TITLE : 三浦綾子小説選集5 続泥流地帯 草のうた
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三浦光世選
三浦綾子小説選集5
続 泥流地帯
草のうた
目 次
続 泥流地帯
草のうた
続 泥流地帯
(一九七八年)
村葬
大正十五年七月十一日――。
朝からじりじりと暑い日である。今、上《かみ》富《ふ》良《ら》野《の》尋常高等小学校の屋内運動場では、泥流に流されて死んだ人々の村葬がとり行われていた。運動場の左手の板壁にかかった大きな柱時計は、九時二十分を指している。村葬が始まって二十分である。石村耕作は、母の佐枝、兄の拓一と共に、千五百の会衆の中にいた。七十名を越える各派の僧の読経が、会場いっぱいにひびく。札《さつ》幌《ぽろ》や旭《あさひ》川《かわ》から来た僧もいると聞いていた。
(じっちゃんも、ばっちゃんも、姉ちゃんも、良子も、みんな死んだ)
耕作は、祭壇の上の白木の棺をみつめた。棺の中には、百四十四名の遺骨が納められている。棺の両側に、白蓮の造花が数対、棺の前にも、白い四《*し》華《け》が一対飾られ、そして供物が三対供えられている。祭壇はすべて白布に覆われ、太いローソクが朝の光の中にほのかにゆらめいている。香の煙が、そのローソクにまつわるように漂い、会衆はしんとして、只読経の声に聞き入っている。
耕作は、まだ悪い夢を見ているような思いで、白布に覆われた祭壇を眺めた。ふいに、良子の耳たぶのほくろが目に浮かんだ。良子の遺体を収容所で見つけた時、額も鼻も傷だらけで、顔がひどくむくんでいた。その傷ついた鼻から、血がたらたらと流れた。親兄弟が行くと、死体は鼻から血を流すと聞いていたので、良子かも知れないと思ったのだ。そしてその時、良子の右の耳たぶには大きなほくろがあったことを思い出し、耕作は耳たぶを見た。果たしてそこにはほくろがあった。ほくろが良子であることを知らせてくれたのだ。もし、ほくろがなかったら、どう見分けてよいかわからぬほどに、良子の顔形は変わっていた。余りにもむごたらしいことであった。
(苦しかったべなあ)
耕作は傍《かたわ》らにいる母の佐枝を見た。佐枝は、五月三十日に、何年ぶりかで帰るという便りをよこしていた。母の佐枝は、夫義平の死後、市街の呉服屋で働いていたが、髪結いになるために、耕作たち四人の子らを 舅 《しゆうと》 姑 《しゆうとめ》 に預けて、村を出て行ったのだった。その後肺結核にかかり、佐枝はなかなか耕作たちのもとに帰ってくることができなかった。それがようやく、五月三十日に帰ると手紙をよこしたのだが、その六日前の、二十四日の十勝岳爆発で、耕作の祖父母も、妹の良子も泥流に流されて死んでしまった。そして嫁いでいた姉の富も、火口に近い硫《い》黄《おう》鉱業所の炊事場に勤めていて死んだ。
爆発の前の夜、良子は、母の帰宅の知らせを喜び、夜も寝つけずに、ぴょこりと床の上に起き上がった。
「何だ、まだ、起きていたのか」
隣に寝ていた耕作が声をかけると、
「だってうれしいんだもの」
と、良子はうきうきと言い、
「母ちゃんてどんな顔? 写真と同じ顔?」
などと言っていた。兄の拓一が、
「良子も旭川まで迎えに行くべ」
と言うと、
「うれしいーっ」
と、ばたんと音を立てて、布団の上に寝ころがったのだった。良子は、髪結いになった母が、
「帰ったらすぐに、良子の髪を結ってあげましょう」
と書いてよこした手紙を読んで、顔を真っ赤にして喜んでいたのだった。だが良子は、死に顔さえ母に見てもらえずに、小さな骨箱に入ってしまった。そのことを思うと、耕作は妙に、母が恨めしいような気がするのだ。良子が死んだのは、沢の家々を押し流した泥流のせいだ。
耕作は山の上から見た泥流を思い出す。あの五月二十四日の夕方、突如、大砲の轟《とどろ》くような音がした。十勝岳の爆発ではないかと、耕作は兄の拓一と裏山に駆け上って見た。暗い雲が垂れこめ、雨にけぶる視界の中に、十勝岳は全く見えなかった。家の前で、
「何か見えるーっ?」
と良子が叫んだ。
「何も見えーん!」
拓一も耕作も叫んだ。が、そのすぐ後、耕作は見たのだ。沢の間から、黒い小山がぐいぐいと押しよせるようにせり出してくる恐ろしい光景を。その黒い小山は、一分と経《た》ぬうちに、祖父母や良子をのみこんでしまったのだ。
山裾を削り取るように流れていたあの凄《すさ》まじさは、今も耕作の目に焼きついている。それは、何ひとつ佐枝とは関係のないことなのだ。それがよくわかっていながら、
(せめて十日前に帰ってくれていたらなあ……)
と恨みたくなるのだ。もし良子が母に会っていたなら、どんなに喜んだことだろう。その喜んだ顔を思い浮かべて、耕作は母をなじりたくなるのだ。
その点、兄の拓一はちがう。拓一は、祖父母や良子が押し流されたのを見て、助けるために、ためらわずに泥流に飛びこんだ。太い木が何十本となくトンボ返りをして流されてくる泥流の中に。
「お前は母さんに孝行せ!」
と、耕作に言い残して激流に飛びこんだのだ。それなのに、佐枝に会った時、拓一は佐枝の前に両手をついて号泣しながらあやまった。
「母さん! すまんことをした。じっちゃんもばっちゃんも、良子も死なせてすまんかった」
と、本当に自分の責任でもあるかのようにあやまったのだ。そのあやまる拓一の姿を、耕作は、最初呆《あ》っ気にとられてみつめていた。
「兄《あん》ちゃんのせいでないべ」
そう言いたかった。そして、佐枝もまた、耕作が言おうと思った同じ言葉を拓一に言った。が、拓一は言った。
「俺が悪かった。ゆるしてくれ」
拓一は真底から責任を感じているようであった。
読経の声がますます高まってくる。あちこちですすり泣く声が聞こえた。耕作の隣で、拓一の膝《ひざ》の上にぽたりぽたりと大きな涙が落ちている。
やがて読経が終わり、弔辞が始まった。
「上川支庁長、北崎巽殿」
司会者が読み上げると、フロック・コートを着た男が祭壇の前に立った。重々しい声で、男は弔辞を読みはじめた。
「弔辞
十勝岳は活火山として称せられたるも、曾《かつ》て甚《はなは》だしき異変なかりしに、本年五月二十四日忽《こつ》焉《えん》と爆発し、山腹を崩壊、泥流の暴を敢えてし、山林を荒らし、公道を浸し、家屋の流亡破壊、人畜の死傷多数を算す……」
確かに十勝岳は活火山だったのだと、耕作は改めて思った。だが、このような恐ろしいことになると思っていた者は、一人もいなかったはずだ。何の恐れもなく、人々は安心して、あの泥流の押し流した沢に、開拓以来三十年もの長い間暮らしてきた。この地こそ自分の一生の住みかとして、祖父たちは木を伐《き》り、藪《やぶ》をひらいて畠《はたけ》にしてきたのだ。人間は何と儚《はかな》い存在かと、耕作は弔辞に耳を傾けた。
すぐ二、三人前に、武井隆司の淋しげなうしろ姿が見えた。そのそばに、武井の母のシンもいる。姉の富は、この武井と結婚したために、不幸なままに一生を終わったように、耕作には思われた。
富と武井が、納屋の中で藁《わら》を切りながら話していたのを、耕作は昨日のことのように覚えている。旭川中学に一番で合格しながら、耕作が進学を諦《あきら》めたのは、あの二人の会話を聞いたからだった。
「耕作も自分勝手だな」
納屋のすぐ隣の便所に、耕作がいるとも知らずに、あの時武井はそう言った。武井は富と結婚したがっていた。だが富は、中学に合格した耕作が、卒業するまで嫁にはいかないと断ったのだ。祖父母と拓一だけに農を委《まか》せて、富は結婚する気にはなれなかったのだ。やがて拓一も兵隊に行く。そういう富に、
「そんなこと言って、本当は俺ば嫌いになったんじゃないか」
と、武井は責めた。
「ひどいわ、隆司さん。あんたが嫌いなら……」
富の涙声が今も耕作の耳にある。
「耕作がかわいそうだわ。折角一番で入ったんだもの。中学を諦めれなんて」
「じゃ聞くがな、富ちゃんと一緒になれない俺と、どっちがかわいそうなんだ」
(あの時、自分は、姉の幸せを思って、死ぬ思いで中学を諦めたんだ)
だがその富の結婚生活は不幸せだった。武井とは生《な》さぬ仲の母親シンの冷たさは、たまさか遊びに行く耕作たちにもよくわかった。
いつか富が、体の何倍もある草を背負って、泣きながら道を歩いているのを見たことがあった。富はシンの冷たさにいたたまれずに、武井の働く硫黄鉱業所の炊事婦になったのだ。
シンは、良子と祖父の通夜に来た時、耕作の従妹《いとこ》にこう言ったという。
「こんな爆発で死んだら、お上から何ぼか銭《ぜに》がおりるもんかねえ。うちは隆司と嫁の二人だから、百円ももらえるだろうか」
まだ息子夫婦の生死もわからぬうちに、シンはそう言ったという。そして、一人に百円もらえるらしいとわかった今、
「うちの嫁は親孝行だ。いい時死んでくれた」
と、ほくほくしているという。そのシンが、良子と市三郎の野辺の送りの時、
「わしら、カジカの沢の者は、よっぽど心がけがいいんだね。畠も家も無事だったもんね」
と、遠慮のない声で言っていたのを、耕作も聞いた。
だから耕作は、武井に対しても腹が立つ。
(姉ちゃんば、幸せにもできんくせに、無理矢理嫁にして)
富は武井の所に行かなければ、あるいは死なずにすんだかも知れないのだ。涙ばかりこぼれるような暮らしをしなくてもよかったのだ。自分の母があんな母だと知っていて、どうして好きな女をもらう気になるのだろう。富がかわいそうで、武井が憎くなる。何ともやり切れない思いになる。
この間、そのことを拓一に話したら、
「男が女を好きになるってことは、理屈を超えたことだもなあ。武井の兄さんも気の毒さ。姉ちゃんの骨ば、ふろしきに包んで、腹にまいて歩いていたべ」
拓一はそう言って、ぐいと涙を拭いたのだ。が、耕作は、
(俺は無責任に結婚はしないぞ)
と、強く思ったことだった。
「ナムマイダ、ナムマイダ」
すぐうしろに坐っている修平叔父の声がした。耕作たち三人は、今修平叔父の家の納屋に住まわせてもらっている。修平叔父は一《*いち》言《げん》居《こ》士《じ》で、文句の多い叔父だったが、自分の両親、つまり耕作の祖父母市三郎とキワを失ってから、今までとは別人のような優しさを、時折見せるようになった。叔父を見ていると、人間を一言で、「頑固だ」とか「強情だ」とか、言い切ることができないものだと、つくづく思う。今日の自分は、必ずしも明日の自分ではないのだ。そんなことを、耕作はこの頃の修平を見て思うのだ。
武井の隣に、シンは落ちつきなく坐っている。今もきょときょとと、右を見たり左を見たりしていて、その横顔にも、何の悲しみもない。まるで祭り見物でもしているような様子だ。
「上富良野村長、吉田貞次郎殿」
司会者の声がし、村長がおもむろに巻紙をひらいた。吉田村長も、その母をこの度の泥流で失っていた。だが、一カ月もの間、ひたすら災害対策に没頭した。帰宅したのは、母親の通夜の時、僅か一時間だけだったという。しばらくぶりに見る吉田村長の姿は、耕作には急に十も年を取ったように見えた。
「村長さんだ」
「村長さんだ」
周囲にささやく声がした。誠実なその人柄を、村民たちは慕っていた。
「大正十五年五月二十四日午後四時、十《と》勝《かち》山《さん》嶺《れい》猛威をふるいて、本村開拓の功労者百三十七名を奪い、田畑その他の損害無慮三百万円を算するの一大惨害を呈するに至れり。天変地異まことに測知するを得ずと雖《いえど》も、何すれぞそれ悲痛の極みなる。只々天を仰いで浩《*こう》歎《たん》せざるを得ざるなり」
一人一人の心に沁《し》み通るような声である。耕作は息をつめるように、体を前に乗り出して耳を傾ける。
「そもそもこの度遭難の英霊の多くは、本村草分けの移住者にして、本村開拓の当初より、自ら木を伐り、地を耕し、萱《かや》葺《ぶき》小屋に莚《むしろ》を敷き……」
村長の声が、早くも涙にくもった。誘われて、すすり泣く声があちこちに高くなった。
「宵《*しよう》 衣《い》 〓《かん》 食《しよく》夜を日についで激働に服し、辛酸の限りを尽くし、孜《*し》々《し》として倦《う》まざること、まさに三十年……」
吉田村長は絶句した。村長の背中が泣いている。巻紙を持つその手がふるえている。
「……いまやようやく……美《*び》 田《でん》 穣《じよう》 園《えん》を……造成して、農村建設の第一段に成功し、各々恒《*こう》産《さん》を擁して、常に自治の向上発展に努力し、永住の基礎を確立するに至りたるも、俄《が》然《ぜん》泥流の襲うところに殉じて、身は悲壮の最期を遂げ、三十年間建設したる身上、また一朝にして荒廃に帰す……」
村長の肩のふるえが、耕作の体に、じかに伝わってくる。
「……また、硫黄山鉱業に従事したる人々の如き、何《いず》れも遠く妻子を故郷に残して単身渡道し、不便なる山中に起《き》臥《が》し、濛《もう》々《もう》たる火口にありて……」
会衆のすすり泣きが、更に高まってくる。耕作の涙にくもる目に、受け持ちの生徒だった坂森五郎の姿が、ありありと浮かんだ。五郎は母親のない子だった。誰にも馴じまぬ子供だったが、五郎の作った詩が、耕作と五郎の心を結んだ。五郎はこんな詩を作ったのだ。
まんま
ゆんべ
おれが まんまたいた。
ちょっと こげたけど、
父ちゃん おこらんかった。
あんちゃんも おこらんかった。
みそつけて くった。
うまかったなあ、
おれのたいた まんま。
耕作はその詩に、母のいない坂森五郎の生活を思った。三年生の五郎が米を磨ぎ、ストーブに火をつけて、飯を炊いている姿を思った。米が炊けるまで、五郎は膝小僧でも抱えて、ストーブの火をみつめていたのではないか。母のいない家庭に育った耕作は、涙ぐみながら批評を書いた。
「五郎の炊いた飯、うまかったべなあ。先生も食いたかったぞ。あのなあ、五郎、先生もなあ、母ちゃんがいないで育ったんだぞ。そして父ちゃんも死んでるんだぞ。仲よくするべな」
この評が五郎を変えた。五郎は一里近い道を歩いて、市街から日進の沢に住む耕作の家に遊びに来たことがある。
だが耕作は、その日天気がよかったので、畠の手伝いに出ていた。畠仕事が忙しくて、折角来た五郎の遊び相手になることができなかったのだ。それでも昼食を一緒にし、畠仕事をする耕作のそばで半日い、五郎は喜んで帰って行った。
「天気のいい日は、先生は畠だからなあ。すまんかったなあ」
その耕作の言葉を覚えていて、五郎は雨の日の五月二十四日、耕作を訪ねて来て、泥流に遭った。その五郎の、雨の中を一心に急いで来る姿が目にうつる。耕作の胸は切り裂かれそうだ。その姿をふり払うように、頭をふった時、前方にぬっと立ち上がった男の姿があった。深《ふか》城《ぎ》だった。耕作の幼なじみの曾山福子が売られた深《み》雪《ゆき》楼《ろう》の主人だった。その深城のすぐそばに、福子の白い横顔が見えた。傍《かたわ》らに、深城の娘節子と、そして節子の兄の金一がいた。
こらえきれずに、声を上げて泣く者もいる中に、吉田村長の弔辞はつづく。
「……生き残りたる遺族は、更に決心を新たにして、本村再興のために渾《こん》身《しん》の勇をふるい、期年にして以前に倍したる田畑を開墾し、一は以《も》って殉難者の英霊を慰め、一は以って、皇国の隆運に貢献せんことを期し、何れも本村にとどまって心血を注ぎ、成功を予期して勇猛精進せんとす……」
弔辞のさ中に、不《ぶ》躾《しつけ》に突っ立って深城は、半びらきにした扇で、入り口の方に向いてしきりに、誰かを招いている。見ると入り口に群がる人々の中に、軍服を着た曾山国男が、今着いたのであろう、額の汗を手拭いで拭き拭き、立っていた。手招く深城には気づかぬらしく、国男はじっと白い祭壇に目を注ぐ。
「国ちゃんだ」
耕作は傍らの拓一の膝をつついた。拓一は返事をしない。見ると拓一は鼻を赤くして泣いている。その拓一の涙が、耕作にはひどく辛かった。もし拓一も、あのまま激流の中で死んでいたなら、ここにはいないのだ。
(助かってくれてよかった)
と、つくづくと思う。もし死んでいたとしたら拓一の親友国男の軍服姿を見ただけで、自分はどれほどの悲しみに襲われたことであろうと耕作は思う。
国男の父はぐうたらだった。ふだんは、借りてきた猫のようだと言われるほど、人のよいおとなしい男だったが、一たん酒が入ると、野獣のように吠え猛《たけ》った。そして賭《かけ》ごとに熱中した。そのために、国男の妹の福子は、深城の経営する深雪楼に売られてしまったのだ。だがその国男たちの父も中風になり、明日か明後日かという病状におちいり、市街から福子も看病に来ていた。そこを突如泥流が襲い、看病されていた父親も、看病していた母親や子供たちも、みんな流されてしまった。そして、福子だけが助かったのだ。
泥まみれの福子を、福子と知らずに助けたのは耕作だった。
泥流にまみれた福子は重かった。その重い福子を背負って、雨の降る山道を、畠の中の小屋まで運んだ感覚が、まざまざと耕作の背に甦《よみがえ》る。しかしそれもまた、あまりに過酷な現実で、かえって夢の中の出来ごとのようにも思われるのだ。
小屋の中で、耕作は福子の体に重くへばりついた泥を、手から足からこそげ落としてやった。福子とも知らずに落としてやったのだ。そして、胸のあたりの泥を落としていた時に、ふいにぽっかりと、青白い乳房が現れて、耕作は狼《ろう》狽《ばい》した。
あれから一カ月半余り、時折その泥の下から現れた青白い乳房が耕作の目に浮かんだ。が、それは耕作にとって、こよなく尊いものに思われた。決して犯してはならぬ聖なるものに思われた。福子は深雪楼の遊女である。だが耕作にとっては、幼なじみの、清らかな少女なのだ。
いや、自分よりも、兄の拓一はもっと福子を大切に思っている。竹筒の中に、金を五銭十銭と貯めては、福子を深雪楼から救い出すのだと言っていた。その竹筒も二本目になっていたが、やはり泥流に押し流されてしまった。だが拓一の福子に対する真実は、決して流されはしない。拓一は、曾山家に見舞金が下りたら、その金で福子は自由になっていいのだと、幾度も耕作に話していた。
役場の者の話では、死者、流失家屋に対する見舞金は、少なくとも死者一人百円、そして、それ以上は一人増すごとに五十円、流失家屋には二百円以上の割り当てがあるだろうということだった。とすれば、曾山の家には、父母弟妹が死んだのだから、家屋分と合わせて四百五十円は入ってくる勘定になる。むろん住居は建てなければならないが、若い国男と福子の二人は、あの貧しい沢に住まずとも、他に転出してもいいはずだ。一家のために身を売った福子なのだから、見舞金で自由になってもいいはずだ。まさか、福子の借金は二百円を超えることはあるまいと拓一は言い、もしそれでも不足なら、自分の家の見舞金を出しても福子を自由にしてやりたいと、拓一は母の佐枝にも言っていた。佐枝は深くうなずいて、
「福ちゃんもかわいそうに。親のために苦界に身を沈めて……、拓一、よくそんな気持ちに育っておくれだね」
と、拓一の言葉に賛成した。
国男が、ようやく深城の姿に気づいて、人をかきわけかきわけ、深城のそばに行き、頭をペコンと下げて、福子の傍らに坐りこんだ。おそらく深城が国男の場所を取って待っていたのだろう。
深城は、この度の災害で誰よりも儲《もう》けた。何しろ、旭川、上川、空知の各地から、青年団員、消防団員、線路工手、保線係、赤十字社救護班、旭川医師会救護隊、旭川市役所吏員、警察官、新聞記者、その他一般の見舞人、視察の役人等々、一日に何百人もの人間が、この小さな上富良野村に押しかけたのだ。深雪楼はたちまち臨時旅館に早変わりし、食堂に変じた。しかも深城は、通常の倍もの値段で味噌汁や飯を売り、たちまち人々の非難を浴びた。が、深雪楼に出入りする視察の高官も多く、自然深城は、何かと重要な立場に立たされもした。
今日の葬儀には殊勝にも、看板妓の福子の遺族代わりとして一家を挙げて参列したが、葬儀が始まるまで、はだけた胸を扇子でしきりにあおぎながら、場内を忙しげにあちこち動きまわっていたのだ。その深城の得意げな表情にも、耕作は腹を立てていたのである。
吉田村長の弔辞が終わり、つづいてまた他の者が弔辞を読む。
見るともなく、福子の姿を遠く斜めうしろから見ていた耕作は、はっとした。福子と並んで、じっとうつむいていた節子が、不意にふり返って耕作をみつめたからである。十列も斜め前にいる節子が、ふり返って耕作を見たのは、あらかじめそこに耕作がいることを知っていたからだった。
激しい節子の目の色に、耕作はたじたじとした。節子は初めて会った小学生の時から、迫るようなまなざしを見せる少女だった。深城の娘とは思えぬ清《せい》冽《れつ》で、しかも激情的な娘であった。
あれは小学三年の時であった。山ぶどうの熟れる季節だった。ぶどう取りに来ていた深城親子と、拓一や耕作たちは、山で出会った。その時深城に、母の佐枝の悪口を言われ、三年生の耕作は、思わず握った石を深城に投げつけた。が、その石は、深城に当たらずに、娘の節子の額に当たった。節子の白い額に、血が流れた。
「この子の顔に傷が残って、もし嫁のもらい手がなかったら、どうしてくれる!」
と怒鳴る深城に、三年生の耕作は叫んだのだった。
「俺がもらってやる!」
深城は笑った。
「学士でなければ、節子は嫁にはやらん」
小作の小《こ》伜《せがれ》の分際で、馬鹿も休み休み言えと、更に深城は侮《ぶ》蔑《べつ》した。
耕作は、高等科を卒業して、市街の小学校の代《*》用教員となり、再び節子とめぐり会った。その節子に縁談が持ち上がった。相手は旭川の医師であった。節子は、
「わたしが好きなのは、石村さん、あなたなのよ」
と言い捨てて、家出して東京に去ったのだった。その節子が、学業を終えた兄の金一と共に、帰って来たのだ。それから二カ月ほど経った十勝岳爆発の翌日、市街で二人はばったり会った。節子は、
「生きていたの?」
と、食い入るように耕作をみつめたが、不意にけたたましく笑って、駆けて行った。その時と同じ激しい目を、今、節子は耕作に向けていた。耕作は視線を外らして祭壇を見た。
(深城の家は、誰も死なんかったからな)
耕作はふっとそう思った。一人も死者を出さなかった家と、何人にも死なれた家族とは、全くちがう。並んで坐っている人を、ひと目見ただけで、遺族と遺族でない者とは見分けがつく。体に漂っているものがちがうのだ。今のあの節子のまなざしは、死ななかった家族のまなざしだ。
第一、被災者とそうでない者とでは服装からしてちがう。葬儀だといっても、遺族の者たちは紋付きがなかった。いや紋付きどころか、家ぐるみ流されたのだ。今、耕作が着ている服だって、高等科の時受け持ってくれた益垣先生のお下がりである。拓一が着ているのは、修平叔父の一帳羅の紋付きだが、体格のいい拓一には裄《ゆき》が短すぎ、逞《たくま》しい腕がニュッと出ていた。絣《かすり》の着物を着ている男や、見るからに古びた着物を着ているのは、被災者に決まっている。でなければ、借り着の紋付きか服なのだ。
何とはなしに、耕作はため息が出た。
(兄ちゃんは、本当に復興するつもりか)
今しがた、吉田村長は、その弔辞の中で、
「生き残りたる遺族は、更に決心を新たにして、本村再興のために渾身の勇をふるい……」
と言っていたが、耕作の家のあたりは山から流されて来た大きな石でごろごろしている。あの村長の家の田んぼだって、泥土が四尺も積もって、まるで泥海なのだ。その上二十万石もの流木が、田畠一面に折り重なり散乱している。もっとひどい所では、泥は一丈もの深さだ。しかも只の泥土ではない。こんなことがあった。初めて流木除去の作業から帰って来た拓一が、長靴についた泥を焚《たき》火《び》の中に落とした。と、泥はぼっと青い燐《りん》光《こう》を放って燃えた。思わず、耕作と拓一は顔を見合わせたものだった。
あの時の、ぞっとするような恐ろしさを、耕作は思わずにはいられない。泥流の襲った田畠は、残らず燃える土になってしまったのだ。土というより硫黄なのだ。そんな土に、一体、今までのように、薯《いも》や、豆や、米が実るというのだろうか。燃える土! 思っただけでも体のふるえるような現実ではないか。
「土は百姓の命だ」
よく、祖父の市三郎は言っていた。だから、うっかり畠に小便することさえ、きびしく戒められたものであった。屎《し》尿《によう》は充分に溜《ため》池《いけ》の中で腐熟させなければならないと、教えられたものだった。その命であるはずの土が、青白い燐光を放って燃えるのだ。
(こんな土地が復興できるのか?)
耕作は、最初から、そう思っている。だが、拓一は、耕作とはまた別の考えを持っているようだ。むろん、耕作たちが住んでいた日進の沢は、流れて来た石で石原になってしまい、そこはもう誰が見ても、投げ出すより仕方のない土地になってしまった。沢にいた者たちの中には、他の村に新しい土地を求めて、既に出て行った者もいる。いや、沢の者ばかりではない。三重団体の者たちだって、山積した流木と、泥土に覆われた田んぼを見て、さっさと引き払って行った者もある。平地に田んぼをつくっていた三重団体でさえ、復興は無理だといち早く逃げ出す者もいるのに、拓一は母の佐枝や耕作にこう言っていた。
「な、母さん。じっちゃんが生きていたら、どうしたべ。耕作どう思う?」
佐枝も耕作も、どう答えていいか、わからなかった。
「俺はなあ。じっちゃんやばっちゃんのことを思うとなあ。あの泥流の中に流された時のことを思うとなあ。あの激流にのみこまれたじっちゃんたちの姿を思うとなあ……三十年間の開拓の苦労が、あれで終わっていいのかって、考えるんだ」
拓一は途切れ途切れにそう言った。
「だって、うちの畠は石原だよ、兄ちゃん」
耕作が言うと、
「わかってる。俺も同じ所に畠を作ろうとは思わん。だけどよ、三重団体の人が投げてった田んぼを借りてよ、俺、もう一回、この上富良野で農家ばやりたいんだ」
「そんなこと言ったって、兄ちゃん。火をつければ燃えるような土に、何ができる。米がほんとにできるのか」
「そりゃあ、俺もわからん。農事試験場の技術者たちが、それは調べてくれるべ。調べて、もし、稲ができるということになりゃあ、俺はもう一ぺん、やってみたいんだ。じっちゃんが開拓に入って来た時の気持ちになってな」
佐枝は黙ってうなずくばかりで、何も言わない。
「だって兄ちゃん。三重団体では無理だ。流木と泥に埋まったあの田んぼはもう駄目だ。もう死んでる。土が死んでる。土に命がない」
耕作は内心呆《あき》れながら、拓一に抗議した。
「んだなあ。土は死んだかも知れんなあ。だがなあ。土と人間とはちがう。土ってのはふしぎなものだ。あの泥流の上に客土してよ。……そして、あの泥流の水ば抜いたら、生き返るかも知れんのだぞ、耕作」
「万一そうだとしてもだよ。一年や二年で、あそこに稲はできん」
「一年や二年で実らんのはわかってる。しかし、三年目には実るかも知れんぞ、耕作。そんなに簡単に、投げ出すもんじゃねえ」
おだやかに説得する拓一に、耕作はいら立って、
「兄ちゃん、何だって、ここの土地にそんなに執着する。農家したいんなら、こんな硫黄臭い土地でない、どっかもっといい帯広あたりの土地にでも、出てったらいいんでないか」
そう言う耕作の顔を、拓一はつくづくとみつめた。そして、ふーっと太い吐息を洩らすと、
「そうだなあ、耕作の言うのはもっともだ。耕作の言うことは筋が通ってる。お前は頭で考えるからなあ。だがなあ、耕作。俺は心で考えたいんだ。ほかのいい土には、俺は何の心も動かん。こんだけ、じっちゃんやばっちゃんや、姉ちゃんや良子の命ば……奪った泥流だから……だからなあ、耕作、俺は元の土地に戻してみたいんだ。燃える土だから、俺はやってみたいんだ。じっちゃんたちが開拓した時、一本一本木を伐《き》り倒してな、その度に、空がひろがっていくのを見て、歓声を上げたっていうじゃないか。そん時の苦労を俺はな、硫黄臭い土に鍬《くわ》を入れることで、味わってみたいと思うんだ。みんなの命を奪った土だから……ほかの土地なら、俺は……農家はごめんだ」
その時のことを耕作は思いながら、祭壇のローソクに目をとめる。
「ほかの土地なら、俺は農家はごめんだ」
拓一はそう言った。その言葉に耕作は、農の辛さが身に沁みている拓一の本当の心を聞いたような気がしたものだ。あの時、佐枝は言った。
「拓一、お前は一度死んだも同然だからね。心で考える拓一が、考えたことなら……母さんも一緒に……今度こそ一緒に苦労するよ」
その佐枝の言葉も、耕作には応えた。だがそれでも、耕作は拓一の言葉に双《もろ》手《て》を挙げて賛成する気にはなれない。しかし、口ではもう拓一には何も言わなかった。拓一は、一度思ったら、思いを通す人間だ。福子のことだってそうだ。あの激流の中に飛びこんだことだってそうだ。飛びこんだ拓一と、飛びこまなかった自分とはちがう。
今、耕作は代用教員をつづけ、拓一は復興作業の日《ひ》傭《やとい》人夫に出て働いている。三人が住んでいるのは、修平叔父の納屋の一劃《かく》だ。器用な拓一は、何日かかかって、部屋らしい造作をした。恐らく拓一は農の生活をして行くにちがいない。そして復興に一生を捧げるかも知れない。そんな拓一の心の中を思うと、耕作はたまらなくなる。馬鹿だと思う。偉いと思う。可哀そうだと思う。羨《うらや》ましいと思う。
葬儀は次第に終わりに近づいて焼香が始まっていた。祖父、祖母、良子の遺体にめぐりあった時のことを、またしても思う。
(姉ちゃんにだけは、遺体にも会えんかった)
武井の腰に、新聞紙に包まれ、ふろしきに包まれて、握り飯のようにくくりつけられていた富の骨を思い出した時、
「日進小学校代表、菊川政雄殿」
と呼ぶ声がした。ひょろりと立った菊川先生の姿が見えた。参会者は一斉に菊川先生を見た。十勝岳爆発の日、先生は旭川に検定試験を受けに行っていて、留守だった。先生の留守に、学校も、校宅も、奥さんも、子供も流されてしまった。枯れ木が立ったような、先生のひょろりとした体が、前《まえ》屈《かが》みに祭壇に近づくのを、耕作は胸のしめつけられる思いでみつめた。
四華 「しか」ともいう。棺の四方に立てる白い蓮華の花。または造花。
一言居士 何事にも一言口をはさまないと気がすまない性質の人。
浩歎 非常に嘆き悲しむこと。
宵衣〓食 君主が早朝に正服をつけ、日が暮れてから食事をとる。すなわち、寸暇を惜しんで働くことのたとえ。
孜々として 休みなく物事に没頭すること。
美田穣園 よく肥えた田畑、土地のこと。
恒産 定まった財産、または一定の生業。
代用教員 旧学校制度の小学校で、教員免許を持たずに勤務した教師。
移転
うすぐもりの空だ。もう十日も前に済んだ村葬案内の辻《つじ》ビラが、古ぼけた納屋の板壁に貼《は》られてある。片隅のはがれた辻ビラは、微風にめくられて、軽い音を立てる。その傍《かたわ》らに、拓一は馬車をとめビラをはぎとった。馬車の上には、母の佐枝がい、そして僅かの引っ越し荷物が積んである。
「ふーん」
叔父の修平はしげしげと、今、これから佐枝の一家が住む家を眺めた。流失を免れたとはいえ、板壁の腰まで、まだ泥跡のあるこの家は、硫黄の臭いが強く沁《し》みこんでいるようだ。
農事試験場の調べで、復興が可能らしいと聞いてから、拓一は三重団体に移ることを強く願っていた。そしてその移り住む家が、急にばたばたと決まったのだ。妻と子を泥流の中に失ったこの家の主山根東太郎が、この地に見切りをつけて、被災間もなく帯広近郷の士《し》幌《ほろ》に移って行った。その主がこの間の村葬に参列した。そして偶然、拓一の隣に並んだ。
葬儀が終わった時、拓一が聞いた。
「おっさん、あの家と田んぼ、どうするつもりかね?」
頬骨が尖《とが》って、目がくぼんでしまった山根東太郎は、
「もう投げた」
と、ぼそりと言った。
「投げた?」
「ああ。かあちゃんも子供もいない家に住むのは、つらいもんな」
そんな話から、拓一が借りたいと頼んだのだった。
「そうやなあ。あんたになら……貸してもええけんど……親《しん》戚《せき》の者たちと相談してみんとなあ」
そう言って別れた東太郎の返事が、五日前に来たのだった。
俄《にわ》かに引っ越すと言い出した拓一に、修平が文句を言った。
「折角、おらの納屋ば、住めるようにしたのに、何だってまた、あんな泥につかった所に……」
一旦はそうは言ったが、修平も拓一の気持ちが動かないのを、とうに知っていて、あとは何も言わなかった。士幌から返事が来てすぐ、拓一は、佐枝や、従《い》弟《と》妹《こ》の貞吾たちとこの家に掃除に来て、今日までに何とか引っ越せるようにしたのだった。むろん、家の中につまった泥は、災害直後に青年団が全部取り去ってくれていたし、土台もがっちりとしていたから、あとは丹念に掃除をし、茣《ご》蓙《ざ》の何枚かを敷けば、住んで住めないことはなかった。
「おや、早かったなあ」
貞吾と加奈江が、馬車の音を聞いて顔を出した。一足先に二人は来ていたのだ。
引っ越し荷物といっても、何もかも流された拓一一家のことだから、たかが知れている。つい半月前配給になった救護用払い下げ品がその財産の大部分といってもいい。
布団、家族一人に対し一枚半。
毛布、一人に対し一枚。
作業服、大人一人に二着。
綿ネルの反物、一名に一反。
さらし木綿、一戸に一本。
タオル、一人に一本。
大人の衣類、一戸当たり一枚。
古洋服、一戸に一着。
ゴム靴、一戸に二足。
下駄、一人に一足。
ローソク、一戸当たり六十本。
鉄《てつ》鍋《なべ》、一戸当たり三枚。
釜《かま》、一戸当たり一個。
肉鍋、一戸当たり一枚。
セト引コップ、一名に三個。
セト引鍋、一戸に三枚。
セト引洋鍋、一戸に一枚。
七輪、一戸に一個。
バケツ、一戸に三個。
茶碗、一名に五個半。
小皿、大人男一人に一枚。
洗面器、一戸に二・五枚。
鍋蓋、一戸に三枚。
杓《しやく》子《し》、一戸に三枚。
古ヤカン、一戸に一個。
莚《むしろ》、一名に三枚。
これが全流失の家に対する割り当てだった。そのほか、カジカの沢や清水の沢の人たちからもらった古着や、盆や、木箱なども貴重な財産だ。佐枝が函《はこ》館《だて》から持って来た夜具や衣類を加えたところで、馬車の荷台の半分にも満たない荷物である。
既に、床に敷かれた茣蓙の上に、先《ま》ず布団が運びこまれ、毛布が運びこまれ、五分も経《た》ぬうちに、一物残らず家の中に運びこまれた。
「さしもの荷物も、手伝いが一杯で、あっという間に運びこんじまったな」
修平が冗談を言った。
「全くだあ」
拓一は屈《くつ》託《たく》のない声で答える。だが、加奈江は目をしばたたいて乏しい家財を見渡した。
「広い家だあ」
拓一がみんなの気を引き立たせるように大きな声で言う。泥がついたとはいえ、田の字作りの四つの部屋は、八畳、八畳、十畳、六畳と、広々としている。広いも道理だ。まだ、間仕切りの障子も、襖《ふすま》も、一枚も入っていない。泥に汚れた襖や障子は、泥を取り除けた時に、青年団の者たちが、一緒に外に出して燃やしてしまったのだろう。それでも、ガラス窓だけはきれいに拭かれてある。その窓越しに、一面の泥土と、散乱した流木が見える。その向こうに見えるはずの十勝岳は、今日はくもっていて見えない。
何気なく壁を見た耕作は、思わずハッとした。壁には、「山川草木」と元気のよい字で書いた習字が貼られていた。「山根立治」と書かれた幼い字が耕作の胸を抉《えぐ》った。そしてその横には、朝日が山から出ている図画が貼られ、その山の麓《ふもと》に大きな鶏とヒヨコが二羽、描かれてある。泥の跡は、そのすぐ下まで沁みていた。この習字と絵を、青年団の者も、掃除に来た拓一や佐枝も、そのままにしておいたのだろう。その心がわかるようで、耕作は目を外らすことができない。
(あの五月二十四日まで……)
この子は、元気にこの家に生きていたのだ。この習字や図画をここに貼ったのは誰か。あの生き残った父親か。それとも泥流に呑まれてしまった母親か。ここにこの図画を貼り、この習字を貼る時、親子はどんな会話をしたのだろう。
「うまい字や。大したもんや」
父親は骨太い手で、子供の頭をくりくりとなでたかも知れない。
「おやまあ、大きな鶏やこと。えろういい餌《えさ》やりよったんやろ」
母親は感心し、子供は、
「そうや。おれ、うまいもんうんと食わしてやったんや」
と、威張ったかも知れない。とにかくここには山根の家庭の片《へん》鱗《りん》が残っている。
絵や習字を見ているうちに、この家に移って来たことが、何か悪いことでもしたように思われてくる。耕作はたまらない気持ちになった。
夜具を押し入れに納め、台所用具をつくりつけの戸棚の中に入れてしまうと、家の中は再び空き家のようになった。外まわりの掃除もすっかり済んだ。水《みず》瓶《がめ》に水も一杯汲《く》んだ。もう何もすることもなくて、みんなはぼんやりと板の間に坐りこんだ。
佐枝は土間で、真新しい七輪に鉄《てつ》瓶《びん》をかけ、湯を沸かしている。あり合わせの厚紙で、ぱたぱたと煽《あお》ぐ音だけが、ま昼の静けさを深める。修平が言う。
「おどと拓一が建て増ししたあの部屋も流れっちまったな。惜しいことをしたもんだ」
「んだんだ。俺がずいこずいこと木《こ》挽《び》きしてよ。拓一が鉋《かんな》かけてよ。おっかさんの部屋作るべってな」
「…………」
「あれでなかなか、いい部屋だった。立派なもんだった」
佐枝があねさんかぶりの頭を、ちょっと田谷のおどのほうに向けたが、すぐにうつむいて火を煽ぐ。淋しげな横顔だ。
「良子が喜んだっけなあ」
拓一の声がくもる。耕作も今思っていたところだ。良子は、六畳ふた間を建て増した時、誰よりも喜んだ。たったふた間の家に、ふた間建て増したのだから、家は倍にも広くなったように見えた。良子は四つの部屋の襖を閉めたり、あけ放したりしながら、
「広いわあ。これだら、嫁入りでも葬式でもできるね」
と、はしゃいで、修平に、
「誰の葬式だぁ」
と、たしなめられた。あの時耕作は、葬式という言葉に、祖父と祖母の顔を思い浮かべていやな気がしたが、嫁入りはまちがいなく良子の嫁入りだと思ったものだった。その喜んだ良子が、十五になったばかりで、泥流の中で死んでしまった。
「なんだか、前世の出来ごとみたいだな。ついこの間のことが……」
拓一が言う。耕作は黙って、壁の習字と図画を見る。頬っぺたの赤い子供だったと思う。この家の主も、士幌の村で、死んだ妻や子を思って、
(前世の出来ごとみたいだ)
と、呟《つぶや》いているような気がする。
今、窓から見える泥土と、散乱した流木を眺めるだけでも、余りにすべてが一変している。「国破れて山河あり」という言葉があるが、山は削られ、川も形を失い、耕作たちが見馴れた川の姿はどこにもない。
新しい出発であるはずの引っ越しの日だというのに、少しも心が弾まない。それどころか、気が滅入るばかりだ。何のために、拓一はこの硫黄を含んだ泥まみれの田んぼを背負いこむのか。拓一は言っていた。
「ほかのいい土には、俺は何の心も動かん。じっちゃんやばっちゃんや、姉ちゃんや良子の命を奪った泥流だから……だからなあ、俺は元の土地に戻してみたいんだ」
そう言った拓一の気持ちはわかる。わかりはするが、現実の問題としては、死んだ人間に起きよというような、無駄ごとに思えてならないのだ。死んだ者への優しさだけで、この硫黄の沁みこんだ土が、美田に変わるとは思えないのだ。
「腹減ったなあ」
修平が無遠慮に言い、乗馬ズボンの前ポケットから、鎖のついた懐中時計を出して、少し目から離して見、
「何だ、まだ十一時過ぎたばかりか」
と言った。
「十一時過ぎ? そろそろ、弁当が来る頃だよ、叔父さん」
耕作は窓の外を見た。今日は花井先生が、引っ越しの祝いに赤飯とすしを持って来てくれることになっている。
「お待ちどおさま。お茶が入りましたよ」
佐枝は、修平の家からもらった、塗りのはげた盆の上に、茶碗をのせて運んできた。修平の家の近所の、あちらから一個、こちらから一個ともらった湯飲みが五つ、盆の上に載っている。縁の欠けた茶碗もあれば、茶しぶのついた茶碗もある。修平が一番先にぬっと手を出して茶を飲んだ。が、
「うっ、なんだこりゃ!」
と顔をしかめ、
「金《かな》気《け》くせえな、ひどい水だな、やっぱりここは」
みんなも飲んで、
「ほんとだ」
と口々に言う。
泥土に埋まったこの三重団体の農家は、先ず第一に井戸ざらいをしなければならなかった。それも不可能な家は、新しく井戸を掘ったり、鉄管を打ちこんでポンプを据えたりした。拓一たちは、その井戸を掘る暇も、鉄管を打ちこむ暇もなかった。が、一丁ほど離れた吉田村長の家から、井戸ができるまで水をもらうことにした。村長の妻は、少女のような声を出す朗らかな親切な人だ。この村長の妻も、泥流に流されたが、灌《かん》漑《がい》溝《こう》に落ちこんだことで、かえって奇《き》蹟《せき》的に命が助かったという。
「こんな水でも飲めば飲めるか。しかし、こりゃ大変だなあ」
修平が二杯目の茶を飲みながら言う。
「大丈夫さ。何とかなるよ」
拓一はふり切るように言って、持っていた茶碗を置いた。
「あ、来た、来た」
不意に貞吾が、坐り直して戸口を見た。みんなも一斉に戸口に顔を向ける。あけっぱなしの戸の外に、紫の袂《たもと》が見えた。と、
「ごめんください。おそくなりまして」
さわやかな声がして、ふろしき包みを胸に抱えた花井先生が土間に立った。
「やあ、どうも。すみません、花井先生」
恐縮して頭をかきかき耕作が立って行く。佐枝は、
「恐れ入ります。こんな遠い所に……」
と、板の間にていねいに両手をつく。
「いいえ。何のお手伝いもいたしませんで」
花井先生は、土間に立ったまま、ふろしき包みを上がりがまちの上でひらきながら、
「おいしくもありませんけれど、皆さんでどうぞ」
三つ重ねの重箱を、佐枝の前におく。
「こりゃあごちそうさんです。もしよければ上がってください」
耕作が言うと、花井先生は富士絹のハンカチで小鼻の汗をおさえながら、
「ええ……」
と、あいまいに答えて戸口のほうをふりかえる。
「誰か一緒ですか」
拓一が聞く。
「ええ、ちょっと」
花井先生は戸口まで行って、外にいるらしい誰かに、小さな声で何か言った。
「いいわよ。入るわよ」
明るい声がしたかと思うと、白地に大柄の菊の模様の浴衣を着た節子が、土間に入って来た。一瞬、日が射したように、土間が明るくなった。耕作ははっと息をのんだ。が、次の瞬間、
「まあ! 福ちゃん!」
加奈江の声が弾んだ。つづいて福子が入って来たのだ。拓一の顔がぱっと赤くなり、みるみるうちに耳まで真っ赤になる。
「まあ、ようこそ。どうぞどうぞ」
佐枝の優しい声が、耕作をほっとさせた。花井先生、節子、福子の順に、部屋に上がった。お互いの挨拶が終わると、修平は、並んだ三人を順々に眺めていたが、ひらかれた重箱を見、
「すしかあ! こりゃあ、ごっつぉだぁ」
と、声を上げた。桜色の赤飯も見るからにうまそうだ。節子が唐草模様のふろしきに包んできた一升瓶を出す。
「ほう、一升だあ! こりゃあ豪勢だぁ」
田谷のおどが、ひょうきんな声を上げる。田谷のおどにとって、酒は命の恩人なのだ。あの爆発の日、おどは清水の沢の飲み友だちの所に行って酒を飲んでいた。おかげで泥流に遭わずにすんだ。
「茶碗酒といくか」
修平が蓋をあけようとすると、田谷のおどがうれしそうに茶碗を出しかけたが、
「いや、やめとくべ。な、拓ちゃん。三重団体は酒はご法度だったもな。もらってって、帰ってから修平さんと飲むべ」
耕作は思わず、おどの顔を見た。おどは、もう五十も近いというのに、ずっと独身で、あっちの噂《うわさ》、こっちの噂を、その早耳で聞きこみ、相変わらず新聞のように流して歩く。木挽もすれば、大工もする。いわば重宝な男だが、それだけに人からも軽く見られていた。それが、今、好きな酒に手も出さずに、この場所が三重団体と弁《わきま》えて、断ったのはあっぱれだった。
「広いわねえ、このおうち」
ひっそりと節子のうしろに坐っていた福子が、静かな声で言った。さっきから、息をつめるようにして福子を見ていた拓一の視線に、福子の視線が合った。
「うん、まあ……」
拓一は答えて、ニコッと笑った。その拓一の笑顔を、耕作は横から眺めていた。こんな拓一の笑顔を見たのは、近頃にないことだ。耕作の顔もゆるんだ。その耕作の鼻筋の通った横顔を、節子が激しいまなざしでみつめていた。佐枝はそれらを一瞬にして見、さりげなく茶をいれ替えた。
帰る修平たちを見送って、耕作たちは外へ出た。午後になって、めっきりとむし暑くなった。
「ひと雨来るかな」
拓一が空を見上げる。みんなも空を見上げる。佐枝、花井先生、福子、節子と並んだ四人も空を仰ぐ。修平がじろりと節子を見ながら、
「拓一、耕作。おめえら、嫁ば決める時はな、親を見て決めれ」
と、叱りつけるような語調で言う。一瞬、誰もが息をのむ。そんな冷たさが修平の言葉にはあった。と、田谷のおどがひょうきんな声を上げて、
「んだんだ、昔から諺《ことわざ》にもあるもんな。嫁ばもらう時は、母親を見てもらえってな。男親は、どれを見ても似たもんだからな。男親は見ても見んでも、ええってことかな」
と言い、前歯のかけた口をあけて笑う。貞吾も加奈江もつられて笑ったが、拓一と耕作は口もとだけで笑った。貞吾が気を利かして、
「じゃ、ごっつぉさん」
と、す早く馬の手綱をひく。馬が歩き出す。修平が仏頂面をして、
「じゃ、な」
と、佐枝だけを見て手を上げた。
「どうもありがとうございました」
「叔父さん、ありがとう」
「すんませんでした」
佐枝、拓一、耕作が口々に言い、
「さいなら」
福子も小さい声で言い、手をふる。
馬車はすぐに村道に出た。鉄の輪がカラカラと音を立てる。節子が唇をキュッと噛《か》んで、くるりとうしろを向いた。修平の最後の言葉が、節子の胸に刺さったのだ。修平の言葉が、誰に聞かせる言葉であったか、みんなもわかっている。
節子が深城の娘であることを、修平は苦々しく思っているのだ。それは、花井先生の持ってきたすしや赤飯を食べながらも、ちくりちくりと、刺すように言った言葉の端々からもわかった。節子が、引っ越しの祝いにと持ってきた目覚まし時計を見て、耕作が、
「時計とは、ありがたいなあ。何よりのものだ」
と、すしを頬張りながら言った時、
「深雪楼はえらく儲《もう》けたんだってなあ、どのぐらい儲けたんかねえ、この爆発で」
と言ったのだ。花井先生が、
「それほどじゃありませんよ。儲けたのなら、うちも儲けたわよ。人の出入りが激しくて、お菓子の売れ行きが、三倍以上もあったんですもの」
と助け舟を出したから、修平も、そのまま口をつぐんだが、それも節子には腹に応える言葉だった。
修平はまたこんなことも言った。
「なあ、お佐枝姉さん。あんたも苦労したなあ。変な男に追いかけまわされてよ。ひじ鉄食わしたら、奴はじっちゃんとの間が怪しいなんて、言いふらしてよ。おら、でたらめ言いふらす奴ほど、憎い奴はない。全く叩っ殺したくなる。なあ、お佐枝姉さん」
幸いこの言葉は、節子や福子や花井先生には、誰のことだかわからなかった。だが、拓一も耕作も、深城をさしての言葉だということは、百も承知だ。それだけに、修平の言葉は余りに底意地悪く思われた。
その挙《あげ》句《く》に、今の捨てぜりふだ。
(親は親だ)
修平叔父の言う気持ちもわかる。この片田舎で、舅《しゆうと》と嫁とが怪しいなどと言いふらされてはたまらない。市三郎や佐枝はむろんのこと、市三郎の息子の修平もどんなに腹立たしい思いをしたことか。それは耕作にも想像できる。だが、だからと言って、何の責任もない節子に、毒をふくんだ言葉を投げつけるのは、むご過ぎると耕作は思う。
遠ざかって行く馬車の音が、まだカラカラとひびく。
拓一は拓一で、修平が福子の父親もろくでなしだったのだと、暗に言っているようで不快だった。
(親より、本人だ)
拓一も胸の中でそう思った。拓一は福子に、耕作は節子に、何かやさしい言葉をかけてやりたいような、いとしさとすまなさを覚えた。そんな二人の胸のうちを知ってか知らずか、修平の姿は次第に小さくなる。
「ねえ、耕ちゃん。蜂《はち》も蝶々もいないのね」
福子が淋しげに言う。
「うん。蜂や蝶々のいないのは淋しいなあ」
「ほんと。淋しいわねえ」
百メートルほど西に、ポプラが三本突っ立っているだけで花も稲も、いや、草すらもない。只、泥土が一面に広がり、流木が散乱しているだけだ。それは、腹の底に応えるような淋しさだ。
(この泥海の、どこに死んでいたのだろう)
福子は、父や母や、妹や弟の死に顔を思い浮かべる。泥がへばりついた母親の無残な髪を思い出す。
耕作のそばに立っている福子を見て、拓一は、
(福子と耕作は、同じ学年だったもなあ)
と思う。耕作に話しかけるように、自分にも気安く話しかけてくれたらと思う。が、拓一は、自分自身が福子に気安く語りかけ得ないことに気づいている。
「あのう……」
ちょっと口ごもってから、拓一は福子に近よって、
「国ちゃんから便りがあるかい」
とやさしく聞いた。耕作は拓一の気持ちを察して、節子のほうに近づく。節子がふり返って、
「今ね、小母さんにおねがいしたのよ」
と、明るい声である。修平の言葉に少しも傷ついていないような節子の表情に、耕作はほっとする。
「おねがい? 何ですか」
佐枝と節子の顔を、耕作は等分に見た。節子が茶目っぽい顔をして、
「あててごらんなさい」
「さあてな、何だろう?」
修平の言葉に、わだかまりを覚えていた耕作の胸が、ようやく晴れた。こうした屈《くつ》託《たく》のなさが、節子のよさだと耕作は思う。
「あのね、髪を結っていただくの」
「え!? 髪を?」
佐枝もにっこりとうなずいた。
「そうよ、洋髪なの。わたしと澄子さんが結っていただくのよ」
節子の声が弾む。花井先生が、節子と耕作の顔を見ながら、
「でも、お引っ越しのあとで、お疲れじゃないかしら」
と、遠慮する。
「大丈夫ですよ、お引っ越しというほどの荷物もありませんし……」
佐枝は静かに答えて、先に立って家に入って行く。そのあとにつづく節子がふり返って、
「わたしが先よ、よくって?」
「いいわよ。どうぞ」
花井先生は言い、目顔で耕作を厩《うまや》のほうに誘う。拓一と福子は、家の角で何かしきりに話している。
厩のそばに来た耕作は、厩の中を見まわした。この厩には馬が二頭いたのだが、その馬は助かったという。家の土台が堅かったためか、このあたりで一番無傷のまま残った。吉田村長の家は半壊したが、吉田村長の家の近くのこの家は、奇《き》蹟《せき》的なほど完全な姿を保っている。だから、母《おも》屋《や》つづきのこの厩も、泥が入っただけで無傷なのだ。泥流に驚いて飛び出した家人は、流れにのまれて死んだが、逃げることのできない馬は助かったのだろう。
厩を見ると、耕作は、少年の頃に死んだ青や、この間の泥流で死んだ青の子を思い出す。馬のいない厩は淋しい。
「ね、石村先生。福ちゃんのことだけど……」
「福ちゃんのこと?」
耕作は花井先生の顔を見た。花井先生の口もとに、小さなほくろがあった。こんなところにほくろがあっただろうかと思いながら、花井先生の口もとを、耕作は見る。
「ええ、福ちゃん、今、困ってるのよ」
「どうして」
「わたしも今日聞いた話なんだけど、金一さんがね、福ちゃんを好きになったらしいの」
「金一?」
耕作がけげんな顔をする。
「ええ、ほら、節ちゃんのお兄さんよ。今年学校を出て帰ってきたでしょ。そして、富良野の銀行に勤めているでしょ」
「ああ、あの人」
耕作は丸顔の、金一の白い顔を思い浮かべた。節子とは目鼻立ちが全く似ていない。気も弱そうで、節子とは恐らく正反対の性格なのではないか。二人のきょうだいに共通しているのは、その色の白さだけである。
「そうなの。金一さんって、見たところ気が弱そうだけれど、すごく一本気なんだって。でもねえ、お父さんが、店の女には手を出すなって、はじめっから釘《くぎ》をさしているもんだから、お父さんにも誰にも、まだ内緒なんですって」
ふっと耕作は、福子がひどく遠い世界に生きている人間のように思われた。手が届かないような、そんな感じがしたのだ。福子は自分の幼馴じみで、昔に返っての話のできる相手だと、いつも思っている。それが不意に、遠くに立ち去ったような、そんな淋しい気がした。
「で、福ちゃんは?」
耕作は拓一と福子のほうをふり返った。拓一が、大きく手をひろげて、何かを説明しているようだった。福子の細い首が、こくりとうなずいている。花井先生も福子のほうを見て、
「福ちゃんは困ってるのよ。だってそうでしょう。好きだって言われたって、福ちゃんは困るだけよ。節ちゃんは、福ちゃんが金一さんと結婚したらいいと思ってるらしいけど」
「…………」
耕作は、拓一が竹筒に十銭五銭と金を貯めていたことを思い出す。拓一のために、断じて福子を他の男へ嫁がせてはならない。不意に耕作は、胸の中がじりじりとした。言いようもなく辛かった。
「ぼくは反対だ」
きっぱりと耕作は言い、
「どうして福ちゃん、深雪楼をやめないんだろうな」
と、呟《つぶや》いた。花井先生はちょっとうつむいて、赤い帯じめに指をふれていたが、
「こんなこと言っては、なんだけど、借金が多過ぎるんじゃない?」
「多過ぎる? だって福ちゃん、もうずいぶん働いたじゃないか。災害見舞金をもらったら、それで自由になればいいんじゃないか」
「わたしもそう思っていたのよ。そしたらね。そうはいかないらしいの。福ちゃんのお父さんは、いつも飲み代やら、ばくちに使うお金やらを、節ちゃんのお父さんに借りてたらしいのよ。何せ、福ちゃんが深雪楼にいれば、いくらでも金がもらえると、たかをくくっていたらしくて。節ちゃんのお父さんはお父さんで、福ちゃんが売れっ子でしょう。だからいつでも、金を渡していたらしいの」
「ふーん、それは知らなかった」
耕作は、曾山の父の姿を思い浮かべた。あれは、福子が売られる日のことだ。市三郎や耕作たちが豆打ちをしている時だった。山ぶどうの葉が燃えるように赤い季節だった。沢の奥から、一台の馬車が近づいてきた。どこの馬車かと見ていると、荷台の上に、お下げ髪の福子が行儀よく坐ってい、父親の曾山巻造が手綱を取っていた。殻《から》竿《ざお》で豆打ちをしている市三郎たちを見て、巻造は馬車から飛び降り、
「じっちゃまあ、ご精の出ることで」
と、人のいい笑顔を見せ、体を二つに折って、ていねいにお辞儀をした。
「福ちゃん、どこさ行く」
耕作が声をかけた時、福子は顔を背けて答えなかった。確か祖母はあの時、
「やっぱりおやじだなあ。娘ばつれて市街さ行くもの」
と言って見送ったが、あれが福子を売りに行く時の巻造だったのだ。それから間もなく、姉の富が嫁に行った。その嫁入りの夜、耕作や拓一や、加奈江や貞吾たちが留守番をしている時、酒に酔った巻造が喚きながら入って来た。拓一が、娘を売った巻造を罵《ののし》ると、巻造はいきなり卓袱台を両手でひっくり返し、
「やかましいやい! 自分の娘を自分が煮て食おうと焼いて食おうと、てめえら餓鬼の知ったことか」
と、巻造は怒ったのだ。あの時散乱した煮《に》〆《しめ》や白《しら》和《あ》えを、巻造の怒号と共に、耕作は幾度も思い出したものだ。だが月日が経つにしたがって、あの夜暴れこんできた巻造の気持ちがわかるような気がしてきた。あれは娘を売って、嫁がせることもできない親の痛みだったのだと耕作は思うようになったのだ。
だが、それは、どうやら見当ちがいであったらしい。巻造は、福子が何年働いても自由になることのできないほど、くり返し、くり返し、金をせびりつづけたのだ。しかもその金は、酒代とばくち代になってしまった。
「千円以上もあるらしいわ」
「千円!? そんなに?」
耕作はやり切れない思いだった。
「そうなの。だから福ちゃんはね、もう一生、あそこから出れないんじゃない?」
花井先生の声がかすれた。花井先生は、幸せな結婚生活を送っている。だからこそ、福子が気の毒で仕方がないのだろう。耕作は言いようのない気持ちで、再び福子のほうを見た。
(親って、何だろう)
娘を売る話はよく聞く。飢《き》饉《きん》があると、必ず娘たちが売られるという。特に東北地方には、そんな悲しい話は多いと聞く。話で聞いている限り、売られる娘も売る親も、共に哀れだと耕作は思ってきた。なぜ農家だけが、娘を売るほど貧乏なのだろうと思ってきた。だが福子の父のような親も世の中にはいるのだ。
(売るなんて……牛や馬じゃあるまいし)
耕作は腹が立つ。人間が売られることが、ゆるされることなのかと、腹が煮えくり返る。そして、買う者がいることに、一層の憎しみを覚える。
「入りましょう」
花井先生が言い、耕作もうなずいて、家に入って行った。
と、窓ぎわで、母の佐枝が、節子のうしろにまわって、髪に鏝《こて》をあてていた。小さな鏡を立てかけ、傍《かたわ》らに七輪を置き、たすきをきりりとかけた佐枝の姿が、甲《か》斐《い》甲《が》斐《い》しい。
佐枝はあの災害のあと、取る物も取りあえず駆けつけた。耕作たちのもとに帰ることに決まっていた矢先に、十勝岳爆発の惨害を号外で知ったのだ。
落ちつき先が決まってから、既にまとめてあった荷物が送られて来た。荷物といっても、ほんの僅かな着替えだけだった。だが、その中に髪結いの道具一式が入っていた。
今日までの二カ月近くの間は、只忙しいばかりで、髪結い道具をあけてみる暇もなかった。まわりの者も、佐枝が髪結いとして既に一人前であることなど、思う暇もなかった。拓一は毎日、川ざらい、流木除去などの出《で》面《づら》取りに出ていたし、耕作も、以前より遠い道を学校に通っていた。残る佐枝は、修平一家の野良仕事を、黙々として手伝っていた。
「町さ出て、野良のことなど忘れたべ」
そんなことを蔭で言っていた修平が驚くほどに佐枝は身を粉にして働いた。胸を病んだ者とも思えないほどだった。
今、耕作は生まれてはじめて、母が人の髪を結う姿を見た。手ぎわよく、節子の髪に鏝をあてる佐枝の姿を、耕作はじっとみつめた。節子が満足そうな微笑を浮かべながら、小さな鏡をのぞきこんでいる。
耕作はふっと、死んだ良子を思い出した。良子は佐枝の手紙を見て、喜んでいたのだ。帰ったら、良子の髪を結ってあげると、佐枝は書いてきたのだ。
「まだ四つだった良子が、もう十五なんですね。良子、髪の毛は長くなりましたか」
佐枝の手紙にはそうも書いてあった。
が、今、佐枝は良子の髪ではなく、節子の髪を結っている。耕作はたまらなくなって部屋を飛び出した。そして厩の中で声を殺して泣いた。
風に乗って、太鼓の音が聞こえてくる。ドーンと鳴って、ちょっと間をおき、またドーンと鳴る。耕作は鶴《つる》嘴《はし》を持つ手をとめて、
「兄《あん》ちゃん、おみこしが神社を出たな」
と、拓一に言う。
「ああ、出たな。いい天気だから、人出で賑《にぎ》わっているべ」
拓一は鳶《とび》口《ぐち》で流木を引き寄せながら答える。
(八月一日か)
耕作は、今年もまた福子が山《だ》車《し》の上で踊るのだろうかと思った。きっと拓一もそう思っているだろう。今から行けば福子の踊りを見ることができる。が、拓一は、この何年か、決して村の祭りには出ていかない。福子が人々の好奇な目にさらされるのを見たくないのだ。その気持ちを、耕作は尊いと思う。だが耕作は、
(福子の踊りを見たいな)
と、思う。拓一と自分の気持ちのこの差は、一体何だろうと思う。本気で拓一は福子を愛している。その拓一の気持ちにはかなわないということか。
(いや、それとはちがう)
耕作は、福子が売られた体であることを憐《あわ》れに思いながらも、どうしても、つい机を並べて学んだ頃の福子だと思ってしまう。だから、福子が山《だ》車《し》の上で踊っても、学芸会の舞台で踊った福子に、胸の中で重なるのだ。それは決して、福子を大事にしていないことではないと、耕作は自分で自分に言い聞かす。
「福子な」
「福子な」
拓一と耕作の口から、同時に同じ言葉が出た。そして二人は、顔を見合わせて、ふっと笑った。耕作は照れ臭い気がした。やはり拓一も福子のことを考えている。当然だと思いながら、同じ言葉が口から出たことに、耕作は恥ずかしさを感じた。
「うん」
耕作が拓一を促す。
「こないだ福子、布巾と雑巾を縫って行ったな」
拓一が静かに言う。
「うん、縫って行ったな」
耕作もうなずく。引っ越し祝いに来た福子は、節子の髪を結っている佐枝のそばに来て、
「わたし、何のお祝いも持ってこれなくて……」
と言い、佐枝から針箱を借りて、持ってきたさらし木綿を布巾に縫った。更に古い日本手拭いを縫って雑巾にもした。
「お店にいると、縫う暇がなくて……」
言いながら福子は背すじを伸ばして針を運んでいた。それは、学校で運針を習う生徒のような、きちんとした姿勢だった。そんな福子を、耕作も心にとめていた。
「なあ耕作、福子はいい子だなあ」
耕作に対しては、拓一も何のかくしだてもしない。耕作のほかに、語る相手もいないからだ。
「うん、いい子だな」
そのまま二人は黙った。二人は泥にまみれた流木を、細いものから片づけていく。太い木も細い木も、枝がもぎ取られて、巨大なすりこぎのようだ。泥流の激しさを、それらの流木はありありと物語っていた。
越して来た今度の家は、鉄道線路の西側にある。線路は盛り土の上にあり、田んぼの中に一きわ高くなっていた。小学生などは、線路の土手下に立つと、向こうが見えないほどの高さだ。この高い線路のために、沢から出て扇状にひろがった泥流の勢いは弱まった。線路の東側では、死者がたくさん出、流失家屋も多かったが、こちら側は死者も少なく、流された家も少ない。とは言っても、鉄道の線路は、枕木ごとめくれ上がって、長い柵のように、百メートルにもわたって突っ立っていた。それを越えて、家や木や、馬や人が流れてきたのだ。耕作の越して来た家のあたりから、西の山ぎわまで、いまだに無数の流木が散乱していて、耕作はふっとため息が出る。祭りの日だというのに、拓一は体を休めることを知らない。
拓一はこのところ毎日、河川工事に出動している。そして一円八十銭の日当をもらっている。それだけでも大変な重労働なのに、拓一は朝出かける前に、一時間は家のまわりの流木を片づける。この辺の泥土の深さは三尺ほどだが、その三尺下に突き刺さった流木さえ、汗まみれになって拓一は掘り起こす。河川工事から帰って来ても、金《かな》気《け》臭い水を一口飲んだだけで、鳶《とび》口《ぐち》や鶴《つる》嘴《はし》をかついで泥田に出る。
今日はお祭りで、河川の浚《しゆん》渫《せつ》作業は休みだ。だが、その分を、拓一は朝から休みなく働いている。耕作も学校は夏休みだから、つとめて流木除去を手伝う。しかし、余りにも多くの木が散らばっている泥田を見ると、無駄なことをしているような気がしてならない。
兄が運送屋にでも勤め、母が髪結いをすれば、結構人並みの生活ができると思う。いや、母は働かなくても、兄と自分の働きだけで、十分に三人は生きていけると思う。どうしてその楽な道を兄は選ばないのか。
ずぶずぶと膝《ひざ》までぬかる泥の中で、耕作は鳶口を流木に引っかける。泥に粘りついたような木を引き寄せるには、二倍も三倍もの力が要る。
(兄ちゃん、こんな仕事、無駄じゃないのか)
幾度も口に出かかる言葉を、今もまた耕作はのみこんだ。黙々と働いている拓一を見ると、そんなことは言ってはならないような気がする。だが、言わないことはなお悪いような気もする。いつ片づくとも知れない流木を片づけ、掘り起こしたところで、この硫黄と硫酸をふくんだ土地が、稲田になるとは耕作には到底思えない。今のうちに諦《あきら》めさせることが本当だという気もする。泥流に流された葉書が、インクが消えて白くなっていたと聞く。亜硫酸がインクを消したのだ。インクが白くなる土に、一体何ができるというのだろう。汗が耳の裏から首筋を伝わる。またしても耕作はため息をつく。
が、その思いをふり払うように、耕作は別のことを考える。
(この間、どうして節子まで来たのだろう)
これも幾度も考えたことだ。が、耕作はまた考える。福子が来たのはわかる。来てもふしぎのない古いつながりだ。花井先生が来るのもわかる。耕作とは同じ学校に勤める教師仲間だ。だが節子とは、考えるまでもなくどれほどのつきあいでもない。少なくとも、引っ越し祝いに目覚まし時計や酒を持ってきてもらうような関係ではない。節子の家で引っ越しをするからと言って、手伝いに行ったり、酒を届けたりは、自分は決してしないと耕作は思う。
節子は、去年旭川の医師との縁談を嫌って東京に飛び出した。そしてその直前、耕作を学校に訪ね、誰もいない放課後の教室で、
「わたしが好きなのは、あなただけよ」
と言って、節子は泣いた。
あれからしばらくの間、思い出すごとに、胸がキュッと痛くなるような、愛《いと》しさを節子に感じた。だが、近頃ではそれがうすれてきた。
(あれは本当だったろうか)
と思うのだ。節子は女学校を出ている。そして上富良野小町といわれるほどの美貌だ。その上、誇り高く勝ち気な気性だ。そんな節子が、年下の、貧しい農家の小《こ》伜《せがれ》に、どうして心をひかれるはずがあろうかと、疑ぐりたくなるのだ。もし心を寄せたとしても、ほんの一時の興味に過ぎないのではないか。そうした思いが耕作を警戒させる。節子について、近頃拓一と話したことはない。拓一が福子のことを話す時も、耕作は節子のことは言わない。いつかは人妻になるはずの節子だと、耕作ははじめから思っている。節子の激しさに引きまわされたくないという思いもある。いや実は、耕作の心の底に、節子よりも福子が住んでいるような気がする。そんなことが時々ある。だがこんなことは、更に誰にも言えないことだ。拓一の思いを知っていて、こんな気持ちになるのは、耕作には、ひどくうしろめたいことだった。それでも時々、
(福子は俺に、白い石をくれたことがあったなあ)
と思って、言いようもない幸福感にひたることがある。
「この白い石を持っていたら、きっといいことがあるのよ」
そう言って、福子がくれたあの白い石も、泥流と共にどこかに失ってしまった。白い石を失った以上、福子との幼い日の思い出は、忘れてしまうべきだと、耕作は思っている。
「飯《めし》にするべ」
拓一が声をかけた。その拓一のランニングシャツが、汗でぐっしょりと体に貼《は》りついていた。
卓袱台代わりのリンゴ箱の上に、佐枝が作って行った握り飯と、天ぷらかまぼこも入った煮〆がある。今日はお祭りで、握り飯には麦が入っていない。胡瓜《きゆうり》の浅漬けもある。リンゴ箱といっても、佐枝が丹念に古雑誌の口絵を貼ったものだ。結構気持ちのいい卓袱台になっている。
佐枝はこの二、三日、市街の女たちに呼ばれて、髪結いに行っているのだ。深城の所からも頼まれたが、
「ほかに約束がありますので……」
と、そこだけはやんわりと断った。
あけ放した窓から入る風がさわやかだ。祭りの賑《にぎ》わいが、時折潮ざいのように聞こえてくる。二人は黙々として胡《ご》麻《ま》塩《しお》のついた握り飯を食べる。
「何だか変だと思わないか」
二つ目の握り飯を取ろうとして、拓一が耕作を見た。
「何が?」
「米の飯を食っていることがよ」
「うん。米の飯なあ」
耕作も、この頃時々そう思う。市三郎が生きていた頃、畠作農家の石村の家で、米の飯は盆か正月でなければ食えなかった。それが、泥流に遭って、直ちに村から支給されたのは、一人当たり五升、つまり三人で一斗五升の米であった。与えられた米以外に食うものはない。それで、家を流された人々は戸惑いながら米を食べた。むろん、耕作たちは世話になっている修平の家に、配給になった一斗五升の米を全部さし出した。が、修平の妻ソメノは、遠慮して、麦を余り多く入れなかった。そんなこんなで、耕作たちは米の味に次第に馴れた。
(これでいいのだろうか)
労働の後の握り飯の味は格別だ。佐枝が作った煮〆の味は更に格別だ。
(村葬にも、引っ越しにも……)
赤飯やすしを食ったと耕作は思う。薯《いも》や豆で育った耕作には、死んだ祖父母や良子たちにすまないような気がする。街の生活をしばらくつづけた母の佐枝は、米の飯には馴れている。特に宣教師の家にいたこともある佐枝の料理は、どこかちがう。罹《り》災《さい》者《しや》の家に肉鍋用の鍋が配給されたが、肉鍋など、耕作たちは一度も家で食ったことがなかった。が、佐枝は桜肉を拓一に買わせて、うまい肉鍋を作ってくれた。その時も、一度も肉鍋を食わずに死んだ良子たちが憐れになったものだ。
「全くだなあ、兄ちゃん。米の飯だけで大ごっつぉうだもなあ」
「うん」
「だけど母さんは、毎日米の飯を食ってたんだなあ」
「うん、街だからなあ」
「日本中に、米の飯を食べてる者と、薯や豆を食べている者と、どっちが多いんだろ」
「そりゃあ、米の飯だ」
「ふーん。そうだろうなあ。同じ人間でも、住む所で生活がちがうんだなあ」
もうそろそろ、農家の者たちも、米の飯を食べる生活になってもいいのではないかと、耕作は言いたかった。
「なあ兄ちゃん。俺なあ……」
佐枝のことを言おうとして、耕作は口をつぐんだ。佐枝が髪結い修業に出て行ったのは、十一年も前だ。そのあと肺を病んで、佐枝はなかなか帰って来なかった。だが、耕作たちの心の中に、いつも佐枝がいた。母を慕う思いが、いつもみずみずと心をうるおしていた。その佐枝が十一年ぶりに帰って来たというのに、耕作は佐枝に、どうしても馴じめないのだ。靴の上から足を掻《か》くもどかしさがある。第一佐枝は、言葉数が少ない。こちらから語り出さぬ限り、祖父母や、富や、良子の話を滅多にしない。爆発当時の泥流の様子など、聞こうともしない。また、十一年間の自分の生活を語って聞かせるわけでもない。こっちから気軽に話しかけ得る雰囲気《ふんいき》でもない。いつもひっそりと黙したまま、只働いている。涙をこぼすということもほとんどない。それが耕作には、ひどくよそよそしく思われるのだ。
口をつぐんだ耕作に、
「何だ?」
拓一が天ぷらかまぼこをうまそうに食いながら言う。
「いや、この間、兄ちゃん、引っ越しの時福子と何か話したか」
耕作は別なことを言った。佐枝に抱いている違和感を語って、もし共鳴されたとしても、それは淋しさが残るだけだからだ。共感されなければ、それも更に淋しい。
「ああ、福子となあ。何という話もしなかったけどな。泥流の時の話さ」
「ああ、兄ちゃんも福子も、泥流に流されたもなあ」
拓一と福子は共通の体験を持っているのだと、耕作は改めて思った。
「お前んとこ、命の恩人だって、言ってたぞ」
耕作は、鉄瓶の湯を急須に注ぎながら、
「ありゃあ偶然だもな」
泥にまみれて倍も重かった福子を背負った感触が甦る。同時に、またしても、泥の下から現れた福子の、こんもりと丸い、しかし青白い乳房が目に浮かぶ。
「だけど、耕作、福子はほんとになんぼ借金があるんかなあ」
花井先生は千円以上はあると言っていた。そのことはもう拓一には言ってある。
「考えても仕様がないさ」
「考えても仕様がないか」
拓一の眉がくもった。
「兄ちゃん、福子が自由になったら、嫁にもらう気か」
「もらいたいが、そりゃあ、福子の気持ち次第だべ」
「福子は、兄ちゃんがもらうと言ったら、喜んでくるよ」
「そうかなあ」
「だけど、野良仕事は、もう福子にはできないんじゃないかなあ」
「そんなことはないさ。福子は農家で育ったんだからな。母さんだって、街《まち》場《ば》に十一年もいたような働き方じゃないぞ」
「うん、そりゃそうだけど」
話しながら、耕作はやはり、福子にはもう農家の仕事は無理だと思う。しかもこんなひどい泥田で、実るか実らない田んぼに働かせるのは、酷だと思う。福子には、もうそんな苦労はさせたくないと思う。兄はそんなことも考えないのかと、耕作にはふしぎでならない。で、つい耕作は言った。
「なあ、兄ちゃん。兄ちゃんは大工にでもなれば?」
「どうしてだ」
「だってさ。俺は何としても、ここで田んぼをつくるのは無理だと思うな。大変だと思うな」
もう、以前にも言ったことだと思いながら、耕作はやはり、もう一度本気で忠告したくなった。拓一は、耕作の入れた茶をがぶりと飲んで、ちょっと顔をしかめた。金気がひどいのだ。
「そうだなあ。お前の言うとおりだと、俺も思うよ。だがなあ、耕作。大変だからと言って投げ出せば、そりゃあ簡単だ。しかしなあ俺は思うんだ。大変だからこそ、いや、大変な時にこそ持ちこたえる馬鹿がいないと、この世は発展しないんじゃないか」
「…………」
「俺はその馬鹿になるよ。馬鹿になるんだ。な、耕作」
耕作は、がんと頭を殴られたような気がした。耕作は黙ってうなずいた。
「お盆に、菊川先生の所に集まるべ」
と言い出したのは、貞吾だった。だが拓一は、
「俺はいやだ」
と断った。
「なあしてよ」
貞吾が口を尖《とが》らすと、
「先生に会うの、つらいもな」
拓一はそう答えた。
菊川先生の妻の厚《あつ》子《こ》も、子供も死んだ。その、ひとりぼっちになった先生の所に、訪ねる気はしない。会って、何と言っていいか、わからないのだ。
それでもとうとう、集まることに決まった。その日が今日である。
バラック建ての教室に、うすべりを敷いて、みんなはまるく輪になって坐っている。みんな黙ったままだ。菊川先生も黙って、みんなの顔を順々に見ている。
さっき俄《にわ》か雨が降り出して、それが今やんだ。軒から雫《しずく》がぽたぽたと垂れている。日が照ったかと思うと、すぐかげる。まるで秋空のようだ。教室の隅の小机に、赤と黄のダリヤの花が広口のガラス瓶に飾られている。
菊川先生が口をひらいた。
「とにかく、お前たち無事でよかったな」
「はい」
貞吾が答えた。拓一は黙って天井を見上げた。
「先生も無事でよかったね」
軍服の上着を脱いだ国男が言う。耕作は何となく変な気がした。先生も、「無事」という言葉を使い、国男も同じ言葉を使った。貞吾たちのように、別の沢に住んでいて、泥流に遭わなかった者はともかく、誰も無事な者はいない。家や家族を失った者がほとんどだ。そう思った時、
「とにかくみんな、大変だったよな」
先生がまたみんなを見まわした。みんなが押し黙る。と、拓一が言った。
「先生、この校舎、ずいぶん早くできたんだね。開校式は何日だったっけ」
「うーん。あれは六月十六日だったな」
「六月十六日?」
国男が驚いて、
「じゃ、五月二十四日が爆発で……なあんだ、たった二十日余りで建ったんですか」
「うん、バラックだけどなあ。そのうちに、がっちりしたのが建つそうだ」
「先生、今生徒何人になったんですか」
加奈江が言う。
「うん。十九人だ」
「十九人!? 四十何人もいたのに……」
「うん、十一人死んだし、あとはほかの土地に移ったからなあ」
先生は天井を見て、目をしばたたく。
「十九人か」
拓一の呟く声が暗い。
「うん。な、みんな、今まで日本中に、どれだけ小学校が建ったか知らんが、そして、めでたい開校式が……どれほどあったか知らんが……」
先生の声が途切れた。みんなはじっと先生の顔を見る。
「ここの開校式はつらかったぞ。まだ机も腰かけもない床に坐ってなあ。生徒たちはなあ。死んだ友だちのことを思って泣いたり、自分の家族や親《しん》戚《せき》のことを偲《しの》んで泣いたりなあ。祝辞を述べに来た来賓も、祝辞にならんのよ。吉田村長だって、わしだって……あんな開校式なんて、どこにもないべなあ」
みんなはうつむいた。今ここにこうして、菊川先生を取り囲んでいるだけでも、胸が一杯なのだ。生きていたら集まるはずの何人かの友だちのことや、これから頑張って生きていかねばならないわが身のことが、交《こも》々《ごも》胸に渦巻く。だからその開校式の時の子供の気持ちがよくわかるのだ。
「権太も死んだもなあ」
それまで黙っていた松井二郎がぼつりと言った。二郎は、山を一つ越えた佐川部落に住んでいるのだ。小学校の頃からひょうきんな性格であった。それが悲しげな顔で言う。
「うん、死んだなあ」
みんながうなずく。権太のことは耕作にも思い出がたくさんある。何年生の時だったろう。確か正月だった。市街に出かけて、耕作は手に握っていた金を落としたことがあった。その時権太は、一緒に行った子供たちに、耕作に五銭ずつ貸してやろうと提案してくれたものだ。
青が死にそうになった時だってそうだ。夕飯を食べていたのに、食べかけたまますぐに駆けつけてくれた。あの夜のことを耕作は決して忘れてはいない。いつもストーブのようなあたたかい友人だった。
「菊川先生、ぼく、権太君の最期の姿、見てるんです」
思い切って耕作は言った。
「何!? 権太の最期?」
「はい。あの日爆発の音を聞いて、裏山に登ったんです。そしたら、権太の家の前に、人影が二つ見えたんです。そしてすぐに、泥流が来て……」
雨にけぶったあの家の前に立っていた人影は、確かに権太だと耕作は思っている。
「ふーん、そうか」
菊川先生は腕を組んだ。耕作は、今しがた歩いて来た、自分の住んでいた沢を思った。山は濃い緑だが、沢は石河原だった。ようやくつけた道があるだけの石河原だった。
「このあたりは薯《いも》畠《ばたけ》だった」
「このあたりは小豆《あずき》畠《ばたけ》だった」
「あのあたりに家があった」
拓一とそう言いながら歩いて来た。この応急に建てた学校も、元の位置より、約二キロほど下の、市街寄りに建っている。校舎の窓から見えるこの一帯も、一面赤茶けた石原だ。
元の校舎も、学校の沢にあった多くの家も、今は一軒もないのだ。
「おっかなかったなあ、あん時は」
誰かがしみじみと言い、
「ほんとだ。佐戸部んちなんか、家族九人全滅だもなあ」
「屋根に乗っかったまま、助かったってのもあるしなあ」
「俺なんか、奇《き》蹟《せき》みたいだぞう。俺も屋根に乗ってたらよお。家が二つにパカッと割れてよお」
「へえー、そしてどうした」
「うん、俺んち大きかったべ。だからよ、一家六人屋根に乗ってな。ガタガタふるえてた。兄貴なんか、すぐに念仏はじめてよ。ナンマイダ、ナンマイダってな。おっかなかったあ。何しろ、泥流の早さったら、矢のようだったからなあ」
「よくふり落とされんかったもんだなあ」
「うん、みんな藁《わら》屋《や》根《ね》にしがみついてよ。ビュンビュン流されるべ。もうちょっとで、丘に衝突って時よ、ハッと心臓がちぢまった。その時、兄貴ったら、いきなり妹ば丘のほうに放り投げたんだ」
「へえー、よく泥流の中に落ちんかったなあ」
「ほんとだ。丘のかっこうもちょうどよかったんだな。兄貴も丘に飛び上がってな。そしたらみんな次々丘に飛び上がってよ。もうみんな無我夢中よ。それでみんな助かったんだからな。飛び上がった途端、家が丘にぶつかってバラバラよ」
「よくまあ、それまであの流木に、家が叩かれんかったもんだなあ。どの木もトンボ返りして流れてたじゃないか」
「それよりもよ。よく泥流の中に落ちないで、丘の上に飛び上がったなあ」
「うん、われながらふしぎだな。家が丘にぶつかれば、命がないからなあ。しかしあんな時には、人間も羽が生えたように、飛べるもんだなあ、先生」
「うーん。そんなもんかも知れないなあ。何しろお前の兄貴は勇気があるよ」
「しかもよ、逃げ遅れたおふくろが流木に挟《はさ》まれて流れて来てよ。兄貴がその流木に飛び上がって、おふくろを引き上げたんだ」
「うそみたいな話だなあ」
他の者が言う。確かにうそのような話だと思う。あの小山のような泥流の、しかも激流の中を、半壊の屋根にしがみついているだけでも至難なことだ。矢のように早く流れる屋根の上で、丘に飛び移ることは、尚《なお》更《さら》至難なことだ。流れて来た母親を、流木伝いに助けるなど、どう考えてもできない相談だ。だが、大川の家は、確かにこうして全員助かったのだ。
「運がよかったんだなあ」
誰かが言い、
「ふだんの心がけがいかったんだべ」
貞吾が言う。と、耕作が、
「じゃ、貞吾君。流されたのは、心がけが悪かったってことか」
と、つい尖《とが》った声になった。
「いや、そんなわけじゃないけどさ」
困ったように貞吾が頭を掻《か》いた。菊川先生の家族も死んでいる。うっかり悪いことを言ったと、貞吾は気づいた。だが、助かったと聞けば、つい、日頃の精進がよかったのだと口から出てしまう。それは大抵の人が言う。よく考えると言えない言葉だが、ついうっかりと誰もが言うのだ。
と、国男も顔を上げて言った。
「先生、今、貞吾が言ったけどさ。ぼくも軍隊に行ってて、結局爆発にあわないですんだでしょう。そしたらみんな、軍隊でも、お前心がけがよかったから助かったんだぞとか、くじ逃れになってたら、流されてたんだぞとか、国民としての義務を果たしたから助かったんだとか、言われるんだけどさ。俺と権太をくらべたって、流された権太のほうが心がけが悪かったとは思えんしな。先生の奥さんだっていい奥さんだったし、石村のじっちゃんだって、ばっちゃんだって、いい人たちだった。心がけなんて、関係ないよねえ、先生」
「関係ないに決まってるさ、ねえ先生」
菊川先生より先に、誰かが言う。
「関係ないと先生も思うよ。だけど、世間の人は、どうしても、つい言うんだなあ。精進がいいとか、心がけが何とか。しかし、それは先生たちだって、うっかり言ってきたことだ。自分がつらい目にあわないうちは、それがどんなひどい言葉だか、気がつかずに使うもんだ。お前たちだって、今まで何度も言ってきたべ」
「うん、言ってきた」
「言ってきた」
「俺も言ったなあ。何べんも」
みんな素直にうなずく。
「だけどさ、先生。おんなじ家にいて、おんなじように流されて、死ぬのもいれば助かるのもいる。拓ちゃんだって、泥流に飛びこんだけど助かったもな。やっぱり拓ちゃんは心がけがよかったから助かったんだって、みんな言ってるよ。先生はどう思う」
「拓一の心がけがよかったのは確かだが、助かったのは、そのこととは別だと思うな、先生は。そのほかにだって、子供を助けようとして、一緒に死んだ親もいるじゃないか」
「それからさ、先生。日進の沢は祟《たた》られたんだって言う人もいるよ」
「そうだ、そうだ。いろんなこと言われるよ俺たちは」
みんなは一瞬黙った。耕作が、
「だけど先生、世の中、理屈に合わんようにできてるなあ。悪いことしてるから不幸に遭うってんなら、わかるけどさあ。日進の沢にしろ、三重団体にしろ、みんなまじめに、コツコツ開拓して、その挙《あげ》句《く》が、死んだり、田畠が泥に埋まったりじゃあ、やっぱり割り切れんもんなあ」
「うーん。そう思うのは無理もない。こっちに原因がなくて苦しむんだからなあ」
菊川先生もうなずく。
「食べ過ぎて腹が痛くなるというようなことなら、自業自得だから、わかるけどなあ」
誰かが言う。
「先祖の祟りだって言う人もいるよ」
「先祖が祟る? それも理屈に合わんなあ。自分の子孫を守るのが先祖だろう。祟る力があるんなら、守る力もあるべ。祟るようなのは先祖じゃないよ。お前たちそう思わんか」
先生がきっぱりと言う。
「じゃ、神罰か、仏罰だ」
「原因もないのに、罰を当てるのか、神や仏は」
「人間ならよ、悪い奴を見たら、ぶんなぐってやりたくなるが、神や仏も、俺たちと同じ心だべか。俺は、神や仏は、もっと広い、もっとちがった心を持っているんじゃないかと思うんだがな。罰当てる神や仏さまなら、俺は要らん」
菊川先生が言う。
「したら先生、一体どうして、まじめな者がこんなひどい目に遭うんですか。こんなひどい苦しみに」
耕作はやはり、それが知りたい。それはもう、拓一とも、何度も話し合ってきたことだ。市三郎の最期を思うと、まじめに生きているのが、ふっとむなしくなってしまうのだ。拓一は、そんな耕作に、
「俺は、もう一度生まれ変わったとしても、まじめに生きるぞ」
と、きっぱりと言う。
「じっちゃんだって、ばっちゃんだって、この俺とおんなじ気持ちだべ」
拓一はそうも言う。生きるということは、何の報いも望まないことなのか。どんな苦難に遭おうと、只ひたすらに、真実に生きて行くべきなのだろうか。
真実に生きることは、耕作も賛成だ。だが、真実に生きた結果が、やはり報われるものであってほしいのだ。遠く、ふるさとの福島を離れて、はるばると北海道までやって来た祖父たちが得たものは何だったか。苦しい開拓の仕事と、貧困だった。その挙句が、息子の夭《よう》折《せつ》であり、つづいて嫁の佐枝との別離だった。幼い孫たちを抱えて、祖父たちは更に農に励んだ。一番上の孫が嫁に行き、拓一と耕作が、何とか一人前になり、末の孫が十五になって、いくらか生活にゆとりらしいものができようとした頃、一挙に、何もかも押し流された。肌《き》理《め》こまかく耕して来た畠も、地獄のような石河原になってしまった。更にこれから、拓一が辿《たど》ろうとしているのは、あの流木の散乱する、硫黄と硫酸に荒れた泥田だ。なぜ、こんな苦しみを、孫子の代まで負っていかなければならないのか。
耕作は、集まった同窓の一人一人を眺めながら、言いようもないいらだちを覚えてくる。
どうせ人間は死ぬものだ。祖父母たちが死んだのは寿命だと諦めるにしても、その三十年の、汗の結晶の畠が、石河原になってしまったことだけは、なんとしても許すことができない。祖父母が生きていたら、どんなに嘆くことだろう。三十年の辛苦は、正に、全くの水の泡《あわ》になってしまったのだ。友人たちもみな、この割り切れぬ思いを持って、これから生きていくのだろう。
「しかしなあ、どうしてこんな目に遭ったかなんて、考えてる暇は先生にはないよ。それは、第一考えてわかることではないからな。お寺さんか、キリスト教の牧師さんにでも、聞かなきゃわからんことだよ。あ、キリスト教で思い出したがね、先生はね、今度の災害で、あの救世軍には、大した助けられたよ」
「先生、救世軍って、軍隊のこと?」
松井二郎が、すっとん狂な声を出す。そのまなざしが、小学生の頃と同じで、それがみんなの微笑を誘う。
「軍隊じゃないよ。キリスト教の一派だ。だけど組織が軍隊みたいなんだな。この旭川の救世軍から、早速新品の教科書やら、鉛筆やら、綴り方や算術や国語の帳面をどっさり贈られてな。ありゃあありがたかった。どうして新品の教科書なんか、手に入ったのかなあ」
「本当ですねえ、先生。災害っていえば、大体衣類か食べ物を送って来ますよね」
耕作も教師として、それはありがたいことだと思った。今度の災害には、塩マスを五十貫とか、味噌を二十樽《たる》とか、衣類を何十包とか、反物二百反とか送られてきたことは聞いていた。義《ぎ》捐《えん》金《きん》も、百円以上の巨額を、たくさんの団体や個人が送ってきたことを聞いていた。だが、教科書や文房具を送って来たのはその救世軍だけであった。もっとも、半紙十万帖が、東京の三越から送られてきたが……。
「とにかく、災害に遭うと、人の情が身に沁みるよ。先生はなあ、家内と子供は失った代わりに、感謝ということが、わかったような気がするなあ。失ったものばかり数え上げてみても、生きる力にならん。自分に残されたものを、数えて感謝しなくちゃなあ」
菊川先生は、前におかれたせんべいに、はじめて手を出した。
火柱
一時間目の授業が始まったばかりだ。
「朕《チン》惟《オモ》フニ、ワカ皇祖皇宗、国ヲ肇《ハジ》ムルコト宏《クワウ》遠《エン》ニ……」
隣の五年生のクラスから、教育勅語を朗読する声が聞こえる。いや、朗読しているのではない。生徒たちは教育勅語は暗記していて、あれは声を揃《そろ》えて暗《あん》誦《しよう》しているのだ。
耕作は教室の窓に寄って、校庭を眺めた。花井先生が、受け持ちの生徒に準備体操をさせている。手を腰にとり、足をひらき、首を右に左に曲げている。先生は和服に袴《はかま》をはいたまま、体操を教えている。耕作は窓下の花壇に目を移す。夏休みの間も、よく手入れされていた花壇には、ダリヤやエゾ菊が見事に咲いている。八月も末の空が、青く晴れ渡っている。だが何を見ても耕作の心は妙に白じらとしていた。生徒たちには、国語の書き取りをさせている。今日は書き取りだけで終わらせたいような思いだ。耕作はひどい無気力に陥っている。
「兄《ケイ》弟《テイ》ニ友ニ夫婦相和シか……」
耕作は生徒の声に合わせながら自《じ》嘲《ちよう》した。
教育勅語の暗誦が終わった。と思うと、待っていたように二階の高等科のクラスから、
「神武、綏《すい》靖《ぜい》、安《あん》寧《ねい》、懿《い》徳《とく》、孝昭……」
と、天皇の名前を、これもまた声を揃えて暗誦する声が聞こえてきた。
「ふん」
ますます耕作の心は、むなしくなった。盆も終わって、二学期が近づく頃から、時折ふっと、耕作はこんなむなしさに襲われるようになった。
毎日毎日、夏休みの間、泥流の中に膝《ひざ》までぬかって、流木を除去したためでもあろうか。倦うまずたゆまず働く拓一と共にいて、耕作は時々、
(無駄なことをしている)
と思うのだ。田んぼの片隅に、一本二本と、流木が片寄せられ、その数が増えてきても、田んぼに散乱している大小の流木は、一向に減ったとも見えない。この一週間、村の青年団が来て、あっちへひと山、こっちへひと山と、流木の小山ができたが、それでもまだ泥田の底に、ごろごろと太い流木が数えきれないほど沈んでいる。それが耕作のむなしさを深める。
今朝、耕作が目をさました時、既に拓一の姿は傍《かたわ》らになかった。ランニングシャツを着て窓をあけると、拓一が泥まみれの流木を、自分もまた泥まみれになって、鳶《とび》口《ぐち》でころがしていた。顔も洗わずに、耕作は飛び出して、拓一に手伝ったが、何かたまらない気持ちだった。耕作にはどうしても、この硫《い》黄《おう》臭い泥土が、米を実らせるとは、信じられないのだ。いや、流木を片づけているうちに、
(やはりこの地には、稲は絶対に実らない)
と、確信に似た思いが、耕作の胸に深く根をおろした。
「兄《あん》ちゃん、こんなこと、もうやめるべ」
今朝、耕作は、今までになく、荒々しい語調で言った。が拓一は、いつものおだやかな目をゆっくりと耕作に向けて、
「どうしてだ?」
と、静かに言った。
「いくらやったって、無駄だ!」
切り捨てるように、耕作は答えた。
「無駄? そんなことない。木を一本動かせば、動かしただけのことはある。俺たちの仕事は、目に見える仕事だ」
「そうじゃない。こんな土に、稲ができるなんて……そんな馬鹿な話があると思うのか、兄ちゃん」
「耕作、お前またおなじことを言い出したな。できるかできないか、それは知らん。俺はできると思っているだけだ」
「そんなこと言って、もしできなかったら、どうするんだ。何もかも無駄になるだけじゃないか」
「だけどな、耕作」
拓一は、次の細い流木に、鳶口をひっかけながら言った。
「もし、できるようになったら、どうする」
「できるわけはない」
いら立った耕作は、持っていた鳶口を、その場に投げ出した。
耕作ははじめからできないと信じている。拓一はできると信じている。お互いに反対のことを信じているのだ。
「あんな、耕作。俺は、自分が働いただけ、とにかく得だと思うよ。只そう思うだけだ。お前はそう思わんか」
いら立つ耕作に、拓一の語調はかえって穏やかだった。それがまた耕作をいらいらとさせた。
耕作は何も言わずに家に帰り、服を着替えて食事をした。佐枝は、いつものように口数少なく、
「今日はいいお天気ね」
と、言っただけだ。拓一に、大きな声で逆らっていた耕作の言葉を、佐枝は聞いたのか、聞かないのか、一言も尋ねなかった。そして耕作の出がけに、
「すまないけれど、この手紙を出しておくれ」
と、部厚い封書を手渡した。
「うん」
耕作は不機嫌に受けとって家を出た。
市街への道を歩きながら、耕作は佐枝から預かった封書が気になってならなかった。宛名は函館のキリスト教会の牧師である。牧師とはいっても、とにかく男の名だ。母が、いつこの手紙を書いたかは知らない。がその部厚さに、耕作は腹立たしさを覚えた。拓一や耕作には、口数の少ない佐枝である。耕作や拓一が話したいのは、死んだ祖父母のことであり、死んだ富や良子のことだった。だが、話が死んだ者たちに及ぶと、佐枝はいつのまにか、用事ありげにどこかに立ってしまうのだ。聞くのが辛いのだろうと、察しはするが、それが度重なると、耕作には、母の佐枝という人間がわからなくなる。そしてそれが、目に見えないわだかまりとなって、心の底に沈んでいくのだ。
その母が、このような部厚い手紙を他人に書いている。一体、この手紙の中に、母は何を書いているのか。これだけ心に思うことがあるのなら、なぜもう少し息子の自分たちと話し合ってくれないのか。それが、耕作の心を一層重くさせた。
郵便局は、深《み》雪《ゆき》楼《ろう》のすぐ近くにあった。耕作は、節子や福子のいる深雪楼のそばを通ることに、何となく抵抗がある。それで、いつの頃からか、裏通りを通って、学校に行くことにしている。しかし今朝は、手紙を頼まれたから、深雪楼のすぐそばまで行かなければならず、そのことにも抵抗があった。
深雪楼が近づくにつれて、福子と節子のことを、耕作は交《こも》々《ごも》考えた。今朝は拓一への手伝いを半分で投げ出し、早くに家を出たせいか、登校の生徒たちの姿もまだ見えない。
(金一とかいったな、あいつ)
福子を好きだという節子の兄を、耕作はふっと思った。福子を好きだというだけで、耕作には金一という男がいやな男に思われる。
(福子は兄ちゃんのものだ)
今しがた、きつい言葉を投げつけて来たばかりなのに、耕作は拓一の肩を持つ。
(だけど兄ちゃん、馬鹿だもな)
あんな田んぼに、精力を注ぎこむ拓一は、一生かかっても、福子と結婚できるわけはないと思う。
深雪楼のすぐ近くの文房具屋の前を通り、豆腐屋の前まで来た。この豆腐屋に、耕作は小学生の頃、手伝ったことがある。その頃と同じように、豆腐屋は低い下屋を突き出し、店のガラス戸には、「豆腐」「コンニャク」「ガンモ」「油揚」などと、墨で書いた半紙が貼《は》りつけられている。どういうわけか、この頃はおからだけは、「おからあります」と、ひら仮名でていねいに書かれてある。それを見る度に、耕作は何となくおもしろいと思う。
その豆腐屋の、建てつけの悪いガラス戸をがたぴしとあけて、豆腐屋の主人が顔を出した。
「お早うございます、小父さん」
耕作は、ようやくいつもの耕作らしく、挨拶をした。
「やあ、耕作先生、元気かね」
豆腐屋の主人は、右足を少し引きながら、外に出た。
「はい、元気です」
「元気ならええ。元気ならなあ」
豆腐屋の主人は、じっと耕作を見、ひとりで幾度もうなずいた。爆発以来ここの主人はいつもこううなずくのだ。
「じゃあ、どうも。今日の帰りに、アゲでももらっていきますよ、小父さん」
耕作は、深雪楼の所で、左に折れた。豆腐屋の主人は、言いたいことがたくさんあるにちがいない。
「大変だなあ、あんたらも」
少なくとも、そうひとこと言いたいにちがいない。だが、言いたいことが多いから、只ひとりうなずいて、言葉をのみこむにちがいない。耕作は何か涙ぐみたい気持ちになった。
郵便局のポストの前で耕作は、立ちどまった。佐枝から頼まれた封書は、ぼとんと重い音を立ててポストの底に落ちた。その音を耳にして、耕作は何となく深い吐息が出た。母が、遠くに去って行くような、そんな淋しさを耕作は感じた。
(教会の牧師って、どんな人なんだろう)
そう思いながら、深雪楼の前に再び戻った時、深雪楼の玄関の、くもりガラス戸が、カラカラと音を立ててあいた。着物姿の男が二人、耕作を見てニヤッと笑い、一人は少し得意そうであった。男たちがうしろ手で閉めた戸の向こうに、女の姿がちらりと見えた。男たちは、耕作の横を通りながら、意味もなく大きな笑い声を上げた。耕作は自分が嘲《ちよう》笑《しよう》されたような気がした。
耕作の顔は怒っていた。花井先生の菓子屋の前も、雑貨屋の前も、風呂屋の前も、耕作はむっつりと怒った顔で、急いで過ぎた。農具屋の前も柾《まさ》屋《や》の前も、知らずに過ぎた。朝日に、家々の影が道をよぎっていることも、耕作は見ずに過ぎた。
(兄ちゃんは、朝早くから夜遅くまで、泥だらけになって働いているというのに……)
市街の若い男は、平気な顔で朝帰りをする。一夜、女を抱いて、男たちは弄《もてあそ》んだのだ。あの得意げな男の相手は、福子だったかも知れない。
(福子も馬鹿だ)
親に売られた福子が哀れで、それがまた腹が立つ。
学校の敷居をまたいだ途端、耕作は不意に、何をする気もなくなってしまった。
(何もかも馬鹿馬鹿しい)
今まで聞こえていた教育勅語も、今聞こえてくる歴代天皇の名前も、みんな無意味に思われてくる。
(学校も無意味なことを教えている……)
不意に、そう思われてくる。
「……仁孝、孝明、明治、今上」
終わった途端に、耕作はふっと笑った。仁孝、孝明、明治が、尻取り言葉に思われた。国史の時間毎に、百二十三代の歴代天皇の名を暗誦することが、確かに無意味に思われた。そんなことは、どうしても学校で教えねばならないことなのか。それよりもっとほかに、教えねばならないことがあるのではないか。
そうは思いながらも、今、耕作は、生徒たちに授業する気になれなかった。どこか野原にでもつれ出して、思う存分遊ばせたほうが、いいような気さえしてくる。だが生徒たちは、命じられた書き取りを、国語読本を見い見い、一心につづけている。いつも注意されているように、きちんと背筋を伸ばして書いている生徒もあれば、ノートに顔をすりつけるようにして書いている子もある。耕作はその生徒たちを、順々に、一人一人目を注《と》めて行った。
日焼けした頬、健康な唇の色、もうそろそろ床屋に行かなければならないような男の子の頭、赤いリボンでお下げ髪を両肩に垂らした女の子、見つめて行くうちに、耕作の心が次第に和《なご》んでいく。が、その間にも、ふっと福子の顔が浮かぶ。福子もついこの間まで、この子供たちと同じように学んでいた。そしてそこには自分もいた。
(あの福子は……)
今朝見かけたあんな男たちのなぐさみものになっているのかと思うと、むかむかと腹が立ってくる。が、それを抑えるように、子供たちの姿を見つめていく。
(市街の奴は……)
泥流に家を失うことも、家族を失うこともなかった。その男たちが、泥流に家を奪われ、親兄弟を奪われた福子を、金でなぐさみものにしている。耕作はたまらなくなってくる。
(なぜ、俺たちの沢の者ばかりが、苦しい目に遭ったんだ)
耕作は順々に、生徒に目を移す。白いきれいなエプロンをかけた女の子、袖付けのほころびた絣《かすり》の着物を着ている男の子、みんなそれぞれの生活の中に生きている。
(まさか、この子たちの中から、福子のような哀れな子は出ないだろうな)
耕作はそう思う。と、ふと顔を上げた女の子がいた。耕作の視線に会って、女の子は恥ずかしそうに、にっと笑い、そしてまた書き取りをはじめる。
どこかの教室で、
「ハイ、ハイ」
「ハーイ」
と、盛んに手を上げているらしい声がする。耕作は、自分ももう書き取りをやめさせて、子供たちに授業らしい授業をしなければならないと思う。だが思うだけで、依然として心が晴れない。いや、むなしいのだ。
耕作はぶらぶらと机《き》間《かん》巡視をはじめた。生徒たちは、耕作がそばに行くと、うれしそうに顔を上げて耕作を見る。澄んだ目、トラホームに赤くなった目、それぞれにみんなかわいい。中ごろに一つ、ぽつんと空いた席がある。坂森五郎の席だ。そこを通る時、耕作はいつも、机の上に手をふれる。五郎のあの小さな肩にふれるような、そんな気持ちで手をふれる。
(五郎、ごめんな。先生をゆるしてくれな)
耕作の家に訪ねて来る途中、泥流に遭った五郎に、心ひそかに詫《わ》びる。
耕作は、ゆっくりと教壇に戻って、教卓の引き出しを引いた。そこには、大きいパッチ(メンコ)が二枚、片隅に置いてある。
坂森五郎が死んで間もなく、耕作は五郎の机をあけて見た。そこには、ちびた鉛筆が一本と、大きなパッチが二枚入っていた。手《て》垢《あか》に汚れたパッチの一枚には、奴《やつこ》凧《だこ》が描かれてい、もう一枚には、山中鹿之介の武者姿が刷られてあった。五郎はいつも、このパッチを机の中に入れておいたのだろうか。それとも、最後の日だけ、偶然ここに入れて帰ったのだろうか。
(そうかも知れない)
と耕作は思った。あの雨の日では、家に持って帰ったところで、友だちとパッチをすることはできない。だがそれにしても、男の子にとっては、大事なパッチを机の中においていったことが、耕作にはふしぎだった。しかもこの大きなパッチは、男の子たちが一枚でも多く持っていたい宝物なのだ。
耕作は、そのパッチと、ちびた鉛筆を、あれ以来、教卓にこっそりとしまってある。そして、教卓の引き出しをあける度に、
(あ、五郎がいるな)
と思うのだ。耕作は、職員室の机にそれを移そうとは決して思わなかった。五郎のいた教室に、いつまでもおいてやりたい気持ちだった。
パッチを手に持って、山中鹿之介の武者絵を見ていた耕作は、やがて引き出しを閉めた。
「さあ、みんな。鉛筆をおいて」
耕作は生徒たちを見まわして言った。むなしさにとらわれてはならないと、耕作は思いなおした。五郎のパッチは、
「先生、元気を出して」
と、言っているような気がした。
(山も川も、荒れてしまったのだ。人の心も荒れたって、仕方がないじゃないか)
今までそう思っていた耕作の心が、少ししゃんとした。自分がどこか間違っている、と思いなおした。
(泥流は自然を荒らすことはできても、人の心まで荒らすことはできないはずだ)
ようやく耕作はそう思った。
一服休みの拓一と、今学校から帰った耕作が、縁側にごろりと寝ころんでいる。あけ放った縁側から十勝岳が見える。うすぐもりの空に稜《りよう》線《せん》が描いたようにくっきりとして蒼い。爆発当時は盛んだった噴煙も、この頃は静かな姿を見せているだけだ。トンボがついついと、ちょっと進んではとまり、ちょっと進んではとまるような飛び方で、軒先を過ぎる。
「煙も小っちゃくなったなあ、兄《あん》ちゃん」
九月八日、今日は水曜日だ。耕作は、昨夜当直だったので、いつもより少し早く帰ってきた。今日もこれから拓一に手伝って、流木を泥の中から引き上げるつもりだ。役場では、河川の浚《しゆん》渫《せつ》作業に出ても、自分の家の田んぼの流木を処理しても、出面でづら賃はくれる。農家の、土地に対する愛着を殺《そ》がないように、役場では配慮をしているのだ。そして、泥流の田畠を抱えている農家の、食べる道を講じているのだ。
「だけど兄ちゃん、とにかく活火山だもな。いつまた、爆発するか、知れたもんじゃないなあ」
「そりゃそうだ。だけどな。じっちゃんたちがここに来て三十年、とにかく無事だったんだからな。こないだの爆発は、安政の大爆発から、六十何年目だっていうべ。もっとも明治二十年にも、火柱は立ったっていうけどな」
「すると、また六十年か七十年後には、大爆発する公算もあるわけだな」
「うん。だがないかも知れん」
拓一は楽天的だ。
「だけど兄ちゃん、また六十年目くらいに泥流が来ないとは限らんぞ」
「しかしなあ、安政の大爆発の時にはな、泥流はなかったらしいぞ。こないだのようなことは、二度とないんでないか」
台所で何かを刻む音がする。耕作は首をまわして、台所のほうを見た。
(母さんも一緒に、少し話したらいいのにな)
いつも、忙しげに何かしら働いている母の佐枝に、不満げな目を耕作は走らす。
とんとんと、板橋を渡る下駄の音が聞こえてくる。軽い音だ。泥田の中に、長く渡してある板橋を、誰かが渡ってくるのだ。
「村長さんとこの子供だな」
拓一が言う。
「そうかも知れん」
耕作が体を起こした。一日に一度は、吉田村長の小さな娘たちが顔を出す。来る度に、さや豆やキュウリを持ってくる。野菜は、村長の家でも今年はまだ作れなかったのだが、どこかの農家から届けられるのだろう。
「小母さーん」
かわいい声がして、村長の娘のていと、弥生《やよい》が姿を現した。ていは小学二年生で、弥生はまだ五歳だ。二人共賢そうなつぶらな目をしている。ていは、唐《とう》黍《きび》の十本ほど入ったふろしき包みを背負っている。そのふろしき包みを、ていは縁側に小さな背を向けておろした。弥生がニコニコと耕作の顔を見て、
「せんせ、こんにちは」
弥生は耕作を見る度に、ていねいにあいさつをする。学校の先生は、拓一より偉いと思っているらしい。そのあとで拓一に、
「おにいちゃん、こんにちは」
とおかっぱ頭を下げる。拓一は弥生を抱き上げ、耕作はおかれたふろしき包みをあける。赤茶けた唐黍の毛が手に快い。
「まあ、いつもいつも、ごちそうさんですこと。重かったでしょう、ていちゃん」
佐枝が静かな笑顔を、ていと弥生に向けた。ていは恥ずかしそうに下を向き、弥生は拓一の膝の上で言った。
「おもくない、おもくない」
その言い方が愛らしくて、佐枝も拓一たちも笑った。三人が笑ったので、弥生も喜んで声を上げて笑った。
「あのね、先生」
ていが、腰にまきつけていた別のふろしきに手をつけながら、もじもじと言った。
「何だい、ていちゃん」
「あのう……文集が出たの。わたしのも出たの」
「ほう、文集か」
耕作が目を輝かすと、ていは腰につけていたふろしきから、薄いガリ版刷りの小冊子を出した。受け取ってその表紙を耕作は見た。
「罹《り》災《さい》児童の感想文」
と書かれてあった。耕作の顔が少しかげった。ていは、上富良野尋常小学校に通っている。この小学校は、田んぼの中にあって三重団体の子供たちが通っている小学校である。耕作たちの沢にあった、菊川先生の小学校は、日進尋常小学校で、耕作が今勤めている市街の小学校は上富良野尋常高等小学校である。高等科があるので、「高等」の二字がつく。
「母さん。兄ちゃん。ていちゃんの綴り方を読むから、聞いてなよ」
耕作が言うと、ていは赤くなってうつむいた。弥生はうれしそうに小さな手を叩く。
「題はねえ、〈五月二十四日〉という題だよ」
耕作は、五月二十四日と口に出しただけで、胸のふさがる気がした。それは、祖父母と富と良子の命日でもあるのだ。が、声を励まして耕作は読み出した。
〈五月二十四日ハ、山ガクズレテキテ、大スイガイニアッタノデス。
私ノオバアサンモ、トウトウスイガイノタメニ、ナクナッテ、カナイジュウガカナシガッテイマス。私タチモ、モウチョットデ、シヌトコロデゴザイマシタ。ハダシデ一ショウケンメイニニゲマシタ。
ソウシテ、米村サンノトコロデ、フトンヲシイテスワッテイマシタ。ソノアシタハ、ハコニノッテ、ドロ水ノ上ヲヒイテモラッテ、ヤットセンロニデマシタ。
ソレカラ山バカリツタッテ、シガイマデニゲマシタ。シガイノオジサンノトコロカラ、シガイノガッコウニカヨッテイマシタガ、ミエダンタイノ方ガヨクナッタノデ、ミエダンタイノガッコウヘ、ニイサントカヨッテイマス。
イキカエリニハ、イエモナクナッタノデ、サミシクテナリマセン。トモダチモ、大ゼイシンデ、カワイソウデス。
ウチノオバアサンガナクナッテカラ、ナントナク、ウチガサミシクナリマシタ。ウチノマエヤヨコニハ、センロヤ大キナ木ヤ、デンシンバシラガヨッテ、一メンノドロ水デス。イツ、モトノヨウニナルデショウト、ニイサントハナシテイマス。エハガキニ、私ノウチガデテイマス〉
二年生としては、しっかりと事件をとらえて書いている。耕作は読み終わって吐息をついた。
「うん、上手だ。とてもよく書けてるね、ていちゃん」
と、耕作はほめ、
「死なんでよかったなあ」
と拓一が言った。
「ほんとうにねえ」
と言って、佐枝は立って行った。その立って行ったことが、耕作には不満だった。
耕作は、薄いその文集を読んでいく。誰も彼もが、あの恐ろしい日のことを書いている。読んでいくうちに、〈生き残って〉という題の綴り方があった。それは小学校五年生の船引武という子の綴り方であった。船引少年の家は、線路の向こうにあった。拓一は弥生とていの話し相手になっている。佐枝はもらった唐黍をゆでようとしているらしい。台所から、唐黍の皮を剥《む》く音が、キュッキュッと聞こえてくる。耕作はあぐらをかいて、その綴り方を読みはじめた。
〈万雷の一時に落ちて来た様な物《もの》凄《すご》い音を立てて、谷間から真っ黒になって寄せて来たものがありました。見る見る身に迫って一のみにされた様でした。
もうだめだ、死んだ気で高い丘へ走りついたと思うと、ぱっと泥水がかぶさったが、夢中で這《は》い上がった。皆死んで生き残ったのは僕一人だけだと思うと、悲しいやら嬉しいやら、何とも言うことのできない感じがしました。
それでも万一、家の人が助かりはしないかと思って、探し廻りましたが、一人も見つかりません。水田も家も父母も兄弟も流れてしまった。自分一人生き残っても何ともし方《かた》がないから、死んで皆の所へ行こうかと思いました。
余りの事に気も遠くなってしまいました。本当にこんな悲しい恐ろしい事はありません。お天道様もひどい、情けないとうらみました。
後になって幸いにお父さんが生き残っていました。お父さんは、
「武!」
と呼びました。私も、
「お父さん」
と呼び、互いにだき合って思う存ぶんに泣きました〉
最後の一行を読む耕作の目が、涙にくもった。死んだとばかり思っていた拓一が、馬で駆けつけた時の驚きと喜びを、耕作はまざまざと思い起こしたのだ。武少年とその父親の喜びが、痛いほどよくわかる。
(兄ちゃんは生きていたんだ。それだけで俺は感謝しなけりゃならないんだ)
文集を手に持ったまま、耕作はそう思った。本当によく生きていてくれたと思う。しみじみと新たな感動が甦《よみがえ》る。拓一が生き返った喜びを、耕作は忘れていたわけではない。だが、いつしか馴れてしまっていた。考えてみると、あの日、二人が山津波にのみこまれなかったということだけでも、それは大きな奇蹟なのだ。しかも、一旦濁流に飛びこんだ拓一が助かったというのは、更に大きな奇蹟なのだ。そのありがたさを、この頃耕作は忘れていた。
拓一が、朝から晩まで、泥田の中で流木整理に力を注いでいることに、腹立たしくなっていた。復興の見込みも立たぬ土地なのだ。そんな土地に拓一は全力を傾けている。それが耕作をいら立たせる。まじめに生きようと思っても、まじめに生きることに、耕作は倦《う》みはじめていた。それが、今、船引武少年の綴り方によって、耕作ははっと、元の自分に引き戻されたような気がした。
(兄ちゃんが生きていた。それだけで、俺は言うことはないんだ)
もし、拓一があのまま激流にのまれて死んでいたとしたら、自分は生きる力を全く失ってしまったにちがいない。母の佐枝は確かに帰って来た。だがその母も、長い年月離れていたせいか、どこかぴったりしないのだ。長い間待っていた母と、現実の母とはどこかちがうような気がする。母の名を、山の上で只一人、
「かあちゃーん」
と呼んだ少年の日の、あの懐かしい母の姿は、帰って来た佐枝の中にはないような気がする。離れ病む母を思い、手紙を書いた時の、あの懐かしい母が、この母だったのかと思うことがある。
それはともかく、兄の拓一がいなければ、今日の日まで、このように生きてくることはできなかったと耕作は思う。
(よし、今度こそ俺も、兄ちゃんと一緒になって、生きてみせるぞ)
そう思いながら、耕作は再び、武少年の綴り方を読み返した。武の父親もまた、妻と子を失いながら、この泥田の中に、復興の鍬《くわ》を入れると聞いている。
「兄ちゃん、船引の武坊の綴り方が出てる」
耕作はそう言って、拓一に文集を手渡した。ていと弥生を相手に、何か話していた拓一が、
「ほう、武坊のか」
と、ひらかれたその文集を手に取った。そして、すぐに読みはじめた。
その拓一を、耕作は新たな思いでじっと見つめた。弥生とていは、勝手もとの佐枝の傍らに走って行って、
「ねえ、おばちゃん、あのうたおしえて」
と、かわいい声で甘えた。佐枝が低い声で何かうたい出した。耕作の知らない歌だった。耕作はふしぎな気がした。隣家のていや弥生は、「おばちゃん、おばちゃん」とよく佐枝になつく。少々雨の降る日でも、傘をさして佐枝の所に遊びに来る。その佐枝に、どうして実の子の自分が、隔たりを感ずるのだろう。
武少年の綴り方を読み終わった拓一が、黙って文集を耕作に戻した。何かに耐えているような拓一の目であった。拓一は、つと十勝岳のほうに視線を移した。うすぐもりの空の下に、今日の十勝岳は、実に不気味なほど静かだ。噴煙もいつもより少ない。
台所のほうで、佐枝とていと弥生の三人が、声を合わせてうたっている。
うるわしき朝も
静かな夜も
たべもの着物も
くださるかみさま
耕作は拓一と二人で山を眺めた。ひどく静かな気持ちだった。こんな落ちついた気持ちになったのは、爆発以来はじめてのような気がする。
「なあ、耕作」
「なんだい」
「俺はな、いつも思うんだ。生きてるくせに文句を言うなとな」
「生きてるくせに文句を言うな?」
「うん。あの時死んだ人たちは、みんなそう言うだろうと思ってな」
耕作はなるほどと思った。泥流の中に死にかけた拓一でなければ言えない言葉に思われた。多分拓一は、助かった自分の命を、誰よりも意味深く受け取っているにちがいない。
(生きているくせに文句を言うなか)
拓一の言葉を、耕作は胸のうちでくり返した。
(本当だ。文句を言いたいのは死んだ人だ。死んだ人は、もし命が生き返ったなら、一生文句など言わずに生きて行こうと、思っているかも知れん)
拓一が、不満らしいことを何ひとつ言わずに、来る日も来る日も勤勉に生きている気持ちが、耕作には今やっとわかったような気がした。
(俺は文句が多過ぎる)
十何年ぶりで、やっと会うことのできた母にさえ、ともすれば不満になる。耕作は、自分という人間が、余りにも小さく思われた。
(しかし……、生きてる人間が文句を言わなくなったら、この世はどうなる?)
