三浦綾子小説選集7
細川ガラシャ夫人
ガラシャ夫人の名を、はじめてわたしが聞いたのはいつの頃であったろうか。多分十二、三歳の頃ではなかったかと思う。ガラシャという異国の人名が何か奇異に響き、わたしには無縁の女性のように感じられた。
わたしが夫人に心を惹《ひ》かれるようになったのは、そのガラシャという名が、実は洗礼名グレーシア(恩寵・神の恵みの意味)であること、夫人の父親があの三日天下明智光秀であることを知ってからである。
細川ガラシャについて詳しくは知らなくても、ガラシャが美貌と才気と、そして熱烈な信仰を持ち、壮烈な最期をとげた女性であることを知っている人は多いであろう。逆臣の名を日本史上に残した明智光秀と、このガラシャとのかかわりは、普通の親子以上の深いものがあったのではないかと思う。
戦前に育ったわたしが、学校の歴史で教えられた明智光秀は、主君織田信長に反逆した稀に見る悪臣であった。三日天下は彼に対する蔑称嘲称である。この言葉から受けるものは、光秀という人間が、如何にも思慮分別のない愚か者といった印象である。
が、敗戦によって、わたしたちは自分の学んだ歴史に多くの不信を抱くようになった。戦争中の教科書が、あまりにも天皇中心に編さんされ、歪められたものであったことを知ったからである。歴史上逆臣といわれた者が、必ずしもそうでないばかりか、真の勇者であり、反骨の士であったことも知ったのだ。
この度、ガラシャ夫人の一生を書こうとして、わたしは先ずその父光秀について調べた。親は多く子を語るものだからである。
信長を本能寺に倒した光秀は、秀吉に追われて逃げる途中、農民に殺されたというのは一般の歴史書の記すところである。にもかかわらず、徳川家康が帰依し、親交の厚かった名僧|天海《てんかい》大僧正(後に慈眼大師号を諡《おく》られた)は光秀であったという説が、今もって伝えられている。天海大僧正の前身が判然としないというだけで、それが即ち光秀だと伝えられるのは、当時の人々の心の中に、光秀の最期を農民に殺されたままにしてはおけない、敬慕の思いがあったからではないだろうか。
光秀は砲術、築城の第一人者であると同時に平生、茶道、短歌、俳句、花にも長じた教養人で、静かな人であったという。本能寺の乱の直後、信長には見られなかった人民を重んずる法制をいち早く敷いた。この光秀に、京都の人々はみな名君現ると拍手を以て迎えたという記録もある。
この光秀を農民が団結してかくまい、他の臣の首をあげて光秀と偽るということは、あり得たような気もする。また、信長の叡山《えいざん》焼き打ちの事件の際、光秀はひそかに僧たちをあわれみ、情けをかけていた。その恩義に感じた僧たちが、光秀をかくまったともいわれている。
更に一説には、千利休《せんのりきゆう》の前身が、天海大僧正同様つまびらかでないため、利休は明智光秀であったともいわれている。秀吉が後に、利休を光秀と見破り、切腹させてしまったというのである。
以上二説、虚か実かはともかく、当時の人々がいかに光秀を惜しんでいたかが、うかがわれるのではないだろうか。なぜこのように光秀が惜しまれたのか。それは恐らく、光秀の信長に対する反逆が、単なる反逆ではなかったからにちがいない。
事実光秀は、信長のためにその義母を殺されている。また信長は、徳川家康に対する饗応の役を突如変更して、光秀の面目を失わしめた。が、これ以外に更に重大な理由があったといわれる。それは、信長の胸中に、光秀をだまし打ちにしようとする計略があったという説である。いわば光秀の行動は、反逆ではなくて正当防衛であったというのだ。こうして、人々は光秀を惜しむあまり、天海大僧正や利休を光秀ののちの姿と信じたかったのではないだろうか。
事情はともあれ、名僧天海大僧正、名茶人千利休に光秀の面影を見たのは、光秀が並々ならぬ人物であったことを物語っているといえよう。
玉子(ガラシャ)には、この光秀の教養と反骨が確かに豊かに流れていた。その光秀の娘として生まれたが故に、彼女の三十八年間の生涯は、実に波乱に富んだ悲劇的なものとなった。
彼女の一生は、今なお多くの人を感動させ、既に小説に戯曲に伝記にと、多くの書が著されているが、わたしもまたわたしの視点に立って、今の時代に生きる自分の問題として、書きつづってみたいと思う。
一 痘痕
家人《けにん》たちが騎馬のけいこをしているのであろう。土塀の外を大声で笑いながら、二、三騎駆けて行く音がした。
子《ひろこ》はいま、病後はじめて、離室の縁にすわり、庭ごしに母屋を眺めていた。うらうらとした春の日ざしが膝にあたたかい。
(あとひと月)
子は病み上がりの肩を落として、ほうっと溜め息をついた。
明智城主明智頼光の一子光秀と子は、幼い時からの許嫁《いいなずけ》である。光秀が十八歳になり子が十六歳になった今年の正月早々、婚儀の日が決まった。
その婚礼の日がひと月ののちに迫っている。だが子の心は重い。病みほそった白い指で、またしても子は頬にそっと手をやった。子が近づけば、花も恥じて萎《しぼ》むといわれたほどに美しかったのは、既に過去のことなのだ。
二月初めのある夕べ、子は突如悪寒がしたかと思うと、たちまち高熱を発して床に臥した。最初は悪いはやり風邪かと思ったが、それは恐ろしい疱瘡《ほうそう》であった。発熱した翌日、紅斑が顔に手足に出て来たため、医者はすぐに庭の一隅にある離室に移すように命じた。頭痛や腰痛に悩まされ、化膿の痛みにもだえ苦しんだのち、一命だけはとりとめた。が、はじめてその頬に手をやった時の驚きと悲しみはいいようもなかった。顔ばかりか、首にも手にも痘痕は残っていた。父母は神に仏にひたすら祈ったが、痘痕は消えるはずもない。
父、妻木|勘解由《かげゆ》左衛門|範煕《のりひろ》は、美濃の豪族|土岐《とき》氏の出である光秀との良縁を諦めることはできなかった。土岐氏の出であるばかりではない。相手の光秀は、その三歳の時既に、万軍の将たる相がありと、さる僧が驚いたというほどで、十八歳とは思われぬ秀れた人物であったからでもある。
とてもこの顔では、嫁入りさせることはできない。といって、光秀との縁組みを取り消すのは惜しい。父の範が窮余の一策を案じたのも無理からぬことであった。が、その時、まだ子は父の考えを知る筈もなかった。
子はおそるおそる再び頬に手をやった。絹じゅすのような、曾《かつ》ての肌理《きめ》細かな頬とは、似ても似つかぬ手ざわりに、子は唇をきっとかんだ。
切れ長の黒い目は、庭の三分咲きの桜の花に向けられていたが、花も目に入らない。幼い時から幾度か会った光秀の、落ちついた思慮深げな風貌が目に浮かぶ。見馴れている若い家人たちの荒々しさとは、全くちがった光秀のその静かさに、子は心ひかれていた。
しかし、それはもう諦めねばならないのだ。どこの世界に、疱瘡のあとも醜い女を、奥方に迎える殿があろう。
(それにしても、女の命は眉目形《みめかたち》であろうか)
子は、この二、三日思いつづけてきたことを、いままた思った。幼い頃からついこの間まで、愛らしい、美しいと人々にいわれつづけてきた。自分の美しさは、太陽が西から出ぬ限り、いつまでもつづくものと思っていた。が、いまにして子は顔の美しさの変わりやすさに気づいたのだ。ひどく頼りにならぬものに、頼ってきたような気がする。
ほうっと、また溜め息をついた時、先程の騎馬であろうか、再び地ひびきを立てて塀の外を駆け過ぎて行った。
「いやですこと。またいくさが始まるのでしょうか、お姉さま」
清らかな声がして、妹の八重が母屋から縁伝いに歩いてきた。八重のその白い陶器のような肌に、子の視線がちらりと走った。子の肌は、これより更になめらかだったのだ。
「若い方たちが、騎馬のおけいこをなさっておられるのでしょう。先程も笑いながら駆けて行かれましたもの」
「それなら、よろしいけれど」
八重は無邪気な笑顔で子を見、
「ご気分はよろしゅうございますか、お姉さま」
二歳年下だが、八重は子と時折まちがわれるほどに、背丈も顔かたちもよく似ている。腰まで垂れた豊かな黒髪を下くくりし、元結《もとゆい》をかけている。
「ありがとう。気分はもうずいぶんよろしいのです。でも……」
ほほえんでいた子の目がかげった。
「お輿《こし》入れのことがご心配なのでしょう?」
八重は大人っぽい表情になった。
「おことわり申し上げるより仕方がないでしょうけれど……」
「でも、お姉さま。光秀さまががっかりなさるだろうと、お父上さまがおっしゃっておられました」
「お父上さまが?」
父の範は、子が病んで以来、結婚のことについてはぴたりと口を閉じていた。光秀との結婚を誰よりも喜んでいた父だけに、その落胆が思いやられてならなかった。
「あのう、お姉さま」
子の傍らに八重は腰をおろした。病状はすっかりおさまり、伝染の危険期は脱したものの、子は少し体を離して、
「何でしょう」
「本当は、お姉さまにはまだ内緒だと、お父上さまがおっしゃったのですけれど……」
「何をですか」
「……いいえ、何でもありませぬ」
あわてて八重は、かぶりを横にふった。
「わたくしに内緒のこと? ……」
光秀に関することにちがいない。父は遂に破約を申し入れたのではないか。ひと月ののちに迫っている結婚を、そのままずるずるにしておくことは決してできないのだ。
「……よいことですのよ。でも、お姉さまは何とおっしゃるでしょうか」
八重は無邪気に子を見た。
「さあ? わたくしに内緒のことでしょう。内緒のことにいいようはありません」
「お姉さま、お聞きになりたい?」
よいことと聞けば、知りたくはある。が、今の子には、そのよいことさえ知るのは恐ろしくもあった。
「いいえ。内緒のことを伺っては、お父上さまに申し訳がございませんもの」
「でも、お姉さまが黙っていらっしゃれば、教えてさし上げます」
「いいえ、よろしいことよ。お八重、わたくしはお父上さまが仰せになるまで、伺わないことにいたします」
「あーら、つまらないこと。わたくしとお父上さまが内緒ごとをしたので、怒っていらっしゃるのですか?」
「いいえ、怒ってなどおりません」
子の目がやさしく微笑した。肌はあばたになっても、その整った目鼻立ちには変わりはない。それだけに痘痕は一層痛々しくもあった。
「じゃ、お教えします。お父上さまには黙っていらっしゃって。どうせお父上さまも、すぐにお話しなさることですもの」
「…………」
「あのう、お姉さま。わたくしお嫁に行くことになりました」
「まあ! それはおめでたいお話ですこと」
「喜んで下さります? お姉さま」
「それは喜びますとも、おめでたいことですゆえ」
「嬉しいこと。お姉さまはお病気をなさったから、あまりお喜びにならないと思っておりました」
にっこりした八重の口もとがいかにも幼かった。
「で、お八重、どなたさまのところに?」
「それが、明智光秀さまのところに」
「え? 光秀さま!?」
はっと子は耳を疑った。が、次の瞬間くらくらと目まいを覚えて、片手を縁についた。八重はその子の驚がくには気づかず、じっと自分の膝頭をみつめたままいった。
「そう、光秀さまのところですって。お父上さまは、光秀さまのところにお嫁に行くのが、一番お家のためだと申しておられました」
「…………」
「お姉さまはお病気になられたので、光秀さまのところにも誰のところにも、もうお嫁に行く気持ちはつゆほどもない。それでは長いこと許嫁だった光秀さまが、あまりにお気の毒だとお父上さまは申されました」
「…………」
「お姉さまとわたくしは、よく似ておりますでしょう? だから、わたくしがお姉さまの身代わりになって行くのですって。それが明智さまにも、この妻木の家のためにも、一番よいことなのだそうです」
「…………」
「お家のためになることなら、わたくし、喜んでお姉さまの身代わりになってさし上げます」
八重は子の顔をのぞきこむように見た。涙の溢れそうな姉の目がそこにあった。八重はあわてて、
「あら、どうなさったの。わたくし、お姉さまの身代わりになってさし上げますのに……」
「……うれし涙です。お八重があの方の奥方になることが……」
「まあ、本当? それなら、わたくしも嬉しい」
八重は単純であった。体は大人でも、まだこの正月十四歳になったばかりの八重には、男女の間の情などわかろう筈がない。父範の立場で、何よりもお家が大事と諭《さと》されれば、八重はその通り素直に思いこむだけなのだ。
疱瘡などという恐ろしい疫病にかかったのは、姉の不運である。しかも、こうして姉の顔を眺めれば、この顔で嫁入りしたい思いなどあろうはずがない。まだ心の幼い八重にはそんなふうにしか考えられなかった。八重の乳母は生涯結婚するふうがない。それをふしぎとも思わずに育った八重である。同様の感覚を姉に抱いたのも当然だった。何の悪気もないのだが、しかし、女としての目ざめのない八重のその幼さは、非情であった。非情であることに本人が気づかぬ故に、それは一層非情であった。
「お八重さま、お八重さまはどちらでございますか」
母屋のほうで、八重の乳母志津の呼ぶ声がした。
「あら、乳母が呼んでいます。では、お姉さま、お大事に」
何のくもりもない晴れ晴れとした笑顔を見せて、八重は母屋のほうに立ち去って行った。
しばし凝然と縁にすわっていた子は、静かに立ち上がり、部屋に入って戸を閉じた。と、うすぐらい部屋の真ん中に、くず折れるようにすわった。
(八重が、光秀さまの奥方に……)
子にとって、それはあまりにも大きな衝撃であった。幼い時から光秀の妻になると信じて今日に及んだ子なのだ。事もあろうに、妹の八重に光秀を奪われるとは。
「人の世は苦じゃ」
つい数日前、妻木家菩提寺の老僧から聞いた言葉が思い出された。人生に待っているのは、老いることであり、病むことであり、愛する者との別離や、裏切りによる苦しみであり、そして最後の死であるといわれたのだ。
「しかし、それらが苦であるのは真理を知らぬ無知から来るものでな。すべてのものは、刻々変化して行くものと知らぬからじゃ。生まれた者は死ぬ。若い者は老いる。健やかな者も病む。美しい花も散る。すべてが無常と知ること、それが真理を知ることじゃ。真理を知らねば、迷い苦しむも道理でな」
痘痕のできた子の白い手をいとおしそうに取って、老僧は説いた。
(では、今のこの苦しみも、また刻々と変化して、いつかは消えるものではないか。苦が楽に変わることではないか)
いま子はふと、そんなことを思った。八重に光秀を奪われたと苦しむよりも、今の苦しみもまた、無常だと観ずればよいのではないか。
子は老僧の言葉を素直に信じたいと思った。が、今受けたばかりの心の痛手が、直ちに癒えるはずもない。子は畳に打ち伏し、声を殺して泣いた。
しばらく泣いているうちに、子の心は少し静まってきた。確かに悲しみにも移り変わりがあると、子は再び老師の言葉を思った。
自分の病《やまい》が、疱瘡とわかった何十日も前に、既に子は光秀を諦めていたはずだった。考えてみれば、八重が光秀に嫁ぐという夢想だにしなかった事実に、自分は心を傷つけられただけなのだ。自分が嫁ぐことができぬ以上、光秀が他の女性を娶《めと》ることは必定である。見も知らぬ他の女を娶られるくらいなら、自分によく似た妹の八重と結婚してもらったほうが、まだしも幸せというものではないか。
しかも、父は八重を子と偽って嫁がせる魂胆らしい。去年の夏一度会って以来、今日まで光秀は自分を見てはいない。光秀が八重をこの子と思いこんで、そのまま一生夫婦として終わるならば、それはこの子自身を娶ったも同然なのだ。自分は光秀に捨てられたことにはならぬ。
それはともかく、父にとって、土岐氏の縁つづきである光秀との結婚は、重大事にちがいない。父としては、必死の思いで八重を光秀に輿入れさせるのだ。自分はこのままこの家に果てるとも、父をも八重をも決して恨んではならない。
「お家が大事……」
つぶやいた子はかすかに微笑《ほほえ》んだ。いや微笑もうとして、またもや涙が噴き上げた。
遂に、八重の輿入れの日が来た。五月晴《さつきば》れのすがすがしい朝である。朝から馬のいななく声や、出入りする人々のざわめきがして、閉めきった離室にいる子の耳にも、母屋のめでたい気配は伝わってくる。
八重から光秀との結婚を知らされた日の夜、子は父の口からも、その事について聞かされた。その夜離室に来た父は、
「言いにくい話じゃが……」
と、苦渋に満ちた表情で語り出した。
長い間待っていた光秀との婚儀の日取りまで決まったというのに、その直後思わぬ病気に倒れたそなたは不憫《ふびん》である。病名が知れては、直ちに破談になるであろうと、自分もいたく心痛した。今のところ家族と乳母、侍女のふくのほかには、いかなる病気か知らせてはいない。明智殿を偽るのは心苦しいが、八重をそちの身代わりとして嫁がせる決心をした。無論そなたの胸中を思うと、かくいう父も甚だ辛い。が、戦乱の世にあっては、良縁は一人のものではなく、一族の幸せにかかるものである。辛かろうが、納得してほしい。
範は諄々《じゆんじゆん》と説いた。それは八重から聞いた通りの言葉であった。既に覚悟していた子は、唇に微笑さえたたえて、両手をつき、きっぱりと挨拶を述べることができた。
「お父上さま。どうぞ仰せのようになさって下さいませ。ご心労をおかけするような疱瘡になどなりましたのは、わたくしの不注意からでございます。八重が光秀さまに嫁ぐと伺って、も嬉しく存じます」
思いもかけぬ子の言葉に、
「そなたは……」
範は絶句して頭を垂れたが、思わずはらはらと落涙し、
「許してくれよ、お。お家のためじゃ」
「いいえ、お父上さま。おゆるしを頂戴しなければならないのは、こののほうでございます。はただ、明智さまと八重が幾久しゅうむつまじく、添い遂げられますよう、御仏におたのみするばかりでございます」
十六歳の小娘とは思われぬ言葉に、範は感嘆していった。
「お。そなたをおいて、明智殿にふさわしい女はなかったのに……」
範にとって、子は八重よりも一段と愛すべき娘であった。聡明で素直で美しく、範の誇るべき存在であった。自分の名を一字子に与えていることも、ことさらにその愛着を深いものにしていた。その父の情がわかるだけに、子はいささかの愚痴も、恨みの言葉も口に出すことはできない。
母屋のめでたい賑わいを耳にしながら、子はいま、ふすまをぴたりとしめきって、暗い部屋の中にじっとすわっていた。健康状態はほとんど、もとに戻っている。こうして、暗い中にすわって、手も見なければ鏡も見ない限り、子自身以前の自分と何ひとつ変わるところがないような気がする。
本来ならば、今日は自分が輿入れすべきめでたい日であった。幼い時から、胸に抱きつづけた花嫁姿になるはずであった。いかに聡明であり、心に諦めを持ってはいても、まだ十六歳の乙女である。さすがに昨夜から心が騒ぎ、ほとんど一睡もしていない。
「おさま」
ひそやかに、ふすまの外で声がした。子より八歳年上の侍女ふくの声である。
「もし、おさま」
何度めかの呼びかけに、子はそっと、ふすまを三寸ほど開けた。
「何のご用?」
「はい……」
ふくは伏し目のまま、
「あの、ただいま、お八重さまがお別れのご挨拶に伺いますとおっしゃってでございます。ご都合およろしゅうございましょうか」
子が疱瘡を患って以来、ふくは子を正視しようとはしない。
「そうですか。八重の支度はもうできましたか。では、お待ちしておりますと伝えておくれ」
「はい」
答えたが、ふくは立ち去ろうとはしない。
「どうしました、ふく」
「あんまり……あんまり……でございます」
「…………」
「おいたわしゅうございます……ふくは……おいたわしくて……」
「ふく。心はありがたく思います。でも、おめでたい日に涙は不吉。八重のために喜んであげなければなりません」
ふくは袖口で目をおさえたまま、しばらく泣いていたが、思いなおしたように涙を拭いて立ち去って行った。
ややしばらくして、ふくのあとに、母に手を取られた白いうちかけ姿の八重が、静かに離室に入ってきた。白い綿帽子をまぶかにかむっているためか、玉虫色の紅をつけた形のよい唇が、ひときわ可憐であった。
「お姉さま、長いことお世話さまになりました」
板の間に、八重はきちんと両手をついた。
「お幸せに……」
自分のために整えられた白無垢を着た八重に、子は万感をこめて、ただひとことそういった。
「お姉さまも、お幸せに」
この自分に、何の幸せが残っているものかと思いながらも、
「ありがとう。大そう美しい花嫁姿ですよ、お八重」
と、嬉しそうに子はいった。その姉と妹のやりとりを、母の万は何も言わずに聞いていた。
「では、参ります」
「お幸せに」
再び、子は同じ言葉を、同じ思いでいった。
母屋に立ち去って行く八重の姿を、縁に出て見送った子は、再びふすまを閉じて呆然と部屋の中にすわった。八重の花嫁姿と共に、自分の心も自分の中から去って行ったような、そんなうつろな思いであった。
さぞや涙が出るであろうと覚悟していたが、涙も出ない。涙を流すには、あまりにも苛酷な現実であった。
二年前から、光秀のために織ったかたびらや袴も、自分のために用意した幾枚かの小袖やうちかけや帯も、みんな八重の長持ちの中に納められて、今日明智城に運ばれて行く。子は自分自身も、せめて八重の侍女になってでも、光秀のもとに行きたいと思った。そして事実、今日限り自分はここに生きるのではなく、八重と共に光秀のそばに生きて行くような気がした。
「お立ちい!」
やがて凜《りん》とした声がひびき、緊張したざわめきが響いてきた。騎馬を先導に、輿や長持ちの数々がつづくのであろう。その様子を目に浮かべ、輿に乗ったであろう八重の姿を思いつつ、子は身じろぎもせずに、暗い部屋の中にすわっていた。
「八重、お幸せに」
つぶやくともなくつぶやいた子は、いまはじめて、嫁ぎ行く八重もまた哀れだと気づいた。今の今まで、光秀の妻となる八重を羨望していた自分が、ひどく浅はかに思われた。
八重は八重という名を今日限り捨てて、子と名乗って生きて行かねばならぬのだ。光秀に子と呼ばれる八重は、果たして本当に幸せであろうか。八重が子の名を名乗る以上、自分もまた、今日限り子の名を捨てなければならぬ。共に悲しい姉妹だと子はしみじみと感じた。
どのくらい経ったことだろう。気がついた時には、邸内はいつしかしんと静まりかえっていた。
(尼僧になりたい)
子はそう思った。どうせ子の名を捨てたのだ。今更八重の名を名乗ることもそらぞらしい。尼となれば、俗名を捨てて全く新しい名を与えられるだろう。
子はそっとふすまを開けた。人気《ひとけ》のない庭には風さえもない。ひどく静まりかえって、無人の邸《やしき》のようである。雲一つ浮かぶ空を見上げていると、ふいに涙が一筋頬をつたわった。
「ぴーひょろろ」
どこかで鳶《とび》の声がした。
寝苦しい一夜が明けた。昨夜も一昨夜も、ほとんど眠れなかったというのに、神経が異様にえている。光秀と八重の盃事の様子が目にちらついて離れない。諦めていたはずが、少しも諦めてはいないのだ。子はそのような自分があさましく思われて、一刻も早く尼僧になりたいと思った。
早速老師を招いて、尼になる相談をしたい。この丈なす髪を剃ったならば、この世への未練も断ち切れるのではないか。そう思った瞬間、子の視線が自分の手の甲に落ちた。あばたのある両手である。
子は蒔絵の手鏡をとって縁に出、いどむような視線で自分の顔を見た。頬に額に唇のそばに、点々とあばたが残っている。
(このような顔になっても、光秀さまへの思いを断ち切れぬ者が、たとえ剃髪したとして、果たして煩悩を断ち切れるものかどうか)
鏡を膝の上に置いた時だった。ばたばたと駆けてくる足音がした。父の範であった。
「お」
範の顔色が変わっている。
「いかがなされました、お父上さま」
「お、八重は戻されて参るぞ」
「えっ? 八重が!?」
「うむ、明智殿のこの書状を見るがいい。明智殿は、明智殿はな、、八重がそなたの替え玉であることに気づいたのじゃ。そして八重より事情を聞き、こうして書状を……」
入り口に突っ立った範の、手も唇もわなないている。
「八重は後刻送り返される。たった今、明智殿の使者が、早馬でこの書状を届けてこられた」
「それでは、かわいそうに八重は……」
「うむ、是非もない。即刻父は明智殿に詫びと御礼に参らねばならぬ」
「御礼? と申しますと」
「おう、肝腎要《かんじんかなめ》のことがあとになったわ。、明智殿はな、大したお方じゃ。これ、この書状を見い。予が許嫁せしはおどのにて、お八重どのには御座なく候、いかなる面変わりをなされ候とも、予がちぎるはこの世に唯一人、おどのにて御座候。いいか、お、いかなる面変わりなされ候とも……」
範は絶句した。
二 黒髪
子《ひろこ》が明智光秀の妻となって、二十年の歳月は流れた。
秋の日ざしが縁側の障子に明るい。その障子に、折々庭の木の葉の散る影が映って、静かな午後である。
子は布団の上に横になり、今もなお豊かなその白い乳房を、みどり児のお玉の口にふくませていた。お玉は十日ほど前に生まれて、ようやく肌の赤味がうすらいできたところである。子はそのお玉を、さっきから飽かず眺めていた。
(どのような一生が待っていることやら……)
子自身、生まれて以来三十六年、戦《いくさ》に遭わなかった年は一度もない。この戦乱の世では、せっかく生まれてきても、いつ戦火の中に亡びて行くか予想もつかないのだ。
(明智に嫁いで、早二十年……)
子は昨日のことのように、婚礼の夜を思い浮かべた。
疱瘡の痕のみにくい子を、父が恥じて妹八重を身代わりに輿入れさせた。が、幼い時から子と許婚者だった明智光秀は、八重には手も触れずに返し、改めて子を娶ったのだった。
その輿入れの夜、光秀は床の中で、かすかにふるえている子を抱きしめていった。
「お。この戦の絶えぬ今の世では、人が人間らしく生きて行くことは、まことにむずかしい。何よりも己が命己が身を全うするために、武士といえども、今日はあの主君に仕え、明日はこの主君に走る。
男と女のちぎりさえ、いわば戦略の具がならいとなっている。親が子を殺し、弟が兄にそむくこともしばしば。全く心をゆるす相手もいない侘びしい世の中とは思わぬか。
このような世の中で、わたしは幼い時から、許嫁のそなたを、自分の分身のように思って育った。政略とはかかわりなく結ばれた縁の故でもあろう。わたしにとっては、そなたに代わる何ものもなかった。
よいか、お。そなただけは、わたしの分身なのだ。そなたが病んだことは、即ちわたしが病んだことなのだ。そなたに疱瘡のあとができたことは、即ちわたしの体にできたも同然のこと。決して恥ずることはないぞ」
十八歳とは思われぬ静かな声音で、光秀は諄々《じゆんじゆん》と説いた。
ねんごろなその光秀の言葉を、子はくり返しくり返し、胸の中で自分に言い聞かせてきた。あの夜限り、子は光秀の命そのものになって生きてきたのだ。
光秀のその夜の言葉は、確かに真実であった。あばたこそあれ、聡明で、立ち居ふるまいの優雅な子を、単にいとおしむのみではなく、尊び且つ深く信頼してくれた。武将にはそれがならいの側室をも、光秀は決して置こうとはしなかった。子も無論、婚礼の日のことは片時も忘れず、光秀を敬愛して倦《う》むところがなかった。こと夫婦仲に関する限り、子は幸せな二十年を過ごしてきた。が、決して平穏な日々ばかりではなかった。
「おや、もうよろしいの、お玉」
乳房を、その小さな口から離したお玉の顔を見やって、子はやさしく声をかけた。お玉はすやすや眠っている。子はそっと衿もとをかき合わせると、自分も再び枕に頭をつけて目をつむった。
忘れもしない今から七年前、弘治《こうじ》二年四月二十日。美濃の国守|斎《*》藤|道三《どうさん》はその息子|義竜《よしたつ》に襲われて死んだ。勢いに乗じた義竜は、明智城をも襲って陥れた。多勢に無勢である。
光秀は、父代わりであった叔父光安と共に自刃しようとしたが、光安は許さなかった。
「この不孝者|奴《め》が! お前が死んでは、明智家はここで絶えるではないか。草の根を噛んでも、必ず生きのびて明智家を再興せよ」
光安はきびしく叱咤し、自らは切腹して果て、城と運命を共にした。
光秀は叔父の子光春と家人数人、妻子を伴って、ひそかに城をのがれ、若狭に落ち、越前に走った。今でこそ、こうして越前一乗谷城主|朝《*》倉義景に客礼をもって迎えられ、五百貫(五千石)の地を受ける身分となった。家人も侍女も置いて、日々の暮らしに何の不自由もない。
が、浪々の日には、明日炊く米のないこともあった。今でも子は、時折|空《から》の米びつに困惑する夢を見ることがある。城主の奥方から、一転して食うに事欠く生活を経験した子は、ほかにも様々な困苦を味わってきた。だから、今はいかに豊かになっても、決して贅沢はしない。
お玉が生まれても、乳母をおかなかったのは、昔を忘れなかったからであった。子供はわが乳で育てるべきだと、子は考えている。疱瘡を患ったあとは、ほとんど病にもかからず、子の体は健やかであった。
廊下に落ちついた足音がし、人影が障子に映った。子がハッと半身を起こした。
「お帰りなされませ。今日はお早いお帰りで……」
客礼で迎えられている光秀は、出仕も人にくらべて自由である。
侍女に着更えさせたのであろう。着流しのまま、枕もとにひざを折り、お玉を見てから視線を子にもどして、
「寝ているがよい。無理をしてはならぬ」
と肩に手をかけた。
「いえ、もう起きましても、障りはござりませぬ」
「いやいや。お。赤子を一人産むということは、女の一大事じゃ。産めば産んだで、眠る時間もそがれるであろうし」
横になった妻に布団をかけ、
「男には、真似のできぬことよのう」
とねぎらった。
「恐れ入ります」
「お、外は珍しくよい天気じゃ。だが、越前はすぐ雪が来る」
言葉にこそ出さぬが、美濃のおだやかな冬を懐かしんでいるのだと子は察した。
「だが、お。いつまでもこの雪国に、そなたを置きはせぬ」
明智の血筋である土岐氏は、二百年守りつづけた美濃の国守の地位を、斎藤道三に奪われた。そして道三の息子義竜に明智城も奪われた。その美濃の地に夫は戻るつもりであろうか。
光秀は浪々の日に、諸国をめぐって軍学を身につけ、築城の技術を学び、武芸に励み、とりわけ砲術は衆にぬきんでる腕前であった。しかも思慮深く何事にも洞察力に富んだ人柄である。いつまでも朝倉殿の禄を安閑と食《は》んでいるお人ではないと子は思う。必ず朝倉殿をも凌《しの》ぐ一国一城の主《あるじ》となるにちがいないと、子は夫光秀を信じていた。
「嬉しゅうございます」
「だが、時は待たねばならぬ。再び、そなたに、あの大盤振る舞いはさせられぬからの」
「まあ、またそれをお言いあそばす」
子はちょっと顔を赤らめた。「あの大盤振る舞い」とは、夫婦二人だけに通ずる言葉であった。
それは、五、六年前のこと……光秀がまだ浪々の頃のことであった。浪人とはいいながら、文武に秀でた光秀の周囲には、同じく志を得ない屈強の浪人仲間が、いつも幾人か集まっていた。
昨日は名もない素浪人が、今日は高禄をもって召し抱えられることの珍しくない世であったから、浪人といえども士気は盛んであった。この仲間が、順次当番となって酒宴を開くことになった。
光秀は諸国を足で歩き、軍略から築城までも広く学んでいたから、話題は豊富だ。が、金はなかった。親子が辛うじて、かゆをすすらんばかりにして生きている毎日である。幾人もの仲間を招いて馳走するゆとりは、何としてもできぬ相談であった。
当番が当たると、妻が病気だの、子供が熱を出しただのといって逃げてはいたものの、そういつまでも逃げてばかりはいられなかった。ある時、遂に止むを得ず引き受けるところとなった。引き受けはしたものの、家に金のないのはわかりきっている。帰宅した光秀は、さすがにもの思いに沈んだ。
「殿、お顔の色が冴えませぬ。どこか具合でもお悪うございますか」
子は不安気に光秀を見た。
「いや、別に変わりはないが……」
ものうげに返事をして、光秀はごろりと横になった。
「では、何かお案じなさらねばならぬ大変事でも起こりましたか」
「うむ、実は、この次はわが家が仲間に夕食を馳走する番に当たってな」
子はちょっと光秀の顔を見やったが、
「まあ、そのような些細なことで、殿ともあろうお方のお顔が冴えませんでしたか。殿方はもっと天下の一大事にお心を使うもの、当番の宴は、がお引き受けいたしました。何卒《なにとぞ》お心置きなくいらせられますように」
子はにっこりと笑った。
やがて、約束の当番の日が来た。家にいても光秀は落ちつかない。友人の家に行って時間をつぶし、夕方家に帰って驚いた。
鯛の塩焼き、大根の酢のもの、山いも、蓮、こんにゃくの味噌煮、そうめんと貝の吸い物などが、酒と共にずらりと並んでいる。膳や食器もどこから借りて来たのか、きちんと六人前の用意がしてあった。
大いに面目をほどこした光秀が、その夜子にいった。
「お、何ともかたじけないことであった、礼をいうぞ」
「お言葉もったいのうございます」
「ところで今宵の馳走は、いかにして手に入れた? わが家には、金に代える物は何ひとつない筈、わしにはどうしても解《げ》せぬが」
不審がる光秀に、子は笑って答えなかった。
幾日か経ったある日、どうしたはずみか、子のかぶっていた布が、光秀の前で頭から落ちた。あわてて子は布を頭に巻こうとしたが既におそかった。
「あ、お、その頭は!?」
光秀が声を上げた。
室町時代には、束髪に子守りの手拭いかむりのような向こう鉢巻きの「桂巻き」が流行していたが、その頃になって、束髪の上から赤や紫の布で頭を包む風習があった。子が垂髪にしていたのは明智城に住んでいた時のことで、今は誰もがするように、いつも紫の布で髪を包み、僅かに額の生えぎわが見える程度にしていたから、光秀は子の頭の変化に、うかつにも気づかなかった。
「お!」
光秀は子の肩を抱きよせて、痛ましげなその頭を見た。曾て疱瘡という熱病を患った割には、子の髪は豊かだった。その髪が、ほんの一つかみだけ残されていて、あとはぷっつりと切られているではないか。
「お、そなたは……」
光秀は子をひしと胸に抱きしめて、
「女の命の……その髪を、金に代えて……」
と、あとは言葉もなかった。夫の面目のために、惜しげもなく黒髪を切って金に代え、しかもそれを一言も告げない子の気持ちが、光秀の胸をしめつけた。
「髪はおろか、の命も殿のものでござります」
抱きしめる光秀の胸の中で、子は答えたのだった。
玉子に添い寝する子に、今、光秀がいった「あの大盤振る舞い」とは、このことをさしているのだ。
「あの時のことを思うと、わたしはいつも、じっとしてはおれぬ気持ちになる」
「もったいのうござります」
今は、その時切った髪も豊かに伸び、思い出話とはなった。
「お、今日、朝倉殿のところで、よい御方に会った」
光秀が微笑した。夫のとおった高い鼻筋、細く、きらりと光る目、輪郭のはっきりとした、ややうすい唇、そして、とり乱すことを知らぬ落ち着きと、茶人のような静かな挙止。それらが、「水のように冷たい」と人に評させることにもなっているのを、子は知っている。が、笑うと言いようもないやさしさと親しみが、その口もとと目尻の皺に漂う。このやさしさこそ、夫光秀の本性なのだと子は思う。
「それはよろしゅうござりました。で、どなたさまにお会いなされました?」
「うむ、それが細川|藤孝《ふじたか》殿じゃ」
「まあ、あの勝竜寺《しようりゆうじ》城の御城主の?」
「そうだ」
「あの名高い御方に……」
「うむ、聞きしにまさるお方じゃ。和歌には勿論、茶道にもすぐれておられることは知ってはいたが……。当代|彼《か》の人の右に出る相剣(刀剣鑑識)家はあるまい」
感じ入ったように、光秀は腕組みをした。端正な顔に似合わぬふとい腕である。
「とは申されましても、殿も博学、さぞかしお話が合ったことでございましょう」
「いや、わしなどの遠く及ぶところではないが、ふしぎにうまが合った。政治についても鋭いが、何か、とらえどころのない大きさがある。賢すぎるという、いわゆる小利口者ではない。非凡な方じゃ」
子には、何でも話してくれる夫の気持ちがありがたい。視線は時折お玉に行くが、一々熱心にうなずいて聞いている。
「ところで、面白い話を伺った」
光秀の唇にふたたび微笑がのぼった。
「まあ、どんなお話でござりましょう」
小腰を屈《かが》めて、部屋の前を通り過ぎる侍女の影が障子に映った。
「うむ、細川殿は二十の頃まで、和歌には見向きもなさらなかったそうな」
「まあ、でも、あの細川様は和歌の道では、当代並ぶもののない御方……」
「その通り。二条家に和歌を学んで、古今伝授《こきんでんじゆ》を受けた歌道の権威だ。だが、今日の話では、和歌などは柔弱《にゆうじやく》な者のもてあそぶものと、全く無関心であったらしい。それが、関心を持つようになったのは、二十の時であったか、戦場で一つのことに遇われたそうだ」
「何やら、面白そうでござりますな」
黒い聡明なまなざしが、まっすぐに光秀に注がれた。
「ある時、敵を追って桂川まで馬を走らせてきたが、途中道を違えたためか、既に敵影はどこにも見えない。敵の乗り捨てた馬がいるだけだ。相手が馬だけでは戦にはならない。いたし方なく帰ろうとすると、家来が駆けよってきて、〈殿、なぜ帰られまするか〉と問うた。〈敵がいなければ戦にはならぬ〉と言い捨てて、馬首をめぐらそうとすると、
〈殿、この古歌をご存じでござりましょう。
君はまだ遠くは行かじ我が袖の
袂《たもと》の涙冷えしはてねば〉
といった。が、細川殿には、一体何のことやら、さっぱりわからぬ。家来が、
〈殿、おわかりになりませぬか。これ、この馬の背に手を当ててごらんなさりませ〉
といったそうな。おはわかるであろう」
「はあ、それでは、敵の馬の背が、まだ冷えてはいなかったのでございましょう」
「そう、その通りじゃ。くらがまだあたたかく、汗で濡れてさえいた」
「では、その辺《あた》りに、まだ敵がひそんで……」
「うむ、土手のかげの田の中にかくれていたそうだ。こうして敵の首をあげ、功を立てることができた。それがきっかけで、和歌をはじめられたらしい。和歌は柔弱者のするものと思いこんでいたが、大まちがいであったと、そんなことをいっておられた」
「なるほど、それがきっかけで、勉強なされて……。それは面白うござります」
うなずく子に、光秀は、
「しかしな、お。わしは、この話は少しうまくできすぎていると思う」
「と、申しますと、これは細川様のつくり話……」
「さあて、それはともかく、和歌を顧みぬ者や、軽んじている者たちも、この話を聞けば、和歌に興味を持つであろう」
「おっしゃる通りでござります」
「軽んじていたものも、見直すことになる。とすれば、歌道の権威として、この道を広めるに、大いに役立つ話ではないか」
「確かに役立ちます。でも……」
子は軽く目を閉じた。何か思案する時に見せる表情である。光秀はいち早く察して、
「いや、お。わたしはいささか憶測したに過ぎぬ。何事にも、その中から真《まこと》を汲みとらねばならぬことは、いつも申す通りだ。細川殿には、外との交渉にもすぐれておられることを言いたかったまで、心配はいらぬ」
光秀は笑った。光秀はいつも子に、このようにして語る。それが光秀には心ほぐれるひと時であり、子にはしみじみと夫の心の中に浸るひと時であった。
「今後とも、細川殿には、じっこんに願いたいと思っている」
「殿も和歌をなされますし……」
「いやいや、わしのは、ほんのたしなむ程度だ。だが、武将というものは、強いばかりでは一流の武将とはいえぬ。細川殿は、和歌、茶道のほか、絵も太鼓もそれぞれ名人の域ということだ」
「まあ、絵や太鼓まで」
「その上、われらの及ばぬところがある」
「殿も及ばぬところ? と申しますと」
子はほつれ毛を、そっと小指でかき上げた。
「細川殿は将軍家と親しい家柄じゃ」
「代々、将軍の側近でいられるご様子は、よくお聞きいたしておりますが」
「いや、それだけではない。今日、殿の話では、細川藤孝殿は、義晴《よしはる》将軍の御《*》落胤《らくいん》ということじゃ」
「まあ! 将軍様の?」
「うむ、母なる人は、公家の清原|宣賢《よしすけ》殿の娘御でな。身分は卑しくはないが……。それで細川殿は義輝将軍が義藤といわれた時の、藤の一字をいただいたという話だ。細川家には養子となったらしい」
「それは存じませんでした」
「まあそういうことだ。では、大事にせよ。お玉、健やかに育つがよい」
お玉のやわらかい頬をちょっとつつき、
「お、細川藤孝殿のところでも、今年三月に若殿が誕生なされたそうな」
「まあ、さようでござりましたか」
「お玉の話を朝倉殿がなさると、細川殿は、十幾年か経てば、双方、共に年頃じゃなといっておられた」
光秀は立ち上がった。こう言った光秀も、その言葉を聞いた子も、この細川藤孝の嫡子忠興に、お玉が嫁ぐ日があろうなどとは、無論夢にも思わぬことであった。
永禄十二年。玉子、数えて七歳の正月である。既に、二年前父の光秀は、織田信長に召し抱えられ、今は京都奉行をつとめていた。
光秀は以前、朝倉義景に重んぜられていた。が、その光秀をそねんで、義景にざん言する者があった。光秀は朝倉と離れ、軍学塾を開いた。その教えの評判を聞いた信長が、五百貫(五千石)をもって、光秀を招いたのだ。
既に細川藤孝を通じ、将軍足利義昭に会って忠誠を誓っていた光秀は、将軍義昭が住む所もなく諸国を放浪しているのを見かね、細川藤孝と謀って信長に引き合わせた。
美濃を平定し、勢いに乗じて天下を狙いつつあった信長は、喜んで将軍を奉じ、京都に入った。この後、信長の将軍推戴に功のあった細川藤孝と明智光秀が、一層親密になったのは当然であった。そして細川藤孝もまた信長の配下となった。
そんな事情は、数えて七歳のお玉にはわかるはずもない。今、侍女たちと共に、お玉は嬉々としてお手玉遊びに興じていた。
「容貌の美しきこと、たぐいなく」
「楊貴妃桜を見るような、あでやかな美貌」
と記録に残っているお玉のその美しさは、七歳にして、早くも人の目を集めた。
肩で切りそろえた豊かな黒髪は、侍女たちの中にあってもひときわ黒くつややかで、色白のふくよかなその頬、賢そうに見開いた切れ長な目、描いたような唇、玉子のいるところは、光をさすようなまばゆさがあった。
「なんと、お姫《ひい》さまのお上手なこと」
玉子は小さな手で器用に受けながら、お手玉をつづけている。目は真剣にお手玉に注がれ、小さな赤い唇が、かすかに開いているのも愛らしい。
「わたしの名前はお玉、だからお手玉が上手なの」
「まあ、頓知のよいお姫さま」
侍女たちは顔を見合わせた。赤い小袖を着て、黄色い帯を結んだ姿は人形のように愛らしいのに、七歳とは思えぬ機知である。
「お母さまは、もっとお上手よ。早くお母さまがおいでになるといいのに」
ふいにつまらなそうに、玉子は手をとめた。
「大事なお客さまでいらっしゃいますから……」
正月の十日、奥座敷には細川藤孝が、和歌の仲間を連れて遊びに来ていた。玉子の目がくるりと動いた。
「大事なお客さま? どこのお方? 織田のお殿さま?」
織田信長は、半年ほど前に一度この家に泊まったことがある。その時は姉たちと共に、玉子も信長の前に挨拶に出された。その時のはりつめたような家の中の空気を、玉子は幼いながら感じとっていた。
玉子はその時のことを思い出したのである。
「いいえ、織田のお殿さまではございません、お姫《ひい》さま」
侍女たちは信長のことを口に出すだけで、不安な表情になった。額に青筋の浮き出た、いかにも癇の強そうな信長の、ぴりぴりとした神経が忘れられないからだ。
「わたし、あのお殿さまなら、ごあいさつに行くのに」
小さな手をついて挨拶をした玉子を、信長はひょいと膝に抱き、
「いい子じゃ」
と頬ずりをしてくれたのだ。
「大きくなったら、美しい嫁御になるであろう」
信長がいうと、玉子は頭を横にふり、
「いいえ、いくさに参ります」
と言って、信長を喜ばせた。そして、その信長のひげを引っぱった玉子に、光秀夫妻があわてても、
「よいよい。この子が男の子なら、頼母《たのも》しい武将になったであろう」
と、機嫌がよかった。
「お姫《ひい》さま、今日のお客さまは、勝竜寺城のお殿さまたちですよ」
そう侍女がいった時だった。廊下を走る幼い足音がした。
「あら、どなたでしょう」
侍女の一人が障子をあけた。と、やや浅黒い、利《き》かなそうな男の子が走ってきた。
「与一郎さま、与一郎さま」
後を追ってきたのは、玉子の長姉の倫《りん》であった。細川藤孝の長子、与一郎忠興が、父に連れられて来ていたが、大人の間にすわっていても面白くない。見かねて、子が娘の倫と菊に相手をさせたが、十三、四になる娘と双六《すごろく》をしても、興が湧かない。そこで、廊下に出て走ってしまったのだ。
「まあ! かわいらしいこと」
侍女が声を上げた。玉子が、
「どなた?」
と部屋から顔を出した。その玉子を見て、与一郎はびっくりしたように、立ちどまった。玉子も、自分より一つ二つ年上に見える与一郎を珍しそうに見た。
「お玉、細川様の与一郎さまですよ。ごあいさつなさい」
「与一郎さま?」
姉の言葉に、玉子は冷たい廊下にぺたりとすわり、両手をついて、ていねいに頭を下げた。与一郎はてれて、黙ったまま突っ立っている。
「与一郎さま、遊びましょう」
ものおじしない玉子は、にっこりと笑って誘った。
人形よりも愛らしい玉子を、与一郎はまぶしそうに見ていたが、
「女子《おなご》となぞ、遊んだことはない」
と首を横にふったが、立ち去ろうともしない。その与一郎に、姉の倫が微笑した。
「お手玉は?」
玉子が聞いたが、与一郎はぶっきらぼうに、
「したことがない」
「追い羽子《ばね》は?」
「たこなら上げる」
「たこあげ? でも、外は寒いでしょう」
京都の冬は寒い。今日も朝から底冷えがして、雪がちらついている。玉子は庭に目をやって、ちょっと考えていたが、
「では指《ゆび》角力《ずもう》をいたしましょう」
と、小首を傾けて、与一郎を見た。首を傾けると、黒い髪が肩一杯にひろがった。指角力ときいて、与一郎はようやくうなずいた。
部屋に入ると、侍女たちが二人のために大きく場所を開けた。
「細川さまの若殿ですって」
「お丈夫そうな」
「さぞ、ご立派な殿になられることでしょう」
「与一郎さま、お年はおいくつでござります?」
侍女は口々に、与一郎の機嫌をとった。
「七歳になった」
与一郎はにこっと笑って、指を七本立ててみせた。
「あら、わたしも七歳ですよ」
玉子の言葉に、侍女たちは、
「まあ、与一郎さまは大きくいらっしゃる。男の子だけありますこと」
とほめた。
「わたしだって大きい」
「それは、お姫《ひい》さまも大きゅうございます」
侍女たちはあわてて言った。
「与一郎さまはお馬に乗るの?」
玉子が聞いた。
「一人では乗らない。父上と一緒に乗る」
侍女のむいて差し出した栗を、与一郎は頭をちょっと下げて食べた。その様子に侍女たちは、
「かしこそうな……」
とうなずき合った。
「じゃ、槍のおけいこも?」
「いや、木剣をふる」
「わたしも、もう少し大きくなったら、長刀《なぎなた》のおけいこをするのですよ」
栗を食べ終わった与一郎に、玉子は無邪気に手を差し出して、
「では、指角力をいたしましょう」
というと、与一郎も玉子の手を握った。
手を握り合ったとたん、玉子も与一郎も緊張した顔になった。倫も侍女たちも、興深げに小さな二人を見守った。玉子の拇指《おやゆび》がしなやかに、機敏に逃げる。それを与一郎のやや太い指が追いかける。なかなか、つかまらない。与一郎は唇をかんで追うのをやめた。玉子の指が逆に与一郎の指をおさえようと動いた。と、その瞬間、
「あ!」
玉子が声を上げた。与一郎の指にがっちりとおさえられてしまったのだ。
「どうだ、参ったか」
「参りません」
与一郎は指に力を加えた。
「これでも参らぬか」
「参らないわ」
玉子は唇を歪めた。おさえられた指が、ぐみの実のように赤くなっている。
「参らない? では、十を数えたら負けだ。一、二、三……八、九、十、ほうら、わしの勝ちだ」
「参らないわ。今にわたしが勝つわ」
おさえた与一郎の指から逃れようとして、玉子は必死で指を動かそうとする。
「負けぎらいだなあ」
大人のように言い、与一郎は指を放した。玉子は指の先をじっとみつめていった。
「おかしいわ」
「何がおかしい?」
「だって、わたし、侍女たちには一度も負けたことがないのに」
「侍女たち? ばかだなあ、そなたは」
「わたし、ばかじゃないわ」
「ばかだよ。侍女や家来たちは、わざと負けるものなのだ」
ハッと侍女たちが顔を見合わせた。
「まあ! 本当? おねえさま」
玉子は姉の倫を見た。
「本当だよ。侍女や家来はわざと負けるから気をつけろと、父上がいつもいわれる」
与一郎は平然と言い放った。
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斎藤道三 一四九四〜一五五六(明応三〜弘治二)年。戦国時代の大名。美濃(現在の岐阜県)を領す。娘が信長の正室。道三は隠居後の法名。油売りから身を起こし、美濃の守護土岐頼芸の知遇を得て、一五三八年には守護代斎藤氏を継ぎ、利政と改名。四二年には土岐頼芸を放逐して美濃一国を奪う。「蝮《まむし》」とあだ名された戦国期の代表的な武将。
朝倉義景 一五三三〜七三(天文二〜天正一)年。戦国時代の武将。越前(現在の福井県一帯)を領す。一五六六年、足利義昭を居城越前一乗谷に迎え、幕府再興をはかるが、義昭は織田信長のもとに去り、信長が義昭を奉じて上洛後、上洛を促されるが、これを拒否して信長と対立することとなった。一五七〇年、近江の浅井氏と連合、姉川の戦いで信長、徳川家康と戦うが敗北、一五七三年信長により滅ぼされた。
御落胤 貴人が正妻ではない女性にひそかに生ませた子供。
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三 櫓
琵琶湖の碧水が、夏の日を眩《まぶ》しく照り返している。
初老を過ぎた足軽平五郎の漕ぐ磯舟に、お玉と侍女のおつなが並んですわっていた。ふっくらとしたお玉の白い頬に、黒髪が風になびく。お玉は今年十二歳、おつなより五つ年下である。こころもち首を傾けて、お玉は今出て来た坂本城をふりかえった。
琵琶湖の水は坂本城の堀に引きこまれていた。その堀の一カ所が船着き場になっていて、そこからすぐ城の庭につづく。舟は、その堀から出て来たのだ。
濃緑の比叡山を背に、そびえ立つ坂本城が、今日はひときわ美しく見える。その城をふりかえるお玉を、平五郎は櫓《ろ》を漕ぎながら、
(おとめさびられたのう)
と、心の中でつぶやいた。
「平五郎、今日は少し遠くまで行ってください」
お玉が平五郎の日焼けした顔を見た。
「いや、お姫さま、お城に近い所でなければ、奥方様にお叱りをこうむります」
琵琶湖には、折々海賊が出る。岸を遠く離れては危険なのだ。
「平五郎は、叱られるのがいやか」
お玉が凜《りん》とした声でいった。
「は?」
虚を突かれて、平五郎は漕ぐ手をとめた。
「いやではござりませぬが……」
「では、叱られるがよい」
お玉は突き放すようにいった。
「は、しかし、奥方様は遠くへ行ってはならぬと仰せられました故……」
「母上は舟がこわいのです。姉上たちと同じように、弱虫なのです」
舟遊びを喜ぶのはお玉だけで、母の子《ひろこ》も、嫁いだ姉の倫も、菊も舟が嫌いだ。すぐに酔うのである。
「お姫さま、平五郎様の申すとおり、奥方様のお言葉には従わねばなりませぬ」
侍女のおつなが、やんわりといった。
「つまらないこと」
お玉は不承不承おつなの言葉を受け入れた。おつなの言葉には、お玉はふしぎにさからわない。
湖のおだやかな日には、母の子はお玉の舟遊びを許した。お玉は他の娘たちとちがって、物おじをしない。武将の娘は、お玉のような気性でなければ、この乱世を生きがたいのではないかと、子はひそかに思うことがある。長刀《なぎなた》を習うことが武家の娘のたしなみの一つなら、舟に乗ることも許してよいと、子は考えていた。それに、城の中だけに閉じこめておくより、外の生活も自分の目で見て育つべきだと子は思っていた。曾て、夫光秀浪々の頃、共に苦労をした子らしい考え方であった。
「平五郎、わたしも漁師の娘に生まれたかったと思います」
「なぜでございます?」
平五郎は漁師の出なのだ。北《*》条早雲《そううん》や斎藤道三のような一介の素浪人が、一国一城の主になる戦国の世である。農民や漁師が武士になることは珍しくはなかった。
「だって、乗りたい時に自由に舟に乗れるではありませんか。ほら、今日もあのように、たくさん舟が出て……」
「姫、漁師は舟が楽しくて自由に乗っているのではありませぬ。魚をとらねば生きて行けぬ故、舟に乗るのでござります」
「ほんにお姫さま。そのとおりでございますよ。漁師は、天候の悪い日も、命がけで魚をとりに参るのです」
「命がけで?」
「は、悪天候の日に漁に出て、命を落とす漁師も、年に一人や二人ではござりませぬ」
「でも、命がけは武士も同じこと。男は命がけで生きるものだと、わたしは思います」
その秀麗な眉に、利かぬ気が漂った。おつなと平五郎は、そっと顔を見合わせた。
「まあ、きれい!」
お玉は二人の表情には気づかずに、彼方の近江富士を指さした。入道雲が、近江富士の上に伸び上がるように突っ立っている。
「まこと美しき所……お、あれは初之助」
お玉に答えかけた平五郎は、ふと十間ほど向こうの小舟に目をとめた。
「初之助? 初之助って、どなた」
「私共の総領|奴《め》にござります」
平五郎は照れたように首を撫《な》でた。何を釣るのか、一人の若者が背を見せて糸を垂れている。
「ああ、都で武道の修行をしていられたとか……」
おつながいった。
「いえ、ただ木剣をふり回していただけで……」
言いながらも、舟は初之助の舟に近づいて行った。岸から百五十間ほど離れた所である。
「初之助」
すぐそばまで行って、平五郎が声をかけていた。無心に釣り糸を見つめていた初之助がふりかえって、
「なあんだ、父上ですか」
と笑いかけたが、すぐにその顔から笑いが消えた。初之助と呼ばれた若者は、自分をじっとみつめているお玉に気づいたのだ。
「姫だ。お玉さまだ」
初之助は、ありありと驚きの色を浮かべている。お玉の頬に微笑が漂った。自分を初めて見る者は、必ずハッとしたように驚きの色を顔に現す。お玉にとって、それは幼い時から幾度となく経験してきたことであった。年少の者から、大人までが必ず示すその反応を、お玉は今また意識して微笑したのである。
「初之助、ご挨拶を申し上げぬか」
年の頃十六、七と見える初之助は、ふっと目をそらした。
「礼儀をわきまえぬ奴《やつ》が!」
たまりかねた平五郎は、櫓をのべてさっと一突き初之助の体を突いた。
「あっ!」
声を上げたのはお玉とおつなだった。一瞬にして初之助の姿が舟から消えていた。二人は初之助をのんだ湖水を青ざめて凝視した。
「あのような不作法者では、まだ明智家の侍にはなれませぬ」
平五郎がこともなげにいった。
「平五郎、早く……」
初之助は浮かんでこない。お玉は不安気に平五郎を見た。平五郎はややしばらく沈黙していたが、
「死んだかも知れませぬ」
「死んだ?」
「多分。先ほど姫の申されましたとおり、男は命がけで生きる者、虚を突かれて水に落ちて死ぬような奴は、所詮戦の用には立ちませぬ」
「死んでもいいのですか? 平五郎。自分の息子が……」
「かまいませぬ」
平五郎は微笑して、櫓をとると舟の向きを変えた。
「いけません。飛びこんで探してあげなければ……」
「ははは……」
平五郎は声高に笑い、
「今からでは、遅すぎましょう。姫、男は命がけで生きる者でござりまする」
と、再び哄笑《こうしよう》した。お玉は青ざめた顔をおつなに向けた。おつなも体をふるわせ、
「平五郎様、早く助けてさしあげねば……」
と哀願した時、
「ごろうじませ」
平五郎は浜を指さした。
「ま、あれは?」
二人は声を上げた。何と浜では、初之助が濡れた着物をしぼっているではないか。浜に向かって櫓をあやつりながら、平五郎は、
「初之助奴にござります」
「いつ? どうして?」
「姫が心配していられる間に、奴は、湖の底をくぐって泳ぎました」
「まあ! では、それを平五郎は知っていましたか」
「もとより。初之助はこの湖で産湯《うぶゆ》をつかいましてな。幼い時から、しじみを取って家計を助けておりました。彼奴《かやつ》は陸の上より、水の中で多く育ちました。それにどうやら、間髪のまに体《たい》をかわすことも、会得したようでござります」
二人は二の句がつげなかった。
舟が浜に近づくと、初之助が水ぎわに来てお玉たちの舟を砂浜に引き上げた。
「初之助とやら。泳ぎが上手ですこと。死んだかと思って、心配いたしました」
舟から下りたお玉は率直にほめた。初之助はちらりとお玉を見たが、返事はしなかった。代わりに平五郎がいった。
「そのうちに、初之助もお城に出仕つかまつります」
「まあ、本当ですか」
お玉はうれしそうに声を上げた。初之助はちょっと目をまばたき、浅黒い裸身を日の下にさらしたまま、腕を組んで突っ立っている。眉の濃い、きりりとした顔立ちである。おつなはまぶしそうに初之助の裸身から目を外《そ》らしたが、お玉は平気で、
「平五郎、この初之助は泳ぎはできても、唖《おし》なのでしょう」
「唖ではない!」
初之助が言い捨てて、さっと砂浜を蹴って去って行った。
「何を怒っているのですか。初之助は」
「申し訳ござりませぬ。初之助は……」
姫がまばゆいのでございますという言葉をのみこんで、平五郎は額の汗をぬぐった。
夕餉《ゆうげ》のあと、光秀は義母のお登代と、妻の子、それにお玉を誘って裏庭の涼み台に腰をかけていた。夏の空はまだ明るい。
夕空を映して、ひときわ輝いているであろう琵琶湖は、土塀に遮《さえぎ》られて見えないが、湖からの風が、時折庭木の枝を揺すり、頬をなぶって行く。
「そうか。平五郎の総領息子は、そんなに泳ぎが達者であったか」
お玉の話を聞いて、光秀は静かに微笑した。父は大声で笑ったことがない。お玉はふとそう思った。
「頼母《たのも》しいことです」
お登代がうちわをゆったりと使いながらいった。
「でも、おばあさま、初之助は礼儀を知らないのです。わたしの顔を、こうじっと見て、会釈もしないのですもの。平五郎が怒って、水の中に落としたのも無理はないのです」
「今に追々、躾《しつ》けられるでしょう。かんにんしてあげることですよ、お玉」
やさしくお玉の頭を撫でるお登代の横顔を、光秀は感慨深くみつめた。幼い時から、亡き母に代わって自分を育ててくれた義母である。その口から出る言葉は、いつも人を慰め励ます言葉のみであった。実の母が生きていても、この義母ほどに自分を支えてくれる存在になり得たかどうかと、いつも光秀は思う。
(老い給うた)
いつしか肩のあたりの肉もうすくなり、体がひとまわり小さくなった。
「母上」
「何です? 光秀殿」
「明日、鳥羽口《とばぐち》に参ります」
「それはご苦労さま。また、出陣なさるのですか」
「一応、鳥羽口付近に待機しております」
「光秀殿は、戦の巧者故、母は安心しておりますが、この暑いさなかに鳥羽へ参られることは大変なこと」
既に信長は、一向一揆《*いつこういつき》を伊勢長島に攻めている。荒木村重も摂津中島に一向一揆と戦っていた。
「お父上さま。また、戦にいらっしゃるのですか」
「うむ、お玉はおばばさまと母上のいうことを、よく聞いているのだぞ」
「はい。でも、つまらない。お正月にも、お父上さまは大和に参られました。どうしてそんなに、いくさばかりなさるのですか」
「お玉は戦が嫌いか」
「お父上さまは好きなのですか」
「いや、好き嫌いで戦をしているわけではない。なさねばならぬ故にしているのじゃ」
「父上の使命なのですよ、お玉」
それまで黙っていた子がいった。
「使命?」
「おつとめなのです」
「そうじゃ。そのつとめをするために、この城も与えられているのじゃ」
天守閣を仰いで光秀がいった。
坂本城は、信長の安土城に次ぐ豪奢な城とうたわれた。が、安土城はその時まだ築かれておらず、この二年後に完成した。つまり、光秀は当時第一の城に住んでいたことになる。なお、坂本城は、その道に秀でた光秀が築城した。
坂本城は、信長の最も手を焼いた比叡の寺僧たちへの威嚇《いかく》と警視のために築かれたもので、この城が光秀に与えられたということは、信長がいかに光秀を高く評価したかを物語っている。
しかし、今、坂本城の天守閣を仰ぐ光秀の心は複雑だった。細川藤孝と共に、将軍義昭を信長に推戴させた功績は、確かに諸人の認めるところだった。が、その義昭も六年にして信長に追放され、足利将軍家は昨年亡びた。光秀の立場が、いささか複雑微妙なものとなったのは当然であった。
以前から一城の主であった細川藤孝とはちがって、光秀は浪人から引き立てられた。軍略にも築城にも長《た》け、更に当代随一の銃術者といわれる実力者であったからである。たとい将軍家が亡びても、織田の臣としてとどまるだけの力量を備えていたのだ。
信長の光秀に対する心くばりも確かに並々ならぬものがあった。光秀の次女を、信長の甥、織田信澄に世話したことも、その現れの一つであった。恐らく、この時期が光秀の一生を通じて、最も信長に温かく遇せられた時であろう。だが光秀は、決して得意にもならなければ、不遜にもならなかった。
否、その心の底に、深い危惧をさえ持っていた。光秀は曾て、将軍義昭とひそかに主従の誓いをなしていた。義昭が諸国を転々として、その居も定まらなかった不遇の時代であった。その縁で、将軍足利義昭を信長に引き合わせる結果になった。
いかに強くても、まだ信長一人では、天下へのおさえはきかない。衰微したとはいえ足利将軍を奉戴して京に入り、はじめて名実共に天下の織田信長になることができたのである。
義昭自身も、流浪の身が二条第に入り、将軍としての輝かしい生活に入り得て、当初は甚だ満足していた。が、年月が経つにつれ、自分が信長の傀儡《かいらい》に過ぎぬことを不満に思い、それが昂《こう》じて挙兵した。一度は天皇の仲介で和解したものの、再び兵を起こし、そして昨年、足利幕府は逆に信長によって亡ぼされ、義昭は他に逃れた。
癇癖の強い信長の感情は、秋空のように変わりやすい。いつ、義昭を引き合わせた光秀を憎悪するか、はかりがたいものがあった。その心変わりの早さは、現に一昨日のことでもわかるのだ。
この坂本城には、信長の命により、昨年来軟禁されていた三淵《みつぶち》藤英がいた。藤英は細川藤孝の兄で、義昭の配下であった。配下であるが故に織田勢を敵として戦ったわけだが、それだけのことで、藤英自身、何ら信長に含むところはなかった。
信長自身もそれをよく承知していて、
「三淵は細川の兄だからな。命は助けてやるつもりだ。ほとぼりのさめるまで、預かり置け」
と、ひそかに光秀にいっていたのだ。それが、ふいに一昨日、三淵藤英には義昭と内通の疑いありとして、切腹を命じて来、この城の中で藤英はひっそりと死んで行ったのだ。
(いやな役目……)
信長の命を三淵藤英に伝える時、つくづくと光秀はそう思った。藤英の正直温厚な人柄を知っているだけに、信長の処置は非道に思われた。
(内通などするお人ではない)
誰もが、それを知っている筈であった。
藤英は、光秀から切腹の沙汰を聞くと、かすかに苦笑さえして、淡々といった。
「長い間、思わぬ世話をかけましたな。藤孝だけは何とか、生きのびて行ってほしいものだが……」
細川藤孝は三淵藤英の弟であり、将軍義輝の異母兄であった。
光秀は使者を遣《つか》わし、藤英の首を、ひそかに信長のもとに届けさせた。妻子は無論のこと、家臣のほとんどが知らぬうちに行われたこの藤英の切腹は、光秀の心に言いようもないやりきれなさを抱かせた事件であった。それは、戦場での死とはまたちがった非情な、陰惨な死であった。
光秀にとって、藤英の切腹は決して他人ごとではなかった。信長には、いついかなる挙に出るか計り知れぬ冷酷さがある。坂本城を与えられたからといって、安心できないのも当然であった。
「そう、おつとめなの。いくさがお父上さまのおつとめなのですか」
お玉はつまらなさそうにいい、
「漁師や町家の者は、いくさに行かずに、うらやましいこと」
と、やや大人びたまなざしで、堀の水に目をやった。
「うむ、お玉はもう子供ではないな」
「子供です、お父上さま。お玉はまだ十二ですもの」
「だが、小さい頃のそなたは、大きくなったら戦に行くと、よくいっていたものじゃ」
「ほんにそうでしたなあ、光秀殿」
光秀の義母も、子も笑った。
「あら、そのようなことをいっていたのですか、わたしが」
「いっておりましたとも。お嫁には行かぬ、戦に行くと、織田殿の膝に抱かれた時も……」
「まあ。でも、いまはいくさはきらい」
「ほんに、戦はいやなもの」
子もつぶやくようにいった。
「どうして、そんなに戦が嫌いになったのじゃ、お玉」
「人が殺されることがいやなのです。それに……」
お玉は言いよどんだ。
「それに、何じゃ?」
「人質のことが……」
「人質?」
「あのう……お父上さま、もし誰かを人質に出さねばならぬ時が参りましたなら、お父上さまは、一体誰を人質になさるのですか」
「…………」
一瞬言葉を失ったが、光秀は静かに、
「そのようなことなど、考えたことはない」
と答えた。が、実はこれこそ、光秀自身、常々考えていることの一つであった。
「人質のことは、考えたことがないのですか。お父上さまは、きっとお玉を人質に出すだろうと、考えておりました。おばばさまはお年を召されたし、お母上さまも大事なお方。お姉さま方はお嫁に行かれたし、十五郎の弟は去年生まれたばかり、これではお玉が行くより仕方がありませんもの。そうではありませぬか、お父上さま」
「お玉、つまらぬ心配をするものではない。父は軍略がうまい。決して人質などに頼りはせぬ」
「ほんとう? お父上さま」
「本当ですとも、お玉。光秀殿には知恵がある。万一、人質入要の節は、このおばばが喜んで参る故、お玉は心配することはありませぬぞ」
「まあ、おばばさまは、喜んで人質になられますの」
「なりますとも。光秀殿のお役に立つことなら、何なとばばは喜んでいたしますぞ」
光秀はついと視線を外らした。義母の言葉が真実であることを、誰よりも光秀がよく知っていた。
(この母者を、人質になぞ決して出さぬ)
光秀は堅く心に誓った。といって、お玉も子も、同様に人質にできはしない。無邪気に暮らしていると思っていたお玉が、いつのまにか人質のことなどに心痛めていたと知って、光秀は不憫《ふびん》さがつのった。
(うかつな戦はできぬ!)
