に、アディリシアはゆるく吐息《といき》をこぼし、おののくみたいにその名前を乗せた。
「……妖精眼《グラム・サイト》……」
と。
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第7章 魔法使いのヒトミ
1
丹生山《にゅうやま》から南西――丹生山を鬼門《きもん》へ置く方角に、小さな遊園地がある。
布留都市の自治体によって、細々と経営されている遊園地だ。今となっては過疎《かそ》気味になっている地域ではあるが、毎年行楽シーズンには地方新聞にとりあげられ、それなりに子供連れの家族でにぎわうのだった。
その夜。
午前二時。
いつきたちは、敷地《しきち》の裏から入り込んでいた。
明るい月が出ている。満月に限りなく近い、十四夜の宵待月《よいまちづき》。
蒼《あお》い月光の下、古びた観覧車の見下ろす広場へ、大きな魔法《まほう》円が刻まれていた。
「禁忌《きんき》を破った魔法使い――お父様について、分かっていることがふたつほどあります」
と、あの後アディリシアは告げた。
「まず、移動経路が霊脈《レイライン》に限られていること。これはあの〈夜〉の後も、結局霊脈に逃げ込んだことから確実です」
丹生山――あのお化け工場から続く霊脈は、ど真ん中でこの遊園地へ続いている。
「もうひとつは……お父様が魔法になりそこねていること。ソロモン魔術になりおおせようというなら、七十二の魔神すべてを喰らう必要がありますが、まだお父様には足りていません。もしも、この魔神を得られるなら、お父様は万難《ばんなん》を排《はい》して、喰らいにくるでしよう」
そして、アディリシアは携《たずさ》えていた真銀《しんちゅう》の容器を差し出した。
「……つまり、私がお父様から受け継《つ》いでいた魔神です」
作戦はごく単純だった。
アディリシアが残りの魔神を喚起《かんき》する。
それを餌《えさ》として、〈夜〉の核《かく》となっている魔法――オズワルドをおびき出す。その際、前回のように〈夜〉が発生するだろうから、これはみかんの結界で隔離《かくり》する。そして、おびき出したオズワルドを、穂波《ほなみ》と猫屋敷《ねこやしき》で対処するという手順だった。
オズワルドの警戒《けいかい》を避《さ》けるため、アディリシア以外は近くのメリーゴーラウンドのそばに隠《かく》れている。
「断っておきますが、魔法になりかけた魔法使いなんて、まともに相手したらやってられません。根本的に呪力《じゅりょく》を扱《あつか》う次元が異なっちゃいますからね」
と断りをいれたのは猫屋敷である。
「我々が狙《ねら》うとしたら、魔神に意識をひきつけての不意打ちです。向こうが魔神を喚起しはじめたら、そのときは逃《に》げの一手だと考えてください。そのへんの押しと引き際《ぎわ》の判断は社長に任せますから」
つまるところ、後衛で戦況《せんきょう》を伝える偵察《スカウティング》役だった。
なので、いつきだけはさらに別の場所――二十メートルほど離《はな》れた、観覧車の近くのやぐらに立っていた。
連絡《れんらく》は、携帯《けいたい》電話のイヤホンマイクだ。魔法と違《ちが》って電波なら妨害《ばうがい》されないからという理由だが、魔法使い同士の連絡が携帯電話というのはなかなか微妙《びみょう》な気分になれる。
「ふ、う――」
やぐらに隠れて、深呼吸する。
心臓は、まるで自分の身体《からだ》じゃないかのよう。
肺のすみずみまで空気を送っているのに、全然足りない気がした。なんだか、身体中が浮《う》き足立っている。怖《こわ》いとか怖くないとか以前に、あちこちが噛《か》みあわない。
「ああもう、落ち着けってば――」
自分に言い聞かせる。まだオズワルドは現れてもいないというのに、これじゃあどうなってしまうんだか。
(そういえば、初めてなんだ――)
ふと、思う。
今までは、いきなり連れまわされたり、説明がなかったりで、自分から『仕事』に参入したことなんて一度もなかった。
だから、これは初めての経験。
自分から〈アストラル〉の社長として経験する、初めての『仕事』。
「…………」
落ち着け、落ち着け、伊庭《いば》いつき。
汗《あせ》ばむ手を握《にぎ》り締《し》め、唇《くちびる》を噛む。びしゃんと自分の頬《ほお》を叩《たた》いた。
「……よ、し」
覚悟《かくご》を決める。
踏《ふ》み込む意志。
足元に置いていた、暗視スコープ付きの双眼鏡《そうがんきょう》(猫屋敷の私物だそうだ)を拾い、広場にたたずむアディリシアへ、頼《たよ》りない声でコールした。
「……え、と……その、聞こえるかな?」
「大丈夫《だいじょうぶ》ですわ」
いつきの声に、魔法《まほう》円を書き終えたアディリシアはうなずいた。手がふさがらぬよう、携帯電話からイヤホンマイクを伸《の》ばしている。
魔法円の中央には、真銀の容器が置かれていた。
――バール
――アスモダイ
――アスクロス
――バイモン
七十二の魔神の頭角たる、四柱の悪霊《あくりょう》を秘《ひ》めた器だ《うつわ》った。今回、彼女が携《たずさ》えた魔神の残りすべて――アディリシアをしても喚起しきれなかった魔神たちである。
だから、今彼女を守護しているのは、この前のちびエリゴールと、霊《エーテル》体のまま空中を泳ぐギンザメ――フォルネウスだけだった。
『あの……訊《き》いていい? もし悪かったら、答えなくてもいいんだけど』
「どうぞ」
促《うなが》すと、少し腐躇《ためら》ったあと、いつきはこう訊いた。
『どうして――アディリシアのお父さんは禁忌《きんき》を犯したのかな?』
「理由なんて、いりませんわ。魔法使いとはそういうモノですから」
『そういう、モノ?』
いつきの疑問に、アディリシアはほのかに笑う。
「王様になりたい人たち、ということですわ」
かすかに違い目になった。
『何……それ』
「お父様は――オズワルド・レン・メイザースは、ソロモン王の再来とうたわれた魔法使いでしたわ」
『ソロモン?』
「三千年前、古代イスラエルを統治した偉大《いだい》なる王の名前ですわ。そして、〈ゲーティア〉の始祖にして、七十二の魔神を従えた至上の魔法使い」