そう言いたい気持ちも、耕作の胸にあった。だが、拓一の言葉はそれとは根本がちがうのだ。
「生きてるくせに文句を言うな」
と言った拓一の言葉は全く質が違っているのだ。それが耕作にもわかる。確かに拓一の言葉は重い言葉であった。
まだ台所で、佐枝と子供たちのうたう声がする。
わがままを捨てて
人びとを愛し
この日のつとめを
なさしめたまえや
はにかみ屋のていも、うれしそうに澄んだ声でうたっている。
「さ、日の入るまで、もうひと働きすっか」
拓一がゴム長靴に足を入れた時だった。突如、
「ゴーッ」
と、異様な音がとどろいた。
「何の音だ!?」
叫んで二人は山を見た。今まで、うすく白い煙が静かに立ちのぼっていたあたりに、突如、黒い煙が山上数百メートル上空に、柱のように噴き上がっていた。
「爆発だあーっ!」
拓一が叫び、耕作が台所に走った。いきなり弥生とていの手を引くや否や、
「母さん! 逃げよう!」
と、耕作は怒鳴った。途端に弥生とていが泣き出す。
泥流の速さを拓一も耕作も知っている。二十八キロの麓《ふもと》まで、二十八分で泥流は流れて来たのだ。
「母さん! 早くっ、早くっ!」
拓一も叱りつけるように促し、
「耕作、お前は弥生ちゃんをおんぶせい!」
と言ったかと思うと、自分はていを背負い佐枝の手を取って走り出した。見上げる、十勝岳の上に、鳶《とび》色に変わった煙が、もう四千メートル以上の高さに噴き上がっていた。
走る。走る。が、もどかしいほどに、足が遅い。拓一の額にも、耕作の首筋にも汗が流れる。ていも弥生も、それぞれ拓一と耕作の背にしがみついている。佐枝が少し遅れて走る。拓一がふり返る。四千数百メートルも噴き上げている煙が、頭上に覆いかぶさってくるようだ。
耕作は走りながら、春の爆発の時を思い出す。拓一と二人で登った山の上から、黒い小山のようにせり出して来る山津波を思った。あの時の驚《きよう》愕《がく》が甦る。山の下の祖父母たちに向かって、
「じっちゃーんっ! 山津波だあっ! 早く逃げろーっ!」
と叫んだあの時の、言いようもない恐怖と焦燥が、胸を噛《か》む。祖父母と良子が、あっという間に濁流に呑まれてしまった一瞬がありありと目に浮かぶ。
走る。無言で走る。噴煙が耕作たちの上にのしかかる。のどがからからだ。汗が目に入る。どこかで人の叫ぶ声がする。馬車の音が響く。追いかけられるようにまた走る。ごろごろと、凄《すさ》まじい音を立てて流れたあの泥流が、今にも襲ってくるような気がする。幾百の流木が、トンボ返りを打って流れる様、山裾を削り取る濁流の凄まじさ、家も馬もひと呑みにした様、それらが次々と目に浮かんでは消える。
あの日の恐怖が、更に恐怖を駆り立てる。
「兄《あん》ちゃん!」
肩で息をしながら、耕作が呼ぶ。
「何だ?」
拓一が足をゆるめる。
「もうこの辺でいいべ。この間、ここまでは泥流は来んかった」
二人は深《み》山《やま》峠を目指して北に走っていたのだ。いつしか長い坂の半ばにさしかかっていた。この前の泥流に襲われた地点を、とうに脱け出していた。
「うん。そうだな」
それでもまだ、拓一の足はとまらない。耕作は道端の草の上に、背負っていた弥生をおろそうとした。が、弥生は耕作の背にしがみついて、離れようとはしない。
「おっかなーい!」
弥生が噴煙を見上げて叫ぶ。幼心にも、泥流の恐ろしさが身に沁《し》みついているのだろう。もくもくと湧《わ》き上がる噴煙が、弥生には泥流に見えるのかも知れない。
佐枝も道端に坐りこむ。
「母さん、大丈夫か」
拓一が佐枝のそばに寄る。
「大丈夫よ」
佐枝はかすかに頬笑んで、前垂れで首の汗を拭いた。
誰もが、息をのんで噴煙を見上げている。うすぐもりの空に、鳶色の噴煙が、真っすぐに立ち上っている。煙に煙が重なる。上の煙が下の煙に突き上げられ、更に新たな煙がそれらを突き上げる。呆《ほう》けたように、五人は草の上に坐りこんでいた。ややたって耕作が言った。
「兄ちゃん、何の音もしないな」
春の爆発の時には、雨にけぶって山も噴煙も見えなかったが、何百の戦車が押し寄せるようなとどろきだった。それが、今、ひどく静かなのだ。数千メートルも立ち上った煙が、徐々に形を変えるばかりなのだ。
「うん、静かだ。不気味なぐらいだ」
静けさがかえって緊張を深める。
「兄ちゃん。春の爆発とはちがうみたいだな」
「うん、この分だと泥流は来ないかも知れんな」
「まだ、九月に入ったばかりだからな。雪はないもなあ」
今、十勝岳に雪はない。五月二十四日の爆発の時には、十勝岳は何メートルもの積雪に閉ざされていた。その積雪が、灼《しやく》熱《ねつ》の熔岩に一時に融けて、泥流になったと聞いていた。小山を一つ噴き飛ばした激しい爆発に、沼もまた泥流となって流れたという。
「そうだ。雪がないから、泥流にはならんな」
二人は顔を見合わせ、何となく笑った。が、たった今、新たに甦った泥流の恐怖は、まだ体にへばりついている。
「母さん。山津波は来んよ。あん時はなあ、こんな静かなもんじゃなかった。十勝岳全体が、崩れてくるような音でな」
拓一の言葉に、佐枝は静かにうなずいた。どこかで鶏が鳴いた。けだるいような声だった。泥流に襲われなかったこのあたりは、緑に覆われている。
道の下に目をやった拓一は、そこに、草を食《は》む馬を見た。そして、丘の上につらなる馬《ば》鈴《れい》薯《しよ》畠《ばたけ》や豆畠を見た。不意に拓一の目から、噴き上がるように涙が盛り上がった。それらの畠は、生まれてからこの方、余りにも見馴れた光景であった。土から馬鈴薯ができ、豆ができるのは、余りにも当たり前のことであった。が、泥流に家も畠も奪われて以来、拓一は泥田の中で、来る日も来る日も、流木を掻《か》き集めねばならなかった。今の爆発で、拓一は、青々とした畠が、こよなく懐かしいものに思われたのだ。
「おにいちゃん、どうしたの」
ていがおずおずと拓一の顔をのぞきこむ。
「ううん、何でもない。もう大丈夫だよ、ていちゃん。さ、帰るべ」
拓一は再び噴煙を見た。噴煙は一層高くなるばかりだ。
「灰もかぶらんですむようだな。兄ちゃん」
「うん、風向きが変わらんければな。だけど、あれだけの煙だ。風下のほうじゃ、灰をたくさんかぶるだろうな」
拓一の声がくもった。再び鶏の鳴く声がした。
石油ランプの光が、かすかにゆれる。家がかすかにゆれているのだ。ランプの下にいる三人の影も、壁にゆれている。ガラス戸がガタガタと鳴る。夕方の爆発以来、幾度も地がゆれるのだ。
佐枝も拓一も耕作も、何となくランプを見上げる。きれいに磨かれたランプのほやが、今日は妙に淋しい感じだ。
「二、三日はゆれるかな」
拓一が言う。
「五月の爆発の時も、何日かゆれてたなあ、兄ちゃん」
ゆれが少しおさまって、三人の目はおのずと、山頂の火柱に向けられる。真っ赤に灼《や》けた、巨大な鉄の棒にも似た火柱だ。それが時折、先端でゆらめく。火柱のあたりの雲が、不気味に赤い。
「本当に、地球の中は、熔鉱炉のように燃えているんだなあ」
拓一はつくづく感じ入った声で言う。
「うん」
耕作がうなずく。同じことを耕作も思っていたのだ。太古、地球は火の塊であったと、菊川先生に習ったものであった。そしてその火が次第に冷え、地殻ができたと聞いた。あれは何年生の時であったか。その時耕作は、今もなお地球の真ん中は燃えていると聞いて、ひどく驚いたものであった。が、実感としては、地球の真ん中が燃えていると想像することはできなかった。それが今、目の前に火を噴き上げている。
(確かに、地球は燃えていた)
その事実が、耕作を深く感動させていた。
拓一がまた言った。
「なあ、耕作。大昔地球は火の玉だったんだろう。火の玉の中には、生きているものは虫一匹もありゃしなかったんだろう」
「うん、そうだろうなあ。火の玉の中に、生きていることのできるものは、ないだろうからな。ふしぎだなあ、草の種や花の種や、人間や、獣や、魚が、どうしてできたんだろう」
「本当だなあ。俺も今、そのことを考えてたんだ。火の玉だった地球が次第に冷えて……どんなふうにして命が芽生えたんだろうってな。あの火柱を見てると、急にそんなことが知りたくなるもな」
「ほんとだなあ。木やら鳥やら……ふしぎだなあ。生物のなかった地球に、いつ命が芽生えたんかなあ」
「ほんとうにねえ」
今まで黙って二人の話を聞きながら、拓一のズボンにつぎを当てていた佐枝が、あいづちを打った。
「地球は、あのたくさんの星の一つに過ぎないんだろう、耕作」
「うん」
「ふしぎだなあ、何もかも」
火柱が一瞬、右に大きくゆらめいて見えた。三人はそのまま、また黙った。もう十時に近い。いつもならもう眠る時間だ。が、誰も眠ろうとしない。
またかすかに家がゆれた。耕作は、この自分の住んでいる大地が、地下の如《い》何《か》なる変動によって動くのかと思いながら、不動なものなど、この世にはないと、改めて感じた。不動のものであるはずの大地さえ、ゆれ動く。それは耕作にとって、何かひどく淋しい事実に思われた。
拓一が言った。
「あんな火の噴き出すところに、姉ちゃんはいたんだもなあ」
それは佐枝も、夕方の爆発の時に言った言葉だ。噴煙の高く噴き上がる空を見上げて、草原に坐りこんだまま佐枝は言った。
「富が、あんな火口のすぐそばに……」
言った言葉はそれだけだった。が、今まで佐枝は、そんな言葉さえ、自分から出すことはなかった。だから耕作は、その佐枝の言葉がうれしくて言った。
「母さん、武井の兄さんは、あのそばの旧火口の中で、硫黄を取っていたんだよ。そんなにまでして硫黄って取らなきゃあならんものかなあ」
「人の命を、そんなに粗末にしては……」
佐枝の語尾が消えた。
今日、佐枝に対する耕作の気持ちが少し変わっていた。佐枝は今日の爆発の時、七輪に唐黍をゆでる鍋《なべ》をかけていた。七輪には火が燠《お》きていた。その七輪を、佐枝は咄《とつ》嗟《さ》の間に外に出し、その上に空いた鍋を逆さに伏せた。ひっそりと、口数少なく生きている佐枝は、耕作にはもの足りぬ母親だった。が、その母が、火の始末を沈着に、しかも機敏にしたことは、耕作を驚かせた。自分は母を誤解しているかも知れないと耕作は思った。口数が少ないということで、知らず知らずのうちに耕作は、母への不満と、そして母を軽んずる気持ちが湧《わ》いていたように思う。
そんなことを思っていた時、
「お晩です」
と、戸口で声がした。隣家の村長、吉田貞次郎の声であった。吉田村長は、春の爆発以来、帰宅はいつも夜だった。時には夜半に帰ることもあると聞いている。ランプの灯《あか》りがついていると、通りがかりに声をかけてくれることもある。
ここに移ってから、耕作たちは、吉田村長の人となりを知って、次第に深く敬愛するようになっていた。
「まあ、今お帰りですか」
佐枝が立って行った。拓一も立ち上がりながら、
「村長さん、今日の爆発は驚きましたねえ」
と、大きな声で言う。
「ああ、驚いた、驚いた」
と、村長は上がりがまちに腰をおろした。三人がそのそばに寄る。
「俺たちね、村長さん。深山峠の途中まで逃げて行ったんですよ。ちょうどていちゃんや弥生ちゃんが遊びに来ていてね。背中におんぶして逃げたんですよ」
「え? 弥生やていをおんぶして? それは大変だった。いやありがたい。しかし、何だねえ、泥流も来ん、灰も降らんで何よりだった」
謹厳な村長の顔がほころんだ。耕作は、この村長の生き方が好きだ。近くに移って来てはじめて知ったことだが、家が流失をまぬがれたということで、村長一家は、かえって村民の前に肩身を狭くしているようであった。鍋でも家具でも、茶碗でも夜具でも、与えることのできるものは、すべて率先して寄贈していた。食事はいつも、麦飯に味噌汁だけで、魚や肉を食べることは滅多にないという。衣類も、弥生やていの女の子たちにさえ、つぎはぎの着物を着せていた。
村には、被災者に対して、何千個もの慰問袋が送られて来たが、村長の家だけは、ひと袋も受け取ってはいない。流失をまぬがれたとはいえ、村長の家も半壊し、泥が家の中に流れこんだのだ。が、村長は自分の家庭のためには、義《ぎ》捐《えん》の金品を紙一枚さえ受け取ろうとはしなかった。まるで、爆発の災害は、自分の責任であるかのような、あり方であった。
「石にかじりついても、この泥田を美田にしてみせる」
これが村長の口癖だった。それだけが、耕作には不満な一点であった。
「村長さん。今日は幸い、風が東に流れていたからよかったものの、この上灰が積もったら、泣き面に蜂《はち》でしたね」
兄の拓一に言いたかったことを、耕作は吉田村長に言った。
「神の助けですな。吾々の復興の志を、神は嘉よみし給うているんですな」
吉田村長は自分で言い、自分の言葉に幾度もうなずいた。
「ほんとですね。村長さん、俺もそう思った。これに灰が一尺も二尺も積もったらことだったねえ」
拓一も膝を乗り出す。
拓一は今日の爆発の後も、暗くなるまで流木除去の作業をしていた。その強固な拓一の意志に、耕作は感《かん》歎《たん》しながらも、腹を立てていた。まだ絶えず微震があるというのに、拓一はいつもの作業をやめようとはしなかったのだ。
明日は今日よりも、大きな爆発がないとは、断言できないのだ。五月に噴火し、今またこの九月に噴火した山が、冬になって三度、爆発しないと、誰が断言できるだろう。冬の噴火は、再び雪を融かし、大泥流となって麓の村に襲いかかりはしないか。耕作は今日逃げた時のあの恐怖感がまざまざと甦って、言い知れぬ思いに駆られるのだ。
(このままこの地に住んでいていいのか)
しきりにそう思う。
「村長さん、もし今日灰が降っていたら、それでも村長さんは、復興を諦《あきら》めませんか」
村長は、耕作を見た。澄んだ目だ。何の濁りもない目だ。いや、野心のない目といったらよいのか。それは政治家の目というより、教育者の目であった。
「今日ねえ、耕作君。ずいぶん多くの人たちから、同じ質問を受けてねえ」
村長はそう言って、いが栗頭を、書生っぽい手つきでかいた。まだ四十歳になったばかりの村長のそのしぐさは、ひどく若々しく見えた。
「だがねえ、耕作君。わしは、とにかく、灰が降らなかったんだから、降らない時点でしか、考えることができん。そう答えたんだがねえ」
「しかし村長さん。明日、また爆発があるかも知れないんですよ」
「その時はその時、また考えよう。とにかく、わしは、石にかじりついても……」
いつもの口癖に気づいて村長は笑ったが、
「復興はやりぬくよ。三十年間ここで苦労した先人のことを思うとね。そう簡単には、見放すことはできないんだ。なあ、拓一君」
村長は拓一の肩を力強く叩いた。拓一もしっかりとうなずいて、
「やりましょうや、やると決めた以上は。断じて行えば、鬼神もこれを避くっていう言葉がありますよね、村長さん」
「断じて行えば、鬼神もこれを避くか。うん、いい言葉だ、拓一君」
村長は立ち上がった。
「いやあ、お邪魔しましたなあ」
村長は佐枝にそう言い、
「じゃ、おやすみなさい」
と、戸を閉めて外に出た。
耕作は、吉田村長が、今日の爆発に微動だにしていないことを知った。村長の家には、
「志ある所必ず道通ず」
という言葉が、何年も掲げられていると聞いている。小学校を出ただけの村長が、早稲田の中学講義録を、野良仕事の傍《かたわ》らに学び卒《お》えたことを、耕作は思い出した。
(あの村長が復興を諦めない限り……兄ちゃんも諦めまい)
と、耕作は再び窓越しに火柱を見た。
吉田村長が拓一の家を出て、どれほども経《た》ぬうちに、再び戸口のあく音がした。何か言い忘れて村長が戻って来たのかと、三人が戸口のほうを見た時、
「お晩です」
と、闇を背にぬっと入って来たのは、深雪楼の深城だった。深城のうしろから、その息子の金一も入って来た。今頃何の用事かといぶかる三人の視線にはかまわず、深城は上がりがまちに腰をおろした。今しがた吉田村長が腰をおろしていた場所である。
「今、出てったのは、吉田村長だね」
深城は先ず佐枝を見、そして拓一と耕作の顔を見た。
「そうです」
佐枝も拓一も答えないので、いたしかたなく耕作が答えた。
「ふーん、何の用事で、こんな時間に来たのかね」
「隣同士ですからね。今日の爆発の見舞いに、寄ってくれたんですよ」
いやな奴だとは思っても、福子の抱え主であり、節子の父親だと思うと、返事ぐらいはしなければならない。
「なるほど。隣同士か。爆発の見舞いか」
意味ありげにうなずきながら、深城は佐枝のほうをちらちらと見る。
背広姿の金一は、土間のうす暗がりの中に、じっと突っ立ったままだ。
「実はね、わしもその、爆発見舞いにやって来たんだ。ありゃ驚いたろう。何せ凄《すご》い噴煙だ。ちょうど火口近くにいた男が二人死んだそうだ。また死人が出たよ、死人が」
何がおかしいのか、深城は笑った。
「営林区署の男たちだという話だが……」
深城は、拓一や佐枝の迷惑げな様子には頓《とん》着《ちやく》なく、立っている金一をふり返り、
「金一、何をのへっと突っ立っている。ま、ここに坐れ」
と、自分の傍《そば》を指さした。金一は父親の言うままに、
「じゃあ、失礼します」
と、おとなしく腰をおろした。
「どうだね、今日の爆発には、逃げ出したかね」
人を小馬鹿にしたような言い方だ。
「そりゃあ、逃げましたよ」
耕作は、ややむっとして答えた。
「やっぱりねえ。逃げた者が何人かいると聞いたが、ま、逃げるのが本当だわな。しかしな、こんな所に住んでいちゃあ、爆発のある度に逃げなきゃならん。なんで、こんな土地にしがみついているんかね」
「…………」
拓一はそっぽを向いた。
「わしは今日、あちこちの農家に寄ってきた。村長の奴が、石にかじりついても復興するなどと吐《ぬ》かしやがる。あれが悪い。あの気《き》焔《えん》にのまれて、本気で復興するつもりの農家が実に多い。全く呆《あき》れたよ。な、金一」
金一は黙って拓一の顔を盗み見る。気弱そうだが整った顔立ちだ。
佐枝はようやく、火鉢の上にかかっている鉄《てつ》瓶《びん》の湯を急須に注いだ。が、深城はそれに気づいて、大きく手をふり、
「いや、お茶などいらん。ここらのお茶ときたら、飲めたもんじゃない。あんたの出してくれるもんなら、毒でも飲みてえが、この金《かな》気《け》臭いお茶だけはな。なあ金一」
と、断った。どこかの家で、茶を飲んできたにちがいない。
「わしはね、実は今日、まじめな話でやってきたんだ。わしらは、吉田村長のやることに、少々疑問を持っているんでね。あいつはとんだ食わせ者だぜ。見たところは聖人君子の面《つら》をしてるが、奴が復興復興と力んでいるのは、一体何のためだか、あんたら知ってるかね」
「むろん、罹災者のためでしょう」
内心復興には反対の耕作も、深城の言葉には応じかねた。
「罹災者のため? 甘い、甘い。あんたらね、あんたら罹災者たちがね、本気でそんなことを信じているとしたら、こりゃあ、大変な話だよ。あいつは、自分の利欲のために、復興しようとしているんだ」
今まで黙っていた拓一が、
「何を証拠にそんなことを……」
と、深城を見た。
「証拠? どの証拠からあげたらいいか、わからんくらい証拠はあるよ。これはね、わし一人の考えじゃない。な、お佐枝さん、あんたも息子たちによっく言って聞かすんだな。わしら市街地の浦多な、あの人を中心に、北橋、上之井なんぞの名士がだ、十五人集まってな、復興反対の期成会をつくりつつあるのよ」
「復興反対? あんたら市街のもんに、反対も賛成もないんじゃないのかな。いらんお世話じゃないのかな」
拓一ははっきりと言う。ランプが、また少しゆれた。
「ほら、また地震だ。山が怒ってる。山だって怒らあな。吉田村長の不正を見りゃあなあ」
「村長の不正? あの村長に限って、不正なんかありませんよ」
ふだん穏和な拓一だが、どっちつかずのことは言わない。
「いやいや、市街じゃもっぱらの評判よ。ほら、吉田雑貨屋があるだろ。村長の兄弟の。災害の時にゃあ、役場じゃああの店からばかり買いこんだってえ話だぜ。な、金一」
金一がかすかにうなずく。
「それは誰かの思いちがいじゃないのかな。村長さんって、そんな人じゃないですよ。顔を見ればわかる」
拓一は話に乗らない。
「あんたねえ、そんな顔でございますという顔など、しないものさ。いかにもまじめそうな奴ほど、陰じゃ何をやっているものか、わからんもんだ。その上な、義捐の金品を、大量にごまかしたってえ話だぜ」
「うそうそ。そんなでたらめな話に、俺は乗らんよ」
「でたらめ? 何でわしがでたらめを言わんならん? これも市街じゃ、評判の話よ。なあ金一」
金一がまた弱々しくうなずく。
「あんな、深城さん。村長はな、慰問袋一つもらっちゃいないんだよ、慰問袋一つ」
「慰問袋?」
ゴールデンバットの灰を、出された灰皿には落とさず、土間に落として、深城はおかしそうに笑った。
「何がおかしいんです?」
「そりゃ、おかしいよ、あんた。慰問袋に入ってくるものはせいぜい、きび団子や飴《あめ》玉《だま》や、タオルくらいのもんだろうが。あいつのことだから、おそらく自分の子供には、いいか、うちじゃ慰問袋をもらっておらん、なんて偉そうに言って聞かせているにちがいない。むろん、ほかの品物ももらってはいまい。こりゃあ証拠になるからな。しかし、金はたんまりふところに入ったそうだぞ。こりゃもっぱらの評判よ」
「ふーん。評判なあ」
拓一は鼻先で笑った。深城は少しいら立って、
「そうよ、評判よ。火のない所に煙は立たんってなあ。昔の人はいいことを言ったもんだ」
「しかし、火のない所に、火をつける奴もあるってなあ。昔は、火をつける奴がいなかったんだろう」
拓一も負けてはいない。
「小ざかしいことを言う」
「小ざかしくて悪かったねえ。しかし、復興しようとしてるのは、俺たち農民なんだ。あんたら市街のもんは、余計な口を出さんことだな。復興の熱意に、水を浴びせるようなことは言わんでほしい」
金一はまた拓一を盗み見た。落ちついた拓一の言いようが、金一には大きな驚きだったのである。自分の父親の言い分に対して、真っ向から、しかも声を荒らげずに切り返せるような者がいようとは、思ってもいなかったのだ。
「いや、水を浴びせにゃならん。水をな」
「どうしてかね」
「じゃ言おう。村長の奴はなあ、罹災者に生業資金を、転貸するという方針なんだ。これは、村会議員から聞いた話だから、まちがいない。いいかね、村で借り入れたものを、あんたら罹災者に貸す。こういうことになるとだな。もし、あんたら罹災者が、償還不能の場合は一体どうなる。村民全体の借金になるということじゃないか。つまりだ。そうなれば、俺たち有力者の税金が高くなるってことだ。第一、どう考えたって、こんな土地に米のなる日が来るわけはない。それがわかっていながら借金をする馬鹿がどこにあるかね」
「…………」
「こんな硫黄臭い土地を復興するなんて、はた迷惑な話よ。金をいくら注ぎこんだって、元通りになるはずがないだろうが。そんな金を使うくらいなら、どこかよその土地に移りゃあいいんだ、よその土地に。ええ?」
「…………」
「くどいようだがな、村の借金をあんたらが払えねきゃ、わしら市街の者が、尻ぬぐいしなきゃならん。莫大な尻ぬぐいだぜ。復興反対は、当然だろうが」
なるほどと耕作は思った。確かに、深城たち市街の者が、復興反対の運動をはじめるという気持ちはわかった。誰が見ても、復興の可能性のないこの土地に、莫大な金を注ぎこむことは、大きな危険を冒《おか》すことでもある。しかもそれが村債という形でまかなわれるとなれば、復興が不可能になった時には、村民全体で、その負債をつぐなわなければならない。それは、罹災しなかった者たちにとって、由々しい一大事かも知れなかった。だが、復興反対の理由が、単にそれだけにとどまらないことを耕作は感じた。これを機会に、吉田村長を失脚させようとする動きがあるように、耕作には感じられた。吉田村長が復興に真剣であればあるほど、深城たちは脅威を感ずるにちがいない。と言って、吉田村長は、決して復興を諦めることはないであろう。とすれば、村長をその座から引きずり落とさねばならないのかも知れない。耕作は、村長の澄んだ目を思い浮かべた。
「なんせわしらはな。只でさえ傷《いた》手《で》を受けているんだ。あんたら貯金のなかった者たちには、痛くもかゆくもなかったかも知れんが、糸屋銀行の閉鎖があったじゃないか。それだけで、わしらひどい目に遭っているんだ」
糸屋銀行は、あの春の爆発と同じ五月二十四日、突如、預金の支払い停止を宣言したのである。高額預金者にとっては、大爆発の泥流以上に、大きな事件であった。その事件で、道内各地に倒産した業者が続出したと聞いている。
深城はぐいとあごで十勝岳のほうをしゃくり、
「あれが見えんかい、あの火柱が。いつまたあの山が怒り出すか、わからんのだ。それでもあんたら百姓は、こんたら土地にしがみついて復興しようってのかい」
「…………」
「あんたらは何だろ。じさま、ばさまが死んで、見舞金は入る、家財はもらう。家を建てようと思えば、またぞろ金が入る。無償で金も借りられる。言ってみりゃあ、いいご身分っちゅうもんじゃないか」
「いいご身分? いいご身分とは何だ、いいご身分とは」
今までおとなしく応対していた拓一の声が変わった。
「いいご身分だろうが。お前ら、今まで百円なんてえ札束を、一度でも拝んだことがあったかね。その札束を手にすることができるんだ。いいご身分じゃねえか。なあ、お佐枝さん」
深城はニヤリと笑ってみせた。
「そうか。金さえ手に握りゃあ、いいご身分か。じゃ、あんたも、女房子供を泥流に流されて金をもらったほうが、幸せだったんだな」
呆れはてて、拓一は言った。深城はちょっと詰まったが、
「とにかくだな、復興だなんだと、寝《ね》呆《ぼ》けたことを言うのだけはやめてくれ。はた迷惑な話だ」
「いや、俺は復興する」
拓一は宣言するように言った。大きな声だった。
「お前、これほど言っても、わからねえのか! もし復興できなかったら、俺たちに迷惑をかけることになると言ってるんだ。一体、それをどう思ってるんだ!? 図々しい野郎だ」
「俺は復興すると言ってるんだ。復興したら米が稔《みの》る。米が稔りゃ、負債は返す。あんたらに迷惑をかけるとは決まってはいない」
「なにい? 迷惑をかけるとは限らん。何を世迷いごとを吐かしやがる。流木の始末だけでも、二年もかかるというじゃねえか。おまけにだ、三尺も五尺も泥流が積もってよ、硫黄と硫酸の土になっちまったんだ。そんな土地に稲が稔るなんて、花咲爺じゃあるめえし、馬鹿も休み休み言え」
「まあ、どういうことになるか、見ててもらうんだね」
「なあるほど。お前らはここにしがみついていりゃあ、手前らの流木をちょっと片づけても、日当が入る。稲なぞできようができまいが、食うには困らん。ほかの土地に移るより、ここにいるほうが、見舞金も多いしな」
深城がせせら笑った。
「父さん、そろそろ……」
金一が、深城の脇腹を突ついた。
「何がそろそろだ。お前は黙ってすっこんでろ。なあ、お佐枝さん。呆れた頑固な息子を持ったもんだなあ、お前さんも。あんたとそっくりだよ」
後妻に望んで得られなかった恨みと、まだ残っている未練とをないまぜた言葉だった。
「とにかく、無知な百姓共には困ったもんだ」
と、深城は立ち上がった。
「無知? 深城さん、何を根拠にして、そんなことを言うんです」
耕作が聞きとがめて言った。
「無知だから無知だと言ってるんだ。少し気の利いたもんなら、こんな土地はさっさと捨てて、新しく代替地をもらうわな。それを何だ。あんたら、ご丁寧にも人が捨てて行った土地にしがみついてだ。復興しますだと? ふん、笑わせやがる」
「深城さん、あんたねえ、農民をそんなに馬鹿にしてもいいのかねえ。あんた毎日、何を食べている。米を食べてるだろうが。その米は、農民が真心こめて作った米なんだ。あんたは、その労苦を尊いとも、何とも思わんのかね」
節子の父親であるとは思っても、耕作は言葉をおさえることができなかった。無知という言葉は、耕作には最も侮《ぶ》蔑《べつ》的な言葉にひびくのだ。それは、中学入試に一番で合格した耕作の誇りの故であったかも知れない。あるいは、合格しただけで、遂に一日も通学することのできなかった無念さが、そう言わせたのかも知れない。しかも深城の息子は今年専門学校を出、節子も女学校を出ている。そのことも耕作の頭にはあった。
「尊い? わしらはね、米を只でもらってるんじゃねえんだ。あんたら農家に、只で食わせてもらってるんじゃねえんだ。ちゃんと立派に働いて、自分の金を出して食っているんだ。何も農家の働きだけが、尊いわけでもなかろうが」
さも馬鹿馬鹿しそうに深城は笑った。と、拓一が言った。
「なるほど、あんたの持ってる金は、あんたが立派に働いた金か。俺はまた、あんたに買われたかわいそうな娘たちから、しぼりとっていた金だと思っていたよ。それにばくちのテラセンとな。それも働いた金か」
「なんだとお!? もう一ぺん言ってみろ!」
どすのきいた深城の声だった。
「何べんでも言ってやる! あんたは、額に汗をして働くってことを知ってるか。あんたのやってることは、俺は泥棒よりひどいと思うな。人間が人間を買う、それ以上の悪い商売がどこにある!」
拓一の声が怒りにふるえた。
「何い? 泥棒より悪い!?」
深城は土足を上がりがまちにかけた。拓一もその深城の前に仁王立ちになった。金一はいち早く外に出た。と、佐枝が静かに言った。
「おやめなさい、拓一。深城さんもお帰り下さい」
佐枝の声に、犯し難い威厳があった。
「覚えてろ、このお礼はたんまりしてやるからな」
捨てぜりふを残して、深城は去った。再び窓ガラスが揺れた。
雲間
耕作は、職員室の自分の机に向かって、ぼんやりと夕闇の空を眺めていた。今日は朝から雲が低い。
「また雪でも来そうだな」
職員室の真ん中にある大きな薪《まき》ストーブに股またあぶりをしていた益垣先生が、誰へともなく呟《つぶや》いた。もう大方の教師は帰って、残っているのは益垣先生と花井先生と、今年学校を卒業したばかりの、若い教師との四人だけである。
「そうね、寒いわねえ」
花井先生は、えんじの銘仙の襟《えり》元《もと》をかき合わせるようにした。
「さてと、今夜は湯豆腐で一杯とするか」
益垣先生はストーブの傍《そば》から足をおろし、弁当箱をぶらさげて出て行こうとしたが、
「おい、石村。何だか元気がないじゃないか。元気を出せよ。元気をな」
と、耕作の肩を叩いて出て行った。耕作は立ち上がって、益垣先生を見送った。
「ほんとに元気がないわよ。何かぼんやりしてるみたい」
すぐ前に坐っている花井先生が心配そうに言う。
「いや、別に……」
耕作は笑顔をつくった。
十一月十八日の今日、村の劇場三共座で、復興反対の村民大会がある。旭川からも政治家や僧侶が駆けつけて、弁士に立つという。今、上富良野の村では、幾日も前からこの村民大会の話題で持ちきりであった。
「石村先生、今夜、三共座にいらっしゃる?」
花井先生が尋ねた。
「いや、そのことでさっきから考えていたんだけど、行ってもつまらないような気がするし、行ってみたいような気もするし」
ふんぎり悪く耕作は答える。
「わたしは行くわよ」
「え? 花井先生が」
「ええ、行くわ。節子さんのお父さんが、話を聞きに来いって、うるさいのよ。旭川の名士の話なんて、めったに聞いたことがないから、行ってもいいと思うの」
「…………」
「節子さんも行くわよ」
意味ありげに花井先生は耕作の顔を見た。口もとに好意ある微笑が浮かんでいる。耕作は視線を外《そ》らした。不意に節子の顔を見たいような気がした。節子には、七月の引っ越しのあと、市街で二、三度顔を合わせただけである。会う度に、節子はその黒い目に、激しい感情を見せた。会えば、若い耕作の心は揺らぐ。
(だが、俺のようなものに、どうして)
耕作はうぬぼれることができない。節子が自分に心を惹《ひ》かれる理由が、わからないからだ。それが節子の感情を本気で受け入れることのできない最も大きな原因であるかも知れない。
(しかし、偽りの気持ちで、あんな目をすることができるだろうか)
そうも思って心が揺らぐのである。
「ね、先生、どうなさる?」
「…………」
「先生は復興賛成派でしょう。それはそれでいいと思うの。でも反対派の言い分も聞いておいていいと思うの」
「それはまあ、そうですが……」
「ね、先生、先生もいらっしゃいよ」
「はあ」
あいまいに答えたが、耕作の心は動いた。恐らく兄の拓一は、今日の村民大会には出ないだろう。復興反対という言葉は、耳にするのもいやなのだ。が、村々の電柱、商店の引き戸、民家の壁、山の立ち木など、あらゆる所に、辻《つじ》ビラが貼《は》られている。
急  告 !
十月二十六日の村会で、上富良野信用組合を救済するため、村が五万四千円という大金を借り入れることを既決しました。この借入金は、村で支払う責任を持ち、金は全部信用組合で使うのです。組合は爆発災後、大被害を受けているので、この金を使えば都合がよいが、信用組合のために村が大きな借金を背負うことは、実に不合理です。村を愛する人は、村将来のため借り入れに反対し、起債を止めさせるよう奮起して下さい。
上富良野起債反対同盟会
村民はこの辻ビラにむらがって、読んだ。ここに書かれてある信用組合に、被災者たちは加盟していたのである。
また新聞にも、同様の趣意の公告が、候《そうろう》文《ぶん》で載せられていた。
〈……今回村の責任を以《もつ》て多額の借入金を為なすが如きは決して村将来の幸福に無之《これなく》〉
とか、
〈茲《ここ》に私等愛村の余り右借入金に反対の意を表し策動致し居り候次第にて……〉
などという文面が、耕作の頭に残っている。
が、この趣意が額面どおりなのか、吉田村長の失脚を求めるのが本意なのか、村民の意見も真っ二つに分かれていた。そして村民大会と言っても、つまりは反対派の集会なのである。拓一が来たがる筈はない。
耕作としては、花井先生に言われるまでもなく、反対派の言い分を聞いてみたい気持ちもあった。そしてその本当の姿を確かめてみたいとも思っていた。それは、耕作自身が復興に望みを抱いていないからでもあった。だが、兄の拓一の心を思うと、その会に出ること自体、裏切りのようにも思われる。だから、出ようか、出るまいかと、案じていたのである。その耕作を、益垣先生や花井先生は元気がないと見たらしい。
それが、花井先生の、
「節子さんも行くわよ」
という一言によって、気持ちが定まったのである。そんな自分を耕作は恥ずかしいと思った。情けないような気もした。が、心のどこかで、それでいいではないかと肯《うべな》う気持ちもあった。
「混《こん》沌《とん》が青春なのだ。青春とは混沌なのだ」
何かの雑誌にそんなことが書かれてあったのをちらりと思い浮かべながら、
「花井先生が行くんなら、ぼくも行こうかな」
耕作は呟くように言った。
「まあうれしい。わたし本当は行きたくなかったのよ。本当の本当はね。だから、耕作先生が来てくだされば、何となくうれしいわ」
花井先生はそう言って帰って行った。
若い男の教師も帰った。耕作は一人、机に向かっていた。まだ五時半だ。大会の始まる七時までには時間がある。耕作はすっかり暗くなった窓を見た。窓ガラスの中に、電灯に照らされた職員室が写っている。行事予定表を書きこんだ黒板、少し赤味を帯びたタングステン線の電球、机、そして耕作自身が写っている。二、三枚、ものを歪《ゆが》めて写す窓ガラスもある。ガラスに凹凸があるのだ。水に写る影のようなその歪みがなければ、窓に写っている映像のほうが、なぜか実在感があった。
耕作自身、窓ガラスに写っている自分のほうが、より自分自身らしく思われる。鼻筋が通り、眉が濃い。
(あれが俺か)
耕作はふしぎな気がした。いまだかつて、自分の目で自分の顔形を見たことがない。自分がどのような表情で人と話し、どのような笑顔で笑うのか、それを知らない。
(ということは……)
耕作は虚を突かれたような気がした。耕作は、自分自身が自分を最も知っていると思ってきた。他の者に立ち優って、自分を知っていると思ってきた。だが一度として、耕作は自分自身に会ったことはないのだ。自分のうしろ姿も、歩く姿も、見たことはないのだ。客観視したことがないのだ。しかし、自分の周囲にいる者たちは、この自分をいつも見ている。益垣先生を思い浮かべる時、胸を張り、大きな外股で、のっしのっしと歩く姿が目に浮かぶが、益垣先生自身は、自分がそのような横柄な歩き方をしていることには気づかないにちがいない。教頭は下唇をなめる癖があり、花井先生はともすると頬を赤らめる。が、本人たちはそのことにどれほど気づいているかどうか。
表情とは微妙なものだ。傲《ごう》慢《まん》な思いを抱くと傲慢な顔になり、怒りを感ずると、怒りが現れる。自分のほうでは忘れたその表情が、一度見た者には忘れられないかも知れない。
となると、自分自身の心の動きは、他の者のほうが、もっと正確に捉《とら》えているかも知れない。耕作は、窓ガラスに写る自分をみつめた。そしてまた思った。自分をみつめる時の顔は、他の者をみつめる時の顔とはちがうと。鏡の中をのぞく時、その鏡の中の自分を嘲《ちよう》笑《しよう》したり、怒りを含んで眺める者は恐らくいまい。自分自身が知っている自分の顔は、自分が向かう時の鏡の中の顔だけなのだ。
(どれほども、自分を知らなかったのか)
耕作はそのことに気づかなかった自分が、ひどく愚かに思われた。
六時に学校を出、耕作は市街の食堂に入った。耕作がたまに市街で食べる時は、いつもこの食堂だ。豆腐屋で兼業している小さな食堂で、何食堂という名前もない。うす汚れた縄のれんを軒先に下げてあるばかりだが、それでも、上富良野に住んでいる者は、ここが食堂だと、みんな知っている。「おから食堂」という者もいる。うまいおからが、お菜《かず》としてよく出るからだ。しかし、「豆腐屋食堂」という者のほうが多い。何と呼ばれようと、豆腐屋のおかみは文句を言わない。格別はやるほどではないが、結構店はつづいている。
耕作は、食堂の戸をあける時、今その前を通って来た深雪楼をちょっとふり返った。あかあかと、階下にも二階にも電気が点いてい、障子に人の動く影が見えた。
食堂の戸をあけると、味噌汁や揚げものの匂いがした。
珍しく、五つあるテーブルが、五つともふさがっていた。男の客ばかりだった。
「いらっしゃい、耕作先生」
おかみが愛想よく声をかけ、
「勝つぁん、安さん。あんたら、食べたらさっさと出て行きなよ」
と、弟にでも言うような語調で、片隅の男たちに声をかけた。
「ああ、行くよ行くよ」
酒が入ったらしい男が立ち上がり、
「そったら追い出すようなこと言うんなら、二度と来ねど、おっかちゃん」
と、大仰におかみを睨《ね》めつけた。
「ああ、二度と来ないでけれ。今日はな。明日だら来てもいいども」
おかみは忙しく立ち働きながら、ぽんぽんと答える。
「わかった、わかった、ここのおっかちゃんにはかなわねえ。おっかちゃん、おやじにも今晩話聞きに来いって、言ってけれよな」
賑《にぎ》やかな笑い声を残して、男たちは店を出る。そのあとに、耕作は腰をおろす。と、つづいて他の客たちも、ちょうど飯を終えたのか、二組立ち上がった。どうやらどの男たちも、今夜の集会の手伝いに出るらしい。あとに、二人の男と耕作が店にいるばかりだ。
「耕作先生、何にするべ」
「そうだなあ。飯と、豆腐の粕《かす》汁《じる》がいい」
豆腐の粕汁は、いつか高等科に通っていた頃、この豆腐屋に手伝いに来て馳走になり、味をしめた。豆腐の味噌汁に、酒粕を落としただけだが、こんなうそ寒い夜には、体があたたまってうまいのだ。
耕作はしかし、そんな安い食事を注文することさえうしろめたい思いがした。母の佐枝と拓一は、麦飯を食べるのだ。白い飯を食べることに耕作は申しわけなさを感じた。
と、そこに、豆腐屋の主《あるじ》が、仕切り戸をあけて顔を出し、おかみのほうに向かって言った。
「俺も飯にするか」
「はいよ」
「熱い飯に生卵でもぶっかけてくれ」
聞いて耕作は、それもうまそうだと思って主の顔を見た。主は耕作に気づいて、
「おや耕作先生、珍しいことだね」
と、耕作の傍に腰をかけ、
「先生も今夜行くのけ?」
と、声をひそめた。どこに行くと言わなくても、通ずるほどに、人々の心は、村民集会に向けられている。
「まあねえ」
「まさか先生、復興に反対なわけでないべ」
「さあね」
耕作はあいまいに笑った。
「わしはな、隣の深城に、必ず今夜来いと言われてな、店ば早じまいして、行くっつうわけよ」
と、一段と声をひそめ、テーブルの上に顔を突き出し、
「行けばな、早じまいで残った豆腐も油あげも、全部買ってやると、深城が言ってな。なあに、買ってなどいらねえ。しかしなあ、店なんかしてれば、やっぱり立場が弱くてなあ。うん」
主は一人で言い、一人でうなずく。耕作もうなずきながら、今夜の集会は、駆り集められる者も少なくないことを感じた。
「ものの理屈が通るか通らんかは知らんが、俺は、深城ってえ奴の根性が嫌いでなあ」
と、顔をしかめて見せたが、すぐにその顔に笑いを浮かべ、
「深城っていやあ、節ちゃんなあ、あれはいい娘だよ。何でもあんたんとこば好きなんだと、深雪楼の女たちも言ってたよ。だども、あんたがうんと言わんのだそうだな。どうしてだね」
「……そんな。節子さんは別段、ぼくにどうってことないですよ」
耕作は面映ゆく打ち消した。そこへ、飯と豆腐の粕汁が運ばれ、色のいい奈良漬が小どんぶりに一杯盛られてきた。粕汁の匂いも鼻をくすぐる。主が粕汁を見て、
「お、粕汁だ。俺にも一つ」
と言い、
「耕作先生、うわさだけじゃないべ。節ちゃんは、わしにもいつか言ってたぞ」
と、耕作の顔を差しのぞく。
「小父さんにも?」
「小父さんにもって、お前」
と言ってからあわてて、
「いや、耕作先生。節ちゃんは、こんまい時からわしば好いとるからな。おやじば嫌って、その分だけわしになついとるからな。うん、わしはな、節ちゃんの死んだ母親ば、いつもほめて話してるからよ。節ちゃんの母親は、辛棒のいい女だった」
主の前にも、注文どおりの品が運ばれてきた。主はうす汚れたテーブルのふちに卵を打ちつけ、湯気を立てている飯の上に卵を落とした。電灯の光が、こんもりと盛り上がった黄身の上に写る。それに醤《しよう》油《ゆ》をかけて、掻《か》きまぜた。
「しかし、ぼくなんか、節子さんに釣り合いませんよ。第一、ぼくはまだ十九だし」
おやじは二口、三口飯を口の中にかきこみ、それをのみこんでから言った。
「そりゃあな、確かに耕作先生は若い。嫁をもらうのに、五、六年はあるべ。そんなこと節ちゃんも百も承知だ。だけどな、節ちゃんはこう言ってたことがあるぞ。耕作さんて、小さい時から好きだった。うちのお父っつぁんに石を投げつけた時から好きだった、てな。誰も彼も、うちのお父っつぁんの前に出れば、ぺこぺこする。それが子供心にもいやだったってな。そのおやじに石を投げつけた。それが利かん気の節ちゃんの気に入ったらしいのよ。あれは利発な子だからな、見るところをよう見とる」
耕作は黙って粕汁を一口飲んだ。そういえば、確かにそんなことを節子が言っていたことを、耕作は思い出した。
店の戸があいて、印《しるし》半《ばん》纒《てん》を着た男が二人入って来た。
「おう、一本つけてくれ」
男たちは傍《かたわ》らの椅子にどっかと坐った。
劇場の中は人の熱気でむんむんしている。ト《*》ンビを着た男、印半纒を着た男、綿入れのチャンチャンコを着た男、マントを着た男等々、男、男、男ばかりである。
耕作が劇場に入った時、まだ七時前だというのに、もう四、五百人も畳の上に坐り込んでいた。耕作は坐る場所もないので、右隅の板の上に立って、壁によりかかった。マントの中で腕を組み、耕作は男たちの中に知った顔を探した。というより、花井先生と節子の姿を求めた。が、ほとんど女の姿はない。前方に僅かに、茶色の角巻と、らくだ色の角巻姿が並んで見えるばかりだ。
がやがやと、男たちの話し合う声が、一つの騒音となって、既に殺気さえはらんでいる。後方の警官席には、警官が二人、あたりをへいげいしていた。
幕は既に上がっていた。何脚かの椅子が舞台の左手に置かれ、中央には演台が置かれてある。演台には「三共さん江」と染めぬいたテーブル掛けがかかっている。房のついた紫色のテーブル掛けだ。
「おいおい、あんな立派なテーブル掛けが、三共座にあったかな」
耕作の前に立っていた印半纒の男が、つれの男に言う。
「なかったべや。こないだ浪《なに》花《わ》節《ぶし》ば聞きに来たども、カーテンみたいな白いきれだったぞ」
すると、そのまた隣の男が言った。
「あれはな。何でも、今日の会に箔《はく》をつけるべって、誰かが寄贈したってえ話だぞ」
「誰かって、誰だ」
「会長かな」
「そりゃあ、深雪楼のおやじでねえか」
ここでも深城の名が出た。耕作は二カ月前、深城が夜遅く訪ねて来たことを思い出した。深城は、耕作の家に来る時は、決まって面倒な問題を持ち込んで来る。その最初の記憶は、耕作が節子の額に石を投げつけた時である。そして次が、節子が突然行方不明になった時である。それと、この間の復興反対の運動に来た時だ。
もっとも、母の佐枝が帰って来てから、二、三度立ち寄ったらしい話は、拓一から聞いている。が、その時のことは、耕作は知らない。
劇場の前のベルが、リーンリーンとかしましく嗚りつづけている。これ以上人を集めなくてもいい筈だと耕作が思った時、その音が止《や》んだ。
と、右手の袖から、黒い背広を着た男が、ひょこひょこと五、六歩進んで立ちどまり、
「ええー」
と、口をひらいた。太いだみ声だった。会衆が急に静かになった。
「ええー、お待たせいたしました」
と、ひとこと言った途端、
「あんまり待ってもいねえぞ!」
と、弥次が飛んだ。男は声のほうを見たが、咳《せき》払《ばら》いを一つして、
「これより、上富良野起債反対同盟会主催による、村民大会を開催いたしまする。はじめに根木田会長が、ご挨拶を申し上げまする」
男がまたひょこひょこと歩いて、袖に姿を消すと、恰《かつ》幅《ぷく》のいい中年の男が、羽《は》織《おり》袴《はかま》で壇上に姿を現した。一せいに拍手が起こった。根木田会長は、中央のテーブルに両手を置くと、会場を右から左に順に見渡した。おさえの利く顔だ。会衆に緊張の気がみなぎった。
「満場の諸君、本日は何かとご繁忙の折にもかかわらず、かくも多数ご参集下さいましたことは、まことに感激の至りであります」
よく透る声だ。
会長の挨拶が終わり、弁士や世話役たちが壇上の椅子にずらりと並ぶと、早速地元の弁士が演説をした。次は旭川からの弁士だ。白いハイカラーのワイシャツに、黒い背広を着た細身の男は、明《めい》晰《せき》な語調で話しはじめた。
「とにかく、結論から申し上げますると、被災者の方々には、まことにお気の毒でありまするが、かの泥流地帯は、百万の金をもってしても、復興は不可能なのであります。そのことは、恐らく吉田村長も既にご承知の筈と思うのでありまするが、いかなる胸算用があってか、巨万の金を注ぎこんで、復興を強行しようとするのであります。一体、吉田村長はいかなる所存なのでありましょう。私共には全く不可解至極なのであります」
逆三角の顔に、三角の口がよく動く。旭川から来たと言っても、特別新説を述べるわけではない。が、名の知れ渡った弁士が村債の危険を説けば、危機感が更に高まるという効果はあった。
「諸君! もし諸君が、枯れ木に水をやっている人間を見る時、いかなる思いを抱くでありましょう。狂人にちがいないと、誰しも思うでありましょう。また、死人に薬を飲ます医師もありませぬ。もしいたとしたら、これまた頭狂える者と言われるでありましょう。泥流地帯を復興するということは、実にこれに似た愚行狂態と言わなければならないのであります」
三角の口の上のちょびひげが、絶えず上下する。
「そうだ、そうだ!」
会場に拍手が起き、弁士の顔に、得意の微笑が浮かぶ。
次々と弁士は代わった。が、論旨は何いずれも大同小異であった。最後の弁士は、目尻の吊《つ》り上がった、臼のような顔をした男だった。
「諸君、村を愛するとは、村民を愛することなのだ。これを一軒の家にたとえるなら、返す当てもない道楽息子のため、父親が莫大な借金を背負いこみ、それを他の息子たちに支払わせるようなものだ。本当に子供が可愛いと思うならばだ、たった一人の子供のために、他の子供たちを窮地におとしいれることなど、断じてする筈があるまい」
「そのとおり!」
合いの手が入る。話が進む。みんなうなずきながら聞いている。
だが耕作には、この演説にもうなずけなかった。吉田村長への露骨な中傷は論外として、確かに説得力を持つ立派な弁士もいた。耕作自身、復興に対しては疑いを持っている。持ってはいるが、どの演説にも深い共感を持てないのだ。結局は、どの弁士たちも、真に被災者の立場に立っていないと耕作は思った。言ってみれば、損はしたくないという結論が先に立っているのだ。
会は次第に終わりに近づきつつあった。耕作はもどかしくなっていた。いや白じらしい思いになっていた。
そんな時だった。かすかな化粧品の匂いがして、耕作は思わずあたりを見た。と、すぐうしろに、思いがけなく節子の白い顔があった。その横に花井先生がいた。耕作は狼《ろう》狽《ばい》して、すぐに弁士のほうを向いた。が、弁士の声が不意に遠くなった。
「こんな所にいらしたのね」
花井先生が、そっと耕作にささやいた。耕作は不器用にうなずいた。
「探したのよ。来ていらっしゃらないのかと思って、帰るところだったの」
花井先生はそう言い、節子を少し前に押しやるようにした。耕作は少し体をそらした。節子の息づかいが、耕作の耳たぶにかかった。あたたかい、やさしい息吹だった。
耕作と節子の間は、紙一枚入るか入らぬかの隙間しかなかった。耕作は息をとめた。息をすると、自分の体が節子にふれるような気がした。耕作はマントを体にまきつけるようにし、視線を弁士のほうに向けたが、全神経は節子の息づかいに注がれていた。
大きな拍手が起きた。はっと我に返ると、最後の弁士の話が終わったところだった。耕作はがっかりした。もっと長く演説がつづけばよいと思った。最初に出て来た司会者が、再びひょこひょこと壇上の片隅に姿を現した。そして壇上の弁士をはじめ世話役たちに深々と一礼し、次に会衆に向かって頭を下げた。壇上には深城の姿もあった。
「以上をもちまして、諸先生がたの高《こう》邁《まい》なるご高説は終わりましたが、ご質問やご意見がございますれば、ご遠慮なくご開陳のほど、おねがいいたしまする」
司会者の言葉が終わるや否や、
「おう」
と、声を上げた男がいた。二重廻しを着たオールバックの男である。男は立ち上がると、実に流《りゆう》暢《ちよう》に弁士たちの話に同意した。そして、自分も愛村の精神をもって、より一層の協力をしたいと述べ、ゆっくりと腰をおろした。いかにもさくらのような印象があった。同じような意見を、三、四人の男が次々に立って述べた。
耕作は帰ろうと思ったが、傍らに節子が立っているので、帰るのが惜しい気がした。節子の手に触れたいような思いに、耕作は耐えていた。二人の間にある僅かな隙は、依然としてそのままだった。花井先生はその二人をちらちらと見ながら話を聞いている。節子はうつむいたままだ。耕作は思わず大きく吐息を洩らした。と、耕作のマントの中の腕が、節子の腕にふれた。びくりとして耕作は、更に壁に身をすり寄せた。
「ほかにございませぬか」
司会者の声がした。その時、節子の手が明らかに耕作の背にふれた。耕作は体に電流が走ったかのような感じがした。耕作は再び深い吐息をついた。甘い陶酔感があった。
「では、ご意見もござりませぬようでありまするから……」
司会者が言った時、前方にぬっと立ち上がった作業衣の男がいた。
「どうぞ」
司会者はにこやかに促した。が、男はじっと突っ立ったまま、何も言わない。
「どうぞ」
再び司会者が言った時、はじめて男の声がした。
「ぼくは、あんたがたと少し意見がちがう」
耕作ははっとした。拓一の声だった。
途端に場内がざわめいた。拓一はざわめく会衆のほうに少し体をねじり、更に反対側に体をねじった。
「ぼくは、命をかけて復興する……」
拓一が言いかけるや、怒号が飛んだ。
「何だとおうっ!」
「阿呆っ!」
「すっこんでろ!」
耕作の胸はたちまち動《どう》悸《き》した。拓一はぐいっとふり返って、会衆に向かった。その拓一の気《き》魄《はく》に会衆が少し静まった。
「そうだ、ぼくは阿呆だ。だが阿呆の話も少しは聞いてくれ。長い話はしない。ぼくの家は、日進の沢にあった。そして、何もかも流された。その瞬間まで、働きに働いていた祖父も祖母も、そしてかわいい妹も、みんな流された」
拓一の声には深い悲しみがあった。聴衆はさすがに静まり返った。拓一は涙でもこらえるように、ぐっと天井を仰いだが、
「ぼくは、自分の家や、祖父母や妹が、あの泥流にのみこまれるのを、山の上からこの目で見た。馬も畠《はたけ》も、一瞬にのまれてしまう姿をぼくは見た。そしてぼくは、その命を救おうと、泥流の中に飛びこんだ。だが、ぼくは、祖父母や妹を助けることができず、自分自身、一日気を失って眠っていた」
声を励まして拓一はつづけた。
「三十年前、一本一本の木を伐《き》り倒し、あの土地を肥《ひ》沃《よく》な畠に変えた祖父母たち、その苦労を思えば、ぼくは、復興せずにはいられないんだ!」
耕作は、傍らにいる節子を忘れた。復興反対者の大会に来て、堂々と意見を述べる兄拓一の姿に、耕作は身のふるえるような感動を覚えた。
と、その時司会者が言った。
「何分、時間も迫って参りましたので、お説はまた伺うといたしまして……」
拓一は、くるりと会衆に背を向け、司会者に目を向けた。
「いや、ひとことだけ言わせてもらう」
「しかし、時間も迫っておりますれば……」
「若僧ひっこめ!」
片隅から、誰かが叫んだ。と、うしろから、
「聞こうじゃないか!」
という声が飛んだ。
「場ちがいだあっ!」
誰かがまた叫ぶ。耕作はいても立ってもいられぬ思いだ。
「司会者ひっこめー!」
「若僧ひっこめー!」
必ずしも、全員復興反対の者ばかりではない。たちまち場内は騒然となった。あれを言いこれを叫び、収拾がつかない。その怒号の中に、拓一は仁王立ちに立って微動だにしない。
先ほど、一番筋の通る話をした壇上の弁士が、つと立ち上がり、司会者を手招きし、何か耳にささやいた。と、聴衆が少し静かになった。司会者は口をひらき、
「では、なるべく短めにお話し下さい」
と、迷惑そうに拓一を促した。拓一は悪びれずに話をつづけた。
「ぼくは、命をかけても復興する。一応の科学的な調査も進んでいることだから、ぼくはこれを暴論だとは思わない。先ほど弁士の中に、枯れ木に水をやる馬鹿はいないと言った人がいる。ぼくは断じて、あの土は枯れ木ではないと信じている」
「枯れ木だぞおっ!」
またやじが飛ぶ。
「枯れ木に花も咲くからなあっ!」
誰かが答える。
「先ほど弁士の中に、巨万の金を注ぎこんで復興するのは無駄だと言った人があった。そして、こんなところに金をかけるのは、日本の国の大損失だとも言った。しかし、ぼくは言う。再び土が息を吹き返すならば、それは日本の大きな利益なのだと。一度息を吹き返した土は、十年二十年、いや百年千年の後までも、米を稔《みの》らせていくにちがいない。長い目で見るなら、今かけた金は、決して国の損失とはならない。ましてや、借りた金はぼくたち農民が返すと言っているのだ。もっと長い目で見てはもらえないものだろうか」
「復興できなかったらどうするーっ!」
「口のうめえ野郎だ!」
「手前たちの尻ぬぐいはごめんだあっ!」
容赦のないやじが飛ぶ。
「万一復興に失敗したら、その損害を蒙《こうむ》るのは、ぼくたち農民なのだ。生半可な覚悟でやろうとしてるのではない。最後に言う。ぼくは吉田村長を信ずる。あの人は立派な人だ。誰かが言ったような、不正な事実は絶対にない。もしあったら、ぼくは首をやる」
言うなり、拓一はその場に坐りこんだ。
「そんな若僧の首なんかいらねえーっ!」
「もらいてえのは、吉田村長の首だあっ!」
叫ぶ会衆を司会者は両手でおさえる身振りをし、
「これをもちまして、今日の村民大会を終わらせていただきます」
と、閉会を宣言した。
人々はざわざわと立ち上がった。
ややしばらく耕作は壁によりかかっていたが、いつしか人波に押されていた。押されながら耕作は、泣けて泣けて仕方がなかった。復興に賛成する農家は、ほとんどこの会には出ていない。その中で、拓一は、大胆率直に自分の意見を披《ひ》瀝《れき》した。その勇気と真実な生き方が、耕作の胸を打ったのだ。
(兄《あん》ちゃん、ごめんな)
弟の自分は、兄の決意を、半分迷惑に思い、いつまでつづくかという思いさえあった。が、命がけで復興するという拓一の言葉に嘘はないことを、今夜の拓一の姿に、耕作は思い知らされた。
木戸口で下足を待つ会衆たちが、口々に何か話し合っていた。
「ああいうのがいるから困る」
という声が右で聞こえたかと思えば、片方では、
「なかなか、気骨のある若えもんだ。今時の若えもんにしては珍しいぞ」
「全くだ。少し考えなおさんきゃなあ。俺も」
などという声も聞こえる。
耕作は暗い外に出た。自分の足がどちらに向いているかもわからず、耕作は道を歩いて行く。頬に風が寒いことも、街灯の光も、葉を落としたナナカマドの実の赤いことも気づかない。しばらく行くと、
「石村さん」
不意に節子の声がした。いや不意ではなかったのだ。節子はずっと、耕作のうしろについて来ていたのだ。おどろいてふり返った耕作は、赤い角巻を着た節子を見た。節子の目も泣いていた。
「石村さん。あなたがた兄弟って、ほんとうにすばらしいわね。ほんとうに」
節子の声がふるえた。すばらしいのは兄だけだと思いながら、耕作には答える言葉がなかった。
「貫一お宮だ」
「ほんとだ、お宮と貫一だ」
三、四人の男が、並んで歩いている耕作と節子をのぞきこむようにして、ひやかした。耕作は、はっとして節子を離れた。それを見て、また男たちがどっと笑った。男と女が肩を並べて歩くことは、滅多にない。夫婦であっても、十五、六歩は離れて歩く。耕作はついと暗い路地に入った。まだ、演説会から帰る男たちが、何人か来る気配だ。幸い街灯が所々にしか点《つ》いていないので、二人の姿を見過ごす者が多かったが、それと知られて絡まれては、あとが面倒だ。
暗い路地に入った耕作のあとに、節子がついて来た。もう十時に近く、窓から洩れる灯影も乏しい。節子の足音を、耕作は立ちどまって待った。傍らに井戸がある。釣《つる》瓶《べ》が暗い空に、影絵のように黒い。雲の切れ間に、ちらりと半月がのぞいて、すぐに隠れた。節子が追いついて、耕作を見上げた。耕作も節子を見た。自分の後について来た節子が、いとしく思われた。が、耕作は歩き出した。
「石村さん、お母さんが帰って来られて、ほんとによかったわねえ」
節子が低い声で言った。
「ええ、まあ」
あいまいに耕作は答えた。が、自分は果たして本当によかったと思っているかどうかと、顧みる思いであった。
「拓一さんもね、お母さんが帰っていらしたから、あんなに勇気が湧《わ》いたと思うのよ」
節子の言葉に、耕作はちょっと驚いた。今の今まで、耕作はそのように考えたことはなかった。言われてみれば、なるほどそうかも知れない。もし自分と二人だけなら、あれだけの不動の信念を拓一は持ったか、どうか。
「お母さんって、大切よねえ。石村さん、お母さんと離れていて、そう思わなかった?」
「ええ、ぼくも、いつも帰ってほしいと思っていたけれど……」
耕作は言葉少なに答えた。確かに、離れ住む母の帰る日を思って、どんなに生きることに励みを持ったことか。その待っていた母は確かに帰って来た。が、思ったほどの満足がないことを、耕作は説明のしようがなかった。
「わかるわ、わたし。そのお母さんを待っていた時の気持ち。わたし、もし死んだ母が帰ってくれるなら、ほんとうにどんなことでもするわ。母に喜んでもらえる人間になるわ」
そうだ。この節子には、生みの母がいなかった。耕作は改めてそう思いながら、裏通りに出た。裏通りには、もう人影もない。どこかで犬の遠吠えがした。
「節子さんは、お母さんに早く死なれたんですねえ」
思いの深い声だった。
「そうよ。でも、そのことがわたしの一番の不幸ではないわ。だってあとの母が、とてもいい人だもの。わたし、去年、縁談を嫌って飛び出したでしょう? でも結局帰ってきたのは、むろん石村さんのこともあるけど、母の立場も思って帰ってきたの」
「なるほど、そうだったんですか」
「生《な》なさぬ仲の娘に家を出られては、母の立場はないわけよね。わたしの実の母だって、あれだけやさしいかどうか、わからないほどやさしい母なんだもの。ほんとうは母のことでは、不満は言っちゃいけないの。わたしのほんとうの不幸はね……」
「ほんとうの不幸?」
耕作は足をとめた。立ちどまると足もとが寒い。二人はすぐに歩き出した。十一月に入って、降っては消え、降っては消えていた雪が、二、三日前に少し積もり、そしてまた消えた。が、家蔭の雪が、ところどころにまだ残っている。
「ええ、ほんとうの不幸は、わたしにとって、父なのよ」
「…………」
「母の死んだことではないの。あの父の娘に生まれたことなの。これはもう、どうしようもない不幸だわ」
耕作は答えようがなかった。
「こんなこと言っても、石村さんにはわかってもらえないかも知れないわね。わたしね、小学校の六年の時、父が嫌いで自殺しようと思ったことがあるのよ」
耕作はどきりとした。
「小さい時から、嫌いだったの。きっと、わたしの母も、父を嫌いだったような気がするの」
耕作は、節子の母を想像した。節子は父の深城に似たところがひとつもない。節子の母は、節子と同じく、美しく激しい女だったのかも知れない。
「みんな、わたしの母は心臓が弱くて死んだと思ってるの。でも、わたし、母は、父に殺されたと思うのよ」
「殺された?」
柳の枯れ葉がしだれている傍らで、耕作は節子を見た。
「そうよ、殺されたも同然よ。それはね、この頃思うことなの。あんな父とひとつ屋根の下にいたら、身も心も弱ってしまうわ。もともと丈夫じゃなかった母だから、なおのこと応えたと思うのよ」
耕作は、自分が節子という人間を、どれほども知らなかったような気がした。
「わたし……あなたが、父に石を投げつけた時のことを、憶《おぼ》えているわ。あの時わたしは四年生になっていたわ。だからわたし、はっきり憶えているの」
耕作も、あの時のことは、決して忘れてはいない。
「石村さん、憶えていて?」
「むろん憶えてます。ぼくが、人に石を投げつけたのは、後にも先にも、あの時一度っきりですからね」
「ね、石村さん、わたしの嫌いな父に、あなたが石を投げつけたのよ。そのことが子供心に、忘れられなかったわ」
「…………」
「どんなにいやな父でも、やっぱりわたしにとっては父よ。だから、ほんとうは腹が立つはずなの。それなのにわたし、心の中で快《かい》哉《さい》を叫んでいたような気がするの」
「…………」
「石はわたしにあたったのよね。その傷跡が、何日か痛んだわ。でもわたし、あなたを恨むことはできなかったわ。父に向かって石を投げつけたあなたが、何だか偉いような気がしたの。そりゃあ憎らしいような気持ちもあったわよ」
耕作は答えようがない。若い女とたった二人で、夜道を歩いた経験は、耕作にはなかった。耕作は少し心を咎《とが》められるような、しかしかつて覚えたことのない甘い感情に浸っていた。
「その石村さんがね、旭川中学に一番で合格したといううわさを聞いた時、わたしの心はとてもたかぶったわ」
「…………」
「でもねえ、石村さん。そのあなたが中学進学を諦《あきら》めて、高等科に通うと知った時、わたし泣いたのよ」
「え!? 泣いた?」
「泣いたわよ。そんなかわいそうなことがあるのかと思って、わたし一晩中泣いたわ。眠れなかったわ。うちの兄なんか、父の金で専門学校まで行ったけど。でも石村さんは……」
節子の声が、うるんでいた。
耕作には思いもよらぬことであった。姉の富の結婚のために、進学を諦めたあの辛さは、耕作にとって、一生忘れ得ない事件であった。だが、その自分のことを思って、一晩泣いてくれた人がいた。それがこの節子なのだ。
だが、その節子を、耕作は理解してはいなかった。顔こそ美しいが、結局はあの深城の娘ではないかという思いが先に立っていた。だから、節子ほどの美しい娘が、自分に本気で好意を寄せているなどとは、耕作には信じられなかったのだ。
耕作には節子がわからなかった。節子の本当の姿が見えなかった。節子を深城と切り離して考えたことはなかった。節子の好意をしばしば感じはしても、女学校出の美しい娘が、貧しい農家の次男坊をからかっているのではないか、と疑うこともあった。
その節子に縁談が起きた。そして節子は家出をした。家を出る前、節子は耕作を学校に訪ねて来、旭川の医者との縁談があると告げた。耕作はその時、
「それはよかった」
と言ってしまった。節子は、
「まあ! わたしがお嫁に行くことが、石村さんにはいいことなの」
と驚いた。そして耕作に言った。
「石村さん、正直に言って。あなたはわたしがお嫁に行こうと行くまいと、そんなことどうでもいいと思うの?」
耕作は答えられなかった。
「わたし、ほんとうのことを言うわ。わたしはどこにもお嫁に行きたくないの。医者であろうが金持ちであろうが、そんなことどうでもいいわ」
あの時節子はそう言った。
「どうしてですか。どうしてお嫁に行くのがいやなんですか」
尋ねる耕作に、
「まあ! わからないの、石村さん」
節子は呆《あき》れた。
今、その時のことを、耕作はまざまざと思い出す。
「わからないなあ」
頭をかしげる耕作に、
「あのね、わたしには好きな人がいるの。だからどこにも行きたくないの」
節子はそうも言ったのだ。
「ああそうですか。好きな人がいるんなら……そこに行ったらどうですか」
言った瞬間、節子の目に涙が盛り上がった。
「まあ! 石村さんったら」
節子はそう言い、更に叫ぶように言ったのだ。
「わたしが好きなのは……石村さん、あなたなのよ」
あの時の節子の真実が、今こそ耕作に、はっきりとわかった。
あの言葉は、当時耕作の胸に焼《やき》鏝《ごて》を押しつけられたように残っていた。そして、耕作自身、あの言葉を思っては節子をいとしいと思ったものだった。だが、節子が東京に去ってしまうと、所《しよ》詮《せん》自分と同じ世界に住む人間ではないと思うようになっていった。
というより、心のどこかで、やはり自分は節子を信じていなかったような気がする。
(どうせ深城の娘だ)
という、根強い見方がやはり自分にはあったと耕作は思う。そして、なぜか耕作の胸には、福子の面影が思いがけない時に、ひょいひょいと浮かんでいたのだ。
耕作にはわからない。本当に自分が心惹かれているのは、福子なのか、節子なのか。兄の拓一が福子を想っている。拓一が福子と結婚することを、耕作も望んでいる。それには嘘がないのだ。
それなのに、その福子がなぜ、ふっと自分の胸に浮かぶのだろう。拓一のものと決めこんでいるために、封じこんだ福子への自分の感情が、思いがけない時に出てくるのではないか。
(やっぱり、福子は兄ちゃんのものだ)
耕作は今あらたにそう思った。
自分が今、受けとめねばならないのは、節子の真実であった。進学できない自分のために、人知れず泣いてくれたという真実が、耕作の胸をゆさぶったのだ。そしてこの真実な節子に対して、自分は何をもって報いてきたのだろうと、耕作は恥ずかしかった。
(所詮深城の娘ではないか)
という思いの外には出ることのできなかった自分が恥ずかしかったのだ。
雲間が次第にひろがって、半月が淡く二人を照らした。二人の影も地上に淡い。
二人はしばらくひっそりと歩いた。耕作は何か言わなければならないと思った。が、どんな言葉を出すべきか、耕作にはわからなかった。素枯れた小菊が、産婆の家の丸い門灯の下に、ひと塊になって傾いている。夜汽車の過ぎて行く音が、家並みの向こうに聞こえた。
「節子さん」
「なあに」
節子は足をとめた。
「ぼくは、馬鹿な奴だ。今つくづくとそう思う」
「あら、あなたは馬鹿じゃないわ。立派な人よ」
「いや、馬鹿です。ぼくには、節子さんの真実が、わからなかった。ほんとうに申し訳ないことをしたと思う」
「じゃ、わかってくださったというの」
耕作を見上げる節子の目が、きらきらと光った。
「今ごろわかるなんて、恥ずかしい。ぼくは……」
「いいのよ。わかってくだされば、それでいいのよ。わたしが深雪楼の娘だということで、今までどれだけ人から誤解されてきたか、わからないわ。まるでわたしには、何を言う資格も、何をする資格もないように言うお友達だって、たくさんいるわ。わたし、もうそんなことに馴れているの」
「ほんとうに悪かった」
耕作はうなだれた。
「うれしいわ、わたし。わたしねえ、石村さんにだけは、誤解されたくなかったの。わたしの気持ちが、そのままほんとうにわかってほしかったの。花井さんの澄ちゃんや、豆腐屋の小父さんがわたしをわかってくれるように、わかってほしかったの。うれしいわ……わたし……」
耕作は黙って先に立った。節子は、二、三歩あとから従《つ》いて来る。その節子が、無性にいとしく思われた。
(このひとも、一人の不幸な娘なのだ)
しみじみと耕作はそう思った。それは、幼い時に父に死なれ、母と別れて暮らし、その上、泥流に祖父母と姉妹を一時に奪われた自分の不幸とはまたちがった、もっとやり切れない不幸のような気がした。
今、耕作は、自分とこの節子の不幸の質が違っていることに気づいたのだ。その節子に対して、今まで本気で対さなかった自分が、ひどく冷酷な人間に思われた。
人一人通らぬ裏通りである。耕作は節子を抱きよせたいような気がした。が、今の今まで、本当の節子を知らなかった自分に、節子を抱きよせる資格がないような気がした。
「寒くない? 節子さん」
「ううん、ちっとも」
首を横にふる節子が、可《か》憐《れん》に思われた。今まで節子が、可憐に思われたことなど、なかったような気がする。節子の激しいまなざしに、いつも見据えられているような圧迫を覚えてきた。それが今夜は、そのまなざしにさえ、ひどく心を打たれるのだ。
そしてまた耕作は、自分が節子より年下であることを忘れた。この不幸な節子の真実を受け入れて、生きて行かねばならぬと、耕作は若者らしい熱情で思った。
「もう、十一時近いんじゃないのかなあ」
耕作が言うと、節子が、角巻から白い手を出して、腕時計を見た。
「暗いわ」
節子は言って、街灯の下に近づいた。十一時十五分前だった。耕作は、その節子の手を握りしめたいと思った。だが、思った瞬間に、耕作は節子を離れた。男が女を愛するならば、その体に軽々しく触れてはならないと思った。体よりも、心と心とが触れ合わなければならないのだ。
しばらくの間、二人はまた黙したまま歩いた。息苦しいような思いが、二人の間に流れた。
と、その時、節子が明るい声で言った。
「ね、海の匂いがしない?」
「え? 海の匂い?」
「そうよ。石村さんがそんなマントを着てると何だか、貫一みたい」
先ほど、男たちにからかわれたことを、節子は思い出したのか、冗談めかして言った。
「熱海の海岸か……」
耕作が呟くと、
「でもね、石村さん。わたしはお宮じゃないわ。わたし、医者との縁談を嫌って、逃げ出したんだもの」
耕作は大きくうなずいた。
トンビ 鳶合羽ともいう。形が鳶の羽に似た袖が広く長い外套のこと。
同志
復興反対の村民大会の日から三日経った。あの次の日から天気が次第によくなって、今朝は朝から春のような、暖かい日和だ。
雲一つない朝空に、耕作は作業衣をまといながら言った。
「よかったなあ兄《あん》ちゃん、天気がよくて」
「本当だ。馬たちがかわいそうだからなあ、天気が悪いと」
拓一はそう言って、日本手拭いを首に巻きすぐに外に出て行った。
「ほんとによかったわねえ」
ストーブに朝飯の釜《かま》をかけながら、佐枝も言う。みんな昨日から待っているのだ。今日はこの家に馬が来る日なのだ。馬は帯広の博《*ばく》労《ろう》が連れてくる。帯広の博労は、数珠つなぎにした二十頭からの馬を、年に幾度か、旭川まで連れて行く。そしてその道々、途中の農家に注文があれば、寄って商売をしていくのだ。
耕作は高等科の時から、この数珠つなぎになった馬の列を、幾度か見かけている。ある時は炎天の下を、ある時は小雨の中を、馬主と博労に連れられて、馬たちはこの村の道を過ぎて行った。その博労に、修平叔父が話をつけてくれて、馬を買うことにしたのだ。何もかも泥流に押し流されて以来の、初めての大きな買い物である。
(もし、雪が降ったら、どうしよう)
耕作はそう思っていた。帯広からここに来るには、狩《かり》勝《かち》峠《とうげ》を越えなければならない。ここ上富良野が雪の日は、狩勝峠は大雪になる。大雪の狩勝峠を越える馬を思うと、馬の好きな拓一や耕作は、さぞつらかろうと思うのだ。それが二、三日前からぐんと暖かくなって、今日は十一月も下旬とは思えぬ暖かさだ。
土間に降りた耕作は、台所でポンプを押した。ポンプの口には、金《かな》巾《きん》の袋がかけてある。金《かな》気《け》で袋も赤茶けている。水は桶《おけ》の中に入る。桶には砂や小石や木炭などが幾層にも重ねられ、この金気の水を漉《こ》す装置ができている。そして漉された水は、下の水《みず》瓶《がめ》にたまるようにしつらえられてある。いつの頃からか、このポンプを押す仕事が、耕作の日課になっていた。肺結核を患った佐枝には、ポンプを押すような仕事は、させてはならないからだ。
水瓶に水を満たすと、耕作は顔を洗って、拓一の働いている外に出た。さわやかな空気が胸一杯に流れこむ。拓一はもう、泥流の中に入って、流木を片づけている。あちこちに流木の山がある。
「根雪が遅くて助かるな、兄ちゃん」
「うん、助かる」
この間の村民大会の日以来、拓一は何となく口が重い。村民大会で発言した拓一は、おそらく新たな決意と責任を感じているにちがいない。そう思うから、耕作も話しかけづらい。
「どんな馬が来るかなあ、兄ちゃん」
耕作も、もうかなり馴れた手つきで、鳶《とび》口《ぐち》を使う。
「うん……」
拓一は、大きな流木に、満身の力をこめて、鳶口をかけているところだった。
耕作は村民大会の翌日から、いつもより早く起きるようになった。十一月半ばを過ぎた午前五時は、まだうす暗い。そのうす暗い中で、二人は働いた。だが今日は日曜日だ。日曜日だけは六時過ぎに起きることにしている。
黙々と働く拓一に、耕作も黙って働き出した。働きながら、村民大会の夜のことをまた思い浮かべる。
あの夜、耕作が節子と別れて家に帰ったのは、もう十二時も近かった。断りもなしに十二時近くまで帰宅しなかったのは、はじめてである。耕作はひどくうしろめたい思いで、足音をしのばせた。朝の早い拓一や佐枝は、とうに眠ったであろう。そう思って、戸をそっと開け、しのび足で土間に足を入れた。と、仕切りの板戸が開いて、佐枝が顔を出した。
「お帰り。ご苦労さま。寒かったでしょう」
いつもと変わらぬ語調であった。遅かったとも、今まで何をしていたかとも、佐枝は言わない。耕作は小さくなって、
「遅くなってしまって……」
と、頭を掻《か》いた。
卓袱台の上には、食事の用意がしてあった。
「さぞ、お腹《なか》がすいたでしょう」
佐枝は、かけてあった白い覆いを取った。カレイの煮付けが、飯茶碗とおわんの前に置かれてあった。耕作は豆腐屋の食堂で、豆腐の粕《かす》汁《じる》を食べたことが、ひどく悪いことをしたようで、心が咎めた。が、食べてきたことは言わずに、卓袱台に向かった。
「母さん、先に寝ていれば、よかったのに」
佐枝は石油ランプの下で、何か縫い物をしていたらしく、絣《かすり》の布地が針箱のそばに広げられてあった。
「眠られませんよ。耕作が帰ってこないのに」
味噌汁の鍋《なべ》をストーブにかけながら、佐枝は微笑した。耕作はたまらない気がした。自分が節子と肩を並べて、甘い思いにひたっている時、母は縫い物をしながら、この自分のことを気づかっていたにちがいない。
「母さん、今日みたいに遅い時は、先に寝ててもいいよ」
佐枝はうなずいておひつの蓋を取った。麦が四分ほど混じった飯だ。
「兄ちゃんは?」
「一時間ほど前に寝ましたよ」
「一時間ほど前に?」
「村民大会に行って来たらしいの」
「ふーん」
拓一は、母の佐枝に、何も言っていないのか。耕作は、拓一が村民大会で、堂々と発言したことを、佐枝に告げるべきか、どうかと迷った。だが、何も言わずに拓一が寝たのに、自分が言うことはないと、耕作は黙ってカレイを突ついた。拓一のことと節子のことが重なって、耕作は心も昂《たかぶ》っていた。それでも、夕食から六時間も過ぎていて、結構腹は空いていた。煮干しのダシだが、馬《ば》鈴《れい》薯《しよ》の味噌汁もうまかったし、カレイの煮付けもうまかった。耕作は何となく、久しぶりに母と対しているような気がした。
「母さん、もう寝ようよ」
食べ終わった耕作は少し母に甘えるような語調で言った。言ってから、それに気づいて、耕作は恥ずかしいような気がした。拓一から受けた感動と、節子と話し合った興奮が一つになって、耕作を素直にさせていたのかも知れない。その上、思いもかけず、十二時近くまでも自分を待っていてくれたことを知って、母に抱いていたこだわりのようなものが、少し融《と》けたのである。
耕作が佐枝にそう言った時、仕切りの襖《ふすま》が開いて、丹前姿の拓一が起きて来た。
「俺にもお茶。母さん」
拓一はそう言って、ストーブの傍《そば》にあぐらをかいた。耕作はその拓一が、眩《まぶ》しいような気がした。
(兄ちゃんも、眠られないんだな)
いつもなら、揺り動かしても起きないほどに眠りこんでいる時刻である。
「今帰ったのか、耕作」
咎める声ではなかった。
「うん。ちょっと……」
なぜか村民大会に行ったとは言いかねた。あの勇気ある行動を見たと言ったら、拓一のほうで、きまりの悪い思いをするのではないか。そう思うので、耕作は言えない。母から、拓一は村民大会に行ったらしいと聞いてはいても、
「兄ちゃん、村民大会に行っていたんだって」
などとは、白じらしくて言えない。だから耕作は黙っていた。拓一は、
「馬が来るのは二十一日だなあ。ちょうど日曜日だ。お前のいる時だな」
と、別の話をした。耕作は何となく、
(兄ちゃんはやっぱり、兄貴だなあ)
と思った。
その次の日から、耕作の起きるのが早くなったのだ。が、そのことについても、拓一は何も言わない。そんなことを次々と思い浮かべながら、耕作は流木を泥の上に引き寄せていた。
午《ひる》近くに、修平叔父がやってきた。田谷のおどをつれてやって来た。
「今日、馬が来るってなあ。ええ天気じゃないか」
修平叔父は、外で働いている二人に、大声で言った。拓一も耕作もふり返って、
「叔父さん、どうもご苦労さん」
と、声を揃《そろ》えた。
そして昼食を終えた頃、待っていた馬の列が窓越しに小さく見えた。一番先に見つけたのは拓一だった。
「あ、来た来た」
拓一が叫んで外へ飛び出し、みんなもつづいて外へ出た。遠く彼方《かなた》に馬の列が点々と見えた。その向こうに、獣の肌のような褐色の丘が見え、更にその向こうに、白雪の十勝岳が、蒼《あお》みを帯びた裾をひろげて、そびえていた。
玩具《おもちや》ほどに見えた馬の列が、次第に大きく見えてくる。耕作はふっと厩《うまや》をふり返った。馬のいない厩ほど淋しいものはない。耕作の生まれる前から、耕作の家の厩には馬がいた。泥流で流された青の子も、その母馬の青も死んだが、馬は幾代わりか、耕作の家の厩にいた。それだけに、ここに移って以来、馬のいないことがひどく淋しかった。馬のいななきも、馬が蹄《ひづめ》で羽目板を蹴《け》る音も聞こえない厩は淋しかった。
(馬が来る!)
不意に耕作は、湧《わ》き上がるような喜びを覚えた。馬は、家族の一員でもあるのだ。命あるものなのだ。
馬の列が一丁ほど向こうまで来た。馬に乗っている男が一人、先に立って歩いて来る男が一人見える。おそらくは乗っているのが博労で、歩いてくるのが馬主だろうと耕作は思った。
遂に馬が到着した。馬はぞろぞろと、耕作たちの家のあたりに群がった。
「やあ、どうも」
博労が馬から飛び下りて声をかけ、
「ご苦労さん、ご苦労さん」
修平叔父も声をかけた。歩いて来た馬主にも修平は機嫌よく、
「いよぉ、ご苦労さん」
と挨拶する。修平叔父は、馬を見る目が肥えている。だから時折、近在の者に頼まれて、馬の売買の場に立ち合うことがある。それで、村を通る博労や馬主とは、顔見知りなのだ。今度、拓一が馬を買うという話も、修平叔父が段取りをつけてくれたのだ。
「軍隊に持って行くだけあって、先ず骨格はいいな」
修平は、馬主へともなく、拓一へともなく言ってうなずく。
「兄ちゃん、どの馬にする?」
耕作は胸がわくわくした。しきりに首を上げ下げしている馬、蹄で土を蹴っている馬、肉づきのいい馬、体の引きしまった馬、青、栗毛、鹿《か》毛《げ》、葦《あし》毛《げ》様々だ。ペルシュロンもいれば、ノルマンもいる。
修平は両腕を組み、少し離れて、馬を順々に見ている。拓一と耕作は、すぐに馬の傍に行った。傍に行くと、馬の性質がわかるのだ。まばたきもせず、優しい目でじーっと人を見ている馬もあれば、耳を絶えずうしろへ引きつけて、人を警戒する馬もある。耕作と拓一は、一頭一頭の傍に行って、たてがみをなでたり、鼻面にふれたりする。中には少し目《め》脂《やに》のある馬もいる。これは食い過ぎている馬だ。毛の艶《つや》がよすぎる馬もいる。こんな馬は背中が盛り上がって、ひどく肉づきがいい。これもまた食い過ぎ気味の馬だ。
「がっくはいないだろうな」
修平が博労に言う。背の高い、眉の太い博労は、
「がっく?」
と目をむく。がっくとは、飼《かい》葉《ば》桶《おけ》や厩《ま》栓《せん》棒《ぼう》を齧《かじ》る癖のある馬のことだ。
「石村さん、がっくなんて、そんなお粗末なものはつれて来ねえよ。なあ親方」
幾分巻き舌で言う。
「ああ、がっくなんぞ、どしてどして」
馬主は大きく手を横にふる。
「ふーん。まさか骨軟はいねえだろうな」
修平はずけずけと言う。
「いやなことばかり言うぜ、石村さん」
「ま、骨軟はあごを見りゃあ、大体わかる。腰っ骨おさえりゃ痛がるしな」
修平が笑った。拓一と耕作は、修平や博労たちの話を横に、幾度も自分の目で見てまわった。明日から共に働く仲間なのだ。佐枝も拓一たちについて、馬を見ていく。その三人を、長い首を曲げて、いつまでも見ている馬もいる。
やがて、買う馬が決まった。青だった。骨格もよく、歩き方もいい。走らせてみても、素直な走り方をする。足に癖がない。修平叔父がためしに腰《よう》椎《つい》をおさえてみたが、骨軟症の心配もなかった。只少し、癇《かん》が強い。傍によると、さっと首を上げ、尾をふり上げる。
「こりゃ、なかなかの悍《かん》馬《ば》だどう。この青は」
田谷のおどが首をかしげた。修平も、
「そうだ、こいつは悍馬だ。やめとけ、拓一」
と言った。だが拓一は、
「大丈夫だよ、叔父さん。俺は、悍馬ぐらいの利かん馬でないと、物足りないんだ。何せ俺と一緒に復興する馬だからな。おとなしいへにゃへにゃの馬じゃ、困るんだよ、叔父さん」
「兄ちゃんの言うとおりだよ、叔父さん。兄ちゃんは馬使いの名人だ。どんなに利かん馬だって、今に兄ちゃんの思ったとおりに動くようになる」
耕作も言う。
「うーん。拓一なら、ま、そうだべ。俺は悍馬は好きだどもな」
修平は泥流の時以来、拓一に一目置いている。村民大会の模様も修平はいち早く田谷のおどから聞いていた。田谷のおども、
「んだんだ。拓ちゃんなら大丈夫だ。悍馬ぐらいがいいべ」
と、自説を引っこめた。それでも修平は、馬の歯まで調べて、一応は博労や馬主に睨《にら》みを利かせた。そして、家に入ると、修平は片隅から座布団を一枚持ってきて博労の前に置いた。博労と修平は、座布団の下に手を入れた。馬主がそれを横目で見ながら、きせるにタバコをつめた。座布団の下で、値段を交渉するのである。
修平の口が「へ」の字に曲がった。恐らく博労の示した数字が気に入らなかったのだろう。今度は博労が口を尖《とが》らした。修平叔父の値切りが過ぎたのだろう。しばらく座布団の下で二人は指を動かしていたが、やがて座布団から手を引いた。と、今度は、博労と馬主が座布団の下に手を突っこみ、今の結果を検討しはじめた。
馬主が首を横にふった。博労がむずかしい顔をした。座布団の下で、指と指がどんな話をしているのかと、耕作は興味ぶかく見守った。こんな慣習がいつからできたのか。そのことも興味ぶかい。
博労と馬主の話も終わった。博労は、座布団の上に正坐して、
「先ずはめでたい」
と言い、双方の思いどおりに値段が決まったと告げた。馬の値は四十円であった。農耕馬の最高級が五十五円で、安いのは十五円くらいからあった。拓一としては、奮発したことになる。
「お手を拝借」
博労が言い、みんなでシャンシャンシャンと手を打って、手じめが終わった。佐枝が、用意していた一升瓶《びん》を取り上げて、博労、馬主、田谷のおど、修平叔父の順に、コップに酒を注いでいく。この酒だけは、三重団体も許した酒だ。
そこに、ていと弥生の手を引いて吉田村長が顔を出した。
「よう、馬が決まったってねえ。それはめでたい」
村長はそう言い、
「拓一君、復興の同志がふえたねえ」
と、座に加わった。
「はい、村長さん。同志がふえました。利かない青ですよ」
拓一もうれしそうだ。ていや弥生が、楽しそうに、廊下でけんけん飛びをしている。耕作はふっと、死んだ祖父母や良子を思い出した。
耕作は、山の上の石に腰をおろして、あたりを見まわしていた。うらうらとした空だ。すぐ傍《かたわ》らに、熊笹がそよ風になびいている。その熊笹が、時折いっせいに動く。動く度にきらきらと光って、出刃庖丁のようだ。
熊笹の向こうに、子供たちの遊び声がしている。が、姿が見えない。耕作は立ち上がって、熊笹の向こうを見た。平らなグラウンドで、生徒たちが輪っぱまわしをして遊んでいる。一人一人太い針金の輪をころがして遊んでいるのだ。直径五十センチほどの輪だ。それを、先のほうをUの字に横に折り曲げた針金の柄で、押しころがしていくのだ。その針金の輪も日に光る。
(眩しいなあ)
耕作は目を細めた。光が山にあふれているようなのだ。走っている生徒たちの中に、権太がいた。権太が先頭を切って走っている。
「楽しいわねえ」
うしろで、不意にやさしい声がした。耕作はふり返ろうと思った。が、なぜかふり返ることができなかった。ふり返らなくても、今の声はわかったような気がした。
(福子だ!)
そう思った。と、
「楽しいわねえ」
また声がした。
(福子じゃない! 節子だ)
驚いて耕作がふり返った。と、そこに、思いがけなく良子が立っていた。傍らに市三郎が、鍬《くわ》をかついでニコニコしていた。
「なんだ!? 良子もじっちゃんも、生きていたのか」
耕作は夢中で、良子と祖父に飛びついた。確かに良子の体だ。市三郎の体だ。
「生きていた! 生きていた!」
狂喜した時、足もとに濁流の流れる音がした。ごうごうと轟《とどろ》く音だ。その濁流の中に、祖父と良子が流れている。
たった今そこにいた筈の祖父も良子も流れているのだ。
「じっちゃあーん! 良子ーっ!」
叫んだ時に、耕作は目がさめた。
(なんだ、夢か)
今まざまざと手に触れた良子と祖父の体の感触が、自分の手に残っているというのに、それは夢だったのだ。
遠くに汽車の汽笛がひびいた。今夢に見た泥流の音は、あの汽車の響きだったのかと、耕作は淋しい思いで、闇の中に目をあけた。
「じっちゃん」
「良子」
耕作は小さく呼んでみた。
耕作は滅多に夢を見ない。それなのに、あまりにも生ま生まとした夢を見た。もう半年も前に死んだ祖父母や、姉の富や、良子の顔が、次々と思い出される。傍らで、拓一の健康な寝息が規則正しく聞こえる。
(権太もいたな)
夢の中の権太は、五年生ぐらいの権太だった。その五年生ぐらいの権太をふしぎにも思わず、夢の中で耕作は、自分の生徒のように見ていた。耕作は、無性に権太が懐かしくなった。よく権太と一緒に、針金の輪っぱまわしをしながら、道を駆けっこしたものだ。途中で、その輪を倒すと負けになる。二人で、日進の沢を走ったことが、ついこの間のように思い出される。針金の輪が立てるシャラシャラという音が、涼しく耳に甦《よみがえ》る。
(権太も死んだか。惜しい奴だったなあ)
しみじみと耕作は思った。
あれは確か、高等一年の時だった。権太は母親が病気で、よく学校に遅れた。宿題もして行けなかった。母親に代わって、飯の仕度から、赤ん坊のおしめの仕度までしたのだ。そんな権太を、益垣先生は、理由も聞かずに叱りつけた。しかも、宿題をして来なかった罰として、権太一人に掃除当番をさせたことがあった。耕作がその権太の当番を手伝った。級長の若浜が、受け持ちの益垣先生に言いつけると言った。
「叱られてもいい」
耕作はその時、若浜にそう言ったが、当番を手伝ったあと、益垣先生に見つかるのがいやで、校庭を逃げるように走った。と、権太が聞いた。
「耕ちゃん、なんで走る」
「先生に見つかって、叱られるのがいやだからだ」
その時、確か権太はこう言った。
「耕ちゃん、そんなに叱られるのがいやなのか」
耕作はいやだと答えた。耕作はいつも人にほめられることに馴れていた。だから人に叱《しつ》責《せき》されることは、ひどく恥ずかしいことに思っていた。だがその時権太は言った。
「耕ちゃん。うちの父ちゃんがなあ、叱られても叱られなくても、やらなきゃならんことはやるもんだって、いつも言ってるよ」
あの言葉を、高等一年の耕作は、頭をなぐられる思いで聞いたものだ。権太は、たとい先生に叱られても、母の手伝いをおろそかにしてまで、学校に行くことはしないと言った。権太は、産後の肥立ちの悪い母親を手伝うほうが、より大事だと心得ていたのだ。
(権太が生きていたらなあ)
権太の暖かい目が思い出された。たまらなく会いたいと思った。生きていたら、権太もきっと復興に努力するだろうと思った。
目がさめた時から、のどがひりひりと乾いている。一晩中滅多に目をさましたことのない耕作は、夜中に水飲みに立ったことなどない。が、今耕作は、丹前を着てそっと床を脱け出した。
音を立てないように引き戸をあけ、隣の八畳間に足を入れた。畳がひんやりと足の裏に冷たい。この八畳には誰も寝ていない。次の居間の戸を、これまたそっとあけかけて、耕作ははっとした。石油ランプの下に、母の佐枝の姿が見えたからだ。佐枝は前かけで顔を覆って泣いていた。耕作は凝然と突っ立った。居間に入ることも、引き返すこともできない思いだった。
母の傍らには、縫い物がひろげられている。恐らく、今まで縫い物をしていたのだろう。その母が泣いていた。耕作が板戸の隙間からのぞいているとも知らず、佐枝は声を立てずに泣いていた。が、前かけで涙をぬぐうと、佐枝は手を組んで、頭を垂れた。かすかに口が動いている。祈っているのだ。祈りながらも、その頬を涙がこぼれ落ちる。
耕作は胸が詰まった。耕作は今まで、母がこのように泣く姿を見たことがなかった。そっと目頭を拭うことはあっても、このように嗚《お》咽《えつ》する姿を見たことはなかった。泣くことのない母を、耕作はひどく不満に思ってきた。
(母さんは、姉ちゃんや良子のために泣かないのか。じっちゃんやばっちゃんのために涙を流さないのか)
そう責めたい気持ちが、耕作にはあった。だが、恐らく佐枝は、拓一や耕作の眠ったあと、こうしていつも、一人涙にむせんでいたのではないか。耕作は、母の祈る横顔を、実にやさしいと思った。清らかだと思った。
(母さん!)
耕作は心の中で叫んでいた。
(母さん!)
今まで、母に対して持っていた不満が、跡形もなく消え去っていくような気がした。
(母さんはこういう人だったのだ)
耕作はしみじみと思う。佐枝はふだん、話題が富や良子のことになると、そっとその場を立って行った。また、自分から良子や富の話を切り出すこともなかった。それも耕作には不満だった。
だが、今、ようやく耕作はわかった。佐枝は、耕作や拓一の前で、泣くまいとして座を外したり、富や良子のことにふれまいとして、口を閉じていたりしたのだ。どうしてそんな母の心がわからなかったのか。耕作は手をついて詫《わ》びたい気持ちになった。
(母さん!)
耕作は突っ立ったまま、泣きたい思いだった。
長い祈りを終えた佐枝が、縫い物を片づけはじめた。耕作はその母の姿を、言いようもなく尊いものに思った。
(母さん!)
耕作はくり返し、心の中で母を呼んでいた。
根雪になってから、拓一の仕事が変わった。泥土はさすがにガチガチに凍り、その上に雪が七十センチも積もった。あちこちに流木の山があるとはいえ、雪に覆われた泥流地帯は、見たところ、いつもの冬景色だ。畦《あぜ》道《みち》も、田んぼも一様に埋めつくした雪原のようだ。が、この雪の下には畦はない。田んぼはない。流木の埋まった泥土が、限りもなくひろがっているだけなのだ。
根雪になったので、橇《そり》で流木を拾いに来る村民が増えた。運んで行って薪《まき》にするのだ。拓一の家でも、薪を軒よりも高く積み上げて、ストーブに燃やしている。青白い炎を放って燃える薪は、しかしすぐにストーブを傷めた。硫《い》黄《おう》や硫酸を含んでいるからだ。鉄板ストーブのあちこちが、すぐに腐《ふ》蝕《しよく》して穴があいてくる。それでも燃やす。ストーブの穴に動く炎を眺めながら、死んだ人たちの血や涙の滲《にじ》んだ薪だと思う。
拓一は今、青を厩《うまや》から引き出した。馬橇で市街に用事を足しに行くのだ。橇の梶《かじ》棒《ぼう》を馬につけ、用意を整えると、拓一は橇に飛び乗って、手綱を取った。途端に、青は待ちかねていたようにさっと走り出した。確かに悍馬だ。拓一は巧みに手綱をさばき、体を斜めに構えて、箱橇の中に立つ。
馬の鈴がリンリンと鳴る。橇が右に左に揺れる。降ったばかりの雪が、道の上に舞い上がる。雪降りだが粉雪ではない。あたたかい牡丹雪だ。雲がうすく明るい。遠く芦《あし》別《べつ》岳の尖《とが》った山《さん》稜《りよう》の上に、うす水色の空がのぞいている。
(いい馬だ)
拓一は満足だった。馬を買ってすぐ、拓一はこの馬を乗り馴らしたのだ。はじめ青は、拓一が近づいても、耕作が近よっても、耳をぴっと立てて、前《まえ》肢《あし》を足《あ》掻《が》いた。構わずにその背に乗ろうものなら、たちまち棒立ちになる。それでも、負けずに一鞭《むち》をくれると、青は矢庭に走り出す。そんな青の馬首を拓一はわざと深山峠に向けて走らせたものだ。長い峠を、青は風のように一気に走って過ぎた。
こんなことを幾度もしているうちに、青はすっかり拓一に馴れた。もともと馬の好きな拓一に、青も心服したようであった。それでも、手綱を取られるや否や、直ちに走り出す動きは、やはり悍馬のそれであった。
一里余り距《へだ》たった市街の家並みが、みるみる近づいてくる。拓一は手綱を引きつけて、青の足をゆるめた。雪原で遊んでいた子供たちが、
「乗せてえーっ」
と叫んで、拓一の馬橇のうしろに取りすがったからだ。が、子供たちは乗せてほしいのではない。橇につかまって滑りたいのだ。拓一も小さい時、よく馬橇につかまって、遊んだものだ。
「けがするなよ」
ふり返って拓一が機嫌よく言う。
一丁ほど行ったところで、市街のほうから馬が来た。
「ありがとう」
子供たちは声を揃えて叫び、馬橇から離れた。今度は市街のほうから来た馬橇につかまるつもりなのだ。
子供たちに会ったことが、拓一の心を更に楽しくさせた。
(いい馬だ)
再び拓一は、満足げにつぶやく。今、行き交わした馬より、青のほうが、力に満ちている。
馬は市街に入った。青や赤の角巻を着た女たちの姿がちらほらと目についた。もう十二月も半ばだというのに、市街もひっそりとしている。今年は十勝岳の爆発があった上に、糸屋銀行の倒産騒ぎがあった。街に活気のあろう筈がない。
拓一は青を呉服屋のそばに止め、電柱に手綱を巻きつけた。青はそこに繋《つな》がれると知ってか、拓一に鼻面をよせてきた。拓一はその鼻面をなで、橇の中から、燕《えん》麦《ばく》の入った叺《かます》を出して青の前においた。燕麦は、この上富良野の特産だ。七師団の軍馬の糧《りよう》秣《まつ》として納められている。
拓一はふと、そこに馬を繋ぐことに、ためらいを感じた。すぐそばに福子のいる深雪楼があるからだ。だが、佐枝に頼まれた仕立物を渡すには、ここに繋がなければならない。もともと、手の器用な佐枝は、以前にもこの呉服屋に頼まれて、仕立物をしていたことがある。それが、髪結いに頼まれて来て、また縁がつながった。
拓一は、木綿縞のふろしきに包まれた仕立物を持って、呉服屋に入った。客が二人ほど、店先に腰をかけて、ひろげられた紫の着物を眺めていた。目の柔和なおかみが、入ってきた拓一をちらりと見て、
「おや、ご苦労さん。ちょっと待ってて下さいよ」
と言って、すぐにまた客に向かった。
拓一は所在なく店の中を眺めた。模造紙に書いた値段表が、古びた壁に貼《は》ってある。
銘仙 一円六十銭―一円八十銭
友禅モス 十七銭―二十八銭
木綿縞 一円二十銭
染ガスリ 一円八十銭
角巻 二割引!
拓一には、高いのか安いのか、わからない。が、友禅モスは一尺の値段だろう。拓一はふっと良子を思った。良子は友禅モスを着たことがあったろうか。いつも木綿の着物ばかり着ていたような気がする。
もし良子が生きていたら、二十八銭の、飛び切り上等の友禅モスを買って行ってやりたいと思う。すると良子は、それが癖の顔を真っ赤にして、
「うれしいわあ」
と、胸に抱いて喜ぶにちがいない。そして、
「わちに似合う? わちに似合う?」
と、家の中を一人一人に聞いてまわるにちがいない。良子の短い生涯の間に、そんな喜びが一体幾度あったことだろう。数えるほどもなかったような気がする。拓一はつらい気持ちになった。
(母さんに何か買って行ってやろうか)
正月を過ぎたら、冬山造材に行く。青が来たから、馬を持って働けば、一日五円にはなるだろう。拓一は母のために、せめて銘仙を買ってやりたいと思った。
客が帰って、おかみが拓一に声をかけた。
「お待ち遠さんでした。すまんかったねえ」
拓一は預かってきたふろしき包みをそこに置いた。そして、代金をもらい、母のための銘仙を買って店を出た。ポケットの中には、帰りに買う雑穀代を別にしても、まだ八十銭ほどある。拓一は、おやきを買って行ってやろうかと思った。おやき屋は、呉服屋から五、六軒目の所にある。途中に文房具屋があった。そのガラス戸に、
「婦女界入荷
今月号二大特集
愛と性の諸問題
肺結核の最新療法」
と書いた紙が貼られ、その横に、
「苦楽 五十銭」
というビラも貼られている。拓一は、本を買いたいような気がしたが、本は吉田村長の家から借りてすまそうと思った。
だが行き過ぎてから、「愛と性の諸問題」という字が妙に目にちらついた。
おやき屋でおやきを買い、青の所に戻ってくると、青が喜んで頭を上げた。と、その時、
「これが、今度お前の買ったっちゅう馬か」
と言う声がした。深城だった。深城は、睨《ね》めつけるように拓一を見、
「大した馬だな。泥流さまさまだな」
と、金歯をむき出しにして笑った。
「泥流さまさま?」
拓一はきっとなった。
「そうだろうが。もし爆発でもなかったら、お前らに、こんないい馬が買えた筈はない。あんな広い家に住めた筈もない」
拓一は唇を噛《か》んだ。
「こないだは三共座で、生意気な口をききやがって」
深城は言いたいことを言った。
青は秣《まぐさ》の入った叺に、鼻面を突っこんで、また食いはじめた。その叺に手をかけたまま、拓一は黙って足もとを見つめた。三共座云《うん》々《ぬん》の深城の言葉が拓一には応えたのだ。「泥流さまさまだな」と言った言葉に、むらむらと燃え上がった怒りの炎が、この言葉でいきなり水をかけられた思いだった。三共座でのことを言われると、拓一は黙るより仕方がないのだ。それはあの三共座以来、復興賛成の人々から、拓一はほめられてばかりきた。
「拓ちゃん。あん時は俺も胸がスーッとしたよ。ざまぁみろってえ思いがしたなあ」
「これからも、ますます頑張ってくれよ。俺たちのためになあ」
「お前、大したたんか切ったっちゅうでねえか。みんな舌まいたって言ってるぞ」
誰も彼もが、拓一を英雄扱いにした。吉田村長もほめた。賛成派の村会議員もわざわざ訪ねて来た。
その度に拓一は、戸惑いを感じた。拓一は決して、人からの拍手喝《かつ》采《さい》を狙ったのではない。拓一は只、復興反対の演説を聞きに行ったまでだ。復興しようとする自分にとって、反対派の意見を聞いておくことも、大事だと思ったからだ。少しでも多くの意見を聞くことは大事だと今も思っている。はじめから、あの場で何か言ってやろうと思って出かけたのではない。
だが、あの村民大会に出て、弁士たちの話を聞き、その言い分に無批判に賛成している人々の姿を見ると、拓一は黙っていられなくなったのだ。
復興する者には復興する者の気持ちがある。考えがある。それをあたかも、村民すべてに損害を及ぼしてでも、押し通そうとしているかのように取られるのが、拓一にはたまらなかった。復興する者の真情も真っすぐに聞いてほしくなった。それで不意に、あの場で立ち上がったのだ。それを、
「お前一人で殴りこみに行ったんだってな。大した度胸だあ」
などと感心する者が出て来ては、拓一は困惑するだけであった。ひどく恥ずかしい気もしていたのだ。拓一はそんなつもりで、三共座に行ったわけではない。誰からも誤解されているような気がして、拓一はつらかった。
だから今、深城に三共座でのことを言われると、闘志が失われてしまったのだ。
「生意気な口をききやがって」
と深城は言ったが、拓一には三共座で生意気を言ったつもりはない。と言って、今深城と押し問答する気は更になかった。
拓一は黙って、ゴム長靴で、足もとの雪を踏み固めた。雪の上にこぼれた燕麦が黄色い。その燕麦のまじった雪を、拓一は踵《かかと》でぐいぐい踏みつける。
「俺たちが折角ひらいた村民大会によ、ケチをつけやがって。呆《あき》れたもんだよ、おめえも」
深城は深城で腹に据えかねていたらしく、ぐいと拓一に詰めよった。と、青が不意に、首を大きくふり上げて歯をむいた。あわてて深城が飛びすさり、
「何だこりゃあ! 悍馬でねえか」
と、憎々しげに馬を睨めつけた。
「とにかくな、俺たちはどんなことがあっても、復興には反対すっからな」
「…………」
「三重団体の者に言っておけ。吉田村長の奴も、只じゃおかねえつもりだとな」
「…………」
「こっちには弁護士もついている。告訴の用意もできてるんだ」
(告訴?)
