三浦綾子
続 氷点 (三浦綾子小説選集2)
(一九七〇年)
吹雪のあと
窓の外を、雪が斜めに流れるように過ぎたかと思うと、あおられて舞い上がり、すぐにまた、真横に吹きちらされていく。昨夜からの吹雪の名残だった。
辻口病院の院長啓造は、自宅の二階の書斎に坐って、風に揺れる見本林の木立をぼんやりと眺めていた。二十メートルもある丈高いストローブ松の、どの幹も片側に雪が吹きつけられ、黒い幹肌がくっきりと鮮やかだった。
(生き返ってくれたな、陽子)
夕ぐれに近い林を眺めながら、啓造はしみじみと思った。
睡眠薬自殺を図った陽子が、もしあのまま死んでいたら、と思っただけで、啓造は耐え難かった。僅《わず》か満十七歳の陽子を死に追いやったのは、結局はこの自分だったと、啓造は自分自身が責められてならなかった。
(もう十八年前になる)
辻口家の裏にある、この見本林を突きぬけた美瑛川の川原で、通りがかった土工の佐石土雄に殺されたわが子ルリ子は、まだ三歳だった。
あれは、忘れもしない昭和二十一年七月二十一日、上川《かみかわ》神社祭のひる下がりだった。
(おれが出張から帰って来た時……)
啓造の細い目が、いっそう暗くかげった。
その日、妻の夏枝は常になく酔ったようにピアノを弾いていた。夏枝のうしろのテーブルには、うず高く吸い殻のたまった灰皿があった。誰か来客があったのか、夏枝は一言も啓造に告げなかった。
夏枝は、啓造の留守中、お手伝いの次子《つぎこ》と、五歳の徹を映画にやり、ルリ子を遊びに出して、村井靖夫と密会していたのだった。
(その間に、ルリ子は殺されたのだ)
川原で死んでいたルリ子の首の、扼殺《やくさつ》の痕《あと》がありありと目に浮かんでくる。と、同時に、昨日のことのように、当時の悲しみも憎しみも甦《よみがえ》ってくるのを、啓造は感じた。
(夏枝と村井を、おれは断じて許すことはできなかった)
ルリ子の死後、夏枝は女の子をもらいたいといいだした。ルリ子の身代わりに育てたいというのだ。夏枝は既に不妊手術を受けていた。
(どうして、あんな恐ろしいことを、おれは……)
啓造は机の上に頭を抱えた。
見本林の上に、にわかにカラスの声が騒がしくなった。見あげると、雪空の下にカラスの大群がむれていた。空が暗くなるほどの大群であった。
啓造の友人高木雄二郎は、札幌の産婦人科医だった。その高木が嘱託をしている乳児院に、留置場で自殺した佐石の子が預けられていると聞き、啓造はその女の子を、夏枝に育てさせようと決意したのだった。
(汝の敵を愛せよ……か)
啓造は自嘲した。
「あなた、お食事ですわ」
部屋の外で、おずおずとした夏枝の声がした。
階段をおりる夏枝のひそやかな足音を聞きながら、啓造はゆっくりと椅子を立った。
「汝の敵を愛せよ」の言葉を、一生の課題にするのだといい、自分にもいって聞かせた十八年前の自分が思い出された。だがそれは、村井に心動かされた妻への復讐だったのだ。
啓造は立ったまま、再び窓越しに見本林を見た。カラスがまだ林の上に騒がしい。
(陽子、許してくれ)
ルリ子を殺した佐石の娘だと、夏枝から罵られた陽子は、遂に自殺を図ってしまったのだ。だが陽子は佐石の娘ではなかった。高木の知人三井恵子が、夫の出征中、中川光夫との間に生んだ子であった。
啓造と高木雄二郎とは、学生時代からの親友だった。その高木が、佐石の娘だといって渡してくれた陽子が、まさか全く別人の子だったとは、いままで夢にも思わぬことであった。
しかし啓造は、高木を恨む気にはなれなかった。自分も、高木の立場であったなら、恐らく同じようにしただろう。誰が被害者に、加害者の子を育てさせることができるだろう。
(とにかく、犯人の娘でなくてよかった)
もし陽子が、佐石の子なら、陽子はどのようにして生きていくことだろう。いま、啓造はつくづく高木に感謝していた。
「ダンナ。ごはんよ」
ドアをあけて顔を出したのは、夏枝の友人で、日本舞踊の師匠藤尾辰子だった。いつもは元気な辰子の丸顔も、三日間の陽子の看護に、さすがに頬の肉が落ちていた。が、表情は明るい。
「あまり考えこまないことよ、ダンナ」
辰子は窓のそばに立って、
「カラスまで、喜んで騒ぎまわっているわ」
と啓造を見て笑った。白い歯だった。啓造は目をしばたたいた。
「陽子にすまなくてねえ」
啓造の声がしめった。
「なによ、ダンナのその声。そしてその顔。ねえ、陽子くんは生き返ったのよ。助かったのよ。そんなしんき臭い顔はしないの。おめでたい時には、おめでたい時の顔というものがあるじゃない?」
突きはなすようにいいながら、辰子の目は優しく笑っていた。
「いや、どうも……」
啓造は、窓越しに陽子の部屋を眺めながら、再び目をしばたたいた。辰子の前に出ると、ふしぎに啓造は、自分が年下になったような気がする。心の痛みが、いやされるような気がするのだ。
「高木さんね、三晩も病院をあけてるでしょ。一汽車でも早く、札幌へ帰してあげなけりゃいけないわ。急いで下に行きましょうよ」
辰子が先に立って部屋を出た。啓造はなおも陽子の部屋の窓をじっと眺めていた。
茶の間には、丹前姿の高木を始め、大学生の徹、徹の友人北原が、夏枝や辰子と共に、食卓を囲んで啓造を待っていた。シャンデリア風の電灯が、明るく点《とも》された下に、食卓の肉鍋が湯気を上げていた。
「どこへ雲がくれしていたんだ」
いましがたまで眠っていたらしい高木が、無精ひげを伸ばした顔を啓造に向けた。徹があくびをかみころした。誰の目もくぼんでいる。今朝までの四日三晩の看護に、誰もが疲れていた。陽子の容体に見通しがつき、看護婦二人に後を委せて、みんな午後まで眠ったものの、まだまだ睡眠不足だった。
「ああ、すまなかった。書斎にいたのでね」
啓造は、うなだれている夏枝のそばに坐った。辰子がビールの栓をぬいた。
「この度は……ご迷惑をかけてしまって……。おかげさまで、陽子も一命を取りとめることができました」
啓造は正座して、深く頭を垂れた。
「まあ、とにかくよかったな。辻口」
高木は真っ先にグラスを上げた。
「よかった。ほんとうによかった」
辰子は、ふいにその形のよい指で、目頭をおさえた。しばらくは口を開く者もなかった。
徹は自分の胸のポケットに入っている陽子の遺書を思った。その遺書を、徹はすっかりそらんじていた。
〈徹兄さん、今、陽子がお会いしたい人は、おにいさんです。陽子が、一番誰をおしたいしているか、今やっとわかりました。おにいさん、死んでごめんなさいね。
陽子
徹さま〉
陽子は北原を愛していたはずだった。陽子は、辻口の娘でないことを、小学生の時から既に知っていた。そして徹を実の兄のように、愛してはいた。だがそれ以上ではなかった。死にのぞんで書いた「おしたいしている」という言葉は、自分を異性として、慕っているということか。
(それとも……)
徹は傍の北原を見た。北原は何か考えているようだったが、ふいに高木に顔を向けた。
「高木先生、陽子さんのおかあさんには、他に子供さんがいるのですか」
「ああ、いるよ。男の子が二人ね」
「あら、じゃ陽子くんには、きょうだいがいるということになるのね。弟? 兄貴?」
箸をとめて、辰子は高木を見た。
「ああ、兄と弟だ」
「ほう、二人の兄弟がねえ」
父はちがっても、陽子にもきょうだいがいたという事実に、啓造は感慨をこめて、相づちをうった。
(陽子にもきょうだいがいる!)
徹は、ふいに足をすくわれた感じがした。陽子の兄として育った徹には、陽子に二人のきょうだいがいたという事実を、なぜかすぐには喜べなかった。
(兄はおれだけではないのか)
徹の感情は微妙だった。徹は陽子の兄であり、恋人でありたかったのだ。そのいずれの位置をも、他の人間には侵されたくなかった。
「おじさん、その陽子のおかあさんの家は、小樽でしたね。小樽のどこに住んでいるんですか」
寝不足の徹の声が、風邪声のようにかすれた。
「住所? 住所を聞いてどうするんだい。まさか、母子涙のご対面なんて、やらかすつもりじゃないだろうな」
冗談めいた口調だが、高木の大きな目が、ちかりと光った。
「それは、わかりませんよ。陽子が会いたいといえばね。陽子にだって、自分の親に会う権利はあるはずですから」
「理屈からいえば、まあ、そうなるがね。しかし、徹くん。あちらさんにはあちらさんの家庭の事情というものがあるからな。何しろ亭主や息子たちは、何も知らずに平和に暮らしてるんだ。訪ねて行くことだけは、かんべんしてもらいたいねえ」
行きがかり上、高木は陽子の実の親を告げはした。だがそれは、あくまで辻口家の中にとどめておいてもらわねばならない。
「平和に暮らしている?」
徹がとがめるように高木を見た。陽子は自殺にまで追いこまれたのだ。しかも、陽子を生んだ母親は、陽子を施設にあずけて、夫や息子たちと平和に暮らしている。徹は憤りを感じた。
その平和を守るために、陽子は生みの母親にも、兄弟たちにも会ってはならないのか。それが、陽子への独占的な感情とは矛盾することに、徹は気づかなかった。徹はこわばった顔で、むっつりとビールに口をつけた。ビールは苦かった。
「高木さん、あんた、うしろに手が廻るわよ」
徹の気持ちをすばやく察した辰子が、とりなすようにいった。
「どうしてですか」
北原も徹の不機嫌な顔をちらりと眺めながら、辰子に調子を合わせた。
「だってね、北原さん。医者が患者の秘密を洩らしたんだもの。医師法違反とやらになるわけよ。ねえ辻口のダンナ」
啓造は苦笑した。
「まあ、いいさ。おれの手がうしろに廻ろうが、前に廻ろうが、陽子くんは生き返ったんだ。めでたい話じゃないか。なあ、夏枝夫人」
さっきから罪人のようにうなだれている夏枝が、顔を上げてかすかにうなずいた。
徹はその二人をじろりと見た。自殺を図った陽子が助かったのは、重病人が助かったこととはちがうのだ。体は癒《い》えても、心の傷はそう簡単に癒えはしない。それが他の者には、よくわかっていないのだと、徹はいらだつ思いだった。
窓
陽子が覚醒してから、一週間ほどたった土曜日の午後であった。
陽子の部屋の前に立った啓造と夏枝は、ふと顔を見合わせた。陽子の部屋に入るのがためらわれた。いま二人は、真の親が誰であるかを、陽子に告げようとしている。それは、ルリ子殺しの犯人が自分の親だと信じている陽子にとって、朗報のはずだった。にもかかわらず、なぜか二人は気重だった。
陽子は重湯《*おもゆ》から二分がゆ三分がゆと、徐々に馴らして、今日からは柔らかいご飯を食べられるまでに、回復した。一昨日からは、トイレに立つこともできるようになっていた。
しかし、このまま日がたてば、次第に元気になっていくというだけで、ことをすますわけにはいかなかった。陽子の体が落ちついたところで、どうしても親のことを知らせなければならなかった。
啓造は、夏枝に目で合図した。先に入れという合図である。夏枝は首を横にふって一歩退いた。陽子にとって、よい報《し》らせをもたらそうとするのに、なぜ気重なのか、と啓造はわれながらふしぎだった。陽子に対して、わびねばならぬことを、じゅうぶんにわび得るかどうか、そんな気重さであった。
そしてまた、いまこれから語る事実を、感じやすい陽子が、どのように受けとるか、憶測し難い不安からくる気重さでもあった。
軽く咳払いをして、啓造がおもむろに襖をあけた。陽子の枕もとにすわって、週刊誌を見ていた中年の看護婦が、あわててそれを下に置いた。二、三日前から交代した看護婦である。
「どうだね、具合は」
陽子にとも、看護婦にともなくいって、啓造は夏枝と共に、傍にすわった。陽子はかすかに微笑した。
「少しお熱がございます」
看護婦が体温表をさし出した。
「なるほど、七度五分か。少しあるね。こわいか(疲れているか、体が辛いかの意)陽子」
啓造の声はやさしかった。
夏枝に耳打ちされた看護婦は席をはずした。啓造は、手を伸ばして陽子の手首をとった。あんなにひどい目に遭った後だというのに、陽子の手は、日一日と、もとの肉づきに戻っていく。皮膚にはつややかな光があった。この体のように、心も回復してくれたならと、|プ《*》ルスを数えながら、啓造は八畳の部屋をぐるりと見廻した。
コーヒー色の洋服ダンスと、整理ダンスが並び、木製の本棚が、文机の横にどっしりとすえられている。世界美術全集がずらりと本棚に並び、整理ダンスの上には、鏡獅子《*かがみじし》の大きな人形がケースに入って、飾られている。
「プルスはいいよ」
何も知らぬものが見れば、しあわせな高校生の住む部屋である。そう思いながら、啓造はそっと、陽子の手をふとんの中に入れてやった。
食事から、便器のせわまで、夏枝は召し使いのように陽子に仕えた。それは誰の目にも、痛々しいほどだった。夏枝は常に陽子の視線を避けるように、目を伏せていた。陽子もまた、自分を避け、自分を見まいとしているように、夏枝には見えた。それが夏枝には気がかりだった。
いまもまた夏枝は、啓造の陰にかくれるようにして、うなだれていた。
「陽子、あのね……」
啓造はいいよどんだ。陽子は静かに啓造を見た。かつての日の、あのキラキラと輝く光は、さすがにいまの陽子の目にはなかった。深い湖のような、憂いに満ちた静かなまなざしだった。
啓造は、何となく夏枝を見返っていった。
「陽子、おとうさんとおかあさんを許してくれるかね」
一瞬、不審そうに首を傾けたが、陽子は静かに答えた。
「いいえ、悪いのは陽子のほうよ。ご心配をおかけして」
「いや、悪いのはわたしだよ。陽子、おとうさんはね、昔、おかあさんを憎んでいたことがあるんだ……。恥ずかしいことだが、何とかしておかあさんを、不幸な目にあわせてやれと、呪うような気持ちを持ったことが、あるんだよ。今はちがうがね」
陽子は黙ってうなずいた。
「そしてね……ルリ子を殺した犯人の子供を、このおかあさんに育てさせようと思ってね。高木の小父さんに頼んだんだよ。おとうさんもおかあさんも、陽子をその犯人の娘だとばかり思って、引きとったんだ」
(思って?)
ちらりと陽子の表情が動いた。
「だがね、陽子のほんとうの親は、殺人犯なんかじゃなかったんだよ。この人たちだったんだよ」
陽子はいぶかしそうに、手渡された写真に目をやった。その陽子を、啓造と夏枝はじっと見まもった。陽子の目が、大きく見ひらかれた。
「ね、陽子。こっちの新聞に出ている佐石という男とは、全然ちがうだろう」
啓造はふところから、新聞の切りぬきを出して、陽子に見せた。それは陽子にとっても、決して忘れることのできない写真だった。夏枝はこの切りぬきを陽子に突きつけて、お前はこの犯人の子だと罵ったのである。
陽子はややしばらく、まばたきもせずに二つの写真を見くらべていた。
「陽子ちゃん、ごめんなさい。あなたとそっくりでしょう。この人がおかあさんだったのに……」
夏枝はがっくりと頭を下げた。だが、それは、陽子にとって、直ちに信じられることがらではなかった。恐らく二人は、自分を慰めているのだ。自分によく似たこの女性が、あるいは佐石との間に、この自分を生んだのかも知れないと陽子は思った。
陽子の表情には、期待していた喜びは現れなかった。陽子には納得できなかった。それは無理もなかった。
半狂乱になった夏枝が、啓造の日記や、新聞の切りぬきを突きつけて、犯人の子だと罵ったその罵りが、陽子の心の底深く突きささっていた。そしてそれは、陽子にとって、もはや動かしがたい事実となっていた。
いまいきなり、中川光夫と三井恵子がお前の親だといわれても、にわかに信じられるはずはなかった。自分に瓜二つのこの女性が、母親だとあるいは信じられても、共に肩を並べている若い男性が、即ち父親だとは、どうしても受け入れることができなかった。
かつて陽子は、北原邦雄とその妹が、手を組んでポプラ並木の下を歩いている写真を見、恋人同士だと誤解したことがあった。ここに並んだ二人の男女も、あるいは兄妹かも知れないのだ。そして陽子の父親は、あくまでも佐石土雄のはずであった。
陽子は、しばらく写真をみつめていたが、やがて黙って写真を啓造に戻した。
「ね、陽子、わかったかね。この人たちが、陽子のほんとうのおとうさん、おかあさんなんだよ」
何の感動も浮かばない陽子の表情に、啓造は不安を感じながらいった。佐石の娘でなかったと知った時の、喜びを想像していただけに、啓造はやや焦りを感じた。
啓造は夏枝をかえりみ、再び視線を陽子にもどした。赤とクリーム色のしぼりの掛け布団を胸のあたりまでかけて、陽子は日ざしのかげった窓に、ぼんやりと目をやっている。軒下の一メートルほどのつららが、にぶく光っている。
しばらく沈黙の時が流れた。
「陽子、怒ってるんだろうね。殺人犯の子でもないのに、そういわれたんだからね……」
自殺にまで追いこまれた陽子にとって、この報らせは、かえって憤りしかもたらさなかったかも知れない。啓造は力なく腕を組んだ。
「怒ってなんかいないわ、陽子」
陽子は窓を見たまま、静かにいった。
「ただね……陽子疑りぶかいのかしら。この二人が、わたしの父母だという証拠がないでしょ。証拠がないことは、もう陽子には信じられないような気がするの」
陽子はかすかに笑った。胸に沁み入るような淋しい微笑だった。
「なるほどね。しかし、この女の人が、陽子の母だということは、信じられるだろう」
「似ているから? おとうさん。……怒らないでね。わたし、素直じゃないみたいだけど、似てるってことだけで、信じていいのかどうか、わからないの。だって、母親より叔母に似ていたり、従姉に似ていたりすることも、あるんですもの」
「でもね、陽子ちゃん。こんどこそ、ほんとうのおとうさんと、おかあさんなのよ」
夏枝の言葉に、陽子の目が笑ったようだった。
啓造は、陽子の不信も無理はないと思った。陽子をもらう時、これが佐石の子だという高木の言葉を啓造は信じた。同様に今度もまた、これが陽子のほんとうの親だという高木の言葉を、信じたに過ぎない。陽子が佐石の子でなかったように、またしても他の人物の子供かも知れないのだ。
啓造は深い吐息を洩らした。疑って来ると際限がなかった。徹だって、自分の子かどうか、確証はない。世のすべての男たちは、自分の子である確認を持たずに、妻の生んだ子を、自分の子であると信じているのだ。
同じように、子供たちもまた、疑うことなく、親を親と信じて育っているのだ。考えてみると、人間の関係は、かなりあやふやなものの上になり立っていると、啓造はあらためて驚きを感じた。
「おとうさん、この人にお会いになったの」
陽子は、その白い首を愛らしく曲げて、啓造を見た。
「いや、会ってはいないがね」
「この二人は、ご夫婦なの?」
啓造は一瞬答えにつまったが、
「この男はね、非常な秀才でね。……確か理学部だったな、同じ北大の、おとうさんの少し後輩のはずだよ」
と、問いをそらした。
「ご夫婦なの?」
声音《こわね》は優しかったが、陽子の表情はきびしかった。
「いや……それがね、この三井恵子という、陽子のおかあさんにはね……戦争に行っていたご主人がいたのだよ。それでね、ご主人の出征中は、札幌の実家にもどっておられたんだ。その実家に、知人の息子さんが下宿していたんだよ。それがこの中川光夫さんだ」
まばたきもせず、啓造の顔を見ていた陽子が、鋭くいった。
「それじゃ、この人たちは、戦争に行っている人を裏切ったのね、おとうさん」
「いや、裏切りというわけではないがね……」
啓造は弁解の言葉を探した。
「あの……それはだね。男と女とはね、愛によって子を生むというのが、ほんとうの真実な人間的な姿なんだ」
「…………」
「陽子は、すばらしい愛の中で生まれた子なんだ」
啓造は、わきの下が汗ばむのを感じた。
「おとうさん、いいの。もういいわ。陽子は裏切りの中に、背信の中に生まれて来たと、いってくださっていいのよ」
陽子は静かに顔をそむけて、窓にさがる太いつららに目をやった。
*重湯 病人や乳幼児のために、水の量を多くして炊いた米の汁。
*プルス Puls ドイツ語で、脈拍のこと。
*鏡獅子 日本舞踊の演目。正式な題名は「春興《しゆんきよう》鏡獅子」。
黒い雪
夕陽のよぎる病院の長い廊下に、食器を運ぶ車が、カチャカチャと音を立てて、啓造とすれちがった。白衣を着た中年の炊事婦が二人、啓造にていねいに頭を下げた。
「ご苦労だね」
啓造は立ちどまった。ご飯が半分以上も食べ残されているどんぶりや、小鳥がつまんだほどで残っている煮魚もあった。
「これはどこの病棟かね」
内科なら、担当医として、食欲のない患者の名を知っておかねばならない。
「耳鼻科です」
丸顔の、愛想のよい炊事婦が答えた。
「ご苦労さん」
啓造は院長室に入って行った。
五坪ほどの部屋にじゅうたんが敷きつめられ、マホガニーの大きな机の上に、十年一日の如く、タイプライター、顕微鏡、バーナー、電話機などが同位置におかれてある。啓造は、朝倉力男の「雪の石狩川」の絵が好きで、何年も院長室の壁にかけていた。
辻口病院は、内科、外科、耳鼻咽喉科、眼科、結核病棟と、百七十床からのベッドがあった。そして、ほとんどいつも満床だった。父の代からの結核病棟の五十床だけが、この数年、半分にも満たなかった。
啓造は回転椅子をぐるりと窓に向けて、低くなった積雪を見た。三月末の雪は煤煙で真っくろく汚れていた。
(救急科か)
啓造は今日、事務長から救急科の特設を進言されたのだ。交通事故の多い時世である。患者の少なくなった結核病棟を改築して、救急病棟にあててもよい、と思った時、ドアをノックして、眼科医長の村井靖夫が入って来た。いつ見ても若いと、啓造は自分より二つ三つ年下の村井の歳を思った。確かもう四十六、七のはずである。
「どうぞ」
この男とも、二十年近いつきあいだと、ふと感慨に似た思いを持ちながら、啓造は卓上のたばこをすすめた。
村井の手術は、天才的といえるほどすぐれていた。患者扱いもよかった。したがって、院長の啓造が受け持つ内科以上に、村井の眼科は患者が多かった。
啓造は、村井とははだが合わなかったが、村井が開業をいい出すのではないかと、時おり不安になることがあった。
「陽子ちゃんは、すっかり元気になられましたか」
村井はやや意地悪い微笑を浮かべた。その微笑に啓造はむっとした。陽子の自殺には、村井も無関係ではないのだ。村井が夏枝を口説いている間に、ルリ子が殺された。それがそもそもの発端ではなかったか。
その時、村井がいった。
「ところで、松崎由香子が死んでから十年になりますね」
思いがけない名前に、啓造はたった今の不快も忘れた。
松崎由香子は辻口病院の事務員だった。
「そうですか。松崎が失踪してから、十年にもなりますかね」
「生きていたら、三十七、八になっているはずですよ」
村井は目を細めて、遠くを眺めるまなざしになった。
「三十七、八にもなりますか」
病院の廊下を、散歩でもするような足どりで、ゆっくり歩いていた長い髪の由香子を、啓造は思い出した。
「院長、がらにもなく、わたしはあいつのことだけは寝ざめがよくないんですよ。実はですね。三、四年前に松崎の墓を建てたんですよ」
「え? 墓をですか」
由香子の失踪後、結婚したばかりの村井が、酒に酔って辻口家を訪れたことがあった。その夜村井は、由香子が啓造を思っていること、啓造の幸せのために、夏枝に近づいてはならぬと村井に迫ったこと、その由香子の純潔を村井が奪ってしまったこと、以後由香子は村井の自由にされていたことなどを告げた。
啓造はその夜、初めて由香子の心がわかったのだった。
「院長先生の子供を生みたいんです」
由香子は電話で訴えた。娘にしては大胆な言葉に、不快になって電話を切った。その後で由香子は失踪したのだ。
「いわば、殺しておいて、墓を建てたようなもんですよ」
村井は自嘲した。
「しかし、本当に死んだのでしょうかね」
「死んでますよ。着のみ着のまま、下宿を出て十年間、音さたなしですからね。とにかく、あいつの死に関する限り、院長はわたしと同罪ですよ」
(同罪?)
啓造は再びむっとした。
(おれがいつ、お前のように、あの子をもてあそんだことがある)
自分は、由香子の感情に気づかなかっただけではないかと、啓造は村井を見返した。
「院長、どうやらわたしふぜいと同罪では、ご不満なようですね」
村井は啓造の心を見すかすように笑った。
「いや、そんな……。わたしとしては、確かにあの子の気持ちがわからなかった、しかしそれだけで罪かどうかと、考えたんですよ。たとえ気づいても、どうしてやりようもないことですからね」
「どうしてやりようもないことですかね、院長。わたしはこの年になって、やっとわかりましたよ。はたの者の感情に気づかないのは、やはりむごい罪だとね」
(むごい罪?)
何をいい出すのかと、啓造は村井をおしかえすように見た。
「そうですか」
「そうですよ。死ぬほど淋しい人間がそばにいた。それに気づかずに、殺してしまったわけですからね」
(それでは、由香子を抱いてやればよかったのか)
おれは村井とはちがうと、啓造はパイプに火をつけた。
「君ならどうしてやりますか」
と、のどまで出かかったが、由香子を犯した村井に対して、さすがにそうもいえなかった。
「しかし、わたしには妻も子もいるわけですからね。妻子のいるわたしに、求める松崎のほうだって、責められはしませんか」
「なるほど……。すると、死ぬほど淋しい人間が、そばにいたところで、気づかなかったほうが悪いとは、必ずしもいえないというわけですね。実はですね、院長……」
村井はいいかけて、うすら笑いを浮かべながら片足のかかとで床をこつこつと叩いた。
「何です?」
「あまり外聞のいい話じゃありませんがね、うちのフラウ(妻)に逃げられましてね」
「え? 咲子さんが逃げた? いつです?」
「三日前です。見事に逃げられましたよ」
「いったい、どうしてそんな……」
「咲子は書きおきに、こう書いてありましたよ。あなたは、一つ屋根の下に住んでいながら、死ぬほど淋しがっていたわたしの気持ちには、全く気づかなかった、とね」
「ほほう、咲子さんがねえ」
いつも笑顔の、明るい咲子を、啓造は思い浮かべた。
(それで由香子を持ち出したわけか)
咲子の家出は、自分には責任がなかったと、村井はいいたかったのだ。啓造は、その村井の計算に気づいた。いやな男だと思った。
しかし、由香子の感情に気づかなかった自分と、妻の咲子の淋しさに気づかなかった村井とは、本質的にちがうのだ。そんなこともわからぬ男でもあるまい。
(なぜ素直に、咲子が家出した、よろしく頼むといえないのか)
頼まれ仲人とはいえ、啓造達夫婦は村井の仲人だったのだ。披露宴の席で、つまらなそうに、花を一輪手に持って、くるくる廻しながら、祝辞を聞いていた村井の姿を、啓造はおぼえている。村井は、咲子の顔も名前も年齢も知らずに、遠縁の高木の勧めた咲子を、妻にしたのである。それは、村井らしい結婚観であった。顔や名前を知ったところで、何がわかる。交際してみたところで、どれだけ理解し合える。要するに結婚の幸不幸の確率は、五十パーセントだと、村井はいったのだった。
高木は、友人の家で、村井の結婚観を話し、
「こんなあほうな奴の所には、嫁に来る馬鹿な女もあるまい」
と歎いた。ところが、その友人の妹の咲子が「その馬鹿な女」にわたしがなろうといい出し、結局二人は結婚したのだった。
咲子はさっぱりとした、明るい性格だった。女の子が二人生まれ、咲子ははた目にも幸福な人妻に見えた。村井もふしぎに家庭に落ちついていた。それを見た啓造は、恋愛結婚必ずしも幸福とは限らず、村井の賭けのような結婚でも、うまくいく。男と女というものは、ふしぎなものだと思ったのだった。
その咲子が家出したと聞いて、啓造は、人間生活の無気味な断面を、見せつけられたような気がした。
「子どもさんは?」
腕組みをして、天井を眺めていた村井は、複雑な表情を見せた。
「つれて行きましたよ……。院長、あいつにいわせると、うちのキント(子供)は人工授精児と同じだというんです。愛がなくて生まれたのは、人工授精児と変わりがないと、いうんですかね」
「…………」
「あいつは話のわかる女だと、思ったんですがねえ。やはり女でした。女っていうのは、愛とか、恋とかが、いくつになっても大事らしいんですね、院長」
咲子は、村井の結婚観をおもしろがって結婚した。しかし、現実に結婚してみると、それは決しておもしろいことではなかった。村井にとっては、妻は、女であればだれでもよかった。その村井に、咲子は遂に絶望したのである。村井の子を、人工授精児といったその一言に、咲子の万言の恨みを聞く思いがした。
「大変なことになりましたね」
村井にというより、咲子に対していうような気持ちだった。日暮れの庭に、ざくざくと雪を崩す音がした。見ると、五十過ぎた用務員が一人、黒ずんだ雪をスコップで崩している。
咲子の家出は、意外であり、大きな驚きであった。だがその驚きが過ぎると、啓造は奇妙な満足感を覚えた。啓造は何かでこんな言葉を読んだことがあった。
「人生の一大事である結婚に、不まじめな人間は、その人生に不まじめな人間である」
確かに結婚は、どんな結婚でも、うまくいくかどうかの確率は、五分と五分であろう。しかしそれはことの結果である。問題は、いかに結婚に対するかが、その人間の、自分の人生への姿勢なのだ。村井という人間の不まじめさを、啓造は今つくづくと思った。
(あんな結婚が、幸福であってたまるものか)
「とにかく、すぐ迎えに行ったらどうです?」
「無駄でしょう、行ってみても」
人ごとのように村井はいった。
朝から小ぬか雨が、煤けた雪をぬらし、庭木の幹をぬらしていた。
夏枝は昼食を調《ととの》えたが、陽子を呼びに行く気がしなかった。陽子はあれ以来、微熱がつづいて、三学期を欠席の多いまま、高校二年をおえた。
確かに陽子の命は助かった。しかし、以前のあの生気ある陽子ではなかった。微熱と疲労感に、部屋に引きこもってばかりいた。好きだった勉強や読書さえも忘れたかのように、何をするともなく過ごしていた。
陽子が睡眠薬を飲んだ当座は、夏枝も、自分が責められて、陽子の顔をまともに見ることもできなかった。だが陽子の表情は、もの憂げになる一方であった。殺人犯の娘でないとわかったら、もっと喜んでもいいではないか。夏枝は次第に、陽子の態度がうとましくなって来た。
陽子を自殺にまで追いやった自分を、夏枝は夏枝なりに、じゅうぶんざんげしたつもりである。そしてそのことは、陽子もよくわかっているはずだと、夏枝は思っていた。
(何もわたしだけが悪いんじゃないわ)
夏枝は調えられた食卓を眺めながら、胸の中でつぶやいた。啓造や高木だって、責められていい。わたしは陽子を、長いことルリ子殺しの犯人の子だと、思って来たのだ。やさしくできるわけはなかったと、夏枝はいままた、くり返し思っていた。
(まるで召し使いみたい)
朝に夕に、陽子の食事を調えなければならないことに、夏枝は不当な扱いを受けているような、屈辱を感じ始めていた。
立ち上がって、夏枝は廊下に出た。いつもは襖をあけて食事を告げるのだが、夏枝は廊下の途中に立ちどまって、
「陽子ちゃん、お食事ですよ」
と、声を大きくした。そのまま夏枝は背を向けて茶の間にもどった。
陽子は、いつまでたっても、茶の間に現れない。夏枝はさっさと、先に食事をすませた。
裏口の戸があいて、誰かの声がした。出てみると、辰子がハンカチで、青い雨コートを拭いていた。
「雪どけ道はひどいわね。あそこの曲がり角で、車が轍《わだち》にはさまって動かないのよ。しかたがない、春雨じゃ、ぬれて行こうとしゃれてみたけど、一人ものじゃコートがぬれるだけで、ちっとも粋じゃない」
辰子が笑った。誘われて、夏枝もちょっと笑ったが、
「辰子さん」
と、訴えるように目をうるませた。
「何よ、その泣きっ面。美人はいいよ。泣きっ面だって、美しく見えるんだから」
情のこもった目で、辰子は夏枝を見、す早く、ぬれた足袋を履き替えた。
「あら、まだお昼食前?」
茶の間に入った辰子は、食卓を見て、柱時計を見上げた。
「わたくしはすみましたわ。これは陽子ちゃんの分ですわ」
「具合はどうなの、まだ微熱があるの?」
辰子は、陽子の部屋のほうを見た。
「わかりませんわ」
夏枝は目を伏せたまま、すねたように食卓の上を中指でなでた。辰子は夏枝のしぐさを眺めていたが明るくいった。
「夏枝、陽子が生き返らなかったほうが、よかった?」
驚いて夏枝が顔を上げた。
「ま、そんな……。あのまま死んでしまわれたら、わたくし、生きてはいられませんでしたわ」
「でしょう」
辰子は夏枝を見て、茶目っぽく笑った。
「夏枝、陽子の気が晴れないので、あんた、いらいらしてるのでしょう。わたしはこんなに申し訳ないと思ってるのに、あの子ったら、ちっともわかってくれやしない。ろくすっぽ口もきいてくれない。わたしはいつまで、あの子のご機嫌を取らなければならないのかしら。もういや、いやだわ。なんてぐずぐず思ってるんじゃない」
「まあ、辰子さんたら」
夏枝はさすがに苦笑した。
「黙ってすわれば、ぴたりとあたる。女学校時代からのつきあいだもの。夏枝の気持ちは、この辰子さんが一番よく飲みこんでいるわよ」
辰子はお茶を一口飲んだ。踊りの師匠らしい、美しい手つきである。
「でも、そんな気持ちになるの、無理もないとお思いになりません?」
「さあね」
突っぱなした表情になって、辰子は夏枝をじっと見た。
「だってね、辰子さん。陽子ちゃんたら、朝起きてきて、お早うございますをいったきりなんですわ」
「起きてきて、お早うをいえば、いいんじゃない。この頃の子は、お早うもいわないってよ」
「でも、あとは何もいわないんですもの。困ってしまいますわ」
「話しかけても、返事もしないの?」
「そりゃあ、話しかけたら、返事はしますわ」
「なあんだ、返事がかえって来るんなら、いいじゃないの。何もごもごもいうことないわよ」
「辰子さんたら、ちっともわたくしの身になってくれないんですもの、ひどいわ」
辰子は微笑して、降るとも見えぬ雨の外に目をやった。
「馬鹿ねえ、夏枝ったら。人間四十を過ぎたらね、わたしの身にもなってみてなんて、そんな子供っぽいこと、いわないものよ」
辰子は、テーブルの上に頬杖をついた。
「子供っぽいかしら、わたくし。でもね、辰子さん。辻口だって、徹だって、陽子ちゃんばかりかわいそうがるのよ。誰もわたくしのことなんか……」
「かわいそうがらないっていうの」
うなずいて夏枝は、陽子の食事を、大きなお盆にのせて、台所に立って行った。襖があいた。徹だった。白いセーターに、薄茶の背広を無造作にひっかけている。
「ああ、いらっしゃい。小母さん」
徹は会釈して傍のソファに腰をおろした。
「徹君、すっかりおとなになったじゃない」
「いや、まだ子供ですよ。おやじのすねをかじってますから」
「そう感じられたら、りっぱなおとなよ」
むいたりんごと栗まんじゅうをのせたお盆を持って、夏枝が部屋に戻って来た。
「お帰りなさい、徹さん」
「ただいま」
徹はそっけなくいい、冷たい視線をちらりと夏枝に投げた。徹は、陽子の自殺未遂以来、絶えず夏枝を責める気持ちが渦まいていた。最も恐れていた事態を引き起こした夏枝を、徹は許すことができなかったのだ。夏枝は畳にすわって、ソファの徹を上目使いに見たが、さりげなく微笑して、
「辰子さん、おりんごいかが」
と、すすめた。辰子は二人の表情に気づいたが、
「徹君も一ついかが?」
と、フォークにさしてさし出した。
「ありがとう、ぼくいま、友だちと街で食べて来たんだけど……」
辰子からりんごを受けとった徹は、
「おかあさん、陽子はおひるはよく食べた?」
と、夏枝に尋ねた。
「おひるまだなのよ。陽子ちゃんは」
「なんだ、まだなの。もう一時半じゃないか」
とがめるような語調だった。
「だって呼んでも来ないんですもの」
夏枝は眉根をかすかによせた。
「陽子ちゃんの看病で、奥方も疲れるわね」
辰子がとりなすようにいった。
「小母さん、それは自業自得ですよ」
辰子は思わず徹の顔を見たが、無視して夏枝にいった。
「こんな広い家だもの、一人じゃ大変よ。お手伝いを探したらいいんじゃないの」
夏枝はうつむいたまま、首を横にふった。
今まで、お手伝いをおくようにと幾度か辰子もすすめて来たが、夏枝は、
「一人のほうが気楽でいいんですもの」
というだけだった。部屋が八つも九つもある。掃除だけでも大変なのに、夏枝は病人の陽子を抱えながら、こまめによく立ち働いていた。
「小母さん、おふくろはね、うちに人を入れるのが嫌いなんですよ。陽子のことや何か、知られるのがいやだといってね」
徹は再びちらりと夏枝を横目で見た。
「徹君、変わったわよ。いやにとげとげしてるじゃない。それじゃ陽子くんがつらいわよ」
ぴしりときびしい辰子の口調だった。徹は頭をかいた。
「かなわないな、小母さんには」
「そりゃそうよ。徹君のへその緒を切るところ見てたんだもの」
「いや、そうじゃないよ。いくら小さい時から知られてもね、どうってことはないけどさ。小母さんは、どこかかなわないものを持ってるんですよ。立派なんだな小母さんは」
「ありがとう。じゃ、立派な小母さんからいっておくわ。あんた方二人が仲よくしなけりゃ、陽子くんは、本当の意味で、元気にはなれないわよ」
「それはわかるけどね、小母さん。おふくろときたら、少し自分勝手なんですよ。陽子の気がふさいでるのがどうだとか、話しかけてこないのが気に入らないとか。だけどねえ、ぼくが陽子なら、あんなことじゃすみませんよ」
「徹君には徹君のいい分があるわけね。まあ、いうだけいってごらんなさい」
「ぼくがいいたいのはね……。とにかく、ぼくが陽子なら、陽子みたいに素直に、お早うやお休みのあいさつなんか、しませんよ。第一、口なんかきかないな。自分を自殺にまで追いこんだ人間に、ぼくならそんなに寛大じゃいられませんよ」
「まあ、徹さんたら……」
こわばらせた顔を、夏枝は上げた。
「おかあさん、ぼくはね、おかあさんがこのことをしっかり覚えていてほしいんだ。あのままもし助からなかったら、陽子は死んでいたんだよ。つまりおかあさんは陽子を殺したってことになるんだよ」
「まあ殺したなんて……」
「だってそうじゃないか。おかあさんて、そこまでハッキリいわないと、物事がハッキリ見えない人間なんだ。さいわい陽子が助かったから、まあ殺人未遂というところだけどねえ」
(殺人未遂)
夏枝は唇をかんだ。
「おかあさん。自殺にまで追いこんだ相手に、ごきげんを取ってもらおうなんて、甘ったれちゃいけませんよ。それさえわかってくれたら、ぼくはいいんだ」
「きびしいのね、徹君も。ところで陽子くんの顔を見て来ようかしら」
座の空気を変えるように、辰子は立ち上がった。立っただけの和服姿が、踊りのしぐさのように美しい。誘われるように徹も立ち上がった。
「ぼくものぞいて来ようかな」
ホッとしたように、夏枝が二人を見上げた。その夏枝に、辰子が軽く片目をつむって見せた。
「いつ来ても、ここの廊下はつるつるね。奥方がよく働くから」
黒光りのする廊下を歩きながら、辰子は徹をふり返った。徹は返事をしない。その徹の耳に口をよせて、辰子はささやいた。
「徹君、あんた馬鹿よ。もっとおとなにならなきゃ……いいお嫁さんはもらえないわよ」
徹は頭をかいた。辰子には何をいわれても、ふしぎに素直になる。ふと徹は、陽子に対する自分の気持ちを、辰子に気づかれているのかと思った。
「明るいわね、この部屋は」
陽子の部屋の襖をあけて、辰子がいった。南向きの大きな窓に、幹の赤みがかったヨーロッパアカマツの林が、額縁の絵のように見えた。
黒髪を枕に垂らし、長いまつ毛を閉じてねていた陽子が、ぽっかりと目を覚ました。
「なあんだ、眠っていたの」
陽子はうなずいて体を起こした。紫の花模様のパジャマが、陽子を弱々しく見せた。石油ストーブの目盛りを調整して、徹が辰子のうしろにすわった。
「いらっしゃい、小母さん」
「おひるも食べないで眠ってたの? ここに持って来てあげようか」
陽子は驚いて、枕もとの置き時計を見た。
「あら、もう二時になるのね。おかあさんに悪いけど、おひるぬきにするわ」
「じゃ、そういって来るよ。でも、陽子、牛乳ぐらい飲まないかい」
陽子はかすかに頭を横にふった。淋しい顔になったと、辰子はその顔を見た。徹が出て行った。陽子は傍の黒いカーデガンをはおった。
「微熱がとれなくて、困るわね」
「ご心配かけて……」
「そんなことより、早くなおって小母さんのうちにも、遊びにおいでよ」
陽子は静かにうなずいた。徹がお茶を持って入って来た。
辰子は、四月に踊りの発表会があることや、今年中に、夏枝を誘って、旅行に出たいことなどを話したが、陽子はただうなずいているだけだった。
「陽子ちゃん、あんた、もしかしたら、小樽のおかあさんに会いたいんじゃないの」
辰子は、思い切って、陽子の心の中に立ち入ったほうがよいと考えた。ハッと、徹が陽子の顔を見た。
誰もが問題の核心にふれぬため、陽子は語りたくても語れないのかも知れない。おそらく陽子は、あの時以来、様々のことを深刻に考えているはずである。ある期間はふれてやらないのも親切だが、いまはそろそろ陽子の心をひらかせる時だと、辰子は思った。
陽子は澄んだ目をじっと辰子に向けたが、頭を横にふった。
「遠慮しなくていいのよ。徹君と小母さんの胸にだけおさめておくから」
「……遠慮じゃないの。会いたくないのよ」
「そう。小母さんはまた、陽子くんが、本当のおかあさんに会いたくても、いろいろ気がねして思いあぐねているかと思ったのよ」
辰子と陽子を、徹がかわるがわる見た。
「小母さん……陽子のおかあさんはね、生まれてすぐから育ててくださった、辻口のおかあさんだけよ」
素直な声だった。素直過ぎると辰子は思った。
「うれしいことをいってくれるわね。でもね、陽子ちゃんとしても、あちらの人に聞きたいことも、こちらからいいたいことも、たくさんあるんじゃない?」
辰子はいま、夏枝の親友というより、幼い時から陽子に頼られ、そしてかわいがった者として話していた。陽子は視線を窓に移して、何か考える顔になった。石油ストーブのファンの音が、部屋にひびいていた。
「陽子、何ならぼくが探してやってもいいんだよ」
黙って窓の外を見ていた陽子の表情が、かすかにかげった。
「小母さん……もしね、小母さんが男だったら……」
「男だったら?」
「自分が戦地に行ってる間に、奥さんに好きな人ができて、そしてこっそり子供を生んでいたら……どう思って?」
陽子は真っすぐに辰子を見た。鋭い視線だった。陽子が、生みの母に会いたくないといった気持ちには、辻口家への単なる遠慮ではなく、もっときびしい拒絶があることを、辰子と徹は知った。
「そうね、多分許せないだろうね」
陽子の前に、いい加減な答えは不要だった。
「許せないでしょう、小母さん」
陽子は、自分を生んだだけで、施設に預けてしまった母を、母とは思えなかった。母とは、生むよりも育てる存在であらねばならなかった。いわば陽子は生み捨てにされたのだ。
いま、陽子が夏枝を唯一の母といったのは、陽子の本心であった。むろん、夏枝に殺人犯の子と罵られた傷手《いたで》は、いまも残ってはいた。だが、自殺をはかる時、既に陽子は夏枝を憎んではいなかった。
生みの親に対する陽子の感情に、一応同意して辰子はいった。
「なるほどね、でもね、人間て弱いもんだからねえ。あちらのおかあさんのことも、一概に責めることはできないのよ」
そうだろうか、と陽子はタオルの襟布の端を折りたたんだり、ひらいたりしていた。陽子は、自分が不貞の中に生まれたことが辛かった。自分が生まれた時、母は、狼狽、困惑しただけであろう。できることなら、闇から闇に葬りたかったにちがいない。自分が胎内にあった間じゅう、自分の母親が何を考えていたか、陽子にはわかるような気がした。親にさえ喜ばれずに生まれた子が、この自分であり、生んですぐ捨てられたのがこの自分なのだと、陽子はくり返し思って来たのだった。
いっそのこと、殺人犯の佐石の子として生まれて来たほうが、よかったとさえ、陽子は思った。佐石夫婦に、喜びを持って迎えられた命のほうがましだった。少なくとも、裏切りの中に生まれなかっただけでも、しあわせのような気がする。
数日前陽子は、ある本で堕胎に関する記事を読んだ。ここ数年、日本における堕胎の数は、年平均約二百五十万に及ぶという。終戦以来、今年までに、実に二千数百万というぼう大な命が胎内で殺されたとも書かれてあった。陽子は慄然とした。二千数百万の命には、二人の親がいるはずである。
陽子はその親の数を思った。病身でもないのに、容易に堕胎する女の姿も陽子は読んだ。わが子の命を、こうも簡単に葬る親とは、一体何なのか。陽子は、人間の持つエゴの恐ろしさを、その記事に見せつけられたような気がした。
(たとえ、生まれてすぐ捨てられても、生んでもらっただけで、感謝しなければならないのであろうか)
「陽子、横になってたほうがいいよ」
じっとうつむいている陽子に、徹はやさしくいった。陽子はいわれるままに横になった。
「じゃ、誰にも会いたくないのね、陽子ちゃんは」
辰子がふとんをかけてやった。陽子はちょっと考えてから答えた。
「あの……小母さん、佐石という人の娘さんは、生きてるのかしら?」
「佐石の?……さあね」
「陽子が会いたいっていうんなら、ぼく高木の小父さんに聞いてみるよ」
徹がせっかちにいった。
「ううん、会いたいんじゃないの。しあわせに暮らしていてほしいと思ってるの」
どんな家で、どんな親に育てられ、どんな思いで生きているのか、陽子には佐石の娘が、自分の分身のように思われてならなかったのだ。そしてその気持ちは、陽子の心の中で、日増しに大きくなっていたのである。
辰子の家
桜の花びらが、庭に散り敷いている辰子の家の前に立って、啓造は看板を見た。花柳流藤尾研究所と、墨で書いた看板がかなりくろずんでいる。
長いこと、日本舞踊一筋に生きて来た辰子に感心しながら、啓造は玄関の戸をあけた。桜の花びらは玄関のたたきにも散っていた。今日はけいこが休みなのか、弟子たちの履物らしいものはなく、男の靴が二、三足並んでいるだけである。
「ごめんください」
広い廊下を真ん中に挾んで、両側に部屋があり、突きあたりはたしかけいこ場のはずだった。左手の襖がさらりとあいて、白黒の棒縞の着物を着た辰子が、顔を出した。
「あら、珍しい。ダンナがお訪ねくださるなんて」
玄関に出て来る辰子の足袋が白かった。
「いやあ、どうも……。実はそこまで往診に来たものですから。これから病院に帰っても、もう五時を過ぎているし……」
啓造は時計を見た。
「往診の序《ついで》っていうわけね。序でも何でもうれしいわ。とにかくおあがんなさいよ。車は帰したんでしょ」
す早く辰子は、革のスリッパを啓造の前にそろえた。
「はあ、でも……お客さまのようですから」
啓造は、足もとの二、三足の靴を見た。
「お客さまなんて上等なもんじゃないの。いつもの連中なんだから。うちの家財道具みたいなものよ」
「おう辰ちゃん、家財道具はひどいや」
茶の間で誰かが叫び、笑い声が起こった。
「家財道具で不服なんてぜいたくよ。これでもほめたつもりよ」
辰子は茶の間の襖をあけて、啓造を先に入れた。あぐらをかいたり、寝そべったりしていた男たちが、啓造を見て居ずまいを正し、挨拶をした。
「わたしの昔の恋人よ」
男たちはあぐらをかきながら、ニヤニヤした。
「何よ、その笑い方。わたしにだって恋人ぐらいはいたのよ」
辰子は真顔でいい、啓造をちらりと流し目で見た。
「辰ちゃんに恋人がいたなんてねえ」
「見限られたわね。ほら陽子のおとうさんよ。黒江さんの好きな陽子のね」
黒江と呼ばれた男は、長い髪をかき上げるようにして照れて笑った。陽子の高校の美術教師である。黒江はいつか、陽子をモデルにしたいといったことがあった。
「ああ、辻口先生ですか。陽子さんはお元気ですか」
黒江は再びひざを正して、頭を下げた。
陽子という名が、他人の口から出ると啓造はいつも、何か不安定な心地になる。それは即ち、自分と陽子の関係が不安定であることを、示しているような気もした。以前には感じないことだった。
「おかげさまで……」
相手が、陽子の自殺未遂を知っているか、どうか、啓造には見当がつかない。それがまた、不安定な気分をかもし出す原因かも知れなかった。
「どうして大学に行かないのかなあ」
さっきまで寝そべっていた詩人の田山が、啓造と黒江の顔を半々に見た。
「行くわよ。ね、ダンナ」
啓造は何となく居心地が悪かった。どうやら、この茶の間の常連たちは、陽子をよく知っているらしい。だが、啓造は彼らについて何の予備知識もない。それはちょうど、マジック・ミラーを見ているような感じだった。自分は鏡を見ているつもりでも、鏡の向こうからは、自分の顔や姿がハッキリ見通されている。啓造は落ちつきなく、内弟子の少女がさし出したお茶を飲んだ。
「辰ちゃん、せっかくの昔の恋人の御入来だ。おれたちは遠慮するよ」
「あら、いやに遠慮したものね。でも、ご飯の用意をしているわよ」
台所から揚げ物の匂いが漂って来る。
「じゃ、そっちのキッチンで食べてくよ」
男たちが出て行くと、啓造はホッとした。
「辰子さんの所は、相変わらず人が集まってますねえ」
辰子の家に出入りし、いつも自由にふるまっている男たちが、ふっと啓造は羨ましくなった。
「ここは勝手なことをだべっても、誰もしからないからよ」
「なるほどね。吾々男共は、職場でも、家庭でも、伸び伸びと勝手な話もできませんからね」
自分だって、院長室に一人でいる時ですら、決してくつろいではいない。そしてまた、わが家に帰っても、どこか家の中の空気に気圧《けお》されている処があった。自分にも、辰子の家のような、くつろぐ場所がほしいと、啓造は思った。
「とうとう、村井さんの奥さんも出てったっきり、帰って来ないわね」
「夏枝から聞きましたか」
「ううん、あそこの子供たちは、わたしのお弟子さんよ。奥さんも時々遊びに来ていたわ」
辰子は、窓の桜を見上げて言葉をついだ。
「年々歳々人同じからずね」
啓造はうなずき、自分の家もまた同じからずだと思った。
内弟子の少女が、夕食の膳を運んで来た。
「いや、わたしは……」
啓造は腰を浮かした。
「いいわよ。夏枝には電話をかけてあげる」
辰子は、もう傍の受話器を取って、ダイヤルを廻していた。啓造は不安そうに、膳を見、辰子を見た。
「あ、夏枝。元気? そう。今ね、うちにいい人が来てるのよ。あててごらんなさいよ」
辰子は啓造を見て笑った。
「どなたかしら……わかりませんわ」
「夏枝のあなたよ」
「わたしのあなた? まあ、辻口ですの」
「そうよ。ところで、今日ダンナに夕食を食べてもらってもいい?」
「お夕食?……」
一瞬沈黙の時が流れた。
「いいでしょう」
「困りますわ、そんな……。うちにも用意してあるんですもの」
「夏枝、あんたって、しあわせな奥様ね。お宅のダンナが一人でわたしの家に来て、ご飯を召し上がるなんて、今まで一度もなかったことよ。多分、今日が最初で、今日が最後よ」
「でも……どうして辰子さんの所へ伺ったのかしら」
「近くまで往診にいらっしゃったんですって。ね、いいでしょう。ダンナは浮かない顔をしてるから、ちょっとかわいそうだけど、たまにはわたしの所でご飯を食べたって、罰もあたらないでしょう。夏枝だって、たまにはダンナがよそに寄ってるって気持ちも、味わってみるものよ」
辰子は片目をつぶって、啓造を見た。
「じゃ、今日限りよ、辰子さん」
「ダンナを出しましょうか。ダンナが出たそうな顔をしてるわよ」
「またそんな……じゃ、ご迷惑でもよろしくね」
と、夏枝が電話を切った。
「ダンナ、夏枝もだいぶやきもち焼きよ。今日限りよですってさ。村井さんみたいに、奥さんに捨てられるのもあれば、ダンナみたいに大事にされるのもあるし……、ところで、ウイスキーは何になさる?」
「いや、今日はやめておきます」
「お固いわねえ。せっかく奥方がお許しをくださったのに……」
啓造も、辰子と二人でゆっくり飲めたら楽しいだろうと思った。だが、夏枝の思惑が気になって、そうゆっくりもしていられない気もする。どこに行っても、自分のような人間は、小心翼々として、楽しむことがないのだと、啓造は箸を取った。
「ビールくらいかまわないでしょう」
箸をとりかけた啓造に、辰子がコップをさし出した。
「どうも、これは……」
膳の上には、カキのフライとアスパラガス、ニシンのヌタに、チーズとビール豆が載っていた。辰子と飲むビールの味はうまかった。啓造は、自分と辰子の関係は、一体何だろうと思いながら、ビール豆をつまんだ。学生時代に夏枝と知り合い、その夏枝の友だちの辰子を知った。啓造と高木は、辰子と夏枝を相手にテニスをして遊んだ。夏枝は卒業してすぐに自分と結婚し、辰子は日本舞踊を習うため、東京に出た。そしてその間に、辰子は一人のマルキストと恋愛し、男の子を生んだ。マルキストは獄死し、生まれた子もすぐ死んだ。辰子は夏枝のいる旭川に帰って来て、この六条十丁目で舞踊研究所をひらき、終始、辻口家に出入りしていた。
夏枝の友人だった辰子は、啓造や、徹、陽子にとっても、いつの間にか肉親のような親しい存在になっていた。辰子は、きびしい、どこか人を踏みこませない節度を保ちながら、しかしいつも人に頼られている。
(芸の力だろうか)
その安定した生き方に、時折啓造はそう思う。
「ダンナ、村井さん一人でおいておくのも考えものね。あの人って甘ったれよ」
「ここにも来ますか」
「たまにね。叱られてみたいんだって。自分で自分を叱ればいいのに。自分に甘い人間に限って、叱られてみたいなんていうのよ」
啓造はひやりとした。自分もどこかで、辰子に甘えているような気がする。
少女が鶏の唐揚げを運んで来た。
「辰ちゃん、どうもごちそうさん」
襖の外で、黒江たちの声がした。
「辻口先生、失礼します」
と、玄関のあく音がした。
「ご苦労さん」
すわったまま、辰子が声をかけた。
あの男たちも甘えているのだと、啓造は黙ってコップを口につけた。陽子が薬を飲んで以来、今日ほど安らいだ気持ちになったことはなかった。
「ダンナ、このごろ奥方の機嫌はいい?」
「それがね、夏枝ってわがままなんですね。陽子も元気になって学校にかよっているし、洗濯や掃除を手伝っているわけですからね、もう何の文句もないと思うんですが……」
「仕方がないわよ、ダンナ。あんなことがあった後だから、夏枝だって、神経質になっているのよ」
「それはむろんわかるんですがね。時々辰子さんのいうことを聞いておけばよかった、と思うことがありますよ」
「わたしのいうことを?」
「ええ、いつか陽子を養女に欲しいって、いわれたでしょう。あの時そうしておけば……って後悔してますよ」
「そうでしょう。だからわたしのいうことは聞いておくものよ。でもねえ。今からじゃもう、陽子ちゃんを養女にもらうことは無理ね」
「そうでしょうかねえ」
啓造は、今になって陽子を辰子に預けたくなっていた。
「駄目よもう、ダンナ。それより、徹君さ、陽子ちゃんが好きらしいわね」
辰子は立ち上がって、電灯を点《つ》けた。
「それですよ。わたしも心配してるんですがねえ。陽子は北原君が好きだったようだし」
「じゃ、徹君が失恋ていうわけ? でも、そうでもないんじゃないかしら。今の陽子ちゃんにしてみれば、好きも嫌いも、それどころじゃないでしょうからねえ」
「そうでしょうね。とにかく参ったな。陽子の件には」
啓造は自分だけにわかる感慨をこめていった。
「どういうふうに参ったの」
「いや……陽子は書き置きに、罪ということを書いていたでしょう」
「ああ、覚えてるわ。陽子くんは自分が正しいと思って、生きて来たと書いていたわね」
陽子は自分さえ正しければ、悪口をいわれようと、意地悪をされようと、胸を張って生きていける強い人間だったと、書いていた。なぜならそれは、自分の内部の問題ではなく、外側のことだったからだとも、書いてあった。確かに陽子はそんなふうに生きていたと、啓造も思う。しかし陽子は、殺人犯の娘であると、夏枝に罵られたことがきっかけで、自分の中にも罪の可能性があることを見いだしたのだ。陽子は、一点の悪も自分の中に見いだしたくない誇りに生きていた。それは少女らしい潔癖さだった。だがそれは、傲慢ともいえる潔癖でもあった。
多分、今の陽子の中を占めているものは、この罪の問題にちがいない。陽子は、その罪の問題に取り組んで、一人悩みつづけているにちがいないのだ。それが解決しない限り、元の陽子はもどって来ないのではないか。それを夏枝は理解できないのだ。夏枝は自分中心にしか、物事を考えられない女なのだ。
「あの子は書いていましたねえ。ゆるしが欲しいと。わたしもね辰子さん。この頃よく、そう思うんですよ。ゆるしてほしいとね」
「なるほどね、陽子ちゃんが薬を飲んだ時、みんな痛かったわね」
「痛かった! いやあ、今も痛い。痛いなあ辰子さん」
啓造は、苦い薬を飲みくだすような顔をした。
「だけどね、ダンナ。ゆるすって、人間にできることかしら?」
辰子は箸をとめて、啓造の顔をじっと見た。
雲ひとつ
微風に乗って潮の匂いがした。小樽港は三、四丁先にあるはずだった。徹は色内《いろない》町に下るゆるやかな坂道の歩道に立ちどまって、どうしようかとまだ迷っていた。六月初めの午後の陽が肩に暑かった。
徹は今、三井恵子の家に行く途中だった。それは幾晩も考えたことだった。陽子は、生みの母には会いたくないといった。だが、果たしてそれが陽子の本心かどうか、周囲の者が考えてやるべきだと、徹は思った。理屈はともかく、情として会いたいのが人間ではないか。たとえ今は会いたくなくても、いつか会いたくなる日が来るにちがいない。その陽子のために、徹はあらかじめ三井家の内情を突きとめておきたかった。
先ほど徹は、赤電話のある駅前の薬屋で、電話帳を手に取った。表紙が半分ちぎれ、手あかで汚れ、ページがみなめくれ上がっていた。この汚い番号簿に、陽子の母の住所があるのかも知れないと思うと、徹は何かふしぎな気がした。
三井という姓は意外に多かった。彼は指先でひとつひとつ、字面をおさえながら調べていった。保険会社があった。自動車会社もある。航空サービスの営業所もある。三井勇、三井市之助、三井竜雄……いろいろな名が並んでいる。それらの何れが目指す三井家なのか、徹はその職業にも注意しながら見ていた。最後に「三井弥吉商店(海産物)」とあるのが目に入った。高木は確か、海産物卸商だともらしていた。三井という海産物屋は、一軒しか載っていない。
徹は念のため、職業別電話番号簿をひらいてみた。やはり、三井という海産物問屋は一軒しかなかった。電話は代表電話の外に、もう一つ自宅にもあった。住所は共に、色内町二となっている。徹は手帳にメモをした。電話帳を元にもどした時、徹は額に汗を滲ませていた。
坂道に立ちどまったまま、徹が迷っていたのは、家だけ見て帰るべきか、思い切って三井恵子を訪ねてみるべきかについてだった。高木はいった。
「何も知らない亭主や兄弟は、平和に暮らしているんだ」
訪ねて行っては困るといわれた時、徹は反発を感じた。陽子の生みの親と、家族は平和に暮らしている。そんなことが許されていいものかと、若い徹は憤りを感じたのだった。
だが今、現実に小樽の街に立ってみると、陽子と血のつながるすべての者の平和を乱すことはできないような気がした。
(しかし、本当に平和を乱すことになるだろうか)
徹はそうも思った。思いがけないしあわせが、三井家を訪ねることによって、陽子にもたらされるような気もする。
陽子の存在が、必ずしも三井家の平和を破るとは限らないのではないか。既に陽子の存在は、三井恵子の夫にも知られているのではないだろうか。一人の人間の出生が、いかに秘密裡になされたとはいえ、果たして二十年近くも、全く隠しおおせられるものだろうか。徹には不可能に思われた。
辻口家の場合にしても、夏枝は最初、自分が陽子を生んだと、辰子にさえ偽っていたという。それが誰いうとなく、もらい子であることが世間に知られ、様々な曲折の末に、陽子の出生が高木から洩らされたのだ。三井家だけが、全く事なく長年の歳月が過ぎたとは、徹には考えられなかった。今では、陽子の母は、陽子に会いたいと願っているかも知れないのだ。陽子の出現は、案外喜ぶべきことになるかも知れないのだ。
(だが、果たして……)
ここでまた、徹の考えは元にもどった。
新たな葛藤の中に陽子をまきこまないという保証はないのだ。人生は全く予測し難いと、徹は青い空を見上げた。白い雲が一つ、ぽっかりと浮かんでいる。柔らかい、厚ぽったい雲が、いかにものどかに見える。
(このまま帰ろうか)
陽子の上に、これ以上事は起こらぬほうがいい。陽子には、母も兄弟もないと思えばいいのだ。陽子の兄は自分一人でいい。陽子の父母は辻口の父母だけだと思えばいい。それでいいではないか。
(……本当にそれでいいのだろうか)
徹はまだ、歩道に突っ立ったまま、考えあぐねていた。
その時、坂下から半袖の青いポロシャツを着た青年が、歩道を歩いて来た。快活な足取りだった。青年は、立ちどまっている徹に気づくと気さくに声をかけた。
「どこか、家を探しているんですか」
面長な、眉の秀でた青年だった。
「はあ、あの、色内町二丁目は、どのあたりですか」
不意に聞かれて徹はどぎまぎした。
「色内町二丁目はここですよ。何という家ですか」
青年は親切に尋ねた。パーマをかけたようなまき毛が、広い額に垂れている。その額に目をやりながら、徹はためらうように口ごもった。
「あの……三井商店とかいうんですが……」
「なあんだ、うちの店じゃありませんか。どちらさんですか」
(うちの店?)
徹は頭にカッと血が上るのを覚えた。
「いや、三井商店のすぐ近くだと聞いたものですから……」
「ああ、そうですか。何という家ですか」
青年はあくまで親切だった。
徹はますますろうばいした。が、訪ねてきた家の名を知らないとはいえない。
「佐藤っていうんですが……」
いつか徹は、こんな話を聞いた。空き巣ねらいが、留守らしい家の戸をあけて、大声で「こんにちは」という。家人が出て来なければ入り込んで空き巣を働き、出てきたら「このあたりに、佐藤さんという家がありませんか」と尋ねる。佐藤という姓は、どの町内にも一軒ぐらいはあって、怪しまれずにすむという。徹はいま、とっさにそれを思い出していったのだ。
「佐藤さん?」
青年はちょっと首をかしげたが、
「さあ、うちの町内にはいませんがねえ。佐藤何というんですか」
「いや、ありがとう、どうも」
ぺこりと頭を下げて、徹は逃げるように歩き出した。青年は不審そうに徹を見送った。
徹は消防署の角を曲がって、ほっと息をついた。
(あれが陽子の兄だろうか?)
あの青年は、三井商店をうちの店だといった。うちの店とは店員でもいうだろう。だがあの青年は、学生の感じだった。徹はいま会った青年の、面長な目鼻立ちを思った。小鼻のわきに、やや大きなホクロがあり、歯が白かった。目は細いが澄んでいたような気がする。しかし陽子にはどこも似ていなかった。
(そうか、あれが陽子の兄か)
徹は、青年を陽子の兄だと推定した。いやに親切な男だと、徹は額の汗をぬぐった。
消防署を曲がった舗道は、日陰だった。徹は背広とカメラを片手に下げて、ぶらぶら歩いて行った。この界隈はかなり古い問屋街らしい。がっしりとした石造りの店や、れんが造りの家が建ち並んでいた。大小のトラックが、あちこちの店の前に駐車している。徹は少し行ってから、消防署の近くのたばこ屋に戻った。店の前に、パンを運ぶ空き箱が三つ立てかけてあった。四枚ガラスの古い戸をあけて、徹は店の中に入った。
「ハイライト一つ」
古い店には似合わぬ明るい少女が、ふっくらとした手で、たばこを渡してくれた。徹はたばこを一本ぬき出して口にくわえた。
「三井商店って、この近くですか」
「ハイ」
少女は大きな目をくるりとさせて、ふいにおかしそうに、くっくと笑った。
「三井さんはお隣よ」
「なあんだ、隣ですか。……三井さんには、確かぼくぐらいの息子がいたはずですね」
「ええ、いるわ。わたしと同じ年ごろの男の子と、二人ね。残念ながら……」
少女は丸い肩をふるわせて、また笑った。
「残念ながら?」
少女が何を笑っているのか、徹には見当がつかなかった。
「残念ながら、おとうさん似なの。奥さんに似たらよかったのに」
徹はさり気なく、
「そんなに奥さんは美人なんですか」
「有名よ、三井さんの奥さんたら。あなた知らないの」
徹は知らないと答え、チョコレートとキャラメルを買った。
「わたし、三井さんの奥さん大好きよ。大学を出た息子さんがいるのに、とてもそんなに見えないわ」
「きれいだから好きなんですか」
徹はわざと意地の悪い尋ね方をした。
「ちがうわ。親切だし、とてもいい人なのよ。誰だってあの奥さんを見たら好きになるわ。好きにならないほうが、おかしいわ」
少女はむきになった。
「そんな、誰にでも好かれる人って、ぼくは嫌いだな」
正直のところ、徹は、まだ見ぬ三井恵子に何となく敵意を感じていた。こんな少女にまで評判がいいのが、徹には意外だった。恵子は夫にかくれて子供を生んだ。それだけでじゅうぶんに暗いイメージを感じさせた。それが、誰にでも好かれる人間と聞いて、徹は戸惑った。陽子をひそかに生んでおいて、何の痛みもなく生きているのであろうか。
「お客さんは、会いもしないで人を嫌いになるんですか」
少女は口を尖らせた。徹は笑った。
「そんなにいい奥さんなら、ご主人もいい人なんでしょう」
「でも、奥さんとはくらべものにならないわ。みんなそういうわ」
「でも、上の息子さんは親切ですよ」
「あら、お客さん知ってるんですか。わたしは弟のほうが好きよ」
「そうかな。だけど夫婦仲はあまりよくないらしいね」
徹はさぐりを入れてみた。
「お客さんたら、でたらめばかりいって。有名よ。お隣はとても仲がいいのよ」
(まさしく平和な家庭か)
徹はたばこを更に一つ買い加えて外に出た。なるほどすぐ隣に、三井海産物問屋の看板が大きく上がっていた。分厚い一枚板に、右から横書きされた看板の文字が浮き彫りされている。間口六間に、奥行きは十間もあろうか。
徹は激しく動悸しながらも、ゆっくりと歩いて、店の中をうかがった。二十坪ほどのうす暗い店の中には事務机が並び、十五、六人の男女の事務員の姿が見えた。
(ここが陽子の母の家なのだ)
いいようのない複雑な気持ちだった。
運河の河口にかかっている月見橋の上に立って、徹はぼんやりと、見るともなく右手に見えるふ頭に目をやった。ふ頭には、黄色いフォークリフトが、絶えず前にうしろに動いている。鋼材の専用船でもあろうか、岸壁にぴたりと横付けされたその船に、クリーム色のクレーンが、鉄材を積んでいた。七、八人の男たちの、黄色いヘルメットをかぶって働いている姿が、無声映画のように見えた。
徹は、今見て来た三井商店の様子を思い浮かべた。
店と隣家との間に、幅三メートルほどの露地があった。その突きあたりに、古い格子戸の玄関が見え、「三井」と書いた瀬戸の標札がかかっていた。明らかに奥の玄関である。あの玄関をあければ、三井恵子がいる。徹は胸苦しいほどの動悸を覚えながら、その格子戸を見つめた。
よほど、ひとの家を尋ねるふりをして、立ち寄ってみようかと思った。だが、店の多い通りである。わざわざ何メートルも奥まった家で聞くのは、いかにも不自然であった。
ゴメが十数羽、猫の子のような啼き声を立てながら、港の上を舞っていた。その影が、油ぎった緑色の水に映っている。
(もしあの時、あの格子戸をあけていたら……)
きっと三井恵子は出て来たにちがいない。
「あなたはぼくの妹にそっくりです」
いきなり自分はこういい出したかも知れない。あるいは、
「あなたは昔、女の子を生んだことがありませんか」
単刀直入にこう切り出してもいい。さっと恵子の顔色が変わる。
「あなたの生んだその子が、自殺をはかったんです」
恵子は、いったい何と答えることだろう。
「あなたは何というひどい親だ。乳児院に子供を置いて、自分だけしあわせに暮らして来た」
自分はそう責めるかも知れなかった。
小さな発動機船が、運河に入ろうとして、ポーッと鋭く汽笛を鳴らした。男が舳先に立って、ぼんやりと青い水に目をやっていた。日に焼けた顔だった。
徹は苦笑した。あの格子戸の前にさえ行けなかった自分が、空想の中では勝手に恵子に話しかけ、問いつめていた。とにかく、あの家を見ただけで、満足して今日は帰ろうと、徹は港に沿って歩みを返した。
再び運河の入り口で、発動機船が汽笛を鳴らした。魚肥《ぎよひ》をばら積みしたはしけを曳いて、発動機船は橋の下に姿をかくして行った。遊覧船が港に入って来た。岸壁には、衝撃よけでもあろうか、大きなタイヤが幾つも下がっていた。遊覧船のデッキに、白い服の女が一人、こちらに背を向け、沖を眺めているのが印象的だった。
「小樽に行って来たって?」
北原は驚いて芝生の上に起き上がった。
「うん、やっぱり、ぼくとしては行かずにいられなかったんだ」
徹は腹ばいになったまま、柔らかい芝生をそっとなでた。札幌中島公園の池のほとりの芝生に、二人はさっきから憩っていた。五時半といっても、六月の陽はまだ高い。池の向こうにルネッサンスふうの豊平館《ほうへいかん》の白い建物が、緑の木立をバックに美しかった。わけても円型のバルコンが、エキゾチックである。
「三井の家があったよ。がっしりした石造りの建物でね」
徹は、昨日見た三井商店のうす暗い事務室や、奥の玄関の格子戸などを北原に話した。
「会ったのかい?」
「まさか。ただ家を知っておきたかっただけだよ」
「そうだろうね」
北原は、徹の陽子に対する感情を思いながら、静かにうなずいた。
はじめ北原は、何と妹思いの兄だろうと、徹に感心していた。だが、徹の口から陽子とは血のつながりがないと聞かされて以来、北原は徹の感情に気づいていた。
「早晩、やはり陽子は、生みの母と会うことになるかも知れないね」
「そうだねえ、陽子さんの意志次第だけど」
会うことが、陽子にとって幸か不幸かはわからない。母親がいると知りながら、会わずに終わる一生も、あるかも知れない。
(あの人は、辻口をどう思っていたのだろう)
少なくともあの自殺をはかる日までは、陽子は確かに自分を愛していたと思う。だが徹の感情はあの四日三晩の看護のなかで急速にあらわにされていったような気がする。
しかし、いずれにしても、あの四日の眠りは、かつての陽子を、遠い彼方に押しやってしまったような気がする。変わっていないのは自分や徹だけで、陽子は全く別の世界を歩み始めているのではないか。
「未来って、恐ろしいね」
徹がいった。
「うん。一秒先も予測できないからね」
「そうだよ。突如として、事は起こるからね。突如として病気になり、突如として思わぬ人が現れ、突如として人は死ぬ。いつ、どこで何が起こるか、予知できないんだからね。未来があるということは、予知できない恐ろしいことが、たくさんあるということでもあるね」
「うん。確かにそのとおりだね」
思いやりのこもった、北原の声だった。徹の今の言葉は、徹が今まで生きて来た重さとつながる言葉だった。ルリ子が殺され、陽子が自殺をはかった。その二つの事実だけでも、徹にはどんなに重大な事実であったろう。
「きのうね、実は冷や汗をかいたんだよ」
徹が思い出して笑った。傍のアララギが、芝生にこんもりとした影を落としている。徹は色内町の坂で会った親切な青年の話を、北原に聞かせた。
「それは驚いたろう。しかし、その男は一体何者かな」
「うん、店員の感じじゃなかったね」
「じゃ、陽子さんの……」
「兄貴かも知れないな。顔は全然似ていなかったがね。面長でね」
「変な気持ちだったろう」
「ああ、複雑でね。あれが陽子の兄貴だとしたら……」
「会ってみたかったなあ、ぼくも」
そういった北原の顔を、徹は見た。二人の視線が一瞬ぴたりと合った。北原が先に視線をはずした。徹は、北原の心の動きがわかるような気がした。
「本当のことをいうとね。よほど、ひとの家を尋ねるふりをして、寄ってみようかと思ったんだよ」
「寄れなかったろう」
「ああ、ふしぎなもんだね。いざとなると、芝居ってできないもんだねえ。北原、君ならどうする」
「ぼくは、小樽にも行けないよ。ぼくには、辻口のような資格はないからね」
「資格? 資格ってどんな資格さ」
「……陽子さんの、母親の家を訪問する資格だよ」
徹はだまって北原を見た。
「何といったって、君は陽子さんの……一番身近な人だからね」
「いや、それなら君のほうが身近じゃないのか」
うかがうように徹が北原を見た。北原は、さざ波の立っている池の面に目をやった。
遠くから大勢のかけ声が聞こえて来た。ふり返ると、向こうの遊園地の傍を駆けて来る、トレーニングパンツの高校生の一団だった。一団は見る間に二人のそばを過ぎて行った。徹も北原も無言のまま、その一団を見送った。
「辻口」
思い切ったように、北原が顔を上げた。
「何だい?」
「実はね、この前から、一度君とゆっくり話そうと思っていたことなんだけどね。君、漱石の『こゝろ』を読んだことがあるだろう」
「ああ、あるよ。二度読んだ」
友人同士の二人の男が、一人の女性を愛し、破れた男は自殺し、裏切りによって勝利を得た男も、結婚後自殺する筋だった。
「ぼくたちは、あんなふうになりたくないと思ってね……」
「…………」
徹はそれが癖の眉根をよせた。
北原は時計を見た。まだ六時前である。二人は高木の家に、夕食に招かれている。
「率直にいうよ、辻口。気を悪くしないで聞いて欲しいんだ。君も知っているとおり、ぼくにとって、陽子さんは一番大事な人だ。そして多分、陽子さんにとっても、ぼくはそういう存在だったと思う」
「…………」
徹は、陽子の遺書の言葉を思い浮かべた。陽子は「一番誰をおしたいしているか、今やっとわかりました」と徹に書いた。そのことを北原は知らない。
「しかしね、君と陽子さんが兄妹ではないと知った時、ぼくはちょっと動揺したよ。不安でもあった」
徹は黙ってうなずいた。
「その時はまだ、ぼくは陽子さんを君の手には渡すまいと思っていたよ。だけど今度の事件で、ぼくの気持ちは少し変わったんだ」
「変わった?」
「うん、変わったといえるよ。辻口は多分、早くから陽子さんを愛していたにちがいない。しかも、佐石の娘と思っていながらねえ」
「…………」
「それはただ事じゃないよ。どんなに大変な、真実な気持ちか、ぼくにはよくわかる。それにくらべると、ぼくの気持ちなんか、ひどく甘いもんじゃなかったかと思うんだ」
「そんなことはないよ、北原」
「いや、比較にはならない。ぼくはそのことを、この半年よく考えて来たんだ」
その徹の気持ちを思いやることもなく、陽子に接近して行った自分を、北原は今もまた、思い返していた。親しくなって行く自分と陽子を、徹はどんな思いで、見つめていたことであろう。
「だからね、ぼくは陽子さんを諦めようと思うんだ。陽子さんだって、おそらく君の真実と、ぼくのありきたりの甘い感情とを、敏感に識別したにちがいない。陽子さんはそういう人だよ」
「諦めるなんて、北原……。それはいけないよ」
徹はあわてていった。
「いけない? 何がいけないんだ」
「だってね、陽子には誰が必要か、ぼくにも君にも決定できないことじゃないか」
自分でも思いがけない言葉だった。確かにあの遺書は、死という異常な事態を前にしての、異常な心理によって書かれたものかも知れないのだ。あの遺書に陽子をしばりつけることはできないと、徹は思った。北原の態度が、期せずして徹にそんな思いを起こさせたようだった。
「むろん、陽子さんの気持ち次第だがね。しかし……」
北原は芝生に片ひじをついて、横になったまま、見るともなく白く輝く雲を見た。
徹のいうとおり、陽子が誰を必要とするかは、陽子が決定することである。そして、それはもう陽子が既に決定しているように、北原には思われた。
あの事件以来、陽子からの便りは、僅かに葉書一枚だけであった。心配をかけたことに対する礼状の、その文面には、少女らしい甘さはどこにもなかった。北原には、見知らぬ人から、印刷の転居知らせを受けたよりも、もっと遠い感じだった。
「だけどねえ、辻口。あのひとにはもう、ぼくの存在なんか不要のような気がするよ」
「同じことさ、北原。ぼくだって、今の陽子からは遠い所にいるよ」
陽子の世界には、入りこむ隙のない、目に見えぬかきが張りめぐらされてでもいるかのように、徹にも感じられた。ただ、陽子の遺書だけが徹を支えているといっても過言ではなかった。
「そうかなあ」
北原は遠くを見たままいった。
「そうだよ。お互いにせっかちに考えることはやめようじゃないか」
「うん、まあねえ」
あいまいに答えながら、北原は陽子を思い浮かべた。つづいて夏枝の顔が浮かんだ。
「北原、漱石の『こゝろ』のようにはならないから、大丈夫だよ。ぼくは陽子さえしあわせになればいいんだ」
北原の表情がかすかに動いた。
「そろそろ時間だね」
さりげなく北原がいった。再び、エンジ色のトレーニングパンツをはいた高校生の一団が、「一二、一二」とかけ声をかけながら、二人のそばをもどって行った。
二人は池にかかっている石の太鼓橋を、肩を並べて渡った。学生たちや、勤め帰りの人々が、公園の中にふえて来た。二人の前を行く、セーラー服の高校生の足の素肌が小麦色に光っている。池に沿って、二人は藤棚のほうに歩いて行った。藤のつぼみがふくらみを持っていた。
「ところでね、北原。陽子は佐石の娘のことを心配しているよ。しあわせに暮らしているだろうかってね」
「そうか、そうだろうな。陽子さんには、もう人ごととは思えないだろうからね」
「うん、そうらしいよ。自分の母親のことより、そっちのほうが気になるんだろうね。北原、佐石の娘は、どこにいると思う?」
婚礼でもあるのか、豊平館の丸いバルコンの下に、ふり袖姿の若い女性たちが四、五人、立っているのが見えた。明るい笑い声が上がった。
「あの中にいるかも知れないよ、辻口」
「まさか」
徹は若い女性たちをふり返った。
二人は、創成川《そうせいがわ》の小さな石橋を渡って、公園を出た。このあたりの創成川はゆるやかにカーブして、岸べに並ぶ枝垂れ柳の緑が鮮やかだった。創成川は札幌市内を南北に縦貫する小川で、その名のとおり、豊平川《とよひらがわ》から引いて創られた川である。
「しかしね、辻口、佐石の娘が、ほんとうにふり袖なんか着て、友だちと明るく笑っていたらうれしいと思わないかい」
ふいに徹は、仏壇に飾ってあるルリ子の写真を目に浮かべた。陽子が佐石の娘の幸福を願うことには共感できたのに、北原の言葉には何かが引っかかった。それは、佐石の娘への感情であるよりも、北原に対して無意識に持っている重い感情の現れかも知れなかった。
徹と北原は、川に沿った裏通りを、肩を並べて歩いて行った。左手に公園が見え、右手は塀に囲まれた大きな邸宅の建ち並ぶ、静かな一画である。狭い道を、時折警笛を鳴らして車が過ぎるだけで、人影もほとんどない。
自分が陽子の夫になるか、北原がなるか、全くわからぬ未来を思いながら、徹は歩いていた。
(もし、陽子と北原が結婚したら)
ふいに徹は、うずくまりたいようなわびしさを感じた。ついさきほどまでは、北原の言葉を落ちついて受けとめることができたはずだった。徹は波立ちやすい自分の心を思った。
アスファルトの道を、黄色いワンピースを着た少女が、軽やかにサンダルを鳴らして二人を追い越した。割烹「鴨川」の角を右に折れて、二人は切り込み砂利を敷きつめた小道に入った。コンクリートの塀が、「鴨川」の広い屋敷に沿って、長くつづいている。一丁ほど向こうの、電車通りが見える左手の角に、「高木産婦人科」のプラスチックの看板が見えた。
「辻口、高木先生には、小樽のことは黙っていたほうがいいよ」
北原が、徹の心の屈折には気づかずにいった。
「ああ、今はね。しかし、高木のおじさんだって、責任のあることだからね。陽子の身にもなってもらいたいよ」
「だけど、いい出す時期が問題だよ」
「もちろん、それは心得ているつもりだよ。陽子の気持ちに沿わなきゃね」
陽子のためなら、どんな困難でも、耐えようと思っている徹だった。
「いいなあ、君は」
北原がつぶやいた。
「何が?」
「いや……」
自分には、口に出すことも行動することもできないことが、徹には許されている。北原はそう思いながら、咲き匂うライラックの花に目をとめた。
二人は、三階建ての高木病院の前に来た。電車が地響きを立てて過ぎた。
高木の住居は、病院の中にあった。広い正面玄関を入った右手に事務室があり、つづいて待合室、診察室、分娩室、手術室などが、向かい合って並んでいる。
玄関の左手の、大きなドアが高木の住居の入り口である。白いベルを押すと、痩せぎすの高木の母が、真っ白いかっぽう着姿を見せた。
「おや、いらっしゃい。お待ちしていましたよ」
高木に似ない細い目が、親しげに笑っている。
「おれに似ないシェーン(美人)だろう。おれのムッター(母)は」
時折高木が自慢するだけあって、どこか粋な、垢ぬけした容姿だった。
高木の家は、十畳ふた間、八畳ふた間の和室、六畳の台所と浴室があった。高木の母は洋室が嫌いで、どの部屋にもソファや椅子をおいていなかった。
「よう、未来の理学博士と、医学博士どのの御入来か。よく来たな」
紺の浴衣の襟がはだけて、胸毛がのぞいている。
「一別以来だな。その節は理学博士どのには、こてんぱんにやっつけられたなあ。きょうはお手柔らかにたのむぜ」
美しい植え込みの見える座敷に、高木はどっかとすわって、早速ビールのビンを大きな手に握った。
「すみません。あの時は気が立っていたものですから」
北原は頭をかいた。「清風在竹林」と書いた掛け軸が、床の間にかかっている。この前来た時は、福寿草の絵がかかっていた。五カ月前、この部屋で北原は、高木に陽子の実の親をきびしく追及した。高木に打ってかからんばかりだった自分が、北原には昨日のように思い出された。
高木は、夏枝が陽子の素姓をあばいたという事態に驚き、北原と共に、早々に旭川に駆けつけたのだった。そして、駆けつけたその日、陽子の服毒を二人は知った。
「ええと、君たちは寮が一緒だったな、確か」
「そうです。部屋も同じだったんです」
「なるほど、その縁で、北原君は陽子ちゃんのリーベ(恋人)になったというわけか」
あの時北原はいった。たとえ誰の子であっても、自分は陽子と離れない、と。その北原のひたむきな表情を、高木ははっきり覚えている。
北原を陽子のリーベという言葉に、徹も北原も押し黙った。高木はす早く、二人の間に流れる空気を感じとった。
「なあんだ、そうか。君らは、おれと辻口啓造のような間柄か」
大きく組んだ腕を食卓の上に置いて、高木は二人を見すえた。
「何ですか、おじさん。おやじとおじさんのような間柄って?」
高木の母が運んで来たグリーンアスパラに箸をつけながら、はぐらかすように徹がいった。
「うん、ひとことでいうと、ライバルだ」
「ライバル? ああ……」
徹が笑った。
「笑う奴があるか。もっともおれの時は初めから勝負にならなかったからな。辻口のほうでは、おれをライバルとも思わなかったろう。だが君たちは互角の勝負というところだな」
「そんな、ぼくたちはライバルなんかじゃありませんよ」
北原はひかえ目にいった。
「なあに、遠慮することはないよ。北原君、ライバルもまた楽しだ。それでいいじゃないか。おれと辻口みたいに、仲のよいライバルになってくれよ」
高木は真顔でいった。
「何をつまらないことをいってるんですよ。若い人たちが本気にするじゃありませんか」
替わりのビールを持って来た高木の母が、笑いながらたしなめた。
「おふくろさん、話をぶちこわしちゃこまるよ。おれは今、恋に破れて独身で終わる、悲劇の主人公の役どころのつもりなんだからな」
高木は高笑いした。
「そうですか高木先生。じゃ独身でこられたのは辻口のムッターを忘れられないからですか」
「うん。まあ、そういう処だな」
「また、でたらめをいって」
高木の母が高木のひざを軽く打った。徹も高木も笑った。だが北原は何となく笑えなかった。自分もまた、陽子を思って、一生独身で過ごすかも知れないのだ。そして、こんなふうに、冗談のように笑って語る日が来るかも知れない。北原はビール豆をほつほつとかんだ。
その時、若いお手伝いが敷居の外にひざをついていった。
「先生、育児院からお電話です」
「ほいきた」
すぐに高木は立っていった。はっとして、徹は高木の後ろ姿を見送った。
高木はすぐに戻って来た。
「おじさん、おじさんは乳児院だけではなくて、育児院にも関係があるんですか」
すかさず徹が尋ねた。
「そりゃあ、あるさ。乳児院で、もらい手のつかない子があるだろう。年が来たら育児院に送りこまなきゃならないからね」
「ああ、なるほど。じゃ、育児院でもらい手のつかない子ってあるわけですね」
「むろんあるよ。実の親も迎えに来ない、よそからももらい手がない、そんな子は施設から学校に行って、中学を卒業したら社会に出て行くんだ。かわいそうなもんだよ」
柄になく高木は少ししんみりとなった。
育児院で育ち、育児院から学校に行く子供たちの心情を、徹は想像もできないような気がした。陽子もあるいは、そんなふうに育ったかも知れないのだ。それでも辻口家に育ったよりは、幸福だったかも知れない。少なくとも、自殺にまで追いこまれることはなかったのではないか。
そうは思っても、施設で成長した陽子を想像することは哀れであった。
(佐石の娘も、どこかにもらわれたのだろうか)
徹は高木を見た。
「どうした? 徹君、黙りこんだじゃないか」
「いや、施設児のことを考えていたんです」
「そうか。世間の奴は、自分の親もとで育っている幸せを、もっと思うべきだな。もっとも、おれのようにこの年まで親もとで育っているのは、ありがたすぎて、おつりがくるがね」
「先生、なぜ結婚なさらなかったんです?」
「聞きたいかね、北原君」
「そりゃあ、聞きたいですよ。先生の年で独身というのは、稀少価値ですからね」
「先生の年でとは、どういうことだ。これでもおれは青年のつもりだよ」
高木は海苔で巻いたバターを口にほうりこんだ。
「逃げちゃずるいですよ、先生」
「なに、逃げやしないさ。何も、かくかくしかじかの理由で独身だ、というほどのことじゃないよ。何となく、気がついたら、四十も半ばを過ぎていたというところだよ」
「そうですかねえ」
疑わしそうに北原はいった。
「そうさ、そんなものだ。ギネ(婦人科)などをやっているとね、女は神秘的存在じゃなくなるんだな。それに乳児院だろう。夫婦別れした者の子だの、親に捨てられた子だのを見ていると、女も子供もほしいとは思わなくなるよ」
「なるほど、それも一理ですね」
「第一、世間の奴らがハイラーテン(結婚)するからって、何もおれまでつきあうことはないやね。独身もこれでいいもんだよ。小うるさくヤキモチでもやかれたらたまらんよ。世間の男どもで、この女房とハイラーテンしてよかったと思ってるのは、一人もいないんじゃないか。みんな、しまったと思ってるんだ。どうだ、おれは利口だろう」
「でも、淋しくないんですか、先生」
「なあに、淋しいのは、結婚した奴らのほうだろう」
「これですからねえ、雄二郎は」
高木の母は、口とは反対に満足そうに高木を見た。
「いや、本音はね、この口やかましいおふくろじゃ嫁と姑のゴタゴタは目に見えている。おれのような気弱な男には、身の毒だからね」
どこまで本気かわからぬ笑顔だった。
延齢草
日曜の午後、うすぐもりの空を、窓越しに見上げながら、啓造は茶の間で、夏枝と向かい合っていた。さきほどまで、昼食の跡始末をしていた陽子は、自分の部屋にもどったらしい。広い家の中が、妙にしんかんとしている。
「陽子は時々散歩に出るのかね」
「学校から帰って来たらほとんど外には出ませんわ」
「だいぶ明るくなって来たようだがね」
「そうでしょうか。わたくしにはそうは思えませんわ。いつも何か考えこんでいるようで、わたくし気重ですわ」
もうすぐ六月十五日の札幌神社祭がくる。陽子が服毒してから丸五カ月になろうとしているのだ。そろそろ立ち直ってくれなければ、と啓造は思った。
玄関にどさりと音がした。
「書留です。辻口さん」
「どこからかしら?」
夏枝が茶ダンスの引き出しから印判を取り、すぐに立って行った。
「茅ケ崎のおとうさまから、小包ですわ」
やや大きな包みを下げて、夏枝がもどって来た。夏枝は鋏を使わずに、ひもの結び目を解き始めた。いつも夏枝は、時間をかけて包みのひもをほどいていくのだ。
やっとひもが全部ほどかれた。夏枝はそのひもを、くるくると几帳面に巻いてそばにおいた。そしておもむろにボール箱のふたをひらいた。新聞紙で箱の隙間が埋められている。その新聞紙を、夏枝はまたていねいに、しわを伸ばしながら横におく。見ている啓造はいらいらした。いらいらしながらも、半ば感心していた。すぐに中身を見たいのが、人情ではないか。啓造の視線に、夏枝がふっと顔を上げて微笑した。
「わたくしね、時間をかけて、こうしてあけている時が、一番楽しいんですの」
思わず啓造は皮肉に笑った。
「あら、浴衣ですわ。これはあなた。これが徹さん、これが陽子ちゃんのね。まあ、わたくしにはこんな派手な柄を送ってくれましたわ」
夏枝は案の定、眉をひそめた。
「なかなかモダンな柄じゃないか」
「でも、わたくしいやですわ。こんな大きなサザエの模様なんて」
夏枝は不満そうに、自分の浴衣を啓造の前に押しやった。
「せっかくおとうさんが送ってくださったんだ。文句をいってはいけないよ」
夏枝の喜ぶ顔を想像しながら、荷造ったであろう老いた義父の顔を、啓造は思い浮かべた。
「だって、センスが悪いんですもの。お嫂《ねえ》さんが選んだのよ、きっと」
まるめたひもを指にからめながら、夏枝はつまらなそうにうつむいた。啓造は、人の贈り物を心から喜んだことのない夏枝の性格を今更のように不快に思った。
考えれば考えるほど、夏枝はふしぎな性格だと、啓造は思う。言葉づかいもていねいで、動作もしとやかだ。几帳面で掃除も行きとどき、料理もきめこまやかである。どこから見ても夏枝は優しい女性に見えた。
その夏枝が、人からの贈り物を喜ばないというのは、いったいどういうことだろう。夏枝は何か贈られる度に必ず不満をいった。
「石鹸ばかりこんなにいただいても、しかたがありませんわ」
「また灰皿をいただきましたわ。置き場所に困ってしまいますわ」
「こんな壁かけ、恥ずかしくて、かけておけませんわ」
万事がこの調子であった。食べ物などをもらえばもらったで、食べきれないとか、食べあきるとか、なくなるまでぐずぐずと文句をいう。以前に住みこんでいたお手伝いの次子の家は近いし、隣近所にわけてもいいと思うのだが、夏枝はそれもしない。大学教授の娘として育ち、医師の妻として過ごして来た夏枝は、贈り物に馴れすぎて来たのだ。
しかし、不満を直ちに口にするのは、もらい馴れているせいだけではない。夏枝には、人の心を思いやる、本当の優しさが欠けているのだ。いかにして喜んでもらおうかと、考えに考えた末、贈ったであろう人々の心を、夏枝は想像もできないにちがいない。
「想像力のないものは、愛がない」
といった誰かの言葉を啓造は思い出しながら、ため息をつき、自分に送られた浴衣を手に取った。
その時襖があいて、陽子が入って来た。
「陽子ちゃん、茅ケ崎のおじいちゃんが、あなたにも浴衣を送ってくださったわ」
夏枝が乾いた声でいった。
「あら、わたしにも。うれしいわ、おかあさん」
陽子はすぐ、ひざの上に浴衣をひろげた。白地に紺のカニと朱の小えびをあしらった大胆な模様である。
「まあ、すてきね、おかあさん」
陽子は立って、その布地を肩にかけた。
「似合うよ、陽子」
啓造はホッとして、喜んでいる陽子の顔を見上げた。
「そうかしら、カニだのサザエだの、わたくしはいやですわ。陽子ちゃん、あなたそんなものがほんとうに好きなの」
「好きよ、カニの模様なんて、大胆で着想がいいと思うの」
「じゃ、このサザエの柄も好き」
「ええ、好きよ。壺の模様、はやったことがあるけど、壺よりも詩があるわ」
「そう、陽子ちゃんは、いただきものなら何でも好きなのね」
夏枝の語調に、啓造はハッと陽子を見た。
「そうね、わたし、どんなものでももっともっとありがたくいただきたいと思うの。ありがとうおかあさん」
夏枝の毒をふくんだ言葉を、陽子はさり気なく受け流した。
「偉いよ、陽子は。若い娘は、親からもらったものでも、センスがいいとか悪いとか、すぐ文句をつけるものだからね」
啓造の言葉に、夏枝の表情がこわばった。
「あなた、それはしかたがありませんわ。女には着物は命ですもの。少し趣味のいい人なら、人様からいただいたものだからって、そう簡単に満足はできませんわ」
「そうかねえ。趣味のいい人というものはねえ」
啓造は夏枝を見、陽子を見た。陽子は何ごともなかったように、微笑を浮かべて夏枝にいった。
「おかあさん、ありがとう。陽子、早速おじいちゃんにお礼状を書くわ」
陽子は部屋を出て行った。
「いただいたものなら、何でもありがたがるなんて、乞食みたいですわ」
陽子の足音が遠のいてから、夏枝がいった。
「そんなものかねえ。じゃ、夏枝のように、いただきものなら一から十まで文句をいうのは、いったい何様なのかね」
「まあ、わたくし文句なんかいいませんわ。でも自分の趣味に合わないものを、喜ぶわけにはいきませんもの。少し個性のある人間なら、個性に合ったものを着ると思いますわ」
「ふうん、何だか知らないが、いわゆる個性的な服装をひけらかすよりは、少々気に入らなくても、くださったものを喜ぶ心根のほうが、美しいと思うがね」
「まあ、ひどい。じゃ、何でも喜べとあなたはおっしゃるの」
啓造はむっつりと押し黙った。考えてみるとどんなささやかな贈り物でも、心から感謝できる人間は、聖人といってもいいような気がする。何と人間は不満の多い存在だろう。今こうして妻の性格に不快になっているこの自分も、感謝を知らない人間の一人かも知れない。そうは思っても、夏枝の態度を受け入れることはできなかった。特に陽子への夏枝の言葉に、啓造はこだわらずにはいられなかった。
啓造はつと立ち上がった。
「ちょっと散歩に行って来るよ」
「どうぞ」
夏枝はすねたようにいった。
ふと、啓造は陽子を散歩に連れ出そうと思った。陽子はまだ、あれ以来見本林に足を入れていないのではないか。今の陽子なら、もう林に行ってもいいような気がした。死のうとしたその場所を見ておくことも、生きる上に必要だと啓造は思った。
部屋に入ってきた啓造を見て、机の前にすわっていた陽子は、驚いたように顔を上げた。
「陽子と散歩に行こうかと思ってねえ」
啓造はちょっと照れていった。
「散歩に?」
陽子が、けげんそうに啓造を見上げた。
「ああ、見本林に行ってみよう。この間は林の中にまっ白い延齢草がたくさん咲いていて、きれいだったよ、陽子」
啓造は陽子の視線を避けて、立ったまま窓から林を見た。その啓造をじっと見つめていた陽子が、大きくうなずいた。
「行くわ、おとうさん」
「行くかい。そうか、そりゃうれしいね。陽子は初めてかね」
「初めてって……ああ、薬を飲んでから?」
「うん、まあね」
「初めてよ、おとうさん」
陽子はまばたきもせず、啓造を正面から見入った。
林の入り口のストローブ松には、つたが青々と絡まっていた。高い梢の上にうす雲に覆われた青空が、紗を透かすように見えた。二人は無言で歩いて行った。今日は素袷《すあわせ》でも少し暑いように、啓造には思われた。どこかで、短く蛙の声がした。
この半月ほど、啓造は幾度か陽子を林に誘おうと思って来た。だが誘おうと思うと、啓造自身がこだわって、誘えなかった。今日は小包のことで夏枝に腹を立てた。その余勢を駆って、陽子を誘うことができた。
二人は、林の中央をつらぬく堤防の下に来た。コンクリートの階段の隅々に、草が生えていた。生きて再びこの道を歩む今の陽子の気持ちを思いながら、啓造は階段を登りきった。陽子は堤防の上に立って、家のほうをふり返った。
(あの時も、わたしはここでふり返ったわ)
ストローブ松の林をとおして、辻口家の赤い屋根が見えた。あの時陽子は、これが見おさめだと思って、ふり返ったのだった。新雪に覆われた、一月十五日の朝だった。
土手のチモシーが、ひざをかくすほどに伸びている。そのまま堤防をおりて行けば、ドイツトーヒの林に入る。陽子が川原で服毒したことを知って、ここに駆け上がった時、林の中につづく陽子の足跡を啓造は見た。
「堤防の上を歩いてみようか」
さすがに啓造は、あの足跡のつづいていた林に陽子を誘う勇気はなかった。
「おとうさん、大丈夫よ。陽子、またこの林の中を通ってみたいわ」
そうでなければ、ここに誘われた意味はないと、陽子は啓造を見上げた。
(やはり陽子だ)
啓造は思い切って、林につづく階段をおりはじめた。
ドイツトーヒの林の中は、夕ぐれのようにうす暗かった。山鳩が啼いていた。ふくろうのような淋しい声だった。
陽子は啓造に少し遅れて佇んだ。木立を透かして、林の外の光がぼうっとかすんで見える。啓造がふり返った。林の一点を見つめている陽子の顔が白い塑像のように清らかだった。
陽子が近づいて来た。グレイのプリーツスカートがゆるやかに揺れた。何か話しかけようと思ったが、啓造には言葉が見つからなかった。
(あのまま死んでいたら……)
幾度か思ったことを、啓造は今また思った。カラスの羽が一つ、木の根の盛り上がった足もとに落ちている。
「よかったね、陽子」
啓造の言葉に、陽子はふっと淋しい微笑を見せた。陽子にはまだ、生きていてよかったという実感がなかった。
中学卒業の時、陽子は答辞を読むことになっていた。だが、式場でひらいた答辞は意外にも白紙だった。満座の中で、陽子に恥をかかせようとする夏枝の仕業だった。そんな夏枝をも、陽子は憎まなかった。どれほど意地悪をされても、決して自分を歪めたりはするまいと、心に誓った陽子だった。
殺人犯の娘と、夏枝に罵られ、遺言を書いた夜ですら、陽子は夏枝を憎めなかった。
しかし、四日間の眠りからの覚めぎわに見た夢は、いい難くいやな夢だった。夢の中で陽子は、自分が暗い淵か、泥の中にでも押し沈められているような気がした。ひどく息苦しかった。のたうつようにもがいているうちに、ふいに目が眩しくなった。淵の外に出た。と、ホッとする間もなく、陽子はまたずるずると、もとの暗やみの中に沈んでいく。再び目が眩しくなる。また沈む。幾度か陽子はそれをくり返した。ひどく吐き気がした。胸の中に、みみずや蛙がうごめいているのが見える。陽子はそれを引き出そうと、胃の中に手を入れる。だが何も手にふれない。頭のしんがずきずきとうずき、目が重かった。
陽子は、いつしか自分が、広い野にいるような気がした。夕陽が自分の顔に当たっているようで、目が眩しい。と、急に誰かが、鼻腔と口をおさえた。息がつまりそうだ。影絵のように、その人間の姿が見えた。
(あ、おかあさんだ!)
陽子はおののいた。夏枝の手を払いのけようともがいた。夏枝の手がいっそう強く陽子の鼻腔をおさえる。
(苦しい! おかあさん、助けて!)
