TITLE : 百億の昼と千億の夜
百億の昼と千億の夜
光瀬 龍
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角川e文庫
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目 次
序 章
第一章 影絵の海
第二章 オリハルコン
第三章 弥《み》 勒《ろく》
第四章 エレサレムより
第五章 喪える都市
第六章 新星雲紀
第七章 最後の人々
第八章 遠い道 夢をのみ
百億の昼と千億の夜に
――R・M――
序 章
寄せてはかえし
寄せてはかえし
かえしては寄せる波の音は、何億年ものほとんど永《えい》劫《ごう》にちかいむかしからこの世界をどよもしていた。
それはひとときたりともやむことはなかったし、嵐《あらし》の朝はそれなりに、なぎの夕べはそれらしくあるいははげしく、時におだやかにこの青い世界をゆり動かし、つたわってゆくのだった。
寄せてはかえし
寄せてはかえし
かえしては寄せる海。かがやく千億の星々は波間にのぼり、夜明けの薄明とともに広《こう》漠《ばく》たる波頭の果に沈む。
ことに暗い夜はかすかな流星が長い光の糸を曳《ひ》いて虚空をななめに、ほの白い水平線のかなたに墜《お》ちていった。その光は消えがたい残傷となって星々の間に記憶をとどめた。
星座はしだいにその形を変え、青い星に代って白い星が、橙《だいだい》色《いろ》の星に代って赤い星がその位置をおそい、またゆずり合い、すれちがっては新しい形象を編み出していった。
寄せてはかえし
寄せてはかえし
かえしては寄せる波また波の上を、いそぐことを知らない時の流れだけが、
夜をむかえ、昼をむかえ、また夜をむかえ。
茫《ぼう》々《ぼう》たる時の流れは、万《ばん》象《しよう》の上に仮借ないその足どりの跡をとどめる。たちまち過ぎさるものの中に在って、つねに、今は、崩壊しさり、いたずらにその形《けい》骸《がい》のみ深く堆《たい》積《せき》してさだかでない記憶と化すだけだ。もとより海も例外ではない。幾千億日の昼と夜、その水の面に映した星の光も、吹きすさんだ風や雨、燃える陽のかがやきも、凍結した波間に渦《うず》まいた雪も、今は水の分子の一つ一つに吸収され包含されて、たずね得ようもない。
海は。
時の語る長い長い物語をただ内におさめ、決してくりかえされることのない変容を記録しつづけてきたのだった。
風と雲と波と、明るい昼と暗い夜と。
海こそはもっともよき、時の理解者であった。
寄せてはかえし
寄せてはかえし
かえしては寄せる幾千億日の昼と夜。その間も波はたゆみなく鳴りつづけ、さわぎつづけてきたのだった。
遠い遠いある日、この惑星がまだじゅうぶん過ぎるほどの収縮熱と、地下の溶けた岩質や金属から噴き出す熱とで煮《に》えたぎっていたころ、まだ水素も酸素も、たがいに結びついてある一つの新しい何ものかを生み出そうということなどはせず、勝手に白熱のガスとなって荒れ狂い吹きまくっていた。地表はいたる所で炸《さく》裂《れつ》し、爆発ガスと熔《よう》岩《がん》は怒《ど》濤《とう》のように天高く噴き上げ、はためいて渦巻いた。原初の山や丘がもり上ってはふたたび熔岩の海の中に埋没し、滝のような火花がこの惑星のほとんど半球をおおって咲きに咲いた。
この惑星系を強大な重力の場で統《とう》禦《ぎよ》するオレンジ色の太陽は、適当な熱と放射線とをもってこの惑星に間断ない刺激をあたえ、その内部深く、また表面のひろがりの上に精《せい》緻《ち》な物理的、化学的変化を生ぜしめてきたのだった。二十億年におよぶ永い永い作業の結果が、今あらわれようとしていた。
空は厚い厚い雲におおわれ、陽はまだこの火《か》焔《えん》の荒れ狂う地表にはとどいていなかった。ほとんど暗黒の世界を、ただ熔岩が急流のように走り、百千の火花を散らしてぶつかり合い、大洋のようにゆれ動いていた。厚い雲の層の下はその爆発の火光にぶきみに照り映え、焼けただれた地表のかがやきが、この惑星をそのまま死へもちこむかと思われた。
厚い雲の中では電光がはためき、落雷の火柱が高く高く雲層をつらぬいた。流星の雨が何度か、この荒れ狂うガスの大気に向って突撃をくりかえし、その中の何個かは確実に灼《しやく》熱《ねつ》の軟《なん》泥《でい》を直撃したはずだ。暗い厚い雲に照り映える巨大な火球とその後に続く火の嵐は、見るものもないこの世界をどんなにか美しくまたすさまじくいろどったことだろうか。
しかし創世紀の饗《きよう》宴《えん》はようやく終ろうとしていた。そしてそのつぎの舞台はすでに地表をおおう火の海の下に用意されていた。
だが、この天体の真の主役であるものの出現には、さらに永い永い時を待たなければならないのだった。
そのむかし、宇宙空間にただよう目に見えない微細な星間物質の一個一個が遠い星々の弱いかすかな光の波におされおされて、このあたりの空域にしだいに集ってきた。一ミリメートルの一億分の一というような微細な物体が、光の波におされていったい一時間にどれだけ移動するものだろうか。一メートルの距離を動くのにどれほど永い時間を必要とするものだろうか。ほとんど無にひとしい宇宙空間のあちこちから、ただよい集ってくるその動きの遅々たる歩みとそのたしかさ。いつか永い時が過ぎ、星間物質の集りはしだいに濃密なガスの雲となってこの空域に浮かんだ。
マイナス百六十度Cに近い冷たいガスの雲は、背後の星々をかくし、あるいは近くの恒星のかがやきを受けて、光の雲、散光星雲となって茫々と光を展《の》べた。その濃密な集団のなかで星間物質のそれぞれの粒子は、たがいに引き合い、吸引しあって、無数の小さな塊《かたまり》に成長していった。やがてそれらは、小さな塊はより大きな塊へ、大きな塊はさらに大きな塊へと発展していった。やがて星間物質のもっとも大きな集合体がこの空域の重力の場を支配することとなった。この巨大な統率者は、ついにあの力の象徴である水素核融合反応の息づかいをはじめた。他のずっと小さな集合体は、そのかがやきと原子の力の前に整然と居を占め、以後、ここに惑星系を結んだのであった。
中心にあるオレンジ色の恒星は、一秒間に約五億六千四百万トンもの水素を燃やして、五億六千万トンのヘリウムを作り出した。このとき失われてゆく四百万トンの質量が刻一刻、すさまじいエネルギーに変って、周囲の宇宙空間にひろがっていった。
この恒星は十個の惑星を持っていた。そのもっとも内側を回るものは、中心の恒星より約五千七百万キロメートルの距離をおき、またもっとも外側に軌道をとるものは、平均約六百億キロメートルの遠くにあった。その内側より三番目のものは直径一万二千キロメートル。約三百六十五日でその軌道を一周していた。永い永い時の流れは、この惑星を形造っている素材の上に大きな変化を与えた。惑星自体の重力は素材を緊縛し、その中心に数万度におよぶ収縮熱を生ぜしめた。加えて放射性元素は営々たるその崩壊の過程に、おびただしい熱を発散した。それらの熱は、そのころようやくこの球体の表面をおおうに至った地《ち》殻《かく》をも、融かしさり灼《や》きつくしていったのだった。
凄《せい》絶《ぜつ》なほのおの時代は永かった。惑星はそれ以後の気の遠くなるような永い永い変化の年月の最初の第一歩を、おのれの内部にたくわえられた高い熱を発散することではじめたのだった。噴き出した熔岩は多くの物質をさらに多くの化合物へと変化させ、またそこにあったさまざまな物質を気体として自由に放散せしめた。
やがて噴き出す水蒸気は渦まいて厚い雲の下を這《は》い、真紅の鏡の破片のようにかがやいていた。
永い永い時の移り変りののち、水蒸気はいつしか霧となって地表めがけて降りはじめた。
天にまで届く火の柱、いつやむともない猛焔と爆風。灼熱の熔岩は火の大河となってなお不毛の地表を焦《こ》がしつづけていた。荒れ狂う熱雲の上に、吹き千切れる霧はたちまち蒸発して地表にとどくはずもない。だが水蒸気はしだいに濃く、粒を大きくし、ついに霧は明らかに雨となって厚い雲から降ってきた。しかしその雨が地表にとどくまでには、またさらに数千万年を必要とするのだった。
永い永い時の移り変りののち、
最初の雨滴がようやく地表にまでとどいた。それは一瞬のうちに蒸発してしまった。しかしその時間はたとえ数百分の一秒であろうとも、確実な冷却水と、つぎに生れる全く新しい変化の最初の到来として、この惑星の歴史の上にこれまでになかった重大な記録を止めたのであった。
時はゆっくりと過ぎ去り、百年が、千年が、万年が、そしてさらに億年を数えるころ、雨はしだいに強く、はげしく、やがてしぶきを上げて降りそそいだ。高熱の水蒸気がおそろしい勢いでふくれ上り、大気はくりかえしくりかえし引き裂けた。熔岩の焔の海の温度がたった一度さがるのに、どれだけの年月と水量を必要としたことだろうか。
雨は幾万年、幾十万年の間、絶え間なく降りそそぎ、やがて熔岩の火の海が熱い泥《でい》濘《ねい》の原と化し、なお噴き上げる高熱の水蒸気の渦の中にようやく黒い火成岩の地《じ》肌《はだ》があらわれてくるまで、火と水は戦いつづけたのであった。
ついに火の退却するときがやってきた。
熔岩を噴き出したために収縮した低地に、水がたまりはじめたのだ。
冷えた熔岩の多孔質の肌は吸えるだけ水を吸ったのちに、その孔に押しつまった微細な破片のために、もはや水を通さない堤防となった。
さえぎられた水はそこに満々たる湖水を現出した。雨はなおはげしくその水面をたたきつづけた。無数の内海はつらなってしだいに大きな大洋へと成長していった。多くの火山は、外観だけはなおいささかのおとろえも見せずに壮烈な爆裂をくりかえしていた。雨と降る火山弾、天をおおう噴煙、急流となってはしるほのおの熔岩流。たえまなくおそってくる猛烈な地震、地すべり。雨はそのすべてを押し流すほどすさまじく降りそそいだ。
大気の大循環のエネルギーがあるていどおとろえたとき、しだいに薄く、矢のように千切れ飛ぶ雲の切れ目から、最初の太陽の光がこの荒れ果てた地表を照らした。煙とも雲ともつかぬ分厚な暗いガスの重なりの間から射しこんできた一筋の陽光は、赤茶けた爆裂火口の断《だん》崖《がい》を照らし、もうもうと熱い湯気を吐く大洋の面をきらめかせた。そのかがやきの中で、遠い火山の噴き上げる黒《こつ》褐《かつ》色《しよく》の煙と、その斜面を流れくだる熔岩の急流とは、どんなに鮮烈に見えたことだろうか。
はた、また、
地平を水幕でおおうはげしい雨足の暗い動きが、おりから灰色の雲層を背景に、幾重にも浮き上った虹《にじ》とともに、どんなにこの平原を荒涼と見せたことだろうか。
夜は、その雲の切れ間から星がのぞいた。大気のはげしい流れのために、星の光は今にも吹き消されるとばかりまたたいていたことだろう。そのときこの惑星ははじめて、おのれを生み出した大宇宙をのぞいたのだ。遠い遠いどこからか、なにものかが呼びかける声を聞いただろうか。星々は凄《せい》壮《そう》な光を、なお荒れ狂う地表に投げかけ、しかし、そのあとにやがてくる静穏な時を告げていた。歴史はまだはじまったばかりであり、これから幾多、変転の永い年月が来るのだった。
あたたかい雨水のプールはさまざまな物質を溶かしこんでしだいに濃厚なスープとなっていった。比熱の大きな、またすぐれた溶媒である水は、つぎからつぎへと新しい物質を呑《の》みこみ、おのれの中でそれまでになかった全く新しい物質を造り出していった。そのおびただしい化合物は、複雑な有機物の中から蛋《たん》白《ぱく》質《しつ》を組み立てていった。
永い永い歳月が確実に、音もなく過ぎ去っていった。
空から降ってきた水と、地の底からしぼり出された水とは、やがて地表の窪《くぼ》地《ち》に集り、この惑星の表面積のほとんど三分の一を占めるにいたった。地表はようやくこのころ、陸と水とにはっきり分けられるようになった。窪地に集った水はもうそこから移動することはなかったし、かえってそのおびただしい水の重量をもって地殻を押さえつけ、その沈下をうながしたのだった。広大な水域の周辺部ではなおはげしい火山活動がつづけられ、火山噴出物はさらに多くの酸性、塩基性の物質を水に溶かしこんでいった。
雲間洩《も》れる太陽の光が、その新しい広漠たる海面に強力なエネルギーを吹きこんでいった。日に何回となくおそってくる地軸を流すようなはげしい雨は、たえ間なく海をうすめ、地を洗って、流れこむ多量の無機物をふくんだ水と入り乱れて氷塊を作った。
薄墨色の雲は千切れ千切れて、そこから染めたように青い空がのぞいていた。そのたなびく層雲に、沿岸にそびえる山々は、遠く幻《まぼろし》のようにかすんでいた。大地向斜の造り出したそれらの山々は一日に数センチメートルもの成長をとげつつあった。なおゆれやまぬ地震と地すべりは、大陸の成長と変《へん》貌《ぼう》を告げていた。
幾つかの大陸が出現し、それをとりまく海洋との間に急激な、あるいは緩慢な進退がくりかえされた。最初、単調だった海岸線はしだいに複雑な湾や入江を刻み、日夜、陸地から流れこむ土砂のために、海もまたその傾斜をゆるめていった。
その海の、波おだやかな表層のどこかで、硫《い》黄《おう》や、燐《りん》や、カリウム、カルシウム、そして窒素、炭酸ガス、アンモニア、さらにたくさんの物質を原料として最初の原形質が作られた。それらが複雑にからみ合って原形質を構成するその条件の到来は、極めてまれであり、またせっかくでき上ったものも、たちまち崩壊してしまったことであろう。おびただしい失敗や不幸な試みのくり返しののちに、いつかおのれ自身で繁殖し、エネルギー代謝を営む極めて簡単な生命が出現した。これを真の生物と断定を下すことはむずかしい。生命体と無生物とはもとより確然たる区別などはないにしてもここではまだ、より生物的特性の少ない素《そ》朴《ぼく》なものであった。それらのものの間に、吸収するものと吸収されるものとの序列が生じ、生存競争の苛《か》酷《こく》な開幕のベルが鳴った。淘《とう》汰《た》は必然的によりすぐれたものを生み出す。濃厚なスープの浅瀬に出現した簡単素朴な原形質は、やがておのれを生み出した大自然に対してさえ挑《ちよう》戦《せん》するような高度な知性体への発展の必然性をすでにはらんでいたのだった。
その間にも海は、ゆるやかなしかしはげしい変化をとげつつあった。大陸を二つに分ける細長い海はいつしか消え去って、そこにこの惑星の表面でもっとも雄大な一つの高みを作り出した。そのいただきはつねに鋼《はがね》のような氷雪をよろい、そこから巨大な氷河がすべり出しては、何度も、はるか下界である地表に攻めこんでいった。
四つの大洋はその茫々たる水面で今やこの惑星の気象を掌握していた。また四つの大陸は、海の攻撃を果敢にくい止め、独自の自然をその内陸深い所に形造っていった。
すでに二十億年の歳月が過ぎさり、つぎの二十億年が来ようとしていた。
海には無数の生物がうごめき、泳ぎまわり、また分裂や産卵をくりかえしていた。
三葉虫はこの惑星の海の海岸地帯をひろく占領し、しばらくの間はそこへ何ものの侵入も許さなかった。堅固な装甲と、当代比類ない感覚器官とは、かれら以上に強力な生物のあらわれてくることを阻害していた。軟体動物や棘《きよく》皮《ひ》動物は、体の本質的な構造では決して三葉虫に劣るものではなかったが、その防《ぼう》禦《ぎよ》的性格は三葉虫と覇《は》を競うにはあまりにも消極的であり過ぎた。三葉虫はその大きさ、二センチメートルから二・五メートルまでの数百種類があらわれ、かれらの種属の繁栄をうたった。
しかしそのころ、そうした三葉虫の群れに追われながらも、青い海の深みで、しだいにつぎの時代のにない手としての力をたくわえ、ためつづけていた種属があった。
かれらは最初のうちこそ、当時の流行であった厚い堅固な装甲をまとっていたが、やがてその不利をさとって、それを軽いごく小さなキチン質の小板をつらねたうろこに置き換えた。外《そと》鰓《えら》を内《うち》鰓《えら》に、扁《へん》平《ぺい》な体形をより水の抵抗の少ない紡《ぼう》錘《すい》形《けい》に、球形の小眼を魚眼レンズに、そして無数の関節式の遊泳肢を数枚の効率の高いひれに変えた。
もちろん、こうした変化は百年や千年の年月で生れるものではない。何千万年という時の流れにうち勝つ忍耐と努力がそれをなしとげたといっても決していい過ぎではないであろう。絶え間ない三葉虫の攻勢の前に、おびただしい犠牲を払いながら、そして何度か絶滅の危機にひんしながら、その危機をのりこえるたびに、より新しいより環境に適した型が編み出され造り出されていったのだった。
体重――単位重量あたりのエネルギー消費量の少ない、バイタル・エネルギーの極めて高い動物の出現の前には、もはや攻撃的武器も防禦的性格もその意味を失った。はじめて広大な海洋が生物のために舞台を提供したのだった。これまで沿岸水域を生活の場にしていた三葉虫は、魚族の自由な侵入の前にもはやなすすべもなかった。三葉虫の棲《せい》息《そく》可能深度には限界があり、体の重いかれらには、一度、海底の深みにおちいったら最後、もとの浅瀬にもどることはほとんど不可能であった。
泳ぐことを止めてしまったら海底まで沈んでしまう動物と、たとえば疲労のためにひれを動かすことをやめても、そのまま浮いていられる動物との二つが同一の水域で生存を争うとき、勝敗はおのずからあきらかだ。
加えて、魚族は三葉虫の卵や幼生が無二の好物だった。もちろん、三葉虫も岸べに流れただよってくる魚族の卵塊や幼魚をむさぼり喰《く》ったことだろう。しかし広大な海そのものを基地とする魚族の大集団の前に、あくまで沿岸の浅瀬を生活の拠り所とする三葉虫とは、すでにそのへだたりはあまりにも大きかった。
怒《ど》濤《とう》の吠《ほ》える荒《あら》磯《いそ》で、密林に囲まれたなまぬるい入江で、三葉虫は一匹、また一匹とその姿を消していった。
この三葉虫と魚族の交代こそ、生物の歴史の中で劇的なものはない。
そして、このとき、やがてその魚族が未知の世界への上陸を企《くわだ》て、そこから完全な陸上動物があらわれ、やがては後《あと》肢《あし》で立ち上るという極めて斬新な形態があらわれることが約束されたのだといってよい。
このあとに続く時期の終りに、魚族の中の幾つものグループが、後退する海から自由に、なるべく陽光と大気にさらされながら、危険な上陸と、それに加えて内陸侵入をやってのける。その果敢な、勇気に満ちた開拓者は、こうして生物の歴史の上に二つのかがやかしい業績を残すのだ。
海は、そうした幾多、生物たちの見果てぬ夢や勇気や、努力興亡の唄《うた》を書きとどめてさらに永い永い年月を、鳴りつづけ、さわぎつづけるのだった。
星座は静かにその形を大きな魚から龍へ、龍から水がめへ、そして狩人の形から首飾りへと変えていった。かがやく星が幾つか、数倍、数十倍する光をまき散らして天から消え、あとに漠《ばく》々《ばく》たる光の雲を残した。
永い永い年月はただ静かに、音もなく過ぎていった。これまでそうであったように、これからもまた。
時にもし終りがあるとすればそのときまで。
ただ
寄せてはかえし
寄せてはかえし
かえしては寄せ
夜をむかえ、昼をむかえ、また夜をむかえ。
第一章 影絵の海
旅人、ひざまずきて言う。
ああ、涸れたり、と。
海の中はあらゆる音でみちている。水は空気の何倍もの早さで音を運び、雑音をこしとってしまう。複雑な潮の流れや、海草の茂みが音の波をそらし、集め、また拡散させる。
海底の岩の割れ目をくぐりぬけてゆく底流の、かすかに空気の洩《も》れるような音。流されてきた小さな貝《かい》殻《がら》が、石灰サンゴの群体の間をゆるやかにころげ落ちてゆく、雨だれに似た断続的な緊張音。見えない磯《いそ》で、波に巻きこまれた空気の泡《あわ》が、海面ではじけるごろごろという遠雷ともまごうひびき。はるかな海《かい》溝《こう》に面した絶壁の一部が崩《くず》れ落ちてゆく、圧迫感をともなったにぶい震動。そして海に棲《す》むおびただしい生物たちのつぶやきがある。
ぐる……ぐる……ぐる、ぐる……るる
眠気をさそう小さな糸車のひびきは、二枚貝の吸水管を通ってゆく水の流れだ。
カッ……カ、カカカ……カカッ……
ウミユリの淡《たん》褐《かつ》色《しよく》のかたい柄が、かすかにたわむひびきが伝わってくる。
みたされることのない食欲のために、絶えず、クキ……クキッ……とあごをかみならしている甲《こう》殻《かく》類《るい》。
ごあおう、ごあおう、ごあおう……
恫《どう》喝《かつ》的なひびきをまき散らしながら、大形の軟骨魚類の一隊が悠《ゆう》然《ぜん》と通過してゆく。
かれらのえらの動きは大きい。そのひびきは他のより小さな生物たちの動きに、一瞬、動揺を与えるに充分だった。その音が遠ざかると、軟《なん》泥《でい》に開いた小さな巣孔から、地味な環形動物がそっと房のようなえらを出してゆるやかにふりはじめた。灰白色の丸い頭が巣孔のふちからのぞき、ただよってくる海草のひとかけらにおびえて、あわててその房のようなえらを引込める。
きゅ――
水をしごくその張りつめたきしみ。
ざあ――ざあ――
はげしい雨足が水の面をたたくような騒音が、しだいに近づいてくる。アミに似た小形の甲殻類の大集団が通過してゆくのだ。その音は長いことかかって、ようやく遠い深《しん》淵《えん》へ向ってななめに消えていった。
それを追うのか、何ものかの大きな黒い影が幻《まぼろし》のようにすばらしい流線を描いてはるかな頭上をすべっていった。
シャ、シャ、シャ、シャ
力強く水を打つ音が落ちてくる。
それもかすかに遠ざかると、つかのまの静寂がよみがえる。
遠い浜辺で波のくだける音が、岩《がん》礁《しよう》の間を縫ってゆっくりと伝わってくる。
かれは巣孔から頭をつき出して周囲のようすをうかがった。海草の林の奥がはげしくゆれて、そこから時おり大きな体の尾ひれや背びれの一部が見えたりかくれたりしていた。やがて全身をあらわしたのが、体は大きいがたいへんおとなしい軟骨魚類だった。
かれはそれをたしかめてからするりと巣孔をぬけ出した。海草の林をふわりと飛びこえて岩礁と岩礁の間のせまい水路を浜の方向へ進んだ。かれの姿におびえた大きな軟骨魚は、左右の胸びれをたくみに使って尻《しり》さがりに後退していった。小さな魚の群れが風に舞う木の葉のように水路を埋めて吹き過ぎていった。そのためにかれの視界はしばしば閉ざされた。せまい水路を出はずれると、海底はいったん急激に深まる。この谷を伝わってゆくと、陸地から多量の水が流れこんでいる危険な窪《くぼ》地《ち》に出ることはかれも知っていた。その付近は、このあたりでは全く見かけない変った魚族や海草しか棲《す》んでいなかった。
かれは谷を直角に横切って対岸の岩礁にとりついた。
その暗い谷間の底に、かれのひどく気になるものが沈んでいるのだった。そびえ立つ岩礁にさえぎられて、つねにくらくかげっている砂《さ》泥《でい》に半身を埋めて、それはもう永いことそこに沈んでいるのだった。赤くさびつき、黒ずんだ海草につつまれた巨大なそれはかれがこの谷間を通るたびに、かれの神経に、あるえたいの知れぬ危険なものを吹きつけてくるのだった。
その奇妙な物体がそこに沈んでいるのにかれが気づいてから、もう永いことになる。しかしかれはただの一度も、そこへ降りていったことはなかった。かれ以外の魚族が、時たまその暗い谷間に獲物を求めてもぐりこんでゆくことがあったが、なぜかひどい恐怖にかられて気が狂ったように急上昇してくるのだった。それらの魚族の中には、この暗い谷間から脱出できずに、より深みへ沈んでしまうものもあるに違いない、とかれは思っていた。
かれは身をひるがえしさらに浅瀬へ向った。とつぜん、かれの後方の水が急激に渦《うず》巻《ま》いた。ふり向いたかれの眼前を一瞬、巨大な黒い影が矢のように通り過ぎた。精《せい》悍《かん》な姿態に、面も向けられないはげしい殺気がこもっていた。かれは海底に腹をこすりつけるように急旋回をうった。二度目の攻撃がおそってきたときは、かれはその巨大な硬骨魚よりもさらに高い位置から攻撃に移れる優位にあった。三度、すれ違ったときには勝敗はきまっていた。かれはもっとも美味な内臓だけを口におさめると、まだ必死にあばれまわる巨体をむこうへ突き放した。周囲の海水が真紅に染まり、さらに幾本もの血のすじが重く海底へ沈んでいった。おびただしい小魚が雲のように群れ集ってきた。かれはいそいで食物をのみくだし、水といっしょに食道に入ってきた多量の海水を、背中の排水孔からどっと噴き出した。周囲に集ってきた小魚たちが、その水流に巻きこまれて木の葉を散らすように乱れた。ここに長居は無用だった。血の匂《にお》いをしたって凶暴な大形の魚族が、間もなくここにあらわれるはずだった。かれはわけもわからず追いしたってくる小魚の群れを追い散らしてから、いっきに磯波にのった。そのままぐんぐん突き進むと、いつもかれの休息する低い岩礁があった。波しぶきにたたかれ、水煙を曳《ひ》いているその平たい岩盤にかれは這《は》い上った。
鉛色のくらい海原と、そのむこうにひろがる褐色の平原が見えた。海と陸とはほとんど同じ高さであり、ただその間を区切るものは白い帯となって長く横にのびる磯波だけだった。遠い沖から吹いてくる風は、かれの頭のわきで絶えず笛のように鳴っていた。その風は海につづくむこうの平原まで吹きわたってゆくのだろうと思っていた。かれは体をもたげ、首をのばして、その褐色の平原を見やった。そこには動くものの影とてなかった。平原の果は淡い褐色のもやの中に消えていた。そのもやに閉ざされたはるかな地平線の一方に、林のようなものが遠く影絵のように浮いていた。幾つもの尖《せん》塔《とう》のようにとがった先端が、褐色のもやからわずかにあらわれ出ていた。
静かだった。実に静かだった。聞えるものはただ風の音と磯にくだける波の音だけ。
――この風景を最初に目におさめてから、もうどれだけの昼と夜をむかえたことだろうか。
かれは単純な心で、もう何回か考えたことをまた胸のどこかにのぼらせた。つねに何ものも動かず、何の物音も聞えないこの奇妙な静けさに満ちた世界が、なぜかかれにはたまらなく不安になるときがあった。
風はしだいに冷たく、海面は一面に泡立って千切れ千切れに吹き飛んだ。
かれはその風を負って大きく跳《ちよう》躍《やく》し、高い水音を立てて水中に没した。なおしばらく海岸線と平行に泳ぐ。かれのつややかな濃藍色のひふがくらい波間に、しばしば見えなくなる。波間に沈む岩礁を縫ってかれはいま一つの平たい岩盤によじのぼる。つかれた体を投げ出し、食道に侵入してきた水をいっきに吐き出す。吐き出した水は、はげしい風に霧となってたなびいた。えらの間にはさまった無数の砂粒を洗い流すために、かれは何度も何度も、水中に頭をつっこんでは勢いよくはね上げた。
そこから先はするどい岩礁が複雑な水路を造っている。かれはその先へは行ったことがなかった。行ったところで、これまでと同じ、くらい海原に褐色の平原だけが果しもなくつづいているだけであろう。
それにかれはこの平たい岩盤が好きだった。この岩礁の周囲にはかれの好物の、大きな殻を持った甲殻類が多かったし、それにかれは、この岩盤からながめた平原の風景がつねに忘れられないのだった。
かれは後《あと》肢《あし》で体を直立に支え、丸い大きな目ではるかに求めるものを探《さが》した。
かれは背中の排水孔から虹《にじ》のように霧を噴きながら伸び上った。
それは在った。
平原の中景に遠く、黒い影となって四角な巨大なものがそびえていた。それがいったい何であるかは、もとよりかれには見当もつかなかった。しかしこの果しなくひろがった荒涼たる水と陸の中で、それは他の何ものとも違う異様な形象を持っていた。いつごろからそこに在るのか、いったい何ものがそれをそこに据《す》えたのか、あるいは建てたのか、いっさいはかれにとって深い謎《なぞ》だった。その奇妙な物体には、この天地の持つ本来の死の静けさとは異ったある近づいてはならない、決して触れてはならないぶきみなものの匂いがあった。それはかれのすべての感覚器官が総毛立つような戦《せん》慄《りつ》で、かれにうったえていた。
気になればなるほど、かれはひんぱんにこの岩盤にやってこなければならなかった。
かれは本能的にそれを恐れながら、この異常をはらんだ風景に強烈にひかれていた。
風はいよいよはげしく冷たく、かれの濡《ぬ》れた体におそいかかった。
永いことかれは平原に顔を向けていた。
その間に天地はその暗さを一つにし、ただ磯波の白さだけがかれの目に泡立つ長い帯となって映っていた。それもいつしか闇《やみ》に溶け、かれをとり巻くものは、ただはげしい冷たい風と立ちさわぐ波とだけになった。
かれは夢からさめたように周囲を見わたし、ふたたび水中にもどった。
夜がくるとそのねぐらからあらわれ出るたくさんの種族たちが、どっぷりと重い海中にひしめいていた。かれのゆくてで、二匹の大きな魚族が争っていた。長い体をくねらせて車輪のように二回転した。よく見ると、二匹はたがいに相手の尾を、そのつけ根のあたりまで呑《の》みこんでいるのだった。かれは泳ぎ寄ってその二匹を捕え、体の前半身だけを喰《く》い千切った。大きな頭骨が胸につかえたが、かまわず呑み下した。群れ集う小魚の雲を突き破ってふたたび泳ぎ出したかれの目に、明るいオレンジ色に光る球体が飛びついてきた。すばらしくしなやかで強じんな、長いものがかれの体のあちこちを締めつけてきた。このあたりに群《ぐん》棲《せい》する多くの足を持った軟体動物の一匹だった。かれは頭をおおって、鋭いくちばしの一撃をさけて水を蹴《け》った。右肩から錐《きり》もみに入ってその反動で軟体動物をふりほどこうとした。いつもその方法が有効だったのだ。しかしこの敵はそんなことではかれの体を締めつけてくる力をいっこうに弱めようとはしなかった。かれはやむなく頭に巻きついてきた太い足を、あごの力で喰い切った。背中や肩、腰などに巻きついている足をベリベリと引きはがすと、袋のようなそれを三つに引き裂いて投げ棄《す》てた。これらはまずくてとても食えたものではなかった。このあたりの海底に棲む、房のようなえらを持った細長い環形動物たちの餌《えさ》にでもするよりしかたなかった。
かれは暗い谷間を泳ぎわたり、海草の林のかげの岩礁にたどりついて、はじめてえらの動きをおそくした。岩礁のかげに、かれのねぐらであるポッドが横たわっていた。いちめんに石灰質の貝《かい》殻《がら》でおおわれ、その上を楕《だ》円《えん》形《けい》の葉状体の海草で包まれていたが、円い入口の縁は、かれが出入りするたびにこすられ、磨《みが》かれて銀白色の材質を露わしていた。砂泥に埋まっている部分まで掘り出せば、その大きさはおそらく、この付近の海底にそびえる岩礁ほどの大きさになるだろう。かれは入口をくぐって内部の二重のまゆの中に体を落ち着けた。まゆの底からおびただしい気《き》泡《ほう》が立ち昇ってかれの体をおし包んだ。その気泡はかれの濃藍色のひふに無数の小さな泡《あわ》粒《つぶ》となってとどまった。そこから体の深奥へ、じいんと強烈なものが浸《し》みこんできた。かれの体内にたまった何かがみるみる溶けて流れ去った。かれはまゆの底に体を横たえて眠りにつこうとした。このまゆの奥底にいったいどのようなしかけがあるのか、かれはたしかめてみたこともなかったが、かれにとって離れ難い何ものかがここに存在していた。
夜の海底は昼と同じように、さまざまな音やひびきが遠く近く交錯し、こだましあった。眠ることを知らない環形動物や棘《きよく》皮《ひ》動物、さらにより簡単な機能を持った動物たちが夜っぴて騒いでいる物音が、ポッドにおさまったかれの神経をほんのわずかの間うずかせた。かれは一度、身じろぎしただけでそのまま深い眠りに落ちこんでいった。横腹に緑色の光の点を飾った魚がポッドの中をのぞきこんだが、何におどろいたのかまっしぐらに暗黒の水の奥へ逃げ去っていった。
さらに永い年月が過ぎていった。
かれは毎日、ねぐらと二つの岩礁の間を往復しては、あかず鉛色の海原と褐色の平原をながめて暮した。そのほかにはただ、えさを捕えることと眠ることと、それだけがすべてだった。えさは豊富だったし、時におこなわれる大きな軟骨魚との戦いもなまなましい興奮と刺激とをもたらすだけだった。仲間がほしいなどと思ったことはただの一度もなかったし、また自分と同じ形の生物にめぐりあったことなどもただの一回もなかった。
かれはその日も、すみかを出て海草の林をぬけ、岩礁の間のせまい水路へ進んでいった。いつの頃からか、水路の両側に海草のような小さな棘《きよく》皮《ひ》動物がいちめんにとりついて、ちょうど苔《こけ》でもはえたように切り立った斜面をおおっていた。いつもならそこに半透明の小さな魚族が雲のように群がっているのに、なぜか一匹も見えないことに気がついた。気がついてみると、そのほかの小魚の群れも全く姿をひそめ、水路は気味の悪いほど静まりかえって澄んでいた。かれは水を逆にかいて行足を止め、周囲のようすをうかがった。たしかにいつもとは違っていた。海底の砂に小さな穴を掘って、房のようなえらだけを出して水になびかせている小さな環形動物が、今日はなぜかみな穴の底にかくれて、その堅い頭部のいただきでしっかりと穴をふさいでいるのだった。
なにをおそれているのだろう?
かれは全身の神経を針のように鋭くといで岩礁のあちこちをうかがったが、どこにも危険の兆候はひそんでいないようだった。かれはふたたび前進をはじめた。
暗い谷間の上を通り過ぎるとき、下を見おろすと、その暗いよどんだ深みに落ち着かなく泳ぎ回っている大きな軟骨魚の一隊が影のように見えた。
なぜあんな所に逃げこんでいるのだろう?
ふだんなら決して入りこもうとしない所だ。今日はより深いかくれ場所を求めて、つねの日の恐怖も忘れて、くらい谷間でおびえている。
かれの心に、はじめて濃い不安が翳《かげ》を落した。警戒心の底に本能的な危機感と、これまでに感じたことのないはげしい恐怖が湧《わ》いてきた。かれは一瞬、自分のすみかへ逃げかえろうか、それとも魚族のようにあの暗い谷間に身をかくそうか、と思い迷った。しかし結局、かれは第三の考えに従った。
かれは細心の注意を周囲の水の動きに向けながらそろそろと進んでいった。
岩礁の間をぬけていつもかれが好んで休息する岩盤の付近まで進んだとき、かれはその日がこれまで送りむかえた永い年月のどの日とも異っていることをはっきりさとった。今や不安や恐怖の根源はかれをひしひしととりまいていた。それが何に起因するものなのかはっきりとたしかめたいという熱い欲求にかられて、かれは岩盤に這《は》い上った。
鉛色の海原と褐色の平原が荒涼とひろがった。風は相変らずはげしく沖の方から吹きわたってきた。その風の氷のような冷たさにかれは身ぶるいした。
褐色の平原の奥は、煙のように濃いもやが厚くたなびいていた。
あれは!
かれは石のように身を固くした。
平原の果にたなびくもやのさらに奥を、高大な山脈のようなものがゆっくりと動いていた。その高さは灰色の空まで届き、少なくとも三つの峰《みね》からなるいただきを持っていた。これまでそんなものがこの平原のむこうにあることなどかれは知らなかったし、またどんなに視界の澄んでひろがっているときでも、見えたことがなかった。
あそこにも! いや、そのうしろにも!
もっとも高く濃くのぞまれるもののかなり後にもう一つ、そして幻のように淡く遠くさらに一つが、地平の果を右から左へすべるように移動していた。
その影の移ろうような確実な動きには、見るものの心を冷え上らせるような、ある異質なものがこめられていた。
なんだろう、あれは?
もしこのときかれがこれまでに陸上の山脈かあるいは海底山脈の一つでも見たことがあったら、今、はるかに望見されるものが、それと酷《こく》似《じ》していることに気づいて、かえってひどい恐怖と惑乱におちいったことだろう。しかしさいわいに、かれはまだ山岳というおそろしく高大なものについては何一つ知らないのだった。
ふと、かれはあることに気づいて、岩盤の上にいそいで立ち上った。
平原のずっと左方、濃いもやの奥に今日もあの幾つものとがったいただきを持つ翳が幻のように浮かんでいた。
平原を移動してゆく巨大な山脈は、その幻の林へすべってゆくのだ。
かれは永いことその硬質の幻覚のような風景に顔を向けつづけていた。
永い永い時間が過ぎていったようだった。その間に何度か、かれは、
あれはなんだろう?
胸の中で自分をとりまく天や海に問うた。そして、
ここはどこだろう?
おのれに向ってささやいた。
彼の心を固く閉ざしていた何かが、今、一つまた一つと剥《はく》落《らく》してゆくのを、かれははげしい心のしびれのうちに感じていた。
何回か夜と昼を送り、はげしい雨にも身をさらした。海は絶えず耳もとでごうごうと鳴りつづけ、岩盤にくだける波しぶきは滝のようにかれの体を濡らした。紫色の電光が冷たい波がしらを蒼《そう》白《はく》に染め、雷鳴は広《こう》漠《ばく》たる海原をわたってはるかにどよめいていった。
かれは岩盤の上に倒れ伏したまま、打ち寄せる波に絶えずゆり動かされていた。
この岩礁の周囲に群れ棲《す》む甲殻類も、ときおり水面に銀色のうろこを光らせておどり上る魚族も、なぜか一匹も姿をあらわさなかった。岩礁性の海底を埋めつくす海草の林も、すべて汚白色に色あせ、根本から千切れて荒れ狂う波間にただよい流れた。それはこの海域をしばらくの間、薄紙を千切って投げ棄てたように半透明におおいつくし、やがて沖へ流れ去ってしまった。
吹きすさぶ風の音がかれを全くとつぜん現実に引きもどした。
びょうびょうと鳴る風のはげしい不協和音が、たまたまかれの聴神経を鋭く刺激し、半ば喪《うしな》われていた大脳の機能をいっきょにゆすぶり起した。
かれは体を起し、なお永いこと虚《うつ》ろなまなざしを広漠としたくらい海原に投げていたが、やがて全身をふるわせると、目の前の荒波に身をひるがえした。
記憶がよみがえってくるまでにかなりの時間がかかった。最初にかれの脳《のう》裡《り》に浮かんだものは、夢とも現実とも区別のつかぬあの平原の異常な風景だった。
かれは何度も、波頭に乗って首をもたげたが、遠い褐色の平原には何ものの影も認められなかった。
左に遠く、あの幾つかの高い尖《せん》塔《とう》をそびえ立たせた幻の林がくらい淡色にのぞまれた。
ただ、それだけ。
夢だったのだろうか?
かれは頭をふった。
記憶のどこかに焦げつくような不安が残っていた。
かれはまっしぐらに岩礁の水路を通りぬけ、くらい谷間をおどりこえていった。一匹の魚族も、ひとかけらの海原もなく、ただ古い貝殻をすき間もなく貼《は》りつけた岩礁と、灰白色の裸の砂とが薄明の水中に死のような静寂をただよわせているばかりだった。
海底をおおってたなびいていたさまざまな海草は、いったいどうなってしまったのだろう?
砂泥に小さな孔《あな》をうがって、美しいえらを咲かせていたにぎやかな虫たちは、いったいどこへいってしまったのだろう?
そして甲殻類も、凶暴で勇敢な大きな軟骨魚類も?
くらい海底には、はるかな荒磯にくだける波の音と、岩礁の間をゆっくりと流れ動いてゆく潮流のまさつ音だけが、高く、低く、伝わってくるばかりだった。
おびただしい動物たちの発するさまざまな音は、全くどこからも聞えてこなかった。
かれはその原因をつきとめたかったが、今それをすることは非常に危険なことに思えた。かれは全力をふるってすみかにもどると、頭から内部にもぐりこんだ。
はじめてこれまでに経験したこともないような疲労がどっとかれの全身をおそった。えらの動きがみるみるおそくなり、丸い頭ががっくりと垂れると、かれはたちまち深い眠りに落ちこんだ。
かれが眠りに落ちて一分ほど過ぎたとき、円形の入口が音もなく周囲から閉じた。内部のどこかで、コンプレッサーのかすかな回転音がうなりはじめた。内壁から複雑な形のマジックハンドがのび出し、その先端の銀色の針をかれの濃藍色のひふに深く突き立てた。その針につづく管《チユーブ》が通過する液体でふくらみふるえはじめた。さらに何本かの針管がのび出してきた。かれの丸い頭に半球形のキャップがはめられ、それからのびる微細な電線の束が、くもの巣のように内壁のあちこちにはりめぐらされていた。厚く貝殻に包まれたポッドの側面から太い二組の管が突き出し、一組は音をたてて海水を吸いこみはじめ、もう一組はほんの少しおくれて無数のこまかい気泡を噴き出しはじめた。そのおびただしい気泡の列は、あとからあとから海面めがけて立ちのぼっていった。そのゆらめきは、この生物の気配とてない不毛の海底に無機質な変化を与えていた。
なにも知らず、かれは眠りつづけた。
第二章 オリハルコン
汝、塵にかえれ。
汝、塵より生れたなればなり。
その日もサイスの乾《かわ》ききった白い石だたみの街路には熱風が渦《うず》まいていた。崩《くず》れかかった石のアーチを支えた太い松材から赤い松やにがにじみ出て、その独特のなまぐさい刺激的な匂《にお》いが、塩を焼く匂いにまじってせまい街路にただよっていた。
何を運ぶのか、背に山のようにかますを積み上げた小さなろばが、首をふりふりあえぎながらやってくる。汗で濡《ぬ》れた首すじに青い目の大きなあぶがじっと動かず飾りもののようにくらいついている。ろばはひとりで街路を曲り、石でたたみ上げたアーチをくぐって露地へ入ってゆく。すると、今まで全く姿の見えなかった主《あるじ》がふいにろばのかげからあらわれて、持った手づなをぴしっ、ぴしっ、と鳴らした。
暑い。やたらに暑い。プラトンは、アラビア人風にかかとまでおおって体に巻いた白い麻布を、ぐい、とたくし上げて脛《すね》に風を入れた。
「まだか、その神官の家は」
アラビア人の従者は褐《かつ》色《しよく》のひげの中から答えた。
「だんなさま。その露地をぬけた広場の端でございます。もう少しの辛抱でございますよ」
四、五年前、ロードス島の貴族がプレ・アカデミーを創立するからというので招かれてその地へおもむいたとき、たまたま従僕としてやとい入れた者が、下層民らしからぬ博識さが気に入って、今ではプラトンのもっとも信頼する私設秘書になっているのだった。
「グラディウス、その隠退神官は、文書はたくさん持っているのかね、ほんとうに」
「私めがロードスにおりましたとき、宰領のテリポリウスという男が、その文書の束というのを見たそうでございます」
プラトンはひたいの汗を、まとっている白布の端でぬぐった。
うす暗いひんやりしたアーチをぬけると、中央に楊柳《タマリスク》の大樹が茂っているせまい広場へ出た。でこぼこの石だたみを踏んで楊柳《タマリスク》の木かげを回る。葉の間から洩《も》れる陽射しが、太陽の丸い形を映して無数におり重なってゆれ動いていた。
「あそこらしゅうございますな。ほら、神官の紋章が打ちつけてございます」
見ると白い石をたたんだ低い入口のはりに、太陽神をかたどった木片が少しななめにかかっていた。入口に積み重ねたかますの口が開いて、あまり実の入っていない大麦の粒がこぼれていた。
「どれ、私めが声をかけてまいりましょう」
アラビア人の従者は、背の荷物を石だたみの上におろし、プラトンをそこへ残すと、ぴたぴたと皮サンダルを鳴らして隠退神官の家へ入っていった。
「隠退神官、ペリクトンさまはおいででございましょうか。アテーナイのプラトンさまがおみえでございますぞ」
アラビア人の従者の声はせまい広場にこだました。
広場を囲む石造りの貧しい家の窓が開いて、たくさんの人々が顔をのぞかせた。中にはアラビア人の従者を指さして無遠慮な奇声を発する者もいる。ぶどう色の麻のチュニックに銅びょうを散らした羊皮の短《スカ》袴《ート》、銀の飾輪をひたいにはめて腰に短剣をつるした彼の姿は、背後に荷物を足もとに置いて立っているプラトンよりもよほどりっぱだ。
彼の声がとどいたか、ほの暗い入口の奥で葺の葉を編んだカーテンが動いた。一人の老人が半身をあらわし、従者と低い声で何かやりとりをしていたが、やがて従者は手を上げてプラトンを招いた。
まるで物置か馬小屋同然の住居だった。石を敷きつめた、人間一人がようやく通れるだけの幅しかない入口を入ると、内部はまっ暗だった。戸外の強烈な陽光の下を歩いてきた目が、その暗《くら》闇《やみ》に馴《な》れるためにはしばらく待たなければならなかった。それにおそろしい暑さだった。異臭をともなった熱気が、むうっとプラトンの体を厚く押し包んだ。
アラビア人の従者は立ちすくんでいるプラトンの手をとって数歩、歩ませた。
「お坐《すわ》りなされませ」
プラトンはしかたなく、みちびかれるままに、楊柳《タマリスク》の細枝を編んだ円座の上に腰をおろした。さっきからぶつぶつとつぶやく声がしていた。どうやら自分に向けられているらしい。
「……賢者ソロンの遠《えん》戚《せき》、アテーナイに名だたる名門……アリストンさまの……プラトンさま……私めが所蔵いたす……」
そんな言葉が切れ切れに彼の耳にとどいてきた。彼は気ぜわしく二、三度うなずきかえすと、もう聞くのをやめて周囲の暗闇を見まわした。しだいに目がなれるにつれて、せまい住居の内部があらわれてきた。石を敷きつめた土間の中央に四角い炉が切ってあって、ちろちろとくらい火が燃えていた。かなえの中では何かがぐつぐつと煮《に》えたぎって、異臭と熱気はそこからふくれ上ってくるのだった。土間のすみにはこわれたかめやつぼが雑然とならべられ、かたむいた棚《たな》の上には真黒にすすけた木箱やかますが今にも落ちそうに積み上げられていた。
ふと気づくと、もうつぶやきは終っていた。プラトンは視線を自分の前にうずくまっている人影の上にもどした。
「おう、あなたがアトランティスについてくわしく記された文書をお持ちだというプリクトン隠退神官さまですね」
老いた男はまた何かつぶやいた。
「そうそう、グラディウス、おくりものをさし上げろ」
プラトンはアラビア人の従者に指を一本立てて見せた。
「いや、待て」
指を二本にして念を押すように二、三度ふった。
「は、かしこまりました」
アラビア人の従者は荷物の中から砂金の袋を二つとり出してうやうやしくプラトンにわたした。
「隠退神官さま、これはわずかな物ですが、贈り物のしるしです。おおさめ下さい」
プラトンはそのずっしりした二つの小さな袋を老人のひざの前に置いた。
「これはこれは恐縮至極にございます。贈り物などと、あなた」
そういいながら老人は早くも袋のひもをほどいて指先で砂金の感触をたしかめ、楽しんでいた。
「ところで、隠退神官さま。私がこうしてあなたの尊くも静けき隠者のすまいを訪れたというのも」
プラトンは急に顔をしかめて、麻布の間から手を入れて後腰をまさぐった。いやに質量感のある小さな生き物がそこにいた。彼はそれを指先ではさむと床《ゆか》に押しつけてひねりつぶした。
「ええ、訪れたというのも」
神官には、神《じん》祇《ぎ》官《かん》として政治参与官を兼ねる者と、司祭官として神殿のみに奉仕する者との二つがあった。以前は神祇官から宰相や将軍が出たりしたものだが、今ではそれはほとんど跡を絶っている。王朝がきびしくそれを禁じてから神官の間には司祭官として蓄財に精を出すのが一種の流行のようになっている。とくに地方官がおのれの司政の失敗を、神官の託宣を借りて糊《こ》塗《と》するのがなかば公然の秘密となっている今では神官のふところは肥《こ》える一方だった。
今、彼の前にうずくまっている小さな老人はそのどちらでもなかったらしい。恐らく健康上の理由ででも神殿を退いたのだろうか。
プラトンの申し出に、その老神官はやおら立ち上ると、背後の壁のむこうの一室へ消えた。
「それにしても暑いな。それにここでは文字も読めんよ」
プラトンは敷いていた円座を押しやって冷たい石の上に裸の尻《しり》をおろした。
老人は楊柳《タマリスク》の小枝で編んだ小さな行荷をひきずってきた。見ると細い筒に丸めた羊皮の束がほこりだらけになって収められていた。
「プラトンさま、アトランティス王国の記録でございます」
プラトンの目が光った。胸前に垂れた麻布を肩へはねのけると、羊皮の一つをとり出して手早く拡げた。ほこりや砂が鼻や口を打ったが、彼はかまわずそれを持って土間の炉のそばへ走った。何かをけとばしたらしく、ひどい物音がして液体がはね散ったが、それには目もくれず、彼は羊皮を弱い火にかざした。エトルリア地方の言葉で書かれた数行が目に飛びこんできた。
《――アトラスカラハ多クノ名門ニ属スル数々ノ名家ノ家系ガアラワレタ。彼ラハヒトシク巨富ヲ所有シテイタ。ソレラハ、カツテイカナル王侯トイエドモ所有シタコトモナク、マタ今後モ容易ニ所有スルコトヲ得ナイホドノモノデアッタ。多クノ品物ハ広範ナ帝国ノ支配ノ故ニ国外カラモタラサレタ。シカシソレ以上ニ市民タチニトッテ重要ナコトハ、彼ラニ必要ナモノノスベテハ、コノ大キナ島カラ産シタノデアル――》
プラトンは汗をふくことも忘れ、何匹かの小さな虫が脛《すね》を伝わって這《は》い上ってくることにも気づかず、その先を読みふけった。
《――タトエバ帝国内ノアチコチカラ採掘サレルおりはるこんハコノアトランティスノ都ノアラユル建築物ヲカザリ、ソノ壁ヲ黄金ヨリモ美シク青銅ヨリモ堅固ニシテイタ――》
「オリハルコンか!」
プラトンは羊皮の文字から目を離し、明滅する弱いほのおの舌を見つめた。その金属の名前は、先年彼がファユムの町にまねかれたとき、たまたま耳にした西方の大陸、アトランティスについての若干の伝説の中にもあらわれてきたものだった。
今、この文章は非常な自信をもって喪《うしな》われた古都について書き誌していた。
《――首都ヲトリマク環状ノ運河ニハ無数ノ橋ヲカケ、王ヤ王妃ハコノ運河ヲ伝ワッテ首都ノドコヘデモ極メテ容易ニ出カケルコトガデキタ。コノ運河ハ外洋ニ通ジテイテ、首都ヲトリマク三ツノ環状運河ノウチ、モットモ内側ノモノデサエ三段 橈《ジヨウ》船《セン》デ航行スルコトガ可能デアッタ。両岸ハ高ク、ソレラノ船ノ高イ帆柱デサエ橋ヲクダルノニイササカモ支障ヲ来タサナカッタ。マタ止ムヲ得ナイ所デハ橋ハ開閉シタ。王宮ノ建造サレテイル中央ノ島ハホボ円形デアリ、高イ幾ツカノ塔ト門ヲ備エテイタ。石ハ周囲ヤ中央ニ位スル島ヤ、内側ヤ外側ノ環状都市ノ地下カラ切リ出シタ。一ツハ白、一ツハ赤、ソシテモウ一ツハ黒ダッタ。石ヲ切リ出シタアトノ空所ハ貯蔵庫、オモニ兵器庫ト果樹酒ノ貯蔵庫ニ用イラレタ。ソレハ天井ガ岩デタタマレ、内部ガ二重ニナッテイル洞《ドウ》窟《クツ》デアル。
建造物ハアルモノハ一種類ノ色、アルモノハ斑《マダラ》色《イロ》ニ造ラレタ。モットモ外側ノ環状都市ノ外壁ハ波ウチギワカラ銅ヲ充分ニ使ッタ岩ノ壁デアリ、ソノ内部ハ銀ト錫《スズ》トデ張ラレテイタ。アクロポリスハホノオノヨウナおりはるこんデオオワレテイタ――》
プラトンはこの呼びなれないふしぎな金属の名を口の中でくりかえした。考えれば考えるほど深い謎《なぞ》がひめられているようであった。それにたいへん気になることが幾つかあった。
プラトンは羊皮を丸めてもとのように皮ひもでくくると、太い息を吐いた。
「だんなさま、ひとまず、あの羊皮の行荷を今夜のお宿へ運ばれては」従者のグラディウスが、プラトンの後からそっと声をかけた。「のう、だんなさま」
プラトンははじめて顔を上げた。
「うむ、そうしよう。グラディウス、そうだ、司政官の館《やかた》に人を走らせてくれ」
プラトンはのそりと立ち上った。
「隠退神官どの、それではご好意に甘えて、このアトランティス文書をお借りしてまいります。司政官の館に、数日、滞在の予定ですが、文書は厳重に保管しますから、ご心配なされるな」
老隠退神官は口の中で何かつぶやいて低く頭をさげた。
プラトンはもう後をも見ずに、入口のカーテンを排して広場へ出た。暗い洞《どう》窟《くつ》のような屋内から外へ出ると、陽光は痛いほど眼底を射し貫いてきた。
プラトンは酔ったように、蹌《そう》踉《ろう》と楊柳《タマリスク》の葉影を踏んで歩いた。実はそのとき、かれの胸中に在ったのは、さらに西へ道をたどって、カナリアの島々に面したモリタニア地方の西の海岸に、今なお幾つかの部落を作っているというアトランティス人たちに会うことであった。彼らの幾つかの集落がその地方に現存するということは、彼自身、フェニキアやティレニアの舟乗りたちから聞いていた。先年おとずれたファユムの神官の言葉は、今もなお彼の胸に巨大なたいまつとなって燃えていた。
そもそも、彼が最初にアトランティスなる名前を知ったのは、祖父のクリティアスからであった。クリティアスはまだ少年であるプラトンに、クリティアスがおのれの若い頃『七賢人』の一人であるソロンから伝えられたことを、老人らしい充分過ぎるほど充分な論理的経過をもって説明したのであった。
少年プラトンの胸に、その内容は異様な重みをもって深く沈着した。いつか、その話の奇怪な内容をおのれ自身の目や手でたしかめてみたいものだと思った。
少年プラトンは決して神童などと呼ばれる種類の子供ではなかったし、むしろ学問よりも橈をあやつる技術や、他国の産物や風土などに深い関心を抱いていた。彼はいつか、ヘレポントスの水道の奥のマルモラの海や、さらにその奥に在るというアルゴーの海、またヘラクレスの柱の外の、大海が滝となって落ちているという果の海へ行ってみたいものだと思っていた。
そうした彼に、かつて西の海はるかに存在していたという、また一朝にして海の底に没したというアトランティス王国の話は、まさに魂をゆり動かされるに充分だった。
二十八歳、ようやく彼の名がアテネ、ミケーネ、テリンスなどの諸都市に高まりはじめたころ、彼は念願のサイスの町に足を踏み入れた。ここで彼は、賢者ソロンが語った話の内容がかなり一般的であることを知った。アトランティスの名は、これまで以上に、にわかにプラトンの前に現実的な内容を持ちはじめた。彼はそのときの自分の興奮を、そのままテリンスの友人テッススに書き送っている。それから三年後にふたたびプラトンはサイスに足を運んだ。そこで彼は隠退神官の一人が、アトランティスに関するくわしい羊皮の文書を秘蔵していることを風聞した。おり悪しく彼は公的な研究活動に妨げられて、その隠退神官の家を訪れる機会を失い、むなしくアテネに帰った。
その間にも彼のアトランティスに対する興味はいよいよはげしいものになっていった。
後代の人が、彼のこのアトランティスに寄せるはげしい興味を、彼の理想国家の典型として把《は》握《あく》理解しようとするこころみであったと解釈するのは、実は当を得ていない。このとき彼の内部に在ったものは、少年プラトンの日以来いまだいやされぬ未知の風土への冒険と期待の情熱であった。
彼が師ソクラテスの刑死後、難を避けて彼の同門の先輩エウクレイデスの故郷のガメラにおもむいたさいに、彼は初めてギリシャ的世界における異民族、つまり蕃《ばん》族《ぞく》なるものの実状について知った。当時のギリシャでは『人類』とはギリシャ人をさしてのことであり、蕃族を教化することはギリシャ的世界に包含することを意味していたのだった。だが東からのペルシャの脅威、西からのカルタゴの圧力はギリシャ人に、いやでも非ギリシャ的世界の浸透を感じさせたのだった。ギリシャの市民である彼にとってギリシャの崩壊こそポリスの崩壊であり、今や現実の問題として提示されているギリシャ的世界の衰退を救う道はただ一つ、彼の『理想国家』である理想的ポリス社会の実現しかない、と彼は考えていた。しかし彼の政治への夢はその出発から早くも絶望的否定の方向をたどりはじめたのだった。時代は強大な帝国の出現を希求していた。一人の僭《せん》主《しゆ》による広大な地域の画一的経営が、せまい地域に多数の都市国家が乱立するポリス的社会経営にまさることは、当時すでに一部の知識人の間には語られていたことだ。
後年、彼は南イタリアにピュタゴラス教団の指導者であるアルキュタスをおとずれた。さらにシチリアにディオニソス一世をおとずれ、その地でディオニソスの義弟ディオンを知り、プラトンにとって数少ない親友をつくる。そしてさらにディオニソス二世の代にもう一度、友人ディオンにこわれてシチリアをおとずれる。ここで彼は現実の政治なるものから痛烈な反撃をこうむり、ようやく彼の内部に、彼の『理想国家』に対する絶望が大きく翳《かげ》を落しはじめるのである。その間に彼はしばしば各地を旅行している。クレタから、カルタゴ、さらに今のチュニジアからアルジェリア地方、またユダヤ地方からシナイ半島にまで足をのばしている。それらの旅行を通じて彼が何を見たかはいちがいにはいえないが、もはや現実のかなたへ遠く飛び去った彼の『理想国家』と、つねにむなしく敗れ去る彼の夢の背景に、未知の風土への孤独なよりかかりがあったであろうことはうなずける。そしてそのゆきつくところに彼の《アトランティス》があったのである。
サイスの司政官イススはこの高名なアテネ哲学者のために、その夜、盛大な酒宴を開いた。町の中央の広場に面し、白と濃茶のまだらのあぶら石で造られた豪壮なイススの居館はかがり火に飾られ、地下の酒倉から運び出される酒がめの数は二百人の奴《ど》隷《れい》をもってしてもまだたりなかったという。
タールのようなぶどう酒を容《い》れた銀器を口の前でささえたまま、プラトンは壮麗な柱に燃えるかがり火を見つめていた。かがり火は三個の平たい油《あぶら》皿《ざら》の上で、長い青いほのおをゆらめかせていた。広間の中央では剣闘士の個人技が披露されていた。そのあきらかに東方の異人らしい褐《かつ》色《しよく》のひふの大男は、手にした二本の剣を水車のように回して影のように踊った。その肩から背中へはしった長い傷跡が、男が身動きするたびに生きもののように見事に伸びちぢみした。
「のう、プラトンどの」
イススがテーブルのむこうから体をのり出した。淡い青い目でそっとプラトンの顔をうかがった。善良そうな男だ。プラトンは銀器のぶどう酒をひと口すすって、あいているほうの手で、皿の羊乳で煮しめたオリーブの実をつまんだ。
「グラディウスとあと四人は必要だな」
プラトンはつぶやいた。
「それにろばもいる」
それはこれまでに経験したものとは比較にならぬ永い旅になりそうだった。アカデミアのほうは彼の姉の子であるスペウシッポスが面倒をみていてくれるはずであった。この秋からのゼミナールは開講できないかもしれなかったが、その分は来年春からの特別講義でおぎないがつくだろう。
プラトンは熱に浮かされた人のように、心もち顔をあおむけておのれ一人の思念にふけっていた。手にした銀器に新しい酒がつがれていた。その重さで彼はふとわれにかえった。
「ひとつおねがいがあるのだが」
そのときを待っていたかのようにイススが遠慮ぶかげに声を低めて言った。
「ほう、ねがいとは。かくも厚いおもてなしを受け、このプラトン、あなたのおねがいをこばむ言葉も知りません」
イススは満面に笑みを浮かべた。
「いや、そのお言葉。イスス、面目を立てもうした」
イススは体をねじ向け、自分の肩ごしに背後に立っている老臣に何かささやいた。
広間ではすでに剣闘士が退場して、代って女たちが舞っていた。半弓形の弦楽器をつまびきながら女たちは風のように動いた。
老臣にともなわれて一人の長身の男がテーブルの傍に立った。
「プラトンどの。この男はサイス学寮の主任教授であるエイモスです。偉大な哲人、ソクラテスの真の後継者であるあなたにお教えをこいたいものと、かねてよりのぞみをこのイススにもらしておりました。どうかエイモスのねがいをかなえてやっていただきたい」
男はプラトンに向って低く頭を垂れた。
プラトンは胸の中で舌打ちした。だまされたと思う気持が先に立った。地方の司政官が、貴族としてのおのれの教養を誇示せんがために哲学者や詩人を学寮と称してその居館に飼うことが、とくに東方の風《ふう》、色濃いこのあたりでの流行であった。このサイスの町の司政官イススもそうした地方貴族の一人なのであろう。そしておのれの御用哲学者がプラトンの教えを受けた者であることを友人たちに自慢するつもりなのだろう。
プラトンは男から目をそらせてテーブルの上の、羊肉を糖《とう》蜜《みつ》で煮つめたシチューをスプーンで口に運んだ。
「さ、さ、エイモス」
イススは急に不《ふ》機《き》嫌《げん》な面もちになったプラトンに、そわそわとおのれの哲学者の尻をこづいた。エイモスは緊張に硬《こわ》ばった上体を小きざみに震わせた。
「ご質問をどうぞ」
茶褐色の濃いあごひげが顔の輪郭をきびしくふちどっていた。このごろことに深まったひたいのしわが、ゆらめく燭《しよく》台《だい》の光に深い疲れを見せ、くぼんだ目が無機物のような光をたたえていた。その一《いち》瞥《べつ》にイススの哲学者は見るも無惨にうろたえた。せばまった眉《まゆ》のあたりが屈辱の色に染まった。プラトンの視線から逃れようとするかのように、テーブルのむこうの広間に落ち着かない視線を投げた。プラトンはシチューに目をもどし、低くエイモスにうながした。
「どのようなことかな?」
おだやかな声だった。なにもこの男をはずかしめ、さげすむことはなかった。学問を売物に、地方貴族にとりいって生活の資を稼《かせ》ぐのなら、それはそれでその学問はこの男にとってりっぱに生きたことになるではないか。真実は確実にこの男の内部にもあった。プラトンはもうひとさじ、シチューを口に運び、男にほほえんだ。早く何か質問しなければ、彼のやとい主であるイススの手前、ぐあいが悪かろうに。
「イ、イデアは不変でしょうか」
エイモスはふいに頭をあげるとたたきつけるようにいった。
――そう、それでいい。
プラトンは体ごとエイモスに向きなおった。
「イデアは客観的存在として実在だ。つまり思考内容ではなく、思考者の外にある思考対象だからだ。この経験世界は現象であり、イデア界の受容的投影だ。この受容の態度の不安定さが万物流転という変動であらわれてくるのだ。したがってその流転の中に在ってつねに普遍的、客観的なるものの存在を追求してゆかなければならないのだ」
意識して積極的に答えた。
エイモスは口の中でなにごとかつぶやき、ふたたび顔を上げた。
「理想国家は?」
プラトンは音を立ててシチューをすすった。こんなかたちでイデアについて説くことなどむろんはじめてだった。これまでも酒を飲みながら、あるいは浴《よく》槽《そう》にひたりながら真理や美について討論したこともある。しかし今はそれらとは全く異ったあるルールのもとでの遊びだった。しかも相手にも出場者のメダルを与えなければならない遊びでもあった。
「理想国家は、真なるもの、善なるもの、美なるもの、の三つの超感覚的な普遍概念、すなわち本質概念を哲学的中心となした政治理念を持つことになる。つまり、だ」
プラトンはなまぐさい羊乳を一口飲んで口の中のシチューの肉を胃に流しこんだ。
「理性はちえの鏡によって照らされることによって経験的理性から普遍的理性に発展する。万象に共通する本質概念である真理は、そうした普遍的理性だけが見出し得るのだ。この本質概念は個たる実在ではなく、あくまで普遍的客観だ。つぎに勇気によって選別されたところの意志だ。善は普遍的なるものの意志だ。さらに美は制約。無限なるものの現象面への投射。人間の内部にあっては情欲、恣《し》意《い》の節制としてあらわれる。この三つの本質概念の調和によって魂全体が正義の徳を備えるのだ。これが統治者の資格であり、同時にまた彼を補佐する者、そして、彼の市民のすべての資格なのだ」
彼はおのれのアカデミーの学生にさとすように、一語、一語ゆっくりと言葉をつづけた。エイモスは首をたれて立ちつくしていた。果して彼に得心がいったのか、いかなかったのか、プラトンが語り終えるとエイモスはだまって低く頭を垂れた。プラトンはひどい疲れを感じてぶどう酒の盃《さかずき》をとり上げた。
イススが子供のようにはしゃいで、何かくどくど礼をのべた。
このとき、プラトンははっきりと、明日は西へ向って旅立とうと思った。彼はむしょうに一人になりたかった。はるかな西、ポセイドンの海のただなかに在ったという、《神の怒りに触れた》大陸が、彼自身の故郷であるかのように切なかった。
この夜のことを、そののちプラトンは永いこと忘れなかった。実はこの夜こそ、彼が人に哲学を説いた最後の夜であった。彼は『ティマイオス』は書かなかったし、また『クリティアス』も記さなかった。彼がリビアからヌミディア、さらにアトラス山脈の西、モリタニア地方での永い旅の途上で得た多くの事実は、厖《ぼう》大《だい》な記録となって彼のすぐれた弟子、アリストテレスのもとに送られたが、この才能ある弟子がこの記録に果してどれだけの関心を示したかすこぶる疑問である。
東からペルシャの、西からカルタゴの、さらに北方からくる新興マケドニアの重圧に苦しみ、争乱の中でしだいにポリス的自由と独立をむしばまれてゆくギリシャの晩《ばん》鐘《しよう》を聞きながら、アカデミアの後継者であるスペウシッポスを中心とするプラトンの弟子たちが、師プラトンの著作をまとめ上げ、そのうち十篇が今日に伝えられている。その中の二篇『ティマイオス』と『クリティアス』の中に、わずかに彼の記録の断片が収録されているのを見ることができる。
彼は紀元前三四七年、アカデモスの神域内に建てられた彼のアカデミアの一室で、多くの弟子たちに囲まれて息を引きとった。これは事実である。しかしもう一つの事実について知る者はなかった。
プラトンの西方への旅の従者であり、またプラトンに影形ともなった私設秘書でもあるグラディウスは、晩年をカルタゴのビスクラで人目を忍ぶように送った。彼は酒に酔ってしばしば人に語った。自分は古代ギリシャの神話の英雄アトラスを見た、と。アトラスは巨《タイ》人《タン》であり、天空を支える彼の国を《アトランティス》という、と。そして彼の主人は真の巨《タイ》人《タン》を求めて天空へ去った、と。
サイスをあとにしたプラトンの一行は、炎暑の中を一路、西へ向った。サイスの司政官イススの積極的な援助によって、プラトンは八人の奴《ど》隷《れい》と四頭のろばを借りることができた。一頭にはプラトンが、一頭にはグラディウスが乗り、一頭には食料や水を積み、もう一頭は予備とした。サイスの町で買い入れてきたこまごました雑貨を背負った奴隷たちがあとに従った。途中から海岸に出て船をやとい、サイスを出発してよりほぼ十二日をへてカルタゴに入った。
カルタゴ王はプラトンの来訪を喜び、アトラス山脈の南方の街道に駅伝の便をはかった。プラトンはカプサの町で、イススの奴隷を帰し、代ってカルタゴ王の提供になる三人の屈強な若者をともなうことにした。プラトンの一行はアトラス山《さん》麓《ろく》を西南へ進み、ビスクラから乾《かわ》いた河床をたどってインサラの町へたどり着いた。ここより道は広《こう》漠《ばく》たる荒地と砂《さ》漠《ばく》の中をイギジヘ向う。すでにカルタゴの辺境だった。砂漠のなかの一オアシスにエルカシアの小部落があった。そこがプラトンの最初の目的地だった。
エルカシアまでは苦しい旅だった。荷物は四頭のろばに分載し、またプラトンもグラディウスも、若者たちも杖《つえ》をたよりにひたすら砂を踏んで歩いた。インサラを発《た》って八日目、音もなく砂の崩れる流砂の丘に立って、プラトンははるか西方に低くかすむ小さな部落を見た。泉でもあるのか、まずしい楊柳《タマリスク》が二、三本、砂漠をわたる風に絶えずゆらめき、その影の下に数棟の屋根が寄りそうようにひとかたまりになっていた。
「あれだな、エルカシアは」
その部落めざして一行は砂丘をくだっていった。砂丘の作る荒れ果てた谷間に入ると、ふいに名も知れぬ鳥が舞い立った。谷間をぬけてさらにゆくての砂丘のいただきに立つと、部落はもう目の下に見えていた。
プラトンの一行が近づいてゆくと、部落から数人の男たちがあらわれた。短いチュニックに皮帯をしめ、浅い頭《ず》巾《きん》をかぶっていた。プラトンは彼らのかぶっている頭巾に目を止めた。たしかにペルシャやエジプトなどの人々とは異った服装をしていた。
「あやしい者ではない。私はアテネのプラトン。他は私の従者だ」
プラトンはさけんだ。アテネの哲学者プラトンの名を知っているかどうかあやぶまれた。知っていれば都合がよいのだが。
プラトンの声に、男たちの中から一人の老人が進み出た。周囲の男たちに何か言っている。その老人を先頭に、彼らは一団となって近づいてきた。
「アテネのプラトンさまか、お名前はかねてからうかがっている。私はエルカシアの長老セイムだ。よくみえられた。さあ」
老人は大きく手を開いて歓迎の意を示した。
「あなたのおいではかなり前からわかっていた」
プラトンは眉《まゆ》を寄せた。
「わかっていた? かなり前から、とな」
老人はプラトンの疑いは気にも止めず、プラトンの一行を部落に案内した。屋根の低い石造りの建物が数棟、楊柳《タマリスク》の泉を囲んで円形にならんでいた。石灰質らしい切石をたくみに積んで壁にしている。壁には、ほぼひとしい間隔で大きな窓ととびらが設けられていた。その窓の内部に、人の顔がのぞいたり、かくれたりしていた。老人はプラトンのともなった三人の若者にはここで待つように言い、プラトンとグラディウスを、石造りの建物の一つにみちびいていった。
「これが神殿とみえる。他の建物よりもいちだんと念入りだ」
プラトンはグラディウスにささやいた。
とびらは開け放たれてあり、ほの暗い内部に、なんの灯《あか》りか小さな灯がともっているのが見えた。開け放たれている戸口の前で、長老は右手をさしのべて目に見えない物を向うへ押しやるようなしぐさをして、それから体をわきへ開き、二人を内部へうながした。――おかしなことをする。
プラトンは入口をくぐりながら長老の手もとを見た。体のわきへ回された長老の手はまだ何かをつかみ押さえていた。プラトンは無遠慮な目を長老と背後の壁にそそいだ。その視線に気づいた長老がにこやかに笑った。
「これかな?」
長老が何ものかを押さえるように力をこめていた腕をゆるめると、グラディウスが小さくさけんで飛びのいた。
透明な、全く透明な薄い大きな板が壁の一部を軸として音もなく回転してきて、入口の空間をぴたりと閉ざした。
「グラウスですよ。グラウス」
長老は透明な板を指で弾《はじ》いた。鋼《はがね》のような硬《かた》い澄んだ音がした。
「いかなる剛弓をもってしても、これを貫くことはできませぬ」
プラトンは声もなく、そのガラスの回転ドアを見つめていた。こんなものを見るのははじめてだった。光を通す物体があることはペルシャの商人に聞いたことがあったが、これほど完全に透明な物体であろうとは思ってもいなかった。おそらくこの部落の家々の窓にもこれが用いられていることだろう。この砂漠の中で、室内の採光をはかるならこのような物質を考え造り出す以外に方法がないだろう。プラトンはエジプトやカルタゴのあの砂漠の中の窓のない家々を思い出した。
――ここにはギリシャやエジプト、さらには東方の国々にはない何かある非常に高度なちえが存在しているようだ。これは異質だ。全く異質な何か、だ。
プラトンはにわかにむっつりと押しだまって奥へ通った。通された部屋は目もくらむ光輝と壮麗さに満ちていた。壁は美しいオレンジ色と夕日のかがやきを放ってプラトンの手を染め、グラディウスの顔をいろどった。
「オリハルコンだ!」
プラトンは息を呑《の》んだ。そのかがやく壁面の一角にかなり大きな四角い窓があり、かがやく緑色の光の波紋を浮かべていた。
「あれは?」
長老はその窓をふりかえり、プラトンにテーブルにつくようにすすめた。
「あれは宗主の窓でございます」
「宗主?」
「ただ今、あなたにお会いいたします」
見つめているうちに、その窓のかがやく緑の波紋が急にゆるやかになったと思うと、その光の奥から一人の人物の頭部の輪郭が浮き上ってきた。プラトンはテーブルの端を指の関節がおれくだけるほど強くにぎりしめていた。