雪を踏んでいた拓一の足がとまった。
「裁判に持ちこめば、こっちの勝ちだ。吉田の悪業は証拠が揃ってるんだからな」
深城は両の腰に手をおき、胸を張って心地よげに笑った。が、拓一はやはり黙っていた。ひとこと何か言えば、その言葉尻を深城は捉《とら》えてくるにちがいない。こんな街の中で、深城と言い争う気持ちはなかった。深城のうしろに、人が一人二人立ちどまった。深城の声が大きかったからだ。
拓一は深城を無視するように、青のたてがみをなで、
「行くぞ、青」
と、秣の入った叺に手をかけた。
「何だい、逃げる気か」
深城が凄《すご》んだ。拓一はそれにも答えず、叺を箱橇に入れた。また一人、深城のうしろに人が立った。
「おい! 石村の伜《せがれ》、何とか言えよ何とか」
拓一は深城を見た。が、言うべき言葉はない。
「何だその目は」
じっと自分を見つめている拓一の目を見て深城が更に絡んだ。拓一の目は澄んでいる。怒っている目ではない。が、憐《あわ》れむような目である。
「変な目つきをすんな。大体な、石村、おめえの家は、どいつもこいつも生意気だぞ。おめえのおんじも、おめえのおふくろも、死んだじじいもな」
深城はいらいらとして言い募る。拓一は電柱に巻いていた手綱をゆっくりとほどいた。母のことや死んだ祖父のことを言われると、拓一もきりきりと腹が立つ。その感情をおさえて、拓一はわざとゆっくり手綱を解く。
「とにかくだ、あとで吠え面をかくなよ、吠え面を。おめえらの田んぼには、一粒も米は実らせねえからな。勝手に復興すりゃいいさ」
「…………」
「こったら馬買ったところで……」
なおも居《い》丈《たけ》高《だか》になる深城を尻目に、拓一は馬橇に飛び乗り手綱を持った。青はさっと首を上げると、二、三度足掻いて馬首をめぐらせた。
「やい! 危ねえじゃねえか!」
深城が再び飛びすさった。
「ハハハ……」
事の成り行きを見ていた一人が笑った。
「何がおかしい!」
深城がふり返った。笑ったのは豆腐屋の主《あるじ》だった。
「いや、何ね」
豆腐屋の主はあわてて手をふった。
拓一の馬橇は、鈴の音をひびかせて、たちまち遠ざかって行った。その始終を少し離れた所で、えんじの角巻を着た節子がじっと見ていたことを、誰も知らなかった。
家が近づいて来た。青は気持ちよく走る。が、その手綱を取る拓一の心は重かった。深城に絡まれたからだけではない。深城たち一派の、ものの考え方の中に、只打算だけを感ずるからだ。人間は算《そろ》盤《ばん》をはじく時、血も涙もなくなるのではないかと拓一は思う。
だだっぴろい雪野の中に、農家が雪をかぶってぽつりぽつりと立っている。そしてその雪野のあちこちに、流木の小山ができている。拓一はその光景を見ながら、改めて熱い憤りが胸に噴き上げるのを感じた。
「大した馬だな。泥流さまさまだな」
深城の言葉が、耳の中に幾度もひびく。この雪野の下に、まだ死人の髪や着物が、泥にまみれて埋もれている筈だ。いやでも祖父母や良子のありし日の姿が目に浮かぶ。丘の上で、今まさに焼かれようとしていた祖父と良子の柩《ひつぎ》が目に浮かぶ。あの柩の中に、はまりこむようにして、祖父の肩をゆすって叫んだ日が、昨日のことのようだ。
「じっちゃん、すまんかった。助けられんですまんかった」
そう言って拓一は泣いた。
死に化粧をされた良子の顔も思い出す。死んではじめて、良子は化粧をしてもらった。後にも先にも、只一度きりの化粧だった。その良子に頬ずりした時の、氷のように冷たい感触が、拓一の胸を詰まらせる。
(あれが、泥流さまさまか)
深城のむき出しにした金歯を、憤りをもって、拓一は思い浮かべた。たくさんあった農家が、数えるほどしか残っていないこの泥流地帯。それが「泥流さまさま」か。拓一は、ひと鞭くれた。青は喜んで走る。白い雪道を走る。出かける時に降っていた雪はやんで、雪野原がちかちかと日に光る。鈴が鳴る。見る間に家は近づいてきた。
買って来た燕麦を納屋に入れ、人間の食う麦も納屋に納めた。深城に別れてから、組合で買って来たものだ。厩に青を入れ、橇の中から母への土産の反物と、おやきと、干し芋を抱えて、拓一は重い足どりで戸口に近づいた。
家の前は雪を掻いた跡があり、戸口の傍らには雪べらが立てかけてあった。拓一の造った雪べらだ。他の家のより少し大きい。
「ただいま」
拓一は暗い気持ちをふり切るように戸をあけた。明るい外から入って、一瞬、土間は真っ暗に見えた。拓一はちょっと立ちどまり、目を閉じた。と、仕切り戸があいて、
「お帰んなさい」
とやさしい声がした。拓一ははっと目をあけた。思いがけなく、そこに福子の白い顔があった。
「福ちゃん!」
拓一は驚きの声を上げた。
「しばらくね。拓ちゃん元気そうね。よかったわ」
素直な声だった。拓一の暗い心が、急に明るくなった。
「どうしたの、福ちゃん」
拓一は長靴をぬぐのももどかしく、そう尋ねた。
「ま、上がってからお話しするわ」
福子は姉のような言い方をした。柔らかく、つつみこむような福子の声音だった。
「あらお帰り」
佐枝が座敷のほうから現れた。
「ただいま。母さん、これお土産だ」
拓一は自分でも恥ずかしいほどに、声が弾んだ。
「まあ! お土産? これ、反物じゃないの」
薪ストーブの傍らに坐った佐枝は、うれしそうにすぐに包みをあけ、
「まあ! いい柄ねえ。これ、拓一が選んでくれたの」
「うん、まあね」
拓一はうれしそうに頭を掻いた。絵のうまい拓一には、女物の着物を選ぶ感覚があった。
「ま、ほんとにいい柄ねえ、小母さん。よかったわねえ」
福子もほめた。
「おやきや、干し芋も買ってきたよ。福ちゃんも好きだろ」
「好きよ、おやき大好きよ。干し芋も」
拓一は呉服屋のおかみから預かってきた縫い賃を佐枝に渡し、
「福ちゃん、歩いてきたの?」
と、改めて福子の顔を見た。化粧のない福子の顔が、拓一には清潔に見えた。この福子が夜毎に客を取っているとは、信じられない顔だった。
「そりゃあ、歩いてくるわよ。一里や二里、小さい時からよく歩いたもの」
と、福子はうすい耳たぶにかかったほつれ毛をかき上げた。
「だけど福ちゃん、今日は店は、どうしたの」
「今日は休みなの」
福子はちらっと佐枝を見て微笑した。
「休みなんてあるの」
「そりゃあ、あるわよ」
と大人っぽく笑って、
「あのね、拓ちゃん、今まで休みでも、店からは自由に外に出してもらえなかったの。自分の部屋ん中で、只ごろごろしていただけなのよ」
女たちには、月に一度障りがある。その数日間も、深城は外出させることを嫌った。むろん親元に帰ることなど、許しはしない。年に一度、それも一晩帰せばよいほうであった。が、そんな詳しい話は福子はせずに言った。
「でもね、わたし、月に一度はお暇を下さいって、頼んでみたの。なかなかうんと言ってくれなかったけど、節子さんや金一さんが、口をきいてくれて……その第一回目なのよ」
「なあるほど」
拓一は大きくうなずいて、
「それはよかった。で、ここに一番先に来てくれたの」
拓一の言葉に福子はふっと淋しい顔になって、ちょっとうつむいたが、
「だって、拓ちゃん。わたしには帰りたくても帰る家がないでしょ。小母さんのいるこの家しか、わたしには行くところがないんだもの」
と、目頭をおさえた。拓一は悪いことを言ったと思った。が、佐枝が助け舟を出して、
「福ちゃん、ここは自分の家だと思ってね、遠慮なくいらっしゃいね。小母さんも福ちゃんが来てくれると、娘が……来てくれたようで、うれしいわ」
「ありがとう、小母さん。ほんとにわたし、ここの家しか、遠慮なく来れるところはないの。今日もお寺に行って、親やきょうだいたちのお骨の前で手を合わせてきたけれど、お寺は寒かったわ」
福子はひっそりと笑った。そんな福子を見ながら、拓一はふっと思った。
(この福子も、泥流の中に押し流されたのだ)
そしてその福子を助けたのは耕作だった。拓一は耕作が羨《うらや》ましいような気がした。生きている限り、福子は耕作に助けられたと思うことだろう。そう思われるだけで、それは充分に幸せなことのように、拓一は思った。が、一方、あの生あたたかい泥流の中に投げ出された経験を、自分も福子も共に持っているということは、拓一には得難い貴重なことに思われた。
そう思った時、佐枝が言った。
「福ちゃん、おやきを食べない?」
「おいしそうなおやきねえ。小母さん、耕ちゃんは何時頃帰るのかしら」
「どうしても、六時近くですよ、いつも」
「耕ちゃんが帰って来てから、一緒に食べようかしら」
幼子のような言い方だった。拓一は黙って佐枝が皿に盛ったおやきを食べた。おやきはもう冷えていた。拓一は少し淋しい気がした。が、明るく、
「福ちゃん食べなよ、遠慮しないで」
とすすめた。福子がうなずいて、
「じゃ、いただくわ。拓ちゃん、ごちそうさん」
紅のない口から、白い歯がのぞいた。おやきを一口食べて、福子は、
「何だか夢みたい」
と、吐息を洩らした。
「夢みたい?」
佐枝が尋ねた。
「ええ、夢みたいよ。とても静かよ。こんなに落ちついた気持ちになって、生きることもできるのね、人間って」
福子は深雪楼を思い浮かべながら言った。酒に酔い痴れた男たちのだみ声も、賑やかな三味線の音も、廊下を忙しげに歩く女たちの足音も、何も聞こえない。天地が押し黙っているような静けさがここにはあった。
「やっぱり農家って、わたし好きだわ」
佐枝は黙って目を伏せた。そして、拓一が買ってきた銘仙を膝《ひざ》におくと、
「ほんとにいい柄ね」
と、しみじみと言った。
「小母さん、よかったわね。お正月の着物ができて」
と言い、
「小母さん、わたしほんとに、今日泊まっていってもいいの」
泊まるという言葉に、どきっとした拓一が、福子と佐枝の顔を見た。佐枝が、
「いいですとも。小母さんと一緒に寝ましょうよ」
佐枝はやさしく、そして親しみをこめて言った。拓一は、何となく落ちつかない思いで、窓越しにひろがる雪野を見た。
夕食の後、佐枝に手伝って台所で後始末をしていた福子が、赤いたすきを外しながら居間に戻って来た。ストーブの傍で新聞を見ていた拓一と耕作が、
「ご苦労さん」
と、ねぎらう。佐枝もストーブの前に坐る。
「どういたしまして」
たすきを二つに折り、四つに折って結びながら福子は言い、
「ランプなのねえ」
と、しみじみと石油ランプを見上げた。耕作は何となくはっとした。福子はもう長いこと市街に住んでいる。毎夜、あかあかと明るい電灯の下に福子は生きていたのだ。耕作は、福子が自分とちがった世界にいるように思われて、はっとしたのだ。拓一が言った。
「そうか、福ちゃんは、電灯に馴れてしまったんだね。ランプじゃ暗いだろう」
いたわるような声音だった。福子は首を横にふって、
「なつかしいわ、ランプの灯って」
と、まだランプを見つめている。耕作は、福子がランプを見つめながら、一つランプの下に生きていたその親やきょうだいたちを思い出しているのではないかと思った。福子は、ふっと吾に返ったように、
「でも……お針をする時や、本を読むのに、やっぱり暗いでしょう。ここも早く電灯になるといいのにね」
と、耕作の顔を見た。
「うん、泥流が来なかったら、ほんとは今頃点《つ》いていたそうだよ、このあたりにもね」
この時耕作は、泥流で中止になった電灯工事が、この後二十何年も経なければ起工されないとは夢にも思わなかった。
「ぼくは当直が楽しみでねえ」
耕作が言った。それは、明るい電灯の下で、心ゆくまで本が読めるからだ。
「そうね、学校は電灯がついているものね」
福子がうなずく。みんなはストーブを囲み、佐枝の出した番茶を飲みながら、何となく黙った。その沈黙が少しも気にならなかった。厩で青が藁《わら》を踏む音がした。拓一は、福子の顔を幸せな思いで見つめていた。こんなにもゆっくりと、共に過ごす時間が与えられたのだ。福子はもう手の届かぬ所にいるような気がしていたのだ。が、今、福子は現実に目の前にいる。深雪楼の小菊としてではなく、国男の妹の福子なのだ。
「小母さん、今度の休みの時は、わたしにお裁縫教えてくれない?」
福子が小首を傾けた。耕作はその福子を見て、幼い時の癖がそのまま残っていると気づいて、なつかしかった。
「わたしでよかったらね、いくらでも教えてあげるわよ」
「まあ、うれしい。わたし、小学校の時に習ったきりなの」
福子は晴れ晴れと笑った。福子が小学生の時、教師は菊川先生一人であった。それで裁縫の時間は、清水の沢に住んでいた部落長の妻が教えに来てくれた。耕作は裁縫を習えると聞いて喜ぶ福子が、ひどく憐れに思われた。
「しかし、よくあの深城のおやじさんが、こうして暇をくれたもんだねえ」
学校から帰って来て、福子を見た時の驚きを、耕作は再び言った。
「ええ、わたしも思いがけなかったわ。節子さんと金一さんのおかげよ」
「金一? ああ、節子さんの兄さんか」
気弱そうな節子の兄を思い浮かべながら、耕作はちょっと眉をひそめた。金一が福子を好きらしいとは、耕作もとうに花井先生から聞いて知っていた。只、拓一には言っていないだけだ。
「そうよ、親切な人よ。特に、節子さんはとっても力になってくれるわ。一度あのひと、家を出たでしょう。だから、お父さんに強いのよ。わたしたち助かるわ」
節子のことを言われると、耕作は頬のほてるような気がした。
「あの娘さん、きれいな気持ちの人のようね」
佐枝も言った。
「ええ。お母さんもやさしい人だし。……だけど小母さん。節子さんもかわいそうなのよ。あんなとこの娘だって、ふたことめには言われるんだって」
「…………」
「でもね、小母さん、わたしよりはいいわねえ。わたしなんか、商売してた女だとか……ごけ上がりだとかって、死ぬまで言われつづけるわね」
ちょっと声がしめった。
「そんな、福ちゃん、そんなこと……」
拓一が言いかけると、福子は頭を横にふって、
「いいのよ、拓ちゃん、慰めてくれなくても。でもね、今日も街で買い物をしたり、お寺に行ったり、ここに歩いて来るまでに、わたし、いやな目に幾度もあったわ。それが世間よね」
三人は、慰める言葉がなかった。下手に慰めては、かえって福子を傷つける。たしかに世間は、福子のいうとおりの冷たい目を持っているだけだ。
耕作が言った。
「だけど……ぼくたちはちがうよ。ぼくたちには、福ちゃんは昔の福ちゃんなんだ」
「それはわかってるわよ。だから、わたしここに来たの。だからここは、とっても居心地がいいわ。わたし死ぬんなら、小母さんに手を取られて死にたいわ」
ぎょっとして、拓一は福子を見た。佐枝が、
「そんなこと言っちゃ駄目よ。小母さんのほうがずっと年上よ。先に死ぬのは小母さんのほうよ」
耕作はたまらない気がした。福子はなぜこんなつらい気持ちで生きていかなければならないのか。まだ二十にもならぬ福子が、今までに得たものは何か。福子が生まれた時、その父親は既に呑んだくれであった。そして賭《かけ》事《ごと》が好きだった。福子の家には、冬でもストーブはなかった。囲《い》炉《ろ》裏《り》に薪をくべて、部屋中けむるような中に育った。ストーブどころか、玄関の戸もなく、莚《むしろ》を下げた家だった。そんな家に育っても、福子は小学校の六年間、まじめに勉強した。読み方も算数もよくできた。みんなに親切だった。細かいところにもよく気がついた。
だが、福子は何のためにあんなに一生懸命勉強したのか。卒業した年にすぐ、深雪楼に売られてしまった。深雪楼に売られるために福子は一生懸命勉強したのではない。馬車に揺られて、売られて行った日の福子の姿を、まざまざと思い出しながら耕作は思う。
そして、その両親も、きょうだいも家も畠も、泥流に押し流されてしまった。福子自身さえ、その泥流の中から九死に一生を得たのだ。災害見舞金や補償金が何百円出たとて、福子の借金ははるかにそれを上まわっている。しかも、福子の父が死んだ今、その借金がいくらであったか、正確な額を知る者は誰もいない。こんなひどい目にあいつづけながら、借金を返すために、死ぬこともできずに生きつづけている福子を、世間はまだ冷たい目で見ようとするのか。いじめようとするのか。耕作は今、心底から世間というものに腹を立てていた。
耕作はつと立ち上がって、台所に行った。水を飲みたかったわけではない。激する感情をこらえるためだった。耕作は、ポンプを汲《く》んで水を出し、水瓶の水を飲んだ。水はひどく冷たかった。
(今夜あたり、しばれるかな)
思って、少し気を静め、部屋に戻ると、佐枝が大皿に干し芋と、ゴマせんべいを出しながら、
「ほんとうに福ちゃんも、苦労つづきよねえ」
と、声をしめらせていた。福子はちょっと目を伏せたが、
「ねえ、小母さん。わたし、どうしてこんなにつらい思いばかりしなければならないのかしら」
「ほんとうにねえ。福ちゃんには、何の罪もないのにねえ」
佐枝も吐息をついた。
「お店にいる人たちもね、小母さん。似たりよったりの運命なのよ。だからみんなで、どうしてこんな悲しい思いをするんだろうって、時々話し合うことがあるの」
耕作は、時折見かける深雪楼の女たちの顔を思い浮かべた。白く塗ったあの厚化粧の下に、そんな悲しみがあったのかと、改めて知らされるような思いだった。そう言えば、ごけ上がりだといわれる深城の後妻も、幸うすい人のように耕作には思われた。
拓一がせんべいを音を立てて二つに割りながら、
「全くなあ。俺も時々そんなことを考える時があるよ、福ちゃん」
福子はうなずいて、
「そうでしょう。わたしもいつも、拓ちゃんや耕ちゃんのこと、そう思うもの。わたしには、親がいたけど、拓ちゃんたちは、早くにお父さんに死なれたでしょう。小母さんとも離れて暮らしたし……。わたしとってもかわいそうだと思った。その上、あんないいじっちゃんやばっちゃんが死んで……よっちゃんもかわいそうだったわねえ。みんなまじめに生きて来たのにねえ」
半年前に死んだ家族のことを思えば、自然と誰の目もうるむ。耕作は、つくづくと福子の顔を見た。自分を売るような父親であったのに、福子は、その不幸を嘆かずに、親のいなかった自分たちを「かわいそうだ」と思っていたのか。何というやさしさであろうと、そのやさしさが身に沁《し》みた。が、一方耕作には歯がゆくもあった。
干し芋についている藁《わら》屑《くず》を、拓一は取りながら、福子の話を聞いていたが、
「世の中には、わかんないことばかりだな」
と、ぽつりと言った。同じ村に住みながら、泥流に襲われた農民たちの復興を妨害しようとする者もいる。今日の深城の話を、拓一はまだ誰にもしていない。が、福子の顔を見ながら話を聞いているうちに、深城は福子の敵であり、自分たち農民の敵でもあると拓一は思った。
「でもねえ、福ちゃん。きっと福ちゃんにも、幸せがくると思うわよ。小母さんは……」
佐枝が言いながら、ストーブに薪をくべる。ストーブの戸をあけた途端に、中の炎が佐枝の顔を明るく照らした。
「幸せ?」
訝《いぶか》るように福子は佐枝を見、
「幸せ? 小母さん、わたしに幸せがくるなんて、考えられないわ」
素直な言い方だけに、その言葉がみんなの胸をしめつける。拓一は、
「福ちゃん、そんなこと言っちゃ駄目だよ。幸せになるよ、きっと幸せになるよ、福ちゃん」
と心をこめて言った。福子はちょっと黙ったが、
「幸せになるかどうか、わからないけど、ねえ小母さん、わたし、思い切って……」
と、言葉を途切らせた。耕作は、ふっと不安なものを感じて言った。
「思い切って? 何さ福ちゃん?」
福子はちらっと耕作を見たが、すぐに目を伏せ、
「思い切って、お嫁に行こうかしらと思うの」
と、呟《つぶや》くように言った。
「お嫁に!?」
三人が驚いて声を上げた。中でも拓一の声が一番大きかった。
「ええ」
余りに三人の声が大きかったので、福子は頬を赤らめた。
「そんなお話があるの、福ちゃん?」
尋ねる佐枝に、福子はかすかにうなずいて、
「ええ。そのことも、小母さんに、わたし相談したいと思ったの」
みんなが黙った。福子は、膝の上に何か指で字を書いていたが、
「わたしねえ……金一さんに、結婚しないかって、こないだから言われているの」
「金一?」
咎《とが》めるように耕作が言う。拓一は、呆然と福子の顔を見ているだけだ。
「ええ、節ちゃんのお兄さんよ」
「福ちゃん、福ちゃんはあんな男が好きだったの」
怒ったように耕作が言う。
「好き?」
福子は驚いたように耕作を見、
「好きなわけないわ」
「だって、今、お嫁に行くって言ったじゃないか」
ふっと淋しげに福子は笑って、
「いやだわ、耕ちゃんったら。わたしたちあんな所にいる女たちはね、好きな人と結婚できる人なんか、誰もいないわ」
「…………」
「わたしたちは売られているのよ。借金がたくさんあるのよ。その借金を払ってくれる人がいたら、やっぱり買われるように、その人の所に行くだけよ。わたしたちは、売られたり、買われたりしてる女たちなのよ」
誰も何も言えなかった。そんな馬鹿なことがと言いたくても、言ったところで何の慰めにもならないのだ。とにかく現実は、確かに福子の言うとおりなのだ。
「ねえ、拓ちゃん、耕ちゃん。わたし、金一さんなんか、ちっとも好きじゃないわ。でもね、このままお店にいるよりは、ましなような気もするの。どう思う?」
福子は、まだ膝の上に指で何かを書きながら言う。耕作はその指先を見ながら、答える言葉がなかった。拓一も腕を組んだまま黙っている。拓一の心を知っている佐枝も、言うべき言葉が見つからない。
「わたしねえ、節子さんは好きよ。節子さんがいるから、金一さんの話も断れないでいるの。でもね、悪いけどあそこのお父さんは大嫌い。あそこのお父さんと同じ屋根の下にいるだけでもいや。でも、そんなこと言うのは、ぜいたくかしらね」
「…………」
「それにね、世間の娘さんだって、みんな大てい、親の言うままに結婚してるわねえ。誰かとお見合いして、顔もよく見ないうちに話が決まって。みんなそんな結婚でしょ。わたしが金一さんを断るとしたら、身のほど知らずかも知れないわね。お店に出なくなるだけでも、ほんとは幸せなことなんだもの」
耕作は拓一の顔を見た。拓一の顔は青ざめていた。拓一はこの福子を救うために、少しでも足しになればと言って、竹筒に金を貯めていた。そんなことぐらいでは、どうにもならない借金で福子はがんじがらめになっている。もらった災害補償金を全部出してやっても、福子を自由にさせることはできない。たとえ相手が金一でも、結婚するなとは言えない気がした。金一を、耕作も好きではない。父親の言いなりになって、いつも深城について歩いている。その男が、福子のことだけは、よく自分の意志を押し通すと、耕作は驚いてもいる。だが一方、拓一の気持ちを思うと、深城の息子だからこそ、福子を思いのとおりにできるのだという、腹立たしい思いもする。もし金一が、他の家に生まれていたとしたら、福子と結婚することは、そうたやすいことではない筈だ。そう思うと、何重にも腹立たしいのだ。そして兄の拓一が哀れになるのだ。それでいて、節子を思うと、また別の感情が湧く。それが耕作には、何かやりきれなかった。
みんながまた押し黙っている。風が出たのか、ストーブの煙突が、ゴーッと音を立てた。佐枝が、ふっと大きく息をついて、
「福ちゃん、どうしたらいいのかねえ、小母さんにもわからない」
それまで黙っていた拓一が不意に口をひらいた。
「福ちゃん、福ちゃんなあ、今より幸せになれるんなら、お嫁に行ったほうがいいんでないか。俺はそう思う」
驚いて耕作は拓一を見た。
「兄ちゃん!」
「福ちゃん、幸せになれ。金一君って男、気持ちはやさしいんじゃないか。……だから、思い切って行けよ。な、福ちゃん」
言ったかと思うと、拓一はたまりかねたように、厩のほうに立って行った。
昨日から学校が冬休みに入った。生徒と顔を合わせることもない休みは、耕作にはつまらない。これから三十日もの間、冬休みがつづくのかと思うと、張り合いぬけがするようであった。いつもならもう起きる時間なのだが、耕作は布団の中で、ぼんやりと目をあけていた。拓一も珍しく眠っている。規則正しい健康な寝息を立てている。耕作は足の先で、ぬるくなった湯タンポを引き寄せながら、
(兄《あん》ちゃんもかわいそうだな)
と思う。特に寝ている時の拓一が、たまらなくかわいそうだ。福子が来た翌日から、拓一は無口になったような気がする。鋸《のこぎり》の目立てをしながら、いつしかその手が休んでいたり、新聞を読んでいながら、その目が同じ所にとどまっている時がある。
(福子のことを考えているんだな)
その度に耕作はそう思う。だからそんな時は、耕作は見て見ぬふりをする。
あの日福子は、拓一に嫁に行けと言われて、
「拓ちゃんがそう言うんなら、そうするわ」
と言っていた。そして福子もぼんやりとしていた。その福子を思うと、耕作の胸の中はもやもやとなってくる。
(福ちゃんも馬鹿だ)
と思う。拓一の気持ちが何もわかっていないのだ。小さい時からいつも親切にしてくれた拓一だとしか、福子は思っていない。しかも福子は、あの夜、耕作にそっとこう言ったのだ。
「耕ちゃんも、わたしがお嫁に行ったらいいと思う?」
耕作は黙っていた。と、福子がまた言った。
「耕ちゃんが行くなと言ったら、行かなくてもいいのよ」
耕作はやはり何とも言わなかった。それで福子は、拓一の言うとおりに、嫁に行くと言って帰って行ったのだ。
(福ちゃんが嫁に行ったら、兄ちゃん、どうなるかな)
たとえ、今の福子の生活がどうであっても、人妻にならない間は、拓一は望みを抱いて生きていけるにちがいない。が、人妻になれば、望みはぷっつりと断たれる。
そう思った時、不意に拓一が言った。
「何を考えている、耕作」
「うん、何でもない」
耕作はうろたえて、
「兄ちゃん、いつ起きた」
「うん、二、三分前だ」
二人が寝床の中で話し合うのは珍しい。いつもだと、目がさめた途端に、ぱっと布団を蹴《け》って起き上がるのだ。その二人が黙って天井を見ている。やはり二人は気落ちしているのだ。
「しかし兄ちゃん、村長も大変だな」
福子のことを考えていたとは言えずに、耕作はそう言った。
「全くだなあ」
一週間ほど前、耕作は見かけたのだ。その日は一日雪晴れの明るい日だった。日が暮れても雪あかりがいつもより明るいような日であった。耕作は珍しく五時かっきりに、益垣先生と一緒に学校を出た。益垣先生の家は校宅だから、学校のすぐ傍《そば》にある。
益垣先生と別れた耕作は、弁当箱をがらがら鳴らしながら、歩いて行った。と、半丁ほど前を、吉田村長が歩いて行くのが街灯の下に見えた。その姿勢の正しさは、村長独特のものだ。耕作はいい道づれができたと思って、後を追おうとした。
と、その時、電柱の蔭から、歳末大売り出しの旗の蔭から、暗い家蔭から、三人、五人と人影が現れた。何《いず》れも揃《そろ》いの印《しるし》半《ばん》纒《てん》を着、メガホンを持った男たちだ。男たちは列になって、村長の後について歩きはじめた。
(はてな、何事かな?)
耕作が思った時だった。男たちが一斉に、
「泥棒村長、泥棒村長」
と叫び出した。耕作はぎょっとした。道を行く者たちも驚いて立ちどまる。が、男たちは更に声を張り上げて、
「泥棒村長、泥棒村長」
と、くり返す。耕作の足がもつれた。頭に血がのぼった。
(泥棒とは何だ!)
明らかに復興反対派に金で雇われた者たちと見られた。吉田村長の失脚を狙っての行動にちがいない。
(あまりに見え透いている。馬鹿な奴らだ!)
ガラス戸をあけて、おもしろそうにのぞいている商店主たちの姿も見える。が、気の毒そうにささやき合っている女たちもいる。しかし誰一人、屈強なこの男たちの連呼をやめさせようとする者はない。耕作もまた、男たちの後をついて行きながら、何を言うこともできなかった。いや、それどころか、道行く者に不審な目を向けられて、耕作は狼《ろう》狽《ばい》した。自分もまた男たちの一人に見られたのではないかと思った。
耕作は歩みをゆるめた。そんな自分が不《ふ》甲《が》斐《い》ないと思った。男たちは図に乗って、言いたいことを口々に言いはじめた。
「義《ぎ》捐《えん》金《きん》はどこにやった」
「家には金がざくざくだってな」
「復興なんぞさせないぜ」
「命は一つしかないんだ」
どすのきいた声が次々と飛び出す。余り見かけたことのない男たちだ。もしかすると、富良野の博徒一家の者かも知れない。その足の運びや、ものの言い方に、けんか場の場数を踏んだことを感じさせる。耕作は身の危険を感じて、次第に男たちから離れた。
だが吉田村長は、落ちついた足どりで、ふり向きもせずに歩いて行く。知人を見れば挨拶もする。耕作は内心舌を巻いた。吉田村長は、本当に命を賭《か》けて復興しようとしているのだと、その背からも感じた。私心のなさが、その足どりに見えるのだ。
「やい! 何とか言え!」
「答える言葉がないんだろう、この泥棒め!」
罵《ののし》っては、声を揃えて「泥棒村長」を連呼する。おそらく、「泥棒村長」と連呼することは、彼らを雇った者の命令であるにちがいない。が、姿勢を真っすぐにして、村長は黙々と歩いて行く。男たちがようやく罵《ば》詈《り》雑言に飽きた頃、家並みは尽きた。そこで男たちは、大声でもう一度怒鳴ってから、雪玉を村長に投げはじめた。耕作は足がすくんだ。憤りと恐怖が耕作の胸に渦巻いた。
「やめたまえ!」
怒鳴りたい思いが、のどでつかえる。怒鳴って引っこむ相手ではない。と言って、このまま見過ごすわけにもいかない。せめて村長を雪つぶてから守ろうと、耕作はようやく走った。そして村長のあとについた。二つ三つ耕作の肩に雪玉が当たった。が、不意に男たちは、
「また、会うでーっ」
と、捨てぜりふを残して帰って行った。耕作は拍子ぬけがして、
「村長さん! ひどい奴らですね。怪我はありませんでしたか」
尋ねる耕作に、吉田村長はにっこり笑って、
「おお、耕作君か。あんたまで雪玉をぶつけられたようだね。すまんかった」
と、いつもの語調で村長は言った。
あの夜耕作はこのことを拓一と佐枝に話した。拓一は、
「卑《ひ》怯《きよう》な奴らだ」
と怒り、
「俺がその場にいたなら、絶対許さなかったのにな」
と口《く》惜《や》しがった。
で、今、耕作は、いかにも村長のことを思っていたように、
「村長も大変だなあ」
と、拓一に言ったのだ。福子のことを考えていたと言えば、拓一も朝から気が滅入るだろう。
「さ、起きるか、兄ちゃん」
「うん」
答えた拓一の声に弾みがなかった。
小切りにしてあった薪を、拓一と耕作は小割りにして納屋の一劃《かく》にびっしりと積み上げた。それで午前中が終わった。
昼飯を食べに家に入ると、思わず二人は、
「ほう!」
と声に出して驚いた。今朝まではいつもの部屋であったが、僅か三時間ほどの間に、部屋が一変したかのように見えたからだ。壁には、色がみで作った星が幾つか貼《は》られ、低い天井から風船が幾つも吊《つ》り下げられている。部屋の隅から隅に、赤と緑のモールが張られ、何とも楽しいふんいきなのだ。
「どうしたのさ、母さん?」
拓一が部屋をぐるりと見まわして言う。佐枝がちょっときまりの悪そうな表情をして、
「お隣のていちゃん、弥生ちゃんと約束したのよ。今日は十二月の二十五日でしょう」
「二十五日? 何の日だっけ、兄ちゃん」
耕作はちょっと考える顔になった。
「はてな? 俺の誕生日でもないし、親父の死んだ日でもないし……」
「兄ちゃん、死んだ日に、こんな飾りはつけないよ」
と佐枝を見、
「何の日さ、母さん」
と尋ねた。
「クリスマスですよ」
「クリスマス?」
耕作は「なあんだ」という顔をした。拓一も、
「ああ、そうか、クリスマスって今日だったのか。ヤソの教祖が生まれた日だな」
と、ややつまらなそうだ。が、そう言ってから拓一は佐枝に、
「そうか、母さんはヤソだったもな」
と、少しいたわる声になった。佐枝は一度も自分がキリスト信者だと言ったことはない。キリスト教の話をしたこともない。が、何となくキリスト信者らしいと、見当はついていた。肺結核の母を、見も知らぬ婦人宣教師が、何年も引き取って世話をしてくれたのだ。キリスト信者になっていたとしても仕方がないという気持ちはあった。だが佐枝は口に出して何も言わないから、二人もまた何も言わなかった。拓一と耕作は、キリスト教に特別反感は持っていない。祖父の市三郎が、昔教会に通ったと言っていたことも覚えているし、時々思い出したように、聖書の話を聞かせてくれたこともある。だから二人には、特別反感を持っていないキリスト教だが、世間ではキリスト信者だと聞くと、
「ああ、ヤソか」
とか、
「アーメンか」
とか、伝染病患者でも近づいて来たかのような、いやな顔をする。そのこともまた、二人は何となく当たり前のように思ってきた。つまり、ヤソをいやがる世間を、特に非難する気持ちはなかった。そんな二人にとって、今日がクリスマスだと言って部屋を飾る佐枝に、幾らかの違和感を抱いたのも当然であった。
二人が落ちつかない顔で部屋を見まわしている時、戸口のほうで、
「おばちゃーん」
と言うかわいい声がした。隣家のていと弥生の声である。ていと弥生は、部屋を見るなり、声を上げて喜んだ。
「おまつりみたいだね。おばちゃん」
弥生は風船に手を触れようと、幾度も飛び上がった。ていは、
「きれいね、きれいね」
と同じ言葉を連発している。ていと弥生の喜ぶ様子を見て、拓一と耕作もようやくうれしくなった。
「あのね」
佐枝が言った。
「今日ね、イエスさまの誕生日だって、弥生ちゃんやていちゃんに言ったら、一緒にお歌をうたおうって、ていちゃんが言ったの。それでね、ちょうど耕作もお休みだし、ていちゃんたちとおひるをいただこうと思ってね」
遠慮勝ちな言葉だった。
「それはいいや。じゃクリスマスのお祝いということだね」
拓一はすぐに佐枝の気持ちを思いやった。そんな拓一を耕作は偉いと思った。耕作は心の中で、まだぶつぶつ言っていた。
(そんなら、はじめから言えばいいのに)
(言えば飾りつけぐらい手伝ってやるのにな)
(何も遠慮することないのに、水臭いよ母さんは)
そんなことを思いながら耕作は、拓一に感心した。自分のようなことを思わず、直ちに母のすることに賛成できる拓一が、耕作にはふしぎでさえあった。
いつのまに作ったのか、昼飯は五目飯だった。食事の前に、いつも佐枝は黙《もく》〓《とう》する。このことも別に、耕作は気になっていなかった。祖父の市三郎も祖母のキワも、食前には手を合わせて、何かぶつぶつ祈っていたし、耕作にしても拓一にしても、手を合わせて、ちょっと目をつぶってから、
「いただきます」
と言って食べてきた。だから佐枝が黙〓するのを見ても、自分たちと同じだと、つい思ってきた。だが考えてみると、耕作自身、何に手を合わせ、何に念じてきたのか、全くわからない。神でもないし、仏でもない。が、何か手を合わせなければならないものが、この世にいるような気がして手を合わせてきただけだ。だが今、母が手を合わせる姿を見ると、耕作は不意に、自分とは何かがちがうと思った。そしてこの間の夜、泣きながら祈っていた母の姿を思い出した。母が何に祈っているのか、自分にはよくわからないが、とにかくキリストの神であることはまちがいない。
弥生もていも、かわいい手を合わせて祈った。みんな黙って祈った。
佐枝の作った五目飯はうまかった。だが五目飯を見ると、ふっと思い出すことがある。それは、耕作にとっていやな思い出である。何か不安感をかきたてる思い出である。
耕作が八つの歳の、雪どけ頃だった。市三郎が、
「子供らはみんな、叔父さんちへ遊びに行け。米の飯を食わせてくれるとよ」
と言った。米の飯と聞いて、耕作も拓一も喜んで修平叔父の家に行った。その頃米の飯は、盆か正月か、祭りでなければ食べたことはなかった。修平叔父の家で出されたのは、人《にん》参《じん》と牛《ご》蒡《ぼう》とえんどうの三目飯だったが、時ならぬ時に食べたその米の飯はうまかった。が、家に帰る時叔母のソメノが言った。
「あんたらの母さん、もう家におらんわ」
言われて、耕作たちきょうだいは、雪どけ道をころがるように駆けて帰った。その日から母は、姿を消した。あの時の、
(もし母ちゃんがいなかったら……)
と、半里の道を息せき切って走った不安感が、耕作の胸にこびりついている。
(あの時良子は、姉ちゃんにおぶさっていたっけなあ)
死んだ富と良子がまたしても思い出される。
「おばちゃん、おいしいねえ」
弥生の無邪気な声に、耕作は吾に返った。が、心の底では、みんなが死んで半年も経《た》ないうちに、こんな祝いごとをしていいのかと、またしても母を咎めたい気が頭をもたげる。
食事が終わった。佐枝が手作りの大島まんじゅうを出してきた。そして、ていと弥生が佐枝と共にうたいはじめた。
きよしこの夜 星はひかり
すくいのみ子は……
うたいはじめると拓一が言った。
「へえー、いい歌だな。俺にも文句教えてくれんか、母さん」
言われて佐枝が、うれしそうに讃《さん》美《び》歌《か》と聖書を、自分の部屋から持って来た。拓一と耕作は、讃美歌をのぞきこんでうたった。
耕作はふしぎな気がした。この歌は、学校の唱歌ともちがって、何か妙に心の清まる思いがするのだ。
うたった後で、佐枝は函館の教会から送ってきたという小さな包みを、拓一、耕作、てい、弥生の、それぞれに渡した。
この日、大正天皇がこの世を去ったことは、まだ誰も知らぬことであった。そしてこの後、国民は歌舞音曲を四十余日差しとめられたのである。
博労 馬のよし悪しを判断する人。または馬の売買、周旋をする職業。馬喰とも書く。
日めくり
明るい電灯の下で、耕作は講義録をひらいていた。早稲田の中学講義録である。石油ランプの下とちがって、眼の疲れが全くちがう。だから勉強も捗《はかど》る。
今日は耕作の宿直なのだ。耕作はこの冬休み中、なるべく宿直を引き受けることにした。数えて二十になるというのに、思ったほど勉強らしい勉強をして来なかった。自分の勉強より先に、毎日生徒を教えるための準備と、畠《はたけ》の手伝いがあった。特に十勝岳爆発後の半年は、何を学ぶ暇もなく、あっという間に月日が流れた。
自分と共に旭川中学を受験して合格した者は、既に卒業し、社会に出ている。中には、更に大学に進んだ者もいる。耕作は首席で合格したというだけで、一日も中学に通っていない。通っていないどころか、まとまった勉強もしていなかった。むろん小学校教師としての勉強はしてきたが、それも検定試験を受けるまでには至っていない。
去年の十二月二十六日以来、大正が昭和と変わった。昭和と変わったその時に、自分の勉強を新たに思い立ったのである。今日は、昭和二年一月三日だ。昭和二年といっても、元年は六日しかなかったから、昭和になって今日で九日目だ。
耕作が勉強したいと思う心の底に、節子があった。節子は女学校を出ている。その節子より、上の学力を耕作は持ちたかった。そう思い立たせたのは、福子の訪問だった。福子が金一と結婚すると言って帰ったあと、
(金一は専門学校を出ているからな)
ふっと耕作はそう思った。金一は節子の兄である。そんなことも微妙に影響を及ぼしていた。そして、それはまた兄の拓一のためにも、金一には負けていられないという思いがあったのである。
去年の秋、取り寄せた講義録に、耕作は今になって真剣に取り組んでいた。学校の夜は不気味なほどに静かだ。と、用務員室のほうで、戸のあく音がした。からからと軽い車戸の音だ。ばったらばったらと草履の音がし、それが次第に近づいてくる。用務員の大室はいつも草履をつっかけて歩いているのだ。足音が近づいて、当直室の前にとまったかと思うと、仕切りの板戸がすーっとあいた。六十過ぎの日焼けした顔がのぞいた。大室はノックなどしたことはない。声と同時にいつも戸があく。遠くから聞こえてくる草履の音が、いわばノックなのだ。
「石村先生、また勉強かね。正月早々昨日も当直、今日も当直、大変だねえ」
人のいい笑顔だ。
「明日も当直だよ。お茶でも飲まないかい、小父さん」
耕作はニコッとした。
「明日も当直?」
ちょっと目をむいて、大仰に驚いてみせながら、大室は部屋に入って来た。八畳の当直室には、開校以来の古びた机があるだけで、がらんとした箱のような部屋だ。それでも若浜雑貨店の日めくりが柱にかかっているし、壁には煤《すす》けた世界地図が、少し破れたまま貼《は》られてある。
耕作は小物入れの押入れの戸をひらいて茶道具を出し、鉄《てつ》瓶《びん》をストーブの上からおろした。
「なんだって、石村先生ばっかり、そんなに当直を押しつけられたんかね」
「押しつけられやしないよ。ぼく、買って出たんですよ」
「そりゃあまた、どうして」
「うちとちがって、電灯が明るいからさ」
「よっぽど、勉強が好きなんだね」
出されたお茶を、大室はふーっと一息吹いて飲み、
「しかし先生、今年はひっそりとした正月だね」
と、しんみりと言う。耕作はうなずいた。去年の正月は、祖父母も姉も良子も生きていた。そして、市三郎は、三十年来一番いい正月だと喜んでいた。が、大室が、
「天皇様でも死んでしまうものかねえ」
と言ったので、大室が淋しい正月だと言ったのは、そのことかと耕作は気づいた。市街にも松飾りをつけた家も少なく、初荷の賑《にぎ》わいもなかった。
「そりゃあ、天皇陛下でも人間だからね」
「なるほどちがいねえ。天皇様でも人間だもな。しかし人間かなあ。ほら、天皇様を拝むって言うでしょう。拝むってのは、神や仏にすることじゃないのかねえ」
「でもね、小父さん。天皇陛下もやはり人間だよ」
「そんでも、言うでしょうが、ほら一生に一度は天皇様の顔を拝みたいとねえ。拝む以上、われわれと同じ人間じゃないと思うがねえ」
大室は、拝むという言葉にしきりにこだわっていたが、茶を飲み終わると、
「先生、今夜はもう用事はないかね」
と尋ねた。
「ああ、もう小父さんは寝てもいいよ。九時も過ぎたからね」
と、耕作は机の上の目覚まし時計を見た。
「じゃ先生、火のもとだけ気をつけて寝てくださいよ」
大室は言い、
「どっこいしょ」
と、かけ声をかけて立ち上がり、また草履の音をひびかせて、用務員室のほうに去って行った。
(拝むか)
耕作は大室の言葉を思った。どこに生まれようと、人間はみな人間だ。人間が人間を拝むということはまちがいではないのか。よくはわからないが、そんな気がする。
耕作は再び講義録に目をやった。やる気になれば、一年で講義録を終わることができるような気がした。
一頁、また一頁と、読み進むのが楽しかった。ノートにメモをしながら、耕作は読み進める。ふと耕作は、どこからか風が入ってくるような気がして戸口をふり返った。戸が細目にあいている。大室がきちんとしめて行かなかったのかと、立って行って戸をしめようとした時、いきなり戸がすっとあいた。はっと驚く耕作の前に節子が立っていた。耕作は息をのんだ。
節子はす早く部屋に入って、うしろ手で戸をしめ、
「ずいぶん熱心にお勉強ね」
と、艶《えん》然《ぜん》と笑った。
「いやあ……」
耕作はどぎまぎした。
「わたし、見てたのよ。戸をそっとあけて。でも全然気がつかないでお勉強してるのね。驚いたわ」
節子はえんじのコートをぬいで、ストーブの傍《そば》に坐った。
「こんなに遅く……」
「あら、まだ九時半を過ぎたばかりよ。わたしのうちでは、まだ宵のうちだわ」
と、やや自《じ》嘲《ちよう》したように言った。
「だけど、ここは当直室だし……」
「ああ、女のわたしが当直室に来ちゃ、困るというのね」
「ええ、まあ……」
「どうして困るの」
「でも……勤務中ですから」
「石村さん、あの先生は当直室に女を引き入れた、なんて言われたら困ると思うんでしょう。いいじゃない。当直の夜に父兄が訪ねてくることだって、ないとは言えないでしょう」
「はあ、まあ。しかし、節子さんは父兄じゃないし……」
困ったような耕作の顔に、節子はおかしそうに笑って、
「世間の口や目なんか、気にしてたら、一年に幾度も会えないわ。昭和の御代になったんですもの。少しはわたしたちも変わらなければ」
節子の目がまだ笑っていた。
話しているうちに耕作も、少し度胸が据わって来た。たとい宿直とはいえ、友人の訪問を受けて悪いという規則はない。節子とこうして二人いたからと言って、ストーブを距《へだ》てて話しているのだ。人にうしろ指をさされることはないのだと、耕作は自分に言って聞かせる。
節子はふろしき包みをひらいて、
「これ、あしたの朝のお弁当よ。わたしがつくったの」
と、小さな重箱を出し、それに添えて、
「これは、鹿《か》の子と金つばよ。花井先生の所で買ってきたの」
と言い、
「わたしがお茶をいれるわね」
と、耕作の傍に来た。耕作の傍に、茶道具があるからだ。耕作はあわてて体をずらせた。が、節子のちりめんの袂《たもと》が、耕作の膝《ひざ》にふれた。耕作は更に壁に寄った。
「ま、石村さんったら」
節子は軽く睨《にら》んで、急須に湯を注いだ。かすかに化粧の匂いがする。耕作は体が快くしびれるような気がした。
「花井の澄子さんから聞いたのよ。今日当直だって。それでわたし、お弁当つくって来たのよ」
「…………」
お茶をいれると、節子は少しその場から離れて、
「お上がんなさいな。澄子さんとこの金つば、おいしいわよ」
と、耕作の顔を見守った。耕作は何となく首をなで、
「じゃ、遠慮なくいただきます」
と、手を出した。金つばのうすい皮の下に、黒いあんが透けて見える。ひと口食べると、更に気が楽になった。
「明日も当直ですってね」
「ええ」
「あしたも来ていいかしら、わたし」
耕作はうなずきたかった。が、講義録に目をやると、
「ぼく、勉強しようと思って、それで当直を引き受けたんです。ここは電灯があるから」
「あら、勉強がしたくて? なあんだ、そうなの」
節子はちょっと淋しそうな顔になったが、
「でも、三十分ぐらいならいいでしょう?」
耕作は、少し言葉につまって、
「いや、三十分といっても……」
「まあ! 三十分でもいけないと言うの」
「ええ、悪いんですが……」
「じゃ、二十分なら?」
「さあ」
「あら、そんなに人の目を気にするの、石村さんって」
節子の目から微笑が消えた。
「いやあ、それより……困ったなあ……実は……あなたが訪ねてくると思うと、ぼく、勉強が手につかないかも知れない」
耕作は赤くなった。
「まあ! ほんと!? 石村さん、あなた、そんなにわたしのこと気にかけてくださるの。うれしいわ」
節子の姿勢が崩れて、手が耕作の膝にかかった。耕作はあわてて三度体をずらし、
「ええ」
と、うなずいた。その耕作を、節子はじっと見つめていたが、
「わかったわ。その気持ちだけで、わたしうれしいわ。じゃ、三度に一度ぐらいは、来てもいいでしょ?」
耕作はまばたきをしながら、何か考えているふうだったが、
「五度に一度ぐらいなら」
と、口ごもりながら答えた。
「あら、五度に一度? つまんないわ、そんなの」
「だけど、節子さん……ぼく、勉強したいんです」
「わたしより、勉強が大事なのね」
「いや、あなたにふさわしい学力が欲しいから」
また耕作は赤くなった。その言葉に、
「わたしにふさわしい学力!?」
節子は打たれたような顔をした。そして、まじまじと耕作を見ていたが、
「わかったわ、石村さん。わたしもあなたにふさわしい人間になるように、努力するわ」
と、立ってストーブの向こうの座にもどった。
耕作も節子もしばらく黙っていた。ストーブの上の鉄瓶が湯を滾《たぎ》らせている。やや経って、節子が言った。
「幸せだわ、わたし」
耕作を見た節子のまつ毛がぬれていた。その目を耕作がじっと見返した。が、耕作は想いをふり切るように言った。
「こないだ、福ちゃんが泊まって行きましたよ」
「そうですってね。福ちゃんもかわいそうだわ」
しっとりとした節子の声だった。
「節子さんのお兄さんと結婚するとかって、聞きました」
「あら、そんなこと言ってました? 福ちゃん」
「ええ」
拓一のことを思って、耕作は胸が痛んだ。節子は持った茶碗に目をやっていたが、茶碗を置くと、
「ね、石村さん、福ちゃんはほんとは、あなたか、あなたのお兄さんか、どっちかを好きみたいね」
「ぼくのことなんか……」
「じゃお兄さんかしら。よくあんたがたの話をしているわ。とてもあたたかい人たちだって」
「実は兄貴が……福ちゃんを好きなんです」
「そうなの。お兄さんって、立派な人よね。あの三共座の時と言い、それから、こないだのことと言い……」
「こないだのこと?」
「ええ、うちの父がね、あなたのお兄さんに言いがかりをつけたのよ。あの馬を買えたのは、泥流のお蔭だろうって」
「!?」
節子は見たままの一部始終を話した。
「ほおー、それは聞いていなかった」
「まあ! あんな目にあったのに、お兄さん何も言わなかったの」
「兄貴は、自分の心の中だけで、思ってるほうだから」
言いながら耕作は、この節子に深城の血が流れているのかと、ふしぎだった。顔も、声も、性格も、どれひとつ父の深城に似通ったものがない。
「恥ずかしいわ、わたしの父は」
「…………」
馬を買えて、泥流さまさまだと、深城は拓一に言ったという。その言葉を憤ろしく思いながら、耕作は節子の心を思いやった。
「ねえ、石村さん。父はね、兄と福ちゃんのことだって、快くは思っていないのよ。只、兄は気が弱いけれど、妙に固執するところがあるの」
「固執?」
「ええ、執着心が強いのよ。たとえばね、一旦ひとを好きになったら、駆け落ちしたり、無理心中したりしかねないところがあるのよ」
「無理心中?」
「ええ、そんな馬鹿なところを、父も知っているのよ。だから、父は適当な返事をしてるの」
「適当な返事って?」
「そのうちに、必ず結婚させてやるとか、なんとかってね。でもね、父はこういうことを言うのよ。小菊は、うちの商品だって。もっともっと働かせて、金を絞り取らなきゃあなって。今すぐ金一にやってしまうのは、もったいないって。そんなことを平気で言えるのが父なのよ。父にとって、一番大事なことは、儲《もう》けることなの。それが錦の御旗なの。恥ずかしいわ。わたし、そんな父の娘なのよ」
「でも……親と子は、別人格ですよ」
よく市三郎の言っていた言葉を思い出しながら、耕作は言った。
「そう言ってくださるとうれしいけど……。考えてみるとね、石村さん。わたし、福ちゃんたちの働きで生きているのよねえ。このちりめんの着物だって。……そう思うと、わたし、やっぱり家にいるべきか、どうか、迷ってしまうのよ」
その時、どこかの屋根の雪が、どっと落ちる音がした。
「いい天気だあ」
拓一が眩《まぶ》しげに目を細めた。澄んだ青空だ。冬の日が背にあたたかい。
昨日も一昨日もひどい吹雪だった。朝目をさますと、窓の隙間から吹きこんだ雪が、窓ぎわに三角に積もり、枕べにもうっすらと積もるほどだった。その吹雪がやんで、今日は雲ひとつない雪晴れだ。新雪はアスピリンのようにきらきらと日を弾き返す。
「全くだあ」
こんな冬の日は滅多にないと思いながら、耕作もうなずく。十勝岳も芦別岳も青空の下に輝くばかりだ。
小山のように積まれた流木も、二、三日つづいた吹雪で、ひとまわり大きくなった。
二人はかんじきを履き、流木の小山を覆った雪をスコップで跳ねのける。今日は、流木に火をつけて燃やしてしまうつもりなのだ。見渡したところ、どこの田よりも、拓一の田の流木は少なかった。雪の来ない秋口までに、来る日も来る日も、根気よく拓一は流木を泥の中から引き上げた。雪が降って地が固まると、市街の者や近郊の者たちが、積み上げた流木を馬《ば》橇《そり》で運んで行った。薪《まき》にするためだった。
が、それでもなお流木の小山はあちこちに残った。流木は拓一の田んぼにだけあるのではない。上富良野の田地一帯に、流木は至るところに散乱している。しかも硫《い》黄《おう》を含んだ流木は、薪としては良質ではなかった。樹種も雑多で、その上硫黄がストーブを腐《ふ》蝕《しよく》させ、すぐに穴をあけた。それで流木をもらいに来る者も次第に少なくなった。被害者たちは幾度か合議して、流木を燃やすことに決めたのだ。
しかし、その作業も簡単なものではなかった。かんじきで荒雪を踏みしめ踏みしめ、足もとを固めた上で、厚く覆った雪をスコップで跳ねのける。それだけでもひと山に半時間はとられた。流木の隙間に、火をつけたがんぴ(真《ま》樺《かんば》の樹皮)を置き、その上に焚《た》きつけを置く。が、流木が燃え出すまでには、かなりの時間がかかる。凍りついているからだ。
火のついたがんぴの上に、小割りにした薪を根気よく置いているうちに、やがて流木は、じゅうじゅうと音を立てながら燃えはじめる。一旦燃え出すと、硫黄分を含んだ流木は、青い炎を上げて燃えつづける。
「もったいないなあ」
燃やしながら拓一は呟《つぶや》く。
「ほんとだな、兄ちゃん、世が世なら、家の柱や梁《はり》になれた木なのになあ」
「世が世ならか」
拓一がふっと笑った。ひとつの小山に火をつけて、二人はまた流木の山に向かう。
雪を突き崩しながら、耕作は節子のことを思う。節子が当直室を訪ねて来てから、十日経った。あの夜以来耕作は、心にぐんと張りができた。今までの自分とは変わったような気がする。今までの耕作は、ともすれば死んだ祖父母や良子や、富に思いがいき、いつしかむなしくなることが多かった。それが、あの夜から急に未来に希望が持てるようになったのだ。
「石村さん、わたしもあなたにふさわしい人間になるように、努力するわ」
そう言った節子の謙虚で真実な言葉が耕作を変えたのかも知れない。そして節子はこうも言ったのだ。
「幸せだわ」
その時の節子のぬれたまつ毛を、耕作は今も思い出す。自分のような者が、節子のような美しい娘に、幸福感を与えることができる。そう思うだけで、耕作の身のうちから、新たな力が湧《わ》いてくるようであった。
耕作は冬休みの間中、午後から夜にかけては勉強に集中し、午前だけ拓一に手伝うことにした。
「いいからお前は勉強せ。田んぼのことは俺がひとりでやる」
拓一は幾度もそう言ってくれたが、せめて冬休みの間だけでも、耕作は少しでも拓一に手伝いたかった。農家に生まれた耕作は、労働の尊さを覚えていた。まだ二十になったばかりの耕作には、働くことも、勉強することも、共に楽しいことだった。
燃える流木を更に燃えやすいように、鳶《とび》口《ぐち》で動かしながら、
「思い出すなあ」
と、拓一が空を見上げた。風のない日だ。うす青い煙が、真っすぐに立って、冬空にひろがって消える。つられて耕作も、煙を見上げ、
「何をさあ、兄ちゃん」
と問い返した。拓一はひと呼吸おいてから、
「決まってるじゃないか。じっちゃんたちのことよ」
と、火を突つく。耕作ははっとした。自分が、節子のぬれたまつ毛を思い出している時、兄の拓一は、野天で祖父や良子の遺体が焼かれたことを思い出していたのだ。
「じっちゃんたちのことか」
そう言えば確か、あの日の空もこんなふうに晴れ渡っていたと思いながら、耕作は不意に胸がしめつけられた。
「焼くのかあ、焼かんきゃならんのかあ!」
あの時叫んだ拓一の声が、今も耕作の耳にある。郭《かつ》公《こう》が遠く近くで啼《な》いていた五月晴れの美しい丘の上であった。
(そうか。兄ちゃんはさっきから、あの時のことを思って木を燃やしていたのか)
耕作は自分が、何か薄情な人間に思われた。
拓一が先に立って、次の流木の山に向かって歩き出した時だった。
「拓ちゃーん」
大声で呼ぶ声が、道路のほうから聞こえた。拓一と耕作がふり返ると、軍服姿の国男が道路から駆けおりて来るところだった。
「やあ、国ちゃんかあ」
二人も喜びの声を上げた。
福子の兄の曾山国男は、旭川の七師団に入隊していて、今年は満期で除隊になる筈だった。
「拓ちゃんも耕ちゃんも、元気だな」
カーキ色の軍隊オーバーを着た国男は、雪焼けした顔をほころばせて、どぼどぼと深い雪の中に入りこんで来た。
「よく来たなあ」
かんじきをつけた足を大きく踏み出して、拓一は声を弾ませる。耕作も近づく。国男は両手に大きな風呂敷包みを下げている。
「二日休暇が出たんでね」
「じゃ、むろん、俺んちで泊まるな」
拓一が国男の肩を叩く。
「泊まってもいいのか」
「馬鹿言え。泊まって悪いわけがどこにある」
拓一が晴れ晴れとした顔を見せた。
「かんじきがあるか。俺も手伝うぞ、拓ちゃん」
「いいよ、いいよ。折角休暇で来たんだ。俺たちもちょうど一服するところだ。なあ、耕作」
「うん、そうなんだ。とにかく家に入れよ、国男さん」
三人は雪原から道に出た。三人の影が雪の上にかぐろい。
その日、国男は無理に二人に手伝って、夕方までみっちり働いた。耕作も勉強をやめて、国男の語る軍隊の話を聞きながら、共に働いた。その国男のために、佐枝は豚肉ですき焼きをつくってくれた。佐枝は雪の中にみかん箱を置き、その中に肉や凍り豆腐などを、いつでも使えるように保存していた。
火の燠《お》きた七輪の上に、義《ぎ》捐《えん》品《ひん》としてもらったすき焼き用の鍋《なべ》が置かれ、豚肉、長ねぎ、凍り豆腐、焼きふ、玉ねぎなどがきれいに並べられた。白滝も豆腐もないが、一応は肉鍋だ。国男は、うまいうまいと喜んで食べながら、
「これ、何ていう料理だい、小母さん?」
と、佐枝に尋ねた。莚《むしろ》戸《ど》を垂れた貧しい家に育った国男が肉鍋料理を知るわけはない。いや、国男だけではない。拓一や耕作だって、すき焼き用の鍋が配給された時、何の鍋か知らなかったのだ。佐枝が札幌や函館で暮らしていたおかげで、それがすき焼き用の鍋とわかったのだ。お互いに貧しく育った三人だった。
「国ちゃん、これがね、すき焼きとか肉鍋とかいうんだそうだ。俺も、母さんが帰ってこなかったら、こんな料理は知らんで一生終わったかも知らんな」
拓一が佐枝に代わって答えた。
食事が終わってから、国男の手土産のアンパンや羊《よう》羹《かん》を佐枝は出した。軍隊の酒保から買って来たというアンパンは、皮がうすく平べったいが、実にうまかった。
国男は軍隊のきびしい毎日の生活を、またひとしきり話していたが、不意に改まった声で
「拓ちゃん、お前、どうしてここでこんな苦労をしているんだ」
と尋ねた。
「どうしてって……」
あぐらをかいていた拓一が、膝小僧を抱える姿勢になって国男を見た。石油ランプの光に、その拓一の影が動いた。
「どうしてって、拓ちゃん、もっと楽な仕事があるだろうが。軍隊だって大変だが、しかし拓ちゃんの仕事ほど、体にはきつくないぜ。上靴で殴られたり、寒い廊下に立たされたりすることはあってもな」
「…………」
答えない拓一を、国男はじっと見た。その国男の顔を、耕作は見た。
「国男さん。兄貴にはもう何を言っても駄目だ」
三共座での拓一の姿を耕作は思い浮かべながら言った。
「そうか。しかしなあ、拓ちゃん。お前、もう一回、よっく考えてみないか。俺な、拓ちゃんの友だちだから、拓ちゃんの気持ちはよっくわかるつもりだ。……拓ちゃんは、じっちゃんばっちゃんの苦労を思うと、この土地を捨てる気になれないんだべ」
拓一は黙って、右の耳を小指でほじった。
「そりゃあなあ、じっちゃんたちが三十年も苦労して開拓してよ。そして流されっちまったんだもな。丹精して耕した畠ばなあ」
「…………」
「その畠ば取っ返したい気持ち、それはよっくわかる。いわば仇《あだ》討《う》ちのような気持ちだもな。じっちゃんばっちゃん、土地は必ず取っ返して見せるからな、って気持ちだべな」
「…………」
「なあ、拓ちゃん、俺な、お前の片づけた流木に火をつけながら、涙が出たぞ。あんなでっかい流木を、泥の中から引き寄せて積み上げるってことが、どんだけ難儀なことだか、よっくわかる。俺だって、冬山造材したことがあるからな」
国男の声がしめった。
「だけど、冬山造材より、ありゃあもっと大変な仕事だぜ。何せ、泥ん中から引き上げるんだからな」
「うん、まあな」
拓一は掌で鼻をこすった。拓一も国男の言葉に泣きたくなっているのだ。
「ほかの田んぼとくらべてみてもさ、拓ちゃんが、どんなに根つめて働いたかよくわかる。しかしなあ拓ちゃん、あの木の燃える炎を見てみれよ。こりゃあ並み大抵の土地じゃない。なんぼ苦労しても、米ができるかどうか。そう思うとな、俺、もうこれ以上拓ちゃんに苦労させたくないと思ってさ」
佐枝が、ほっと吐息をついて茶をいれ替えた。耕作は食べかけのアンパンを手に持ったまま、挿《さ》しはさむ言葉もなかった。が、拓一は言った。
「国ちゃん、すまんな心配かけて。だけどな、俺、やってみる。難儀なことだからやってみる。楽なことなら、誰でもやるさ。しかし難儀なことは、やる気のある者でなければやれないんだ」
国男は佐枝のいれ替えた茶をひと口飲んだが、
「拓ちゃん、難儀するのはいいよ。する甲《か》斐《い》のある難儀ならな。しかしな、何の報いもない難儀を、俺は拓ちゃんにさせたくないんだ」
そう言って、残りの茶をがぶりと飲んだ。何となく耕作は、
(やっぱり福ちゃんの兄貴だな)
と思った。国男の言葉には、人にはないやさしさがあふれていた。
「うん。俺もそれは何べんも考えた。こんなに血の汗の出るような苦労をしたって、もしかしたら、米は一粒も実らんのじゃないかとな」
「それなのに、なんでそんなに拓ちゃん苦労するんだ。旭川に出ればなんぼでも仕事はあるし、拓ちゃんなら器用だから、立派な大工にだってなれる。どうしてそのことを考えないんだ」
「それはな、国ちゃん。何て言ったらいいのかな。俺は、こんなふうに思っているんだよ。ここに米が実るかどうか。少なくとも、三年経ったらわかるだろう。三年経って、もし実らないとわかったら、その時は俺も諦《あきら》める。すると人は言うだろう。その三年の苦労は水の泡《あわ》だったってな」
「そりゃあそう言うさ」
「しかし、俺はね。自分の人生に、何の報いもない難儀な三年間を持つということはね、これは大した宝かも知れんと思っている」
「宝?」
驚いて国男は声を上げた。耕作も拓一を見た。佐枝だけが深くうなずいた。
「うん、宝だ。たとい米一粒実らなくてもな。それを覚悟の上で苦労する。これは誰も俺から奪えない宝なんだよ。わかるか、国ちゃん」
「…………」
「実りのある苦労なら、誰でもするさ。しかし、全く何の見返りもないと知って、苦労の多い道を歩いてみるのも、俺たち若い者のひとつの生き方ではないのか。自分の人生に、そんな三年間があったって、いいじゃないか。俺はね、はじめからそう思ってるんだ」
「わかった拓ちゃん! さすが拓ちゃんだ。そこまで考えてるんなら、俺はもう何も言わん。拓ちゃんって、凄《すご》い男だな――」
国男は両腕を組んで、じっと自分の膝頭をみつめた。
(なるほど、兄ちゃんはそんな気持ちだったのか)
耕作も改めて頭を殴られる思いがした。何の報われることもない苦労を、兄の拓一は自分の人生における宝だと言う。考えてみると兄という人間は、生まれつき報いを求めない人間ではないのか。
(福ちゃんに対してもそうだ)
耕作はつくづくと思った。
福子は、言ってみれば、世間でいう遊女である。毎夜、男たちの玩具《おもちや》になって、つらい思いをしている遊女である。その福子を、拓一はずっと以前から、同じ気持ちで想いつづけている。拓一は、福子がまだ小学校の時から好きだったと言っていたことがあった。拓一は福子が売られて、男たちの玩具になっても、福子に対する気持ちを少しも変えない。変えないどころか、一途に福子を想っている。そんなに想っている癖に、福子に手紙を出したこともなければ、その気持ちを打ち明けようとしたこともない。
福子のために、金を貯えたこともあった。竹筒に、五銭十銭と入れる時、拓一はどんなに切ない気持ちを持ったことだろう。だが福子には借金がふえるばかりだった。福子はもはや、拓一の手の届かない所にある。しかも、深城の息子の金一が、福子を欲しいと言っているという。福子もまた、金一のところに行くと言っている。
それと知っても、拓一は福子を想いつづけている。いくら拓一が想ったからと言って、何の報いもないのだ。片想いに過ぎないのだ。だが、そのように純粋に想いつづけることができるということは、これもまた拓一の言う「宝」なのかも知れない。
報いがないと知りながら、自分は拓一のように苦労をしたり、一人の女性を想いつづけることができるだろうか。自分が勉強するのは、勉強すればしただけの途《みち》がひらかれるからであり、節子を愛するのは、節子が自分を想ってくれているからだ。
耕作は、節の太い拓一の指を見た。拓一のゆっくりと茶を飲むその横顔を見た。
(かなわない。兄貴にはかなわない)
耕作はそう思った。
国男を真ん中に、拓一と耕作がその左右に寝ている。足もとには、切《きり》炬《ご》燵《たつ》の上に置かれた櫓《やぐら》がこんもりと高い。いつもなら湯たんぽを抱いて寝るのだが、国男の分だけ湯たんぽが足りない。いや、湯たんぽが足りないどころか客布団もない。
切炬燵の灰の中にどっぷりと燠《おき》を埋め、そこに足をさして寝れば、しんしんと凍る夜も、何とか凌《しの》げるというものである。昼まは雲一つないあたたかい天気だったが、こんな日に限って寒さが空から真っすぐに地上に降りてくる。零下二十五度にはまちがいなく降《くだ》る寒さだ。
「びしっ!」
寒さに凍る梁の音がする。と今度は柱が「カーン!」と鳴る。誰かが、家のまわりを太い棍《こん》棒《ぼう》でなぐりつけて歩いているような音だ。
「炬燵か、懐かしいなあ」
国男がため息をつく。
「うん、俺たちも久しぶりだ」
拓一も答える。耕作も今、良子や富と、もとは炬燵に足をさし入れて寝た頃のことを思い出していた。四方八方から足をさし入れて、ある限りの角巻やオーバーやマントを掛け布団の上にかけて寝たものだ。
今夜も、三人はそれぞれのマントやオーバーをかけ、布団の足りないのを補って寝ている。切炬燵を囲んで寝ると、家族が本当に一つになったような気持ちになる。だが、時折鼻や口が乾いて、のぼせることがある。それさえもすべて、耕作には懐かしい。こうしていると、傍に死んだ良子が寝ているような錯覚さえ覚える。きっと国男も、死んだ父母やきょうだいたちのことを思って、
「炬燵か、懐かしいなあ」
と、ため息まじりに言ったのだろう。耕作がその国男に言った。
「国男さん。暮れに福ちゃんも泊まって行ったよ」
きっと拓一が、福子の話をしたいにちがいないと思って、福子の話を出したのだ。が、福子が泊まったことは、既に昼のうちに佐枝が告げていた。
「そうだってねえ。福子も炬燵の中で寝たのかい」
「まさか。うちのおふくろと一緒に寝たよ」
「ここに一緒に寝せてやってくれればよかったのに」
国男がしんみりと言った。
「だって国男さん、ぼくたちも、もう子供じゃないもの」
耕作も答える。拓一は二人の話を黙って聞いている。
ちょっとの間、誰もが黙った。と、国男が言った。
「福子の奴、かわいそうな奴だなあ」
「……国男さん、福ちゃんに会って行くんだろう」
「そりゃあ、会って行きたいさあ。しかしなあ、俺、深雪楼に訪ねて行くのは、たまらないんだよ。あのおやじの顔を見ると、むらむらと腹が立つしな」
「そうだろうなあ、国ちゃんとしても」
拓一が深い声で言った。
「拓ちゃん、お前、投げこみ寺って知ってるか」
「投げこみ寺? 駆けこみ寺じゃないのか」
「いや、投げこみ寺さ。何でもねえ、内地のほうにあるそうだ。福子のような女たちが死ぬとね、その寺の門前の埋め穴に投げておくんだそうだよ。投げっぱなしさね」
「…………」
「葬式も何もない。死にゃあ投げるだけさ。犬畜生の死んだ時と同じ扱いだってさ。遊女ってのは、人間であって、人間じゃないんだよ。人間扱いはされていないんだな」
拓一も耕作も答える言葉がない。
「それからねえ。遊郭ってのは、ありゃあ治外法権みたいなもんなんだってね」
「ふーん、治外法権か」
「旭川にも遊郭があるけどね、大きな門があってね。そこから女たちが一歩外に出ようものなら、逃げたとみなされるんだ。そしてね、ひどい仕打ちを受けるそうだよ。殴られたり、蹴《け》られたり、逆さ吊《づ》りにされたりしてね」
「逆さ吊り?」
「そうさ。そうやって死なせたって、警察は目をつむっているのさ。あんまりつらいからね、遊郭の女たちは、自殺も多いんだ。情死もあるしさ。だけど、それと同じくらいリンチや病気で死ぬんだそうだ」
「うーん、それは知らなかったなあ」
拓一の声が暗い。
「遊郭の女たちから見ると、福子はまだ幸せかも……」
言いかける国男の言葉を遮《さえぎ》るように、拓一が言った。
「そんなことはない!」
拓一には、珍しくきびしい語調だった。
「でもさ、拓ちゃん。幸い上富良野には大門はないしさ。福子はここまで泊まりに来ることもできるじゃないか。まさか、深雪楼のおやじは、殴り殺すようなひどいことはすまい」
「わからんさ、あの男だって。福ちゃんが逃げないとわかっているから休暇もくれたが、もし逃げ出しでもしたら、逆さ吊りくらい、やるんじゃないか。ばくち打ちをいつも用心棒においているという話だよ」
「そうかねえ……」
国男は何か考えていたようだが、闇の中にむっくりと起き上がって、
「あんな、拓ちゃん、北海道の開拓に『御用女郎部屋』っちゅう女郎屋があったんだってな」
「御用女郎部屋? 何だい、そりゃあ」
「何でもさ、明治の頃の話だけどね。札幌のすすきのって所に、東京楼ってえ女郎屋ができたんだってさ。その建築費もねえ、女たちを雇う金もねえ、全部官費でまかなったんだってさ」
「官費!? そんな馬鹿な!」
驚いて拓一も起き上がった。
「いや、ほんとだってさ。だから女たちの年期証文もまだ役所が保管しているという話だよ」
「まさか」
「まさかと思うような話だけどね、この東京楼のために使った官費は一万円だとさ」
「それじゃまるで、官営じゃないか」
「官営さ。そして、こう言ってるんだってさ。遊女もまた開拓の一端を担っているのである、ってね」
崩れるように、国男はまた横になった。
「国男さん。そんな話、どこで知ったの?」
耕作が尋ねた。
「うん、俺と同じ班にね、暇さえあれば本を読んでる男がいてさ。笠巻って男でね、いろいろとよく勉強していて、遊女の歴史もよく調べているんだ」
「ほう……それは大した人間だね」
耕作は何となく、その男の顔が目に見えるような気がした。精《せい》悍《かん》な、そして聡明なまなざしの男にちがいない。遊女について調べているというのは、この世の仕組みについて深く考えるところがあるからにちがいない。耕作自身も勉強が好きだ。だが、勉強好きのその男とは、かなりちがうような気がした。
耕作が勉強するのは、資格を得たいからであり、自分に学力を得たいからである。だが恐らくその男は、自分自身の学力とか資格とかには全く関《かか》わりなく勉強している男なのだろう。そのことが耕作には先ず胸に応えた。と、拓一が言った。
「その男、偉い男だな」
「うん、俺もそう思う。だけどな、軍隊では奴は一番殴られているよ。反抗的だと上官は言うんだな。俺たちと同じ不動の姿勢を取っていても、いきなり奴だけがひっぱたかれることがある。勉強していることが、上官の気に喰わんのだろうな。それはそうと、笠巻はこんな話もしていたよ。拓ちゃん、マリア・ルーズ号事件って知ってるか」
「マリア・ルーズ号? 知らんな」
「そいつはね、そのことにも詳しいんだ。この間聞いたばかりだけどね。何でも明治五年頃の話だってさ。南米から、この船が横浜に入ったんだ」
そのことと、遊女のことと、何か関係があるのかと思いながら、耕作も耳を傾けた。茶の間でストーブに薪を入れる音がした。まだ佐枝がつくろい物でもしているのだろう。
「その船にはね、二百三十人もの苦力《クーリー》(中国人労働者)が乗っていたんだとさ」
「苦力なあ」
拓一がうなずく。
「うん、苦力だ。アモイから乗せられてきたんだよ、二百三十人もね。ところがさ、一人の苦力が、その船から逃げ出したんだ。そしてすぐ近くのイギリス軍艦に、泳いで逃げこんだわけさ。船内でどんなひどい虐待を受けているかを、訴えたらしいんだな」
「なるほど、虐待を受けていたのか」
「それでさ。イギリス船はね、早速公使を通じて、日本の外務大臣に、何とかしてやれと交渉して来たわけだよ」
「外国の船のことに、日本がくちばしを入れていいのか」
拓一が尋ねた。
「いいらしいんだな、それが。領海内の事件というのは、その国が審《さば》くものなんだそうだ。笠巻がそう言っていた」
「それで?」
「それでな、そんな奴隷売買のようなことは無効だとして、苦力を全部中国に帰してやったんだとよ」
「ほう、日本政府がか。大したもんだな」
「ところがさ、話はこれで終わらないんだよ。その南米の船はペルーの船でね、ペルーの国がおさまらない。すったもんだしたわけだけど、ロシヤの皇帝が仲裁に入ってさ、日本の肩を持ったんだそうだ」
「じゃ、日本の言い分が通ったというわけか」
「うん、そうなんだ。ところがね、その裁判の時に、マリア・ルーズ号の船長が、こう文句をつけたそうだ。『そうは言っても、日本では遊女だの、芸者だの、公然と許可しているではないか』とね。それで日本では大あわてで、『芸娼妓解放令』ってのを出したんだそうだ」
「え!? そんな法令が出てるのかい」
拓一が驚いて言った。
「うん、売買は禁止されているんだよ、拓ちゃん」
「それなら福ちゃんだって、自由にしてもらっても、いい筈じゃないか」
「そうなんだ、いい筈なんだ。だけどさ……」
国男は黙りこんだ。拓一は急《せ》きこんで言った。
「その法令は今も生きてるんだろう」
「うん、生きてる筈なんだ。しかしねえ、外国の手前、一応出した法令でね。あってないが如きものさ」
自嘲的な国男の声であった。三人は再び黙りこんだ。やりきれない思いだった。
やがてまた国男が、
「ラッパ節って知ってるか、拓ちゃん」
と言った。
「ラッパ節?」
「うん、
今鳴るラッパは 七時半
っていうあれさ」
耕作は心の中で「ああ、あれか」と思った。時々、高等科の男生徒たちが掃除をしながら歌っているのを聞くことがある。
今鳴るラッパは 七時半
これに遅れりゃ 重営倉
今度の日曜が ないじゃなし
離せ 軍刀に 錆《さび》がつく
トコトットコトー
この歌のことを国男は言っているのだと思った。
「あの歌を、よく兵隊たちがうたうんだ。声を合わせて、手を叩いてな。だけど、俺と笠巻だけは断じてうたわない。しかしね、俺は笠巻に福子のことを言ってはいないんだ。恥ずかしくて言えやしないよ」
「…………」
またどこかで、柱が「びしっ」と音を立てる。
「旭川の中島遊郭にしてもさ。当時の奥田町長や何かは、反対したんだってさ。だけど笠巻が言っていた。結局は、あれは軍と官が強引につくり上げたものなんだそうだ」
「うーん、軍と官がなあ。そうかあ。……しかし、東京楼の話にしても、官営の遊女屋があるとは知らなかったなあ」
拓一が情けなさそうに呟いた。話しながら、三人の胸には福子の顔が浮かんでいる。国男は兄として、肉親の情で福子を思う。そのつらさに、拓一の思いは勝るとも劣らないのだ。耕作にしても、幼い時から福子は、最も親しい幼友だちであった。
耕作が寝返りを打って、国男のほうを見た。枕のソバ殻が、かすかに音を立てた。
「国男さん、さっき、人身売買は、本当はご法度だって言ったでしょう」
「うん、言った」
「そんならさ、福ちゃんを、さっさと深雪楼から取り戻してしまえば?」
「それがさあ、それができれば、俺も悩まないさ。実は旭川にね、佐野文子って、偉い女の人がいてね」
「佐野文子? 聞いたことがあるな」
「時々新聞に出てるだろう。その女の人はね、何でもキリスト信者なんだとさ」
「ふーん、キリスト信者か」
耕作は何となく、母の佐枝を思って、無口で温和な女性を目に浮かべた。
「笠巻はねえ、この女の人のことを、すごく尊敬しているんだ」
「ふーん、じゃ、笠巻って人もキリスト信者かい」
「いや、そうではなさそうだけどさ。この佐野文子さんが、遊郭にしょっ中ビラをまきに行くんだってさ。そしてそのビラにはね、『お困りの人はいつでも私の家においで下さい』って、書いてあるんだそうだ」
「なるほど」
うなずく拓一に国男がつづけた。
「だけど拓ちゃん、これは命がけのことなんだぜ。遊郭の主人は、雇っている牛《ぎゆう》太《た》郎《ろう》を……牛太郎って知ってる? つまり用心棒さ、いや、ごろつきって言ったほうがいいかな。その牛太郎たちが、佐野文子さんの家に押しかけてさ、畳にぐさっと出刃庖丁を突きさしたりしてさ、『命はないものと思え』なんて書いた、脅迫状を置いて行くんだそうだ」
「出刃庖丁?」
「うん。出刃庖丁だよ。しかもさ、この人は未亡人なんだ。女一人の所にそんな奴がやってくる。いや、それどころじゃない。ある時なんか、講演中にね、もちろん公娼廃止の講演でね、これがまた火の玉みたいな激しい講演だそうでね。その講演中に牛太郎たちに日本刀で斬りつけられたこともあったそうだし、首をしめられて、殺されそうになったり、大変な目に遭っているそうだよ」
「へえー、驚いたもんだねえ。で、その人は、今もその運動をしているのか」
「してるどころじゃないよ。妨害されればされるほど奮《ふる》い立つ人とか聞いたな」
「じゃ、その人は、今夜も命がけで戦っているわけか」
拓一が再び半身を起こした。
「ああ、今日も明日も、命がけで戦うんだろうな」
「そうか。偉いもんだなあ」
拓一は胸がつまった。誰もが顧みもしない遊女たちのために、命をかけて戦ってくれている人がいたのか。男たちは玩具にし、女たちは蔑《さげす》みの目で見る。そんな遊女たちのために、命を張って戦ってくれる人がいたのか。
「知らなかったなあ」
拓一が、うめくように言って、
「国ちゃん、その人は一体、どこからそんな勇気が出てくるんだろう?」
耕作も、それを聞きたいと思ったところだった。
「うん、俺もそれがふしぎでねえ。誰だって命は惜しいやね。それなのに、幾度死ぬ目にあわされても、くじけないんだな、この人は。それで俺も笠巻に聞いた。一体どこからそんな勇気が出るんかなあってね。すると笠巻が言っていた。それはね、勇気じゃないよ、愛だよ、ってね」
「愛?」
「うん、佐野さんはね、いつも『愛には恐れがない』という言葉と『人、その友のために命を捨つる、これより大いなる愛はなし』という言葉をモットーにしているそうだ」
「なるほど……愛というものは、そんなに強いものなんだなあ」
拓一は感動して言った。耕作も強く心を打たれながら思った。愛とは、自分を愛する者を愛することだと思っていた。だが佐野文子は、自分とかかわりのない、いわば責任を負う必要のない人たちのために、命を注いでいる。これは生徒を愛する教師の愛よりも、はるかに崇高なものだと、耕作は思わずにはいられなかった。
冬休みも終わって、明日はもう二月だ。
昼食後の休み時間――。広い屋内運動場には生徒たちが一杯に満ちあふれている。一年生は午前で帰ったから、二年生以上の男女生徒が遊んでいるわけだが、その駆けまわる足音、叫び声などが、一つの異様な音響となり、熱気となって、屋内運動場全体がうなりを上げているようだ。
びかびかに光った絣《かすり》の着物の胸をはだけて、とっくみ合いをしている者、息をする度に青っ洟《ぱな》をずるずると、鼻から出したり引っこめたりしながら、じゃんけん遊びをしている者、ちぎれかけた袖をぶらぶらぶら下げながら、息せき切って友だちを追いまわす者、どの頬も真っ赤だ。
運動場の片隅には、女生徒たちが坐りこんで、ガッキという竹返し遊びや、お手玉、あやとりなどをして、そこはまたそこで、楽しげな一劃《かく》をつくっている。
雪がしんしんと降っている窓の外を耕作は見た。この分だとどんどん積もって、少し町から離れた細道を帰る子供たちは、難儀するかも知れない。
耕作は今日は看護当番だ。看護当番は、生徒たちが怪我をしたり、鼻血を出したりしないかと、見守っていなければならない。耕作が看護当番の赤いたすきをかけた日は、受け持ちの生徒たちも諦めて、自分たちだけで遊んでいる。若い教師たちは、休み時間には生徒たちと一緒に遊ぶのだ。何人かの教師たちが、今日も鬼ごっこをしたり、手をつないで「花いちもんめ」の遊びをしたり、相撲をとったりしている。
決められたわけではないが、男生徒たちと女生徒たちの遊ぶ場が、大体二分されている。だが男の子の中には、ちょろちょろと女生徒たちの中に走りこんで、背中を突ついてみたり、お下げ髪を引っぱったりして、いたずらをしたがる子がある。今も一人、五年生の男の子が、女の子のお下げをつかんだ。女の子がふり向くと、あわてて逃げ出した。女の子は若浜の妹だ。そのぱっちりとした黒い目が、男の子を睨《にら》み、やにわに男の子にかかって行った。女の子が二、三人加勢した。男の子が逃げた。が、本気で逃げているのかどうか、女の子たちにつかまった。若浜の妹は、赤い唇を尖《とが》らせて、何か文句を言っている。女の子たちが、指で男の子の肩をこづく。男の子はニヤニヤしていたが、いきなりべろりと舌を出して、不意に鉄砲玉のように逃げて行った。
耕作は思わず微笑した。耕作は小学生の頃、女の子にいたずらをしたことはない。だが、ふっと、今の男の子のような気持ちになったことは幾度もある。女の子のお下げ髪というのは、男の子にとって、妙にさわってみたいものなのだ。ほんのちょっとでいい、きゅっと引っぱってみたいものなのだ。
耕作は何とはなしに節子のことを思った。節子もこの屋内運動場で遊んで育った筈だ。きっと節子は、今の若浜の妹のように、男の子たちにいたずらをされたにちがいない。特に節子は、今でも珍しい洋服を着ていたのだ。節子のことだから、きりりと眉を上げ、男の子を突きころばしたにちがいない。男の子は突きころばされるのがうれしくて、いたずらをするということなど、節子は知らなかったことだろう。
(しかし、男と女とは、一体何だろう)
耕作は、教師になっても、女生徒と手をつないで遊んだり、女生徒が耕作の体に触れることに、何となく違和感を感ずる。男生徒となら相撲もとる。テクサと言って、手刀で相手の膝から下を切りつける遊びもする。力一杯に押してくる男生徒の体を、押し返すこともできる。だが女生徒となると、微妙にちがう。女生徒の柔らかい体は、抱き上げることも、押し返すことも、若い耕作にはできない。
耕作は手をうしろに組んで、ぶらぶらと生徒たちの遊ぶ姿を眺めながら、いつしか運動場の一隅を占拠している女生徒たちに近づいて行った。高学年の女生徒たちの中には、編み物をしながら、ちらちらと絶えず耕作に視線を投げかけている者もある。耕作が近づいて行くと、その一群は何となくお互いを突つき合って、くすくすと笑った。みんな、若い耕作が好きなのだ。
立ちどまった耕作は、お手玉をしている四、五年生の女生徒たちの群れを見た。女生徒たちは、ニッと笑って耕作を見、見られていることを意識した表情になってお手玉をつづけた。
「おひとつ、おひとつ、おひとつおろして、おふたつ……」
おかっぱ頭の、丸顔の子が、器用にお手玉を空中に放り上げながら、それが落ちてくる間に、床においた他のお手玉を左手にひとつずつのせていく。しもやけの赤い手だが、器用にしなう。つぶらな目をくりくり動かしながら、素早く親玉を見、子玉を見る表情が、はたから眺めていても楽しい。
その隣でもお手玉をしている。ここでは歌に合わせて、三つのお手玉を順に空中に投げ上げては、受けとめている。
さいじょう山は 霧ふかし
ちくまの川は 波高し
はるかにきこゆる 物音は
さかまく波か つわものか
四人程の仲間が声を合わせてうたっている。その子たちのお手玉は、鈴の音がする。隣の子たちのお手玉は縞木綿だが、この子たちのお手玉はちりめんだ。同じお手玉でも、貧富の差があることを、耕作は思った。
と、お手玉を取り落として、次の子の番になった。歌も変わった。
にわかにどよむ 人の声
夜《よ》深き夢を 破りけり
折しも寒月 色冴《さ》えてぇ……
そこで失敗して、また次の子に代わった。耕作はどうしてお手玉の歌は戦さの歌なのだろうと思う。先の歌は何の戦いかわからぬが、後の歌は確か忠臣蔵の討ち入りの歌だ。耕作たちも小学生の時歌った歌だ。子供たちが口から口に伝えるので、時にまちがえてうたうこともある。「にわかにどよむ」が「にわかによどむ」に変わったりするのはいつものことだ。
そんなことを思いながら立っている耕作に、横にいたガッキ遊びの女生徒が甘えて言った。
「石村先生。こっちも見てぇ」
六年生の女生徒だ。笑くぼが頬に深くひっこむ。
「おお、ガッキか。見てるよ、やってごらん」
耕作は一歩近づいた。
「じゃ見てね」
ガッキ遊びは、幅二センチ長さ二十センチほどの竹切れを、ささくれ立たぬようによく磨いたものを使う。笑くぼの女の子は、この竹を四本、床の上に揃《そろ》えて立て、さっと手を離して、崩れて来ないうちに、素早く逆手に握り、また立てては同じことをくり返す。更に、四本まとめて宙に放り上げ、まとめて受けとめもする。これもお手玉同様素早さを要求される遊びだ。この遊びには男の子もよく加わる。
「ひとなげ、ふたなげ、みなげ、よなげ、いつなげ、むなげ」
何の曲もない掛け声のような歌だが、これもまた耕作には懐かしい。「見て」と言っただけあって、笑くぼの女の子は、宙に放り上げても、手の甲にのせても実に鮮やかだ。が、その手が少しひび割れている。家では水《みず》汲《く》みも茶碗洗いもしている手なのであろう。継ぎを当てた赤いベッチンの足袋が、小さな尻からのぞいている。並んで坐っている子の手は、ほっそりと青白い。
(節子はどんな手をしていただろう)
耕作はまた節子のことを思った。そして福子の手が時々ひび割れていたことを思い浮かべた。
(しかし、この学校の生徒は幸せだ)
耕作は単級だった日進の沢の学校を思い出す。あの学校には、屋内運動場などはなかった。だから冬でも、ひどい吹雪や寒さがない限り外で遊んだ。雪玉をぶつけたり、深い雪の中をずぼっずぼっと、ぬかって歩いたり、わざところげまわって遊んだものだ。外で遊べない日は、教室や廊下や玄関で遊んだ。一年生も六年生も、共に一つの教室で過ごしたあの学校が、ひどく懐かしくもあるし、妙に侘《わ》びしくもある。
(そう言えば菊川先生にも、しばらくお会いしていないな)
今年の正月は、耕作は菊川先生の所を訪ねなかった。去年、肉親や、家や田畠を失った者にとって、今年の正月はひとしお淋しい正月だった。耕作も拓一も、あまり人に会いたいとは思わなかった。妻子を泥流に奪われた菊川先生も、多分誰にも会いたくないだろうと、耕作は勝手に決めて、訪ねて行かなかった。だが果たして、菊川先生も同じ思いであったかどうか。耕作はひょいと気にかかった。
昼休みの時間は一時間ほどある。生徒たちは十五分ほどで食事を終え、そのあとは、力一杯運動場で遊ぶ。その長い休み時間も、あと十分ほどになった。耕作は講壇の横の柱時計を見上げた。柱時計の振り子の蓋に、第七回卒業生一同と、金文字で書かれてある。その金文字の蔭に、大きな振り子が行ったり来たりしていた。
と、その時、
「石村先生」
と呼ばれた。ふり返ると花井先生が、少し疲れたような顔で立っていた。
「何か用事でしたか」
耕作は、花井先生の疲れた顔が気になった。花井先生は今、妊娠中なのだ。紫の袴《はかま》の下に、そのふくらみがおおいきれなくなっている。花井先生は耕作の傍に、更にすり寄るようにした。
「実はね、今朝から石村先生にお話ししたかったんだけど、先生は看護当番でお忙しかったでしょう」
耕作はうなずいた。看護当番の日は、職員室に顔を出す暇もない。
「それで?」
「実はね、節子さんのお母さんが、昨夜大変だったのよ」
「節子さんのお母さん? どこか体でも悪くして?」
「いや、体どころじゃないのよ。節子さんのお父さんに追い出されたの」
「追い出された!? どうしてまた?」
生《な》さぬ仲ではあっても、節子の継母のハツは、控え目な気立てのよい女だった。
「詳しくはあとで言うわ。とにかくそれでわたし、昨夜眠れなかったの。だってそのお母さんを、うちに泊めたんですもの。石村先生、今日帰りに、うちに寄ってくださらない? 節子さんが先生に相談したいって、言ってるの」
「え? 節子さんが」
うなずいて花井先生は、生徒たちの群れの中にまぎれて行った。
「ま、ごめんなさい、お呼び立てして」
花井先生の家の二階の八畳間に、節子と継母のハツがいた。憔《しよう》悴《すい》しきったハツの目のふちが、青黒かった。
「どうしたんです、節子さん」
ハツに挨拶してから耕作は言った。節子は黙って耕作の顔を見た。ストーブの中で、薪のはじける音がした。ハツが言った。
「何とも、降って湧いたようなお話で……」
ハツはうつむいた。そのあとを引き取って、節子が話しはじめた。
「ほんとにそうなの。昨日の今頃は、まさかこんなことになろうとは思わなかったのよ。昨夜ね、八時過ぎに食事が終わって、茶の間を出ようとした時なの。不意に父が、『ハツ、お前俺の金を盗んだだろう』と、いきなりこうなのよ」
節子の話によると、次のようなことだった。金を盗んだだろうと言われたハツが、何のことかわからず、ぽかんとして深城の顔を見た。そのハツの胸ぐらを取って、深城は怒鳴った。
「白っぱくれた顔をすんな、白っぱくれた顔を!」
「白っぱくれるも何も、藪《やぶ》から棒ですわ、あなた」
「じゃ、金庫の金の足りないのは、どうしたんだ。鍵《かぎ》を持っているのは、俺とお前だけだ。百円も足りないのは一体どうしたわけだ」
「百円? 百円なんて、そんな……」
おろおろするハツに、深城は、
「手癖の悪い女はごめんだ。今日限り出て行ってもらおう」
と、大声で喚いた。節子は余りのことに、深城に詰めよって、
「お父さん! 何を言うのよ! お母さんはそんな人じゃないわよ」
と、かばった。深城は、
「じゃ、どうして金庫の金がなくなるんだ」
「そんなことは知らないわ。とにかくお母さんは、真っ正直にできている人よ。真っ正直だからこそ、今までお父さんも金庫を委《まか》せていたじゃありませんか。今まで一度だってお母さんが、自分勝手にお金を使ったことがあって?」
「今までは今までだ。とにかく百円なくなったんだ。俺は金のごまかしだけは許さん。今すぐに出て行け」
深城は一歩も譲ろうとしない。ハツは、
「出て行けとおっしゃるなら、出て行きます。でも、泥棒呼ばわりをされて出て行くわけにはいきません」
と静かに答えた。ハツには深城の胸のうちが読みとれたのである。深城はこの頃富良野に好きな女ができて、それを囲っているという噂《うわさ》があった。多分その女を引き入れるために、根も葉もないことを言いがかりにして、自分を追い出すのだとハツは気づいたのだ。が、その時節子は深城に言った。
「お父さん、金庫のお金はお父さんのお金なの? 夫婦の間に、俺の金もお前の金もないでしょう」
「お前は黙ってれ!」
深城は高飛車に言った。
「いいえ、言うわよ。深雪楼を取りしきっているのはお母さんでしょ。お父さんはぶらぶら、好きな所を出歩いているだけでしょ。金庫のお金はお母さんのものよ」
「節子! 生意気言うな」
「金庫のお金がなくなったかどうか、どこに証拠があるのよ。第一金庫の鍵は、いつもタンスの中にあるでしょう。わたしだって、お兄さんだって、鍵のあり場所はわかってるのよ。もしお金がなくなったら、わたしが盗んだのよ」
「うるさいっ! お前は黙ってれってえんだ。どうして黙らんのだ!」
深城は節子の頬を殴りつけ、
「とにかく、ハツ、今夜限りさっさと出て行け。いいか、わかったか」
と、部屋を出て行こうとした。金一は、只ぼんやりとその場を眺めているだけで、声一つ出そうとしない。そのことにも腹を立てた節子が、部屋を出ようとする深城に言った。
「お母さんが出て行くんなら、わたしも出て行くわ!」
「なにい!?」
深城は鬼のような顔をしてふり返り、
「何べん出て行けば気がすむんだ! この親不孝者めが」
と節子の前に立ちはだかった。
「親不孝じゃないわ。わたしお母さんに親孝行だから出て行くのよ」
「この馬鹿が! ハツはお前を生んだんじゃないぞ。この世でお前の親は俺だけだ」
「いいえ、お母さんは、わたしのたった一人のお母さんよ。血肉を分けようが分けまいが、わたしにとっては只一人のお母さんよ。でもお父さんは……ああいやだ、わたしがお父さんの子だなんて!」
「節子っ! 貴様、それが親に言う言葉か」
再び節子の頬が鳴った。その途端に、節子は人の噂を思い出した。富良野にいる女の噂だった。殴られながらも節子は言った。
「わかったわ! お父さんの卑《ひ》怯《きよう》者《もの》! 富良野の女の人を、この家に引き入れるつもりなんでしょう。何の罪もないお母さんを追い出して」
深城は一瞬黙ったが、俄《にわ》かにひらきなおったように言った。
「俺の好きな女を、俺が引き入れようと入れまいと、勝手だろうが」
節子は、ことの次第を耕作に告げ、
「ね、石村さん、わたし家を出てもいいでしょ」
と、耕作をみつめた。
耕作は腕を組んだ。
家を出ていいかと節子に尋ねられても、咄《とつ》嗟《さ》に答える言葉がない。節子の話を聞けば、あまりにも深城のやり方は非道であった。何の罪もないハツに言いがかりをつけて、今すぐに出て行けとは、常識では考えられないやり方である。そんな父親に腹を立て、継母と共に家を出ようとする節子の気持ちは、耕作にはよくわかった。
(だが……)
と、耕作は思う。この際節子がハツと共に家を出ることが、最善の道かどうか、耕作には決しかねた。
「……節子さん、あなたのためにも、お母さんのためにも、それが本当に一番いい道かどうか……どうもぼくにはわからない」
「そうなのよね、石村先生。節ちゃん、わたしもそれを考えるのよ。家を出るということは、何せ一大事ですもの」
花井先生も言う。が、耕作の思いは、ちょっと花井先生とはちがう。人生にはいろいろ一大事がある。結婚も一大事だし、就職も一大事だ。いや、もっと深く考えてみると、毎日が一大事だ。右を選ぶか、左を選ぶか、人は毎日選択を迫られている。その選択を誤って、遂には人生を誤るということもある。という意味で、耕作は万事に慎重なほうであった。だが、今、花井先生が言ったような意味で、家出だから一大事だという考えは、耕作にはない。とは言っても、確かに生活力のない女が家を出るということは大変なことであると思う。
「節子さん、あなたが家を出たいという気持ちはわかる。ぼくもあなたの立場なら、そうしようと思うかも知れない。しかしね、ぼくにしても、あなたにしても、まだ若い。もう少し別の道がないか、考えてみたらどうだろう」
耕作は考え考えそう言った。
「別の道?」
節子の眉根が、きゅっとひそめられ、
「別の道ってなあに? お母さんだけ、一人で出て行かせるっていうこと?」
「いや、そうじゃなくて、あなたがお父さんに詫《わ》びを入れてあげるとか、誰かお父さんの親しい人に、お父さんを説得してもらうとか、そんな道はないものかと思ってね。親戚の方もいられることでしょうし」
「石村さん、そのことはわたしも考えたわ。でもね、父は親戚とはほとんどつきあいがないの。親戚ってのは、事あるごとに金をせびりに来たり、文句をつけに来たりするだけだって言うの。それでね、近頃はどこともとんとつきあっていないのよ」
「なるほど」
うつむいているハツも、耕作と共にかすかにうなずいた。
「父が一番頭の上がらない人といったら、あの富良野の博《ばく》打《ち》打ちの親分よ。今度の女の人は、その遠縁の人なのよ。父としては、あの親分を後ろ楯にしておけば、このあたりに恐ろしい者はなくなるわけでしょう」
「…………」
「吉田村長のことを泥棒村長なんて叫んで歩いた連中ね、あれはみんなあっちの一家なのよ。そこの親分に、いつまであの娘を日蔭の身分にしておくんだなんて言われたら、そのひとことだけで父はどんなことでもするわよ。多分そんなことで、母を急に追い出しにかかったんだわ。ま、それはともかく、父って、理屈の通る人じゃないの。損得だけが問題なのよ」
「…………」
そんな馬鹿なと、言いたい思いを耕作はじっとこらえた。自分の住む世界とは、あまりにも異なる世界だった。耕作の家は、祖父母を見ても、夫婦はいたわり合うものであったし、きょうだいは互いに思いやる存在であった。家族とは、誰に強制されなくても、親しみ睦《むつ》び、愛し合うものだと耕作は思っていた。だが、深城はちがう。昨日まで仲よく暮らしてきた妻を、その日のうちに出て行けと言う。自分の息子の愛する福子を、店の商品だから、今しばらく金を絞り取ってから娶《め》合《あ》わすと言う。
耕作は改めて、節子を見、ハツを見た。そんな深城のような男を父とし、また夫として生きてきた二人の女性を、耕作はつくづくと見た。そして不意に、この二人を、命に替えてでも、かばってやりたいような激しい衝動を覚えた。よほど耕作は、
「ぼくの家にいらっしゃい」
と言おうかと思った。この事情を拓一と佐枝に告げたなら、頼まれなくても二人はきっと、節子とハツを引き取ろうと言い出すにちがいない。だが深城は、それと知ったなら力ずくでも節子をつれ戻すにちがいない。以前に節子が家を出た時、何も関知しない耕作の家に、深城は怒鳴りこんで来た。節子を取り戻しに来る深城の顔が目に見えるようで、耕作は、わが家に来いとは言いかねた。と言って、この二人が、どうやって食べて行けるだろう。生きるということは、決して生やさしいことではないのだ。
腕を組んでじっと考えこんでいる耕作を見て、節子は言った。
「石村さん、わたしは家を出るより仕方がないのよ。わかってくださるでしょう」
耕作は花井先生を見た。花井先生は、大きく肩で息をした。坐っていると、花井先生の腹部は、学校にいる時よりせり上がって見える。
ハツが言った。
「石村さん。わたしは、節ちゃんの気持ちだけで、それだけでありがたいんです。でも節ちゃんに一緒に出られては、わたしの立場が……」
声が涙にくもった。血のつながりのない節子が、共に家を出ようとしている。身に覚えのない疑いをかけられて、家を出なければならないハツにとって、節子の心はたまらなくうれしいのだ。
ハツにしても、好きで深城と一緒になったわけではない。金で落籍《ひ》かされて、遊女から深城の妻になったに過ぎない。それでもハツは、世間並みに妻と呼ばれる身になったことを、どんなに素直に感謝してきたことか。
たとえ深城という人間が気に染まぬにせよ、生さぬ仲の金一と節子に気を細かく使わなければならないにせよ、遊女であるよりは、どんなにありがたいことかと、ハツは感謝して生きて来たのだ。只従順に、控え目に、深城に従って生きて来たのだ。
それが、突如として、猫でも捨てるように、ぽいと家を追い出されてしまった。ハツはたちまち身の落ちつく先もない境涯となってしまったのだ。妻とは呼ばれていたものの、籍などむろん入っていたわけではない。ハツを守る法律はどこにもなかった。着のみ着のまま同然で、ハツはひとまず花井先生の家に身を寄せたのだ。と言って、深雪楼の隣のこの家に、幾日も住んでいられるわけはない。花井先生が深城に、一度は口をきいてくれたが、怒鳴り返されたことは、まだ耕作の耳には入ってはいない。そんな目に遭わされて、尚《なお》かつハツは、深城に遠慮して、
「わたしの立場が……」
と言ったのだ。
「そうだなあ、小母さんの立場もあることだしねえ。節子さんをつれて出たと言われては……」
耕作の言葉に、花井先生もうなずいて、
「ほんとよねえ」
と呟く。すると節子がじれったそうに、
「お母さん、お母さんは、あんなひどいことを言われて追い出されたのよ。もうお父さんに、気兼ねすることなんかないわ」
「でもね、節ちゃん、世間の皆さんが……」
ハツは弱々しく言ってうなだれた。
「お母さん、世間って何よ。世間ってのはね、要するに一人一人の人間よ。何を世間に遠慮しなければいけないのよ」
「…………」
「第一ね、お母さんは今まであんまり遠慮しいしい生きてきたわ。遠慮をしているとね、世間というものは、その遠慮した分だけ、図々しく踏みこんでくるものなのよ。もうこれ以上、何も遠慮することなんかないわ。遠慮したからって、世間がお母さんに何をしてくれるのよ。ね、そうでしょ、お母さん」
「それでもねえ。わたし一人で生きてきたわけじゃないんで……」
あくまでハツは気弱だった。
豆腐屋の食堂から親子どんぶりを取って夕食をすませると、ハツは目まいを起こして倒れかかった。そして別の部屋に用意された床に寝た。昨夜以来、一睡もしていなかったハツは、心労と疲労に憔悴し切ったのであろう。
節子と耕作と、そして花井先生の三人が、茶を飲みながら話をつづけていた。
「だけど節ちゃん、あなた、どこに出て行くつもりなの」
花井先生の言葉に、節子が黒いまつ毛をちょっと伏せたが、すぐにそのまつ毛を上げて耕作を見た。
「問題はそれなのよ、石村さん。この上富良野には、わたし、もう住めないわ。母も住みづらいでしょうしね。それに、父も毎日のようにやって来るでしょうからね」
ハツの憔悴にくらべると、節子はむしろ生き生きとさえしていた。それは、節子が本気で新しい生活に立ち向かおうとしている証拠だと、耕作は思った。
(この人はいつも真剣に生きている人だ)
ふっと耕作はそう思った。
「じゃ、どこに住むのよ」
花井先生は心配そうに言う。
「わたし、前に出た時、兄が東京にいたから東京に行ったわ。でも今度は……わたし余り遠くに行きたくないの」
節子がちらりと耕作を見た。耕作にしても、同じ思いだった。節子がこの村から出て行くというだけで、耐えられないような淋しさを、耕作は先ほどから感じている。節子は一体、自分のことをどう思って家出をしようとしているのかと、耕作は思っていた。この冬休みの間、耕作はほとんど当直を買って出た。節子は毎晩訪ねて来たいと言ったが、耕作は五晩に一晩しか訪ねて来ることを許さなかった。節子は耕作が寸暇を惜しんで勉学したい願いをよくわかって、耕作の言葉に従った。そして、
「修業中の身だから、ぼくたちはどこまでも清い交際をしようね」
と言う耕作の言葉にも、節子は従ってくれた。だから二人は、当直室で語り合っても、手を握ることさえしなかった。手を握らなくても、心はしっかりと結ばれているように耕作は思って来た。その節子が、突如、ハツに従って家を出ると言う。耕作はひどく淋しかった。この自分のいる土地とはちがう所で、生きて行くという節子の強さが、耕作には淋しかったのだ。
「わたしねえ、澄子さん。自分はもっと強い女だと思っていたのよ。でもねえ、石村さんとちがう土地に住むことを思うと、淋しくって、淋しくって……」
節子はうつむいた。耕作もうつむいた。
「節ちゃん、そりゃあ当たり前でしょう。でもそれを聞いてわたし、安心したわ。節ちゃんは、お母さんの前じゃ、そんなことひとことも言わないんだもの」
花井先生がしみじみと言って節子の肩に手をかけた。と、節子の膝に、涙がぽとりと落ちるのを耕作は見た。その涙を見ると、耕作は今更のように深城が憎かった。ハツと節子をここまで苦しめる深城の生き方が憎かった。考えてみると、佐枝がこの村から出なければならなかったのも、祖父の市三郎との間を、深城がつまらぬうわさを流したからだ。そのつまらぬうわさを本気にする者が幾人かいて、佐枝は家を出るより仕方がなかったのだ。様々に渦巻く怒りに耐えながら、その男がこの節子の父なのだと耕作にはそれが不思議でならなかった。
「石村さん、わたし、旭川に住みたいと思うの。旭川なら、ひと月に一度や二度、お会いできるわね」
うなずきながら耕作は、この際節子が、深城のもとを出るのは良いことだと、確信を持って言えるような気がした。今まで幾度か、節子があの深城の娘でさえなければと耕作は思ってきた。節子自身、福子たちの働きで生きているのがやり切れないと訴えたこともあった。そしてそのために、自立したいと言ったこともあった。
(遅かれ早かれ、節子は家を出なければならなかったのだ)
耕作はそう思った。もしこのまま深城のもとにいるとしたら、節子は、まともな形で自分と結婚することはできないにちがいない。深城が二人の結婚を許す筈がないからだ。今のうちに節子が家を出てしまえば、二人の結婚はむしろ自然な形で成り立つ日が来るように思われた。そう思うと、耕作は積極的に節子の相談に乗り出す気持ちになった。
「そうですか。旭川なら、ぼくも日曜日には行ってみれると思うね、花井先生」
「そうね。上富良野にいても、二人は会いづらいでしょうしね。旭川なら一時間余りで出れる所だし……。でも、節子さん、旭川でどうやって食べていくつもり?」
「それをわたしも、いろいろ考えたのよ。初めは店員になろうかと思ったの」
「でも、店員というのは通いでしょう? すると、住む家を探さなければいけないわね」
「むろんそうよ。とにかくお母さんと二人でしょう。住む所がなきゃあならないの。間借りでも何でもして」
間借りという言葉が、耕作にはひどく切実にひびいた。天井の低い、どこかの二階の侘びしい部屋が、目に浮かぶようであった。窓をあけても、隣の家の壁が目の前にあるような、そんな風通しの悪い部屋を、耕作は想像した。
「それでねえ、いろいろと昨夜考えたのよ、わたし。そしてね。ふっと考えたのが、あの沼崎先生のことなのよ」
「沼崎先生? というと、あの沼崎重平先生のこと?」
沼崎重平は隣村の美《び》馬《ば》牛《うし》に、開拓医として入り、その名を馳《は》せた人格者であった。今は旭川の向井病院という大きな病院の院長をしている。開拓医当時、どんなに寒い日も、どんなに吹雪の日も、その往診を断ったことがないと、耕作も小学校の時から聞いていた。旭川に出てからも、聖者の如くに敬慕されているといううわさを、この村の人々も聞いていた。
「わたしねえ、あの先生の所にお訪ねして、事情を話してみたいと思うの」
「じゃ、節子さんは、看護婦さんになるつもりですか」
耕作は驚いた。
「はじめはね。向井病院の住み込み看護婦になりたいと思うの。そして、お母さんだって四十代でしょ。お台所の仕事くらいはできると思うの。だから、二人で住み込ませていただければ、家賃の心配は要らないし、食べていけることだけは、まちがいないわ」
「なるほど」
「わたしだって、看護婦の服さえあれば、そんなに着替えの必要はないし、これはなかなか名案だと思うのよ、石村さん」
「なるほど名案ですね、それは」
ようやく耕作は笑った。この美しい節子が、白衣を着て、きびきびと病院の廊下を歩く姿が、目に見えるようであった。だが、美しいだけに、たちまち節子は、医者や男の患者たちの注目を浴びそうで、それがまた新たな不安でもあった。
「それは名案だけど節ちゃん」
と、花井先生は、ちょっと首を傾けて、
「いつまでもそうやってるわけにもいかないでしょう。お母さんだって、あなただって」
「ええ、わたしだって、お母さんをいつまでも働かせるつもりはないのよ。それでね、看護婦をしながらわたし、お産婆さんの勉強をしようと思うの」
「お産婆さん!?」
花井先生は驚いて、自分の大きな腹部に、思わず両手を当てた。その様子がおかしくて、節子と耕作は、声を上げて笑った。笑いながら耕作は、何か明るい人生がひらけてくるような、そんな希望を持たずにはいられなかった。
煮こごり
「お前らのおやじが死んだのは、ちょうどこんなあったかい冬の日だったなあ」
修平叔父が茶碗むしを一口、口に入れてから窓の外を見て言った。
今日は拓一たちの父親、石村義平が冬山造材で丸太の下になって死んだ忌日である。修平夫婦、田谷のおど、吉田村長の妻、そして佐枝、拓一、耕作の七人が、卓を囲んでいた。
屋根の雪が融けて、軒に雫《しずく》が流れるように絶え間なく落ちている。そしてその雫の幾箇所かが真昼の日にきらめく。
「んだ、んだ。ちょうど今日みたいな日でよ」
この頃またひとまわり小さくなった田谷のおどが、キンピラゴボウをつまんだ箸《はし》で、窓を指す。
拓一たちの父親が死んだのは、大正二年二月二十一日である。今日は二月十九日だから、本当は明後日が十五年目の命日なのだが、今日は日曜日なので、二日繰り上げて、法要をすることになったのだ。法要と言っても、このあたりの農家では、僧侶などは来ない。僧侶が来るのは葬式の時ぐらいだ。
「拓ちゃん、あの時あんた、歳幾つだったべか」
少し派手になった紫地に、藤の花模様の羽織を着たソメノが言う。
「俺? 俺はねえ、あん時九つだったよ、叔母さん」
「ふーん、九つなあ」
と修平が言い、体ごと拓一のほうに捩《ね》じ曲げて、
「お前、そんじゃおやじのこと、よく覚えてるべ」
「うん、よく覚えてるよ。炉端で庖丁ば研いでいたり、 鋸《のこぎり》の目立てをしてたっけ」
拓一は感慨深げな顔になった。耕作も、その父の姿は、既に六歳になっていたから覚えている。と、田谷のおどが、
「んだんだ。器用な男でよう。ちょうど拓ちゃんと耕ちゃんば一つにしたような、頭のいい親切な男だった」
と身を乗り出す。修平が持っていた茶碗むしの茶碗を下に置き、
「それだって! 兄貴は頭がよくて、その上器用でよ、気持ちはやさしくて、素直でな。そのいいとこばっかし、そっくりお袋の腹ん中から持って生まれたべ。だからよ、次に生まれる俺には、いいとこなんぞ何にも残っていねえのよ。俺は短《たん》腹《ばら》で、へそ曲がりで、不器用ときている。お前らの父親は、それしかお袋の腹ん中に残していなかったもなあ」
みんなが思わず笑った。修平があまりに真顔で言ったからだ。確かに修平叔父と拓一たちの父親とは、性格がちがっていた。が、真正直に今のように言われると、耕作は修平叔父に今までにない親しみを感じた。みんなが笑い終わってから、自分も笑っていたソメノが言った。
「あんた、そだこと正直にみんなの前で言うもんでない。笑われっから。あんただって、いいとこあっから、わし嫁になったんだもの」
ソメノも真顔で言ったので、みんな再び笑った。
「しかし何だな義《ね》姉《え》さん。総領の甚《じん》六《ろく》っちゅうが、その言葉どおりでもないもんだなあ。俺は甚六だども、兄貴は優っていた。しかし、ここの拓一と耕作は、甲乙がつけられんからな」
「そうだってば。ここの伜《せがれ》共《ども》……」
と言いかけて、田谷のおどはあわてて、
「ここの拓ちゃんや耕ちゃんは、こんまい時からいい子だったあ。俺たち柄沢の奉公人共に会っても、小父さんこんにちはって、ていねいに頭下げてくれてよ」
「んだねえ、義姉さん、親はなくても子は育つってほんどだね。父さんは死んだ、母さんは遠くさ行った。そんでもこんなにいい若いもんに育つんだもんねえ。じっちゃんばっちゃんが偉かったからもあっけどさ、うちの子供らなんど、たあだ親さ楯《たて》ついてばかりいて……」
ソメノが愚痴った。吉田村長の妻が、
「ところで、拓ちゃんたちのお父っつぁまは、幾つで亡くなられたね」
優しいものの言い方だ。
「はい、三十二歳だったんですよ」
佐枝はストーブの上の鉄《てつ》鍋《なべ》から、お椀に吸い物を盛りながら言う。
「三十二!?」
やや疳《かん》高《だか》い声で言い、
「そんなら佐枝さん、あんたまだ、ほんまに若かったなあ。えらい苦労をしなさったねえ」
修平がうなずいて、
「ああ、苦労した、苦労した。何せ、大黒柱を失ったんだ。あとはじっちゃんばっちゃんと女子供だ。子供らも淋しい思いをしたさな」
佐枝が家を離れたことには、さすがに修平も触れない。
何とはなしにみんなが黙った。襖《ふすま》を取り払って、ふた間を通した部屋に、拓一が今日のために造った飯台が二つ並べられてある。そしてその上には、茶飯、茶碗むし、キンピラゴボウ、大根と人《にん》参《じん》の膾《なます》、カスベの煮魚が並べられている。酒は三重団体のしきたりによって、出してはいない。
耕作は、昨夜佐枝が煮つけたカスベに箸をつけた。煮こごりが寒天のようにぷるぷるとふるえる。この煮こごりが耕作は好きなのだ。耕作はその冷たい煮こごりを舌にのせながら、誰よりも苦労したのは、母ではないかとしみじみと思う。母のいない自分たちも淋しかったが、それでも自分には祖父母がいた。きょうだいがいた。だが母は、子供と遠く離れて、赤の他人の中で何年もの長い間、病み臥《ふ》していたのだ。その淋しさはいかばかりだったかと、耕作は今更ながら、佐枝の気持ちを思いやることができるのだった。それは、節子と離れて、初めて知る思いかも知れなかった。
と、その時、田谷のおどが言った。
「話はちがうども、深雪楼のおやじにも、困ったもんだなあ」
「何だ、またあの男、何か仕出かしたか」
修平が茶飯を頬張りながら言う。
「仕出かしたも何も、ほら、こないだ後妻ば追い出したって聞いたべさ」
例によって耳の早い田谷のおどが、人のうわさ話になると、異常な熱心さを示す。
「うん、その話だば、俺もちょっと人から聞いているどもよ」
「すると、あのめんこい娘が、おやじに腹立てて、おっかあのあとを追って、家を出たんだと」
「ふーん、それは知らんかったな。血もつながっていねえ継母のあとば追ったってか」
耕作はうつむいて二人の言葉に耳を傾けた。
「そうだってば。継母の味方ばして、風呂敷包みひとつで、追ん出たとよ。偉いもんだ、あの女《め》ろっ子も」
「ふーん」
ひとうなりしてから、修平は疑わしげな顔で、
「しかしな、おど。継母のあとを追んだもんだか、誰のあと追ったもんだか、わかんねえぞ、おど」
耕作は思わず修平叔父の顔を見た。
「いや、そんなことはねえな、何せ……」
言いかけるおどの言葉も聞かず、
「おやじん所にいりゃあ、何の苦労もねえものを、わざわざ血もつながってねえ女に、従《つ》いて出てくかなあ。ね、村長さんの奥さんよ」
修平は信じようとしない。耕作は、かっと頭に血が上るような腹立たしさを感じた。
「さてねえ、どういうことかねえ。その娘さんを、わたしよう知らんもんねえ。どんな娘さんですか」
「顔は少しばかりめんこいどもよ。どうせ深城の娘だ、性悪にちがいねえ」
修平の言葉に、それまで黙って聞いていた拓一がきっぱりと言った。
「叔父さん、鳶《とび》が鷹《たか》を生むっていうたとえもあるからね」
「なんだ、お前深城の娘ば、かばうのか」
修平は呆《あき》れたような顔をした。復興反対派のお先棒をかついでいる深城に、拓一たちは苦い目にあわされている筈なのだ。吉田村長のあとを尾《つ》け「泥棒村長」と連呼して歩いた男たちは、深城が雇った富良野の博《ばく》徒《と》の身内だという評判もある。
「かばうわけじゃないよ。叔父さん。福ちゃんも言っていた。あの節ちゃんには、大した優しくしてもらっているって」
「ふーん、お前ら若えもんは、ちょっと顔のめんこい女の子には、甘えからな。なあ田谷のおど」
修平は傍《かたわ》らのおどの、小さな肩を叩く。が、おどは首を横にふって、
「いんや、拓ちゃんは、女に甘くてあの娘ばほめてるわけじゃねえべ。わしは昨日、こんな話ば聞いたぞ」
「どんな話だい」
修平が言い、拓一も耕作もおどを見た。
「何でもよ、あの娘は、あの後妻と二人で、沼崎先生んとこに住みこんだとよ」
「何? 沼崎先生? そんじゃ、あの旭川の向井病院か」
「そうだってば」
「そりゃ本当の話か、おど」
修平は残っていた茶碗むしを、一気に口の中に流しこんだ。
「うそだと思うんだら、市街の飛沢先生に聞いてみれ。おら昨日、飛沢病院にやらされたんだ」
おどが前に奉公していた柄沢農場の家は泥流の下になったが、農場は丘の上に広々と残されていた。
「それで?」
「それでよ、飛沢先生の奥さんが、台所の棚の釘《くぎ》がゆるんだようだから、ちょっと見てけれって、おらに言ったからよ、釘ば打ちつけて、お茶ばごっつぉうになって、世間話になってよ。そこで深城の話になったっつうわけだ」
おどの歯は前歯が二本欠けて、それがおどの顔を一層親しみのある顔にさせている。
「そこで聞いた話じゃ、なんでも深城のおやじは、向井病院まで娘ば取っ返しに談判に行ったそうだ」
「談判? あの馬鹿が! 沼崎先生に談判に行ったってか」
今まで疑わしげに聞いていた修平が、もうすっかり話に引きこまれた顔になって言った。
「ああ、談判に行ったど。うちの娘ば返してくれって」
「あの先生に談判なんぞしたら、罰《ばち》が当たるぞ」
修平は、もう十何年も前の冬の夜、沼崎重平先生に往診をしてもらって、貞吾の急性肺炎をなおしてもらったことがあった。もしあの時沼崎先生が、
「こんな吹雪に、何里もの道を行くわけにはいかん」
と言ったら、貞吾の命はなかったにちがいない。馬《ば》橇《そり》に乗って美《び》馬《ば》牛《うし》まで迎えに行った修平でさえ、あの吹雪の中では無理だと、幾度か途中から引き返そうと思ったのだ。それ以来修平も沼崎先生を貞吾の命の恩人として崇《あが》めている。しかも去年は、沼崎先生の何年がかりの運動で、美馬牛に駅ができた。旭川に去ってからも、このあたりの住民たちのために、大きな力を注いでくれていたのである。その沼崎先生の所に談判に行ったと聞いて、修平は怒った。
「あの馬鹿野郎、一体どんな面《つら》して談判したんだべ」
「あんた、そんなに馬鹿野郎、馬鹿野郎言うもんでないよ」
ソメノが袖を引いた。
「この馬鹿が。いらんところに口出すな。おど、そしてどうしたんだよ」
修平はじりじりして言う。耕作も息をつめて聞いていた。深城が談判に行った話は、耕作も知らなかった。節子から二度ほど病院の様子を書いて来たが、そんなことには触れてはいない。節子が家を出てから、まだ二十日足らずだ。それにしても深城はどうして節子たちが向井病院にいることをそんなに早く嗅《か》ぎつけたのだろう。やはり旭川と上富良野では近過ぎたかと、耕作は更に耳を傾けた。
「いや、深城にしても、沼崎先生にはちょくちょく世話になった恩はある。そうゆすりたかりのような談判はできねえが、とにかく沼崎先生に会った」
「それはわかった。その次がどうしたっちゅうんだ」
「まあ、せっつくな。話には順序があっからな。とにかくこんな事情で娘が家を出たと、深城が言った。すると先生は、何も言わずに黙っていられたそうだ」
「それで、先生様何と言いなすったね」
今度はソメノが聞いた。
「先生が黙ってるもんだから、深城はますます後妻の悪口ば言い、何とか節子ば帰してくれと頼みこんだ」
「なるほど、それで?」
「先生はじーっと深城の顔をみつめていたが、涙をぽろーっとひとつ、こぼされたそうだ」
「涙? 一体何の涙だ」
「哀れな男だと思ったのかも知んねえな。とにかくあの娘ば、すぐにそこに呼んだそうだ」
「何々? 先生は深城の味方をしたってえのか」
「ま、最後まで聞けってこった」
田谷のおどは、のどに絡まった痰《たん》を、懐から出したちり紙代わりの古新聞にぺっと吐くと、言葉をつづけて、
「その娘に、こう言ったそうだ。節子さん、お父さんがこう言って来ていなさるが、あんたは、帰って行く気持ちがあるかね。すると娘は、死んでも帰りませんと答えた」
「ふーん、なるほど」
「そしたら先生が、深城にこう言ったそうだ。わしも人の子の親として、あんたの気持ちはよくわかる。しかし、死んでも帰らんと言う娘さんの気持ちもよおーっくわかる。ここに置いて、決して悪いようにはしないから、どうかわしに免じて娘さんのすることを許してやってくれませんかね。あの先生は、誰にでも言葉のていねいな先生様でな。そう言って先生は、座布団からすべりおりて、深城の前に深く頭を下げたっつうんだな」
「うーん、頭をなあ。あったら奴の前に頭ば下げたのか」
「ああ、あったら奴の前に頭を下げる。それが沼崎先生よ」
「そうだかも知れねえなあ、あの先生なら。俺だば、奴の頭を二つ三つぶんなぐってやるとこだけどな」
「んだんだ。それがおらたちよ。だどもな、先生は、お前が悪いおやじだとか、何で後妻ば追い出したとか、そんなお咎《とが》めも説教も、何もなさらん。只ぽろーっと涙ばこぼして、頭ば下げた。これだばなんぼ深城だって、どうしようもないわな。それでよ、しょうことなく、娘ば置いて帰って来たとよ」
耕作は思わず、ほっと吐息をついた。佐枝も拓一も、吉田村長の妻も、同じように吐息をついた。
「飛沢先生の奥さんと、沼崎先生の奥さんと、仲がいいべ。飛沢先生の奥さんが、ちょうど遊びに行って、その話ば沼崎先生の奥さんから詳しく聞いたんだと」
「ふーん、あったら奴に、頭まで下げてなあ」
修平はまだ口《く》惜《や》しそうにくり返す。
「だども先生はな、深城の娘ばほめてたと。しっかり者で、何ひとつやるにも真剣で、必ず、いい産婆になるべって」
耕作は拓一を見た。耕作と拓一の目が合った。拓一が深くうなずいて見せた。耕作もうなずいた。拓一は微笑した。耕作も微笑した。
ソメノが言った。
「それでは、深城のおやじは、息子と二人でいるわけかね」
「なあに、前からできていた女ば、富良野から引き入れて、その女がなんでもしたたかもんだという話だあ」
佐枝が眉をひそめた。
「ほら、富良野の博《ばく》打《ち》打ちの身内だよ。この頃急に博打打ちの出入りが激しいとよ、深雪楼も。客も減るんじゃねえべか」
「そうか。客が減りゃあ、めでてえ話だ。しかしなんだな、深城からそったら娘が生まれたなんて、信じられん話だな」
「いや、そうでもねえど。あんまり親が深酒すっと、息子が飲まねっちゅうし、あんまり親が生まじめ過ぎっと、とんでもねえ道楽息子ができるっつうし」
おどの言葉に、みんながうなずく。軒の雫が一段と激しくしたたっていた。
蕗《ふき》のとう
今日もどんよりとした鰊《にしん》ぐもりだ。あたたかい、しめっぽい空気だ。半年の間田んぼを覆っていた雪も、いつのまにか融《と》けた。この二、三日前から、拓一は従弟《いとこ》の貞吾に手伝ってもらって、暗《あん》渠《きよ》造りの仕事をしている。その二人の姿が、ひらいた戸の向こうに遠く見える。
「大変だわねえ、拓ちゃんも」
土間に屈《かが》んで、鰊の腹を切り裂いていた福子が言う。このところ鰊が大漁で、どこの農家にも、どっさどっさと、幾箱も鰊を運んで来た。佐枝と福子は今、土間で鰊の腹を裂き、ひらき鰊を作っているのだ。血にまみれたしら子を、福子の白い手がつかみ取って、ざるの中に入れる。佐枝が今ひらいた腹からは、数の子が出る。数の子は数の子のざるに入れられる。福子はぬらりとした鰊のはらわたをつかみながら、ふっと母のことを思い出す。母もよく、たすきをかけ、暗い土間に屈んで、一人黙々と鰊の腹を裂いていたものだ。土間一杯に生臭い匂いが終日こもっていたが、それでも福子たち子供は、鰊が来ると喜んだものだ。そば粉をねって菓子代わりに食べるしかない貧しい生活の中にあって、鰊はありがたい食べ物だった。
福子の家に鰊が来る頃は、どこの農家にも鰊が来た。そしてその軒先や庭先に、ひらかれた鰊がぶら下がっていたものだ。
(鰊の干されてある間は、ひもじい思いをしなくてもいい)
福子はそう思ったものだ。そしてひどく金持ちになったような気がしたものだ。
びがびがに光るうろこが、庖丁の刃にも柄にも、びったりと貼《は》りつく。ひんやりとしたはらわたを桶《おけ》の中に捨てながら、福子はあの黙々と働いていた母の心の中にあったのは、何だったろうと思う。ふだんはお人好しで、人前では満足に口も利けない父が、酒が入ると、人から鬼に変わった。そして、母の髪の毛をつかんで引きずりまわしたり、子供たちを蹴《け》飛《と》ばしたりした。その上、博打に手を出し、借金が絶えなかった。
だが、今考えてみると、母はその愚痴を子供たちの前に、こぼしたことはなかった。いつも黙って働く母だった。時たま、前垂れで眼を拭っていたことがあった。子供の福子たちは、囲《い》炉《ろ》裏《り》にくべた薪《まき》の煙が目にしみたのだろうと、勝手に思っていた。子供たちはまだ、母の苦しみや悲しみを察することもできず、話し相手になることもできぬ齢《とし》だった。
(言いたいことが、さぞたくさんあっただろうに)
十代を過ぎた今になって、福子はようやく母の胸のうちを察することができるようになったのだ。取り返しのつかないような思いがした。
考えてみると、女というものは、誰もがあの母と似たり寄ったりの生涯を送るのではないか。それでも母には、舅《しゆうと》、姑《しゆうとめ》がいなかったから、そのほうでの苦労はなかった。だが、世には一生、自分の思いを自分の中だけで耐えて生きていかねばならない女たちが、多いのではないだろうか。この拓一たちの母にしてもそうなのだと、福子は思った。
「すまないね、福ちゃん。折角のお休みだというのに、こんなことをさせてしまって」
「いいえ、ちっとも。わたし、小母さんの傍《そば》にいるだけで、とっても楽しいんだもの」
福子は、まな板の上のうろこをこそげ落としながら答える。うろこがぎらぎらと光る。
「そう言ってくれると、小母さんもうれしいわ」
佐枝がにっこりする。その佐枝を福子は、美しい人だと思う。
(いや、美しいのともちがう)
美しいといえば、節子は美しい。描いたような眉、彫りこんだような二《ふた》重《え》瞼《まぶた》、女の福子が見ても、飽きることのない美しさなのだ。
(この小母さんは、只美しいという顔ではない)
やさしいのだと思う。だがそう思って、福子はすぐに、
(でも、単にやさしいのともちがう)
と思う。やさしいことから言えば、深城に追い出されたハツは実にやさしかった。福子たちが食事をしている所に来て、自分で味噌汁などを盛りつけてくれながら、
「あんたたち、さぞつらいだろうねえ」
と、よく涙をこぼしてくれたものだった。
「あのお内《か》儀《み》さんのためなら、少しぐらいのつらいことは、我慢するよね」
福子たち深雪楼の女たちは、時折そう語り合ったものだった。
(ここの小母さんは、美しくて、やさしくて、そして、それだけではない)
一体それは何だろうと思う。
(強いのだ)
福子は手早くしら子をざるに投げ入れ、ひらいた鰊を箱に放りこんでいく。
(でも、どこからくる強さかしら)
佐枝が取り乱すという姿を、福子は想像することができない。
(とにかく、深いのだわ。深くて、しんとした強さがあって、そしてやさしいのだわ)
この佐枝も無口だと、福子は思う。恐らく、語りたいことが一杯胸に詰まっているにちがいない。爪の先まで、髪の先まで、体一杯に、言いたい思いが詰まっている筈なのだ。その佐枝の心の中を聞いてみたいような気が、福子はした。
「小母さん、幸せって、何かしら?」
「幸せ?」
一瞬、佐枝の手がとまった。が、素早く鰊の腹を切り裂いて、
「福ちゃんはどう思う?」
と、問い返した。
「そうねえ。この鰊が大漁で、御殿が建つほどだって聞いたけど、御殿が建つほど儲《もう》けても、しあわせではないと、わたし思うの」
深雪楼は、この上富良野でも屈指の金持ちだ。だがその家庭が幸せかどうか、福子は既に知っている。
「でもね、小母さん、娘を売るほど貧乏なのは、やっぱり不幸せよね」
佐枝は黙ってうなずいた。金は決して人間を幸せにするとは限らない。が、極端に貧しいのは、福子のような境涯に娘たちを追いやることにもなる。
「わたしね、小母さん。この頃何となく、しあわせな気持ちになってきたの」
「まあ、そう。それはよかったわ。あそこの息子さんと結婚することに決まったの」
「いいえ、それは……わたし、断るつもりなの」
「あら、どうして。いくことにすると言ってたじゃない?」
福子の手が少しのろくなった。
「でも、やめたの」
福子の口もとが微笑していた。佐枝はちょっと考える顔になり、幾匹か立てつづけに鰊の腹を裂いていたが、ふっと土間の外を見、
「あら、少し空が明るくなってきたようね」
と言った。二箱買った鰊は、あらかた処理されていた。
「一服にしましょうか」
「ええ。じゃわたし、拓ちゃんたちを呼んで来ます。きっと疲れたと思うわ」
福子は言い、土間の隅で、うろこと血のこびりついた手を洗いはじめた。
暗渠造りは汚い仕事だ。底三十センチ、上で七十センチ幅の溝《みぞ》を掘って行く。二人は股《また》までのゴム長靴を履き、ゴム合《ガツ》羽《パ》を着、その体を土に持たせるようにして溝を掘って行く。これが、ふつうの土地なら、まだ楽だ。が、泥流に押し流されたこの地帯には、思いもかけない大きな木が残っていたり、下駄やら、釜《かま》やら、板などが出てきて、その度に二人は難儀した。しかも土は柔らかい。柔らかい土は、折角盛り上げても、ずり落ちる。だから二人は、短く掘っては柴木を敷き、その上に土管を埋め、更に上からまた柴木をかぶせる。平地とちがって、狭い土の中では体の動きが拘束される。そして泥だらけになる。
(少しでも、この硫黄をふくんだ水が流れ出せば、土は生き返る)
そう信じて、拓一は掘って行く。確かに作業は楽ではない。だが、これはやり馴れた労働のひとつだ。どんなに汚かろうと、どんなに体力を要しようと、若い拓一には、悲鳴を上げるほどではない。この辛さの向こうに待っている豊かな土壌を夢見て、拓一は小柴をぞっくりと底に敷いていく。辛いのは労働ではない。小さな子供の下駄が出て来たり、鍋釜が出て来たりする時だ。
(この下駄をはいていた子供は、死んだのだろうか)
(この釜で、何十年、誰かが朝晩食べてきたんだろうなあ)
そう思うと、拓一はたまらなくなる。
(必ず復興して見せる!)