陽子は幾度か叫んだ。
どれくらいたったことだろう。陽子は目をあけた。目の前に、ぼんやりとした影を見た。その影が、次第にハッキリとして来た時、陽子は思わず息をのんだ。般若の面だった。
おびえながらも陽子は、その般若の面を凝視した。白い般若の面が、ニヤリと笑った。夏枝だった。
「わかったんじゃない!」
辰子のうわずった声がした。
素直な気持ちで、薬を飲んだ自分が、その覚めぎわに見た夢は、あまりにもみにくかった。しかも、目がさめて初めて見た夏枝の顔が、なぜ般若の面に見えたのか。あれ以来、陽子には、夏枝の顔が時折般若の面にダブって見えるのだった。
「どうした? 陽子」
遅れ勝ちな陽子をふり返って、啓造がいった。
「ううん、何でもないの」
どこかで、また山鳩が低く啼いた。川に近づくにつれて、下草が丈高く伸び、草いきれがした。
「つれ出して悪かったかな」
考えこんでいる陽子の表情を見て、啓造がいった。陽子は頭を横にふった。二人は林を出て、川岸に立った。水が少し濁っている。陽子が睡眠薬を飲んだ川原が、上手に広がっている。啓造は陽子を見た。陽子はきびしい視線を川原に向けていた。しばらくして陽子がいった。
「おとうさん、ごめんなさいね」
「あやまりたいのは、おとうさんのほうだよ」
うすぐもりの空の下に、少年たちが二、三人、川原で焚火をしている。その赤い炎を、陽子は見つめた。陽子は、あの覚めぎわの夢を、今もまた思っていた。小学校一年の時だった。陽子が学校から帰ってくると、夏枝が鏡台の前にすわって化粧をしていた。無表情な、仮面のような顔だった。その夏枝に、陽子はいきなり、首を両手でしめつけられたのだ。幼い陽子には、不可解で恐ろしい事件だった。陽子はしかし、それをいまだに誰にも告げてはいなかった。
あの苦しい覚めぎわの夢や、夏枝を恐ろしい般若の面と見たのは、何れもあの幼い日の恐怖が、根深く潜在していたためかも知れない。陽子は決して夏枝を憎んでいるつもりはなかった。しかもなぜあんな夢を見たのか。陽子はそんな自分が、たまらなくうとましかった。
じっと川原を見つめている陽子に、啓造は不安を感じた。やはり、ここに陽子を連れて来たのは、早過ぎたのかもしれない。
「帰ろうか、陽子」
「ううん、もっとここにいたいの。おとうさん、夢っていったい何かしら」
「夢? 人間の持つ、あの夢のことかい」
啓造は、陽子が新しい夢を持とうとしているのかと、思わず声が弾んだ。
川向こうで、郭公が啼いた。
「そうじゃないの。眠りの中の夢のことよ」
陽子は、対岸の柳の下に草を食む黒い馬を見つめた。
「ああ、その夢か。……夢ってふしぎなもんだねえ。自分でも思ってもいないことを、夢の中ではいったり、したりするからねえ」
啓造は、けさ見た夢のことを思った。
院長室に入って行くと、高木が啓造の椅子にすわっていた。高木は啓造を見て、お前は誰だと咎めた。冗談をいうなと、啓造が笑ったが、「おれは辻口だ、高木などではない」と冷たい表情で啓造を見た。そこに看護婦姿の夏枝が入って来た。夏枝も啓造を見知らぬような顔をし、高木と親しそうに笑い合った。
「おとうさんも夢を見るの」
「ああ、よく見るほうじゃないかな。特に疲れている時はね」
啓造は、陽子が何か気になる夢を見たと察した。
「おとうさん、夢って、自分の中にないものでも、夢になるのかしら」
「いや、どうやらそうじゃないらしいんだよ。心理学の本に書いてあったがね。人間は、自分の全人格を意識することはできないそうだ。八割は無意識の中に沈んでいるそうだよ」
「まあ八割も?」
驚いて、陽子は長いまつ毛を上げた。
「そうだよ、だから、自分の意識している自分自身というのは、たった二割ということだね」
「…………」
「そうなると、自分のことは自分が一番よく知っている、などというのは、おこがましい限りということになるね。自分では優しいつもりの人間が、恐ろしく冷酷な性格だったということも、あり得るわけだ」
啓造は、先ほどの夏枝にまだこだわっていた。夏枝は陽子に向かって、もらい物なら、何でも好きなのかと嘲笑した。
「じゃ、おとうさん、自分の見る夢は、全部自分の中から出てくるということなのね。……そうね。夢は自分が見るものですものね」
自分の心の底にある、夏枝への憎しみが、あの夢を見せたのかも知れない。決して人を憎むことを知らないと思っていた自分の真の姿を、あの夢は見せてくれたのだ。陽子は目を伏せた。
「そうかも知れないね。夢の中では、覚めている時の理性も意志も、かなり失われるからね。つまり抑制がきかなくなるんだね。無意識の自分が、顔を出すというわけだ。おとうさんなんかね、夢の中で、誰彼となく怒鳴りちらして、日本刀をふりかざしたりしていることが、よくあるよ」
啓造は、陽子がたとえ気になる夢を見たとしても、安心できるようにと、心をつかいながら、話して聞かせた。
夢の中で日本刀を持って暴れるという啓造に、陽子は真顔で尋ねた。
「まあ、ほんとうなの? おとうさん」
「ああ、ほんとうだよ。それからね、大勢の前で大声で号令をかけたり、演説したりする夢もよく見るよ。おとうさんは、自分では人前で話すことなんか、嫌いなつもりなんだがね。ふだん意気地がないもんだから、夢の中でうっぷんを晴らすのかね」
幾度かうなずきながら、陽子は聞いていた。このおだやかな父の中に、日本刀をふりかざす猛々しさもあり、人々に号令をかける権力者の一面もある。信じ難いことだが、それが真実かも知れない。自分の見たあのいやな夢も、まさしくこの自分の中から出た思いなのだ。自分は少なくとも、憎しみだけは持っていないと、陽子は思っていた。
「とにかく夢って、ふしぎなものだよ。だが夢が、無意識の世界を、すべて見せているかどうかは、わからないよ。トイレの夢などもよく見るが、ふしぎに用をたせないんだ。ドアがこわれていたり、中が汚かったりしてね」
陽子はかすかに笑った。
「あれはね、夢の中でもやはり幾分か抑制が働いているんだよ。ふとんを汚したら大変だからねえ。となると、夢にも出てこない無意識の深層があるような気がするね」
「まあ、夢にも出てこない自分なんて……こわいわ、わたし」
陽子はそういうと、啓造のそばを離れて、川沿いの小道を上手に向かって歩き出した。啓造は陽子の後に従った。
「こわいかい、陽子」
「ええ、恐ろしいわ。自分が恐ろしいの」
立ちどまってふり返った陽子の肩越しに、美瑛川が鈍く光って流れていた。
「わたし、やっぱり傲慢だったのね、おとうさん。自分のことは、自分で知っているつもりだったの。でも、何もわかっていないのね。親切なつもりの自分に、意地悪の自分がひそんでいるかも知れないなんて、思っただけでもこわいわ」
陽子はまた、先に立って歩き出した。男が一人、川の中に腰まで水に浸して、長い釣竿を伸ばしていた。いかにも静かな世界に見えた。
だが陽子は、もはや見ただけの姿から、その人間の心境を見て取ることはできないような気がした。啓造が陽子のうしろでいった。
「陽子、そう恐ろしがることはないよ。自分の中に未知数があるということは、同時に希望の持てることでもあるからね」
「希望?」
陽子は啓造をふり返った。啓造は深くうなずいた。陽子には、何としてでも、希望を持って生きてもらわねばならない。啓造は、萌黄色のトドマツの新葉に目をやった。
サロベツ原野
ぬれ手ぬぐいをぶら下げた高木が、丹前姿で部屋に入って来た。
「やはり温泉だよ、しんからあったまった」
「そうか、それはよかった」
啓造は読んでいた新聞から顔を上げた。
「さすがに三百四十キロは強行軍だったな。いささか肩がこった」
毛ずねを出して、高木は片ひざを立てた。
「ああご苦労だったね。こっちはいいレクリエーションになったが、君は運転で大変だったろう。マッサージでも頼もうか」
「うん、そうだな。まだ九時か」
高木は床の間の受話器を取った。
「マッサージ師を頼んでくれないかね。……え、男? 女? いやあ、もんでくれりゃ、どっちでもいいよ」
がちゃりと高木は受話器をおいた。
二人は今日、稚内に近い豊富《とよとみ》温泉に来た。山の中のひっそりした温泉宿である。二週間ほど前の夜、高木から電話があった。斜里にいた妹が、この春稚内に移った。淋しいから一度来てくれといっている。そのうちに、一度行きたいと思うが、車で一緒に行ってみないかという誘いだった。突然のことに、啓造はためらった。
「おいおい、おれの運転を信用しないのか」
高木が笑った。啓造はふと、学生時代に一度行ったことのある稚内に、もう一度行ってみたいような気がした。今まで、旅に誘い合うことなどのない忙しいお互いだった。啓造の心は動いた。
「行くよ。稚内は戦前に一度行っただけだからね」
「ほう、行くか。辻口もやっと家を離れる気になったか。去年のあの事件からは、札幌にも来なかったからなあ」
「ああ、そうだったかねえ」
「そうだよ。あれからもう一年半になるだろう。その間おまえは、旭川にじっとへばりついていたじゃないか」
「一年半にもなるかね。いや、一年と四カ月だよ」
啓造は、啓造らしく正確にいいなおした。高笑いが受話器にひびいて来た。
「まあ一年半でも、一年四カ月でもいいがね。何度もいうようだが、あれほど驚いたことは、へその緒切って以来、おれは初めてだったな。陽子君も思い切ったことをするお嬢さんだ」
「ああ、迷惑をかけたね」
「いやあ、迷惑をかけたのはこっちだがね。元気でいるか、陽子君は」
「おかげさんで、まあまあだ」
電話を切ってから、啓造はほっと吐息をもらした。陽子が自殺をはかったのは、ついこの間のような気がする。現実には、確かに一年何カ月かが過ぎ去っていた。一見辻口家は無事に見えた。だが啓造には、いつも何かが起こりそうな、不安定な毎日であった。
高木は今朝、札幌を発ち、旭川の辻口家に寄って、二十分ほど休憩した。
「陽子君、小父さんはね、車に乗ると酒を飲みたくなる性分でね。おまけに、百キロ以下ののろのろ運転なんか、大嫌いだ」
高木はお茶を飲みながらいった。傍の夏枝が、すぐ真に受けて不安そうに眉をひそめた。
「困りますわ、わたくし。それならお断りしますわ」
「なあに、辻口も相当くたびれた古亭主だ。今すぐ生命保険を、どかんとかけておくんですな。今日中に大金がころがりこむかも知れませんよ」
「わたくし、お金なんか欲しくはありませんわ」
夏枝は本気で答える。啓造は、そんな夏枝を、ユーモアのわからぬ女だと思ったが、高木は車に乗ってからいった。
「夏枝さんは、少女のようだな。むきになるところがかわいいよ」
夏枝と並んで、手をふって見送っていた陽子の顔を、啓造は車の中で何度も思い浮かべた。啓造はふと、陽子をおいてはまだ死ねないと思った。
高木の運転は、思ったより慎重だった。啓造が感心してそういうと、高木は笑った。
「辻口らしくないことをいうなよ。おれさまみたいな優秀な人間が、馬鹿スピードを出すもんか。あいつらは少し脳たりんだよ。それでなきゃ、よほどストレスが強いのさ」
高木はやはりたのもしい男だと、啓造はあらためて思った。
「さてと、テレビでも見ようか、辻口」
高木が次の間に立った。廊下からすぐの洋室にテレビがある。
「いや、わたしは読みかけの本があるんでね」
「何だい、読みかけの本って」
「うん、斎藤茂吉の歌集だがね」
「歌集、みそひともじか。お前作ってるのか」
「いやあ……」
啓造は顔を赤らめた。このごろ作り始めたばかりで、人に見せられるような歌はない。
「辻口、短歌などひねらんで、都々逸《どどいつ》でも作ると、お前もいい男なんだがなあ」
笑いながら高木は、ソファをベッドになおして横になった。
「高木……」
「なんだい」
「いや……陽子のことだがね」
「陽子君がどうかしたのか、また」
「うん陽子がね、乳児院を見たいなんていい出してねえ」
「ほう」
高木はひじまくらをして、畳にすわっている啓造を見た。
「どんなつもりかと思ってねえ、陽子が乳児院を見たいなんていうのは」
啓造はたばこに火をつけた。
「わかるような気がするよ。陽子君のことだからね。乳児院にいる子が、かわいそうなんだよ。自分のいた所だと知ってみりゃねえ」
「大学は後まわしでいいというんだ。この一年は、実社会をよく見て、進むべき道を決めるというんだよ」
「いいじゃないか。賛成だよ、おれは」
洋間のソファに、横になっていた高木が、顔をもたげていった。
「だがねえ、わたしは賛成し切れないんだよ、乳児院とか、育児院とかは、陽子には少し刺激が強過ぎやしないかな」
「そりゃそうだ、捨て子もあれば、夫婦別れした者の子もいる。全くかわいそうとしか言いようがないよ」
「だろうね。そこでまた、陽子が何を考えるかと思うとねえ……」
啓造は心もとない顔で、高木を見た。
「その時はその時だ。まあ、あまりくよくよするなよ」
「うん、〈明日のことを思い煩うな〉と聖書にも書いてあるがね。わたしは、五年後、十年後のことまで気になってね……。ところでね、高木。小樽の陽子のムッターは、あの子がどこにいるのか、知っているのかねえ」
時折廊下に足音がするだけで、外には車の音もしない。窓のすぐ外は、いかにもまっくらな闇が押し包んでいるような、静かな宿である。
「あちらさんか。知らんだろう。旭川のどこかにいるらしいぐらいは、知ってるだろうがね。それがどうしたんだ」
「いやあ、やっぱり気になってね」
「おい、辻口。あんまりおれを責めるなよ。おれだって、ああしたほうがいいか悪いか、考えなかったわけではないんだからなあ」
「いや、責めてるわけじゃないんだよ。もともとわたしが悪いんだからね」
「どっちが悪いと決められるもんじゃないさ。しかしねえ、陽子君から見ると、佐石の娘なんか、どういうことになるかなあ」
「え? 佐石の? いるのかい」
「いるよ。親はなくても子は育つか」
高木はむっくりと、ソファの上に起き上がった。
「どこにいるんだい」
「札幌だよ。おれはハラハラしてるんだ。いつどこで、徹君とかちあうかと思ってなあ」
と、その時、ノックをして、女マッサージ師が入って来た。高木はテレビのスイッチを入れ、
「ご苦労さん」
と、腹ばいになった。黒メガネの女は、小さな口をかすかにあけて、高木の大きな体をもみ始めた。仕方なく啓造は歌集をひらいた。
女マッサージ師は黙々と、高木の背筋を押していく。
「力があるねえ、あんた」
高木がいったが、女は答えない。
「豊富から稚内までは何キロぐらいかね」
「さあ、汽車で四十分ぐらいです」
意外にうるおいのある声だった。
「あんた、ひとり者かい」
「ひとり者ならどうします?」
女はかすかに笑った。
「いや、いろいろな客があるだろうと思ってね」
高木は首をまわして女を見た。黒メガネと対照的に頬が白かった。女の唇がかすかに笑った。
「はあ、男にもいろいろありますからね」
「悪い男もいるだろう」
「悪くない男なんか、いないでしょう」
語調がどこか、虚無的だった。
「おれはいい男だぜ。ひとりもんだしね」
女は大胆に鼻先で笑った。
「なんだ、信用しないのか」
「いいえ、今お客さんは、いい人間だ、ひとり者だしって、おっしゃったでしょう。いい人間とひとり者ということ、どこでつながるんですか」
女の語調には、やはりニヒルな響きがあった。それが、高木の心をひいた。
「あんた、ひとり暮らしだね」
「あら、どうしてですか」
「おれは心理学者だからね。ちょっと話すと、すぐわかるよ。あんたたちも、客の商売はすぐわかるだろう」
「わかりませんよ、わたしには。わたしは目が見えないし、心まで盲の人間ですからね」
「何だい、いやにすねたことをいうじゃないか」
「本当のことをいったまでですよ」
女は皮肉な微笑を浮かべた。
「なるほど、本当のことか。でも、君は、目は見えるんだろう」
「この頃は、目の見えるマッサージ師が多いですからね。でもわたしは見えませんよ」
啓造はふと顔を上げて、女のうしろ姿を見た。誰かに似た声だと思った。が、再び歌集を読み始めた。
「あんたは、この辺で生まれたの」
「海の向こうですよ。樺太です」
「樺太?……今は外国だね」
女は答えなかった。
「豊富って、静かな所だね。着いた時、鶯が啼いていたよ。宿は五、六軒もあるのかな」
「十軒ぐらいでしょう」
と、女はややそっけない。高木は、おもねる態度のない、そのくせ技術のよい女に、ふしぎな興味を感じた。興味というより、憐れさであったかも知れない。この女は、どこかの育児院にでも育ったのではないかと、高木らしい関心を抱いたのだった。
高木は再び、首を曲げて女を見た。小さな口、つまんだようなかわいい鼻、肌は白いが、やや肌理《きめ》が荒い。肌の荒れは、心の荒れともいう。三十は過ぎていると、高木は見た。
「おとうさんおかあさんは達者かね」
「とうに死にましたわ。でも、そんなことを聞いて、何の役に立つんですか」
高木は頭をかいた。
「いや全くだ。何の役にも立たないかもしれんな。悪かったな。気を悪くしただろう」
育児院の子に対するような、優しい口調になった。女の手の動きが一瞬とまった。
「…………」
「人の身の上を聞きたいというのは、こりゃあ、悪趣味の部類だなあ……」
「かまいませんよ。この頃は、人のことなんか、どうでもいい、どこで生まれようと、どこで死のうと、関係がないという時代ですからね」
女は急に素直な語調になって、左から右に移ろうと、ベッドに沿って歩き出したが、傍のテーブルにつまずいた。
「あ、大丈夫かい」
「かんが悪いんです、わたし。三十を過ぎてから目が見えなくなったものですから」
「三十を過ぎてから? そんな年になるのかい、君は」
「お客さん、わたしの身の上話をしましょうか」
「ああ、君の身の上は聞きたいね」
親身な高木の声に、女は、樺太に生まれ、ふた親に早く死に別れたこと、敗戦後兄と二人で引き揚げたことなどを、ぼつぼつと語り始めた。テレビから管弦楽が低く流れていた。
「……わたしね、勤め先で、ある人を好きになったんです。でもその人に奥さんがいたんです。それに、勤め先に悪い男がいましてね、わたし……玩具《おもちや》にされちゃったんです」
「なるほど」
「そのほか、いろんなことがありましたけど、好きな人はわたしを見向きもしませんでしたし、その人のそばにいるのがつらくなって、ある日突然、その土地を離れてしまったんです……」
聞くともなしに聞いていた啓造の顔が、さっと緊張した。啓造は起き上がった。
(松崎だ! 松崎由香子だ!)
啓造は驚愕した。
(生きていた!)
啓造は呆然として、高木をもんでいる白衣の女を凝視した。黒メガネをかけてはいるが、その顔はまさしく由香子だった。啓造のひざ頭が、がくがくとふるえた。
「松崎君!」
危うく口まで出かかった声を、啓造は辛うじて飲みこんだ。今この場で、呼びかけていいのか、悪いのか、判断に迷った。
由香子が啓造のほうに顔を向けた。啓造はハッと体をこわばらせた。黒メガネの奥に、由香子の目が自分を見つめたような気がした。が、由香子はまたうつむいて、言葉をついだ。
「お客さん、わたしやはり罰があたって、目が見えなくなったんでしょうか。奥さんのいる人を好きになったりして……」
「冗談じゃない。そりゃひとの旦那は好きにならないほうがいいよ。しかし、目が悪くなったこととは、関係はないよ」
「そうでしょうか」
女はひっそりと笑った。
「罰があたるんなら、おれのほうだよ。おれは悪い奴でね」
「あら、さっきはいい人間だと、おっしゃったじゃありませんか」
「どんな悪い人間でも、自分のことはいいと思っているだけさ。それはともかく、君は今もその男に会いたいと、思っているんだろうね」
「いいえ、とんでもない。こんな姿で会うくらいなら、死んだほうがましですわ」
由香子の言葉が、啓造の胸を刺した。
「でも、わたし、しあわせな女です。こんなに人を想うことができるなんて」
「…………」
「その人を想って、一時は食事もできないほどでしたけど……そんなことも、目を悪くした原因かも知れません。とにかく私、その人にこの二つの目をあげたような気がするんです」
啓造はいたたまれぬ思いだった。
「君は驚いた人だなあ」
高木はしみじみといった。啓造はふと、今にも高木が自分の名を呼びはしないかと恐れた。と、高木が啓造を見た。啓造は狼狽して歌集をぱらぱらとめくった。
「すみません、仰向きになっていただきます」
由香子の言葉に、高木はその大きな体を、ソファ・ベッドに仰臥させた。由香子は高木の腕をもみはじめた。高木は大仰に顔をしかめた。
「うっ、きつい。きくなあ」
「こってますからね」
「うん、何せ札幌からここまで一気に飛ばして来たんでねえ」
話題が変わって啓造はほっとした。テレビに男の歌声が流れている。下の浴場から、湯気にこもった声が聞こえ、蛍光灯が一瞬ちかちかと、ふるえるようにまたたいた。
「いつから、この仕事をしているんだい」
「五、六年、いいえ七年ぐらいにもなるでしょうか。……ところでお客さんは、ひとり旅ですか」
テレビの音にまぎれてか、奥の間にいる啓造の気配を、由香子は気づかないようだ。
啓造は、由香子を追って宿を出た。すぐ前は小山で、あたりには家は一軒もない。窓からこぼれる灯りの及ぶ以外は、闇だった。この宿は温泉街から二、三百メートル離れた奥にあった。
フロントで借りた啓造の懐中電灯の強い光に、由香子のうしろ姿が浮き上がっている。白い杖をつきながら、由香子はとぼとぼと歩いて行く。啓造は駆けよって、手を引いてやりたかった。
だが、四十歩ほどの距離を、啓造は縮めなかった。神社の前の淋しい道を、由香子はいまおぼつかなげにたどって行く。もう何年も、こんな姿で由香子は歩いていたのか。不覚にも啓造は涙がこぼれた。どこから来たのか、大きな犬がのっそりと由香子に近よった。由香子は小腰をかがめて、犬の頭をなでた。
(松崎君!)
啓造は立ちどまった。声をかけ得ない自分が、いかにも非情に思われた。しかし、啓造には声をかける勇気がなかった。
「こんな姿で会うくらいなら、死んだほうがましです」
「この二つの目を、好きな人にあげたような気がするんです」
さっきの由香子の言葉が耳底で鳴っていた。ここで声をかけたところで、一体何をしてやれるのだろう。
前を行く由香子の杖が折々光った。生きている限り、由香子はああして生きて行かなければならないのか。啓造は迷った。かつては、自分の病院で勤めた職員の一人ではないか。由香子の自分に対する感情はともかく、このまま見過ごすことが、人間の取るべき道であろうか。
(どうしたらいいのだ)
啓造はうめきたかった。何か道がありそうな気がした。
ふいに啓造は怒りがこみ上げて来た。
(村井の奴!)
村井さえ由香子を凌辱しなかったなら、由香子には別の運命がひらけていたような気がする。確かに由香子は、この自分を愛していたかも知れない。由香子は失踪の前、
「院長先生の子供を生みたいのです」
と電話して来た。だがそれは、単に自分への愛ばかりではなかったような気がする。
既に肉体関係を重ねていた村井の結婚が、やはり大きな衝撃となって、由香子にあのような電話をかけさせたのではないか。由香子の失踪の原因は大半が村井にあると、啓造はいまあらためて思った。だからこそ村井は、由香子の墓を建てずにはいられなかったのであろう。男が女を凌辱することが、いかにその女の運命を大きく狂わせるかを思って、啓造は怒らずにはいられなかった。
「どうした、今朝はいやに黙りこくっているじゃないか」
高木はハンドルを握りながら、横目で啓造を見た。
「いや、別に……あ、すまんがね、温泉街の所でちょっと車をとめてくれないか」
「買い物か」
「写真をとっておこうと思ってね」
啓造はそそくさと車を降りた。由香子の住んでいるこの街を、啓造はカメラにだけでもおさめておきたかった。右側が宿、左側に飲み屋が多かった。そして一丁ほど向こうの突きあたりに、立ちふさがっている宿があるだけの街だった。啓造は、その一軒一軒を撮らんばかりに、幾度もシャッターを切った。どの家に由香子が住んでいるのかと思うと、そうせずにはいられなかった。
「何だい、つまらん所をいやにていねいに撮るじゃないか。一部始終フラウ(妻)にご報告というわけか」
運転席から顔を出し、高木はあきれたようにいった。
車は温泉街を後に、山間の牧草地や苗圃などを左右に見ながら、数キロ走って豊富町に入った。ガソリンスタンドのそばで、サロベツ原野への道を聞くと、作業服を着た若い男が、
「いま、サロベツ原野に行っても、何も見るものがありませんよ」
と笑って、それでもていねいに道を教えてくれた。
間もなく、白い水芭蕉の群生する野に出た。所々黄金色のヤチブキが群れ咲き、うす青いエゾエンゴサクの花が、水を透かして見るように、一面にうるんでいるのも美しかった。水芭蕉は牧草地にまでひろがり、その中に牛が幾頭も、悠々と草を食んでいる。
「見事だなあ、辻口」
「ああ、見事だね」
「これで、何も見るものがないとは恐れ入ったな。見るものがあると、一体どういうことになるんだい」
「身近にあると、感動もなくなるんだろうね。どんな美しい景色でも。馴れるって、恐ろしいね」
「シェーン(美しい)なフラウがいながら、浮かん顔をしている辻口も、似たようなもんだな。それはともかく、うちのムッター(母)を連れて来ればよかったな」
「ああ、そうするとよかったね」
「夏枝さんも連れて来ればよかったな」
「まあね……」
啓造はいま、白い水芭蕉を由香子に見せてやりたいと思っていた。由香子はこの地に住みながら、この花群も見ずに一生を終わるのか。啓造はたまらない気持ちだった。
やがて、白樺のまじる、やや広い雑木林を抜け出た時、啓造は思わず目を見張った。眼の前にいきなり茫漠たる原野がひらけたのだ。
茶褐色の茫漠たる原野の上に、黒く濁った雲が重たく垂れこめ、遥か彼方の地平線上に、丘か樹林か、一筋線を引いたように伸びている影が見えた。鳥一つ飛ばず、鳥を宿らす一樹すらなかった。それは、大海原を見るよりも、渺々《びようびよう》と、そして荒涼たる眺めだった。海にはうねりがあり、生きていると啓造は思った。だが、この形容し難いサロベツ原野は、いま、重い空の下に、無気味に死んだように横たわっているだけだった。
「木の一本ぐらいあっても、罰もあたるまいにな」
道端に沿って、枯れ葦が倒れ、その間を水が流れていた。高木がその流れを飛び越えた。
「うへっ、気味が悪いぜ。お前も来いよ」
いわれて啓造も流れを飛び越えた。巨大なマットレスの上におりたような、奇妙な感触が靴底に伝わった。大地に立っているという確かさがなかった。
「すごい湿原だな。こうなると、うるおいのあり過ぎるのも考えものか」
「ああ、なるほどね」
再び啓造は由香子を思った。
「不毛の地だね、これは」
「全くだね」
啓造は、自分もまた不毛の地のような気がした。自分の心の中に、何が確実に実を結んでいるのか。そう問いただすと、何もないような気がした。
一木となるほどのものは、自分には何もない。夏枝への愛情も、さだかではない。陽子に対しても、真実な親としての愛は持ち得ずに終わるような気がする。実の子の徹にさえも、胸を張って父といえるような存在ではない。何かすべてが中途半端だった。どんなふうに生きるのが、本当の人間の姿といえるのか。啓造は、ポケットに手を突っこんだまま、ぶわぶわとした土の上に立っていた。
「二万五千ヘクタールか。約二万五千町歩だ。広いもんだ」
白樺の丸木に打ちつけた標示板を、高木は読んだ。
「もったいない話だな、辻口」
「それもそうだが、人間にはこんな自然も必要な気がするな。こんな、人間を冷たく突っ放したような、媚びた処のない景色が、わたしは好きだね」
「おれは反対だな。大金持ちの道楽息子を見るような気がするよ。無駄にのさばりやがって、もったいない限りだという処だな。ま、それは冗談だがね。開発されて、千ヘクタールの大牧場もできたそうだ」
「わたしはね、自然が自然であるというのは、いいと思うね。人間はどこまでも人間であるべきだと、気づかせてくれるからね」
〈人間が人間として生きなかったということほど、恥ずかしいことはない〉
昨夜、宿で見たカレンダーの言葉を、啓造は思い出していた。
原野の真ん中をつらぬく道路を、車は再び走り出した。白茶けた枯れ笹が、絶えず風に動いている。蕗の葉が道べにつづき、再び水芭蕉群が点在し始めた。丘陵地帯が近づき、車はまもなく砂丘林に入った。と、林の中に奥深い沼が見えた。
「降りてみるか。大小無数の沼があると聞いて来たのは、ここらしいぜ」
くらやみの中を、杖をつきながら歩いていた由香子の姿を、さっきから思い浮かべていた啓造はハッと吾に帰った。
車をおりると、海の匂いがした。
「海が近いのかね?」
「そうだよ。いま見て来た湿原は、もとは海だったそうだ。風に吹きよせられてこの砂丘ができ、あの湿原となったらしいな」
道の右手の「原生砂丘林」の大きな標示の前に高木が立った。その字の下に「利尻礼文国定公園|稚咲内《わつかさかない》地域」と書いてあった。
「なるほど、砂丘というのは、海のそばにあるものだね。しかし、ここは山奥のような感じじゃないか」
所々藪かげに雪が残り、木々はようやく芽吹いていた。深い樹林に囲まれた沼が、くもった空を映して、鉛色に鈍く静まり返っている。鶯が折々おさなく啼き、岸の桜が一本、白じろと水に影を映していた。
「野郎が二人で来る所じゃないな」
笑いながら、高木は沼べりに近づいて行ったが、
「昨夜のあんまさん、どうしているかなあ」
と、ふいにふり返った。啓造はぎくりとした。
「かわいそうに、勘の悪い人だったなあ。お前がいるのもわからないで、ひとり旅ですかなんて、いってたな。あんな話を聞いた後だから、ひとりだとはいっておいたがねえ」
啓造は黙って、古い倒れ木に目をやった。
「案外なおる目とも知らずに、ああやっているんじゃないかな。あの女の話しぶりでは、ろくに医者にもかかっていないようだったなあ」
高木は由香子を知るはずがない。知らぬ女にも、高木はこんな優しい心づかいをするのだろうか。啓造は由香子のことを、打ち明けたい誘惑にかられた。
「高木、昨夜の女だがね」
「なんだ」
二人は沼岸から、車の前に引き返した。
「いやあ……村井君にでも診せたらと、ふと思ってね」
「村井? うん、あいつは人間のできは悪いが、腕は確かだからな。村井といえば、咲子さんは二人の子供を抱えて、立派に働いているよ。しかし女が一人でいるってのは、妙にかわいそうなもんだなあ。昨夜の女といい、咲子さんといい……。もっとも辰ちゃんは、ありゃ別格だがね」
目の下に、稚内の街屋根が雑然と並び、その向こうに、海に突き出た宗谷岬が見えた。高木と啓造は、今、笹山の上の公園に上って、「氷雪の門」を見上げていた。八メートルほどの門柱の間に、天を仰ぐおとめの像が立っている。雪と氷の樺太で死んだ、多くの同胞の霊を慰めるため、この「氷雪の門」をここに建てたと、碑文にしるされていた。
「人々は、この地から樺太に渡り、樺太からここに帰った」
碑文の冒頭の一節を読んだとき、啓造はまたしても、昨夜の由香子の姿を思った。由香子は確か、樺太で生まれ、北海道に引き揚げて来たはずだった。
「おい! あれはなんだ」
突然、高木が叫んだ。指さす彼方に、啓造は目をこらした。遠い空の下に平たい島影がほのかに見え、右手の山に白い雪だけがくっきりと見える。
「高木、樺太だ!」
「そうだ、まさしく樺太だ!」
高木は大きく腕を組み、樺太を見つめた。樺太は年に幾度も見えないと、聞いて来た二人だった。それだけに感動は大きかった。
「樺太に住んでいた者が眺めたら、たまらない気持ちだろうね」
あの樺太もまた、自分の目で見ることはできないのだと、啓造は由香子を思いやらずにはいられなかった。
二人は電話交換手のレリーフのそばに寄った。三枚の四角い切り石が屏風のように並べられ、右端にレリーフ、左端に九人の乙女の名前、そして真ん中に、悲痛な言葉が刻まれている。
「みなさん、これが最後です。さようなら、さようなら」
それは、昭和二十年八月、ソ連軍の砲火に囲まれた真岡《*まおか》で、最後まで職場を死守した、交換手たちの最後の言葉だった。この言葉を最後に、彼女たちは青酸カリを飲んで果てたのだ。
「……戦争は再びくり返すまじ。平和の祈りをこめて、尊き九人の乙女の霊を慰む」
碑文を読み終わった啓造は、その九人のおとめの名に目をやった。高石ミヤ、渡辺照、吉田八重子……。
「……松崎みどり」
啓造は思わず口に出した。松崎由香子のゆかりの者ではないか。姉か従姉か、あるいは叔母か。啓造には、なぜか無縁の人とは思われなかった。
視線を転じて、啓造は再び樺太の青い島影を眺めた。啓造は胸が熱くなった。強い風の中に、じっと立ちつくしている啓造に高木がいった。
「どうした? 樺太に忘れられないメッチェン(少女)でもいたのか」
「ああ、いたんだ」
啓造は、樺太を見つめたまま、真顔でいった。
「おい、本当か。おどかすなよ」
凝然と、樺太に目を向けたまま立っている啓造のまじめな表情に、高木は驚いていった。
「ここに松崎みどりと書いてあるだろう」
啓造が指さした。
「なんだ、これがお前のリーベだったのか」
「聞いてほしいんだ」
啓造はいま、思い切って由香子のことを、高木に語ろうと思った。
「どうも妙なことになったぞ。まあいい。車の中で聞こう。この風の中じゃ、ふるえあがる」
五月の陽は明るいが、海から吹きつける風は冷たかった。
高木は先に車に入った。
「松崎みどりって、どこで知り合ったんだ」
「いや、松崎みどりという人は、わたしは知らない……。高木、昨夜のマッサージ師のことだがね」
フロントガラス越しに、啓造はなおも樺太の島影を見つめたままいった。
「昨夜の?」
「うん、あの子はね、もとわたしの病院にいた事務員でね」
「えっ! 何だって?」
「松崎由香子といってね……」
「本当か、お前」
ハンドルに身を乗り出すようにして、高木は隣の啓造を見つめた。きびしいまなざしだった。
「十年ほど前に、突然失踪したんだ……。まさか失明しているとは、思いもよらなかったよ」
高木は啓造から視線をはなさなかった。
「そうか、わかった。思われていたのはお前だな。そして、あの女を目茶目茶にしたという奴が……」
白波の立つ眼下の海に、高木は視線を放った。
「……村井だな」
啓造は答えずに、静かに目をつぶった。
「そうか。そうだったのか。しかし、どうして声をかけてやらなかったんだ。薄情な奴だな」
「自分でもそう思ったよ。しかしねえ、高木。声をかけて、いったいどうしてやりゃいいんだ」
「なるほど、声をかけて、久しぶりだったなあ。どうして目が見えなくなったんだ。まあせいぜい元気でいろよ――じゃ、すむ話じゃないもんな」
「そうだよ。しかしねえ、どうしてやりようもないからといって、見捨てるわけにもいかないんだ。わたしは、あの子はもう死んだかもしれないと思いながらも、妙に気にかかっていたんだがね。それが、あんな姿で生きていた。全くたまらない気がするよ」
「そりゃそうだろう。とにかく驚いた話だな」
残雪の見える樺太の島の上に、日本の空からは、刷毛ではいたようなうす雲が伸びていた。
「昨夜ね、あの子が帰った後、わたしはふろに行くといって、すぐに部屋を出ただろう」
「うん、いやに長いふろだと思った。おれは先に眠ってしまったがね」
「わたしはね、陰ながらでも、あの子を送ってやりたくてね。うしろからそっとついて行ったんだ。それに、どんな家に住んでいるかも知りたかった。かわいそうに、白い杖をつきながら、とぼとぼと歩いて行ったよ」
「そうか、杖をついてなあ」
「残念ながら、あの子はまだ、仕事があったんだね。ほかの旅館に入って行ったよ。しばらくわたしはうろうろと外で待っていたがね。後で尋ねてもわかることだと思って、帰って来たんだ」
「なるほどそうか。それで今朝、あの温泉街の写真を撮っていたわけだ」
啓造はちょっと顔を赤らめた。
二人はしばらく黙ったまま、ガラス越しに海を見ていた。
「辻口、お前あの子にほれていたのか」
ややたって、高木が重い口調でいった。
「いや、好きも嫌いもないよ。単なる女子職員だったからね。ただ、失踪前、突然松崎から電話がかかってきてね。おれの子を生みたいというんだ。わたしは不愉快でね。そのまま電話を切ったんだ」
「なるほど、お前のことだ、それもわかる。で、村井とのことは、お前は知ってたのか」
「いや、その時は知らなかった。あの子は村井の結婚直前に姿を消したんだ」
「結婚直前に?」
「うん結婚して間もなく、村井君がひどく酔って、うちへやって来てね。その時初めて、由香子のわたしに対する気持ちだとか、……村井君があの子と深い関係にあったとか、聞かされたんだよ」
「あんちくしょう。ひどい奴だな。よくもずうずうしく咲子さんと結婚したもんだ」
「まあ村井君も一度は松崎に結婚を申しこんだらしいんだがね」
「あの罰あたりめ」
怒る高木に、啓造はいった。
「村井君だって、こたえてはいるんだよ。松崎の墓を建てたといっていたからね」
「墓? 馬鹿野郎!」
高木はちょっと何かを考えていたようだったが、体ごと啓造の方に向けていった。
「おい、村井にあの子を預けようじゃないか。後はあいつに責任を取らせるんだ」
「いや、それはいけないよ。悪いが村井君の手に渡すのは……あの子がかわいそうだ」
「なあに、責任を取らせるだけだ。指一本さわらせやしない。生活費はあいつが出すんだ。アウゲン(目)は、あいつの専門だ。治せるものなら、治させてやりたいよ」
村井は高木の遠縁である。身内の者として、高木が怒るのは当然であった。
海の白波が増してきた。二人は車を止めたまま、話しつづけた。
「それはねえ、村井君にアウゲンのほうは診てもらいたいよ。しかし松崎を押しつけるわけにはいかないよ。村井君が失明させたわけでもないし……」
「じゃどうする。あのままあの温泉に、一生を終わらせるつもりか」
「いや昨夜はそのことを考えて、わたしも眠られなかった」
「水臭い奴だな。何ですぐいわなかった」
「いや、自分でもどうしたらいいか、わからなかったんだ。しかし、ここに来て決心がついたよ」
「どうするんだ?」
「やはり、旭川に呼んでやりたいね。生活費はわたしが出すよ」
「気をつけないと、二号とまちがえられるぞ。夏枝さんの気持ちも、考えたんだろうな」
「もちろん考えてるよ。だが、夏枝より松崎の気持ちを考えている。あの子は昨夜、こんな姿で会うくらいなら、死んだほうがましだといっていたからね。わたしは、もう二度と会うまいと思うよ」
「二度と会うまい? どういうことだい」
「わたしは、直接には、あの子と何の交渉も持たないということだよ。どこか旭川に小さな家を一軒借りて、誰か付き添いを一人おくんだ。そしたら……」
「おい、ちょっと待てよ。じゃ、誰があの子を迎えに行くんだ?」
「それだよ、問題は。そうだ、君に頼めないかな」
「おれに? うん、まあそれはよいとしておこう。しかし誰がどんな理由で、あの子を旭川に迎えたいと思っているのか、わからなけりゃ、あの子も来るわけにもいくまいな」
「うん、それだよ。辻口病院といっても来ないだろうし……」
「第一、あのようすでは、誰が何といったって、旭川には舞いもどらないぜ」
「そうかねえ。何かいい方法がないものかねえ」
啓造は吐息をついた。
「……辻口。お前、あの子にほれたのか」
「そんな。ただ、かわいそうだと思うだけだよ」
「ふん、かわいそうとは、惚れたってことよ、とかいうせりふがあったな」
高木はエンジンをかけた。見る間に海が斜めに傾き、車は急坂を下りた。笹山に沿ったひょろ長い稚内の街を、車は走った。アメリカ軍の基地を左に見て、車はノシャップ岬の灯台に着いた。今朝ほど稚咲内の海岸からは見えなかった利尻富士が、日本海の荒波の上に、悠然と裾をひろげて立っていた。真っ白な雪が紺青の山肌にきわやかだった。
*真岡 昭和二十年(一九四五)までの日本領樺太の港湾都市名。現在はロシア共和国サハリン州ホルムスクという。
箸の音
「水芭蕉の中に、牛が臥ているなんて、すてきですわ。わたくしも、おともをすればよかったと思いますわ」
夏枝は箸をとめて、啓造の言葉に相づちを打った。昨夕、啓造は稚内から帰って来たが、さすがに疲れて早く寝た。いま、夕食を囲んで、夏枝と陽子に、啓造は旅の話を聞かせていた。
「ああ、君たちに見せたかったね。ところでね、思いがけない人に会ったよ」
啓造はさりげなく由香子のことを切り出した。夏枝には、早くいっておいたほうがいいと考えてはいたが、昨夜すぐにはいい出せなかった。
「思いがけない人? どなたですの」
夏枝と共に、陽子も啓造の顔を見た。
「陽子は知るまいがね。ほら、病院に事務をとっていて、急にいなくなった子がいたろう。松崎由香子という……」
「急にいなくなった……?」
夏枝の表情が、ふとかげった。夏枝は忘れてはいなかった。忘れるどころか、啓造の子を生みたいといった松崎由香子を、夏枝は嫌悪して来た。そんな女に会った話を、陽子の前で持ち出した啓造に、夏枝は何かずるさを感じた。
「思い出しましたわ。どこでお会いになりましたの」
「それがね、豊富温泉で、高木がマッサージを呼んだんだがね。そのマッサージ師が松崎だったんだよ」
「まあ、目が悪いんですの」
さすがに夏枝は驚いた。
「全く見えないようだったね」
杖をついて歩いて行った由香子を、送ったとは啓造はいわなかった。
「まあ、かわいそうにねえ、おとうさん」
陽子の声に、心からの同情がこもっていた。その陽子を、夏枝はちらりと見て、啓造にいった。
「ほんとうにかわいそうですこと。じゃ、あなたに会って、驚いたでしょうね」
声をかけなかったとも、啓造はいえなかった。声をかけ得なかった自分の心理を、夏枝に語る勇気は啓造にはなかった。
「ああ、驚いただろうね」
居心地悪く、啓造は答えた。
「ひとりで暮らしていらっしゃるんですか」
あいまいな口調になった啓造を、探るように夏枝は見た。
「それは知らないがね」
由香子の話をしたことに、啓造は早くも後悔していた。
「おとうさんの病院にいた方なの。つらいわねえ。そんな人に会ったら」
陽子は何かを考える表情になった。
「そりゃ、つらいと思いますわ。……それであなた、おしあわせそうでしたか」
「しあわせそうなわけはあるまい。失明しているんだからねえ」
啓造には、夏枝の問いが非情に思われた。
「あら、失明している人が、必ずしも不幸とは限りませんわ。ヘレン・ケラーの例もありますでしょう。幸福そうな盲人がいても、ふしぎじゃありませんわ」
「なるほどね。しかし松崎君は、しあわせそうじゃなかったね」
論理的には、夏枝の言葉も正しい。だが、どこか血の通っていない冷たさが、その底に流れているような感じがした。
「あなたも、もんでいただいたの」
夏枝は優しい微笑を浮かべた。
「いや、高木だけだよ」
「まあ、そんな時は、もんでいただくものですわ。少しでも収入がふえるじゃありませんか」
あの由香子に、マッサージをしてもらうほど、自分は無神経ではないと、啓造はいいたかった。村井の告白は、夏枝も共に聞いたはずではないか。自分たち夫婦のしあわせを願って、夏枝に対する村井の感情を、由香子は阻もうとしたのだ。その弱みにつけこんで、村井は由香子を犯した。由香子は、啓造への想いを抱いたまま失踪した。その由香子が失明していたのだ。夏枝は一体、その事実を何と受けとったのであろう。
「あなたがもんでいただいたら、その人はきっと喜んだと思いますわ」
「そうかね」
啓造は亢《たかま》りをおさえて、ウニに箸をつけた。
「そうねえ。やっぱり、もんでいただく気にはなれないわね、おとうさん」
「陽子ちゃん、あなたは詳しい事情を知らないでしょ。でもね、おかあさんは知ってるのよ」
やんわりとした口調だったが、まなざしは冷たかった。
「ごめんなさい、おかあさん」
素直な声だった。
「いや、陽子のいうとおりだよ」
啓造はそういわずにはいられなかった。夏枝は黙って箸を動かしていたが、
「あなた、マッサージ師は病院にも必要じゃありません? 病院に迎えてあげたら、いかがでしょう」
「なるほどねえ。……しかし、もとの病院に勤めさせるのも、酷なような気がする。それに村井君がいるよ」
「でも、あなたがいらっしゃいますわ」
夏枝は皮肉な微笑を浮かべた。
「そんな……夏枝」
陽子の前で何をいおうとするのか。啓造はあわてた。
「ねえ、陽子ちゃん。その人はね、おとうさんを好きだったのよ。陽子ちゃんなら、その人にどうしてあげたらいいと思って?」
啓造と夏枝の視線が合った。
陽子は箸をとめた。松崎由香子が啓造を好きだったという夏枝の言葉には、ぬぐってもぬぐいきれない、激しい妬心が感ぜられた。
「ねえ、陽子ちゃん。あなたなら松崎さんにどうしてあげて?」
夏枝は再びいった。
「…………」
(いったい、どんなことがあったのだろう)
啓造もまた、松崎由香子を愛していたのだろうか。陽子は、にわかに夏枝に深い同情を覚えた。
「陽子、おとうさんはね、その人の気持ちを知らなかったんだよ。おとうさんは何も知らないうちに、急にいなくなったんだ」
啓造は陽子の誤解を恐れた。
「その女の人が一方的に、おとうさんを好きだったのね」
陽子は安心したようにいった。
「そうだよ」
啓造はハッキリと答えた。
「むずかしいわ、陽子には」
父の啓造のほうでは、何の思いも抱かなかったという。そうであってさえ、こんなにも嫉妬するのが夫婦というものなのか。陽子は自分を生んだ母のことを思った。陽子は夫でない男との愛の中に生まれたと、啓造は陽子にいった。夫にかくれて、自分を生んだその母を、果たしてその夫は許すことができるだろうか。決して許すことはできないだろう。
(わたしは、許し難い行為によって生み出された存在なのだ)
陽子はあらためて、まだ見たことのない生母と、裏切られたその夫のことを思った。
「もう、九年も十年も前のことですもの。たとえあなたも好きだったとしても、とにかく昔のことですわ。うちの病院にいた人が、不自由な身になっていると聞いて、黙ってはいられませんわ」
啓造は黙って飯の上に筋子をおいた。
「とにかく、松崎さんであってもなくても、あなた、そういう方は面倒を見てさしあげたらいいと思いますわ。それに、しあわせそうじゃなかったというのですもの、なおさらですわ」
啓造は夏枝の心を測りかねた。夏枝の形のよい唇に、優しい微笑が浮かんでいた。笑うと口もとが甘くなる。その唇を眺めながら、啓造はとまどった。陽子はその二人を、交互に見て目を伏せた。
「しかしねえ、素直にもどって来るかどうか、わからないことだしね」
「まあ。じゃ、あなた見捨てるつもりですの」
夏枝は食卓の上に箸をおいた。その時、裏口に辰子の明るい声がした。
「イチゴを買って来たわよ。食後の果物にちょうどいいでしょ」
入って来た辰子が、食卓を見ていった。
「ふうん、そういうことだったの」
辰子の持って来た熟うれたイチゴが、電灯の下につややかに光っていた。陽子が缶のミルクをみんなのイチゴにかけていた。ミルクは白く盛り上がったかと思うと、イチゴとイチゴの間をぬって、するすると青いガラスの器の底に流れて行く。
「ほう、これはうまい」
スプーンですくい上げたイチゴを、啓造は口に入れた。
「そう、よかったわ。……それで、結局結論は出なかったのね」
由香子のことを聞いた辰子がいった。
「どうしたらいいとお思いになる?」
「わたしは別に、旭川に連れて来なければならないとも思わないけれど」
辰子は、イチゴを一粒一粒ていねいにつぶしていた。
「でも……辰子さん、あなたのお弟子さんが、どこかで一人不自由な暮らしをしているのをごらんになったら、どうなさる?」
夏枝の言葉に、辰子は笑った。
「わたしの場合と、いまの場合とは全然ちがうわよ」
「全然? そんなにちがいます?」
「ちがうと思うわ。それに松崎って子のことね。わたしも村井さんからさんざん聞かされているのよ」
「ほう、村井君がいいましたか」
啓造はちょっと驚いたようにいった。
「聞いたわ。墓を建てた話もね。だから、大体のことが見えて来るんだけど。わたしは、松崎って子は、そりゃあかわいそうだとは思うわよ。でもねえ、どこか自分勝手な感じがしてならないの」
「自分勝手ですかね」
いわば、自分たち夫婦のために村井の餌食になった由香子を、自分勝手だとは啓造は思いたくなかった。
「だってそうじゃない、ダンナ。ダンナのそばにいるのがつらいかどうか、わかんないけどさ。何も急に失踪しなけりゃならないってわけのものじゃないでしょ。ちゃんと、退職願を出して、おせわになりましたと、ひとこと挨拶してから、旭川を去ってもよかったんじゃない」
「なるほど、そういわれればそうですがね。しかし、人間、待ったなしの所まで追いつめられることもありますからね」
由香子を弁護するようにいう啓造を、夏枝は冷たく一べつした。
「まあ、その時はその子も若かったからだろうけどねえ。パッとダンナの前から姿を消す。それも一つの愛の告白の方法とはいえるわね」
「愛の告白なんて、そんな……」
「愛の告白よ。そんな姿の消し方で、せめて一生覚えていてほしいという、女の甘えがあるもの」
辰子の口調は淡々としていたが、いうことは鋭かった。
「なるほど、そうもいえますね」
啓造はイチゴの味がわからなくなった。
「ダンナ、とにかくあの子は危険人物よ」
「危険人物?」
「することに知性がないもの。結局、村井さんと関係があったわけでしょう、そりゃあ村井さんが悪かったわよ。でも、その後、結構お相手をしてたじゃない。もしほんとにいやなものなら、何も二人っきりになるチャンスを作らなきゃいいのよ。その点わたしあまり同情していないのよ。その上、村井さんの結婚直前にあんないなくなり方をしたでしょ。ダンナを好きだ好きだっていいながら、村井さんを好きだったような気がするわ」
「わたしも、それはそう思ってましたよ」
啓造は、何となく村井に嫉妬を感じながらいった。由香子は高木の肩をもみながら、この二つの目は、好きな人にあげたようなものだといっていた。その言葉を、啓造は自分一人の胸の中に、いまあらためておさめるような気持ちで、味わっていた。
「ね、ダンナ。松崎って子、行動力があるでしょ。思い立ったことをすぐするような、そんな性格に感じられるでしょう。思い立ったことを待ったなしにやるっていうのは、つまり抑制のきかない、非行児的な性格なんですって」
陽子は思わず、目を伏せた。ふいに、目の前に短刀を突きつけられたような気持ちだった。確かに辰子のいうとおり、思ったことを直ちにするのは、非行児的性格かも知れない。欲しければ人の物を盗む。カッとなれば人をも殺す。それは、あの時薬を飲んだ自分の気持ちと、共通していると陽子は思った。自分としては考えに考えた末、冷静に薬を飲んだつもりだった。しかし、あれはやはり直情径行的な行動ではなかったろうか。
夏枝や啓造の立場も考えず、徹や北原の感情も思いやらず、死にたいという自分の気持ちにだけとらわれていた。それは確かに大きなあやまちであったと、いまさらのように陽子は自分が顧みられた。
「じゃ辰子さん、松崎さんのことは、ほうっておきなさいとおっしゃいますのね」
「そうね、それが一番いいと、わたしは思うわ。誰も出て行けといったわけじゃあるまいし、さんざん人に心配をかけたじゃない。とにかく、自分の行動に制動のきかない人間って、危険なのよ。はた迷惑なものよ」
「きびしいなあ、辰子さん」
「きびしいのは承知の上でいってるのよ。そりゃあわたしだって、村井さんのやり方は汚いし、その子はその子で、かわいそうだと思うわよ。でも、いまここで、かわいそうだから呼んであげたらいいなんて、わたしはいいたくないわ」
陽子がさりげなく、台所に立って行った。
「辰子さんの言葉に、従うほうがよさそうだね」
啓造は最後のイチゴを口に入れた。夏枝の唇から微笑が消えた。
「辰子さんのいうことは、間違いがないからね」
夏枝の表情に気づかずに、啓造はつづけていった。
「どういたしまして。まちがいだらけよ。でも、まちがいは人間のしるしよ」
辰子が笑った。夏枝は黙ってその二人を見ていたが、
「でもね、辰子さん。わたくしやっぱり、松崎さんがかわいそうだと思いますわ。もしなおるものなら、早くなおしてあげたいですし」
「で、どうしたいというの」
辰子はそっけなくいった。
「昔のことは、昔のことですもの。いまはそんなことをぬきにして、やはりうちの病院で見てあげるべきだと思いますわ。それに、村井さんだって、いまはお一人でしょう。もし、辰子さんのおっしゃるように、松崎さんが村井さんをお好きなら……」
「それは無茶だよ」
思わず啓造はいった。夏枝は冷たく笑った。
「何が無茶ですの。咲子さんがお里に帰っても、村井さんは平気でいらっしゃいますわ。その村井さんが松崎さんのお墓を建てたんですのよ。もし生きているとお聞きになったら、どんなにお喜びになるか、わかりませんわ」
「ほう、じゃ二人を結婚させたいというのだね」
夏枝はうなずいた。
「奥方、あんたはまだ村井さんを買ってるのね。あの人は、もっと非情よ」
辰子はそういうと、陽子の運んで来たお茶をひとくちふくんだ。夏枝はちょっと気色ばんだが、
「おねがいよ、辰子さん。とにかく松崎さんの目をあけてあげられるように、お知恵を拝借させてくださいな」
と、甘えるように、白い手を合わせて辰子を拝んだ。
「馬鹿な夏枝ね」
と苦笑して、辰子は啓造にいった。
「ダンナ、どうなの」
「いやあ……わたしは……」
やはり啓造も、由香子をあのまま捨ておくには忍びなかった。何もかもがうまくおさまるように、連れて来る方法があるものなら、やはり旭川に迎えたいというのが、啓造の本心だった。
「頼りないダンナね。辰子さんのいうとおりにするといってみたり、すぐその後で、やはり奥方のいうとおりだと思ったり……。まあいいさ。これは宿題にさせておいてよ」
啓造は苦笑した。
バックミラー
デパートを出た夏枝は、空を見上げた。いまにも降り出しそうな暗い空である。啓造と徹のワイシャツを胸にかかえて、夏枝はタクシーを待った。乱れ格子の白っぽいつむぎに、藍のつづれ帯をしめた夏枝の姿が人目をひいた。
夏枝はいま、陽子に似合いそうなブラウスを買わずに来たことに、こだわっていた。うす青いそのブラウスを、陽子が着た姿を思い浮かべただけで、夏枝は買うまいと思ったのだ。だが、こうして夫と徹のものだけを胸にかかえてみると、いかにも自分が小意地の悪い人間に思われた。夏枝は、陽子が少しでも美しく見えることに、加担したくはないのだ。そう思いながらも、夏枝はやはり、あのブラウスを陽子に買って行ってやろうと思った。ふいに気が変わったのだ。
再び店内に引き返そうとした時、グレイの乗用車が、ぴたりと夏枝のそばにとまった。
「お買い物ですか」
運転台のドアをあけて、村井がおり立った。
「まあ、お久しぶりですこと」
毎年、咲子と年始に来ていた村井が、一人で年始に来て以来のことだった。
「お送りしますよ」
自分を見つめている村井を見て、夏枝は陽子のブラウスのことを忘れた。
「でも……」
「まだ、どこかでお買い物ですか」
「いいえ」
ためらっている夏枝を見て、村井は微笑した。ニヒルな、かげのある笑いだった。若い女性が二、三人、二人をふり返って、お互いに目くばせした。夏枝はその視線から逃れるように車に入った。
「きょうはもう、病院は終わりですのね」
「ええ、土曜日ですからね。でも院長は、重患がいるとかって、まだ病院におられましたがね」
「その患者さんのことで、この二、三日遅く帰りますわ」
「もっと人に委せておいていいんですがねえ、院長は。損な性分ですよ。いや、責任感のある、良心的な医師ということになりますかね」
村井の皮肉な微笑を、夏枝はバックミラーの中に見た。
車は一条通りを西に向かって走った。行く手の低い山が、今日はいつもより間近く迫って見える。
「持って生まれた性格ですわ」
村井は答えずに、少しスピードを上げた。忠別川の橋を渡り、神楽町に入った。なぜか村井は急にむっつりと押し黙った。夏枝は視線をあげて、バックミラーに映っている村井の顔を見た。村井は更にスピードを上げた。
「あら、曲がり角を過ぎましたわ」
夏枝の言葉に、村井はうす笑いを浮かべていった。
「三十分ぐらい、つきあってくださってもいいでしょう。まだ三時前ですからねえ」
三十分ぐらいといわれれば、いやとはいいかねた。
「でも……」
美瑛川にまたがる両神橋にさしかかった。夏枝は川上に見える緑濃い見本林を、やや不安そうに見た。
「でも、どうだとおっしゃるんです?」
「黙ってご自分のお考えどおりになさるんですもの。困りますわ」
「しかし、ぼくがドライブにと誘ったらことわられますよ。冷たい人ですからね、奥さんは」
村井の語尾が優しかった。
「冷たいなんて……」
夏枝は微笑した。村井は口笛を吹いた。〈ゴンドラの唄〉のメロディーだった。口笛をやめて村井はつぶやいた。
「恋せよ、おとめか」
唄の一節を、村井は口に出した。
「赤き唇あせぬまに、とかいいましたね。ずいぶん古い唄ですね」
夏枝は〈ゴンドラの唄〉などを口笛に乗せ、その歌詞を口ずさむ村井の気持ちが、わかるような気がした。
村井はそのまま正面の丘に向かって車を走らせた。五、六百メートル走ると、道は丘のふもとから右に折れ、ゆるやかな長い坂になった。両側の木立が深く、ふいに山の中に入ったような印象だった。
「あら、こちらは墓地に行く道じゃありませんの?」
「そうです」
驚く夏枝に、村井はそっけなく答えた。
「墓地へいらっしゃるんですの?」
「そうです。お気に召しませんか、奥さん」
「いやですわ。わたくし」
夏枝は眉根をよせた。村井は乾いた笑い声を立てて、大きくハンドルを切った。
「いやですか。ぼくは松崎の墓にご案内しようと思ったんですよ」
「まあ。あの方は生きてらっしゃるというじゃありませんの」
「なあに、生きちゃいませんよ。ぼくの知っている松崎は死にました。どこかの温泉場で、うろうろ生きているのは、松崎じゃありませんよ。あいつの亡霊です」
「まあ、ひどい!」
夏枝はバックミラーに映る村井を見つめた。その夏枝を村井が見た。暗い視線だった。道の両側にアカシアの白い花がつづいている。甘い香りが車の中に流れて来た。
丘の斜面一帯に広い墓原があった。墓原の中ほどで車をとめ、村井は外に出て、ドアをあけた。
松崎由香子の墓は、藪陰の蕗の葉のむらがる中にあった。花も柵もなく、小さな石碑がひっそりと立っているだけである。〈松崎由香子の墓〉と、深く彫られた字を眺めながら、ふっと夏枝は、松崎由香子に憐れを覚えた。
「馬鹿な奴だ。墓代を損してしまった」
夏枝は黙って、隣の墓を見た。鎖の柵をめぐらした中に、白いマーガレットが咲き乱れ、大きな墓石がすえられている。
「生きていらして、うれしくはありませんの」
墓の前に突っ立ったまま、村井はたばこをふかしていた。
「うれしくなんかありませんよ」
「……目がご不自由では、手ばなしで喜ぶこともできませんわね」
「そんなことは、関係がありませんよ。あいつは、ぼくが死んだと思った時に、死んでいればよかったんだ」
「まあ、ひどい」
「わかりませんよ、あなたには」
ぽいとたばこを捨てて、そのたばこを村井はふみにじった。
「なぜわたくしを、ここにお誘いになったんですの」
「あなたがわからない人だからですよ」
「わからない人?」
「そうですよ。辰ちゃんがいっていた。咲子と別れたんだから、今度は由香子と結婚したらいいだろうって。そうあなたはおっしゃったそうじゃありませんか」
「ええ、申し上げましたわ。あなたはちょうどお一人ですし、あの方だって、お一人なんですもの」
「つまり、罪ほろぼしに、面倒を見ろというわけですね」
「罪ほろぼしなんて……」
夏枝は返答につまった。村井は、その夏枝を見て、皮肉に笑った。
「奥さん、人間はね、いろいろな墓を胸の中に建てているものですよ。ぼくの胸には、咲子の墓も、由香子の墓も建っています。過去にあった女や男、いろいろな人間の墓が建っていますよ」
(胸の中に、墓が建っている?)
夏枝は、村井に背を向けて、由香子の墓を見た。村井にとって、由香子は過去の人になったのだろうか。それとも、過去の人にできかねて、無理矢理墓石を建てたのだろうか。自分も、村井にとって過去の人になっているのかもしれない。
「しかしね、奥さん。ぼくは子供たちの二人の墓だけは建てられませんよ。そして、あなたの墓もね」
「え?」
夏枝は思わずふり返った。
「あなたの墓も建てられないと、いっているんです。葬り切れないんです。憎い人です」
村井は、きらりと激しい視線を向けた。
夏枝はあでやかに微笑した。
「いけませんわ、村井先生。おからかいになっては……」
「奥さん、ぼくはからかってなんて、いませんよ」
村井は再び激しいまなざしを見せた。夏枝はさり気なく、由香子の墓を見ていった。
「……それより、由香子さんの目のことを、考えてさしあげなければいけませんわ」
近くの木立で、蝉がしきりに鳴いている。
「由香子の目か。実はね奥さん。話を聞いた時、ぼくは信じられなかった。しかし院長がうそをいうわけもない。とにかくぼくが豊富まで首実検に行ってみようと、いったんですよ」
「おいでになればよかったでしょうに」
「院長に叱られました。冗談じゃないってね。激しい剣幕でしたよ」
「まあ」
夏枝は、再び眉根をよせた。
「ぼくは、てんで信用がないんですよ。しかしぼくは、院長を見なおしましたね。院長が額に青筋を立てるのを見たのは、今回が初めてでしてね」
村井は意味ありげな微笑を浮かべた。夏枝は顔をこわばらせた。由香子のために、そんなにも真剣になれる啓造の心情が、夏枝の妬心をあおった。蕗の葉にぽつりぽつりと雨のあたる音がした。
「帰りましょうか。降って来たようですね」
村井は、掌に雨を受けながら、空を見上げた。
「こちらにお乗りになりませんか」
村井は助手席のドアをあけた。夏枝は一瞬ためらったが、助手席にすわった。
「奥さん、由香子を旭川に引きとるように頼んだのは、奥さんだそうですね」
ハンドルをにぎって村井がいった。
「……ええ」
「そんなこと、おやめになったらいかがですか。ぼくは由香子とは結婚しませんよ。とすると、結局は院長が責任を負うことになるんですよ。それでもいいんですか、奥さん」
「……でも村井さんは、松崎さんの目を診てさしあげるべきだと思いますわ」
「ああ、診るだけは診ましょう。ただし目だけですよ」
冷たい語調だった。
「けっこうですわ。目さえなおしてさしあげれば、またあの方の人生がひらけますもの」
「なあに、なおる目なら、何もぼくが診なくても、とっくになおってますよ」
なげやりな口調でいい、村井は車のスピードを上げた。
「村井さんて、こわい方ですのね」
「どういたしまして。辰子さんにいわせると、ぼくは三歳の幼児のようだそうですよ」
ぽつぽつと降っていた雨が、次第に大粒になり、雨足がしげくなって来た。車が辻口家に着く頃には、フロントガラスは、ワイパーでぬぐっても、ぬぐっても、たちまちくもるほどの激しい雨になっていた。
「お待ちなさい。このまま外に出ては、たちまち着物が汚れてしまいますよ」
いわれて夏枝は、そのまま席に背をもたせて、雨にぬれた窓から、家のほうをぼんやりと見ていた。傘をさしても、家に入るまでに着物の裾がぬれてしまう。しぶきを上げる激しい雨を見ながら、夏枝はふっと遠い日の記憶を思い起こした。
(あの日も、こんな激しい雨の日だった)
洞爺の療養所に発つ前に、村井は夏枝を訪ねて来た。そして、誰もいない辻口家の中で、夏枝の首に接吻したのだった。その時つけられたキスマークに、夏枝は気づかなかった。そのキスマークが啓造を怒らせ、啓造に佐石の娘を引きとる決意をさせたのだった。遠い昔のことのようにも、ついこの間のことのようにも思われる。
「覚えておられますか、奥さん」
村井がいった。
「何をですの?」
「ぼくが療養所に行く前の日のことですよ。こんな激しい雨の日でした」
「雨の日ですって?」
村井も同じことを考えていたのかと思いながら、夏枝は気づかぬふりをした。
「そうですか。お忘れになったんですか」
村井はフロントガラスを見つめたまま、つぶやくようにいった。
「…………」
ふいに村井が夏枝を見た。あわてて夏枝が目を伏せた。
「忘れてはいない。覚えていてくださるでしょう」
「…………」
「覚えててくださるだけでいいんです。ぼくはもう何も求めてはいません」
村井は怒ったようにいった。雨足が次第に細くなった。家の中から、傘と足駄を持って陽子が現れた。
「おかえんなさい、おかあさん。ひどい雨だったわね」
陽子は、今気づいて出て来たようであった。陽子は村井を見て、ハッとしたように頭を下げた。
「やあ、こんにちは」
快活に村井は手を上げた。
「送っていただいたのよ。デパートを出た所に、通りかかられたの」
弁解するように夏枝はいい、
「少しお寄りくださいませ」
と、改まった口調で村井にいった。
「じゃ、ちょっと……」
陽子は無言で、自分の傘を村井にさしかけた。
「陽子ちゃん、おとうさまはまだ?」
応接間に村井を通すと、夏枝は茶の間の陽子に優しく尋ねた。陽子に似合うブラウスを買わなかったうしろめたさと、村井の車に送られて帰ったうしろめたさが重なって、夏枝は優しかった。陽子はコーヒーをいれながら、
「きょうは、患者さんがとても悪いんですって。晩ご飯には帰れないかも知れないって、おっしゃっていたわ」
「そう」
「おとうさんも大変ね、おかあさん」
夏枝は答えずに、
「おかあさんは着替えをして来ますからね。陽子ちゃん、おコーヒーと何か果物でも出してくださらない」
「ハイ」
少し上気している夏枝の顔を見て、陽子はすぐに目をそらした。なぜか今日の村井が気になった。
陽子は、中学生のころ、一度雪目で村井の眼科に通ったこともあり、毎年年始に来る村井を、長年見て来たはずだった。が、なぜか今日は、村井の中に馴染めぬ何かを陽子は感じた。
コーヒーとバナナを持って応接間に入って行くと、村井はソファに足を組んですわっていた。
「おとなになったねえ。すっかりいい娘さんになった」
村井は陽子の白いのどのあたりに目をやった。村井と夏枝のことは、詳しくは知らない陽子も、由香子とのことだけは、この間聞いている。そのせいか、陽子は村井の視線にねばつくような不快を感じた。黙って、コーヒーとバナナをテーブルにおく陽子に、再び村井はいった。
「少し、そこにすわって話していらっしゃいよ」
いわれれば、むげにしりぞけることもできない。陽子はかすかに微笑して、椅子にすわった。
「君はきれいだね。やはり、若い人の美しさにはかなわないな」
「ありがとう」
陽子は平静な声でいい、真っすぐに村井を見た。彫りの深い整った顔だが、どこかが崩れているのを陽子は感じ取った。
「君たちの年ごろって、何を考えて生きているのかな。着物とか、ボーイフレンドが共通の話題かな」
「先生、考えることって、年齢でちがうんでしょうか。その人その人の気質で差があるような気がするんですけど。先生は何を考えて生きていらっしゃるんですか」
「これはうまく切り返されたね。わたしの考えてることは、仕事のことだよ。といったら五分は本当だが、五分はうそだね」
村井はふっと、まじめな顔になった。
「あとの五分は何を考えていらっしゃるんですか」
陽子は少女らしい率直さで尋ねた。
「お手柔らかに頼みますよお嬢さん……。そうだね、あとの五分は、君たちには聞かされないようなことばかり考えて、生きていますよ。女のことだの、憎い男のことだの、金のことだの、いかにしてマージャンに勝つかだの、この世の進歩と全く関りのないことばかりですよ」
村井は自嘲するように笑った。陽子は黙ってその村井を見、父の啓造とは、かなり変わった世界にいる人間だと思った。
「父も、先生と同じことを考えてるのでしょうか」
「さてね。院長は、ぼくとちがってまじめですからね。オール仕事のことかも知れませんよ。しかしね、陽子さん。正直の話、まじめそうな顔をしている人間も、そうぼくたちと変わっているとは思いませんよ、本質的にはね。清らかなおとめに、いっていい言葉かどうかわかりませんけどねえ。男というものは、男である限り、女に迷わされやすいということね。これは知っておいていいと思うんですよ。院長だって、女に関しては同じじゃないですか。心の底の底はね」
軽いノックの音が聞こえ、夏枝が入って来た。うすい小豆色の着物に着替え、濃い同色の帯をしめた夏枝は、髪をすっきりとアップにまとめていた。
「あら、お話がはずんでいるようですわね」
陽子は立ち上がった。
「いいのよ、陽子ちゃん。すわっていらっしゃい」
「おかあさんにも、お茶を持って参ります」
陽子は部屋を出た。なぜ母の夏枝は、髪形まで変えたのかと、陽子は妙に不快だった。その不快さには記憶があった。北原が一週間ほど辻口家に滞在した夏、北原に対する一オクターブ高い夏枝の声や、唇の赤さに感じたあの不快さだった。
陽子は夏枝のために、緑茶をいれた。肌の荒れを気にする夏枝は、この頃めったにコーヒーは飲まない。お茶をいれながら、陽子は今の村井の言葉を思った。男はみんな、女のことを考えると村井はいった。だが、村井の言葉どおりには、陽子は信じたくなかった。村井のいい方には、何かどろどろとした汚れが感じられた。父の啓造も、女性のことを考えるかも知れない。しかし少なくとも、村井と同じような感覚では、考えないような気がした。それは陽子の直感であった。高木にしても、北原や徹にしても、村井とはちがう感じ方で女性を考えるような気がした。そして、男が女を考えるということは、村井から感ずるような、奇妙な不潔を意味するようなものではないと、陽子には思われた。
夏枝の茶を運ぼうとした時、陽子は玄関の戸のあく音を聞いた。急いで出てみると、啓造が疲れた顔で靴を脱いでいた。
「あ、おかえんなさい。患者さんはいかがですか」
「うん、亡くなられたよ。夜まではもつと思ってたんだがね……。お客さんだね」
「村井先生よ、おとうさん」
啓造はちょっと眉をひそめ、
「村井君、珍しいね」
と、先に立って茶の間に入った。
「疲れたでしょう、おとうさん」
いつもはすぐに迎えに出る夏枝が、姿を見せないことに啓造はこだわった。奥の間で、啓造は一人でネクタイをほどいた。そのネクタイの結び目が、今日は妙に解きづらかった。指先まで疲労しているような感じだった。
「あら、ごめんなさい。今日は遅いと聞いていたものですから。あなたじゃないと思いましたの」
夏枝はそっと啓造の肩に単衣をかけた。
「村井君が、何か用なのかね」
啓造は不機嫌にいった。自分が病院にいることを知っていて、何のために村井はこの家を訪れたのか。
「今日、あなたのワイシャツをデパートに買いに行きましたの。外に出ましたら、ちょうど村井さんの車が通りかかって、送ってくださいましたの」
夏枝は明るく答えた。
「ふうん、送ってね。親切な男だ」
啓造はそういい捨てて、口をすすぎに洗面所に行った。夏枝の声のはずんでいるのが、不快だった。
茶の間にもどると、もう夏枝の姿はなかった。啓造はソファにすわって新聞をひらいた。「都の中心に」という見出しを「都の心中」と読みまちがえて、啓造は苦笑した。ついさきほど死んで行った、四十を過ぎたばかりの女の顔が目に浮かんだ。号泣しながら、その妻の亡骸にしがみついて、名を呼んでいた夫の姿も、目に焼きついて離れない。啓造は立ち上がって、応接室に入って行った。
「やあ、いらっしゃい。夏枝が送っていただいたそうで……」
村井の顔にも、夏枝の顔にも、まだ笑いが残っているのを見ると、自分が二人の中に割りこんだような、違和感を覚えた。
「お邪魔していました。クランケ(患者)はステ(死)っちゃったそうですね」
「ああ、死なれるのはいやだねえ。これだけは馴れることはできないよ」
陽子の持って来た茶を、啓造は一口飲んだ。
「そうですか。まだ馴れませんかねえ。ぼくはその点、死ぬようなクランケには、めったにあわないから、わかりませんがね」
村井のいい方が、啓造には冷淡にひびいた。
村井の表情、言葉、態度の一つ一つが、近ごろの啓造には、特に不快だった。あの由香子の、とぼとぼと杖をついて歩いて行く姿を見て以来、啓造の心の中に、村井に対する許し難い感情が新たに芽生えていた。
「おとうさんもプリンをお上がりになる?」
陽子が、先ず村井の前にプリンを置き、つづいて啓造と夏枝の前に置いた。
「ああ、食べよう。陽子のお手製だね」
啓造は優しくいった。
「あまり上手じゃありませんが……」
「うん、うまいよ。陽子もここに来て、一緒にお上がり」
啓造は、いま自分のそばに、陽子がいて欲しいと、心から思った。陽子がそばにいる、それだけで安らぐような気がするのだ。その啓造の言葉に、夏枝はちらりと陽子を一べつし、
「陽子ちゃん、あなたのプリンを持ってらっしゃい」
と、言葉だけは物柔らかだった。
「久しぶりでおいでになったんですもの。ごゆっくりしてくださいませ。おビールか、ウイスキーでもさしあげましょうか」
夏枝は立ちかけた。
「いや、ぼくは車がありますから」
「でも久しぶりじゃございませんか。ハイヤーでお送りしますわ。ね、あなた」
「ああ、そうだね。そうするといいよ」
啓造は内心腹を立てていった。長年医師の妻として過ごして来ながら、夏枝には、自分のいまの疲れがわからないのか。この二、三日、今日死んだ患者のために、自分は毎晩疲れて帰って来た。そして今日、遂に死なれて、心身共に疲れているのだ。夏枝には珍しい客かもしれないが、自分にとっては毎日顔を合わせている村井である。
「どうせあしたは日曜日ですもの。ほんとうにごゆっくりしてくださいませよ。わたくしステーキでもごちそうしますわ」
「ほう、ステーキですか。残念ですが、またあらためて伺いますよ」
村井は、黙って茶を飲んでいる啓造の表情を見ながらいった。陽子がプリンを持って入って来た。啓造が、こった首をゆっくりと回した。
「おとうさん、医者っていろいろと大変なお仕事ね。ご臨終です、っていうんでしょう。その人の死を宣言するって、つらいことでしょうね」
「ああ、つらいよ。陽子に、そのつらさがよくわかるね」
夏枝の目がふっとかげった。
「よくわかるとはいえないかも知れないけど、高木の小父さんがおっしゃっていたの。赤ちゃんの生まれたのを家族の人に告げるのはうれしいって。死を告げるのは、その反対ですものね」
啓造は大きくうなずいた。
陽子のいった「死の宣言」という言葉を、啓造は胸の中で反すうした。今まで啓造は幾度となく患者の臨終に立ち会った。遺族たちの泣き悲しむ中で、臨終を告げ、その悲嘆の声に押し出されるように病室を出る。それはいいようもなく苦痛な仕事にはちがいなかった。だが、よく考えてみると、それはただ医師として、臨終という局面を見ているだけに過ぎなかったような気がする。臨終を告げる時に、一人の人間の全生涯が終えたという事実の意味を、自分は果たしてどれだけ受けとめていたであろうか。
「今、陽子が死の宣言といったので、気がついたのだがね。これはひどく重大なことだよ。人間が人間の死を宣告するなんて、何か空恐ろしいことに思われるね」
「そうかも知れませんね、院長。死というのはごまかしのきかないものですからね。あいまいを許しませんからねえ」
村井はたばこを、灰皿の中にもみ消した。
「それだよ、村井君。診断だと、ガンでもガンらしいという表現は許されるけれどねえ。死んだらしいとは、これはとてもいえないことだからね」
「死んだらしい、か」
村井は思わず愉快そうに笑った。夏枝も陽子も笑った。啓造も苦笑したが、何か笑い切れないものが残った。一人の人間の死を、はっきりと宣言することは、そこに集まっている家族たちに、落胆と絶望、悲嘆と苦痛を与えるだけなのだ。そこには一条の希望もない。あの、陽子の四日三晩の看病のさ中において、啓造はほとんど絶望しながらも、しかし、一るの望みを抱いていた。それは助かるかも知れないという、万に一つの望みであった。万に一つでも、億に一つでも、いや兆に一つでも、望みがあれば、それは全くの絶望ではない。
「死って一体何だろうね。全くの絶望かね」
「それは絶望ですわ、あなた。死ねば何もかも終わりですもの」
夏枝はプリンをスプーンですくいながらいった。
「そうでしょうね。死は全くの終わりですからね。灰と僅かな骨だけが残る。後は煙になってしまう。それが死ですよ」
村井は垂れ下がった前髪をかき上げながらいった。
「そうかね。灰と骨しか残らないのが死かね」
「そりゃあ、人は死んで名を残すといいますから、まあ業績ぐらいは残るでしょう。しかし残るほどの業績を、すべての人間が持っているわけじゃないですからね」
「でも村井先生。思い出も残りますわ。わたくし、ルリ子のことは忘れてはおりませんわ」
ルリ子のことを思い出すと、いってしまってから、夏枝は思わず村井の顔を見た。ルリ子は殺される日、この部屋に入って来た。部屋には、自分と村井だけだった。村井と二人でいたいために、夏枝はルリ子に、外で遊んでおいでといった。
「センセきらい。おかあちゃまもきらい。だれもルリ子と遊んでくれない」
そういって、ルリ子はこの部屋を飛び出して行ったのだ。その言葉が、夏枝の聞いたルリ子の、この世で最後の言葉だった。この言葉に、夏枝は幾度胸をしめつけられ、つらい思いをして来たことだろう。
「夏枝、思い出や、名前が残るというだけでは困るんだよ。それはいわば、この世の問題だろう? 死んだ人間自体の、その死後の問題をわたしはいいたいんだがね。俗にいいますよね、地獄とか極楽とかね」
最後の言葉を、村井に話しかけるようにいった。
「地獄極楽ですかあ。そんな子供だましみたいなことはどうも……」
村井はうすら笑いを浮かべた。
「子供だましですかねえ」
地獄極楽という言葉には、現代では確かに見せ物小屋的な、低俗なひびきしか残っていないかも知れない。だがそれには「永遠の生命」や「罪」の問題を含んだ、深い思想があるはずだと、啓造は村井を見た。
「わたくしは、天国や極楽があったほうが……」
夏枝はいいかけて、ちょっと涙ぐんだ。ルリ子のことを思ったのだ。それを見て村井は語調を変えた。
「いずれにしても院長、天国や地獄の話は、医者の領分じゃありませんよ。坊さんや牧師の縄張りですからね」
「なるほど、たしかに医者の領分ではないがね。しかし……」
「医者は、病気さえ治せばいいんですよ、院長」
村井がさえぎるようにいった。
「それもそうだが、しかしね、クランケの最大の苦痛は死への恐怖だよ。村井君、君はこの問題をどう考えるかね」
「人間はどうせ死ぬんですよ。死という問題は、いくら考えたってわからないし、結局は死ぬんだから仕方がない。まあ、うまいものを食べて、おたがいせいぜい好きなことをして、死ぬことですよ。とにかく深刻な話は、ぼくには苦手ですね、院長」
村井が話の腰を折るように立ち上がった。
村井の去った後、啓造は茶の間のソファに腰をおろした。好きなことをして暮らしているはずの村井が、少しも幸せそうでないことが皮肉に思われた。
「村井君の車で、どこかに寄って来たのかね」
夏枝は無言で、ソファの端にかけた。
「あの……松崎さんのお墓に連れて行かれましたわ」
夏枝の言葉に、啓造の顔がふいにけわしくなった。
「連れて行かれた?」
「ええ、送ってくださるとおっしゃったから、真っすぐ家に向かうと思いましたのよ。そしたら、神楽の交差点を曲がらずに、両神橋を渡ってしまいましたの」
(失敬な!)
人の妻を何と思っているのかと、啓造はむらむらとした。
「家へ車をもどせとは、いわなかったのかね」
「だって、三十分ぐらいとおっしゃるんですもの」
台所で仕事をしている陽子に聞こえないように、夏枝は低く答えた。
「そうか。三十分ぐらいといわれれば、どこへでも君はつきあうのかね」
「まあ、どこへでもなんて、そんな……」
「何も、人に送られなくても、ハイヤーというものがあるよ。ハイヤーがね」
啓造の声も低かったが、語調は鋭かった。
「そんなにおっしゃらなくても……村井さんは、うちの病院の職員じゃありませんか」
「職員は、病院の仕事だけしてくれればいいんだ。第一、君だって、ルリ子が死んだ時のことを思えば、村井君の車になんか乗る気がしないはずだ。それが母親というもんじゃないのかね」
「わかりましたわ。あなたは二十年も昔のことを、まだ根に持っていらっしゃいますのね」
(当たり前じゃないか)
あの日、村井と夏枝がルリ子を外に出さなかったら、ルリ子は殺されなかったのだ。村井さえ訪ねて来なければよかったのだ。いや、訪ねて来ても、玄関で帰ってもらえばよかったのだ。万事にしっかりしているようでいて、夏枝はその点がルーズだと、啓造は心の中で罵った。ルリ子さえ死ななかったら、陽子をこの家に引きとるはずもなかった。台所で、スプーンのかち合う音がした。
(かわいそうに!)
陽子は何も知らずに、村井などに自分の作ったプリンを出していた。啓造は、自分が陽子を引きとったいきさつを棚に上げ、村井こそ辻口家のすべての禍根だと、新たな憎しみを感じた。
「恐ろしい方ですわ、あなたって」
「そうかね。わたしはまた、夏枝こそ恐ろしい女だと思っていたよ」
「まあ! わたくしが」
夏枝は啓造のほうに向きなおった。
「とにかくいやな男だ。自分の好きなことだけをするような男は、相手の立場など考えはしないのだよ、夏枝。気をつけるがいい」
「あなた、まだわたくしを疑っていらっしゃいますの」
夏枝は気色ばんで、切り口上にいった。
「いや、疑っているというのではないよ。しかしね、君は誰が見ても三十代の若さだからね」
啓造は気圧されたように答えた。
「あなた、この頃お口がお上手になりましたわ。わたくし、疑われていると思うと、つらくなりますわ」
夏枝は甘えるように語調を変えた。
「これからは、村井と二人っきりになることだけは避けて欲しいね。これだけは頼んでおくよ」
「だって、車で送っていただくぐらいなら、よろしいでしょう」
「いけないね。車は一つの個室みたいなものだからね」
「いやですわ、個室だなんて。個室というのは、外から隔絶された部屋のことですわ。自動車は、前も横もうしろも、ガラス張りじゃありませんか」
「しかし、車の中の話は、外には聞こえないからね。その意味ではホテルの部屋より個室といえるよ。しかもその個室は、人目を避けて、山の中にでも移動できるからね。墓地だって、人目はなかったろう」
話がもとに戻った。
「ほら、まだ疑っていらっしゃる。存じませんわ、わたくし」
「村井も村井だ。何も人目のない墓地などに、君を連れて行く必要もあるまい」
「また同じことをおっしゃって……」
「くどいようだがね、君には、幾度でも同じことをいう必要があるのだよ」
「松崎さんのお墓を見せてくださいましたのよ、あなた」
「死んだ人の墓なら、お参りするということもあるよ。松崎は生きているんだ。生きている松崎の墓を見て、何がおもしろい」
くらやみの中を杖をついて歩いていた由香子の姿が目に浮かんで、啓造は村井と夏枝にまたしても腹が立った。あの由香子をだしにして、二人が悪ふざけをしていたような気がしてならないのだ。
「存じません。あなたはくど過ぎますもの」
夏枝が顔をそむけた。その時、けたたましく電話のベルが鳴った。啓造は夏枝を見た。夏枝は、すねた横顔を見せて、立とうとはしない。電話は鳴りつづけている。啓造も立つ気はなかった。陽子が台所から顔を出した。電話が鳴りひびきながら、二人が黙ってすわっているのを見て、陽子はさりげなく受話器を取った。
「もしもし、辻口でございます。……あら、おにいさん。……そうよ、お元気?……え? まあ亡くなられたの? ええ、ええ、いらっしゃるわ。ちょっと待って」
「亡くなった? 誰が!」
啓造は立ち上がった。
香煙
徹の電話を聞いた啓造と夏枝が、札幌の高木の家に駆けつけたのは、八時を過ぎていた。病院の玄関が大きくひらかれ、電灯の明るい廊下を、人々があわただしく行き来していた。
弔問客が幾人か所在なげにすわっている座敷を通って、仏間に入ると、高木が一人、ぼんやりとその母の枕もとにすわっていた。
「死ぬなら死ぬと、ひとこと断ってくれたら、よかったのによ」
啓造と夏枝を見て、高木がいった。
今日の午後、高木は回診中だった。ちょうど土曜日で、徹と北原が高木の家に遊びに来た。その二人に座布団をすすめた高木の母が、立ち上がろうとして前にのめった。つまずいたかと思った徹が声をかけたが、ようすがおかしい。北原があわてて高木を呼びに部屋を飛び出した。高木が駆けこんだ時は、既に母親は死んでいた。脳溢血だった。
「おれのような親不孝者は、やっぱり親の死に目に会えなかったよ。同じ屋根の下にいながらね」
ふだんに似合わず、高木はぼそりといった。そこに副院長の瀬戸井が入って来た。
「院長、明日の通夜の手筈は大体つきました。お寺さんは五人でいいですね」
見るからにエネルギッシュな男だった。
「ああ、ありがとう。万事君に委せるよ」
高木の返事が終わるか、終わらぬうちに、瀬戸井はすぐ部屋を出て行った。
「相変わらずてきぱきしているね。助かるだろう」
「うん、気がきくよ、恐ろしくね。おふくろが死んだとたん、彼はすぐ広告社に電話をかけたり、葬儀社に電話したりしてさ……」
高木は苦笑した。
「ああいう人がそばにいると、助かるものだよ。こんな時は、身内の者はうろうろするばかりだからね」
入れちがいに北原が入って来た。夏枝はハッと目を伏せた。別に目を伏せねばならぬ理由はなかった。だが、夏枝は北原を恐れていた。陽子が睡眠薬を飲んで以来、初めて今日顔を合わせたのだ。北原は、啓造と夏枝を見ると、一瞬驚いたようだが、さり気なく、
「どうもごぶさたしました」
と、手をついてあいさつをした。
「ああ、しばらくだね。今日は何かと大変だったね」
「ハア、高木の小母さんは徹君の腕の中で、亡くなりましたよ」
と、こだわりのない表情を見せた。
北原が高木に、何か小声でいって部屋を出て行くと、夏枝はやっと顔を上げた。なぜ、北原の顔を正視できなかったかと、夏枝は思った。陽子が睡眠薬を飲む日、北原は夏枝を罵倒した。夏枝もまた北原を嘲罵した。だがその後、北原は陽子を看護し、四日間わが家に共にいたはずである。
いってみれば、別段気まずい別れをしたわけではないのに、夏枝にはなぜか、自分を面罵した北原の印象だけが、強く残っていた。一別以来、北原から陽子に、手紙が幾度か来ただけで、夏枝には何の音さたもなかった。そんな当然なことにも、夏枝はこだわらずにはいられなかった。
啓造と高木をそこにおいて、夏枝は座敷のほうに立って行った。自分のできる手伝いをしようと思ったのだ。台所に入って行くと、割烹着を着た二、三人の女たちが、お茶の用意をしながら、何か笑い興じていた。夏枝を見ると、一斉に彼女たちは口をとじた。
「お手伝いさせていただきます」
夏枝がいった時、うしろで声がした。
「奥さん、奥さんは高木さんのそばにいてくださいよ」
村井だった。村井は、夏枝の背に手をおいて、台所から押しやるようにした。
「あら、いついらっしゃいましたの?」
見知らぬ人の中で、夏枝はつい親しげにいった。
「今ですよ」
「車で?」
「ええ、車です」
まだ村井の手は夏枝の背にあった。そのまま台所から二人が出た時、徹が立っていた。
「あ、徹さん、ごくろうさん」
徹はプイと顔をそむけて、忙しげに病院のほうへ出て行った。
「葬式までおられますか」
「ええ」
徹のいまの態度が気になって、夏枝は浮かぬ顔をした。
「帰りはお送りしますよ」
「ありがとうございます」
夏枝は病院の廊下に出てみた。電灯の点っている事務室の中に、男たちが五、六人、電話をかけたり、話し合っている。その中に、徹が一人、ぼんやりと頬杖をついていた。
北原が外から玄関に入って来た。夏枝を見て、北原が微笑した。夏枝もほっとして、微笑を返した。
「高木先生の妹さんたち、稚内から車で来られるらしいんですよ」
「まあ、それはお疲れになりますわね」
「徹君に会いましたか」
「会いましたわ」
こだわりなく話しかけてくれる北原に、夏枝の心は徐々にひらいた。北原はまた、高木の家に入って行った。夏枝は、まだ頬杖をついている徹を窓越しに眺め、ちょっとためらってから、近づいて行った。
「徹さん」
ひらいたままの戸口に立って、夏枝が呼んだ。徹がじろりと夏枝を見た。
「陽子ちゃんに電話をしてくださらない?」
「自分でかけたらいいでしょう」
とりつくしまもない返事だった。
翌日夜七時から、高木の母の通夜が、近くの寺で行われていた。高木は、人づきあいがよいらしく、五百人近い客が、二階の本堂の中にびっしりと詰めていた。
徹はその通夜の席にもゆっくりと出ることができないほど、何かと雑事に追われていた。いま、徹は、今夜寺に泊まる親戚知人の数を知らせに、詰め所に降りて行く所だった。階段を降りた所に玄関があり、右手に弔問客を受け付ける詰め所があった。町内の手伝いの人が五、六人、ここで客の香典を受け、引き替えに香典返しを渡していた。そしてただちに、その金額と名前を香典帳に記録するのだ。
左手は、履物の預かり場になっていて、そこにも担当の男が四、五人、立ち働いていた。徹が詰め所に入って、泊まる人数を報告し、朝食の注文を確かめていた時、受付に黒いドレスを着た女の姿が見えた。その客のさし出した香典を受付係の肩越しに見るともなしに見た徹は、思わず声をあげる処だった。香典袋にしるされた名は三井恵子だった。徹の胸がときめいた。徹はまじまじと恵子の顔を見た。その徹には気づかず、恵子は香典返しの袋を受けとって、静かに受付の前を離れて行った。
徹は夢中で詰め所を出た。たったいま見た、恵子の顔が、陽子にだぶっていた。目鼻立ちは陽子によく似ていたが、感じは全くちがっていた。陽子の、あの澄んだ深さは、恵子にはなかった。ベールを透かして見るような、何か妖しい美しさがあった。ほんの数秒のうちに、その表情が、実に微妙に、幾通りにも変化したような印象だった。
階段を登って行く恵子のうしろ姿を、徹は見上げた。軽く両ひじを体につけ、ゆっくりと上がって行く姿に、徹はふと、トルストイのアンナ・カレーニナを連想した。徹は思い切って、階段を一つおきに飛び上がった。
「まあ」
立ちふさがるように途中の踊り場に立った徹を見て、恵子は微笑した。
「あの……」
徹の唇がひくひくとけいれんした。何をいうべきか、徹はまだ考えていなかった。
「何かご用ですの?」
恵子の微笑は、徹を柔らかく包みこんだ。
(ふしぎな目だ!)
「いいえ、失礼しました。人ちがいでした」
「人ちがいですって? わたしに似た方がいらっしゃるんでしょうか」
声は陽子によく似ていた。幾分鼻にかかったうるおいのある声だった。
「え、いるんです。でも……年がちがいました」
「そうですの」
優しく答えて、そのまま恵子はまた階段を上がろうとした。読経の声がひときわ大きく聞こえて来た。
「あの……実によく似てるんです」
徹は、とりすがるようにいった。
「ごめんなさい。お通夜をすませてから、お話ししましょうか」
恵子は自分を見つめている徹の、ただならぬ表情を見返しながら、静かにいった。
「本当ですか?」
「外でお待ちになっていて」
徹は呆然と、恵子のうしろ姿を見送った。
(とんだことを、いってしまった!)
徹は夢を見ているような気がした。あんなにも心にかかっていた陽子の母に、今めぐり会えたのだ。去年の六月、徹は三井家を探して、小樽まで行った。その後も、幾度か行ってみたいと願いながら、しかし徹は自制していた。時折旭川に帰り、陽子のようすを見ては、まだその時期が来ていないと判断したからだった。徹も北原も、陽子のことはタブーのように次第にふれなくなっていた。陽子について語ることが、お互いにとって恐ろしかった。だが語らないことも不安だった。二人は、他のことをしきりに語り合った。そして別れる時、徹はいつも、陽子のことにふれなかった北原に、焦りとも不満とも、いい難い妙なしこりをもった。長いような、短いような一年だった。
徹は、本堂の入り口から、恵子のすわっている場所を確認した。窓から夜風は入っているが、ぎっしり人の詰まった本堂の中は、人いきれでむっとしている。一番うしろに、つつましく手を合わせている恵子のうしろ姿を見つめながら、徹はじっとしていられない思いだった。
ロウソクの形をした電灯が、幾本も明るく点されている祭壇に、高木の母の写真が小さく見える。頭を垂れている者、しきりに私語している者、その一人一人のうしろ姿を眺めながら、この人たちが、どこで高木の母、あるいは高木と知り合ったかと、考えずにはいられなかった。一人の死によって、一堂に集められたこの五百人余りの人々と、高木との間柄を、徹は聞いてみたかった。わけても、恵子と高木の、そもそものきっかけは何か。陽子の出生について相談するほどの間柄に一体どのようにしてなったのか。思うともなくそんなことを思って恵子を見た時、徹は初めて気がついた。恵子のすぐそばに、北原がひざを抱えて、黙然とうつむいていた。
徹は北原に恵子の存在を知らせたかった。よほど、呼び出して知らせようかと思った。だが徹はやめた。陽子に関する限り、誰にも何も知らせたくないような気がした。それはみにくいことかも知れない。だが徹には、この重大な秘密を、一人胸におさめておきたかったのだ。
通夜の式が終わって、人々はぞろぞろと帰りはじめた。喪主の高木にあいさつする人は、祭壇の近くにいる高木のそばに寄って行く。ふたこと三言、口の中で何かいい、頭を下げて帰る人、高木の肩を叩き、励ましの言葉を述べて行く人、さまざまな人が代わる代わるあいさつをして行く。啓造と夏枝は、高木の近くにすわって、それらの客を眺めていた。
「あら、あなた、咲子さんですわ」
夏枝にささやかれて、よく見ると、グレイの地味な着物に、黒の羽織姿の咲子が、高木の前にていねいに頭を下げている。啓造には思いがけないことだった。だが、考えるまでもなく、咲子が通夜に駆けつけるのは、当然だった。
何か話していた咲子が、祭壇の前に進んで焼香し、立って帰ろうとした時、夏枝が声をかけた。
「咲子さん、お久しぶりですわね」
咲子は驚いたようだったが、すぐに懐かしそうな表情を見せて、啓造と夏枝のそばにすわった。
「その節はお運びいただいて、大変おせわになりました」
咲子は、仲人だった啓造たちに、離婚のことで札幌まで足を運ばせた時の礼をいった。
「お子さまたちは、お変わりなくって?」
「おかげさまで、元気でおりますの。でも、時々、おとうさんは?なんて聞かれますと、わたし、悪いことをしたんじゃないかと、気がとがめます」
悪びれない口調だった。
「今夜、お会いになって?」
夏枝が声を落とした。
「会いましたわ。何だ、来てたのか、ですって」
咲子はさばさばといった。別れた夫婦というものは、そんなものかと啓造はふしぎな気がした。もし夏枝が、自分を置いて出て行き、どこかで偶然会ったとしたら、自分はどんな態度を取るだろう。恐らく憎々しげに夏枝を見、声もかけないにちがいない。
「まあ、それしかおっしゃいませんの」
「ええ、それだけですわ。わたしだって、来てたわよ、悪かった? って、いっただけですもの」
「子供さんのことは、お聞きになりませんでした?」
「なんにもいいませんわ。元気かぐらいいってもよさそうですけどね。そんなことを聞くの口惜しいんじゃないかしら?」
「あなたに、戻って来て欲しいんじゃないのかね」
啓造は、村井を目で探しながらいった。親戚や親しい知人たちが、三人五人とあちこちにかたまって、話し合っていた。籠に盛った花や、花輪が周囲にずらりと並んでいる。その壁近くに、あぐらをかき、一人ぼんやりたばこをふかしている村井の姿が見えた。
「ああ、あそこにいるよ。少し話し合って行ったらどうかね」
啓造は、村井のほうを見ながら咲子にいった。
「いやですわ。話なんか何もないんですもの」
「しかしねえ。前にもいったけど、咲子さんも母親なんだからねえ。二人の子供さんのことも、考えてやらなければいけませんよ」
その時、高木と三井恵子が話し合っていた。が、啓造も夏枝も全く気づかなかった。村井と咲子にだけ注意が行っていたからである。
「それはわたしも、幾度か考えましたわ。でもね、院長先生」
咲子は、旭川にいた時と同じ呼び方で、啓造を呼んだ。
「母親のわたしが、こんな道をたどったということを、子供たちにも、ハッキリと知らせてやりたいと思いますの。軽薄な結婚にはどんなに大きな罰が加えられるものか、娘たちに、知らせるほうがいいと思うんですの」
「…………」
咲子は、遠くにいる村井のほうをちらりと見て、言葉をついだ。
「それにね、先生。村井は大学を出て、社会的地位の高い職業にありますわ。でも女性を人間として扱わないような、あんな人間は、人間の屑ですわ。子供たちだって、いまに大きくなったら、彼がどんな人間か、よくわかると思うんです」
どこかに身勝手な理屈が含まれていると思いながらも、村井を悪くいう咲子の言葉が、啓造の耳にこころよくひびいた。ルリ子が殺された時の、夏枝と村井のことを思っただけでも、もっと痛罵して欲しい気がした。その上、由香子のこともある。もし村井という人間がこの世にいなかったなら、ルリ子はあの日殺されなかったであろうし、したがってわが家は全く平穏無事であったにちがいない。由香子も、今ごろ何人かの子の母親となって、幸せに暮らしていたかも知れないのだ。
「ねえ、院長先生、もしわたしが村井と別れなかったら、うちの娘たちは、父親の姿に完全に幻滅を感ずると思いますわ。この間、何かで読みましたけど、やくざな親なら、いないほうがいいんですって。かえって、死んでいる場合のほうが、子供は強くまじめに育つんですってよ。死んだ親は美化されるからでしょうか」
なるほどそうかも知れないと、啓造は思った。子の目から見ても、軽蔑したくなるような親が、子を非行に導くのかも知れない。啓造はひそかに自分を顧みた。自分たち夫婦も、立派な親ではない。それでも、まだ村井よりはましだと、啓造は咲子の言葉にうなずいていた。
「おい、見たか?」
高木が啓造たちのそばによって来た。去って行く咲子のうしろ姿を、すわったまま見送っていた啓造が高木をふり返った。
「何をだい?」
そこに、エプロンをつけた手伝いの女たちが五、六人、酒とつまみを運んで来た。
「どうぞ」
二十歳になるかならぬかの少女が、高木と啓造の前に盆を置いた。
「なあんだ、順子ちゃん。こんな遅くまで手伝っていたのか」
高木が早速銚子をとって、啓造にさしながらいった。
「まだそんなに遅くありません。父と一緒に帰るんですもの」
笑うと、頬に深い笑くぼのできる、優しい顔立ちの少女である。
「順子ちゃん、この小父さんはね、おれの一番の親友で、やっぱり医者なんだよ」
順子ちゃんと呼ばれた少女は、深い笑くぼを再び見せて出て行った。
「あれの親父は偉い男だよ。薬剤師でね、琴似《ことに》に店があるんだが……。まあ、そんなことより、さっきおれと話をしていた黒い服を着ていた女だがね。見ただろう」
「黒い服の? いや、気づかなかったねえ」
「そうか、気づかなかったならいいんだ」
高木は手酌をしながらいった。
「あら、気になりますわ。そんないい方をなさって。ねえ、あなた」
「いやあ、気づかなけりゃ、まあ、いいさ。とにかく、葬式となると、いろいろな思いがけない人間に会うもんだなあ」
「そりゃあ、そうだよ。結婚式なら、出席者がわかってるが、葬式はねえ。喪主といえども予測できないといえるだろう。わたしも、咲子さんに会ったのは意外だったよ」
「辻口、夏枝さんも驚くんじゃないよ。小樽のあのひとが来たんだ」
「小樽の?」
啓造と夏枝が同時に聞き返した。
「じゃ、あの、陽子の?」
「そうだよ」
啓造と夏枝は顔を見合わせた。
「なあに、強いて会うこともないさ」
いい捨てると、高木は杯と銚子を持って立ち上がった。
「おふくろを忘れていたよ。好きだったんだ。これがねえ」
高木は、祭壇の前にすわって、自分の杯に酒を注ぎ、手を合わせた。
(そうか、陽子の母が!)
つい、目と鼻の先にいた恵子に気づかなかったことが、啓造にはひどく意味深く思われた。ふと啓造は夏枝を見て、なぜかしみじみと、自分たちはやはり夫婦だと思った。
徹は、山門の近くに立って、三井恵子を待っていた。境内の駐車場から、ヘッドライトをつけた車が、次々と徹の前を過ぎては消えた。徹は時計を見た。八時半を過ぎていた。もう陽子の母は帰ったのかも知れない。それならそれで、むしろよかったのだと、徹は門のうちに取って返した。と、明るいヘッドライトが徹を照らし、車がとまった。三井恵子の車だった。
「お乗りになりませんか」
徹はいわれるままに助手席にすわった。車は右に曲がり、明るい電車通りに出た。
「どこかで、お茶でもいかがですか」
旧知のような、親しみのある声だった。
「すみません、でも小樽までお帰りになるんでしょう」
いってしまってから、徹は狼狽した。
「小樽?」
ちょっと驚いたように、恵子は傍の徹を見た。
「やっぱり、どこかで落ちついてお話をしたほうがよさそうね。近くの山愛ホテルのロビーはいかが?」
押し黙っている徹に、恵子はいった。
徹は、さり気なく恵子に近づくつもりだった。恵子に対する予備知識を、全く持っていないかのように、ふるまうつもりだった。うっかり口をすべらせて、その計画は狂った。どう話を進めるべきか、と徹は忙しく思いをめぐらせた。往き交う車の流れに目をやりながら、徹は焦った。
「あなたも小樽?」
車が山愛ホテルに着いた時、恵子が尋ねた。徹はあいまいな表情で、車の外に出た。
広いホテルのロビーには、外国人の姿も見え、絶えず客が出入りしていた。豪華なシャンデリアを見上げながら、二人はロビーの窓ぎわの椅子にすわった。
庭の青い芝生が水銀灯に照らされ、幅広い低い滝がしぶきを散らしていた。
「わたしは、小樽の三井といいます。あなたは?」
恵子は、軽く両手の指を組んで、テーブルの上においた。それが、徹にはひどく優雅なしぐさに思われて、圧迫を感じた。
「ぼく……」
徹はいいよどんだ。恵子は片手を上げてボーイを呼び、
「わたしはコーヒー、あなたは?」
と、徹に微笑を向けた。
「ぼくもコーヒー。いやアイスクリームにします」
ボーイが去ると、微笑を浮かべたまま、しかしきっぱりと恵子はいった。
「なぜ、あなたはわたしが小樽の人間だということをご存じなの」
徹は軽く唇をかんだ。追いつめられた思いだった。
意を決した徹は、恵子を直視した。
「ぼく、失敗でした。実は、あなたが小樽の人だということを、ぼくは知らないことにしておくつもりだったんです」
「…………」
恵子はちょっと目を伏せたが、すぐに徹を見返した。
「ぼくは、辻口徹といいます。失礼しました」
あらためて、徹は率直に頭を下げた。
「辻口さん? 徹さん? いいお名前ね。なぜ、わたしのことをご存じでした?」
徹は黙った。三井恵子は、大体のことを予期しているのではないか。それとも、全く何も知らずに、こう問いかけているのだろうか。もし全く知らずにいるのなら、自分は今大きなショックを与えることになるのだ。
「どうなすったの、辻口さん」
「ひと口にはいえないんです」
「じゃ、順々に伺うわ。あなたは、わたしに似ている人がいると、さっきおっしゃいましたわね。とても思いつめたお顔でしたわ。そのことから伺わせてちょうだい」
コーヒーに、ミルクを入れながら恵子はいった。
「ぼくの妹なんです。妹があなたにそっくりなんです」
「妹さん? おいくつ?」
スプーンでコーヒーをかきまわしていた恵子の手がとまった。
「秋に十九になります」
「十九ね」
恵子の顔からすっと微笑が消えた。徹は息苦しくなった。自分は今、残酷なことをしはじめているような気がした。
「妹は、養女です」
深くうなずいて、恵子は徹を見つめた。いいようのない悲しみのいろが浮かんだ。徹は胸を突かれた。
「わかりましたわ。大体のことは……」
「すみません。ぼくは……こんなことを申し上げるべきじゃなかったかもしれません。しかし、陽子は……このこともひと口ではいえませんが」
徹は腕時計を見た。
「あ、お帰りになる時刻ね」
「いえ、ぼくは寺に泊まるんです。それより、あなたのお帰りになる時間が……」
「わたしのことはご心配なく。札幌の母の家に泊まりますもの」
(母の家?)
この人の母は、即ち陽子の祖母ではないか。
「じゃ、もう少し、お話しさせてください」
「どうぞ。こんなお話の途中でお別れすることは、できそうもありませんわ」
再び恵子の唇に微笑が戻った。絶えず表情の変化する恵子を、徹は豊かな美しさだと思った。
「去年の冬、妹は自殺をはかったんです」
「自殺?」
恵子の目が大きく見ひらかれた。
「どうして?」
徹は、ルリ子が殺されたことから、陽子の自殺に至るまでのいきさつを手短に語り、小樽に自分が訪ねたことも付け加えた。恵子は、うなずきながら聞いていたが、話を聞き終わると、ほっと大きな吐息を洩らした。
「恐ろしいことですわね」
思いのこもった深い声であった。
「すみません」
「辻口さん、わたしが恐ろしいといったのは、わたし自身のことなの。わたしは、確かに女の子を生みました。澄子という名前を仮につけて、そして高木さんにおねがいして、乳児院に預けてしまいましたの。わたしは、子供のことより、自分のことを考えていたのです。わたしが負うべき責任を、わたしは何一つ負わずに……いってみればあの子を捨てたわけですもの」
「…………」
「わたしは、でたらめな女なんです。三井を愛しているつもりでしたのに、三井の出征中に中川を愛しました。そしてその時は、中川をより深く愛してると思ったんです」
「…………」
「中川は、あの子の生まれる前に死にました。やがて三井が帰って来ると聞いた時、中川よりも三井を愛しているような気持ちになったんです。それに、わたしには男の子がいましたし……」
徹は、去年小樽の色内町で会った、親切な青年を思い浮かべた。
「辻口さん、わたしって、ほんとうにひどい女ですわ。何くわぬ顔をして、三井とそのまま今日まで、しあわせに暮らしていました。しあわせにね。むろん、あの子のことを忘れたわけじゃありませんけれど、でも正直の話、確かに心は疼きながらも、手もとにいる息子たちほどに、心にかけてはいませんでした。わたしのいい加減な生活が、あなたのおうちを、大変な渦の中に引きこみ、あの子が自殺にまで……」
恵子は目をつむった。恵子の顔は青ざめていた。あまりにも素直に自分の非を認めた恵子に、徹はあいづちの打ちようもなかった。恵子は、何一つ弁解しようとしなかった。それは、陽子にあるあの性格によく似ていた。
「辻口さん、わたしはどうしたらいいのかしら」
訴えるような、頼りなげなまなざしだった。それは、一瞬幼子のようにさえ見えた。
「陽子のことを、心にとめておいてくださればいいんです」
「ようこ? どういう字ですの」
「太陽の陽です」
恵子は淋しげに微笑してうなずいた。
徹はとけたアイスクリームを、スプーンですくいながら、ふしぎな気がした。会うまでは、何となく持っていた恵子への敵意が、あまりにもあっけなく消えていたからである。去年、三井商店の隣のたばこ屋の娘が、恵子に会った者は誰でも恵子が好きになるといっていた。
「いまは元気なのでしょうか」
「肉体的には元気です。しかし、あれ以来陽子は変わりました」
「そうですか。わたしのことを、どう思っているのでしょうか」
「お気を悪くなさらないでください。陽子はあなたに会いたいとは、いっておりません」
「当然ですわ。どんな事情があったにせよ、人手に渡したことは、捨てたことですもの。母というものは育てる者のことですもの。どんなに苦しくても」
陽子と同じことをいうと、徹は驚いて恵子を見た。再び時計を見た徹がいった。
「もうお帰りにならなくちゃ……」
「もう少しつきあってくださらない。ご両親がお葬式に来ていらっしゃるって、さっきおっしゃいましたわね」
「来ています。でも、ぼくは誰にも、あなたのことは話しません」
「どうして?」
「ぼく……陽子のためにも、そうしてやりたいんです」
「そう」
恵子は、夜の滝に目を向けて、何か考える表情になった。
「あなたにも、もうお目にかかりません」
「なぜ?」
恵子が徹に視線をもどした。そのまなざしが陽子によく似ていた。
「あなたの平和を、これ以上かき乱したくありませんから」
「でも、わたしはあなたとお友だちになりたいと思いますわ。わたし、あの子のこと、もっと知りたいんです」
「知ってどうなさるんです」
「どうしようもないことかも知れませんわ。でも、知ることによって、わたしは何か自分の生き方をただされるような気がするんです」
「考えてみます。今夜は失礼しました」
徹は、にわかに疲れを覚えた。
「お寺までお送りしましょうか」
「ぼくは、車を拾って帰ります。歩いてもすぐですし」
恵子も立ち上がった。
「それとも、ぼくが運転してお送りしましょうか」
「わたしはいい加減な女ですもの。今夜のことで、運転を誤ることはありませんわ」
恵子は再び淋しげに微笑した。
葬儀のすべてを終えた帰途、夏枝は汽車の窓から暮れた空に目をやったまま、啓造に横顔を見せていた。村井が車で旭川まで送ってくれるのを、夏枝はひそかに期待していた。だが啓造は村井の誘いを断ったのだ。
「悪いけど、汽車の中で寝て行くほうが、楽だからね。疲れているから失敬するよ」
おだやかな断り方だったが、村井は皮肉な微笑を浮かべていった。
「無理にはおすすめしませんよ。腕に自信がありませんからね」
夏枝は啓造を嫉妬深いと思った。村井は旭川までの百四十キロを一人で運転しなければならない。一人で運転するよりも、むしろ人が乗っていたほうが安全なのだ。だが啓造は、村井と夏枝が少しでも親しくなるのを拒んでいるのだ。夏枝は何か、自分が絶えず啓造に監視されているような、不満を感じた。
「村井さんはどの辺までいらしたかしら」
夏枝は横に並んでいる啓造の表情をうかがいながらいった。啓造への反発がそういわせたのだ。
「さあね。ところで高木も淋しくなるねえ」
「…………」
「今度こそ結婚する気になるかも知れないね」
夏枝の感情を無視して啓造はいった。
「いつか、辰子さんに結婚を申しこんだと、いっていたことがあるが……」
「まあ、辰子さんに?」
思わず夏枝はこたえた。
「いや、冗談半分だったらしいがね。辰子さんだって、いつまでも一人では、どんなものかねえ」
「高木さんと辰子さんなら、お似合いのような気もしますけど」
「二人共、ほんとうのおとなだから、いい組み合わせだと思うんだが。しかし辰子さんも、多勢の弟子を旭川において、札幌に住む気にもなるまいしね」
「……高木さんのおかあさま、お気の毒でしたわ。お孫さんの顔もごらんにならないで」
「うん、ほんとうだよ。それはそうと、村井君と咲子さんはどうだろう。咲子さんはあんなことをいっていたが……」
「あの二人は、もう元には戻りませんわ」
そっ気なくいう夏枝をちらりと見て、啓造は新聞をひろげた。一面から、順々に見て行った啓造が、不意に声を上げた。
「夏枝! 三井恵子さんが……」
「え? どうなすったの?」
啓造の指し示した記事を見て、はっと夏枝は息をのんだ。
〈婦人ドライバー追突重傷
通夜からの帰途〉
の見出しにつづいて、昨夜十時過ぎ、三井恵子のトラック追突の模様が、簡潔にしるされていた。
土手の陰
陽子は今日思い切って育児院を訪ねようと家を出た。一般の者が、訪ねてよいかどうか、陽子にはわからなかった。だから訪ねるというより、せめて育児院の建物だけでも見たい気持ちだった。
育児院は市立病院の近くにあって、石狩川の堤防の付近だと聞いていた。めったに行かない地域で、陽子はその辺の地理に暗かった。それでも、育児院の古い大きな建物は、すぐに見つかった。金星橋のたもとの一角に、白いペンキのはげた、板壁の育児院があった。陽子は堤防に立って、その建物を見おろした。二階建ての二百五十坪あまりの建物が、その四倍もある敷地の中に建っていて、古池が、柳や白樺に囲まれて、庭の一隅によどんでいた。
堤防側の空き地には、滑り台やブランコがあったが、子供たちの影はなかった。と、中学生ぐらいの女の子が、カバンをさげて、門から入って行くのが見えた。
陽子は堤防をゆっくりと歩き始めた。広い川面が、七月の陽をぎらぎらと照り返し、土手の両側に、背丈より高く生い茂ったいたどりの葉群《はむら》が、所々視界を遮っている。向こう川原の自動車練習所に、車が五、六台、暑い日の下にのろのろ動いていた。
「おねえちゃん、どこへ行くの?」
いつのまに来たのか、小学三、四年の子供が数人、陽子を囲んだ。
「散歩よ」
陽子は、声をかけた丸顔の男の子に顔を向けた。
「なあんだ、散歩か。おねえちゃんのうち、このへんなの?」
「ううん、遠いの。神楽町よ」
「神楽町? どっちさ。あっちかい」
「ううん、向こうよ」
陽子は南のほうを指さした。
「おねえちゃん、おとうさんやおかあさんいるの?」
一番背の低い、首のあたりのうす黒い男の子が尋ねた。
「いるわよ」
「おねえちゃんのおとうさんとおかあさん、結婚してるの」
「結婚?」
「うん」
二人ほどが一緒に返事した。
「結婚してるわよ」
陽子はふと、自分を生んだ実の母と、実の父を思いながら、同時に子供たちの質問に不審を感じた。
「ふうん。結婚してればいいよね」
「そうだ。結婚してればいいさ。どこで結婚したの」
明らかに、それは子供の質問とはいえなかった。
「あなたがたのおうちはどこ?」
「ぼくのうちね、留萌《るもい》」
「留萌?」
陽子は驚いてその子を見た。
「わたしはわかんない。だって、三つの時に来たんだもん」
(三つの時に来た?)