『魔神を従えた人?』
「ええ。お父様の一生は、ソロモン王を学ぶことだけに費《つい》やされていました。魔法使いであることは知識の王であることだと。ずっとソロモン王の業績を学んで、ずっとソロモン王の背中を見て、その伝承の切れ端《はし》に、残された言い伝えの欠片《かけら》に、けっして及《およ》ばない不世出の天才を垣間《かいま》見ていました」
一拍《いっぱく》、おいた。
風がかすかに吹《ふ》いていた。
瞼《まぶた》を閉じ、アディリシアは続けた。
「自分はソロモン王になれないと、お父様はいつも呟《つぶや》いていました。七十二の魔神を扱《あつか》えようがなんだろうが、結局ソロモン王のおきがりを使っているにすぎないと」
それは、天才《モーツァルト》と秀才《サリエリ》の違《ちが》いか。
学べば学ぶほど、三千年前の王に届かぬことを思い知らされ、自分という存在の卑小《ひしょう》さだけを突《つ》きつけられる。
卑小だと思い知らされているのに、周りからはその王の再来だと誉《は》めそやされる。価値のない自分に、最大級の価値をこめたレッテルだけが貼《は》られつづける。
そんな一生もあるのだろう。
『だから……禁忌を?』
「多分……いえ、きっと」
アディリシアは言い直す。
四ヶ月前。秘密裏《ひみつり》に行われた儀式《ぎしき》。供儀として捧《ささ》げられた弟子《でし》たちの死体。自らも八つ裂《ざ》きにされ、それによって魔法になる道を得た父。
でも。
「それでも、私は誰《だれ》にも言わせません。それが価値のない一生だなんて。たとえ王《ソロモン》になれなくても、そこへ届こうとした意志に価値がないだなんて、たとえお父様自身にだって言わせません」
『…………』
ああ、そうか。
やっと、いつきは納得《なっとく》できた。
父親の残骸《ざんがい》を葬《ほうむ》りたいからではなく。
かつての父親の尊厳を守りたいから、アディリシアは日本まで来たのだ。
『そっか』
と、いつきは応《こた》えた。
『だったら……え』
「え?」
『アディリシアさん、後ろ!』
振《ふ》り向いた。
そこに、忽然《こつぜん》と人影《ひとかげ》が立っていた。一瞬《いつしゅん》前まで呪力《じゅりょく》の波動など感じさせず、だけど今は惜《お》しみなく世界を歪《ゆが》ませながら、亡霊《ぼうれい》のように存在していた。
人影をかたどった、泥《どろ》の塊《かたまり》。
「来タ・ゾ・喰《く》ライ・二」
と、汚泥《オズワルド》は告げた。
「ワシ・ノ・可愛《かわい》・イ・アディ」
にいっと、笑うように、汚泥の口のあたりが裂けた。
*
「アディリシアさん、後ろ!」
広場に突然《とつぜん》盛り上がった汚泥を見て、いつきは叫《さけ》んでいた。
同時に、遊園地へ呪力が膨《ふく》れ上がった。
眼帯を透《す》かし、右目の底から脳髄《のうずい》まで、激しく突き上げる痛み。
その痛みをこらえ、
「猫屋敷さん!」
携帯《けいたい》電話を交換《こうかん》しつつ、猫屋敷に連絡《れんらく》をいれる。
『――了解《りょうかい》、突入《とつにゆう》のタイミングは社長に任せますよ』
「は……はい」
坤《うめ》きながら、いつきはふたたび双眼鏡《そうがんきょう》を覗《のぞ》いた。
*
「お父様――」
「可愛・イ・アディ・ヨク・持ッテ・キテクレ・タ」
延《よだれ》を垂らすような声音《こわね》で、汚泥が《オズワルド》アディリシアの背後魔法《まほう》円に置かれた真鍮《しんちゅう》の容器を見やる。
残る、四柱のソロモンの魔神《ましん》。
「ドワ・シ・タ」
そう訊《き》く汚泥の姿は、昨夜よりはずっと整っていた。ぐじゅぐじゅと表面を蠢《うごめ》く泥も、昨夜に比べれば大人しい。フード付きのコートでもかぶせれば、視覚だけは誤魔化《ごまか》せるかもしれなかった。
だけど、鼻をつく異臭《いしゅう》だけはどうしようもない。
近寄られただけで、内臓がねじまがりそうな腐臭《ふしゅう》。人から堕《お》ちたものだけが発する、常世《とこよ》の臭《にお》い。
「…………」
アディリシアは、立ちはだかるように、手を横にあげた。
「あなたのために持ってきたのではありません」
強く言う。
「ホ・ウ? デハ・何・ダ」
「…これは、力です」
「チカラ?」
「あなたの妄念《もうねん》を打ち砕《くだ》くための、力です!」
ごおっと呪力が凝集し《ぎょうしゅう》た。
それにつれて、魔法円を中心に、風が激しい渦《うず》を巻いた。
「……|我、訴え、喚起せん《I do livocate and conjure thee》」
静かな、だけど決意をこめた声が響《ひび》く。
「……|我、訴え、喚起せん《I do livocate and conjure thee》」
再び、同じ呪文《じゅもん》を呟《つぶや》き、胸にかけたソロモンの五芒星《ごぼうせい》を握《にぎ》る。
「……I do strongly command thee,by Beralanensis,Beralanensis,Paumachia,and Apologle Sedes:by the most Powerful Princes,Genii,Lichide,and Ministers of the Tartarean Abode;and by the Chief Prince of Seat of Apologia in the Ninth Legion――」
草むらが揺《ゆ》れる。柵《さく》から伸《の》びた白い花がちぎれ、渦巻《うずま》く風にはかない色をつけた。
呪力が魔法円へと吸い込まれる。
アディリシアの念によって、魔神へカタチを与《あた》えるべく、変質する。
「ク・ググ・グ・・・」
汚泥《オズワルド》は、楽しそうに笑った。
イヤホンマイクを伝わって、その笑い声がいつきにも聞こえる。
潰《つぶ》れたヒキガエルのような声が、別の意味にも聞こえて、いつきはおぞましかった。
まるで、父親が娘《むすめ》を見守るような。
「グク・ク・クク・・・」
――でも、今だ。
今なら、汚泥の全神経は、アディリシアに集中している。傍《はた》でうかがういつきにさえ、そのことがはっきりと分かる。