しかし、乱世の今の世では、いつ、いかなる戦で人質を要する時が来ないとはいえないのだ。光秀は思わず深く嘆息した。
雲から出た夕日が、今、比叡の峰に沈もうとして、庭に斜めにさしこんだ。子の片頬のあばたが、日にくっきり浮かんだ。そのあばたを玉子はじっとみつめた。
母のあばたは、小さい時から見馴れていて、格別奇異にも思わなかったのに、今日はなぜか妙に気になった。人質のことは、もはやお玉の念頭から失《う》せた。入り日に照らされている母のあばたにだけ、興味が集中した。玉子は、そのあばたを指でなでてみたい衝動にかられた。お玉はすっと白い指を母の頬にのばした。
「お母上さまのお顔は、でこぼこしておかしいこと」
今までは、子供心にもいってはならないと思っていた言葉を、玉子はつい口に出した。
「そうですか? おかしいですか」
子は微笑した。が、光秀の顔色がさっと変わった。珍しいことであった。
「お玉!」
きびしい声に、玉子はぎくりとして父を見た。たった今まで柔和だった父の細い目が、激しい怒りを見せていた。自分の言葉が、ひどく悪い言葉だったと、玉子は気づいた。
玉子はうなだれた。今にも父のこぶしが飛んでくるか、罵声《ばせい》が飛んでくるかと、膝頭がふるえた。が、父は一言も発しない。おそるおそる顔を上げると、父がまだじっと自分を睨みつけていた。玉子は肩をすぼめてうなだれた。
「光秀殿。お玉はまだ子供です。ゆるしておあげなさい」
「お言葉ですが、母上。いってよいことと、悪いことがございます」
「しかし、明日は光秀殿も鳥羽に行かれること故……」
「母上。いつ、戦に果てるかも知れぬこの身……なればこそわたしは父としてお玉にいっておかねばなりませぬ。勝手ながら母上、暫時この場をお外《はず》しねがえませぬか」
「手荒なことはなさるなよ、光秀殿」
「いたしませぬ。母上、しばらくおと池の鯉でも見ていてくだされい」
二人が立ち去ると、光秀は再び無言となった。日は既に沈んで、静かな夕暮れである。玉子は泣き出したい思いをこらえて、上目づかいにそっと父を見上げた。と、思いもかけず父の目にきらりと光る涙を見た。途端に、玉子は言いようもない不安に襲われた。父が涙を見せたことなど曾てなかった。自分の上に今何が起こるのか、玉子には予測できない。不安とも恐怖ともつかぬ思いに、
「お父さま!」
玉子はわっと声を上げて、涼み台の上に泣きふした。が、それでも光秀は一言も発しない。玉子はますます声を上げて泣いた。
泣くだけ泣かせておいてから、光秀ははじめていった。
「お玉! そなたは、自分のいったことが、よいことだったと思うか」
「…………」
「お玉、そなたは自分を生み育ててくれた母の顔を、不様《ぶざま》だと笑ったのだぞ! 人間と生まれて、わが母を笑う子など、この父の子ではない!」
「…………」
「そなたは、自分の顔が美しいと思って、傲慢にも思い上がっているのじゃ。だがお玉、母はそなたよりも、ずっとずっと美しかった。その美しさも、気の毒に疱瘡で害《そこな》われたのだ」
「…………」
「よいか、お玉! 顔や形の美しさというものは、そのように害われやすいものじゃ。だが、父は母を美しいと思っているぞ。母は自分の顔がみにくくとも卑下はせぬ。卑下はせぬが、謙《へりくだ》った思いで生きている。謙遜ほど人間を美しくするものはない。その反対に、いくら眉目形《みめかたち》がととのっていようと、お前のように思い上がったものほど、みにくいものはない!」
「…………」
「お前の顔形も、この父が刀で切りつけたなら、たちまちみにくく変わるのだ。お玉、そなたの傲慢をうちくだくために、今、その鼻と頬に、父が傷をつけてくれようぞ!」
光秀はぐいと、お玉の顔を上に上げた。玉子の顔が恐怖にひきつった。
「おゆるしを……」
かすかに口が動いたが、声にならない。そのおびえた顔をややしばらくみつめていた光秀は、
「わかったな、お玉」
いつものやさしい声に返って、玉子の顔から手を離した。玉子はしゃくり上げた。
「よいか。お玉は利口な子故、父の今の言葉を忘れまいの」
「はい、お父上さま」
「今後、もし、母をのみならず、他の者のうわべを見て、先ほどのように笑うならば、父は決して容赦はせぬ。そなたをわが娘とは思わぬぞ!」
静かだが、一語一語に真実が溢れていた。
「よいか。人間を見る時は、その心を見るのだ。決して、顔がみにくいとか、片足が短いとか、目が見えぬなどといって嘲ってはならぬ。また、身分が低いとか、貧しいなどといって、人を卑しめてはならぬぞ、お玉。人間の価《あたい》は心にあるのじゃ」
玉子はこっくりとうなずいた。玉子は今、はじめて心から父の偉さに打たれたのだ。満十一歳にも満たぬ玉子にも、父の言葉が順直に通った。玉子は心の底から自分を恥じた。
「女の第一の宝は、やさしい心じゃ。やさしい心の人間は、人を思いやることも、尊敬することも知っている。お玉はもっと、やさしい謙遜な人間にならねばならぬ。わかったな」
「はい、お父上さま、お玉が……お玉が……悪うございました」
「もうよい。わかったら泣くではない」
光秀はそっと玉子の背に手をかけた。やさしくいわれると、玉子は再び声を上げて、光秀の膝に泣きふした。
光秀は玉子の肩をおおう黒髪を撫でながら、つい数日前、信長の城中で会った小谷《おたに》の方《かた》お市を思い出した。
伊勢の合戦に信長は出ている。その留守の城中を見舞いに出向いて、光秀はお市に会ったのだ。
絶世の美女とうたわれたお市は一年前、夫の浅井長政を、兄信長との合戦で失った。夫の小谷城は落城し、夫もその父も共に自害して果てた。が、信長の妹であるお市とその三人の娘は、夫と兄信長のはからいによって救い出された。その時、夫浅井長政は、
「強い者は攻め亡ぼされることもあるであろう。しかし、美しい者は、敵も味方も亡ぼすことはできぬ」
と、お市を無理矢理説得して、信長の城に帰らせてしまった。信長もまた、
「美しいものは、自分で自分を亡ぼすことも許されぬ」
といったとか。この処置をほめたたえる人々の声を光秀は聞いている。そのお市の方が、数日前光秀にただ一言いった。
「明智殿。生きるとは、死ぬよりむずかしゅうござります」
その言葉を、光秀は身に沁みて聞いた。夫を殺した兄のもとに、おめおめと生きて帰ったお市に、何の楽しいことがあるであろう。恐らく、お市は幼い娘たちの命を惜しむが故に、帰って来たにちがいないのだ。
お市の、愁いを含んだ目を思いながら、光秀は泣きふしている玉子を見た。玉子はお市にも劣らぬ美女に育つであろう。が、美しいが故に玉子もまたお市のように、深い嘆きを見るかも知れない。父の欲目か、玉子は美しい上に利発でもある。その利発さが、美しさと相まって、ともすれば高慢に振る舞わせる。幼い時から、美しい愛らしいと人々にもてはやされて育つうちに、美しさのみを最上とする人間になっては、かえって不幸を招く。その反省を光秀は玉子に叩きこんでおきたかった。
(己のいかなるものをも恃《たの》んではならぬ)
光秀自身、その軍略も銃術も常識も、当代随一とうたわれている。が、いつそれらが己に災いするか計り知れない。光秀は、再び心中深く嘆息した。
池のほうで鯉のはねる音がした。暮色がようやくあたりを包みはじめていた。
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北条早雲 一四三二〜一五一九(永享四〜永正十六)年。戦国時代の武将。出自はさだかではないが、伊勢新九郎長氏と称したと言われる。伊豆、相模(神奈川県)を領す。妹が駿河の守護今川義忠の夫人となり、世継ぎの氏親を産んだため外戚の地位を得る。一四九一年伊豆を掌握、その後、関東の諸豪族を次々と破り、相模も奪い、小田原に拠ってのち北条氏五代の関東経営の基礎を築いた。
一向一揆 戦国時代末期、一向宗門徒が起こした一揆のこと。一向宗は浄土真宗の俗称。十五世紀半ばごろ、本願寺八世蓮如上人の代から、地侍や名主、農民の間に急激に教団の勢力を伸ばし、守護大名、領主層との対立を深めた。特に一四八八年、守護富樫氏を倒し、百年近く加賀を支配した一向一揆は有名。徳川家康は一五六三年、三河の一向一揆に際しては、名高い家臣の多くが一揆に荷担し、その解決に苦慮した。織田信長は、一五七一年以来、伊勢長島、越前、大阪石山本願寺との戦いで多大な犠牲を払っている。
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四 鉦の音
光秀と、光秀の従弟弥平次(後の左馬助光春《さまのすけみつはる》)は、くつわを並べて、秋の日に照り輝く紅葉の中を、ゆっくりと馬を歩ませて行く。光秀は末娘の玉子を横乗りに、自分の前に乗せていた。その光秀の馬のくつわをとっている若者は、二年前に光秀の郎党となった初之助であった。他に供もない。
紅葉の名所である日吉大社《*ひえたいしや》の参道を外れて、彼らは右に馬を進めた。なだらかな長い坂道である。右手に青く澄んだ琵琶湖がひろがっていた。
「このあたりは、よくぞ焼け残りましたな」
弥平次がいった。張りのある大きな声だ。
「うむ。風の向きで焼け残ったのであろう」
信長は、六年前の叡《*》山焼き打ちの折、寺ばかりか山を焼いた。いや、山だけではない。坂本の街まで焼き払った。町民たちには何の罪もないはずだった。
「お父上さま」
「うむ?」
「なぜ、お殿さまは、お寺や神社を焼き払いなされましたの?」
近頃、玉子の声に艶が出てきたと光秀は思った。艶が出たといっても十四歳である。
「それは、お玉、殿に従わなかったからじゃ」
「でも、仏罰や神罰が、お殿さまはこわくはないのでしょうか」
「ははは……。お玉どの。安土の殿には、神も仏もござらぬて」
笑ったのは弥平次である。
「まあ、神も仏も?」
「安土の殿は、いつもご自身を神だと仰せられてござるわ」
「ではなぜ、安土にお寺を建てられるのでしょう」
今年二月、信長は豪壮な安土城を築いた。近く、寺をその傍に建立したいと、信長はいっている。その話を、玉子もいつか耳にしていた。
「いや、仏など祀《まつ》りませぬ。殿は殿の御誕生の日を、参詣日と定めるといっておられる。御本尊は安土の殿ご自身だそうな」
「まあ。では人々は、殿を拝みに参りますの」
「さよう。殿の申されるには、その寺に参詣する者は、みな八十まで長命し、裕福となり、望みは何なりと、すべて満たされる霊験あらたかなお寺をつくられるそうじゃ」
「それはまあ大そうなご利益のあるお寺ですこと。では、早く建ててくださればよろしいのに。そうなれば、さぞ健やかで、豊かな者ばかりが国に溢れましょうに」
皮肉な語調で玉子はいった。蹄《ひづめ》の音が交々《こもごも》あたりにひびく。
「これ、お玉。言葉をつつしむがよい」
あわてて光秀がたしなめた。玉子は生来理に勝ったもののいい方をし、しかも驕慢である。自分のように、絶えず人前を憚《はばか》る人間に、よくぞこのような娘が生まれたものと、光秀は内心小気味よく思うことさえある。
「だってお父上さま。お殿さまは、いくらお偉くても人間ではございませぬか。玉は、人間にお参りして、ご利益があるとはどうしても思われませぬ」
「…………」
「お父上さまだって、今お参りする西教寺《さいきようじ》を復興なさったのは、御仏さまを信ずるからでしょう?」
「理屈の多い子じゃな、お玉は」
光秀は苦笑した。
「でも、御仏と、人間とどちらが偉いかぐらい、お玉だってようくわかりますもの」
率直なのは、心の清いしるしだと、光秀は満足でもある。だが、このことは信長の面前ではいえぬことなのだ。
「その御仏も、日吉神社に守護されねばならぬとしたら、一番偉いのは大鳥居のある神さまの方でしょうか」
玉子は少女らしく、次から次から質問を発して行く。
どこかで、けたたましくもずが啼いた。
「惟任殿《*これとうどの》、安土から、京までの道は立派になりましたなあ」
弥平次が話題を変えた。
「うむ、見事なものじゃ。さすがは信長殿だ。なされることが早い」
今まで、信長が岐阜から京に上るためには、ほとんど琵琶湖を使っていた。安土から坂本まで船路、坂本から陸路で京に向かっていたのである。信長が、坂本城に立ち寄るたびに、城中は緊張と不安に包まれる。
道路が立派にできた以上、今までのように度々立ち寄ることもあるまい。光秀にとって、気楽になった半面、物足りぬことでもあった。
「安土は今、普請が盛んで、人家がとみに増えておりますな。さぞ、殷賑《いんしん》をきわめる街になりましょう」
「京よりも? 弥平次さま」
「さて、それはわかりませぬ。しかし何分天下様のお城の街。しかも街のつくりも京都と同様にするとか。また来年は、楽市《らくいち》・楽座《らくざ》になるとかで、商人もさぞ多く集まってくることでしょうし」
「楽市・楽座? 一体何のことですか、父上さま」
「楽市・楽座か」
二頭の馬はゆっくりと西教寺に向かって行く。路傍につづく野菊の紫に目をやっていた光秀は、ちょっと思案したが、
「それはの、お玉。ほとんどの商売が、特定の大きな社寺の許可がなければできぬことを知っておるであろう。例えば糀《こうじ》や、塩は奈良の興福寺に金を納めて許可を得なければ、商売はまかりならぬというようにの」
「ええ、存じております。大きなお寺やお社は、それでお金持ちなのだとか。何か商人があわれに思われます」
「それにはそれの理由もあったであろうがの。楽市・楽座とは、その社寺の許可がなくとも、自由に商売ができるようになることじゃ」
「まあ! お殿さまは、何と情け深いお方!」
今しがたの皮肉めいた自分の言葉など、忘れたかのように、玉子は声を上げた。
「うむ……」
情け深いとは決して言い難い人柄だが、並優れた発想の持ち主とはいえる。それはしかし、商人のためを思っての発想というより、社寺を富ませず、傲《おご》らせぬためとも思われた。が、何《いず》れにしても、今までの長年の慣例を一挙に打ち破ることのできる者は、信長をおいてはいない。その信長の果断はすぐれていると光秀は思っている。
弥平次が光秀に顔を向けていった。
「しかしながら、これでまた、方々の社寺に悶着が起きねば結構でござりますが」
「利得にからまる問題は、むずかしいからの」
西教寺は、もう目の前にあった。三人は馬から降りた。しんと静まったあたりの空気に、本堂のほうから鉦《かね》を叩く音が聞こえてくる。その音が、一層静けさを深めている。
馬を木につなぎ、更に少し急な坂道を登って、本堂の前に立ちどまった四人は、再び鉦の音に耳を傾けた。チーン、チーンと、間をおいてひびいてくる。静かだ。いかにも静かである。秋の日ざしの中に、鉦はひときわ澄んだ音を立てているようであった。
やがて、光秀がいった。
「……人間、この音色のように澄みたいものじゃが……」
「お父上さまは、澄んでおられます」
玉子はまじめな顔でいった。
「ほう、お玉の目には、父が澄んでうつるか?」
「澄んではおりませぬか」
「さあて。人間はなかなか、濁りの消えぬものじゃ。のう、初之助」
先ほどから黙々と従っている初之助を、光秀はかえりみた。無口だが、真実味のある初之助に光秀は目をかけていた。
「は……」
初之助はちょっと困ったように、短く答えた。弥平次が磊落《らいらく》な語調で、
「初之助は何歳に相成った?」
「十九歳でござります」
「ほう、十九歳か。では、そろそろ、もらうものをもらわねばならぬな」
初之助は顔をさっとあからめ、
「弥平次様がお一人のうちは、私|奴《め》も一人で暮らしまする」
「こ奴《やつ》! いいおったわ」
弥平次は豪快に笑い、
「まことか! 今の言葉を忘れるな。俺は一生独りじゃ」
「されば、私|奴《め》も独り身にて終わります」
と、ちらりと玉子の後ろ姿に目をやり、うつむいた。が、玉子は目の前を行く黒い蝶に心を奪われていた。その初之助を、光秀は見て見ぬふりをし、本堂の前で草履《ぞうり》を脱いだ。
初之助を残し、三人は階段を登った。腰高障子を開けると、明るい外にいたせいか、一瞬中が洞穴のように暗かった。目が馴れるに従い、正面の仏像の右手前に、背を丸めた老僧が小さな置物のように坐って、撞木《しゆもく》で鉦を叩いているのが見えた。チーンと一つ叩いては、一度畳の上に撞木を休め、すぐにまた鉦を叩く。鉦は六角の黒ぬりの台の上に置かれていた。
一同の声を聞いても、老僧はふり返りもしない。無心にただ鉦を鳴らしつづけている。
(なるほど、不断念仏じゃ)
光秀は、ここに来る度に、そう思う。この寺は、千年近くも前に、聖徳太子によって開かれたが、後に真盛《しんじよう》上人が日課六万遍の称名念仏をひろめて、西教寺を復興した。以来九十年、この念仏を称《とな》えつつ打つ鉦の音は、毎日毎時絶えたことがないという。
ここに来て、光秀はいつもふしぎな気持ちになる。自分たちが、血なまぐさい戦場を駆けめぐっている時も、広いこの本堂に黙然と坐って、この老僧は念仏をつづけていたのかと思う。恐らく、この僧の一生は、南無阿弥陀仏の六字を称え、鉦を鳴らすことだけで終わるのであろう。その老僧の心の中はわからない。が、尊いことに光秀は思う。戦争、強奪、疫病、災害などの絶えぬ世に、こんな一生を終わる僧がいることは、言いようもなく尊いことに思われるのだ。
「あ! これは、これは、御領主さま」
本堂の右手の障子が開いて、住職が平伏した。
「御来山を存じませず、まことに失礼いたしました」
「いや、用があればわしが出向く。わしは、この不断の鉦の音が好きなのじゃ」
「恐れ入ります。先ずはあちらで。お茶など一服差し上げたく存じますれば……」
「茶か。それは馳走じゃ」
三人は住職の案内に従った。
坂本城に移ると同時に、光秀はこの西教寺の復興に力を貸した。信長が比叡山を焼く時も、光秀は全山のために慎重な配慮をした。
後日、光秀の死後、天海僧正は光秀であるという説が出たのは、この光秀の配慮を憶《おぼ》えていた僧たちが、比叡山に光秀をかくしたという流説もあったためといわれている。つまり、住職の光秀に対する丁重さは、単に領主に対する尊敬の故のみではなかった。
茶の木のある庭に面した十畳の座敷に通ると、若い僧が直ちに茶受けの干しなつめを運んで来た。つづいて薄茶が運ばれてくる。ここの茶室も、光秀から贈られたものだった。
作法も正しく、光秀は茶を服した。何をしても、光秀の所作は水際立っている。弥平次も、玉子も光秀にならった。
「結構な服加減であった」
と茶碗を返して、
「御坊、人間には、さまざまな生きざまがござるな」
「仰せの通りでござりますな。田づくりに一生終わる者、商人で一生終わる者、病の中に一生を終わる者など、さまざまござりますが、殿のように華々しゅう戦って……」
言いかけるのを光秀は手で制し、
「いや、御住職、華々しく戦っているというより、何か男の業《ごう》に突き動かされて、戦をしているような気がすることがあってのう」
「男の業? なるほど!」
弥平次が膝を叩き、
「しかし、その業があってこそ、真の男と思いまするが」
「真の男か……」
思案するように光秀はいい、
「お玉、退屈であろう。庭など散歩してくるがよい」
と、玉子に微笑を向けた。
「いいえ。お玉には何やらおもしろう思われます」
「おもしろい?」
「はい。だって、天子さまも人間でしょう?」
「うむ、やんごとなき貴き御方だ」
「同じ人間に生まれても、天子さまになったり、乞食になったり、そしてまた……」
玉子はいいよどんだ。
「そしてまた、何かな、お玉どの」
明るい弥平次の語調に、
「……あの、女は業《ごう》が深いといいますのに、殿御にも業があって……。何やら、お玉にはおもしろうござります」
「なるほど」
住職が相づちを打った。
「なぜ、お玉は女に生まれたのでしょう」
「前世の因縁《いんねん》じゃ。女がいやか、お玉は」
「いやではござりませぬ。戦に行かずにすみますもの。でも、口惜《くちお》しくも存じます」
「口惜しいとな?」
「はい。女は男より弱い。それが口惜しい心地がいたします」
「ははは……、お玉どの、その代わり、女は男より美しゅうござる」
光秀はちょっと眉をひそめた。嫁いだ姉たちとちがって、玉子は明晰率直にものをいう。決して怖《お》じない。玉子を見ていると、女人もこのように、ものごとを考えて生きているのかと、驚くことがある。男より弱いのが口惜しいなどという女を、今まで光秀は見たことがなかった。
(利発というのか?)
確かに利発ではある。字の憶えは姉たちも及ばず、読書も好んだ。そして、これは姉たちになかったことだが、絶えず質問して倦《う》むことを知らない。
今、女は男より弱いのが口惜しいといったのも、単に腕力武力のこととは思われなかった。
「お玉、父はこれから、少し重要な話がある。庭の花など眺めてくるがよい」
光秀は促した。
「はい、では……」
素直に一礼して廊下に立って行く玉子を、住職は目で追いながら、
「この頃、また一段とお美しゅうなられた」
といった。
「いやいや、事々に理屈を申すので、閉口でな。知恵ばかりついては困りもの故、席を外《はず》させた」
光秀は苦笑しながらいった。
「ところで、何か重大なお話でも?」
住職は再び茶をたてながら尋ねた。
「いや、重大というわけではござらぬ。お玉を中座させる口実で……」
「それは、また……」
「口実で思い出したが、御住職、仏法では、嘘も方便と申さるるが、われわれ武士も、嘘を武略などと申してな。言いのがれを持っておるわ」
「なるほど。近頃は私共僧籍にある者の中にも、堕落した者が目立ちますからな」
「それに比べると、百姓共の生活はのがれ場がない。何か不憫な気もいたすのう」
「そうかも知れませぬな」
「それ一つ考えても、武士などは、百姓たちの上にいて、何か勝手なことをしているような、いやな心持ちじゃ」
「いやいや、殿、弥平次はそうは思いませぬ。百姓共の生活にも、嘘や方便はござりますぞ」
「無論、それはあるであろう。しかし、それほどに罪深い嘘はいうまい。わしも時に、百姓共の生活が羨ましくなることがある」
弥平次は、不満とも不審ともつかぬまなざしを光秀に向けた。
この年、正月に光秀は丹波の黒井城に赤井悪右衛門を攻めて敗れている。八上《やかみ》の波多野秀治に叛《そむ》かれたためだ。波多野秀治は、赤井と同じ丹波だが、最初光秀に与《くみ》して戦っていたのである。
五月には、石山本願寺攻めの信長に従ったが、光秀は陣中で病み、しばらく京都で静養した。
こうした裏切りによる敗退や、陣中の病気が重なったことで、光秀の心に一つのかげりを落としていた。だが、常に傍にいる従弟の弥平次にもわからぬほど、光秀の態度は変わらなかった。
が、今日、光秀が、
「西教寺に参ろう」
といった時は、弥平次も痛ましい表情をした。一昨夜の安土城での酒宴を思い浮かべたのである。
もともとあまり酒を飲めぬ光秀は、酒宴では、ともすれば座から浮き上がった存在となる。端然とした姿勢で、最後まで乱れない。大声も発しなければ、饒舌にもならない。
一方、信長に酒乱の気味があるのは、今に始まったことでなかった。誰もが多かれ少なかれ、被害をこうむっている。が、今まで、光秀に対しては、なぜかあまり絡《から》むことをしなかった。
ところが、一昨夜は少し様子がちがった。信長は小袖を肩ぬぎにし、金蒔絵の脇息《きようそく》に寄って、大盃を傾けていた。飲むほどに、その癇癖な青筋がこめかみに走り、その目が蛇のように一座の者の上に注がれていた。そしてその視線は、端然と姿勢を崩さぬ光秀に、次第に集注して行った。
「惟任! これに参れ」
信長が光秀をさし招いた。
「はっ」
すすっと、足さばきも静かに、光秀は信長の前に平伏した。
「これを取らす」
信長は大盃を光秀につきつけた。
「は、ありがたき御意《ぎよい》」
盃は受けたが、光秀は困惑した。もう、自分の飲める限度を超えている。この大盃を体は受けつけない。が、その光秀にはかまわず、侍女はなみなみと酒を注いだ。
光秀は盃を捧げたまま、思わずほうっと吐息を洩らした。その吐息を信長は聞きとがめた。
「おのれ! その吐息は何じゃ? この信長の盃を受けられぬというのか」
「いえ、さようではござりませぬが、もはや今宵は十分に頂戴つかまつり……」
みなまでいわせず、
「よい、その盃を干せねば、これを干せ!」
いきなり、信長は脇差しを引きぬき、光秀の鼻先につきつけた。一座にさっと緊張の気が流れた。
「殿! 御勘弁を!」
「刀がいやなら、盃を干せ!」
いたし方なく、光秀は目をつむって大盃を飲み干した。信長は、
「やはり命が惜しいと見えるわ!」
と、光秀を指さし、幾度も大笑した。光秀は満座の中でその嘲笑に耐えた。今までにも、信長が酒席で他の者を面罵したり嘲笑したりするのを幾度も見てきた。が、自分がこうも真っ向から嘲笑されたのは、これがはじめてであった。
これはしかし、後《のち》に光秀が信長から受けた数々の仕打ちに比べれば、きわめて小さなことであった。後のことだが、稲葉一鉄の家来が主家を出て光秀の臣となった。一鉄はこの家来を自分のもとに取り戻そうとしたが、彼は帰ろうとしない。光秀もまた、既に自分の家臣となったものを帰す気はなかった。元の主君に無理に帰したところで、いかなる仕打ちに遭うか計り知れなかったからである。そこで一鉄は、信長を通じて、なおも返すことを迫った。
「一旦わが臣となりし者、かばうが当然」
と、光秀は条理をつくして、信長に事情を説明したが、信長は立腹した。
理は光秀にある。が、その光秀の常に理にかなった姿勢が、信長の癇にさわった。
「うぬ、このおれの命令にそむく者は、こうしてくれるわ」
不意に立ち上がった信長は、光秀のもとどりをつかんで引きずりまわし、足蹴にした上、脇差しをぬいた。光秀の女婿の織田信澄がその座にあって信長をとめ、光秀はようやく難を逃れた。
また、ある酒宴で、小用のために光秀が中座した時、二十名をこえる武将たちの面前で、信長はやにわに欄間の槍をとり、
「中座とは無礼な奴め! このキンカ頭、酒宴の興を破る気か!」
と、罵《ののし》りざま光秀ののどもとに突きつけた。キンカ頭とは、禿《は》げかけた光秀の頭を、信長が罵る時によくいったという言葉である。
このほか信長は、光秀の頭をひきすえて扇子で打擲《ちようちやく》したり、欄干に頭を打ちつづけたり、幾度むごい仕打ちを与えたかわからない。これが信長の、五十余万石の大名である光秀に対する仕打ちとして、いまだに記録に残っているところである。
が、これらは後の話である。
一昨夜の信長の態度は、今後に起こる予徴のように光秀には思われた。何も自分だけがはじめて受けた仕打ちではないと知りつつ、光秀は不安であった。正月の戦いの敗れや、本願寺攻めの陣中の病気が、特に信長の気を害《そこ》ねたとも思われない。何かがある。それが何か、光秀には不明なのだ。
光秀の軍略も、武芸も、他にぬきんでていたし、信長自身もそれを充分に知って大禄を与えてくれている。昨年は惟任日向守に任じてくれてもいる。だが、どこか信長の光秀を見る目に冷たさが加わっている。その信長の心底がわからない。それが光秀には不安だった。
「殿、百姓の生活を、羨まれますか」
住職がたずねた。
「さようといっては、百姓の惨めさを知らぬと、叱られようのう」
「殿」
大きく腕組みをして、何か考えていた弥平次がいった。
「うむ」
「百姓は所詮弱い者。我らの世界は強さがいわば肝腎|要《かなめ》。『男道《おとこどう》』こそ、我らの生きる道と存じますが」
男たる者、先ず何よりも強くあらねばならぬ。それが男の面目である「男道」であった。強いことが、即ち善であった。豪放な弥平次には、光秀の今の言葉は、弱音としか思われない。それは、一昨夜の信長の前に大盃を受けかねていた光秀の姿にも、通じていた。弥平次は、この自分の主君であり、従兄である光秀に心服している。信長がいかに秀れた武将であろうと、光秀の知略も、決してそれには劣らない。強い上に教養がある。総合点では光秀のほうが上だと思っている。弱気になるなと弥平次はいいたいのだ。
「なるほど男道か」
光秀は微笑した。
「さようでござります。強く生きる。これ以外に男の道はござりませぬ」
「と、ばかりも思わぬが……。仏道にせよ、男道にせよ、選んだ道は極めねばなるまいのう、御住職」
「いずれにしろ、極めることはむずかしいことでござります」
「安土の殿は……」
弥平次はややぶっきら棒に、
「王道を極めて頂きたいもの」
めったなことをいってはならぬと、光秀は目顔でいい、
「信長殿は、男道を極めておられる」
と、きっぱりといった。いいながら、果たしてあれが真の男道かという思いがあった。そして、弥平次のいった「王道」という言葉が、光秀の心にも、何かずしりと重いものに思われた。
既に「覇道」のみの時代は過ぎたのではないか。今は、「王道」を必要とする時代になりつつあるのではないか。光秀はそう思った。
その頃、玉子は一人西教寺の庭に出て、小菊や南天を見たりして、飽きることがなかった。
(人間の命と、鯉の命と、どちらが貴いのかしら)
ふっと玉子はそう思った。
足もとを、蟻が忙しく歩いている。知らずに踏んで歩いているこの蟻にも、命があるのだと玉子は思う。
馬のいななきが聞こえた。玉子は馬が好きだ。馬の、あのやさしい澄んだ目が好きだ。じっとみつめていると、馬にも心があるような気がする。
玉子は小走りに本堂のほうに走って行った。と、本堂の階段の一番下に屈みこんで、初之助が一人、地面に何か書いていた。
「初之助」
玉子に呼ばれて、初之助はどぎまぎした。
「何をしていたの?」
「いえ、何でもありませぬ」
初之助はあかくなった。初之助は、小枝で地面に字をならっていたのだ。
「初之助。人間の命と、鯉の命と、どちらが貴いと思いますか」
「無論、人間の命だと思います」
初之助は無愛想に答えた。
「それは、人間がいうことでしょう。鯉に尋ねたら、鯉の命のほうが貴いといっていましたよ、初之助」
すまして玉子はいった。その玉子を初之助はまぶしそうに見た。
「では初之助。馬の命と、人間の命とどちらが貴いでしょう」
「馬にお聞きください」
怒ったように初之助は答えた。
「初之助、馬を買うのは、高いそうな。人の子を捨てる話はたくさん聞きますけれど、馬を捨てた話は聞きません」
玉子は大人びた表情を見せた。大名の家でさえ、弱い子は山に捨てかねなかった時代である。貧しさに耐えかねて、親は子を山に捨てていたのだ。
初之助は黙って、地面に「人の命、馬の命」と書いている。しっかりとした字である。玉子はすぐ傍に来てのぞきこみ、
「おや、初之助は字が上手ですこと」
あわてて、初之助は手で字を消した。
「消さないでも、いいではありませぬか」
「…………」
初之助は立ち上がった。不断念仏の鉦の音が聞こえるばかりの静かな境内に、玉子と二人っきりでいるのが息苦しい。といって、主君の姫を一人おいて立ち去るわけにもいかない。二年前、船の中で初めて玉子を見た日から、初之助にとって、玉子はこの世でもっともまぶしい存在なのだ。が、それは人にも我にもいうことのできぬ思いである。
「初之助。お玉の命と、初之助の命と、どちらが貴いと思います?」
玉子はにっこり笑った。今度はお玉に聞けとはいわぬであろう。そう思って笑ったのだ。
「同じでござりましょう」
初之助はにこりともしない。
「馬を見に参りましょう」
くるりと背を向けて、玉子が先に立った。長い髪が豊かに背にゆれた。小砂利を敷いた広場を出ると、やや急な坂道が少しつづく。両側に草の茂る小道を、いちょうや、けやきの大樹の枝がおおって、小暗い。虫が鳴いている。
先に立って歩いていたお玉が、ふいに立ちすくんだ。と思うと、
「蛇!」
と叫んで、飛びすさり、すぐ後についてきた初之助にしがみついた。はっと初之助は身を堅くしたが、視線は玉子の指さす道を見た。五尺ほどの青大将がゆっくりと身をくねらせて、よぎって行く。
「心配は要りませぬ。青大将でござります」
青大将と聞いても、まだ玉子は、
「大きな蛇!」
と、初之助の胸にしがみついたままである。急に初之助の体がふるえた。十四歳とはいえ、玉子のしなやかな体が、今自分にしっかりとしがみついているのだ。初之助は両手をだらりと下げたまま、お玉を抱きしめるわけにもいかず、あえぎつつ突っ立っていた。
かぐわしい女の匂いが、初之助を包んでいる。
「あの……もう、蛇は去りました」
「本当?」
玉子は初之助を見上げた。
「本当でござります」
初之助の声が、かすかにふるえた。今、玉子が自分にしがみつき、顔も近々と自分をみつめているのだ。十九歳の初之助には夢みる思いであった。
「ああ、こわかったこと」
玉子の手が初之助から離れた。初之助の体はまだふるえが止まらない。初之助は、泣き出したいような、叫び出したいような思いで、木の間越しに見える紺青の琵琶湖を眺めていた。
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日吉大社 俗称を山王権現といい、全国各地にこの名の神社があるが、総本社は文中の近江の日吉大社。
叡山焼き打ち 叡山は比叡山のこと。天台宗総本山の延暦寺がある。国家鎮護と京都の鬼門を守るとして信仰を集めた。天台宗はのちに延暦寺(山門)と園城寺(寺門)とに分かれ、山門は多くの僧兵を擁して勢力を張り、しばしば横暴な振る舞いがあった。一五七一年八月十二日、織田信長は浅井、朝倉との戦いの際に敵対したこれら山門の勢力一掃のため一山焼き打ちとして、全山を焼き払い、僧俗男女三、四千人を殺戮した。ただし、新井白石らのように、中世から近世への移行の過程として政教分離を目ざした信長の行為を高く評価する意見も多い。
惟任殿 明智光秀の別称。一五七五年七月、明智光秀は主君信長から九州の旧家惟任姓を受け、日向守となった。信長が将来九州経略をにらんでの処置といわれる。
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五 縁
十一月二日、坂本ではみぞれが降っていた。夜には雪に変わるかも知れない。
「母上、いかがでござろう。子《ひろこ》の病は」
光秀は義母のお登代の顔を見た。侍女のおつなが二人の前に茶を置いて立ち去った。
「そうですのう……」
お登代の柔和に老いた顔もくもっている。
「やはり、むずかしゅうござりましょうか」
光秀は腕を組んで吐息をついた。
京都に所用があって、光秀は五日ほど坂本を留守にした。一昨日帰城したところ、思いがけなく妻の子が病床についていた。子が明智家に嫁いで、既に三十余年になる。その間、床に臥《ふ》せったのは、産褥以外この度がはじめてのことである。普段が極めて健康であっただけに、光秀の憂慮はひとかたならぬものがあった。
昨日は朝からつきっきりで子の傍にいた。五日見ぬ間に、子はひどくやつれていた。疱瘡の跡があるとはいえ、人並すぐれて白い肌がひどく黄色い。
「曲直瀬道三《まなせどうさん》殿が来てくだされば……」
お登代はつぶやくように、子の臥ている隣室の襖に、そっと目をやった。曲直瀬道三は京都在住の名医である。今年光秀は、本願寺攻めの際石山の陣中で病んだ。そのあと、曲直瀬の診療を受けて全治している。
「は、曲直瀬殿には、昨日直ちに使いを出しております。忙しきご仁ながら、必ずこの坂本までお越しくださりましょう。それに、吉田|兼見《かねみ》殿にも、同様迎えの者をさし向けておきました」
吉田兼見は闊達な人物である。従二位の高官で神祇職にあり、京都に住んでいた。かねてから光秀には少なからぬ好意を示し、坂本城にも、年に幾度も出入りしている。光秀にとって以前からの友人であるこの吉田兼見は、全国地方の神社に神位を授けたり、神職に位階斎服の許状を授ける権威を持っていた。当時の天皇や公家大名は、病気にかかると吉田兼見を招いて、病気平癒の祈祷を乞うていた。光秀が夏に病んだ時も、兼見はすぐに見舞いにかけつけ、祈祷してくれている。
「おお、名医の曲直瀬殿と吉田殿がおいでくだされば、鬼に金棒、大丈夫でござりましょう」
お登代は、にっこりと光秀を見た。必ずしもこれらの二人にお登代が期待したからではない。あまりにも光秀の不安気な姿が、痛々しかったからである。
「しかし、あのように顔色が黄色くなっては……」
光秀は眉根をよせたまま、首を傾けた。黄疸になって死んだ者を、光秀はこれまで幾度も見て来ている。全く光秀は憂慮していた。妻の子こそ、光秀には唯一の心の支えなのだ。
一昨日、京都から帰ってくる時も、この琵琶湖に突き出した坂本城を馬上に見ただけで、光秀の心はふしぎに安らいだ。それは、自分が精魂こめて築城した城であるということも、あったかも知れない。が、何よりも、その城に妻の子がいるということが、光秀を安らがせるのだ。子は常に、すべてを包みこむようなあたたかさと、決して裏切ることのない真実さで、光秀に対してくれた。
子の前では、謹厳な光秀も、ついのびのびとした思いになる。子には、いかなる自慢話をしようと、大きな夢を語ろうと、深くうなずき、興味深げに聞いてくれる。また、信長を批判しても、いかなる秘密を語っても、決して他に洩らすおそれはなかった。人を出しぬいたり、裏切ったり、他を誹謗《ひぼう》したりする男の世界に生きている光秀にとって、子は、自分自身よりも信頼できる存在であり、その中に憩うことのできる大きな存在であった。
その子が、思いがけぬ病を得、一日のうち半分以上も眠りつづけているのだ。光秀の心痛が尋常でないのも無理からぬことであった。
「おばば様」
障子の外で、玉子のひそやかな声がした。
「お入りなさい」
「はい」
静かに障子が開いて、玉子が入ってきた。母の子が臥して以来、玉子は看病や家政に忙しい。
「何のご用です?」
「あの……また平五郎がしじみを届けてくれました」
足軽の平五郎は、初之助の父である。しじみは初之助が湖から取ってくるものだった。
「それはそれは。何よりの薬です。光秀殿、初之助はこの寒いのに、毎日湖の中に入って取ってくれております由」
「それはありがたい。初之助は珍しく誠のある若者ですのう、母上」
「ほんに、このみぞれの降る水の中に……。心がなければ決してできることではありませぬ」
玉子は黙って聞いていた。玉子も、初之助は口は重いが誠実な男だと思う。いつも庭を掃いたり、草をむしったり、少しの休みもなく、雑用にも心を配っている。だが玉子には、それが仕える者の、当然の姿としか思われない。
一カ月前、西教寺の境内で大きな蛇を見、初之助の胸にしがみついたことなど、玉子は忘れている。いや、大きな青大将であったことは記憶しているが、初之助にしがみついたほうは忘れているのだ。初之助が一生忘れ得ぬこととして、日に幾度も思い出すことを、玉子はきれいに忘れ去っている。それは、相手が身分の低い初之助であったからではない。たとえ相手が、弥平次光春であろうと、他の若侍であろうと、少女である玉子にとっては、どれほどの意味も持ってはいない。むしろ、大きな青大将を見たという事実のほうが、一大事であったに過ぎなかった。
「ではおばば様。今日もお母上様にしじみ汁を差し上げてよろしゅうござりますか」
「申すまでもござりませぬ」
「でも、お母上様は、毎食しじみ汁では、飽きられましょう」
「いえいえ。しじみは肝と胆の薬と、昔からいわれております」
「そのとおりじゃ、お玉。たとえ飽いてもよい。しじみ汁をつくらせるように」
「はい、かしこまりました」
玉子は大人びた表情を見せて静かにうなずいた。
子は光秀の浪人時代、髪を売らねばならぬほどの貧苦を味わった。それは、何不自由なく育った子にとって、全く想像もできない生活であった。ある時は近くの農家にやとわれて、田植えや稲刈りをさえも手伝った。その生活が子に人生とは何かを教えた。
大名の妻になっても、子はその浪人時代を決して忘れなかった。大名といえども、いついかなる環境に陥るかわからぬ時代である。子はその心づもりで、子女たちをきびしく躾《しつ》けた。機織《はたお》りなどは無論のこと、掃除さえも侍女たちと共にさせた。その点、子は他の大名の奥方とはちがっていた。
手習、和歌、笛などを習わせることも忘れなかったが、体を鍛えることも決して忘れなかった。姫とはいえ、いつ山道を歩いて越さねばならぬ運命になるかも知れない。子の教育は、常に裸一貫を予想してなされた。そして、裸一貫が、この世の大方の人々の生き方であることも、子は娘たちに教えていた。台所で立ち働かすことも、日常のことだった。
玉子が、女たちに夕食の指示に立った後、従者が、吉田兼見の到着を知らせてきた。
「お? はや、お見えくださったか」
光秀は義母のお登代と顔を見合わせ、いそいそと立ち上がった。
兼見の平癒祈願は四半刻(三十分)あまりで終わった。そのあとで、客間にささやかな酒宴が設けられた。給仕役は玉子と侍女のおつなである。常々接待役の弥平次光春は、今日は安土城に使いに出ていて、この席にはいない。
「本復は疑いござらぬ」
兼見は先ほどいった言葉をくり返して、玉子の注いだ酒をゆっくりと飲んだ。天皇をはじめ、公家大名と、つきあいの多い兼見は、如才のないもののいい方をする。
「ありがたきことで……」
光秀も先刻述べた言葉を再びいい、膝に手を置いて頭を下げ、
「女房の患いというものは、このように身に応《こた》えるものでござるかのう。いや参りましたわい」
と苦笑した。
「さすがに明智殿は正直なお方じゃ。世の亭主たちは、なかなかそうは申せませぬて。のう、お玉殿」
しばしば出入りしている兼見は、玉子を肉親のように愛《いとお》しんでいる。
「いや、兼見殿。これは貴殿とわたしの仲だから申したまでのこと」
「とにかく、男にとって、よき女房を持つか持たぬかは、大きなちがいでござるのう。いずれにしろ、お殿ほどの女性《によしよう》は珍しい。赤の他人のこのわたしでも、何か相談ごとを持ちこみたくなるお人柄じゃ」
「これは痛み入る」
光秀はちょっと首をなで、
「貴殿こそ、立派なご内室をお持ちではござらぬか」
「いや、あれは少し激しい性格で……」
吉田兼見は、従兄細川藤孝の娘と結婚している。
「あれの弟の与一郎が、よく似た性格でござってな。やさしいところはやさしいが、また短気というか、激越なところのある若者で……。だが、右府《*うふ》殿(信長)は、いかいあの者を気に入ってござる」
と、意味ありげに笑って、玉子を見た。
二年前、玉子が十二歳の時、織田信長は冗談のように光秀と細川藤孝にこういったことがある。
「そちたちの息子と娘は、同年じゃそうな。年頃になったら、娶合《めあ》わせるがよいぞ」
酒の席であった。藤孝は、
「与一郎|奴《め》は、いまだ粗暴な童《わらべ》に過ぎませぬ」
「ははは、童も今に大人になるわ」
そうはいったが、信長も座興であったのか、その後、話を持ち出すこともなく、いわば立ち消えになっていた。光秀もまた、まだ玉子の結婚を考える気にはならず、この話は子の耳にちょっと入れただけで、玉子には語ったこともなかった。が、兼見はこの話を知っているようなふうであった。
「わたしも与一郎殿には、時折会っているが、藤孝殿とは少しちがいますのう。しかし、まだ十四や十五で、藤孝殿のように思慮分別があっては、むしろ無気味と申すものでござろう。若者らしい覇気があって、将来楽しみなご子息じゃ」
「いやいや、それほどでもござらぬ」
兼見が手をふったが、光秀はいった。
「何しろ与一郎殿は、十歳の時に実戦に出ておられる。さればこそ右府殿のお気に入りになられたにちがいない」
「まあ! 十歳の時に!」
それまで、神妙に耳を傾けていたお玉の唇から、驚きの声が洩れた。
「なに、実戦に出たと申しても、観戦でござるよ、お玉どの。かの天正元年、織田殿が義昭将軍を攻められた時のことじゃが、淀城で豪勇な岩成主税介古通と、細川家の下津権内とが一騎打ちをしたことがあっての」
「有名な話じゃぞ、お玉」
「その折、長岡監物という大将の肩車になり、そのかぶとにしっかりとつかまって観戦していたのが、僅か十歳そこそこの与一郎よ。その時の、岩成の首が飛ぶのを、与一郎は泣きも脅えもせずに見ていたという話じゃったが、只それだけのことでの」
「さすがに細川殿、文武両道にすぐれた御方だけあって、ご子息の鍛え方も徹底しておられるのう」
「お父上、わたくし、その与一郎様とやらに、お目にかかったことがござります」
明晰な玉子の口調だった。
「ほう! いつ、どこでじゃ」
光秀が驚いた。
「京のお家で。たしかわたくしが七つの頃でした」
確か正月であった。父の細川藤孝と共に遊びに来ていた与一郎と、玉子は指角力をしてたわむれた。
「おう、それはそれは」
と、吉田兼見は一人何やら打ちうなずいて、お玉をいかにも愛しげに見た。
「小父《おじ》さま」
玉子は無邪気に兼見を呼んだ。
「何でござる」
「小父さまは、さきほど母上の平癒をご祈祷くださいましたけれど、どこの神さまにおねがいなされたのでしょうか」
「うむ……。八百万《やおよろず》の神々でござるよ。お玉どの」
「八百万の? 小父さま、小父さまはお偉い神官さまですけれど、その八百万もの神々を全部ご存じですの?」
「こちらでは知らずとも、神々のほうでご存じじゃ。わが吉田の社の斎場には、全国の神々を祭ってござるからのう」
兼見は盃を片手に、大きな体をゆすって笑った。
兼見の四代前の吉田兼倶について、ある本には次のように書いてある。
〈天皇及び公卿、あるいは将軍に、しばしば日本書紀を講じ、あるいは将軍義政の夫人日野富子に取り入り、その勢力を自家の勢力拡張に利用し、あるいは神道管領長上などと僭称した。
吉田神社の境内に斎場を設け、これに全国三千余社を祀《まつ》り、遂に伊勢神宮の神霊がここに遷移したと偽って、ここを日本最高の霊場にせんとするなど、大胆な企てを試みた。この遷移の問題は、結局失敗に終わって、吉田家は徳川時代の終わりまで、公然とは伊勢神宮に参拝することを拒まれる結果となった。
が、地方の神社に神位を授け、神職に位階斎服の免許状を授与することには成功し、(中略)吉田家の勢力は全国に波及するに至った〉
この斎場は一時破却されていたが、兼見が再興したのである。だから、今、兼見が、全国の神々を祭っているといったのは、彼としては冗談ではなかったのだ。
「では、小父さまは知らない神々を祭っていらっしゃいますの」
「これ、お玉。またいつもの癖がはじまったの。失礼な口を利《き》いてはならぬ」
光秀がたしなめた。
「いやいや、これがお玉どののおもしろいところ。我々とても、勉強になる」
兼見は機嫌よく、
「のう、お玉どの。そなたの申されるとおりじゃ。人間は本来、神を知らぬ。じゃによって、人の思い思いの神を神とした故、八百万もの神々が日本にはできてしもうた」
「じゃ、人が神をつくりましたの、小父さま」
「そのような神が多い故に、日本中の神々を吉田山一ところにまとめたのじゃ。あまりに多くては、どの神には参り、どの神には参らぬという失礼なことになるが、吉田神社に参れば、一度で神へのお参りはすんでしまう。全国の神々を廻る要はない。何と便利なことであろうが」
玉子はかしこ気に頭をかしげ、
「小父さま、小父さまはお玉がまだ子供だと思し召して、本当のことをお話ししてはくださいませぬ。先ほど、小父さまはひたいから汗を垂らしてご祈祷くださいました。この寒い時に、汗の出るほどお祈りなさるのは、やはりまことの神さまがいられるからでございましょう。もっと本当のところを、玉は教わりとう存じます」
うなずきながら聞いていた兼見は、膝を打って、
「よう申された、お玉どの。もうお玉どのは、子供ではござらぬわ、のう日向殿」
と感じ入った。
「いやいや、まだまだ幼《おさの》うござるが、どういうものか、お玉は神とか仏には、格別の関心を持っているようでの」
「それはまた奇特なことよのう。お玉どの」
兼見は、琵琶湖名物の鮒ふなの塩焼きを口に入れて、
「神とはのう、実在するものじゃ。常住恒存、この天地のつくられる前より神はあった。神には、始めもなく終わりもない。常に在るのだ。それを吉田神道ではのう、天地間では神と呼び、万物に宿って霊という。お玉どのの中にも神は在る。それが人間の心じゃ」
吉田神道は唯一神を信奉する、かなり進んだ神観念を持っていて、全国の神の統一を思い立ったふしも考えられる。が、やはり汎神論に近いものであったことも否めない。
「人間の心が神でございますか」
玉子は解《げ》せない顔をした。
「一気未分の元神とか、万法純一の元初に帰するといっても、お玉どのにはまだわかるまいのう。おお、忘れるところであった。日向殿はご存じか。清原家には佳代と申す女めがあっての……」
兼見の父は清原宣賢(よしすけ、せんけん、のぶかたなど、幾通りもの呼び方がある)の次男だった。清原宣賢は公家や僧侶に経書を教え、後奈良天皇の皇太子時代の侍講であり、漢学国学に貢献した当時日本随一の儒者であった。その晩年、越前の朝倉家に出講し、一乗谷で病没した。光秀も朝倉家に仕えたことがあったので、その噂はよく聞いていた。なお、細川藤孝は宣賢の娘の子に当たる。
「清原どのの?」
「さよう。その佳代が、ふしぎなことに、何とのうお玉どのの面ざしに似ておるのじゃ」
「お玉に?」
「いや、無論お玉どのほどには美しゅうござらぬが、しかし、きょうだいともいいたいほどに似ておりましてな。それがまた、えらい信心家でござるわ」
「おいくつになられる?」
玉子に似た娘と聞いては、光秀も興が深い。目を細めた光秀の目じりのしわがやさしかった。
「十三歳だが、幼い時に両親がキリシタンになった。で、佳代も赤児で洗礼を受けている。洗礼名をマリヤと申してな」
「おう! では、キリシタンになられた清原頼賢《よりかた》殿のご息女か」
清原頼賢は宣賢の孫で、兼見や細川藤孝とは従兄弟の間柄になる。身分の高い公家である。
「ご存じか、明智殿も」
「細川藤孝殿に伺ったことがござった」
「なるほど。で、その佳代のことじゃが、佳代はキリシタンの養育会という会に入っておりましてな。まあ、熱心なことといったら驚くばかりじゃ。毎朝起きたらすぐに、京の近くの山を歩いて捨て子を探して歩いてのう。見つけるとすぐに養育園に連れて行く。弱って生きる力のない子と見定めれば、養育園に神父を招いて洗礼を授けてもらう。こんなことばかりして暮らしている女子じゃ」
「まあ! 十三歳でそんなお仕事を」
玉子は目を大きく見はった。
当時、体の弱い子は育たぬといい、山に捨てる風習があった。体の弱い子だけでなく、貧しくて育てられぬ子供も捨てていたようである。キリスト信者たちは、それらの捨て子を集めては、養育会に入れて育てていた。
「さよう。お玉どのより一つ下じゃが、顔も似ていれば、信心の深いところもよう似ている。ふしぎなこともあればあるものじゃ」
「小父さま。玉は信心など深くはございません。ただ、本当に神や仏が在《いま》すのかと、ふしぎに思っているだけです。とてもとても、朝から捨て子を探して山歩きをすることなど、思いもよりません」
玉子は首をふった。その謙遜な玉子の姿を、光秀は珍し気に眺め、
「吉田殿、その佳代どのとやらは、特別に生まれた方かも知れぬのう」
「かも知れぬて。この間も、さる大名からの縁談をきっぱりと断りましてのう。生涯、マリヤは嫁ぎませぬと父母にも答えたそうな。そして、捨て子ひろいじゃ。雨が降っても雪が降っても、決めた山歩きは休みませぬ。もし、悪天候の日に捨てられた子があれば、生命も危ぶまれるとか申してな」
「ほほう。一生涯嫁がぬとな。それはまた、えらい決心じゃ」
「いやいや、二、三年もすれば嫁ぎとうなるぞと、わたしは笑っておりまする。何分まだほんの子供のこと、どれほどの決心もありますまい」
「小父さま、わたくし一度その方にお会いしてみたいと存じます」
酌をすることも忘れて、玉子はいった。自分に似た、自分より年下の娘が、キリシタンになって一生嫁がぬといっているのだ。どんな娘であろうかと、玉子はいたく心を惹かれた。その清原マリヤが、まさか、二年のうちに自分の侍女となり、自分を信仰に導き、一生の苦楽をわかつ存在になろうとは、無論夢にも思わぬところであった。
曲直瀬道三の薬が効いたのか、兼見の祈祷の効があったのか、子の病はその後半月を経ずに、見事に癒やされた。とにかく、
「本復まちがいなし」
といった兼見の言葉どおりになったのである。光秀の喜びは一通りではなく、自ら吉田神社に礼に行き、兼見にたくさんの供物を献じた。
天正六年、元日の夜。光秀は一人、書院の机によっていた。
(命令とあらば逃れようもないが……)
今日、即ち元日、光秀は信長のお茶の会に招かれた。まだうす暗い寅《とら》の刻(午前四時)には、招かれた家臣たちが続々と、安土城につめかけた。
招かれたのは十二人、その中には信長の子信忠をはじめ、羽柴秀吉、細川藤孝、丹羽長秀《にわながひで》、滝川一益《たきがわかずます》、荒木村重などがいた。
茶のあと、一同が順に、年賀の詞《ことば》を信長に述べ、酒が出された。信長は終始上機嫌で、光秀と藤孝にも、
「いつぞやすすめた両家の縁組はいかが相成った? 信長が仲介をしてとらせるぞ。隣国同士、今年中には親戚になるがよい」
と催促した。
光秀も藤孝も畏《かしこ》まって、その言葉を受けたが、内心驚いた。
今年、与一郎も玉子も十六歳になる。
(だが……)
と、いま光秀は考えている。確かに、与一郎は雄々しい若武者である。去年、松永弾正久秀が信長にそむき、その家老の森秀光、海老名弾正ら三千の兵が片岡城に籠城した。光秀、藤孝、そして筒井順慶がこれを攻めたが、この時の戦いは激しく、細川家の高名の勇士下津権内をはじめ、多くの士が討ち死にし、また傷ついた。
この時、僅か十五歳の与一郎は、ひるむ味方の兵の先頭に立って敵の首を挙げ、士気を高揚した。信長はこの与一郎に、自筆の感状を与えた。光秀もその感状を、藤孝の披露で既に見ている。
「与一郎
働、手がらにて候也 かしく
をりがみ披見候。いよいよ働き候
こと油断なく馳走候べく候。かしく」
松永弾正を敗北せしめたのも、与一郎の働きに負うところが大きい。信長は、息子信忠の忠の一字を与えて、忠興と名乗らせた。それほどの働きであったのだ。その勇猛さは、無論武将として賞めらるべき長所である。にもかかわらず、光秀を逡巡せしめる何かが忠興にはあった。
それは、例えば昨年十月の丹波攻めの時のことにもいえた。丹波の平定を一任されていた光秀と、隣国の丹後の領主である細川藤孝は、常に提携しつつ戦っていた。
この時も、藤孝は与一郎忠興と共に、光秀を助けて戦った。そして細川藤孝は、亀山城に次のような手紙を書いて開城をすすめた。
「各々方《おのおのがた》は、内藤家には新参の者ではござらぬか。つい先日、城主の内藤氏も俄《にわ》かに病死したばかりである。これ以上信長と戦ってみたところで、決して長い間城を保つわけにはいくまい。各々方が吾らに降るならば、信長にその由を言上し、決して悪くは取り計らわぬ。内藤家を全うすることも忠の道と心得られたし」
諄々《じゆんじゆん》と降伏をすすめた手紙であった。が、亀山城を守る者たちは、これを受け入れず、三日三夜奮戦した。遂に、今まさに落城という時、降参を表明してきた。光秀は、城兵の投降を許して大手門の囲みを解こうとした。忠興は顔色を変えて光秀に詰めよった。
「日向殿。何故城兵の投降を許すのでござるか。わが父藤孝が懇切に書いた手紙を無視して手向かった者共を、何も許す必要はござりますまい。この忠興は兵をひきいて、からめ手門から攻め入る故さようご承知おきいただきたい」
眉宇《びう》に殺気を漲《みなぎ》らせた忠興の猛々《たけだけ》しい顔に、光秀はいささか圧迫を感じながらも、静かに制した。
「忠興殿、その気持ちはよくわかるが、しかし、敵は殺せばそれでよいというものではござるまい。戦わずに勝つのが真の武将じゃ。お父上の藤孝殿も、殺すよりは生かしたく思われて、あのようにすすめられたのじゃ」
「お言葉なれど、奴らはその言葉を受け入れなかったではござらぬか。しかも三日も戦ったあげくに、今更助けてくれとは、恥知らずな奴ばらとは思し召さぬか」
「忠興殿、人間はのう、無駄に殺すより、生かして使えば使う道があるものじゃ。投降の意を表した者を殺して、何の武士の誉となりましょうや。戦う意志のない者を打ちとって、何の潔いことがありましょうや。忠興殿、投降者を許すことも、肝要な武士の道と心得られよ」
忠興はむっとした面魂を見せていたが、それでもようやく光秀に従った。
こうして内藤一族とその臣たちの降伏を信長に報じ、亀山城は遂に光秀の城となった。光秀は内藤の家臣をことごとく自分の臣として、手厚く扱った。これによって、光秀、藤孝の評判は更に上がった。
だが、今、その時の忠興を考えると、光秀は玉子を嫁がせることに躊躇も感ずる。
(確かに頼母しい婿にはなるであろう……)
まだ十四や十五で、大人をも凌《しの》ぐ勇気がある。亀山城の一件も、年若いための一徹さであって、特別無思慮というわけではないのだ。
藤孝とは、この松の内に一度二人を見合わせようと話し合って、別れてきた。信長の命とあっては、嫁がせぬわけにもいかぬと、光秀は燭台のゆらめく灯をみつめた。風もないのに、炎は右に左に揺れやまない。
(考えてみると、悪い縁談ではない)
世には、人質にやる思いで、娘を敵国に嫁がせる例も多い。藤孝とは、越前の朝倉家にいた時からの親友で、もう十五年ものつきあいになる。光秀の周囲に、藤孝以上に信頼できる人間はいない。その藤孝の息子に嫁がせるのだ。むしろ願ってもない良縁と喜ぶべきであって、何の文句もないはずなのだ。
何のことはない。自分の心の底を探っていえば、忠興にも、細川家にも何の苦情のあるわけではない。自分は、玉子を嫁がせるのが淋しいのだと、光秀は苦笑した。
いや、苦笑したつもりで、のどもとにこみ上げてくる熱い感情があった。
(ばかな!)