その度に、拓一はそう思うのだ。
が、貞吾は、拓一よりのんきだ。
「うへーっ、またこんなものが出て来やがった。いやんなっちゃう」
大声で貞吾は文句を言う。まるで拓一に文句を言っているように聞こえる。拓一はその度に、
「すまんな」
と、答える。貞吾はまたもそもそと言い出す。
「拓ちゃん、この土地、本当に復興できるのかなあ。暗渠掘るにも何にも、いろんな雑ぱが多過ぎるわ」
投げやりな声だ。もう幾度も人から聞かされた言葉だ。
復興反対派の活動は今《いま》尚《なお》つづいている。吉田村長はいつも、突き上げられている。博徒の子分が、命を狙っているという噂《うわさ》もある。いや、噂だけではない。この間夜中に、何か只ならぬ音がして、拓一と耕作が飛び起きた。何事かと外に出た時は、もう騒ぎのやんだあとだった。
翌日、ていと弥生が遊びに来て言った。
「あのね、おうちのガラス、割れたの。石がね、飛んで来たの」
「ガラスが割れた? 石が飛んで来た?」
「うん、おかあちゃんがいっていた。だれかが、よなかに、いしをなげよったって」
弥生があどけなく言った。
「まあ! それは恐ろしかったでしょう」
佐枝が言うと、弥生はあどけなく頭を横にふって、
「ううん、わちはねむっていたの。だからしらんかったの。でも、おねえちゃんは、ないたんだと」
「まあ! ていちゃんは知っていたの?」
「うん、泥棒村長、殺してやるって、石がばらばら飛んで来たんだもの。おっかなかったわ、小母さん」
ていは涙を浮かべて言っていた。そして、佐枝に言っていた。
「ねえ、小母さん。うちのお父さん、どうして泥棒村長なの。ほんとに泥棒村長なの?」
弥生が真似して、
「ほんとにどろぼうそんちょうなの?」
と尋ねた。
「何が泥棒なものか。弥生ちゃんたちのお父さんは、日本一の村長なんだ。偉い村長なんだ」
拓一が言うと、佐枝も横から、
「ほんとうよ、日本一の村長さんよ」
と慰めた。
「そしたら、どうして泥棒って言うの?」
ていは浮かぬ顔で聞く。
「デマなの。出まかせなの。悪いおとながいてね、いい人のことを、わざと悪くいうことがあるの」
「ふーん。おとなって、うそつきなの」
「うそつきもいるのよ。ていちゃんのお父さんやお母さんのように立派な人もいるけど」
そんなことを思っていた時、福子の呼ぶ声がした。
「拓ちゃーん。一服にしましょう」
拓一が驚いてふり返った。
(なんだ、福子が来ていたのか)
急に心が明るくなった。貞吾が言った。
「なんだ、福ちゃんじゃないか――。いつ来たあ?」
「お昼過ぎ――」
「泊まっていくのかあい」
スコップを土に立て、田んぼの上に這《は》い上がった拓一が言う。
「泊まって行きたいけど――、でも泊まれないわ」
福子は拓一たちの近づいて来るのを待っていた。一服と聞いた貞吾はすぐに仕事をやめて、さっさと先に母《おも》屋《や》のほうに歩いて行く。
「少し痩《や》せたようだね、福ちゃん」
福子の前に来た拓一が、泥だらけの顔を福子に向けた。福子は拓一のその顔をじっとみつめてから、
「そうかしら」
と、並んで歩き出した。
「体だけは大事にしなきゃな」
いたわり深い声音に、しっかりとうなずいて拓一を見上げ、
「拓ちゃんも、体を大事にね。暗渠つくるって、大変よね」
とやさしい。
「仕事というものは、何でもみんなつらいものさ。何せ、仕える、事《つか》えると書くのが仕事だと、よくじっちゃんが言っていた」
福ちゃんだってつらいだろうという言葉を、拓一は飲みこんで言った。
「仕える、つかえる? そう、事という字も、つかえると読むの。わたし、知らなかった。拓ちゃんは、ほんとに仕えているのよねえ。拓ちゃんのこの苦労で、この田んぼがいい田んぼになったら、百年後、二百年後の人たちも、この田んぼのおいしいお米を食べれるんだもねえ」
「福ちゃん!」
拓一は言葉をつまらせた。未《いま》だかつて、自分の仕事をそのように評価してくれた者はない。ほとんどの者が、只復興を危ぶむばかりなのだ。復興派の農家の者たちでさえ、
「果たして、苦労が実を結ぶかなあ」
と言うことがある。それなのに福子は、百年後、二百年後の人が、拓一の今の苦労によって、おいしい米が食べられると言ってくれた。
(そうだ! 百年、二百年はおろか、一旦復興したなら、代々の人たちがこの田んぼで、喜びつつ耕していくことができるのだ)
多くの人の喜びを思うと、自分一人の苦労など、どれほどでもないような気がした。たといどれほどの労力と時間が費やされても、この土地が生き返れば、年々稲は多くの実を結ぶ。もしこのまま放っておけば、永久に荒地となるのだ。
「ありがとう福ちゃん! 福ちゃんの今の言葉で、元気が出たよ」
「ほんと? 拓ちゃん」
「ほんとだとも。全身から力が湧《わ》いてくるようだよ」
「ありがとう。そんなに言ってくれて、うれしいわ」
福子は佐枝に借りたモンペのひもを結び直しながら、蕗のとうの出ている小道を歩いて行く。
「福ちゃん」
ちょっと改まった声で、拓一が呼んだ。
「なあに?」
おしろいけのない福子の頬に、かすかに微笑が浮かんだ。
「……いや、何でもない」
泥をつけた拓一の顔に、一瞬淋しい影がよぎった。
「拓ちゃん、耕ちゃんがこの四月から、六年生を受け持つんだって?」
「うん」
拓一は何か考えている顔だった。
「六年生を教えるなんて、耕ちゃん偉いわね」
「うん」
拓一は別のことを考えているようだった。その拓一に気づいて福子が笑った。
「何を考えているの、拓ちゃん」
「いや、……あの……福ちゃん、金一君とこに、いつ行くんだ」
福子は立ちどまって、
「金一さんのとこ? わたしやめたわ」
「え!? やめた?」
「ええ、やめるつもりなの」
「どうして?」
「だって、拓ちゃん、しあわせになるんなら、嫁に行けって、いつか言ってくれたでしょう。わたし、あの拓ちゃんの言葉を思って生きるほうが、しあわせだから……だから」
福子は、じっと自分の足もとをみつめながら言った。
耕作は、放課後の教室で、今日書かせた綴り方を手にとった。耕作はかなり大きな期待をこめて、採点を始めようとしている。
この四月から、耕作は六年生の男子組を受け持つことになった。この生徒たちを三、四、五と三年間受け持って来たのは、まだ若い教師だった。と言っても、耕作より五つほど年上だ。ふつうなら、残りの一年も持ち上がるのが当然なのに、なぜか校長は、この六年生を耕作に受け持たせたのだ。
受け持ってみて、耕作はそのわけがわかったような気がした。どこか生徒たちは力がなかった。たとえば、先々週初めて書かせた綴り方でもそうである。ある生徒の「春」という綴り方は次のようなものであった。
〈  「春」
うららかな春が来ました。野にも山にも、美しい花が咲き、小鳥がかわいい声でさえずります。小川の水はさらさらと流れ、ほんとうに春は楽しいと思います〉
これを書いた生徒は、いつも姿勢の正しい、そして、滅多に大声を出さぬ女のような生徒だ。
耕作はこれを読んで驚いた。何を書いているのかと思った。これを書いた時はまだ、春とは言っても、校庭の土が、雪どけ水で泥んこのようになっていた頃だ。どこの庭にも、水仙の芽も出ていない頃なのだ。それなのに、この生徒は野にも山にも美しい花が咲き、小鳥がさえずっていると書いたのだ。その上、小川の水はさらさらと流れていると書いている。冗談ではない。小川も雪どけ水で勢いよく流れていた。
(この子は一体、何を見て生きているのだろう)
耕作は言いようのない思いだった。子供というものは、もっと物事をみつめているものなのだ。絶えず驚きを感じている筈なのだ。そしてその驚きを自分の言葉で表すものなのだ。これでは余りにも無気力だ。物事への感動を失ってしまっている。一体、どうしてこんなことになったのか。
が、次の子の綴り方を読んだ時、耕作は何かがわかったような気がした。
〈  「僕の両親」下出 吉三
僕の父は、毎日勤めに出かけます。そして僕らを養って下さいます。悪いことを叱ります。成績がよいとほめてくれます。
母は、朝早く起きてご飯を炊き、掃除をしてくれます。洗濯もします。買い物にも行きます。僕の母はやさしいです。
親は、こうして僕たちをかわいがって下さいますから、僕たちは幸せです。何と親はありがたいことでしょう。僕は大きくなったら偉い人になり、親に孝行をつくしたいと思います〉
耕作はこれを読んだ時、本当の話涙が出た。この生徒の父と母のイメージが、一つも浮かんで来ない。只親はありがたいもの、子供は孝行をつくすものという、観念だけで書いた綴り方だった。
(この子は、父や母を一体どう思っているのだろう。本当に父が好きで、本当に母が好きなら、こんな綴り方が生まれる筈がない)
耕作はさむざむとした思いがした。評を書く気すらしなかった。
そこで、その次の週、みんなと話し合った。
「春」という綴り方を耕作が読み上げると、うまく書けていると生徒たちは言った。
「そうか。うまく書けているか。ではどこの所がうまいか、先生に教えてくれないか」
耕作が尋ねると、生徒たちは押し黙った。そして顔を見合わす。やがて一人が手を上げて言った。
「うららかな春が来ました、という書き方がうまいです」
ほっとしたように生徒たちがうなずき合った。
「そうか。先生はまだ寒い春だと思うがなあ」
あの頃は、校舎の蔭に雪も残っていた。耕作の言葉に、生徒たちはとまどったような顔をした。
「野にも山にも、美しい花が咲いているかなあ」
耕作は窓の傍に行って、外を眺めながら言った。生徒たちは、
(そうだなあ)
という顔で、首をかしげた。
「小川の水が、本当にさらさら流れているか、ちょっと外に出て見て来ようじゃないか」
耕作は生徒たちをつれて外へ出た。小川の傍に立って、生徒たちは今更のように声を上げた。
「さらさら流れていない。ごうごう流れている」
一人が言うと次々と生徒たちが言う。
「汚い雪どけ水だ」
「濁っている」
「水がよじれてる」
「あれっ? 岸のほうと、真ん中と、高さがちがうぞ!」
書いた子も驚いて叫んだ。
「変なものが流れて来た。なあんだ藁《わら》だ」
「棒っこも流れていくぞ」
みんなの声が出つくしたところで、耕作は言った。
「どうだ。みんなわかったか。これが、この辺の四月の小川だよ」
耕作は言って聞かせた。そして教室に帰って、みんなで話し合ったのだ。
「綴り方はなあ。見ないことは書くな。自分が本当に見たことを書け。見たことを見たとおりに書け。聞いたことを、聞いたとおりに書け。そして、自分の考えたことを、自分の考えたとおりに書け」
生徒たちはうなずいて聞いていたが、しかし頼りなげな表情でもあった。
それから一週間経った今日の綴り方なのだ。耕作は期待と共に、一抹《まつ》の不安を感じながら、最初の綴り方を読む。放課後の校庭に遊ぶ子供の声がする。近所の子供たちが遊んでいるのだろう。赤ん坊の泣き声もする。それらが、かえって教室の中をしんとさせる。
〈  「うちの猫」旗 義夫
うちの猫は、年がいくつか、僕は知らない。だけど、どこのうちの猫よりも大きくて、いつもじっと、ストーブのそばにすわっている。僕が茶の間に入っていくと、目をあけて僕を見る。それから、
「ふん、お前か」
というような顔で、また目をつぶる。その様子がいかにも強そうだ。近所の人も、猫の王様だとほめてくれる。
歩く時、いつものっそりと歩く。隣の猫は、時々小走りに走るが、うちの猫はめったに走らない。
隣の三毛と、うちのトラが、昨日、屋根の上でけんかになった。隣の三毛が、しっぽを太くして、ニャーゴとなく。トラが大きな声でうなった。あ、トラがかかっていくぞと思って、ぼくはみていた。ところがトラは、何を思ったか、うなりながら後ずさりをはじめた。そして、軒から下に、ずどんと落ちてしまった。
見ていた人たちが、みんなアハハ……と笑った。ぼくは恥ずかしかった。トラがあんなに弱かったとは知らなかったのです。大きい者が強いとはいえないのです〉
耕作は思わず笑いながら、旗義夫のトラホームでしょぼしょぼした目を思った。旗義夫は、割合うまいほうだが、更にぐんとうまくなった。耕作の注意をよく聞いて、見たとおりに書いている。耕作は最後のほうの「知らなかったのです」を「知らなかった」に、「いえないのです」を「いえないのである」に直し、評を書いた。
「義夫の家の猫の様子が、先生にもよくわかったよ。うまく書けている。義夫の家の猫は、弱いのではない。弱い猫を相手にしなかったまでだ。強い者は、弱い者に、むやみに飛びかからないものだ」
評を書きながら、耕作はふっと吉田村長を思い浮かべた。いつかの冬の夕べ、何人かの荒くれ男に「泥棒村長」と呼び立てられながら、後をつけられていた村長の、黙々とした乱れのない足取りを思い浮かべた。
次々と耕作は綴り方を読んでいく。きょうだいげんかをした話、借金取りが来て、その晩母が泣いた話など、前回には見ることのできなかったような内容もある。きっと耕作が、
「何でも正直に書け、お父さんとお母さんがけんかした話だって、かまわないぞ」
と、幾分冗談まじりに言った言葉が利いたのであろう。それでもまだ、今までの癖が直らず、「春の小川がさらさら流れる」調のものが、全くないわけではない。
大体において、このクラスの生徒たちの綴り方は短かった。二百字詰用紙に、二枚も書けば長いほうである。それが八枚も書いているのが出てきた。水谷甚四郎という生徒である。題名を見て、耕作ははっとした。「十勝岳の爆発」という題だ。
やがて、五月二十四日の爆発の日がやってくる。甚四郎はその爆発を思い出して書いたのだろう。
〈五月二十四日、ぼくは学校から帰ると、すぐ畜舎に行って、牛や馬に食わす藁を切っていた。しばらくすると、ゴーゴー、ドドードドーと、聞いたこともない変な音が、体をふるわせるように聞こえてきた。
何だろうと思って外へ出ていたが、雨が降っているので何も見えないが、たしか学校のほうの方角からのようなので、兵隊の演習が終わって、戦車が何台も国道を帰って行くのだろうと思って、また藁仕事をつづけていると、今度は道路のほうで大きな声がするので、顔を出すと、市街に用足しに行っていた父が、何やら叫びながら走って来る。
よく聞いてみると、硫黄山が爆発して、山津波が来るから、早く山へ逃げよと言っている。
山が爆発して大水が出るのは変だなと、首をひねるゆとりもなく、ゴーンゴーンと山のお寺の鐘が鳴り、ジャンジャンジャンと、部落の半鐘が鳴り出したので、只事ではないと、早速家に駆けこんで、鞄《かばん》をしょって、妹をせかして外に飛びだし、日頃かわいがっていた子牛をつれて、夢中で走り出した〉
耕作は、あの日をありありと思い浮かべる。山の上から見た祖父母と、良子の姿が目に浮かぶ。
「何か見えるーっ?」
澄んだ良子の声が聞こえる。ほっとため息をつきながら、耕作は水谷甚四郎の綴り方に目をやる。
読み終わった耕作は、この甚四郎の綴り方には、評の書きようがない気がした。文章が長過ぎるとか、句読点のつけ方がどうであるとかいった注意をさえ、書くことがためらわれた。
(もうすぐ一年か。早いものだなあ)
耕作は立って、窓の傍に寄って行く。窓から見える十勝岳はまだ真っ白に雪をかぶっている。山はまだ冬なのだ。
二、三日前から、ようやく乾きはじめた校庭に、パッチをしている男の子たちがいた。着物の裾も胸もはだけて、頬を赤くして、パッチをふり上げては地面に叩きつける。その勢いで、地面に置かれたパッチがひっくり返る。返した子は、得意げにそれを懐に入れる。みんなががやがやと何か言う。耕作もよくやった遊びだ。
その向こうでは、陣取りをしている何人かがいる。子供たちは一心不乱に遊んでいる。授業時間にはない生き生きした姿だ。
耕作は少しの間、明るい春の日の下に遊ぶ子供たちを見ていた。が、何となく心が重い。子供たちの姿にだぶって、死んだ権太の姿や、泥流のすさまじさが目に浮かぶ。死体になった祖父母や良子の無残な姿が、昨日のように思い出される。
(みんな、それぞれに一生懸命生きていたのになあ)
富の嫁入り姿が、胸を詰まらす。今力一杯に遊んでいるあの子供たちにも、泥流が襲わないとは限らない。それは、突然の肉親の死であるか、病気であるか、どんな形で泥流が人を襲うかわからないのだ。
耕作は窓を離れて、再び教卓に戻った。日が長くなったとはいえ、まだ四月だ。早く読み上げねば日が暮れてしまう。耕作は職員室で仕事をするより、この教室で、ひっそり一人いるほうが好きなのだ。
〈  「近所のおねえさん」松坂 愛之助〉
松坂は質屋の息子だ。クラスで只一人、服を着ている。耕作はその大きな角張った字を読みはじめた。
〈ゆうべ、ご飯を食べていたら、母が言いました。
「この頃は、世の中もハイカラになったねえ」
そう言うと、父は魚をつつきながら、
「ハイカラになんぞなったって、どうっちゅうこともない」
と言いました。母はちょっと口を尖《とが》らせて父を見ました。父はかまわずに言いました。
「この辺で一番のハイカラは、深雪楼の節ちゃんだった。それがどうだ、あのざまだ」〉
耕作ははっとした。思いがけなく節子の名を見たからだ。耕作は緊張して、次の文面に目を走らす。
〈節ちゃんというおねえさんは、ぼくの家のすぐ近くに住んでいました。目がぱっちりとしていて、とっても色の白い、きれいなきれいなおねえさんでした。でもその人は、こないだ家出をしたのです。このおねえさんは、前にも家出をしたことがあるのです。
母は父に言いました。
「あのざまって、どのざまさ」
「なんだ。お前はあのざまをなんとも思わないのか。てめえ勝手に家をおん出やがって」
父は少し大きな声で、どなるように言いました。母も負けずに、大きな声で、
「そりゃあ、あんた深雪楼のおやじが悪いんだよ。あんなやさしいおかみさんを追い出して」
と言いました。父はちょっとむっとしたような顔をしましたが、
「だからと言っても、何も節ちゃんが家出をすることはないべ。女学校なんか出ると、女はすぐ生意気になる」
と言いました。すると母は、
「そんなことはないよ。あのおかみさんがかわいそうで、節ちゃんはいっしょに出てったんだよ。感心な娘だよ」
と言いました。すると父が言いました。
「何が感心なものか。自分のほんとの父親を捨ててくなんて、恩知らずもいいところだ」
するとそれを聞いて、母が怒って言いました。
「何が恩知らずさ。あんた、節ちゃんの気持ちわからんのかい」
すると父が怒って、母と言い合いになりました。妹がしくしく泣きはじめました。すると弟も泣きました。僕には、どっちの言うことが正しいか、わかりません。僕の父と、節ちゃんのお父さんは、仲がよいのです。だけど、ほんとの親をおいて出ていくことは、いいことではないと僕は思います〉
耕作は、ほっとため息をついた。ひどく節子が哀れに思われる。こんな形で、節子の家出は多くの人にかれこれ言われているのだと思う。
節子から、数日前手紙が来ていた。次の日曜日、旭川に来てくれないかという手紙である。耕作は断りの手紙を書こうかと思っていた。むろん節子には会いたい。言われなくても、飛んで行きたい気持ちだ。
だが、田んぼの仕事に忙しい拓一を思うと、節子に会いに行くなどとは、言えないような気がする。しかし今、松坂愛之助の綴り方を見た途端、会いに行ってやらねばならぬような気がした。励ましに行ってやらねばならぬような気がした。
耕作は、ペンを赤インクの壺に入れたまま、もう一度愛之助の綴り方を読み返した。水谷甚四郎にもすぐには評が書けなかった。が、それとはちがった意味で、この綴り方にも、評が書けないのだ。綴り方の評は、その子の心との触れ合いである。単に甲とか乙とか、点をつければよいというものではない。
が、しばらく考えてから、耕作は書き出した。
「お父さんにもお母さんにも、節ちゃんというおねえさんにも、それぞれ深い考えがあるのだろうね。そして、それがいいか悪いかは、なかなか誰にもわからないことなのだろうね。とにかく、見たまま聞いたままを正直に書いて、ぐんと綴り方がうまくなったよ。『すると』という言葉が少し多いぞ」
「きれいな柳ねえ」
節子が傍《かたわ》らの耕作に、うっとりと言う。
「そうですねえ。旭川にはこんな美しい公園があったんですねえ」
耕作も、新芽の萌《も》え出た枝《し》垂《だ》れ柳に見ほれていたところなのだ。その柳が、澄んだ池の面に逆さに映っている。耕作を間に、節子とハツが常磐《ときわ》公園の池の畔のベンチに腰をかけている。三人のいるうしろには、小高い築《つき》山《やま》があって、丸窓のあるあずま屋が建っている。
耕作は、本当は先週の日曜日、旭川に出てくるつもりだった。が、節子の勤務の都合で、一週間延びた。
「よかったわねえ、石村さん。新芽の頃に出ていらして」
「ほんとうですね」
だが耕作は、何となく腰が落ちつかない。今日も拓一が田んぼ仕事に精を出していることが気になる。上富良野にいた時より、一段と美しくなった節子と、同じベンチに肩を並べて坐っているということもある。こうしてのんびりと三十分以上も坐っているということにも、耕作は落ちつかない思いがする。
農家育ちの耕作は、山に遊びに行っても、筍《たけのこ》を取ったり、蕗やわらびを取ったり、何かしら体を動かす。それが、この公園に遊ぶ人々を見ていると、実にのんびりとしているのだ。ゆっくりと池の畔を歩いている者、置物のようにベンチに動かない者、草原に腰をおろして写生をしている者、みんな実に悠々としている。それが耕作の育って来た生き方と、どこか噛《か》み合わない。
(こうしていてもよいのか)
という思いがしきりにする。
「どうしたの、石村さん。何だか元気がないみたい」
節子が耕作の顔をのぞきこんだ。
「いや、ぼくは田舎者だから、こんな街の空気に馴れないんですよ」
「わかるわよ。あなた、拓一さんのことを考えているんでしょ。自分だけこうして遊んでいていいのかって、思っているんでしょ」
「いやぁ……」
耕作は頭を掻《か》いた。
「農家の中でも、石村さんの家は特別よね。働き虫よね。ね、お母さん」
「そうですねえ。石村先生はまじめだから」
少し耕作の気分がほぐれた。向こう岸に、白いこぶしがちらほらと、桜の木立に交じって見えるのが新鮮だった。
「さすがに、旭川には洋服の人が多いなあ」
さっきから感じていたことを耕作は言う。女性のほとんどは和服だが、男には洋服の者がかなりいる。
「そうね。でも、中身とは関係ないわ、石村さん」
「そうかなあ」
何となく、背広を着ている男たちの頭には、学問がぎっしり詰めこまれているように耕作には思われる。
「中身といえばねえ、石村さん。沼崎先生って方はすばらしい先生よ」
「そうですか。やっぱり評判どおりですか」
耕作は、ハツがベンチを立って、あたりを歩きはじめたのを眺めながら、ハツが気を利かしてくれたのを感じた。いくら大正から昭和に変わったといっても、まだ男と女が肩を並べて外を歩くなどということは、滅多にない。夫婦でさえ二、三間離れて歩く。夫婦であっても、並んで歩いていると、交番の巡査に、住所姓名を尋ねられる。だから今日、耕作は心配して来たのだ。只でさえ人目に立つ節子と、二人で街を歩いていては、たちまち衆目を浴びるだろう。教師であるだけに、それが気がかりでならなかった。ところが節子は、ハツと二人で駅に出迎えてくれていた。
ハツが来てくれたお蔭で、とにかく無事に街の中を通り過ぎ、こうして公園のベンチに憩うことができた。が、ハツは自分の役どころを心得ていて、時折ベンチから離れて行く。その気持ちが、耕作の胸にも節子の胸にも沁《し》みるのだ。
「評判以上よ、沼崎先生は。わたし、父を見ているでしょう。だから尚更驚くのかしら。先生はね、お酒を一滴も召し上がらないのよ。お医者さまなのに」
「そうですか。それは珍しいなあ」
三重団体の人も酒は飲まない。だが耕作は、祖父母から聞いたことがある。
「どうしたわけか、医者には酒飲みが多くてな。内地の田舎では、往診してくれる医者には、酒を出す習慣の所があってな。そこに親戚の者も集まって、よくどんちゃん騒ぎの宴会をしたもんだそうだ。うん、病人そっちのけでな。それでな、家に患者が出ると、薬代より酒代に頭を悩ましたもんだそうだ」
そんな話を思いながら、耕作はうなずいた。医師は緊張を要する仕事なのだろうと、今の耕作は同情もする。だが、沼崎先生は何をもってその緊張を解くのだろう。耕作はふっとそう思った。
「それからね。沼崎先生は、誰にも同じ態度なのよ。使っているお医者さんたちにも、わたしたち看護婦にも、患者さんたちにも、それから出入りの大工さんや電気屋さんたちにも」
節子が生き生きと言い、
「とてもていねいな言葉づかいなの。うちの父なんて、店の福ちゃんたちに、やい小菊! 何をのたのたしてるんだとか、貴様! とかって、口汚かったでしょう。その癖、金のある人が来ると、もう大ニコニコのペコペコよ」
思わず耕作は笑った。明らかに節子が明るくなったことを感じた。そしてまた、ハツさえも若返ったように思われるのだ。何が二人をこのように生き生きとさせているのか。それは恐らく沼崎先生というあたたかい人柄に接した故ではないかと、耕作は思った。あの深城の傍では、実の娘も、妻も、心から喜んで生きることはできないのだ。よかれ悪しかれ、一人の人間の及ぼす影響を、耕作は目のあたりに見たような気がした。
「あら、ひばりが啼《な》いているわ」
立ち上がって、節子が空を見上げた。見上げると、ひばりは中天にとどまって、忙しくさえずっている。
「まあ! 同じ所にいるわ。よく落ちて来ないわね」
耕作を見る節子の顔が、幸せそうであった。二人はハツの傍に行き、共に歩きはじめた。草原にはタンポポが咲き、子供たちが相撲を取っている。耕作は何となく、自分の受け持ちの生徒たちを思い浮かべた。
「変ねえ、わたし、石村さんにお会いしたら、あれもこれもお話ししたいと思っていたのに……」
節子が言うと、ハツがうなずいて、
「そんなものですよ、うれしい時は」
と、耕作の顔を見た。
「小母さん、思ったよりお元気そうですね」
耕作は照れて言った。
「お蔭様でね。やっぱり、節ちゃんが傍にいてくれるからですよ。これが一人だと、いくら沼崎先生がよくして下さっても、そうはいきませんよ」
控え目な言葉が、どこか母の佐枝に似ているような気がする。
「ああ、そうそう」
節子は思い出したように、
「あのね、石村さん。沼崎先生の病院に、産婆講習所があるのよ。わたし、あてずっぽうに沼崎先生の所に行ったんだけれど、もうちゃんと、あの病院に道が備わってあったのよ。不思議に思わない?」
「ほう、そうですか。それは不思議だ。じゃあ、節子さんもそこで講習生になるわけですか」
「ええ、一年は看護婦見習いをして働かなくちゃいけないけど、わたし、序《ついで》に看護婦の資格も取ってしまいたいと思うの」
すべすべとしたその頬が、ほんのりと桜色だ。耕作は、この節子がやがて産婆の資格を取り、大事な命を生み出す手助けをするのかと思うと、ひどく厳粛な気がした。紫の銘仙の着物に、白い牡丹の花をちらした羽織を着た節子の姿は、気品があって、どこかの令嬢のように見える。何の苦労も知らぬいわゆる良家の子女に見える。人の目には、自分はこの節子の家の、書生にしか見えないだろう。耕作は心のうちにそんなことを思ってみる。それはともかく、この節子が産婆になるということは、耕作には実に頼《たの》もしく思われるのだ。
公園の茶店に入って、三人は牛飯を取った。茶店の庭に、水仙の花がぞっくりと咲き揃《そろ》い、微風が店の中を吹きぬけていく。その向こうに、池の畔を行く人々の姿が見え、池の面がきらきらと光る。耕作は夢でも見ているような心地だ。が、またしても拓一のことが思われてくる。拓一があの土地を諦《あきら》め、旭川に出て来てどこかに勤めたら、ずっと楽だろうと思う。拓一なら、大工にでも、判屋にでも、看板屋にでも、何にでもなれる。手先の器用な拓一なら、時計の職人にでもなれるし、とにかく食うに事欠く筈はないのだ。だが、そんな力がありながら、只一筋に、あの硫黄に汚された田に取り組んでいるのだ。そんな拓一が、改めて尊くも思われてくる。
(安楽な道が、必ずしもいいとは限らないのだ)
耕作は、ともすれば拓一に、この旭川に出てもらいたくなる自分の心を戒めてそう思う。
「お兄さんは、今日も働いているんでしょう、田んぼで」
箸《はし》をとめて言う節子の言葉に、耕作も箸をとめてうなずく。うなずきながら、自分と同時に拓一のことを考えてくれた節子の気持ちがうれしいと思う。
「偉いお兄さんですってねえ」
節子から聞かされているのか、ハツも感心したように言う。耕作は、
「いいえ、ぼくの兄ですから」
と謙《けん》遜《そん》したが、やはり拓一をほめられることはうれしい。
「わたしの兄も、あなたのお兄さんみたいだったらいいんだけれど……」
形のいい唇で、節子はちょっと淋しげに笑う。
「金一さんだって、おとなしい、まじめそうな人じゃないですか」
「駄目よ。意気地なしで。父の顔ばかり窺って、自分じゃ何も言えないの」
節子の眉がきりりと上がる。夫婦げんかをする時は、こんな顔になるのではないかと、耕作はふっと思う。そして、いつのまにかそんなことを考えている自分がおかしくもなる。
節子はすぐに元の表情に戻って、
「おいしいわ、この牛飯」
と言ってから、
「ところでね、石村さん。兄は、福ちゃんに嫌われたらしいわ」
と、耕作を見た。
「え? 福ちゃんに嫌われた? 福ちゃん、結婚するって、言ってた筈ですがねえ」
どやどやと、一つ星の兵隊たちが茶店に入って来て、椅子をがたがたさせて席に着いた。兵隊たちの視線が一斉に節子に注がれる。耕作は誇らしいような、不安なような気がする。
「当たり前よね。あんな弱虫、妹のわたしだって、好きになれない」
と声をひそめた。
「おーい。ビール」
兵隊の一人が節子をちらちらと見ながら声を上げる。耕作は落ちつきなく、残りの牛飯をかきこんだ。が、節子は頓着なしに、
「あのね、石村さん。福ちゃんは一生結婚しないんですって」
「一生!?」
「そうよ、一生よ。どうしてだかわかる?」
「…………」
「澄ちゃんから手紙が来たの」
「花井先生から?」
「そうよ。福ちゃんには好きな人がいるんですって」
「好きな人!?」
耕作はどきりとした。どんな男を好きになったのかと、不安になったのだ。
「それがわからないの」
節子は耕作の顔をじっと見、
「お母さんもわからないのよね」
と、ちり紙で口もとをおさえているハツを見た。
「客の中にはいない筈なの。福ちゃんを好きで通ってくる人はたくさんいるけど……」
と、また耕作をひたと見る。長いまつ毛だ。
「石村さん、もしかしたら福ちゃん、あなたを好きなんじゃない?」
「まさか」
耕作は狼《ろう》狽《ばい》した。顔のほてるのを感じた。
「あら、赤くなったわ。いやよ、石村さん」
節子はすねたように言う。
「福ちゃんは、ぼくなんて……」
耕作は言いながら、少年の日に、福子から白い石をもらったことを思った。その白い石を持っていると、いつか幸福が来ると言って福子がくれたものだ。ずいぶん長いこと、耕作もそれを大事にしていたものだ。そして更に、泥流から救い上げた福子の青い胸のふくらみを、耕作は思い出した。
確かに耕作は、福子を好きな時があった。だが拓一の気持ちを知っていた耕作は、その感情を育てようとはしなかった。むしろ、思うまい、思うまいと努力してきたのだった。その自分が、いつのまにか節子を好きになっている。拓一の気持ちを知る耕作には、これでよいのだと、積極的に肯定する気持ちがある。
「わたし何だか、不安なのよ。だって花井先生が、福ちゃんの好きな人なら、石村さん兄弟のどちらかよって、書いて来たんだもの」
聞いて耕作はほっとした。そして言った。
「兄貴ですよ、きっと。兄貴は……福ちゃんのことを、ずっと、大事に大事に思っているから」
言いながら、はっと思い当たることがあった。四月に福子が遊びに来て帰った夜、拓一がひどく明るい顔をしていた。あの夜は確か、床に入ってからも、
「耕作、福子って、いい子だなあ。何とか自由廃業ができないものかなあ」
と、拓一は言っていた。耕作が、
「福ちゃんにその気があれば、できるかも知れない。何かで少し調べてみようか」
と言うと、拓一は布団から乗り出すようにして、
「国男が言ってたなあ、佐野文子っていう人のこと。福ちゃんもその人の所へ逃げて行ったらどうだ」
と、真剣な声だった。そう言えば拓一は、あの日以来、どことなく明るくなったような気がする。ふっと鼻唄をうたうことなどが多くなったような気がする。
(あの日、福子との間に、何か話があったのではないか)
耕作は今、はじめてそう思った。
耕作は知らなかったのだ。あの日福子が、野道に立って、拓一に言った言葉を。福子は言ったのだ。金一との結婚はやめるつもりだと。そして驚く拓一に、
「拓ちゃん、しあわせになるんなら、嫁に行けって、いつか言ってくれたでしょう。わたし、あの拓ちゃんの言葉を思って生きるほうがしあわせだから……」
と告げたのだ。拓一には、その福子の言葉だけで充分だった。それまで拓一は、一生福子のことを、一人ひそかに想って暮らすつもりだった。自分の気持ちを、福子が知ってくれなくていい。片想いでいい。そう最初から思っていた。その拓一には、あの日の福子の言葉が宝のように思われて、耕作にさえ告げることができなかったのだ。
そうしたいきさつは知らないが、耕作は、
「そうか、福ちゃんは……兄貴を、……そうか」
と、独りごとを言った。その言葉に、節子の顔が明るくなった。兵隊たちが、何がおもしろいのか、どっと笑った。耕作は庭の水仙に目をやりながら、
(兄《あん》ちゃん)
と、胸の中で拓一に呼びかけていた。
山に日が落ちて、いつしかあかね雲が紫に変わっている。今日は赤い夕焼けだった。その夕焼け空が次第に黒みを帯び、しばらくの間西の空を焦がしていた。
(耕作は節ちゃんに会って、楽しかったろうなあ)
夕暮れの田の中に、拓一の姿が影のようだ。その拓一の口に微笑が浮かぶ。道を行く馬車の音が、からからと遠ざかる。昼の間、しきりに聞こえていた鶏の声も、今はもうひっそりとして聞こえない。
(今日は仕事が捗《はかど》ったなあ)
村の青年団が、今日も応援に来て、消石灰を撒《ま》いてくれた。青年団の若者の中には、市街の者もいる。だがみんな、灌《かん》漑《がい》溝《こう》の水で泥流の土を洗う仕事、客土の仕事、そのほかどんな仕事でも、青年たちは拓一の手伝いをよくしてくれる。拓一の、ひたむきな復興への意欲が、青年たちの胸にもじかに伝わっているからだ。それでなくても拓一は、以前から青年たちに好かれている。他の所には義理に手伝いに行く者も、拓一の所には弁当持ちで喜んでやってくる。
今日は耕作が旭川に行ったが、誰もそんなことを咎《とが》める者はない。小学校の教師をしている耕作が、ふだんどんなに兄の拓一に協力しているかを知っているからだ。だから、耕作が遊びに行ったとは、誰も思っていない。
「学校の先生は、日曜日でも街まで勉強に行かねばなんないんだべ」
と、言っていた者もある。今日若者たちが来たのは偶然だった。青年団としてやってくる時は、何日も前から連絡がある。だが今日は、みんなが何となく拓一の所に集まって、助けてくれたのだ。
今日、青年団長の和田松右ェ門が言っていた言葉を、拓一は思い返して呟《つぶや》いた。
「木というものは、大したもんだってねえ」
そして和田松右ェ門は言ったのだ。
「あんな拓ちゃん、ここの家や村長の家が、どうして流されんですんだか、知ってるかい」
すると誰かが言った。
「そりゃあ、線路が高くて、泥流の勢いが弱められたからだべや」
「それだけじゃないさ。この近所の家だって、ずいぶん流されてるじゃないか」
和田の言葉に、拓一は吉田村長の家を眺め、自分の家を眺めた。そして言った。
「木かな」
「木?」
誰かが言い、
「あんな、径二、三寸の幼木が、何の役に立つんや」
みんなもうなずいた。が、和田松右ェ門が言った。
「そう思うだろ。ところがさにあらず。あんな二、三寸位の小さな木でも、何本か植えてあった所は、流木や泥流を、かなり遮《さえぎ》ったらしいよ。こないだ、農事試験場の人と話してたら、そういう結果が出たそうだ」
「へえー」
みんなは驚いた。言われてみればそうかも知れないと、拓一は改めてわが家の屋敷林を眺めてみた。太い木は一本あるきりで、あとはひょろりとしたポプラや落《か》葉《ら》松《まつ》が何本か立っているだけだ。
「だから、今度は農家に、屋敷林の造成を勧めるって話だったなあ」
拓一は松右ェ門の言葉にうなずきながら、立ち木の持つ重要さを思った。道理で、田んぼは泥を思い切りかぶったが、わが家の庭はそれほど泥流に侵されていない。特に西側のほうは、雪が消えるや乏しいながら草も萌え、蕗《ふき》のとうも顔を出した。
「だけど、日進の沢だば、立ち木も何も、あったもんでなかったな」
カジカの沢から来た従弟《いとこ》の貞吾が言う。
「ああ、日進の沢だば、山裾まで削られたもな」
「そう言えば、もう少しで記念日だなあ」
みんなの声がくもったことを、今、拓一は思い出す。と、
「兄《あん》ちゃーん」
と、うしろのほうで耕作の声がした。ふり返ると耕作が、何か包みを持った手を上げて、近づいて来るところだった。
「おう、帰ったか。節ちゃんどうしてた」
「うん、元気だった。よろしく言ってた。今すぐ手伝う。すまんかったな兄ちゃん」
拓一がそれに答える暇もなく、耕作は家の中に駆けこんで行った。
(耕作の奴)
拓一は耕作の気持ちがうれしくて、胸の中で呟いた。
(手伝わんでもいいのに)
拓一は、自分も家の中に入ろうと思った。西空に、金星が強い光を放ちはじめている。ぽつりぽつりと建っている家々から、白い煙の上がるのが、夕闇の中に見える。
拓一が家に近づくと、耕作はもう作業服に着替えて、馬に飼《かい》葉《ば》を与えていた。人間が食べる前に、先ず馬に秣《まぐさ》を与えなければならない。疲れた時は、そんなことが意外におっくうなものだ。
「俺がやるからいいのに」
「うん、しかし俺は一日遊んだから」
と言ってから、
「ちょっと、寄った所もあって、遅くなっちゃった」
と、耕作はポンプに近づいた。風呂の水を沌《く》むつもりなのだ。拓一は地下足袋を脱ぎながら、
「うまそうな匂いだなあ、母さん」
と、台所の佐枝に言った。鰊《にしん》を焼く匂いが土間に漂っていた。
「毎日、鰊のひらきばかりですまないわねえ」
「なあに、毎日魚を食えるなんて、大名みたいなもんだよ、母さん」
二人の会話を、耕作はポンプの水を汲みながら聞いていた。
風呂の水を汲み終わり、火を焚《た》きつけてから食事になった。蕗の味噌汁がいい香りだ。
「耕作、昼何を食った?」
「うん、常磐公園で牛飯を食った」
耕作は少しすまないような気持ちで答える。
「牛飯か。それはよかったな」
「よかったわねえ」
「うん」
拓一と佐枝にうなずきながら、やっぱりすまないと思う。石油ランプの下に、三人の影が三様に動く。
「おかわり」
たちまち拓一は、二杯目の茶碗を佐枝に差し出し、
「じゃ、とにかく節ちゃんも、節ちゃんのお母さんも元気だったわけか。何よりだったな」
家を出た節子とハツのその後に、心をかけていた声である。
「小母さんは、若返ったような感じだったよ」
耕作は節子のことより、ハツのことを言う。
「そうか、やっぱり節ちゃんがついているからだべ。あれから三カ月か。いや、二カ月半か。とにかくこのあたりでお前が顔を見せてやらなきゃあ、かわいそうだよ、なあ母さん」
「ほんとですよ。喜んだでしょう、二人共」
佐枝にも家を離れた経験がある。
「うん、喜んでいた」
耕作は、節子が産婆と看護婦の両方の免許を取ろうとしていることや、沼崎先生の人格の立派さや、旭川の街の賑《にぎ》やかさを、次々に語って聞かせた。人力車屋があちこちにあること、自転車の台数が多いこと、時には自動車が走っていたこと、その自動車の後を、子供たちが追いかけて、ガソリンのいい匂いを嗅《か》いでいたことなど、いろいろと話した。
「日曜日だったから、どこに行っても兵隊ばかりさ」
公園の牛飯屋で会った兵隊たちのことを、ちらっと思いながら耕作は言う。
「国ちゃんには会わんかったか」
「ああ、会わんかったなあ。旭川も広いからなあ」
笑った後で、耕作は、
「兄ちゃん、俺、佐野文子さんの所へ、ちょっと寄って来たよ」
と、真顔になった。
「えっ、佐野文子さんの所に!? ほんとか、お前」
茶碗を持ったまま、拓一が耕作を見た。佐枝も味噌汁を盛る手をとめて、耕作を見る。
「うん、やっぱり、俺、福ちゃんのこと心配だからねえ」
今日旭川で、佐野文子さんの家を訪ねた時のことを思い浮かべながら、耕作は話し出す。
佐野文子の家は、仲通りに面していた。その仲通りには、太いニレの木が道の真ん中に立ちはだかっていた。旭川の街にはまだ、このような大きな木があちこちに残っているのを、耕作は見た。
「ふーん、二戸建てか。新聞に、佐野文子女史などと書いてあるから、大きなお屋敷かと思ったがな」
感じ入ったように、拓一がうなずく。
「母さん、佐野文子さんって、国男さんに聞いていたけど、大変な人だね。偉い女の人だよ」
耕作は今日見た光景を二人に言った。
耕作は、調べておいた住所番地を頼りに、佐野文子の家を探して行った。そして、その標札のかかっている家を尋ね当てたのだが、さすがに、すぐには入りかねた。文子の家の玄関の戸は開け放されてあったし、女物の下駄が、片隅にきちんと片づけてあった。だから入り易い筈だったが、耕作は入るのをためらって通り過ぎた。そして幾程も行かずに歩みを返した。とその時、ニレの木の向こうから、男たちが三人歩いて来るのが見えた。何《いず》れも紺の法被《はつぴ》を着た角刈り頭の男たちである。一見して堅気の者とは思われない。近づいて来た男たちの一人の頬に、刀傷のような傷《きず》痕《あと》のあるのを耕作は見た。三人は妙なふくみ笑いを浮かべながら、耕作のすぐ傍まで来た。ちょうど耕作が、文子の家の前にさしかかろうとした時だった。男たちは互いに目まぜをしながら文子の家の入り口に立った。
「ごめんください」
三人のうちの一人が、咳《せき》払《ばら》いをしてから、意外にやさしい声で言うのを耕作は聞いた。耕作はさりげなく行き過ぎてから、物蔭に立って窺った。
「ごめんください。先生はおいででしょうか」
目の細い男がそう言ってから、他の二人を顧みて、首をかしげた。中からは答えがないらしく、
「お留守ですかい!?」
と、不意に声が尖った。一見柔和そうに見えた目の細い男の横顔が、俄《にわ》かに酷薄に見えた。
「居留守を使っているのかよう!」
刀傷の男が、一段と声を荒らげる。と、目のぎょろりとした男が、
「やい! 出て来やがれ!」
と、怒鳴るや否や、玄関に踏み入って仕切り戸をがらりと開けた。耕作は、はっと体を固くした。
いつか学校の帰り、吉田村長の後から、屈強の男たちが、
「泥棒村長、泥棒村長」
と、連呼しながら従いて行くのを見たことがある。が、まだあの時は、どこか遊びめいた雰《ふん》囲《い》気《き》があった。しかし今はちがう。びりりと脳天にひびくようなその声には殺気があった。どの男の腹にも、ドスが呑まれているような無気味さがあった。耕作の体が小刻みにふるえた。今にも血の雨が降りそうな予感がしたからだ。
男たちは三人共玄関の中に入っている。
「やい、あまあっ! 出て来い!」
再び怒鳴る声がした。
が、やはり中からは何の応答もないようだ。近所の者たちが、こわごわ窓から窺っている様子が見えた。男たちは、しばらく黙った。その沈黙が、耕作にはかえって無気味だった。
どれほど経ったことだろう。
「居やがらねえな、これは」
と、一人が玄関の外に出た。
「帰るまで待とうじゃねえか」
中から太い声がした。耕作は体を固くしたまま、その場に立ちすくんだ。
耕作が節子と別れたのは、三時半を過ぎていた。まだ四時前である。男たちが文子の帰るまで待つとすれば、耕作が文子に会う時間はない。本当に留守だとすれば、いつ帰るのか、その当てもない。万一関わり合いになっては、という思いもある。耕作はよほどその場を離れようと思った。が、この結末を見届けなければならぬ気もする。それに、正直の話、耕作の体は恐怖にすくんでもいた。物蔭から出た所を、男たちに見咎められるのも恐ろしかった。
再び男たちが黙りこんだ。長い時間だ。五分経ち、十分が過ぎた。二十分も経った頃であろうか、男の一人が無遠慮に欠伸《あくび》をした。
「引き上げるとすっか」
一人が言った。
「馬鹿こけ。今日は、足の一本、手の一本ぐれえ叩き折ってやらなきゃあ、腹の虫がおさまらねえ」
だが、更に五、六分過ぎると、
「そろそろ店にも戻らにゃあ」
「それもそうだ。この次は只じゃ……」
言いながら男たちは、どぶ板を踏んで、がやがやと出て来た。
男たちが去っても、耕作はしばらくの間、その場から動けなかった。ひどく長い時間、耕作は身じろぎもできずに立ちすくんでいたのだ。
ようやく歩き出したが、耕作の足はもつれるようであった。ちょうどその時、文子の家から色白の三十になるかならぬかの女が、出て来るのを耕作は見た。しもぶくれの、黒目勝ちの女だった。女は微笑さえ浮かべて、駒下駄の音も軽やかに通りを過ぎて行った。それを見送って、五十近い女が門口に立っていた。
耕作は恐る恐る、門口に立っている女の傍に寄って行った。
「あのう、こちらは佐野文子先生のお宅でしょうか」
気丈そうなその女は、耕作を一瞥《べつ》して、安心できる人間と思ったのか、
「さようでございます」
と、しっかりした語調で言った。
「では、あなたが佐野文子先生で?」
「あら、いやですわ」
不意に女は笑い、
「先生はたった今お出かけになりました」
と、文子の去って行ったほうを指さした。
「驚いたよ、兄ちゃん。佐野文子さんって、まだ三十前のような、きれいな人なんだ」
耕作は、荒くれ男たちのことを話してからそう言った。
「ふーん、そんな男共に脅されながら、微笑を浮かべていたというのか」
「そうなんだ。そんなことが、しょっ中なんだってさ。日本刀で斬りつけられたり、首をしめつけられたり、そんなことが数知れないんだって」
「そうか。国ちゃんの言ってたとおりなんだなあ。しかし、そんな若い人とは思わなかったなあ」
「偉いもんですねえ。人のために命がけになるなんて。自分の身内のためだって、なかなか命がけになれませんよ、ね」
耕作の土産の大島まんじゅうを出しながら、佐枝が言う。
「というわけで、佐野文子さんは見たけどさ、話してくることはできなかったんだよ」
「仕方がないさ、突然行ったんだし」
拓一はまんじゅうを頬張って、にこっと笑った。
「だけど兄ちゃん、俺は意気地のない奴だなあ、男のくせに。あの男共に見つかりはしないかと、息もできなかったんだからねえ。あの佐野文子さんは、一体どこからあんな勇気が出るんだろうなあ」
耕作もまんじゅうをつまんで、
「だけどねえ、留守番の小母さんに、福ちゃんの話はして来たよ。小母さんも佐野文子さんの同志なんだって。婦人矯風会の会員だとか言ってたなあ。とにかく、やめる気があったら、やめられるって。兄ちゃん、もう一度二人で行ってみようか」
耕作は福子の顔を思い浮かべた。福子の白い顔が、夕顔のように淋しく浮かんだ。
深《み》山《やま》峠
「もう一度注意しておくぞ。今日は四人一組を一班として行動する。いいな、わかったな」
耕作の声がよく透る。
今日は遠足だ。受け持ちの生徒たちは、目を輝かせてうなずく。春と秋の、年に二度の遠足なのだ。何を言われても生徒たちはうれしい。他のクラスは、次々と校門を出て行く。耕作はもう一度、念を入れて生徒たちに注意をしておきたかった。遠足で事故を起こしてはならない。川に魚をすくいに入って、深みにおぼれたとか、崖《がけ》っぷちに近づいて足をすべらせたとか、遠足の事故を時折耳にする。子供たちはうれしさの余り、ふだんより行動が大きくなる。そのために折角の遠足がふいになっては大変だ。耕作は慎重に、昨日与えておいた注意をくり返した。
「遊ぶ時も、弁当を食べる時も、必ず四人一組だ。わかったな」
「ハーイ」
元気のよい声がかえってくる。と、一人が言った。
「先生、しょんべんする時もですか」
みんながわっと笑った。
「そうだ。つれしょんべんだ。誰が一番遠くまで飛ばすか、競争すればいい」
耕作も笑いながら冗談を言った。耕作の受け持ちは男生徒だけだから、こんな冗談も言える。
耕作が生徒たちを四人一組にしたのには理由がある。お互いに注意し合い、事故を未然に防ぐことが眼目だ。だがそれだけではない。ともすれば、気の合った者同士だけが固まって遊び、仲間外れになる者が出やすいのだ。一人でぽつんと食事をする生徒が、どのクラスにもいるものだ。折角の遠足を、みんなに楽しく味わわせてやりたい。また、四人一組となって行動することにより、お互いが相手をよりよく知ることにもなる。
「目をつぶれ。自分の班の友だちの名前を、口に出して言ってみろ」
生徒たちは言われたとおりに目をつぶって、友だちの名を言う。中には片目をあけて、横にいる友だちの顔を見ながら言う者もいる。
「ようし、わかったな。では出発する。今日は楽しい遠足なんだから、楽しい思い出をつくるんだぞ。けんかなんかしちゃいかん」
「ハーイ」
ようやく耕作のクラスも出発した。二分とかからない再確認であった。耕作は先頭に立って歩き出す。前のほうを女子組が行く。男子も女子も、ほとんどが着物だ。肩から斜めに弁当を背負う者、腰にきりっと弁当を結びつけている者、様々だ。
「先生、女子組を追い越そうや」
四列縦隊に並んだ一番前の生徒が言う。すると他の生徒が言う。
「なんだお前、女子の傍《そば》に寄りたいんだべ」
「ちがうぞ。女子組の後から行くの、いやなんだ」
「うそこけ。小川耐子の顔、見たいんだべ」
小川耐子は男生徒たちのあこがれの的だ。日本人形のような髪型も、つつましく笑う口もとも、そして成績のいいことも、すべてあこがれの的だ。
生徒たちのやりとりを聞きながら、耕作は微笑する。
(そうだ、自分たちもこんなことを言って育ったものだ)
小学校時代の耕作が好きだったのは、福子だった。
がやがや話し合いながら、生徒たちは市街の道を歩いて行く。道端には、親や小さな子供たちが並んで生徒たちの通るのを眺めている。こんなにたくさんの生徒たちが一度に通ることは、珍しいことなのだ。四つ五つの子供たちが、四、五人列になって、真似て横についてくる。真似をするだけで、子供たちはうれしいのだ。
(街中が喜んでいる)
耕作はそんな気がした。あと半月もすれば、年に一度の運動会が来る。この時こそは、村をあげてのお祭り騒ぎだ。夜の明けぬうちから、よい見物席を取るために父兄たちが集まってくる。重箱にすしを詰め、ふだんは滅多に飲むこともないサイダーや、滅多に食べることのないバナナさえも持って来る。北海道の冬は長い。その長い冬の終わった喜びが、遠足や運動会に爆発するのだ。
福子のいる深雪楼の傍も通った。耕作は福子や節子を思った。節子と旭川で会ったのは、十日ほど前になる。何となく顔を伏せて耕作は行く。豆腐屋の主《あるじ》が、
「やあ、耕作先生、今日はご苦労さんだね」
と、上機嫌で声をかける。生徒を引率していると、いかにも教師らしく目に映るのかも知れない。
今日は六年生は深山峠に行くのだ。市街を通りぬけると、水を張った田んぼが両側にひらける。が、遥《はる》か前方の三重団体の田んぼには、水の入らぬ箇所が幾つもある。まだ流木が残っていて、水を張るまでには至らないのだ。
空には柔らかいちぎれ雲が二つ三つ浮かんでいるだけで、絶好の遠足日和である。先を行く女子組がぽくぽくと土《つち》埃《ぼこり》を立てる。どこかで三光鳥の啼《な》く声がした。耕作はくるりとうしろをふり向いて、両手を上げた。止まれの合図である。生徒たちは何事かと耕作の顔を見た。
「みんな、耳を澄ましてみれ。小鳥の声が聞こえるだろう」
みんな神妙に耳を傾けてうなずく。
「あれは何という鳥か、知ってるか」
「ハーイ」
一番うしろの生徒が元気よく手を上げた。
「よし、菊夫言ってみれ」
「ハイ、雲雀《ひばり》です」
みんながどっと笑った。
「笑うな。そうだ、遠くに雲雀の声も聞こえている」
耕作は言い、
「雲雀のほかに、ほら、聞こえるだろう。あの声だ」
「ハーイ」
また一人が手を上げた。
「よし、何という鳥だ」
「ハイ、三ぽ鳥です」
「三ぽ鳥? なるほど、先生も小さい時、まちがってそう覚えたことがある。が、あれは本当は三光鳥というんだ。三つの光の鳥と書く。みんなで一緒に言ってみれ。三光鳥!」
「サン、コウ、チョウ!」
その声が近くの山にこだまする。
「なぜ三光鳥というか、というとだね。月、日、星と聞こえるんだそうだ。どうだ、みんな聞こえるか、月、日、星と」
みんながまた耳を傾けたが、
「聞こえる聞こえる」
と、たちまち声を上げる者もあれば、
「聞こえないなあ」
とぼやく者もいる。
「正直のところ、先生にも、あまりはっきりとは、聞こえない」
生徒たちはまたどっと笑った。
再び生徒たちが歩き出した。耕作が大きな声で歌い出した。
卯《う》の花の におう垣根に
ほととぎす はやも来鳴きて
生徒たちが耕作に声を合わせた。みんなの好きな歌なのだ。誰もがあごを突き出してうたう。つづいて耕作は歌う。
春が来た 春が来た
どこに来た――
生徒たちの声が一層大きくなる。誰かが大声で、
「上富良野に来たぁ」
と半畳を入れる。
耕作は、遠足は団体行動の楽しさを学ぶ機会だとも思う。一人散策するのとはちがう。みんなげらげら笑いながら、それでも歌いつづける。誰も仲間外れになる者はいない。
やがて、釘《くぎ》を打つ音や、鋸《のこぎり》をひく音が行く手左に聞こえて来た。三重団体の子供が通う学校を建てているのだ。去年の災害で半壊したこの学校は、去年の六月、仮修繕をして開校している。
「先生、あの学校、いつできるの?」
一人が指さす。
「今年の十月だそうだ」
「いいなあ、新しくて」
他の一人が言う。
「馬鹿を言え。新しくしないでもすむお前たちの学校のほうが、よっぽど幸せだ。ここの生徒は、百六十三人のうち、六十三人が流されて、九人死んだんだぞ」
耕作はこの数字を、決して忘れてはいない。生徒たちは一瞬、しゅんとなった。
「みんなここで、死んだ生徒たちのために、黙《もく》〓《とう》しよう」
生徒たちは神妙に目をつむった。手を合わせている者もいる。耕作の出た日進の小学校では、更に多く十一人死んでいる。が市街の学校では、死んだのは只一人だ。それは、耕作を訪ねようとして泥流に呑まれた坂森五郎である。
その小学校から一キロ近く歩いた頃、耕作の家が見えてきた。市街から既に四キロ来た勘定になる。
「あ、先生の家だ!」
「ほんとかい!? あれが先生の家かい?」
生徒たちが喜ぶ。
「そうだ。先生が飯を食べて、寝る所だ」
耕作の家は、道路より五十メートルほどひっこんだ所に見おろせた。日本手拭いをあねさんかぶりにかぶった佐枝が、納屋から姿を現した。鶏が家のまわりに遊んでいる。佐枝が耕作のほうを見て手をふった。耕作が応えて手をふった。生徒たちも手をふった。拓一はどこに行ったのか、姿が見えない。耕作は、何となく新たな思いでわが家と母を見た。今朝この家を出たのに、まるで、しばらくぶりに会ったような、懐かしさを覚えるのだ。手をふってくれた生徒たちの気持ちもうれしかった。
一丁ほど行くと、道のすぐ傍に吉田村長の家があった。松の木立の蔭に、がっしりとした家だ。弥生が道端に立って、生徒たちを珍しそうに眺めていた。耕作を見ると、うれしそうにニコッと笑ったが、ちょっと恥ずかしそうにうつむいた。その愛らしいしぐさに、耕作は思わず微笑して頭をなでてやった。その時、うしろのほうで、
「ここが吉田村長の家だぞ」
と言う松坂愛之助の声がした。愛之助は節子の家出を綴り方に書いた子だ。と、他の一人が叫んだ。
「泥棒村長!」
耕作が制止する暇もなく、たちまちその声に五、六人が和した。
「泥棒村長、泥棒村長」
弥生がわっと泣き出した。耕作が手を上げて、「止まれ」の合図をした。耕作の緊張した顔に、生徒たちはお互いに顔を見合わせた。耕作は弥生を抱き上げ、生徒たち一人一人の顔を見た。邪気のない目が耕作をみつめる。が、さすがに耕作の視線を受けとめかねてうつむく者もいる。うつむいたのは今叫んだ生徒たちだ。耕作はややしばらく黙って、生徒たちをみつめた。その耕作の目に不意に涙が光った。今、「泥棒村長」と叫んだ生徒の親たちは、そう子供たちに言い聞かせているのだろう。あるいは親たち同士で、村長の悪口を言っているのであろう。子供には罪がない。そう言わせた親たちに罪がある。とは言っても、生徒たちはもう六年生なのだ。六年を卒《お》えてすぐ社会に働く者もいる。単に子供とは言い切れない年齢なのだ。
耕作は遠足を楽しいものにしたかった。だから、少しのことでは叱《しつ》責《せき》すまいと思っていた。だが、事はちがう。生徒たちをみつめながら、耕作の口がふるえた。弥生が、耕作の肩に頬をつけて、しゃくり上げている。耕作は、あふれ落ちそうな自分の涙を、ぐいと腕で拭いた。生徒たちは不安げに、その耕作をみつめている。耕作は、大人のあり方が、子供の心を汚している事実を思うと、叱るにも叱れない。が、黙って見過ごしてはならないのだ。
ようやく、耕作は口をひらいた。
「弥生ちゃん。ごめんな。弥生ちゃんのお父さんは、立派なお父さんだ。泥棒村長なんかじゃない。先生は近所だから、よっくそのことは知っている……」
生徒たちはしんとして、耕作の言葉に耳を傾ける。
「弥生ちゃん、弥生ちゃんのお父さんは、日本一の村長だ。どんなに人に悪く言われても、決して悪く言い返さない。いや、それどころか、悪く言う人たちのことを、かばっている」
耕作は、弥生がわかってもわからなくても、生徒たちに聞かすべく語った。
「弥生ちゃんのお父さんは、どうしてみんなに悪く言われるか、知ってるか。この泥流で目茶苦茶になった田んぼを、元にかえそうとして真剣になっているから、悪口を言われるんだ。だけどなあ、先生も、先生の兄さんも、あの篠《しの》原《はら》の小父さんも……」
耕作は近くの家の名をあげ、
「みんな、みんな、もとの田んぼにしようと、真剣に努力しているんだ。だけどそれを、只金がかかるだけだと思う大人たちが嫌ってな。泥棒村長だなんて、悪口を言ってるだけの話なんだ。そんな悪口を言う奴は、言わしておけ。だけど、日本一の村長だと思っている人はたくさんいる」
弥生がいつしか涙をおさめて、耕作の顔をみつめていた。わからぬながらも、耕作の心が胸に伝わるのだ。
「今、生徒たちが何人か、泥棒村長って言っただろう。あれはな、生徒が悪いんじゃない。先生が悪いんだ。泥棒でもない者を、泥棒だと思いこむような生徒がいることは、先生が悪いんだ。ゆるしてくれな弥生ちゃん。こんな小さな弥生ちゃんを泣かせて、ごめんな」
耕作の、一語一語に、真実がこもっていた。さっき叫んだ生徒たちは、うなだれたまま顔を上げようともしない。と、一人が前に飛び出して来た。
「すみません! 先生」
つづいて何人かが飛び出して来た。
「先生! 泥棒村長と言って、ぼくが悪かったです」
耕作は頭を横にふった。
「いや、先生の責任だよ。先生をゆるしてくれな。大人たちをゆるしてくれな。よくあやまってくれた。先生はうれしい。みんな弥生ちゃんにあやまって、頭をなでてやってくれ」
生徒たちは素直に弥生の頭をなで、口の中でもごもごと、
「ごめんね」
とあやまった。
「よーし。少し遅れた。もうすぐ坂道にかかるが、駆け足だぞ」
「ハーイ」
生徒たちの心が一つになった。耕作は先頭に立って走り出した。
耕作はうれしかった。自分の気持ちを素直にわかってくれた生徒たちがうれしかった。叱らないでよかったと思った。この純真な子供たちに対して、確かに大人たちに責任がある。
三分ほど走ると、ゆるい勾《こう》配《ばい》にさしかかった。速度をゆるめずに耕作は登って行く。この坂道は、去年の九月、再爆発の時、佐枝と共に逃げた道だ。このあたりから次第に、道端に青草が萌《も》え、タンポポが咲いているのが目につく。
坂道を少し駆け登った所で、耕作は並足に戻した。みんなハアハアと息を切らしている。うしろをふり返って耕作がにっこりと笑った。生徒たちもうれしそうに笑った。坂道を走ったことで、生徒たちの気持ちもふっ切れたのだ。
耕作たちは女子組に追いついた。女子組が峠の途中で一服をしていた。道の右手の、少し平らな所に立って、耕作は生徒たちに言った。
「うしろをふり返れ」
生徒たちはうしろをふり返り、一斉に歓声を上げた。彼方に上富良野の街が見えたのだ。十勝岳の裾が、そのまま平らな丘になった段丘を背に、市街の家々がかたまって見えた。
「あれが君たちの町だ。あの町をよくするのも悪くするのも、君たちだぞ」
生徒たちがしっかりとうなずく。
「泥流の流れた所には、草がほとんどないだろう。だが、このあたりは、タンポポやよもぎや、草で覆われている。あの草も生えない泥田を、いい田んぼにするのは、血の滲《にじ》むような努力だぞ。みんな、そのことのためにも祈ってくれな」
「ハーイ」
生徒たちが一斉に答える。さっき泣いてあやまった子も、晴れ晴れとした顔だ。
「うわあっ! いい景色だなあ」
生徒たちが一斉に言う。深山峠の小高い台地に上ると、十勝連峰がひときわ高く連なっていた。
その左手に少し離れて、大雪山が低く見える。十勝連峰も大雪山も、まだ白雪をかぶっている。十勝連峰の山《さん》麓《ろく》から、直ちに幾十もの丘が、耕作たちの立つこの深山峠の目の下までつづいている。丘の起伏はまるで波打つ大地だ。この深山峠もその大波の一つなのだ。
まだ種を蒔《ま》いたばかりの丘の畠《はたけ》は、赤土を見せてうねっている。所々きわだって濃い緑の丘は、秋蒔きの麦畠であろう。
遥か遠くの丘に、豆粒のように動く三つの人影が見える。その傍《かたわ》らに、馬が玩具《おもちや》のようだ。
深山峠は、上富良野の市街から一里半ほど旭川寄りの所にある。今、六年生の男生徒と女生徒の百人余りは、その深山峠に着いたのだ。屋外運動場ほどの広さの草地に耕作たちは立った。遠い道を歩いて来た耕作たちの肌に、五月の風は心地よかった。
「すばらしいなあ!」
生徒の一人が、感に耐えないように言う。
「すばらしいだろう。これがお前たちのふるさとだ。よっく心に焼きつけておけ」
三光鳥がここでも啼いている。雲雀の声も空高く聞こえる。
「先生、心に焼きつけておけって、綴り方に書かすのかい」
誰かが言った。つづいて他の一人が言う。
「それとも図画に描かすのかい」
耕作は思わず笑って、
「ああ、書かすかも知れんぞ。目を皿のようにして、よっく見ておけ。ほら、丘には桜も咲いている。白いこぶしもまだ清らかだ」
「白いこぶしも清らかだ。先生、いい言葉だなあ。おれ、その言葉、綴り方に書くかなあ」
生徒たちがどっと笑った。耕作も一緒に笑ったが、真顔になって、
「あのなあ、先生が、この自分たちのふるさとの景色を、心に焼きつけろって言ったのはな、綴り方を書かすためでもない、図画を描かすためでもない」
と、生徒たちの顔を見まわした。
「安心したあ」
誰かがまだふざけている。
「いいか、よく聞くんだ。自分たちのふるさとを胸に焼きつけておくということは、人間として大事なことなんだ。君たちはいつの日か、この村を離れて、ほかの町に住むようになるかも知れない。しかし、そこに楽しいことが待っているとは限らない」
生徒たちがうなずく。
「いや、つらい目に遭ったり、苦しい目に遭ったりすることが、多いかも知れない。そんな時にな、ふっとこの広大な景色を思い浮かべて、勇気づけられるかも知れないんだ。人間はな、景色でも友だちでも、懐かしいものを持っていなければならん。懐かしさで一杯のものを持っていると、人間はそう簡単には堕落しないものなんだ」
生徒たちは、わかったような、わからぬような顔でうなずく。が、語る耕作の胸に、祖父の市三郎、祖母のキワ、姉の富、妹の良子、そして日進の沢の家、畠等々が浮かんで消えた。
女生徒たちも、受け持ちの馬上先生を囲んで、何か語り合いながら景色を眺めている。馬上先生は昨年山部から転任して来た明るい中年の先生だ。
耕作が言った。
「じゃ、これから自由行動だ」
「うわあっ!」
生徒たちは喜びの声を上げた。
「但し出発の時にも言ったように、必ず四人一組で行動するんだぞ」
「はーい」
元気のよい声が弾ね返ってくる。
「自由行動と言っても、先生のこの笛の音の聞こえる範囲だ。笛の音を聞いたら、すぐにここに戻るんだぞ。弁当にするからな」
「はーい」
「人の畠に入ったり、危険なことはしちゃならん。では自由行動だ」
生徒たちは歓声を上げて、ばらばらと散らばった。みんな近くの藪《やぶ》蔭《かげ》や、林の中に入って行く。着物の裾を端折って近くの木に登りはじめる生徒もいる。
女生徒たちも自由行動に移った。が、女生徒たちはこの広い台地の上から離れようとはしない。草原に坐っておしゃべりをする者、鬼ごっこをする者、じゃんけんをする者、タンポポや、エゾエンゴサクの花を摘《つ》む者、様々だ。馬上先生にべったりとついて、甘えている者たちもいる。
耕作は、草原の端に腰をおろした。草原の尽きた所から、一段低く青い麦畠があった。麦畠は低い沢地に向かって、なだらかな傾斜を見せている。沢地のあたりに、雑木林があった。樹々の新緑がさみどりの霞《かすみ》のようだ。その霞の中にも山桜が四、五本あでやかに咲いている。耕作は深く息を吸って、噴火口のあたりに目をやった。
噴火口は、ちょうど連峰の真ん中あたりにある。白い噴煙が雪に影を落として立ちのぼっている。平和な眺めだ。だが、平和に見えるその風景も、耕作の胸には痛い。思うまいとしても、富の最期が思われてならないのだ。武井がふろしき包みの中から、富の骨を出した姿が、またしても思い出されるのだ。
あの火口で今年もまた硫黄採取の作業が再開されるとか聞いた。
(武井さんは、どうしているだろうか)
あの山で、再び武井は働くのだろうか。あれ以来一年になろうというのに、武井は耕作たちの家に姿を現したことがない。武井の継母のシンはむろん、その家族が訪ねてきたことはない。この一年余り、武井はつらい思いで生きて来たのだろうと思う。
拓一もいつか言っていた。
「姉ちゃんを思い出させるものは、見たくないんだよ」
(そうだろうなあ)
耕作は白い噴煙から視線を外らして、草の上に仰向けになった。目の上に、青い五月の空があった。眩《まぶ》しい太陽の光に、耕作は目を細めた。
(もし、節子が死んだとしたら……)
そう思うと、武井の気持ちがよくわかるのだ。
「コロコロコロコロコロコロコーン」
どこからか啄木鳥《きつつき》の木を突つく音が聞こえて来た。ひどくのどかな音だった。
「いただきまーす」
男子組も女子組も、一斉に大声で言う。耕作の受け持ちの生徒たちは、みな四人一組に固まって弁当をひらいた。二つの班が一緒になっている生徒たちもある。とにかく一人も友だちから離れた者はない。が、女子組はちがった。五人ぐらいが輪になっているのもあれば、二人だけで肩を寄せ合っている生徒もある。また、群れから離れて一人横を向いて食べている者もある。耕作はそれが気になった。あの一人で食べている子は、今日の遠足は決して楽しい思い出とはならないであろう。いつまでも淋しい思い出となって残るにちがいない。
が、馬上先生は、一番たくさん固まっている賑やかな座のまん中で、握り飯を食べはじめた。耕作は突っ立ったまま、ひととおり自分の受け持ち生徒を眺めていたが、はっとしたように、一人の生徒を凝視した。その生徒は土野精吉だった。農家の子だ。今、精吉は、新聞紙で顔を覆うようにして、もそもそと何か食べはじめている。新聞紙の中に顔を押しこむようなその食べ方は、いかにも卑屈だった。耕作はさりげなく精吉の傍に近づいて行った。
「先生も仲間に入れてもらうぞ」
精吉の班の者は喜んだ。耕作は腰につけたふろしき包みをほどいてひろげた。耕作の握り飯も、子供たちと同じように新聞紙に包まれている。その新聞紙をひらくと、香ばしい醤《しよう》油《ゆ》の匂いが鼻をついた。麦が半分も入った握り飯だが、佐枝が醤油をつけて焼いてくれたので、ひどく香ばしい。耕作はその一つをつかんで、精吉に言った。
「精吉、お前うまそうな薯《いも》を食ってるな。先生の握り飯とばくってくれんか」
耕作はいつもの調子で言った。馬《ば》鈴《れい》薯《しよ》の塩煮を人に見られまいと、新聞紙に顔を突っこむようにして食べていた精吉は、上目使いに耕作を見た。
「先生はな、精吉、薯が何より好きなんだ」
精吉は、まだ疑わしそうな目で耕作を見ている。が、耕作はかまわずに、
「一つもらうぞ」
と、精吉の新聞紙の中から、ごろりとした薯を一つ取り、握り飯を差し出した。精吉はようやく、にっとはにかんだ笑いを見せて握り飯を受け取った。
「うん、うまいなあこの薯は」
耕作は一口口に入れて言った。冬を越した馬鈴薯は確かに言いようもなくうまい。甘味があって味にこくが出ている。だが、耕作には精吉の気持ちがよくわかる。耕作も小学校時代に、同じ思いを味わったものだ。耕作の育った日進の沢には、弁当に馬鈴薯を持って行く者は珍しくはなかった。だが耕作は、遠足や運動会にさえ、幾度薯を持たされたことか。消化のいい薯は、運動会や遠足の食べ物ではないのだ。しかも、みんなが握り飯を食べる時、冷たい薯を食べるのは妙に惨めな気持ちだった。
それでも日進の沢の者は、似たり寄ったりの生活だった。が、市街の家の子が多い今の学校では、薯を持って来る者は少ない。遠足に薯を持って来るのは、よくよくの貧しさなのだ。新聞紙に顔を突っこみたくなるのも、耕作にはよくわかる。だが、耕作はそれをさせたくなかった。貧しいということは、恥ずかしいことではないのだ。働いても働いても貧しいことがある。怠惰で貧しいのとはちがう。生活がいい加減で貧しいのとはちがう。精吉の家は、父親が病弱で、働き手は母親だけなのだ。
と、精吉の隣にいた松坂愛之助が言った。
「いいなあ、精吉。先生、おれにもばくりっこして」
差し出したのは、つやつやとした海《の》苔《り》に巻かれた白米の握り飯だった。
「先生のは麦飯だぞ」
耕作は威張ったように言った。
「何でもいいよ。先生のだら何でもいいや」
大きな握り飯を愛之助は突き出して、耕作の握り飯をもらった。
「でっかいなあ。半分やるか精吉」
耕作はすぐに半分に分けて、精吉の新聞紙に置き、
「代わりにこれももらうぞ」
と、もう一つ取った。とたちまち、他の二人が、
「愛之助、おれにもちょっと食わしてくれ。先生の握り飯ばよ」
と手を出した。そして一口口に入れ、
「うめえ!」
「すごーい」
と、大きく目をむいて見せた。みんな笑った。精吉も笑った。耕作の左手にいた生徒が、
「精吉、おれにも薯とばくってくれ」
と、胡《ご》麻《ま》塩《しお》の握り飯を差し出す。精吉は明るい顔で、
「うん、ばくってやる」
と、胡麻塩の握り飯を受け取った。
「うまいな、この薯」
滅多に薯の塩煮を食べたことがないのか、その子は驚いた声を上げた。
「うまいべ、うちの薯」
そう言う精吉の顔には、もう何のかげりもない。耕作はうれしかった。これが子供の世界だと思った。薯を持って来たか、握り飯を持って来たかの差で、その子の人生を暗くしてはならないと耕作は思った。
今後耕作は、時折自分も薯の塩煮を弁当に持って、学校に行こうと思った。一人でも薯を食べている者のいる間は、時折そうして薯の弁当を共に食べてやりたかった。
去年の爆発以来、耕作たちの食生活は変わった。以前はもっと、薯や豆を飯代わりに食べたものだ。それがあの災害を受けて、一度に米の配給を受けてから、米を食うことに馴れた。むろん、拓一の働きにも日《ひ》銭《ぜに》が入り、耕作も月給を取り、佐枝も縫い物や髪結いで、幾《いく》何《ばく》かの金を得る。そのために、以前より米を買えるようになったことは事実だ。だが、米を食べること自体に、拓一も耕作もなぜかうしろめたさを感じてならなかった。それは、死んだ祖父母や良子たちが、盆か正月でなければ食えないものだったからだ。それに三重団体でも米を買える家は多くはない。それで今では、麦と米が半々の飯を耕作たちは食べていた。それでも耕作は、まだぜいたくな気がする。耕作は精吉の薯を食べ、愛之助の海苔に包まれた米だけの握り飯を食べた。何か涙が出て来そうな気持ちだった。愛之助は霜ふりの新しい服を着ているし、精吉はつぎはぎの木綿縞の着物を着ている。耕作は言った。
「先生もよく、運動会や遠足に、薯を持たされたもんだ」
精吉は驚いたように耕作を見た。
「薯はうまいけどな、あんまりうまくて、腹が空いちまうもな」
精吉はうなずいて、
「んだ。腹がへる」
すると他の生徒が言った。
「したら今度、握り飯とばくってやる」
「そうだ、そうだ。ばくってやる」
生徒たちはからりと言った。耕作は大きくうなずいた。
「そうだ。それが友だちだ。うまいものでもまずいものでも、分け合って食べるのが友だちだ。おっと、それで思い出した」
耕作はポケットに手を入れて、紙袋を取り出した。袋には飴《あめ》玉《だま》が入っている。
「精吉、弁当を食べ終わったら、これをみんなに分けてやれ」
「はい」
精吉が目を輝かせた。花井先生の店から買って来た飴玉だ。一銭に三つの飴玉だから、五十人に二つ宛《ずつ》分けてやっても、四十銭とかからない。遠足にキャラメルやせんべいを持って来る子もいるが、飴玉一つ持って来れない子もいる。耕作はそれで、遠足の度に花井先生の所から生徒たちのために買うことにしていた。
「あれ!? 先生。精吉に配らせるの?」
愛之助が口を尖《とが》らせた。
「うん。悪いか」
「悪いよ先生」
「どうしてだ」
「だって先生、班で行動せって言ったでしょう。しょんべんだってつれしょんべんせって、言ったでしょ」
「なるほど、これは一本参った。じゃ、この班みんなで分けてこい」
「うわあ、よかった!」
四人は一斉に喜んだ。耕作は隣の班に目をやった。隣の班には、知恵遅れの、自分の名前しか書けない鮫《さめ》井《い》十治がいた。その鮫井十治の腰に、ふろしきを結びつけてやっている生徒の姿があった。十治がにこにこと何か言い、いかにもなごやかな雰《ふん》囲《い》気《き》である。
(よかった。四人を一班にして)
耕作は順々に他の班に目をやりながら、ゆっくりと握り飯を食べた。
五月の日が、うらうらと背にあたたかい。丘に働く人影が、いつしか消えて陽《かげ》炎《ろう》だけが燃えている。いつか校長が言っていた言葉を、耕作は思い出した。
「深山峠から見た眺めはねえ、大《だい》菩《ぼ》薩《さつ》峠の眺望によく似ていてねえ」
耕作は、まだ見ぬ大菩薩峠を思った。
「したら先生、みんなに分けて来るよ。二つずつだね」
四人が立ち上がり、精吉が言った。四人は得意そうに、飴玉を分けはじめた。愛之助が何か言い、生徒たちは両手を差し出して、うやうやしくもらっている。そして耕作のほうに向かって、ぴょこんと頭を下げた。愛之助が何を言っているのか想像できて、耕作はおかしかった。飴玉の袋を持っている精吉の背に、喜びのあふれているのを見て、耕作は再び十勝連峰に目をやった。
鶏の声
災害一周年記念の合同慰霊祭が過ぎて三日目だ。
「コケコッコー」
二番鶏が啼いた。拓一は、はっと目を覚ました。三時過ぎだ。窓はもう明るくなっている。春から夏にかけては、どこの農家も朝が早い。
手早く着替えをしながら、拓一ははっきりと目を覚ました。そっと窓をあけると空が青く、風もない。拓一はほっとした。
(幸《さい》先《さき》がいいぞ)
今日は、初めて田んぼに種を蒔《ま》く日なのだ。播《は》種《しゆ》の日に雨が降っては種《たね》籾《もみ》がぬれて直《ちよく》播《はん》器《き》の操作に支障を来たす。風が吹いては水が動いて、種が流れる。
(絶好の日和だ)
拓一は気負い立った。拓一は布団を上げると、仕切り戸を静かにあけて縁に出た。まだ佐枝も眠っている気配だ。厩《うまや》も静かだ。家の中で、自分だけが起きているという感じが、拓一は好きだ。全責任が自分の肩にかかっているような、緊張感があるからだ。
拓一は下駄を突っかけて土間に降りた。歯を磨き、水《みず》瓶《がめ》の中から柄《ひ》杓《しやく》で洗面器に水を入れる。手を洗面器に入れると、汲くみおきの水は結構冷たかった。拓一は顔はていねいに洗う。どうせすぐに汗にまみれる顔なのだが、それだけに洗う時はていねいに洗う。洗いながら、
(とうとう、籾蒔きにまでこぎつけたか)
と、深い感慨が湧《わ》き上がる。
去年の爆発から今日まで、拓一は無我夢中で働いて来た。川の浚《しゆん》渫《せつ》作業にも、道路工事にも、拓一は消防団や各地の青年団と共に働いた。そうした中で、自分たちの住む部屋を、修平叔父の納屋に造った。それができ上がったばかりの時、この家を譲り受けることになった。井戸を浚《さら》え、ポンプを打ちこみ、引っ越しをした。そして、来る日も来る日も、流木の除去作業に、拓一は朝から夕暗むまで働きつづけた。むろん青年団の手助けもあった。だが、流木はまるで湧いてでも来るように、取り除いても取り除いても、土の中に横たわっていた。その一本一本に、鳶《とび》口《ぐち》をかけ、全身の力をこめて片づけていく。日に一本片づけることさえできないほどの大きな木もあった。
やがて雪が降り、その雪の上で、積み上げておいた流木を焼いた。客土もした。暗《あん》渠《きよ》造りもした。泥にまみれる力仕事がほとんどだった。
それでも、五月に入って耕《こう》耘《うん》することができた。癇《かん》の強いだけあって、青はよく働いた。しめ粕《かす》や鰊《にしん》粕《かす》を撒《ま》き、田に水を入れた。一番つらかったのは、代《しろ》掻《か》きだった。
(あの日は、参ったなあ)
金気に赤茶けた手拭いで顔を拭きながら、拓一は微笑した。その日は、急に温度が下がって、田んぼの水に薄氷が張っていた。青を田に入れると、バリンバリンと割れる氷の音に驚いて、青はやにわに走り出したのだ。その青を追って入った田んぼの水の冷たかったこと、恐らく拓一は一生忘れることができないだろう。水はふくらはぎの深さに過ぎなかったが、脳天にひびくような冷たさだった。
拓一は野良仕事には馴れていた。が、拓一の家は畠作農家で、水田は作ったことがない。只、修平叔父がカジカの沢で少しばかりの田んぼを持っていたので、その田草取りに手伝いに行ったことはある。だが、田草を取る頃には、田んぼの水はぬるんでいて、脳天に応えるほどの冷たさではなかった。
薄氷の割れる音に驚く青を静めるまで、拓一はその冷たい田んぼの中を駆けまわった。ようやく青はその足をゆるめたが、早く歩いても、遅く歩いてもその冷たさには変わりはなかった。
後で、その冷たさを修平叔父に言った時、
「んだ、んだ、何年に一度かそんな目に遭うことがあるもんだ。畠には畠のつらさもあるが、田んぼには田んぼのつらさもあってな」
と、修平叔父はからからと笑っていた。拓一はその時、修平叔父が自分よりずっと大きな人間に見えたものだ。
拓一の田んぼは五町歩ある。五町歩に蒔く種籾を、拓一は十二俵用意した。そしてその種籾は、修平叔父に教えられたとおりに、俵のまま灌《かん》漑《がい》溝《こう》につけておいた。今日蒔く分は、昨日のうちに川から引き上げてある。種籾の水を切っておくためだ。
顔を洗い終えた拓一は外に出た。種籾の俵をあけて、魚《び》籠《く》に種籾を入れた。この魚籠を腰につけ、直播器の籾が切れた時に補給するのだ。直播器は通称蛸《たこ》足《あし》と呼ばれている。ブリキ製の直播器には八本のパイプがついてい、八つの穴から種籾が蒔かれるようになっている。この蛸足には、かんじきの輪のように、泥田に沈まぬような仕掛けがしてある。
青が厩を歩きまわる音がした。どうやら青も目を覚ましたようだ。青はきかない馬だが、それだけに利口でもある。拓一が起き出すと、すぐに目を覚ます。そして、厩の中をのそのそと歩き出すのだ。
拓一は厩に近づいた。青が喜んでいななく。厩《ま》栓《せん》棒《ぼう》を取り、拓一は青を外に引き出した。
「青、いよいよ今日は籾蒔きだぞ」
拓一は声に出して言い、青の体にブラシをかけ始めた。青は心地よさそうに目を細め、じっとしている。
「青のおかげだぞ」
拓一は心からそう思って言う。三月のザラメ雪の上を、青はぬかりぬかり客土を運んでくれた。五月に入って、田んぼを耕すのも青でなければならなかった。青が耕耘機を曳《ひ》いてくれなければ、一《ひと》鍬《くわ》一《ひと》鍬《くわ》振りおろして耕さなければならない。
「代掻きの時はご苦労だったなあ」
拓一のブラシをかける手に思いがこもる。あの朝の薄氷は、拓一の素足にもすり傷を負わせた。が、青も泥まみれになって、懸命に代掻きをしてくれた。一日くたくたになるまで働いた夕、青の背に乗って、灌漑溝の中に拓一は乗り入れたものだ。腹まで泥まみれになった青をきれいに洗うためだ。土をつけたまま放っておけば、馬も皮膚病になる。ましてや硫酸を多分に含んだこの泥田だ。あの時青は、心地よげに水の中に突っ立っていた。まるで、自分の果たした仕事に満足して立っているような様子だった。
青は拓一の同志なのだ。だから拓一は、朝起きるとすぐに、青の手入れを第一にする。夕食だって、どんなに自分が疲れていても、どんなに腹が空いていても、青より先に取ることはない。先ず青に秣《まぐさ》をやる。明日の段取りをする。そしてその後に夕食を取るのだ。
「お早う、兄ちゃん」
作業衣姿で耕作が顔を出した。
「あ、早いな」
「いい天気だね。よかったね」
「うん」
「きっと、成功するよ、兄ちゃん」
「俺もそんな気がする。何しろおあつらえ向きの天気だからな」
ブラシの手をとめて、拓一は空を仰いだ。並んで耕作も空を見た。
太陽が山を離れた。五月も末の朝日は、北寄りの大雪山の端近くから出る。東の丘は先ほどまで影絵のようにかぐろかった。それが俄《にわ》かに、生き生きとした新緑を見せはじめた。拓一は素足で田んぼの中に踏みこんだ。昨日の気温が高かったせいで、今朝の水はあの代掻きの時のような冷たさではない。と言っても結構冷たい。拓一は直播器を田んぼに置く。操作をすると、八つの穴につまっていた種籾がパイプを通って地に落ちる。七寸五分角の間隔に八本のパイプから籾が落ちる。
(俺は今、生まれて初めて自分の田に種を蒔いているのだ)
拓一は緊張した思いで、自分自身に言い聞かす。恐らくこれも、一生忘れ得ぬ思い出になることだろう。畦《あぜ》に立って、佐枝と耕作がその拓一を見守っている。
金色の朝日が田んぼにきらめく。また鶏が啼いた。三番鶏だ。
籾蒔き以来、拓一も耕作も、そして佐枝も、朝に夕に、つい田んぼに目をやるようになった。
あの朝吉田村長が、直播器を持って、勤めに出るまでの二時間、田んぼに入って種蒔きを手伝ってくれた。
「ようここまでこぎつけた」
石にかじりついても復興すると宣言していた吉田村長は、拓一の日頃の働きぶりに感激していた。拓一の所より被害の少ない農家でも、未《いま》だに整地に追われている所もある。隣にいる吉田村長は、拓一のたゆまぬ努力に内心励まされさえしていたのだ。それで、籾蒔きと聞いて、村長も手伝わずにいられなかったのだ。籾蒔きは、村長のほうが拓一より馴れていた。長年水田地帯にいただけ、技《ぎ》倆《りよう》が優れている。
吉田村長が田んぼから上がると、代わってすぐに、その妻が手伝ってくれた。村長の妻もまた、拓一より巧みであった。翌日は修平も貞吾も、自分の家から直播器を持って手伝いに来た。更に次の日は、青年団長の和田松右ェ門や、副団長の久野専一郎も手伝いに来てくれた。おかげで、丸三日を費やしたのみで、五町歩の籾蒔きが見事に終わった。
しかし修平は言った。
「当てにすんなよ、拓一。こったら臭い田んぼに、稲なんぞ簡単に実らねえ。先ず今年は駄目だべなあ。もし実ったら、おれの首をやる」
一緒について来た貞吾が、
「そうとは限らんべや父さん。万に一つということもあるよ」
と、拓一を慰めた。青年団の和田も久野も、
「反から一俵も穫《と》れればなあ」
と言った。
「反一俵穫れれば、大したもんだ。五町で五十俵だ。種籾十二俵使ったから、差し引き三十八俵の儲《もう》けだ」
「反に一俵ということはないよ。もっと多いさ」
と言う者もいた。みんな思い思いのことを言う。だが修平だけは、一粒もできまいとけんもほろろの言い方だった。
それだけに、果たして芽が出るか、根がつくか、三人は三様に不安であった。いや、拓一自身よりも、佐枝や耕作の不安のほうが強かった。
(もし、根づかなかったなら……)
どんなに拓一が落胆するだろうと思う。耕作は学校の行き帰りに、被害のなかった田んぼの傍《そば》に立ちどまる。それらの田んぼには既にうす緑の芽が水面すれすれに出てるのだ。
籾蒔きが終わって三日目の朝だった。
「芽が出たぞうっ!」
拓一の叫ぶ声に、佐枝と耕作は外に飛び出した。五、六ミリの小さな白い芽が、水の中に見えた。
「よかったなあ! 兄《あん》ちゃん」
「うん」
「うまく根をおろすといいな、兄ちゃん」
「うん」
「何日位で根がつくのかなあ」
「うん」
何を言っても拓一は、只うんうんと答えるだけだった。拓一は胸が一杯になっていたのだ。
更に三日過ぎた。
その日はちょうど土曜日だった。耕作は午後一時過ぎに学校を出た。いつもなら、土曜日でも夕方にならなければ帰途につかない。それがなぜか、今日は早く帰りたかった。くもった日だ。くもっていながら、しかし暗くはない。農家の庭に咲くリンゴの花が白かった。郭《かつ》公《こう》の声が、遠く近く呼び合うように啼《な》いている。六月に入ったばかりだというのに、ひどく気温が高い。十勝岳の全容がくもり空の下にその稜《りよう》線《せん》をきわやかに見せている。
家に近づいた時、耕作は思わずはっと目を凝らした。家の左手にひろがる田んぼが、うす青く見えたのだ。今朝見た田んぼは、青くはなかった。その田んぼが確かに青いのだ。耕作は走り出した。
「兄ちゃーんっ!」
のめるように駆けて来た耕作の前に、拓一が飛び出した。
「兄ちゃん! 田んぼが、田んぼが青い」
「見たか、耕作」
「見た! 田んぼが青い」
しっかりとうなずいて、耕作は涙ぐんだ。
その日半日、耕作も拓一も心が明るかった。佐枝も台所で讃《さん》美《び》歌《か》を口ずさんでいた。
夕方になって、風が出て来た。その夜珍しくガラス窓が、一晩中がたがたと鳴った。だが耕作も拓一も、安らかに眠りをむさぼっていた。
日曜日ということもあって、その翌日耕作は思いっきり眠った。耕作でさえ、一年分の疲れが出たような、そんな気がするほど昨日はうれしかったのだ。
眠り足りた耕作が起きて行くと、佐枝が浮かぬ顔で、
「耕作、拓一はさっきから、田んぼの傍から動かないのよ」
と、窓の外を指さした。
「それはそうだろうさ母さん。兄ちゃんはうれしくって……」
佐枝は力なく首を横にふり、
「それがねえ、ちがうんだよ、耕作」
耕作は改めて外を見た。そしてはっと目を疑った。ないのだ。確か昨日青かった筈の田んぼが、かき消えたように只の水になっている。耕作は血の逆流するのを覚えた。
耕作は急いで外に出ると、畦《あぜ》に屈《かが》みこんでいる拓一の傍に駆け寄った。稲は片隅に吹き寄せられていた。しかも、どの稲も釣り針のような白い根を上に向けていた。酸性の土を嫌って、根は土から浮き上がってしまったのだ。それを、昨夜の風が一度に吹き寄せてしまったのだ。
「兄ちゃん」
耕作の口がふるえた。拓一は黙っている。
「折角の苦労が……」
水の泡《あわ》になったとまでは、耕作は言い切れなかった。昨日喜んだだけに、失望が大きい。悪夢でも見ているような、いやな心地だった。
しばらく二人は黙って、吹き寄せられた稲を見つめていた。稲が青く伸びたのは、籾自身の栄養によるものだった。が、その田に、稲は根をおろすことを嫌ったのだ。無風の昨日は、それがそうは見えなかっただけなのだ。
と、声がした。
「やあ、ここの田んぼも、うちの田んぼも、おんなじだなあ」
吉田村長は、痛ましい顔を拓一に向けた。
「村長さんの家もですか」
耕作が言った。
「ああ、どこも同じだ。しかしな、人事を尽くして天命を待つだ。拓一君、力を落としてはならんぞ」
拓一はようやく顔を上げた。
「はい。ぼくは決して落胆はしていません。今年すぐに稲が実るような、そんな生やさしい土地ではないことを、最初から覚悟していました」
「そうか。それじゃ、来年もやってくれるか」
「もちろんです。来年でも、再来年でも、ぼくはやるつもりです。少なくとも、三年や五年は頑張ろうと思っています」
思いがけない力強い声音に、驚いて耕作は拓一を見た。耕作は拓一が力を落としてここに屈みこんでいたのだと思っていた。
「村長さん。ぼく、さっきからこの哀れな稲の姿を見て、いろんなことを考えていたんです」
「いろんなこと? どんなことかね拓一君」
「村長さん。日本の国は、火山列島ですよね。どこもかしこも、火山だらけですよね」
「なるほど」
「その日本に、とにかく稲ができている。すぐ傍に火山があっても、稲ができている。このあたりも、何度か昔から火山灰が降っている所です。それがすばらしい美田になったじゃないですか。だから、もう一度美田にならない筈はないと、ぼくは思っていたんです」
「拓一君! それは卓見だ。そうだ、この十勝の火山脈のすぐ下に田んぼができたんだ。君の言うとおり、もう一度田んぼができない筈はない!」
村長は目を輝かせて、拓一の手を握った。
畳を敷いた裁縫教室で、運動会の反省会が始まっていた。反省会とは、実は慰労会のことだ。父兄のおもだった者が中心になって、教師たちと酒宴をひらく。学芸会と運動会の後には、この反省会を持つならわしになっている。厚さ三寸もある長い裁ち板が、食卓代わりにぐるりと四角に並べられてある。その裁ち板の上には銚《ちよう》子《し》が林立し、するめや刺し身、茶碗むしなど料理が載せられてある。
「先生、今日はご苦労さんでした」
銚子を持って注《つ》いでまわるのは父兄たちである。耕作の前にも、今、一人の男が銚子を向けてあぐらをかいた。
「石村先生って、あんたかね。うちの娘が、暇さえありゃあ、石村先生、石村先生って言うんでね。どれが石村先生かと、今日は運動会で、あんたを探しましたよ」
「それはどうも」
耕作はあいまいに微笑して盃《さかずき》を受けた。
「なるほど、見るからにまじめそうだ。いや、これからも頑張ってやって下さいよ」
男はそう言って隣の教師のほうへと膝をずらした。
耕作はこの反省会が嫌いである。益垣先生や酒好きの教師たちは、この反省会を何よりも楽しみにしているようだ。教師たちが大っぴらに酒を飲めるのは、この反省会と、同僚の歓送迎会くらいのものだ。小さな町や村では、教師が飲食店で酒を飲むことはほとんどない。自分の家でこっそりと飲む。それも、いつ父兄が訪ねてくるかと、びくびくしながら飲むのである。その代わり反省会には誰もがへべれけになるほど酒を飲む。
「俺は今日、昼飯を抜いたよ。今夜のためにな」
と、益垣先生は赤い唇をなめなめ言っていた。この反省会は、町の料理屋でするなどということはない。校舎の中の、しかも一番奥まった裁縫室で飲む。外に騒ぎが洩れずにすむからだ。だから、大方の生徒たちは、教師が酒を飲むなどと思ったことがない。それが昂《こう》じて、教師は便所に行かないと信じこんでいる生徒すらいる。この世の人間とは思えないのだ。
父兄たちが、代わる代わる酌に来る。父兄の奢《おご》りだから、酒好きの教師ほど卑屈になって酌を受ける。
「先生、先生の組は少しばかり規律が乱れていましたなあ」
と言われても、
「へへへ……、それはどうも」
などとごまかして盃に口を持っていく。会がたけなわになるにつれ、歌が出る。父兄のほうが多くうたう。野卑な歌が、今日ばかりは天下御免で通るのだ。それでも教師たちは、さすがにあまりひどい歌はうたわない。今、六年女子組受け持ちの馬上先生が、体を左右に揺すりながら、大きく手拍子を取ってうたっている。
盃に映る灯《あか》りを 呑みほして
今宵はうたおう わが友よ
とその時、よろよろと立ち上がって、その歌をかき消すようにうたい出した父兄がいる。
三島女郎衆は ノーエ
盃と銚子を持ったまま、足で拍子を取りながら、男が踊り出した。みんなが声を合わせてうたい出す。耕作の嫌いな歌だ。耕作は手拍子だけは取っていたが、馬鹿馬鹿しくなって料理に箸をつけた。飲みなれない酒を飲まされて頭も痛い。
とけて流れて ノーエ
歌は終わったかと思うと初めに戻り、延々とつづく。踊っているのは、耕作の受け持ち松坂愛之助の父親だ。
ようやく歌が終わったかと思うと、松坂が耕作の前にでんと坐った。飲んで踊ったからであろうか、眼もすわっている。
「アッハッハッハッハ」
いきなり松坂は笑い出した。耕作はいやな予感がした。
「愛之助が世話になりますなあ、アッハッハッハッハ」
再び松坂は笑った。
「いや、行き届きませんで」
耕作の言葉が耳に入ったのか、どうか、松坂はぐいと片膝を突き出し、あごも共に突き出して言った。
「あんた、深雪楼の節ちゃんと、いい仲なんだってねえ。え? 石村先生」
大きな声に、隣にいた花井先生が、
「松坂さんの小父さん。ずいぶんご機嫌ねえ」
と、話題を外らそうとした。花井先生は先月子供を生んで、少しきれいになった。
「ご機嫌? ご機嫌なわけはねえだろう、ご機嫌なわけは」
不意に声がだみた。耕作は何と言っていいのか、言葉に迷って、傍《かたわ》らの銚子を松坂の盃に注ごうとした。と、松坂は、
「おっとっとっと。注いでもらう前に、聞きてえことがある」
と持っていた盃も銚子も畳の上に置いた。松坂に代わって、誰かが大声で軍歌をうたっている。そのざわめきで、二人のやりとりに気づく者は少ない。
「どんなことですか、松坂さん」
「あんたねえ、綴り方の時間に、子供たちに父親と母親のけんかでも、何でも書けって言ったそうだが、それは本当かね」
確かに耕作は、綴り方の時間に、それに似たことを言った。観念的な綴り方の多いことに驚いて、耕作は生徒たちをつれて小川に行った。春の小川がさらさら流れているなどと書いてあったからだ。生徒たちは大きな音を立てて流れている雪どけ水を見、太い縄がよじれるように流れている様を見て驚いた。耕作は生徒たちが納得したところで言った。
「見ないことは書くな。自分が本当に見たことを書け。見たことを見たとおりに書け。聞いたことを聞いたとおりに書け。そして、自分の考えたことを考えたとおりに書け」
そう言ったあとで、耕作は冗談まじりにこうも言った。
「何でも正直に書け。お父さんとお母さんがけんかした話だってかまわないぞ」
と。それを夫婦げんかの話を書けと指導したようにとられては心外である。と言って、目のすわるほどに酔っている松坂に、そのことを説明しても、わかってもらえないような気がした。が、そのままうなずくこともできない。厄介なことになったと思ったが耕作は思い切って言った。
「いや、それはちょっと誤解がありますね」
「誤解? 誤解か八階か知らねえが、あんたの綴り方の指導は、なっちゃあいないね」
果たして松坂は、耕作の弁明を聞くつもりはなかった。
「うちの愛之助はだな。今まで、只の一度もだな、俺と家内の口げんかなんぞ書いたことがない。それがなんだ。あんたの受け持ちになった途端に、妙な綴り方を書きやがった。しかもだな、深雪楼の悪口まで書かせやがって……」
愛之助は綴り方の中で、節子の家出をめぐって、父母の意見が対立したことを書いたのだ。そして、自分は父母のどちらの言い分が正しいかわからないとも書いたのだ。それはすべて、耕作の指導が悪いからだと、松坂は受け取っているようであった。
「しかもなんだ。あの批評にあんた、何と書いたか覚えているかい。見たまま聞いたまま正直に書いた、綴り方がうまくなった、なんておだてやがって、その上、何がいいか悪いか、なかなか誰にもわからんなんぞと書きやがって、あたかも俺たちの言い分がまちがっているかのように批評してるじゃねえか。教師という者はな、あんな綴り方を読んだらな、丙でもつけてよ、大きくバッテンでもしてよ、親のことや近所の悪口なんぞ書くもんじゃねえと、指導するのが本当じゃないかね。え?」
声はさこそ大きくないが、ぐだぐだと松坂は絡みつづけた。花井先生が心配そうに成り行きを見守っている。と、
「おい、松坂さん、何をやってんだね、ここで」
と、松坂の肩を叩いた者がいる。
「なあに、この若僧の油を絞っていたところよ」
「この若僧の?」
男はニヤニヤと耕作を見おろした。
「こいつだ。例の、遠足の時の……」
「ハハン、こいつか。ハハン、この先生さまか。なるほど。例のなあ」
二人は、二人だけに通ずる言葉でうなずき合った。
反省会が六時に始まって、十時過ぎに終わった。それでもまだ飲み足りなそうな顔をして、益垣先生などは銚子を一本一本振りながら、酒を集めていた。
耕作は女教師たちに手伝って、後始末を終え、外に出たのはもう十時半を過ぎていた。月が皎《こう》々《こう》と照って、街は眠っている。
耕作は重い気持ちだった。松坂愛之助の父が、耕作の綴り方の指導を、誤っていると難癖をつけたのも淋しかったが、その愛之助の父と一緒になって、四季堂という農具屋の親父の言った言葉が、耕作を憂鬱にさせた。四季堂は時に屋号とまちがわれるが、苗字なのだ。四季堂は、耕作の受け持ち生徒の父親ではない。四季堂は言ったのだ。
「この先生さまか、遠足の時、村長の家の前でおべんちゃらを言ったのは」
耕作にはそれが何のことか、咄《とつ》嗟《さ》にはわからなかった。
「おべんちゃら?」
「そうだろうが。あんた、生徒たちが泥棒村長と叫んだからって、何も村長の娘ば抱いて、ぐだぐだ説教することはないだろうが」
耕作は驚いて、返す言葉もなかった。
「たかが子供の言うことじゃねえか。泥棒村長と叫んだ子供の父親は、本当に泥棒村長と思ってるんだよ。思ってるから、泥棒村長と言ったんだよ」
「そうだそうだ。それでいいじゃねえか。子供は親の思ったとおりに言うもんだよ」
松坂も調子を合わせる。
「それを何だ。吉田村長は日本一の村長だとう? あんた、日本一か日本二か、日本中歩いてみたんかね」
「そうだそうだ、四季堂、うめえことを言うじゃねえか、お前」
松坂は盃を四季堂に差しながら言った。
「それをお節介に、村長の子供ば抱いて、頭ばなでて、おまけに生徒たちにまで、その子の頭をなでさせたっちゅうじゃねえか」
「ごめんなって、あやまらせてな。しかもだ、四つか五つのめろっ子の前に頭を下げさせてよ。大したおべんちゃらこきじゃねえか。月給ば上げてもらいたいんだべよ」
「そんなに月給上げてもれえてえもんかな。まあそれはそれでかまわんがよ。先生さまよ、あんたの言いぐさがわしは気に喰わん。あんた、生徒たちにこう言ったそうだな。『大人たちをゆるしてくれな』ってな。大きにお世話だよ」
「そうだ、大きにお世話だ。泥棒村長だと言われるには、言われるだけのことがあっからよ。現に、吉田は告訴されてるじゃねえか、告訴をよ」
「告訴ってのはね、よっぽどのことがなけりゃ、されんことだよ先生さま。第一、若僧が、この村会の事情もわからにゃあ、何もわからん癖に、復興だ復興だって、全く馬鹿の一つ覚えもいいとこじゃねえか」
「いくら復興したくたって、稲は正直だよ。この間蒔いた籾は、土を嫌って、一本だって根をおろさなかったって言うじゃねえか。お前ら農家の連中は、吉田におだてられて、たぶらかされているだけのことよ。今年実らなかった稲が、来年実るわけがあっか」
「悪いことは言わん。復興なんぞ諦《あきら》めろ。俺たち市街の者に、尻拭いさせるなってんだ」
代わる代わる四季堂と松坂はくどくど絡み、耕作を肴《さかな》に、いつまでも耕作の前で酒を飲んでいた。耕作は怒りを抑えて聞いていたが、しかし二人の帰り際に、きっぱりと言った。
「ぼくは吉田村長を尊敬している。しかしあなたたちを尊敬するわけにはいかない」
その言葉に、四季堂は顔色を変えて、
「何をっ!」
と声を上げたが、松坂が何やら耳打ちをし、そのまま帰って行ったのだった。
耕作は暗い街並みを、一人うつむいて歩いて行く。生徒たちに、真実に関わるということは、何とむずかしいことだろうと思った。少なくとも、小さな子供の前で、その親を泥棒呼ばわりすることを、教師たる者が、どうして見過ごすことができるだろう。一体、親という者は、自分の子に何を教えてもらいたいと願っているのだろう。読み書き算《そろ》盤《ばん》さえ教えてもらえば、あとはどうでもいいと思っているのだろうか。綴り方の指導だって、耕作は決してまちがったとは思っていない。耕作としては、あの二人に文句を言われることは、何もしていないと思うのだ。
深雪楼だけはまだ明るく賑《にぎ》やかだった。耕作は立ちどまって、深雪楼を見上げた。福子がまだ起きている。いや、これから明け方まで起きているにちがいない。佐野文子の家に行って来てから、耕作はまだ福子に会っていない。噂《うわさ》では、今度の深城の妻は、福子たち店の女にひどく酷薄だということである。
(福ちゃん、頑張れな)
さんざめく深雪楼を見上げてそう呟《つぶや》いた時だった。
「へ、学校の教師が、深雪楼見上げて、よだれ垂らしてらあ」
と、笑った者がいる。見ると、先ほどの松坂だ。並んで、四季堂もいる。その他見知らぬ若者が二人、ニヤニヤと笑って立っていた。
耕作は相手にならずに、さっさと立ち去ろうとした。
「おっと敵にうしろを見せるんですかい、先生さま」
四季堂が笑った。四季堂は農民に長いこと農具を売っているせいか、農民を馬鹿にするふうがあった。新しい農具が入って、その使い方を説明する時も、ひどく威圧的であると言われていた。耕作も農家の子だ。四季堂の目には、耕作も一段低い存在に見えるらしい。
「もう遅いですから」
「もう遅い? 遅いのに、何でぽかんと口をあけて、深雪楼を見上げていたんかね」
若い男が言った。この男にも酒が入っている。
「…………」
「節ちゃんはもういないよ」
松坂がせせら笑った。
「下卑た想像はやめて下さい」
耕作は憤然とした。節子が汚されるようで耐えられなかった。
「下卑た? ああ、どうせわしらは下卑てるよ。それにしてもだ先生さま。さっきは大変なご挨拶だったね。村長は尊敬している。しかしあんたたちを尊敬するわけにはいかねえ。いやはやお若いのに大したご挨拶だよ」
「そのお礼を申し上げようと、ここで待ってたわけだがね」
松坂はいやに落ちつき払って言った。
「そのお礼をする前に、言い忘れたことを言っておこう。あんた、子供たちに、薯と握り飯を取り替えさせたそうだな」
「…………」
「金持ちも貧乏人も、おんなじ物を食べさせようってのは、ちょっとばかり危険な思想じゃないのかね。貧乏人は粗末な物を食う。金持ちは収入に見合った物を食う。それに不服があるのかねえ」
「わしは、警察に知り合いがあるからね。あんたを取り調べさせることもできるんだよ」
耕作は呆《あき》れて、松坂と四季堂の顔をこもごもに見た。その耕作に、
「いやな目つきの野郎だな」
若い男の一人が吐き捨てるように言った。言ったかと思うと、やにわに耕作に打ってかかった。耕作はひょいと身を沈めた。と、うしろから他の男が殴りかかった。その時、耕作は蹄《ひづめ》の音を聞いた。と同時に何か叫ぶ拓一の声がした。
「兄《あん》ちゃん、大丈夫か、兄ちゃん」
耕作は、ベッドの上に眠っている拓一の顔をのぞきこんでおろおろと言う。拓一は時々呻《うめ》きながら、昏《こん》々《こん》と眠っている。注射が効いているのかもしれない。佐枝が言った。
「耕作、もうお前は休みなさい。一時間でも二時間でも眠らなければ、勤めに差し支えますよ」
もう白じらと夜が明けかかっている。
「大丈夫だよ母さん。一晩や二晩眠らなくても」
耕作は眠る気にはなれない。
「全くひどい奴だ。何の罪もない兄貴に」
耕作は、またしてもこみ上げて来る憤りをどうすることもできない。
どうしてこんなことになったのか。つい何時間か前のそのことを、耕作は先ほどから幾度も思い返していた。が、決定的なその瞬間だけはどうしてもはっきりと思い浮かばないのだ。
運動会の反省会で、耕作は松坂愛之助の父親と四季堂に絡まれた。松坂と四季堂は、若い男を二人つれて、深雪楼のあたりに待ち伏せしていた。そこで再び耕作は難癖をつけられ、しかも若い男にいきなり殴りかかられた。耕作は身を沈めて拳《こぶし》を避けた。その時背後に蹄の音が聞こえ、
「耕作どうしたっ!?」
と言う拓一の声がした。思わずふり返った耕作に、もう一人の男が太い棍《こん》棒《ぼう》で横殴りに打ちかかって来た。一度目は棍棒は空を切った。が、二度目は避けられぬほど目近にあった。と、次の瞬間、拓一が耕作の前に突っ立ち、
「ううっ」
という呻きと共にくず折れたのだ。
「兄ちゃん!」
取りすがった耕作の目に、拓一の顔が蒼《そう》白《はく》であった。松坂や四季堂のあわてる声がした。
「そったら棍棒で殴れと誰が言った」
「だって痛い目にあわせろと言ったじゃないすか」
「馬鹿が! 痛い目は拳《げん》骨《こつ》で足りるわ。下手したら警察沙汰だぞ」
松坂と四季堂が怒鳴りつけた。このあたりは酔いどれの喧《けん》嘩《か》に馴れているのか、関わり合いを恐れてかのぞきに出る者もない。深雪楼は相変わらずさんざめいていた。
拓一は、松坂、四季堂、そして二人の若者たちに、戸板にのせられて近くの外科病院に運ばれた。道々、四季堂も松坂も、耕作に平謝りに謝った。
「何分酒の上のことでな。ま、ゆるして下さいよ、先生」
「警察にだけは内緒に頼んます。このとおり……」
二人は酔いもすっかり覚め果てていた。
拓一は下《か》腿《たい》部《ぶ》を骨折していた。一応医師は処置をしてくれはした。が、痛みが強いのか、我慢強い拓一が時々呻き声を発する。その声に耕作の顔も歪む。
本来ならば、自分がこのベッドに臥《ね》ている筈であった。それを拓一が身代わりになってくれた。運動会の反省会で、遅くなるのを知っていて、わざわざ拓一は耕作を迎えに来た。が、そのことでこんなことになってしまったのである。
(どうして兄貴がこんな痛い目に遭わなきゃならないんだ)
耕作は先ほどからずっとそのことを考えつづけていた。拓一は小さい時から今まで、働きづめだった。そして真面目だった。女に触れたこともなければ、酔いどれてくだをまいたこともない。いやそれどころか、いつも人のことを思って生きてきた。弟の自分や、妹の良子をどんなに可愛がってくれたことだろう。良子のために、木を削り、人形を作ってくれた拓一の姿を、耕作は決して忘れることはできない。
(あの時だって、兄貴は冬山の仕事で疲れていた筈だ)
疲れていても、良子を喜ばせたくて、夜遅くまで人形を彫っていたのだ。自分を中学にやりたいと言ってくれたのも拓一だったと耕作は思う。青が死んだ時もそうだ。耕作が厩《ま》栓《せん》棒《ぼう》をきちんとかけておかなかったばかりに、青は干《ほ》し唐《とう》黍《きび》か何かを食って危篤におちいった。修平はあの時怒鳴った。
「誰だ、厩《うまや》のかんぬきを忘れたのは!」
はっとした耕作が答えるより先に拓一が言った。
「俺だ。俺が忘れたんだ」
そう言って拓一は耕作をかばってくれた。何も知らぬ修平は拓一を怒鳴りつけた。
「この間抜けが!」
拓一は黙って、耕作に代わって叱られてくれた。
いや、拓一のあたたかさは、家族に対してだけではない。同じ部落の者にも、青年団の者にも一様にそうであった。誰かの失敗はいつも拓一がかぶった。だから拓一は、団員たちにも部落の若者たちにも好かれた。
(兄貴ほどいい人間がいるだろうか)
改めて耕作は思う。ひっそりと拓一の枕もとに腰かけている佐枝に、耕作は尋ねずにはいられなかった。
「母さん、兄ちゃんはいい兄貴だよね」
佐枝は静かに耕作を見、深くうなずいて言った。
「ほんとうにやさしい性格ですよ、拓一は」
「やさしいだけじゃない。勇気もあるしな」
耕作は、三共座の復興反対集会で見た拓一の姿を思って言う。佐枝がまたうなずく。
「兄ちゃんほどいい人間を、俺は見たことがない。それなのに、どうして兄ちゃんは、こんな辛い目にばかり遭うんだろう」
「ほんとうにねえ」
佐枝は拓一に目をやった。拓一は肩で大きく息をしながら眠っている。
「兄ちゃんは、じっちゃんやばっちゃんを助けるために、あの物《もの》凄《すご》い泥流の中に飛びこんだんだよ、母さん。そんな人間なんて、そうそうこの世にいはしないよ、母さん」
「…………」
「それなのに、兄ちゃんは苦労のし通しだ。泥流に何もかも奪われただけで充分なのに、またまたこんなひどい目に遭って……片足でも短くなったら」
「…………」
「第一、行きがかり上、俺が殴られたんなら仕方がないよ。だけど、兄ちゃんは俺の代わりに殴られたんだ。うまく骨がついてくれたらいいけどなあ」
「…………」
うなずきうなずき黙って聞いている佐枝に、耕作の声が次第に高くなってくる。耕作はやりきれないのだ。
「兄ちゃんが、何を悪いことをしたって言うんだ。それなのに、あいつらは……」
耕作は唇を噛《か》む。耕作自身、松坂や四季堂にねじこまれるようなことをした覚えはない。結局彼らが難癖をつけたのは、耕作たちが復興派だということにあるのではないか。自分の子供が吉田村長の娘にあやまったと聞いて、それが癇《かん》にさわったにちがいない。根は復興派に対する反対派の恨みにあるのだ。耕作はまたしてもむらむらと腹が立つ。しかも、拓一が怪我をした途端に、酒の上のことだとか、警察には内聞になどと、勝手なことを言った。それがまた耕作には腹が立つ。松坂たちが若者を使って、耕作を殴らせようとしたのは確かなのだ。拳骨の二つ三つくれたところで、警察沙汰にはなるまい。そうたかをくくったのだ。それが、思いがけない結果になった。それで、松坂たちはあわてたのだ。何れにしても、待ち伏せしていたのは卑劣だと思う。
(おやじが早く死んで、母さんに別れて、じっちゃんばっちゃんに手伝って、俺たちを可愛がって……好きな福子は深雪楼に売られて、復興に苦労して、蒔いた稲が全部浮いてがっくりきた矢先に、骨を折られて……)
耕作はくり返しくり返し拓一の不幸を思う。
(なぜ、こんな不幸にあわねばならないのか、兄貴ほどの正しい者が)
何者へとも知れず、耕作は怒りに似た問いを発していた。
翌朝耕作は寝不足のまま学校に行った。昨夜ほとんど一睡もしないが、気が立っているから眠くはない。反省会で飲み疲れたのか、精気のない顔をした教師が二、三人いた。
「あーあ」
益垣先生が不遠慮に大きな欠伸《あくび》をした。花井先生がくすりと笑った。と、他の一人が、これは声を出さずに欠伸をして、
「益垣先生、欠伸というものはうつりますなあ」
と言ったので、教師たちは笑った。
今日は運動会の翌日で、本来なら代休になるのだが、今年はどうしたわけか、校長は校庭の掃除を一時間して帰すということに決めた。多分、さほど酒をたしなまぬ校長は、ふだん飲み過ぎる教師たちを牽《けん》制《せい》するために、登校させることにしたのかも知れない。
生徒たちは手に手に竹《たけ》箒《ぼうき》やちり取りを持って、屋外運動場に集まっている。その竹箒を、槍やなぎなた代わりに遊んでいる男の子や、ちり取りを楯のように持って戦さごっこをしている生徒が、職員室の窓から見える。女生徒たちは竹箒によりかかるようにして、あっちに一かたまり、こっちに一かたまりとなって、話し合っている。いつもの耕作だと、その子供たちの姿を興がって見るのだが、今朝はひどくむなしい。
職員朝礼が始まった。教頭の司会で、教師たちが一斉に立ち上がり、
「お早うございます」
と挨拶をする。つづいて校長が昨日の労をねぎらった。耕作は、自分の机をぼんやりと眺めたまま、ほとんど何も聞いていない。当番の教師が、今日の戸外掃除についての要領を話した。
「六年生は正面玄関から右のほう五十メートル」
と言う言葉だけが、耕作の耳に入った。耕作は何の意欲も湧かなかった。耕作の目には、只拓一の姿だけがある。
(どうして兄貴のような人間が災難に遭うのか)
そう幾度も思っているうちに、
(どうして、深雪楼の深城のような男が、かすり傷ひとつ負わず、商売も繁昌しているのか)
と、腹立たしくなる。何かがまちがっていると思う。猿《さる》蟹《かに》合戦の話にせよ、桃太郎や花咲爺の話にせよ、耕作たちが聞いて育った童話は、どれも善人が栄え、悪人が滅ぶ結末になっている。勧善懲悪の思想は、あれはむなしい人間の願いに過ぎないのか。
(もし兄貴が、生まれてからこの方、一度でも弱い者いじめしたことがあるなら……)
(もし兄貴が、一度でも祖父母や母につらい言葉でも言ったことがあるなら……)
(もし兄貴が、その口から卑《ひ》猥《わい》な言葉を一度でも出したことがあるなら……)
(もし兄貴が、一度でも人の物を盗んだことがあるなら……)
耕作はしかし、自分の思い出の中に、そんな拓一の姿はひとつもなかったと思う。
(もし兄貴が、生まれもつかぬ体になったとしたら、俺は絶対にあいつらを許さない)
耕作は自分では気づかずに厳しい顔をしていた。その耕作を向かい側に坐っている花井先生や、同学年受け持ちの馬上先生が心配そうに見ていた。
職員朝礼が終わり、教師たちが席を立ち始めた。あと十五分で、生徒たちの朝礼が始まる。耕作ものろのろと立ち上がった。その時、教頭がそっと近づいて来て、
「石村君、校長が呼んでいなさる」
とささやいて、すぐ立ち去った。耕作は校長の席に近づいて行った。
「お呼びですか」
校長はじっと耕作の顔をみつめていたが、
「君、昨夜は大変だったね。お兄さんの具合はどうかね」
と、上半身を机の半ばまで乗り出して言った。耕作は、校長の白髪交じりの口ひげを眺めながら、
「もうお聞きでしたか」
と、抑揚のない声で言った。
「うん、昨夜遅く、松坂と四季堂にやって来られてね。何とか穏便に取り計らってほしいという話なんだ」
「…………」
むっつりと押し黙った耕作を、校長は窺うように見た。松坂と四季堂は、何を校長に言ったのだろう。彼らは自分の非を思わず、警察沙汰になることを恐れてだけいるにちがいない。わが身の安全のみを願えばこそ、校長の迷惑も顧みず、夜の夜中に押しかけたのだ。
「どうだろう。ここはひとつ、穏やかにすませてはもらえないものだろうか」
それには答えず、耕作は校長に尋ねた。
「校長先生、どうしてぼくの兄貴が殴られたか、そのいきさつはご存じでしょうか」
「ああ聞いたよ。奴《やつこ》さんたちに言わせると、どうも君の綴り方指導は、親子の間を歪《ゆが》ませるのではないかとか、握り飯と薯がどうとか言っていたな。薯を持って来た子に握り飯を持って来た子が、どうとか言っていたな。総合して言えば、君が社会主義の思想だと言うんだね」
「ぼくが社会主義者だと言うんですか」
耕作は少し笑った。もし自分の生き方が社会主義だと言うのであれば、社会主義とはなかなかいいものだと耕作は思った。校長も笑って、
「何、近頃の父兄の中には、ちょっと熱心な教師が現れれば、すぐに社会主義者だと言いたがる。あれは一体どういうことかねえ。ま、わしは、石村君は絶対に社会主義者ではないと強調しておいたがね。それはとにかく、奴らは、君を生意気だと言うんだな」
「生意気ですか。ぼくが生意気だとしたら、奴らは無礼です」
「それはま、そうだ。しかし、君も奴らを絶対尊敬しないなどと言ったそうだが、それはちょっとまずかったんじゃないかね」
「そうですか。しかし、ぼくは吉田村長は尊敬するけど、その村長を泥棒呼ばわりする彼らを尊敬しないと言ったつもりですが」
耕作の言葉に校長は、
「何? 村長? 村長の話など、ひとことも出なかったよ、君」
吉田村長と校長は仲がよい。深い友情と信頼の上に立った間柄なのだ。それを知っている松坂たちは、泥棒村長の件はおくびにも出さなかったのだ。耕作は手短に、深山峠に至る途中の事件を語った。
「何じゃい。それだよ君、それだよ。奴らは村長を告訴して戦っている最中だ」
苦々しげに校長は考えていたが、
「どうする、警察に訴えるかね。穏便に計らうかね」
耕作は黙った。
「君、訴えてもいいよ、訴えても」
校長はかなり激しい語気で言った。
「とにかく兄貴や、おふくろと相談してみます」
どうせ小さな町のことだ。巡査派出所に、昨夜のこの事件は遠からず聞こえていくだろう。いや、既に松坂たちは警察にも手をまわしているかも知れないのだ。
耕作は時計を見、
「ご心配をかけました」
と、屋外運動場に出た。既に朝礼が始まっていた。遅参した校長と耕作を、不審そうに教師たちは見ていた。
校長の訓示が一分ほどで終わって、朝礼は終わった。耕作は生徒たちを引率して、掃除区域である正面玄関の傍らに行った。
「欠席した者はいるか」
「いませーん」
「よし。じゃ、箒を持っている者は玄関前の道路を掃く。道具を持って来なかった者は草取りをする。紙《かみ》屑《くず》も拾うこと」
言い終わった耕作の視線に、ふと松坂愛之助の顔が入った。愛之助はびくりとしたようにうつむいた。愛之助は顔さえ青い。
「では、掃除始め」
みんなが思い思いの部署についた。が、愛之助はその場に突っ立ったままうつむいている。耕作は愛之助に近づいて行った。
「愛之助、何だ、元気がないな」
耕作は愛之助の肩を叩いた。見上げた愛之助の目に涙が一杯たまっている。
「心配すんな、愛之助。先生は何とも思っていないぞ。今までどおり仲よくやろうな」
耕作は愛之助の肩を抱いた。こらえ切れずに、愛之助はわっと声を上げて耕作にしがみついた。
午後三時の検温が終わった。拓一は足を動かそうとして、思わず口を歪《ゆが》めた。激しい痛みだ。
入院してもう五日になる。熱はないが、副《ふく》木《ぼく》を当てた左足は、ちょっと動かしただけでもまだ痛い。そして、骨の軋《きし》る音がするのだ。医師はそれを軋《あつ》轢《れき》音と呼んだ。立つことも坐ることもできない。いや、寝返りを打つことさえできない。
(まあ、よかった、怪我をしたのが俺で)
拓一はしみじみとそう思う。幾度もそう思ってきたことだ。
あの夜、拓一はめったにないことに胸騒ぎがした。耕作の帰りが遅いことは、はじめからわかっていた。にもかかわらず、夜が深まるにつれ、妙に耕作のことが気にかかった。幸い月も出ていた。まだ厩の中を歩きまわる青の気配がしていたので、拓一は青を曳《ひ》き出した。
「市街までひと走りするか、青」
青はわかったように頭を上げ下げして、鼻面を寄せてきた。その青に打ち乗って、拓一はひと鞭《むち》当てた。人通りのない村道を、青は蹄の音も高く、気持ちよく走ってくれた。だが拓一の胸騒ぎはおさまらなかった。小一里の道をたちまち過ぎ、市街に入った拓一は、深雪楼の前に、男たちに囲まれた耕作を見た。
(やっぱり!)