そろそろと、もうひとつの携帯電話をいつきは手に取った。
そのときだった。
「トコ・ロデ」
汚泥が、もう一度アディリシアに語りかけた。
裂《さ》けた口元で、
「オ・前ガ・期待シテ・ルノハ・アレカ」
「――イツキ! 逃《に》げなさい!」
携帯電話越しに耳をつんざく、アディリシアの悲鳴。
「え?」
だけど、いつきには理解できなかった。
いきなり、視界が暗くなった。振《ふ》り仰《あお》いだ。
穢《けが》れた翼《つばさ》で月を覆《おお》い、巨大《きょだい》な鳥の魔神は笑っていた。
汚泥《オズワルド》と同じ顔で。
「あ――――」
がしゃん、と携帯《けいたい》が落ちた。
逃げようとした。
走りかけた左足を、鋭《するど》い牙《きば》が決《えぐ》った。
べぎ。ごり。ぐしゃあ。
自分の膝《ひざ》がたてているとは思えない、異様な音が鳴った。それでも痛みはなかった。痛みも苦しみも、すべて恐怖《きょうふ》が麻痒《まひ》させていた。
まっさかさまに、いつきは闇夜《やみよ》へと連れ去られた。
2
「――社長っ?」
連絡《れんらく》用の携帯が、いきなり耳障《みみざわ》りな雑音《ノイズ》をたてた。
同時に、やぐらから漆黒《しっこく》の巨大な鳥と、その顎《あご》にくわえられた少年の影《かげ》が飛び立った。
いつきだった。
血相を変えたみかんがその空を指差す。
「お兄ちゃん社長がっ」
「ええ。みかんさん、バックアップを」
それだけ告げて、猫屋敷が広場へ飛び出した。
アディリシアの喚起《かんき》は、あくまでカモフラージュだった。一年かけても喚起しきれなかった魔神《ましん》が、今になって喚起できるはずもない。
あくまで本体は、こちらの攻撃《こうげき》。
オズワルドの気がそれている内に、ただ一瞬を《いっしゅん》もって狩る。
いつきを狙《ねら》われた以上、もはやミスは許されない。みかんの禊《みそ》ぎによってぎりぎりまで気配を隠蔽《いんぺい》したまま、魔術を完成させる。
オズワルドの背まで十五メートル。
十三メートル。
十一メートル。
九メートル。
後ろで、新たにみかんの声がした。
「かけまくもかしこきいざなぎのおはかみ、つくしのひむかのたちばなのをどのあはぎはらに、みそぎはらへたまへしときになりませるはらへどのおはかみたち――」
祝詞《のりと》とともに、玉串《たまぐし》が振られる。
同時に、広場の外と内側に、呪力《じゅりょく》の垣根《かきね》が生まれた。〈夜〉を発生させぬためと、オズワルドに逃げられぬための備え。霊脈《レイライン》と土地が、瞬時に隔離《かくり》された。
「・・ナ・二」
それでやっと気がついたか、汚泥《オズワルド》の身体《からだ》が震《ふる》える。
だが、もう遅《おそ》い。
七メートル。
五メートル。
「疾《チッ》!」
縦四本、横五本――邪《じゃ》を征《せい》する早九字《ドーマン》を切り、その中央から、猫屋敷の指が霊符《れいふ》を放った。
真紅《しんく》の紙に、水銀より取り出された朱《しゅ》で、急急如律令《きゅうきゅうにょりつりょう》と書かれた霊符。
いわく、泰山府《たいざんふ》君炎羅《くんえんら》符呪《ふじゅ》。
霊府は、飛翔《ひしょう》半ばで地獄《じごく》の炎《ほのお》を呼び出し、まるで火山の奔流《ほんりゅう》のごとく汚泥の身体を包み込んだ。
広場に、数千度の呪力の熱が解放されたその横で。
闇夜に吊《つ》り下げられたいつきを見て、アディリシアは即座《そくざ》に決断した。
喚起《かんき》を中止し、高らかに叫《さけ》ぶ。
「来たれフォルネウス! 二十九の軍団を文配する侯爵《こうしゃく》!」
霊《エーテル》体で待機していたギンザメが、実体化して空を泳いだ。たちまち黒い鳥に接近し、大の男も飲み込めそうな口で、その首を噛《か》み砕《くだ》いた。
そのまま落下するいつきを救うべく、アディリシアほさらなる血盟下を下そうとした。
だが。
真紅の炎の中で、それよりも早く影が動いた。
いまだ燃え盛る、異様に赤い炎の中から、一本の手が伸《の》びたのだ。
文字通り、それはぐちりと伸びた。
まるで蛇《へび》。
いや違《ちが》う。
蛇そのものだった。
何百何千という蛇が渦巻《うずま》き、からみあい、巨大《きょだい》な一|匹《ぴき》の蛇となってフォルネウスへ牙を剥《む》いたのだ。
ぐしゃあ、と霊《エーテル》の血が雨みたいに降った。それにととまらず、蛇はギンザメのひれを喰い、尾《お》を喰い、腹を喰い、内臓を噛み破った。血の雨に続いて、解体されたフォルネウスが真っ黒な雪となる。
その雨を受けて、炎が消えた。
後には、傷ひとつなく人間の姿をした泥が立ち尽《つ》くしていた。いまだ蛇と化したままの腕《うで》が、ぐちゃぐちゃと口を動かしていた。
「マズ・ヒト・ツ」
魔神を喰らった汚泥が、嬢《うれ》しそうに呟い《つぶや》た。
そして、腕を霞《かす》ませた。
「……ごっ!」
「きゃあっ」
猫屋敷が、地面と水平に吹《ふ》っ飛んだ。
その身体とまともにぶつかって、みかんがあおむけに倒《たお》れる。
もう一度伸びた腕が、青年の鳩尾《みぞおち》を痛打したと分かったのは、汚泥が腕を引き戻《もど》した後のことだ。
不思議そうに、汚泥《オズワルド》が首を傾《かし》げた。
「脆《もろ》スギヌ・カナ・アディ」
くつくつと笑うみたいに、肩《かた》を動かす。人間の模倣《もほう》みたいで、その動きのひとつひとつがひどく気味悪かった。
「…………」
アディリシアは、かすかに後ずさる。
分かったからだった。
同じソロモン魔術《まじゅつ》を使うからこそ、今の行為《こうい》がいかに桁《けた》を外れたことか分かってしまったのだ。
絶望が、真っ暗に視界を汚《よご》していた。
*
地上七メートル、いや十メートルだったか。
黒い鳥に、まっさかさまに吊り下げられていたいつきへ、ギンザメが空中を泳いで迫《せま》ってきた。
がばっと、ギンザメの口が開いた。
「……え?!」
次の瞬間、《しゅんかん》目の前が真っ赤に染まった。
黒い鳥の首が、ギンザメに食いちぎられたのである。
必然、いつきの身体はそのまま墜落《ついらく》していった。
どん!!!