あざやかな緑色の光のゆらめきを背に、大きい頭と幅広い肩がくっきりとあらわれた。背後の光が目に痛いほどきらめき、人影は濃い影となってその容《よう》貌《ぼう》はまるでわからない。
「プラトンさま。われらの宗主にございます」
長老セイムがあらわれ出た人影とプラトンの双方に会釈した。
「宗主、とな? 部族の長のことか」
プラトンは目を細めて人影に向ってのび上った。目鼻立ちがわからないのがもどかしかった。年齢は自分よりやや上か、と思われた。
「アテネのプラトンどの。よく見えられた。あなたの深遠な学説にはつねに敬服している。あなたをむかえたことは、わがエルカシアの部族のもっともほこりとするところだ」
そんなことはどうでもいい。それよりも、遠路はるばるおとずれた者に対して、宗主が窓ごしに話を交すのがなぜなのか、プラトンはひどく気になっていた。プラトンはそっとかたわらの長老セイムにささやいた。
「長老、宗主はなぜ居室から出てこないのか? 出てきてそのテーブルのむこうに座して、わしと話をすることをしないのか? べつにそれが無礼だというわけではない。習慣なら習慣でよい。わけをしりたい」
長老セイムはそれには応えず、つつましい動作でプラトンと宗主の間からわずかに身をひいた。
宗主の低いがよくとおる声が流れてきた。
「プラトンどの。あなたはアトランティス王国に深い関心を抱かれているようだが。こんどの旅もサイスの神官の保存する古《こ》文《もん》書《じよ》にのべられている記録の確認を意図されてのものであろう」
「よく知っているな。いかにもそうだが」
「プラトンどの。われわれは今や消え失せようとする過去の栄光と厖《ぼう》大《だい》な遺産を五千年にわたって守りつづけてきた。それはまことに守りつづけるべき価値を持つものであり、またそれ以上に人類が決して忘れてはならないある事実を今に伝えているものなのだ。その記憶がいかなる意味を持つものか、それを語るべきわれわれの言葉はあまりにも貧しく、また理解する力も極めてとぼしい。そして今の世の人が果して、よくそれに耳をかたむけるかどうかはなはだ心もとない。それ故にプラトンどの。われわれはそのたいへん困難な仕事の一端をまかせるにあなたをえらんだのだが。いかがなものであろうか。われわれは今、あなたがたの、すなわちギリシャのちえに期待するところが大きいのだ」
プラトンはその声に耳をかたむけ、急に用心深い顔になった。
「期待する? わしにか。何を」
「プラトンどの。これよりさらに西へ。アトランティスの栄華の残光をいまだ守りつづける部族のかくれひそむ地方へ足をのばされ、その古王国、アトランティスの滅亡の原因とその後の経緯をつぶさにごらんになられ、その事実をあなたがたの世界に告げてほしいのだ」
プラトンは体をのり出した。
「このたび、サイスの隠退神官のもとを訪れたのも、そのしだいによってはさらにこのエルカシアからアトラスの山々の西、カナリヤ島々をひかえた海沿いの地方まで足をのばそうという所存であった」
「それは願ってもないこと」
長老セイムがそっと座をすべった。部屋のすみでかすかな物音をさせていたと思うと、盃《さかずき》をささげてもどってきた。盆の上に銀色の酒器が光沢を放ってゆれていた。背後に酒つぼをささげた若者をしたがえている。
「プラトンさま。さ、すごしなさいませ」
プラトンとグラディウスの盃になみなみと紅色の酒がつがれた。果実の豊かな匂《にお》いが部屋いっぱいにひろがった。
いちじくかな――プラトンは鼻孔をふくらませた。
セイムは酒つぼをかたむけて流れ出る果実酒をてのひらに受けてそれをすすった。それから会釈して自分の席へもどった。酒つぼを抱いた若者は静かに室外へ出ていった。
つがれた盃を手に、プラトンは宗主の黒い影を見つめた。
「のう。宗主どの。おたずねしたいことが二つ、三つあるが」
「どのようなことか」
「かつて神々がこの世のすべての土地を区分けしてその子らにあたえたとき、海神ポセイドンは大海に浮かぶ大いなる島をねがって人間の妻の子の生んだ子孫をしてその地をおさめさせたと聞く。ポセイドンの長子であるアトランタは、その一族とともに父なるポセイドンの残した彼の島、さらに周囲の幾十の島々を支配し、リビアはエジプトより熱い海まで、さらにティレニア、シリア、ヘレポントスの山々や海までをその領域に加えたという。さらに彼の海岸王国をめぐる海のはるか西のかなたにある未開の大陸まで、かれとかれらの故郷の一部に加えたといわれる。その勇敢さと剛《ごう》毅《き》、正直さと惜しみない労働の心を持ち、美と音楽を愛して争うことのなかった神意の人々の王国の話を、私は実に感慨深く心にとめている。宗主どの」
プラトンの目はまっすぐに宗主の黒い影を見つめ、宗主の姿は緑色の光を背に、貼《は》りつけられたように動かなかった。
「この王国を幾つかに分けてあずかる王たちは、決して武器をとってたがいに敵対することなく、祖先の教えにしたがってその最善をつくし、また王たちの上に立つ王の王たるアトラスの一門はそのすべてをあげて輩下の王たちとかれらの市民のために神意の発現につとめた。そうだな。宗主どの」
「そのとおりだ」
「そしてポセイドンの神命はこの王国にあっては何人も犯すべからざる天の命であった。なぜなら、その天の命はすなわち人の命であり、民の心すなわち王の、また王の王たる者の心でもあったからだ。ここにおいて祭りはただちに、 政《まつりごと》 を意味していたからだ。そうだな。宗主どの」
「いかにもそのとおりだ」
宗主は深くうなずいた。
「それではあらためて聞こう、宗主どの。かくも天の意にしたがい、善と美なるものをいただき、つねに真なるものを心の指標となした栄光の子、アトランティスの人々が亡んだのはなぜだ? 神の意志を帯して法が編まれ、人々は善なるものの追求に力をいたすことをいとわなかったと聞くが、なにがかれらを亡ぼしたのか。天の神はこの人々をこそ永く永くよみせられたもうはずではなかったのか?」
プラトンはまたたきも忘れたように、緑の光のあふれる窓に浮かぶ宗主の影を見つめた。
「しかもなお」
沈痛な声だった。
「地の底から噴き上げる鉄の火に焼かれ、硫《い》黄《おう》臭い風にまかれて大洋の波の下に沈んだという。その目をおおう破滅の中から逃げのびることのできた者は数えるほどしかいなかった、という。なに故か? その天の神の怒りはなに故のものか? 神が神の子を自らの手でほうむり去ったのはいかなるわけがあってのことか」
宗主の姿は黒い影となって動かなかった。背後のかがやく緑の光の波は、いよいよはげしくうず巻いた。やがて低く感情をおさえた宗主の声が流れはじめた。
「そのうたがいはいかにももっともだ。しかしあなたは、これからその問いの答えをあなた自身の目で発見してゆかねばならないだろう。そしてあなたは、あなたの目でとらえたものを、あなたがたの世界に告げ、ひろめる義務があるのだ。あなたがこの地に足を向けられたということは、あなたはそれを一つの宿命として理解してほしい。そしてあなたがあなたの世界に寄せる愛情のあらわれの一つとして、私の要請を義務として受け入れてほしいのだ。わかるか。偉大な哲学者は同時に最高の政治家でなければならないとするあなたの言葉どおりに、あなたはあなたの世界におおいかぶさる不幸の翳《かげ》をとりのぞかねばならないだろう」
「まて、われわれの世界におおいかぶさる不幸の翳とは何のことだ?」
「それを語ることこそ、とりもなおさずアトランティス王国がなにゆえ、神の海原から姿を消したか、姿を消さねばならなかったかの説明になろう。ひとしく神はこの世にあまねく、その創造と持続の様式こそつねにいっさいの法と神の名による許容に結びついている。終《しゆう》焉《えん》のための終焉は様式ではなく、また変化の名で呼ばれるものですらない」
「と、いうとアトランティス王国の滅亡には現世的な説明をもってするいかなる理由も存在しなかった。と」
「し得なかったといってよいだろう」
「まて!」
プラトンは思わず立ち上った。
「すると、アトランティス王国の滅亡は、この世の外にその原因があるというのか」
宗主の声はなく、その黒い影は静かに、かがやく緑の波紋の中に淡くとけこんでいった。
「プラトンさま。会見は終りました」
長老セイムが頭をたれた。プラトンは、はっとわれにかえった。耳の底にまだ宗主の声がこびりついていた。それはいやに金属的なつめたい残響をなおかれの耳の奥底に曳《ひ》いていた。
プラトンは無意識に目の前の盃に手をのばし、それを手にとったまま、目をちゅうにあそばせて、この奇怪な会見を最初から思いかえしていた。
宗主がいったい何者なのか、またなぜ、プラトンの前に全身をあらわさなかったのか、それにすでにかれの来訪を承知していた、という言葉もあわせて、そこには奇妙なある違和感がただよっていた。しかし宗主が、何かの考えかた、そして何らかの行動をプラトンに期待しているらしいということだけはうなずけた。プラトンはおのれの興味だけでこの旅を計画したはずなのが、それが今やある非常に重大な意味を持っているらしい旅にすりかえられようとしていることに気づいて愕《がく》然《ぜん》となった。
「長老、これはいかなることなのか。お前たちの宗主は私にたいへん気になることを言った。正直いって私は混乱している。お前たちの宗主は私に、私がこれまで考えたこともない何ごとか非常に重大な使命を与えようとしているようだが」
長老セイムはうやうやしく首をふった。
「プラトンさま。すべてはあなたのお考えどおりになさってよろしいのです。ただ今のわが宗主の言葉は、お忘れになるもよし、お聞きにならなかったことにするもよし――」
プラトンはくちびるのはしに笑いを浮かべた。
「ずるいな。忘れてもよし、聞かなかったことにしてもよし、とは」
その目は少しも笑っていなかった。プラトンはオリハルコンの壁に映っている自分の顔を見つめてつぶやいた。彼は笑うとき、顔の上半分と下半分がひどく不調和になる。彼をきらう者はかげでその笑いをいやしめた。とくに彼の論敵はなおさらだった。彼はそれを知らないでもなかったが、どうなることでもなかった。
彼は盃をあおって、からになったそれを長老セイムの手にもどした。酒は苦《にが》いかすを舌に残した。
「グラディウス。西へ向おう。出発の用意をしろ」
グラディウスはだまって頭をさげた。プラトンはもう壁にはめこまれた宗主の窓をふりかえって見ようともしなかった。
「長老、私は宗主の言葉を、おぼえてもいないし、また聞きもしなかった。しかしここエルカシアよりアトラスの西への旅は、私がアテネを出発するときよりすでに心にきめていたことだ。私ははじめの目的にしたがってこの地よりさらに西へ向うだろう」
長老は無表情に頭をさげた。
「わかりました。プラトンさま。それにしても今夜はここにお泊りになってはいかがでございますか。この空もようは、どうやら砂《すな》嵐《あらし》がおそってくるかと思われます。明日は西への道にくわしい若者をおつけいたしましょう。ただ今、その若者、南の部落へ商人たちをともなって出かけておりますので」
「そうだな。一晩いそいだとてどうということもなかろう。長老、それでは一夜の宿をおねがいいたそうか。のう、グラディウス」
「それがよろしゅうございましょう」
何ごとにも動じないこの剛胆なアラビア人の従者も、先ほどの宗主の言葉にはさすがに深い恐怖と不安を抱いたらしい。夜の砂漠の旅の計画が中止になっていささかほっとしたように眉をひらいた。
「それではこちらへ」
長老セイムの言葉にプラトンは立ち上った。グラディウスがあとにつづいた。戸外へ出ると、部落を囲む広漠たる砂漠にすでに濃いたそがれが迫っていた。黄褐色の砂の海の果に、色《いろ》褪《ざ》めた夕陽が半ば没して、幾十条もの光の矢が層雲をくらい血の色に染めていた。東の地平線から中天にまで達した薄黒色の夜の気配はその血のような残照に染って、赤みをおびた灰色から紅藍色にいたる濃淡の壮大なうつろいをくりひろげていた。風は全くないで、たそがれの大気は油のように重く砂の海によどんでいた。なんの物音も聞えてこなかった。部落の数棟の石造りの家に住む人々は、この夕暮れになにをやっているのか、話し声一つ、唄《うた》声《ごえ》一つ聞えてこなかった。すべて砂の海の荒れ果てた静けさと、数千年のむかしから変らぬ忘れられたものの死の静けさにみちていた。
グラディウスがそっと肩をすくめた。
「だんなさま。なんとなく、こう心寒くなるような陽の入りでございますなあ」
プラトンはそれにはこたえず、ひろいひたいをだまって血の色の夕映えに向けていた。
何かがはじまりそうだった。たしかに何かがはじまりそうだった。
ふしぎな緊張と不安がこの夕映えにはこめられていた。それはこれまでプラトンが一度も感じたことのない得体の知れぬ、たとえば正視することもできないような何か惨《さん》憺《たん》たるものがひそかに忍び寄ってくるような冷えびえとした不安だった。
「さあ、こちらへ」
むこうで長老セイムがプラトンをさしまねいた。
「行こう。グラディウス」
プラトンは砂を踏んで歩いていった。
「ここをお使いください。じゅうぶんなおもてなしもできないと思いますが、ご用はなんなりと申してください」
その小さな石造りの家は、両側をこの部落の中ではもっとも大きな家にはさまれていた。内部は小ぢんまりした一室からなる独立家屋だった。広場に面した壁には、先ほどの部屋と同じように、長老セイムが《グラウス》と呼んだ透明な硬質の板で張られていた。
床の中央に四角い炉が切ってあり、四角い金属製の湯わかしがのっていたが火は消えていた。
プラトンとグラディウスが落着くと間もなく、女たちの手で食事が運ばれてきた。女たちは若くはなかったが、くるぶしまである、ひだの多いスカートに黄金色の光沢を放つ金属片をつないだベルトをしめていた。頭には男たちと同じような浅い頭《ず》巾《きん》をかぶっている。
女たちは影のように動いて、テーブルをすえ、その上に食器をならべた。水がめを肩に負ってきた女が最後にそれをテーブルの上に置くと、女たちはふたたび戸外へ出ていった。すべて無言だった。
「なにもありませんが、さ、どうぞ」
長老セイムが小腰をかがめ、これも部屋から出ていった。すぐ上半身だけ見せて、
「ご用のときは、その壁に見えますぼたんを押してください。ただちにまいります」
静かにとびらが閉じられた。
テーブルの上には羊肉と生野菜を主としたかなりぜいたくな食物がならべられていた。
二人ともあまり食欲はなかったが、食物を口に入れてみると、それは二人がこれまで味わったこともないほど美味なものだった。おそらくそれは調理の技術によるものであろうと思われた。刺激的な香料がふんだんに使われていて、この部落の食生活がかなり洗練された豊かなものであることを思わせた。その内容においておそらくエジプトや小アジアヘんの裕福な貴族たちの食物にもまさるだろう。
プラトンは食物を口に運びながら心にわだかまる疑念をもらした。
「グラディウス。この荒れ果てた砂の海の中で、このような美味な、変化に富んだ食物を用意するというのは容易なことではあるまい。もちろん、これはわれわれのために特に用意されたものとしてもだ」
グラディウスは皿《さら》の上の食物を一つ指でつまんでプラトンにさし示した。
「ごらんなさいませ。だんなさま。これは羊肉を何か動物性の脂肪であらかじめじゅうぶんにいためておき、それをおそらく麦の種子を粉にひいたものを水にといて練ったものでくるんで熱を加えたものと思われます。だんなさま。この羊肉をいためた脂肪は私めもまだ食べたことはもちろん、聞いたこともないたいへんめずらしい方法で作られたものでございます。ふつうはこのような味にはなりませぬ。もっと酸味の強いもの、それにこの食物に熱を加えるのに用いたある器具がございますな。その器具を見たいものじゃ。ごらんなさいませ。これだけ熱を加えても、表面が焦《こ》げておりませぬ」
各地を放浪していたグラディウスの料理に対する知識は、これまでおどろくほど豊富であり正確だった。
「のう。だんなさま。この、かれらの調理の技術と洗練された味覚とは、これはあきらかにわれわれの世界のそれとは異なるものでございますな」
グラディウスは食物をほおばりながら顔をしかめた。
プラトンはグラディウスの言葉を心の底でかみしめていた。グラディウスが食物の味で感得するそれはプラトンが宗主の窓によって感得したものとおそらく同じであろうと思った。グラディウスはなおプラトンよりもその異質さを実感している。食物に熱を加えた器具を見たいものだ、と言う。
それから二人は黙々とテーブルの上の食物を平らげた。
「おさげいたしましょう」
先ほどの女たちが、ふたたび影のようにあらわれて、からになった食器をささげて出ていった。部屋の中はグラディウスの顔も見えないほど暗くなってきた。
「ああ、灯《あか》りがほしいな」
プラトンがグラディウスを見かえった。
そのとき、とつぜん、プラトンの目の中ですさまじい光が炸《さく》裂《れつ》した。部屋の中が真昼のように明るくなった。彼は思わず手をあげて顔をおおった。その強烈な光の洪《こう》水《ずい》の中で、グラディウスが腰の短剣を引きぬくのが見えた。
「だんなさま!」
グラディウスが絶叫して一《ひと》跳《と》びでプラトンの前に立ち塞《ふさ》がった。
しかし部屋は明るくなっただけで、そのままあとは何事も起きなかった。
「なんだ? あれは」
部屋の天井におそろしく明るい光の球が出現していた。そのまばゆい光の幕を受けて二人の影がくろぐろと壁に落ちていた。
「だんなさま。外へ!」
二人は目を細めて光をさけながら、少しずつ部屋の出口ヘ向って移動していった。しかしいぜんとして何事も起きない。プラトンは油断なく周囲に気をくばりながらも、その明るい光の球に持ち前の観察力を集中した。
どうやら危険はないらしい。これはこれだけのものだ、と見てとった。彼の顔からおそれの色がうすれた。
「グラディウス、これはどうやら部屋の中を明るくするためのしかけらしいぞ」
「明るくするための、でございますか」
グラディウスはなお短剣をかたくにぎりしめたまま鋭いまなざしで天井の光球をうかがった。プラトンはその光球の下に歩み寄った。この部屋に入ったときから気づいていた白い陶器の円形の傘《かさ》の下に、かがやく小さな光の球が現れ出ていた。どうやらその光は《グラウス》の容器に入っているらしい。その容器の中にかがやく数本の光の糸があり、それから光がほとばしり出ているようだった。
「見ろ! グラディウス。これはどうやら光をたくわえておくものらしいぞ。それにしてもどうやって光をたくわえておくのかな」
これまで魚油の灯皿か、シリヤ地方の燃える石の水しか見たことのないプラトンには、全く驚きの目を見張る以外になかった。
「まるで太陽のようではないか」
プラトンは壁に落ちている自分の影をさして嘆息した。
「グラディウス。この光の球といい、あの《グラウス》の窓といい、アトランティスがきわめて高い文明を持っていたというのはどうやら事実だったらしいな」
グラディウスは静かに短剣をさやにおさめた。グラディウスはふと、遠いところを見るような目つきを窓の外の闇《やみ》に向けた。その横顔にはこれまでプラトンの気づかなかったグラディウスの老いが濃くあらわれていた。
「だんなさま。この旅はお止めになったほうがよろしいような気がいたしますが。と、申しても、いったん、こうと思い立たれたらお止めになるようなかたではないが」
プラトンは明るい灯の下で、深い憂《うれ》いに沈んだグラディウスの横顔に視線を動かした。
「なぜだ。こんどの旅を止めるように、というのは」
グラディウスはだまって腰の短剣の飾りひもをまさぐっていた。
「なぜだ? グラディウス」
グラディウスは顔を上げた。灰色のひとみがプラトンの顔にそそがれ、それからあてもなくそれた。
「なぜといっても、べつに。ただ私めがそう思うだけで」
「ふうむ。グラディウス。私はお前のその直感というやつをかなり高く買っておるのだ。この旅を止めろ、というお前の言葉は、そう、今、お前が胸の奥底に抱いている危《き》懼《ぐ》はおそらく正しいだろう。それにしたがったほうがよいのかもしれない。いや、きっとそうなのだ。しかし、グラディウス。この奇妙な夕暮れの日のできごとを前にして、このプラトンたる者がここから引きかえせようか。よし、ふたたびアカデミアの教壇に立つことがかなわぬとも、よし、ふたたびこの道を東へ向うことがなかろうとも、それもまたやむをえないところだ。グラディウス。知識を求めるとはそうしたものよ。いや、知識を求めるなどと肩の張ったことをいわんでもよいわ。もの好き、ただのもの好きよ」
プラトンは自分でたしかめるように、天井にかがやく光の球を腕をふって幾度も指さした。
「だんなさま。アカデミアの弟子がたが、だんなさまのお帰りを今日か、明日かとお待ちでございますぞ」
いっても無《む》駄《だ》だとは承知でいう力ない言葉だった。
「それにカサンドラさまも」
グラディウスはかすかに首をふった。
「カサンドラか」
プラトンは急に酔いからさめたように疲れた目でグラディウスを見た。
プラトンはそのとき、小アジア生れの一人のもの静かな女を思いおこした。その女を思うときプラトンの胸はかすかに痛んだ。
アテネの街の西北『戦士の泉の広場』に面した蔦《つた》におおわれた居館の奥にひっそりと暮している女との一週間に一度、十日に一度おくった夜が、今はとても遠い日のできごとのようにプラトンの胸に痛みをはしらせた。
カサンドラはアテネの将軍ペロポンテウスの未亡人だった。ギリシャ半島全土をめぐるいつ果てるともしれぬ泥《どろ》沼《ぬま》戦争に、その若い有能な将軍は傷ついて戦場に倒れ、その栄誉と尊敬を守りつづけてゆくのはあとに残された若く美しい貞淑な未亡人のつとめになっていた。このことはプラトンにとっても未亡人カサンドラにとっても不幸なことだった。
プラトンはだまって部屋のとびらを押して戸外に出た。
月が出ているとみえ、部落の中央の砂の広場は白い湖のようにかがやいていた。そのむこうに月光に濡《ぬ》れる砂漠が茫《ぼう》々《ぼう》とひろがっていた。窓からもれる明るい灯が、月あかりの中に、地面に太い光の縞《しま》を描いていた。
月光の下を近づいてくる一個の人影があった。やがて人影は部落の長老セイムになった。
「おやすみになるようでしたら夜具を申しつけましょう。タウブ、明る過ぎませんか」
「タウブ?」
「あ、灯りでございます。お部屋の」
タウブ? 奇妙な言葉だ。プラトンはそのいいにくい発音をそっと口の中でくりかえした。
「長老。部落の人々は何をやっているのかな。実に静かだが。話し声も聞えてこない」
長老セイムはちょっと月をあおいだ。白いほおひげが月の光に銀色の針になった。
「こよいは沈黙の夕べにあたっておるのです」
「沈黙の夕べ、とは?」
「部落の古いしきたりです。祖先を想い出す夕べ、とも申しましょうか」
「祖先を想い出す、ふうむ。それはよいことだ。とくにこの部落ではそうであろう。祖先からのいい伝えにはしばしば真理がかくされてあるもの。沈黙の夕べとはまことにふさわしい」
砂漠はいよいよ銀色に光輝を放ち、二人は月の光に重さを感ずるほどに満身に月光をあびて立っていた。
「それでは夜具を運ばせましょう。失礼」
長老は足音もなくもどっていった。
やがて女たちによって寝《ね》台《だい》が運びこまれ、上等な夜具がのべられた。水びんを持って入ってきた長老が、点検するように枕《まくら》の位置などをなおした。
「おやすみになるときまぶしかったらタウブを消してください。このつまみをまわしてくだされば消えます」
長老セイムは壁にはめこまれた黒いぼたんを指さした。それに指をふれると、一瞬、室内は暗黒になった。飛鳥のように壁ぎわにとびさがったグラディウスの荒々しい呼吸が聞えた。
「軽く回すだけでよろしゅうございます。こう」
長老セイムの静かな声が聞えて、ふたたび室内はもとの明るさにもどった。グラディウスはにこりともせずに、つか音高く短剣をさやにおさめた。銀色の余《よ》韻《いん》が小さく空気をふるわせた。
「それではおやすみなさいませ」
長老セイムは深く腰をかがめるともうふりかえりもせずに部屋から出ていった。プラトンは見送って寝台に横になった。にわかに深い疲労が海のように全身をおしつつんだ。
「グラディウス、灯りを消してくれ」
室内はたちまち夜の闇《やみ》につつまれ、それと同時に窓からもれる銀色の月光が、室内を水底のように浮き上らせた。
「やすめ、グラディウス」
グラディウスはサンダルもぬがず、腰に短剣をおびたまま壁を背に床に腰をおろした。
「どうした? 寝台にやすめ」
「いや。いざというとき、おくれをとるやもしれませぬ。ここがいちばんよい」
グラディウスはひとりごとのようにいった。この短剣をよく使う男は、床や壁を伝ってくるかすかなものの気配を察することがたくみだった。どんなに深く眠っていても、ひそかに忍び寄る盗賊や刺客のわずかな動きにも目覚めて機先を制することができるのだった。プラトンも先年、シチリアでディオニソス二世の旧臣に襲われ、あやうくグラディウスの剣にすくわれたことがあった。
「そうか」
プラトンは寝がえりをうって目を閉じた。グラディウスはひそ、とも物音をたてなかった。
目を開けるたびに、窓から洩《も》れる月光はその位置を変えていた。プラトンはまた、サイスの町を出てから今日までのできごとを胸の内に思い浮かべた。たしかに奇妙なすじ道がそこにあった。プラトンは無意識のうちに、しだいにぬけ出ることのできない深みに落ちこんでいっている自分を感じないわけにはいかなかった。アトランティスにのめりこんでゆく自分の心のかたむきが自分でもそれとわかるほど日ましに大きくなっていた。グラディウスにいうまでもない。ここよりもどることはもはや不可能だった。アカデミアのゼミナールも、一の弟子、アリストテレスとの心にこたえるような論議も、戦士の泉の広場に近く住む一人の女性も、もはや彼の心をつなぎ止めるなんの力も持たなかった。プラトンはべつにそれを悲しいとも思わなかった。
いつか彼は深い眠りに落ちていった。
どのくらい眠ったろうか。ふと、彼は耳の底でざわめく物音で目が覚めた。一瞬、彼は自分が舟に乗っているのかと思った。起きなおると、とたんに記憶がもどってきた。
窓の外を砂《すな》嵐《あらし》が吹き荒れていた。風がぶつかるたびに、この石造りの家も小きざみにゆれた。窓にも扉《とびら》にも吹きつける砂がざらざらと音をたて、右から左へ、左から右へと激しく移っていった。
「これはひどい砂嵐になったな。長老のいったとおりだ」
プラトンはつぶやいて戸外の砂嵐に耳をかたむけた。
「これではおそらく道は砂に埋ってしまったことだろう。明日の旅はやっかいなことになったぞ」
プラトンは夜具を眉《まゆ》の上まで引き上げた。
つぎに目覚めたときも、砂嵐はなおはげしくつづいていた。もう夜明けが近いとみえ、夜気は冷えびえとわずかに動いていた。
どっと吹きつけるはげしい風の音の中に、プラトンはかすかな物音を聞いたような気がした。
戸外に置き忘れたかますでも飛ばされる音だろう。
プラトンはふたたび眠りにつこうとした。
はげしくとびらが鳴った。そのとびらをうつ風の音の中に、プラトンははっきり別なものの音を聞いた。
「なんだろう?」
プラトンは頭をもたげて耳を澄ました。
ルルルルル……
砂嵐のどよめきの中で、その音は低く、かすかに戸外から伝わってきた。
「なにかが回っているような音だが」
また、どっと風がぶつかり、部屋ははげしくゆれ動いた。どよめきが去ると、
ルルルルル……
また聞えた。「たしかに聞える。気の迷いではない」そのかすかなひびきは、砂嵐の音に混って高く低く、あるいは部屋のとびらのすぐ外で鳴るかのように、あるいは遠いはるかなかなたからしだいにその力を弱めてとどいてくるかのように、プラトンの耳に伝わってくるのだった。
プラトンは寝台の上に起き上った。羊皮のチュニックに腕を通し、サンダルをひっかけてとびらを開いた。
すさまじい砂嵐が正面からぶつかってきた。彼は目や鼻や口に砂をたたきつけられて思わずよろめいた。彼は入口の柱にすがって身をささえ、顔を伏せて砂嵐の音に耳をかたむけた。
ルルルル……
それははっきりと部落の広場の方角から聞えてくる。
プラトンは突風によろめきながら一歩、二歩、砂で埋った暗《くら》闇《やみ》の中を足を運んでいった。
何歩か、何十歩か進んだところで、プラトンは激しい風をさけきれず、砂の上に横ざまに倒れた。プラトンは激しく砂にむせた。
その耳に――
ルルルルル……
今、はっきりと聞えた。
*
ずるずると無抵抗にくずれる砂を踏みしめてプラトンは上体を起した。手をのばすと指の先がかたい石の平面に触れた。その石に両手をついて彼はようやく立ち上った。激しい目まいが襲ってきた。
誰《だれ》かの手がその背をささえた。
「オリオナエどの。さぞやおつかれでございましょう。この二、三日、お休みになるいとまとてございませんでしたから」
オリオナエ? 誰だ、それは?
心の中で憂《ゆう》鬱《うつ》な問いが湧《わ》き上ってきたが、つぎの瞬間には、
ああ、そうだ。おれのことなのだな。プラトンは心の中でうなずいた。
少し疲れているな――プラトンは自分の足が他人のそれのように感覚が失われているのが妙にもどかしくたよりなかった。
「オイローパ。いそごう。間もなく会議が開かれる」
オリオナエのプラトンは、自分の背を支えている次官のオイローパをふりかえった。オイローパは財務長官として彼の有能なブレーンだった。その手腕は、この王国の危機を前にしてオリオナエのプラトンがもっとも期待しているものの一つだった。
オリオナエのプラトンは、高い石段を一歩、一歩、踏みしめて夜空をおおう王宮の高い破風の影の下へ入っていった。四つ折りの壮大な黄金のとびらの前に立っている親衛隊の兵士が、さっ、と、かかとを引いて敬礼した。
大回廊に足を踏み入れてオリオナエは背後の夜の首都をふりかえった。王宮の丘のふもとに広漠とひろがる首都の灯の海が、そこからは一望のもとに目におさめることができた。赤い灯、青い灯、白い灯。家々の窓にかがやく光は、この王宮の丘をとりまく第一環状水路の岸べあたりまではどうやら一つ一つ見分けることもできる。しかしその外側はもう一面に茫々たる光の洪《こう》水《ずい》になって、その果ははるかにアトランティスの海にまでおよんでいた。昼間ならかがやく紺青の海原がのぞまれるのだが、今は深々と闇《やみ》につつまれ、さわやかな風がその方角から街々の上をわたり、この大回廊の手すりの間を吹きぬけてゆくのだった。それは彼らが過去何十年もの間、毎夜、見《み》馴《な》れてきたごくありきたりの夜であった。なんの変化も、異常もそこには認められなかった。不幸や悲劇の匂《にお》いなどどこにもない。豊かな生活と、それが生み出した香り高いさまざまな音楽や彫刻や詩や唄。それらに飾られた栄光とうるおいがその夜にはこめられていた。アトランティスの王都が、一日のうちでもっとも楽しい、陽が沈んでからの何時間かを今、過しているところだった。それは。
たしかなことなのだ。百年も、千年も、また万年もこの夜の光の海はいささかのおとろえもないはずであった。市民の誰もがそれを信じ、オリオナエ自身もまたそれを既定の事実として受け入れ、確信してきたことであった。
「さ、まいりましょう。オリオナエどの」
オイローパが背後からそっと声をかけた。
「オイローパ。このポセイドンの都、栄光と豊《ほう》饒《じよう》にあふれるこのアトランティスの都が亡びるときのありさまを考えたことがあるか」
こんどはオイローパがその問いに答えようとせず、回廊の広大な壁画に目を当てつづけていた。
「いや、これはきびしい問いであったか。オイローパ。私とて三、四日前まではそのような心弱いことなど露ほども考えたことはなかった。しかしほんとうはそれは真剣に考えておかなければならない問題であったのだ。われわれは豊かな生活と安楽に狎《な》れ過ぎていたようだ。うかつであったよ」
オリオナエは眼下の灯の海にもう一度、視線を投げると、衣《ころも》のすそをひるがえして柱廊を奥へむかった。
一階の壮麗な大会議室には、すでに諸王たちがいならんでいた。壁にとりつけられたおびただしい数の投光器が放つ光《こう》芒《ぼう》が幾十条もおり重なり、高大な大天井はその光の幕のさらに上に、かすんで見えるほど高かった。
オリオナエが入ってゆくと、いならんだ王たちはすがるようなまなざしをいっせいに彼に集中した。その視線を痛いほどあびながら、彼は黙々とテーブルの中央の自分の席へ足を運んだ。すでに彼らの期待にそいえないことは、彼自身が実はもっともよく承知していた。彼は胸の中をいっぱいにふさぐ鉛のように重いものを抱きかかえて、椅《い》子《す》に身を落し、オイローパのさし出す書類入れをテーブルの上に置いた。重苦しい空気は大会議場をにかわのように貼《は》りつけて、私語一つ聞えなかった。
王国はじまっていらいの絶望的な最高会議は、今はじまろうとしていた。
間もなくベルが鳴った。ベルの音は会議場の空気をひととき、けたたましくふるわせ、いならんだ諸王たちのひたいに冷たい汗の粒を浮かせた。
「アトラス七世陛下および王の父、ポセイドニス五世陛下のお出まし」
ラウドスピーカーから枢《すう》密《みつ》顧《こ》問《もん》官《かん》のイリアスの声が流れ出した。
大会場の正面の、アトランティス王国の版図を浮彫りにした大金属パネルが音もなくすべって、広大な舞台の奥行をあらわした。
その中央に、小さな家ほどもある巨大な椅子が二つ。
白銀色の金属で打ち出された、なんの装飾もない単調な構成がその椅子の巨大さをさらに人々の胸に印象づけた。
舞台のさらに奥の壁面がこれも音もなく横にすべると、二つの人影が小山のゆれ動くようにあらわれ出た。そのかぶりもののいただきは宏大な天井にほとんど触れるかと思われた。
まばゆい照明の下に赤《しやく》銅《どう》色《いろ》の大きな顔をまっすぐに上げ、大会場にいならぶ人々にほのおのような目を当てると、悠《ゆう》容《よう》として玉座に着いた。一人は正面に、一人はやや後に。
「それでは諸氏の最終的な計画を聞こう。すでに余の意図するところは、その全《ぜん》貌《ぼう》を書面をもって諸氏に知らしめた。余のもっとも眼目とするところは、経済機構、政治機構を中心として市民生活を現状のまま、祖宗の国なるアトランタに移動せしむるにある。多年にわたる余の実験的方法による王国の経営は極めて成功を見た。これもひとえに諸氏の協力のたまものであった。余の王国の成功こそ、これからの惑星開発にとって極めて重要な示唆となるものだ。それでは移動計画を聞こう。司政官、述べよ」
その重量ある声はいささかのよどみもなく、わずかにさびをふくんで、巻かれた分厚な敷物をほどきひろげるようにみなの胸を圧した。
オリオナエは立ち上った。深く息を吸いこんで惑乱する胸の中をむりにおさえつけた。
「王の王たるアトラス七世陛下、および王の父たるポセイドニス五世陛下に篤《あつ》い忠誠心を表明するものであります。
申し上げます。陛下のお示しになりました王国のアトランタ地方への移動でございますが、陛下、われら日に夜をつぎまして深く吟《ぎん》味《み》いたしましたが、臣としてまことにはばかり多きことながら、このご計画はいささか現状にては無理かと思われます」
会議場は死のように凍りついた。みな、呼吸もやめたかのようにひそと身動きもしなかった。永い沈黙が流れた。人々は必死にその重苦しい沈黙に耐えていた。やがてアトラス七世の明快な口調がひびいた。
「司政官、無理は余もよく承知しておるところだ。先日も述べたようにその無理の上に立って検討せよと申したはずだが、余とて諸氏の苦衷がわからぬではない。しかしこれは惑星開発委員会の精密な開発計画の推進によるもの。すべてはその計画にしたがい、時を定めてプログラムを追わねばならないものだ。諸氏よ。それを天の命という。《神意》というはただ人間の精神の生み出した抽象的概念ではない。司政官、それゆえ、実現のための方途をすみやかに吟味せよと申したのだ」
オリオナエのひたいに深くきざまれた幾すじものしわに、こまかい汗の粒が光っていた。
「陛下。かかるたぐいまれな楽園を生きてまのあたりに見ますのも、ひとえに仁《じん》慈《じ》あふるる陛下のおめぐみによるものでございます。さればかかる楽園をして、何ゆえ未知のかなたの土地に移動せしめなければならないのか、市民たちには理解できかねるかと思われます。実り多い豊かな果樹園、さかんな製造工場、商船隊、医療院、学校、どの一つをとっても市民は極めて満足しております。市民は極めて保守的なもの。とくにその生活がいたって恵まれている現状ではなおさらのことでございます。かれらは自分たちの故郷の繁栄に充分、満足いたしております。かかる時に王国を移動させると申しましてもいたずらに混乱をまねくばかりかと存じます。陛下のご明察をわれら一同、心からおねがいいたします」
オリオナエは全身の力が毛穴から噴き出てゆくのを感じた。この二、三日の間、地方長官会議である王集会でとりまとめた結論をどうやらそのまま口にのぼせることができたということで、彼はわずかにおのれの責任の一端が果せたことをうれしく思った。
「司政官。それは余の期待する答えにはならない。余はアトランティス王国の移動計画について問うているのだ」
アトラス七世の静かな口調は、しかし全く妥協の余地を示していなかった。
「陛下」
王国の西部海岸地方の地方長官であるドミニカ王が立ち上った。麻の上等な被布に貝《かい》殻《がら》の美しい首飾りを垂らしている。茶《ちや》褐《かつ》色《しよく》の濃いほおひげがふるえていた。
「この計画の全貌を市民が知ったとき、おそらくかれらはおどろき、悲しみ、そしてその怒りはついに暴動にまで発展することでありましょう。そうした例は決してめずらしいものではありません。この大計画が陛下の仁慈あふるるお志のあらわれであっても、市民たちの心にはそうとはうつりません。昨日までの仁政に変るに今日の暴挙よ、とかれらの心はアトラス王家に深いうらみを抱くに違いありません」
ドミニカ王が腰をおろすと同時に、中央部の山岳地帯をあずかるアジャックス王が立ち上った。
「陛下。これまでも王国そのものを移動するということはないではありません。しかしそれはたとえば永年の凶作に見舞われるとか、あるいは隣接する蕃《ばん》族《ぞく》のあくなき侵略からまぬがれるためとか、いわば明日の繁栄を願ってのこと。すなわち市民たちのひとしく願うところであったからです」
玉座から雷鳴のような声がとどろいた。
「諸氏に重ねて言う。王の王たる者は余だ。余は神の意を受け、その発現に専心するのみだ。諸氏は余の言に従いよく神の意を体せ」
それまで黙っていたポセイドニス五世がおもむろに口を開いた。声の質も口調もアトラス七世と酷似している。
「司政官、ならびに王たち。かつて諸氏らがアトラス王家に対して見せてくれたあの崇《すう》高《こう》な忠誠心はいったいどこへいってしまったのか。余がわが子アトラス七世に最高神《じん》祇《ぎ》官《かん》の位をゆずったときに、諸氏らのアトラス王家にささげたちかいの言葉は、まだ余の耳に脈々として残っている。諸氏ら、アトラス王家に対する忠誠心にきずをつけることのないようよく自省されたい。諸氏らのアトラス王家によせる忠誠心こそ、そのままわがアトラス王家が惑星開発委員会に対する忠誠心でもあるのだ」
なみいる王たちは石のように動かない。
「司政官、ならびに王たち。今を去ること一千年のむかし、この荒れ果てた海原に浮かぶ不毛の大陸に最初の一歩をとどめ、原子力発電所を設け、山野を切り開き、植物を育ててその果実、種子を採《と》ることを教え、道路、市街をきずいて上、下水道を備え、鉄の精《せい》錬《れん》を教え、合金を作り、電動機によって自走する車をそろえ、商船隊の建設を指導したのはそもそも誰か。言え」
「王国の祖。ポセイドニス一世」
人々の声は重々しく大会議場にこだました。
「されば王国の建設の理念は、司政官。言え!」
オリオナエは憑《つ》かれたように立ち上った。解っているのだ。そんなことは解っているのだ。今さら王国の建設の理念など、われわれにとってなんになろう。
「新星雲紀。双太陽青九三より黄一七の夏。アスタータ五〇における惑星開発委員会は、《シ》の命を受け、アイ星域第三惑星にヘリオ・セス・ベータ型開発をこころみることになった。これによって、惑星開発委員会の存在が原住民に与える影響、すなわち《神意》の発現形式としての宗教の発生……」
オリオナエは自分の口が耳まで裂けるのを感じた。彼は壇上にそびえるものに向って絶叫した。
「神は実在であると説くよりも、なぜ惑星開発委員会は実在すると説かなかったのだ!」
なみいる王たちが葦《あし》の葉のようにざわめき、その面貌は死者となった。
「なぜ説かなかったのだ!」
オリオナエははげしい目まいにおそわれて床《ゆか》に崩れ落ちた。
「なぜ実在すると説かなかったのだ」
さらに叫んだつもりだったが、それは声にならず、わずかにくちびるの端がふるえただけだった。
天が墜ちてきた。原初の闇がオリオナエをすっぽりとつつんだ。
足もとの方で、しきりにかすかな金属器具の音がしていた。何人かの人間のしのびやかな声が低くそれにまじっていた。鼻孔の奥に強烈な薬品の匂《にお》いがただよってきた。
なにをやっているのだろう?
そしてここは?
くらく湿った頭でしきりにそれを考えたが、考えはいたずらにつかみどころもなく、はげしい疲労でその作業を中止してしまわねばならなかった。とつぜん鋭い痛みが彼の腕にはしった。痛い! 彼は思わずうめいて体を起した。実際はかすかに肩をふるわせたに過ぎなかった。
「あ、お気がつかれたようです」誰かが言った。
気がついた? 何が――にわかに記憶がよみがえってきた。そうだ。大会議場で……
プラトンのオリオナエは寝台の上に起きなおった。
「もう少し横になっていてください。神経興奮剤がきいていますから、立つと平衡を失います」
オリオナエはあらためて鼻孔をうつ薬品の匂《にお》いに顔をしかめた。
「どうしたのだ? 私はたしか大会議場で倒れて」
オリオナエは言いかけて一瞬、奇妙な感覚にとまどった。どうもその記憶には自信がなかった。
「まて、なんだか砂漠のようなところを旅をしていたような気がするのだが。夜の砂《すな》嵐《あらし》と、たくさんの星と、それに窓から洩《も》れるまぶしい光があったような気がする。あれはいつだったろうか」
オリオナエはひたいに手を当ててつぶやいた。
砂漠の旅の経験などあるはずもない。それなのになぜだろう。この胸の中を占める強烈な違和感は。
全身を白い衣服で包んだ男がオリオナエの顔をのぞきこんだ。天井のかがやく照明を背にしたその黒い影が、またしても彼に心の奥底に沈《ちん》澱《でん》しているある記憶を手さぐりさせた。しかしそれもむなしくそれていった。黒い影は音もなく去って、天井の照明だけがオリオナエの目に痛いほどまばゆかった。さらにごく短い時間、オリオナエは眠ったようだった。
二度目に目覚めたときは彼の周囲には誰も居なかった。オリオナエは寝台に腰をおろして足の先で床のはきものをさぐり、それから広い肩をゆすって立ち上った。
そこは完備した診療室だった。壁に沿った金属の棚《たな》にさまざまな医療器具がならべられ、車輪のついた医療台には注射器や薬びん、メスや長柄の針などをおさめた箱が冷たい光沢を放っていた。見まわしたが誰もいなかった。
「患者をうち棄《す》ててどこへ行ってしまったんだろう」
オリオナエはこのやや粗末な扱われかたに眉《まゆ》をひそめて診療室のドアをおした。
どうやらここは王宮内の医療部らしかった。彼はこのとき、これまでただの一度も医療部を訪れたことのなかったのを思い出した。
医療部の中はなぜかひどく混乱していた。広い清潔な回廊を、医師や助手たちが全身に異様な熱気をたぎらせてあわただしくゆききしていた。
「どうしたのだろう?」
そういえば今までオリオナエが横たわっていた診療室の内部も注意して見ると混乱の跡がはっきりと残されていた。金属の棚の上にならべられた器具も、もっとも重要なものだけをえらんで持ち去ったように、ところどころ歯が欠けたように空《くう》隙《げき》を作っていたし、薬品棚の中のびんが一つ、二つ倒れて中の粉末がこぼれて床に小さなピラミッドを作っていた。この部屋の医師たち何人かはよほどあわてふためいて走り去ったらしい。
オリオナエは医療部の出口とおぼしい方向へいそいだ。回廊に開いた昇降機はおびただしい医薬品をおさめた木箱をいっぱいつめこんだまま停止していた。その先では電動の患者運搬車が横転していた。
オリオナエはすれちがった医師を呼びとめた。
「どうした? 何かあったのか」
その医師はオリオナエの顔を見て体をこわばらせた。
「何かあったのか?」
オリオナエは医師の顔に目をすえた。医師はまじまじとオリオナエの顔に視線を当て、それから急に片手を上げると回廊の一方をゆびさした。
回廊の端は壮大なサンルームになっていた。そこには華麗な深紅色のグラウスがはめこまれていた。
「あれがどうかしたのか?」
オリオナエはいったん医師の上にもどした視線をもう一度その色グラウスにはせた。
深紅色のグラウスは旗がなびくように明るく暗く、はげしく明滅していた。ごく短い時間が経過し、オリオナエは走り出した。
サンルームに飛びこんだとき、オリオナエは広大なその窓が深紅色の色グラウスをはめこんだものではなく、窓の外の厖《ぼう》大《だい》な火のひろがりであることを知った。
そこから見える眼下の市街はほのおのじゅうたんを敷きつめたようだった。真紅のほのおはあとからあとから寄せる波のように彼の立っている高みへ向って押し寄せてきた。はげしい風が吹いているとみえ、ほのおの無数の切れ端が火の鳥のように舞い狂っていた。それが落ちた所からまた新しい火の手が上った。煙は厚く市街の上にたれこめ、その下辺は地上のほのおの動きを映して不気味に明滅していた。金色の火柱が高く噴き上げ、炸《さく》裂《れつ》の火花を散らした。そのへんは第二環状水路のむこう側であろうと思われた。銃声が入り乱れてたたきつけるようにそのほのおの下で聞えていた。
オリオナエはサンルームの窓に沿って走った。分厚な火と煙は環状水路に沿って市街を半円形におし包んでいた。今、オリオナエの立っている所からは炎上する眼下の市街の全容をつまびらかに見てとることは困難だった。
ふたたび炸裂の光輝がほのおの中にひろがり、その周囲の街《がい》衢《く》がくっきりと浮かび上った。ほのおの中の街路を真黒に埋めて逃げ走る人々の姿が小さく小さく見えた。
オリオナエはさらに走った。何か想像もつかない事態が、彼が知らない間にこの壮大な首都を壊滅におしやろうとしていることだけがわかった。
いったい何がおこったのだ?
首都防衛兵団はどうしたのだ?
司政官補たちはどこへ行ってしまったのだ。
彼は傷ついたけもののようにサンルームの窓の内側を走った。回廊の端にドームのように突き出ている巨大なサンルームを半周したオリオナエは、ようやくかすかな期待を見出して太い息を吐いた。
市街のほとんど半分は暗い闇《やみ》に沈んでいた。燃えさかるほのおもそこまではとどかず、火災の煙もそこまでは流れてこないのか、暗い空には星のまたたきさえあった。
「あれなら避難する者も大丈夫だろう」
その火の手のおよばぬ暗い街から、おそらく消火活動も救助作業も進められているのだろう。混乱におちいっているこの医療部も、負傷者の救出に全力をそそぎこんでいるに違いない。オリオナエは自分もそこへ行くべきだと思った。あの自分が倒れたあとの会議のようすもたいへん気になったが、今は先ずこの異変に立ち向わなければならなかった。
市の半分が暗黒につつまれているのは、おそらく原子力発電所が故障しているのにちがいなかった。
「なんとしても復旧をいそがせなければならん」
オリオナエはこの誰も予想さえしていなかった首都の大火災を前にして、自分が司政官としての職務から完全に離れてしまっていることにつき上げられるような不安と焦《しよう》燥《そう》にかられた。停止している昇降機に舌打ちすると、彼は階段をかけおりた。火のとどかない安全な側の市街に出るために、回廊へ、迷路のような交《こう》叉《さ》路《ろ》を横切りたどって彼は必死に走った。
かがやく照明のあふれた回廊の、百メートルほど先に暗黒がこめられていた。そのあたりから停電になっているらしい。広大な王宮の何分の一かは燃えていない市街の側に在った。
彼はともすればもつれる足の運びに、苛《いら》立《だ》つ心をおさえて走った。
灯の消えた回廊は洞《どう》窟《くつ》のように彼の前に迫ってきた。
そのとき、彼の心を風のように通り過ぎたものがあった。
――まて! 王宮の内部には専用の原子力発電所がある。市街の停電とは関係がないはずだ。医療部だって、この回廊だって、このように照明がついているではないか。
とつぜん、彼の目の前におびただしい光の点刻があらわれ、みるみる暗黒を埋めつくした。彼は身も凍る予感に必死に全身の力を足にこめて踏みとどまった。
彼の二、三メートル前方から漠《ばく》々《ばく》たる虚空がひろがっていた。その闇を埋めつくすおびただしい光の点刻は、かがやく千億の星々だった。
夜の虚空は市街を真二つに断ち割り、彼の立っている回廊は宇宙の深《しん》淵《えん》に向って開いているのだった。
片手を壁にのばして体をささえ、彼は子供のようにいつまでもかがやく星の海に顔を向けていた。頭は割れるように痛み、あぶら汗がほおをつたってあごの先へと流れた。首から上は火のように熱かったが体は氷のように冷えていた。とほうもない事態が生じたことだけが解った。
これから何をどうしたらよいのか、まるで見当もつかなかった。
夢でも見ているのではないだろうか?
何秒おきかに自分にたずねた。しかし目の前にひろがる星の海は、決して夢や幻《まぼろし》の所産ではなかった。かがやく星々のあるものには手をのばせばとどきそうだったし、また無数の遠いかすかな光点はその深淵のかぎりない奥深さを示していた。
彼はのろのろと回廊をあとずさった。
火の手のおよばない、暗黒だが安全な市街と思われたものは今や彼の前から喪《うしな》われていた。あるものはただ猛火に焼けただれる部分しかないのだった。
オリオナエは意識のない人形のように階段をくだった。広大な王宮のどこかで、はげしい自動砲の発射音がひびいていた。回廊はいやに静かだった。もうみんな逃げ出してしまったのだろう。
どこへ逃げたらいいのだ?
背後の窓も、ゆくてのバルコニーもえんえんと燃えるほのおのはためきを映して照りはえていた。彼はゆっくりと階段を踏んで一階の中央広間へ出た。広間につづく中庭のタマリスクの木かげに、ようやくここまで逃げのびてきたらしい避難民の姿が黒々と動いていた。彼は石だたみを踏んで中庭へ出た。ほのおの色に染った大石壁の下に六輪の自走車が横転していた。その荷台から崩《くず》れ落ちた積荷が足の踏み場もなく散乱していた。またどこかで自動砲が吠《ほ》え立てていた。しだいに熱くなってきた大気を鋭い笛のように裂いて、弾丸が頭上を飛び交った。その幾つかが王宮の壁にオレンジ色の火の粉をまき散らした。
城門のアーチをくぐって衛兵つめ所の前を過ぎると、火炎の光に顔を赤く染めた兵士がばらばらとかけ寄ってきた。
「外へ出ないでください。暴徒が王宮の外郭壁を破って乱入しています」
「暴徒?」
オリオナエは聞き馴《な》れない言葉に思わず足を止めた。
「暴徒が?」
「そうです」
兵士たちは火光の中に立っている一人の男に彼らの司政官の顔を認め、あわてて手にした自動銃を耳までかかげて敬礼した。
「するとこの大火災は暴徒によるものだ、と言うのか」
兵士たちは自分たちの政府の高官中の高官がそれを知らないことにいぶかしそうに火光にオリオナエの顔をすかし見た。
「い、いや、ま、まだ詳細な報告は受けておらんのだ」
オリオナエは兵士たちの手前をつくろった。
「アトラス王の布告が出ると間もなく、市の各地に市民の不穏な動きが見られ、また市政庁が襲撃され、防ぐひまもなく市の大半は暴徒に占領され、火災を消すてだてもありません」
兵士たちは体に巻いた重い弾帯をゆすり上げた。
「お前の名は?」
オリオナエは目の前の兵士にあごをしゃくった。
「王家親衛隊軽装歩兵、銃中士ヘラクレイトスです」
「全部で何人いる?」
「十七名、負傷者一名、計十八名です」
オリオナエはうなずいた。
「よし、ここを固めろ。王宮内には暴徒は一人もいれるな」
言い棄ててオリオナエは王宮前の広い街路へ出た。火はすでに広い街路のむこう側の地方高官用宿舎の壮大なビルを呑《の》みこんで黄金の火の粉を噴火のようにまき散らしていた。
烈風が街路を大波のように吹き過ぎ、火の塊《かたまり》になった木片や家財の破片をひとまとめにして街路のおれ曲る正面にそびえる軍務庁の建物にたたきつけた。ほのおの渦《うず》がオリオナエの視界をおおった。
火の壁をくぐって亡霊のような人影がもつれ合いながらよろめき出る。オリオナエの背後にくろぐろとそびえる王宮に、焼けただれた両手をさしのべて、何か必死に叫んでいる。その裸足は焼けくすぶる煉《れん》瓦《が》を踏んで水袋のような火ぶくれになっていた。
「早く来い!」
オリオナエは王宮の城壁の影の下から飛び出した。
どこかでつづけざまに銃声がひびき、走り寄ってくる何人かの人影は声も立てずに路上にはね飛んだ。
「射《う》つな! 射つんじゃない!」
オリオナエは高い城壁をふりあおいで叫んだが、猛火と烈風の中にその声が城壁の上までとどくはずもなかった。オリオナエは城壁の下をあてもなく走った。司政官として何かやらなければならないことがあるような気がしたが、足はひとりでに動いた。
「港へ行くんだ!」
「海へ逃げろ! 船に乗るんだ!」
火のとどかない露地から露地へ、人々は一団になって走った。女の泣き声、子供の悲鳴、それをののしる男の怒声などが、せまい裏街の両側の建物の高い煉《れん》瓦《が》の壁にもの凄《すご》く反響した。黄色の帯を車体に巻いた政庁用の自走車が猛スピードで街角を曲ってあらわれたかと思うとそのまま、方向も変えず、壁に激突した。車体が二つにおれ、フリオン電池が真青な閃《せん》光《こう》を発してショートした。おれた車体から子供をふくめた幾つかの死体がころがり出た。鼻を刺す灰《かい》塵《じん》の匂《にお》いに混って血の匂いがひろがった。
くらい広場の中央で、たくさんの人々がうずくまったり横たわったりしていた。
そこは《東方の戦車《オリエンタル・チヤリオツト》》広場だった。広場の中央に小さな泉があった。オリオナエは石だたみに横たわっている男や女の体をまたいで泉に近より、冷たい水をむさぼるように飲んだ。手ですくう水はあらかた指の間から洩《も》れて石だたみにしたたったが、水はオリオナエがこれまで口にふくんだこともないほどさわやかで美味だった。
泉のかたわらのつるばらの繁みのかげで声をしのんで争っている二個の人影があった。
「さあ、港へいそごう。船が出てしまうぞ」
「もう逃げてもだめだ。王の命令にしたがおう。どこへでもいい。王の行けというところに行こう」
息をはずませて言う一人の声は若く、一人の声は老いていた。
「何を言う。海の向うにはまだまだ豊かな実り多い土地がある。そこへ行ってはじめからやりなおすのだ。な、せがれ、おれたちは馬や牛ではない。父祖の代からきずき上げてきたこの土地での生活を、いきなりとり上げて星空の果の太陽だ、惑星だと言われたところで、はい、さようでございますかなどと心やすく移り住めるか。おれたちは奴《ど》隷《れい》ではないのだぞ」
「だが、お父さん。この火の壁をくぐりぬけてどうやって港まで行くのかね。第二環状水路にかかった橋はもう全部焼け落ちたというじゃないか。水路はわきかえって焼けただれた死体で水面も見えないそうだよ。お父さん」
老人の声は低くしわがれていたが、まだ消え残る力強さを失っていなかった。
「さあ、起て。人間を人間とも思わぬアトラス王家のしもべに仕えるくらいなら、この身は水路の煮えたぎる鍋《なべ》の中に沈んだ方がまだましだ」
「お父さん!」
「ああ。アトラス王家に永遠の呪《のろ》いあれ。奴は正《まさ》しく人間ではない。悪の化身じゃ。奴めはこの日の来るのをどんなにか待ち受けたことか。奴めらはおれたちに宝ものをくれた。かずかずの宝ものをな。しかしそれは今日という日のための免罪符じゃったのよ」
老人の声には聞く者の耳をおおわしむるような傷《いた》ましいひびきがあった。
「起て! 息子よ。この日の、この夜のできごとを世界の人々に知らせるためにも、おれたちは船に乗らなければならないのだ」
オリオナエはその声をたよりにはい寄った。
「誰だ!」
鋭い声がオリオナエに飛びついてきた。闇の中に氷のような殺気が走った。
「わしは司政官オリオナエだ」
「司政官だって?」
うずくまっていた二つの人影が首をのばしてオリオナエを見さだめようとした。
「うそではない」
「その司政官がどうしてここへ?」
老人の声にはまだ強い疑いがこめられていた。
「私は会議中に気を失って医療院にいたのだ。気がついたらこのさわぎだ。教えてくれ。あの都市の半分を呑みこんだ暗黒と、この火は?」
老人ののどが笛のように鳴った。
「あの星空は今日の夕暮れ、とつぜんあらわれた。夕陽にかがやく王都の西半分が喪われていた。火事はそのあとでおきた」
「なぜ、火事が?」
「わからない」
かすかに首をふった老人の言葉を若者が引きとった。
「ポセイドニス五世が王国を移動させる、と言った。王たちがその命令にしたがわなかったというので、五世は神の力を借りて制裁を加えたのだ。司政官、市民の中のある者は銃をとって立ち上った。またある者は、極力、その非をポセイドニス五世の前に陳述しようとした。しかしすべてはおそかった。ポセイドニス五世の心は完全に市民たちの上から離れてしまっていた」
オリオナエは今、ようやく事態の真のすがたをさとった。
老人の筋張った手が、ひしとオリオナエの腕をとらえた。
「司政官、わしらは医療院も、学校も、自走車も、原子力発電所もみんなかえしてやるぞ。アトラス王家がわしらに対して餌《えさ》に使ったものはぜんぶたたきかえしてやる。わしらは一千年前の原始の時代にかえってもいい。そのほうがいいんだ。わしらがアトラス王家にたのんだわけじゃない。やつらは遠いどこからか勝手にここへ来たんだ」
息子が父親の言葉をさえぎった。
「だけどお父さん、おれたち、今さら一千年のむかしの生活にもどれるものか。火ひとつ起すことができないじゃないか。錐《きり》をもむのかい、火打石でたたくのかい! 動物を捕えるのに矢で射るのかね。おれはいやだ。食べる物もなく病気になったら死ぬのを待っているだけなんて、おれはごめんだ」
オリオナエは二人の肩に手をかけた。
「二人とも、先ず船に乗るんだ。ここにいては間もなく焼け死ぬぞ。早く港へ行け」
「司政官! わしらはただの実験動物だったんだ。次から次へと味の変った餌を与えられ、反応のしかたや生活の変化を観察されていたんだよ。なにが移動だ、なにが王の命令だ。みろ! アトラス王家が一千年かかってはっきりさせたことは、わしらの生活のすべて、幸福だ、豊かだ、などと言っていた生活のすべてが実は全くの根なし草だったということだけだ、それだけなのだ」
オリオナエは老人の体を引き立てた。
「わかった。それならなおさら船に乗れ、海のむこうの土地へ行って、今の言葉を人々に伝えるのだ。な、幸福だとか豊かな生活だ、とかいうものの意味を人々に知らせるのだ。アトランティスの人々のなめた苦《にが》い失敗を世に伝えろ。あるいはこのような悲惨な失敗がまだまだ世界にはあるのかもしれない」
老人はオリオナエの腕に支えられて体をふるわせた。
「さあ、行くのだ」
「おれは王宮へ行く!」
息子は身をひるがえして走り出した。
「まて! 行くな!」
老人は電気にうたれたように立ち上った。
「息子さんはわしがさがしてこよう。あなただけ、先に港へ行け」
オリオナエは老人の背を押した。
王宮の正面入口への大階段は、すでに昇り降りする人影も絶え、見《み》棄《す》てられた廃《はい》墟《きよ》の翳《かげ》が火光を隈《くま》どっていた。荒れ狂うほのおの海と、満天の星空の一部と化した市街の半分とが、大階段の半ばからのぞまれた。
異様な星空はあるはずもない世界をそこにくりひろげ、そのこちら側では立ちのぼるほのおや渦《うず》まく煙はその暗黒に沿ってまるで目に見えない透明な壁でさえぎられたように終っていた。吹きつけてきたほのおは、そこで行き止まりになって出口を求めて上へ下へ渦まき、煙は厚い壁を作っていた。
「市街の半分はどうなってしまったのだろう?」
何十度目かの問いを自分の心に問うた。しかしもとより何の答えも出てこない。
昨日までは人口四十万、直径四十キロメートルにおよぶ巨大な環状都市は、すでに完全にその機能を失っていた。もはやいかなる意味でも人間の住めるところではなくなっていた。
「ポセイドニス五世に会わなければ」
とつぜん、オリオナエの心にはげしい欲求が破裂した。
「王家はどこから来たのだろう。王家の人々はいったい何者なのだろう?」
奇妙なことにそれははじめて抱く疑いだった。祖先から語り伝えられ、古い文書や記録に残されたアトランティス王国、建設の由来はすでに一片の物語りと化していたし、人々の素《そ》朴《ぼく》な感情はアトラス王家の故郷など問題にもしなかった。
――ある日、空より降り立ち
それだけでよかった。そこからすべてがはじまったのだ。
――ある日、空より降り立ち
すべてがうまくいっている間はそれでもよい。しかしいったん平和な時が去り、人々の精神が、生活が不安におののくとき、不幸や悲劇の根源をさぐって、最後にはただ一つの問いに至る。その問いはすでにむなしく答えは求め得ようもない。
王宮の回廊は真昼のような照明に冷たくかがやき、オリオナエのほかに動くものの影もなかった。ポセイドニス五世、アトラス七世の体に合わせて建設されたという王宮内部の高大な回廊は、天井まで二十メートルはあろうかと思われた。
二階へ向う傾斜走路が無人の回廊に巨大な環形動物のように動いていた。
回廊の両側に巨大なドアがならんでいた。そのドアの前に立つと、ドアはゆっくりと左右に開いた。ある部屋はオリオナエもよく知っている会議室であり、ある部屋は枢《すう》密《みつ》院《いん》のオフィスであった。オリオナエは回廊を奥へ奥へと進み、二階から三階へと走った。
どこにも王の姿はなかった。王宮は十六層とも十七層ともいわれ、司政官であるオリオナエでさえ、五、六階より上へ昇ったことはなかった。日ごろ、王宮内の雑務がどのようにして進められているのか誰も知らなかったし、また知ろうともしなかった。官房長官のイラスが何十人かの部下を使ってその仕事をおこなっていたはずだったが、長官のイラスはめったに人々の前に姿をあらわすことはなかった。
「陛下! 司政官オリオナエです。どちらにおられるのですか」
オリオナエは無人の回廊の奥に向って絶叫した。
「どちらに!」
その声は回廊の床をすべって遠く消えていった。その声のゆくえを追うようにオリオナエは回廊をよろめき進んだ。奥へ向っているのか、出口へ向っているのかもう見当もつかなかった。
「陛下! オリオナエがまいりました。陛下、どちらにおられましょうか」
オリオナエは前へ、後へ叫んだ。
「ここにいるぞ」
オリオナエはすさまじい恐怖にたたかれて、崩れ落ちそうになるひざにかろうじて力をこめた。
「何の用だ。司政官」
周囲を見まわしても、ポセイドニス五世の姿は見えなかった。まばゆい照明と冷たい金属の回廊に落ちているものはただオリオナエの影だけだった。
しかしオリオナエの全身の神経は、今、ポセイドニス五世が巨塔のように立ちふさがっているのを感じた。
「陛下! これはいかなることでございますか。陛下みずからの手で陛下の首都、陛下の市民を無に帰するとは」
「司政官。余は惑星開発委員会に対して余の失敗を報告するだろう。しかし失敗も結果の一つだ。司政官、あの火を見たか。あの火こそ余の計画を阻害し、惑星開発委員会の意図をむなしくせしめた最大の拒否であり解答だ」
「陛下!」
「余らは二度と諸氏および余の市民に会うことはあるまい」
「待ってください! 消えた市街の半分はどこへ? どこへ行ってしまったのでしょうか。もうここへはもどってはこないのでしょうか? 陛下、おこたえください。あの星空はなんでしょうか。消えた王都の半分の跡に出現したあの星空は?」
答えはなかった。
オリオナエの前にそびえ立っていたポセイドニス五世の気配はしだいに淡く、かすかにかすかに遠のいていった。
回廊の空気に煙の匂《にお》いが混りはじめた。ほのおはすでにこの王城に迫っているかと思われた。すべては終りだった。
すべては終りだった。すべてはもはやオリオナエの手のとどかないところで終りを告げた。
これからあの泉のほとりで老人の言ったような原始の社会がはじまるのか。人の心に暗黒がおとずれてくるのか。
すべてはあの暗黒の空と燃えさかるほのおに呑みこまれてしまうのか。
すべては――
*
すでに嵐《あらし》は吹きやんでいた。
プラトンは半身を砂に埋めて石のように横たわっていた。
夜明けの風が音もなく彼の体から砂粒をはらい落した。
水をくみに出てきた部落の女が、砂の上にうち倒れているプラトンを発見したとき、プラトンは完全に息絶えていた。女は長老セイムに告げ、おどろいて部落の家々から走り出てきた男や女たちによってプラトンの体は昨夜あてがわれた家に運びこまれた。グラディウスはまだ壁によりかかって深い眠りに落ちていた。
部落の医師役の男がかけつけてきて、プラトンの腕や足から、銀の針につながったグラウスの筒の中の液体をそそぎこんだ。グラディウスには想像もつかない奇妙な器具がつぎつぎと運びこまれ、何かの回転音や、気体と液体を混ぜる低い泡立ちの音が絶えずしていた。グラディウスは部屋のすみに棒立ちになって、寝台をとり囲んでいる男や女たちのあわただしいが、きびしく澄んだ動きを見つめていた。その日の陽が高まるころ、ようやく寝台の上でプラトンのうめき声が洩《も》れた。男や女たちの動きにかすかな動揺がわいた。
「もう大丈夫だ。あと二、三日もすれば起きられるようになるだろう。しかし無理をしてはいけない。何にしろ一度、完全に死んでしまったのだからな」
部落の医師役の男は寝台のまわりの器具を片づけながらグラディウスに声をかけた。男や女たちは黙々と部屋を出ていった。
医師役の男は窓にカーテンを引き、プラトンの体をおおった夜具をなおすと、薬品や小器具の類をおさめた木箱をさげて出ていった。
プラトンは枕《まくら》に頭をおしつけてなお死んだように眠っていた。それを見つめるグラディウスの目に涙が浮かんだ。
なにに誘われて吹きつのる砂嵐の戸外に出ていったのか。そしてそこで何を見たのか。
グラディウスはこの旅が、今、ほんとうにはじまったことを痛いほど感じていた。
プラトンはそれから数日の間、眠るでもなく、覚めるでもなく、うつうつとして過した。グラディウスが何をたずねても答えようとしなかった。グラディウスにも、あの砂嵐の吹きすさんだ夜に、何かがおこったらしいことはわかっていたが、もちろんそれが何なのかは、察することもできなかった。
部落の長老セイムは、そうしたプラトンを見やって傷《いた》ましそうに目をそらすばかりだった。
「長老セイムどの。あの夜はたしか、この部落の人々の沈黙の夕べ、と言っておられたようだったが、その部落の習慣《 な ら い》と、わが主人のこの急な病いとの間に、何かつながりでもあろうか」
長老セイムはそうだ、ともそうでない、とも言わず、しばらくプラトンのようすをうかがっていた。プラトンは壁に背をもたせかけて床に座していたが、その視線はうつろにはるかなどこかを見つめていた。
「のう。グラディウスどの。われわれの部落にむかしから伝わる沈黙の夕べ、と言う儀式はのう、実は部落の者すべてが宗主による啓示を受けるわけではない。部落の中のごく少数の者のみが、その夜何ごとかを感得するのだ。そしてたとえ自分が宗主の啓示を受けたとしても決してそれを人に語ることはない。だから、部落の誰が、いつ、宗主によっていかなる啓示を受けたのかは、誰も知らないのだ。むろん、わしとても知らない」
「ふうむ、それが沈黙の夕べ、か」
「むかしは、ずっとむかしは沈黙の夕べには部落の誰もがひとしく宗主の啓示を受けたものだという。そこで部落の者は古《いにし》えのひとつのできごとについて新しい知識を得、部族の精神的結束をより強めたものだという。しかし今ではそれも極めて求め難いものになってしまった。グラディウスどの。アトランティスの、宗主の、あの啓示は実さい、ほんとうにあったことなのであろうか。わしはこの頃では自信を失いかけているのだ」
「わしには何とも言えぬ」
長老セイムはだまって部屋から出てゆこうとした。
「長老セイムどの。わしはプラトンさまの従僕になるまで、多くの土地で、たくさんの人々の中で暮してきた。その間に身につけた多くの人々や部族のしきたりも数知れない。それなしでは一日たりとも生活できなかったからだ。そうした多くの部族や人々の間に今でも語り伝えられる多くの物語りや伝説の中に、いかに滅びや救いの話の多いことか。なぜであろう。なぜそのように、これまで実さいには誰も見てはいないはずのすさまじい滅びや、またそのさいにあらわれるという救いの話が多いのであろうか。ただの絵空事にしてはあまりにも真に迫り、また、あまりにもそれは確約されているように思えるではないか」
長老セイムはグラディウスの声を背に戸外へ去った。
それからさらに三日ののち、この地方にはめずらしいけむったような雨が終日、砂漠を湿らせた。
「グラディウス。今日は西へ向う」
とつぜん、プラトンが立ち上った。
「だ、だんなさま。お、お体のごようすはいかがでございますか」
「体の? わしの体がか?」
「はい。だんなさまは、い、いつぞや」
「グラディウス。この雨は砂漠に旅をする者にとっては一年に、二度、有るか無いといわれるほど絶好の雨だ。今日をにがしてはアトラス山脈の西への旅は苦しい。いそごう。出発の準備をしろ」
プラトンの言葉にはグラディウスの知っている日《ひ》頃《ごろ》のプラトンらしい性急な熱っぽさと一種のひたむきな執念がこもっていた。それこそプラトンにとっては健康の証拠だ。グラディウスはうなずいた。
「よろしゅうございます。さっそく準備いたしましょう」
出発の準備といってもろばのくらわきの皮袋に水をつめるだけでよい。
「だんなさま。道すじは?」
プラトンは窓の外の霧のような雨に放心の目をそそいだ。
「ここから西北へ四日、サワイの谷の西にTOVATSUEという部落がある。そこで待っているはずだ」
「待っているとおっしゃいましたな?」
「うむ」
グラディウスはそのはじめて聞く奇妙な名前を口の中でくりかえした。
「どなたが? いつ、そんなお約束を」
プラトンはふしぎそうな顔でグラディウスを見た。どうしてそんなことを聞くのだ、という表情だった。
「どなたがだと? グラディウス、お前らしくないぞ。忘れてしまったとは」
「これはおそれいります」
グラディウスは頭をさげながらも、プラトンの言葉の意味を把《は》握《あく》するのに苦しんでいた。
TOVATSUEとはなんだろう? 部落の名前だというが、これまで聞いたこともない。それに、これは何という意味なのだろうか。これまで数多い地をわたり歩いてきたグラディウスにとっても、この奇妙な語感ははじめてのものだった。
TOVATSUEか!