俄《にわ》かに胸が高鳴った。そして、棍棒をふり上げた男と耕作の間に割って入った瞬間、拓一は打ち倒されてしまったのだ。
(馬鹿だったよ)
拓一はかすかに笑った。いきなり棍棒を取り上げるとか、棍棒を持った者の足を掬《すく》うとか、いい手は幾つもあったような気がする。それがなぜ、あんな不様なことになってしまったのか。拓一は自分で自分を笑いたくなる。拓一は只、耕作を救いたかったのだ。耕作をかばいたかったのだ。その思いが耕作の前に自分を立たせてしまったのだ。
(だけど、耕作でなくてよかった)
自分の代わりに、ここに耕作が下腿骨を折って、こんな痛みを味わわなければならないとしたら……そう思うだけで、拓一の胸が痛くなる。
(耕作には生徒がいるしな)
教師は大事な生徒を預かっている。一日だって休むわけにはいかないのだ。医師は二カ月は入院を要すると言った。むろん、松葉杖《づえ》をつけば、一カ月後には便所に立つこともできるだろうと言われた。だが片松葉になるには、一カ月半から二カ月は要すると言うのだ。副木を外すのも、その頃だ。
「退院しても、通院に一カ月はかかるからね。まあ、全治するまで、三カ月から四カ月は見ていてほしい」
医師はそう言った。
「変形治《ち》癒《ゆ》と言ってね。下手をすると片足を引くようになるかも知れない。だから、決して無理をしてはいけない」
そうも言われた。
(足がなおる頃には、もう山に雪が来ているな)
三カ月というと九月も半ばだ。ナナカマドが真っ赤に色づく頃だ。農耕作業に出て行くわけにはいかない。治療費もかかる。むろん松坂は治療費は払うとは言っているが、とにかく収入は減る。耕作一人の月給で当分賄《まかな》わなければならない。だが拓一は、
(時期がよかった)
と思う。発芽した稲はみんな無残にも土から浮き上がってしまったあとだ。とにかく足がなおれば、また暗《あん》渠《きよ》排水も、客土もできる。肥料を撒《ま》くこともできる。そう思って拓一は自分を慰める。
(それにしてもヘマをしたな)
拓一は苦笑した。付き添いの佐枝は、買い物に出ていた。病院では付き添いの食事が出ない。それでお菜《かず》を買いに出かけたのだ。
ドアを叩く音がした。ひどく軽い音だ。看護婦なら、一つこつんと叩いてすぐに入って来る。
「はい、どうぞ」
拓一は返事をした。と、そっと福子の白い顔がのぞいた。
「福ちゃんじゃないか!」
拓一は驚きの声を上げた。福子は静かにドアをしめ、
「拓ちゃん!」
と、立ったまま泣きそうな顔をした。
「大丈夫だよ。元気だから」
と笑顔を見せると、福子はやっと笑顔になって、
「思ったよりお元気そうね、安心したわ」
と、拓一の傍に寄った。拓一は黙って福子を見た。つややかに結い上げた福子の髪に、一筋の乱れもない。福子もじっと拓一の目をのぞいた。二人の視線が絡み合った。
「痛むんでしょう」
福子は眉根を寄せた。
「うん、動かすと痛い」
「まあ! 動かすと痛いの。じゃ、じっとしてなくちゃいけないのね。大変ね」
「そうだね。人間て、体を動かさないということは、動かすことより、ずっと大変なことだとわかったよ」
「そうよねえ。拓ちゃんごめんなさい。わたし昨夜まで、拓ちゃんが入院してること、全然知らなかったの。知ってたら、すぐに駆けつけたのに」
「誰に聞いた? 福ちゃん」
「花井先生よ。昨夜、夜遅くお客さんを送って玄関に出たら、花井先生がおふろの帰りだったの。そして『知ってる? 拓一さんのこと』って教えてくれたの。わたし、びっくりしたわ。眠れなかったわ」
福子はひたむきな顔で言った。それがひどくおさなく見えた。
「眠れなかった?」
「ええ。だから、目が腫《は》れぼったいでしょう」
「福ちゃんが眠れなかったのか」
拓一はしみじみと言った。今まで味わったことのない幸せな感じだった。
「ええ、拓一さんの足がもとになおるかって、そのことばっかり」
福子ははじめて、拓ちゃんと呼ばずに拓一さんと呼んだ。それが拓一にはひどく新鮮にひびいた。
「大丈夫だよ。元に戻るよ」
「でも、ちょっと動かしても痛いんでしょう。拓一さんのような人がどうしてそんな痛い目に遭わなければならないのかしら」
みんなが言うようなことを、今福子も言った。耕作も言っていた。青年団長の和田も、久野も、そして吉田村長も言っていた。みんなにくり返し言われるごとに、
(俺はそんないい人間だろうか)
と、拓一は不思議な感じがする。格別いい人間になろうとしたことはない。只当たり前のことをしているような気がする。そして自分は平凡な人間だと、いつも思ってきた。それが、こうして怪我をした時、
「どうして、あんたみたいないい人間が……」
と言われるのか。拓一は面映ゆい気がする。
「福ちゃん、俺、普通の人間だよ」
拓一は天井を見た。雨の汚点跡のある天井だ。その雨跡が、どうも女の体に見えて、それが拓一の心を咎《とが》める。
「いいえ。拓一さんは、本当にいい人よ。人のことばかり思いやって。今度だってそうでしょ。只耕ちゃんのことばかり思って、自分が打たれることを忘れていたんでしょう」
「…………」
「わたしたちなら、先ず自分が殴られまいと思うわ。自分は損はしたくないと思うわ。痛い目に遭いたくないと思うわ。でも、拓一さんはちがうのね。わたし、そんな拓一さんが……」
好きと言いたい言葉を福子はのみこんだ。自分には、拓一を好きだと言う資格がないと福子は思う。その思いを、福子は只目の色に見せていた。
「福ちゃん」
拓一はその福子の目に応えるように福子を見た。
耕作は、佐枝と一晩おきに交替して、拓一の病室に泊まった。この病院は、どの病室もみな一人部屋である。耕作はベッドの下から、唐草模様の大風呂敷に包んだ布団を引き出して、茣《ご》蓙《ざ》の上に敷いた。拓一の顔がいつもとどこかちがっている。福子が来たからだと耕作は思う。
今日、学校の帰り、五時を過ぎて耕作は病院に来た。と、病院の廊下に女たちが三、四人集まって話をしていた。
「何でも、よたもんと喧嘩したんだってね」
「へーえ。よたもんとけんかするんじゃ、ろくなもんじゃないね」
「そうさ。足を折ったって、自業自得さ」
足を折ったと聞くまで、女たちがまさか拓一の噂をしているとは思わなかった。耕作は出入り口で靴を脱ぎ、スリッパを探していたところだった。が、その言葉を聞くと、そこから動くことができなくなった。
「……だけど、まじめな人だって聞いたけどね」
他の一人が口をはさんだ。
「何がまじめなもんかね。その証拠にね、来たんだよ、これが」
女が小指を立てたことを耕作は知らない。
「これって、女かい?」
「女も女、深雪楼の女だよ」
「深雪楼の!? まあ! 呆《あき》れたもんだねえ」
「女も女だ。髪をきれいに結ってさ。きっとあれ、髪を結いに出た序《ついで》に、隠れて会いに来たんだよ」
「ふーん。やっぱり博《ばく》打《ち》打ちの仲間かね」
耕作は体がふるえた。女たちの無責任な噂話に腹が立った。耕作は飛び出して行って、
「けんかではないっ! 襲われたんだ!」
と、怒鳴ってやりたかった。そして、
「深雪楼から来たそのひとは、手ひとつ握ったことのない幼馴じみなんだ!」
と、言ってやりたかった。だが耕作は、それができなかった。松坂愛之助の、自分にしがみついて泣いた姿が、心に焼きついていたからだ。弁解することはやさしい。が、弁解した時に、すべては明るみに出る。見舞いの客たちには、只誤って怪我をしたように言ってある。まちがっても、愛之助の父親の名を出すことは耕作にはできなかった。
怪我をした翌日、耕作は校長の言葉を拓一と佐枝に話した。が、拓一も佐枝も警察沙汰にしようとは決して言わなかった。
「そうか。校長が怒っていたか。訴えろと息まいていたか」
拓一は苦笑して、
「それで、耕作は何と答えて来たんだ」
「母や兄と相談しますって答えたさ」
「馬鹿な奴だ。松坂の息子は教え子です。教え子の父親を訴えることはできませんと、きっぱり答えればよかったじゃないか」
「ほんとうよ、耕作。自分の信頼している先生に父親を訴えられては、その子は一生心に傷がつきますよ」
そう言った拓一と佐枝の言葉を、耕作はうれしく聞いた。それだけに、心ない女たちの噂話は、耕作の胸を噛んだ。病院内のことで、拓一の怪我は殴られた怪我だと、看護婦からでも洩れたのだろう。
(何で兄貴が悪く言われなければならないんだ)
今、耕作は、女たちの言葉を思って、敷いた布団の上にじっと坐っていた。
「耕作、何を考えている?」
ベッドの上から拓一が言った。
「ううん、何でもない。只さ、どうして深城のような奴が怪我もしないで、無病息災で、商売繁昌なのかなあって……」
さすがに女たちの言葉を告げる気にはなれなかった。
「また始まった。お前はまだそんなことを考えてるのか」
「だって兄《あん》ちゃんがこんな痛い目に遭うなんて、どう考えても、わからないんだ」
「……考えてくれるのはありがたいが、あんまり同じことを考えるのは、神経衰弱だっていうぞ、耕作」
「兄ちゃんは考えないのかい」
「俺は、お前のように考える頭はないからな。只、ヘマな怪我をしちゃったなあと、思うだけだ」
「しかしね、兄ちゃん。俺は不公平だと思うよ。もし神というものがいるとすればだよ。もっと公平であっていいと思うんだ。悪いことをした奴は悪い報いを受ける。いいことをした奴はいい報いを受ける。それが神のいる証拠のような気がするんだがなあ」
「そうだなあ……」
と、拓一はちょっと言葉を途切らせてから、
「福子のことを思うと、そう思うよ俺も。あいつは小さい時から、素直ないい子だったもなあ。それなのにあんなに苦労をして……。俺は足がなおったら、必ず佐野文子さんの所に行ってくるよ。どうしたら金がなくても自由になれるか、聞いて来るよ」
生き生きとした表情である。
「だからさ、兄ちゃん。福子にしても、兄ちゃんにしても、本当にいい人間の部類だと思うよ。それが痛い目にばかり遭っている。俺は腹が立つんだ」
なぜ当の本人の拓一が、歯ぎしりして口《く》惜《や》しがらないのか、耕作には不思議だった。
「あ、そうそう、おふくろがね、耕作にその本の、紙を挟《はさ》んである箇所を読めと言っていたよ」
拓一が床頭台の上を指さした。それは部厚い聖書だった。
「おふくろが?」
耕作は聖書を手に取ってみた。佐枝が時々ストーブの傍で、この本をひらいていたのを見たことはある。だが耕作は、聖書というものにあまり興味がなかった。というより、検定試験を受けるために忙しかったと、言ったほうがいいかも知れない。
今夜も少し、勉強するつもりでいた。だが、今はなぜか、言われるままに聖書をひらいてみる気になった。それは、拓一に対する無責任な風評を聞いたからかも知れない。
耕作は、黒表紙のずしりと重い聖書を手に取った。そして佐枝が紙を挟んでいた頁をひらいた。
「約百記」と書いた頁であった。
(約百って何だ?)
約百と書いてヨブと仮名がふってあるのも見馴れぬ言葉だった。
(当て字だな。とすると、地名か人名か)
「約百記」の語につづいて、すぐに、「第一章」とある。耕作は何章まであるのかと、先ず頁を繰ってみた。すると四十二章まである。頁数にして、三十八頁であった。
(すぐに読めるな)
その三十八頁を指に挟んで耕作は思った。三十八頁はひどく薄かった。ガラスほどの厚さもない。
〈ウヅの地にヨブと名《なづ》くる人あり其《その》人《ひと》と為《なり》完全《まつたく》かつ正《ただし》くして神を畏《おそ》れ悪に遠ざかる〉
耕作は読み始めて驚いた。句読点の全くない文章である。
(聖書って、妙な文章だな)
そう思い、次に、その内容にも疑問を抱いた。人間に、完全といえる人などあるだろうかと思ったのである。だが、その完全な人間ヨブについて、一体何が書いてあるのかと、興味も湧いた。
ヨブには男の子七人と女の子が三人あった。そして羊七千、ラクダ三千、牛五百、雌ロバ五百いたと記されてある。上富良野の近郷近在に、これほどの物持ちはいない。
耕作はその先を読んだ。
ところがヨブはこの十人の子を悲惨な事故で一時に失い、財産もまた、またたく間に失ったと記されてあった。
(なんだ? 正しい者が災難に遭う話か)
耕作は、佐枝がこのヨブ記を自分に読ませたいと思った真意が、わかったような気がした。
〈是《ここ》においてヨブ起《たち》あがり外衣《うはぎ》を裂き髪を斬《き》り地に伏して拝し言ふ我裸にて母の胎《たい》を出でたり又裸にて彼処《かしこ》に帰らんエホバ与へエホバ取給ふなりエホバの御《み》名《な》は讃《ほ》むべきかなこの事においてヨブは全く罪を犯さず神にむかひて愚《おろか》なることを言《いは》ざりき〉
耕作は驚いて再び読んだ。そして三度読み返した。いつかこの話を祖父に聞いたことがあると耕作は気づいた。ほっと洩らす耕作の吐息を拓一はベッドの上で聞いていた。
「ほんとうにごめんなさいね。あやまったからって、すむことではないけれど」
椅子に腰をおろした節子はベッドの上の拓一に言った。旭川に去って三カ月、節子はいっそうきびきびした身のこなしになっていた。以前には、ともすればのぞいていた驕《きよう》慢《まん》の表情が消えている。経済的に何ひとつ不自由のない生活から、自立した生活に飛びこんだ節子は、それなりの苦労もしているのだ。地味な縞模様のセルの着物が、かつてなかったつつましさを節子に与えていた。
「節子さんがあやまることはないよ」
拓一は微笑した。入院してもう二十日になる。痛みはほとんどなくなったが、依然として立つことができない。節子の傍《かたわ》らに坐っていた耕作は、
「そうですよ。節子さんがあやまることはない」
とうなずく。
節子が見舞いに来るとは、拓一も耕作も思ってもみなかった。家を出た節子が、こんなに早くこの地を踏むとは思えなかったからだ。だが節子は、悪びれた様子もなく、堂々と上富良野の地に帰って来た。そして、父の深城鎌治の所にも顔を出して来たのである。その点節子は強い女だった。
「わたしね、父から聞いたわ。拓一さんを殴ったのは、父の所にこの頃出入りするようになった博打うちなのよ」
「それは知らなかったなあ」
思わず耕作が言った。耕作は、松坂の家に出入りする者かと思っていたのだ。
「だからわたし、申し訳ないと思うのよ。あんな博徒の身内を後《あと》釜《がま》に入れたから、むやみやたらとやくざな連中が出入りするようになったらしいの」
節子の目が怒りを帯びた。富良野の博徒の姪《めい》を、深城はハツの後に引き入れた。以来、毎日のように博打をしに男が来るようになった。そのためか、客足が少しずつ減っているらしいことも、節子は店の女たちから聞いた。
「父は一度も見舞いに伺っていないでしょう」
拓一も耕作も答えない。
「そんな人間なのよ、うちの父は。わたしね、さっき、ほんとうは父とけんかして来たの」
「けんか?」
「そう。けんかよ。わたしにとって、それがほんとうの孝行だと思うの。あんな親でも、恥ずかしいけれどわたしの親ですからね。いくら家を飛び出しても、わたし、子としての分は尽くしたいの」
「…………」
「わたし、父に人間らしいことをさせたいのよ。そうすると、どうしても父とぶつかるでしょう」
節子の黒い目に、さっと涙が走った。節子はぬれたまつ毛をしばたたいて窓の外を見た。白と赤の牡《ぼ》丹《たん》が、アララギの下にあでやかに咲いている。
節子は、父の深城と、福子の問題について言い争ったのだ。帰って来た節子を見て、さすがに深城はうれしそうであった。
「この親不孝者めが。とうとう音《ね》を上げて金でもせびりに来たか」
口ではそう言いながらも、深城は目尻を下げた。だが節子は言った。
「大丈夫よ。音なんか上げないわ。お金なんかいらないわ。お母さんと二人、結構楽しく生きてるわ」
節子は深城の顔を真っすぐに見た。
「なにい、金なんか一銭もいらねえ。お前らの安月給で、着物一枚はおろか、活動写真にも行けんだろうが」
深城は煙管《きせる》の灰を、長火鉢の縁に、かんかんと音を立てて落としながら、せせら笑った。
「お金なんかほしくないったら。只ね。福ちゃんのことを頼みに来たの」
節子はまじめな顔をした。
「福ちゃん?」
傍らにいた深城の妻が訝《いぶか》しげに言った。
「おお、小菊のこった」
深城が言った。
「小菊? ああそう言えば、福子とか言ったわね。何の福もないくせに、名前にだけ福がついているのね」
深城の妻は、冷たく言って笑った。その言い方が節子の癇に障った。
「福ちゃんの福を奪ったのは、お父さん、あんたよ」
「何だい、藪《やぶ》から棒に」
「藪から棒じゃないわよ。お父さん、わたしね、こないだ佐野文子さんの講演を聞きに行ったの」
「佐野文子? 何だそれ」
「公娼廃止運動をしている立派な人よ」
「ああ、あの出しゃばり女か」
佐野文子たちの属する矯風会の公娼廃止運動は、時折深城も新聞で見ている。
「出しゃばり女? 冗談じゃないわ。あのね、お父さん、よっく聞いて。まじめに聞いて。節子の一生の願いなんだから」
節子は真剣に深城に頼んだ。
「何だ、一生の願いって。また家に帰って来たいってか」
「はぐらかさないで。わたしね、沼崎先生の奥さんにつれられて、看護婦さんたちみんなで聞きに行ったの。講演は映画館であったの。男も女もたくさん聞きに来ていたわ。でも妨害に来ている一団もあったわ。佐野先生が話をしようとすると、演壇の前でわあわあ叫び立てるの。佐野先生は、親のために身を売った女の人たちを助けようとして、一生懸命話したのよ。でもね、荒くれ男たちは壇上に駆け上がって、佐野先生の胸ぐらをつかんで、乱暴するのよ。大衆の面前で」
深城の妻が口を挟んだ。
「そりゃあ、商売の邪魔をされりゃあ、乱暴もしたくなるわねえ」
「そうだそうだ。そりゃあお前の言うとおりだ」
「とにかくあの話を聞いて、お父さんと話をする気になって帰って来たの。お父さん、わたし命がけでおねがいするわ。福ちゃんを自由にしてあげて」
「何を言うんだ、お前。福子には借金……借金が山ほどあるんだぞ」
「山ほどあるって、どれほどよ。福ちゃんはもうこの家に来て、六、七年経つのよ。もう充分に働いたんじゃない?」
「どうしてどうして、まだ山ほどある」
「そんなわけないわ。あの福ちゃんのお父さんが借りたお金なんて、たかが知れてると思うわ。お父さんが勝手に借金をふやしているんでしょ。やれ着物代だの、何だのって」
「馬鹿を言え。福子のおやじには……」
「どれほど借金があったか知れないけどね、お父さん。福ちゃんは親もきょうだいも泥流に流されたのよ。おまけに自分も流されて、死ぬところを石村さんに助けられたのよ。あのまま死んだと思ったら、諦めがつくんじゃない?」
「何を言う! この親不孝者が!」
「いいえ、親孝行よ、わたし。親孝行をしてるつもりよ、わたし。ねえ、お父さん。お父さんにだって、仏心はあるでしょう。可哀そうだと思ってやる心はあるでしょう。福ちゃんの一生も、かけがえのない一生なのよ。二度とくり返すことのできない一生なのよ。この辺で福ちゃんを自由にさせてやったらどうなの」
「冗談じゃない! 小菊はうちの一番の売れっ妓《こ》なんだぞお前」
「そう。でもね、お父さん、今の法律では、借金をかたに、売春させることはできないそうよ。佐野先生がおっしゃっていたわ。借金は借金として返せばいいんですって、一生かかってもね。借金があるからって、売春させることはできないのよ。わたし、福ちゃんに言うわ。ここから逃げなさいって。拓ちゃんにでもお嫁に行けって言うわ。お嫁に行ったら人妻よ。人妻にはもう売春させられないわ。そのこと知ってた? お父さん」
「何をっ!」
いきなり深城の手が、節子に飛んだ。節子は頬に手を当てたまま言った。
「殴るんなら殴りなさいよ。そんなに福ちゃんが惜しいんなら、わたし福ちゃんの代わりに深雪楼の女になってもいいわ」
言い捨てて、節子は立ち上がった。深城は、傍らのタバコ盆を、節子に向かってはっしと投げた。だが節子は身をひるがえして出て来たのだった。
赤い牡丹を見つめながら語る節子の目に、再び涙が盛り上がった。
福子が病室に入って来た。かすかに湯上がりの匂いが漂った。福子は毎日、夕刻近くになると風呂に行き、髪結いに行く。拓一の入院を知ってからは、なるべく手早く風呂を出、三度に一度は髪も結いなおさず、ときつけてもらうだけにして、拓一を見舞う時間をつくった。その毎日見舞いに来る福子を、目引き袖引きして見ている目があった。
「今日はどう? 拓一さん」
湯道具を包んだ風呂敷を、そっと床の上に置いてから、福子は先ず拓一に声をかけた。
「ありがとう。具合がいいよ」
拓一は、今日も会えたと、ほっと微笑を洩らす。
「よかったわ、福ちゃん、ちょうどいい時間に来てくれて」
節子は福子とここで落ち合う約束をしていたのだ。
「早速だけどね、福ちゃん……」
節子は父とのやりとりを手短に話して聞かせた。
「まあ! わたしのために、すまないわ節子さん」
福子は目を伏せた。
「すまないのは、わたしのほうよ、福ちゃん。わたしが聞きたいのはね、福ちゃん。福ちゃんは拓一さんが好きなんでしょ」
福子は黙って節子を見た。拓一と耕作はその福子を見た。福子の目に迷いがあった。
「好きだなんて……」
福子は口ごもる。
「あら、あんた拓一さんを好きじゃなかったの」
福子は視線を足もとに落として、
「そんなこと……わたしの口から、言う資格はないわ」
福子は毎日見舞いに来ても、自分の感情を言葉で言い表したことはない。傍らに佐枝がいることが多かったからではない。
「ということはつまり、福ちゃん、ほんとうは拓一さんを好きだということね」
「……どうしてそんなことを、節子さんはお聞きになるの」
「わたし、福ちゃんに、覚悟を促したいからよ」
「覚悟?」
「そうよ、覚悟よ。そしてその覚悟は、拓一さんにもして欲しいことなの。拓一さんあなた、福ちゃんを好きでしょう」
「うん、好きだ」
拓一は赤くなった。その拓一の言葉に、福子も顔を赤らめた。
「つまり、二人共お互いに好きなのよね。そうでしょう、福ちゃん」
福子は黙ってうなずいた。そして、
「でも……」
と、再び口ごもった。
「でも、どうなの?」
尋ねる節子の横顔を、耕作はじっとみつめた。今日の節子は、ひどく張りつめた表情をしている。それが美しいと耕作は思う。
「でも、わたし、自分の心の中で思っているだけでいいと思っていたの。口には出したくなかったの」
福子は白いあごを襟《えり》に埋めた。
「福ちゃんの気持ちよくわかるわ。でもね、福ちゃん、福ちゃんは拓ちゃんと結婚する道はあるのよ」
「え!? わたしが拓一さんと?」
福子は驚いて顔を上げた。
「そうよ」
と、節子は耕作を見、拓一を見た。
「ね、拓一さん。あなたね、福ちゃんとほんとに結婚するつもりなら、結婚届をすればいいの。するとね、もう二人は夫婦でしょ。そうすればもう福ちゃんは、お店に出れなくなるの」
「そんな……」
福子が声を上げた。拓一は、
「なるほど」
と、深くうなずいた。
「でも、借金はどうするの。借金があるのに、わたし、そんなことできないわ」
おろおろと福子が言う。耕作が、
「それはなあ、福ちゃん、結婚してから二人で働いて返せばいいんだ。何も、一年や二年で返さなくてもいいんだよ」
「そうよ。借金があるからって、人の体を拘束することはできない法律になっているんですって。只ね、抱え主が、やくざ者を使って、脅したり乱暴したりするから、みんな恐ろしがって逃げないだけのことなのよ。福ちゃん、佐野先生の所へ逃げて行くといいわ」
「…………」
福子は青ざめていた。
「どう、福ちゃん。よく考えてね。福ちゃんの一生の幸福にかかわることよ。覚悟してくれる?」
福子はほうっと吐息をついて、
「でも……わたしは汚れた女よ。たくさんの男の玩具《おもちや》になった女よ。拓一さんのお嫁さんにしてもらう資格なんか、もうないわ」
と、淋しい声だった。拓一が言った。
「それは、福ちゃんの責任じゃない。福ちゃんの気持ちは、ちっとも汚れていないじゃないか」
「拓一さん。ありがたいけど……わたし、やっぱり諦《あきら》めるわ」
「どうして諦めるの、福ちゃん。そんなこと言っちゃいけないわ」
「だって節子さん。拓一さんは今まで苦労ばっかりして来たのよ。わたしと結婚してごらんなさい。一生たくさんの借金がついてまわるのよ。働いても働いても、拓一さんは貧乏して暮らさなければならないのよ」
「そんなこと心配するなよ、福ちゃん。ぼくだって兄貴に手伝うしさ。節子さんだって、産婆さんになって、もりもり働いてくれるそうだ」
「でも耕ちゃん、借金だけじゃないわ、拓一さんが苦労するのは。世間の人が、一生拓一さんにうしろ指さすのよ。ごけ上がりをもらったって」
拓一が言った。
「言いたい奴には言わせておくさ。どうせそんなことを言う奴は、血も涙もない人間なんだから。人間の情を持っていない奴の言葉など、気にすることはないよ、福ちゃん」
福子は目頭をおさえ、
「でもねえ、わたし、深雪楼の父さんがこわい。節子さんのお父さんだけど、拓一さんにどんな仕返しをするか、わたしにはわかるの」
福子は肩をすぼめた。
「わたしも父のすることに保証はできないわ。今度の拓一さんの怪我だって、父が一枚噛んでいるかも知れないわ。でもね、福ちゃん、福ちゃんは自分の幸せだけのためではなく、同じ立場の女の人たちのためにも、ほんとうに幸せにならなければならないのよ」
節子の言葉に耕作もうなずいて、
「ほんとうだよ、福ちゃん。福ちゃんが、ほかの人の幸せの道をつけるんだと、そう思うといいよ。第一、誰よりも兄貴が幸せになるんだからね」
「もったいないわ……わたし」
福子はそう言い、
「でもねえ、やっぱり……ねえ、耕ちゃん、借金があるって、ほんとうにつらいことなのよ。そのつらさを、わたしは誰よりもよく知っているわ」
拓一が頭をもたげて言った。
「福ちゃん、ぼくは男だからね。借金をつらがりはしない。いいか福ちゃん、借金も財産のうちっていう言葉もある。福ちゃんはね、たくさんの財産を持って、嫁に行くんだと、胸を張って、威張ってくればいい。福ちゃんの借金は、ほんとうに福ちゃんの親孝行のしるしのようなものだからね」
福子はこらえ切れずに、拓一の布団の上に顔を伏せて泣いた。
新秋
拓一は、馬車に揺られて、三カ月ぶりに家に帰った。入院した当時は郭《かつ》公《こう》が啼《な》いていたが、九月半ばの今、山々は色づき始めている。ナナカマドの実はすっかり赤い。拓一は厩《うまや》の匂いを懐かしく嗅《か》ぎ、鶏小屋、納屋と見てまわり、そして今、田んぼの畦《あぜ》に屈《かが》みこんだ。田んぼには水が張ってある。拓一に言われて、あれ以来耕作が田んぼにずっと水を流していたのだ。硫黄分を少しでも洗い落とすための水だった。耕作は時折、石灰も撒《ま》いておいた。
新秋の空が田に映っている。その田を拓一はじっと眺めていたが、手を突っこんで土に触れた。そして一掬《すく》いの土を拓一はしみじみと見た。
(少しは毒けがなくなったか)
拓一の目に、釣り針のように根を丸めて浮き上がった稚《おさな》い稲が浮かぶ。拓一は土の匂いを嗅いだ。春の頃の土とは、少し匂いがちがうような気がする。
(来年の三月も、少し客土をしなければな)
拓一が呟《つぶや》いた時だった。
「おう! 拓一、帰って来たか」
家の蔭から修平が姿を現した。拓一は立ち上がって、
「やあ、叔父さん、すっかり心配をかけてしまって」
と、修平のほうに歩き出した。と、その途端、
「何だ拓一!? その歩き方は!」
驚いて修平が叫んだ。ひと足歩くごとに、拓一は足を引いた。
修平は拓一の入院中に、二、三度見舞いに来た。忙しい修平は、二里の道をそう幾度も見舞えなかったのだ。修平はベッドの中に横になった拓一しか知らない。医師の恐れていたように、拓一が変形治《ち》癒《ゆ》になったことを、修平は知らなかった。いや、知らせなかったのだ。
「拓一! お前!」
修平の目が一杯に見ひらかれた。その悲しみと驚きに満ちた修平の視線に、拓一は思わず胸が熱くなった。
「すんません、こんな足になってしまって」
拓一はうなだれた。修平は唇を噛《か》んだまま、拓一をみつめるばかりだ。
居間に入ると、佐枝が茶の用意をしていた。耕作は運びこんだ布団や、七輪、洗面器などを片づけている。
「嫂《ねえ》さん!」
坐りこむなり修平が怒ったように佐枝を呼んだ。
「耕作!」
つづいて修平は耕作を呼ぶ。佐枝と耕作はぎくりとして修平を見た。
「お前ら、拓一がこんな生まれもつかん体になったことを、なんで早く知らせんかった」
「すみません」
佐枝が頭を下げた。耕作は答えようがなかった。自分のために拓一が、生まれもつかぬ体になってしまったことを、耕作は誰よりもつらい思いでいるのだ。
「大体お前らは、水臭えぞ。最初お前らは何て言った。馬から落ちて怪我したなんて、嘘言ったでないか。田谷のおどが、例の早耳で、どうも馬から落ちたようでねえと、知らせてくれた。それで二度目に見舞いに行った時、根掘り葉掘り聞いたら、ようやく人に殴られたと言った」
「…………」
「俺はなあ、お前らから見れば、何の頼みにもならねえ叔父かも知れねえが、たった一人の、血を分けた叔父じゃねえか。じっちゃんもばっちゃんも死んだ今、もっと俺に、ああだこうだと愚痴ったり、相談してくれてもいいでねえか」
「…………」
「それが何だ。拓一がこんな大変な体になっても、ひとことも知らせねえ。お前ら、俺を何と思ってるんだ」
修平のこめかみに、青筋が立っている。
「俺は何も、怒ってるんじゃねえよ、怒ってるんじゃ。だけどもよ、あんまり情けねえでねえか。拓一が、こんな目にあってたのを、今の今まで知らねえでいたなんて……。拓一、お前つらかったべ。なあ、口《く》惜《や》しかったべ」
修平の声がつまる。佐枝は前垂れで目頭を拭いた。
「それでだ。こないだ、俺が訴えろって言った時、耕作の生徒の親だから、訴えるわけにもいかんと言ったなあ、お前たち」
三人は黙ってうなずいた。
「あん時は、まさかこんな体になるとは思わなかったから、まあそれならそれで仕方ねえと帰って来た。しかし何だ。こんな生まれもつかねえ体にされちゃあ、俺は黙っちゃいねえぞ。早速この足で訴えてやる! いいな、お前たち」
激しい語調だ。
「それは叔父さん……」
拓一はおだやかな目を修平に向けて、
「とにかく叔父さん、悪かったよ。だけどね、これはなるべく叔父さんに心配をかけまいと思って――どうせ知れることでも、一日でもあとにしたいと思っちゃってね」
「それが水臭えと言うんだ。叔父というものはな。たまには甥《おい》っ子姪《めい》っ子たちから、どうしたらいいかとか、こんなこと思ってるんだがと、言われてみたいものなんだ」
「悪かったよ、叔父さん」
「いや、俺も頼り甲《が》斐《い》のない人間だから、こういうことになったんだろうが、ま、それはそれとしてだ。とにかく奴らを訴えるんだな」
修平は今にも立ち上がらんばかりの勢いだ。
「叔父さん、それはちょっと待って下さいよ」
耕作がようやく口をひらいた。
「待て? どうしてだ」
「いえね、修平さん」
佐枝は静かな声で、
「耕作としては、それは困るんですよ。何せ、受け持ちの子供の親でしょう。その子供には罪がありませんからねえ」
「へえー、嫂さん、それじゃ何かい。知ってる者の親なら見逃すと言うのかい。それじゃ、知らん者なら訴えるということかい。そんなこっちゃ正義が通らん。え? そうじゃないか、耕作」
「理屈はそうですが……」
耕作は、修平が教師という者の立場を考慮してくれないことに困惑を感じた。
「理屈がそうならそうでいいじゃねえか。俺は理屈の通らんことを言ってるんじゃねえ」
「しかし叔父さん……」
「しかしもむかしもねえぞ耕作。とにかく悪い奴は訴える。悪い奴を見逃すことはないんだ。悪い奴を見逃すことは、悪い奴に加担することになるんだ」
「でも叔父さん。ぼくは子供に約束したんですよ。何も心配するなってね」
「それじゃ耕作聞くがな。もしこれがな、殺されたとしたらどうする。やっぱり受け持ちの生徒の親だとして見逃すか」
「それは……」
「見逃さんだろうが」
「しかしね、叔父さん。殺されたのと足をやられたのでは、問題が別ですよ」
「何が別なものか。殴られたということでは同じこったろうが。打ちどころが悪くて死ぬのと、足が折れたのとのちがいだけじゃねえか」
一旦ごね出すと、修平はとどまることができない。
「それとも何か。お前らは、生まれもつかねえ体にさせられても、泣き寝入りするだけの意気地なしか」
黙っていた拓一が言った。
「叔父さん、心配をかけてすみません。しかし、訴えたところで、この足が元に戻るわけじゃないでしょう。それどころか、耕作と生徒の間に溝《みぞ》ができますよ。そしてその子の心に永久に傷がつくだけですよ。それはともかくね、俺ね、吉田村長のこの夏出した文書を読んで、俺とよく似た心境だと思ったよ。ちょっと口幅ったいようだけどね」
「何だ、その吉田村長の文書ってえのは」
拓一は立って行って、押入れの風呂敷包みから、その文書を出して来た。卵を生んだのか忙しげなめん鳥の声が納屋のほうでしきりにした。
「何々? 災害復興事業経過の大要とその内容?」
修平は文書を目から少し離して読んだ。
「その下の段を読んで下さいよ、叔父さん。村長告発の顛《てん》末《まつ》というところですよ」
「ふん、こりゃあ俺んとこにも来ている筈だがなあ」
口をへの字にして修平は読み始めた。が、すぐに低く音読し出した。
〈当時、復興地の一部に、耕地整理組合に反対する者が現れ、同時に種々なる推測に基づきて、義《ぎ》捐《えん》金《きん》分配などに関し、時々集会などを催し、いろいろの流言を放ち、一部の人々は支庁にまで出頭して陳情するということになりましたが……〉
「何だ、これがお前の怪我と何の関係がある?」
「いや、その、村長の心境と、今の俺の心境と……まあ先を読んで下さいよ」
〈……又々一部の人々の誤解を招き、起債反対同盟会というものが出来、それ以来、本村の復興方法並びに、義捐金品分配等に不正行為ありとの標題を掲げ、村民大会等の騒ぎを見るに至りたるのみならず、反対側の人々は遂に村長告発という暴挙をなすに至りました……〉
「全く馬鹿な奴らよな。吉田村長に何の悪いことができるもんか」
独り言を言いながら修平は次を読む。
〈当時吾々は、これらの人々に対抗することを避け、ひたすら事実の真相を明らかにして、これらの誤解に基づく反対運動を終息せしめようといたしました。……村の内外の有志者もこの間に入り、度々調停をして下さいましたが、これも容易に奏功しませんで、その儘《まま》のびのびになっておりましたところ、本年六月十一日に至り、検事局からわざわざ検事が村内に出張せられ、告発の関係者一同を取り調べられました。告発者はご承知のとおり、松坂某、深城某外五名が村長に対する〓《とく》職《しよく》背任という罪名で、十三箇条の条項にわかちて提出してありましたが、種々調査の結果、検事の公正なるご判定により、何《いず》れも犯罪の嫌疑なしとの理由にて、不起訴の決定を与えられました。……この不起訴の顛末については、過日詳細報告しましたとおりでありまして、不正などの事実のないことは申すまでもありません。しかし世間には、なぜ彼らの告発に対し、誣《*ぶ》告《こく》の訴えを起こさぬか、起こさぬ裏面には何か弱点があるのではないか、等の疑惑を抱く人もないとも限りませんが、吾々は、たとい彼の人々を誣告罪に問うて、当方が勝ってみたところで、同じ村内の住民に対し、兄弟牆《かき》にせめぐの愚をあえてしては、ますます村の恥さらしとなるばかりでなく、更に朝野一般の人々の同情に対し、内部において問題を起こすということは、相済まざることと感じ……〉
「なあに訴えりゃよかったんだ、訴えりゃ」
一人いきまきながら、更に修平は読んでいく。
〈……吾々はこの上、事を法廷に争う必要はないものと思いまして、しばらく隠忍して、正義は最後の勝利者なり、いつかは真相判明して、これら及び反対側の人々の誤解を解き得る時期の到来を待っている次第であります。又、近頃、自由民報とかいう刷り物に、吾々一部の者の悪口を書いて居りますが、その言うところは更につかまえどころのない、しかも皆、事を想像して書いたものでありまして……〉
「なるほど、拓一、お前もこの村長のような気持ちで、奴らを訴えることをしないっちゅうわけか。しかしな拓一、吉田村長の場合と、お前の場合とは、事はちがうぞ」
「ちがいませんよ、叔父さん」
「しかしお前は、現に足をやられたんだぞ、足を。口惜しくないのか」
「そりゃあ俺だって口惜しくもありゃあ腹も立ちますよ。しかしね叔父さん。吉田村長はね、流言蜚《ひ》語《ご》で名誉を傷つけられ、地位を危うくされたんですからね。奥さんはもちろん、弥生ちゃんやていちゃんのような小さい子供まで、何度泣く目に遭ったことか」
「ま、そう言われればそうだがなあ」
先ほどのいきり立った語調はいつのまにか消えている。耕作はほっとした。
「しかしなあ、これに正義は最後の勝利者なり、なんぞと書いてあるけどもよ。お前が怪我したってことで、お前らには何かが祟《たた》っていると、こそこそ言う奴もいるんでなあ。俺はそれが腹立つんだ。何も祟られるような悪いことをしてるわけじゃあるめえし……」
「それはね、叔父さん。俺にも面と向かって言った人がいるよ。悪いことつづきってのは、やっぱり心がけが悪いんじゃないかとか、この家を借りたから、前に住んでいた人たちの祟りに遭ったとか」
「そうだろう。そういう奴がいるだろう」
「そんなに多くはないけどね。あんたみたいな人が、どうしてこんな目に遭うんだろうって、不思議がられることは多いよ」
「ほんとだ。俺もそう思ってる。拓一みたいな奴が、こんな目に遭うとはなあ。俺もわかんねえなあ」
二人の話を聞きながら、耕作はこの三カ月の間に、幾度か読み返したヨブ記を思った。初めてヨブ記をひらいた時には、何十頁かのこのヨブ記を、耕作はすぐに読めると思った。が、ヨブ記はそう簡単に読み取ることのできるものではなかった。それは、かつて耕作が触れた思想にはない深さがあったからである。
聖書には、ヨブほど正しい者はなかったと書いてある。その正しいヨブが、十人の子供たちを一人残さず、台風で一挙に失ってしまう。たくさんの使用人や、莫大な財産も、一瞬の間に殺されたり、掠《りやく》奪《だつ》されたりするのである。その上、ヨブ自身も、全身が腫《は》れ物《もの》に覆われるという悲惨な苦しみに遭う。災難はこのように踵《きびす》を接してヨブを襲った。にも拘《かかわ》らず、ヨブはその苦しみの中で、
〈我裸にて母の胎《たい》を出でたりまた裸にて彼処《かしこ》に帰らんエホバ与へエホバ取給ふなりエホバの御《み》名《な》は讃《ほ》むべきかな〉
と言った。そうしてまたこうも言った。
〈神より福祉《さいはひ》を受くるなれば、災《わざ》禍《はひ》をも亦《また》受けざるを得んや〉
耕作はこの二つの言葉に打たれる思いであった。こんな言葉を人間が言い得るものか。そう思いさえした。
泥流に遭い、家族も、家も、田畠も一挙に失い、その上、拓一が足を怪我した。それらはヨブと同じように、一挙に襲って来た災難であった。だからこそ、ヨブのこの言葉に耕作は感歎させられるのだ。
(こうは言えない)
耕作はくり返しそう思った。
だが、ヨブ記はここで終わってはいなかった。ヨブの災難を聞いて、三人の友がヨブを見舞う。最初は深い同情を示していた友人たちが、次第にヨブを責めはじめるのだ。
「罪のない者が、こんな災難に遭う筈がない。災難に遭ったということは、罪があったという証拠だ。その罪を悔い改めよ」
と、三人は交《こも》々《ごも》ヨブに迫る。しかしヨブはあくまでも自分の正しさを主張する。その主張に友人が反論する。ヨブが怒る。こうして果てしのない論争がくりひろげられる。
このあたりで耕作は、ヨブ記の真意がわからなくなるのだ。友人たちの言い分が正しく見えたり、ヨブの言い分にも無理があるような気がしてくるのだ。そこでまた初めから読み返す。
「正しい者が苦難に遭うわけはない」
と、友人たちは言い、
「正しい者がなぜ苦難に遭うのか、悪い奴がなぜ栄えているのか」
と、ヨブが絶叫する。その論争がぼう大な言葉を駆使してくり返される。
近頃耕作は、なぜヨブ記が難解であったか、ようやく気づきはじめていた。理由はいろいろあるが、何よりも自分自身の中に、ヨブの友人たちと同じく、善因善果、悪因悪果の考えが根強くあったからだと耕作は思う。
「因果応報は人間の理想だよな、兄《あん》ちゃん」
昨夜も耕作は拓一にそう言ったのだった。
修平は、一度読んだ「村長告発の顛末」を再び読み返していたが、
「お前らが訴えねえっつうんなら仕方がねえが……それにしても、お前らの親父は山で木の下になって死んだ。じっちゃん、ばっちゃん、富、良子と、四人も泥流で死んだ。その上、残ったお前まで、そんな足になってしまった。こりゃあ一体、どういうことなのかなあ、拓一」
珍しく修平の声に張りがない。
「どういうことって……それは俺にもわからないよ、叔父さん」
拓一は傷ついた足をなでながら言う。
「わからねえか。そうか。となると、何かの祟りかも知れねえなあ、やっぱり。世間の言うようにな。じゃ、ひとつ、神主でも呼んで、おはらいでもしてもらったほうが、いいかも知れねえな」
修平は、佐枝、拓一、耕作を順に見た。
「おはらい? 叔父さんも気の弱いことを言うようになったなあ」
耕作が笑った。と、修平はむっとして、
「気が弱い? 何も気が弱くなったわけじゃねえぞ、耕作。しかしだな、こう代々凶事がつづきゃあ、おはらいでもしなきゃあと思うのが、当たり前だろうが。第一だ……」
と、修平はあごでしゃくり上げるように鴨《かも》居《い》を指し、
「見ろ、お前らの家には、神棚もねえ。神棚ってえものはな、引っ越して来たら、真っ先につけるもんだ。今につけるべえ、今につけるべえって、思っていたが、一向につける気配がねえ。これじゃあ、祟られても仕方がねえわなあ、拓一」
「だけどねえ、叔父さん。じっちゃん、ばっちゃんは神棚をまつってたよ。それでも父さんは木の下になったし、じっちゃんたちは泥流に流されて死んじゃったじゃないか」
拓一の言葉に修平は、
「ま、そう言やあそうだな」
と、意外に素直な返事をし、
「そう言やあ、流された曾山んちにも、権太んちにも、柄沢んちにも、どこにもみな神棚や仏壇があったもなあ。じゃ、やっぱり日頃の心がけと関係あるのかなあ。だけど、うちのじっちゃんばっちゃんは、めっぽう心がけがよかったしなあ」
修平は真顔で頭をひねる。耕作が言った。
「叔父さん、俺もね、泥流の時から、同じことを考えて来たんだ。だけど、今度兄貴の足のことで、改めて真剣に考えたよ。兄貴みたいないい人間が、どうしてこんなひどい目に遭ったかってねえ」
「それで? 何かわかったか」
「わかったとは言えないけどさ。母さんや兄貴ともいろいろ話し合ってね。ひとつだけわかったような気がするよ」
「ひとつだけ? 何がわかったんだ?」
「それはねえ、いわゆる善因善果、悪因悪果についてだよ」
「善因善果?」
「うん、そうですよ。俺たちはね、叔父さん。何かいいことがあると、それは何かいいことをしたからだとか、精進がよかったからだと考える。その反対に、病気になったり怪我をしたり、災難に遭うとさ、日頃の心がけが悪いからだなんて、考えてしまう」
「それが当たり前だべ、耕作」
「その当たり前だと思ってたことがさ、どうもまちがいなんだなあ」
「まちがい? 何がまちがいなんだ」
すると、拓一が言った。
「叔父さん、俺も昨夜そのことを、病院で耕作に言われてさ。はっと思ったんだよ。現実は決して善因善果、悪因悪果じゃないんだなあ。そうあって欲しいんだけどさ」
「ふーん」
修平は不《*》得要領の顔をした。
「それはねえ、人間の願望に過ぎないんだよ。理想に過ぎないんだよ。悪い奴は亡びてほしい。いい人間は栄えてほしい。そういつもねがっているうちに、悪いことがあれば、何の罰だとか、いいことがあれば精進がよかったとか、そう勝手に思うようになってしまったんだよ、きっと」
修平はちょっと考えていたが、
「なるほど、お前のような人間が、災難に遭うこともあれば、深城みてえな奴が、商売繁昌ということもあるわけだ。ま、それが現実だわな」
「そうだよ、叔父さん」
「しかし……本人が悪いことをしないとなればだ。俺たち石村の家のように、災難が重なるのは、やっぱり何かの祟りじゃねえのか」
話が元に戻った。耕作が言った。
「いや、叔父さん。その祟るという考えがそもそもおかしいんですよ。これもさ、結局は悪因悪果のつじつまを合わせるために出て来た考えなんだよ」
「しかしな耕作、先祖の祟りだとか、仏罰だとか、みんな言うじゃねえか」
「言うけどね叔父さん。去年菊川先生の所に集まった時もみんなでおんなじ話をしたんだけどさ。先生は言ってたよ。自分の子孫を守るのが先祖だろうって。祟るようなのは先祖じゃないって」
「なるほど、理屈だなあ。俺みてえな奴だって、死んでから子孫に祟ってやろうとは思わんからなあ」
修平は声を上げて笑ったが、
「じゃ、神罰や仏罰はないのか」
「さあね、人間のご先祖でさえ祟らないのに、神や仏は、尚《なお》更《さら》のこと、そんな恐ろしいことを、いわれもなくしないんじゃないのかなあ。とにかくどう考えたって、あの泥流で死んだのを、神罰だとは思えないもんなあ」
「なるほどな。しかしな、前世という言葉があるぞ。お前らの親父が木の下になって死んだ時よ。こう言った奴がいた。義平はいい男だと思っていたが、あんな死に方をしたところを見ると、よっぽど前世で悪いことしたんだべってなあ」
「それも、祟りと同じことですよ、叔父さん。兄貴も今度の足のことで、同じことを言われたけどね、思いあたる節がないと、前世に悪いことをしたことになったり、何かの祟りだということになるわけさ。それもこれも、善行には善い結果が、悪行には悪い結果があってほしいという願いが、そんなことを言わせるようになったんじゃないのかなあ」
修平は腕を組んでうなずきながら聞いていたが、
「言われてみりゃあ、そうかも知れんなあ」
と言った。
「そうですよ、叔父さん。願望と現実の混同じゃないですか」
「そうか。それを聞いて、俺もなんとなく胸がすーっとしたな。俺はな、内心、石村家はよっぽど前世で悪いことをしていたかと、いやあな心持ちだったが……そうか、そう考えると気が楽だわなあ」
修平は肩をぐいっと上げ、すとんと落とした。耕作は笑って、
「叔父さん、安心しなよ。俺、聖書を読んでみたらさ。ヨブって人はね、神から見ても、当時一番正しい人だったんだけどさ、それが子供が一ぺんに死んだり、財産を一挙に奪われたり、おまけに自分には、死ぬよりも苦しい腫れ物が体中にできてさ、大変な苦難に遭ったことが書いてあったよ」
「ふーん、一番正しい人間がか」
「そうだよ。それにさ、キリストって、世界三大聖人の一人だよね。その人が、何も悪いことをしないのに、十字架にはりつけになって死んだんだからねえ、三十そこそこで」
「ふーん。なるほどなるほど」
「善因善果とは限らないんだよ」
「ほんとだなあ。しかし、どうしていい者がいい目を見るとは限らないのかなあ」
拓一が答えて、
「それは俺たちには、わからないけどさあ。吾々人間の頭では計り知ることのできない何かが隠されているんじゃないのかなあ。ねえ、母さん。母さんは教会に住みこんでいたから、いろいろ聞いてるだろうけどさ」
今まで黙って、三人の話を聞いていた佐枝が言った。
「ええ、母さんもね、これはいろいろ考えたことだし、お話も聞きましたよ。母さんに話してくれた牧師さんはねえ、『神は愛なり』って。そのことだけを信じていたらいいって」
「神は愛なり?」
修平は驚いたように言った。
「ええ」
「じゃ、どうして災難を下すんだ、嫂さん」
「修平さん、わたしには上手に説明できませんけどね。今、拓一が言ったように、人間の思いどおりにならないところに、何か神の深いお考えがあると聞いていますよ。ですからね、苦難に遭った時に、それを災難と思って歎《なげ》くか、試練だと思って奮《ふる》い立つか、その受けとめ方が大事なのではないでしょうか」
「しかし、正しい者に災いがあるのは、どうしてもわかんねえなあ」
修平が呻《うめ》くように言った。と、拓一が言った。
「叔父さん、わかってもわかんなくてもさ、母さんの言うように、試練だと受けとめて立ち上がった時にね、苦難の意味がわかるんじゃないだろうか。俺はそんな気がするよ」
明るい声だった。耕作も深くうなずいた。
誣告 故意に事実を偽って告げる意。
不得要領の顔 納得のいかない表情。
汽笛
拓一が退院して一年は過ぎた。
「早いもんだなあ、退院したのは、ついこないだだと思っていたが、もう一年経ってしまった」
昼食のあと、拓一が地下足袋を履きながら言う。佐枝の造った地下足袋だ。佐枝は、人差し指ほどの長さの太い木綿針で、地下足袋の底を刺した。古毛布や、古シャツを二十枚も重ねて刺したのだ。それが、佐枝の冬の仕事の一つだった。怪我をした拓一のために、佐枝は地下足袋に、以前より気を使って仕上げた。
「ほんとだなあ、兄ちゃん」
土曜日で早く帰った耕作が、しみじみと答えた。
自分をかばって、暴漢の棍《こん》棒《ぼう》に足を折られた拓一の姿が、今もはっきりと目に浮かぶ。
この一年の間に、結構様々なことがあった。耕作は、尋常高等小学校教師の検定試験に見事に合格した。その発表があったのは、今年の七月初めだ。郭公の朗らかに啼く晴れた日だった。耕作は校長からも、先輩たちからも祝福された。今年三月退職した花井先生も、赤ん坊を背負い紅白の餅を持って学校まで駆けつけてくれた。花井先生の赤ん坊は大きな男の子で、今では店先をよちよちと歩いている。益垣先生は、
「とうとうやったなあ」
と、幾度も肩を叩いて喜んでくれた。菊川先生は耕作の家まで来て、
「よかったなあ」
と、言ったまま、しばらく声もなかった。検定試験が、どれほどむずかしく、その準備が、いかに忍耐のいるものか、菊川先生は知っていたのだ。いや、それにもまして、菊川先生は耕作の行く末を案じていてくれたのだ。
「お前が中学を諦《あきら》めたと聞いた時は、俺は放課後の教室で、板壁を叩いて泣いたんだぞ」
初めて菊川先生は、その時のことを言った。拓一も、それを聞いて言った。
「先生、あん時は俺もつらかった。俺も裏山の楢《なら》の木に抱きついて、泣いたもなあ」
菊川先生と拓一は、こもごもその時のことを話した。
(そうだ、あの時泣いたのは、俺だけではなかったのだ)
いつか節子は、あの時は一晩泣いたと言っていた。菊川先生も、兄の拓一も、人知れず泣いてくれていたのだ。
(そうだ。あの時じっちゃんも泣いていたっけ)
耕作はありし日の市三郎を思い浮かべた。市三郎は、耕作が中学を諦めたと知った時、
「耕作!」
と、耕作の肩を抱いて、その太い指で目頭をおさえたものだ。そして耕作が、
「ねえちゃんば嫁にやってくれ」
と言った時、両手でしっかりと抱きしめてくれたものだ。そう言えば、あの時富は、
「折角一番で入ったのに……」
と、前垂れで顔を覆って泣いていた。その富を思い出すと、中学に行かずに、好きな武井と結婚させたのはよかったと、改めて耕作は思う。
とにかく今、耕作は、独力で師範学校卒と同じ資格をかち取ったのだ。
節子も、看護婦の資格を取ることができた。産婆の資格も、年内には取りたいと言っている。だが、それらにも増して大きなことは、拓一の苦心が実って、今年は遂に稲が根づいたということだ。
拓一は足をいたわりいたわり、去年不充分だった暗《あん》渠《きよ》をやり直し、この春先には、再び青を使って、客土をした。足を怪我したということで、馬をもって手伝いに来てくれた友人が何人もいた。むろん修平も来た。田谷のおども来た。貞吾も来た。
籾《もみ》蒔《ま》きも、今年は去年の手伝いより多かった。あの日は耕作も手伝った。ちょうど日曜だったからだ。足を引き引き、冷たい田んぼの中を裸《はだ》足《し》で籾を蒔く拓一の姿に、耕作は幾度も胸を打たれたものだ。
今年は、拓一をはじめみんな、稲が根づくことを期待しなかった。
「あと一年ぐらいは無理だろうよ」
誰もがそう言っていた。去年根づかなかった時の痛みを、誰も忘れてはいない。それだけに今年は、かえってはじめから諦めていたのだ。
それが、忘れもしない六月八日の朝、起き出した拓一と耕作に、佐枝が口をふるわせて言った。
「田んぼを見てごらん」
「田んぼ!? また駄目か!」
拓一の顔が一瞬緊張した。佐枝は頭を横にふって、
「それが、今度こそしっかり根づいたらしいよ」
拓一と耕作は、思わず顔を見合わせ、そして田んぼに走った。朝の田んぼに、青い稲が水面すれすれに頭を揃《そろ》えていた。二人は声も出なかった。夢を見ているようだった。期待していなかっただけに、欺《だま》されているような気さえした。拓一はじっとうつむいたまま畦道に突っ立っていた。耕作も突っ立っていた。去年、釣り針のように土から浮き上がっていたあの稲が目に浮かぶ。
「兄ちゃん! よかったなあ」
「うん」
拓一はうつむいたまま答えた。
「今年こそ大丈夫だろうな」
「わからん。少し強い風が吹けば、また片寄せられるかも知れん」
「そうだなあ」
二人は喜ぶのが恐ろしかった。
そして四日経った日、激しい風が吹いたが、稲は土から浮き上がることはなかった。その時、拓一は畦道に屈みこんで、肩をふるわせて泣いていた。耕作はその傍《そば》に立っていて、叫び出したい思いだった。
七月、ひ弱ながら稲は伸びた。が、田草を取るのは大変なことだった。四つん這《ば》いになって、一日中田んぼの中を這いずりまわる。そんな拓一のために、佐枝は、蓬《よもぎ》や塩を入れて風呂を沸かした。それでも、一日中不自由な足で田んぼを這いずりまわった腰の痛みは、翌日まで残った。田草取りのあとは、稗《ひえ》ぬきがあった。だが草が生え、稗が僅かでも生える土になったことに、拓一は大きな喜びを感じた。
そんなある日の夕べ、食事を終わって、拓一が風呂に入ろうとした時だった。戸口からひっそりと入って来た者がいる。低い声で何やら言っている。耕作が顔を出した。思いがけなく武井だった。
「兄さん! 元気だったの」
武井は口の中でもぐもぐと何か言った。あの爆発のあと、富の骨を新聞紙に包み、ふろしきに包んで腰につけ、吹上温泉からの道をよろよろと歩いて来た武井のあの姿が、耕作の胸に甦《よみがえ》った。あの日共に、吹上温泉の宿に泊まって以来、今日まで武井はこの家を訪れたことはなかった。
「まあ、とにかく入って下さいよ」
拓一も出て来て、佐枝と共にそう言った。だが武井は、
「今度、俺、嫁ばもらって、歌志内の炭《たん》礦《こう》に行くもんだから」
そう言ってもぞもぞと帰って行った。三人は呆然と武井を見送っていたが、
「そうか、よかったな」
と、拓一が呟いた。だが、耕作は、夏の一日、小山のように草を背負って歩いていた富の姿が、不意に目に浮かんだ。よかったとは耕作には言えなかった。
今朝、何もかも包みこんでいた濃い霧が、すっかり晴れ上がって、十勝岳の白い噴煙がいつもより間近に見える。拓一も耕作も、今日は鎌を持って、共に田んぼに出た。
吉田村長の妻や、青年団の友人たちも手伝いに来ることになっている。
「兄ちゃんも大変だったなあ」
耕作は、泥流に埋まり、流木が散乱していた一昨年の光景を目に浮かべながら言う。あの流木を一本一本、泥にぬかって引き寄せる作業はきつかった。それを毎日、倦《う》まずたゆまず続けた拓一の苦労は、どんなであったろうと思う。客土も暗渠排水もまた、楽な仕事ではなかった。耕作は一つ一つ、拓一の苦労を思い出す。
「みんなのお蔭さ。さあ、始めるか」
うなずいて耕作は田んぼに入った。鎌がきらりと秋陽に光る。さくっと気持ちのよい音がして、ひとつかみの稲が刈られた。色づいたといっても、垂穂は数えるほどだ。突っ立ったままの穂のほうが多いが、二人は勇んで刈りはじめた。
(とにかくよかった)
三重団体の誰もが、今日まで拓一のように苦労して来たのだ。脱落者もいた。執《しつ》拗《よう》な復興反対にもあった。だがこうして、とにもかくにも稲が実った。田んぼが色づくのを見てからは、復興反対派の人々も、鳴りをひそめた。いや、わざわざ詫《わ》びに来た者もいる。今日もその一人が手伝いに来る筈だ。
(反対する者には、反対するだけの理由もあったんだろう)
耕作はそう思いながら、しかし一昨年の三共座での拓一を改めて思い出す。反対派の主催する村民大会で、拓一はたった一人で、勇敢にも反論したのだ。
「僕は命をかけて復興する」
そう叫んだ拓一に、
「阿呆っ!」
「すっこんでろ!」
と、たちまち怒号が飛んだ。それを会場の片隅で見ていた耕作は、意気地なく動《どう》悸《き》したものだ。だが拓一は、その怒号に負けずに、会衆を前にして言った。
「そうだ。僕は阿呆だ。だが阿呆の話も少しは聞いてくれ。……僕の家は日進の沢にあった。そして何も彼もが流された。その瞬間まで働きに働いていた祖父も祖母も、かわいい妹もみんな流された」
深い悲しみのこもった声に、会衆が静まった。
「三十年前、一本一本の木を伐《き》り倒し、あの土地を肥《ひ》沃《よく》な畠《はたけ》に変えた祖父母たち、それを思えば、僕は復興せずにはいられないんだ」
再び立ち騒ぐ会衆の中で、拓一は叫んだ。
「僕は断じて、あの土地は枯れ木ではないと信じている!」
それらの言葉が、耕作の胸に彫りつけられたように、今もはっきりと残っている。
(しかし、よかった。今年も実らなかったら……)
そう思うと、たとえつんつんと突っ立ったままの稲が多くても、耕作はしみじみありがたいと思う。垂穂がこうして何分の一でもある以上、ここが再び美田に成るのは確実だ。
(しかし、福子はどうするつもりかなあ)
耕作は思いながら拓一のほうを見る。片足が不自由とはいえ、拓一は耕作よりも稲刈りが早い。その拓一の背をみつめながら、耕作はやはり落ちつかないのだ。福子のことがあるからだ。
(兄ちゃんも、落ちつかないだろうなあ)
黙ってはいても、拓一の心のうちが、そのままそっくり耕作にはわかる気がする。
今日は日曜日だ。節子が昨日上富良野に帰って来た。その節子が、昨夜拓一の家に来て、夜遅くまで福子について相談して行ったのだ。
福子は深《み》雪《ゆき》楼《ろう》を出て、拓一と結婚する筈だった。それは昨年のうちに、節子が強く説得したことだった。だが、一旦決意したものの、福子はなかなか行動に移すことができなかった。莫大な借金を拓一に背負わすことは、やはり福子としてはつらいことだった。そしてそれ以上に、福子は深城を恐れていた。博徒とつながりのある深城は、以前よりも尚、酷薄な人間になっていた。福子と結婚しようと思っていた金一でさえ、その父を恐れて、福子に近よることができないほどだった。特に、福子を逃がすと、深城の前で節子が断言して以来、深城はきびしく監視するようになった。そして福子を身《み》請《う》けする客を探しはじめたのだ。幸い、どれもまとまらぬままに今まで来たが、近頃また、福子を身請けする話が起きた。福子は、その男に身請けされるほうが、拓一のためではないかと思いはじめていた。それを知った節子が、急《きゆう》遽《きよ》上富良野に帰って来たのである。
「拓一さん、本当に福ちゃんと結婚する気持ちに変わりはない?」
節子が真剣に尋ねた。
「むろんだよ。只、福ちゃんが僕のこんな足を……」
「足? そんなこと福ちゃんは問題にしていないわ。いいえ、拓一さんの足が不自由になったのは、拓一さんの優しさの現れだって、勲章のように思ってるわ。只、福ちゃんは、うちの父の仕返しや、借金のことで迷っているのよ」
「借金のことは頑張ってみる」
拓一はきっぱりと言った。
「耕作さんも、わたしも、そのことは覚悟してるの」
かっきりとした二《ふた》重《え》瞼《まぶた》の目を、節子は耕作に向けて、
「仕返しのことは、父のことだからわからないけど、でも、お金のことさえ解決つけば問題ないの。できれば耳を揃《そろ》えて返したいけれど」
「できるなら、僕もたった今、返したいけどなあ。その金がなあ……」
「そのことね、わたし汽車ん中で考えついたんだけど、沼崎先生に相談しようかと思ったのよ。誰にもお金を借りる気はなかったけれど、いよいよとなったら、相談してみるわ。先生は福ちゃんを、しばらく下働きに使ってあげてもいいって、言ってくださるし」
「沼崎先生が?」
「そうなの。奥さんが佐野文子さんと同じ矯風会でしょ。すごく理解があるのよ」
拓一と耕作は顔を見合わせた。福子の落ちつき先が、沼崎先生のもとであることに、二人は安心した。
「ありがとう、節子さん」
拓一の声がしめった。
「ううん。わたし、とにかく福ちゃんに申し訳がないのよ。だからやってるの」
節子は快活に頭を横にふり、
「でもね、事は急を要するの。福ちゃんをあそこからつれ出さないと、いつ、誰の手に渡されるか、わからない状態なの。だから、わたし、明日の朝、福ちゃんをつれて、旭川へ行くつもりなのよ」
「え? 明日の朝?」
「そうよ。父たちは朝が深夜なの。その間に、汽車に乗せてしまうのよ」
「福ちゃんが、決意しましたか」
「それがねえ、ためらってるのよ、あの人。でもこれから帰って、もう一度よっく話してみるわ。福ちゃんに、今日は体が悪いからって、店を休むように言ってあるの。だけど、福ちゃんは、逃げることは悪いことだと思ってるのよ。あんな目に遭って来たのに、わたしの父に悪いとか、拓一さんに迷惑かけるとか、このわたしに申し訳ないとか言うのよ。よくよく優しいのね、あの人」
「じゃ、明日の朝、僕も駅に出ようか」
「駄目よ拓一さん。人目につくから。わたしがうまく変装させてつれ出すわ。もし、一番の列車に福ちゃんを乗せることができたら、わたし汽車の窓から白いハンケチをふるわよ。駄目だったら、赤い毛糸の襟巻きね」
そう言って、節子は昨夜帰って行ったのだ。
その節子を、耕作は馬で送って行った。
(何もかも、うまく行くとは限らない)
耕作は腕時計を見た。六時十五分だ。あと二十分すれば、一番の列車は上富良野駅を発つ。
(稲が実っただけで、よしとしなければならないか)
耕作は、福子が深雪楼を飛び出すとは思えない。もし今飛び出せるのなら、もっと早くに飛び出していたような気がする。
(兄ちゃんはどう思っているだろう)
耕作は、拓一のほうを見た。拓一が、頬かむりをした案《か》山《か》子《し》の傍で、一心に稲を刈っている。その案山子は、耕作の受け持ちの生徒たちがつくってくれた案山子だ。それをつくると言い出したのは、ほかならぬ松坂愛之助だった。この間、生徒たちが放課後の教室の隅で、何かごそごそやっていた。
「何をしているんだ」
耕作が近づくと、生徒たちは人垣をつくって、耕作に隠し、
「先生今見たら駄目だよ。あと一時間したら見せてあげる」
と言った。そして、一時間後に見せられたのが、三本の案山子だったのだ。
「先生、今年は稲が実るってねえ」
「凄《すご》い苦心をしてできた米だから、雀やカケスに盗《と》られたくないからねえ」
そう言って、でき上がった案山子を見せてくれた時、耕作は胸が詰まった。そしてその主唱者が愛之助だと知って、耕作はものも言えなかった。その三本の案山子を、生徒たちは一里の道を、わいわい言いながら耕作の家まで届けてくれたのだ。
「ありがとう。これは、うちの何よりの宝だ」
拓一もそう言って、喜んで受け取った。
その案山子の傍《かたわ》らで、拓一が一心不乱に刈っている。只、刈ることだけに夢中になっているような、拓一の姿だった。
耕作はまた時計を見た。朝日に腕時計のガラスが光る。一分経つのさえ、ひどく長い。
(国男君も、待ってるだろうな)
今年除隊した国男は、旭川の荒物問屋に勤めている。その国男が、旭川の駅で待っている筈だ。国男も、福子の借金を返すまで、結婚をしないと言っているほどだ。
(みんなで頑張れば、必ず何とかなる)
耕作は、またひとしきり、鎌をふるった。朝霧にぬれた稲が、いつの間にか軍手をぬらしている。
(死んだじっちゃんが見たら、さぞ喜んでくれるだろうなあ)
耕作は、一瞬の間に泥流に呑みこまれた祖父母や、良子を思いながら、しみじみと思った。修平でさえ、稲に実が入ったと知った時、拓一の肩を叩いて、
「よくやった。よく……」
と、声をつまらせたものだ。
そんなことを思っている時だった。
「やあ、今日はいいお天気で、よかったなあ」
と、吉田村長の声がした。村長も地下足袋を履き、手に鎌を持っている。
「すんません、こんな早くから」
耕作が言い、拓一も大きな声で、
「村長さん、手伝いはたくさん来ますから、無理しないでください」
と、白い歯を見せた。
「いや、わしもこの稲を刈りたくて、腕がむずむずしてたんだ」
四十過ぎたばかりの吉田村長は愉快そうに笑った。村長の娘のていと弥生が、にこにことついて来た。
「お早う、弥生ちゃん、ていちゃん」
耕作が声をかけると、
「お早う、先生、おにいさん」
と、二人の声が返って来た。と、その時、
「ぽーっ」
汽笛が遠くで聞こえた。思わず耕作は拓一を見た。拓一も耕作をふり返った。汽車が上富良野の駅を出たのだ。
(福ちゃんは乗ったか)
乗ったような気がする。節子と福子が、二人並んで坐っている姿が目に浮かぶ。が、次の瞬間、節子が一人しょんぼりと坐っている姿が目に浮かぶ。耕作はたまらない気持ちで、稲に鎌を入れた。
「ぽーっ」
弥生が汽笛の真似をした。
(乗っている)
(乗っていない)
(乗っている)
(乗っていない)
耕作は、花占いをする時のように、くり返し心に呟きながら刈っていたが、たまらなくなって、拓一のほうに歩いて行った。拓一がふり返った。
「兄ちゃん」
「うん」
「汽車がもうじき来る」
「うん、来るな」
「福ちゃん乗ったろうか」
「わからん」
「乗らんだろうか」
「さあ」
拓一は稲を刈りながら答える。耕作は遂に村道に出た。田んぼの中からも汽車は見える。だが、一歩でも近づきたいのだ。ていと弥生が両方から耕作の手にぶら下がった。
「先生も汽車が好き?」
「うん、好きだ! 小さい時、よく走って行って、汽車を見たものだよ」
「そして、線路に耳をつけて聞いた? 線路がうなるの聞いた?」
ていが言うと弥生も言う。
「せんろがうなるの、きいた?」
「うん、聞いた。汽車が通ったら、すぐ走って行って、うなるのが聞こえなくなるまで、聞いたよ」
耕作の口の中がすっかり乾いている。
「ぽーっ」
汽笛が間近にひびいた。耕作の胸が激しく動《どう》悸《き》を打った。もくもくと黒煙を上げて、木立の蔭から汽車が現れた。
(乗ってるか、乗っていないか)
耕作は息をつめて汽車を見た。
機関車が目の前に来た。青い服を着た助手が、石炭をスコップに掬って投げ入れるのが見えた。罐《かま》がひらいて、一瞬かっと赤い炎が見えた。
「火、燃えてたね。どうして燃やすの」
ていが尋ねる。
「どうして、もやすの」
弥生が愛らしい笑顔を向ける。
「火を焚《た》いて、お湯を沸かして、汽車を動かすんだ」
気もそぞろに耕作は答える。その前を長い貨車が、大地をふるわせて次々と過ぎる。径二尺もある丸太を積んだ貨車、泥だらけの砂糖大根を積んだ貨車、馬が顔をのぞかせている有蓋車、石炭、製材と、貨車は次々と木蔭から現れる。
「一つ、二つ、三つ」
と、ていが数えはじめる。耕作は体を硬直させて、その一台一台を見送った。
(乗っている! きっと乗っている)
(いや、駄目かも知れない)
そう思った時、貨車のうしろに郵便車が見えた。郵便車の次は客車なのだ。
耕作の足がふるえた。郵便車につづいて、遂に客車が姿を現した。耕作は、目を大きく見張って、客車の窓を見た。
(白いハンケチか。赤いマフラーか)
一輌《りよう》目《め》が過ぎた。
「あっ!」
叫ぶ耕作の目の前を、白いハンケチがふられて過ぎた。
「兄ちゃん!」
耕作は思わず叫んで、拓一をふり返った。拓一が、くずれるように稲の中にうずくまるのを、耕作は見た。
(兄ちゃん! よかったな、兄ちゃん!)
耕作は泣きたい思いだった。と、拓一がすぐに立ち上がった。鎌を持った手を大きくふった。鎌がきらりと、朝日を弾き返した。家の前に立つ佐枝も手をふっている。何も知らない村長だけが稲を刈りつづけている。
汽車は見る見る小さくなってうねって行った。
「ぽーっ」
深山峠にさしかかったのか、汽笛が三度長く響き渡った。
参考文献並びに資料
『富良野地方史』岸本翠月著
『上富良野町史』同
『十勝岳爆発災害誌』十勝岳爆発罹災救済会発行
『渡辺円蔵氏日記抄』
『十勝泥流』佐藤喜一著
『北海道遊里史考』小寺平吉著・北書房
『災害復興事業経過の大要と其内容』
(引用については人名、日付を異にした)
『北海道農事試験場報告第三十九号』
大正時代の「旭川新聞」その他被災者の談話
草のうた
(一九八五年)
それは冬の夜だった。
まだ三、四歳だった私は、祖母と二人で据え風《ぶ》呂《ろ》に入っていた。台所の片隅の一坪ほどの土間にその風呂はあった。台所の天井から下がっている薄暗い裸電球に湯気がまつわり、片隅の風呂まではその光は届かなかった。焚《たき》口《ぐち》の火が土間の壁に光を照り返していた。
祖母は水仕事に荒れた手で私を抱き、
「昔々ねえ」
と、話を聞かせてくれていた。祖母といっても、まだ五十二、三の歳であった。この母方の祖母はたくさんのひと口話やおとぎ噺《ばなし》を知っていて、
「あのね、ある所にとっくりがいたんだと。そこに玉ねぎが遊びに来たんだと。二人でお風呂に入って、玉ねぎがお風呂を出ようとしたら、とっくりが『たまたまきたんだもの、とっくりと入って行きなさい』って言ったんだと」
とか、
「昔々ね、靴と胡瓜《きゆうり》が川に流れていたんだと。その靴の中に胡瓜が流れこんだんだと。そしてね、胡瓜が『ああ、きゅうくつだ、きゅうくつだ』って言ったんだとさ」
とかいうひと口話をよく話してくれた。まだ三、四歳の私にはそれがおもしろくて、何度聞いても飽きることがなく、聞くたびに笑ったものだった。
その夜も祖母の話を聞きながら、湯の中に体を沈めていたのだが、突如、裏のほうから太鼓の音が聞こえてきた。私の家と隣家との間には幅四メートルほどの広い路地があって、長さ四十メートルに及んでいた。その路地の真ん中あたりに井戸があったのを覚えている。太鼓の音に、私は思わずガラス戸越しに暗い外を見た。と、雪道を白い着物を着た人々が五、六人、一列になって何やら唱えながら、路地に入って来るのが見えた。その低い声も、うちわ太鼓の音も、白い衣服も、幼い私にはまことに異様であった。恐怖のあまり、私は祖母の胸にしがみついた。
何のことはない、寒《*かん》行《ぎよう》の善《ぜん》男《なん》善《ぜん》女《によ》の一行にすぎなかったのだが、暗い路地に、輪郭もおぼろな白い衣の人たちが、「南《な》無《む》妙《みよう》法《ほう》蓮《れん》華《げ》経《きよう》」「南無妙法蓮華経」と太鼓を叩《たた》きながら近づいて来る姿は、言いようもない無気味さで迫ったのであった。幼い頃を考えてみると、幼年時代というものは、無気味さの中にある時代といえるのではないだろうか。むろん、楽しい思い出が全くないというわけではない。だが私は、幼い頃は無気味さと、淋《さび》しさ、不安、恐怖の入りまじった中にあったような気がする。幼子にとってはすべてが全く新しい体験である。新しい体験というものは、楽しいことよりも不安に満ちているものなのではないだろうか。
私は生来、虚弱な体質であった。腺《せん》病《びよう》質《しつ》のためか、よく熱を出した。そんな時、夜中に目がさめると、つけっ放しの(当時は電気はメーター制ではなかった。ほとんどの家が、真っ暗にして寝るということはなかったようだ。幼い子供のいる家は特に点灯したまま寝ていたようだ)電灯に黄色い輪が見えて、それがまた妙に不安を掻《か》き立てた。部屋の隅に薪《まき》ストーブが燃えていて、その上には赤《しやく》銅《どう》の深い洗面器がかけてあった。たぶんその洗面器のお湯で、熱い湿布をしてくれていたのだろう。あるいは、湯気を絶やさぬように医師に命じられていたのでもあろうか。ストーブの傍には、私たちが「当《とう》麻《ま》の伯父さん」と呼んでいた父の義兄が、よく雑誌に読み耽《ふけ》っていたのを私はたびたび見た。この人は、田舎《いなか》の医者の代診をしているとかで、私の父母は、子供たちが病気の時には、看病を頼んでいたようである。
その夜も熱に浮かされて目をさました時、私はいつものように電灯が黄色い暈《かさ》をかぶっているのを見、その視線をストーブのほうに移した。その途端、私はぞっとして叫び声をあげるところであった。色の黒い、髪の真っ白な老婆が、じっとストーブの前に背を屈《かが》めていたのだ。その老婆の顔にストーブの薪の火が映って、ちろちろと光っていた。目が吊《つ》り上がって見えた。もしその時、私が高熱のために再び眠らなかったとしたら、私は恐怖のために気を失ったかも知れない。それは祖母の話に出てくる山姥《*やまんば》によく似ていた。
が、その人は山姥ではなかった。私が初めて見たというだけで、父方の親《しん》戚《せき》の人だったのだ。私の看病に駆り出されて、寝ずの番をしてくれていたのだった。馴《な》れてしまえば、親切な優しい人であった。何も、気絶するほどに恐怖することはなかったのだ。
やはりこれも病気の夜だった。私は夢とも現《うつつ》ともつかぬ中で、妙な幻を見た。長い、黒い塀があった。私の家のすぐ前には、半丁にわたる大きな屋敷があって、黒い高い塀で囲まれていた。その黒い塀が幻に現れたのだろうか。塀の上に、青白い若い男の首だけが宙にふわふわと浮いていた。首だけといっても、その首がぷつりと斬《き》られているのではなく、尾を引くように次第に細くなって、その末端は塀の陰にかくれていた。その男の首はゆらゆらと揺れ、私をじっと見つめたまま、視線を離そうとはしない。そして彼は、赤い唇を大きくあけて、にたにたと笑ったのだ。
私は今に至るまで毎夜のように夢を見、時折幻覚を見てきた。それらの中でも、このように私をおびえさせたことはなかった。私には現実に幽霊を見た体験のようにさえ思われるのだ。
その病気が治って、家の中で起きて遊べるようになった頃だった。私は八畳間のその窓からいつも外を眺めていた。のどには真綿を巻き、綿入れの袂《たもと》に手を入れて、私はじっと外を見ていた。べつだん、外に出たいとも思わなかった。家の中にいなさいと言われれば、言われるままにいつまでも家の中にいた。大人の言うことに逆らうなどということは、その頃の私には考えられないことだった。なぜそうだったのか、私にはわからない。たぶん私は臆《おく》病《びよう》だったのだと思う。親の言うことさえ聞いていればまちがいはない、という意《い》気《く》地《じ》なしだったのかも知れない。そんな私でも、近所には幾人かの友だちがいた。一軒置いて隣には、私より一つ年下の道子という女の子がおり、その家の向こうには、私と同じ年頃の男の子がいた。その女の子の家も、男の子の家も、共に一戸建ちだった。どちらも藤田という造り酒屋に勤めていた。どちらの家も、私の家よりはずっと金持ちに見えた。その向こうは酒屋の蔵が幾棟も並んでいて、蔵と蔵の間に、茎の長いタンポポがひょろひょろと伸びていたのを覚えている。
私と同じ年頃の男の子は「やっちゃん」と呼ばれていた。だが、その子の名前が「保《やす》夫《お》」か「泰《やす》士《し》」か「弥《や》一《いち》」か、本当のところはわからない。が、その子のことを思い出す時、私はなぜか「弥っちゃん」という字で思い出してきた。「弥っちゃん」は色黒で、ちっとも整った顔立ちではなかった。地味な性格で、いつもにこにことしてい、目が細かった。その弥っちゃんが、なぜか私は好きだった。弥っちゃんの傍にいると、なぜか安心があった。不安がなかった。この弥っちゃんや、その隣の道子ちゃんなどと、藤田の酒の仕込み桶《おけ》に茣《ご》蓙《ざ》を敷いて、ままごとをした。仕込み桶は蔵のうしろの大きな広場に、幾つも幾つも干してあった。この遊び場は私には楽しい所だった。酒の匂《にお》いの染みついている仕込み桶は、子供が七、八人入っても、少しも狭くないほどの大きさだった。少々風が強くても、雨が降ってきても、この桶の中では心配がなかった。それに不思議なことに、大人たちはこの子供たちの遊びを叱《しか》ったことがなかった。大事な仕込み桶の中でままごとをしているというのに、叱らなかったのは、いったいなぜだろう。弥っちゃんや道子ちゃんの親が、酒屋の重要な職員であったからだろうか。
私が高熱を出して男の首の幻を見、その病が癒《い》えた頃、人が死んだ。若い男の人だった。弥っちゃんの兄だと私は聞かされた。
「ほら、弥っちゃんのお兄さんのお葬式が行くよ」
と、葬式の日、家人の誰かに言われた。だが私は、なぜか窓に駆け寄ることが出来なかった。私はまだ死というものを知らなかった。知らない筈《はず》だが、子供なりに死というものを何らかの形で体験していたのだろうか。鼠《ねずみ》取《と》りにかかった鼠の死、近所の犬の死、頭をもがれたトンボの死、そんな類《たぐい》から、幼いなりに死に恐れを感じていたのだろうか。私は葬式を見たら、自分がたちまちまた熱を出して死ぬのではないかという恐怖に駆られた。しかも私は、あの幻に現れた塀の上の男の首が、弥っちゃんの兄に思われてひどく恐ろしかったのだ。
弥っちゃんの兄が死ぬ前の日であったか、あの髪の真っ白なお婆《ばあ》さんが言った。
「カラスの啼《な》き声が変だよ。誰か死ぬんじゃないのかね」
死んだあとに、同じことをまた言った。
「カラスの声が悪いと思ったら、やっぱり人が死んだんだね」
私はその言葉を聞いて、またもや言い難い恐怖に襲われた。それはまるで魔法使いの言葉のように思われた。言い方も恐ろしかったが、言ったことが当たったことも恐ろしかった。私は四歳の幼い魂ながら、この世には言い難く恐ろしいもののあることを、深く感じてしまったような気がする。
もしこの時、あのお婆さんがカラスの啼き声を言わなければ、弥っちゃんの兄の死を、私はもっと何げなく受け取ったかも知れない。いや、もし熱などを出さない丈夫な子供であったなら、朝から晩まで外で遊んでい、金ぴかの霊《れい》柩《きゆう》車《しや》の傍に飛んで行って珍しがって見たことだろう。当時、散弾といって、マッチ箱のような小さな箱に入った、赤や黄の、仁《じん》丹《たん》に似た小粒の甘い菓子があった。葬式には、出棺の前に、黒い紋付を着た男が、この散弾を盆に山盛りにして持って出て来る。待っていた子供たちが、わっとその男を取り囲む。
「ちょうだい! ちょうだい!」
子供たちが手を出して叫ぶ。子供たちには、誰が死んだとか、死ぬことは恐ろしい、などという想《おも》いは一つもない。ただ散弾が欲しいだけだ。私も、生まれて初めての葬式を、散弾をもらうことしか考えない子供として体験することが出来たらよかったのだ。だが私は、あの高熱の中で見た男の首と、カラスの声との中で、初めての葬式を体験してしまったのである。
四歳以前の思い出の中には、なぜか家族があまり登場しない。これはいったいどういうことだろう。薄暗い部屋の中に自分一人がいて、時々、祖母や母や親戚の者の顔がひょいと現れる。そんな妙にしんと静まりかえった世界が、幼児特有の世界なのだろうか。
私は一九二二年(大正十一年)四月二十五日の朝、旭《あさひ》川《かわ》市四条通十六丁目で生まれた。この時、私を迎えてくれた家族は、父鉄治三十三歳、母キサ二十九歳、長兄道夫十二歳、次兄菊夫十歳、三兄都志夫七歳、姉百《ゆ》合《り》子《こ》四歳、そして父の妹すなわち叔母スエ十三歳(いずれも数え年)の七人であった。父方の父母はすでになく、母方の祖母は、その子供たちと共に数丁離れた所に住んでいた。この祖母が風《ふ》呂《ろ》の中で、ひと口話をしてくれた祖母である。この祖母は、母がお産のたびに手伝いに来ていた。いやお産ばかりではない。子供たちが病気だというと、すぐに駆けつけてくれた。
私は母と寝た記憶はないが、祖母に抱かれて寝た記憶は鮮やかに残っている。ネルの寝巻を着て布団に入る私の背をなで、
「綾《あや》ちゃんはさかしい子だ、綾ちゃんはさかしい子だ」
と、祖母はよく言ってくれた。さかしいという言葉はよくはわからなかったが、その声《こわ》音《ね》はいつくしみにあふれていて、私にとって心地よい言葉であった。ただ、祖母の荒れた手が、私のネルの寝巻に引っかかって、それが私の心を痛めた。祖母は毎日襁褓《むつき》や下着の洗濯のために手を荒らしていたのだ。
「ばっちゃん、手いたい?」
私は時々そう尋ねたものだ。祖母は床の中でもよく話をしてくれた。「カチカチ山」や「猿《さる》蟹《かに》合戦」「山姥《やまんば》と瓜《うり》子《こ》姫《ひめ》」の話を、私は何十回聞いて育ったことだろう。私がその後小説に魅《ひ》かれるようになったのは、この祖母のおとぎ噺《ばなし》のおかげだったかも知れない。
誕生の日に話を戻す。
私は自分の生まれた朝が、なぜか雨雲の低く垂れこめた朝のような気がしてならない。まるで、自分の目でその朝の空を窓越しに見たかのように、暗い無気味な空が私の瞼《まぶた》に描かれている。誕生日のたびに、親たちはその日の思い出を私に語ってくれたものだ。
「綾子、お前の生まれた朝はね、向井病院が大火事でね」
父母や祖母から、幾度この話を聞かされたことか。幾度も聞かされているうちに、向井病院の火事の現場を見たかのように、赤い炎が噴き上がり、黒い煙が空に舞うさまを容易に想《おも》い描くようになった。いや、そればかりではない。ぱちぱちと物の燃える音や、焼け跡の焦げ臭いくすぶった匂いさえ記憶しているような錯覚を覚える。消防車のけたたましいサイレンが、空に響くのを聞いたようにさえ思う。そしてそれは、今にも降り出しそうな曇り空の下での出来事に思われるのだ。
誕生日のたびに聞かされたもう一つの話がある。それは私が、仮死の状態で生まれたということだ。
「お前はね、臍《へそ》の緒《お》を首に巻いて、泣くことも出来ずに、ぐったりとして生まれたんだよ」
母はよくそう言った。手《て》馴《な》れた産婆は、あわてながらも私を逆さにし、尻《しり》を幾度か叩《たた》いて、やっと蘇《そ》生《せい》させたという。私は思春期になった頃、この仮死の自分を思い出すたびに、
(神は私の誕生をためらったのではないか)
と、よく思ったものだった。そしてまた、
(誕生したことがまるで罪であるかのように、私はいきなり尻を叩かれた。生まれるに値しなかったのであろうか)
などと考えたものだ。だが一方、他の赤ん坊のように、勢いよく呱《こ》々《こ》の声もあげず、大人たちを驚かせ、心配させ、あわてさせたとは、なかなか天《あつ》晴《ぱれ》ではないかと冗談を言ったりもした。いずれにせよ私の誕生は、明るい楽しい雰囲気とは別の状況の中にあったようである。
生来体が弱かったせいか、私は部屋の片隅でひっそりと本を読んでいることが好きだった。上に兄や姉がいたせいか、字を読み始めたのは早かった。四歳の頃には、かなり部厚い本を一冊、いつも手にしていたような気がする。それは今の童話の本のように美しいものではなかった。姉の読み古したものであったのか、表紙も破れ、頁《ページ》もめくれていた。子供の本とは思えぬほどに、挿絵一つなかった。だが、詩や童話がたくさんおさめられていて、読み飽きることがなかった。私の膝《ひざ》の上には、いつもその古ぼけた本があった。この本の中にあった一節を、私は今もはっきりと覚えている。
「テフテフサンハ、クライハヤシノナカニ、ヒラヒラト、ハイツテユキマシタ」
この文章が、私の心を不安にさせた。文字どおり心が震えるようであった。私の目に暗い林が見えた。そしてその中に、白い蝶《ちよう》がひらひらと舞って行く優美な姿が、はっきりと見えた。が、なぜこの一節が私を不安にさせたのであろう。この蝶が再び暗い林の中から出て来ることが出来るかどうか、私にはそれが気がかりでならなかったのだ。蝶が暗い林の中に入って行く姿は想像出来ても、その中から明るい光の下に出て来る姿は想像出来なかったのだ。この蝶への不安を、私はずいぶん長いこと抱えこんでいたような気がする。
言葉で思い出すことが二、三ある。
あれは私が、数えで五歳になっていただろうか。たぶん夏であったと思う。私は近所の家の裏口に顔を出した。その家の土間は広くて、煉《れん》瓦《が》を積んだ「へ《*》っつい」があった。その前に屈《かが》みこんで、五十くらいの女が二人、昂《こう》奮《ふん》して話し合っていた。私が顔を出したことなど、二人は気にもとめていなかったようだ。
「若い男と逃げて……」
そんな言葉が聞こえてきた。
「首に縄をつけてでも、引きずって来なくちゃ……」
他の一人がそう言った。私の胸は破れそうになった。子供だから詳しいことはわからない。だが子供ではあっても、事の本質はつかみ取ることがある。私は、誰かが若い男と逃げ、その逃げた人を、何としても連れて帰るということはわかったような気がした。が、「首に縄を……」という形容に恐れおののいたのだ。私の目に、首を縄で縛られて引きずられて来る女の姿が浮かんだ。何と酷《むご》いことをするのかと、私は家に帰って母にそっと告げた。
「母さん、くびになわをつけてでも、つれてかえるっていってたよ。おっかないね」
母は、その事件をすでに知っていたのか、
「大人の話なんか聞くんじゃないよ」
と、べつだん恐れるふうもなかった。
この後、その家の妻は帰って来た。私は、
(きっと首に、なわをつけられて帰ってきたのだ)
と、その肉づきのよい、浅黒い首に目をやったことを覚えている。
もう一つは、言葉というより声であろうか。兄や姉たちが学校に行ってしまうと、私の母は決まって、食卓の傍らに坐《すわ》って新聞を読んだ。新聞社に勤めていた父の起床が遅いので、母はたぶん、ばたばた掃除をしたり、食器を洗ったりするのを避けていたのかも知れない。私たち子供にとって、当時の父はただ朝寝をする人という記憶しかない。夜の帰りは遅くて、私たち子供の寝たあとに帰るのがほとんどだった。今思うと、黒紋付を着、仙《せん》台《だい》平《ひら》の袴《はかま》を穿《は》き、太い杖《つえ》を片手に、という姿も記憶にある。父は小さな新聞社の営業部長であった。営業部長というと聞こえはよいが、言ってみれば広告取りである。朝は十時過ぎ、ようやく父は目をさました。目覚めると、何社かの新聞に寝たまま目を通す。仰《ぎよう》臥《が》のまま、布団の中から高く腕を出して新聞を読むのだが、その腕が母の腕よりずっと白かったのを覚えている。夜中に半鐘の音が聞こえると、気づいた家人が真っ先に父を起こす。父はどんなに酒に酔っていても、熟睡のさなかであっても、半鐘の音を聞くと直ちに家を飛び出して行った。出火お詫《わ》びとか、近火見舞御礼の広告を取るためであった。
というわけで、母は父が眠っている間は、ひっそりとしていたのだろう。食卓のそばで、小さな声で新聞を読み出す。それはすぐ傍で聞いていても、何を言っているのかわからぬほど低い声だった。母は節をつけて低く読む。五分、十分と、時間が経《た》つにつれ、新聞を読む母の顔をじっと見つめながら、私はひどく孤独になっていった。柱時計の振子の音がいやに大きく聞こえた。母の低い声が家の中の静かさを深めるようであった。気の滅《め》入《い》るようなその声に、私は逃げ出したくなるのだが、呪《じゆ》文《もん》をかけられたように母の傍から逃げ出すことが出来ない。母はあの新聞を読むことによって、私に言いようもない淋《さび》しさを味わわせたとは、夢にも思わなかったことであろう。
低い声におびやかされた私は、高い声にもおびやかされた。秋も深まったある夜のことだった。夜といっても午後七時頃だった。がらりと玄関の戸があいて、元気のいい男の声がした。どうしたわけか、私が障子をあけて玄関に出た。見知らぬ若い男が二人、大声で何か言っている。私はとっさに、人さらいだと思った。私は黙って奥の間《ま》に逃げこんだ。じっと様子をうかがっていると、男たちは茶の間に上がりこんだ様子だ。いや、上がりこんだのではなく請《しよう》じ入れられたのだ。珍しく父がいて、男たちに酒をすすめた。私はいっそう、男たちを人さらいだと思った。今は別の意味で子供たちが誘拐を恐れる時代だが、私の幼い頃も誘拐を恐れた。
「暗くなるまで遊んでいると、人さらいが来るよ」
大人たちはよくそう言ったものだ。サーカスの少年少女たちは、人さらいにさらわれて売りとばされた子供たちだと聞かされた。当時は、食うに困れば自分の娘でも売る時代であったから、他人の娘をさらって売りとばす者がいても、不思議のない時代だったかも知れない。
私は、自分か姉の百合子が、今にもこの男たちに連れ去られるのではないかと、それが不安で茶の間に出て行くことが出来なかった。が、男たちは間もなく大声で笑いながら帰って行った。やっと安心して茶の間に行くと、母が男たちにもらったという箱入りの小《こ》桜《ざくら》飴《あめ》をみんなに分けてくれた。二人の客は知り合いの大工で、つい最近、近所に移って来た人たちだと聞かされた。ゼリーに似た小桜飴を食べながら、私はどんなに安心したことだったろう。
私が生まれた時、私の家族に父の妹がいたことを先に書いた。私たちきょうだいはこのスエ叔母を姉と信じ、「ネエちゃん」と呼んで育った。叔母の母、すなわち私たちの父方の祖母は、スエ叔母の三歳の時に死んだ。それで私の父母が、このスエ叔母を子供同様に育てたのだ。目のぱっちりとした色白な叔母だった。叔母はよく笑った。私たちを叱《しか》ったことは一度もない。いつも優しい叔母だった。この「ネエちゃん」ことスエ叔母に背負われて、数丁離れた武田病院に行ったことがある。私が五歳の頃だから、叔母は十七歳になっていた。
瘰《るい》癧《れき》であったのだろうか、うしろ首に大きな腫《はれ》物《もの》が出来、私は首を曲げることも出来なくなった。武田病院は今も繁《はん》昌《じよう》しているが、その時も確か肛《こう》門《もん》病院の筈だった。その病院でなぜ首の手術をしたのか。ちょっとした外科は手がけていたのだろうか。
幼年時代の思い出の一つに、病院の診察室の床に敷かれたリノリウムのひんやりした感触がある。それは、薬《やく》包《ほう》紙《し》に包んだ苦い散薬や、甘くて冷たい水薬や、どろりとしたブロチンという蛋《たん》白《ぱく》質《しつ》の栄養剤と同じほどに、私にはなじみのものだ。
医者は私の首を見、
「やあやあ、ずいぶん腫《は》れてしまったね」
と、笑顔を見せ、手術台に私を寝かせた。そして、飯茶碗を私の鼻先に、覆いかぶせるようにして言った。
「十まで数えてごらん」
にこにこと優しい医者の言葉に、私は素直に、「ひとつ」「ふたつ」と数えていった。だが十まで数えることは出来なかった。いつの間にか深く眠ってしまったのだ。気がついた時、医者は先ほどと同じ笑顔で言った。
「これを見てごらん。こんなにたくさん汚いものが出たよ」
膿《のう》盆《ぼん》が私の傍らにあった。血と膿《うみ》とガーゼが膿盆に一杯になっていた。私はその膿盆を見つめながら、別のことを考えていた。
(どうしてあやこはねむったんだろう)
それが不思議だった。数を数えてごらんと言われたのに、眠ってしまったことが不思議だった。その茶碗にクロロホルムが塗ってあったことを知ったのは、だいぶ後のことだった。帰る途中、眠り薬が茶碗に塗られていたことを叔母から聞かされて、何かだまされたような奇妙な感じがしてならなかった。医者は別にだましたわけではない。だが五歳の私には、十まで数えよと言われたから数えていたのに、数えるうちに眠ってしまったことが心にかかってならなかったのだ。
私が眠っている間に、俄《にわ》か雨でも降ったのか、水たまりがあちこちに出来ていた。家の近くまで帰って来ると、藤田の酒《さか》蔵《ぐら》の前に人だかりがしていた。みんなが酒蔵の屋根を指さして何か言っていた。
「雷が落ちた」
誰かが言った。屋根の上の引込み線の碍《がい》子《し》が壊れているのが見えた。と、その時、
「キャーッ!」
と、女の叫ぶ声がした。蔵と蔵の間から、首を切られた鶏が飛び出して来たのだった。私は首のない鶏が、血をしたたらせて物《もの》凄《すご》い勢いで飛び出して来たのを、今も忘れることが出来ない。たぶん、酒屋の誰かが鶏を料理しようとして首を切ったが、鶏はそのまま逃げ出したのであろう。首の手術を終えて帰って来た私だったが、まだ五歳の私は、その首と自分の首とを関連づけて考えはしなかった。だが、首を切られても飛び出す凄《すさ》まじい生命力に、幼いなりに感じ入ったことは確かである。
人間が疑いを持つようになるのは、いったい何歳ぐらいからなのだろうか。首の手術の時、「十まで数えてごらん」と医師に言われて、眠りこんでしまい、目がさめて何かだまされたような気がしたと私は書いた。まさかそのことが、私に疑うことを教えたのではないだろうが、その頃から確かに私は疑うという知恵を抱き始めたように思う。
わが家の路地を表通りに突き抜けると、角に駄菓子屋があり、その隣に染物屋があり、その向こうに大きな油問屋があった。油問屋には、私より一つ二つ年下の女の子がいた。この子は私たちとは全く人種がちがうような、京人形のような女の子だった。染物屋には、大きな黒々とした目の十五、六の少女がいた。いつも絣《かすり》の着物を着て、裏の広場で伸《*しん》子《し》張《ばり》をしていた。紺絣の着物が、ぬけるように白いその少女によく似合った。駄菓子屋には私より二つほど年上の、おとなしい女の子がいた。目も鼻も口も小づくりで、顔色がひどく悪かった。子供心にも顔色が悪いと覚えているのだから、あの子も虚弱であったのかも知れない。その子は「カッコちゃん」と呼ばれていた。
ある日、私は食後、ごろりと畳の上に寝ころんだ。と、ちょうど遊びに来ていたカッコちゃんが言った。
「あやちゃん、ごはんを食べてすぐねたら、牛になるんだと。かあさんがいったよ」
私は突如、怒りを感じた。私は寝ころんだまま言い返した。
「カッコちゃんのうそつき! あやこ、いつもごはんをたべてねころんだって、牛になんかなったことない」
だまされてたまるかと私は思ったのだ。よほどの剣幕であったのだろう。カッコちゃんは言いようもない困惑した顔で肩をすくめていたが、何も言わずに帰ってしまった。これもまた疑いに目ざめた私の一つの姿だったのだろう。
子供たちの間で「赤い石を拾うと母さんが死ぬ」と信じられていた。誰が言い出したことかわからなかった。私は小石を眺めるのが好きだった。当時の街路は砂利道であった。誰と遊ばなくても、その砂利道に屈《かが》んで石を見ているだけで楽しかった。薄青い石、小豆《あずき》色《いろ》の石、ぴかぴかと光る黒い油石、真っ白な、小鳥の卵のような石、茶色の石、朱色がかった石、実に石の種類が多かった。形も子供の掌一杯ほどの平べったい石があるかと思うと、文鎮にしてもよいような、どっしりと坐りのいい石もあった。砂利道といっても小砂利だけではなく、栗《くり》石《いし》や玉石が交じっていた。玩具《おもちや》や人形などを買ってもらった記憶はないが、これらの石をエプロンに幾つか入れて、縁側の床の下に、私はよくこっそりと隠しておいたものだ。苔《こけ》むした湿っぽい縁側の傍にしゃがんで、時々その石を出していつまでも眺めた。白い石に黒い筋が走っていたり、薄青い石に芒《すすき》のような柔らかい模様が描かれていたり、ちょっと凹《くぼ》みのある平たい石は、ままごとの皿にちょうどよかったり、それはまことに子供時代の宝物であった。
だが、「赤い石」と呼ばれる朱色がかった石だけは、私たち子供は拾わなかった。紫や緑や、集めた石は多彩だったが、どうしても赤い石だけは拾えなかった。しかしある日私は、
(ほんとうに赤い石を拾ったら、母さんは死ぬのだろうか)
と、砂利道に屈んで考えた。何だか嘘《うそ》のような気がした。一方、本当のような気もした。万一、拾ったために母が死んでは大変だと、恐れる気持ちもあった。だがその日の私は、何としても赤い石を拾ってみたかった。赤い石の呪《じゆ》縛《ばく》から逃れたかったのだ。それに赤い石は、自分の宝物にするのに大いに魅力のある石であった。私は思い切って、その石をしっかと握った。握ったまま私は、玄関から家に飛びこんだ。
(母さんが死んだだろうか)
恐れと緊張で、激しく動《どう》悸《き》がした。
茶の間の障子をあけると、母は弟に乳房をふくませながら新聞を読んでいた。
(生きていた!)