背中から、地面に衝突《しょうとつ》した。
「……ぐっ、がっ」
苦鳴もあがらない。衝撃《しょうげき》で、すべての感覚が痛みにすりかわった。柔《やわ》らかな広場の土の上でなければ、痛みを感じる前にあの世行きだったかもしれない。
「う……あ……」
うつぶせに転がり、頭をもたげる。それだけで背中から首にかけて激痛が走ったが、必死にこらえた。
あんな状況で《じょうきょう》も、いつきの右目には視《み》えていた。
炎《ほのお》に包まれた汚泥と。
その汚泥の腕から伸びた蛇。
(あいつ……変わった……)
猫屋敷が放った炎へ対して、刹那《せつな》にも満たない瞬間に、汚泥の全身が別のものに変化したのだ。
名前は分からないけど、おそらく、炎に耐性《たいせい》を持った魔神なのだろう。エリゴールによく似た騎士《きし》の姿だった。
そして、炎から手を出すと、今度はその手だけが汚泥へ戻り、すぐあの蛇《へび》に変わったのだ。
(……無茶苦茶だ)
茫然《ぼうぜん》と思う。
あいつのチカラは、大量の魔神を制御《せいぎょ》しているだけではない。必要に応じて、好きな魔神に変容することだってできるのだ。
――呪力《じゅりょく》を扱《あつか》う次元が違《ちが》う
猫屋敷はそう言っていた。
まさに、そのとおりだ。
魔法を使うのに、詠唱《えいしょう》も儀式《ぎしき》もいらない。呪文《じゅもん》も呪物も必要ない。アディリシアがエリゴールたちを喚起《かんき》するのに要した一年半という年月さえ、あの化け物は一瞬で凌駕《りょうが》する。
なぜなら、彼はその魔法白身なのだから。
猫屋敷やアディリシアがゼロから魔術を構築する代わりに、彼はすでにあるものを取り出すだけでいい。
なんという差か。
(逃げ……なきゃ……)
ろくにまわらない頭に、その思いだけが残響《ざんきょう》する。
視界の隅《すみ》で、アディリシアがやはり立ち尽くしていた。多分、同じ結論に達していたのだろう。
「可愛《かわい》・イ・アディ」
汚泥がゆっくりとアディリシアに近づく。
ああ、きっと殺されるんだろう。あの汚泥に喰われて、魔神も奪《うぼ》われる。そして、あいつは魔法になる。
(アディリシアが――死――)
――急に、怒《いか》りがこみあげた。
「く、そぉぉ――!」
無事な方の足で、無理に立ち上がる。
でも、全然間に合わない。こんな壊《こわ》れた足じゃ、汚泥に追いつくこともできない。
「アディリシア――っ」
「・アディ・・・ワシ・ト」
汚泥の手がアディリシアに触《ふ》れる寸前。
横から、細い腕《うで》が、先に少女をかっさらって飛んだ。
「……穂波」
とんがり帽子《ぼうし》の魔女《まじょ》が、箒《ほうき》に乗ったままアディリシアを抱《だ》いていた。
十四夜の月を背に、広場の汚泥を見下ろし、もう片方の手をあげる。
「月の女神《めがみ》よ! 力の円錐《えんすい》のもと我は芝《こ》う! 汝《なんじ》が吐息《といき》もて、北の禍《まが》つ事を穿《うが》て!」
ヤドリギの矢が、ぎゅるりと空気を挟《えぐ》った。
一息に五本の矢。すべてが別の軌道《きどう》を蛇のように辿《たど》って、汚泥《オズワルド》へと飛翔《ひしょう》する。
泥《どろ》の身体《からだ》に、拳《こぷし》大の穴が五つ開いた。
それだけだった。
「滅《ほろ》ビシ・ケルト・ノ・魔術・ソロモンニ及《およ》バ・ズ」
いきなり、闇《やみ》が質量を持った。
汚泥の身体から、次々と魔神が生まれ、逃げる穂波を追った。
全部で五つ。
「やめ――!」
そんな声が、届くはずもない。
五つの魔神は、ヤドリギの矢に撃《う》たれながらも穂波へくらいつき、たちまち魔女を追い落とした。
「きゃ――!」
かぼそい悲鳴が、すぐに途絶《とだ》える。
「やめろぉ――!」
ぞっと、冷たいものが身体の奥から脳天まで突《つ》っ走った。
それにかられて、今度こそいつきは駆《か》けた。全速力の半分にもならない速度で、ポロクズのような足で駆けた。
「穂波! アディリシア!」
ぬっと、その前に巨大《きょだい》な影《かげ》が立ちふさがった。
七十二の魔神でも、本当におまけのような弱々しい泥の雄牛《おうし》。
でも、十分だ。
「無《ム》・為《イ》」
雄牛がオズワルトの声で笑い、いつきの腹を突いた。
身体が、あっさりと宙を舞《ま》った。
また地面に激突《げきとつ》する。
土や小石に肌《はだ》を削《けず》られながら、何メートルも転がる。
広場の花壇《かだん》にぶちあたった。ござん、と嫌《いや》な音がした。それでも立ち上がろうとした。途端、左足が、膝と逆に曲がった。
「……があああああああああああああああああああああああああああっ」
自分のものとは思えない、絶叫《ぜっきょう》が迸《ほとばし》った。
――ああ、勝てない。
魔法使いなんて、結局ただの人間だ。
でも、化け物は、人外だ。人間が、それ以外に勝てるわけがない。
当たり前の理屈《りくつ》。
当たり前すぎて、誰《だれ》も指摘《してき》さえしない理屈。
だから禁忌《きんき》。
人間が、人間以外になるなんて。
【アレガ……魔法ダ】
声がする。
そうか。あれが魔法か。
納得《なっとく》できる。うん。そりゃあ、あれぐらい理不尽《りふじん》でないと魔法とはいえないだろう。
【ソレデイイノカ?】
また、声がする。
――『でも、少しだけ感謝してあげます』
はにかんだ誰かの声。
――『お兄ちゃん社長、すごいすごい!』
拍手《はくしゅ》して飛びつかれた。
――『で、あなたにはこの会社を受け継《つ》いでいただきたいんですよ』
おどけた感じの口調
――「うちって言うた。少しは社長の自覚出てきた?』
あれはからかったんじゃなくて――本気で言ってくれたんだろうか?