陽子はようやく、彼らが育児院の子供たちであることに気づいた。
「そう、じゃ、あなたがたはあそこに住んでいるのね」
陽子は土手下の育児院を見おろした。
「そうだよ」
子供たちは、明るく答えた。
「おねえちゃん、もう帰るの?」
「時計何時さ」
女の子が陽子の手首を取った。汗ばんだ手だった。
「あら、もう三時半なの」
子供はそういったが、まだ陽子をとり囲んで離れようとはしない。
「おねえちゃん、きれいだね」
女の子が、陽子の手を自分の手に絡めた。
「ほんとだ。テレビの女の人みたいだ」
他の子も陽子の手を取った。
「ずるいよ。おれがそばにいたのに」
みんなが陽子の手を取りたがった。それは小学校教師を慕う子供たちの姿に似ていた。
「おねえちゃんの名前、何ていうの」
おさげ髪の子がいった。
「辻口陽子よ」
「つじぐちよう子? それ、おとうさんのほうの名前、おかあさんのほうの名前?」
女の子が熱心に尋ねた。
「……おとうさんのほうよ、もちろん」
「ふうん。そのほうがいいよね。わたしね、おねえちゃん、おかあさんのほうの名前だよ。まだ結婚してないんだってさ」
(まだ結婚していない!?)
陽子はハッとした。さきほどから、子供たちは結婚という言葉をしきりに口にしていた。その背後に、いかに複雑な、重い生活がかくされていたかを、陽子は今初めて知った。院内からふいにオルゴールが聞こえて来た。
「この道はいつか来た道」の曲だった。
「あら、何のオルゴール?」
「うん、これから自由時間だっていうオルゴールだよ」
「これから自由時間? でも、あなたがた、こんな所で遊んでたじゃないの」
「ちがうよ、遊んでいたんじゃないよ。うちの近所にどんな草があるか、調べに来たんだよ。な、みんな」
男の子は弁解して、持っていたいたどりの葉や、よもぎの葉を陽子に見せた。
「おねえちゃん、ねえ、わたしたちの所で遊んで行こう」
「そうだ、そうだ、遊んで行こう」
子供たちは一斉に、大きくうなずいた。
院の子供たちと堤防で会ったことも意外だったし、話しかけられたことも意外だった。だが、院の中に遊びに行こうと誘われたのは、さらに意外だった。
「おねえちゃん、学校の友だちだって、いつも遊びに来るんだよ。なあ、みんな」
陽子の手を引っ張った男の子がいった。陽子はちょっとためらったが、子供たちと一緒に、土手をおりて院内に入って行った。
あけ放した裏玄関に入ると、ふたのない下駄箱に、幼児の靴や、大小の靴やサンダルが、そろえて並べられてあった。子供たちの声が中からにぎやかに聞こえ、廊下にすわって、一人遊んでいる三歳ぐらいの女の子の姿が見えた。
「ぼくの部屋、ここだよ」
玄関脇の戸をあけて、子供たちは陽子を部屋に招いた。入って左側に、棚のような長い机が作りつけられ、背のない角椅子がずらりと並んでいる。それが子供たちの学習の場所だった。ちょっとひじを張ると、隣の領分を侵しそうに狭い。机に面した壁に、ランドセルやかばんが整然とかかっていた。その上の小さな棚にあるふろしき包みには、彼らの着替えでも入っているのだろう。
「偉いわね。きちんと整理整頓できているわね」
僅かな通路を残して、すぐ右が二段ベッドになっていた。ここに十人の子供たちが、上下にわかれて眠るのだ。子供だけの世界。まだ父や母にまつわりつきたい年ごろの子供たちが、ここにどんな思いを抱いて眠るのか。女の子がいった。
「おねえちゃん、泊まっていきなよ」
「泊まる?」
「院長先生に頼んでさ、一緒に泊まっていこうよ」
「そうだ、そうだ、泊まっていってよ。一緒におふろにも入ろうよ」
「おうちの人に聞いてから、泊まりに来るわ」
「ほんと? ようし、死んでも生きてもうそつくな、ハッハのハ」
女の子がす早く陽子とげんまんをして、小指に息を吐きかけた。その時、またオルゴールが鳴った。
「おねえちゃん、講堂に行こう。点呼があるのよ」
子供たちはまた陽子を引っ張って、講堂に連れて行った。三つ四つの幼児から、中学生まで、五、六十人の子供たちが、講堂に入って行く。
「この人、誰さ」
他の子供たちが陽子のそばに寄って来た。
「あんまりそばに寄らないでや、ぼくたちのお客さんだからな」
陽子を連れて来た子供たちが、得意そうな顔をした。若い男女職員も講堂に入って来た。陽子は、断りなしに入ってもよかったのかどうか、少し不安になった。
育児院からの帰途、陽子は四条八丁目のレストラン亀屋に入った。家族連れの多い、大衆的なレストランである。夕食時の店は混んでいた。陽子はようやく窓ぎわに空席を見つけて、そこにすわった。のどがひどくかわいていた。レモンスカッシュを注文した陽子は、ふっと吐息をついた。
陽子は育児院の講堂で院長と会った。五十歳近い院長の服装は質素だったが、表情は慈愛に満ちていた。子供たちにとり囲まれている陽子に、院長は近よって来ていった。
「あなたは子供に好かれますね。子供たちは、愛には敏感なのですよ」
その後、院長は広い浴室や洗濯室、食堂、医務室などを案内しながら、子供たちのことを話してくれた。夕食のベルが鳴って、陽子は育児院に別れを告げて来たのだった。
青い制服を着たウエイトレスたちは、忙しく立ち働いていたが、陽子の注文したレモンスカッシュはなかなか来なかった。陽子は、夕食の支度をしている夏枝の姿を思いながら、落ちつかなかった。だがなぜかまっすぐ家に帰る気持ちにはなれなかった。自分の手を争って取った子供たちの顔が、目から離れない。頭上に大きな扇風機がまわり、傍の葉蘭が風の来る度に揺れていた。
「ここはあいていますか」
声をかけられてふり返ると、四歳ぐらいの男の子の手を引いた若い母親と、赤ン坊を抱いた若い父親が立っていた。
「あいております。どうぞ」
三つの椅子に三人はすわった。父親は赤子を母親の手に渡して、メニューをひらいた。子供がすぐさま叫んだ。
「ぼく、お子さまランチだよ」
「なんだ、ター坊はいつもお子さまランチだな」
若い父親は笑ってうなずいた。
(お子さまランチ!)
陽子は、いま別れて来たばかりの子供たちを思った。あの子供たちの何人が、父母に連れられてお子さまランチを食べたことがあるだろうか。恐らく一度も、そんな経験を持たずに、おとなになってしまうのではあるまいか。
(お子さま)
陽子は胸の中でつぶやいた。ここにいるのはお子さまで、育児院にいるのはお子さまではないのか。陽子は、自分の目の前に置かれたレモンスカッシュをひと口飲んだ。ウエイトレスが運んで来た子供用の高い椅子にすわって、男の子は黒い生き生きとした目を、絶えず周囲に向けていた。母親は、クリーム色の服のスナップをはずし、赤ン坊に乳房を吸わせていた。赤ン坊は一心に母親を見ながら、乳房を吸っている。それは必ずしも、珍しい光景ではなかった。だが、いまの陽子にとっては、実に新鮮な、強烈な光景であった。
若い母親は、乳房を吸わせながら、その赤ン坊の背を軽くたたいて、くり返しいっている。
「マンマ、マンマ、マンマ。マンマ、マンマ、マンマ」
リズムのある優しい口調で、母親は飽かずに同じ言葉を幾度もくり返している。
「マンマ、マンマ、マンマ。おいしいの? そう、よかったわねえ」
母親は満足そうにうなずき、夫に微笑を送った。
陽子はまたしても、先ほどの院長との会話を思った。陽子は院長に、自分が乳児院にいたのだと、告白したのだ。育児院の子供たちを見ているうちに、陽子は告げずにはいられなかった。自分もまた同じ境遇のもとに生まれて来たのだ。告げずにはいられないその思いを、院長はやさしく受けとめてくれた。そして乳児院の嬰児たちのことも、陽子に話してくれた。そのなかで院長はこんな話をした。
「乳児院から、すぐに家庭にもらわれて育てられたのは、しあわせでしたよ。乳児院に育った子は、家庭に育った子より、言葉がずっと遅いんですよ」
乳児院の看護婦は、一人で何人もの子供を受けもたねばならない。いかにやさしい女性でも、決して母親だけのことはできない。その乳房を吸わせながら、マンマ、マンマ、マンマと、幾十回となくくり返していう真似は、看護婦にはできないのだ。話しかける回数も少ない。その上交代制の勤務である。子供たちは、毎日同じ相手に世話をしてもらえるわけではない。看護婦はそれぞれ、抱き方も話し方もちがう。子供たちの言葉が遅れるのは、当然であった。そのことを陽子は、目の前の若い母親を見つめながら、いまはっきりと理解できた。子供はこのようにして、育てられるべきものなのだ。
小旗を立てたお子さまランチが、男の子の前に運ばれて来た。男の子はその小旗をとって、ひらひらとかざして見せ、再びご飯に突き立てた。陽子は店内を見廻した。今日は特に子供が目についた。だが、この中には育児院の子は一人もいない。陽子はふいに涙がこみあげて来た。先ほど、育児院の子供たちの講堂でうたっていた歌が、いままた耳に聞こえるようであった。
「神のめぐみを きょうまた受けて
……われらは神の 光の子ども」
毎日うたっている歌なのであろう。まだ三歳にもならぬ幼子までが、小さな口をあけてうたっていた。思いがけない歌詞だった。
父母に連れられて、お子さまランチを食べることもない、あの「光の子たち」を思いながら、陽子は前にいる男の子を見た。
「パパ、パパのおすしちょうだい」
男の子は、食べちらしたお子さまランチを父親の前に押しやった。
草むら
徹はさきほどから、自分の部屋のソファに寝ころんでいた。身も心も疲れていた。徹は久しぶりに、今日旭川の家に帰って来た。窓に夕日がさし、見本林のほうから郭公の声がしきりに聞こえる。七月に入って郭公の声を聞くのは珍しいような気がした。白いしっくいの天井のひと所に、うすいしみが人の顔のように見える。徹が高校生のころから、このしみはあった。じっと見つめていると、その顔が息づいて、いまにも動き出しそうな感じがしたものだった。いまも徹はそのしみを見つめながら、三井恵子の血の気のない顔を思っていた。
(あれから十日になる)
十日の間に、恵子の容体は、少しは快方に向かったであろうかと、徹は恵子の身を案じた。
徹が、恵子の交通事故を知ったのは、高木家の葬儀の翌朝だった。何気なく読んだ前日の夕刊の記事で、三井恵子の事故を知った時の驚きは大きかった。事故の時間は、徹と別れて五分とはたっていない。とまっていたトラックに、恵子は追突したのだ。それは明らかに恵子の心理状態を示していた。事故の原因が何であるかは、あまりにも明白だった。
徹はいきなり新聞を投げ出して、すぐに病院に駆けつけた。大きな外科病院の玄関に立って、初めて徹はためらった。自分の見舞いが、恵子の迷惑になることを恐れた。といって、徹は見舞わずにはいられなかった。事故は一昨夜だ。恐らく恵子の肉親が、恵子を取り囲んでいるにちがいない。徹は二、三分ためらっていたが、思い切って恵子の病室を訪ねた。
恵子の病室は三階の個室だった。徹は再びためらったが、ドアをノックした。男の返事が聞こえてドアがひらかれた。一歩入った徹は、ハッと顔をこわばらせた。あの小樽の、色内町の坂で会った親切な青年が、そこに立っていた。
「いかがですか」
徹は恵子のベッドのそばに近づいた。恵子は青ざめた顔を少し傾けて、眠っていた。その傍に、高校生ぐらいの少年が椅子にすわって、徹を見つめている。
「大変でしたね。おけがのほうはいかがですか」
徹はていねいに青年にいった。
「は、ありがとうございます。膝関節骨折というんですがね、ギプスを巻いて、まあ三カ月ぐらいは入院だそうです」
青年は、あの坂で会った時のような、気持ちのいい微笑を見せた。が、ふと、不審そうに徹を見た。
「どうもどこかでお会いしているようですが、お名前を失念して……。失礼ですが、どなたでしたか」
青年は、坂で会った徹を忘れているようであった。それは徹にとって、幸いなことであった。青年の家の近くをうろうろしていたことを記憶されていては、話が面倒になる。徹はとっさに、
「実は高木の家の……」
と、後は口の中でいい、頭を下げた。感受性の鋭そうな少年が、きらりと目を光らせた。
「ああ、高木先生のお宅の……先生のおかあさんが大変でしたね」
青年は、徹を高木病院の若い医師とでも見たのか、気さくそうにいった。その時、恵子が目をあけた。徹は思わず一歩近づいた。
「すみません、ぼく……」
再び少年の目が光った。恵子は徹をじっと見つめて、静かに首を横にふった。それは、心配するなといっているようにも、何もいうなといっているようにも見えた。少年がいった。
「すみませんって、何のことですか」
鋭い目が、真正面から徹を見上げた。徹はたじろいだ。
「達哉《たつや》、いけないよ、そのもののいい方。高木さんの身内の方だから、すみませんとおっしゃったんだろう」
少年はむっつりと押し黙った。
「すみません、この子は根はやさしいんですが、母思いなものですから、事故以来気が立っているんですよ」
青年がとりなした。恵子が口をひらいた。
「潔《きよし》さん、辻口さんに椅子をさしあげて」
弱々しい声だった。が、徹はほっとした。恵子は徹を恨んではいない。それが恵子の言葉と表情に現れていた。
「また伺います」
恵子の目を見つめたまま、徹がいった。恵子は、再び、首をかすかに横にふった。
「すみません……今朝、昨夜の夕刊を見て、驚いて……」
恵子は三度、首をふった。何もいうなといっているようだった。その二人の表情を、達哉は注意深く見守っていた。廊下に出た徹は、小鼻に汗を滲ませていた。思わずため息が出た。恵子の容体は、思ったよりもよかった。新聞にあった重傷の文字から、徹は酸素吸入と、血だらけの恵子を連想していた。あるいは一生不治かも知れない。いや、いまにも死ぬかも知れないとさえ、徹はおびえて飛んで来たのだ。
玄関近くの廊下で、思いがけなくせかせかと歩いて来る高木に会った。
「なんだ、どこか悪いのか。葬式で疲れたのか」
徹は一瞬ためらってからいった。
「小父さん、ぼく、いまあの人に会って来たところです」
「あの人?」
高木の太い眉が、八の字になった。
「あの、小樽の人です。今朝、新聞で見て、驚いて飛んで来たんです」
高木は渋面を作った。
「なんだ、何のために見舞いに来たんだ」
「…………」
「徹君、何も新聞に出たからといって、君には関係のないことじゃないか。いらん所に顔を出すなよ」
「すみません。でも、ぼくが事故の原因だったんです」
「事故の原因? 一体どういうことだね」
高木は廊下のベンチに徹を誘った。徹は、通夜の後、山愛ホテルで恵子と話し合ったことを告げた。高木はあいづちも打たずに、きびしい顔で徹を見ていた。
「陽子のことを話した帰りなんです。いや、直後なんです。ぼくのせいなんです」
高木は、しばらく黙って徹を見つめていたが、吐き出すようにいった。
「全く馬鹿な奴だ。お前も運転をするんだろう。運転手には酒を飲ませてはならないだろう。お前の話は、酒よりも強烈だよ。事故が起きたのは当たりまえだ」
「すみません」
「いや、すまんのはおれだ。すまんかったよ。しかし誰が悪いともいえんことだしなあ。恵子君だって、いわば身から出たサビのようなものだしな。ま、人間の世界のできごとは、誰か一人だけが悪いなどと、いい切れるものでもない。しかし、参ったな」
「すみません」
「おい、もうすみませんはやめろよ。おれはただ、通夜帰りの事故だとばかり思っていたんだが……まあ、しようがない。しかし徹君、まさか病室で、つまらんことをいわなかったろうな」
「ハイ、ただ、小父さんの身内のような顔をして……」
「なるほど、それはいい手だ。しかし、もう見舞いはいらんぜ。うるさいことになるからな」
高木がそういって立ち上がった時、徹は思わずぎょっとした。五、六メートル向こうの壁に、両手を組んでよりかかっている達哉の姿を見たからだった。いまの話を全部聞かれたかのように不安になって、早々に徹は玄関を出た。と、達哉が追いかけて来ていった。
「母は十五年車に乗っているんですけどね、一度だって事故を起こしたことなかったんです」
それだけいうと、達哉は身をひるがえすように戻って行った。
その達哉を思いながら、徹は再び天井の汚点を見た。思いつめたらなにをするかわからない、純粋な感じの達哉を、徹は恐れた。
「まだ寝てらっしゃるの、徹さん」
夏枝が部屋に入って来た。
徹は黙って夏枝を見た。白地に紺の渦をちらした浴衣姿の夏枝が、徹の目に今日はやさしく見えた。
「ご飯よ、徹さん」
「悪いけど、さっき汽車の中で食べて来たからいいよ」
「がっかりね。せっかくエビのフライをあげたのよ。何だかとても疲れた顔をしてるみたい」
「うん、疲れてるんだ。エビのフライは後で食べるよ。久しぶりのおふくろの味だからね」
徹は、今日は夏枝に甘えたかった。夏枝はうれしそうに徹の顔をのぞきこんで、
「じゃ、もう少し休んでいらっしゃい」
と、徹の肩に手をおいた。
「うん。おかあさん」
「なあに?」
「いや、何でもない」
徹は恵子のことを告げたかった。
「何だか、今日の徹さん、おかしいわ……あ、そうそう、徹さん、小樽の三井さんね、交通事故ですってよ」
徹はかすかに眉をよせた。
「知らなかった? 徹さん。高木さんのお通夜からの帰りにですって」
「…………」
「どんなおけがか心配ね」
夏枝の言葉を、徹は窓に目を向けたまま聞いていた。自分が恵子に通夜の帰りに会ったこと、そして見舞ったことを、高木はいつか啓造や夏枝に告げるかも知れない。腹ばいになって、徹はたばこに火をつけた。
「誰に聞いたの、おかあさん」
「お葬式の帰りに、汽車の中で新聞を見たのよ。驚いたわ、おかあさん」
「陽子は知っているの?」
「いいえ。知らせたほうがいいと思って?」
「いや、知らせたって仕方がないよ」
「でもね、徹さん。もし万一よ、交通事故で亡くなったとしたら、陽子ちゃんにはどうしたらいいのかしら」
「……向こうが会いたいといえば別ですけどねえ。こうなると、やはり生んだだけというのは、妙なつながりなんだなあ」
夏枝はニッコリと笑った。徹が自分のそば近くにいてくれるような気がした。今日の徹には、とげとげしさがひとつもなかった。夏枝は、徹が自分のそばに本当に戻って来てくれたような気がした。
「じゃ、ゆっくり休んでいらっしゃい」
夏枝は入り口でふり返って、出て行った。
(万一、死んでいたら)
徹は、想像するさえ耐えられなかった。あの、陽子を生んだ人を、自分は殺したことになる。恐ろしいことだと、徹は思った。幸い三カ月の入院と聞いたが、どんな後遺症、合併症が起こるかわからない。徹は不安だった。
徹は疲れて少し眠ったようだった。眠りの中で、徹は陽子の枕もとに立っていた。陽子は頭にホウタイをし、青ざめた顔でベッドに臥せていた。
「ごめんよ、陽子。ごめんよ、陽子」
徹は幾度もくり返してわびるが、陽子は目を閉じたままであった。耐え難くなって、徹は「陽子! 陽子!」と叫びつづけた。そして確かに「陽子」と叫んで目が覚めた。部屋は暗くなっていたが、空はまだ僅かに暮れ残っていて、黄色い空がひと所窓から見えた。徹は電灯をつけて、階下におりて行った。陽子の顔を見なければ、落ちつかない。そんな気持ちだった。
茶の間には、誰もいなかった。浴室で湯を流す音が聞こえた。啓造が入っているのだろう。夏枝は必ず啓造の背を流す。徹は台所に入って、何となくあたりを見まわした。ぴかぴかに磨かれた鍋、光沢のある床板、それらが今日は、妙にしんとして身に沁みるように淋しいのだ。いつも同じ清潔な台所が、妙に淋しいのがふしぎだった。徹は水を飲もうと思ったがやめて、陽子の部屋に行った。
「陽子、いる?」
襖はあけ放たれて、レースのカーテンがさがっていた。そのレースを透かして、浴衣姿の陽子のふり返るのが見えた。
「あ、お帰んなさい、おにいさん」
弾んだ陽子の声がした。見本林のほうから、網戸越しに涼しい風が入っていた。
「元気かい」
徹はあぐらをかいた。
「ありがとう、元気よ。おなかすかない? おにいさん」
「いや、何だかこの頃食欲がなくてね」
「あら、暑いからかしら」
陽子は心配そうな顔をした。徹は何となくほっとした。
「いま、陽子の夢を見たんだ。陽子に、盛んにごめんごめんと、あやまってる夢をね」
「まあ、いやだわ、おにいさんたら。何もあやまることなんかないのに」
「いや、そうじゃないよ。ぼくっていう人間は、誰にでもあやまらなきゃならない人間なんだよ」
徹は恵子を思った。陽子の長いまつ毛がまたたいた。
「おにいさん、何かあったの」
改まった声だった。
「うん、あったよ」
「どんなこと?」
「……いまはいえない。いつかいうときがあると思うけど。とにかくねえ陽子。ぼくはいままでの自分の生き方に疑問が起きてきたんだよ。何だかひどくまちがった歩き方をしていたような気がするんだ」
「まちがった歩き方? どうして? おにいさんはまちがっているとは思えないわ」
夜風がさわやかに、二人の間を流れた。
「いや、陽子、ぼくはまちがっていたんだ。ほら、砂浜や雪の野を、まっすぐに歩いたつもりでも、ふり返ると、足跡が曲がってついていることがあるだろう」
「あるわ。まるで乱れているみたいなことだってあるわ」
陽子は、自殺をはかった日の、冬の朝を思い出した。堤防に上がって見た、自分の足跡の乱れが、はっきりと今も目に焼きついている。
「人間なんて、そんなものなんだなあ。自分では正しいつもりでいる。ぼくだって、自分を本当に正しい人間だと思って来たんだよ。でも、ちがうんだねえ、陽子」
「でも、おにいさんは正しいわ」
「本当にそう思うのかい、陽子。正しい人間なら、決してあやまちは犯さないはずだよ」
三井恵子が、車を運転して帰るのを知りながら、自分はショッキングな言葉を吐いた。それは高木にいわれたとおり「運転手に酒を飲ませるより、もっと危険なこと」だった。それをあえてしたのは何か。自分の心の中にいつも巣喰っている、人を責める思いではないか。夏枝を責め、啓造を責めて来た思いが、恵子をも責めずにはいられなかったのだ。つまりは人を責める自分の心が、あの事故を引き起こしたのだ。
「おにいさん、何があったの? やはり陽子心配だわ」
「いや、ただ、自分のいままでの生き方に、自信を失ったんだよ」
「まあ、わたしと同じことをおっしゃるのね、おにいさん」
「そうかなあ。陽子は自分を罪深いと思って、生きているんだろう。ぼくはね、罪ということはよくわからないが、自分という奴が、何とも浅薄で、いやらしくてならないんだ」
徹は、恵子に向かって語っているような気持ちだった。あの血の気のない顔を思うと、徹はいても立ってもいられない気持ちだった。
陽子はふと、徹が他の女性と、あやまちを犯したのではないかと思った。陽子はじっと徹を見た。が、静かにいった。
「おにいさん、わたしもね、自分がいやでたまらないの」
陽子はたもとを、ひざの上においた。
「うん、それがようやく、今になってぼくもわかったよ」
徹は、生まれて初めて陽子と本当の会話をしているような気がした。
「わたしね、おにいさん。川原で死のうと思ったあの時までは、自分が美しいと思っていたわ。罪深いと気づいたはずなのに、わたしはわたしを肯定していたわ。肯定していたから死のうと思ったのね」
「陽子は罪深くはないよ。清らかな人間だよ」
「うそよ。わたしって、いやな人間よ。すごくいやな人間よ」
陽子の激しい言葉の中に、徹は陽子の深い悲しみを感じた。以前にはわからなかったそれが、いまは何かわかるような気がした。
「しかしねえ、陽子。陽子は人を傷つけたり、人の悪口をいったりしたことのない、人間じゃないか」
「そうよ、おにいさん。わたしもそう思っていたのよ。わたし、すごくまちがっていたのね。外に現れた行為だけが、自分の姿だと思っていたのよ。わたしは確かに、人を悪くいうことは嫌いだったわ。あたたかい言葉で、人に接しようと思って来たわ。でもね、人間って、じっと身動きもしないで山の中にいたとしても、本当にどうしようもない、いやなものを持っているとわかったわ」
「…………」
「おとうさんは、夢の中でしたことも、自分の責任だっておっしゃったわ。そして、夢にも現れない、無意識の自分もあると、おっしゃったわ。自分でも知らない自分があるなんて、こわいみたいだけど、人間って、そんな責任の持てない存在なのね」
徹は深くうなずいた。
「おにいさん。今日ね、陽子育児院に行って来たの」
「育児院に? 何しに……と聞くほうがやぼかな」
「本当は乳児院に行って見たかったのよ。自分自身を見つめるために、わたしはそれが、どうしても必要な気がしたの。でも、旭川には乳児院がないでしょう」
「なるほど。それで、育児院はどうだった?」
「わたし……あのね、子供たちがこういってたわ。おとうさんとおかあさんは結婚しているのかって。まだ小学生の三年生か四年生の子供がよ。一番先にそんなことを聞くのよ。あの子たちにとって、それが一番大きな問題なのね。結婚しているっていったら、それならいいさって、子供たちがいうのよ。あの子たちは、自分たちの親が結婚していないことで、悲しい思いをした過去を持っているのね」
「うーん、三年生や四年生の子供たちがねえ」
「わたしだって、結婚した仲に生まれたんじゃないわ。子供を生むって、親になるって、いい加減な気持ちではいけないのね。いい加減な気持ちでは」
「なるほどねえ」
「わたしって、本当に悪い人間よ。あの子供たちを見ながら、あの子供たちの親が憎くて仕方がなかったわ。そして、わたしを生んだ人もね。生涯、どんなことがあっても、わたしは、自分を生んだ人にだけは会いたくないわ。恐ろしいことをいうでしょ、わたしって」
徹は腕を組んで陽子を見た。陽子の目がきらきらと輝いていた。それは、昔の陽子のようだった。だが、どこかがちがっていた。
「そうか、小樽のおかあさんには、生涯会わないつもりか」
徹は少しきびしい顔になった。
「母親だとは思っていないの」
陽子はきっぱりといった。
「じゃ、陽子はたとえどんなことがあっても、会いたくないというんだね」
陽子はうなずいた。徹は額に手をやって、何かを考えていたが、顔を上げていった。
「ぼくはさっき、自分の生き方に自信を失ったって、いったね」
やさしい声に戻った。
「ええ、おっしゃったわ。わたし、それが気になっていたの」
「ぼくがどんな経験をしたか、陽子にはわからないだろうね」
「…………」
「ぼくはねえ、陽子、重大な過失を犯したんだ」
陽子はハッと徹を見た。やはり女性関係の過失かと思った。
「過失?」
「うん。ぼくはひとに、大けがをさせてしまったんだよ」
「まあ、大けが?」
「うん。相手は誰だと思う? 陽子」
「わからないわ」
陽子は低く答えた。
「ぼくはねえ、このことはいうまいと思っていたんだ。いっても仕方のないことだからね。しかし、いまの陽子の言葉を聞いて、ぼくは黙っていられなくなったんだ。陽子、ぼくがけがをさせたのはね、あの三井さんなんだ」
「え?」
陽子の顔に、驚きの色が走った。
「あのひとを母親と思っていない陽子には、無関係な話だろうけどね」
陽子は長いまつ毛を伏せた。徹は、三井恵子に会ったいきさつと、その交通事故を手短に話した。
「ぼくも、陽子と同じ気持ちだったからね。ついあのひとを責めてしまったんだ。あのひとは落ちついていた。だが、事故はその直後だったんだよ。結局は、ぼくが軽率だったんだ」
徹は自嘲してつづけた。
「あのひとだって、痛みを感じていたんだ。それをぼくは、えぐるようなことをいってしまって……」
「…………」
「外に出ようか。ぼくは、今日少し陽子と話をしたいんだ」
うなずいて、陽子は徹の後から庭に出た。見本林の暗い木立を透かして、赤い半月が低く見えた。
恵子の事故を聞いた陽子の気持ちは、さすがに複雑だった。無縁だと思ってはみても、やはり平静ではいられなかった。
林の中の草むらで、何か虫が鳴いていた。遠くに蛙の声も聞こえる。徹と陽子は、肩を並べて、夜の林に入って行った。丈高いストローブ松の林の中に、ベンチがあった。
「静かだなあ」
徹は腕組みをして梢を見上げた。
「静かね、林の中は」
ベンチに陽子が腰をかけた。二人はしばらく、そのまま黙っていた。暗さに目が馴れて、林の中の草むらが、次第に形を見せて来た。その草むらがかすかに揺れている。
「陽子、ぼくはね、小樽のあのひとに会って、何だか、いろんなことがわかったような気がするよ。中川光夫という男性が、人妻のあのひとを好きになったことも、あの人が、その気持ちにこたえたこともね」
「…………」
「ぼくだって、あのひとが好きだ。陽子に似ていない部分も多いけれど、やはり似ているんだ。あのひとは、夫のいる身で恋愛をした。しかし、そうだとしても、その恋愛は美しかったように、ぼくには思えるんだ」
うちわで、足もとの蚊を追っていた陽子の手がとまった。
「美しくなんかないわ、おにいさん」
遮るように陽子はいった。
「どうして? 陽子はあのひとに会ってみるといいんだよ。そうすればきっとわかると思うんだ。あのひとは美しい恋をする人だよ」
「おにいさん。美しいものには、美しい実りがあるはずよ。美しい恋をする人が、どうして子供を捨てるの。やさしく人を愛することのできる人が、どうして夫を裏切ったり、吾が子を捨てたりできるの」
激しい陽子の言葉に、徹は黙って陽子の傍にすわった。
「今日わたしが会った育児院の子供たちだって、恋愛によって生まれた子供たちかも知れないわ。でも、あの子たちを見て、わたしは決して美しい実りだとは思えないわ。あまりに悲し過ぎるわ」
陽子らしい、潔癖な憤りだった。
「陽子の気持ちもわかるよ。だけどねえ、ぼくは甘いのかなあ。でもやっぱり、陽子には生みの母を恋しがるやさしさを持っていてほしいんだよ」
「じゃ、おにいさん。わたしに怒っちゃいけないっておっしゃるの。夫を裏切ったり、子供を捨てたりした人を、少しも怒らずに、懐かしく思えとおっしゃるの。いやよ、陽子。わたしはまだ二十前よ。いまからそんなおとなを憎めなくなったら、悲しいわ」
「ごめんよ、陽子。陽子の気持ちがわからないわけではないんだ。だけどね、現実にあのひとは今、三カ月の重傷を負っているんだよ。原因がぼくの軽はずみだっただけに、ぼくは陽子に、あのひとを許してやってほしいような気がしてね」
陽子は、次第に移る月を、松の梢越しに眺めた。雲がひとつ、月と行き交って流れた。
「人間と人間のかかわりって、わたしはこわいわ」
「人間のかかわりが、こわいって」
「こわいわ。人と知り合うことも、親しくなることも、みんなこわいわ」
「じゃ、ぼくもこわい?」
一呼吸おいて、陽子はいった。
「こわいわ。おにいさんも」
「どうして? どうしてぼくがこわいの」
忙しくうちわで足もとの蚊を払いながら、陽子は答えなかった。
「どうしてぼくがこわいの」
再び徹が尋ねた。
「おにいさんだけじゃないの。とにかく人とかかわることがこわいのよ。どんなふうにつきあっても、結局は傷つけてしまうような気がするんですもの。だから縁の深い人ほどこわいの。おにいさんなんか、一番こわいわ」
徹は思わず息をつめた。陽子は北原よりも自分を、縁の深い者と思ってくれてるのだろうか。
「わたしね、おにいさん。だから軽々しくは動きたくないの。どんなことにも。小樽のひとにも」
徹の感情を制するような、静かな語調だった。徹は陽子の気持ちをとらえかねた。
「わかったよ。ところでね、陽子。ぼくはさっきから陽子にいいたいことがあったんだ」
「なあに、おにいさん」
その声は、驚くほど三井恵子に似ていた。
「陽子、陽子の一番大事なものは何だ? 命だろう」
「そうね。命かも知れないわ」
「ぼくはねえ、いままで陽子を見て来て、陽子が人からの贈り物を、いつも感謝して受けることに、感心しているんだ。花一輪だって、陽子は喜んでくれるからね」
「わかったわ、おにいさん。着物より、指輪より大事な命を生んでくれたひとに、もっと感謝しなさいって、おっしゃりたいんでしょう」
「そのとおりだよ、陽子。あのひとは、少なくともその陽子を生んでくれたひとなんだよ」
「生みたかったか、どうかはわからないわ」
「そんなことをいっちゃいけないよ、陽子。それは陽子自身を傷つける言葉だからね」
「でも、人工中絶の許される時代だったら、きっとわたしを生まなかったと思うの」
「いや、けっこうおろす手はあったようだよ。その時代もね。薬なんかもあったらしい。それで思い出したがね、ぼくの病院で、今年両足のない赤ン坊が生まれたよ。その親は、薬を何べんも飲んだんだ。そしたら、両足だけが流れたんだね」
「まあ、恐ろしいわ」
「全く恐ろしいよ。その上、かわいそうに、手の指は三本だ」
「まあひどい! どうするのよ、その子の一生は」
「全くだね。しかもその子の親はね、こんな子を育てることはできないっていうんだ。世間に恥ずかしいし、夫婦仲も悪くなるっていうんだよ」
「勝手だわ、ひどいわ。そんな薬を飲んだのは、赤ちゃんじゃなくて、親じゃないの。自分のしたことに、何の責任も感じないのかしら」
「おろそうと思ったくらいだからね」
「おにいさんは、一体どうお思いになるの」
「恐ろしいことだと思うよ。だからこそ、五体満足に生んでくれた親には、理屈ぬきに感謝すべきだと思うよ」
陽子は黙った。
「一番大事な命を与えてくれたのは、何といっても親なんだからね」
「おにいさん。陽子はね、命よりも大事なものが、人間にはあると思うの」
静かだが、力のこもった声だった。
「わたし、生んでもらったのか、生む意志がないのに生まれたのか、それは知らないけど、とにかくこの世に生まれたわ。でも、こんな生まれ方って、肯定はできないわ」
「陽子って、きびしいんだなあ」
徹は苦笑した。
「きびしいかしら、わたし。わたし、ごく当然のことをいっていると思うの。おにいさん、人間の生まれ方って、すごく大事なことよ。それはおにいさんだって、わたしを見ていて、わかってらっしゃると思うの」
もし自分が、生まれてすぐ乳児院に預けられるような境遇でなければ、辻口の母にいじめられることもなかった。佐石の娘とまちがえられることもなかった。自殺に追いこまれることもなかったのだ。
「うん、よくわかってはいるよ」
「いいえ、わかってはいらっしゃらないわ。わかっていらしたら、おにいさんは小樽のあのひとを好きだなんて、いえないと思うの」
「それはしかし……」
「ね、おにいさん。わたしたちは若いのよ。若い者は潔癖な怒りを知らなければ、いけないと思うの」
「しかしねえ、陽子。陽子にとって、いま大事なことは、生みの母を責めることだろうか。人を責めたり、恨んだりする生活に、どんな実りがあると思う?」
「責めなければならないことってあるのよ、おにいさん。不義によって生まれたということが、わたしの心に、どんな暗い影を落としているか、おわかりになる? わたしはまるでどぶの中で生まれたようなものよ。わたしなど辻口家にもらわれたから、まだしあわせだけど」
あじさい
玄関に、女の下駄や、子供の靴がいっぱいに脱がれてあった。踊りのけいこ場のほうから、三味線の音が聞こえて来る。
「ハイ。一と二と三と、でトン。手はそのままで、首を……」
歯切れのいい辰子の声が、あけ放たれたけいこ場から聞こえて来る。微笑して耳を傾けていた夏枝は、そのまま黙って帰ろうかと思った。が、みやげに持って来たスイカを、台所において行こうと、上がりかまちに足をかけた。暑い日ざしの下を歩いて来て、夏枝は汗ばんでいた。こんな暑い日に、辰子はよく踊りのけいこなど、つけていられるものだと感心しながら、すぐ右手の台所に入った。
ボールを棚からおろし、水道の蛇口をひらいて水を入れた。ふと目の前の鏡に映った自分の顔を、夏枝は満足気に見つめた。と、鏡の中に女の影が動いた。内弟子かと思って、夏枝は何気なくふり返っていった。
「暑いですわね。スイカをここに冷やしておきますわ」
いってから、夏枝はハッとした。内弟子と思ったのは、黒眼鏡をかけた見馴れぬ女だった。女は、夏枝の声にちょっと驚いたようにいった。
「あ、失礼しました。どなたもおいでにならないと思ったものですから」
女は足をするようにして、手を前に伸ばし、夏枝の立っているほうに歩いて来た。
「あの……あなたは」
まじまじと見つめながら、夏枝は尋ねた。
「わたし松崎と申します」
夏枝は後ずさりするように、体を斜めに構えて、由香子の前から身を引いた。人の出入りの多い家である。由香子は別段、夏枝を怪しむ様子もない。
「お水をさしあげましょうか」
うろうろと、コップのあたりに手を伸ばしている由香子に、夏枝はいった。
「ありがとうございます。今日はお暑いですこと。おけいこは大変ですわね」
「ええ」
コップの水を由香子に手渡しながら、夏枝はあいまいに答えた。辰子の弟子とまちがえられたのは、幸いだった。けいこを終わった弟子たちが二、三人、台所に入って来た。
「のどがかわいたわ、からからよ」
若い主婦たちだった。夏枝はそっと、向かいの茶の間に入った。
由香子を見た夏枝は、このまま帰るわけにはいかないと思った。辰子は一体、いつこの家に由香子をつれて来たのだろう。何も知らせて来ないことに、夏枝は不審を感じた。確かに、由香子を旭川につれて来てほしいと、辰子に頼んだ。それにしても、事前に何かひとことあっていいと思う。まして、つれて来た以上何らかの報告があってもいいはずだった。ふだんの辰子にも似合わないと、夏枝は正座して辰子を待った。
茶の間の片隅に、白いカバーをした座布団が、七、八枚重なっている。けいこを終わった弟子たちが、三人五人と廊下を帰って行く。その足音を聞きながら、夏枝はきびしい顔をしていた。窓から見える庭の片隅に、大きなあじさいの花が、七つ八つ咲いている。夏枝は、あじさいのしんと静まり返ったようなふんいきが好きだ。だが、そのあじさいも、夏枝の心を和めてはくれなかった。
(もしかしたら……)
知らないのは自分ばかりではないか。啓造はとうに、由香子がこの家にいることを知っているのではないか。あるいはもう、会っているのかも知れない。それは単なる想像ではないような気がした。早く辰子に会って、確かめたかった。けいこ場からは、まだ三味線の音が聞こえる。幾人か弟子たちが帰って行ったかと思うと、またけいこ場に入っていく様子だった。夏枝はいらいらと時計を見た。既に四時に近い。そろそろ夕食の支度に取りかかる時間だと思ったが、やはり帰る気にはなれない。夏枝は、傍の受話器をとって、ダイヤルを廻した。発信音が五、六回鳴って、陽子の声がした。
「陽子ちゃん、今日、おかあさん遅くなるかも知れませんからね、すまないけどお夕食の支度をしてくださらない」
吾ながらこわばった声だと、それが夏枝をいっそう不快にさせた。
「ハイわかりました。何を作っておきましょうか」
「何でもいいわ。何かフライと冷たいコンソメスープぐらいでいかが?」
「それぐらいなら陽子にでもできるわ。おかあさん、今どこにいらっしゃるの」
やさしい陽子の言葉に、
「辰子さんのおうちよ」
と、いってから声を落として、
「陽子ちゃん、松崎由香子さんがここにいらっしゃってるのよ。陽子ちゃん知っていた?」
「松崎さんって、あの豊富温泉の?」
「そうよ……でも、おとうさんには黙っていてね。買い物で遅くなるって、そうおっしゃって」
「わかりました。ご心配なく」
受話器をおいてから、夏枝は少し気が落ちついた。じっとりと汗ばんでいる胸もとに、ガーゼのハンカチを押しあてながら、啓造にも電話してみようかと思った。が、それはやめた。啓造には、面と向かっていったほうがよいと思った。
「いやあ、お珍しい」
高校美術教師の黒江が、ポロシャツのボタンをはずして入って来た。夏枝はかすかに眉根をよせた。
「陽子君はどうしてますか」
黒江は快活にいって、あぐらをかいた。
「おかげさまで、陽子も変わりございません。先生もお元気で、何よりでございますわ」
陽子の高校の教師だった黒江に、夏枝もその程度の挨拶はしなければならなかった。
「暑いですねえ、今日は。辰ちゃんも、がんばるなあ。こんな暑い日に。珍しいお客さんに、お茶も出さないで。何か冷蔵庫を見て来ましょうか」
黒江は台所に立って行った。ややしばらくして、皿にスイカを盛って黒江が入って来た。
「ありましたよ、ありましたよ。あまり冷えてはいないようだけど、ま、どうぞお上がりください」
前におかれたスイカに、夏枝は驚いて黒江を見た。
「あまり甘くはないようですね。まあまあです。がまんしてください。やはりスイカは地物ですよね。しかし、旭川のスイカのうまくなるころは、単衣《ひとえ》じゃ寒いころですからね」
夏枝が持って来たスイカとも知らずに、黒江は勝手なことをいった。
自分の持って来たスイカを、辰子より先に夏枝は食べることはできなかった。
「ええ、このところ夏休みでしてね。うちにいるよりは、ここのほうが居心地がいいんです。今日はエンドウ豆のいいのがあったんで、豆ご飯を食べたいと思って、持って来たんですよ」
「先生は、まだ独身でいらっしゃいますの」
「辰ちゃんのような気性の女に、出会うといいんですがねえ。女っていうものは小うるさくて……。奥さん、せっかくのスイカがぬるくなりますよ。あまりうまくもないのが、ぬるくなっちゃ、味が落ちる。さ、早くお上がりください」
「ありがとうございます。ところで先生、さっき台所でお目の不自由な女の方をお見受けしましたけど……」
「ああ、由香子さんね。辰ちゃんのお抱えマッサージ師ですよ」
黒江は事もなげにいった。
「まあ、そうでしたの。いつからこちらに」
「はてね、祭り前だったから、まだ十日にはならないかな」
「まあ、十日前」
「やれやれ、今日はまだ誰も、ご飯の支度を始めていませんねえ。仕方がない、わたしがおさんどんをしますかねえ」
黒江は、食べ終わったスイカの皿を持って、茶の間を出て行った。
(ひどいわ、十日も前から)
夏枝はたまりかねて、けいこ場に立って行った。けいこ場には、まだ四、五人、弟子たちが舞台の前にすわっており、舞台には、辰子と二人の少女が蛇の目傘を持って、踊っていた。
蛇の目傘を持った辰子が、かがんで舞台に目を落としている。それは、小川にそぼふる雨を見ている芸者の風情だった。本当に辰子のまわりに、雨が降っていると、夏枝は錯覚した。しかも、浴衣を着た辰子が、しっとりした芸者姿に見える。芸の力だった。
踊っている辰子を見ると、夏枝はかなわないと思う。それはもはや、友人の辰子ではなく、一芸に秀でた藤尾辰子という別人である。
二、三度けいこがあった後、弟子たちがていねいにお辞儀をして帰って行った。それまで、夏枝の存在に気づかなかった風で、辰子が帯の間に片手を軽く入れて近づいて来た。
「お待ち遠さま。いつ来たの」
夏枝は固い表情を見せて、
「もう一時間以上になりますわ」
「それはお気の毒さま。何よ、文句のありそうな顔をして」
辰子は夏枝の肩をポンとたたいた。
「ひどいわ、辰子さん」
「何が?」
「何がって、松崎さんのことよ」
「そんなことだろうと思った。茶の間より、けいこ場のほうが、風通しがいいわよ」
受け流して、辰子は舞台の前にもどって行った。
「足を横になさいよ」
うすい座布団をすすめて、辰子は横ずわりになった。内弟子が冷たいサイダーと、おしぼりを二つ運んで来た。
「先生、黒江さんが、エンドウご飯を炊いてくれましたわ」
何がおかしいのか、内弟子が肩をすくめて笑った。
「それはごちそうさまね。あなたがた、助かったでしょう」
黒江と何かあったのか、内弟子がなおも笑いながら立って行った。
「辰子さん、松崎さんはいついらっしゃったの」
「まだ十日にもならないわよ」
「どうして知らせてくださらなかったの」
「だって、彼女が、当分誰にも知らせないでくれっていったからよ」
「まあ」
辰子と自分は親友のはずである。その親友の気持ちよりも、由香子の気持ちを重んじたのかと、夏枝は不満だった。
「それにねえ、夏枝。あの子のことには、ダンナもあんたも、縁のない顔をしているほうが、いいんじゃない?」
「だって旭川に連れて来てくださいって、おねがいしたのはこのわたくしよ」
「でも夏枝、わたしは頼まれたから連れて来たんじゃないわよ」
「わかりませんわ、わたくし。辰子さんのおっしゃること」
「つまりね、こういうことよ。確かに、あの子を連れて来てって、あんたはいったわよ。手を合わせて拝んだりしてさ。でもね、わたしは最初から、あの子をここに連れて来る気はなかったの。彼女だって、そう簡単に来やしないと思ったし……。目が悪くなければ、ほっとくところだったけど」
すねたように夏枝はうつむいている。
辰子が一人で豊富温泉に出かけたのは、二十日ほど前だった。村井や啓造の話を聞いて、由香子を哀れとは思ったが、一方、勝手な女だという気持ちも、ぬぐえなかった。辰子はけいこ場を弟子たちに委せて、十日の休みを取った。十日あれば、少なくとも由香子の生活や心境のあらましを、知り得ると思ったのだ。決断力と共に、そうした慎重さも辰子にはあった。
着いた夜、辰子は直ちに由香子を呼んだ。そして、何もいわずに由香子に体をもませた。もみ終わった時、辰子はいった。
「あなたって、一つことに打ちこむほうね。もみ方でわかる。あすの晩も来てちょうだい」
ほめられた由香子は、ふっと淋しい笑顔を見せた。翌晩、
「お客さんは、何かお仕事を持った方ですね」
と、遠慮勝ちに由香子は尋ねた。
「どうして?」
「お人柄が、ただの奥さんとはちがいます。それに、お体も引きしまっていて……」
「ありがとう、踊りをしているのよ」
「なるほど、踊りのお師匠さんでしたか。わたしも、ずっと昔、踊りを習ったことがあるんです。でも樺太にいた時ですもの、みんな忘れましたわ」
「そう、樺太から引き揚げたのね。お互いに戦争には痛い目にあわされたわね」
「先生も、空襲か何かに……」
「ひどい目にあったわ。好きな人に獄死されたのよ」
「まあ! 獄死ですって」
もむ手がとまった。
「思想犯でしたか」
「無論そうよ。でもね、何も大それた人じゃなかったのよ。この戦争は必ず負ける。聖戦だなんていっても、一部の奴の利権のためにやっているんだ。それがどうして国民にはわからないのかって、いってたわ。今の世なら、誰でもいうことをいっただけなのに……。細い目だったけど、よく時世を見通していたわ」
淡々とした語調だが、辰子の思いが、今の由香子には沁みとおるようだった。
「わたしは、そのひとの子を生んだのよ。でも、すぐ死んじゃったけどねえ」
「先生、わたしも好きな人がいたんです」
辰子の話に誘われたように、由香子も自分のことを話し出した。既に辰子の知っている話だが、目の見えない由香子の口から聞くのは哀れだった。
「女って、かなしいわねえ」
聞き終わって、辰子はしみじみといった。その夜以来、由香子は辰子に全く心をひらくようになった。辰子には生来、人を頼らせる何かがあった。
由香子は、幼い時の思い出や、引き揚げた時の苦労などを次々に語ったり、辰子に誘われて、共に温泉にまで入ったりした。辰子は辰子で、昼食に誘ったり、由香子が引き揚げた稚内港まで連れて行ったりした。また、一度でいいから行ってみたいといった由香子の言葉を心にとめて、サロベツ原野の原生花園にも連れて行った。
こうして一週間たった時、辰子は明日帰ると由香子にいった。
「お帰りになるんですか、先生」
由香子はしょんぼりと肩を落とした。顔色さえ青ざめていた。
「帰るわよ」
わざとそっけなく辰子はいった。
「おねがいです。もう一晩お泊まりになってください。わたし、お別れするのがつらいんです」
マッサージ師が客にいう言葉ではなかった。
「つらいのはわたしも同じよ。よかったら、あなたもわたしの家にいらっしゃい。わたしの専属になってもらうわよ」
「え? 本当ですか、先生」
由香子は自分の耳を疑った。
「うそや冗談でいえますか」
既に、啓造や村井と親しいことも、辰子は話してあった。由香子はちょっと考えていたが、
「先生、お供させてください」
と、両手をついたかと思うと、激しく号泣した。由香子は、久しく人に甘えることを知らなかった。自分は天涯孤独で果てるものと諦めていた。何年間もの淋しさが、今の号泣となって噴き出たのである。
「こういうわけなのよ、夏枝。つまり、わたしとあの子は友だちになったということなの」
「辰子さんのお友だちに?」
心もとなさそうに夏枝がいった。
「わたしは、あの子に三味線でも仕こんで、もっと、意欲的に生きることも、教えたいと思うの。女が一人で生きているって、どんなことか、わたしも一人だから、わかるのよ」
辰子と自分の距離が、急に遠くなったように夏枝は思った。
「あの子を紹介するわ。二階に行ってみない?」
階段を上がると、三味線の音が消えた。
玉のれんをかきわけて、辰子が先に部屋に入った。
「お客さまですね、先生」
部屋の中で由香子の声がした。しっとりとした声だった。夏枝はためらいながら、部屋に入った。
「院長の奥さんよ、由香ちゃん」
「え?」
肩がぎくりと動いた。夏枝は、その由香子に、じっと目をすえてからいった。
「初めまして……」
由香子は、とまどったように頭を下げた。
「すみません」
「由香ちゃん、何もあやまることないじゃない」
「でも……いろいろご心配をおかけして」
由香子は、ようやく落ちつきを取りもどした。夏枝は何と言葉をかけてよいか、わからなかった。
「由香ちゃん、いま、奥方にもね、由香ちゃんはわたしと、これからずっと一緒に暮らすんだって、話したところよ。ここはあなたのうちなんだから、何も遠慮することはないのよ。誰にもね。ただ、人の旦那を好きになったりしては駄目よ。わたしは、そんな泥棒猫みたいなのは、好かないねえ」
それは、夏枝にも聞かせたい言葉だった。
「すみません、奥さま……。でも、わたしは院長先生に、握手一つしていただいたわけではありません。院長先生は立派な方ですわ」
「なあに、まあまあよね、夏枝」
辰子の言葉に、夏枝は笑えなかった。
「お目がご不自由で、大変ですわね。辰子さん、病院にはまだですの」
「それも考えているんだけど、ちょっと秋のおさらいのことで、東京にも行きたいし……。ついでに由香ちゃんを、東京の病院に連れて行こうかと思ってるの」
「まあ、東京へ?」
夏枝はねたましかった。辰子が、なぜそれほどに、由香子を大事にしなければならないのか。由香子には、そうされるだけの資格があるのか、と問いたかった。
「旭川にだって、池田先生や、立派な眼科の先生がいらっしゃいますわ」
「それは知っているけど、向こうの師匠の息子さんが、眼科医なのよ。第一、由香ちゃんを一人置いて、東京には行けないでしょ。何かと心配でね」
何かと心配、という所に辰子はアクセントをつけた。夏枝は仕方なく笑った。
「そうそう、夏枝。あなたも、陽子ちゃんでも連れて、茅ケ崎に行ってみない? わたしも、夏枝とゆっくり旅行をしてみたいわよ」
「おかあさんは、今日遅くなりますって」
陽子は、いつも夏枝のしているように、啓造の着替えを手伝おうと、啓造の後について来た。
「いいよ。陽子、一人で着替えるから」
ネクタイをほどこうとする陽子の顔が、あまりに間近で、啓造は狼狽した。
「いいわよ、おかあさんのかわりよ」
陽子は無邪気に、啓造のネクタイをといた。陽子の息が、啓造の頬にやさしくかかった。ワイシャツを脱ぐと、すぐに陽子が浴衣を肩からかけた。
「おかあさんは、買い物かね」
「ごめんなさい、よく伺わなかったの」
夏枝がいないと、やはり落ちつかないと思いながら、啓造は洗面所に立った。
「シャワーをお使いになる? おとうさん」
「うん、まあいい」
夏枝が留守では、シャワーを使う気にもならないと、啓造は洗面所の蛇口をひねった。ぬるい水が少し出て、すぐに冷たい水に変わった。
手を洗って茶の間にもどると、陽子が夕刊を持って来た。
「よく気がつくねえ、陽子は」
「あら、おかあさんのいつもなさることを、真似してるだけよ」
「そうか。そうかねえ」
いわれてみれば、それは夏枝の毎日していることだった。妻の夏枝がすることは、自分には、もう空気のように感じなくなっているのかも知れない。陽子のする一つ一つに、新鮮な喜びを感じている自分を、啓造は顧みた。
「そうよ、おとうさん。おかあさんは、女性のお手本よ。今だって、おとうさんに靴下をはかせてさしあげてるじゃないの。夕刊を出して、お茶を出して、とおかあさんは時々独りごとをおっしゃりながら、確かめていることがあるわ」
「そうかね。おかあさんは、そんなに気を使っているかねえ」
夏枝を新たに見直す思いだった。
「おかあさんがいらしてから、お食事になさいますか」
陽子は時計を見上げた。まだ六時少し前だった。
「そうだねえ、もうじき帰るだろう」
啓造は夕刊をひらいた。
「暑さのせいかな。交通事故の記事ばかりだよ」
台所で、陽子が何か返事をしたようだった。交通事故といえば、三井恵子はその後どうかと、啓造は気がかりだった。
陽子がお茶を持って来た。熱い番茶だった。暑い時は熱い茶がいいという夏枝の意見で、啓造は病院でも熱い茶を飲んだ。
「遅いね、おかあさんは」
「あら、おとうさんがお帰りになって、まだ十五分とたってはいないわ」
啓造は苦笑した。確かにもう一時間以上も、夏枝の帰りを待っているような心地だった。仕方なしに、啓造は再び夕刊をひらいた。
(もしや……)
村井の顔が目に浮かんだ。啓造はふっと不安になった。
「陽子、おかあさんは辰子さんの所ではないのかね」
陽子はぎくりとした。夏枝は辰子の家から電話をよこし、由香子が来ていると陽子に告げた。だが、啓造にはいうなと口どめされているのだ。
「さあ? どうかしら」
自分は上手にうそがいえないと、陽子は思った。
「ちょっと辰子さんの所に、電話をかけてごらん」
辰子の家によったと、夏枝は偽るかも知れない。啓造は、夏枝が村井に会っているものと決めてしまっていた。陽子はちらりと啓造を見て、ためらいながら受話器を取った。その陽子を、啓造は見まもった。陽子はゆっくりとダイヤルを廻した。途中でかけまちがって、再びかけなおした。話し中であった。
「お話し中よ、おとうさん」
陽子はほっとして、明るく告げた。
「そうか、話し中か」
啓造も対決をまぬがれたような気がした。夏枝は辰子の家にいると思っていたかった。はっきりしたことを知りたいようで、知りたくなかった。だが、何分もたたぬうちに、啓造はいった。
「陽子、もう一度電話をしてみてくれないかね」
「おとうさん、おとうさん何だか変わったみたいよ」
「おとうさんが?」
「そうよ。おとうさんは今まで、おかあさんのお帰りが遅い時でも、もっとじっと、落ちついていらしたわ。書斎に上がって、本など読んでいらしたのに」
啓造は再び苦笑して首をなでた。
「年のせいかね。年をとると、気が短くなるというからね」
「いやよ、おとうさんはお若いわ」
「しかし、もう五十だからね、陽子」
このごろ、鏡に向かう度に白髪が目につくようになった。黒い髪だとほめられて来たが、あれも四十代のうちのことだったかと、啓造は思うようになった。本当に自分は、年のせいで、妻の帰宅をいらいらと待っているのではないか。自分ではまだ若いつもりでも、知らぬ間に、自分の肉体も精神も、老人の仲間に入ってしまっているような、心もとない感じだった。
「育児院に行って来たんだって?」
夏枝から聞いていたことを、啓造は今まで自分の胸にしまっていた。
「ええ」
ふいに育児院のことをいわれて、陽子ははにかんだ。
「どうだったかねえ、育児院は?」
「そうね、ひとことでいうと、……みだりに人の親となるべからず、っていう感じよ」
「なるほど、みだりに人の親となるべからずか。これは痛いね」
「わたしね、あそこに行って、ますます人間がこわくなったの。お兄さんともお話ししたんですけど、人間って、本当に罪深いものなのねえ、おとうさん」
陽子は食卓の上の、伏せてある食器の位置をちょっとなおした。
「ああ、そうだよ。おとうさんはねえ……」
いいよどんで啓造は陽子の顔を見た。
「なあに?」
「いや、おとうさんはね、自分の罪のために、本気で悩むということを知らないと思ってねえ」
啓造はいいたかったことをいわずに、別なことをいった。本当はこういいたかったのだ。
(陽子、お前が自殺をはかった後、おとうさんはつらかったよ。つくづくと罪深いと思った。そして、その罪を許してほしいと、どんなに思ったかわからない。陽子も、遺書の中に、罪をゆるしてほしいって、書いてあったね)
しかしこの言葉は、陽子の傷にふれるようで、啓造には言えなかった。
「陽子も同じよ、おとうさん。ある時は自分を罪深いと悩んだこともあるけど、このごろは、かえってほかの人の罪深い処ばかり、目につくの。育児院を見ても、自分の生まれを考えても……」
「なるほど、それは無理はないね。大体陽子は、いわゆる罪を犯したことのない人間だからねえ。それに、罪という言葉は、吾々凡人にはどうもぴんと来ない言葉じゃないのかね。別段とりたてて、悪いことをしたわけではない、と思って、のんきに暮らしているからね。そうそう、罪といえば、この間こんなことを本屋で立ち読みしたよ」
一週間ほど前、啓造は書店に行った。このごろは書店に入ると、つい宗教書コーナーに寄る癖がついていた。それはキリスト教雑誌の随筆だった。
「ある人がね、牧師に、わたしには罪はない。なぜキリスト教は人間をすべて、頭から罪人扱いにするのか。それは一体どういうことなのだ、と詰めよったそうだ。するとね、その牧師が、じゃ君、あの大きな石をここまで持って来てくれないか、と庭の石を指さした。その男は、漬物石の倍もあるその大きな石を、よいこらしょと、運んで来た」
カラスがねぐらに帰って来たのか、林のほうでカラスの声がうるさかった。
牧師はさらに、その大きな石と同量ほどの小石を持って来るようにいった。男が、小石をたくさん集めて持って行くと、牧師は、今度はそれらの石を、元の場所にもどすようにといった。男は困った。大きな石だけは、どこから運んで来たか、はっきり覚えている。だが、たくさんの小石は、どこにどの石があったか、わかるわけはない。小石は一つも元にもどせなかった。
「おもしろいお話ね」
聞き終えて陽子がうなずいた。
「おもしろいだろう。つまり、人を殺した、強盗に入った。これが吾々には大きな石なんだね。しかし、うそをいった、腹を立てた、憎んだ、悪口をいった、などという日常茶飯事は小石なんだな。つまり、ひとには始末のつけようがないんだね」
啓造はふと、病院でのできごとを思い出した。六人部屋に一人の老婆がいた。糖尿病だった。それが突然、医師の許しも得ずに退院した。理由は、同室の若い女たちが、自分に言葉をかけてくれないということだった。患者たちの話では、全く言葉をかけなかったわけではない。が、つい若い者だけで話し合い、老婆は話の圏外にあったという。つまり、若い女たちは老婆に無関心であった。その無関心が、老婆にいたたまれぬほどの疎外感を与えたのだった。これが一家の中でなら、家出になり、あるいは自殺にまで追いこまれるかも知れない。一人一人にとっては、何の罪意識のない行動のつもりでも、この老婆にとっては、その無関心は、鞭打たれるよりもつらかったにちがいない。
若い女たちは、誰一人、自分は悪くはなかったと思っている。彼女らにとっては、その行為は小石でさえもないのだ。憎んだり、悪口をいったりする積極的な罪さえ、世の常と思っている。まして無関心などは、意識にすらのぼらないのだ。
啓造は、自分が無数の大小の石を、毎日積み上げて来たような気がした。そして、そのぼう大な石の山にすわって、自分には罪はないと、思いたがっているような気がした。
「恐ろしいものだねえ」
啓造は、老婆と患者たちのことも陽子に話して、感慨深げにいった。
玄関のあく音がした。啓造は時計を見上げた。陽子が小走りに玄関に出て行った。
「ただいま。ごめんなさい、あなた。まあ、先にお食事をしてくださったら、よかったんですのに」
夏枝は機嫌がよかった。
「うん」
啓造はむすっとして、夏枝を見なかった。夏枝は陽子に目くばせし、肩をすくめて、あでやかな笑顔を啓造に向けた。
「あなた、辰子さんがね、東京にいらっしゃるんですって。わたくしにも、茅ケ崎のおじいさんの所へ、一緒に行こうとおっしゃるのよ」
「なんだ、辰子さんの家に行っていたのか」
思わず啓造は、夏枝の顔を見上げた。
「あたり前じゃありませんか。わたくしが行く所は辰子さんの所ぐらいしか、ありませんわ」
「そうか。いや、そうだとは思ったがね」
たあいなく啓造の機嫌がなおった。陽子は、夏枝がなぜ口どめしたのだろうと、肩すかしにあった思いで、コンソメスープをカップに入れていた。
「ねえ、茅ケ崎に行ってもよろしいかしら」
夏枝は甘えるように、啓造のそばにすわった。
「ああ、いいとも。しかし、いまは暑いよ。旭川でも今日は三十二度だというからね」
「いいえ、今じゃありませんわ。九月に入ってからですわ。陽子ちゃんも一緒に行きましょうよ」
夏枝は買い物の包みをあけて、
「ハイ、これは陽子ちゃんのスカートよ」
と、ひろげて見せた。白に近い卵色の地に、小さな玉がうす青く沈んで見えた。
「まあ、すてき! すてきだわ、おかあさん。どうもありがとう」
陽子はうれしそうにいった。が、どこか夏枝の調子がはずれて見える。それが妙に気になった。
「ね、陽子ちゃん。あなたも茅ケ崎に行くでしょう。その時には新しくスーツを作ってあげるわ」
どこまでも夏枝は上機嫌だった。
「でも、おとうさんがお一人になるわ」
「いいよ、おとうさんは。たまには、独身生活にもどるのもいいだろう」
「そうですわね。高木さんだって、まだ独身ですもの。あなただってたまには、お一人でのんびりなさるほうが、いいと思いますわ」
啓造にはネクタイを買って来ていた。そのネクタイをちょっと結んで、啓造の胸に近づけた。そのしぐさもいつもの夏枝とはちがっていた。啓造もそんな夏枝に気づいていた。子供は熱を出す前に、はしゃいだり騒いだりする。それに似ていると思いながらも、啓造は悪い気がしなかった。
食事が始まると、夏枝はおかしそうに笑った。
「陽子ちゃん、黒江先生がね、おかあさんが辰子さんにさしあげたスイカをそれとも知らずに、おかあさんに出してくださったの。あまりおいしくないとか、何とかおっしゃって、こっけいでしたわ」
「まあ」
陽子も笑った。
「相変わらずですわ、辰子さんの所は。今日は黒江先生がご飯を炊かれたのよ。いつもいろいろな人が出入りしてますわ」
夏枝は啓造の顔を注視しながらいった。
「うん、そうかねえ」
もう啓造は、夏枝の話に耳を傾けていなかった。夏枝が帰ってくればそれでよかった。
「あなた、わたしたち四人で、旅行するつもりですのよ。わたくしと、辰子さんと陽子ちゃんと。あとの一人はどなただと思って?」
「うん、それもいいだろう」
話を聞いていなかった啓造は、いい加減な返事をした。
「いやですわ。あなたったら、ちゃんと聞いてくださらないんですもの」
「そうかね。うん、このフライはうまいよ」
啓造は冷えたホタテのフライをほおばった。
「フライでごまかしたりなさって! ねえ、わたくしと、辰子さんと、陽子ちゃんと、そしてあともう一人、誰かと旅行するって、申し上げたのよ」
「もう一人って誰かね?」
「おわかりになりません?」
「わからんね」
いってから、村井ではないかと思った。が、村井は東京へ行くほど、ゆっくり病院を離れることはできないはずだった。
「あなたのご存じの方ですわ」
「高木かね」
「ちがいますわ」
「誰でもいいよ。わたしは」
啓造は茶碗を陽子にさし出した。陽子は、啓造が気の毒になった。ここでこういいたいために、母の夏枝は自分に口どめしたのかと、味気なかった。といって、夏枝の気持ちに同情できないわけではなかった。
「本当にどうでもよろしいんですの」
少しからかうように夏枝が啓造を見た。
「ああ」
何か油断のならぬ気配だと、啓造は気づいた。相手はやはり村井かも知れない。村井は強引に休暇をとり、医局員に委せて同行するつもりかも知れない。そうだ、辰子の家には村井が来ていたのかも知れない。
「あなた。もう一人の方はね、もちろん女性ですわ。辰子さんの家にいらっしゃる人よ」
夏枝は注意深く、啓造の目の色を見た。
「なあんだ、内弟子の誰かかね」
拍子ぬけのした思いだった。
「まあ、あなた、ご存じなかったんですか。松崎由香子さんよ」
「え? 松崎?」
思わず啓造の声が高くなった。その驚きの表情を、夏枝は満足そうに見た。
「そうですわ。由香子さんは、もうすっかり辰子さんと仲よしですわ」
「いつからかね?」
「わたくしあきれましたわ。辰子さんもひどいとお思いになりません? 別段わたくしに頼まれたから連れて来たわけではないって、おっしゃるんですもの。でも、あなたか、わたくしにお電話をくださったって、よろしいじゃありませんか」
啓造の問いには答えずに、恨みがましく夏枝はいった。
交差点
芝生にすわるなり、徹が陽子にいった。
「北原も来るって、いっていたよ」
北海道庁の構内にある池の畔《ほとり》だった。エキゾチックな赤レンガの庁舎が、水に逆さに影を落としている。小波一つ立たない。札幌には珍しい風のない九月の午後である。
「まあ、北原さんが?」
陽子は驚いて、少し顔を赤らめた。
昨夜、札幌の徹から陽子に電話があった。F交響楽団の演奏会の切符が手に入った。明日は土曜日で、午後から体があく、二時半ごろ、道庁の南池の端で、待っているように、とのことだった。だがその時、徹は、北原についてはひとこともふれなかった。
「切符が三枚手に入ったんで、あいつも誘ったんだよ」
徹は弁解するようにいった。北原とは、陽子が、自殺を図って以来、初めての出会いである。当時北原からは、手紙が二、三度来た。だが陽子は、一度簡単な返事を書いただけだった。その後いつしか、便りも途絶えていた。陽子としては、あの遺書を書いた時点で、以前の自分は、一度死んだものと思っていた。その中で、北原へ手紙を書くのは至難だった。しかも北原の存在は、あの恐ろしい日をいやでも連想させた。
(何のために、会わせようとするのだろう)
陽子は、徹の気持ちをはかりかねた。
「北原を呼んで、悪かったかなあ」
池の端のカンナの花に目をやっている陽子を、徹はそっとうかがった。陽子は首を横にふって、
「……でも、突然なんですもの」
「未来は常に、突然やって来るのさ」
徹は例の持論をひょうきんにいった。そんな徹を見ると、陽子は微笑するしかなかった。そのまま二人はしばらく黙っていた。庁舎の中央の、一段高いドーム型の屋根に、静かに陽がさしている。庁舎の前で、背の高い外国人が、金髪の女をカメラにおさめていた。
陽子がぽつりといった。
「おにいさん、毎日何をしていらっしゃるの? 病院で」
「このごろは予診さ。食欲はありますかなんて、ばかげた質問をしているよ」
「ばかげた?」
「そうさ。目がトロンとしていて、ものをいう度に、肩で息する人間に、食欲のあるはずがない。そんな時でも、同じことを尋ねるのだからね」
北原に何と挨拶すべきかと思いながら、陽子は徹の言葉にうなずいた。徹も落ちつかぬ風に、ハンカチでいく度も首すじをぬぐっている。
「あ、北原だ」
徹が腰を浮かした。池の向こうのアカシアの木かげに、若い女性と肩を並べて歩いて来る北原が見えた。
すっと太陽がかげった。
「やあ、お元気そうですね」
北原が快活に近づいて来た。久しぶりに陽子に会えた喜びを、北原は率直にあらわした。
「すっかりごぶさた申し上げて……」
深々と頭を下げた陽子に、
「いや、ごぶさたはお互いですよ」
と軽く受け流して、北原はうしろの女性をふり返った。
「辻口、順子ちゃんだよ」
「ああ、何だ、順子ちゃんか」
北原と陽子の再会を注視していた徹は、高木の葬儀に共に二日手伝った順子を、それとは気づかなかった。
「この人が辻口の妹さんの陽子さん。陽子さん、相沢順子さんは高木先生のおかあさんの時、手伝った仲間です」
明るい紺のワンピースに、白いレースの衿が清楚だった。笑うと、深く小さな笑くぼが口もとにできるのが愛らしい。
「いつの間に、君たち友だちになったの」
「ええと、あのお葬式から、何日ぐらい経った時だった?」
順子を見返る北原の表情を陽子は優しいと思った。
「たしか、十日ぐらいよ。石狩の浜でばったりお会いしたのよ」
「ああ、半日、浜で一緒に遊んだね」
「それは奇遇だったねえ」
徹の声がはずんだ。
「そして今も、その道庁の門の所で、ばったりさ。辻口とここで会うといったら、順子ちゃんが会いたいって、ついてきたんだよ」
「偶然の連続だね、君たちは」
君たちという言葉に徹は力をこめた。
「うん、これが小説か映画だと、偶然が多すぎるといわれるところだね」
北原と順子が並んで腰をおろし、四人は徹、陽子、北原、順子と円になった。順子が、にこっと陽子に笑いかけた。陽子も微笑を返した。このひとには、確かに、「順子ちゃん」と呼ばれる愛らしさがあると、陽子は思った。
「ずっと、お元気でしたか」
傍の陽子に、改まって北原がいった。
「おかげさまで、体だけは」
「体だけは?」
北原はちょっと顔をくもらせて、
「とにかく、よくおいでになりましたね」
「おわびしてからでなければ、お目にかかれませんのに」
結局は自分が北原を裏切ったのだ。もし変心を責められれば、返す言葉がないはずである。詰問のないのをいいことに、一年半以上も手紙を書いていない。あの日、自分は死んだつもりだった。だが自分は、現実に生きている。――それは思いがけない発見だった。
「おわびなんて、そんな……。ぼくも陽子さんにお話ししたいことがたくさんあるんですよ」
北原が陽子にいった。その二人の会話に耳を傾けている徹に、順子が話しかけた。
「この赤レンガの建物、宮本百合子のおとうさんが建てたんですって?」
「そうですか」
「辻口さんは何人ごきょうだい?」
「二人です、あなたは」
「一人っ子なの。辻口さんは妹さんと似ていないのね。父親似と母親似に分かれたのかしら」
「さあ……」
徹は、北原と陽子の会話が気になり、そっ気なく答えた。ひっきりなしに通りを自動車が走る。徹は騒音に眉をしかめた。
「北原、どこかに河岸を変えないか」
「ああ、そうだね、植物園にでも行こうか。あそこは静かだし、近いから……」
北原と順子が立ち、陽子は徹に一足おくれた。順子が北原を見上げて、何かいい、うしろをふり返って、茶目っぽく笑った。
「辻口、君は愛想のない男だって、順子ちゃんが驚いてるぞ」
徹は頭をかいた。順子がふたたび、ふりむいて笑った。邪気のない笑顔だった。
「かわいい人だね」
少し遅れて来る陽子に、徹は歩みを合わせた。
「ええ、感じのいい方ね。高木さんの小父さんとお近しいの?」
「らしいね。薬局の娘さんだそうだよ」
徹も、くわしいことは知らなかった。
「おにいさん、愛想悪くなさったの?」
「いや、そんなつもりはなかったんだけど……車がうるさくてね」
徹は少しあわてた。陽子と北原の会話に、気をとられたとはいえなかった。道庁の門を出て、北原がふり返った。
「順子ちゃんが、陽子さんと話をしたいんだってさ」
きまり悪げに順子は陽子を見た。
「わたしも、お話ししたかったの」
二人は肩を並べた。陽子のほうが少し背が高かった。
「お家は薬局ですって?」
「そうよ。だからわたしが薬剤師にならなきゃ、父や母がかわいそうなの。でも、わたし、保育科に入ってしまったの」
「子供がお好き?」
「わたし一人っ子なものだから、子供をお人形みたいに思ってるところがあるのよ。結婚したら一ダースぐらい産みたいの」
「まあ」
順子は笑ったが、陽子は笑えなかった。なぜか育児院の子供たちの顔が浮かんだ。
順子は、陽子の表情には頓着なくいった。
「ねえ、陽子さん、あなたベビーを産んだ夢を見たことがない?」
「わたし? ないわ」
唐突な順子の問いに、陽子は驚いた。
「わたしね、見たことがあるの。高校の時、二度も見たのよ。二度とも男のベビーちゃんなの。すべすべした、かわいいあんよだったわ。わたしって、おかしいのかしら」
「よほど赤ちゃんがお好きなのね」
「好きよ。……あのね、わたしの部屋に、マリヤがイエス様を抱いている絵があるの。その影響かしらね。とにかくおかしいわね」
順子はあどけない目を陽子に向けた。
十字路まで来た時、信号が黄に変わった。徹と北原は、もう交差点を渡りきっていた。徹がふり返った。順子はその徹に、快活に手をふった。
「陽子さん、あなたのおにいさんって、清潔な感じね」
「ありがとう。北原さんも清潔よ」
「ええ、あの方もいい方よ。でも、わたしを子供扱いにして、少しおとなすぎるわ。友だちというより、小父さんみたい」
「小父さんはかわいそうよ」
二人は顔を見合わせて笑った。
「わたしね、この間北原の小父さんって、呼んじゃったの。北原さんはすまして、ハイって返事をなさったわ。ねえ、陽子さん、わたしあなたのおにいさんと、お友だちになってもいいかしら」
「どうぞ、わたしもうれしいわ」
信号が青になった。両方から一斉に人が動き出し、途中でいりまじった。高校生ぐらいの少年が、陽子の顔をみつめながら、すれちがった。思わず陽子はふり返った。少年もふりむいていた。鋭いまなざしだった。
「高校生かしら。あの男の子変ねえ」
順子もふり返っていった。
五十メートルほど先の、かえでの並木の陰に、徹と北原が二人を待っていた。
「今ね、何だか妙な高校生に会ったわ。交差点の真ん中で、立ちどまって陽子さんをじっと見てるのよ」
「ほう、何だろう。変質者かな」
「気味が悪かったわね。陽子さん」
北原は交差点のほうを見た。自動車の激しい往来だけが見えた。徹は気にとめぬように、たばこに火をつけている。
徹は、その少年が誰であるかを知っていた。たった今、徹もこの場所で会ったのだ。三井恵子の次男、達哉だった。包みを下げて、達哉が角を曲がって来た時、いち早くそれと気づいた徹は、
「北原、ここで彼女たちを待っててやろうよ」
と、さり気なく並木の下に寄って、梢を見上げた。そのうしろを、達哉は通り過ぎて行ったのだ。
やり過ごした三井達哉を、徹はじっと注視していた。やや右肩上がりのそのうしろ姿にまで、達哉のどこか一途な激しさが、現れていた。
(陽子に気づくだろうか……)
不安だった。その達哉が、交差点に立ちどまって陽子たちを見、陽子たちもふり返ったのを、徹はここからみつめていた。陽子たちが交差点を渡っても、達哉はなおも立ちどまって、見送っていた。今にも追いかけて来るような気がして、徹ははらはらしていた。
(そうだ。彼は病院に行く途中だったのだ)
今日は土曜日である。恐らく、達哉はいま、小樽から札幌に来たにちがいない。このあたりは、駅から恵子のいる病院への道筋になっている。
「どうした? 辻口」
黙りこくって、先に歩いて行く徹に、北原が不審そうにいった。
「何が?」
徹はとぼけた。
「急に黙りこんだからさ」
「そうかなあ」
徹はちらりと陽子を見、順子に微笑を見せた。
四人は植物園に入った。四万一千坪といわれるこの植物園は、街の真ん中にあるとは思えない静かさだった。あちこちに人の憩う、広い芝生をかこんで、道が左右に別れている。その道はさらに別れて、何百年もの樹齢を保つ木立や、深い草藪の中にかくれていく。
北原がまぶしそうに目を細めた。陽が照りはじめたのだ。道の傍に、ポロシャツを着た青年が、文庫本を顔に乗せて寝ていた。
「あら、ドストエフスキーの『白痴』よ」
本の名をのぞきこんだ順子が、肩をすくめた。
「『白痴』を顔にのせて寝ているなんて」
声をひそめて、順子はいたずらっぽく笑った。
「いいじゃないか。『白痴』で顔をおおっているとは、なかなか感じがあるよ」
北原の言葉に、順子は素直にうなずいて、
「そうね、賢き者なんて本だったら、もっとこっけいね」
「よろしい。今の言葉でぼくは安心した。なあ辻口」
徹ははっと吾に返ってうなずいた。達哉を見て、急に恵子の容体が気になっていたのだ。まだしばらく、恵子は入院生活をつづけなければならないのであろうか。暑い夏で、苦しかったことだろう。徹はため息をついた。
「順子さん、あなたって明るい方ね」
陽子が話しかけた。
「そういわれるわ、みなさんに」
「お幸せね」
順子はちょっと陽子を見てから、
「幸せよ」
と、立ちどまった。
順子は、徹や北原の少し遠ざかるのを待ってから、
「すわりましょうよ、わたしたちは」
と、芝生に腰をおろした。二人のそばを、和服姿の老人が、若い女と肩を並べて、ゆっくりと通り過ぎた。
「それは悲劇だね」
老人がいった。
「だって仕方がないわ」
若い女は涙ぐんでいるようだった。陽子と順子は二人を見送った。うしろ姿は普通の祖父と孫のように見えた。
陽子は、いま、老人の口から、悲劇という言葉が出たことに、何か意外な感じを受けた。
「いろいろな人生があるのね」
順子も、老人の言葉に耳をとめたのか、静かにつぶやいた。陽子は深くうなずいた。
「でも、与えられた人生を、精一杯生きなくちゃね」
順子は朗らかにいって、
「わたしね、さっき陽子さんが、お幸せねとおっしゃった時、ちょっとどきんとしたの」
と、陽子を見つめた。
「なぜ?」
「だって、あなたは幸せじゃないみたいな声に聞こえたの。ごめんなさい。わたしって単純だから、思ったことを、すぐいってしまうのよ」
「敏感なのね、順子さんって。そのとおりよ、わたしは幸せじゃないわ」
「でも、あんなにいいおにいさんがいらっしゃるし、わたし、あなたのおとうさんおかあさんにも、お葬式の時お会いしたわ。とてもいい方たちみたい」
「そうよ。いい親といい兄よ。でも、本当の人間の幸福って、結局は自分自身の内部の問題だと思うの」
幸福そうなこのひとには、わからないかも知れないと陽子は思った。
「それはそうね。生きる意義というか、目的というか、それがつかめないうちは、空虚よね。虚無的よね。虚無とは満たされてない状態ですもの、幸福感がないのは当然よ」
意外な順子の言葉だった。
「順子さんは満たされていて?」
「今は満たされているわ」
「じゃ、あなたも不幸なことがあったの」
「あったわ。不幸を知らない人には真の幸せは来ないわ。ね、陽子さん、わたしね、幸福が人間の内面の問題だとしたら、どんな事情の中にある人にも、幸福の可能性はあると思うの」
「どんな事情の中にある人でも?」
この一見無邪気そうな順子に、一体不幸を感じさせる何があったのだろうか。陽子は、エルムの大樹の下を行きつもどりつしている徹と北原に目をやった。順子が芝生に寝ころんでいった。
「陽子さん、天が高いわよ。人間が低くなると天が高くなるのね」
芝生にいる陽子たちを遠くに見ながら、北原はいった。
「……そうか。じゃ、陽子さんは、それとは知らずに、自分の弟に対面したわけなんだね」
「そうなんだよ」
「それにしてもねえ、あの通夜の後に、君が小樽のひとに会っていたとはねえ……」
「うん、君に黙っていて、気がとがめてはいたんだ」
「いや、君の気持ちはわかるよ。事、陽子さんに関することだし、それにいちいちぼくに知らせる義理もないわけだし」
徹には北原の言葉が痛かった。
「ところで北原、ぼくは、あの達哉という男の子を見ると、妙に不安な気がするんだ。なぜだろうね」
「さあてね。どんな子か、ぼくは知らないから、何ともいえないな」
突きはなすように、北原が答えた。
「直情的というのかな、どこか思いつめたような表情をしているんだよ」
「そういうのが、一番手に負えないよ。弾力性がないからね。若いうちから動脈硬化症にかかっているっていえるね。陽子さんのことを知ったら、さぞ面倒だろうな」
徹は不安そうに立ちどまって、カツラの幹の荒い樹肌に片手をつけていたが、
「それはそうと、君は一年半以上陽子と会わなかったわけだね」
「この十五日で、一年と八カ月だよ」
北原は即座に答えた。徹ははっとして北原を見た。即座に正確な年月が口から出るということは、北原にとって、陽子が過去の人になっていないということを、意味している。
「陽子は変わったろう」
「ああ、以前の陽子さんには、照り返すような、強い美しさがあったよ。しかし、今はどこか、憂愁が漂っていて、おとなになった感じだよ」
二人はしばらく黙った。かつてなかった重苦しい沈黙だった。北原は藪の繁みに目をやっていたが、思い切ったようにいった。
「辻口、ぼくは去年いったね。陽子さんのことは諦めようとね。そしたら君は、せっかちになるな、彼女の意志にまかせようといったね」
「うん、それで?」
「そうはいわれても、ぼくは諦めようと思ってきた。漱石の小説の『こゝろ』のような友人関係には、なりたくないと思ってね。しかし、今日陽子さんに会って、正直のところ、会わなければよかったとも思うよ」
「…………」
「辻口、人間、そう簡単に忘れられるもんじゃないんだね。とにかく君のいうとおり、せっかちにはなるまいと思うよ」
徹は、土の上に這っている木の根を、靴のかかとで蹴りながら、北原の言葉を聞いていたが、
「宣戦布告だね」
と、冗談めかしていった。
今日、北原と陽子を会わせたのは、二人の気持ちを確かめたい徹の考えからだった。
「そうだ。宣戦布告だ」
北原も笑った。
「そうか。ぼくは陽子さえ幸せになればいい。陽子が君を選ぼうと、他の男を選ぼうと、幸せになってさえくれれば、文句はない」
「本当か、辻口」
「うそじゃない。つらいけれど仕方がないよ。ただし、もし陽子を不幸にでもしようものなら、ただじゃおかないがね」
「そうか、やっぱり君にはかなわないな」
北原は芝生にいる陽子のほうを見た。
「……北原、君が順子ちゃんと一緒に現れた時、てっきり……と喜んだんだがね」
「順子ちゃんとぼくが? まさか。あの子は君にひかれているようだよ。葬式の時からね」
「冗談いうなよ」
「いや、冗談じゃない。辻口と友だちになりたいって、いくどもいっていたからね。ぼくはよほど、陽子さんのことを知らせようと思ったぐらいだ」
陽子と順子が近づいて来た。徹と北原は黙った。
「何のお話してたの?」
順子の問いに、北原が笑いもせずにいった。
「宣戦布告の話だよ」
「戦争の話? いやねえ、こんな静かなところに来ても、そんなお話なさるの。やはりそんな世の中なのね」
「君たちは、何の話をしていたの」
「わたしたちに、いま何が一番必要かっていうお話よ。ね、陽子さん」
四人は、小道を二列になって歩き出した。
「順子ちゃんは、何が一番必要だったの?」
北原が順子をふり返った。
「何だと思って?」
「ボーイフレンドかな」
「からかわないでよ。わたしにだって、ボーイフレンドより必要なものがあるわ」
「じゃ、マネー」
「マネー? 北原さんは、わたしを子供扱いにして、いけないひとね。わたしのほしいのは清い心よ」
「清いよ、順子ちゃんは」
「簡単に片づけないでよ。わたしって、見かけによらないのよ」
北原も徹も、順子を見て笑った。
「ひどいわ。ではね、陽子さんの一番ほしいものを、あててごらんなさい」
顔を見合わせた徹と北原に、
「陽子さんはね、素敵な男性が必要なのよ。北原さんのようなね」
「なんだ、こんどはこっちのからかわれる番か」
「そのとおりよ。陽子さんの一番必要なものは、わたし絶対に教えてあげないわ」
順子の頬に笑くぼが浮かんだ。
十六時二十分の発車には、まだ少し時間がある。プラットホームを行き来する人々の視線が、ちらりちらりと傍の陽子に注がれるのを意識して、徹は誇らかだった。
「これからは時々出て来るといいよ。旭川と札幌は二時間ぐらいだからね」
「ええ、来るわ。おにいさん、ゆうべのチャイコフスキーはよかったわ」
何か不安の渦まくような「悲愴《ひそう》」の曲が、まだ陽子の体の中に鳴っていた。この曲を書き上げたチャイコフスキーは、コレラで死んだという。死の予感が、あの名曲を生んだのであろうか。それとも、解き難い人生への深い懐疑が、あの名曲となったのであろうか。あれほどの偉大な作曲をなし得る人間にも、恐怖と不安があったのだろうか。陽子は昨夜から、人生の重たさを改めて感じていた。
「またいいのが来たら、買っておくよ」
「ありがとう。順子さんによろしく。北原さんにもね」
「ああ、北原も来るといっていたんだがね」
陽子が車内に入ると、すぐベルが鳴った。
「やあ、失敬、遅くなって」
何か包みを持った北原が駆けて来て、デッキに飛び乗った。と、同時にドアがしまった。
「あ! 北原」
思わず叫んだ徹に、北原はしまったというように、手を振って見せた。
徹は追いかけて行きたい思いで、遠ざかって行く列車をみつめていた。北原は最初から、陽子と一緒に乗って行くつもりだったのかもしれない。北原は出しぬいたのか。いや、出しぬくような男ではない。第一、そんなことをいう資格は、自分にはないと徹は思った。小樽の三井家を一人で探したり、通夜の後、北原に告げずに恵子に会ったりした。自分こそ彼を出しぬいたといわれても仕方がなかった。そうは思いながらも、突如陽子と共に去った北原を、徹はやはり許しがたい気がしてならなかった。
「辻口さん」
呼ばれて、ふり返った徹はドキリとした。恵子の長男潔が立っていた。生真面目な表情だった。
「あ! どうも」
「お見送りですか」
「ええ、まあ。あなたは」
陽子を見られたかと、徹はどぎまぎした。
「母を見舞って帰るところです」
小樽行の列車が、隣のホームに入っていた。
「いかがですか?」
徹は目を伏せたままいった。
「予定より半月ほど長引くらしいです」
「それは大変ですね」
「辻口さん、いまあなたが見送っていたお嬢さんは、どなたですか」
「ああ、妹です」
徹はたばこに火をつけて、潔の視線を避けた。
「妹さん? 妹さんですか」
潔はちょっと考えるように徹を見て、
「……そうですか。驚いたなあ。うちのお袋さんに実によく似ていますね」
と、急に快活にいった。
「そうですか。そういわれれば、どこか似ているかも知れませんが」
徹はたばこの煙を深く吸いこんだ。
「どこかどころじゃありませんよ。似すぎていますよ」
「そんなに似ていますかねえ」
徹は気が気でなかった。
「そういえば、弟の達哉がいってましたよ。昨日、母とそっくりの娘さんに出会ったとね。ぼくは別に気にもとめなかったんですが、もしかしたら、あなたの妹さんと会ったんじゃないかなあ」
「さあ。似た人間は世界に三人いるそうですから……」
苦しまぎれに徹はいった。
「妹さんは、札幌に住んでいられるのですか」
「いや、旭川です。すみません。ちょっと急ぎますので……」
「気を悪くなさいましたか。でも、ぼくにはすごく気になることがあるものですから」
その言葉に、徹は行きかけようとした足をとめた。
「気になること?」
「いや、あ、弟が来ました。あいつには妹さんのことは黙っててください。あいつにはちょっと……」
近よって来た達哉が、徹を見て立ちどまり、黙礼した。
「おそかったね、達哉」
「うん、でも、まだ二分あるよ」
今日はやさしい達哉の口調だった。
「じゃ、お大事に」
徹は逃れるように、二人の前を去った。肌がじっとりと汗ばんでいた。潔が何かに感づいているようで、不安だった。北原が陽子の列車に乗ったことも気がかりだったが、潔の言葉は更に不安だった。
ふいに徹は、恵子を見舞ってみようと思った。あの事故の直後、一度見舞っただけである。いまなら、あの二人の兄弟に、病室で会わずにすむ。
駅を出て、徹はほっと息をついた。のどがからからに乾いていた。駅前の水飲み場で、水を飲んだ。噴水のように、水は勢いよく徹の顔をぬらした。
(北原の奴!)
北原は、陽子と肩を並べて話し合っているかもしれない。波立つ思いをおさえて、徹は雑踏の中に入って行った。陽子の傍にいる北原の姿をふり払うためには、恵子を見舞うしか、手段がない思いだった。
恵子はベッドの上に起きていた。濃いぶどう色の、厚地のネグリジェと、短く刈り上げた髪型が、恵子を初々しく見せていた。
「まあ、ようこそ」
入って来た徹を見て、恵子はちょっと驚いたが、すぐになつかしそうに微笑を浮かべた。
「ごぶさたしまして。その後いかがですか」
「ありがとう、ごらんのとおり、元気よ」
「でも、半月ほど退院がのびたとか、潔さんに伺いましたが……」
「あら、潔にお会いになったの?」
「はあ、さっき駅で。……すみません、すっかり失礼していて。高木さんに、見舞ってはいけないと、禁じられていたものですから。ぼく、どうやっておわびしたらいいか、わからないんです」
「どうして? あなたが何をあやまるとおっしゃるの?」
親しみ深く、恵子は徹を見つめた。
「だって、あの夜、ぼくがつまらぬことを、お話ししたのが悪かったんです」
「つまらぬこと? そのつまらぬことをしたのは、このわたし自身よ。でも、わたし、あのお話を聞いて、心を乱すような女じゃないのよ」
「でも……」
「いいえ、あなたのせいじゃないわ。そんなことで心を痛めては、それこそつまらないじゃないの。ね、もうご心配はなさらないことよ。それより、わたしに何のお見舞いを持って来てくださったの。見せてちょうだい」
徹の両手に持っている包みを見て、恵子はにっこりと笑った。徹は何となく出しそびれて、持っていた包みを恵子に手渡した。
「まあ、マスカット! うれしいわ。わたしぶどうが大好きなのよ。どうしてわたしの好物がわかったの。あなた、これを洗ってくださる?」
病室にある小さなキッチンを、恵子は指さした。そこに水道とガス台があった。徹はうなずいてマスカットを洗った。水が意外に冷たかった。洗いながら、徹は恵子に甘えているような楽しさを感じた。
「いただくわ。ちょうどお夕食が終わったばかりなの」
「病院は、夕食が早くて大変ですね」
「そうね、馴れるまでは大変でしたけど」
恵子はマスカットを一粒つまんだ。マスカットは恵子の形のよい唇をぬらして、つるりとすべるようにかくれた。ぶどうを食べるのさえ優雅だと、徹は讃嘆した。
「おいしいわ。あなたも召し上がれよ」
「いや、ぼくは……」
「辻口さん、遠慮はなさらないものよ。わたしとあなたは、仲よしじゃないの。大事な秘密を分け合っているんですもの」
徹は、庭のナナカマドの木を見おろした。実が赤く色づいていた。
ぶどうを食べ終わった恵子に、徹はタオルをしぼって差し出した。
「ありがとう。やさしいのね。おかあさまはお幸せね」
恵子は、白い指を一本一本ゆっくりと拭きながらいった。
「おふくろには、わがままばかりいっています」
「甘えていらっしゃるのね。あなたのおかあさま、きっとおやさしい方ね」
「一般的にいえば、やさしいかもしれませんが……でも、女性って、どこか冷酷なところがありますよね。失礼、あなたも女性でしたね」
「そう、その冷酷な女性よ、わたしは。子供を捨てた人間ですもの」
「いや、そんな意味で……」
「考えてみると、生きるって冷酷なことかも知れないわ。牛でも鶏でも豚でも、いろいろな魚でも、人はバリバリ食べているでしょう。それだけでも冷酷よ。その上、人間同士何らかの意味で、傷つけ合っているわ。誰をも傷つけないで生きていける人は、一人もいないと思うの」
「…………」
「わたしなど、自分が産んだ子を人手に渡して、何くわぬ顔で、次男の達哉を産んだわ。だからわたし、あの子がこわいの。何だか、あの子がおなかの中に入っている間に、わたしの秘密を知ってしまったような気がするの。姉の匂いを嗅いでしまっていはしないかと思うの」
男にはわからない感覚だった。
「まさか、そんなことはありませんよ」
「でも、わたしの気持ちの上では、そんなうしろめたさを感じるのよ。あの子は赤ちゃんの時から、じっとわたしの顔をみつめる子だったのよ。澄んだ、どこか光る目で、じっとみつめられると、わたし、秘密を見透されているようで、恐ろしかったわよ、辻口さん」
恵子は長いまつ毛をそっと伏せた。肌までが、思いなしか青ざめて見える。少女のように、感受性の強い人だと徹は思いながらいった。
「そんな感じ方で、自分を責めてはいけませんよ。達哉君にも、微妙に影響するでしょうし……」
「たしかに、そうよ。達哉はとても、わたしに優しいの。でもデリケートな子よ。兄の潔とは大分ちがうわ」
「とにかく、殺人だって十五年で時効ですよ。もう、そんなふうに思うのは、おやめになったらいかがですか」
今まで徹は、達哉に二度会っている。その二度とも、徹はいい知れぬ圧迫を達哉から感じていた。純粋さと鋭さ、そして激しさが達哉にはあらわに出ていた。それは、確かに恵子のいうとおり、母の心のかげりを、胎内で既に知って来た魂のようにも思われた。
毛布をかけた足を、かすかに動かして、恵子は体をベッドの背にもたせた。
「でもね、辻口さん。時効は法律上の問題よ。良心に時効があってはならないと思うの」
恵子の片頬が微笑した。
「しかし、あなたは自分を責め過ぎていますよ」
「どういたしまして。わたしの良心ときたら、とてもお粗末なの。時々は覚めるけど、たいていは眠っているのよ。むろん、当座はつらかったわ。でも、次第に忘れて行ったわ。ただ、三井や、子供たちに知られることがこわくて、それでびくびくしていたような気がするの。これは良心の問題じゃないでしょ。人に知られては困るという、自分勝手な、いわば利己的な気持ちに過ぎないわ」
「そうかなあ」
徹は、そうしか返事のしようがなかった。
「そうよ。そうでしょう。たとえば人を殺して逃げる時、警察につかまるのがこわいというのは、良心の問題じゃないわ。殺して悪かった、すまなかったと、自首して出てこそ良心があるといえるわ。わたしは、人手に渡した子が不びんとか、夫を裏切って悪かったという思いより、正直にいって、誰にも知られたくないという気持ちのほうが、ずっと強かったわ。あなたさっき、殺人でも時効は十五年とおっしゃったわね。じゃ、夫を裏切って、他の男の子を産んだのは、何年の時効なの」
「…………」
「不義の子を産んだことを知られたくなくて、その子を乳児院にやった罪は、いったい何年の時効なの? ね、辻口さん、わたしの良心は、時効の年限が来るより前に、とうに眠ってしまっていたのよ。わたし、良心に時効があってはいけないと思っているのに」
恵子が、かすかに涙ぐんでいるのを、徹は見た。何か、自分が現れたために、恵子を苦しめているような気がして、徹はつらかった。
「辻口さん、わたしね、あなたにお会いして、良心が目ざめたような気がするの。なぜかしら、高木先生にお会いしていると、そうはならないのよ。あの方は、いわばわたしの共犯者ね。でもあなたはちがうわ。あれから二十年近くにもなって、初めてわたしの旧悪をあばいてくれたのが、あなたなのよ。交通事故にあったこと、あれもよかったのよ。誰も知らないと思っていたら大まちがい、あなたも知っていた、神様も知っていた。そんな気がしてならないの」
「すみません、ぼく……」
徹は、確かに自分は恵子を責めていたと思った。その思いが、山愛ホテルでの話し合いとなったのだ。だが今の徹には、もはや恵子を責める思いはなかった。交通事故にあっただけで、恵子の罪はじゅうぶんにあがなわれたのではないかと、徹は次第に暮れて行く窓に目をやった。
徹は立って、電灯のスイッチを入れ、そのまま壁によりかかって恵子を見た。電灯の下に恵子はうつむいて何か考えている。ふと徹は、この恵子に陽子を会わせたいと思った。
恵子は決して自己弁護をしてはいない。あまりにも素直に、自分の過失を認めている。自己を弁護する術すべを知らぬ者には、他の者が弁護に立ってやらなければならない。
陽子と恵子を会わせたいと徹が思ったのは、恵子の側に立ってのことだった。いま徹は、そのことに気づいてハッとした。自分はいつも、陽子の側に立って、ものを考えているつもりだった。なぜ、それがこのように変わったのか。徹はふしぎな気がした。いつ自分の胸の中で、陽子と恵子が一つに重なったのであろう。いや、そうではない、自分はどこまでも、陽子の幸せのために、恵子に会わせたいと思っているだけなのだ、と徹は思った。
「何を考えていらっしゃる?」
恵子の声音は、いつかと同じように、驚くほど陽子に似ていた。
「いいえ、別に……」
「そう……。あのね、辻口さん。達哉は昨日、わたしとそっくりの娘さんに、そこの交差点で会ったといって、興奮していたわ」
「…………」
「あなたに心当たりがあって?」
徹は恵子を見て、静かにうなずいた。
「いま、札幌にいるの?」
徹はベッドの椅子にすわった。
「昨日来て、今日帰りました」
達哉が陽子を見た様子を、徹は語った。
「まあ! 達哉が立ちどまって……」
恵子が目を見ひらいた。
「ぼくが離れていたのは、幸いでしたけれどね。でも、さっき、潔さんにも見られましたよ。ぼく、駅で陽子を見送っていたんです。そこを見つけられましてね。母にそっくりだが、あのひとは誰かって聞かれました」
「まあ、潔まで!? 潔もあの子を見てしまったわけなの。しかもあなたとご一緒の所を……」
恵子の顔色が変わった。恵子はしばらく黙って、ベッドの端に視線を落としていたが、
「……辻口さん、わたしとあの子が似ているということ、やっぱり天罰ね。自分では、万事かくしおおせたつもりだったけど、そんなに似ている生きた証拠があっては、もう、どうしようもないわ」
「そんなにご心配なさらなくても……他人の空似というじゃありませんか」
「なるほどね。都合のいい言葉をつくってくれた昔の人に、お礼をいうわ」
恵子はふと、腕時計を見ていった。
「三井の来る頃よ。あなた、会ってくださる?」
「えっ? ご主人がおいでになるんですか」
徹は思わず椅子から立ち上がった。
「いいのよ。会ってくださっても。わたしはそのほうがよろしいわ。あなただって敵の陣容を知っておいたほうが、多分有利のはずよ」
「しかし、今日は帰ります」
「そう、じゃ、またいらして。土曜と日曜を除いた日ならいつでも」
恵子は手をさしのべた。厚味のある、やわらかな、しかし意外に冷たい手であった。
「この握手を、陽子ちゃんにあげてほしいの」
徹はうつむいた。と、その時ドアをノックする音が聞こえた。さっと徹は手を引いた。弥吉が入って来た。
「お待ちしてましたわ、あなた」
「やあ、いらっしゃい」
その声にぺこりと頭を下げて、徹は弥吉を見た。思いがけない端正な紳士だった。今まで何となく弥吉に持っていたイメージとは全くちがって、美しいグレイの髪も豊かに、背筋を真っすぐに伸ばした、背の高い五十も半ばの紳士だった。商人というより、学者のような感じだった。そのあたたかいまなざしが、徹の心を打った。
「あなた、高木先生とご懇意の辻口さんとおっしゃるの。辻口さん、三井ですわ」
「三井です。ごていねいに恐れ入ります」
徹はかたくなって挨拶を返した。
「マスカットをお見舞いにくださったのよ」
「それは、それは」
弥吉はていねいに頭を下げた。
「では、失礼いたします。くれぐれもお大事になさってください」
徹はどちらへともなくいって、あたふたと部屋を出た。とても平然と話をつづける勇気はなかった。
ビルの窓々にはすっかり灯がともり、時雨の来そうな空が、街の上をおおっていた。徹は一目で弥吉に好感を抱いた。恵子にも、むろん好意は持って来た。だが、徹は今、恵子よりも弥吉に同情を感じた。
あの弥吉をなぜ恵子は裏切ったのか。徹はひどく残念な気がした。あの二人は、どこまでも美しい真実な夫婦であってほしかった。思えば思うほど徹は無念だった。どんな理由があったにせよ、もし母親の夏枝が父を裏切って、他に子供を産んだとしたら、自分は果たして許せるだろうか。決して許せはしまい。姦通《かんつう》によって生まれた陽子に、産みの母を許せといったのは、明らかに無理であったと、徹は幾度も人に突き当たりながら、雑踏の中を歩いて行った。
テレビ塔の電光時計が、六時三十五分を示していた。北原と陽子は、何を語り合って行ったのか。徹は立ちどまった。時雨がパラパラと顔にかかった。
夜の顔
八人一組のテーブルが二十あまり、北斗ホテルの金枝の間に、花をひらいたように並んでいた。外科医比羅田の病院新築祝賀会場である。既に型どおりの祝辞が終わり、舞台では余興が始まっていた。啓造の知らない若い男が、今、「帰れソレントへ」を声量ある美声でうたっていた。
「今日はまた、一段と、美人ですね、彼女は」
舞台には無関心の内科医西川が、斜め向かいの「桜」のテーブルのほうを、あごでしゃくった。女医の正木千鶴子が、バラ色の頬に手をあて、華やかな笑顔で隣の客と話し合っている。
「ああ、いつ見ても美人ですね」
啓造も調子を合わせた。
「しかし、医者が美人といわれるのは、どんなものですかね」
西川は少し絡むようないい方をした。
「かまいませんよ。美人で悪いというわけはないでしょう。それに、あのひとは腕もなかなかの評判ですしねえ」
「なるほど、美人の奥さんを持っているだけありますねえ。堅物の辻口先生も、美人の肩を持つというわけですか」
西川は押しつけがましく、啓造に銚子をさし向けた。啓造は苦笑して盃をとり、すぐ前にいる村井を見た。
「美人は正木千鶴子さん、美男は村井先生か」
西川は大きな声を立てて笑った。村井は冷笑を浮かべて、天井のシャンデリアを見上げていた。西川は銚子を持って、正木千鶴子のテーブルに立って行った。次第に席を立って歩く者が増えてきた。
村井はふっと啓造を見た。目がちかりと光った。と思うと、ゆっくりと立ち上がって、西川の席に来てすわった。啓造は警戒するように村井を見た。どんな宴席にあっても、村井から啓造のそばによって来たことはなかった。啓造は近くにあったコップを手渡して、銚子を傾けた。
「いやこれはどうも。反対ですね」
尋常な村井の挨拶だった。
啓造は先ほどから、何となく居心地悪くこの席にいた。病院を新築した比羅田は、村井よりずっと年下である。考えてみると、立派な腕を持つ村井が、開業もせずに辻口病院に勤めているのは、かなり大きな犠牲を払っているともいえる。村井ほどの腕で開業すれば、経済的にも社会的にも、はるかに有利なはずである。村井にも、打算を越えたよい処があると、村井と肌の合わぬ啓造も、認めずにはいられなかった。あるいは村井には経済的才能に自信がないのかも知れない。そう思ってみたが、今日のような席では、やはり村井に対して、啓造は何か負い目を感じないではいられなかった。
「院長、今夜これから、辰ちゃんの家に行ってみませんか」
村井がニヤリと笑った。
「辰ちゃんの家?」
啓造は村井の顔を見た。村井の顔は、飲んでも青白かった。ただ、目が少し血走って、妙に残忍な光をたたえていた。
「そうですよ。辰ちゃんの家には、由香子が来てるっていうじゃありませんか」
「君はいつそれを?」
「とうの昔に知ってますよ。辰ちゃんから、すぐに電話がありましたからね」
「電話?」
啓造は驚いた。伴奏がにわかに大きく鳴りひびき、誰かが舞台で奇術を始めていた。
「そうですよ。由香子が来ているから、当分お前は出入り差しとめだとね。まさか、院長のほうには、そんな電話は来てはいないでしょうね」
「ああ、わたしはめったに辰子さんの家には行かないからねえ」
「なるほど、度々押しかけるわたしにだけ、出入り差しとめとなったわけですか。しかし、それだけではないでしょう」
コップの酒を三分の一ほど一息に飲み、村井は鼻の先で笑った。
拍手が起こった。舞台の上では、奇術師が飛ばしたのか、赤や黄の風船が、ふわふわと幾つも飛んでいた。黙っている啓造に、村井はいった。
「院長、由香子は院長に会いたがっているんですよ。だから辰ちゃんは、院長には何の電話もかけなかった。ま、そんなことはどうでもいい。今夜二人で、由香子の顔を見に行きませんか」
「いや、やめておきましょう」
啓造はテーブルの上の中華料理を二つ三つ皿に取った。
「わたしと一緒では、迷惑だというんですか。そりゃあ院長が一人で出かけたほうが、いろいろと都合はいいでしょうがね」
村井はまたニヤリとした。
「一人でも二人でも、かまいませんがねえ。招かれざる客では、どうも……」
「いや、院長なら喜びますよ。由香子だって辰ちゃんだって。わたしが行けば、玄関払いにきまってますがねえ。第一、院長は由香子の顔を見に行ってやる義務がありますよ」
「そうですかねえ」
「そうですよ。それとも、目の見えなくなった由香子には、もう用はないというんですか」
村井はどこまでも食いさがった。
「行くにしても、酒の臭いをさせていくのは、どうも……」
少ししつこすぎると、なかば腹を立てながらも、今夜が訪ねるいい機会かも知れないと思った。豊富で由香子を見かけて以来、啓造は由香子を思って来た。由香子が辰子の家に来ていると知ってからは、何とか訪ねたいという思いがしきりだった。
だが、訪ねたいという思いだけで、啓造には訪ねる勇気はなかった。夏枝が、じっと自分を監視しているようで、とても由香子に会いに行く気にはなれなかった。
(村井に、強引に誘われてね)
夏枝に対する弁解の言葉を、啓造は胸の中で呟いた。
「辻口先生、帰りにどこかに寄りませんか」
啓造と親しい内科医の佐藤が、愛想よく声をかけて来た。すかさず村井がいった。
「残念でした、佐藤先生。院長はぼくと先約があるんですよ」
「どうもすみません、今夜は……」
啓造は困ったように頭を下げた。
「残念ですねえ。じゃあ、また」
佐藤は機嫌よくうなずいて去った。
会が終わって、啓造は村井とホテルを出た。やはり酒気を帯びたまま訪ねるのは、気がとがめた。夏枝の顔も目に浮かぶ。そのちゅうちょの色を見た村井は、啓造の腕をとって、強引に歩きだした。
(何ということだ。村井と腕を組んで、おれは歩いている)
啓造は生理的な不快を感じた。
ホテルから辰子の家までは、三百メートルと離れていなかった。二人は妙にむっつりとして、辰子の家の前まで来た。二階にも電灯が明るく点《つ》いている。ためらっている啓造の背を押して、村井は戸をあけた。
「お晩です」
仕方なく啓造は声をかけた。茶の間の襖があき、内弟子が顔を出したが、すぐに引っこみ、辰子が出て来た。
「あら、ダンナ、どうしたのよ。お酒の匂いがするわよ」
ひざまずいて啓造の顔を見上げ、辰子はにっこりと笑った。
「辰ちゃん、ぼくも来たよ」
それまで玄関の外にいた村井が、のっそりと顔を出した。
「あら村井さんも来たの」
辰子はハッキリと眉根をよせた。
「そんなつれない顔をするなよ。院長に行こう行こうと、うるさく誘われましてねえ」
あわてて啓造は村井を見た。
「何をでたらめいってるのよ。誘ったのは村井さんでしょ。そんなことぐらい、わからない辰子さんじゃないわ。ね、ダンナ」
「いやだなあ、これだから信用のない者はつらいよ。真実が通らないんだからなあ」
「真実なんて、村井さんの辞書にあってたまるもんですか。仕方がない、院長に免じて、今日は上げてあげるわ」
ぽんぽんといって、辰子はスリッパを二足そろえた。
「何しに来たの?」
部屋に入るなり、辰子はニコリともせず、啓造と村井の顔を交互に見た。
「何しに来たは、ごあいさつだな。辰ちゃんの家に来たのは、辰ちゃんの顔を見るためですよ」
村井は、あぐらをかいた足の裏を、沓下《くつした》の上から二、三度かいた。その村井を辰子は睨んで、
「あんた方、まさかひやかしに来たんじゃないでしょうね」
「いやあ……ひやかすなんて、そんな。ただ松崎君に会ったものかどうかと、迷ったんですがねえ」
啓造の困り切ったようすに、辰子はベージュ色の着物のひざを、ぽんと叩いて声を立てて笑った。
「ダンナときたら、正直ね。でも、どうしてお酒なんか飲んでやって来たの」
「辰ちゃん、酒でも入らなきゃ、訪ねられない弱虫ですよ、吾々は。ねえ、院長」
「そう、じゃ、とにかく由香ちゃんに会うつもりなのね。会うには会うだけの覚悟をして来てるでしょうね、村井さん」
内弟子が、三人の前にお茶をおいて立ち去った。
「いやだなあ、覚悟だなんて」
村井は茶をごくりと飲んだ。
「村井さん、わたし冗談でいっているんじゃないのよ。せっかくの酔いをさまさせて悪いけど、ま、覚悟して由香ちゃんの部屋に行くといいわ。そうね、一人ずつ行ったほうがよさそうよ」
「一人ずつか」
「そうよ。院長と一緒だと、由香ちゃんだって、いいたいこともいえないかもしれないからね。じゃ、村井さんから面接試験よ」
語尾は冗談めかして、辰子が立った。階段を上がって、辰子が声をかけた。
「由香ちゃん、お客様よ」
「どうぞ」
由香子の声に、村井は思わず立ちどまった。
「村井さんよ、由香ちゃん」
部屋に入ってから、辰子がいった。玄関での声を聞いていたのだろう、由香子は黙ってうなずいた。そして、目の見える者のように、村井のほうをきっと見た。
「生きているとは思わなかったなあ」
村井は、ウールの着物を着て正座している由香子を見ながらあぐらをかいた。由香子は黙っていた。
「きれいになったじゃないか。黒眼鏡がよく似合うよ」
「村井さん、そんなあいさつってある?」
辰子がぴしりとたしなめた。
「いや、似合うから、似合うといったまでさ。だが、かけずにすむなら、かけないがいい。なおるものなら、ぼくがなおしてあげようということさ」
「けっこうです」
ぞっとするほど冷ややかな由香子の声だった。
由香子が旭川に帰った以上、遅かれ早かれ、村井や啓造に会うのは必至だった。辰子は、その時のために、あらかじめ由香子にこう告げてあった。
「由香ちゃん、過去をふり切るためには、過去の人に会うのが、一番手早いのかもしれないのよ。思い出は再び訪ねるなという諺があるでしょう。それは、美しい思い出も、結局は幻滅を感ずるってことなのね。つまり、逆手を取って、思い出を訪ねるのよ」
辰子は、啓造にも村井にも、十年経た今は、由香子を会わせたほうがいいと判断していたのだ。啓造を偶像化し、村井を憎悪して生きている由香子が、新しく出発するには、過去への訣別が必要だった。
「由香ちゃんは、過去にべったりね。そんな甘ったれた生き方は、わたしはきらいよ」
辰子はそうもいった。由香子は、
「どうせ私は甘ったれです。誰も甘やかしてくれる人がなかったんですもの、自分の思い出に甘えたからといって、何が悪いんです」
そう抗議したこともあったが、結局は辰子の言葉に従う気持ちになって行った。
そんなわけで、由香子はいつでも、啓造や村井と会う覚悟はできているはずだった。その由香子がどのような態度を示すか、辰子は静かに見守っていた。
冷ややかな由香子の言葉に、村井はうすら笑いを口に浮かべた。
「相変わらず、強情っ張りだね。とにかく、どうして目を悪くしたんだい」
「村井先生には関係ありません」
「十年ぶりに会ったというのに、何を怒っているのかな。わたしがハイラーテンしたことか」
「うぬぼれないでください」
由香子は、仮面のように表情を変えずにいった。
「しかしね、辰ちゃん。このひとは、わたしの結婚直前に蒸発したんだよ。院長の子供を生みたいなんて、妙な電話をかけたりしてね」
村井は辰子のほうを見た。
「村井先生のことなんか、わたしの知ったことじゃありません」
「そうかね。院長だけを思っていたのかね。まあ、そんなことはどうでもいいがね。問題は目だよ。まだ、ろくに医者にも診せていないそうじゃないか」
「…………」
「とにかく、目があくものなら、あいたほうがいいじゃないか。何に腹を立てているか知らないが、それとこれとは別の話だからねえ」
「あなたの顔を見ないですむだけでも、見えないほうが幸せです」
「これは手きびしいね。しかしわたしの顔は見たくなくても、恋しい誰かさんの顔は見たいだろう」
ニヤニヤしながら、村井はたばこの煙を由香子にふきかけるようにした。
「何しに来たんです。なぶりにですか。先生は、まだわたしをなぶりたりないんですか」
由香子の唇がひくひくとふるえた。
「生きていたというからね、足があるかどうか見に来たのさ」
村井は辰子のほうに笑いかけた。辰子は弟子のけいこを見る時のような、きびしい表情で村井を見返した。
「院長の奥さんにうかがいましたわ。わたしの墓を建てたんですってね。先生のような悪党でも、さすがに、わたしが化けて出やしないかと、恐ろしかったんでしょう」
「めっぽう元気な幽霊で、安心したよ」
村井はこたえたようすもない。
「もうお帰りください」
「ああ、そのうちにまた来るよ」
整理ダンスが一つと、小さな文机が一つあるだけだが、どこか女らしい感じの漂う部屋を、村井は見まわした。
「もう来ないでください」
「なあに、君だって、また会いたくなるさ。君のことは、この世でおれが一番知っているんだ」
「…………」
「辰ちゃんから聞いたろうがねえ、おれはいまチョンガーだよ。一緒になる気があったら、なってもかまわないよ」
村井は再びニヤリと笑った。
「帰ってください」
由香子は身をよじるようにしていった。二人のやりとりを黙って見ていた辰子が、呆れたようにいった。
「村井さん、あんた、まだ由香ちゃんにいうことがあるんじゃない?」
「いうこと? ないよ、別に」
「そうかしらねえ、そんなものかしらねえ。わたしはまた、あんたがいつ両手をついてあやまるかと、待ってたんだけどねえ」
「両手をついて? 何をあやまるの」
「あんた、由香ちゃんをもてあそんだでしょう」
「ほう、男と女が遊んだからって、あやまらなきゃならないものなのかなあ。辰ちゃん、一方的に、こっちの意志だけで、そう幾度も遊べるわけがないじゃないか」
村井はおかしそうに、ひざをゆすって笑った。
「村井さん、由香ちゃんを力ずくで犯したことを忘れたの。その後の由香ちゃんは、やけくそだったのよ。あんたは、ずいぶん女遊びをして来たくせに、女の哀しさが、ちっともわかんないのかしらねえ」
辰子は憐れむように、じっと村井を見た。
「お説教かい、辰ちゃん。辰ちゃんのお説教なら、一晩でもじっくり聞くよ」
啓造は、村井と別れてタクシーに乗った。今、会ったばかりの由香子の白い顔が、啓造の目に焼きついていた。豊富温泉で見かけた時の、哀れな感じとはまたちがって、今夜の由香子には、悲しみに耐えて来たけなげな美しさがあった。
「いや、さんざんでしたよ、院長」
二階から降りて来た村井と入れ替わりに、啓造はためらいがちに由香子の部屋に入って行った。啓造の声を聞くと、由香子はものもいえずに、固くうつむいてしまった。二人は黙って、しばらく向かい合っていた。いつしか由香子の黒眼鏡の下から、涙がふたすじ頬をつたわった。
啓造は今、車の中で、その涙を思い返していた。今この世で、自分に会ってあのような涙を見せるのは、由香子だけのような気がした。そう思うと、由香子がひどく大事な存在に思われた。
だが、家に近づくにつれて、啓造のその甘美な感情は、夏枝へのうしろめたさに取ってかわった。辰子の家を訪ねて来たといったら、夏枝はどんな顔をするか。村井に誘われたといっても、夏枝が快く納得してくれるとは思えなかった。別段手を握ったわけではない。特別に優しい言葉をかけたわけではない。指一本さされるような態度もとらなかった。何もうしろめたく思う理由は、ないではないか。啓造は自分自身にそういい聞かせてみた。が、由香子の涙に感じた、あのいい難い甘美な感情は、やはりうしろめたさを啓造に感じさせずにはおかなかった。
旭川の九月にしては珍しくむし暑い夜だった。啓造は車の窓をひらいて風を入れた。夏枝と陽子に何か果物でも買って行こうかと、啓造はまだ店をひらいている神楽町の果物屋の前で車をとめさせた。が、果物を買うことは、自分のうしろめたさを立証するような気がして、啓造はそのまま、また車を走らせた。
「盛会だったよ」
玄関に出た夏枝に、啓造はいった。
「そうですか」
「何となく村井君に気の毒な気がしてねえ」
先に立って、啓造は茶の間に入った。
「今まで村井君に開業させなかったのは、わたしのせいのような気がしてねえ。どうも気の毒で仕方がなかった」
いつになく啓造は饒舌だった。
「みんな、なかなか芸人ぞろいでね。帽子から鳩を飛ばしたりする奇術なんかもあったよ」
「そうですか」
啓造はソファに腰をおろしたが、夏枝は啓造を見おろすように立っている。いっこうに話に乗って来ない夏枝に、啓造はふっと不安を感じた。
「由香子さんは、お元気でした?」
夏枝が冷たく笑った。
いきなり由香子の名を夏枝の口から聞いて、啓造は狼狽した。
「え?」
「何を驚いていらっしゃいますの。さっき、村井さんからお電話がありましたわ」
「村井君から?」
夏枝はゆっくりと啓造のそばにすわった。
「ええ。辰子さんには、来ちゃいけないといわれていて、とても行きづらかったけど、院長に強引に誘われて行って来ましたって」
「冗談じゃない。誘ったのは村井君のほうだよ」
「きっとそういうだろうと、おっしゃっていらっしゃいましたわ」
「呆れた奴だ」
啓造は、村井のペテンにかかったような気がした。
「じゃ、あなた。どうしてわたくしが申し上げる前に、由香子さんのことをおっしゃってくださらなかったの。帽子から鳩が飛んだとか、子供だましのことばかりおっしゃって」
「物には順序があるよ。先ずパーティーのことから話をして、次にいおうとしたとたんに、君がいい出したんじゃないか」
「そうでしょうか」
いい捨てて、夏枝は台所に行ったが、コップの水を盆に乗せて持って来た。
「おっしゃるとおり、物ごとには順序がありますわ。由香子さんとお会いしたことは、一番大事なことですわ。その一番大事なことからお話してくだされば、よろしかったのに」
「それほど重大なことじゃないよ。くだらないことをいうね」
「まあ、くだらないことですって?」
「くだらないね。わたしはふろに入る」
啓造は不機嫌に部屋を出た。夏枝は、いつもとちがって、背を流しについて来なかった。少しぬるい湯につかりながら、啓造は、今夜に限って背中を流しに来ない夏枝に、腹を立てていた。わざわざ波風を立てるような電話をかけてきた村井にも、腹が立った。怒りながらも、啓造は夏枝が浴室に入って来はしないかと、耳を澄ませた。庭に虫の声がするだけで、いつまでたっても夏枝の来る気配はなかった。
啓造は、にわかにひらきなおる思いになった。
(由香子とどうなっても、おれは知らないぞ)
啓造は思わず心の中でそう呟いた。呟いてから妙な気がした。家に帰るまでは、何と弁解しようかと、うしろめたい気持ちを持っていたはずだった。少々は機嫌をそこねられ、すねられるのも当然のことと、覚悟して帰って来たはずだった。
人間は、たとえ自分に非があっても、責められればひらきなおるものなのかも知れない。もし今夜、自分と由香子との間に何かあったとしても、責められれば、やはり「何を!」とひらきなおるにちがいない。泥棒にも三分の理という 諺《ことわざ》がある。どうしてこんな気持ちになるのだろう。もともと人間には、いかに悪いことをしても、責めを当然として受ける素直さがないのだろうか。
(罪の意識がないということか)
それとは少しちがうような気がした。確かに自分は、家に入るまでは、うしろめたさが絡みついて離れなかったはずだと、啓造は思った。責められたとたんに、人は持っていた罪意識まで失うのか。
湯ぶねから上がって、啓造は体に石鹸をつけた。ふっと、由香子の小さな唇が目に浮かんだ。かわいそうなほど、小さな唇だった。小さいが、やや厚めのその唇を、啓造は甘い感情で思った。
由香子は、目も鼻も小さな顔立ちだった。つぶらな真っ黒な目が、きらきらと光っていたと、啓造は十年前の由香子を思い出した。
(あの子は……)
いつもせっぱつまったような、必死な表情をしていたような気がする。常に必死になって生きていた女だったと、啓造は由香子が哀れになった。そして、人に体をすりよせて来るような、そんな無防備な捨て身な処があった。それが由香子の身上だと、啓造は思った。
なぜ十年前に、あの由香子を抱きよせてやらなかったのか。院長の子を生みたいとまでいって、電話をかけて来たその切迫した想いを、なぜ受けとめてやらなかったのか。啓造は自分がひどく無情な男に思われた。
啓造は再び湯ぶねに入った。湯はますますぬるくなっていた。だが夏枝は、湯加減すら見に来ようとしない。啓造は目をつむった。虫の音が聞こえるばかりで、家の中も外もしんとしている。
啓造は急に、由香子を今胸の中に抱きしめたい思いにかられた。結婚以来二十数年、自分はじゅうぶんに貞潔な夫であったと思う。夏枝はそのことに感謝すべきであった。
(それなのに、こんなぬるい湯に!)