グラディウスはそこでプラトンを待っているという者がいったい誰なのか、考えをめぐらせたが、これはとても見当がつかなかった。
グラディウスは、プラトンの出発を告げるために長老セイムのもとをおとずれた。
三頭のろばの背に食料や水袋が積みこまれ、別に、乗用の一頭も借り受けた。これにはプラトンが乗った。
この出発にさいして、別れの言葉の中でプラトンが部落の長老セイムに、ギリシャ半島をおとずれるようにすすめたことが、テリンスの友人、テッススに書き送ったプラトンの書簡に残っている。
霧雨の中を、プラトンとグラディウスは部落を離れた。なぜかプラトンは長老セイムのすすめる道案内の若者をことわった。部落の者たちは二人の旅立ちをひっそりと見送った。
霧雨に濡《ぬ》れる砂漠は、グラディウスの目に荒涼とひろがっていた。その果に待っているものがいったい何であるのか。グラディウスにとってはTOVATSUEが生であっても死であっても、どちらでもかまわなかった。どちらにしてもたいした違いではなかった。
しばらく進んで部落をふりかえると、部落は砂の海の中に遠く小さく色《いろ》褪《ざ》めて沈んでいた。
「だんなさま。あれはなんでございましょう?」
グラディウスが指を上げた。部落へ入るときは気がつかなかったが、部落のはずれに巨大な椀《わん》を直させたような奇妙な形の構造物がそびえていた。どうやらそれは極めて細い金属のわくで作られているようだった。
「あれは宗主の塔だ」
「宗主の塔?」
「この間、会ったではないか。お前、どうかしているな」
どうかしているのはあなたの方ではないか。グラディウスは心の底で苦《にが》笑《わら》いをかみしめた。
だが――
プラトンは濃いひげにつつまれた顔をしかめて、部落の上に浮かんでいる奇妙な巨大な椀を見つめた。それを見るのははじめてではなかった。しかも以前に何度も何十度も、いや全く見なれていたものだった。
どこでだったろう?
しかし、まさぐる心のあせりにもかかわらず、それはもう少しのところでどうしても記憶の表層に浮かんでくることができずに、ふたたびくらい心の深層に沈みこんでいってしまうのだった。
「行こう」
プラトンはおのれの心の作業を放棄してグラディウスをふりかえった。
このとき、プラトンには、ついにその部落の上に浮かぶ巨大な椀形の何十倍もある大きなものが、あのアトランティスの王城の中空に漂い浮かんでいたことも、そしてそれを見ていたおのれがオリオナエという人物であったことも、想い出すことができなかった。
第三章 弥《み》 勒《ろく》
摩訶般若波羅蜜。
その日も朝からひどい暑さだった。カピラ城の西につらなるブッジャーリの丘陵を吹きくだり、広大な果樹園をわたってくる風は熱い水《みず》飴《あめ》のようにねっとりと肌《はだ》にねばりついた。蝉《せみ》の声が耳の底でじんじんと鳴りつづけていた。まるで、天そのものが鳴ってでもいるような蝉の声は、ある周期で高くなったり低くなったりするのだった。蝉の声など、ふだんは誰《だれ》も気にしない。しかし、ふと、何かの瞬間、自分の耳の底でまるで潮《しお》騒《さい》のように鳴りひびいている蝉の声に気がつくことがある。いったんそうなると、それを意識の底から消し去るには相当な努力を必要とするのだった。
今のスッドーダナ王がそうだった。彼はしぶ紙色のひたいのしわをいよいよ深くしておのれの背後に立っている親衛隊長の老ウッダカをふりかえった。
「蝉、うるさいな」
老ウッダカは黙念とうなだれた。彼のほとんど黒紫色の厚い裸の胸を、透明な汗の玉が幾つもすじを引いて流れ落ちていた。この忠実な老親衛隊長には今の王をなぐさめるのに必要な言葉を知らないのが残念だった。
――やはり、あの四人の波《ば》羅《ら》門《もん》僧を切るべきだった。
老ウッダカの考えていることはただそれだけだった。節くれだった指で、彼の腰の皮帯につるした偃《えん》月《げつ》刀《とう》の房をもてあそんでいた。
――やはり切るべきであった。
その機会はこれまでに何度かあった。やろうと思えばできたのだった。しかし老ウッダカがそれをしなかったのは、スッドーダナ王の太子に対する深い愛情を知っていたからでもあった。その太子の師とあおぐ四人の波羅門の高僧はこれまで何度か、太子の要請のもとにこのカピラ城で説法をおこなっていた。親衛隊長の老ウッダカもその聴《ちよう》聞《もん》につらなったことがあった。しかし彼にとって、波羅門僧の説く晦《かい》渋《じゆう》な思想など何ほどの価値もなかった。その素《そ》朴《ぼく》忠実な老親衛隊長にとっては、この釈《しや》迦《か》国の首長の後継者である悉《しつ》達《だる》多《た》太子をほとんどうばうようにして《救いの道》などに連れさろうという波羅門僧たちこそ、彼にとって釈迦国の敵、カピラ城をあやういものにする不《ふ》倶《ぐ》戴《たい》天《てん》の敵であった。
「まだあらわれぬか」
スッドーダナ王は、心の高ぶりと焦《あせ》りをおさえきれぬ乱れた声音で、王城の門に通ずる大路をながめやった。
白い石を敷きつめたその大路の両側には、おびただしい市民が列を作って、今日、このカピラ城を離れて城外の野に移り棲もうとする一人のすぐれた若い太子と、その彼を指導する高名な四人の波羅門僧とを見送ろうとしているのだった。
「王よ」
王国南辺の市場管理官であるカバーラがスッドーダナ王の背後からそっと声をかけた。
「なんだ? カバーラ」
王はやや不《ふ》機《き》嫌《げん》にそれでも頭に頭《ず》巾《きん》をいただいた市場管理官に近づけた。
「コーサラの象隊がバシー谷の東に入りこんでおります」
カバーラは声をひそめて、王をとり囲むように立っている王宮内の高官たちの耳に自分の報告が入らぬように気を配った。
「なに!」
スッドーダナ王は思わず椅《い》子《す》のひじかけを握りしめて腰を浮かせた。
「どうだ? ウッダカ」
親衛隊長も思わず顔をひそめた。
「市場管理官、わしはその報告をまだ全く聞いていないのだが、どうしてそれを」
「うむ。十日ほど前より、ザンバ部落周辺のきび収穫高の予想をたてるためにバシー谷方面に調査官を派遣していたのだ。その調査官が今朝、早く帰ってきた。その報告のために八十里の道を馬を飛ばせてきたのだ」
「バシー谷に入りこんできたか。象隊がのう」
スッドーダナ王はひたいにみじめなくらい色を浮かべて老ウッダカにささやいた。
「バシー谷周辺でコーサラの兵と戦うことはむりであろう。派遣できる象隊はどのくらいあるか?」
老親衛隊長は頭をふった。
「せいぜい八頭、いや七頭、軽装歩兵四十名というところでございましょう」
これではとても勝負にならない。釈迦国の南西に隣するコーサラ国の象隊と附属装甲歩兵の精強さは、インド平原に存在する十六の大国の中で比類なかった。よく弱小釈迦国の敵対できる相手ではなかった。しかしこれまではコーサラの軍勢が直接、釈迦国に侵入してくることなどはなかった。
「それにしても今日という日をねらうとは、いかにもにくいやりかたでござりますなあ」
老ウッダカは歯がみした。いかにも残念でならぬというように、大きなてのひらで顔をぬぐった。汗か、涙か、鼻すじを光るものが伝った。この忠誠一途な老武人には、この王国の衰亡が耐えられないものだろう。
「コーサラが侵入してきたとなると」
老ウッダカはそれでも動員できる兵力を胸の中で計算していた。その兵力さえおそろしく不足していた。農村から壮丁をかり出すことはなるべく避けなければならなかった。これから収穫期がはじまろうとしているのだった。
「王よ。サワ河の第二合流点ふきんでむかえうちたいと思いますが」
老ウッダカの言葉に、もう王はこたえようとはしなかった。その視線はくいいるように今、城門を入ってくる五個のこしに吸いつけられていた。
老ウッダカは言葉を呑《の》みこんだ。続けるべき言葉はすでになく。
「それにしても今日という日を――」
老ウッダカは自分が少し長生きし過ぎたと思った。
たとえ貧乏国であろうとも、あまりすぐれた戦い手たちとはいえないまでも、釈迦国四千二百の全軍を指揮してコーサラの軍をむかえうつことのできるこの国第一の武将こそ、実は今日、このカピラ城を去ろうとしている青年太子悉《しつ》達《だる》多《た》その人であった。
「王よ!」
老ウッダカは少しでも早く、コーサラ軍のようげき作戦をたてたかったのだが、王には、今この瞬間に迫った太子との別れに完全に心をうばわれていた。親衛隊長の老ウッダカは愛刀のつかを力いっぱい握りしめたまま石のように立ちつくしていた。
十数名の沙《しや》門《もん》に前後を守られたこしの行列は、鉄平石の石の広場をゆっくり進んできた。こしにはいずれも羽根のはえた太陽の黄金の紋章が見る者の目をうばって輝いていた。
王のいる露台からは、その下に立っている太子の姿は見えなかった。しかし行列はまっすぐに王の立っている露台の下へ向ってきた。王の眼下では親衛隊の兵士たちの投《なげ》槍《やり》のとぎすまされた穂先がすすきの原のように白光を噴いていた。
こしはつぎつぎと止った。藤の小枝を編んだたれがはね上って、四人の波羅門僧が影のように石だたみの上におり立った。
スッドーダナ王は、深く息を吸いこむと、あふれてくる感慨を必死にこらえた。
露台の下から、粗末な衣に体をつつんだ太子の長身があらわれた。四人の波羅門僧に向って深く頭を垂れると、ならべられて置かれているこしに向って静かに歩を移しはじめた。
「太子! やはり行かれるのか!」
老ウッダカは思わず露台の手すりに走りよると体をのり出してさけんだ。
太子が濃いひげにおおわれた顔をあお向けて老ウッダカに何か言った。その声は老ウッダカの耳にはとどかなかったが、太子が幼少のときから太子の身辺につかえたこの老将におそらくは別れの言葉を告げたものであろうと思われた。
「太子! コーサラが、コーサラの象隊がバシー谷に侵入してまいりましたぞ」
老ウッダカは告げたとて、もはやどうにもならないことを痛いほど感じながらも、上半身をのり出してさけんだ。
太子の表情の変化は高い露台の上からはたしかめ得ようもなかった。太子はそのまま、歩を進めて五つのこしの中央の一つに体を収めた。
そのとき、老ウッダカの胸の中を、はじめて灼《しやく》熱《ねつ》の怒りがつらぬいた。今、国の内外に幾多の問題をかかえ、さらにコーサラの侵入を受けつつ、しかも、防衛の方策とてもないこの時期に、人間の不幸を救うなら救うで、まずやってほしいことは今日のこの現実を何とか打開することではないか。それをせずにどこに救済があるというのか。
悟道が何ぞ!
老ウッダカはおのれのなすべきことをはっきりと知った。
彼はスッドーダナ王に会釈すると静かにそこを離れた。孔《く》雀《じやく》の尾羽根を編んだ豪華なじゅうたんをゆっくりと踏んで老ウッダカは階下のホールへおり立った。石でたたまれたほの暗いホールからは、灼《や》けつく戸外の陽光の下の風景は痛いほど鮮烈だった。
老ウッダカは呼吸をととのえるとまっすぐに、その光の満ちあふれた宮殿の前庭へ出ていった。
今、五つのこしはたくましい見知らぬ男たちの肩に支えられてゆらりと動きはじめたところだった。
老ウッダカは女たちの泣き声を耳にしたような気がした。
彼はしわと数えきれぬほどの戦闘による傷跡でほとんど見るかげもない無惨な顔に、ふしぎに静かな微笑をたたえると、腰の偃《えん》月《げつ》刀《とう》に手をかけた。
「待たれよ。波羅門僧どの」
白刃が虹《にじ》を曳《ひ》いて陽光を切った。
「こ、これは!」
「ウッダカどの!」
周囲で人々の絶叫がはしった。
いったんかつぎ上げられたこしはふたたび地上におろされた。たれがはね上って五人の僧は石だたみの上に立った。
「何かな? 老ウッダカ」
太子の静かな声音が、老ウッダカの耳にかえって熱い血をのぼらせた。
「太子。今さら私めの言葉にお耳をかたむけられることもござりますまいが……」
「まて」
「いや。お聞きくださりませ、太子。私めには波羅門の教えがなんたるか、人の救いがどのようなものか、難かしいことはとんとわかりませぬが、今日、この日の釈迦国の難儀だけはよくわかっているつもりでござります」
「老ウッダカよ」
「お聞きくださいませ。人の世の苦しみを少しでも救うのが王たる者の道、やがてあなたさまはこの釈迦国の王になられるお方。あなたさまご自身の迷いを解くのも結構でございますが、あなたさまにたよって少しでも生活を楽にしたいと願う貧しい民たちのことはいかがあそばされますのか」
「それは宰相はじめ、御身たちの力で恵まれぬ者たちの力になってやってほしい。父王もそなたたちを手足とたのんでおるのだ」
悉《しつ》達《だる》多《た》太子の目には動かぬ水の面の翳《かげ》のようなものがやどった。
老ウッダカの双眼はほのおのように燃えた。
「太子! あなた一人、悟りの道に入られるのはよしとして、あなたを力とたのむ多くの人々はどうなりますのか」
老ウッダカには太子の心の動きはおのれの心のうちに描いたもののようにはっきりとわかるのだった。しかし今はおのれの、太子に対する愛情だけでものは言っていられなかった。
「太子、やむをえませぬ。私にはもはやこの剣を持ってあなたの旅立ちをお止めする以外にございません」
老いた将軍は、今、自分はほんとうに太子を斬《き》るだろうと思った。愛用の、楊柳の葉よりも薄い偃月の利刃を彼は大きくふりかぶった。太子は悲しげにほほえんだ。その笑いはもっともおのれを知る者の理解さえをも喪《うしな》った痛烈な孤独をやどしていた。
老ウッダカは剣のきっさきを太子の胸につきつけた。
「さ、太子、この波羅門の僧らとともに、われらいっさいを棄ててまいられますか?」
悉達多太子は風が吹くように笑った。
「老ウッダカ。わしを斬り棄てることによって片がつくものなら、斬ってくれ。かまわないぞ」
老ウッダカは自分の顔色がなえた草の葉のように色《いろ》褪《ざ》めているであろうと思った。
「太子。私は太子と太子の父王の親衛隊の長《おさ》を命じられている。私は断言してはばからないが、父王と太子のもっとも忠実なしもべの一人だ。私にあなたが刺せるはずがない、と知っていてその言葉を私におっしゃるのか」
悉達多太子の顔がにわかにきびしくなった。目に強い光が宿った。
「老ウッダカ。その偃《えん》月《げつ》刀《とう》の中に生死は一になってこめられている。私の上に、それがふりおろされるとき、私の生命は断たれるかもしれぬが、私の心を断つことはできぬぞ。私の心はこの石を敷きつめた広間にも、あの仏相華の赤い花むらにも、いや、このカピラ城内のいずこにてもあれ、充満しているぞ。それをどのようにして斬るのか。老ウッダカ」
老武将は言葉に窮するとともに、やはりもっともおそれていた事態がやってきたことをさとった。彼はだまって愛刀のつかを握る右手に力をこめた。
「太子」
老ウッダカは大きく一歩をふみこんだ。
「おまちなさい」
それまで、木像のように黙念とならんでいた四人の波羅門僧がふいに言った。四人のうち誰がそう言ったのか、老ウッダカにははっきりとわからなかった。あるいは四人が同時に言ったのかもしれなかった。
老ウッダカの姿は偃月刀の光の中におぼろにかすむかと思われた。
「すぐれた武人よ。太子は決してこの釈迦国を見棄てられるわけではないのだ」
四人の中の右端の一人がゆっくりと言った。
「見棄てるわけではない、とは」
「武人よ」
「私はスッドーダナ王の親衛隊長、ウッダカだ」
その波羅門僧は老ウッダカに向ってひじを張って合掌した。
「ドワ・ミンタカ寺の波羅門の僧、目《もく》〓《けん》連《れん》」
「これは同じく、須《す》菩《ぼ》提《だい》」
「摩《ま》訶《か》迦《か》葉《しよう》」
「富《ふ》楼《る》那《な》」
四人の波羅門僧はおどろくほどよく似ていた。角ばった大きな頭、張ったあご、短い首と厚い胸、目鼻の彫は深く陰《いん》翳《えい》に富むようでいて、全体から見るといかにも田舎《 い な か》じみた平板な容《よう》貌《ぼう》をしていた。
「太子は梵《ぼん》天《てん》にお会いになるのだ」
「なんと?」
「おぬしも波羅門の神は存じてもおろう。梵天すなわちブラフマという」
「梵天は天なりというが」
須《す》菩《ぼ》提《だい》が進み出た。
「武人よ。梵天は宇宙最高の原理なのだ。日月星辰の運行、森《しん》羅《ら》万《ばん》象《しよう》 の生成滅亡、おしなべて存在とその否定、これは梵天、すなわちこの世界を一括する大原理でもある」
「して、太子は梵天に会われるとか。梵天は人格なのか。原理即人格とは解せぬが」
「武人よ」
富《ふ》楼《る》那《な》が施《せ》無《む》畏《い》の印を組んで老ウッダカに会釈した。
「梵天はこの広大無辺な宇宙をその手に観照する。万物流転の形相はすべて天なるものの意志、すなわち梵天王の意志である」
富《ふ》楼《る》那《な》の横に平たくつぶれた大きな鼻のわきを、汗がすじを曳《ひ》いて流れていた。
老ウッダカはだまって首をふった。
「僧らよ。それではたずねるが、この釈迦国は、昨年、一昨年とつづく五《ご》穀《こく》の不作で上納分は皆無に近く、カピラ城内の上水道の修理さえ思うにまかせぬ状態だ。農民は畑を棄て、商人はすでに市場をなげうち、家族あげてとぼしい施《せ》料《りよう》のかゆのたき出しの列に朝からならんでいるありさまだ。加えてここ数年、ことに貧民の間に流行している五体の崩れる業病の悲惨なありさまは、あれは何ぞ。あれをもし天なる神の意志というなら、僧よ、梵天の意志というなら、すでに天は人のためにあるのではないわい」
老ウッダカは傷ついた鷲《わし》のような目で目《もく》〓《けん》連《れん》を見た。それから富《ふ》楼《る》那《な》へ、須《す》菩《ぼ》提《だい》へ、摩《ま》訶《か》迦《か》葉《しよう》へ視線を移し、最後に悉《しつ》達《だる》多《た》太子にはげしいひとみをすえた。
太子は四人の波羅門僧に深く頭を垂れると老ウッダカの前に立った。
陽はすでに中天にあり、はげしい暑さがここにいる六人の人間を灼《や》きつくすばかりだった。蝉《せみ》の声はいぜんとして滝のように天地にあふれていたが、王宮の広庭はたそがれのような静けさにみちていた。その広庭をとり囲む家臣たちの姿が黒い影となって動かなかった。
「老ウッダカ」
「太子」
二人の間の三尺の空間はそのまま鋼のように緊張した。
「天の意志は必ずしも人のためにはたらくものではない。一《いつ》切《さい》諸《しよ》法《ほう》は相《そう》依《い》相《そう》間《かん》の縁《えん》起《ぎ》によって流《る》転《てん》する。人もまた同じだ。関係の変化だけが存在の様式を決定する。縁生の内にあって固定的な実体はなく、変転そのものが実体であり相なのだ。存在はすなわち無《む》常《じよう》であり、自《じ》我《が》即《そく》空《くう》、色《しき》即《そく》是《ぜ》空《くう》だ」
「太子、民衆の不幸はこれもまた天の命なりとか」
悉達多太子はそのひげの濃い顔にはじめて深い苦悩を浮かべた。
「おそらく、それもまた世界の一つの相《すがた》にちがいあるまい。天はすべてをふくむ。それ故に梵天という。しかし、老ウッダカ、そこまでは私にも心の底から言いきれぬのだ。そこに私のどうにもならぬ迷いがあるのだ。
聞け。老ウッダカ。
個体の維持生命の持続も、すべては流転するというきびしい法則の上にあらわれた仮現の相であり、そこに固定的に動かない自我というものはあり得ない。万人がこのような自我を固執してゆずらない所に、人生の悲哀と社会悪の絶えない大きな破滅の因があるのだ。かくて、すべてが動くという原理のもとではしからば天は、天も否定しなければならないのか。神の拒否か。自我の拒否か。そしてなお愛の拒否か。それを考えたいのだ」
静かな声音だった。しかしそこに彼の多年抱いてきた苦悩が濃くにじみ出ていた。
「されば太子。諸《しよ》法《ほう》無《む》我《が》、色《しき》身《しん》敗《はい》壊《かい》す、如《い》何《か》なるか、これ法《ほう》と身《しん》!」
老ウッダカの偃《えん》月《げつ》刀《とう》は太陽の高みから太子の頭上にふりおろされた。
一瞬、陽《かげ》炎《ろう》のゆらめく石だたみの広場は、一枚の画のように平板になった。動くものの影とてなかった。陽はいぜんとして石だたみを灼いていた。油のような熱風は蛇《じや》紋《もん》石《せき》の大階段の手すりの間を吹きぬけて人々の息をつまらせた。
老ウッダカは石像に化したかのように動かなかった。その白刃は太子のひたいから薄紙一枚の差で、ぴたりととどまっていた。老ウッダカのするどい目は太子の目の奥底にほのおを噴きこむかと思われた。
「それでは悉《しつ》達《だる》多《た》太子、まいりましょう」
目《もく》〓《けん》連《れん》が太子をうながした。摩《ま》訶《か》迦《か》葉《しよう》、富《ふ》楼《る》那《な》、須《す》菩《ぼ》提《だい》がつぎつぎと背を向け、こしに向って歩み寄った。
しかしまだ太子は出発することができなかった。そのとき太子の足は、一人の美しい女性の手によって抱きとめられた。背にあまる長い黒髪が乱れて、その流れる髪の間から深い湖のような目がひた、と太子の顔にそそがれた。太子の妻、ヤソダラー姫だった。胸にかけた黄金の瓔《よう》珞《らく》が太子の足もとで美しいひびきを発した。
「太子! どうしてもゆかれますのか。私を残して」
ヤソダラー姫はその面だちが、悉達多太子の生母であるスッドーダナ王の先妻、摩《ま》耶《や》夫人によく似ているといわれた。摩耶は釈迦国の東隣ゴーリー国の王女であり、当時その美貌はひろく知られていた。当時の慣習に従い、太子を出産すべく実家へおもむく旅の途中、両国の中間にあたるルンビニー国で太子を産み、七日ののちその地で没した。
後年、阿《あ》育《しよか》王によって建設された刻文石柱がなおこの地に現存している。生母を失った太子は、父王の後妻となった、母の妹、マハーパジャーパティ姫によって育てられた。この父母の太子をいつくしむことかぎりなかったが、太子はついに父王ののぞむ転《てん》輪《りん》王《おう》、すなわち世界を統一する偉大なる王にはならなかった。太子さえそれをのぞめば、あるいはそれも可能だったかもしれない。しかし太子にとって、彼を出産して七日ののちにみまかった生母、摩耶への追想、そしてそれからしだいに深く広くおよんでいった人間すべての不幸や破滅への悲しむべき運命とその予測、かくて太子は周囲の人々の期待と熱望からはしだいに遠く、ただ一人考える人になっていった。
ヤソダラー姫の愛も、太子を引き留めることはできなかった。太子はおのれの身代りにこの世から去った摩耶夫人の面影をヤソダラー姫の上に発見することによって二重に救われたと感じたこともあった。しかし、それも終局的に太子をこの地上に引き留める手がかりにはならなかった。
太子は二十九歳。すでに姫との間に一子、ラーフラがあった。家系を絶やさないことが、家長たる者の第一の義務である古代インド社会にあって、太子はすでにその責任の半ばは果していたといえる。実さい太子自身は今、王宮を去ることに心引かれる何ものもなかった。この日がおとずれるのを長く長く待ったのだから。
「な、姫、病気だけはせぬようにな。それから、ラーフラのこと、よろしくたのむ。父王もそろそろ足腰の痛みになやまされる年になった。たのむぞ」
太子は自分の足を、ひし、と抱いているヤソダラー姫の手を、ゆっくりとほどいた。姫の手は幼児のようにやわらかだった。両わきから背へ腕をまわし、力をこめてヤソダラー姫を抱きしめた。薄ものの下で姫の乳房が太子の胸に熱かった。
「私はいつでも、そなたのそばにいるぞ」
すがりついてくる姫のせいいっぱいの、そのたよりなさに太子は思わず息をつめて天をあおいだ。その二人へ、
「合掌」
須《す》菩《ぼ》提《だい》と富《ふ》楼《る》那《な》が金《こん》剛《ごう》合《がつ》掌《しよう》印を結んだ。
「太子さま! お待ちなされませ!」
するどい女のさけびが太子の背を突きさした。
すでに何歩か歩み出していた太子はその声に静かにふりかえった。周囲の静けさを破って一人の中年の女が太子の前に走り寄った。高貴な身なりのその女は、髪をふり乱し、貴族の身分を示す宝冠がはずれて片耳の上に垂れさがっていた。女は抱いている幼な子を太子の足もとに置いた。
「おう! ラーフラではないか」
「いかにも太子さま。和《わ》子《こ》さまをなにゆえにお見棄てになるのか」
「乳母! その説明はもはやすまい。ただ、このおさない者を、よろしくたのむ」
乳母のヴァンサはくちびるをかみしめた。ラーフラを石だたみの上に横たえたまま、つと立ち上ってさけんだ。
「太子さま! どうしてもおいでになろうとなさるのなら、どうかラーフラさまを踏んでお通りになってください」
ヴァンサの目はまっすぐに太子のひとみを見つめていた。老ウッダカはいぜんとして偃《えん》月《げつ》刀《とう》をふりおろした姿のまま、また目《もく》〓《けん》連《れん》以下の波羅門僧は眉《まゆ》一つ動かさずに、まぶしい陽の下に立っていた。深い静寂の中で蝉の声だけが海のように鳴っていた。
太子はだまって歩を運んだ。その心の中には漠々たる空《くう》があるばかりだった。太子のむき出しの大きな足が、ラーフラの体のどこかを踏みつけ、火のついたようにラーフラが泣き出した。
五つのこしは王宮の華麗な門をぬけ、群集の目の前を影のように通過していった。たれの間から見える大路のはしに、何の花か、大きな黄色い花房が風もないのにはげしくゆれているのが太子の目に映った。
「兜《と》率《そつ》天《てん》へ」
先導のこしの中で目《もく》〓《けん》連《れん》の声が聞えた。こしをになっている男たちは足を早めて街角を曲った。
*
「兜率天《Tusjta》へ」
その声を悉《しつ》達《だる》多《た》は明《めい》闇《あん》さだかでない意識の奥底で聞いた。
これから、この世界での絶対者に会う――悉達多太子は緊張と期待で幼児のように震えた。
《正《しよう》覚《かく》に至る前の鬼気か》
太子はそっと合掌した。
いちめんに雪が降っていた。
雪はさいげんもなく、あとからあとから太子の視界を純白に埋めつくしてなお音もなく渦《うず》まいた。風が吐息するたびに、時に雪また雪の奥に思いがけない平原のひろがりが淡い翳《かげ》となって現出した。白い雪の厚い垂れ幕のむこうに、平原はかすかに青かった。その天も地をもおおう雪と氷のどこかに、陽が出ているらしく、視野の一部に明るい光輝がほのかに浮かび出ていた。
「八寒地獄か!」
太子は思わずつぶやいて、まとっている衣の胸前をかき合わせようとした。ところが気がついてみると、自分の腕は無いのだった。腕だけではない、えりもとをかき合わせようとした胸も、帯をまいた腹も、足も、太子の肉体は完全に無くなっているのだった。
「主体を消して世界に対面せよ、との教えか」
おのれをむなしゅうするところにいっさいの苦悩は消滅する。あるはただ荒涼たる雪と氷。しかしそれとてもはや何の苦しみ、何のおそれでもなかった。思《し》惟《い》はあっても感官は無い。感官のないところに認識はないはずであった。
「だが、解らぬ。すでに肉体に帰着するはなく、しかもなお、この眼前の非情は何ぞ」
太子の問いに、かたわらの目《もく》〓《けん》連《れん》がうなずいた。
「〓《とう》利《り》天《てん》じゃ。太子どの。すでに閻《えん》浮《ぶ》提《だい》を離れること三十二万由《ゆ》旬《じゆん》」
目連の声には数字を読みとるような明快なひびきがあった。
「須《す》弥《み》山《せん》の東方海上に浮かぶという閻《えん》浮《ぶ》提《だい》。そしてそこは人間の棲《す》む世界。そこをはるかに高く、重なり重なる天の、その〓《とう》利《り》天《てん》とはこのように人の気配を絶ったところか」
太子の声が、すさまじいひびきとなって周囲に反響した。
「太子さま。この〓《とう》利《り》天《てん》は、六《ろく》欲《よく》天《てん》の内、四《し》王《おう》天《てん》、〓《とう》利《り》天《てん》、夜《や》摩《ま》天《てん》、兜《と》率《そつ》天《てん》、化《け》楽《らく》天《てん》、他《た》化《か》自《じ》在《ざい》天《てん》と重なるその第二天にあたり、本来、至楽の地なるも、惜しいかな、この八万年がほど、壊滅にひんすることはなはだし」
「なに故か? 目《もく》〓《けん》連《れん》さま。六欲天の第二天、すなわち、人界を絶するこの天の世界にそのような破滅の翳《かげ》を見るとは」
四人の波《ば》羅《ら》門《もん》僧は悉《しつ》達《だる》多《た》太子を中に囲んで黙々と氷雪の中に立っていた。その体の外も内も、ただ荒れ狂う雪また雪だった。
「四《し》王《おう》天《てん》の上方、第四象限、虚数座標二より三に至る空間のひずみがその原因と思われます」
「空間のひずみが!」
銅色の空に、二つの太陽が燃えていた。一つはやや平たくつぶれて大きく、くらいオレンジ色の鈍い光輝を放っていた。一つは小さくその中心部は白熱のかがやきにみちていたが、その縁は水銀の環をはめこんだようなコロナにとり囲まれていた。大きなオレンジ色の太陽の表層から噴き出した真紅色のガスの流れが、虚《こ》空《くう》をおそろしい早さで渦まいて青白い小さな太陽の方へ伸びていった。そのすさまじいガスの流れは、広大な天地をあざやかな血の色に染めた。青白い小さな太陽が、そのガス流にすっぽりと押しつつまれた瞬間、虚空は白熱の閃《せん》光《こう》に焼けただれた。閃光は長く平たく虚空を両断してすべての光と翳をなぎはらった。真紅のガスの流れは一瞬のうちに吹き払われて消えた。
ふたたび銅色の空に二つの太陽がかがやき、死の静寂がすべてをおし包んだ。やがてまたくらいオレンジ色の太陽は、その波立つほのおにふちどられた表面からゆっくりとガスの流れが伸び出していった。二つの太陽は交互にガスのほのおと閃《せん》光《こう》を噴き出しながら、暗黒の空を移動していった。その渦まく光の交響の中に、この空にかがやくすべての星々は全くその光を喪《うしな》っていた。やがて二つの太陽が視野のはずれに消えてゆくと、もう一方から、さらにもう一組の二つの太陽がせり出してきた。水銀色の円環をはめた巨大な火の星から噴き出す灼《しやく》熱《ねつ》のガスの尾は、長く長く伸びて虚空の一方の端にとどいていた。
くらいオレンジ色の太陽と、青白くかがやく遠い小さな太陽の、さらにもう一組。この〓《とう》利《り》天《てん》は四重太陽のかがやく広大な星域だった。
いつの間にかぬぐわれたように吹雪は消え、ただ見わたすかぎり荒涼と氷原がひらけていた。虚空を灼《や》く四つの太陽も、この凍結した氷原にはいささかの影響も与えていないようであった。氷原はただむなしく青かった。その青の中には動くものの影もなく、また生きるものの気配もなかった。ここは見わたすかぎりはがねのように凍結した世界だった。ここでは空気さえも氷晶となって地表をおおう半透明な組織に変化してしまっていた。
マイナス二七二・八度C。ここにはすでにいかなる文明も存在していなかった。
「これだけの熱量がありながら、この世界ではもはや熱の動きはない。熱エントロピーが極めて小さくなっているのです。太子、このままでは、この〓《とう》利《り》天《てん》も滅亡は時間の問題なのです」
「なぜ熱を補給しないのですか。あるいは熱の放出をくいとめる方法はありませんか。もちろん、莫《ばく》大《だい》なエネルギーを必要とはするでしょうが、しかし一つの世界を喪うよりはよい」
悉《しつ》達《だる》多《た》太子は自分が何をたずね、何を話しているのかさえ意識していなかった。
摩《ま》訶《か》迦《か》葉《しよう》が沈痛な面もちでこたえた。
「断熱変化なのです。〓《とう》利《り》天《てん》空間の膨張にともなって、熱の急速な拡散がおこっているのです」
「断熱変化? なぜ?」
「太子さま。この空間は重力場の変動によって閉鎖空間になっているのです。われわれの努力によって、多少、一部を解放することに成功はしたが」
「空間の膨張、と言ったようだが」
「重力的に閉鎖され、しかも膨張しているのです」
「なぜこの〓《とう》利《り》天《てん》だけに」
「いや、太子さま。この〓《とう》利《り》天《てん》空間だけではないのです。六欲天のすべてに致命的な変化があらわれているのです。決して楽観は許されない。ことによったら、われわれはこの空間より大幅な撤退をよぎなくされるかもしれないのです」
目《もく》〓《けん》連《れん》の言葉には深い憂《うれ》いがこめられていた。
「少しも情勢は好転していないのだ」
摩《ま》訶《か》迦《か》葉《しよう》があとを継いだ。
「たとえば――」
五人は巨大な透明な球体の内部にいた。球体の内部には五人の姿のほかには何ものもなかった。かがやく星々が五人をつつむ透明な球体の周囲を光の海となってとりまいていた。そのおびただしい光点を背後に、球体の中の五人の姿はおぼろな黒い影となった。
その星々の光のにじむ暗黒のひろがりの一角に、空間のほとんど三分の一を占めて、巨大な光の奔流がはしっていた。それは暗黒の空間の一点を縦横に切り裂いてそこからすさまじい光の滝となってほとばしり出ているのだった。群青、濃緑、青藍、さまざまな青の移ろいから褐色に近い赤までが無数の点滴となり、幾千のかがやく縞《しま》となって虚空を染め、切り裂き、炸《さく》裂《れつ》していた。しかしいくら見つめていてもその光は決して動かなかった。はためく光でもない。明るく暗く流れ躍動する光でもない。その光の渦は死そのもののように暗黒の空に貼《は》りついているのだった。死、それはまさに死そのものだった。
「太子さま。この夜《や》摩《ま》天《てん》空間には、約一千億の渦《か》状《じよう》星雲が存在していますが、それが、この空間に発生したひずみによってつぎつぎに破壊され、あるいは収縮し、消滅してゆきます。ごらんなさい。あれは渦状星雲が重力的に閉鎖空間となり、収縮してエネルギーを放出しているのです。われわれはこの状態を大ざっぱに準《じゆん》星《せい》と呼んでいますが、くわしいことは何一つわかってはいないのです」
富《ふ》楼《る》那《な》が、その動かない光に指をさし向けた。
「あれは三百八十万光年の距離にある渦状星雲です。一千億個の恒星から成っていたのですが、あの状態ではおそらくそのすべては喪われてしまったはずです。この夜《や》摩《ま》天《てん》空間には、すでにあのようにして喪われてしまった渦状星雲はすでに百億を数えているありさまです」
悉達多太子は声もなく、その凄《せい》壮《そう》な光の死を見つめていた。
「目《もく》〓《けん》連《れん》さま、一時も早く太子さまを兜《と》率《そつ》天《てん》へお連れいたしましょう」
富《ふ》楼《る》那《な》がそっと目《もく》〓《けん》連《れん》をうながした。
「そうであった。梵天王もさぞや、お待ちかねであろう」
「摩《ま》訶《か》迦《か》葉《しよう》、兜《と》率《そつ》天《てん》へいそいでくれ。軌道は座標七一三・〇八一より四二九・九九三へ。迦《か》葉《しよう》、軌道の途中で虚数空間へ入るが、このさい止むを得ないだろう」
「目《もく》〓《けん》連《れん》さま、通常空間の通過は危険でしょうか」
「座標七九九・三四一付近に、奇妙なひずみがあらわれているという情報がある。これが一般的な相対論的重力場なら問題ないが、もし工夫されたものであれば、みずから死の淵《ふち》へおちこむようなものだ」
「すでにこのあたりまで進出しているのでしょうか?」
「変幻自在な奴めらのことだ」
目《もく》〓《けん》連《れん》は行ないすませた聖《しよう》人《にん》にははなはだ似つかわしからざる口調で吐き棄てるように言った。
五人をつつんだ透明な球体は流星のように暗黒の空間を流れていった。
目《もく》〓《けん》連《れん》以下の僧たちは呼吸もしていないかのように身動きもしなかった。悉《しつ》達《だる》多《た》太子ひとり、みるみる背後に遠ざかってゆく強烈な光の幕をふりかえっていた。距離三百八十万光年。今見るそこにはすでに何ものもないはずであった。現実の無が、なおまだ仮現の相をそこに示している。すでにこのあたりにまで、強烈な放射線がおよんでいることだろう。暗黒の空間にはこうしてやがてほんとうの死が来るはずであった。
濃藍色の空の果が淡い紅に染っていた。その藍と紅の不安な色調が、その空の下に茫《ぼう》漠《ばく》とひろがる砂の海を、これもひどく不安な予感に塗りこめていた。
ほとんどあるかないかのわずかな起伏が、それでもこの平原に掃《は》いたような陰《いん》翳《えい》を長く長く曳《ひ》いていた。
砂の海のところどころに、淡褐色の色《いろ》褪《ざ》めた樹枝のようなものが突き出していた。その表面は砂によって磨《ま》耗《もう》され、美しい光沢を放っていたがその材質は何なのか、とうてい判断することもできなかった。この砂中に埋没してすでに数十万年をへたものであろう。
「太子さま。ここはもとこの兜《と》率《そつ》天《てん》の王城、トバツ宮の在ったところ。今ではこのとおり砂また砂の海になってしまいました。当時の建造物の残《ざん》骸《がい》が枯骨のように砂上にあらわれているのみです」
目《もく》〓《けん》連《れん》をはじめとする僧たちは黙念と合掌した。太子もそれに従った。
五人を容《い》れた透明な球体は、砂の上、数センチメートルの高さを流れるように移動していった。
とつぜん、濃藍色の虚空を、目のくらむような閃光を曳いて何かが通り過ぎていった。長大な物体だった。それが通過したあとの空間は、しばらくの間、白熱したイオンのかがやきを切れ切れの条《じよう》痕《こん》に曳いた。かなりの時間を経過してから、すさまじい高熱の衝撃波が砂漠をたたいてきた。
濃藍色の空の果の、淡い紅の部分が時おり明るくなったり暗くなったりした。それは不安と恐怖の変動だった。
「近接警戒組織から進入軌道の指示が出ました」
富《ふ》楼《る》那《な》がふりかえった。
音もなく、広漠たる砂の海が真二つに裂けた。裂けた奥底、深く巨大な都市が見えた。
悉《しつ》達《だる》多《た》太子はひざから下がまるで力が入らなかった。全身が水の中を動いているように奇妙な抵抗感と喪失感になやまされた。一足歩くごとに勝手な方向に足が出てしまうのだった。
兜《と》率《そつ》天《てん》の首都、トバツ市 TOVATSUE は、壮大な規模と、太子には想像もつかない複雑な機能と組織を持っているようであった。広大な市街は、それがそのまま、一つの巨大な円筒型の建造物であることがわかった。壮大な回廊の天井や壁は美しい青緑色の光を投げかけ、その光をあびて五人の顔や姿は生気に照り映えた。回廊の両側にはおびただしい通路が直角に入りこんでいた。その奥が居住地区や生産地区に当てられているらしかった。空気はかすかに何かの花の香りがした。こころよく乾燥した空気の温度が、肌《はだ》になじんで快適だった。
悉達多太子は、これまで自分の住んでいたカピラ都市のある陰《いん》鬱《うつ》な、非健康的な構造様式と、ほとんど無いにひとしい上、下水道をはじめとする都市の公共設備などを思いおこしてひそかに顔を赤らめた。そこにあるものは準備された生活でもなければ政治でもなかった。
しかし――太子は思った。そもそも、比較するのが間違っているのだ。
《ここは兜《と》率《そつ》天《てん》浄《じよう》土《ど》ではないか。生きてここをおとずれた人間は私がはじめてなのだ。その尊厳、天上界の浄土とあの汚濁の人の世のちまたを比べるのは、これはまことに神をおそれぬ心ないしわざというもの》
悉達多太子はひとり深く頭を垂れた。
幾十層を下りまた上った。回廊のいたる所に透明な物質で造られた大きな円筒が、たくさんの人々を容れてすばらしい早さで上下していた。その人々を太子は天《てん》人《じん》と見た。しかしその天人の中のある一団は銀白色の衣服に身を固め、堅固なヘルメットをかぶって、奇妙な形の武器を手にしていた。
五人を乗せた透明な円筒はすばらしい早さで地の底へ突進していった。太子はふっ、と暗い混迷に衝《つ》き上げられた。頭の奥底から血の気が引いてゆくのを感じていた。
「どうなされた?」
「いや、すこし目まいが」
「あ、これは気がつきませんでした。おゆるしください。富《ふ》楼《る》那《な》、少し速力をゆるめよ」
僧たちの声がいやに遠くから聞えた。
はげしい風の音が、太子の耳もとで鳴っていた。その風はおびただしい砂の粒をふくんで、風の方向に向いた太子の半顔にひりひりする打撃を与えた。
なぜこんなに砂が飛ぶのだろう。
太子はともすれば崩れ落ちようとする胸の奥底でたずねた。
「悉《しつ》達《だる》多《た》太子さま。梵《ぼん》天《てん》王《おう》にござりまするぞ」
目《もく》〓《けん》連《れん》が太子の耳もとでささやいた。
太子は両わきから富《ふ》楼《る》那《な》と須《す》菩《ぼ》提《だい》に支えられて砂の上に立ち上った。
濃藍色の空は昼でもなく夜でもなく、ひとみをこらせば、その濃い藍色の空におびただしい星くずが沈んでいた。
「今は夜か?」
太子は思わず声に出して頭上のくらい薄明を見上げた。
「釈迦国、悉達多太子どのか」
さびたもの静かな声が太子の胸に沁みこんできた。
「梵《ぼん》天《てん》王《おう》さま!」
太子は砂の上にぴたりとひざをついた。
「よくぞ、ここまでまいられた」
「悟道のいかなるか。ただそれをのみねがい」
濃藍色の空に、幾千億の星々がにわかに灼《や》けるような光《こう》芒《ぼう》を曳いた。
「太子どののあつい求道心には、梵天王、ただ感じ入るのみ。しかし今、この天上界にあっては、ただ今、非常な危機にさらされているのだ。われらも持てる力のすべてを上げて、この問題の解決に努力しているが、その解決の道ははなはだ遠い。予期することさえ困難だ。このような時に、太子の来迎を得ても、果して太子のご満足のゆくような結果があらわれるかどうか」
梵《ぼん》天《てん》王《おう》の声は深く、太く、かすかにうれいをふくんで地軸の底から湧《わ》き上ってくるかのように太子の胸をうるおした。
太子は顔を上げて梵天王の姿をとらえようとした。しかし太子の眼の前、数尺のところに立っているはずの梵天王の姿はどこにもなかった。濃藍色の空のひろがりだけだった。
太子は一瞬、雷に打たれたように低く頭を垂れた。
そうなのだ――梵天王に実体のあろうはずはない。梵天王は梵天すなわち世界の原理そのものであり、天の意志であった。そしてまた太子自身の姿も、この漠藍色の虚空の一部に化して漠々とその姿を喪っていた。
「のう。太子どの。この兜《と》率《そつ》天《てん》は、夜《や》摩《ま》天《てん》より十六万由《ゆ》旬《じゆん》の上層に位置する。万《まん》由《ゆ》旬《じゆん》。言いかえれば、千六百億光年とでも言おうか。そして虚《こ》空《くう》密《みつ》雲《うん》、つまり星間物質の濃密な、と言うことは絶対真空に近い極小密度の空間を重ねて、という意味だが、その宇宙空間をはるかに超えて、直径八百億光年のこの兜率天空間に統括されるこの一大世界こそ、われわれが造り出した空間の実験的模型《 モ デ ル》でもある。
聞きたまえ。太子どの。
世界の中心、金《こん》輪《りん》の上に須《す》弥《み》山《せん》がある。その四周には香水海をたたえ、七重の金山、七重の香《こう》海《かい》をもってさらにその外側をとりまいているのだ。もっとも外側に鹹《かん》海《かい》がある。すなわち、これはあなたがたの知っている塩分よりなる海だ。最外周を鉄《てつ》囲《い》山《ざん》がとり囲んでいる。これは、今のべた七香海、七金山、塩の海などをたたえた盆のふちと考えたらよいだろう。鉄囲山はその名のとおり、鉄、銅、はがねよりなり、その岩肌は鬼神をもってしても超えることができないとされている。これを光速度世界の限界、とする解釈もある。
さて、太子どの。鹹海の中、東西南北に四つの大陸があり、南の閻《えん》浮《ぶ》提《だい》が人間の存在する、つまり、あなたがたの世界なのだ。
須弥山の頂上は〓《とう》利《り》天《てん》といい、ここに帝《たい》釈《しやく》天《てん》王《のう》の喜《き》見《けん》 城《じよう》がある。この喜見城よりのぞめば、はるか須弥山は四層よりなり、途中に堅手、持鬘、常酔の三断層を数える。眼下の鹹《かん》海《かい》には南方には閻《えん》浮《ぶ》提《だい》、東に弗千逮、北に鬱軍越、西に倶耶尼の各大陸がそれぞれ灼熱の季節と氷雪の時期を有している。〓利天のわずか下に四《し》天《てん》王《のう》天《てん》があり、東に持《じ》国《こく》天《てん》、南に増《ぞう》長《じよう》天《てん》、西に広《こう》目《もく》天《てん》、北に多《た》聞《もん》天《てん》の四天王が戦区を分って帝釈天に付属し、各八将以下の精鋭を配置している。とくに広《こう》目《もく》天《てん》はその名のとおり、早期警戒組織を担当して空間の重力的変調に絶えず厳重な警戒を払っている。
地《ち》居《きよ》二《に》天《てん》に分っての防《ぼう》禦《ぎよ》組織、さらに空中に空《くう》居《きよ》四《し》天《てん》を置いて情報管制にあたり、加えて六《ろく》欲《よく》天《てん》と名づけている。兜《と》率《そつ》天《てん》の上、初《しよ》禅《ぜん》三天を数えて大《だい》梵《ぼん》天《てん》があり、梵天王が支配する。その上は二《に》禅《ぜん》三《さん》天《てん》、三《さん》禅《ぜん》三《さん》天《てん》と空間を重ね、四《し》禅《ぜん》九《きゆう》天《てん》 よりさらに上方、色《しき》 究《きゆう》 竟《きよう》 天《てん》にいたる。この色究竟天は、光速の壁のかなたと考えられているが、もちろん、いまだ、その世界は確認されてはいない。太子どの」
悉達多太子はそのとらえようもない空間の壮大なモデルにただ胸をふさがれるばかりだった。
「兜率天にはあり、城市を中心に四十九の衛星都市よりなっているのだ。この摩尼宝殿こそ、実は天上界全体のあげて守らねばならない最後のとりでですらあるのだ。それは天上界をあげて残された最後の希望なのだ」
梵《ぼん》天《てん》王《おう》の言葉はかすかに乾いていた。
「おたずねします。梵天王よ。この高貴な天上界に、なぜかかる破局がこめられてあるのでしょうか。ここに至る間に、僧たちにみちびかれるままに、さまざまな破滅と破壊のありさまをしさいに見てまいりました。梵天王よ。私は人間世界のさまざまの、おぞましい破滅の様相に一貫する暗黒の原理を見極めたいものと念じて、実はここまでやってまいりました。しかし、ここで私の見たものもまたさまざまな破滅や死の相であったとは。梵天王よ。この天上界における兜《と》率《そつ》天《てん》の深刻な破局の原因はいったいいずこにあるのでしょうか」
梵天王の声はにわかに苦じゅうに満ちたものとなった。
「それは太子。この天上界に対する阿《あ》修《しゆ》羅《ら》の侵略が、この兜《と》率《そつ》天《てん》空間の防衛すらすでに非常に困難にしているのだ」
「阿修羅の」
「知っていよう。あの三面六《ろつ》臂《ぴ》の異《い》形《ぎよう》の者たちだ。どこからやってきたものか、全くわからない。しかしその王はえい智に富み、勇猛、果断、彼の指揮する兵団の精強なること、全くわが天上界の天《てん》兵《ぺい》をもってしても時に防戦も意のままにならぬほどだ。この兜率天を守護する帝《たい》釈《しやく》天《てん》王《のう》との戦いもすでに四億年におよばんとしていっこうに退く気配もない。この阿《あ》修《しゆ》羅《ら》王《おう》こそ、宇宙の悪の本質と考えられよう。太子どの。心せられるがよい」
梵《ぼん》天《てん》王《おう》の心が強く悉《しつ》達《だる》多《た》太子に向けられた。太子はふと、これまで自分をふくめてここにいる人々がすべて言葉を使わずに話を交していることに気づいた。形《ぎよう》相《そう》もなく、ついにその言葉をも喪った。喪ったのではない。畢《ひつ》竟《きよう》、言葉で伝えなければならないうちは真の対話ではないのであろう。形相の無いところに言葉のあるはずもない。
太子はそう気づいて空《くう》漠《ばく》たる空間に向って合掌した。しかしその合わせた手も、腕も、太子自身も、全く姿を持たない。
「太子どの。先ず御身の学ぶべき第一のことは、この世界における破滅の様相、その構造と具現だ。いかにすればこの世界をこうした破滅から救い得るか。すべて人間世界の不幸の種類の数々も、すべてここより発しているのだ。破滅、おしなべて不幸の根源をどこに見つけるか。それこそ太子一代をもってして解明しなければならぬ大きな命題ではないか」
そのまま永い沈黙がやってきた。どれだけそうして乾《かわ》いて軽い砂の上にうずくまっていたのだろうか。
「さあ、太子さま。まいりましょう」
目《もく》〓《けん》連《れん》と須《す》菩《ぼ》提《だい》が太子の体を支えて立ち上らせた。
太子の目前からすでにあの広漠たる砂の海は消え、さんぜんと光かがやく回廊がのびていた。
――あの、はげしい風に砂の飛ぶ荒れ果てた砂漠が、この兜《と》率《そつ》天《てん》のほんとうの相《すがた》なのだろうか。それとも今、目の前にくりひろげられるかがやかしい都市が現実の兜率天なのだろうか。梵《ぼん》天《てん》王《おう》に親しく接したのは、果してどちらの世界でのことだったのだろうか。太子にはもはや自信がなかった。どちらでもよいのであろう。砂の吹き飛ぶ荒漠たる平原でも、またこの完《かん》璧《ぺき》な構造を持つ華麗な都市でも、どちらでもよかった。それにどこに在っても、身は空であり、すでに法《ほう》身《しん》であった。あとはただその悪なるものの本質に、直接、ぶつかってみるよりしかたがないのだ。
「目《もく》〓《けん》連《れん》さま。私は阿《あ》修《しゆ》羅《ら》王《おう》に会いたい。その悪の悪たる王に会ってその行動の真の意味をたずねたい、と思うが」
悉《しつ》達《だる》多《た》太子の言葉に、四人の波羅門僧は思わず顔を見あわせた。進んで至悪に対面しようという太子の求《く》道《どう》の精神の積極さに四人は打たれたのだった。
「よろしい。太子さま。阿修羅王にお会いになって、その真意をたしかめられるとよい。ただ」
目《もく》〓《けん》連《れん》は言葉を濁してさしうつむいた。
「ただ?」
「われわれは梵《ぼん》天《てん》王《おう》のもとに天界の理を学びつつある者、阿修羅王のもとに太子さまをご案内いたすことはできかねるのです」
「わかりました、阿修羅王の陣営までの道と、連絡の方法だけを教えてください」
須《す》菩《ぼ》提《だい》が何ごとか考えていたが、
「阿修羅王と帝釈天の間に、相互連絡用の亜空間通信回線が一回線だけ開設されているはずです。あれを使わせてもらいましょう」
「そうだ。この頃では帝釈天と阿修羅王との間に和平の道もとだえ、あの回線もすでに何千万年の永きにわたって放置されたままになっているはずだ」
摩《ま》訶《か》迦《か》葉《しよう》がみなをせきたてた。
「さ、そろそろ偏亜空間の展張の下に入らぬと、阿修羅の攻撃がはじまりますぞ」
濃藍色の空の地平に近い、淡い紅色の光の幕が、しきりに広大な明滅をくりかえしはじめた。
「あれは?」
太子はその遠い空のぶきみなかがやきに目を止めた。
「極《オー》光《ロラ》です。あの変転する光の下に阿修羅王がいる」
太子は思わずその淡彩な明暗の変化を、阿修羅王の微妙な心の動きと感得した。
「それでは重力泡の操作をお教えしましょう」
目《もく》〓《けん》連《れん》が太子の背を押すように、TOVATSUEの城《じよう》邑《ゆう》へ入っていった。その巨大な円筒型の都市は、そこへ入るとさすがにいかなる種類の攻撃にも耐え得るだけの構造と施設をそなえていることが直接、誰《だれ》の心にも感じられるのだった。しかしまた、なぜか、この壮大な城邑のたたずまいには、すでに何ものかが喪《うしな》われてしまったあとの酷烈な悲劇の匂《にお》いがあった。すでに孤立し、やがては敗亡の運命が待ち受けている、というのか。
しかしこの兜《と》率《そつ》天《てん》こそ、五十六億七千万年ののちに、理想の世界を開いて人類を救済する《弥《み》勒《ろく》》の、今なおその時期を待ちつづけている未来の栄光の都市であったのだが。
五十六億七千万年。その長さの実さいはどのようにしてもそれを把《は》握《あく》実感することは不可能だ、ほとんど永《えい》劫《ごう》に近い永きにわたって、この兜率天空間は、そしてそのはるかかなたにつらなる人類世界は、待ちつづけなければならないのだった。待ちつづける――そのたとえようもない単調な作業だけが、やがて来る破滅に耐える唯一の方法であるとは。
《弥《み》勒《ろく》》の未来に対する待望にくらべて、阿《あ》修《しゆ》羅《ら》の今に、明日はなかった。
「阿修羅には喪《うしな》うものがないからなのだろう」
太子はつぶやいた。
動くものの影とてない荒涼たる砂の海は、その空と同じように濃い藍につつまれていた。時おりはげしい風がその砂の海をわたっていった。風にまかれた砂は、まるで目に見えない何ものかが砂の海の上を突走るように、はげしい砂煙の帯を長く長く曳《ひ》いた。
太子を容れた重力泡は、砂の海を、ゆっくりとはるかに燃える淡紅色の極《オー》光《ロラ》に向ってすべっていった。
時間が進んでいるのか、それとも止っているのか、それもさだかでなかった。進んでいても、それがもうふつうの時間の進みかたとはちがっているのだ、という一種のあきらめが太子の胸をふさいでいた。たしかにこの天上界は、人間の世界とは時の経過も異っているようだった。はげしい隔絶された思いが、ふと、太子自身の胸をむなしくさせた。
乾いて荒れ果てた砂の海に、さまざまな物体が、またその破片が散乱していた。おびただしい建造物の打ちくだかれ、崩れ落ちた廃《はい》墟《きよ》。壁面や大石柱や、かたむいた塔などが、濃藍色の天地の間に、幻《まぼろし》のように浮き上っていた。それらは金属のようでもあり、半透明の美しい晶石のようでもあり、珍貴な木質のようでもあった。
濃藍色の天空から、壮大なドームの一部が崩れ落ちていた。その無数にひびわれた美しい模様を透して、はるかにまた、単彩の極《オー》光《ロラ》がかがやいた。
砂の上に、あきらかに生物の体の一部分と思われるものが散乱していた。そのなお生命ある組織の一部分は、砂にまみれて、しだいに喪われてゆく水分に、ひどい恐慌状態を示しながらみるみるちぢんでいった。その組織の発する声のない絶叫が太子の耳をするどく切り裂いた。
遠く地平線のかなたに、おびただしい光球が乱れ飛ぶのが見えた。光球はひもでつながれてでもいるかのように、幾つも幾つもつらなってははるかな中空を右から左へ横切っていった。はげしい閃《せん》光《こう》とほのおがそこから渦《うず》まき立ちのぼった。つぎつぎと新しい火光が天へ這《は》い上り、ゆらめいてはふたたび地平線のむこうへ沈みこんでいった。
それは惨《さん》憺《たん》たる戦場の夜景に違いなかった。しかしふしぎにそこからは戦うものどうしの恐怖も不安も感じとることができなかった。それは画に描かれた戦いに似ていた。静かな、最小の動きだけですべての作業がすんでしまう冷たい計算と冷酷な演出だけが、そこにはあった。
「悉《しつ》達《だる》多《た》太子か」
はためく極《オー》光《ロラ》を背景に一人の少女が立っていた。
「阿《あ》修《しゆ》羅《ら》王《おう》か」
少女は濃い小麦色の肌《はだ》に、やや紫色をおびた褐《かつ》色《しよく》の髪を、頭のいただきに束ね、小さな髪飾りでほつれ毛をおさえていた。
「そうだ」
少年と呼んだほうがむしろふさわしい引きしまった精《せい》悍《かん》な肉づきと、それに似つかわしい澄んだ、黒いややきついまなざしが、太子の心をとらえた。
「阿修羅王に問いたい」
少女は、ふとかすかに眉《まゆ》をひそめた。その、あどけない面だちに、浮かんだものは、ひどくひたむきな心の働きと、それにふれたすべての人々を亡ぼしてしまうかと思われるようなくらい情熱だった。
「波《ば》羅《ら》門《もん》の説くところ阿修羅王は宿《しゆく》業《ごう》によって、この兜《と》率《そつ》天《てん》浄《じよう》土《ど》に攻め入り、帝《たい》釈《しやく》天《てん》の軍勢とすでに四億年の永きにわたって戦っていると聞いた」
「そのとおりだ」少女は唄《うた》うようにいった。
「阿修羅王よ」
少女はふたたびかすかに眉をひそめた。見入るときにわずかに眉をひそめるのが、この美しい少女のくせらしかった。少女はだまって首にかけた瑜《ゆ》珞《らく》をもてあそんだ。それは何かの骨片を銀の糸でつなぎ結んだものだった。小さな乾いた音が、木鈴の鳴るように太子の耳にとどいた。
「なに故に梵《ぼん》天《てん》王《おう》のしろしめすこの天《てん》上《じよう》界《かい》 に攻め入ったのか。そののぞむところは何か。そして阿修羅王よ。王はどこからやってきたのだ。王の棲《す》む世界はいずこにあるのだ」
太子は砂の上に腰をおろし、上体を真っすぐにのばして少女をにらみつけた。
少女は少し困ったように片方のくちびるの端に微笑を浮かべた。小さなくちびるから真白な糸切歯がのぞいた。
「阿修羅王よ」
「悉達多太子!」
とつぜん、少女の声は天地の声になった。
どっと吹きつけてくるはげしい風の中で、少女の髪がほのおのようになびいた。少女の怒りと悲しみが目のくらむようなすさまじい火花となって散った。
「太子! 弥《み》勒《ろく》に会え! 五十六億七千万年ののちに、お前たちを救うであろうといわれるその弥勒に会え!」
太子は思わず砂の上に身を投げた。合掌する手が自分でもぶざまなほどふるえた。
阿修羅王は風の中で笑った。その声は、遠く遠く地平まで走った。
弥勒に会え――その言葉は太子の胸から背へつらぬきとおって、太子の心の深奥の部分を灼《や》き亡ぼした。
「太子。波羅門の言う、兜率天浄土に弥勒と呼ぶ沙《しや》門《もん》ありて、この世の果の末法にあらわれ出でて人々を救う、と。されば、のう、太子」
阿修羅王は両手を後にまわして腰をかがめ、あごをつき出した。大きな双の目が皮肉の色をたたえていきいきとかがやいた。
「太子。五十六億七千万年ののちにいったい何があるというのであろう? どのような破滅がやってくるというのか。太子には想像がつくか」
悉達多太子は石のようにおし黙ったまま、むなしく頭をふった。
「太子よ。こうは思わぬか。弥勒はその破滅の実態を知っているからこそ、そうしてたとえようもない永い永い時間を待ちつづけているのであろう。破滅の実態をよく予測し得るからこそ、人類を救済するのだ、などと言っているのであろうが。それならなぜ破滅の様相を説明しないのだろうか? 説明したがいい。ついでに救いの方法も説いたらいい。まことの救いの神なら実はその破滅の到来をこそふせぐべきではないか」
阿《あ》修《しゆ》羅《ら》王《おう》は悉《しつ》達《だる》多《た》太子の胸の中をのぞきこむように、上体をのり出した。
「それは、つまり」
太子は、阿修羅王の言葉に反《はん》駁《ばく》を加えようとして、かえって言葉につまった。
「こたえられるのか。太子に」
阿修羅王は、氷のような一ベつを、太子の顔に当てた。
「まだ破滅が来ないからであろう」
阿修羅王は声もなく笑った。くちびるの一方がきゅっと切れこみが深くなった。
「まだ破滅が来ない、とは。太子、この世界の荒廃ぶりがすなわち破滅ではないのか。この何層にも積み重った世界の、どの一つをとり上げてみても、もはや回復は不可能と思われるほどの破滅と絶望にみちみちているではないか。これこそ破滅そのもの、あの弥《み》勒《ろく》が待ちに待ちつづける破滅そのものではないか」
太子はひざに置いたこぶしに力をこめた。うでがかすかにふるえた。そのおそれをむりにおさえつけて太子は、阿修羅王を見上げた。
「しかし、まて。この荒廃はいったい何ものがもたらしたのだ? あるものはただ、おしなべて死と破滅のこの静寂は。阿修羅王よ、すべてあなた自身の招来したもの、あなたとあなたの一族がふりまいたものではないか」
阿修羅王は、耳がないもののように太子の言葉を、平然と頭の両わきへ流した。
「太子。私とてこの世界の従属物だ。私の存在もこの世界の実相の一つにしか過ぎない。太子よ。聞け」
阿修羅王のほおが極《オー》光《ロラ》のくらい赤に染った。天は刻一刻、焼けつつあった。
「この世界の荒廃は、この世界自体の内部に起因するものではない。破滅や発展は単なる変化の部分的性質だ。たとえ人間の死といえども、それは真の意味での消滅ではない。生々流転するひとときの相に過ぎないのだ。ところが今、この世界が直面している破滅の形態こそ、真の意味での破滅であり、もはやその後にはいかなる種類の変化も起り得ないのだ。すべてのエネルギーが、最終的に熱エネルギーに変化し、それが徐々に宇宙空間に流出してついに完全に平衡状態に達した熱的死がやってくるのだろう」
阿修羅王はそれを目の前に見るようにふっと顔をそむけた。
「梵《ぼん》天《てん》王《おう》は私の警告に耳をかそうともしない。やがてこの世界の荒廃の原因が、私のひきいる阿修羅王の、そしてその所管するところの凶悪に起因するなどと言いだすだろう。それもよい。しかし梵天王は今こそ」
ぶきみな極《オー》光《ロラ》がその横顔に淡く映えた。体にまとったうすものを透して、少年のようにひきしまった肉の薄い肩がやはり極《オー》光《ロラ》の色を受けた。
「転《てん》輪《りん》王《おう》の企図を知ることだ」
「転輪王、というと」
「波羅門にも説かれていよう。王の王たる者。すなわち化して因縁を転ずる自在な王のことだ。この世の外にあって生成を看ることすでに一兆年の余という」
「阿修羅王よ。あなたはその転輪王に会ったことがあるのか?」
阿修羅王はおどろいたように太子の顔をすかし見た。それからゆっくりと首をふった。
「太子よ。転輪王の姿を見たものは誰もいない。どこにいるのかも知らない。しかし、その名を知る者たちはひとしく、いつか必ず、それもあまり遠くない時代に、転輪王はこの世界に姿をあらわすに違いないと思っている。そのとき、かれは偉大なる唯一の神として、また造物主として、まさに因縁を転ずるものとしてこの世界を支配するだろう」
「阿修羅王よ。そのときあらわれ出て人間を救うのが弥勒ではないのだろうか。弥勒が人間の世にあらわれるのは、今より五十六億七千万年のちの、末法の世というが」
遠い地平線を染めるくらいほのおの色は、今、空の一方を幅広く焦して、つなみのようにあとからあとから押し寄せつつあった。あざやかな深紅色の光のすじが入り乱れてからみ合い、また青い光の環が同心円をえがいて中天にせり上っていった。阿修羅王の澄んだ目の中にも、その青い光の環はひろがっていった。
「太子。弥勒がそもそも何ものなのか、誰も知らない。兜《と》率《そつ》天《てん》浄土にあって末法の世を待つというが、太子。弥勒が待っているものはそもそも人類の救済なのか、それとも末法それ自体なのか。いったいどちらなのだ。また、弥勒なるものを、果してそこまで信じて、なおかつ救世主として待望してよいものなのだろうか。私ははなはだしくそれをうたがい、兵をあげて梵天王に迫った。弥勒なるものの存在に世界の命運がかけられていると思ったからだ」
――阿修羅王は宿《しゆく》業《ごう》によって、この兜率天浄土に攻め入り、帝《たい》釈《しやく》天《てん》の軍勢とすでに四億年の永きにわたって戦っている、と。
「宿業によって、か。梵天王があなたの言葉を聞こうとしなかったわけは?」
「わからぬ。これだけは言えると思う」
「思考コントロールを受けている、と」
「そうだ。はじめてあなたと意見が一致したようだ」
阿修羅王は浅くうでを組むと、にっと笑った。浅黒い顔に白い歯が爽《さわ》やかだった。
「弥勒がそも何ものであるか、私はたしかめてみたい」
太子は千変万化する遠い空のいろどりに目を向けてつぶやいた。
「それがよいだろう。太子。波羅門の僧たちでさえ弥勒に対面したものはいないのだ。太子。弥勒に会ってその真意をたしかめてみられるとよい」
悉達多太子はよろりと立ち上った。広漠たる平原を氷のような風が吹き過ぎていった。その風にはかすかに油の匂いと死臭がまじっていた。太子は阿修羅王に背を向けると、黙って歩き出した。TOVATSUE はどの方角なのか。まるで見当がつかなかったが、歩を運んでゆけば必ずそこに行きつくであろうという確信めいたものがあった。
遠い戦場の夜景は、氷のようなつめたい風とともにいつまでも太子の背後にあった。何が燃えているのか、ほとんど中央にまでとどく幅広いほのおの幕が、絶えず明滅し、新しい炸《さく》裂《れつ》の火光を四周に放った。
「太子。弥《み》勒《ろく》は兜《と》率《そつ》天《てん》の中心、摩《ま》尼《に》宝《ほう》殿《でん》に在る。案内しよう」
いつの間にか、阿修羅王は太子の左わきにならんで歩いていた。
「案内する? 阿修羅王よ。あなたは TOVATSUE 市に入れるのか」
「波羅門の徒輩は阿修羅の陣営に足を入れることはできぬが、阿修羅は六欲天はもちろんのこと、大《だい》梵《ぼん》天《てん》であろうと、四《し》禅《ぜん》九《きゆう》天《てん》であろうと自由に出入ができるのだ。かれらに私の姿は見えない。また見えたとしても、私に危害を加えることはできない。四天王に八将を引具する帝釈天が、四億年も戦ってなお一勝すらあげえないのも、そのためなのだ」
「なぜかれらの目に、あなたの姿が見えぬのか。かれらとて原始の未開の種族ではあるまいに」
「見ようとしないからだ。自己催眠、すなわちセルフ・コントロールによる情報処理のあやまちだ。認識というのは情報処理の一つの結果に過ぎない」
阿修羅王は右手をのばして、太子の顔を指さした。その目がすさまじい光をやどした。
「たとえば」
蜂《はち》の巣型のコンパートメントがなかば押しつぶされてゆがんだ条理を見せていた。温湿度調節装置の故障した部分につぎたした強制通風装置が、ガラガラと恫《どう》喝《かつ》的な響きをあげていた。そのダクトから吹きこんでくるなまあたたかい風にまじった砂《さ》塵《じん》が、ダクトの周囲に黄褐色の縞《しま》もようをひろげていた回廊の両側の壁にそって積み上げられたおびただしいコンテナーの外板の金属板が、ところどころさび朽《く》ちて口を開き、中から何かの機械の部分品と思われるものが、これも真赤に錆《さ》びてのぞいていた。高大な天井をはしる無数の管、電線、それらもすべて分厚くほこりをかぶっていた。
「この先に急行用リフトがある。その橙《とう》色《しよく》灯《とう》のサインの出ているのがコントロール・エリアへ通じているものだ」
回廊の床は砂塵ともほこりともつかない灰色の微《み》塵《じん》が薄い敷物を敷きつめたように、太子の足を吸った。壁面に口を開いた幾つかの昇降機のうち、ただ二台だけが動いていた。入口を閉じたシャッターがすでに古びた厚紙のようにそりかえり、なかば裂け落ちて奥深いくらい洞《どう》窟《くつ》をのぞかせていた。どこからかコンプレッサーの単調なひびきがつたわってきた。
「だれもいないが、どうしたのだ?」
太子は前後に長くつづく回廊をながめやった。
「むかしはこのあたりはもちろんのこと、はるか上層にまで、市民たちがあふれていた。それはにぎやかなものだった。衣、食、住、すべての面にわたって完全な管理とゆきとどいた計画のもとに、市民たちは五百年の生命を保ち、豊かな生活を楽しむことができた」
「それがどうして?」
「わからぬ。われわれがこの地へ侵入してきたときは、すくなくともこの TOVATSUE 市だけは、衰退の兆などどこにも見られなかった。波《ば》羅《ら》門《もん》の説く神の国はまさしくここであり、また、この都市の繁栄をまのあたりに見た人間も少なくないはずだ」
「人間が?」
阿《あ》修《しゆ》羅《ら》王《おう》は影のように回廊の微塵を踏んだ。阿修羅王は重さを持たないのか、その歩いたあとはいささかの塵《ちり》ほこりも動いていなかった。
「そのころは、さまざまな関係で人間世界との交流があったようだ。ここへやってきた人間たちによって、シュメールやモヘンジョダロと呼ばれる都市国家が建設され、その上下水道、舗装道路、集中管制式の照明、動く階段、などはすべてここで得られた知識であろう」
「ここへやってきた人間があったとは知らなかった」
「エジプトのピラミッドと呼ばれる塔のことは知っているか」
「ストウパのことか」
「と、言ってもよいだろう」
「西からやってきた商人に聞いた。山か丘のように高大なものだという」
「それらを建設した技術は、すべてここで修得したものだ。一種の重力場の発生によるものだ」
太子は足もとの床に放心の目を向けたまま、うつろな心で回廊を進んだ。この兜《と》率《そつ》天《てん》空間を中心とする世界がどのような構造で人間世界に結びついているのか、全く想像もつかないが、人間がやって来られるとすれば、これはかなり強い影響を人間世界に与えたと考えることができる。
「さあ、乗りなさい」
一つの昇降機の前で阿修羅王が立ち止った。うながされて太子は、その四角な金属製の箱の中に入った。
かすかな動揺とともに、昇降機は動きはじめた。動きはじめたと感じただけで、太子にはそれが上昇しているものか、それとも下降しているものか、全くわからなかった。
このまま、永遠にこのせまい空間に閉じこめられているのではないだろうか?