光秀は、両の目頭をおさえた。
一度他家へ嫁したなら、めったに玉子はこの城を訪ねて来ることはあるまい。姉娘たちの結婚も、それぞれに淋しくはあった。が、この度の玉子の場合は、特別に愛しいのだ。他の娘たちは、父親の光秀には何も語らなかった。だから、何を考え、何を思って生きていたかを光秀は知らない。
が、玉子はちがう。玉子は幼い時から、父を恐れず、よく馴ついた。自分の思いを、疑問を、いつも光秀に語ってきた。それが光秀の大きな慰めでもあった。
(惜しい)
光秀は、やや細ってきた燭台の光をみつめながら、深い吐息をついた。
ふと、光秀は初之助の顔を思い浮かべた。
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右府殿 右府とは右大臣の唐名(中国風の呼び方。中納言を黄門と呼ぶ類)、信長は安土城が完成した一五七七年、右大臣に任官した。
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六 輿入れ
午《ひる》下がりの日ざしが暖かかった。ふくいくたる梅の香りが庭にただよっている。
光秀や子のうしろに立って、玉子も細川父子を見送りに出た。与一郎忠興は、十六歳とは見えぬ立派な体格を持ち、眉の秀でた若者である。今、与一郎は食い入るようなまなざしを玉子に向けている。その激しい与一郎の視線を外して、玉子は与一郎の弟頓五郎興元に静かな微笑を送った。
興元はちょっと顔をあからめ、顔を伏せたが、さっと一礼してくるりと背を向けた。
「では、失礼つかまつる」
細川藤孝が軽く礼をし、待たせてあった馬に近づいた。
「ご免!」
忠興はひらりと馬上の人となった。頓五郎も兄にならった。
「道中、お気をつけられよ」
深々と光秀は一礼した。
三騎が城門を出、伴の数騎が後につづいた。
馬蹄の音がまだ遠ざからぬうちに、城門は閉ざされた。初之助は無表情に太いかんぬきをしめた。
「初之助。もう少し客人が遠ざかってから、門はしめるものじゃ」
弥平次光春が明るい声で注意して去った。光秀はちらりと初之助を見、戻りかけたが立ちどまった。
初之助は頭をちょっと下げたが、不満そうに弥平次を見送った。
子と玉子は、梅のほころんでいる木立に近よった。それを、光秀は目の端で捉え、初之助の傍に近より、
「初之助」
やさしい声音だった。
「は!?」
初之助は頭を下げた。
「今の若者が、細川藤孝殿のご子息たちじゃ」
「は?」
「頼母しい兄弟であろう」
「御意《ぎよい》にござります」
「あの兄弟の、兄がこんど玉子の婿殿となるのじゃ」
初之助はうつむいた。光秀は、
「めでたい話じゃ」
とつぶやくようにいって、初之助のそばを離れた。
初之助はうなだれたまま、その場に佇《たたず》んでいた。光秀の馬のくつわを取っている初之助に、光秀は常々親しく言葉をかけてくれるありがたい城主ではある。だが、今は何か腹立たしかった。
与一郎忠興と玉子の縁談は、初之助も既に聞いている。松の内に訪ねてくるはずの与一郎が、二カ月近く遅れて、梅の季節になったのは、玉子が風邪を引いたためであることも伝え聞いていた。初之助にとって、玉子は所詮高嶺の花である。そのことは、誰よりも初之助自身が知っていた。初之助は玉子に対する想いを、誰にも打ち明けたことはない。玉子に対しても、つとめて無愛想にふるまっているつもりである。
が、その想いを、光秀は見透しているのではないか。見透しているからこそ、光秀ははっきりと、玉子と与一郎の縁談を、自分風情に告げたのではないか。初之助は顔の赤らむ思いがした。自分の想いが、事もあろうに主君光秀に知られていた。そのことに初之助は羞恥を覚えずにはいられなかった。
(そっとしておいてくれればいいのに)
光秀は非情だと思った次の瞬間、初之助ははっと気づいた。光秀は自分に、「あきらめてくれよ」といっているのだと、気づいたのだ。
光秀は決して、下郎の自分の想いを嘲《わら》ってはいない。蔑《さげす》んではいない。むしろ同情してくれているのだ。先ほどの光秀の声音には、その温かさがにじみ出ていた。初之助はふいにたまらなくなって木陰に身をかくした。
その初之助の姿を、光秀は、梅を眺める子と玉子の傍らに立って見ていた。光秀はいつか、玉子を叱っていったことがある。
「よいか。人間を見る時は、その心を見るのだ。決して顔がみにくいとか、片足が短いとか、目が見えぬなどといって嘲ってはならぬ。また、身分が低いとか、貧しいなどといって、人を卑しめてはならぬぞ。玉子、人間の価は心にあるのじゃ」
その思いは今も変わらない。光秀には、浪々の頃、故なく人に蔑まれた経験がある。身分のない自分の言葉は、いかに正しくても、賢くても、尊まれはしなかった。光秀は初之助の心の動きにも、無関心ではないのだ。
「さすがに春の日ざしよのう」
光秀は、傍らの子にとも、玉子にともなく声をかけた。
「ほんに卯月のようでござります」
玉子は、父の言葉が耳に入らぬのか、黙って梅の花を見つめている。
「あの……年々同じ花が咲くと思って、それが何とのう、ふしぎに思われて……」
玉子はめずらしく語尾を濁した。
「うむ」
「でも、人は同じ場所に、来る年もいるとは限りませぬ」
「なるほど」
将来の夫細川与一郎に会った玉子の胸のうちが、光秀にもわかるような気がした。
「お母上さま、倫《りん》姉さまも、嫁がれる頃に、よく庭の小菊をごらんになって、花は年々同じところに咲くと、おっしゃっていられました」
「そのことは、母も知っておりますよ。お倫は毎年この坂本城に咲く小菊が、うらやましいといっておりました」
緋の毛せんを敷いた縁台に、三人は腰をおろした。日ざしがまともに背にあたたかい。光秀は二人の言葉を心にとめながらいった。
「お玉、与一郎殿はいかがであった?」
「…………」
玉子は小袖の袂《たもと》に右手をさし入れてうつむいた。羞《は》じらっているのかと、光秀は、
「どうじゃ、よい若者であろうが」
「わかりませぬ」
きっぱりと玉子は答えた。
「わからぬ?」
「はい。玉はただ、与一郎さまにお菓子を差し上げただけでござりますもの。お父上さま、一目で人がわかりましょうか」
細川父子三人は、通りがかりに坂本城に立ち寄ったという気軽な訪問の態にしたのだ。
命ぜられて玉子が、菓子を運んだ。玉子が部屋に入った時、与一郎忠興の顔に血がかっとのぼったのを光秀は見た。と同時に、二つ年下のその弟の興元が、兄以上に緊張した表情で玉子に目を奪われているのを見た。当の玉子は、その挙止もすずやかに、落ちついて何の乱れもない。細川藤孝にも与一郎兄弟にも静かな微笑を見せていた。
「お玉どのは、和歌を好まれるか」
柔和な笑みを浮かべた藤孝が尋ねた。藤孝と玉子とは、これまで幾度か顔を合わせている。
「はい。詠むことはできませぬけれど、人さまのお作を拝見するのは好きでござります」
玉子はつつましく答えた。
「それは結構。この藤孝も和歌が好きでの。して、お玉どのはどんな和歌がお好きかの」
「はい、いろいろござりますけれども……」
「百人一首の中では、どの歌をお好みか」
「はい、恵慶《えぎよう》法師の歌に心ひかれます」
「ほほう、若いに似合わぬお好みじゃ」
明らかに藤孝はおどろき、光秀に尋ねた。
「日向どのは、このお玉どのの好みをご存じか」
恵慶法師の歌は、
やへ葎《むぐら》しげれる宿のさびしきに
人こそ見えね秋は来にけり
という歌である。葎が茂り放題に茂っているだけでも、この宿は淋しい。それなのに、人はひとりとして訪ねては来ず、秋だけは来たものよという感慨をうたっている。
百人一首には恋の歌も数多いというのに、まさか十六歳の小娘が、このような歌を好むとは、細川藤孝も意外だった。藤孝は三条西実枝《さんじようにしさねき》を和歌の師とし、古今伝授を承《う》け、二条流歌学の権威とうたわれた人物である。歌の好みを尋ねたのも、おざなりの質問ではなかった。
「お玉が好みそうな歌ともいえるが……」
物怖《ものお》じせず人に問いかけ、小気味よくものをいう玉子には、それだけにまた、深く人の世について考えることを、光秀は知っていた。今の玉子には、恋よりもむしろこうした孤独の境に惹かれるのかも知れない。いや、それが玉子本来の資質かと、この頃光秀は思うこともある。
「なるほど」
一礼して部屋を出て行く玉子を、藤孝は見送りながら、深くうなずいた。
今日玉子が忠興に会ったのは、この時と、あとは今しがた見送りに出た時だけである。忠興をわからぬといったのは、当然のことでもあった。
頭上に鳶《とび》の声がした。その声のほうを見上げながら、玉子は光秀を呼んだ。
「父上さま」
「うむ」
「右府さまからのお言葉である以上、とにかく嫁がねばならぬのでござりましょう」
「まあ、そうであろうの」
「ならば、忠興さまがどんなお方であろうと、嫁がねばなりませぬ」
「…………」
「お姉さま方も、みな、このようにして、嫁がねばならなかったのでござりましょう」
「お玉は忠興どのが嫌いか」
「いいえ。嫌いも好きもございませぬ。女はみなこのようにして、好きも嫌いもわからぬ人に嫁ぐのかと思うと、それが口惜しゅうござります」
玉子は正直であった。
「お玉」
黙って聞いていた子がいった。
「はい」
「女ばかりではありませぬ。殿方もまた、好きも嫌いもわからずに娶《めと》られるのですよ」
「殿方も?」
はっと気づいて、玉子は、
「なるほど、ほんに殿方も同じこと……。それでは、お互いに好きも嫌いもわからぬ者同士が、親や殿のいいなりに、夫婦《めおと》にならねばならぬのでございますか。父上さま、お玉はなおのこと、嫁ぎとうはござりませぬ」
「そんなことを申して、お父上を困らせるものではありませぬ」
「でも、母上さま。母上さまは、父上さまに望まれて明智の家に嫁がれました。お玉も、そのように望まれて嫁ぎとうござります」
一途な玉子の声には、かなしい響きがあった。
「お玉、お玉の申すことは、父にもわかる。しかしのう……」
いいよどむ光秀を玉子は見て、
「父上さま、お玉が悪うござりました。お玉は死んだつもりで参ります。お倫姉さまも、嫁ぐことは死にに行くことと申しておられました」
「なに!? お倫がそのようなことを申したか?」
長女の倫は、無口で何の自己主張もしない娘に見えた。いつも、おだやかな微笑をたたえて、一度として、わがままらしいわがままをいったことがない。光秀は、その倫の気品ある花嫁姿を目に浮かべた。
「はい。お倫姉さまは、そう申されて涙ぐんでおられました。女にとって結婚は、武士が戦場に行くのと同じこと、死にに行くのですよと申されて……。でも、お玉は死にとうはござりませぬ」
光秀は黙って目をつむった。人形のように、いつも変わらぬ表情を見せていた長女の倫のけなげな心に、はじめてふれた思いで、いじらしくてならなかった。
戦乱の世は、男にも生きがたい世ではある。しかし、男にとっては、槍一筋で一国の主になる望みもある。志ある者には生き甲斐のある世ともいえる。だが、女たちはただ、その男の生きる道具に使われるに過ぎぬ存在である。その女たちを、哀れと思うことさえ、男たちは知らない。そして、この自分にも、そうした思いやりは少なかった。
お倫を荒木村次に嫁がせた時も、運のよい娘よという思いのみがあったような気がする。もしも曾ての浪々の日であったなら、到底わが娘を名ある武将に嫁がせることはできなかったと、思ったものであった。
(女には女の心がある)
その当然なことを、今また、玉子に突きつけられた思いであった。
死ぬ思いで嫁いだ倫の心のうちを、これ以上考えることに、光秀は耐えられなかった。
「お玉」
「はい」
「人間は所詮死ぬものじゃ」
「…………」
「死ぬつもりで生きるところに、本当の生き方があるのかも知れぬ」
「……死ぬつもりで生きるところに?」
「うむ、父たちも、いつの戦で死ぬかわからぬ日々なのだ」
「母上さまも?」
「同じことですよ。お玉、武人の妻は、死を抱いて生きているようなものですよ」
「お玉、小谷の方お市どののことを知っているであろうが」
「はい、右府さまのお妹さまで、評判の美しいお方とか」
「淋しい日々を過ごしておられる」
子はうなずいて、
「いかばかりお辛いことでござりましょう」
「父上さま、お玉には右府さまのお心がわかりませぬ。弟さまを殺したり、お妹さまの嫁ぎ先の浅井長政さまを火攻めにしたり……」
浅井長政が信長に亡ぼされたことも、長政の妻お市、即ち信長の妹が、夫長政を殺した兄のもとへ帰ったことも、玉子は既に姉や母から聞いていた。
「うむ。大変なことよのう。そして、その右府どのも敵方の斎藤道三殿から、濃姫をめとっておられる」
「母上さま、女とはいったい何なのでございましょう」
嘆きのこもった言葉だった。
光秀と子の結婚のような、男と女の結びつきは、他にあまり例がない。光秀は娘たちを愛し、玉子の話し相手にもなって来た。その光秀でさえ、長女も次女も政略結婚をさせている。
この度の玉子の結婚も、つまりは織田信長の命令による政略結婚である。丹波の平定を命ぜられた光秀と、その隣国を鎮撫しつつある細川家とが結ばれることは、信長にとっても、両家にとっても、好ましいことなのだ。
ただ、玉子にとって幸いなのは、細川家が明智家の敵方ではないということである。否、敵方でないどころか、光秀と藤孝は年来の友なのだ。藤孝も光秀と同様、単なる荒武者ではない。文武に秀でた大器である。その嫡男与一郎忠興に嫁ぐことを、玉子はもっと喜んでもよいはずであった。が、それを、いままだ喜ぶことはできなかった。
男が、妻を娘を政争の具として、品物のように扱っていた時代である。大方の女性たちは、それを己が運命として疑うこともなかった。が、玉子はそのような中にあっても、人間としての自我に目ざめていたのである。玉子は、女たちが道具のように扱われること自体に、いち早く耐えられぬ思いを抱いていたのである。
この自我に目ざめた玉子を育てたのは、父母のあり方であり、光秀の教養であった。
陰暦八月、その日の夕焼けは美しかった。
勝竜寺城内は、今日明智家より玉子を迎えるために賑わっていた。そのざわめきが忠興の部屋にも聞こえてくる。
細川与一郎忠興は、侍烏帽子に直垂《ひたた》れの花婿姿で、さっきから自分の部屋に落ちつきなくすわっていた。
「兄上」
これも礼装の直垂れ姿の弟頓五郎興元が、開け放した廊下に現れて声をかけた。兄に似て、眉の秀でた凜々《りり》しい少年である。二十の若者よりもたくましい忠興とくらべると、まだ骨組みが細い。
「何だ? 何か用か」
先年、十三と十五で共に片岡城攻めに出陣したこの兄弟は、いつも仲がよい。
「兄上、まだ到着の様子も見えぬ。花嫁は夜にならねば、着かぬのであろうか」
先ほどから、幾度となく同じことを興元はいいに来ていた。
「なぜそんなに待ち遠しがるのだ。お前が娶るのではないぞ、興元」
忠興が笑った。
「いや、それはそうだが、あの人はきれいな人だ。早くその花嫁姿を見たい」
興元は兄の前に来て、あぐらをかいた。
「興元、あの人などと、軽々しく呼ぶな」
「じゃ、何と呼ぶ? お玉どのか」
「そうだな、姉上と呼べ」
「まだ、姉上にはなってはおらぬ」
「今日のうちになるではないか」
「姉上か……」
興元はちょっと口を尖《とが》らせたが、
「兄上は幸せ者だな」
と、率直に羨んだ。
「二、三年もすれば、お前も幸せ者になる。待っておれ」
「いや、あんな美しい人は、そうそうはいない」
「うん、それもそうだな」
忠興の満足そうな顔に、
「ぬけぬけと申すわ!」
興元がこぶしを上げるまねをして笑った。笑った顔はさすがに幼かった。
「だが頓五郎、全くの話、そうではないか」
「真顔でのろけている」
興元は呆《あき》れたように兄の顔を見た。忠興は頓着なく、
「のう、頓五郎」
と声を低めた。
「? ……」
興元が耳を傾ける表情をした。小鼻のあたりにうっすらと汗をかいた忠興は、いともまじめな顔で、
「女というものは、いったいどんなものであろう」
「どんなもの? 何をいいたいのだ、兄上は」
「うん、わしは女のことは何も知らん」
「兄上、兄上よりもこの興元の方が、女のことを知っていると思うてか」
興元は声を立てて笑った。
「いや、知ってはいまいが……。しかし、お前は年に似ず世故《せこ》に長《た》けたところがある」
二人がこんな他愛ない話をしている頃、玉子は数十人の従者に守られた輿《こし》の中に揺られていた。銀の元結で束ねた垂髪が、幸菱の純白のうちかけの上に、豊かに波うっている。きらきらと輝く瞳には、既に嫁ぐ者の覚悟のほどもうかがわれ、玉子を大人に見せていた。
(ふり返ったとて、過ぎ去った日は還らない)
ともすれば目に浮かぶ父母の顔、祖母の顔、そして弟たちの顔を、玉子はふり払うように、幾度かそう心の中でつぶやいた。
それでもまだ、坂本城にもう一人の自分がいて、父母と楽しく語らっているような錯覚を覚える。ふっと、琵琶湖の碧水や、坂本城から朝夕仰いだ比叡の峰が目に浮かぶ。
楽しかった父母のもとを離れて、明日からどのような生活が待っているのか、玉子にはわからない。が、姉たちが耐えている生活に、自分が耐えられぬはずはないと玉子は思う。
昨日の早朝、あかあかと燃え上がる門火の傍に立って、じっと玉子を見送る光秀の目に、光るものがあったのを、玉子は大事な宝のように胸にしまっている。あの、迫るような父のまなざしの中には、万感の思いがこめられていたのだ。
母の子は涙を一滴も見せなかった。にっこり笑って、
「お幸せに」
とだけいった。その涙を見せない母の辛さも玉子には身に沁みた。
輿の中にゆられながら、玉子はいま軽く目を閉じ、その父と母の面影に向かって、
(玉は立派に生きて参ります)
とつぶやいた。
その時輿がとまった。外で、光秀の従弟、明智弥平次の声がした。
「お玉どの。美しい夕日でござりまするぞ。花嫁の日の夕日をご覧じませ」
弥平次は、この日の婚礼奉行である。妻となる日の思い出のためにも、その疲れをねぎらうためにも、弥平次は行列をとめて、玉子にゆっくりと夕日を見せてやりたかったのだ。
すらりと降り立った玉子の輝くような姿に、供奉《ぐぶ》する者たちは、またしても目をうばわれた。その中に初之助の射るような視線があることを、玉子は知らない。
初之助は今年の三、四月、光秀に従って丹波の波多野秀治を八上城に攻めた時、武功を立てて士分に取りたてられた。玉子の婚約を知った初之助には、命を惜しむ心はなかった。その結果、今までの臆する心はふり払われ、思いの限りに戦えたのだ。もはや初之助は、騎馬を許された武士なのだ。雑用に追い使われる小者ではない。が、初之助の心の淋しさには変わりはなかった。
いま天王山に沈もうとする夕日に向かって立つ玉子の姿が、逆光線の中に、この世のものならぬほどに、美しく気高く思われた。
(今日限り、一生お会いできぬかも知れぬ)
今少し行けば、細川家の者が松井康之に率いられて、迎えに出ている筈である。そこで玉子は細川家の供に守られて行ってしまうのだ。
初之助の胸に、ぐっと熱いものがこみ上げた。二年前、西教寺の境内で、青大将におどろいた玉子が、自分に抱きついた日のしなやかな感触を、初之助は胸苦しい思いで思い浮かべた。
だが玉子は、初之助が行列のどこにいるかも知らなかった。無論その胸のうちを知るはずもない。玉子は、今沈み行く大きな夕日に、その美しい目を向けていた。
左手の野原に、小豆《あずき》色のつややかなすすきの穂が、夕風に数限りなくそよいでいる。そのすすきの中に、遥かにつづく道を玉子は見た。この道の彼方に勝竜寺城がある。それはあと、どれほどの彼方なのであろう。
「お疲れでござりましょう」
いつの間にか、清原佳代が玉子の傍らによりそっていた。
「いいえ、少しも」
昨朝、明けやらぬうちに坂本城を出た玉子は、夕方京に入り、清原頼賢の邸に一泊した。清原家は細川家の親戚に当たる高位の公家である。玉子の接待に出たのが、清原家の息女佳代であった。
佳代が夕餉の席に現れた時、玉子は佳代の気品と、清純さに、目を見張った。
玉子は以前、この清原佳代について聞いていた。熱心なキリシタンで、捨て子を拾いに、毎朝山を歩いていること、大名からの縁談も断り、一生嫁がぬ決心であること、その容貌が自分に似ていることなどを、吉田兼見から聞いていた。面ざしは聞いていたほどには、自分には似ていない。が、その透きとおるような、深く澄んだまなざしと、気品に満ちた物腰は、いまだかつて見たことのないものだった。
佳代もまた、はじめて玉子を見た時、瞬時にして、響き合うものを感じたようであった。佳代と玉子の、この、世にも稀なる出会いは、一瞬にして二人の心を結んだといってもよい。それは、この人生において邂逅と呼ぶより、いいようのない出会いであった。
夕餉のあと、玉子は旅の疲れも忘れて、佳代と親しく語り合った。
「お玉さま。細川の小父《おじ》様はおやさしいお方でござります」
佳代は、見知らぬ土地に遠く嫁ぐ玉子を、いたわるようにいった。細川の小父様とは忠興の父藤孝のことである。いうまでもなく玉子にとって舅となる人である。藤孝は、弓道、馬術にかけては当代右に出ずる者がない。武術ばかりか、笛、太鼓、乱舞も名人、和歌は無論のこと、書も絵も、そして刀の目ききにも傑出していることは、玉子も父母から聞いていた。そればかりか、武将ではあるが、行儀作法には公家《くげ》よりも詳しく(藤孝は後に徳川将軍の礼典を作ったほどである)、作法に関しては、明智家よりも遥かに心得ておかねばならぬことが多いとも聞いていた。この舅と共に暮らすことは、大変な注意と努力が要るように、玉子には思われていたのだ。
「小父様はお料理もお上手だということでござります。ある人が、いたずらに鯉のお腹に火箸を入れて、俎《まないた》に上げておきましたら、小父様は知らずに包丁を入れまして、ガツッと音がいたしました。すると小父様は、いきなり刀をぬいて、スパッと鯉を断ち切ると、火箸も真二つになりましたとか。でも、それだけで、いたずらをした者を少しも咎《とが》められなかったと申します。心のひろやかな方ですから、ご心配は要りませぬ」
佳代の話を聞いているうちに、玉子の心から次第に不安がうすれて行った。
その夜、旅の疲れからか、侍女のおつなが熱を出した。佳代はねんごろにおつなを看病した上、彼女の代わりに、明日は自分が侍女として勝竜寺まで伴をしようと、思いがけぬことを申し出た。
大名の正室にとさえ望まれた身分ある公家の娘である。たとえ数日といえど侍女になどできない。玉子は固辞した。が、佳代は熱心に願ってやまなかった。しかも、
「佳代は、あなたさまに、一生お仕えいたしとうござります」
とさえ、いい出した。
さすがにその父母は驚いたが、これを許した。公家の行儀作法に明るい佳代が傍にいれば、細川家における玉子の苦労も少ないと思ったのだ。一生といっても、若い娘のこと、何《いず》れは考えも変わるだろう。佳代の父母としては、毎日危険な山を歩いて捨て子を拾う生活よりは、親戚の細川家に行ってくれたほうが安心という思いもあった。
荷物はすぐに届けさせるということで、とりあえず、おつなの代わりに佳代が供奉の列に加わったのである。
「なぜ、大名の奥方になることを拒まれたのですか?」
昨夜玉子は佳代に尋ねた。
のちに、大坂城落成の折、武将の妻たちが秀吉に招かれた。玉子は病気と称して欠席し、その名代として佳代を出した。秀吉は佳代の美しさに打たれ、伝え聞いていた玉子への日頃の忠勤を賞揚し、高価な小袖さえ与えて、
「そなたには二人の男を持たせたい。一人は佳代どのの夫、一人はこの秀吉を」
といった。そんな挿話のあるほどの佳人である。
玉子の疑問は当然であった。佳代は、
「お玉さま。公家は身分は高くとも、ごらんのとおり貧しい生活をしております。大名衆は、財政は豊かでも、失礼ながら身分は概して高くありませぬ。それ故、貧しい公家の娘を、金の力で妻にしたいと望んでいられます。佳代には、そのような結婚を幸せとも思われませぬ」
と静かに答えた。玉子はその答えにもいたく感動した。
いつしか夕日は沈んでいた。行列は再び動きはじめた。玉子をはさんで三梃《ちよう》の輿、その前後に貝桶、化粧道具箱、唐びつ、屏風箱、厨子棚などが幾荷もつづき、数十の騎馬が半々に前後を固めていた。
更にその頃、茜《あかね》を映す琵琶湖の水を眺めつつ、坂本城の高殿に立って、黙然と玉子を思う光秀と子の姿があった。
七 平蜘蛛《ひらぐも》の釜
竹林の続く向こうに、はるかに東山の連なりが見える。その右手前の洞《ほら》ケ峠が平地の上に小高い。
居間にすわって、桔梗《ききよう》とすすきを活《い》けていた玉子は、あけ放たれた障子の外にふと目をやった。傍に忠興が、その玉子のしぐさの一つ一つを、満足そうに眺めていた。
玉子がこの勝竜寺城の忠興に嫁いで十日目である。勝竜寺城は、坂本城とは比較にならぬ小さな城であった。城というより、大きな寺といったほうがいい。それでも周囲にめぐらした濠《ほり》が一応城としての体裁を見せていた。
「桔梗か」
忠興はあぐらをかいたまま、ひとり言のようにつぶやいた。
「はい」
玉子の視線が桔梗に戻った。しっとりと露をふくんだ桔梗の紫が、空気に滲《にじ》むようである。
「桔梗はそなたの父、明智殿の紋、豪に似ぬ優しい旗じるしじゃ」
忠興はにっこりと笑った。笑っても、濃い眉のあたりの凜々しさは消えない。
玉子の父明智光秀は、近来いよいよその知略と武勇を謳《うた》われていた。信長も、天正六年八月十一日付で次のような書状を光秀に書き送っている。
「その方こと、近年打ちつづき軍功にぬきんで、所々における知謀高名は諸将を超え、数度の合戦に勝利を得られ、感悦斜めならず候。
西国の手に入り次第、数箇国をあてがうべく候間、この上とも退屈なく軍忠に励まるべく候」
これほどの、音に聞こえた光秀の紋は、遠目にも鮮やかな水色の桔梗である。その優美な水色桔梗の旗が林立する時、敵軍はふるえ上がるのだ。
忠興はそれを思って微笑した。
「細川家は……」
いいかける玉子の言葉を受けて、
「うむ、細川家は菊、そして桜くずしの紋だが、わしは九曜の紋を使うことにした」
九曜の紋は、中央に書かれた一つの円を、他の八つの小さな円が、ぐるりととりかこむ紋様である。
「九曜は、九つの光という意味になりましょうか」
「うむ、あまり意味は考えなかった。ただ、形が好きなのだ」
「ご自分でお考えになられましたの?」
「いや、実はな、右府どのの小太刀の模様の中に、この九曜があったのだ」
「まあ、殿の小太刀の模様の中に?」
玉子の鋏《はさみ》を持つ手がとまった。
「うむ。おもしろいと思って、わしの小袖に使ってみた。するとな、殿が、おもしろい紋を使っているではないかと仰せられた。それで、わしは、殿の小太刀の模様の中に、この形がござりますると申し上げた。殿はご自分の小太刀を手に持って、鞘《さや》をしげしげと眺めておられたが、なるほど、これを使ったのか。愛《う》い奴じゃ。今後はそれを家紋に致せと仰せられたのだ」
忠興は得意気に玉子を見た。玉子は活け終わった桔梗をじっと見つめたまま、黙っている。
(殿の命令で結婚し、紋まで殿の命令を……)
玉子の胸を、そんな思いがよぎった。
「お玉、わしは強い人間が好きだ。信長殿のような方が好きだ。だから、その強さにあやかりたいのだ」
少し熱した語調で忠興がいった。玉子はかすかに微笑した。体は大きいが、まだ幼いと思ったのだ。
「なぜ笑う?」
忠興が見咎《みとが》めた。
「強いのは、もとよりわたくしも好きでござります」
「同意して笑ったのか」
玉子はうなずいた。
「そうか。ならばよい。だが、お玉、わしは一月前に死んだあの山中鹿之助の惨めな死を聞いてから、強いだけではならぬと思った」
鹿之助は信長につき、毛利軍と戦うべく上月城を守っていた。鹿之助は秀吉や信長の援軍のあるのを信じていた。が、信長は上月城を見捨てた。秀吉は鹿之助とその主君|尼子《あまこ》勝久をひそかに救わんとしたが、鹿之助は部下を捨てて自分の命を永らえようとはしなかった。
結局は毛利軍に捉われ、護送の途中|阿井《あい》の渡しで斬られ、傷を受けたまま逃げようとしたが、首を斬られて不様に死んだ。
「お玉、わしは生きるぞ。人間としてこの世に生まれた以上、生き得る限り生きるべきなのだ。父上もいっておられる。武力は力の中の一つに過ぎぬ。人間の力には武力のほかに、胆力も知力もあるとな」
ふいに玉子は、忠興は意外に大人なのかも知れぬと思った。この戦乱の治まらぬ世の中にあって、生き得る限り生きると宣言するのは、一見子供じみているようで、一つの見識を持っているようにも思われる。
「胆力も知力も? ほんにそうかも知れませぬ」
「そうだ。そなたの父上も、胆力、知力を兼備した武将だ。わしも負けぬぞ。この世に生き得る限り生きる。これが生きている者の正直なねがいだ」
「そのとおりと存じます」
「うむ、そのためにはな、どうしたらよいか。お玉は知っているか」
愛《いと》しそうに忠興は玉子を見た。娶ってまだ十日である。
丹波に丹後に播磨《はりま》にと、戦わねばならぬ状況の中で、忠興は強いて玉子を娶ったのだ。美貌の玉子を、一刻も早く自分のものとしたかったのである。すぐにも新妻をおいて出陣しなければならぬ中にあって、忠興の玉子への愛しさはつのっていた。
「さあ、にわかには考えも及びませぬが、戦わぬこととでも、申しましょうか」
「何? 戦わぬこと?」
驚いて玉子を見たが、忠興はポンと膝を打ち、
「なるほど、それも一理だ。戦わねば殺しも殺されもすまい。そうだ、そなたの父上も似たことを申された。戦わずして勝つのが真の武将だとな。わしの父も同じことをいう。しかし……」
「しかし?」
「今の世は、戦いを避けてばかりもおられぬ。とすれば……」
「いかがなさります?」
「そうよのう。先ず敵の動き、世の動きを人より一歩先に知っておかねばならぬであろう。まだお若かった右府殿が、今川義元殿の大軍を桶狭間《おけはざま》に破ることができたのは何故《なぜ》か? お玉も聞いているであろう」
「はい、今川殿が桶狭間で昼飯をとっているとの知らせに……」
「そうだ。そしてその隙に乗じて急襲された。つまり、その情報が織田殿を圧勝にみちびいたのじゃ。父上も申しておられる。世の動き、人の動きに、常に注意せよとな。それによって、機先を制することもできるし、無駄に戦わずに逃れることもできるのだ」
後年、徳川家康の客臣となった忠興は、九州にありながら、家康の臨終に近い頃の病状を、刻々とつかんでいた。昨日はひどく悪かったが、今日は起きてかゆを食べたとか、今は昏睡状態だとかいう情報を知悉《ちしつ》していたのだ。家康の容態は天下の動きに関わることであり、自分の進退を決断するにも重要なことであったろう。
ひとり将軍家の動きのみならず、忠興は後年朝廷の内情から、遠くは国外の情報をも、かなり詳しく聞いている。長崎の港に入った外国船の船長を招いたり、船医を招いて外国の事情を聞いたりしたのだ。明という医師をしばしば招いて話を聞いたともいわれる。
情報をひろく得るために、彼は多くの贈り物もした。将軍家の内部を最もよく知っている大奥の女中たちには、女たちの喜びそうな品を多く贈った。こうして忠興は、多くの情報と知識を得、八十三歳という、当時の平均寿命の倍を上まわるほど長生した。
そのような後日の生き方が、既に十六歳の忠興の言葉の中にあらわれていたといえる。
「あの……お姉さま」
庭先に澄んだ女の子の声がした。肩まで髪を垂らした伊也《いや》が、はにかんで立っている。忠興の妹で、十一歳である。
「何だ」
忠興が顔を向けた。伊也はその忠興の顔を見ず、
「お姉さま……」
と玉子を呼んだ。玉子は立ち上がって行って、縁にすわった。
「なあに? 伊也さま」
伊也はその小さな手を、そっと玉子の手の上に置いて、
「お姉さまは、ずっとこの城にいられます?」
と聞いた。丸顔があどけない。忠興と五つちがいの伊也は、顔も性格も兄とは似ていない。体も小柄である。
「ええ、ずーっとおりますとも」
「本当?」
安心したようにいったが、
「でも、頓五郎兄さまは、玉子姉さまはすぐ帰ってしまうといわれるのです」
「まあ、そんなことを。それはきっと、伊也さまをからかっていわれたのですよ」
「本当!? うれしいこと」
頓五郎に告げるつもりか、ばたばたと草履《ぞうり》の音をさせて駆けて行った。
「何と、かわいらしいこと」
いいながら、玉子はふっと胸が熱くなった。数年前の自分の姿が思い出されたのである。自分も両親のもとで、無邪気に城の中を駆け廻っていた。伊也もやがては、好むと好まざるとにかかわらず、どこかの武将に嫁ぐのであろう。
「伊也はいつまでも子供で困る」
「でも……すぐ大人になります」
いっそのこと、大人にならねば、伊也は幸せであろう。玉子は思わず溜め息をついた。
「なぜ、溜め息をつく?」
いち早く忠興が見咎めた。玉子の一挙手一投足が気になってならないのだ。新妻が珍しいのかも知れない。
「伊也さまが、大人になるのがかわいそうで……」
「なぜじゃ。なぜ、大人になるのがかわいそうなのだ?」
遠くに嫁ぐのが哀れだといえば、お前はここに嫁いで哀れかと咎めるであろう。忠興には、そういう神経過敏なところがあった。嫁いで十日ではあるが、玉子は忠興の癖や気心を幾つか知った。
「子供の頃は、何の心配もありませぬもの」
玉子はさり気なくいった。いってから、確かに子供の頃には、心配らしい心配はなかったと思い返した。
「うむ、それもそうだ」
忠興は単純にうなずいた。
この伊也は、三年後の天正九年五月、十四歳で丹後の守護職|一色義有《いつしきよしあり》に嫁いだ。丹後平定に手を焼いた細川藤孝が、一色家との政略結婚にふみきったのだ。しかし、結婚一年にして、一色義有は細川父子に謀られ、舅婿の盃ごとの席で、忠興に斬り殺された。不意に斬りつけられて、義有の肩から下半身にかけて血が噴いた。が、この豪雄は気丈にも数歩歩いて、体が二つに割れて倒れた。
むろん、今うれしそうに駆けて行った伊也の四年後に、その夫が自分の父と兄にだまし討ちにあうであろうなどとは、誰にも予測できないことであった。偶然、玉子の胸にきざした伊也の未来への不安が、現実となったまでである。しかもこれは、この時代にはさして珍しい事件ではなかった。
前にも述べた信長の妹お市の方が、兄の信長に夫を焼き殺されたことなど、その顕著な一例である。食うか食われるか、弱肉強食の時代には、だまし討ちも戦法の一つであったのであろうか。それにしても、武士の倫理が、ただ勝つことのみにあったとすれば、何と無残な、何とむなしい生きざまであったろう。
「おう、忘れていたわ」
庭に目をやっていた忠興が、思い立ったように立ち上がった。見上げる玉子に、
「父上への用事を思い出した」
と、いい捨てて部屋を出た。
玉子は床の間の桔梗を見た。ふっと父母が懐かしく思い出された。嫁いでまだ十日だというのに、家を出て二月《ふたつき》も三月《みつき》も経ったような気がする。
光秀は子供たちと共に食事を取ったが、この家では全く別である。藤孝夫婦と忠興夫婦は別であり、忠興の弟妹たちも、別のところで食事をする。また、食風《しよくふう》もちがった。明智家では鯛を馳走としたが、細川家では鯛を喜ばず、鯉や鮎をより上等の魚とした。光秀は酒を飲まなかったが、忠興は酒を好んだ。細川家は公家風で、明智家は庶民的であった。食事一つにも、玉子はちがう世界に入ったことを思わずにはいられなかった。
勝ち気な玉子も、ここでは忠興を頼るよりいたし方がなかった。幸い、忠興も光秀のように、妻に何でも語りかける。それが何より玉子にはうれしい。もし、忠興が無口で、夜のいとなみでしか玉子を相手にしなかったとすれば、玉子の結婚生活はさぞ侘びしかったであろう。
舅の藤孝や、姑の麝香《じやこう》の方をはじめ、弟の頓五郎興元、妹の伊也など、皆玉子に好意を見せた。藤孝夫婦にとって、玉子は、親しい光秀の娘である。当然一家の中に暖かい空気をかもす結果になったにちがいない。
特に藤孝は、四十四歳で父よりも七歳若いが、配慮の行き届く人物で、廊下ですれちがっても、黙って行き過ぎることはない。それとなく、目につくものを話題にする。
「お玉、それ、向こうに低いなだらかな岡がつづいているであろうが。岡が長くつづいているので、このあたりを長岡と呼ぶのじゃ」
とか、
「その大きな楠の陰に、大きな石が見えるであろう。あれを持ち上げた大力者があっての。誰かわかるか? そうじゃ。そなたの姉が嫁いだ荒木村次の父の村重じゃ。あいつは何しろ、若い頃に、自分のおやじ殿を碁盤の上にすわらせてな。その一角を片手に軽々と持ち上げ、柱を三べん廻ったという男でな。ところで村次のところへ嫁いだそなたの姉は、幸せか?」
とか、決しておざなりではない言葉をかけてくれるのである。
弟の頓五郎は、そんな時いつの間にか傍に来て、じっと玉子を眺め、藤孝に、
「頓五郎、何をぼんやりと立っておる!」
とたしなめられ、首をすくめて逃げ出したりする。そんな頓五郎の無邪気さも、玉子の心を慰めてくれた。
玉子は温かい人々に囲まれていた。玉子は幸せであった。が、それはまだ嫁いで半月とたたぬ幸せであった。
玉子が嫁いだ翌月、忠興は藤孝や光秀と共に、丹波へ出陣した。勝竜寺城のある長岡は丹波に近いとはいえ、玉子は心淋しかった。その後、藤孝と忠興はすぐに播磨に転戦した。
留守の間、玉子は、かつて母の子がしていたように、いつ運ばれてくるかわからぬ戦傷者の傷を包む布や薬の用意をしたり、機織りに精を出していた。無論、明智からついて来たおつなや、清原佳代をはじめ侍女たちと共にである。
十月、藤孝は忠興と興元をひきつれ、大坂の石山本願寺攻めに加わっていた。何しろ大坂城の前身である本願寺はなかなか落ちない。信仰を一にする門徒の必死の抵抗は、さすがに手剛《てごわ》かった。
留守を守る生活にもようやく馴れたある日、玉子は清原佳代をつれて、城の近くの竹林の間の小道を散歩していた。少し離れて家人《けにん》が数人従っていた。数日ぐずついた天気が、今日はからりと晴れ上がって、見上げる空が心行くばかりに青い。やや紅葉の盛りも過ぎたが、珍しい暖かさだった。
「奥方さま、野菊は群れているから美しいのでしょうか」
佳代が澄んだ目を玉子に向けた。
「一輪でも美しいはずと思いますけれど……」
かつぎの裾に気をつけながら、玉子は道べの野菊の花に手をふれて、
「美しい花も、人目につかぬ地味な花も、時がくれば、結局は散ってしまいます」
「ほんに、奥方さま。花も人も、遂には散り果ててしまいます」
玉子は本願寺攻めに加わっている忠興や、父の光秀を思った。今日の合戦で、また多くの人々が死んで行くのであろう。その中に、父や夫が加わらないという保証はないのだ。
「そう考えますと、明日をも知らぬ人間の生命が、とりわけはかなくむなしいものに思われますこと。佳代どのもそう思いますか」
「確かに人の命は弱く、もろいものと思います。でも、佳代にはむなしいものとは思えませぬ」
佳代の言葉に、玉子はふと遠くを見るまなざしになった。その玉子へ佳代が言葉をついだ。
「人の命といえば、麝香の御方さまは、ご懐妊なされましたとか……」
「ええ、まことにおめでたいことと、喜んでおります。お姑上《ははうえ》のお年でも、本当はお子を産むことができますのに……」
「奥方さま。わたくしもそう思います。大殿は、奥方さまの御父上と同じく、決して側室をおかれませぬ。その点、他の大名方と、全くちがったお方でございます」
当時、大名の妻は二十七でおしとねすべりの慣らいがあった。つまり、肉体関係はこの年で終わるのである。それは、避妊の方法も知らぬ時代の、母体保護のためであったという。確かに、次々と妊娠しては母体も害《そこな》われるにちがいない。側室をおくのも、最初はそうした配慮からであったのかも知れない。が、それが果たして女性にとってありがたいことであったかどうか。
この度の懐妊が五人目で、藤孝は妻の麝香の方に、このあと更に産ませている。麝香の方も丈夫であったのであろうが、光秀の妻子と同様、当時まれに見る幸せな女性であった。
(忠興どのは側室をおかれるであろうか?)