啓造は、由香子への自分の感情を、悪いとは思えなかった。
ふいに虫の声が一せいに途絶えた。湯ぶねにつかったまま、啓造は所在なく手拭いで首をぬぐった。湯の音が意外に大きくひびいた。
「かわいそうだた、惚れたって事よ」
高木がいった漱石の名訳が思い出された。男はかわいそうな女に、心を動かされるのだ。啓造はそんなことを思った。夏枝のように、いつも優位に立つ人間が、妙にうとましく思われる。
どこかで大きな音がした。何か木でも倒れるような音だった。
脱衣場で着物を着ながら、啓造は村井にも腹を立てていた。自分から辰子の家に誘っておきながら、院長に強引に誘われたなどと、村井は夏枝につまらぬ電話をかけて来た。隙を見せれば、いつでも平然と、自分たち夫婦の間に割りこんで来るような気がする。啓造は許せない気持ちだった。
ふろから出た啓造は、右手の陽子の部屋を見た。灯りが襖の隙間からもれている。このまますぐに、夏枝のそばに戻る気にはなれなかった。いつの頃からか、夏枝との間に不快なことがあると、陽子と話をしたくなる啓造だった。
「陽子」
襖の前に立って、啓造が声をかけた。
「あら、お帰んなさい」
さらりと襖があき、ブルーのセーターを着た陽子が啓造を見上げた。
「まあ、おふろだったの、おとうさん。陽子、おとうさんがお帰りになったの知らなかったわ」
「やあ、勉強かね」
啓造はすわって、陽子の机の上を見た。英語の教科書とノートがある。
「勉強というほどじゃないけど……」
「来年は大学だね」
陽子は啓造の顔を見たが、笑っただけで返事をしなかった。陽子にはまだ、大学に進むほどの気持ちはなかった。ただ勉強が好きで、このごろ毎日のように高校時代の教科書をさらっていた。
「おとうさん、しばらくお一人になって、かわいそうね」
陽子が別のことをいった。
「一人に?」
「あら、茅ケ崎に行くこと、おかあさんおっしゃらなかった?」
辰子たちと東京や茅ケ崎に行きたいとは、だいぶん前に聞いていた。だがその後どうなったのか、夏枝の口からは何も聞いていなかった。
「変ねえ、四、五日中に行くはずよ。おとうさん」
「ほう、四、五日中にね」
「おかしいわね。おかあさんきっと、おとうさんをおどろかそうとしているのね」
「まあどうでもいいよ。東京だって、今は飛行機でちょっとひと飛びだからね」
啓造は本当にどうでもいい気がした。夏枝のいない生活が何か楽しくさえ思われた。
「おとうさん……」
陽子はいいよどんだ。
「何だね、陽子」
「あのね、今日の夕方、お電話があったのよ」
ためらいながら陽子がいった。
「誰から?」
「女のひとよ。院長先生はいらっしゃいますかって。いませんていったら、すぐに切ったわ」
啓造は眉根をよせた。由香子ではないかと思った。由香子は自分の来訪を、待ちかねていたのかも知れない。今日は来るか、明日は来るかと、待っていたにちがいない。いつまでたっても、訪ねない自分にいらだって、電話をかけて来たのだろう。
「おかあさんはいたのかね」
「いいえ。奥の部屋にいらしたの。陽子、おかあさんには、黙っていたわ」
「そうか。なあに、いってもかまわないのだよ」
内心ほっとしながら、啓造は腕を組んだ。なぜ病院に電話をかけずに、家にかけて来たのか。自分の元いた職場には、かけづらいものなのか。
「おとうさん。わたし、辰子小母さんと旅行するのはうれしいけど、由香子さんという方とご一緒するのは、気が進まないわ」
「なぜ?」
陽子も由香子からの電話だと思っているのかもしれない。
「だって、目がご不自由でしょう。景色の見えない方の前で、景色を見るのは、心苦しいわ」
「気軽に景色を説明してあげるといいよ」
「……それに、わたし、奥さんのある人を、好きになったりするひとって、嫌いよ」
陽子がきっぱりといった。
「十年も前のことだよ」
陽子に見透されたようで、ぎくりとしながらも、啓造はさりげなく答えた。
「十年前でも、いやだわ、わたし」
「そうかね。しかしね、陽子。好きになるというのは仕方がないよ。好きになるまいとしても、なるんだからねえ」
「そうかしら。わたしにはそうは思えないわ。好きだと思う気持ちに、じっとひたっているから、好きになるんじゃない? 好きになるというのは、やはり自分に、その感情を許しているからだと思うの」
「陽子はひとを好きになったことが、ないみたいだね。人間って、そんな割り切れた存在じゃないんだよ」
啓造は苦笑した。
「そりゃそうかもしれないわ。でも、ひとのご主人や奥さんを好きになってもいいの? それから、結婚したひとが、他の異性を好きになってもいいの?」
「いいことじゃないよ。しかし、悪いといっても仕方がないんだねえ。好きになったり、嫌いになったりする感情というのはねえ」
「仕方のないこと?」
陽子は、まばたきもせず啓造の顔を見た。
「ああ、人間にはどうにもしようのないこと、仕方のないことってあるんだよ」
啓造は、陽子の鋭鋒を避けるように、部屋の中を見まわした。いつかけ替えたのか、緑のカーテンが、重たく窓を覆っていた。
実に、人間には仕方のないことが多いと、啓造は思った。好きになるまいとしても、好きになる。嫌いになるまいとしても、嫌いになる。恨むまいとしても、恨みを抱く。金に執着してはならないと思っても、執着する。排他的になるまいとしても、人を押しのける。正しく歩もうとしても、曲がってしまう。卑劣になるまいとしても、卑劣になる。
考えてみると、仕方のないことばかりのような気がした。そのことを啓造は陽子にいい、
「人間って、自分の思いどおりにならない、不自由な存在だね」
と、なかば自分にいい聞かせるようにいった。
「それは本当ね、おとうさん。わたし、人間って、もっと自由なものだと思っていたわ。いまは何をいってもいい自由な時代だし、みんな自由に生きていると思ったわ。でも、自由な人なんか、一人もいないかも知れないのね」
それは陽子にとって、新しい発見だった。陽子も、自分は自由に生きていると思っていた。だが、憎むまいとしても、陽子は自分を生んだ母を憎み、すっかり許しているつもりの夏枝に対して、知らぬうちにうとむ心を抱いている。自分がこうありたいと思う方向に、必ずしも自分の心はついては来ない。
「人間は、本来は自由に作られたものだそうだがねえ」
啓造は、聖書のアダムとイブを思い出しながらいった。
「どうして不自由になったのかしら」
「よくはわからないが、とにかく不自由ということは、人間本来の姿ではないんだろうね。まあ、罪人の証拠といえるかも知れないね」
今しがた湯ぶねの中で、由香子を抱きしめたいと思った心を、啓造は顧みた。多分、しばらくは、この由香子に対する執着は去らないのではないか。由香子を自分の心から追い出そうとしても、するりと、また心の中に入って来るような気がする。
ちょっと何かを考えていた陽子がいった。
「おとうさん。あの方がおとうさんを好きになるのは、仕方がないということは、わかるわ。でも、仕方がないから許すということではないと思うの。たとえば、誰かが憎むまいとしても、ひどくひとを憎んで、憎しみのあまり殺すとしたら、どうするの。仕方がないことなんだよって、許せることではないと思うわ」
「なるほど。そういうことになるかも知れないねえ。じゃ、勉強の邪魔になるから……」
啓造は早々に茶の間に帰った。鮭茶漬けを用意して、夏枝が思いがけないやさしい顔をして待っていた。啓造は少しばつの悪い思いで、茶漬けをかきこんだ。
たそがれ
美しい夕映えだった。バラ色に染まった柔らかい雲が、空一面にひろがっている。
病院を出た啓造は、ぶらぶらと街のほうに歩いて行った。帰った処で、今日から夏枝も陽子も家にはいない。近所にいる次子《つぎこ》が、朝夕の食事の支度をしてくれるといったが、夕食はことわった。一人気ままに、街で食べたいものを食べてみようと思った。
小さなせいろうで栗をむしている果物屋の店先で、啓造は立ちどまった。大粒の栗が、せいろうの中に盛られてある。湯気が店先に立っているのが、何か昔懐かしい優しい感じだった。店の中に、ブドウ、メロン、リンゴなどが、色どりも美しく並べられてあるのも、今日の啓造の目には新鮮に映った。
たまには、のんびりと歩くのもいいと思いながら、啓造はまたゆっくりと歩いて行った。ちょうど勤めの退け時で、街には人が多かった。誰も彼も、一様に喜びのない顔をして歩いている。何か人を咎めているような感じの表情が多い。家に帰ったからといって、楽しい家庭が待っていそうな顔は、見当たらなかった。
「あら、先生」
ふいに薬屋の前で、一人の女が近づいて来た。短い黒い羽織と水色の着物を粋に着こなしていた。
「やあ、元気かね」
胃炎で、去年しばらく通院していた女だった。
「おかげさんで」
女は上目使いに啓造を見て、そそくさと離れて行った。啓造はちょっと振り返って、小走りに駆けて行く女のうしろ姿を見送った。確か、子供が二人いるサラリーマンの妻のはずだった。一年会わぬうちに、あの女の上に大きな変化が起きたらしい。啓造はふと、うら淋しい心地になった。
駅の見える平和通りに出た。人が溢れていた。デパートのショーウインドーの前に、人だかりがしている。五十過ぎの口ひげを生やした男が、大きな紙を舗道にひろげ、杖でさし示しながら、間断なくしゃべっている。
「……ねずみ年の男はね、いいかね、ご婦人方。亭主に持つなら、ねずみ年の男に限るよ。くるくるとよく働く、金がたまる……」
みんな真剣な顔をして、男の話に聞き入っている。今さっき、おもしろくなさそうに歩いていた人々の顔とは、またちがった一つの顔がそこにはあった。それは、少なくとも何かにすがりつきたいような、何かを求めているような、まなざしばかりだった。
自分の顔はどんな顔だろうかと思いながら、啓造は人だかりを離れた。
トウキビ焼きの女が、街角に客を待っていた。たれをつけて焼くトウキビの香りが、あたりに漂っている。女は小さくあくびをした。
外食で楽しかったのは、最初の日だけだった。二日目は内科の医局員を誘った。話はともすれば他の職員のうわさ話や、患者の病状などに流れて、勤務の延長のようだった。三日目は開業医の友人と酒を飲んだ。友人の話題は、他の開業医の収入や、税金のことばかりだった。
四日目、啓造は病院の食堂で定食をとり、まっすぐに家に帰った。次子が外灯と茶の間の電灯だけ点《つ》けてくれている。六時を打つ柱時計の音を聞いて、啓造は何となくほっとした。
外で、天ぷらを食べたり、酒を飲んでも少しも楽しまない。損な性分だとつくづく思う。啓造はゆっくり読書でもしようと、書斎に上がった。読みかけのクローニンの「人生の途上にて」が机の上においてある。本をひらくと、階下で何か物音がした。階段を降りて行ったが誰もいない。玄関と裏口に錠をおろし、再び書斎に上がった。
だが、どうも落ちつかない。階下に人がいないと、二階は落ちつきの悪い場所だった。本を持って啓造は茶の間に降りてみた。やはり読書に身が入らない。いつも書斎で読書する几帳面な啓造には、茶の間は読書の場所ではなかった。
啓造は読書をやめて、テレビにスイッチを入れた。高速度撮影で、コマーシャルの少女がゆっくり空に昇って行った。その顔が、ひどく由香子に似ているような気がした。
思い立って啓造は、また書斎に上がって、古いアルバムをひらいた。病院の職員と、毎年正月には記念写真を撮っている。その中に由香子がいるはずだと思った。
アルバムの第一頁に、夏枝に抱かれた生後百日のルリ子の写真が貼られてあった。肥ってあごが二重にくびれている。啓造は目をそらして、すぐに次を開けた。
幼い徹とルリ子が、庭の砂場に足を投げ出し、その傍に啓造と夏枝がかがんで写っていた。ルリ子の頬に砂がついていて、生えはじめた歯もはっきりと写っている。誰に写されたのか、この時の記憶は啓造にはない。だが自分は、忘れているだけで、こんな楽しいひとときが、当時無数にあったにちがいない。確かにそこには、幸せな家庭の姿があった。啓造と夏枝の間に、何のわだかまりも、溝もなかった。ルリ子はこのまま、この家で育つべきであった。村井と夏枝に対する怒りが突如噴き上がるようで、啓造はアルバムをパタリと閉じた。由香子の昔の姿を見たいと思ったことも、妙にわびしく空しかった。
階下で電話のベルが鳴った。啓造は思わず腕時計を見た。八時の料金割引の時間までは、夏枝から電話はこないはずだ。まだ七時を過ぎたばかりだ。啓造は受話器をとった。
「俺だ、元気か」
機嫌のよい高木の声がした。啓造は救われたような気がした。
「おふくろがいないと変なものだな」
いきなり高木がいった。なるほど高木も人恋しく電話をしてきたのかと、啓造は安心した。
「それはそうだろうね。生まれてこの方、ずっと一緒に住んで来たんだからな」
「大した話し相手でもなかったのになあ。今日は彼岸だと気がついて、おふくろとさしで一杯やっていたところだ」
「そうか、そういえば彼岸だったね」
仏壇の前で、一人酒を飲んでいる高木を想像しながら、啓造はさっきのルリ子の写真を思い浮かべた。
「今日はあったかいな。旭川はどうだ」
「うん。でも、日が落ちると肌寒いよ」
「来月はもう雪が降るんだからなあ」
「身の回りや食事なんかは、どうしてるの」
「ああ、おふくろと同じ年頃のばあさんに、来てもらってるよ。しかし口うるさいおふくろとは全くちがうな。手応えがない。ちょっと待て、膳をここに持ってくる」
高木の声が消えると、何の物音も伝わってこない。啓造は高木の声を待った。
「さてと、これでOKだ」
と、受話器に声が入ったかと思うと、
「おい、長電話でもかまわないか」
「うん、夏枝と陽子が茅ケ崎に行ったんだ」
由香子のことにはふれなかった。
「何だ、お前も一人か。お前のことだ。鬼のいぬ間の洗濯なんて器用なまねもできまいな。もっとも夏枝さんは鬼じゃなさそうだ」
「いや、角はあるよ、夏枝にも」
「あっても、赤ん坊の小指のような、かわいい角だろう。ところで辻口、女房って、いたほうがいいものか」
いつも女房不用論をとなえている高木らしくもない質問だと、啓造は不審に思った。
「さあ、人それぞれだろう。君、ハイラーテンするつもりかね」
「……夏枝さんをもらうつもりで、今までチョンガーでいたがね。一向にお前は死ぬ気配もないしな。この辺であきらめて、ほかのをもらうつもりだ」
高笑いが聞こえた。
「そうか、長いこと待たせてすまなかったね。あれでよければ、のしをつけて進呈するよ」
「こいつ! お前もそんな冗談をいえるようになったか。やはり年だな。年といえば、辻口、しらがはどうだ」
「目立たないが、ぼつぼつだね」
「そうか。俺は今年はめっきり禿げて来たぜ。禿にガンなしというがね。そうそう、根室の雨山がレバークレーブス(肝臓癌)だそうだ」
「え? 彼には五月に、層雲峡で会ったよ。元気だったがねえ。近くアメリカに行くとかいって……」
「ところが、今月一ぱいもつかどうか、という話だぜ」
「かわいそうになあ、働きざかりじゃないか」
「函館の愛川もアポったそうだ」
「脳溢血?……そうか、ぼつぼついやな話を聞く年になったね」
すぐには返事がなかった。酒でも飲んでいるのだろう。
「……うん……五十肩で手術着のひもが結べないなんて、チョクチョク聞くからな」
「人生の秋だね、わたしたちも。わびしい話だな」
啓造は思わず嘆息した。
「ばかをいえ。秋に咲く花だって、たくさんあるんだぜ。だから俺もな、年が明けたらハイラーテンするつもりだ」
「ほう! やはり決めたのか」
「医者というしょうばいはありがたいよ。ハイラーテンする気になれば、相手はいくらでもあるさ」
「それはそうだろう。どんなひとだ?」
「目下三十一と三十七の候補者がいる」
「ほう」
若いと啓造は思った。
「三十一のは、未婚だが、三十七のは未亡人だ。十五と十三の男の子がいるんだ。どっちがいいと思う?」
「そりゃあ気だてのいいほうがいいがね。しかし子供二人いるのは……どうもねえ。大変じゃないか」
「と思うのが、しろうとの浅ましさだ」
高木は愉快そうに笑った。
「俺はね、こぶつきのほうに決めるつもりだ」
「どうして?」
「考えてもみろ。俺は、あと十五年現役がつとまるとするか。としたら、せいぜい六十五ぐらいまでだ」
「もう少しは働けるだろう」
「まあ似たもんだ。三十一のをもらうと、十五年後には四十六だ。すぐに子供が生まれても、十四かそこらだろう。三十七のひとをもらうと、つれて来た子供は、三十と二十八になっている。俺の子が生まれても、その兄貴たちが、少しは面倒も見るだろうよ。まず安心して死ねるというわけだ」
「じゃ、子供のいる人に決めたのか」
「うん、いま十五と十三の子供をかかえてでは、もらい手もない。若いほうは俺がもらわなくても、いくらでも嫁《ゆ》き先はあるよ」
「なるほどね」
「俺もしょうばいがら、殺生してきているからな。この辺で、せめて罪ほろぼしに人の子でも育てるさ」
「人の子をねえ」
「そうだ、猫の子じゃないよ」
遂に高木も結婚するのかと思うと、啓造はふしぎな気がした。何とはなしに、高木は一生独身を通すような気がしていた。それが、母親の死と共に、結婚を決意したのだ。やはり、高木には高木の事情があったのかもしれない。いつ行っても、いま張り替えたばかりのような汚点一つない襖、いささかの乱れもない家の中を、啓造は思い出した。お茶の師匠をして、女手一つで子供たちを育てあげた母の気性を、高木はのみこんでいたのかもしれない。妻と母との板ばさみになるのは、あの磊落《らいらく》そうに見える高木にも、避けたいことだったのかもしれない。
そんなことをちらりと思い浮かべながら、啓造は改まった声でいった。
「まあとにかく、おめでたい話だね」
「めでたいか、めでたくないかはわからないがね……。それはそうと村井の奴、どうしてる?」
「相変わらずだよ。咲子さんは、本当に戻らないつもりなのかねえ」
「ああ、戻らんだろう。夫婦の別れたのは、他人より始末の悪いもんだ」
「そうあっさりいうなよ。村井君だって、いつまでも今のままじゃ、不自由じゃないのかね」
「ほうっとけよ。下手にあんな奴に結婚をすすめるもんじゃない。相手の女が迷惑するだけだ。奴の不自由は、身から出た錆だ。とにかくこれ以上不幸な女は作らんほうがいい」
手を叩く音が受話器に入り「おかわり」という、高木の声が聞こえた。高木のいうのも、もっともな気がした。
「おい、辻口、あいつが一人だと、お前、目ざわりなんだろう。夏枝さんはまだまだきれいだしな」
からかうような高木の口調に、啓造は少しむっとした。
「いや、そんなことはない」
「そうむきになるなよ。あの豊富の、何とかいったな。そうそう、松崎といったか。あの子が辰ちゃんの家に来てるんだってな」
「ああ。村井君がいっていたかね」
「この間、酔っぱらって、ごたごたいってたぜ。君に引っ張られて、その子に会いに行って来たとかってねえ。村井の奴は、君がどうも彼女に同情し過ぎていると、変に勘ぐっていたがね。大丈夫か辻口」
「……いやあ、わたしは大丈夫だ」
「歯ぎれが悪いぞ。まあ、いい。吾々の年頃になると、時々狂い咲きっていうのか、返り咲きっていうのか、第二の青春みたいな、妙な血の騒ぎ方がするからねえ」
「…………」
「まあ俺もその口だ。狂い咲きっていうやつだな」
大声で笑う高木の声が、啓造の胸に痛かった。
高木の電話が切れたあと、啓造はわびしかった。同期の友人の死や、高木のいった返り咲きという言葉が心に沁みた。
啓造は壁の鏡に向かって、つくづくと自分の顔を見た。たしかに白髪は幾本かあるが、目立つほどではない。年の割に皮膚にも張りがあると、啓造は思う。だが字を読む時には、老眼鏡が必要になっている。
(五十肩か)
五十肩で、手術着のひもも結べないという話は、人ごとではない。自分は毎日帯を結んでいると思いながらも、啓造はうしろに手を廻してみた。突如として、いつ何が襲ってくるかわからない。
人生の終わりがすぐそこに近づいたような、いやな感じだった。この頃の由香子に対する気持ちの動きも、一歩誤れば、確かに狂い咲きになりかねない。これもまた老化現象のひとつかと、啓造は味気ない気がした。
裏口の戸の開く音がした。啓造はぎくりとした。玄関も裏口も、さっき鍵をかけたはずである。泥棒かと、身構える思いで、
「誰?」
鋭く誰何《すいか》すると、くぐもるような静かな声が返ってきた。
「あら、旦那さん。今夜はお早いんですね」
真っ赤な西瓜《すいか》に、透明なビニールをかけて、次子が入って来た。
「なんだ、次ちゃんか。ごくろうだね、毎日」
次子には合鍵をあずけてあった。ローズ色のカーディガンを羽織っていても、控え目な性格のせいか、次子は地味に見えた。
「旦那さんこそ、お一人で大変ですね。この西瓜、終わり初物かも知れませんよ。どうぞ」
「ああ、おいしそうだね、早速いただくよ」
冷えた西瓜が甘かった。
「やあ、これはうまいね。次ちゃんが近所にいてくれるんで助かるよ。次ちゃんには迷惑な話だろうがね」
「いいえ、いつもわたしたちこそ、奥さんにやさしくしていただいて……」
啓造は思わず次子の顔を見た。夏枝だけをほめたような次子の言葉が胸にひっかかったのだ。
「そうかねえ、夏枝はやさしいかね。あれはわがままな女だと思うがね」
「いいえ、奥さんはちっともわがままではありません」
次子は夏枝を弁護するようにいった。口下手な次子だけに、その言葉には真実味があった。
「次ちゃんは、ルリ子が死んだ時、ここのうちにいたんだったねえ」
話題を変えるつもりで、かえってこだわったいい方になった。夏枝をくさされたら不愉快になるにちがいないのに、ほめられると、自分を否定されたようで、不満だった。
啓造の言葉に、次子は黙ってうなずいた。次子は時折啓造の家に手伝いに来ていた。が、今夜のように、啓造と二人だけで話をしたことはない。次子は少し固くなっていたのだが、啓造は自分の心を見透されたような気がした。
「子供さんは、小学校だったね、二人共」
啓造はスプーンで西瓜の種を除きながら、機嫌よくいった。
「はい、でも、やんちゃで困ります」
「いいよ。子供のやんちゃなのは、わたしたち医者とは、あまり縁がなくてすむからね」
次子は声も立てずに笑った。
「うまかったよ、ごちそうさん」
「お粗末さまでした。……あのう、旦那さん、陽子さんと徹さんは、いったいどうなるんでしょうか」
「どうなるって?」
「ご一緒になるんでしょうか」
「さてね……あの子たちは、小さい時から兄と妹で育ったわけだからねえ。次ちゃんはどう思う」
「よくはわかりませんけれど、もし、陽子さんがほかにお嫁に行ったら、徹さんは、どんなになられるかわからないと思って……」
次子は伏し目がちに答えた。
「そうかねえ。しかし二人共まだ若いからね。結婚はまだまだ先のことだし、誰とどうなるものか、わたしには見当がつかないなあ」
昏睡状態にあった陽子に、涙をぽろぽろとこぼしながら、指輪をはめてやっていた徹の姿が、なまなましく思い出された。何もかも解決したかに見えている辻口家に、いまだに重い課題が残されているのを、啓造は改めて感じないではいられなかった。
電話のベルが鳴った。西瓜の皿を台所に運ぼうとしていた次子が、電話に出た。夏枝からかと啓造は腰を浮かしたが、電話は再び高木からだった。
「おいおい、いま出た女は誰だ?」
いきなり高木がいった。
「ああ、次ちゃんだよ。ほら、以前に手伝ってくれていただろう」
「なあんだ、次ちゃんか。がっかりさせるよ。しめた、夏枝さんにいいつけてやろうと喜んだのに。お前という奴は、いったいしっぽがあるのか、ないのか、おれに一度もしっぽをつかませたことがないな」
「しっぽがなくて、おあいにくさまだ。何の用だね」
「おっと、その用だ。さっき肝腎かなめのことを忘れたよ。俺の結婚式の時には、仲人をしてくれるんだろうな」
「え? 仲人? 同じ年だよ、わたしと君とは」
「かまわん。俺はな、夏枝さんの手で、引導を渡してもらわにゃ、成仏できんのだ」
高木の笑い声が、長々とつづいた。
〈おとうさん。
旅の第一夜は、歌舞伎座と新橋演舞場のすぐそばの東銀ホテルです。おかあさんはいま、おふろです。
生まれて初めての飛行機、わたしのような半人前の若い子が乗ってもよいのかと、もったいない気持ちでした。途中くもっていて、あいにく地上は見えませんでした。でも、見渡す限り、晴れた日の雪原のように輝く雲海の眺望は、やはり地上のものではないと思いました。小さな虹の輪が、目の下の雲に置かれているのも、何ともいえず神秘的でした。虹は半円だと思っていましたし、空にかかるものだとばかり思っていましたのに、目の下に丸い輪になって見えるなんて、思ってもみなかったことでした。人間、視点を変えてものを見ることが、どんな場合にも必要なのだと、知らされたような気がしました。
視点といえば、松崎由香子さんのこと、ごめんなさいね、おとうさん。わたし、あの方と旅をするのはいやでした。でも……〉
陽子はペンをとめて、外を見た。向かいのビルの赤いネオンが、なぜか暗く見える。ホテルの前の高速道路を、絶え間なく走る自動車の音が、渓川のようにどうどうと響いてくる。
陽子は今日、輝く雲の原や、虹を見ながら、何ひとつ見ることのできない由香子に、いい知れぬ同情をおぼえた。自分の顔も、愛する人の顔も、本も、すばらしい景色も、何一つ見ることができないのだ。その暗黒の世界に住む由香子の不幸は、想像を絶するような気がした。
だが由香子は、絶えずかすかな笑みを唇に浮かべて、景色をたたえる人の言葉にも、うなずいているのだ。陽子は、そのすなおな微笑に心打たれた。
父の啓造を愛していたという由香子に、陽子は好意を持ってはいなかった。今もむろん、そのことに関しては受け入れることはできない。だがそれだけで、その人間全体を全く否定してはならないような気がした。確かに一事を以て、その人間の根本を問われることもあるかもしれない。しかし由香子の場合、その全存在を問われるべきかどうか、陽子にはわからなかった。
〈……わたしは、松崎さんにも、いろいろ教えられました。今夜は辰子小母さんの提唱で、歌舞伎を見に行きました。松崎さんには、三味線の音を聞かすだけでもよいと、辰子小母さんはおっしゃっていました〉
辰子と夏枝の、由香子に対する態度を陽子は思った。辰子は乗り物や階段の上り降りの時だけ注意してやり、ほかの時には気にもとめぬ風に見えた。夏枝のほうが、絶えず細やかな心づかいを見せていた。廊下を歩く時も手を引いてやり、食事の時も、ナプキンを由香子のひざにすばやくおいた。
そしてまた、お椀のふたをあけてやり、刺し身を醤油につけてやる。まるで、由香子の世話をするために同行したかのように、夏枝は痛々しいほど、心をつかった。
その夏枝の姿が、陽子には意外だった。なぜ夏枝が親身になって、由香子の面倒をみるのか、最初陽子は無気味でさえあった。が、旭川を発って以来、つい先ほどまでの丸一日、夏枝の由香子に対する親切は、いささかも変わりなかった。その表情もやさしかった。由香子もまた、夏枝の親切を、謙遜に、素直に受けていた。片意地に拒むこともなく、卑屈にもならなかった。
陽子はその二人を、美しいと思った。啓造のことが、お互いにとっていまどう解決されているか、陽子にはわからなかった。わからないながらも、美しいという思いは変わらなかった。
〈おとうさん。おかあさんは松崎さんに、涙の出るほど親切でした〉
明日は、辰子たちと別れて、茅ケ崎に行くことを書き足し、手紙を封筒に納めた時、夏枝が浴室から出て来た。白い肌が、ほんのりと上気して、桜色をしていた。
「何を書いていたの」
夏枝はおくれ毛を小指でかき上げながら、三面鏡の前に腰をかけた。
「おとうさんに、お手紙を書いたの。毎日書こうと思ってるの」
医師の啓造は、学会以外、めったに旅行はできない。できても、たまに一泊旅行に出るぐらいである。今度の夏枝たちのように、十日近い旅行など、しようにもできないことだった。その啓造に、陽子はせめて手紙ででも、旅のようすを知らせたかったのである。
「やさしいのね、陽子ちゃんは」
夏枝が、鏡の中から笑いかけた。
「おかあさんのほうが、ずっとずっとやさしいわ」
「おかあさんはね、だめよ。気分のいい時だけやさしいのよ」
珍しく素直ないい方だった。
「でも、今日など、旅行でお疲れなのに、一日中松崎さんに親切だったわ」
「だって、辰子さんは知らんふりをしていらっしゃるんですもの」
ほめられて、夏枝はうれしそうだった。
「わたし、おかあさんのまねは、とてもできないわ。おかあさんは、何にでも、すぐ気がつくんですもの。陽子、かなわないわ」
「そう?……ありがとう。……ね、陽子ちゃん、目が見えないって、つらいわねえ。かわいそうねえ」
真っ白なガーゼで、額の汗をぬぐいながら、夏枝がふり返った。その表情に、陽子はハッとした。
(おかあさんは、本当はやさしいひとなのだ)
陽子の夏枝に対する不快な印象は、あの、小学校一年生の冬の日が最初だった。学校から帰った陽子は、いきなり夏枝に首をしめられたのだ。あの日から、夏枝は何となく変わって行った。言葉だけはやさしくしても、表情が冷たかったり、給食費をくれなかったり、中学卒業の時には、陽子が読む答辞を、白紙とすり替えたりさえした。そして遂には、北原の前で、殺人者の娘と、激しく罵ったのだ。
不快な印象だけが、重たく陽子の胸の中に沈み、そしてそれが、夏枝そのものであるかのように、陽子には思われてきた。
だが、もし陽子を佐石の娘と思いこまなければ、夏枝は多分、やさしい人間であり得たのだ。由香子に対する親切は、その夏枝のやさしい部分が、自然に、無理なく現れたものにちがいない。啓造を、今も愛しているかも知れない由香子に、ああまで親切にせずにはいられなかったのは、やはり夏枝本来のものかも知れない。夏枝のいやな部分にだけ目の行っていた自分に、陽子は今初めて気づいたのだった。何か自分自身が、不当に夏枝を歪めていたような、申しわけなささえ感じないではいられなかった。
二人はベッドに入って消灯した。
「陽子ちゃん」
「なあに、おかあさん」
夏枝と二人で、同じ部屋に寝るのは、絶えてないことだった。
「陽子ちゃんは、おかあさんを恨んでいるでしょうね」
「あら、どうして?」
夏枝の顔が、般若の面に見えたあの昏睡の覚めぎわを思い出して、陽子はひやりとした。
「……薬を飲んだ時、陽子ちゃんどんなにつらかったかしらねえ。でもね、陽子ちゃん、あの時おかあさんは仕方がなかったのよ。陽子ちゃんが本当に佐石の子だと、長いこと思っていたんですもの」
「そんな……おかあさんが悪いんじゃないわ」
ふいに陽子は涙ぐみそうになった。
「だけど、陽子ちゃん。もし陽子ちゃんがおかあさんの立場だったら、佐石の子をかわいがることができて?」
「できないわ。わたしなら顔を見ることもできないわ。同じ家に住むなんて、そんなこと、考えることもできないわ。ましてかわいがるなんて……」
「そう、本当にそう思って? じゃ、おかあさんのこと、ゆるしてくれる? 陽子ちゃん」
「ゆるすなんて、そんな……陽子こそ、自殺を図ったりして、おかあさんをつらい目に遭わせて、ごめんなさい」
「あのね、陽子ちゃん。おかあさんね、飛行機の中で、もし万一飛行機が墜落したら、何が一番心残りかと思ったのよ。陽子ちゃんに心からあやまっていないこと、それが一番心残りだと思ったわ」
〈おとうさん。
お元気でしょうか。第二信をお送りいたします。今、陽子は、茅ケ崎のおうちの客間から、縁側のガラス戸越しに、雨にぬれた庭を見ています。春雨のように、しとしとと降る雨の中に、夾竹桃の花が咲き、その傍に真っ赤な彼岸花が群れ、並んで玉すだれという小さな花の白が対照的です〉
食用蛙が群れをなして遊びに来るという大きな池、そのほとりに苔むした灯籠が見える。これらの庭は、千坪からの松林の中にあった。夏枝が見本林のそばに住むのを見て、夏枝の父もまた、松林の中に住みたいと思ったのだという。それは、いつも娘のそばにいたい父親の、気持ちの現れかもしれないと、陽子は思った。
七里ケ浜を過ぎ、江ノ島の見える海岸沿いの国道をしばらく走って、茅ケ崎ゴルフ場入り口から、五、六百メートル入った所に、この松林はあった。三十坪ほどの質素な木造平家が、林の中ほどに建てられてある。ここに、横浜の病院に勤めている夏枝の兄と、その妻、そして二人の高校生の息子たちが、夏枝の父と共に住んでいた。
陽子は、高校修学旅行の時、鎌倉で夏枝の父に会っていた。が、この茅ケ崎の家に来たのは初めてである。
〈今日は早速、おじいさまと海岸まで散歩しました。糠のような小雨で、ちょっと肌寒かったのですけれど、毎日散歩していらっしゃるとかで、わたしとおかあさんがお供したのです。江ノ島が雨にかすんで遠く幻のようにぼんやり見えるのも、夢のようでした。
おじいさんのお部屋の本棚には、医学書と共に、文学全集、美術全集、そして新刊書などがたくさん並んでいて、何か若々しさを感じました。
それからね、おとうさん。北大構内の雪景色の油絵が壁にかかっていました。少し暗いけれど、落ちついた色調で、わたしが「いい絵ね、どなたの?」と申しますと、おかあさんが声を上げて笑いました。何とこれがおとうさんの絵だったのです。
それから、わたしがもう一つ驚いたことがあります。おかあさんがいつか北海道から送られたという木彫りの熊を、おじいさんは毎日朝夕、布で丹念に磨かれるのだそうです。それが送られて以来毎日だというのです。おかあさんは幸せだと、陽子はつくづく思いました。
「何度も手をかけることだ。そこに愛情が生まれるのだよ。ほうっておいてはいけない。人でも物でも、ほうっておいては、持っていた愛情も消えてしまう」
驚く私に、おじいさんはそうおっしゃいました。おかあさんは、ハッとしたように、一瞬わたしの顔を見つめました。……あ、おかあさんは小樽のあのひとのことを考えていらっしゃる、とわたしは思いました。でも、これはわたしだけの連想で、おかあさんもそうお感じになったと思ったのは、わたしの思いすごしだったかも知れません。
東京から茅ケ崎まで、車で参りましたけれど、川崎のあたりは、空気という気体を吸っているのではなく、何かの粉末を吸っているような感じでした。でも、茅ケ崎のここは、とてもいい空気です。松の匂いがします。潮の匂いもします。……〉
翌日、夏枝は嫂《あによめ》と一緒に、横浜に買い物に出かけた。広い敷地の中に、夏枝の父と陽子の二人だけになった。夏枝は出かける前に、陽子に念を押した。
「陽子ちゃん、おじいさんはね、あなたが薬を飲んだことも、何もご存じないのよ。むろん佐石の……などということもよ。だからそのおつもりでね」
夏枝たちが出て行った後、陽子は夏枝の父に従って、陽ざしのあたたかな庭に出た。松林の中に細い道がついている。その道を少し行くと、百坪ほどの芝生があり、そこに小さなあずまやがあった。
「ここはおじいさんの好きな所でね。一日に一回は必ず来るんだよ」
あずまやのベンチに腰をおろして、夏枝の父はいった。
「静かねえ、おじいさん」
陽子が立ったまま、空気を胸一杯に吸うのを見て、夏枝の父は微笑していたが、
「陽子、陽子もいろいろと大変だったろうね」
と、ぽつりといった。
「大変って?」
陽子は胸が波立った。
「おじいさんはねえ、おかあさんをもっときびしく育てるべきだったと思ってね。陽子にはすまないと思っているよ」
芝生を取り囲んで、竹群《たけむら》があった。幹に縞目のある竹が、陽子には珍しかった。
「どうして? おじいさん。おかあさんはとてもいいおかあさんよ」
「そうか、ありがとう。……しかしね陽子、おじいさんの育て方が、まちがっていたことはたしかだよ。夏枝は母親を早くになくしたものだからね。まあひとことでいうと、甘やかしたんだよ。恥ずかしい話だが、おじいさんは夏枝を叱れなくてね。何でもよしよしといって育てたんだ。注意すべき時にも注意せず、したいままにさせておく、これもひとつの捨て子だね。手をかけないのと同じだよ」
何もかも、夏枝の父が知っているのを、陽子は感じた。
「一人の人間を、いい加減に育てることほど、はた迷惑な話はないんだね」
〈おとうさん。
お帰りなさい……〉
その夜、第三信目の冒頭に、陽子はそう書いた。この幾日か、父の啓造は「お帰りなさい」という言葉を聞かないにちがいない。病院から帰って、この手紙を読む啓造のために、先ずこう書きたかった。
〈お一人の毎日は大変でしょうね。ひっそりとしたおうちの中で、一人本を読んでいらっしゃるおとうさんを思いながら、このお手紙を書いています。
ここは小綬鶏《こじゆけい》や、もずの声でさわやかに目がさめます。茅ケ崎に着いた日は雨で、九月は雨の日が多いと聞きましたけれども、今日はからりと晴れました。江ノ島が手にとるように、くっきりと見え、右端の、海に突き出した二本の松が、お話できるほど近くに見えました。驚いたことには、九月も下旬というのに、波のりをしたり、泳いだりしている青年たちがいたことです。旭川では、ストーブをつける頃ですのに、何というちがいでしょう。
ストーブといえば、昨夜八時過ぎに、おかあさんが旭川にお電話したのですよ。おとうさんは石油ストーブのたき方をご存じないから、お教えしようとおっしゃって。でも、おるすで残念でした〉
陽子はペンをとめた。これから書こうとすることは、陽子にとって重大なことであった。改まった思いで陽子は再びペンを走らせた。
〈今度の旅は、陽子にとって、どんなによい旅であることか、わたしは感謝の思いに溢れています。
今日、わたしはおじいさんと、松林の中のあずまやでお話をしました。
「自分一人ぐらいと思ってはいけない。その一人ぐらいと思っている自分に、たくさんの人がかかわっている。ある一人がでたらめに生きると、その人間の一生に出会うすべての人が不快になったり、迷惑をこうむったりするのだ。そして不幸にもなるのだ」
おじいさんは、しみじみとこうおっしゃいました。そして、真の意味で自分を大事にすることを知らない者は、他の人をも大事にすることを知らない、ともおっしゃいました。
おじいさんは、わたしが自殺をはかったことをご存じでした。徹にいさんがお話しなさったらしいのです。おじいさんにおわびをいわれて、陽子は何ともいえない申し訳なさで、いっぱいでした。おかあさんにはホテルで、今また、おじいさんにわびられる陽子こそ、おわびしなければならない人間ですのに。わたしもまた、真剣にわびる人間にならねばならないと、思いました……〉
陽子は本当にそう思った。内科の神様といわれた夏枝の父が、その白髪の頭を陽子の前に下げた時、陽子は背中を一撃された思いだった。
陽子はたしか、遺書の中にこう書いたはずだった。
「私の血の中を流れる罪を、ハッキリとゆるす≠ニ言ってくれる権威あるものがほしいのです」
その言葉は、陽子も忘れてはいなかった。その時の、謙遜な素直な、ひたすらな陽子の思いが、どこかで消えていた。そして、いつしか自分自身を産んでくれた母の不貞を責め、育ての親の夏枝をうとむ思いが、代わってしのびこんでいた。
〈……でもね、おとうさん。陽子はいま、徐々に自分の生きる方向が変わっているのを感じます。特に今日、おじいさんのおっしゃった次の言葉には、はっと目をさまされたような気がしました。
「一生を終えてのちに残るのは、われわれが集めたものではなくて、われわれが与えたものである」
ジェラール・シャンドリという人のいったこの言葉が、なぜかしきりに頭に浮かぶと、おじいさんはおっしゃるのです。おじいさんはまた、自分は自分の功績やら、名声ばかりを集めようとして、生きてきたようなものだった。お前にも、一体何を与えただろうと、おっしゃいました。
おとうさん、わたしはまだ若くて「一生を終えたのちに残るのは」などと考えるのは、おかしいかも知れません。でも、陽子は去年の正月、この世を去ろうとした人間です。ですから、もしあの時死んでいたら、一体何をわたしは残したことでしょう。おじいさんはこうもおっしゃいました。
「おもしろいものだね。あくせくして集めた金や財産は、誰の心にも残らない。しかしかくれた施し、真実な忠告、あたたかい励ましの言葉などは、いつまでも残るのだね」と。
おとうさん、陽子にはまだ生きる目的もよくわかりませんし、人生の何たるかも知りません。でも、ジェラール・シャンドリの言葉によって、何か一条の光が胸にさしこんだような気がします。他の人には何の価値ももたらさない生き方と、そうでない生き方、そんなことも考えさせられました。
とにかく、どんな風に自分の歩みが変わるかわかりませんけれど、陽子はようやく、自覚的に足を一歩踏み出そうとしているのです。……〉
その夜、陽子は夢を見た。
陽子は細長い道を歩いて行った。向こうの山の上に、夕焼けが真っ赤だった。星がひとつ輝いていた。その星から、鋭い一条の光が出た。星は光を放ったまま、ぐんぐん陽子に近づいてきた。星は陽子の目前に迫っても、大きさに変わりはなかった。
「ふしぎだわ」
つぶやいた時、ふいに体が揺れて陽子は目を覚ました。地震だった。少し長い地震のようであった。
啓造は、読み終えた陽子の第三信を、封筒に戻した。いまだかつて、啓造は毎日手紙をくれる人間に会ったことはなかった。婚約中でも、夏枝はめったに手紙を書かなかった。それだけに、啓造は陽子の手紙が心に沁みた。
「……われわれが集めたものではなくて、われわれが与えたものか」
手紙にあったジェラール・シャンドリの言葉を啓造はつぶやいた。真理だと思った。真理は往々にして、人間の考え方とは正反対だと思いながら、啓造はハッと壁のカレンダーを見上げた。あすは九月二十六日である。
九月二十六日こそ、啓造にとって生涯忘れることのできない、洞爺丸遭難の日であった。船窓から激しく流れこむ海水の音が、いまも耳に聞こえてくる。みるみる体が水につかって行く中で、女の泣く声がした。女の救命具の紐が切れたのだ。
「ワタシノヲアゲマス」
その時、そばにいた宣教師が、すぐに自分の救命具をはずした。いま、まざまざとそれを思い出して、啓造は戦慄に似た感動をおぼえた。
(あの宣教師は、命を与えたのだ)
この世を終えて残るのは、集めたものではなくて、与えたものであるとは、まさしく真理だと再び啓造は思った。与えたその命だけは、いつまでも、この世に生きつづけているような気がする。
後に新聞記事で知ったことだが、この洞爺丸には二人の宣教師が乗っていた。一人は札幌、他の一人は帯広在住であった。二人共、救命具を人に与えて、自らは死んでいった。救命具を与えられた若い男女は、後にクリスチャンになり、一人はYMCAで働いているという話も聞いた。命をゆずられた二人は、あだやおろそかに生きては行けないにちがいない。
(あれから十一年たった)
啓造はふっとため息をついた。十一年の間に、自分は一体何をつかんだか。何もなかった。ただ生きてきただけのような気がする。
二、三日前の高木の電話で、啓造は自分の年齢を意識させられた。卒中で死んだ友人や、五十肩になった友人のことを聞いたのだ。今また啓造は、自分が人生の秋にさしかかっていることを痛感した。何の実りもない秋のような気がする。確かに多くの患者をなおしてやり、その命を延ばしてやったかも知れない。しかし、もっと確かなものを、自分はまだつかんでいない。
啓造はごろりと畳の上に寝ころんだ。白いしっくいの天井が高かった。
小心だが、勤勉に生きてきたはずの自分の中に、近ごろは怠惰な、そしてどこか、大胆な思いがしのびこんできているような気がする。夏枝がるすのせいかも知れなかった。
起き上がって啓造は、再び陽子の手紙を封筒から取り出した。
冬囲い
雪が、空から地上に流れ落ちているような感じだった。無数の線となって、雪が降っているのだ。
日曜の午後、おそい昼食を終えて、啓造はストーブの傍にあぐらをかいた。幾本もの縄でつられた庭のアララギの枝々に、白く積もった雪が窓ガラス越しに見える。
「とうとう根雪になりましたわね」
「うん」
啓造は、前におかれたりんごを口に入れた。
「陽子ちゃん、あとは、おかあさんがしますからね、あなたはお勉強をなさい」
食事のあとかたづけをしている台所の陽子に、夏枝は明るく声をかけた。
「大丈夫よ、おかあさん」
返ってくる陽子の声も弾んでいる。
「よかったわ、陽子ちゃんも進学する気になってくれて」
「うん」
啓造はまたなま返事をした。
「いやですわ。何を考えていらっしゃいますの」
「いや、なに、冬を越すクランケたちのことを考えていたんだがね」
夏枝の陽子に対する態度は、茅ケ崎への旅以来、目に見えてあたたかくなった。それは啓造の長い間願っていたことだが、そのことに少し馴れたいまでは、由香子の目が啓造の気がかりだった。
東京から帰った辰子の話では、由香子の目は絶望だということだった。診断は視神経萎縮だった。それに緑内障もあるらしいとのことだった。それを啓造から聞いた時、村井は眉根をよせていった。
「ほう、あまり聞かないケースですよ。院長、由香子は医者にもろくにかからなかったといいましたね。緑内障というのは、眼痛、頭痛に吐き気も伴いますしね、虹輪《こうりん》も見えるわけですからね。視野も段々狭くなるし、医者にかからなかったとは、ちょっと考えられないんだが……。もっとも、由香子は強情な女だから、たとえ死のうが、目が見えなくなろうが、かまわないと放っておいたのでしょうかね」
村井はしかし、どうもあまり納得がいかない、自分が診れば、はっきりするのだが、といった。
「まあ、いずれにしても、目と精神的なショックは大いに関係はありますよ。徹夜で看病していたつれあいに死なれた奥さんが、泣いて泣いて、二日で失明した例がありますからね。由香子も院長を思って、エッセン(食事)もろくにとらずに、泣いていたといってましたね、院長」
冗談とも、まじめともつかぬ顔でいった村井の言葉が、啓造には気になってならなかった。
啓造はりんごを二切れ食べて立ち上がった。
「あら、どうなさいました」
「いや、別に……」
東京から帰った由香子に、啓造は一度会ってみたいと思った。だが、この雪の中を外出する口実も見当たらない。啓造はさりげなく傍のソファにすわった。
「茅ケ崎はまだまだ、あたたかですのにねえ」
夏枝は、絶え間なく降りしきる雪を窓に見上げながらいった。
「あなた、あたたかいところも、寒いところも、取られる税金には変わりありませんのね」
「ああ」
「同じ料金で、わたくしたちは三等室、茅ケ崎の方たちは一等室に入っているようなものですわ」
「まあね」
「いやですわ。また何か考えていらっしゃる」
ストーブのそばにすわったまま、夏枝はソファの啓造をみつめた。
「いや、高木のハイラーテンのことを、ちょっと考えてね」
「あの方、本当に結婚なさるおつもりでしょうか」
「ムッターがいなければ、やはり淋しいだろう」
「でも、お子さんの二人もいらっしゃる方と結婚なさるなんて、ご苦労なさいますわ」
台所にいる陽子をはばかって、夏枝は声を低めた。
「承知の上だろうけれどね」
陽子はあとかたづけを終えたらしく、自分の部屋に戻って行った。
「でも、高木さんが結婚なさるなんて、何だか考えられませんわ。お一人のほうが、高木さんらしくてよろしいと思いますわ」
「高木の結婚が君には淋しいのかね」
「そうじゃございませんわ。高木さんらしくない感じだと思いますの」
「そういわれても、高木は困るだろう」
啓造は、ちょっとさぐるようなまなざしになった。高木の結婚に、夏枝が嫉妬しているのではないかと思った。
「いやですわ」
啓造の表情に気づいて、夏枝は軽くにらんだ。その時、玄関のベルが鳴った。
「どなたかしら」
夏枝は啓造の顔をもう一度見て、髪をちょっとなおして出て行った。
「あなた、北原さんですわ。おめずらしい」
北原が、茶の間に入って来た。髪が少し雪にぬれていた。
「ごぶさたしています」
「やあ、この雪の中を、よく来られましたね」
北原がこの家に来たのは、陽子の一件以来初めてだった。
ストーブのそばにすわって、北原は感慨深げに、茶の間を見まわした。
「汽車でいらっしゃいましたの?」
「いや、車です」
「こんな雪ですのに」
「神居古潭《かむいこたん》の向こうは、降っていませんでしたよ。旭川だけのようです。この雪は」
啓造は、陽子を呼ぶべきではないかと思った。離れになっている陽子の部屋には、北原の大きな声も聞こえない。しかし夏枝は、呼びに行く様子もなく、紅茶をいれている。
「北原さん、お食事は?」
「すませてきました」
もののいい方が明るいと、啓造は北原の横顔を見た。
「あのう……陽子さんはいらっしゃいますか」
北原が、はにかんでいった。
「あら! 陽子にご用でしたの」
驚いたように、夏枝は紅茶をいれる手をとめた。啓造は半ばあきれて夏枝を見た。
「はあ」
「まあ、ごめんなさい。気がつきませんでしたわ。陽子はいま、受験の勉強で毎日大変ですの」
「そうですか。とうとう受けることになりましたか」
ほっとしたように北原はいい、啓造に、
「大学は東京ですか」
と、たずねた。
「やっぱり近いところがよろしいと思いますわ。遠いと心配ですもの。ね、あなた」
啓造の答える先に、夏枝がいった。
「陽子を呼んでくるといいね」
啓造は促した。夏枝はあまり気の進まぬ表情で、それでもすぐ、部屋を出て行った。
「女というのはどうも……」
啓造が口ごもった。北原は気づかぬように、
「陽子さんが進学する気になったのは、昔の陽子さんに帰ったということですね」
「さてね、昔に帰ったというのとは、ちょっとちがうかも知れないが……」
廊下に足音がして、陽子が一人部屋に入ってきた。
「いらっしゃい、北原さん。先日はおせわさまになりました」
F交響楽団の演奏会を聞きに札幌に出た帰り、北原は陽子を滝川まで送ってきたのだった。
「陽子ちゃん、応接室にご案内して。ストーブをつけましたから」
夏枝が部屋に入ってきた。北原と陽子が出て行くと、夏枝は眉根をよせた。
「今ごろ、北原さん何のご用でいらっしゃったのかしら」
啓造は黙って、紅茶に砂糖を入れた。
「ね、あなた。北原さんはやっぱり陽子ちゃんと結婚なさりたいのかしら」
「さあ」
啓造は心が重かった。陽子がいつの日か、誰かと結婚することはわかっている。しかし、誰とも結婚しないで、家にいてもらいたい気持ちだった。わけても、徹と結婚するのは避けてほしかった。徹が陽子によせる思いも知ってはいる。不びんな気もする。が、今の啓造には賛成できなかった。兄と妹として育てたことへの抵抗もある。だが、賛成しがたい理由はそれだけではない。
啓造は今年春ごろから、日記に時折短歌を書きとめている。少し古風な歌だ。誰に習ったわけでもない。数日前に、啓造は陽子を詠んだ。
まろやかな肩持つ汝と二人いて
何に苦しき汝は吾娘なるに
啓造にしては、一時の心のゆらぎを歌ったつもりだが、それはまさしく恋歌である。
この歌は日記には書きとめなかった。啓造の心の奥では、陽子は娘であるより異性だった。それは、陽子が中学生の頃から、しばしば啓造の感じてきたことだった。ただ、それを啓造はすぐにふり払ってきた。
近頃の由香子に対する感情は、あるいは陽子への鬱屈した思いの現れかも知れない。むろん啓造は、そうとは認めたくなかった。自分でも気づかぬふりをしている。だが、徹と陽子の結婚を望まぬ気持ちの底に、こんな思いが流れているのは、否めなかった。
「わたくし、北原さんって、あまり好きじゃありませんわ」
「それはそうだろうね」
北原との口論が、陽子を自殺に追いやった。これは、夏枝の生涯忘れられない痛みにちがいない。
「それに、徹さんの気持ちだって、考えてあげなくてはいけませんわ」
「…………」
「徹さんと陽子ちゃんなら、わたくしたちのことも、大事にしてくれますわ」
「ま、陽子の気持ち次第だがね。陽子はまだ若いよ。十九だからね」
「でも、わたくし何だか不安ですわ。陽子ちゃんの気持ちを確かめて、さっさと徹さんと結婚させたほうがいいと思いますわ」
「若い時は、気持ちが定まらないものだよ。一年一年、目に見えて考え方が変わるからね」
夏枝は、つと台所に立って行った。しばらく水道のほとばしる音が聞こえていたが、ぶどうを皿に盛ってきた。
「北原さんて、どこか油断ができませんわ」
「そんなことはない。徹より苦労している。立派だよ」
「まあ! では、あなたは、徹と陽子ちゃんの結婚には反対ですの」
応接室に入った北原は、しばらくの間、だまっていた。この部屋で、夏枝と激しく口論したことが、昨日のことのようにまざまざと目に浮かぶ。佐石の記事の載った新聞紙をつきつけ、ヒステリックに青ざめた夏枝の顔が、今も目にやきついている。
ピアノも、テーブルも、椅子も、その日のままである。あの日、夏枝がこの部屋を出て行った時、辛うじて立っている陽子の頬を北原は両手ではさんだ。乾いた陽子の唇が目の前にあった。だが北原は、あまりにも傷ついた陽子の姿に、接吻することもできなかった。あの時、陽子とにわかに言葉が通じなくなったような恐怖にかられたことを、北原は思い出した。
そしてあれ以来、たしかに陽子は、北原のみならず、誰とも会話するすべを失ったようだった。この前、陽子を見送りに札幌駅に出た北原は、汽車から降りおくれて、滝川までの一時間を同行した。その時も、陽子は語りかけねば口をひらかなかった。ただ別れぎわに、陽子はいった。
「順子さんによろしくね」
その言葉が、北原には気がかりだった。順子を恋人と誤解されたようで、落ちつかなかった。
「受験なさるそうですね。どこですか」
「北大のつもりです」
「よかった。じゃ、時々お目にかかれますね」
陽子は微笑した。会えるとも、会えないともいわなかった。その陽子を北原はじっと見つめていたが、急に、改まった声でいった。
「陽子さん、先日は失礼しました。お気を悪くなさったでしょうね」
「え?」
陽子はけげんな顔をした。
「滝川までご一緒したことです」
「あら、どうして? 北原さんはあの時、降りるひまがなくて発車したんですもの。発車したついでに、滝川のお家にいらっしゃったまででしょう」
「…………」
「そんなことで、わたし、気を悪くしたりしませんわ」
「ぼくって、いやな奴です」
吐き出すように北原はいった。
「実はぼく、あの日、駅にはわざと遅く行ったんです。発車のベルが鳴るころ、かけつけようと思っていたんです」
言葉をちょっと切って陽子を見、つづけていった。
「そして、その通りに、ぼくはさもあわてたように汽車に飛び乗った。おみやげをあなたに手渡し、降りるひまなくドアがしまった。計画した通りに、事を運んだだけなのです。くだらぬ人間です」
ドアをノックして、夏枝がぶどうを持って来た。
「ごめんなさい。何もおもてなしができませんで。陽子ちゃんが大学に入ったら、ゆっくりご馳走いたしますわ」
ぶどうをおくと、夏枝はそういって、さっさと部屋を出て行った。今日の陽子は受験勉強で忙しい。また出なおして来るようにとの挨拶にも取れる、素っ気ない態度だった。が、北原は、いま告げた自分の言葉に対する陽子の反応のほうが、重大であった。
「いやな奴だと思うでしょうね。でも、なぜぼくがそんなことをしたか、おわかりになりますか。ぼくは……あなたをあきらめるつもりだった。しかし、久しぶりにあなたにお会いして、その気持ちが崩れてしまったんです」
迫るような北原の視線に、陽子は目を伏せた。
「もし陽子さんにあんなにまでショックを与えるいやな事件が起きなければ、ぼくたちはお互いに最も近い存在として、つきあっていたはずです」
「…………」
「陽子さん、あなたは死のうとした。あまりにも傷ましい事件に、ぼくは遠くからあなたを見ているより、仕方がなかった。しかし、ぼくとあなたは、離れてしまわなければならない必然性は、何もなかったはずです」
黙っている陽子に、北原は焦りを感じた。北原は陽子の気持ちを無視するつもりはなかった。こんなふうに、一方的に話すつもりはなかった。それなのに北原は、自分をおさえることができなかった。自分の言葉が、陽子の胸に透らずに、むなしくはね返ってくるような不安を感じながら、北原は更につづけた。
「ぼくと徹君とは、親しい友人です。ぼくは辻口の気持ちも思いやった。彼のあなたに対する長い間の気持ちが、痛いほどよくわかったつもりです。だから、あなたを辻口にゆずるのが、あなたの幸せじゃないかと、そんな気持ちもあったのです。しかし、この前、札幌でお目にかかって、ぼくにはそれが不可能だとわかりました」
陽子は静かに目を上げて、北原を見た。
「北原さん。わたし北原さんに、あやまらなければいけませんわ」
「何をです?」
「わたしは、あんなことがあってから、心が冷えてしまったのです。人に対しても、自分に対しても……」
「辻口に対してもですか」
いってから、北原は顔をあからめた。
「誰に対してもですわ」
陽子は北原の顔をまっすぐに見ていった。石油ストーブのファンの音が、低くうなっている。部屋はようやくあたたかくなっていた。
「じゃ、誰に対しても、いまは白紙だと考えていいんですね、陽子さん」
雪はまだしんしんと降りつづいていた。
「北原さん、わたしね、今年の夏、育児院に行ってきましたの。いろいろな事情の、不幸を負った子がたくさんいましたわ」
「それで?」
「その時、わたしは自分の年で、異性の方のことを考えるのは、早過ぎるとつくづく思ったんです」
北原は納得しがたい顔をした。
「もっと自分の生き方が定まってから、考えるべきだと思ったんです。ですから、いまのところわたしは、どなたとも普通のおともだちでいたいんです」
「わかりました」
少しがっかりしたように北原はいい、ストーブの炎をじっとみつめた。
「ごめんなさい。わたしはあなたを裏切ったことになりますわね」
「そんなことはありませんよ。若い時は誰でも、考えが変わって行くものですよ」
「でもね、北原さん。北原さんはいつかわたしにおっしゃったでしょう。人間なんて、いつどう気持ちが変わるか、わからないって。その時わたし、わたしは変わりませんって、断言しましたわ。自分の気持ちが変わるなんて、想像もできなかったんです」
「しかし陽子さん。ぼくはあなたと、何の約束もしていませんよ。だから、あなたが裏切ったなどと、ぼくは思いませんよ」
たしかその時、北原はいった。いまは自分も一生変わらないつもりである。だが口に出して永遠を誓うことはできない。だから結婚の約束もしまいと。
「ありがとう、北原さん」
北原の寛容に陽子は心うたれた。
「だけど、わたしとしては、裏切った自分がゆるせませんわ」
「陽子さん、ぼくはゆるしてあげます。ご安心なさい」
北原は快活にいった。陽子の胸の中には、誰も住んでいない。そのことが北原の気持ちをおだやかにした。
「でも……」
陽子はふっと考える顔になった。北原は陽子の変心を許すという。しかし、陽子は許された気がしなかった。自分が裏切ったという事実は、たとえ北原が許してくれても、厳然としてこの世にとどまっているような気がした。というのは、北原にしろ、ほんとに人を許す力はないような気がしたのだ。
「どうなすったんです?」
「本当に申しわけのないことをしたと思って……」
顔を上げた陽子の、黒い髪が肩にやさしかった。
「ぼくはもう責めていないのに、自分で自分を責めてはいけませんよ」
北原は、陽子の深い思いを知ることはできなかった。
聴診器
一月十一日は高木の結婚式だった。冬休みのうちに、子供たち二人を新婚旅行につれて行きたいと、高木は正月早々に式を挙げた。
仲人として啓造と共に出席した夏枝が、札幌から帰ってすぐに、風邪をひいて臥《ね》た。夏枝が風邪をひいて臥ることなど、珍しかった。
「どうだね、今日は」
その日も啓造は、いつもより早く帰って夏枝の枕もとにすわった。
「何だか体がだるくって、少し胸が苦しいようですわ」
まだ夏枝の目が熱にうるんでいる。啓造はちょっと眉根をよせて脈を見た。脈を見ている啓造の表情を、夏枝は下から見守った。
「プルスは悪くないよ。胸が苦しいようなら、ちょっと診てみよう」
啓造は聴診器をかばんから取り出した。
「あら、ごらんになりますの」
夏枝ははじらった。細面の夏枝は、一見弱々しく見えるが、しんは丈夫であった。夫の啓造に聴診器を当てられることなど、めったにない。
「肺炎を起こしていては、大変だからね」
白い胸もとに、啓造は慎重に聴診器を当てた。じっと聴診器に耳を傾けながら、啓造は夏枝をみつめた。夏枝も、その啓造をすがりつくように見上げている。その表情を啓造はいじらしいと思った。
「大丈夫。肺炎じゃないよ」
聴診器をしまって、血圧計を出した。血圧が低い。しかし、夏枝の血圧がふだんいくらなのか、啓造は知らなかった。
「胸苦しいのは、血圧が低いせいだから、心配はない。高木の結婚式で疲れたんだね。少しゆっくり休むといいよ」
「だって、陽子ちゃんがもうじき試験ですもの。わたくしが臥ていては、勉強ができませんわ」
「しかし、夏枝の体には代えられないよ」
啓造は、かけぶとんを肩まで上げて、おさえてやった。大した風邪ではないと知りながらも、臥たことのない夏枝に三日も臥られてみると、啓造は何か心もとない思いがした。家の中が妙に寒々しい。陽子が一人、台所で働いているのもわびしいのだ。
「高木さんから、おハガキが来ていましたわ」
夏枝は布団の下から、絵葉書を出した。
〈おい辻口、俺はもうけたぜ。フラウのほかに、産みも育てもしないで、こんなかわいい男の子を、一ぺんに二人ももらったんだからな。子供二人をつれた、にぎやかな新婚旅行も乙なもんだ。ところで夏枝さんが少し疲れていたようで、気にしている。
今夜は別府だ。長崎、福岡を回って、大阪で何かうまいものを食べて帰る〉
高木からは便りなどもらったことはない。高木の名の横に、小さく記した郁子という名に、啓造は微笑した。この葉書は郁子の心づかいのような気がした。
啓造は高木の葉書を見ながら、ふと村井の言葉を思い出した。村井は披露宴が果てた時、こういったのだ。
「院長。新婦は奥さんにちょっと似てますよね。何だか、高木さんの気持ちが哀れだと思いませんか」
村井は人の悪い微笑を見せた。
しかし啓造は、高木の気持ちを詮索する気にはなれなかった。むしろ、村井のそうしたもののいい方に、いつものことながら何か底意《そこい》を感じた。
夏枝の枕もとで、啓造も陽子も夕食を終えた。そこへ辰子が由香子をつれて訪れた。
「お正月だから、今日は玄関から入って来たわよ」
一越《ひとこし》ちりめんに、松の葉染めの小紋《こもん》を着た辰子に気品があった。由香子にも、さび朱の羽《は》二重《ぶたえ》に、手がきの瑞雲《ずいうん》の絵羽織《えばおり》を着せている。由香子は、昨秋の旅で世話になった礼を、誰へともなくていねいにいった。
「風邪を引いたって? 新年早々かわいそうにね」
辰子は枕もとにすわって、夏枝の顔をさしのぞいた。
「ごめんなさい、せっかくいらっしゃったのに、……」
由香子の着物に目をやった夏枝の顔が、こわばった。なぜ辰子は、由香子に対してこんなに金を使うのか。夏枝はさりげなく布団の上に起き上がった。
「だめよ、無理をしては」
「失礼して、臥ていなさい」
辰子と啓造に交々《こもごも》いわれて、夏枝は仕方なく床に臥した。だが由香子の着物を見ると、じっと臥てはいられないような、焦燥を感じた。
「いいお召し物ね、お二人とも」
「ありがとう。由香ちゃんのは、わたしのおさがりを染めなおしたのよ」
「まあ、とてもいい色よ、ねえあなた」
染めなおしと聞いて、少し夏枝の気持ちはおさまった。啓造はうなずいたが、何となく落ちつかなかった。肩をせばめるように、じっとうつむいている由香子に、ともすれば視線がいく。
「由香ちゃん、今日ぐらいめがねをはずしなさいよ。せっかくの着物が泣くわよ」
思わず啓造と夏枝は顔を見合わせた。由香子は、ちょっとためらってから、めがねをはずした。
「まあ!」
常人と変わらぬ澄んだ由香子の目に、夏枝は声を上げた。
「ね、どこも悪いようには見えないでしょ? 由香ちゃんは、どこを見てるかわからない目を、人に見られるのはいやだというの。めがねをかけているよりいいわよね、ダンナ」
十年前と同じ由香子の顔を、啓造はまじまじとみつめた。焦点の定まらぬ目が電灯に光っていた。
由香子をみつめている啓造を夏枝は見た。その夏枝を辰子が眺めていった。
「ダンナ、高木さんの結婚式はどうだった?」
啓造はちょっとあわてた。
「いや、まあ、よかったんじゃないですか。新郎新婦の両側に、子供を一人ずつ置いての披露宴でしたよ」
「じゃ、お仲人さんのあなたがたは、その子供の横にすわったの?」
「そうですよ」
陽子が、辰子と由香子に膳を運んできた。
「あら、食事は終わってきたのよ」
「小母さんさっき、そうおっしゃったから、甘酒と、ニシン漬けだけですのよ」
と、すわった陽子は、ハッと由香子を見た。夏枝がすかさずいった。
「陽子ちゃん、由香子さんおきれいでしょう」
「ええ、とても」
盲人とは思えない澄んだ目に、陽子はちょっととまどって、辰子を見た。辰子はかすかにうなずいて、
「甘酒とニシン漬けとは、陽子君、気が利いたじゃない。今時、こんなおいしいニシン漬けを漬けられる奥さんて珍しいわ」
「まあ、恐れ入りますわ、辰子さん」
夏枝はうれしそうだった。
「甘酒を先にお上がりになりますか」
陽子は由香子に尋ねた。
「外が寒かったから、甘酒を先にいただくわね、由香ちゃん」
辰子の言葉に、由香子はうなずいた。由香子の手に、甘酒の茶わんを渡して、陽子が部屋を出て行った。
一口飲んで、由香子はちょっとむせ、危うく茶わんを取り落としそうになった。「あっ」と声を上げて、斜め向かいにいた啓造が手を伸ばしかけた。が、その前に、そばにいた辰子が茶わんを支えた。由香子の頬に血がのぼった。夏枝は光った目で由香子を見、啓造を見た。
「高木さんの花むこぶりを見たかったわ」
辰子がいった。
「さすがに照れてましたよ、高木も」
「そう、それはよかったわね。これで三度目って顔をしやしないかと、心配していたけど……。考えてみたら、五十だって若いわよね」
「そうですよ。人間の感情って、そう変わりはしませんね。わたしたちも、二十代のころは、五十なんて老人だと思っていましたがね。自分がその年代になってみると、気持ちは少しも変わらないんですよ。ですからね、いま八十歳を老人と感じているのも、まちがいみたいな気がしますよ」
「なるほどね。人間、そう簡単に枯れることはできないものなのね。だけど、八十になって、十九の娘を恋するなんて、ちょっと悲劇だわ」
夏枝の目がまた光った。
夏枝の風邪にさわってはいけないと、辰子と由香子は三十分ほどで帰って行った。玄関まで見送って、啓造は部屋に戻った。
「疲れただろう」
「…………」
「今夜は早くねたほうがいいね」
「…………」
「どうした?」
顔をそむけて臥ている夏枝に、啓造は不審そうにいった。
「あなた、ずいぶん由香子さんにご親切ですのね」
冷たい声だった。
「親切? 別に何も……」
「そうでしょうか。由香子さんが茶わんを落としそうになった時、あなたはさっと手を伸ばしましたわ」
「それは、あたりまえじゃないか」
「あたりまえでしょうか。ちゃんと辰子さんが、そばについていらっしゃるじゃありませんか」
「しかし、彼女は目が見えないんだからね。誰だって、反射的に手が伸びるのは、当然じゃないのかね」
「…………」
「別段相手が松崎でなくても、あの場合は、ああするのが、当たりまえだと思うがね」
「でも、あなたは由香子さんばかり、ごらんになっていらっしゃいましたわ。わたくし、辰子さんに恥ずかしくて……」
「そんなつもりはないがねえ」
啓造は気弱くいった。
「いいえ、まじまじとみつめていらっしゃいましたわ。由香子さんにばかり注意していらしたから、あの時さっと手が伸びたのですわ」
「そうからまれては困るね」
「まあ、からむなんて。あなた、そんないやなおっしゃり方はなさらないでください。辰子さんも辰子さんですわ。わざわざ何も由香子さんを、この家までおつれすることはないんですのに」
「しかしね、夏枝。東京に行った時、君はとても親切にしてあげたのだろう? だから、新年の挨拶ぐらいに来たかったのだろう」
「存じませんわ、そんなこと。辰子さんって、少し度が過ぎていますわ。あんないい絵羽織をつくってあげたりなさって」
「…………」
「それに、あなたの前で、めがねをはずさせたり、いやな感じでしたわ」
夏枝の顔が紅潮していた。
「ばかだねえ、夏枝は」
体をかがめて、啓造は夏枝の額にくちづけしようとした。夏枝は首を左右にふって、啓造をさけながらいった。
「五十歳になっても、二十歳と同じ感情だとあなたはおっしゃいましたわ。あなたって、油断のならない方ですわ」
夏枝の言葉に、啓造はむっとした。
「油断がならない? そうか、わたしはそんなに信用のおけない、でたらめな男かね」
「あら、お怒りになりましたの? わたくし、そんなつもりで申し上げたのではありませんわ」
「そんなつもりでなくて、どんなつもりかね。わたしは、自分ほど信用されてもいい男はないと思って来たよ。君以外の女の手を握ったことさえない、野暮な男だからね」
「それは……」
夏枝が何かいいかけた。が、啓造は、自分の吐いた言葉にあおられるように、たたみかけた。
「わたしはね、人妻にいいよったり、怪しげなふるまいをする、どこかの男とはちがうよ。キスマークをつけたり、つけられたりする人間たちとは、ちがっているつもりだ。油断のならないのは、お門《かど》ちがいじゃないのかね」
啓造はぷいと立って、部屋を出た。
「いま、おふとんを敷きますわ、おとうさん」
掃除機を持った陽子が、廊下を歩いてきた。
「ああ」
つとめて低い声で夏枝に話したつもりだが、陽子に聞かれたかも知れない。啓造は、階段に一歩足をかけてから、ふり返った。陽子が少し心配そうにいった。
「お疲れになったみたいよ、おとうさん」
「いや、何でもない」
啓造はそのまま書斎に上がって行った。
机にもたれるように椅子にすわると、啓造は早くも悔いた。風邪ぐらいとはいえ、臥ている妻に怒った自分が、心ない人間に思われた。夫の自分の診察を受ける夏枝の、恥じらいながら胸を開けた初々しさを啓造は思った。
(何も怒ることはなかったのだ)
怒ったのは、由香子に対する自分の心のゆらぎを知られた照れかくしのような気がした。
夏枝が由香子のことで、とやかくいうのも愛情のあらわれにちがいない。何も村井のことまで持ち出すことはなかったのだ。なぜおだやかに、ものがいえないのか。
(それにしても……)
どうして自分は由香子に心が動くのか。誰かがいった。
「男は美しい女よりも、自分に関心を持つ女に心ひかれるものである」
本当だと啓造は思った。ふいに耳鳴りがした。耳の中で虫が鳴いているような、鮮明な耳鳴りだった。啓造はめったに耳鳴りなどしたことがない。いやな予感がした。
耳鳴りにつづいて、後頭部に突き刺すような痛みを感じた。この痛みにも記憶がなかった。とっさに啓造は、脳溢血で倒れた友人を思って恐怖した。
息をつめるように、啓造は動かなかった。耳鳴りも、頭痛も、かつての経験とは全くちがっている。このあとに何が襲ってくるか、わかる気がした。
(もし、このまま死んだら……)
夏枝と口論したまま死ぬのは、たまらなかった。
ややしばらくして、耳鳴りも、頭痛も和らいだ。幾分ほっとしたが、啓造はそのまま、じっと動かなかった。
(人間、いつ死ぬかわからぬものだ)
死期は相談ずくで定まるのではない。死は全く一方的なのだ。啓造は、死んで行った患者たちのことを思い起こす余裕ができた。
妻と子供三人を置いて、死んで行った胃ガンの男。先月課長に昇任したばかりで、心臓マヒで急逝した男。母一人を残して世を去った腎臓病の娘。結婚十日目に、急性紫斑病で死んだ新妻。その誰もが、果たすべき多くの仕事や使命を残したまま死んで行ったのだ。死は、人間の都合を全く顧慮せぬ冷酷さで、突然襲ってくる。
啓造はそっと首を動かしてみた。耳鳴りも頭痛もほとんどない。
(今は死ななくても、いつか死ぬ時が必ず来る)
死なない人間は、一人もいない。啓造は自分の爪の色を見た。血色がいい。健康な色だ。しかし、この爪が青白く死んでしまう日が、自分にも必ず来るのだ。誰もが毎日死に近づいている。白髪がふえ、皮膚がたるみ、老眼となる。それは徐々に死んでいることかも知れない。その果てに確実な死があるのだ。恐ろしいと啓造は思った。
(自分は、いつ、どこで死ぬのだろう)
あの洞爺丸の船客たちは、暗い海の中で死んで行った。山で死ぬ者もいる。汽車の中で死ぬ者もいる。便所で死んだ知人もいる。
(どこで死のうと、とにかく死ぬのだ)
啓造は、やはり夏枝や徹や、陽子に見守られて、静かに死んでいきたいと思った。
「世話になったね。みんな仲よく暮らすんだよ」
そのぐらいの挨拶はして逝きたいような気がした。見苦しくなく、ちょっと微笑を見せて死にたいとも思う。
「死にたくない」「助けてくれ」
そう喚きつつ苦しんで死んだ患者たち、涙を一ぱいためて死んだ患者たちを思うと、自分だけが微笑を見せて死ねる自信はなかった。しかし、少なくとも怒っている最中や、夏枝と争っている最中には、死にたくなかった。
階段を上がってくる足音がした。
「あら、おかあさんのおっしゃったとおりね。ストーブに火をつけていらっしゃらないわ」
入って来た陽子が、ガスストーブのスイッチをひねった。
「ああ、忘れていたよ。今夜はあまり寒くないんでね」
そうはいったが、体が冷えている。急に寒い部屋に来て、血圧を高めたのかも知れないと、啓造は気づいた。夏枝に腹を立てたのも、悪かったにちがいない。いや、腹を立てやすくなったこと自体、老化現象の一つかと啓造はわびしかった。
「でもおとうさん、顔色がお悪いわ」
「うん、ちょっと耳鳴りがしてね、頭が痛かったんだよ」
「まあ」
陽子は眉根をよせて、啓造の顔を見た。心から啓造の体を心配している表情だった。
「心配はないがね」
脳溢血の予感に怯えたことはいわなかった。
「でも、早くお休みになったら? おふとんは敷きましたわ」
「うん、まあいいよ」
ストーブをたいているかどうかを、確かめによこした夏枝に、啓造は安らぎを覚えた。
「陽子、陽子は茅ケ崎から手紙をくれたね。人が命を終えたあとに残るのは、集めたものではなくて、与えたものだって……」
「ええ」
「おとうさんは人々に何を与えたかねえ。そんなことを考えると、いいようもなく淋しくなるよ」
「あら、おとうさんは、親切で診たてのいいお医者さんという評判よ」
いま、死の影におびえた啓造の気持ちを、陽子は知らない。
「そうかねえ」
自分が死んだなら、患者たちはいい医者だったと惜しんでくれるかも知れない。が、それだけのことなのだ。やがては誰もが忘れてしまうにちがいない。自分にとっては重大な自分の死も、人々にとっては何の痛痒も感じない事件なのだ。それは、他の人々の死が、啓造自身にとって、所詮他人ごとに過ぎないのと同じだった。啓造は孤島にあるような淋しさを感じた。
「おとうさん、いまね、おかあさんが、生きてるって淋しいわねって、おっしゃってたわ」
陽子が、椅子から立ち上がりながらさりげなくいった。
「生きてるって、淋しいか」
啓造はつぶやいた。何か夏枝が涙ぐんでいるような気がした。そうだ、夏枝も淋しいのだ。その淋しい者同士が、何でつまらぬ争いをくり返すのか。淋しければ肩をよせ合って、仲よく生きるべきなのだ。村井や由香子のことなどで争うつまらなさを、再びくり返すまいと、啓造はしみじみと思った。
新芽
|ク《*》ラーク会館の学生食堂で、カレーライスの昼食を終えた陽子は、広いロビーに出た。男女の学生たちがロビーにも溢れていた。牛乳を飲みながら新聞を読む者、腕を組んでひるねをしている者、四、五人で声高《こわだか》に議論している者、何も語らずに、じっとお互いをみつめ合っている者など、多様だった。
百脚ほどある椅子のひとつに陽子はすわった。目を上げると、ギャラリーの壁に並べられた写真展が見える。赤いセーターを着た男の学生が一人、手すりに寄ってロビーを見おろしていた。憂鬱なまなざしだった。一目で今年の新入生でないことがわかる。
(今にわたしたちも、あんな表情になるのだろうか)
新入生は、陽子にもすぐにわかった。どこか初々しかった。靴が新しい。ズボンが新しい。それもある。しかし表情や動作に、何か生き生きとした動きがある。
佐石の娘と信じていたころの夏枝は、決して陽子を進学させようとはしなかった。その後、陽子の出生がわかってからは、進学をしきりにすすめた。だが、生きる意欲を失った陽子にはその意志がなかった。そんな曲折を経た入学だけに、陽子には、与えられた大学生活をおろそかにできないという思いがあった。
「そうかな、そんなものかなあ」
隣のテーブルにいるめがねをかけた学生が、少しがっかりしたようにいった。
「そうさ。〈吾思う故に吾あり〉さ」
色物のワイシャツに、黒っぽい背広を着た年長らしい学生が、たばこの煙を吹きつけるようにしてからいった。
「金が仇の世の中だな」
「いや、金はありがたいものさ。しかし、ありがたいものは、また仇でもあるのさ」
黒っぽい背広と、めがねの学生が立ち去ったあとに、男女四人の学生がすわった。何かの話のつづきらしい。一人がいった。
「要するにさ、ベートーベンはベートーベンだっていうことさ」
「そうだ。ベートーベンはショパンじゃない。モーツァルトでもない」
「いやあね。あまり当たり前のことはいわないでよ」
四人は明るく笑った。
このロビーで、自分もまたいろいろな会話を交わしながら、学生生活を送っていくのだろうと陽子は思った。テレビの前に二、三十人、学生たちが群がっている。その横をすりぬけて、陽子は集会案内板の前に出た。
〈一号集会室、映画会。三号集会室、茶道研究会。大集会室、フォークダンス研究会〉
案内板をちらりと見て、陽子はクラーク会館を出た。四月の陽が北大構内に溢れている。陽子は玄関前の幅広い階段に立って、会館から、まっすぐに伸びた道を見た。誰かが、陽子にぶつかるように、階段をかけおりて行った。
クラーク会館から、北に一キロほど伸びた真っすぐな舗装路には、絶えず自動車が走り、学生たちが行きかっていた。ここから見る北大構内の眺めが、陽子は一番好きだった。
舗装路の左手は農学部で、その北よりに黄土色の三階建ての理学部が、大きなニレの木立ごしに見える。ニレの向こうに、ポプラが幾本か道に沿ってそびえている。ニレもポプラも、まだ芽吹いてはいない。が、春の光の中にやさしく煙って見えた。
陽子は辰子から入学祝いにもらったベージュ色の大きな革のバッグをブラブラさせて、右手の芝生の小径に入って行った。クラーク博士の胸像の斜めうしろに、キハダの大樹がある。その根本に白いハンカチを広げて陽子はすわった。芝生がやわらかく、ふくらはぎにふれた。
起伏のある広い芝生で、陽子のすわっている傍から、やや急な勾配になっている。まん中の低い平らには、男女の学生たちがバレーボールに興じているのが見える。陽子は今日の午後休講だった。休講の時は近くの下宿に帰るか、このキハダの木の傍に憩うことにしていた。
陽子はバッグから、あみかけたレースのショールを取り出した。五月の母の日に、夏枝に贈るつもりだった。あと三分の一ほど残っている。陽子の指は鮮やかに、すばやく動く。編みながら陽子はふっと、自分を生んだ三井恵子の写真を思い出した。一生、自分は生母に何かを贈ることなどないにちがいない。そう思うと、生母の恵子が哀れでもあった。
「何だ、陽子さんじゃないか。しばらくだなあ」
芝生の小径に立ちどまったのは、高校時代の級友大野だった。くしを入れたこともないような髪をかき上げながら、大野は近よって来た。
「君が文類に入学したと聞いたからさ、西高の連中で歓迎会をしようって、話が出てるんだ」
「ありがとう。聞いていたわ」
「何だか、夢みたいだな」
大野は傍に腰をおろした。長い足だった。
「夢みたい?」
「そうさ、陽子さんは、つまりさ、ぼくらのアイドルだったろう。誰だってそう思うよ」
大野はてれもせずにいった。
「恐れ入ってしまうわ」
「これがキハダの木か」
大野は幹にかかっている白い札を見上げ、
「キハダって、何の薬か知っている?」
「健胃剤でしょう?」
「ご名答だな。しかしまだあるんだ。この幹にさわると、いかなる人といえども、直ちに恋をするんだってさ」
「また、でたらめ。変わらないのね、大野君」
少し離れた低い斜面にねそべって、その二人を見上げている学生がいた。
大野が立ち去ってから、陽子はキハダの幹にそっと手をふれて微笑した。無数にみぞのある荒い幹肌である。これにふれれば、直ちに人は恋をすると、大野は口から出まかせをいった。だが自分はいま、何にふれても人を恋うことなどないような気がする。
陽子は再び、レース編みの針を動かしはじめた。この大学に、父の啓造も、徹も、北原も高木も学んだ。茅ケ崎の祖父もここの医学部の内科の教授だった。いまその大学に自分も入ったのだ。
(もう一人……)
自分が生まれる前に、心臓マヒで死んだという実父の中川光夫もここの理学部に学んだのだ。母の恵子と肩を並べて写っていた中川光夫を、陽子は思った。
(この構内を、生きて歩いていたのだわ)
陽子はふと、左手の斜面に動く人影に目をやった。肩にこげ茶色の線が鮮やかに入っているクリーム色のセーター姿の学生が、腹這いになって足を動かしながら本を読んでいた。このセーターに見覚えがあった。確か一昨日もこの近くにすわっていた。あの学生もこのあたりが好きなのだろう。と思った時、陽子のひざの上にあったレースの糸の玉が、あっという間に、腹這いになっている学生をめがけるように転げ落ちて行った。
学生は、糸玉を手にとって、陽子を見上げた。
「すみません」
あかくなった陽子は立ち上がろうとした。
「いいですよ。ぼくが持って行ってあげます」
学生がすばやくかけ上がって来た。
「ここは編み物をする場所じゃなさそうだな」
学生は陽子をじっとみつめた。澄んだ目だが、どこか幼さの残った顔立ちだった。
「ごめんなさいね。どうもありがとう」
「君はこの木の下が好きなの? おとといも、その前もここにいたね」
学生は、陽子に向かい合って、芝生に腰をおろした。
「あら」
「文類でしょう? ぼくは理類だけれど」
学生は笑った。笑っても、どこかにかげりがある。だが、心にしみ入るような優しい笑顔だった。
「どうしてご存じなの?」
「教養部の廊下で、時々会うもの」
やせ型の、どこか神経質な感じだが、徹ともちがう。もっと激しいものが、眉宇《びう》のあたりに漂っていた。
「あなたもここがお好きなようね」
「いや、特にここが好きなわけじゃない。君がいつもここにすわるから、ぼくも来るまでです」
「え?」
思わず陽子は学生を見た。
あまりに単刀直入なもののいい方だった。返答に窮した陽子は、だまってショールを編みはじめた。
「君、ぼくをチンピラだと思わない?」
「思わないわ」
「どうして? ぼくはここで、君を張っていたんだよ。そんな奴はチンピラだと思う神経が、君にはないの? もし君がそんなひとなら、ぼくはいやだなあ」
「チンピラだと思ってほしいの? でも、直感でわかるわ」
「直感? 都合のいい言葉だな。君、ぼくは去年から君を探していたんですよ」
「いま知ったばかりなのに?」
「ちがう。ぼくは去年の九月、君と道庁のそばの交差点で会ったんだ」
三井恵子の次男達哉だった。つまり陽子の異父弟だった。むろん陽子が、それと知るはずはない。
「ああ、あの時のひとなの? でも、あなたみたいじゃなかったわ」
交差点のまん中に立ちどまっていた少年の顔が、食いつきそうな激しい表情をしていたことを、陽子も忘れてはいなかった。
「ぼくですよ。しかし、よく覚えていてくれましたね」
「だって、交差点のまん中に突っ立ってたでしょ? だから……」
「あの時からぼくは、君を探していたんだ」
「どうして?」
達哉は、それには答えずにいった。
「だから、教養部の廊下ですれちがった時、ぼくは叫び出したかった。君は誰かと話しながら通り過ぎて行ったけれどね」
小径や、まわりの芝生を、絶えず人が往き来している。
「どうしてそんなに?……」
さすがに陽子は無気味になった。
「君もぼくも、教養部なのにさ、なかなか会えないんだ。何しろ教養部だけで、二千人以上もいるからね。ところが偶然、ここが君の憩いの場所だとわかったのさ」
陽子は改めて達哉の顔を見た。血を分けた弟とも知らずに、陽子はその顔をまじまじと見つめた。
「怪しい奴だという顔をしているね」
「なぜ、わたしに関心をお持ちになったか、知りたいわ」
以前から、異性に好意をよせられることは、珍しくはなかった。だがこの学生のような、異様な態度を示した者は一人もいなかった。
「気味が悪い?」
「ちょっと、そんな気もするわ」
「なあに、たわいのないことさ。あんまりたわいなさすぎて笑われるかも知れないな。実はね、君があまりにもぼくの母に似ているからさ」
「あ!」
とっさの機転だった。陽子はレースの糸玉を故意に落とした。糸玉は再び斜面をころげ落ちた。陽子は斜面をかけおりた。糸玉を追いながら、陽子は高鳴る胸をおさえかねた。
(もしかしたら……)
自分に似ているというのは、生母のことではないか。とすると、あの学生はわたしの弟なのだ。
(弟!)
三井家では、誰も自分の存在を知らぬと聞いている。
(知られてはならない!)
糸玉をつかんで、陽子はそのまましゃがみこんだ。
「どうしたの」
いつの間にか、そばに達哉が立っていた。
「何でもないわ」
「でも、顔色が悪いよ」
「すわっていたのに、急に立ち上がって走ったからよ。ちょっとめまいがしただけなの」
陽子はしゃがんだまま、低くいった。
「それなら、いいけれど」
やさしい声だった。
「あなたのお名前、何とおっしゃるの」
顔を見るのが恐ろしかった。陽子は芝生に目をやったまま尋ねた。
「三井達哉」
(やっぱり!)
体をさしつらぬくようなおののきを感じた。
「三井さんとおっしゃるの」
陽子はかすかにほほえんだ。
「君の名前は知ってるよ」
「そう……。あなたきっと末っ子ね」
「わかる? 二人っきりだけどぼくが下さ。なるほどね、おふくろに似たひとをつけまわすなんて、乳離れしていないみたいだからね。しかしね、ぼくにしてみると、ちょっとしたミステリーなんだ。顔ばかりか体つきや歩き方まで、似てるんだからね。こうして話していると、声も似ているよ」
「まあ、信じられないわ」
陽子は、ようやく落ちつきを取りもどして立ち上がった。
「じゃ、ぼくがうそをいってると思う?」
「そうじゃないけれど、でもそんなに似た方なんて……」
「信じられない? そうだ、一度うちのおふくろに会ってみたら? 君だって、きっとびっくりすると思うな」
「いやよ。自分に似ているひとなんて、何だかこわいみたいだわ」
陽子は糸玉をくるくるとまきながら、キハダの木の下に近づいて行った。
「君のことをいったらね、おふくろもそんなことをいっていたよ。女の人って、自分に似た人が嫌いなのかな。自分の存在を侵されたように思うのかな」
達哉の顔を見つめながら、陽子の思いは複雑だった。
「おふくろはともかくさ、ぼくとは友だちになってくれる?」
「友だち?」
(友だちじゃないわ。あなたはわたしの弟なのよ)
「ええ。でもわたしって、特に親しい友だちはつくらないのよ」
陽子はうなずいてからいった。
「だけど三井さん。わたしがあなたのおかあさんに似ているからって、どうしてお友だちになりたいの」
陽子はレース糸も編み針もバッグにしまった。その手がかすかにふるえていた。
「それがぼくにもわからないんだ。ぼくって病的なのかな。小さい時からおふくろのことになると、いい加減にしておけなくてね。とにかく、君がぼくのおふくろに似ているってことは、ぼくにとって重大なことなんだ」
「…………」
「何ていうかな。ほら、切手を収集する人間の心理と似てるかも知れない。おふくろに関するものは、みな集めたいんだ。ちょっとわかりづらいかな」
「わかるわ、何となく。特別におかあさんが好きなのね」
「幼稚園の子だって反抗期があるというのにさ。大学に入っても、おふくろが好きだなんて、軽べつされるだろうけれどね」
「いいえ。あなたって、きっと素直なのよ。男の人って、大体おかあさんが好きなものですってよ。でも、たいていは、うるさいおふくろだという顔をしていたいのよ。あなたは、ご自分の気持ちを裏返したり、ひねったりしないで、ストレートに出しているのよ」
「いや、いくらぼくだって、ほかの人にはおふくろを好きだなんて、いわないよ。でも、君にはなぜか、いってしまったんだ」
あたたかいものが、陽子の心に伝わった。
「じゃ、また」
達哉はふいに立ち上がって手を上げた。
「さよなら」
陽子も片手を上げた。達哉は急ぎ足で、芝生を斜めに横切って行く。その右肩が少し上がっていた。芝生の向こう斜面をのぼり、ふり返って達哉は手をふった。そして生け垣の向こうに去って行った。
達哉の姿がすっかり見えなくなった時、こらえていた熱いものが、一度に身内から噴き上がるのを陽子は覚えた。上体がゆらりと崩れたかと思うと、陽子は芝生に顔をふせた。涙がぽとぽとと芝生に落ちた。生まれて初めて、自分の肉親を見たのだ。
(肉親?)