とつぜん、はげしい恐怖が太子の胸につき上ってきた。恐怖はほとんどひとかかえもあるような塊《かたまり》になって太子の気管につまった。
「阿修羅王!」
太子は必死に声をふりしぼった。その声は太子自身の耳に深い水底からひびいてくる物音のようにひびきを失って聞えた。
「あしゅらおう!」
「何か。太子」
太子の背後で聞きおぼえのあるさわやかな声が聞えた。
「あ、そこに!」
金属の壁に背をもたせかけ、足先を軽く交《こう》叉《さ》させて、阿修羅王が立っていた。
その大きな目がいたずらっぽく光った。
「太子。人間、孤独であるよりは悪とともにあった方がよいとみえるな」
太子はつめたい汗にまみれてうなだれた。汗とともになみだがほおからあごにつたわった。
阿修羅王はやさしい声で小さく笑った。
「善《ぜん》哉《ざい》、善《ぜん》哉《ざい》。あの目《もく》〓《けん》連《れん》めならそう言うであろうよ。太子、気にするな」
(摩《ま》尼《に》宝楼閣一切瑜伽瑜祇経巻三十二に記されてあるこの悉《しつ》達《だる》多《た》太子と阿修羅王のくだりこそ、後年、稀《け》有《う》の学僧、龍樹をしてその理解に苦しめたところであった。彼は行間の背後に極めて異常な事態の伏在することを察しながらも、ついにこれを比《ひ》喩《ゆ》として脚注をほどこさなければならないのであった)
TOVATSUE の市街は地下深く下層におもむくにしたがってその荒廃の程度はひどかった。無人のコンパートメントが錆《さ》びついた無数のドアの列の奥に、くらい洞《どう》窟《くつ》となってならんでいた。発光材で張られたと思われる回廊の壁面や天井は、なおかすかな光輝を放っている部分もあったが、その多くの部分はすでに縦横にひび割れ、微塵の分厚くふり敷いた床に散乱していた。銀白色の壁面が黄褐色に変色して大きくゆがんでそりかえっているところがあった。それは長く横にのび、回廊をとり巻くように横切って、さらに前方に伸びていた。焼損だった。回廊の外側を、非常な高熱がなめていったらしい。すでにこのあたりまで阿修羅王の攻撃の手はおよんでいるものと思われた。
荒廃した無人の都市に、ただ一か所だけ人々がたむろしているところがあった。市の中心部を縦につらぬく太い軸にあたる部分で、それはこの TOVATSUE 市の基底部に設けられた原子力発電所からの送電路にあてられている縦貫路だった。作業員の待機所が、そこだけ煌《こう》々《こう》と照明をともしていた。内部から人々の話し声や、何かの器具の触れあう音がかすかにもれていた。それは地下深い坑道にとり残された遭難者のむれのように、妙にひそやかな隔絶された空気につつまれていた。
かれらはいったい外で何がおこなわれているのか、知っているのだろうか?
悉《しつ》達《だる》多《た》太子はこのとき、ふと、いつ、いかなる時代にあっても、人間のあわれさには変りがないのではあるまいか、と思った。何も知らされぬまま、何がどうなっているのかもわからぬままに、その生を終ってゆくのだろう。
「阿修羅王。あなたの軍勢はいったいどのぐらいいるのだ?」
唐突な質問に、阿修羅王はけげんな顔をした。
「さあ、私にもわからぬ。六千万ともいうし、六十億ともいう。帝釈天のひきいる兵と戦ってすでに四億年。一人倒されれば二人になり、二人うたれれば四人ふえ、その数は今では私でさえ正確にはつかめない。兵団の数は七百とも八百ともいうが、おそらく討たれるものの数も少なくはあるまい。帝釈天のひきいる兵はまさに精強そのものだ。装備もすぐれているし、戦意も極めて高い」
その兵の中で、自分たちの戦っている意味や目的を知っている者がはたしてどれだけいるか、どこからやってきたのか、いつまで戦っているのか、太子は暗い心でそれらの人々の明日の運命を思った。
「ここだ、太子」
阿修羅王が立ち止って一つのとびらを指さした。縦横にひび割れ、剥《はく》落《らく》した発光材の下から銀白色の金属の壁が、くもりガラスのようにのぞいていた。
「ここが?」
「弥《み》勒《ろく》の階層へ入るとびらだ」
阿修羅王にうながされ、太子はそっと、その巨大なとびらを押した。銀白色のとびらは音もなく内側へ開いた。高大な天井から美しい淡青色の照明が滝のように降ってきた。その光の中に太子の影がくろぐろとのびた。その影を目にとめて太子はおどろきの声をあげた。
「阿修羅王! あなたには影がないのか」
「影?」
「床《ゆか》に落ちているのは私の影だけだ」
「太子、そこにいるのは私の実体ではない。私は今、太子が私と最初に出《で》逢《あ》った戦場の荒野に立っている。ここから見る TOVATSUE の市街の上空には、リチウム原子弾の青い光の環が絶えずつぎつぎと開いている。しかし TOVATSUE をとり囲む空間断層は堅固でリチウム原子弾の高熱と放射線をもってしても容易には突破できないのだ。戦いはなお数万年、数十万年を必要とするだろう。宿業とはよくも言ったものだ」
阿修羅王の声は遠い遠いどこからか、かすかな風のように太子の胸に流れこんできた。太子は思わず、自分のかたわらに立っている阿修羅王を見つめた。
「阿修羅王!」
「さあ、太子。行こう」
阿修羅王は回廊の奥へあごをしゃくった。
「弥勒が何ものなるかをたしかめたら、太子、あなたはただちにあなたの世界へもどるのだ。あなたの世界の運命が何に起因するかをあなたは決して忘れてはならない」
長い回廊をどれだけ進んだのか、太子は数日の間、歩きつづけていたようなひどい疲労にあえいでいた。
「あのとびらの奥が弥勒の居所だ」
回廊は一つの巨大なとびらで終りになっていた。たても横も数十メートルに達する銀白色の金属の、なんの装飾もない平滑なとびらが、長大な回廊の空間をぴったりと閉じていた。
「このように大きなとびらが私にあけられるわけがないではないか」
太子は首をねじ向けてふりあおいだ。
「太子。立ち止まるな。そのまま歩め」
阿修羅王が背後から力づけるように言った。太子の足はひとりでに動いた。完全に麻《ま》痺《ひ》した心に悪夢のような恐怖がふくれ上った。
「そのまま歩め!」
銀白色の壮大なとびらが目の前いっぱいにひろがった。ふしぎな力におされるままにかなり力強い足どりで、太子はそのまま自分の体をつめたい金属の表面にたたきつけることになった。
一瞬、すべての感覚が喪われた。太子ははじめて死が極めて身近にあることを知った。
そこははじめ海かと思った。
さえぎるものもない広漠たるひろがりの中に淡い澄んだ青い光があふれていた。その光は空気のように太子の体の中へまで渦《うず》まいて流れこんできた。
なんの物音も聞えてこなかった。太子の心臓は最大限にまで高鳴り、しだいに迫ってくる不安と緊張とで太子は嵐のように荒々しく息を吐いていたが、太子の五感には、その心臓の高鳴りも吐息の激しさも、全く感じられないのだった。
すべては死の世界のように、永遠の沈黙につつまれていた。
太子は淡い光を踏んでいった。光は右から左から、前から後から、太子の体を射しつらぬき、太子は透きとおって影を喪《うしな》っていた。
「あれは?」
淡い青い光の遠い奥に、巨大な一つの影が見えた。
「あれこそ弥《み》勒《ろく》にちがいない」
太子はその淡い光の海の奥に、永《えい》劫《ごう》の孤独に沈んで未来の救済を祈念する一人の沙《しや》門《もん》の姿をはっきりと見た。
太子は走った。目はまたたきもせずに、高い虚《こ》空《くう》にそびえるその黒い影を見つめていた。
「ああ。これが弥勒か」
太子はおのれも石に化したかのように、身動きもせずにそこに立ちつくした。とりとめのない想念が心の表層に湧《わ》き上ってきては音をたてて破裂した。
なんの音もしなかったし、すべてがひどくむなしかった。
弥勒は――
それが正しく弥勒と呼べるものなら、かれはそこにいた。右足を左ひざの上に組み、その膝《ひざ》にひじをついた右手で軽くほおを支えていた。半眼に見開いた双の目は時空を超えたはるかなかなたを見つめていた。そしてその三日月形の眉《まゆ》にはなぜかおおいがたい悲痛な色がこめられていた。
舟形の宝冠のいただきは青い光のあふれる壮大な天井に触れるばかりの高みにあった。
「弥勒よ!」
太子の声は淡い青い光の中ではげしくふるえた。
弥勒。もとは南インド、デカン高原出身の波《ば》羅《ら》門《もん》の人。修法によって兜《と》率《そつ》天《てん》に上《じよう》生《しよう》してこの内院にある。やがて末法の世、五十六億七千万年ののちにふたたび閻《えん》浮《ぶ》提《だい》世界に下《げ》生《しよう》し、父は修梵摩、母は梵摩跋提の子として生れ、華林園内の竜華樹の下で成仏するものとされていた。この弥勒が世に下るときは、世界にはもはや山や谷がなく、鏡のように平《へい》坦《たん》になっている。そしてすべての土地はひとしく豊《ほう》穣《じよう》であり、食料は必要なだけはいつでもとれ、したがって貯えということは全く不用になる。人々は適当な労働と休息を楽しみ、市街はにぎわい四季の差はなく、長命が約束されるとともに人心は安定していかなる人も同じ考えを持ち、言語は世界共通の言葉になって、いかなる辺境にある人とでも自由に意思を通じあえる。やがて人間は二百年、三百年、そしてそれ以上の寿命を得られ、ついに日や月や星の世界に自由に遊ぶことができるようになる――波羅門の説く観《かん》弥《み》勒《ろく》上《じよう》 生《しよう》兜《と》率《そつ》天《てん》経《きよう》 と下《げ》生《しよう》兜《と》率《そつ》天《てん》経《きよう》に記された言葉が、太子の胸に白光をひいて吹き上った。
これこそ理想郷だった。人類が永遠にさがし求めてやまぬ神々の地。やがてこれを人々は天国と呼び、極楽と呼ぶようになるのだった。
弥勒は五十六億七千万年ののちにこの世にくだり来たって人々を救うという。その救いかたは、この世のしくみ、そのものを変えてこの世自体を、神の国と同質のものになしてしまうという積極的特色のあるものだった。故に弥勒の到来は人々に待望された。そこにあるものは人々が求めてやむことのない神の王国だった。それ故にこそ、人々をはげしい弥勒信仰にかり立て、それを説く波羅門の教えに耳をかたむけさせたその力こそ、永い永いほとんど半永久的ともいえる五十六億七千万年ののちに姿をあらわすという一人の神の姿だった。しかし五十六億七千万年というその永遠にも似た闇《やみ》の思想こそ、実は人々の心の奥底にひそむやりきれない絶望の反映であったともいえる。
さもあればあれ、新しい世界の希望は今ここにあった。
「弥勒よ!」
太子は巨大な姿に向って叫んだ。
「弥勒よ」
応えはなかった。
「弥勒よ」
みろくよ!
とつぜん、太子の耳もとで笑いが爆発した。その笑い声は銀の弓弦がなるように太子の胸をふるわせ、心のひだの間で共鳴した。
「何を笑うのだ。弥勒よ。私は釈《しや》迦《か》国の太子、悉《しつ》達《だる》多《た》だ。五十六億七千万年ののちに人の世にあらわれて救いの国を開くというあなたに一目、会わんがために、この兜《と》率《そつ》天《てん》の地の底までやってきたのだ」
笑いはぴたりと止んだ。にわかに深い静寂がもどってきた。その静けさはどこかに死よりもおそろしいものをふくんでいた。
「太子。その弥勒をよく見るがいい」
阿修羅王が低いかすれた声でささやいた。太子ははじかれたように巨大な弥勒の足下に立った。
太子は幼児のようにたよりないまなざしで周囲を見た。どこかで何かが、それもひどく間違っているような気がしたが、それをはっきりと心の中で指摘することは不可能だった。太子はもう一度、はなはだしく意欲を失った目で弥勒を見上げた。
銀白色にかがやく巨大な座像は、ところどころみにくい錆《さび》をふいていた。淡く青い光の中で、座像は海のように原初をはらみ、山のように沈黙を守っていた。
「どうだ。太子。これが弥勒の像だ。五十六億七千万年ののちにこの世に降りて人類を救うという偉大な神の、これが座像だ」
阿修羅王は唄《うた》うように、おそろしい言葉を撒《ま》き散らした。
太子は急に二十歳も三十歳も老《ふ》けたような、疲れた動作で背後の阿修羅王をふりかえった。
「弥勒はどこへいってしまったのだ?」
阿修羅王はだまって首をふった。少女らしい硬《かた》い線を持った細い首すじに、瓔《よう》珞《らく》がその心のように乾いた死のひびきをたてた。
「弥勒はどこへいってしまったのだ」
太子は片手をひたいに当ててつぶやいた。頭の奥がひび割れるように痛かったし、背中を胸を、つめたい汗が虫が這《は》うように流れ落ちた。
「これがいったい何ものの像なのか、ほんとうは誰も知らないのだ。弥勒という名はもちろん波羅門たちの好んでつけた名だ。太子よ。かつてこの兜率天空間に遊んだ何人かの人間が、ここに遠い未来に自分たちを救う神がある、と勝手に信じこんで人に語ったものなのだろう」
「それはひど過ぎる。みな、弥勒の来世を信じているのだ。それがうそだなんて」
太子の語尾は聞きとり難くかすれた。
「太子。あの像をもう一度よく見るがいい。あの巨大な像は、実際の姿をそのままうつしたものだというぞ」
「実際の姿? それではやはり弥勒はいるのではないか」
阿修羅王は肩をすくめて太子の前にまわり、太子の目の奥をのぞきこんだ。阿修羅王の紅《あか》いくちびるからもれた吐息の、何かの花の匂《にお》いが一瞬、太子を正気に還した。
「阿修羅王!」
「わかったか、太子。あれが何ものの像なのか、おそらくこの世界の統一者である梵《ぼん》天《てん》王《おう》でさえ知るまい。あの像にうつされた巨大な神人は、かつてこの世界をおとずれ、この世界がおのれの領域にあることを宣言して去った異世界の住人。この世界を外から支配するもの。五十六億七千万年ののちにふたたびこの世界にあらわれて、すべてこの世界に住むものの命運を決しようとするもの。それがあの弥勒と呼ばれるものだ」
「救いか! 末法の世を救うためにか!」
太子はどこへ向けようもないはげしい怒りに身をふるわせた。これはあまりにもひど過ぎると思った。事実は人々の待望し、信じているものとは全く反するものであった。
「さ、太子。行こう。この像をいくら見つめていてもここから救いはあらわれてはこないぞ。救いがあらわれてはこなくても、梵天王のようにただひたぶるに信ずるか。太子。五十六億七千万年ののちに、あの神人は閻《えん》浮《ぶ》提《だい》、つまりあなたがたの世界にあらわれるのだ。父は修梵摩、母は梵摩跋提。な、太子。弥勒はあなたがたの世界でいったい何をおこなおうとする気なのであろう。梵天王は私の警告に耳をかそうとしなかった。太子、あなたもおそらくこの事実を認めようとはしないだろう。波羅門の説く観弥勒上生兜率天経と同じく下生経に描かれる理想境は人々の心をうばうにじゅうぶんだ。その理想境のためにあなたがたは何をささげるつもりだ。ちえか。生命か、それとも心か。まだ時間はある。ゆっくりと考えたがいい。太子」
阿修羅王の声はしだいに遠く、かすかになっていった。
くらい夜の空の下に、乾いて荒れ果てた砂の海がしらじらとひろがっていた。その砂の上の、もとは生物だったものの残《ざん》骸《がい》、今なおもとの複雑な機構と壮大さをとどめている何かの建造物の破片などのおびただしい集積と散乱が、もはやここに棲《す》むものの何もないことを示していた。
「悉《しつ》達《だる》多《た》太子か」
はためく極《オー》光《ロラ》を背に、阿《あ》修《しゆ》羅《ら》王《おう》が立っていた。
「もう一つ聞きたいことがある」
阿修羅王は遠い夜空にはげしいまなざしを送っていた。
「あれか?」
太子がふりかえってみると、はるかな中空に、巨大なオレンジ色の火球がおそろしい重量感を見せてふくれ上りつつあった。そのかがやきは夜空を灼き、広漠たる砂の平原を奔《ほん》騰《とう》する蒸気に還元した。熱と放射線の波が、何ものも存在しない平原にさらにローラーのような無をおしひろげた。
「なぜ、梵天王と戦うのか、と問いたいのであろう。太子」
くらい夜空を、奇妙な形の船があとからあとから音もなく横切っていった。それは地平線の闇《やみ》の中からあらわれ、一方の地平線をつつむ聞の中へしずんでいった。
「太子、波羅門の説くところ、すなわち阿修羅王は宿業によってこの兜率天浄土に攻め入り、帝釈天の軍勢とすでに四億年の永きにわたって戦う、と。宿業によって。太子、宿業とは何だ? 宿業と呼ぶそのかかわり合いはなぜ、どのようにして生れたのだ」
奇妙な船の群の消えていった方角からすさまじい閃《せん》光《こう》がつづけざまに夜空を裂いてはしった。阿修羅王のひきいる兵団というのが、いったいどのようなものなのか、太子には想像もつかなかったが、その夜空をゆく奇妙な船の群がおそらくそれなのではあるまいか、と思った。
「太子。いつの日にか、また逢《あ》うこともあろう。波羅門僧どもがそろそろ心配しているであろう。行かれよ」
太子はこの美しい少女に何かひとこと、別れの言葉をのべたいと思ったが、うまい言葉が見つからなかった。阿修羅王が言うようになぜか、遠いいつの日か、ふたたび相逢うことがあるような、それも必ずあるような気がした。
太子は阿修羅王に向って合掌すると、静かに背を向けて歩き出した。しばらく歩いてふりかえると、阿修羅王の姿も、はためく極《オー》光《ロラ》も、夜空を切り裂く青い閃光も、すべてあとかたもなく消えていた。
氷のようなつめたい風が、その何もない闇の奥から吹きつけてきた。
「すべては幻だったのだろうか」
太子はくらい闇のむこうに、いつまでも目を向けていた。太子の胸に、あの修羅と呼ぶにはそぐわない、あるいはまことに修羅と呼ぶにふさわしい一人の少女の姿が、焼金をあてたように鮮烈に灼きついていた。
第四章 エレサレムより
はじめにことばあり
ことばはかみとともにあり
ことばはかみなればなり
部屋のすみにつるした大きな帆立貝の殻《から》が、まるで枯れた骨でもふれ合うような音をたてた。
「入れ」
ピラトゥスは、羽根ペンを机の上にほうりだしてこたえた。
どうもあの貝殻は感心しないな。まるでおれの背骨がうずくようじゃないか。とりかえさせよう。ピラトゥスは眉《まゆ》をしかめて、東方の商人から送られたその合図用の白い平たい貝殻をながめやった。
部屋の入口のカーテンを手ではねのけて、彼の腹心の部下である補佐官のセイントが入ってきた。
「総督閣下!」
めずらしくこのめったに物に動ずることのない男が、かすかに息をはずませていた。
「どうした? セイント」
「どうも、それが」
セイントはケープを背にはねのけて太いうでを組んだ。
「なにがどうも、だ?」
ピラトゥスはテーブルの上に体をのり出した。
「総督閣下。れいのナザレの大工、イエスが、この土地の者の言いかただとヨシュヤですが、やつがとうとうこのエレサレムに入ってまいりました」
「なに。とうとう来おったか。困ったな」
ピラトゥスは眉の間のたてじわを深くした。実際、それはこの四、五日の間というもの、彼の頭痛のたねになっていたのだった。
「で、大祭司どもはどうしている? ユダヤ教の大祭司どもは」
それがいちばん気になるところだった。
「総督閣下、もう先ほどから広間にのぞんだ前庭に参集しております」
ピラトゥスは舌打ちして、そこからは見えない広間の前庭の方をうかがった。大きな龍《りゆう》舌《ぜつ》蘭《らん》の白い花の房が、風にゆれていた。
「追い散らせ セイント!」
補佐官は片手を上げて、ピラトゥスの言葉を押しとどめた。
「あ、いや。その点です。総督閣下。あの連中の気もちをあまり無視してはこのさい、のちのちやっかいなこともあろうかと思います」
この有能な補佐官の言葉は、つねに聞くべきものを持っていた。ユダヤ教の大祭司たちの気もちをあまりそこねては、このイスラエルの総督としての彼の治績にも影響が生じてくる。
「間もなく納税期ですからな。彼ら大祭司たちの免税の要求は、年ごとに強くなってきている状態ですし」
セイントは言うまでもない。ユダヤ教教団の上納分は、このイスラエルのローマ植民地全体の収奪分の約四割にもおよんでいるのだった。信者からの寄進をためこんだ教団を、おどしたりすかしたりして税金を吐き出させるのが、このイスラエルのローマ代官であり、エレサレムの総督であるピラトゥスの重要な仕事だった。
「総督閣下。近年、ローマ帝国の弱体ぶりは、辺境植民地の経営をひどくやりにくくしています。精強を誇るローマ軍団も、近ごろではすべて外人による傭兵によって、かろうじて兵力をそろえているありさまです。総督閣下、万一、このイスラエルの地でローマに対する反乱が発生しても、本国からの増援部隊はおそらく期待できないでしょう。総督閣下、このところはよくお考えにならねばなりませぬぞ」
それはセイントの言葉をかりるまでもなく、つねにピラトゥスの腐心するところだった。ローマ帝国の衰亡は午《ひる》を過ぎた陽ざしがいつとはなしに西にかたむくように、目に見えはしないが、決して止めることのできない確実さで年ごとに、日ごとに進行しつつあった。それは商人たちの口から口へ伝わり、ユダヤ教の巡礼者たちの四《よ》方《も》山《やま》の話から話へ伝わり、今ではこの辺境の植民地の誰《だれ》でもが心の中で知っていることだった。それだからこそ、ユダヤ教の大祭司たちの要求は年ごとに強くなり、ローマ代官に対する不《ふ》遜《そん》な態度があらわになってきつつあった。
「総督閣下!」
部屋の外で部下の一人がさけんだ。
「何か?」
セイントが出ていった。
部屋の外で何かしきりに話し合っている。昨夜の、エレサレム駐《ちゆう》屯《とん》軍《ぐん》の軍団長、テシアスの宴会の疲れがまだピラトゥスの頭の奥底に重く沈んでいた。テシアスは酒蔵家で有名だった。東方の湿地帯で栽培する何とかいう穀物で造った酒がよくきいた。前後不覚になって、テシアスの部下にかつがれて帰ってきたのはもう朝の光が、ほこりっぽいエレサレムの内城の石だたみに縞《しま》模《も》様《よう》を投げかけはじめたころだった。
「マシレス、マシレスはいないか!」
奥のとびらが開いてゴート人の召使いがすべりこんできた。
「何でございましょうか?」
「おう、マシレス。風《ふ》呂《ろ》に入りたい」
「かしこまりました。だんなさま」
マシレスはぶどう色の羊皮のチュニックに銀の鎖《くさり》のベルトを鳴らして、すり足で部屋から出ていった。
セイントがいそぎ足でもどってきた。
「総督閣下」
「どうした?」
「今、サイモンが大祭司たちの要求を伝えにまいりました」
「うむ。で、何と申しているのだ」
セイントは、つと、ピラトゥスに寄りそうように体を近づけた。かすかに香油の匂《にお》いがただよってきた。セイントは遠慮がちに言った。
「イエスを逮捕して大祭司たちに引きわたすか、さもなければ総督閣下の手によって処刑しろ、と申しております」
「なに! ユダヤ教の大祭司どもめ。この、ローマ代官たるわしに命令する気なのか? よし。こしゃくな坊主どもめ。このわしの手で処刑してくれるわ」
ピラトゥスは椅《い》子《す》の背にかけられた長剣をつかむと大《おお》股《また》に部屋の出口へ向った。ひたいのあたりにはげしい血の色が動いていた。
「あ、おまちください! 総督閣下、おまちください」
セイントはピラトゥスの前に回って両手をひろげた。その顔は、これまでピラトゥスが見たこともないほど真剣な色をたたえていた。
「おまちください。総督閣下!」
大祭司たちを怒らして得《とく》なことは何一つない――つねに心にとどめてきた言葉がふと、胸に浮かんだ。おおいがたい屈辱がピラトゥスのほおをけいれんさせた。
「総督閣下。このさい、一度、そのイエスという男を喚問されてはいかがですか。ただ逮捕する、と言っても罪状のない者を捕えることもできませんし」
セイントはどうにでも意味のとれることを、かれ独特の慎重な言いかたでのべていた。
「なんでしたら訊《じん》問《もん》は私がやってもよろしいのです」
一度、喚問してしまえば、ローマ代官に対して無礼のおこない有り、としてそのまま獄に送ることも可能だった。
「呼んでみるか」
ピラトゥスはうんざりしたような声を出した。実際、こうした狂信者は裁くといっても訊問するといっても、はなはだ面倒だった。信仰に根ざす弁舌には、文法はあるが論理はない。理非を正すことは言葉の意味を正すことではなかった。
「総督閣下」
ピラトゥスがしぶっているのを見て、セイントが別な意見をのべた。
「それではいかがでしょう。これからひとつ、そのイエスなる者を実際にごらんになっては? 私もおともいたします。かげからごらんになった上で、処置をおきめになった方がよろしいのでは」
こうしていつでもピラトゥスの心は、セイントの意図する方向へしだいに接近していってしまうのだった。それはピラトゥス自身よく知っていたが、そのセイントの意図する方向は、同時にまたピラトゥスの無意識に考え、のぞんでいる方向でもあった。セイントはそうした意味では実に有能な部下であり、忠実な補佐官だったといえる。
「そうだな、ちょっと見てこようか」
ピラトゥスは手にさげた長剣をふたたび椅《い》子《す》の背にかけると、奥へつづく廊下へ首をのばした。
「出かけるぞ」
ピラトゥスは馬に乗り、その馬腹にセイントが寄りそった。馬の口とりと、槍《やり》をかついだ数名の従者がつづいた。
「どこにいるのだ?」
「おそらく、《死者の広場》で説法をおこなっていると思います」
「どうだ? 人気は」
セイントはくらい面もちで馬上のピラトゥスをあおいだ。
「それがどうして、なかなか」
「そうだろうな。大祭司どもがあのように怒り狂って集ってくるところを見ると」
セイントはマントをすそ長く体に巻いた。
「総督閣下。奴めは昨夕、このエレサレムへ入ってまいりました。これまでは市のずっと西の方で布教活動をつづけてまいったのですが、何やら神の啓示を受けたとかで」
ピラトゥスは馬上で目を細めた。それは彼が心の中で何ものかに強い警戒を払っているときに自然にあらわれる表情だった。
「民衆の反響はどうだった?」
「はい。総督閣下。かれは、半月も前から、このエレサレムにやってくることを民衆の間に流布しておいたのです。かれの信頼する十二人の弟子たちが毎日、この街にやってきて事前の宣伝をおこなっていたようです」
「なかなか積極的にやるではないか」
セイントがわずかに語調を強めた。
「彼はここへやってくることを《エレサレム入城》と申しておりました」
「なに、《エレサレム入城》だと。まるで宗主きどりではないか」
「それ故、いよいよユダヤ教の大祭司たちが腹を立てたようなわけで」
そのような大げさなことを言い触らすようでは、そのイエスという男も大祭司たちの言うように、やはりつまらない男なのであろうと思った。
一行は石だたみを踏んで死者の広場へ向うアーケードを曲った。石だたみの道路をいっぱいにふさぐかと思われるほど露店をひろげた商人たちの群れは、とつぜんあらわれたローマ代官たちの一行に、あわてて品物をかかえて家の軒下へ走りこんだ。逃げおくれた商人の一人が従者の長槍の柄でしたたかに背を打たれてのめった。
どこからか束ねた野菜の葉が飛んできてピラトゥスの胸にあたった。ピラトゥスの顔色が変った。彼が何も言い出さぬうちに、セイントがすばやく動いて従者の長《おさ》の耳に何ごとかを命じた。従者の長《おさ》は三名の部下をひきいてたちまち商人たちの間にとびこんでいった。残った二人の従者は、とぎすまされた長槍の穂先をぴたりと立ちさわぐ群集に向けて仁王立ちになった。
「総督閣下。犯人を逮捕いたしましたようです」
見ると一人の若い男が、両側からうでをつかまれてずるずると引きずられてきた。若い男は満面にひどい恐怖の色を浮かべて何事かしきりに嘆願していた。その一団の後から、一人の老婆が泣きわめきながら追いすがってきた。くらい石のアーケードの下では老婆の表情はよく見とれなかったが、その絶望的な泣き声だけは、群集のざわめきの中ではっきりと聞えていた。
セイントがつかつかと近づいていった。セイントのくちびるが動くと、従者の長《おさ》が長槍をとりなおした。その鋭い穂先は若い男の胸にさしつけられた。群集はふいに、しいんと静まりかえった。その思いがけなくわいた静けさが、ピラトゥスの胸に、どす黒い恐怖を植えつけた。
従者は両うでに力をこめて長槍を引きつけた。つぎの瞬間には、若者の胸はその穂先につらぬかれているはずであった。
「おまちなさい!」
するどい、だがふしぎに静かな声がピラトゥスの馬の背後で聞えた。
「なに?」
ピラトゥスは馬の首をたてなおしてふり向いた。
一人の男が立っていた。
灰色に汚《よご》れて長くのびた頭髪とあごひげにつつまれたやせこけた顔に、目だけが異状にするどい光を放っていた。右手には、木の枝を折った長い杖《つえ》をついている。
「その若者の命、助けてやってくださらぬか。偉大なローマの代官、ピラトゥス様のおなさけにおすがり申す」
男はていねいに会釈した。顔も体も汚れ、身にまとっているものは奴《ど》隷《れい》の着ているものよりまだひどかったが、その態度には、奇妙に人の胸にくいこむあるひたすらなものがあった。
「誰《だれ》だ? お前は」
男は顔を上げてピラトゥスを見た。その澄んだまなざしは、ピラトゥスが思わずたじろいだほど強い光を持っていた。
「天なる父の神、全能の神ゼウスの御《み》子《こ》、イエス・キリストの十二弟子の一人、ペテロ」
ピラトゥスは思わず口の中で舌打ちした。まずいところでまずい奴にであったものだ。
「しかしあの若い男は、わしに汚れた野菜の葉を投げつけたのだ」
ピラトゥスはペテロに向って吐き棄《す》てるように言った。
「ああ偉大なる総督閣下。野菜の葉が飛んできてあなたの胸を打ったということは、あなたの統治なされるこのイスラエルの地に、まさに神の御めぐみがあったということではありませんか。神はいよいよこの国に野菜をはじめとする生穀の実りを与えてくださることでしょう。神よ。あなたの深い愛に感謝いたします」
ペテロは両手の指を組むと静かに石だたみにひざをついて、馬上のピラトゥスに祈りをささげた。群集もペテロの姿をまねて、われ先に石だたみにひざをつき、ひれ伏した。
「神の御めぐみをあの若き男に。そしてあの青い空よりも高く、深い澄みきった愛と御めぐみをローマ代官、ピラトゥス様の上にも。アーメン」
ペテロの重々しい声が人々の頭の上を流れた。
もはや事態は絶望的だった。周囲にひしめき、ひれ伏し、ひざまずいて神に祈る群集の声なき声は完全にローマ代官、エレサレム総督の権威を圧倒し去っていた。ローマの代官には今、失うものはあまりにも多過ぎたし、かれらエレサレムの貧民たちは失うものは何もなかった。命を失った方が幸福になる者さえたくさんいた。
「セイント。離してやれ」
セイントの顔に無惨な敗北の色がのぼった。
「離してやれ。セイント」
セイントは従者の長《おさ》にささやいた。若者はうでを離されると、どん、と突きとばされた。ひざまずいている群衆の中に倒れこんだ若者の背に、老婆が気が狂ったようにとびついた。
どっと群集の中に喚声が湧《わ》いた。それはあきらかに勝利のかちどきでもあった。
「行こう。セイント」
ピラトゥスは馬にむちを当てると風のようにアーケードの石だたみを飛ばしていった。
ローマ衰亡の一つの兆候が、今日もこのうすぐらいアーケードの石だたみの街《がい》衢《く》にもあらわれているのだった。
「総督閣下。やはりこのさい、あの男を捕えたほうがよろしいかと思われますが」
セイントの言葉に、ピラトゥスはしぶい顔になった。
「セイント。わしはローマの代官としては、このイスラエルの地もとのさわぎにはなるべくかかわりたくないのだ。ユダヤ教がどうであろうと、新しい宗教があらわれようと、ローマ帝国とはなんの関係もあるまい」
セイントもそれは認めなければならなかった。
「セイント。お前も知っているように、ローマ代官、そしてこのエレサレムの総督というものはだ、この土地から帝国への納税の完納をはかることが第一の仕事。さらにはこの土地ではたらくローマ人の身辺を盗賊などから守り、その生活を平穏ならしむることが第二、そしてローマから、この地を通って辺境へむかう街道をつねに大軍団の移動が可能なように整備しておくこと。要約すればこの三つだ。これ以外に、ローマ代官がこの土地の生活に介入する必要はないのだ」
ローマの植民地政策はつねにこの三つの問題を中心に計画され、進められてきたのだった。ローマ人にとっては、その広大な占領地は、決して真の意味でかれらの国土ではなく、あくまで辺境の未開人による野蛮な土地以外の何ものでもなかったのだ。かれらにとって収奪は再生産を意味するものではなかったし、あらゆる意味で資本を投下して植民地を育成しようなどという考えかたはなかった。そうしたローマ人の考えかたが、やがてローマを偉大な孤児に仕立て上げてゆく。
〓“パクス・ロマーナ〓”
人々が絶叫するその声のかげで、すでにローマ衰退の兆は、急速にあらわれてきていたのだった。
「総督閣下。このままお邸へおもどりになりますか」
聞きようによっては、それはひどく挑《ちよう》発《はつ》的《てき》な言葉だった。
「いや、セイント。そのイエスという男を一目、見て行こう。案内しろ」
セイントはピラトゥスの馬のくつわをとっている従者の肩を小突いた。
土をかためて焼いた煉《れん》瓦《が》を敷きつめた、せまい裏街を一行は進んだ。裏街といっても、細い露地の両側には、むき出しのせまい部屋が箱をおしつぶしたようにつらなり、そのせまい部屋の一つ一つが一家族の住居になっていた。石で囲まれたせまい空間に、麻で織った敷物を敷きつめ、露地に面した幅いっぱいに、これも麻のカーテンをつるしていた。その敷物もカーテンも、もう模様も織目も全くわからぬほど、汚れ、千切れて垂れさがり、煉瓦の舗《ほ》道《どう》にまではみ出しているのだった。
煮《に》物《もの》の匂《にお》いと人間の汗の匂い。どこへいってもいるおびただしい数のはえと、そのはえと同じ数ほどの子供が、このエレサレムの裏街のすべてだった。
ローマの貴族たちが好んだ香料も、もとはといえば、辺境の植民地の総督や軍司令官などにもちいられたのがはじまりという。それでも初期のころのローマ代官などは、軍司令官を兼ねていることではあり、終日、ほこりだらけになり、汗まみれになって現地人と同じ食物を、手づかみなどで食べていたものであろう。もちろん、真水の貴重な土地のことだ。風《ふ》呂《ろ》へ入るなどということはよほどの場合でなければ許されなかったにちがいない。ローマ代官の奥方や娘たちでも汗とあかにまみれて汚れほうだいになっていたのだろう。だからこそ香料というものにローマ人ははなはだしい興味を持ったのだ。清潔な環境にあって、身《み》綺《ぎ》麗《れい》な生活をしているならば、どうして香料などというものにひかれようか。ローマの大浴場やすぐれた香水は、むしろかれらの生活がいかに非衛生的であり、環境的にまずしいものであったかを示しているといえよう。
「あと二年だ」
ピラトゥスは思わずつぶやいた。ローマ代官の任期はあと二年を余していた。すでにこの土地での生活は三年になる。
「は?」
馬腹によりそったセイントがけげんそうにピラトゥスをふりあおいだ。
「いや、なんでもない」
ピラトゥスは、その残された二年をなんとか無事につとめ上げたいものだ、と思った。
ほこりとはえと人声にみちた煉瓦のアーケードをぬけると、急に円形の広場へ出た。広場の中央に燃えるような真紅の花をつけた火焔樹の古木が、火柱のように立っていた。
ピラトゥスは片手で深く目をおおった。
「いました! あそこに」
セイントがふいに足を止めた。
「ど、ど、どこに?」
ピラトゥスは思わず手綱を引きしめた。
セイントが、これまでピラトゥスが見たこともないはげしいまなざしで広場の一角をうかがっていた。それまで気がつかなかったが、巨大な火焔樹の燃えるような花むらのむこうに、石壁に寄りそうように十数名の人影があった。かれらは立ったり、坐《すわ》ったり、だらしなくねそべったりしていたが、顔だけはいちように、石壁の上に立った一人の人物に向けられていた。
ピラトゥスは静かに馬を進めた。広場にはおよそ二十もの露地が口を開いていた。ここがこのあたりの中心地になっているとみえ、ゆき交う行商人や、道ばたにたむろしている乞《こ》食《じき》の一家や、行路病者をとり囲んでいる町役人の姿などが、まるで舞台の上の人々の動きのように、奇妙な統一のもとに一度にピラトゥスの目にとびこんできた。急に広場にのりこんできたピラトゥスの一行に、広場のさわぎはみるみる無秩序に拡大していった。その喧《けん》騒《そう》の中で、火焔樹のむこうの一団は、いやにひっそりと身を寄せあっていた。
ガリラヤ地方のなまりの強い、聞きとり難い言葉がピラトゥスの耳にとびこんできた。
「……人間がいくら待っていて……神の国なんぞはできねえ……が造るものなんだよ……人間が自分の一日のおこないをよくふりかえって……そうして、それが天のわれらの神、つまりエホバ……そのエホバが、判断して……これでいい、うん、これでよかろうっていうことになったとき……はじめて……」
汗とほこりにまみれ、ローマ人からのもらい物ででもあろうか、麻のマントを両わきで縫いとじて僧衣風に作りなおしたものをまとい、足にはなわをまきつけてサンダルの代りにした、みすぼらしい姿の、とても田舎《 い な か》臭い男が立っていた。
「ナザレの大工、イエスです」
セイントがそっとささやいた。男は削《そ》いだようなほおに汗の滴《しずく》をため、よく動く小さな目を、自分の前に集っている人々の上にまんべんなく走らせた。
「……きっとやってくる。忘れてはいけねえぞ。それはな、ええと、その、つまり……」
「最後の審判にござります。わが主よ」
男の足もとにうずくまっていた一人の老人が顔を上げ、ていねいに言った。
「そうだ、そうだ。それは最後の審判と言ってな、それは、それはおそろしいものだぞ。天の神、エホバがな、一人一人の人間の罪を……神の国へ。残された人間はすべてエホバの火で打たれ、焼かれて……だから、人間は一日も早くな……」
彼の前に集った人間の中から、ほっ、と太い溜《ため》息《いき》がもれた。この貧しく素《そ》朴《ぼく》なエレサレムの庶民には、天の神による最後の審判のイメージこそ、ただちにおのれの死につらなる悪夢でもあろう。
「……だからな、みんなして神に祈るのだ。わかるか。祈るということはな、こうしてほしい、ああしてほしいということではないんだぞ。酒《さけ》呑《の》みは酒を呑むのをやめろ。ばくちの好きな奴はばくちをやめるんだ。一日でいいから。そしてその日はな……」
そのガリラヤ地方の粗野な農夫の言葉は、男の語る言葉の意味にふしぎにぴたりと適していた。男の言葉は、ピラトゥスがこれまで聞いたことがないような、一種独特の熱気と異様な雰《ふん》囲《い》気《き》がこめられていた。
ピラトゥスは馬を進め、集っている一団の人々の頭の上からのぞきこんだ。
「ナザレのイエスというのはお前か」
ピラトゥスは意識的に声をおさえてたずねた。集っている人々はいっせいにふり向き、たちまち青葉のような色になった。
「あ、これこれ、逃げんでよい。ただ、たずねるだけだ」
それでも人々はじりじりと後退した。人々の後退したあとには、男と、男の前にうずくまっているさっきの老人とがとり残された。
「ナザレのイエスというのはお前か」
ピラトゥスはもう一度たずねた。
「総督閣下がたずねていらっしゃる。おこたえせんか」
セイントが腰の短剣のつかに手をかけて居丈高にさけんだ。
「そうだ。主の神、天なる父、エホバの子イエス・キリストだ」
「ふむ。で、その老人は? たしか前に会ったな?」
老人は腰をあげて会釈した。
「主の神、天なる父、エホバの子、イエス・キリストの十二弟子の一人、ペテロにございます」
「なるほど」
ピラトゥスは馬の背でなんとなく言葉に窮した。男の説く神の思想に別にローマ代官の手でとりしまらなければならないようなものはなにもなかった。近《ちか》頃《ごろ》はこのようなユダヤ教の別派があちこちにあらわれていた。別派活動のように見えても、しょせんは新しい考えかたは何もない。多くは大祭司への昇進の道をふさがれた気鋭の地方祭司などが、中央進出を夢見て布教活動をはじめるのがつねだった。
――なんでこんな男を大祭司たちはあれほど問題にするのだろう。とてもこのエレサレムで布教師になれるほどの才能のある男とは思えないが。
――それにこの貧しい服装ではじゅうぶんな喜捨も受けられないだろう。足には血がにじんでいる。
セイントが男の前へ歩み寄った。
「ナザレの大工、イエスとやら。本名は何というのだ。この土地の発音ではヨシュヤだが。ま、キリストととなえるのはお前だけではないから、まあ、いいとして」
「本名だ。ナザレのヨシュヤだ」
「お役人さま。まこと、ご本名でございます。はばかり多いことながら、ナザレ地方にはヨシュヤ、という名前はふつうにござりますので」
「ほう。そうか」
「セイント。何か疑わしいことでもあるのか」
ピラトゥスには、このときセイントの意図がはっきりとわかっていた。ここで、このナザレのイエスに出会ったのを好機として、彼はこの男を引致しようとしているのだ。
「セイント」
「総督閣下。町の者どもが注目しておりますぞ。あの者たちの中には、大祭司の信者、さらにはゆかりの者も多くいるはず。心ゆるしはなりませぬぞ」
ピラトゥスは背後の広場の反対側をふりかえった。いつの間にか、この広場につらなる露地に住むすべての人々がここへ集ったか、と思われるほどの、たくさんの群集が広場のむこう半分を埋めていた。かれらはささやき一つたてずに、ピラトゥスたちと、貧しい身なりの説法者との対話に耳をそばだてていた。
「ナザレのイエス。先ほど、お前が説いていた最後の審判、という言葉だが」
「それがどうかしたのかな」
「どうかしたのかな、とはなんだ。あんな世《よ》迷《ま》いごとをどこから聞いてきた」
「世迷いごとではない。役人、あなたはユダヤ教の信者か?」
セイントはつめたい笑いを浮かべた。
「ローマ人に宗教はない。すくなくともお前たちの言うような宗教はな」
「それはあなたがたの精神がおとろえてしまっているからだ」
「なんだと?」
「ローマはギリシャの神を踏襲しただけだ。真の神はただ一つしかない。太陽の神だの、月の神だの、雷の神だの、海の神だの、神がそんなにいろいろあってたまるものか!」
男は胸を張って言っ放った。
さすがのセイントもこれには言葉につまった。ローマ人にとって、神はおそれであるとともに完全な一つの遊びでもある。ローマ人は貧困をしらないし、現世的な不幸はかなり上手に処理することができたし、真の意味での救世主は、このころはまだ必要なかったといえる。そのかぎりにおいてローマの神は、生活に陰《いん》翳《えい》を加えるものであり、日常、生起する悲しみや苦しみに深刻さを加える調味料であったと言っても過言ではない。
だからこの議論はしょせん二人の間でかみ合うはずがなかった。
男は生活のちえの中から、何かを言おうとしていたし、セイントは生活の形式の中から判断しようとしていた。
「最後の審判、というのは面白い考えかただが、ただ、何も知らない者たちはその点だけを心にとめてお前の教えをおそれ、お前に従うのではないかな?」
ピラトゥスは馬の背から体をのり出した。
「このごろ、あちこちであらわれるお前のような男は、みな、そのようなことを言う。いつか天の神のさばきがくだって、心悪しき者は神の火によって焼き亡ぼされる、というのだ」
ピラトゥスは少年をさとす教師のような口調で言った。
「ほんとうだ。おれは見たんだ」
ふいに男が言った。
「もういい。お前のような男はみな、そういうのだ。おれは見た。わしは見た。太陽は光を失い、月も星も飛び散って、そのあとの永遠の闇《あん》黒《こく》を引き裂いて、偉大な天の神があらわれ、この汚《お》辱《じよく》にみちた地上に光りかがやく矢を投げる。矢の落ちた所から大地は裂け、とけた岩が噴水となってふき上り、海は陸を洗い流し、すべての生物をほろぼしさる。どうだ。こんなふうにやるのだ」
ピラトゥスはあわれむように口をつぐんだ。
「セイント。衛舎まで引き立てる必要もあるまい。大祭司たちには説明しておけ。何も心配はいらぬと」
「しかし、総督閣下」
セイントは動揺と不安の色を浮かべためらった。
「とにかく衛舎まで引き立て、そこでとり調べた上で放逐するものなら放逐してはいかがでしょう。ここで奴らをただちに放免しては、かれらとの問答の結果、ローマの代官が言い負かされたような形になりはしないでしょうか」
「まあ、それもそうだな。よし、やれ」
セイントは従者の長《おさ》に目顔で合図した。槍《やり》をかまえた従者たちはたちまち、ナザレの男の両うでをねじ上げた。
「い、いたい! いたい! らんぼうするな。逃げはしない」
男は悲鳴とともにさけんだ。
「この老いぼれはどういたしましょう?」
「かまわん、うっちゃっておけ」
セイントはちょっと不服そうな顔をしたが、それでも黙って老人を突き放した。
「よし、引き上げよう」
ピラトゥスを先頭に、イエスを引き立てた一団は足早やに火焔樹の広場を離れた。
広場の半分を埋めた群集は声もなくそれを見送った。その顔には、裏切られたものの酷薄な復《ふく》讐《しゆう》が刻みこまれたひたいのしわになってこおりついていた。
――大祭司さまのおっしゃることはほんとうらしいな。
――神の国はやがてわれわれの目の前に、美しい理想の国の実現となってあらわれてくるのだ。苦しいおきてや、修業や、わが身をかえりみて神にゆるしをこう必要など、いったいどこにあろう。
――神はすべてを許したもうのだ。エホバは人間をあわれみ、いかなる罪も許してくださるのだ。祈ることだ。
――神のみ心にかなった者だけが神の国へゆけるだと。神は絶対に公平だ。神のみ心はこの世界を幾つもうちにふくめてもなおみつることがないほど大きくひろいのだ。
それはここに集っているすべての人たちの希求する神の姿だった。民衆は決してこの世では終ることのないはげしい労働と、その唯一の代償である病いと貧困をかかえて、いつの日にかかなえられる神の王国の栄光と祝福を夢みていた。
実はナザレの大工である一人の男の、大きな誤算がそこにあった。
「なあ、おらあ、その最後の審判とかいうときに、神さまにひろい上げてもらうよりも、酒、呑《の》んだほうがいいや」
「だいいち、その最後の審判というのはいつのことなんだ?」
「さあ、あの男の言うところによれば、いつか、ということだ」
「いつかいつかっていつのことよ」
「しらねえな。おれたちが生きているうちのことじゃねえだろう」
「それじゃ、なんにもならねえじゃねえか」
「いや、今のうちにおれたちがおこないを正して、神に祈っていれば、おれたちの子どもや孫たちがその審判のときに助けてもらえるというわけだろう」
「じゃ、おれは子供がいねえから関係ねえや」
人々はざわざわと汐《しお》がひくように露地やアーケードの奥へ消えていった。あとにはただほのおの燃え上るのに似た火焔樹の花のゆらめきだけが残った。
イエスの前にひざまずいていた忠実な老弟子ペテロの姿も、いつの間にか広場から消えていた。散っていった人々は引き立てられていった一人の男のことはもう完全に忘れてしまっていた。そしてもう、かれらは以後、この日広場でおこったできごとも、またナザレの大工だという一人の男のことも二度と思い出すことはないのだった。
ピラトゥスがナザレのイエスを逮捕したといううわさはユダヤ教の大祭司たちをはなはだしく喜ばせた。これまで何一つ積極的な司政ぶりをみせたことのないローマ代官だったが、それだけにこの事件は民衆の間にかくれた勢力を持つ大祭司たちに、ピラトゥスに対する評価をあらためさせるに充分だった。同時にまたローマ代官くみしやすしの感を大祭司たちに与えたこともいなめなかった。
翌朝、まだ陽の昇らぬうちから、ピラトゥスの官邸の石だたみの中庭には、ユダヤ教の大祭司たちの一団がつめかけていた。かれらは前日までのような、ローマ代官に対するはげしい敵意をともなったゆすりがましい態度こそみせなかったが、それでもあらたにイエスの処罰に対するきびしい監視的態度を持していた。
ピラトゥスが寝室から出てきたのは、もう陽がかなり高くなってからだった。それからさらに長い時間をかけて髪の手入れ、手足の爪《つめ》へマニキュアをほどこし、新しい麻の被布をまとうと、ピラトゥスはようやく政務室のある別《べつ》棟《むね》へと腰を上げた。居館と別棟の間をつなぐわたり廊下の下の石だたみに、東方の商人たちの一団がひとかたまりになってうずくまっていた。ピラトゥスはかれらがこのエレサレムで市を開くために、上納分として昨夜代官に収めた黄金の量を思い出した。その中のかなりの量がかれ自身のものになるはずだった。それを思い出すと、かれは今日のこれからの午後いっぱいはかかるであろうと思われるイエスの裁判も、さして気にならなくなった。
政務室につづく法廷には、代官直属の六名の法務官が壁に沿った長《なが》椅《い》子《す》にならんでいた。その法務官たちの席と相対して、検察者でありまた同時に告訴人でもあるユダヤ教の大祭司たちから四名の大祭司が代表として席をとっていた。大祭司たちはひたいを寄せ合って何ごとかしきりにひそひそと語り合っていた。
ピラトゥスは、大山猫の毛皮でおおわれた自分のソファに、ゆったりと腰をおろした。
「イスラエルのローマ代官、エレサレムの総督ポンティウス・ピラトゥスの名により、本法廷はナザレのイエスの裁判をおこなう」
主席法務官のアカイオイがピラトゥスのかたわらに立って開廷を宣した。
「よし。はじめろ」
ピラトゥスは背後から従者がさし出した乳茶の椀《わん》を手にとりながら、アカイオイに向ってうなずいた。
「イエスをこれへ」
アカイオイが部屋のすみに立っている兵士の一人に合図した。兵士は短い鎖よろいを鳴らしながら外へ出、すぐ、きのう《死者の広場》で捕えたあの男を追い立てて入ってきた。兵士は無言で男を部屋の中央に立たせると、手にした短い手槍の柄で男の肩口をぴたりとおさえた。
「ひかえろ」
ひとこと言うともとの場所へもどっていった。
男は小さな目をしばたたいて、落ち着きなく周囲を見まわした。その目が血がにじんだように赤い。どうやら昨夜は獄房内では眠れなかったらしい。長いことかかってくどくどとアカイオイが訴状の趣旨をのべ上げた。そのねばつくような執《しつ》拗《よう》な口調は、このナザレ生れの一人の男が今、追い落されようとしているくらい運命をより決定的なものとしていた。
ピラトゥスはやや酸味の強い乳茶をすすりながら、その長い退屈な時間に耐えていた。開け放たれた窓から、ときおり短い、するどいかけ声が風にのって流れこんできた。その単調な絶叫は終ったかと思うとふたたびわき起り、ひとしきりつづいてはとつぜん、はた、と跡絶えたりするのだった。
「どうも近ごろの士官どもは気合いがたりないようだな」
ピラトゥスは乳茶の椀のかげでつぶやいた。総督官邸につづいた駐留ローマ軍団の士官宿舎で号令練習をおこなっているのだった。
「……ございましょうか」
アカイオイがピラトゥスの上に身をかがめた。もう何度かたずねているらしかった。ピラトゥスはわれにかえって背後に立っている従者の手に椀をもどした。
聞きかえすまでもない。それはアカイオイが、代官から何か特に尋問することはないか、と聞いているのだった。それはその長い告訴の理由をのべ終り、裁判はいよいよ最終段階へ入ったことを意味していた。
ピラトゥスは埋まりこんでいたソファから体を起した。
「一つだけたずねたい」
ナザレの男は広間の中央に立ってぼんやりとピラトゥスを見つめていた。
その顔にはなんの表情も浮かんでいなかった。
「イエスよ。お前の言う、その《この世の終り》というのはいったいいつ頃やってくるのかね?」
ピラトゥスの言葉に、イエスはにわかに熱意をこめて体をのり出した。
「最後の審判のことか?」
その真剣な表情は、その生《き》真《ま》面《じ》目《め》さの裏のある愚鈍さをもむき出しにしていた。
「うむ。お前が説いているやがてくるという神のさばきのことだが」
イエスは得意な科目について質問を受けた少年のように、顔を熱っぽく紅潮させて幾度もうなずいた。
「ああ。あのことか」
「あのことかもないものだろう」
「いつだかはっきりしたことはわからないが、近いうちだ」
「すると、いつだかわからないが、ごく近いうちにこの世の終末がくる、というわけだな」
「ああ、そうだ」
男はそのことの説明は終った、というように口をつぐんだ。つぎの質問を待っている優等生のような心境なのだろう。
「それで?」
ピラトゥスは、子供にものをたずねるように心のポーズを作って、男にたずねた。
「お前はどうしろと言うのだ? その《最後の審判》をむかえるために」
男はピラトゥスをまっすぐに見つめて、口を開いた。自信にあふれた態度だった。
「だから、みんな、むろんおれもだが、その神のさばきを受ける心の用意をしなければならないのだ」
「どんな用意をだ」
「どんな用意だって?」
「さばきを受けるためにだ」
「だから心を綺《き》麗《れい》にして神にすがるんだよ。いのるんだよ。そのいのりのもとになるのは懺《ざん》悔《げ》だな」
こたえの後半は、男は自分に言い聞かすように、胸の深い所から声を出した。
「ただそれだけではわからんな。そんなあいまいなことを言っているから、人に訴えられるんだ」
左わきに立っていたセイントが、わずかに右手を動かしてピラトゥスの腕をつついた。法務官の一人が長椅子から立ち上ってピラトゥスに会釈した。発言を求めているのだ。
「よし」
ピラトゥスはふたたびソファに体を沈めた。
「ナザレのイエスよ。お前は自分が救世主だと言ったそうではないか」
イエスは法務官に体ごとふり向いた。
「ああ。おれは救い主だ。人はおれを予言者だと言うが、それはちがう。おれは予言者ではない。予言者というのは人の生死、まだ見ぬ明日に横たわる運命について話すわけだが、おれはそんなことはしない。おれは人を救うだけだ。さまざまな罪から救い上げるだけだ」
もう一人、法務官が立ち上った。
「お前は、すべての世の人々に代って天なる神にその罪をあがなうのだ、と言ったそうだが」
「そのとおりだ。おれは救い主。天なる神の子だ。だからおれはやがて来る神の裁きに対するあがないをするのだ。お前たちに代って、お前たちの罪を清算してやるのだ」
男はまるで楽しい計画を話すように、分厚い色の悪いくちびるをいそがしく動かした。くちびるの端から泡がとんだ。
「いや、べつにわしの罪をお前に肩代りしてもらいたいとは思わぬが。ナザレのイエスよ。お前が、自分を救い主だというその自信めいたものの裏づけは何だ。聞くところによれば、お前は奇跡をあらわすそうだが」
ユダヤ教の大祭司たちの間に奇妙な笑いが動いた。
「救い主は、すべての人につかえるしもべの姿をとってあらわれ、人類の罪を背負って十字架の苦難を受け、みずからを神の怒りに対するあがないの供物となし、それによってわがたましいをして人々の神の国へいたるみちしるべとなすのだ」
男はまたたきもせずに、空間の一点に目を止めたまま暗《あん》誦《しよう》するように言った。
「イエスよ」
セイントがふいに言った。
「誰《だれ》に教えられた? それを」
セイントの言葉は思いがけない衝撃をイエスの胸に与えたようだった。
「教えられたかって?」
「そうだ。誰に聞いたのかね。まさか、天なる主に直接、告げられたわけではあるまい」
「予言者ヨハネにだ」
セイントは眉《まゆ》をひそめた。
「あの男はたしか、ヘロディ・アンティパス王によってバルカで処刑されたはずだが」
男は首をふった。
「いや、死んではいねえ。ヨハネは死ぬわけがねえよ」
「なぜ?」
「大天使ミカエルの友だちだからよ。おれも引き会わせてもらった。でも、おれは少し離れたところからあいさつしただけだけれどもな」
男は少し声の調子を落した。離れた所からあいさつしただけ、ということにいくらかひけ目を感じているらしかった。
一瞬、セイントの体のひきしまったのが、ピラトゥスにもはっきりとわかった。
「会ったって? 大天使ミカエルにか?」
「ああ」
大祭司たちが怒りに顔をどす黒く染めてばらばらと立ち上った。
「静まれ!」
セイントの刃風のような声がはしった。
「どこで会ったのだ。ミカエルに」
男は頭を上げてひややかに大祭司たちを見、それからセイントヘ視線を回した。
「ヨルダン河の谷間で。かれは天からくだってきた」
男は右手をのばして高く天の一方を指した。
ナザレの男の顔は、一瞬、ある非常に強固な自信と、その自信にささえられたはがねのような緊張とで別人のような顔になった。顔の輪《りん》廓《かく》はたがねで削ったように荒々しく、しかもその目はバラのように酩《めい》酊《てい》していた。
「ああ。見たとも。見たともさ」男は立ち上って、しきりになにかつぶやきながらピラトゥスの前をいったり来たりしはじめた。
「もう、あまり時間はないようだな。そんな気がするぞ。神の国が近づいたのかもしれない。神の国は、神の国は、神の国は」
ナザレの男はもうさだかでないなにごとかの記憶を思い出そうとするのか、ひたいに手を当てて口ごもった。
「神の国は、神のゆるしを受けた者だけが入ることができるのだ。神の門ははなはだ広いのだが、そこを入ることのできる者が果して何人あるのか。さばきはきびしいのだ」
男は誰かの言葉を口うつしに伝えるかのように、抑揚を失った口調でつぶやいた。
「な、なんと?」
「その男をはりつけにかけよ!」
ユダヤ教の大祭司たちはほおひげをふるわせてさけんだ。
「神をおそれざるおろか者に死を」
「死をあたえよ、死をあたえよ!」
神の使いをまのあたりに見たというこの一人のみすぼらしい男の言葉は、ユダヤ教の大祭司たちを、ほとんど分別を失わしむるほどの怒りにかりたてるにじゅうぶんだった。
「総督閣下。ただ今、われわれの前でこの男に死を命じたまえ。もっともみにくい死を」
ピラトゥスは肩にはね上げたすばらしい絹のケープの肩飾りでひたいの汗をふいた。
「総督、いかがいたしましょうか」
セイントが小腰をかがめてうながした。ピラトゥスはうでを深く組んであごを引いた。
「この男に死を!」
ユダヤ教の大祭司たちの腹にひびくような太い声は、ピラトゥスの胸に実さいに物理的な打撃さえくわえた。
ピラトゥスは眉《まゆ》の間に深いたてじわを見せてナザレの男を見つめた。
大祭司たちの要求どおりに、この男に死をあたえることは極めて容易なことだった。理由はなんとでもつけられる。この男にはなんの罪もないかもしれないが、しょせん辺境の植民地でのささやかなあらそいごとに過ぎなかった。
「総督、イエスを獄舎にさげましょうか」
セイントがピラトゥスの心をはかりかねるようにゆっくりといった。事件の容疑者を、いったん獄舎にもどしておいて毒殺なり刺殺なりの方法でほうむり、事件を落着させてしまう手は、これまで何度か使ってきた。獄舎で病死ということになれば問題はいっさいそれで終りだった。
「しかし、ユダヤ教の大祭司がそんなことでおさまるかな」
ピラトゥスはこのナザレの男はもはや生きてふたたびエレサレムの町へ出ることは不可能だろうと思った。
「ミカエルに会った、などといわなければ放免もしてやれようものを。ばかなやつだ」
ピラトゥスは苦く笑った。そんなことを、この愚直なナザレの大工にふきこんだ男にむしょうに腹が立った。
「アカイオイ!」
主席法務官をさしまねいた。
「この男のいうことを、お前、どう思う?」
アカイオイは雪のようなあごひげを手でしごきながら伏目がちにいった。
「心の病いか、と思われます。ただこの男の言葉を信じ、この男を救世主とあがめる一派が、貧民街に、とくに近ごろかなり勢力をのばしているようでございます。この地方の特殊な宗教問題にローマ代官が無用な関り合いをもつようなことにならぬよう、われわれとしても警戒し、またこの事件の処理も考えたいと思います」
ピラトゥスは無雑作にうなずき、手をうちふってアカイオイをもとの場所へ追いやった。
「セイント。しばらく休憩しよう」
セイントが二声、三声さけぶと、法務官や大祭司たちはもくもくと広間の外へ出ていった。最後に手《て》槍《やり》をさげた兵士がしりぞいてゆくと、室内にはにわかに今日の暑さがむっとよみがえってきた。いつの間にか士官宿舎の号令練習も終っていた。
「のう。セイント。あの男のいった言葉をどう思う」
「と、申しますと、かれが天使ミカエルに会ったという、あれでございますか」
「うむ」
ピラトゥスとセイントはどちらからともなく少しの間、たがいに見つめあった。その目の底には深い困惑がかげをひいていた。
「さあ、なんとも。しかし町役人どもが申すには、あの男、死をまつばかりの病人、また立つことのできぬ足なえなどを、たちまちのうちにもとのすこやかな体にもどし、あるいは風のように走らせもしたと。これは役人の中に実さいそれを見た者がある、ということでございました」
「いかがわしい魔術、妖《よう》術《じゆつ》のたぐいであろうか?」
「さ、それは。大祭司たちはそう申しておりますな。神に対する反逆であるとしてたいへん怒っております」
「いや、お前はどう思うか、と聞いておるのだ。つまり、それが事実かどうかをだ」
セイントは片手をそっとひたいに当てた。それはセイントにしても全く答えに窮したすがただった。
「総督閣下。あるいはそのうち幾つかは事実ではないか、と思っておりますが」
セイントは慎重に言葉をえらんでゆっくりといった。
「ふうむ。しかし、セイント」
ピラトゥスは体をのり出した。
「そのうち幾つかは事実ではないか、といったがセイント、そのうちの一つが事実であっても、これはたいへんなことだぞ」
「それ故にこそ総督、これ以上、イエスを野放しにしておくことは危険ですぞ」
「セイント、お前はまるであの男の偉大な力を信じてでもいるような口ぶりではないか」
セイントはそれには答えず、やや青い顔を窓外の強い日射しに向けていた。
「もし、かれが」
セイントは自分の心のさけ目からあふれ出ようとする言葉をむりにのみくだすようにつき出たのど骨を上下させた。
「もし、かれがほんとうに足なえを走らせ、死を待つばかりの病人を起たせたとしたら、これはあの男はほんものの神でございましょうな」
セイントは、この男には珍しいややなげやりな口調でいった。
「それを実さいに見た、とな」
セイントはゆっくりと顔をピラトゥスに向けた。
「総督、ただひときれのパンを、彼の説法を聞くために集ったおびただしい貧しい者たちにわかちあたえたところ、それを口にした者たちはその、わずか指の先ほどのパンのかけらにたちまち腹いっぱいになって元気にみちみちた、ということがもしあったとしたら、総督、あなたはいかがなされますか」
セイントの顔にはいちめんに小さな汗の粒がふき出していた。その小さな汗の粒はいくつか集って鼻の両わきをすじをひいて流れ、あごの先に小さな滴《しずく》の玉をつくった。
ピラトゥスはセイントの顔に視線を当てたまま身動きもしなかった。呼吸さえしていないかと思われた。
「お前はそれを見たのだな」
セイントは答えなかったが、その沈黙が、かれの心の中の争乱を雄弁に物語っていた。
「奇跡だ」
しばらくたってからピラトゥスがうめくようにいった。
「神のみがそうした奇跡をあらわしうるのだろう。そのおそるべき能力こそ神いがいのなにものでもあるまい」
部屋のすみの壁に、兵士がたてかけておいた手槍がずるずるとすべり、はげしい音をたてて床にたおれた。その石と金属のぶつかりあうけたたましいひびきにも二人は目もくれようとしなかった。
「だが、セイント。神は、のう、神はそんなに簡単にこの世にあらわれるものなのであろうか」
ローマ代官、エレサレム総督ピラトゥスのこの問いは、実は事のなりゆきの核心を衝《つ》いていたのだった。このときに関するかぎり、ローマ貴族の一員であるかれの、ユダヤ人とその土地によどみ、なにやらくらい執念にささえられた不条理な異教徒的な神など、信ずるにもたりないとするローマ的教養と精神とが、ナザレの一人のみすぼらしい男の意味するものと、破滅的緊張のもとでまっ向からぶつかりあったときなのだった。
「セイント。パンのひとかけらをもって多数の貧民のうえをいやすことが、どうして神にむすびつくのか、わしにはわからぬ」
セイントがその言葉をひきついだ。
「神は人間の運命を支配し、この世界の天象とその変化によって神はおのれの存在と意志を具現する。神は人間とははるかに隔絶したところにあって、もし神が直接そのすがたを人間の目に触れしめる必要のあるときはすなわち、おおいなる奇跡をおこなう、と」
「奇跡はあらわれたではないか」
「ナザレのイエスは救《メ》世《シ》主《ア》というわけか」
「総督。イエスを生かしておいてはなりません。理由は」
「理由は?」
二人の顔は窓からさしこむ陽の光の、木々の葉の反射を受けて染めたように青かった。あるいは青ざめたその心が顔色になったのかもしれなかった。
「ご存じのはず」
ピラトゥスは大きくひざを組みなおすと、うでをおおっていたケープを肩にはねた。
「セイント。再開しろ」
ふたたび法務官たちとユダヤ教の大祭司たちが広間に呼びこまれた。その最後に、腰なわを打たれたナザレのイエスが追い立てられてきた。主席法務官のアカイオイが法廷の再開を宣言した。
ピラトゥスは手にした銀の杖《つえ》で大祭司たちをさした。
「大祭司よ。この男に判決をいいわたす前にそなたたちにひとことだけ聞いておきたい」
大祭司たちが軽く頭をさげてその言葉にこたえた。
「大祭司。このナザレの男の説く、おわりの日のさばきということをどう思うか。いってみよ」
大祭司の中の、最年長らしい老人が進み出た。その顔にははげしい怒りの色がうかんでいた。
「総督閣下、神とはこの男のいうような、おわりの日のさばきなどというもののあとにやってくるものではない。おわりの日のさばき、すなわち、最後の審判、神のさばきとはそもそもなんだろうか? 神とは人をさばくものか? 神によって人間は生れた。人間は神意の発現だ。しかしそののち、人間の考えることやおこないが、いささか神の期待するものとは異ったものとなってしまったのかもしれない。だから神が人間を再評価して造りなおすときがあるのかもしれない」
老人はどこか遠いところを見る目つきになった。
「それが最後の審判ではないのか?」
ピラトゥスはたずねた。老人は大きく手をふった。
「とんでもない。総督閣下。神意は決してさばきなるかたちであらわれるものではない。神は予言者をしてそのみこころのうちをのべたもう。人々はその予言にしたがい、生活の計画をたてるのだ」
もう一人が立ち上った。
「総督閣下。わしがどうもふにおちぬのは、この男のいう、その《神のさばきを待つために心を清く、おこないをただせ》という言葉なのだが。この言葉の中には実はおそろしい脅迫がある。最後のさばき、というようなおそろしい毒のあるおどしを、この男はなにもしらぬあわれな民衆につきつけるのだ」
大祭司の他の一人が代って立ち上った。
「恐怖のゆえに、この世に平和がおとずれたとしても、それはもはや真の幸福とはほど遠いものでございましょう。神とは決してそのような代しょう作用ではないはず」
たまりかねたように大祭司の一人が両手をふり上げてさけんだ。
「あの男をはりつけにせよ!」
「そうだ! 総督閣下、もはやこの上、なんのしらべが必要か。罪状はかくも明白ではないか。この男に速やかなる死をあたえよ!」
ピラトゥスは大祭司たちを片手でおしとどめ、顔をナザレの男に向けた。
「ナザレのイエスよ。一つ聞きたいことがある。お前がこのエレサレムに入ってくれば、こうした事態が生ずるのは、お前にもじゅうぶんにわかっていたはずだ。生きてこの城市を出られるとは思っていなかったろう。それなのになぜやってきた? 生命の危険をおかしてまでここへやってきたのは、いったいなぜだ? 誰かにそそのかされたのか? もしそうだとすれば、それは誰だ? え?」
ピラトゥスは目を光らせてたたみかけた。
ナザレの男はピラトゥスの言葉を聞くでもなく、聞かぬでもなくぼんやりと広間の一角に視線を遊ばせていたが、ピラトゥスの言葉が終ると、急に体ごとかれの方に向きなおった。
「おれがこのエレサレムにやってきたのは誰にそそのかされたのでも、命じられたのでもない。おれはここへ来なければならなかったからだ」
ナザレの男はまっすぐ、ピラトゥスを見つめた。その目がほのおのようにかがやいた。
「来なければならなかった、とは?」
「総督。あんたは奇跡を信ずるかね?」
「奇跡か」
ピラトゥスはぐっと言葉につまった。さきほどのセイントとの会話が悪酔いのように頭のしんに湧《わ》き上ってきた。
「奇跡がどうしたのだ?」
「おれが神の子であるということをみなに示すためには、おれは奇跡を示さなければならないだろう」
「お前が神の子であるということを、人になっとくさせるために、いったいどんな奇跡をおこなおうというのかね」
ナザレの男はほおをゆがめた。汚《よご》れた歯がかさぶたのようなくちびるからもれた。
「そのことだよ。そのこと」
ナザレの男は、いかにも話題が本筋に入ったというように会心のえみを浮かべてひとりうなずいた。
「なにがそのことなのだ」
ナザレの男は両手を大きく水平にひろげた。
「おれを死刑にしろ、といったやつがいた。かまわん、おれはもっとも大きな奇跡をあらわすためにこのエレサレムにやってきたのだ。見せてやろう。お前たちに、いや、このエレサレムのみんなに、まて、ローマ帝国のすみずみにまで、おれが真に神の子であることを見せてやろうじゃないか」
「すると、お前は死刑になるのをかくごでこのエレサレムにやってきたというわけなのか?」
ピラトゥスは首をふって椅《い》子《す》に身を埋め、手にした銀の杖《つえ》でひじかけをはたはたと打った。
「総督、おれははりつけになる。おれは十字架の上で死ぬ。そのとき、かならず大いなる奇跡があらわれ、人々はおそれおののき、地にひれ伏しておのれのこれまでの罪を神の前にざんげしてゆるしをこわねばならないだろう」
ピラトゥスは従者のささげる乳茶の椀《わん》をとってひとくちにがぶりと呑《の》み干すと、手にした椀をイエスの足もとにたたきつけた。椀は幾つかの破片になって飛び散り、石の床には乳茶が白い花びらを散らしたようにはね飛んだ。
「おれが神の子、救《メ》世《シ》主《ア》であることをうたがう者のために、おれはみずからを証明しなければならないのだ。すでに時はきた。さあ、おれを十字架にかけたがいい。総督、それこそのぞむところだ」
セイントがピラトゥスの後からイエスに呼びかけた。
「ナザレのイエス。はりつけにかかるということがどういうことなのか、お前にわかっているのか? お前ははりつけになって死んだ者を見たことがあるのか? いや、それよりもイエスよ。自分の信ずるところに従って生命をすてることはこれはたいへんりっぱなことだ。だが、イエスよ。お前がこれからやろうとしていることはどうなのだ? 自分の生命とひきかえにしてなおも悔いないような、お前にとってすばらしいことなのか?」
セイントの声にはかすかに焦《しよう》燥《そう》のひびきがあった。この流民に近い貧しい愚鈍な一人の男を説得できないことのもどかしさがその言葉にはっきりとあらわれていた。
「なあ、奇跡を見たくないか? 見たいだろう。おれがその奇跡を見せてやるから、おれが神の子だということを信ずるんだぞ。いいか。いや、おれがこんなことをいうことはねえ。おれがだまっていたって、お前たちはいやでも信じなければならないだろうよ」
その顔は汗にまみれ、力をこめたうでは胸の前ではげしく打ちふられていた。そのひざはひどい熱病患者のようにこまかく震えていた。その姿はほこりとあかにまみれ、うすい肩はとがっていたが、そのとき、その場にあるすべての者の胸に生命をかけての自信というものがあることを率直に教えていた。
ピラトゥスの前にえたいの知れないつめたいものが走った。それは氷のようにかれの心を凍らせ、白刃のようにかれの心を真二つに断ち切って過ぎていった。一瞬、ピラトゥスはセイントと目を見交した。
「人間は天の神エホバを恐れず、これを愛さなければならぬ、か」
「そしてやがて地上に最後の審判の日がきて、神が人間をさばいてこの地上に天国をもたらすであろう。とな」
二人の視線は絶望的にからみ合った。
「その日の来ることを信じてただ神にすがれ。とか」
「救《メ》世《シ》主《ア》は来たれり、か!」
二人は声を合わせて笑った。その笑いは百日の日照りの石だたみよりなお乾いていた。二人のローマ貴族の胸に、このとき、なぜか、おおいようもない終末感がくらい夕《ゆう》闇《やみ》のようにしずみこんだ。それはこのナザレの男の体から発する異様な執念のなせるわざかもしれなかった。あるいは、しらずしらずのうちに、この男の説く最後の審判のおそろしい幻影が、二人の心に投影していたのかもしれない。
だが、ピラトゥスはくちびるをゆがめて立ち上った。いうべき言葉はただ一つしかなかった。その言葉は一つのかけだった。
あるいはほんとうに、ピラトゥスの言葉が、いまわしい真実を引き出すことになってしまうのかもしれなかった。ナザレの一人の男のくわだてに、今、全ローマが手をかそうとしていた。
ピラトゥスのいうべき言葉はただ一つしかなかった。
そこで彼はいった。
「ローマ代官、エレサレム総督ポンティウス・ピラトゥスは、ナザレの大工、ヨシュヤについて法務官に調査、審議せしめた。その結果、かれは二つの罪について問われる。
すなわち、かれは神による最後のさばきなどと称して無知な良民をまどわし、ゆえもない恐怖におとしいれ、その生活をはなはだしく破壊するにいたったこと。
さらに、ユダヤ教の古来の神とその教えをぼうとくし、かつ、無《む》根《こん》の事実をもって教団をひぼうするなど、ユダヤ教大祭司に向けられた心理的攻撃のかずかず。
以上、二つの罪科によって、ローマ代官、エレサレム総督ポンティウス・ピラトゥスは、ナザレの大工、イエスを死刑に処する」
大祭司たちはいっせいにかん声を上げた。
「ローマ万歳! ローマ皇帝万歳! パクス、ロマーナ!」
「ばかめ!」
ピラトゥスはケープをひるがえして広間を出た、なぜかたまらなくつかれていた。
「総督閣下! 処刑の日時はいかがいたしましょうか」
主席法務官が後から追いすがって声をかけた。ピラトゥスは立ち止った。
「そうだな。いつがいいか」
ピラトゥスは主席法務官の肩ごしにあとからあらわれたセイントに声をかけた。
「そうですな。今日は三月二十四日。よし、明日、朝、日の出とともに処刑いたしましょう」
ピラトゥスはもう二度とふりかえらなかった。居館につづく回廊までやってきて、かれはあの判決をいいわたしたとき、イエスがどんな顔をしていたか、一度も目にしなかったことに気づいた。かれがあの場にいたかどうかさえはっきりと記憶していなかった。むろんいないはずはなかった。ピラトゥスは、自分が判決をいいわたしたときのかれの顔を見そこなったことがひどく残念だった。しかしあの判決でかれがしょげかえっているわけはなかった。そうだとすれば見ないほうがかえってよかったろう。死刑をいいわたされて、かえってほくそ笑んでいるような男の顔を見ることはごめんだった。
ピラトゥスのその夜の眠りは浅かった。
ナザレのイエスがはりつけになる――
その報は早くもエレサレムのすみずみにまでとんで、ひそかに頭を垂れて神にいのる者、当然のむくいであるとしておおいにうなずく者、また、なにごともおきねばよいが、と眉《まゆ》をひそめる者など、人、それぞれにそのしらせに対して心を動かすのだった。
その夜ふけ、はるか北方の空にきみょうな光りものが見えた。それはかがやく多彩な光りの幕となってはためき、たえず波紋のようにゆれ、あるいはおびただしい光りの斑《はん》紋《もん》となって中空を流れた。夜半、目をさました者の呼び立てる声におどろいた人々は戸外に走り出てこれをながめた。
「なんだろう?」
「ああ、なにか悪いことのきざしでなければよいが」
「悪魔の火だ」
人々は声をひそめてささやきあった。人々は見てはならないものを目にしたように、神の名を呼んで自分のまぶたをそっと押えた。
人々の不安と動揺をしずめるために、ピラトゥスはエレサレム駐《ちゆう》屯《とん》軍《ぐん》の隊長に命じて警備の兵を出動させた。兵士たちは露路から露路へ巡回して、まだねもやらずあちこちにたむろしている人々を、その家に追いやった。
「さあ、家へ入った、入った」
「総督閣下のご命令だぞ。みな家に入って戸閉りをきびしく、また窓もかたくとざすよう」
北の空にたなびくきみょうな光のゆらめきを背景に、兵士たちの姿は黒い影となって浮き上った。
「セイント。見よ。あの光を。おとろえるどころか、それ、あのようにいよいよ赤々とかがやいている。まるで遠い空そのものが燃えさかっているようではないか」
バルコニーに立って、ピラトゥスは背後のセイントをふりかえった。その二人の純白のケープにも、北方の空のかがやきはうっすらと映えていた。
「さて、あれはシリアの奥、チグリスのさらに北にあたりましょうか? つらなる山々のすべてをのみつくすほどの山火事かあるいは、世にたぐいない広壮な城《じよう》邑《ゆう》のほろびゆくほのおのかがやきか? 民衆の動揺があんじられます」
セイントのひろいひたいにもふだんには見られない不安の色が濃かった。
「博士をよべ!」
「はい」
セイントはバルコニーから室内へもどった。
「イスカリオテのユダがよかろう。かれはことに天文、地文に造《ぞう》詣《けい》が深い」
セイントの背にピラトゥスの言葉が追いかけてきた。
間もなく従者に導びかれて、イスカリオテのユダが入ってきた。
このときユダ、六十歳。エレサレム第一の天文学者であり、また市民の誰もが知っている最高の予言者の一人だった。
かれは濃い緑色に染めた麻の被《ひ》布《ふ》をまとい、同じ色の幅広の牛の皮のベルトをしめていた。ふぞろいにのびた灰色の頭髪を頭の後で小さなまげにむすび、それをさらに黒い布でしばっていた。大きながんじょうな足に、これも厚い皮を縫い合わせた重そうなサンダルをはいていた。
「おう、ユダ、ここだ」
ピラトゥスがバルコニーからまねいた。
「この夜ふけ、北の空にあのきみょうな光の雲が見えはじめてより、総督閣下のお使いが必ずまいるものと、実は心まちしておりましたようなしだいです」
ユダはたれ幕を開いてくらいバルコニーへ出た。
「のう。なんであろうか? あれは。率直に申してみよ」
ピラトゥスは腕を組んで、そのひろいひたいをじっと北の空のかがやきに向けていた。
ユダは両手を腰の後に組んでバルコニーの端に歩みよった。
「イスカリオテのユダ。布告したように、ナザレのイエスを明日、処刑する」
ユダはくらいおももちでかすかにうなずいた。
「かれは神の子、救い主と信じている者は、かれの処刑をこの世の終りと考え、かれの処刑とあのきみょうな光の雲とをむすびつけてひどく怯《おび》えている。のう、ユダ。あの光はなんであろうか?」
ユダは大理石の白い手すりに両手をついて体重をあずけ、遠い夜空に視線をはせた。そのまま、二人の間にながい沈黙がきた。
「ユダ。わしはあの男、ナザレのイエスを見ているとどうもかれのいうことが全くのうそやでたらめではないのではないか、そんなふうに思えてくるのだ」
ユダはかすかに笑ったようだった。
「総督閣下。あなたまでがそのようなことをいわれるのだ。まして市民の間では、あの男がまことの救い主だなどと信じられるのもむりはない」
ピラトゥスはいきどおりの気配を見せて口をつぐんだ。
「総督閣下。私は二年ほど前に、まだあのナザレの男がツエマやイルビドあたりで孤独な布教活動をおこなっているころ、かれをたいほするように申し上げたことがあります。おぼえていらっしゃいますか」
「おぼえている」
ピラトゥスの声は苦かった。
「総督閣下、かれのおこなった奇跡と称するかずかずのおこないのうちのあるものは、たしかにものごとの道理にそぐわない、どのように考えても、その必然的ななりゆきをもたない極めてふしぎなものもございました。それをかれは神の奇跡だという。いつかはその奇跡がこの世のすべてを支配するのだ、とかれはいう。総督閣下、かれは二年前にすでに処刑されていなければならなかった。どうやらもはやおそきに失した感がありますな」
それはこの予言者イスカリオテのユダがすでに何度もピラトゥスに提言してきたことだった。たしかにユダのいうとおりだったのかもしれない。しかし今、そのことをいわれるのはピラトゥスにとってはこころよいことではなかった。ピラトゥスは薄いかみそりでほおをひとなでされたようなするどいつめたさをおぼえた。ピラトゥスは何かひとこと、この男の胸にざっくり切りつけるようなことをいってやりたいと思ったが、いつも、決して、といってよいほどこの男に対してはうまい言葉がみつからないのだった。
「しかし、あのころはかれが今のように市民間に熱烈な信者を獲得できるようになるだろうなどとはとても思えなかった」
「いや、今でも決して多いとは申せません」
「しかし」
それならどうしてかれの処刑が遅きに失した、などというのだ?