ふと玉子は思った。
その時、
「はて? あの音は?」
佳代が眉根をよせて耳を澄ませた。
「おお、あれは、蹄《ひづめ》の音!」
玉子の胸がとどろいた。忠興の帰還かも知れぬ。離れていた供の者が、ばらばらと駆けよって、玉子を守った。藤孝、忠興の帰城かも知れぬが、あるいは敵かもわからぬのだ。
「奥方、急いでご帰城を!」
という間も、馬蹄の音は近づき、竹林の間の細い道を駆けてくる騎馬の姿が見えた。
「あ! あれは!」
「まあ、興元さま!」
玉子が喜びの声を上げた。興元が帰城するならば、やがて夫の忠興も帰るであろう。
「このような所で、何をしておられました」
興元は馬からひらりと飛び降りた。
「よくぞご無事で。お帰りなされませ」
玉子も佳代も、供の者も一斉に頭を下げた。
興元の後に従ってきた数騎の供も、馬を降りて玉子に挨拶をした。
「しばらく留守の間に、木々もすっかり紅葉いたしましたなあ」
大人びた語調でいい、興元は供の者に、
「先に城に戻るがよい」
と、凜とした声でいった。興元の家来は一礼して、
「ごめん!」
と、再び馬上の人となった。
「姉上さま、ここでお目にかかれたのは幸いです。実は……」
声を落とすと、清原佳代や他の者は、すぐに二人を離れた。それを見定めてから興元は、
「実は、急ぎお耳に入れたいことが突発いたし、帰って参りました」
「わたくしに?」
「はい」
興元は玉子の目をまっすぐに見、憂わしげにうなずいた。この度の合戦に、興元は目に見えて大人びたようであった。
「もしや……」
夫忠興の身に、何か異変が起きたのではないか。玉子はさっと顔から血がひくのを感じた。
「いえ、兄上も父上も無事でいられる。それはご心配に及びませぬ」
「では?」
「いや、大したことではありませぬが……」
いいよどむ興元の目がかげった。
「驚きませぬ、興元さま。どのようなことがありましょうとも」
玉子は覚悟を決めた。
「では、申し上げます。実は、荒木村重殿の悪い噂が流れております」
「えっ!? 荒木様に?」
碁盤の上にその父親を乗せ、片手で持ち上げたという力持ちの荒木村重は、玉子の姉、倫の舅である。
「それはまた、どのような」
「信じられぬことですが……」
「では、謀反《むほん》なされましたか?」
危うく声が高くなるところであった。
「まだ、はっきりはいたしませぬが、石山本願寺に寝返ったとの専らの風評で……」
「まさか! あの荒木様が」
父の光秀が、荒木ほど腹のきれいな人間はいないと、嫁いで行く姉の倫に語ったとか、いつか母から聞いたことがあった。
「まるで赤児のような単純な男だ」
そうも光秀はいったという。赤児のような男が、一体謀反を起こすのであろうか。それとも、父光秀は、荒木村重親子を見誤っていたのだろうか。
万一、荒木父子が信長に謀反を起こしたとなれば、姉の倫は無事ではいまい。いや、姉だけではない。父の光秀も、信長の不興を買わぬはずはない。そして、荒木村次の妻が自分の姉である以上、夫忠興にも、いかなる迷惑が及ぶか、測り知れない。玉子の不安は急速にひろがっていった。
「姉上、荒木村重殿の従弟、中川清秀殿をご存じですか」
「お名前だけは」
「その中川殿の郎党に、利にさとい男がおりまして……」
「それで?」
「本願寺の城は織田勢に囲まれて、兵糧が不足になって来た。中川の郎党は一もうけしようと、夜半にひそかに、小舟で米を城中に運びこんだ。これが目付けの者に見つけられたから、事の次第が露見。早速、安土城の右府殿に注進が行ったという始末……」
「まあ! で、荒木様はそれをご存じだったのですか」
竹の葉がさやぎ、どこからか二ひら三ひら木の葉が風に舞ってきた。
「いや、父の話では、村重殿の全く与《あずか》り知らないこととか。しかし、安土城の織田方では、荒木は石山本願寺に内通したにちがいないと見ていると、聞きました」
「では、荒木様には何も謀反の事実は……」
「ありませぬ。しかし、謀反だと安土では騒ぎ立てていると申します」
「まあ、それでは荒木様がお気の毒ではありませぬか」
姉の倫は一体どうなることか。織田信長に無惨にも殺されるのではないか。信長の性格を考えれば、当然予測されることである。
「姉上さま。今の世では、いつ、いかなる災いが降りかかってくるか、わかりませぬ」
ひたと興元は玉子を見た。
「わたくしも覚悟はしております」
「姉上さま……」
興元はいいよどみ、ちょっと顔を赤らめた。
「何でしょうか?」
「いつ、いかなる禍《わざわい》が降りかかりましょうとも、興元は姉上さまの味方です」
「え?」
問い返す玉子の目をみつめた興元は、一瞬涙ぐみそうな表情を見せたが、ひらりと馬に乗り、
「何もご心配召されるな。微力ながら力の限りお味方いたします」
といい捨てて、手綱をぐいと引いた。
興元は、荒木村重の陥った事態を玉子に知らせたかったのか、玉子の力になりたいといいたかったのか、玉子にはわからなかった。が、今の玉子は、興元の心情を忖度《そんたく》するよりも、荒木村次に嫁した姉の身の上と、父の光秀、夫の忠興にいかなる禍が降りかかるかが不安であった。
藤孝と忠興は、二日ほど経ってから帰城した。が、二人とも荒木村重については一言も触れない。
その夜、玉子は忠興の胸に抱かれたあと、思いきって尋ねてみた。まさか、興元があらぬことをいったとは思われない。とすれば、なぜ忠興が黙っているのか不安であった。
「あの……」
「何だ」
忠興の手は、まだ玉子の背をやさしく抱いていた。
「あの……荒木村重様のことでお尋ねいたしとう存じますけれど……」
「何!? 荒木殿のこと? お玉、そなたは、なぜそれを知っている? 誰に聞いたのだ!」
思いもよらぬ激しい忠興の剣幕であった。
「それは、あの……」
「誰に聞いたのだと訊《たず》ねているのだ」
「伺って、悪うございましたか」
忠興はいつの間にか、布団の上に起き上がっていた。
「それは……」
「誰だ? 誰かいえぬのか」
興元とはいいかねて、玉子はうつむいた。
「父はいわぬはずじゃ。弟の興元にも、口外は無用といってあった。とすれば、家人の誰だ?」
玉子はもはや、興元の名を口にすることはできなかった。
「お玉。そなたに荒木殿のことを告げた軽率な男は、どこのど奴だ?」
激しく追い詰められて、玉子はきっと姿勢を正した。死んでも興元の名を出してはならぬ。
「それは……」
「それは誰じゃ」
「父上様でござります」
「嘘をいえ! 断じて父上ではない」
「いいえ、父上様でござります」
「まことか!」
「まことでございます」
「よし、では、即刻父上に伺ってくる」
「明日になされませ。とうにおやすみになられたことでございましょう」
「お玉!」
「はい」
「もし、父上でなければ、何とする」
「玉は去られても、命を召されても、お恨みには思いませぬ」
「なに! 去られても、命をとられてもかまわぬというのか」
「かまいませぬ」
ほのめく灯火を受けて、玉子の顔は蒼かった。
「では、明朝、父上に尋ねてみる」
忠興は不機嫌にいった。その言葉に、玉子の表情がこわばった。
「殿! 殿はなぜ、わたくしの言葉を信じてはくださりませぬ? 玉は今、去られても、命を召されてもと、申し上げたではござりませぬか。命をかけての玉の言葉が信じられませぬなら、さ、今、この場で玉の命を召されませ!」
玉子は切り返すようにいった。
忠興は、この件を玉子の耳には入れたくなかった。まだ荒木村重の潔白を信長に伝える道があると思っていた。事実、光秀が間に立って、信長に詫びを入れるよう、村重に交渉しつつあった。事はまだ決定的ではない。今の段階で、玉子の耳に入れ、不要の心配をかけたくはなかった。が、忠興はその事件が洩れたことより、親しく玉子と話した男がいることに、今は激しく嫉妬していたのである。
命をかけての自分の言葉を信じられぬなら、この場で即刻命を召されよと迫った玉子の激しい言葉に、忠興は何もいわずに再び布団の中に入った。それほどまでにいうのであれば、あるいはまことかも知れぬと思ったのである。
が、一夜あけると、忠興はまた疑い出した。荒木村重の反逆を、父の藤孝がそう軽々しく玉子に告げたとは思えないのだ。藤孝は、日頃決して軽挙することはない。村重の郎党が、私腹を肥やすために、本願寺方に毎夜米を運んだに過ぎない事件は、まだ信長に言い開きができる筈である。反逆だと騒ぎ立てているのは、安土城の信長の側近の者だけで、共に本願寺を攻めた自分たち細川親子も、明智光秀も、荒木村重をいささかも疑ってはいない。今の段階で、何も女子供に告げることはないのだ。
これを父の藤孝が玉子に話したとは、どうしても思えない。とすれば、誰であろう。河喜多|石見《いわみ》ででもあろうか。河喜多石見は玉子に従って、明智家より細川家の家人となり、千石の知行を得ている実直な男である。
(いや、あいつは五十七にもなっていて、分別のある男だ)
運ばれてきた朝の膳を前に、忠興はむっつりとすわった。
玉子も、忠興の不機嫌な顔を見て、口をきくのを控えている。忠興の胸のうちは、玉子にも見えている。忠興は、必ずや藤孝に尋ねるにちがいない。が、藤孝は玉子に、荒木村重の反逆のことなど一言も語ってはいないのだ。自分が嘘をいったと知ったら、夫忠興はどんなに激怒することであろう。今考えると、最初から、弟の頓五郎がいったといえば、何のことはなかったのだ。
なぜ、そういえなかったのか。玉子は考えながら、箸を動かしていた。
確かに、そういい出せないものが、昨夜の忠興にはあった。もし、頓五郎から聞いたといえば、叱責が頓五郎に向けられるおそれはじゅうぶんにあった。行きがかり上、この家の家長である藤孝から聞いたと、玉子はつい、いってしまったのだ。父の藤孝には、日頃忠興も心服していた。
それにしても、うかつであったと、玉子は飯の味もわからなかった。
恐る恐る忠興を見ると、忠興の目が射るように玉子に注がれていた。その鋭い目の光を見た瞬間、玉子はふと驕慢な微笑を浮かべた。
姉の嫁ぎ先の荒木村重の噂を聞いたのが、なぜそんなに悪いのかと、ふいに開きなおる気持ちになったのだ。忠興の胸中の嫉妬には、玉子は気づいてはいない。玉子の不敵な微笑を見て、忠興は視線を外《そ》らした。
荒木の謀反を父の藤孝から聞いたなどと偽って、この女は一体誰をかばっているのであろう。忠興は、自分でも制御しがたい妬心をぐっとこらえて、とにかく、藤孝に真偽のほどを確かめようと思った。
女中が膳を下げた。
「ご苦労さま」
落ちついて玉子はねぎらった。
と、その時、廊下に静かな足音が聞こえた。玉子はぎくりとして忠興を見た。ゆっくりと、落ちついたその足音は、まぎれもなく舅の藤孝のそれである。
「お早うござります」
玉子は廊下に出て、手をつき、深々と礼をした。
「ああお早う」
鷹揚に挨拶を返して、藤孝は部屋の中の忠興に目を移した。忠興も膝に手を置いたまま礼をした。固い表情である。
「疲れたであろう、与一郎」
「何の、疲れはいたしませぬ。父上こそ、お疲れでござりましょう」
忠興は廊下の玉子をけわしく一瞥した。藤孝は忠興の表情をすばやく捉えたが、さりげなく微笑し、
「与一郎、わしはこれから、これじゃよ。疲れるどころか」
と弓を引く真似をした。弓をとっては、当代一とうたわれる藤孝の胸は厚い。
「父上!」
忠興はニコリともせずに、藤孝をひたと見上げた。まだ弱年の忠興は性急であった。
「何じゃ!」
「お玉は、荒木殿ご謀反の噂を、父上より伺ったと申しますが、それはまことでござりますか」
ハッと玉子は忠興を見、そして藤孝を見た。
「まことであったら、どうだと申すのじゃ」
藤孝は一呼吸も置かずにいった。何のたじろぎもない。玉子は目をみはった。
「まことであれば、よろしゅうござります」
「まことでなければ?」
「誰が、お玉にそのようなことを告げたのか、詮議しなければなりませぬ」
藤孝は声高く笑って、
「お玉、なぜ黙っておれと申したに、語ったのじゃ」
「…………」
「まあ、よい。お玉、昨日も申したとおり、吾々は荒木殿には、叛意はないと見ている。今、そなたの父上が右府殿と荒木殿の間に立って、円満をはかっておられる。何も心配することはないぞ」
思いがけない藤孝の言葉に、玉子は思わず涙がこぼれた。涙をこぼしながら、玉子は藤孝という人間の温かさと大きさに、心の底から驚き打たれていた。玉子の偽りを、藤孝は一言も咎めず、言下にとりつくろってくれたのだ。
「父上! しかし、それでは約束がちがうのではござりませぬか」
「何がじゃ」
「父上は、昨日、お玉の耳に入れて心配をかけるなと、仰せられたではありませぬか」
「うむ。申した。が、わしの口からお玉にいわぬとは申さぬぞ」
「それは……」
「他の者から耳に入ることもあるかと案じてな、わしの口からいっておいたまでじゃ。それでよかろう」
「…………」
「与一郎、平蜘蛛の釜じゃの」
「え?」
「お玉は、そなたにとって、平蜘蛛の釜であろうと申すのじゃ」
いい捨てて、藤孝はゆっくりと立ち去って行った。
「そうか、やはり父上がいわれたのか。わしが悪かった」
忠興は率直であった。玉子はぼんやりと、藤孝の曲がって行った廊下を眺めていた。
「許せ」
機嫌のよい忠興の声であった。
「あなたは、わたくしを信じてはくださりませんでした」
わざとすねたように玉子はいったが、その目はやさしくぬれたままだった。
「いうな。だから、許せといっているではないか」
玉子に親しく語りかけた男がいなかったことで、忠興の機嫌はなおっていた。その忠興を、
(お舅上ほどの器量に……)
成長するであろうかと、玉子はみつめながら、
「これからは、信じていただきとう存じます」
と念を押した。
「わかった。信ずる。ところでそなた、今、父上のいわれた平蜘蛛の釜とは、何か知っているか」
忠興は話題を変えた。
「はい、去年お果てなされた松永弾正様の……」
「そうだ。松永弾正の秘蔵の名器でな。信長殿|垂涎《すいぜん》の茶釜であった」
信長は、自分に謀反した弾正に対して、平蜘蛛の釜を差し出して降伏せよと、度々使者をつかわしたが、弾正はその名器平蜘蛛の釜を城の上から地上に叩きつけてこわし、火のまわった城内で自害して果てた。
主家の三好家を亡ぼし、将軍義輝を殺して、悪名の高かった弾正らしいその最期は、女たちも聞いて知っていた。
「よいか、お玉。そなたはわしにとって平蜘蛛の釜じゃ。誰がそなたを求めようと、決して誰にも渡しはせぬ。弾正が、平蜘蛛の釜と、この自分の白毛《しらが》首の二つだけは、決して信長公のお目にはかけたくないといって、死んだ心意気がわしにもよくわかるのだ」
それは確かに、新妻に対する熱愛の言葉ではあった。が、玉子はなぜか、不安な思いが胸中にかすめるのを覚えながら、その言葉を聞いた。
八 氷雨
月が変わって、十一月となった。
その夜、玉子は舅の藤孝と夫の忠興から荒木村重の嫡男に嫁いでいる姉の倫が、坂本城の光秀のもとに帰され、しかも光秀が荒木を攻めに出たという話を聞かされた。
「え? 父上が荒木さまの攻め手に?」
驚く玉子をなだめて、藤孝は事の次第を語り聞かせた。
荒木村重に叛意はなかった。そもそもは、村重の従弟の中川清秀の郎党が、敵の城中に夜な夜な米を運んだという、全く一個人の利をむさぼる一件であった。それが信長に報告され、村重の謀反と見なされたのだ。
最初は信長でさえ信じなかった。信長は光秀ら三人を村重に遣わし、その事情を聴取させ、たとえ叛意があっても慰留せよと命じたほどである。
村重もまた、もとよりそんな謀反気などあろうはずがないと、光秀たちに言明した。信長もその言葉を入れた。が、村重の母を人質に出すようにと要求したことから、事は思わぬほうに紛糾して行った。
村重は豪快で単純な男である。
「なぜ母上を人質にやらねばならぬ? 殿はやはり、わしを疑っていられるのか」
と、人質の要求をはねつけた。信長は珍しくあわてて、別に疑っているわけではないがと、光秀、秀吉らを説得に赴かせた。
だが、村重の家臣たちが進言して、
「信長公は、如何に大いなる勲功を建てた臣でも、一旦意に逆らった者は、いつかは必ず亡ぼさずにはいられないお方である。この際、むしろ、毛利氏のもとに逃げるのが賢明でござろう」
といった。従弟の中川清秀も、
「安土で詰め腹を切らされるよりも、戦ったほうが、武運を全うできるのではござらぬか」
とすすめた。
結局は、一旦反逆の噂が立った以上、安心して信長のもとに帰るのは危険であると、荒木方では判断したのである。こうして、謀反の意志のなかった村重も結局は反逆者として攻められることになった。
しかも、討ち手は光秀である。光秀とて、娘の嫁ぎ先を攻める役目は、耐え難いところであろう。その光秀の気持ちを百も承知で、信長はこの役を命じた。
「それはなぜか、わかるかの? お玉」
藤孝は、ほのめく灯影に照らされながらうつむいている玉子を見た。寒い夜である。肩のあたりが冷たいほどだ。
「はい。もしや、父も荒木方に心を通じてはいまいかと、右府様のお疑いによるのでは……」
「であろうの。そなたの父上としては、いやでも出兵せねばなるまい。その光秀殿の立場を顧慮して、荒木殿はそなたの姉を離縁にして帰されたのだ。荒木殿は立派な武将じゃ。いま、亡ぼすのは惜しい」
父と信長らの関係がこじれれば、細川家にも迷惑が及ぶのは必然である。父光秀が、娘の嫁ぎ先を討たねばならぬ苦しさが、玉子にも痛いほどわかるのだ。
「父だけが、荒木様の攻め手でござりますか」
「いや、明朝父上もわしも征《ゆ》く」
それまで黙っていた忠興がいった。
「え? お二方も!」
「うむ」
自分が細川家に嫁いでいるために、信長は藤孝と忠興まで、荒木の攻め手にしたのであろうと玉子は思った。
「それは……ご苦労さまに存じます」
「荒木は手強《てごわ》い。荒木も手強いが、高山右近殿も更に手強いからの」
「右近様とも戦うのでございますか」
「うむ、いやな戦じゃ。荒木殿は右近殿の、主筋でな。ま、とにかくそういうことじゃが、これが今の世のならいでの、あまり案ずるでないぞ、お玉」
「…………」
「与一郎、お前も今宵はゆっくり眠るがよい」
ふっと何かを考えるように、藤孝はその大きな目を宙に据えた。
翌朝、氷雨の降る寒い中を、藤孝、忠興、興元が出陣した。それを見送る玉子は、いい難い思いであった。舅も夫も義弟も、玉子の姉の嫁ぎ先であり、この家の親しい友人でもある荒木村重を討ちに出かけるのだ。荒木村重がこの城に来て、酒興に持ち上げたという庭の大石を眺めながら、玉子は男の戦いの世界が、ひどく無気味なものに思われてならなかった。
間もなく、玉子は村重配下の高槻城主高山右近が織田側についたことを知った。それは清原佳代が伝えたのである。
「右近様父子は、血を吐く思いで、村重様を裏切りなされたとのことでございます」
「まあ! 右近様が裏切りを……」
佳代の言葉に、玉子は言葉短く問い返した。
先日、玉子は佳代から、右近の噂を聞いたばかりであった。それは、右近父子が貧しい一領民の死に際して、その棺をかついだという話であった。墓掘りや棺をかつぐことは、賤民の仕事とされているこの時代に、そんな領主がいるとは何と驚くべきことかと、玉子は感動して聞いたのである。
この貧しい領民に対する話のみならず、今まで玉子は、右近父子の謙遜で真実な人柄を伝える挿話を、いく度か聞いてきた。
ある冬の日、右近は領内を見てまわっていた。その日は特別寒さがきびしく、吐く息も凍るかと思うばかりに白い。と、一人の領民が見るもみすぼらしい着物を着て、寒さにふるえている。ひじは破れ、膝はぬけたその着物から、鳥肌立った素肌があらわに見える。
右近は直ちに自分の着衣を脱いで、その男に与えた。それは仕立てたばかりの真新しい衣服であった。男は驚きと喜びの余り、口をきくこともできなかった。
帰城した右近を見、夫人が驚いて尋ねた。
「殿、仕立ておろしのあの着物、いかがなさりました?」
右近は莞爾《かんじ》として答えた。
「喜べ、あれは、イエズスさまにお捧げいたしてきた」
これを聞いた夫人もにっこりとほほえみ、胸に十字を切ったという。
また、右近は貧民のみならず、捨て子も、人の忌み嫌う癩病人をも、うやうやしく扱うこと、神に対する如くであったなどなど、玉子は佳代から聞かされていたのである。
まだ、右近には会ったことはないが、心ひそかに尊敬を覚えていた玉子には、右近がその主筋を裏切ったということは、大きな衝撃であった。
右近とその父は、もと高槻城主和田|惟政《これまさ》の臣であった。が、惟政の死後、暗愚なその子惟長は、人にそそのかされて高山父子を暗殺しようとした。父子はその情報を聞き、荒木村重の助けで惟長を討った。こうして、右近の父は荒木村重によって高槻城の城主となったのである。
「佳代どの、右近様は荒木様への恩義を、どのように思し召していたのでしょう?」
玉子の言葉に、佳代は黙って吐息をついた。
「右近様も、結局は恩を忘れて、自分の都合のよいほうに、お味方なさったのですか」
「いいえ、奥方様、それはちがうのでござります」
佳代は、はっきりと頭を横にふった。
「では、どうして恩ある方を裏切ったのでしょう」
「奥方さま、右近様がそうなさったのには、実はわけがおありなのでございます」
「どのようなご事情がおありだったにせよ、右近様父子は、荒木様のおかげで高槻の領主になられたわけでしょう。わたくしは、それほどの恩義ある方を裏切ることを許せませぬ」
「それは……でも、それでは右近様がお気の毒でござります。実は右近様は決して裏切るおつもりはござりませんでした」
「それは、そうでしょうとも。でも、結局は裏切っておしまいになられました。一体、どんな事情がおありだったのですか」
「あの……」
佳代は口ごもり、
「あまり口外できぬことですが……」
「口外できぬこと?」
「ええ、それは、もしかすると信長様を悪くいうことになるかも知れませぬので……」
清原佳代はその澄んだ目を、まっすぐに玉子に向けた。
「それはまた、どんなことでしょうか」
「信長様は、ご存じのように、荒木様にとっても、右近様にとっても主君でいらっしゃいます。それで、右近様はご自分の命は召されるのを覚悟で、決してご謀反なきよう荒木様をいさめられました。けれども、ご存じのように、事は思わぬ方に流れて、荒木様は謀反人ということになられたわけでございます」
「それで?」
「それで信長様は、右近様の秀れた武勇を惜しんで、何とか右近様の高槻城を手に入れたいとお思いになり、考えついたのはパアデレのことなのです」
「パアデレ?」
聞き馴れぬ言葉に、玉子は首を傾けた。
「ええ、あの、それはキリシタンの神父さまのことでございます」
「神父?」
この言葉もまた、パアデレと同じほどに、玉子には聞き馴れない言葉であった。
「はい、神の言葉を信者に説いてくださる霊の導き手でございます」
「ああ、ではお寺のご住職と同じお役目?」
「早くいえば、そうなりますが……」
「なるほど、わかりました。信長様は、そのパアデレにすすめて、右近様たちを説いて味方にしようとお思いになられたということですか」
さすがに玉子は察しが早かった。
「はい。パアデレを召された信長様は、右近のような立派な人間は、二人といない。右近さえわたしについてくれるなら、荒木村重も許してつかわそう。どうかこの旨を右近にとりついでくれるよう尽力してくれと、それはもう涙声であられましたとか」
「まあ、信長様が、涙声で……」
玉子は信じられぬ面持ちをした。
「はい、信じられぬことかと存じますが……。信長様は、このことに尽力いたさば、より一層キリシタンを保護し、右近には領地を与えると、パアデレに誓紙を書写してくださったそうにござります」
「まあ! それで、その領地ほしさに右近さまは……」
「とんでもございませぬ。右近様は、村重様が本当に許していただけ、ご領地もそのままならば、勧告に従ってよいとお思いになられたのでございます。でも、右近様と村重様との話し合う間も待ちきれなくなられた信長様は、村重様を亡ぼし、右近様はご自分のものとしたいご魂胆を抱かれ、とうとう村重様を攻め、右近様を遠巻きに遊ばし、遂に恐ろしい脅迫状を右近様に突きつけたのでござります」
「恐ろしい脅迫状? それは……」
「はい。恐ろしい惨《むご》い脅迫状でございます。即刻、開城せよ。もし、開城をためらうならば、神父様という神父様を、直ちに高槻城の真正面で磔《はりつけ》にする。そして、領内のキリシタンをみな殺しとし、教会はことごとく焼き捨てると申してきたのでござります」
「なんと、それはまた非道な」
「そして、もし開城するならば、右近様には摂津の国の半分を与え、キリシタンはいよいよ篤《あつ》く保護すると書き添えてあったと申します。摂津の国はともかく、領地のキリシタンはみな殺し、パアデレは全部磔、むごい脅迫とはお思いになりませぬか。卑劣な織田殿のお仕打ちとお思いにはなりませぬか」
「……なるほど、そのようなことが……」
「奥方さま。もし奥方さまならどうなさります。右近様の領地に、キリシタンは二万もおりますし、ご家来衆のほとんどがキリシタンでございます。奥方さまは、その領民を、領主として見殺しになさりますか。罪もないパアデレたちが、異国のこの地で磔になるのをお望みになりますか」
「…………」
玉子は、じっと考えこむ表情で、小袖のひざ頭をみつめていたが、やがて顔を上げ、
「恩人への裏切りが、多くの人々を救うということもあるのでしょうか。わたくしには、これまで、考えてもみないことでした」
「生きるということは、罪深いことだと、パアデレもおっしゃっておられます」
佳代はいったが、この言葉はまだ、玉子の関心を惹かなかった。
「佳代どの、人間には、誰の目から見ても、完全に正しくあることは、不可能なのでしょうか」
「事にもよりましょうけれど……正しく生きたくても、人の世は正しく生きさせてはくれませぬ」
「考えてみますと、荒木村重さまにしても、そもそもはご謀反ではなかったとのこと……」
「はい。右近様にいたしましても、村重様を裏切るおつもりは全くなかったことですのに……」
二人は顔を見合わせて、ほおっと大きく息をついた。
「この細川家も、明智の父も、いつ右近様のような立場に立たされぬとも限りませぬ。そう思いますと、何やらひどく侘びしい気がいたしますこと」
「奥方さま、パアデレは、毎日、毎時、わたくしども人間は、右をえらぶか、左をえらぶか、選択を迫られて生きていると申されます」
「右をえらぶか、左をえらぶか?」
つぶやくように玉子はいい、
「ほんに、そうかも知れませぬ。簡単にえらべるものなら、悩みはござりますまい。佳代どの、姉上は荒木様から帰されて、毎日何を考えているとお思いですか?」
「さあ……それは」
「わたくしには、姉上が死ぬべきか、生きるべきかと考えているようで、いたわしくてなりませぬ」
「…………」
「そばで見ておられる母上も、さぞかし辛いことでしょうけれど……」
「…………」
「女は、殿方次第で嫁がせられたり、帰されたり……。女には、血も涙もなくて生きていると、殿方は思っているのでしょうか。女にも、悲しむ心、憤《いきどお》る心はありますものを」
坂本城にあって、姉の倫は今何を考えているかを思うだけでも、玉子の心はしめつけられるようであった。
佳代が目を上げていった。
「奥方さま。わたくしが一生嫁ぎとうないと申し上げました気持ち、おわかりでござりましょう」
「確かに。……でも」
「でも?」
「ええ、悩みもさることながら、わたくしはやはり、今は嫁いだことが幸せにも思われております」
玉子はふっと、顔を赤らめた。その玉子に、佳代はあたたかいまなざしを向け、
「奥方さま、いつまでもお幸せでありますように、佳代はお祈りいたします」
「ありがとう。うれしく思います。ところで佳代どの」
「何でしょうか」
「わたくし、この間、ふとこう思いました。もし、佳代どのが頓五郎さまとご結婚なされば、わたくしたちは一生姉妹で暮らせるのではないかと」
「まあ、頓五郎さまと?」
一瞬、佳代の目に複雑な影が走った。が、玉子はそれに気づかなかった。
十一月二十四日、突如、荒木村重の従弟、中川清秀が信長に降った。もともとは中川清秀の郎党が敵方に米を売ったことに端を発した謀反事件であった。その中川清秀が降って荒木村重だけが取り残された。
信長は中川清秀に金子三十枚を与えて、これを賞《ほ》めた。
最初、荒木村重が信長と和を結ぼうとした時、強硬に反対し、安土で自害するより、毛利方につけといったのは中川清秀である。その当人が信長に降ったことで、世間は中川を悪あしざまにいった。
信長は、荒木を攻める攻めるといいながら、なぜかいつものように激しい火攻めもせず、主力の光秀を丹波平定に向かわせ、秀吉を播磨に帰してしまった。
藤孝と忠興は、有岡の付城《つけじろ》で滞陣し、のんびりとした正月を迎えた。
「忠興、殿は一体荒木殿を、どう思っていられると思う?」
「殺す気はないのでしょうな」
「吾々としても、あの快男児は生かしておきたいからのう」
「しかし、中川の奴だけは、攻めほろぼしてやりたく思いましたが」
「いや、犬でも猫でも、むやみに殺してはならぬ」
「どうも父上は、なまぬるい」
「いや、なまぬるいように見えるが、これは、むずかしい生き方ぞ! 与一郎、よく憶えておけ」
敵が親しい友の荒木であり、信長もあまり攻めたくない様子では、藤孝も歌を詠んだり、句作をしたりするしかない。元旦につくった、
あすと思ふ春やけふさへ朝霞
の色紙が、有岡城の書院にかざられていた。
信長からは、雁や鯨を正月の馳走に贈られ、藤孝自ら包丁を取り、忠興と共に調理して、滞陣の諸将に振る舞った。信長からの正月十二日の書簡には、
「追って此の鯨は、九日知多郡に於て取り候由候て到来候。則ち禁裡御に御所様へ進上候云々」
と書かれてある。
そんなところに、荒木村重から使者が来たという。藤孝は取るものも取りあえず、奥の書院に使者を通した。さすがの荒木も、一向に攻めてこぬ藤孝の真意をはかりかねて、無気味に思ったか、戦うが如く、戦わぬが如き日々に飽きて、和議を申し入れてきたか、そう思いながら、藤孝は使者に対した。
使者は目をくぼませ、頬はこけていた。荒木もまた、このようにやつれているであろうかと、藤孝は胸が痛んだ。
「壮健でいられるか」
「は、先ずはおかげさまにて」
使者は言葉少なにいい、文箱を手渡した。
(彼も降るか!)
それを念じつつ開いた黒ぬりの文箱には、短冊が一枚入っていた。手に取った藤孝は、息をつめる思いで、一気にそれを読みくだした。藤孝は破顔一笑した。短冊には、
手に余る荒木の弓を打にきて
ゐるもゐられず引くも引かれず 村重
と狂歌がしたためられていた。
再び藤孝はこれを読んだ。親友荒木の筆のあとを懐かしげに眺めていた藤孝の目がぬれた。が、じっと自分をみつめている使者の視線を感じて、藤孝も机の上の短冊を一枚とって片手に持ち、さらさらと筆を走らせた。
手に余るあら木の弓の筈違ひ
ゐるにゐられぬ有岡の城 藤孝
この短冊に添えて、藤孝は信長より贈られた鯨肉をも、使者に持たせて荒木のもとに贈ったのである。
九 覇道
(事の多い年であった)
天正七年も暮れようとしている十二月二十五日。昨日、丹波の亀山城から坂本城に帰った光秀は、書院に疲れを休めていた。
鉛色の琵琶湖の上に、雪が小やみなく降っている。今日も光秀の傍らに、従弟の弥平次光春と、初之助が侍《はべ》っていた。初之助は弥平次と共に、光秀の傍を離れることがほとんどない。
かつては雑兵《ぞうひよう》で、光秀のくつわをとっていた初之助も、度々の武功によって、今は立派な武士である。今年の七月、光秀が丹波峯山城を攻めた時にも、立派に武勲をたてた。その時光秀は、細川藤孝、忠興と共に、小高い山の上から戦を指揮していた。敵は波多野の一族である。光秀の部下荒木民部|少輔《しようゆう》が先駆けとなったが、意気地なく切りまくられた。誰かが、
「何事ぞ、あのさまは」
とどなった。と、敏捷に走り出た若者がいた。走り出たと見る間に、若者は敵の首級を挙げ、光秀のもとに来た。初之助であった。光秀は、思わず軍扇で膝を打って初之助をほめた。光秀は感状に、
「その方のこと、今に始めざる働きなり」
と書いて与えた。
が、初之助は心奢《おご》ることもなく、馬のくつわを取っていた時と変わらぬ態度であった。
今も、初之助はやや憂いを帯びたまなざしで、静かに控えていた。弥平次光春は、なぜか以前より生き生きとした表情を見せている。
「のう弥平次」
光秀は静かに弥平次を見た。
「何でござります」
「わしは、この坂本城に帰るのが辛かったぞ」
「お察しいたします」
磊落《らいらく》な弥平次も目を伏せた。
「倫はさぞ辛いであろう」
弥平次は答えることができなかった。
荒木村重が伊丹の城を守りきれなくなって、尼ケ崎に逃れたのは、九月だった。光秀は最後まで、村重が信長と和睦するよう働きかけた。信長も、村重の反逆以来一年有余、信長には珍しく、気長に村重の出方を見守っていた。
しかし、村重は再び信長に仕える心はなかった。村重に信長への離反をすすめた重臣たちが、今になって信長の言葉を信じ、まだ伊丹に残っていた村重の妻子たち三十人余りを、人質として信長にさし出し城を明け渡した。光秀のはからいで尼ケ崎花隅を渡せば、荒木一族の命は助けるということになった。そこで重臣たちは、この上は尼ケ崎を明け渡してくれるようにと村重に説得をつづけた。が、村重は頑として応じなかった。
それまで、村重の降るのを待っていた信長が、突如として、狂ったように怒った。
この十二月十二日、信長は伊丹からの人質三十余人を、京都に送らせた。十六日には、それらを裸にし、車にしばりつけて都中をさらしものにして引き廻させ、その直後六条河原で一人残らず斬首した。女子供は泣き叫び、あるいは気を失ったが、情け容赦もなく殺した。
しかも、そればかりではなかった。その三日前の十三日には、村重の女房たち百二十二人を尼ケ崎に近い七松《ななつまつ》で磔の刑にしていた。寒風の吹きすさぶ七松は女たちの血で赤く染められていたのだ。
いや、更に酷《むご》い仕打ちがなされていた。まだ年若い下女や、頑是《がんぜ》ない子供たち三百八十八人と、若党百二十四人を四軒の家に押しこめ焼き殺したのだ。
集まってきた見物の者たちが、いかになりゆくかと固唾《かたず》を飲んで見守る中に、信長配下の者は家のまわりに干し草を山と積んだ。
「もしや、焼き殺すのでは」
「よもや、あのような幼き童《わらべ》らもたくさんいるものを」
「いやいや、上様は恐ろしいお方じゃ」
歯の根も合わぬ思いで見ていた群衆はささやき合った。果たしてその干し草に火は放たれたのだ。白い煙の中に、赤い火炎がめらめらと上がる。その火が家を包み、ばりばりと音をたてはじめる頃、悲鳴とも獣のうなりとも分かちがたい声が四軒の家から湧き起こった。
こうして、五百十二名の命は灰と化したのである。この残虐な刑は、京大坂はおろか、たちまちにして日本中に知れ渡った。光秀もこのうわさを亀山城で聞いた。その時光秀は、
(あの鬼|奴《め》が!)
と、思わず声を上げるところであった。光秀が間にたって、和平をはからっていただけに、怒りは激しかった。今もその時の怒りが光秀の胸にくすぶっていた。
「お倫さまも……」
いいかけて初之助は言葉を濁した。何といったらいいのか、光秀の苦衷に応《こた》える言葉がなかった。
「うむ、荒木が倫を返してくれなかったなら、あれも六条河原で磔にあったか、焼き殺されていたかじゃ」
「まことに危ないところを……」
弥平次も言葉少なにいった。
「いや、助かった倫の辛さ、これも格別じゃ。めめしいことだが、わしは倫を見るに忍びぬ」
「殿、胸中いかばかりかと存じまする。……それにしても、荒木殿の心も解せませぬ。既に安芸《あき》に逃げられたげにござりまするが」
「うむ」
弥平次の言葉に、光秀は深く腕を組んだ。
「荒木殿さえ、尼ケ崎を明け渡したならば、人質の女子供は、ああまで惨い目に遭わずとも、すんだのではござらぬか。のう、初之助」
「まことに。荒木殿は豪雄と伺いましたが、豪雄も当てにはならぬものと思いまする」
「なまじ、天下無双の力持ちなどとうたわれたお方だけに、ひどく裏切られたような気がするというものじゃ。殿、殿はいかが思し召される?」
弥平次の問いに、光秀はじっと腕を組んだまま、
「さあてのう」
と吐息を洩《も》らし、
「人間というものは、そう簡単には評せぬものよ」
と、つぶやくようにいった。
「しかし、荒木殿は無責任に過ぎると思われませぬか」
「されど、ものは考えようじゃ。のう、弥平次、初之助。もし、自分が荒木殿の場にあらば、そなたたちはいかがであった?」
「……さて、それは……」
「わからぬであろう。とにかく、荒木殿は根が単純なお人じゃ。まさか、信長殿があれほどの大虐殺をするとは、夢にも思わなかったであろう。何しろ、罪のない女子供を、磔にしたり、焼き殺したりする惨酷さは、並の人間の持ち合わせぬところだからの」
弥平次はちらりと光秀を見た。「並の人間の持ち合わせぬところ」といった言葉に、日頃の光秀らしからぬ棘《とげ》を感じたからである。弥平次は賢い男である。そして、従兄光秀の、武将としての知謀、教養、すべてに心服している。だから、弥平次は光秀の心の動きに敏感であった。
「全く、右府殿の惨さは、異常どころか、気狂いじみてござる」
「弥平次、あまり大きな声では申せぬことよ」
光秀がたしなめた。
「大きな声では申しませぬが、天下の誰もが怖気《おじけ》をふるったことは確かでござりまするて。いわれてみれば、荒木殿も安芸に逃げるより、いたしかたなかったかも知れませぬな」
「荒木殿も気の毒な方じゃ。中川の郎党が本願寺に米など売ったばかりに、飛んだ渦中に巻きこまれてのう」
「しかし、殿、それもこれも信長殿が、あまりに冷酷なるため、詫びることさえむずかしかったからではござりませぬか。信長殿は、配下の者にきびしすぎまする。というより、あまりに粗末に扱いなさる」
「うむ」
光秀は、弥平次も自分と同じ思いであると思った。
「伯母上のことにしても……」
「取り返しのつかぬこと、母上のことは、もういうまいぞ、弥平次」
「なぜでござります。弥平次はあの件だけは、織田殿を恨みに思いまする」
「いうても、せんかたないことじゃ。いうて母上が生き返るわけでもあるまい」
黙っていた初之助が、
「おやさしいお方でござりましたのに」
と、しみじみいった。
(そうであった。あれほどにやさしい人はいなかった)
めらめらと燃えるような信長への憤りを、光秀は心の底におさえながら、今は亡き義母の登代を思った。
義母の登代が殺されて、まだ半年しか経っていない。
この年六月、光秀は信長に命ぜられていた丹波平定に心を砕いていた。波多野一族が手強く反抗していた。その一族と荒木村重が気脈を通じているという噂も流れた。氷上城の波多野宗長、宗貞父子については、秀吉の弟の羽柴秀長に助けられて、これを攻め落とすことができた。
だが、光秀が全責任を持って当たっている八上城はなかなか落城しない。光秀は内心焦慮していた。八上城主波多野秀治は、四年前には光秀に加担して、丹波平定に共に働いてくれた男だった。が、もともと丹波の城主である波多野秀治は、その翌年、つまり、天正五年には突如として、光秀に対し反逆してきた。この反逆に遭って、光秀は苦戦した。人情の常で、丹波の人心もともすれば同国の波多野に傾きやすい。去就の定まらぬ者は、敵にまわしても戦いづらく、味方にしても、使いづらい。
そこで光秀は、この度《たび》意を決して兵糧攻めにしたが、兵糧攻めは月日を要する。戦いが長びけば、当然味方の士気も衰えてくる。梅雨の頃とて、陣中は一層陰鬱となり、且つ、だらけた。一様に顔色も悪くなり、誰もが戦に飽きてきた。それは光秀の最も厭《いと》う兵の状態であった。それ故に、光秀は一層焦慮したのである。
もっとも、敵側の八上城内に於ては、それ以上に悲惨な状態になっていた。兵糧は疾《と》うに尽き果て、草木の葉も食い尽くし、まさに餓死寸前の状態で、重臣たちも判断力、決断力を失い、中には発狂する者もあった。
光秀はこの機に乗じ、波多野秀治ら三兄弟を降伏させようとした。しかし彼らは、降伏後の信長の処置を恐れて、城から出ようとはしない。
無理からぬことと光秀は思った。光秀としては、四年の長きにわたって、ここまで抵抗した波多野兄弟を、敵ながら天晴《あつぱ》れと思う心がある。降伏するならば、力強い味方となるであろうし、丹波の人心を和らげるにも役立つにちがいない。
再度使者を派遣すると、「人質を差し出すなら、信長と和睦してもよい」という返事が来た。
ここで、光秀ははじめて、自分の家族を人質に出すかどうかという問題に直面した。無論、この段階では相手を攻め亡ぼすことができる。人質を出すのは大きな譲歩である。光秀はしかし、後々のためにもそれをよしと判断した。だが、さて人質に誰を出すかは、大きな問題であった。いつ、その命が奪われるか測り難いのだ。到底妻の子を人質に出す気にはなれない。子を妻として愛し、誇りにも思ってはいるが、疱瘡のあとを敵方の目にさらすのは哀れだと思う。それに、村重の謀反で戻された倫に、子は心痛を重ねている。
息子の十五郎は十歳だから、人質にやるには幼すぎる。といって、戻ったばかりの倫を人質にやるわけにはいかない。義母の登代は、もう七十に近い。これまた、人質に出すには忍びない。
(誰にすべきか)
光秀は迷った。一旦は、長子の十五郎にしようと思い、また、妻の子にしようとも思った。迷いに迷っていた時、光秀はふっと、玉子がまだ十一、二歳の頃にいった言葉を思い出した。
「誰かを人質に出さねばならぬ時、誰を人質にするのですか」
玉子は子供らしく、率直に尋ねた。一瞬ぎくりとしたことを、光秀は憶えている。玉子は、
「お父さまは、きっと玉子を人質に出すでしょう」
といった。確かに、今、もし玉子がいれば、自分は玉子を人質に出すだろうと光秀は思った。
それにしても、人質の選定の何と迷い多きことであろう。自分は情愛に弱すぎるのか。それとも決断が弱いのか。光秀は決しかねた。そうした迷いを重ねたあげく、遂に意を決して、十五郎を人質に出すことにし、坂本城に十五郎を迎えにやった。ところが、果然義母の登代の反対にあったのである。
「この母を大事と思し召し候はば、何卒《なにとぞ》母を八上城にお送り下されたく候。織田殿も、そなたの累年の功をよもやお忘れなされしとも存ぜられず候へば、そなたの母を危地におとし入るるが如きことあるまじく。母はそなたの御働きに役立ち候はば、これに過ぐる幸はこれなく候」
との手紙に、光秀も、登代は年を老いても、この任に耐え得るであろうし、すぐにも波多野兄弟と信長との和睦は成立すると確信して、遂に義母を人質に送ることにした。
光秀は登代を八上城に送り、波多野三兄弟を丁重に迎えた。やつれ果てた彼らに食を与え、衣服を整えさせて、安土の信長のもとに同行させた。
光秀は信長に、
「和睦を願い出ておりまする故、よろしくおとり計らい願いとう存じます」
と申し出た。信長はにべもなくいった。
「光秀。四年前あの兄弟は、一旦味方についた者だ。しかるに何だ。すぐにまたそむいて、そちを今日まで手こずらしたではないか。そのような変心者を許してみたとて、何になろうぞ」
「いえ、この度は彼らも……」
「いうな。二言のある者など、わしには不要だ。磔《はりつけ》にしろ!」
「殿……」
光秀の顔から血が引いた。では、あの母もまた信長は殺せというのか。光秀は平伏した。平伏しなければ、まなじりまで裂けそうなほどに、信長の顔を睨みつけてしまったであろう。
そんな光秀を信長は無視して、ぷいと立ち上がった。
「殿、しばらく。しばらくお待ちくだされませ。今一度願い上げ奉ります。今後の丹波を治むるにも、かの三人は……」
「うるさい。そんなことは、この信長のほうが、よう考えておるわ。光秀! 彼奴《きやつ》らを生かしておいては禍根となるぞ。そちが、わしには相談もなく、そちの母を人質としたるも、わしには憎いわ。そちの母が人質になったる故、彼らを助けよと、このわしに命ずる気か」
「殿、決して、決してそのようなつもりは、毛頭ござりませぬ」
「わしは、指図されるのは嫌いなのだ。憶えておけ!」
「殿! 殿」
信長は、蹴立てるように、さっと立ち去った。その額に癇癪筋が青く怒張しているのを光秀は見た。もはや取りつくすべはなかった。
波多野秀治等は、信長の命令どおり、安土慈恩寺町に磔の死を遂げた。当然、八上城に送られた母は殺された。しかも、光秀の兵たちに見えるよう楼上で、無残な死を遂げた。
「光秀どの!」
その時、母が叫んだという。
あろうことか、光秀は世人から「母殺し」として指弾された。こんなことになるなら、何も母を人質に出すことはなかったのだ。あのまま、あと幾日か放っておいても、彼らは餓死したのだ。信長への煮えたぎるような憤りを、光秀は波多野一族にふり向けるように、波多野の残党を一人残らず殺した。
このような辛酸をなめながら、光秀は遂に丹波を平定した。その平定を、安土城の信長に報告したのは、十月二十四日であった。この時光秀は、縮羅《しじら》百端(反)を丹波のみやげとして携え、信長に献上した。
(主と従)
光秀は、その苦渋を信長の前に噛みしめていた。
「大儀であった」
信長は、光秀の義母のことなど、なかったように、上機嫌に光秀をねぎらった。が、大盃を傾ける信長を見る光秀の目は冷たく醒めていた。
ともあれ、五年にわたる丹波の戦いは終わったのだ。
「光秀どの!」という母の最期の絶叫が尾を引いたまま、戦いは終わったのだ。
いま、思うともなく、その義母の最期を思っている光秀に、弥平次はいった。
「何にしても、織田殿は恐ろしいお方よ。われらの心を汲まぬお方よ」
「うむ」
光秀はうなずいた。初之助がいった。
「殿! 殿は織田殿とは反対に、われらの心を実によく汲みなされます」
「そうでもあるまい。人間、一度権勢の座につくと、どうも権勢を振るうことに馴れてしまうようじゃの」
「殿はちがいます。第一、信長殿は、今、殿が申されたようなことは、決して申されませぬ」
「どうやら、初之助は人が悪くなったぞ。この光秀を持ち上げてくれるわ」
光秀はようやく微笑した。
「いえ、殿、初之助は真実を申し上げただけにござりまする。殿、織田殿は武力で天下を平定はなされても、民心を安らがせ、楽しませるお方にはなり得ませぬ」
澄んだ初之助の目が、ひたと光秀をみつめた。弥平次が、
「ほう、初之助はよいことをいうの」
と感心した。
「弥平次殿、からかってはいけませぬ。わたくしは漁師の子から召しかかえられた下賤の者、下賤の者故に、下賤の者の痛みも悲しみも存じておりまする。殿は、この下賤のわたくしに、いつも温かい言葉をおかけくださりました。温かい言葉には、いかなる人間も従うもの。いかにきびしくとも、その心が温かければ、喜んで服するものでござります」
「なるほどのう」
「わたくしの口から申し上ぐるのは、憚《はばか》り多きことながら、君たる者には、君たる者の道がござりましょう。王道がござりましょう。しかし、信長殿には覇道があっても、王道はござりませぬ。殿と織田殿とは、この点全くちがいまする」
「なるほど、王道と覇道のう」
光秀は深くうなずいて、目を雪の庭に放った。王道、それはいつか弥平次もいっていて、以来、光秀も心にとめていたことであった。
「覇道は所詮、覇道でござりまする。覇道は早晩亡ぶものと存じまする」
光秀は一瞬ぎょっとした。が、
「そこまでいっては不穏であろう」
と軽く初之助をたしなめた。しかし心の底に、
「覇道は亡ぶ」
という言葉が、抵抗なく胸にひろがって行った。
(織田殿は覇道だ。覇道は亡ぶ。こう、この若者はいっている。つまりは織田殿は亡ぶといっているのだ。何と、大胆不敵な!)
「しかし、初之助の申すとおりと存じますな、殿。人心が屈伏するのは、王道に対してであって、覇道ではござりますまい。織田殿も、天下を平定するおつもりならば、遅まきながら、王道にお励みなさらねばなりますまい」
「結構、織田殿も、その道に励んでいられるではないか」
「楽市・楽座でござるか」
「そうよの。今まで、諸寺諸社に多くの金を献じなければ、商業が営めなかった。が、信長公はそれらを廃し、安土の町民に商業の自由を認められたではないか」
「しかし、殿、あれは安土の繁栄のためが先に立ってのことで、民のためというのは、二の次ではござらぬか」
「だが、その上、押し売り、押し買い、盗賊、喧嘩、火事などの取りしまりも、きびしく行っておられる」
「その火事で思い出し申した。殿、安土の御弓の者の宿から火を発した時に、信長殿は何とせられました? 失火したるは、妻子が同居していなかったからであると仰せられて、尾州に妻子を置いて来た者百二十余名に、安土に妻を呼びよせるよう命ぜられた。それもよい。しかし、信長殿は、二度と妻たちが尾州に戻れぬよう、尾州の私宅百二十余軒を、ことごとく火を放って焼いたではござりませぬか」
「全くでございます。織田殿は叡山の焼き打ち、浅井殿の火攻め、この度の尼ケ崎の焼殺と、焼き殺すことがお得意に思われます。焼いても焼けぬものが、人間の心の中にあることを、ご存じないお方でござりまする」
初之助は若者らしく率直である。二人の言葉が今の光秀には快く耳に響いた。いわば二人は、主君信長の非をついているのだ。光秀の主君は、また二人の主君でもあるはずだ。が、二人は信長を己が主君とは思っていない。弥平次がいった。
「あれから十日あまり経った今も、人焼く臭いが、そのあたりにこもっているそうでござるな。風が吹いても臭いは去らぬ。あのあたりの者たちは、死者の怨霊《おんりよう》の故だと、いたく恐れているそうな」
弥平次にせよ、初之助にせよ、八上城に義母が非業《ひごう》の死を遂げた事の真相を知っている。光秀思いの二人が、信長を恨むのは無理もないのだ。止めれば却って火に油を注ぐことになると、光秀は話を外らした。
「弥平次」
「何でござります」
「その方、四十三歳であったな」
「殿、もう年のことは忘れました」
弥平次はとぼけた。
「初之助は二十二歳か」
「はい」
初之助は目を伏せた。
「殿は五十四歳でござりましたな」
弥平次はいい、
「五十四、四十三、二十二。四、三、二、と、これではまるで語呂合わせでござりますな」
と大声で笑った。光秀は片頬に微笑を浮かべたが、ちょっと何かを考えるように、じっと弥平次の顔をみつめた。
弥平次は顔をひきしめた。
「のう、弥平次」
「はっ」
「倫が不憫じゃ」
弥平次は答えなかった。
「女というものは、かなしい者じゃ」
「…………」
「かの七松《ななつまつ》で殺された者の中には、倫がかわいがっていた侍女もいたであろう」
「…………」
「のう、弥平次。荒木に倫を嫁がせたのは、わしの一代の失策じゃ」
「…………」
「わしには、弥平次の心がわからなかった。いま、初之助は、わしを心を汲みとる男といってくれたが、わしはあの頃、そちの心が見えなかった」
「…………」
「すまぬことをしたと、わしは今日まで、そなたに心の中であやまりつづけてきた」
弥平次は答えようがない。いつの間にか、初之助は座を外していた。
「弥平次、倫もそなたを慕うていたのじゃな」
「え?」
弥平次の声が大きかった。
「荒木の家から、返されてきた時の倫を見て、わしにはそれがわかった。弥平次に顔を合わせた瞬間、倫の体の中に一瞬火が点《とも》ったようにわしには見えた」
「それは、真でござりまするか」
「そちには、それがわからなかったか」
「あるいはと思ったことが、幾度かはござりましたが、幼い時から親しく育ちました故……」
光秀は脇息によって、静かに目をつむった。一時の間沈黙が二人をつつんだ。が、それは心の通う沈黙であった。
「のう、弥平次。お玉がいつぞや申していた。お倫は、嫁ぐことは死にに行くことだと申していたとな」
「死にに行くと?」
「うむ。そういってお倫は泣いていたそうじゃ。嫁ぐは武士が戦争に行くのと一つことだとも、お倫はいっていたそうじゃ。親の言葉に従って、お倫は黙って嫁いで行ったのじゃ。そなたへの思いも、胸のうち深く包んでな」
「…………」
「わしには、それがわからなかった。それはやはり、そちもいったように、二人が幼い時から親しく育っていたためであろう」
「…………」
「弥平次。今になって、そなたにお倫を娶《めと》ってくれというのは、あまりにも身勝手なねがいであろうのう」
「え? わたくしめに……」
弥平次の顔におどろきの影が走り、すぐに喜悦の色に変わった。その弥平次の顔を見ながら、
「身勝手とは重々思うが、どうであろう。弥平次、この際お倫と添いとげてはもらえぬか」
「殿!」
弥平次は平伏した。その手がわなわなとふるえている。さすがに感動の高まりをおさえかねているようであった。やがて、平伏する弥平次が、畳にぽとりと大きな涙を落としたのを、光秀は見た。
「礼をいうぞ、弥平次」
光秀の声もうるんだ。
「かたじけのう存じまする」
ようやく弥平次は顔を上げた。
「今度こそ、わしもよい婿を得た。お倫もさぞ喜ぶことであろう」
「はっ」
いつもの弥平次に似合わず、堅くなっている。
「弥平次。お玉を嫁がせる時も、わしは辛かったぞ」
「と申しますると?」
「初之助がお玉を思っていた」
「初之助が? それは身のほど知らずというもの」
「とはいえまい。人間、人を恋うるに身分の上下はない。いや、人間には本当に上下があるのか、どうか。戦に死んで行く者の姿を見ていると、下賤といえども天晴れに死ぬ者もあり、将といえど、見苦しく死ぬ者もある。とにかく、わしは初之助があわれでならなかった」
「…………」
「弥平次、そちも初之助を一層かわいがってやれ。あれは、玉子を娶ることはおろか、顔を見ることもなく一生を終わるかも知れぬからのう」
「かしこまりました」
「まことにこの天正七年という年は、大変な年であったのう。母上のことといい、荒木のことといい、不幸な年であったが、そちのおかげで、先ずはめでたき年を迎えることができそうじゃ」
二人は顔を見合わせて笑った。
十 ジュスト高山右近
明けて天正八年正月九日、明智光秀は細川藤孝、忠興父子をはじめ、高山右近ら数人を坂本城に招いて茶会を催した。
その帰途、細川父子は、右近を勝竜寺城に誘った。右近を招くことを思い立ったのは、藤孝である。
高山右近は、荒木村重方につかず、織田信長に高槻城を明け渡した。そのことが、信長の心証をよくした。村重一族が亡びた昨年の暮れ、信長はあらためて右近を高槻城の城主とし、旧に倍する領地を与え、四万石の禄を取らせた。のみならず、もともとキリスト教に好意をよせていた信長は、キリスト教保護を天下に宣言し、朱印状を発布した。
この様子を見守っていた細川藤孝は、右近を招いて一席を設けることにしたのである。右近の武勇や、その品性に敬意をいだいていたことも無論であるが、信仰|篤《あつ》い右近に、信長のキリスト教援助の内容や、本願寺派制圧の見通しを尋ねたいという思いが強かった。より多くの情報を集めるというのが、細川藤孝の処世の重要な起点であり、更にそれは若い忠興にも引きつがれつつあった。
いま、細川家勝竜寺城の客殿に、二十八歳の高山右近を囲んで、藤孝、忠興、その弟の頓五郎興元、そして玉子とその侍女清原佳代が並んでいた。藤孝の室麝香《しつじやこう》の方は、昨年生まれた娘の千《せん》が風邪をひき、高熱を発していたので、この席には顔を出してはいない。
床の間には、藤孝がこの年の元旦に吟じた句、
春といへば雪さへ花のあしたかな
の色紙が掛けられてある。
「なるほど、正月なれば、降る雪さえも、花の如き心地であられたか」
右近は句を賞してから、
「今年の元日は、一日雪が降りつづきましたな」
といった。藤孝が応じて、
「全く、地上のすべてを清めるかのように、しんしんと降りつづきましたわい」
「父上、雪が降って何もかも清められるものなら、幸いなことでござりまするな」
頓五郎興元が笑った。体は兄の忠興よりも大きいが、笑うとやはり十六歳の表情となる。
「興元殿には、清めに関心がおありか」
「いや、わたくしめの関心は、勝つことのみにしかござりませぬ」
照れたように興元は玉子をちらりと見た。興元の視線が、ともすれば玉子に行くのを、父の藤孝は先ほどから感じている。玉子は静かな微笑を興元に送った。
玉子は玉子で、先刻より、右近と和気あいあいの中に語り合っている藤孝、忠興の様子を眺めながら、男の世界の不可思議さを感じていた。
一年余り前、藤孝父子は、右近の攻め手となっていた。父明智光秀を援《たす》けて、高槻城に向かったのだ。いわば、右近と光秀、藤孝らは、互いに敵であった。
それが、今は光秀が右近をも茶会に招き、その帰途、こうして藤孝父子が心をこめて歓待している。藤孝父子も、曾ては荒木村重とも、このような歓をつくしながら、のちには戦を交わす立場にまわった。一体この男たちの心の底には、いかなる思いがうごめいているのか、玉子はふしぎでならないのだ。
玉子にとって、荒木一族は姉の倫の嫁ぎ先である。その荒木一族を高山右近は見捨てたのだ。やむを得ぬ事情を既に佳代から聞いてはいるものの、右近に対するわだかまりが、たやすく消える筈はなかった。しかも、今宵はじめての面識である。
玉子はあらためて、右近に目を注いだ。
体格のよい、何ごとにも動ぜぬような正しい姿勢は、噂にたがわぬ天晴れの武将に見える。しかもその柔和な表情と、澄みきったまなざし、謙遜な態度は、聖僧のようにさえ思われて、玉子を戸惑わせた。
「ところで右近殿、荒木村次殿は、安芸でいかなる正月を迎えられたことであろうのう」
忠興が盃をおいて、村次の身に触れた。信長の若い頃によく似た戦闘ぶりであるといわれる十八歳の忠興は、不躾《ぶしつけ》なほどに遠慮がない。藤孝が眉をひそめた。お互い、触れたくない話題である。が、右近は穏やかに、
「痛ましきことながら……正月をお迎えなさるという心地ではござりますまい」
と、その切れ長な目を伏せた。
荒木一族六百六十余名が、信長によって、あるいは磔《はりつけ》となり、あるいは焼き殺されて、まだ一カ月とは経たぬのだ。頓五郎興元が更に無遠慮にいってのけた。
「右府殿の、天下布武の旗じるしはどくろ故、右府殿に敵すればいたし方なきことよ」
右近の目がかすかにくもった。
「頓五郎、口をつつしむがよい」
藤孝がたしなめた。
(天下布武の旗じるしはどくろ……)
玉子は心の中でつぶやいた。
武将たちは、この、どくろの旗じるしに脅《おび》えて、戦いたくもない相手と戦っているのではないか。信長に敵する者は、死を選ぶしかない。それが恐ろしさに戦っているのではないか。
(いや、もしかしたら……)
どの男の胸の中にも、「天下布武」のどくろのしるしのついた旗が、ひそかにはためいているのではないか。ふっと玉子はそう思い、忠興、藤孝、右近の顔を見た。そして、父明智光秀の静かな顔を思い浮かべた。
「のう、右近殿、石山本願寺は一体どうなることであろうのう」
藤孝がさり気なく話題を転じた。
大坂の石山本願寺城は、天下を制せんとする信長にとっては癌であった。足かけ十一年|元亀《げんき》元年以来、本願寺とは熾烈な戦いが繰り返され、双方共に幾万もの人々が血を流してきた。にもかかわらず、本願寺は信長に降らない。
曾て信長と戦った朝倉も武田も浅井も、結局は本願寺と結びついていた。荒木村重も、その本願寺側に寝返った形になった。その上、信長の長年攻め悩んでいる毛利も本願寺を援助している。信長に敵する武将は、すべて本願寺を援けるのだ。はじめは、
(たかが、坊主が!)