それは陽子自身にも思いがけない感動だった。陽子の長い髪に春の陽が光っていた。
五月五日、子供の日の午後だった。陽子は下宿の二階で、朝からノートの整理をしていた。少し赤茶けた畳敷きの六畳間の片隅に、座机が窓に向かって置いてある。それでも、ここに入る時夏枝が取りかえてくれた若草色の厚手のカーテンと、本棚の上の日本人形が、部屋を小ぎれいに見せていた。
陽子はあの後、達哉と一度教養部の廊下で会った。達哉は照れたように笑って、
「元気?」
と、声をかけただけで通り過ぎた。二講の時間が迫っていたせいだろうと思いながらも、陽子は少し淋しかった。しかし、その達哉を、いま思い出しながら、陽子は微笑していた。
(達哉ちゃん)
陽子は心の中で呼びかけた。
誰かがドアをノックした。開けると、うす暗い廊下に順子が立っていた。
「あら、いらっしゃい」
「ずい分うす暗い廊下ねえ。ひるでも電灯をつけなきゃならないみたい」
この下宿を世話した順子は、自分の責任のようにいって、包みをさし出した。
「ハイ、子供の日のおのり巻き」
「まあ、うれしい。ありがとう順子さん」
「いかが? ここの下宿生活は」
「とてもいいわよ。お食事はおいしいし、小父さん小母さんもいい方だし。それに大学のすぐそばですもの。構内にいるみたいよ。ありがたいわ」
クラーク会館のすぐ横を通って、一丁ほど東に来ると、もうそこが陽子の下宿だった。通りに沿った狭い庭に、丈高いライラックやアララギなどを植えこんだ、古い木造二階建ての静かなたたずまいの家である。
下宿といっても、下宿人は陽子一人だけだった。大学に近いため、頼まれて知人の娘を置いてからの引きつづきで、陽子が三代目の下宿人だった。この家の妻と、順子の母が従姉妹の関係で、陽子を置いてくれることになったのである。五十半ばの主人は市内の大きな商社に勤め、二人の娘はそれぞれ結婚していた。
「北原さん、遊びにいらっしゃる?」
「遊びに? いいえ、まだよ」
「あのひと、ドクターコースですって? 勉強家なのね」
「そうね」
雪の日に旭川まで訪ねてきた北原を思いながら、陽子は短く答えた。
「ね、陽子さん」
「なあに」
「おにいさんは時々ここにいらっしゃる?」
「この間、一度来てくれたわ」
「そう」
順子はちょっと黙った。
「おのり巻き、早速いただくわよ。お腹がぺこぺこなの。順子さんもお腹がすいてるでしょう」
下宿は昼食が出ない。陽子は紫色のポットから、急須に湯をそそいだ。目をふせると、陽子のまつ毛がひときわ長く美しかった。
「すいたわ。ぺこぺこの三乗よ」
「まあ、三乗?」
二人は顔を見合わせて笑った。レンガ色のスーツの下に、白いブラウスが清潔で、順子によく似合った。陽子は、ノートを片づけた机の上に、重箱を開き、押し入れの中から小皿と箸を出して置いた。
「まあ、おいしい」
「うれしいわ。わたしが作ったのよ」
「お上手ねえ。とても形よく巻いていらっしゃる」
陽子は、つやつやしたのり巻きを改めて見た。
「これね、本当は生まれて初めて巻いたの。たくさんごはんをたいて、何べんも練習したのよ。苦心の作よ」
「あら、恐縮ね。あだやおろそかには、いただけないわ」
「おかげさまで、今度から練習しないで巻けるわ。陽子さん、お料理がお好き?」
「好きよ。おだしでも、手をぬいたらすぐにわかってしまうでしょう。そのきびしさが好きよ」
「あら、うちなんか薬屋でしょ。おだしなんて、とるひまがないと、パッパッとインスタントのものをふりこんじゃうの」
「うちの母は、人一倍ていねいなのよ。煮干しや、こんぶや、けずり節など、その時その時で組み合わせるの」
「うわー。じゃ、おにいさんも、インスタントはおきらいね」
順子はそういってから、顔をあからめ、
「あら、わたしってばかね。でも、あなたのおにいさんって、谷川みたいに清らかな感じがして、ちょっと気になる存在なの」
と、肩をすくめて、のり巻きをほおばった。
「うれしいわ。おほめいただいて」
陽子の長い髪がかすかにゆれた。
「ねえ、あなたがたでも、きょうだいげんかをなさる?」
「きょうだいげんか?」
不意をつかれたように陽子はぎくりとした。そういえば、徹と自分は、きょうだいらしいけんかをしたことがない。いつも徹は、はらはらと自分をかばってばかりいたような気がする。
「さあ、けんかをした覚えはないわ。兄はやさしいから……」
「まあ、けんかもなさらないの? それじゃ、きょうだいみたいじゃないのね」
無邪気にいった順子の言葉が、陽子には痛かった。
「そうね、本当のきょうだいみたいじゃないわ。あまり仲がよくないのかも知れないわね」
陽子はさりげなく微笑した。
「うそよ。あなたがたは、とても仲がいいわ。……だけどね、陽子さん。わたし、仲が少々悪くても、きょうだいがほしいわ。おねえちゃん、今月はこづかいが足りないんだなんて、甘えてくれる弟か妹がいたら最高ね」
「そうでしょうね。順子さんは一人っ子ですものね」
陽子は再び達哉を思った。
「そうよ。一人っ子ってつまらないわ。兄も姉もほしいわ。でも、きょうだいがいるからって、別段それほどうれしそうでも、幸福そうでもないわね、世の中の人々は。ふしぎねえ、陽子さん」
「きっと、そういうものなのよ、万事ね。高校時代は大学にさえ入れたら文句はないって、みんな思ってたかも知れないわ。でも、いざ入ってしまうと、いろいろ不平も出てくるらしいわ。憂鬱な顔をした学生がたくさんいるわよ、順子さん」
「そうね。家でも、カーでも、恋人でも、手に入ってしまったら、どうということもなくなるのね。とすると、好きな人と結婚しても同じことかしら、人間って」
「全部が全部、そうとは限らないでしょうけれど……。でも、恋愛結婚をしても、不平たらたらで生きてる人も、たくさんいるわね」
「がっかりねえ。わたし、すてきな恋愛結婚をしたいと夢みているのよ。でも、せっかく結婚しても、嫌われちゃつまんない。ね、陽子さん、あなた人を好きになったことがある?」
陽子は一口お茶を飲んでから答えた。
「あるわ」
「まあ、あるの? すてきねえ」
恋愛にあこがれている順子を、陽子は美しいと思った。
「順子さん、おいしかったわ。ごちそうさま」
陽子は箸を置いた。
「お粗末さま。ね、そして、どうなさったの、いまは?」
陽子は黙って、向かいの屋根ごしに見える北大の杜に目をやった。
「もう、以前のことよ。いまはいないわ」
「どうして? 嫌いになったの?」
「いいえ」
「じゃ、好きなのにあきらめたの?」
「ちがうわ」
まばたきもせずに、陽子は順子を見た。
「わからないわ」
「順子さん、わたしね。ある日突然、生きることに意欲がなくなったの。そして、薬を飲んで、三晩眠りつづけて、やっと助かったことがあるのよ」
思い切って陽子はいった。
「まあ、ほんとう? 陽子さん」
順子の顔がさっと緊張した。
「ほんとうよ。それからしばらくの間、わたしは生きる意欲を失っていたの。今だって、まだ本当に生きてるというところまでは、いかないわ」
「そうだったの、陽子さん。ごめんなさい。わたし、ちっとも知らなかったものだから……」
「ご存じないのは当然ですもの。それで、わたしには今、好きな人はいないのよ」
「……でも、どうして突然生きる意欲がなくなったの」
順子は、陽子の目をのぞきこむようにした。
「それは……今はいえないわ」
「ごめんなさい。立ち入ったことを伺って」
順子は窓に目をやった。空に雲がぽっかりと浮かんでいる。じっと雲を見ている順子の目が次第にうるんだ。
「生きるってこと、陽子さんのような方でも、つらいことだったのね」
切実な、共感のこもった声だった。陽子は思わず順子を見た。いつもの明るい順子の言葉には思えなかった。
「順子さんも、つらいことがあって?」
「それは、あるわ。むろん、どんな人にでもつらいことはあるでしょうけれど。でも、わたし、いまはもう大丈夫よ。生きる意欲、じゅうぶんよ」
「そう、それはいいことね」
順子の不幸が何かは知らない。しかし、自分のように、殺人犯の娘として育つほどの不幸ではあるまいと、陽子は思った。
階段のきしむ音がした。
「あら、どなたかしら?」
順子の丸い目がくるりと動いた。入って来たのは徹だった。順子は驚いて、窓のほうに後ずさりしたかと思うと、カーテンでくるりと自分の体を巻いた。その順子を見て、徹が頭をかいた。
「出ていらっしゃいよ、順子さん」
順子はきまり悪そうに、カーテンの中からあらわれて、ペコリと徹に頭を下げた。
「しばらくだね、順子ちゃん」
順子はまだ顔を赤くしている。
「いま、順子さんお手製のおのり巻きを、全部いただいちゃったところよ。残念ね」
「いや、ぼくは食べて来た。これ、ニシムラのアップルパイだよ」
「ありがとう。じゃ、デザートにいただきましょうよ、ね、順子さん」
「やさしいおにいさんがいらっしゃって、陽子さんいいわね」
順子はうらやましそうにいった。徹と陽子はちらりと視線を合わせた。
「でも、どうしておにいさんと同じ下宿になさらなかったの。そのほうが便利じゃない?」
菓子箱のリボンを解く陽子の手がとまった。
「いや、きょうだいなんて、たまに会うぐらいが、ちょうどいいんですよ」
徹は順子の問いに答えた。が、この順子に、自分たちは本当の兄と妹ではないことを、早く告げるべきではないかと思った。今、自分が部屋に入って来た時、順子はカーテンの中にかくれた。それは単なるおとめのはじらいであったかも知れない。だが、そうとばかりもいえないような気がする。順子はあるいは、自分に関心以上の何かを持っているのではないか。
「そんなものなのかしら、きょうだいのある方って。ぜいたくねえ。わたしなら、毎日顔を見ていたいわ。話し合っていたいわ」
「おいしそうよ、どうぞ順子さん」
切ったアップルパイを、陽子は順子と徹の前に置いた。
パイを食べ終わった順子は、店の手伝いをしなければならないと、残念そうに腕時計を見た。帰りぎわに、順子は陽子へとも徹へともなくいった。
「ね、こんど、支笏湖《しこつこ》か定山渓《じようざんけい》にでも遊びに行きましょうよ。北原さんの車で」
「賛成ですね」
言下に徹が答えると、順子は子供のように両手をたたいた。
「無邪気な人だね」
順子が帰ってから、徹がいった。
「でも、わたしよりおとなよ。何かご苦労なさってるようよ」
「そうかなあ、中学生のような感じじゃないか」
「そう見られるだけ、あの方はかしこいのよ。順子さんは、人にいえない苦しみを経験しているようよ。いつか植物園で、初めてお会いした時も、わたしそう思ったわ」
「自分は苦しみを持っているという顔をしたいのが、青春時代だからね。しかし、陽子のような苦しみとは比較にならないよ」
「それはわからないわ。世の中って、さまざまな苦しみがあるんですもの」
徹はだまって陽子を見た。徹は陽子にききたいことがあった。達哉のことだった。徹は昨夜、恵子に呼び出されて、山愛ホテルのロビーで会った。そこで、達哉が陽子と知り合った話を聞かされたのだ。陽子も、達哉の名を知ったはずだ。陽子はいったい、達哉の出現をどう受けとめているのか、徹はそれを知りたかった。陽子に、また新たな苦しみが始まるのではないかと、不安だった。
「さまざまの苦しみか、全くだね」
思わず吐息をついた徹に、陽子は心配そうにいった。
「どうなすったの。何か心配ごとがあるみたいよ、おにいさん」
「うん、実はね、ゆうべ、達哉君と君が知り合った話を聞いたんでね」
「そう」
誰に聞いたかとは、陽子は尋ねなかった。その白いふっくらとした手が、形よくしなって、頬にふれただけだった。
「ゆうべ、君の……小樽のおかあさんにお会いしてね」
陽子は窓に視線を向けた。
「達哉君が、君と友だちになれたといって、喜んでるんだそうだ。達哉君の口から辻口陽子という名を聞いて、あのひとは驚いたらしい」
「…………」
「あのひとは、達哉君の性格を知っている。いつか必ず、達哉君は君が誰であるか知るにちがいない。その時、彼はどうなるか、想像しただけでも恐ろしいというんだ」
ふっと陽子の目がかげった。かと思うと唇に微笑がのぼった。
「では、わたしにどうしなさいって、おっしゃるの」
「あまり深くつきあわないでほしいのだろうね」
ゆうべ、恵子はこういったのだ。
「もし、達哉があの子に恋をしたらと思うと、わたしはつくづく、自分が罪深いと思ったわ。ね、今のうちに、わたしは三井や子供たちに、事実を打ち明けたほうがいいのじゃないかしら。でも、どんなに傷つくかわからないと思うと、その勇気もないのよ、辻口さん」
だが徹は、この言葉をそのまま陽子に告げることは、できなかった。
「そうね、わたしも深くつきあう気はないわ。それが、達哉ちゃんの幸せですものね」
達哉ちゃんという呼び方が、徹には意外だった。自分よりも達哉のほうが、陽子に近いところにいる感じだった。
「でもね、どんなことがあっても、わたしたちさえ何もいわなければ、達哉ちゃんにはわからないと思うの」
「そうかねえ。しかし、西高出の連中の中には、陽子が養女だと感じているのもあるだろうしね。その上、達哉君は勘が鋭そうだしなあ」
「では、どうしたらいいの。わたし休学でもしなければいけないの?」
「まさか」
徹にも、おいそれとよい方法が浮かぶはずもない。
「陽子も、大学に入ったはいいが、とたんに厄介な人間に会ってしまって、大変だね」
(厄介な人間じゃないわ)
陽子はそう思った。理屈ぬきに達哉がかわいいのだ。とはいえ、複雑な思いは陽子も同じだった。いつか自分が、達哉にとって呪うべき存在となる日が、くるかも知れないのだ。
「大変だなあ」
黙っている陽子に、徹は再びくり返した。
「いい天気だね。外に出ようか」
徹は、陽子と二人っきりで部屋にいるのが、息苦しくなった。
「そうね。でも、わたし今日はノート整理をしたいの」
「ノート整理? まだ入学したばかりじゃないか。もっと、のんびりするといいよ。それより、外に出て日光浴でもしたほうがいいね」
陽子は、徹と二人だけで連れ立って歩きたくはなかった。が、あまり無下に断ることもできない。
「じゃ、ちょっと着替えるわね」
徹は一足先に外に出て、陽子を待った。空が青い。芽吹きはじめた庭木のかげに、黄色い水仙のひと群れが見える。徹はたばこをくわえたまま、下宿の前をぶらついていた。と、電車通りのほうから歩いてくる学生が目に入った。達哉だった。とっさに徹は達哉に背を向けて歩いていた。
自分が陽子の家族と知られるのは、まずいと思った。恵子を見舞った時、既に達哉はうさんくさそうに自分を見ていたのだ。
(陽子を訪ねてきたのではないか!?)
徹は不安になった。下宿から三十メートルほど離れてクリスチャンセンターの門があった。徹は、その陰にかくれるようにして、そっとうかがった。果たして、達哉は陽子の下宿の前に立って、上着のポケットに手を入れたまま、陽子の部屋の窓を見上げている。
(今に陽子が出て来る!)
そう思う間もなく、陽子の出て来るのが見えた。
「兄と出かけるところですの。あら、兄はどこかしら?」
そういっているにちがいない。陽子は左右を見た。
「達哉は幸い辻口さんのお名前を記憶していませんでしたわ。それで少しほっとしましたけど」
昨夜の恵子の言葉を思い出しながらも、徹は二人のようすを動悸して見つめていた。
陽子はなおもあたりを見まわしている。
「変ねえ」
とでも、いっているのだろう。首を傾けてから、陽子は電車通りのほうを指さした。二人は並んで歩き出した。二人の間に、人が一人入るぐらいの間隔がある。
(休日にわざわざ小樽から訪ねて来たのか)
徹は、達哉の陽子に対する関心の度合いを、知ったような気がした。
二人は一丁ほど行って交差点に出た。交差点を仲よく左に渡って行く。渡った角は食料品店だ。たばこの看板が出ている。そこで立ちどまった陽子が、傍の達哉にちょっと片手を上げた。達哉も片手を上げ、交差点を逆戻りして、駅のほうに歩いて行った。札幌駅の北口が、そこから二丁ほどの所にある。
達哉を見送っていた陽子が、食料品店に入った。徹は、陽子が入った食料品店に向かって、急いで歩き出した。
*クラーク会館 北海道大学の学生会館。昭和三十四年(一九五九)建設。北大の前身である札幌農学校の基礎づくりに尽力したアメリカの教育家、ウィリアム・クラーク博士に因んで命名された。
池の面
「珍しいじゃないか、辻口」
次の間で、白衣を妻の郁子に脱がせながら、高木は座敷にすわっている啓造にいった。
「うん。何となく顔を見たくなってね」
「陽子くんや徹くんたちの顔か。まさかおれの顔ではあるまい」
「いや、君のだ」
「野郎が野郎の顔を見たって、仕方のない話だな」
紺のウールの着物を着て、高木はどっかとすわった。前がはだけて、毛ずねがむき出しになった。
「あなた、お行儀の悪い」
郁子が小さな声でたしなめ、啓造に微笑を送った。
「辻口、こいつはな、死んだおふくろの生まれ代わりみたいなものだ。一日中、おれはたしなめられているよ」
高木は幸せそうに笑った。郁子も白い歯をちらりと見せて笑った。
啓造は庭に目をやった。アララギが丸く刈りこまれ、うすみどりの柳の枝が風に揺られている。その下に芝桜の紫が美しい。二十坪ほどの庭だが小さな池もある。池のほとりにも白やピンクの芝桜が一面に咲いていた。
「あでやかだね芝桜も。なかなかいい庭だ」
「辻口の家の見本林とは、比較にならんよ」
「見本林は営林局のものだよ」
「なあに、自分のものと思っていたって、かまやしめえ」
啓造の生真面目な返事に、高木は笑った。啓造は首を二、三度左右に曲げた。
「なんだ、疲れてるのか」
「いや、近ごろ、肩こりをおぼえてね。頭痛や耳鳴りもするんだよ」
「年だな、おれも同じだ。花むこさんになったばかりで、老化現象だ」
「そうか、君もか」
啓造は安心したように高木を見た。耳の底に虫が鳴いているような、しつこい耳鳴りが起こる度に、啓造は不安だった。
「しかし放っておいて大丈夫かね。わたしはひどい耳鳴りだが」
「大丈夫だ。お袋は三十年も昔から、耳鳴りだの頭痛だのといっていた。どこかで汽笛が鳴っているよ、何の汽笛だいなんて、始終いっていた。それでも、耳鳴りがしてから三十年も生きていたよ。おれたちは八十まで生きるよ」
「そうかね」
高木が時計を見た。
「辻口、今日は三時に客が来る約束があるんだ。一時間位で話は終わるだろう。それまでうらの公園でも、郁子とぶらついていてくれないか」
「ああ、実は……わたしも、それで訪ねて来たんだがね。客というのは、小樽の陽子の……だろう?」
「何だ、知ってたのか」
「うん、徹から電話があってね。できたら、この辺で会ってみたらというんでね……」
驚く高木に、啓造は控え目にいった。
「三者巨頭会談か」
「よほど、君に相談してからとも思ったんだがね。しかし、なるべく早いうちに会っておいたほうがいいと思ってね」
「徹君も若いからなあ。相変わらず恵子さんと会っているわけか」
高木はあごをなで、複雑な顔で啓造を見た。
「あいつが交通事故を巻き起こしたようなもので、全く申し訳ないよ」
玄関のベルが鳴った。さっと啓造は緊張した。
「ま、また、いたずらをして」
郁子の声がし、大声で笑う少年の声がした。
「ガキだ」
高木が相好をくずした。
「おじさん、こんにちは。おとうさんただ今」
中学二、三年の丸顔の少年が、部屋に入るなりハキハキといって頭を下げた。
「早かったな、共二。ああ今日は土曜日か」
「うん。公園にボート乗りに行くの」
「ひっくり返ったら、おぼれるぞ」
「知らないの? ぼく水泳の選手だよ」
「泳げても駄目だ。まだ水が冷たいからな。心臓マヒを起こすぞ」
高木は真顔でいってから、笑って、
「まあ、行ってこい」
と、肩に手をおいた。共二は再びぺこりと一礼して出て行った。
「あの兄貴が公一だ。二人の名前の頭を並べてみろ。公共だよ」
「なるほど」
思わず啓造が笑った。
「あいつらのおやじは偉いよ。子供は公共のものだと考えて、あんな名前をつけたんだな」
そういう高木も偉いと、啓造は思った。
再びブザーが鳴った。こんどこそ三井恵子らしい。啓造は座布団からおりて正座した。片耳がまた鳴りはじめた。
「ごめんなさい、高木さん。お忙しいのに」
親しげな声がしたかと思うと、ふすまが静かにあいた。啓造は息をのんだ。郁子が先に立ち、つづいて、うすいブルーのスーツを着た恵子が入ってきた。
「やあ、いらっしゃい。すっかりいいの、傷のほうは」
磊落に高木がいった。
「その節はご心配をおかけしまして、ごめんなさい」
高木に頭を下げてから、恵子は啓造に深々と頭を下げた。
「徹君のおやじだよ」
恵子の顔が、はっとこわばった。
だが、こわばった恵子の表情は、一瞬にして微笑に変わった。
「はじめまして、三井でございます。何とご挨拶申し上げたらよろしいのでしょうか、言葉もございません」
「いや、そんな……。徹がとんだ出すぎたことをいたしまして。おけがのことは伺いながらも、お見舞いもいたしませんで……」
啓造もていちょうに頭を下げた。
「まあ、その辺でご両人とも頭を上げるんだな。生みの親と育ての親の対面なんぞ、おれも立ち会ったことがない。何だか妙な心地だぜ、これは」
高木は前にある茶をがぶりと飲んで、
「恵子さん、おれに何か相談があるという電話だったが、辻口がいても、かまわない話かね」
「かえって好都合かも知れませんわ」
恵子は親しみをこめた微笑で啓造を見た。
(これが陽子の母だったのだ)
何と快い微笑を見せる女性だろう。このあたたかい微笑には、誰もが抗しきれないのではないか、と啓造は恵子を見つめた。
「実は、先ほど高木にもいったのですが、昨夜徹から電話がありましてね。今日、あなたが高木を訪問なさる、一度お会いしたらどうかというものですから、伺ったわけですが、待ち伏せの形で失礼しました」
「どういたしまして。わたくしもぜひお目にかかって、お礼やらおわびやら申し上げたいと思っておりましたの。ちょうどよろしゅうございましたわ」
たばこを取り出した高木に、恵子はすばやくライターの火を差し出しながらいった。
「お互いに都合がよければ、恵子さんの話を聞くとしようか。何です、相談っていうのは。だが何だな、恵子さんからの相談事ってのは、陽子くんが生まれる時以来だ。緊張するぜ」
冗談をいいながらも、高木の目がちかりと光った。
「実はね、高木さん。辻口さんもお聞き及びのことでしょうけれど、うちの達哉と陽子ちゃんがお友だちになりましたの」
「何だって、達哉君と陽子くんが友だちになったって?」
「そうですの」
恵子は、達哉から聞いていたことを、一部始終、順序よく話した。
「ふーん。じゃ、達哉君は陽子くんが姉であることには、気づいていないのだな」
「ええ、同期ですからね、姉とか妹とか、そんなふうには思っていないようですわ。ただ、わたしに非常に似ているので、関心を持ったらしいんですけれど、その程度で事がすむかどうか、不安ですのよ」
高木は腕を組んだまま、恵子をみつめていたが、その視線を啓造に移した。
「ちょいと面倒なことになったな。それで恵子さんは、どうするつもりです?」
「どうしてよいか、わからないから高木さんのところに伺ったんですわ」
「あ、そうか。しかし、これはおれの手にも負えないや。恵子さんの心配してるのは、達哉君と陽子くんが、友だちになったということだけじゃないんだろうしな。心配なのは、陽子くんへの関心度が強すぎるということだろうからね」
「そうですの」
思い余った表情で、恵子は高木と啓造を半々に見た。
「万一弟が姉を……などと考えただけで、わたし、恐ろしくなってしまって……」
「といって、姉だと明言していいかどうかも、わからんというところだな。ところで辻口、陽子くんはどうなんだ」
「徹の話では、陽子のほうは、達哉君を自分の弟だと知っていて、何か非常にかわいいと思っているらしい」
「無理もないな。陽子くんの身にしてみると……」
「しかし、陽子のことだから、自分が姉だなどとは、死んでもいうまいがね」
「他人だと思って、リーベン(恋愛)されてもかなわんし、姉だと知りゃ、これまた大事件だろうしな。恵子さん、陽子くんのことは、誰も知ってはいないだろうね」
恵子はうなずいていった。
「わたしって、恐ろしい女ですわね」
「女は恐ろしいよ、みんな。恵子さんばかりじゃない。恐ろしいのはいいが、さて弱ったなあ。辻口、何かいい手はないか」
「そうだね。まあ、このままにしておくのが、一番いいんじゃないかね」
「このままか」
「ああ、達哉君が陽子にリーベンするかどうか、わからないことだしね。わたしたち大正生まれの者とちがって、今の若い人たちは、案外すんなりと友だちになれるかも知れないしね」
啓造らしくない楽天的な言葉でもあり、常に問題を即決できない啓造らしい言葉でもあった。
「なるほど。そうかも知れないな。陽子くんもりこうだからな。何事もなく大学時代が終わるということも、考えられるわけだ」
「そういくようでしたら、心配はありませんが、でも、わたし、不安ですわ。達哉は早晩事実を知ってしまいそうな気がしますの」
「その時はその時だよ、恵子さん。知るかもしれないが、知らずに終わるかも知れない。それよりもまあ、徹くんなどは近づけないことだね。恵子さんと知人の徹くんが、陽子ちゃんの兄貴だなんて知られると、事は厄介になるよ。な、辻口」
啓造はうなずきながら、ふっと、恵子に近づきたい徹の気持ちが、わかるような気がした。その時、あわただしく郁子が部屋に入って来、高木に低く耳うちをした。
高木がすっくと立ち上がった。
「失敬、急患だ。オペ(手術)だ」
部屋を出るまでに、もう帯をほどき、そのまま高木は部屋を出ていった。
「子癇かな」
高木の緊張した様子に啓造がつぶやいた。
「まあ、こわい」
恵子は美しい眉根をひそめた。二人はしばらくだまった。庭の池に金魚が跳ね、思いがけない大きな音がした。池の面に水輪がひろがった。
「お目にかかれて、うれしく思いましたわ」
恵子が静かにいった。
「はあ、どうも」
吾ながら気の利かない返事だと啓造は思った。
「わたし、何か不安で、このごろ、あまりよく眠れませんでしたの。それが、ここに来て、辻口さんにお目にかかりましたら、何となく落ちつきました。安心いたしましたわ」
「はあ」
「達哉は激しい性格でしてね。わたしの犯した罪を知ったら、決してわたしを許しはしないと思いますの。わたしを偶像視しているだけに、殺しかねないかも知れませんわ」
「まさか、そんな」
「いいえ、達哉はそういう子ですわ。わたしは殺されても仕方がありません。でも、達哉の一生がめちゃめちゃになりますわ。そんなことになったら、三井も、達哉の兄の潔も、大変な一生を送らねばなりませんもの。あれやこれや考えますと、いっそのこと、わたし死んでしまったほうが、いいような気がしますのよ辻口さん」
恵子が淋しく笑った。
「そんなことばかり考えては、いけませんね。案ずるより産むが易しという言葉がありますよ。第一陽子は、わたしたちの子供です。戸籍にも実子となっていますし、あの子は誰の子でもない。わたしたちの子供ですよ。ご安心なさい」
啓造は珍しくきっぱりといった。恵子は、はっとしたように啓造をみつめたが、両手をついて頭を下げた。
「お礼の言葉もございません。陽子ちゃんが立派に成長していることも、達哉から聞いて、感謝しております」
「自分の子供を、自分で育てて、あなたにお礼をいわれる筋合いはありません。とにかく今日限り、つまらぬ心配はなさらないでください」
生みの親の恵子を前にして、啓造は自分たちこそ本当の親であると、あらためて感ぜずにはいられなかった。
「感謝しますわ」
恵子はうなずいた。啓造はふと、恵子の口から、すべてが知れてしまうような不安を感じた。
恵子は何か考えているようだった。うつむいているその姿が、少し淋しげだった。が、顔を上げた時、恵子はもうあでやかな笑顔になっていた。それは夏枝には見られない魅力だった。
「何だかふしぎですわ」
「何がです?」
「今、はじめてお目にかかったばかりですのに、ずいぶん昔からのお知り合いのような気がしますの」
「はあ」
またしても間のぬけた返事だったと、気にしながら啓造は茶をすすった。
「辻口さんが、わたしの古い傷をご存じだからでしょうか」
「さあ、陽子がわたしたちの子供だからでしょうね」
「そうですわね。親戚のような気がしますのよ。徹さんとお話をしていても」
「……徹はどうも軽はずみで。何かとご迷惑をおかけしていると思いますが」
啓造は、恵子と二人で話をしているのが、なぜか落ちつかなかった。恵子に会う前は、話をすることがいっぱいあるように思っていた。だが会ってみると、言葉が出なかった。高木は手術室に入ったのであろう。手術はどのくらい時間がかかるか、見当がつかない。時間がかかっても、自分は高木の家に泊まる予定だからかまわない。しかし恵子は小樽まで帰らねばならない。高木にまだ話らしい話をしていない。といって、手術が終わるまで待ってもいられまい。そんなことも気にかかった。だが、恵子の持つふんいきの中に、何か妖しい甘美なものがある。それが啓造を落ちつかせなかった。
「どういたしまして、徹さんはいい方ですわ」
「…………」
「それよりも、達哉には困りますわ。陽子ちゃんの下宿まで訪ねて行ったんですって」
「え? 訪ねて」
「達哉は、何でもわたしに話しますのに、そのことは申しませんでしたの。徹さんからそれを伺って、何か、いても立ってもいられませんでしたわ。徹さんも、おとうさんにはおっしゃらなかったんですのね」
「はあ、昨夜ちょっと電話で話しただけですから……」
なぜ徹は自分に話さなかったのかと、啓造はこだわった。
「わたし、それで急に高木さんにご相談したくなったんですの」
郁子が手製のフルーツポンチを持ってきて、高木の中座をわびた。
郁子が出ていくと、恵子は少女のように首をかしげて啓造を見た。
「辻口さん、あなたは奥さんを裏切ったことなど、ございませんでしょうね」
唐突な恵子の問いに、啓造は何となく狼狽した。
「ワイフを裏切ったことは、一度もないつもりですが……」
語尾があいまいになり、あいまいになったことが、再び啓造を狼狽させた。ちらりと由香子の姿が心をよぎった。
「それは、すばらしいことですわ。一度も裏切ったことがないなんて……。わたしのように、一度裏切って、それをひたかくしにしているのは、際限もなく裏切りつづけているようなものではないでしょうか」
「…………」
「裏切ったことのある人と、ない人の一生では、ずいぶんちがうのじゃないかしら」
そうかもしれないと啓造は思いながらもいった。
「しかしですね。厳密にいえば、裏切ったことのない人間はいないのではないですか。今、あなたに、裏切ったことはないだろうと尋ねられまして、内心じくじたるものがありましたよ。男は妄想をたくましくしますからね」
学生時代に読んで以来、心に焼きついている聖書の言葉を啓造は思ったのだ。
(色情をもって女を見る者は、心のうちに既に姦淫したるなり)
こんな高い水準で問われては、裏切ったことがないなどと、大きな口をきくことはもはやできない気がした。
「でもね、辻口さん。心の中でいろいろ考えているだけと、現実にまさしく罪を犯したのとでは、全くちがいますわ。それは、殺したいほど憎いと思っているのと、殺したというのと、くらべてくださればすぐわかりますわ」
「それはまあ、そうでしょうが……」
「そうですわ。夫を裏切りそうな思いをいだいたのと、裏切って子供を生んでしまったのとでは、全くちがいます。まともに顔を見ることができなくなりますもの」
恵子は視線を、再び明るい庭の池の面に向けた。啓造は答える言葉がなかった。
「辻口さん、罪を犯すって、恐ろしいことですわ。わたしは夫を裏切ったために、かくしつづけなければならなかったでしょう。つまり、だましつづけているわけでしょう? 性格がどこか歪んでしまいましたわ。心がいつもにごっている、不透明な人間になりましたわ。一つの罪は、更に自分の心の中に、罪を呼ぶのでしょうね。そして育てるのでしょうね。恐ろしいことですわ」
「いや、それだけ悔いていらっしゃるんですから、清められましたよ」
「まあ! 清められましたって?」
ふいに恵子は、おかしそうに笑った。いかにも屈託のなさそうなその笑い声に、啓造は恵子のいま言った不透明という言葉を思った。確かに恵子には、どこかわからないところがあると思った。
花ぐもり
玄関で夏枝がショールをはずそうとした時、ちょうど辰子が、けいこ場のほうから姿を現した。
「あら、いいじゃない、そのショール」
「陽子ちゃんが、あんでくれましたの。母の日にって」
夏枝ははずしかけたショールをちょっと眺めた。二階から三味線の音が聞こえてくる。
「それは最高うれしい話じゃない。その、うすむらさきが、とびとびに入っているのが、なかなかいいわよ」
ぽんと肩をたたいて、辰子はショールを自分の肩にかけ、さっさと茶の間に入ってしまった。夏枝が茶の間に行くと、相変わらず黒江をはじめ常連がいた。一組は将棋をさしている。
「相変わらずお美しい」
誰かがいった。ショールをかけて、壁の鏡をのぞいていた辰子がふり返った。
「どうやら、わたしのことをいったんじゃなさそうね」
「辰ちゃん、珍しくひがむじゃないか。おれだって、辰ちゃんを美人だとほめたいよ。しかし、そんなことをいったら、辰ちゃんにほっぺたをなぐられるからな」
「いいよいいよ。慰めてくれなくても」
辰子は笑って、
「それより、みんな見てよ。このショール、陽子の、母の日のプレゼントだって」
「へえー、辰ちゃんにかい」
「ばかをおいいでない。このおかあさまによ」
「子供のいない辰ちゃんとしては、羨ましい話というところだね」
「まあ、そんなところかも知れないねえ」
辰子はショールをたたんで夏枝の前に置いた。
「そういえば明日は母の日か。おれはおふくろに、今まで何もしてやらなかったな」
将棋をさしている若い男がいった。三十になっていないようだ。その青い背広の肩が、てらてらと光っている。こんな若い男まで、何にひかれてこの家に集まるのかと、夏枝はふしぎな気がした。
「おれは去年おふくろに下駄を買って、一緒にすしを食べに行ったよ」
スケッチブックを開いて、辰子を写生しはじめた黒江がいった。
「ほう」
壁によりかかって、夏枝をじっとみつめていた男が相づちを打った。
「ばかねえ、感心するほどのことじゃないわ。大の男が下駄一足とすしじゃ、おかあさんが、かわいそうよ」
「と、おれも思うよ、辰ちゃん。ところがね、おふくろ族ってのはありがたいもんだ。下駄とすしで、涙ぐんでくれるからねえ」
「日頃、いかに親を大事にしていないかってことの証拠みたいね」
「手きびしいなあ、辰ちゃんは」
「それはそうとね。母の日っていうのは、必要なのかね。プレゼントしてもらえる母親には楽しいだろうけれど、何もしてもらえない親には、淋しい日じゃないのかね」
黒江がデッサンの手をとめずにいった。写生されていることを、何とも感じていないらしい辰子に、夏枝は驚きを感じた。
「ああ、母の日はまだいいよ。あの老人の日っていうのは、おれはいやだなあ。必ずあの日には、老人の自殺が何件か報道されるからなあ」
それまで黙って将棋を観戦していた無精ひげの男が、言葉をはさんだ。
「そうねえ、なまじ老人の日があるために、死にたいほど淋しくなる老人もいるわけよねえ。死なないまでも、それにすれすれの、やりきれない気持ちになる老人もいるかも知れないわ」
「そうだそうだ。みんなが、年中老人や母親を大事にしていれば、とりたてて老人の日も母の日もいらんわけだからなあ。その証拠に父の日ってのはないぜ」
「いや、あるはずだよ。いつだか知らないけど」
「老人の日に父の日、母の日に子供の日か。なんだ、一通りみんなそろってるじゃないか」
「と、いうことは、老人も親も子供も、みんな大事にされていないということだ」
「だろうな。子供も殺されたり捨てられたり……」
「いや過保護というのも、ありゃ人権無視だぜ」
「うちのおふくろはいってたよ。老人ホームなんか、ガラアキになる教育をしなきゃいけないって」
「なるほどなあ」
常連たちが話し合うそばで、夏枝がいった。
「おけいこは?」
「今日はないの。臨時休業よ」
「道理で土曜日なのにひっそりとしてると思いましたわ」
「夏枝だって、土曜日は出にくいんじゃない? ダンナがおるす番?」
「いいえ、辻口は札幌ですの。高木さんのお宅に参りましたわ」
夏枝はかたわらのショールに目をやった。
「珍しいわね。何か用事でもできたの」
「あの……小樽のあの方が、高木さんのお宅においでになるんですって。それで、辻口もこの機会に、一度お目にかかりたいって……」
夏枝は声を落とした。
「ふーん、会ってどうするの」
辰子は眉をひそめて、
「二階のほうがよさそうね」
と、立ち上がった。
廊下に立って、夏枝は階段を見上げた。三味線の音が、同じところをくり返している。
「どうしたの?」
上がろうとしない夏枝を、辰子は階段の途中から見おろした。
「でも、お三味線を弾いていらっしゃいますもの」
夏枝は何となく由香子に会いたくなかった。
「かまわないわよ。別の部屋だもの」
夏枝は仕方なしに階段を上がった。由香子の部屋のふすまは閉ざされている。三味線の音が途切れた。夏枝は息をひそめるように、向かいの辰子の部屋に入った。
「ダンナは、今夜は札幌泊まり?」
長火鉢をはさんで、夏枝は辰子と向かい合った。十畳の部屋に、はめこみ和ダンスが三つ重ね並び、床の間に水仙が活けられているだけの、すっきりとした部屋だった。
「ええ、高木さんの所に泊まりますの。奥さんにはご迷惑でしょうけれど」
「じゃ、あの広い家に、夏枝一人でねんねするの」
「あら、まだ申し上げませんでした? この間から、次ちゃんの姪の浜子ちゃんが住みこんでくれておりますの」
「それはよかった。いくつの子?」
「十六ですの。中学を出たばかりですけれど、次ちゃんに似て、おとなしくて、よく働いてくれますわ」
「次ちゃんの家も近いし、お互いに都合がいいわね。夏枝、あんた、思ったより偉いわねえ」
「あら、なぜですの」
「次ちゃんが長いこといついて、その姪まで来てくれたわけでしょ? 近頃は、人を使うって面倒なのよ。根性のない子が多いし。こっちが使われる気でなくちゃ、いつかないもの」
「次ちゃんの性格がよかったんですわ」
途絶えた三味線を夏枝は気にしていた。
「ところで、あちらさんと会って、一体どうする気なの」
夏枝は、達哉と陽子のことを話した。
「なるほど。それで両方の親があわてたというわけね」
「わたくし、何だか不安ですわ。陽子ちゃんの上に、悪いことでも起こりそうで、心配でたまりませんの」
「夏枝の心配は無理もないけれど、でも、案外幸せにならないとも限らないわよ」
「そうでしょうか。わたくし、達哉さんて、何だか気味が悪くてならないんですの」
夏枝は、よく拭きこまれた長火鉢の縁を、形のよい指でなでていた。内弟子がお茶とかきもちを運んできた。
「由香ちゃんのところにも持って行ってよ」
内弟子は素直にうなずいて出て行った。辰子はいつまで、由香子をこの家におくつもりなのか。夏枝はふっと気になった。
「しかし、陽子ちゃんとその弟が、大学で鉢合わせしようとは、お釈迦さまでもねえ」
辰子は茶のみ茶碗を両手に持った。
「ほんとうですわ。しかも同じ学年だなんて……そのことも、わたくし何だか気味が悪いんですの」
「とにかく、悪いことはできないということね」
「……いまごろ、辻口はお会いしているはずですわ」
ちょっとうつむいて、夏枝は小さな腕時計を見た。
「夏枝が会いに行けばよかったじゃない」
「いやですわ、わたくし」
「どうして? 陽子くんを生んだひとって、わたしなら会ってみたいな」
「辰子さんとわたくしとでは、立場がちがいますわ」
「ふーん、そんなものなの」
「あら、このお茶おいしいこと」
「これ、くき茶なのよ。普通は産地でしか飲めないらしいわ。おや、どなた?」
人の気配に、辰子がふすまをさらりとあけた。口ひげをのばした村井が、のっそりと部屋に入ってきた。
「あら、どうして口ひげなんかのばしたの。気障《きざ》じゃない」
辰子は遠慮がない。村井は夏枝に目礼して、長火鉢のそばにすわりながら、にやにやした。
「ひげなき接吻は、バターなきトーストの如しという言葉がありますよ」
「悪い男ねえ。これだから、出入り差しとめにしなきゃならないのよ。村井さん、ことわっておきますがね、この家の二階には許しなしに上がってくる人はいないのよ。茶の間の連中だって、一人も上がっていないのよ」
「それはそれは。光栄の至りというところですね」
「何の用なの」
「この家に、用事があって来る人なんか、いないでしょう。辰ちゃんの顔を見に来た、といいたいところだが、今日はちがいますよ。……お宅にお電話したら、こちらだと聞いたので、追ってきました」
村井は夏枝を見た。
「何かご用でございましたか」
夏枝がけげんな顔をした。
「いや、院長がお留守で、お退屈じゃないかと思いましてね」
「まあ……」
「あきれたねえ。ダンナの留守をうかがうなんて、空き巣ねらいじゃない?」
ピシリと辰子はいった。
「冗談じゃない。忠勤なる部下ですよ。土曜の午後を、留守宅見舞いまでするんですからね」
にやにやと、また村井は笑った。
「かわいそうに。何の因果でこんな男が生まれたのやら。村井さん、あんた、高木さんと従兄弟だとかハトコだとかっていうじゃない? どうしてあのひとに似なかったのよ」
「似てますよ、そっくりだ」
村井はうそぶいて外を見た。
「おや、あの十字架は何です? 教会ですか」
くもり空の下に、高い屋根の十字架が、すぐ裏手に見えた。
「教会よ」
「わたしとは無縁のところだな」
「村井さんみたいなひとは、行くといいんじゃない? ね、夏枝」
夏枝は困ったように微笑した。
「いや、辰ちゃん。おれみたいな極道者を救ってくれる神さまはないよ」
「人なみなことをいうのねえ。でもさ、極道者や大悪人は一番救いやすいんだってよ。自分で本当に極道者と思いこんでいれば、神さまの前に頭が上がらない。これは一番手がかからないよねえ。手のかかるのは、人の前にも、神の前にも、何一つ悪いことをしていないと思っている人間だろうねえ」
「じゃ、院長みたいなのは、救いがたいかな」
と、村井は再び夏枝の顔を見た。
「辻口のダンナねえ。あのひとは全く品行方正だよ。しかし、あのひとはいいことをしていても、悪いことをしているみたいに、いつも反省ばかりしてるからねえ。救いがたい人ではないわねえ」
何年か前の冬、啓造が教会の前に佇んでいたことを、辰子は思い出したが、いわなかった。啓造のまじめな姿も、村井には茶化す材料にしかならないかも知れない。そう思ったからだった。
「へえ、じゃ、辰ちゃんはどうです?」
「聞くまでもないわよ。一番救われがたいのはわたしさ。わたしは同じ町内に教会があっても、ついぞ、ざんげしに行こうとか、祈りに行こうとか思ったことがないものねえ。夏枝はどう? 仏さまや、神さまなんて、いらないと思う?」
「よくわかりませんわ。毎日お仏壇に手を合わせますけど、考えてみましたら、何に手を合わせているのか、わかりませんもの」
「だいたい、そんなものじゃない? わたしたちって。神棚に手を合わせるけれど、神棚に神さまがいるなんて思ってやしない。仏壇の前にすわっても、仏さまがその中にいるなんて考えてやしない。つきつめたら、何に手を合わせているのか、わからないんじゃない? 大ていの人は」
「そうですよ。無意味なことをしているんですよ。とにかく神さまなんて、ありやしない。安心なさいよ、辰ちゃん」
「いや、神さまがいないんじゃ、安心できないわよ。わたしはいざっていう時、神さまに頼みたいことがあるんだからね」
「へえー、いま一度も祈りに行こうと思ったことがないって、いったじゃないですか」
「これからのことは、わからないわよ」
「でも、一番救われがたいのは、自分だと辰ちゃんはいいましたよ」
「ばかねえ、救われがたいからといって、救えなきゃ神さまとはいえないよ。一人残らず救うのが神さまだからね」
「ま、そんなことはどうでもいいですよ、それより旭山《あさひやま》あさひやまにドライブしませんか。桜も五分咲きぐらいらしいですよ」
「やめておくわ。村井さんの運転じゃねえ。まだ、あなたと心中はしたくないもの」
「辰ちゃんがいやなら、いかがです? 奥さんは?」
「わたくし……お花見なんて、ずいぶん長いこと、したことがありませんわ」
否とも、諾ともとれる夏枝の返辞だった。
「何年も花見なさっていないのなら、いかがです? 今日思いきって出かけませんか。五分咲きのころも初々しくていいものですよ。旭山の桜は見事ですからねえ」
村井は熱心にすすめた。
「でも……わたくし一人では……」
夏枝は辰子の顔を見た。
「いいじゃないの。二人で仲よく行っていらっしゃいよ」
「せっかくですけれど、またこんどお伴させていただきますわ」
辰子の顔色を見ながら、夏枝はことわった。
「旭山まで、わずか二十分ぐらいですよ。今日は花見でにぎやかですよ。人目を忍ぶという場所もなし、何もぼくを警戒なさることはありませんよ」
「ええ、でも……」
夏枝は再び辰子の顔をうかがった。
「遠慮しないで、行きたければ行ったらいいじゃない」
「辰ちゃん、何を怒ってるんです。ただ花見に行こうというだけですよ」
「だから、行きたければ行きなさいといってるじゃない。だけどね、村井さん、あんたも少し考えたらどう? 何もひとの奥さんを誘わなくても、花見の相手はいくらでもいるんでしょう。泥棒猫みたいなまねはやめなさいよ」
「あーあ、辰ちゃんも古いなあ」
村井は苦笑した。
「古くて結構。古いものが悪いとは限らないのよ、村井さん。古いほど値うちのあるものもあるんですからね。夏枝も態度が悪いよ。でもとか何とかいわずに、きちんとことわるものよ」
「これだからねえ。辰ちゃんはこわいですよ」
村井はさして応えた風もなく、かきもちを頬ばった。ふいに三味線の音が聞こえた。
「見本林の中にある。あの土手の下の桜、あれはきれいだねえ」
辰子はやさしい顔で夏枝を見た。
辰子の家から帰った夏枝は、外出着のまま鏡台の前にすわった。皮膚も疲労を見せてはいないし、目も生き生きとしている。時折啓造にもいわれるとおり、まだ三十代には見えると、夏枝は満足気に鏡の中の自分を見た。淡いオリーブ色のお召しに、濃い同系色の帯がよく似合っている。夏枝が帯じめをとこうとして手をかけた時、お手つだいの浜子が部屋の外にすわった。
「あの……奥さんがお出かけになってすぐに、村井さんという方から、お電話がありました」
「あら、そう」
鏡に写っている浜子にうなずくと、浜子は立ち上がって鏡の中から去った。夏枝は帯じめをとくことがためらわれた。ふっと村井が訪ねてくるような予感がした。
村井が、辰子の家まで自分を追って来たこと、花見に誘ってくれたこと、そのいずれもが夏枝を満足させた。その心のほてりが、珍しく夏枝に散歩する気を起こさせたのかも知れない。夏枝は立って、台所にいる浜子にいった。
「ちょっと、見本林を散歩してきますからね。お客さまがいらしたら、縁側から呼んでちょうだい」
「どなたかおいでになりますか」
「そうじゃないけれど……」
「あの……お夕食は何にしましょうか」
「そうね」
あるいは村井が来るかも知れない。二人でも三人でもいいような献立を夏枝は考えた。
「すきやきにしてちょうだい」
「旦那さんがお帰りになるんですか」
「お帰りにはならないわ。でも、お肉を一人分多くしておいてちょうだい」
浜子はけげんな顔でうなずいた。
左手の林の中に、こぶしの花がはっとするほどの白さで咲いていた。下草がようやく青く萌え、山鳩の声までが何か今日はほがらかだった。夏枝が辻口家に来たころの見本林は、暗いほどにうっそうと茂っていて、足を踏み入れるのも無気味だった。が、今はずいぶん明るくなって、いつも林の中に子供たちの遊ぶ声がする。
夏枝は立ちどまって、空を仰いだ。花ぐもりの空が、林の上に眠っているように静かだった。林の中をゆるくカーブしながら貫く堤防の手前に、桜の木が一本立っている。満開には少し間のある花が美しかった。自然に芽生えて育った桜であろうか、松林を背に、はなやいで見える。
見本林のすぐそばに長年住みながら、ここに桜があったのを、夏枝は知らなかった。家の中にとじこもり勝ちな夏枝は、多分この桜の咲く時に、林に入ったことがなかったにちがいない。すぐ目と鼻の先にいて、未だかつてその花の時にあわなかったことが、ひどくふしぎな気がした。
辰子に、見本林の桜はきれいだったといわれても、どこに桜があったか、夏枝は思い出せずにいたのだ。ここに桜があることを、散歩好きの啓造は恐らく知っているにちがいない。だが、一度も、桜が咲いていたと告げられたことは、なかったような気がする。とすれば、啓造は一人で花を見、一人で楽しんでいたのだろうか。夏枝はふっとわびしくなった。
うしろにばたばたと足音がして、五、六歳の男の子と女の子が桜のそばに駆けよった。
「あ、ないや」
男の子が伸び上がって、下枝に手をのばした。
「何がないの?」
夏枝が近よって声をかけると、
「秘密だい」
と、男の子が少し汚れた丸顔を夏枝に向けた。
「そうよ、秘密よね」
みそっ歯の女の子は、そういってからニコッと笑って、
「これだよ、小母さん」
と、持っていたちり紙の包みをひらいた。めのう色の小さなやにの塊が、三つ四つ入っている。思わず夏枝は微笑した。幼いころ夏枝も桜のやにを小指に白く巻いて遊んだことがある。
「おねがい、指に巻いてみせて」
「うん、みせてやる」
男の子は、少し大きなやにをなめて、親指と人さし指の間で粘らせた。そして納豆の糸のように細い糸がたってくると、それを左の手の小指に巻きつけはじめた。
「おじょうずね」
小指は次第にうっすらと糸に包まれて行く。やがてまゆのようになって行くはずなのだ。
「ありがとう、楽しかったわ」
夏枝がいうと、二人は走って土手を上り、ふり返って手をふったかと思うと、すぐに土手の向こうに姿を消した。
夏枝は、自分の幼いころの遊びが、まだ受けつがれていることに驚きを感じた。何年前、誰が始めた遊びなのか、夏枝も知らない。何かずい分昔からの、素朴な遊びのような気がした。だが考えてみると、小指の先をまゆのように、やにの糸で巻く遊びというのは、何か気味の悪い感じもする。指の先が、さなぎになりそうな感じだった。もっとも、こんなふうに感ずるのは大人の感覚で、既に童心を失った証拠かも知れないと、夏枝も土手の階段を上った。
老女が一人、土手の上にしゃがんでいた。老女は淋しい顔で、土手の下の笹群《ささむら》をみつめている。枯れた黄色い笹が、つやつやと光るみどりの笹の葉の中にまじっていた。
見本林を両側に、土手の道がまっすぐに伸びている。その七、八百メートル向こうに、絶え間なく自動車の往き交う両神橋が小さく見える。夏枝は橋の方に向かって、歩くともなく土手の上を歩いて行った。
稜線のゆるやかな遠い山並みの尾根に、稲妻型に白い雪が残っている。近くの、萌黄色のポプラをしばらく眺めて、夏枝は歩みを返した。
老女が、口を半開きにしたまま、やはり笹の一群をみつめている。夏枝は立ちどまって、珍しく声をかけた。
「あたたかになりましたこと」
老女の目がのろのろと夏枝を見た。
「どなたさんでしたかねえ」
「すぐそこの、辻口ですわ」
「わたしはこの間移って来たばかりで、どなたさんやら、わかりませんねえ」
唇のまわりに、無数のたてじわがよっている。そのしなびた手に、タンポポを一輪持っていた。八十は過ぎているようだった。夏枝は去りかねて、老女の傍にかがんだ。
さっきの男の子と女の子が、うす暗いドイツトーヒの林の中からあらわれ、土手を駆けのぼってきた。
「あの子供さんたちは、桜のやにを探しているのですよ」
「へえ、桜のやにをねえ」
「やにを小指に巻いて遊ぶのですわ」
夏枝は小指にやにを巻くまねをした。
「ああ、わたしも遊びましたよ。そうそう、こうしてなあ」
老女も同じ手つきで、やにの糸を巻くまねをした。
「そうだ、お手玉もしましたよ。赤や青の小布をはいでなあ。みんな、中にあずきを入れてなあ。だけども、うちは貧乏してたからね、豆のような小さな石をたくさん拾って、中に入れてね。うん、痛いお手玉でなあ。友だちは、だあれも、わたしのお手玉にさわらなかった。でも、せっちゃんね、あのひとだけは、時々わたしのお手玉で遊んだね」
夏枝は、老女の幼いころの姿を想像しながら、深くうなずいた。目の下が幾重にもたるんでいる。老女は口の中で、何やらいっている。よく聞くと、
「ナンマイダブ、ナンマイダブ」
と、となえている。
「なあ、わたしら、お迎えが近いもんでね」
「はあ?」
「死にたくはないども、仕方ないもの。順番が来れば、仕方のないことだものね」
「まだまだお元気ですわ。今の時代は、若い人のほうが、交通事故や何かで、たくさん亡くなっていますが……」
夏枝は、そんなことをいって慰めるより仕方がなかった。
「ほんとになあ。どうして若い人のほうが早く死ぬんかねえ。うちの息子も戦争で死んだ。シンガポールで死んだってね、役場からもらった遺骨の箱に、紙きれが一枚入っていたんですよ。わたしも、息子の死んだところまで、一度行ってみたかったけどね。いつのまにか、八十を過ぎてしまって、もう行けなくなりましたよ」
老女は夏枝をすがるように見上げた。小さなくぼんだ目に、涙がにじんでいた。
「シンガポールっていうのは、アメリカかね、ロシヤかね」
その言葉に、夏枝ははっと胸を打たれた。自分の息子が、どこで死んだかも知らないのだ。
「何しに生きてきたのかねえ。貧乏して、亭主に道楽されて、息子に死なれてなあ。それでもやはり、死にたくはないわね」
老女に別れて、夏枝は家に帰って来た。自分も年老いた時、何のために生きてきたのかとつぶやき、あの林の向こうの川原で、ルリ子が殺されたと、人に語るような気がした。
村井は訪ねてきてはいなかった。いまは夏枝も、村井を待つ気持ちを失っていた。由香子を犯した村井など、見るのもいやだと思う時もある自分が、なぜ誘われれば心が動くのか、夏枝自身にもわからない。夏枝は浜子と二人で、すきやきをつついて夕食を終えた。
夜、九時過ぎに、啓造から電話がきた。ふろから出たばかりの夏枝は、急いで寝巻きをまとって電話に出た。
「あしたは、徹や陽子と、円山《まるやま》で花見でもしてから、帰るつもりだがね」
「そちらは満開ですの」
「もう遅いくらいだよ。やはり旭川より暖かいね」
啓造は三井恵子のことにはふれなかった。
「あなた、お会いになったんですの?」
「ああ、お会いしたがね……」
「いかがでした?」
「うん、まあ、うちへ帰ってから、ゆっくり話すよ」
「そうですの。では、ごゆっくりおやすみなさいませ。高木さんにも奥さまにも、よろしくおっしゃってくださいな」
と、受話器をおきかけてから、ふと思い出して尋ねた。
「あなた、あなたは見本林に桜の木があるのをご存じでしたかしら」
「ああ、堤防のそばの、あの見事な花が咲く木だろう? あれは知ってるよ。沼のほうにも確かあったはずだ。それがどうかしたの」
つまらぬことを聞くというような啓造の声音だった。
「いいえ、ただ、ご存じかどうか、うかがっただけですわ」
やはり、一人で見て、一人で楽しんでいたのだと、夏枝は床に入ってからも無性に淋しかった。
陸橋
教養部の前から、舗装路が一キロ近く南にのびて、クラーク会館につき当たる。北大構内の中で、一番長いこの道を、学生たちは中央道路と呼んでいた。その中央道路を、五講を終えた陽子が歩いていた。
いつの間にか桜の時も過ぎ、構内には新緑が溢れている。特に工学部前のかえでは美しく、その下を行く陽子の頬や白いブラウスにみどりが映えていた。
「陽子さん、しばらく」
ふいにうしろで声がした。ふり返ると、ワイシャツ姿の北原が歩いてくる。
「あら、北原さん。先日はありがとう」
陽子の入学式の日、北原は徹と二人で下宿に訪ねてくれたのだ。
「どういたしまして……おや、陽子さん少し背が伸びたのかな」
北原は陽子と肩を並べ、歩き出してからいった。
「そうかも知れないわ。まだ伸びざかりですもの」
「今日はもうお帰りですか」
「ちょっと会館で本を買いたいんですけれど……北原さんは?」
「ぼくは……実は、陽子さんの帰られるのを待っていたんです」
「あら」
「すみません。ぼくは理学部で、あなたは教養部でしょう。それに学生は何千人もいるでしょう。この構内で、あなたと偶然に会うのを待っていたら、いつお会いできるか、わかりませんからね。悪いと思いましたが、待っていたんです」
「かまいませんわ。お友だちですもの」
陽子は微笑した。
「本当にかまいませんか」
「ええ」
「じゃ、これからも時々、お待ちしていてもいいんですか」
北原はせきこんでいった。少し前を行く汚れた白衣の男が、北原の声にふり向いてニヤリと笑った。
「あまり度々では、お互いの勉強に差し支えますけれど」
「わかりました。ああ、これで安心しちゃった」
北原は本当に安心したようにいった。
「北原さん、子供の日に、順子さんがおのり巻きを持ってきてくださったわ」
「そうですってね。彼女から電話がきていましたよ。こんど、あなたや辻口と一緒にドライブをしようって。いかがですか。陽子さんは」
「ご一緒させていただきたいわ。でも……」
陽子はちょっと口ごもった。
「車に酔うんですか」
「いいえ。あなたには悪いけど、わたし、ドライブより歩くほうが好きなの……」
「…………」
「わたしね、北原さん。今から三十年ぐらい昔の生活がしたい人間なのよ」
「三十年前? というと、昭和の十年ぐらいですね」
「そうよ。この間、当時の旭川の写真を見ましたわ。自動車が少なくて、馬車や自転車が多かったのよ」
「なるほど」
「石狩川もきれいで、鮭がたくさん上ってきたんですってよ。わたしその頃を生きたいの。そりゃあ大変なことや、不便も多かったでしょうけど、何かもっと詩があったように思うの」
「そうですねえ。そういえば、今過ぎて来たあの小川にも、鮭が上って来た時代があったそうですよ」
かっきりとした陽子の二重まぶたを、北原は美しいと思った。理学部前の、エルムの木立の下をゆっくりと歩きながら、北原は幸せだった。こうして、幾度か話し合ううちに、陽子はもとのように、自分の胸の中に帰ってくるような気がした。
(あせらずに待つことだ)
陽子が気持ちよく一緒に歩いているだけで、今は満足すべきだと北原は思った。
「本当ですね。三十年前を生きる会なんて、つくるといいかも知れませんね」
いいながら北原は、ふと陽子の視線に気づいた。
「ええ」
うなずいたが、陽子は北原を見ずに、向かいの古河講堂のほうを見ている。木か花でも見ているのかと思ったが、そうでもない。陽子の視線を北原はたどった。と、その視線は、反対側の歩道を行くやや右肩上がりの学生の背に注がれている。
「でも、北原さん。百年の未来を生きる会ならともかく、三十年昔を生きる会になど、今時入会なさる方はいらっしゃらないわ」
陽子の視線は、まだ学生の背に注がれている。ふいに学生が、くるりとふり返って陽子を見た。が、すぐに、足早に正門への道を曲がって行った。陽子は形のいい唇に微笑を浮かべて、学生を見送った。いいようもないやさしいまなざしだった。北原の顔から笑いが消えた。
「お友だちですか」
「え? ああ、今のひと?」
ようやく陽子の視線が、北原にもどった。
「お友だちというより……何といったらいいのでしょう」
さすがに陽子は口ごもった。
「何だか、にらまれたような気がしましたよ。あなたと歩いていて、ぼくが悪かったかなあ」
「あら、なぜ? そんなことありませんわ」
北原は、それ以上立ち入って尋ねるわけにはいかなかった。尋ねられないだけに、いま見た学生のことが、しきりに気になった。
クラーク会館の中は、いつものように学生たちがロビーに溢れていた。二人は玄関を入って左手の学生書房に入って行った。陽子はすぐカウンターに行った。本を注文してあったらしい。北原は、陽子が何を買うのか知りたかったが、少し離れて、そばにあった文芸雑誌を手にとって目次をひらいた。
「乾いた海」「独りの時間」「風の果て」
どれも、何か孤独な題だと思いながら、北原は、いま見た学生は、陽子の親しい友人にちがいないと考えていた。
「お待ちどおさま」
陽子がよって来た。
「何を買ったの?」
「『小公子』と『小公女』よ」
「え?」
「子供の読む本よ。驚いた?」
陽子は、去年の夏友だちになった育児院の子供たちに、送ってやりたいと思ったのだ。が、北原にはそれをいわなかった。
「いや、『小公女』や『小公子』は、ぼくらが読んでもおもしろいから」
北原には、そんな本を読む陽子がかわいらしく思われた。二人は外に出た。
「どこかでお茶でも飲みますか、陽子さん」
「北原さんは、のどがかわいていらっしゃる?」
「そうでもないですが……」
「じゃ、もう少し歩きましょうよ」
陽子は誰もがするように、すぐ喫茶店に入ることは、したくなかった。
「そうか、陽子さんは歩くのが好きだったんですね。あなたとつきあうためには、よほど足をきたえておかなければなりませんね」
教養部から、既に一キロ近く歩いているはずである。だが構内のせいか、どれほども歩いたような気がしない。
「ごめんなさい。わがままいって」
「いや、あなたはわがままをいわなすぎますよ。いってくださるとうれしいのに」
それに答えず、陽子はいった。
「北原さん、さっきのひとね、あのひと……教養部なの」
陽子は、三井達哉だといいかけてやめた。
先ほど、もし達哉が北原を紹介してほしいといったら、どうしたであろう。紹介しないわけにはいかなかったにちがいない。そうすれば、事情を知っている北原は、当然、三井の姓に不審を抱いたはずである。その不審、または驚きの表情が、達哉に何をもたらすか。思うだけでも恐ろしかった。
この際、いっそのこと北原に打ちあけておいたほうがいいのではないか。そう思ってもみたが、やはり陽子はいえなかった。それは、札幌に来た時啓造が、徹と陽子の二人を前に、達哉のことは決して誰にもいうなと、念を押したからでもあった。
北原は、今いった陽子の言葉が気になった。陽子は、
「北原さん、さっきのひとね、あのひと……」
と、一休止してから、
「教養部なの」
とつづけたのだ。この休止の中には、何か惑いがあったと北原は思った。陽子は決して、
「教養部なの」
といおうとして、迷ったのではない。もっとちがう言葉をいおうとしていたはずだ。その言葉が何であったか知りたいと思いながら、北原はちょっと黙ってからいった。
「ああ、そうですか。何というひとですか」
「…………」
陽子の顔に、さっと困惑の表情が浮かんだ。
「失礼、つい、気になりましてね」
「…………」
「気を悪くなさらないでください」
北原は真剣だった。陽子は微笑した。
「わたしこそごめんなさい。でも、あのひとのことはノーコメントよ」
「わかりました。……でも、なぜですか。ああそうですか、ノーコメントでしたね」
北原は頭をかきながら笑った。陽子も笑った。二人は芝生の道にそったいぼたの生け垣の横を通り、正門のほうに歩いていた。
「しかしね、陽子さん。ぼくって、うかつですね。今の今まで、ぼくがマークしていたのは辻口だけだったんです。だが、あなたをねらっているのは、何もぼくと辻口だけじゃありませんものね」
「いやよ、北原さん。ねらうなんて」
「失礼。あなたを獲物扱いにしてますよね。あやまります。しかし、このねらうという言葉は、かなり的確ですよ。男心って、それほど高尚じゃありませんからね」
北原は快活にいって、
「とにかく、辻口のことばかり気にしていたのは呑気でしたよ」
「そんなことばかりおっしゃると、もう帰りますよ、北原さん」
陽子は笑いながら、たしなめた。
「あやまります、もういいません」
北原は少しおどけてあやまった。
北大正門を出て右に折れると、古本屋や喫茶店、雑貨店などの並ぶ電車通りである。行く手はゆるい勾配で、すぐに低い陸橋にさしかかる。
北原は、陽子に対して、せっかちになるまいと思っていたはずだった。だが、思いがけない学生の出現に、つい心を乱してしまった自分を恥じた。陸橋への道を歩きながら、北原は少し憂鬱になっていた。
電車が静かな警笛を鳴らして、二人の傍を過ぎて行った。
陽子とどのような会話を交わすべきか、北原はとまどいを感じた。以前はお互いを最も近い存在として認め合っていた。だから落ちついて話もできた。
が、今の北原には、陽子の自分に対する関心度を知りたいあせりが、絶えず心の底にある。そのあせりが自分を軽薄にしているようで、それが北原を憂鬱にさせていた。
(何を話すべきか)
ゆっくりと歩きながら、北原はくり返し思った。
陽子は近ごろの若い女性とはどこかちがう。ドライブよりも歩くことが好きで、ボウリングよりも読書を好む。ゴーゴーよりも辰子の日本舞踊にひかれ、喫茶店で話し合うよりも、芝生で語り合うほうが好きだという。といって、若さがないというのではない。
(伸びきった肢体だって誰よりも美しい)
そう思いながら北原は陽子を見た。微笑をふくんだ陽子の目が北原を見上げた。
陸橋手前の交差点で、信号が赤になった。みるみる陸橋の片側が、自動車で埋まった。二人は左折して青の信号に向かった。
「サークルは何に入りました?」
渡ったところで赤の信号を見上げ、北原はいった。
「黒百合会よ」
「ほう、美術部ですか」
「ええ、父も学生時代は黒百合会に入って絵を勉強しましたって」
黒百合会は伝統ある美術サークルで、北大構内に多い黒百合から名をとったらしい。
「おとうさんは絵をなさるんですか」
「割と上手よ。色調が少し暗いけれど、わたしは好きよ」
北原は自分も絵をかいてみたいような気がした。
信号が青になった。人々が歩きはじめた時だった。ふいにスポーツカーが、大きなうなりを上げ、人群めがけて左折して来た。とっさに北原は、陽子の腕をとってうしろに飛びすさった。他の人々も、危うく車を避けた。マフラーをはずしたその車は、バリバリと騒音を立てて走り去った。よく街角で見かける無謀運転であった。幸いけがをした者はいなかったが、誰の目も怒っていた。
「ありがとう北原さん」
いわれて北原は、陽子の腕から手を放した。
「あぶなかったなあ」
弾力ある腕の感触が指先に残っている。
二人は少し行って陸橋のらんかんにもたれた。陸橋に並行して市電のレールが走り、その向こう下はもう札幌駅のプラットホームだった。つまり、陸橋は駅の構内を大きくまたいでいるのである。ホームはすすけた跨線橋にさえぎられて、その半分までしか見通せなかった。
北原は、いま陽子と共にあの車にひかれたら、一体どうなっていたかと思いながら、プラットホームに列車を待つ人の群れを眺めた。
駅というところは、人が溢れていても妙にうらがなしいと陽子は思った。二人の立っている陸橋の下から、列車がプラットホームに入って行った。列車が停止した途端に、待っていた人々の列がくずれて、列車の入口に群がった。入り口から乗客が吐き出され、そして吸いこまれた。
見送りの客がホームに立ち、時々列車に近よっては、何か話している。ベルの音がかすかに聞こえた。見送り人たちは一歩引き下がり、手をふったり、おじぎをしたりしている。風向きのせいか、陸橋を走る車の騒音のせいか、駅からひびく音はほとんど聞こえず、音を消したテレビを見ているような感じだった。列車が動き出した。見送っている人々も歩き出した。見る間に列車も人々もホームから去り、ただ駅員だけが、直立不動の姿勢をとっている。陽子はそれがひどく淋しかった。
「なぜ、列車が出るとすぐ、みんな帰ってしまうのかしら」
「昔のように、シュッシュッと蒸気機関車が静かに出て行く時代なら、いつまでも手をふって見送ったんでしょうがね、ディーゼルはあっという間に発ち去ってしまうからでしょうね」
「でも、わたしはせめて、その人の乗っている列車が見えなくなるまで、送っていたいわ」
「それが本当の別れを惜しむ気持ちでしょうね」
「そうよ、そう思うの。相手から見えなくなっても、わたしは手をふっていたいわ」
「なるほどね、陽子さんてそういうひとなんだなあ。列車が動き出すと、もう背を向けて歩き出すなんて、いかにも薄情ですよね。人を送る気持ちというのは、本来やさしいはずですからね」
ふと、北原は自分が陽子を見送りに来て、列車に飛び乗ったことを思い出した。
また列車が入って来た。大勢の人が降り、そして同じ数ほど乗った。何の目的で札幌に降り、何の目的で旅立つのか。この駅に降りることで、あるいは発つことで、その一生が定められる人もあろう。そんな運命的な何かが、駅にはまつわりついているような気がした。いかにたくさんの人が溢れていても、駅にはうら悲しさがあると感じたのは、そのせいかも知れないと、陽子はプラットホームを眺めていた。
「よくまあ、旅をする人がいるものですね。一体何の用事があるんですかね」
札幌駅の、五階建てのステーション・ビルの壁に目を向けていた北原がいった。北原も同じことを考えているようだった。
「出張の人もいるんでしょうし、肉親の危篤で来る人もいるのでしょうね」
「そうでしょうね。お嫁に来た娘さんもいるかも知れない」
北原はちらりと陽子を見て笑った。
北原の言葉に、陽子はうなずいた。どこかの村か町で育った娘が、結婚のために知らない札幌の街に移り住む。そんなことも数多くあるにちがいない。
「ねえ、北原さん、結婚のために故郷を離れる娘さんはいても、女の人のいる街に、男の人が移ることは、あまりないでしょうね」
「そりゃあそうでしょうね」
「それだけでも、結婚の大変さは、男の人より女の人にあるような気がするわ」
「なるほど、そうだろうなあ。女の人が結婚のために、住み馴れた街や、親きょうだいや、友人と別れて来るというのは、これは大変なことだろうなあ。問題は、その事実を男がどのように受けとめ、思いやれるかということでしょうね」
陽子は自分と、滝川の街に一生を共にしてくれるだろうかと、北原は思った。
「陽子さんは、どこの町が好きですか。やはり旭川ですか」
「さあ」
陽子は微笑した。
「どうも、質問のタイミングが悪かったようですね」
「あら!」
二人は顔を見合わせて笑った。
「ぼくは平地の街より、港町のような坂のある街が好きですね。神戸や長崎なんか好きですね。函館も小樽もいいですよ。小樽は……」
いいかけて口をつぐんだ。
「どうもぼくはデリカシイがない。悪く思わないでください」
「そんなに気をおつかいにならないで、小樽の街には、小学生の時一度行ったことがあるわ。わたし、小樽の街って好きよ」
先ほど、北大構内で会った達哉の顔を陽子は思い浮かべた。達哉が生まれ育った町と思うだけで、小樽のイメージは陽子の胸の中で新しく変わっていた。小樽はもはや、自分を捨てた母のいる街ではなく、達哉という弟と、そしてもう一人兄のいる街なのだ。陽子は一度小樽に行ってみたいような気がした。
「どうやら陽子さんのほうが、ぼくよりおとなのようですね。……港町といえば、網走もきれいな街ですね。刑務所が有名で、荒々しい町を想像しますけどね、公園の中に街があるような、きれいな街ですよ。湖だけでも四つ五つあるはずですよ」
「まあ、すてきね」
「きれいすぎるくらいです。しかし、流氷の網走は一度ごらんになるといいですよ。これは見せてあげたいな。でも、流氷は一人で見るべきかも知れないな」
一人で見るのが一番いいという流氷を、陽子は見たいと思った。陸橋の下を、小樽経由函館行きの長い列車が過ぎて行く。陽子は列車から視線をそらして、右手に見える丈高い新緑のポプラを眺めた。
素描
陽子の属している美術サークル、黒百合会の例会は、毎週火曜日の午後六時から、クラーク会館一号集会室でもたれている。早目に食事をすませた陽子は、一号室のドアをあけた。
思いがけなく、達哉が一人窓際に立っていた。
「あら!」
一瞬、部屋をまちがえたのかと思った。
「ぼくも今日から仲間入りですよ」
「まあ、偶然同じサークルなのね。あなたも絵がお好きだったのね」
陽子は、達哉から少し離れた椅子にすわった。
「別に絵は好きじゃありませんよ」
達哉はニコッと笑った。
「あら、好きじゃないのに入会なさったの」
「絵は好きじゃないけれど、君がこのサークルにいるでしょう」
「まあ」
陽子は眉をひそめた。
「いけなかったかなあ」
達哉は子供っぽく頭をかいた。
「サークルには、そんな入り方をしてはいけないわ」
陽子は素っ気なくいった。
「だって……」
いいかけて達哉はくるりと背を向けた。
「この間、一緒に歩いていた人、誰ですか」
「お友だちよ。理学部のドクターコースにいらっしゃるの」
「ふーん。ドクターコースか」
濃い眉が利かん気にぴりりと上がった。
「高校の時からのお友だちなの。兄と仲良しで、旭川にも泊まりにいらっしゃったりなさったわ」
「…………」
陽子は腕時計を見た。六時五分前である。立ち上がって、椅子を並べはじめた。
達哉はだまって、その陽子をみつめていたが、
「何だか、虫が好かないな」
といった。
「どなたが?」
「君のボーイフレンドさ」
「立派な方よ、あの方は」
この間、無謀運転の自動車がつっこんで来た時、陽子は本当にそう思った。とっさの場合でも、北原は自分の腕をとって飛びすさった。多分、誰が同伴者であっても、北原はそうしたにちがいないと陽子は思う。陽子自身、あの瞬間北原を忘れて逃げるところだった。
「立派な人? じゃ、こんど紹介してくださいよ。君が立派だという人物は、どんな人物か、知りたいな」
陽子は再び眉をひそめた。
「君はぼくを嫌っているみたいですね」
「なぜ?」
「何となく、そんな気がする」
「どうしてそんなことをおっしゃるの。三井さん」
「だって、あれ以来、君があのキハダの木の下にすわっているのを見たことがありませんよ。ぼくは、いくどもあの芝生に行ってみたのに」
二十坪余りの部屋である。椅子を並べる作業はすぐ終わった。陽子は再び椅子に腰をかけて、まだ明るい外を見た。きれいに刈りこまれた庭木が、手入れの行きとどいた芝生に、長い影を引いていた。ライラックの花が、紫に盛り上がって咲いている。
「……でも、だからって、わたしがあなたを嫌っている証拠にはならないわ」
「だけど、下宿に訪ねた時だって、外出するからといって、門前払いでしたよ。つれの人がどこに行ったかばかり気にして、ぼくのことなんか、少しも気にかけてくれなかったじゃありませんか」
陽子は再び時計を見た。六時だというのに、まだ誰も現れない。早く誰か来てほしいような、誰も来ないでほしいような、妙な気分だった。
「じゃ、三井さん。わたしに嫌われていると、勝手に思っていらっしゃい」
陽子はかるくにらんだ。
「すみません。怒らないでください。ぼくは君と友だちになりたいんです。でも、チャンスがないので、いらいらしてるんです。君はこのごろいつも誰かと歩いているでしょう。これではいつまでたっても友だちになれない気がするんです」
達哉は哀願するような口調になった。
「三井さん、友情というのは、もっと静かなものよ。そんなにあせったりなさっては、いけないわ」
「ぼくって、激しいんです。母に対しても、兄に対しても。好き嫌いが激しいのかなあ。自分でも、こんな自分がいやになるんです」
達哉には、あまりかかわらないようにといった、先日の啓造の言葉を陽子は思った。が、どのように扱うべきか陽子にはわからなかった。達哉は自分を他人と思っている。そしてそれは、いつまでも、どんなことがあっても、そう思わせておかなければならないのだ。しかも、あまり親しい他人であってはならないのだ。達哉に少々嫌われても、素っ気なくするよりほかはない。それはしかし、陽子には辛いことだった。
「三井さん、茶道会のサークルにでも、お入りになるといいのよ。あなたの激しさが、そんなにお嫌いなら」
陽子は少し冷淡にいった。
「君がそうしろというなら、そうしますよ」
意外に素直に達哉はいった。
ノックもせずに、会の学生たちが五、六人、どやどやと部屋に入ってきた。
誰もが黙々として、中央のテーブルにある石膏の女の胸像をデッサンしている。陽子の隣で、達哉も写生していた。同じサークルに入ってまで、自分と親しくなりたいという達哉の気持ちが、陽子を次第に気重にして行った。コンテを動かす手が、ともすれば休み勝ちになる。
(自分はたしかに達哉を欺いている)
そう思うと陽子はたまらなかった。陽子はそっと傍の達哉を見た。達哉はちょっと目を細めて胸像を見ていた。陽子は再びコンテを動かしはじめた。こんな自分と達哉の姿を見たら、生母の恵子は一体何と思うであろう。父の啓造はいった。
「ずいぶん苦しんで来られたようだよ。達哉君とのことは別として、陽子も一度お会いして、生んでいただいたお礼をいうことだね」
傍にいた徹もいった。
「あのひとは陽子に会ったら、苦しみが少し軽くなるかも知れないよ。とてもいいひとなんだ。誰にでもあのひとは好かれるひとだよ。それがあのひとの悲劇を生んだんだ」
二人の言葉は、恵子への同情に満ちていた。しかしそのことは陽子には肯けなかった。恵子の悩みや苦しみは、いわば自分自身の犯した過失の故である。だが、達哉兄弟やその父が真実を知った時の苦しみは、誰の故か。それを思うと、陽子は生母よりも、その夫や子供たちに、より同情してほしい気がした。
デッサンが終わり、作品の寸評があった。リーダー株の伏見が、最後に達哉の作品を手にとって、しばらくの間黙って見ていた。そして達哉の顔をちらりと見ていった。
「どこかで勉強しているの?」
「いいえ」
「ふーん、そうかなあ。いい線だよ。ちょっと辻口さんにタッチが似ているね。鋭すぎるけど」
伏見は陽子に、その角張った顔を向けた。はっとうつむいた陽子の顔に血がのぼった。
(わたしの線に似ている!)
伏見は毎年道展に入選し、特選にも入ったこともある。見る目はかなり確かなはずだった。
会が終わって廊下に出ても、陽子の胸は波立っていた。達哉が陽子と肩を並べていった。
「君の線に似てるっていわれましたね。うれしかったなあ、ぼく」
達哉は無邪気に喜んだ。陽子はさりげなくいった。
「伏見さんが、あんなに長いこと手にとって見ていらしたのは、初めてよ」
「また来週も来ようかな。君には茶道部に入ったほうがいいといわれたけれど」
「…………」
達哉が絵をつづけるなら、自分は例会を欠席するしかないと陽子は思った。
二人はロビーに出た。さすがに夜のロビーは、十人ほどの学生がチラホラしているだけで静かだった。
ロビーの入り口で達哉はいった。
「来週の今夜は、札幌神社祭の宵宮でしたね」
気重な陽子の思いには、達哉は気づかない。
「そうね、宵宮祭は六月十四日ですわね」
「その日、君は忙しいの」
「多分ね。宵宮にはお友だちが遊びに来るはずよ」
「あの……ドクターコース氏?」
「いいえ、女のお友だちよ」
「女の友だちか」
達哉はちょっと考えてから、つづけていった。
「まだ九時を過ぎたばかりだから、少しここで話して行きませんか」
「でも、あなた小樽までお帰りでしょう。おそくなるといけないわ」
「いや、大丈夫。ぼくは今夜、祖母のところに泊まるんです」
「おばあさんの?」
「ええ、おふくろのおふくろです」
その達哉の祖母は、自分にも祖母にあたるはずだった。
「そう。……じゃ、門限の九時半までおつきあいするわ」
「九時半? きびしい下宿だなあ」
二人は窓際の椅子に、向かい合った。
「ちがうの、自分で決めたのよ」
「なあんだ。じゃ、九時半までに帰らなくても、誰にも叱られないんですね」
「三井さん、人に叱られなきゃ、帰宅時間も守れないなんて、わたしはきらいよ」
「きびしいなあ、君って」
「そうよ。叱られるからするとか、しないとかいうのは、サーカスの犬か猿みたいよ」
陽子は、わざと冷たくいった。
「じゃ、九時半に下宿に帰って、あとはどうするの」
どこかのサークルの学生たちが二、三人、階段をかけ降りてロビーに入って来た。
「そうね、平凡よ。すぐにおふろに入るわ。下宿の小母さんにお気の毒だから。それから十一時頃まで本を読んだり、日記を書いたりして、眠るのよ」
「朝は何時に起きるの」
「まあ! 生活指導員みたいね。朝は七時に起きるわ。あなたは?」
「ぼくも七時頃さ」
たわいのない話だが、陽子はやはり楽しかった。自分と血肉をわけた者が、ここにまさしく一人いるという思いだった。
「一人で起きるの」
「いや、おふくろがね、ぼくを起こすのに一苦労らしいんだ」
窓の外に、水銀灯が庭の木立と芝生を青く照らしている。何か深い水底を思わせる色だった。少し離れて英字新聞を読んでいた学生が一人、あくびをして、のっそりと立ち去った。
「おふくろは、ヒステリーっ気のない人間だけど、時々きびしくってね。起きないと、掛け布団をさっとめくってしまうんですよ」
「まあ」
「いきなり冷たいタオルを、顔にのせたりしてね」
「幸福ね、三井さん」
実の母に甘えていられる達哉は幸せだと思った。陽子には、毎朝夏枝に起こさせることなどはできない。冬でも、つとめて夏枝より先に起き、ストーブを暖かく燃やしておく。何ごとでも、陽子は夏枝にいわれぬうちに、先立ってする癖がついていた。それは、必ずしも自主的な性格のためばかりではないような気がした。
「君、ふとんをめくられたり、氷のようなタオルを顔にのせられるんですよ。それが幸せかなあ」
「そうよ。起こされるまで眠っていられるご身分ですもの」
「じゃ、君は起こされたことがないの?」
「ないわよ。……」
(実の母に育てられたあなたとはちがうわ)
「君って、優等生だなあ。何しろ、自分で門限を決めるんだからなあ。万事、自主独立で行くわけか」
陽子の心の中を、達哉は気づくはずもない。
「あなた、食べ物は何がお好き?」
「ぼく? 納豆」
「まあ、納豆?」
思わず陽子は笑った。
「みんな笑うんだなあ。納豆はうまい食べ物ですよ。長ねぎや、からしをまぜて、しょうゆをかけて、糸のふわふわに引いた納豆を、熱いごはんの上に乗せて食べるおいしさは、ぼくは最高だと思うんだがなあ」
「おかしくはないけれど、意外なのよ。焼き肉とか、中華料理とか、そんな食べ物がお好きな年ごろでしょ」
納豆が好きだという達哉と二人で、納豆を食べたいような気がした。
「じゃ君は何が好きなの」
「わたしは何でも好きよ。特にかぼちゃと、じゃがいもが好き」
達哉も思わずふき出した。
「あなただって笑ったわ。あいこよ」
「だってさ、君には似合わないよ。君はショートケーキとか、チョコレートが好きな年頃ですよ。それが、じゃがいもとかぼちゃとは……」
陽子の口真似で達哉が応酬し、二人は声を上げて笑った。笑いながら、陽子はふっと涙ぐんだ。今、自分たち姉弟は、やっとお互いの好きな食べ物を知り合ったにすぎないのだ。
「あんまり笑って、涙が出たわ」
達哉のデッサンの線が、自分に似ているといった伏見の言葉が、更に深く胸の底に降りて行くのを陽子は感じた。
「ぼく、ちょっと君の部屋を見せてほしいんですが」
時計を見た達哉が、少し改まった口調でいった。陽子の下宿は、クラーク会館の裏手を、二丁と行かぬ所にある。九時半まで、まだ十分ほどあった。
「ごめんなさい。わたしは、男のお友だちを、一人ではお部屋にはお通ししないことにしてるのよ」
「なぜ? いや、なぜというのはおかしいかな。それは常識的過ぎますよ」
「常識じゃないわ。良識よ」
「ぼくが信用できないのですか」
「ちがうわ。あなただからではないの。誰でも、お通ししないことにしてるのよ」
「君は男性を、少し危険視しすぎているんですよ。不愉快だなあ、そんなの」
達哉は急に表情をこわばらせ、足を大きく組んだ。
「不愉快でも仕方がないわ。わたしはまだ、世の中のことが、よくわからないんですもの。男の方を一人で部屋に通さないこと、あまり暗い道を二人っきりで歩かないことぐらいは、自分できちんと決めておきたいの」
「そんな教育ママ的な考えって、いやだなあ。男性はみんな痴漢だと思ってるの。君は」
「と、いうこととはちょっとちがうと思うの。わたし、それほど男性というものを知らないわ。でも、お部屋に通さなければ、こわれるような友情しか持てない男の方など、お友だちにしたくないの」
達哉はさっと顔色を変えた。そして、ふいに立ち上がって窓のほうをにらんでいたが、陽子に向きなおり、
「わかりました。君って、大変えらいひとですよ。でも、尊敬される女なんて、ぼくはきらいだ」
と、いうや否や、ロビーを横切って出て行った。
陽子は、去って行く達哉のうしろ姿を、椅子にすわったまま見送った。陽子の目に、悲しみのいろが動いた。怒る達哉の気持ちもよくわかる。別段弟の達哉を危険視したわけではない。どこまでも甘えて来そうな達哉の性格と、その甘えを許してしまいそうな自分の肉親への情を、警戒したのだ。事実、下宿に男の友人を自由に出入りさせるルーズな生活は、陽子はきらいだった。それは、夫を裏切って自分を生んだ恵子への、陽子の抗議のあらわれでもあった。
たった今、納豆とじゃがいものことで笑い合った達哉が、怒って去って行った。それは淋しいことだが、そのほうがいいのかも知れないと陽子は思った。達哉と自分が親しくなることは、結局は何の実りももたらさないことなのだ。このまま、お互いに遠い存在として、暮らすほかはない姉と弟なのだと、陽子は思った。
血脈
達哉とけんか別れになってしまった夜から、四日ほど過ぎた。陽子には心の重い四日だった。講義に出ても、友人と話していても、達哉のむっとした表情が胸にへばりついていた。あのまま離れてしまうほうが、お互いのためによいと納得しながらも、やはり陽子はさびしかった。
雨が窓をぬらし、風にさわぐポプラが向かいの家の裏手に見えた。陽子は、青いブラウスの上に、白のカーディガンを羽織って、世界美術全集をひらいた。
右腕を骸骨にのせ、長椅子に横たわった裸婦があった。肉づきのよい胸と、すらりとした形のよい足が美しかった。解説には、フランス絵画史上、初めての裸体画と書いてある。陽子は、豊かな腕の下にあるされこうべに目をやった。
(なぜ、ここにこんな無気味なものを描いたのかしら)
美女とされこうべと、何の関係があるのか、陽子は面白いと思った。この美女も、いつかはされこうべになるということか。あるいは、美は滅びたということなのか、陽子はそんなことを考えた。
いつか徹がいったことがある。
「ぼくは、美しい花を見ていると、怖ろしくなる。この花もまた滅びると思うんだ。美しければ美しいほど、滅びをぼくは連想する」
その言葉を思い出しながら、陽子はふっと徹に会いたいと思った。達哉の出現以来、陽子は徹と自分は他人だと、つくづく思うことがある。達哉に対する理屈ぬきの愛情は、確かに徹に対する愛情とは、どこかちがっていた。
陽子はページをくりながら、今更のように、徹と自分は、血のつながりがないのだと、思わずにはいられなかった。
「三井さんとおっしゃる男の方が、玄関に見えてますよ」
下宿の主婦が、ドアから顔だけのぞかせていった。
「三井さん?」
陽子はけげんな顔をした。怒って去ったはずの達哉が来たのだろうか。陽子の胸はにわかに波立った。
「すみません、今すぐ下りて行きます」
下宿の主婦はうなずいてドアをしめた。
陽子は雨の窓を見た。六月も中旬に入ったというのに、小寒いような日である。陽子はカーディガンの裾をちょっとなおして立ち上がった。が、降りて行くべきか否かを迷った。
あのけんか別れの形のままで、いいのではないか。もし謝罪のために出向いて来たとしても、冷たく突き放して帰すべきではないか。いや、折角謝罪に来たのだ。さりげなく和解するのが当然である。
(でも……)
今にも達哉を迎えに駆け降りそうな自分を抑えて、陽子は部屋に立っていた。
階下で、何かいう下宿の主婦の声がした。
が、陽子はそのまま、机の前にすわった。いかに達哉が怒ってもいい。このまま帰すべきだと、陽子は決意した。もし顔を合わせたなら、たわいなく和解してしまうだろう。そうなれば、達哉は幾度も下宿を訪ねてくるようになるだろう。そして、いつかは真実を知るにちがいない。
陽子は机によりかかって、じっと息をひそめた。と、階段をのぼる足音が聞こえ、下宿の主婦の声がした。
「足もとに気をつけてくださいね。間取りの悪いうちで、廊下も階段も暗くって」
陽子ははっと身を固くした。軽くノックして、すぐにドアがひらかれた。
「陽子さん、あまりお待たせしては悪いから、お客さまをお連れしましたよ。さあ、どうぞ、どうぞ、お入りください」
「はあ、でも」
ためらう声がした。陽子は覚悟を決めていった。
「どうぞ、三井さん」
「お邪魔します」
パーマをかけたような、美しいウエーブの髪が、額にはらりと下がった青年が入り口に立って、陽子を見た。陽子は一瞬息をのんだ。
「すみません。この間の夜は」
青年のうしろから達哉が顔を出して、ペコリと頭を下げた。
「今日、兄貴を連れてきたんです。一人では部屋に入れてくれないから、二人ならと思って」
達哉は頭をかいた。
「達哉の兄の潔です。達哉が何かとおせわになりまして」
潔は、陽子をじっと見つめたままいった。
(お兄さんだわ、この人が)
「辻口陽子です。どうぞよろしく」
二人にざぶとんをすすめる陽子の手がかすかにふるえた。
「ね、兄さん、おふくろに似てるだろう。ぼく、うそはいわないだろう」
達哉は得意そうにいった。陽子はうつむいた。
「達哉、失礼なことをいってはいけないね。どうも、申し訳ありません、辻口さん」
陽子は頭を横にふった。
「どうして失礼なのさ、にいさん。似ているから似ているっていったまでだよ、ぼく」
達哉は不満気だった。
「辻口さん、達哉はどうも子供でしてね。あなたのこと、おふくろに似ている似ていると、いつも家でうるさいんですよ。今日も、ぼくに是非一緒に行ってほしいとかって……どうも、突然伺ってすみません」
明るく如才のない感じだった。
「兄貴は、すぐぼくを子供扱いにするんですよ」
達哉は機嫌よく陽子にいった。
「でも、ぼくやっぱり子供かな。この間の夜はすみませんでした。ゆうべ、うちでいったんです。ちょっとぐらい部屋をのぞかせてくれてもいいのにって」
うなずいて陽子は、湯わかしをコンセントにつないだ。父ちがいとはいえ、目の前にいるのは、まさしく兄と弟なのだ。陽子は夢を見ているような心地だった。
「おふくろは、ばかねえと笑っていましたが、おやじに叱られました。失礼な奴だ! 非常識な奴だって、絞られましたよ。おやじはめったに怒らないんだがなあ。応えましたよ。とにかくあやまります」
率直にあやまられては、陽子も冷たく突き放すことはできなかった。
「わたしこそ、ことわり方がいけなかったのよ。ごめんなさい」
「よかった。これで仲直りだ。ぼく、もう君とは話もできないのかと、いささか憂鬱だったんです」
苦笑しながら潔は、陽子をさりげなく見つめていた。
「おかげで君の部屋を見れたなあ。しかし、あっさりした部屋だねえ。もっと夢いっぱいみたいな部屋かと思ったら……」
「あ、たばこが切れていたんだ。達哉、すまないが、ちょっと買って来てくれないか」
部屋を見まわす達哉に、潔がいった。
「オーケー」
出された千円札をつかんで、達哉が気軽に部屋を出て行った。
二人はしばらく黙っていた。陽子は潔の視線を感じながら、目を伏せていた。何か息づまるような思いで陽子が目を上げた時、潔はいった。
「辻口さん、実はぼく、あなたに伺いたいことがあるんです」
「……何でしょうか」
「うちの母と、あなたのおにいさんとは、どんな知り合いなのでしょうか」
はっと陽子は潔を見た。
「うちの兄と?……お知り合いなのですか」
とっさに陽子は、そう答えた。
「ご存じなかったのですか。そうですか……」
ちょっと考えてから、潔は言葉をついだ。
「実は、去年うちのおふくろが、通夜の帰りに、交通事故を起こしましてね、入院したことがあるんです。その時、あなたのおにいさんが、早々に駈けつけてくださったことがありましてね」
うかがうように、潔は陽子を見た。
「ああ、お通夜の帰りの事故のことは、お聞きしていましたわ。高木の小父さまの代理で、兄がとりあえずお伺いしたとかって……。お宅のおかあさまでしたのね」
陽子はうそがきらいだった。だが、今、陽子は必死にそ知らぬ顔をしなければならなかった。
「高木さんの代理ですか。そうですか。ぼくには、母と直接の知り合いのように思われましたが」
潔は雨の窓にちょっと目をやってから、言葉をつづけた。
「おにいさんが見舞いに来てくださった直後、高木さんが見えたものですから、ぼくには代理とは思えなかったんですね。そうですか、ま、それならいいんです」
「…………」
「いきなりこんな不《ぶ》しつけなことを申し上げて、すみません。ただ、ぼくは気がかりなのです。あなたと母が似ている。実によく似ているんです。そのあなたのおにいさんと母が知り合いだ。いや知り合いでないとしても、高木さんという共通の知人を持っている。その辺が、どうも、もやもやと霧がかかったような感じなのです」
陽子はじりじりと追いつめられている思いだった。
「わたしも何だか不安になってきましたわ。もしかしたら……」
陽子の言葉に、潔はあわてて手をふった。
「いや、失礼。あなたもよくご存じないことをお尋ねして……。これは失敗したな。そうですね。あなたが何もご存じないということを考慮すべきでしたね。失礼しました」
肌寒い日だというのに、潔は額に汗をにじませていた。
「いいえ」
ほっとした陽子に、潔はいった。
「すみません。いま、ぼくが申し上げたことは、達哉には黙っていてください。あいつはまだ、あなたとおにいさんが、きょうだいであることに気づいていないんです。あいつは想像のたくましい奴ですから、妙なことを考えると困るんです」
「妙なこと?」
「ええ、ざっくばらんにいうと、ぼくだって妙なことを考えていましたからね。あなたを見送っているおにいさんを、札幌駅で見た時以来……」
「どんなことですの」
「いや、お気を悪くなさると思います。何せ妙なことなのですから」
「気を悪くなどしませんわ」
「そうですか。じゃ思い切って申しますがね。母の兄に独身のまま戦死したのがいるんです。母によく似ていたそうです。写真で見てもよく似ているんです。だから、最初その人の娘ではないかと思ったんです」
「まあ」
陽子は笑おうとしたが笑えなかった。
「しかし、伯父が出征したのは昭和十六年で戦死が十七年ですから、年が合わないんです。次に考えたのは、もしかしたら、母の生んだ子ではないか。母は双生児を生み、育てかねるかどうかして産院からそのまま、人手に渡したのではないか……つまり、達哉とあなたは、双生児ではないかと思ったんですよ」
「まあ、うちの母が怒りますわ。せっかく、わたしを生んでくれたのに……」
「だから、妙なことと申し上げたんです。話しているうちに、吾ながらおかしなことを考えていたと思いました。本当に失礼しました」
潔は額の汗をぬぐって、陽子のいれた紅茶を一口飲んだ。玄関のドアが、バタンと音を立てた。
「あ、弟には黙っていてください。今のことは」
念を押すように潔がいった。陽子はうなずいて、達哉の紅茶の用意をした。
「はい、たばこ」
ドアをあけるなり達哉がいった。
「ごくろうさん」
受けとって潔はたばこの封をきった。
「雨の中、ごくろうさま」
紅茶をさし出しながら、陽子はねぎらった。何となくぎごちない空気に、敏感な達哉はいち早く気づいたようだった。
「何を話していたの?」
「別に」
「じゃ、黙っていたの」
達哉は、探るように二人の顔を交互に見た。
「黙っていたわけじゃないよ」
「ふーん。ぼくはまた、ぼくにたばこを買いにやらせて、何か話があるんだろうと思っていたんだけどさ」
「達哉、お前はすぐそう気をまわすからいけないんだ」
さり気なくいいながらも、潔はあわてていた。
「ああ辻口さん、君にチョコレートを買って来た。いもとかぼちゃでなくて悪いけどさ」
好物はいもとかぼちゃといった先夜の陽子の言葉を、達哉は覚えていて冗談をいった。
「あら、ありがとう。チョコレートも好きよ。早速いただくわ」
チョコレートを三つに割って、その三分の二を、陽子は達哉と潔の前においた。
「にいさん、そこのたばこ屋の前で、珍しい奴に会ったよ」
つり銭を潔の前におきながら達哉がいった。
「珍しい?」
「うん、去年の夏、おふくろが入院している時、見舞いに来た奴がいただろう?」
「さあ、あの時はたくさんの人が見舞いに来たからねえ」
「ほら、高木さんの所から来たとかいってさ。おふくろにすみませんっていった奴さ。あいつが交通事故に関係があるとにらんでるんだけれどね。何という名前だったかなあ」
陽子は、はっと達哉を見たが、すぐに視線をそらした。
「さてね、あの時は突然でぼうっとしてたからねえ」
潔は忘れた顔をした。達哉がいった。
「そりゃ、ぼくだって、そうだったけどさ。でもあの時、すみませんっていったの、にいさんは変だと思わなかったのかなあ」
「ああ、思い出した。お前が、すみませんとは何だ、とかいっていたようだったね」
「うん、あいつさ」
「だけど、辻口さんとは何も関係のない話だろう。あとで聞くよ」
潔は何とか話題を変えようとした。陽子はいまにも徹が訪ねて来るのではないかと、気が気でなかった。
「だけどね、辻口さん。あなたもちょっと聞いてくれませんか。実はおふくろが、去年交通事故を起こしたんですけどね。おふくろを見舞いに来た若い男がいて、いきなり、すみませんっていったんですよ。交通事故を起こして、けがをしたおふくろにですよ。すみませんっていう挨拶は、少しおかしいと思いませんか」
たった今、潔から、徹と恵子の関係を尋ねられ、陽子は困惑したばかりだった。今また達哉にこうした話を聞かされている。つくづく恵子の罪ぶかさを思わずにはいられなかった。
「そうね。でも、その人は何をすみませんっていったのかしら」
「それですよ。それがよくわからない。わからないけれど、ぼくはおふくろの交通事故に大きな関係があると、直感したんです」
「直感なんて達哉、そんないい加減なことで疑ってはいけないよ。そうだ。高木さんの代理とかいってただろう。高木さんの通夜の帰りの事故だから、つい、すみませんといったのじゃないかな。ね、辻口さん」
「そうね。それなら、すみませんという言葉も、そうふしぎではないわ」
陽子は、こんな会話をしなければならぬ羽目におちいらせた小樽の母に、いいようもない憤りを感じた。
「いや、辻口さん。あなたはその場にいなかったから、わからないかも知れませんよ。しかし、あの時のおふくろと、あいつの表情は、もっと切迫した感じだった。兄貴は直感なんかといいますがね。ぼくはピンと感じたな。何かあるとね」
「しかし、もう過ぎたことだよ、達哉。いいじゃないか、そんな話。辻口さんだって、つまらないでしょう?」
潔は申しわけなさそうに陽子を見た。
「だけどね、辻口さん。たった今、そいつに会ったんですよ。それも、ぼくの顔を見て、ぷいと顔をそむけたんですからね。顔をそむけるのは、たいてい都合の悪い相手に会った時ですよ。ぼくはわざと声をかけたんだ。おふくろの交通事故の時はどうもってね。やっこさん、あわてて、ああ、あの時はとか何とかいって、逃げ出そうとしたんだよ、にいさん」
潔は気の毒そうな顔をした。達哉は徹を陽子の兄とは知らずに話しているが、陽子は内心どんなにか不愉快にちがいない。
「ぼくはね、なぜ逃げるんだといってやったんです。奴は、ちょっと急ぎますので失礼なんていっていたがね。どう見ても、あれは挙動不審というところだなあ」
達哉は背にした窓枠に頭をもたせた。
「達哉、それじゃまるでチンピラじゃないか。いくら何でも失礼だよ」
「失敬なのは向こうだよ。ぷいと顔をそむけたんだからね。あれはぼくを知っている表情だったよ。にいさん」
陽子は、達哉のカップに再び紅茶を注いだ。その白い横顔を潔は見つめた。
「達哉もしつこいなあ。もういいじゃないか。その人のことは」
「もういい? そうはいかないよ、にいさん」
飲みかけた紅茶を宙にとめたまま、達哉はきっぱりといって、
「にいさん、おふくろは幸い三カ月半で退院できたし、後遺症もなかったからいいよ。しかし、もしかたわにでもなったら、ぼくはやっぱり、あいつの正体を突きとめずには、いないだろうな」
思わず潔は陽子を見た。陽子は表情を動かさず達哉の言葉を聞いていた。
「しかし、おふくろも、元通りになったんだからね。そんなにいきり立つことはないじゃないか」
「だけどさ、いま、あんなふうに逃げる様子を見せられると、名前ぐらい知っておきたくなったよ」
「つまらないことばかりいって、辻口さんに笑われるよ」
達哉はふと神経質に眉根をよせて黙りこんだ。
「どうも騒々しい弟ですみません」
潔は陽子にわびた。
「いいえ、そんなことありませんわ」
自分を訪ねて来たにちがいない徹を思い浮かべながら、陽子はいった。
陽子は、達哉に対する感情と、徹へのそれとに、微妙な差異を感じてはきた。だが今、何も知らぬとはいえ、達哉の徹に対する誹謗めいた言葉を聞いているうちに、幼い時から優しかった徹との、長い間の関りが顧みられて、陽子の思いは複雑だった。
「そうだ。どうも考えれば考えるほど、おかしいよ、にいさん」
ひざ小僧を抱いて黙りこんでいた達哉がいった。
「何がだい。もうその話なら、ごめんだよ」
潔が少しいらいらしたようにいった。
「ね、にいさん、おふくろはあの交通事故以来、少し人間が変わったように思わないか」
「別に変わりはしないよ」
「そうかなあ、時々ぼんやりと、何か考えていることがあるよ。以前はそんなことはなかったけれど……」
「そりゃあ、少しは後遺症みたいなものがあるだろう。それがどうかしたのか」
「うん、いつかおふくろに、今会った男の名前を聞いたらさ、事故当時のことは、きれいさっぱり忘れたというんだよ。記憶喪失だなんてさ。その時はそうかなと思ったんだけれど、あれは白っぱくれたんじゃないかと思うんだ」
「辻口さん、達哉はこれだから困るんですよ。もうその話はやめなさい。辻口さんには何の関係も、興味もないことだからね、失礼じゃないか。お前はここに何しに来たんだ。この間の失礼をおわびに来たんだろう」
潔は、達哉に声を低くしてたしなめた。
「そうだったっけ。もうやめるよ。でも変だなあ。ぼく、辻口さんがおふくろに似ているせいか、何でも辻口さんには話してしまうんだ。いとこか何かの気がするんですよ」
達哉はようやくやさしい微笑を見せた。
「その机の上の本は何ですか」
ほっとしたように、潔はすばやく話題を変えた。
「これ? 美術全集です。ごらんになります?」
さし出された分厚い大きな本を両手にとって、潔はひらいた。
「絵がお好きなんですか」
「ええ、下手の横好きで……」
「下手じゃないよ、にいさん。ぼく、この間辻口さんのタッチに似てるって、先輩にほめられたもの」
二人に背を向けて、窓から雨の街路を眺めていた達哉が、首だけふり向いていった。
「ほう、達哉とあなたのタッチがねえ」
「あなたも絵がお好きですの」
ひやりとしながら陽子はいった。
「嫌いじゃありませんが、音楽のほうが好きですよ」
「何か器楽をなさるんですか」
「ピアノを少し。でも、ぼくはレコードを聞くぐらいですよ。無芸大食の部類です」
ようやく笑いながら、潔がチョコレートに手を伸ばした時だった。
「あっ! にいさん、見てごらん。さっきのあいつが歩いているよ!」
窓の外を見ながら、一人何かを考えていた達哉が大声を上げた。潔は思わず腰を浮かした。
「よし! チャンスだ。ぼく、あいつの名前を聞いてくる」
達哉がすっと立ち上がった。さっと潔の顔がこわばった。陽子はゆっくりと達哉の顔を見上げた。
「達哉! ばかなことはよしなさい」
潔はドアの前にどっかとすわった。
「どうしてばかなのさ? 今見逃したら、いつまた会えるか、わからないじゃないか。そこをどいてくれよ! にいさん」
陽子はかすかに眉根をよせた。かわいさだけを感じていた達哉の、いやな一面を陽子は見たくなかった。
「あの人の名前を聞いて、一体何になるんだ。失礼なことはやめなさい」
「失礼は向こうさんだよ」
「達哉! ここは自分の家じゃないよ。辻口さんに失礼だよ。辻口さんに嫌われてもいいのか。そんなにわがままをむき出しにして」
いわれて達哉は、陽子を見て照れくさそうに頭をかいた。陽子は少し淋しかった。
「すみません、辻口さん。ぼくって、少しおかしいんですね。すぐかっと頭にくる。これがぼくの欠点なんです」
達哉は意外にあっさりいって、出て行くのをやめたが、再び窓のそばに立って通りを見おろした。既に徹の姿はどこにもなかった。
「三井さん、おすわりなさいね。わたし、落ちついている人のほうが好きよ」
「はい、わかりました」
達哉はあぐらをかいて、きまり悪げな微笑を浮かべた。その顔を見ると、陽子は憎めなかった。だが、達哉はもっと理性的な弟であってほしいと思った。
「三井さん、わたしとお友だちになってくださるのなら、もう少し、意志的な人になってくださいね。でないと、わたし、何だかあなたがきらいになりそうな気がするわ」
「それは困ったな」
達哉は再び頭をかいた。
「ほら、だからいわないことではないだろう。辻口さん、少し忠告してやってください。ぼくのいうことは、めったにきかない奴なんですから」
「そうね。あまり感情的な方は、友情が長つづきしないものよ。あなたは、すぐ顔にあらわすでしょう。長く友だちになるためには、それをなおしていただきたいわ」
「はい、はい、わかりました。何せ辻口さんってね、にいさん。自分で門限をきめて、自分で厳守しているひとですからね。きびしいんだ」
「そうよ。わたしはきびしいのよ。お友だちだからって、甘ったれるのはきらいなの。お友だちは、お互いをみがくために存在していると思うの。それでもいい? 三井さん」
「大変なことになったな、これは」
達哉は、さっきの自分の振る舞いを反省しながらいった。
「ああ、そうだ。考えてみたら、何も雨の中を飛び出して名前を聞くこともなかったんだね。高木病院とかに聞けば、わかることだからね」
寝室
床の中に入って腹ばいになった啓造は、枕もとの電気スタンドが新しく買い替えられているのに、はじめて気づいた。朱塗りのぼんぼりふうの形で、和紙が貼ってあり、中には蛍光灯がついている。啓造は何となく気恥ずかしいような気がした。
ふすまをあけて入って来た夏枝が、にっこりと笑った。
「いかが? お気に召しまして」
ひざをついて、夏枝は帯をときはじめた。啓造はちらりと夏枝を見て、何かいおうとしたが、
「うん、落ちついていていい」
といった。啓造は手をのばしてスイッチをさがした。スイッチらしいものがなかった。
「あら、スイッチですの。こうしますのよ」
浴衣地の寝巻きに着替えた夏枝が、枕もとに来た。かすかに香水の香りが漂った。スイッチは、三センチほどの高さの台の、真横にはめこまれてあった。
「今までの電気スタンドは、どうしたの」
「もう十年も使いましたもの。浜子ちゃんの部屋にあげましたわ」
啓造はかすかに眉をひそめた。夫婦の寝室に十年も使った電気スタンドを、若い娘にやった夏枝の神経にはおどろいた。
「いけませんでした?」
「二人の部屋に使ったものだからね」
「でも、こわれていませんもの」
夏枝は啓造の気持ちに気づかずに、布団の中に入った。と、電話のベルがけたたましく鳴った。
「あら、こんな時間にどなたかしら」
「いいよ、わたしが出る」
もうすぐ十時半である。急患かも知れないと、啓造は廊下をへだてた茶の間に行った。
「もしもし、ぼくです」
徹の声だった。
「何だ徹か。今ごろどうしたんだね、急用か」
「急用というほどじゃないけれど、いや急用かな。今日ね、ぼく陽子の下宿に行こうとしたら、また小樽の三井の息子にぶつかってね」
たばこ屋の前で、達哉と会った様子を徹は告げた。
「ぼくは仕方がないから帰ってきたけどさ。さっき陽子から電話があってさ、ぼくの名前を聞きに、雨の中へ飛び出そうとしたらしいんですよ。少し異常性格じゃないのかな。高木病院に聞けば、ぼくの名をつきとめられるともいっていたそうですよ」
「困った子だねえ、達哉って子は」
「さあね、そうとばかりもいえませんよ。達哉君だって、母親の交通事故と、ぼくが関係あるとにらんでの行動ですからね」
「しかし、名前を探られるのは困るからね」
「それは困りますよ。でも、こうなると、彼に知られるのは時間の問題ですよ」
「全く困ったねえ。しかし、陽子にも彼を近づかせないように、この間いってきたはずだがねえ」
陽子はやはり、弟への情にひかれているのかも知れないと、啓造は受話器を耳に当てていた。
「むろん陽子だって、近づかせるつもりはないようだけれどね、達哉君が兄貴を連れて押しかけてきたらしいんですよ。それに、会わないつもりだったのに、下宿の小母さんが気をきかして、部屋に案内したらしいんです」
「兄貴まで連れて来たのかね」
「ええ、でも兄貴のほうは、感じのいい男ですよ。だけど、それがまた、ぼくと陽子が兄妹だと知っていて、向こうの母親とぼくがどんな知り合いか、陽子にこっそり尋ねたそうですよ。兄貴も、ぼくらのことを達哉君には知られたくないらしくて、その点は助かるんだけどね」
「お前、今どこから電話してるのかね」
下宿では、人の耳もあると啓造は気づかった。
「どうなさいましたの」
いつの間にか、夏枝がうしろに立っていた。啓造は耳につけていた受話器を浮かして、夏枝と二人で聞けるようにした。
「大丈夫。角のボックスです」
「高木の所には、電話をしたのかね」
「無論です。陽子から聞いて、すぐにかけました。達哉君がぼくの名前を聞きに行くそうですといったら、正々堂々辻口徹だといえばいいだろうって……」
「そんな無茶な!」
「冗談ですよ、おとうさん。あの時はとりこんでいたから、誰を代理にやったか忘れたといってやるって、いってました。でも、高木さんも心配していましたよ」
「陽子の下宿を変えたところで、すぐかぎつけるだろうしね。思いきって大学を休ませたほうがいいかねえ」
「そんなことをしたら旭川まで押しかけてくるかも知れませんよ。そうでなくても、夏休みには大雪山に登るから、帰りに旭川の家に寄ってもいいかといってたそうですからね」
「陽子は何と答えたのかね」
「親に聞かなければといったそうだけど、おとうさん、陽子はかわいそうですよ」
徹は少しとがめる口調になって、
「陽子はね、きょう電話で、ぼくに何といったと思いますか」
「さてねえ」
「陽子はね、わたしやはり、生まれてきて悪かったのね、といってましたよ」
「まあ、本当? 徹さん」
夏枝がたまりかねていった。
「ああ、おかあさんか。もう十円玉がつきちゃったよ。おかあさん、こんなことになったのは、一体誰が悪いんですか。ぼくですか。それとも……」
そこで電話が切れた。
啓造は床に入って仰臥したまま、ため息をついた。夏枝が啓造のほうを見て、頭をもたげた。
「あなた、仕方がないじゃありませんか。事の真相がわかっても」
「仕方がない? 夏枝、達哉君は感受性が強いらしいから、ぐれるかも知れないんだよ」
「でも、秘密を持ったおかあさんが悪いんですもの。第一、よそさまのお家のことを、そう心配したって、仕方ありませんわ」
「よそさま?」
啓造は夏枝を見た。夏枝の心の底に、氷のような冷たさがあるのを感じたのだ。
「そうですわ。わたしたちが陽子ちゃんを育てたのは、何も悪いことじゃございませんもの。こちらでは、あちらのお宅に一つもご迷惑をおかけしていないんですもの。そうやきもきなさることは、ないと思いますわ」
「しかしだね。陽子があの恵子さんの娘だとわかったら、三井さんの家庭はこわれてしまうかも知れないんだよ」