安心と同時に気ぬけがした。私はこの時以後、赤い石の呪縛から完全に解き放たれた。
小学校の高学年になって、何かのことでこのことを思い出した時、私は不意に自己嫌悪に駆られた。あの年齢では、赤い石を恐れていたほうが子供らしいというものではないか。母が死ぬかも知れないことは、どんなことがあっても出来ない子供であったほうが、愛らしいのではないか。そう私は思ったのであった。
うす暗い、何の装置もない舞台に一人の女の子が坐っている。その女の子にだけ、あまり明るくないスポットライトが当たっている。そんな情景に似た思い出が私の幼い頃にある。周囲には父母も、兄や姉たちも、そして二つ年下の弟もいた筈なのだが、私の記憶には、姿としては誰一人として浮かんでこないのだ。ただその夜の言葉にだけ記憶がある。私はその時、数えで五歳だった。ストーブがあたたかく燃えている。そのストーブ台の上を、私は炉《ろ》箒《ぼうき》で掃いていた。視覚的にはただそれだけの思い出なのだ。が、ストーブ台の上を掃いている私の気持ちは、それまで味わったことのない気持ちであった。
その夜は、家の中がひっそりとしていた。みんな足音さえしのばせて歩いているようだった。誰もが黙っていた。今考えると、十八歳、十七歳、十五歳、十二歳、八歳、五歳、三歳と、これだけの子供のほかに、両親がいたのだから、実際はこんなに森閑としていたか、どうかはわからない。だが私は、自分一人だけが心をこめて炉箒を動かしていたように思われて、他の人の動きの記憶はないのだ。五歳の子供に、厳粛という言葉は知る筈がない。が、その時私が感じたのは、まさに厳粛そのものであった。
「天皇がおかくれになった」
誰かがささやくように誰かに言った。
「天皇さまがおかくれになった」
また誰かが誰かに言った。幾度も幾度も「天皇さまがおかくれになった」という言葉が私の耳に聞こえた。
(てんのうさまって、だれだろう?)
だが、みんなは知っているらしい。食事の時間になっても食事をした記憶がない。
(てんのうさまがおかくれになった)
「てんのうさま」もわからなければ、「おかくれになった」もわからない。何かは知らないが、「てんのうさま」という人がいるらしい。そしてその人は、とても偉い人らしい。それは子供の私にもよくわかる。なぜなら、「さま」という言葉は誰もめったに使わない。「王さま」とか、「殿さま」とか、偉い人には皆、「さま」がつく。「てんのうさま」には「さま」がついている。きっと偉い人なのだろうとは思う。だが、「おかくれになった」ということがわからない。要するにどこかに隠れたことにはちがいない。私たち子供がかくれんぼで隠れるのは、物置であったり、トイレや押入れの中であったり、路地の井戸の陰であったりする。私には、何となくてんのうさまは押入れに隠れたような気がしてならなかった。が、どこかがちがうような気もした。それは、大人たちのかもし出す雰囲気でわかった。とにかく、偉い人の上に何かが起こった。私は炉《ろ》箒《ぼうき》を動かしながら、なぜか炉《ろ》端《ばた》をきれいに、きれいに掃き清めなければならぬと感じていた。私にとって、「天皇」の存在は突如こんな形で知らされたのだった。
ここで時代は昭和に移るわけだが、私の二歳頃の話を一、二つけ加えておきたい。これは私が母や兄たちから聞かされた話で、私の記憶そのものではない。だが、幾度も聞かされているうちに、誕生の日と同様、私自身記憶しているかのように錯覚している事柄なのである。
三番目の兄は私より六歳年上になるが、よく私を背負って子守りをしてくれたらしい。私の生まれた家の前には、一メートル幅ほどのどぶ川があった。この川には記憶がある。どぶ川といっても、排水がよく流れは澄んでいた。水底には、カラス貝でもあったろうか、びっしりと敷きつめられていたのを覚えている。そんな澄んだ水に、米の磨ぎ汁や石《せつ》鹸《けん》水《すい》が流れこむと、乳白色にやや青みを帯びて、霧のように濁っていく。しばらくすると、またもとの水に返る。棒で突つくと、たよりないほど柔らかい水の底は、これまた黒雲のようにたちまち濁るのだが、今考えると、どぶとは言えぬほどに、きれいな水だった。三番目の兄都志夫が、ある日私を背負ってそのどぶのそばに立っていたのだそうだ。突然私が、伸び上がって思いきり背をそらしたからたまらない。帯で結んでいたわけではなく、私を素《す》手《で》で背負っていた都志夫兄が、「あっ」と叫ぶ間もなく、私はそのどぶに頭から落ちこんだという。どぶの底が柔らかく、怪《け》我《が》はしなかったものの、兄は母からその不注意をかなりきびしく叱《しつ》責《せき》されたらしい。
「お前のために、へら辛《から》い目にあったぞ、あの時は」
と聞かされたのは、小学校の頃であったろう。私の思い出には残っていない、兄と私の姿である。
思い出に残っていないといえば、私は生まれつき髪の毛が赤くて、縮れていたらしい。顔色は「白ちゃん」と言われるほどに、色白な子供であったらしい。当時、日本の女性はまっすぐな黒髪がよしとされていたから、父母にとって、赤毛で縮れ毛の子は、さぞや悩みの種であったろう。それで、黒髪になるようにと、私の頭は小坊主のように剃刀《かみそり》で丸められていた。女の子が全くの坊主頭では哀れと思ったのか、両の鬢《びん》と、うしろと前にひとつまみずつ赤毛を残しておいてくれた。それがキューピーのようだというので、みんなから「ビリケンさん」とも呼ばれていたようだ。そんな状態が五歳頃までつづいたと聞く。剃刀を当てたのが効果あってか、私の髪はふさふさと黒い髪となった。が、残念なことに、顔の色まで黒くなって、「白ちゃん」と言われた愛らしさは消えてしまった。
その後の私は、お世辞にもかわいいと言える女の子ではなかったが、髪を剃《そ》られていた間は、母の言うとおり、「かわいい子」であったかも知れぬといえる次のような記憶はある。母は目が悪くて、始終眼科病院に通っていた。まだ下の弟が生まれていず、外出の時は、いつも私を背負って出かけて行く。その眼科病院に入って、右手に受付があった。母が入って行くと、看護婦が二、三人ばらばらと飛び出して来て、その受付の小部屋で、母の背から私を抱き取る。それはまるで争うように私を奪い合ったのを、三歳の記憶として覚えている。また、そこの医者には子供がなく、かなりしつこく私を欲しいと母に粘ったらしい。
「たくさん子供がいるからって一人一人は別だからね。手離すことなんか出来ないよ」
のちに母が私に言った時、私は親心をしみじみありがたいと思ったことだった。子供が多くて、生活は決して楽ではなかったのに、裕福な医者の養女にはしなかったのだ。並々ならぬ親の愛を私は感じたのだった。それはともかく、自分の一生の運命にかかわる一大事が語られていても、何も知らずに生きていた幼児時代を思うと、ふっと胸のしめつけられるような思いになる。
ところで、私の記憶の中に再々登場するのは、三歳上の姉百《ゆ》合《り》子《こ》である。前にも述べたように、体の弱い私は、冬はほとんど家の中にいた。その姉のところに友だちが呼びに来る。
「ユーリちゃん、あそぼう」
そう姉を誘う直前に、私は窓から素早く姉の友だちを見て、大きな声で、
「エコンボ、トドマツキタゾ」
と、叫ぶのだった。それが、にこりともせず怒ったように言うのだそうだ。私にとって三歳上の姉は、ただ一人の遊び相手である。その姉を誘いに来るのだから、きっとおもしろくなかったにちがいない。にこにこ笑うわけはない。もともと私は笑顔の少ないほうで、今でも無愛想なほうだ。子供の時はもろにそれが外に出た。「エコンボ」というのは、ヤ行をまだ発音出来ぬ私が、「百合子」と言えずに、「エコンボ」とか「エコちゃん」とか呼んでいたのだ。いまだにきょうだいたちの中には、「エコちゃん」と姉を呼ぶ者がいる。
その頃、母、ネエちゃんと呼んでいた叔母、姉、弟と私の五人で、近くの写真館に写真を撮《と》りに行ったことがある。私も姉も、元《げん》禄《ろく》袖《そで》ではなく、長《なが》袂《たもと》の着物に白いエプロンをつけさせられて写真館に出かけた。写真を撮り終わって、写真屋が、
「すみませんが、お嬢さんを貸して下さい。一人だけで撮ってみたいのです。ほんとうにお人形のようにかわいらしい!」
と、なでた頭は、私の頭ではなく、姉の百合子のおかっぱ頭であった。この時初めて、私は自分と姉との差を知った。姉は愛らしく、自分は愛らしくないことを知った。私は不意に、その写真屋をいやな写真屋だと思った。あれは嫉《しつ》妬《と》の感情だったのであろうか。といって、深く傷つけられたのともちがう。姉が愛らしいと言われたことが、何となく誇らしいような気持ちでもあった。つまりは身びいきな肉親の感情であったのかも知れない。
何を思い立って写した写真かは知らないが、なぜこの写真の中に、父や兄たちが入っていないのだろうか。弟の満一歳の記念か何かで、時間のやりくりのつく者だけが行ったのだろうか。母も叔母も姉も、美しく撮れてい、弟も愛らしく撮れていたが、私だけが怒ったような顔をして写っていた。
「この写真屋下《へ》手《た》くそだ。綾子なんかなんにも怒った顔をしないのに、怒った顔に写っている」
私の言葉に、家人は声をあげて笑った。親戚や知人が来ると、母はくり返しこのことを聞かせた。この写真を見るたびに、私はなるほど写真というものは正直なものだと思う。姉は、ただでさえやさしい顔立ちなのに、小首をちょっと傾け、流し目になっている。肩のあたりも、いかにも女の子らしく、おまけに、大きなリボンを頭につけている。確かこのリボンは写真屋が姉にだけつけてくれたものだ。それに較《くら》べて、私はむっとしたように口をつぐみ、「寄らば斬《き》るぞ」と言わんばかりのきついまなざしで、一点をみつめている。確かに姉は写真屋の言ったとおり、「お人形のように愛らしい」のである。
この写真屋以来、今に至るまで、幾度姉は美しいと言われてきたことか。
「百合子さんはきれいねえ」とか、
「まあ、何とかわいいお嬢さんでしょう」
とか言われるそばで、私は一度もかわいいと言われずに育った。姉をほめたついでに、
「綾ちゃんの髪はいい髪だね」
と言われることはたまにあった。が、何かの本に、器量の悪い女は髪をほめられる、ということが書いてあって、なるほどと思ったことがある。きれいだ、きれいだ、とほめられる姉のそばで、一度もほめられずに育つということは、これは客観的に見て大変なことだと思う。だが、よくしたもので、私はそのことでひどく傷つくことはなかった。私の関心事は、自分の顔かたちや服装のことではなかった。私は何の不満も抱かず、着るものはいつも姉のお下がりを着ていたし、長じて浴衣《ゆかた》などを着る時も、鏡の前で装うということはあまりなかった。だから、うっかり裏返しに着て、堂々と居《い》敷《しき》あての白い布を外に出したまま、買物に行ったこともある。ほめられたことではないが、いまだにセーターの裏返し、あるいはうしろ前に着るというあやまちは、なおっていない。娘時代、姉と二人で歩いていると、十人の男が十人とも、皆姉の顔を見た。私は内心、
(どう、この人私の姉さんよ)
と、誇りたい気持ちがあったから、仲のよい姉妹として育った。この姉に会うたびに私は、今もって、(姉さんらしい人だ)と思う。だが、女学校卒業以来、姉は常に私の妹に見られてきた。誰でも姉に会うと、姉を私の妹だと思いちがって、
「お姉さんにはいつもおせわになっております」
などという。そう言われるのがおもしろくて、私はわざと、
「マイ・シスターです」
と、姉を紹介するのだ。ただの一人も、彼女を私の姉と思った人はない。姉には見えないが、しかし姉は幼い時からいかにも姉らしいのだ。
私が五歳頃であったろうか。ある夏の日、明るいうちに母と弟と三人で銭湯に行った。二丁半ほど離れたその銭湯の庭には、あやめの花がぞっくりと、見事に咲いていたことを覚えている。母より先に風呂から上がった私は、脱衣場で見知らぬ赤ん坊を膝《ひざ》に抱いた。その頃から私は赤ん坊が好きだったのだろう。ところがその子は、抱かれるや否や、私の着物をウンチで汚してしまった。入浴する前か後かは知らないが、おしめが取られていたのだった。
「よその赤ちゃんを抱いたりするから……」
私は母に叱られた。私の母は賢い人だと思っているが、この時の叱責は私には納《なつ》得《とく》出来なかった。よその子を抱くことが悪いとは、子供心にも思えなかったのだ。だがそのことは別として、着物を汚してしまったことは、悪かったとも思った。母は私の汚れた着物を持って、
「すぐに迎えに来るから、ここで待っていなさい」
と、弟を連れて行った。夏のことで、浴衣《ゆかた》一枚しか着ていなかったから、その一枚を持って帰られると、着るものがなかった。裸で帰るわけにもいかず、私は家人の迎えを待っていた。だが、わが家からはなかなか迎えに来てはくれない。私は子供だったから、待てなかったのかも知れない。短い時間が長く思われたのかも知れない。私は裸でいつまでもその場にいるのが不安になった。私はついに帰ることにした。帰るといっても着るものはない。真っ裸で帰るわけにはいかない。と、どうしたことか、母は私の着物だけを持って、私の三尺帯を置いて行ったことに気づいた。私はその三尺帯を肩から斜めに体に巻きつけた。か細い子供の体である。幅広い三尺帯である。ゆったりと膝《ひざ》のあたりまで巻きつけることが出来た。あの時の、橙《だいだい》色《いろ》のちりめんの帯の感触は今も私は覚えている。多分その姿は、珍妙であったにちがいない。風呂屋にいる人たちが笑っているのを子供心に感じながら、私はまだ明るい夕方の街に出た。銭湯のすぐそばで、半裸の男が道路に水を撒《ま》いていた。男は驚いて、二メートルほどの長い柄《え》の柄《ひ》杓《しやく》を持ったまま、まじまじと私の姿をみつめた。私は広い道路の真ん中を、悠々と歩いて帰って行った。恥ずかしい気がした。が、一方、裸ではないのだという気持ちがあって、誇らしい思いもあったような気がする。つまり、三尺帯を巻きつけるとは、われながら名案と言いたいところだったのだろう。
家まで、あと半丁という所まで来た時、風《ふ》呂《ろ》敷《しき》包みを抱えて、私を迎えに来た姉に出会った。姉は私の奇妙な姿を見て、
「まあ!」
と、実に何ともいえない優しい笑顔を見せた。そして、ふだんより何倍も優しい語調で私を慰め、太い柳の木の下で、ぐるぐる巻きの帯を取り、風呂敷の中の浴衣《ゆかた》を着せてくれた。私はこの時、初めて姉の姉らしさに触れたのである。私がようやく、自分以外の人間を意識する年齢になっていたからであろうか。きょうだい愛をたっぷりと私は浴衣と共に着たのであった。
その後、この姉らしさはたびたび感ずるようになった。それは必ずしも「優しさ」となって現れるとは限らなかった。これはその翌年くらいの頃のことであったろうか。夏休みで、近郊に住む従《い》姉《と》妹《こ》たちが、私の家にしばらく来ていた。彼女たちの住む家のそばには、滔《とう》々《とう》たる灌《かん》漑《がい》溝《こう》があって、従姉妹たちは水泳が巧みであった。が、私の家に来ては、そう手近な所に水遊びをする場所はない。一キロほど離れた辺りに忠《ちゆう》別《べつ》川が流れていた。そこにみんなで行ったわけだが、私には生まれて初めての遠距離であった。帰り道、私は水遊びと太陽の暑さで疲れていた。歩き方がおぼつかなかったのだろう。姉と同じ齢《とし》の従姉《いとこ》が、いきなり私に背を向けて屈《かが》み、
「さ、綾ちゃん、おんぶしてあげる」
と言ってくれた。やれうれしやと、私はためらわずに従姉の肩に手をかけた。途端に姉の百合子の声が飛んだ。
「恵美ちゃん、おんぶしないで! 癖になるから」
毅《き》然《ぜん》とした声だった。いつもの優しい姉の声ではなかった。私はひどくきまりの悪い思いで、今かけた手を従姉の肩からはなした。
「そうかい」
従姉も立ち上がった。私は、
「おんぶしないで! 癖になるから」
と言った言葉を、その時実によく納得がいって受け入れた。私は疲れてはいたが、歩けば歩くことが出来た。疲れてはいたが、誰かに背負って欲しいと思うほどではなかった。だから私が従姉に背負われようとしたことは甘えであった。私は子供なりに、姉の言った「癖になる」という言葉を、誤りなく受け取ったように思う。自分はもうだいぶ大きくなったのだ。いつまでも人におんぶしてもらってはならないのだ、という自覚があの時与えられたような気がする。その後私は、誰かがおんぶしてあげようと言っても、「癖になるから」と、姉の言葉をそっくり使って、断るようになった。私にとって、裸に三尺帯を巻きつけて歩いた時よりも、姉にこの言葉を言われた時のほうが恥ずかしかった。そして、優しい姉にもまして、この時のきびしい姉に、姉らしさを感じたのだった。
一九二八年(昭和三年)三月、私の家は引っ越した。つまり、私の生まれた四条通十六丁目左二号から、同じ市内の九条通十二丁目右七号へ移ったのである。
ふつう移転は、経済的理由で、広い家から狭い家へ移るとか、狭い家から広い家へ移る場合が多いように思われる。だが、この時の移転先も、今まで住んでいた家も、部屋数は茶の間のほかに、台所と他にふた間があって、そう変化はなかったような気がする。しかしそれは、子供の感覚であって、仔《し》細《さい》に思い起こすと、茶の間も他の部屋も、台所も、みなそれぞれに二畳ずつほど広くなっていた。奥の間に床の間があるのは同じだったが、台所には一間半ほどの大きな造りつけの戸棚があって、その裏手に浴室があった。以前の家には裏庭らしい裏庭がなかったが、今度の家には五坪ほどの小ぎれいな裏庭があって、黒い塀がめぐらされていた。多分、家賃も少し高かったのではないだろうか。ということは、わが家の経済はやはり上向きの途上にあった証拠かも知れない。今までの家からは、ずいぶん遠い所に移ったように思ったが、わずか七、八百メートルしか離れていない。にもかかわらず、界《かい》隈《わい》の雰囲気は全くちがっていた。
私の生まれた家の近くには宗谷本線が走っていた。家の前で遊んでいても、長い貨物列車や客車が過ぎていくのがよく見えた。わが家を中心にして、三百メートル半径内に酒の醸造元が数軒あり、味《み》噌《そ》醸造、醤《しよう》油《ゆ》醸造の大《おお》店《だな》もあった。それぞれに、石造りや白《しら》壁《かべ》の大きな蔵を構え、正月や祭りには、青、白の幔《まん》幕《まく》や、紅白の幔幕が張りめぐらされていたものだ。百メートルほど西の横通りは、今も銀座通りと言われ、商店街として賑《にぎ》わっているが、当時も果物屋、金魚屋、植木屋などが露店を出し、バナナの叩《たた》き売りをする向こう鉢巻の若い衆の声が威勢よくひびき、こってりと甘い〓《あん》のふんだんに入ったお焼《やき》屋《や》もあり、活気のある商店街であった。わが家のすぐそばの横通りには、朝の六時から朝市が立って人々が群をなし、わずか二時間ほどで、客も市も魔法のように消える毎朝であった。その朝市が消えたあとに、飴《あめ》屋《や》の屋台が出、赤い銅盤の焼板に飴を垂らして焼いて見せたり、幼い私には何をどうするかよくは見えなかったが、たたんだ豆絞りの手《て》拭《ぬぐ》いを粋に頭に置いた中年の男が、ガラス細工を造るように細い管で飴を吹くと、その管先に見る間に小鳥が出来上がる。その小鳥に赤や緑の色をちょんちょんと塗ると、食べるには惜しいような、玩具《おもちや》にも似た小鳥となる。それを私たち子供は、まばたきもせずに、じっとみつめている。手には母にもらった一銭玉を固く握って、小鳥が幾つも幾つも管先から生まれるのを、飽きもせずにみつめつづけ、そのどれを買おうかと真剣に思案して買うのだが、要するに一銭値《あたい》だけだった。言ってみれば、私の生まれた界隈は下町ふうな情緒があった。が、わずかに七、八百メートル離れた九条十二丁目界隈は、かなり様子がちがっていた。
その日は、いかにも春めいた三月も末の午後であった。私と母は、弟の鉄夫と、前の年に生まれた昭夫を乗せた乳母車を押していた。新しい家の近くまで来た時、私は途方もなく大きな建物を見た。いや、建物というより塀である。それは子供の私には、実に高く見えるコンクリートの塀で、それが一丁四方をぐるりと囲んで建っていたのである。むろん中にある建物は塀が高くて見えない。が、私には、塀の中の建物が、極めて鮮やかに見えたような気がした。数え年七歳の、満で言えば五歳と十一カ月の私の胸には、現実とおとぎ噺《ばなし》が同居していたのである。私はてっきり、この高い塀の中にこそ、あのお城があるのだと思った。お城の中には美しい王女さまがいなければならぬ。王さまもいなければならぬ。庭にはきれいな池があり、金の橋がかかっていなければならぬ。池には白い水鳥が浮かび、庭には色とりどりの花が咲いていなければならぬ。それらすべてが私の目に見えたかのように想像された。門の傍らに巡査がいた。
(やっぱりお城だわ)
私は心ひそかに胸をときめかせた。が、それでいて、ここがお城かとは母に尋ねなかった。私はのちにきょうだいたちから「むっつり右《う》門《もん》」とか「ムッソリーニ」などと綽《あだ》名《な》をつけられたほど無口な子供であったから、母にもめったに口をひらかなかったようだ。
このお城の斜め向かいに、旧制旭《あさひ》川《かわ》中学校があった。およそ二丁四方ほどある敷地に、校舎と広いグラウンドはあった。この中学と通りを挟んで、土木現業所があり、測候所があり、その二つの役所の小ぎれいな官舎があった。そのほとんどは塀に囲まれた官舎であった。わが家は、土木現業所の官舎の向かい側にあって、今までと同様に、一棟二戸の建物だった。四条十六丁目界隈では、塀をめぐらした家は一、二軒しか見なかったが、わが家の前も左隣も、板塀に囲まれた家であった。雑貨屋、薬屋、市場などは隣の町内にあって、私の住もうとする町内は、言ってみれば、官公庁の傍らにある閑静な住宅街であった。
話は幼い思い出からは少し離れるが、のちに知ったこの界隈の住人を、少し紹介しておいたほうがいいかも知れない。この九条通十一丁目、十二丁目界隈には、女学校、中学校、師範学校の教師が幾人かいた。数学の女教師、国語の教師、男女の音楽教師が三人、化学の教師、そしてまた詩人が二人、共産主義者の活動家が一人いた。つまり、四条十六丁目では聞けなかったピアノの音が、この町内では道を歩いているとしばしば聞こえてくるというふうであった。二人の詩人は、旭川の歴史に残る詩人で、その中の一人は新聞社に勤めていたが、特高に狙《ねら》われる運動家であった。数学の女教師はその妻で、後年私はその人に数学を習うことになる。共産党の闘士のことは後で述べるが、私の小説『氷点』の踊りの師匠辰《たつ》子《こ》の恋人に、この人のイメージを借りている。また、音楽の女教師の夫は、師範学校の絵画の教師で、戦時中思想問題で検挙されている。一棟二戸の、その左側の家に私たちは入ったのだが、その翌年、右側に前《まえ》川《かわ》正《ただし》の一家が移って来た。この前川正が、長じて私に短歌を教え、私をキリストに導いた恋人となるわけだが、彼もまた共産党の闘士とかなり親しい間柄となった。
が、これらのことは、のちに知ったことで、まだ満五歳の私には、すぐそばのお城が一大関心事であった。私は、移って幾日かは、いつの日か垣《かい》間《ま》見《み》ることが出来るかも知れないあの塀の中や、美しい王女さまを夢見て楽しんでいた。だが、その夢は間もなく破れてしまった。近所の母親が、
「言うことをきかないと、お前もあの監獄の中に入れてしまうよ」
と、わが子を叱《しか》りつけたのだ。「あの監獄」と言った時、その母親は私のお城を指さしたのだ。私は自分が思いちがっていたと知った時、なぜかがっかりするよりもおかしかった。悪者が来ないようにと、巡査が門番をしているのだと信じていたのに、悪者は中にたくさんいたのだと知って、それが子供心に、妙におかしくてしようがなかった。あの門を守っていた人は、実は巡査ではなく看守だということも、のちに知った。
この刑務所の塀のそばには、スカンポやオオバコが生えていて、私たち子供はよくそこで遊んだ。特に、暑い夏の日にはこの塀が日陰をつくり、渡る風が涼しかった。スカンポの葉をかじると、酸《すつぱ》い味がした。決してうまくはないのだが、私たちはよくかじった。ペンペン草もあった。誰かが、
「ペンペン草をむしると、雨が降るよ」
と言った。誰が言い始めた言葉かはわからないが、子供たちは根強くそれを信じていた。私は雨降りは嫌いだった。嫌いなのに、なぜかペンペン草を抜いてみたい思いに駆られた。それは「赤い石を拾うと母親が死ぬ」という、あの言葉の脅しにも似た言い伝えへの反逆と同じ思いかも知れなかった。私は、本当に雨が降るか、試してみたかった。その日は、雲一つない晴れた日であった。空の青さが、かつて見たこともないほどに、濃く思われた。じっとみつめていると、自分の体まで吸いこまれていくような、澄んだ空だった。私はそっとペンペン草に手を置いた。
(ほんとうに雨が降るのだろうか)
私は思い切って、ぐいとペンペン草を抜いてみた。大きな仕事でもしたように、私は草を握りしめたまま、じっと空をうかがっていた。待てども待てども、青い空には雲一つ湧《わ》かなかった。ついに雨は降らなかった。
私は空を見つめることの好きな子供だったが、雨降りのあとにたまったあの水たまりに映る空だけは、のぞき見るさえ恐ろしかった。雨が晴れると、すぐに外に飛び出すのだが、水たまりに映る空を見ると、胸の中に、ぎょっとするような思いが湧いた。その思いは、思いというより、棘《とげ》か小石かのように、固体の感じであった。水たまりに映る空は、見上げる空より深すぎるのである。一歩水たまりに足を入れると、自分の体が沈んでしまいそうな恐怖があった。その水たまりを、竹の棒で突つき、決して深いものではないことを確かめて、水たまりに入ることが出来たのもその頃のことだ。
私は次第に、呪《じゆ》縛《ばく》めいた言い伝えから、一つ一つ解き放たれていった。
「毛虫を見たら拇《おや》指《ゆび》が腐る」
子供たちはそう言って、
「毛虫を見たら拇指かくせ」
と、よく声を揃《そろ》えて言ったものだった。だが私は、いつしか毛虫の前にぐいと拇指を突きつける子供になっていった。
九条十二丁目に移って、幾人かの友だちが出来た。一人は渡辺久江といった。目の細い、顔も、もの言いもやさしい、ややひ弱な感じのする子だった。早生まれだが、私と一緒に来年入学する筈だった。久江の家は逓《てい》信《しん》局《きよく》の寮をしていて、お手伝いが二人いた。町内に電話があるのはここ一軒だけだったのだろうか、三、四軒離れているわが家へ、よく久江が呼び出しに来てくれた。ある時、遊びに来ていた母の弟、つまり叔父に電話がかかってきた。私と弟はこの大好きな師範生の叔父について久江の家に走って行った。叔父が電話で話をしている間、弟と私は叔父の傍らでふざけた。叔父は、
「こら! うるさいぞ!」
と怒《ど》鳴《な》った。と、電話の相手は驚いたらしい。何か言われた叔父は、
「や、すみません、すみません」
と、電話の前で幾度も頭を下げた。それがおかしくてまた笑い、また叱《しか》られた。
この久江の家に、私は毎日遊びに行ったような気がする。二階にも、階下にも、広い廊下が南北に通じていて、子供が駆けまわるには絶好の造りだった。そのうえ、部屋は二十はあって、どの部屋にも独身の青年たちが一人か二人住みついている。日曜日などに行くと、饅《まん》頭《じゆう》や煎《せん》餅《べい》などをくれて、大いに歓迎してくれたものだった。確か大沢という赤ら顔の小肥りの青年がいた。その日彼は、
「綾ちゃん、東京を見せてやろうか」
と、私に言った。
「東京!?」
私は目を輝かした。多分、東京なる大都会のイメージを、私なりに持っていたのだろう。私がうなずくや否や、大沢さんは私の両《りよう》頬《ほお》を掌で挟んでぐいと持ち上げ、
「ほら、東京が見えた見えた」
と言った。むろん何も見えはしない。向こうの土木現業所の寮が、いつもと同じように目の前にあっただけだ。が、私はからかわれたと知ったのに、大沢さんの大きな掌に狭まれて吊《つ》り上げられた瞬間、私の目に、たくさんの家が立ち並ぶ東京が見えたような気がした。私は、からかわれたと知りつつ、
「見えたわ! 綾子に東京が見えたわ」
と、まじめな顔をして大沢さんを驚かせた。それから時々大沢さんの部屋に行っては、
「東京を見せて」
とねだり、見えない東京を見せてもらったものだった。私にとって東京は、どれほど遠い所にあるかは知らなかった。ちょっと背伸びをすれば見える所に、東京はあると思っていたのだろうか。私と久江は、よく広い物干し台に上り、そこから更に二階の屋根に上って、
「東京が見えるわ」
と、小《こ》手《て》をかざしたものだった。恐ろしく高い屋根の上であった。
九条十二丁目に移転してから、小学校に入学するまで、一年の月日があった。この時に出来た友だちは、逓《てい》信《しん》局《きよく》の寮をしている渡辺久江を除いては、皆、土木現業所の職員の子供たちであった。所長の子供たち、多分部長級と思われる家が二軒あって、そこの子供たち、そして、土木現業所の寮をしている家の子供たちが、当時の私の大切な友だちだった。そのどの子も、皆小ぎれいな服装をしていた。私の履いている短靴はゴム製であったが、彼女たちの靴は歩くと音のする革製であった。そのまま学芸会の舞台に立たせてもいいような、垢《あか》ぬけした服装であった。
私はこの子たちと、毎日のように土木現業所の敷地に入りこんだ。大きな事務所の中は、人が中にいるとは思えないほど、実にひっそりとしていた。子供たちは口を閉じ、時折ひそやかにささやきあい、しかしすぐに分別臭く、口の前に人差し指を立て、「しっ」と戒めあっては肩をすくめ、声なく笑った。きれいに手入れの行き届いた庭には、オンコの木や、胡《くる》桃《み》の木、そして赤や白の花があった。裏手には葵《あおい》の花が丈高く咲き、私たちはその花を「コケコッコーの花」と呼んで、薄い花びらを二つに剥《は》がし、鼻の上にぺたりとつけて、お互いに目まぜをしながら、鶏のように歩くのだった。何せ、所長や部長の子供たちと歩きまわるのだから、誰も咎《とが》める者はいない。この点、四条十六丁目にいた時の、藤田の職員たちと同様に、寛大だった。
私の家の向かいに、彼女らの官舎はあった。時折、その裏手の長い縁側に小さな腰をおろして、お手玉をしたり、ままごとをしたりした。その家の稲《いな》辺《べ》芳《よし》子《こ》は声も顔も愛らしく、いかにも利口そうであった。この家で、私はおはぎをごちそうになったことがあった。縁側に置かれた黒塗りのお盆の上には、小豆《あずき》と黄《きな》粉《こ》と胡《ご》麻《ま》の三色のおはぎがあった。その時の私の驚きといおうか、感動といおうか、を忘れることが出来ない。私は、おはぎといえば、小豆のそれしか知らなかった。それが、黄色、黒、小豆色と、配色も美しく、やや小ぶりのおはぎが出されたのを見て、私はこの美しいものを食べてもよいのかと、迷ったのを覚えている。そしてこのおはぎに、わが家とはちがったものを感じ取ったのである。今の私の言葉で言えば「食文化の差」とでもいうべきものであったろうか。
このおはぎを盆に持って来てくれた人は、背のすらりとした、束髪の黒髪をゆるやかにまとめた、色白の佳人だった。芳子の長姉だった。そのしとやかな物腰にも、私はちがう世界を感じたのである。ちがう世界といえば、所長の家は更にちがう世界であった。所長の家は、芳子の家の隣にあった。つまり私の家の斜め向かいにあったことになる。この家は芳子の家よりずっと広く、裏庭には砂場や、ブランコがあった。所長の家には、眉《まゆ》のやさしいお手伝いさんがいて、よく、五つぐらいの女の子をお守りしていた。時々そのお手伝いさんは、
「うちのお嬢さんと遊んで下さい」
と呼びに来た。私の弟も時折呼ばれていたらしい。遊んでいると、そこの所長夫人が、白いちり紙に包んだお菓子を、私たちに与えてくれた。私は、この白いちり紙の包みに大きな驚きを感じた。わが家などでは、白いちり紙などというものを使ってはいなかった。当時、私たちの鼻紙や落とし紙は、新聞紙を切ったものを使っていた。茶ちりというものさえ、あったかどうか、白いちり紙などは、それこそ紋付でも着る時でなければ、使わなかったのではなかろうか。だから、白いちり紙にお菓子を包んで、ひねって出された時、私にはその白がまことにまばゆく見えたのである。
所長の庭では、ブランコ遊びが最も多かった、幾人かの子供たちが一列になって、順番を待っている。整理係はお手伝いさんだった。十とか二十とか、決まった数を数える間ブランコに乗ると、私たちは直ちに交替した。だが、所長の子供の時には、お手伝いさんは決まった数だけ数えてから、いつもこう言った。
「おまけ、一つ、二つ、三つ……」
と、長い長いおまけをつける。そして最後に、「もう一つおまけ。一つ、二つ……」と、十まで数える。子供心に、このブランコは所長の家のものだから仕方がないという思いがあった。私たち子供は、いやおうなく、特権の存在を覚えたことになる。
幸い、所長も、夫人も、お手伝いさんも、そして子供たちも、態度やもの言いがやさしい人たちだったから、不快に思ったわけではない。時には映画会を催して、近所の子供たちを喜ばせてくれたりもした。おそらく、映画というものを私が生まれて初めて見たのは、あの家の応接室であったろう。そういうよい思い出はあるのだが、あとで思い出して苦笑するのは、お手伝いさんが、所長の子供を「お坊っちゃん」「お嬢ちゃん」と呼ぶのにならって、私たち近所の子供たちも、「お坊っちゃん」「お嬢ちゃん」と呼んでいたことである。親の地位が、知らず知らずのうちに、子供の世界にまで影響を及ぼしていたことを、今、私は何と思ったらよいのであろう。
小学校に入学する半年くらい前であったろうか。私は芳子に連れられて中央小学校に行ったことがあった。いったい、どうしてそういうことになったのか、記憶にはないが、それは単なる遊びではなかった。私は来年大《たい》成《せい》小学校に入学するはずだったし、芳子は中央小学校に入学するはずであった。私のきょうだいは大成小学校に、芳子の姉は中央小学校に通っていた。
その日、小学校では明《めい》治《じ》節《せつ》の練習をしていた。みんな、屋内運動場に整列していた。厳粛な雰囲気だった。芳子も私も、芳子の姉の節子のあとに並んで、極度に緊張していた。「前へならえ」と号令がかかれば、電気仕掛けの人形のように、しゃちほこばって両手を前に上げた。「休め」「気をつけ」の号令にも、いち早く従った。「学校ごっこ」では何度もやっていたが、学校というところは決して「学校ごっこ」ではなかった。背の高い女教師が、前から一人一人を観察するように近づいて来たが、私たちを見ても、表情を変えなかった。にこりともしない。それは、無愛想というより、無関心に見えた。私はのちに小学校の教師になったが、式の練習のたびに、あの時の女教師の顔を思い浮かべた。戦前の式の練習は、咳《せき》一《ひと》つ許されないきびしい場であった。そこに、見たこともない幼い闖《ちん》入《にゆう》者《しや》が列にいるのを発見して、彼女はなぜ咎《とが》めなかったのか。戦前のことだから、弟妹の守りをしながら通っていた生徒もいたからであろうか。
私はその時初めて、「君が代」という歌をみんなと一緒にうたった。むろん、兄や姉たちのうたうのを聞いていたから、全く知らない歌ではなかった。そのうろ覚えの歌を、私も芳子も一生懸命にうたった。奇妙な、一日入学ならぬ一時間入学を、私は体験したのであった。
もうすぐ入学という、三月の雪融けの頃であった。その日、「馬の小《お》母《ば》さん」と呼んでいた小母さんがコーレン煎《せん》餅《べい》をお土産《みやげ》に持って来た。この「馬の小母さん」は、なぜか、いつでも馬を連れて来た。馬に乗るのでもなく、荷を負わせるのでもなく、手綱を引いて連れて来るのである。「馬の小母さん」の仕事は、どうやら味噌煎餅なるものを売ることであった。柔らかい黒味噌色をした味噌煎餅は、甘じょっぱくて、舌ざわりがよくて、おいしかった。この小母さんが煎餅を売りに来ることはあっても、お土産を持って来ることは、それまではなかったように思う。なぜ、小母さんがお土産を持って来たのか。実はそれには理由があった。近所に「馬の小母さん」の友だちがいた。大変ふとった小母さんで、金《きん》時《とき》のようにいつも赤い顔をしていた。二月のある日、この二人が、どうしたわけか大《おお》喧《げん》嘩《か》をした。「馬の小母さん」は、「金時の小母さん」の家から突き出され、凍りついた井戸端に押し倒された。額から血を出した「馬の小母さん」は、私の家に駆けこんで、母に傷の手当てをしてもらったというわけだ。小母さんは、そのお礼にコーレン煎餅を持って来たのだった。
しかし、「馬の小母さん」は、そう豊かではなかったのであろう。私の家には子供が多いのに、みんなに行きわたるほどの枚数を持ってくることは出来なかった。多分、三、四枚ではなかったかと思う。まだ学校に行っていなかった私と、私のすぐ下の弟鉄夫に、コーレン煎餅は手渡された。芭《ば》蕉《しよう》の葉のように、大きな煎餅だった。兄や姉たちが学校に出かけたあとだから、そこにいた私たちの分だけくれたのかも知れない。私はその煎餅をひと口食べて驚いた。かりかりという軽い歯ざわり、舌の上にのせると、たちまち淡雪のように融けて、言いようのないおいしい味が沁《し》みわたる。
「おいしいね」
私が言った。
「おいしいね」
鉄夫も言った。二人のうち、どちらが言い出したかわからないが、このおいしい煎餅は、姉の百《ゆ》合《り》子《こ》が帰って来るまで、取っておこうということになった。二人は、三月の陽《ひ》が差す出窓の上に上がって、姉の帰りを待つことにした。窓の外には煤《すす》けた残雪が、まだ堆《うずたか》く積もっていた。幼い私たちは、背伸びをしたり、窓に坐ったりして、姉の帰りを待っていた。待っても待っても、三年生の姉は帰って来ない。
「ひと口だけ食べようか」
どちらからともなく言い出して、二人はコーレン煎餅をひと口かじった。
「うまい!」
やっぱり、姉に食べさせたいと思った。二人は再び窓の外を見た。が、五分も経《た》つと、また煎餅が気になってくる。
「もうひと口だけね」
二人は互いに相手の許可を得てかじった。食べながら、私も鉄夫も、何とかこのおいしい煎餅を、姉の百合子に食べさせたくて仕方がなかった。あとになって考えると、多分煎餅は十時頃にもらったようだ。姉は少なくとも正午を過ぎなければ帰らない。私と鉄夫は、その長い時間を待つことに、くたびれてしまった。もうひと口、もうひと口と、二人は顔を見合わせながら煎餅を食べた。それほどにその煎餅はうまかった。午後になって、姉が帰って来た時には、ひとかけらも煎餅は残っていなかった。
言ってみれば、ただそれだけのことだが、二歳年下の鉄夫も、いまだに詳しく記憶しているところをみると、これは鉄夫にとっても、かなり重大な出来事だったにちがいない。きょうだいのために、食べたいのを我慢して、かなりの長時間を待ちつづけたのは、幼い者にとって強烈な体験だったのであろう。私は、小学校に入る年だから、そんな気持ちになってもよい年齢だが、私より二歳半年下の、正確には満四歳半の弟が、よく姉のために煎餅を残そうとする気になったと思う。
一九二九年(昭和四年)四月一日。私は旭川市大《たい》成《せい》尋常高等小学校に入学した。入学式の日、私は母が縫ってくれたモスリンの着物と、同じくモスリンで作った被《ひ》布《ふ》を着、母に手を引かれて学校に行った。着物は、紫のぶどうの模様の着物であり、被布は赤いとさかのついた雄《おん》鶏《どり》の模様で、胸には深《しん》紅《く》の房が、歩くたびにゆらゆらと揺れた。私はその自分の姿を目に浮かべると、胸に熱いもののこみ上げるのを感ずる。あの時母は、確か数えで三十六歳であった。姉として育った叔母を入れて、八人の子供を抱え、お腹《なか》には六月に生まれる妹の陽子がいた。この年、日本の社会は年毎に不況の泥沼に傾きつつあった。十一月には、ニューヨーク、ウォール街に始まった世界恐慌が全世界に大きな恐怖を惹《ひ》き起こし、日本にもその恐慌が襲いかかろうとしていた。父の仕事は新聞社の広告取りであるから、経済の動きをもろにかぶる。そんな中で、三十六歳の母が大きなお腹を抱えながら、作ってくれた着物と被布なのだ。
むろん、そんな親の苦労など、当時の私は知るはずもなく、あの君が代をうたった学校の厳粛さを思って、いささか畏《おそ》れを持ちながらも、しかし、喜びを持って初めての教室に入って行った。級友はすでに半分以上も席に着いていた。
教室に入ったすぐのところに受付の机があり、そこで背の高い、色白の女教師が受け付けをしていた。私はそれまで、この先生ほど背の高い女の人を見たことがなかった。非常に静かな感じの先生だった。その横に、小柄な、目の深々とした女の先生がいた。この先生の目は、日本人というより、写真で見る西洋人の目のように私には思われた。この先生が、それから六年間私を受け持ってくださった渡辺ミサオ先生であり、背の高い女の先生は山《やま》田《だ》先生と言って、この日手伝いに来ていた先生だった。山田先生は高等科を受け持っていて、その後一度も私たちのクラスに来たことはない。にもかかわらず、この山田先生の名前や姿や顔を記憶しているのは、山田先生と渡辺先生の、いかにも呼吸の合った雰囲気が、子供心にも実に美しく思われたからである。それは新入学の思い出の中でも、忘れられない感動的な思い出なのである。のちに、五、六年生の頃、この二人の先生が、親友であることを私は知った。
私は、母が受け付けをしている間に、教室の中を見渡した。と、そこに私は自分の知っている顔を見出した。三《み》輪《わ》昌《まさ》子《こ》という女の子であった。昌子は私の祖母の家のすぐそばに住んでいた。私の姉百合子と、昌子の姉が同級であったこともあって、雪《ゆき》橇《ぞり》に乗って遊んだこともあった。姉が前日、私の席を確かめておいてくれ、
「綾子の席は昌子ちゃんの前だよ」
と教えてくれていた。母はそのことを知らなかったのか、名前の貼《は》ってある机を一つ一つ探し始めた。私は母のそばを離れて、昌子の前の席に坐った。私と昌子は目と目を合わせて、ちょっとうなずいたが、言葉は一切交わさなかった。私の隣の席は石原寿《す》みという女の子で、敏《びん》捷《しよう》そうな子に見えた。昌子は四月十一日生まれ、石原寿みは四月二十日生まれ、私は四月二十五日生まれ、寿みと並んでいた木戸という女の子は、確か四月三日生まれだったと覚えている。一年六組のこのクラスは、女生徒ばかり六十人ほどいて、どうやら生年月日順に座席が決められていたようであった。私は一列目の、うしろから二番目の席であった。
この日、帰宅してから、
「綾子は自分で自分の席を、すぐに見つけて坐ったのよ」
と、母が自慢した。客が来ても、母は幾日も同じことを言って自慢していた。私がいち早く自分の名札を見つけたと、母は思いこんだらしい。たとえそうであったとしても、自慢には値しないことであったが、母は、私が自分の席についたのが余りにも早かったので、驚いたのだろう。もともと、無口だった私は、姉から自分の席を聞いていたと、うまく説明出来なかった。なぜか姉も黙っていたので、私が事実を告げては、母に気の毒なような気もした。私はこの時に感じたうしろめたさを、その後いつまでも忘れることが出来なかった。
これに似たうしろめたさを、私は入学して間もなく、もう一度経験しなければならなかった。
ある日、宿題が出た。一から九までの数字をノートに一頁《ページ》書く宿題であった。先生は、出した宿題を必ず検閲した。朱の墨汁と筆を持って、先生は一人一人のノートに、丸をつけてまわった。みんなはその間、がやがやとお喋《しやべ》りしながら、先生がまわって来るのを待っている。無口な私は、喋るよりは数字の練習をしたほうがよいと思った。宿題を書いた次の頁に、私は黙々と数字を書いていた。先生は四列の一番前から始めて、三列、二列とやって来られたので、一列のうしろから二番目の私のところに来るのに、かなりの時間がかかった。それで、私はもう一頁数字を書き埋めたことになった。先生は私のところに来られて、
「ほう、たくさん勉強して来ましたね」
と、大きな四重丸をくださった。その時私は、
「この一頁は今書いたのです」
と、言うべきだった。が、例によって、私はどのように説明すべきか、わからなかった。私は自分を狡《ずる》い人間だと思った。ひどく後味の悪い思いであった。そして、この思いは実に、小学校教師になるまでつづいた。自分が小学校教師になって初めて、私は一つの発見をしたのである。もし自分の受け持ちの生徒が、宿題を調べて歩いている間に、更に一頁を書き上げて、
「たくさん勉強して来ましたね」
と、言われた時、
「こちらの一頁は今書いたのです」
と、言ったとしたら、私は何と言うだろう。多分、生徒たちを集めて、
「皆さん、皆さんがお喋《しやべ》りしている間に、これだけお勉強した人がいるんですよ」
と、ほめるにちがいない。としたら、黙って四重丸をもらったことは、そう狡いことでもなかったのだ、などと思ったりしたことだった。が、この後味の悪さが長くつづいたことは、私自身のためにはよいことであったように思う。
一年生の二学期であったろうか、三学期であったろうか、女子組の私たちのクラスに、男子の生徒が一列、つまり十幾人か机を持って入って来た。一年一組の生徒だった。一年一組の受け持ち教師の柴《しば》田《た》先生が、どこかに旅行したのだったろうか。あるいは病気であったのかも知れない。とにかく、受け持ちの先生が休むことになったので、生徒たちは分散して、他のクラスに預けられたのである。
それまでは女の子ばかりのクラスだったから、男の子の存在は珍しかった。男の子は活発に手を挙げ、成績もよかった。中でもOという子はずばぬけていた。言語が実に明《めい》晰《せき》だった。おでこが人より出ていて、かつ、広かった。いかにも頭のいい形だった。たいていの男の子は小《こ》倉《くら》服《ふく》を着ていた。中には、まだ絣《かすり》の着物を着ている子もいた。女の子も、全部が洋服とは限らなかった。私も風《か》邪《ぜ》を引いたりすると、綿入れの着物を着せられたものだった。そんな中で、Oだけは明るい紺サージの上下を着ていた。しかも半ズボンであった。上《うわ》靴《ぐつ》も、他の子供のようなズック靴ではなかったような気がする。
私はこのOに、いつも注目していた。Oが廊下に出て行く姿、入って来る姿、友だちと遊んでいる姿、それらをいまだに記憶しているところをみると、私は彼の姿を常時追っていたのかも知れない。
一年生は、まだ習字はなかったが、図画はあった。私の図画は毎回うしろの壁に貼《は》り出された。三輪昌子が、色も形も美しく描き上げて、私の隣にいつも貼られていた。五、六年生になって、私と昌子は放課後よく残されて図画を描いたものだ。それは、学校代表として、他校と競う展覧会に出品するためであった。
だから、多分受け持ちの渡辺先生にとっては、私の絵は見どころがあったのかも知れない。一年生の一番初めに描いた私の絵は、春の絵であった。その絵のことを、記憶力のいい母はよく覚えていて、よく私に言っていたから、私も忘れてはいない。一軒の家が描かれてあり、家の前の竹《たけ》籠《かご》の中に、雌《めん》鶏《どり》と雄《おん》鶏《どり》が餌《えさ》を突つき、ひよこが籠の外を駆けまわっている。黄や赤の花が家のめぐりに咲き乱れ、家のかたわらの物干しには、洗濯物が干されてあり、空には真っ赤な太陽が昇っていた。竹籠のそばにはおかっぱ頭の女の子が立っていた。
「あれは本当に春らしい図画だったよ」
母にほめられて、私は内心得意であった。
ところが、Oたち男性が同じクラスになって、図画が貼《は》り出されたことがあった。Oはつくづくと私の絵を見ていたが、腰板を片足で蹴《け》るようにして、
「なんだ、下《へ》手《た》くそな絵だなあ」
と、呆《あき》れたように言ったのである。私は言われて、改めて自分の絵を見た。私は生来不器用で、字も絵も、形を整えることは決して上手ではなかった。ただ、想画と呼ばれる場合には、私の想がいささか豊かであっただけなのだ。
私は、貼り出されているOの絵を探した。そして度《ど》胆《ぎも》をぬかれた。それは銀杏《いちよう》と紅葉の葉が二枚、形よく並んで描かれていたのだが、その形といい、色といい、大きさといい、一年生の絵とは思えぬ出来栄えだった。
(まるでお手本みたいだ!)
私は心から感《かん》歎《たん》した。彼が私の絵を下《へ》手《た》だと言ったのは、まことに当然に思われた。それは快い讃《さん》歎《たん》の思いであった。
私にはどうやら、優れたものに対する憧《あこが》れというものが、根強く心の中にあったのだと思う。優れたものの前には、一も二もなく脱帽する。そこには嫉《しつ》妬《と》の感情さえ頭をもたげる余地がなかった。とことん感動してしまうのである。六年間同じクラスであり、同じ女学校に進んだ三輪昌子に対する讃歎の思いも、これに似ていた。彼女の頬《ほお》はいつもバラ色で、整った目鼻立ちは雛《ひな》人《にん》形《ぎよう》のようであった。綿屋をしている彼女の家は、経済的にも豊かで、身なりも整っていた。漫画で描くと、ぴかっと光る線が描き添えられる美女のようであった。彼女に対する敬愛の情は、いまだに変わらない。が、優れたものに心を寄せるということは、本当はいいことなのか、どうか、それがわかったのは、のちのことである。
私が二年生になった時、私の家の隣に、同様に優秀な少年の一家が移って来た。一棟二戸の造りだから、床の間の向こうが隣の床の間、押入れの壁の向こうが隣家の押入れ、トイレの隣がトイレとなっていた。大きな声を出せば、すぐ聞こえるはずだが、この家は静かであった。標札には「前川友《とも》吉《きち》」とあった。物腰の上品な母と、無口でまじめそうな父親と、やや小生意気に見える長男正《ただし》、少し人なつっこい美喜子、まだ涎《よだれ》かけをしていた進、この五人の一家であった。正は私の二年上で、同じ大成小学校の四年生であった。美喜子は私より二歳下で、来年学校であった。進は数えで三歳ではなかったろうか。この家の長男正の黒いコールテンの服の胸に、赤い徽《き》章《しよう》がついていた。大成小学校では、赤い徽章は級長の印であり、緑の徽章は副級長の印であった。ふだん無口の私も、その徽章を見た時は、早速母に注進した。
「母ちゃん、母ちゃん、隣のお兄さん、級長だよ」
だが、母はあまり驚いた顔をしなかった。私にとっては驚くべきニュースだったが、私ほどに驚いた者はいなかった。私はすぐに、美喜子と仲よくなった。美喜子はいつも長い書き石(蝋《ろう》石《せき》)を持っていて、字や絵を地面に描いていた。進がよちよちと、美喜子にまつわりつくと、私は時折その進を膝《ひざ》に抱いた。母が、
「あの子はきっと丈夫になるよ。涎《よだれ》が多いから」
と、言ったことがある。それで、母の言葉を堅く信じて、進を抱きながら、
「あんた、きっと丈夫になるよ」
と、私はよく言い言いした。美喜子は、子供に似合わぬ大きな人柄の子であった。こだわりも屈託もなかった。ただ、遊んでいると、時に私の知らない言葉がぽんぽんと出た。
「あのね、羊飼いがね……」
「イエスさまがお生まれになったのは、ベツレヘムよ」
「ペテロさんがね……」
「マリヤさまは、きっときれいな人だったわ」
そんな言葉が、ふっと彼女の口から飛び出すのだ。と、私はたちまち、
(まだ学校にも行っていないのに、なんと物知りの子だろう)
と、すっかり崇拝してしまうのだった。その彼女が、ある日珍しく淋《さび》しげにこう言ったことがある。
「あのね、うちのお母さんは、ろくまくをしたから、はたきをかけられないの」
私は肋《ろく》膜《まく》がいかなる病気か、知らなかった。だが、子供でも持てるはたきを持てないとは、大変な病気だと思った。私は、母の体のことで心配したことは一度もなかった。母が臥《ふ》せるのはお産《さん》の時ぐらいのものだった。子供の私は、母のお腹《なか》が大きいか小さいか、気にしたことはなかった。どの子もわが家で出産したのだが、母はいつの間にか子供を生んでいた。妹の陽子が生まれた時も、私はただ赤ん坊が珍しくて、幾度も幾度も顔を眺めに行き、その頭をなでて、あまりの柔らかさにぎょっとしたことを覚えているぐらいのものである。だから、はたきも持てない美喜子の母の弱さが想像出来なかった。が、何か暗い気持ちになったことだけは覚えている。
ある時私は、正が妙なことをしているのを見た。大きめの茶筒に、玩具《おもちや》の手《て》桶《おけ》のように、手《て》蔓《づる》をつけ、水を入れ、ぐるぐる体ごと振りまわしているのだ、が、水は地面にこぼれなかった。
「綾ちゃん、どうして水がこぼれないか、わかるか」
日頃、正の眼中には私などなかった。彼には、私は二年下の無愛想な女の子に過ぎなかった。私は美喜子の友だちで、正の友だちではなかった。
「わからない」
私は頭を振った。
「わからないだろ。遠心力のためだよ」
正は得意そうに言い、再び茶筒をまわし始めた。
(えんしんりょく? えんしんりょくって、何だろう)
胸の中で、幾度か「えんしんりょく」と呟《つぶや》きながら、
(この人、少し威張っている)
と思ったものだった。それからどれほども経《た》たぬうちに、私は「少女倶《ク》楽《ラ》部《ブ》」か「少年倶楽部」か、どちらかの本で、遠心力という言葉にぶつかった。それは確か、「アイスクリームはどうして出来るか」という、「やさしい科学の頁《ページ》」とも言える頁で知ったのである。だが、その時も私は、正の顔を思って、
(生意気な人)
という印象を強めたのだった。にもかかわらず、赤い級長の徽《き》章《しよう》の威力のせいか、好きな美喜子の兄だというせいか、心の中に親しみが湧《わ》いてくるのを、どうすることも出来なかった。
その年のクリスマスの夜、私は美喜子に誘われて、生まれて初めて、キリスト教会の会堂に行った。日曜日の午前中、正と美喜子がよく二人で出かける姿を見たが、それがこの教会であったことも知った。古いが、広い教会堂だった。会堂の中には、ぎっしりと子供たちが詰めかけていた。私の目を奪ったのは、舞台左手のクリスマス・ツリーだった。絵本でしか見たことのないクリスマス・ツリーが、そこにきらびやかに飾られていた。当時、家庭でクリスマス・ツリーを飾ることは、ほとんどなかったから、これが私の見た初めてのクリスマス・ツリーということになる。
舞台の上では、五、六歳ぐらいの幼稚科の生徒が、むずかしい聖書の言葉をすらすらと暗《あん》誦《しよう》したり、少し大きな子は讃《さん》美《び》歌《か》をうたったり、ページェントがあったりした。どれもが学校の学芸会とはちがっていた。私は小学校のほかに、こんな楽しい所があるのを知らなかった。それは学校に似ていて、どこかちがっていた。学校よりも明るく、楽しく思われた。美喜子は、ページェントに羊飼い役で登場した。
「イエスさまが、ベツレヘムでお生まれになりました」
美喜子が時々言っていた言葉が、美喜子の口から出た。少し斜め上のほうを見上げた美喜子の表情は、ゆったりと落ちついていた。私は例によって、むやみやたらに感心した。その夜の会が終わる時、お祈りがあった。お祈りをしたのは美喜子の父親だった。私はその時、こんなに大勢の人の前でお祈りするのは、よほど偉い人にちがいないと、尊敬の念を覚えた。正も何かに出たようであったが、記憶に残っていない。この日以来、大人の言葉で言えば、
(前川家は、ただの家ではない)
という、畏《い》敬《けい》の念を私は持った。それはなぜか、所長の家に対する尊敬の念とは、どこかがちがっていた。
正月が過ぎた。正が、自分の家の横に雪の城を造っていた。軒まであるほどの、高い雪の城だ。竹の棒で、その雪の壁に小さな穴を幾つかつけ、それを窓とした。城の中には、雪《ゆき》礫《つぶて》が握り飯のように盛られてあった。その城の中に雪の椅《い》子《す》があった。
「その椅子にすわらせて」
私が言うと、
「駄目! ここは王女のすわる所だから」
にべもなく正は断った。この正が、二十年後、再び私の前に現れ、私をキリスト教に導き、命がけで愛してくれる人間になろうとは、夢にも思わぬことであった。
小学校二年生の秋の夜であったろうか。花電車が走るという。旭川の町の電車開通祝賀行事の一つであった。私は、花電車という名を聞いただけで、胸が躍った。わが家から最も近い電車の停留場は、五百メートルほど離れた所にあった。その時、私は母と母の妹のミヨ子叔母と三人で見に行った。母の背には赤ん坊が負われていたから、正確に言えば四人であった。イルミネーションと、造花に飾られた花電車というものを、群衆にまじって、私は息をつめて見つめたことを思い出す。が、この花電車見物の帰りに見たものは、花電車とは比較にならぬ強烈なものだった。
その停留場からわが家へ帰る道は、街の中とは思えぬほどに暗かった。最初の百メートルは、森閑とした中央小学校の横だった。街灯もあまりない頃だったから、真っ暗な学校のそばを通るのは、薄気味が悪かった。そこを通り過ぎると、木《こ》立《だ》ちに囲まれた旭川営林区署があって、木立ち越しに見える事務室に、ぼんやり電灯が点《つ》いているだけの、実に淋《さび》しい道だった。やがて左に折れると、旭川測候所があった。片側に人家があっても、門灯を点けている家はほとんどなかったから、ここもまた暗い夜道だった。
母とミヨ子叔母は、何か大切な話があるらしく、うつむいて、ゆっくりと歩きながら、二人は語り合っていた。私は叔母の袂《たもと》をしっかりと握りしめ、暗い測候所の敷地に目をやりながら歩いていた。この測候所の敷地は、昼は私たち子供の遊び場なのだ。柔らかい草が敷地を埋めていて、春には信じられないほど長い花《か》梗《こう》を持ったタンポポが、真っ黄色に敷地を埋める。そのタンポポで、私たち子供はレイを作って首にかけて遊ぶのだ。その敷地に接して、測候所の官舎や、土木現業所の官舎があった。と、突如、敷地と官舎の境に、異様な青い光がふわふわと、尾を引きながら流れているのを私は見た。家の軒ほどの高さだった。
(あっ! 火の玉だ!)
私はものも言えずに、火の玉をじっと目で追った。何かの本で見たことのある、あの火の玉の形であった。大人の頭よりも大きい火の玉を、私は声も立てずに見つめた。なぜあの時、その場で母や叔母に告げなかったのだろう。あのような時、子供というものは何も言えなくなるものなのだろうか。
測候所の敷地が尽きると、二、三十メートルの所にわが家があった。家に入っても、私は火の玉のことを誰にも言わなかった。口に出すさえ恐ろしかったからかも知れない。兄たちが、「二十《はたち》前に火の玉を見た者は、死ぬまでにもう一度見る」とよく言っていたことを、私は思い出した。布団の中に入ったあとも、私は恐ろしくて眠るどころではなかった。「火の玉は人の魂だ」と聞いたこともあって、体が震えてならなかった。美しい花電車の思い出は、こうして、火の玉を見た夜という形で、私の印象に残ることになった。
その翌日であったか、翌々日であったか、二《は》十《た》歳《ち》の長兄が、夜、外から帰って来るなり言った。
「母さん、俺《おれ》、今そこで、火の玉を見てきた」
「えっ!? 火の玉」
母が驚いて聞き返した。私は息をのんで兄を見た。
「うん、俺の歩いて行くほうに、青い火の玉がゆらゆらと飛んでいるんだ。尾を引いてな。あ! 火の玉だと思ったら、Kさんの家の前で、ぽっと消えてしまったんだ。Kさんの家に入ってしまったんかな。あそこの娘も、もう長いことないんでないかな」
Kさんの家には、長く病んでいる肺結核の娘がいた。美しい娘ということだったが、私は一度も見かけたことはなかった。兄の話を聞きながら、自分が火の玉を見た時よりも、もっと底恐ろしいものを私は感じた。自分が見た火の玉と兄の見た火の玉とは、同じだと思った。私の見た火の玉は、Kさんの家の軒のあたりに見えたのだ。この火の玉と関《かか》わりがあるのかどうか、Kさんの家の娘さんは、その後間もなく亡くなった。
胸を病むといえば、私の家の隣にも胸を病む少年がいた。少年といっても、十七歳のその人は、小学二年生の私から見るとすでに大人で、私は「隣のお兄さん」と呼んでいた。隣家は前庭のある一戸建ての大きな家で、奥の離室《はなれ》にその少年は病んでいた。白いレースのカーテンが絞られ、洋風の窓がいつも開け放たれてあった。六畳ほどの清潔なその部屋に、昭和の初めでは珍しいベッドを置き、少年は洗ったばかりのような、糊《のり》の利いた寝巻を着ていた。
その離室のそばに鶏小屋があった。十羽も飼われていたろうか。ぬき足さし足で歩く姿や、立ちどまって首をかしげ、仔《し》細《さい》ありげな仕草を見せる鶏の様子が楽しくて、時々はこべを摘んでは、私は鶏小屋に行った。金《かな》網《あみ》に手を突っこんで、はこべを投げてやると、素早く啄《ついば》む鶏がいる。必ず真っ先に飛びだして来るその鶏が、ひどく厚あつかましく、いやな鶏に思われた。そして、毎回他の鶏に後れて、私のはこべにありつけない鶏が、私の心を惹《ひ》いた。なるべくその鶏にやりたくて、そのほうに投げてやっても、素早く飛んで来る鶏にはかなわなかった。その動きの遅い鶏が、なぜか、「隣のお兄さん」に、似ているような感じを抱かせた。
鶏を見たあとは、私は必ず「隣のお兄さん」の窓をのぞきこんだ。色白で、目の細いその少年は、いつもおだやかな笑顔を浮かべていた。私は一度だって、その少年が不機嫌だったり、いら立ったり、わがままを言ったり、乱暴な言葉を使っているのを見たことはなかった。金持ちの息子にはちがいないのだが、そんな奢《おご》りは片《へん》鱗《りん》もなかった。「隣のお兄さん」は、私を見ると、必ず学校の勉強のことを聞いた。読み方は今日どこを習ったか、算術は何を習ったか、と尋ねた。私はこんな年上の人から、学校の勉強のことを聞かれたことはなかった。小さな子供という扱いではなくて、対等の言い方でいつも話しかけられた。この人と話したあとは、私の心はなぜか不思議なもので満たされた。それは宗教的な愛のようなものであった。この少年も、私が三年生にならぬうちに死んだように記憶している。のちに、教会に通うようになった時、天使は「隣のお兄さん」のような顔をしているのではないかと思ったものだった。
私が二年生を終えた頃、隣家の前川正《ただし》の一家が、僅《わず》か一年で引っ越して行った。五丁ほど離れた、宗谷本線の走る鉄道の近くに移って行った。
別れる時、美喜子は私に折紙を一束くれた。正は黙って私を見たまま、何も言わなかった。やはり私など眼中になかったのだろうか。私にしても、正にしても、お互いにゆきずりの者に過ぎなかった。馬車に家財道具を載せて、正の一家は遠ざかって行った。一年間、前川家の隣に住んだということが、私の人生を大きく変えることになるなどとは、想像も出来ぬ別れであった。
小学校三年生になった。受け持ちは一年生の時以来の渡辺ミサオ先生であった。三年生になって、初めて級長選挙をすることになった。
私は不意に自分が級長になるような胸《むな》騒《さわ》ぎを感じた。友達の言葉や態度で、そう思ったのかも知れない。家に帰るなり、私は母に言った。
「母ちゃん、綾子ねえ、もしかしたら、級長になるかも知れないよ」
思い切って言ったのだが、母は言った。
「お前がかい」
なるはずがないよという母の語調だった。その母の顔を見た途端、私はにわかに便意を催して厠《かわや》に駆けこんだ。母の言うとおり、私が級長になるわけはないような気がした。字は汚い。服装はかまわない。むっつり屋で、めったに口をきかない。そうは思ったが、
(でも、なるかも知れない。なったらどうしよう)
と、厠に屈《かが》まりながらも、不安でならなかった。私と似た成績の生徒は三、四人はいた。にもかかわらず、予感通り私が級長になってしまった。三兄の都志夫が、
「何だ、堀《ほつ》田《た》の家にも、お前みたいな出来そこないがいるんか」
と、ひやかした。中学三年生であった兄のこの言葉が、なぜか私にはあたたかくひびいた。
(もしかしたら、本当に出来そこないかも知れないわ)
そんな素直な気持ちになったのを覚えている。
三年生のその年は、事が多かった。五月の桜も過ぎたころであった。正確には五月二十七日ではなかったかと思う。真夏を思わせる暑い日であった。まだ日の高いうちに、見《み》馴《な》れぬ男が二人、父を訪ねて来た。父はその二人を見ると、機嫌よく茶の間に請《しよう》じ入れ、早速酒の用意を母に命じた。二人の男は、来た時すでに酒気を帯びていた。突《とつ》拍《ぴよう》子《し》もない大きな声で笑ったり、話したりする様子が、すでにただならなかった。
私の父は新聞社の営業部長をしていたから、時々職工たちが遊びに来ることはあったが、このいかつい二人の男には見覚えがなかった。私は何か不安になって、路地に出た。と、二人の男も外に出て、立ち小便を始めた。男の一人が言った。
「いいか、俺《おれ》がこう立ち上がったら、やるんだぞ」
「ようし、わかった」
何のことを言っているのかわからなかったが、何かが起こりそうな気配だった。
男たちが再び家に入るや否や、大声がした。思わず裏口から中をのぞくと、男たちが父を組み伏せていた。
(父ちゃんが殺される!)
体ががたがたと震えた。父がどのようにして二人から逃れたか、私は知らない。父は路地に駆け出て、隣家の裏口に飛びこんだ。私は隣家の庭の木《こ》陰《かげ》に屈みこんで、父が見つからないようにとねがった。が、男たちも父を追って隣家の裏口に飛びこんで行った。父が隣家の玄関から裸《はだ》足《し》のまま飛び出して来た。男たちがあとにつづいた。どこでどうしたのか、三人の手にはそれぞれ刃物が握られていた。父は出《で》刃《ば》庖《ぼう》丁《ちよう》を逆《さか》手《て》に油断なく身構えた。私のすぐ前に、男たちの背があった。私は小石を拾った。男たちの背に投げつけようと思ったのだ。が、手が動かなかった。いや、体もすくんで動けなくなった。騒ぎがどのようにして収まったか、すくんでしまった私にはわからない。あとで聞いたところによると、折よく柔道部の猛《も》者《さ》である都志夫兄が帰って来て、先ず男の一人の利き腕を捩《ね》じ上げ、おさえこんだ。長兄は、事が始まった途端に家を飛び出し、約一キロ離れた交番まで急を告げに走り、警察も駆けつけて騒ぎは終わったということだった。電話など普及していなかった頃である。
男たちは他の新聞社の工場の者であった。幾日か前、父の社が神楽《かぐら》岡《おか》公園で花見の宴を張った。そこへこの二人が顔を出し、酒をねだった。が、その時の振《ふる》舞《まい》酒《ざけ》が少なかったらしい。それを根に持って、営業部長の父のところに因縁いんねんをつけに来たのである。
事件後、しばらく父は頭に繃《ほう》帯《たい》を巻いていた。幾日も母がその繃帯を取り替えていたのを覚えている。男の一人は一、二年刑務所に入ったと聞いた。私が以前に、お姫さまの住む御殿と思ったあの刑務所に入ったわけである。
この事件があるまで、私は父を、自分の父として切実に考えたことがなかった。二人の男を相手に、父が出刃庖丁を手に応戦した時、私は石を投げつけようとした。投げつける勇気はなかったが、その切実な父への思いは、生まれて初めて体験した感情であった。
翌日は私たちの小学校の運動会であった。級長になったばかりの私は、街の中を行進して、常磐《ときわ》公園のグラウンドに至るまでの間、一キロ以上の道を、クラスの先頭に立って歩いた。グラウンドに着くと、号令もかけなければならなかった。父の事件がなければ、楽しい運動会のはずであった。
天は晴れたり 地は緑
秀《しゆう》嶺《れい》高く輝きて 太陽空を駆くる時
わが健脚は 地に躍る
二千人の児童がうたう応援歌がグラウンド一杯にひびく。だが私の心は弾まなかった。刃物をふりまわしての乱闘はショックであった。級友たちの楽しそうな顔を見ると、自分と級友との間に、いっそう大きな差のあるのを私は感じた。
(綾子は不幸だわ)
私はこの時、不幸ということを初めて意識した。晴れ上がった五月の空さえ、ひどく淋《さび》しく思われた。級友を見る私の心の中に、
(あんたがたには、なやみがなくていいわね)
と、言いたいような、大人っぽい感情が芽生えたのもこの時であった。
10
それから間もなく、級友の石原寿みに、
「堀田さん、あんたも教会に行ってみない?」
と誘われた。
「教会?」
教会といえば、前川美喜子に誘われて、その前の年のクリスマス祝会に、私は行っていた。が、教会という所は、特別の人が集まっているようで、何の関係もない者の行ける所ではないと、最初から思っていた。
「イーちゃん、あんた教会に行ってるの?」
「行ってるよ。石川さんのスミちゃんも行ってるよ」
石原寿《す》みはこともなげに言った。石原寿みは学校の近くの司法書士の娘で、運動神経の発達した明るい子供だった。いわゆるクラスの人気者で、受け持ちの教師にもよくなついていた。私が一年生に入学した時、私と席を並べたのが、この石原寿みであった。
私たちのグループは七、八人いて、お互いに、苗《みよう》字《じ》の頭一字の音を取り、石原寿みは「イーちゃん」、三輪昌子は「ミーちゃん」、山口文江は「ヤーちゃん」というふうに呼び合っていた。ある時、受け持ちの渡辺ミサオ先生に、
「あんたがた、芸者さんみたいな呼び方をするのね」
と、言われて、私たちはきょとんとした。そこで初めて、芸者が客を「ヤーさん」とか「ミーさん」と呼んでいることを知った。が、その呼び方をいまだに変えてはいない。私はしかし、「ホーちゃん」ではなく、「堀田さん」か「綾ちゃん」と呼ばれた。
教会に誘われた私は、早速母に、教会に行ってもよいかと尋ねた。母は即座に許可してくれた。日曜日に、上《うわ》靴《ぐつ》をぶら下げて教会に行くというのは、ひどく新鮮な喜びであった。
(日曜日に学校に行けるなんて……)
学校が好きな私は、日曜日も休まずに何か学べることに喜びを感じた。が、何より私が教会に足を向けたのは、日曜日に家にいることがいやだったからである。雨の日曜日など、狭いわが家は男のきょうだいたちが取っ組み合ったりして、実に殺伐であった。二十一歳の長兄を頭《かしら》に、十九、十六と男がつづき、十三の姉と十歳の私が女で、八歳、五歳と、また男がつづく。数え二つの妹陽子が、その男の子たちのドタバタ騒ぎの中で、よく踏みつぶされなかったものだと、今にして思う。とにかく私は日曜日のわが家は嫌いだった。
教会は私の家から約六百メートルほどの所にあった。高い階段を真正面から二階に上がると礼拝堂のドアがあった。日曜学校の入口はその階段の下にあって、一階だった。洋風の瀟《しよう》洒《しや》なその建物に入れるだけでも、うれしいことだった。日曜学校の三年生の受け持ちは大《おお》槻《つき》博子先生といった。細《ほそ》面《おもて》の、どこか淋《さび》しげな、美しい人だった。母の妹ミヨ子叔母と女学校同級で、十九歳ということを、間もなくミヨ子叔母に聞いて知った。三年生のクラスは十人ほどであった。小学校と日曜学校の相違は様々あった。男女が一クラスになっていることもその一つだった。上《かみ》村《むら》という大柄な男の子がいた。目がくるりとして、賢そうであった。胸に紫の徽《き》章《しよう》をつけていた。私も赤い級長の徽章をつけていた。大槻先生がその二人の徽章を見ながら言った言葉が忘れられない。
「級長になったからといって、決して威張ったりしてはいけませんよ。イエスさまは、威張ることが大嫌いですからね」
私は深くうなずいた。日曜学校という所は、こういうことを教えるのかと思った。この日曜学校は、日曜以外の日は幼稚園として使われていた。そのためか、小ホールには遊具がいろいろあった。大きな積木、輪投げなど数々あったが、最も私の関心を引いたのは、組み立て式の家だった。赤と緑のペンキを塗ったその家には窓があり、小さな玄関があった。日曜学校の始業時間まで子供たちはこの玩具《おもちや》の家に入ったりして、飽かずに遊んだものだ。童話の国に遊ぶにも似た楽しいひとときだった。
日曜学校と小学校のちがいに、ノートのないこともあった。時間も短く、一時間しかなかった。私はそこで聖書の話を聞き、讃《さん》美《び》歌《か》を習った。最も好きな讃美歌は、
イエスさま イエスさま
わたくしたちを あなたの
よい子にしてください
という歌だった。この讃美歌をうたうと、ひどく心が素直になった。小学校唱歌にはない何かを、私はその讃美歌に感じた。いや、日曜学校には小学校にないものばかりあった。お祈りもその一つであった。私はお祈りも好きだった。手を組んで、大槻先生のお祈りの言葉を聞く時、まさしくそこには、今まで知らなかった世界があった。先生は、病気で休んだ子供のことやよその国の子供のことまで、よく祈った。この先生は、あとで知ったことだが、私たちを教えた一、二年後、肺結核で死んでいった。神に従うことを、何にもまして喜ぶ先生であったらしい。病気になった時は、
「病気になって、教会に何もお手伝い出来なくなりましたことをお詫《わ》びします」
と、繰り返し祈ったという。が、先生は遂に癒《い》えることはなかった。臨終に集まった人々の前で、大槻先生はきちんと胸の上に手を組み、はっきりとした口《く》調《ちよう》で神に感謝の祈りを捧《ささ》げた。「これが最後のお祈りです」と、終えてその一分後に、先生は天に召されたのである。
今から何年か前、私は大槻先生の臨終の祈りを読んだ。そしてその純な信仰に深く心を打たれた。私が生まれて初めて学んだキリスト教の教師は、かくも祈り深い人であったのか、この先生の祈りも神に聞かれて、私はキリストを信ずるに至り得たのかと、深い感謝を覚えたのであった。
日曜学校の生徒たちは、母の日には花束を持って、近くの病院に見舞いに行った。そして、声を揃《そろ》えて讃《さん》美《び》歌《か》をうたった。日曜学校には運動会もあった。緑の美しい翠《すい》光《こう》園《えん》という小公園で玉投げをしたり、徒競走をしたりした。小学校では一度も等に入ったことのない私が、日曜学校では鉛筆やノートを賞品にもらった。多分、参加者全部に賞品が与えられたのだろう。先生は叱《しか》るものだと思っていたが、叱ることはほとんどなかった。石原寿みなどと一緒に先生の家に遊びに行くと、十銭のミルク・キャラメルを、一人に一箱ずつくれた。私はもらってよいかどうか、ためらった。十銭の箱の大箱である。私はいまだかつて、十銭のキャラメルを誰からももらったことがなかったのである。
私にとって、教会の日曜学校というところは、光り眩《まばゆ》い緑の芝生に遊んでいるような、そんな心地よいところであった。だが、この心地よい日曜学校に、なぜか私は一年しか通わなかった。
日曜学校のことで、言い忘れたことが一つある。それは上村少年の話である。私が上村少年を見ると、必ず彼は私を見つめていた。そう思うほど、二人の視線はよくかち合った。ある日曜日の朝、私は誰よりも早く日曜学校に行って、玩具《おもちや》の家を組み立て、その家の中に入って満足感に浸っていた。と、小さな戸があいて、上村少年が入って来た。私が一人中にいるのを見て、彼ははっとしたようだったが、たちまちその顔が赤くなった。そして、出て行こうか行くまいかと、迷うふうであったが、そのどちらにも決めかねたのか、じっと私を見つめた。私も面《おも》映《は》ゆかったが、瞬きもせずに彼を見つめた。それは決して長い時間ではなかったと思うのだが、どうしたわけか、彼は突如としてワッと泣き出してしまった。驚いた私は、ますます彼をしっかりと見つめた。彼はとうとう玩具の家を飛び出して行った。
いったい、あの時彼はなぜ泣いたのだろう。私にはわけのわからぬことだったが、大人になって、ようやく思い当たることがあった。私が上村少年を見つめた時、彼は咎《とが》められたと思ったのかも知れない。私としては、決して咎めるつもりも、嫌うつもりもなかったが、私は生来無愛想な子供だったのだ。今でも視線は強いが、子供の時の視線には容赦のない強さがあったようだ。私は長兄の道夫に、子供の頃よく殴られたものである。なぜ殴られたか。
「そんなに人の顔を見るな」
私を殴る時、兄は必ずそう言った。その兄を更に見つめて、またまた拳《げん》骨《こつ》をもらった。一年から六年まで受け持ってくださった渡辺ミサオ先生は、今でもおっしゃる。
「堀田さんは何だか恐ろしい生徒だった」
と。
女学校時代の歴史の教師藤《ふじ》界《くに》雄《お》先生は、授業時間の初めには必ずえんま帳をひらいて、前回に習ったことについて、数人に指名した。みんなは戦《せん》々《せん》兢《きよう》々《きよう》としていたが、私は習っていた二年間、一度も指名されたことはなかった。卒業後の同窓会で、なぜ私に指名なさらなかったかと尋ねたら、
「あんたは恐ろしくて、指名出来なかった」
と、苦笑された。私は教室で大声を出して暴れたり、喚《わめ》いたりする生徒ではなかったが、視線の強い子供だったのだ。
小さな玩具の家の中で、じっと見つめられた上村少年は、私の鋭い視線に耐えかねて、恐怖のあまり泣き出してしまったのではないか。そう納得すると、彼の涙がわかって思わず笑ってしまうのだが、あの第二次大戦を彼は生きのびたかどうか、日曜学校をやめて以来、会ったことはない。
人《ひと》魂《だま》を見たとか、教会に行ってイエス・キリストの話を聞いたとか、そんなことが私の心にどんな影を落としたのか、私はしきりに死が気にかかる子供となった。
ある夜、私は、人間はなぜ死ぬのだろうかと、極めて思いつめた気持ちで考えたことがある。死がどんなことかわからないながら、この世から自分が影も形もなくなるということが、何としても承服出来なかった。この初歩的な死への疑問、それはいまだに私の思いの中にあって、ずいぶんといつまでも幼いものの考え方をするものだと思うのだが、それはともかく、私は本当に死について、言い難い不安を子供心に感じたのだった。私はそれまで、まだ一度も死人を見たことがなかった。死ぬということが、具体的にどんなことか、まだわからなかった。にもかかわらず、死について、寝もやらずに考えたのは、いったいなぜであったのだろう。あの、青く尾を引いて飛んでいた火の玉が、本当に人の魂というものならば、死人から離れた人《ひと》魂《だま》はどこへ飛んでいくのだろう。いや、あの人魂がどこから飛んで来て、あのKさんの家の娘さんに入ったのだろう。私の魂も、どこから来てどこへ行くのだろう。いくら考えてもわからぬことを、私は繰り返し繰り返し考えつづけた。そして私なりに一つの結論を持ったのである。それは、
「人はみな死ぬかも知れない。しかし、綾子だけは絶対に死なない」
幼い頭で、真剣に考えたこの結論は、あまりにも幼稚かも知れない。が、私はこの幼稚な結論に安心して眠ったのである。今になって考えてみると、この結論は幼稚だが、宗教が言うところの「永遠の命」の本筋からそれほど外れてはいないような気がする。永遠の命に発展する宗教的希求が、小学三年生の私の胸に宿ったということでもあろうか。私はその頃から、一つの祈りの言葉を持っていた。
「どうぞ神さま、仏さま、私を助けてください」
という、甚だ奇妙な祈りであった。歩いていても、銭湯に入っていても、授業時間中でも、時々ひょいとこう祈った。それは、腹痛の時であったり、何となく心の晴れない時であったり、状況は様々だったが、祈るとすっかり安心した。
こんな私が、何のきっかけからか、禅寺の日曜学校に行くことになったのである。この日曜学校には、同じクラスの山田澄子が行っていた。彼女は「スーちゃん」と呼ばれ、同じグループの一人だった。だから、もしかしたら私は「スーちゃん」に誘われたのかも知れない。
私は教会よりも、お寺により心が惹《ひ》かれた。その第一に、日曜ごとに遊戯を教えてくれることがあった。
見せ物小屋の 小《お》父《じ》さんが
しょっぱい声を 張り上げて
とんと落とした からくりは
お江戸日本橋 七つ橋
……
という歌や、
おうち忘れた 小ひばりは
広い畠《はたけ》の 麦の中
母さん尋ねて 泣いたけど
風に穂麦が 鳴るばかり
などという歌に、ふりつけをして教えてくれるのは、二十代の若い男の先生だった。小柄だが実にしなやかな体で、飛び上がると中空までも飛んで行きそうな、そんな感じの軽《かろ》やかな人でもあった。
広い本堂に生徒がたくさんいて、キリスト教の日曜学校とは全くちがった零囲気だった。清い、朝日の射しこむようなキリスト教の日曜学校と、熱気あふれる陽気な禅寺の日曜学校は対照的であった。
「南《な》無《む》大《だい》音《おん》経《きよう》釈《しや》迦《か》牟《む》尼《に》仏《ぶつ》」
という称名を覚えた時はうれしかった。歌や踊りもそうであったが、お経も学校では習わないものであった。弟の鉄夫も、寺の日曜学校に来ていて、爆弾三勇士の劇に出ていたのを記憶しているから、いつの間にか私に引っぱられて通っていたのだろう。花祭りには、実物大以上の白い大きな象の縫いぐるみの腹の下の、花の御《み》堂《どう》に置かれた釈迦の像が、台車に曳《ひ》かれて街を練り歩き、うしろには白粉《おしろい》をつけて着飾った稚児や、私たち日曜学校の生徒の行列がつづいた。ふつう四月八日が花祭りだが、北国の旭川の花祭りは五月八日だった。
「お寺の日曜学校の花祭りがありますから、早引けさせてください」
私と山田澄子は、あたかも当然の権利を行使するかのように、渡辺先生に早引けを申し出た。昼食をすませたあとだった。
「あら、今日が花祭り? お天気がよくてよかったわね」
先生はあっさりと、早引けを許してくれた。
昔も昔 三千年
花咲き匂《にお》う 春八日
響き渡った ひと声は
天にも地にも われひとり
この日のために練習した歌をうたいながら、私たち日曜学校の生徒たちは、白い象のあとに、メイン・ストリートを公園まで、千二、三百メートルを歩いた。私にはこの花祭りの歌が、実に興味深かった。特に二番目が私の心を捉《とら》えた。
立派な国に 生まれ出で
富も位も ありながら
一人お城を ぬけいでて
山にこもれる 十余年
どうして、金持ちであり王子でありながら、何もかも捨てて家を出たのだろう。お釈迦さまという人は、何と不思議な人だろう。私の目に、山の中にじっと坐って瞑《めい》想《そう》している釈迦の姿が浮かんだ。どうして城の中で考えることが出来なかったのか。広いお城の中だから、静かなお部屋もあったろうに……などと、子供らしい問いを先生に発したこともあった。
この前年、満《まん》洲《しゆう》事変が勃《ぼつ》発《ぱつ》した。その事変で戦没した者の大《だい》供《く》養《よう》が、お寺の本堂で行われた。市長をはじめ、偉い人たちが、その法要に参会したが、その時日曜学校の生徒たちは、僧《そう》侶《りよ》たちと共に、一段高い所に坐らされた。つまり、市長たちより高い所に生徒たちは坐ったのである。私はこの時、なぜ日曜学校の生徒を一段高い所に坐らせたのか、疑問には思ったが、しかし何かわかる気もした。言葉には言い表すことは出来ないが、
(ああ、そういうものなのか)
という思いがあったのを覚えている。
11
禅寺の日曜学校というと、楽しくうたったり踊ったりすることが多かったのに、それ以上に、私の心の中に、はっきりと印象づけられている情景がある。私がそこへ紛れこんだのは、友だちとかくれんぼをしていた時だった。みんなは本堂の太い柱の陰に隠れたり、儀式の時に僧《そう》侶《りよ》が坐る大きな椅《い》子《す》の陰に隠れたりした。が、私が紛れこんだのは本堂の裏だった。本堂の裏には廊下があって、その廊下の両側には、何と骨《こつ》箱《ばこ》がずらりと並んでいたのである。並ぶというより、積み上げられていたといったほうがいい。うす汚れた白布に包まれた骨箱のひしめく様は、実に異様だった。ところどころに仏像が立っていた。仏像が立っているために、骨箱の山がいっそう侘《わび》しいものに見えた。私はしかし、すぐに本堂のほうに駆け戻りはしなかった。何かひどくむなしい思いが私を襲った。
(みんな死んだんだ。死んだ人ばかりだわ。もとは生きていたはずなのに)
私は何かやりきれない気がした。私はそれまで、こんなにもたくさんの骨箱を見たことがなかった。ここはまさに、死に取り囲まれた場所であった。じっとそこに立っていると、どの骨箱からも細い手がひょいと伸びて、私の襟首をつかみそうな無気味さがあった。そこで初めて私は、みんなの遊んでいる本堂に、一目散に駆けこんだのだった。本堂には子どもたちがわいわい騒いでいて、今見た骨箱の世界とは、正反対の世界であった。
その後私は、日曜学校に行くたびに、この本堂の裏手にそっと足を踏み入れずにはいられなかった。この無気味さに、なぜか私は心《こころ》惹《ひ》かれたのである。
(人間は死ぬ、人間は死ぬ)
自分だけは決して死なないと、安心していた私の幼い心をゆさぶるものが、ここにはあった。私は、人が死ぬことを確かめるために、この骨箱の山を見に行ったのだろうか。それとも、ただ怖いもの見たさに、骨箱を眺めに行ったのだろうか。キリスト教会にはなかった、暗く澱《よど》んだ世界を、しかし私は全く避けようとはしなかった。日曜ごとに聞いた法話は忘れたが、この骨箱の山が私に与えた影響は、決して小さくはなかった。
ついでながら、禅寺の日曜学校で覚えたいくつかの言葉に触れておく。私は「深《み》山《やま》」という言葉を覚えた。「深山」を深い山と書くことは、模造紙に書かれた仏教の歌で知った。「法」を「のり」と読むことも、その頃知った。どちらも心惹かれる言葉であった。その二つの言葉は、日常の私たちの生活の中には決して出てくる言葉ではなかった。大人になっても、ほとんど使うことのない言葉だということは後で知ったが、子供の直感は、これらの言葉にこもる思想を嗅《か》ぎ当てていたような気がする。そうした無形のものを、キリスト教にせよ仏教にせよ、与えていたのではなかろうか。
が、それらにもまして強烈な言葉を私は知った。「生《しよう》者《じや》必《ひつ》滅《めつ》会《え》者《しや》定《じよう》離《り》」という言葉である。生まれた者は必ず死に、会った者は必ず別れる、という説明を聞いて、私は骨箱の山を思った。それがこの世の定めであるということに、抗《あらが》えぬものを、幼いなりに私は感じた。
その前の小学三年の年、私はいくつかの別れに出会っていた。まず、三月に前川正の一家と別れた。向かいにいた稲辺芳子の一家も、郊外に家を建てて移って行った。土木現業所の町《まち》田《だ》所長の一家も転勤して行ったし、郵便局員のための下宿をしていた、渡辺久江の家も移って行き、大きなその家はいくつかに分断されて、幾家族かが住むようになった。「隣のお兄さん」は死に、その一家もまた、どこかへ移って行った。そして更に、小学校の多くの級友と別れたのである。まさに「会者定離」の年であった。多くの級友と一挙に別れたのには理由があった。
私の通っていた大《たい》成《せい》小学校は、近くの中央小学校と共に、生徒の数が次第に増えていた。一クラス六十人で、一学年六学級であった。高等科は全部で八クラスあって、全校生徒数は二千人をはるかに超えていた。そこで大成小学校から七、八百メートル離れた所に日《につ》新《しん》小学校が新設され、大成小学校は一学年六クラスが四クラスに編成替えされることになった。つまり、一学年二学級、全校十学級以上が新設校に移って行くことになったのである。その別れの日は、一学期の最後の日と決められたようであった。
別れの日が決まると、私たちのクラスでは送別会の相談が持たれた。受け持ちの先生は、全くこのことにタッチしなかった。送別会のプログラムも、遊戯のふりつけも、劇の脚本も、小道具や衣《い》裳《しよう》の考案も、すべて三年生の自分たちの手に委まかされていたのである。別れることは淋《さび》しかったが、幸い私たちのグループからは一人も移って行く者はいなかった。仲よしの、三輪昌子も、石原寿《す》みも、野口千代も、山田澄子も、海《うん》野《の》セツも三条通り以北に住んでいたからである。
級長であるということで、私はこの送別会の中心にならなければならなかった。幸い、積極的な子供たちが多かったから、誰もが、この送別会を思い出深いものにしようと、熱心に練習した。練習の場は、海野セツの家だった。海野セツは、非常に体がしなやかで、ダンスのうまさは天才的であった。街を歩きながら、ステップを踏んでいる姿を、私はよく見かけたものである。彼女の父は、どうやら設計士であったようだ。きれいに設計された図面を、日光にさらして複写していたのを覚えている。恰《かつ》幅《ぷく》のいい彼女の母親は、その体格のように気持ちが大きくて、連日集まって練習する私たちに、いやな顔ひとつ見せたことはなかった。私たちは思いつくままに、彼女の家の風《ふ》呂《ろ》敷《しき》やシーツを借りて、劇の衣裳としたりした。
三年生としては、かなり盛りだくさんのプログラムとなったが、しかし、会は必ずしも盛り上がったとは言えなかった。送る者は、一年生からの受け持ちの渡辺先生がそのまま大成小学校に残ることで喜んでいたが、受け持ち教師や友だち、そして懐かしい校舎と別れねばならない級友たちは、ともすれば気が落ちこんでいく様子だった。机の上に涙をこぼしていた高田百《ゆ》合《り》子《こ》という優しい友の姿が、今も忘れられない。送る側と送られる側に、別離の情に段差があった。私は高田百合子の姿を見た時、自分はずいぶん冷淡だと思ったのを覚えている。私には、送別会を無事終了させることばかりに気持ちがいっていて、心から別れを惜しむという気持ちがなかったのであった。
ただ、この送別会で忘れられないのは、私が「羽衣」の劇の漁師になったことである。教科書に「羽衣」の教材があって、脚本を作るのにそう苦労はしなかった。私がこれを選んだのは、実に深くこの物語に打たれていたからだった。漁師が浜べで天《てん》女《によ》の羽衣を拾う。持って帰って家の宝にしようと思う。そこに天女が現れて、羽衣を返してくれと言う。その様子があまりに哀れなので、漁師は羽衣を返そうとする。が、漁師は天女の舞を一度でもよいから見たかった。舞ってくれるなら返すと漁師は言った。天女は、羽衣がなければ舞えないと言う。
「しかし、羽衣を返したら、舞を舞わずにそのまま天にお帰りになることでしょう」
漁師が言うと、
「天人は嘘《うそ》を申しません」
と、天女は答える。漁師は顔を赤らめて、
「ああ、恥ずかしいことを申しました」
と、羽衣を天女に返す。私はその漁師の、「ああ恥ずかしいことを申しました」という言葉に、いたく心打たれた。私はそれまで、恥ずかしいということが、こんな内容を持っているものとは思わなかった。人の前でものを言うのが恥ずかしいと言う友がいる。麦飯の弁当を人に見られるのが恥ずかしいと言って、隠して食べる生徒がいる。私も麦飯を持って学校に行ったが、一度として恥ずかしいと思ったことはなかった。人の前で話をすることも、さほど恥ずかしくはなかった。そんな私には、可愛《かわい》さはなかったと思う。恥ずかしがらない自分を、自分でも不思議に思うことが度々あった。
その私が、この漁師の言葉、「ああ恥ずかしいことを申しました」が、実によくわかったのである。恥ずかしいとは、こういうことを指すのか。「天人は嘘を申しません」と天女が言った時、漁師がたまらない思いになったのが、三年生の私なりにわかった。人間の世界では、人を疑うことも嘘をいうこともざらにある。その、ざらにある思いのまま、漁師は天女を疑ったのである。「天人は嘘を申しません」という言葉に、漁師は人間の醜さを知らされてしまったのだ。私は、この漁師が恥ずかしいと感じたことに心打たれた。この漁師も、かなり心がきれいだと思った。数多くの人間の中で、この漁師だけが天女に会えたのは、当然なのだと思いもした。
この別れの会で、涙をこぼしたかどうか、私自身のことは忘れた。が、二学期になって、私は大事な友だちの一人がいないことに気づいた。それは小島友子だった。小島友子は大柄で、頬《ほお》のふっくらとした、静かな感じの子供だった。日本人形のような髪型がよく似合っていた。成績もよかった。彼女の家は、前川正のいた家の二軒おいた隣にあった。確かローソク工場と、もう一つ何かの仕事をしている家で、お屋敷とも言っていいほどの大きな家だった。お手伝いが三人もいて、彼女はお嬢さんだった。何の不自由もなかった。優しいお姉さんもいた。この家に、一度に不幸が襲ってきたのである。彼女の姉が死に、幾日も経《た》たぬうちに母親が急死した。父親はすでに一月に死んでいたから、彼女は三人の弟と共に孤児となってしまった。
こうして彼女は京都の祖父母の家に引き取られて行ったのである。夏休み中の出来事であった。仲がよかっただけに、私は初めて、この時友のために流す辛《つら》い涙のあることを知った。去った彼女からは何の便りもなかった。小島友子のその後に対する私の心配は、絶えることなくつづいた。女学校の頃は、私は文学少女のような想像で、彼女は京の舞《まい》妓《こ》になったのではないかと案じたりした。別れてから二十年近く経って、彼女は旭川に戻って来たのだが、その日まで私の心から去ることはなかったほどに、彼女の不幸は私の心を痛めつづけた。旭川に戻った彼女は、かつての小島友子とは思えぬほどに、雨風に鍛えられた強い女性に成長していた。それはともかく、小島友子との別れこそ「生《しよう》者《じや》必《ひつ》滅《めつ》会《え》者《しや》定《じよう》離《り》」を実感させる別れであった。
12
別れがあれば出会いもある。大好きな渡辺久江がどこかへ移って行ったが、その家屋に何戸かの家族が移って来たことは、先に書いた。その一戸に中国人の家族があった。わが家から三軒おいて隣である。私の記憶では親子四人のように思うのだが、これには誤りがあるかも知れない。美男で愛想のよい父親、眉《まゆ》根《ね》に太い皺《しわ》をよせて、朝から晩まで子供をがみがみ叱《しか》っていた母親、父親似の、目のぱっちりとした、愛《あい》嬌《きよう》のある十五、六の娘、尻《しり》を割った仕立てのズボンから、ちらちら尻を見せ、いつも泣き喚《わめ》いていた五歳ぐらいの男の子、その四人家族であったと思う。父親は裾《すそ》の長いチャイナ服を着、洋服布地を唐草模様の風《ふ》呂《ろ》敷《しき》に包んで、スキーでも担ぐように肩に担ぎ、毎朝家を出た。父親が出て行くと、すぐさま男の子が外に飛び出し、纏《*てん》足《そく》の小さな足で母親が、棒を持って子供のあとを追いかける。長く編んだお下げ髪を肩まで垂らした娘が、それをにこにこ笑って見ている。そんな光景が幾度となく展開された。
言ってみれば、この一家が私の見た初めての異国人であった。この一家が移って来て、近所の人々の視線が、ともすればその家に集まったが、それは好意的な視線であったように子供心に感じた。父と娘が笑顔を絶やさなかったし、男の子の尻の割れたズボン姿も、よちよちと追っかけまわす纏足の母親の姿も、どこかユーモラスであったから、からりとした印象を与えた。時々、あぐらをかいて食事をしている母娘の姿を窓に見て、初めのうちは驚きであったが、見《み》馴《な》れてくると、誰に教えられなくても、それが慣習の相違だということを、自然に納得したものだった。
この一家の隣に、高橋という家が移って来た。大工の家だった。そこに父親や母親がいたのかどうか、記憶にない。清潔な感じの、映画にでも出て来そうな、いなせな若い大工さんと、その弟の栄次郎という小学校高等科二年生の少年がいた。高等科二年だから、数えで十五歳、満で十四歳そこそこのはずだが、当時小学三年生であった私には「隣のお兄さん」同様、はるかに年上に思われた。この栄次郎少年は、私がこの年までに見た、最も優れた性格の少年であったように思う。この栄次郎少年を、近所の子供たちは、「栄ちゃん、栄ちゃん」と呼んで、たちまち慕うようになった。栄ちゃんは、目の細い、優しい顔立ちで、そこに立っているだけで、何か明るいあたたかい雰囲気をかもし出した。人見知りをする子も、盗癖のある子も、餓鬼大将も、学校を怠ける子も、まじめな子も、勉強の出来る子も、出来ない子も、大きな子も小さな子も、女も男もみんな栄ちゃんが好きだった。
「栄ちゃん」
と呼んで、その笑顔に慰められなかった子はいなかっただろう。栄ちゃんが一歩外に出ると、子供たちは遊んでいた遊びをやめ、わあっと栄ちゃんを取り囲んだものだ。べつだん栄ちゃんと鬼ごっこをしたり、かくれんぼをしたりするのではない。ただ、栄ちゃんのそばに行き、栄ちゃんの声を聞き、栄ちゃんの顔を見るだけで、満足だったのだ。栄ちゃんは、当時では珍しい映写機を持っていた。子供たちを集めて、映画を見せてくれることもあった。みんな、栄ちゃんの家に行けるというだけで、喜んで出かけた。時に、招かれなくても栄ちゃんを訪ねることがあった。そんな時、栄ちゃんは男の子でも女の子でも、ためらわずに家に入れた。私の弟鉄夫も、一人で訪ねて、押入れの中で映画を見せてもらった楽しい思い出があるという。一人の子供でも、なおざりにしない応対をする、それが栄ちゃんだった。
その日も、私たちは栄ちゃんの手にぶら下がったりして、わいわい取り囲んでいた。そこへ自転車に乗って、前川正が遊びに来た。きっと懐かしい友だちの顔を見に来たのだろう。が、私たちは栄ちゃんから離れずに、
「この人、栄ちゃんだよ。とってもいい人なんだから」
と、口々に言った。みんなは、栄ちゃんがどんなにいい人かを知らせたかったのだ。正は何も言わずに、じっと栄ちゃんの顔を見ていた。が、ぷいと自転車に乗ったかと思うと、うしろも見ずに走り去った。何となくその姿が淋《さび》しそうで、私の心にかかった。この日以来、正は再び私たちの町内に訪ねて来ることはなかった。
「隣のお兄さん」の家のあとに移って来たのは、池田直枝の一家だった。直枝は私より一歳年下で、髪の毛が赤くいわゆる天然パーマであった。色白でふっくらとした頬《ほお》をしていたから、その髪の毛と相まって、モダンな子供に見えた。直枝は、その家の末っ子だった。私の家と同様きょうだいが多く、長兄長女は二《は》十《た》歳《ち》を超えていたのではないだろうか。私が覚えているのは、都志夫兄と中学が同期の郁《いく》雄《お》と、百《ゆ》合《り》子《こ》姉と同じ歳《とし》の園枝、そして末っ子の直枝だけだった。園枝と直枝は私とは別の小学校の生徒だった。
直枝の家には広い前庭があり、その前庭は板塀で囲まれていた。私の父が暴漢に襲われた時、逃げこんだあの家なのだ。私が直枝を初めて見た時のことを、今も鮮明に覚えている。姉が園枝と、池田家の門の前で何か話をしていた。中から西洋人形のような愛くるしい女の子が、スキップをしながら出て来て言った。
「いま、藤原義江の放送が入っているよ。早くおいで」
そう言うと、彼女はまたスキップをしながら門の中に姿を消した。園枝はすぐに妹のあとを追った。私は唖《あ》然《ぜん》とした。藤原義江とは何者なのか、私にはわからなかった。自分の知らぬ人名が、自分より年下の女の子の口から出た。第一、わが家にはラジオなどはない。放送などとは無縁であった。おそらく町内にも、当時まだラジオのある家はなかったのではあるまいか。私の顔など全く見ずに、ひらひらと蝶《ちよう》のように飛んで来、蝶のように帰って行った直枝に、大人の言葉で言えば、住む世界のちがいを感じた。
この池田家はレンカ堂という洋品店を、旭川駅に近い三条八丁目に営んでいた。
「これ、レンカ堂で買って来たのよ」
と言えば、誰もが「ほう」と目を瞠《みは》ったものだった。当時、旭川一の洋品専門店ではなかったろうか。
姉の百合子と園枝はすぐに仲よしになったようだ。が、私と直枝は、ゆっくりと親しくなった。姉に連れられて、私は時々、隣の池田家に遊びに行った。むっつり屋の私は、みんなと話をしたり遊んだりするより、本を読むことのほうが多かった。すでに学校では、「本きちがい」と呼ばれていた。遊び時間に、人と遊ぶより教室に残って本を読んでいることが多かったからだった。
池田家の広い茶の間の一画に、どっしりとした書棚があった。私はすぐにその書棚の前に行って本を眺めた。六年生の姉に、
「人の家に来て、すぐに本棚のところに行くのは失礼よ」
と、ただちに注意された。
(ハハア、そういうものなのか)
私は姉の言葉にひどく感心した。こうして幾度か姉と共に遊びに行っているうちに、ようやく直枝と親しくなっていった。私も直枝も人見知りする質《たち》だったのかも知れない。彼女は頭もよく、気持ちも素直だった。誠実でもあった。彼女は「幼年の国」という子供雑誌を取っていて、毎月私に貸してくれた。ある時は、自分が読むより先に貸してくれたこともある。この家には蓄音器もあって、童謡のレコードもたくさんあった。私はその中でも、なぜか「雨ふりお月さん」や「雨々ふれふれ母さんが」、そして、「雨がふります雨がふる」等々の、雨をうたった童謡が好きだった。踊りの好きな私が、早速それらの歌にふりつけをして直枝と踊った。直枝は実に素直に、私のふりつけた踊りを踊るのだった。
当時のわが家といえば、全く非文化的な家庭であった。中等学校に通っている兄たちもいるのに、机というものさえなかったような気がする。机の記憶は、この家から引っ越してからであった。それまでは卓《ちや》袱《ぶ》台《だい》や出窓が机の代わりであり、私などはいつも腹《はら》這《ば》いになって宿題をしていた。だいたい、本なるものがない家であった。教科書以外の本を子供に買い与えることなど、絶無といえる家であった。小学校に入る前に、古ぼけた絵本や、童話の本を読んだ記憶はあるが、入学後は教科書しか与えられなかった。むろんラジオや蓄音器など、あるわけはない。ラジオがわが家に入ったのは、太平洋戦争が始まってからのことだった。つまり私が小学校教師になってからだった。戦争が酣《たけなわ》になって、警戒警報、空襲警報がラジオを通して頻繁に入るようになった。そこでやむなく買ったラジオであった。蓄音器だのステレオなどは、ついに買わずに終わった。ハーモニカひとつ買ってもらわなかったのだから、池田家の大きな書棚、ラジオ、蓄音器などは、私にとって驚倒すべき存在であった。
どういうわけか、この非文化的な家庭に育ちながら、読書好きな子供たちが、わが家には多かった。わけても姉と私は、一日として本を読まずには過ごせなかった。それでいながら、二人とも親に本を買ってくれとねだったことがない。親の懐を知っていたからだろう。ついでながら、私は本のみならず、玩具や人形や菓子などを、親にねだった記憶はない。娘時代になっても、着物や服をねだったことはなかった。我慢をしたのではなく、欲しいと思わなかったのである。
本は借りるものと、小さい頃から思っていた。前川正の家にも本はたくさんあった。私たちきょうだいは、前川家の「幼年倶《ク》楽《ラ》部《ブ》」や「少年倶楽部」を毎月借りていたし、池田家の「幼年の国」や「少女倶楽部」も、月々借りて読んだ。
この池田家に、花嫁が来ることになった。私たちは門のそばで、花嫁の車が着くのを待っていた。それまで、私は花嫁をどこかで一度見ていた。五、六歳の頃かも知れない。白い角隠しをした振《ふり》袖《そで》の花嫁姿だった。私は胸をわくわくさせて、花嫁が池田家に着くのを待っていた。黒塗りの立派な車がとまり、下りて来た花嫁を見て、私たちは声をあげた。何とその花嫁は、純白のウェディング・ドレスを着、白いベールをかぶっていたのだ。昭和初期のその頃、洋装の花嫁など、旭川では見かけることは出来なかった。旭川一の洋品店の池田家にふさわしい嫁入りだった。化粧も淡く、初《うい》々《うい》しい花嫁は美しかった。その美しさは、実に内面的な優しさと、謙《けん》遜《そん》に満ちた美しさだった。この人はクリスチャンであった。
ところでここに、当時の私の綴《つづ》り方がある。池田家の犬、エスが死んだ時の作文で、大《たい》成《せい》小学校で毎月定期的に出していた文集、昭和六年十月号の「芽《め》生《ばえ》」に載ったものである。
「となりの犬」
三ノ四 堀《ほつ》田《た》 綾《あや》子《こ》
〈となりの犬は八月に死にました。死ぬ前の日、うちのえんの下へ入ってうなっていましたので、みんなで出しました。其その次の日犬ははこに入れられて病いんに行きました。帰って来て「もう見込がない」と言ったそうです。それから三十分ぐらいしてから犬は、こきゅうを早めて口からにくの黒いような物を出しました。それがしばらくしてから、ねむるように目をとじてしまいました。それからまた見に来て見たらもう死んでいました。其の時、そのえさんが「にいさんが来たらきっとなくよ」と言いました。私はりこうなおとなしいエスが死んだので、ほんとうにかわいそうでした。犬はそのえさんのうちのうらにうずめてあって、そこにむずかしいかん字が書いてあるふだが立ててあります〉
この綴り方を見ると、池田家のエスを、どうやら自分の家の犬のように、私は可愛《かわい》がっていたようである。ここに直枝の名前が出てこないのは、直枝がまだ幼くて、園枝の陰にかくれていたためかも知れない。
この、エスの死んだ夏休みに、ほかにも忘れられない思い出がある。学校では三年生から海浜学校が持たれた。日本海岸の鬼《おに》鹿《しか》村に、その海浜学校は幾日間かひらかれるのである。が、これに参加出来る生徒はきわめて少なく、私のクラスからは三輪昌子、石原寿みなどの二、三人が参加しただけだった。格別行きたいとも思わなかったし、関心もなかった。
海には行かずとも、夏休みには家から二、三丁のところにある牛《う》朱《しゆ》別《べつ》川に行って遊んだものだ。この年も、私は川遊びをするつもりで、弟の鉄夫と川に出かけた。ところが、辺りの様子がすっかり変わっていた。その辺りは直径四十メートルほどの沼もある湿地帯だった。大きなお化《ば》け蟇《がま》が出ると言って騒がれたその沼が埋めたてられ、湿地もきれいに整えられてある。そして露草が乱れてぼうぼうの低い土手も、赤い土が高く盛られているではないか。その土手の向こうでは、男たちの声がする。二人は足音をしのばせて、そっと土手を上って行った。そして見つからぬように土手にぺたりと体を伏せ、目から上だけを土手の上にのぞかせた。
(何だろう、あの人!?)