といった軽侮の念を持った信長も、今日までの十年間、どれほど本願寺の僧兵、及び門徒の、無気味なほどの底力に脅やかされたかわからない。
従って年が明ける毎に、信長はじめ、信長配下の武将は、本願寺との戦いの結末が心にかかるのだ。
「さて、吾々若輩には、確たる見通しもござりませぬが……」
右近は腕を組んだ。
「わしは、信仰のことはよくわからぬが、この十年石山本願寺の門徒衆の働きを見て参るに、武士よりも門徒衆の結束は実に堅うござるな」
「かも知れませぬ」
「何故でござろうの、右近殿」
藤孝は、右近を見つめた。
「それは、清原マリヤ殿のほうが、よくわかってござる」
右近は、玉子の傍らに、ひっそりと侍っている佳代を見た。その視線の中に、いとも親しげな思いがこめられているのを玉子は感じた。それは、男と女のあの妖《あや》しい情ではない。言いがたい親しげなまなざしながら、決してねばつく視線ではない。これが、信を同じうする者の親しさかと玉子は思った。
「いえいえ、ジュスト様、わたくしなど、ただ天主《デウス》にお仕えするはしため、とてもそのようなことなど……」
「いや、マリヤ殿の信仰は、われらの光じゃ。マリヤ殿には、われわれ足もとにも及びませぬ」
お互いに譲り合う右近と佳代の姿を見ていた興元がいった。
「何を話しておられるのやら、われらにはさっぱりわかり申さぬわ」
右近は苦笑して、
「なぜ門徒衆の結束が、武士の結束よりも強いのかという、細川殿のお尋ねでありましたな」
「さようでござる」
「それは、御仏《みほとけ》を信ずる彼らには、この世に恐ろしいものがないからではござらぬか」
「この世に恐ろしいものがない?」
「いかにも。彼らは権門を恐れませぬ。織田殿がいかに強くとも恐れませぬ。しかし、武士はともすれば自分より強いものを恐れまする。強き者になびき勝ちでござる」
「なるほど、門徒衆は権力を恐れぬといわれるか」
「は、しかしながら、この世に恐れるものは持ちませねど、あの世に恐れを持っておりまする」
「あの世に?」
「は、地獄に堕ちることを恐れておりまする」
「なるほどのう、地獄に堕つるを恐れて、顕如《*けんによ》上人をよう裏切ることはせなんだと申さるるか」
「はい、上人を裏切って地獄に堕つるよりは、喜んで死ぬ者ばかりでござりましょう」
「なるほど、されば織田殿の手を焼かるるも道理じゃ」
「荒木殿の配下が、本願寺城に夜な夜な米を舟で送りましたるも、あれは、利に目がくらんでのことか、あるいは信者の一人としてなしたることか、真実のところはわかりませぬ」
「おお、さようであったか。米をひそかに敵に運ぶとは、単なる利欲にしては、命を張っての大胆な所業じゃ。恐らくは信徒であったにちがいあるまいて。それにしても、織田殿には武器を売らぬという門徒衆もいることじゃ。はてさて、信徒というものは扱いづらいものじゃのう」
今更のように、藤孝は慨嘆した。
「しかし父上、今年こそ織田殿は、本願寺を降すのではないかという噂を聞いておりまするが」
それまで黙って藤孝と右近の話を聞いていた忠興が口をはさんだ。
「ほほう、それをそなたは誰に聞いた?」
「いや、昨日の茶会のあと、ちらりと惟任殿がいっておられた」
「なに? 光秀殿が? 右近殿も聞かれたか」
「いえ、わたくしは伺いませぬ。が、わたくしは、今年は織田殿も本願寺と和議を結ぶのではないかと存じておりまする」
「何? 和議とな」
「はい。一昨年、勅令にて織田殿は本願寺と和議を結ぶ筈でござりました」
その時点では、さすがの信長も、毛利氏との対決に追いこまれていた上、荒木の謀反にあって動揺していた。信徒や僧兵の底力にもいささか侮りがたい脅威を感じていた信長にとって、和議の勅令が降りたことは幸いであった。信長は早速、本願寺及び毛利氏とも和議を成立させるべく手配しようとした。
ところが、荒木村重配下の中川清秀が、信長のもとに帰った。この一事が信長を安心させる結果になった。信長は和議を撤回した。不利な和議を結ぶよりも、やはり戦うべき時と判断したのである。
信長は、六隻の戦艦を造り、鉄砲をこれに備えた。水路から本願寺を援助していた毛利軍を討つためである。
本願寺は既に、味方の朝倉、浅井をはじめ、比叡山の僧侶たち、松永弾正その他諸国の門徒衆を信長によって亡ぼされていた。更に今は荒木村重も毛利方に逃げた(村重はその後|剃髪《ていはつ》し道薫《どうこう》と称して茶人となり、信長亡きのちは秀吉に招かれて茶の湯を以て仕え、利休七哲の一人と数えられるに至る。が、最後は自害して終わる)。その毛利氏も、この頃は織田勢の前に日々敗色が濃くなり、本願寺を援助した昔日の影はない。
従って、本願寺は今、孤立無援にひとしかった。一昨年とくらべて、信長ははるかに優位に立っていた。信長にとって、有利な和議を結ぶ好機ともいえる。この上は、窮鼠猫を噛むことになるやも知れぬ本願寺の門徒衆や僧侶と戦うよりも、そのほうが賢明というものである。
右近はこの間の事情を、一つ一つ思慮深く言葉をえらびながら、藤孝に語った。
「さような次第で、そのうち、必ず和議の勅令が、再び朝廷より降ることと、わたくしは存じておりまする」
右近の言葉に耳を傾けていた忠興が、不審気にいった。
「しかし高山殿。先ほど貴殿は、門徒衆は権力を恐れぬ、死をも恐れぬと申されたではござらぬか。権力をも死をも恐れぬ者が、何条やすやすと和議を結びましょうや」
「仰せの通り、彼らは何ものをも恐れませぬ。しかし、前の御門跡、顕如光佐様はおそらく和議を結びましょう」
「なぜでござる」
「すべての僧や門徒衆が失せ果てては、仏道も亡びまする。生きのびる者がなくては、仏の道もわが国から亡び去りましょう」
「なるほどのう」
藤孝は脇息に身をよせて深くうなずき、
「右近殿は、お若いが先を読んでおられる。やはり信仰の道は異なっても、右近殿も信者、さすがに吾々とはちがった何かをお持ちのようでござるな」
「痛み入ります。何分若輩にて……」
右近は目を伏せた。(この右近の予測通り、この年三月信長は本願寺と和議を結んだのである)
右近は、荒木村重と袂《たもと》をわかち、高槻城を信長に開城する時、大名生活を捨てようとした。右近は決して、単に信長に従ったのではなかった。大忠を全うすべく開城したのである。信長がキリシタン保護の約束さえしてくれるならば、右近はそのままキリスト教伝道に専心しようと決意したのである。
それが、結局は信長に乞われて、やむなく再び軍扇を持ったのであった。そのことは、右近の深い痛みとなっていた。
右近が高槻城を開城すべく信長を訪れた時、信長は小躍りせんばかりに喜び、着ていた小袖をその場で脱いで右近に与えた。そのなまあたたかな信長の体温のこもった小袖を、右近は複雑な思いで受けた。
その折、信長は最も愛着を持っていた秘蔵の名馬早鹿毛を、吉則《よしのり》の名刀と共に与え、且《か》つ領土を倍にさえしたのである。
(あの時……)
右近は、あのなまあたたかい小袖にこもる信長のかなしさを感じとったのだ。信長がその場で、小袖を脱いだという率直な態度にも右近は打たれはした。分別も行儀作法もない粗野な喜びの表現だが、その喜びようには真実がこもっていて、心地よかった。
が、それだけにまた、
(これが信長殿の喜びか)
と、何かむなしさを感じたのだ。武人として、右近も勝つことの喜びは知っている。しかし、小袖と名馬と愛刀と、領地を与えるほどの喜びの内容は、武人の道を捨て、この世の一切の栄誉を捨てようとした右近には、ひどく貧しく思われたのである。
(勝つことが、最高の喜びなのか)
それでよいのかと、右近にささやく内なる声があった。その内なる声を聞いて、信長をあわれに思ったといえば、人は傲慢に過ぎると笑うかも知れない。が、右近は、人間もっと深く聖なる喜びが、別にあることを知っているのだ。
高槻城の城主でありながら、貧しい寡婦に慰めの言葉をかけ、病める者を見舞い、悩みある者の嘆きを聞くことを知った右近は、勝つことよりも、神に仕える喜びの大きいことを知っているのだ。
右近は信長の小袖を受け、この敵の多い主君に今まで通り仕えよう。恐れられても、愛されることのないこの信長に仕えようと思ったのである。そう決意したのだったが、やはりあの時、あのまま武将の生活を捨て、神父《パアデレ》を助けて日々伝道に励んだほうがよかったと、今なお心の痛む右近であった。
その右近を細川藤孝は見守り、
「いや、年はお若いが立派なものじゃ。織田殿が、何としても右近殿を敵に廻したくはなかったお気持ちも無理からぬて」
「父上」
頓五郎興元がいった。
「何じゃ」
「僧や門徒衆といい、右近殿といい、信仰者は皆強うござりますな」
「うむ、それで?」
「わたくしめも戦に強くなるために、キリシタンになろうかと思いまするが」
藤孝は何もいわず微笑した。
「頓五郎、戦に強くなるためにキリシタンになる者はないぞ。強い信仰を持ってこそ、神や仏の加護があろうというものよ」
兄の忠興がたしなめ、声を上げて笑った。忠興の言葉に、佳代がかすかにうなずいた。
確かに、信長の右近に対する執着は大きかった。昨年信長は、安土に右近の邸をつくらせた。高槻に城を持つ右近の別邸である。殷賑《いんしん》の地に邸を与えられることは名誉なことであった。もっとも、それは安土に右近の親族を置くことであり、ていのよい人質であったかも知れない。とにかく、信長はそれほどに右近との絆《きずな》を堅くしておきたかったのである。
その上、右近の望むままに、安土にキリシタンの教会建設を許した。信長は、安土の町に新しく寺を建てることは、許さなかった。以前からあった古い寺は、やむなく黙認という形をとっていた。だから、キリシタンの教会建設はなおのこと許可せぬものと思っていた|オ《*》ルガンチノ神父は、これを聞いて甚だしく喜んだ。
教会建設には、信長は極めて積極的で、今年の春には、土地を与えることになっていた。教会側も三階建ての神学校《セミナリヨ》を建てる計画を持った。無論この中に礼拝堂も設けられるのである。
その計画は、新しがりやの信長を喜ばせた。天下の安土の街に、人目をひく大きな建物が建つことは、即ち信長の威を示すことになる。とにかく、右近の望みがこのように易々として信長に受け入れられたことは、信長の右近に対する信頼のほどが、いかに大きかったかを現すものである。それのみか、
「わしは信者にはならぬが、長子の信忠は、キリシタンとなるであろう」
と公約さえしたのである。
もともと、信長自身は神も仏も信じてはいなかった。|ル《*》イス・フロイス神父の書によれば(このフロイスは、信長に会見した回数が、記録に残っているだけでも、十七回に及ぶという)、
「彼(信長)を支配していた傲慢さと尊大さは非常なもので、彼自身が礼拝されることを望み、彼、即ち信長以外に拝礼するに価する者は誰もいないというに至った。(中略)自らが単に地上の死すべき人間としてでなく、あたかも神的生命を有し、不滅の主であるかのように、万人から礼拝されることを希望した」
と書かれている。
なお、フロイスの書によれば、信長は単に漠然とそう望んだのではなく、自分を礼拝する場として総見寺《そうけんじ》という寺院を建て、自分を拝む者にたまわるあらたかなご利益を並べたてた。いわく、富裕となる。いわく、子孫と長寿を与えられる。病はたちまちにして癒え、健康と平安を与えられる等々である。
しかも、信長の誕生日を聖日として参詣せよ。これを信ぜぬものは、現世は無論のこと、未来永劫に至るまで亡びるというのである。
このような信長が、右近の希望通り、安土に三階建ての礼拝所及び神学校《セミナリヨ》の建立を許可したのは、あるいは本願寺派の仏徒一門に対しての、一つの布石であったかも知れない。
また、昨年の、つまり天正七年八月に、信長は京都で大芝居を打っている。
それは、オルガンチノ神父と半盲のロレンソが、信長を宿である寺院に訪ねてきた時のことである。信長にとっては、寺院は宿としての利用価値以外には認めるに足らぬものであった。寺院は大勢の従者が泊まり得るだけの広さがあるからである。
信長を訪ねたオルガンチノ神父たちは驚いた。広間には武士諸侯がものものしく詰めかけている。何ごとであろうと戸惑う神父たちに、一段高い広間から、信長はそのかん高い声で、
「おお、お見えになられたか。さ、さ、こちらへ」
と、丁重に自分のすぐそばに通した。神父たちが、信長の目近にすわって挨拶する様子を武将たちは一段低い広間から、あたかも芝居を見るように、みつめていた。
信長は人々に聞こえるように、つとめて大声で、
「その後、お障《さわ》りもござらぬか」
「近頃は、どこかに旅をなさっておられたか」
「お国から、ご消息がござったか」
と、珍しくていねいなものの言いようである。
信長は、外にいる武士や僧侶たちにも、話の内容が聞こえるように、戸や窓をことごとく開け放たせていた。旧暦八月で、まだ残暑がきびしい。庭に詰めている武士や僧のひたいから汗がふき出ていた。
信長は小声で神父たちにいった。
「今日は問答をする。時々、荒々しく怒っても見せるが、これは本心からではない。キリシタン布教のためじゃ。いかなる態度にも驚かず、落ちついて、人々によく聞こえるように答えてほしい」
この日、こんな企てがあるとは知らなかった神父たちは、一旦は驚いたが、信長の言葉を諒承した。
信長は脇息によりかかり、くつろいだ様子を見せ、
「師たちも楽になれ」
と親し気にふるまい、
「どうだ、わしは遠からず仏教の寺院は一寺残らず取り上げて、キリシタンの教会に一変させてしまう所存だが」
オルガンチノは、これを冗談として辞退した。が、信長は断乎として、
「わしは思い立ったことは、やらねば気がすまぬのだ」
と宣言した。この言葉を聞いた僧の中には、即刻財産を処分して逃げたものもあったという。
「西欧にも大名はいるのか」
「天皇はいるのか」
「本当に天国や地獄があるのか」
あると答えると、信長はにわかにいきり立ち、
「何? 天国、地獄があると申すか。では、それがあるという確かな証拠を余に見せい」
と大声でどなった。
修道士《*イルマン》のロレンソは、半盲のその澄んだ目をうつろに見開いて、信長の言葉に耳を傾けていたが、にっこり笑って、
「かしこまりました。証拠をお見せいたしましょう」
と頭を下げた。ロレンソとは霊名で、彼は肥前生まれの琵琶法師であったが、|フ《*》ランシスコ・ザビエルから受洗、外人宣教師、神父たちの日本語の教師となり、且つ通弁をしていた。頭脳明晰、且つ甚だ雄弁家で、右近父子も彼とは親しい間柄であった。
「いかにして天国、地獄の証拠を見せるぞ」
「では、天国、地獄、いずれにてもご案内つかまつりましょう」
「おお! 案内してもらおうぞ」
信長が立ち上がると、
「殿、それではご案内申し上ぐる故、わたくしと共に、ここにて御腹を召されませ」
「何!? 切腹せよとな」
「はい、死ねば、天国、地獄に参れます故」
信長はとたんに大声を上げて、
「参った! 参ったぞ。わしはキリシタンに負けた。右近、助けてくれ」
と、広間にいる右近を見た。
ロレンソはその半盲の目を閉じて、人間は皆罪深いものであること、神はその人間の罪を救うために、キリストを十字架にかけ、人間の罪を帳消しになされたことなどを、力強く語りはじめた。
何のことはない、伝道集会である。説教が終わるや否や信長は、
「皆のもの、キリシタンとなる心の準備をせよ」
とすすめた。人々は、信長も信者になったのかと思うほどであった。しかしこれは、信長が、僧たちに対する一つの示威であり、いやがらせであった。
とはいえ、これほどにキリスト教に積極的な好意を見せたのは、右近に対して、
「高槻城を開城するならば、一層のキリシタン護教につとめる」
といった約束を、信長なりに守ろうとしたからでもあった。
にわかに右近は、信長の寵を一身に集めるかに見えた。諸大名は右近に対して、丁重になった。が、右近は黙々と、二倍になった領国の布政につとめて、決して心奢ることはなかった。
かの、大芝居を、藤孝も忠興と共に見た一人だった。が、芝居であるとは思っていない。ただ、大名たるもの、宗教について無関心であっては、領民を治めることにも、敵国と戦うことにも、大きな支障があることだけは改めて知らされた思いだった。
今も、その時のことを話題にしたあと、
「右近殿の領民は幸せでござるな」
「幸せであってほしいとねがっておりまする。領民が不幸せでは、領主に幸せはござりませぬ」
思わず玉子は顔を上げた。
(領民が不幸せでは、領主に幸せはない?)
いまだ曾て、このような言葉を玉子は聞いたことがなかった。夫の忠興も、舅の藤孝も、そして父の光秀も、このような言葉を語ったことはなかった。
忠興が尋ねた。
「右近殿、では領民の幸せとは何でござろう」
「それは、領主の存在を忘れて暮らせることとでも、いうべきでござりましょうか」
「領主の存在を忘れる? それはまたどういうことでござろう」
「つまり、権力に強いられることの何一つない生活でござりましょう」
「しかし右近殿、領民などというものは、権力をもって脅《おど》さねば、貢も働きも、領主のままにはならぬもの」
「いや、領主も領民と同じ人間でござる。心と心で結ばれねばなりませぬ。わたくしは天主の愛によって、人間の一人一人が等しく尊いものであることを知りました」
「我々と領民が等しい人間だと、右近殿はいわれるのか」
「さようでござる」
忠興はむっとしたように、
「では、右近殿、貴殿は権力をもって領民に信仰を強制したことはござらぬか」
「忠興殿、信仰は権力で強制できるものではござりませぬ。天主《デウス》は〈肉体を亡ぼしても、魂を亡ぼし得ぬ者を恐るる勿《なか》れ〉と申されておりまする。われわれ大名といえども、いわば魂までは亡ぼし得ぬものでござる。信仰の強制など、何の役に立ちましょうや」
玉子には、右近の言葉の一つ一つがひどく新鮮に思われた。
海老沢有道氏もその著「高山右近」の中で、
「彼(右近)は決して改宗を権力をもって強制することはなかった。領民にも大名とは到底思われぬほどの謙虚さと愛とをもって交わった。彼はみずからの言動をもって模範を示し、キリシタン精神にもとづく政治を行って、領民にそれを示した。(中略)
そして、それに感化された人々は、すすんで説教を聞き信者になるのであった。もちろん彼は異教徒に説教を聞くよう奨励した。しかし常にキリシタンになるもならぬも全く自由であることを強調した」
と書いている。
こうして、やがては二万五千人の領民のうち一万八千人がキリシタンになったわけであるから、その領内の結束は堅かったであろう。本願寺に手を焼いた信長が、右近を自分の陣営にひき入れたかったのも故なしとしないのである。
この右近にはじめて会った玉子は、その高潔な人格に強く惹かれた。忠興もまた、この日の右近との親しい語らいの中に、畏敬の情を持つに至った。
これが縁で、その後右近は、幾度となく忠興を訪ね、忠興もまた高槻城に右近を訪れるようになっていった。
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顕如上人 一五四三〜九二(天文十二〜文禄一)年。戦国時代の浄土真宗の僧侶。本願寺十一世。諱は光佐、顕如は法名。一五五四年得度。一五七〇年、織田信長と石山本願寺の争いが激化したが、八〇年、正親町天皇の勅により和睦し、紀伊、和泉へ移ったが、八五年再び石山へ戻り、九一年には豊臣秀吉により、京都堀川に寺地を寄進された。
オルガンチノ神父 一五三〇〜一六〇九。イタリア人。イエズス会の宣教師として、インド、マラッカを経て、一五七〇年来日。織田信長の信頼を受け、京都に南蛮寺(七六年)、安土に教会と修道院を建設(八〇年)、神学校も建て、校長となる。長崎で死去。
ルイス・フロイス 一五三二〜九七。ポルトガル人。イエズス会宣教師として東インドに派遣され、ゴアで日本の事情を聞き、伝道を決意、六三年に来日した。九州、近畿で布教活動に励み、信長、秀吉ら有力な大名の庇護を得た。日本語を学び、日本語の辞典、文法書の編纂に着手、また八三年以降執筆した『日本史』は今日なお資料的価値の高い名著である。
修道士=イルマン 兄弟、法兄弟の意味。「入満」「伊留満」などと書いた。キリスト教伝来のころ、神父=パアデレの次に位した宣教師のこと。
フランシスコ・ザビエル 一五〇六〜五二。スペイン、ナヴァール城主の子。日本に初めてキリスト教を伝えた。イグナティウス・ロヨラとともに一五三四年、イエズス会を結成。インド、東インド諸島布教後の一五四九年鹿児島に来朝した。九州、山口、京都で布教、滞日二年余りだったが、彼の日本への愛情と布教の方針はその後の日本キリスト教会に多大な影響を残した。中国布教のため広東に上陸を試みたが、熱病のため没した。一六二二年聖者に、一九〇四年には世界布教保護聖人として公布された。
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十一 匂い袋
忠興の体が、玉子の胸の上からはなれた。
「お玉、よい子を産めよ」
忠興は、玉子の腹部に手を当てた。
「はい」
二人の初めての子が、四月には生まれるはずであった。
「あと、九十日あまりか」
満足そうに忠興はつぶやいて、布団の上に腹這いになった。枕もとの灯が、ゆらゆらと小さく揺れたかと思うと、ジジーッと鳴って消えた。油がきれたのであろう。
玉子は闇を凝視するように、目を見開いていた。
「男の子を産めよ」
もう幾度も言ったことを、忠興は今もくり返した。
「はい」
「強い子を産むのだ。わしよりも強い子をな」
「はい」
「何だ、お玉。何を言っても、はいはいと一つ返事をしているではないか」
闇の中で、忠興が玉子のほうに体を向けた気配がした。
「では、いいえとお答えいたしましょうか」
玉子は低く笑った。
「それでよい。それでこそ、お玉だ」
けだるそうな忠興の声がした。
と、間もなく忠興は寝息をたてはじめた。十八歳の忠興の健康そうな寝息である。
玉子はじっと目を見開いたまま、かすかに吐息を洩らした。布団の中に真直《まつすぐ》に伸ばした自分の太ももが、暖かくふれ合っている。玉子はその自分のもものほてりをいとうように、足をかすかに開いた。
(昨夜も……わたしは……)
玉子は身じろぎをし、枕に頬をあてた。
昨夜、忠興の胸の中に抱かれながら、玉子はふっと高山右近の顔を思い浮かべたのだ。途端に、玉子は自分の背に手を廻している忠興の荒々しいまでの抱擁が、右近の抱擁のように思われたのだ。はっと玉子は身をよじった。思いがけない感覚が玉子の体をつらぬいた。
そして、今夜もまた、忠興はいつの間にか右近に代わっていたのだ。
(なぜ、右近様が?)
右近にはまだ、一度しか会ってはいない。十日ほど前である。右近とは、直接に言葉らしい言葉を交わさなかった。その上、右近は、他の男たちが初対面の時に見せる玉子の美しさへの驚きも示さなかった。
はじめて会った玉子に、涼やかな視線を向けただけだし、帰りぎわには、玉子よりもむしろ清原佳代に幾度かそのやさしい視線を投げかけていた。右近のように、玉子の美しさに驚かぬ男性は、曾て一人もなかった。どんな男性でも、いや女性ですらも、玉子を見て讃歎の目を見張り、中には「ほう」と声に出す者さえいた。
玉子は右近のいった、
「領民が不幸せでは、領主にも幸せはござりませぬ」
の言葉に感銘した。偉い人物だと思った。その高潔な人格に惹かれただけのつもりであった。
それが、突如、昨夜の閨《ねや》の戯れの中に現れたのである。そして、つづいて今夜も。
(なぜであろう)
玉子には不思議であり、また自分が厭《いと》わしくもあった。
今まで、玉子自身、忠興の妻として、人に指一本指されるようなことはしてこなかった。台所にも、機織りにも染色にも、よく精を出して働いた。まだ結婚してそれほどの年月を経ていないとはいえ、忠興に対して全く貞潔であり、こんなみだらな思いをすることなど、無論なかった。
それが、ふいに昨夜以来、玉子は人にいえぬ思いで、右近の幻に二度も抱かれたのである。
(しかし……)
と、今、玉子は思った。自分が右近を思い出そうとしたのではない。ふいに右近の幻影が現れたのだと、玉子は目をとじた。
とじた瞼《まぶた》のうらに、玉子は忠興と右近の二人の姿を浮かべた。物腰も、表情も、右近のほうが、忠興よりもまさって見える。それは、忠興が右近の年齢になれば、そなわるというものではないような気がした。
「領民が不幸では、領主に幸福はない」
などという言葉は、忠興にはいくつになってもいえないような気がした。
若者らしい荒々しさと、繊細な神経とを兼ね持った忠興を、玉子はいとしく思っていた。時にはひどく無邪気で、純真でもあった。忠興は感情の起伏に富んでいた。しかし、玉子は自ら忠興を選んだのではない。信長の命令によって、二人は結婚したのだ。
もし、忠興と右近と二人を並べて、どちらかを選べといわれたなら、自分はどちらを選ぶであろう。いま、玉子は瞼のうらに浮かんだ二人を並べて、大胆な想像をしてみた。
多分、忠興を選びはしなかったにちがいない。玉子はためらうことなくそう思った。思った途端に、いいようもない思いに胸がうずいた。
もし、信長の命令で自分が右近と結婚したとして、のちに忠興に会った時、自分は同様の感慨を持つであろうか。ふっと溜め息をついた時、忠興の寝息がすっとやんだ。
玉子ははっとした。忠興はよく、ひと寝入りしてから、再び玉子を求めることがあるからである。が、しばらく息をのんでいる玉子の耳に、再び忠興の寝息が聞こえた。
(キリシタンなど、好きにはなれない)
玉子は、自分にいい聞かせるように、そうつぶやいた。玉子は自分で自分の心の動きに気づかなかった。
右近が、玉子の美しさに何の驚きも、讃歎も示さなかったことに、玉子は逆に異性として惹きつけられていたのである。人を恐れることなく、驕慢に育った玉子の血は、嫁いで静まったかのように見えた。が、その血はやはり生来のものであった。自分の美しさに驚かぬ右近を、玉子はそのままにしてはおけなかったのだ。それが、幻の右近に自分を抱かせたのかも知れない。が、それはあくまで無意識の世界でのできごとであった。玉子自身すら、説明のつかぬ唐突な形で右近は現れたのである。
玉子はその夜明け、夢を見た。幾十頭もの黒い馬の群れが、音もなく走ってくる。どの馬も玉子を目がけて走ってくるのだ。玉子は、馬の群れがぐんぐん目の前に走ってくるのを見つめたまま、逃げようにも足が動かない。叫ぼうにも声が出ない。先頭の馬が大きく迫った。と、その時、すっくと大手をひろげて立ちはだかった男がいる。見ると、初之助だった。
「あっ、初之助」
初之助はじっと玉子を見つめた。澄んだ淋しげな目であった。今までいた馬は影も形もない。
「ありがとう、初之助」
初之助は何も答えない。初之助はただじっと玉子を見つめているばかりである。そして、その姿は、ふっとかき消すように見えなくなった。
はっと思った途端に、玉子は目がさめた。初之助の夢など見たのは、はじめてである。ふだんは思い出したこともない。が、いま夢の中で見た初之助の淋しげな目が、あまりにもありありとしていて、さすがに懐かしかった。
誠実な若者だったと、かげ日向《ひなた》なく働いていた初之助を、玉子は思い出した。それはしかし、初之助が懐かしいというより、父母のいる坂本城が懐かしいという感情であった。初之助は玉子にとって、坂本城の庭の梅や、松が懐かしいのと同様な存在に過ぎない。夢にでも見なければ、思い出すことのない人間であったかも知れない。玉子は夢を見て、初之助が無事に過ごしているかどうかを思った。
馬に追われた夢のためか、胸が少し動悸していた。初之助は、あの馬の群れの前に立ちはだかってくれたと、玉子は夢を反すうした。いかにも初之助らしいと玉子は思った。しかし、なぜ初之助の夢など見たのであろう。
自分を危機から救うために、父の光秀も、夫の忠興も夢の中には現れてはくれなかったと玉子は思った。今日は久しぶりに、父母に便りを出そうと思いながら、玉子はそっと身を起こした。
弥平次と初之助は、並んで弓に矢をつがえていた。坂本城内の射場である。ビューンとつるが鳴り、弥平次の放った矢が、少し的を外れてつきささった。つづいて射た初之助の矢が的の真ん中をつらぬいた。
「見事じゃな、初之助」
弥平次は青空を見上げて笑った。二月に近い今日の日ざしは背にあたたかい。
「恐れ入ります」
「百発百中だのう」
「いえいえ、まだまだ未熟でござります。弥平次様は……」
いいかけて、初之助は弥平次を見た。
「何だ」
「何でもござりませぬ」
弥平次は初之助をかわいがっている。初之助も弥平次の磊落さを敬愛していて、弥平次には時に遠慮のない口をきく。
「何だ? いいかけてやめるな」
「お怒りになりませぬか」
「時と場合による」
わざと真面目な顔をしてから、ニヤリとして、
「何だ? いってみるがいい」
「弥平次さまは、お倫さまとのご縁談が決まってから、的から矢が外れるようになられましたな」
「なあんだ。それをいいたかったのか」
弥平次は声を上げて笑い、
「当たり前じゃないか。何を見てもお倫どのに見える。的もお倫どのの黒い目に見える。とても当たりようがないわ」
けろりとしていった。
「なるほど、弥平次さまはお幸せですな」
片肌ぬいだ初之助の盛り上がった筋肉が、うっすらと汗ばんでいる。初之助は再び矢をつがえた。
「お前には、あの的が何に見える?」
初之助はちらりと弥平次を見、一瞬黙ったが、
「的は的にしか見えませぬ」
と目をつむった。そして、かっと目を開くと、静かに矢を放った。弓づるが鳴り、矢は再び的を射通した。
「見事!」
率直に弥平次はほめた。
「のう、初之助。お玉どのは四月にはご出産だそうな」
「え?」
初之助の声が高かった。
「お玉どのは、お子をお産みになるそうじゃ。昨日、殿の所に便りがあった」
「…………」
「初之助は元気かと、その手紙には書いてあったそうな」
「弥平次どの!」
きっとしたように初之助は弥平次を見た。
「何だ」
「おからかいはご無用にねがいまする」
「何を怒っている」
「弥平次どの。あのお方が、わたくしめの安否など問われるはずはござりませぬ」
「だが、問うてきたのだ」
初之助は黙って肩を入れ、一礼してさっさと立ち去ろうとした。
「待て、初之助」
立ちどまって初之助は、自分の爪先に目を落とした。草履を突っかけた素足の指があかい。
「からかってなどはおらぬ。何のためにわしがそなたをからかうのだ」
「…………」
「まあ、ここにかけよ。ちょっと話がある」
射場の片すみの大きな石に、弥平次は腰をおろした。初之助もいたし方なく弥平次の傍らに腰をおろした。
「お玉どのは、そちの夢を見たそうじゃ」
「夢を?」
「うむ。何でも、馬の群れに追われているお玉どのを、そちが救ったのだそうだ」
「…………」
「それを、手紙の末尾に記しての、お前の安否を尋ねてきたのだ」
「……信じられませぬ……」
玉子の美しい寝姿を、初之助は想像した。その夢の中で、あの玉子を自分が救ったなどとは、いくら夢であっても初之助には信じがたいのだ。
「では、わしが嘘をいって、お前をからかってでもいると思うのか」
「…………」
「もし、嘘と思うならば、殿にお尋ね申してみよ」
「…………」
「のう、初之助。そちはお玉どのを……思っているのであろう」
「いえ、そんな……滅相もござりませぬ」
「よいわ。のう、初之助。わしはそちの気持ちがよくわかる。わしも、お倫どのが荒木殿に嫁いで以来、辛い思いであったからのう」
初之助は弥平次を見た。
「それが、荒木殿の謀反で、不縁になって帰ってこられ、思わぬことに、わしが娶ることになったのだが……。ついこの間までは、わしも、そなたと同じ思いじゃった」
「……しかし、わたしめはお玉どのを思ってはおりませぬ」
「思っておらぬなら、おらぬでよい。だが、想ってもおらぬ者が、今のように、すぐかっと怒るであろうかのう」
「……それは……」
「よい機会だから、わしは申すのだ。お玉どのが、たとえ、何か不慮の出来ごとで、お倫どののように不縁になって……」
いいかけた言葉を断ち切るように、初之助はきっぱりといった。
「縁起でもござりませぬ。お玉どのは、生涯お幸せにお暮らしなさりまする」
初之助の顔を弥平次はじっと見て、
「わかった。所詮かなわぬ恋とあきらめているのだな。いや、かなわぬ恋とは心得ていても、あきらめてはいまい。忘れてはいまい」
「…………」
「忘れられぬものよ。わしもそうであった。だから、いうのだ。初之助、そちはお妙をどう思う?」
「お妙どの?」
お妙は二年ほど前から光秀の妻子の侍女となっていた。ことし十七歳。色白の、頬のふっくらとした娘である。
「そろそろ娶ってもよい年だ。そちはたしか今年は二十三歳になるはずじゃ」
「弥平次様、初之助は生涯娶りませぬ。弥平次様も、この間までは、そう申しておられたではありませぬか」
「生涯娶らぬと申すか」
「はい、娶りませぬ」
主君の光秀にも、流浪の日があった。光秀の従弟の弥平次も、光秀と流浪したことがあった。初之助自身、かつては一漁民の小伜《こせがれ》にしか過ぎなかった。それが今は士分に取り立てられ、騎馬をゆるされている。今の時代は強い者、器量のある者が出世をする。反対に力のない者は、たとえ将軍の座にあっても、足利義昭のように追われてしまう。実力の時代なのだ。よい時代だと初之助は思っている。
初之助は強くなりたいのだ。世に出たいのだ。玉子の夫の忠興よりも、上になりたいのだ。
(まだ、俺は若い)
いま、初之助の胸は常よりふくらんでいた。玉子が自分の夢を見てくれたことが、初之助を鼓舞したのだ。どんな美しい寝姿で自分の夢を見てくれたのかと初之助は思う。いつの日か、自分は玉子に、堂々と会う日が来るような気がする。もしかしたら、玉子が夢を見てくれたように、玉子を救うために玉子の前に現れることがあるかも知れないのだ。だが、そんな胸のうちは、弥平次にも語れぬことであった。
「初之助」
伏し目になってあれこれ考えている初之助を、弥平次は痛ましそうに見た。
「はい」
「お玉どのへの、そなたの思い、他言はせぬ」
「ありがとうござります。……ところで弥平次様。人妻を恋うることは、やはり道に外れたことでござりましょうか」
「うむ。そうであろうの。しかし、わしはお倫どのを思うことを、道に外れているなどとは思わなかった。わしはお倫どのが嫁がれる前から思っていたのだ」
「弥平次様、実はわたくしめも同じでござります。自分が先に思っていたお方を、無法にも取り去られた、そんな思いがしてなりませぬ」
「人間、自分の都合のよいように解釈するものだ。やはり人妻は人妻、思いをかけてはならぬことになっている」
と知ってはいても、おさえがたい胸の炎を、どのようにして消すべきか、自分にはわからぬと初之助は思った。
先ほども、玉子が忠興の子供を産むと聞いた瞬間、初之助はめまいがするほどの衝撃を受けた。結婚した以上は、やがては子を産むことと知っていながら、いいようのない嫉妬の感情が身を貫いたのだ。
玉子の嫁入りの日であった。輿《こし》より降り立って、身じろぎもせず野の彼方の夕日をみつめていた玉子の姿が、初之助の目にありありと焼きついている。あの日以来、夕日の沈むのを見るごとに、初之助は花嫁姿の玉子の美しい立ち姿を思っては、胸をしめつけられてきたのである。
(あの時は、まだ乙女だったのだ)
初之助はそう思い、忠興への敵意をひそかに燃やしつづけて来た。
(強くならねばならぬ)
すっくと初之助は立ち上がり、再び片肌をぬいだ。
「まだ射るのか」
「はい、いま少し」
日ざしは暖かいとはいえ、琵琶湖を吹きさらしてくる、陰暦一月下旬の風はまだ寒かった。
初之助は弓に矢をつがえた。祈る思いで放った矢は、的を二寸ほど外れて、左上に斜めに突きささった。初之助は唇をかんだ。
天正八年四月二十七日夜、長岡のあたりに激しい雷雨があった。天を切りさくような稲妻が走り、たらいを返したような雨が降る中で、玉子は勝竜寺城内で第一子を産んだ。目の大きな、まるまるとした男子であった。忠興は男と聞いて喜び、
「雷雨の中で生まれたから、雷之助と名づけようぞ」
といった。藤孝は、
「雷は落ちるものじゃ。この子の運が落ちるようで、縁起の悪い名ぞ。熊千代はどうじゃ。強そうだし、千代八千代の千代がつけば、縁起もよい」
といった。
こうして、雷雨の夜に生まれた男子は、祖父の細川藤孝によって、幼名を熊千代と名づけられた。
ちよろずに強くぞあれな熊千代と
名づけて乞ひ祷《の》む神々の前
藤孝は直系の孫の出生を祝って、短冊に歌をしるした。この熊千代が、のちに父と同じく与一郎と名乗り、成人して忠隆となったのである。
熊千代が生まれて五十日ほど経った。六月も半ばのくもり日である。乳母のこうに熊千代を抱かせて、玉子は庭に出ていた。
長い間、信長に抵抗した大坂の本願寺光佐をはじめ、宗徒たちも和を結んで退き、藤孝は丹後を、光秀は丹波をあらかた平定して、このところ、のどかな日がつづいていた。
こうは、体格のよい女で、柔和だった。京都の商家の出で、ものごしもやわらかい。熊千代は、こうの腕の中で、玉子を見てにこっと笑った。玉子は両手をさしのべて熊千代を抱きとり、
「おこうは、下がって少しおやすみなさい」
「でも……」
「よろしい、お下がりなさい」
玉子は少しでも長い間、熊千代を抱いていたいのだ。
「はい、では……」
むつきの洗濯を、おこうは気になっていた。小腰をかがめて会釈をすると、小走りに去って行った。
時折涼しい風が吹き過ぎ、その度に城外の竹林のさやぐ音が聞こえる。勝竜寺城は、城と呼ぶよりも、寺と呼んだほうがよいほどの、小さな城である。
蝉の声がしきりにする。とけ入りそうにやわらかなわが子の感触を腕に感じつつ、玉子は、右に左に静かに体を揺する。熊千代を産んで、玉子の肌はいよいよ白く、いよいよなめらかになった。熊千代をみつめて伏し目になっているその長いまつ毛が、時折静かにまたたく。
(この子がおなかにいた時……)
玉子は幾度か右近の幻に抱かれた自分を思っていた。それは、誰にも知られてはならぬことであった。誰にも知られてはならぬかくしごとが胸の中にあることに、玉子の心は冴えない。
「熊千代どの」
玉子はそっとわが子の名を呼んだ。熊千代は、玉子の声にまたしてもにこっと笑う。
「そなたの母は、いけない母じゃ」
つぶやくように玉子はいう。熊千代はじっと玉子をみつめている。
「そなたの母は、いけない母じゃ」
再び玉子はいった。自分の心の中に、思いもかけない奔放な情があるのを玉子は知った。それは、娘時代には、夢にも思わぬ思いであった。
肉体の中に、自分でも制し得ぬ、もう一つの心があるのだ。あれ以来、自分は右近を求めてもいないのに、右近は現れるのだ。
「そなたの母は、みにくい母じゃ」
またしても、そうつぶやいた時である。
「何のみにくいことがあろうか」
背後に声がした。忠興の弟の頓五郎興元である。
「ま、頓五郎さま」
思わず玉子は頬を染めた。自分の秘密を聞かれたような気がしたのだ。
「熊千代」
頓五郎は、両手をさし出した。玉子が熊千代を渡そうとした。その時、玉子の手と頓五郎の手が触れた。瞬間、頓五郎ははっと手を引いた。
「あっ!」
思わず玉子は声を上げた。もし玉子が、全く手を引いていたならば、熊千代は土に落ちるところであった。
「どうなさいました?」
危うく熊千代を抱きしめて、玉子は少し咎めるようにいった。
「いや、申し訳ない」
頓五郎は顔をあからめた。
「もう、熊千代を抱かせては、さし上げませぬ」
玉子はやさしく興元をにらんだ。興元は毎日のように、熊千代を抱きに来るのだ。いつもは乳母の手から渡されるが、今日は玉子の手からである。頓五郎は玉子の手にふれた途端、反射的に自分の手を引いてしまったのだ。頓五郎興元にとって、玉子がどんな存在であるのか、玉子自身は気づいていない。
「いや、抱かせてくだされ」
頓五郎にとって、熊千代は、まさしく玉子の分身なのだ。熊千代のやわらかな体は、頓五郎にとって、玉子自身なのだ。
熊千代を抱く度に、頓五郎は、この赤子は玉子の胎内に十月十日いて、その美しい体の内を通って生まれたことを想像するのだ。
「興元さまは、本当に子供好きですこと。では、こんどは落としてはなりませぬ」
玉子は慎重に熊千代を手渡した。
「よう、熊千代、今日は危なかったなあ」
興元は熊千代の白い頬に頬ずりをした。
「姉上さま。この熊千代を興元めにくださりませぬか」
「ま、何を仰せられます」
「いいではござらぬか。お子はまた生まれましょう」
「そんなに赤子《やや》がお好きなら、頓五郎さまこそ、早うご結婚なされませ」
「いや、娶って子をなすより、貰ったほうが手っとり早い。のう熊千代」
十六歳にしては興元は早熟である。体格も兄の忠興を凌《しの》ぎ、気持ちも、忠興のような直情径行型ではない。自分の気持ちを巧みにかくすことを知っている。
忠興のように、繊細で優しいかと思うと、かっとして激怒したり、非情になったりするのとはちがう。一見無邪気そうに見せながら、頓五郎興元は、心の底をあらわにしない。
「まあ、興元さまは……」
玉子は思わず笑った。
「おや? 熊千代、邪魔者が参ったぞ」
池のほうを見て、興元は口をとがらせた。玉子がふり返ると、清原佳代が、そのすらりとした姿を、池の水に映して歩いてくるところである。
「興元さま」
玉子は声をひそめた。
「何でござります」
「佳代どのは美しい方。そう思いませぬか」
「それで?」
「興元さまと、ようお似合いと存じます」
「ずるい、ずるい。ずるうござるぞ、姉上さまは」
佳代はしとやかに近づいて、
「まあ、賑やかですこと」
と、二人の顔を等分に見た。
「のう、佳代どの。わしが熊千代をほしいと申したところ、姉上さまは娶って子をもうけよといわれるのじゃ。わしは娶るよりも貰うほうが、手間がかからぬと申すと、佳代どのを見て……」
「ま、興元さま、いけませぬ」
玉子があわてた。興元はわざと無邪気そうに、
「のう、佳代どの。佳代どのとこのわしを、似合いだと姉上は申されたのじゃ」
「それが、なぜずるいことになりまする?」
佳代は微笑した。
「姉上さまは、熊千代が惜しくて、わしに娶れといわれるのじゃ。ずるいとは思われぬか」
佳代はおかしそうに、
「ずるいのは、お玉さまではなくて興元さま。こともあろうに、ご長子をおのぞみなさりますとは……」
「さようかのう。しかし、兄上とちがって、部屋住みのわしに、娶る力があるであろうか」
「ござりますとも」
「では、お佳代どのは来てくださるか」
俄《にわ》かに興元は真顔になった。その興元の顔を佳代はじっと見、
「参りましょう。わたくしでよければ」
と、これもまた真面目にいった。途端に興元は声を上げて笑い、
「佳代どの、佳代どのは人が悪い。な、熊千代、佳代どのはまじめな顔で、わしをからかっておられるぞ。いかがいたす、熊千代どの」
「熊千代さまは、わたくしに……」
佳代は上手に抱きとって、
「忠興さまが、お目ざめでございます」
と玉子にいった。忠興は少し腹をこわして昼寝をしていたのである。
「あ、お目ざめでしたか」
玉子は衿《えり》もとを正し、興元に一礼した。
「では……」
「姉上さま」
立ち去ろうとする玉子を、頓五郎は用事ありげに呼んだ。
「まだ何か? ……」
「この熊千代は無理としても、次に生まれるお子は、この興元にくださりませぬか」
「また、そんなことを……。はいはい、差し上げましょうほどに、今はこれにて」
興元の思いの深さに、佳代は気づいていても、玉子は知らない。玉子の第二子の興秋は、遂に興元の養子となったが、これは後日譚《ごじつたん》である。
急いで立ち去る玉子の袂から、匂い袋が落ちた。興元はそれを拾い、玉子を呼ぼうとしてやめた。匂い袋の得もいわれぬ匂いに、興元は玉子の匂いを感じた。興元は匂い袋をすばやくふところに入れた。
それを、縁側に出てきた忠興が見ていたことに、興元は気づかなかった。忠興の濃い眉がピリリと上がった。
「お目ざめでござりましたか」
熊千代を抱いた清原佳代をうしろに従えた玉子が、縁側に立った忠興を見上げていった。
忠興はけわしい顔を庭に向けたまま返事をしない。佳代は熊千代の顔をさしのぞいて、ちょっと小腰をかがめ、さり気なくその場を去った。
「御腹痛はまだ、お治りになりませぬか」
玉子は縁側に上がって、静かにひざまずいた。それには答えずに忠興はいった。
「何を興元と話していたのじゃ」
ひやりとするような冷たい声であった。
「頓五郎さまと?」
玉子は不審気に夫を見上げ、
「頓五郎さまは、熊千代が愛らしいとおおせられました」
興元が熊千代をほしいといっていたとは、玉子はいわない。忠興の機嫌のよい時ならば、笑ってすむことも、一旦不機嫌になると、順直には通らなくなることを、玉子は既に知っていた。
「それだけではあるまい」
「それだけでございます」
「うそを言え! 熊千代が愛らしいと一言いっただけか」
「ま、何をお怒りでございます。一言で申すならば、熊千代の話をしていたということでございます」
「…………」
「まだお腹《なか》がお痛みでござりますか。ではお腹をさすってさし上げますほどに……」
「いらぬ! お玉、そちはわしのやった匂い袋を持っているか」
「はい、ここに」
と、玉子はその形のよい手を、左袖に入れたが、
「おや? ござりませぬ」
と右袖に手を入れた。匂い袋は、忠興が京の都に出た時、みやげに買ってきた錦織りの立派な品で、玉子は大事に、いつも持ち歩いていたものだった。
「見よ、ないではないか。どこに忘れた?」
「……確かに先ほどまで……」
「そなたはわしがやった匂い袋を、なぜ大事に扱わぬ?」
たった今、玉子が匂い袋を落としたところを見ていながら、忠興は意地悪く詰《なじ》った。
「お玉!」
「はい」
「頓五郎を呼べ!」
「頓五郎さまを?」
「彼奴が、そなたの匂い袋を持っているであろう」
「まさか……そのようなことは」
「ないとはいわさぬ。頓五郎を呼べ!」
玉子は一瞬目を伏せたが、切り返すような視線をちらりと忠興に投げかけ、部屋に戻る忠興の後に従った。
使いの侍女と共に、頓五郎が現れるまで、二人は口をきかなかった。
「お呼びか、兄上」
のっそりと頓五郎興元は部屋に入ってきた。忠興はじろりと頓五郎を見た。玉子は、
「お呼び立てして、相すみませぬ」
と両手をついた。
「何の何の」
明るく笑って手を横にふり、
「ご機嫌斜めじゃのう、兄上」
と、頓五郎はあぐらをかいた。
「頓五郎!」
「何をそんなに怒っているのやら」
「そちは、お玉の匂い袋を持っているであろう」
「匂い袋?」
「とぼけるな。匂い袋じゃ」
「匂い袋といえば、これのことか」
頓五郎は内ぶところから、先ほど拾った錦の匂い袋を、あっさりと取り出して匂いをかいだ。
「ま! 頓五郎さま、それは」
玉子は驚いて声を上げた。
「それ見い。お玉、頓五郎が持っていたではないか」
「でも……どうしてそれが」
「そちが頓五郎に与えたのであろう」
皮肉にいって忠興は二人を見くらべた。
「何だ、兄上、見ていたな。さっき姉上が落とした時、わしが拾ったのを」
頓五郎はさらりといった。が、
「おう、見ていたぞ、頓五郎!」
と、忠興は鋭い語気を返した。その忠興を見る玉子の目が、かすかにかげった。
「それで怒っているのか、兄上は」
「なぜ、お玉に匂い袋を返さず、その方のふところに入れたのだ」
「なぜだと思う?」
「頓五郎、お前はお玉を……」
「姉上を?」
たじろがぬ興元の不敵なまなざしに、忠興はきっとして、
「どう思っているのじゃ」
「姉上だと思っている」
「それだけか」
「それだけでなくて、何と思いようがある?」
「では、何でその匂い袋を大事げにふところにした?」
「ははあ、そうか」
頓五郎は白い歯を見せて、大声で笑い、
「兄上は、わしが姉上を慕うて、それでこの匂い袋を大事にしまいこんだと思うてか。悋気《りんき》か、これは愉快じゃ」
玉子は、はっと頓五郎を見た。
「では、何で返さなんだ?」
「それはいえぬ」
「なぜだ?」
「恥ずかしいからな」
あごひげをぐいと一本ぬいて、頓五郎はにやにやした。
「頓五郎、そちは、兄のわしを馬鹿にする気か」
「馬鹿にする気はない」
「では何でいえぬ」
「そんなに居丈高になられては、いいたくてもいえぬわ」
「なぜじゃ」
「色気の話には気分というものが大切よ、兄上。もっとおだやかに尋ねられれば、答えられるかも知れぬが」
「では、おだやかに聞く。何で、その匂い袋を大事にしまいこんだ?」
「そう改まって聞かれても困るが、のう兄上。兄上が、もし独り身であってじゃな、こんないい匂いのものを拾ったら、思わずうっとりするであろうが」
「…………」
「返しとうはないわな。天女の衣も、さぞかしこんなよい匂いであろうのう」
「…………」
「その上、わしには好きなおなごがいる」
むっつりと聞いていた忠興の表情が大きく動いて、
「誰じゃ、その女は」
「秘密よ」
「誰じゃ? 言え」
「……不粋よのう、兄上は」
「言わぬか」
「言う、言うが……」
ちらりと玉子を見、興元は頭をかきながら、
「佳代どのじゃ」
と言いすてて立ち上がった。
「ふむ、佳代どのか? ま、すわれ。しかし……」
「ふっと、佳代どのにこの匂い袋をやりたいと思ったのだ」
「まことか」
「まことだ」
怒ったように頓五郎は、玉子を見た。炎のような激しいその視線を、玉子は受けとめかねた。
十二 丹後の海
細川藤孝、惟任《これとう》光秀、明智弥平次、そして玉子を乗せた小舟は、今、文珠寺の庭先から出たばかりだ。岸べ一帯は深い芦原である。その芦原をぬけ出た海が、真清水のように澄んでいる。
「まあ、きれい」
玉子は舟べりから身を乗り出すように、水底を見た。水底は細かい砂地で、小さな貝が敷きつめられたように見え、その合間に砂がかすかにゆらぐ。四月の日が射しこみ、光もまたゆらゆらとゆらいでいる。
「お玉は舟がこわくはないと見えるの」
舟は、天の橋立を右に見て、静かにすべって行く。天の橋立の松並木越しに見える余佐《よさ》の海に目をやっていた藤孝が玉子に声をかけた。