「おそれているだけです。おそれは信仰には関係ない。しかし明日からはそのおそれは真の意味で信仰に変るでしょう」
「なぜだ?」
ピラトゥスは言葉するどくたずねた。この男、イスカリオテのユダはイエスについて、他の誰もが知らない何かを、しかも口にのぼせたくないほど強烈な印象を得ているのだ。それはほとんど悪意に近いものなのであろう。
「かれの弟子たちは今どうしているでしょうか?」
ユダは話題を変えた。ピラトゥスの問いははぐらかされて夜風に化した。
「かれが逮捕されたと聞くや、たちまちのうちに離散し、みなそのゆくえをくらましたという。やはり深遠な神のみちびきも死のおそれにはかなわなかったものとみえる。この世に楽園がおとずれる前に、自分が死んでしまったのではたまらないだろうからな」
ユダは静かに首をふった。
「かれの弟子たちにとって、イエスという一人の男がはたしてどれだけわかっていたでしょうか。かれの説く愛も神も、実は一つの暗号に過ぎないのです。かれの説くすべての言葉は、人間の考えかた、また願望とは全く別な発生点を持っているのです」
「するとナザレのイエスの説く神はいったい誰のものなのだ。誰のためのものなのだ?」
「さあ、私は実はかれに期待するところがはなはだ多かった」
ピラトゥスの問いはどうやらユダの心の中のどこかを射貫ぬいたようだった。ピラトゥスはだまってユダの言葉に耳をかたむけた。
「ガリラヤのある小さな村で説法中のかれをはじめてこの目で見たとき、私はかれだけは、数多い、靴をぬいでほうれば予言者に当るといわれるほど数多い、無能ないつわりだけの予言者とはあきらかに違っていると思った。なぜなら、かれの説くのは予言ではなかったからだ。なぜなら、それは人間を不幸にすることはあっても決して幸福にすることのない性質のものだったからです」
「なぜ?」
「なぜ? もし神がまことに最後のさばきを必要とするものなら、この世はほろびの道にこそさだめがあるものなのでしょうか」
こんどはピラトゥスが石のようにおし黙った。二人の間を、ヨルダンの河谷から吹き上げてくる熱い夜風が通り過ぎていった。
二人はその風の音に耳をかたむけた。ユダが右手を上げてはるかな夜空のかがやきを指さした。
「あの遠い夜の光の雲。はっきりと申し上げて私はあのようなものを見たのははじめてです。北の果の海、また南の果の土地は永遠の雪や氷で閉され、そこではときおりふしぎな光の雲が美しくかがやくのが見られると、あるフェニキヤの舟乗りの長《おさ》に聞いたことがあります。しかし、あれはどうやらそれとも違うようだ」
「やはりあの光はイエスの処刑に関係がある、というのか」
「いや。あの光があの男の処刑につながりがあるとは決して思えません。イエスの処刑の前夜、あのような光があらわれたことは、これは全くのぐうぜんでしょう。あれは単なる、しかし極めてめずらしい自然現象に過ぎないと思います。あの光に関するかぎり安心してよろしいでしょう。市民にはただちにそう伝えてみな寝につかせることです」
「ユダ。のちの世の人々はイエスの処刑の前夜におそるべき奇跡があった、というであろうな」
ユダの全身から目に見えない青白いほのおのようなものが噴き出した。それはまっこうからピラトゥスに吹きつけてきた。
「おそろしいことです」
ユダはたしかそういったようだった。
「おそろしい? なにが」
「おそらく……」
「おそらく?」
ユダは北の空の燃えるかがやきに背を向けた。それはこれからおとずれてくるかもしれぬ悲劇や破滅を、その背で受けとめようとするかのように見えた。
「のちの世の人々は、ナザレの男の処刑となにごとかおそろしいできごとをむすびつけて、さらにのちの世につたえるでしょう」
ユダは影のようにバルコニーの大理石を踏んで広間にもどっていった。
しばらくたってセイントがいそぎ足にやってきた。
「総督閣下、イスカリオテのユダがこう申しておりました」
「なんと?」
「明日は早朝より兵を街の辻《つじ》々《つじ》に配し、万一の事態にそなえたほうがよろしかろう、と。さらに食料の確保、街道の警備にも手ぬかりなきように、と」
ピラトゥスはそっと肩をすぼめた。
「よし、セイント。いそぎそのように手配しろ」
セイントはいぶかしそうにピラトゥスの顔をのぞきこんだ。
「総督、なにか反乱の情報でも入りましたか。ユダのようすでは住民の反乱とも思えなかったが」
「いや。反乱などではあるまい」
「ナザレの男の処刑と何か関係のあるできごとでも?」
ピラトゥスは苦しそうにひたいに手を当てた。
「セイント。わしにも何か全くわからないのだ。しかしイスカリオテのユダは明日おこるかもしれぬできごとについて知っているのかも知れぬ。セイント、かれの言葉のとおりに手配をたのむぞ」
「総督、それほど重大なできごとなら、イスカリオテのユダをもう一度ここへつれもどし、くわしく説明させてはいかがですか」
ピラトゥスはひたいをおさえた指に力をこめた。
「いや、ユダも語るまい。それに、かれもなにごとがおきるのかはくわしくは知らぬのだろう。すべては明日のことだ。行け、セイント」
セイントはなおそこにたたずんでいたが、ピラトゥスがそれ以上、口を開こうとしないので、ふたたびそこを離れていった。
はるかに北の空は、なお明滅する多彩な光の雲をたなびかせていたが、目を転ずれば東の空には早くも水のような夜明けの色が流れていた。その北と東の空は星影も淡く、おとずれてきた今日の、おそろしい結末の予感をはらんでいたが、中天のおびただしい星くずは高空の強い風にはげしくまたたいて、その今日のまた雲一つない昼の暑さをしのばせていた。
広く、深いヨルダン河谷の対岸、アシエルンの山なみからカラートエルサハの丘陵地帯の尾根すじの空高く、今日も朝から巨大な積乱雲がそそり立ち、このあたり特有の花《か》崗《こう》岩《がん》質の白い崖《がけ》が灼《や》けるように目にまぶしかった。エレサレムの東の町はずれ、サウシヤの峠へのわかれ道を右に曲ると、ゴルゴダの丘と呼ばれる荒れた岩山があった。そのゴルゴダヘの分岐点に立って、ユダははるかに眼下にひろがるヨルダンの低地をながめやった。切り立った崖をさらに幾《いく》重《え》にも重ねたけわしい岩《いわ》肌《はだ》に、白い電光形の傷跡のように河谷へくだる道が何本もきざまれていた。その低地の中ほどの薄汚れたひとかたまりの家の集りがイエリホの部落だった。そしてそのむこう、ゆらめく陽《かげ》炎《ろう》の底に、ヨルダン河が銀色のへびのようにうねっていた。
その河のうねりは広大な視野の右手でにわかにふくれ上って死者の湖《うみ》となっていた。
死者の湖《うみ》の半分は濃藍色にかがやき、あとの半分はエルケラクのそぎ落した断《だん》崖《がい》の岬がくらい影を落していた。
かれはまだ少年のころ、その崖の下の濃藍色の水の底に、影絵のように沈んでいる古い街を見たことがあった。石の建物や、その壁に開いた四角な窓、広場に開いたアーケードの一部、そして石に化した木々さえもが、ふなべりから手がとどきそうだった。その街がなぜ死者の湖《うみ》の底に在るのか誰に聞いても満足な答えは得られなかった。ある者はただおそろしそうに首をふって答えることをこばんだし、ある者はユダヤ教の魔よけの印を結んで手まねで早く立ち去れ、とかれを追いたてた。予言者たちの伝承によればその街が神の怒りを受けて地の底に沈んだというソドムとゴモラの一部であることを知ったのはずっとたってからだった。その後、ユダが三十歳ごろ、はげしい地震がこの地方いったいをおそってエレサレムをはじめとするヨルダン河谷両岸の町や村を破壊した。そのときいご、水底の町はなぜか全く見られなくなってしまった。それまで街の見られた水底には大きな岩が積み重なっていた。それが果してあのソドムとゴモラであったかどうか、ユダははなはだ疑問に思っていた。なぜなら、伝承によればそれらの町は神の怒りに触れて天から降った火と硫《い》黄《おう》に打たれて地の底にのまれたという。その物語りは遠いむかし、このヨルダン河谷をゆり動かしたはげしい地震かあるいは火山の爆発を意味していることは明白だった。しかしそれにしてはユダの記憶にある水底の町はどこもくずれたり傷《いた》んだりしていないようだった。なぜだろう? それはもはやたずねることのできない遠い、深い謎《なぞ》だった。今、断崖のふちに立って、ユダはまたしても遠いむかしのふしぎな記憶を想い起した。そしてそれはずっと以前からのかれのひそかなうたがいにむすびついてゆくのだった。
なぜか、この地方の神に関する伝承には非常に現実的な意味を持ったものが多かった。それはまるで自分たちが生れるほんの五十年か百年ほど前までは、このヨルダンの誰でもが、しばしば現実的に神々を目のあたりに見たようですらあった。話しをかわし、ときにあらそい、ときに利益を交換し――
この地方に予言者と称する者が多いのはなぜだろうか? もちろんその中にはそれを生活のための業とする者も多い。しかしこのヨルダンの人々はなぜか神々の告げる言葉に飢え、またその啓示を無批判に受け入れようとする。あるいはこの地方の人々は、古い時代から、『神』なるものに対して、他の地方の人々の知らない何かを知っているのかも知れなかった。
モーゼもその一人なら、ナザレのイエスもその一人なのだ。
「おう。イスカリオテのユダではないか。こんな所で何をしているのだ。さあ、ゴルゴダの丘へまいろう。そろそろナザレの男の処刑の時間が近づいたようだ」
ふりかえると、つづらおりのくだり道を、白馬にまたがったピラトゥスが近づいてきた。数名の兵士を従えている。兵士はいずれも楯《たて》と投《なげ》槍《やり》で完全に武装し、めったに着けない重い金属のよろいで胸と腹をおおっていた。
ユダは兵士のあとから、分岐点からゴルゴダの丘への道を登った。
岩だらけの丘の中央に十字形のはりつけ台がそびえていた。それはいそいで造られたものとみえ、おのできざんだ白い木の地肌が朝の光の中にあざやかだった。そのはりつけ台の下に数名の兵士がたむろしていた。ピラトゥスとユダが丘に登ってゆくと、兵士たちはいっせいに二人に顔を向けた。かれらの手にした長槍が銀色の穂のようにかがやいた。こちら側からはよく見えなかったが、その十字型のはりつけ台のむこう側に一人の男がはりつけになっていた。
ピラトゥスは顔をしかめたが、そのまま馬を進めてはりつけ台の正面に回った。そこは丘の頂きで、そこから見ると丘を半円形にとり囲んでかなり多くの人間がこの処刑のありさまを見つめていた。
「かれの信者たちがかれをうばいとろうとするかもしれぬ。ゆだんするな」
ピラトゥスははりつけ台の下の兵士たちにむかってさけんだ。
「総督、あれはかれの信者ではない」
どこからあらわれてきたのか、セイントがかれの馬の首を平手でたたきながらかれをあおいだ。
「イエスの処刑を見るために集ってきた町の者たちだ。ユダヤ教の大祭司たちも何人か来ている」
ピラトゥスははりつけ台の下に馬を進めた。セイントとユダが従った。
日の出とともにはりつけ台にかけられたイエスは、すでに四時間近い苦しみにかなり打ちのめされたようすだった。十字型の横材に左右にひろげた両手の手首を荒なわでしばられていたが、左手のてのひらに長いくぎが打ちこまれていた。力なくそろえられた両足の足首にもさびた長いくぎの頭が見えていた。右足のくぎの傷から流れ出た血はどろだらけの足の甲をつたって爪《つめ》の先でかたまっていた。灰色の髪がべったりとひたいにはりついて干し固まり、イエスの表情はよくわからなかったが、ときおり、低い声で何かつぶやいていた。
「何をいっているのだ?」
ピラトゥスはセイントにたずねた。
「天なる父がどうしたとか、いっていたようだったが」
そのとき、丘の一方に集ってこちらをながめていた一団の中から石がとんできてピラトゥスの馬の尻《しり》に当った。おどろいてひづめを鳴らしてあがく馬をピラトゥスはぐるぐる乗り回して静めた。露出した岩盤の重なった丘の斜面はすべりやすく、馬のひづめは乾《かわ》いた骨質の音を周囲にひびかせた。
「総督閣下! この男が石を投げた犯人です」
兵士の一人が若い男を引きずってきた。男は落ちくぼんだ目を見開いて、ピラトゥスをにらんだ。淡青色のひとみにはへびのような憎悪がこめられていた。
「お前はナザレのイエスの信者か?」
セイントが男に質問をあびせた。男はそのセイントには目もくれず、とつぜん、馬上のピラトゥスめがけてつばを吐いた。もちろんつばはピラトゥスにまではとどかず岩の乾いて熱い地肌に小さな汚点を落しただけだった。
「こいつ!」
ピラトゥスは手にした杖《つえ》で男の顔を強く打った。男は両手を兵士におさえられたまま後にのけぞった。
「その男を許してやってくれ。その男はなにも判っていないのだ」
六人の頭の上からいきなり、はっきりした声が落ちてきた。ふりあおぐみなの目に、はりつけ台にかけられたイエスが、頭をもたげて懇願するようにピラトゥスにもう一度いった。
「その男を許してやってくれ。その男は愚か者なのだ」
イエスの顔は血の気が去って土気色になっていた。耳の下に緑色のアブが一匹とまっていた。
「なに! おれが愚か者だと」
まっ先に口を開いたのは捕えられた若い男だった。
「おれはあんたがあんまり気の毒だったから、せめてあんたの目の前でローマ代官にしかえしをしてやろうと思って石を投げたんだ。それを愚か者だなどと、よくも」
男は激しい怒りを顔に浮かべると両手をふりほどこうとしてあばれ出した。男は兵士に引きずられてずるずると遠くなっていった。
「なんだ! えらそうなことをぬかして。ほんとうに神の子なら、そのはりつけ台から自分でおりてみろ!」
男のさけび声が丘の斜面をはしった。
「ナザレのイエスよ。わしはイスカリオテのユダだ。わかるか」
ユダの声に、イエスはふたたび、たいぎそうに目を開いた。その視線がさぐるようにユダをとらえた。
「はっきりはおぼえていないが、たしか、ガリラヤで一度、会ったような気がする」苦しそうに呼吸がはずんだ。
「そうだ。お前と、お前の説く神の最後のさばきについて議論をした。そのときお前は自分のことを神の子だ。自分はまことの予言者だといった」
「ああ、そうだ。そのとおり、おれは予言者。神ののぞむところを人間に伝える最高の予言者だ」
いい終ってイエスは低くうめいた。
「ナザレのイエス。その言葉をみずから否定せぬか。自分は神の子でもないし、予言者でもないと、ひとことでよいからいえ。そうすればその苦しみからすくってやろう」
セイントがにくにくしげにいい放った。
イエスはそれには答えず、力なく首をたれて低くいのりの言葉をつぶやいた。
「天なる父よ。このあわれな兄弟たちをどうかゆるしてやってください。かれらは神のなんたるかをも、神がまことに実在することをも知らないのです。天なる父よ。どうか……」
そのつぶやきをはねかえすようにセイントがさけんだ。
「やれ!」
二人の兵士が長槍をななめにかまえて進み出た。丘を遠巻きにした見物人の中から嘆声とも声援ともつかぬ動揺がわいた。
「どうした。ナザレのほら吹きめ! そろそろ天の神がお前を助けにくるころではないのか!」
セイントは手の杖を打ちふった。杖はぴゅっとするどく鳴った。
はりつけ台の下に立った兵士の一人が長槍をくり出した。銀色の穂先はイエスの横腹へ半分ほど入った。槍が兵士の手もとへ引きもどされたとき、イエスの横腹の傷口から血が吹き出し汚れた麻の衣を黒く濡《ぬ》らした。イエスの顔は苦痛でまるで別人のようにゆがんでいた。そのはりつけ台のちょうどイエスの足の下あたりを、セイントの杖がまたはげしく打ちたたいた。
「神よ! なぜおれを見《み》棄《す》てるのだ」
イエスはほこりとあかと、汗と涙で、どこが眉《まゆ》毛《げ》だか目だかわからなくなった顔を上げて天をあおいだ。
そのイエスのかすれた声はそのとき、丘をとり巻いていたすべての人々、兵士やエレサレムとその近在からの人々の耳にはっきりと聞えた。
周囲は静かだった。風の音も消え、ただ岩《いわ》肌《はだ》にはねかえる陽の光だけが目を灼《や》き、遠いヨルダンの河水の音が聞えてくるかと思われるほど周囲は静まりかえった。
そのとき、染めたように青いヨルダンの明るい空が、急に薄暗く光を失ったような気がした。
ピラトゥスは思わずひとみをこらした。しかし地上に落ちる陽の光とものの影は、強烈なかがやきと黒の対比を描いて少しもおとろえていなかった。どこか遠くで何かの鳥がけたたましく鳴きだした。丘のあちこちでするどいさけびが上った。
ピラトゥスは馬の手づなを引きしぼって丘をかけくだった。
目の前に広《こう》漠《ばく》とひらけたヨルダン河谷の対岸から急速に何ものかが近づき、ひろがりつつあった。
氷のようなつめたい風が、どっとゴルゴダの丘をつつんで吹きぬけていった。丘のふもとを守っていた兵士たちが、一団になって丘をかけ上っていった。
みるみる周囲は薄ぐらくなりはじめた。かがやく陽光は色あせ、たちまち闇《やみ》は周囲をつつんだ。とつぜん、全く盲目になってしまったかのように、一寸、先もわからなかった。兵士も群集も、両手を前に突き出し、あるいはその場にしゃがみこんで体のまわりの地表をなでさするなど、ただおろおろするばかりだった。
おそろしい暗闇におどろいて、ピラトゥスの馬は高くさお立ちになった。かれはこれ以上、馬上にあっては危険だと思った。かれはいそいで馬の背からとびおりた。そこが丘のどのへんに当るのか、まるで見当がつかなかった。
おそろしい悲鳴が流星のように走り、急にかぼそくなって、ふっ、と消えた。さらにつづいてまた聞えた。ピラトゥスはその方向が崖《がけ》だろうと思った。方角を見失った者が崖に近づいたらしかった。
「奇跡だ! 奇跡だ! やはりあのナザレのイエスは神の子だったのだ」
「ああ、これが神のさばきだ。われわれは神の子を殺そうとしたのだ。あの代官が元兇だ!」
男が狂気のようにさけんでいた。女の泣き声も聞えた。
ユダはこの瞬間、ナザレのイエスはどうしているだろうか、と思った。それを見とどけたい思いが灼《しやく》熱《ねつ》の衝動となってユダの体をつらぬいた。ユダは足もとの地面をさぐり、斜面を高みへ高みへとさがしのぼっていった。その丘のいただきの方向からざらざらと土くれや小さな岩のかたまりがころがってきた。それがユダの目や鼻に入った。ユダは思わず顔をおおった。土砂のあとから人間の体が斜面をころがり落ちてきてユダにまともにぶつかった。二つの体はもつれあって丘の斜面をころがった。
なわをほどいたイエスが闇にまぎれて逃げさろうとしているのではないかとユダは思った。なんどか手をのばして相手の体をつかもうとしたが、そのつど手はむなしくくうをつかんだ。そのうち、ユダは斜面をころげ落ちる早さが思いもかけずに増大していることに気づいて恐怖のさけびを上げた。両手両足をふんばってもうかなり急傾斜になっている岩盤に必死にはりついた。土や小石、それに絶え絶えな悲鳴がユダのとどまっている岩だなのはるか下方へ消えていった。闇の中でユダはひたいのつめたい汗をこぶしで払った。もうずいぶん長い時間がたったような気がしたが、実は二つか、三つ、呼吸をしたに過ぎない短い時間であることに気づいた。
そのとき、ユダの頭上を、目のくらむ青い閃《せん》光《こう》が流れた。その閃光は闇をつらぬいて、ゴルゴダの丘の斜面全体をあざやかな青に染め、ヨルダンの谷間の広大な空間を海のようにみたした。
ふりあおぐユダの目に、丘のいただきに何かおそろしく巨大なもののすがたが見えた。それは形のさだまらぬ光の雲の塊《かたまり》のように、岩でたたまれたゴルゴダの丘のいただきから中天にかけてせり上っていた。今や、天も地も氷のような青白い光につつまれ、あきらかな神の怒りの前に平たい一枚板のようにうちふるえていた。
遠い悲鳴がひと声、ふた声、いやに間遠く聞えた。
ユダは息切れで目がくらみそうになるのを必死におさえて、丘の急斜面をはい上っていった。逃げるのだ! 逃げるのだ! 近づいたらだめだ! 心の中ではそうさけびながら、しかし同時にその心のどこかで、これは決して神の怒りなどではない。決して神のあらわしたもうた奇跡などではない! とさけびつづけていた。このとつぜんの闇や、さらに丘のいただきにあらわれたすさまじい閃光がいったい何なのか、全く見当もつかなかったが、なぜかユダには神などではない、神の怒りなどではない、もっと、全く異質な非常におそろしいものであるような気がした。
青い光の中に、遠くの岩山の荒れ果てた山《やま》肌《はだ》や、まずしい青草の一本一本までがのぞまれた。その強い光《こう》芒《ぼう》はさらにヨルダンの河谷の底の幅広い流れをも幻《まぼろし》のように照し出していた。
丘のいただきの光の雲は、とつぜんはげしく渦《うず》まいて巨大な、人の姿になった。その大きさはこのゴルゴダの丘の半分近くあった。顔と思われるあたりの上方に、まぶかにかぶったかぶとのようなものが見えた。それはどこかローマ軍団の兵士たちのかぶとに似ていた。巨大な円筒のような胸と腰。あきらかに二本の腕と二本の足を持ち、その足はゴルゴダの丘を今にも踏みつぶしそうだった。その体は青白い光につつまれ、かがやくもやのようになかばすきとおって、その背後の千古の暗闇をのぞかせていた。
その光に包まれて、ナザレのイエスの体はすでに中空にあった。
暗闇は青白い光芒に灼《や》かれ、中空にかがやく青い光環をつくった。その中央に巨大な人影と、その手にささえられた小さなナザレのイエスの姿が見えた。
空気が絹を引き裂くような鋭いひびきをたてた。雷鳴のような地鳴りと震動が、ゴルゴダの丘からヨルダンの河谷をつらぬいて伝っていった。切り立ったけわしい断《だん》崖《がい》の岩盤はさらにいくつにもくだけ、なだれのようにはるかな下方におちこんでいった。
地震はつづけざまに何度も、何度も、暗闇の大地をゆり動かし、陥しこんだ。
――ゼブルンの地、ナフタリの地、
海に沿う地方、ヨルダンのむこうの地
異邦人のガリラヤ
暗黒の中に住んでいる民は大いなる光を見、
死の地、死の陰に住んでいる人々に光がのぼった――
中天高くのぼってゆくイエスの祈りの声が、地のどよめきの中で人々の耳を打った。人々は今は生きた心地もなく、大波のようにゆれ動く大地にすがりついてひとしく神の名を呼んだ。
ユダは思わず体をおこした。
ごうごうと地ひびきをたててどよめく天地の中に、どこからともなくユダの耳にとどいてきた声があった。
――陛下、これはいかなることでございますか。陛下みずからの手で陛下の首都、陛下の市民を無に帰するとは――
――司政官。余は惑星委員会に対して余の失敗を報告するだろう。しかし失敗も結果の一つだ。司政官、あの火を見たか。あの火こそ余の計画を阻害し、惑星委員会の意図をむなしくせしめた最大の拒否であり解答だ――
――陛下!
ユダは立ち上ってあわただしく周囲を見まわした。
陛下? 陛下とはローマ皇帝のことか? まさか!
司政官とは誰のことだ?
すでに青白い光芒は暗闇の天の高みにかがやく星の一点となってかかっていた。
――わかったか。太子。あれがなにものの像なのか、おそらくこの世界の統一者である梵《ぼん》天《てん》王《おう》でさえ知るまい。あの像にうつされた巨大な神人は、かつてこの世界をおとずれ、この世界がおのれの領域にあることを宣言して去った異世界の住人。この世界を外から支配するもの。五十六億七千万年ののちにふたたびこの世界にあらわれて、すべてこの世界に住むものの命運を決しようとするもの。それがあの弥《み》勒《ろく》と呼ばれるものだ――
――救いか! 末法の世を救うためにか!
どこだろう? どこから聞えてくるのだろう?
太子とは何ものだろう? 梵天王とは?
五十六億七千万年とは、ひどく長い時間ではないか? 弥勒、弥勒?
ユダは頭をかたむけて、そのはるかかなたから伝ってくるふしぎな対話を聞きとろうとした。
しかしなぜかそれはもう聞えてはこなかった。
ユダは丘の斜面をかけのぼり、ときどき立ち止っては獣のように耳をすました。しかしもうどこからもあの声は聞えてこなかった。
誰と誰があのような会話を?
その言葉の断片には、世界の命運をかけたようなおそろしい緊張がこめられていた。
ユダは斜面をはい上り、またかけくだった。
すでに周囲はふたたび真の闇にもどっていた。
ユダの心を今はげしくとらえているのは、ナザレのイエスのあらわした奇跡よりも、どこともしれぬはるかな遠方から、かすかにかれの心の中にとどいてきたふしぎな対話だった。
闇はなおこれよりどれだけ永い間つづくものか知れなかったし、あるいはこれより永遠につづくものかもしれなかった。それもことによったらまことに天のくだした罰かもしれなかった。
しかし、ただ一つ、天の声でないのはかれが心で聞いたあの対話だった。ユダは今、自分が奇妙な世界と世界の接点にいるのを感じていた。どこかでたいまつの列がゆれていた。
息をのむひまもなく、かれは岩盤の端から中空にほうり出された。かれのあとを追っておびただしい土砂がざっ、とくずれた。かれは両手をのばして何かをつかもうとしたが、思っただけでかれの意識は急速に闇の奥底に消えていった。
この日、ゴルゴダの丘をおおった暗闇は、午前十一時ごろはじまり、午後二時ごろまでつづいた。エレサレム地方の古記録によればこの日はティベリウス帝の治世十九年の第三月。四月朔《つい》日《たち》より前第七日、月は第十四夜を数えていた、とある。さらにスルピキウスとスラの執政下、アンティオコスの暦年で七九年、カシウスがシリアの総督でありティベリウスによってこの国の地方総督に任ぜられた時のことであった、とのべられている。
この記録が果してどこまで正しいのかはなはだ疑問だが、この説はしばしば引用されている。しかしもっとも重大なことは、カシウスというシリア総督は存在していないし、そもそもエレサレム総督たるローマ代官はローマ帝国の官制によれば、シリアの総督が兼ねることは決してなかったことだ。それは軍事上の理由による。当時地中海にのぞむ良港ハイファやアッカから陸路ナザレ地方を通ってヨルダン河谷に入り、アラバワシ低地からペトラ、エルジをへて紅海のアカバに達するルートはこの地方の経済の大動脈であり、これを一人の代官の手にゆだねることははなはだ危険であった。したがってつねにシリア、エレサレム、アカバの三人の代官がこのルートを三分して管理していた。
この一事を以てしても、この古記録の真ぴょう性ははなはだ薄れるが、さらに加えて、この事件があってしばらくして(あるいはローマ帝国がキリスト教を国教として認めてからとも思われるが)帝国ではこの日のゴルゴダの暗闇を、単なる伝承として公けの記録から故意にはずしてしまったのではないかと思われるふしがあることだ。それにはおそらくローマ帝国の失政の一つの名残りとして人々に語られることを嫌ったのであろう。
ユリウス暦三十三年四月三日。ゴルゴダの丘を中心とするエレサレム地方は三時間にわたる暗闇の昼をむかえたのであった。そしてさらに資料をさかのぼれば、この日の前後に中近東地方では部分蝕ですら日《につ》蝕《しよく》はおこっていないのだ。
後年、ある宗教史家はこれをニサン第十五日にたまたまこの地方で見られた月《げつ》蝕《しよく》が転化されて伝ったものとされている。しかしゴルゴダの暗闇はまだイエスがはりつけ台の上で苦しい呼吸をつづけていたときにとつぜんはじまったのであり、決して『夜』におこったものではない。
さらに伝えていう。
黙示録、第四章、六節
『御座の前は水晶に似たガラスの海のようであった。御座のそば近く、そのまわりには四つの生きものがいたが、その前にも後にも目がついていた。まず第一の生きものはししのようであり、第二の生きものは雄牛のようであり、第三の生きものは人のような顔をしており、第四の生きものは鳥のようであった』
と。そしてそれらはことごとく山のように偉大であり、神秘な神の光につつまれていたと。
この、四使徒の象徴は幻覚によって感得されたものだとされる。だがセント・ヨハネもセント・マルコも、またセント・ルカもそしてセント・マタイもそれぞれ、果して何を見たのだろうか。
さらにローマ百人隊長の記録によれば、この日いご、イスカリオテのユダをエレサレムの町で見た者は一人もいない、と。あの暗闇の中で、はるかな谷底に転落した何十人かの人々の死体の中にも、ユダの姿はなかった。
こうしてもっとも破滅的なエレサレムの一日は終った。
第五章 喪える都市
死者の水辺に在りて問う。
汝、いずこに帰せんとするや、と。
ZA―― ZAAAAA――
AAAA―― ZA――
かれは、しだいに振幅をひろげてくる意識をそこに凝《ぎよう》集《しゆう》させた。単純な二つの小節からなるそのくりかえしは、すでにかれの体内に反響し、満ちあふれ、かれのまだ強固なささえを持たない裸の神経にこころよい刺激をあたえた。なにかがどこかで大きく変《へん》貌《ぼう》し、新しいものから、さらに全く新しいものが生れてきつつあった。豊かなうなりが、かれのすべての代謝機能を、最大限度にまで高めた。そのうねりに心をゆだねているうちに、とつぜん、かれの深奥でなにかが音をたてて破裂した。
同時にポッドのふたは外方へはね飛んだ。開かれたその円形の口から、おびただしい気《き》泡《ほう》が、はげしい音をたてて噴き出した。気泡は淡い藍《あい》の水の中で、沈んだ銀色にかがやいて、あとからあとから海面めがけて上昇していった。噴き出す泡は、岩の間にしっかりと固着されたポッドを、今にもはね飛ばしそうにふるわせた。ポッドの中でこれまでかれの体をささえ、かれの生命を維持してきたすべての機構は完全に停止していた。その仕事はすでに終ったのだった。銀色の針も、エア・パイプも、環流ポンプも、今はただの不用品となって力なくポッドの内壁から垂れ下っていた。
かれは自分の体を固定している重力席《 G シ ー ト》に似た金属パイプのわく組の下からはい出た。ポッドの内壁にただ一つともったくらいオレンジ色のパイロット・ランプが、せまい内部を精巧な宇宙船の船内のように照し出していた。
頭の奥底がにぶく痛んだ。はるかかなたから、打ち寄せてはくだけ、しりぞいてゆく波の音が聞え、その波の音にあわせて頭の痛みは強まったり弱まったりしていた。
かれは無器用に手足を動かしてポッドの外に出た。水はおどろくほどつめたく、かれはふたたびポッドの中ににげもどりたい、という強い誘惑にかられた。息を吐くたびに、あごの下からおびただしい気泡が噴き出し、もつれあいながら上へ上へと昇っていった。その噴き出る気泡がひどくわずらわしかった。目を上げると青緑とも灰色ともつかない、よわよわしい光がななめにさしこんでいた。かれはなんとなく、あの弱い光では水があたたまらないだろうと思った。
水は鋼鉄のようにつめたく、重く、そして硬《かた》く、そこにふみこんでゆこうとするどんな生物の意図をもむなしくさせ、ほろぼしてしまうような無機質の冷酷さに充満していた。
かれは一歩進むのにも、ありったけの力を足にこめなければならなかった。
とつぜん、かれの心の真中を灼《しやく》熱《ねつ》の針のようにするどく、熱いものがつらぬいていった。かれの全身はそのすさまじい打撃に石のように硬直した。
陸へ! 水より出でて陸へむかえ!
声はかれの心を引き裂き、皮膚の内側にぶつかってはねかえり、ふたたび心の中心部をつらぬいた。
陸へ?
なにをしに?
陸とは――
出て――
幾つもの言葉が縦横に飛び交い、電光のようにかれの記憶巣を内側から照射した。そこにさまざまな記号や組み合わせが造り出すさまざまな意味がひそんでいた。その一つ一つを再確認し、再吟味する余裕は、今のかれにはあたえられていなかった。
かれは丸い頭を持ち上げてつめたい水の奥、非現実的な青のむこうに幻のようにひろがる未知の領域の気配を聞いた。
それはいつ果てるともない寄せてはかえす波のひびきだった。
――さ、行け! 陸へ。ためらわずに進むのだ。
なにものかの声が、また、かれを背後から突き刺した。目の前に青い淵《ふち》があった。
かれは無意識に水をかいてゆっくりとその深みにのりだした。思うように体が動かなかった。つうーんと耳の奥底が刺すように痛んだ。その痛みに、かれはにわかにわれにかえった。いつのまにか、かれは頭を真下に、すでに淵のなかばまで沈みつつあった。そのはげしい痛みがかれを完全に目覚めさせた。全身の神経がみるみる最大限に緊張してこの緊急事態にそなえるとともに、四《し》肢《し》の筋肉がすばらしいバネのように屈伸した。
かれは体をたてなおすと、全力をふるって失った高度を回復した。広大な海底の谷間をはるかに下方に見て、かれはぐんぐんピッチを上げて進んだ。
水面から頭を出して、かれははじめて深く息をすった。空気は強烈なイオンの臭気をふくみ、かれの肺はパラシュートのようにふくらんで刺激的な空気をみたした。その空気の味は永い間、全く思い出すことのなかったある匂《にお》いを、かれの脳《のう》裡《り》によみがえらせた。鼻《び》孔《こう》も咽《いん》喉《こう》も強烈な酸に灼《や》かれてひりひりした。鼻やのどばかりではなかった。かれのまぶたはたちまち開いているのも困難なほどふくれ上った。そのまぶたのかげの針のように細められた眼は青いリン光を放った。
波のくだけ散る岩礁をくぐりぬけ、煙のようにたなびく汐《しお》しぶきをかぶって、かれは一歩一歩進んでいった。その丸い顔が、青黒い海の面にくっきりと浮かび上ったり、またとっぷりと沈みこんだり、容易には水から離れることができなかった。
陸は低く、平らでほとんど海面と高さの差が感じられなかった。かれの体のまわりで、風だけが絶え間なく笛のように鳴っていた。空は塗りつぶしたように灰色で、ところどころにかすかな濃淡があった。昼なのか、たそがれどきなのか、太陽がどこにあるのか、天をあおいでも、灰色の天《てん》蓋《がい》の下では、その光をさがしようもなかった。
かれは足を水にひたしたまま、のび上って目の前に広《こう》漠《ばく》とひろがる荒れ果てた平原にひとみを向けた。なにものの影もそこにはなかった。かれは水から出ると、キシ、キシ、と濡れた砂をふみしめて砂浜の奥につづく平原へと位置を移していった。風はかれの背後からわきをすりぬけて、ゆくての平原のさらに奥へと吹きわたっていった。水から出て見わたす平原は、異様に平たく、かすかにかたむいて見えた。灰色の海と、淡《たん》褐《かつ》色《しよく》の平原と、その間を分ける長く長くつづくなぎさの、割れた陶器の傷口のような白は、いかにも生と死を分つにふさわしくうつろにのびていた。
ずっと左に遠く、ひどく気になるものがまぼろしのようにうかんでいた。
それはするどくとがったたくさんの塔を、林のようにつらねた壮大な城《じよう》邑《ゆう》だった。
その幾つかの塔のいただきは、低くたれさがった灰色の空にかくされていた。巨大な基台の上にそびえる断《だん》崖《がい》のような胸壁は、この城邑のりんかくを極めて幾何学的にかたちどっていた。そしてその上の林立する複雑な塔群の縦方向の線は、そこに全く異質な思考と感覚がひそんでいることを示していた。
それはなおかなりの距離をへだてていた。かれは永いことそこに立って、その平原の果にそびえる城邑を見つめていた。かれの胸に、しだいにつめたいおそれが湧《わ》き上ってきた。何度か周囲に視線を回し、ことなった目標と方向を発見しようとした。本能的な恐怖がかれの思考力をうばいかけていた。しかし結局、かれは進む方向を変えることはできなかった。そこがどうやらかれの目的の地であるらしかった。
砂はいつのまにか乾《かわ》いて、微細な粒子の砂塵となってかれの足もとから煙のようにたなびいた。海から陸へ、平原には砂の流れた跡が幾条も、水しぶきが凝《ぎよう》固《こ》したように美しい風紋を描いていた。
全く起伏のないひろがりと思われた平原に、やがて思いがけずなだらかな傾斜の丘があらわれてきた。そのわずかな傾斜のいただきに立つと、それでも広漠とひろがる平原をひと目で見わたすことができた。
かれの顔に、急にはげしい表情が動いた。そして無機質な目の光が、かえってくらい沈静の色をたたえた。
その丘の中腹から、幅の広い汚白色の帯がまっすぐ、ゆくての砂の海の中に消えていた。そしてそれははるかな前方でふたたび姿をあらわし、さらに何回も砂の中に埋没をくりかえしてはやがて遠く、平原の果の城邑にとどいていた。かれは足を早めて丘の中腹へ降りていった。足の下で音もなくくずれ流れるたよりない砂の感触が、とつぜんゆるぎない強固な岩盤になった。
それはおそろしく幅の広いコンクリートの舗《ほ》装《そう》道路の一部だった。風がわたるたびに、薄く掃《は》かれた砂はその平滑な表面を音もなく移動した。どこからどこへ通ずる道路だったのだろうか。かつてはそこをたくさんの地上車や、人々がゆき交ったものであろう。しかし今は全く見《み》棄《す》てられて、ここを通るものは風だけであり、音もなくわたるものは砂《さ》塵《じん》だけだった。荒廃はこの舗装路だけではなく、すべて天も地も、また、かれがはるか後方に棄ててきたなまり色の海までもがひとしく、もはや回復の不可能なはげしい荒廃に沈んでいた。
なぜだ?
なぜなのだろう?
自分はどうしてこんな所にいるのだろう?
いったんは遠ざかっていた深い混迷と疑惑がふたたびよみがえってきた。その底知れない深い淵にのめりこんでゆこうとする自分の心を、かれは必死に支えた。
丘をくだると、幅広い浅い谷間がひらけていた。谷は海岸に平行にまっすぐのび、海とあの奇妙な城邑との間を完全に断ち切っていた。
こんな谷があるのだろうか?
かれは谷の底をゆっくりと進んだ。吹き寄せる砂によって谷はすでに最初の深さの半分まで埋められているようだった。かれの前でも、後でも、砂は音もなく谷の斜面を流れ落ちていた。
とつぜん、かれの胸は電光のようにひらめいたものがあった。それは迫ってくる危険に対する警急信号だった。一瞬、かれは足を止めて自分の置かれている事態をみつめた。
この谷こそ、この平原のどこかに、かれの敵がひそんでいることをこの上なくあきらかに示していた。やはりそうだったのだ。谷は深くまた広いがすでに砂はそのなかばを埋め、さらに静かにしかし絶え間なくこの谷に流入しつつあった。あとどれだけの時間でこの谷が埋めつくされるかは容易に判断することができた。それはそんなに遠いことではなかった。と、いうことはこの砂の谷間はそんなむかしにできたものではない。すくなくとも――
とつぜん、かれの足が止った。そのまま化石になったように動かない。かれのゆくて、砂の谷間は小高い砂丘で終っていた。谷間を吹きぬけてゆく風は、砂丘にぶつかってその斜面を巻き、煙のように砂を吹き散らしてびょうびょうと鳴っていた。砂丘の稜線の描く壮大な円弧のほぼ中央から、複雑な構成のトラスが長くつき出していた。
かれは砂丘の下にゆっくりと近づいた。
砂丘をささえる二本の巨大な円筒が、ななめに砂の中からせり出していた。
砂丘は――最初、砂丘と見えたものは、高さ百メートルはあろうと思われる半球形の物体だった。おそらくそれにつづく半分は足の下の砂の中だろう。もとは鏡のようにみがきぬかれていたものかもしれないが、今ははげしい焼損でそりかえり、絶え間ない砂粒のやすりで傷つけられて、その表面は軽石のように粗面と化していた。
かれは長い間それを見つめていた。その浅く、広い、長くはしる谷間が、なにを意味し、この砂の中から巨体をあらわして灰色の空にそびえる物体が、いったい何なのかはもはや考えるまでもなかった。
それは一隻の巨大な宇宙船だった。
そして今、かれの立っている広い、浅い谷間こそ、この宇宙船が砂の海につっこんできたとき、熱いほのおのあらしで地表を吹き飛ばしたあとなのだった。かれは宇宙船の巨体の下の、くらいかげの部分へおりていった。その卵形の船体は灰色の天の一部のようにかれの頭上をおおった。
やはり敵は来ていた!
氷のようなさむけがかれの体の深奥をはしった。
敵はすでにかれのあらわれることを知っていて、探《たん》索《さく》の手をここまでのばしていた。
そのおどろきと、これまで急迫している事態が、かれにあらためて敵の比類ない能力を想い出させた。
どこにいるのだ。敵は。
かれは冷え上った心を抱いて息をこらした。
敵は――
敵は――
とつぜん、かれは頭をふってがっくりと肩を落した。胸の底から息を吐き出し、おびえた小さな動物のように落着きなく周囲をうかがった。
敵とはなんだ?
どうしてこれを敵と?
かれは自分の頭がどうかしてしまったのかと思った。あのつめたい海水の中で眠りからさめて以来、かれにとっては全く不可解なことの連続だった。たしかにずいぶん永い間、眠っていたような気がした。そしてさらに眠る前のことは何一つおぼえていなかった。
自分が、あきらかになんらかの衝動にかられて、平原の果の翳《かげ》のような城《じよう》邑《ゆう》へおもむこうとしているのだ、ということだけは、いやに鮮烈な自覚となって意識の中核に在った。そしてその衝動は、かれの心になお残るなにものかの呼びかけによって炸《さく》裂《れつ》したのだった。
かれはくらいひとみで周囲にひろがる砂の海をながめやった。そこには、かれの心をなぐさめる何ものもなかった。
――たぶん、そうなのだろう。かれは自分の心に言い聞かせた。
自分が、行こう、と思ったことは、それは行かなければならないからなのであろう。また、敵! と感じたのなら、それはまさしく敵なのであろう。
なにものかがそう教えているのだ。抵抗し難い暗示で自分をあやつっているのだ――
かれは石のように閉した心で灰色の天地をさぐった。
今はいつなのか? ここはどこなのか?
知りたいことは山ほどあった。しかしそれを知るための手がかりは何一つなかった。
ふと、また氷のようなさむけがかれの背から胸へつらぬいていった。それは音もなく、なんの痛みもなく、かすかな危険の気配だけをかれの体内に残して消えていった。
かれはのろのろと動きだした。
先ず敵の所在をたしかめることだった。危険はかなり増大していた。
敵の正体を知る手がかりがどこかにないか?
かれはその巨大な卵形の船腹に沿って谷の斜面をはい上った。しかし、これは無《む》駄《だ》な作業だった。宇宙船の船腹の焼損は思ったよりも広範囲に、また材質の深部にまでおよんでいて、ところどころ層をなして剥《はく》落《らく》していた。記号らしいものも、数字のようなものも全く見あたらなかった。
かれはふたたび平原にもどった。はるか後方に、細く白く磯《いそ》波《なみ》のくだけるなぎさが、一線を曳《ひ》いていた。さらにそのむこうの灰色の海は、同じ色の空と融けあって見分けるのに困難だった。そして前方、平原の果に遠く、かれをひきつけて離さない幻《まぼろし》の都市の影があった。いぜんとして動くものの気配もなく、風の音のほかには聞くべきなにもなかった。
敵は宇宙船の内部にひそんでいるのか、それともこの平原のどこかに身をひそめてこちらをうかがっているのか。かれは神経を針のようにとがらせて、単色の天と地と、ものさびしい不協和音の風の音のかげをさぐった。
かれの目が急に青く光った。
宇宙船の巨大な船腹について、もう一度ゆっくりまわった。谷の斜面にささえられた卵形の先端部に、楕《だ》円《えん》形《けい》のハッチが開いていた。ハッチのふたが奇妙なしくみでおりたたまれ、貝《かい》殻《がら》のようにたれさがっていた。
さっき見回ったときには開いていなかった。なにものかがこれから船外に出ようとしているのか、それともわずかのすきにそっと脱出したのだろうか。
そのどれでもない!
かれはそっと谷の斜面をのぼっていった。宇宙船の外《がい》鈑《はん》の腐《ふ》蝕《しよく》はすでにかなり進んでいる。これまでこの船内にひそんでかれの来るのを待っていたはずはない。それも、かれがここへ来ることを、ここを通ることが予測できるはずはないのだ。
敵の気配と、それの生みだす危険の兆候はいよいよ濃厚になっていたが、このとつぜん開いたハッチが、敵の攻撃開始を告げているとは思えなかった。
谷の斜面をのぼりつめると、ハッチはかれの頭上、手のとどくところにあった。ハッチのとびらの密着する部分がさびのような緑色の粉をふいていた。ハッチのふちの外鈑は紙のように薄く、厚さ一ミリメートルほどしかなかった。とびらの裏がわに目をそそいだが、船体の内装らしいものもなく、鋼鉄ともアルミニュームともことなった銀白色の材質が豊かな光沢を放っていた。
かれは、ハッチのふちに手をかけてそっと内部をのぞきこんだ。内部は真暗で何も見えなかった。なんの物音も聞えない。
そっと手をのばして内部の暗黒をまさぐった。手はむなしく半円をえがいただけで、何も触れなかった。もう一度、右手を大きくまわして体の前面をさぐった。高く、低く。やはり何もない。
かれは船腹に沿って反対側へまわった。そこからは灰色の平原をひと目で見わたすことができた。宇宙船がほりかえした浅く広い谷間は眼下に横たわっていた。その谷にも平原の果にも、かれの敵と思われるものの影はなかった。
かれは、この宇宙船はこのままにして平原の果のあの都市へ向って進むべきかどうか迷った。かれの心に浮かんだ敵の存在は、すでにかれにとって極めて危険なものをこの平原いったいに散らしつつあった。それを放置してこの平原を通過できるかどうかがあやぶまれた。
『敵』がそれを許してくれるだろうか。『敵』の正体はいったい何なのか。それをつかむことができないのがもどかしかった。
かれは頭をまわして遠い影のような城《じよう》邑《ゆう》をのぞんだ。一刻も早くそこへゆかなければならないが、しかしこの奇妙な敵との対決をこのままになげうってゆくことがいよいよ不可能に思われた。
かれは一歩一歩、砂をふみしめてハッチのある側にまわった。くらいハッチは、なお静寂の中に、暗黒の窓のように開いていた。
かれはふたたびハッチのふちに手をかけ、内部の暗黒に丸い頭を入れてようすをうかがった。
いぜんとして、内部には空気のそよぎさえなかった。かれは両うでに力をこめて上半身をハッチに引き上げた。
氷のような冷気がかれをつつんだ。
かれは一瞬、ためらったが、その不安定な姿勢を長くさらすことの危険を感じてそのままずるずると全身を船内へ引きずりこんだ。
周囲は一メートル先もわからない暗《くら》闇《やみ》だった。
かれはひざをついてそろそろと進んだ。息をつめ、吐く息をおさえながら静かに進む。
かれの胸の中でしだいに恐怖があつくなってきた。
かれは全身の神経を触角のようにのばして闇の奥をさぐった。
ない! なにもない!
敵の気配どころか、かれの頭の前にひろがる闇は、なにものもふくんでいないのだった。かれはおそろしい危険に遭《そう》遇《ぐう》した虫のように、動くのをやめた。呼吸も、脈《みやく》搏《はく》も浅く間遠く、石のように気配を絶って、周囲の暗黒と静寂に同化する。そっと闇をまさぐる神経に、生命のエネルギーが最高度に燃焼した。
敵はどこにもいなかったが、ここには敵以上におそるべきものがあった。
――これはいったいどうしたことなのだろう?
かれはつめたいくらやみに同化しながらようやく事態の気の遠くなるような異常さに気がつきはじめていた。かれは細心の注意を払ってなお数メートル前進した。
そのとき、とつぜん目の前にすさまじい光がはしった。光は暗闇の奥の一点からややななめ左方へ電光のように空間を切り裂いた。
その光はまぶたを灼《や》き、網膜をつらぬいてかれの視神経を断ち切った。一瞬、その光のはためきにおくれて、さらにもう一つの光が噴き出し、直角に交《こう》叉《さ》した。二つの光はがっちりと十字にかみ合って奥深い暗黒のひろがりいっぱいに白熱の光輝をまき散らしてきりきりと回転した。血のようなくらい紅から明るいオレンジ色に、さらにあざやかな緑色から白熱の青白いかがやきに移ろって世界を染めた。無数の光の粒子が火花のように入り乱れて渦《うず》巻《ま》いた。
そのかがやきの中心部に、壮大な渦巻型の光の雲が幻のようにあらわれた。それはみるみる八方へ光のうでをのばして、たがいに通過しようとするもう一方の光の雲を阻止しようとしていた。それは生きているように明滅し、かがやくガスの雲を曳いてゆっくりと回転した。
かれは心に映ったこのすさまじい光の嵐《あらし》を、かつてどこかで見たことがあるような気がした。
暗黒を切り裂く二つの光の雲は、幾千億の微細な光の粒子からなり、そのたがいに組み合った二つのエネルギーの渦巻は、その接した部分で、銀ともまごう深紅色の光の縞《しま》を浮かべていた。
音もなく、ただ光だけが揺れ、はためき、爆発をくりかえしていた。その光の乱舞と激流を透して、背後の暗黒の空間が無限の時の経過を告げていた。
――そうだ! これこそ
はじめてかれは恐怖の根源をさとった。今、目の前で見るのは二個の渦《か》状《じよう》 星雲だった。衝突する二つの渦状星雲は、
――一つは銀河系、もう一つはアンドロメダ大星雲だ!
かれは心の中で絶叫した。それぞれ一千億個の恒星よりなり、直径約十万光年、厚さ約一万五千光年の巨大な星雲は、二百万光年の距離を置いて存在していたはずであった。その銀河系とアンドロメダ大星雲が衝突するとは!
かれは底知れぬおそれと不安にのめってゆく意識にむち打って、つぎの行動にうつった。焼け切れた視神経はそのままに、オーバー・キャパシティのままサーキット・ブレーカーに接続した。かれは四肢をちぢめ、ひざをかかえて頭を胸にぴったりとつけ、一個の無機質な物体となって空間にただよい出た。呼吸も脈搏もとめ、いっさいの代謝は閉鎖反応系の中に封じこめて、かれは完全に空となった。
かれはさらに烈しく燃え上る光の渦を心の表面に反映させながら、暗黒の大空間を、そして厖《ぼう》大《だい》なエネルギーの波となって消滅しつつある銀河系とアンドロメダ大星雲のすみずみまで三次元感覚細胞の反応アンテナで静かに走査した。しかしなにものの存在もそこには感じられなかった。かれは体内の予備のエネルギーも動員してくりかえし、くりかえし、星々の間をさぐった。しかし何度さぐっても、かれの獲物はそこにはなかった。
とつぜん、暗黒の空間に浮かぶ光の大渦流が、中心の部分からはげしく溶けて燃えひろがった。百万度にも達する強大なエネルギーの波がつぎつぎと波紋のように同じ円を描いて暗黒の中にひろがっていった。そのエネルギーの波が描く目のくらむような深青色が、かれの心をつめたくしびれさせた。その光の波はつなみのように暗黒の空間を何度も、何度も洗い流した。その膨張する光の何度目かの波が、さらに幾つかに裂けて大きな光球になった。光球の群れはふいに大きく方向を変えると、そのまま静かに停止した。
いぜんとしてなにものの気配も感じられなかった。ふと、かれは自分が夢を見ているのではないか、と思った。あのつめたい水の中に横たわるポッドの中での永い眠りがまだつづいていたとしても不思議はなかった。ポッドに入る前の自分について、幾つかおぼろげな記憶があるような気がしたが、それがそもそもどのようなことだったか、まるで想い出すことができなかった。かれはしだいに自信を喪《うしな》ってゆくのがわかった。はじめてかれは強烈な孤独に胸をしぼられた。それは今、自分が見ているもの、感じているものが果してどのようなものであり、なにを意味するものなのかたしかめようもないことからくる焦《あせ》りと不安だった。
これは夢だろうか?
かれはおのれの心に問うた。ただ一人、すでにあらゆる生物が消えていった終末の世界にほうり出されて、ともに戦う仲間もなく、また武器とてなく、これからいったいどうすればよいのだろう。かれはつめたい汗にまみれて心の中の光の大渦流を見つめた。光球はその位置を少しも変えずに、ただ光輝だけを強めていた。
――早く出ろ!
なにものかのさけびがかれの胸いっぱいにひびきわたった。
――そこは危険だ。すぐ出るのだ。
すぐ出ろ?
それはおかしいではないか。この閉じられた空間から、いったいどうやってぬけ出すのだ?
かれは心の中ではげしく問いかえした。どこかでなにものかがひどく失望した。
――そこは危険だ。早く出るのだ。
声は切迫していた。その声は、かれに残された時間がもうほとんどないことを示していた。かれの心はみるみる干上って縦横にひび割れた。その割れ目から死がおそろしい勢いでふくれ上った。ふしぎなことに、その死も強烈な光の渦だった。静止したままの巨大な光球が、最初の大きさの二倍半ほどの大きさにふくれ上っていた。そのとき、かれはそれまで喪っていたある重大な記憶をよみがえらせた。かれはくらいおももちで静かにかがやく光球を見た。かれは迫ってくる自分の破滅の実態をさとった。
今、光球はかれの視野のほとんどを埋めて、なお急速にひろがりつつあった。
――横方向の移動が見られないのは、全くこちらの視線にかさなっているからなのだろう。
あきらかにかれは目標としてとらえられていた。ふたたび声がひびいた。
――早く出ろ!
危険は一瞬ののちに迫っていた。ふり向くと、暗《くら》闇《やみ》のむこうにさっきくぐりぬけてきたハッチがぼんやりと白く浮かんでいた。かれはその白い明るい窓めざして走った。恐怖が大波のように背後からおそってきた。かれは全力をふりしぼってハッチめがけて跳《ちよう》躍《やく》した。
暗黒の空間が超大な力でねじ曲げられ、大きくゆがみはじめた。異質の何かが電光の網のようにかれの体を押しつつんだ。その一瞬の差をかいくぐってかれはハッチヘの距離をつめた。暗黒のむこうの白く明るい出口が永遠にたどりつくことのないはるかかなたに思われた。
ハッチを弾丸のようにくぐりぬけて、かれは砂の上に落ちた。砂煙を引いて斜面をころげ落ちた。かれは谷間の底に横たわってつぎにくる破局を待った。しかし、いつまでたっても何ごともおこらなかった。かれは三次元感覚細胞の反応アンテナを長くのばして周囲をさぐったが、迫ってくるものの気配はどこにもなかった。
かれは長いこと、そうして死んだように横たわっていた。いろいろ考えなければならないことがあったが、かれにとって、自分の置かれた状況が少しも把《は》握《あく》できないでいる以上、これまでの事態の推移とこれからのなりゆきのいっさいが全く不明だった。今、かれにわかっていることといえば、平原の果にそびえる幻影の城《じよう》邑《ゆう》へいそいでゆかなければならないことと、その途中で、ふしぎな敵にめぐりあい、わなにとらえられるところをあやうく脱出した、ということだけだった。さらにもう一つ、かれの心に投影してかれに危険をおしえ、かれの行動をさし示すふしぎな声があった。すべては深い謎《なぞ》につつまれていた。
しばらくたってから、かれはのろのろと身をおこした。砂まみれの頭を上げると、長大な砂の斜面に遠く、銀色の宇宙船が横たわっていた。その横腹に黒く小さく、ハッチが開いていた。まことにこれが敵のわななのか、それとも実際に、あのような渦状星雲とその破滅を内に収めた一個の容器なのか、かれはその判断に苦しんだ。もう一度、あの内部を探索すべきなのだろうか、それとも、ここは一応、見棄てておくべきなのだろうか? このあとの行動はいずれにせよ、あの宇宙船とそこでおこった奇妙なできごとによってかなり制約を受けるだろうと思われた。かれの心に明滅する敵の存在は、まことにおそるべきものだった。かれは慎重な行動をとることにした。かれはそっと、そこを離れて、宇宙船とは反対の方向の斜面をのぼって地表へ出た。なすところもなく追い立てられて方向を変えることが、かれの心をわずかに傷つけた。
かれは時おり立ち止っては、周囲のひろがりに警戒の神経を向けた。何ものの気配もしなかった。
一度だけ、遠い平原のどこかで、なにものかが、かすかに動く気配がした。かれがいそいで全身の神経をそれへ向って動員したが、そのときにはすでにその気配は絶えていた。かれはどうやらどこかで絶えず監視されているらしかった。
かれはひたすら歩きつづけた。淡褐色の砂の海には、かれの残した足跡が長く長くつづいていた。やがてその足跡を、風が吹き飛ばし、流れる砂が少しずつ埋めていった。
かれは砂の中から陰顕する広い舗装道路にしたがって広大な砂の海をわたっていった。
いつか、かれの頭上にたくさんの光塔がそびえていた。幻のようにのぞまれた城邑は今や現実の壮大な都市となってかれの目の前に横たわっていた。砂の上に奇妙な形の平たいイグルーが密集し、それをおおう高く丸い透明なドームがなかば融けて、細く垂れた糸や滴《しずく》の形のまま凝固しておおいかぶさっていた。それは背後にそびえる広壮な城邑の横腹からあふれ出た内臓のように、無秩序に砂の上にひろがっていた。基台の上の胸壁は高さは五百メートルもあろうかと思われた。窓一つなく、継目ひとつない。おそらく一個の原材から削り出したものであろうか。一辺が十キロメートルはあろうと思われる巨大な立方体だった。塔はその上に、複雑な翳《かげ》をみせて林立していた。塔の高さはそれぞれ七、八千メートルはあるだろう。その基部は太く幾十層にも組み上げられたビルをなしていた。先端は鋭く高く、槍《やり》のように天をつき刺していた。その横からも先端からも、レーダーやまた、おそらくレーザーと思われるざまざまな形のおびただしいアンテナが、太古のアラベスク模様のように非現実的な構成を見せていた。
かれは思わず目を見張った。
これまで気がつかなかったが、林立する塔の後方は、半球形の透明なドームですっぽりとつつまれていた。そして、都市の後方、砂の上に幾つにもくだけたドームが、巨大な椀《わん》のように、あるいは平滑な円丘のように横たわっていた。
かつて上部構造の部分は球形ドームにつつまれていたようであった。
かれは、その灰色の都市の在る風景を記憶巣におさめた。
イグルーは半分以上砂に埋まり、内部をうかがうこともできなかった。よく見ると、イグルーは幅百メートルほどの細長いあき地の両側に密集していた。壁も屋根も、極めてうすい特殊なシリコンで張られていた。一か所、焼けただれて大きな破孔を生じたものがあった。そこからのぞいてみると、イグルーの内部は、ほとんど天井までとどくほど砂で埋っていた。かれはイグルーのむれの中央をはしる細長いあき地を、都市の胸壁へ向っていそいだ。かれの歩いているところは、おそらく以前の主要道路の一部ではないかと思われた。もしそうなら、これをたどってゆけば胸壁に開いた城門に通じているはずであった。
林立する塔はかれの真上から無機的な翳を投げかけていた。いったい何のためにこのような高い塔を建設したのだろうか。天を突きさすように、鋭くきびしく。これはいかにも、この都市の住民たちが、天に対してあくことない烈しい憎悪をいだいていたようではないか。そのにくしみのあらわれがこのような天にとどく槍の穂先のような塔群となり、透明なドームにつつまれた結果となったのではないだろうか。
かれは自分がこの都市についてはすべて過去形で考えていることに気づいてはっとした。それははなはだしく危険なことだった。あの平原の中に朽《く》ち果てて放棄されていた宇宙船は、実は完全に生きていて、内部にしのびこんだかれに対しておそるべき強烈な攻撃を加えてきたではないか。
思うにここでもまた、砂と荒廃にまみれてかれを待ち受けているものがいないとは絶対に言いきれないのだ。そのかぎりにおいてこれは断じて過去ではなかった。
高い高い胸壁に、巨大な門が開いていた。かれは胸壁の下に身をひそめて門の内部をうかがった。吹きつける砂は、城門の両側に美しい風道を描いていた。足もとでさらさらと絶え間なく砂がくずれ、他に動くものの気配は全くなかった。城門の奥は暗いトンネルになっていた。胸壁の内部の下層構造に通じているらしかった。かれはトンネルの奥の暗闇に思わず緊張した。宇宙船の中での危機がにわかになまなましくかれの脳《のう》裡《り》に湧《わ》き上ってきた。しかしこんなところでためらってはいられない。かれはひざまで砂に埋めて、暗い城門をくぐった。
暗黒と思われたトンネルの内部は、外界と同じような灰色の薄明に満ちていた。どこから光がさしこむのか、ふりあおいでも照明らしいものは見当らなかった。高い天井や壁や床《ゆか》が光を放っているのかもしれなかった。砂はかれの足もとから軽い煙霧のように舞い上った。短いトンネルはすぐ終ってかれは円形の広大なホールへ出た。ホールの中央に幾つものラッパ形の開口部を持つ低い塔が立っていた。その塔も、円盤型の基台も砂にまみれて、遠いむかしにそのはたらきを止めたことを示していた。それはあきらかに放射能洗浄剤の噴射器だった。外から入ってきた市民たちは、先ずこのホールで放射能を消去して、それから周囲の壁面に開口する多数のドアから市街の内部へ入ったものらしかった。
かれはそのドアの一つから入りこんだ。古代都市の廃《はい》墟《きよ》がそこにあった。
くずれ落ちた天井、ひび割れた壁や床、内部にまで砂がつまった電路や配水のユニット・パイプ、そして塵《ちり》や砂の山と化しているおびただしい貯蔵物資。そこには永い永い歳月とともに静かに、しかし決してはねかえすことの不可能な重みと確実な進みかたでこの都市を廃墟にさせた宿命的なある破滅があった。
かれはふたたび敵の気配を聞いたような気がした。それはさっきよりもずっと近く、この城《じよう》邑《ゆう》の胸壁のすぐ下まで近づいてきたかのようだった。
かれはしばらくの間、回路の前後にするどい神経をそそいでいたが、さらに奥へ向って移動していった。奥行も間口も百メートルはあろうかと思われる大きなコンパートメントがならんでいた。なにに使われていたものか、回転炉に似た金属の円筒が真赤にさびて横たわっていた。天井を走るおびただしいクレーンや送路《 ベ ル ト》が、厚く砂《さ》塵《じん》をかぶっていた。ここは生産区と呼ばれる区画らしかった。
紙のように千切れ、垂れさがっている上昇走路《 ベ ル ト》をつたって上層へ登った。大小無数の部屋と広間、通信中枢らしい電子機構の充満した部屋、合成食料を量産していたと思われる完備した生産施設などが、静寂とつもった砂の中になかば錆《さ》び、なかば朽《く》ち果ててかたむき崩れ落ちていた。
――ここへ来て何をしろ、というのだ?