「それはお気の毒ですけれど、でも、ご自分の過失ですもの。ご自分で誠意をつくして、ご主人や息子さんにおわびなさればよろしいんですわ」
「なるほど、理屈だね」
啓造は苦笑した。
「徹さんも、逃げかくれせずに、辻口徹だというといいんですわ。陽子ちゃんも、むろん大学を休む必要などありませんし……。さっき、徹さんは誰が悪いのかって、いっていましたけど、悪いのはあちらのおかあさんに決まってますわ」
啓造はふっとわびしくなった。こんなにも思いやりのない女だったのかと思った。
「しかしね、夏枝。徹が軽率に、三井さんの奥さんに陽子のことを告げて、交通事故まで引き起こしたんだよ。その上、見舞いにまでのこのこ出て行ったりして、事を面倒にしたんだよ。夏枝はそのことで、何の責任も感じないのかねえ」
「でも、徹さんが何もお話ししなくても、大学で陽子ちゃんと達哉さんは一緒になりましたのよ。そしたら、やっぱり似ているということで、達哉さんは陽子ちゃんに近づきましたわ」
「しかし、徹が介在しなければ、それだけで終わったかも知れないよ。徹の軽率も責められるべきじゃないのかね」
「…………」
「徹の軽率で、三井さんの家庭がこわされるかも知れないということを、なぜ考えられないのかね、夏枝は」
「あなた、なぜ、徹さんのことばかり責めますの。夫の出征中に不義の子を産んで、知らぬ顔で二十年も通して来た人のことは、なぜ一言もおっしゃらないんですの」
夏枝の声が鋭くなった。
「いや、人のことをいうより、自分たちは自分たちの過失を思うべきだね」
「ご立派ですわ、あなたのおっしゃることは。でも、あなたがあちらを悪くおっしゃらないのは、あなたがご立派だからではありませんわ。あなたはあちらさんの肩を持っていらっしゃるのですわ」
「肩? 肩など持つわけがないじゃないか」
「いいえ。三井さんがお美しいので、あなたは甘くなっていらっしゃるだけですわ」
啓造は内心ギクリとした。夏枝の直感は正しかった。啓造は、高木の家で三井恵子に会って以来、恵子に対して同情的になっていた。札幌から帰って、恵子のいった言葉を単純に伝えたに過ぎなかったつもりだが、夏枝は女の敏感さで、啓造の気持ちを感じとってしまったのかも知れない。
「ばかだね、夏枝。甘くなるわけがないじゃないか」
「でしたら、不義の子を産んだ人が悪いとおっしゃるべきですわ。徹さんばかり責めないでください」
啓造はふしぎな気がした。今までもそうだが、徹を叱ったり責めたりすると、夏枝は自分の悪口でもいわれたように、啓造を冷たい目で見る。徹は自分たち夫婦の子ではないかと思うのだが、夏枝はまるで自分一人の子でもあるかのように、啓造を敵視するのだ。啓造には不可解な心理だった。
「わかったよ。だがね、夏枝。やはり人を責める前に、自分たちの落ち度も反省すべきだということは、知っていてくれなければ困るよ」
「…………」
「しかし、陽子の言葉が気になるなあ」
陽子は徹に、「やはり、わたしは生まれて来て悪かったのね」といったという。
(まさか、再び自殺ははかるまい)
そう心の中でつぶやいて、にわかに啓造は不安になった。
誰が悪いのかといった徹の言葉も思われた。むろん徹も悪い。恵子も悪い。が、夏枝のように、単純に恵子だけを悪いとは、啓造には思えなかった。
徹が恵子に、陽子のことを告げたのは、確かに軽率だった。だが、そのように徹の気持ちをつき動かしたのは、陽子への愛情だった。
恵子は夫の出征中に、他の男によって子を産んだ。明らかにそれは責められなければならない。だがしかし、人間は弱いのだ。誰しも過失におちいるのだ。もし夫が出征しなければ、恵子は過失を犯さずにすんだかも知れない。とすれば、戦争が悪いのだといえはしないか。戦争を起こした人間は、どれほど多くの家庭を破壊し、父を奪い、夫を奪ったかわからない。
「戦争さえなかったら、あのひとは過失を犯さずにすんだかも知れないねえ」
夏枝の目が、電気スタンドの光を受けて、妖しく光った。
「やっぱりあなた、三井さんの肩を持っていらっしゃいますのね」
「なぜだね」
「だって、三井さんは戦争のために過失を犯したようないい方をなさるんですもの。夫を戦地に送った人はたくさんいますわ。でも、ほとんどの方が立派に留守を守っておりましたのよ」
「そりゃあ、まあそうだがね。しかし人間は弱い者だからね。戦争さえなければ、無事だったかも知れないと思いやることも、必要だよ。人間はいろんなからみ合いの中で、無事に生きて行くこともあれば、重大な過失を犯すこともあるんだ」
「…………」
「だから、人間は大過なく生きていても、威張ることはないし、過失を犯した人を、そう責めることもできないんだよ」
夏枝の唇に、冷笑が浮かんだことに啓造は気づかなかった。
「三井さんの奥さんだって、夫が出征もせず、中川という男にめぐり会いもしなければ、きっと無事だったにちがいないね」
「あなた、いま、過失を犯した人を責めることができないと、おっしゃいましたわね」
「ああ、いったよ」
「他の方の奥さんなら、夫にかくれて赤ちゃんを産んでも許せるんですのね」
「…………」
夏枝が何をいいたいか、啓造にはようやくわかった。
「でも、あなたは、自分の妻なら、他の男性と二人で話をしただけのことさえ、許せませんのね」
「それは……何も昔の話を今さら持ち出すことはないだろう。すんだことじゃないか」
「いいえ。あなたには昔のことじゃありませんわ。今だってあなたは、心からわたしのことを許してはいませんわ」
「そんなことはないよ」
「だって、何かといえば、すぐにあの時のことをおっしゃるじゃありませんか」
「しかし、キスマークがついていれば、誰でも情事を連想するからね」
「でも、小樽の方のようなことは、わたしはしませんでしたわ。あの方のなさることなら、不義の子を産んでも責めませんのに、わたしには、あれだけのことで、何度責めたか、あなたはお忘れですの」
啓造は返答につまった。夏枝のいうとおりだった。確かに自分は、恵子を責めるどころか、その苦しみに同情している。だが夏枝に対しては、未だに心の底で怒りが燃え上がることがある。他の女が他の男を裏切った罪は許せる。しかし、自分の妻が自分を裏切ったことは、決して許せないのだと啓造は気づいた。
(なぜ、三井恵子のしたことなら許せて、夏枝のすることは許せないのか)
すねたように、背を向けて寝ている夏枝を眺めながら、啓造は思った。
「夏枝」
「何ですの」
「自分に近いものほど許せないのは、当たり前じゃないか。夏枝だって、もしわたしが浮気をしたら責めるだろう? しかし、見も知らぬ男の浮気を聞いて怒るかね」
「……それは……」
「怒らないだろう? つまり、わたしがあのひとを責めないのは、見も知らぬ遠い存在のようなものだからじゃないか。別段甘いということではないんだよ」
「あなた」
「うん?」
「どこかで、ごまかされているような気がしますわ」
いいながらも、夏枝の表情がやわらいだ。
やがて、夏枝がかすかな寝息をたてはじめた。が、啓造は妙に目がさえて眠れなかった。たしかに、啓造は夏枝をごまかしたような気がした。
(恵子の過失は許せる。夏枝の過失は許せない。それなら、自分自身の過失は許せるだろうか)
誰のことより、自分のことはたやすく許していると啓造は思った。いつか夏枝が、啓造の万年筆をキャップをとったまま床に落とし、ペン先を駄目にしたことがあった。その時啓造は、夏枝の不注意をきびしくとがめ、子供じゃあるまいしと、きびしくしかった。
その後自分で万年筆をどこかに失くしてしまった時は、惜しいことをしたと思っただけで、自分をとがめたりはしなかった。考えてみると、そのようなことは日常生活にいくらでもあった。啓造はほの暗い部屋の中で、目をあけていた。
夏枝が寝返りをうって、啓造のほうに顔を向けた。かすかに口をあけ、白い歯がのぞいている。眉がやさしく弧をえがき、無防備な寝顔が、幼児のようにあどけなく見えた。自分の傍に、安心して眠っている妻という存在が、何か急に哀しくいとしいものに思われた。
啓造は初夜の時の夏枝を思い浮かべた。花嫁の夏枝は、ひどくおどおどと、床に身を横たえたものだった。ずいぶん昔のようにも、ついこの間のことのようにも思われる。
新しく電気スタンドを買い替えた夏枝の気持ちを思うと、啓造はいいようもなくいじらしく思われて、いつまでも夏枝の寝顔をみつめていた。
いつしか、啓造もとろとろと眠りの中に引きこまれていた。
「わたし、生まれてきて悪かったのね」
ふいに耳もとで陽子の声がした。白い服を着た陽子が、見本林の中で、蝶のように踊っていた。
花菖蒲
あざやかな紺青の湖のただひとところが、銀色に鈍く光っていた。樽前山《たるまえさん》のドーム型の山頂から立ちのぼる白い煙が、少し右に流れてまっ白な夏雲に連なっている。
「すばらしいわ、支笏湖って」
遊覧船のデッキに立っていた順子が、声を上げた。
「ほんとうね」
眼下のみどりがかった深い水の色をみつめている陽子の髪が、つば広の白い帽子の下から、風になびいてきらりと光った。傍の徹と北原が、二人を見て微笑した。
遊覧船は樽前山のふもとに沿って右に曲がり、風不死岳《ふつぶしだけ》の下を行く。前方を、長い水脈をひいて突っ走るモーター・ボートが、たちまち遠ざかって行く。周囲四十三キロの広い湖だが、恵庭岳、樽前山、風不死岳などの山々にかこまれて、支笏湖は静寂なたたずまいを見せていた。
船がへさきをめぐらした。船内から絶えずアナウンスが流れてくる。
「陽子、あの林の中だったかなあ。二人でどんぐりを拾ったのを覚えている?」
徹がやさしい笑顔を向けて、近づいて行く船着き場の上の小高い林を指さした。
陽子が小学一年生の時、啓造や夏枝に連れられて、この支笏湖に来たことがあった。徹と二人で、手をしっかりとつないで林の中をかけ廻ったり、どんぐりやかえでのもみじを拾った記憶がある。その拾ったもみじを、陽子は大事に持ち帰って、いつまでもノートにはさんでいたことも覚えていた。
「知っているわ。もう十三年にもなるのね」
徹も同じことを考えていたことが、陽子はうれしかった。
「モーター・ボートにも乗ったっけね。二回もさ。もっと乗るって、叱られてね」
「あの時は、ずいぶん大きな湖だと思ったわ。この倍もあったような感じよ」
それまで黙って二人の会話を聞いていた北原がいった。
「そういうものですよ。陽子さん。小さい時の記憶ってね」
徹と陽子は今、幼い頃の思い出を語っている。聞きながら北原はふと思った。二人の心の中には、もっともっと重なり合う共通の思い出があるのではないか。そしてそれは、単なる思い出などとはいい切れない、もっと微妙に心の底に通い合うつながりなのではないか。この二人の中に、自分は到底割りこんで行くことのできない存在なのではないかと、北原は、行く手のこんもりとした夫婦山《めおとやま》に目をやった。
「いいわね、陽子さん。小さい頃の思い出を語るおにいさんがいらして」
順子も羨ましそうにいった。
船が岸に近づき、水底の石が透いて見えてきた。
四人は湖岸に立った。真清水のような澄んだ水が、渚を静かに洗っている。陸に上がると、七月の陽が急に暑くなった。順子がかがんで、水に手を浸した。
「きれいな水ね」
順子が愛くるしい顔をふり向けた。
「透明度二十五メートルだというからね」
「北原は博識だね」
「なあに、透明度二十五メートル、深度三百六十三メートルの火山性カルデラ陥没湖でございますと、ガイドがいってたじゃないか」
「まあ、よく覚えていらっしゃるのね。ごほうびにアイスクリームを買ってくるわ」
陽子は、二十メートルほど離れた船着き場のほうに歩いて行った。水玉模様のワンピースを着た陽子の、のびやかな後ろ姿を、北原と徹は見送った。船着き場には、次の遊覧船に乗る人々が群れていた。
「辻口、今、ひょいと思い出したんだが、例の佐石の娘はどこにいるのだろうね」
「佐石の? さあてね」
徹はあいまいな表情をした。
「このごろ、陽子さんは、佐石の娘のことは何もいわないの」
「あまり話をする機会もないからね。何も聞いていないよ」
順子は水の中の小石を拾っていた。
「話をする機会がないのか」
「ないなあ」
北原は徹をさぐるようにみつめた。徹も北原を押し返すように見た。
「このごろ、陽子さんに親しいボーイフレンドができたようだね」
北原は声を落とした。
「ほう」
二人は順子のそばを少し離れた。
「君ばかりをマークしていたのは、手落ちだったよ」
冗談めかして北原は笑った。徹は少しいやな顔をした。
「……北原、君は少し変わったようだね」
「変わった?」
「……滝川まで送って行ったそうだね」
「なあんだ。去年の話じゃないか。しかし、あれは確かにフェア・プレーじゃなかったよ。失敬した」
「いや、ちょっと気になっていただけだよ」
陽子が急ぎ足でもどってきた。
「お待ちどおさま」
「ごくろうさん」
近くのベンチに三人はすわった。順子は一心に小石を渚にならべている。
「順子さん、アイスクリームを召し上がれ」
「ありがとう」
ようやく順子が立ってきた。
「順子ちゃんには、童心があっていいなあ」
北原がいった。バスを誘導する笛の音が、すぐそばの丘の上から聞こえてきた。
少しの間四人の会話がとぎれた。
陽子はアイスクリームを口に運びながら、一体いつから、この湖や山はここに、この姿のままにあったのか、そして、いつの日まであるのかと思った。
「旭川には、いつお帰りですか」
北原が陽子を見た。今日から夏休みなのだ。
「あしたよ」
「辻口も一緒か」
「いや、ぼくはあとになるよ」
「どこかに旅行なさるんですか、陽子さん」
「いいえ。多分、旭川にいるはずよ」
陽子は育児院を手伝う予定だった。先ほど、遊覧船から見たモーラップキャンプ場に、育児院の子供たちを連れて来たいと思った。だが、恐らく育児院の子供たちは、暑い旭川の地でひと夏を過ごすしかないにちがいない。
「長い夏休みを家にこもっているんですか。大変だなあ。……順子ちゃん、君は?」
黙々とアイスクリームを食べていた順子が、ちょっと間をおいてから北原を見た。
「なあに、何かおっしゃった?」
「君は夏休みには何をするの」
「お店のお手伝いよ」
「旅行はしないの」
「お店が忙しいの。薬局だけれど、アイスクリームやアイスキャンデーも売ってるでしょう。夏場は大忙しよ」
「大変ね、順子さん。北原さんはまた斜里岳に登るのね」
「ええ、斜里岳から千島を眺めるのが、ぼくの墓参りですからね」
北原の母は千島で死んだのだ。
「できたら、この四人で、北海道一周をしたいところですがね。とにかく、夏休みの間、どこにも行かないお嬢さんたちのために、今日これから、もう一カ所どこかにご案内しようかな」
北原は時計を見た。まだ二時半である。
「これから遠出は無理だよ、北原」
「むろん、登別や洞爺には行かないよ。順子ちゃんはどこがいい?」
「わたし?……小樽の水族館が見たいわ」
北原は陽子をちらりと見て、
「水族館が見たいか。これぞ、あどけない話ですね。順子は小樽の水族館が見たいというか」
高村光太郎の詩「あどけない話」の一節をもじり、北原は半ばふしをつけていった。
「順子ちゃん、残念だけど水族館は五時までですよ。ちょっと無理だなあ」
徹がいたわるようにいった。
「そう、ではまたの時にお願いするわ」
「よろしい、いつか連れてってあげる。じゃ、世界的に有名だが、札幌の人もあまり知らない花園に連れて行ってあげますよ」
北原は自信あり気に、ベンチから立った。向かいの風不死岳に、雲が影を落としていた。
深緑の樹林の間を二十数キロ走り、車は千歳に出て札幌に向かった。
「なんだ、北原、札幌のほうに行くのか」
「まあ、まかせておけよ、辻口」
「行く先のわからない車というのは、妙なものだね」
「われわれの人生みたいなものだろう。どこへ行くかわからないという点ではね」
うしろの座席にすわっている陽子と順子が、顔を見合わせた。順子が陽子の手をとってささやいた。
「陽子さん。おねがいがあるの」
「なあに?」
「……あとにするわ。ないしょなの」
順子は、前にいる北原と徹をちらりと見た。陽子がうなずいて目をつむった。夏休みに旭川の家まで訪ねて行くといった達哉の言葉が、胸にしこりとなっていて、人と話し合っていても、陽子は時々おびやかされるような思いになる。それをふり払うように、陽子は今見て来た支笏湖を思い浮かべた。あれほどに澄んだ水でも、水が深ければ青い色になり、底が見えなくなってしまう。そのことが、陽子には何か暗示的だった。あの湖では死体が上がらないと、北原はいった。陥没湖のあの湖底は樹海で、死体はその樹にからまれて、浮かび上がらないのだという。美しい湖の底に、白骨化したいくつかの死体を陽子はふと想像した。
(美しくは見えても……)
真に美しいといいきれるものは、ないのかも知れない。それは人間の生活にもいえるような気がした。
「陽子さん」
しばらくして、再び順子がささやいた。陽子は目をあけた。
「あら、眠っていらしたの」
「いいえ、なあに?」
順子はちょっと顔をあからめて、陽子の耳もとに口を当てた。
「おにいさんに、お好きな方がいらっしゃるの?」
「……さあ」
「決まった方はいらっしゃらないのね」
「いないと思うわ」
順子をだましているようで、心苦しかった。だが、決まっていないことは事実だった。
「わたし、立候補したいの。だめかしら」
仕方なく陽子は微笑した。
「陽子さん、あなた応援してくださる?」
「……ええ」
うなずきながら、陽子は複雑な思いだった。徹に、自分よりも親しい存在の女性が出現することは、考えられなかった。
「何を内緒話してるんです?」
徹と何か話していた北原が、バックミラーの中で笑った。
「教えてあげない」
順子もかわいいえくぼを見せた。
「古代紫ね、この花は」
陽子は傍の順子にいった。四人は今、月寒《つきさむ》学院の花菖蒲園の中にいた。古代紫の大輪の群れの向こうに、つややかな紺青の一群があり、そのまた先に、純白、えんじ、紫紺、なす紺と、花菖蒲の園は延々と連なり、どこでこの園が果てるのか、今立つところからは見当もつかない。
支笏湖から、ここに着くまで、北原は花園に案内するといっただけで、行く先を告げなかった。はじめはどんな所に行くのかと、誰もが期待していたが、千歳からの国道を月寒《つきさむ》=つきさっぷ=まで来た頃は、その期待もうすれていた。
夏の陽を浴びた青や赤のカラートタン屋根が、ぎらぎら光る街並みは、車も混んで暑苦しかった。羊ケ丘への入り口を通りこし、百メートルほど来た所で、北原は車を右折させ、細い通りに入った。
しばらく行くと、右手に大きなサイロが見え、トラクターが動く農場に出た。つづいて、ポプラ並木の間を通りぬけ、広い麦畑を左右に見ながら、車はなだらかな坂を降り、小川の橋にさしかかった。と、その小川の下手両側に、突如花菖蒲の大群落が展開した。
あまりに見事な花の饗宴に、三人は声を上げた。北原は得意だった。数十万株という花菖蒲が咲き乱れているのに、人は数えるほどしか来ていない。
「こんなにたくさんの花を、こんな僅かな人間で見るなんて、最高のぜいたくですよ」
と、北原はいった。
花園に沿って白樺の木立が並んでいる。その木立越しに、草原が小高い丘の上までひろがって見え、ジンギスカン鍋を食べさせる吹きぬきの建物が丘の上に見えた。
「ここが月寒学院なの?」
順子が尋ねた。
「そうですよ。さっきのサイロあたりから、あの広い農場も、ここも月寒学院のものですよ」
月寒学院には、酪農科、園芸科、海外移住科があって、これら四百二十ヘクタールはその実習地なのだった。約三百五十種類の花菖蒲があり、ここにしかないものもあると北原はいった。
「やはり博識だよ、北原は」
「どういたしまして。案内するつもりで、昨夜一夜づけで覚えてきたまでだよ」
「あら、黙っていらっしゃれば、博識だと感心したのに。ねえ陽子さん」
「でも、その正直さにもっと感心するわ」
陽子の言葉に、北原はうれしそうに頭をかいた。徹がさりげなく先に立った。つづいて北原と順子が従ったが、陽子は古代紫の色に見とれて、立ち去る気にはなれなかった。
「陽子さん。さっきは車の中で、つまらないことをいってごめんなさい」
順子が歩みを返して寄って来た。
「順子さんは、何もつまらないことなど、おっしゃらないわ」
「いったわよ。おにいさんに決まった方がいらっしゃるかしらなんて」
「つまらないことじゃないわ。女性のわたしたちにとっては、大切なことよ」
陽子の言葉には真実があった。
「ありがとう、陽子さん。でも、あなたのおにいさんは、わたしのことなど何とも思っていらっしゃらないわ。それなのに、わたし、あんなことをいうなんて、ばかよ」
「兄があなたをどう思っているか、わたしにはよくわからないわ。でも……」
陽子は古代紫の花のそばを離れた。
「いいのよ、陽子さん。わたしはただ、自分の気持ちを、一度口に出していってみたかったの。どうせ、もともとあきらめているの」
「どうして? どうしてあきらめたりなさるの」
「陽子さん、わたしの気持ちを、いつの日かおにいさんに伝えてくださいね」
「いつの日か?」
「そうよ、十年もたってからでいいわ」
ベルベットのような、厚手の紅がかった紫の花に、そっと手をふれた順子の目が、一瞬暗く沈んだ。はっとするような暗い目の色だった。
「順子さん」
「なあに? あら! 小馬よ」
顔を上げた順子が、白樺の木立のほうを指さした。北原が、この学院にはイギリスから直輸入したポニーが百頭いるはずだといった。そのポニーであろう。小さな馬の後ろに軽快な車輪がきらめき、カウボーイふうの青年が手綱を取って草原を走らせている。
「すてき! 映画みたいね、陽子さん」
順子は小馬のほうをみつめている。たったいま見せた、あの暗い目の色はどこにもない。その順子の明るさを、陽子は不自然だと思った。何か、順子の心の痛みが、陽子にもわかる気がした。
(真剣におにいさんを愛しているのだわ)
陽子は、何といってやってよいのかわからぬ思いで、駆け廻る小馬を眺めていた。やがて小馬は、丘の下の駐車場を一周して駆け去った。
順子が、小馬を見ていた表情のまま、陽子を見ていった。
「陽子さん、佐石さんってご存じ?」
「え? 佐石?」
意外な質問に陽子はたじろいだ。
「さっき支笏湖で、おにいさんと北原さんがおっしゃってたわ。佐石、佐石って。よほどお親しい方みたいね」
どこまで、北原と徹が話をしたのか、陽子は知らない。何と答えるべきか、陽子は胸の中で忙しく言葉を探した。
「順子さんも、その方をご存じなの?」
陽子は言葉につまって、逆に尋ねた。順子はちょっと陽子を見てから、
「知らないわ。ただ、おにいさんと北原さんが、佐石の娘はとかおっしゃってたから、もしかしたら、おにいさんのお親しい方かと思ったのよ」
「まあ、そうなの」
陽子はほっとした。
「どんな方なの? その方」
「わたしもよく知らないの。父母の知人らしいの」
「そう。佐石って、珍しい名前ね」
「ええ」
この順子の前で、北原と徹は何をいったのか、陽子は気がかりだった。北原と徹がふり返って、何か話をしている。
「北原さんが待っていらっしゃるわ」
陽子は少し急ぎ足になった。
「いいですよ、ゆっくりいらっしゃい」
北原と徹がもどってきた。
「陽子、あの白樺の下で、球根を売っているよ」
「あら、じゃ、おかあさんへのおみやげにしたいわ。おにいさん、お金持っていらっしゃる?」
「ああ、少しはね」
徹が財布をあけた。その傍をすりぬけるようにして、順子が過ぎた。
「二千円でいいかい」
「いいわ。あとでお返しするわ」
「いいよ。いいよ。たまには、あげるよ」
北原は二人の会話を聞いて、二人のそばを離れた。
「おにいさん、今、順子さんに、佐石の娘さんて、どんな人って聞かれたわ」
「え? 順子ちゃんに」
「もっと低い声でおっしゃって。支笏湖で北原さんと何かお話をなさったのね」
「ああ、ちょっとね。佐石の娘はどうしているだろうという程度だよ」
「それならいいけど、わたしびっくりしたわ。佐石さんてご存じなのって、いきなり聞かれたんですもの」
「それは驚いたろう」
「ええ。でも、順子さんは、おにいさんと親しい娘さんのことかと、心配なさったらしいのよ」
「…………」
「順子さんは、おにいさんを愛しているのよ」
徹は黙って陽子を見た。
「おにいさんもご存じでしょう?」
「陽子、陽子はぼくに、順子ちゃんを取り持つつもりなの?」
徹は少し淋しい顔をして、
「それよりも、陽子に仲のよいボーイフレンドができたと、北原がいっていたよ」
「仲よしのボーイフレンド?」
ちょっと考えてから、陽子は微笑して、
「きっと達哉ちゃんのことよ、おにいさん」
「あの、三井の?」
いぶかしげに眉をよせた徹に、北原と歩いていて、達哉を見かけた時のことを、陽子は告げた。
「その時北原さんが、誰ですかって気にしていらしたけど、わたし、だまっていたの。そして、すぐあとでノーコメントよっていったの」
ボーイフレンドと北原がいったのは、達哉のこととわかって、徹はやや安心したが、そんな会話を陽子と交わしている北原が、急に気になった。
「……陽子、北原とは時々会うの?」
「ううん、週に一度会いたいっておっしゃってたけれど、その時と、もう一度ちょっとお目にかかっただけよ」
「そうか。……まあ陽子が北原と会おうと誰と会おうと、それは陽子の自由だけどね」
二十メートルほど先の、白い花菖蒲の中を歩いている北原と順子を、徹は見た。
「おにいさん、わたしまだ、自分の生き方がつかめていないの。自分の生き方を確立しないうちは、どなたのことも考えないことにしているの」
「……いや、悪いことをいったね。それに、達哉君のこともあるからねえ」
「そうよ。達哉ちゃんには、事実を知らせてはいけないわ。そのことだけでも、胸がいっぱいよ」
「夏休みに、旭川の家に訪ねてくるとかいっていたそうだね」
「ええ」
「家を訪ねるだけならいいが……。やっぱりぼくは軽率だったなあ。あのおかあさんに、不用意に陽子のことを話したりして……」
「もういいのよ、おにいさん。ただね、達哉ちゃんのことが絡んで来てから、いっそうあのおかあさんを許せなくなりそうで、わたし恐ろしいの」
「…………」
「わたしって、きついのね」
「……それより陽子、この間電話でいっていたね。やっぱり生まれてきて悪かったのかって。もうそんなこといってはいけないよ」
「大丈夫よ、おにいさん。おにいさんは、わたしがまた、自殺でもしやしないかと心配なのね」
「そりゃあ心配だよ」
「ごめんなさい、心配かけて。でもね、わたし自殺しようとしたからいえると思うけれど、真実に生きることよりは、死ぬことのほうが、やさしいわ」
「なるほど、そういう考え方って大切だね」
「そしてね、考えたの。生まれてきて悪かった人間なら、生まれてきてよかったとみんなにいわれる人間になりたいって」
五時を過ぎても、夏の日はまだ高かった。光がいっぱいに花園に溢れている。
「えらいよ、陽子!」
徹は、再びもとの陽子がもどってきたような気がした。
「ありがとう。でも、ほめられるのはまだ早いわ。どんなに努力してみても、どうしても割り切れない問題が最後まで残ると思うの」
「割り切れない?」
「ええ。不義の子として生まれたという事実は、どんなに努力しても消せないわ」
「……しかし、それは陽子の罪じゃないだろう。それにさ陽子、その問題があるからこそ、生まれてきてよかったといえるようになろうとするんだろう。すぐに問題の出発点にもどるんじゃ、堂々めぐりじゃないか」
「堂々めぐりとはちがうと思うの」
陽子は、一つの花のしんを凝視するように見つめながらいった。腕を組んで少し考えていた徹が吐息をついた。
「まあ本質的なことと、結果的なこととのちがいとでもいいたいんだろうけれどね、陽子の考えは。しかし、どう答えればいいのかなあ……」
「すみません、また心配おかけして……あら、順子さんが呼んでいらっしゃるわ」
順子と北原が、球根売り場の前で、手をふっている。
白樺の木立の中で、女たちが四、五人、球根をビニール袋に入れる作業をしており、その傍のテントに球根が並べてあった。箱別に見本の花がついている。陽子は、純白と、しぼりと、古代紫を買った。
「わたしは、ルリ色と、ビロードみたいなのを買ったわ」
順子が手に持ったビニール包みを見せた。
徹は一人先に駐車場をよぎって、丘への小道を歩いて行く。
「きょうだい仲よくお話をしていたわね。陽子さん」
「恋人同士みたいだ、と順子ちゃんがいってましたよ」
「あら! いやな北原さん」
順子があかくなった。陽子はさりげなく、
「北原さん、きれいだったわ。花菖蒲って、きれいで品があるのね」
「そうでしょう。あやめや、かきつばたとは比較にならないって、書いてありましたよ。陽子さん級の花ですね」
「まあひどい!」
順子は、わざと怒ったふりをしてから笑った。が、すぐに改まった顔になって、
「北原さん、わたし陽子さんにお話があるの。悪いけど、あなた、先に辻口さんのところにいらっしゃっててよ」
「お話? 順子ちゃんまさか、あのことを……」
北原はちょっと不安そうなまなざしで、順子を見た。
「いうかも知れないわよ。陽子さんだけ花菖蒲のように美しいってほめた罰にね」
順子は困惑している北原に冗談のようにいった。
「困るよ、それは……」
北原は陽子をちらりと見て頭をかいた。
「北原さんが困ることなら伺わないわ」
その言葉に、北原ははっと陽子を見た。
「すみません、実はですね……」
北原はいいよどんだ。
「順子さん、草原にすわりましょうよ。そのほうが落ちつくわ」
陽子は先に立って、なだらかな丘の中腹に腰をおろした。
「陽子さん、ぼく、悪いことをいったんです。許してください」
北原は頭を下げた。
「何をおっしゃったの?」
「実はですね。さっき順子ちゃんが、あなたと辻口を、仲がよくて恋人みたいだといったんです。ぼくは思わず、順子ちゃんに、直感力が鋭いね、当たらずとも遠からずだよといってしまったんです」
「まあ」
「いま、思わずといいましたが、これも正直じゃありません。ぼくは早晩、あなたがたが本当のきょうだいでないことや、辻口の気持ちを順子ちゃんに知らせたいと思っていたんです。それは順子ちゃんのためにも、必要だと痛感していたんです。しかし、重大なことを、自分勝手に話してしまって、申し訳のないことをしました。本当にすみません」
「そんなにおっしゃられると、かえって困るわ。わたしたちがいけないのよ。順子さんには、早くにいっておくべきだったんですもの。順子さん、ごめんなさいね。あなたをだましたみたい……」
「そんなことないわよ。誰だって、多かれ少なかれ、そう誰にでもいえないことがあるんですもの。わたしにだって、陽子さんにお話ししてないことは、いろいろあるのよ」
「ほう、順子ちゃんにも、何かあるの?」
北原が顔を上げた。
「北原さん、わたしだっておとなよ。悩みは山ほどあるわよ」
順子は目をくるりとして、おどけた表情を見せたが、どこか顔色がさえなかった。
草原の小道を、徹がぶらぶらと三人の方へ降りて来た。
「陽子さん。やはり、あとでお手紙を書くことにするわね。ほんとうはね、たった今お話ししたいんだけど……」
順子が声をおとしていった。陽子は少し不安な気持ちでうなずいた。
何の鳥か、三人の頭上を短く啼いて過ぎた。いつの間にか、空には白いうすい雲が広がっていた。
命日
夕食を終えた啓造は、縁側に腰をかけ、うちわを使って浴衣の胸に風を入れていた。空はまだ明るいが、庭の茂みはかげりはじめている。啓造は、あじさいの花から、庭つづきの見本林に目をうつした。どこかで、祭りの花火の音がした。
(あの日も、こんなじっとりと暑い日だった)
啓造は二十年前の今日を思い起こしていた。ちょうど、今ごろの時刻に、ルリ子がいないと気づいて騒ぎ出したはずだった。警察に電話をかけたこと、懐中電灯を照らして、まっくらな見本林を探し廻ったこと、翌朝、近くの郵便局長にたたき起こされ、ルリ子の死んでいる美瑛川原に走ったこと、ルリ子が朝日の下に死んでいたことなどが、昨日のことのようにありありと思い出される。ルリ子の可憐な首に残っていた扼殺のあとも、なまなまと目の底に焼きついている。
「おとうさん、夕刊よ」
「ありがとう」
夏休みで帰ってから、陽子が毎夕決まって夕刊を渡してくれる。啓造にはそれが一つの楽しみだった。ノースリーブの陽子の腕にちらりと目をやって、啓造は夕刊を手に取った。だがさすがに今日は、すぐには記事の中に入って行けなかった。
ルリ子の死に顔が目に浮かぶ。かすかにあいた口に、みそっ歯がのぞいていたことさえ、いま、目の前にあるようにおぼえている。
啓造は思いをふり払うように、新聞に目をやった。目は字面を追っているが、頭には何も入らない。やがて、
「母親の不注意、幼児、車にひかれ即死」
という小さな見出しが目に入った。ここで初めて啓造は、記事に身を入れて読んだ。その小さな記事は、いつもなら見落としていたかも知れないが、今日はルリ子の命日だけに、強く身に沁みた。
(不注意で子を死なす母親は多い。しかし……)
夏枝の場合は単なる不注意とはちがうと、啓造は夕刊を置いた。村井の顔が目に浮かんだ。新たな怒りが呼び覚まされる思いだった。何年前、何十年前のことでも、現在のことのように激しい怒りを感ずる啓造の性格だった。
「あなた、ようかんを凍らせておきましたの」
ガラスの皿に、冷凍庫で凍らせたうす緑のようかんが二切れのっていた。
「あなた、おとなりでご改築なさるんですって」
「…………」
「ブロックになさるそうですわ。この家も、改築なさいません?」
「なぜだね」
「だって、もう、建てて四十年近くにもなりますわ」
ルリ子の命日に、この夏枝は改築のことなど考えているのかと、啓造は不快だった。
「古くても、まだどこも狂ってはいないじゃないか。もったいない」
「でも、わたくし、もうこんな広い家はいらないと思いますの。ここは売って、もう少し間数の少ない家を建てたいと思いますわ」
啓造はうちわをつかう手をとめて、不機嫌にいった。
「夏枝、ここはわたしが子供の時から住み馴れてきた家だ。わたしはこの家で死ぬよ。わたしはむやみに変わることがきらいな男なんだからね」
「まあ、わたくしは二十何年も同じ家にいて、飽きましたのに。あなたは四十年近くも同じ家に住んで、飽きませんの」
「飽きないね」
「新しい鉄筋か何かの家に住みたいとは、お思いになりませんの」
「思わないね。わたしは十年一日の如き男だからね」
「あきれましたわ」
じっと啓造をみつめて、夏枝は立って行った。啓造は少し気が晴れて、ようかんを一口食べた。凍ったようかんが歯にしみた。啓造はちょっと顔をしかめた。
「おとうさん、どうぞ」
陽子が番茶を運んできた。夕方煎茶を飲むと、眠られなくなっていた。
「ああ、ありがとう」
陽子は、啓造の置いたうちわを持って、啓造に風を送った。啓造の心が和んだ。ルリ子が生きていれば、陽子より三つ年長のはずだと思いながら、啓造は茜さしてきた見本林の上の雲を見た。
「おとうさん、ルリ子ねえさんのことを考えていらっしゃるの」
「いや……別に」
啓造はようかんに手をのばした。
「わたし、昨日から、ルリ子ねえさんのことばかり考えていたわ」
「ほう!」
「今日はお祭りだから、昨夜から旭川じゅうにちょうちんがつくでしょう。わたしね、何だかルリ子ねえさんのために、みんながちょうちんに灯をともしてくれるような気がするの」
「なるほどね」
啓造は毎年、この日に大勢の子供たちが着飾って、親たちに手をひかれて祭りを見に出る姿を見るのが苦痛だった。それはルリ子の死んだ日ということもあった。ルリ子に対しては、そんな親らしいことをするひまもないうちに、死なれてしまったことへの、辛さもあった。
何かいいたげに、自分をじっと見つめている陽子に、啓造は気づいた。
「何だね? 陽子」
啓造は何となく顔をなでた。
「ううん。いま、ちょっと、どうしようかと考えていたの」
「何を?」
陽子は少し緊張したまなざしで、啓造を見た。
「おとうさんにだけ、お見せしたいものがあるの」
「何だね」
「わたしと、おとうさんと、ただ二人だけの秘密にしてくださらなきゃ困るの」
啓造はうなずいた。二人だけの秘密という言葉に、忘れていた甘ずっぱい感情が甦った。
「陽子ちゃん、もう網戸をしめないと、蚊が入りますよ」
夏枝が茶の間から、顔を出した。
「はい。忘れていてごめんなさい」
陽子は気持ちのよい返事をして立ち上がった。
「浜ちゃんはいないのか」
「浜ちゃんはお祭りで、遊びに出たわ、おとうさん」
網戸をしめると、家の中が少しむし暑くなったが、青い網越しに、庭の木も花も立体的に美しく見えた。
陽子が立ち去るとすぐ、夏枝が陽子に茶の間で何かいう声がした。啓造は、陽子が見せたいというものは何かと思いながら、その声を聞くともなく聞いていた。声が次第にはっきり聞こえてきた。
「……住んでみたいとも思わないんですって。十年一日がお好きなんですって」
わざと啓造に聞かすつもりのように、夏枝の声が更に大きくなってきた。陽子の言葉は聞きとれない。
「まあ、えらいかしら。おとうさんには、進歩ということも、改善ということもないんですよ。変わらないということがお好き……」
声がまた低くなった。啓造は二階の書斎に上がる気もなく、いつの間にか暗んできた庭に目をやった。庭の片隅に、何か光ったような気がした。一瞬ホタルかと思った。が、そのまま何も光らない。
「あなた、おふろはどうなさいます?」
座敷に来て、夏枝は電灯をつけた。
「やっぱり夏枝に、先に入ってもらうよ」
啓造はこのごろ、あら湯が体を疲れさせるようで、夏枝に先に入らせるようにしていた。それでも夏枝は、入浴の度に尋ねるのだ。
「では、お先にいただきますわ」
夏枝はふっと笑った。
「どうした?」
「陽子ちゃんがいま、人間は変われることが幸せか、変われないことが幸せか、わからないといっていましたの」
夏枝はそういうと再び笑って、浴室の方に行った。変わり得ない自分を、夏枝は笑ったのかも知れないと啓造も苦笑した。
陽子が啓造の傍に来た。
「おとうさん、これをごらんになって」
さし出された分厚い封筒に、啓造は陽子を見た。真剣な陽子の顔だった。差出人は相沢順子となっている。
「この方、短大の保育科にいらっしゃる方で、わたしやおにいさんの友だちなの」
陽子は、めがねを手渡して、そっと部屋を出て行った。
啓造は電灯の真下で、封筒の手紙を取り出した。どこかおとなな感じの、筋のいい筆蹟だった。
〈陽子さん
いきなり、こんなお手紙をさしあげてごめんなさい。
あなた方が、本当のきょうだいでないと北原さんに知らされた時、わたしは少し驚きました。でも少しだけでした。以前から、お二人のごようすに何か腑に落ちないものを感じていましたの。おにいさん、いいえ、徹さんと呼びましょう。あの方はあなたのおにいさんではないんですもの。
徹さんのあなたをごらんになる時の目の中に、その腑に落ちないものをわたしは感じていたのです。ですから、ああ、やっぱりという思いでした。
陽子さんは、いつか自殺を図ったとおっしゃったでしょう。どんな原因でそうなさったのかと、わたしにはそのことがひどく気がかりでした。
いま、わたしは、あなたがおにいさんの愛を受け入れられずに苦しまれたのではないかと、想像しています。他人の家に育つということは、たとえ、どんなにいい人たちの中にあっても、やはり本人でなければわからぬ辛さがありますものね。陽子さん、第三者のわたしが、本人でなければわからぬ辛さなどと書いて、さぞおかしく思われることでしょう。
実はね、陽子さん。わたしも本当の父母に育てられたのではありません〉
ここで便箋の二枚目が終わっていた。啓造は時計を見た。夏枝の入浴は長い。ふろに入ってから、まだ五分とたってはいないが、啓造は何となく落ちつかなかった。啓造は手紙を持ったまま、階段を上がって行った。
上がりながら啓造は、自分の家庭の事情を洩らした北原が、不愉快な存在に思われてならなかった。北原は、もっと思慮ぶかい青年だと思っていただけに、啓造は裏切られたような気がした。今のところは、陽子の自殺の事情を洩らしてはいないようだが、今に何もかも、この順子という娘に知らせてしまうかも知れないのだ。
南向きの書斎はさらに暑かった。啓造は扇風機のスイッチを入れ、椅子に腰をおろして三枚目の冒頭に目をやった。
〈陽子さん、わたしが相沢の家に来る前は、佐石という姓でした……〉
啓造ははっと胸をとどろかせた。見ちがいかと思った。
〈わたしは、この姓を誰にも秘めてきました。ですから、支笏湖の水に手を浸して戯れていた時に、突然、
「サイシの娘はどこにいる?」
という言葉を聞いたそのわたしの驚き、どういってお伝えしたら、わかっていただけるでしょう。一瞬、手の先からあの冷たい湖水が、わたしの全身に流れこんだような思いでした。
陽子さん、ご両親の知人という「サイシ」なる人は、どんな人なのでしょう。もし、ご存じなら教えてください。あるいはわたしの親と、全く別人であったとしても、無縁ではないかも知れません……〉
啓造は思わず大きく息をついた。
(これが、あの佐石の娘なのか)
何か夢を見ているような感じだった。もし、自分の希望通り、高木が佐石の娘を渡していたならば、この手紙の主が自分の娘になっていたはずなのだ。
(徹たちは、どこでこの娘と知り合ったのか)
思いながら、啓造は手紙を読みつづけた。
〈……陽子さん、わたしは乳児院に預けられ、二つの時に育児院に移されて、四つの時までそこで育ちました。そのころ、相沢の父母が、高木先生を通して、わたしをもらってくれたのです。父母はわたしをもらう時、わたしの身の上を一切知った上で、こういったそうです。「子供にめぐまれない親と、親にめぐまれない子供です。似合いの親子ではありませんか」って。
わたしが四歳になるまで、もらい手がつかなかったことも、同情してくれたようです。四歳になっていましたから、自分がもらわれたことは、むろん知って育ちました。
相沢の父も、やはり人にもらわれて育ち、その親が大そうよい人で、幸せだったのだそうです。それで、子供のない父は、なるべくかわいそうな事情の子供を、もらおうとしたらしいのです。だからわたしは幸せでした。
でも陽子さん。わたしはその「かわいそうな事情」を持った子供なのでした。その事情を今は語りたくありません。ただ、わたしは自分の実の父を、一時非常に憎み、呪い、心の中で責めつづけたことがありました。しかしわたしは、相沢の父母に連れられて教会に通い、そこでキリストの贖罪を知ったのです。
それからです。わたしが本当に明るくなったのは。むろん、わたしも時にはふっと淋しくなりますけれど、でも、もう大丈夫です。
陽子さん。わたしはあなたが、わたしと同様にもらわれて育ったことを知り、ぜひあなたに、このことを聞いていただきたかったのです……〉
手紙は長々とつづいている。やがて読み終えた啓造は、しばし目をとじた。
「子供にめぐまれない親と、親にめぐまれない子供です。似合いの親子ではありませんか」
という言葉が、啓造の心を突き上げていた。何と謙遜な、温かさに溢れた言葉であろう。啓造は涙のにじむ思いがした。
この相沢という親に比べて、自分は何と冷酷な思いで陽子を引きとったことだろう。自分は妻への復讐のために陽子をもらったのだ。
(復讐の道具に子供をもらう。何とおれは恐ろしい人間なのか)
順子の手紙を読んで、啓造は今はじめて、佐石の娘が哀れだと思った。生まれてきた子には、何の罪もないのだ。頭ではわかっていたが、胸では納得できなかったことが、啓造は今やっとわかる思いだった。
「汝の敵を愛せよ」
という言葉を麗々しくかかげて、高木から陽子をもらったみにくさも、啓造はいま身に沁みて顧みられた。
啓造は凝然と窓外の闇を見た。村井と二人でいたい思いにルリ子を外に出した夏枝。その夏枝のためにルリ子は殺され、この順子は殺人者の娘となった。そして、夏枝と村井に対する自分の怒りと憎しみが、陽子をこの家に迎え、自殺にまで追いやった。
(何と、罪深い夫婦だろう)
いま、啓造は、陽子にも、順子にも深く頭を下げてわびたい思いだった。だが、この陽子と順子の負った苦しみは、頭を下げたくらいで許されるものではない。
(許されるためには何をしたらいいのだ)
再び、啓造は順子の手紙を読み返した。読みながら啓造は、夏枝のみを責めて、自分を責めることの少なかった自分に、今更のように気がついてつぶやいた。
(自分勝手な……)
啓造は、手紙を机の引き出しにしまった。
(本当に、許されるために、おれは何をしたらいいのだ)
夏枝は陽子を佐石の娘として、憎みつづけたのだ。僅か六つか七つの時から、母親の夏枝の憎しみを全身に浴びつつ育った陽子の辛さは、どんなであったろう。
いや、憎んだのは夏枝だけではない。自分は、生後幾月も経ぬ陽子を初めて見た時から、陽子を冷たくあしらいつづけたではないか。頭ひとつなでることもなく、ひざの上に抱いたこともなかった自分の冷酷さに、啓造はやりきれぬ思いがした。
自分が陽子をかわいいと思いはじめたのは、陽子の体が娘らしくなって来てからではないか。啓造は自分の頭を、机に打ちつけたい思いだった。
「おとうさん、おふろにお入りくださいって」
階下で陽子のやさしい声がした。
陽子のそのやさしいもののいい方に、啓造は返事ができなかった。
階段をのぼる足音がして、陽子が書斎に入ってきた。
「おとうさん、ごらんになった?」
「ああ」
啓造は頭を抱えたままいった。
「ごめんなさい。あんな手紙を読んでいただいたりして……おどろいたでしょう、おとうさん」
黙っている啓造に、陽子はわびた。
「いや……」
啓造は陽子の顔を見ようとはしなかった。陽子は心配そうにそばに寄った。
「怒っていらっしゃるの? おとうさん」
「……いや、そうじゃない。何といっていいか。……ひどい人間だね、おとうさんは」
「え?」
陽子には、啓造の心をはかりかねた。
「おとうさんはね、陽子。陽子にはむろんのこと、この娘さんにも、わたしたち夫婦はわびねばならないと思ったよ」
「え? 順子さんに?」
陽子は問い返した。佐石の娘に、なぜわびねばならないのか、陽子にはわからなかった。
階段の下から、夏枝の呼ぶ声がした。陽子に返した手紙を、啓造はあわてて再び机の引き出しにしまい、
「ああ、いま行く」
と部屋を出た。
階段の下に立って、夏枝はおりてくる啓造と陽子を見つめていた。
「何をしていたの、陽子ちゃん」
とがめるように夏枝はいった。
「なに、何でもない。……花菖蒲の話を聞いていただけだよ」
「ほんとうかしら? 陽子ちゃん」
二人の幾分こわばった表情を、さぐるように夏枝は見た。
「ええ、ほんとうよ」
陽子はさりげなく台所のほうに去った。
「あなた。おふろだけでも、タイルにしていただきたいわ。おとなりはタイルの浴室ですってよ」
「…………」
「うちのは木造で、しかもすっかり古ぼけていますわ」
「…………」
「それに、形だってお棺みたいですもの、いやですわ」
「お棺みたいなふろで結構だ。吾々夫婦には分相応だよ」
「まあ、ひどい方!」
「ああ、ひどい奴だよ、わたしは」
啓造はいい捨てて、廊下を歩いて行った。その肩に悲しみが漂っていることに、夏枝は気づかなかった。
陽子は日記帳を机の上に開いた。日記帳といっても大学ノートである。順子の手紙が傍におかれてあった。啓造たちの部屋の灯が消えた。祭りの夜も、にわかに更けたように家の中が静まり返っている。夕暮れまでのむし暑さはうそのようだった。陽子はペンを持った。
〈七月二十一日
人間はみにくい。これがわたしの人間への結論だった。わたしを産んだ小樽の母(こう口に出し、且《か》つ書く時の、わたしの内に起きる、いいようもないためらいや抵抗を誰が知ろう)はみにくい。このわたしを産ませた中川光夫なる男(父と呼ぶには、あまりにも遥かでありすぎる)もみにくい。そして、その母を憎むこのわたし自身もみにくい。
わたしにはこれが結論だった。これだけではいけない。許さねばならない。自分もまた許してもらわねばならないと思いつつも、しかしわたしは、いつも憎しみの淵に堕ちるしかない思いだった。
人生は何と無意味なものなのだろう。あの順子さんが、佐石土雄の……何か目に見えぬ糸であやつられているような気がする。殺人犯佐石の娘! それは、この家でわたしが長い間負わされてきた、宿命的な呼び名だったのだ。
順子さんは知っていた! 自分の父親が何をした人間であったかを。実の父を憎み呪った彼女の苦しみ、それはわたしにもよくわかる。
子供には、親を選ぶことはできない。殺人犯が父親であっても、姦通した女が母親であっても、子供にとっては動かし得ない決定的なその事実を、一体どうすることができよう。呪っても悲しんでも叫んでも、自分はその人の子供であるという事実! 何という残酷な事実が人生にはあるのだろう。順子さんが、その事実をどのようにして知ったかは、わたしは知らない。しかし、その親への憎しみだけは、わたしにも痛いほどよくわかる〉
陽子はペンをとめて、ちょっと息をついた。そして再び書きはじめた。
〈しかし順子さんは、今では殺人を犯したその父への憎しみが消えたという。いかにして、その憎しみが消えたのか。順子さんはキリストの贖罪を知ったという。キリストの贖罪とは何か、わたしにはわからない。だが、多分この一語にこめられているであろう深い意味、あるいは真実が、非常に力あるものであろうことは、想像できる。なぜなら、殺人犯の父を憎む、その憎しみをさえ拭い去ることができたのだから〉
殺人にせよ、強盗にせよその犯罪の行為を最も忌み憎むのは、被害者やその家族よりも、むしろ、犯人の家族ではないかと、陽子はペンをとめて思った。
二、三町離れた国道を、けたたましくサイレンを鳴らして救急車が過ぎた。その音が遠くに消え去ると、再び深い夜であった。
陽子は日記帳のページを繰った。ペン先から思いが溢れてこぼれ散り、心のすべてを書きつくすことができないような気がした。
〈ともあれ、順子さんは殺人犯の父を許すことができたのだ。それならわたしにも、母を許すことができるはずである。そうだ、確かにできるはずなのだ。が、わたしにはできない。なぜ順子さんにできたことが、わたしにはできないのか。
ところで、わたしは先ほどの父の言葉が、ひどくふしぎだった。父は手紙を読んで、頭を抱えてじっと考えこんでいた。父は何を考えて、頭を抱えていたのだろう。
「ひどい人間だね、おとうさんは」
父は苦しそうにそういった。そして、
「わたしたち夫婦は、この娘さんにも、わびねばならない」
ともいった。その言葉が、わたしには異様にひびいた。ルリ子ねえさんを殺されながら、なぜ、その犯人の娘にわびようというのか〉
陽子は考える顔になった。
二十年前の今日、ルリ子は殺された。だが陽子は、その日の村井と夏枝のことを、誰からも聞いてはいなかった。いつか啓造は、夏枝を憎むことがあって、佐石の子を引き取ろうと思ったと、陽子に語ったことがあった。が、その憎しみが何であったかを詮索する陽子ではなかった。
〈そうだ。父はこう思ったにちがいない。
「あの子はまだ三歳だった。その三歳の子を、充分に監督しなかったのは親の不注意だった。自分たち親さえ充分に注意していれば、あの子は見知らぬ人について、川原まで行きはしなかった。佐石も、あの子がついて行かねば、殺さずにすんだにちがいない。つまり、自分たちの不注意で、人に罪を犯させてしまった。そしてこの順子という娘をも、罪人の子にしてしまった」と。
もし父がこう考えたのだとすれば、これは何とすばらしい、深い思いやりだろう。父はまじめな、やさしい人だ。父なら、順子さんの宿命に同情のあまり、こう考えたとしても、決して不自然ではないし、可能なことといえる〉
陽子は、やはり父の啓造に、順子の手紙を見せたことはよかったと思った。はじめ陽子は、この手紙を誰にも見せまいと思った。だが、一人自分の胸にだけおさめておくには、事はあまりに重大であった。辻口家の誰かに、この事実を知ってほしい気がした。いや、知るべきだと思った。
といって、徹には見せてはならない手紙だった。見せるとしても時期があった。夏枝に見せては徹にすぐ知られてしまうであろうし、どんな言葉が返って来るか不安でもあった。啓造なら、秘密も守り、順子の立場に同情し、共感してくれるような気がした。
果たして、啓造は期待以上の反応を示してくれた。と思いながら陽子はふと不安を感じた。
陽子は啓造の言葉に感動しながら、心のどこかに不安があるのをふしぎに思った。陽子は再び、思いの赴くままにペンを進めはじめた。
〈わたしは今、こう書いて来て不安になった。なぜ不安になったのだろう。父の言葉、順子さんの言葉が、わたしの胸に迫っているからかも知れない。
順子さんは、忌まわしいその父親を許すことができた。また、辻口の父は、順子さんにわびたいといった。だがわたしには、小樽の母を許す気持ちも、母にわびたい思いもない。このわたしが、小樽の母にわびねばならぬことは、一つもないと思っている。しかしそう思いながらも、果たしてそうかという声が聞こえるような気がする。それは一体なぜだろう。
もし順子さんがわたしの立場なら、あの人はきっと、小樽の母を許しているにちがいない。あるいはひそかに会って、何も恨んではいない、幸せに暮らしてほしいと力づけさえするかも知れない。順子さんには許し得て、わたしには許し得ないということは、わたしには順子さんほどの寛容さを持ち得ていないということなのだろう。それでいて、母にわびることは何ひとつないと思っている。わたしは人間として、大きな過ちを犯しつつあるのだろうか。何か心もとない気もする。順子さんと、わたしの差は決して小さくはない。
もともとわたしは、許すという立場には立てない人間なのかも知れない。一体人間は、父のように、自分の子を殺した犯人の娘にさえ、すまなかったとわびる形でしか、許し得ないものなのだろうか。
許すとは、何と困難なことであろう。そして不可解なことであろう。そうだ。わたしには、それは、困難というよりも不可解なことなのだ。特にわたしにとってわからないことの一つに、人間同士、お互いに許し合えたとして、それで果たして事はすむのかという問題がある。
いつか北原さんに、わたしは自分の変心をわびたことがあった。北原さんは快く許してくださって、安心なさいとおっしゃった。だがわたしはその時、許されたような気がしなかった。たとえあの人が許してくれたとしても、わたしが裏切ったという事実は、厳然としてこの世にとどまっているような気がしてならなかった。それは今も同じである。
順子さんがたとえその父親を許しても、殺したという罪の事実はどうなるのだ。殺された人間は再び還らない。
小樽の母にしても同じことがいえる。たとえわたしが許しても、その不義の事実は消えるはずはない。その夫や息子たちが事実を知り、そして許したとしても、それでその事実が消滅するはずもない〉
陽子は、罪と許し、罪と許し、と何行か書きつづけた。
日記帳を閉じた陽子は、もう一度順子の手紙を開いてみた。
〈……陽子さん。わたしはあなたが、わたしと同様にもらわれて育ったことを知り、ぜひあなたにこのことを聞いていただきたかったのです。
なぜなら、あなたもまた、実の親のもとに育てられた人々には、うかがい知ることのできないご苦労をなさっていらっしゃると、思ったからです。そして、あなたのおとうさまも相沢の父も、共に高木の小父さんと懇意であるという事実に、もしかしたらあなたも、施設に預けられていらっしゃったのではないかと思ったのです。
ちがったら、ごめんなさい。陽子さん、わたしね、本当の父母はなぜ自分を手放したのかと、何も知らぬ時も、わたしは憤りと淋しさを感じたものです。そんな淋しさを、もしあなたも感じていらっしゃるのなら、このわたしの手紙は、あなたに何らかのお慰めになるのではないかと、そんな気持ちもあってわたしは書きました。
父はうちの薬局に、こんな言葉を色紙に書いて飾っております。
「ほうたいを巻いてやれないのなら、他人の傷にふれてはならない」
わたしの好きな言葉でもあります。
陽子さん、わたしはいたずらにあなたの傷に触れようとして、この手紙を書いたのではないことを、あなたはわかってくださるでしょうね。
サイシという人のこと、ご存じなら教えてください。実父の佐石はわたしの大きな傷ですけれど、でも、わたしは自分でほうたいを巻くことを知っています。どうぞご心配なく。
陽子さん、徹さんの優しさと清さが、わたしは好きでした。でも、あのひとの口からサイシという名を聞いた時、すべては過去となりました。車の中で立候補したいといったのは、わたしの悲しい冗談だったのです。ですから、十年たったらこの気持ちをお伝えくださいといったのは、本当の気持ちです。
連日の暑さで、アイスキャンデーが売れて大多忙、奮闘しています。
順子
陽子様〉
佐石の娘は、どこでどう暮らしているのかと、陽子はいつも心にかけてきた。それが思いがけなく目の前にいたのだ。しかも、明るく愛らしく人々に愛されて生きているのだ。この順子の身代わりになって、自分は夏枝に憎まれてきたのかと思うと、陽子はふしぎに心の安らぐのを覚えた。長年の苦しみにも意義があった。決して無駄ではなかったという思いだった。順子が憎まれるよりは、この自分が憎まれてよかったと、陽子は思わずにはいられなかった。
母二人
ホースからほとばしる水が、日にきらめいて白い道をぬらして行く。土は水を吸ってくろぐろとうるおったかと思うと、たちまちまた乾きはじめる。
日曜の午後、啓造は二階でひるねをしていたし、陽子は育児院に出て留守だった。夏枝は先ほどから、根気よく家の前に水をまいていた。水をまきながら、夏枝は何となく落ちつかなかった。落ちつかない理由は、十日ほど前に来た達哉からの電話だった。その日陽子は、今日と同じように育児院の奉仕に出かけていて、家にいなかった。
陽子は留守だと答えると、二、三日中に訪ねたいといい、ちょっと間をおいてから達哉がいった。
「……いつも何時ごろ帰られるんですか」
「五時半か六時ごろですけれど」
「わかりました。では、また今夜電話します」
電話はそれだけだった。が、その夜電話は来なかった。翌日も翌々日も、かかって来なかった。電話の来ないことが、かえって夏枝には気になった。いつ押しかけて来るかわからない。一日中、何をしていても心の底に達哉のことがひっかかっていて、電話のベルや、玄関のブザーが鳴る度に、夏枝はハッと息をつめた。たとえ陽子のことが達哉にはっきり知られても、今更仕方のないことである。そうは思いながらも、やはり夏枝は平静ではいられなかった。
今も夏枝は、いつ現れるかわからぬ達哉をうっとうしく思いながら、道路に水をまいていた。と、その水を制するように、黒い乗用車が角を大きくカーブして、門の前にとまった。夏枝はあわてて、ホースの口を反対側に向けた。
運転台から、藤色のレースのスーツを巧みに着こなし、同色のバッグを持った女性がすらりと降り立った。その顔を見て、夏枝はハッと立ちすくんだ。一目で恵子だとわかった。夏枝の顔が一瞬こわばった。口もとにやわらかい微笑を浮かべ、恵子はていねいに頭を下げた。
「はじめまして。わたくし小樽の三井でございます。辻口様の奥さまでいらっしゃいますか」
車からの降り方、二、三歩歩んだその歩み方、頭の下げ方、一つ一つが洗練されていた。夏枝は気圧される思いだった。
「まあ! 三井様の……わたくし辻口の家内でございます。徹が何かとご迷惑をおかけしまして……。ようこそおいでくださいました。さあ、どうぞお入りくださいませ」
夏枝はホースの水をとめて、前庭で草をむしっている浜子に声をかけた。
「浜子ちゃん、お客さまですよ」
夏枝の声が少し上ずっていた。
とりあえず恵子を応接室に通した夏枝は、あとを浜子にまかせて、すぐに奥に入って着更えをした。自分は浴衣姿で恵子は外出着のレースのスーツを着ている。夏枝は恵子の不意打ちが忌々しかった。何か立ちおくれたようなひけ目がぬぐえなかった。
黒地の明石に、若葉色の絽《ろ》の帯をしめながら、夏枝は、恵子の蠱惑《こわく》的なまなざしや、ばら色の頬を思って、少しいらいらとしていた。着更えた黒地の明石に、その白い肌が陶器のように鮮やかに映えているのを鏡に見ると、夏枝はやっと自分自身をとりもどした。といっても、客を引き立てるという当然のたしなみを、忘れていることには気づかなかった。
「浜子ちゃん、おしぼりをさし上げてくださった?」
「はい、おしぼりと冷たい麦茶を……」
「ありがとう。アイスクリームは?」
「今朝、陽子さんがつくってくださって、冷蔵庫に入れてあります」
「陽子ちゃんが?」
ちょっと眉根をよせて考えたが、
「いいわ、それを出してくださいね」
夏枝はいいすてて、急いで応接室のドアを開いた。恵子がソファから立ち上がった。
「ご挨拶をあとまわしにして、失礼申し上げました。着物が水に汚れておりましたものですから」
挨拶もそこそこに、奥に引っ込んでしまったことを、さすがに夏枝はうしろめたく思った。だが夏枝にとって、挨拶よりも、自分の納得できる服装で対することのほうが、より先決問題であった。
「わたしこそ、突然に伺って失礼いたしました。おわびやら、お礼に伺わせていただかなければと、この間ご主人さまにお目にかかりましてから、気にかかっておりましたの。奥さま、本当に申し訳もございません。わたしの不始末から……陽子ちゃんのこと……何とお礼申し上げてよろしいかわかりません」
恵子は立って深々と頭を下げた。
「どうぞおかけあそばして。……お礼などと、とんでもございませんわ」
夏枝はそういって、恵子に目をすえた。
今更恵子が陽子に会って、母親らしい顔などしてもらいたくはなかった。今日陽子が留守だからよかったものの、ここでばったり顔を合わせたとしたら、このひとは陽子に何というつもりだったのか。複雑な関係にある相手の都合も聞かずに、突然訪ねて来た恵子を、非常識で自分勝手な人間だと、夏枝は内心見下す思いだった。
「今更お宅にお伺いできる筋合いではございませんけれど、やはりどうしても、奥さまにお礼やらおわびやら、そしておねがいやら申し上げずにおられなかったものですから……」
浜子がアイスクリームを持って部屋に入って来た。
「そのようにごていねいにおっしゃられては、恐れ入りますわ。さ、どうぞお召し上がりくださいませ。ひき茶を入れてつくってみましたの」
恵子のいった「おねがい」という言葉が気になったが、夏枝は浜子の運んで来たアイスクリームを、愛想よくすすめた。
「おいしそうですこと。とけないうちに、早速いただきます」
恵子は、切子ガラスの小鉢に入ったアイスクリームを、一さじ口に入れた。
「まあ、いいお味!」
陽子がつくったアイスクリームを食べている恵子を、夏枝はちらりと皮肉な目でながめたが、
「あの、お宅の達哉さんとおっしゃいましたか、十日ほど前、近くお訪ねくださるというお電話でしたので、わたくし今日か明日かとお待ちしておりましたの」
「まあ、お電話まで……。それは失礼いたしました。実は達哉が大雪山に登ることと、お宅に伺うことを、それは楽しみに申しておりましてね。わたしは内心、ひやひやしておりましたのよ。古傷を持っておりますと、心の休まる暇がありませんわ」
恵子はアイスクリームの小鉢を静かに置いて、
「ところが、達哉が明日発つという夜に、三十九度も熱を出しましたの」
「えっ!? 三十九度も」
夏枝は内心ほっと安堵した。その思いが顔に出はしなかったかと、夏枝は眉をひそめて、
「ご心配ですこと。何のお熱ですの」
「医師は急性腎臓炎と申しておりました。血圧も高くて、すぐ入院させられましたの」
「まあご入院なさいましたの。ではおかあさまがおそばにいらっしゃらなくては……」
「ええ、でもおかげさまで一週間経った今は、熱も下がりまして落ちついておりますの。ひどいむくみもありませんし、昨日から母が付き添いを交替してくれていますのよ」
扇風機の風に、恵子の髪が少し乱れた。夏枝は扇風機を弱に切りかえて、
「そんなご病人がおいでですのに、旭川までお出かけになられて……大変でいらっしゃいますわね」
「ええ、でも達哉の臥せている間にと思いましてね。お宅のご都合も伺わずに飛んで参りました。この夏はあの子もこちらに伺えませんでしょうけれど、きっと一度はお邪魔すると思いますの」
恵子は、ひざの上にひろげたハンカチに目をやった。
「奥さま、実は一昨夜、達哉がこんなことを申しましたのよ。陽子ちゃんと自分は、案外血がつながっているのじゃないか。遠い親戚かも知れないから、よく調べてみたらって。わたしそれを聞いて、何かいても立っても、いられない思いでしたのよ」
「それはご心配でいらっしゃいますわね」
恵子の困惑した表情を、夏枝は心ひそかに楽しんだ。陽子が恵子の産んだ子供であることを、三井家の人々がたとえ知ったとしても、夏枝にはさして痛いことではない。以前は、達哉が事実を知ることによって、陽子を困らせるようなことをしないかと心配したこともあった。だが、何の罪もない陽子に対して、そんなことをするわけもないような気がする。
誰よりも困難な場に立たされるのは、この恵子であろう。しかし、それも身から出た錆ではないかと、夏枝は恵子の黒く長いまつ毛と、蠱惑的な目を眺めて、意地悪い喜びを感じていた。
「ええ、でも、いくら心配だと申しましても、突然伺うなんて本当に失礼いたしましたわ。一番気がかりだったのは、陽子ちゃんといきなり顔を合わせることになっては、ということでしたけれど……。でも、二、三日前達哉のところに、夏休みの間は育児院が忙しくて、日曜もないとのハガキが届きましてね、それで安心して、ご都合も伺わずに参りましたの」
都合を問い合わされたなら、自分はこの訪問を断ったにちがいないと思いながら、夏枝はいった。
「何かとご心配で、大変でいらっしゃいますわね。でも、わざわざ旭川までお訪ねくださいませんでも、わたくしどもでは、達哉さんには何も申し上げませんわ、奥様。辻口も申し上げましたように、陽子は籍も実子として入れておりますし、いくら達哉さんがお調べになっても、大丈夫でございますわ」
口調はやさしいが、何もここまで訪ねるには及ばなかったという思いが、夏枝にはあった。恵子はそれを敏感に感じとって、
「勿論、お宅さまが達哉に何かおっしゃるなどとは、夢にも思いませんけれど、わたしはただあわててしまいまして……」
いい終わらぬうちに、ドアを大きくノックして啓造が入ってきた。夏枝ははっとして啓造を見た。ひるねをしている啓造を起こさなかったのは、恵子に会わせたくなかったからだった。
「やあ、どうも先日は失礼いたしました。このお暑いのによくいらっしゃいましたね。ひるねをしていたものですから、ちっとも知らずにいましてすみません。夏枝、ちょっと起こしてくれるとよかったのに」
恵子への親しみのこもった語調と、自分を咎めるいい方に、夏枝は眉をくもらせた。恵子は立ち上がって、夏枝にいったことを再びくり返した。
「まあ、おかけください。そうですか。急性腎臓炎ですか。あれはしばらく安静になさらないといけませんよ」
啓造はタバコに火をつけて、恵子をやさしく見た。
「あなた、達哉さんが、辻口の家は遠い親戚かも知れないから、よく調べたらとおっしゃったんですって。それでご心配でお見えになられたんですって。わざわざお出かけくださらなくても、大丈夫、何も申しませんわね、わたくしどもは」
夏枝は啓造の同意を求めた。
「いや、ご心配は無理もありませんよね、奥さん。わたしどもが大丈夫かどうかということじゃなくて、とにかくおいでにならなければ、落ちつかないものですよね、こういう場合は」
自分の言葉には同意せずに、恵子に共感を示した啓造を、夏枝はこわばった微笑で眺めた。
「とにかく、せっかくおいでくださったのですから、ごゆっくりなさってください。レストハウスの義経鍋など、どうだろうね、夏枝」
「そうですわね。あなたのお好きなものですし……」
陽子が帰ってくるまで、引きとめておくつもりなのかと、夏枝は内心怒りさえ感じた。
「あら、そんなお心づかいをいただいては、申し訳ございませんわ。わたしはすぐ失礼いたしますから……」
夏枝は茶を入れかえるふうに、さりげなく席をはずした。
茶の間に入ると、夏枝は育児院にいる陽子に電話した。ハキハキした男が電話に出て、陽子を呼ぶ声がした。受話器の中に子供たちのさわぐ声が聞こえ、幼い泣き声も聞こえた。この暑いさ中、子供たちの世話をしている陽子が、夏枝には物好きに思われた。
「おかあさん、何かご用?」
元気な陽子の声がした。
「ああ陽子ちゃん、悪いけど辰子小母さんのところによって、いただいて来てほしいものがあるの」
「お安いご用よ。何をいただきに行くの」
「辰子さんのおうちに行けばわかるわ。あ、そしてね、何なら泊めていただいてもいいのよ」
「まあ、泊まってもいいの」
陽子のはずんだ声に、
「いいわ、たまには。じゃおねがいね」
陽子との話が終わると、夏枝はすぐに辰子に電話した。一度コールサインが鳴っただけで、辰子がすぐに出た。
「わたくしよ、辰子さん」
「あら夏枝、毎日暑くてうだるじゃない? 元気なの?」
「ええ、おかげさまで。辰子さんおねがいがありますの。今日陽子がそちらにお伺いしますから、泊めていただけません?」
「へえ、陽子くんを泊めてって? うれしいことをいうわねえ。突如として雪でも降るんじゃない? でもどうしたのよ、急に」
「詳しいことは、あとでお話しいたしますわ。小樽の……方がいらっしゃってますの」
夏枝は声をひそめた。
「なあるほど、現れたのね、母君が?」
「ええ」
「陽子くん知ってるの」
「知らせたほうがいいかしら」
「あとでどうせ知れるわよ。だまって、うちへ泊めてしまったじゃ、どうかしらね」
「では、辰子さんにおまかせしますわ。よろしくね」
受話器を置いた夏枝は、三人分のバナナを用意して、応接室にもどった。
「……それでは、大変ですねえ」
入って来た夏枝を、啓造は一べつもせずに、大きく腕を組んで、考えこむように恵子を見た。
「でも、誰に文句のつけようもないことですわ。自分の産んだ子供ですもの」
何を話していたか、夏枝にはわからない。いつもの啓造なら、すぐにかいつまんで話の内容を告げてくれるはずだった。が、今日の啓造はちがうと、夏枝は二人の顔を交互に見た。
「それで、ご主人には旭川に来られることを、知らせていらっしゃったのですか」
啓造の問いに、恵子は目を伏せて、
「三井は、わたしが札幌に買い物に出たと思っているはずですの。この間も申し上げたとおり、一つの秘密を持ちますと、次々とうそを重ねてしまうようになって……。ですから、今日はもうおいとましなければならないんですの」
「もうですか。まだ、十分とはお話ししてませんよ」
「本当に、まだいらっしゃったばかりですのに。もう少しごゆっくりあそばして。ねえ、あなた」
夏枝は急に愛想がよくなった。
「ありがとうございます。でも、わたし、一度お伺いして、ご挨拶だけでもと思っておりましたことですので……。こうしてお二方にお目にかかりましたら、達哉のことも、すっと安心いたしましたし」
「そうですか。それはそれは。寝ていて、どうも失礼いたしました。だから早くに起こしてくれるとよかったんだよ、夏枝」
同じことを繰り返す啓造を、夏枝はだまって見ただけだった。
「あら、車の中におみやげを忘れて参りました。何てあわて者でしょう」
恵子は、ちょっと取ってくると、部屋を出た。
「陽子に会いたかったのじゃないかね」
啓造はたばこを灰皿でもみ消しながらいった。夏枝が何かいいかけて口をとじた。
すぐ戻るはずの恵子はなぜか遅かった。啓造は立って玄関のたたきに通ずるドアをあけ、思わずぎょっとした。
車の傍に、村井が立って何かしきりに恵子に話しかけている。
啓造は目顔で夏枝を呼んだ。
「あら、村井さんとお知り合いなのでしょうか」
夏枝の言葉を終わりまで聞かずに、啓造は大声で呼んだ。
「村井君、暑いですから、こちらにお入りなさい」
二人が何を話しているか、啓造は気が気でなかった。
「やあ、どうも失礼」
村井はにやにやしながら、先に立って入ってきた。
「奥さん、例によって例のものです。つまらんものですが」
村井は片手にぶら下げたウイスキーをさし出した。村井には、歳暮と中元を欠かさぬという、一見投げやりな彼に似合わぬところがあった。
「恐れ入りますわ。いつもいつも」
つづいて恵子が、利尻昆布の大きな包みをさし出した。
「これはどうも恐縮です」
ウイスキーと昆布をサイドテーブルに置いて、啓造と夏枝は改めて二人に頭を下げた。
「あの……お知り合いでいらっしゃいましたか」
夏枝がどちらへともなく尋ねた。
「いや、別に」
村井は言葉少なにいって、立っている恵子を眺めている。啓造は、わざと二人を紹介せずに、再びたばこに火をつけた。一瞬ぎごちない空気が流れた。
「では、わたしこれで失礼いたします。突然お伺いいたしまして、申し訳もございません。どうぞよろしくおねがいいたします」
今は啓造も、引きとめようにも引きとめられなかった。恵子は村井にもていねいに礼をして部屋を出た。
外に出た恵子は、感慨深げに辻口邸を見上げて、ハンカチで目がしらをおさえ、再び礼をいって車に乗った。
「陽子の部屋を見せてあげると、よかったかも知れないね」
車が去ると、啓造がいった。夏枝は皮肉に笑って啓造を見た。夏枝は玄関から茶の間に戻り、啓造は左手の応接室に入った。
「どうもお待たせして失礼」
啓造の挨拶に、村井は大きく手をふって、
「いや、院長、失礼したのはどうやらわたしのほうらしいですね」
と、うかがうように見た。
「さっきお宅の前まで来たら、ちょうどあのひとがお宅から出て来られましてね。びっくりしましたよ。全くあれでは瓜二つですからね。思わずこんにちはといってしまいましたよ」
啓造は仕方なしに苦笑していった。
「何か車の所で、話していたようですね」
夏枝が冷えたビールを持って入ってきた。いやな人間に恵子を見られたと、啓造は憂鬱だった。
「しかし、似てますね。あんなに似ている人に訪ねて来られては、困りませんか」
村井は再び恵子と陽子の相似にふれた。夏枝が眉根をよせていった。
「そんなに似ていますでしょうか。わたくしには、そうは思えませんわ」
夏枝は、恵子と陽子が似ているとは思いたくなかった。
「いやあ、似てますよ。一目で親子だとはっきりわかりますからね」
自分の言葉が、啓造や夏枝の傷口にふれることを承知の上で、村井はいった。
「陽子ちゃんは、うちの子ですわ、村井さん」
「ああ、なるほど、そうでしたね。ところで院長、やっぱり和服はいいものですね。いまの洋装のひともなかなか美しい人ですが、やはり和服姿の奥さんにはかないませんでしたよ」
啓造はちょっといやな顔をした。
「恐れ入りますわ」
夏枝はうれしそうに村井のコップにビールを注いで、
「村井さん、さきほどあの方と、車の所で親しそうにお話ししていらっしゃいましたでしょう。お知り合いかと思いましたわ」
「ああ、あの時ですか。初めて会った人ですけれどね、陽子さんに似ているんで、思わずこんにちはといってしまいましてね。向こうはびっくりして、どちらさまでしたか、お見それいたしましたなんて、いったんです。ですから、ぼくは、いやここの家の親しい者です。つい錯覚して失礼しましたと、そんなことをいってたんですよ」
その程度の話であったのかと、啓造はほっとしながらも、村井のいった「ここの家の親しい者」という言葉にこだわりを感じた。考えてみると、村井は二十年も辻口病院に勤めており、時折この家にも訪ねてくる。確かに、世でいう親しい間柄かも知れない。だが啓造の心の中には、村井に対するうとましさや、嫌悪の感情はあっても、親しみと呼べる感情はなかった。村井のいう「ここの家の親しい者」という言葉は、「この家の妻と親しい者」といっているような気さえした。こんな感じ方をする自分を、啓造はいやな人間だと思った。
村井と夏枝が何か話をしていることに気づいて、啓造は顔を上げた。
「……育児院に奉仕に行っていますのよ」
「ほう、育児院にねえ」
村井の絡むような視線に、啓造は、つと目をそらして、
「徹は、今日帰ってくるのではなかったかね」
と夏枝を見た。
夕あかね
見本林の上にあかね雲がひろがり、カラスがさわがしく飛びまわっている。浴衣姿の啓造と徹は、見本林を背に、ぶらぶらと国道のほうへ歩いていた。ひるのほてりの残っている埃っぽいせまい道だ。
「うちのおふくろも、悪い人間じゃないんだけれど……」
紅あおいが丈高く群れ咲いている家の前に来た時、徹はいった。
「うん」
久しぶりに家に帰ってきた徹は、恵子の訪問と、陽子が辰子の家に泊まることを聞いて、むっつりと押し黙ってしまった。その徹を、啓造はさりげなく散歩に誘い出したのである。
「……何をしでかすかわからない感じがしない? おとうさん」
「まあね。しかし人間って、みんなそんなものだよ」
徹は、夏枝が恵子の訪問を一言も陽子に告げずに、ほかに泊まらせることにしたのが、気に入らなかった。恵子の訪問は、陽子にとっても一大事ではないか。会うか会わぬかは陽子に任すべきだ。自分の生母が訪ねてきたという一大事も知らされずに、辰子の家に泊まらせられる陽子が、徹には哀れでならなかった。
「そりゃあ、ぼくだって何をしでかすかわからないけど……。おふくろときたら、それが特別のような気がしてさ」
「そうかね」
陽子を自殺に追いやった日の夏枝を、啓造は思った。だが、何をするかわからぬ底知れぬ恐ろしさは、陽子を引きとった自分にこそあると、啓造は思わずにはいられなかった。
「ちょっと見ないうちに、家がたてこんできたなあ、この辺も。ぼくの子供のころは、じゃがいもやとうきび畑だったのにさ」
しばらく黙って歩いていた徹が、夏枝のことにはふれずに、別のことをいった。
「ああ、ことしはこの通りだけでも、何軒も建ったからね」
それでもまだ、名残のとうきび畑や馬鈴薯畑が、家々の間にいくらかあった。
辻口家から二百五十メートルほど行って、二人は農協ストアを左に曲がった。旭川から帯広に至る国道である。ストアの向かいは神楽中学だった。
「木立がなくなって、淋しくなったねえ。落葉松のきれいな校庭だったが……」
啓造はちょっと立ちどまった。徹や陽子の卒業した学校である。徹もうなずいた。
「支笏湖へ行ってきたそうだね、徹」
啓造は順子の手紙を思いながらいった。
「いいところですね、支笏湖は。小学生の時、連れられて行ったでしょう、おとうさんに。あの時とほとんど変わっていませんよ。ちっとも俗化していない」
「そうか。支笏湖は変わっていないか」
順子という娘に会ってみたいと思いながら、啓造はいった。
左手は食堂や医院を交えた人家が建ち並び、右手は営林局の敷地だった。その広々とした敷地に、何十軒かの官舎がゆとりある間隔で建っている。つづいて営林局のグラウンドがあった。グラウンドと国道の間に、まだ若い落葉松の並木が、青々と美しかった。
「いいねえ、このあたりは。やはり人間はもっと歩くべきだね」
以前は、啓造も朝夕この道をよく歩いたものだった。それが去年あたりから、ついタクシーやバスに乗るようになってしまった。
落葉松並木を過ぎると、二階建ての営林局の庁舎が見え、クリーム色の壁が夕空の下に映えている。
「徹、街にお茶でも飲みに行こうか」
啓造は内心、徹を陽子のいる辰子の家に連れて行く心づもりだった。陽子のいない家に帰ってきた徹が、むっつりと黙りこんでいるのを見ると、何かかわいそうな気がした。それに、今日のうちに、陽子に会って、自分の口から恵子の訪問を話しておかなければならぬような気もした。といって、すぐに陽子のところに連れて行くのは、いかにも徹の心を見透かしたようでいやだった。
「お茶ですか、いいですね」
徹は手を上げて、タクシーをとめた。
「四条六丁目あたりまでやってください」
いってから啓造は、営林局の前庭をふり返った。いくつもの花壇が、みるみるうしろに遠ざかった。
「どうしてすぐ帰ったのかなあ」
徹は恵子のことをいった。
「札幌に出るような顔をして、来られたそうだからね」
「それだけの理由だったら、おかしいな。あのひと、札幌に出てきて夜までいることはよくあるんだがなあ。ぼくが呼び出される時は、いままで夜が多かったよ」
時折、山愛ホテルのロビーで、徹は恵子に会っていた。啓造はその二人の姿を思い浮かべながら、複雑な気持ちだった。
「じゃ、早く帰られた理由は別にあるというわけかね」
「まあね、ぼくの想像では、おふくろの態度の中に、カチンと来るものがあったんじゃないかと思うよ。話し合う余地のない冷たさか、拒絶かがあったんじゃあないのかなあ」
「突然のことだったから、充分のもてなしはできなかっただろうね、動転していて」
車は神楽橋の上を走っていた。啓造はあかね空をうつす忠別川の流れに目をやった。
四条六丁目で車を降りた啓造と徹は、角から二軒目の「華」という喫茶店に入って行った。木材の肌をあらわにした壁が、かえって凝って見える。カウンターには、清楚な感じの女が、コーヒーをいれていた。
二人はカウンターから離れた奥のテーブルにすわった。啓造と徹は、二人っきりでこんな場所に来たことがない。向かい合うと、啓造は何か場ちがいのような、照れくささを感じた。徹も、啓造のうしろの壁を眺めていた。
「陽子はかなり立ち直ってきているようだね」
共通の話題といえば、やはり陽子のことしかないような気がした。が、口に出すと、徹におもねているようで何かいやだった。徹はかすかにうなずいただけだった。
しばらくしてから徹がいった。
「おとうさんはここに時々来るの」
「時々でもないが、清潔な感じがいいんでね」
会話はそこでまたとぎれた。髪をお下げにした十七、八の少女が、コーヒーを運んできた。徹はすぐに砂糖の壺をあけて、
「いくつ?」
と啓造を見た。
「二つ」
うなずいて徹は、角砂糖を二つ啓造のカップに入れた。幼いころ、徹はよく、こうして啓造や夏枝のコーヒーに角砂糖を入れたものだった。ふっと、啓造は徹がかわいいと思った。啓造は夕方煎茶を飲んでも眠れない。運ばれたコーヒーを見て、内心しまったと思ったが、今は一晩ぐらい眠れなくてもかまわないような気がした。
「うまいね」
一口飲んで、啓造は煙草に火をつけた。
「北原が遊びに来るって、いってたよ」
「北原君が? あれはどんな男かね」
順子に、陽子は養女だと告げたという北原を、啓造は思い出した。
「いい男のほうじゃないんですか」
徹の目にちらりと動く影があった。
「そうかね。いい男だとわたしも思っていたんだがね」
「おとうさんは、北原を気に入っていたんじゃないですか。何かあったの」
「……いや、陽子のことを養女だと、他の人間に洩らしたと聞いたものだからね」
「他の人間って、誰のこと?」
「……うん、何といったかね。そうだ、順子とかいったね」
「ああ、順子ちゃんか。そのこと陽子がいっていたの?」
「ちらっとね。ただそれだけだが、何か信用のおけない男のような気がしてね。ところで、順子ちゃんとかいう女の子は、どんな子かね」
「順子ちゃんって、無邪気なかわいい子ですよ。はてな、多分おとうさんも会っているはずですよ。ほら、高木の小母さんが死んだ時にさ」
「わたしが? 会っていたかねえ」
啓造は、持っていたカップを置いた。
「会ってるはずです。通夜から忌中引きまで、ぼくたちと一緒に手伝って……そうだ、おとうさんやおかあさんに、高木の小父さんが紹介してくれたって、順子ちゃんがいってましたよ、たしか」
「ほう?」
そういわれれば、通夜の時、膳を運んできた女の子を、紹介された憶えはある。が、顔かたちの記憶はなかった。
「そうか、会っていたのか」
佐石の子とも知らずに、あの夜既に会っていたのかと、啓造は感慨ぶかいまなざしになった。
「何か陽子がいっていた?」
「いや、別に」
啓造はちょっと狼狽して、カウンターの前にすわった三人連れの若い女たちに目をやった。
「あの子は……もしかしたら、ぼくを好きかも知れないんだ。おとうさん、陽子はそんなことをいったんでしょう」
「……まあね」
佐石の娘が、徹に想いを寄せていたということを、啓造はあの手紙で知った。その時の驚きを思いながら、啓造はあいまいな返事をした。
「でも、ぼくは何とも思ってないんですよ」
「向こうがお前を好きで、お前は何とも思わないのか。それならつきあわないほうがいいね」
「だけど、陽子と気が合うらしくて、仲がいいんですよ。だから、陽子とどこかに出かける時は、つい一緒になってしまうんです」
「じゃ、お前が陽子に会わなければいい」
「そんな……それは無理ですよ」
「とにかく、順子という子の気持ちを傷つけてはいけないよ」
啓造は深い思いをこめていった。が、徹はその深い思いを知る由もない。
「傷つけたいと思わないけど、人間なんて、つきあっている限りの人間に、傷をつける存在じゃないのかなあ。かすり傷か深傷《ふかで》かのちがいはあってもさ。特に陽子なんか、うちで育ったばかりに、すごい傷を受けたんだからね」
「…………」
「ぼくは陽子の傷に責任を感じているよ」
徹は熱っぽくいった。
「陽子か。そうだ、ここから辰子さんの家は四、五町だね。ぶらぶら行ってみようか」
徹は黙って啓造を見た。
「夏枝があんな電話をして……ほうってもおけない。陽子にちょっと話して行くよ」
啓造が立ち上がった。
曙光
徹が花菖蒲の園に立っている。陽子は徹に手渡すものがあって、徹のほうに駆けて行った。と、パッとかき消すように徹の姿が見えなくなった。陽子は大声で徹を呼んだが、徹は見えない。徹は死んだのだと、ふいに陽子は胸のしめつけられるような思いがした。
「おにいさん」
たまらなく徹に会いたかった。陽子はいつの間にか、仏壇の前でしゃくり上げて泣いていた。と、誰かが陽子を呼んだ。陽子はハッと目をさました。
見なれぬタンスが枕もとにある。
(ああ、ここは辰子小母さんの部屋だわ)
横を向くと辰子の寝顔が、うすぐらい中に白かった。
(夢だった!)
ようやく陽子は、はっきりと目がさめた。窓がようやく白みかけてきた。まだ三時を過ぎたばかりだ。
陽子は今見た夢を思った。徹に会いたいと思った時の、胸苦しいような思いが、まだ胸の中にたゆたっている。それは思いがけない感情だった。自分の胸の中には、徹も北原も住んでいないはずである。
(夢の中のことだわ)
陽子はそう思いたかった。が、いつか啓造のいった言葉を思い出した。人間は自分の全人格を意識することはできない。意識しているのは、全人格の二割で、あとの八割は無意識のうちにある。自分では思いがけぬ夢を見たとしても、それもまた、自分の人格の中から生まれた夢だ。そんなことを啓造はいっていた。
(わたしはおにいさんを……)
本当は愛しているのかも知れない。陽子は、夢の中で泣いていた自分の感情を思った。
昨夜、徹が啓造と共に、辰子の家を訪ねてきた時のことを陽子は思い浮かべた。恵子の突然の訪問、達哉の急性腎臓炎による入院のことを、啓造から聞かされた。
「夏枝が陽子をだましたみたいでね……」
と、啓造は心苦しそうだった。恵子の訪問は、辰子から聞いて既に陽子は知っていた。恵子には一生会いたくないと思っていたはずだが、自分には知らせずに、夏枝一人の所存で会えなかったと知ると、後ろ姿だけでも見たかったような思いが残った。恵子への感情といい、今の徹の夢といい、人間の気持ちの微妙さに、陽子はおどろきを感じないではいられなかった。
だが当面の問題としては、達哉の病気が一番心配だった。昨夜、達哉のことを心配している者は、誰もいなかった。啓造でさえ、
「そういうわけだから、多分夏休みの間は訪ねてこないよ。安心しなさい」
といっただけだった。
辰子が大きく寝返りをうった。まだ鳥の声もしない。徹も達哉も眠っているにちがいないと、陽子は目をつむった。
目をつむったまま、陽子は辰子の静かな寝息を聞いていた。昨夜、徹たちが帰って、二人が床に入ったのは十時過ぎだった。
「陽子くん、生きているって、むなしいわねえ」
しみじみと辰子がいった。思いがけない言葉に、陽子は体ごと辰子のほうを見た。
「小母さんがむなしいの? 踊りがあって、お友だちがたくさんあって、楽しそうなのに」
「わたしがむなしいなんていったら、おかしい? むろん踊りが生き甲斐のこともあった。だけどね、陽子くん。踊りなんて、花火みたいなものじゃない? どんなに自分ではよく踊れたつもりでも、それは一生に一度っきりで、二度と同じようには踊れないからねえ。そりゃあ、それ以上に踊れることもあるけれど、全然|不様《ぶざま》になることもあるものよ。こんな、一回一回が花火みたいな踊りだからこそ、その一瞬にかけるというところもあるけどさ。でも、やはり、やがては何もかも消えてしまうような、むなしいものじゃないかしら」
踊りのことは、陽子にはわからない。だが、いわれてみると、そのむなしさはわかるような気がした。それは演奏家や声楽家、俳優たちにも共通することかも知れなかった。
「でも、芸道っていうでしょう、小母さん。一瞬だけのむなしいものとも、思われないけれど」
「それは否定しないけど、芸とか芸術とかは、結局はむなしいものじゃないかって思うのよ」
「だけど小母さんには、茶の間に集まるお友だちがあるわ」
「友だちねえ。たしかにあの連中は、茶の間で絵の話や詩の話などをしているわ。でも、連中もみんな、結局は淋しいというか、むなしいというか、満たされていないんじゃない? 何となく肩をよせ合って、お互いの体温で暖め合っているようなところがあるわ。でもその肩が離れると、一人じゃ耐えられないような、そんな淋しさがあるんじゃない?」
「肩と肩をよせ合うのは、一時的なものだと小母さんはおっしゃるのね」
「そういうことよ。たしかに連中とは気持ちが通じて、言葉が要らないようなところがあるわ。でもねえ、何かが欠けているみたいなのよ」
「まあ、言葉も要らないようなお友だちなんて、最高だと思うわ」
「そうね、小母さんはぜいたくをいってるのかも知れないねえ。だけどさ、夫婦だって、ものを言わなくてもわかるみたいな関係でしょう。それでいて、肝心かなめのことは、ちっともわかり合っていないから、別れたりするんじゃない? とにかく小母さんは、踊りにせよ、人との関係にせよ、一つの大事なものが欠けてるって気がしてならないのよ」
辰子は淋しそうだった。陽子はその言葉を思いながら、辰子の寝息を聞いていた。
カーテンの隙間を洩れる光が、次第に明るくなり、庭木に雀のさえずる声がした。
昨夜辰子は、獄死した愛人のことや、非道な当時の状況を詳しく話した後、さらに陽子にいった。
「あのひとは獄死した。それで問題は終わったのかって、小母さんはいつも考えていたわ。あのひとは、自分の考えている幸福な社会は、今すぐには来ない、しかし、きっといまに来るって、未来を確信していたのよ。でも、未来さえよくなれば、あとは考えなくていいのかしら。彼を獄死させた人間共は、獄死させっ放しでいいのかしらって、思いつづけたわ。だから、長いこと小母さんの胸には、恨みがたたえられていたのよ」
「恨みが? 小母さんでも?」
「小母さんでもって、陽子くん、わたしはあのひとの死んだあと、恨みに支えられて生きて来たみたいなものよ」
「ほんと? 小母さん」
「ほんとうさ。ほら、四十七士や曾我《そが》兄弟の話ね、あれと同じよ。彼を殺した奴の正体を見極めたい、見極めて仇を討ちたいって、わたしは若い時本気で思っていたのよ。仇討ちは日本では美談だったのよ。汝の敵を愛せなんていっていたものなら、命がいくつあっても足りない時代だったからねえ」
「じゃ、今はどう思っていらっしゃるの」
「あのね、いつか何かの小説で〈自ら復讐すな。復讐するは我にあり、我これを報いん〉という言葉を読んだのよ。その言葉にぎくりとしてね。何かよくわからないけれど、その言葉は真理だと直感したのよ。それからは、ふしぎにすっと気持ちが軽くなっちゃった。何しろ、わたしが復讐するよりも、もっと厳正な復讐があるにちがいないと思ってね。そしてね、真に裁き得るものだけが、真に許し得るし、真に復讐し得るのだとも、思うようになったのよ」
(真に裁き得る者だけが、真に許し得る!)
ずしりとした重い言葉だった。
「陽子くん、小母さんはね、いざとなったら、神さまのところに何でも頼みこめると思って、安心してたこともあるのよ。でも、信じもしないで安心してるのは、本物の安心じゃないんだねえ。この頃は妙にむなしくなっちゃってねえ」
陽子は、昨夜のその言葉を思い出しながら、辰子の寝顔を見た。
向かいの部屋の襖のあく音がした。ひっそりと階段を降りて行く気配がする。由香子はもう起きたのだろうか。目の見えない由香子が、おぼつかなく階段を降りる姿を思って、陽子は胸が痛んだ。
陽子は再び目をとじた。徹はあしたすぐ札幌に帰るはずだ。今日は育児院の奉仕を休んで、徹のそばにいたいような気がした。しばらくして辰子が起きた時、陽子は静かに眠っていた。
つゆ草
「外科は、この受付の右手にございます」
白衣を着た陽子は、にこやかに応対して、時計を見た。あと十分ほどで、受付は締め切りになる。
八月に入って、福祉関係の学生たちが、育児院に三、四人奉仕に来た。陽子はそれで、やっと二十何日かの奉仕を終えたが、それから二、三日も経つか経たぬうちに、辻口病院の受付の女子事務員が盲腸炎で入院した。陽子は啓造からそれを聞くと、進んで手伝いに出た。外来の受付だから、新しくカルテを作り、診療室を教えてやる程度の、割合単純な仕事で、初めての陽子でも、すぐその日から何とか役に立った。
陽子は受付をしながら、世には何と多くの病人がいることかと驚いていた。中でも内科と眼科の患者が多い。内科医は三人いるが、内科の患者の大方は、院長の啓造に診てもらいたいと申し出た。辻口病院の子として育ちながら、体の丈夫な陽子は、めったに病院に来ることがなかった。
「院長先生に診ていただきたいんですが……」
と、哀願するようにいう老婆などを見ると、父の啓造がこんなにも人々から信頼されているのかと、感動せずにはいられなかった。やがて徹も、この病院で働くようになる。きっと徹も父に似て、よい医者になるにちがいないと思うと、陽子はうれしかった。
医師たちには、ひる休みも、食事のひまもないことを、陽子は病院に来て初めて知った。午前の新来の受付締め切りは十一時だが、その患者の診察や検査がすっかり終わるのは、いつも一時を過ぎている。
今日三日目の事務も無事に終えた夕方、陽子は盲腸の事務員を見舞うため部屋を出た。
松葉杖をついた男が、陽子の前をゆっくりと歩いている。向こうから眼帯をかけた女が、足をするように歩いてくる。松葉杖をついている男に、眼帯の女は一べつもしなかった。男もまた女を無表情に見ただけである。病院でよく見かける情景であった。
車椅子に乗った患者にも、片手のない患者にも、それは同じことがいえた。自分と同じ状態の患者に会った時だけ、お互いの表情が動き、あるいは進みよって話しかけることがあった。足の悪い患者は足の悪い者に、目の悪い患者は目の悪い者だけに関心を持つかのようであった。
そんな患者たちの中を、陽子は何となく肩身のせまい思いで歩いていた。と、うしろから軽く肩を叩かれた。
「どう? 大分慣れた?」
ふり返ると、村井が白衣のポケットに片手を突っこんで、立っていた。白衣を着た村井は、いつもより立派に見えた。それは仕事に生きている男の顔だった。
「おかげさまで、少し慣れました」
少し向こうに売店がある。陽子はそこで、何か見舞いの品を買おうと思っていた。
「十分ぐらい、ひまがある?」
「ええ、十分ぐらいでしたら」
「じゃ、外のベンチに出ようか」
村井を無下に斥ける理由もなかった。曇った空の下に、芝生のみどりが沈んで見え、むし暑さは屋外も変わらない。
「一段ときれいになったねえ、おかあさんとそっくりだ」
ベンチに腰をおろすなり、村井がいった。夏枝にそっくりなはずはないと陽子が思った時、村井はつづけていった。
「君のおかあさんって、すてきな人だね。この間初めて会ったけれど……」
「?……」
「あ、そうか。陽子さんはまだ会ったことがなかったんだね。でも、おかあさんが来たことは知ってるんだろう」
看護婦が四、五人、二人のほうを見ながら芝生を横ぎって行った。陽子は村井が何を話したいのか、わかるような気がした。
「あのおかあさんは、小樽の人だって? 名前何というの」
たばこに火をつけながら尋ねる村井の顔は、もはや仕事に生きる男の顔ではなかった。陽子は三井の名を知らせる気にはなれなかった。
「君も知らないの」
黙っている陽子に、村井はつづけた。
「陽子さんは、あのひとの子供だって、いつから知ってたの」
「村井先生、悪いんですけど、お答えしにくいお話ばかりで、困ります」
率直に陽子はいった。
「そうか。口どめされているのか」
「誰にも口どめなんかされていませんけれど、わたしの話したくないことなんです」
「どうして? 君だって、もう子供じゃないでしょう。自分のことを客観的に見たっていいんじゃないの」
「……でも、先生はなぜ、わたしの母のことなんかお尋ねになるんですか」
陽子は澄んだ瞳を静かに村井に向けた。
「あまりに、きれいな人だったからさ」
「…………」
「男はきれいな女の正体を知りたがるものですよ」
「…………」
「これは怒らせてしまったかな」
村井はにやにやして、
「徹くんと君は、将来どうなるのかなあ」
と、陽子の顔をうかがった。が、やはり陽子は黙っていた。
「やはり三代目辻口病院長は、徹くんということになりますか」
いま、村井は副院長だった。
陽子は黒く濁った空を見ながら、居心地悪くベンチにすわっていた。
「徹くんというのは、妙に苦手だなあ。彼は小さい時から、わたしにはなつかなかった。なぜかわかりますか」
村井は陽子を困らせて、おもしろがっているふうだった。
「いいえ、わかりません」
「理由は、院長夫人に聞いてみればわかりますよ」
村井は唇を歪めて笑った。陽子はうつむいた。足もとに小さなタンポポが一つ花をひらいている。
「院長夫人は、あれは悪い人ですよ」
「どうしてですか、先生。母は悪い人じゃないわ」
村井は陽子を横目で見て、
「いや、男にとって、美しい女はみんな悪い女ですよ。君の、あっちのおかあさんは、なお悪い女じゃないのかな」
「…………」
「君も悪い女の部類だね」
村井は、陽子の返事のないことには、全く気にもとめないようすだった。
「むし暑いねえ、ひと雨来るかな?」
長い足を大きく組みかえて、
「毎日、院長と一緒に来るんだって?」
と、陽子を見た。
「ええ」
「院長もまんざらじゃないだろうなあ。こんないいお嬢さんと病院に出てくるのは」
「…………」
「ところで、君はどう思っているの? この間の|ム《*》ッターのこと」
陽子は、芝生を歩いてくるネグリジェ姿の患者に目をやった。
「自分を育てなかった親というものは、憎いものだろうなあ」
村井の声音が、ふいにしみじみとなった。陽子は、はっと村井の顔を見たが、
「それは仕方がありませんわ。子供は産んだ親のもとにいる権利があるはずですもの」
「なるほどね。子供の権利か」
かかとで、コツコツとベンチの脚を叩いて、
「まあ、うんと恨んでやることだね。子供を産んでおいて、育てないのは親が悪い。何といっても親の勝手だ」
「でも、人を恨むって辛いことよ。その辛さがおわかりにならない? 先生には」
札幌に暮らしている村井の娘たちを思って、陽子はいった。
「わかりたくないねえ」
村井は少し憂鬱そうに、髪をかき上げた。
「恨まれる親より、恨む子供のほうが辛いわ。小さい時から、毎日が憂鬱なはずよ。一生は二度とくり返せないんですのに」
「一生は二度来ないか」
村井は苦笑して、たばこの煙を吐いた。
啓造と陽子は病院を出た。道の左側に、市場、果物屋、ラーメン屋などがつづいている。辻口病院の患者や見舞客でもっている店である。
「先生、いまお帰りですか。今日は降りそうですね」
店先にいた果物屋の主人が、向こう鉢巻をとって、愛想よく声をかけた。
「そうですね。しばらく降りませんでしたからね」
ていねいに挨拶を返して、黒くなったバナナの並んでいる店の前を過ぎた。東のほうにひとところ、細く青空がのぞいているだけで、重苦しい空模様だった。
「ほんとうに降るかも知れないね。車を拾おうか」
「歩きたいわ、陽子。おとうさんとこうして歩けることが楽しみで、病院に来ているんですもの」
啓造はその言葉に、陽子のいいがたいやさしさを感じた。啓造にしても、毎日、陽子と歩くのは喜びだった。
「じゃ、歩こうか」
啓造はうれしさをおさえていった。
一町ほど歩いて右に曲がると、二百メートルほど向こうに、もう神楽橋が見える。家まではおおよそ二キロぐらいの道のりだった。
「さっき、村井君と何か話していたようだね」
「あら、見ていらしたの」
「うん、院長室から見えるからね」
陽子はちょっと黙ってから、啓造を見上げて、
「おとうさん、助けてくださるとよかったのに」
「助けて? 何かいわれたのかね」
「と、いうわけでもありませんけれど、村井先生、小樽の母にお会いになったんですって?」
「え? そんなことを陽子にいっていたの」
「憎いものだろうと、おっしゃってました」
「そんな……非常識な男だ」
啓造は顔をこわばらせた。
「そうじゃないのよ、おとうさん。村井先生は、ご自分の子供さんの気持ちをお考えになっていらっしゃるのよ」
「子供のこと?……村井君がねえ」
「そうなの。やはり心にかかっていらっしゃるのよ。子供を産んでおいて、育てない親が悪いって、ご自分を責めていらっしゃったわ」
「ほう、村井君でもねえ。しかし、それぐらいなら、もとのさやにおさまるようにしたらいいと思うがねえ」
啓造には、村井が陽子の気を引いただけのような気がしてならなかった。
「あ、わたし、ここにブラウスをあずけてあるの。ちょっと待っててくださる?」
陽子は、スガイランドリーと書いたガラス戸を押して、入って行った。
神楽橋の下には、一群の家があった。忠別川の広い川原に建てられた家並みだ。陽子はここを見おろすたびに、夏枝に首をしめられた幼い日が甦る。いきなり首をしめられた恐怖に、陽子はランドセルを背負って、辰子の家に行く途中、この川原の家々をじっと見ていた記憶がある。何ともいえない悲しみを抱いて見たあの日の感情を、この家々を見ると、いやでも思い出すのだ。ふだんはバスで通り過ぎる道だったが、この二、三日、啓造と二人で歩いて通る。首をしめられたことは、未だに誰にも告げたことはない。陽子はふっと立ちどまって啓造を見上げた。
「何だね」
「あの、この間辰子小母さんが、生きることはむなしいって、おっしゃったの」
一生誰にもいえないことを、人間はみな持って生きているにちがいないと思いながら、陽子は別のことをいった。
「ほう、辰子さんがね」
踊りもむなしく、友人とのつき合いも、何かむなしいといった辰子の話を、陽子は啓造に告げた。
「小母さんは、おっしゃってたわ。ある時は復讐が生き甲斐であり、ある時は踊りが生き甲斐だった。由香子さんの目が治るかも知れないと思った時は、それもまた生き甲斐だった。でも、みんな一時的なもので、一生の生き甲斐ではなかったって」
「なるほど。おとうさんも同じだね」
行く手の山が、黒みがかったみどり色を呈して、近々と見えた。
「わたし、小母さんだけは充実した人生を送っていらっしゃると思っていたのよ。あんなにたくさんのお友だちがいらっしゃるし。でも、お友だちが数多くいても、駄目なんですって。本当に語るべきことは、語り合っていないんですって」
「そういえば、そうかも知れないね」
啓造は高木を思った。二人はとりたてて、何かを語ったことはない。何となく、何も語らなくても、お互いの気持ちが通ずるように思ってきた。だが果たして、大事なことが通じ合っているかどうか、考えてみると心もとない気持ちだった。
(陽子のことだって……)
佐石の娘とばかり信じこんでいたのだ。陽子のことばかりではない。大事なことになると、高木は何ひとつ本音を聞かせてくれたことがないような気もする。長い間高木が独身でいた理由さえ、啓造は本当のことがわかっていなかった。しかし、わからなくても、高木という人間に安心していた。その安心が、根拠のないものであることを、陽子が自殺をはかった時に知ったはずなのに、啓造の高木を信ずる気持ちには、あまり変わりがなかった。
(あれはいい男だ)
やはり啓造は、そうより思いようがなかった。
「陽子には、友だちが少ないようだね」
神楽橋を過ぎて、だらだら坂を下りながら、啓造がいった。
「ええ」
陽子と親友になりたがる友だちは、中学時代からたくさんいた。同級生ばかりではなく、下級生や上級生からも、陽子は手紙をもらったりして慕われる存在だった。だが陽子は、親しくなっても家庭のことは何一つ語れなかった。家庭にふれることは、自分が養女であることを語ることになり、夏枝を非難するおそれがあった。親しくなれば友人は家に訪ねてくる。陽子は友人を家に入れることが苦痛だった。夏枝は陽子の友人に、快く応対する人間ではなかった。陽子はつとめて、親しい友をつくることを避けた。それは陽子にとって、淋しいことだった。
だが、いまは、陽子も心から安心して親しくなれる順子を得た。
「友だちといえば、その後、あの順子という子に、返事を書いたかね」
「書いたわ。昨日お返事が来ていたわ」
その手紙を見たいような気がした。その時、パラパラと大粒の雨が舗道に落ちてきた。
「あ、いけない」
車を拾おうとしたが、あいにくと空車は来ない。雨はみるみるうちに舗道をぬらしはじめた。
「ちょうどいい。役場に雨宿りしよう」
啓造は陽子の手を引いて、すぐそばの役場にかけこんだ。新築されて間もない庁舎だった。二人が雨宿りするのを待っていたかのように、雨は大きな音を立てて降り出し、白いしぶきを上げて、庁舎のコンクリートの庭をたたきつけた。むし暑さが、一挙に霧散するような豪快な雨だった。
「悪かったわ。歩きたいなんていって」
「なに、かまわないよ」
啓造はやさしくいった。この役場に陽子の出生届を出しに来た時のことが、ふと思い出された。届けようか、届けまいかと、啓造はこの役場の前を、行きつ戻りつしたものだった。当時は古い木造の庁舎だった。
佐石の娘を、自分の実子として入籍する辛さが、新たに胸に甦ってくる。今になっては愚かな悩みだったと思えても、あの時は真剣な思いだった。
たしかあの時、村井に言葉をかけられ、それがきっかけで、役場の中に入ったような気がする。あの時村井が現れなければ、入籍せずに帰ったかも知れないのだ。それほどに拒んだ陽子と、こうして雨宿りしていることさえ楽しい今の自分を、啓造はつくづくかえりみずにはいられなかった。
道を行く人影はない。向かいの店の軒先にも、何人か雨宿りをしている。啓造は雨に打たれている花壇のマリーゴールドを見つめていた。
「順子という子の親に会ったことがあるかね」
先ほどの雨はうそのように上がった堤防を、啓造と陽子は歩いていた。雲が散り、青空が大きく広がっている。美瑛川は少し濁っていた。この堤防をまっすぐ七、八町行くと、辻口家の裏の見本林に入る。少し遠回りだが、啓造の好きな道だった。
「一度順子さんのお家に、ちょっと伺ったことがあるの。おとうさまって、高木の小父さんに似て愉快な方よ。冗談ばかりおっしゃって。おかあさまも、とても朗らかな方だったわ」
「なるほど」
自分たち夫婦とはちがうと、啓造は陽子にすまない思いがした。自分たち夫婦は一見おだやかそうだが、決して朗らかではない。お互いの心の中には、絶えず不平や憎しみがうずまいている。いま、順子の親の印象を聞いて、明朗ということは大いなる美徳だと思った。堤防の道には、ところどころ空を写す水たまりがあった。
「その娘さんも、幸せな結婚をしてくれるといいがねえ」
徹を慕っている順子を思うと、啓造は複雑だった。
「そうねえ」
複雑な思いは陽子も同じだった。順子は徹と結婚できたら幸せかも知れない。陽子を佐石の娘と知りながらも結婚しようとした徹である。順子が佐石の娘であることは、徹にとって、大きな障害ではない。
「しかし徹のことは、あきらめてもらうより仕方がないね。徹よりいい青年は、いくらでも現れるだろうからね」
「……でも」
陽子は何かいいかけてやめた。
啓造は立ちどまって、川の流れを見つめた。川は盛り上がるようなうねりを見せながら流れて行く。広い川原には一面に夏草が伸びている。かつてこのあたりは、深い藪と林だったと思いながら、啓造はいった。
「陽子、人の心は変わりやすいものだが、一面、変えようと思っても、なかなか変わらない根強いところもあるものだね」
自然界ならば、木を倒し住宅を建てればすぐに様子は変わってしまう。だが、徹の陽子に対する気持ちは、変えようとしてもたやすくは変わるまい。あるいは村井の夏枝に対する気持ちにも、それに似たものがあるのかも知れない。そしてまた、自分の村井に対するうとましさも、生涯変わらずに終わるかも知れない。
「あら、おとうさん、つゆ草よ」
陽子のかがんだ傍に、雨にぬれた青いつゆ草が二、三本、草むらの中に可憐だった。啓造が少年のころによく摘んだ花だった。
「やはり自然界のほうが変わらないかな」
啓造がひとりごとのようにつぶやいた。
*ムッター Mutter ドイツ語で、母のこと。
石原
「あら、蛙よ、陽子さん」
順子が立ちどまって耳を傾けた。ひるの蛙が、ムラヤナ松のほうで、ものうく鳴いている。つぶらな目をくるりとして、蛙の声を聞いている順子を、啓造は感慨ぶかく眺めた。林の中を、折々さわやかな風が流れて行く。
昨夜、啓造は、何気なく受けた電話に、順子の声を聞いて驚いた。陽子はちょうど入浴中だった。親や店員たちと、天人峡に一泊旅行することになったが、自分だけは陽子のところに寄りたいという順子の電話だった。啓造はつとめて平静に応対したつもりだが、受話器を置くと、のどがからからに乾いていた。床についても、しばらくは眠れなかった。
今日は土曜日で、病院は午前だけだったが、その間もそわそわと落ちつかなかった。今度こそ、まさしく佐石の娘が訪ねてくるのだ。啓造は二十年前、乳児院で陽子を迎える時の、あのいい知れない不安と苦悩を思い出した。だが、いま順子を迎える啓造の気持ちは、あの時とは全くちがっていた。わが子を殺した犯人の娘を迎えるというよりは、不幸な一人の娘を迎えるという気持ちだった。
「家の近くで蛙の声を聞くなんて、うらやましいわ。わたしのうちは、車の音しか聞こえないのよ」
「向こうのドイツトーヒの林には、山鳩が啼いているかも知れませんよ」
「ほんとう? 小父さま。うれしいわ」
順子は飛び上がって手をたたいた。全身で喜んでいる順子に啓造は思わず微笑した。
三人はゆっくりと林の中の堤防に上がった。黄色い大きな菊いもの花が、堤防の下を埋め、斜面には宵待草とレッドクローバが咲きむれている。
「陽子さんのおうち、いいところにあるのねえ。毎日この林を散歩できたら、すてきだわ」
蝉が短く休止符を打ちながら鳴き、それに和するように、草の中でキリギリスが鳴いている。喜々として堤防の上に立っている順子を見ながら、啓造は、ここを佐石に連れられて歩いて行ったルリ子を思った。その道にいま、自分が佐石の娘と共に立っているのだ。
東の空に入道雲が浮かんでいる。暑い日ざしの中にも、どこかに秋の気配が漂っていた。啓造はふと、時間を超えたところに自分が立っているような錯覚を感じた。
(白昼夢……)
そんな言葉を思った時、ストローブ松の下を、急ぎ足で堤防に向かって来る夏枝に気づいて、啓造はぎくりとした。
(何かあったのか!?)