「………………………………………………いいわけ……ない……だろ…」
誰よりも、自分にいつきは言い聞かせた。
壊《こわ》れた左膝《ひだりひざ》に、思い切り指を食い込ませる。ぎりぎりと万力みたいに押し詰《つ》めた。肉の潰《つぶ》れる音。骨のこすれる音。肉と骨とがぐちゃぐちゃに混ざる音。そんなもの、いまさら何の意味がある。
(怒《おこ》れ! 怒れ! 伊庭いつき)
立ち上がる。
感動的なほどの痛みを怒《いか》りで塗《ぬ》りつぶす。おぞましい汚泥の姿を直視する。
(これは……僕の『仕事』だ)
「サ・ア・アディ・オ寄越《よこ》・シ」
あいつは、とっくにこちらのことなんて無視している。アディの持っている魔神に夢中らしい。それは好都合だ。
「ああ……」
吐息《といき》を、漏《も》らす。
熱い。
右目が熱い。
折れた左足なんかより、遥《はる》かに熱かった。眼球の代わりに、炎《ほのお》を埋《う》め込んでいるような錯覚《さっかく》さえ覚えた。その熱ささえ心地よかった。
「さあ……来い……」
我慢《がまん》できず、眼帯をむしりとる。
その下から現れたのは、左目と同じ黒い瞳《ひとみ》ではなかった。
炎のごとく赤く凄《すき》まじい――人間の色素では決してありえないはずの――紅玉《カーバンクル》の瞳だった。
3
「ふにゃあ」
「にゃ〜あ」
懐《ふところ》の猫《ねこ》たちに舐《な》められて、猫屋敷が目を覚ました。
わずか一分足らずだが、昏倒《こんとう》していたらしい。いまだに歪《ゆが》む視界の中で、猫屋敷はありえないものを見た。
「……社長?」
赤く光る――瞳。
濃密《のうみつ》な呪波汚染《じゅはおせん》によどむ空気の中で、ひときわ赤く輝《かがや》く瞳。
「……っ」
猫屋敷が、喉《のど》をひきつらせる。
「ね、猫屋敷さん、どいてってば……え……お兄ちゃん……社長?」
下敷《したじ》きになっていたみかんが、何度も瞬《まばた》きした。
*
「…………」
ゆっくりと少年が歩み出す。
壊れた人形のようにぎこちなく、つっかえつっかえ、やがて堂々と歩き始めた。その都度、しぶいた血が地面を汚《よご》した。ぐちゃぐちゃと、自分の血の水溜《みずたま》りを少年は踏《ふ》み散らした。
やがて、汚泥も《オズワルド》それに気がついた。
「喰《くら》エ」
興味なさそうに、視線も向けぬまま命じる。
影《かば》が盛り上がり、カタチを取った。
汚れた黄金の獅子《しし》マルバス。
強靭《きょうじん》な爪《つめ》が、いつきの脳天めがけて凄まじい速度で振《ふ》るわれた。
――ふわ、と少年はステップを踏んだ。
それだけで、いつきは獅子の背後へ立っていた。
「ナ・二」
汚泥《オズワルド》の横をくぐり、倒《たお》れたふたりの前でしゃがみこむ。
「――穂波、アディリシア」
呼びかけた。
「穂波、起きろ」
「……え……いっちゃん?」
薄《うす》く、|蒼水色の瞳《アイスブルー・アイ》が開いた。
「……イツ、キ」
わずかに遅《おく》れて、我に返ったアディリシアが眼を剥《む》いた。
「イツキ! 後ろ!」
汚泥が、あの齢の脈を振りかぶっていた。
どっ、と風を穿《うが》つ一撃《いちげき》。
だけど。
わずかにいつきが頭を傾《かたむ》けただけで、その一撃は空を切った。最初からそう仕組んでいたような、あんまりに自然な動作だった。
「ふたりとも、問題ないな」
呟《つぶや》いていつきは立ち上がる。また左膝《ひだりひざ》から血がこぼれた。問題ない。あと五分も保《も》てばいい。
「オ・前・エ・エ・エ」
振り返れば、汚泥《オズワルド》の身体《からだ》がぼこぼこと蠢《うごめ》いていた。
いくつもいくつも、魔神《ましん》が生まれた。
でも、そんなの同じことだ。
といつもこいつも、呪力《じゅりょく》の流れに沿ってしか動かない。そんなの、読み古したマンカや小説と同じ。
ほんの一歩、ステップを踏むだけで、すべての攻撃《こうげき》が虚空《こくう》を切る。
馬鹿馬鹿《ばかばか》しい。
そんなので……本当の魔法のつもりか!
*
「イツキ……」
茫然《ぼうぜん》と、アディリシアは少年の名を呼ぶ。
その日で見ても、信じられなかった。
確かに[#「確かに」に傍点]、穂波から訊いてはいた[#「穂波から訊いてはいた」に傍点]。そもそも呪力の流れ自体を見極めることなど[#「そもそも呪力の流れ自体を見極めることなど」に傍点]、どんな優秀な魔法使いにも不可能なのだ[#「どんな優秀な魔法使いにも不可能なのだ」に傍点]。
――妖精限《グラム・サイト》。
それは、伝説の魔眼《まがん》だ。
神代の魔法使いたちが持っていたといわれる、幻《まぼろし》の瞳《ひとみ》。
アディリシアや穂波のように、単に魔物が見えるだけではない。その瞳が本物であれば、それは魔物の『すべて』を見抜《みぬ》くという。
魔物の快楽を、魔物の激怒《げきど》を、魔物の悲哀《ひあい》をすべて一瞥《いちべつ》で見抜いてしまうと。
だが、同時にその危険性も訴《うった》えられていた。
見えすぎる瞳は、観測者の精神をも蝕《むしば》む。
このため、妖精眼を持った魔法使いたちは、そのほとんどが短命で散った。あるいは白身が魔物となり、あるいはこの世ならぬ妖精郷《テイル・ナ・ノグ》へと去った。
だけど。
あれは、本当にそんなものか?
……本当に、それだけの瞳か?