かれの胸にはげしい疑惑が湧いた。
なにを探しようもなく、なにを求めようもなかった。
かれは空虚な心を抱いて、砂に埋れた小さな部屋に足を踏みこんだ。その部屋には大きな窓があり、ガラスのない窓わくをとおして、この壮大な廃墟にそびえるおびただしい塔の基盤の部分をのぞくことができた。かれは窓から丸い頭をつき出して灰色の天をながめ、それからふたたび視線を砂の市街の上にもどした。
もっとも近くにそびえる塔の基盤に、何かの記号が彫られていた。それはおそらく建設工事の着手か完工を記念するためにそこに彫られたものとみえた。かれは丸い頭の前面に二つついた大きな目を見開いて、それを読みとろうとした。
290……
かれは全身のエネルギーを視神経に送りこんだ。焼け切れた視神経をつないだサーキット・ブレーカーが過負荷にふるえた。
2902 TOKYO
――TOKYO……するとこの都市はトーキョーというのか?
かれはその名にまるで記憶がなかったが、二九〇〇年代のあるとき、この地方第一の都会として繁栄を誇ったものと思われた。
――そのトーキョーがなぜ、このような廃《はい》墟《きよ》になっているのだろうか? そして今はいったい何年なのだろうか?
かれはその答を廃墟の中に求めて、再び回廊にさまよい出た。
そのかれの視野のはずれに、ちら、と黒い影が映った。それはかれの目に入ると同時に、くらい壁のむこう側へ消えた。
かれは代謝調節機構《 メ タ ボ ラ イ ザ ー》を最大限にはたらかせてつぎにくるであろう致命的な打撃にそなえた。三次元感覚細胞は、一瞬のうちに敵のエネルギー代謝の程度と方向を求めて原形質の反応アンテナを傘のように開いた。
それは血も凍るような一瞬だった。かれは床《ゆか》に身をかがめて下層の街々の気配を聞き、反応アンテナを高い天井にとどかせて階上の敵の動きを求めた。
しかし、ふたたび、求めるものは何もなかった。
――敵でないとすると、なんだろう?
たしかに敵の気配は城門につづく砂漠の付近ではっきりと動いていたが、この城内ではまだ敵の動きは感じられなかった。
――まだ、ここへは侵入していないはずだが
かれはまたしても敵の設けたわなにおちいったと思った。
このようなエネルギー流動の低下した世界では、高エネルギーの放射はカモフラージュのしようがない。太陽の水素核融合反応もほとんど三分の一におとろえ、衰微した自然はすでに水分を喪って地表は極寒の砂漠と化していた。生物はとうにその姿を消して、今では枯木の林すらその痕《こん》跡《せき》をとどめていなかった。風だけがなお時おり砂煙りを曳《ひ》いて吹きわたっていたが、もとより断ち切れたエネルギー循環をつなぎ、養うだけの力はなかった。
かれは、自分の放散しているエネルギーがもちろんすでに敵によって完全にキャッチされていると思った。それはエネルギー探知機を使えば、無線方向探知機《 ロ ー ラ ン》以上に正確に敵の所在を追跡することができるのだった。そのエネルギーの放散をおおいかくして、ひそかに接近をはかられてはこれは応戦しようがない。
かれは思いきって、黒い影のかくれこんだ壁の後へ回りこんだ。砂をけちらした小さな足跡があった。
敵ではない!
かれは息をつめ、足音をしのばせて壁の後のさけ目をのぞいた。くらい破孔が開いていた。足跡はそのくらがりに消えている。
わなか?
かれはまた回廊にとってかえし、追ってくる敵の所在をさぐった。すでに敵は市街に入り、最下層の回廊を、崩れ落ちたリフトのたて穴へ向ってそろそろと移動していた。どうやらそのたて穴を昇ってくるつもりらしかった。
かれの方がまだ少しばかり有利だった。
かれはそっと壁の破孔からすべりこんだ。破孔の後はゆるやかな傾斜のらせん回廊になっていた。
――走路《 ベ ル ト》の跡だな
その傾斜路《 ス ロ ー プ》に小さな足跡がつづいていた。それについてかれは傾斜路《 ス ロ ー プ》をのぼっていった。回廊をさえぎる巨大なシャッターがくずれ落ち、原形をとどめぬまでに飛散していた。天井から電路や通信線、空気《 エ ア ・》調《コン》節《デイ》装《シヨ》置《ナー》の《・》管《パイプ》が毛細管のように垂れさがっていた。それを片手でそっと払って、体をななめにくぐりぬけた。手を離すと、パイプ類が触れあって乾いた金属音を発した。つぎの瞬間、それらは砂を固めて作ったもののようにこなごなになって床に落下した。そのひびきが回廊にかすかなこだまをひいた。
足跡は発電所の内部に消えていた。注意してみると、先ほどのものとはちがう幾つかの足跡が数えられた。
かれは静かに発電所に入った。
くらいオレンジ色の照明が何かの標識のようにともっていた。その光の輪の下に、幾つかの人影がひとかたまりになっていた。
かれは化石のように立ちつくした。
「お前たちは何ものだ?」
かれがたずねたのはだいぶたってからだった。
「――――」
一団の人影の中から鋭い、短いさけびがはしった。何を言っているのかまるでわからない。
「――――!」
たたきつけてくるようなさけびだった。
そのさけびにかれははじかれたように自動音声装置のスイッチをいれた。
「オマエハナニモノダ? ドコカラキタ?」
かれは発電所の内部をひそかにうかがった。しかし他にかくれひそんでいる者たちはいなかった。
「お前たちは何者だ? どうしてこんな所にひそんでいるのか?」
自分が言葉と、会話の能力を持っているのがたまらなく不思議だった。かれは人と会話を交した記憶や経験は全く持っていなかった。しかし今、そんなことを詮索しているひまはなかった。
「ワレワレハシミンダ。ココニスンデイルノダ」
「ここに住んでいる?」
かれはあらためて周囲のすさまじい廃墟を見まわした。この破壊と死の中にまだ住んでいる人がいようとはとうてい思えなかった。
「ここに住んでいる?」
かれは痴《ち》呆《ほう》のようにかさねてたずねた。
「ソウダ。ワレワレハコノトシノジュウミンダ。オマエハドコカラキタノダ」
どこから来たのだ、と聞かれても、事実を述べることはさけたほうが賢明だった。今はそんな説明に時間を費やすことはできなかった。
「ここはトーキョーだな」
かれは質問をはぐらかした。
「ソウダ。ココハトーキョーダ。ナイワクセイレンゴウノシュトダ」
その言葉にはどこか、遠いむかしの栄光を負っているようなひびきがあった。
「内惑星連合の首都か。ちょっと聞くが今は太陽系紀元何年だ?」
言ってからこの問いはまずかったかな、と思った。
「タイヨウケイキゲン? アア、タシカ、サンゼンキュウヒャクゴネンダッタトオモウ」
かれの問いに疑いももたなかったとみえてすぐ答が戻ってきた。
「三九〇五年か。するとあの銘盤の記号から一千年を経過しているのか」
「ナンノコトカ?」
かれはいそいでたずねた。
「このすさまじい廃墟はなにゆえか? いや、それよりも、私は危害を加えるものではない。ここへ出てきてくれ」
かれの言葉に、一団の人影はおびえたように固く集った。
「安心してよい。私は――」
せめて他の天体からやってきたのだ、と言いかけて口をつぐんだ。このありさまでは他の天体などと言ったらかえって警戒心をますことになるかもしれなかった。
「私は他の都市から連絡のために来た者だ」
ややあって一人がそろそろと立ち上った。まだ焔《ほのお》のような警戒心を消してはいない。
「タノトシ? ソンナモノガマダコノチキュウジョウニアッタノカ?」
その言葉はかすかな期待と深い哀しみをこめていた。
「ある。たとえば」
かれは言葉につまって、自分のやって来たあのなまり色の海を想い浮かべた。
「たとえば、海のむこうだ」
「ウミノムコウ!」
一団に集っていた人々は十四個の人影に分離した。くらいオレンジ色の照明の下で、かれらはいやにほっそりとたよりなかった。体長は一メートル五十センチほど。手も足もやせて長く、突き出た前頭部と丸く落ちた肩が特長的だった。皆一様に耳のあたりまでの短い髪を金属らしい細い円環で止め、全身を淡褐色の皮膚のような薄い被服でおおっていた。
かれらはなんとなくあいまいな面《か》貌《お》に鈍い表情を浮かべ、かれをもっとよく見ようとして集ってきた。
「オマエノナハナントイウノダ?」
ここで答えなければならなかった。
「シ、シ、シッタータだ」
かれは思わず、心のどこかにひっかかっていた言葉を口にした。
「しつたあた、だ」
「シッタータ、カ」
「知っているのか?」
失敗したかな、と思った。
「イヤ。ドコカデソンナナマエヲキイタヨウナキモスルガ」
「お前がこの者たちの代表か?」
先頭に立っていた男がかすかにうなずいた。
「ソウダ。イマハコレダケガコノトーキョーニスムモノノスベテダ。ワシハチョウロウカクノオリオナエダ」
男は深いしわにつつまれた淡褐色の顔を上げてかれを見つめた。
「シッタータ、トイッタナ」
「おりおなえ、か」
二人はたがいに、どこかで聞いたことがあるような気がするその名を口にした。痛烈な記憶につながっているようだったが、それで何であったかは想い出すことができなかった。
かれは、自分の心のどこかに沈《ちん》澱《でん》している《シッタータ》という名前を口にしただけなので、相手の男もあるいは自分と同じように記憶の片すみに置き忘れられていた名前を口にしたに過ぎないのかもしれないと思った。
そんなことはもうどうでもよいことだった。
このときから、かれはシッタータと名乗ることにした。
「おりおなえ。説明してくれ。この巨大な都市がなぜこのような廃墟になってしまったのだ?」
おりおなえは静かにシッタータの前に歩を寄った。
「キカセヨウ。キミョウナコトニ、ワシガコノミステラレタトーキョーニコウシテイキナガラエテイルノモ、ジツハコノトシノスイタイノゲンイントソノケイカヲ、ナニモノカニツタエルベク、ギムヅケラレテイルカラナノダ。ソノナニモノカニ、トイウノガオマエニナノカモシレナイ」
「ほう。伝えるためにか?」
「ニセンキュウヒャクネン、コノトシハジツニヒゲキテキナトシダッタ。トツゼンタイヨウハイロアセ、スベテノモノノウエニサイショノハメツノチョウコウガアラワレタノダッタ。コノトシ、チキュウノヒョウメンノヘイキンキオンハ、マイナスロクジュウハチドニサガッタ」
「マイナス度Cにか!」
「ソウダ。ソシテゲンインフメイノカンソウカガハジマッタ。スベテノタイリクハサバクトナリ、アサイカイキョウヤイリエハヒアガッテスナトエンブンノヘイゲントナッタ」
そのときからこの荒涼たる砂漠化がはじまったのか。それにしてもわずか一千年の間のできごとではないか。
「あきらかにこれは計画されたことだ」
シッタータは顔を上げて言いついだ。
「おりおなえ。するとお前はこの都市に一千年も生きつづけたことになるが」
おりおなえは無雑作にうなずいた。
「ソウダ。イッセンヒャクハチジュウネンニナル。ワシハサイボーグダ。イマモイッタヨウニ、ワシハキロクヲトドメルタメニトクニチョウセイサレタサイボーグナノダ」
「なるほど。そしてその記憶とは?」
小さな人影は幻のようにシッタータとおりおなえをとり囲んでいた。二人のやりとりを果して聞いているのかどうか。身じろぎをするたびにその淡褐色の薄い被服が、周囲の廃墟にふさわしい古びた光沢を放った。
「キケ。ナイワクセイレンゴウハ……」
とつぜん、シッタータの丸い頭の両側につき出た人工耳《じ》殻《かく》の内部で警急装置が鳴りひびいた。自動的に代謝調節装置《 メ タ ボ ラ イ ザ ー》が最大限にはたらいて多量の酸素と内分泌液を送り出す準備を完了した。両肩に埋めこまれた補助電子頭脳が周囲の状況を的確につかみはじめた。
三次元感覚細胞の反射アンテナは、背後のくずれ落ちた壁の後に、おそるべき敵が迫っていることを告げていた。
かれは一瞬、不覚をまねいたことを悔んだ。自分をしつように追尾してくる敵の存在からほんのわずかでも意識をそらしたことは失敗だった。
――おりおなえはおとりだったのか!
シッタータはたったひと足で広い部屋の片すみへ飛んだ。巨大な整流機とおぼしい真赤に錆《さ》びた金属の大円筒の下で、かれは近づいてくる敵をむかえた。
音もなく深紅色の光の矢が、シッタータの前後左右に流れた。その光を浴びた金属の円筒も、くずれ落ちた壁も、一瞬のうちに灼《しやく》熱《ねつ》の蒸気となって噴き上った。あとには黒《くろ》焦《こ》げの大きな穴を残した。シッタータはその光の矢をあやうくかわして側壁と天井のさかい目の大きい亀裂に身をかくした。部屋の内部は渦《うず》まく焔と舞い上る砂《さ》塵《じん》とで一メートル先も見えなかった。おりおなえの一族のものらしいか細い絶叫が切れ切れに聞えた。
シッタータは三次元感覚細胞の反射アンテナを壁のすき間からそっとのばして敵の居場所をさがした。敵はどうやら、シッタータのかくれている場所とは、反対側の側壁の突出部に立っているらしかった。おりおなえたちが一団になって回廊へ移動しつつあった。ここでおりおなえを逃してしまうことははなはだしく不利だったが、今、敵に全身をさらしておりおなえたちの追跡に移ることはできなかった。
どれだけ永い時間、対《たい》峙《じ》をつづけていたのか、ついに待ちきれなくなったように敵はかすかに動いた。
シッタータは三次元感覚細胞を視神経につないだ。
側壁の突出部に一人の男が仁王立ちになっていた。褐色に日焼けしたやせた体《たい》躯《く》に、汚白色の布をゆるやかに巻きつけ、右手に短い奇妙な形の武器をにぎっていた。シッタータにとって、この男がおそるべき技量を持った敵であることが不思議だった。しかしその姿はあきらかにかれに対する火のようなはげしい憎悪と悪意にみちていた。
敵がふいに動き、その右手からほとばしった深紅色の光の矢が、おりおなえたちの退避してゆく回廊の空間をなぎ払った。おりおなえたちの気配が幾つかに分裂し、その幾つかはたちまち消滅した。
その火の矢がまだ消えないうちに、シッタータは行動を開始した。腰に埋めこんである内装小型原子炉《マイクロ・ビルトイン》を最大限に加速して左手首にとりつけた放電葉から放出した。黄色の大きな火球が長い尾を曳《ひ》いて敵のひそんでいる壁の突出部をおそった。火球が壁にあたって百千の火の粉となって発し、四散した。敵はその火花の下を音もなく走っていた。つづいて第二の火球が敵の背後からおそいかかった。部屋の中が青白い光で染まり、空気がびりびりと震動した。男は全身、火だるまになりながらも壁のさけ目をくぐって回廊にのがれた。削《そ》いだようなするどい褐色のほおに凄《せい》壮《そう》な笑いが浮かんで、ちらとシッタータに視線を当て、すぐ壁のむこうに見えなくなった。一度、二度、深紅色の光の矢が回廊の天井をはね飛ばし、それから静かになった。
反射アンテナをのばすと、敵は最下層に退却していた。つぎの攻撃をあきらめていない。しかしその機会を見出すにはまだ間があるだろう。
シッタータは回廊へ出ておりおなえたちをさがした。くずれ落ちた天井の下に三個の死体がころがっていた。黒焦げの大きな穴が幾つか。それは床や側壁とともに蒸発してしまった人間の数をも示しているのだろう。
おりおなえは三十メートルほどむこうの床に横たわっていた。
シッタータはいそいで抱き起した。
「しっかりしろ! おりおなえ」
おりおなえは力なく目を開いた。その茶色の目に、シッタータの丸い頭が小さくうつっていた。
「ソウダ。シッタータ。マダハナシオワッテイナカッタナ。ニセンキュウヒャクニネン、タイヨウケイレンポウハ、タイヨウケイゼンイキノエネルギーテキスイタイヲ、ギンガケイゼンイキノスイビトダンテイシタ」
「銀河系全域のエネルギー的衰退か!」
「ソウダ。ソシテニセンキュウヒャクゴネン、タイヨウケイレンポウノアツメタウチュウブツリガクカイギハ、キンキュウイインカイノナノモトニ、ダイウチュウゼンタイニゲンインフメイノエネルギーポテンシャルノテイカガオコッテイルコトヲホウコクシタノダ」
「おりおなえ。しっかりしてくれ。先をつづけてくれ」
「ダイジョウブダ。スベテノカジョウセイウンニ、キュウソクナスペクトルノセキショクヘンイガミラレタ」
「ふうむ。赤色偏移か、ドップラー効果か、さもなければエネルギー・ポテンシャルの低下だ」
「ソノトオリダ。シカシ、ドップラーコウカデハナイ。ナゼカ、ウチュウゼンタイノエネルギーガショウメツシツツアッタノダ」
おりおなえははげしくせきこんだ。
「急速な膨張によるエネルギー拡散ということもあるぞ」
おりおなえは首をふった。
「イヤ。ソレナラドップラーコウカデセツメイガツクデハナイカ。ミロ、コノキビシイサムサ。ミズモクウキモキハクトナリ、モハヤサイボーグデナケレバコノチキュウデサエスムコトハデキナクナッテシマッタ。ホカノワクセイデハドウシテイルダロウカ。マダニンゲンガノコッテイルカネ」
おりおなえはがっくりと全身の力をぬいた。シッタータはあわてておりおなえをゆりうごかした。
「しっかりしろ。お前はまだ任務を果していないぞ」
おりおなえは、光を喪《うしな》った目を必死に見開いた。
「シッタータ。ワシハゲンジツニコノメデミテイルノダ。ウチュウノハテカラ、キミョウナセイブツガヤッテキテ、コノセカイヲカイハツシヨウトシタ。イマカラ、ナナセンネンモマエノコトダ」
「宇宙の果からやってきた?」
「ソレハ、コウイッタ。シンセイウンキ。ソウタイヨウアオキュウジュウサン……」
「ふうむ。新星雲紀。双太陽青九三より黄一七の夏。アスタータ五〇における惑星開発委員会は《シ》の命を受け、アイ星域第三惑星にヘリオ・セス・ベータ型開発をこころみることになった、とな」
シッタータはおりおなえのつぶやいた言葉を、そのまま口の中でくりかえした。
「おりおなえ。お前はその生物の姿を見たのか?」
おりおなえはかすかにうなずいた。これ以上かれに口をきかせることは危険だった。シッタータは補助電子頭脳におりおなえの記憶を抽出させた。おりおなえの頭《ず》蓋《がい》に刺しこんだ白金電極は、永い年月の疲労に耐えてきた大脳を極超短波シャワーで励起した。その大脳灰白色で融合した補助電子頭脳の抽出刺激回路は、遠い遠いかれの記憶を微弱な電流のパターンに変えて、シッタータの記憶巣に送りこんでいった。そのままシッタータは、おりおなえの体を抱いて静かに回廊を進んだ。
いつの間にか、また敵が動き出していた。今、敵におそわれてはおりおなえもろとも、しとめられてしまうのはわかっていた。時間をかせがなくてはならなかった。かれはおりおなえの体を抱いたまま、静かに、静かに回廊を進み、砂におおわれた傾斜回廊を下層へ向った。敵はまだシッタータの所在を確かめていないようだった。
「新星雲紀。双太陽青九三より黄一七の夏。アスタータ五〇における惑星開発委員会は《シ》の命を受け、アイ星域第三惑星に、か――」
その言葉にはシッタータの気になるひびきがあった。
「《シ》とはなんだろう?」
とつぜん、おりおなえが低くささやいた。
「ソレハゼッタイシャノナダ。スナワチ《シ》ハコノヨノソトニアッテコノセカイヲミソナワス。コノセカイノスベテノジブツ、コトノナリユキハスベテ《シ》ノイトスルトコロニヨッテハジメテイミヲモツノダ」
シッタータはその言葉を聞きながら、もう一方の心ではひどく異った別なことを考えていた。
「シッタータ。コノセカイノエネルギーテキスイビノゲンインガ、《シ》ノイトスルトコロダトシタラ、オマエハドウスルカ」
「おりおなえ。お前の言うその絶対者なるものは、古代人が《神》という概念で一括したものと同じと考えてよいか?」
おりおなえは眉《まゆ》をびくりと上げた。
「ワシハタダ、ジブンデジッサイニミタモノニツイテダケ、ノチノヨニツタエルギムヲモツノダ」
シッタータはながい時間をかけて、ようやく城門に面したあのホールへたどりついた。
くらい城門を通して平原の広《こう》漠《ばく》たる砂の海が見えた。空気は氷のようにつめたく、かすかに金属イオンの匂《にお》いがした。
もう少しだ。もう少しで脱出できる。
そう思ったとき、シッタータは、くらい城門のアーチの中央に、石像のように立つ一個の人影を見た。体に巻いた汚《よご》れた白布が、裸足の足首でひるがえってはたはたと鳴っていた。
敵はシッタータがかならずここを通ることを知っていたのだ。その右手の武器は早くもシッタータにぴたりとねらいをつけていた。
そのとき、シッタータはある計画を思いついた。しかし、おりおなえの体を抱いている今はどうしようもなかった。おりおなえを殺すこともできなかった。
かれは砂にかかとを埋めるようにすり足でじりじりと後退した。もはややむを得なかった。ものかげにおりおなえをおろしておいて敵の攻撃に決定的な反撃を加えるつもりだった。
「シッタータ。キヲツケテクレ。アノテキハオソロシイオトコダ。スデニゴヒャクネンモマエカラオマエノココニクルノヲマッテイタノダ。アノオトココソ《シ》ノテサキニチガイナイ」
「まて。おりおなえ。お前の見たというのはあんな男ではなかったのだろう?」
「シッタータ。ワシガミタノハ、キョダイナイカメシイシンジンタチダッタ。ダガ、シッタータ、ソノスガタハアルイハタダノゲンカクニスギナカッタノデハナイカ、ワシハソウオモッテイル」
「幻覚?」
敵はすべるように前進してきた。
シッタータは、はっきりとさとった。この敵はシッタータだけではなく、このおりおなえもともにほうむりさろうとしているのだった。そうだ。あきらかに敵はシッタータがおりおなえをともなって逃がれるのを事前に知っていたのだ。
この機会を利していっきょに二人をほうむりさろうとしているのだった。敵はおりおなえを生かしておいたのだ。敵はシッタータが必ずここをおとずれることを知っていたのだ。その敵とは、すなわち目前のそれではなかった。
「《シ》こそ真の敵だ!」
シッタータは絶望的なひとみで周囲を見まわした。薄明に満ちた世界で今、確実な死がかれをとらえようとしていた。おりおなえの頭部から電極をとりのぞき、補助電子頭脳を切り換えて戦闘態勢に移るよゆうはすでになかった。それでもかれはゆっくりと電極をはずし、補助電子頭脳の回路を調整した。
敵はそんなシッタータをゆうゆうと観察していた。おそらく最後の瞬間に、その手にしたメーザーが深紅色の火を噴くのだろう。
敵が、汚れた歯をむき出してにっと笑った。
「ナザレの……」
敵は言いかけて言葉を呑みこんだ。敵と、シッタータが同時に跳《ちよう》躍《やく》してその位置を変え、その軌跡の中心に一人の少女がひややかなまなざしで立っていた。少年のように引きしまった容《よう》貌《ぼう》と肢《し》体《たい》は陽炎のような偏光につつまれていた。
敵が何かさけんだ。その右手から噴き出した深紅色の火線が少女の体をつらぬいた。少女は声もなく笑った。
「あしゅらおうの名を聞いたことがあるか。さ、《シ》がどこにいるか、こたえよ」
ふたたび火線は少女をとらえた。少女が手をのばした。火線は大きくそれて後方の壁をみるみるイオンと無に変えた。
敵は言葉にならないさけびをあげて影のように後退した。
その濃い褐《かつ》色《しよく》のひげにおおわれた削《そ》いだようなほおが、みるみる表情をうしなった。水のような淡青色のひとみが無感動にシッタータをみつめ、それからゆっくりとその少女の上にうつった。
「やはり、ほんとうだったのだな」
なにごとか思いあたるものがあるとみえ、男は深くうなずいた。そのむき出しのすねに、汚れた被《ひ》布《ふ》のすそが、風にあおられはたはたと鳴った。
「なにを感心している?」
吹き過ぎてゆく風に身をまかせ、耳のないような顔をして立っていた少女が、風の過ぎ去るのを待ってふいにたずねた。それが敵の心の均衡をかたむけ、ふたたび敵は攻撃に優位な位置をしめようと、一歩、二歩、かすかに砂をはらって横へ動きはじめた。
「おれが待ち受けていた獲物のほかに、さらに二人の敵の分子がここにあらわれるかもしれぬ、という知らせがあったばかりなのだ。その二人というのがいったいなにものなのか、今の今までわからなかった。そうか。おまえたちのことだったのだな」
くぼんだ目の奥底にはげしいにくしみの色がもえ上った。足ゆびに力がこもって、じりじりと前へ出る。その姿勢のまま、つ、と指を上げて少女の顔をさした。
「あ、あ、あしゅらおう。なぜこんなところへやってきたのだ」
あしゅらおうはそれにこたえず、大きなひとみで敵を見すえた。
「ナザレのイエスよ。いったい、いつからここで待っていたのだ?」
「そう……」
敵はかすかにうなずいた。
「この荒廃した浜でお前たちを待ちはじめてから、もう八百年にもなるだろう。ところがおれはそれ以前に三千年もの間、おれの出番がくるのを待っていた、というわけだ。永かったぞ」
その言葉の中には、その困難を極めた仕事も、今この場で終りになるのだ、という解放と期待があふれていた。その期待はさらに素《そ》朴《ぼく》な確信となって、つぎのかれの攻撃をきわめて自信あるものにしていた。
その小さな目にしだいにくらい翳《かげ》が濃くなってきた。
「お前は」
敵はシッタータを白目の多いくぼんだ目の片すみでとらえ、あごをしゃくった。
「たしかにシッタータとか言ったな。やはり無意識におのれの旧名をもちいたものとみえる」
「わたしの旧名? なんだ、それは?」
シッタータは思わず敵に無防備の体を向けた。
「あぶない!」
とつぜん大気が真二つに裂け、灰色の天地が真紅に染まった。一瞬、砂の上を幾すじもの砂けむりがはしった。灼《しやく》熱《ねつ》した砂漠はたちまちかがやく蒸気となって灰色の風景をかげろうのようにゆらめかせた。あしゅらおうは羽毛のように宙に舞った。しかしその飛びのく先々へ、真紅の光の矢は煮《に》えたぎるるつぼと天にとどく火柱を噴き上げていった。衝撃波が巨大なハンマーとなって平原をおしつぶした。
頭上に高くそびえる高大な塔の林がいくつにもおれ、それがさらに中空でくだけて市街の上に落下した。そこから新しい砂けむりがキノコ雲のようにせり上った。実際にそれはキノコ雲をつくり出すような物体が投じられたのかもしれなかった。空はしだいに褪《あ》せた赤からくらいオレンジ色に変化した。吹き飛ぶ砂の一粒、一粒が死と破滅をはらんでいた。ここからのがれることの可能性は、万に一つもないようだった。敵の陥《かん》穽《せい》は完《かん》璧《ぺき》だった。
シッタータは半身を砂に埋めて、石塊のように動かなかった。砂にまみれた三次元感覚細胞の反応アンテナを、わずかに開いて周囲をうかがった。
敵の気配は平原のすみずみまでおおっていた。
百メートルと離れないところに敵がいた。敵はゆっくりと左から右へ移動していた。なにをしているのだろう? かれは反応アンテナを全開したい誘惑に必死に耐えた。このような静かな世界では、わずかなエネルギー変化でも遠方からそれと知ることができる。運動エネルギーの発動はもっとも感知しやすいのだ。それははなはだしく危険だ。それを知らない敵ではあるまい。敵のおそるべき能力は今の攻撃でもじゅうぶんに知ることができる。
だが、敵はなにをしているのだろう? かれはそれを見きわめようとする欲求をおさえがたく、ついに反応アンテナをさらに十センチメートルほど砂の上におし上げた。
シッタータは思わず体中の筋肉をひきしめた。
ゆっくりと移動してゆく敵の軌跡の延長上、一千メートルほどむこうの砂丘の上に、敵のねらっている獲物が小さな黒い影となって立っていた。あしゅらおうだった。
敵は砂の上に足跡を残してゆっくりと進んでいった。シッタータに背を向けたナザレのイエスの姿は、ほのおと衝撃波に灼《や》かれ、どよめく砂の海の中に、ともすればまぎれ見失われがちだった。
左から右へ移動しつつある敵は、シッタータの視野のはずれ近くでも大きくカーブすると、こんどはまっすぐにあしゅらおうの立っている砂丘へ向って進んでいった。
いったん真紅に染った天と地も、敵が直進を開始するや、しだいにもとの単調な灰色に還って、氷のようなつめたい風がほのおの渦の間を吹きぬけていった。ほのおは力なく明るくなったり暗くなったりした。急激なエネルギー変化も、莫《ばく》大《だい》なエネルギーの放出も、この死滅にひんしている世界ではすでに幾ばくかの変化の持続すらおこない得ないようだった。
おりおなえはどこへいってしまったのか、いくらさがしても全く気配がなかった。
シッタータはそろそろとアンテナをかざした。敵の注意力ははるかな砂丘に立つあしゅらおうに向けられたまま凝《ぎよう》結《けつ》していた。
シッタータはおそろしい危険を感じた。敵の注意力の半分をこちらに引きつけなければ――かれは砂を蹴《け》って立ち上った。
「まて! ナザレのイエス」
しかしその声は、咽頭から体内へ入って首すじをつたい、自分の耳にとどいただけで、なぜかすこしも空気中につたわっていかなかった。
シッタータは焦《あせ》った。なんとかして敵の戦力の半分を自分の方へ吸引しないことには、あの、あしゅらおう一人ではとてもナザレのイエスの攻撃をかわしきれないであろうと思った。
ふと、ナザレのイエスは立ち止った。ゆっくりとその右手が上った。
とつぜん、広《こう》漠《ばく》とひろがる平原の両端が、音もなく天へ向ってせり上った。そのまま、高く、高く灰色の空へ向って傾斜を深くしていった。それと同時に、頭上をおおう灰色の天の両端が、しずかに地表へ向ってたれさがってきた。視界の端で、天は地表へ、地表は天へ、大曲面をえがいて一枚の壁のように融合した。翳《かげ》よりも淡く、無よりも不確かに、平原と灰色の空は、左と右の視界のはるかかなたで合して壮大な円筒になった。そのはき気をもよおすような強烈な遠近法のかもし出す空間の遠い遠いかなたに、万華鏡の結んだもろい虚像に似て、あしゅらおうの姿がいよいよ小さく見えていた。
なぜかはげしい風の音も絶え、心をとり出されたような空虚が、かれをたまらなく不安に追いやった。
「まて! まつのだ!」
シッタータは死のような静寂の中を必死に走った。走ってもいっこうにナザレのイエスの姿が大きくならないのがいぶかしかったが、考えているひまはすでになかった。
シッタータは砂の上を疾走しながら、肩の放電葉を傘《かさ》型《がた》に開いた。代謝調節装置《 メ タ ボ ラ イ ザ ー》が自動的にフル・マークにはたらきはじめた。原子炉《 ビルトイン》の回路を放電葉の根もとの柵《さく》 状《じよう》組織につないだ。柵状組織は名前は植物のものと類似しているが、これは純然たる動物性組織で、発電魚族の発電組織に極めて似かよっている。
シッタータはコンデンサーの内部の高圧電流を、いっきょに放電葉から放出した。
一瞬、天も地も蒼《そう》白《はく》になった。放電葉から放出された電磁波は真青なイオンの円環を描いてナザレのイエスをおしつつんだ。息つくひまもなく第二撃を加える。灰色の空はくらい鉄色に変化した。内側から見る大円筒は、その内部の物体の固有の色をほとんど消し去り、すべて半透明になっていた。そのすべてをおしつつんで目にしみるようなウルトラ・マリーンの光の円環がかぎりなくひろがっていった。
シッタータは思わず目をみはった。
その電磁波のかがやく環が、急に色あせて四方へ飛び散った。千切れた鎖《くさり》の輪のように、いくつにもつながってからみ合い、ふっと消えた。消えるとそのむこうにナザレのイエスの貧弱な背中が見えた。
シッタータは頭をふるとふたたび砂をけって走った。
そのかれの目の前で、とつぜん、灰色の天とかぎりなくひろがる砂の海はきりきりと回転した。
空は幾すじもの灰色の渦《うず》となり、平原は淡褐色のらせんをえがいておそろしい速さで回った。回っていないのはナザレの男とシッタータだけだった。この目にも止らぬ急激な回転の中で、なぜ自分とかれだけが立っていられるのか、シッタータは自分の思考をそこへ集中しようとしたが、その努力はつめたい汗となって背すじをぬらして流れさった。
シッタータは自分が完全にナザレのイエスとあしゅらおうの二人から隔絶された他の空間におしこめられているのを知った。
「出してくれ! 出してくれ! ここから」
シッタータは力のかぎりさけんだ。しかしその声は、ただかれの閉じこめられている空間の内部だけをふるわせたにとどまった。
シッタータのさけびは渦まく空間の奥からひとすじの日光のようにあしゅらおうの鼓膜をつらぬいた。そのさけびが聞えているうちはあしゅらおうは目前の敵に神経のすべてを動員していられるのだった。
Hiii――nnn
あしゅらおうの鼓膜でもとらえられないような高い振動音が、かすかに、かすかに空間をふるわせた。それは陽炎のようにあしゅらおうの体をおしつつみ、末端神経の感覚細胞から体組織を破壊しにかかった。核酸はみるみる電離しはじめた。
空間はあしゅらおうを中心におそろしい速さで回転していた。その渦の外に、ナザレのイエスの姿が青白い光《こう》芒《ぼう》を曳《ひ》いて一等星のようにかがやいていた。
あしゅらおうのすがたはしだいにぼう、と透きとおっていった。回転する天も地も、かがやく敵の姿も、すべて今、形を喪《うしな》いつつあるあしゅらおうの体をとおして、そのむこうにきらめく光のひろがりとなっていた。
急速に回転する平原のどこかが白熱にかがやいて吹きとんだ。溶融した砂粒が熔岩の細片のように白い煙の尾をひいてふりそそいできた。
どうやら攻撃は成功と思われた。ナザレのイエスは手にした超高速震動装置のスイッチを押した。深い静けさが四方によみがえった。イエスの立っている数メートル前方から、砂の上に何本もの幅広い、浅いみぞがはるかな地平線まで放射状にひろがっていた。超高速震動によってたたかれた砂粒が、高熱によって蒸発した跡だった。みぞはまだところどころ白煙をふき上げていた。
その超高速度震動はあらゆる細胞をまひさせ、神経を狂わせ、組織を完全に破壊してしまうのだ。あしゅらおうがこの攻撃をのがれ得たはずはなかった。
ナザレのイエスは灼《や》けた砂をふみしめて平原を一キロメートルほど進んだ。先ほどまであしゅらおうの立っていた砂丘のいただきに立つと、そのあたりは砂は白く灼けただれて、かすめてゆく風に、音もなくけむりのように飛んだ。あしゅらおうの立っていた痕《こん》跡《せき》はどこにもなかった。はるか地平線になまり色の海が、全く高さをもたないもののようにひろがっていた。頭をめぐらせると、背後の荒廃した城《じよう》邑《ゆう》はこの喪われた平原を埋めるにふさわしい巨大な墓所のようだった。
氷のような風がかれの心を切り裂いていった。
かれに与えられた任務のうち、もっとも困難と考えられた第一の任務は終った。しかしかれはそれがあまり容易に終ったことに、いささかのものたりなさを感じていた。さらにそれは心のどこかにひそむぶきみな敵の気配にもつらなっていた。永い永い待機の結果は、数秒にみたない。しかも一方的な戦いだった。これが果して最終的な勝利を意味するものかどうか。かれはくらくのめりこんでゆこうとするおのれの心をおさえつけて、第二の目標へ向っていそいだ。そこは波うちぎわだった。
けむりのように飛ぶ砂と、笛のような風音がかれの周囲にわきおこった。海はいちだんと白い牙《きば》をむいてかれの前に押し寄せてきた。汐《しお》しぶきがかわいた砂をくろぐろと濡《ぬ》らし、こまかい霧となってかれのまとっている被布にしずくを結んだ。
この海にかれの敵はひそんでいたのだ。ずっと以前からかれは、敵はおそらくこの海のどこからかやってくるのだろうと思っていた。
そのかれの予想にたがわず、敵はこの砂浜からまっすぐに死滅にひんしたあの城邑へと向ってきた。
左方に遠く、砂の上に四角な巨大な物体がのぞまれた。
「やはりそうか」
かれは足を早めて近づいていった。一辺が五十メートルはあろうかと思われる物体だった。幅にくらべて高さがやや低いのは、おそらく下方は砂中に埋没しているからであろう。その表面は永い歳月の侵《しん》蝕《しよく》によって、すき間もなく微細な点刻におおわれていた。さえぎるものもない平滑な天地の間に、それは全く異質な存在を示してそびえていた。
その上方に楕円形のハッチが開き、そこから銀色のまゆ型の小円筒が二本のレールに支えられて地表に降着していた。
イエスはひと目それを見て、フリー型のリフトであることを知った。おそらくこの巨大な物体の内部に収容されていたものが、外部にあらわれ出たのであろう。
「五千年もの間、ここで待機していたものとみえる。もとは、ここは山だったのか、それとも島だったのか。この培養タンクをおおっていた土砂は洗い流され、吹き飛ばされて、こうしてこの土地は平原となり、この物体は完全にあらわになってしまったのだろう」
ナザレのイエスは首をふった。
「おたがいに待ちつづけたものさ」
イエスは目の前にそびえるこの異様な物体の内部をのぞいてみたい強烈な欲求にかられた。
どのような原理や構造が、あのあしゅらおうとなのる一個の生物を、五千年の永きにわたって養いたもちつづけてきたのか、そしてそれを管理する電子頭脳や動力源など、また記憶注入装置や酸素発生装置などのかずかず。かれは五千年の間に一個の生物が消費する酸素と栄養物の厖《ぼう》大《だい》な量を、ちら、と考えた。それらは当然、外部から摂取されるものではない。もちろん貯蔵などという婉《えん》曲《きよく》な方法ではどうにもならない。と、すればそれらは原子合成装置によって一つの原子を他の原子に変化させてゆく以外にないだろう。その操作は、いささかの狂いもためらいもゆるされない微妙なものだ。それを管理する電子頭脳の判断力と記憶巣の性能がその困難な任務を果してくれたのであろう。こうして一人の破壊分子は五千年後の機会を待ってこの地にひそんでいたのだ。
ふたたびこの培養タンクが使われることにならぬよう――それがかれが受けた二番目の命令だった。
かれは手にした超高速震動発生装置のビーム・フィラメントを、絶壁のようにそびえる巨大な物体に向けた。引金をしぼると大気が細いピアノ線のようにはじけ鳴った。巨大な物体の表面に、みるみる波紋のようなしわがあらわれ、それが急速にひろがって波うつと、巨大な物体はイエスの目の前から音もなく消え去った。あとには淡い陽《かげ》炎《ろう》がわずかにゆらめいていたが、それも消えた。
この海のどこかに、もう一個、培養タンクが放棄されているはずだったが、それはどうにも手のつけようがなかった。
海はいよいよさか巻き、白い牙《きば》をむいてイエスの足もとへ押し寄せてきた。被《ひ》布《ふ》のすそがぐっしょりと濡れ、すねにまつわりつくのが不快だった。イエスはその海を見つめてながい間、動かなかった。
《シ》の意図するところはこれでことごとく完全になしとげた。神の意志の具現はつねに最高の状態でなされなければならないのであり、その神の行為の一部を代行できる自分の使命が、かれにとってはこよない栄光でもあり、またおのれの生への意欲のすべてでもあった。
ナザレのイエスは烈風の中にひざまずいた。
「偉大なる《シ》よ。あなたを天なる父と呼びましょう。私はあなたのご命令どおりいたしました。罪深いサマリア人をどうかおゆるしください。そしてあなたのもとにおよびください。《シ》よ。世界はようやくつかれ、盲《めし》い、神々の葬列をむかえています。《シ》よ。天なる父よ。地上にすでに住む者もなく、あなたをまつり信ずる者もありません。《シ》よ。この世界は二度とあの栄光の日々にもどることはないのでしょうか」
いのりの言葉は風の音にまぎれた。灰色の天地はいよいよくらく翳《かげ》り、たけり狂う白い波がしらがけむりのように吹き千切れた。
「――《シ》よ。人はなぜあなたのゆるしを得ることができなかったのでしょうか。さまざまな悪と罪に汚れ、その手は血に汚れておりますが……」
風向きが変ったとみえて、氷のような風がイエスの背から首すじをはげしく打った。
「――《シ》よ……」
いまはかれにはいのりしかなかった。そのいのりの言葉を、かれは思わず呑《の》みこんだ。
風と汐と砂の飛ぶ荒れ果てた世界の中でかれはとつぜん、自分の背後に立っているなにものかの気配を感じた。
だれだ?
それは無機物のように全く身動きしなかった。どうやら呼吸もしていないらしい。
なにものだ?
ナザレのイエスの背すじをつめたい汗が虫が這うように流れた。口の中がからからに乾《かわ》いてきた。
かれは自分が今、絶対的な死地にあることをさとった。
立ち上ったときがおそらく最期だろう。
どうしたらよいだろうか?
代謝調整装置《 メ タ ボ ラ イ ザ ー》がにわかに最大限にはたらきだした。インシュリンが軽い刺激をともなって手足のすみずみまで薄くひろがってゆくのを感じた。一秒、一秒がそのまま死につながっていた。
風がふっと止んだ。天と地からあらゆる音が消えた。その一瞬、かれは影のように走った。視野のはずれを左右から矢のように急迫してくる砂けむりがあった。逃げきれるだろうか。イエスの胸のどこかが火傷したように熱かった。ふところに二個残っていた小さな円筒をとり出すと肩ごしに背後に投げた。さらに左うでにまいていた磁場発生機をはずすとスイッチを押して足下の砂の上へ落した。
逃げられるだろうか。
わずかな希望がなくもなかった。
一瞬、リチウム原子弾のウルトラ・マリーンの光雲が平原をおおった。青白い巨大な火球がおそろしい早さでふくれあがり、その下で海はふっとうし、砂漠は溶融した。直径五百メートルもあろうと思われる火球は、走るイエスの直後で、とつぜん反転し噴火口のように渦まいた。さかまく奔流が鉄壁でさえぎられ、ふたたびつなみとなっておそってくるように、ふくれあがった火球は見えない壁をうち破ろうとしてどよめいた。
しかしそれで追撃してくる敵をたおしたとは思えなかった。敵も自分と同じように体の周囲に防《ぼう》禦《ぎよ》用の閉《バ》鎖《リ》空《ヤ》間《ー》を張りめぐらし、リチウム原子弾の火の海をかいくぐり、かれが平原に設けたバリヤーを突破して急迫してくるはずだった。だが、たおし得なかったとしても追撃の速度は鈍ったはずだ。
自分のポッドまであと五百メートルはあった。それは絶望的な距離でもあった。
小さな黒い物体が中空をすべってきた。後端からまぶしい白色のほのおがふき出している。かれは手首にとりつけていたレーザー・ガンで大きく空間をなぎはらった。目もくらむあざやかな閃《せん》光《こう》が円弧を描いて灰色の平原を引き裂いた。携帯《 ハ ン ド》ミサイルはなんの反応もみせず、その閃光の中に消えた。
やはり敵は追ってきている!
ポッドの黒いハッチが目の前に開いている。なにかが背後で爆発し、真紅の火の河がかれの頭上に開いた。砂の一粒、一粒がすべて火の粉となって吹きつけてきた。そのとき、かれの半身はすでにハッチの内部に在った。
自動的にハッチが音をたてて閉じ、クセノン発光壁が淡い青緑色にかがやいた。その光輝を背に、そこに幻《まぼろし》のような影が立っていた。
「さあ、《シ》のところへ案内してもらおうか」
その酷薄な笑いがイエスの絶望感をにくしみに変えた。くずれ落ちようとする心を必死にふるい立たせ、かれは周囲に一瞬、目をはしらせた。右と左から二人の敵がすべるように近づいてきた。無表情な目が星のようにかれをとらえた。
だめか。ナザレのイエスは火のようにあえいだ。その恐怖の一瞬に、
あれだ!
そこにまだ脱出の方法が残されていた。かれはひと足で数メートルを飛び、左方の壁面にもうけられている『亜《サブ》空《・ポ》間《ジシ》回《ヨン》路《・サ》構《ーキ》成《ツト》』にとびこんだ。ナザレのイエスの姿はたちまち消えた。
「しまった!」
「逃げた!」
一瞬のうろたえが完《かん》璧《ぺき》な優位を砂のようにくずした。シッタータとあしゅらおうは苦《にが》い顔を見交した。
とるべき方法はたった一つだった。シッタータはハッチの外に立っていたおりおなえをわしづかみにしてもどった。
このまま敵を追ってゆくことははなはだしく危険をともなっていた。しかし、一秒おくれることはそれだけ最終的な勝利をより遠く、より難しいものにしてしまう。
おりおなえのつき出た前頭部が、そのあいまいな面《か》貌《お》に濃い翳《かげ》を掃《は》いていた。
あしゅらおうは遠い物音に耳をすますかのように背すじをのばして一点を凝《ぎよう》視《し》していた。壁面の天井に近いパネルから透明なケースに入った三個の多面電極がつき出していた。その直下の床面に、やはりそれと同じ構造のターンテーブルが設けられていた。その間の空間が円筒形にやや淡紅色をおびていた。どこからか、走査機と思われるかすかな回転音がつたわってきた。
シッタータはおりおなえの体をその淡紅色の空間にほうりこみ、つづいて自分もおどりこんだ。一秒の何分の一だけおくれてあしゅらおうがしたがった。それまでゆるやかだった回転音がにわかにあらしのように高まった。
意識の喪われる直前、シッタータの心の内部に、すさまじいかがやきを放って空間を灼《や》きつくす巨大な渦《か》状《じよう》星雲がひろがった。その光の渦は二つの部分からなっていて、一つは水平に、一つは垂直に、そのたがいにくいこんだ部分からほとばしる原子核融合反応のエネルギーのつなみは、音もなく暗黒をのみつくしていった。
シッタータは思わずさけんだ。そのさけびが喪われてゆく意識をほんのしばらくの間ささえた。かれはこの光景については記憶があった。
――一つは銀河系、もう一つはアンドロメダ大星雲だ。
なぜ自分がそんな言葉を知っているのか、またしても疑惑が生れたが、今はそんなことはどうでもよかった。二つの渦状星雲、銀河系とアンドロメダとの間に、なにごとか破局的な事態が生じているらしいことだけはわかった。そしてその破局はどうやら自然発生的なものではなく、なにごとか、外部からの強大な力によってひき起されたもののようであった。
――新星雲紀。双太陽青九三より黄一七の夏。アスタータ五〇における惑星開発委員会は《シ》の命を受け――
シッタータの意識は周囲の虚《こ》空《くう》に同化してうしなわれた。
第六章 新星雲紀
かがり火のもと
夜はつどえり
夜は旅人の胸に入りて
そのおそれとはじらいのしるしをかかげぬ
《アイ星域第三、三、三惑星からの緊急送風機《 シ ロ ツ コ》。送《スペース》 路《・ウエイ》から出てください。アイ星域第三、三、三惑星からの緊急送風機《 シ ロ ツ コ》。いそいで送《スペース》 路《・ウエイ》から出てください。意味不明部分多い。意味不明部分、多い》
乾《かわ》いた声があわただしく耳もとで、くりかえしくりかえしささやいた。目の前の金属パネルに、複雑な形の記号があらわれ、めまぐるしく点滅した。緊急を告げるマークらしかった。頭のどこかが氷壁のようにつめたく凝《こ》っていたが、意識は完全に回復していた。
「出よう」
シッタータは二人をうながして《送《スペース》 路《・ウエイ》》と呼ばれた多面電極の間からすべり出た。幅三メートルほどのせまい通路の両側に、今三人がぬけ出たものと同じ送《スペース》 路《・ウエイ》が整然とならんでいた。そのつらなりの果はそこからはのぞむことができなかった。
「ずいぶん細長い部屋をつくったものだな」
シッタータは左右に首を回してつぶやいた。
「いや、これは非常に大きな部屋だ。たぶん宇宙船の格納庫ほどもあるひろいホールにちがいない」
送《スペース》 路《・ウエイ》を設置した壁は単なるパネルに過ぎないものであり、天井はその仕切り板のようなパネルの上端よりもはるかに高いところにあった。その天井から淡い青白色の光が真昼のようにふりそそいでいた。
シッタータは三次元感覚細胞の反射アンテナを高くのばして、パネルのむこう側をうかがった。
「ほう、送《スペース》 路《・ウエイ》が何千となくならんでいるぞ。ずっとむこうに幾つか、人影が動いている」
そのとき、ふたたび耳の中で乾いた声がささやいた。
《アイ星域からの渡航者は、構内四区の調査九局へ出頭してください。アイ星域からの渡航者は構内四区の調査九局へ出頭してください。意味不明部分多い。意味不明部分、多い》
あしゅらおうが落着かなく周囲を見まわした。
「あしゅらおう。あのアナウンスはわれわれのことを言っているらしいな」
「おそらくそうだろう。それにしても意味不明の部分が多いのは極めて危険だ」
「アイ星域第三、三、三惑星とは第三惑星のことだろう。緊急送風機《 シ ロ ツ コ》とはなんのことかな」
あしゅらおうは眉《まゆ》を寄せて首をかしげた。
「それに近い物体の名前なのだろう。あるいは発音でも類似していたのかもしれない」
「送《スペース》 路《・ウエイ》だって実際にそのとおりの名前かどうかはわからないぞ」
外耳におさめられた自《オー》動《ト・》翻《チエ》訳《ンジ》器《ヤー》がひどく混乱しているようであった。どこかの言葉を、太陽系標準語に置き換えようとして苦しんでいた。しかもそれは補助電子頭脳の記憶巣にさえサンプルがないほどの異質な言語なのだ。二人は顔を見あわせた。
「出よう。ここから」
ホールの側面に小さなとびらがあった。どこにも人影はなかった。
外は雨の近い日の夕映えのような、黄色をおびたやわらかい光がななめに地上を照していた。
「どこだろう? ここは」
地上には、濃藍色の高さ三十センチメートルほどのするどい針のような植物がすき間もなくおいしげっていた。三人の顔はその濃藍色の葉からの照りかえしで染まった。
広場のむこうに窓のない箱のような建造物がならんでいた。そしてその屋上に高さ五百メートルはあろうかと思われる巨大な塔が、アラベスクのような複雑なヤードを張ってそびえていた。
「ここをこえてむこう側の建物に入ろう」
濃藍色の針のような植物は非常にもろくそっとかき分けただけでもこまかく折れて、折れくちから白い結晶のような粉をふき散らした。反対側の建物の壁面にとりついてふりかえると、今、三人のあとにしてきた建造物は、長さも幅も一キロメートルにおよぶ長大なものだった。
「どこだろう? ここは」
「さあ、どこだろうか?」
さすがのあしゅらおうも、ここがどこであるのか、まるで見当がつかないらしかった。
「ナザレのイエスはこんな所へ逃げてきたのだろうか」
太陽は建造物のかげにかくれていて見さだめることはできなかったが、長い長い影は濃藍色の植物群の上に描いたように暗く伸びていた。
建造物の間から銀白色にかがやく平面がのぞいていた。
「海ではないかな?」
三人はいそいで建造物の間をくぐりぬけた。
目の前に茫《ぼう》々《ぼう》とひろがる銀白色の平原があった。それは金属でもない、ガラス質でもない硬質のひろがりだった。
「なんだろう?」
「これは自然にできたものではないぞ。どこにもつぎ目はないし、内部に通ずるベンチレーターのようなものもない。これはあるいは地底からなにかがふき出してきてかたまったのではないだろうか?」
「ふき出してきた? なにが」
「熔岩がふき出して熔岩台地をつくるようにだ」
三人はあらためて周囲を見回した。背後につらなる建造物で、全く見とおしがきかなかったが、前方、それに右と左のはるか地平は、けわしい山脈でさえぎられていた。そこまで百キロメートル以上あるだろう。山々は黒いシルエットになって、淡黄色の空にいただきをつらねていた。
「直径百キロメートルの盆地にふたをしたものと考えられるな」
「ふたか。しかしなんでそのようなめんどうな作業をしたのだろう。地下に市街を設ければずっと簡単ではないか」
「バリヤーかもしれない」
「バリヤー?」
「なにものかの攻撃をふせぐためにだ」
攻撃をふせぐ。その言葉の意味が痛いほど二人の胸にしみた。
おりおなえは、この異様な風景にも全く興味を示さなかった。かれは円い頭に淡黄色の陽光をはねかえしながらものも言わずに立っていた。
「あの内部をしらべてみよう。ここがどこなのかわかるはずだ」
その銀白色の平原は、今、三人が立っている高みの五十メートルほどの下方からひろがっていた。シッタータはゆっくりと斜面をくだっていった。斜面の土は思ったよりかたくて、かなり大きな粗粒からなっていた。
「火成岩のようだが」
あしゅらおうは足もとの粗粒をつまんで目の前にかざした。
「いや、火成岩ではないようだ。カルシウムの含有量の多い堆《たい》積《せき》岩《がん》が高熱で焼かれてできた一種の変成岩の粗粒だ」
「あしゅらおう。そのことでなにかわかるか?」
あしゅらおうは目を細めてなにごとか思い出そうとしていたが、やがて首をふった。
「まだ。そのうち、思い出すことがあるだろう」
三人は銀白色の平原に立った。氷原のように極めて澄んだ硬質の感覚がかえって足のうらにぶきみだった。鏡のように平滑だったがよくみると、表面よりわずか内部に微細な網状組織が縦横にはしっていた。
しばらく進むと、送《スペース》 路《・ウエイ》をおさめた巨大な建造物のむれの上に低く、小さな太陽がのぞまれた。淡黄色のやわらかな光《こう》芒《ぼう》が、さえぎるものもない平滑なひろがりの上に三人の影を長く長くひいた。
とつぜん、おりおなえが立ち止った。あいまいな愚鈍な面《か》貌《お》に、ふと烈しい表情が動いた。
「シンセイウンキ。ソウタイヨウ、アオキュウジュウサンヨリキジュウナナノナツ――」
その録音テープを逆回転させたような奇妙な張りをもった声は他の二人の胸に、ある熱鉄のようなものをつぎこんだ。
「アスタータ五〇における惑星開発委員会は、《シ》の命を受け、アイ星域第三惑星にヘリオ・セス・ベータ型開発をこころみることになった」
「アスタータ五〇における惑星開発委員会は」
「新星雲紀。双太陽青九三より黄一七の夏」
「おりおなえ! ここがアスタータ五〇か」
おりおなえは首をのばしてもう一度、淡黄色の小さな太陽を眺《なが》め、それから四方の銀白色の広がりにくいいるような視線を投げた。
「ソウダ。ココガアスタータ、ゴジュウダ。オソラク、イマハフタツノタイヨウノウチ、キイロノジダイナノダ。ソレガオワロウトシテイル。コノツギハアオイタイヨウノジダイニハイリ、ソレガナンビャクネンモツヅクノダロウ。ソウシタヘンカノジダイヲ、シンセイウンキトヨブ」
おりおなえは小さな体をいよいよちぢめて足音もなく銀白色の硬質の平原を歩きまわった。
「すると、惑星開発委員会はこの天体のどこかにあるのだ」
「そして《シ》もまた、この天体のどこかにひそんでいるはずだ」
おりおなえは顔を上げた。
「アイセイイキ、トハワレワレノタイヨウケイノコトダ。シタガッテダイサンワクセイトハチキュウヲイミスル」
おりおなえは、これまでのおのれの内部に閉じこんできたすべての資料を、今、吐きつくすかのようにつぶやいた。
「ソコデオコナワレタ、ヘリオ・セス・ベータガタカイハツトイウノガ、ドノヨウナモノダッタノカ、クワシクシルコトハデキナイガ、タンサイボウセイブツカラツイニジンルイノハッセイニイタル、キワメテフクザツナ、コウドノカイハツノコトダ」
シッタータもあしゅらおうも、まばたきもせずにおりおなえの小さな姿を見つめていた。
「ヘリオ・セス・ベータガタカイハツハ、キワメテオオクノエネルギーヲショウモウスル。ソノタメ、モチイラレタカイスウハソレホドオオクハナイ。アノコウダイナタイヨウケイデモ、ワズカニチキュウノカイハツニモチイラレタノミダ」
「なるほど。地球だけが高度な生命体の発生に必要な条件を持っていた、という説があるが、条件の問題ではないというわけだな」
「惑星開発委員会というのは、いったいどのような機関なのだ?」
「《シ》とはそもそもなにものなのだ?」
おりおなえはそれにはこたえず、だまって足もとの平原をゆびさした。
「すべてはこの下にある。か。よし、ゆこう」
三人はなおひろく平原の探索をひろげたが、内部へ入ることのできるような開口部はなに一つなかった。
「あしゅらおう。このえたいのしれぬ平原に孔《あな》をあけてやろう」
シッタータは反射アンテナをのばして足もとの平原に触れた。
「電離度をしらべて、高電圧を加えてみよう」
あしゅらおうは超《ミ》小《ニ》型《・》原《パ》子《イ》炉《ル》の出力を指にはめたサファイヤ・レーザーに流しこんだ。それをさらに重力閉鎖空間で直径百分の一ミリメートルのビームに収《しゆう》斂《れん》した。それを数メートルむこうの地表に向けた。銀白色の硬質の表面が、直径一センチメートルほど、色あせた灰色に変化した。ついで焦げた紙のように汚れた茶色になった。
「よし」
レーザーをとめると、変色した部分はみるみるもとの銀白色にもどった。
「電離度、二十万七千ボルト。S・H・〇〇九一三、リアクタンス・ゼロのとき、四・四六二。あしゅらおうよ。この平原は金属でもシリコンでもない。これはやはり重力的閉鎖空間だ」
「反射光によってこのような不透明に見えるのだな」
目の前に広《こう》漠《ばく》とひろがり、金属よりも硬く三人を支えるこの強固な物質が、ただ空間に張りめぐらされた重力的バリヤーであるとは、容易に信じられなかった。空間はそれ自体で物質であり、一つの空間を二つに分ける仕切り壁も、また物質をのせた棚も、それぞれに重力バリヤーにちがいなかった。
「このバリヤーをなんのためにもうけたのか。この天体になにものの攻撃が加えられたのか、それを知りたいものだ」
「シッタータ。このへんに突破口を開こう」
あしゅらおうはもう一度、こんどは慎重にねらいをさだめた。
三十秒ほどの照射で、銀白色の硬質の表面に直径五十センチメートルの大きな孔が開いた。
三人がかわるがわるその穴から内部をのぞいた。暗黒の奥から氷のような冷気が噴き上げてきた。
なんの物音も聞えなかった。
三人は思わず顔を見あわせた。その穴の内部に充満しているものは破滅とおびただしい死だった。
あしゅらおうは衣服のどこからか巻いて束にした細い針金をとり出した。穴のふちに坐《すわ》って器用に、人間一人が乗れるほどの、目の粗《あら》い網を作った。あしゅらおうはそれをシッタータとおりおなえにわたし、自分はそれをかかえると穴のふちに身をのり出した。
電流をその金属網に流した。あしゅらおうの姿は暗黒の内部へ吸いこまれていった。
つづいてシッタータがとびこんだ。氷のような冷気に思わず首をちぢめ、急造のイオノクラフトに大電流を流しこんだ。眼下は海のように底知れぬ暗黒がふさいでいた。その暗黒の中を、かがやく緑色の長い尾をひいてすべってゆくのはあしゅらおうのイオノクラフトだった。シッタータは全力をふりしぼってそのあとを追っていった。かなりおくれておりおなえが降下してきた。三人はそのまま一団となって急降下していった。
やがて三人の眼下に、壮大な都市が姿をあらわした。
広場の中央に三稜のオベリスクが暗黒の夜空へむかってそびえ立っていた。無数の投光器《スポツトライト》の光芒の中にそのかがやく石の肌《はだ》は宝石のように浮き上っていた。円形の広場の中央をつらぬくそれは車軸のようだった。車軸のように見えるのは、オベリスクから広場を埋める群集の間に張りわたされた数十本のロープのせいでもあった。群集はくちぐちになにかさけんでは力を合わせて、ロープを引いた。そのたびに三稜のオベリスクはゆらゆらと動いた。照明弾がうち上げられ、広場の上空に青白い光源がつぎからつぎへと開いた。どこかでたてつづけに爆発音がとどろいた。
ロートダインのむれが、広場をとりかこむ高いビルの屋上に舞いおりた。そこからレーザー・ガンの青緑色の光の矢がのびてきてロープをひく群集を燃え上らせた。広場のあちこちでまぶしいほのおが立ち上った。そのほのおをめぐって立ちさわいでいる人々はつぎつぎと新しいほのおにつつまれていった。くちぐちにさけんでいた言葉がやがて一つに合して、海鳴りのようなさけびに変った。オベリスクはゆっくりと、やがて急速に広場の一方へたおれこんでいった。すさまじい地ひびきと土けむりがわきおこった。その地ひびきで、さらにもう一つのビルがくずれ落ちた。
群集の上へロートダインのむれが、ばらばらと小型爆弾を投下した。
ずん! ずん!
小さいが腹にこたえる爆発音が広場をゆり動かした。閃《せん》光《こう》とともに千切れた手や足がくるくると舞った。残った群集は河の流れのように自然に隊列を作るとまっすぐに進みはじめた。そのゆくての広場の一角にかれらの目標があった。
ふたたびどこかでけたたましい爆発音がとどろき、悲鳴と怒声がほとばしった。
「反乱がおこっているらしいな」
三人はそびえ立つビルの胸壁のくぼみに体をおしつけて、はるか下方の混乱を見つめていた。
「見ろ、火災がおきているようだ」
広場を囲む広壮なビル群の後方の中空がぶきみな真紅に染まっていた。その方角であらたな爆発がおこり、火柱が立ちのぼった。
「ハヤク、ワクセイカイハツイインカイヲサガスコトダ。マモナクコノトシハ、トシトシテノキノウヲウシナウダロウ」
おりおなえがその小さな目にはげしい恐怖の色をうかべた。その恐怖にはなにごとか強烈な実感がともなっているようだった。
三人は胸壁に開いた窓からビルの内部に入った。幅広い回廊がビルの内部を貫通していた。その両側に幾つもの部屋がならんでいたが、かつてはなにに使われたものか、壁は剥《はく》落《らく》し、ドアははずれて室内に吹き飛び、すでに永い間放置されたままになっていることを示していた。壁面に開いたリフトも、朽《く》ち果て、紙のように裂けた外鈑が垂れさがっていた。
「しかたがない。階段をおりよう」
三人は、これもところどころ剥落し、内部の小骨ののぞいた階段を一歩、一歩ふみしめてくだった。
ビルの中ほどまでくだると、もうそのあたりから地上と同じようにはげしい混乱につつまれていた。幅広い回廊を埋めて、群集は河の流れのように進んでいった。
「首席を殺せ! 首席をたおせ!」
群集はたえず両手をふり、大きな口をあけてさけんでいた。
首席を殺せ! 首席をたおせ!