「はい、こわくはありませぬ」
はにかんで玉子が答えた。
「藤孝殿、お玉は坂本城にいた時に、よく舟遊びをした娘でしてな」
光秀は愛《いと》しそうに、玉子に目を注いだ。
玉子が嫁いで以来、光秀は幾度か勝竜寺城に訪ねてはいた。が、このようにゆっくりと玉子を目の前に見るゆとりはなかった。
玉子が昨年長男の熊千代を産んで間もない月、細川家は信長から丹後の国を与えられ、宮津に城が変わった。
丹後は、足利時代二百四十年間、一色《いつしき》氏が守護職に在った。三代目の足利義満から、一色氏は丹後の国を賜ったのである。が、信長は十五代義昭を追放して、足利時代は終わった。信長は義昭を追放すると同時に、一色氏を己《おの》が威に服させようとした。
三年前の天正六年、信長の命を受けた細川藤孝父子は、丹後平定に力を注いだ。先ず、丹後の中心にある八幡山に砦《とりで》を築いた藤孝は、一色氏の豪雄、小倉播磨守一族の守る小倉城を攻めにかかった。
だが、なにしろ二百四十年続いた守護職の一色氏である。一色氏には八十五人衆と呼ばれる豪の者が、丹後の国の要所要所に、砦を築いている。その上、人心も一色氏に服していて、信長の配下である細川家には、敵意をあらわにしていた。
小倉城攻めは細川家の惨敗だった。再度の攻めには光秀も援《たす》けたが、同じく敗けた。
ようやく、藤孝は得意の情報を集めて、巧みに小倉城の水源をつきとめ、これを断って勝つことができた。
その結果、昨年八月に、忠興ともども丹後に入国し、藤孝は八幡山の城に、忠興は大窪の城に入ることができた。とはいえ、丹後二百四十年の泰平の夢を破った細川家に、一色氏が心から服するわけはない。何かと小ぜり合いが絶えなかった。
今とて、必ずしも、のどかに舟遊びなどできる時ではなかった。が、それだけに、時にはこのようなひと時を、武将たちは楽しんだ。細川忠興が宮津に来て、はじめて茶会を開いたのが昨日で、光秀は引きつづき滞在していた。
本来なら忠興が舅の光秀を、天の橋立に案内すべきであったが、忠興は昨日の茶会の亭主役の疲れを口実に、玉子を接待役に廻した。それは、久しぶりに親子をゆっくり遊ばせてやりたいとの、忠興のはからいであった。
玉子が坂本城にいた時、よく舟遊びをしたと聞いた藤孝は、扇子で軽く膝を打ち、
「おう、琵琶湖でのう。しかし、あの湖は、賊が出る名うての危険な湖じゃ」
「それ故、城より遠くには、こぎ出させはしなかったようでの」
「お舅上《ちちうえ》」
玉子は藤孝を見、
「あの琵琶湖は湖でも、この宮津の海より、ずっと広く荒うございました」
「全くじゃ」
光秀と藤孝は異口同音にいい、思わず笑った。
島影が、ひっそりと池のような海に映って消えた。その水底にうすみどりのやわらかい藻が、たゆたっているのが見える。
「あら!」
玉子が小さく叫んだ。弥平次が、
「何か見えましたかな」
「ほら、白い星のような形の……」
弥平次は水を透かして見、
「ああ、あれはひとででござるよ。ひとでがああして貝の上にかぶさり、窒息させて殺し、肉を食うそうじゃ」
と、こともなげにいった。玉子は、ひとでが七つ八つ水底にはりついているのをみつめたまま、
「まあ」
と息をのんだ。子供が二人いるとも見えぬあどけなさが残っている。
「藤孝殿、その後このあたりの歌を詠《よ》まれたか」
光秀が尋ねた。昨年八月入国早々、藤孝は天の橋立を詠んだ歌を三首、光秀に送っていた。それは、
丹後入国の刻、橋立をみにまかりて
そのかみに契り初めつる神代まで
かけてぞ思ふ天の橋立
いにしへに契りし神のふた柱
いまも朽《くち》せぬあまのはし立
余佐《よさ》のうら(宮津湾)にて
余佐のうら松の中なる磯清水
みやこなりせば天も汲みみん
である。
天の橋立は、いざなぎ、いざなみの命《みこと》が、天に上がる浮橋であった。ある時、二柱の神は天の橋立を通って天にのぼり、ちょうちょうなんなん時を忘れて過ごした。遊びにふけって、はっと気づいた時は既に天の橋立は、海の上に横たわっていた。いざなぎ、いざなみの命は、遂に地上に帰ることができず、天に上がったままであるという。この伝説を、藤孝は歌に詠みこんだのである。
「これは、いかがでござろうの」
藤孝は腰の矢立てを取り、紙にさらさらと一首記した。
ふた柱帰りきまさぬ橋立に
遊ばむ吾は丹後の長《おさ》ぞ
光秀は小さく口ずさんでいたが、
「お見事!」
といい、藤孝を見た。光秀と藤孝の視線がからみ合ったまま、うなずいた。この歌の「ふた柱」が一色氏を指していることを、光秀はいち早く悟ったのだ。だから必ずしも歌をほめたわけではない。歌としてはいつもの藤孝としては強すぎる所がある。光秀は藤孝の心意気に感じたのである。一色氏に今なお手こずっている藤孝のために、実は光秀は、茶会をも兼ねて訪ねてきているのだ。
一色の当主義有のもとへ、藤孝の娘伊也を来月嫁がせることに奔走したのは光秀であった。
その話もまとまり、来月伊也は一色家に嫁入りすることになった。その最後の打ち合わせに、光秀は明日一色家に行くはずであった。
「これで、無事治まるとよいがのう」
「それじゃて」
藤孝は珍しく眉をひそめ、
「佐久間殿が高野山に追われて、一年になろうか、惟任殿」
「いや、八月が来て一年じゃ」
光秀の顔もくもった。
「惟任殿。わしはな、佐久間殿が追われた時ほど、胸のさわいだ時はないがの」
玉子と弥平次が、ひとでを眺めながら、何か話し合っている。弥平次は玉子の姉の倫をめとり、この宮津に近い福知山城の城主となっている。
父たちの声が小声になったので、玉子は弥平次に倫の話を聞きはじめた。
「佐久間殿父子追放を聞いては、誰も同じ思いよ。何しろ、佐久間信盛殿は、大殿の時代からの重臣じゃ。藤孝殿やわしのような新参者ではない。その信盛殿を、格別追われるほどの失策もないというに、高野山に着のみ着のままの追放じゃからのう」
船頭は腹心の郎党だが、光秀は、一層声を低めた。
信長は昨年八月、本願寺を降伏させると、直ちに佐久間父子を追放した。信長配下の武将の第一位は徳川家康、つづいて父信秀の代からの家臣である柴田勝家、佐久間信盛、更にその下に、光秀、秀吉、丹羽長秀、滝川一益らがあった。この高位にある信盛が、昨日にかわって、たちまち尾羽うち枯らした流浪の身となったのである。しかも、これといった失敗をしたわけでもなく、無論二心があったわけでもない。信長はその折檻状に、
「本願寺を大坂に攻むるに当たってのこの五年、格別の働きがない。丹波国での光秀の働きは天下に信長の威を現して面目を施した。秀吉の働きも同様、数カ国をおさえて比肩する者がない。云々」
と、先ず働きのないことを、追放の理由として述べている。
無論、本願寺は強敵であった。が、信盛は三河、尾張、近江、紀伊、河内、和泉、大和など、七カ国の武士を、自分の部下のほかに、信長から与えられていた。この二つの力を結集すれば、信盛はもっとめざましい働きができたといわれても、仕方がない。信盛は、ただ堅固な付城にいて、敵を見張っていただけであった。
その上、吝嗇《りんしよく》で金に汚く、信長に与えられた土地を金に替えた。部下に加増もせず、部下の数を増やしもしない。信長の代になって、既に三十年、ただ金をためるだけで、どんな働きもしていない。
信長はこう立腹したのである。また、信長は、三十年前、弟の信行を擁立しようとした家老の林通勝をも追放した。三十年前の林の仕打ちを、信長は今になって言い出したのである。
この二つの事件は、いかなる武将たちをも怖《おそ》れさせた。信長はいつ、何を理由に、部下を放逐するかわからぬ人間なのだ。
ふた柱帰りきまさぬ橋立に
遊ばむ吾は丹後の長ぞ
と歌いたい藤孝の心情は、光秀にはよくわかった。まだ一色氏は、完全に屈服はしていない。藤孝はいつ、佐久間信盛のように追放されるかわからぬと、不安なのだ。が、その不安は光秀のほうが強かった。
確かに丹波の国の平定によって、信長から感状は与えられた。が、信長は、天下を平定した後に、曾て将軍足利義昭を推し立てた自分を、義昭同様追放するのではないかと、不安になってくる。将軍義昭を信長に引き合わせることが、当時は出世の道と考えられた。しかしそれが、今では自分の地位を剥奪されるかも知れぬ不安の種ともなった。これは、佐久間や林の追放以来、ともすれば感ずる不安なのだ。
これは光秀ばかりではない。諸将が、自分自身を省みて、あのこと、このことをうしろめたく思っては、脅えているのだ。佐久間信盛を追放することによって、部下たちが、こう脅えるであろうことを、信長ははじめから計算に入れていたのかも知れなかった。大名たちが、あれ以来極度に緊張しているのは確かであった。
舟は橋立の岸のひと所に着いた。先ず弥平次が飛び降り、光秀が降りた。藤孝につづいて降りる玉子の手を、光秀がとった。玉子はそのあたたかい父の手に、肉親のあたたかさを感じた。
白い砂地の感触が足にやわらかい。岸を洗う波の音さえない静かな余佐の海を、四人は眺めた。
「あのあたりが大窪じゃの」
「はい、そして、あちらが八幡」
光秀と玉子は、肩を並べて立っていた。
「お母上にも、この橋立をお見せしとうございます」
「うむ。……おは橋立よりも、そなたの顔が見たいであろう」
玉子は深くうなずいた。あばたのある母の肌が、言いようもなくなつかしいのだ。もし、このあばたがなければ、どれほど美しい人であったかと、少女の頃はよく思ったものであった。が、なぜか今は、あのあばたの故に、深味さえある美しい人に思われてくる。
「父上は、いつまでご滞在なされまする?」
「うむ、まだ二、三日はいる。里《*》村|紹巴《じようは》とも、またここで遊ぶことになっているのでな」
「まあ、うれしゅうござりますこと」
無邪気に玉子は喜んだ。
「お倫も幸せになった。みんないつまでも幸せであってほしいものよのう」
お倫が荒木家に嫁いだと思ったのも束の間、何年も経たぬ間に、荒木村重の謀反で不縁となった。そのお倫がようやく弥平次と共に福知山城に住むことにはなったが、その幸せも果たしてあと幾年かと、光秀は心にかかるのだ。
今、父のわずか二、三日の滞在を子供のように喜んでいる玉子にしても、一色一族がこぞって反撃してくる日があれば、いつこの美しい宮津の海に命を果てるかもわからない。
「ほんに、いつまでも幸せでいとうございます」
玉子は祖母の非業《ひごう》の死を思った。祖母は、玉子が嫁いで一年と経たぬ間に死んだのだ。もし、自分の結婚が一年遅れていたら、祖母が人質にならずに、自分が人質になっていたであろう。とすると、自分は疾《と》うに死んでいたことになる。玉子は改めてそう思い、祖母の死を痛ましく思った。
「そのためにも、丹後の平定は急ぎたいものじゃ」
ふり返ると、藤孝と弥平次が、二本並んだ夫婦松を見上げて、何か話し合っている。光秀はそのまま歩を進めて、
「お玉、一色氏との縁組みは聞いていようの」
「はい、伺っております。まだ、十四で嫁ぐ伊也さまが痛わしゅうて……」
「……うむ」
「父上」
玉子は歩みをとめた。
「何じゃ」
「伊也さまのお輿入れは、つまりは政略のためでござりましょう」
「……お玉、そのようには言わぬものよ。一色義有の相手は、この丹後に細川の娘しかないのじゃ」
「なぜでござります」
「家柄がつり合っていよう」
玉子はそれには答えず、
「伊也さまも、結局は花嫁というより、人質と申したほうが……」
「お玉、口を控えよ。相変わらずよのう、そなたは」
叱りながらも光秀は、玉子のこの性格を愛しく思った。こう強いものの言い方は自分にはできぬ。歯に衣《きぬ》着せぬ言いようは清いと光秀は思った。
「父上さま。玉はいま、おばばさまのことを思いました」
「…………」
「なぜ、女はかなしく生きねばならないのでござります? 伊也さまも姉上も、おばばさまも……」
「そちは悲しく生きているのか」
光秀は話を外らせた。
「いいえ、わたくしは今は幸せでございます」
「そなたの母も、細川殿の奥方も幸せじゃ。女は不幸とばかりは言えまい」
「父上さま」
玉子は光秀を見上げ、
「父上さまは変わられました」
と、その澄んだ目をまっすぐに注いだ。
「わしは変わらぬ」
「いいえ。どこかが変わられました。父上さまは、いま、玉の問いを外らせなさいました。伊也さまと一色殿のお話をすすめていられるのは、父上さまとか」
「うむ」
「なぜでござります。伊也さまは……親のそばから離れとうはないものを……」
「お玉、この父がよかれと思ってすることじゃ。父を信ずるがよい」
「…………」
「それとも、そなたは父を信じられぬか」
問われて玉子は視線を海に投げた。
「信じられぬか、お玉」
「いえ、父上ほどに信じられる方は、他にございませぬ。わたくしは父上を、忠興殿よりも信じております」
それは玉子の真実の気持ちであった。幼い時から、玉子は父と母を、こよなく慕い敬ってきた。忠興は感情の起伏が激しい。嫁いで三年近く経つのに、忠興のなすことに、無条件でつき従うまでには至っていない。時折、忠興の言動を批判する思いになることが玉子にはあった。
しかし、父の光秀はちがう。父という人間のなすことには、安心してついて行ける気がするのだ。
「それは……いけぬな。忠興殿を第一に信じねば……。ま、とにかく、この父を信じてくれるというわけじゃな」
「はい。……でも」
「でも? 何じゃ」
「この度の伊也さまのご婚儀ばかりは、幸せに行くとは考えられませぬ」
「そうか。ま、女のそなたには、そう考えられるのが当然かも知れぬ。が、お玉、今も申した通り、これも、誰もがよかれとねがっての縁談じゃ。父を信ずることじゃ」
「…………」
玉子は光秀を見た。この上なく思慮深げなまなざし、誠実そうなその唇、この父の心のどこにも嘘はないと玉子は思った。
うしろのほうで、何か弥平次と共に話し合っていた藤孝が近づいてきた。
「惟任殿、弥平次殿は聞きしにまさるよい婿殿じゃのう」
「これは痛み入る」
「全く、この弥平次殿が福知山におられれば、吾らも安心と申すもの」
「これ、弥平次、ご期待に添わねば相ならぬぞ」
光秀は言い、藤孝と並んで歩き出した。玉子はその二人の父の姿をじっと見つめた。父の光秀も、舅の藤孝も、立派な人間だと思う。が、伊也の結婚をこの二人の父が決めたと思うと、何か割り切れぬ思いがした。最も信じうる二人の父さえ何か信じがたく思われた。とにかく、この度の伊也の結婚だけは妙に不安なのだ。あの、まだ十四歳のあどけない伊也の上に、何か不吉なことが起こりそうに思われるのである。
「いかがなされた」
弥平次が聞いた。
「別に……。あ、弥平次さま、舟が四、五そう出ております。何をする舟じゃやら」
太い松の木立越しに、もやっている磯舟が見えた。
「あ、あれは貝を取っているのであろう。……貝といえば、坂本城の、あの初之助を憶えていられるか」
「初之助? もとより存じております。いつぞやは初之助の夢を見て、なつかしゅう思いました」
この言葉を初之助に聞かせたいものと思いながら、弥平次はいった。
「あの初之助は、しじみを取るのがなかなかの上手で……」
「そういえば、母上が肝を患《わずら》いました時、毎日しじみを取って届けてくれたのが初之助でした。初之助はもう娶りましたか」
「いやいや、一生娶らぬげに申しておりますわ」
「それはまた、何故……」
その玉子の表情をみつめながら、弥平次は、
「初之助は心に思う人がいて、それで、娶らぬとか」
「ま、それでは曾ての弥平次さまと同じではござりませぬか」
玉子は笑って、
「姉上がお幸せになられて、うれしく思います。そのうち一度、この天の橋立に姉上をおつれくださりませぬか」
初之助の想いなど、玉子にとって夢にも知らぬことであった。
「お倫もさぞかし喜ぶことであろう。おや、今のは……」
うぐいすが啼いた。
「ほんに。何とよい声ですこと」
二人がうぐいすに耳を傾けていると、風の向きが変わったのか、百間も向こうでしじみを取っている人の声が、風に乗って意外にまぢかに聞こえた。
「細川なぞと、どこの馬の骨ともわからぬ奴に……もともと一色様のお国じゃ、この丹後は」
「そうともよ。安穏に暮らしているものを、戦などしかけてきよって……」
玉子は、はっと息をのんだ。憎々しげなその声を聞きながら、先ほど見た、貝の上にぴたりと吸いついたひとでが、ほかならぬ細川家のように玉子には思われた。
六月の日が照りつけるひる下がりである。
すやすやとねむっているお長《なが》を抱いて玉子は大窪城の廻廊に立って、やや遠く左手に連なる天の橋立を眺めていた。父の光秀と、あの天の橋立に遊んだ日から、もうふた月になる。玉子の黒くつややかな垂髪に、海からの微風が吹き過ぎて行く。
先月、忠興の妹伊也は、一色義有に嫁いで行った。白むくの花嫁姿が、痛々しいほどに伊也を幼く見せていた。が、伊也は涙一つ見せずに、そのほっそりとした手を揃えて、玉子にも挨拶をした。
義有と仲よく毎日を過ごしているとの便りが、ついこの間、伊也の父の藤孝のもとに来た。
「あの男は、豪放な、気性のよい男だからな。伊也をかわいがってくれるだろう」
藤孝が、そう忠興にいって、ほめていたのを玉子も聞いた。が、忠興は口を一文字に結んだまま、何とも答えなかった。その時の忠興の表情を思いながら、玉子は海を眺めた。
入り海の余佐の海は青く静まりかえっている。白波ひとつ立てぬこの海を眺めながら、玉子は今、なぜか不安になった。本来、海はこのように静かである筈がない。静かに見せてはいても、いつ、その本来の姿をあらわにしてくるか、わからぬ気がする。伊也の幸せそうな手紙も、つまりはこの余佐の海に似た不安を与えるのだ。
「何をしている? お玉」
ふいに忠興の声が後ろでした。
「海を眺めておりました」
玉子はふり返って微笑した。
「海か」
子供を産んでから、笑顔が一段とあでやかになったと思いながら、忠興は玉子と並んだ。己が妻ながら、時折はっとするほどに美しい。忠興には、それが誇らしくも、また、気にかかる。玉子が、自分の手の届かぬ遥かなる所にいるような気にもなるのだ。
「日置の浜が、今日は近く見える」
「ほんに」
対岸の日置の浜は、天の橋立に地つづきである。
「いま、殿が日置の浜といわれた時、わたくしには仕置きの浜と聞こえました」
「仕置きの浜と?」
「信長さまの御領地になら、そんな浜も数々ありそうな……」
「これ! 口をつつしめよ」
言いながら、しかし今日の忠興の機嫌は悪くはなかった。
「でも……あの安土でのお仕置きは、あまりにむごうございます」
「うむ。しかし天下をとるお方だ。何度も申したとおり、きびしさも人並みではあられまい」
お長の愛らしい寝顔を眺めながらいう。
忠興は信長に目をかけられている。ここ丹後の国も、信長は、父の藤孝にではなく、
「忠興にとらす」
といった。つい、忠興は信長の肩を持つ。が、今日は上機嫌のせいか言葉がおだやかだ。忠興も内心、近頃の信長は妙にいらいらとして、きびしさも度を越していると思う。特に、今玉子が言った三月の事件は、四月に光秀が来た時も話し合ったことだが、それはまさしく、きびしいというより異常といったほうがよかった。
この年天正九年三月十日のことであった。信長は安土の城を早朝に発ち、竹生島《ちくぶじま》に遊びに出た。琵琶湖の竹生島は、安土から片道陸路十里、水路五里の所にあった。誰もが竹生島の近くの、秀吉の城、長浜城に一泊するものと思っていた。それで、安土城の侍女たちは、寺詣りや街見物に外出していた。
ところが、思いがけなく信長は、その日のうちに帰ってきたのである。侍女たちの勝手な振る舞いに怒った信長は、外出した侍女たちをみな殺しにした。とりなそうとした寺の僧まで殺してしまった。
これを伝え聞いた大名たちは、わが身にも、いつ、いかなる信長の怒りをこうむることかと、恐れおののいた。
「なぜ、殺さねばならなかったのでしょう。厳しく叱っただけでも、事はすみましたでしょうに」
思い出して、玉子は嘆息した。
「右府どのは、表裏ある人間が、おきらいなのじゃ」
「でも、殿のるすに、のんびりと外出をしてみたくなるのも、人情というものではござりませぬか」
「いや、信長殿は、いつも、誰が自分を裏切るかと、神経を尖《とが》らしていられる。表では忠勤を励んでも、いつ謀反するかわからぬ武将たちへの、あれは威嚇《いかく》であろうよ。わしは、この頃特にそう思うのだ」
「まあ! ……でも、威嚇されて、かえって人の心は離れるかも知れますまいに」
「人間など、どうせ情をかけてみても、情には応《こた》えぬものよ。恐怖心に訴えるのが近道かも知れぬのだ」
「殿! 殿は真にさように思われまするか。人間、情には応え得ぬものでござりましょうか」
海に投げていた視線を、玉子は夫忠興に移した。
「もとより相手にもよろうが……。とにかく右府どのは、他出を禁じて出かけられたのじゃ。命《めい》にそむく者は、侍女といえども、許しがたかったのだ」
「では、殿ならいかが遊ばします? 殿の留守に、侍女たちが寺詣りなどに行ったとしたら、やはり一刀両断になさりますか」
「時と場合によろう。武の道は、やはり武じゃからのう。いま、わしはそなたに、惟任殿の文《ふみ》を見せようと思っていたところだ」
忠興は玉子を促して書院にもどった。
「父の文でござりまするか」
ぱっと玉子は顔を輝かせて、忠興に従った。
十五畳ほどの、開け放たれた書院を、白い蝶がひらひらとよぎって行った。
「うむ、これを見い。これもつまりは武の道よ。そなたの父はすぐれた武将じゃ」
忠興の機嫌がよいのは、光秀の手紙のせいであったかと思いながら、玉子は手紙を読んだ。四月に天の橋立に遊んだ父の顔が目に浮かぶ。
手紙には、
「そちたち夫妻の仲むつまじき様子や、熊千代お長の愛らしき姿を思い出しては、ことごとに噂をしておる。
この度、おくればせながら軍規を定めた。忠興殿の今後の何かの参考までに書き送るから、読まれたい」
といって簡単な言葉が書かれてあった。玉子は、もう少し何か母の様子でも書いてあるかと思っていたため、やや落胆したが、自分が次を読むのを楽しげに見守っている忠興を見て、読みついだ。
「明智家軍規 十八条
第一条 陣地に於ては、隊長、参謀、伝令以外の者の高声及び雑談を禁ず」
とあり、第二条、第三条につづいて、第四条には、
「行進は先ず兵を先に進ませ、つづいて騎乗の将これにつづけ。万一、兵におくれし騎乗の将あらば、領地は没収し、時により死刑に処すべし。
第五条 戦闘中、命令に従順ならざる者は死罪となす。戦闘中、命令には返答すべし。もしこれに逆《そむ》く者あらば、いかなる武勲ありとも処刑まのがれざるべし」
などと、きびしい掟が書かれてある。
玉子は、その行間に父の激しい気魄を感じた。戦争は命をかけての場であるというきびしさを感じた。そして、いかにきびしくはあっても、予めこのような掟を定める父光秀の心は、信長の残虐、無慈悲とは全くちがうのだと玉子は思った。だが、かかる軍律、軍規をつくっている時の、武将としての父の顔を、自分はまだ知らないのかもしれないと玉子は思った。自分のまだ知らぬ父の一面を知らされたような気がした。
光秀の書状には、他に軍役も記されてあった。
最後に、
「功なき者は、無駄の最たる者である。かかる軍規を人はあるいは批難するかも知れぬ。しかし、自分は浪々の身から引き立てられて、かかる大名となり、信長公から多くの兵を預けられる身となった以上、一兵たりといえども、勇ましく戦ってもらわねばならぬと思っている。貴公も、取り立てられたること同様と存ずるがいかがか。せいぜい、この上とも武勲を立て、誉をあげてくれるように」
という意味のことが書かれてあった。それはいかにも、娘の婿である忠興に対して、真情あふれる手紙であった。
「のう。何と一所けんめいのことじゃ、そなたの父は。わしも父上に負けてはおられぬ」
玉子の読み終えた手紙に、忠興は再び目を光らせた。
「ふむ、軍役は……百石の者は兵を六名|出《い》だせか。五百石以上、六百石以内では、甲《かぶと》が二人、馬が二頭、鉄砲が二梃、のぼりが一本……か。うむ、なるほど、命令をきかぬ者は死罪か、さもあらん、さもあらん」
忠興は一人うなずき、莞爾《かんじ》として、
「そなたの父上も、命にそむきたる者は死罪とある。信長殿の命にそむいた侍女が死罪となっても、いたし方あるまい」
「いえ、父の軍規には、戦闘中、命にそむきし者とござります。右府さまのあの場合は、戦闘中ではござりませぬ。ご自分の城の中での……」
「いやいや、お玉。信長公ほどのお方になると、戦闘中も、日常も、命令の重たさは同じなのだ。信長さまは、ご自身を神と仰せられるほどだからのう」
玉子はかすかに笑った。皮肉な微笑だった。神と自称する信長が、泣き叫ぶ侍女たちを次々に斬り捨てている姿を、玉子は胸に描いた。
「人間が、神である筈はございますまい」
「何事も可能な人間が神なのだ」
「信長さまは、何事も可能でござりましょうか。空を飛ぶことはできますまい」
「……とにかく誰もが、殿を恐れている。それは、誰の運命も殿に握られているからじゃ。殿には、亡ぼすも責めるも可能といってよいであろう」
「たとえ亡ぼすこと責めることは可能であっても、情をかけること、許すことのできぬお方。おのが侍女さえ許せぬお方ではござりませぬか。決して何事も可能なお方ではござりませぬ」
「そなたは……」
忠興は少し呆《あき》れたように玉子を見、
「なぜに、そのようにわしにさからう?」
「殿にさからっているつもりはございませぬ。信長様の在り方にさからっているのでござります」
「もうよいわ。そなたの口にはわしは勝てぬ。わしも掟を定めねばならぬ。妻は夫に口返しをしては相成らぬとな」
珍しく忠興は冗談をいった。これはよくよく機嫌がよいにちがいない。何があったのだろうと戸惑う玉子に、
「実はのう。そちにもう一つ見せるものがあるのだ」
と、忠興は楽しげに書院棚の文箱《ふばこ》をあけた。それは九曜の紋のついた黒塗りの大きな文箱で、決して手をふれてはならぬと言われていた文箱であった。
「ま、何でござりましょう」
玉子もやさしく首をかしげた。
「これじゃ」
「まあ、きれいな……。これは歌留多《かるた》ではござりませぬか」
厚紙に金箔を貼った扇型の歌留多が沢山、文箱から取り出された。
「どうだ? お玉」
得意気に忠興は玉子を見た。玉子はお長をそっと下に置き、
「何とみやびやかな!」
玉子は目を見張って、その一つを手のひらに置いた。
「これは、いったいどなたさまよりの賜り物……」
「もらったものではないわ。実はな、そなたを娶った時から、ひまひまに、こっそりわしが作ったものだ」
照れたように笑う夫の顔を、玉子はまじまじと見て、
「まあ、それでは……この金箔も殿が?」
「おう、わしが貼った。貼り方は、以前に屏風《びようぶ》師に習ってあった。そなたを喜ばせようと手がけたのが三年前。だが、戦つづきで、なかなか時間もとれぬ。ようやく先ほど百枚つくり上げたわ」
「殿!」
玉子の白い頬に、涙がつーっと走った。思いがけない夫の優しさだった。
「もったいのう……ござります」
「おう、喜んでくれるか。わしもうれしい。そんなに喜んでくれるとは思わなんだ」
玉子は、一枚一枚をその形のよい指で、そっとつまむようにして持った。金箔の上に、忠興の見事な筆で百人一首が書かれている。
君がため惜しからざりし命さへ
ながくもがなと思ひぬる哉
諸共に哀と思へ山桜
花より外に知る人もなし
低く読みながら、玉子は幸せな思いに満たされて行った。
結婚以来三年、忠興は優しいと思えばいら立ち、怒っていると思えば、俄《にわか》に激しく愛撫する夫で、どうにも気心が捉えられなかった。いつも、何か気まぐれに扱われているようで、誇り高い玉子は、内心腹にすえかねることもあった。何かしみじみと、二人の間に通うもののない淋しさがあった。
その淋しさ、うつろさが、やがては忠興に抱かれながら、高山右近の幻影に抱かれるという不倫な思いに、玉子を誘ったのかも知れなかった。だが、いま、忠興手作りの優雅なかるたを手にして、玉子の心はやさしく解きほぐされていく思いだった。妻の自分を喜ばせようとして、激しい戦のひまひまに、ひそかに厚紙で型をとり、金箔を貼りつけ、細字を書きこんでいく忠興の姿が、ほうふつとして玉子の瞼に浮かんだ。
「一生、わたくしの宝といたします。殿、ありがとうございます」
深々と両手をついて礼をいう玉子を、忠興は満足そうにうなずいて眺めた。
「さぞかし根気のいるお仕事と存じまする」
玉子は飽かずに一枚一枚かるたを眺めて行った。この百枚を、三年かかってつくってくれたと思えば、あだやおろそかには思われぬ。その様子を見て、忠興もまた玉子の真心がじかに伝わる思いだった。
類《たぐい》ない美貌の女性《によしよう》であるとの思いは、初めて玉子を見て以来、変わりはしなかったが、しかし心根はいかにも冷たい女に思われた。女性に似合わず、もの事に批判的で、夫の忠興のなすこと言うことに、冷笑を浴びせているように思われることが間々あった。それがいま、こうして、涙をもって深々と礼をいい、百枚のかるたの一枚をもおろそかにせず、次々と興深げに見つめてくれている。いま玉子は、自分の気持ちをあやまりなく受けとめてくれているのだ。忠興はしみじみうれしかった。
玉子の美しさ、賢さに圧倒されて、忠興は最初から劣等感を抱いていたのだ。が、この日以来、忠興と玉子の間にあった目に見えぬ垣は、取り払われたようであった。それは、熊千代お長という愛らしい二人の子が恵まれても、なお取り払い得ない垣であったのだ。
なお、この忠興手づくりの百人一首は、現在も細川家に伝えられて数枚が残っている。
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里村紹巴 一五二五〜一六〇二(大永五〜慶長七)年。連歌師。本姓松村氏。連歌史上最後の巨匠といわれた。武将や文化人との親交も多かった。光秀が本能寺の変の前、愛宕山で連歌の会「愛宕百韻」を催した際に出席、のち秀吉にとがめられたことは有名。子孫は代々徳川幕府の連歌師を務めた。
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十三 暴君信長
天正十年元旦、光秀は他の武将たちと共に、信長に祝賀を述べるため、安土に登城した。信長は光秀に盃を与えて言った。
「早速だが、七日に折り入ってそちに相談がある。朝早々に登城せよ」
光秀は信長を見つめた。信長の目が、事の重大さを語るようにちかりと光った。
(よいな)
その目が念を押していた。
「かしこまってござりまする」
盃を持ったまま平伏すると、酌の福富平左衛門が、にじりよって再び酌をした。
「よい年ぞ、今年は」
ようやく信長が笑った。この年六月、まさか光秀にそむかれて死のうとは、信長は夢想だにしなかった。光秀もまた、自分が信長の天下を取り、その後二旬を経ずに討ち死にしようとは、思いもよらぬことであった。
年賀には、藤孝、忠興も来ていた。高山右近の凜々《りり》しく清い顔もあった。光秀はしかし、早目に安土城を出た。従うは弥平次、初之助のほか、二名である。
雲が低く垂れ、琵琶湖からの風が寒かった。安土城の近くの神学校《セミナリヨ》から、西洋音楽が流れてきた。三階建ての華麗な神学校《セミナリヨ》は、安土城を除いては、安土第一の大建築物である。仏教の嫌いな信長は、安土に新しい寺の建立は許さなかったが、この教会学校《セミナリヨ》のためには、土地を提供して、その建築に力を貸した。
キリシタン大名らは、金や人夫などを捧げたが、わけても右近は熱心で、千五百人の人夫と多大の金子《きんす》を献《ささ》げたと、光秀は聞いていた。
光秀は馬をとめて、宏壮な三階建てを見上げた。ここに来て、見上げる度に思い浮かぶのは、いつか信長が、
「どうじゃ、これが安土随一の飾りよ」
と言った言葉である。
ここでは、キリスト教教育は無論のこと、ラテン語、ポルトガル語、国語のほか、西洋音楽を教えているとかで、二十五人の生徒たちはオルガンを弾くとも聞いていた。光秀は、この学校の前を通る毎に、新しい時代の流れを感ずる。武士の子が断髪し、異国の言葉で語ること自体、光秀にはついて行けぬことであった。高山右近の領する高槻の教会には、小型のパイプオルガンが設置され、グレゴリオ聖歌が町に流れひびくという噂も思い出す。
(こうしてはおられぬ)
光秀は心の底に、今日もいら立ちを覚えながら、教会学校《セミナリヨ》の前を離れた。
「殿」
弥平次が声をかけた。
「うむ」
「急がねば、雪になるやも知れませぬぞ」
「たしかに」
垂れこめた雲から、今にも雪が降りそうな寒さだ。道には、前年に降った雪が少しつもっている。
「弥平次」
「は」
弥平次は遠慮なく、くつわを並べた。
「殿から、七日に登城せよとの沙汰があった。折り入っての相談があるということじゃ」
「七日に? まだ松の内でござりますな」
「うむ。いかなる御用だと思うぞ。弥平次は」
伴の一騎が先導し、初之助は五間ほどあとに手綱をとっている。
「さて?」
「わしは、甲州征伐の相談であろうと思う」
低い声で光秀はいう。
あの信長のちかりと光った目は、尋常ではなかった。何か一大事を暗示していた。
「なるほど、武田退治でござりますか」
「うむ。いま、殿の心にかかるは、毛利と武田じゃ。毛利は秀吉の仕事、わしに折り入って相談はなさるまい。他に四国の平定もなおざりにはできぬが、しかし宿敵の武田との対決が先じゃ」
「仰せの通りに相違ありませぬ」
「と、すると、今年の仕事はじめは武田退治か。ようし、行くぞ!」
光秀は一むち当てた。早足だった馬が駆けはじめた。光秀の満足気な面持ちに、弥平次の心も明るんだ。
その夜も、弥平次と光秀は坂本城に一泊した。光秀は既に、居城を丹波亀山に移していた。
光秀は暗い道を歩いていた。どうしたわけか、伴の者が一人もいない。はて、どうしたことかと、光秀は幾度もふり返った。と、ぼんやり闇の中に人の影が見えた。伴の一人かと思い、
「誰だ?」
と誰何《すいか》したが、答えない。
(怪しき奴!?)
光秀は刀をぬこうとした。
「わしを斬れるか、十兵衛」
人影が低く言った。思いがけず将軍義昭の声であった。
「あ、あなたさまは……」
はっとした途端、光秀は目が醒めた。
「義昭さまが……」
低いが、ありありと義昭の声が耳に残っている。
「わしを斬れるか、十兵衛」
夢の中とも思えぬ声であった。光秀は床の上に起きた。
立ち上がって、ふすまを開いた。次の間には誰もいない。ひやりと冷たい板の間を踏んで、寒い板戸をあけると廻廊である。無論そこにも人影のある筈はなかった。
「夢か」
光秀は早暁の湖を見た。鉛色の海だ。雪が小やみなく降っている。
戸を閉ざして布団の中にもどると、妻の子が、
「いかがなされました?」
と静かに尋ねた。
「うむ、夢を見た」
「夢?」
「義昭さまの夢じゃ」
「ま、どのような」
光秀はいま見た夢を語った。
「妙な初夢でござりますこと」
「おう、なるほど、初夢か」
「将軍さまは、あれから何年になりますやら」
「もう、十年になるのう」
十年前の天正元年、自分は主と仰いでいた将軍義昭の敵に廻り、遂に義昭を追放してしまったのだ。無論、それは主君信長の厳命であった。あの時、自分は信長の臣として、心ならずも義昭の敵に廻らざるを得なかった。が、それを知った義昭の心中はいかがであったろう。光秀は今更のように胸が痛んだ。
「将軍さまは、どこでどのようなお正月を、お迎えなされたことでござりましょう」
「…………」
光秀は黙って寝返りを打った。雪の降る中を、義昭がとぼとぼと歩いているような気がするのだ。自分があの時、将軍と運命を共にしていたなら、同様に落魄《らくらく》はくしていたことであろう。
(しかし……)
と、光秀は目を大きく見開いた。自分があの時信長の地位にあったら、決して義昭を追放などせず、将軍として仰いでいたと光秀は思う。
(もし、わしが天下をとっていたら……)
今のように惨めな境遇に、義昭を置きはしなかった。そう思って、光秀は、はっとした。
(もし、わしが天下をとっていたら……)
何と大それたことを考えるものだ。天下は信長のものではないか。光秀は苦笑した。
(何しろ、妙な初夢だ)
光秀は、七日に折り入って相談があるといった信長の言葉を思った。このことのほうが、今は夢より大事なのだ。
武《*》田信玄が逝き、その子勝頼の時代になって、今年で十年目だというのに、いまだに武田退治はなされていない。いよいよ、今年は決着をつける時がきたのだ。そう思いながら、しかし光秀は再び思った。
(わしが天下を取っていたら……)
義昭を迎えて将軍の座につかせたかった。
考えてみると、自分は信長に劣るとは思われない。軍略に長《た》け、武術も秀れている。今までの戦いにも、自分の知恵がどれほど信長を助けてきたことか。ということは、信長は自分がいなければ、天下を取ることはできなかったということではないか。
無論、柴田勝家や秀吉の働きも大きい。……秀吉の顔が目に浮かぶと、光秀は落ちつかない気分になった。これは何も今日に限ったことではない。光秀は、今まで常に秀吉を意識してきた。
坂本城を築いた時の喜びの一つに、秀吉よりも先に城を持てたということがあった。その二年後に秀吉は長浜城主となったが、光秀は優越感を持って、その知らせを聞くことができた。
丹波攻略を命ぜられて勇躍したのも、秀吉に丹波攻めの大将が下命されずに、自分に下命されたからであった。
が、考えてみると、今では秀吉も中国攻めの総大将となっている。自分は一足先に丹波を平定したが、いわば華々しい舞台には立ってはいない。秀吉の身辺がいかにも華やかで、信長は秀吉に絶大の信頼をよせているかに見える。
(わしも今年は五十七歳だ)
時には甚だしい疲労を覚えて体力も限界に来ているような気がする。それにひきくらべ、四十七歳の秀吉は、まだまだ働き盛りである。十歳の年齢の差は、光秀にはひどく大きな差に思われた。
自分がろくに働けなくなった時でも、秀吉はまだ働けるにちがいない。とすると、今後の二人に対して信長がいかなる態度に出るか、目に見えるような気がする。年来の臣、佐久間信盛を、さしたる働きがないといって高野山に放逐したように、いつまた自分も、役に立たぬ老将として追い払われるかわからない。信長は、無用の者を大事にするほど、情のある人間ではない。非情が身上の信長である。
(五十七か)
光秀は吐息をついた。子がそっと身を起こして立って行った。
人生五十年の世にあって、自分は少なからず長生きしたと光秀は思う。
(謙《*》信は四十九で死んだ)
信玄にしても五十三歳だった。
今の地位のままに安穏に死ねたら上乗だ。しかし、信長は自分をいつまで重んずることであろう。この度の七日の相談も、恐らく甲州征伐であろうが、万一失敗したら、どんな勘気をこうむるやら、測りがたい。
特に近頃の信長はいら立っている。信長はまだ四十九歳だ。しかし、人生五十といわれるその五十歳を目の前にして、信長も焦っているのかも知れぬと、光秀は思った。天下征覇の業は、そうやすやすとは成らぬのだ。
(秀吉奴!)
武将は戦場にあってこそ武将なのだ。毛利という手強い敵を相手に攻めあぐんでいる秀吉が、今の光秀には羨ましかった。そして、それよりも更に羨ましいのは、秀吉が自分より十歳も若いということだった。
それにつけても、自分は浪々の時代が長過ぎたと思う。将軍義昭を信長に紹介し、信長に仕えたのは既に四十歳であった。
(十年あとに生まれておれば……)
思っても詮ないことを思う自分は、やはり年のせいかも知れぬと、光秀は苦笑した。
卯の刻(午前六時)でもあろうか。廊下をしのびやかに行く足音の数が増した。
(十年を経て、義昭将軍のお声を夢に聞こうとは)
過ぎ行けば、義昭もまた、懐かしい人の一人だった。
思うともなく、義昭との出会いの頃を思っていると、ふと信長の寵童森蘭丸の顔が目に浮かんだ。近頃、蘭丸は光秀を見ると、かすかに笑う。それは微笑とも見えるが、断じて微笑ではない。嘲笑である。光秀が正面からみつめると視線を外らす。
森蘭丸については、この頃妙な風評が流れている。信長が、
「何にても望むことを言え」
といった時、蘭丸は、
「父のもとの領地、坂本を私めに賜りとう存じます」
とねだったという。坂本は光秀の所領である。
もとより確たる証拠のある話ではないが、ふいに光秀は不安になった。久しぶりに義昭の夢を見たため、神経がたかぶっているのかも知れぬと、光秀は床の上に身を起こした。
信長は武田勝頼に圧勝した。
この日、三月十九日、信長の陣は信州の飯田から上諏訪の社《やしろ》に移った。三月の空が青くやわらかい。織田方にとって絶好の戦勝日和である。
木立の多い社の陣には幔幕が張りめぐらされ、信長、信忠を中心に、光秀、森蘭丸らがうしろに控え、家臣が廻廊に居並んでいる。そこに、武田勢を駿河口から攻めた徳川家康も、先ほどその穏やかな微笑を見せて入って来た。更に、武田勝頼の姉婿で、信長に寝返った穴山梅雪《あなやまばいせつ》がそのあとにつづいた。
拝伏する梅雪に信長がゆっくり声をかける間もなく、木曾義昌が姿を見せた。降将が姿を見せる度に陣内がざわめいた。特に木曾義昌の姿を見ると、そのざわめきは大きくなった。義昌は、木曾義仲以来の名門だが、武田信玄に攻められて降った。後に信玄の娘と結婚、室とした。いわば勝頼の妹婿である。
この義昌が勝頼の圧政に抗して、反旗を挙げたのであった。そして直ちに信長に救援を訴え出たのである。いわば、この度の武田攻めの口火を切ったのは、この義昌であった。きりりと結んだ唇が女のように赤い。
次々に、信長の前に平伏する梅雪、義昌らを眺めつつ、満足気にうなずいていたのは、光秀であった。
今年の正月七日、信長は折り入って相談があるとして、光秀唯一人を招いた。それは、光秀の予想したとおり、武田攻めの合議であった。
細川護貞《ほそかわもりさだ》氏著「細川幽斎」にも、
〈同七日、信長は惟任光秀と軍議数刻に及んだ後、その席に藤孝も招《よ》ばれ「来る二月下旬から甲州征伐する。その折、藤孝は安土の警固を勤めよ」とのことで云々〉
とある。
光秀はいま、その時のことを思い浮かべていたのである。
信長はその日、甲州信濃の地図を大きく広げて、光秀を待っていた。
「おう、待っていたぞ」
光秀を迎える信長の声は、気味の悪いほど上機嫌であった。が、この機嫌はいつどう変化するか、例の如く予断を許さなかった。
「武田攻めでござりまするな」
挨拶ののち、光秀は進みよって、地図に目をやった。
「うむ。既に暮れのうちに、三河の牧野《まきの》の城に兵糧を半年分運び入れてある」
信長は得意気であった。
「半年分……でござりまするか」
かすかに光秀は笑った。信長の目が光った。
「少ないと申すか」
「いえ、さすがは殿。さりながら半年分はいささか多過ぎると光秀には思われまする」
「多い?」
「は、殿の御威光の前に、武田勢は二カ月と持ち堪《こた》えることはできますまい」
「二カ月と持つまいとな?」
ニヤリと信長は笑った。光秀の言葉が気に入ったようである。
「はい、先ず一月半というところでござりましょう」
確信ありげな光秀の語調である。
「ところで、勝頼めは昨年勝長を送り返して来た。それをそちはどうとるか」
「さればでござりまする」
勝長は、信長の末子である。
武田勝頼の父信玄は、曾てその在世中、美濃の岩村城を攻めたことがあった。信長の末子勝長は、当時その城主の養子であったが、人質として武田方に渡された。そして、後に信玄の養子にされ、今日に及んでいた。即ち、信長の末子が信玄の養子になっていたわけである。それが、十余年経て、突如その父信長のもとに帰されて来たのだ。
「武田に戦意があらば、人質は貴重かと存じまする」
「では、戦意がないと申すのか、武田には」
「いえ、戦う気はないと、見せかける謀略かとも……」
「柴田は、これを絶縁状だと申して居る。信玄が勝長を養子としたるは、いわば政略縁組み、その縁を勝頼めは切り捨てたとな」
「なるほど。しかし、たとえ勝頼はそのように高飛車に出たとしても、さて、武田の家臣たちに、それほどの意気がありますか、どうか」
「うむ。わしもないと思う。信玄が死んで十年、もはや武田は虎ではない。猫に過ぎぬ。その猫が、勝長を突っ返して来た」
「勝頼は、未だにおのれを虎と過信しているやも知れませぬ。猫がおのれを虎だと思いこめば、これは滑稽というもの。しかし、家臣は、おのが主が猫か虎か、よう弁《わきま》えておりましょう。弁えておれば……」
「弁えておれば?」
「いくら、猫が強がっても、人心は離れるばかり……」
光秀の言葉に、信長は心地よげに声を上げて笑ったが、
「武田に総攻撃をかける! 時は二月末だ」
と言い切った。
「二月末でござりまするか」
「遅いと申すか」
「いえ、もしかしたら、殿、その前に日ならずして武田の中に謀反が起きるやも知れませぬ」
「何? 謀反が?」
「は、細川藤孝殿にお尋ねくだされば、詳しい様子はおわかりと存じまする。藤孝殿は、長年来、諸国を流れ歩く座頭琵琶坊主などに目をかけておりますれば、諸国の様子も、掌を見るが如くとか」
「うむ、藤孝が情報を多く集めているは、わしも知ってはいるが……。それでそちは、武田勢について聞いていることがあると申すのか」
「は、勝頼の代になって以来、貢にも、課役にも、苦しめられて、不満が多いとか……、特に信濃の木曾義昌の領地内では、勝頼は痛く不評と聞きまする」
「何、木曾義昌が? しかし、彼奴は勝頼の妹婿じゃ」
「得てして、姉婿、妹婿などが、真っ先に不満をとなえるもの……」
「子供でも親にそむき、婿でも舅に弓を引くからの」
信長はちょっと皮肉に笑った。光秀はヒヤリとした。信長自身、妹婿の浅井長政を亡ぼしているからだ。
「藤孝に詳しく尋ねよう。即刻使いを宮津につかわす」
「は、実は、何かの御用もあろうかと、藤孝殿も、本日共に登城仕ってござります」
「おう、ぬけ目のない奴じゃ、そちは。では後ほど召し出すであろう」
幾度か信長は大きくうなずいて光秀を見た。
こうして、その日の光秀の進言は、この度の戦いにあまりにも数多く的中したのである。
それから二十日後の一月二十七日、果たして木曾義昌が武田に反旗をひるがえし、且《か》つ、織田方に救援を求めて来た。
信長は、木曾義昌の弟上松蔵人を人質とした後、予定より一カ月早い武田攻めを開始した。
木曾口、駿河口、飛騨口、関東口から、織田勢は甲州、信濃に向けて、同時に兵馬を進めた。光秀は信長に言った。
「人間、誰しも自分の生きのびる道を考える者でござります。勝ち目のない戦とわかれば、主君を捨てて、織田方に寝返る者が多うござりましょう」
そのとおりであった。駿河口の総大将、穴山信君(梅雪)をはじめ、朝比奈、大熊、依田らが、先ずおのが城を捨てて、投降した。
そして遂には、勝頼に転進をすすめた小山田信茂は、その途上、笹子峠で突如勝頼に矢を向けた。勝頼の兵はもろくも逃げ去り、勝頼は僅か四十一名の兵と、五十名の女中たちと共に、民家にかくれた。
が、かくれ住むこと八日あまり、滝川一益らに攻められて、勝頼は妻子と共に自害して果てた。最後まで従った男女合わせて九十一名の者も共に果てた。実にこれがその名を天下にとどろかせた武田の惨めな最期であった。三月十一日のことである。
武田勝頼は、敵と戦って負けたのではなく、自らくずれ去ったといったほうがよかった。光秀の予言どおり、勝頼は兵を起こして、二カ月と保つことはできなかった。
(果たして、半年の兵糧は不要であった)
光秀は心中、満足であった。こうして考えてみると、自分の洞察力は信長に勝るとも劣らぬではないか。
家康や穴山梅雪と談笑している信長の姿を、うしろから眺めながら、光秀は曾てない満足感に浸っていた。
(しかし、武田もあえなく果てたものよ。落ち目の主君にこそ、忠を励むが臣たるものを)
僅か四十一名の兵と共に果てた勝頼を、光秀はあわれと思った。
(落ち目の主君を、人は容易に裏切ることができる。が、日の出の勢いの主君を裏切るは容易ではない。人間、ただ自分が大事なものよ)
思いつつ、光秀は内心ぎょっとした。日の出の勢いの主君とは、この信長のことである。この信長に自分は反旗をひるがえせるか。光秀は信長の幅広い背に視線を据えた。はね返すような力が、背にも肩にも漲《みなぎ》っている。
(強い男だ。運も強い)
光秀は、信長の背に目を据えたまま、心の中でつぶやいた。
信長の笑い声がかん高くひびいた。光秀は、はっと吾にかえった。
信長がいった。
「改めて、そちたちの旧領はそのまま、安堵してとらす」
木曾義昌、穴山信君、小笠原信嶺らが両手をつき、地に頭をすりつけた。小笠原の肩がかすかにふるえている。
「なお、木曾義昌、特別の働きにより、信濃|安曇《あずみ》、筑摩を領国としてとらす。大儀であった」
木曾義昌はおのが耳を疑うように顔を上げ、信長を見上げたが、更に低く平伏した。
(つまりは、主君を裏切ったが功になったか)
光秀は地にひれふしている木曾義昌を見守った。この男は、信長が落ち目になればまた裏切るのかも知れぬ。ようやく面《おもて》を上げた義昌の赤い唇を光秀はみつめた。
「めでたいことよのう」
隣の滝川一益が光秀にささやいた。
「おう、そうじゃ。蘭丸」
信長が、うしろをふり返って、森蘭丸を見た。蘭丸が、その白いうなじをかすかに傾けた。彫ったような張りのある目が、媚びを帯びて信長に注がれる。
「そちの兄の長可《ながよし》には、信濃川中島四郡の十八万石を与えてとらそうぞ」
「え? 十八万石を!」
驚く蘭丸をなめるように信長は眺めた。驚いたのは蘭丸だけではない。居並ぶ者も光秀も驚愕した。
(旧領二万石と併せて、一挙に二十万石!)
蘭丸の兄武蔵守長可は、未だ二十四歳である。いかに鬼武蔵と、その剛勇をうたわれているにせよ、弱冠二十四歳で、二万石から一挙に二十万石の領主になろうとは。
内心、光秀は穏やかではなかった。その動揺も静まらぬ光秀の耳に、信長のかん高い声がひびいた。
「蘭丸、そちには、美濃岩村の五万石を与えよう」
(五万石!?)