「オ・前ハ・何・ダ」
汚泥《オズワルド》が言う。はじめて声音《こわね》におののきの響《ひび》きが揺《ゆ》れた。
「…………」
いつきは答えない。
ますます猛威《もうい》を増す魔神たちの爪牙《そうが》をかわしながら、ただ告げた。
「穂波、猫屋敷、みかん。社長命令だ」
同じ声、同じ抑揚《よくよう》――だが、はっきりと何かが違《ちが》った。
ほとんど条件反射的に、三人が言葉に従った。躊躇《ちゅうちょ》や逡巡《しゅんじゅん》ど、一瞬《いつしゅん》たりとも存在しなかつた。
「猫屋敷、左斜《なな》め二十六度、六メートル先、火行|符呪《ふじゅ》」
羽織の裾《すそ》から霊符《れいふ》が飛ぶ。それは再び炎《ほのお》を纏《まと》い、まるで吸い寄せられたように出現した魔神を、その場で燃やし尽《つ》くした。
「みかん、僕の真横、四十二度から八十四度にかけて禊《みそ》ぎ」
玉串《たまぐし》が振《ふ》られる。魔神の生み出した炎が雷撃《らいげき》が呪《まじな》いが、計ったみたいに見事に遮断《しゃだん》された。
「穂波、右上六十四度から七十六度にかけて、二度ずつヤドリギの矢を射出」
しなやかな指がヤドリギを飛ばした。空中から奇襲《きしゅう》しようとした魔神が、ことごとくその矢に撃《う》たれて落ちた。
「…………」
造作もないことだった。
結局、どんな魔法であれ、どんな魔神であれ、呪力の質と流れから成り立っているのだろう。
ならば、それを見極《みきわ》あれば、魔神の行動も能力も弱点も自動的に読める理屈《りくつ》だった。
だけど、いつきが見ようとしているものはそんな程度のものじゃない。
(見てやる)
念じた。
見てやる。視《み》てやる。観《み》てやる。
奥の奥まで。底の底まで。裏の裏まで。余すことなく、残すところなく、完膚《かんぷ》なきまでに見てやるとも。
恐怖《きょうふ》なんて壊《こわ》せ。
潰《つぶ》せ。
砕《くだ》け。
こんな人格なんて――塗《ぬ》り替《か》えろ。
「いつちゃん――」
思わず、穂波が漏《も》らす。
いつきの左目から、血が流れていた。当然だった。元来が人間の機能を超《こ》えた力である。酷《こく》使《し》が過ぎれば、失明どころか神経や脳に致命的《ちめいてき》なダメージを残す。いや、場合によっては脳どころか――『魂《たましい》』までも。
それでも、いつきは止めるつもりはなかった。
(あるはずだ……)
魔神《ましん》を見極め、社員たちへ命令を下し、確実に汚泥《オズワルド》を削《けず》っていく。そのたび、汚泥は掻《か》き毟《むし》るような絶叫《ぜっきょう》をあげた。
「オ前・ハ何・ダ」
汚泥が訊く。
(お前にはあるはずだ……)
答えず、いつきは逆に訊き返した。
「オズワルド――?」
訊く。
「そんなに魔法になりたかったか――?」
訊く。
「娘《むすめ》を踏《ふ》みつけにして、弟子《でし》の生命を喰らってまで、ソロモンなんかになりたかったか――?!」
訊く――!
「・・・!!!」
「イツキ……!」
アディリシアが口元を押さえる。
撃破《げきは》きれた魔神は三十と四。だが、これ以上は猫屋敷の霊符も、穂波の矢も、みかんの体力も保《も》つまい。何よりいっき自身の身体《からだ》がとっくに限界を超えている。
だけど、それでも。
視る。
最初にあったモノを――もはや混ざったモノを――何もかもを歪《ゆが》めてしまったモノを視る。
視ることで、認識《にんしき》することで、カタチのないものにカタチを与《あた》える。
――混沌《こんとん》から秩序《ちつじょ》をっくる。
ゆっくりと、いつきは汚泥への距離《きょり》を詰《つ》めていく。指一本ほどの距離まで近づいて、少年は右手を振り上げた。
「お前の虚栄《きょえい》は――」
息を吸って、
「――お前が償《っぐな》え!」
いつきが右手を突《つ》き出す。
「ウ・ガ・アア・アア・アアアアアア・アアアアアアアアアアァァァァァ!」
瞬間《しゅんかん》、びしゃあと汚泥《おでい》が広がった。
「いっちゃん!」
その右手ごと、少年を汚泥が飲み込んだのだ。たとえどれほど魔神を失おうが、ただひとりの人間を喰らうなどたやすい。最後の最後で、少年は詰めを誤った。
少なくとも、汚泥《オズワルド》はそう思おうとした。
そんなはずがなかった。
わずか数秒で、異変が生じた。
「オ・前・・何ヲ・視・タ」
汚泥が問う。
ほかの誰《だれ》でもない。
内側に捕《と》らえたはずのいっきに。
「――お前の――はじまりだ」
汚泥《オズワルド》白身も、魔法のなりそこない。
アディリシアの偉大《いだい》な父親の魂を、無様《ぶざま》に模倣《もほう》した出来そこない。
だったら、その『核《かく》』が見えないはずがない。どれほど時間が経《た》とうが、認識できないはずがない。
「これだ!」
自分の身体ごと、いつきはそれを引きずり出した。そのまま空中へ放《ほう》り投げられたそれは、
二、三度|跳《は》ねて、アディリシアの前へと転がった。
小さな、赤い種。
血を凍《こお》らせたような、真紅《しんく》の棘《とげ》を生やした種。
一瞬、アディリシアが呼吸を止めた。
「アァアアア・アアア・ア・アアアアアア・アァ・ア・ァァ・ァァアァアアアア!」
凄絶《せいぜつ》な悲鳴をあげて、汚泥が少女へ殺到《さっとう》した。
だが、その汚泥を、猫屋敷の霊符《れいふ》が燃やし、穂波のヤドリギが串刺《くしざ》しにし、みかんの禊《みそ》ぎが呪縛《じゅばく》して。
最後に、アディリシアのかざした魔術《まじゅつ》武器――アセイミー・ナイフが真紅の種を両断する。
「!」
一度だけ、びくんと汚泥は痩攣《けいれん》した。
「あ……」
アディリシアが顔をあげる。
汚泥はそれでも動きを止めなかった。空気に触《ふ》れた部分からばらばらに崩壊《ほうかい》しながら、ゆっくりと金髪《きんぱつ》の少女へ近づいていく。
「・・可愛《かわい》・イ・アディ・・・ワシ・デ・ハ」
そして、少女の目の前で、一気に崩《くず》れた。
「ナレ・・・ナカッ・タ」
七十二の魔神《ましん》を喰《く》らい魔法《ソロモン》になるはずだった夢は、結局、汚泥《オズワルド》のまま散っていった。
「いっちゃん!」
完全に呪力《じゅりょく》が途絶《とだ》えたのを確認《かくにん》し、穂波は慌《あわ》てていつきへ駆《か》け寄った。
普段《ふだん》のクールさからは考えられない身も世も無い走り方だった。