「おい! 首席というのはどこにいるのだ」
シッタータは目の前を通り過ぎてゆく一人の男の肩をとらえた。
「え? おい。首席というのはどこにいるのだ?」
男はレンズのような無機質な目を見開いてシッタータの顔を見つめた。
「首席はどこにいる?」
男はその質問の意味をかみしめるようにゆっくりと自分の口の中でつぶやいた。
「ああ、首席か。首席は……」
「うん。首席は?」
とつぜん、男はシッタータの手首をぐいとつかんだ。おそろしい力だった。
「な、な、なにをするのだ」
「首席のところへつれていってやろう?」
「それではお前は首席のいる所を知っているのだな」
シッタータは手首の痛さをこらえながら、男におもねるように言った。そのシッタータの言葉が終らぬうちに、男はもう走り出していた。
「まて、まて! おい。て、て、手を離せ」
シッタータはまるで布袋のように男に引きずられながら悲鳴を上げた。男の手をふりほどくことはそれほど難かしくもなさそうだったが。男はシッタータに立ち止まるひまを与えないほど機械的な無謀さで、シッタータを引きずった。そのさけびに周囲を走っている群集がシッタータに目をそそいだ。それが疑惑の色に変わってくるのを見てシッタータは焦《あせ》った。周囲の群集はとつぜん走るのをやめて、男とシッタータをとり囲んだ。全く表情をもたないつめたいまなざしがひたとシッタータを見つめ、それからいっせいにつかみかかってきた。肩の反射アンテナがおそろしい力でつかまれるのを感じて、シッタータはやむなく放電葉から火球を飛ばした。火球は大きくふくれ上ってかれの周囲に集ってきた群集の間をころげまわった。肉の焼ける匂《にお》いとイオンの匂いとが入り混った。壁面が灼《しやく》熱《ねつ》してそこからすさまじいほのおがふき出した。群集の混乱は恐慌状態に達した。その間をぬってシッタータは回廊から側方へのせまい通路へのがれた。
「あなたは他の天体からおいでになったかたですね」
ふいに後から呼びかけられた。ふり向くと黄褐色のコンビネーションの作業服をまとった一人の男が立っていた。発光材で張られた壁面からの淡い光を受けて、男の陶器のようなひたいがつめたいつやを放っていた。
「他の天体? ん、まあ、そうだ」
「首席にお会いになられますか?」
「そのつもりで来たのだが、さわぎにまきこまれてひどい目にあった」
男はそれについてはひとことも説明も弁明もせずに、くるりと背を向け出口へ歩いた。
「それでは私といっしょにおいでください」
シッタータはあしゅらおうとおりおなえのことが気になったが、自分の居場所はつねにかれらにわかっているはずだと思って、そのまま男のあとにしたがった。
男はせまい通路から通路をたどってしだいに混乱から遠ざかっていった。通路の壁に開いている窓から、ときおり赤く燃えている市街の空が見えた。
やがて高大な高架橋をわたると、あきらかに高級政庁とおぼしい豪華なビルの内部へと入っていった。
「ここです。首席はこの回廊のつき当りの部屋におられます」
男は壁の下に立つと、手をあげてはるか回廊の果をさし示した。
シッタータは周囲にきびしい警戒を払いながら進んだ。ここがわなでないとは決して言いきれない。ナザレのイエスのひそんでいる場所さえ、まだわかっていないのだ。
シッタータが近づくとドアは自動的に開いた。
広大な部屋の中央に一人の長身の男が立っていた。淡い照明に影をひいて黄褐色の法衣のようなものをたけ長にまとっていた。
「首席か」
シッタータは遠くから声をかけた。
「そうだ。お前は他天体からの渡航者。この私に会うためにやってきたのだな」
首席は低いがよく透る声でこたえた。
「私の名はシッタータ。太陽系の地球からやってきた」
首席は急にはげしい興味をシッタータに感じたようだった。おどろきがその声にこもっていた。
「太陽系の?」
「そうだ。それがどうかしたのか?」
「いや。ここはごらんのとおり、はげしい反乱が発生して他の天体からの渡航者はきわめて危険な状態だ。しばらくこの政庁内におられるのがよろしいだろう」
シッタータはそれにはこたえをにごし、ゆっくりと首席の前に進んだ。
近くで見る首席は陶器のようにつやつやしたほおと、冷酷さを感じさせるほどひいでたひたいと沈静した目をもっていた。
「首席。あの市民の反乱の原因はなにかね」
首席はその言葉を受けとめてうなずいた。
「市民に二つの考えがあって、それがついに武力闘争にまで発展したのだ。もっとも武力闘争といっても、一方の側は全く姿をあらわさないが」
「首席をたおせ、とさけんでいたようだが」
首席は苦しそうに目をそらした。そのひたいにおおいがたい苦悩の色が浮かんだ。
「私としては反乱側の要求を通すことは絶対にできないのだ。だから、あのようなさわぎになってしまった」
どうもよくわからないところがあるようだ。シッタータは胸の中でこれまで見聞きしたことを一つにまとめようとした。しかしそれからはまだなにも結論づけることはできなかった。
「間もなく反乱をおこした市民たちは、ここへやってくるだろう」
シッタータは、もしそうなったら首席を自分たち三人で保護してやってもよいと思った。
「いや。それは大丈夫だ。この政庁ビルに入るには、先ほどあなたの通った高架回廊があるだけなのだ。あの高架回廊はすでにバリヤーでふさいでしまった。なにものも通過することはできない」
「なぜ、その両者を和解させようとしないのだ。それが首席たる者のつとめではないのか」
シッタータは言葉するどく言った。
「和解させることはすでに幾十回かこころみ、そのつどあるていど成功してきた。しかしもうだめだ。私ももうつかれた。ところであなたがここへ来た用件はなにかね?」
用件とたずねられてシッタータは思わず言葉につまった。用件があってここへやって来たのではない。逃がれたナザレのイエスを追って送《スペース》 路《・ウエイ》に飛びこんだのだ。だが、そのナザレのイエスとなにがゆえに戦わなければならないはめにおちいったのか、シッタータにはまだ何もわかっていないのだった。ただ、あるいは、と思えることは、
――新星雲紀。双太陽青九三より黄一七の夏。アスタータ五〇における惑星開発委員会は
というあの言葉と、この奇妙な天《シー》蓋《ルド》におおわれた都市、それにおりおなえのいたというアトランティスの王城、シッタータ自身のひそんでいたあの荒廃した平原と都市がすべて一つに結びつくのではあるまいか、ということだった。
そしてどうやらかれ自身は、事象のすべてにあらわれている荒廃と滅亡への傾向とその原因を追求するために、なにものかによってとくに用意された人間にちがいない、と思いはじめていた。
シッタータは聞えなかったふりをして首席の問いをかわした。
「その一方の側の市民に会いたいものだが」
首席はちょっと考えていたが、すぐだまって手をわずかに左方のどこかへ向ってふった。
入口のドアが音もなく開いて一人の男が入ってきた。その男も黄褐色の作業服を身につけていた。
「このかたをA級市民の個《コンパー》 室《トメント》へおつれするように」
「A級市民?」
奇妙な言葉の出現に、シッタータは思わず首席の顔をふりかえった。
「さあ、まいりましょう」
男は静かにシッタータを部屋からつれ出した。
「市民に二つの階級があるのか。ここでは」
それでは反乱もむりからぬことだ。シッタータは胸の中でつぶやいた。
首席の部屋を出ると、回廊はすぐゆるやかな傾斜で下方へ向っていた。これはこのビルが建設された当時は、ビルの内外で車輪のついた車輛が用いられていたことを示している。それは少くとも二千年以上も前のことだろう。
ゆるやかな傾斜回廊をくだりつづけて二人は政庁ビルの深奥部へ入っていった。おそらくそのあたりはすでに地下であろう。回廊の壁に窓は全くみられなくなった。やがて回廊は巨大なとびらで閉されていた。案内の男は壁に設けられたインターフォンでどこかへしきりに連絡をとっていた。ほどなくとびらの上部に赤い光がともった。巨大なとびらは音もなく上方にひき上げられた。
「どうぞ。私はこれより進むことはできません」
男は、どうぞ、というように体を開いてとびらの奥をさし示した。
シッタータは心のどこかに極北の風のようにひやりとしたものを感じたが、そのまま、真っすぐにとびらをくぐった。上方に引き上げられている厚いとびらの内側は、耐放射能フィルターの複合シリコンで張られていた。シッタータがくぐるととびらはたちまち閉された。
回廊はまっすぐにどこまでも伸びていた。その天井や両側の壁に張られた発《ルミ》光《ノニ》材《ウム》も、ところどころ剥《はく》落《らく》し、床にはうっすらと微細な塵《ちり》がつもっていた。その塵は、シッタータの歩みにつれてあわい煙のように舞い上った。それは火山灰よりもまだ軽く、北海の霧よりもまだ小さかった。
「この回廊をだれも通らなくなって、もう一千年以上になるようだな」
回廊の両側にならんでいるとびらの一つをそっと押した。とびらは音もなく開いた。
天井や壁にまだ残る発光材が、無人の室内をさびしく照していた。一方の壁に造りつけのとだながあり、なかば開いて塵の山と化した内容物をさらけ出していた。反対側の壁に寄せて二、三脚の金属パイプの椅《い》子《す》が置かれていたが、真赤にさびた金属部分だけが、枯骨のように妙に静まりかえっていた。正面の壁面にたった一つだけ、パイロット・ランプがともっていた。その小さなオレンジ色の光の環は、この見《み》棄《す》てられて久しい部屋をかえって非現実的なものにみせていた。
かれは部屋から出ようとして、とつぜん背後で異様なものの気配を感じた。
ふりかえったかれの目に、壁の中から灰色の大きな動物があらわれてくるのがうつった。大きな頭とたくましい肢《あし》。円筒形の胴体は灰色の木の皮を重ねあわせたようなうろこにおおわれていた。シッタータは部屋の入口まで後退した。後肢につづいて長い尾があらわれた。先のとがった長い尾が、壁や床をはげしくうった。シッタータは回廊へすべり出ていそいでとびらを閉じた。とびらが完全に閉じる直前、さらにもう一頭の奇妙な動物が壁の中からあらわれてくるのが見えた。
シッタータはとびらにもたれて荒い息をととのえた。足音をしのばせてそのとびらを離れ、そのとなりのとびらを押した。先の部屋と全く同じ構造の、これも荒れ果てた部屋だった。ただこの部屋には椅子はなく、その代りに壁に沿って一台のベッドがおかれていた。強化ガラスと思われる材料で作られたそのベッドは、上に積った微《み》塵《じん》を吹き飛ばすとすばらしい透明さをあきらかにした。シッタータはその上へ腰をおろした。ひどく疲れていた。その感覚は忘れていた遠いさまざまな何かを心の表面に引き出した。それらはたがいに一つに結びついて、ここにいる自分をもう一人の自分に還元しようとしていた。その一つに合した所に何かが見えた。かれはそれをもっとよく見ようとして、心の目を見開いたが、それはたちまちはるかな遠くにしりぞいてしまった。それは河の向う岸のように、目には見えていても決して手はとどかないものだった。
顔を上げると、目の前に青い海が見えた。太陽は新鮮な光を青い海原に投げかけていた。とつぜん、その青い海の表面が二つに裂けると、一匹の巨大な魚がおどり出した。それはすぐ二隻の宇宙船に変って光子エンジンの反《はん》射《しや》傘《がさ》が開いた。
シッタータは自分が夢か幻を見ているのだと思った。それを頭からふり払おうとして、今、目の前にあるものが幻覚などではなく、完全に現実の一個の風景であることに気づいてかれはただのひと足で回廊へとび出した。とび出した力をとどめきれずに、回廊の床をまりのようにころがった。かれはふたたびとびらの内部をうかがう勇気は失っていた。かれはあとをも見ずに回廊を奥へと走った。
どこまで行っても無人の回廊はつきなかった。その両側の個《コンパー》 室《トメント》も、内部に一人の人間の気配もとどめていなかった。たった一つだけとびらがなかば開いている部屋があった。そっとのぞきこむと、くらい照明の下でえたいの知れない物体がうごめいていた。かれは火と煙をふき出しながら部屋の中央で立ったり坐《すわ》ったりしていた。
「いったいこれはなんだろう? これらがA級市民なのだろうか?」
しかし個 室《コンパートメント》の内部で見たものは市民などと呼べるようなものではない。奇妙な動物や、火とけむりをまき散らす生物などは市民と呼んで呼べないものではない。しかし光子宇宙船などはどう考えたところで、市民のうちには入らないだろう。
シッタータはここからもどろうかと思った。もう一度、首席にあらためてたずねてみようかと思った。そのとき、ようやく回廊がつきたことを知った。
回廊は薄緑色の金属と思われる硬いパネルで閉じられていた。《A級市民エリア》光電文字がかがやいていた。
暗黒の中にパイロット・ランプの列が消えたりあらわれたりしていた。それは長い輝線が、一定のリズムである高さの間を上下にとびはねているように見えた。
耳をすましても何も聞えなかった。
シッタータは思いきって腰に巻いた皮ひもの先端の投光器をともした。青白い強烈な光芒の中に、これまで見たこともない複雑な、厖《ぼう》大《だい》な機構があらわれた。
それはファイルやマイクロ・フィルムを収納するひきだしのついた整理棚によく似ていた。しかしそれが整理棚ともっともちがっているところはその金属パネルの前面を縦横に走るおびただしい管《パイプ》だった。その中の大部分は電路を収めたものらしい。またあきらかに液体を送るための途中に精巧な自動調節バルブをそなえた管《パイプ》もあった。天井に銀色に光るレールを音もなく一台のホイストがすべってきた。
《――A級市民ニ会イタイトイウ異星人ハアナタカ》
奇妙な抑揚を持った言葉が、そのホイストから降ってきた。
「そうだ、反乱の真相を知りたいのだ」
数秒の沈黙ののちに、また声がおりてきた。
《ヨロシイ。ソレデハイマ一人、ココへ出ソウ。自由ニ質問シテクレ》
平たいカニのような形のホイストはするするとうでをのばした。一本のうでがさらに四本に分れ、金属パネルの前面にならんだ無数の小さなとびらの一つを開いた。内部から浅い銀色の皿《さら》をひき出した。他のうでがその皿の中から一枚の四角い金属片をつかみ出すと、ホイストの本体の部分の横からそっとさしこんだ。
照合カードかなにからしいな。それにしてもいやに厳重に警戒するものだ。
シッタータは頭上のホイストをあおいだ。下面に緑色の灯がともった。今まで見えなかったホイストのむこう側から、透明なゴンドラが下降してきた。
その内部に一人の人間がうずくまっていた。シッタータは思わず目をこらした。天井のレールを走るホイストは、平たく非常にコンパクトなものであり、とうてい内部に人間を収めることはできないものだった。
ゴンドラはシッタータの目の前におろされた。左右に開いたキャノピーから小さな男が立ち上った。衣服とも、ただの布きれともつかない青い布をまとい、むき出しの腕に銀色の円環をはめていた。おどろくほどはなれた小さな目が、いぶかしそうにシッタータを見つめていた。薄い唇が半分開いて火のような息を吐いていた。
シッタータはしさいに男を観察した。背は一メートルほどしかなかったが、目も耳も鼻も完全にそなわっていた。表情こそ粘土細工のように固着していたが、丸い頭、細いうで、どれをとってみても、むしろ好感につながる繊細さを持っていた。
「お前がA級市民か」
男はうつろな表情を浮かべてシッタータを見上げた。その表情になにかが欠けているような気がした。
おかしい。どうもおかしい。
シッタータは目の前の男のどこが自分の心にひっかかるのか、必死にさぐろうとした。
「お前たちと、市街で反乱を起している連中といったいどこが違うのだ?」
男はシッタータの言葉を全身で受けとめた。
「B級市民は、あれはロボットだ。ただの」
男は吐《は》き棄《す》てるように言った。
「ロ・ボ・ッ・トだって?」
聞きなれない言葉に、シッタータは耳をそばだてた。
「ああ、かれらはわれわれとはちがう。かれらはロボットなのだ」
男の心は、その話題からみるみる離れ去っていった。
「ロボットというと?」
シッタータの問いにも、もうこたえようとせずに、男は落着かなく周囲を見まわした。
青白い光《こう》芒《ぼう》の中で、縦横に組み上げられ、重ねられた複雑な影のかもし出す明暗の中で、男の顔は奇妙に表情を失ってみえた。
「ロボットというと?」
シッタータは、もう想い出せないほど遠いむかしのどこかでその言葉を聞いたことがあるような気がした。その遠いむかしをむりに想い出そうとすると、心のどこかが急に張りさけそうに緊張した。それはこの場のたたずまいとは全く場違いなある悲劇的ななにかを意味していた。その記録の殻《から》はかれの心の表層と遠い過去の闇《やみ》の間をめまぐるしくゆききしていた。かれは表層にあっては一つのある重大な前兆に変《へん》貌《ぼう》しようとしていた。しかしそれが変貌をなしとげるまでには、まだおびただしい時間が必要だった。
「ロボットというと?」
しつようなシッタータの問いに、男はようやく顔を向けた。その顔に、はじめてはげしいおどろきの色が浮かんだ。
「おまえはだれだ?」
男は小さな目を見開いてシッタータの頭のてっぺんからつま先までながめまわした。どうやらようやくシッタータの存在が男の脳《のう》裡《り》に現実のものとなったらしい。
「それを説明する前に一つだけこたえてくれ」
シッタータは男の顔をのぞきこんでゆっくりと言った。
「おまえはだれだ?」
男は首をかしげた。
「おまえはどこからやってきたのか?」
「B級の市民はなぜ反乱をおこしているのか?」
シッタータとその男は同時に相手に向って質問を放った。その問いはたがいに相手の胸をつらぬいた。二人は仇《きゆう》敵《てき》のようににらみあった。
「なぜ反乱をおこしているのだ?」
シッタータの二度目の問いが早かった。
「反乱?」
「そうだ。この都市は反乱で今や都市としての機能をうしないかかっている」
「反乱? 知らない。そんなこと」
「知らないはずはあるまい。だいいち、おまえだってここの市民だろう」
男はシッタータの言葉などにはなんの興味もみせず、ゆっくりと体を前後にふった。
「わかるか? 私の言葉が」
「ここはどこだ?」
男はふいにシッタータにたずねた。
「ど、どこって、ここはおまえたちの都市ではないか」
とつぜん男は笑い出した。その笑いはAの音を基調として乾《かわ》いた不協和音でシッタータの耳を打った。
「それはちがう。ここはわれわれの都市ではない」
シッタータは思わず周囲を見まわした。
「しかし」
「いいか。おまえの目にここがどのように見えようとも、ここにはあの外の連中は一人もいないのだ。一人もな」
「外の」
「B級市民と呼ぶが、その呼びかたは実は遠い遠いむかしのもの。今ではわれわれとはなんの関係もない存在だ」
「すると、おまえたちをA級市民と呼ぶのも」
「全く意味がないのだ」
すると、これはいったいどういうことなのだろう。シッタータは混乱と無秩序の中から何か手がかりになるものを得たい、と焦った。
「な、一つだけおしえてくれないか。ここはなんというところなのだ」
「ここはZEN-ZENだ」
「ゼン・ゼン?」
「ちがう、ここはZEN-ZENだ」
男は妙なアクセントで訂正した。
そんな名前の都市は太陽系の中にはない。太陽系の中だけではない。銀河系を分つ二十四の星域の少なくとも太陽側の十三の星域には所在しない。他の十一の星域ではどうだったろうか? シッタータは目を宙にすえて記憶をさぐった。しかしそれはどうやら無《む》駄《だ》だった。
男はとつぜん、はげしいおそれを顔に浮かべるとシッタータのうでにとりすがった。
「どうした?」
男はにわかになにかを思い出したらしかった。男は小さな耳をかたむけて聞えもしない遠い音に全神経をそそいだ。
「どうした。なにか聞えるのか」
シッタータもつられて思わず耳をそばだてた。
なんの物音も聞えなかった。動かない光と影と、そして死よりもまだ静かな静けさがあるばかりだった。
「神を見なかったか?」
男の手に力がこもった。それはかすかな抵抗感をシッタータに与えたのみで、まるで重さというものが感じられなかった。
「神?」
ここでもまた神だった。
「いや、神など見ないぞ」
ここへ来てから、まだ神などというものにめぐりあっていない。ここがいったいどこなのか、この奇妙な都市と人々の信ずる神なるものにあってみたい気持がふと強く動いた。
「わしは神にまねかれてここへやってきたのだとばかり思っていたが」
男は夢からさめたように、二人をとり囲む無機的な光の縞《しま》もように目をあてた。
「ほう、神にまねかれてか」
シッタータは広大な壁面を埋める無数の小さなロッカーの列をながめた。
男はけいけんな口調でつづけた。
「この世界の破局の前兆がたしかなものとなったとき、われわれは都市を見棄てた。われわれの偉大な神はわれわれを見守り、いかなる種類の恐怖や破滅もここにはない。あるものは永遠の安らぎだけだ」
シッタータはそのときようやく気がついた。最初、この男の顔を見たときに感じたなんとはない欠如感は、実は正しく〓“永遠の安らぎ〓”を獲たものだけのもつ充足の空白だったのだ。それこそ、ほとんど永《えい》劫《ごう》に近い安らぎにちがいない。
そしてその欠如したなにものかは、さらに重大ななにものかにむすびついていた。
今こそ、それをたしかめなければ――
シッタータは大きく一歩ふみこんだ。
《ソレデオワリダ。カレヲスイミンソウヘモドス》
とつぜん天井から声が降ってきた。
シッタータは忘れていた。
頭上をはしるレールをふまえて、ひらたい銀色のホイストが停止していた。かれは二人の会話に耳をかたむけ、監視していたとしか思えなかった。
ひらたいホイストが、複雑な形のうでを動かし、それを四本にまとめると小さなひし形を造った。シッタータの前に立っている男の顔から急速に表情が消えていった。離れた小さな目はほとんど所在を失った。小さな耳は耳《じ》殻《かく》を失って頭部の側面は平滑になった。男の全身を、奇妙な倦《けん》怠《たい》の色が薄雲のようにつつんだ。男はシッタータに背を向けると、影のように動いてシリンダーの中に横たわった。
「なんだ、そのスイミンソウというのは?」
シッタータは頭上のホイストに向ってさけんだ。
男の横たわったシリンダーは音もなく垂直のリフト・レールをのぼって天井のひらたいホイストの内部に吸いこまれた。
《睡《スイ》眠《ミン》巣《ソウ》トイウノハ、カレヲスベテノ物理的・化学的変化カラ守リ、カレラノ原形質ノ生物学的特性ヲ維持、記録シ、必要ガアレバイツデモソレヲ形象化デキル諸要条件ヲ充足サセテオク機構ナノダ》
シッタータはいそいで補助電子頭脳をはたらかせて、その言葉の意味を追跡させた。誤訳や、翻訳できなかった個所はどこにもなかった。
これはいったいどういうことなのだろう?――
ホイストの肢の一つが大きく弧を描いて回転すると、自分の横腹のハッチから一枚の小さな金属片をぬき出した。肢はもう一度大きく動かすと、壁面に開いたままになっているさきほどのロッカーの中の受《う》け皿《ざら》にそれをおいた。受け皿は暗いロッカーの奥へ消えていった。ハッチが閉じ、いっしゅんの停滞もみせない作業だった。
《A級市民トノメンカイハオワッタ。退去サレタイ》
静かな声がおちてきた。
「あのロッカーの中のカードはなんだ?」
ホイストはレールの上をゆっくりともどりはじめた。
「まて! 今ここにあらわれたのは人間ではあるまい」
シッタータの声は高い天井にはねかえってうつろなこだまをひいた。
シッタータは走った。
「こたえろ! ここには生命ある住民はいないのか!」
ホイストは音もなく、しだいに早く、遠ざかっていった。その下方に追いすがるシッタータの前に、壁面を埋める銀色のロッカーの列は世界の果の境界のように立ちふさがった。
「こたえろ!」
ホイストの放つ銀色の光輝がシッタータの目を射た。もはや問うことは無駄だった。かれは足を止めた。あとは直接、ぶつかる以外にない。ロッカーの列にかけよると手をかけた。もとよりびくともしない。シッタータは肩の放電葉を巻いて放電面積をせまくし、その先端をロッカーのとびらに向けた。青い閃《せん》光《こう》とともにロッカーのとびらが音もなくあめのように溶けた。ついで内部のシリコーン・ファイバーの二重ドアがめらめらと燃え上った。ほのおの掃《は》きさったあとには、なまり色の金属パネルがそりかえっているだけだった。
シッタータはその紙のように薄くなったロッカーのパネルをこぶしで叩《たた》きやぶった。金属パネルはこなごなにくだけて床《ゆか》に散った。
内部の受け皿にのっている四角な金属片をつまみだした。その表面をえたいのしれぬ記号がすきまなく埋めていた。裏は熱で茶色に変色していた。シッタータはそれをポケットにいれた。
とつぜん、シッタータの耳の奥底で鼓《こ》膜《まく》を切り裂くような高い音がなりひびいた。目と目の間にはげしい目まいがつきささった。かれは耳をおさえてその場にうずくまった。全身の血液が頭《ず》蓋《がい》の中に集った。
ふりあおぐ視野のはしに、電光のようにもどってくるホイストが見えた。シッタータはうしなわれようとする意識をかろうじてささえてホイストをむかえうった。むかえうったのは気持だけだった。強烈な目まいの波があとからあとからかれをおそってきた。かれは立ち上った。しかし、かれは立ち上ったままふらふらと前後にゆれた。
視野がかすんできた。
かすかな後悔がかれの胸をかんだ。
こんな世界に入りこんできたのがいけなかった。もしかしたら、これはあのナザレの男の設けたわなではないだろうか――
シッタータの胸に、あの、あかとひげにつつまれた男の顔が遠い稲光のように明滅した。
そこは数十本の高速《 ハ イ ・》走路《 ベ ル ト》が集中し、そこから車輪のように八方に散っていった。分岐するとすぐゆるやかな勾《こう》配《ばい》で上方へ向うもの、また急角度に下方へ消えてゆくもの、また円軌道を重ねてゆっくりと上昇してゆくものなど、それはすべてもつれあったまま永久に解けることのないリボンの束だった。その走路をおびただしい人と荷物がはこばれていた。それは発光材で作られた走路のえがく美しい光の帯に散った黒い斑《はん》紋《もん》だった。
頭上数百メートルのところに、さらに一つのターミナルがあり、その上方は濃いもやにかすんでよく見えなかった。はるか下方に同じような車輪型のターミナルが青緑色の星のように見えた。濃いもやににじむ夜の大気の中を、一機のロートダインが下降していった。それは自由に形を変えるつばさと胴体を持っていた。ロートダインの通ったあとのもやはかすかに動いた。
その闇《やみ》を基調とする広大な空間の周囲はすべて切り立った壁だった。壁は透明なガラスで造られ、その奥の宝石をくだいてばらまいたような多彩な色と光のはんらんをみせていた。おそらく一千層以上はあろう。そこにいとなまれているこの都市の人々の生活が目にうかぶようだった。堅固な外壁で完全に外界から隔離され、いかなる気象変化や自然の急激な変動にも耐えられるようになっていた。都市の最下層を占める熱核反応発電とその配電路。おそらく市民たちは直接、生産に関係することはないであろう。したがって――
ここは、ここは?
シッタータは思わず立ち上った。
目の前から、都市は消えていた。そして立つともうれつな目まいがおそってきた。今見たものは決してまぼろしや夢ではなかった。現実に一つの大都市が眼前にあらわれたのだった。その都市は厖《ぼう》大《だい》な人口を収めるにふさわしい典型的な塔状都市であり、「外界に対して完全にシールドされていた」
シッタータはくらいまなざしで、目の前につらなっているロッカーの壁を見つめた。
「この世界の破局の前兆がたしかなものとなったとき、われわれは都市を見棄てた。われわれの偉大な神はわれわれを見守り、か」
シッタータはホイストの心理攻撃にはいつでも対抗できるように心をかまえてホイストを見上げた。
「たずねたいことがある。首席、都市を見棄てなければならなかったその理由はなんだ?」
深い静けさがシッタータの言葉を吸いとった。
「つぎに、ここへナザレのイエスと称する男がやってこなかっただろうか」
こたえはなかったが、シッタータはつづけた。
「今、私は天にそびえる巨大な都市をこの目で見た。それは、おそらく、この無数のロッカーを個《コンパー》 室《トメント》とし、内部の受け皿に入っている記録カードを市民とする仮想の都市のすがたなのだろう。外界に対して完全にシールドされ、いかなる自然の激変にも耐えられる。しかも神はつねにかれらを見守っている」
頭上から声がふってきた。
《ソノトオリダ。今、オマエガミタトイウ都市ハ、実ハオマエガ一部ノ回路ヲ破壊シタタメニ生ジタ虚像ダ。コレハコノエリアヘノ来訪者ニタイシテモチイラレルモノデ、来訪者ハ現実的ニ完全ニ同化シウルモノダ》
それは完全な催眠効果で、来訪者は壮大な都市の中を歩きまわり、生活し、たくさんの人々に会うのだ。しかしそれが全くの幻想であり、自分は坐したまま、あるいは床にうち伏したままただの数分を送っただけだとはそののちも決して気がつかないだろう。
「生理的なパターンだけが記号化されて保存され、それが人工肉体に封入されてあらわれたからといって、それが人間だ、いや生物だと言えるか!」
シッタータは鉄さび色の嘔《おう》吐《と》感《かん》をこらえながら言った。
《オマエ自体ガソウデナイト言エルノカ? オマエノ故郷ノ星モ、オマエノ生活モ、マタ、今、オマエノ目ノ前ニクリヒロゲラレテイルサマザマナデキゴトモ、スベテ幻想ノ所産デナイト、オマエハ言イキレルカ?》
「それは観測の結果がすべての人にとって普遍的であり……」
《ソノスベテノモノガ集団幻覚ニヨル仮構ノ世界ニ在ルトシタラ》
「そんな」
《現象ハケッシテ実態ノ投影デハナイ。観測ノ技術モ方法モ、ソレヲ確認スル手段ハアルマイ》
「それでは不可知論に終始してしまうではないか」
《フカチトハナニカ。フカチトイウカラニハスデニ、認識ヲゼンテイトシテイルノカ》
「まて。キー・パンチ・カードの中にある自分をどのようにとらえているのか」
《オマエハネムッテイルアイダノオノレノ存在ヲドノヨウニトラエテイルノカ》
眠っているとき、か。死も、また。
シッタータは頭をふった。
「都市を見棄てたその理由は」
*
まさにそれは個《コンパー》 室《トメント》とよぶにふさわしかった。ただ、それを居室とよぶにはいささか勇気が必要だった。投光器の光の中に、直径一メートルほどの銀色の円《えん》蓋《がい》がならんでいた。その未知の合金でおおわれた内部にはなにがおさめられているのか、シッタータには見当もつかなかった。くらい回廊が果しなくつづいていた。その回廊の天井に張られた発 光 材《エレクトロ・ルミネツセンス》が破れた紙のように古びてたれさがっていた。それがともらなくなって、もうどれだけの歳月がたっていったのだろうか。おそらく、万の単位ではからなければならないだろうと思った。
回廊は二つに分れ、また三つに分れた。どちらへ曲っても、両側の壁面にはおびただしい円蓋が、ひっそりとならんでいるだけだった。
――まるで共同墓地ではないか。
シッタータはよどんだ空気と乾《かわ》いた暗黒の中で、この都市にひそむ者の思考と生理を思った。それは全く姿をあらわさなかった。シッタータはかれらにとって無用の闖《ちん》入《にゆう》者《しや》であり、おそるべき外敵であるはずだった。しかし、抵抗は少しもみられなかった。それほどかれらの個《コンパー》 室《トメント》は堅《けん》牢《ろう》なものであり、外来者の力をもってしては、その個《コンパー》 室《トメント》の入口をふさぐ銀色の円蓋を開くことは、全く不可能なことと考えられた。
上下にどれほどの階層があるのか、また四方にどれだけひろがっているのか知りえようもないままに、シッタータは歩きつづけた。出口を求めて歩きつづけてもう数十時間になるはずだった。
――わなだ!
そのおそれはこの都市へ入ったときからのものだった。
シッタータは投光器の中に浮かび上った円蓋の一つにあゆみよった。銀色の金属パネルを張りつめた壁面に、わずかに凸レンズのようなふくらみをみせて、円蓋はしっかりとはめこまれていた。シッタータはうでにはめていたメーザーに携帯用原子炉《マイクロ・ビルトイン》の出力端子をつないだ。
目のくらむようなあざやかな真紅の光の矢が円蓋につきささった。十秒、二十秒、三十秒。円蓋は真紅の光を反射して宝石のようにかがやいた。
だめか!
メーザーをとめ、真紅の光《こう》芒《ぼう》が消えると、いっしゅん暗黒が山のようにのしかかってきた。円蓋はわずかの間、淡い赤色光を放っていたが、それもみるみる失せていった。この都市の市民たちは、外来者に対してかたくなにその城を閉じたままだった。いっさいの警戒装置も、防《ぼう》禦《ぎよ》組織もこの都市では必要ないであろう。この回廊まで侵入できても、ここから内部へは一歩もふみこむことができないのだ。
しかし、シッタータにとってもどる道はなかった。
かれは放電葉のとりつけ部分のチタニック・ステンレスのパネルをはずすと、それに振動回路をとりつけた。パネルを円蓋に押し当てて回路を入れた。聞きとれないほどのかすかな震動音がわきおこった。出力を上げて震動数をぐんぐん高めてゆく。銀色の円蓋がかすかにうなりはじめた。シッタータはもう一度メーザーをとり上げた。目にもとまらない超震動の中央へ真紅の火矢を一《いつ》閃《せん》させた。脆《ぜい》性《せい》破壊のぶきみなひびきが鼓膜をつきさした。メーザーの火矢をとどめると同時に、銀色の円蓋はくだけて音もなく床《ゆか》に落ちた。
円蓋の奥にハイ・シリコン・クリスタルの透明なとびらがあった。その回転部分の金属をメーザーでとかして押し開いた。その内側の薄い軽金属のスクリーンをうち破る。
内部は部屋というよりも、そのまま小型の宇宙船の航法装置区《サービス・ヤード》といった方がよかった。せまい空間を大小無数の円管《 パ イ プ》や電路が縦横にはしり、すき間もなく壁を埋め、天井をおおっていた。電子頭脳とおぼしい円筒が床からせり出している。その電子頭脳が数十本の電路をのばしている先に、これはあきらかに微気象調節装置のユニットが緊急作動の自己冷却用ファンを全力回転させていた。シッタータの開いた破孔によって、この個《コンパー》 室《トメント》は致命的な破局にひんしているらしかった。
投光器の光の奥になにかの塊《かたまり》がもり上っていた。なまあたたかい生物の匂《にお》いがそこからただよい流れてきた。シッタータは投光器をかざし、中腰になってのぞきこんだ。
円い頭が、ほとんど首らしいくびれを持たずにふくれた肩につながっていた。太い胴体にふつりあいな短い手足がついていた。強烈な光の中で、むき出しのひふは淡い褐《かつ》色《しよく》だった。
「おまえがこの個《コンパー》 室《トメント》の住人か」
シッタータは身をかがめてたずねた。こたえは求められるはずもなかった。その生物は体を不規則にふるわせながら、呼吸はしだいに細く早くなっていった。円蓋を破ったことによって、この個《コンパー》 室《トメント》の自然環境が壊滅したのだろう。電子頭脳の必死の管制のかいもなく、今、この個《コンパー》 室《トメント》の住人は死をむかえようとしていた。
シッタータは立ち上った。そこを出ようとしてあることに気づいた。床にうちたおれている生物の体から直径五センチメートルほどの管《パイプ》が右と左へのびているのだ。どちらも壁面に開いた小孔の奥へ消えていた。その管《パイプ》はあきらかにその生物の体組織の延長だった。
「この管《パイプ》はなんだろう?」
そっと触れてみると、かすかな脈動と点滴が感じられた。
シッタータは肩の放電葉をつつんでいるタンタル・スチールのカバーをはずすと、そのするどい一端を管《パイプ》におし当てて力をこめ、ざくりと断ち切った。生物がびくっとはげしくけいれんして反転した。管《パイプ》の内部には三つの腔《こう》所《しよ》があった。その一つから間けつ的にあふれ出すねばねばした透明な液体はシッタータのひじから胸もとをぬらした。一つの腔所はあきらかに神経束だった。やわらかな白質部が内圧によっておし出されてきた。残る一つはどうやら血管のようだった。おしつぶされた切り口の組織の間から濃緑色の液体がしみ出てきた。
もう一本の管《パイプ》も同じように断ち切ってみる。これも同様だった。
生物は二、三度かすかに身ぶるいするとそのまま動かなくなってしまった。
「死んだか」
シッタータはふたたび、くだけ落ちた円蓋をくぐってくらい回廊へ出た。
シッタータはくらやみの奥をうかがった。なんの物音も聞えなかった。投光器のスイッチを押してくらやみを掃く、いぜんとして死のような静寂がこの巨大な都市をおしつつんでいるばかりだった。
――いや。ちがう! 聞える。たしかに聞える!
シッタータは全身の神経を耳にそそいで、周囲の静けさの奥を聞いた。音ともいえない風のようなさやぎがかすかにくらやみの奥から伝わってきた。補助電子頭脳のパワーを上げて両耳の可聴域をあげた。
それは汐《しお》鳴《な》りのようにあるいは高く低く、渦《うず》まいてシッタータをめぐっていた。
なにものだ!
シッタータはその源泉を求めて静かに移動した。しかも、そのかすかなさやぎはあるいは上方から、あるいは下方から、ときに右へ、また左へ、絶え間なく移ろってどうしてもその方向を知ることができなかった。
とつぜん、シッタータは自分がはげしい敵意につつまれていることに気づいた。投光器を消すと、回廊の壁を背におのれの気配を絶とうとした。
タールのような粘液質の怒りが、目に見えないひだとなってひたひたと寄せてきた。その怒りのみなもとは億に近い数の点刻となって周囲の空間を埋めていた。
それは一個体の苦痛と死が、全体のそれに拡大され、はげしい怒りとなって放射されているのだった。
ここでは苦痛と死とは共有されていた!
かれは暗黒の回廊を走った。
これは都市ではなかった。
かれらは群体なのだ。
外はつめたい雨がふりつづいていた。手のとどきそうな低い空を、灰色の雲がすき間もなく垂れ下っていた。実際、雲の高さは百メートルもなかった。風が断続するたびに、雨はひとしきり強くなった。
軽金属の屋根のところどころが褐色に朽ちて斑となり、そこから雨が洩《も》れてきた。強化ガラスの破片を敷きつめた床の上を、雨水は幾つもの小流を作って地面へ流れ落ちていった。濡《ぬ》れていない所はもうどこにもなかった。体の中までつめたい雨に濡れそぼれていた。
かたむいた屋根の下に、炭酸ビニールの布をかぶった数個の人影がうずくまっていた。
ひとしきりつめたい雨がしぶいて、ひろげた炭酸ビニールをばさばさとあおった。その下から、とほうにくれたうつろな目がシッタータを追った。
「見たところ、まんぞくな家は一つもないようだ。屋根はかたむき、壁は落ち、道路はこのように河となっても排《はい》水《すい》溝《こう》さえない。どうしたのだ。いったい」
シッタータが足を止めると、炭酸ビニールの薄布の下から六個の円い頭があらわれた。
「市民が家を建てることができないほど、この都市はまずしいとも思えないが」
シッタータは背後にそびえる巨大な円柱《オベリスク》をふりかえった。それこそこの都市の中核であり、すべてでもあった。
《アレヲ知ッテイルカ》
炭酸ビニールの下から細い腕をのばしてそびえる円柱を指した。
「ああ、知っているとも」
《カレラハアノ大円柱ノ中ノ世界ヘ閉ジコモッテシマッタ。閉ジコモッテカラ、モウ三千年以上ニナル。アトニ残ッタワレワレハイッタイドウスレバヨイノダロウ。町ヲ作リタイガ、ドウヤッテ作ルノカダレモシラナイノダ》
――町を作ったところでしかたがあるまい。
「だが、なぜ、かれらだけがあのような完備した個《コンパー》 室《トメント》に入り、しかも外部との交渉を全く絶ってしまったのだろうか」
他の円い頭がそれにこたえた。
《ソレガ発展ノ、シ、シ、エエト、シゼンノナリユキナノダトイウ》
「自然のなりゆき?」
群体になることが都市の進化の必然的な変化だと言うのか。
「おまえたちはなぜ個《コンパー》 室《トメント》に入らないのだ。あれらのように」
炭酸ビニールの下で、かれらはたがいに顔をみあわせた。
「それは、かれらは人間だからだ」
「人間だから?」
円い頭がいっせいに動いた。
柱の間を雨が横なぐりに吹きぬけていった。吹き飛ばされてきた軽金属のパネルが、水たまりに落ちて煙のような水しぶきを上げた。つめたい雨足のむこうに、巨大な円柱が影絵のように浮き上っていた。
*
《自然環境ノ悪化ニ対抗シ、マタ適応スルタメニ、人類ハ新シイ群体ヲ形成シ、個《コンパー》 室《トメント》ヲ個体ノタメノ殻《シエル》トナシタ。群体ヲ造ルコト自体ハスグレタ対抗策ダッタ。シカシ、ソノヨウナ必然性ヲ内包シタ世界ハ終局的ニハ破滅スル。ソノ破滅カラタトエシバラクノ間ダケデモマヌカレルタメニハ、ヨリ高度ナ画一性ガ必要トナッテクル。スベテノ市民ハ単一ナ記号ニ還元サレ、アラユル変化カラ保護サレル》
「それでは進化も発展もないではないか」
《人類ハスグニ進化トカ発展ヲ口ニスルガ、ソノタメニコノヨウニ破滅ニツケコマレルコトニナッタノデハナイカ》
シッタータはうなずいた。
「おまえはだれだ?」
頭上のホイストはしばらくだまっていたが、やがて吐き棄てるような声が落ちてきた。
《私ハ神ダ。タダシクハ、コノ都市ノ住民タチハ、カツテ私ノコトヲ神トヨンダ》
その言葉はかれの市民に対する、そしてかれの市民をおとしいれた運命に対する酷薄な感慨をひめていた。
「ほう。神にしてはまた、ものものしい姿をしているな」
頭上のレールの上に在る『神』はわずかに笑ったようだった。
《神ニサダマッタ形ヤ仕事ナドアルモノカ。神ハソノアラワレル世界ニヨッテ、実ニサマザマナ生態ヲ示ス。神ハトキニ大イナル慈悲ト恩チョウヲ垂下スルカト思エバ、トキニ最新ノ工作機械トモナリ、飼育器トモナリ、マタ経済機構ニモ変貌スル》
「それもこれも、すべて『神』とその影響に関するセス・ベータ型開発というわけか」
《ナンノコトカ?》
「ここヘナザレのイエスという男が来なかったか」
《知ラナイナ。ナンダ? ソノナザレノイエストイウノハ》
シッタータは肩をすくめた。
「地球に対するセス・ベータ型開発の管理官だ。私はその男が、だれに命じられて開発管理官となったのか知りたいのだ」
それは同時に、この頭上の神がこの天体に対するセス・ベータ型開発の推進者ではないか、という強い疑いをふくんでいた。
「あなたの名は?」
《ZEN-ZEN》
シッタータはその奇妙なひびきを口の中でつぶやいた。
「ナザレのイエスは、このアスタータ五〇のどこかにひそんでいるのだ」
手がかりは全くない。
《ソノ男ハ、アルイハ惑星開発委員会ニ所属スルノデハナイカ? モシ、ソウダトシタラ、コノ都市ヲ出テ北ヘ向エ。丘リョウニ囲マレタ小サナ平原ニ惑星開発委員会ノビルガアルト聞ク》
その言葉を背に、シッタータはくらい回廊をもどった。すべての道はふさがれていた。その道のどれかが『シ』につながっているはずだった。
広場の中央にそびえる三稜のオベリスクはすでに中ほどからおれて石だたみの上に横たわっていた。いくつかのビルが山くずれのようになだれ落ちた。くだけたコンクリートの破片と土けむりが大きく傘《かさ》を開いてふき上った。広場を影のように走りまわっている人々の上をレーザーの青緑色の光《こう》芒《ぼう》がなめていった。けたたましい爆発音と火光が交錯した。
くらい空を火の粉が川のように流れていった。
シッタータは首席の部屋へもどった。
淡い照明に影を曳《ひ》いて首席が彫像のように立っていた。シッタータがこの部屋を出ていらい、少しも動いていないのではあるまいかと思われた。
「首席。どうやら反乱の意味はわかった。それから、この都市の崩壊の原因もな」
首席はゆっくりと体をまわした。
「神に会ったであろう」
「ZEN-ZENとか言った」
「偉大な神だ。しかし、かれをもってしてもこの都市の破滅は救えなかった」
「ZEN-ZENはおまえたちのことは見棄てたものとみえるな」
首席はかすかに笑った。ひいでたひたいにくらい色が流れた。
「もともと神はわれわれのものではない。当然だ」
首席はふいにはげしい感情の動きをみせるとシッタータの前に立ちふさがった。
「しかし、今ではこの都市を支えるもの、生産にたずさわるだけでなく、この都市での真の生活者はわれわれではないか?」
そのとおりだ。たしかに事実はそのとおりだが、それは仕組まれたプログラムとはなんの関係もないことなのだ。
『シ』が関心を持っているのは、広場のオベリスクを打ちたおしていた市民たちではなくて、都市の深奥で一枚のパンチ・カードに還元して永遠の眠りをむさぼっている生命の形《けい》骸《がい》たちなのだ。
「あの、つめたい雨の中に見棄てられたものたちがあったように、こんどもまた」
首席は遠い目つきでシッタータを見た。
「われわれが歴史のにない手になるときは、ついに永遠に来ないようだ」
シッタータはだまってそこを離れた。
ビルの胸壁に、乗《の》り棄《す》てたイオノクラフトに火災の赤いほのおが映えていた。そのくらい突出部の下に、二つの影が立っていた。
「深奥の神に会ってきたか」
あしゅらおうが眼下の火を半顔に受けてほほえんだ。
「どうしてわかった」
「私はおまえの心や目を通じて知ることができるのだ」
あしゅらおうは、うそともほんとうともつかぬ言いかたであいまいに笑った。
「それではこの地表を北へ進んだところにある山脈に囲まれた平原に、惑星開発委員会がある、ということも知っているわけだ」
三人を乗せたイオノクラフトは火災の煙をかすめてくらい天蓋の外へ向った。
目の前に、茫《ぼう》々《ぼう》とひろがる銀白色の平原は、淡黄色の小さな太陽の輪郭を光輪のように映していた。
「あの山がそうかな」
前方、それに右と左の地平線に黒々と山なみがそびえていた。
「アノ、ヤマニカコマレテナニガアルノダ?」
「惑星開発委員会だ」
「『シ』ノメイヲウケ、トイウアレダナ」
「そうだ」
「スルト、『シ』ナルモノハ、ソノヘイゲンニイルノカ?」
「さあ、どうかな」
「アトラスナナセイモ、ポセイドニスゴセイモ、コヤマノヨウニオオキカッタ」
「おりおなえはかれらに会ったことがあるのだな」
「ソセンノクニ、アトランタカラヤッテキタノダ、トモウシテイタ。ワタシハマダハッキリオボエテイル。タネンニワタル、ヨノジッケンテキホウホウニヨルオウコクノケイエイハ、キワメテセイコウヲミタ。ヨノオウコクノセイコウコソ、コレカラノワクセイカイハツニトッテキワメテジュウヨウナシシントナルモノダ」
「祖先の国、アトランタ、か」
「どこにあるのだろう?」
「シッタータ。つまり」
あしゅらおうが鼻にしわをよせて小さな太陽を見上げた。
「アイ星域、第三惑星にこころみられたヘリオ・セス・ベータ型開発はすべて失敗に終ったわけか」
「このアスタータ五〇の開発も結局失敗だったのだ」
シッタータとあしゅらおうは顔を見あわせた。
「惑星開発委員会も『シ』の命令を果すことができなかったらしいな」
「人類は戦争と絶えざる経済危機、それに人口問題になやまされながら宇宙に進出したが、ついに全銀河系にひろがることはできなかった。砂漠化する緑地を回復することすらとうとう未完のまま放棄してしまった」
茫《ぼう》漠《ばく》たる感慨がシッタータの胸を去来した。
「なんだか、人間は最初からほろびへの道を歩んでいたような気がする。病気や天災や死や争い。人間のそばにあるのはいつもそんなものばかりだったではないか。ひとときでも、人間の心の底から安心したことなどあっただろうか」
あしゅらおうはそれにはこたえず、しだいに迫ってくる黒い山かげを見つめていた。
淡黄色の小さな太陽は遠く地平線にかくれようとしていた。弱々しい陽ざしは水平方向から、この平滑な天体の表面に光の縞《しま》を投げかけていた。
どうやら、この平滑な表面は原初の海底の干上ったものらしかった。淡褐色の微細な風《ふう》塵《じん》がときおり薄く長くベールのようにひろがっていった。あの盆地をおおう銀白色の天《シー》蓋《ルド》ははるか後方に氷原のようにかがやいていた。その下に深く、すでに生物であることをやめた生物たちが、迫ってくる破滅から生きのびようとしてはかない努力をつづけていた。
それは破滅にささえられた一つの歴史だった。つねに歴史はすべてが終ったところからはじまっていた。
第七章 最後の人々
北方に柵あり。
柵に符ありて曰く。
宿星、これにかかるとき空、焼く。
かならず憂いあり。
淡黄色の太陽はとろとろと燃えるようにかがやいてその三分の一を地平線にかくしていた。けわしい山々を大きく跳《ちよう》躍《やく》すると、その深い傾斜の山《やま》肌《はだ》に囲まれて平滑な台地が眼下にひらけた。
それは太古の海面にひらたくあらわれた岩礁性の島だったにちがいない。一辺が二キロメートルほどのほぼ正方形の台地だった。落日に面した傷は赤褐色にかがやき、反対側は平原に長い長い影を曳《ひ》いていた。
その台地の中ほどに、方解石の結晶をつみかさねたようなひらたい、半透明な建造物があった。
三人はその建造物を間近に見る岩盤の上に降り立った。たいへん寒かった。遠い太陽はすでにその三分の一を失っていたし、その太陽とは反対側の空から迫ってくる濃藍色の夜から吹きつけてくる風は、三人の心を凍りつかせてしまうかと思われた。
なんの物音もしなかった。遠い小さな落日が、半透明の四角な、ひらたい建造物を透してわずかにちらちらと偏光していた。
「これが惑星開発委員会のビルだろうか?」
それにしてはいやに静かだった。
人影もなく、半透明な材質を透してビルの内部をうかがうことができた。何に使うのか、多数の小部屋。太い柱の列。会議室らしい、大形のソファをならべたホール。そして階上につらなる幅広い階段などが、逆光の中で複雑な構成を重ねていた。
「内部にはだれもいないようだ」
動くものの影もない。無人の広壮なビルの内部を、落日の淡い光の矢がまっすぐにつらぬいていた。
入口の大きなドアの一枚がはずれ、広い傾斜路におおいかぶさっていた。つめたい風が疾風のように吹き過ぎていった。その風に巻かれて褐色の微《み》塵《じん》が扇形に吹き上って三人をおしつつんだ。
三人は一列になって、そのドアをふんで内部へ入った。一階のフロアには厚く微塵がつもり、足をはこぶたびにけむりのようにわき上った。
「これは使われなくなってだいぶたつようだな」
広大な一階を歩きまわったが、ここを使っていただれかがさいごにここを離れてから、すでに数千年を経過しているのではないかと思われた。
入口に面した広大なホールの両側に回廊がのび、そこに外側から見えた多くの小部屋がつらなっていた。なにに使われたものなのか、その小さな部屋にはどれも強力なバリヤー発生装置がとりつけられていた。しかしそのどれもがすでに腐《ふ》蝕《しよく》しきっていた。
内側からみると、壁の外面はひどい磨《ま》耗《もう》を受けていた。もとは完全に透明だったのであろう。
「おそらく砂《すな》嵐《あらし》によるものだろう」
あしゅらおうが足を止めた。
「あれは」
ビルの一方の端に巨大な椀《わん》のような金属構造物がななめに落ちこんでおおいかぶさっていた。銀色にかがやく金属パネルや、ワイヤーの受信ネットがばらばらになって地上に散乱していた。
「パラボラ・アンテナだ」
回転台のとりつけ部分が腐蝕して巨大なパラボラを支えきれなくなったらしい。
おりおなえが壁にひたいをおしつけるようにして半壊のパラボラ・アンテナを見つめていた。
「ワシハ、アノヨウナモノヲミタコトガアルゾ。ニカイモ」
薄雲のかかったような、明確さを欠いた表情の底で、おりおなえが二人をふりかえって言った。
「パラボラ・アンテナを? どこで」
おりおなえは首をのばして淡黄色の天をあおいだ。
「イチドハ、ソウダ。アノサバクノナカノムラ、エルカシアノソラニウカンデイタ。モウイチドハ、アトランティスノオウキュウノオクジョウニタッテイタ」
「そうか。するとこのアスタータ五〇の惑星開発委員会とエルカシアの部落、それにアトランティスとは一つにつながっていたと考えられるぞ」
そこに一つの侵入ラインを想像することができた。アトランティスの滅亡は遠くこのアスタータ五〇から操作されていたものなのか。
「アア。ソウシュノマド、トイウノガ、イッタイナンダッタノカ。マタ、ソウダ。オリハルコントイウブッシツガイカナルモノダッタノカ。イマニナッテミレバ、アノトキナゼモットクワシクシラベナカッタノカ、クヤマレル」
「オリハルコン、か」
「その性質、製法についてはなに一つ記録が残されていないのだ」
階上の大ホールは淡黄色の落日に美しく染っていた。その光の中に、まい立つほこりが美しいかがやきを放っていた。
どの部屋にも手がかりになるようなものは何一つ残されていなかった。ただ床に厚く積った風《ふう》塵《じん》だけ。
高さ五十メートルにおよぶホリゾントをもった大ホールは、ことに長い荒廃をひめ、むなしく風音をこだまさせていた。
ホリゾントの中央に、細い透明な管《パイプ》で作られた大きな球体がすえられていた。直径は十メートルほど。縦横にはしる管《パイプ》はあちこちで結びつき、離れ、複雑な構成を示していた。
「なんだろう? これは」
それは、この天体の住民たちが、地表上に残した唯一の記念品であるとも言えた。
その細い管にも、球全体を支える金属の短い支持架《 バ ー》の上にも風塵は厚くつもっていた。透明な壁の外は蒼《そう》茫《ぼう》とくれてゆくたそがれだった。地球からはるかに遠く離れて、なおゆくえもさだまらない放浪のむなしさが三人の胸にしみた。そして自分たちをとりまいている荒廃の歴史の長さを思った。
広大な建造物の一方の端は、隕《いん》石《せき》でもぶつかったものとみえ、大きな破孔が平原にむかって開いていた。うず高く積み重なった破片や残《ざん》骸《がい》を踏んであしゅらおうはくずれ落ちたバルコニーの上に出た。夜はほとんど中天まで迫り、冷たい、金属のような張りつめた濃藍色が地表の半分をおおっていた。聞えるものは風の音だけであり、灯一つ見えなかった。
あしゅらおうは、これまで幾十度となく、悲惨な破滅の様相をながめてきたが、今ほど荒涼たる風景を見たことはなかった。
回復不可能な破局ほど実は静かにやってくるものなのだ。
「ここが惑星開発委員会のビルだとしても、それは遠い過去のことだ。ここはもはやただの廃屋に過ぎない」
「シッタータ。惑星開発委員会を求めるわれらの追跡も、ここで終り、ということになるが」
あしゅらおうがくずれ落ちた破片の一つに腰をおろした。
「いや、ここで手がかりが切れてしまうはずはない。ここがアスタータ五〇というのはたしからしいからもう一度、さがしてみよう」
「アスタータゴジュウニオケルワクセイカイハツイインカイハ、トイウコトバハ、ゴロクセンネンモマエノコトダ。イマデモコノアスタータゴジュウニソンザイシテイルカドウカ、ハナハダウタガワシイゾ」
おりおなえの声には深いうれいがこめられていた。
「たしかにその心配もある。すでにどこかへ移転したかもしれない。だが、もうしばらくようすをみよう」
この建造物の荒れ果てた状態からすれば、おりおなえの言うことはもっともだった。
「だが、われわれのさがし求めている敵は人間ではないぞ。このように荒廃しているからといって、それがここを使用していない、ときめてしまうことは危険だ」
「それに、もし、あのスペース・ウェイなるものに、行先のせんたく性がないのなら、ナザレの男はここに来ているはずだ」
あしゅらおうは濃い闇《やみ》の奥に目を放った。
「見ろ!」
とつぜん、大ホールの天井の高大なホリゾントが淡い青緑色の光を放ちはじめた。光はみるみる強さをましてホール全体が美しい光輝につつまれた。
三人はすばやく回廊の屈曲部へと後退した。そこからは大ホールの内部をながめわたすことができた。もっとも半透明の壁を透して、逆に大ホールから三人を発見することも容易であろうと思われた。
ホリゾントの中央に置かれている管《パイプ》を組みあわせた大きな球体が多彩な光を放ちはじめた。球体を形づくる多くの管のあちこちに真紅の光球があらわれ、その間に砂粒を撒いたような微細な光の粒子が生れた。今、ホール全体は球体の発する美しい光につつまれて幻想的なかがやきを見せた。半透明の建造物は息づく光を内に容れ、もし外部から見たものがあったら、それは目をうたがうほど妖《あや》しい美しさにみちたものであったろう。
シッタータとあしゅらおうは、しだいに背すじが冷えてゆくのを感じた。これこそ、この荒涼とひろがる夜の平原と、見棄てられて久しい廃《はい》墟《きよ》にもうけられた陥《かん》穽《せい》を暗示していた。
「だれかいるぞ」
半透明の壁の材質と通る光が陽《かげ》炎《ろう》のようにゆらゆらとくずれた。そのむこうにだれかいる!
シッタータは集光コンデンサーのコンタクト・レンズを偏光レンズに変えた。あしゅらおうが手首にまいていた赤《バ》外《ツ》線《グ》暗視装置《 ・ ア イ》で、建物の内部を走査しはじめた。
一個の人影がホールの内部を歩きまわっていた。すねのなかばまでしかとどかないマントの両わきで縫いとじて僧衣ふうに作りなおしたものをまとい、足には皮製のサンダルをはいていた。よく光る小さな目の動きが、その姿態にそぐわないびんしょうさで暗視装置のスクリーンに輝線を曳《ひ》いた。かれがどこを見ているのかがよくわかる。それによってかれの目的をつかむことができる。
「なにをしているのだろう?」
人影は大ホールの内部をゆっくりと一巡した。首をかしげ、それから手にさげていた小さな物体をわずかにあげた。
一瞬、大ホールにつづく回廊の一部が姿を消した。なんの物音もなく、氷のような夜気さえ動かなかった。人影はふたたび大ホールの壁に沿ってなにごとか、仔《し》細《さい》にしらべて回り、ふたたび手にしている物体を体の前につき出した。隕石で打たれた半壊の部分が音もなく消え失せた。こんどは、この建造物のたっている台地の岩盤がいっしょに消えてなくなった。あとはプールのような大きな穴があいていた。人影は光球のかたわらにもどった。光の形づくった球体を熱心にのぞきこんでいる。逆光の中にかれの姿がくろぐろと浮き上った。
「ナザレのイエスだ!」
シッタータは息を呑《の》んだ。
「やはりここはかれらの拠点の一つだったのだ」
「でも、どうしてかれがこの施設を破壊しているのだろう」
ナザレのイエスは球体から顔を上げると外の暗い夜を見つめた。
「あるいは、かれはこの世界からかれらの痕《こん》跡《せき》を消しているのかもしれない。そうだ。きっとそうにちがいない」
シッタータは確信した。どうやら、かれらはすべての目的を達し、かれらが残した拠点を消滅し、かれら自身の行動の証拠を消してしまう段階にあるものと思われた。そしてかれらは追跡者の存在を気にしはじめている。
「いいか! あの男をとらえて球体の意味を聞き出すのだ」
シッタータは音もなく回廊の柱から柱へ影のように動いていった。あしゅらおうは壁のわれ目から外へすべり出た。暗黒の空に、わずかの星がさびしく光っていた。あしゅらおうは足音をしのばせるでもなく、建造物の正面の入口へと回っていった。そのまま、たおれているドアをふみこえて広いホールへ入っていった。
「ナザレの男。どうやらおまえの仕事も終ったらしいな」
入ってゆくあしゅらおうの姿を、ナザレのイエスはなんの関心ももたない目の色でながめた。
「最後の審判はもう終ったのか、それともなお待たなければならないのか。いずれにせよ、もはやさばかれる者もいないぞ」
ナザレのイエスはあしゅらおうの言葉を払いのけるように片手を顔の前でうちふった。
「ここまでよく追ってきたな。でも、ここで終りだ」
ナザレのイエスはつぶやいた。
あしゅらおうは手首の赤外線暗視装置《バ ツ グ ・ ア イ》を消してもとのブレスレットにもどした。
「たしかに私の負けだ、ナザレの男。六千年のむかしから地球に発生するさまざまの破滅と衰退の根源に超存在のあることを知って、なんとかしてその正体をたしかめようと努力してきたが、だめだった。かれらの意図は完全に果された、といってもよい。たしかにおまえの言うようにもう終りだ」
ナザレのイエスは、ふん、というようにあしゅらおうの顔から目をそらした。
「ナザレの男。ひとつだけ聞かせてくれ」
ナザレのイエスはたちまち警戒の色をうかべた。
「そうびくびくするな。その光につつまれた球は、それはいったいなになのだ?」
ナザレのイエスは球体をふりかえった。
「これか」
「それだけはとうとうわからなかった」
ナザレのイエスは疲れたまなざしで球体をながめ、それから視線をあしゅらおうの顔にもどした。
「この輝線が銀経、この緑の輝線が銀緯を示しているのだ。これが銀河面の赤道だ」
ナザレのイエスは太い指で光球の表面のさざ波のような光の移ろいをたどった。
「この双曲線の軌跡にこのエントロピーDの指標を重ねる。するとここに全く別な空間が生れるだろう」
ナザレのイエスは右手をゆっくりと動かした。それにともなって球体の内部の青緑色の光の指標がななめにすべっていった。
「ほら、こうなる。わかるか」
ナザレのイエスはあごをしゃくった。右足のサンダルの爪《つま》先《さき》で左のすねをごしごしとこすった。
その一瞬を待っていたように、あしゅらおうの姿はちゅうにおどった。のばした右手がナザレの男の体のどこかをはげしく打った。よろめいたナザレの男が立ちなおったときには、あしゅらおうはひととびに、球体を背にかれの前に立ちふさがっていた。
「な、な、なにをするんだ!」
ナザレのイエスはほおひげをふるわせて叫んだ。あしゅらおうはひややかなまなざしでナザレの男を見すえた。
「ナザレの! 今、ようやくわかったぞ」
ナザレのイエスは両手をにぎりしめてつめよってきた。
「わかった? なにが」
「おまえがヨルダンの河谷で、天よりくだってきたのを見たという大天使ミカエル、それからおまえがゴルゴダの丘で処刑された日。おまえをうばって天に去り、ヨルダンの地をしばらくの間、暗黒をもっておしつつんだあの巨神――」
「なんだと!」
「まて、さらに、オリオナエがアトランティスの王城でつかえていたアトラス七世、ポセイドニス五世の二人の巨大な王ら。そして私自身が深い疑惑を感じ、その実体を見きわめようとした兜《と》率《そつ》天《てん》、喜《き》見《けん》 城《じよう》内に安置された弥《み》勒《ろく》像。かれらはいずこよりこの世界へあらわれたのか、その意図するところはなにか、私は考えつづけてきた。その意図こそまだはっきりしないが、ナザレの! そのかれらの、この世界に通ずる道は今、わかった」
ナザレのイエスは頭髪の乱れたひたいごしにあしゅらおうをうかがった。
「神はときにはたいへん横暴なこともあるものだ。だからといってそのために神にしかえしをするというのはまちがっているぞ」
ナザレのイエスはあわれむように片手をさし出した。
「おまえがなにを言おうとかってだ。しかし亡びへの使者を天なる父などとよんだ責は大きいぞ」
「亡びへの使者?」
「などと言ってもおまえにはわかるまい。ナザレの! この銀河系の中には、高等な知的生命を生み出すことに成功した星がたくさんある。もし、それら知的生命の出現をきらい、将来必ずこれをとりのぞこうとしたら、ナザレの! おまえならどのようにする?」
「どのようにって」
「その生命の発展の各段階に、遠い未来における滅亡への必然性を加えておいたらよい」 ナザレのイエスは顔をゆがめた。
「経済的なゆきづまり、軍事的な敗北、人口問題、健康状態の低下、心理的・肉体的退廃、まだまだある。そのどれをとり上げてみても、その真の原因は、実ははるか過去にあるのではないか。ことによったら、人類がまだ単細胞生物として太古代の末期の浅い、あたたかい海で生れたころにはじまっていたのかもしれない」
「だまれ! それはちがう――」
「のちになって条件の外挿ということもあったかもしれない」
ナザレのイエスはほのおのような目つきであしゅらおうをにらみつけた。
「ああ、天なる神よ――」
あしゅらおうはさもおかしそうに声に出して笑った。
「なあ。ナザレのイエスよ。このような伝説がある。おまえがこの世に生を受けたとき、救世主生るの報におどろいたユダヤ王は、そのころ生れたすべての赤子を母親の手からうばってこれを殺させた、と」
「ひどいことをしたもんだ」
あしゅらおうは手を打って笑った。その幼いしぐさとはうらはらに、その目には人の心をねじ曲げるような悪意と憎しみがあふれていた。
「ひどいか、ひどいと思うか」
ナザレのイエスは思わず目をそらした。
「それをユダヤ王の心にふきこんだのは私だ。ユダヤ王は追及をきびしくするべきだった。おまえはあやうく難をのがれ、そして後年、あの巨神たちに加担するようになったのだ。おまえがあのたくさんの赤子とともに命を絶たれていれば、その後の変化はどうであったろうか。なあ、ナザレの男よ。最後の審判はとうとうこなかったな」
ナザレのイエスは、逃げ道を求めるように暗い平原に首をのばした。
「四博士は、四人の波《ば》羅《ら》門《もん》僧となってあらわれた。しかし、悉《しつ》達《だる》多《た》太子の場合にはかれらはたいへんな間違いをおかした。太子が私に会おうとすることなど考えなかったことだ、ナザレの。波羅門の教えにある『転《てん》輪《りん》王《おう》』、そして五十六億七千万年ののちにこの世にくだって衆生を救うという『弥《み》勒《ろく》』、さらに、『彼《ひ》岸《がん》』という言葉、かぞえ上げればまだまだある、なぜ、そのような真相と事態を暗示させる言葉を不用意に残したのだ。すこし人間をみくびり過ぎたようだな」
ナザレのイエスは蒼《そう》白《はく》な顔でじりじりと後退した。
あしゅらおうは手を上げて暗いつめたい平原をゆびさした。
「行け! ナザレのイエスよ。もう二度とここへもどるな。あの荒れ果てた暗い平原こそ、おまえにもっともふさわしい所だ」
ナザレのイエスは低くのろいの言葉を口にした。その色《いろ》褪《あ》せたひたいから冷たい汗が筋をひいて流れ、あごから足もとに落ちた。
「さあ」
あしゅらおうのまなじりがくらく上った。
なにものかをみつめるナザレのイエスの目が急に大きく張った。ひたいの汗がみるみるひいていった。
ひととき、いっさいの物音が絶えた。
あしゅらおうは、今、ようやくのぞんでいた結果が来ようとしていることをさとった。
あしゅらおう!
シッタータの声があしゅらおうの背後を右から左へかけぬけた。
その背後で何が生起しつつあるのか、あしゅらおうはふり向かなくともわかっていた。
危険は今や最大限にまで高まっていた。
あしゅらおうは足音もたてずにいっきにホールから走り出た。体を丸めて、つめたく乾《かわ》いたくらい地表にうずくまった。
右手にシッタータとおりおなえの気配が動いていた。半透明の建造物の内部に、ナザレのイエスが黒い影となって回廊を奥へとしりぞいていった。
大ホールの内部から、暗黒の湖のようなものがひろがっていった。なんの物音もしなかった。暗黒の湖はみるみる高さと厚みを得てあしゅらおうの眼前にひろがる夜をおしのけつつあった。
最初に巨大な頭部が、そのいただきに宝冠ともつかぬかぶりものをつけていた。わずかな星の幾つかをおおいかくし、それは高峰のように暗黒の中にそびえ立った。
つづいてつらなる山々のような肩が、左右のうでが、絶壁のような胸が目に映った。その肩から胸は奇妙な形の防護衣によっておおわれていた。とくに力強いのはその腰から足だった。
夜の無限のひろがりと重量を内にひめて、巨大な人影は荒涼と静まりかえった平原をながめやった。
とうとうあらわれた。かれらは、そのもっとも警戒しなければならない敵が、ついにかれらの世界の入口までたどりついたことをさとったのだ。
完全な成功のかげに、たった一つだけ残されていた危険な失敗が、かれらにとってついに見逃すことのできない傷口にまでひろがってしまったのだった。
巨大な人影はゆっくりと平原に出てきた。かぶりものの影の顔はうかがい見ることができなかった。闇《やみ》にとざされた遠い地平線に顔を向けて、一歩ふみ出した。
「五十六億七千万年ののちにあらわれて衆生を救うとか。あなたの彫像を見た。やはり、天にとどくかと思われるほど大きく、そしてところどころさびをふいていた――」
あしゅらおうの声は、凍てついた闇に低く流れた。
あしゅらおうは、はじめてこの世に克服しがたい恐怖のあることを知った。それは最初ははげしい目まいと嘔《おう》吐《と》感《かん》をともなって体の深奥をつらぬき、やがておさえようもない底知れぬ混迷の渦《うず》にまきこまれた。この死地を脱れ出るためにあしゅらおうにゆるされた時間は、あとほんの一、二秒ほどしかなかった。実際、あしゅらおうは二、三歩動きかけた。
《ヨクキタ。ココマデ》
声は暗黒の夜空から降ってきた。巨大な神の呼び声は、あしゅらおうの心をほとんど絶え入らせるかと思われた。何を考えているひまもなかった。
《コノ永《えい》劫《ごう》ノ門ヘタドリツクモノガアロウトハオモッテモイナカッタ。シカシ、スベテハオワッタ。ココヨリサキニ、モハヤオマエタチノタドルベキ道ハナイ》
その言葉のとおり、かつて山脈も、大海原もその拒絶の前には形を喪い、影を四散させたのだった。それはたちはだかる無であり、この世のあらゆる存在が決して越えることのできない障壁だった。時すらも、それを越えて流れることは不可能かと思われた。それゆえにこここそが永劫の門か。こここそ世界の終り、無への接点だった。
くらい平原を、また風が吹き過ぎていった。その非情な闇《やみ》と、かわいた風のむなしい遺構が、あしゅらおうのくずれかかる心をわずかに支えた。
ようやくゆっくりといつもの自分が還ってきたのを、あしゅらおうは裂け千切れた心の奥底に感じた。
「おまえはどこからきたのだ?」
こちらの言葉が相手に通ずるかどうかもわからなかったが、あしゅらおうは思考の波をひろげた。
《ワシガドコカラキタカハソチラデカッテニキメタガヨイ。ソコガジッサイニワシノヤッテキタトコロダ》
あしゅらおうの頭の中に、たちまち相手の反応が火花を散らすように飛びこんできた。
――この世界の一環した時空連続体のいったいどこに、このような存在の入りこんでくる個所があったのだろう。かれらは過去において、何度か地球上に姿をあらわしているが、同様に他の惑星の上にも、そして他の渦《か》状《じよう》星雲のどこかの星の上にも、やってきたことだろう。いったいどこから? そしてなんのために?
《オマエハ私ノ存在ニウタガイヲ持ッテイルヨウダガ、オマエノ実在ト同ジテイドニ私モ実在シテイルノダ。オマエハ、地球ヲフクム太陽系、サラニ銀河系ト呼バレル渦状星雲、サラニ一千億以上ノ渦状星雲ヲフクムコノ宇宙全体ガ、同一ノ時間軸ヲ持ツ一環シタ時空連続体デアルコトニ安心シキッテイルヨウダ。あしゅらおう、オマエノ属スル宇宙ハ、無限ノヒロガリヲ持ツ球ノ内部ノヨウナモノダトオマエハ考エテイルヨウダガ、ソレハソレデヨシ。ソレデハソノ外側ハドウダ? コノ宇宙ノヒロガリノ外ハドウナッテイルノダ? ソレヲオマエハドノヨウニトラエテイルノダ?》
「無限のひろがりの外を考えることは無意味ではないか」
巨大な神はあわれむようにあしゅらおうを見おろした。
《無限トハ抽象的ナ概念ニ過ギナイコトハオマエモ知ッテイルハズダ。コノ世界ニ、マコトノ意味デ無限ナド在ルト思ウカ》
球の内面という言葉が、あしゅらおうの胸のどこかに濃い陰《いん》翳《えい》を落し、それがなぜかひどく気になった。しかし、今は宇宙の構造について思いをめぐらせているときではなかった。あしゅらおう自身の破局が、つぎの瞬間にまっているのだった。
「MIROKUよ」
わずかな星の間を、流星が長い尾を曳いて飛んだ。
「この世界を荒廃させたその目的を言え。かくも、あらゆる手だてをつくして、人類を滅亡への淵《ふち》にさそったその理由を言え」
遠い地平線に血のような極《オー》光《ロラ》がひらめいた。薄幕のようにひるがえり、赤から青へ、そしてふたたび赤にもどって光を弱めた。背後のくらい空が、極《オー》光《ロラ》の赤い薄暮をとおしてその深さとひろさをきわだたせていた。
その極《オー》光《ロラ》に顔を向けていたあしゅらおうの空白な心に、巨大なMIROKUの姿が音もなく動いた。顔面と胸に遠い極《オー》光《ロラ》が映えた。舟形の宝冠とその下の翳《かげ》をおびた表情が、急にはっきりとあしゅらおうの目にうつった。長い眉《まゆ》の下の切れ長な目に、湖のような深い静かな光がやどっていた。首から胸につづく奇妙な防護衣につつまれた線は厚く、豊かであり、その胸にかけられた瑜《ゆ》珞《らく》が未知の放射線を放っていた。その放射線を受け止めたあしゅらおうの腕の検知機《トレーサー》があざやかなオレンジ色にかがやいた。
《あしゅらおう。一ツダケタズネタイコトガアル》
あしゅらおうのくちびるから白い歯がもれた。
「これはいい気なものだ。たずねたいことがあって、はるばるやってきたのはこちらの方だ」
《コタエテクレレバ、ベツニオマエヲ抹《マツ》殺《サツ》スル必要モナイノダ。ソノママ、オマエノノゾムトコロヘオクッテヤロウ》
それは好意と呼んでもよいようなある種の優《やさ》しさと平穏をたたえていた。
「すべてを忘れてしまったぬけ殻《がら》になって、か」
他人ごとのように笑った。
《ゼイタクヲ言ウナ》
あしゅらおうは、MIROKUと自分をつつむ緊張が静かに極限にまで高まってゆくのを感じていた。
「聞こう。その、たずねたいというのは?」
あしゅらおうは深く息をひいた。
《あしゅらおう、マタ他ノ二人。汝ラニソノ使命ヲ与エタモノハダレダ、マタ汝ラノ六千年ノ長キニワタル睡眠巣ノ管理ヲナシ、保全機構ヲ維持シツヅケタ組織ノ名ハ?》
その言葉があしゅらおうの胸にひびいた瞬間、あしゅらおうは大脳に直結した補助電子頭脳の記憶巣回路のサーキット・ブレーカーをオフにした。
くらい夜だけがあしゅらおうの体の中を占めた。非常回路から生れたむなしいまでの解放感だけがこのときあしゅらおうを風よりも軽いものにした。
《言エ! あしゅらおう。汝ニソノ使命ヲ与エタモノハ? マタ、組織ノ名ハ?》
MIROKUの言葉にはかすかないらだちがあった。
最初の衝撃がおそってきたときには、あしゅらおうは全くくらい夜に同化していた。その心にはおそれも不安もすでに闇《やみ》に発散し、ただ『空《くう》』だけがあった。
《ドウシタ? あしゅらおう。ショセン逃ゲルコトハカナワヌノダ。モウ十秒ホド待ッテヤロウ》
それから全く物音のとだえた、風も死に大気も全く動かない静けさがやってきた。正確に十秒の間、それは持続した。
あしゅらおうはただだまって立っていた。
その凍結した心にはなんの起伏も変化もおきなかった。
二度目の衝撃がおそってきた。
あしゅらおうはかぎりない広さのただ中をおそろしい早さで落下しつつあるのを感じた。虚《こ》空《くう》にはもとより上下も左右もない。しかし、今あしゅらおうの心の中にあるのはすくいのない落下感だけだった。周囲は星の光もなく、ただ一色の闇があるばかりだった。
遠いどこかで極《オー》光《ロラ》がさびしくはためき、そこだけ空が赤く燃えていたが、それがどこなのか見定めようとすると、それはたちまち視野からのがれていってしまうのだった。そのかぎりない落下の中であしゅらおうは意識を失った。
記憶巣回路を断たれたまま、厖大なエネルギー消費に耐えるために補助電子頭脳は二《サイ》次《ド・》代《メタ》謝《ボラ》調《イザ》節《ー・》機《シス》構《テム》 を開設した。そして急《きゆう》遽《きよ》、この異常な事態の原因の究明と打開にのりだした。全組織を点検して異状がないのをたしかめた補助電子頭脳はその原因を外部に求めた。これは記憶巣が閉鎖されている状態のもとでは非常に困難な作業だった。二次電子頭脳は最小限度、与えられている基礎的パターンによって対象の選択をこころみることにした。
最初、片方の目がくらい夜をうつした。深い夜空とわずかな星。だがこの夜そのものに事態の直接的原因はなかった。もう一方の目がつめたい平原のひろがりを見た。かすかにうなる風の音が聴神経を刺激し、それから両方の目が同時にその平原にそびえ立つ巨大な影をとらえた。そこから落ちてくるつなみのような敵意が、補助電子頭脳に事態のすべてをさとらせた。しかも残された時間は、もはやほとんどなかった。
補助電子頭脳は小脳に接触した。
あしゅらおうの体は一瞬、ばねのように跳《は》ね起きた。その右手がひらめいて頭髪にさしたかんざしをぬいた。くらい闇の中に、かんざしの飛跡が金属イオンの微細な光点を散らした。ほとんど同時に、間にそびえる巨大な影は陽炎のようにゆらめいた。かんざしは一塊のほのおとなって地に落ちた。
そのとき、あしゅらおうはふたたび意識をおのれのものにした。頭のどこかがわれるように痛んだが、そのため今、ようやくおのれの側に回ってきた好機を無駄にすることはしなかった。MIROKUの巨大な影と自分の間の空間に、一すじの淡い青色の光の縞《しま》が幻のようにひかれていた。あしゅらおうは敵のおそろしい心理攻撃の能力に体中が冷え上るのを感じた。補助電子頭脳による自動制禦がなかったならば、意識を喪失したまますでに死をむかえているはずだった。あしゅらおうは携帯用原子炉《マイクロ・ビルト・イン》をフル・マークにして、ブレスレットの磁場発生装置の振動基《バイブレーヤー》をのばした。その先端が青い光の帯に触れた瞬間、すさまじい白光が飛び散った。二つの重力場閉鎖空間はたがいに流れこむ超高圧電流の負荷に耐えかねて一瞬に消滅した。その火花のまだ消えないうちに、あしゅらおうは平たいビルの残《ざん》骸《がい》に突入した。床《ゆか》はいつのまにか一面の火の海になっていたが、もとよりなんの痛《つう》痒《よう》も感じなかった。あしゅらおうは床に据《す》えられてもいる細い透明な管で作られている大きな球体を背に立った。床をなめるほのおのはげしいゆらめきに、短い支持架《バ ー》で床から支えられている球体は宙に浮いているようにふるえた。
「MIROKUよ。他の世界からやってきたおまえに、どうしてこの私をたおすことができようか。私にとっておまえは虚無にすぎない。おまえがあらわれ出た海のような深い闇にひとしく」
応えはなかった。
あしゅらおうは空《バ》間《リ》断《ヤ》層《ー》で球体をすっぽりとつつんだ。無数の管《パイプ》で構成された球体は、かすかに偏光を放つバリヤーの中でふしぎな標識に見えた。
このビルの残骸の中の、ごく近い所ではげしく闘うもののけはいがあった。それがシッタータとおりおなえ、それにナザレのイエスの死闘のおめきと知ってはいたが、そちらに気をくばることは、はなはだ危険だった。ここを失うことは、この世界を荒廃におとしいれたものの正体とその意図を知る手がかりを喪うことだった。
半透明の残骸の外の闇がみるみる真昼のように明るくなった。黄から緑へ、緑から青へ、そして平原と、その上にひろがる空がかがやく紫の光輝にかわった。それもやがて急速に色《いろ》褪《あ》せて青白い薄明が天地をおおった。
*
北方の空は灰色の薄幕につつまれていた。地表にとどくばかりに垂れさがった雲から、時おり雪は渦《うず》をまいて氷雪の斜面をはらってきた。その雪がにわかにはげしく視野をおおった。風は絶えず耳もとで悲鳴のように鳴っていた。雪が小やみになったとき、白一色の氷原におびただしい影のようなものが動いていた。それは雪原の奥から、あとからあとから湧《わ》き出してはしだいにこちらへ近づいてきた。さらになん度か雪煙がまき、ついにその物体は円盤を伏せたような奇妙な姿をあきらかにした。ひらたい上部からつき出た複雑な形の突起から、とつぜん目もくらむ閃《せん》光《こう》がふき出した。閃光は水平に雪原をはらって旋回した。雪や氷は瞬間的に高熱の蒸気と化して垂れこめた雪にまでとどいた。閃光は絶え間なく氷原をなめつづけた。
左方の丘に設けられた砲《イグ》座《ルー》が、はげしい砲撃を開始した。林のように雪煙が立ちならび、その林の中で白熱の光が明滅した。丘の砲《イグ》座《ルー》は奮戦していた。
西の地平線遠く、名も知れぬ大河がなまり色にうねっていた。
その河のむこうへゆけば、この悪夢からさめるかもしれない。
あしゅらおうは首をめぐらした。
すでに敵はこの丘をめぐる平原を包囲していた。右手の低い峰《みね》の中腹から細い煙が立ちのぼり、それが中腹いったいをおおってひろがっていった。その峰の中腹はすでに敵の戦車群が侵入していた。あしゅらおうの立っている高地のふもとでは、最終抵抗線を形成する十数台の熱線砲装甲車がすでに戦いに入っていた。青白い光の矢が交錯し、煮《に》えたぎり蒸発する雪や氷の白煙の中で、彼我の戦車や装甲車がるつぼのように火花を撒《ま》き散らした。
ほのおと雪煙の中をあしゅらおうは手兵をまとめて後退した。高地の中腹をまいて西の尾根との間の雪の谷間へ出た。凍《い》てついた大気をふるわせて高い崖《がけ》すれすれにミサイルが飛んでいった。ゆくての谷の出口にすさまじい爆発音がとどろいた。爆風がハンマーのように谷間の雪と氷の壁をうちたたいてごうごうと遠ざかっていった。敵はあきらかにあしゅらおうの退路をおさえていた。ふたたび、ミサイルが谷の出口を破壊した。くだけた氷片や岩のかけらが、鋼鉄のような崖の肌《はだ》をころげ落ちる音が、きんきんと長くつづいた。
周囲に間断なく火柱が立ちはじめた。火柱は音もなくあしゅらおうのゆくてをはばんだ。谷の出口は崩《くず》れ落ちた氷と岩とでうず高く埋められていた。あしゅらおうは右側の崖をのぼって、戦場いったいを見下す尾根に立った。唯一の退路は、はるか西の地平線に今も見える名も知れぬ大河だった。いったいここがどこなのか、あしゅらおうは全く知らなかったし、また自分の兵力がいったいどれほど有るのかまるで知らなかった。この戦場が広大な戦線の一部なのか、それとも勝敗をかけた唯一の戦場なのか、それさえあきらかでなかった。ただ一つあきらかなことは、この雪原を埋める敵はMIROKUの指揮する兵団であることだった。
事態はようやく絶望的だった。西の地平線近くを流れる大河のほとりまでたどりつくことはもはや不可能だった。あしゅらおうの手兵はこのとき、わずかに十数名となっていた。その体や手足には、氷が華《はな》のように付着していた。あしゅらおうは残り少ない部下をまとめて尾根を西へ走った。
いつの間にか周囲から部下の姿は消えていた。取り残したように点々と燃え上っている真赤なほのおが部下の遺体らしかった。
《ドウダ、あしゅらおう。オマエハアノニシニウネルタイガノホトリマデニゲノビルツモリラシイガ、ソレハマッタクフカノウダ。あしゅらおう。スミヤカニワガグンモンニクダレ。イキノビルコトノデキルミチハソレダケダ》
聞きおぼえのある声が、あしゅらおうの胸にひびいた。あしゅらおうは雪にまみれた顔を上げてはるか西の空を見た。さえぎるものもない白一色の雪と氷の中に、動くものの影とてなく、ただ風だけがひょうひょうと尾根に鳴っていた。ふと、あしゅらおうの胸にあのかつての日のくらい夜の戦場を思い出させた。
くらい夜の戦場には遠く極《オー》光《ロラ》がはためいていた。凍てついた大気の中にさまざまな光が飛び交い、死だけがおびただしく跳《ちよう》梁《りよう》 していたあの戦場。
――あそこはどこだったろうか?