蘭丸はまだ十七歳の小童ではないか。
「そのうちに、加増もあろう。楽しみに待て」
ふっと、先に聞いた噂を、光秀はまたしても思い出した。蘭丸は、父の森可成《よしなり》の旧領、坂本を拝領したい旨願い出たという噂である。
蘭丸は六歳の折、父可成を失っている。可成は信長に従って、浅井長政、朝倉義景を襲わんとして、討ち死にした。もと、美濃国金山城主であった。
信長の森一統への傾きが、あまりにもあからさまに思われた。
森兄弟に対する扱いは破格である。もっとも、それがまた信長のやり方である。使えると思えば、家柄など顧慮することなく高禄を与える。まして森家は家柄である。
(自分にしても、秀吉にしても、破格の扱いを受けたのだ)
(だが、このままでは、本当に坂本は蘭丸に奪われるかも知れぬ)
光秀は面を伏せた。頬が引きつるようであった。と、その時、信長の視線が光秀にとまった。たちまち、光秀の苦々しげな様子が、信長の癇にさわった。
(めでたい戦勝の席で、この男は何を考えているのか)
信長の眉間に深いたて皺《じわ》がきざまれた。
(何もかも、光秀の言葉どおりであった)
総攻撃を加える前に、木曾義昌が反逆ののろしをあげたことも、勝頼を裏切る者が続出したことも。そして、一カ月半に満たぬうちに武田を滅亡せしめたことも。
(内心、この男、俺を嘲《わら》っているのかも知れぬ)
あまりにも、光秀の進言は的中し過ぎた。的中する度、信長は光秀という男の読みの深さに内心舌を巻き、それがまた忌々《いまいま》しくもあった。
(武田を亡ぼし得たのは、おのれだと、この光秀は思っているのではないか)
(信玄亡きあと十年、隠忍していたのは、この俺だ)
が、考えてみると、光秀にその隠忍自重を幾度か説かれてきた。
(奴はやっぱり、おのれの手柄を数えているのであろう)
折しも、光秀の傍らで誰かのささやく声がした。光秀が低く答えた。その途端信長はむらむらと怒りがこみ上げたのである。
「光秀!」
眉を吊り上げた形相ももの凄く、信長は怒鳴った。
「は?」
何が何やら光秀にはわからない。
「おのれ! 何を苦々しげに考えている!」
「いえ、別に……めでたき戦勝をお慶《よろこ》び申し上げ……」
「いうな! それが戦勝をよろこぶ顔か。そちが胸のうちくらい、わしに見えぬと申すか」
立ち上がるなり、つかつかと光秀の傍に来て、いきなり胸ぐらをつかんだ。
「殿!」
「おのれは……おのれは、おのれ一人が苦労して、この戦勝を導いたというのか」
「……殿、決して……」
光秀は、まちがってもそんなことを口に出す人間ではない。それを誰よりも信長自身が知っている。知っていればこそ一層腹が立つ。諸事、光秀が自分を見透かしているようで、腹に据えかねるのだ。
「おのれ!」
信長は光秀のもとどりを引きずって、社《やしろ》の欄干に光秀の頭を力一杯打ちつけた。光秀の頭はガツッと無気味な音を立てた。
「苦労をしたのは、この信長ぞ!」
「御意、御意にござりまする」
無抵抗な光秀の頭を、信長は再び三度欄干に打ちつけた。頭から頬に血がぬるぬると伝わった。
(武田攻めに加わったわしへのこれが恩賞か)
光秀は思わず信長を睨《ね》めつけた。
「こいつ!」
狂ったように信長は、光秀のもとどりをぐいと引いた。
「殿! 殿! お鎮《しず》まりくだされ」
この時、ようやく滝川一益が、かけよって信長を後ろから抱きとめた。
「離せ! 離せ!」
なおも荒れ狂う信長の耳に一益がささやいた。
「殿、徳川殿をはじめ武田方も詰めてござる。お鎮まりなされませ」
ようやく、信長の手が光秀のもとどりを離れた。光秀は懐紙で静かに血をぬぐい、身づくろいをして、徐《しず》かに退席した。誰にも、何が信長を怒らせたのか、わからなかった。信長の言葉から、多分光秀が、
「吾らの多年の骨折りも、これで報われた」
と述懐し、それが信長の耳に入ったと推量したようであった。
甲州から帰って来た光秀は、ひとまず坂本城に入った。いつになく、疲れきって帰ってきた光秀の様子に、子は心を痛めた。
「どこか、お怪我なされたのでございますか」
勝ち戦から帰った人間とは思われない。いかに疲れていても、勝ち戦の場合は、目が輝いている。表情が生き生きしているのだ。
が、今日の光秀はぼんやりとしていた。目のふちには黒く隈《くま》ができ、その表情がうつろだった。
その夜の祝宴は、光秀夫妻と、明智弥平次、斎藤|利三《としみつ》によって開かれた。酌には初之助が侍《はべ》った。利三は一昨年以来、光秀に仕えている。
「遂に、武田も亡びましたなあ」
弥平次が快活に言った。
「次は毛利じゃのう」
利三が相づちを打つ。が、光秀は箸を持ったまま、膳の上にあらぬ視線を泳がせている。常の光秀らしからぬ様子である。弥平次と利三は顔を見合わせてうなずいた。
一瞬、気まずい沈黙が流れた。
「?」
いぶかしげに光秀をみつめていた子が、利三と弥平次の表情に目を移した。初之助の持つ銚子がかすかにふるえている。
「殿!」
「うむ」
自分に集まった視線に、ようやく光秀は気づいた。四月の風がなまあたたかく部屋に流れて、灯火がゆらいだ。
「疲れたのう」
光秀は苦笑し、
「そちたちも大儀であった」
と、ようやくいつもの光秀にかえった。初之助が酌をし、座が和《やわ》らいだ。
「殿、お倫が、懐妊いたしましたそうな」
子の言葉に、
「ほう、それはめでたい。弥平次、でかしたのう」
「は、おかげさまで……」
弥平次はあかくなって頭をかいた。利三も初之助も思わず微笑した。子がまたいった。
「殿、お玉もまた懐妊したとの便りにござります」
「なに、お玉も三人の母となるか」
「おめでとうござりまする」
利三と弥平次が、異口同音に頭を下げた。が、初之助は顔をこわばらせた。
「ひとつ、陽気に参りましょうか」
弥平次が一段と声を大きくした。
「殿、信長殿は、家康殿の領地を通って御帰還とか、よく無事であの領地を帰ってこられたものですなあ」
「うむ」
この利三のために、自分は信長に刃《やいば》をつきつけられたことがあったと、光秀は思い出した。
利三の母は光秀の妹である。利三はつまり光秀の甥なのだ。彼の妻は、稲葉一鉄の姪で、一昨年まで利三は一鉄に仕えていた。が、一鉄に再三恨みをいだくことがあり、一時信長に仕えたあと、一昨年以来光秀に従った。
一鉄は斎藤利三を返してくれるよう、信長を通じて頼んで来た。一旦は断ったが、その後執念深く信長に催促した。利三が稲葉一鉄を離れた理由を信長も知っていたから、最初のうちは、光秀にはきつくは言わなかった。
だが、ある時、衆人の前で、
「もう、いい加減返さぬか」
と催促された。しかし光秀は、今更稲葉一鉄に利三を返しては、彼の命が危ういと考え、これを静かに断った。
理は光秀にある。が、その理のあることが信長を立腹させた。いきなり小刀を抜いて光秀に斬りかかったのである。
「余の命令に逆らうか」
信長は荒れ狂った。が、一命を賭しても光秀は利三を返すまいと思った。
このことを聞いた利三は、子供のように号泣した。四十を越した男とは思えぬ泣き方だった。以来、利三はますます光秀を、またとなき主君と慕うようになった。が、信長を激しく憎むようにもなった。
「わしを一鉄に返せとは、即ち、わしの命はどうなってもよいということか。わしは光秀殿のためには死んでも、信長のためには死なぬぞ」
彼は弥平次に度々こう言っている。
利三は、のちにその名を天下に残した春日局《*かすがのつぼね》の父親だけあって、頭も度胸もよいが、性格もまた激しかった。
複雑な気持ちで、光秀は利三の顔を見た。弥平次がいった。
「信長殿は、こわいものなしじゃ。家康殿などこわくはないわな」
「そうかのう。こわいものなしかのう。わしには迂闊に思われる。家康殿の領国を通ったは油断じゃ」
「利三」
たしなめる光秀に、
「しかし殿、そうではござらぬか。家康殿の御長子信康殿に、あらぬ疑いをかけて切腹せしめたのは、ほんの二、三年前のこと。未だ信康殿の怨霊が現れるという噂もあるに、その領地を、十日余りもよくまあ、通って来られたものよ」
家康の長子信康は、信長の愛娘徳姫を娶っていた。信康の生母|築山《つきやま》御前は、夫家康との仲が冷たかった。その故か、築山御前は嫁の徳姫にも辛く当たり、信康と徳姫の間を割《さ》くようなことばかりしている。
信康が徳姫を愛しているのが憎いのだ。信康に妾を無理矢理囲わせ、二人の仲を割き、更に信長への謀反さえ企《たくら》んだ。このことを徳姫がかぎつけ、父信長に急報した。
信長は家康を通じ、信康に切腹を要求した。家康は要請を受けて一カ月ばかり、わが子信康を殺し得ず、悶々とした。が、やむなく、遂に信康に切腹させたのである。三年前のことであった。
家康は信長の家臣ではない。忠実な同盟者である。が、信長は家康を臣下の如く扱った。家康にはまだ、信長に抗する力はなかった。
信長は、何もわが子の婿信康を殺すまでのことはなかった。築山御前の言動はともかく、信康が潔白であることは、衆人も認めるところであった。しかし信長は、信康が母の築山御前の企みに巻きこまれたとして、敢て切腹せしめたのである。
光秀はその後、
「信康殿は秀れた御方だからのう。信長殿の御長子信忠殿は遥かに及ばぬ。信忠殿の時代になれば、信康殿が織田家を圧することを見ぬいていられたのだろう」
と弥平次に洩らしたことがある。特に信康の知謀は、父の家康さえ及ばぬほどであった。
こんないきさつのある家康の領地を、悠々と凱旋してきた信長を、人々は豪胆といった。が、他に通る道もあろうにと、眉をひそめる者も少なくはなかった。
「それにしても、家康殿は、よく無事に通したものよ」
利三は再びいった。目がらんらんと光っている。弥平次は光秀の従弟であり、利三は光秀の甥である。初之助一人を除いて、この場には血縁ばかりである。つい、信長を悪《あ》しざまにも言ってみたくなる。
特にこの度の武田攻めには、正月七日の光秀の数々の進言があった。その言葉が、すべて当を得たものであったことは、誰よりも信長が知っている。が、信長は一言のねぎらいの言葉も与えず、まして賞詞もなく、理不尽にも、衆目の前で打擲《ちようちやく》したのである。
光秀の胸中を思えば、光秀をこの上なき主君と仰いでいる利三、弥平次の腹もまた、煮えかえる思いになるのは無理もない。その思いは、初之助とても同様である。
「のう利三どの。三河殿は、信長殿のお通りに大汗かいたばかりか、この度の駿河一国を頂戴した御礼に、安土に参られるそうじゃ」
「それはまた、えらい気のつかいようじゃ。徳川殿が多年武田を牽制していた功だけでも、駿河一国の価はある。御礼参上は、むしろ信長殿がすべきところよ」
「全く全く。謀反気もない信康殿が、詰め腹を切らせられたことを思えば、駿河の一国や二国、ありがたくもないわい」
ある程度は、鬱憤も晴らさせねばならぬと思いながら、光秀は利三と弥平次のやりとりを聞いていた。聞きながら、思わず光秀も相づちを打ちそうになる。
「もうよい」
光秀の言葉に、利三は何か言おうと口を開きかけたが、弥平次にひじでつかれて口をつぐんだ。
「心頭滅却すれば、火もまた涼し……か。快川《かいせん》和尚の最期は立派であったのう」
光秀の頬の静かな微笑が消えた。
「ああ、あれは立派でござった。のう、弥平次殿」
「おう、わしも、あの焼けただれる山門の炎の中で、合掌する和尚の姿には、身がふるえたわ」
この度信長は、武田信玄の菩提寺である恵林寺《えりんじ》の和尚快川を、寺内の僧らと共に山門に閉じこめ、百五十余名を焼き殺したのである。快川和尚は、勝頼の供養をした。それが大いなる罪の一つとして数えられた。菩提寺の僧が、主君勝頼を供養するのは当然である。しかし、信長はそれを決して容赦はしなかった。
が、快川はこの炎の中で、
「心頭滅却すれば、火もまた涼し」
と、莞爾《かんじ》として死んで行ったのである。
「快川和尚に比べると、武士の死は何か侘びしい気がするのう」
「全く。あれこそが、人間のまことの死の姿かと、肝銘仕りました」
「うむ。されどあの和尚は死んだと言えるかのう、弥平次」
光秀は箸を置いて弥平次を見た。
「死んで生きた、とでも申しましょうか」
「なるほど、死んで生きたか。そうも言える。利三はどう思うたか」
「は、それがしも弥平次殿と同様でござるな。さすがの信長殿も、あの快川和尚は殺し得なかったと存じました」
「信長殿も殺し得なかったと?」
「はい、信長殿は焼き殺したつもりにござりましょう。しかし、快川和尚は決して殺されてはおりませぬ」
「なるほど。わしも、あの和尚の声をはっきりとこの耳で聞いた。静かに合掌する姿をこの目で見た。人間の心というものは、人間の手で焼き殺し得ぬものと、わしも思った」
子が大きくうなずいた。かしこまって聞いている初之助に光秀はいった。
「のう、初之助。そなたも、あの声を聞いたであろう」
「はい、尊いことと、わたくしも思わず合掌いたしました。殿、人間はいかにすれば、あの境地に達し得るものでござりまするか」
「それよ、それをわしも思ったわ」
いつかまた、自分が信長に厳しく殴られる時に、
「心頭滅却すれば、火もまた涼し」
と、笑ってその鉄拳を受け得るや否や。心の中にたぎるこの憎しみは、快川の前に余りにも恥ずかしいと光秀は思った。
(とまれ、人間の心は、鉄拳や刃《やいば》では従い得ぬもの……)
「殿、とにかくかの勝負、快川の勝ちと、弥平次めは思いました」
「うむ」
「とすれば、信長殿は、武田方に完勝したと思っていられても、快川には勝ち得ませんでしたのう」
「なるほど、なるほど。弥平次殿はうまいことをいう。戦は人を殺せば勝ちとは限りませぬの。殿がいつも言われる通り、戦わずに勝つが、本当の勝利かも知れぬの」
利三はひざを叩いた。
光秀はふと、夜の琵琶湖に目を転じた。この湖の彼方の安土城に、自分を血の出るほどに打ち据えた信長がいる。と思っただけで、激しく心がたぎった。
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武田信玄 一五二一〜七三(大永一〜天正一)年。戦国時代の武将。甲斐(現在の山梨県)、信濃などを領す。名は晴信。越後の上杉謙信と並ぶ戦国大名の代表的名将。軍事のみならず、民政、領国経営にも優れた業績を残した。謙信との数度にわたる川中島の戦いは有名。織田信長と雌雄を決すべく三河に出陣中、病没。武田氏は信玄の子勝頼の代に滅びた。
謙信 上杉謙信。一五三〇〜七八(享禄三〜天正六)年。戦国時代の大名。越後(現在の新潟県)、加賀、能登(石川県)などを領す。初名は長尾景虎、のち輝虎。出家して不識庵謙信と号した。天才的な軍略家と伝えられ、小田原の北条氏や甲斐の武田信玄との戦いは有名。上杉姓を名乗ったのは六一年、北条氏に追われた関東管領上杉憲政から管領職とともに譲られて以来のこと。
春日局 一五七九〜一六四三(天正七〜寛永二十)年。徳川三代将軍家光の乳母。名は福。家光の将軍継嗣に尽力し、将軍就任後は大奥で権勢をふるった。
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十四 闇からの声
聖母マリヤがイエズスをそのふっくらとした腕に抱いた絵を見上げながら、徳川家康が言った。
「いや、この学校は大したものでござるのう、惟任《これとう》殿」
安土キリスト神学校《セミナリヨ》の三階の一室である。神学校《セミナリヨ》に案内した光秀と、客の家康、穴山梅雪の三人が、椅子に腰をおろして休憩していた。
開け放たれた窓から、琵琶湖の水を渡ってくる五月の風が涼しい。青い湖の一ところに、雲の影が大きく映っている。その雲を見ながら、光秀は森蘭丸の顔を思い浮かべた。
家康は昨、五月十二日、穴山梅雪と共に安土に来た。武田征討の恩賞として、駿河一国を賜った返礼のためである。その饗応役に光秀が任ぜられた。
「家康を、おれと思って馳走せよ」
信長が命じた。光秀は家康のために、堺や京から、器や食物をとりよせた。その豪華な器を見て、森蘭丸が、
「惟任殿。これでは、上なき方への御饗応同然ではござりませぬか。徳川殿は帝《みかど》ではござりますまい」
と賢《さか》し気《げ》に詰《な》じった。
信長はそれを聞き咎め、
「わしと思って馳走せよと命じたのじゃ。これでよい。光秀、御苦労」
と、珍しく蘭丸をたしなめ、光秀をねぎらった。蘭丸は片頬に冷たい微笑を浮かべて、光秀をみつめた。信長の寵に思い上がった蘭丸を、思うともなく思いながら、光秀は家康に丁重に答えた。
「安土城といい、この神学校《セミナリヨ》といい、殿もお気に召しておられる」
「安土城はもとよりのことでござるが、この神学校《セミナリヨ》のオルガンやヴィオール(ヴァイオリンの前身)には驚き入り申した」
階下からは、今もオルガンに合わせて歌う生徒たちの清澄な歌声がひびいている。
「おほめにあずかってありがたい。三河殿、右府殿も御地で富士の山を生まれて初めて見物なされ、甚だお気に召された様子」
「ああ、あれは日本一の山じゃが、しかし、人のつくったものではござらぬ。それに引きかえ、この安土城も神学校《セミナリヨ》も人のつくったもの、さすがは織田殿と感服仕った」
従者たちは一階の会堂で待っている。洋服を着たザンギリ頭の少年が菓子を運んできた。
「ほう、これは何という菓子でござるか」
梅雪が声を上げた。
「カステーラと申す菓子でござる」
「これがカステーラのう」
家康が言った。
「は、ポルトガル語とか聞いて居ります。何でも西洋の国の名とか」
「国の名と?」
「は、イースパニヤという国を、ポルトガル語でカステーラと呼ぶそうにござりまする」
「ほほう、イースパニヤがカステーラ。しかし国の名が菓子になって食われてしまうとは……これまた驚き入った話でござるのう」
また少年が入ってきた。お茶を運んできたのである。
少年が去ると、家康がいった。
「信長殿ほどのお方に仕えるのは、まことに幸せなこと、しかしご苦労も多くあられようのう」
「いや、仕える者共より、殿にご苦労が多かろうかと存ずる」
光秀は慎重に答えた。家康は信長の盟友だが、家臣の如く信長に忠実である。が、一方の雄なのだ。しかも、腹の底のわからぬ傑物でもある。
つやつやと血色のよい家康をみつめながら、
(たしか、この男は四十一歳のはずだ)
と光秀は思った。
この間の戦いで、武田勝頼の首が届けられた時、信長はその首を足蹴《あしげ》にし、
「ふん、この若造奴! これが多年の悪業の報いよ!」
と罵った。しかし家康の所にその首が届けられた時のことを、光秀は聞いている。家康は、勝頼の首を台の上にうやうやしく置き、その場に平伏して
「お若いのに……さぞご苦労の多いことでござりましたろう」
と、霊を慰めたという。この様子を見て、もと武田の家臣であったものたちは、涙をこらえ得ずに泣きふし、家康に深い敬意を持ったとも聞いた。
四十一歳の若さと、この深慮では、どれほど伸びる人間かわからぬと光秀は思った。信長の第一の味方であると同時に、最大の敵でもある。うかつな答えはできない。
「のう惟任殿、信長殿は実に英雄というにふさわしいお方じゃ。ところで信長殿のご趣味の第一は、無論茶でござったな」
「は、ご存じのとおり、特に茶道具へのご造詣は深うござる」
光秀の言葉に、家康はかすかに笑った。それは、あまりにもかすかな笑いであった。家康は、信長の名器への傾倒を、内心感心してはいない。
松永久秀が信長にそむいたそもそもの発端は、久秀秘蔵の茶入を強要したからだという風評さえあった。だから久秀は、信長の最も欲していた平蜘蛛の釜を城の上から落として打ち砕き、最期を遂げたとも聞いている。
が、信長はいよいよ茶の名器に執心し、その富と権力によって茶道具を狩り集めていた。茶入|九十九髪《つくもがみ》、松島の茶壺、天下一の初花肩衝《はつはなかたつき》など、家康にもすぐに思い浮かぶほどの名器を、数え切れぬほど信長は持っている。無論、それらの名器は、茶の湯の席にも披露し、武功のある将への恩賞にも与えていて、もらった者はそれを無上の名誉とした。つまり信長は、茶の湯を政治の道具としたのである。
それ故に、家康は今、光秀の、
「特に茶道具への造詣も深い」
といった言葉に微妙な響きを感じもしたのである。
「茶の湯に次いでは、鷹狩りでござるか」
梅雪が尋ねた。
「さよう。しかし近頃は鷹狩りよりも、名馬、名剣に心を寄せておられる」
「おう、名馬と申せば、昨年の京の御《*》馬揃えの見事さは、今もなお日本中の語り草になってござる。たしか、あの時奉行なされたは、惟任殿。惟任殿のなさることは、万事そつがない。惟任殿がおられて、右府殿はどれほど助かっておられることか」
家康の言葉には、真実がこもっていた。武田征討のあと、故もなく信長に打擲《ちようちやく》された光秀を家康も見ている。しかも、正月光秀のみが軍議にあずかったことも、多年のその働きも家康は知っている。その光秀が武田征討で何の恩賞にもあずからず、こうして自分への接待に心をつかっている。その懸命な光秀の姿は痛々しいほどだ。自分より十六も年長の、五十余万石の大身とは思われぬ心のくだきようを、家康は身に沁みている。
のちに、光秀の死後、家康は光秀の槍を家臣水野|勝成《かつなり》に与えて、
「よいか。これは惟任殿の用いし槍ぞ。生涯大事にして、惟任殿にあやかれよ」
と言ったという。光秀にあやかれとは、無論「主の自分を殺せ」ということではない。家康は光秀の人物を大きく評価し、その人物に「あやかれ」と言ったのである。それほどであったから、この時光秀に言った家康の言葉には真実がこもっていた。家康にしてみれば、自分は信長に、長子信康を殺されており、同様光秀もその義母を殺されているという、親近感があった。自分も光秀も、共にその事実に耐えてきた。そして、この光秀は、自分より更に多くを耐えて行かねばならぬ。家康には光秀の大変さを思いやる器量があった。
「織田殿は、この神学校《セミナリヨ》の建立なども許可されて、キリシタンを厚く庇護されていられるが、ご自身は信者にはなられぬのかのう」
カステーラを食べ終わった梅雪が、椅子より立って窓辺に立ちながら、誰へともなくいった。
「右府殿は、ご自分の目で確かめられぬものを信じることは、決してなさらぬのでは……」
「なるほど。自分の目で確かめられぬものはのう。神も仏も信じなさらぬとは強いお方じゃ。のう、三河殿」
「全くじゃ。わしなど、神でも仏でも縋《すが》りたくなることが間々ある。惟任殿はいかがじゃ」
「わたしも、殿のようにはなれませぬて。殿はご自身を神となさっておられまするが……」
「何と、よい景色じゃのう」
穴山梅雪は、その小肥りの体を、窓辺から椅子に返した。梅雪は、ついこの間まで、長年の敵であった織田の領地に来て、落ちつかないのだ。家康にも、真実心を許しているわけではない。僅か何百かの供を連れて、無事に帰国できるかどうか、妙に胸さわぎがする。昨日から梅雪は、脈絡もなく話題を呈し、また、話の腰を折ってしまう(不幸にして、梅雪のこの予感は当たり、この日より二十日を経ずして、帰国の途中一揆のために殺されている)。その梅雪とは対照的に、家康はわが家に存るように終始おだやかに落ちついていた。
「楠正成の旗には……」
梅雪が言いかけて口を閉じた。光秀は梅雪が何を言わんとしたかを察したが、
「あの向こうに見ゆるが、比叡でござる」
といった。楠正成《くすのきまさしげ》の旗には、
「非理法権天」
と書かれてあったと聞いている。非は理に勝たず、理は法に勝たず、法は権に勝たず、権は天に勝たぬ意であるという。梅雪は、信長がおのれを神としていると聞き、
「権は天に勝たず」
の言葉を思い浮かべたのであろう。家康もそれと察したが、さりげなく、
「備中《びつちゆう》の羽柴殿はご活躍よのう、惟任殿」
といった。
「は、苦労しておられる」
答えたが、光秀は愉快ではなかった。
光秀は秀吉より早く城主となり、万事重んじられていたが、最近の信長の様子は明らかに変わっている。
この月のはじめ、四国の長宗我部《ちようそかべ》氏征討が決まった。長宗我部氏は光秀の縁者である。光秀の甥斎藤利三の娘を娶っている。その縁によって、七年前の天正三年、長宗我部元親は自分の長子に、信長から諱《いみな》をもらっている。信長は、自分の信の字を一字与えて、信親と命名した。そしてその折、信長は長宗我部氏に、
「四国はまかせる。手柄次第切り取るがよい」
と手紙をやっている。
また、長宗我部氏は一昨年の六月二十四日には、光秀を通して、十六連の鷹と三千斤の砂糖を信長に贈った。砂糖は疲労回復剤として使われている貴重な薬である。
こうして信長に随順していた長宗我部氏に対して、信長は「切り取り次第」という約束を忘れたかのように、土佐、阿波以外は、やることはできぬと、光秀にいわせた。
仲介者の光秀は甚だしく困惑した。既に讃岐、伊予を攻略し終わっていた長宗我部氏は、
「約束がちがう!」
と烈火の如く激怒した。
四国は長宗我部氏と三好氏の対立が激しかった。三好氏も信長に自国の阿波を回復したい旨訴えていた。次第に勢力の強くなった長宗我部氏を嫌った信長は、三好氏を援《たす》け、遂に長宗我部氏を征討することに決めた。この三好氏は、秀吉の縁者で、秀吉が支援していた。
このことにも、信長の気持ちが明らかに、自分より秀吉に傾いていることを、光秀は思い知らされた。秀吉という名を聞くだけで、光秀は自分の足をすくわれているような不安と、不快を覚えるのだ。
その光秀の心情を知悉した上で、家康は言った。
「羽柴殿は、たとえ戦に勝っても、備中は要《い》らぬ、朝鮮を賜りたいと申されたとか……」
「その話は、わたしも聞いた。羽柴殿は羨ましいお方じゃ」
梅雪が身を乗り出すようにして、円テーブルにひじをついた。茶碗がかたりと揺らいだ。
光秀は黙したまま微笑し、手を叩いて次室に控えている少年を呼んだ。少女のように豊かな頬の少年が入ってきた。
「ご用でござりまするか」
「牛の乳を」
「かしこまりましてござりまする」
少年は静かに頭を下げて出て行った。
「羽柴殿で思い出したが、四国の長宗我部氏も、この度は……」
またしても言いかけて穴山梅雪は口をつぐんだ。光秀との関わりを梅雪も知っている。家康がしみじみと言った。
「おお、長宗我部殿は、強いばかりではない。賢い男じゃ。わたしとも親しい男でのう」
光秀は答えようがない。今、信長が征討しようとする相手を、客人の家康はほめてよいのであろうか。光秀の縁者としての儀礼で、ほめているのであろうか。光秀は家康の真意を計りかねた。つづいて家康が言った。
「織田殿も、三好氏を援けようか、長宗我部氏を助けようか、辛いところであられたのう。味方としたい相手と戦うのは辛いことじゃ。辛いと言えば、惟任殿の母上の時も、愚息信康の切腹の時も、織田殿はどれほど辛い思いをなされたことか」
光秀は内心驚いて家康を見た。人質であった光秀の母が死んだのは、いわば信長に殺されたも同然であった。家康の長子信康に詰め腹切らせたのは、無論信長である。家康の言葉を裏返せば、
(お互い、信長には辛い目に合わされているものだな。四国の長宗我部征討も、さぞ口惜しいことであろう)
と言っているのだ。
何のために、この男は自分の腹の中を見せるのか。いや、見せているようで、その真意はわからない。
(わしからどんな答えを引き出そうとしているのか)
まさか寝返りの誘いではあるまい。何かの布告ではあるにしても……。そう思いながら光秀は、
「戦国の世のならいなれば」
と笑った。
家康はおだやかに、
「その戦国の世も、備中の戦で終わることでござろう。織田殿の天下統一は成ったも同然、めでたいことじゃ」
と答えた。
家康は今夜はまた、信長との宴がある。城に近い神学校《セミナリヨ》に家康を案内したひる下がりのこの一とき、光秀は思いがけなく深い疲れを感じた。
この翌日、備中の羽柴秀吉より、信長|直々《じきじき》援軍をと懇請があり、光秀もまた出陣を命じられた。俄かに家康接待の役を免ぜられ、出陣することになった光秀が、家康と梅雪に挨拶に行った。
「惟任殿、名残惜しゅうござるのう。今しばらく毎日惟任殿と語らうことのできるを、楽しみにしておったが」
饗応役を俄かに変更する信長の非礼を、家康は口には出さなかった。が、京や堺からの珍味の数々にこめられた光秀の心に、家康は並々ならぬものを感じていた。それだけに、客人の自分を他にまかせて、出陣しなければならぬ光秀に同情もしているようであった。家康は別れぎわに一言いった。
「惟任殿、毛利方には義昭将軍がおられるのう」
光秀は、はっと家康を見たが、その目は静かに笑っていて、何を語っているか、探りがたかった。
馬を駆って安土から坂本城に帰った光秀は、居室に入って、ごろりと横になった。じっとりと暑い夕暮れである。妻の子《ひろこ》が静かに傍らに坐った。
「殿、徳川様は、もうお帰りになられましたか」
「いや、まだ安土におられる」
「では、どうして……」
「饗応役は御免になった」
「ま、御免に! なぜ、なぜでござります。ご接待のために、殿は京に堺にと、高価な買い物をたくさんなされ心をつくして、ご準備遊ばしましたのに」
「出陣じゃ」
「ま、では、やっぱり四国に」
「四国ならば、文句はない。が、備中じゃ」
「え、備中に? では、では、羽柴様の……」
「うむ、羽柴殿の手伝いじゃ。殿のお供でな」
光秀は自嘲した。
「ま、それなら何も、わざわざ殿がご出陣遊ばすことはござりますまいに」
信長に従っての出陣だから、秀吉の配下になるわけではない。が、総大将の秀吉とは同格にならない。それが光秀には耐えがたい。
「四国ならば、ともかく……」
「さようでござります。もともと殿は、右府様と長宗我部様との仲に立っておられました故、四国征討の総大将は殿に決まっておりますものを……」
「うむ、それが今までの慣《なら》わしであったが……殿はその慣わしを破られて、信《*》孝殿を総大将となされたわ」
「…………」
「ならば、せめて副大将として、わしをつかわしてくださるがよい。それも丹羽長秀殿を一躍用いられた」
「なぜでござりましょう」
当時は、仲介者が戦場にもさし向けられ、最後までとりしきるのが通例であった。信長はそれを無視した。ということは光秀を無視したことであった。いわば、光秀の面目はまるつぶれとなったのである。
「わしにもわからぬ。殿には、わしをもはや総大将の器とは思われなんだか……。羽柴殿の風下に立つが似つかわしいと思われてか」
「そのようなことはござりませぬ。右府様は何か、別にお考えあってのことと存じまする」
と、そこに初之助が次の間からあわただしく声をかけた。
「殿! 安土より御使者が参られました」
「なに! 安土より?」
あわてて光秀は起き上がった。急ぎ着更えて客殿に向かうと、客殿に上使が立っていた。光秀は次の間にひれふして、信長よりの伝言を聞いた。
「出雲《いずも》、石見《いわみ》の二国を与えてとらす」
上使は低い声であった。
「はっ?」
出雲、石見は未だ敵の毛利の所領ではないか。光秀はけげんな面持ちで上使を見た。上使は落ち着きなく視線を泳がせ、
「因幡《いなば》、伯耆《ほうき》、出雲を平定せよ。然るのち……出雲、石見の二国を与える」
「ははっ、ありがとう存じまする」
答えながら、光秀はすばやく、平定に要する年月は一年半、いや二年かも知れぬとふんだ。二年あとのことでも、加増の約束は流石《さすが》に心が躍った。近江、丹波を合わせて五十余万石の光秀は、八十万石の大身となる。喜色を浮かべた光秀に、上使は口ごもるように、
「その代わり、近江と丹波は……召し上げる」
「な、何? 何と? 近江と丹波を」
光秀の顔色がさっと変わった。
信長の命を伝えると、上使はそそくさと帰って行った。
(近江と丹波を召し上げる?)
光秀は呆然とした。
(何のために?)
森蘭丸が、坂本をほしいと信長に訴えたという噂を、光秀は思い出した。
(あの小童《こわつぱ》にやるためにか!)
福祉行政の元祖は光秀といわれるほど、光秀は領民に心をかけていた。福知山の四百年にわたる御霊祭は、光秀の死後、その二年の善政を記念して始まった祭りだという。
丹波、近江の領民にかける光秀の愛は、今、信長の手でぷつりと断ち切られたのだ。
(それほどまでに、殿はわしを憎いのか)
しばし凝然と正座していた光秀は、やがて、蹌踉《そうろう》として、三階に上がって行った。人気《ひとけ》のない、うす暗い三階の廻廊に立って、光秀は坂本城下を見おろした。
この城を自分が築城し、焼けあとのこの街を自分が広げて行ったのだ。築城した頃の、あの張りのある喜びの日々が思い出される。城の庭に遊んだ自分たち一家の姿が目に浮かぶ。やさしい母、かしこい妻、愛らしかった倫、そして玉子、十五郎など……。
が、それも遠い過去のこととなった。やがてこの城に、まだ十七歳の森蘭丸が、わがもの顔に振る舞う日がくるのかと思うと、呆然としていた光秀の心は、ふいにたぎった。
(うぬ!)
それは、蘭丸にとも信長にとも知り得ぬ怒りであった。右を見ると、琵琶湖に夕あかねが濃く映っている。血を流したような無気味な赤だ。
この近江、丹波を取り上げられては、たった今、出雲、石見など与えられたとて、何の嬉しいことがあろう。光秀は、亀山城か坂本城で静かに一生を終えたかった。
(あの秀吉奴には、どんなに輝かしい恩賞が待っていることか)
へたへたと廻廊にすわりこみたいような、深い絶望とむなしさであった。
と、光秀は誰かの声を背後に聞いたような気がした。再び声がした。
「信長を倒すがよい」
今度は、はっきりと聞こえた。驚いて光秀はふり返った。誰もいない。うす暗い部屋がそこにあるばかりだ。気のせいかと思った時、三度部屋の中で声がした。
「信長を倒すがよい」
どこかで聞いた声である。
光秀はぞっとして、夕やみの部屋を透かしてみた。誰もいない。
「誰だ。出てこい」
返事はない。部屋の中に一歩踏みこんで、光秀は、はっとした。
「三淵殿だ!」
そうだ、今の声はまぎれもなく亡き三淵藤英の声だ。
光秀は恐れよりも懐かしさを感じた。三淵藤英は、細川藤孝の兄で、将軍義昭の臣であった。義昭追放後、信長は藤英をしばらく坂本城に軟禁させておいた。細川藤孝の兄でもあるし、一命は助けるといっていたのだが、信長はある日、突如藤英に切腹を命じてきた。将軍義昭と内通の疑いありという罪状である。
藤英に、その切腹の沙汰を伝えた時の苦渋を、光秀は八年後の今も、ありありと思い浮かべることができる。
「弟藤孝だけは、何とか生きのびてほしい。長い間お世話になった」
藤英は、切腹の命を聞いて、淡々と挨拶した。おだやかな表情であった。
その藤英の声が、
「信長を倒すがよい」
といったのだ。
気がつくと、その座敷は、曾て藤英の切腹した部屋であった。
「三淵殿」
今の声が藤英とわかって、光秀の恐れは全く去った。
「信長を倒せといわれるのか、藤英殿」
部屋の真ん中にどっかと坐って、光秀はつぶやいた。何の応えもない。庭の木で烏が短く一声啼いただけである。
(近江、丹波を召し上げられるのは、ていのよい追放じゃ)
追放ならば一層のこと、佐久間父子のように、高野山にでも追いやられたほうがよい。それとも、近江、丹波を召し上げれば、必死に働くとでも思うての処置であろうか。
(この光秀、領地を召し上げられねば、必死に働かぬ男と殿は思うてか)
今まで、一度たりとも真剣に戦わぬことがあったであろうか。たとえ、家康の接待にしても、わしは真実こめて事に当たった。わしは手ぬきのできぬ気性なのだ。
(出雲、石見は切り取り次第といっても、切り取った暁には、また召し上げられぬとも限らぬ)
この丹波にしても、平定二年にして召し上げられた。四国の長宗我部も、「切り取り次第に与える」との約束を反古にされ、今征討されようとしているのではないか。
(出雲、石見を平定しても……あの秀吉奴が、わしを討ちにやってくるかも知れぬ)
信長は、わしが邪魔になってきたのだ。信長は邪魔な者、用のない者を冷酷に捨てる男だ。いや、おのれに随順する者の肉親すら、平気で殺す男だ。家康の長子信康も、細川藤孝の兄藤英も、わしの母も、みんな信長に殺された。みんな心の奥に、信長への恨みを持って生きている。ただ、誰も信長に逆らえぬだけだ。
なぜだ。それは信長が恐ろしいからだ。信長に敵対した本願寺の信徒たちも、一向の一揆も、将軍義昭も、そして松永久秀、荒木村重、すべてが亡びた。
ふっと、今日聞いた徳川家康の言葉がよみがえった。
「毛利方には、将軍義昭様がおられるのう」
なぜ、家康はあんなことを言ったのか。備中の秀吉を援けることは、即ち将軍を亡ぼすことだと言ったのか。お前はやはり、もとの主の将軍に敵対するのかと言ったのか。
(あの男、一体何が言いたくて、あのようなことを言ったのだ)
家康という男、腹の底がわからぬ。誠実で柔和で謙遜で、忍耐強い。が、不透明だ。
(義昭将軍といえば……ことしの正月に妙な夢を見た)
光秀は思い出した。暗闇の中で、ぼんやりと見える人影に刀を抜こうとした時、人影が言った。
「わしを斬れるか、十兵衛」
その人影が義昭将軍だった。その夢が醒《さ》めた時、
(もし、わしが天下をとっていたら、将軍を今のみじめな境遇にはおかぬ)
と思ったことだった。
脈絡もなく、グレゴリオ聖歌が耳の底にひびいた。昨日|神学校《セミナリヨ》で聞いた歌だ。そのグレゴリオ聖歌の荘重なひびきの中に、
「お父上様、一体誰を人質になさるのですか」
玉子の声がした。
光秀は疲れていた。頭をふり払うようにして、光秀は立ち上がった。
「とにかく、もはや無禄なのだ。無禄の者が、一体どうして食べ、どうして戦えるというのだ!」
再び光秀は、へたへたとその場にすわりこんだ。
(無禄の者に戦えと、殿はいうのか。何を食って戦えというのか)
結局はやはり追放ということではないか。
グレゴリオ聖歌は疾《と》うに消えていた。
「心頭滅却すれば、火もまた涼し」
燃えさかる炎……。その炎の中から、朗々とした快川和尚の声が聞こえる。
「和尚は腹が減っても戦はできると申すのか」
光秀は、快川和尚に抗《あらが》うようにつぶやいた。
(追放!)
故もなく、幾度も自分を打ち据えた時の、信長の憤怒の形相が大きく目に浮かぶ。
その時、四度うしろで声がした。
「信長を倒すがよい」
光秀は目を宙に据えたまま、振り返りもせずに独白した。
「むなしい」
信長を倒したとて、結局はいつかは自分も死ぬのだ。光秀は今の今まで懸命に生きてきた。しかしその人生が、いいようもなくむなしく思われた。懸命に生きてきた自分の人生を、信長に一蹴されたのだ。
(何のために命をかけてきたのか)
低く笑って光秀はうなだれた。長い初夏の日も、もうとっぷりと暮れている。
働きに働いた末に得たものが、領国召し上げという結果とは……。
「これが、わしの長年の働きへの恩賞ぞ」
つぶやいた光秀は、再び低く笑った。その笑いが、次第に大きくなり、そしてふいに絶えた。
あとには夜のしじまだけがあった。
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御馬揃え 馬揃は簡馬ともいい、軍馬を集めて優劣を調べ、あわせて馬の調練を検閲すること。武家時代さかんに行われ、本文中にある一五八一年、信長が京都で行った馬揃は特に有名。
信孝 一五五八〜八三(永禄一〜天正十一)年。武将。信長の三男。伊勢|神戸《かんべ》氏の養子となり、神戸信孝と称した。一五八二年、本能寺の変後、羽柴秀吉とともに山崎の戦いで光秀を破り、美濃岐阜の城主となる。その後、柴田勝家と結び、兄織田|信雄《のぶかつ》と秀吉と抗争、越前|北庄《きたのしよう》(現在の福井市)で勝家が敗死すると、信雄に降伏したが結局自殺させられた。
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十五 悲運命運
外は梅雨の名残の雨が降っている。蛙の声の賑《にぎ》やかな夜である。
忠興は、玉子の膝を枕として、静かに目をつむっていた。濃い眉である。若さの漲《みなぎ》った額が広い。玉子はやさしく忠興の顔を眺めながら、ふと、一色義有に嫁いだ忠興の妹の伊也を思った。忠興の形のよい口もとが伊也に似ていた。
忠興がすっと目を開けた。大きな目だ。平生は精悍な、激しい目だが、玉子の膝にあっては、おだやかなまなざしである。
「何を考えている?」
玉子の白いあごに、忠興は手をのばした。
「伊也さまのこと」
「……伊也か」
忠興はやさしくいって腕を組んだ。
「一色さまとは、お仲がよろしいとか」
「うむ、……が、わしとそなたほどではあるまい」
「ま、それは」
笑って玉子は、
「殿はいま、何をお考え遊ばしていられました?」
と忠興の頬を両手にはさんだ。
「わしか。わしはあの朱《あか》い無気味な星のことを考えていた」
「ああ、この春にあらわれた、尾の長い朱い星のことでござりましたか」
「うむ、天地に異変が起きる凶兆だそうな」
「殿、星とは何でござりましょう」
「ある異国では、死んだ者の魂だといっているそうな。高山右近殿が申していた」
右近の名を聞いて、玉子ははっと頬のほてる思いがした。が、さりげなく、
「あの青い光は、ほんにそのようにも思われます。お祖母《ばば》さまも星になられましたやら」
忠興の祖母が五月十九日に死んで、半月もたたない。
「うむ、星になられたかのう、祖母さまも」
「幼子は小さな星、大人は大きな星になるのかも知れませぬ」
「いや、強い武将は大きな星に、弱い奴は小さな星くずになるのじゃ」
「では、殿は、大きな大きな星になりましょうほどに……」
「愛らしいことをいうぞ、お玉は」
その気性の激しさ、果敢な戦闘ぶりは、信長の若い頃と酷似していて、信長の落胤《らくいん》だという噂さえある忠興である。
「殿は、右府殿より強くなられると、玉はいつも思っております」
「右府殿より?」
「はい、殿は今、二十でござりましょう? まだまだ強くなられます」
「うむ」
満足そうにうなずく忠興のたくましい腕が、灯に光っている。
「だがのう、あの朱い星は何の前兆であったのか、今宵は妙に気にかかる」
「本当に星が何かの知らせをいたしますのやら……」
「玉! まさか、右府殿に何か起きるわけでもあるまいの」
「ご出陣を前に、不吉なことを仰せられますな。右府様の上に、異変が起きる筈はござりませぬ。殿、もしやあの星は、毛利家滅亡のしるしかも知れませぬ」
忠興は明日、二千の兵をひきいて、但馬《たじま》街道を中国高松に向かうのだ。
部屋の中に、香の匂いがふくいくと漂っていた。出陣毎に、玉子は忠興のよろい、かぶとに香をたきしめる。
「なるほど、毛利滅亡のしるしか。そうか、よいことを言ってくれたぞ、お玉」
忠興と同年の玉子は、ともすれば忠興よりも落ちついて、遥かに年上のような表情を見せる。
「ご無事でお帰りなさいませ」
「帰らいでか。お玉を置いては、わしは決して死なぬぞ。わしが死んで、お玉が他に嫁ぐことなどあっては、わしは死んでも死にきれぬ」
忠興は起き上がって、ひたと玉子を見た。
「殿はお強い。わたくしより、ずっと長生きなされます」
あまりに真剣な忠興のまなざしに、玉子は幼子をあやすようにやさしく言った。
「いや、わからぬ。お玉、それはわからぬぞ。もし万一、わしが討ち死にした時に、そなたはどうするつもりじゃ。他の男に嫁ぐのか」
「嫁ぎませぬ」
「と、今はいっても、それはわからぬ。そなたの姉上お倫殿は、荒木殿より帰って来て、弥平次殿に嫁いだではないか」
「でも、玉は嫁ぎませぬ」
「しかとさようか。もし明智殿が嫁げといわれれば、親の命じゃ。親の命は拒めまい。やはり嫁ぐことになるであろう」
「いいえ、嫁ぎませぬ。忠興様とのお約束故嫁がぬと申します」
「そうはいくまい、お玉。この乱世では、誰と縁組みさせられるやら、わからぬのだ。そなたが他の男に抱かれるなど、思っただけでも胸がたぎるわ」
忠興はぐいと玉子を胸に抱きよせた。
「よいか、どこにも嫁いではならぬぞ」
「嫁ぎませぬとも」
今まで二人の間に、幾度か交わされた言葉だった。玉子は誓いながら微笑した。
「お玉、そなたは、なぜこのように美しく生まれたのじゃ」
「…………」
「そなたを見て、心のうずかぬ男はあるまい」
いらだたしげに忠興はいい、玉子の白い首筋に唇を当てた。快い戦慄に、玉子の肩がひくっと動いた。
「強い殿御は、そのようなことを、おっしゃるものではござりませぬ」
「わしに、このようなことを言わせるそなたが憎いわ」
玉子の顔をさしのぞき、忠興は満足そうに笑って、
「よい子を産めよ」
と、玉子の腹部にそっと手をやった。
並外れて嫉妬深く、立腹すると、異常なまでにいきり立つが、根はやさしい忠興の気性を、今はもう玉子はよくのみこんでいた。やさしい時はいいようもなくやさしいのだ。
「はい、殿に似た強くてやさしいお子を」
「うむ、体をいたわるがよいぞ」
「はい」
「わしは死なぬ。手柄を立てて帰ってくるぞ。右近殿にもわしは負けを取らぬ」
備中の秀吉を助ける明智光秀の組下には、高槻の高山右近をはじめ、摂州茨木の中川清秀、和州郡山の筒井順慶、兵庫の池田恒興、そして丹後の細川忠興があった。
「おや!」
「何だ」
「蛙の声がピタリとやみました」
さわがしい蛙の声が不意に途切れた。深いしじまである。玉子はふと怯《おび》えた顔を見せた。が、すぐにどこかで一匹が鳴きはじめた。つづいて、三つ、四つ声が起こった。と思う間に再びさわがしい蛙の声になった。
どれほど眠ったことだろう。
玉子は、廊下を走るあわただしい足音に、はっと目をさました。
「何事だ!」
傍らの忠興は、既に床から身を起こしていた。
「殿、殿!」
ふすまの開く音が聞こえ、次の間に河喜多石見の声がした。
「何だ」
「大殿が火急のお召しにござります」
「何? 父上が」
「は、表書院にお待ちになって居られます」
平生は八幡城にいる藤孝が、忠興出陣と聞いて、昨日からこの大窪城に泊まっている。
「すぐ伺うと言え」
「かしこまりました」
再び廊下を走る足音を聞きながら、忠興は玉子の灯《とも》した灯りをじっとみつめた。
「何事でござりましょう」
玉子がさし出した着更えに、忠興は吾に返って、きびきびと無言で身につけた。
「何事でござりましょう」
再びいう玉子に、
「うむ……何事であろう。ま、何事であろうとも、お玉は案ぜぬがよい」
忠興の、その寝足らぬ血走った眼が、静かに笑った。
うす暗い廊下を急ぎながら、忠興は奥歯をぎりぎりと噛みしめていた。
(この未明に、何事ぞ!?)
書院に入ると、腕組みをした藤孝の苦渋に満ちた顔が正面にあった。差し向かっての男は、早足で知られる早田|道鬼斎《どうきさい》である。道鬼斎は、藤孝の家臣米田|求政《もとまさ》の家人である。米田は藤孝の使いで、京の信長のもとに行っている筈で、道鬼斎も同道した。
「道鬼斎! 京から何か変事の知らせでも持って参ったか」
忠興は父への挨拶も忘れて、道鬼斎に声をかけた。
「はっ」
道鬼斎は一礼して、じっと忠興を見上げ、その視線を藤孝にうつした。
「父上」
「うむ」
藤孝の唇がひくひくと動き、何かいいかけた時、あわただしく入って来たのは、忠興の弟頓五郎興元であった。
「父上、これは、一大事と見えまするな」
興元は忠興より少し下がって坐った。一見、兄の忠興より年長に見える。
「うむ、忠興、頓五郎、落ちついてよく聞くのだ。驚くではないぞ」
藤孝はあえぐように、一息ついて、
「信長殿が、二日未明、本能寺でお果てなされた」
語尾がかすれた。
「えっ!? 信長殿がお果てなされた? そ、それはまことでござるか」
忠興の顔色がさっと変わった。興元も驚愕して、
「それはまた、どうして」
「急病ではありませぬな、父上」
「とすると、誰かの手に……」
「それが……」
苦しげに目をつむり、藤孝は首を横に振った。
「それが? 誰の手に?」
異口同音に忠興と興元は詰めよる。
藤孝は目を開き、ふところから、よれよれの紙を数枚とり出した。一目して、こよりによって持ち来った密書と知れた。米田求政からの密書であった。忠興は奪うようにその紙を受けとり、灯に近づけて読みはじめた。その上からかぶさるように興元が共に読む。
「げっ!? 惟任殿が……こ、これはまことか」
忠興の手がうちふるえた。
「まことにござりまする」
見守る道鬼斎の目が鋭かった。
「……なに、本能寺は火炎に包まれ……とな」
「二万の明智軍に囲まれては、流石《さすが》の殿も……」
「京は上を下への騒ぎにて……」
ところどころを口に出しつつ、二人は密書を読み終えた。
「あ、あの殿が、あの殿が、事もあろうに、わが舅御惟任殿の手にお果てになったとは……」
がっくりと忠興は肩を落とした。
真の父子かと噂されたほどに、信長に目をかけられた忠興である。
「思いもよらぬ一大事じゃ。だが、落胆|狼狽《ろうばい》している時ではない。しかと肚《はら》を据えてかからねばならぬぞ。よいか、忠興、頓五郎」
藤孝の声に、興元は落ちつき、
「道鬼斎、詳細はこの道鬼斎に尋ねよとの米田の手紙。道鬼斎、そちの見たること、聞きたること、詳細に話してくれぬか」
「は、順を追うて申し上げまする。……実は、それがし、いつもの如く米田様のお供をして京に上りましたるは、六月一日のこと」
「何のために京に行った」
興元の言葉に、藤孝がいった。
「米田を京に遣《つか》わしたは、わしじゃ。米田は次男坊が十如院に入堂とのことで、京に出る用があった。わしは、信長殿ご入京に、佐久間甚九郎が勘気御免となって供をしていると聞いた故、慶賀の使者に、これ幸いと米田を遣わしたのじゃ」
「そして、相国寺門前の米田様の邸にて、本能寺の変を伺いました」
光秀の軍が本能寺をかこんだ様子を道鬼斎は述べた。
「ふむ、で、京の様子は」
「は、……上を下への騒ぎながら、惟任様の天下様を早くも喜ぶ者もあり……」
「惟任様の天下様か……」
藤孝はつぶやいた。
「しかし、信じられぬ。あの殿が死なれたとは……」
忠興は頭を横に振った。興元はその忠興にはかまわず、
「道鬼斎、そして、惟任殿は」
「はい、二日は坂本城に、三日は安土に赴かれるとか伺いましたが」
藤孝はうなずいて、
「そうか、安土に向かわれたか。道鬼斎、ご苦労であった。下がって休むがよい。京よりここまでの韋駄天《いだてん》走り、さぞ疲れたことであろう」
道鬼斎が去ると、三人は黙然と顔を見合わせた。しばらくの後、太い吐息を洩らして口をきったのは忠興である。
「舅御は、大それたことを仕出かしてくれたものよ」
「いかにも。我らが信長公に受けた深いご恩、忠興、興元、決して忘るるではないぞ」
「は、もとより。この丹後を、若輩忠興めに賜りたるご恩のほどを思えば……」
「姉上を賜ったるも、信長公よ」
興元は皮肉なまなざしで兄を見ながら、聞きとれぬほどに、低くつぶやいた。
「それにしても、あの惟任殿が、思い切ったる挙に出たものじゃ」
「父上、何故舅御は上様を倒されたのか、わしにはわかりませぬ」
「兄上、わしにはわかる。男は一度は天下をこの手に握ってみたいもの。しかも、惟任殿は上様より度々|酷《むご》い仕打ちを受けたとか」
「それじゃて。人質の母上を殺されたるは、母思いの光秀殿には、決して忘られはしまい。その上、度々の故なき打擲。特に武田征討の折、敵味方の前での辱しめ……。いや、それよりも何よりも、領国召し上げの事態では、光秀殿も進退きわまったに相違ない。さぞや、苦悩の果てのことであろう」
「しかし、上様が、人もあろうに舅御の手にかかられるとは……」
忠興は、ふいにはらはらと落涙した。その涙に誘われて藤孝も目をしばたたき、しばし暗然とした。一人興元が、天井の一角を睨みつけるようにしていたが、
「とにかく、父上。かくなる上は、惟任殿の天下となられた。父上は惟任殿年来の親友でもあり、親戚でもあれば、これより急ぎ駆けつけるが当然……」
「いや、待て、興元。細川家は室町時代よりの家柄なれば、軽挙はならぬ。光秀殿が、このまま天下をひきいて行けるか、どうか、ここが思案のしどころじゃ」
「では父上は、天下を治められればお味方申すが、治められねば見捨てると仰せられるか」
詰めよる興元に、藤孝は両手で押しとどめ、
「まあ、まあ、そのようにいきり立つではない。よいか、興元。われらにとって、何が一番大事であろうか。それはこの細川家じゃ。僅か十余万石の小名が、この乱世に生きのびるには、知力しかない。もとより、たった今この細川家が滅びてもかまわぬと申すなら、わしも長年の心の友である光秀殿に加担したい。その情はわしにもないではない。まして、忠興とは婿舅の間柄である。さぞや光秀殿も、わしらの駆けつくるのを待っていられるであろう」
「父上、確かに惟任殿は吾が舅御。なれど、信長公に賜ったご恩は忘じ難い」
悲痛な忠興の表情を、興元は冷たく見て、
「とにかく父上も兄上も、天下が惟任殿になびけば共になびく、なびかねばなびかぬというご所存か」
「当然のことであろうぞ、興元。武人にとっては、家名を守るが第一のつとめじゃ。ご先祖に申し訳の立たぬことになっては相すまぬ。忠興、そちもそう思うであろう」
「は、細川家の名を挙ぐるがわれらのつとめと思いますれば……。されど父上、惟任殿はいかが相成られると思われまするか」
「うむ、それじゃ。先ず、今は羽柴殿は遠く備中にあり、徳川殿は少数の供をつれての京、堺の見物、滝川一益殿は上州の新領国にあり……」
「そして、柴田勝家殿は魚津に上杉景勝を囲み、織田信孝殿は丹羽殿と共に、海の向こうの四国に居られる。とすれば……」
「とすれば、今しばらくは光秀殿の天下よ。しかし、高山右近殿は謀反には決して与《くみ》せぬ。先ず高山殿が、光秀殿打倒ののろしを上げよう」
「しかし、筒井順慶殿は明智方につかれよう」
「さての、あれも賢い男じゃ。天下の形勢をじっくりと見てから腰を上げようぞ」
「細川家の動きを、細川家同様じっと見ているにちがいないわ」
興元は皮肉な微笑を見せた。
「いうな興元、今しばらくして、羽柴秀吉、徳川家康、織田信孝、これら面々がいかなる動きに出るか……」
「父上、舅御が天下を取り切る公算は……」
「残念ながら……ないかも知れぬ」
「では、わしは一体、どう動けばよいのじゃ」
藤孝は目をつむった。蒼く、ややむくんだ顔が、四十九の年をいくつも上に見せていた。
「そうじゃ!」
かっと目を見開き、藤孝は膝を打った。
「今日明日中にも、光秀殿から加担を誘う便りが来るに相違ない。わしは信長様の多年のご恩を思えば、剃髪して弔意を表するが第一。そうじゃ、わしは髪を剃《そ》って、今の今から、藤孝改め、……うむ、そうじゃ、幽斎玄旨と号しよう」
「え? 父上はご剃髪」
「うむ、隠居する。が、忠興は、立場がまた別じゃ。舅御に与《くみ》して働くもよし、そちの心のままにするがよい」
「父上が髪を剃らるるならば、わしも共に……」
「ほう、兄上も坊主になるのか」
「忠興まで剃るに及ぶまい。父のわしが剃髪すれば、人々に細川家の心の在りどころを示されよう。そちが、その気なら、もとどりを断つがよい」
「は、では、わしはもとどりを断ちまする」
「なるほど、父上も兄上もかしこいことじゃ。惟任殿の使いが来ても、頭を見れば一目瞭然、諦めて帰るであろうよ。だが、わしは髪の毛一本落とさぬぞ。わしはわしの心のままにする」
「はやるな興元。そちはまだ若い。血気にはやっては相成らぬ。忠興、松井、有吉らを呼べ」
幽斎は凜と言い放った。
玉子は忠興を待っていた。未明に呼ばれて表書院に行ったまま、辰の刻(午前八時)になろうとするのにまだ戻らない。領内の一色家に、また不穏な動きでもあったのかと、玉子は思っていた。
青いみすの向こうに、今日は久しぶりに晴れた余佐の海が見える。長い梅雨は遂に終わったのだ。昨日までは、小雨の中に影のようにぼんやりと見えた天の橋立が、くっきりと黒く左手に伸びていた。共に天の橋立に遊んだ日の父の静かな姿が、ふいに鮮やかに浮かんだ。
(去年の春であった)
あの時、父の光秀は言った。
「お倫も幸せになった。お玉にも二人の子供ができた。いつまでも幸せであってほしい」
「いつまでも幸せでいとうございます」
玉子はそう答えたことを憶えている。
そうだ、あの時、父は伊也と一色家の縁談を進めていたのだったと玉子は思い出した。そして、その父がどこか変わったと感じたことも思い起こされた。
「父上を、忠興様よりも信じております」
そう、自分は言った。そして、その思いは今も変わらぬ。娘にとって、父とは何と大きな存在であろうと玉子は思った。
重い足音が廊下に聞こえた。松井康之、有吉立言ら、重臣との評定を終えた忠興の足音である。
「お帰りなさいませ」
みすを上げて入って来た忠興は、そのまま突っ立っている。見上げて玉子は驚いた。
「まあ、そのおつむりは。いかが遊ばされました」
「うむ、早田道鬼斎が京から戻ったわ」
忠興は返事にならぬ返事をした。既に辰の刻を過ぎている。幾夜も眠らぬような深い疲れがありながら、頭は妙に冴えている。忠興は妊娠中の玉子をおどろかすまいとして、そう答えた。
「あの、早足の道鬼斎が? 夜半にまた何の知らせを……」
「お玉、あの朱い無気味な星は、やはり不吉の前兆であった」
と、忠興はがっくりと膝をついた。
「不吉な? では、どなたさまかご他界?」
「うむ、……お玉、驚くなよ。腹の子にさわる故、決して驚いてはならぬぞ」
忠興はつと、玉子の手を取り、しっかと握って、
「お玉、殿が……殿がのう……」
と、声をつまらせた。
「え!? なんと仰せられます。あの、上様が!? それはいつ? いかがなされて?」
せきこむ玉子に、
「お玉、それが……それがのう。人手にかかって、本能寺にお果てなされたのじゃ」
「誰の手に?」
「誰だと思う?」
「さ……上様のお命を頂戴するほどのお方は……徳川様?」
「ちがう。お玉、それがのう……それが、そなたの父じゃ」
「えっ!? 父上? 父上が……上様を?」
玉子の顔色がさっと青ざめた。
(あの父が、上様のお命を……)
天の橋立に遊んだ日の光秀の笑顔が、大きく迫った。
「そうだ。そなたの父は昨日から天下様になられたのじゃ」
忠興は事の次第を、手短に語った。
「…………」
忠興にとられている玉子の手が、わなわなとふるえた。
「惟任殿にとっては、めでたいことだ」
いたわるように忠興は玉子の顔をさしのぞいた。
深い沈黙の時が流れた。
「? ……」
大きく見開いた玉子の目が、もとどりを切った忠興の頭をみつめた。
「いかがいたした? お玉」
玉子は海に目をやった。天の橋立のひとところが、六月の朝の日にきらりと光った。
玉子の手が、するりと忠興の手からぬけた。
「お玉!」
「…………」
再び玉子の視線が、忠興のもとどりに注がれた。玉子はいち早く、もとどりを切った意味を悟った。信長の死を悼《いた》むために、夫はもとどりを切ったのだ。
信長の死を悼むその行為は、単なる儀礼とは思えなかった。その命を奪った父光秀に背を向けていることでもあった。
「お玉」
再び手を取ろうとする忠興の手を避けて、玉子は口を開いた。
「殿、そのおつむりは、上様のおんため……」
「うむ、父も剃髪したぞお玉」
「…………」
「そちも知ってのとおり、われら父子が殿よりこうむったご恩は深い。殿はこのわしにこの国を賜った。この城も殿から頂戴した。殿は……わしに特に目をかけてくだされた。お玉、殿は……わしにとって……親も同然のお方じゃ」
忠興の声がうるんだ。折角賜ったこの領地も、信長が死んではどうなるかわからない。
「その……親も同然の上様を、あの父が……」
「うむ、しかし、そなたの父にはそなたの父の立場もある。この度は領国召し上げの処置もあった。さぞ、考えに考えた上でのことであられたろう」
「…………」
玉子は三度天の橋立に目をやった。風にみすがゆらぎ、一瞬、天の橋立もゆらいだかに見えた。驚愕が去り、玉子の心は孤独に静まり返っていた。いや、それは形を変えた驚愕であったかも知れない。
故もなく信長に打擲されている父の姿が目に浮かんだ。祖母の登代が、信長の無情によって、八上城に殺されたことが思い出された。
(父は、上様の数々の仕打ちに、今日までじっと耐えてこられたのだ。その耐えて来た日々が、どんなにお辛かったことか)
父をして、ここまで追いつめた信長への憤りが、心の底から湧き上がるのを玉子は否《いな》み得なかった。
(あの暴君の信長様を倒せる者は、今の世に父しかいなかったのだ)
(もし、この自分が男《お》の子《こ》なら、あの冷酷な仕打ちに、決して耐えはしまい。とうにお命を頂戴したかも知れぬ)
血の気のない玉子の唇に、かすかに笑みがのぼった。ぎょっとした忠興に、
「殿」
玉子の声は静かだった。
「何だ」
「父に、天下を鎮める力はござりましょうか」
「それよ。父も、わしもそれを考えた。羽柴殿にしろ徳川殿にしろ、上様を倒す勇気はなかったであろう。が、惟任殿を倒す勇気はあるであろう。何しろ、惟任殿を倒せば、倒した者が天下を握ることになる」
「…………」
「のう、そうであろう。男と生まれて天下がほしいのは、誰も同じじゃ。今までは、天下を望むなど、思いもしなかった奴らにも、今は天下が手の届くところにある。とすれば、誰しも勇躍して惟任殿に挑むは必定。しかも上様の仇を討つという、天下晴れての名分がある」
「…………」
「これを思い、あれを考えると、たかが十余万石のわれらがお味方しても、残念ながら惟任殿の立場が危ない」
「それで、もとどりを、切られたわけでござりますか」
信長の喪《も》に服すると言えば、名分が立つ。光秀を支援せぬ忠興父子の肚が、玉子にもよくわかった。
「わかってくれるか、わしの立場を」
静かにうなずきながら、父光秀が四方から追いつめられて行く姿を、玉子は目に浮かべた。
(父上さま!)