少し遅《おく》れて、みかんと猫屋敷も歩み寄った。
いつきは、地面に横たわったままだった。
「イツキ!」
最後に、しゃがみこんでいたアディリシアがその顔へ手をやる。
穂波もそうした。
血を流していた右目と類《ほお》へ触れ――ふたりの少女はどっと肩《かた》を落とした。
「……………………………………………………馬鹿《ばか》」
「……………………………………………………ほんまや」
あおむけに倒《たお》れたまま、伊庭いつきは実にのんびりした寝息《ねいき》をたてていたのだった。
[#改ページ]
エピローグ
三日後は、快晴だった。
吹《ふ》っ切れたような青い空を、いつきは病室の窓から眺《なが》めている。
いろんな意味で、「やあミイラ男』と挨拶《あいさつ》したくなる格好だった。全治二週間というのが医者の診断《しんだん》だったが、見かけだとその十倍でも信じられそうだ。地上八メートルから落下した全身|打撲《だぼく》。雄牛《おうし》に突撃《とつげき》されたときの内臓損傷。そのほか魔神の攻撃《こうげき》を避《よ》けそこねた切り傷、裂傷《れっしょう》、擦過傷《さっかしょう》が多数。
で、とどめがガチガチに固められた左足のギプスである。
やっぱり骨折したあと無茶をしたのがまずかったらしい。複雑骨折のあげく数ヶ所に亙《わた》って筋肉|断裂《だんれつ》を起こしており、医者と看護師にこぞって呆《あき》れられた。
ちなみに、いまのところ個室だが、会社の予算問題上、明日からは四人部屋ということだった。ちょっと〈アストラル〉の経営状態が不安になる一幕ではある。
「……うーん」
「どしたの、お兄ちゃん社長?」
きょとんとみかんが首を傾《かし》げた。隣《となり》には、真っ赤なランドセルを置いている。小学校からの帰りなのだ。
「いや、なんで空は青いのに、僕はこんなにボロボロなんだろうって」
まるで哲学《てつがく》問題である。
汚泥《オズワルド》と戦ったときのことも、ちゃんと記憶《きおく》にあるのだけど、いまいち現実味に薄《うす》い。というか、徐々《じょじょ》に薄れていく感じだった。 この右目の記憶。
妖精眼《グラム・サイト》という名前だけは、後になって穂波から聞いた。でも、思い返してみても、そんなに特別なことをしたという気はしないのだった。
(むしろ、なんというか、こう、懐《なつ》かしいというか……)
ぼんやり思う。
「社長?」
林檎《りんご》を剥《む》きながら、穂波《ほなみ》が目を細める。
「あんまりぼーっとしてると、頭ぶつけすぎたんかと勘違《かんちが》いするんやけど」
「そ、それはひどくない?」
「ひどくあらへん」
どこか拗《す》ねたように言って、穂波は少しかすれた声で、こう訊《き》きなおした。
「あの、頭痛は?」
「ん? ……ああ、今は大丈夫《だいじょうぶ》」
昨日は一日中ハンマーでぶっ叩《たた》かれているような気分だったが、朝にはだいたい落ち着いていた。
猫屋敷《ねこやしき》の診断によれば、魔眼《まがん》の酷使《こくし》によるものらしい。
視《み》るということは眼球だけの問題じゃない。映像情報を処理しているのが脳である以上、ありえないものを視るという行為《こうい》は、むしろ脳にダメージを与《あた》えるのだということだった。
分かるようでよく分からない説明ではあるが、とりあえず今、右目は眼帯の下にぐるぐる包帯を巻いている。あれだけ無理をさせた反動は、やっぱり身体中のあちこちに残っているのだ。
「……ホンマに?」
「うん」
すると、|蒼水色の瞳《アイスブルー・アイ》は鋭《するど》く光って、
「やったら、そろそろ勉強再開してもええかな」
「へっ?」
どきっ。
足元に置いた大きな鞄《かばん》から机へ、積み重ねられたのは大量の書類と参考書である。いや、見る間に書類は書類を呼び、参考書は参考書を招き、いつきをバリケードさながらに取り囲んだ。
「わ、すっごーい」
みかんが素直《すなお》な感想を口にする。
そして、穂波は魔女の笑顔《えがお》でこちらを見下ろした。
「『仕事』のせいで社長業の勉強がずっと遅《おく》れてるもん。病院にいる間にきっちり挽回《ばんかい》してもらうからね」
「や、やっぱり……まだ頭痛が残っているかも……」
顔中をひきつらせて、よろめいたところで。
ノックがあった。
「あ、あたし出るね」
みかんが元気よく手をあげる。
が、扉《とびら》は向こうから轟然《ごうぜん》と開いた。
「あら、ミカンとホナミもいたんですの」
白い病院の廊下《ろうか》で、似つかわしからざる漆黒《しっこく》のドレスを纏《まと》った少女――アディリシア・レン・メイザースが可憐《かれん》な花を抱《だ》いていたのである。
「アディリシアさん」
「ごきげんよう、イツキ。元気そうで嬉《うれ》しいですわ。てっきり魔女に苛《いじ》められているかと思って気が気でなかったですもの」
「ふうん、誰《だれ》のこと言ってるん?」
穂波が横目に睨《にら》みつける。うわ、こっちの方がよほど|魔 眼《イーブル・アイ》だ。
「せっかく剥いた林檎よりも、勉強を優先するような方にはお似合いな言葉かと思うのですけれど」
ちら、と剥きっぱなしの林檎を見やって、アディリシアが答えた。
「……ちょ、ちょっとふたりとも。み、見舞《みま》いじゃないの?」
全面戦争になりかけたふたりを、慌《あわ》てて引き止める。もう見てるだけで心臓が破れそうだった。
アディリシアの方が先に肩《かた》をすくめて、病室の花瓶《かびん》に花を飾《かざ》った。
「まあ、いいですわ。――帰国前に覚える顔がホナミの顔ではたまりませんもの」
「あ、帰るんだ」
いつきの言葉に、アディリシアはかすかに顔を伏《ふ》せた。
「ええ、お父様の件の始末がありますから。同化していた魔神も霊《エーテル》体の一部だけは回収しましたし、ゆっくり時間を積み重ねれば再生もかないますわ」
あの後、呪波汚染《じゅはおせん》の浄化《じょうか》などは復活した〈ゲーティア〉の面々で行ったらしい。魔神の霊《エーテル》体の回収もそのときに行ったものだろう。
なんとなく、小さなため息をついて、いつきは曖昧《あいまい》に笑った。
「……そっか。じゃあ、アディリシアともしばらくお別れだね」
「あら、私は来週には日本に戻《もど》りますわよ」
すんと鼻を鳴らして、アディリシアが告げる。