――いったいいつごろだったのだろうか?
見わたすかぎりつづく白一色の世界。今は夜でもなく、またはためく極《オー》光《ロラ》もなかった。
あれは
あれは
あれは?
あしゅらおうの胸に、そのとき一枚の絵がほのおのように燃えた。それはあしゅらおうにとって救いようのない悪夢の戦いだった。すべてはそこに始まり、そこに帰着する。
あの、くらい平原。帝《たい》 釈《しやく》 天《てん》の兵団を相手に、永い永い年月を戦いつづけた凄《せい》惨《さん》な記憶が、目の前の白一色の荒涼たる風景とかさなった。喜《き》 見《けん》 城《じよう》の奥に秘められた巨大な神像を、破滅への一つの確たる約束とみなして、その像を救いの象徴と信ずる人々と戦ったのだった。その遠い記憶があしゅらおうの胸を灼《や》いた。
これはまさしく、あの戦いの幻影だった。まさしくこれはおそるべき陥《かん》穽《せい》だった。
あしゅらおうは思わず立ち上った。
*
ほのおの海の中に、バリヤーにつつまれた奇妙な球体が、目にとびこんできた。そのほのおよりも高く渦《うず》まき、灼《しやく》熱《ねつ》の火花よりも心を焼くすさまじい憎悪と敵意が、どっとあしゅらおうを押しつつんできた。
――しまった! MIROKUの心理攻撃だ。
あしゅらおうはひたいをおさえて目をかたく閉じた。頭の中がにわかに涼しくなった。補助電子頭脳が二次回路に大脳灰白質励起用の高周波を流しこんだようだった。フィルターがはたらきだして外部からの催眠励起用指向性電波を吸収、反射を開始した。
強力な心理攻撃を受けながらも、バリヤーの中の球体はまだ確保しつづけていた。あしゅらおうは三半規管に接続した脳波搬送波探知機でMIROKUの所在を求めた。その姿は目に見えなかったが、あしゅらおうは催眠励起電波を逆にたどって携帯《 ハ ン ド》ミサイルを連射した。MIROKUのような心理攻撃の方法を持たないのが残念だった。そのような心理攻撃に比しては、たとえ反陽子爆弾、反重力バリヤーをもってしても単純かつ原始的な戦闘法と言わねばならなかった。
携帯《 ハ ン ド》ミサイルは長いほのおの尾を曳《ひ》いて飛び、放射能シャッターをリチウム原子の核分裂エネルギーで高熱の蒸気に変えた。その光の消えぬ間に、つづいて連射を送る。ミサイルの射線へ向ってのみほとばしる高熱のガスの一部が放射能シャッターのとりつけ部の金属パネルをむしりとって反転した。数百分の一秒の速さでなかば溶融した金属塊があしゅらおうの顔にぶつかってきた。バリヤーをもうけるひまもなく、必死に身をよじって避けたあしゅらおうの補助電子頭脳が、その急激な動作に応ずるべく一瞬、大脳灰白質励起用の高周波を脊髄白質刺激用の電流《 パ ル ス》にとりかえた。
その一瞬にあしゅらおうの危機が来た。
*
夜があけさえすればなんとかなる――部将も兵士も、みなそう思っていた。夜半にはじまった敵の夜討ちは、弦月が西にかたむくにしたがっていよいよその力を加えてきた。かねてからこのことのあるのを予期していたあしゅらおうは、黒衣によそおった軽歩兵を戦線のあちこちにひそかに配置していたが、敵の夜襲はとうてい、それから伏勢では防ぎきれないほどはげしいものだった。どうやら敵はこの夜襲に戦機の転換を考えているらしかった。戦線からのくしの歯を引くような敗報に、あしゅらおうが予備兵力を投入したときには、すでに敵の主力はあしゅらおうの戦線深くなだれこんできた。
くらやみの中で太刀やほこがひらめき、なまあたたかい血汐が刃風にのって飛び散った。たがいに味方どうしがさけびあう符《ふ》牒《ちよう》に悲鳴や怒号がかさなり、兵士たちは入り乱れて切りむすび、つかみ合ってころげまわった。
くらやみの中での防《ぼう》禦《ぎよ》側の心理的圧迫感は昼間のそれに数倍する。ましていったん浮き足立った者たちにとっては、くらやみそのものが敵にまわる。
夜があけさえすれば――あしゅらおうはくちびるをかんでようやく西の空に低くなった弦月をのぞんだ。しかし夜明けまでにはなお遠く、戦勢は今や急速にかたむきつつあった。
敵はあしゅらおうの立つ高地のふもとにとりつきはじめた。怪鳥の羽音のように夜空をふるわせておびただしい矢があしゅらおうの本陣に降ってきた。
「伐《ば》沙《さ》羅《ら》大将、ゆけ!」
革よろいをきゅっきゅっと鳴らして幕将の一人、金沙江北岸の太守、伐《ば》沙《さ》羅《ら》大将が部下をひきつれて高地をくだっていった。兵士たちのけもののようなひそかな足音が闇《やみ》にのまれてゆくと、やがて高地の中腹ではげしい肉弾戦の物音が聞えてきた。
あしゅらおうの立つ高地の北につづく深い森に火の手が上り、たちまち森全体を真紅のほのおの海につつんだ。木々のはぜる音が間断なく聞え、木の葉の一枚一枚が火片となってあしゅらおうの立つ高地に火の雨のように降ってきた。たちまち周囲の草やかん木が燃えはじめた。それを踏み消し、たたき消す兵士たちの黒い影が、舞でも舞うようにいやに優雅に見えた。
戦場につづく北方の森林と西方の原野はことごとく火につつまれていた。敵は完全にあしゅらおうの退路を断っていた。
伐《ば》沙《さ》羅《ら》大将の部下たちが、二人、三人とよろめきながらもどってきた。ひどい血のにおいがした。そのうちの一人が、石のように、燃える草むらの中にたおれこんだ。肉の焼けるにおいが高地に流れた。手負いの兵士たちにつづいて敵の尖《せん》兵《ぺい》がおどりこんできた。銀白色の兜《かぶと》がほのおに映えて紅玉のようにかがやいた。あしゅらおうはその三人までを太刀をふるって切り伏せた。あしゅらおうの親衛隊の兵士たちが、敵の尖兵を高地の中腹まで押しかえした。
東の空がようやく白みはじめ、朝のつめたい風が惨《さん》憺《たん》たる戦場を吹きわたっていった。もはや戦線は高地の中腹にまで圧縮されていた。夜半からこの早朝にいたる間に、あしゅらおうのひきいる十万の兵は、その九割までが討たれ、捕われ、傷ついて戦場から失われていた。
湿った風が戦場を低く流れたと思う間もなく、雨が降ってきた。灰色の雲は千切れた旗のように低く垂れさがり、薄明の山野は白い水幕におおわれた。雨の中を黒い煙はとめどなくひろがり、燃えさかる大地は熱い蒸気を吐きつづけた。
大気をふるわせておびただしい火筒が飛んできた。その円筒型の物体は尾端から黄白色のほのおの尾を曳《ひ》いてすさまじい勢いで高地につっこんできた。大きなほのおの塊が高地を跳《は》ね回り、そのあとを面も向けられぬ火の海にした。爆風は地表にあるすべてのものをなぎ払い吹き飛ばした。兵士たちは火で作った人形のようになって走りまわった。
「あしゅらおう! 火筒の発射台は、ほら、あそこに」
耳も鼻もくちびるも焼けただれて形もとどめなくなった石城将軍《タシユケント》が籠《こ》手《て》をはめた手を上げて指し示した。右手の丘のふもとに、六輪の装軌車の上にのせられた発射台が見えた。その発射台の上にはすでに十二個の火筒がならべられていた。その後方には、発射された火筒を誘導するらしい金属の張線をめぐらせた矩形のわくが置かれている。それはまっすぐにこの高地のいただきに向けられていた。
「石城将軍《タシユケント》。長射程の弩《いし》弓《ゆみ》があるか」
将軍は弩弓をさげて火の海の中からもどってきた。矢の先端には小型の焼《しよう》夷《い》弾《だん》がとりつけられている。あしゅらおうは発射台めがけて矢を放った。矢は雨の中をひとすじの糸のように飛んだ。
もうこれ以上、この高地にとどまることは無意味だった。各戦線からこの平原に集まってくる敵の数は刻々と増していた。
あしゅらおうは手勢をまとめると高地をくだっていった。雨はいちだんとはげしさを加え、戦場を泥《どろ》の海にした。前後左右はことごとく敵だった。あしゅらおうの手兵は、一兵、また一兵と倒されていったが、それに十倍する敵兵の死体があしゅらおうの退路に残されていった。
ゆくての雨の中から地ひびきがとどろいてきた。あしゅらおうは顔に流れる雨をてのひらではらって雨の奥を見つめた。白い水幕の中から小山のような影がゆらめき出てきた。敵の主力、重装甲の象隊だった。長い鼻をうちふりうちふり、巨大な肢《あし》は大地を蹴《け》って山の崩れるようにあしゅらおうにのしかかってきた。あしゅらおうは泥の中をまりのようにころがった。肩すれすれに巨大な肢がうちおろされ、そのひびきであしゅらおうの体は泥の中からほうり出された。はね起きてつぎの象の肢の間をくぐりぬけるのがやっとだった。象はあとからあとからあしゅらおうをふみこえていった。あしゅらおうは飛び散る泥水から目を守り、風のように通り過ぎる円柱の間を跳び交し、身をひねり、息を切らせて走った。
「あしゅらおう。もはやのがれられぬところ。観念してわが軍門に降れ! さもなくば、この泥海の中に踏みつぶしてくれよう」
頭の上から声が降ってきた。ふりあおぐと、絶壁のような象の横腹のさらに上、背中に高く設けられたゴンドラに、いかめしい一人の男が立ちはだかっていた。
あしゅらおうの泥にまみれた顔に、こぼれた白い歯があざやかだった。
「帝《たい》 釈《しやく》 天《てん》か。どうだ、そこから降りてきて私と刃をかわしてみぬか」
銀白色のよろいに身を固めた帝釈天がゴンドラのふちに手をかけてあしゅらおうを見おろした。
「あしゅらおう。まわりを見るがよい」
見なくともわかっていた。あしゅらおうの立つ泥海を直径五十メートルほどの円陣をえがいて二百頭もの象隊がすき間もなくとり囲んでいた。そしてそのゴンドラの上から、数百丁の弩弓があしゅらおうに向けられていた。
「いかにおまえが天変地異の術をこころえていようとも、生きてこの重囲をのがれることはかなうまい。それはおまえがいちばんよく知っているはず。どうだ。わが軍門にくだれ。そもそも」
帝釈天はにわかにするどい目をあしゅらおうにそそいだ。
「おまえをこの飽くことない戦いにかり出した者はだれだ? 梵《ぼん》天《てん》王《おう》のしろしめす世界を騒乱の巷《ちまた》と化し、この帝釈天のひきいる天兵と争うことすでに年久しく、その間、いささかもその罪をさとることもなく、また平穏をたのむところもない。そのやむことない天魔の志はそも誰の為のものだ? なにもののためにかくも益なき戦いをばするぞ」
あしゅらおうは手の太刀で帝釈天の顔を指した。
「聞きたいか。帝釈天。それほど聞きたいものなら教えてやらぬでもないぞ。そもそも、この世をしろしめすという梵天王なる者、ならびに帝釈天と名のるおまえ自身。なにをしているのだ? おまえたちの目的はすでに私に知られている。おまえたちはすでに幾つかの文明を亡ぼしさった。茂《も》辺《へん》―如《じよ》駝《だ》呂《ろ》しかり、須《し》由《ゆ》明《めー》留《る》しかり、すべておまえたちの計画によってむなしく時の流れの中に消え去った。なぜだ? おまえたちはそれら文明の中に、やがていつの日か、おまえたちの存在に気づき、ついにはおまえたちの世界の存立を危うくさせるようなものへの、ある必然的な発達過程をよみとったからだ。それゆえ、おまえたちはそれら文明の中に、未来の滅亡を内包させた。人々の考えかたか、信仰か、さまざまな機械か、それとも経済的なゆきづまりか、ともあれ、おまえたちはついにこの世界全体の破滅への道を開いた。おまえたちはMIROKUなるものの像を、あの喜見城の奥におさめていよいよ使命の達成につとめた。五十六億七千万年ののちに救いが来るとはよくぞ言った。帝《たい》 釈《しやく》 天《てん》五十六億七千万年とはおまえたちの時間で、何年のことか?
一年か、一日か、それとも、ほんのまばたき一つする間のことか? 私はこの世界からおまえたちを追い払い、おまえたちの世界をもほろぼしさるべく――」
――の命を受け、
あしゅらおうは思わず口をつぐんだ。
「どうした? あしゅらおう。すべてはおまえの言うとおりだ。だが、そのあとはどうした? 気おくれしたか」
帝釈天はあごをしゃくってうながした。
「私は、私は、私は……」
「おう。私はどうしたんだ?」
あしゅらおうは絶望的な表情を浮べて頭上の帝釈天を見上げ、それから周囲の象隊を見た。あしゅらおうは今や追いつめられた小さなりすだった。手の太刀が力なく落ちた。
「私は転……」
*
とつぜん、強烈な衝撃があしゅらおうの思考をこなごなにうちくだいた。
敵の心理攻撃は強烈だった。あしゅらおうの全身をつめたい汗が流れた。敵はその能力のいっさいをあげて、このくらい、つめたい平原の一角にあしゅらおうを倒そうとしていた。しかもただ倒すのみでなく、背後に動くより高次なるものの存在まであばこうとしていた。灼《や》けるような疼《とう》痛《つう》が肩をはしった。思わずうでをまわしてみると、肩の後に、爆風で飛び散ったらしい金属パネルの破片が深くつきささっていた。まわしたうでに力をこめてそれを引きぬいた。その先端が二次回路のどこかを傷つけ、そのために大脳灰白質にはたらいていた外部からの指向性電波が効力を失ったのにちがいない。この機会を失っては再度、反撃はのぞめないだろう。あしゅらおうは重力発生装置の全力をあげてMIROKUのかくれひそむ空間を閉鎖した。断熱変化によるマイナス熱エントロピー効果によって、閉鎖空間は一瞬のうちに極微の一点に圧縮された。密度マイナス無限大、体積マイナス無限小の空間はディラックの海に埋没した。
にわかに闇《やみ》が濃さを増した。ほのおも消え、まだ残るはげしい熱気だけが死闘のあとをものがたっていた。
「あしゅらおう! 大丈夫か」
回廊の奥からシッタータとおりおなえが走り出てきた。おりおなえは緊急呼吸装置を開いて全身で息ついていた。
「手ごわい敵だ。あやうくこちらがやられるところだった。あぶなかった」
あしゅらおうははじめて全身の緊張をほどいた。
「ナザレの男も平原を西へ逃げた。あとを追おうかと思ったが、あなたのことが気になったのでやめた」
シッタータの言葉にあしゅらおうは苦く笑った。全く始めから終りまで受身の戦いだった。かろうじて危機は脱したものの、MIROKUの再度の攻撃は待つほどもなくくりかえされるにちがいなかった。
「シッタータよ。このようなことを考えたことがあるか」
あしゅらおうはくらい外の闇からシッタータの顔に視線を向けた。
「どんなことだ?」
「私たちが何ものかの命を受けてはたらいているのだ、と」
「何ものかの命を受けて?」
「そうだ。おりおなえは?」
おりおなえはだまって頭をふった。
「実は、今のMIROKUとの戦いの中で、私は心理攻撃のとりことなり、幻《まぼろし》の帝《たい》釈《しやく》天《てん》の軍勢に囲まれた。帝釈天は象の上から私に言った。私にかれらとの戦いを命じ、帝釈天の統べる世界に攻め入らせたものはだれか、その名を言え、と」
三人はたがいに、くらい淵《ふち》のような目の奥を見つめた。これまでおのれでは気がつかなかった心の中の薄膜が一枚、音もなくはがれて、そこから思いもかけない外界のすがたがうっすらとのぞいていた。遠い遠いむかしからおのれの心をささえ、世界を破滅へとかりたてるものに対して、はてしのない戦いをいどんできたその背後に、戦いを命じ世界を破滅からすくうべく意図した超越者があろうとは。
「考えたことがあったか? これまで」
「時に思うことはあった。いったい何ものがわれわれをこのようなサイボーグに改造し、あの荒涼とした、生物の影もない波さわぐ磯《いそ》に放置したのか。もちろんそこにはなにごとか重大な意図がかくされているにちがいない。あるいはいたにちがいない。それがいったいなになのか、考えようとしても、私の記憶巣はそれだけが完全に空白になっているのだ。いや、回路が断たれている、と言ったらよいかもしれない。もし、あの帝釈天の言葉がそれを追求するものだとしたら、われわれの記憶からそれを封じたものの意図は完全に果されたものと言えるだろう」
シッタータはくらい夜の平原に顔を向け、そこから世界の真意をつかもうとするかのように闇に目をすえた。
「あしゅらおうはそれがなにものなのか、少しでも心当りがあるのか?」
あしゅらおうはかすかに首をふった。
「知っているような気もするのだが」
「おりおなえは?」
おりおなえはしきりに首をかしげていたが、ためらいがちに口を開いた。
「ムカシ、ゼンノカミニタイスルニ、アクノカミノアルコトヲシンズルミンゾクノコトヲキイタコトガアル。マタ、ヒノカミニタイシテヨルノカミヲマツルシュウカンヲモツブラクニタチヨッタコトガアル。ゼンノカミハスナワチ、ヒノカミ、タイヨウデアリ、コレガヤガテ、テンナルカミ、テンノチチトイウシソウニハッテンシテユクコトヲカンガエレバ、アクノカミ、ヨルノカミ、トイウセッテイハ、タンナルグウイイジョウノイミヲモッテイタトオモウガ」
あしゅらおうとシッタータの目がおりおなえにそそがれた。
「すると、悪の神、また夜の神を信じた人々は、太陽や天やその他、古代的信仰の中で神と思われたもの以外の、それらと全く正反対の意味を持つものの存在を知っていた、というのだな」
「アルイハ」
「われわれの神は残念ながら、ことごとくあの破滅への陥《かん》穽《せい》でしかなかった。その本質を知り、その破滅への過程から人々を救い出そうとしただれかがいた、と考えられる」
「アシュラオウ、ソレガハタシテ、ソノチョウエツシャジシンノスガタナノカ、アルイハチョウエツシャノシソウノトウエイナノカ、ソレハワカラナイ」
「人の死や、罪や病い、貧困をつかさどるという神は、多くの民族の民間信仰の中に長い間、残っていた。その多くの土俗の神たちの意味するところはいったいなんだろう? そして、それらの神たちが、なに故、土俗の神として否定され、人間たちに忘れられていったのだろう?」
「たとえば、あしゅらおう、あなた自身がそうだ」
「私自身についていえば、おそらく私の存在にはそれら、世界の破滅を意図するある超越者に対する否定がこめられていたからだろう。それではそもそも、私をこの世界に送りこんだものはいったいだれなのだ。それも、破滅をはかるものの手がこの世界におよぶのとほとんど時期を同じくしてだ」
おりおなえが手をうしろに組んでゆっくりと石だたみに歩を運んだ。
「アシュラオウノソンザイハ、シッタルタノオコシタアタラシイシュウキョウノナカニクミコマレルコトデヒトビトノメカラカクサレタ。ハメツニタイコウスル、モウイッポウノチョウエツシャハ、《色《シキ》即《ソク》是《ゼ》空《クウ》》ヤ《彼《ヒ》岸《ガン》》ナルコトバデ、チョウエツシャノソンザイ、ソシテコノセカイノオカレテイルジョウキョウヲヒトビトノナカニツタエノコソウトシタノダトオモウ。シッタータヨ」
おりおなえは体ごとシッタータに向きなおった。
「アナタハソレヲ、シヤヒンコンカラノダッシュツノイミデトラエタ。ソコニヒトビトノゲダツノミチヲハッケンシタ。ソレハジツハアヤマリダッタ。ソンザイハナゼクウナノダ。クウハニンシキノキョヒダ。ノコサレタコトバハ、ココデイッテンシテハメツヲイトスルモノニタイスルスクリーンニツカワレルコトニナッタ。シッタータ、アシュラオウ。オソラクチョウエツシャハ、サイゴノシュダントシテ、アナタガタフタリヲ、トオイミライニオクルコトニシタノダロウ。スナワチ、イマ、コウシテフタリハコノセカイニハメツヲモタラシタモノタチノリョウイキノイリグチニタッテイルノダ」
「あしゅらおうがほとけに帰《き》依《え》したという経典以外に、事実をカバーする方法がなかったのだろう。そしてそれはみごとに成功した」
遠い空にくらいオレンジ色の雲がたなびいていた。大気はいよいよつめたく、千古の静寂だけがこの廃《はい》墟《きよ》をつつんでいた。
「私があの荒れ果てた岩《がん》礁《しよう》から遠い灰色の陸地をながめていたとき、地平線にかすむ都市の廃墟をめざして、すべるように進んでゆく山のような影を見た。いくつも、いくつも。私はそのときはじめて自分のおかれた奇妙な状態に気がついたのだ。あしゅらおう、おりおなえ。あれはいったいなんだったのだろう。また、私のひそんでいた岩礁の近くの海底の谷間になにかえたいの知れぬものが沈んでいた。黒く、大きく、影のように横たわって動かなかった。海の魚族どもはおそれて近づこうとしなかった。それがなぜか私にとって極めて重大な意味を持っていたような気がするのだ」
遠いオレンジ色の雲に目を当ててあしゅらおうが言った。
「夜明けだ。生きてふたたび夜をむかえることができるかどうかわからぬ一日がまた明けようとしている。ここから早く立ちのかねばならない。そのまえに、シッタータ。おまえの見たその山のような影は、あるいは閉鎖された空間の外側ではなかったろうか。灰色のくもり空の下で、ゆがんだ空間が作る偏光が翳影を浮かべていたものだろう。しかし、なにものがそのように平原を去来していたものか」
「オソラク、ワレワレヲミツケダソウトシテイタノダロウ。アシュラオウハアノサバクノスナノナカニ、シッタータハアノヨセテハカエスアライナミノシタニ。ソシテワタシハアノコウハイシタチリノナカノトシニアッテ、ソレゾレニイマダアスノオノレニツイテナニモシルコトノナカッタトキダ。カレラノタビカサナルソウサクモコウヲナサナカッタ。タダ、ソノコロカラ、カレラハ、ワレワレノカクレタソンザイニツイテシッテイタモノトミエル」
「その海の底の谷間に沈んでいたという物はなんだったのだろう。気になる。いまとなっては、それをしらべにもどることはむずかしいだけに」
あしゅらおうは大きく息を吸いこんだ。
「よし。ひき上げよう。あの奇妙な球体を安全な場所にはこぶのだ」
三人はバリヤーにつつまれた球体を廃墟の前庭に引き出した。
「あの都市へもどっても、もはや意味はない。それよりもあの南につづく山脈のふもとへゆこう。そこでこの球体のはたらきをしらべるのだ」
くらいオレンジ色の光はようやく平原のなかばに達していた。まだ陽は地平線のむこう側にあってその姿を見せてはいなかった。その昼と夜のさかいを、三人は球体を中に南へ向って移動していった。
「どうだ? なおせそうか?」
シッタータはほとんど一分おきにおりおなえの手もとをのぞきこんだ。
「ト、思ウ」
おりおなえは、そのたびに同じへんじをもらした。はたしてシッタータの問いがその耳に入っているのかどうかうたがわしかった。
シッタータは肩をすくめてあしゅらおうをふりかえった。
「おりおなえになおせるのだろうか? 他の方法を考えたほうがよくはないか?」
あしゅらおうは、つめたい平原にあおむけに横たわっていた。なんの感情もあらわさないひとみが、まっすぐに頭上の濃藍色の空に向けられていた。氷のような大地に背をつけて、のびのびと手足を投げ出してねそべっているあしゅらおうの姿に、シッタータは、このえたいの知れぬ仲間たちと自分がひどくちがっているような気がした。
「他の方法は、おりおなえがあれをなおすことができなかったときに考えよう」
そのおりおなえは、管《パイプ》を組み合わせた巨大な球体を支える支持架《 ハ ン ガ ー》の折れたのを、なんとかつなぎあわせようと苦心していた。その支持架《 ハ ン ガ ー》がなおらなければ、最外層を形成する管《パイプ》の上をスライドする二次コイルが動かないのだ。
「どうだ? なおせそうか?」
おりおなえはメーザーで折れた支持架《 ハ ン ガ ー》を三つに分断した。
「ト、思ウ」
シッタータが手をのばした。
「他の金属物を溶かして、その長さの管《パイプ》を作ってはどうかな。あの都市へ行って、なにか金属でできた物を持ってこよう」
おりおなえはシッタータの手を押しやった。
「ソレニハオヨバナイ」
おりおなえはさらに他の部分をも切りとって、さきの管《パイプ》に接続した。
「こわしてはなにもならないぞ」
シッタータは顔をしかめておりおなえの肩をこづいた。
「ソウダ。コワシテハナニモナラン」
おりおなえはたんねんに長さをはかって溶接した部分のあまりを切り棄《す》てた。その切り棄てた部分をさらに一つに溶融して小さな球を作った。おりおなえはさらにそれを重力場発生装置の磁力端子の間を通して長い長い針金に造り変えた。シッタータは首をふっておりおなえのかたわらをはなれた。
あしゅらおうは大地に手足を投げ出したまま、石のように動かなかった。
シッタータは空をあおいだ。ドームのように張りめぐらせたバリヤーの中から見る黄色の小さな太陽は、天に開いた奇妙な口のように尖《とが》った両端を持っていた。
おりおなえの手で、球体は半ば形を喪い、おびただしい管《パイプ》の束が、さまざまに形を変えて、おりおなえの足もとにつみ上げられていた。そして球体とならんで、全く別な形のなにかが生れかかっていた。
「なんだ? これは?」
「ア、ソレニサワッテハイケナイ。デンシズノウガハカイサレルゾ」
シッタータはあやうくとびのいた。
ふたたび平原に夜がおとずれてきた。稀《き》薄《はく》な大気は急速に熱を失っていった。かわいた、つめたい風が平原を果から果へとわたっていった。昨夜と同じようにわずかな星々がさびしくまたたき、千古の闇《やみ》がかぎりない静寂とともにひろがった。
「デキタゾ」
おりおなえが腰をのばした。
「できたって?」
シッタータがはね起きた。
「なにができたんだ」
そこには、あの廃《はい》墟《きよ》から持ちだした奇妙な管《パイプ》で構成された球体の姿は完全に消えて、それとは異なる複雑な曲線からなる一組のコイルが作られていた。コイルの高さは、ほぼおりおなえの身長ほどあった。
「なんだ? これは?」
シッタータがうたがわしそうにコイルとおりおなえの顔を半々にながめやった。
「作りなおしたというのがこれか?」
おりおなえははじめて、じろりとシッタータに視線を向けた。
「チガウ。アレヲツクリナオシタノデハナイ。マッタクベツノモノヲツクッタノダ。モットモ、アノキュウタイニモチイラレテイタゲンリハニ、サン、ツカッタガ」
あしゅらおうはゆっくりと起き上った。
おりおなえはコイルを持ち上げると、あしゅらおうの前に横たおしに置いた。コイルのどこかに手を触れると、コイルとコイルのかたちづくる円筒形の空間が、美しい青緑色にかがやいた。その光の円筒の表面に微細な光の縞があらわれた。目をすえてみると、その光の縞《しま》は非常な早さでコイルの一端から一端へと流れていた。
「コノヒカリノナガレハ、コイルノソトガワカラウチガワヘノキョダイナエネルギーノキョウキュウヲシメシテイル」
「そのエネルギーはどこからくるのだ? べつにエネルギーの発生装置もついていないようだが」
「アシュラオウ。ココヲミヨ。ハリガネデアンダカイセキゴウシノヨウナモノガアルダロウ。コノハリガネハ、サッキノオレタハンガーデツクッタモノダ。コレトオナジモノガ、ブンカイシテシマッタキュウタイニモアッタ。コレヲニジコイルデユウドウスルト、オソロシイリョウノエネルギーガナガレコンデクルノダ。リユウハフメイダ。タダ、ソノナガレノモトハ《ディラックノ海》デハナイカトオモウ」
「ディラックの海?」
あしゅらおうとシッタータの体が前に出た。
「ソウダ。スイソゲンシヲウミダスアノ《ディラックノ海》ダ」
そう言えば二人の記憶巣にも、その古代原子物理学の所産になる奇妙な名前が沈んでいた。
「それで?」
「コノニジコイルノディフレクターヲ、ムセイゲンカンスウノシヒョウニアワセル。コレガアノキュウタイデ、エントロピー《D》ノシヒョウニアワセタコトトオナジニナル。スルト、ミロ、コノ、ソトガワノオオキナコイルノナカニ、マッタクベツナクウカンガウマレルダロウ」
横たおしになったコイルの直径はほぼ一メートル半ほどあった。おりおなえの右手が、二次コイルを栽るレールの上のディフレクターをおさえた。ディフレクターは音もなくレールの上をすべった。
Hiiiiiin――
微細な金属線のふるえるような、かすかな震動音が三人の耳の底にわいた。
とつぜん、コイルの内部の空間が暗黒になった。それは全く光のない真の闇《やみ》だった。その外側を環状に巻くコイルの青いかがやきは、いよいよ目もくらむほどあざやかだった。
「このコイルの内部はどこにつながっているのだ?」
おりおなえはディフレクターをもとへもどした。コイルの内部の暗黒はたちまち消えて、外側にひとしく、かがやく青い光の縞につつまれた。
「サイショ、モットモリカイニクルシンダノガ、シヒョウノキゴウダッタ。ナニヲアラワスノカマッタクケントウガツカナカッタ。シカシ、ギンケイ、ギンイ、ソレニギンガセキドウメンヲアラワスキセンノシュツゲンハンイヲブンセキシテイルウチニワカッタ。ソレニヨルト、イマ、アラワレタアンコクハ、《Y=88.5711. X=43.026. Z=19.3920. T=n-nΔt》ノザヒョウヲシメシテイル」
あしゅらおうの目が針のように細くなった。
「その座標は――アンドロメダ星雲の中だと思うが」
おりおなえは静かにうなずいた。
「ソウダ。アンドロメダセイウンノダイハチショウゲンノナカノニバンメノウデダ」
ことに深い沈黙がやってきた。だれももう何も言おうとはしなかったし、呼吸さえしていないのではないかと思われた。偏光にゆがんだ星の光を仰いで、あしゅらおうは石像のように立ちつくした。
遠い過去にはじまった滅びへの道は、ここではるかな夜空の奥へとつづいていた。その道をたどって、かつて幾たびか滅びへの案内者が銀河系へ、太陽系へ、そして地球へとやってきたのだった。はるかな超越者は、なにゆえか人類の発展を好まなかったようだ。かれらはおのれの知らぬまに、将来の滅亡を約束する胚《はい》子《し》をうえつけられ、その呪《じゆ》縛《ばく》からついに脱しきれずに廃墟の砂《さ》塵《じん》と化しさったのだった。もはやすでにおそいのだ。かれらは完全にその仕事をなし終え、残された三人のサイボーグに明日はないのだった。
「ゆこう。そこへ」
あしゅらおうの胸の瓔《よう》珞《らく》が、青い光を受けて二人の目を射た。
おりおなえが無表情にふたたびディフレクターに手をのばした。コイルがすさまじい青い光をほとばしらせた。
「サイゴニワタシガハイル。コレヲココヘオイテユクワケニハユカヌカラナ」
あしゅらおうは腰をかがめてコイルの内部の暗黒をうかがっていたが、そのままするりと体をくぐらせた。
Hiiii――n
奇妙な震動音が無数の針のようにあしゅらおうのひふにつきささってきた。シッタータがなにかさけんだようだったが、一瞬、すべては暗黒の中に呑《の》みこまれてしまった。
第八章 遠い道
旅人、去りしあとにつぼあり。
村人、つぼを樹に懸く。
旅人、もどりて言う。
このつぼこそ汝らの故郷なり。と。
見上げる空は一枚のかがやく光の板だった。
原子のほのおの白熱にひとしい光の波が、そこからつなみのように地表にたたきつけてくるのだった。その光の波を、黒い透明なスクリーンでさえぎると、そのすき間もない光のはんらんは実は無数の微細な光点で作られていることがわかる。その中にはかなり大きな光点もある。これがくらい夜空ならば、一等星か、あるいはマイナス一等星ほどのかがやきを持っているであろうと思われる星も、この光の洪《こう》水《ずい》の中ではその所在さえかき消されてしまうのだった。
あしゅらおうはしばらくの間、ここがどこにあるのかさえも忘れて、呆《ぼう》然《ぜん》とその墜《お》ちかかる天の光を見つめていた。
「あしゅらおう。あの空の光はなんだろう?」
シッタータの声が耳もとでかすれた。その声に、あしゅらおうはわれにかえった。青白くかがやく氷原が広《こう》漠《ばく》とひろがっていた。氷は鋼鉄よりも硬《かた》く、その表面は鏡のように三人の姿をさかさまに映した。
右方のあまり遠くないところに氷の崖《がけ》が光の壁のようにつらなっていた。その削《そ》ぎ落したような垂直な高まりの上端は、天空の光の海に溶けこんでいた。
「あの空は」
雲一つない夜の満天の星の海でも、これほどの光輝を放つことはあり得ない。
「まるですばらしい発 光 材《エレクトロ・ルミネツセンス》でおおったようじゃないか」
発 光 材《エレクトロ・ルミネツセンス》と呼ぶにはあまりにも壮大な光のはんらんだったが、光の板で頭上をふさがれたという感じは、シッタータの言葉で言いつくされていた。
「ここは?」
「正しく Y=88.5711. X=43.026. Z=19.3920. T=n-nΔt つまりアンドロメダ星雲の第八象限。この空間座標系を通過する二本の渦《か》状《じよう》の腕の外側、星雲の中心からほぼ十三万光年の付近だ」
「見たところ、生物はいそうもないな。地球や火星やアスタータ五〇のように、もう生物は亡びてしまったのかもしれないな」
おりおなえがしきりに周囲をうかがっていた。
「コノワクセイハナナコノワクセイトトモニ、アルコウセイノシュウイヲマワッテイルヨウダ。コノコイルノヘンサチカラハンダンスレバ、ソノコウセイハジュウブンナネツリョウヲモッテイルハズダ。ワレワレノタイヨウノホボニバイノシツリョウヲモッテイル。ソレナノニコノヒョウゲンハ」
「おりおなえ。われわれには理解できない理由で一つの惑星が荒廃したのを、すでに見てきたではないか」
おりおなえは強く首をふった。
「イヤ、ソレハチガウ。コレマデミタモノニハスベテナットクデキルリユウガアッタ。タトエバ、カンソウシテユクチヒョウニ、ナンラタイサクヲタテヨウトシナカッタトカ、オコルベクシテオコッタセイサンノユキヅマリヲダカイシヨウトシナカッタトカダ。ココニハ、ナニモノモナイ。タイヨウハジュウブンナネツリョウヲモッテコノチテンヲテラシテイルノダ」
「あの氷の崖にのぼってみよう。なにか見えるかもしれない」
おりおなえがコイルをかつぎ、三人は一列になって氷原をふんでいった。
「ドウモワカラナイ。ナゼスウチトアワナイノダロウ」
おりおなえは濃い焦《しよう》燥《そう》を浮かべてしきりにつぶやいた。
あしゅらおうは奇妙な予感に背を押されるように、なんども立ち止っては氷原を見わたした。
たしかにここにはなにか予測し難いある異常なものが充満していた。それはしだいに濃く、厚く三人をとりまいて迫ってきていた。
天の光は今は音をたてんばかりに氷原にふりそそぎ、氷の崖の肌《はだ》に反射してほとんど痛みをおぼえるくらい強烈にぶつかってきた。
氷の崖はようやく三人の目の前に近づいてきた。シッタータの手が、なんどかためらったのちに、そっと腕にはめたメーザーの安全装置をはずした。おりおなえは、なおしきりにつぶやきながらひたすら歩きつづけた。その肩で、奇妙な形のコイルはおりおなえの体の一部であるかのようにゆれていた。
ふと、あしゅらおうの足がとまった。全身に、目に見えない闘志がゆらめくかげろうのように立ちのぼった。
「どうした? あしゅらおう」
シッタータがいぶかしそうに、あしゅらおうの視線をたどった。その顔がみるみる緊張にゆがんだ。
二百メートルほど前方にそびえる氷《ひよう》崖《がい》の、かがやく晶面の奥から巨大な都市が幻《まぼろし》のようにあらわれた。最初それは氷壁の作り出す陰影の複雑な光と影のいたずらかと思った。しかし周囲を見さだめるまでもなくこの世界はあの夜空のかわりのかがやきわたる光のはんらんのために、影という影は全く喪《うしな》われていた。
数百階の直方体のビルはほとんどすき間なく空を埋めて立ちならび、透明な管《パイプ》におおわれた走路《 ベ ル ト》が縦横にそのビルの垂直の壁を縫っていた。ビルの塵《ちり》も走路《 ベ ル ト》の管《パイプ》も、虹《にじ》のように多彩の光を反射した。
都市はゆっくりと、人間の歩くほどの早さで近づいてくる。すでにそのひろがりは左右、はるかに氷原の果にまでつづいていた。その奥行はうかがい知ることもできなかった。
網膜を灼《や》く強烈な光の幕の下に、氷原は死のように静まりかえっていた。幻影の都市は音もなく、汐《しお》の寄せるように迫ってきた。そこには確実に迫ってくる死が予感された。
「あしゅらおう! MIROKU はわれわれがここへ来るのを知っていて先まわりしたな」
シッタータがのどの奥から声をしぼった。あしゅらおうの背を氷よりもつめたいものがはしった。あしゅらおうは、迫ってくる幻影の都市に、MIROKUの攻撃よりも危険な異質ななにかを感じた。
あしゅらおうはおりおなえをふりかえってさけんだ。
「そのコイルで空《バ》間《リ》断《ヤ》層《ー》極《オー》光《ロラ》を作れ! これは MIROKU の心理攻撃ではない。いそげ、おりおなえ」
おりおなえはいそいで肩のコイルを氷の上におろした。ディフレクターをこまかく操作すると、コイルは静かに青い光を放ちはじめた。三人をとり囲む空間がかすかに銀線のような震動音を発した。かがやく天空はにわかに沈んだ色調に変り、氷原はみるみるウルトラ・マリーンに翳《かげ》った。空《バ》間《リ》断《ヤ》層《ー》のホリゾントにつつまれた三人は、陽《かげ》炎《ろう》のようにゆらめいた。
「さらに各自でバリヤーを作るんだ。おりおなえ、コイルだけは複合の閉鎖空間でつつめ。《ディラックの海》とのつながりは虚数回路で保持しろ」
三人の姿は青い陽炎の中でさらに白熱にかがやいた。バリヤーの中で熱エントロピーは極大となって平衡した。
その瞬間、都市はすべるように三人をつつんだバリヤー・ホリゾントにおおいかぶさってきた。
削《そ》ぎ落したような壮大なビルの壁面が、無数の窓の列が、走路が、塔が、音もなく三人の体の中を通りぬけ、頭上を通過し、足もとを流れて背後に消えていった。
その都市のむこうに、氷崖がくらい翳となってつらなっていた。半透明な都市のひろがりは、その氷の崖からいつ果てるともなく湧《わ》き出してはあとからあとから、三人の体を通って平原のかなたに消えていった。
「あしゅらおう。なんだろう? これは」
シッタータが白熱の卵《バリ》膜《ヤー》の中からたずねた。足を宙に、頭を下にバリヤーの中で浮遊しているあしゅらおうの姿は、卵殻の中の稚魚のようだった。
「シッタータ、これはたぶん閉鎖された虚数空間だろう。マイナス・エネルギーの世界なのだ。記憶巣に入っているだろう。ノヤの公式だ」
「思い出した。三〇〇五年、木星のノヤ・クリークがとつぜん、解放不可能のスクリーンにつつまれた。市街は誰《だれ》の目にも見えるのだが、まぼろしのようにつきぬけてしまってどうしても市街に入ることができなかった、というあれだな」
おりおなえはその言葉も耳に入らないらしく、背を丸めてコイルの回析格子を見つめていた。その目がこれまでに見たこともない異様な光をたたえていた。
「どうした? おりおなえ」
「まさかこのバリヤーが解けなくなってしまった、などと言うのではないだろうな」
シッタータがいやな顔をしておりおなえに向きなおった。
「ソウカ、ワカッタゾ!」
とつぜん、おりおなえが低くさけんだ。
「ワタシハタイヘンナマチガイヲシテイタ」
「おりおなえ、なにがまちがっていたのだ」
「アシュラオウ。イソイデココヲハナレヨウ。アンゼンナバショニイッテ、コイルヲシュウリスルノダ」
「そうか。しかし、おりおなえ。ここから移動するには、そのコイルをつつむバリヤーも、われわれをつつんでいるバリヤーも、さらに外層のバリヤー・ホリゾントもすべて解放しなければなるまい。周囲は虚数空間なのだ。バリヤーを解放することは不可能だ」
おりおなえは頭をかかえて低くうなった。
「あしゅらおう、虚数空間に接触するとどうなるだろう?」
「完全な無が生れるだろう、そこに。エネルギーはその無を造り出すために消費され、マイナス・エネルギーがその無の周囲を殻《から》のようにとり巻くことだろう。そのかぎりないマイナス・エネルギーのひろがりを、《ディラックの海》と古人は呼んだ」
都市の流れはわずかの切れ目もなく、静かに、まぼろしのようにあらわれ、そして消えていった。
「見ろ! この都市は生きているぞ」
シッタータが今、目前に迫った都市をはらいのけでもするように両手をうちふった。その手を、まぼろしのようにつきぬけて、壮大な都市の一角が通り過ぎていった。ビルや回廊や走路、そして奇妙な服装をまとったたくさんの男や女が街をゆききしていた。かれらは全く三人に気づいていなかった。もちろん、かれらが氷崖の中をつらぬいてきたことも、また、ここが厚い氷につつまれたつめたい平原であることも知らないにちがいない。かれらの都市は美しく壮大であり、いかなる不幸や破滅からも守られているのだろうから。
ふと、おりおなえが顔を上げた。
「サンニンノエネルギーヲアワセタラ、サイコウデドノクライニナルカナ」
「ええと、およそ十一億メガワットかな。三乗するから」
「ソレダケアレバ、ゴクタンジカンナラ、カイセキゴウシヲナガレルマイナスエネルギーヲセイギョデキル」
「なるほど。そして、その時間は?」
おりおなえの顔がかすかにくもった。
「コンマゼロハチビョウ。ソレイジョウハタエラレナイ」
「〇・〇八秒以内に移動できるのか?」
「ダイジョウブダロウ」
「もし、耐えられなくなるような事態が生じたら?」
「エネルギーハスベテ、カイセキゴウシノセイギョダンメンヲホジスルボウダイナネツニカワッテシマウダロウ」
「そしてついにはマイナス・エネルギーの海に還元されてしまう」
「マンイチ、キョヨウジカンヲオーバースルヨウナコトガアッタラ、ジドウテキニカイロガタタレルヨウニスルコトハデキル。シカシソノトキハスデニ、カナリノリョウノエネルギーヲショウモウシテシマッテイルダロウカラ、イチバンサイショニハタラキダシタカイシュウカイロニ、ノコッタエネルギーヲキュウシュウスルノダ。ソレニヨッテ、ヒトリダケハ、モトノケイタイヲカイフクデキルダロウ」
どうやらその方法しかないようだった。
「よし。おりおなえ。その計画でやろう」
「おりおなえ、さっき、まちがえた、と言っていたようだが、あれは?」
おりおなえはコイルをふりかえった。
「オリハルコントイウモノヲシッテイルカ」
「オリハルコン! 知っている。それはアトランティスの王城の城壁や、広壮な建築物にさかんに用いられた特殊な合金だ」
「トウジ、ワタシハアトランティスニアッテ、コノフシギナゴウキンニツイテ、ソノユライヲチョウサシタ。イクツカノキョウミアルセイシツガワカッタガ、ソノヒトツニ、アレハキワメテアンテイシタブッシツダッタ。イマニシテオモエバ、オリハルコンノイッペンハ、ソレジタイノナカニ、カンゼンニヘイササレタネツエントロピーセカイヲモッテイタノダ。コレハキワメテオオキナエネルギーヲタクワエルコトガデキルシ、マタ、マイナス・エネルギーノフィルタートシテモツカエルトイウコトナノダ」
「その、オリハルコンがどうした?」
「コノコイルハオリハルコンデツクラレテイルノダ」
あしゅらおうも、シッタータも、まぼろしのように通り過ぎてゆく都市を見つめて長い間沈黙していた。
「そうか。遠いむかしに、なにものかがそのきみょうな金属の一部を地球にもたらして、異変の意味を人類に伝え、その解明の手段をさとらせようとした、と考えられるな。この世界の破滅を意図したものも、最初はそれに気がつかなかったが、やがてそれを知って完全にオリハルコンという物質を地球上から消しさったし、同時に人類の記憶からもぬぐいさった。シッタータ。おりおなえ。あるいはそのようにして人類の記憶から消えていった物質がまだまだほかにもあったのかもしれない。三千年ほど前、地球上のある地方から百パーセントの純粋な錫《すず》の板の破片が発見されたことがあった。地球上では百パーセントの純粋な錫はあり得ないものだ。これなどにも、なにか重大な意味があったのかもしれない。しかし、今ではその錫の板も、その記録も完全に失われてしまっている。そうだ。テクタイトと呼ばれた黒《こく》燿《よう》石《せき》によく似ている物質もあった。これもついにくわしいことはなにもわからずに終ってしまった。破滅を意図したものの計画と手段は完《かん》璧《ぺき》だったと言える」
「アノトキ、モウスコシクワシクチョウサヲススメテイレバ、アルイハモットハヤク、コノハメツノジッタイニツイテシルコトガデキタトオモウ。ザンネンナコトヲシタ」
「いや。それもおそらくは、この世界のたどるべき宿命の一つだったのだろう」
「ソレデハ、トリカカロウ」
おりおなえは、二次コイルのディフレクターを指標のゼロにあわせ、回析格子につづくおびただしい虚数回路を引き出した。それを一本の管《パイプ》にまきつけて新しい別な誘導コイルを組み立てた。
「コレガイワバヨンジゲンカイロトモイエルレスポンス・サーキットダ。ヒジョウノバアイハ、ココヲトオッテエネルギーガキュウシュウサレル」
おりおなえはスライドを動かして回析格子を閉じた。
「サア、イイカ、ワタシガサイゴニハイル。ソレカラキョスウカイロヲヒラク。ジカンハコンマゼロナナロクビョウニセットシテアル。サア、ハヤク!」
最初にあしゅらおうが、つづいてシッタータが、おくれておりおなえがコイルの内部の暗黒に身を投じた。たちまち虚数回路が開いた。コイルに接した空間が、すさまじい光を放った。それはみるみる、氷原を灼《しやく》熱《ねつ》の火花の海に変えた。とつぜん、まぼろしの市街が幾千万のかがやく光の細片となって八方に飛び散った。厖《ぼう》大《だい》なエネルギーの波がつなみのように突進し、都市は燃え、吹き飛び、ちぢみ、色《いろ》褪《あ》せ、そして消えていった。白熱のゆらめきの中に天のかがやきがのぞき、それが虚空をのみこんで渦まいた。また一つの都市、一つの文明が滅びたのだった。これも約束だった。なぜなら、かれら三人はここへ来なければならなかったからだ。
*
風も大気もなく、露出した岩石の平原が、なだらかな起伏を見せてかぎりなくひろがっていた。青白い光がつめたい平原を死のように凝《ぎよう》固《こ》させていた。ときおり音もなく岩石の表面にひび割れがあらわれ、細く屈曲してのびた。微小な岩石の砕片がその割れ目に落ちこむかすかな動きだけが、この世界のただ一つの動きだった。その岩石の平原の表面は深く変質して、この平原が強烈な放射線にさらされてすでに久しいことを示していた。放射線警報器はすでに極限に達した危険を告げて鳴りづめに鳴っていた。その不協和音は聴骨を直接刺激して不快な衝動をかもしだしていた。
足をはこぶと地表は音もなくくずれてほとんど足の下まで没した。岩石の砕片はおそらく地平線のかなたにまでつづいているにちがいなかった。四周は方角の区別もつかぬいちような地平線の円弧しかのぞめなかった。この世界には山脈も低地も残っていないのだろう。長い長い年月、強烈な放射線は山々をすこしずつ変質させ、分解させ、ついには山々はくだけた微細な破片で低地や、むかしの海の跡などをおおいつくしてしまったようだった。
ここではすでに死さえも形《けい》骸《がい》でしかなかった。
だれもいなかった。降りそそぐ青い光を肩や胸に受けて、あしゅらおうはただ一人、この世界の終《しゆう》焉《えん》に立っていた。
シッタータも、おりおなえも、ついに復元することはできなかった。あしゅらおうはおりおなえの計画ははたして成功したのだろうか、と思った。おりおなえの予期しなかった理由で、マイナス・エネルギーにみちた空間を通過するのに、コイルの耐久時間をオーバーしてしまったものとみえた。あるいは予想以上に回路がエネルギーを消費したのかもしれなかった。おりおなえの言ったように最後の瞬間にサーキット・ブレーカーがはたらいて残余のエネルギーを、すでにマイナス・エネルギー空間を通過していたあしゅらおうに集中したものとみえた。シッタータも、おりおなえも、
《――エネルギーハスベテ、カイセキゴウシノセイギョダンメンヲホジスルボウダイナネツニカワッテシマウダロウ》
《――そしてついにはマイナス・エネルギーの海に還元される》
あの言葉のとおりに、この世界の根源的なひろがりに同化してしまったのだった。
シッタータとおりおなえの、そして残ったぶんのあしゅらおうのエネルギーが合して最後の戦力を生み出したのだった。最終的な目標はいったいどこにあるのか、まだ全く予測もつかなかったし、果して超越者と戦って倒すことができるのかどうか、あしゅらおうは孤独な心をおさえようがなかった。
あの氷原も、氷原の奥からあらわれたまぼろしの都市も、すでに消えさって今はその所在を求めようもなかった。
――おりおなえは、まちがったと言っていたが、そのまちがいは正されたのだろうか? 正しい結果が、この無にひとしい平原なのだろうか。これがわれわれが追求してきた目的の地なのだろうか? アンドロメダ星雲の第八象限の外側の腕のある一点にくらいする惑星の表面なのだろうか?
あしゅらおうは濃い不安とともに、まるで抵抗もなく崩《くず》れる地表を踏んであてもなく進んでいった。それは強烈な光の中を泳いでわたるというにふさわしいたよりなさだった。
――この光は?
平原を染める強烈な光をたどって、あしゅらおうは天空を見上げた。頭上をおおう千億の星《ほし》屑《くず》を天頂からさらに背後の中空に視線をはしらせると、壮大な光の渦《うず》が天のなかばをおおっていた。それは満天を埋める星々のさらに奥にあった。はるかな虚《こ》空《くう》から扇形にひろがった光の幕は極《オー》光《ロラ》のように星々を背後からおしつつもうとしていた。その扇形にひろがる光の滝のさらに深奥に、ほぼ楕《だ》円《えん》形《けい》の光の渦が永《えい》劫《ごう》の時を内にひめて凝《ぎよう》結《けつ》していた。
ほんのしばらくの間、あしゅらおうはそれがなんであるのかわからなかった。光はいよいよはげしくあしゅらおうの感覚神経を灼《や》いた。
空をおおう壮大な光の渦とさえぎるものもない荒廃した平原と、そこに立つ小さな人影とは、あるいは世界のすべての終焉にふさわしかった。
――そうだ! あれは
氷のような戦《せん》慄《りつ》があしゅらおうの心をつらぬいた。
渦《か》状《じよう》 星雲だ!
それははるかな天空のかなたから、このアンドロメダ星雲に向って突進してくる巨大な渦状星雲だった。すでにその双方の星間物質はたがいに他の領域に侵入してはげしくぶつかりあい、強烈な電子を放射していた。やがて刻一刻と濃厚になってくる星間物質の雲の中で、閉じこめられた熱は数十万度、数百万度にも達し、恒星を焼きつくし、ガス星雲を飛散させてゆくだろう。最後に二つの渦状星雲は一つに合してそのすべてのエネルギーを一挙に放出するだろう。
エネルギーの飛散したあとには、ただわずかに放射線の雲とひとにぎりほどの星間物質を残すだけになってしまう。空間にまき散らされた厖大な量の熱はしだいに拡散し、ついには大宇宙に消えてしまう。それはあたかも有から無に帰するに似ていた。もとより、拡散したエネルギーとても、けっして言葉通りの無になったわけではない。しかし、渦状星雲どうしの大衝突によって発生した巨大なエネルギーでも、大宇宙に拡散してしまってはいったいどれだけ、周囲の空間に影響をあたえられるのだろうか? それを無と呼ぶのは当を得ていないが、それを無と呼ばずしてなんと呼ぼう。
この惑星の住民たちは、精《せい》緻《ち》を極めた閉鎖空間で自分たちの都市をつつんで、この平原にもう一つの空間を作った。それとてこの世界が在ってのことだ。壊滅する渦状星雲の大エネルギーの奔流の前に、果してどれだけの時間、耐えられるのだろうか。
天空のなかばを占める巨大な渦状星雲は、その放射線でアンドロメダ星雲を強烈に照射しながら、永劫の死をはらんで静かに、大傾斜を見せていた。
あしゅらおうは、この静寂にみちた世界をシッタータやおりおなえに見せてやりたかった。おりおなえがまちがえたと言ったのは、実はここのところだった。あの氷原を照らす青い光は、空《バ》間《リ》断《ヤ》層《ー》につつまれた世界からのぞいた外の光だったのだ。あの世界には生きるものの姿はなかった。マイナス二百度以下の世界ではとうてい生きのびることは不可能だろう。閉鎖された空間に生じたわずかのゆがみかそれとも重力場発生装置に狂いを生じたか、熱は長い間にバリヤーの外へ流出していった。それに気づいたときはすでにおそく、あの世界は厚い氷雪におおわれて亡びていったのだろう。他のグループの人々は、さらに高次の閉鎖空間を作って最後の抵抗をこころみようとしている。それによって、あとどれだけ生きのび得るのだろうか。
おのれを一枚の金属プレートに打ちこんで、迫ってくる破滅からまぬがれようとしたアスタータ五〇の住民たちと、果してどれだけのちがいがそこにあるのだろうか? あしゅらおうの耳に、シッタータの笑いが聞えるような気がした。実際、あしゅらおうの体内におさまっているシッタータが笑ったのかもしれなかった。
あしゅらおうのほおにかすかな笑いが浮かんだ。それは向けられる対象のない、笑いともつかない惨《さん》憺《たん》たる笑いだった。人類が文明を所有するようになって、まだ一万年にもなっていなかった。このアンドロメダ星雲ではどうだったのだろう。そしてこの惑星では。
迫ってくる破滅をさまたげようとした超越者の姿はここにもなかった。そのかれの計画でさえ、すでにことごとく水泡に帰し、あしゅらおうたち三人が永い眠りから目覚めたときでさえ、すでに地球は死の星と化し、荒涼たるたそがれをむかえていたではないか。
眠りから覚めるべきではなかった。あしゅらおうは、あのつめたい荒れ果てた砂浜でナザレの男をむかえうった日のことをたまらなくなつかしく想い出した。
そのときだった。
《あしゅらおう》
とつぜん、あしゅらおうの胸にかすかな声が流れこんできた。
あしゅらおうははじかれたように周囲を見まわした。青い光の幕の中で、平原はいぜんとして静まりかえっていた。
《あしゅらおう》
その声ははるかな平原のかなたから青い光にはこばれて伝わってきたものだった。
「だれだ!」
あしゅらおうはその遠い声にさけんだ。
《まっていた。あしゅらおう。だが、とうとうまにあわなかった。しかし、それはけっしておまえの責任ではない》
その声には深い悲しみのひびきがあった。
「おまえはだれだ? どこにいるのだ」
あしゅらおうは、耳の後に埋めこんである脳波搬送波探知機に全身の神経をそそいだ。
しかし、そこからはなにものの気配も得られなかった。目に入るかぎりの平原は青い光の下に一枚の湖のようにひろがっているばかりだった。平原は左方へ向ってわずかにかたむいていた。むかしはこの惑星第一の大山脈だったのだろう。今でもわずかな高みを残しているところをみると。
《あしゅらおう》
とつぜん、こんどはその声はあしゅらおうのかたわらで聞えた。
あしゅらおうは思わず数歩の距離をとびのいた。
「なにものだ」
ひとみをこらしても周囲にはなにものの影もなく、ただ青い光がみちみちているばかりだった。
《こんな所で、こんな形で逢《あ》おうとは思わなかったな。もっとも、おまえとわたしとは、ついに出会うことはなかった、と記録には残されているはずだ》
あしゅらおうには応えるべき言葉はなかった。短い沈黙ののちにふたたび声は聞えた。
《あしゅらおう。シッタータは『彼《ひ》岸《がん》』の意味が理解できただろうか? かれが『波《ば》羅《ら》門《もん》』のおしえにみたされぬものを感じ、さらにその幾つかの言葉に強い疑惑を抱いたときはわたしはうれしかった。その疑惑の糸をたぐれば、道はここまでつづいているのだ。わたしはおまえたち三人をえらんで永い眠りにつけ、わたしがおまえたちを必要とするときまでそっとしておくことにした。おまえたちの心の中に、たのむべき幾つかの言葉を封じこめて。あしゅらおう。『色《しき》』はすなわち存在。『空』はすなわちディラックの海。『空《くう》即《そく》是《ぜ》色《しき》』すなわち、マイナス・エネルギーの海がすべての存在の母胎であることに気がついてくれたことであろう。あしゅらおう。『彼《ひ》岸《がん》』とは、まことにおよび難い超越者そのもの、あるいは超越者の世界のことだ。『彼岸』という言葉の意味にひそむ絶望的ともいえる隔絶のひびきをなんと聞いた? あしゅらおう。シッタータはその道をさし示す一つの道標だった。おりおなえはその道標に記される文字をそらんじていた。そして、あしゅらおう、おまえは」
「わたしは?」
「あしゅらおう、今、わたしはこの世界の、流れてやむことない変化の、ついに傍観者にしか過ぎなかったことをしみじみと想いかえしているのだ。はるかな遠いむかしに、人々の心にささやいた幾つかの言葉が、やがて来る破滅を予感していることにどれだけの人が注意をはらっただろうか。そのようなかたちでしか破滅を予告することができなかったのが残念だ》
あしゅらおうは、青い平原にむかってさけんだ。
「なぜはっきりとそう言わなかったのだ」
《破滅の意図をもって世界を動かしているある存在にさとられたくなかったからだ》
「しかし、かれらは間もなくそれに気づいた」
《それゆえにかれらは、わたしの予告をことごとく消してしまった。もともと、不幸や悲劇の迫ってくることなど信じたくもないし、おぼえていたくもないのが人類だからな。消極的な対策などなんの延命策にもならなかった。日照りにはつぎの年の豊作をねがって祭壇をかざり、嵐《あらし》や洪《こう》水《ずい》にはいたずらに堤を高くして田畑を守ることのみを思い、また病いの流行には医師を養成し、多量の薬物を作ることだけしか考えなかった。やがて大陸はしだいに干上り、砂漠は内陸をおおうにしたがって、人々はその都市を地下に移した。もはや陸地も海も、かれらの食料を提供する場所ではなかったから、それらがしだいに荒れ果て、喪《うしな》われてゆこうとも少しもうれうにはあたらないと判断したからだ。火星にも金星にも、やがて太陽系一円に人類は進出したが、それとてかれらの生産力を増大することにはついにならなかった。人々はようやく破局に近づきつつあることを知った。かれらはロボットを作り、自分たちの体を精巧なサイボーグと化して荒涼たる太陽系の辺境へと脱出路を求めていった。しかしどうだ、その結果は、あしゅらおう。この世界の破滅を意図するものたちはついに勝ったのだ。いや、勝つのが当然だったかもしれない》
あしゅらおうは台地のふちに立って、青い光の底に沈む平原をのぞんだ。それは、はるばるとここまでやってきたものをむかえるにはいささか不向きだったが、あしゅらおうはそれならそれでしかたがないと思った。
《あしゅらおう》
あしゅらおうは小さく首をふった。
「おまえはなにものだ。なにものなのだ?」
そのとき、声はあしゅらおうの胸をつらぬいた。
《わたしは転《てん》輪《りん》王《おう》だ》
その言葉があしゅらおうの心に定着するまで何秒か、かかった。
「転輪王?」
《かつて『波羅門』の僧たちはそう呼んだ》
転輪王――世界を動かす王の王たる者。その王について、かつてあしゅらおうはシッタータに説明したことがあった。あの夜のことが、あしゅらおうの目にあざやかに浮かんだ。
岩頭に立つあしゅらおうの所へ、シッタータはひょう然とあらわれたのだった。
「転輪王、というと」
「波羅門にも説かれていよう。王の王たる者。すなわち化して因縁を転ずる自在な王のことだ。この世の外に在って生成を看ることすでに一兆年の余という」
「阿《あ》修《しゆ》羅《ら》王《おう》よ。あなたはその転《てん》輪《りん》王《おう》に会ったことがあるのか?」
「太子よ。転輪王の姿を見たものは誰もいない。どこにいるのかもしらない。しかしその名を知る者たちはひとしく、いつか必ず、それもあまり遠くない時代に、転輪王はこの世界に姿をあらわすに違いないと思っている」
今、そのシッタータの姿はなく、転輪王は目の前に在った。
「転輪王よ。あなたが実はアンドロメダ星雲の中の一つの惑星の上に在り、ここから世界を支配し、幾多、惑星の興亡、盛衰を管理し掌握していたのだな」
《その組織も、機関も、今はすべて崩壊、離散してしまった。わたしはこの世界がわたしの力のおよばないものに変《へん》貌《ぼう》してゆくのを、この生きるものの影とてない丘の傾斜からじっと見つめてきた。MIROKU なるものがこの世界にあらわれ、五十六億七千万年ののちに世を救うと。人々はそれを信じ、あの喜《き》 見《けん》 城《じよう》の奥に像を飾ったのを見た。また MIROKU がアトランティス王国に実際の支配者として乗りこんでゆくのも見た。ナザレのイエスなる男をして、天上の神と信じさせ、さまざまな奇跡をおこなうのもここから見た。あしゅらおう。すぐれたわたしの部下たちの中にも、かれらの言葉を信じて、世界の荒廃をあしゅらおうの乱入のせいだと考えるものがでてきた。帝《たい》釈《しやく》天《てん》も、梵《ぼん》天《てん》王《おう》も、みな弥《み》勒《ろく》のもたらす浄土をねがって荒廃と戦いぬいた。ただしその荒廃がなにゆえ生起したものかを知ろうとはせずに、だ》
あしゅらおうはここまでに至る長い道程と時間を想った。それははじめも終りもない永い永い旅の一部であるかのようにあしゅらおうには思えた。
「転輪王よ。一つだけたずねたい」
《なんだ?》
「この世界の破滅をはかるものたちとは、いったい、なにものなのだ? そしてどこからやってきたのだ?」
《説明するまえに、おまえはこの世界の果を考えたことがあるか》
「考えたことはある。果と言うか、宇宙の膨張速度が光速に達したところが限界であり、宇宙全体の質量のために空間は閉されて一個の球の内部を構成する、と」
《しかし、それでは完全な説明にはならない。閉された内側ということは無限の外の広がりの一部を構成しているに過ぎないからだ》
大宇宙は一千億の渦状星雲を容れる。もとより膨張か、収縮か、あるいはその反覆かは問うところではない。なんの説明にもなりはしない。あしゅらおうは心の中でつぶやいた。
《時もまた同じだ。閉された内側の世界を構成する時間は、すなわち無限の外のひろがりを構成する時間の一部に過ぎないからだ。二千億年のむかし、原初の時点から時は流れはじめ、二千億光年のかなたでその流れはやむ。しかしそれはまことの無限を構成するいわば超時間のほんのささいな切片の一つに過ぎないのだ》
その声はおしなべて流離興亡を見極めたものの痛《つう》恨《こん》に満ちていた。
「されば転輪王よ。今一つこたえてほしい。あの『シ』とはなにものか? 超時間を支配する絶対者のことか?」
長い沈黙がやってきた。青い平原は、いよいよこの世のものでない光と静寂につつまれてあしゅらおうの前にひらけていた。それがおしなべて変転を見守るものの世界なら、ここでは神もまたその変転の相の一つに過ぎなかった。
ふたたび転輪王の声がとどいてきた。
《あしゅらおう。私はあるとき、まぼろしをみた。しかしそれがほんとうにまぼろしだったのかそれとも疲れた心の描いた翳《かげ》だったのか、あるいは全くそんなものを見はしなかったのか、すでにさだかではない。だがその内容だけは今でもはっきりとおぼえている。あしゅらおう。それを今おまえの心に映してみよう。このまぼろしの語る意味は、おまえと私とではおそらくはなはだ異なるに違いない。それならそれでよい。ここまでやってきたおまえが、もときた道をもどってゆこうとも、また、これよりさらにはるかな、これまでとはくらべようもない困難な道をさらに進もうと志そうとも、それはおまえが自分でえらぶがよかろう。あしゅらおう》
二つの渦《か》状《じよう》星雲が白熱の光につつまれながら静かに他を消し合っていた。三つの渦状星雲が、一つに融合してさらに一つの星雲団の中心部へ向って突進しつつあった。また、幾つかの渦状星雲が遭《そう》遇《ぐう》した跡の放射線の雲が多彩な光をまき散らしながらしだいにうすれていった。数千個の星雲団が密集して、ほとんど光速に近い速さで漂流していた。その吐き出す放射線は、遠く一千億光年のかなたにただよう他の星雲群を破壊しつつあった。
暗黒の空間はしだいに色《いろ》褪《あ》せ、ただよう星雲群もその形を喪《うしな》って流れる光の縞《しま》もように変化した。暗黒と光とが交錯し、時おり、すさまじい閃《せん》光《こう》がはしった。ふたたび暗黒と光とはその領域を回復し、視野は急速に明るくなっていった。明暗はいぜんとして鮮烈な縞もようを描いていた。やがてほんとうの暗黒がやってきた。いっさいの光は絶え果て、動いているのか、止っているのかさえわからなかった。永い永い時間がたっていった。それはおそらく、宇宙の中心のエネルギーの海から銀河系という巨大な渦状星雲が生れ、それがいつかエネルギーを消耗しつくして消滅しさるまでにひとしい時間であろうと思われた。
あしゅらおうは一個の渦状星雲となって浮いていた。すでに星間物質も喪われ、恒星の多くはエネルギーを放ちつくしてつめたく固い形《けい》骸《がい》と化していた。
とつぜん、ふたたび自分がおそろしい速さで空間を突進していることに気がついた。それは実際に自分が光よりも早く移動しているのか、それともおのれを容《い》れた世界全体が運動しているのか、はっきりしなかった。その世界のどこかに、シッタータやおりおなえがあきらかに存在していることを感じていた。
――やはりかれらもここへきていたのだな。
あしゅらおうはかれらが、自分を見守っていることを知った。
存在はすべてここから始まるのだ。
二人の声が聞えた。
あしゅらおうが気づいたとき、すべてはたそがれのようにふしぎな薄明につつまれ、心にしみる静けさが凝結していた。すでに生死も、時の流れすらもあしゅらおうの内部に在った。あしゅらおうは、すでにおのれが変転の内部に在りながらすでにその変転をはるかに越えていることを知った。
今、あしゅらおうはおのれが転輪王であることを知った。
そのとき、遠い遠いどこからか、なにものかの語りあう声が聞えてきた。それは風よりも軽くかすかに、あしゅらおうの心の中にしのびこんできた。それはあしゅらおうの内部で、あしゅらおうの言葉に組みなおされたものであり、実さいにはどのような方法で会話がなされているのか、うかがうすべもなかった。
あしゅらおうは石のように心を凝《こ》らせてそれを聞いた。
《失敗だった》
《大きな失敗だった。高エネルギー粒子の集団を破壊するためには、その生成と変化の過程に必然的に崩壊の方向をたどる他の因子を加えてやらなければならなかった。エネルギー粒子の集団の、変化に対する反応は実に早いし、また反《はん》撥《ぱつ》作用が激しいので、崩壊因子の挿入は慎重の上にも慎重を期さねばならなかった》
他の声がそれにかさなった。
《もし、この消去方法が失敗したら、反応炉の内部に発生した高エネルギーの集団は、やがて、反応炉の壁を浸透してこの世界に流入してきただろうと思う》
《エネルギーの循環状態の中に、このような奇妙な反応組織系が生れてくるとは思わなかった》
《その反応組織系のことだが、これも生物と呼んでよいものなのだろうか》
《非常に原始的な生物だ》
声はしだいに遠く遠くかすかに、あしゅらおうの心からそれていった。
「まて! おまえたちはなにものだ」
あしゅらおうの声はむなしく青い光の中に消えた。その青い光の下にひろがる平原には羽毛ほどの翳《かげ》もなかった。
すでに転輪王の気配も消えていた。
あれはなにを意味するのだろう。この世界の変転は実はさらに大いなる変転の一部に過ぎないのであり、それすらさらに広大なるものの変転を形成する微細な転回の一つにしか過ぎないというのか。しからば『シ』はどこにいるのか。真の超越にいたる道はいったいどこにあるのか。しかしこのときあしゅらおうには、どこにあっても変転の相はつねに一つしかないような気がした。
とつぜんはげしい喪失感があしゅらおうをおそった。進むもしりぞくもこれから先は一人だった。すでに還る道もなく、あらたな百億の、千億の日月があしゅらおうの前にあるだけだった。 本書は昭和五十五年に小社文庫にて刊行されたものを復刊に伴って改版したものです。
(編集部) 百《ひやく》億《おく》の昼《ひる》と千《せん》億《おく》の夜《よる》
光《みつ》瀬《せ》 龍《りゆう》
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平成14年4月12日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社 角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
shoseki@kadokawa.co.jp
(C) Ryu MITSUSE 2002
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『百億の昼と千億の夜』昭和55年10月 6 日初 版 発 行
平成 8年12月25日改版初版発行