思わず私は目をやった。そこには半裸の男たちが、赤い腰巻をしめて、土を盛ったトロッコを押していたのである。初めて見る異様ないでたちであった。私は母たちが言っていた言葉を思い出した。
「川の埋め立て工事に、タコが来てるんだって」
そんなことを、母は祖母と話していたのだ。そして、タコは赤い褌《ふんどし》をしているとか、赤い腰巻をしているとか聞かされていた。私はタコなるものを知らなかった。前借でわが身を売り、監獄部屋と呼ばれる土方部屋に入り、苛《か》酷《こく》な労働条件の中で、己《おの》が身を食うようにして生きているのがタコと呼ばれる彼らの実態であることを、私は知らなかった。
赤《しやく》銅《どう》色《いろ》に日焼けした、赤い腰巻姿の彼らが、私は無性に恐ろしくなった。
「帰ろう、鉄ちゃん」
「うん、帰る」
二人は文字どおりころがるようにして、土を盛り上げただけの柔らかい土手を駆けおり、うしろも見ずに逃げ帰った。私も鉄夫も、しかしその見たものを誰にも言うことが出来なかった。ただ日が経《た》つにつれて、赤い腰巻が目にちらつき、気になってならなかった。タコを見た者は、ほかにもいて、赤い腰巻は逃亡防止のための策であることを、やがて私は知らされた。今も、あのトロッコを押していた男たちの姿が目に浮かぶが、大勢いたにもかかわらず、ただの一人しかいなかったような、淋《さび》しい光景として心に残っているのは、なぜであろうか。
私は二度と川のほうに遊びに行くことはなかった。土木現業所のクラブの建物を、覆うように枝を伸ばしている丈高い胡《くる》桃《み》の木を、長い竿《さお》で突つき、実を落として遊んだのは、夏休みも終わる頃であろうか。その胡桃の木のすぐ向かい側には、旭川中学の校庭があった。二百メートルに二百メートルの広い敷地の半分が校庭であった。校庭は体育に用いられ、私たち子供は入ることが許されなかった。ちょうどスタルヒンがこの中学の生徒だった頃で、野球の練習が夕《くれ》昏《なず》むまでなされていた。が、夏休みになると、それこそ人っ子ひとりいなくなる。六月には真っ白な花が咲き、甘い匂いを放つアカシヤが、夏休みにはその葉も黒ぐろと緑深く茂って、校庭に沿って立ち並び、その木の下にバラ線が張られていた。だが、少し盛り上がった土手の柔らかい土を、犬が掘るように深く掘って、中学生たちはそこを近道の出入り口としていた。私たち小学生は、一人一人バラ線で服を破らぬように注意しながら、四つん這《ば》いになって境界線を突破する。まずここを入ることが、スリルに富んだ遊びであった。無事バラ線をくぐり終わると、広い広いグラウンドが目の前に広がる。私たちの入りこんだ北側はアカシヤで囲まれ、生徒通用門のある東側は、丈高い落《か》葉《ら》松《まつ》で囲まれていた。敷地の南半分には校舎や宿舎があって、遠く西側には、高い板塀があった。その板塀の近くに五本の落葉松が並んでいて、その木《こ》陰《かげ》、運動に疲れた中学生たちが、寝ころんだり話し合ったりしているのを、放課後には見かけたものだ。
しかし、とにかく夏休み中の校庭は森閑としている。私たちはまっしぐらに白い校庭の土を目がけて走り出す、と言いたいのだが、そうはいかない。その前に、かなりの幅の熊《くま》笹《ざさ》の藪《やぶ》をこいで行かねばならないのだ。
「地震があったら中学の笹藪に逃げこめ」
と、大人たちの言っている広い笹藪があった。大きな握り飯を包めるほどの熊笹の葉が、ざわざわと音を立てる。その笹原の中に屈《かが》んだり、頭を出したりして、子供たちははしゃぐ。そこを掻《か》きわけて、ようやく白く乾いたグラウンドの土の上に立つと、無数の珪《けい》砂《しや》がダイヤモンドのように、夏の日射しを弾き返している。この珪砂を拾うのが、まず子供たちの目的なのだ。みんな黙って拾い始める。用意してきた新聞紙やちり紙に拾ってはおさめる。
「ほら、こんなに」
「わたしのほうが多い」
などと、収穫を競い、それぞれに満足して前掛けのポケットなどに入れる。みんなの影が、グラウンドに濃く黒く映る。五、六年生の大きい男の子が言う。
「いいか。よしというまで、自分の影をじっとみつめるんだ。そして、空を眺めるんだ。どんなことになると思う?」
みんなは真剣な目で、自分の小さな影をみつめる。みつめることにそろそろ飽きそうになった頃、
「上を見れっ!」
と、声がかかる。上を見ると、何とそこには、今みつめていた自分の影が、白い中空に浮いているではないか。
「へえー」
私たちは喜んで、幾度も幾度も自分の影をみつめては空を見上げたものだった。こんな美しい幻を見たあとに、他の男の子が言う。
「おい、唾《つば》で、自分の腕にトリノクソと書いてみれ」
「トリノクソ?」
何でもいい。なすことすることがすべて楽しいのだ。みんなは自分の汚い指をなめて「トリノクソ」と、自分の腕に書いた。
「それをこすって、嗅《か》いでみれ。鶏の糞《ふん》の臭いがするぞ」
みんな言われたとおりにこすって嗅ぐ。不思議なことに本当に鶏小屋の臭いがした。「くさい」「くさい」と騒ぎながら、みんなはより仲よくなったような気がするのだった。
13
私の通っていた大成小学校では、年に一度は生徒たちに映画を見せてくれていた。ただし一年生は除外されていたから、私は小学校二年生の時に、初めて大きなスクリーンに映る映画を見たことになる。家の近所の土木現業所の所長宅や、かの子供たちのアイドルだった栄ちゃんの家には、8ミリ映写機があって、小さな活動写真は見たことはあった。が、全校生徒と共に、広い屋内運動場に敷かれた茣《ご》蓙《ざ》の上に坐《すわ》って、大きな画面の活動写真を見たのは初めてである。当時は映画のことを活動写真と言った。
その時の映画は、確か十和田湖の紹介であった。ストーリーも何もなく、山が映り、湖が映り、湖の上を走る舟が映った。山が、雲が、風にそよぐ木々の枝が映るだけの、人影のほとんどない映画であった。だが私は、生まれて初めて見る、大きなスクリーンに映し出される山や湖に、ひどく興奮したことを覚えている。盆地の旭川に育った私は、舟が湖上を走るのを初めて見たのだ。世の中には、何と美しい所があるのだろう。私は息をつめてその映画を見終わった。このあと、私はただちに、「学校の活動写真」という題で綴《つづ》り方を書いた。学校から出ている月刊文集「芽《め》生《ばえ》」に、この綴り方は収録された。これが私の文章が活字になった最初である。
人ひとり出て来ない映画であっても、私は映画の魅力に捉《とら》えられたようだ。翌年、私は姉や近所の子供たちと、錦《にしき》座《ざ》という映画館に、「金《こん》色《じき》夜《や》叉《しや》」を見に行った。誰か大人もついて行ったが誰であったか、記憶はさだかではない。錦座というその映画館は、畳敷きで、桝《ます》で席が仕切ってあった。一桝に四、五人は入ることが出来たと思う。その桝の中で、人々は重箱をあけて寿《す》司《し》を食べたり、おにぎりを食べたりしながら映画を見るのである。仕切りは幅二十センチ、厚さ三センチほどの板で、その上を、菓子や茶の売り子が、
「エー、おセンにキャラメル、お茶に饅《まん》頭《じゆう》」
などと呼びかけながら、駅弁売りのように肩から紐《ひも》で箱を吊《つる》し、器用に渡り歩いていた。寒い季節には、火鉢や座布団も金を出して注文をする。そんなのどかな映画見物だった。むろん無声映画時代で、せりふやナレーションは弁士がする。舞台の左片隅に演台が置かれ、テーブルの上に脚本が置かれてある。のちに私は、興行師である親戚の者から、その脚本を見せてもらったことがある。暗い場所で小さな灯《あか》りを頼りに読むためか、一頁《ページ》に大きな字が、ほんの数行ぱらりと書かれているだけであった。弁士が巧《うま》いか否かで、映画のおもしろさが左右される。弁士が巧みであれば、悲しい映画はより悲しくなり、こっけいな映画はよりこっけいになる。だから、当時の弁士は人気商売でもあった。
その頃旭川には、五つほどの映画館があって、私の最も好きな弁士は、美《み》満《ま》寿《す》館《かん》の増田楓《ふう》華《か》という人だった。肥り肉《じし》の、背の余り高くないあから顔の人だったが、何しろ声がいい、イントネーションがいい。映画の始まる前に彼が演台に立つと、観客は大いに拍手したものだった。当時の映画は色も音もない。が、それを補って、スクリーンの下に楽隊席がある。一段下の場所だから観客の邪魔にはならない。悲しい場面になると、バイオリンがいとも悲しい音色を奏でる。喜劇になると、ドラムもクラリオネットも総動員される。
ところで、私が初めて見た劇映画「金色夜叉」は大変な悲劇であった。許《いい》嫁《なずけ》の貫一を裏切るお宮の話は、熱《あた》海《み》海岸に「お宮の松」が残っているほどに有名だから、付け加える必要はないかも知れない。貫一は林長二郎のちの長谷川一夫、お宮は田中絹代であり、共に名優で、かつ美男美女であった。映画が終わって電灯が点《つ》いた時、私は顔を上げ得ぬほどに泣いていた。小学校三年生ではあっても、許嫁のお宮に裏切られた貫一の辛《つら》さが身に沁《し》みてわかったのだ。こんな悲しい映画を見ながら、終わったからといって、ただちに立ち上がることの出来る大人たちが不思議だった。が、大人たちは、小さな女の子が泣き伏しているのを見て、何やらささやきあって笑っていた。
それ以来、私はしばしば映画を見に行くようになった。叔母や祖母につれられて行ったこともあるが、父の名刺を持って行くと、映画館ではただで見せてくれた。父は新聞社に勤めていて、映画館とは親密な関係を持っていたようである。
映画が私の本好きを助長させたことも否めない。それまでは、私は「少年倶《ク》楽《ラ》部《ブ》」や「少女倶楽部」を、隣近所の友だちから借りて読んでいた。特に好きな作家は佐藤紅《こう》緑《ろく》だった。紅緑の書いたものを読むと必ず感奮した。涙が出た。わけても、「ああ玉杯に花受けて」や、「夾《きよう》竹《ちく》桃《とう》の花咲けば」などは、今も鮮やかに記憶している頁があるほどだ。その他、吉川英治の「海に立つ虹《にじ》」「左《さ》近《こん》右《う》近《こん》」、山中峯《みね》太《た》郎《ろう》の「敵中横断三百里」、佐々木邦《くに》の「愚弟賢兄」「苦心の学友」、サトウ・ハチローのユーモア小説などなど、どれほど少女の私を熱中させたことだろう。今考えてみると、小学生の読むものとしては、文章もむずかしく、内容も実に充実していたように思う。何よりも作者の熱気が、そのまま子供たちの胸に伝わってくるような小説が多かった。
小説がよかったからか、挿絵がまた秀れていた。樺《かば》島《しま》勝《かつ》一《いち》、梁《やな》川《がわ》剛《ごう》一《いち》、河《かわ》目《め》悌《てい》二《じ》、寺《てら》内《うち》萬《まん》治《じ》郎《ろう》、加藤まさをなどの、錚《そう》々《そう》たる画家たちの名が懐かしく甦《よみがえ》ってくる。ペーソスに富んだ田《た》河《がわ》水《すい》泡《ほう》の漫画「のらくろ」も忘れ得ない。のちに、私が小学校教師になった時、教材の掛図に梁川剛一の絵があったが、この人の弟が同僚にいて、やはり絵が上手だった。
四年生になると、私はそれまで読んでいた「少年倶楽部」や「少女倶楽部」から離れた。映画の影響からか、叔母が購読していた「主婦の友」や「婦人倶楽部」などを、こっそりとひらくようになった。時には、長兄の道夫が取っていた「新青年」という、陰《いん》鬱《うつ》な表紙の探《たん》偵《てい》小説雑誌をも読むようになった。「キング」「講談倶楽部」なども、いつのまにか私の愛読書となっていった。といっても、これらの雑誌をおおっぴらに読むことは出来ない。私の母は、読書は悪い趣味と信じていた。「少年倶楽部」や「少女倶楽部」でさえ、ただの一度も買ってくれたことのない母親である。子供が読むものは教科書で充分だと、素朴に信じていた人である。私は婦人雑誌を読む時、母を刺激しないように、あらかじめこれと思う頁に紙を挟んでおいた。その頁は、例えば子供の躾《しつけ》の座談会や、偉人の立志伝といった類《たぐい》であった。が、私の読むのは恋愛小説であった。吉屋信子、菊池寛《かん》、片岡鉄兵などの小説を、私はどんなに胸を躍らせて読んでいたことか。母が、
「また本を読んでいる!」
と、叱《しか》る時、
「これ、偉人伝だよ」
と、安心させた。安心させたといえば聞こえはよいが、まあ騙《だま》したわけである。
ある日の放課後、私は受け持ちの渡辺ミサオ先生に呼ばれた。
「堀田さん、あなたは大人の本を読んでいるそうですね。四年生では少し早すぎますから、六年生になってからお読みなさい」
そう言われたが、先生の目は必ずしも私を咎《とが》めてはいなかった。どこか、おもしろがっているように見えた。私は自分が大人の本を読んでいることを友だちに語ったことはない。誰が先生に告げたのであろうと思いながら、
「じゃ、六年生になったら読んでもいいのですね」
と、念を押した。先生は、ちょっとためらってから、
「ほんとうは六年生でも、少し早すぎます」
と言われた。私はその時、先生は私が大人の本を読むことを、それほど嫌ってはいないと直感した。が、
「『第二の接《せつ》吻《ぷん》』を読んだそうですね」
先生に言われて、私はあっと思った。「第二の接吻」は菊池寛の小説であった。テレビなどのない時代である。ラジオも町内に一軒か二軒にしかなかった。当時の少女は、接吻の場面など見たことがなかった。映画でも、そんな場面を映すことは許されていなかった。が、私はこの小説によって、接吻とはいかなるものかを知ってしまった。小説の詳細は忘れたが、その主人公を挟んで二人の女性が登場した。一人は恋人であり、一人は主人公を慕う積極的な女性であった。青年はその女性の術中に陥って、真っ暗なあずま屋の中で、恋人とまちがってその女性と接吻するのである。私は、いかに暗いとはいいながら、愛する者と他の女とをまちがうこの青年を、何と頼りない男だろうと、軽《けい》蔑《べつ》したものだった。この小説は単行本になっていて、部厚い本であった。私があっと思ったのは、この本は、私の姉として育った叔母の本であることに気づいたからだ。
叔母は電話局の交換手であった。渡辺ミサオ先生の下宿先の娘さんも電話交換手であった。つまり、その下宿の娘さんと、叔母は職場を同じくする友人同士だったのである。叔母が何げなく語った言葉が、先生の耳に達したのであろう。私はしかし、六年生になるまで謹慎してはいなかった。どころか、五年生の時には、「ほととぎす鳴く頃」と題して、時代小説を書いたのである。横《よこ》罫《けい》のノート一冊を埋める、かなりの長編小説? であった。しかも伊《い》織《おり》という前髪立ちの美少年と、お静という可《か》憐《れん》な少女との仄《ほの》かな愛をも絡めて書いた。
「喧《けん》嘩《か》だ、喧嘩だ」
京都の祇《ぎ》園《おん》街《まち》に始まる冒頭から、品川の宿で、伊織とお静が別れるくだりまでには、私がかなりの時代小説を読んだ跡が、如実に出ていたはずである。わが愛すべき渡辺ミサオ先生は、私が提出したこの小説を、裁縫の時間二時間を潰つぶして、級友たちに読んで聞かせてくださった。先生も、早熟な私が六年生まで謹慎するのは無理と見てとられたのであろう。この処女作? は、しばらく先生のもとにあったが、幾度目かの移転の時に失われたと聞いた。その頃先生は、夏目漱石や徳冨蘆《ろ》花《か》、森鴎外などの文章の載っている文章集をくださった。それらの本のおかげで、私は「碁石を呑《の》んだ八つちやん」「みみずのたはごと」「坊つちやん」などの片《へん》鱗《りん》に触れることが出来たのだった。
14
叔母の話が出たので思い出した。叔母は実に優しく、心のきれいな人であった。何月頃であったろうか、ある夕方、私は叔母につれられて街に行った。四年生の時であった。
当時の旭川市のメイン・ストリートは「師団通り」と呼ばれていた。旭川駅から第七師団に至る道筋であったからである。その頃、旭川で舗装されていたのは、この師団通り八百メートルほどの部分だけではなかったろうか。師団通りの両側には店が並び、その店の中に、いかにも軍都らしく、入営祝い、除隊祝いの品を扱う店舗もあった。スズランの花を模したスズラン灯に灯《ひ》が点《とも》ると、打ち水にしっとりぬれた舗道に灯が映る。その灯ともし頃、叔母は長谷川という大きな衣料品店に、私をつれて行った。そして、思いがけなくセーラー服を買ってくれたのである。白地に青い襟のついた、素敵なセーラー服であった。私は思いがけないプレゼントに上気していた。何せ、私には三歳年上の姉がいて、ことごとく姉のお下がりで間に合ってきたのだ。新品が私に与えられることなど、数えるほどしかなかった。その前の年、「大阪の叔母さん」と呼んでいた叔母から、手編みの、極《ごく》細《ぼそ》の真っ白なセーターと、濃いグリーンのリリアンのベストが送られてきたのが、私に与えられた高価な新品の衣服の最初ではなかったろうか。
電話局には、百畳もあるかと思われる広い畳敷きの部屋があった。更衣室と呼んでいたようであった。ここで交換嬢たちは着替えをしたり、おしゃれをしたり、休憩時におしゃべりをしたり、当直の夜は仮眠をしたりしているらしかった。通勤は和服で、袂《たもと》の着物に海《え》老《び》茶《ちや》色《いろ》や紫紺の袴《はかま》を胸《むな》高《だか》にしめていた。交換嬢たちは、なぜか不思議なほど粒《つぶ》揃《ぞろ》いの美人ばかりであった。電話交換という仕事は、声しか聞こえないのだから、別に美人でなくてもよいのではないかと、子供心にも訝《いぶか》しむほどに、美しい人が多かった。その宝塚歌劇の女優のようなあでやかな和服姿を、この更衣室で、一見肌《はだ》襦《じゆ》袢《ばん》ふうの白衣に取り替える。この白衣をきりりと身につけ、頭にレシーバーをつけた姿がまたよかった。槍《やり》か、薙《なぎ》刀《なた》を持つと似合いそうな凛《り》々《り》しい姿である。
この更衣室の片隅に、小さなパンケースのような、ガラス張りのケースがあって、中にしんこ団子、大《だい》福《ふく》餅《もち》、ドーナツ、カルメ焼などが常時売られていた。何しろ若い女性ばかりだから、これらの回転ははなはだ早かったようだ。私の叔母は、私を電話局につれて行くと、必ずこのケースの傍に行き、
「綾ちゃん、何を食べる?」
と、尋ねてくれた。が、どういうわけか、私は親にさえ、ものを買って欲しいと言えない性格だった。
「何もいらん」
私は無愛想に答える。それでも叔母は、大福餅やカルメ焼を買ってくれた。今の子供たちはカルメ焼など知っているだろうか。金属製のしゃもじの中に、キザラ、水、重曹などを入れ、掻《か》きまわしながら火にかけると、ふっくらとした狐《きつね》色《いろ》のカルメ焼が出来上がる。さくさくとした歯ざわりが快く、舌の上で融けていくその甘さは、いまだに郷愁を感ずる。
とにかく、私は電話局につれて行ってもらうのが楽しかった。その時も、セーラー服の包みを抱えて更衣室に入って行くと、幾人かが叔母の周りに寄って来た。長谷川の包みを見て、叔母が着物でも買って来たと思ったのだろう。私はそこで、今買ったばかりのセーラー服を着せられた。
「よく似合うわよ」
「かわいいわねえ」
叔母の同僚たちは口々にほめてくれた。私は喜び勇んで、セーラー服の入った箱を家に持って帰った。
ところが、いつまで経《た》っても、母はそのセーラー服を学校に着て行けとは言わない。三日経ち五日経ちして、受け持ちの渡辺先生が私に言った。
「とってもセーラー服が似合うって聞いたわよ。早く着て来て、先生にも見せてちょうだい」
多分、先生は例の下宿先の娘さんからセーラー服のことを聞いたのだろう。
その頃の小学生の女の子たちは、いわゆる簡単服なる素朴なワンピースを着ていて、セーラー服などのパリッとした服を着ている者は、ほとんどなかった。セーラー服は女学生が着るのが普通で、小学校ではクラスで二、三人しか着ていなかった。
最初私は、母はセーラー服をお祭りか、式日に着せてくれるのかも知れないと思っていた。とにかく飴《あめ》玉《だま》一つでも自分からねだることをしない私だったから、セーラー服を着せてほしいなどとは言えなかった。お祭りが来ても、母はセーラー服を出してはくれなかった。母も、そして叔母も、セーラー服のことなど忘れたように、全く口にしなかった。私は四年生になっていた。着せてくれないのには、何か事情があるにちがいないと子供なりに考えた。着せてくれるなら、とうに着せてくれる筈だと思った。
叔母の給料はわが家の家計の足しになっていたから、セーラー服代を差し引かれては家計にひびくのではないかとも思った。多分、あの服は私に黙って、こっそりと店に返したのではないかと私は想像した。もしそうであれば、私が服のことを口に出しては、母も叔母も辛《つら》かろう。私はセーラー服について、一切誰にも問わなかった。幸い、私はそうしたことを悲しいとか、淋《さび》しいとか思う性格ではなかった。着るものに愛着を持つ子でもなかった。その点きわめて諦《あきら》めのよい子であった。だから、このことについては、遂に大人になっても、母にも叔母にも尋ねたことがない。ただ、叔母が私のために、私の父母に相談なくセーラー服を買ったことで、叱《しつ》責《せき》されたのではないかと、それが気の毒であった。
15
「綾子、お前、牛乳配達を手伝うか」
四年生になって間もなく、父にそう言われた。
「手伝う、手伝う」
私は二つ返事で引き受けた。昭和七年のその頃、日本は不景気の谷間にあった。その前年から、私は「不景気」という言葉を幾度も聞いていた。「くびになった」という言葉を聞いたのもその頃である。最初、「くびになった」という言葉を聞いた時、私は首を切り落とすことかと思って、怯《おび》えたものだった。
長兄は商業学校を卒業したが適当な職がなく、マッチ箱に貼《は》るペーパーの外交などをして、苦しいさなかにあった。その兄が思い切って牛乳屋を始めるというのである。牛乳屋といっても、牛を飼うわけではない。牧場から牛乳を仕入れて高温殺菌をし、それを水槽で冷やして、翌朝瓶に詰めて配達するのである。
わが家では、長兄の道夫をはじめ、次兄の菊夫、三兄の都志夫の三人とも、小学校時代から新聞配達をして育った。世間には豆腐を売る子もいたから、女の子ではあっても、牛乳配達することに、私は少しも抵抗を感じなかった。いや、それどころか、私は生活の変化を好むほうだったから、大いに張り切ったものである。
牛乳配達をすると決まって、私が第一にしたことは自転車に乗る練習であった。練習には、子供用自転車のほうがやさしい。後輪の両側に小さな補助車輪がついてい、転倒しないですむ。私は池田直枝の子供用の自転車を借りた。事情を告げ、自転車を三、四日貸して欲しいと頼んだ時、彼女は、
「いいわよ。何日でも使って」
と、実にあっさりと言った。私は乗りこなすまでの三、四日、彼女の自転車をわがもの顔に乗りまわした。毎日のように借りに行くのだが、ただの一度も彼女はいやな顔をしたことがなかった。私はその時、子供心にも、この人は偉い人だと感銘したことを、今も記憶している。一級下の彼女は、のちに私と同じ女学校を優等で卒業し、薬専に進み、薬剤師となられた。クリスチャン・フレンドとして、今も親しくつきあっていただいているが、その誠実な性格は、子供の頃と少しも変わりがない。
子供用の自転車を乗りまわせるようになると、私は直ちにわが家にある大人用の自転車で、牛乳配達を始めた。が、何せまだ四年生であったから、うしろの荷台に牛乳箱を置くと、自転車はふらふらとしておぼつかなかった。昔の自転車は、婦人用は別として、大人の自転車はサドルが高く乗りこなすことが、むずかしかった。道路は砂利道が多かったこともあって、なおさら自転車での配達は困難であった。それで私は、しばらくは牛乳二十本ずつ入ったズックの袋を両手にぶら下げて、歩いて配ることにした。
朝、五時に目を覚ます。洗面をすますと、直ちに自分の配る本数だけ準備する。ゴム管からほとばしり出る牛乳を次々に詰めていく。ついでに自分の胃袋にも二合ほど注《つ》ぎこんで、まだ眠っている街に出て行く。行き交うのは新聞配達や、同業の牛乳配達の人たちだった。黙々として、一人朝の道を歩いて行く。
私には実に楽しいひとときだった。誰にも話しかけられず、誰にも話しかけず、一人心の中であれこれ考えながら歩くのは、まさに至福のひとときと言ってもよいほどだった。わが家のすぐ裏手を流れている牛朱別川の提防の草に朝露が光り、清らかな水に空が映る。晴れた日には行く手に大《だい》雪《せつ》山《ざん》が見える。私の配達先はどの家もまだ眠っている。牛乳箱から空《あき》瓶《びん》を取り、その箱にことりと音をさせて牛乳瓶を置く。袋の中の瓶と瓶がかすかに触れ合って、カチャカチャと鳴る。実に静かだ。
(どんな人が住んでいるのだろう。この家の誰が牛乳を飲むのだろう)
当時は牛乳を飲むのは、たいてい病人であった。時に幼児が飲むこともあった。玄関に白いカーテンが引かれている家があるかと思えば、厚手のゴブラン織のようなカーテンが、重々しく下がっている家もある。中には、カーテンも何もなく、引き戸の素《す》ガラス越しに、乱雑に脱ぎちらされた下駄や靴が、丸見えの家もある。庭先が草ぼうぼうの家があるかと思えば、ちりひとつ落ちていない清潔な家もある。どんな人が住んでいるかわからぬ家に、牛乳を配達するということは、私にとってかえって楽しい仕事であった。
配達に馴《な》れると、自分の責任地域だけは、自分で請求書も書き、集金もするようになった。そこで初めて、その家の人と顔を合わせるようになった。家の感じから想像していたイメージと、必ずしも一致しない人がたびたびあって、そのことも私には興深いことであった。
登校前の何十軒かの配達に馴れた私は、やがて学校から帰ると、瓶洗いをしたり、牛乳の殺菌も手伝うようになった。そして夕方の配達さえするようになった。まだ冷蔵庫のある家などなかったから、牛乳は朝夕配達しなければならなかったのである。その他、病院や菓子店から特別注文がくる。一升入る牛乳缶を両手にぶら下げ、往復二、三キロある道を出かけることもあった。
この牛乳配達は、女学校を卒業して、小学校の教師になるまでつづいた。特に、今懐かしく思い出すのは、大正館という映画館の下足番のおじいさんのことである。寒い冬など、下足番のおじいさんは、石油缶に炭火を熾《おこ》し、股《また》火《ひ》鉢《ばち》などをしていて、私が夕方配達に行くと、
「ちょっと見て行きな。尾《おの》上《え》松之助が出ているよ」
などと、声をかけてくれる。尾上松之助というのは、その頃ではもう珍しくなった昔日の人気俳優であった。私は牛乳袋を持ったまま、畳敷きの席に坐《すわ》って、五分か十分、映画を見せてもらうのだった。
そんな楽しいこともあるにせよ、一年中、雨の日も風の日も雪の日も、真夏の暑い夕も、零下三十度を越える冬の朝も、牛乳配達は一日として欠かすことは出来なかった。牛乳は瓶だけでなく、缶にも入れていたから、厳寒の朝、まかりまちがって牛乳缶を素《す》手《で》で持とうものなら、皮膚が凍った缶にへばりつき、下《へ》手《た》をすると皮膚が剥《は》がれてしまうのだった。それはともかく、小学四年生から女学校を卒《お》えるまで、七年間にわたって牛乳配達をしたことは、得難い体験であった。
小学四年生の頃を思うと、必ず目に浮かぶ同級生が幾人かいる。常にトップの綿屋の三輪昌子、小学校教師の娘で、賢く美しかった野口千代、ベニヤ板製造会社勤務の父を持つ山田澄子、司法書士の娘石原寿みなどは、全学年を通しての親しい友だちだったが、途中からクラスが一緒になった笹《ささ》井《い》郁《いく》、村山喜久子、柿《かき》本《もと》文《ふみ》子《こ》、原田恒《つね》子《こ》たちは、四年生の頃が特に印象に深い。
銀行員の娘笹井郁は、大柄で色白の、頭のいい生徒だった。三年生の時、新しく日新小学校が出来たため、一学年六組が四組編成となった。その時彼女は私と同じクラスになった。彼女は五組の級長で私は六組の級長だった。そこで一クラスに二人の級長が出来たことになる。受け持ちの先生は依然として渡辺ミサオ先生だったから、もと六組のクラスの者たちには、何となく他の者を迎え入れたという感情があった。二人の級長をめぐって、自然に二派が出来た。が、これはすぐに解消した。なぜなら、私と笹井郁は気が合い、話が合って、次第に親しくなっていったからである。二人とも映画が好きで、学校からの帰途、別れ道でいつまでもいつまでも、嵐《あらし》寛《かん》寿《じゆう》郎《ろう》の鞍《くら》馬《ま》天《てん》狗《ぐ》がどうの、むっつり右《う》門《もん》がどうのと、時の経《た》つのを忘れて語り合ったものだ。
この笹井郁が四年生の夏休みに、その父の郷里、仙台に一家で旅をした。二学期が始まった時、彼女は渡辺先生に命じられて、その旅行の話をみんなの前でさせられた。彼女は旭川から仙台までの旅のすべてを、よどみなく一時間にわたって話しつづけた。その詳細は忘れたが、私は脱帽した。もし私が仙台に行ったとしても、彼女のように話すことが出来るだろうか、と思った。その感銘が深かったためか、四年生の頃を思い出すと、必ず彼女の姿が浮かぶのだ。
裁判官の娘柿本文子は、笹井郁と同じく、五組から来た生徒だった。彼女は豹《ひよう》の毛皮のような豪華なマントを着ていて、顔立ちがいかにも都会の子という感じだった。一目で良家の娘を思わせる文子は、その印象とはちがって、遊び時間になると、同学年の男の子と本気になって取っ組み合いなどをする、無邪気で愉快な娘だった。
ある日、幾人かでこの文子の家に遊びに行った。裁判官の家は広い敷地に建っていた。その時みんなで鬼ごっこをしたのだが、足の遅い私が一番先に捕まった。捕まった者は電信柱に手をふれて、
「助けてえー」
と叫ぶのだ。が、裁判官官舎の立ち並ぶその辺りは、どの家も高い板塀に囲まれて、通りにも小《こう》路《じ》にも人影はない。逃げた友だちも、追いかけた鬼も、どこにいるのか姿も見えない。私は不意に、一人ぼっちになったような孤独を覚えた。私はぼんやりと、電信柱のひび割《わ》れを見つめていた。と、なぜか母のことが思われた。遊んでいる最中に、母のことを思うなどということは、かつてないことだった。しかも私は、
(母ちゃんは、来年四十になる)
と、思ったのだ。四十という年齢は、数えで十一の私にとって、ひどく老《ふ》けた年齢に思われた。私は言いようもない淋《さび》しさを感じた。
(どうしよう、母ちゃんが四十になる)
母は八人の子の母親で、朝から晩まで休む暇なく働いていた。赤ん坊がいつも母の背か膝《ひざ》の上にいた。私の目に、赤児を背負って洗濯だらいの前に屈《かが》み、せっせと洗濯している母の姿が浮かんだ。胸をしめつけられるような、母へのいたわりの思いが湧《わ》いた。これが、生まれて初めて、誰に教えられるのでもなく抱いた、母への最初の愛のような気がする。柿本文子の名を思い出すのは、彼女自身のことよりも、涙の出るような思いで母を思った思い出につながるからであろう。このあと私は、次第に友だちと外で遊ぶことをしなくなったような気がする。
原田恒子は、やはり笹井郁と同じように、もと五組の生徒で副級長であった。刈上げの似合う、混血児のようなまなざしをした、実にシャープな生徒であった。ある日、新聞を見ていたら、恒子の習字が新聞に載っていた。翌日彼女に言ったら、自分で新聞社に送っているのだと教えてくれた。詩や綴《つづ》り方も時々送るのだと言った。そんなことなど思いもよらなかった私は、彼女は非常に積極的な生き方をしているのだと感服した。
その頃、教科書で「心と心」という詩を学んだ。今、その詩を正確には覚えていないが、こちらがかわいい猫だと思うと、猫はのどを鳴らして寄ってくる。いやな黒犬だと思うと、向こうも唸《うな》り声を上げるという内容だったと思う。
この感想文を、渡辺先生が全員に書かせた。与えられた時間は、十五分か二十分くらいだったと思う。幾人かが指名されて、その感想文を読んだ。この時の恒子の感想文に、私は感《かん》歎《たん》した。
「人と猫、人と犬でさえ、このように心が通ずるとすれば、まして人と人とは、どんなに思いが通ずることかわからない。自分が嫌いだと思えば、その人も自分を嫌いだと思うだろう。これからは、なるべく人にはやさしい心を持って、つきあっていかなければならないと、わたしは思った」
という意の感想文を、彼女は実に的確な文章で綴っていた。しかも、それを読む読み方が朗々として、めりはりが利《き》き、私はただただ感じ入った。帰る方向も同じだったので、私は時々一緒に帰ったが、その話す言葉は、四年生の女の子とは、とても思えなかった。が、彼女は四年生の時、どこかに転校して行って、残念ながらいまだにその行方を知らない。会いたい人の一人である。
村山喜久子は郵便局長の娘で、四年生の時に転校してきた。何とも上品な、しとやかな少女で、顔立ちも美しかった。が、大阪から来たとかで、彼女が初めて国語読本の「れんげ草」を読んだ時、私たち生徒は声を上げて笑ってしまった。何しろテレビもラジオも普及していない時代だから、初めて関西のイントネーションに接したわけだ。大変な文化ショックだったのである。彼女は泣いた。彼女に泣かれて気の毒だったが、子供の私たちとしても、いたしかたないことであった。この喜久子の「秋」という綴《つづ》り方の一節を、私はいまだに覚えている。
「朝夕出窓の障子を開けたり閉めたりするのが、わたしの仕事です。でもこの頃は寒くなったので、障子を開けることもなく、閉めることもなくなりました。わたしの仕事が一つへったのです」
というくだりである。秋というと、紅葉がどうの、落葉がどうのと、観念的に書いていた私にとって、具体的な生活を通して、四季の移り変わりを表現した彼女の綴り方に驚き、彼女自身の誠実を感じ取ったのであった。
16
突如、移転の話が持ち上がった。私たちは九条十二丁目の仲通りに住んでいたが、同じ町内の本通りに移ることになったのである。話を持ってきたのは、その家の持ち主である女主人であった。この人は、当時の朝鮮で、家伝薬で財をなした人であった。以前から私の父母を知っていて、その持ち家の一つに、父母たちに住んで欲しいというのであった。一棟二戸の三《み》間《ま》しかない家に住んでいたから、大人たちの話はすぐに耳に入る。その住んで欲しいという家は同じ町内にあって、私たち子供も知っていた。玄関が通りから四メートルほどひっこんでいる、格子戸入りの和風の平《ひら》屋《や》だった。コの字型に建っていて、中庭には庭木が緑豊かに茂っていた。
「あの家に、ほんとうに引っ越すのかしら」
姉が私にささやいた。
「引っ越せばいいね」
私の胸も弾んだ。生まれた家も、その時住んでいた家も、一棟二戸の三間しかない家だったから、一戸建てというだけで、気分がのびのびする思いだった。しかも、町内でも目立つ家の一つであった。といっても、玄関の取《とり》次《つぎ》の間が二畳で、六畳間が二つ、八畳間が二つ、それに七畳の台所がつき、台所よりやや広い湯殿と物置がついている程度の広さだった。部屋数はさして多くはないのだが、コの字にめぐらされた廊下に沿って各部屋が設けられているので、いかにもひろびろとして見える家であった。
引っ越すと決まって、私はそっとその家の横の路地を通りぬけてみた。庭には見事な木々があって、廊下で愛らしい女の子が、ひとり歌をうたいながら踊っていた。私は、自分の家に越して来たなら、あの子のように廊下で踊ってみたいと思った。
「今度引っ越して行く家、たくさん木があるんだよ」
私は学校で、二、三の友だちに、うれしさの余り、そう告げた。ところが引っ越して行って私は驚いた。木が半分ほどに減っていた。何か、はぐらかされたような感じだった。それでも畳半分ほどの箱庭があった。箱庭には、家や池や、池にかかる赤い橋や、かわいい灯《とう》籠《ろう》があり、その箱庭の一隅には小高い山さえあった。そんな立派な箱庭を見たのは初めてだから、私はすぐに、それだけで満足した。
ところが幾日も経《た》たぬうちに、残っていた木も、その箱庭も、姿を消してしまった。学校から帰って、それを知った私は呆《ぼう》然《ぜん》とした。そこで初めて、私は庭木も、箪《たん》笥《す》や戸棚と同様に、前住人の家財のひとつであることを知ったのだった。結局、空地になった庭には、やがてイタヤ楓《かえで》の薪《まき》が、殺風景にもどっさりと積み上げられたのである。僅《わず》かに、家の前にあった落《か》葉《ら》松《まつ》が一本庭に移されて、それだけがわが家の樹木となったのである。庭木は失うせたが、私は廊下で、「雨ふりお月さん」などを踊って、けっこう満足していた。
引っ越して間もなく、姉の百《ゆ》合《り》子《こ》が私や弟の鉄夫に言った。
「ねえ、みんな大きくなったんだからさ、あしたから『母ちゃん』と呼ぶのは、やめないかい」
私も、二年生の鉄夫も賛成した。幼い時から母を「母ちゃん」と呼んできたのだが、もう四年生になっていたので、何となくその呼び方が気になっていた。多分、鉄夫も気になっていたのだろう。
「うん、やめる」
姉の言葉に私たちは即座にうなずいた。
「したらね、あしたから『母さん』と呼ぶんだよ」
姉が言った。姉らしい表情と、姉らしい語調で言った。
「『お母さん』って、『お』をつけて呼ばないの?」
私は尋ねてみた。姉は、
「わたしの友だちはたいてい『母さん』だよ。『お母さん』と呼んでいるのは、金持ちの子が多いわ」
と、答えた。私は次の日の来るのが実に待ち遠しかった。「母さん」と呼ぶのが、何か気恥ずかしい気もする。だが、そう呼びたいと思いながらも、今までそう呼べなかったわけだから、願いが叶《かな》うことにもなる。私はあの時の初《うい》々《うい》しい気持ちを忘れることが出来ない。
翌日が来た。私は絶対に「母ちゃん」とは呼ぶまいと気をつけていた。今日の第一声を失敗したら、また当分「母ちゃん」と呼ぶかも知れない。そう思って、私は思い切って言った。
「母さん!」
味《み》噌《そ》汁《しる》の味噌を溶いていた母が、びっくりして私の顔を見た。が、
「なあに?」
と、実にやさしい笑顔を見せた。
「きょうから、『母さん』と呼ぶの」
私が言うと、鉄夫も、
「母さん」
と呼んだ。それ以来今日まで、「母ちゃん」が「母さん」になった。引っ越しが、姉にひとつの改革を思い立たせたのでもあったろうか。兄たちもこの時から母を「母さん」と呼ぶようになった。
17
私は四年生の夏休みまで、汽車に乗ったことがなかった。私の生まれた家の二百メートルほど東に、宗谷線と石《せき》北《ほく》線が走っていて、汽車を見たことは幾度もあった。汽笛を聞いたことも、黒い煙を見たことも、数え切れなかった。が、自分が汽車に乗るとは、思ってもみなかった。汽車は私にとって、「大人になったら乗るもの」であった。
それが、その夏、父母のふるさとである苫《とま》前《まえ》村に、私と姉の百合子と、中学五年生の三男坊の兄都志夫の三人で、出かけることになった。苫前村は日本海に面した、北海道の一漁村である。初めて汽車に乗れるうえに、まだ見たことのない海まで見られるというので、私はどんなに興奮したことだろう。
その日、私たちは父に見送られ、旭川駅で汽車に乗りこんだ。が、汽車はなかなか動き出さない。
(もしかしたら、この汽車、故障しているのではないだろうか)
私はよほど、姉にそう言おうかと思った。だが、扇子を使いながら見送る父も、他の客たちも、何も言わない。ごく当たり前の顔をしている。私は、停車時間の長いことを知らなかったのだ。乗ってから動き出すまでに、二十分はあったのではないだろうか。あるいはそれは、十分か十五分であったかも知れないが、乗ればすぐに動き出すと思っていた私には、実に長い長い時間であった。
やがてベルが鳴り、
「腹をこわすなよ」
父に言われて、こっくりとうなずいた時に、汽車はがたんと動き出した。思わず私は、
「あ! 動いた!」
と叫んで、まわりの人に笑われた。が、十分も走ったかと思うと、汽車は止まった。近《ちか》文《ぶみ》駅に停車したのである。小さな駅があることも、山が間近にあることも、様々な家が建っていることも、何もかにも珍しかった。そのあとの一つ一つは忘れたが、私は息をつめるようにして、移り行く風景に心を奪われていたのを覚えている。中でも、汽車の左眼下に蛇行する神《かむ》居《い》古《こ》潭《たん》を見た時は、この世にこんな綺《き》麗《れい》な景色もあったのかと、姉にいくら突つかれても、
「わあ! きれいだあ!」
「大きな石だあ!」
と、つい叫んでしまうのだった。子供の私は、碧《へき》水《すい》という言葉は知らなかった。白い沫《しぶき》という言葉も知らなかった。澄んだ水が、ある場所では碧《あお》く、ある場所では煮え滾《たぎ》る湯のように岩を噛《か》み、またある所では緑色の水《みず》羊《よう》羹《かん》のように静まりかえった深い淵《ふち》を見せていた。ここが神居古潭と呼ばれる景勝地であることを、私は初めて知った。
それから幾時間経《た》ったことであろう。旭川を出て、四時間は過ぎていたのではないだろうか。汽車はようやく留《る》萌《もい》の駅を発《た》った。と、窓の外を飽かず眺めていた私の目に、突如、夏の日に輝く海が見えた。その瞬間の私の驚きの何と大きかったことか。私は思わず立ち上がって、大声で叫んだ。
「海だっ! あれ! あそこに海が見える!」
乗客がどっと笑った。笑われようと、叱られようとかまわない。私は生まれて初めて海を見た。どうして叫ばずにいられよう。私は窓から身を乗り出すようにして海に見《み》惚《と》れた。
(なんて広いんだろう!?)
こんなにたくさんの水が、地球の上にある、それが何とも不思議だった。寄せて来る波が返って行き、遠くのほうからまた白波を立てて盛り上がってくる。と思うと、白い波頭が砂浜に広がる。
(この汽車まで、波は押し寄せてくるかも知れない)
あまりにも大きな海に、私はそうも思った。が、波はほとんど同じ所まで寄せては返すだけだった。あんなにたくさんの水がありながら、なぜ線路まで押し寄せてこないのか、子供の私にはそれが不思議でならなかった。
その海もようやく見《み》馴《な》れた頃、汽車は終着駅鬼《おに》鹿《しか》に着いた。鬼鹿の名は私も知っていた。私は一度も参加したことはないが、大成小学校では毎年ここで海浜学校を開いていた。三輪昌子や石原寿みが参加していた。鬼鹿は海水浴場として、その頃から知られていた。
苫前は、鬼鹿から更に、二十五、六キロ北上しなければならない。駅前に乗合自動車が待っていた。乗合自動車といっても、現代の乗用車に補助席がついた程度の大きさで、今のバスとは全く異なったものであった。私は運転席の横に坐らせられた。昭和初年の田舎道である。自動車は走るというより、凸《でこ》凹《ぼこ》道《みち》を跳ね上がるようにして走って行く。あまりのひどさに、私は海を見る余裕もなかった。足がぽんぽんと跳び上がった。子供心に、私は田舎道に腹を立てる生意気な気持ちになっていた。と、運転手が私をたしなめた。
「あんまり足を動かさないように」
私はひどく恥ずかしかった。(なんだ、この田舎道!)と、軽《けい》蔑《べつ》の思いを抱いていた自分を見透かされたような気がした。苫前に着くまで、私は跳び上がりそうになる足をしっかりとおさえて、ひたすら謹慎の態《てい》であった。そして、その運転手が学校の教師のように、偉い人に思われた。
当時、苫前村は人口三千程度であった。父母の生まれ故郷のこの村には、父のいとこたちが一つ家に住んでいた。そのいとこたちは、兄と妹のきょうだいだった。最初私はその二人を夫婦かと思った。兄のほうは五十代になっており、妹のほうも五十に近かった。妹には二人の子供がいて、一人は函《はこ》館《だて》で小学校の教師をしており、もう一人は小学五年生で、その家に住んでいた。
村の市街地は山の手と浜の二つに分かれていて、低い山の上には、村役場、小学校、寺、神社、医院、旅館、商店などが住宅の中に建ち並び、浜には漁師の家が多かった。山の上は、ひとかたまりの市街地のほかは広い大地で、畠《はたけ》や原野が広がり、馬が野で草を食《は》み、のどかな農村風景であった。この山の手で、父の従兄《いとこ》はポンプ屋と興行師を業《なりわい》としていた。一戸建てだが部屋は三つ、広くはなかった。この兄妹は几《き》帳《ちよう》面《めん》らしく、家の中はちりひとつないという感じだった。切り炉の中には、ひとつひとつ磨き上げたような油石がぐるりと敷かれていて、そんなことにも、遠く他の家に来た思いがするのだった。
翌日、朝食をすますとすぐに、私たちは浜に降りて行った。そして私は、生まれて初めて海に足を浸した。砂浜には小さな貝殻が幾つもあって、天使のような淡いピンク色の貝殻や、巻貝の繊細な貝殻を、飽きずに拾い集めて喜んだ。沖には天《て》売《うり》・焼《やぎ》尻《しり》の島が並んでいて、
「あれはね、眉《まゆ》毛《げ》島と呼ぶんだよ」
と、トク小《お》母《ば》に教えられた。そして私は、驚くべきことをそこで聞かされたのだった。
「あのね、あんたたちのおじいさんはね、この村で手柄のあった人でね、あの二つの島はおじいさんのものになったかも知れないんだよ」
と、トク小母は言ったのだ。祖父は十六歳の時、行商人として佐渡さどから北海道に渡り、やがてこの村にいついて、大きな雑貨商を営んだ。学校の教師が、給料を上げて欲しいということで、祖父に交渉に来たという話を、私も父から聞いたことはあるが、祖父は村の実力者であったらしい。その島を祖父に払い下げようという話があったが、祖父は管理が大変だと言って、あっさり辞退したという。
(あの島がおじいさんの島だったら、よかったのに)
私は改めて天売・焼尻のやさしい島の姿をじっと見つめた。この時以来、天売・焼尻の島は、私にとって身近な島となって今日に至っている。身近といえば、それまで遠い存在であった祖父や祖母が、急に身近な者となった。祖父は脳《のう》溢《いつ》血《けつ》で、祖母は心臓マヒで、共に私の生まれる幾年も前に死んでいた。祖父母は、仏壇の中にいるご先祖の一人にすぎなかった。それが、苫前に行くと、祖父母のことを知っている人が大勢いた。寺に墓参りに行った時、
「堀田さんのお嬢さんたちが見えた」
と、寺の人たちが言った。お嬢さんなどと呼ばれたことはめったにない。よほど金持ちの娘でなければ、お嬢さんなどと呼ばれることはなかった。が、苫前では、正《まさ》しく私も姉も金持ちの孫なのであった。
「これは堀田さんのおじいさんが寄進してくださったものです」
と、蓮《はす》の形をした大きな台座を見せてもらったり、
「寺のために、いろいろと力を尽くしてくださいました」
と、言われたりすると、私はおぼろげながら、ここに確かに自分の祖父母が生きていた事実を、想像することが出来た。トク小母も、
「この土地も、あんたたちの家の土地だった。あの畠《はたけ》も、あんたたちの家のものだった」
などと言い、下街が火事に遭う以前には、ここに店があり、土蔵が三つ並んでいた、などと懐かしそうに聞かせてくれた。祖父のことを「仏さまのような人だった」と、誰もが言った。祖父の悪口を聞いたことがないと言う人もいた。
一方、祖母のことを「大変な美人だった」と人々は言った。が、祖父のようなほめられ者でなかったことは、子供心にも察せられた。美人だが激しい気性で、金でも着物でも気前よく人にはやるが、気に入らないと取り返すようなところが、祖母にはあったらしい。しかし孫の私には、仏さまのような祖父も、欠点の多かったらしい祖母も、なぜか愛すべき祖父母として、心に刻みつけられたのだった。そしてその存在は、父の代に没落し、過去の栄光が失われたとはいえ、子供の夢をかりたてるに充分であった。
トク小母の息子の浩《ひろし》は、私より一つ年上で、色白の美少年だった。目が澄んで大きく、長いまつ毛が重たげにさえ見えるほどだった。旭川でも浩ほどの美少年は見たことがなかった。成績も抜群で、夜になると、
「先生の家に泊まりに行く」
と、何軒か向こうの教員住宅に、寝巻を持って出かけて行った。多分、私たちが泊まったので、浩の寝る場がなかったのかも知れない。が、その時は、若い女教師の家に泊まりに行く浩を、
(大っきらい!)
と、私は内心蔑《さげす》んだ。
苫前のこの家に、私たちは十日も厄介になっただろうか。浩は時々私を小学校のそばの砂山に連れて行った。砂山の砂には砂鉄がたくさん含まれていて、雨の降った翌日など、黒い砂鉄が大蛇のように黒々とうねっていた。連れて行ってはくれたが、浩はほとんど口をきかなかった。広口のビンを私に持たせて、浩はむっつりと砂鉄採りに夢中だった。馬《ば》蹄《てい》型《けい》の大きな磁石を砂鉄に近づけると、砂鉄は生きもののようにむくむく頭をもたげ、針のように尖《とが》り、つらなって磁石にぶら下がった。浩はその砂鉄を広口のビンになすりつけて中に落とす。浩の整った横顔を見ながら、男の子はなんと退屈なものかと私は思った。女の子なら、イタドリの葉にままごとのご馳《ち》走《そう》を盛り上げる時も、泥をこねて団子を作る時も、絶えずよく喋《しやべ》るものだ。が、浩は、砂鉄以外に何の興味もないかのように、磁石を砂鉄に近づけては、広口ビンに入れることを繰り返している。
(男なんて、勝手なものだわ。自分の好きなことばかりして遊んでいる)
浩には、私の存在など眼中にないようであった。が、浩が私に注意を向けるのは、食事のあとなどで、ひょいと私の鼻をつまむ時だった。私の鼻は団子っ鼻である。長兄の道夫が、よく私を見て、「鼻べっちゃん」と、自分の鼻をおさえて言ったものだ。浩が私の鼻を日に幾度もつまんだのは、あまりの形の悪さに見かねて、形をよくしてやろうと思ってのことだったかも知れない。が、鼻をつままれる私は不愉快だった。とにかくこの美少年は、私にとっては、そのすることなすことが気に入らぬ少年だった。のちに、私は盲腸炎で旭川の病院に入院した。十八歳の時であった。たまたま浩は胸を悪くして、私の家から旭川市内の病院に通っていた。私が入院していた二週間のあいだ、浩は一日も欠かさず私を見舞いに来てくれた。そしてきれいな字で、毎日何通もの手紙を代筆してくれたり、二人で漢字の書きくらべをしたりしたものだった。
私が四年生の時に浩を嫌ったのは、もしかしたら、本当は嫌っていなかったのかも知れない。といって、二人は十七、八になってから、特に仲よくなったわけでもない。浩自身、毎日見舞いに来ながら、時折こう言った。
「ぼくはね、綾ちゃんを見舞いに来てるんではないんだよ。ここの看護婦さんたちの顔を見に来てるんだよ」
その翌年、浩は苫前で死んだ。今思い出しても、きょうだいのように懐かしく、忘れ得ぬ人である。
それはともかく、私は毎日のように鼻をつままれては怒っていた。
18
私たちの滞在している間に、苫《とま》前《まえ》村に活動写真が上映された。会館といわれる村営の、今でいえば公民館といわれるようなものがあって、映画はそこで上映された。どんな映画であったかは忘れたが、二人の弁士が映画に従ついてやって来た。トク小母の兄の林《りん》平《ぺい》小《お》父《じ》が興行師で、彼が連れて来た人たちだった。トク小母はご飯を炊いて、おひつごと会館に運んだ。私たちも漬物のどんぶりや茶《ちや》碗《わん》などを運んで行った。弁士は四十近い男たちであったような気がする。二人は私には目もくれず、女学校一年の、色白で愛らしい姉にばかり言葉をかけていた。そして私たちにゴム風船をあげると言って、奇妙な風船をふくらませて、ひとつずつくれた。その風船を見て、トク小母が何とも言えない妙な顔をしたのを、今でも覚えている。私たちが風船と思いこんだのは、どうやら大人の使うものであったらしい。むろん、そう気づいたのは、戦後も十年を過ぎてからだった。
活動写真は、一つの村で、一晩か二晩上映されるだけで、すぐに隣の町や村に行ってしまう。その時の映画も、この二人の弁士たちと一緒に、一晩限りで隣町の羽《は》幌《ぼろ》の町に行くことになった。私たちも林平小父に連れられて羽幌に行った。羽幌は苫前より遅くひらけた所だが、ずっと大きな町になっていた。映画も会館などではなく、旭川と同じくらいの立派な映画館があった。確か大正座といった。私と姉は、開演前の切符もぎり場に坐ってみた。何でもやってみたかったのだ。下足番の小父さん以外は姿が見えない。切符をもぎる男も見えなかった。と、どやどやと客が入って来て、私と姉に、
「やあ」
と、親しげに片手を上げて、切符も出さずに次から次へと館内に入って行く。
「困った、困った」
二人は顔を見合わせ、泣き出しそうになった。そのうちに、細身の中年の男がやって来て、
「邪《じや》魔《ま》だ、邪魔だ」
と、私たちはその場から追い出された。そのあと、姉と私は何となく笑いころげたことを覚えている。
私たちはその夜、大正座に泊まった。観客が帰った客席に、綿のはみ出した布団にくるまって寝た。旅役者は皆、このようにして客席に寝るのだと、林平小父から聞かされ、私はひどく驚いたものだ。
この大正座は、確か料理屋も経営していたように記憶している。夕食時であったか、昼食時であったか忘れたが、席主の茶の間で、ご飯をご馳走になった。三《さん》平《ぺい》汁《じる》だった。三平汁は北海道特有の料理で、塩《しお》鰊《にしん》または塩鮭を主に、馬《ば》鈴《れい》薯《しよ》、大根、長ねぎ、ささげなどを煮こんだ塩味の鍋《なべ》物《もの》である。それを、三平皿という深皿に、身をたっぷりと入れて食べるのだが、魚嫌いの私には、あまりありがたいご馳走ではなかった。
テーブルは二つに分かれていたのだったろうか。料理屋に勤めている酌婦も一緒のテーブルに向かっていた。不器用な私が、鰊の骨も取れず、食べあぐんでいると、隣に坐っていた酌婦が、
「どれ、貸してごらん」
と、優しい声で私の手から皿を受けとり、骨をていねいに取ってくれた。ほつれた髪と、その青白い頬《ほお》が、そのひとをひどく淋《さび》しく見せていた。私は泣きたいほど、そのひとが慕わしく思われた。口数は少ないが、仕《し》種《ぐさ》がしみじみと優しい人だった。白地の浴衣《ゆかた》を着ていたような気がする。私がこの時、水商売の女性に対して、言いようのない親しみを覚えたのは幸いであった。
海や島を初めて見たばかりではなく、苫前に来て私はいろいろな珍しい体験をした。中でも忘れられないのは、苫前でのある雨の日のことである。土砂降りといってもよいほどの雨が、それでも少しは雨《あま》足《あし》が衰えて、林平小父とトク小母が幾本かの傘を持って家を出て行った。焼《やぎ》尻《しり》の島から、旅回りの芸人たちが着く時間だという。間もなく旅芸人の一行がどやどやと家に入って来た。誰もがびしょぬれだった。
炭火を真っ赤に熾《おこ》した炉のそばで、旅芸人たちはタオルで頭や顔を拭《ふ》いたり、体を暖め始めたりした。総勢五、六人ぐらいの、旅芸人たちであった。驚いたことに、男も女もびしょぬれになりながら、実に明るい顔をしていた。子供がおもしろがって雨の中を駆けぬけて来たような、そんな表情だった。
「泳いで来たのと変わりがないわ」
誰かが言い、みんながどっと笑った。ギターを抱えた男や、三味線を持った女の中に、水色のドレスを着た大柄な女がいた。一座の姐《あね》御《ご》のような感じで、彼女は炉端にながながと寝そべって、バッグの中から手紙を取り出した。年齢は二十代とも四十代とも見える人だった。もう幾度も読んだらしい手紙を取り出して、彼女は低い声で読み始めた。そして傍らに坐っている三味線ひきの女に、こう言ったのを私は聞いた。
「ねえ、ちょっとここに、こんなやさしいことが書いてあるでしょ。だけどさ、あの人は、この言葉ほどはやさしくはないと思うの」
そう言ってまた読み始めたが、やがて再び、
「ほらね、この一番最後に書いている言葉は、ちょっと冷たく見えるわね。でも、これは、さほど冷たい気持ちで書いたとは思えないのよ。私はね、字と字の間にある、あの人の心を読み取ろうとして、何度も何度も読み返しているの」
三味線ひきの女は黙ってうなずいていた。間もなく水色のドレスの女は、同じ言葉を繰り返した。酔っ払いの繰りごとのようであった。が、三味線ひきの女は別段いやな顔もせず、ふんふんと相《あい》槌《づち》を打っていた。私はその女に言いようもない優しさを感じた。それは、大正座で三平汁の鰊の骨を取ってくれた、あの女の人の優しさに似ていた。一方、幾度も幾度も、ぬれたドレスのままで、手紙を繰り返し読み、同じことを繰り返し言う女も好きになった。恋愛小説を読み始めていた私には、優しい言葉を優しくないとか、冷たい言葉を冷たくないとか言いながら、ひたすら手紙を読み返す姿に、何か心を打たれたのだ。少しずつ、少しずつ、私も大人の世界に近づいていくようであった。
盆踊りの太鼓が鳴り渡る八月十三日頃になると、北海道はもう浴衣《ゆかた》一枚では、夜は寒い。お盆の墓参りをすませた私たちは、十日余り滞在した苫前に別れを告げた。林平小父の家の前の空地にカラスが群れ、木の枝にとまっていた雀《すずめ》が、風に大きく揺れていたのが妙に印象的だった。乗合自動車に乗って去って行く私たちを、浩が帽子をふりながら追いかけて来た。私も窓から顔を出して手をふった。
19
二学期になった。
隣のクラスの教師が替わった。私たちの学年は四組あって、四年一組は柴《しば》田《た》市太郎という、口ひげを生やした先生だった。渡辺ミサオ先生と同様、一年生から六年生まで持ち上がりであった。いつ見ても笑顔で、いかにも慈父という感じの先生だった。二組はいろいろと先生が替わったが、四年の時から六年までは工藤甲《こう》逸《いつ》先生だったと思う。背のすらりと高いスポーツマンの先生だった。一組と二組が男子組で、三組と四組が女子組であった。日本画の上手な女教師が三組の受け持ちだったが、二学期になって、吉田忠雄という若い師《*》範学校出の男の先生が赴任してきた。精《せい》悍《かん》という言葉がぴたりと合いそうな、色の黒い元気一杯の教師だった。黒い詰襟の服を着、はちきれそうな太《ふと》股《もも》だった。子供の私には、足をズボンにぎゅうぎゅうと詰めこんだような印象であった。
この吉田先生は、見るからに毎日がおもしろくてならないというように、若い自由な発想で、教室の飾りつけをしたり、生徒の躾《しつけ》をしたりしているのが、隣のクラスの私たちにもわかった。三組と四組の女子組は、時々体操の時間を共にした。その日は、二つのクラスがドッチ・ボールの試合をすることになっていた。吉田先生が入って間もなくであったろうか。運動場に集まった私たち四組の生徒は目をむいた。三組の女生徒はみな、ブルマーを穿《は》いていたのである。それまでブルマーなるものを、私たちは見たことも聞いたこともなかった。いや、ブルマーだけならよい。家庭の経済状態もあるので、全員がブルマーを用意することは不可能だった。ブルマーのない子は、ズロースを丸出しにして、ブルマーの代わりにしていたのである。ズロースを人目にさらすなどとは、思ってもみなかった。私たち四組の女の子は眉《まゆ》をひそめ、
「よかったねえ、わたしたち三組でなくて」
と、ささやき合ったものだった。とはいえ、このこと一つにも現れているように、吉田先生がさまざまな新風を巻き起こしていることを、心のどこかで私たちも評価していたような気がする。
三組は男の先生だから、裁縫を教えるわけにはいかない。渡辺先生と交換授業で、習字や算数を吉田先生が四組に教えに来てくれることがあった。その初めての習字の時間であった。先生は黒板に半紙を貼《は》り、そこに手本を書き示した。そして、
「誰の名前を書くことにしようかな」
と、教室の中をぐるりと見渡し、私にひょいと目をとめると、おや、という顔をした。先生は教壇から降りて、私のそばにつかつかとやって来た。私はぎくりとした。何か咎《とが》められるのかと思った。
「お前の名は何と言うんだ?」
吉田先生はにこっと笑った。色は黒いが歯は真っ白であった。
「堀田綾子」
「あやはどんな字だ」
「はい、糸へんに土……」
「わかった。むずかしい字だな」
先生はなぜか満足げに微笑して教壇に戻り、私の名を手本の半紙に記してくれた。私のどこが気に入ったのか、以来吉田先生は、習字の時間には、「誰の名前を書こうかな」と言いはするが、たいていは私の名を書いてくれた。
そればかりか、廊下で行きあうと、私を抱きしめるのだ。それが必ず羽《は》交《が》いじめであった。
「こら、逃げるのか」
肩をすくめてすりぬけようとすると、先生はわざと大きな声で言う。やがて吉田先生は、私に「デブシャン」というニックネームをつけた。授業時間に指名する時も「デブシャン」と呼び、廊下で会っても「デブシャン」と呼んだ。放課後、ドッチ・ボールの猛練習をする時も、その手心を加えぬ火の玉のようなボールを受け損ねると、
「デブシャン! 何をしてる!」
と怒《ど》鳴《な》る。私のこのニックネームは、たちまち他の学年にも知られてしまった。丸顔で大柄な私は、デブと呼ばれても、そうおかしくはなかった。私はこの綽《あだ》名《な》が気に入った。元来お人好しの私は、デブという言葉よりも、シャン(美人)のほうに重きをおいて聞いた。シャンという言葉がつけば、デブシャンであろうと何であろうと、大いに満足する子供だったのだ。この懐かしい吉田先生は、先年脳卒中で惜しくも世を去られた。
20
四年生の秋に始めた牛乳配達を、年が明けても私はつづけていた。配達の件数が次第に増えた。朝五時に起きることは、そう苦痛ではなかったが、しかし冬の早朝の寒さはきびしかった。オーバーを着、毛糸の帽子をかぶり、襟巻を首にまき、厚手の毛糸の手袋をはめて外に出る。零下二十五、六度に下がった朝は、一息、息を吸っただけで、鼻毛が粘りついた。両手にはずしりと重い牛乳を提げている。寒い朝はよくしたもので、雪は降らない。一歩歩くごとに、雪道は澱《でん》粉《ぷん》を踏みしめるように、きゅっきゅっと音を立てた。空気も凍ったかと思うほどの、言いようもない静けさが寒さとともに身を包む。やがてまつ毛が白く凍りついてくる。瞬きをしながら、自分の足音を聞きながら、歩いて行く。あの静けさ、あの寒さが私に与えたものは何であったろう。私にはよくわからなかったが、あれは大人の言葉で言えば、哲学的な瞑《めい》想《そう》を誘《いざな》う精神的な世界であったと思う。しっかりと口を結んで、黙々と、まだ薄暗い朝の道を行く時、私はなぜか心が満たされていた。
いろいろな家に配達に行った。商家もあった。サラリーマンの家もあった。そんな中に、二軒、いまだに印象的な家があった。一軒は宿屋のように大きな二階建ての家だった。が、どうも宿屋ではなかった。同じような造りがその前にも隣にもあった。朝の遅い界《かい》隈《わい》だが、時に人力車が人を乗せてゆっくりと走っていくのを見かけることもあった。そんな時、玄関の白いカーテンの隙《すき》間《ま》から見えるその家の中には、引き伸ばされた女の写真が並んでいるのが見えた。私は牛乳瓶を受け箱に入れながら、そんな写真をなぜか恐ろしいと思った。日本髪のその女たちが一様に私を注視しているように思われたのだ。夕刻のこの界隈を行くと、人の往来が賑《にぎ》やかだった。女たちの姿が見えた。半《はん》纏《てん》を着た男たちもいた。男の客たちもいた。そこが遊郭という所で、女たちが体を売っていると知ったのは、のちのちのことである。大きな門がこの界隈の一画にあって、その近くに交番があった。この界隈は、私の家の裏手の橋を渡ると、すぐのところにあった。
もう一軒の印象的な家は、わが家から二、三軒先の、五十嵐久《きゆう》弥《や》という人の家であった。この家こそ、どんな職業の人の家か、私には見当もつかなかった。この家の白壁は少し土が落ちていたが、いつも何かしらビラが貼《は》ってあった。そのビラが縦に斜めに、無秩序に貼られ、「無政府主義!」「無産党!」などと書かれてあったようだ。いつも刑事が家の周りをうろうろしているという話も聞いた。
(まさか泥棒じゃないと思うけど……)
何とも無気味な雰囲気の漂う家であった。私は毎日牛乳配達をしてはいたが、春、夏、秋と季節は移っても、その家の主人は見かけなかった。客の出入りも少ないようであった。
月々の集金には私が行った。非常に無口な静かな奥さんがいて、私のような子供が行っても、きちんと坐って応対した。子供だからといって、決して突っ立ったまま見おろすことはなかった。だが、一度できちんと支払ってくれることは少なかった。
「〇〇日に来てください」
言いにくそうにその人は言った。私は何となく悪いことをしたような気がして、黙って頭を下げて帰って来たものだ。
一年も経《た》った頃であったろうか。姉と近所を歩いた時だった。姉が私の脇《わき》腹《ばら》を突ついた。
「綾ちゃん、五十嵐久弥よ!」
私は驚いて足をとめた。その人は確か、和服を着流しにしていたように思う。爪《つま》楊《よう》枝《じ》を使いながら、何かを考える深い目をしていた。その人は立ちどまった私をじっと見つめた。いや、見つめたといっても、私の顔を見たのではなかった。それは宙を見ているまなざしといってもよかった。
(なんて素敵な人だろう! 大《お》日方《びなた》伝《でん》みたい)
大日方伝とは、当時の俳優で、苦味ばしった美男子であった。五十嵐久弥という人は、知的で優しい顔をしていた。どうしてこの人の家の周りを刑事がうろつくのか、いよいよ私にはわからなかった。
その後、思想犯として捕えられ、敗戦の日まで獄中にあったことは、戦後になって知ったわけだが、思想犯という言葉も子供の私には理解し得ぬ言葉であった。
五年生になって忘れられないのは、新学期の級長選挙のことである。渡辺ミサオ先生が、
「これから級長選挙をします」
と、投票用紙を配ろうとした時だった。突如、思いがけなく、「堀田さん!」「堀田さん!」という声が、教室の中に湧《わ》き起こった。まるでクラス中が申し合わせたように、私の名を呼《よ》び立てるのだ。こうして、無投票で私は級長になった。この時の感激は、その後の私をどんなに支えてくれたことだろう。女学校に入ってからも、小学校の教師になってからも、心が弱った時に、何もかもいやになった時に、私はこの日の叫び声を思い出すのだった。純真な小学校の友だちが、損得なしに私を指名してくれたその気持ちを思うと、深い慰めを感ずるのだった。その後五十年経《た》った今でも、私はあの日の友情に、言い難い感謝を覚えることがある。私は無愛想な女の子で、格別に親切だとか、優しい性格でもなかった。だから、なぜあの時、みんなが私に級長になることを望んでくれたのか、実に不思議でならないのだ。あのような選挙の仕方は、その前にも後にも、一度もなかった。
副級長は作間富枝という、几《き》帳《ちよう》面《めん》で口数の少ない女の子だった。作間富枝は、私が三年生の級長になった時も、副級長になった生徒だった。私は彼女を非常に尊敬していた。それは彼女が、几帳面で物静かで、成績がよいというためばかりではない。三年生の時であったか五年生の時であったか、記憶は薄れたが、彼女は作文に自分の父親のことを書いたことがあった。彼女の父親が豆腐屋で毎朝薄暗いうちに起きて働く。自分の寝ているうちに起き出して行くその父を案じて書いたその作文を、渡辺先生がみんなに読んで聞かせた時、私は涙をこぼした。クラスの誰一人として、あのように自分の親を思って書ける者はいなかった。むろん、私も書けなかった。小学生の私たちは、親の辛《つら》さを思いやるほどに成長してはいなかったからであろう。
何の用事でか、五年生の初夏のある日、私は友だちと四条十一丁目の仲通りを歩いていた。その通りの真ん中には、開拓以前からの大きな広葉樹が聳《そび》えていて、私はその道が好きだった。文化住宅といわれる二戸建ての家があった。その家の前に来た時、一緒に歩いていた石原寿みが言った。
「知ってる? ここは佐野文《ふみ》子《こ》さんの家だよ」
「へえー、こんな小さな家」
私は立ちどまってその家をのぞきこんだ。佐野文子という人がどんな人か、私たちはよくは知らなかったが、旭川の誰もがその名を知っている有名な人であった。あちこちで演説をするという話だった。私の父なども、「佐野文子」「佐野文子」とよく言っていた。
(有名になると、どうして呼び捨てにされるんだろう)
そんなことを考えたのも、その頃だった。
それから間もなく、級友の一人が私にそっと告げてくれた。
「あのね、堀田さん、渡辺先生がね、活動写真を見ると、不良になると言っていたよ」
聞いた途端に私は憤慨した。なぜならクラスの中で、私が誰よりも度々映画を見ていたからである。私は早速先生に抗議した。
「先生、活動写真を見ると不良になると先生は言われたそうですが、わたしは絶対に不良になんかなりません」
平《へい》生《ぜい》語調のきつい私である。それが抗議したのだから、よほどきつく響いたのではないだろうか。先生はいささかたじろいだように言われた。
「あのね、先生はね、活動写真を見ると、不良になりやすいと言ったけれど、不良になるとは言いませんよ」
私は生来、まことに単純極まる人間である。「不良になる」という言葉と、「不良になりやすい」という言葉は、全くちがった言葉であると、私は直ちに判断した。先生が善意で注意してくれたのだと、その言葉を諒《りよう》解《かい》することが出来た。
「わかりました。それならいいんです」
私は抗議したことを恥じた。と、先生がおっしゃった。
「堀田さん、あなたは大きくなったら、佐野文子さんのような人になりますね」
それは私を励ます言葉であった。が、私には素直に受け入れることが出来なかった。
「わたしは、佐野文子さんのような女史にはなりません」
生意気にも私は、切り返すように答えた。先生はちょっと困ったような顔をしていられた。家に帰って、私はそのことを親たちに告げた。
「……それでね綾子、佐野文子さんのような女史にはなりませんって、言って来たの」
午後遅く、昼食を摂《と》りに帰って来ていた父が、呆《あき》れたように私を見て笑ったが、佐野文子について語ってくれた。
「綾子、佐野文子さんという人は、可哀《かわい》そうな人のために、命がけで働いている人だよ。あの人のようになれたら大したもんだが、お前にはまあ、なれまいな」
父の話によると、その可哀そうな人というのは、遊郭に売られた女の人たちのことであった。佐野文子は、大正の末から昭和にかけて、娼《しよう》婦《ふ》解放のために、文字どおり命がけで活躍したクリスチャンであった。
七師団の旭川には、二十数軒もの遊郭があり、百二十人を超える女たちがいた。女たちは貧しい家を助けるために売られて来たという。抱え主たちは、女たちを牛馬のように邪《じや》慳《けん》にこき使った。病気になっても手当てもせず、逃げればたちまち追っ手がかかる。余りの苦しさに、石狩川に投身自殺する女も珍しくなかった。この、死ぬよりほかに逃げ場のない女たちの実態に、佐野文子は憤然として立ち上がったのである。彼女は、
「困っている人たちは、いつでも逃げていらっしゃい」
というビラを撤《ま》き、女たちの逃走を助けた。女たちが佐野文子の家に逃げこむと、着替えさせて、文子は女たちと共に、隣の近《ちか》文《ぶみ》駅まで、一里半ほどの道を急いだ。旭川駅では追っ手の目が光っているからである。ある時は、この逃げてきた女と共に鉄橋の上を歩いていて汽車に遭い、二人で鉄橋の下に飛び降りたこともあった。幸い砂地であったから助かったものの、文字どおり命がけであった。女たちの逃走が多くなると、廃《はい》娼《しよう》運動を妨害する暴力も熾《し》烈《れつ》になった。廃娼運動の講演中、突如襲いかかった暴漢に日本刀を突きつけられ、一瞬気を失ったが、再び立ち上がって講演をつづけたこともある。留守宅の畳には、幾度も出刃包丁が突き立てられてあった。しかし佐野文子はひるまなかった。
〈人その友のために命を捨つる、これより大いなる愛はなし〉
が、最も彼女の愛する聖句であった。後にNHKの会長となった前田義《よし》徳《のり》氏を育てていたのも、その頃であった。
私が友だちと共にのぞきこんだあの文化住宅の家は、小さな家だが、こんな大きな働きの本拠だったのである。
父の話を聞いた私は、「佐野文子さんのような女史にはなりません」などと先生に反《はん》駁《ばく》した自分が恥ずかしくてならなかった。「ならない」のではなく、「なれない」のだと思った。
21
多分その頃だったと思う。次兄菊夫がある日曜日、
「いい所に連れてってやろう」
と、私を街に連れ出した。菊夫兄が私を街に連れ出すことなど、それまで全くなかったから、私はちょっと戸惑った。私とこの兄は九歳ちがいで、私が物心ついた時には、兄はすでに大人であった。商業学校を卒業した兄は、その頃どこかの商店に店員として住みこんでいたのではないかと思う。そのたまの休みに、私を連れ出したというわけである。
兄のいう「いい所」は、何と、カフェー「太陽」であった。カフェーは、今でいうとバーであろうか。私は以前に、母の弟の由《よし》夫《お》叔父に連れられて、カフェーに行ったことがあった。その時は夕刻だった。姉や叔母などが一緒だったような気がする。叔父を先頭に一団が入って行くと、華やかな嬌《きよう》声《せい》で私たちは迎えられた。たちまちお絞りが運ばれ、私の手を女給さんが熱いタオルで拭《ふ》いてくれたのを覚えている。お絞りは近頃のものと思うのだが、私の記憶では、女給さんの柔らかい手が、私の手を拭いてくれた感触として残っている。私はそこで、緑色の甘い飲み物を飲んだ。私はその時非常に驚いた。子供の私を、下にもおかぬ扱いをしてくれる女給さんたちの優しさに驚いたのである。彼女たちは絶えず子供の私に話しかけ、肩を抱き、頬《ほお》ずりをし、愛《いと》しげに扱ってくれた。こんな大人に会ったことはなかった。
(えらいものだ)
私は心からそう思った。当時の女給たちは、長《なが》袂《たもと》の着物に、白い襷《たすき》のエプロンをつけていた。そんな経験があったので、カフェーに入ることに私は抵抗を感じなかった。
が、今度のカフェーは、叔父と行ったカフェーとはちがっていた。多分真昼であったからであろう。女給はただ一人しかいなかった。ひっそりとした店の中に、客は兄と私の二人だけであった。煉《れん》瓦《が》色《いろ》の着物を着た女給は、お絞りで手を拭いてくれなかったし、頬ずりもしてくれなかった。が、私のことは知っているらしく、静かな声で尋ねた。
「級長だってね。女学校へ行くんでしょう」
兄は幸せそうな顔をして、タバコをくゆらしていた。私は首を横にふり、
「わたし女学校には行きません。家が貧乏だから、お手伝いさんに行きます」
と、ぶっきらぼうに答えた。
「あら、お手伝いさんに?」
彼女は兄の顔を見た。兄は何ともいえない、ばつの悪い顔をした。
「冗談よね」
女給は執り成すように言ったが、
「ううん、わたしお手伝いさんに行くの」
と、私はにこりともせずに言った。今思い出しても、この時の兄の困惑ぶりが、生々と思われて気の毒な気がする。兄はまだ、満十九歳になっていなかった。夜、カフェーに行く金はない。しかし、昼間から一人で逢《あ》いに行く度胸もない。それで、口数の少ない私を連れてカフェーに行った。お目当ての女性が、その日の当番ででもあったのだろう。子供の目から見ても、二人の心は通い合っているように見えた。その二人の前で、家が貧乏だからお手伝いさんに行くと私は宣言したのだ。もしかしたら、兄はその女性に、自分の家はちょっとした金のある家だと言っていたのかも知れない。私の言葉はどんなに兄を困らせたことだろう。私はこの時の女性に好感は抱いたが、何となく自分が兄に利用されたという思いは、子供心にも残った。しかし、父母にはむろんのこと、仲のよい姉の百合子にも、カフェーに連れられて行ったことは口外しなかった。べつだん口どめされなくても、言わないほうがいいだろうぐらいのことは、心得ていたのだろう。兄は二度と私をカフェーに連れ出すことはなかった。
五年生といえば、必ず思い出すのが日の丸の旗である。その年、「国旗」という題であったか、「日の丸」という題であったか忘れたが、作文を書かされたことがあった。私は書くことは嫌いではなかったが、この題には参った。昭和八年(一九三三年)、小学五年生であった私にとって、日の丸は作文に書くほど生活に密着したものではなかった。小林多喜二が検挙され、虐殺された年であったが、まだ出征兵がぞくぞくと出て行くという世情ではなかった。日の丸の旗に手を触れるのは、祝日に軒先に掲げた国旗を取り入れる時ぐらいであった。
全くの話、私には書くことがなかった。いたしかたなく私は、日の丸の白地は日本人の清廉潔白さを表すとか、赤は忠君愛国の真心を表していて、世界一の立派な国旗だとか、誰もが言うような、実に平凡なことを書いた。それだけでは余りに短いので、新雪の元旦に、はたはたとはためく日の丸の美しさは心に沁《し》みる、などと書き足してみた。日の丸に馴《な》染《じ》んでいないのだから、やむを得ないとはいえ、読み返してみて、われながらつまらぬ作文だと思った。
この作文は全国の小学生に書かせたものらしい。私のそのまずい作文が、クラス代表として、東京のほうに送られた。私は恥ずかしさで、憂《ゆう》鬱《うつ》になった。われながらまずいと思った作文が送られる。なんともやりきれない気持ちだった。が、私はこの発表の日を待ち遠しく思った。こんなむずかしい題で、一等をかち得る人は、どんな作文を書くのか、という期待があったからだ。
幾日か後に入選発表があった。先生は全国一位の入選作品を私たちに読んでくれた。私は全身を耳にして聞いた。むろん、ただ聞いただけであるから、文章を記憶しているわけではない。が、その内容を今も鮮やかに覚えている。それは満《まん》洲《しゆう》国《こく》に住んでいた男生徒の綴《つづ》り方であった。
〈ぼくたちの部落は、あっという間に匪《ひ》賊《ぞく》に囲まれてしまった。ぼくたちは家の中に隠れて、何日もの間おののきふるえて暮らしていた。いつ、匪賊が家の中に踏みこんで来るか、ぼくはもう生きた心地もなかった。ところがそのうちに、日本軍がぼくたちを助けに来てくれた。皇軍は日の丸を先頭に立てて、威風堂々とぼくたちの部落に入って来た。ぼくはその日の丸を見て泣いた。命が助かったから泣いたのではない。その日の丸の旗を見て、実にぼくは日本男児だという自覚と誇りに泣いたのであった〉
およそこのような内容であった。私はほとほと感心した。私が手に余した日の丸が、ここでは正《まさ》しく翩《へん》翻《ぽん》と翻っていた。なるほど綴り方というものは、このような生活から生まれ出るものでなければならない、血と涙と喜びが通っているものでなければならない、と私はいたく感銘したのである。私は自分の作文と、満洲国に住む少年の、同学年とは思えぬ大きな差に、作文のあり方を知らされたのである。渡辺先生が日頃、
「ほんとうによい生活をしなければ、よい綴り方は生まれません」
と、言っておられたことの意味が、ようやくわかったような気がした。確かその時、一組の有《あり》好《よし》という少年が、佳作か三等あたりに入っていたと覚えている。以上は現在云《うん》々《ぬん》されている「日の丸問題」とは全く関《かか》わりのない時点での思い出話である。
先にも書いたが、私が、「ほととぎす鳴く頃」という小説らしきものを書いたのは、実にこの年であった。
忘れ得ぬもう一つのことがある。それは確か大阪で起きたことだと思うが、あるいは他の町でのことかも知れない。小学校の女生徒の弁当に毒が入っていたという事件があった。当時は皆、母親が作ってくれた弁当を持って、学校に通っていた。私たちの場合、弁当棚《だな》というのがストーブのそばにあって、弁当が冷えないようにその棚に並べておいたものだ。冬期、寒さのきびしい旭川のことだから、そうでもしなければ、弁当は凍ってしまうかも知れないのだ。
東京や大阪のほうでは、弁当をどうしていたかは知らないが、とにかく弁当に毒が入っていたというのは、ショッキングな事件であった。毒を入れられたのは首席の少女であった。毒を入れたのは、成績が次席の子の家のお手伝いだという話であった。おそらく、お手伝いはその子の母親の命令によって入れさせられたのでもあろう。首席の子を妬《ねた》む親のなせる業《わざ》であった。私の三番目の兄都志夫が、
「そんなに一番になりたいのかなあ。いくら一番だと威張ってみたって、日本中の一番を集めたら、ビリになる一番だってあるのにな」
と笑った。私は兄の言葉に深い共感を覚えた。
22
母の母である祖母は、その頃もよく、わが家に手伝いに来ていた。昭和八年のわが家の家族構成をメモしてみよう。父、母、父の妹である叔母、長兄、次兄、三兄、姉、私、弟三人、妹、都合十二人であった。この頃までが、わが家の平和な時代であったように思う。よく、満洲事変について、兄たちが父と話し合っていた情景を思い出すが、それが激論になる一歩前に父が結論を出した。兄たちは、マラソンや柔道でそれぞれ体を鍛えていて、利かん気の者ばかりだったが、父や母に言い逆らうということは、全くといってよいほどなかった。それは、あまりにも父権が強かったからである。夕食時に、ことわりなしに誰かが欠けていると、父はむやみに我《が》鳴《な》り立てた。
「どうして遅いんだ!?」
「何時に帰ると言った?」
「誰かすぐ迎えに行って来い!」
その場にいたたまれないほど我鳴り立てる。いちばん叱られるのは母である。みんな心得ていて、いかにも迎えに行くような顔をして、一人が外に出る。そこで父が少し落ちつく。しかし帰って来るまで、小言は絶えない。それでいて、本人が帰って来ると、
「遅かったな」
のひとことさえ言わず、素知らぬ顔で新聞を読んでいる。怒《ど》鳴《な》られるのは居合わせた家族だけで、遅くなった当の本人には何の咎めもない。この辺の事情をのみこんでいるから、お互いに帰りが遅くなる時は、予《あらかじ》めことわっておく。ことわっておかなくても、
「遅くなると言っていたよ」
と、その場にいる者が取りつくろう。だが、一度こんなことがあった。兄たちの中でいちばんまじめな三番目の兄が、その夜帰って来なかった。とうとう兄は外泊してしまったのである。兄の親友が、朝早く一緒に従《つ》いて来て、マージャンをしていて引きとめて悪かったと謝ったが、父は決して許さなかった。兄と友人は両手をついて平《ひら》蜘《ぐ》蛛《も》のように謝った。兄の蒼《そう》白《はく》な顔が今も目に浮かぶ。
こんな時、兄たちは決して父に弁解がましいことは言わなかった。ただ謝るだけだった。何があったのか、めったにないことに母が長兄を箒《ほうき》の柄で殴ったことがあった。長兄は自分の手で頭はかばったが、何も言わずに殴られていた。私たちきょうだいも、こんな場合、代わりに謝るとか、とめることをしたことがない。そのほうが、事の解決が早いことを、お互いに知っていたからだろう。
不思議なことに、こんな事件で家の中が気まずくなることはなかった。私たちは、じっと叱られている兄たちに同情したり、尊敬の念さえ抱いたりしたし、親たちの怒りはそれなりに納得出来て、非情だとは思わなかった。だが、そんなことがあったあとは、なぜか私は祖母の家に行きたくなったものである。祖母は、いつ会っても同じ顔をしていた。真っ先に出る言葉は、
「よく来た、よく来た」
であり、次の言葉は、
「母さん元気かい」
であった。その前日わが家に手伝いに来ていても、祖母は必ずそう聞いた。十二人もの家族の主婦として、ワンマンな夫に気兼ねしながら暮らしている娘が、祖母にはどんなにいとおしかったことであろうか。祖母はいつも貧しかった。私の家に手伝いに来たからといっても、三度の食事のほかに、祖母に何をもって報いることが出来たであろう。おそらく母にも、祖母にやる小遣いなどなかったであろう。祖母の家には息子夫婦と末娘がいた。息子の給料は、そのまま嫁の財布に入ったであろうし、デパートに勤めていた娘の給料は安かったであろう。
「何もなくてねえ」
祖母はうろうろして、八つ切りにした新聞紙に中《ちゆう》白《じろ》砂糖を包んでくれたものだった。そのうまかったこと、あの砂糖よりおいしい菓子を私は知らない。
そんな祖母のそばで、私はべつだん何を語るのでもなかった。五年生の私に、祖母はもうおとぎ噺《ばなし》を語らなくなっていた。その代わりに、祖母の幼い日の話をしてくれた。
「ばっちゃんはね、母さんが早くに死んでね、四つの頃から子守りに行ったの」
祖母は秋田の生まれだった。祖母が子守りに行った先は歯医者だった。継母がこの祖母を虐待するのを見兼ねて、子守りとして引き取ってくれたのだそうだ。
「ばっちゃんも学校に行きたかったけどね」
「なんも字わからんで恥ずかしいけどね」
祖母はこう言い言いした。この幼い祖母を置き去りにして、父親と継母は北海道に移って行った。
「近所の人がね、北海道さ行っから、父ちゃん母ちゃんのとこさ連れて行くかって、ばっちゃんば北海道さ連れて来てくれたんだよ」
可哀《かわい》そうに祖母は、近所の人に連れられて、十一、二の頃に北海道に渡った。が、捨てた子供を歓迎するわけはない。やがて祖母は養女に出された。実弟と共に、佐藤という家の養子になった。幸い、いい養父にめぐり会い、大事にされて育ったらしい。が、すでに小学校に行く年齢は過ぎていた。祖母が片仮名を習ったのは、末娘が上海《シヤンハイ》に移り住んでからであった。娘の手紙を読みたかったのである。
祖母は、どうしてこんなに優しいのかと思われるほど、優しい人であった。祖母が自分の身の上話をしてくれたのは、孫の私に必要なことだと思ったのかも知れない。裕福ではなかったし、父の怒声は絶えなかったが、お前はそれで充分幸せなのだよ、と言いたかったのかも知れない。とにかく私は、祖母の不遇な半生を知ることが出来たのであった。
その年、私のクラスのM子が火事に遭った。M子の住んでいた長屋が全焼したのである。気の毒にも、M子は額に火傷《やけど》さえした。渡辺先生は見舞いの品を集めた。私は自分の家に、人にあげるものなどあるだろうかと、不安だった。わが家の押入れには、もう着られなくなった古物ばかりがあって、着ることの出来るものなどなかった。それでも、桐《きり》の箪《たん》笥《す》が二つあった。が、あれには父母や叔母の着物が入っていたように思う。父は小さな新聞社の営業部長だったから、安物ではあったろうが大島を着、セルの袴《はかま》を穿《は》いて、時には仙《せん》台《だい》平《ひら》の袴も穿いた。下駄にも足《た》袋《び》にも、いつも神経を遣っていた。だが子供の私たちは大したものを着ていなかった。
よく、幼少時、親に叱《しか》られて押入れに入れられたという話を聞く。が、わが家には二間の押入れが二つあったものの、そこには子供の入る隙《すき》間《ま》などなかった。とにかくそんなことで、古着しかないと思っていたから、私の心は暗かった。
家に帰って、恐る恐る母に言うと、
「火事に遭ったら、何にいちばん困るだろうね」
母はじっと考えていた。そして母が出してくれたのは、なんと丹前であった。つい一カ月ほど前縫い上げた自分の丹前だった。母は、いつも誰よりもボロの丹前を着ていた。丹前を出したあと、母はしばらくの間、昼に着ていた着物を、丹前代わりに着て寝ていたものだった。丹前は北国には欠くべからざる夜具なのである。
このM子は、友だちからもらったセーターを、喜んで着ていた。成績はあまりよくはなかった。彼女はほとんど、授業時間に挙手したことはなかった。だが火事に遭ってから、算《そろ》盤《ばん》など熱心にするようになった。
その日、理科の時間だった。授業がたまたま、甘酒に及んだ。
「甘酒の造り方を知っている人」
渡辺先生がそう言った時、手を挙げたのはM子ただ一人だった。私はその日の感動を忘れることが出来ない。私は算数や国語は、彼女よりは出来た。クラスの大抵の生徒たちは、彼女より成績がよかった。が、甘酒の造り方を知っている者は一人もいなかった。彼女の母は木工場に勤めているとかで、朝は早く夜は遅かった。五年生のM子は、その母を助けて家事を手伝っていたのだろう。ご飯も炊いたろうし、魚を焼くことも出来たろう。洗濯もしただろうし、掃除もしたことだろう。誰も知らなかった甘酒を上手に造ることが出来たし、まだまだ上手に出来ることがあったろう。そんな彼女に、私は尊敬の念を抱いたのである。
(成績はよくなくても、出来るものがたくさんある)
彼女は私の目をひらいてくれた恩人の一人である。のちに彼女は、私の家の近所に移って来た。わりあい仲よくしていたが、二十代の半ばを過ぎて、彼女は死んだ。鉄道自殺だった。新聞には小さく、「妙齢の美女、鉄道自殺」と出ていた。彼女はもしかしたら、額の火傷《やけど》を苦にして死んだのかも知れない。
23
秋であったか、春であったかは忘れた。学校から帰って来ると、近所の家の前に、人が五、六人立って何か話をしていた。私はいつもその家の前を通っていた。
(何があったのかしら?)
私はその人々と、二階建ての家全体を眺めるようにして、小首をかしげた。その家から二、三人が出て来た。話し合っていた人たちはちょっと横によけた。何となくあわただしい。人々がまた何か話し始めた。近所の人ばかりなので、
「こんにちは」
と、私は頭を下げて通り過ぎようとした。その中の一人が言った。
「綾ちゃん、ここの長《おさ》巳《み》ちゃんが、ついさっき死んだんだよ。帰ったら母さんにそう言って」
「えっ! 長巳さんが!? ほんと?」
「ほんとうだとも」
私は思わず駆け出した。
(長巳が死んだ、長巳が死んだ)
それは自分でも思いがけないほどの解放感であった。正直にいえば喜びでもあった。また、「ざまあみろ」とでもいいたい思いでもあった。どんな事情があるにせよ、人が死んだ途端、万歳と叫び出したいような喜びや、「ざまあみろ」などという言葉が胸をかすめるのは、おだやかではない。小学五年生の子供だったからといって、許されていい感情とは思えない。だが、この時の私の気持ちを隠さずにいえば、このとおりであったのだ。
私が初めて人の死を身近に経験したのは、五歳の時であったと先に述べた。まだ死というものを理解出来ない幼い年齢の時に、私は直感的に死の本質を感じ取ったものだった。その私が、五年生にもなって出会った死は、そうした本質的な感じ方から遠いものであった。それはなぜか。
私が七、八歳の夏だった。その日、どういうわけか、私は一人で、わが家の近くにある牛朱別川の畔《ほとり》で遊んでいた。暑い日だったが、その岸には人影一つなかった。と、その時、
「向こうまで連れてってやろうか。おれの背中におぶさんな」
という声がした。見上げると、麦《むぎ》藁《わら》帽《ぼう》をかぶった、浴衣《ゆかた》姿《すがた》の色の黒い男が立っていた。多分、数えで十六、七の筈だったから、少年であったのだが、背の高いその少年は、子供の私から見ると、大人に思われた。この色の黒い少年が長巳だった。その日まで私は、彼と口をきいたことがなかった。いつも陰気な顔をして、出窓に腰をおろし、ギターなどを爪《つま》弾《び》いていた。その長巳が人と話し合っているのを私は見たことがない。ただ近所に住んでいるだけの存在だった。私は、長巳の指さした「向こう」なる所に目をやった。それは大きな中《なか》洲《す》で、川《かわ》原《ら》柳《やなぎ》が幾本となく茂っていた。泳ぐことの出来ない私は、一度でいいから渡ってみたいと常々思っていた。その中洲は美しい所に思われた。いや、たとえ美しくなくても、中洲とか、島には、人は渡ってみたい誘惑を感ずるのではないだろうか。私は、
「うん」
と、素直にうなずいた。長巳も私もパンツ一つになり、着物を岸に置いた。私は、うしろから長巳の首に手をまわした。
「しっかりつかまっているんだぞ」
長巳の声は、顔と同じように陰気だった。色は黒いが、決して健康な感じではなかった。長巳は私を背負って、流れに入った。彼の泳ぎは巧みだった。あとで思い出しても、あれは稀《まれ》に見る泳ぎ手の泳ぎだったと思う。川原柳の茂る中洲に着いた私は、小石を拾ったり、岸のほうを眺めたり、砂を掘って川の水を引いたりして、一人で遊んでいた。が、そのうちに、不意に私は淋《さび》しくなった。空がくもってきたのだ。川遊びの最中、日がかげってくる時ほど、子供の心を不安にさせることはない。遠くで雷の音がした。
「帰る!」
私は長巳に言った。長巳は柳の陰に腰をおろして、じっと私のすることを見ていたようだったが、急に帰ると言い出した私をじろりと見た。そして長巳は、いきなり私を膝《ひざ》の上に抱き上げ、
「言うことを聞かないと、帰さない」
と言った。言うことを聞くことが、どんなことか、私にはわからなかった。黙っている私に、長巳は繰り返して言った。
「言うことを聞かなければ、帰してやらない」
長巳の唇が、むやみに赤く見えた。私は長巳の無気味な顔と、その言葉に怯《おび》えた。中洲から岸までは十五、六メートルはあった。流れも早い。泳ぎを知らない私は、到底一人では帰れそうもない。長巳は私を、自分のほうに向けて坐らせた。
「さわってもいいな」
長巳は恐ろしい目で私を見た。
「さわってもって、どこに?」
そう言った時だった。突如、
「言ってやるぞ」
という声がした。声の主は、近所に住む三年生の男の子だった。そのうしろに、六年生の兄もいた。絶えず母親に、がみがみと叱《しか》られている兄弟だった。勉強嫌いだったが、誰に対しても、いつもにこにこしていた。かなり後になって、この兄弟の名を新聞の片隅に見て驚いたことがある。兄弟は空《あき》巣《す》狙《ねら》いの常習犯として検挙されたのであった。だが、彼らがのちに何になろうと、あの時、中洲に現れてくれたことは、私にとって、何とありがたいことだったろう。長巳は、「帰る」「帰る」と騒ぎ立てる私を、しぶしぶ背にして川岸に戻った。
そんなことがあって以来、長巳と顔を合わせることがあっても、私は長巳を見ないようにした。長巳に対して覚えたあの時の恐怖は、説明がつかない。よく「人さらい」の話を聞いて恐れたことがあるが、それに似ていてそれでもない。殺人強盗の話を聞いたことがあるが、それともちがう。何か人には言えないいやらしさを直感したのだ。
長巳への嫌悪は、時が経《た》つにつれ薄れるというものではなかった。長巳の家の前を通る時、鳥肌の立つこともあった。思わず、走り去ることもあった。
そうした思いを繰り返すことは、子供の私にとって、呪《じゆ》縛《ばく》にでもあっているような重苦しさであり、無気味なことでもあった。とにかくそんなことがあったのだ
その長巳が肺病だと聞いたのは、いつの頃だったろうか。窓辺にギターを弾く姿もほとんど見かけなくなって、長巳が寝たっきりだということを聞いた。それでも彼の家の前を通るのは恐ろしかった。その長巳が死んだのだ。私は、一《いち》途《ず》に長巳を嫌っていたから、いささかの憐《あわ》れみも抱かなかった。人の死に対して、そんな冷酷な感情を持ったのは、私にとって決して幸せな体験ではなかったと思う。
この年、私はもう一つの死に遭った。
それは、私の通っている大成小学校の校長の死であった。校長は河《かわ》田《た》忠《ちゆう》平《へい》といった。当時の大成小学校は、尋常科二十四学級、高等科八学級ほどの、旭川でも大きな小学校であった。校長である河田先生には、クラスの担任はなかった。毎朝、屋内運動場に全校生徒が整列し、朝礼が行われた。二千名近い生徒が、咳《せき》払《ばら》い一つせず、静粛にして校長の現れるのを待つ。校長は革のスリッパを履いていて、上《うわ》靴《ぐつ》を履いている他の教師とは、全くちがった足音を立てる。その足音が中央の渡り廊下にひびき、やがて運動場に入って来る。ばたりばたりという、そのスリッパの音が、私には何ともいえず好ましい音に聞こえた。それは多分、河田校長がいかにも大校長らしい風《ふう》貌《ぼう》をしていて、小さなことにこだわらない性格を持ち、教師たちや生徒たちに敬愛されていたからかも知れない。親分肌の、心の広いその校長が、胃《い》潰《かい》瘍《よう》で倒れたと聞いた。にわかに、毎朝の朝礼が淋《さび》しくなった。朝礼のたびに、校長が何か訓示を垂《た》れたわけではない。ばたりばたりとスリッパの音を立てて壇上に上がると、朝礼当番の教師が、「礼!」と声をかけ、生徒も教師も一斉に頭を下げる。校長が答礼する。特別にこにこしていたわけでもなく、むろん気むずかしい顔をするわけでもない。いかにも頼りになるといったような、あたたかい、穏やかな表情をしていた。その校長を遠くから眺めただけで、私たち生徒ははなはだ満足であった。少なくとも私はそうであった。
校長が危篤だということを、受け持ちの渡辺ミサオ先生から聞いた。私の心は重くなった。死なないで欲しいと思った。校長の家は、大成小学校から三百メートル離れた所にあった。すぐ隣に、栃木静子という級友が住んでいた。
「校長先生はどんな具合かしら」
私は静子に聞いた。
「このあいだまで、庭の花《はな》畠《ばたけ》を見てたけどね」
静子はそう言った。
ある日、授業中に突如非常ベルが鳴った。渡辺先生が顔色を変えて、授業半ばの教室を飛び出して行った。その間、生徒たちは自習をした。そんなことが幾度かあって、遂に校長は亡くなられた。
「ただいま校長先生は亡くなられました」
渡辺先生が泣きながら告げると、クラスの誰もが大声で泣いた。私も泣いた。なぜかわからないが、私や石原寿みは椅《い》子《す》の上に立ったまま泣いた。今、その姿を思い出すとおかしくて仕方がないのだが、なぜ、椅子にかけたまま泣かなかったのか、全くわからない。
泣きながら私は、次第に不思議に思った。校長先生に言葉をかけられたことのあるのは、おそらく家が隣の栃木静子だけの筈である。にもかかわらず、まるで自分の親でも死んだかのように、みんなはおいおい泣いている。なぜだろう。
(ほんとうに悲しいのだろうか)
そんなことを思ったりした。
葬式の日になった。天気のよい暑い日だったと思う。校長の柩《ひつぎ》を乗せた金色の霊《れい》柩《きゆう》車《しや》が、夏の日にきらきらと輝いていた。その霊柩車が校長の家を出、校庭を一周し、近くの小さなお寺に行った。全校生徒は沿道に立ち並び、校長の柩にふかぶかと礼をした。霊柩車の供をして、生徒代表や父兄代表の列がつづいた。生徒代表は、各クラスの級長、副級長である。私もその代表の一人として、のろのろと進み行く霊柩車のあとにつづいて歩いていた。
が、この日はもう私たちは泣いてはいなかった。むしろ、何かお祭りのような、うきうきした気分であった。私たちのうしろには、一組と二組の級長、副級長がいた。彼らは男子だった。一組の級長Oが、「大根足」「大根足」と幾度も言うのが聞こえた。多分、すぐ前を行く私たちの足を見て、彼はそう言ったのだろう。Oは額の広い、生《き》真《ま》面《じ》目《め》な顔の、学年一の秀才だった。
(へえー、Oさんでも大根足などと言うのか)
私は、大根足というOの言葉に、女の子への関心を感じ取ったのである。
寺には代表の生徒だけが入った。が、代表である筈の生徒たちは、小声で何かささやき合ってはくすくすと笑い、目立たぬようにではあるが、小突き合ったり、叩《たた》き合ったりしていた。私自身もお祭り気分になっていながら、校長先生に申し訳のないような気がした。
(誰も、悲しまないものだなあ)
その死を聞いた日に、クラス全体が大声をあげて泣いたのも本当なら、葬式の日に神妙に出来なかったのも本当だった。これが子供たちの葬式だった。この時の様子は、8ミリ映写機に撮られ、のちに学校の屋内運動場で映写された。行列の中に、私の姿がちらりと映っていた。自分の姿が映写された最初でもある。
24
私の家には風《ふ》呂《ろ》があった。風呂といっても、桶《おけ》で出来た据え風呂で、体を洗うところは流し台の上だった。脱衣所などというものはなかったから、子供たちは皆、茶の間で真っ裸になり、台所を駆けぬけ、風呂場に飛んで行く。その頃、女のきょうだいが三人、兄三人、弟三人の九人きょうだいだった。むろん、私より年長の兄や姉たちは、障子の向こうの台所の隅で衣服を脱いでいたが、私はまだ茶の間で弟たちのように裸になっていた。生まれた時から男のきょうだいがいたわけで、自分が裸になるのも、兄や弟の裸を見るのも平気だった。入浴の時ばかりではない。寒さのきびしい冬の朝など、寝床で着替えすることが出来なかった。何しろ、掛布団の襟が真っ白に凍っている。壁にきらきらと霜がついている。部屋の空気はあまりに冷たくて、針のように肌に刺さる。だから、枕元にある自分の服を持って、ストーブの燃えている茶の間に走る。このように、きょうだいたちの前で裸になることは、少しも恥ずかしいことではなかった。
ところがある朝、三男の都志夫兄《あに》が、例のごとく素っ裸になった私に、
「綾子、綾子はなあ、来年はもう六年生になるんだから、人前で裸になってはいけないよ」
と、静かにたしなめた。都志夫兄は、確かその時、数え十八、中学五年生の頃ではなかったろうか。今の高校二、三年の頃である。すでに、体重は八十キロ近くあって、柔道初段であった。が、普段は無口で、滅多に人に干渉などしなかった。その兄が、やや言いづらそうに、しかし意を決したように、私をたしなめたのである。私は不意に、裸でいる自分が恥ずかしくなった。
(あら、ほんとにわたしは裸なんだ)
私はその時初めて、自分が素っ裸で人の前にいることに気づいたのである。それはちょうど、アダムとイブが禁断の木の実を食べてのち、自分たちが裸であることに気づき、いちじくの葉で前を隠したというあの二人にも似た感情であったろう。兄はさぞ、私に裸の恥を気づかせたいと思っていたにちがいないと思う。あの時の兄の語調を思い返すと、そう思わずにはいられないのである。
無頓着な私は、自分の体の変化に少しも気づいてはいなかったが、多少胸もふくらんできていたのであろう。五年生の三学期、確か二月であったと思う。きびしい冬の朝、目が覚めると、何か股《もも》のあたりがぬれているような気がした。粗相をしたのかと思った。が、私は、寝小便の気《け》は、幼い時からなかった。恐る恐る股をひらいてみると、股にもシーツにも血がべっとりとついていた。途端に私は、
(切られた!)