「――――!」
穂波がひどく驚《おどろ》いたように息を飲んだ。
なぜだかみかんも一緒《いっしょ》である。
「え、来週っ?」
「当たり前ですわ。それとも、イツキは、私が戻らない方がよろしいんですか?」
「あ、あ、いや、そんなことはないけど」
包帯まみれの手を振《ふ》るいつきに、アディリシアが微笑《びしょう》した。
すっと手を伸《の》ばした。
いつきの短い髪を撫《かみな》でて――そのまま、金髪《きんぱつ》の少女は少年のこめかみにくちづけた。
「………」
「………」
「………」
空気が凍《こお》りついた。いや、少なくともアディリシア以外の三人にとっては、時間が止まったといっていい。
「イツキ」
愛《いと》しげにいつきの眼帯と頬《ほお》を撫でて、アディリシアはこう囁《ささや》いてから病室を離《はな》れた。
「お父様のこと、ありがとう」
*
少し後。
病院のロビーに出たアディリシアは、患者《かんじゃ》やその見舞い客で混み合う中、ある平凡《へいぼん》な人影《ひとかげ》に目を凝《こ》らした。
「カゲザキ」
「おや、これはアディリシアさま。奇遇《きぐう》ですね」
のっぺりした顔に、特徴《とくちょう》の無い柔和《にゅうわ》な笑顔《えがお》。
魔法使《まほうつか》いを断罪する魔法使い――影崎《かげざき》が上半身を折り曲げる。
「私も伊庭《いば》社長をお見舞いするつもりだったんですが、猫屋敷さんに断られてしまいまして。残念なことです」
「…………」
アデイリシアは返事をしない。
代わりに、こう訊《き》いた。
「あなたは、イツキのこと、どこまで知ってたんです?」
「いえ、何も」
影崎はかぶりを振る。
「魔法を使わない魔法使い――伊庭|司《つかき》の忘れ形見。それぐらいでございますよ。後は普通《ふつう》に〈協会〉のお仕事でして」
「信じられませんわね」
一蹴《いっしゅう》して、アディリシアは相手を見据《みす》える。
「言っておきますけれど、今後伊庭いつきに害を加えようとするなら〈ゲーティア〉も黙《だま》ってはいませんわ。そう覚えておいてくださいませ」
「ええ、肝《きも》に銘《めい》じておきましよう」
もう一度、ひどく薄《うす》っぺらい笑みを、影崎は浮《う》かべた。
*
同じ頃《ころ》。元の病室。
「――社長。ライバル結社の首領と仲良くしてどうするつもりなんっ」
「お兄ちゃん社長っ。よくわかんないけど、うわきは絶対|駄目《だめ》なんだからねっ」
火を噴《ふ》くようなふたりに、いつきは問《と》い詰《っ》められでいた。
「いや……だからその、どうするつもりとか訊かれてもっ。だいたい浮気《うわき》って」
汗《あせ》を掻《か》くやら、瞬《まばた》きするやら、不自由な身体《からだ》を精一杯《せいいっぱい》に活用して、自分も戸惑《とまど》っていることを示す。いやまあその、柔《やわ》らかかったとか気持ちよかったとかいろんな感想はあるわけなのだけど。
そんなところに。
「にゃ〜あ」
「にあ」
「な〜〜〜あ」
「あれ、社長どうしました? さっきアディリシアさんとすれ違《ちが》いましたけど」
病院お断りの猫《ねこ》を堂々と引っさげで、猫屋敷が現れた。
「猫屋敷さん、た、助けてっ」
「は? 助けて?」
灰色の髪の青年は、んーと考え事をした後、ぽんと手を打った。
「あー、なるほど。なかなか楽しそうですねえ。さ、玄武《げんぶ》、白虎《びやっこ》、朱雀《すざく》、青龍《せいりゅう》、悪い社長を成敗していいですよー」
「「「「にゃにゃにゃーあ!」」」」
猫屋敷の許しを受けて、四|匹《ひき》の猫たちが果敢《かかん》に突撃《とつげき》してくる。その全員が悪戯《いたずら》好きな瞳《ひとみ》を、きらきらと輝《かがや》かせていた。
「う、裏切りものーっ」
そして。
とても魔法使いらしくない絶叫《ぜっきょう》と、楽しそうな笑い声が、小さな病室にあふれかえったのだった。
[#地付き]〈了〉
[#改ページ]
あとがき
忘れもしない七月の夜。『レンタルマギカ』のラフイラストを頂き、その美麗《びれい》さに狂喜《きょうき》しながら眠《ねむ》りについたときのことです。ふと目が覚めた僕の身体は……
「うっ、動かない引 指一本動きませんよ!」
なんと人生初の金縛《かなしば》り。思わずニヤニヤする僕。俗《ぞく》に「ヒットするホラー小説やゲームの作者は霊《れい》現象に遭《あ》う」などといいますし、これはもう『レンタルマギカ』の成功が約束されたようなもんじゃないですか!
が、妙《みょう》に様子がおかしい。こう、なんだか、下腹からしくしくするような違和感《いわかん》は……
「こっ……これは……まさか…………もしかして………………腹が減ってるだけ?!」
えー、そういえば資料に埋《う》もれたまま飯を食べるのを忘れてました。
この『レンタルマギカ』、高校生新人社長とその社員である魔法使いたち[#「その社員である魔法使いたち」に傍点]の物語なんですが、妙にたくさんの魔術系統があるせいで資料がだぶついております。
アディリシアのソロモン魔術に魔道書《グリモワール》、穂波のケルト魔術の歴史やドルイドの変遷《へんせん》、中世における魔術結社の誕生から解散まで……結局、資料の間を這《は》いずるようにしてキッチンまで辿《たど》り着いたわけですが、ごれも崇《たた》りにあったことにならんでしょうか?(笑)
ご挨拶《あいさつ》が遅《おく》れました。三田誠と申します。「みたまこと」じゃなくて「さんだまこと」だったりしますので、どうぞよろしく。
で、挨拶早々なのですが、担当の難波江さんより「もうページがありません。どんなに頑張《がんば》っても後八行しかありません!」ときつい指定をもらっているので、もう書けなかったりします。ちなみに、短いあとがきに担当の名前をいれた理由は「子供に自慢したいからあとがきに名前いれて」という素晴《すば》らしい言葉があったせいですが、これでいいですか (笑)。
では、最後に――ごの本を手にとってくださったあなたにとって、『レンタルマギカ』が楽しんでいただける物語であるごとを祈りつつ。
また、次の物語でお会いしましょう。
二〇〇四年八月
引っ越し準備に追われつつも、現実|逃避《とうひ》に『ナルニア国物語』を読みながら
[#改ページ]
平成十六年九月一日 初版発行
平成十七年十二月五日 六版発行