まさか順子が誰であるかに気づいたのではあるまい、と思いながらも、夏枝が堤防に上がって来るまで、啓造は息をつめるようにして、その姿を見つめていた。
「いやですわ。こわい顔でにらんでいらっしゃる」
啓造のそばに来た夏枝が、にっこりと笑った。
「いや、急患かと思ってね」
笑顔を見て、啓造はほっとした。
「わたくしも、順子さんとご一緒にと思いましたのよ」
「まあ、うれしいわ。小母さまもご一緒なんて」
順子はすぐ夏枝の手をとって、二、三度うれしそうに振った。
啓造や陽子が散歩に出る時でも、夏枝はめったに一緒に出ることはない。夏枝もまた、順子のくったくのない明るさに心をひかれたにちがいない。さっき病院から啓造が帰った時、既に順子は夏枝と打ちとけて、楽しそうに話していたのだ。
「山鳩のいる林に入ってみたいわ」
順子はそういって、夏枝の手をとったまま、ドイツトーヒの林のほうに降りて行った。陽子が不安そうに、啓造にささやいた。
「おかあさんに、順子さんのことをお知らせしなくてもいいかしら」
「どうして? 知らせたら大変なことになるよ」
「でも、ルリ子姉さんのこと、おかあさんはおっしゃるかも知れないわ」
「まさか。おかあさんは、他の人にはあまりルリ子のことを語りたがらないからね」
たしかに夏枝は、今まで他人に対して、ルリ子のことを話題にすることはめったになかった。ルリ子を語ることは、自分の恥辱を語ることなのだ。村井と二人になりたくて、ルリ子を外に出してしまったことは、夏枝にとって生涯いやすことのできない痛みのはずだった。まさか順子に語るまいと思いながらも、啓造はふいに不安になって、急いで夏枝と順子のあとを追った。
ドイツトーヒの林の中は、枝が空を遮ってうす暗く、今日は子供の声もしない。ひっそりと立つ木々の幹に、青い粉をふりかけたような苔が生え、木の根が静脈のように小道に浮き上がっている。一本一本の木が、意志を持ちながら沈黙しているかのように啓造には思われた。
「すばらしいわね、陽子さん」
森閑とした静けさの中に、夏枝と並んで佇んでいた順子が、はずんだ声を上げてふり返った。
「いいでしょう? 静かで」
「いいわね。それに、この木の線が竹のようにまっすぐで、何ともいえないの。ここにじっと半日もいたいみたいよ」
「でも、わたくしは、この林は暗くて少しこわい……」
夏枝がいいかけた時、二、三間向こうの木を何かが駆けのぼる気配がした。
「おお! りすだ、見てごらん」
啓造が指さした。
りすは一瞬、大きな尾でぴたりと幹をおさえて止まり、啓造たちのほうを見おろしたが、再びすばやく駆けのぼって梢のほうに姿を消した。
「りすまでいるのねえ」
順子は梢を見上げたまま、感嘆した。
「りすは、わたくしもめったに見たことがありませんのよ。この林の中には、あまり来たことがないものですから」
「あら、どうして? 小母さま。こんなにすてきな林なのに」
「ここの林は暗いでしょう。それに……」
夏枝はいいよどんだ。啓造はハッと夏枝の顔を見たが、
「家内はね、家から外に出るのがきらいでしてね。家の中で掃除をしたり、料理をしたりして、くるくると働くことのほうが、好きなんですよ」
「まあ! いい奥さまなのねえ、小母さまは」
「母は、お料理がとても上手よ」
「うらやましいわ、陽子さん。毎日おいしいものをいただけるのね」
一応は夏枝の口を封ずることができたと思いながらも、啓造の胸はしばらく静まらなかった。
「あら、あなた桑の実がありますわ」
「ああ、子供のころにはよく食べたものだよ」
「どんな味ですか、小父さま」
「甘ったるい味だったがねえ」
順子は手を伸ばして、黒い実を一つとると口に入れた。
「ほんと! 甘いわ。何だか遠い昔に一度食べたことがあるみたい」
「なるほど。遠い昔に食べたことがあるかも知れないねえ。自分は食べなくても、昔の人たちは、食べて来た味だからねえ」
啓造はできたら川辺に出ないで、戻りたかった。ルリ子の殺された川原を、順子に見せるにはしのびなかった。この見本林を見せることさえ苦痛なのだ。順子が林を見たいといった時、なぜ引きとめなかったのかと、啓造はいま、後悔さえしていた。といって、すぐ裏の林を見たいという順子に拒む理由もなかった。
(いや、何よりも家に訪ねることを断るべきだった)
順子の電話に驚きのあまり、ぜひ立ち寄るようにと、快い返事をしたことも悔やまれた。あいにく陽子は旅行中だと、あっさり断ったほうがよかった気もする。
とにかく、ルリ子は順子の父に殺されたのだ。その家に、そしらぬ顔で迎えたのは、何とも残酷だったような気がしてならなかった。
「さて帰ろうとしようか」
「あら、川まで出ましょうよ。十勝岳が見えて、きれいですわ」
何も知らぬ夏枝の声だった。
十勝岳は雲にかくれて見えなかったが、ゆるやかに蛇行する美瑛川の流れが、八月の陽を受けて、きらきらと輝いて美しかった。向かいの伊の沢の山の濃いみどりと、その上の入道雲の白が対照的だ。川下に釣り糸を垂れている人の姿が、置物のように動かない。
楽し気に話し合っている夏枝と順子のうしろ姿を見て、啓造は胸が痛んだ。夏枝は何も知らないのだ。順子もまた何も知らないのだ。それは、かつての夏枝と陽子の姿のようにも、啓造には思われた。
「順子さんのごきょうだいは?」
「わたし、一人っ子なの。ね、陽子さん」
「ええ」
「それで、のびのびと明るくお育ちになったんですのね」
「ま、そういうことになります」
順子はおどけた口調でいい、豊かな頬にえくぼを見せた。陽子はちらりと啓造を見た。
「こんないい方とお友だちになって、陽子ちゃん、よかったわね」
「ほんとうよ。大事な大事なお友だちよ」
「あら、わたしこそ、陽子さんのおかげで楽しいのよ。陽子さんって、人のうわさ話とか、悪口とか一切しないでしょう。わたし、そんな女のお友だちってはじめてよ」
「まあ、大変。おほめにあずかって」
「こんなにいいおとうさまと、おかあさまなんですもの。陽子さんも立派なわけよねえ」
夏枝の目に、ちらりと動く影を、啓造は見た。
「順子さんのご両親って、どんな方でしょう。お目にかかりたいと思いますわ。ね、あなた」
「ああ、お会いしてみたいね」
啓造は複雑な表情をした。
「明るい方たちよ。ご立派なの、おかあさん」
「あら、野菊がたくさん咲いているわ、陽子さん」
川岸の草むらに、うす紫の野菊が風に揺れている。
「ほんとうね。わたし、野菊って好きよ」
「わたしも好き。『野菊の墓』って、伊藤|左千夫《さちお》の小説を読んでから、大好きになったの」
「『野菊の墓』は、わたくしも読みましたわ。あら、萩の花もありますのね。ああ、あなた、わたくし、いいことを思いつきましたわ」
夏枝が腰をかがめて野菊の花を手折りはじめた。
「何になさるの、小母さま」
順子も共に手折りながら尋ねた。
「ほら、向こうに川原が見えるでしょう?」
夏枝が上手の広い川原を指さした。啓造と陽子はさっと顔色を変えた。
「あの川原に持って行きたいと思いますの。あそこで、わたくしの娘がなくなりましたのよ、順子さん」
「夏枝」
啓造はつとめておだやかに呼び、目顔《*めがお》で制した。夫婦ならば通ずるはずだと啓造は思った。だが夏枝は、不審そうに言葉に出した。
「何ですの? あなた」
口に出して答えられることではない。
「もう帰ろうじゃないか」
啓造はいたし方なくそういった。
「何かご用ですの? それなら、お先にお帰りくださって結構ですわ。わたくし、この野菊をルリ子ちゃんのあの場所に持って行ってあげたいんですの」
夏枝は啓造の心を察しなかった。
「まあ、この川でなくなったんですか。かわいそうに」
野菊を手折っていた順子が手をとめた。
「ええ、でもそれが、溺死などというただの死に方ではありませんの」
「夏枝!」
咎めるような啓造の声に、夏枝は眉をひそめた。
「そんな声でお呼びにならなくても、聞こえますわ、あなた」
啓造の困惑した顔に、順子はじっと目をとめた。
「はじめてのお客様に、つまらないことをいってはいけないね」
啓造は声を和《やわ》らげた。
「でも、順子さんは陽子ちゃんのお友だちですもの。ただの初対面の方とはちがいますわ」
この場に及んでは、啓造もそれ以上何もいえない。
(夏枝……)
啓造は祈る思いで、夏枝をみつめた。
「さあ、川原まで行きましょう、順子さん」
夏枝は野菊の花を胸にかかえて先に立った。川岸の笹藪に一人通れるほどの小道がついている。夏枝のあとに啓造がつづき、陽子がしんがりとなった。あれだけ強い声でたしなめたのだ。夏枝もこれ以上ルリ子の死について触れるまい。そう思いながらも、啓造は不安だった。
「陽子さん」
うつむいて啓造に従っていた順子が立ちどまった。
「なあに? 順子さん」
さりげなく答える陽子を、順子はちょっとみつめたが、
「ううん、何でもないの」
順子は再び歩き出した。
四人は川原に降りた。広い石原である。
「あなた、このあたりでしたわね」
「うん」
もう少し先のようにも思ったが、啓造はうなずいた。夏枝はかがんで野菊の束をそっと石原に置いた。順子も同じように野菊を置いた。陽子は萩の花を手に持ったまま、苦渋に満ちた啓造の顔を見た。
「かわいそうですわ、ルリ子は。ここにうつぶせになって死んでいたのが、昨日のことのようですわ」
誰へともなく、夏枝はいった。
「……たった三つの子の首をしめるなんて、佐石という男も、ひどいことをしたものですわ」
あっという間もなかった。啓造の体は硬直した。順子の顔がみるみるうちに、紙のように白くなった。
「あら! どうなさいましたの、順子さん。お顔の色が……」
おどろいた夏枝が、順子の肩に手を置いた。石原に置かれた野菊の花を、順子は凝然とみつめている。
「順子さん!」
再び夏枝が呼んだ時、順子はへたへたとその場に崩おれた。
「あなた! 診てさし上げて」
順子のそばにかがみこんだ夏枝が、おろおろと啓造を見上げた。啓造はじっと順子をみつめたまま、ゆっくりと頭を横にふった。何も知らぬ夏枝には、何が起きたのかわからなかった。
「順子さん、ごめんなさい」
陽子の顔色も蒼白だった。順子のうつろな目が動かない。
「ごめんなさい、おかあさん。順子さんは……」
夏枝にはまだ、事態がのみこめなかった。順子が佐石の娘などとは、夢にも思わぬ夏枝に、それは無理からぬことだった。
「一体どうしたの? 陽子ちゃん」
「あの……」
陽子の目がおよいだ。そのあとの沈黙が、啓造には長かった。やがて順子の唇がかすかに動いた。
「ごめんなさい。ルリ子ちゃんを殺したのは、わたしの父です」
「?……」
夏枝は聞きちがいかと思った。
「わたし、佐石土雄の娘です」
いったかと思うと、順子は石原に顔を伏せた。
「え、佐石の!?」
驚愕した夏枝の表情を、啓造は立ったままぼんやりと見おろした。陽子が順子の背に手を置いて何かいっている。啓造は悪夢を見ている心地だった。頭の動きが、一切停止したような状態……こんな感じがいつかもあったような気がした。
(そうだ。この川原だった)
ルリ子の死体をひざに抱いて、この石原にべったりとすわりこんでいた二十年前に似た心地だった。
順子が顔を上げた。
「わたしを、どのようにでもなさってください。わたしの父の罪を、わたしはおわびしたいと思って、生きて来たのですから」
啓造はハッと吾に返った。石原に置かれた野菊の花が、風に細かくふるえていた。
奏楽
オルガンの奏楽が、教会堂の中に鳴りわたっていた。夜の礼拝のせいか、人数は少なかったが、それでも二十二、三人の男女が、静かに頭を垂れていた。九月の夜風が、古びた窓から流れ、しっくいの高い天井に吊された電灯がいくつか、おだやかな光を放っている。
(遂に来た!)
啓造はしみじみとそう思った。六条十丁目のこの教会の前を、啓造は四年ほど前にうろついたことがあった。その時は何としても入れなかった。あれから今日まで、いく度教会を訪ねたいと思ったことだろう。その度に啓造はためらってやめた。それが、今日遂に来ることができたのだ。
(あの娘のおかげだ)
啓造は、石原での、あの日のことを思った。
順子が佐石の娘であると知った夏枝の驚きは大きかった。驚きのあまり、夏枝はしばらく口もきけなかった。ただまじまじと、順子を見つめるばかりだった。ルリ子の殺された川原で、佐石の娘だといってひれ伏した順子の姿は、夏枝にはあまりにも強烈であった。
が、事件から既に二十年を経たということもある。何年も陽子を佐石の娘と信じて、憎みつづけたという過去もある。しかも、その陽子が、同じこの川原で自殺を図ったという事実もある。その過ぎた歳月の中で、犯人への憎しみも、いつしかうすらいでいた夏枝には、順子の出現は驚きではあっても、憎しみをそそる結果にはならなかった。かえって、川原に打ち伏した順子に、夏枝は同情さえした。
陽子は、順子に真実を打ち明けなかったことを後悔してあやまった。その時順子はいった。
「陽子さん、わたしがあなたの立場なら、やはり本当のことはいえなかったと思うわ。だから、わたしにすまながることはないのよ。それよりも、わたしは父の罪をおわびしたいと願い続けてきたの。神さまにも人にも許していただきたかったの、こうしておわびできて、どんなに気が楽になったか知れないわ」
啓造はこの言葉を聞いた時、わびることのすがすがしさを感じた。確かに、神にも人にも一切をわびたなら、どんなに心が晴れることだろう。自分の心の中には、今までの半生にわびなかったもろもろのことが、おりのように一杯につまっているような気がする。自分も教会に行きたい。行って、順子のように、神と人との前にわびる心を与えられたいと、啓造はつくづく思ったのだった。
しかし、教会に来た動機はそれだけではなかった。あの日以来一カ月、夏枝はずっと不機嫌だった。啓造にも陽子にも、用事以外口をきかなかった。それが、遂に爆発したのだった。
夏休みを終えた陽子が、明日は札幌に帰るという夜、
「おかあさん、おにいさんに何かことづけがありますか」
夕食後のりんごをむきながら、陽子が尋ねた。
「ありません」
夏枝は切り口上に鋭くいった。
「夏枝、もっとやさしくものがいえないのかね。このごろは、いつもの夏枝らしくないじゃないか」
啓造が見かねていった。夏枝は冷たい微笑を浮かべて、啓造と陽子を交互に見た。
「なぜやさしくお話ができないのか、あなただって、陽子ちゃんだって、わかっていらっしゃるはずですわ」
「わからないね、わたしには」
「そうですの。でも、陽子ちゃん、あなたはわかるでしょう」
「夏枝、お前はまだ、順子さんの手紙を見せなかったことを怒っているのかね。あのことは、陽子だって、わたしだって、すぐにあやまったじゃないか」
それは順子の前でも、順子が帰ったあとでも、充分にあやまったことだった。
「あなたたちは、あやまったつもりかも知れませんけれど、わたくしはあやまられたような気がしませんわ。それは陽子ちゃんだって、自殺をさせるようなことをしたわたくしが憎いかも知れませんけれどね。一言、順子さんが佐石の子だと知らせてくれても、罰は当たらないと思いますわ」
「すみません。わたし、おかあさんを驚かせてはいけないと思って……」
「うそをおっしゃい。陽子ちゃんは、わたくしを頭から信用していないのですわ。多分陽子ちゃんは、わたくしが順子さんにも佐石の娘だとののしるにちがいないと心配していたのでしょうけれど、でも……」
「つまらないことをいうものじゃない。そんなことを、陽子が思うわけがないじゃないか」
「陽子ちゃんばかりじゃありませんわ。あなただって、わたくしに手紙のことは一言もおっしゃらなかったではありませんか。それは一体、どういうわけですの」
「それは、前にもいったとおり、夏枝には刺激の強すぎる話だからね」
「うそですわ。あなたも、陽子ちゃんと同じように、わたくしを信用できない人間だとお思いになっていらっしゃるからですわ。あなたは、妻のわたくしより、陽子ちゃんと気持ちがそろうお方なんですのね」
夏枝の言葉には毒があった。啓造は狼狽して、
「ばかも休み休みいいなさい。たしかに、あの手紙を夏枝に見せなかったのは、悪かった。しかし、別段悪気があったことじゃないんだ」
夏枝の態度は、あくまで強硬だった。
「いいえ、悪気がないのなら、なぜ見せてくださいませんの。わたくしはルリ子の母ですわ。あの手紙を見る資格がないとは、思えませんわ」
「ごめんなさい、おかあさん。わたしが悪かったのです」
陽子は畳に手をついて頭を下げた。
「いいのよ、あやまってなんかほしくはないの。陽子ちゃんには、どんなに恨まれても仕方のないことを、わたくしはしているんですからね。陽子ちゃんを責める資格は、おかあさんにはありません。でも」
と、夏枝は啓造のほうに向きなおった。
「あなた、あなたまで、わたくしに秘密をつくることはないじゃありませんか。いくら陽子ちゃんにこっそり見せてもらった手紙でも、わたくしに黙っていらっしゃることは、ないじゃありませんか」
疎外された夏枝は、同じことをいく度もくり返して、決して引きさがろうとはしない。
「くどいね、君も。もういいじゃないか」
「くどいのは、あなたに似たのですわ。もういいとあなたはおっしゃいますけれど、わたくしには大きな問題ですわ」
「君には大きな問題でも、吾々には他意がなかったんだ」
「では、あなたは、わたくしは信用されない存在で、いいとおっしゃいますのね」
「別段、そんなことはいってはいないよ。順子さんの秘密を守ってやろうと思ったまでだ」
「ああ! やっぱりそうですの。わたくしには秘密を守る力がないとおっしゃいますのね」
「まあ、そう思いたければ、そう思ってもいい。お前は秘密を守りきれなかった女だからね」
啓造は遂にそういった。
「なるほど、あなたは、佐石の娘をもらいたいなどと高木さんにいった秘密を、最後までお守りになった恐ろしい方ですものね」
夏枝は勝ち誇ったように応酬した。
「…………」
「あなたは、とにかくわたくしよりも陽子ちゃんのほうが大事なのですわ。この間も、出勤の時、わたくしが見送っておりましたのに、ふり返りもなさらないで、陽子ちゃんと楽しそうに、お話をして行っておしまいになりましたわ」
夏枝は確かに、朝々玄関の外まで見送る。だが、啓造がふり返る時は、もう姿がないのが常だった。
オルガンの奏楽がやんだ。啓造は吾にかえった。一番前の席にすわっていた背の高い男が、講壇の下のテーブルの前に立った。めがねの奥の細い目が柔和だった。
「賛詠五四六番をうたいます」
早口にその司会者はいった。
再びオルガンが奏され、一同が立ち上がった。
「聖なるかな、聖なるかな……」
学生時代、英語を学ぶために宣教師のところに通ったことのある啓造には、聞きおぼえのある歌だった。が、信者たちと共に歌いながらも、啓造は何となく落ちつかなかった。
今、受付で啓造は自分の名を記してきた。辻口病院の名は、旭川とその近郊に住むほとんどの人に知られていた。院長の啓造の名もかなり知られている。辻口病院の院長が、なぜ教会に来たのか、好奇の目で見られるのではないか。啓造はふとそんなことを思った。
いつの間にか賛詠の斉唱が終わって、聖書朗読に移った。司会者の告げた「ルカによる福音書」十八章のページを啓造は探した。近くにいた中年の婦人が、すっと寄ってきて、探しているページをすばやく開いてくれた。啓造はその親切にちょっと頭を下げたが、放っておいてくれたほうが気楽な気もした。
みんなが聖書をひらくのを待って、司会者は静かに読みはじめた。
〈自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちに対して、イエスはまたこの譬たとえをお話しになった。
「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりは|パ《*》リサイ人びとであり、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った。神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、またこの取税人のような人間でもないことを感謝します。わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています≠ニころが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った。神様、罪人のわたしをおゆるしください≠ニ。あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」〉
つづいて司会者が祈り、
「今日は坂井ヒロ子さんに証詞あかしをしていただきます」
といった。
白いブラウスに、うすいブルーのカーディガンを着た若い女性が、席を立って前に出て行った。牧師の話があるとばかり思っていた啓造は少しがっかりした。若い女の子の語る話などは、たかが知れているような気がした。
「わたくしは、社会福祉科で四年間学び、ことし、老人ホームに勤めました」
無駄のない話し方だが、抑揚のある声音が魅力的だった。啓造は育児院に奉仕していた陽子を思いながら、腕を組んだ。年ごろも、陽子といくつもちがわない。ぬれた唇の間に白い歯が健康そうであった。
若い女性は、時折天井を見上げたり、髪に手をやったりしながらも、話しつづけた。
自分は最初、人から勤務先を尋ねられる度に、得意になって老人ホームだと答えた。自分は不幸な人々の手足になっているのだという気負いがあり、誇りがあった。確かにそれが自分を張り切って働かせることになってはいた。しかし、その底には、人にほめられたいという下心がうごめいていた。自分は次第にうしろめたい気持ちになり、不純な自分に耐えられなくなっていった。ある日、聖書で偶然次の言葉を読んだ。
〈たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である〉
ここを読んで、自分は老人ホームの人々を愛していたのではなく、老人ホームに勤めている感心な人間だとほめられたいために働いていたのだと、はっきり指摘されたような気がした。
若い女性はそんな話を、てらわずに熱心な口調で十五分ほど語った。啓造は、その若さの伝わってくるような話に、いつしか耳を傾けていたが、全財産を人に施しても、体を焼かれても、愛がなければ一切は無益だという言葉を、心にとめずにはいられなかった。
陽子を引きとって育てたのは、無論、愛の故ではなく、夏枝に対する憎しみのためであり、病院を経営していることも、患者への愛の故ではなく、いわば生活のためである。とすれば、自分の一生は結局は無益なものになるのかと、何かわびしい心地になった。
背広姿の牧師が、テーブルの前に立った。まだ三十をいくつも越えていない若さに、啓造は少し心もとない感じがした。信者たちの中には、うしろから見ても、明らかに六十代、七十代と思われる年配の人が二、三人いた。こんな人生経験を経てきた人々までが、この若い牧師の話に耳を傾けるのかと、啓造は驚きを感じた。
「今日のテキストを読んで、皆さんは、自分がどちらの人間だと思いましたか。わたしならこのパリサイ人のような傲慢な祈りはしないと思いましたか」
人々は顔を見合わせ、声に出して笑った。牧師も笑った。が、啓造はまだ笑えるほどに、教会の雰囲気にとけこむことはできなかった。笑えない自分だけが、一人その圏外にあるような気がした。
「……自分は正しいと思いたい思い、人間にとってこれほど根強い思いはないと思います」
牧師は啓造を見た。啓造は一瞬ヒヤリとした。澄んで美しい目だ。しかし鋭い目の光だった。啓造は何か心を見透かされたような気がした。が、視線が合って、はじめて啓造の気持ちは落ちついたようであった。
教会堂を出た啓造は、プラタナスの並木が街灯にてらされている舗道に立った時、ようやくほっとして、たばこに火をつけた。啓造は何となく会堂をふり仰いだ。
礼拝のあと、司会者は、
「はじめておいでになった方を、ご紹介いたします」
といって、啓造の名を呼んだ。まさか名前を呼ばれようとは予期しなかったから、啓造はいささか困惑して立ち上がった。好意のある拍手が起こった。啓造は軽く頭を下げてすわった。すわってから、いま自分は仏頂面をしていたのではないかと気になった。
「よくいらっしゃいました。牧師の川谷です」
牧師が近よってきていった。
「はじめまして、どうも結構なお話を、ありがとうございました」
啓造はていねいに挨拶した。さきほど聖書をひらいてくれた女性がいった。
「まあ、辻口先生、お久しぶりでございます」
以前に入院していた患者だった。悪いところを見つかったような気もしたが、知人がいたことは、やはりうれしかった。
啓造は、うす暗い六条通りをぶらぶらと歩きながら、やはり教会に来てよかったと思った。今まで、教会に来るのをためらっていたのが、ふしぎな気がした。
いま聞いた説教を反すうしながら、陽子に手紙で今日の話を知らせてやりたいと、啓造は思った。
「人間は、自分を正しいと思いたい者です」
「あいつの良心は、と見下げ、見下げることによって、自分の正しさを主張し〈どいつもこいつもろくな者でない〉と飛躍する人間」
「低い正義感の人間は、他人を見下げる」
それらの鋭い言葉の一つ一つが、牧師の口から出たとき、啓造は牧師が自分より十何歳も若いということを忘れた。
「では、どれだけ正義感が高ければよいのか。これは現実的に秩序だてられない。正義の基準は現実にはない。聖書の基準の正義に帰るより仕方がない」
しかし、人間は、あくまで自分を正義の基準とすると牧師はいった。自分を絶対の基準とし、それより高い者をも、低い者をも、嘲笑する。例えば中学生などが学校で掃除当番をさぼろうといい出したとする。全員が賛成なら文句はないが、一人だけさぼらぬ人間がいると「いやな奴だ」と冷笑する。かつて自分も、ある職場で、一日しか出張しない係長に、旅費を二日分として計算せよといわれ、拒否すると、「文句をいうな」と叱られたことがあったと、牧師はその経験を語った。
自分がこの世の正しさの基準だと思っているのが、人間の世の中だというのは、まさしく本当だと啓造は感じ入った。
「六条教会に行ってきたよ」
啓造は迎えに出た夏枝に、はっきりといった。出かける時は、
「ちょっと出てくる」
と、あいまいだった。
「教会へですか」
夏枝は冷たく笑った。啓造はむっとした。夏枝には教会へ行った自分がおかしいのだ。
(なるほど、これが自分を正しさの絶対的基準で人を見るという目だ)
啓造は心の中でつぶやいた。他の人のすることはおかしいのが人間なのだと、啓造は思った。
「どんなお話がありましたの」
夏枝は着替えを手伝いながらいった。
≪愛不在で正義を求めるものには救いはない≫
といった牧師の言葉を、啓造は思い浮かべた。自分たち夫婦が、どこかしっくりと行かないのは、常に相手を正しくないとして責めているからだ。相手を正しくないというのは、自分は正しいと思っていることなのだ。冷たい気持ちで正義を求めても救いはないのだと、啓造は、少し気持ちを和らげていった。
「自分を善いとか、正しいとか思っている人たちの家庭には、けんかが絶えない。自分が悪かった、まちがっていたと思っていて、けんかになることはない、というような話もあったよ」
「それはいいお話ですこと。あなた、もう、これからはわたくしを悪い女だという目では、ごらんにならないでしょうね」
夏枝は嘲笑するように啓造を見た。啓造はだまって、茶の間に入って行った。
「お帰りなさい、先生」
浜子が番茶を運んできた。
「ああ、ただいま」
啓造はやさしく答えて、
「浜ちゃんは聖書を持っているかね」
「いいえ」
「こんど買ってきてあげよう。読んでごらん」
浜子はにっこりとうなずいて台所に去った。
「教会にいらっしゃったら、急にご親切になりましたわね。辰子さんのところにお寄りになりましたの」
ソファにすわった啓造を夏枝は見上げた。六条教会は辰子の家の近くにある。由香子のところに寄ったと、夏枝はかんぐったのかも知れない。
啓造は黙ってお茶を飲んだ。せっかく、すがすがしい気持ちで帰って来たのだ。下手に夏枝の相手になっては、すぐにもとの生活にひきずり戻されるような気がする。
〈たとえ全財産を施しても、体を焼かれるために渡しても、愛がなければいっさいは無益である〉
さきほど教会で聞いた聖書の言葉を、啓造はじっと思い返していた。
*目顔で制した 目つきで人に意思表示する動作の一種。「目顔で知らせる」などの使い方もする。
*パリサイ人 紀元前二世紀後半に起こったユダヤ教の一派。モーセの律法を厳格に守り、そむく者を排斥した。イエスはその偽善を厳しく糾弾した。
京の水
南禅寺の三門をあとに啓造と高木は、ぶらぶらと石畳の坂を降りて来た。道の右側に小さな流れがさらさらと音を立てている。
「石川五右衛門は、あの三門の楼上で〈絶景かな絶景かな〉といったそうだが、今の時代ならいわんだろうな。今は飛行機やらタワーやらで、高い所が珍しくなくなったからな」
「そうだね」
「おれのような不粋なものには、寺などわからんな。ところで辻口、寺というところは、建物を見に来るところなのか」
「本来はちがうだろうね」
「なら、庭がどうの、建物がどうのと、わからんでもかまわないだろう」
啓造は苦笑した。
小旗を持ったガイドの後に、ぞろぞろと観光客の一団がつづいて行く。学生たちや女たちも、三三五五、啓造らとすれちがった。啓造はふと流れのそばに立った。幅一尺ぐらいか、側溝ともいえぬほどの浅い流れである。
「何だ?」
「うん、水の音がいい、おや?」
啓造は流れの中に何かが動いたように思って、かがんだ。しいたけに似た色のサワガニが、流れにさからって、岸の石づたいに歩いている。
「サワガニだよ、高木」
「ほんとうだ」
高木もかがみこんだ。黄色い木の葉が、サワガニのそばを流れて行った。カニは右のはさみを抱えるようにして、横に歩いて行く。石の間に来て、カニはそこに身をかくした。かくしたかと思うと、またはさみをかかえるようにして、流れをゆっくりさかのぼって行く。あたたかい秋の日ざしの中に、啓造はやさしい心持ちになった。
「カニは横に歩くんだね」
「当たり前だ。カニは横に歩くのが当然だ」
「そうだろうね。横に歩いているとは、カニは思ってもいないだろうね」
「なあんだ。また辻口哲学か」
高木は笑った。カニは次の石の陰にも入って行った。
「安住の地を求めているのかね」
「なあに、石の間に小虫か何かいるんだろう。人間と同じさ。えさのあるところにしか、よりつかんのさ」
「そうか。とにかく食べるために、必死になって生きているんだなあ」
再びサワガニは岸にそって、流れをさかのぼりはじめた。
「あら、小さなカニよ。天ぷらにしたらおいしそうよ」
女が二人立ちどまって、すぐに去った。
「おい辻口、お前は京都にサワガニを見に来たのか。京都にはもっと他に見るものがあるんだぞ」
高木が立ち上がったが、啓造はカニから目を離さなかった。
啓造と高木は、南禅寺から清水寺にまわった。茶器、京人形、七味唐がらし、日傘、扇子などのみやげ物屋が両側にぎっしりとひしめく、せまい清水坂には客が溢れていた。その中を自動車が走る。
「北海道なら、こんな小路みたいな道を車は走らないぜ。無茶だな」
高木は、辛うじて車をやり過ごす度に目をむいた。
京人形のやさしい眉をウインドーに眺めながら、啓造は自分がいま、京都に来ていることがふしぎだった。もう一人の自分が、旭川の辻口病院で、患者の診察をしているような気がする。
「おい、辻口、蛇の目傘がある。蛇の目なんて、まだあったんだなあ」
高木の指さす店先に、古い灯籠が何基かおかれ、その上に細身の蛇の目傘が四、五本ぶらさがっていた。
「ほう、珍しいね。近ごろは見たことがないね」
「そうだ、夏枝さんに買って行ってやれよ。あのひとが蛇の目傘をさしたところなんて、なかなか乙じゃないか。きっと喜ぶぜ」
「しかし、道中邪魔だからね」
「罰当たりなことをいう奴だ。京都に来れたのは、夏枝さんのおかげじゃないか」
「夏枝の?」
啓造はけげんそうに高木を見た。
半月ほど前、高木は啓造の家にぶらりと現れた。そして、大阪で開かれる内科の学会に出るようにすすめた。病院が忙しくて手放せないという啓造に、高木はいった。
「お前は京都を見たいとよくいってたじゃないか。チャンスだよ。医者なんて、ろくろく旅行のできない因果な稼業だ。おれたちの同期には、卒業以来東京から西を見たことのない奴が、案外多いからな」
「しかし、大阪まではちょっと遠いね」
啓造はしぶった。
「何が遠いものか。札幌から飛行機で一飛びだ。お前が行くなら、おれもつきあうぜ」
「内科の学会に?」
「まさか。大阪、京都の見物にだ。サロベツでは由香子という、おみやげがあったが、京都にだって、どんなでっかい京人形が待っているか、人生これで、なかなか楽しいものだ」
高木の病院には、しっかり者の副院長瀬戸井がいる。啓造にしても、一週間ぐらいなら、留守にできないわけでもない。
「院長などというのは、たまには旅に出てくれたほうが、部下はありがたいというものだ」
高木が共に行くということで、啓造は心が動いて出て来たつもりだった。
「実はな、辻口。京都に連れ出してくれといったのは夏枝さんだよ」
「なぜ夏枝は、そんなことを君に頼んだのかね」
啓造は蛇の目傘の前を離れた。
「夏枝さんは、辻口がノイローゼじゃないかと心配しているんだ」
「ノイローゼ?」
二人は人におされるように坂を登って行った。どの店にも観光客がむらがっている。そんなみやげ物の店と店の間に、ぽっかり穴のあいたような静かな店があった。一つで口が一杯になってしまいそうな大きな飴玉や、きなこねじ、塩せんべいなどが、ひっそりと古い什器に入れてある。ほかのみやげ物屋のように騒々しくなく、ただ、昔なつかしさだけが薄暗い店先にただよっていた。
「ああ、ノイローゼも重症じゃないかと夏枝さんは心配して、おれに電話して来たんだ。何でも順子ちゃんが帰ってから、お前はろくに夏枝さんと口もきかずに、毎日何か考えこんでいたそうじゃないか」
「そうかね。いつもと同じつもりだったが」
あの川原で、野菊の上にうち伏した順子の姿が、絶えず目についてならなかったのは、たしかだった。どんなにか大きな心の痛手を受けたであろうと、思いやるさえ辛かった。そんなことで、あるいは自分でも気づかずに無口になっていたかも知れない。
「いや、そんな話じゃなかったな。食欲もあまりなかったというし、夜中にむっくり起き上がって、ぼんやり仏壇の前にすわっていたりしたそうじゃないか。夏枝さん大分心配したようだ。よほど高橋精神科にでも相談しようかと思ったらしいぞ」
啓造は苦笑した。
「ま、持つべきものはフラウだな。おっ、辻口、とうきびを売ってるぜ、これは傑作だ」
ジーパンをはいた男が二、三人、屋台でとうきびを焼きながら、大きな声で呼びかけていた。「札幌直送」と朱書した貼り紙がある。
「京都に来て、北海道のとうきびを食べるか」
高木は愉快そうに笑った。
「ところで、〈姫のお伴で清水へ〉とかいう、一寸法師の唱歌があったね」
「ああ、あったあった。そうか、〈清水坂に鬼が一匹現れいでて〉というのは、おい、このあたりだ。うち出の小づちを落として鬼が逃げたというが、いまじゃ、鬼も進化して、角のない鬼が多くなったな。どうもどれが人やら鬼やら、区別がつかんよ」
「いや、鬼とは人のことじゃないのかね。誰もが鬼になる心を、うちにかくして持っているような気がするよ」
日ざしが背中に暑いほどだった。
逆光線の中に、清水寺の本堂がくっきりと浮かんでいる。栗色の檜皮葺《ひわだぶき》の屋根の色が、啓造の目にしみた。啓造は今、奥の院の手すりによって、深い谷にへだてられた向かいの本堂を眺めていた。
「写真をとられる時の顔って、おもしろいものだな」
高木にいわれてふり返ると、三十人ほどの男や女が、とりつくろった顔でカメラに向かっていた。誰もが教えられたように、共通な表情をしている。自分を意識し、自分をよく見せようとする時、人間はみなあのような顔をするのか。多分自分もまた同じ顔をするにちがいない。
写真をとり終わったとたん、人々の顔に、命が入ったような生き生きした表情がもどった。それは、今までのとりすました、ややけわしい表情より、ずっと美しい顔だった。
「自分を意識するというのは、醜いことなのかね」
「くだらん精神状態の部類だろうな」
高木はにやにや笑って、啓造を見た。自意識の強い自分の性格を指摘されたようで、啓造は恥じた。
二人はぶらぶらと、裏手の暗い山道に降りて行った。つやつやと光るこの厚手の葉は、何の葉かと啓造が立ちどまると、
「おい、これを見ろよ。おれの手の上に、十五、六枚並びそうじゃないか」
高木が掌にのせた楓の葉を指さした。
「こっちの楓は、全く小さいな。北海道とはちがう。おれは、どうも小さいのに弱いんだ」
「なるほどね。小さいものが、君の泣きどころか」
乳児院の嘱託として、長いことよく世話をして来た高木を思いながら、啓造はいった。
「まさに泣きどころだな。京都ってところは、茶屋の座布団まで、普通の四分の一ぐらいしかない。茶のみ茶碗も小さいし、何だか小人の国へでも来たようだぜ。町家の入り口なんて、おれのようなでかい図体じゃ、入りそうもないしな」
細やかな葉が重なり合う楓を、啓造は見上げた。笹の葉といい、この楓といい、肌理《きめ》が細やかで、気持ちがやさしくなる。荒々しい自然や、あの厳しい寒さの中で育った北海道人は、幾代か後には、この関西に育つ人間とはちがった人種に変わって行くように、啓造には思われた。
「ギイッギイッ」
聞いたことのない鳥の声が頭上でした。
「何だい?」
「さてね、京都にふさわしからぬ鳥の声だね」
「騒々しい啼き声だな」
啓造はふっと、陽子とこのうす暗いほどの山道を歩きたい気がした。辰子とでもいい。が、夏枝と歩きたいとは思わなかった。
「何という鳥ですか。あの啼き声は」
高木が、うしろから二人を追いこそうとした登山帽の青年に尋ねた。
「さあ、何の鳥ですかねえ」
青年はそっけなくいって過ぎた。つづいて若い男と女が、子供のように手をつなぎ、軽やかな足どりでやって来た。
「すみませんが、あのギイッギイッ啼いている鳥の名を、教えてくれませんか」
再び高木が尋ねた。若い二人は、顔を見合わせ、
「わからへんなあ」
と、去って行った。
「わからへんって、この土地の人間だろうにな」
「街の中では、鳥の声も聞かずに育つのかも知れないね」
「わからんとなれば、一層知りたくなるものだ」
木の間越しに、清水の舞台が一段と高く見える。ビルの四、五階ほどの高さもあろうか。「清水の舞台から飛び降りたつもりで」という語ができたのも、なるほどとうなずける。啓造は、二抱えも三抱えもある巨大な柱を、この谷で組み立てた職人たちの必死な息づかいや、したたる汗をありありと想像することができた。この工事で死んだ者、けがした者の姿も思った。先ほどの南禅寺で、狩野探幽《かのうたんゆう》の虎の絵をふすまに見た時も、啓造はその絵を描いた探幽の面魂を見、気魄を感じて来た。
旭川に生まれ、旭川に住んでいる啓造には、祖父の代にまでしか、さかのぼるべき歴史がない。それ以前の北海道は原始林だった。無論アイヌ民族の歴史はあった。が、先祖の残した建築や、絵や彫刻といっても、古くて七、八十年以前のものに過ぎない。いわば啓造と世紀を一つにする、ついこの間のものだった。
啓造は京都に来て、何百年も前の時代を、直接肌に触れて感ずる生活が、現実にあることを初めて経験したような気がした。街並みにしても、昨日見た孤篷庵《こほうあん》の敷石一つにしても、何百年か前の息吹があった。画集や書物でしか触れ得なかったものが、現実に息づいている。それは旭川に生まれ、旭川に住んで五十になった啓造には、新鮮なおどろきであった。
「おい、あの老人なら、あの鳥の名がわかるだろうな」
高木がささやいた。見ると前方から一人の老人が杖をつき、足をするような不自由な歩き方でやって来た。グレイのセーターを着、くたびれたズボンをはいた痩身の老人は、半眼の無表情な顔で二人のほうに近づいてくる。啓造は近よって、ていねいに頭を下げた。
「つかぬことをお尋ねしますが、いま啼いていますあの鳥は何という鳥でしょうか」
老人は黙って杖に両手を置き、じっと目をつむった。一分、二分、老人は身動きもしない。やがて老人は、再び半眼を開き静かにいって頭を垂れた。
「すみません」
老人の口から出た言葉は「すみません」の一語だった。しかしその一語には、深い心がこもっていた。啓造は、去って行く老人の後ろ姿をつくづくと見送った。行きずりの人間に鳥の名を尋ねられて、あんなにも一心に耳を傾け、そして、その名がわからないからといって、悪いことでもしたように深々と頭を垂れる。そんな人間がこの世にあろうとは、啓造はいまだかつて想像したこともなかった。
ほんの一、二分の間に、こんなにも人の心に沁みる触れ方のできる人間がいたのかと、啓造は老人が山道のゆるやかなカーブのかげに見えなくなるまで、じっと見送っていた。
「驚いた人だね」
「うん、大変な一生を過ごしてきた人だぜ、あれは。一つ一つ、ああ真剣にとり組んでいたんではさぞくたびれることだろうな」
高木も心にこたえたようだった。
鳥の声もいつしか遠ざかっていた。二人はまた、なだらかな山道をくだって行った。
「しかしな、鳥の名を尋ねられて、何もあんなにすまながることはないんだぜ。尋ねたこちとらのほうが、悪かったような気がして恐れ入るじゃないか」
「それもそうだが……」
自分たちには、あまりにもすまながる思いが少なすぎると啓造は思う。特に陽子に対しては、わびてもわびてもわびきれないはずだった。もし今の老人が自分の立場なら、どんなふうにして、陽子にわびをいうだろう。妻への復讐のために、陽子を育てたという恐ろしい事実に、今の老人なら、生きてはいられないほどのすまなさに、かりたてられるのではないか。死んでわびねばならぬほどの罪を犯しながら、自分は平気で生きていると、つくづく啓造は思った。
「辻口も、あの老人に似たところがあるからな、気をつけないとくたびれすぎるぜ」
「似ているかね。わたしは、少し似たいものだと思っていたところだ」
「冗談じゃない。鳥の名を聞いたり、花の名を聞いたりするたびに、一々あんなに申し訳のない顔をされちゃ、こっちまでがくたびれる」
高木が笑った。
「おや、今度はカラスかね」
「いやに無気味な啼き声じゃないか。何かあるな」
二人は少し急ぎ足になった。山道を降りきって、右手に小さな地蔵が何基か捨てられたように置かれている。
一羽のカラスが、その地蔵の前を大きく羽ばたき、時々地上に降りたかと思うと、すぐに飛び上がっては、ギャアギャアといやな声をあげている。人々が、それを遠まきにして、じっと眺めていた。
人々の視線は、苔の上にとぐろをまいた小さな蛇に向けられていた。その蛇のまわりを、カラスが威嚇するように大きく羽ばたきながら、飛びはねているのだ。カラスの動きにつれて、蛇の鎌首が向きを変える。
隙を見たのか、カラスがさっと挑みかかろうとした。と、その前に、蛇は矢のように宙を飛んでカラスを襲った。炎のように、ちらりと赤い舌が動いた。ひるんだカラスが飛びすさった時、蛇は既に再びとぐろを巻いていた。
「真剣勝負だな、食うか食われるかだ」
高木がつぶやいた。一度蛇に逆襲されたカラスは、容易に蛇に近づこうとせず、無気味な声を立てるばかりだ。蛇も微動だにしない。
しびれを切らした幾人かが立ち去ろうとした時だった。目にもとまらぬす早さで飛び降りたカラスは、蛇の細い尾をくわえて飛び上がった。
「やった!」
人々がハッと息をのんだ。が、二、三メートル宙に持ち上げたばかりで、カラスはなぜか蛇をふり落とし、木の枝にとまった。
「あきらめたのかな」
高木がカラスを見ていった。じっと蛇を見おろすカラスの目がたけだけしかった。青い苔の中に、蛇もまた苔に化したように動かない。
やがて人々は立ち去った。あきらめたのか、遂にカラスも飛び去った。が、蛇と蛇を見つめる啓造だけが、なおも動こうとしない。苔の上に、夕光がさしている。
「おい、行こうか」
たばこをくゆらしながら、高木が促した。
「うん」
啓造はやはりかがみこんだまま、蛇を見つめている。ややしばらくして、蛇はとぐろをほどき、するすると地蔵のかげにかくれて行った。
「あれは何蛇かね。ずいぶん長いことカラスを警戒して動かなかったね」
やっと啓造が立ち上がった。
「辻口というやつはあきれた男だな。サワガニといい、蛇といい、納得のいくまで眺めている。最後まで動かなかったのは、蛇よりも辻口じゃないか」
「時間をとらせて、すまなかった」
こんな自分につき合ってくれている高木の気長さに、啓造は改めて気づいた。
「しかし、真剣な姿というのは打たれるね」
人間学ぶつもりなら、カニからでも蛇からでも学べるものだと啓造は思った。
「さて、今夜は祇園にでも遊ぶとするか」
「祇園?」
啓造は気のすすまぬ顔をした。陽子の顔がふと胸に浮かんだ。
「夏枝さんは、祇園でも、どこへでも、連れ出してくれといってたぜ」
啓造は苦笑して、いま蛇のいたあたりを振り返った。
「三泊じゃ短過ぎたな」
ホテルを出て二百メートルも行かぬところに、鴨川が流れている。二人は橋のらんかんによって、朝早い京都の街に名残を惜しんでいた。うす曇りの中に、東山の峰々がまだ眠っているようだった。
「全く早かったよ。三日や四日じゃ、京都はわからないだろうね」
「それはまあ、そうだろう。住んでみなけりゃわからない。いや、住んでみたところでわからない。わかるというのは、きりのないものだ。しかし、寺も見た、仏像も見た、祇園も高瀬川も見た。おまけに保津峡から北山杉まで見たんだからな。まあ、大した京都見物だったぜ」
「うん、たしかによく歩いたね」
「辻口はどこが一番よかった? サワガニと蛇か」
高木が笑った。
「それぞれによかったがね。ただどうも人が多かったせいか、人けのない孤篷庵が印象的だったね」
拝観謝絶の孤篷庵は非公開であった。が、啓造たちは、小堀家の知人だという大学時代の友人に、いわば個人の家を訪ねる形で伴われたのだった。
人けのない孤篷庵の茶室にぼんやり坐っていると、庭先に敷いた白い小石や、水鉢の水が砂ずりの天井に反射して、茶室がほうっと明るんで見えた。そんな配慮をしてつくられた造りが、心にくいほど効果的だった。その茶室から静かに庭を眺めて、しみじみここは京都だと啓造は思った。
部屋に坐った人の眼の高さから計算して植えたという生け垣や、奥深く見せるために角度を工夫したちがい棚など、神経がすみずみまで行きとどいている。禅の思想を反映し、内面をきびしく凝視した一つの宇宙が、枯れ山水の庭だと聞いたが、啓造には禅が何であるか、わからなかった。ただ、木一本、石一つでも、それがあるべくしてあるのであり、これは欠けてもよいというものが、一つもないということはわかった。そしてそれらが、お互いに影響し合い、役立ち、調和している。つまり、木一本、石一つ、すべてに存在の意義があり、使命があることだけは、啓造なりにわかったような気がした。
啓造は、自分をとりまく一人一人を思い浮かべた。夏枝、徹、陽子、高木、村井、辰子、由香子、順子、佐石、三井恵子、北原……。その中には、佐石や村井など、啓造の人生にとって現れてほしくなかった人間もある。彼らがいなければ、陽子も順子も恵子も、自分の前に現れることはなかったろう。だが、もはや啓造には、陽子のいない生活を考えることはできなかった。
(要するに、これらの人間が、すべて活かし合うといいのだ)
そんなことを思って眺めた孤篷庵の庭を、啓造は思い出していた。
「うん、孤篷庵は静かでよかったな。だが、おれのような野人は、やはり何の計算もない北海道の大自然のほうが気楽だな」
高木は少し寝足りない目をしていた。
「無論わたしも北海道は好きだがね。しかし、京都の街には何しろ千年の歴史があるからね。知らず知らずのうちに、昔の人たちと対話してしまっているんだよ。それが妙にわたしの肌と合うんだね」
「なるほどなあ。辻口ときたら、いつも胸の中でムニャムニャ、ものをいっているやつだからな。ところで辻口、この古い街は、何で革新が強いんだ?」
橋の上を行く車の数が、少しふえてきたようである。啓造は、下を流れる川を眺めながらいった。
「それは、わたしもちょっと考えてみたよ。ま、これは、田舎者のわたし流の考えだがね。この三日間に見て廻った限りでは、文化財として残されたものは、社寺にしろ他の建物や仏像にしろ、庶民のものは一つもないんだね。つまり、大名貴族の文化なのだよ」
「まあ、そうだろうな。小堀遠州《*こぼりえんしゆう》の家だって、おれたちのふところでは建てられないからな」
「そうだよ。金閣は足利義満《あしかがよしみつ》の山荘だし、清水は家光《*いえみつ》が再建したという具合だ」
「要するに、もとをただせば庶民のふところから出た金だろうからな」
「そうだよ。歴史家を〈後ろ向きの予言者〉といった人があるがね。じっと京都の文化を見つめていると、千年以来の庶民のうめきが聞こえてくるかも知れないね」
「苦役に出されたのは民衆だろうからな。今なら大変な労働争議ものだってあったろう」
「京大の河《*》上、瀧川は無論影響を与えただろうが、とにかく、京都の庶民は、自分の街を長年眺めているうちに、後ろ向きの予言者的存在になったかも知れないね」
「なるほど。予言者というのは、一歩前を歩いているからな。大名貴族の残した文化が、庶民を触発したというわけか。ま、それも一説だろう。意のままにならぬのは、何も比叡の僧や鴨川の水だけではないというところだな」
街から次第に早朝の気配がうすれて行き、人の往来も多くなってきた。
意のままにならぬという言葉で、啓造はふっと、高桐院《こうとういん》で見た細川ガラシヤの墓を思い浮かべた。謀叛人明智光秀の娘に生まれ、高山右近の導きでキリシタンとなり、遂に石田三成によって死に追いやられた。が、最期まで、その教えを忠実に守り、罪とされている自刃をえらばず、老臣に介錯させたという。何百年か前の女の胸に、誰もが侵すことのできない魂の生活が既にあったことに、啓造は改めて深い感動を覚えた。
*小堀遠州 天正七〜正保四年(一五七九〜一六四七)。江戸時代初期の武将で茶、歌道、作庭、書などに秀でた。名は政一(まさかず)。
*家光 慶長九〜慶安四年(一六〇四〜五一)。徳川三代将軍。寛永十六年(一六三九)本格的に鎖国を実施するなど、江戸幕府の基礎を固めた。
*京大の河上、瀧川 河上は社会思想家、経済学者の河上肇はじめ(明治十二〜昭和二十一〈一八七九〜一九四六〉)のこと。瀧川は法学者の瀧川幸辰ゆきとき(明治二十四〜昭和三十七〈一八五一〜一九六二〉)。ともに京都大学教授で、時の政府から共産主義者として弾圧された。
晩秋
土手にのぼると、見本林の東に十勝岳が見えた。すっかり雪をかぶった今日の十勝岳は、晴れた空にぐっと盛り上がり、押し迫ってくるように見える。
徹と陽子は、昨日の土曜日、札幌から帰ってきた。今日の日曜が、ちょうど夏枝の誕生日にあたっていた。黒みがかった見本林の緑の中で、ひときわ目立つ金茶色の落葉松林に目をとめながら、徹はいった。
「黒百合会には出ているの?」
ぼたんをはずした卵色のコートの下に、明るい茶色のジャンパースカートが、ひどくしゃれていると徹は思った。
「時々よ」
達哉が黒百合会に入ってから、陽子は月に一度ぐらいしか、出席しないようになった。
二、三日前に降った雪が、土手のかげに所々細く残っているが、十一月中旬とも思えぬ暖かい日ざしだった。枯れ葦の穂が風に揺れ、時折熊笹がかさかさと音を立てる。
「この頃、達哉君は陽子の下宿に現れないようだね」
「ええ、でも教養部の食堂ではよく会うのよ」
達哉は待ちぶせしていたかのように、幾度か陽子の隣の席にすわることがあった。
「このまま、何事もなく月日がたてばいいんだがなあ」
「そうね、時々小樽に誘われるけれど、達哉ちゃんも少し落ちついたみたいよ」
「旭川におかあさんが訪ねてきたなんて、おそらく知らないだろうしね」
「知ったら大変よ、おにいさん」
「それは大変だろう。ところで北原はどうしているかなあ。この頃ちょっと会っていないんだが」
昨日からいいたかったことを、徹はさりげなくいった。
「週に一度はお会いするわ」
「…………」
「何ということなしに、街を歩くだけなの」
徹は黙って堤防を降り、ドイツトーヒの林の中に入って行った。陽子が札幌に来たら、始終連れ立って歩けると、徹は楽しみにしていた。それが達哉の出現で、陽子の下宿を訪ねることも、共に歩くことも、徹は控えなければならなくなった。自由に陽子と会っている北原が、徹には腹立たしかった。
「おにいさん」
呼ばれて徹はふり返った。
「怒っていらっしゃるの」
「いや、ちょっと淋しかったんだ」
徹は近づいてくる陽子をじっと見た。
林の中の下草は茎だけになり、タラの木のトゲがあらわだった。大方の草がすがれた中に、トーヒの幹にまつわるつたの葉だけが青々としている。二人は川の畔に出た。対岸のススキが花のように一面に白く光っている。
陽子は上手《かみて》の川原に目をやった。順子のことが思われた。順子は徹を愛しているのだ。そう思うと、陽子は徹とここに立っているのも、悪いような気がした。
徹を慕っていた順子が、ルリ子のことを知った苦しみは、いいがたいものであったにちがいない。徹と肩を並べて川岸に立っていると、順子の辛さが身に沁みる思いだった。
「順子ちゃんのこと、聞いたよ」
ぽつりと徹がいった。陽子は思わずぎくりとした。徹にだけは知られたくなかった。
「意外だったなあ。あのひとが佐石の娘とはね」
「いつ、どなたにお聞きになったの?」
「無論おふくろさ。すぐに電話をかけてきたよ」
「電話を?」
「うん、おやじと陽子だけが知っていて、自分には何も知らされていなかったと、ぐちっていたよ。一応おふくろの言い分はもっともだけれど、……おふくろって信用のできないひとだからね」
誰にも知らせないようにと、父の啓造は夏枝に念を押したのだ。夏枝は、
「そんなこと、おっしゃらなくても、わかっておりますわ」
と抗議したが、すぐさま札幌の徹に電話をしたのだろう。
「おにいさんだけは、知ってほしくなかったのに」
「なぜ?」
「順子さんが辛いでしょう? おにいさんに知られては」
「…………」
こげ茶色に枯れたよもぎの葉が、風にからからと乾いた音を立てた。
「順子さんは偉い方よ、おにいさん」
「そうだろうね。自分の素性を知っていて、あんなに明るいのだからね」
いいながら、徹は少し気重な表情をした。
「順子さんもね、死を考えたことはあったのよ。おとうさんを憎みつづけた時はあったのよ。でも、今では、三つの子を殺してしまうなんて、自制のきかない弱い人間だと、かわいそうに思っていらっしゃるそうよ」
「それはよかったね。ゆるせない思いというのは、決して幸せじゃないからね」
陽子は、自分がいつの日、小樽の母をゆるすことができるだろうかと思った。夫を裏切って、他の男の子である自分を産んだ母の恵子を、やはり陽子は、そのまま受け入れる思いにはなれなかった。それは若い女性としての、単なる潔癖だけによるものではないと、陽子は思っていた。
徹は川風からかばうように、陽子の傍に近よった。水色のリボンで結んだ陽子の長い髪が、風になびいた。
二人は川下に向かって、熊笹の深い小道に入って行った。いつもはあまり歩かぬ道だった。
「順子さんには幸せになっていただきたいと思うわ」
「ああ、ぼくもだよ。おふくろから順子ちゃんの身の上を聞いてからは、ほんとうにそう思ってきたよ」
しみじみとした優しさのこもった声に、陽子はちらりと徹の横顔を見た。眉のあたりは、やや神経質そうだが、青年らしい清潔な感じだった。
(もし順子さんが、辻口の家にもらわれて来ていたとしたら……)
多分徹は、自分を愛したように順子を愛し、順子と結婚しようとしたにちがいない。
戸籍上兄と妹でも、ほんとうの兄妹でないことが証明されれば、家庭裁判所に申し立てて結婚できることを、既に陽子は徹から聞かされていた。できることなら、順子と徹を結婚させてやりたい。この気持ちに偽りはないつもりだった。だが、もしこの徹が順子と結婚した時に、自分は果たして心から二人を祝福することができるだろうか。そう思った時、陽子は自分の徹に対する感情が、自分でも知らぬうちに、微妙に変化していることに気がついた。
陽子は小道に落ちているカラスの羽根をひろい上げ、くるくると指で廻しながら徹にいった。
「おにいさんの今の言葉、順子さんが聞かれたら、どんなにお喜びになるか、わからないわ」
「……暖かい日ざしだなあ。でもまたすぐに雪が降って、長い冬がくるね」
徹は別のことをいった。
「そうだ、今度の正月には、あの十勝岳にスキーに行こうか」
徹がふり返って、彼方につらなる十勝岳の連峰を眺めた。小学校の頃から、元日は川向かいの伊の沢スキー場で、共に一日を楽しむ習わしだった。
「北原さんや順子さんもお誘いしましょうか」
「いや、ぼくは陽子と二人だけで行きたいな」
徹は珍しく快活にいい放った。が、黙っている陽子に、徹は立ちどまっていった。
「陽子」
「なあに?」
「順子ちゃんには順子ちゃんの人生があるんだからね。あのひとは聡明なひとだ。幸せになれるひとだと、安心していていいんじゃないのかな。ぼくたちも」
向こう岸に、くり返し川の砂利を押し上げているブルドーザーの音が、風に乗って聞こえてくる。
(ぼくたち……)
徹のいった言葉の意味を思いながら、陽子は向こう岸を見つめていた。
「そう、徹くんも陽子くんも帰ってきてるの。わざわざ夏枝のお誕生日を祝いにねえ」
茶のみ茶碗を手に持ったまま、辰子が啓造と夏枝を半々に見た。
「ちょうど、誕生日と今日の日曜日が重なったからですわ」
さすがに夏枝はうれしそうだった。
「お祝いに何を贈ってくれたのよ」
「徹はユーカラ織のお財布ですの。これ、ごらんになって」
「あら、木内さんの? いいじゃない」
ユーカラ織は、辰子の友人が創り出した北海道の香り豊かな、手織りの民芸作品だった。
「陽子からは、あれよ」
壁にかかった白百合の絵を、夏枝は目で指し示した。暗い紺色をバックに、つぼみをまじえた白百合が大胆に描かれた水彩画だった。
「まあ! 上手なのねえ、陽子くん」
「額に入っていると、上手に見えるものですわ」
「いや、陽子の絵はいいよ。ごまかしがないし、いい素質を持っている」
啓造の言葉に、夏枝は皮肉な微笑を唇に浮かべた。
「あなたは絵をお描きになるから、ごらんになる目がおありですわね」
「とにかく夏枝、あんたは幸せねえ。ところでざっくばらんの話、徹くんと陽子くんをどうするつもりなの、お二方は」
「それは、何といっても徹が陽子と結婚したいと思っていますでしょう。陽子ちゃんさえよければ、学生結婚でもと、わたくしは思っておりますのよ」
浜子が湯を入れたポットを運んで来た。浜子の立ち去るのを待って、辰子がいった。
「ダンナはどうなの」
「まあ本人たちの意向次第ですがね。きょうだいとして育った者の結婚というのは、わたしはどうも……」
近親相姦の匂いがするという言葉はのみこんで、啓造は語尾を濁した。
「ダンナの気持ちもわかるわね。わたしのように、内輪の事情を知っている者は、あの二人はきょうだいじゃないと思って、長い間見てたけどさ。何も知らない世間の人は、ちょっと、ぎょっとしないわけでもないわね」
「無論そう思うのが世間でしょうね。それと、わたしの見た目では、陽子はまだ、徹を兄としてしか、考えていないように思えますしねえ」
「そうでもございませんのよ、あなた。陽子ちゃんが大学に行くようになってから、二人は別の場所に住んでいますでしょう。それにあの三井さんの息子さんのことで、徹も自由に訪ねて行けなくなりましたでしょう。ですから、二人はだんだん他人のようになっていっておりますのよ」
夏枝の言葉に、啓造はいやな顔をした。
「そうかねえ」
「そうですわ。昨日から、わたくし二人の様子に注意していましたの。陽子ちゃんは少し変わりましたわ」
「いいじゃない。陽子くんさえその気になってくれれば、徹くんの想いも報いられることだし、ね。ダンナ」
辰子は、啓造の少し憂鬱そうな顔を見ていった。
「どうも、わたしは切りかえのおそいほうでしてね。息子と娘が結婚する感じで、何だか……」
「でも、事実は全く赤の他人ですもの。ちっともかまわないじゃありませんか」
夏枝は、困惑した表情の啓造に、ことさらに切りこむ口調でいった。
「まあ、今すぐの問題ではないから、何も急いで結論を出すことはないよ」
「あら、それはわかりませんわ。二人は今ごろ、見本林の中で結婚の相談をしているかも知れませんわ」
「まさか、そんな馬鹿な」
「あら、何が馬鹿ですの。ね、辰子さん。辻口ったら、陽子ちゃんがとてもお気に入りですの。どうやら徹にさえ、やりたくないんですのよ」
「そんな、でたらめをいうもんじゃない」
啓造はあわてた。
「ダンナは潔癖なのよ。はっきりいえば、近親相姦のような感じが、いやなんでしょう?」
「あら、いやですわ、辰子さん。近親相姦なんかじゃありませんわ、徹と陽子ちゃんは。血のつながっていない、戸籍だけのきょうだいじゃありませんか」
夏枝は不機嫌にいった。
「何もわたしは、近親相姦だなどと、決めつけたりはしないわよ。ただ、ダンナは陽子くんを他人とは考えられないので、徹くんとの結婚に、感覚的にひっかかるんじゃないかっていうことよ」
「じゃ、辰子さんは、辻口は陽子ちゃんを他人とは思っていないけれど、わたくしは他人と考えているとおっしゃるの」
「あほらしい。問題をずらさないでよ」
辰子は笑って、ちょっとお茶にむせた。
「夏枝って、かわいいんだけれど、妙なからみぐせがあるのねえ。しんどいわねえ、ダンナも」
啓造は苦笑したが、夏枝は笑わなかった。
「とにかく、陽子くんは目が大きい、徹くんは細いでしょ。優生学的には、そういうふうに、反対な者同士の結婚はいいらしいわね」
「なるほど、自分に似ていない人間と結婚するほうが、いい子が生まれる、というのは、考えてみると何か深い意味合いが感ぜられますね。辰子さん」
「いま、とてもおもしろい話をしてたのよ」
散歩から帰って来た徹と陽子に辰子がいった。
「何です」
徹はカーディガンのポケットからピースを取り出して、一本抜こうとしたが、気がついて辰子にさし出した。
「あ、ありがとう。悪いけどね、徹くん、小母さんはたばこをやめたのよ」
「え? やめた?」
啓造と徹が同時にいった。
「まあ、おやめになったの。そういえば、今日はたばこを召し上がらないと思って、ちょっと気になっておりましたのよ」
夏枝も陽子も驚いた。
「いやだな、そんなにみんなに驚いた顔をされては、まるで結婚するといったみたいな驚きかたね」
「しかしね、小母さん、小母さんが結婚するより驚きますよ。禁煙より結婚のほうが、たやすいみたいなところがありますからね」
「あら、いいの? 徹くん、そんなことをいって、もし徹くんと結婚するひとが聞いたら、怒るわよ」
夏枝がちらりと陽子を見た。
「いや、辰子さん。徹のいうとおり、結婚したい相手と結婚するほうが、好きなたばこをやめるより、ある意味ではたやすいかも知れませんよ」
啓造は徹の言葉に共感していった。
「でも、どうしておやめになったの、小母さん」
「この間ね、踊り仲間と話をしていてね、この空気の汚い時代に、たばこのんでることないよなんて、自分でいってしまったのよ」
「それだけでですか」
「そう。それで次の日からすっぱりやめたのよ」
「驚いたなあ、小母さんには」
「気持ち一つね。問題はその気になるかどうかよ。おかげでごはんがおいしくなったし、体の調子がすきっとしちゃった」
「意志が強いからねえ、辰子さんは」
「おやじさんだって意志は強いよ。ただ、事を決めるのに時間はかかるけれど」
「徹くんも、やめたほうが、もっと肥っていいんじゃない?」
「まあ、考えておきます。ところで、さっきおもしろい話をしていたって、何のことです? 小母さん」
徹は灰皿にたばこの灰を落とした。
「えーと、何だった? そうそう、どんな相手が結婚の相性かという話だったわ」
「少なくとも、おやじとおふくろは、相性じゃないな」
徹はニヤニヤした。
「ね、辰子さん、ご存じでしょう。このごろ時々、辻口が教会に通っておりますの」
徹に、相性の夫婦でないといわれて、夏枝は話題を変えようとした。
「ダンナが教会へ? 知るわけないじゃないの。六条教会?」
「そうですよ。辰子さんのご近所のね」
啓造はてれたようにいった。
「まあ、水臭い。ちょっとうちに寄ってくれても、罰はあたらないでしょうに」
「いや、どうも」
啓造は頭をかいた。
「だんだん寒くなりますでしょう? ですから、教会などに出かけてほしくありませんの。去年あたりから、時々激しい耳鳴りがするとかで、わたくし血圧が心配でなりませんもの」
「あら、血圧が高いの? ダンナ。あまり肥っていないじゃない?」
「いや、むしろ低目だから、大丈夫だと夏枝にいうんですがね。教会に行く時になると、出て行くなというんでね」
「それはさ、おふくろはさ、血圧の心配よりも、教会に行かれるのが、いやなんだよ」
徹はおとなっぽい笑いを浮かべた。
「いやな徹さん。おかあさんは、ほんとうにおとうさんの健康が心配ですのよ」
「さあどうかな。おかあさんの未知の世界に、おとうさんだけが入って行く、それに抵抗を感じているんじゃないのかな。自分とは遠い世界の人になるような不安と、ジェラシーに似た感情の入りまじった、複雑な抵抗をね」
「いやですわ、徹さんったら。おかあさんは、おとうさんが教会に通って、もっと寛容な方になってくださることは、賛成ですのよ」
「欲張りなものだねえ、こんないいダンナに、もっとよくなってほしいなんてねえ」
辰子は笑って、
「とにかくさ、ダンナ。帰りにはお寄りなさいよ。一本熱かんをつけて、暖かくしてあげるから」
「小母さん、そんなことをいったら、おふくろさん、本当に角を生やしますよ」
陽子がそっと台所に立つ姿を見送りながら、徹は両手の人さし指を頭に立てた。
「かまわないよ。でもそんなにダンナが心配なら、夏枝も一緒について行くといいよ。ここの夫婦は、なぜかめったに、おそろいで外出しないんだからねえ」
いわれて啓造は、なるほどと思った。考えてみると、二人そろって外に出るのは職員の結婚式に招待された時ぐらいのものである。
裏の見本林でさえ、二人が肩を並べて歩くことはほとんどない。結婚して何年かは、そうではなかった。
(いつから……)
自分たちは肩を並べて歩くことを忘れた夫婦になったのかと、啓造は考える顔になった。
浜子と陽子が、誕生日のご馳走作りをはじめたのだろう。台所から、ものをきざむ音や水の音がにぎやかに聞こえてくる。
「由香子さんは、毎日何をなさっていらっしゃいますの」
「相変わらず三味線のけいこよ。あの子って、とことんまでやらなきゃ承知しない性格でね。まあ、見所はあると思うわよ」
「ご安心ですわね、辰子さん」
「さてね、安心かどうかねえ。凝り性というのも、よしあしじゃない」
辰子は複雑な表情で啓造を見た。啓造は何となく視線をそらした。
由香子はまだ自分のことを思っているのだ。啓造は時折由香子を思い出さぬわけでもない。が豊富温泉で由香子と再会した当時のような、切実な感情はとうにうすれていた。一時は胸の中にかきいだきたい思いに誘われるほど、由香子を哀れと思ったこともあったが、その思いも長くは続かなかった。啓造の倫理感が強かったこともある。優柔不断な性格だということもある。だが、啓造の胸の中は、もっと曖昧模糊たるものがあった。
恵子に初めて会ったころは、その蠱惑《こわく》的な表情に心が惹かれ、由香子がすっかり色あせた存在に思われたものだった。今、目の前にいる辰子にしても、妻の友人というだけの存在ではなかった。辰子を妻とした自分の生活を、想像してみたことさえある。が、辰子は単なる女ではなく、もっと深いところで、啓造を安らがせてくれる暖かい存在でもあった。
(自分は混沌としている)
陽子に対しても、時には揺らぐ自分の感情を啓造はかえりみながら、つくづくそう思った。
「何です、おとうさん。さっきから、うわの空で、いいかげんな相づちをうって」
徹にいわれて、啓造ははっと顔を上げた。
「いやですわ」
夏枝が啓造を軽くにらんだ。
「いやって、何がかね」
「だってさ、ダンナ。由香ちゃんのところに、このごろまた村井さんが遊びに来るとわたしがいったら、なるほどそれはいいなんていったじゃない。ほんとうにいいと思うの」
「それは……まあ、いいんじゃないですか。二人さえ、その気になれば」
「あなた、由香子さんがお聞きになったら、さぞお喜びになるでしょうね」
夏枝は皮肉に笑って、
「でもね、徹さん。おとうさんは、あなたと陽子ちゃんが、たとえその気持ちになっても、あまりご賛成ではないらしいのよ」
「夏枝、そんないい方をしてはいけないね。大事なことには、もっと慎重でなければならないからね」
徹は眉根をよせて、冬囲いされた庭のアララギに目をやった。
点滅
ホテルの食堂の片隅には、大きなクリスマス・ツリーが飾られ、五色の豆電球が点滅していた。銀盆を持ったボーイたちが、絶えず忙しそうにテーブルの間を行き来している。
「……とにかくね、徹君。君の将来は辻口病院長と決まっているんですからね。幸せを絵にかいたようなものですよ。ね、高木さん」
村井はビフテキをナイフで器用に切りながらいった。
「ま、それはそうだな。辻口病院のような大きな病院は、一代ではちょっとできないことだ」
「そうですよ。あれだけの評判と信用を得るのは大変なものですからね」
「特に眼科は、といいたいところだろう」
高木は笑って、
「まあ、三代目、頑張れよ」
と、徹のコップにビールを注いだ。
「売り家と唐様で書く三代目かも知れませんよ。ぼくは」
徹は、さっきから村井が、自分を未来の病院長と繰り返しいう言葉に、いや味を感じていた。
村井が母の夏枝に接吻したことを知った少年の日から、徹は村井が嫌いだった。今日までほとんど、会話を交わしたこともない。
二、三日前、徹は少し金が足りなくて、家に電話しておいた。ところが年末で郵便事情も悪く、たまたま所用で札幌に出る村井があずかって来たから、取りに来るようにとの高木の電話があって、徹は高木の家に行った。そして、つい村井と共に夕食をホテル・グランドでおごられることになったのだ。
「大丈夫だ。副院長もがっちりしているからな」
「いやですよ、高木さん。いくらわたしが甲斐性なしでも、この三代目院長には仕えませんよ。そろそろ開業しますからね」
「ほう、開業するのか。とうとう村井も」
「ああ、しますよ、わたしが開業したら、次の日からでも、病室は満室になりますからね。長い間、辻口病院にもご奉公しましたから、まあ、いくらか罪ほろぼしもできたんじゃないですか」
「何だい、罪ほろぼしって」
「ご想像にまかせますよ」
徹は村井を見た。村井はニヤリと笑って、口ひげについたビールの泡を、ナプキンで無造作にふいた。無造作だが、村井はどこか洗練されている。ナイフやフォークの使い方も、手なれたものだった。
(ご想像に……)
村井がルリ子の死に責任を感じて、その罪ほろぼしに二十年も勤めたとは、徹には到底考えられなかった。徹の表情をちらりと見て高木がいった。
「そんなこといったって、無理だよ。村井のように罪ぶかい男はないからな」
赤い壁に黄色い光が反射している。昼も夜も灯をともすこの食堂は、しばしば時の感じをなくさせる。ただ、客たちのかもし出す雰囲気の華やかさで、今、夜と知れた。
「どうもわたしは、高木さんには信用がないですね」
「お前を信用するのは、患者ぐらいのものだ」
「しかし、医者は患者に信用されれば、いいんですよ。誰かがいっていたな。あの医者は親切だ、品行方正だといくらほめられても、いざ診断となると一向見当がつかん、適切な処置もできない。それじゃ何の役にも立たないとね。男は仕事さえできれば、いいじゃないですかね。高木さん」
「それは甘えというものだな。徹君のおやじのように、医者としての仕事も立派、経営も結構やる。そして私生活も模範的という男だっているんだ」
「院長ねえ。あの人は別格ですよ。京都に行っても、祇園には行きしぶったという話ですね」
「ああ、あれには参ったぜ。せっかく、だらりの帯の舞妓を見せてやろうと思って誘っても、なかなかうんといわんのだ。要するに遊里だろうとか何とかいってね。いや、観光だといって、強引に連れてはいったが、骨の髄から、おれたちとちがっている処があるんじゃないのかな。どうだ、徹くん」
「さあ、おやじだって同じ男でしょう」
傍のテーブルの女たちが、三人をちょっと見て出て行った。
「そうか、同じ男か。同じ男がああ堅いところを見ると、村井大先生もお堅くなれるはずだということだ」
村井は唇にうす笑いを浮かべて、たばこの煙を吐いた。
「まあ、承っておきましょう。ところで高木さん。院長のところの陽子さんは、すばらしい目をしていますね。深い淵に吸いよせられるような危険を感じますよ。彼女を妻にする幸せ者は、今夜どこで、何をしていますかね」
徹は黙って、ビールに口をつけた。
「さあてな、おれも知らん。それより村井、本当に開業するつもりなのか」
「勿論ですよ」
「どこでやるつもりだ」
「札幌に来たいところですが、やはり旭川でしょうね」
「札幌に来たいか」
高木はのぞきこむように村井を見た。
「まあね」
「じゃ、札幌に来い。咲子さんも子供たちもいる」
「いやだなあ。すぐそういうんだからなあ。咲子なんてどうでもいい。札幌は人口が多いでしょう。すべからく仕事がやり易かろうと思ったまでですよ」
ふだんは青白い村井の顔が、ほんのりと赤い。時折、まなざしが暗くかげったかと思うと、自嘲的な笑いがその唇に浮かぶ。徹は、この男に母の夏枝がなぜ心揺らいだのか、ふしぎな気がした。高木に心動いたのなら、徹にもわかる。無造作なもののいいようの中にも、暖かい心づかいが高木にはあった。
だが、村井には、つき放すような冷たさと、いいようのない暗いまなざしだけしかないように、徹には思われた。この男に、女を愛する熱い血が流れているとは思えない。そのうす汚れた貪欲な欲情を、女は愛と錯覚するのではないかと思われてならなかった。
「とにかく、どこに開業するにしても、札幌にいる子供たちのことは、忘れるなよ」
「思い出したって、仕方ありませんよ」
少し突っかかるように村井はいった。
「それはそうだ。しかしな、思い出しても仕方のないことを思い出したり、考えたりしているうちに、仕方のあるようになることだって、あるものだ」
デザートの果物と、コーヒーが運ばれてきた。
「なるほどね。仕方のあるようになるものですかね。ところで高木さん、松崎って子ね」
「ああ、辰ちゃんの所にいるひとだな」
「あの子も、あれはあれで仕方がないんですかね。誰かが仕方のあるようにしてやれないものですかね」
ボーイに向かって、村井はその長い指を真っすぐに立てて、ちょっと曲げた。
「辰ちゃんが三味線を仕込んで、仕方あるようにしているじゃないか。辰ちゃんは偉いよ。文句もいわずに、お前の尻ぬぐいをしてくれているようなものだ」
ボーイが近よってきた。水とつまようじを村井は頼んだ。
「辰ちゃんとわたしは、似合いませんか、高木さん」
村井はまじめな顔をした。
「よく似合うよ。な、徹君」
徹は微笑とも苦笑ともつかぬ顔をした。考えてみると、辰子は啓造にも高木にも似合う女性だ。村井と結婚しても、案外うまく手綱をさばいてやって行く人間に思われた。
「本当ですか、高木さん」
「ああ、あのひとの手に余る男は、いないかも知れん。しかし、もったいないよ、村井には」
村井は、不意にニヤリと笑ってコーヒーを飲んだ。
「徹くん。どうもぼくは、散々の男のようですね。しかし、高木さんにはずけずけいわれてもこわくない。心に毒のない人ですからね。心に毒を持っている人は、こわいですよ。何もいわなくてもね」
村井の言葉は、父の啓造をさしていっていると、徹はすぐに思った。
高木と村井が並び、うしろに徹が従って、食堂を出た。広い廊下の両側には、ユーカラ織の店や、アクセサリーの店、毛皮製品を売る店などがあって、ホテルの泊まり客らしい男や女が、品物を眺めたり、手にとったりしている。
「辰子さんに毛皮を贈ろうかな」
村井が立ちどまった。高木は相手にせず廊下を曲がって、ロビーのほうに歩いて行く。
厚いガラス戸を押してロビーに入ると、中は暖かかった。
「すすきので、飲みなおしますか」
村井がいった。
「そうだな、それもよかろう。その前に、おれはちょっと用を足して、電話をかける。ロビーで五、六分待っていてくれ」
高木はトイレのほうに向かった。
エレベーターの前で、若い男が、まだ幼顔の残っている十七、八の少女の肩を、抱きかかえるようにして立っていた。
「婚前旅行という感じじゃないですか」
村井が徹の顔を見た。徹はふっと陽子を思った。あと十日もすれば正月である。正月には陽子と二人で十勝岳にスキーに行くことになっている。日帰りはむずかしいから、十勝岳の中腹にある白金しろがね温泉に一泊するつもりだった。が、徹は別々の部屋に泊まろうと思っていた。あの陽子の伸びきった美しい肢体には、結婚するまでは一指も触れまいと思う。純潔なままに愛を保つ、その精神の緊張こそ、青年らしい恋愛だと徹は思った。
「徹君の恋人にも、お目にかかりたいものですね」
徹は何もいわず、あいまいに微笑した。
二人はフロントの前を通り、右手の一画のソファに腰をおろした。中年の男が二人、テーブルをへだてて、暗い表情で何かぼそぼそ話をしている。一人はしきりに首を横にふり、
「だめだ、だめだ、もう日にちがない」
といっている。その横のほうには、夫婦らしい若い一組が、うきうきと楽しそうに語り合っている。男たちとは全く別の世界にいるように見えた。
徹は、盛り場のすすきのまでついて行く気はなかった。高木が来たら、ここで別れようと、ぼんやりとホテルの玄関を見ていた。回転ドアが二つ、くるくると回り、人が絶えず出入りしている。五、六歳の男の子が、回転ドアから出て来た。と思うと、また外に出、再び内に入ってくる。回転ドアが珍しいのだと、徹は微笑した。母親らしい三十代の女が、外で年配の女と何か話をしていた。
三度回転ドアから入ってくる男の子のうしろから、オリーブ色のすっきりとしたオーバーに身を包み、黒い帽子をかぶった女が入って来た。見るともなく見ていた徹が、思わず息をのんだ。達哉を連れた恵子だった。
ホテルに入った達哉は、恵子から離れてクロークのほうに行った。手に大きな包みを下げている。その荷物を預けに行ったのだ。
恵子も、ちょっと達哉のほうに行きかけたが、すぐに徹たちのほうに歩いてくる。徹は自分がいま何をなすべきかを忙しく思いめぐらした。恐らく達哉は、すぐに恵子を追って、こちらに来るにちがいない。恵子一人なら喜んで話したかった。が、達哉と顔を合わすことは避けねばならない。恵子もまた、以前から達哉が徹に会うことを恐れている。
そしらぬ顔で背を向けるべきか。いや、達哉の来ぬうちに、恵子に自分の存在を気づかせるべきだ。徹はとっさにそう判断した。徹は近づいてくる恵子に向かって、ちょっと立ち上がってみせ、すぐにすわった。
果たして、恵子はハッと立ちどまった。徹はかすかに首を横にふった。恵子は心得て目顔で答え、そのまま、奥のカクテルラウンジに向かった。ほんの一瞬のこの二人の応答を、周囲の者は誰一人気づかなかった。
ほっとした徹が、通りに背を向けるようにして、ポケットから文庫本を取り出した時だった。
「たしか……」
傍でたばこをふかしていた村井が、そうつぶやいて、すっと立ち上がったかと思うと、二、三歩恵子のほうに歩いて行った。
「しばらくでした、奥さん」
恵子がふりかえった。徹はぎくりとして、二人を見た。恵子はちょっとの間いぶかしげに村井をみつめていたが、次の瞬間、さっと驚きの色を浮かべた。
「思い出していただけましたか。旭川の辻口病院のお宅で、お目にかかりましたね」
まさか、村井が恵子を知っているとは、徹には思いもかけないことだった。
「そうでございましたね。その節はどうも失礼いたしました。……」
恵子はそそくさと礼をして、その場を立ち去ろうとした。
「あ、ちょっとお待ちください。いま、辻口院長の息子さんも、ここにおられますよ」
村井は徹をふりかえった。村井は恵子に、達哉という連れのあることを知らなかった。が、徹は村井を殴りつけたい思いがした。クロークに荷物を預けてきた達哉が、既にその時、村井のそばに立っていたのだ。
恵子は、もはや立ち去ることもできなかった。達哉の不審を買う振る舞いはできない。
「あら、お見それいたしましたわ」
にこやかに答えてから、恵子は徹のほうに頭を下げていった。
「お元気でいらっしゃいますか」
「はあ、しばらくでした」
徹が立って、ぎごちなく礼を返すと、
「では失礼いたします」
と、恵子は軽く会釈してすぐに立ち去ろうとした。
「おかあさん、ちょっと待ってよ」
立ち去ろうとする恵子に、達哉がいった。
「あの、辻口院長の息子さんって、旭川の辻口さんですか」
達哉は徹の顔を見た。
「そうです」
仕方なしに徹は答えた。
「では、辻口陽子さんのおにいさんですか」
「……そうです」
徹は突っ立ったまま、ぶっきらぼうに答えた。達哉は恵子の顔を不審そうに見ていった。
「おかあさんは、辻口さんのうちと、知り合いなの」
恵子は村井を見て、一瞬困惑の表情を浮かべたが、さり気なくいった。
「徹さんは、存じ上げていますけれど……。さ、達哉、お邪魔してはいけませんよ。失礼させていただきましょうね」
だが達哉は動こうとせず、
「ちょっと待ってよ。ぼく、何だか頭がこんがらがってきたんだ。いいかい、この人が陽子さんのおにいさんで、おかあさんの知り合い。そして、陽子さんはぼくの友だち、というわけだね」
「それは奇遇というわけですね」
さすがの村井も、達哉の出現に恵子の立場を察したようにいった。達哉は村井にいった。
「失礼ですが、あなたはやはり辻口病院の方ですか」
「村井という医者です」
「どうして母を知っておられるんですか」
返答に窮したが、村井はニヤニヤ笑って、恵子にいった。
「どうします? わたしは詰問されると、何も答えられなくなる性分でしてね」
「ほんとうに失礼な子で、おゆるしくださいませ。達哉、あなたの今の態度はいけませんよ。さ、向こうへ参りましょう。あまりお邪魔してはいけませんから」
「……しかしね。おかあさん。ぼくは、この人が辻口陽子さんのおにいさんだとは、全然知らなかったんだ。でも、おかあさんは知っていたんでしょう」
恵子が何かいおうとした時、
「やあ、待たせてすまん。電話がひまどってな」
高木がやってきていった。
「おお、三井の奥さん、しばらく。達哉君も元気だな」
先にこちらの様子を見てとっていたのだろう。高木は磊落にいって、腕時計を見た。
「おい、約束の時間だ。急いで出かけるとするか」
徹も村井もホッとした。その時、グレイの頭髪をきれいにわけた一人の紳士が、静かな足どりで近づいて来た。恵子たちと待ち合わせの約束をしていた三井弥吉だった。恵子の目にかすかなかげりが見えた。
「やあ、ごぶさたしています。奥さんも、その後、後遺症もないようで、安心しました」
近よって来た弥吉に、高木は親しみをこめて挨拶した。
「どうも、何かとご心配をおかけしまして……。おかげで家内はもう大丈夫と思います。高木先生も、相変わらずお元気で何よりですな」
弥吉は、村井と徹にも笑顔で目礼し、
「はてな、あなたにはどこかでお目にかかりましたね」
と、徹にいった。
「はあ、去年、病室で……」
徹は恵子を見た。
「ああ、家内のところにお見舞いくださった……そうでしたか。どうも失礼しました」
弥吉はおだやかな表情だった。達哉はいらだった顔つきで、何かいおうとしたが、高木がすばやくいった。
「三井さん、今日はおそろいで、クリスマスパーティーですか」
「まあ、そんなところです。年に一度ぐらい、家族にもサービスしておきませんとね」
「それはそれは。では、まあごゆっくり。奥さん、どうも」
高木は言葉半ばに、もう歩き出していた。頭を下げた恵子の顔が、心なしか徹には青ざめて見えた。
ホテル前で拾った車に、徹も一緒に乗りこんだ。今にも達哉が追って来そうな不安があった。
「ひょっとすると、ひょっとしたことになるかも知れないぜ」
高木が腕をくんだ。ホテルのすぐ傍の道庁庁舎に、あかあかと灯がともっている。
「いらぬことをいって、わたしが悪かったね」
村井は、自分が恵子に声をかけたことを告げて、頭をかいた。
「まあ過ぎたことは仕方がない。しかし、あの達哉君は、おやじさんにも、いろいろ小うるさく尋ねるだろうな」
それは徹も高木以上に心配だった。恵子が窮地に立たされるのが目に見える。それを思うと、高木のように「過ぎたことは仕方がない」などと、村井に対して寛大な気持ちを持つことは到底できなかった。
車が大通りを過ぎ、三越の交差点の手前まで来た時、信号が赤になった。徹は高木と村井に挨拶して、車を降りた。二人について、のこのこすすきのまで飲みに行ける心地ではなかった。
歳末の街には人が溢れていた。ジングルベルの曲が、街を浮き立たせ、電車の音、クラクションがそれに重なる。喧噪が徹を更に不安にした。大通りのボックスで徹は陽子の下宿に電話をした。コールサインが鳴りつづけるだけで、誰も出ない。徹はぜひ今夜のうちに、陽子に会わなければならないと思った。まだ八時五分前だった。
陽子はやはりるすだった。いま帰って来たばかりだという下宿の主婦に案内された徹は、オーバーを着たまま、一人ぽつねんと、さきほどから陽子の部屋にすわっていた。
机の上には、一輪ざしの赤いカーネーションと、編みかけの男物の靴下がある。白に、赤と黒の三角の模様が、足首のあたりにつらなっている。誰に贈る靴下かと、ふと徹は思った。
達哉か、北原か、あるいは自分か。
(もし北原のだとしたら……)
思っただけで、徹の胸は波立った。兄として育った自分よりも、北原に心惹かれるほうが自然なのだ。だが、思いはすぐにさきほどの達哉たちのことに戻った。徹はオーバーを脱いで、壁の釘にかけた。石油ストーブのファンの音が、暖まりかけた部屋に静かにひびいている。
階段を上がる音がした。ドアが開いた。陽子だった。
「ごめんなさいね。大分お待ちになった?」
陽子の頬が、寒さでほのかにあかいのが新鮮だった。
「いや、十五分くらいかな」
「そう。おにいさんがいらっしゃるのなら、もっと早く帰るとよかったわ。順子さんと、ちょっと街に出ていたの」
「順子ちゃんか。元気かい」
「お元気よ。あのひと、前よりも、もっとスカッとして明るい感じになったと思うわ」
「そうか。それはよかったね」
「順子さんは、ルリ子ちゃんのことを知ったのも、よかったとおっしゃってたわ。〈すべてのこと相働きて益となる〉という言葉が好きだとおっしゃってたわ」
「すべてのこと相働きて益となるか。……実はね、さっきホテル・グランドで、達哉君や、彼のおやじさんや、おかあさんに会ってしまってね」
「まあ」
陽子は目を大きく見ひらいた。
「それで、夜訪ねるのはどうかと思ったけれど、ちょっとそのことを陽子に話しておきたいと思ってね」
徹はホテルでの出会いを詳しく話した。陽子はうなずきながら聞いていたが、
「ごめんなさいね、何かと心配ばかりおかけして」
とわびた。
「何も陽子がわびることはないよ」
「でも、小樽の母のせいですもの」
恵子に代わって陽子はわびるのかと、徹はちょっと陽子を見た。伏せたまつ毛から眉のあたりにかけて、恵子を目の前に見るような思いだった。
「とにかく、問題はこれからだよ」
徹は不安そうにいった。
陽子はみかんを皿に盛って、徹の前においた。
「きっと達哉ちゃんが、わたしに何かいいに来るわね」
「それを、ぼくも心配しているんだ。勿論、陽子のことだから、決して事実は洩らすまいと信じてはいるがね」
「大丈夫よ、おにいさん」
もし、事実を洩らしたら、三井家の平和は一挙に破れてしまうだろう。母の恵子は、その夫や息子たちに顔を上げ得ぬにちがいない。それは、恵子が受くべき当然の罰かも知れない。夫を裏切り、ひそかに子を産んだ女が、無事に一生を終わっていいとは、陽子には思われなかった。が、何も知らぬその夫や達哉たちを、何としても不幸にさせたくはなかった。
「陽子は大丈夫だが……。誰に聞いて廻るか、わからないしねえ……」
誰もおそらく口を割るまいと思う。恵子は勿論のこと、高木も陽子も啓造も、その点心配はない。だが達哉は、親戚関係をことごとく調べ廻るにちがいない。達哉の祖母なる人はどうなのか。考えれば考えるほど、徹は不安になる。しかも夏枝という心もとない存在もある。母の夏枝が一人の時に、達哉が押しかけて、根ほり葉ほり尋ねたとしたら、一体どんな受け答えをするであろう。秘密を守り通すどころか、逆に打ち明けてしまいたい誘惑にさえかられるのではないか。
「達哉君はまさか、旭川までは聞きに行くことはないだろうね」
「それはわからないわ。あの人はかなり執念ぶかいところがあるんですもの。でも、おとうさんや、おかあさんは大丈夫よ」
「おふくろも大丈夫だと、いえるかなあ」
徹は陽子を見つめた。
「……いえると思うわ」
いくら夏枝でも、他の家に不幸を及ぼす言動を取るはずがないと思った。
「そうかなあ」
「大丈夫よ」
くり返しいわれて、やや安心したが、
(村井の奴!)