と思った。が、切られたにしては何の痛みもない。私は母を呼んだ。
「母さん、血だよ! どうしたんだろう?」
驚くと思いのほか、母は極めて平静な顔で、
「ああそれはね、体が大人になると、女は毎月一度、そういうことになるんだよ。母さんたちもそうなったんだから、心配はないよ」
と、早速T字帯や脱脂綿を持って来て、処置の仕方を教えてくれた。母が少しも騒がずに、静かに、ごく当たり前のこととして扱ってくれたので、私も妙に恥ずかしがったり、深刻に考えることなく、自分の体が大人になった事実を受け入れた。しかし、この突如の出来事は、私にとって全く思いがけないことではあった。婦人雑誌などは読んでいたが、当時の雑誌で生理に関する記事を読んだことはない。載っていたのかも知れないが、子供の私の興味を惹《ひ》く記事ではなかったために、読まなかったのかも知れない。当時、小学校五年生の初潮は珍しかった。だから、母も叔母も姉も、私にその知識をあらかじめ伝える必要を感じなかったのであろう。とにかく、何の心備えもないままに、私の体は大人の仲間に入ってしまった。
初潮を迎えてから、私はあらためて都志夫兄の忠告を思い出した。兄の目には、大人になりつつある私の体の微妙な変化が見えたのであろう。思春期ともいえる、まだ少年の兄が、「人前で裸になってはいけない」と言ってくれた言葉に、私は兄の誠実さを感じて、ありがたく思ったことだった。
(でも、どうして大人になると、女の人はこんな妙なことになるのだろう)
私は学校に行っても、そんなことを考えていた。誰一人、私のような経験をしているようには見えなかった。急に級友たちが無邪気に見えた。自分より子供に見えた。そのくせ、母が、「大人になったら誰でもあることなのよ」と言った言葉を思い出し、大人たちは偉《えら》いものだと思った。こんな面倒なT字帯などを、一カ月に一度あてがいながら、その秘密をさりげなく生きているとは、何と大変なことだろうと思った。そして、自分自身では、大人になったという自覚がないのに、体だけは大人の仲間入りをしたことに、誇らしいような、納得のいかないような、不思議な思いがするのだった。
それからどれほども経《た》たないある日、隣のクラスのE子という女子のうわさを聞いた。彼女は格別大きな体ではないものの、どうやら初潮を迎えたらしいのである。E子は脱脂綿をみんなに見せびらかしながら、「どんなもんだい」と、級友たちに威張っているということだった。私には、とても真《ま》似《ね》の出来ることではなかった。仲よしの三輪昌子や、笹井郁にさえ、告げ得ない私一人のひっそりとした体験だった。とても脱脂綿を鼻の先にちらちらさせながら、威張って歩く勇気などはない。だがE子は、あけっぴろげに喜び、級友たちに吹《ふい》聴《ちよう》して歩いているのだ。
(偉い人だわ。豪傑だわ)
私はそう思った。体が大人になった時、本当はE子のように喜ぶべきではないかと、のちのちまで私は思った。まだ昭和九年のあの頃に、あんなにも堂々と、「どんなもんだい」と、自分の体が大人になったことを、ふれてまわった女生徒がいたことは、実に愉快な気がする。ところで私の級友たちは、何歳で、どんな思いで初潮を迎えたのであろうか。私は十一歳十カ月であった。
25
五年生の年は、私の一つの節目であった。五年生の夏休みには、先にも述べたように、一冊のノートに恋愛を絡めた時代小説「ほととぎす鳴く頃」を書いた。ということは、私の心の中に、異性への憧《あこが》れがすでに目覚めていたということなのだろう。同学年には二つの男子組があったが、そのうちの幾人かの名は覚えていた。秀才の小野寺彰《あきら》、その彼と首席を争う、目の大きなM、のちに三輪昌子と結婚したハンサムで頭のよかった古川和《かず》水《み》、貴公子のような風《ふう》貌《ぼう》だったが、六年生になっても母親と一緒に女風呂に来ていたT(私は時々銭湯にも行っていた)、後援会長の息子の岡田等々。そして、上級生にも下級生にも、幾人か名を知っている男の子がいた。むろん私は、男子のみならず、他の学年の女子の名もかなり知ってはいたが、こうした中で、特に私の心を惹《ひ》いたのはNだった。
Nは飛びぬけて成績がよいわけでもなく、人目を惹くようなハンサムでもなかった。彼はスポーツが得意だった。私が心を惹かれたのは、放課後、彼がよく一人で、バスケット・ボールを抱えて、シュートの練習を、繰り返し繰り返ししている姿だった。誰もいない広い屋内運動場で、誰に見られようとするのでもなく、毎日のように、ひたすらシュートの練習をしている。それはひどく孤独にも思われたし、強い男子にも思われた。トイレに行くには、必ず屋内運動場を横切らねばならないので、いやでも彼の姿を見ることになる。彼は私のことなど眼中になかったし、私も彼を立ちどまって眺めていたわけではなかった。にもかかわらず、私は彼のシュートを練習する姿に、男らしさを感じたのだ。恋というには、あまりに淡い感情だが、小学校時代の男生徒といえば、あの根気よく練習を繰り返していた彼の姿が目に浮かぶ。
ある時、校内珠算競技会があった。各クラスの選手たちが、一室に集められた。すでに男生徒は並んでいた。どういうわけか、男生徒のそばに女生徒が並ぶことになっていた。偶然、私はNと同じ机に並ぶことになった。が、何しろ一年生の時から男子組と女子組は分かれていて、男子と並んだことはない。しかも相手はNである。私は、すぐには坐れず、もじもじと立っていた。彼の受け持ちの工藤甲《こう》逸《いつ》先生が、
「堀田さん、何も恥ずかしがることはないよ。早く坐りなさい」
と、優しく促した。私は不承不承という形で彼の横に坐った。が、内心はうれしかった。珠算などどうでもよかった。読上げ算、見取り算、暗算と、競技は進んだが、心が落ちつかなかったためか、普段より私の成績は落ちた。彼も必ずしもいい成績ではなかったようだ。といっても、彼の場合、私と並んだからではないだろう。
先日、小学校時代のクラス会があった時、三輪昌子が言っていた。
「わたし、Nさんによくいじめられたわ」
私は直ちに言った。
「あら、それはね、あなたに関心があったってことよ」
こんなことは、もう五十年も前の昔のことで、どうでもよいことだが、小学校教師を七年間した私の体験からいうと、男の子というものは、不思議に関心のある女の子を追いまわしたり、突きころばしたり、その持ち物などを取って逃げたりするものなのだ。三輪昌子に心惹かれた男子は、まだまだたくさんいた筈だ。桜色の頬《ほお》、上品なまなざし、優しく美しい顔立ち、男子にも女子にも好かれる少女だった。彼女は近眼で、私は中耳炎を患って耳が遠かった。二人は、一度一緒の机に並びたいと思った。そこで一計を案じたことがある。席替えが行われる朝、彼女は目が悪いから一番前に坐らせて欲しいと言い、私は耳が悪いから一番前にと、渡辺先生に申し出たのだ。先生は多分二人の魂胆を見抜かれたと思うが、望みどおりに二人を並ばせてくれた。この三輪昌子のように生徒たちの心を惹《ひ》く女生徒がもう一人いた。それは一級上の、七《なな》里《ざと》智《ち》恵《え》子《こ》という女生徒だった。この子が学芸会で、透き通る絹の日傘をまわしながら、数人の生徒と共に踊った袂《たもと》姿《すがた》は、今もありありと目に浮かぶ。それはまさに、光を放っているような美しさだった。しかも、あたたかい感じのする、「尊い」といってもよいほどの美しさだった。おそらく彼女の何級上の生徒でも、何級下の生徒でも、男女残らず憧《あこが》れたにちがいない。そういう存在が、時々生徒の中にあるものだ。
ともあれ、私が心を寄せたNの胸には、私がいなかったことだけは否めない。
五年生の後半から、すでに受験勉強がぼつぼつ始まっていた。渡辺先生が、
「女学校に行く人は手を挙げて」
と、みんなを見渡した。二十人以上が手を挙げた。私は挙げなかった。先生が言われた。
「堀田さん、どうして手を挙げないの」
「わたしはお手伝いに行くので、女学校には行きません」
本当にそう思っていたので、私ははっきりとそう答えた。
「ふざけてはいけません」
先生は取り合わなかった。私は内心不服であった。私の父は小さな新聞社の営業部長をしていた。まさに、それは小さな新聞社であった。大学出という、おとなしい記者が一人いた。ほかにもいたのかも知れないが、主な仕事は彼が一人でやっているようであった。その彼がわが家に来て、酒を飲んだことがあった。いや、彼が酒を飲むことは珍しくはなかった。父の客には、酒が出るのが普通だった。彼は酒もおとなしく、いつもにこにこしていた。が、その日の酒は深酒で、彼はストーブに向かって立ち小便をし、そのままその場に眠ってしまった。
翌朝、彼が帰ったあと、母が私たちに言った。
「あんな優しい人が、おしっこをするまで飲むなんて、よくよくのことだよ。今度見えても、決して笑ったり、おしっこのことなど口に出したらいけないよ」
私は、なるほどと、母の言葉に感じ入ってうなずいた。いつもは温和な彼が、酔いつぶれるほどに飲んだのは、何かわけがある筈で、それは多分給与のことと思われた。何しろ、いつつぶれても不思議のないような哀れな新聞社で、毎日印刷工が紙代を父の所にもらいに来た。その印刷工は、工場の責任者というのに、素《す》袷《あわせ》を着流しにして、髪は一度も櫛《くし》を入れたことのないような蓬《ほう》髪《はつ》だった。青ざめていて、肺でも病んでいるような、悪い顔色をしていた。父が金を渡すと、ぼそぼそと口の中で何か言い、おとなしく帰って行った。その姿は、あたかも江戸時代の素《す》浪《ろう》人《にん》のようでもあった。彼は、誰か女の人と同《どう》棲《せい》しているということだったが、一種の美青年でもあった。彼はもらったその金で、一日分の紙を買い、翌日新聞として発行するわけであった。
だから、営業部長といっても、父は広告取りだった。が、不思議なことに、父には外交の手腕があって、かなり気むずかしい人でも、父には金を出してくれたらしい。中には、長い旅行をする時に、
「堀田が来たら渡すように」
と、広告料を家人に渡しておいてくれた人もいた。その人の娘さんは、のちの衆議院議員で、運輸大臣まで務めた佐々木秀世氏の夫人サヨさんであった。
父は後年無尽会社に入ったが、外交員としての成績は、優に二十人の働きを超えるといわれた。それはさておき、そのボロ新聞社で、父は実に忠実に勤めた。その新聞社が命脈を保っているのは、父の働きによるといわれたものだった。紙代にも困る新聞社でありながら、社長は昼間から花柳界にいつづけという連日だった。記者が泥酔したのは、その辺にあったのかどうか。父はしかし、天《あつ》晴《ぱれ》というべきか、情ないというべきか、この社長の悪口を家人に言ったことがない。兄たちが陰で、
「大《だい》楠《なん》公《こう》だよ、親《おや》父《じ》は」
と、呆《あき》れていた。大楠公とは、いうまでもなく、忠臣と呼ばれた楠木《くすのき》正《まさ》成《しげ》のことである。
勤務先がこのような状態の上に、父は親戚の面倒を見ねばならなかった。一軒の親戚は、主人が病気で収入は皆無、しかも老いた父母がおり、小学生を頭《かしら》に五人の子供を抱えていた。
また、私の母方の祖母の家も、祖母の夫がすでに亡く、師範学校に行っている息子や、女学校に通っている娘もいた。この家にも、幾《いく》何《ばく》かの援助をしなければならない。親戚の者が家に来て、何かひそひそ話しているかと思うと、母はいつの間にか座を立って、箪《たん》笥《す》の中から羽織などを取り出し、風《ふ》呂《ろ》敷《しき》に包んで小走りに駆けて行く。二丁ほど先に市営質屋があって、母は帯の間に僅《わず》かばかりの金を入れ、帰って来て親戚の者に、ちり紙に包んだその金を手渡すということが、幾度かあった。
どんな理由で金を借りに来たとか、どこに行って、幾らの金をつくって来たとか、いっさい母は言わなかったが、広くもない家のこととて、子供たちは、いつの間にか何とはなしにわかっていたようだ。だが子供たち同士でも、それについてはいっさい言わなかったから、のちにお互いが大人になってから、思い出話に誰かが語っても、それを詳しく知っている者もあり、知らない者もあるという始末である。
そんな状態の中で育っていたから、自分の家は貧しいと思うのが当然だった。私の母は蝦《が》蟇《ま》口《ぐち》をいつも茶の間の茶《ちや》箪《だん》笥《す》の上に置いていた。母のいない時、私はよくその蝦蟇口をそっとあけてみた。大きな、五十銭銀貨が何枚か入っていれば、ほっと安心して蝦蟇口を閉じた。五十銭銀貨が一枚もない時は、ひどく淋《さび》しい思いをして、蝦蟇口を閉じた。母の生涯の自慢は、いつも蝦蟇口を茶箪笥の上に置いていたが、ただの一度も、一銭銅貨一枚なくなっていたことはない、わが家の子は正直だ、ということだった。格別私たちが正直であったわけではない。誰もがわが家の経済状態を肌で感じていたのだ。
そんなわけだから、私がお手伝いに行くと渡辺先生に言ったのは、私としてはふざけたのではなかったのだ。が、先生から見ると、兄たち三人が中等学校に行き、姉が女学校に行っているのに、私が行かない法はないと、考えられたにちがいない。
そんな次第であったが、とにもかくにも、私も受験生の仲間になって勉強を始めた。私はしばらくの間、受験生がみんな「全科」と呼んでいた学習書を持っていることを知らなかった。そのようなものがあることさえ気づかなかった。あると気づいてからも、私は親に、「全科を買ってほしい」とは言わなかった。教科書さえあれば足りると信じている親たちに、言い出すことは出来なかったのだった。
26
六年生の教室は二階にあって、ちょうど職員室の真上にあった。南向きのその教室は、六条通りに面していて、教室の窓から松の木に囲まれた奉安殿が見おろされた。
六年生になった昭和九年四月一日のその日、私は窓に寄って、渡辺ミサオ先生の言葉を思っていた。
「あなたがたは、尋常科の最高学年です。これからは、もっと下級生を可愛《かわい》がってあげなければなりませんよ」
私には、その「最高学年」という言葉が、実に新鮮にひびいた。無理もない、生まれて初めて私たちは最高学年になったのだから。
窓べに立っていた私は、ふと一つの疑問を持った。奉安殿の前は最敬礼をして通らねばならない。その奉安殿を、教室から見おろしてもいいのだろうか、という疑問だった。奉安殿には天皇、皇后の写真と、教育勅語が納められているはずだった。教師たちも、生徒たちも、この奉安殿の前を通る時、必ず最敬礼をする。式の時には、校長はフロック・コートに身をただし、真っ白な手袋をはめて、教頭を従え、うやうやしくその写真と教育勅語を式場に移した。私たち小学生は、四年生の時から教育勅語を習い、誰もが諳《そら》んじていた。
〈朕《ちん》惟《おも》フニ我カ皇祖皇宗国ヲ肇《はじ》ムルコト宏《こう》遠《えん》ニ徳ヲ樹《た》ツルコト深厚ナリ我カ臣民克《よ》ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一《いつ》ニシテ世々ソノ美ヲ済《な》セルハ……〉
小学四年生がよくこんなむずかしい言葉を読み、諳んじ、理解したものだと思うのだが、子供というものは意外に記憶力も理解力も持っているものだ。この勅語を知っていたからこそ、奉安殿を上から見おろしてよいのかという疑問を持ったわけだが、そのことについて、教師たちから特に注意されたことはなかった。式場に天皇の写真が飾られると、全校生徒は咳《せき》払《ばら》いひとつしてはならず、指一本動かしてはならなかった。不動の姿勢で、終始緊張していなければならなかった。校長が教育勅語を読む間は、いっせいに首《こうべ》を垂れ、上《うわ》目《め》を使ってもならなかった。だからこそ、私には奉安殿を見おろすことが「畏《おそ》れ多い」ような気がしたのだった。が、それについて、なぜか渡辺先生に問うこともしなかった。もし質問をして、あまり窓から外を見てはいけないなどと言われては、困るとでも思ったのかも知れない。
そのころ、隣のクラスに、福田淳《じゆん》子《こ》という少女が転校してきた。背の低い、痩《や》せた子だった。顔色もあまりよくなかった。が、その大きな目は、白眼がちでありながら、不思議な光をたたえていた。それは、今まで見たことのないまなざしだった。親しみ深く、しかしつつましく、どこか遠慮深げに、そして何か深いものを感じさせる目であった。歩き方や動作も、他の生徒たちのように、走りまわるとか、ふざけるなどということはなかった。いつも何かを考えているような少女だった。
おかしな話だが、この淳子が、私の家の二軒おいて隣に住んでいることを知ったのは、彼女が移って来てから一カ月近くも経《た》ってからではなかったろうか。五年生のころから、私は外で遊ばなくなったし、淳子もまた外に出ることを好まぬ性格らしかった。その彼女が、ある日自分の家の前で、弟やその兄と、ドッチ・ボールのボールを投げ合って遊んでいるのを、私は見かけたのだった。驚く私に、しかし彼女は驚かなかった。どうやら彼女のほうでは、私が朝夕牛乳配達する姿を、家の中から見ていたらしいのである。
「遊ばない?」
彼女は静かな声で私を誘った。彼女はいつも微笑していた。私はドッチ・ボールが好きだった。クラスでも体の大きいほうの私は、彼女よりドッチ・ボールが強いと、最初から自負して遊びに加わった。が、彼女は意外に鋭い球を投げ、受け外すこともめったになかった。キャアキャア声をあげて騒ぐことなく、妙にひっそりと立ち回るのだが、ほとんど失敗がなかった。
(不思議だわ)
私はそう思った。その兄も弟も静かだった。彼女の弟は色白で、ものやさしかった。私より三つほど年下らしかった。兄なる人はすでに社会人で、上《かみ》川《かわ》支庁に勤めていた。上原謙という美男俳優が登場し始めたころではなかったろうか。彼女の兄は、まつ毛のくるりと反り返った美男子で、上原謙にも劣らぬ男性であった。
そのボール遊びがきっかけで、私と淳子は時々外で立ち話をするようになった。たいていは本の話であった。が、私には太刀打ちは出来なかった。彼女の読んでいる本を、私はほとんど読んでいなかったからである。彼女の兄は北大の土木専門部を出ていて、本を多く読んでいるらしく、その本を彼女が読んでいたのである。その彼女が、私にぽつりと聞いたことがあった。
「綾ちゃん、大きくなったら何になりたいの?」
私は、学校の先生になりたいと、無邪気に答えた。
「淳子ちゃんは?」
問い返す私に、彼女は、
「学者になりたい」
と、はにかんだように言った。人形ケースにでも入れて飾っておきたいようなかぼそい淳子の、学者になりたいという言葉に私はショックを受けた。それは私の考えたこともない世界だったからだ。小学六年生になったばかりの女の子が、学者になりたいという。
「どうして?」
驚く私に、
「だって、勉強が好きだから」
と言った。確かに彼女は勉強の好きな少女だった。
私は淳子に少なからず心《こころ》惹《ひ》かれたが、しかしクラスがちがったから、つきあう機会はあまりなかった。近くに住む若い娘たちが、時々人待ち顔に外に立っているのを見かけることがあった。子供の目にも、明らかに彼女の兄の帰宅を狙《ねら》っているのだと思われた。その兄の名は幸太郎といった。私たち子供は、「幸太郎さん」と呼んだ。幸太郎さんは子供の私たちにも愛想がよかった。
「やあ、お手伝い?」
牛乳瓶を提げている私に、そんな言葉をかけることもあったし、
「おうちの皆さん、元気?」
と、尋ねることもあった。大人が、そんなふうに私たち子供を一人前に扱うことに馴《な》れていなかったので、その言葉のひとつひとつが、もの珍しくひびいた。が、私はまだ、彼の心に何が芽生えていたのかを知らなかった。
六年生になると、それまでとちがって、学校代表ということが度々あった。図画や、綴《つづ》り方や、そしてスポーツの代表である。綴り方や図画の場合は、一日だけ放課後に残って仕上げればそれですんだ。だが、スポーツの場合はそうはいかなかった。まずドッチ・ボールの練習がそれであった。五年生までは、他校と試合するなどということは、考えたこともなかった。が、六年生になると、他校との試合を考えて練習しなければならなかった。
この練習が実に猛烈だった。指導は六年三組担当の吉田忠男先生であった。私を可愛《かわい》がって、「デブシャン」という綽《あだ》名《な》をつけてくれた先生であった。廊下で会うと、必ず抱きしめてくれたこの先生が、一旦練習となると鬼のようであった。選手の一人一人を屋内運動場の肋《ろく》木《ぼく》の前に立たせる。私たちはランニング・シャツに、ブルマー一つつけて、恐る恐る肋木の前に立つ。旭川師範を出て三年目の吉田先生は、身心共にのっている。六年生の女の子たちを相手に、いささかの手心も加えない。渾《こん》身《しん》の力をこめて、火の玉のようなボールを打ちつけてくる。鳥肌の立つような恐ろしさだ。そのボールを外すと、
「そんなことでーっ、選手と言えるかーっ!」
とか、
「デブシャーン、何をやってるーっ!」
と怒声が飛ぶ。渡辺ミサオ先生は、まちがってもそんな乱暴な叱《しか》り方をしない。一年生からずっと渡辺先生に受け持たれてきた私たちには、その怒声はボールよりも怖い。一人が十回ずつも、その激しいボールの攻撃を受ける。骨も砕けるかと思うほどの強いボールだから、受けそこねると、うしろの肋木にボールが音を立てて跳ね返る。それがまた怖い。この時の恐ろしさは、誰の身にも沁《し》みていたものと見えて、長じてのクラス会にはよく話に出る。こんな練習を毎日重ねていたから、私たちはどこの学校と試合をしても、負けることはあるまいと思うようになった。当時、私たちの大成小学校は、旭川市内の中心部にある大きな小学校であった。馬鹿なもので、大きな小学校の生徒は、小さな小学校の生徒より、成績もよくスポーツも強いという錯覚を、しばしば抱いた。私たちの強敵は、私たちの大成小学校よりやや大きい中央小学校だけのような気がしていた。
あれは七月頃だったと思う。そんな過激な練習を重ねていたある日、突然、大《たい》有《ゆう》小学校から練習試合の申し込みがあった。
(大有小学校? どこにあるの?)
私たちはそんな気持ちだった。大成小学校が大有小学校に負けるわけはない、といういわれのない誇りが私たちにはあった。何しろ、他校の生徒の練習を見たこともなければ、他校と試合もしたことがない。いきのいい吉田先生の猛練習を受けているのだからという、それだけのことが私たちを安心させていた。
今もあの時の、真夏の日を照り返す白いグラウンドの光を忘れてはいない。両校の生徒は一礼し、試合開始の笛が鳴った。が、試合が始まって、二分と経《た》たぬうちに、私たちの優越感はたちまち崩れ去った。試合前は、相手はただの平凡な小学生に見えた。体格も私たちのほうがよかった。が、試合が始まるや否や、私たちは息をのんだ。大有校の選手たちの中に、目立って小柄な女の子がいた。当時のスケート女優ソニヤ・ヘニーによく似たこの女の子を中心に、大有校の選手たちは見えぬ糸で一つになっていた。小型ソニヤ・ヘニーの投げる球は実に猛烈であった。大の男の吉田先生の球より、もっと鋭かった。私たちの打ちこむ球は、彼女にいともたやすく受けとめられた。しかも彼女は、その手にボールが触れるか触れぬうちに、まさに電光石火の素早さで、鋭くわが陣に打ちこんでくる。むろん強いのはその子ばかりではない。どの子も段ちがいに強いのだ。見るも無惨に私たちは浮き足だった。猫の前の鼠《ねずみ》といってよかった。怖《お》じ気だって勝負にならない。さすがに、相手は他流試合を申し込んだだけの実力と闘志があった。こちらもかなりの練習を積んだのだから、もう少し戦ってもよいはずだった。が、闘志を失ってしまった。闘志を失うということは、持っている実力さえも失うことであった。一方、大有校のソニヤ・ヘニーは物《もの》凄《すご》い気魄だった。見事というより言葉はなかった。あの時私たちは、彼女の一挙手一投足に気をのまれ、ただ見《み》惚《と》れてさえいたのである。惨敗というよりほかはなかった。しかし、不思議に口《く》惜《や》しくはなかった。子供が大人と相撲《すもう》を取ったような、そんな感じだった。
後日の本試合の時も、私たち大成校はむろんのこと、市内十校余りの小学校は、大有校の前にもろくも敗れ去った。今も、あの全身これ闘志の彼女の姿が、私の目に焼きついている。彼女は高島倉子といって、後に女学校で同じクラスになった。まことにおとなしい可愛《かわい》い少女で、彼女のどこからあの気魄が生まれたのかと思うほどに、優しかった。二級下のその妹と共に、女学校時代スポーツ姉妹として活躍したが、彼女が四年、妹が二年の時、相ついで病気で亡くなった。故なき思い上がりを叩《たた》き潰《つぶ》してくれたあの試合と共に、彼女の姿を、私は生涯決して忘れることはないであろう。
その後、市民体育大会があって、私はボールの投《とう》擲《てき》の選手として、大成小学校代表の二人に選ばれた。私の姉百合子も六年生の時に選ばれたこともあって、要領は聞いてはいたが、その時私は、少しも気負う気持ちは起きなかった。勝たねばならぬとは思わなかった。ただ、力の限りにやってみようと思った。自分の記録を、少しでも上回ることが出来ればそれでいい、という静かな気持ちだった。
が、吉田先生は、自分の受け持ちの西村光子と、そして私に幾度も言った。
「負けたら尻《しり》を叩くぞ」
試合は常磐《ときわ》公園のグラウンドでなされた。私は他校の選手の投げるのを、一人一人じっと見ていた。中央小学校の女生徒が、私たちより先に投げた。私はその女生徒がラインについた時、このひとが優勝するだろうと思った。落ちついた態度のせいであったかも知れない。案の定《じよう》、彼女はかなりの記録を出した。私は拍手をしたいような気がした。そしてなぜか、この初対面の少女に尊敬の念すら抱いた。私も西村光子も力一杯に投げたが、彼女には及ばなかった。予感したとおり、彼女が優勝した。彼女の名は大橋といって、耳鼻科医の娘であった。それ以来一度も会ったことはないが、かなり深い意味で、忘れられない人である。ともあれ他校を知らぬ私には、こうした場はよい刺激を受ける機会となった。
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六年生の一学期は、三輪昌子が級長で、副級長は私だった。六年生になってから、本格的な受験勉強が始まった。進学する生徒は、クラスの約半分の、二十五、六人であった。最初は受験勉強のために居残っていた生徒が、途中で幾人か進学を取りやめた。それがどのような経《いき》緯《さつ》でそうなったか、思いやるほど私たち六年生は大人ではなかった。それでも、成績のよい生徒の幾人かが進学を断念したことを、心にかけてはいた。その中には明らかに貧しいために進学を断念した友もいた。が、昭和九年(一九三四年)のその当時は、いってみれば、江戸時代が終わってまだ六十数年しか経《た》っていない頃である。「女の子に学問は要らない」という考えの親たちもあって、使用人を幾人も使っている家の娘でありながら、成績もよいのに進学しなかった友だちもいた。進学しなかった者全部が貧しかったわけでもないので、心にはかかったが、激しい痛みとなるほどの思いではなかった。
私自身、五年生の頃はお手伝いに行くつもりだったから、なおのこと、その友人たちに深い同情を寄せるほどの、悲痛な気持ちは持たなかった。が、今考えると、私の家の経済状態は、やはり私を悠々と学校にやれる状態では決してなかったのだ。ほとんど父一人の働きで、三人の兄たちを中等学校に進ませた。私が女学校一年生になる時は、姉は四年生であった。授業料は一人月四円五十銭で、それに校友会費が一円五十銭、つまり六円は月々学校に納めなければならない。二人が通えば十二円である。あの頃、電話交換手の初任給が確か十円であったから、十二円の出費は、まだ弟三人、妹一人を控えているわが家としては、決して少なくない額であった。
これは後になってのことだが、女学校に入った最初の月だけ、私は父から授業料をもらって納めた。が、その後卒業するまで、一度として自分の手で授業料を納めたことがない。父が、「授業料はおれが持って行く」と言ったからだ。事情を知らない私は、父の言葉を信じていたが、実は納入日までに、いつも金の才覚がつかなかったのだ。三年生の夏休みだったと思う。女学校の事務長が、わが家の玄関で、父と何か押し問答をしていたのを私は見た。事務長が帰ったあと、私は聞いてみた。
「事務長先生、何しに来たの?」
しかし父は、「何でもない」と、私を避けるように出て行った。そこで姉に聞くと、
「授業料の滞納よ」
私は仰天した。私の授業料は、いつも何カ月か遅れていたらしいのである。多分、私が卒業した後に、完納したはずである。
「授業料はおれが持って行く」
と言った父の心の中を思うと、今でも胸が痛くなる。おそらく父は、ずいぶん辛《つら》い思いをして、私や姉や、弟たちを学ばせてくれたにちがいない。
ともあれ、小学校六年生のその時点においては、私はお手伝い志願をやめて、受験勉強をつづけていたわけである。小学校卒業の時、卒業生総代は吉田先生のクラスの生徒だった。彼女はトップを争う実力の持ち主で、日常の挙止も落ちついていた。私は彼女が選ばれたことを、非常に喜んでいた。それは彼女が、進学組ではなかったからであった。それをよしとした渡辺先生にも吉田先生にも、尊敬を抱いたことを覚えている。
さて、進学組は、自分の進む学校を決めねばならなかった。旭川には、当時公立女学校が二つしかなかった。旭川市立高等女学校と、北海道庁立高等女学校の二つであった。たいてい府立とか県立、庁立というのは、いわゆる優秀校であり、市立とか町立というのは一段低い学校に、いつの時代も思われている。この時代もそうであったかも知れないが、私たちはあまりこだわってはいなかった。いつもトップの三輪昌子をはじめとし、赤《あか》石《し》君子、野口千代、米《よね》津《づ》豊子、大野英子などと共に、私は市立校を選んだ。仲よしの笹井郁や石原寿み、山田澄子は庁立高女を志望した。隣のクラスの福田淳子も同じ学校だった。
大成小学校では、十一月の何日であったか、毎年敬老会が開かれた。敬老会には学芸会が催され、老人たちが招かれた。私が学芸会に出たのは、六年の卒業も間近に控えた雛《ひな》祭《まつ》りに、不良少年に扮《ふん》して出た時だけであった。というわけで、いつも、学芸会は私にとっては見るものであった。多分私は、学芸会向きの子供ではなかったのだろう。それはともかく、私には学芸会が学校行事の中で、最も好ましいものであった。学芸会にくらべると、運動会や遠足には、のちのちまで心に刻まれるほどの感動は残ってはいない。
敬老会の当日は、老人とその家族を招くので、生徒たちは前日の予行演習の時のみ、見せてもらえる。千五、六百人は入る屋内運動場の半分に、長い茣《ご》蓙《ざ》が敷きつめられ、舞台には幕が下りている。銘々椅《い》子《す》に敷いている小さな座布団を持って、茣蓙の上に坐《すわ》る時の、あの期待に満ちた喜びは、そう幾度も味わうことの出来ないものだった。プログラムは、合唱、斉唱、独唱、遊戯、劇などがあったが、私の心を最も惹《ひ》いたのは、常に劇であった。今はもう、どの劇を何年生の時に見たかは忘れたが、印象に残っているものを幾つか拾ってみたい。
古《こ》屋《や》栄《えい》松《まつ》という先生がいた。弟鉄夫が受け持たれたことがあるが、童話の先生として生徒たちに敬愛されていた。童話を話して聞かせるのが上手な先生だったのだ。背はあまり高くはないが、肉づきのよい、あたたかい感じの先生だった。この先生の指導した劇は、子供だった私の胸にも刻みつけられている。その一つは楠木正成の劇だった。舞台も衣《い》裳《しよう》も凝っていて、映画で見る時代劇のような劇だった。弟が、楠木正成の弟正《まさ》季《すえ》に扮して出た。この劇はラジオでも市内に放送され、8ミリ映画にも収められた。弟が出るというので、ラジオのないわが家では、みんなで銭湯に行き、番台のラジオにかじりついて聞いたものだ。
この先生はまた「舌《した》切《きり》雀《すずめ》」の劇をも指導した。これはミュージカルであった。自分でも信じられないのだが、私はこの劇に心を奪われて、歌や台詞《せりふ》を最初から最後まで、ほとんど諳《そらん》じてしまったほどだ。単純なストーリーだが、よくもまあ台詞から歌詞からメロディーまで、覚えこんだものだと思う。それまでに見た劇は、台詞だけで歌などうたわなかった。踊りも入らなかった。いってみれば新機軸である。私はこの劇を、教師になった時、学芸会で生徒たちにやらせてみた。音楽の伊藤武雄先生が、
「すばらしい出来でしたねえ。あの脚本を見せていただけませんか」
と言われた。私は、
「脚本なんかありません。子供の時に覚えたものをやらせただけですから」
と答えた。伊藤先生は驚き呆《あき》れておられたが、小学生時代というものは、熱中すればかくも鮮やかに覚えこめるものらしい。
古屋先生と並んで、印象的な演出をする高野克《かつ》郎《ろう》という教師がいた。この先生も古屋先生とほぼ同様の体型を持つ、いつも明るい笑顔の先生だった。高等科の受持で、私の最も印象に残ったその劇は、「真の知己」と題するものだった。のちに太宰治が、「走れメロス」という題で書いたあの素材のドラマ化である。死刑囚となったメロスが、妹に会うために、死刑の日までに必ず帰ると言って、王の許しを得、親友を身代わりに獄に入れて故郷に帰る。その二人の信頼しきった友情を、王はせせら笑って見ている。メロスが獄を出て、一日二日と日が経《た》っていく。それは、見る者の私たちの心にもやりきれない焦慮と恐怖の幾日かなのだが、それを高野先生は、実に巧みに、象徴的に演出していた。一見、アラビア人ふうの風俗の男が三人、水《みず》瓶《がめ》を頭にのせて舞台の上《かみ》手《て》から下《しも》手《て》に去って行く。その歩き方が、エジプト・ダンスふうに、三人一様にぎくしゃくと歩く。そしてその頭上の水瓶には、一番目の者には「一」、二番目の者には「日」、三番目の者には「目」と、筆太に書いた紙が貼《は》られてある。こうして、二日目、三日目、四日目と、最初の男の数字を変えることによって、日時の経過が観客にわかるようになっている。三人の男たちは、毎日同じように無表情で、同じ歩き方で、舞台を通り過ぎていく。王たちの思いや、メロスの親友の心のかげりや、そこに展開される様々な思惑とは無関係のように、水《みず》汲《く》みの男たちが通り過ぎて行く時、見ている私たちの心は、次第に不安にあおられていく。その計算が実に巧みであった。
(劇とは、こんなにおもしろいものか!)
私は、その水瓶の扱い方に驚き、舌を巻いた。どうやら、この高野先生にとっても、これは忘れられぬ劇の一つだったらしく、何十年か経《た》って、私がこの時の感想を洩《も》らした時、
「ああ、あの劇ねえ」
と、若き教師時代をしみじみ懐かしむ語調で答えられた。
もう一つ忘れ得ぬ劇があった。「水兵の母」という、小学校の国語読本に出てくる話を素材とした劇であった。一人の水兵が、母からの手紙を見て泣いている。その水兵に、確か艦長だったと思うが、「家が恋しくなったのか、命が惜《お》しくなったのか」と叱《しか》りつける。水兵は艦長に、
「これをごらんください」
と、長い巻き手紙を手渡す。そこには、当時でいえば、健《けな》気《げ》な軍国の母の言葉が書かれてあった。つまり、「家のことは心配するな。お国のために命がけで奉公せよ」というような言葉がつらねられている。叱った艦長が感動して水兵を励ますという、たった二人の劇なのだ。水兵のほうは忘れたが、この時の艦長の表情と声《こわ》音《ね》は、まことに真に迫っていた。とても小学生の男の子がやっているとは思えなかった。教師よりも大人に見えた。確か西条という男子だった。涙をふるって水兵を激励する言葉は、私の胸を揺すぶった。たちまち私は彼のファンとなってしまった。自分より何級か上のこの人のその後を知らないが、もしかして、あの第二次大戦において、劇中の人物のように海軍に入り、あるいは戦死したのではないかと、ふっと思い出すことがある。
こんなにも劇なるものに心惹かれた私だが、六年生の三月三日の学芸会において演じた劇は、自分自身でもあまり感服しなかった。貧しい子をからかう、当時の言葉でいえば「不良少年」に扮したのだが、「不良少年」なるものがどんなものなのか、具体的になかなかつかめなかったせいもある。もう一人の不良少年は、隣のクラスの西村光子だった。西村光子はボールの投《とう》擲《てき》に、私と二人で、六年生女子を代表して出た仲よしだが、この子も不良少年をうまく演ずることは出来なかった。台詞《せりふ》が自分の思ったとおりの声《こわ》音《ね》となって出てこないことを、いやというほど知らされた。野口千代の姉さん役が、実に自然で上手だった。これは彼女の地のままで演ずることが出来た。
学芸会が終わって教室に戻った時、誰一人として、「おもしろかった」とか「うまかった」などと声をかけてくれる者はいなかった。
(ずいぶんとまずかったんだわ)
と、惨めになったことだけを覚えている。ただ一つ、その劇でうれしかったのは、男役の私の穿《は》いたズボンが、心ひそかに憎からず思っていた、Nのズボンだということだけであった。
十二月になった。
寒くなってから、俄《にわ》かにわが家の台所に窓が取りつけられた。今までも窓はあったが、窓の一メートル向こうは隣家の壁で、あってもないのと同じだった。新しい窓は、高い所につけられて、急に台所が明るくなった。アイロンや箪《たん》笥《す》や、針箱などが次々に店から届けられた。何か家の中に活気が出てきた。
そんなある日、父がきょうだいたちを茶の間に集めた。
「お前たちはとうに知っていたろうが……」
父はみんなの顔を見まわして言葉を切った。何を言い出すのか、私にはわからなかった。多分、誰もわからなかったにちがいない。
「実はな、スエはお前たちの姉ではなく、本当は叔母なんだ。父さんの妹なんだ」
みんな、ちょっと驚いた顔をした。一人一人の心の中は知らないが、驚いた顔をしたほうがよいのか、悪いのか、わからなかったのかも知れない。私は、
(ああ、叔母さんだったの、ちっとも知らなかったわ)
と、いう感じだった。父の話によると、叔母は父の末の妹で、この叔母が幼い時に、父の母親、すなわち私たちの祖母が死んだ。それで長兄である父が、娘として育てたのだという。みんなが、父の言葉から受けた驚きを整理出来ぬうちに、父がまた言った。
「スエは今月、嫁に行く。二軒おいて隣りの福田さんに行く」
みんながいっせいに何か言った。このほうが驚きを率直に出すことが出来た。
「ねえちゃんが、幸太郎さんのお嫁になる?」
私は大声で言った。
28
「ねえちゃん」が叔母であった。それはしかし、私たちきょうだいにとって、大きな衝撃とはならなかった。いったいそれはなぜなのか。誰もがその日まで、姉だと信じ切っていたのに叔母であったわけだから、もっと驚いてよいはずであった。しかしそのことで、きょうだいたちはほとんど話し合わなかった。姉がたとえ叔母であったにせよ、実害がなかったからだろうか。叔母という関係と、姉という関係の差が、さほど大きくなかったからだろうか。
「ねえちゃん」は私より十二歳上であった。朗らかで、よく笑う人であった。裁縫の下《へ》手《た》な私の宿題を、文句も言わずに、夜おそくまで縫ってくれたことも度々あった。きつい言葉を出すこともなかった。叱られたという記憶は私にはない。大好きな「ねえちゃん」だった。
今、私が不思議に思うのは、「ねえちゃん」が叔母であることを知っていた親戚は何軒もあったはずだ。そのうちの誰一人として、「ほんとうはね、スエちゃんは父さんの妹だよ。あんたがたの姉さんではないよ」などと言った者がないのだ。意外に人間の口は固いものである。とにかく、小学六年生だった私にとっては、叔母であろうが何であろうが、「ねえちゃん」は私たちの「ねえちゃん」だという確固不動の思いがあった。「ねえちゃん」と私たちの絆《きずな》は、それほど強かったというべきか。
この大好きな「ねえちゃん」が結婚すると聞いても、淋《さび》しくはなかった。何しろ、嫁ぎ先が二軒おいて隣なのだ。見ようと思えば、毎日顔を見ることが出来る。しかも、福田淳子と私は、親戚同士になれる。これは大きな誇りだった。淳子は、よその町から転校して来るや否や、次の学期にはもう副級長に選ばれた子であった。その上、「ねえちゃん」のお婿さんは稀《まれ》に見る美男子だ。優しい親切な人だ。そう思って、私は毎日が楽しかった。
嫁入りは確か、十二月二十五日だったと思う。毎日のように、新しい箪笥や鏡台や、裁ち板や針箱などが届けられてくる。きれいな、ふっくらとした布団も届く。家の中が、日一日と明るくなり、活気が出て来た。台所の窓を明るくしたのも、すべてこの嫁入りのためだと、あとで知った。
私は、「ねえちゃんの嫁入り」という題で作文を書いた。渡辺ミサオ先生は、その作文を返してくれる時に私に言った。
「福田淳子さんのお兄さんのところに、お嫁に行くんだってねえ。おめでとう」
優しい笑顔だった。その笑顔を見た途端、私は何か悪いことをしたような気がした。その頃、石原寿みや三輪昌子たちとこんな話をしたことがあった。
「ねえ、渡辺先生、来年いくつになると思う?」
私たちが小学校に入学した時、確か先生は数えで二十四歳であった。そして私たちは来年の三月卒業する。先生は三十になるはずであった。
「三十だわ」
「ほんとうだ、三十だ」
みんなは口々に、
「三十になるんだよ、先生は。どうする?」
先生思いの石原寿みが言った。
「そうだねえ、わたしたちが卒業したあと、結婚すればいいのにねえ」
「そうだ、そうすればいいんだわ。わたしたちは卒業しちゃうんだから」
そんな話し合いをしたことを、私は思い出したのだ。今の数え方でいくと、その時渡辺先生は二十八歳だったわけだが、誰もが先生の身の上を思って、要らざる心配をしたのである。
それはともかく、「ねえちゃん」の嫁入りの日が来た。色白で目のぱっちりした「ねえちゃん」は、角隠しをしてきれいなお嫁さんになった。
「器量をのぞまれていくんだもの、きれいださ」
手伝いに来ていた親戚の一人が言った。その姿を私は廊下からのぞいていた。客たちが、八畳間と六畳間を通した部屋に集まって、膳《ぜん》についていた。立《たち》振《ぶる》舞《まい》の客たちだった。
やがて、迎えの仲人が、定《じよう》紋《もん》のついた提《ちよう》灯《ちん》を持ってやって来た。花嫁姿の「ねえちゃん」は、仏壇に手を合わせ、しばらくじっと頭《こうべ》を垂れていた。その時私は初めて、目から涙が噴き出る思いになった。その仏壇の中には、「ねえちゃん」の父と母との位《い》牌《はい》が二つ並んでいたのである。仏壇のお詣《まい》りを終えた「ねえちゃん」は、私たちの父母に、
「長いこと、ほんとうにお世話になりました」
と、両手をついて、深々と頭を下げた。父は顔をそむけ、育ての親である母は目《め》頭《がしら》をおさえた。ほそぼそと雪の降るあたたかい夕べ、提灯を持った人の後について、「ねえちゃん」は、ひと足ひと足、おぼつかなげに歩いて行った。もう暗くなりかかった雪の中を歩いて行った。
(ねえちゃん!)
角隠しをした「ねえちゃん」の姿は、すぐに福田家の玄関に入ってしまった。私は不意に淋《さび》しくなった。
(お嫁に行くって、ほんとうにうれしいことなんだろうか)
六年生の私は、その時そう思った。つい先ほどまで、単純に喜んでいた気持ちが、不意に萎《な》えたのだ。私はあの時、人生の底を流れる哀《かな》しみ――といったようなものに、初めて触れたのかも知れなかった。「ねえちゃん」は、舅《きゆう》姑《こ》、夫の妹三人、弟一人、そして自分たち夫婦の八人の大家族の中に、この日から生きていくこととなった。
29
六年生のその年、私は肉親のもう一つの結婚に出会った。何月であったかは忘れた。三月であったかも知れない。ある夜半、私は布団の裾《すそ》を誰かに踏まれたのを感じた。私は父母の寝室に、妹の陽子と寝ていた。つまりその八畳の部屋には、父、母、私たちと、三組の布団が敷かれていたことになる。ほかに六畳間が二つ、八畳間が一つあったが、そのどの部屋にも幾組かの布団が一杯に敷かれていた。家族が十一人もいたからである。
布団を踏まれても、すぐには目は覚めなかったが、部屋の中でぼそぼそと話す声に、私はようやく目を覚ました。次兄菊夫の声がする。
(こんな夜中だというのに、いったい何が起きたのだろう?)
次兄の声《こわ》音《ね》にただならぬものを感じて、私は眠っているふりをした。目を覚ましてはいけないような気がしたからだ。
「赤ん坊が出来たなんて!」
抑えてはいるが、心の昂《たかぶ》りがはっきり感じられる母の声がした。兄が何か言った。つづいて、聞いたことのない女の声がした。どうやら兄は、女の人を連れて来たらしい。ここに至って私は、兄に恋人が出来、その恋人が妊娠したらしいことを悟った。やがてもう女学校に入る年齢である。恋愛小説をせっせと読んでいたから、この辺ののみこみは早い。隣室には弟たちが寝ている。それを起こすまいとして、誰もがつとめて低い声で話をしている。が、ともすれば母の声が高くなる。父はほとんど何も言わない。私はじっと耳を澄ましていた。父は平《へい》生《ぜい》ワンマンである。立腹すると、家《や》鳴《な》り震動するような声で怒る。いたたまれない鋭い言葉を吐く。私は、今にも怒《ど》鳴《な》り出すであろう父を思って、体が震える心地だった。現代では、結婚前の妊娠はさほど珍しいことではない。それはもう「事件」ではなく、日常茶飯事的な事柄である。が、戦前のその当時、それは大いなるスキャンダルであった。嫁入り前の娘に子を孕《はら》ませた、それは生涯ついてまわるほどの悪《あく》業《ごう》であり、汚名であった。世間に顔向けならぬ大事件であった。わけても母は、折目正しい人で、その種のことは決して許さぬ人であった。
(大変なことになった!)
これでは、父がどんなに怒っても仕方がない。私は布団の中で小さくなっていた。兄がぼそぼそと話をつづける。母が何か言う。父は無気味に沈黙している。ずいぶん長い時間が経《た》ったような気がした。が、三十分と経ってはいなかったかも知れない。今まで黙っていた父が、咳《せき》払《ばら》いを一つして言った。
「よし、わかった。過ぎたことは仕方がない。もう帰れ。あんた、体を大事にしなさい」
意外な言葉だった。そしてその声音には、包みこむようなあたたかさがあった。
父の言葉を聞くや、兄はその人を送って、早々に家を出て行った。そのあと、母はいつまでも父に愚痴を言っていたようだが、父は、「うん」とか、「ああ」とか、相《あい》槌《づち》を打つだけで、格別の言葉はなかった。
兄は結婚し、何カ月の後に子供が生まれた。私がこの事件でショックを受けたのは、結婚をしないうちに赤ん坊が生まれたことではなかった。外から帰って来て、ストーブが真っ赤に燃えていなければ、がみがみと文句をいう父、子供が病気になると、心配のあまり母を責める父、玄関の靴が乱雑に脱ぎ散らされていると、大声で叱《しか》る父、父はむやみやたらに叱る人というその印象が、見事に覆されたことであった。
六年生の私にも、次兄はただならぬことを惹《ひ》き起こしたという思いを抱かせたのに、父はただ一言、「過ぎたことは仕方がない」と言ったのである。これは、私にとってひとかたならぬ驚きであった。のちに父が、何かの時に言った。
「人を責める時は、必ず逃げ道を用意しておいてやりなさい」と。
そういえば、父は理詰めでものを言うことの嫌いな人だった。それ以来私は、父には何でも話の出来る娘となった。きょうだいたちは父を敬遠していたが、私には話のわかる父だった。長じてのち、私に男友だちが出来ると、ためらわずに紹介出来たのも、父の寛容を信じていたからだった。それはともかく、こうしてわが家に二つの結婚があった。五十年もの年月が経《た》った今では、二つとも平凡な結婚に過ぎなかった。そして、その当事者である花嫁花婿にとってはどの結婚も、その人生における一大事であった。
小学校を卒業する日が次第に近づいてきた。ということは、女学校入学試験が近づいてきたことでもあった。そんな頃、学校では高学年を映画館に引率して行った。それまでも、映画館に引率されて行ったことは幾度かあった。が、それらはいずれも邦画だけであった。だがこの時は外国映画と二本立てであった。フランス映画であったろうか、イタリア映画であったろうか、記憶はさだかではない。「愛の手」という題であったような気がする。主人公は十二、三歳の愛らしい少女であった。その少女はひどく孤独に見えた。少女には父親がなかった。この映画は、小学生に見せるには少しむずかしい映画のような気がした。弁士はついていても字幕を大急ぎで読み、画面を見なければならない。外国名の固有名詞が、頭の中でごちゃごちゃになった。描かれる内容も、子供には理解しかねる深刻さがあった。その中の一シーンは未《いま》だに忘れられない。少女の母親が、男の人に背を抱かれ、暗く細い階段を登っていくシーンであった。そして字幕には、「彼女は、肉を売らずには生きていけない女だった」とあった。弁士が感情をこめてその字幕を読んだ。階段を登って行く女の右手に、卵を盛り上げた手《て》籠《かご》があった。
映画が終わって外に出ると、三々五々連れだって帰った。私は幾人かの友だちと渡辺先生を取り囲んで歩いた。
「堀田さん、今日の映画、どうだった?」
先の映画は、二言目には「人を見たら泥棒と思えと母《はは》者《じや》が言うた」という親孝行な若侍の出てくる喜劇だった。いつも映画を見ている私に、先生は感想を求めた。
「初めの映画は他愛がなかったけれど……」
私は言った。
「そうね、罪のない映画だったわね。あとの映画は?」
「むずかしくてよくわかりませんでした。……でも、何となくわかるところもありました」
要領を得ない答えを私は返した。友だちの一人が、
「あの小《お》母《ば》さん、肉を売っていたかい?」
「いや、卵を売っていたよね」
「でも、あの卵の下に肉があったんでないの」
みんな口々に言った。先生は黙っていた。よくはわからないが、私は、「彼女は肉を売らずにはいられない女だった」と、字幕を読んだ弁士の語調と、あの暗い階段を登って行く男女の雰囲気と、それを見つめていた少女の悲しげな表情から、「卵売り」でも「肉売り」でもないことを直感した。
二十を過ぎるまで、どのようにして子供が出来るかを知らなかった私である。ましてや十三歳の私に、その言葉の正確な理解は無理であった。が、少なくとも、男と絡み合って階段を登って行く姿と、肉を売るという言葉とは、全く無縁とは思えなかった。あの階段の場面は、心の奥底に、暗い穴を見るような、不安を掻《か》き立てるものがあった。とにかくこの映画は、私にひとつの「罪」の匂《にお》い、「不幸」の匂いを感じさせる忘れ得ぬ映画であった。
受験が始まった。庁立高女を受験する生徒たちは、全員筆記試験があった。が、市立高女志望者たちは、受験組と推薦組があって、推薦組には身体検査だけがあった。その日、私たちは受験場の市立高女で身体検査を終え、大《たい》成《せい》小学校に戻った。
市立高女から大成小学校までは、わずか百メートルほどしか離れていない。身体検査を終えた私たちは、揃《そろ》って教室へ戻って来たわけだが、どうしたわけか渡辺先生の姿が見えなかった。一クラスの半分が庁立高女と市立高女の試験場にそれぞれ出かけていて、教室にいるのはあとの半分だったから、授業のしようもないのか、みんな自習をしていた。
私たちも銘々の席に着いたが、身体検査だけだったから、筆入れも持っていない。もちろん教科書やノートを身体検査場に持って行くわけもなく、家に置いてきている。みんなが自習をしているのに、ぼんやり坐っているのも間《ま》が悪い。そこで、私たち身体検査組は、誰言うとなく家に帰ることにした。どうせ今日の自分たちの使命は身体検査だけなのだ。家に帰ってもいいと思ったのである。ここで、職員室にでも先生を探しに行けばよかったのだが、教室にいないくらいだから、先生は先生で忙しいのだろうと、勝手に決めこんだのである。そのうちに終業ベルが鳴ったので、私たちは家に帰った。
ところが、午後三時頃、近所のクラスメートがわが家に来た。
「渡辺先生が、今すぐ学校に来るようにって、言ってたよ」
彼女はちょっと困惑したような表情を見せた。私は直ちに、学校までの三百メートル余りの雪どけ道を走った。六年四組の教室に行くと、ストーブのまわりに、身体検査組の級友たちが、じっとうなだれていて、もうほとんどが集まっていた。入って行った私に、渡辺先生は鋭い一《いち》瞥《べつ》を浴びせた。
私は六年間習った教え子として、また自分自身七年間小学校教師をした者として、渡辺先生を非常に優秀な先生だと思っている。先生は実に真《ま》面《じ》目《め》で、教授法もうまかった。算数でも国語でも歴史でも、実によくわかるように教えてくれた。優しい先生だが、知性があって、ヒステリックになることはなかった。乱暴な叱り方はしなかったし、たるんだ授業をしたこともなかった。どこかに初《うい》々《うい》しさが残っていて、得難い先生に習ったと私は思っている。その渡辺先生が最も恐ろしかったのはこの時だった。
「堀田さん、どうしてさっさと先に帰ったのですか」
私たち生徒には生徒なりに、考えがあってのことだった。勉強道具も持たずに級友と並んでいるのは、かえって申し訳ないような、そんな遠慮も確かにあったのである。だが先生の鋭い詰《きつ》問《もん》を受けた時、私は、大人の言葉でいえば、「弁解すべきではない」と思った。自分たちの落ち度がわかったし、渡辺先生がこれほど怒っておられるのだから、黙って叱られるより仕方がないと思った。
「先生は、こんなに情けない思いをしたことはありませんでした。先生が受験生のことを思って、どんなに心配していたか、あなたがたにはわからなかったのですか。お友だちがまだ学校で勉強しているのに、よくも平気で帰ることが出来たものですね。自分たちは受験生だから、帰ってもいいのだなどと、思い上がったのでしょう。それが先生には情けないのです」
先生は泣いておられた。その先生の叱《しつ》責《せき》を、私はもっともだと思った。先生が思うほど、特権階級的意識を持って帰ったのではないが、そう思われても仕方がないと思った。先生の今叱った言葉は、どれもみな大切な言葉だと思った。そして実の話、おかしいようだが、私はこの時の渡辺先生が実に好きであった。真剣に叱ってくれている先生を、本当に先生らしいと思った。心の深いところで先生と触れ合ったような、そんな気がした。一度帰宅した生徒を、それぞれの家から呼び寄せることは、父兄への遠慮があれば出来ないことであった。それは、次の日叱ってもよいことかも知れなかった。だが、間《かん》髪《はつ》を入れず、その日のうちに呼び寄せて叱ったところに、先生の真情をじかに感じた。
三輪昌子、赤石君子、野口千代、大野英子、米津豊子、みんな、ふだんあまり叱られたことのない生徒たちが、じっと頭《こうべ》を垂れたまま叱られていた。六年間のすべてのことを忘れても、この時の真剣そのものの厳しい叱責だけは、決して忘れてはならぬと私は思った。多分、誰もが己れの未熟を恥じていたと思う。みんなは深く先生に託《わ》びて、すっかり暗くなった道を帰って行った。そして翌日、私たちは、自習をしていた級友たちにも謝った。卒業を前に、渡辺先生はよい餞《はなむけ》を私たちに贈ってくれたのである。
受験が終わって、幾日も経《た》たぬ夕刻だった。夕食を終わったところに客が来た。玄関に出て行った母が、笑顔で茶の間に戻って来た。
「父さん、洋服屋さんですよ」
「洋服屋?」
珍しく早く帰っていた父が、怪《け》訝《げん》な顔をした。
「綾子の制服を作らせて欲しいんだって」
母はうれしそうだった。
「制服を作るといったって、まだ合格の発表はないだろう」
父はちょっと不機嫌に言った。
「でもね、洋服屋さんの手には、名簿が入っているんだって」
それは、むろん合格者の発表ではなく、推薦入学者の名簿だったのだろう。
「断りなさい」
父が言った。母は不満げだったが、口返しの叶《かな》わぬ相手である。母は玄関に出て行って、ややしばらく押し問答をしていた。再び戻って来た母に父がきっぱりと言った。
「洋服屋は商売でやってくるんだ。合格の発表もないうちに、制服など注文するものではない」
その頃から、洋服屋が訪ねて来た話が、友だちの間でしきりに出た。注文したという者もいたが、それを咎《とが》める者はなかった。そして間もなく合格発表があった。市立高女受験者のうち一人、庁立を受けた者のうち一人の計二人が、残念ながら不合格であった。この合格率は、かなりよかったのではないだろうか。しかし渡辺先生は、手放しでは喜ばなかった。不合格の二人がさぞ不《ふ》憫《びん》であったのだろう。ただ二人だけであったが故に、その思いも強かったのではないか。
二月まで純白だった雪景色が、次第にうす汚れてきた。降る雪より、融ける雪が多くなった。道端に積もっている雪が融け始めて、かんざしのような小さな氷柱《つらら》を垂らした。真昼間、軒先に立っていると、雪の中で不意にかすかな音が立つ。小さなかんざしの崩れ落ちる音である。毎年聞くこのかすかな音が、なぜか私を淋《さび》しくさせる。雪が降り、雪が融け、煙突の煤《すす》が降り、また雪が覆う。こうして春の雪は、バームクーヘンのような断層を見せる。あたたかい日には、雪どけ水が轍《わだち》にたまり、子供たちはその中を、ざぼざぼと歩く。雪どけ水を下水溝に導くために、少し大きな子供たちは、鉞《まさかり》やスコップで轍の氷を崩す。水路がつくと水がおもしろいようにひけてゆく。そして、引いたあとに、懐かしい土や石ころが顔を出す。その喜びは、何ものにも代え難く、三月の雪割りは、親の手伝いでありながら、一つの遊びでもあった。
合格が決まった時、私はそんな光景のあちこちに見られる雪どけ道を歩いて、祖母の家に行った。祖母は、息子とその妻、そして末の娘の四人暮らしだった。
「ばあちゃん、綾子、合格したよ」
顔を見るなり、私は祖母に言った。私の祖父母は、当然父方と母方と四人いたはずだが、私が生まれた時には、母方のこの祖母しか生きていなかった。私の幼い時から、一カ月の三分の二はわが家に来て手伝っていたこの祖母に、童話を聞いて私は育った。もう女学校に入るといっても、祖母の前に出ると、五つ六つの心地になった。
「そうかい、そうかい、よかったねえ」
祖母は手を取らんばかりにして、私を家の中に入れ、じっと私の顔を見て言った。
「よかったねえ。ばっちゃんも、ほんとうに学校に行きたかったんだよ。ばっちゃんの分まで勉強してね」
私は、祖母が貧しい家に生まれて、学校に行けなかった話を思い出した。祖母は本当に勉強をしたかったらしい。夫を早くに失い、六人の息子娘を、女手一つで育て上げた。とても中等学校に子供を上げる余力はなかったはずだが、息子の一人を師範学校の専攻科まで出し、末娘は庁立高女を卒業させていた。私が、
「うん、がんばるよ」
と答えると、祖母は満足げにうなずいた。が、ちょっと顔を引きしめて、
「堀田の父さんも、大変だねえ」
と、呟《つぶや》いた。兄三人はすでに中等学校を卒《お》えたが、今年から姉と私の二人に授業料がかかり、更に弟三人妹一人が控えている。が、その大変さがわからぬ私は、その祖母の言葉の重みを正確に受けとめることは出来なかった。
ちょうどそこへ、デパートの店員をしているミヨ子叔母が、街から帰って来た。店は休みだったらしい。
「綾ちゃん、おめでとう。ちょうどよかったわ。叔母さんね、綾ちゃんに入学祝いを買っておいたのよ」
と、四角い包みを差し出した。私はこの叔母が大好きだった。片親で育ったが、叔母は天性明るかった。会うと、いつもユーモラスな言葉で、私たちを笑わせた。しかも叔母は、行き交う男がみなふり返るほど美しかった。頭にいつも花のかんざしをつけていて、和服姿が実になよやかだった。祭りの日など、この叔母の袂《たもと》をしっかりと握って、夜遅くまで歩いたものだった。美しい叔母と歩くのが誇らしかったのだ。
叔母からの贈物は、赤《あか》白《しろ》斑《まだら》模《も》様《よう》の、セルロイドの裁縫箱だった。喜んでそれを抱えて帰る時、祖母が言った。
「女学校に行けない人は、何人いるの?」
祖母は、喜ぶ私の姿に、進学しない子供たちを思いやっていたのだろう。
いよいよ卒業式の日がきた。屋内運動場に茣《ご》蓙《ざ》が敷かれていた。来賓の挨《あい》拶《さつ》や、校長の話を聞く時に坐るための茣蓙だった。
私の隣に住んだことのある前川正が卒業したのは、二年前だった。その時には、優等生幾人かの名が呼び上げられ、前川正の名もその中にあった。が、一年前から、そのしきたりが変わったらしく、私たちの卒業式の時には、皆勤賞、健康優良児、卒業証書を受ける総代生徒、答辞を読む生徒だけが名を呼ばれた。総代は先にも記したように、六年三組、吉田忠雄先生の受け持ちで、進学を断念せざるを得なかった優秀な女生徒だった。答辞を読んだのは、六年一組の柴《しば》田《た》先生の受け持ち、小野寺彰《あきら》であった。小学生と思えない、めりはりの利いた朗読だった。六年間の出来事を巧みに答辞に組み入れながら、いかにも優等生らしい、感情のこもった答辞だった。
私たちのクラスの健康優良児は、鶴《つる》淵《ふち》ミサ子といった。体の大きい、仏像のように優雅な表情の、裁縫が抜群に上手な生徒であった。彼女が名前を呼ばれて、賞状をもらいに行く姿を見た時、思いがけなく私は、桜川むつ子の姿を思い出した。むつ子も体の大きい子だった。が、一年生の冬、彼女は何の病気でか、死んでしまったのである。大きな商店の子で、おとなしい子であった。六年間の小学生生活の中で、死んだのはその子一人であった。私はその時初めて、卒業することの出来なかったむつ子を思って胸が痛んだ。これは自分でも思いがけない感情であった。
教室に帰り、卒業証書を渡辺先生からもらったことは覚えているが、最後の話がどんな話であったかは、残念ながら覚えてはいない。格別、淋《さび》しいとか悲しいとか思うほど、感情がまだ豊かではなかったようだ。何しろ、市立女学校から大成小学校の校舎まで、百メートル余りしか離れていないのだから、「すぐまた先生に会いに来るわ」というような、のんきな気持ちだったのでもあろうか。それは、「ねえちゃん」が二軒おいた隣に嫁入りするのと似ていたのかも知れない。
仲よしだった笹井郁は女学校がちがった。いつも学校の帰りには、分かれ道で三十分も一時間も、嵐寛寿郎の「鞍《くら》馬《ま》天《てん》狗《ぐ》」がどうの、「むっつり右門」がどうのと、無我夢中で話し合った相手だったから、彼女と別れるのはさすがに淋しかった。
しかし、誰もが意外にあっさりと別れて行った。玄関を出ようとした時、石原寿みだったか、笹井郁だったか、
「あ、小使いさんと給仕さんに、さようならしてくるの忘れた」
と言った。当時、用務員を小使いさんと呼んでいた。前歯の欠けた、年をとった用務員がいた。二、三人いたはずだが、その前歯の欠けた用務員の顔しか、今、目に浮かばない。
「あ、ほんとだ!」
「忘れた、忘れた」
長靴を覆きかけていた私たちは、上《うわ》靴《ぐつ》を突っかけて、屋内運動場を突っきり、用務員室に行った。用務員室の大きな土間には、大きな釜《かま》が煉《れん》瓦《が》のへっついにかかっていて、いつも湯煙を上げている。掃除の度に、ここにお湯をもらいに来たものだ。昼食用のお湯を、用務員の小《お》父《じ》さんたちは、各教室まで運んでくれたものだ。にこにこと優しい人と、少し口うるさい人もいたが、そのどちらにも馴《な》れ親しんでいた。
「さようなら、小父さん」
「また来るからね」
「どうもありがとう」
「今日、卒業したの」
「もう会えないね」
みな、てんでんばらばらのことを言った。前歯の欠けた、いつも笑顔を見せている小父さんが言った。
「そうか、そうか。お前たち、もう卒業か」
「うん、卒業なの。元気でね」
小父さんたちはうなずいた。一番口やかましい小父さんが言った。
「俺《おれ》たちに挨《あい》拶《さつ》に来た卒業生は、お前たちが初めてだな」
このあと、女の給仕さんにも挨拶して、私たちは学校を出た。明日また会えるかのように、私たちはそれぞれ別れた。が、あの日以来、六年四組の生徒が、一人残らず一堂に会したことは、遂に一度もなかった。それでも、渡辺先生は八十歳で今も健在である。いまだに独身であるこの先生を囲んで、ほとんど毎年のようにクラス会が持たれる。
春休みに、女学校の教科書を書店に買いに行った。国語の本が和《わ》綴《と》じであることが珍しかった。英語の本だけがまだ入荷されていなかったが、教科書を机の上に(といっても、まだ自分専用の机など与えられていなかったが)積んで、先ず国語の本をひらいた。目次ごとに作者の名が書かれているのも珍しかった。相《そう》馬《ま》御《ぎよ》風《ふう》、荻《おぎ》原《わら》井《せい》泉《せん》水《すい》、徳《とく》冨《とみ》蘆《ろ》花《か》等々の名が並んでいる。小学校の読本には、作者の名前など一度も出ていない。私は、渡辺先生から頂いた部厚い文章集で、多くの作者に接していたから、馴《な》染《じ》まぬ思いは一つもなかった。それどころか、知っている人に会ったような懐かしさがあった。
年々歳々春また来たる
歳々年々人また同じからず
そんな文章があったのは、一年生の教科書だったろうか。こうして新しい教科書を見ているうちに、ふと祖母の言葉が思い出された。
「女学校に行けない人は、何人いるの」
私は新しい生活を思いながら、教科書を読みつづけた。あと幾日かで、女学生になるはずだった。
30
誕生から小学校を卒業するまでの思い出を、今まで書いてきたが、書いている途中、私は度々、小学校時代の恩師や友だちやきょうだいたちに、自分の思い出について確かめてみた。何しろ小学校卒業時から五十年を経ている。私が記憶していることを、必ずしも友人が記憶しているとは限らなかった。例えば六年生の時に見た洋画については、尋ねた限りの人々が記憶していなかった。私はその時、記憶とか思い出というものは、はなはだ個人的なものだと思った。自分が関心を抱いているものについては、人は誰でも明確に記憶している。例えば、転校してきた級友で明るく優秀だった山本英《ひで》子《こ》は、誰が優しく迎えてくれたとか、優しくなかったとかをよく記憶している。が、迎えた側は、親切にしたか、しなかったか、記憶にはない。思い出とはそういうものらしい。
私が思い出を語ると、友人たちは、凄《すご》い記憶だといって驚くが、その驚く一人一人が自分の思い出を語れば、こちらの忘れていることがほとんどかも知れない。だから、幼い時の話というものは極めて個人的なものなのであろう。
ともあれ、私が書き忘れた、あるいは書くところを得なかった思い出をここに少しく集めてみたい。幼い頃というのは、まだ明けきらぬ夜明けに似ている。ものの形がはっきりとわからない、あたりが薄暗い、どこから何が現れるか予知できない、そんな不安がつきまとう。そして幼い頃は一人遊びを好むものだ。いや、一人だと思っているのは大人から見てのことであって、幼《おさな》児《ご》にとっては、草も石も、虫も花も、すべて友だちの時代なのだ。人間より、それらの存在がずっと自分に近い時代なのだ。蜜《みつ》を吸いに来た蜂《はち》が唸《うな》る傍らで、自分もそっと花の蜜を吸っていた、そんな思い出が私には幼い時代の一つの象徴のように思われる。
その頃、つまり四、五歳の頃、ある夜、私は父母や母のきょうだいたちに連れられて、祭りを見に行ったことがあった。サーカスのジンタの響きの、何ともの悲しかったことだろう。アセチレンの匂う光は、何と心惹くゆらめきを見せたことだろう。雑《ざつ》沓《とう》の中を、十五、六歳だった叔父に手をひかれて歩いているうちに、私はいつの間にか迷子になった。多分、手をひかれていると思いこんで、私はバナナの叩《たた》き売りを見たり、人形芝居の呼びこみの男に引き寄せられたりしていたのではないだろうか。気がついた時、家人は周囲にはいなかった。
ここで私は、なぜか泣き出しもせずに、立ち並ぶ露店の中の、ぽっかりと暗い小店のそばに立っていた。いま考えると、そこは射《しや》的《てき》屋《や》の造りをしていたが、何かの理由で店を開かなかった小屋だったようだ。父母や叔父たちはどんなに驚きあわてたことか。さぞ血《ち》眼《まなこ》になって私を捜し歩いたにちがいない。暗いその小屋のそばにぽつんと立っている私を見たみんなは駆け寄って、かわるがわる私の頭をなでてくれたり、抱き上げたりしてくれた。その時の自分の心境を知る由もないが、もしかしたら私は、自分が迷子になったその事実を知らなかったのかも知れない。よもや父母や叔父たちが、自分をおいてどこかに行くなどとは、夢にも考えることが出来なかったから、何の不安も感じなかったのではないか。明るくアセチレンガスの点《とも》る店々の間にぽっかりと洞穴のように暗かったあの店の様子を、私は今も忘れることが出来ない。不思議な迷子の思い出である。
私は小学校に入る前から、卒業するまでの七年間、耳《じ》鼻《び》咽《いん》喉《こう》科《か》の志田病院に通った。風《か》邪《ぜ》を引くと必ず扁《へん》桃《とう》腺《せん》を腫《は》らし、それが引き金となって中耳炎を併発し、耳だれとなる。そして遂には蓄《ちく》膿《のう》症《しよう》となってしまった。志田先生は、口ひげを生やした優しい医師だった。私は人力車にちょこんと一人乗せられて、よく志田病院に通った。幌《ほろ》の窓は雲母で出来ていた。その雲母の窓から、きらきらと光る純白の雪道が、幼い私にはこの世のものならぬ美しいものに思われた。病院に着くと、車夫が私を掬《すく》い上げるように両腕の中に抱きかかえて、玄関に入る。玄関にはたくさんの靴や下駄が脱ぎ散らされてあったが、車夫から私を抱き取った看護婦は、ほとんど待たせることなく医師の前に連れて行った。外で人力車が待っているからだったろう。
「のどと、鼻と、耳は、つながっているからね。だから一つが病気になると、ほかも病気になるんだよ」
志田医師はそう言い、鼻に薬をつけ、のどにルゴールを塗り、耳だれを拭《ねぐ》ってくれた。私は、傍らの紫や茶色の薬瓶が何か神秘的に思われ、クレゾールの匂いにも心惹かれた。一度その病院の奥さんが、白いちり紙にお菓子を包んでくれたと記憶している。入学前の子供が一人で病院に通うのを、けなげと思ったのかも知れない。
小学校に入ってからは、人力車で病院に行く時が淋《さび》しかった。それは、志田病院に行くのに、途中、大成小学校の横を通って行ったからだ。病気で休んでいる私は学校に行けない。学校のそばを通ると、オルガンに合わせてうたう声、読本を斉読する声、そして、「ハイ」「ハイ」と挙手する元気な声が、一重窓のガラス越しに聞こえてくるのだった。通院の時、私はたいてい麻の葉模様のちりめんの被《ひ》布《ふ》を着せられていて、その緋《ひ》房《ぶさ》が小さな胸にゆれていた。
車夫の中に、仏《ほとけ》の何とかと呼ばれる優しい中年の男がいた。体格はがっちりしていたが、背はあまり高くはなかった。のちにこの人は、常時ドスを晒《さら》し木綿に巻いて腹にのんでいる、ある暴力団の兄貴株だと聞いたが、この車夫には抱かれたことはなかった。いつも腹にドスをのんでいたためであったろうか、その幅広い背に背負ってくれたものだった。序《ついで》ながらこの車夫は、私の小説〈岩に立つ〉に登場している。
ほとんど父一人の働きで、わが家と父方母方の親戚を支えていたために、わが家は常に経済的には楽ではなかったが、しかし父の収入そのものが少なかったわけではないので、時折わが家には不似合いな家具が運びこまれることがあった。ある時、籐《とう》椅《い》子《す》や、同じく籐で作った座敷用ブランコが運ばれてきた。妹や弟をこのブランコに乗せて遊ばせながら、私はどんなにうれしく思ったことだろう。ろくに玩具《おもちや》や本も与えられなかっただけに、当時滅多に見かけることのない座敷用ブランコがゆれているのを見るのは、確かに豊かな気持ちだった。これは父の発意であったか母の発意であったかは知らないが、その後ハンモックなども買い入れて、これにはもう小学校の高学年になっていた私たちも、かわるがわる昼寝に使ったものだった。
そんな頃である。わが家の床柱に一枚の短冊が掛けられた。
〈いつまでもあると思うな親と金ないと思うな運と災難〉
父の達筆なその筆《ひつ》蹟《せき》だけが、わが家における、ふと立ちどまらせる唯《ゆい》一《いつ》の言葉であった。私は、金や運や災難よりも、ただ「いつまでもあると思うな親」という言葉に怯《おび》えた。父や母が死ぬというそのことを想像するだけで、体から力がぬけていくようであった。この短冊は仏壇のすぐ傍らに掛けてあったから、なおのこと私を脅《おびや》かした。何年間この言葉に脅かされたことか。が、あの短冊は、ある意味では子供を育てる重要な教材でもあった。
特にこの言葉が色濃く思われたのは、祭りの度に私たちの立ち寄る老夫婦の露店においてであった。老夫婦は綿《わた》飴《あめ》屋《や》をしていた。どちらも実にいい顔をしていた。夫のほうは柔和で、挙止が折目正しかった。たいていは母と一緒にその綿飴の露店に立ち寄るのだが、その主《あるじ》はふかぶかと最敬礼をして、無《ぶ》沙《さ》汰《た》の詫《わ》びを言ったり、安否を尋ねてくれたりした。妻のほうもまた、かぶっている日本手《て》拭《ぬぐ》いをつつましく取って挨《あい》拶《さつ》し、決して微笑を絶やさなかった。気品のある、といってもよいほどのこの老夫婦と、わが家との関係を、それまで私は聞いたことがなかった。立ち寄る度に綿飴をただでくれるので、子供心にも悪いような気がしたものだった。
ところが四、五年ほどして、その老夫婦が私の父方の祖父の店で長いこと番頭を務めていたことを知った。祖父の死後、主家が傾いて店を閉じると、この番頭夫婦も、父の出て来た旭川にやって来た。せめて同じ土地で、父たち一家を見守っていたい思いからだったろうと、母は私に言ったことがある。年老いた夫婦は、勤め口もなく、ほそぼそと露店商を業《なりわい》としていたのである。その娘が女学校を出て間もなく、将校に嫁ぐ夜、私とすぐ下の弟が、雄《お》蝶《ちよう》雌《め》蝶《ちよう》となって、その宴に参席したことを覚えている。紋付を着た番頭夫婦には気品と優しさが滲《にじ》み出ていた。それは、綿飴を売っている時にも失うことのない、気品と優しさであった。
〈いつまでもあると思うな親と金ないと思うな運と災難〉には、有《う》為《い》転《てん》変《ぺん》無常の世にあっての一つの人生訓があるわけだが、この歌を超えた、もっと変わらぬもののある境地に、この老夫婦は生きていたように思われる。
書き落としたことを思い出すままに書いていくので、話は前後するかも知れないが、思い出の一つに、弟妹たちの誕生がある。弟が四人、妹が一人いるので、私としては五人の誕生を見ている筈だが、二歳年下の弟の誕生は記憶にない。当時は産婆が赤子を取り上げた。弟たちを取り上げた産婆は、子供心にも頼《たの》もしいと思われる人だった。小山のような体の、恰《かつ》幅《ぷく》のよさもさることながら、ちょっとやそっとの物事には動ずる気配のない、落ちついた人柄も、子供の私には非常に偉い人に思われた。その偉いと思われる偉さの種類は、学校の教師や医師にもないほどのものだったが、あれはいったい何だったのだろう。赤子と母体の命への責任感が、産婆の日常を緊張させ、謙虚にさせていた故であろうか。とにかく、その太い片腕の中に赤子を抱え、右手で巧みに湯を使わせてゆく。小さなボールに浸した脱脂綿で目を拭《ふ》き耳を拭き、口の中を拭いて、きれいさっぱりと仕上げていくさまを、息を凝らして見ていたあのひと時、私たちが感じたのは、多分愛であったろう。何ともいえなくあたたかいものが、その産婆から感じ取られたものだった。たらいの中のそうした妹や弟の姿を見て育ったということは、幸せなことのように思う。弟妹たちが這《は》い這いをし、つたい歩きにうつり、やがてよちよち歩きを始めるのを、親と一緒に喜んで見守っていたということも幸せだった。
この弟妹たちを、私はよく背負わされたものだ。寒い北海道では、子供を背負うことはむしろうれしいことだった。あたたかい体温を背に感じながら、私はよく本を読んだ。私の母は、教科書以外の本を読む者には不良性があると思っていたようだが、赤子を背負っている間だけは、本を読んでも文句を言わなかった。どの弟妹たちの体温も、すべて背に感じて過ごしたことを思うと、非常に貴重な体験をしたような、懐かしい思いになる。
ところで、五年生の時、神社参拝を三十日つづけたことがある。あれは昭和八年(一九三三年)のことであった。小林多喜二が殺され、滝川事件で滝川教授が休職を命ぜられ、時の京大の法学部長以下三十八人が総辞職した年である。この年、国際連盟を脱退した日本は、次第に進路をある方向にとって歩きつつあった。即ちファシズムの方向である。
私の通っていた大成小学校だけが始めたことかどうか知らないが、多分六月頃であったと思う。月の朔《つい》日《たち》から三十日間、何年生以上かが、氏神の上《かみ》川《かわ》神社に毎早朝、そろって参拝することになったのである。私の家から、二キロほど離れた神楽《かぐら》岡《おか》の上に神社はあった。
清浄な朝の境内に整列して柏《かしわ》手《で》を打つことは、確かに気持ちのよいことであった。何かよいことをしたような気がするのである。私は同じ町内に住む級友の多《た》東《とう》弘《ひろ》子《こ》と神社に日参した。しかし、神が何かということはわからなかった。宮《ぐう》司《じ》が正式な拝み方を教えてくれたが、教義のようなものは何一つ説いてくれなかった。 天《あま》 照《てらす》 大《おお》 神《みかみ》 が祀《まつ》られていると聞けば、そうかと直ちに納得しただけである。神観念は不確かであったから疑問も起きなかった。私は多東弘子に、
「三十日もお詣《まい》りしたら、どんなご利《り》益《やく》があるんだろうね」
と言った。彼女はおとなしい性格で、
「さあ、わからない」
と、にこにこしていた。それから二、三日経《た》った朝だった。神楽岡の裾《すそ》を忠《ちゆう》別《べつ》川が流れている。そこにかかっている橋を渡って、坂道を下りている時だった。(その坂道を過ぎると、道はまた神社への上り坂となる)うしろで、けたたましい自転車のベルの音がした。ふり返ると、
「危ない!」
と叫びながら、高等科の男子がベルを鳴らしつづけて下って来るところだった。次の瞬間、多東弘子と鈴木雪子は自転車に撥《は》ね飛ばされていた。鈴木雪子は手足を怪《け》我《が》し、多東弘子は胸を強く打った。私だけが難を逃れた。胸を打ったのが原因かどうか、多東弘子は長い間肋《ろく》膜《まく》を病み、若くして世を去った。この時私は、
(神社に参拝しても、ご利《り》益《やく》なんかない)
と、肝に銘じて思ったことだった。それにしても、なぜ大成小学校では、朝の連続神社参拝を思い立ったのだろう。軍国主義に傾いていく時代にあって、神国日本の思想を生徒に吹きこむためであったのだろうか。当時の大成小学校を思うと、私はどうもそうとは思えない。大成校は綴《つづ》り方教育に甚だ熱心な学校だった。毎月二年生以上の各クラスから、一編ずつ綴り方が選び出され、「芽《め》生《ばえ》」という文集に収録された。忙しい教師たちが、毎月出版物を刊行した陰には、綴り方教育にかなり熱心な中心人物がいた筈である。当時綴り方教育に熱心な教師は、それだけでアカと睨《にら》まれていた。当然大成校には当局の目が光っていたと想像される。その当局の嫌疑を、神社参拝によって晴らそうとしたような気がしてならない。むろん、当時の私はそんな時代とは知らず、三十日皆勤して、大きな賞状を宮司からもらって喜んだものだった。
一九八五年、北海道新聞社から出版された「北海道文学大事典」を開くと支《はせ》部《べ》沈黙という詩人の名が出ている。私は一度も教えてもらったことはないが、私の弟昭夫も、また私を短歌に導いたアララギ派の前川正も、この支部沈黙に大成校で受け持たれている。この事典から、少しく支部沈黙について引いてみよう。子供の私の目にも、熱心な綴り方教育の先生として映った支部沈黙は、
〈大正九年札幌の文芸誌「路上」に参画、大正十一年には詩と短歌の誌「アカシヤ」創刊に参加、三木露風を招いて時計台で文芸講演会を開いた。(中略)露風に代わり中央から刊行されていた少年雑誌の詩の選者になったことは、戦後まで秘められていた。大正十四年旭川大成小学校に転任、同市の綴《つづ》り方研究部に活気を与えた功績は大きく、各種の文集刊行を成功させた。個人誌、童謡の世界が独特の発展を示したのもこの時代前後で、(中略)十一年一月旭川で口火を切った第一次の北海道詩人協会の設立。昭和十四年教育界を一旦去る……〉
となっており、終戦まで満《まん》蒙《もう》にいた。多分、難を恐れて日本から離れていたものと思われる。
この「芽生」を刊行した意図は、渡辺ミサオ先生の話によれば、二年生から六年生までの五年間に、クラスから毎年一人ずつ、順に綴り方を発表して、計六十人の生徒の綴り方を残らず載せるためであったという。だがその意図をつらぬくことはむずかしく、私の綴り方は九回載せられている。石川澄子は八回だったから、六十人全員とはいかなかったようだ。
そんなわけで、私は綴り方が得意のように思われたが、格別にうまかったわけではない。文学的才能が優れていたとは、決していえない。その証拠を示す思い出がある。五年生の二学期であった。初めて短歌を作らせられた。
(要するに、五七五七七になればよいのだ)
と、私は単純に思いこみ、たちまち二首作った。その出来上がった短歌(?)を、渡辺先生は黒板に書いて示した。私と、赤《あか》石《し》君子の二人の作だった。この赤石君子という級友は、三年生の一学期まで隣の五組にいた生徒で、その後の合併で同じクラスになった生徒だった。白い花びらのような頬《ほお》をしていて、歩き方もひそやかな、上品な少女だった。どうやら彼女は、有名な人の子供らしいと、私は何となく感じてはいたが、そのことを詳しくは知らなかった。のちに知ったことだが、赤石君子の父は、日本で初めての国産金属製飛行機の初フライトで、墜落して犠牲の死を遂げた。これは大正十五年のことで、社会的にもかなり衝撃的な事件であったらしい。この海軍機は横《よこ》須《す》賀《か》の海に落ち、大《たい》尉《い》であった彼女の父は少《しよう》佐《さ》となった。その後彼女の母は、旭川で茶道と活花の師匠をしながら三人の子を育てた。
私はこの母親が学校に来た時、実に驚いたことを覚えている。その頃、親たちは滅多に学校になど来なかったから、学校に姿を見せるだけで、何か特別の人を感じさせたのだが、彼女の母は特にそのように目に映った。当時では珍しい紫のベルベットのコートを着、玄関から入って来て、履物をスリッパに替《か》えているただそれだけの動作が、えもいわれず上品に見えた。君子は、三輪昌子と並ぶ成績のよい生徒だった。が、いつも静かにしていて、余り私たちとは遊ばなかった。
さて、その時の私の歌を恥を忍んで披露しよう。
煙突が一二三とふえてゆく
冬が近づく秋の夕暮
ただ、五七五七七に並べたというだけのしろものである。それでも渡辺先生はほめてくれた。多分、五七五七七にまとめた者が少なかったからであろう。これだけならまだよかった。次の一首は、もう大笑いものである。げらげらというほかはない。
お隣りのぶどうがなって泥棒が
はやるわはやる秋の夕暮
これにはみんなも笑った。先生も笑った。私自身も笑った。つづいて、そこにしずしずと登場したのが赤石君子の短歌である。
きりきりとキリギリス鳴く秋の夜に
すすき手まねぐ秋風の中
段ちがいである。私はぶったまげた。何とすばらしい歌であろう。しかも気品に満ち、誰の目にも情景が浮かぶ。私は限りない尊敬のまなざしを彼女に向けた。私は優れたものに直ちに最敬礼する質《たち》だから、妬《ねた》ましい思いなど一つもなかった。妬むというのは、力が同じ程度の時に発する感情ではないだろうか。こうも段ちがいでは平伏するより仕方がない。漫画のごときわが歌と、少女雑誌に口絵つきで出てきそうなこの短歌では、比較すら出来なかった。この短歌に見るとおり、私は文学的才能皆無に近い子供だった。
六年生の夏の夕であったろうか。私と姉の百合子は、二人で風《ふ》呂《ろ》に入っていた。風呂は木製の楕《だ》円《えん》形《けい》の据え風呂だった。姉は女学校三年の頃で、「人見絹枝のようだ」といわれるほどにスポーツが得意で体格がよかった。人見絹枝とは、昭和の初期に活躍した女流陸上選手の名である。三歳下の私も百四十七センチはあったから、二人で肩まで沈むわけにはいかない。二人は立ったまま、お喋《しやべ》りをしていた。近所の人たちが、
「あんたたちきょうだいは、まるで十年ぶりに会ったみたいに、いつも楽しそうに話をしている」
と言ったほどに、よく話をしていたものだ。今、少女時代をふり返ってみて、一番楽しかったことは何かと問われれば、読書、映画は別として、私は姉と共に過ごした時間をあげるだろう。
姉はよく本を読んだ。映画も見た。三歳上だから、私より先に新しい世界を知る。姉は話術が巧みだった。特に自作の「物語」は私を夢中にさせた。三番目の兄の職場に、当直の弁当を持って行くのが隔日ごとの私たちの仕事だった。往復三キロのその道のりが短いと思われるほど、姉の話はおもしろかった。だからいつも、姉と二人でどこかに使いに行く時は、家を出るや否や、
「お話、して」
と、私は姉にすり寄る。姉はすぐにうなずいて、
「今日の題はね、『義理立て男』というんだよ」
と、先ず題を示し、
「義理立て男は嵐寛寿郎、その相手役は森静子だよ」
と、私の好きな俳優の名を告げてくれる。もうそれだけで私は惹《ひ》きつけられ、
「うん、それで?」
と、相《あい》槌《づち》を打つ。
「寛寿郎はね、ふところ手のまま、スタスタスタと、草履の音を立てながら歩いていくの」
姉はよどみなく話を始める。ある時は現代劇になり、ある時は時代劇になるわけだが、話というより、映画を見ているように、生き生きとした語りくちだった。
この姉がよく人から本を借りて来た。その本を私がまた読んだ。そしてその感想を二人で話し合った。姉は集中力が人にぬきん出ていて、一旦本を読み出すと、三度や五度名前を呼ばれても返事をしない。私などは、呼ばれれば、ハーイと返事をし、それを何度か繰り返して立ち上がるというありさまだったが、姉の読書への熱心さとは、較《くら》ぶべくもなかった。
その日も風呂の中で、この姉の口から出る言葉に聞きほれていた。何でもよいのだ。姉の語る言葉が楽しかったのだ。とその時、姉は風呂の中に立ちながら、手《て》拭《ぬぐ》いを絞り絞りこう言った。
「あのね、〇〇さんに恋人が出来たんだって」
姉としては、何げない言葉であったかも知れない。だが、そのひとことに私はどきりとした。今のように、どこの家にもテレビのある時代ではなかった。その頃わが家にはラジオもなかった。小説や映画の中では、恋人という言葉を読んだり聞いたりはしていた。だが、こんな身近に、生身の人間を感じさせる言葉は、初めて聞いた。つまり、恋人とは六年生の私にとって、小説や映画の中だけの言葉であった。姉は女学校三年生であったから、級友に恋人が出来ても、それほど不思議のない年齢であったろう。と言ってもプラトニックラブであったが。当時の流行歌に、「島の娘」というのがあった。
ハア 島で育てば
娘十六 恋心
というその歌詞に、私は十六歳にならなければ、恋などしてはならないのかと思う幼さの中にあった。
だから、小学六年生の私には、恋人という言葉は、口にさえ出したことのない言葉でもあったのだ。私は、姉の口から恋人という言葉が出た時、一種の羞《しゆう》恥《ち》を覚えた。その言葉は、小学生には到底口にしてはならない言葉にも思えた。
「〇〇さんに恋人が出来たんだって」
たったそれだけの言葉が、私にはなぜそんなにも強烈だったのだろう。それは、初潮をみて半年と経《た》たない時期であったということにもよるのであったろうか。何かその頃の年齢を象徴する思い出のようにも思われる。
実は、姉のその言葉を聞いた時、私の胸に浮かぶ一人の少年の姿があった。それは同級生のあのスポーツマンのNではなかった。それは、私が毎朝牛乳配達に行く道筋にある小さなお寺の、その息子であった。お寺といっても、ごく粗末な民家で、むろん境内などはなかった。門標の〇〇寺と書いた字に気づかなければ、それはただの家であった。しかもその寺は路地に面していて、私はその家の隣に牛乳を配達していた。
少年は私より一歳ぐらい年上であったろうか。頭はいつもつるつると剃《そ》られていた。縞《しま》の木綿の着物を着て、自分の家の前で、時々地面にものを書いていた。私は彼の声を聞いたことがなかった。彼が走りまわったり、他の男の子とメンコをしたりしている姿を見たことがなかった。いつも静かに、地面に何かを書いていた。私はその何かを見たことはなかった。なぜなら、私の袋の中の牛乳瓶がカチャカチャと音を立てると、彼は顔をあげて、ちらりと私を見るからだった。
彼は少年というのに、額に深い皺《しわ》が一本あった。いや、二本であったかも知れない。広い額であった。色は浅黒かった。彼の持つ雰囲気は、それまでに私の見たどの少年にもないものだった。どこか淋《さび》しそうだった。寂《せき》寥《りよう》があたりに漂っていた。少しも幸せそうに見えなかった。といって、不幸だというのでもなかった。むしろ、幸福とか不幸を超越して生きているようでもあった。
のちに私が哲学という言葉を知った時、何となくこの名も知らぬ少年の顔を思い出したものだ。
私は次第に、その家の前を通るのが楽しくなっていた。彼は家の前で、今日も何かを書いているだろうか、という期待に満ちて、その路地に行った。湿った苔《こけ》の匂《にお》いがする。その路地に彼の姿を見ただけで、私は満足した。が、姿を見かけぬ日が幾日かつづくと、不安になった。
(あの子、ほんとうにあの寺の息子なのだろうか)
何となく、よそからもらわれて来ているように思われた。そして、もしかしたら、彼は自分の実の親のところに帰って行ってしまったのではないかと、勝手に想像したりした。後年私が樋口一葉の小説「たけくらべ」を読んだ時、少年僧信《しん》如《によ》の上に、彼の悌《おもかげ》を見たものだった。その頃の私にとって、恋とはそのようなものだった。言葉をかわさなくても、手を握らなくても、ただその人の姿を見れば心が満ちる。それが六年生の私の恋だった。その少年には、長じて二、三度街ですれちがったことがある。その度に私は、あの六年生の夏の夕を懐かしく思い浮かべたものだった。
私の小説『氷点』に、陽子というヒロインが登場する。この名は、私の妹陽子の名からとった。妹陽子は、昭和四年(一九二九年)六月二十二日誕生し、昭和十年(一九三五年)六月二十四日世を去った。わずか六年と二日の命であった。
陽子が死んで、ずいぶん長い年月、私はこの子の死を悼んだ。『氷点』のヒロインに陽子という名をつけて、ようやく少し私は心が慰められた。
陽子は生まれた時から、私たち家族にとって、特別の子であったような気がする。私の下に弟が二人つづいて生まれ、三人目に陽子が生まれた。私には初めての妹であった。女の子が生まれたというので、五人の息子を持つ父母は大喜びであった。みんなが生まれた陽子の寝ているベビー布団を取り囲み、顔をのぞきこんで離れなかった。黒い髪がふさふさとしていて、珍しい赤ん坊だと産婆が言った。その頭を憮《な》でた誰かが、
「頭のてっぺんが、へこへこと柔らかいよ」
と言い、みんながかわるがわるに手を伸ばしてさわった。が、お産扱いに来ていた祖母に、
「そこを押すと、赤ちゃんが死ぬよ」
と言われて、みんながぎょっとして顔を見合わせた。あの柔らかな頭の感触と共に、この祖母の言葉を今もはっきりと記憶している。
陽子は不思議なほどに泣かない赤子であった。眠りから目をさましても、ほとんど泣かなかった。這《は》うことが出来るようになり、つたい歩きをするようになっても、にこにこ笑って、いつも静かだった。数え年三歳の時だった。親戚の者が買ってくれた絵本を、誰かの膝《ひざ》の上で眺めていたが、トという字を指さして読んだ。家人が驚いた。トという字を誤りなく読んだのは、偶然ではないかと思った。が、陽子は、トの字を次々と拾い出して読んだ。その後、どれほども経《た》たぬうちに五十音の字を覚え、満五歳の時には、三、四年の教科書の読み書きが出来、計算が出来た。
この陽子が、近所の子供たちとままごとをしていて、どうしたわけか男の子たちから肩を突つかれ、背を突つかれて、いじめられているのを私はたまたま窓から見つけた。よほど助けに行こうかと思ったが、陽子はどうするかと、ちょっとの間私は眺めていた。陽子は泣きも怒りもしなかった。黙って、突つかれるままにしていた。むろん逃げ出しもしなかった。そしてそのまま、他の子供たちとままごとをしていた。何ごともなかったような、静かなその態度に、六年生だった私は深い感銘を覚えた。
親やきょうだいたちの自慢であったこの陽子が、結核を腸チフスと誤診されて、入院四、五十日ののち、痩《や》せ細って死んだ。「寒い、寒い」と、しきりに寒がる陽子の体を、きょうだいと一緒に私は一心にさすった。が、遂に陽子は次第に冷たくなって死んで行った。親も、きょうだいも、居合わせた親戚の者たちも皆、号泣した。私が小学校を卒《お》え、女学校に入ったばかりの六月のことだった。これほどの悲しみがこの世にあることを、私はその時まで知らなかった。
人格の形成には、よい環境が必要だといわれている。「よい環境とは、響き合う魂が周囲にあることである」と、ある人は言った。この言葉をもってすれば、祖母、父母、兄弟、姉妹、師、友人、この〈草のうた〉に登場してきた人々は、そのよい環境を私につくってくれた人たちであった。今は亡き人、生きてなお歩みつづけている人も……。
寒行の善男善女 寒中に厳しい寒さに耐え、行う苦行。水《みず》垢《ご》離《り》、念仏、読経などをし、薄着やはだしで社寺に参り祈願する。
山姥 「やまうば」の音便。深山幽谷に住み、怪力を発揮すると伝えられる伝説上の女性。能や歌舞伎舞踊の題材ともなった。
へっつい 竈《かまど》のこと。
伸子張 伸子は着物の洗い張りや染色のときに、布が縮まないように両端に刺し留めて弓形に張る道具。伸子張は伸子を使って洗った布に糊をつけたり、染めた布のしわを伸ばすこと。
纏足 かつて中国にあった風俗。女の子が四、五歳になったころ、足に布を巻いて大きくしないようにした。唐の時代から流行したが、清の時代に禁止令が出され、衰退した。
師範学校 明治五(一八七三)年に設立された、小学校、国民学校の教員を養成した学校。第二次大戦後廃止され、学芸学部、教育学部の母体となった。
創作秘話(五)
続泥流地帯――
登場人物に実名の多い小説
草のうた――
幼少時の自伝
三浦光世
続泥流地帯――
登場人物に実名の多い小説
綾子の小説で、単行本として出版された時、上・下二巻となって出たものがある。
「天北原野」
「海嶺」
「銃口」
これら三篇が上・下として出版された。何れも長篇で、一冊として出すには長過ぎたからであろう。
右の三篇は、始めから続篇は予想されていなかった。「続」と名のついたのは、
「氷点」
「泥流地帯」
の二つに限られる。すなわち、
「続氷点」
「続泥流地帯」
である。右のうち「続氷点」を書いたいきさつは、既に述べたとおり、正篇が出たあと周囲から声が上がり、朝日新聞社からの求めもあって、綾子が書いたものである。
その点「続泥流地帯」は、同じく続篇といっても、「続氷点」とは趣を異にする。「続泥流地帯」は、先ず正篇ができて、そのあとに改めて続篇を書いたものではない。
取材スナップより。
「泥流地帯」は一九七六年一月四日、北海道新聞日曜版に連載が始まった。そして九月十二日で一応終わらせている。綾子としては、一年は連載するつもりであった。それが八カ月余で終わることになった。
日曜版であるから、いわば週刊である。一回十七枚として、八カ月と二回、約五百八十枚、原作者の綾子としても少しくページ数が不足であったと思う。
どうしてそういうことになったか。
「少年少女向きに書こうとしているのでは……」
という担当者の初めの杞憂は、既に解決していたはずである。他にどんな都合があったかわからないが、四百枚ほど書いた時点で、
「六百枚くらいで仕上げてください。大体九月上旬で終わりにして欲しい」
という担当者からの求めがあった。
その言葉を傍らで聞いていた私は、
「えっ!?」
と思った。多分綾子はそんなつもりではなく、充分スペースを取って書くべく構想も練ってきたはずだ。が、綾子は別に異議も挟まず、直ちにOKした。いつものとおりの決断の早さだった。
(まあいいか。場合によっては、続篇という手もあるだろう)
私は「続氷点」の実績を思った。が、これはこちらの勝手、とにかく六百枚で一応完結の形を取らねばならない。これを綾子は見事に? やってのけた。
今、読み返してみて、「泥流地帯」は「続」がなくても、まとまっていると思われる。
ところが、一九七七年三月、「泥流地帯」が単行本として、新潮社から出版された頃(多分その後かと思う)、北海道新聞社から、
「続篇を日曜版に連載して欲しい」
という注文がかかった。どうやら新聞社としては、始めからその計画であったのかも知れない。綾子の前後の作者とのかね合いもあったのであろうか。とにかくありがたいことで、むろん綾子は二つ返事で引き受けた。
思えば「泥流地帯」の連載中、反響は少なからずあった。
「おもしろく読んでいます」
という声もかなりあった。必ずしも作品が不出来ではなかったようだ。
こうして「続泥流地帯」の連載が始まったのだが、綾子にとっては、あまり苦心せずに書き進め得たと思う。六百枚で一応完結へ持って行ったとはいえ、書きたいことはまだまだあったはずである。中断された形が却ってそれらを醸し出すのに役立ったかも知れない。
一九七八年、海外取材旅行も間に挟みながら、綾子は書き進めた。海外旅行は小説「海嶺」の取材で、先ずフランスからイギリスに行き、イギリスからカナダ、アメリカに飛んでいる。前後一カ月の旅で、前年のホンコン、マカオに次いで二回目の海外旅行ながら、強行軍であった。しかもアメリカでは、車の通らぬ森林を往復八マイルも綾子は歩いた。その時私は、持病の脱肛で車道の終点で時間を過ごした。
とにかく、そんな大仕事を中にしての連載である。よくぞ仕遂げたもの、しかも順調に書き終えて(一九七八年二月二十六日〜十一月十二日)、一九七九年四月には、再び新潮社より刊行を見たのだった。これがすなわち「続泥流地帯」のいきさつである。
ところで、この原稿を書くために、私は「続泥流地帯」を全篇読みなおしてみた。優に一日かかったが、しばしば胸が熱くなった。この小説は、綾子がよく涙を流しながら口述したものだった。そして筆記する私も、こみあげるものをおさえかねたことが幾度もあった。私の提案で、「泥流地帯」を書くことになったから言うわけではないが、彼女の八十数冊の著作の中で、これはやはりいい仕事の部類に入ると言えよう。
読みなおしてみて、気づいたことが幾つかある。以下少しく触れてみる。
登場人物に実名が少なくないことが、その一つである。
先ず吉田貞次郎村長。
この人の名は前篇の「泥流地帯」にも出てくるが、災害当時、上富良野の村長で、村民多数の人望を集めていた。清廉潔白、稀に見る人格の持主であった。
氏は、泥流によって大被害を蒙った田畠を復興させるべく、日夜苦心する。が、復興させるための起債が、自分たちの肩にかかることを恐れる者や、反対派の故なき中傷、迫害を受ける。
「泥棒村長」
「泥棒村長」
と、事あるごとに言い立てられ、時には自宅にも投石された。しかしどこまでも沈着に対応し、復興の線を推し進める。
この村長があって上富良野の田畠は甦《よみがえ》るのだが、その苦労はいかばかりであったろう。
私たちは、この村長の息女、清野ていさん宅にも幾度か伺って、当時の話を親しく聞くことができた。読書家でもあった村長の蔵書にも触れることができた。
十勝岳大爆発時に、一家は隣家の小高い山のほうに、辛うじて難を避けた話も伺った。泥流で亡くなられた方は、当時六十歳の祖母であったとか。
清野ていさんは、現在八十二歳で健在である。この方の妹さんが、安井弥生さんで、大正十一年生まれの綾子と同年。今も至って元気で、旭川市の隣りの東神楽町に住んでおられる。
住んでおられるといっても、いつも畠仕事に精を出しておられるのだ。ご主人は安井吉典氏、昭和三十三年衆議院議員に当選、社会党代議士として、長く活躍された。一時期は衆議院の副議長も務められた。
私たちが取材に行った時には、既に議員になって十年も経った頃であった。したがって、弥生夫人が田畠に出て働く必要はさらさらなかったといえるが、農の生活の尊さを、幼い時から身につけた弥生夫人は、土から離れられないという。
「自分は代議士夫人」
などという発想は、ついぞ持たなかったようで、ご主人が議員であった当時も、その職を退いた今も、変わることなく自ら鍬をふるい、土を耕しておられる。正に尊敬に値する生き方と言わねばならない。近年は、畠仕事を人に手伝ってもらうようになったというものの、今なお幾種類もの野菜、馬鈴薯、唐モロコシなど、何でも作っておられる。
私と綾子は、幾度かそのお宅に訪ねたことがあるが、極めて質素な家で、その一つを見ただけでも頭が下がる。
次に挙げるのは、
沼崎重平先生。
この方は医師であった。この沼崎先生も実名で「続泥流地帯」に登場する。旭川近郊の農民から、聖者とさえ言われていたと、私たち夫婦は以前からよく聞いたものであった。綾子はこの先生の名を、どうしても小説の中に登場させたかったにちがいない。
上富良野、美瑛等、先生はよくこれら農村に往診に出かけられたという。冬は馬橇に乗り、病人の家を廻ったと聞く。そして貧しい家からは、診療料も薬代も受け取らなかったということも、一再ならず聞いた。正に筋金入りのキリスト者で、身をもって神の愛を実行していたのであろう。
三浦さん夫妻が所属した旭川六条教会。さまざまな人との出会いの場としてしばしば作品に登場する。
戦後、一、二年経った頃、私は肺浸潤ということで、この沼崎先生の診療を受けた。正に得がたい体験であった。先生は、超短波療法を施してくださり、何カ月かで治してくださった。先生はやや小柄の、実に優しい医師であられた。五十年も経った今でも、先生のあのあたたかい声音は耳から消えない。
沼崎重平先生のご子息、修先生にも私たち夫婦は何かとせわになった。結婚した翌年、私は慢性疲労のような時期があり、一カ月余り、修先生の病院に入院したことがあった。
この入院中、思いがけぬことがあった。私は二階の個室に入っていたのだが、ある朝窓がガタガタと音がするので、目を覚ました私は立って行って内側の窓を開いた。
と、窓の外に四十前後の男が見えた。男は別にあわてるふうもなく、下へ降りて行った。男はあの時、梯子をかけて上がって来たのであろうか。私は煙突の修繕にでも来たのかと思ったが、あとで修先生は言われた。
「いや、それは泥棒です。病院の薬を狙ってくる人がいるのです。ご心配をかけてすみません」
修先生は無類に謙遜な方で、全く自分には落度のないことまで、自分の責任に帰するようなところがある。今までに幾度その姿勢に心打たれたことであろう。
この入院の前か、後であったか。多分前であったと思う。結婚した年のはずである。朝起きて玄関の外に出てみると、何者かが金梃で、戸をこじあけようとした跡があった。当時私たちは、物置を改造したひと間の家に入っていた。九畳敷の変則的な家である。この住居はしかし大家の棟つづきになっていて、豊かな生活に見えたのかも知れない。
幸い、その後二度と泥棒は来なかったが、私が入院中、綾子は一人でその家に寝起きしていたわけだから、淋しい思いをさせたと思う。
泥棒に家の中まで入られた経験もある。職場から借りた金で家を建て、綾子が雑貨屋をしたのだが、やがて「氷点」が入選するに及んで、雑貨屋を閉じた。店の部分は客間に造り変え、綾子は二階でものを書く仕事をするようになった。
ある日の午後、私と綾子は二階でひる寝をしていた。が、階下で物音がする。当時、私の姪が家事の手伝いをしていたが、私たちがひる寝をしている時は、注意して物音を立てない。その日姪は用事で外出している。
(もう帰ってきたのか)
と私は思った。
「どうもうるさいわね。ちょっと見てきて」
と綾子が言う。私は階下に降りた。と、ベランダのガラス戸を内側から開けかけている男のうしろ姿があった。一見して、私は綾子の弟かと見まちがった。
「どうかしましたか?」
声をかけた途端、ギョッとして男がふり向いた。驚愕した顔だった。誰もいないと思って、安心していたのだろう。音も立てずに、うしろに家人が立っていようとは、思いもよらなかったのだ。
男はベランダの戸を開けるや否や、すっ飛んで行った。私は玄関へ回って見た。彼はガラスを割って錠を外し、侵入していたのだ。座敷の押入の襖も開け放してあった。
あとで聞いたところによると、同じ手口で荒らされた例が幾軒もあるという。彼は先ず、逃げ道を用意して仕事にかかるということだった。ベランダの戸を先ず開けようとしていたのは、そのためであった。
幸い打ちかかってくることもなく、大急ぎで逃げてくれて助かった。拳骨で一撃されただけでも、ひ弱な私はひとたまりもない。
「どうしたの、誰か来たの?」
綾子が二階から声をかけてきた。
「うん。泥棒だ」
私は、のんびりと答えた。冗談と思った綾子は事実と知って驚いた。私が落ちついているのにも驚いた。
以上、夜中に戸をこじあけられかかったこと、病院で二階の窓越しに顔を合わせたこと、そしてまっぴる間、侵入していた男と向かい合ったこと、都合三回泥棒に見舞われた経験があった。
綾子にしても、これは忘れ難いことのはずであったが、不思議に小説の中に泥棒を書いていない。なぜ書かなかったのか、綾子のいない今、聞く術もないが、彼女には泥棒に入るだの、入られただのということは、思うだけでもいやだったのかも知れない。
一方、私の幼少時、つまり生立ちのことはよく参考にしている。「泥流地帯」にも「続泥流地帯」にもかなり取り入れている。しかも、それが実に自然に書かれている。
「泥流地帯」について書いた時も触れたが、私の父は三十二歳で肺結核のために世を去った。その一、二年後、母は私を母方の祖父の家に、兄と妹を父方の祖父のもとに預けて、髪結になるべく都市に出る。
このことにまつわる事柄を、綾子は「続泥流地帯」にもしばしば引用した。特に続篇では、主人公の耕作が、何年ぶりかで共に住むことになった母と、どうもしっくりしないという心の動きを随所に書いているのだが、これは私の体験である。母と別れて十年後、再び母とともに住むことになった私は、どこか馴じめないものを母に感じた。二年ほどして、そんな思いは消えたが、どうもそういうものらしい。
「続泥流地帯」の中で、「切《きり》炬《ご》燵《たつ》」という言葉が出てくる。掘炬燵ともいうが、これは置炬燵でなく、床の一部を切って、炬燵にしたものである。春から秋にかけては、その炬燵の上に板を並べ、茣《ご》蓙《ざ》を敷いて普通の部屋となるが、冬になると板を取り除き、やぐらを置き、その上に布団をかける。灰の中にはどっぷりと燠《おき》を入れる。こうして寒さを防ぐのである。家人は夜、四方からその炬燵に足を伸ばして寝る。
こんな私の体験を、綾子は聞いただけで実によく覚え、そのイメージを描いてくれた。
食事についての場面も、我ながら懐かしく読んだ。遠足ではなかったが、ある日弁当に馬鈴薯を持って行った。ところが、昼食時、教室の床にその一つを、あやまってころがしてしまった。担任の女教師が憐れんで見ていたのを六十数年後の今も覚えている。
畳もない貧しい開拓農の家であった。飯はいつも麦飯、それでも申し訳程度に米が一割も入っていたかどうか。米だけの飯は正月か盆か、特別の日だけ。麦一粒も入らぬ米の飯はそれだけで、この上ないごちそうと言えた。
十二月二十五日、クリスマスには米だけの味つけ飯で、これがうまかった。祖父が若い頃、福島の伊達とかで洗礼を受けたとか。家には聖書や讃美歌があり、クリスマスになると聖画の掛図が壁にかけられた。綾子は、私のこんな話にも感動していたのであろう。小説の中で、クリスマスに味つけご飯が炊かれたことを書いている。
災害援助物資に、米も配給されたのは史実であるとして、小説の主人公たちが、その米に馴れてくることに罪悪感がつきまとったというのは、多分に私の話からヒントを得たものと思われる。
母と別れて十年後、私は母や兄と一緒に住むことになり、預けられていた開拓農の家から、小さい集落ながら町場の生活に変わった。最も大きな変わりようは、毎日が米だけの食事になったことだった。私はこれが気になって仕方がなかった。祖父たちは今日も麦飯を食っている、と思うと何か悪いことをしているような気分になるのだ。
妹は父方の祖父の家で、相変わらず麦飯を食べている。その妹のことも思いやられた。もっともこの父方の祖父は酒乱で、農業を嫌い、郵便配達をして酒代を稼ぎ、その上別鍋で自分だけ米の飯を食っていた。小説の中に曽山という酒くせの悪い男が登場する。これも私の話したことを参考にしたにちがいない。
実名の三人目は、
佐野文《ふみ》子《こ》女史。
この人は公娼廃止運動に命を張った人。旭川六条教会員の一人でもあったというから、私たち夫婦にとっても、同じ教会の大先輩に当たる。とにかく凄い勇気の持主で、集会所で公娼解放のための演説をしたり、遊郭の前に行って廃業を呼びかけたりしたという。ために幾度となく危険な目に遭った。演説中に、遊郭の用心棒(牛《ぎゆう》太《た》郎《ろう》)には日本刀で切りかかられたり、畳に出刃包丁を突き刺されることなど、一度や二度ではなかったと伝えられる。
私が「泥流地帯」を書いて欲しいと綾子に提案した時点ではむろんのこと、連載中も、このような人物たちを登場させることを勧めたことはなかった。第一、小説の筋にまで立ち入る力は私にはない。が、綾子は次々に想が湧くのか、極めて無理なく実在した人物まで小説の中に書きこんでくれた。
この「続泥流地帯」は、見てのとおり、前篇を受けて、被災者の村葬の場面から始まっている。
〈千五百の会衆〉
〈七十名を越える各派の僧の読経……〉
等の表現が先ず目につく。これはおそらく巻末に別記した参考文献にもとづいて書いたものであろう。つづいて、主人公の耕作が妹の遺体と対面した時、その鼻から、たらたらと血が流れた、と書いている。
泥流に呑まれて死んだ遺体に、親戚身内の者が近づくと、遺体が鼻血を出したという話は、取材中幾度も耳にした。綾子はそれを小説の中に忘れずに書き入れたのだ。
鼻血の例は、この取材の前にも聞いたことがあった。旭川六条教会に、以前渋谷鐵夫という方がおられた。この渋谷さんから聞いていたのだ。渋谷さんの体験談ではなかったと思うが、そのような事例を聞いていた。
渋谷さんは先年、数え年百歳で天に召されたが、信仰が篤く、体もお元気で、日曜日には必ず礼拝に来ておられた。九十五歳を過ぎても、一人でバスに乗って来られるのだ。バスを降りて四、五百メートルは悠々歩いておられた。
私は、遺体から鼻血が出たのを見たことはないが、遺体が涙を流したのは見ている。
一九九六年、綾子の末弟秀夫が六十歳でその生涯を終えた。この弟が、朝日新聞の社告を姉に見せるようにと言ったことが綾子にとって「氷点」を書くきっかけとなった。言わばこの弟のおかげで、綾子はもの書きになれたと言える。
で、彼が遺体となって病院から帰宅した時、私は直ちに弔問に行き、ベッドの彼に声をかけた。
「秀夫君、何の力にもなれなかった。申しわけない。本当に至らなかった……」
その途端、彼の目尻から、一筋つーっと涙が流れた。
人間は、死んでも聴覚は最後まで働いているとか。十勝岳大爆発による死者は一四四名、中にはどこの誰とも識別できない顔も少なくなかったらしい。しかし家族が近づくと、鼻血を出したという。人間の命の不思議さを思わずにはいられない。
ともあれ、綾子はこの小説を、実に濃密に書き上げてくれた。
草のうた――
幼少時の自伝
綾子の書いた自伝には幼少時代の「草のうた」、少女期の「石ころのうた」、青春時代の「道ありき」、結婚当初の「この土の器をも」がある。あとになって「命ある限り」を書いたが、これは著作活動を始めた頃からのもので、難病のため、生存中のすべてに及ぶことはできなかった。
書いた順に並べると、先ず「道ありき」「この土の器をも」「石ころのうた」「草のうた」「命ある限り」となる。
「草のうた」はかなり早い頃、他社の少女向けの月刊誌に何カ月か書いたのだが、少しむずかしかったのか、途中でペンをおくことになった自伝である。
ところが幾年か経って、角川書店の「月刊カドカワ」誌に求められ、一九八五年六月号から一九八六年四月号まで、新たに連載することになり、同年十二月同社から単行本として出版された。というわけで、自伝ということもあり、特に創作秘話といったものはない。
今一冊を読み通してみて、その幼少時に、幾つか私と共通する体験があったことに気づいた。それらを少し書いておくことにする。
綾子は自分のことを、小さい時から臆病であったかのように書いているが、私ほど臆病ではなかったようだ。私は、五歳上の兄健悦とくらべると、全く正反対の性格で、実に臆病であった。
幼少時代のスナップ。左が母キサさん、中央綾子さん、右端が姉百合子さん。
小学校五年生頃であったか、魚釣りに行って、向こう側の崖に洞穴のあるのを見た。途端にその中から何かが飛び出して来るような恐怖を覚えて、すっとんで帰ってきたことがある。こんなわけで、沢の奥のほうまで釣り進むことはできなかった。
夜、真っ暗な田舎道を一人で歩くのも恐ろしかった。この点、兄はおよそ怖いもの知らずであったようだ。二十歳を過ぎてからとはいえ、兄にはこんなことがあった。
ある日、夜中に遠い田舎道を歩かねばならぬことになり、兄はてくてく歩いていた。ほとんどの農家は灯火を消していた。と、道端の藪に焚火が残っていた。兄はこれ幸いと、タバコに火をつけた。一服吸って、
(はて、何でこんな所で焚火をしたのか)
と思って気がついた。
(何だ、死体を焼いた火か)
私ならここで、鳥肌どころか、腰をぬかして動けなくなるところだが、兄は間もなくまた悠々と歩き出したという。
今ではどこの村にも火葬場があって、人が死ねば火葬場で遺体を焼く。が、昔はよく隣家の人たちが遺体を藪に運び、薪を積み、その上に棺を置き、火をつけて焼いた。棺が燃えると、中から遺体が出てくる。それを棒で動かして焼いたと聞いている。私の父もそんなことをされたのであろう。火葬の翌日、母の背に負われて藪の中に行き、遺骨を拾うのを見たことを覚えている。
兄が通りかかったのも、そうした火葬の現場であった。
綾子は幼い頃から幻覚も多かったのか、黒い塀の上に、青白い若い男の首だけがふわふわと浮いているのを見た、などとも書いている。私はそれほどの恐ろしいものを見たことはないが、夜、納屋に下げてある蓆戸が、人間に見えたことがあった。ゆらゆらと自分のほうに歩いてくるように見えて、急いで家の中に入り、しばらく戸をおさえていた。小学三、四年の頃でもあったろうか。
綾子も私も子供のころ病弱であったことは同じである。私もよく熱を出した。物心ついた頃には、私の右の耳は聴覚を失っていた。おそらく高熱で聞こえなくなったものと思う。
著しい共通点としては、二人共幼少時に瘰《るい》癧《れき》(リンパ腺結核)の経験がある。綾子の場合は病院に行って、麻酔をかけられ、手術を受けた。ためにその傷跡は目立たなかったが、開拓農家に預けられて育った私には、病院に行って手術を受けることなど、とてもできる相談ではなかった。まだ小学校へ入る前、吸い出し膏を貼られて、泣いていたようだ。
原因は父の結核を幼児感染したことによる。兄妹三人のうち、私が肺結核の父に最も近くまつわりついていたというから、もろに結核が染ったということであろう。
後年、沼崎重平先生に肺浸潤の治療を受けた時、先生は言われた。
「手術をして切り取ってしまえば、こんなに傷が残らなかったのでしょうが……」
のちに瘰癧は、腎臓に転移し、腎臓結核になり、右腎臓を摘出した。十七歳の時である。その後、後遺症の膀胱結核に苦しむことになるのだが、私は、
(これが父の唯一の遺産か)
と愚痴をこぼしたものだ。幸い、聖書を知り、そうした苦難も、すべては幸に転じたのだが、とにかくひどい目に遭った。
一九三九年、長兄道夫氏が北京へ赴任する折の家族写真。
綾子は別に家族の誰から感染したというわけではなかったろうが、青春時代に肺結核で十三年の闘病生活を送ることになる。それもまた大きな幸の土台になったことは、「道ありき」を読んでもらうとわかる。
「草のうた」に出てくる同じような体験は、まだ二、三ある。
首を切られても羽搏く鶏、小石が好きでよく拾って集めていたこと、火の玉を見たことなどなど。鶏の姿はショッキングで、忘れられない。小石が好きだったことは二人共全く同じだったことになる。大体私は、幼い時から、草でも木でも、木の実でも、地上のあらゆるものに魅力を感じる方であったが、中でも小石は好きであった。
火の玉は、ある冬の夕方、友だちとスキーをしていて、山の上のほうに、火が幾つか見えるのに気づいて、みんなで騒ぎ出した。別に尾をひくこともなくいわゆる火の玉ではなかったようだが、人間がいるとは考えられなかった。狐火でないかとも話し合った。狐火がどんなものか未だに知らないが、あるいはそうであったかとも思う。みんな恐ろしくなって、早々に家に帰った。
綾子と二人で、あれは火の玉ではないかと、しばらく見つめていたことがあった。「海嶺」の取材で知多半島に行った時のことである。かなり遠くに、ふつうの人家の灯火とはどうしても見えない火が家並の彼方に見えたのである。
他愛のないようなことを書き出してみたが、この「草のうた」は、読まれる方に共感されることも多いかも知れない。幼少の思い出とはいえ、この一冊もかなり密度は濃い作品と言えるようだ。
女学校時代。
三浦綾子小説選集5
続《ぞく》泥《でい》流《りゆう》地《ち》帯《たい》  草《くさ》のうた
三《み》浦《うら》綾《あや》子《こ》
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平成13年4月13日 発行
発行者  松村邦彦
発行所  株式会社 主婦の友社
〒101-8911 東京都千代田区神田駿河台2-9
MITSUYO MIURA 2001
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
主婦の友社『三浦綾子小説選集5 続泥流地帯 草のうた』平成13年4月1日初版刊行