と、またしても徹はいまいましく思った。しかし、もとはといえば徹の独断にあった。通夜の夜に、恵子に対して陽子の存在を告げたことによって、交通事故が引き起こされ、次第に事は複雑になってきたのだ。徹は唇をかんだ。
「どう? おにいさん。この靴下」
陽子が、編みかけの靴下を手に取って見せた。
「ああ、なかなかすてきだよ」
「そう、うれしいわ。気に入ってくださって」
陽子の言葉に、徹はその靴下が、自分のために編まれていることを知って、思わず微笑した。
追跡
北原と会うために、クラーク会館のドアを押して、陽子は中に入った。教養部から、一キロも寒い北風の中を歩いて来るうちに、陽子は体が少し冷えたような気がした。
いつもの癖で、陽子は集会案内の掲示板の前に立った。その度に陽子は、いろいろな学生サークルがあるものだと思う。「自然保護研究会」があるかと思うと、「ロシア語研究会」がある。「山岳スキー部会」あり「エッセイ討論クラブ」があり、オーケストラの練習をしている会もある。この掲示板を見る度に、陽子は人間の多様性を思う。一度も漢字に興味を持ったことのない人間もいれば、一生を漢字の研究にとりくみたい人もいる。楽器など手にとったことのない人間もいれば、楽器のとりこになっている人もいる。陽子は、そうした全くちがった傾向の人々を、想像するのが楽しかった。
掲示板の傍に大きな水槽があり、金魚の群れが、泳ぐというより漂うように、ひどくひそやかに動いている。
「何を見てるの」
声をかけて横に立ったのは北原だった。
「金魚よ。じっと見てると、何だか人間より偉く見えてくるの」
「金魚が?」
「そうよ。こんなせまいところに入っていても、退屈そうな顔をしていないわ」
「そうかなあ。ぼくには、みんな退屈そうな諦めきった表情に見えますがね」
「わたしには、みんなちがった表情に見えるのよ。緊張している顔や、もの珍しげな顔や、いたずらっ子のような顔など、さまざまよ」
「あなたは詩人だなあ」
北原は笑った。
一匹が、ふいにすばやくS字型に水槽を横ぎった。漂うように浮き沈みしていた金魚の動きが、一瞬に変わった。他の金魚がその金魚を追いかけた。一匹が追いついて体をすりよせる。ふり切るように逃げる。また追いかける。体をすりよせる。二匹は同じことをくり返した。
北原はちらりと陽子を見ていった。
「何だか、ぼくとあなたみたいだ。追われているのはあなたで、追いかけているのは、ぼくですよ」
「あら、北原さんは追ったりはなさらないわ」
「いや、心理的には、まさしく追っていますよ。そして振り払われている」
「…………」
北原と陽子は金魚の前を離れた。
広いロビーは、学生たちで賑わっており、たばこのけむりが青くこもっていた。二人はゆっくりロビーを横ぎって、窓側の椅子にすわった。庭の雪が、午後の日をまぶしく照り返していた。
窓外の芝生はすっかり雪に覆われ、五葉松やアララギの緑が、くすんだ色を見せている。冬日がロビーの中に暖かくさし込み、空が淋しいほどにうす青かった。
「今日は車を持って来たんですよ。陽子さんは、車より歩くほうがいいといったけれど、たまには冬のドライブもいかがです」
「ありがとう、北原さん。でも、今日このあと、ちょっと約束があるんです。ごめんなさいね」
陽子は長椅子のそばにある、鳥籠を見上げた。それに応えるように、うぐいす色のいんこが大きく羽を広げた。北原も黙っていんこを見上げた。いんこは首を傾けて二人を見おろした。
「約束って……辻口とですか」
「ええ、あした家に持って帰るおみやげを、一緒に買う約束をしていたんです」
「……いいなあ、辻口は」
「…………」
「辻口はあなたと一緒に家に帰ることができる。冬休みの間中、一緒の家にいることができる。札幌では、いつもあなたの下宿を訪ねることができる」
「…………」
「辻口は、赤の他人のぼくがうらやましいといっていましたがね」
陽子はちょっと目をふせた。
「あ、失敬。こんなことをいっては、あなたを困らせるだけですね」
北原は大きく足を組んだ。陽子は見るともなくその足を見た。徹の細い足とはちがって、がっちりとした足だった。
ロビーの隣の食堂から学生が一人、牛乳とパンを持って、傍の椅子に来てすわった。ポケットから出したうすい本をひらいてテーブルにおくと、学生はパンを食べはじめた。
「この頃、何か読みましたか」
北原は話題を変えた。
「そうね、怠けていて、『出家とその弟子』くらい……」
「ああ、あれはいい。あれはね、青春時代に一度読んでおくべき本だと、おやじにいわれましてね、ぼくも読みましたよ」
「あら、わたしも父にすすめられましたの」
陽子は微笑した。
「本の話をしてくれる父親っていうのは、いいですよねえ。ぼくのおやじは、おふくろが死んでから、一人でぼくたち兄妹を育ててくれましたからね、女親のように細やかな配慮はできなかったと思うけど、本の話はよくしてくれましたよ」
「いいおとうさまね」
「まあまあのおやじですけどね。ぼくも親孝行をしなければいかんな」
北原がやさしい笑顔を見せた時、
「おい、北原。今日こそ紹介しろよ」
と、一人の学生がそばに立った。
突然現れた学生に、北原はちょっと照れていった。
「困るな、どうも。陽子さん、この礼儀知らずの男は須見田というんです。こちら辻口陽子さん」
須見田という学生は、ちょっとまじめな顔をして、陽子に礼をしたが、すぐに北原にいった。
「礼儀知らずは承知の上だよ。デートの最中に割りこむのは不粋だということも承知だ。しかしね、辻口さん、この北原って奴はいい奴なんです。だから、ぼくは、北原を幸せにしてやりたいということなんです。まあ、そんなことなんです。じゃ、お前、うまくやれよ」
須見田は北原の肩をたたいて去って行った。
「困った奴だ。どうも失礼しました」
北原は苦笑した。
「おもしろい方ね」
「おもしろいというのかなあ。あれで、頭はいいんですよ。それでいて、生活感情は中学生並みなんです。とにかくアンバランスな奴ですよ、彼は」
「でも、生活感情が中学生並みとは思えないわ。全部承知の上でやっていらっしゃるみたい」
「そうですか、そういえば彼、落語のサークルに入っていたな」
「落語がわかるのは、おとなですってよ」
「あなたも落語が好きですか」
「なぜ?」
「あなたもおとなだから」
「まあ」
二人は笑った。
「冬休みには、スキーに行かれるそうですね。辻口から聞きました」
「お会いになりました?」
「ええ、実はゆうべ、ちょっといろいろ話を聞かされました」
「いろいろ?」
「ええ。ぼくにも事情を知っておいてほしいって、一昨日のホテルでのことから、いろいろ聞かされました」
「まあ、すみません。つまらないことを……」
「いや、つまらないことじゃない。辻口は真剣にあなたのことを心配していますよ。やっぱり彼はえらい。彼にはかなわないな」
パンを食べ終わった傍の学生は、二人に気づかぬように熱心に本を読みつづけている。
「ぼくはゆうべ、辻口と話をしながら、あなたに聞いてみたいと考えたんですよ。あなたは、こんな話をきらうかも知れないけれど、今日は避けないで、答えてほしいと思うんです。陽子さんにとって、一体ぼくは何なのです?」
北原は陽子をぴたりと見つめた。
「お友だちよ、北原さん」
「友だちか。そうか、そうだろうなあ。じゃ辻口はあなたにとって何ですか。やはり友だちですか」
陽子は、庭木の向こうの家並みに目をやったまま、考える顔になった。自分にとって、本当に徹は何であろう。友人ではない。単なる兄でもない。いずれにしても、誰よりも自分の心の奥深くに住んでいる人間である。
「そうね、兄のような友だちといったらいいのかしら」
「本当ですか、陽子さん。じゃ、辻口とぼくは、とにかくあなたにとって、友だちという同格同列の存在なんですね」
「……北原さん。わたし、正直にいいます。いつかもいったように、あの川原で……薬を飲む前までは、たしかにあなたが好きでしたわ」
陽子は低い声でいった。北原は大きくうなずいて、テーブルの上に身をのり出した。
「でも、わたしが最後の手紙を書いた時、一番会いたかったのは、自分でも思いがけないことにそれは兄だったのです」
「…………」
「そして、あの苦しい何日かが過ぎたあとは、わたしの胸にはどなたも……。だけどあれから三年近くたった今、わたしは、また変わりつつあるような気がするんです」
「変わりつつある?」
「どういっていいかわかりませんけれど、徹にいさんは、少年の頃から、わたしをやさしくかばってくださったでしょう。その気持ちを、わたしはもっと大事に受けとめなくてはいけないような気持ちになっているんです」
じっと陽子の目を見ていた北原の視線が、自分のひざに落ちた。北原は身動きもせずに、ひざ頭を凝視したまま何もいわなかった。陽子は残酷なことをいったようで、いたたまれない思いがした。
三分、五分、八分、北原は同じ姿勢のまま黙っていたが、やがてほっと吐息を洩らした。
「そういうことじゃないかと、実は見当はついていたんです。あなたが、辻口と二人で十勝岳にスキーに行くと聞いてからね。――しかし、あなたの口から直接そういわれると、やはりつらいなあ。オンオン声を上げて泣きたいぐらいですよ」
北原はわざと快活にいった。陽子は目をふせた。
「陽子さん。でもまだ、あなたと辻口は結婚の約束までは、なさっていないんでしょう」
「無論、そんな話は、まだしていませんわ」
「しかし、それは時間の問題でしょう? 十勝岳にスキーに行ったら、そのとき辻口は、それを持ち出すにちがいないとぼくは思うんです」
北原は顔を少しふるようにして、髪をかき上げた。その北原に、陽子は答えようがなかった。何と答えたとしても、自分の気持ちが徹に傾いている事実だけは、否定することはできないのだ。
陽子は目を上げて北原を見た。ひたすらな北原のまなざしが自分に向けられていた。陽子は胸のさされる思いがした。誰かが、
「冗談じゃないよ」
と大きな声で叫び、五、六人、どっと笑う声がロビーの一隅で起こった。
「心配しないでくださいよ、陽子さん。多分ぼくは今、ずいぶん参った顔をしてるでしょう。それは仕方ありませんよね。しかし、ぼくよりも辻口のほうが、あなたを幸せにしてあげられる人間です。あなたさえ幸せになればいいんだ。ぼくはつらいけど、やっぱり祝福しますよ」
北原は弱々しく微笑した。
「……北原さん」
「いや、考えてみたら、ぼくがもしあなたと結婚したら、辻口はぼくよりも、もっと参るんじゃないかと思う。全くの話、奴なら生きる力を失ってしまうかも知れないな。あんないい奴に、こんなつらい思いはさせられないと、ぼくは、今気づきましたよ」
「…………」
「ぼくは、まあ、せいぜい三日ぐらいやけ酒を飲めば、立ち上がれますよ。いや、十日ぐらいかな。そんな軽薄なところが、ぼくにはある。しかし辻口はそうはいきませんよ」
「北原さん……」
北原のやさしさに陽子は心うたれた。
「そんな顔をしてはいけませんよ、陽子さん。大丈夫です。心配はいりません。今ね、ぼくはふっと高木先生のことを思い出しましたよ。あの人は本気か冗談かわかりませんがね、辻口のおとうさんとは、ライバルだっていってたことがありましたよ。あの人、お前たちも仲のいいライバルになれよって、いってたなあ」
「…………」
「高木先生は、本当に辻口のおかあさんを思って、独身だったのかなあ。とすると、ぼくもあんな楽しい顔で、あなた方の家庭に出入りすることが可能なわけですよね」
陽子にはやはり答える言葉がなかった。饒舌にならずにはいられない北原の気持ちが、痛々しくてならなかった。
「陽子さん、ぼくは多分、もうあなたに対するような思いは、一生誰にも抱けないかも知れない。ショパンは音楽史上に残るような恋を、三度もしましたよね。しかもその三度目は、あのジョルジュ・サンドとの、苦しい大恋愛だった。ショパンというのは、やはり凄くパッショネートな人間だったんだなあ。しかしぼくは平凡な男だ。一度っきりだと思うな、こんなことは」
「ごめんなさい、北原さん」
「いや、ぼくはそうそうへこたれませんよ。何せ、大変な自信家ですからね、こう思ってるんです。もし辻口という人間がいなかったら、あなたはぼくを選んだろうとね。いわばぼくは選外佳作です。もって瞑すべしですよ」
「ごめんなさい、北原さん。わたしの態度がいけなかったんです」
陽子は、あくまで単なる友人として、北原と交際してきたつもりであった。無論、北原が自分に抱いている感情を知ってはいた。だが、交際をつづけているうちに、自分のこの気持ちがはっきりとわかるのではないか、北原の思いも次第に友情に移って行くのではないかと、陽子は考えていた。
「いや、あなたが悪いんじゃない。あなたは決して、友情以外のあいまいな態度を示したわけではありませんからね。ぼくが甘かったんですよ。ぼくは以前、あなたの一番近いところにいた男だという、自負があったんです。辻口は強敵だと思っていないわけじゃなかったけど……。やがては、再びぼくのところにもどってくると考えていた、大変な自信家ですよ、ぼくは」
「すみません」
陽子は目をふせた。
「あやまらないでください。ぼくが、みじめになる」
「…………」
「……これですっぱり、あなたをあきらめはしないでしょうがね。とにかく、陽子さん、幸せになってください」
北原はじっと陽子を見つめた。
「ありがとう、北原さん。でも、わたしは……」
確たる生き方をつかまなければ、本当の意味の幸せにはなれないと陽子は思った。生きる方向は、既に順子によって示されてはいる。しかしまだ、陽子の生活は根本的に変わってはいない。自分の精神生活が根本的に変化した時に、恵子への憎しみも解決するはずなのだ。自分を変革しない限り、誰と結婚しようと、真の幸福はあり得ないのではないかと、陽子は北原を見た。
「あっ」
陽子から視線をそらした北原の表情が、はっと動いた。北原はいきなり、テーブルの上にあったライフ誌を読むようなふりをして、顔をかくした。
「陽子さん、ふり返らないでくださいよ。達哉君が誰かを探しているようです。あなたを探しているんじゃないかな」
北原は低い声でいった。
「せっかく、あなたと話をしているのに、割りこまれてはかないませんからね。それにホテルの一件もあるし、顔を合わさないほうが無難ですよ」
陽子はうなずいた。だが、恐らく達哉は、すぐに自分のうしろ姿を見つけるにちがいないと思った。
「あっ、来ましたよ、来ましたよ」
ライフ誌から、そっと目だけのぞかせた北原が、早口にいった。陽子はベージュの大きなバッグから、静かにちり紙を取り出した。
「やあ、ここにいたんですか」
達哉は北原には気づかないかのように、陽子の傍に腰をおろした。
「ずいぶん探しましたよ。教養部の中から、図書館まで。もう今日は会えないかと思った」
やっと陽子をたずね当てた達哉は、自分のいいたいことだけをいった。さえない達哉の顔を見ながら、陽子はいった。
「何かご用だったの? わたし、いま、この方とお話をしているところなのよ」
いわれてはじめて、達哉は北原を見た。が、ちょっと一べつしただけで、すぐ陽子のほうを向いていった。
「ぼく、陽子さんに、至急、お話ししたいことがあるんです」
「そう。でも、今日はだめよ。いま、わたしたち、お話ししているんですもの」
達哉は神経質に眉をぴりりと上げて、
「だけど、ぼく、急いでいるんだ」
と強引にいった。
「君、失敬じゃないか。いま、ぼくは陽子さんと話をしているんだ。ぼくに一言、何とか挨拶してもいいだろう。ぼくは理学部の大学院にいる北原だ。君は誰だ」
たまりかねた北原がきびしくとがめた。達哉は少しぽかんとして北原を見たが、
「すみません。ぼくは教養部の三井です」
と、意外に素直に頭を下げた。
「三井君か。君ね、ぼくだって陽子さんと大事な話をしているんだ。まあ、君のほうが大事な話があるにしてもだよ、ぼくにもことわるのが常識じゃないかな」
「そうです。どうも、ぼく、ちょっと頭に来てたんです。すみません」
「そんなに頭に来ているのなら、陽子さんと話をするのは、無理だと思うよ。もっと冷静な時に、話をしたほうがいいんじゃないの」
陽子の弟なのだ。そう思って、北原は途中から言葉を和らげた。いつか陽子と二人で歩いていた時、北原は達哉を見かけた。その時、陽子の親しいボーイフレンドではないかと心にかかったせいもあって、達哉の顔ははっきり憶えていた。その後二、三度構内ですれちがったこともある。昨夜徹から話を聞き、北原は直ちに達哉の顔を思い浮かべることができた。
「いや、ぼくは当分冷静にはなれない気がするんです。冷静になるためにも、陽子さんと話をしなければ、どうにもならないんです」
「でも、わたし今日はほかにも約束があるの。あした話を伺いたいわ」
陽子は達哉の少し血走った目を見た。達哉はあるいは眠っていないのではないか。原因がわかっているだけに、陽子は達哉が哀れであった。
陽子にことわられて、達哉はしょげたようにいった。
「あした? あしたまで待つんですか」
「そうよ。誰にでもスケジュールというものがあるわ。今すぐといっても、無理なことだってあるでしょう」
達哉は不満気に陽子の顔を見ていたが、ふいに北原に向かって尋ねた。
「まだまだ、あなた方の話は終わらないんですか」
「終わらないなあ。まだ三十分も話したか、話さないかだからね」
「特に重大な話なんですか」
達哉は自分自身の質問が、いかに礼を失しているかに全く気づかないようであった。
「少なくとも、ぼくにとっては重大な話といえるね」
「すみません。悪いけど、ぼくに三十分ほど、陽子さんと話をさせてくれませんか。ぼく急いでいるんです」
「急いでいるって、何を急いでいるんです。君は少し、非常識だと思わないのか」
「非常識? まあ、そうかも知れません。でも、ぼくは気が狂いそうなんです」
達哉は急に立ち上がった。
「陽子さん、頼む。三十分だけ、話したいんだ。ぼくは一昨日もゆうべも、ろくに寝ていないんです」
哀願するような達哉に、陽子は北原を見た。達哉を憐れんで相手になれば、どんな話が出るか見当がつく。この様子では、達哉に自分は追いつめられるにちがいない。陽子は何とかして避けたかった。
「ほら、陽子さんが迷惑がっているじゃないか。どんな話か知らないが、君って失敬な人間だなあ」
北原は再びきびしくたしなめた。達哉はむっとした顔で北原を見た。
「だから、ぼくは三十分だけと頼んでいるでしょう。ぼくは気が狂いそうだといってるんです。それともあんたは、ぼくなんか気が狂おうが狂うまいが知ったことじゃないというんですか」
達哉の声がふいに高くなった。近くにいた学生たちが、一様に達哉を見た。
「知ったことではないなどとはいわないが、ぼくには陽子さんのほうが大事だからね。君のような興奮している人間のお相手をさせるわけにはいかないな。もし話をするのなら、ここで話すといい」
北原は時計を見た。二時過ぎである。
「人に聞かれたくない話なんです。陽子さん、ぼくこの会館前に車を置いてあります。そこでちょっと、話を聞いてくれませんか」
達哉は執拗に陽子に願った。
「北原さん、悪いけどわたし、ちょっと三井さんのお話を聞いてきます」
思い切ったように陽子は立ち上がった。
「待ってください、陽子さん」
立ち上がった陽子を見て、北原はあわてた。
「北原さん、三十分だけお話を聞いてくるわ」
陽子は達哉が哀れだった。いってみれば、母親のことで達哉は悩んでいるのだ。陽子も話を聞くだけは聞いてやらねばならないような気がした。
「じゃ、時間になったら、すぐ帰って来てくださいよ。君、まさか、陽子さんをどこかに連れ出したりはしないだろうね」
「そんなことはしませんよ。ぼくはちょっと話をしたいだけですから」
「それならいいが、陽子さんは、まだこのあとの約束もあるんだからね」
北原も立ち上がった。
「わかっています。じゃ、悪いけれど……」
達哉は北原に軽く頭を下げ、陽子をうながした。
「大丈夫ですか、陽子さん」
「大丈夫よ。すぐもどってきますから」
陽子は北原を見上げた。
北原は、陽子を送って、クラーク会館の外に出た。達哉の車を確かめておきたかった。
「じゃ、失礼」
達哉が片手を上げて、一足先に玄関の階段を降りて行った。
「なるべく早く帰ってきてくださいよ」
北原は不安そうだった。
「ご心配おかけして、ごめんなさい」
「いや。それより、ぼく、ここに立って見ていてあげましょうか」
「ありがとう。でも大丈夫よ」
「そうですか。では、あまり遅いようなら、迎えに行きますからね」
北原は階段を降りる陽子の背にいった。陽子はふり返ってうなずいた。下から見ると、北原の足がいつもよりすらりと長く見えた。
北原は、陽子が達哉のほうに歩いて行くのをさらに見送った。達哉の車は、七、八台駐車しているうちの、端から三台目だった。一台おいて北原の車があった。
達哉が車の中に入り、陽子が助手席に乗るのを、北原は上から見ていた。達哉が陽子の弟だと知ってはいても、北原はやはり、陽子を他の男に取り去られたような感じがした。
約束どおり、車の中で話をするつもりなのだろう。あるいは車ですぐにどこかへ連れ出すのではないかと、少し不安だったが車は動かなかった。
「何をしている? 北原」
クラーク会館から出て来た男がいった。
「うん、ちょっと」
「きれいなのと、デートしてたじゃないか。ちょくちょく一緒に歩いているらしいな。評判だぞ」
北原は徹のことを思ってちょっと淋しく笑い、会館のドアを押した。
車の中に入った達哉は、ハンドルによりかかって、ほっとため息をついた。車はクラーク会館の壁に向かって置かれている。両側の車にはさまれて、外界から遮断されている感じだった。陽子はふとうしろをふり返った。白い雪をかぶったいぼたの生け垣が芝生を囲み、十二月も下旬の日射しの中に、煙るようなエルムの木立が理学部のほうに見えた。
「三井さんは、いつも車でかよっていたかしら」
急《せ》きたてて車の中に誘いながら、一向に口を開こうとしない達哉に、陽子はいった。
「いや、時々ね。これは、おふくろの車ですよ」
達哉は相変わらず、ハンドルに両腕をのせたままいった。
「そう。ところで三井さん、お話って何なの」
陽子の問いに、達哉は陽子のほうに体を向けた。
「ぼく、おとといの晩、君のおにいさんに会ったんです」
「どこで?」
陽子は何も聞いていない顔をした。
「ホテル・グランドでね。あの人が陽子さんのおにいさんだったとは、思わなかったなあ」
達哉は、徹と会った時の様子を、陽子に話した。それは、既に徹から聞いていたことと、あまり違いがなかった。
「ぼくは前に、あなたのおにいさんに会っていたんですよ。おふくろが、交通事故の時、病院に見舞いに来てくれたことがあってね。そうだ、この話は、ぼく、うちの兄とあなたの下宿に行った時、話したことがあるはずです」
「…………」
「ほら、兄貴にたばこを買ってこいといわれて、ぼくが雨の中を飛び出して、そこで変な奴に会ったといったことが、あったでしょう」
「そうね、そんなことがあったわね」
そのあと、窓から雨を見ていた達哉が、徹を見かけて、いきなり外に飛び出そうとして、潔にとめられた一幕があったことを、陽子はむろん忘れていなかった。
「そうか、今考えると、あの時君のおにいさんは、陽子さんの下宿に行こうとしていたのかな。それとも、あの人も、一緒の下宿なの?」
「ちがうわ」
「ちがうの? ちょっと待ってよ。あの時、あの人はあなたの下宿の前を素通りして行ったよね。変だな、どうして素通りなんかしたんだろう? ぼくが君の下宿に入るところを見ていて、ぼくを避けたのかな。とすると、ますますぼくはおかしいと思うんだ」
「何がおかしいの、三井さん」
陽子は覚悟をきめて、落ちついて顔を向けた。
雪がはらはらと、フロントガラスの前に散った。車の屋根の雪が風に吹かれたのかも知れない。
「だってね、なぜ、あなたのおにいさんはぼくを避けなければならないんだろう。いきなりこんなことをいっても、陽子さんには、よくわからないかも知れないけれど、ぼくは、君のおにいさんとうちのおふくろとは、交通事故以前からの知り合いだという気がして、ならないですよ」
「お知り合いでも、そうでなくても、そんなこと、かまわないじゃない?」
「かまいますよ、陽子さん。あなたと、うちのおふくろは、驚くほど似ているんだ。ぼくは、はじめてあなたを見た時、大声をあげたいほど、驚いたくらいですからね」
「それは、世には似ている人だってあると思うわ」
「もちろんぼくだって、他人の空似っていうのかなと、思っていましたよ、一昨日まではね。しかしね、そのあなたのおにいさんと、ぼくのおふくろが知り合いだとなると、これはどうもおかしい、と思うのは当たり前じゃありませんか」
「どういうふうにおかしいの」
バックミラーに、道を行く学生たちの姿が、よぎっては消える。
「どういうふうにって、あなたとおふくろがよく似ていて、あなたのおにいさんが知り合いとなると、もしかしたら、おふくろとあなたとは血縁じゃないか、そう思うのは当たり前でしょう」
「あなたのおかあさまと、わたしが? 血縁だとおっしゃるの? まさか」
「いや、まさかといいますけれどね。ホテルで、おにいさんや高木の小父さんと別れたあと、おふくろは血の気のない顔をしていましたよ。いつものおふくろとはちがっていたんです。だから一層、これは何かあると、ぴんと来ないではいられなかったんですよ。おやじはいつもと変わりはなかったですけれどね」
「あなたが何か、おかあさまにおっしゃったからじゃない?」
「ぼくは、ただ、今あなたにいったようなことを、おふくろにもいっただけですよ。おやじが、そんな話は家に帰ってからしなさいと、ぼくを叱ったんです。そしたらおふくろは、ハッとしたようにおやじを見て、さっと血の気のない顔になってしまったんですよ。今にも倒れるんじゃないかと、ぼくはびっくりして、もう、おふくろには何も尋ねられない気がして……。そして、その夜、ぼくはいろいろなことを考えたんです」
「いろいろなこと?」
「そう。蒼白にならねばならぬ何かが、おふくろにはあるということについてですよ」
「…………」
「ぼくはおふくろを信じたいんだ。しかし、あの時あんなにさっと顔色を変えたのは、何かがあるにちがいない。何か、うしろめたいことがあるにちがいない。そう思っただけで、ぼくは気が狂いそうなんです」
痛切な達哉の言葉だった。事の真相を知っているだけに、陽子は相づちも打てなかった。
「ぼく、前にもあなたにいったことがあったでしょう。ぼくにとって、おふくろは偶像的存在だって。その点、いつも兄貴に異常だといわれるくらいなんです。いや、偶像的存在でないにしろ、自分の親を信じたいのは、息子や娘の当然の願いじゃないだろうか」
「そうね、それはそうよ」
「それなのに、おふくろにはぼくの知らない何かがある。それは一体何なのか。そう思って、ぼくはいくつかの場合を想定してみたんです。母とあなたは、もしかしたら、きょうだいか、叔母と姪か、あるいはいとことかね」
「…………」
「しかし、そのどの場合も、ぴたりとした答えにはならないんです。それで、ぼくは想像したくないことだけれど、あなたはもしかしたら、母の産んだ子ではないかと思ったんですよ」
「そんなはずがないじゃないの、わたしは辻口の娘なのよ」
「辻口さんは、本当にそう思っているの」
達哉は陽子を凝視した。
「思っているわ。当たり前でしょう」
陽子は、自分でも驚くほど、平静にいった。嘘をいっているという思いはなかった。ただ達哉の心を傷つけたくない思いが、陽子を平静にふるまわせた。
「そうか。しかしね、陽子さんには悪いけれど、あなただって自分の生まれた時のことを記憶しているわけじゃないでしょう。本当のところ、誰から生まれたかわかりませんよ」
「失礼よ、三井さん」
「失礼なことは、よくわかっています。でも、ぼくの想像も、ちょっと聞いてくださいよ。ぼくは、仮に、あなたを母の子供だと考えてみた。ぼくとあなたとは同期だけれど、あなたは本当は一年上なわけでしょう。ぼくは、このことをついこの間、友人から聞いて知ったんです」
「…………」
「もしあなたが、おふくろから生まれたと仮定すると、重大な問題をはらんでいることになる。ぼくは、父が戦争から帰って来てすぐに生まれた子なんだ。それは小さい時から、親戚の者たちがよくいっていたので、知っている。だから、もし陽子さんがおふくろから生まれたとしたら、おやじのいない間に生まれたということになるんですよ」
達哉の推理はあまりにも当たっていた。陽子は返す言葉がなかった。
「寒いわ、三井さん」
寒いという陽子の言葉に、達哉はエンジンを始動させ、ヒーターを入れた。
「もし、おやじのいない間に生まれたとすると……」
「ちょっと待ってよ、三井さん。わたしがあなたのおかあさんに似ているということだけで、そんなふうに決めつけられるのは心外よ。似ているだけなら、わたしは母に似ていると、よくいわれるわ」
「本当!? 君、君のおかあさんに似ているの」
「本当よ。小学校のころからいわれたわ」
時折、夏枝に似ていると、人にいわれたことは事実だった。
「そうか。それは考えなかった。しかし、君と君のおにいさんは全く似ていないなあ」
「兄は父親似なのね。あなただって、どうやらおかあさんとは、似ていないんじゃないかしら」
「それはそうだ。ぼくも父親似だ。しかしね、君のおにいさんは、病院に見舞いに来た時も様子がおかしかったし、君の下宿の近くの、たばこ屋の所であった時も、変だった。ぼくを見ると、プイと顔をそむけてね。あれは確かに、何かある顔だった。しかも、君の下宿の前を素通りしたりしてさ。どう見ても、ぼくを避けたとしか思えないよ。ぼくを避けなければならない理由って、何だろう」
「兄はね、人見知りする性質なのよ。他意はないと思うわ」
達哉は陽子の顔を探るように見て、
「じゃ陽子さん。君はホテルで母が青くなったことや、君のおにいさんや高木先生が、そそくさと逃げるように行ったのは、どう説明するの」
「さあ、わたしにはわからないわ。その場にいなかったんですもの。でも、とにかくわたしがあなたのおかあさんの子供だなんて、あんまり突飛な話に思われるわ」
陽子は腕時計を見た。
「あら、もう時間よ。北原さんが待っていらっしゃるわ」
「お願いだ、もう三分だけ。辻口さん、あなたってふしぎなひとだな。ぼくの母があなたとそっくりだ。母と、あなたのおにいさんは知り合いだ。しかも高木先生という共通の知人がいる。これだけデータがそろっているのに、自分の出生に不安も疑いも感じないの」
「感じないわ。わたしは辻口の娘ですもの」
「たとえ感じないにしてもだよ。そんなにあなたに似ているぼくの母に、会ってみたいとなぜ思わないのかな」
「……わたし、興味がないの。自分に似ている人なんて……」
「本当? 陽子さん」
達哉の眉が神経質にピクリと上がった。
「本当よ、興味がないわ」
「どっちでもいい! おねがいだ。母に会ってください。一目会ってくれるだけでいいんだ。その時のおふくろを見れば、万事がはっきりする」
「いやよ、わたし」
はっとおびえた陽子の顔に、達哉の目が鋭く光った。達哉は車をふいにバックさせた。
「どこへ行くの、三井さん」
「悪いけど、小樽に行ってもらいますよ」
「北原さんが待っていらっしゃるのよ。兄とも約束があるわ」
バックした車は、するするとクラーク会館の前を走りはじめた。陽子はドアを開けようとした。が、それは既に危険だった。
陽子は救いを求めるように会館のほうを見た。北原が階段を駆け降りてくるのが見えた。達哉はスピードを上げた。北原が自分の車の方に走った。
「とめて! 三井さん」
「ゆるしてください。ぼくはあなたがなぜぼくのおふくろに会うのがいやなのか、その理由をたしかめたいんだ」
達哉は前を見たままいった。車は既にクラーク像の前を右に曲がり、正門のほうをめざしていた。
「理由なんかないわ。いつかもいったでしょう。自分に似た人間なんて気味が悪いの」
「嘘だ」
どなるように達哉がいった。
「嘘じゃないわ」
「ぼくの直感は正しいはずだ。あなたは何かを知っている。ぼくは、いまさっき、君の表情の中にそれを感じたんだ」
陽子はうしろをふりむいた。北原の車が追って来ていた。陽子は少し安心していった。
「いいわ。じゃ小樽まで行くわ。でも、わたし兄との約束があるの。連絡しなくてはいけないわ。赤電話のあるところで、ちょっとおろしてください」
「おりたら、二度と乗らないでしょう」
「あなたもおりて見張ってたらいいわ」
正門前の信号はちょうど青で、車はすぐ電車通りに出た。車がこんでいる。陽子はさりげなくうしろを見た。赤に変わった信号の前に、北原の車が動けない。北原が手を上げて見せた。心配するな、追って行くといっているように見えた。
車は札幌駅の陸橋を渡り、右に曲がった。乱暴な右折だった。
「高木先生という人は、怪しい存在だとぼくは思うよ」
しばらく何かを考えていた達哉が、ちらっと陽子の顔を見た。
植物園の枯れ木立がみるみるうしろに過ぎて行く。
「怪しい? 高木先生が?」
陽子は、つとめてゆっくりと問い返した。
「ぼくが生まれる時世話になってからの知り合いだと、おふくろはいっていたけれど、どうやら、それ以前からのつきあいじゃないかと思うんだ」
いいながら、黄の信号を無視して突っ走ろうとしていた達哉が、急ブレーキをかけた。
陽子の体が前にのめった。
あやうく陽子は、フロントガラスに頭を打つところだった。
「すみません。まだ赤なのに、子供が飛び出しそうになったものですから」
陽子の胸は激しく動悸していた。四歳ぐらいの子が、手を上げながら前を横断しようとしたのだった。
「あなたがいけないのよ。黄になったら、とまらなくてはいけないのに、スピードを落とさないんですもの」
陽子は、自分勝手な達哉に怒りを感じた。
「でも、ぼく気がせいているんだ」
むっとしたように達哉はいった。
「気がせいていたら、なおのこと落ちつかなければならないわ。大事故を起こすわよ」
達哉は正面を見たまま、うす笑いを浮かべていった。
「事故でも起こして死にたいぐらいですよ」
ぞっとするほど投げやりな語調だった。
「あなたを見て、おふくろがどんな顔をするか、ぼくにはわかるような気がしますよ。そんなおふくろを見るくらいなら、死んだほうがいい」
「じゃ、なぜ、わたしを連れて行きたいの」
「ぼくは万に一つの望みをかけているんです。まだおふくろに絶望はしていない。だから辛いんだ。ぼくの考えが、当たっているかどうかがわからない。一か八か、それが知りたいんです。混乱してるんですよ、ぼくは」
陽子は軽々しく答えられなかった。それほどまでに、達哉は母を愛しているのだ。陽子は恵子に、いいようのない憤りを覚えずにはいられなかった。
車は札樽《さつそん》国道に入っていた。手稲《ていね》の山が、うすずみ色の雲におおわれて見えない。白い小さな太陽が、雲にかくれて行った。
「達哉さんは、本当におかあさまが好きなのね」
「…………」
達哉の唇がかすかに歪んだ。
「そんなに好きなおかあさまなら、たとえ何をしたって、許してあげるべきじゃない?」
「いやだ。ぼくは母が美しいから好きなんだ。もし、そんな……うす汚れた人間だとしたら、決して許しゃしないよ」
「でも、本当に好きなら、たとえ世界中の人に指さされるようなことを仕でかしても、あなただけは、好きになっていてあげられるのではないかしら」
「それは、好きでも何でもない人間のいうことですよ。ぼくの母は……」
いいかけて達哉は、ふっと不機嫌に黙りこんだ。
対向車が少なくなった。達哉は前方のトラックを追い越そうと右に寄った。と、たちまち向こうからライトバンが近づいてくる。ライトバンが過ぎると、達哉は再びいらいらとセンターラインを越えた。
琴似《ことに》を過ぎて、北原はようやく、達哉の車を三台ほど先に認めた。絶えず中央に寄り、追い越しをかけようとしているのが、うしろから見える。北原は、達哉のいらだちを感じながら、沈着にハンドルを握っていた。
達哉は三十分だけ陽子と話したいといったのだ。達哉と陽子が車の中で話し出したのを、北原は初め、危惧しながらそれとなく監視していた。玄関を出たり入ったりしながら、十分近く見ていたが、どうやら何事も起こらぬかに見えた。
北原は、達哉の出現を徹に連絡しようと、あちこち電話したが、連絡はとれなかった。約束の三十分が過ぎた頃、北原は会館の外に出た。達哉の車が同じ場所にあった。安心して陽子を迎えに行こうとした時だった。いきなり達哉の車がバックした。陽子の緊張した顔が、救いを求めるように車の窓に見えた。と思う間もなく、達哉の車は走り出していた。
北原はやにわに自分の車に駆けより、乗りこむとすぐ達哉を追った。行く先は不明だった。北大正門前を右折するのを確認し、更に駅の陸橋を越えて右に曲がるのを、幾台かの車の後方から、からくも確かめた北原は、達哉が小樽に向かうのを直感した。自分の追跡に気づかぬ限り、達哉はこのまま札樽国道を走らせるにちがいない。既に一丁以上離れてはいるが、方向さえ変わらなければ、その差は徐々に縮め得る。直後に迫らないまでも、赤信号の前で共に停止するチャンスをつかめば、駆け降りて陽子を救えると北原は冷静に車を走らせた。
たちまち幾つかの交差点を過ぎた。その度に、北原は巧みに割りこみを図り、敏捷に追い越した。が、しばしば横通りからの車が入りこむ。そしてまた、横通りに去る。何台かの車が前方に増減し、琴似を過ぎるいま、ようやく間に三台をはさむだけになったのだ。
手稲の山に雲が低く垂れ、雪がちらついてきた。車の往来がやや少なくなったが、追い越そうとする度に、みるみる対向車が大きく迫ってくる。と、達哉の強引な追い越しが見えた。ハッとした北原は、にわかに焦りを覚えた。この先なお、張碓《はりうす》峠から小樽まで、急カーブと、崖から海を見おろす難所がつづく。しかも凍りついた雪道である。達哉のような運転では、いつ大事故を引き起こすか、はかり知れない。一刻も早く追いつく必要を北原は感じた。
が、また交差点にさしかかって、信号は赤に変わった。車が幾台か左右から前に入り、再び達哉との距離は遠くなった。
やっと走り出した北原の前に、緑色の大きなグレーダーがのろのろと道をふさいで行く。太いチェーンを巻いた径一・五メートルほどのタイヤと、横にはみ出たラッセルが威圧する。
「除雪作業中。危険ですから近寄らないでください」
というていねいな標示が、かえって心をいらだたせた。達哉の車に追いつくことは、もはや不可能に思われた。
幸い、グレーダーは次の角を左に曲がって去った。
次第に人家がまばらになった。時折、雪を舞い上げて風が横切る。北原はスリップに気をつけながら、前の車との間隔を保っていた。
(吹雪だ!)
小樽のほうから来る車が、どれも雪にまみれ、ヘッドライトをつけていることに気づいて、北原は唇を歪めた。気象の変化の激しい地帯である。札幌が晴れていても、途中が吹雪くことは珍しくない。いち早く行く手の吹雪を警戒したのか、前を走っていた小型の乗用車がUターンした。
銭函《ぜにばこ》にさしかかったころ、灰色の重い雲の下に、冬の海がくろぐろと見えた。二、三百メートル走って、大きくカーブした時、突如として、恐れていた吹雪がうなりを上げて襲いかかった。吹雪は渦を巻き、宙に舞い上がったかと思うと、地を叩きつけた。一瞬にして、前方の車も対向車も、道も、木々も、一切が視界から消えた。白い闇だった。それは、真っ暗な闇よりも恐ろしかった。白い闇はヘッドライトさえもさえぎるのだ。
北原は息をつめ、のろのろとはうように車を進めた。どこが道か全くわからない。一切が見えないということは、恐怖だった。ハンドルを持つ手が、いつしか硬直していた。
少し進むうちに、吹雪の底に暗い海がちらりと下方に見え、四、五メートル先を行く車が、おぼろに見えた。おぼろにでも、見えるということは心強かった。が、一瞬にして、再びすべてが吹雪にかき消された。
フロントガラスのワイパーが、忙しく動く。逆まく吹雪は衰えるふうもない。北原は、停止している前の車に危うくぶつかりそうになって、車をとめた。追突されるのを防ぎ、対向車に衝突されるのを避けるため、小きざみに警笛を鳴らしつづけながら、前方に目をこらした。依然として何も見えない。ただ白く荒れ狂う吹雪だけが、目の前にあった。
陽子が無事か、どうか。北原は達哉の運転が気づかわれた。お互い、停止したり、のろのろ進むしかない運転である。ひどい事故にはなるまいと思いつつも、やがて日の落ちる頃と思うと、北原は心が騒いでならなかった。
吹雪のままに、次第にあたりがうす暗くなってきた。暗くならぬうちに、何とかして陽子に追いつきたかった。どの車も動きがとれなくなれば、それは一つのチャンスである。いつでも車を降りて走ろうと、北原は思った。
ライトの中に、ふいに前の車がはっきりと浮かび上がった。左手の人家の灯も見える。右前方に、大きなトラックがとまっていた。少し吹雪が衰えたのだ。前の車が動きはじめた。北原も静かにアクセルを踏んだ。
荒れ狂う吹雪の中に、前にとまっている車が、時折影のように現れては消える。道端のポールの一部が見えがくれする。陽子は傍の達哉を見た。達哉は目をつむり、腕をくんで、シートに背をもたせている。
北原もこの吹雪の中に閉じこめられているのだろうか。それとも、諦めてとうに札幌に引き返したのだろうか。陽子はうしろをふり返って、雪にまみれた窓に目をやった。
徹のことも気がかりだった。五時半には駅前のニシムラで食事をし、そのあと買い物をする約束だった。もう四時近い。小樽についてから、ニシムラに電話をするより仕方がない。が、何時になれば、小樽につけるのか、陽子には見当がつかなかった。
もし、いま吹雪の中に達哉と共にいると知ったら、徹もまた北原のように追ってくれるにちがいない。徹をこの吹雪にあわせないでよかったと、陽子は思った。
吹雪がやや落ちついてきた。前の車の見える回数が多くなった。達哉はかすかに口をあけたまま、まだ目をつむっている。昨夜も一昨夜も、ほとんど眠らなかったという達哉は、疲れが出てうとうとしているのかもしれない。陽子は起こさぬほうがいいと思った。
母の恵子と会うのは、一刻でも遅いほうがよかった。ここまで来た以上、陽子にも対面の覚悟はできていた。陽子は、友人の母に会うという態度で、悪びれずに会おうと思っていた。恐らく恵子も、既にあらゆる局面を想定していて、沈着にふるまうにちがいない。とはいっても、恵子に瓜二つだという自分を見た時、弥吉や店の者たちは、どんな衝撃を受けるかわからないのだ。今更のように、陽子は自分がいかに人目を憚らねばならぬ存在かを、思わずにはいられなかった。できれば、このまま達哉が、いつまでも眠っていてくれればよいと陽子は思った。
つきものが落ちたように吹雪がおさまった。雪をふきつけられた人家が四、五軒、道の左に現れ、前方に停止していた幾台もの車が、右斜めを向いたり、左に寄り過ぎたり、列を乱している。あたりが少し明るくなったが、既に夕暮れだった。対向車のヘッドライトが光芒を放ちながら、一台また一台近づいて来る。前方の車も、次々に動き出した。
陽子は眠っている達哉の顔を見た。あごのあたりにひげがまばらに見える。が、その口をあけた寝顔に、まだどこか幼さが残っているのがあわれだった。
後方の車が幾台か追い越して行った。意外に雪は積もっていないが、車の通る度に雪煙が上がる。と、その時、二人の横をすりぬけた車が、六、七メートル前でとまった。ドアをあけ、その車から降り立った青年を、ワイパーの動くフロントガラス越しに、陽子は見るともなく見て、声を上げるところだった。北原だった。
北原は陽子を見て、安心したようにニッコリと笑い、助手席のドアをあけようとした。おろしてあるドアのさしこみを、陽子は急いで上げようとした。が、その途端、陽子の手は、達哉に上からおさえられた。
陽子は思わず眉をひそめて達哉を見た。達哉は仏頂面をして北原を見ていた。やむなく窓ガラスをあけて、陽子は北原にわびた。
「すみません、北原さん」
「いや、無事で安心しましたよ。吹雪は恐ろしかったでしょう」
「北原さんこそ、こんなところまで、大変でしたわね。三井さん、ちょっとおろしてくださらない」
達哉は返事をしない。
「君! 卑怯な男だな。陽子さんをいきなり連れ出すなんて」
「…………」
「三十分の約束だったはずだ。さ、おろし給え。陽子さんも降りたいといっているじゃないか」
北原はきびしい表情になった。達哉は依然として、陽子の手を上からおさえたまま、無言だった。
「君! それじゃ、まるで誘拐じゃないか。おろし給え!」
達哉はうす笑いを浮かべた。
「失敬な奴だな。何とかいったらどうだ。約束を破っても、君はあやまる気持ちもないのか」
陽子は情けなさそうに達哉を見た。
「第一、君は運転免許証を持っているのか。乱暴な運転ばかりして。とても陽子さんを乗せておくわけにはいかない。とにかく三十分で返す約束だったんだ。さあ、ドアをあけ給え」
「ガアガア、横合いからうるさいな。おろさないよ、ぼくは」
かみつくような達哉の声だった。
「それが君の挨拶か。まるでチンピラじゃないか」
「ああ、どうせチンピラだよ。あぶないから、よけてくれ」
いうなり達哉はアクセルを踏み、ハンドルを右に切った。
「あぶないじゃないか!」
窓に手をかけていた北原が、飛びすさろうとして、つるりとすべった。右足が車の下に入った。
「あっ、とめて」
陽子が叫んだ。と同時に、車はにぶいショックを受けてとまった。
陽子はドアをあけて飛び出した。北原が背をまるめて、うめいている。
「北原さん、ごめんなさい、北原さん」
おろおろと取りすがる陽子のうしろに、蒼白になった達哉が降りて来ていった。
「だから、あぶないといったじゃないか」
陽子が、きっと達哉をにらみつけて叫んだ。
「早く! 病院へ運ぶのよ!」
燃える流氷
灰色の空の下に、流氷原は蒼ざめた白色の荒野だった。陽子は先ほどから、宿の窓越しに、流氷に閉ざされたオホーツクの海を見つめていた。それは、三月も末とは思えぬ荒涼たる眺めだった。
右手に、湾を抱えこむように丘陵がつらなり、丘の下に網走の街の一画がつづいている。街が果てた向こうに丘の突端があり、その前方の海に帽子岩と呼ばれる大きな岩が一つ、帽子を伏せたように見える。岩の左に白い灯台が立ち、少し離れて、赤い灯台が突堤の上に立っているのが、およそ二キロ前方に望まれた。
宿のすぐ前の道に沿って防波壁があり、そのそばまで、庭石のような大きな流氷や、厚い板のような流氷が無数に押し上げられ、敷きつめられていた。カメラを持った青年が一人、防波壁を越えて、流氷の上をゆっくりと歩いて行く。一歩一歩、踏みしめるように歩くその青年の長い足を、陽子はじっと眺めた。
まさしく青年には二本の足がある。その極めて当然な事実が、もはや北原には失われたのだ。
あれから、もう三カ月が過ぎたのだと陽子は思った。達哉の車に、北原が右足を轢かれた日が、陽子には悪夢のように思われてならなかった。
うずくまって苦しがる北原の足に、血が出ていないのを見て安心したのも束の間、見る見るうちに、足は張りさけんばかりにふくれ上がってくる。陽子は自分のしめていたワンピースのひもで、軽く大腿部をしばり、うろうろする達哉を叱るように励まして、北原を車に運ぶと、すぐ近くの店から救急車を呼んだ。
救急車の来るまでの二十分あまりが、異様に長く感じられた。苦しみうめく北原の蒼白な顔をみつめて、陽子はいい難い罪の恐ろしさを感じた。
北原は手稲の外科病院に運びこまれた。膝窩動脈が切れているとの診断だった。直ちに縫合手術がなされた。陽子の連絡で駆けつけた徹は、その診断を聞いて顔色を変えた。
「成功率の少ない手術だ。膝窩動脈は細いからなあ」
果たして手術は失敗に終わった。二日目に足は紫色に変わり、三日目には更に真っ黒く変色し、腐臭さえ放った。一線を画したように黒く死んだ足は、遂に膝上から切断手術を受けなければならなかった。
手術室の前の廊下で、陽子はこらえかねて嗚咽した。事件直後、滝川から駆けつけていた北原の父も、手術室から出て来た北原の顔を見て、さすがに涙をこぼした。
陽子は、流氷の上に舞い降りたカラスに目をやった。既に青年の姿はない。網走は一人で行って見る街だと、いつか北原はいった。だが、一人で見るには、あまりにも荒涼たる景色だった。
カラスは立ちどまって左右を見、またよちよちと流氷の上を歩く。流氷が不規則に重なり合い、あるところは丘状に盛り上がり、あるところはくぼみながら、びっしりと沖のほうまでつづいている。
いま、陽子の前に、流氷の原は、墓原のように動かない。恐ろしいばかりの静寂だった。この見渡す限りに白く閉ざされた氷原の下に、巨大なオホーツクの深海がうねっているとは、到底信じられなかった。それほどに、きびしくも無気味に沈黙している光景の中に、カラスだけが今、唯一の動きだった。
(あのカラスにさえ、両足がある)
陽子は、また同じことを思った。北原が右足を失って以来、人を見ても、犬を見ても、足ばかりが目につくようになったのだ。切断手術後、二カ月で退院した北原は、いま、登のぼり別べつ温泉の病院で術後の静養をしていた。
北原が付き添いを不要とするまでの一カ月、陽子はずっと付き添っていた。北原には、幼い頃から母もなく、一人の妹も既に東京に嫁いでいた。もし母や妹がいたとしても、陽子は付き添わずにはいられなかったであろう。あの吹雪の中を、陽子の身を案じて追ってきてくれた北原が、陽子の弟の達哉によって足を失ったのだ。付き添わずにはいられなかったのは、当然の気持ちだった。
付き添いを終えた陽子は、さすがに疲れて、一週間ほど旭川の家に帰って休んでいた。
寒い日がつづいて、朝夕、窓ガラスに結晶する氷紋が美しかった。ガラス一面に、くじゃくの羽や、しだの葉に似た氷の紋様が彫りつけられる。名工が浮き彫りにしたガラスの絵のように、それはいいようもなく美しい線であり、形象だった。ある時は、林の木立に似た氷紋が浮き彫りにされ、ある時はイルミネーションをはめこんだように、まるい玉が一定の間をおいて描かれる。
その夜も、陽子が茶の間の窓のカーテンをあけて、自然のなす神秘な業に感嘆しながら眺めていると、啓造がいった。
「全く神秘的だねえ。千変万化の模様が、どこの家の、どのガラスにも描かれるのだからねえ。夕方など、何もないガラスに、次第に描かれて行く氷紋を見ているとね、おとうさんはやっぱり、神の意志というか、神の創造というか、そんなことを感ずるんだ」
「いやですわ、神なんて。わたくし、やはり神なんて信じられませんわ」
ストーブの傍で、紺のウールをひろげ、徹の着物を縫っていた夏枝がいった。
「そうかね」
啓造は苦笑した。
「そうですわ。もし神がいらっしゃるのでしたら、なぜ北原さんがけがをなさって、三井さんのお家はご無事ですの。それではあまりに不公平ですわ」
夏枝が縫う手をとめて抗議した。
「さてね、不公平かどうか、神の意志が、そう簡単に人間にわかるわけはないからね。それはともかく、全く北原君は気の毒なことになったものだ」
陽子が帰って以来三日、いく度かくり返した言葉を啓造はまたいった。
「本当にお気の毒よ、おとうさん。北原さんのおとうさんも、一カ月の間に頭がすっかり白くなられたのよ」
「なるほどねえ、無理もないことだね」
啓造はしみじみといった。
「それはあなた、男手ひとつで育てていらっしゃったんですもの。わたくしがお見舞いに伺った時も、お元気そうなことはいっていらっしゃいましたけれど、何ともいえない淋しいお顔をしていらっしゃいましたわ。もともとは三井さんの奥さんの罪ですのに……。けがをする人がちがいましたわ」
「そんなことをいうもんじゃない」
啓造は、陽子をちらりと見て、夏枝をたしなめた。
「でもね、おとうさん。おかあさんのおっしゃるとおりよ。小樽の母が、産んではならない子を産んだことが、結局は北原さんの足をうばってしまったんですもの」
「陽子、そんなふうに責めてはいけないね」
「すみません、おとうさん。でも、達哉ちゃんを、あんなわがまま勝手な人間に育てたのも、やはり母親の罪ですし……」
「そうよね、陽子ちゃん。どうせどなたかが、けがをしなければならなかったのでしたら、いっそのこと、あの息子さんに代わっていただきたかったと、思いますわ」
夏枝の言葉に陽子は顔を伏せた。陽子は、自分を無理矢理に小樽まで連れ出したり、乱暴な運転をしたりした達哉を、たしかにわがままだと思ってはいた。が、その陽子に同調しての上とはいっても、達哉がけがをすべきだったと、夏枝の口からあからさまにいわれると、陽子には返事のしようがなかった。
「夏枝、それは言葉が過ぎるね」
陽子の気持ちを察した啓造が、再び夏枝をたしなめた。夏枝はちょっと啓造を見、冷たい微笑を見せ、
「言葉が過ぎますかしら。でも、あなた、この問題はわたくしなりに、真剣に考えてみたいことですもの。おそらく三井さんのお宅でも、わたくしと同じことをお考えになっていらっしゃると思いますわ。自分の子が轢かれてくれたらと、普通の親ごさんなら、当然そうお感じになると思いますもの」
「そりゃあまあそうだがね。しかし、何もそれを、いまお前がとやかくいう必要はないだろう」
「でも、かわいい息子さんが片足になってしまいましたら、あの奥さんだって、ご主人を裏切った罪を、つくづく後悔なさるにちがいありませんわ」
恵子について、啓造は夏枝ほどにきびしい考えを持つことは到底できなかった。夏枝は言葉をつづけた。
「それは、三井さんの奥さんも、おつらいと思いますわ。いまは確かに、北原さんに責任を感じていらっしゃるでしょう。でも、いまにお忘れになってしまうと思いますの」
「忘れる?」
「ええ。月日がたつにつれて、お忘れになりますわ。ご自分の息子さんが片足になれば、いつも目の前に見せつけられて、忘れられないと思いますけれど」
「夏枝、忘れようが忘れまいが、そんなこと、君が問題にすることはないと思うがね」
「でも……」
「第一、人間なんて、誰しも自分の過失や罪のことなど、忘れやすいものだよ。たとえ自分の過失で、わが子が死んだり殺されたりしてもね」
「まあ」
夏枝は啓造を皮肉に一べつしたが、
「ね、陽子ちゃん。おとうさんは、このごろ、聖書などを熱心にお読みになって、時々教会にも行っていらっしゃるでしょ。それですのに、すぐにこうして、ルリ子ちゃんの時のことまで責めるのは、どうしてなのかしら、陽子ちゃん」
「…………」
「人を責めることなら、わざわざ教会になどいらっしゃらなくても、できることじゃありませんか。責めることは誰にでもできることですもの。ね、そうでしょう、陽子ちゃん」
陽子は答えようがなかった。
「わたくし、教会に行ったことはありませんけれど、キリスト様って、どんな人間の罪でも許してくださるそうですわ。それなら、その教えをお聞きになっていらっしゃるおとうさんも、責めずに許してくださってもいいと思わない、陽子ちゃん」
啓造はしぶい顔をした。が、陽子には、「責めることなら誰にでもできる」といった、思いがけない夏枝の言葉が痛かった。順子が既に、殺人犯の父をゆるしているというのに、自分はまだ小樽の母を許していないのだ。
「あなた、それよりも、わたくし徹さんのことが心配ですの」
「徹のこと? 徹はこの間、正月に帰って来ていたじゃないか」
「ええ、でも、ぼんやり部屋に閉じこもったきりでしたわ」
夏枝は陽子をちらりと見た。
「そんなことは、たまにあるものだよ」
「……でも、……お正月には十勝岳にスキーに行く約束だったのね、陽子ちゃん」
「ええ」
「仕方がないよ。陽子は正月に家にも帰らないで、看病していたんだからね。スキーどころではなかったろう」
浜子の部屋のほうで何か音がした。
「徹さんだって、陽子ちゃんと一緒に、何日か北原さんの看病をしたんですもの。別にスキーに行けないからといって、五日も部屋に閉じこもっていたわけではありませんわ。いろいろと思いなやんでいるのですわ」
陽子はうつむいた。その陽子を見ると、啓造は思い出したように、
「そうだ、陽子に見せるものがあったんだ」
と、ひとりごとをいって、部屋を出て行った。
「陽子ちゃん、徹さんと何か話し合ったの」
「いいえ」
「そう、まだ何も……」
「ええ、何も」
「陽子ちゃん、おかあさんはね、あなたが徹さんと結婚するようになると思って、喜んでいたのよ」
「…………」
「徹さんも、きっとそう思っていたと思うのよ。でも陽子ちゃん、あなた北原さんと結婚する気になったのでしょう?」
「…………」
「陽子ちゃん、もう、その気持ちを北原さんにいってしまったのね」
陽子はだまって首を横にふった。
「あら、じゃ、まだ何もいわないのね」
安心したように夏枝は陽子を見た。
「ええ」
「それなら、おかあさんはあなたにおねがいしたいわ。陽子ちゃん、徹さんの気持ちもよく考えてあげてくださいね」
「…………」
「それは改めていわなくても、陽子ちゃんにもよくわかっていると思うの。むろん、おかあさんだって、あなたの気持ちもよくわかるのよ。何といっても、北原さんはあなたを心配して、吹雪の中を追ってくださったんですもの」
「ええ、それに、わたしの弟があんなことをしてしまって……」
「あら、そんなにまで考えていたの。弟といっても、陽子ちゃん、あなたと一緒に育ったわけではないでしょう」
「ええ、それは……」
「いわば他人みたいな関係ですよ、あなたたちの場合。ですから、そのことはそう重荷に感ずることはないと、おかあさんは思いますけれど」
確かに陽子と達哉は、よそ目には他人である。一日も一緒に育ったことのない、父ちがいの弟の過失まで、陽子が責任を感ずることはないかも知れない。だが陽子にとって、既に達哉は他人ではなかった。欠点だらけの達哉だが、まさしく陽子のはじめて知った肉親であった。
「北原さんは、むろんお気の毒ですよ。でも、結婚はお気の毒だからって、すべきものではないと思うの」
松葉杖をついていた痛々しい北原の様子を、陽子は思った。
北原のつく松葉杖の音が、コツコツと陽子の心の中にひびいてくる。
「ありがとう、おかあさん。わたしももちろん、単なる同情や感傷で結婚のことを決めたりはしないわ」
「では、陽子ちゃん、あなたは北原さんを愛しているのですか」
陽子は困惑して、目をひざに落とした。
「陽子ちゃん。結婚に一番大切なのは、愛しているか、どうかということなのよ」
「ええ。でも、おかあさん、愛するってどんなことか、陽子にはまだよくわからないんです。単に好きということと、愛することとは別なのでしょう?」
とりすがるようなまなざしで、陽子は夏枝を見た。
封書を手にして、啓造が部屋にもどってきた。
「好きということと、愛することとは同じですよ。ねえ、あなた」
「いや、よくはわからないが、好悪というのは感情で、愛というのは感情ではないようだね」
啓造は封書をテーブルの上においた。
「あら、愛は感情じゃありませんの、あなた。では、愛しているという言葉は、感情ではなくて、何ですの?」
「それは、好きと同義語に使っている使い方だろう。無論愛にもいろいろあるらしい。本能的な親子の愛や、俗にいうエロスの愛、それに友愛などね。しかし人間が本当に問題にすべき愛は、本来意志的なものだろうね」
「では好きでなくても、愛するということがありますの」
「あるだろうね」
「まあ、いやですわ。そんなのは愛ではありませんわ。愛って、そんなむずかしいものですの」
「むずかしいことだよ。愛について書いてある本を読んでごらん。大変なことだよ、愛するとは。何しろ、自分の一番大事なものを他にあげるのが真の愛だそうだよ」
「一番大事なものって、お金や着物でしょうか」
「夏枝は命は二番目に大事なのかね」
「あら、命は別ですわ」
「その命をあげることのできるのが、愛だそうだ」
「それは無理ですわ。命など、人にやれるものではありませんわ。あなたはすぐ、むずかしいことをおっしゃる。とにかく陽子ちゃん、愛のない結婚だけは、してはいけませんよ」
愛とは感情ではなく、意志であるといった啓造の言葉を、陽子は心にとめた。陽子もうつろいやすい好悪の感情だけで、結婚を決めることはできないと思ってはいたが、この時はじめて愛ということが、いくらかわかったような気がしたのだった。
三月も末だが、網走の宿は客が少ない。まだ午後八時だというのに、宿の中も外も、夜半のようにしんと静まり返っていた。時々自動車の走る音が聞こえ、隣の水族館からアザラシの吠える声が聞こえるだけである。
陽子は、二つの灯台の放つ、青と赤の光芒を眺めながら、北原や徹のことを考えていたが、いつしか三井弥吉のことを思っていた。
啓造から渡された封書を、あの夜陽子は自分の部屋で読んだ。宛名は啓造と夏枝宛のものだったが、
「陽子がこの手紙を持っているのが、一番ふさわしいような気がするね」
と、啓造は手渡してくれたのだった。それは、北原の事件後、十日ほどたって来た手紙だった。が、啓造は陽子の受けたショックが少しでもうすれてから読ませようと思っていたものらしかった。
〈辻口御夫妻様。
初めてお便り申し上げます。
この度は、息子の達哉の不注意で、何かとお宅様にまでご迷惑をおかけ致しましたことを、深くおわび申し上げます。本来ならば、参上しておわび申し上ぐべきところでありますが、とりあえず書面にて失礼させて頂きたく存じます。実のところ、ざっくばらんに申し上げまして、私はこの手紙を差し上げるべきか、どうかと迷いました。と申し上げねばならない私の立場も、お察し頂けるかと存じます。
私なりに、迷い且つ考慮した結果、やはりお手紙を差し上げようと決意した次第です。万々の失礼をも顧みず、私の気持ちを述べさせて頂きますことを、お許しねがいたく存じます。
何からお話し申し上げたらよろしいでしょうか。順序として二十数年前に話をさかのぼらせて頂きたいと存じます。
敗戦後一年を経て、私は中国から復員して参りました。家には妻の恵子と潔が待っておりましたが、私の心は重く、暗く沈んでおりました。それは、なぜかおわかりでしょうか。
辻口様、あるいはあなたもあの忌まわしい戦争で、戦地に行かれた一人かも知れません。私はいま、忌まわしい戦争と書きましたが、実に戦争ほど、恐ろしく忌まわしいものは、この世にありません。
戦争の恐ろしさは、食糧が乏しくなること、空襲で家が焼け、女子供や老人さえも焼き殺されること、ただそれだけではありません。それよりも何よりも恐ろしいのは、人間が人間ではなくなることではないかと思います。
私は、誰にもいうことのできなかった自分の犯した罪を、二十幾年経て、やっと妻に告白しました。それをいま、私はあなたがた御夫妻にも聞いて頂きたいのです。
辻口様、私たちの小隊は、北支のある部落で、老人や子供や女をひとところに集めて、虐殺することを命ぜられたのです。……
二十幾年も経たいまでも、私は昨日のことのように、その時の光景を思い浮かべることができます。が、私は詳しく述べる勇気を持ちません。私は、いかに上官の命令とはいえ、妊婦の腹をかき裂くという、残虐な罪を犯した人間なのです。
当時、私たちは、東洋平和のための戦いであるとか、民衆との戦いではないとか、美辞麗句をもって繰り返し教えこまれていました。しかし、後世の史家がどのようにとりつくろおうと、明らかに侵略戦争でした。その内幕が潔いはずはありません。無論上官すべてがそうでないまでも、かかる残虐行為をあえてなさしめた者が、明らかにいたのでした。
上官の命令は絶対です。私は自分の背に銃をつきつけられているのを感じて、無我夢中で女の腹を裂いたのです。ギャッと叫んだ悲鳴と、血まみれの胎児がひくひくと動いていたことを忘れることはできません。戦争は、人間を人間でない別な動物に堕としこませる、恐ろしいものであることを、私は時がたてばたつほど身に沁みて感じました。
私が真の男ならば、人間ならば、あの時銃殺されようとも、あの罪のない人々をかばうべきでした。しかし私のこの手は、かの妊婦を殺してしまったのです。
帰国した私は、何としても、しばらくはわが子を抱くことができませんでした。私は、罪もない者を殺した手で、血に汚れてしまった手で、何くわぬ顔のまま、純真なわが子を抱くことは、何としてもできなかったのです。
潔を決して抱こうともせず、陰鬱な顔をしている私に、妻の恵子は妙におどおどと機嫌をとるのです。機嫌をとられればとられるほど、私は自己嫌悪を感じ、不機嫌になっていったものでした。妻は妻で、一層おどおどと卑屈になって行き、それがまた、更に私をいらだたせるという始末でした。
そんなことの繰り返しのうちに、私は妻の表情の中に、何か隠されているものを感ずるようになりました。私自身、残虐な罪をかくしていることもあって、何か隠された罪の匂いを、妻に感じたといったらよいでしょうか。
そして、それは妻の母の表情のなかにも感じたのです。何かしら奇妙なかげり、狼狽、たゆたいなどが、妻にも母にもありました。
復員した翌年の二月、妻は達哉を懐妊いたしました。私は妻の妊娠を知って恐怖しました。次第に大きくなって行く妻の腹を、私は思っただけで恐ろしかったのです。
私は小心すぎる男だったのでしょうか。いや、私は、私と同様に妻にもいえぬ戦場での罪悪に悩まされた戦友たちを知っています。平和に見えるこの日本の中に、こんな忌まわしい戦争の過去におびえて生きて来た男が、いまなおどれほどいるかわかりません。
とにかく私は、妻の妊娠を知ってから、苦痛をまぎらわすために、商売にのみ熱中するようになりました。
そんなある日、たしか四月初めのことでした。私は函館に出張の途中、汽車の中で一人の女に会いました。それは潔が生まれる時に、特に世話になった看護婦でした。
彼女は二つぐらいの女の子を抱いていました。私は自分も女の子がほしい、女の子は戦争に行かないですむと申しますと、彼女は、お宅にもかわいいお嬢ちゃんがいらっしゃるじゃありませんかと、けげんな顔をしました。
いや、うちには潔一人しかいないといいますと、では去年の夏、円山の産院で生まれた女のお子さんは亡くなったのかと尋ねられまして、私は、はっとしました。が、さりげなく、死んだと答えました。
彼女は終戦の前の年に嫁いで、家庭に入っていたのですが、知り合いの産院に、一時応援を頼まれて働いていた様子でした。ちょうどその頃、妻はそこでこっそり女の子を産んだというわけなのでしょう。その看護婦は、むろん私の出征中の子などとは、思いもしなかったようです。また、人妻である恵子が、彼女にそんなことをいうわけもありません。
私はそれから、ひそかに自分の出征中の妻の動静を調べました。そして間もなく、妻が身をよせていた札幌の実家に、中川という男が下宿していたこと、妻と親しかったらしいことなどを知り、妻の産んだ女の子が、どこかにもらわれて行ったらしいということまで、何とか探り当ててしまったのです。
辻口様、その事実を知った時の私の気持ちは、恐らくおわかりになりますまい。私は何とも形容しがたい感謝の思いに満たされたのです。と、申しますと、甚だ奇異にひびくかも知れません。が、事実でした。なぜ、私が感謝したか、ご推察いただけますか。
辻口様、先にも書きましたように、私は戦場において、罪のない妊婦の腹をかき裂きました。ところが、妻はたとえ他の男との子供にせよ、一つの命をこの世に送り出してくれていたのです。
無論、私が全く嫉妬しなかったといえば、嘘になります。しかし、妻が堕胎もせず、ひそかに一人の命を産んでいた事実に、私はどんなに大きな慰めを感じたことか、ご想像いただけることでしょうか。
これは、あるいは、自分の殺したあの血まみれの胎児がひくひくと動く姿に、苦しみ悩んだ私でなければ、わからぬ心境であるかも知れません。これがもし、妻が堕胎でもしていたら、私は完全にうちのめされたにちがいありません。人目を憚りながらでも、産んでくれたということで、私は感謝し、やっと生きる元気が出て来たような気がしたのです。
甚だ次元の低い、自分に都合のいい考え方でしょうが、妻も他の男の子を産むという罪を犯していたことで、自分の罪が帳消しにならないまでも、幾分は軽くされたような思いになったのは否めませんでした。
いってみれば、妻が一つの命を闇に葬らなかったことは、いわゆる救いではありましたが、それはまた私への罰でもあったということです。もとより、あの中国婦人とその家族を思う度に、いまも新たに心はさいなまれますが、罰があたったということで、当時私は、いくらか安心し、自分を責める気持ちが少なくなったものでした。
辻口様、こんな私ごとを、長々と述べさせていただきましたのは、御夫妻へのおわびの気持ちからではありますが、実はそればかりではございません。お育てくださいました妻の娘(何と呼ぶべきか迷いますが)陽子さんが、ご自分の出生に悩んでおられることを、ご子息さまから妻が伺っていることを知り、私の気持ちを申し上げることによって、何らかの力になればと思ったからです。
とにかく、二十年間、私は妻の過失を全く知らぬかのように過ごして参りました。妻にうまくだまされてやろう、一切責めずにおいてやろう、と思うことも、私の一つの生き甲斐でさえありました。二人は仲のよい夫婦として暮らして参りました。妻もその後は全く貞潔でした。
しかし、これでは本当の問題の解決にはなっていなかったことを、今度のことで思い知らされました。年末に、ホテルで御子息や高木さんにお会いして以来、達哉がご存じのように心荒れまして、北原さんを取り返しのつかないほどの事態にまで追いこみ、結局は妻もすべてを告白しなければならぬことになりました。達哉も潔も大きな衝撃を受けたようです。特に達哉は苦しんでいます。私もつらいことですが、これは私の受くべき当然の報いといえましょう。いや、私の戦地での過去を思えば、まだまだ軽い罰です。
達哉があのような性格に生まれついたのも、私達夫婦の、当時の心境の影響によるものでしょう。今更ながら恐ろしく思われてなりません。
新年早々長々と失礼申し上げました。末筆ながら、妻の子供を立派にお育てくださいましたことを、衷心より感謝申し上げて、擱筆させていただきます。
一月三日
三井 弥吉
辻口啓造様
御令室様〉
既に二十年前に、三井弥吉は妻の裏切りを知っていたのだ。知りながら許していたのだ。なぜ許し得たのか。それは、妻を責める資格が自分にはないという、罪の自覚によるものではないか。
灯台の赤と青の灯が、交互に呼び合い応えあうように光るのを、陽子は身じろぎもせずに見つめていた。
若い女中が部屋に入って来た。
「お一人の旅ではお淋しいでしょうね」
布団を敷きながら、女中がいった。
車から降りた陽子は、白鳥の群れている濤沸湖《とうふつこ》の岸に立った。昨日とちがって、空は晴れているが、風が肌を突き刺すように冷たい。
大方はまだ氷と雪におおわれている濤沸湖のひとところに、幅五、六メートル、長さ、二、三百メートルほど、川のように水が現れている。その中に百羽余りの白鳥が鳴き声を立てている。雅楽《ががく》の笙《しよう》の音を短く途切らせたような、妙にもの悲しい声だった。
鳥が鳴くのは、何の意思表示なのだろう。いまの自分の複雑な思いを音色にしたら、一体どんな音になるかと、陽子は対岸に立つ農家と、その傍の赤いサイロの屋根を見た。
白鳥たちは、長い首をうねうねとくねらせて、水中に餌をあさっている。陽子は、湖岸のむしろで囲った小屋に近づいて行った。ビニール袋に入れた六、七枚のくずれた食パンが三十円で、白鳥の餌として売られている。
「あ、きたよ、きたよ」
陽子の姿を見て、中にいた三、四人の小学生が、うれしそうにつつきあった。赤い頬の子供たちは、ままごとでもしているつもりなのか、ニコニコとパンを売ってくれた。
パンをちぎって、陽子は水に投げた。白鳥たちは用心して、人間のそばに近よろうとはしない。陽子は少し淋しい気がして、思いきり遠くにパンをほうった。白鳥たちはゆっくりとパンのまわりに集まって来たが、そのうちの一羽が、臆病そうにそろそろと長い首をのばし、黄色いくちばしにくわえた。白鳥たちは、どこで人を警戒することを知ったのかと、陽子は哀れな気がした。
もう一度パンを投げると、こんどは、すうっと近づいてきた白鳥が、さっとさらうようにくわえた。と、他の一羽がその白鳥の餌を奪おうとして追いかけた。
ようやく餌をやり終えた陽子は、ポケットに手を入れたまま、なおも白鳥を眺めた。岸には七、八人ほどの観光客が、白鳥をバックにカメラに向かったり、パンを投げたりしている。
向こう岸に、十羽ほどじっと身動き一つしない一群がいる。と、思うと、つがいでもあろうか、中州の雪の上を、白鳥が二羽足をそろえて歩いて行く。その近くで、三、四羽が、伸び上がって大きな羽を羽ばたかせた。
突如、二羽が飛び立った。水の上を大きく迂回して飛ぶそのあとを、他の一羽が追った。が、すぐに離れて別の方に飛び去った。ふと徹を思って、陽子の胸が痛んだ。陽子にはその一羽が、徹のように思われたのだ。
徹が陽子の下宿を訪ねたのは、もうひと月ほど前の、北原が登別にたった日の夜だった。
部屋に入ってきた徹は、しばらくの間、立ったままドアによりかかって、何もいわずに陽子を見つめていた。
「どうなさったの、おにいさん」
陽子は徹が酔っているのかと思った。徹は弱々しく微笑していった。
「とうとう来てしまった」
「とうとう?」
「うん。ぼくはね陽子。毎日、今日は陽子のところへ行こう、今日は行こうと思っていたんだ。しかし、来る勇気がなかったんだよ」
陽子ははっと胸をつかれた。
「でもね、今日、北原がおとうさんに連れられて、たって行くのを見た時、やっと決心がついたんだよ」
徹の顔色が少し悪かった。
「おにいさん、おすわりになって」
「うん。……北原は今夜から登別の病院か」
徹はようやくストーブのそばにすわった。
「そうね」
陽子は徹の視線を避けて、押し入れからみかんを取り出した。
やや、しばらく、二人は黙っていた。重苦しい沈黙だった。時計台の鐘の音が、風に乗って聞こえてきた。八時だった。
「陽子!」
陽子が顔を上げた。
「陽子は北原と結婚するつもりだろうね」
思い切ったように徹がいった。陽子は静かにうなずいた。
「……そうか。……やっぱりそういうことになると思っていたよ」
再び徹が押し黙った。
早晩、徹と話をしなければならないと、陽子は思っていた。が、徹の気持ちを思うと、話を切り出すことはなかなかできなかった。
「陽子。ぼくはね、陽子がぼくの本当の妹でないと知った時から、陽子と結婚したいと思っていたんだ」
「…………」
「あれは、ぼくが中学三年の時だった。ぼくが学校から帰って来ると、おやじとおふくろが口論をしていてね。その時、陽子が殺人犯の娘だといっているのを、ぼくははじめて聞いたんだよ」
「ええ。そのこといつか聞いたわ」
「それから今まで、ずっとぼくの気持ちは変わらなかった」
「…………」
「今更こんなことをいっても、仕方がないけれどね」
徹は淋しそうに笑った。
「……北原のことを思ったら、ぼくは何ともいえない。北原は陽子のために、片足を失ったんだからなあ」
「…………」
「結局は、ぼくの軽挙妄動が引き起こしたことなんだよね。ぼくが高木さんの通夜に、三井さんにつまらぬことを話してしまったのが、いろいろと尾を引いて、こんなことになったわけだからね」
柔らかいみかんの皮をむく徹の声が沈んでいた。
「おにいさん。そんなに自分を責めてはいけないわ。前にもいったけれど、もとはといえば、誰よりも小樽の母が悪いのよ。それに、達哉ちゃんだって乱暴でいけなかったし……」
「とにかく、やっぱり陽子は、北原と結ばれることになっていたんだね」
陽子は目を伏せた。北原のいった言葉が思い出された。
「陽子さん。ぼくの足が一本になった。そのことにあなたが責任を感じているとしたら、それはお門ちがいですよ。ぼくはぼく自身の気持ちで、あなたを追って行ったにすぎないんです。そして、自分の不注意で、足をすべらしてしまったんですからね。達哉君のことでも、責任を感じているのでしょうけれどね。そんな必要はありませんよ。あなたは辻口のところにお帰りなさい」
北原は誰をも責めなかった。
「北原は、やはりすべての面で、ぼくの先輩だよ。ぼくはね、陽子、恥ずかしい話だけれど、一時はひどいことを考えたんだよ。彼が足一本失って、陽子を得ることができるのなら、ぼくは陽子のために、手足を失っても、よかったとね」
「まあ」
「ぼくにとって、陽子を失うことは、すべてを失うより、辛いことなんだ」
「…………」
「ごめんよ、つまらないことをいって。ぼくは元気を出すよ。陽子も、北原のいい奥さんになってあげるんだね」
徹はそういって、ごろりと仰向けになった。幼い頃から優しかった徹に、自分が与えたのは深い傷だけだったと、陽子は苦しかった。
「おふくろが、陽子に愛のない結婚をしてはいけないとかって、いったそうだね」
「ええ」
「しかしね、北原は愛するに値する男だよ。ぼくみたいに、ちっぽけな人間じゃない」
「…………」
「陽子が結婚したら、ぼくは留学するよ。ドイツでもアメリカでも、どこでもいい」
「おにいさん!」
もし、北原と陽子が結婚したら、徹は生きる力を失ってしまうだろう。かつて北原は、陽子にそんなことをいった。たしかに徹は、どこかの国に行ったまま、帰って来ないような気がした。といって、北原を見捨てることは、もはや陽子にはできなかった。
「おにいさん、本当に留学なさるの」
「日本にはいたくないからね」
徹は仰向けのまま答えた。
「何年ぐらい?」
「わからない」
「わからないの、まさか、もう帰らないなどとは、おっしゃらないでしょうね」
答えずに、徹は陽子を見つめた。
北原はたしかに、陽子のために足を失った。だが、徹もまた、少年のころから今日まで、自分のために無形の手や足を捧げてくれたといえる。もし、あの時、クラーク会館のロビーで話していたのが、北原ではなく、徹だとしたら、徹もまた、陽子を追ってきたにちがいないのだ。そして徹が足を失ってしまったかも知れないのだ。陽子は、徹のやさしい心情を知っているだけに、辛かった。
「心配しなくてもいいよ、陽子」
「ごめんなさい、おにいさん」
「あやまることなんかないよ。ぼくが陽子の立場だったら、やはり北原をえらぶだろうからね。陽子だって……ぼくをきらっていたわけではない。それを考えると……余計につらいけれどね」
仰向けに寝たまま、徹はそばにあった新聞を顔の上にのせた。
「おにいさん」
「…………」
返事はなかった。徹は泣いているのかも知れなかった。
何事もなければ、陽子は徹と結婚するはずだったのだ。その感情を断ちきるのは、陽子にとっても、いいようもなく辛いことだった。その辛さをも、徹は思いやってくれているのだ。
「おにいさん」
「…………」
やはり返事はなかった。
陽子は、徹からもらったオパールの指輪を、さっきケースから出して眺めていた。自殺を図って、昏睡をつづけていた陽子の指に、徹がはめてくれたオパールの指輪なのだ。こんな事件にならなければ、正月には二人で十勝岳にスキーに行っていたはずなのだ。そして陽子は十勝岳の純白な雪の上で、あらためて徹から、そのオパールを指にはめてほしいと思っていたのだった。もう、この指輪をはめることはないだろうと、陽子は一人で眺めていたのである。
「陽子」
徹の声がくもっていた。
「なあに、おにいさん」
「ぼくには、高木の小父さんの真似は、到底できないような気がするよ。小父さんは、おふくろが好きだったそうだけど、平気で家に出入りしているだろう。ぼくには、あんなまねはできそうもないね」
「…………」
「やっぱり、ぼくは女々しいんだね。いくら諦めようと思ってみても、花嫁姿の陽子が、北原と並んでいるのを想像しただけで……ぼくは」
ふいに徹はむっくりと起き上がった。新聞紙が音を立てて傍に落ちた。
「つまらないことをいったね。気にしないでほしい」
起き上がった徹は、あぐらをかいて、
「とにかくね、小さい時から、ぼくらは兄と妹だったんだ。これから死ぬまで、やはり兄と妹だって、かまわないわけだ」
徹はたばこに火をつけて、深く煙を吸いこんだ。
「そうだ。ぼくもお嫁さんを探そう。陽子とそっくりのお嫁さんが、どこかにいるかも知れない」
徹は笑いもせずにいった。
「ところで、北原はいつ結婚するつもりなのだろう。いろいろと不自由だろうから、早いほうがいいね」
「おにいさん。わたしは北原さんと結婚するつもりでいるけど、北原さんは、辻口のところにお帰りなさいって、おっしゃったわ」
「え? 北原がそんなことをいったの」
「ええ、感傷的になってはいけないって、おっしゃるの。網走の流氷でも一人で見に行っていらっしゃい。自然の厳しさと対決したら、感傷なんか吹き飛びますよって、おっしゃったの」
「北原はおとなだなあ」
「そうね。あの方はわずか二カ月の間に、ぐっと成長したような気がするわ。わたし、とにかく、そのうち流氷を見に行くつもりなの。自分の気持ちが、単なる一時の感傷かどうか、ゆっくり考えてみたいの」
じっと陽子の目をみつめて、うなずいたその時の徹の顔が、白鳥を眺める陽子の瞼に浮かんだ。
中に、羽のうすい黒い白鳥が幾羽かいた。
「あれは、みんな新入りですよ。そのうちに、きれいな白鳥に変わりますよ」
運転手が陽子の傍に寄ってきた。
「ふしぎねえ、ここに渡ってくるまでに汚れたのかしら」
「さあ、汚れているのではなくて、あんな羽根の色じゃないんですか」
運転手も、よくはわからないようであった。陽子は車にもどった。
「これから、どこに参りますか」
「網走湖の方に行ってくださらない?」
「網走湖も、ただの雪原みたいなものですよ。夏はきれいですが」
「いいわ。雪原みたいでも」
雪原のように見える凍った姿も、網走湖の一つの真実な姿なのだ。陽子はそんなことを思った。
少し雲のかかっていた斜里岳が、白い姿を現した。毎年、夏には、あの斜里岳にのぼって千島を眺めるのが、北原の墓参りだったはずだ。今後、北原は再びあの斜里岳にのぼって、その母の眠るふるさとの千島を望むことができるだろうか。陽子はシートに深く身をもたせた。
北浜の海岸通りに出ると、白く輝く流氷の海が、右手に大きく広がった。はるか彼方に知床の山々が見える。
「すばらしいわ」
「ちょっと、とめますか」
中年の運転手が親切にいった。
「ええ、お願いします」
宿の窓から見る流氷とはまたちがって、岸近くに押しよせられた流氷は薄みどり色を帯びていた。ところどころ、小山のように盛り上がっている流氷は、ここでは正にガキガキとひしめいて見えた。陽子は車の外に立って眺めながら、この流氷の果てを極めたい思いがした。
「あそこに、流氷が小山のように盛り上がって見えますね。知床の岬のほうでは、十七、八メートルもの高さに盛り上がるそうですよ」
「まあ! 十七、八メートルも!」
陽子はその状景を思い描こうとしたが、想像できなかった。ここに来るまでは、小さな氷塊が波間に漂う程度にしか、陽子は流氷を考えることができなかったのだ。更に十七、八メートルにも及ぶ丘状の流氷があるといわれても、陽子には想像を超えることだった。
「わたしの知っている人が、あの知床の番屋にいるんですがね、十月の二十日ごろから、流氷の離れる五月まで、一人暮らしなんですよ。その人が、流氷の盛り上がる話をしていましたよ」
「番屋に一人暮らし……?」
「ええ。あたりには家一軒建っていない氷と雪の中にですね。隣の番屋まで、近くても五キロからあるそうですよ。流氷の上を歩いて三時間も四時間もかかるらしいです」
「まあ!」
氷雪に閉ざされたさい果ての海べに、ただ一人住む男を陽子は思い浮かべた。
「淋しくないのでしょうか」
夏でも船の便しかないという番屋に、長い冬をただ一人で暮らす男の強さを思いながら、陽子は遠く知床の岬に目をやった。
「わたしなどには、ちょっとがまんができませんね。あのおやじさんは、何でも、もらうばかりになっていた女に死なれて、北海道に渡ってきたといっていましたよ。そのうちに番屋に住みついたんですね。もう十五、六年にもなるかなあ。とうとう女房ももらわないで、ずっと一人暮らしですよ」
「まあ」
「世の中ですねえ。どれほど惚れていたか、わからないけど、女に死なれたって、何もあんな知床で一人暮らしをすることはあるまいと、わたしなどいつも思いますけれどね」
「…………」
「さすがのおやじさんも、氷の鳴く声は淋しいっていってましたよ。流氷は、接岸する時や離れる時、何ともいえない音を立てるんです」
陽子は、外国に行くという徹を思った。
「台町の展望台に寄ってみましょうか」
走り出した車の中で、運転手が、いった。
「どうぞ。ここで見ておいたほうがいいと思われるところは案内してください」
いつまた来られるか、わからない。少々ぜいたくだと思ったが、陽子はそう答えた。
陽子は、いま聞いた番屋の男のことが頭から去らなかった。恋人に死なれて、一生を北の果てで送る人間がこの世にいるということに、大きな感動を覚えた。
「知床って、アイヌ語ですの?」
「そうらしいですね。シレトクっていうのが、本当だそうですよ。地の果てという意味だとか聞いていますが」
「地の果て? そう。それで、番屋はいくつもあるんですか」
「あるんでしょうね。数はわからないですがね」
「では、何人かの人たちが、この冬をたった一人で、それぞれ番屋に閉じこもっているわけね」
「そうですね。五月の二十日ごろにならないと、船が来ないそうですから、まる七カ月は一人で住んでいるわけですよ」
「七カ月も!」
番屋にたった一人で冬を越す男たちは、一体どんな思いで孤独に耐えているのだろう。陽子は何かたまらない気がした。
「どうして、そんなところに番人をおかなければならないのかしら」
「さあね、漁具が盗まれないようにということなんでしょうかね。しかし、あんな流氷の上を渡って、何キロもわざわざ泥棒する物好きも、ないように思うんですがね」
「本当ね」
「しかしね、お客さん。これで世の中には案外物好きな人間もいますからね。何せ、あの知床のガキガキとした流氷の上を、テントを背負って歩きまわる若い人たちもいましてね、流氷の上にテントを張って寝るんだそうです」
「まあ、流氷の上にテントを張るんですか。風に飛ばされないかしら」
「ヒマラヤの氷壁に登ったり、絶壁に登ったりする人も多い世の中ですからね。知床の流氷を歩く人間もいるわけでしょう。それで、番屋もおちおち無人にしておけないんじゃないんですか。泊まりこんで、何を燃やされるか、わからないですからね」
流氷の上にテントを張る人たちも、また孤独な人間に陽子には思われた。「雑沓の中の孤独」という言葉を聞いたことがある。無人の境の、さいはての孤独のほうが、まだ耐えやすいのだろうか。一体人間は、一人でいるほうが慰められるのだろうか。陽子は、人の心の奥にひそむ、いいようもないわびしい魂を思わずにはいられなかった。
街に入って間もなく、左に折れて坂を上がった。台町だった。高台一帯に鉄筋のアパートや、小ぎれいな住宅が並んでいる。車はある和風の旅館の前を過ぎて、崖の端に出た。陽子は再び車から降り立った。
眼下に、網走の港が見え、オホーツク海が大きく広がっていた。この高台から眺めても、流氷は沖の彼方までつづいていた。あの沖の彼方のその彼方まで、海は氷の下に閉ざされているのだろう。
「大昔は、この崖の下まで、海が来てたそうですよ」
左手にやや遠く能取岬《のとろみさき》がつき出ている。
「いつでしたか、この旅館へ九州のお客さんを乗せて来た時ですよ。青い海に、まっ白な流氷が点々と浮かんでいましてね。わたしもあっと驚いたことがありましたよ。何といったらいいかなあ。青空に白い落下傘がたくさん浮かんでいるような……。とにかくきれいなんですよ」
「いろいろ変化するのね、流氷も」
高台に吹き上げてくる風が一段と冷たかった。
「そりゃあ変わりますよ。いまはこんなに、びっしり沖までつづいているでしょう。ところが、明日目をさましたら、全部沖に去って跡かたもなくなることだって、あるんですからね。気まぐれ女の心変わりみたいなものですよ」
運転手は笑った。
「じゃ、流氷の来る時も同じですか」
「そうですよ。いやに今夜は寒いなと思っていたら、明けて一面びっしりですよ」
「神秘的な感じですね」
「そんな感じですね。毎年のことでも、どこからこれだけの氷が来るのかと、ふしぎな気がしますよ」
車に戻ると、運転手はふと思い出したようにいった。
「お客さん、蜃気楼を見たことがありますか」
「いいえ」
「毎年五月ごろに見えますよ」
「どんなふうに見えるのかしら」
「外国の街みたいなものや、流氷みたいなのが空にうつるんですよ」
「ぜひ見たいわ。現実にないものが見えるなんて……」
「いや、現実にどこかにあるものが、見えるらしいですよ」
では、蜃気楼は単なる幻ではないのだろうか。車が向きを変え、海を背に走りだした。
「おっと、あぶない」
白い杖をついた男が、旅館から、つと道路に出て来たのだ。
「こんな、まっぴるまから、あんまさんを呼ぶ客もいるんですかねえ」
運転手は急ブレーキをかけていった。
陽子はふっと、由香子を思い出した。サロベツ原野に近い豊富温泉で、マッサージ師をしていたという由香子が、なぜかふいに身近に感じられた。
もし、高木と啓造が、宿で由香子に会わなかったなら、いまもまだ豊富の街で、ひっそりと温泉客の肩をもみながら、生きていたのではないか。近く、由香子は東京に去ると、辰子がこの間夏枝のところに遊びに来ていった。
「どうせ、三味線をやるのなら、東京で師匠につきたいっていうのよ。由香ちゃんは、何でもとことんまでやらなきゃ、承知のできない性格なんだねえ」
辰子はそういって、啓造をじっとみつめた。啓造はうろうろと視線を泳がせていた。夏枝はその啓造を皮肉な微笑を浮かべて眺め、
「それは、淋しくなりますわねえ、あなた」
「いや、別にわたしは……」
「あら、淋しくはございませんの。それでは由香子さんがかわいそうですわ。ね、辰子さん」
「どういたしまして。由香ちゃんは、夏枝みたいな甘ったれじゃないからね。あの子は必死になって三味線に打ちこむつもりなのよ。それより生きようがないのよ、ああいう子には」
ニコリともせずに辰子はいった。
由香子は、真剣に愛したのだ。その時の辰子の言葉を思い出して、陽子はいま、はじめて由香子に共感を覚えた。
妻のある啓造に心を寄せた由香子に、陽子はどうしても許し難いものを感じてきた。が、なぜかいまは、啓造を愛した由香子を憎めなかった。悪いというより、不幸なひとだと思った。
(人間には、不幸な出会いというものがあるのかも知れない)
あまりに荒漠とした氷原をみつめつづけたせいであろうか。それとも、婚約者に死なれて、知床の氷の中に一人住む男の話を聞いたためであろうか。陽子は由香子が急に身近に感じられてならなかった。
由香子のような、一途な気性の女性には、愛する者と結ばれるか、結ばれなければ、二度と会うことのないほど、遠い世界に住むしかないのかも知れない。
(わたしと徹にいさんの場合も、不幸な出会いというべきかも知れない)
車は坂を下って、商店街を走っていた。
「網走湖では、いま、氷に穴をあけて、わかさぎ釣りをしていますよ」
人間には、色々な生態があると陽子は興味深かった。そして、自分には自分だけの生き方があってよいのだと思った。
午後になって、空はいつしか昨日のように曇ってきた。網走湖から宿に帰った陽子は、窓下のラジエーターで足を暖めていた。熱気がやわらかく陽子を包んだ。
窓越しに見えるものは、やはり流氷だけだった。水平線の彼方に、さきごろまで見えていた知床の山々も雲に閉ざされた。
陽子はさきほど濤沸湖から網走湖へ行く途中、川越しにちらりと刑務所を見た。
「この橋を渡ると、有名な網走刑務所がありますよ。見物しますか」
運転手がいってくれた。刑務所の赤いレンガの塀が、橋の向こうに見えた。
「折角ですけれど、そこだけは……」
陽子は断った。刑務所を見物するというのは、あまりにも心ないことに思われた。あの高い塀の中で、囚人たちは罪のつぐないのために、何年も何十年も、あるいは終生過ごさねばならないのだ。
(しかし、罪とはつぐないきれるものなのだろうか……)
刑務所を見た時に思ったことを、陽子はいままた思った。
陽子は、けさ聖書を読んだ。旭川を発つ時、啓造がくれたものだった。陽子のために買っておいたのだろう。えんじ色のクロス張りの聖書に、細い紙片が、しおりのようにはさんであった。紙片には、
「陽子、ヨハネによる福音書八章一節から十一節までを、ぜひ読んでおくこと。父」
と、短く書いてあった。
その個所には、姦通の現場から引きずり出されて来た女が、衆人に石で打ち殺されるか、どうかという場面が記されていた。
当時のユダヤの律法によれば、姦通罪は死刑であった。しかも、石をもって打ち殺せというのだ。宗教学者や、信仰の篤い男たちが、その女をイエスの前に突き出し、
「こういう女は、おきてでは石で打ち殺すことになっているが、あなたはどうするか」
と、迫った。おきてのとおりに殺せといえば、愛を説く日ごろの言動に矛盾し、且つ時の支配者ローマ帝国の法律に違反する。殺すなといえば、ユダヤの律法をふみにじることになる。どう答えてもイエスを、窮地に追いこみ得ると見た意地の悪い質問だった。
イエスは沈黙した。そして身をかがめた。そして指で地面に何かを書いた。
彼らは、更に執拗に回答を迫った。イエスは彼らを見まわしていった。
「あなたがたの中で、罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」
再びイエスは、地面に何かを書きつづけた。
一人が去り、二人が姿を消し、やがて残ったのは、イエスと女だけであった。
「あなたがたの中で、罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」
その言葉に、啓造は太い朱線を引いておいた。陽子は痛かった。
恵子の存在を知って以来の陽子の心を、啓造はむろん知っている。そして陽子が、恵子に初めて会った日のことも、伝え聞いているにちがいない。
北原が入院した翌日、陽子は恵子に初めて会ったのだ。
看護婦がデキストロンAの点滴注射を北原の腕に施し、更に抗生物質ケフリンの注射をして出て行った。と思うと、すぐまたノックの音がした。ベッドのまわりには、北原の父と徹、そして順子と陽子がいた。陽子は、看護婦がまた来たのかと、ふり返りもせずに北原の苦しげな顔をさしのぞいていた。
「あ!」
窓側にいた徹が、ドアのほうを見て小さく声を上げた。何気なく陽子はふり返った。ブルーのツーピースを着た恵子が、コートを手に抱えて立っていた。
ふり返った陽子を見た恵子の目が、大きく見開かれた。と、その目はすぐに陽子に笑いかけ、そしてあわれみを乞うように、深い悲しみの色を見せた。
恵子の形のいい唇が、かすかに動いた次の瞬間、陽子は一礼して、病室を出た。同極の電気がはじき合うのに似た、反射的な行動だった。廊下に出たとたん、陽子は足から力が脱けて行くのを感じた。
恵子の見舞いは、陽子も覚悟はしていた。覚悟はしていたが、陽子の心はさすがに動揺した。陽子は、ちょうど開いたエレベーターに乗って、二階から三階に昇った。
陽子は、廊下の長椅子にぼんやりすわった。赤チンか何かの痕であろうか。長椅子の茶色のレザーに、黒い汚点が点々とついている。陽子はその汚点を見るともなく眺めた。
遂に生みの母に会ったという感動よりも、何かむなしさがあった。心が重く沈んで行くのだ。何の喜びもない母と子の出会いだった。あの人がわたしを産み、そして手放した母親なのだ。あの人にとって、わたしは生まれなければよかった存在なのだ。妊娠と知った日から出産まで、あの人はわたしの死を願ったかもしれない。あの人から生まれた日、あの人はわたしを、少しでもかわいいと思って抱いたろうか。それとも呪いと悲しみをもって眺めたであろうか。陽子はいま見た恵子の、かすかに首を傾け、片手を胸のあたりに軽くおいた優雅なしぐさを思い浮かべた。
夫を裏切り、子を捨てた女が優雅であることに、陽子は反発を感じた。自分が親にさえ捨てられた人間であることを、いまあらためて知らされたような気がした。惨めだった。
どのくらい、時間が経ったろう。一時間にも思われ、十五分ほどにも思われた。恵子はとうに帰ったにちがいない。苦しんでいる北原のそばに、そういつまでも長居するはずはなかった。
陽子は立ち上がって、のろのろと二階への階段を降りて行った。階段の隅ごとに綿埃がたまっている。それがなぜか目についてならなかった。
階段を降りきった陽子は、思いがけなく二階の廊下の長椅子に、恵子がすわっているのを見た。恵子は立ち上がった。陽子の戻ってくるのを待っていたようだった。陽子は無表情に一礼して、その前を通り過ぎようとした。
「失礼ですけれど、あなたは陽子さんね」
長いまつ毛を上げ、恵子はやさしく微笑していった。
「わたしは、三井です」
陽子は遠くを見るような表情で、恵子の濡れた白い歯を眺めた。
(この人は、歯ならびまで、わたしに似ている)
「陽子さん、大きくなって……」
恵子の声が少しふるえていた。陽子は、自分でもふしぎなほど冷静であった。たしかに恵子は、顔も声も陽子に酷似している。しかし、似ていれば似ているほど、陽子の心は遠々しかった。なぜか、血の流れを感ずることができないのだ。
「……あなたの気持ち、以前から徹さんに伺っていましたわ。無理もないと思います。わたしが悪いんですもの」
恵子は感情のたかぶりを押しころしているようだった。陽子は依然として無表情のまま、何もいわない。
生まれてすぐに捨てられた子が、何をいうことができようか。陽子は傍を通り過ぎて行くパジャマ姿の少年に目をやった。
泣くことも、笑うことも、恨みをいうことも、なつかしむことも、生まれてすぐに捨てられた陽子は、その術を知らなかった。
「陽子さん、ゆるして……」
恵子の黒い目に涙が盛り上がったのを見ると、陽子は黙って傍を離れた。そして、廊下を曲がり、手術室のほうに、用ある人のように足早に歩いて行った。
赤いランプのついている手術室の前を過ぎて、陽子はつきあたりの窓によった。陽子はぼんやりと外を見た。窓のすぐ下に、入り口の四角な屋根が見えた。雪がうっすらと積もり、トタン屋根のみどりが透けて見えた。
四、五歳の男の子の手をひいた若い母親が、屋根の下に消えた。入れ代わりに三角巾で手を吊った男が、せかせかと出て行った。
と、グリーンのオーバーコートを着た恵子の姿が見えた。恵子は車も拾わず、うつむいたまま雪道を歩いて行く。少し行って、恵子の足もとがよろめいた。
よろめいて立ちどまった恵子は、ちょっと空を仰ぐように見た。が、ふたたびうつむいて歩いて行った。
陽子はふと、目の前の氷原を、恵子がうつむきながら遠ざかって行くような錯覚をおぼえた。
うつむいたまま、雪道を去って行った恵子は、泣いていたのかも知れない。
「あなたがたの中で、罪のない者が、まず石を投げ打ちなさい」
と聖書はいう。
陽子は蒼ざめた流氷原を凝視した。この流氷のように、自分の心は冷えていたのだろうか。
自分はもっと暖かい人間のはずだった。もっと素直な人間のはずだった。その自分が、一言も発しなかったのだ。自分でも不可解な心情だった。不可解だが、まさしく自分の心は、この海のように冷たく閉ざされていたのかも知れない。
「陽子さん、ゆるして……」
その一言には万感の思いがこめられていたはずである。しかし陽子は、素っ気なくその場を立ち去ったのだ。それは、石を投げ打つよりも冷酷な仕打ちではなかったか。
そのような非情さが、一瞬に生ずるわけはない。自分の心の底には、いつからかそれはひそんでいたのだ。
陽子は、小学校一年生の時、夏枝に首をしめられたことがあった。中学の卒業式には、用意した答辞を白紙にすりかえられた。そのことを、陽子は決して人には告げなかった。ただひたすら、石にかじりついてもひねくれまい、母のような女になるまいと思って、生きてきた。が、それは常に、自分を母より正しいとすることであった。相手より自分が正しいとする時、果たして人間はあたたかな思いやりを持てるものだろうか。自分を正しいと思うことによって、いつしか人を見下げる冷たさが、心の中に育ってきたのではないか。
(原罪!)
陽子は、ふと啓造から聞いた言葉を思い出した。ようやく、自分の心の底にひそむ醜さが、きびしい大氷原を前にして、はじめてわかったような気がした。
石を投げ打つ資格は、一人イエスにはあったにちがいない。だがイエスは、姦淫の女を石で打たなかった。イエスはただあたたかくゆるしただけだった。陽子はそのことを思い返さずにはいられなかった。
(しかし、なぜ?……)
なぜイエスはゆるしたのであろう。罪は、たとえ人間の命をもってしても、根本的につぐない得ないものだからでもあろうか。確かに罪とは、ゆるされる以外にどうしようもないものなのかも知れない。
流氷の上の空が、ひとところばら色にあかねしている。曇天の日のあかねを、陽子は珍しく思った。
不吉なほどに蒼ざめた流氷の原に、陽子はじっと目を向けていた。ゴメが二、三羽、氷原に触れんばかりに低く飛んで行く。
陽子は三年前、
「罪をハッキリとゆるす権威あるものがほしい」
と、遺書に書いたはずだった。
死を前にして抱いたあの真実の自分の願いが、いま、にわかにここに甦ったような気がした。人間同士のゆるしには、恐らく完全を求めることはできないであろう。許したつもりが、いつまた憎しみが頭をもたげてくるかわからない。それは、啓造と夏枝の姿を見ていても、わかるような気がした。そのような不完全なゆるしに、真の解決があるとは思えなかった。
宿の前に、車のドアがバタンと音を立てた。目をやると、流氷を眺める二人の若い男女のうしろ姿が見えた。陽子はハッとした。徹と順子の後ろ姿に似ている。
(まさか、おにいさんが……)
順子と二人で来るはずはないと思いながらも、陽子は窓をあけた。冷たい風が、暖かい部屋に流れこんだ。青年がふり返った。徹に似た顔の輪かくだが、色の黒い青年だった。陽子は静かに窓をしめた。
青年は女性の肩に手を廻した。その睦まじそうな姿から、陽子は視線をそらした。
順子は徹を慕っている。あるいはいつか、二人が結ばれる日がくるかも知れない。陽子は北原の姿を思い浮かべた。
「愛は意志だ」
と、啓造はいった。その言葉の深い意味は、まだよくはわからない。しかし陽子は、その確たる意志が与えられたいと思った。それは、真に罪をゆるし得る、唯一の権威あるものの存在によって、与えられるような気がする。
陽子は、テーブルの上のポットから、急須に湯を注いだ。ほろにがい茶を口に含んだまま、陽子は、北原を愛することは、自分を偽ることになるのだろうかと思った。
やはり、感情だけが自分とは思われなかった。知性も意志もまた自分なのだ。知情意の総合された人格が自分なら、北原を愛することは、もはや偽りとはいえなかった。北原が、陽子のために足を失ったことを思うと、どんなに愛しても、充分とはいえないような気がした。
さきほどの若い二人が、宿の出口のほうに歩いて行った。陽子は持っていた茶碗を、テーブルの上においた。
雲のひとところをばら色にそめていた淡いあかねも、いつしか消えた。
と、光が一筋、流氷の原に投げかけられた。サモンピンクの細い帯が、氷原を染めた。夕光は、宿の裏山のほうからさしているようだった。
ゴメの数がふえてきた。猫に似た鳴き声を立てながら、宿の右手双子岩のあたりに群れている。サモンピンクの光は間もなく消えた。再び蒼ざめた流氷が、目の前にあった。流氷の色が、次第に灰色に変わって行く。
この灰色一色の氷原が、人生の真の姿かも知れない。そう思って、陽子は椅子から立ち上がろうとした。すると再び、すうっとサモンピンクの光が、流氷の原を一筋淡く染めた。
次の瞬間だった。突如、ぼとりと血を滴らせたような真紅に流氷の一点が滲んだ。あるいは、氷原の底から、真紅の血が滲み出たといってよかった。それは、あまりにも思いがけない情景だった。
誰が、流氷が真紅に染まると想像し得たであろう。陽子は息をつめて、この不思議な事実を凝視した。
やがて、その紅の色は、ぼとり、ぼとりと、サモンピンクに染められた氷原の上に、右から左へと同じ間隔をおいてふえて行く。と、その血にも似た紅が、火炎のようにめらめらと燃えはじめた。
(流氷が! 流氷が燃える!)
人間の意表をつく自然の姿に、陽子は目を見はらずにはいられなかった。墓原のように蒼ざめた氷原が、野火のように燃え立とうとは。陽子はいまの今まで、夢想だにできなかった。いかなるプリズムのいたずらか。とにかく、いま、確かに現実に陽子の目の前に、流氷はめらめらと炎を上げて燃えているのだ。
じっと、そのゆらぐ炎をみつめる自分の心に、ふしぎな光が一筋、さしこむのを陽子は感じた。
またしても、ぼとりと、血の滴るように流氷が滲んで行く。
(天からの血!)
そう思った瞬間、陽子は、キリストが十字架に流されたという血潮を、今目の前に見せられているような、深い感動を覚えた。それは、説明しがたいふしぎな感動だった。
その血から、火がふき出るように燃える。ややピンクを帯びた炎となって、ゆらめき燃える。陽子はいつのまにか、手を固く握りしめながら、見つめていた。
右手の炎が次第にうすらいで行く。が、左手の火炎は灰色の氷原の中に、なお燃えつづけている。
先ほどまで容易に信じ得なかった神の実在が、突如として、何の抵抗もなく信じられた。このされざれとした流氷の原が、血の滴りのように染まり、野火のように燃えるのを見た時、陽子の内部にも、突如、燃える流氷に呼応するような変化が起こったのだ。
この無限の天地の実在を、偶然に帰することは、陽子には到底できなかった。人間を超えた大いなる者の意志を感ぜずにはいられなかった。
(何と人間は小さな存在であろう)
あざやかな炎の色を見つめながら、陽子は、いまこそ人間の罪を真にゆるし得る神のあることを思った。神の子の聖なる生命でしか、罪はあがない得ないものであると、順子から聞いていたことが、いまは素直に信じられた。この非情な自分をゆるし、だまって受け入れてくれる方がいる。なぜ、そのことがいままで信じられなかったのか、陽子はふしぎだった。
炎の色が、次第にあせて行った。陽子は静かに頭を垂れた。どのように祈るべきか、言葉を知らなかった。陽子はただ、一切をゆるしてほしいと思いつづけていた。
再び視線を外に向けた時は、氷原は一面に鉄色となって暮色の中にあった。灯台の赤と青の灯が、またたきはじめている。
陽子は、北原に、徹に、啓造に、夏枝に、そして順子に、いま見た燃える流氷の、おどろくべき光景を告げたかった。自分の前に、思ってもみなかった、全く新しい世界が展《ひら》かれたことを告げたかった。そして、自分がこの世で最も罪深いと心から感じた時、ふしぎな安らかさを与えられることの、ふしぎさも告げたかった。
〈一生を終えてのちに残るのは、われわれが集めたものではなくて、われわれが与えたものである〉
と、茅ケ崎の祖父は語ってくれた。陽子はその言葉を胸の中でつぶやいた。この言葉にこそ、真の人間の生き方が示されているような気がする。
北原は陽子に足を与えた。と、すれば、彼の足は失われたのではない。彼の足は彼の死後もなお、真の意味で生きつづけると、いえるかも知れない。陽子はいま、北原に切実に会いたいと思った。
陽子はつと立って、北原に電話をしようと思った。が、何よりも先に、なさねばならぬことがあった。
交換手が出た。陽子は、小樽の三井弥吉の電話番号を調べて、とりついでもらうことにした。
「受話器を一たん置いて、お待ちください」
ベルが鳴るまでの僅かな時間が、陽子にはひどく長く感じられた。
(おかあさん! ごめんなさい)
あの雪道をうつむいたまま去って行った恵子の背に、呼びかけるような思いだった。
二、三分たって、ベルが鳴った。
「ただいま、お呼びしています。そのままお待ちください」
交換手の声がして、コールサインの鳴るのが聞こえた。陽子は受話器を強く耳に押し当てた。
ふいに陽子の目から涙が溢れた。その涙をぬぐおうともせず、陽子はコールサインに耳を傾けていた。
創作秘話(二)
「続氷点」執筆前後
三浦光世
小説「氷点」は、前述のとおり、朝日新聞の懸賞小説に応募したもので、むろん続篇を書くことなど、作者の綾子も全く考えていなかった。第一入選するか、しないか、皆目見当もつかないわけである。幸い入選して、新聞に連載され、とにもかくにもテーマの原罪を、最後の陽子の遺書の中に盛りこんで終わった。したがって、著者として、書きたいことはなんとか書いたということになる。
が、「氷点」の連載が終わったあたりからであったろうか、周囲から、
「続も書いては……」
という声が上がった。
「あれはあれで、完結したのだから……」
と、綾子は答えていた。一千枚の長篇である。もし続篇を書くとすれば、それに見合っただけの枚数を新たに書かねばならないであろう。いかに楽天家の綾子も、それは考えられないはずであった。が、何とこれが現実の話として持ち出されたのである。
小説「氷点」を朝日新聞に連載したのは一九六四年十二月九日から一九六五年十一月十四日までであった。そのあと、第二弾として朝日新聞に連載したのが「積木の箱」である。これは、一九六七年四月二十四日から、約一年に及んだ。
「続氷点」の企画が持ちこまれたのは、多分この「積木の箱」が終わるころではなかったかと思う。しばらく休養したあと、手を着けて欲しいと、朝日新聞東京本社の学芸部から話があったと記憶している。
そこで綾子は、続篇の中に何を書くべきかを考えたはずである。おそらく続篇を書くことをためらわせる思いも、少なからずあったと思う。確かに「氷点」は大きな反響があり、テレビドラマにも映画にもなり、舞台での上演もあった。
が、一方、「氷点」に対する手きびしい批評もあった。ある文芸評論家は、
「こんな無理な設定による小説を読んだことがない」
と、酷評した。それに共感する向きも少なからずあったようである。いかに小説とはいえ、自分の子供を殺した犯人の、その子供を引き取るなどという発想は、あまりにも不自然で読むに耐えないというわけである。
そうした批評は、綾子も読んでいた。
「あのような批評を気にする必要は、全くありませんよ」
と、励ましてくださる編集者もいたが、当の作者である綾子は、いくらこだわらぬ性格とはいえ、そう平然としてもいられなかったにちがいない。
が、この広い世間、思いがけない事例があることを、綾子は知らされた。一人息子を殺されながら、その犯人をゆるし得た婦人のことを、ある時偶然伝えられたのである。「氷点」の設定が、必ずしも全く無理でなかったことを、その婦人の体験を伝え聞いて、彼女は大いに安心したのだった。
かいつまんで言えば、次のようなことであった。
婦人の名は津田|彰《あや》といった。彼女は、結婚して男の子を生んだが、その子が十ヵ月目の時にご主人を亡くされた。大正末期のころである。その後、経済的には恵まれていたとはいえ、女手一つで息子を育て上げる。
やがて息子は、関西《かんせい》学院大学を卒業、ある商社に入社する。が、時は戦中、兵隊にとられる。軍隊生活中に発病(多分結核と思われる)、療養生活を送ることになる。
幸い次第に回復、社会復帰に備えての外気小屋に入ることになる。病棟を出て、そこに移ったというわけである。そして間もなく全快する。しかし、明日は退所、帰宅することになったその日、事件は起きる。彼はいっかな帰宅しなかった。一九五一年七月一日、待てども待てども彼は帰らない。翌日療養所を訪ねると、「行方不明」と告げられる。彼のいた外気小屋にも行ってみる。室内は乱雑を極めている。ふだんきれい好きで、几帳面な彼には考えられない状態といえた。
三ヵ月後、警察が来た。「息子さんは、療養所の裏山で、白骨死体で見つかった」とのこと。署に行ってみると、変わり果てた姿があった。確証はないものの、自殺であろうと警官はいう。が、キリスト者の彼が自殺するとは考えられない。
その後、幾度となく彼が夢に現れる。それがいつも同じ夢。指を二本立てて彼はいう。
「二人にやられた」
警察に他殺の線を調べてほしいと訴えるが、夢では……と取り合わない。
時はいつしか一九五四年の元日を迎える。その元日の朝、顔見知りの新聞記者が、事件の解決を告げに来る。犯人が自首したという。犯人は二人だったが、主犯は息子を殺して半年後に自殺、共犯者がこのほど自首したとのこと。犯人たちは何れも、当時療養をしていて、津田さんの息子を殺したのだという。
共犯者は懲役十三年の刑を受けたが、死んだ息子が帰るわけではない。悲しみと憎しみはくすぶりつづけるばかり。津田さんはキリスト者、人をゆるさなければならないと思っても、息子を殺した犯人をそうたやすくゆるすことはできない。日曜日、教会では礼拝の中で『主の祈り』と言われるキリストの教えた祈りをとなえる。が、
「われらに罪を犯す者をわれらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ」
のくだりにくると声にならない。犯人たちへの憎しみが消えないことに、津田さんは悩んだ。キリスト者として確信が揺らいだという。
と、ある秋のひと日、一人の婦人が、家の前を行きつ戻りつしている。共犯者の母親が詫びに来たのだった。津田さんは彼女を家の中に入れ、四時間も語り合った。
「わたしがあのような子を生んだばかりに……」
母親は、幾度もそう言って帰って行く。そのせつなさが痛いほどにわかった。
と言って、犯人を心からゆるすことはできない。それを息子は天国で悲しんでいると思い、ある夜犯人に手紙を書くべくペンを持つ。午前三時までかかって書いた手紙に、
「わたしはあなたをゆるします」
との一行があった。
その手紙に感動した犯人が返事を書いてきた。更生を誓い、信仰によって救われたいという。その後、津田さんは彼を刑務所に訪ねて行く。彼は刑期が十三年から八年三ヵ月に短縮され出獄する。刑務所から故郷への途次、先ず津田さん宅に寄る。
しばらくして、彼は洗礼を受ける。その式に立ち会った津田さんは、更に深い喜びに満たされる。
以上が津田さんの辿った道であった。これが手記として一九六六年五月号の「マドモアゼル」という小学館発行の女性向けの月刊誌に掲載された。その手記の始めの方に、綾子の感想も同時掲載された。おそらく編集者の求めによったのであろう。少しく綾子の一文を抄出する。
〈事実は小説よりも感動的である
三浦綾子
『氷点』の連載中、そして単行本になってからも、いろいろおたよりをちょうだいした。その中で、
「自分の子を殺した犯人の子をひきとるなんて、そんなことが現実にあるだろうか。絶対にあり得ないと思う。これはやっぱり小説だけの世界ではないだろうか」
という意味のおたよりは、かなりたくさんあった。(中略)
だが、私の心の隅で、
「いや、この広い世の中に、一人ぐらいはそんな人間がいるのではないか」
という思いもないわけではなかった。
しかし、去年の秋、京都の講演に出た際、私はおどろくべき話をきいた。それは本誌に紹介されている記事をお読みいただければおわかりのことと思う。(中略)
私の知っている言葉では津田さんを讃えるにふさわしい言葉がないだろう。いかに真実な信仰が、人を真実な愛の人になし得るかということを知って、私は心から神をほめたたえずにはいられない。
「事実は小説より奇なり」という言葉があるが、実に、
「事実は小説よりも感動的である」
と私は思わずにはいられないのである〉
こんなこともあって、綾子は続篇の「ゆるし」のテーマを深めていったのかもしれない。
ところで「続氷点」の連載が始まったのは、一九七〇年五月である。この年は一月に綾子が札幌の天使病院に精密検査のために、十日余り入院した年であった。癌がどこかにひそんでいないかと懸念しての入院であったが、幸いその心配はなく、仕事をつづけることになった。
第一回の送稿がいつであったかと思って、日記を調べてみたら、三月十八日東京から来られた担当の門馬義久氏に、あらすじと共に二回分手渡したことが記されている。二回分とはまた僅かだったと思うが、先ずは序盤、ゆるゆると始めたらしい。
「続氷点」の取材で忘れられないのは、網走に流氷を見に行ったことである。前篇の時と同じく、続篇でもラストシーンを綾子はいち早く想定していた。三月末であったか、網走市の観光課に電話で問い合わせたところ、接岸していた流氷はすべて沖に去ってしまったが、あるいはもう一度戻ってくるかも知れないということであった。
幾度か電話をかけたが、なかなか沖から戻って来ない。もっと早く見に行くべきであったかと後悔したが、四月四日朝九時網走市に電話をかけると、
「流氷がまた戻りました」
とのこと。それっとばかりに私たちは荷物を携え、旭川駅十時発の汽車に乗り込んだ。出発前、六条教会に電話をかけた。明日は日曜日、礼拝欠席の旨、川谷|威郎《たけお》牧師に連絡したのである。川谷牧師は、
「流氷が戻って来た? そりゃあよかった。『続氷点』も大成功するで」
と、喜んでくださった。
網走まで汽車で四時間余、二時過ぎに着いた。早速海岸にタクシーで馳けつけて、瞠目した。くもった空の下に、流氷は幾重にも海岸から沖の方へと連なっていた。
ホテルへ着いたあとも、私は窓にしがみつくようにして、流氷を眺めつづけていた。そして、想像を絶する現象を見たのであった。綾子はその時の情景を、ラストシーンに見事に描き出した。文章は私たちが現実に宿の窓から見たように、小説の主人公の陽子がホテルの一室から外を眺めている形になっている。以下これも抄出してみよう。
〈流氷の上の空が、ひとところばら色にあかねしている。陽子はじっと目を向けていた。ゴメが二、三羽、氷原に触れんばかりに低く飛んで行く〉
〈雲のひとところをばら色にそめていた淡いあかねもいつしか消えた。
と、光が一筋、流氷の原に投げかけられた。サモンピンクの細い帯が、氷原を染めた。夕光は、宿の裏山のほうからさしているようだった。
ゴメの数がふえてきた。猫に似た鳴声を立てながら、宿の右手双子岩のあたりに群れている。サモンピンクの光は間もなく消えた。再び蒼ざめた流氷が、目の前にあった。流氷の色が、次第に灰色に変わって行く。
この灰色一色の氷原が、人生の真の姿かも知れない。そう思って、陽子は椅子から立ち上がろうとした。すると再び、すうっとサモンピンクの光が、流氷の原を一筋淡く染めた。
次の瞬間だった。突如、ぼとりと血を滴らせたような真紅に流氷が滲んだ。あるいは、氷原の底から、真紅の血が滲み出たといってよかった。それは、あまりにも思いがけない情景だった。
誰が、流氷が真紅に染まると想像し得たであろう〉
〈やがて、その紅の色は、ぼとり、ぼとりとサモンピンクに染められた氷原の上に、右から左へと同じ間隔を置いてふえて行く。と、その血にも似た紅が、火焔のようにめらめらと燃えはじめた。
(流氷が! 流氷が燃える!)
人間の意表をつく自然の姿に、陽子は目を見はらずにはいられなかった。墓原のように蒼ざめた氷原が、野火のように燃え立とうとは〉
以上の描写は、綾子と私が宿の窓から、二時間も流氷を眺めつづけているうちに起きた現象であった。この文章が新聞に掲載されたのは、およそ一年後であるが、綾子もその強烈な印象は、瞼に焼きついて離れなかったのであろう。むろんノートには記録していたわけであるが、綾子のノートはいつも不明瞭であった。私はよく、
「綾子の小説は、混沌の中から生まれるものなんだね」
と笑ったりしたが、いざ活字になると、実に的確だった。右の文章の中で、強いて言えば、血の滴りのような現象は次々に生じて、次第にそれらが左に移行し、右端がうすれて行くのだったから、その辺りがやや描写不足とも言えた。
ともあれ現地には「燃える流氷」という言葉もあると聞いたが、不思議な現象にはちがいない。おそらくうす陽が流氷に射して、プリズムのような現象を呈したのかも知れない。それにしても流氷は不定形である。にもかかわらず、等間隔に真紅の部分が生ずるのがわからない。何れにせよ、千載一遇ともいうべき情景を見せられたことは、ありがたいことであった。
ところで「氷点」の前篇では、前述のとおり、無理な設定という批判を受けた。が、続篇ではそれがなかった。登場人物の動きは、今読んでみても、実に自然な展開によって運ばれている。
しかし、ラストの流氷が血の滴りのようになったり、焔のようにゆらめく情景を、全く仮空のこと、単なる想像の所産と断定した女性がいた。何に書いていたかは忘れたが、極めて独断的な批評であった。確かに容易に信じ難い事象ではあったが、私たち二人でまちがいなく目撃した事実である。大体綾子は、自然現象を自分の想像によって、無理に変えて書いたことはない。これだけは彼女の名誉のためにも、あえて力説しておきたい。
主婦の友社『三浦綾子選集2」 続 氷点』平成13年1月1日 第1版発行