婿の忠興にさえ、早くも見限られた父へのいたわしさに、胸のつぶれる思いがする。
(わたしが男の子ならば、かなわぬまでもお味方をするものを)
所詮は、夫にとって父は他人に過ぎぬと、玉子の心の中に冷たい風が流れた。
「殿」
溢れる涙をこらえつつ、玉子は、
「もし、……上様のお命を頂戴したのが、徳川様か羽柴様だとしましたら……殿はそのもとどりを切られましたか」
ふいを突かれて、忠興は玉子をまじまじと見たが、ぷいと不機嫌に顔をそむけた。
(父の挙に味方なさらぬのは、父が悪いからではなく、力がないからなのだ。もし、父の天下が定まるとの見通しが立てば、誰もが父に馳せ参ずるにちがいない。……つまりは、父をあながち悪いと見ているのではない。結局は強ければよいのだ)
乱世にあっては、強い者が弱い者を倒す。これが唯一の法則なのだ。玉子は心の底にぽっかりと穴があいたようなむなしさを覚えた。
むっつりと黙りこんでいた忠興が、荒々しく立ち上がった。
「殿! ……それで、このわたしをいかが遊ばされます?」
「そちを?」
「父に味方なさらぬとは、つまり父の敵となられましたも同然。敵方の娘は返されるが慣《なら》わし……」
「返す? そちを? お玉、そちは帰る気か」
忠興は玉子の肩をぐいとゆさぶった。
「それが慣わしとあれば、致し方もござりませぬ」
「何と気丈な……冷たい奴じゃ。お玉、昨夜もいうた。わしは返さぬ。返すぐらいなら、わしが殺す」
忠興の唇がふるえた。
「殿!」
「お玉、よいか。わしはそちがいとしいのだ。命にかけても返しはせぬ。殺しもせぬ、そちの命はわしのものじゃ。そちが死んでは、わしも生きては居れぬのだ」
忠興はひしと玉子を胸にかきいだいた。
幽斎、忠興の早くから諸方に放っていた諜者の情報が、細川家に刻々と入ってきていた。
「惟任殿の軍二万と見たるはあやまりにて、一万三千の由、右府殿の手勢僅かに七十余名なり。御長子信忠様も果てられ、六月四日、惟任殿安土城に入られたり」
との、米田求政の使いをはじめ、琵琶法師に身を変えた諜者の口から、光秀が京の貧民に金品を与えたこと、貧民は喜びのあまり、光秀の本拠をとり囲んでいること、朝廷にも財宝の献上、征夷大将軍の宣下をいただいたことなどが次々に伝えられた。
つづいて、信長の客人となり、堺に遊んでいた徳川家康は二日の朝、変を知り、直ちに伊賀越えをして領国に逃げ帰ったこと、しかし、家康に同行していた穴山梅雪は、家康のすすめをいれず、一足遅れて帰る途中、一揆に殺されて果てたことが、もたらされた。
「そうか、梅雪は殺され、徳川殿は無事岡崎に帰られたか」
幽斎は複雑な表情をした。
幽斎は、秀吉よりも家康の動きに重きを置いていた。秀吉は、中国の雄毛《*》利輝元と対峙《たいじ》して久しい。信長に援軍を頼んだほどだから、早急に秀吉は動き得ない筈である。
「父上、徳川殿は早速兵を挙げて、惟任殿を倒すかも知れぬ」
忠興が幽斎にそういった時、幽斎はまるめた頭をつるりとなでながら、
「それよのう」
と暫《しば》し黙考したが、
「しかし徳川殿は、はやらぬ男だ」
「だが、天下を取る気は充分と見えますが」
忠興のその言葉も終わらぬうちに、乞食に身をやつした諜者が、中国より馳せ帰った。
「なに!? 羽柴殿が、八日姫路にもどったと? それは確かか。誤りではないか。毛利との戦はいかが相成った?」
さすがの幽斎も仰天し、たたみかけて聞く。秀吉が中国にあるうちは、諸将もお互いにお互いの動きに注目して、当分大きな動きはないと睨《にら》んでいた。
秀吉は、信長をはじめ、光秀及びその組下の細川、高山、筒井らに応援を頼んだばかりである。現に信長は、その出陣の途次、光秀に襲われて果てたばかりではないか。いわば、援軍を待ち兼ねている秀吉のはずであった。それが、今、姫路に戻ったとの報である。幽斎は俄かには信じがたかった。
「はい、それが、五月八日以来、水攻めをしておりました高松城が落ちまして」
「高松城が落ちた?」
「は、羽柴筑前守は、次第に水を増量し、ために遂に城下の家々も水に浸り、従って城中の兵糧も尽きはてたげにござりまする。そこで、やむなく、守将の清水宗治殿、兵の救命をねがって自刃を申し出られました」
「ふむ、それで……」
「筑前守は毛利方の智僧|恵瓊《えけい》を仲立ちとして、清水殿は切腹、備中、伯耆《ほうき》、美作《みまさか》は織田方に……という誓紙を入れましたとか」
安国寺の僧恵瓊の名は、世にあまねく知られている。十年前恵瓊は、信長に会った印象を、
「信長の代、五年三年は持たるべく候。明年あたりは公家になどなるべく候かと見及び申候。さ候て後、高ころびにあをのけにころばれ候ずると見え申候、藤吉郎さりとてはの者に候」
と予言していた。その予言の適中を今更のように幽斎は感嘆して思いながら、
「それで、清水宗治は」
「は、四日に水の上にこぎ出て、敵味方の見守る中に、見事な御生害《ごしようがい》でありました」
「そうか。それは恐らく、本能寺の異変は毛利方に伏せての大芝居であったろう。さすがは黒田官兵衛|孝高《よしたか》を謀将に持つだけのことはある」
秀吉の実力をまざまざと知らされたようで、思わず幽斎は身ぶるいした。
諜者が退《さが》るや、早速幽斎は硯《すずり》を引きよせて、秀吉に手紙をしたため、幾度か書いては破り、破ってはまた書いた。達文の幽斎には珍しいことであった。
先に、光秀から、援軍を待つとの使者が来たが、幽斎は頭をまるめ、忠興はもとどりを断った姿を見せ、
「吾らは右府様に、ご高恩をいただく身なれば、しばし喪に服したい」
といって返した。
今朝は再び、沼田権之助が光秀の親書を持って誘って来たが、これもまた断って帰した。光秀の書面は、文箱に納めたばかりだ。
「御父子もとゆひ御払之由、尤余儀なく候。一旦我等も腹立候へども、思案の程かやうにあるべきと存候」
「我等不慮の儀存じ立候こと、忠興など取立申すべきとての儀に候」
などの言葉が、まだ目に焼きついている。光秀が、細川家の援軍を待ちわびている様子がありありと目に浮かぶ。が、幽斎としては、細川家の浮沈のほうが一大事である。光秀との信義、友情は捨てても、家は守らねばならぬ。光秀とても、長年の信長の恩を裏切ったのだ。この細川家の生き方を、察し得ぬはずはない。
頭をまるめた幽斎にならって、家臣の米田求政も有吉立言も剃髪した。これが小大名の生き方なのだと思いながら、幽斎は秀吉への筆を走らせた。
細川家は上下あげて信長の死を悲しみ、いかに喪に服しているか。長年の友人光秀の誘いを断乎として断った細川家は、秀吉と同じ道を行くものであることを、幽斎は言葉を選んで慎重に述べた。
これに対し、のちに七月十一日、秀吉は、
「今度、信長、御不慮については比類なき御覚悟、特にたのもしく存じ候(中略)。表裏なく公事に拠《よ》り、御身上見放し申すまじく候こと、云々」
と誓紙を幽斎父子に送っている。
秀吉京へ進撃せり、との報に狼狽したのは、ひとり細川家のみではなかった。光秀に恩義のある筒井順慶も、最初の二、三日は光秀に従っていたが、天下の形勢を見て動きが慎重になった。秀吉の動きを知ると、遂に中立の腹を決め、米塩を城に運び入れた。
「やはりのう」
順慶が米塩を集め、籠城を覚悟したと聞き、幽斎は忠興にうなずいてみせた。順慶にせよ、細川家にせよ、家の浮沈にかかわるこの大事に当たって、慎重にならざるを得ぬのは、致し方のないことではあった。
(生きのびるということは、みにくいことよ)
幽斎はふっとそう思うことがある。が、武将にとって、生きのびることは、即ち勝利なのだ。
こうした数々の情報の中で、忠興は終始いらだっていた。光秀の形勢は、即ち玉子の運命にかかわるからであった。玉子の心のうちを思えば、迂闊に情勢を知らせるわけにもいかない。玉子と口をきくことを恐れて、忠興はこの頃、ひどく寡黙になった。
この間《かん》、一人頓五郎興元は、父や兄を冷視しつづけていた。
そして、その日、玉子が廊に立って、見るともなく庭を眺めていた時だった。庭を渡って大股に頓五郎が近づいてきた。曇り勝ちのむし暑い日である。時折、その雲の裂け目から、かっと陰暦六月の日が地を照らす。肌がじっとりと汗ばむ。空気もまた重くしめっていた。
「姉上」
頓五郎は迫るような激しい目の色を見せて呼びかけた。
「何かご用でござりましたか」
「…………」
黙って突っ立つ頓五郎興元のたくましい肩に、蜂が低くうなってまつわっている。
「何か?」
やさしく促すと、頓五郎はきっと見すえるように玉子を見、
「姉上、何を考えておられました」
「別に……。庭を見ておりました」
「何も考えぬといわれるのですか」
「はい」
「嘘をいってはなりませぬ。姉上は……、この庭など眺めてはいられぬ。もし眺めていられたとすれば……」
踏み石に上がって、興元は縁に腰をおろし、
「……もし眺めていられたとすれば、この庭を眺めるのも、あと幾日と思うていられたのでは……」
「…………」
「姉上、姉上は、細川の奴らの腰ぬけよ、卑怯者よと、思うていられたのではござりませぬか」
玉子は少し離れて坐り、そのまろやかな自分の膝頭のあたりを見つめながら、
「頓五郎さま、玉は、父の軽挙を恥じております。とんだご心労をおかけしたこと、只々《ただただ》、申し訳なく思っております」
「なぜです? 何が恥ずかしいと申されるのですか? できることなら、誰しも惟任殿の真似をしたかったのだ。が、誰も右府殿を倒すことなど思いもよらなかった。誰もなし得ぬことを姉上の父御はなされたのだ」
「…………」
「ごらんの通り、誰も彼も、腰ぬけだ。家が大事! それもわからぬわけではない。しかし、姉上」
興元はうつむいている玉子を見守り、
「わしには家よりも大事なものがある」
「家よりも大事なもの?」
顔を上げた玉子に、興元の視線がからんだ。
「それは……それは、姉上だ」
「そんなことを……」
「申してはならぬと仰せられるか。姉上、これが、頓五郎最後の言葉と思し召せ。わしには、わしには、姉上が何ものよりも大事なのだ。大切なのだ」
あっという間もなかった。立ち上がるや否や、興元は庭をかけて風のように過ぎ去った。
そして、そのまま、興元は細川家より姿を消した。
やがて、興元が兵をつれて京に向かったという報に、細川家は上を下への大騒ぎになった。忠興が顔色を変えて馳せ来り、
「お玉、頓五郎めが、無断で京に向かったわ」
と告げた時、玉子は、
「まあ、それは」
と驚いて見せ、
「父のために、申し訳もござりませぬ」
と詫びたが、しかし、頓五郎の言葉は告げなかった。告げ得るものでもなかったし、告げたくもなかった。今のこの大変事に、興元だけが、純粋に自分を思ってくれているのだ。
城主である忠興と、部屋住みの興元では立場がちがう。それはわかっていても、忠興が興元のように動いてくれぬことが、玉子には淋しくもあった。
が、玉子の身をのみ案じていたのは、ひとり興元だけではなかったことを、まだ玉子は知らなかった。
その夕べ、不機嫌に黙りこくったまま、忠興は夕食を取っていた。
「殿……」
おずおずと玉子は呼びかけた。
忠興はちらりと玉子を見たが、すぐにぷいと視線を外らした。事変以来、ともすれば黙り勝ちな忠興だが、その視線の外らし方が、ひどく冷淡に思われた。
「姉上が大事なのだ」
言い放った頓五郎の言葉を玉子は思った。
(夫は自分をうとみはじめている!)
玉子は、ふいに突き放されたような淋しさを感じた。
忠興ががらりと箸を置いた。
「殿」
忠興は玉子の顔を見ずに、部屋を出て行った。また諜者が新しい知らせでももたらし、重臣会議があるのかも知れぬと察しながらも、玉子は淋しかった。夫にとって、家は大事であっても、もはや妻の自分は眼中にないのかも知れぬ。
父が天下をとって、幾日かは忠興も時折消息を洩らしてはくれた。
「舅御は、安土城に入られてな。右府殿の長年かかって集められた茶器名器を、わずか数刻の間に、ことごとく人に与えられたそうじゃ」
後に、利休門下七哲の一人とうたわれた忠興は、複雑な表情でこう告げたりした。また、
「そなたの父上は、京の税を免じたとな。人心も次第に落ちつくであろう」
などと、玉子を慰めた。が、次第に、何の消息をも玉子の耳には入れなくなった。夜半、憑《つ》かれたように激しくかき抱くことはあった。が、以前のように睦言《むつごと》もない。
今夜の冷たい忠興のそぶりを見ると、玉子はいまだ曾てなかったほどに、父が慕わしく思われた。いや、愛いとしいといったほうがよいかも知れぬ。
(いま、父上は、力の限り戦っておられるのだ)
その孤独な姿が痛わしくてならぬ。
(父上様!)
玉子は胸もはりさける思いで、心の中に父を呼んだ。女の身の非力が口惜しかった。
信長は、父に数々の冷酷な仕打ちを加え、挙げ句の果てに領国まで取り上げた。追いつめられた父は、信長を討つよりいたし方がなかったのだ。その父に味方する武将のないのが、玉子には納得できなかった。
いく度か思ったことを、繰り返し玉子は思う。思う度に、舅の幽斎と夫の忠興への不満が、心の底に澱《おり》のようにたまっていく。特に今宵は、夫に対しての憎しみにも似た感情さえ湧くのを、どうすることもできなかった。
玉子は深い吐息を洩らして、かすかに首をふった。ふくよかなその頬も、この数日で肉が落ち、それがまた玉子を、かえって凄艷に見せていた。
次の間のふすまが開いたようだった。
「奥方様」
清原佳代のひそやかな声がした。
「ああ、お入りなさい」
「はい、ごめんくださりませ」
一瞬灯がゆらいだ。
「熊千代と、お長はやすみましたか」
「はい、すやすやと……」
部屋に入った佳代は、いいさしてふっと涙ぐんだ。何も知らずに無心に寝入った二人の幼子を不憫《ふびん》に思っての涙と、いち早く玉子は察したが、
「すやすやと眠りましたか」
と静かに微笑した。佳代はその玉子をじっとみつめ、
「御方様も、ぐっすりおやすみになられまするよう……佳代は毎夜お祈りいたしております」
と、いたわしげに言った。
「お祈り? それはありがたいこと。佳代どの、祈りほど真実なものはないように思われます」
「え? 祈りほど真実なものがないと仰せられますか」
「ええ、いま、はじめてそう気づきました。いつも佳代どのは祈っていてくださる。祈りは、人の知らぬところで、真心から神仏におねがいすることでしょう?」
「はい、佳代は真心からお祈りいたしまする。汗の出るほどに」
「汗の出るほどに?」
「はい、御方様、この祈りを何としても、神にお聞きとどけいただかねばと、切に切に思いまするとき、おのずと、汗も涙も出るものでござります」
「まあ、汗も涙も出るほどに。それほどに真実こめて……」
「はい、人様に少しむずかしいことをお頼みするさえ、わたくしどもは必死でござります。まして、聖なる御神におすがりいたしまするには、心をこめて、切に切にお祈りいたさねばなりませぬ」
玉子に似て、妹かと噂されるほどの美しい目鼻立ちの佳代は、その白い頬をうっすらとあかくした。
「いつに変わらぬ佳代どのの真心、ほんにうれしゅう存じます。しかし、それほど祈ってくれても……佳代どの、それほどの切なる祈りも、神は果たしてお聞きとどけくださるやら……」
「お聞きとどけくださりますとも。神父《パアデレ》さまは、神さまは祈りを聞き給うお方だと仰せられました。ただ、その祈りの聞かれる日が、遅いこともあり、また、聞かれぬように見えても、それが神の応《こた》えであることもありますとか……」
「このような時には、堅い信仰の佳代どのがほんに羨ましい。わたくしもみ仏を信じているつもりですのに、この騒ぎの中にあっては、ただ、あれを思い、これを思って心が乱れるばかり……」
「それは、佳代とて同じこと。今も佳代は熊千代さまのあどけない寝顔に……涙がこみ上げて……」
「なぜ、涙が?」
「…………」
「もしやそれでは……やはり父上の形勢が……。佳代どの、父上は、いま、どのように……」
「ごめんくださりませ。お心をお痛めまつるようなことを申し……ただ」
「ただ?」
「……いいえ、やはり申し上げられませぬ」
「父上は敗れましたか」
「いいえ、いいえ、惟任様は洞《ほら》ケ峠に、筒井順慶様の出をお待ちなされておられます由」
「洞ケ峠に……」
洞ケ峠といえば、嫁入りした勝竜寺城のやぐらから見えたと思いながら、
「あの洞ケ峠に、父上はいられるのですか」
「はい。それでは、あの……佳代はこれにて……」
のがれるように一礼し、佳代は部屋を出たが、ふすまをしめようとして、何か言いたげに玉子をみつめた。と、その目から、涙がこぼれ落ち、ふすまはしめられた。
(何かある!)
玉子はふいに胸さわぎがした。自分の知らぬところで、何かが始まっている。佳代にはわかっていて、自分にはわからぬことがある。部屋の中に引きこもっている自分には、目にも耳にも入らない。
ふと玉子は、先刻おし黙ったまま、不機嫌に食事をしていた忠興の姿を思った。
(何かが起きた)
玉子は小袖の衿《えり》をかき合わせて、そっと部屋を出た。
廻廊に出ると、俄《にわ》かに雨の音が聞こえた。
「弁当を忘れても蓑傘《みのかさ》忘れるな」
という諺を生んだ丹後の国は、雨が多い。
雨の中の、暗い夜の庭を玉子は見つめた。暗い庭を見つめると、不安は更につのった。が、玉子は背すじを伸ばし、静かに表書院のほうに向かった。
表書院に近づくと、人声がした。抑えるような声だが、戦場できたえた男たちの声は透る。部屋は閉ざされていても、ふすまごしに声は聞こえるのだ。
「それはならぬ」
忠興の声が少しかん高かった。曾て立ち聞きなどしたことのない玉子だが、今夜はそれが立ち聞きであることを忘れて立ちどまった。
「殿! これほど、理を尽くして申し上げても、お聞きとどけくださりませぬか」
おしかぶせるような声がした。つづいて、
「まことに」
「この非常の時に」
幾人かの、詰めよる語調が鋭かった。
「殿、お心を静めて、今一度、お聞きくだされ」
哀願する語調になったのは、重臣の松井康之の声である。
「くどいわ!」
「いかにくどいと仰せられても、申し上げねばなりませぬ。幾度も申し上げましたように、無論、奥方さまには何の咎《とが》もござりませぬ」
奥方という言葉が、玉子の耳を刺した。はっと体を固くして、玉子は思わず一歩近よった。自分のことが、いま問題になっているのだ。
「奥方さまに咎はなけれど、天下の形勢が悪い。惟任殿のご息女というだけで、細川家全体が……」
ふいに声が低くなり、再び、
「……そのように、細川家が巻きこまれてはなりませぬ。今からでも遅くはない、亀山城に送り返し……」
「ならぬといったら、ならぬ」
「しかし、殿、かかる場合は送り返すが世のならい、この松井、決して無理難題を申し上げているわけではありませぬ」
「世のならわしが何であれ、わしは返さぬぞ」
「なぜでござります。なぜ、この理《ことわり》をお聞きわけなされませぬ?」
「…………」
「いたし方もござりますまい」
ふいに誰かが冷たくいった。
「殿は、われわれ家中の者よりも、奥方の情にひかれておられる。かかる女々《めめ》しき殿の言葉に……」
「黙れ! 有吉! 女々しいとは口が過ぎるぞ。男が女をかばう、夫が妻をかばう、それが何で女々しいのだ? わしがお玉をかばわずに、一体誰がお玉をかばってやるというのだ」
お玉の体が、わなわなとふるえ、垂髪が揺れた。
「殿、細川家の浮沈にかかわることですぞ。これほど申し上げてもお聞き入れなくば、奥方のお命は、われらが頂戴いたしまする」
「何!? 有吉! そちはお玉を殺すと申すのか」
「殿、お静まりくだされ。惟任殿のご息女の運命《さだめ》は、どのみち決まっております。明日にも天王山は天下分け目の決戦となりましょう。惟任殿一万余の軍をもって迎えるといえども、四万の兵をひきいて、奔馬の如く駆けのぼってくる筑前守の敵とはなり得ますまい。まして、天王山とは目と鼻の先の高槻から、高山右近殿が、羽柴殿の先頭を切って攻むる公算が大、となれば、ただでさえ勇名高き右近殿、しかも何の疲れも知らぬとなれば……これは殿、明日、明後日で、天下はまた大きく変わりましょうぞ」
「…………」
「織田方は、惟任殿血縁の者は、親の仇、主の仇、草の根分けても残らず断《た》ってしまいましょう」
「…………」
「それはかの荒木村重殿が謀反の時、一族郎党女子供に至るまで、磔、焚殺《ふんさつ》と、みなごろしにあわれましたがよき先例」
「…………」
「あれが織田家のやり方でござりまする。どうせ敵方の手にかかるならば、ここが思案のしどころ。いっそ、われらの手で……いや、御自らの手で御生害あそばされるが、奥方のお幸せと申すもの」
「有吉! わかった!」
忠興の悲痛な声がした。
「おお、お聞き届けくださりましたか。では、一刻も早く奥方を亀山城にお返しいたしまするか、それとも御生害いただきまするか」
「亀山には返さぬ」
「では、直ちにお命を!?」
「いや、殺しはせぬ」
「殿、お返しもせぬ、お命もそのまま、さればわれらの言葉を何とお聞きなされてか」
「松井、頼む、この通りだ。この忠興が頼む。玉子の命を……奪ってはならぬ」
忠興の声がうるんだ。玉子は思わずふすまに手をかけようとして、辛うじて耐えた。
「ええい、女々しい殿だ。殿がこんなにも女々しいとは、この有吉、今日の今日まで思いもしなんだ。おのおの方、お家が大事じゃ、これより直《ただ》ちに奥方に……」
「ならぬ。お玉を斬ると申さば、わしがそちを斬る!」
「何と! この有吉を斬ると仰せられてか」
「玉の命を奪う者は、誰でも斬り捨てる。羽柴筑前であろうと、高山右近であろうと」
決然と忠興が言った。忠興の見幕に、一座が急に静まった。と、松井康之の感に迫った声が聞こえた。
「殿! それほどまでのお覚悟とは……。松井康之、命に代えても奥方をお守りいたしますぞ」
「おお、松井、助けてくれるか。頼む、何とか玉を返したことにできはしまいか」
「返したことに?」
「うむ。亀山城に返したと、世間をあざむき、その実、この城のどこかにかくまうということはできぬか」
「さあ、それは」
「無理かそれは。とあらば、どこか山の中にでもかくし置き、亀山に返したと言い張ることはできぬか」
「…………」
深い沈黙がつづいた。
釘づけにされたように、微動だにできぬ玉子の胸を、激しく突き上げてくるものがあった。夫の苦悩と心やりが、全身をつらぬいていくのを玉子は感じた。つい先ほど、夫に憎しみをさえ抱いた自分を、玉子は恥じずにはいられなかった。
「殿、それは、領地の山地にかくす手だてもござりましょう。この松井とても、考えぬことではござりませぬ。しかし、どこに諜者が入りこんでいるやも知れませぬ。あの光り輝くようなお美しさでは、いかに事を密かに運んでも、他に洩れぬとは限りませぬ。万一、亀山にお返ししたとの虚言が発覚したる場合、殿、何と申し開きをいたしましょうや」
「うむ」
「まことに、われらはさよう危ぶみます。……が、待てよ、おのおの方、殿の御策もご名案かも知れぬぞ。確かに、今は羽柴秀吉が破竹の勢いであろうとも、中国の毛利軍が、果たしてこのまま指をくわえて、筑前守を見のがすか、どうか」
「それじゃ!」
「惟任殿がいち早く毛利に密書を送り、ひそかに手をつないでいるとするならば、思わぬ道を通って、毛利は筑前守をはさみ打ちに出ぬでもない」
「それは、われらも幾度か考えたことじゃ、が……」
「ま、聞かれい、四国の長宗我部殿も、惟任殿の誘いに応じて、京に馳せ参ぜぬとも限るまい。とすれば、惟任殿が、易々と天下を奪われるとは限らぬ。早まって奥方をお返し申したり、お命を頂戴しては、それこそ一大事と申すもの。惟任殿ほどの知謀の将が、ただ手をこまぬいて、この十日間を徒《いたず》らに送ったとは思えぬ。何《いず》れにせよ、殿の申されるが如く、奥方は山奥にでもおかくまい申すが賢策かも知れぬ」
毛利方に送った光秀の密書が、秀吉の手にうばわれていたことを、まだ誰も知らない。
「うむ……」
不承不承、松井の言葉に応ずる気配がした。
「と決まれば、急いで場所を探さねばならぬ」
「人目につかぬ山中のう」
「おお、そうじゃ。殿、味土野はいかがでござりましょう」
松井康之がいった。
「みとの? とな」
「は、丹後半島の中ほどにある山の中、あの金剛寺亀山のすぐ傍にござる」
「では、険《けわ》しい山中だな。女の足では大変なところだが……」
「男の足でも、容易ではありませぬ故、めったに人のよりつくところではござりませぬ」
「道のりは?」
「は、宮津より、船にて余佐の海を横切り、日置の浜に渡り、そこより味土野までは三里でござります」
「おお、それは近い!」
ようやく忠興の声が弾《はず》んだ。
「戸数はどれほどじゃ」
「せいぜい、二十戸もござりましょうか。山伏寺などもござります」
「では、ひどく、淋しいというほどでもないな」
「は、山の中とはいえ、人里でござりますれば……」
「なるほど? ではそれに決める。松井! 明朝早々にも人をつかわし、住居を用意させよ」
俄かに部屋の空気が和《やわ》らいだ。
玉子はふらふらとその場を離れた。どこをどうして部屋まで帰ったか、玉子にはわからなかった。
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毛利輝元 一五五三〜一六二五(天文二十二〜寛永二)年。安土桃山時代、江戸初期の大名。毛利家を中国地方の大領主とした毛利元就の孫。信長の中国経略に抗戦したが、本能寺の変後は秀吉と和解、豊臣政権下の五大老となる。一五八九年、先祖伝来の本拠地吉田から安芸(広島)に移り、中国地方五カ国百十二万石を領した。一六〇〇年、関ケ原の戦いでは西軍の主将として大坂城にあったが、戦後周防、長門に滅封され、出家した。
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十六 幽閉
「さ、熊千代さま、お母上さまにおやすみなさいを申し上げましょう」
促す乳母のこうの声がうるんだ。熊千代やお長《なが》と別れて、玉子が味土野に出立する時刻が迫っていた。既に五つ(午後八時)を過ぎている。
「いや」
いつもは疾《と》うに眠っている熊千代が、今夜はふしぎに眠ろうとはしない。まだ二歳と二カ月の熊千代は、母の膝から離れがたい。お長は疾うに眠っている。そのお長との別れも先ほど終わった。
「でも、熊千代さま、おやすみなさらねば……」
「いや、いや」
幼い首を懸命に横に振る。こうは目頭《めがしら》をそっとおさえた。
「いや、いや」
玉子の肩にしっかりとしがみつく熊千代に、玉子は小袖のたもとから、懐紙にひねった包みを出して見せ、
「熊千代はよい子。ほら、そなたの好きな有平糖《あるへいとう》を上げますほどに、早うおやすみなさい」
有平糖と聞いて、熊千代はこくりとうなずき、
「アルヘ、アルヘ」
と喜んで包みをあけた。その幼い横顔を、玉子は胸の張りさける思いで見つめた。
(生きて再び、会う日が来るとは思えぬ)
やわらかく、しかし、ずしりと重い熊千代の感触を、玉子は改めて確かめるように抱きしめた。
泣いてはならぬと、気丈に耐えてはいても、玉子もまた、まだ二十歳のうら若い母である。熊千代が、有平糖をつまんで先ず自分の口に入れ、つづいて、
「お|たた《ヽヽ》うえも」
と、そのふっくらと小さな指につまんだ有平糖を、玉子の口もとに差し出した時、玉子はこらえかねて、ひしと熊千代をかきいだいた。
「熊千代!」
あまりに強く抱きしめられて、熊千代は苦しげに体を左右にゆすり、
「いや、いや」
と、玉子の胸を叩いた。思わずゆるめた玉子の手からのがれて、熊千代は玉子の膝を降りた。こうはここぞと、
「では熊千代さま、おやすみなさいを申し上げましょう」
と再び促した。熊千代はうなずいて、いつものように両手をつき、
「お|たた《ヽヽ》うえ、おやすみな|ちゃ《ヽヽ》い|まち《ヽヽ》」
と、愛らしく頭を下げた。が、玉子の目に溢れる涙におどろき、
「お|たた《ヽヽ》うえ、いたい?」
と、いま、自分が叩いた玉子の胸に、その小さな手を当てて、心配そうに玉子を見た。
「いえ、いえ、痛うはありませぬ」
玉子はそっと懐紙で涙をふき、にっこり笑って見せた。熊千代も、安心したように、にこっと笑った。あどけない口もとであった。熊千代は再び両手をつき、たどたどと挨拶をいうと、こうに手をひかれて部屋を出た。
(熊千代!)
呼びかけて玉子は声をのんだ。こうはわざとふすまを閉めずに、ゆっくりと次の間に熊千代をつれ去り、そして廊を去って行った。
「ううっ」
玉子の唇から悲痛な声が洩れると同時に、玉子はその場に泣き伏した。
もう、あのやわらかい頬に頬ずりすることはできないのだ。もうこの手に、あの幼い体を抱きしめることはできないのだ。もはや、あの黒く大きな目を見つめることはできないのだ。もう、決して、あの愛らしい声を聞くことはできないのだ。
「熊千代!」
ひれ伏した玉子の肩が、灯の下にいつまでも打ちふるえた。
(母と子が、なぜ、生きながら今生の別れを強いられねばならぬのか)
玉子の胸中に、ふと一つの疑問が湧いた。それは、今の今まで思ってもみなかったことであった。玉子は既に、自分が最愛の夫や子と別れて、味土野に去らねばならぬことを、光秀を父に持った自分の、当然の運命とあきらめていた。
(しかし……)
果たして自分には、味土野に去る以外に生きる道がないのであろうか。誰であっても、自分の立場に立てば、去るか、死ぬか以外に、道はないのであろうか。
今、自分を無理無体にこの城から追い出そうとしている者は誰か。無論、夫の忠興ではない。といって、家中《かちゆう》の者ともいえないような気がした。
自分をこの城にとどめておけぬ者、それは織田か、秀吉か。もし、秀吉の場に徳川が立っていれば、徳川がまたこの自分を追い立てるのであろうか。一体、誰が、何が、かよわい一人の女を山中に追いやるのか。玉子は、目に見えぬ者に追い立てられて行く自分を思った。自分を追い立てる者が、さだかにわからぬことに、玉子はもどかしさと、いいようのない怒りを覚えた。が、時は迫っていた。その正体を見極め得ないままに、玉子は城を出て行かねばならなかった。
今日の午後、玉子は光秀の敗北と死を聞いた。忠興が青ざめた顔で部屋に戻るなり、
「お玉!」
といったまま、絶句した。はっと忠興を見上げると、やや、しばらくして、
「お玉、惟任殿の天下は終わったぞ」
と玉子の肩を抱きよせた。
それから今まで、僅か三刻(一時間半)しか過ぎてはいない。かねて覚悟のこととはいえ、父の死は胸をえぐられる悲しみであった。しかも、その悲しみをさえ追い立てるように、夫と子と別れ、見も知らぬ山中に入って行かねばならないのだ。
熊千代との別れのひととき、忠興も佳代も、他の侍女も、その場に姿を見せなかった。存分に名残を惜しませようとの心づかいである。
ようやく玉子が涙を拭《ぬぐ》い終わった時、痛ましげに忠興が入って来た。食い入るように見つめる忠興の視線と、涙にうるんだ玉子の視線が、しっかと絡《から》んだ。
「お玉!」
「…………」
「むごい奴と恨んでくれるな」
「…………」
玉子は静かに頭を横にふった。
「わしとて、そなたを片時も放しとうはない」
「…………」
「そなたのいないこの城は、荒野も同然じゃ」
「…………」
ものを言えば涙になりそうで、玉子は黙って忠興を見つめた。
「そのうち、必ず迎えに行く。決して早まったことはするでないぞ」
「はい……」
「味土野は近い。便りもしよう。訪ねても行こう。素直でよい子を産むことだ。山家で生まれる子を思えば、不憫だが……」
「殿……」
「お玉、他の男に、決して決して心をゆるしてはならぬぞ!」
「…………」
「お玉、有吉はわしを女々《めめ》しいといったが、全くだ。わしはそなたと別れとうないのだ」
忠興は玉子を強く抱きよせた。
「死んではならぬ。必ずもどってくるのだ」
廊下に足音がした。
「奥方さま、お伴させていただきます」
襖の外で、松井康之の声がした。
「行くか、お玉!」
忠興は双手に玉子の頬をはさみ、再び食い入るように玉子をみつめた。
(あれから、はやひと月……)
部屋数が四つほどの山家、これが味土野における玉子のかくれ家であった。かくれ家は、山の斜面に、自らできた三百坪ほどのせまい台地の上にあった。下手《しもて》の谷に向かって見通しはきいたが、まわりは衿をかき合わせるように険阻な山が入りくみ、遠くまでつらなっている。
(まことに、これが山の中……)
庭の太い桜の木の傍に立ち、玉子はあたりの部落を見おろした。よくも、この山の中に作ったと思われる小さな段畠が、幾つも不規則な形で山の斜面を占め、その所々に、十五、六戸余りの家がまばらに立っている。まひるだというのに、しんと静まり返って人影も見えない。聞こえるのは、鳥の声と蜩《ひぐらし》の声と、谷川のかそかな響き、そして折々ののどかな牛の声だけである。
かくれ家の左下手に、一色宗右衛門、池田六兵衛など、警護の者の住むかやぶきの館が見える。こんな山中に玉子がいようとは、確かに織田も羽柴も気づくまいと思われた。この地なら、無事に何年でも隠れおおせると思えるほどの、深い山の中だ。
(今頃、熊千代は……お長は……)
玉子はうす青い空を見上げた。もう母の自分のいない生活にも馴れて、思い出すこともないかも知れぬ。僅か二歳の熊千代と、一歳のお長が、いつまでも母を忘れ得ぬということはない。
(忠興さまにしても……同じことかも知れぬ)
便りをくれるといった忠興からは、まだ一度も便りが来ない。このかくれ家は、家中の者にも秘している。
「敵をあざむくためには、味方からあざむかねばならぬ」
という幽斎のすすめもあって、玉子が城を出る姿を、家中で見た者はない。夜陰に乗じて宮津の浜から船に乗り、伴の者数人と、警護の者二十名ほどに守られて日置の浜に渡った。
曾て、玉子は忠興と城から日置の浜をのぞみ、
「仕置きの浜」
と戯れて言ったことがあった。その時は、信長の苛酷さを思って言ったことだったが、まさか、この自分が城を追われて、その日置の浜に仮寝をする身となろうとは、夢にも思わぬことであった。
日置の浜で、ほんの二ときばかり舟の中にまどろみ、夜の明け切らぬうちに一行は味土野に向かったのだ。途中の山道のけわしさも、並大抵ではなかった。男でもたやすく登れるところではない。
このような山中に、便りをくれることは、夫といえども容易ではあるまい。しかも、自分は人目を避ける身である。そうは思っても、外部から何の便りもないこのひと月の隠れ家暮らしは、一年とも思えるほどに長く、且つ侘びしかった。
(忠興さまは……まだ二十歳)
次第に曇ってくる空に目をやりながら、玉子はふっと肩を落とした。二十歳の忠興が、いつまでも一人で暮らして行けるとは思われぬ。必ず迎えに行くとは言ってくれはしたものの、天下の情勢が許さねば、このまま一生、味土野の地から、帰って行くことはできないのではないか。
とすれば、忠興は新たに妻を迎えぬとはいえない。
(忠興さま!)
忠興に妻が来るかも知れぬと思っただけで、玉子はつき放されたような淋しさを感じた。
果たして何年も、忠興は独り身で待ってくれるであろうか。俄《にわ》かに、それは全く不可能なことに思われた。
いや、こうして、ひと月離れている間にも、忠興の身に、不測の事件が起きているかも知れないのだ。信長を倒した光秀の娘は、もはや忠興の妻にもどれる道は絶たれたかも知れぬ。
今日までのひと月、来る日も来る日も忠興の便りを待っていた自分が、ひどく愚かに思われた。
(天下はどなたのものとなったのやら……)
信長の息子、信孝のものかも知れぬ。あるいは秀吉のものかも知れぬ。父が果てたと聞かされたのみで、その後の天下の情勢は何も知らない。何も知らぬことは不安であった。
(それにしても、父の最期はいかなる様子であったのか)
坂本城の母や弟も、多分死んだであろうが、その様子も聞きたい。が、この山中まで、わざわざ知らせに来る者もあるまい。
玉子は、話に聞いた「うばすて山」を思った。自分は、あるいはこのまま、この山中に果てねばならぬかも知れぬ。若いままで、自分は体よく山に捨てられたのではないか。無論、忠興自身、決して捨てる気がないことは、あの夜部屋の外で聞いた玉子にはよくわかる。しかし、家中の者がどう思ってここに自分を送り届けたか、わからぬような気もした。
「奥方さま」
呼ばれてふり返ると、清原佳代が、ほほえんで立っていた。
「ああ、お佳代どの」
「はい、何をごらんになっておられましたか」
何を考えていたかとは、佳代は聞かない。それは尋ねるまでもないことなのだ。
「空を見ておりました。この空は宮津の空にもつづいておりますほどに」
「……ほんに、さようでござります」
「あのお天道様を、殿も、熊千代もお長も見ておりましょう」
「はい……。おすこやかにいられましょう」
「お佳代どの。ここに参りましてから、歌の心が、ようわかります。仲麻呂が、三笠の山に出でし月かも、と歌った望郷の思いが、身にしみて……」
「遠い唐の国での歌でござります故」
「左京大夫の……」
言いかけて、玉子はやめた。玉子は、左京大夫の、
今はただおもひ絶えなむとばかりを
人づてならでいふよしもがな
の歌を思い出したのだった。しかし、それは、佳代にいうべき言葉ではない。玉子は話題を外らし、
「お佳代どの。そなたはふしぎな人ですこと……」
「ふしぎ? と申されますか」
「そう、ふしぎです。そなたはまだ十九のうら若い娘御。美しい衣裳を着たい、おもしろいものを見たい、おいしいものを食べたいという年頃ではありませぬか。でも、この味土野に来ても、宮津を恋しがることもせず、いつも幸せそうに頬笑んでいられる。それが、ふしぎに思われてなりませぬ」
「ま、お恥ずかしゅうござります」
「その上、この山奥への難儀な山道をも、何の苦もなく登ってこられました。殿御の足でさえ辛いところを……」
「奥方様、それは、以前、毎日山を歩きました故」
「毎日?」
「はい、捨て子を探しに」
「ああ、いつぞや聞きました。捨て子を探して、山の中を歩いたということでしたが……」
「はい。もう、あの頃は夢中でござりました。一歩でも半歩でも多く歩いて、捨て子を見つけ出さねばと……」
「お佳代どの。以前には、その話を、ただ奇特なことよと、人ごとのように聞いておりましたが……」
玉子は、何かを考えるように向かいの山に目を放ったが、
「その捨て子は、親も捨てたくなるほどに、体が弱い子でありましょう?」
「はい、親も育てかねる弱い子が多うござりました」
「つまりは役立たずの子……」
「でも、お方さま。西洋の国々では、日本のように、弱いからといって、わが子を捨てる風習はありませぬような。いいえ、弱ければこそ、かえって、皆で大切に大切に育てますそうな」
「大切に?」
「はい、パアデレさまは、日本の捨て子の多いことに、ひどくおどろき、お心を痛めて、それで、信者たちに捨て子を養育することを、お教えなされました」
「では、キリシタンでは、身動きのできぬ不具者でも、老人でも、同じように大切に扱うのですか」
大名の子でも、弱ければ捨てる、または毒殺するということの、時にはあった時代である。玉子の言葉は当然であった。
「はい、お方さま。キリシタンでは、人の命はみなひとしく、この全世界より尊いと申しておりまする」
「人の命はみなひとしい? では、殿の命も、下賤の者の命も?」
「はい。キリシタンでは、人に貴賤はござりませぬ。いかなる命も捨てたり奪ったりは、なりませぬ」
「ふしぎな教え……。しかし、尊い教えに思われます」
先ほど玉子は、自分がうばすて山に捨てられる老婆のように、侘びしく思われた。自分は捨てられても仕方がないように思われた。そう思っただけに、捨て子を拾って育てるキリシタンの教えは、切実に身近な、ありがたい教えに思われた。
蝉の声がはたとやんだ。静かにものうい七月の午《ひる》下がりである。
「お方さま、何と静かなことでござりましょう」
「ほんに、気の遠くなるような、深い静けさ……。こんな淋しい山の奥にまで、お佳代どのは進んで共に来てくだされた。ありがたいと思っております」
今まで、幾度かくり返した言葉である。
「ま、いつもいつももったいないお言葉、痛み入ります。佳代はただ……、お方さまと共におりたいだけでござります」
「お佳代どの、お礼を申します」
そう言った時である。
突如、静けさを破って、裏山のほうでほら貝が響いた。外部の者の侵入を知らせるほら貝である。男城《おじろ》と呼ばれる館から、警護の者が十数名、鉄砲や槍を手に、バラバラと飛び出す姿が見えた。
「お方さま、早々お部屋におもどりくだされませ」
佳代があわてたが、玉子は足どりも静かに部屋に戻った。つづいて、警護の沢村才八が小者を従えて庭先に駆けてきた。
「奥方さま、怪しき者が入り来たったげにござります」
縁先にひざまずいた沢村才八の顔が緊張している。
「怪しき者?」
「はっ、見張りの者が、山道に数名の見なれぬ人影を認めたと申しまする」
沢村は、ちょっと言葉を途切らしたが、地に両手をつき、
「奥方様!」
と、ただならぬ面持ちを見せた。
「何です!」
「実は先日、部落の者が日置の浜に降りた際、筑前殿は、惟任殿の血筋の者、残党の者を根だやしにせんと、見つけ出しては打ち首、磔の刑に処しいる噂を聞いて参りました」
「……それで」
玉子は眉一つ動かさなかった。
「もし、今の人影が筑前殿の手の者とあれば……もとより吾ら根限り戦い、身をもってお守りいたしますれど、奥方様、敵の手におちいるが如きことにならば、潔くご生害なされませ」
「生害? 沢村、それは、殿のお指図か」
「いえ、殿のご命令にはござりませねど……」
「ならば死にませぬ。殿はいかなることがあっても、死んではならぬと仰せられました故」
「と申しましても、貴きお体、万一奥方がはずかしめを受けましては……」
谷のほうで、俄かに怒声とも罵声《ばせい》ともつかぬ声がこだました。
「奥方! 猶予はなりませぬ。何はともあれ、かねて用意の場に、急ぎ身をおかくしなされませ」
急《せ》きたてる沢村才八の言葉に、玉子が静かに立ち、佳代がつき添った。
と、大声で呼ばわりながら、池田六兵衛が庭に駆けこみ、
「沢村殿! ご安心召されい」
と一息つき、
「奥方、珍しい客人でござります」
と告げた。
いぶかる間もなく、玉子の前に姿を現したのは、思いがけなく頓五郎興元であった。数人の従者をあとに従えた興元は、玉子を見るなり、
「姉上! ここに……生きておられたのか」
と、ふりしぼるように言い、がくりと地に膝をついた。
興元を部屋に招じ入れた玉子は、早速膳の用意を命じた。
もとより山家、部屋の中も、並べられた膳も粗末であったが、興元は玉子に会えた喜びに心をはずませ、盃を傾けては、忠興はじめ、熊千代、お長、幽斎夫妻の無事や、家中のことなど話しはじめた。
「……しかし、姉上、探しましたぞ」
興元は持ちかけた箸を置いていった。
「探されたとは?」
「父も母も、家中の者誰一人として、姉上の行方を知らせてはくれませなんだ」
「ま、興元さまにも」
「いや、わしのような者故、知らせなかったのかも知れぬ。何しろ、父や兄にも謀《はか》らず、惟任殿のもとに走った無鉄砲者故」
「……興元さまが、父光秀のために、ひとり京に向かわせられましたお心、玉はどれほどありがたく存じておりましたことか」
「そのお言葉だけで、頓五郎は満足至極。……ま、それはともかく、父も兄も姉上の行方を聞かせてくれぬは、これはもはや、姉上は既にこの世に在《おわ》さぬかと、一時は……」
いいかけて、傍らの河喜多石見、池田六兵衛、佳代らを見、口をつぐんだ。
「それは、いかいご心痛を……」
「だが、姉上は生きておられた。このような山奥の、このような侘び住居《ずまい》は、いたわしき限りなれど……」
ひとしきり味土野の話に及んだ後、玉子は言った。
「ところで興元さま、父や一族の最期の様子、いかがお聞き及びか、詳しく承りとう存じます」
「おう、惟任殿のご最期か」
苦しげに玉子の顔を見守って、興元は盃を置いた。一度は知らせねばならぬことである。が、それはあまりにも痛ましい事実なのだ。しかも、この山家に心淋しく過ごしている玉子に、その肉親の最期の様子をつぶさに伝えるのは、あまりにも苛酷に思われた。その興元の胸中を玉子は察して、
「かまいませぬ、興元さま。伺えば、わたくしの心も定まります故」
興元はおし黙った。
男城で遅い昼飯をすませた興元の従者たちが、いつの間にか庭先にもどって、控えている。
「かまいませぬ」
再び玉子がうながした。興元はふいに立ち上がって縁に行き、従者の一人を手招いた。従者は縁近くに来て、ひざまずいた。
「姉上、この者にお憶えがござろうか」
問われて玉子は、面を伏せている若い武士に目をやった。
「面《おもて》を上げよ」
興元がいった。その武士は静かに顔を上げ、玉子を見た。
玉子の顔に、驚愕の色が浮かんだ。
「そ、そなたは、初之助ではありませぬか」
頬がこけ、やつれているとはいえ、それはまさしく、初之助であった。濃い眉の下に、少年のように澄んだ目が、憂いを帯びて見開かれていた。
「お久しゅうござりまする。……初之助のみ生きながらえて……只々面目次第もござりませぬ」
「初之助はどうしてここに?」
「は、殿のご命令にて、この初之助は死ぬことを許されず……」
初之助は最初より順を追って語りはじめた。
「殿が信長殿に代わって、天下を取られると心に決められましたは、五月二十八日、愛宕山での参籠《さんろう》の夜とか」
ここで光秀は三度くじをひき、はじめの二度は凶と出たが、二十九日には愛宕の西の坊で、里村|紹巴《じようは》などと連歌の席を持った。
「この折、殿は、
時は今、あめが下しる五月哉
と詠まれましたげにござります」
「…………」
「こうしてついに、天下は殿のものとなりましたが、第一に恃《たの》みにしておりました……ご当家のご支援なく、また殿に大恩ある筒井順慶殿もまた確たるご返事なく……」
初之助は時々顔を伏せては、語りついだ。
「十三日は、雨でござりました。その日は申《さる》の刻(午後四時)になって、ようやく戦が始まり、敵の加藤光泰の働きがめざましく、つづいて、高山右近、堀秀政らの働きに、ついに明智の奮戦もむなしく、殿は勝竜寺城にのがれ、わたくしめもお伴つかまつりました」
その折、光秀は初之助を招き、
「初之助、そちの働き、身にしみてありがたく思うぞ。が、いまひとつ、折り入ってねがいがある。聞いてくれるか」
「何なりと、殿のご命令とあらば……」
「万一、わしがこの戦に果てし後は、急ぎ坂本に帰り、その死の様をお《ひろ》に申し伝えよ。そして、この辞世を渡すのじゃ」
それは、
〈順逆二門なし、大道心源に徹す、五十七年の夢、覚め来りて一元に帰す〉
という辞世であった。
「子は、見苦しき最期を見せぬ女だ。そちは、わが一族の死を見とどけたあとは、丹後のお玉のもとに参れ。細川家は、まさかお玉の命までは奪うまい。しかし、お玉が苦境に立たされるは必定じゃ。そちはお玉に仕えてやってくれ。そして、形見にこの懐剣を渡してくれ。これは、八上城に死んだお玉の祖母の形見なのだ」
「殿! それでは、この初之助、ひとりおめおめと生きのびて……」
「初之助、生きることは、死ぬより辛いことがある。そちは、人にそしられ、笑われるかも知れぬ。しかし、お玉と共に生死を共にしてほしいとわしはねがう。これがわしの親心だ。そちは武に秀れてはいても、まだ若い。あまり名のないのが幸いなのだ。これは名のある武士には頼めぬことなのだ」
初之助は、こうして死をねがうことを許されなかった。その光秀の言葉を初之助はかいつまんで伝えた。
「その夜でござります。折よく雨は晴れましたれど、月もなき暗夜にて、溝尾庄兵衛どのら数名と共に、殿に従って坂本城へのがれる途中、小栗栖《おぐるす》というところにさしかかりました」
竹林の中の小道をひそかに馬を進めていた時、前から三番目にいた光秀が、
「うっ」
と呻《うめ》いた。後につづいた庄兵衛がすぐに駆けより、
「殿! 殿!」
と叫んだ。初之助は列の最後にいたが、ただならぬ気配に駆けつけた時は、光秀は苦しい息の下から、
「初之助、頼んだことを忘れるな」
といい、
「名もなき者の槍に……。不覚であった。庄兵衛、介錯《かいしやく》を!」
と、従容《しようよう》と自ら切腹して果てた。
「さすがは殿のご最期、沈着でござりました」
暗い竹林の中に、僅か数人の者に見守られて、父はその一生を終えたのかと思うと、さすがに玉子は涙をとどめることができなかった。
「坂本城に吾らが戻りましたる時、既に奥方もお覚悟遊ばされておりました。興元様はじめ坂本城にこもらんとした方々に、一族ここに火を放って果てまする故、何卒《なにとぞ》皆様方は城外におのがれくだされませ。他の方々を巻き添えに亡びたとあっては、明智一門の恥でござります、と申されました。弥平次殿は、吉光の脇差、虚堂の墨蹟など、天下の名品をまとめ、その目録と共に、城を取り囲んでいた堀秀政どのに贈られました。名品は天下のものという殿のご遺志に従ったのでござります。弥平次殿は城に火を放ち、お倫さま、奥方、十五郎さまがたと共に、見事に、実に見事に果てられました」
粛として、一同声もなかった。山を渡る風さえ、はたとやんだようであった。
十七 山鳴り
それは、坂本城のようでもあり、勝竜寺城のようでもある。玉子は、一人布団の中でうつらうつらしていた。人の気配に目をあけると、枕もとに忠興が突っ立っていた。
おどろいて顔を上げると、忠興はだまってひざまずき、玉子を胸にかき抱いた。忠興は白いりんずの衣を着ている。そのりんずの、ひやりとした感触が、玉子の頬に快かった。
「忠興様、お会いしとうござりました」
玉子がいうと、えもいわれぬふくいくとした香の匂いが、忠興の衣からただよった。
「お玉、迎えに参った」
「え? お迎えに?」
忠興はうなずき、やさしく背をなでた。忠興のいぶきが、玉子の耳に熱い。
「もう、お城に帰ってよろしいのですか」
問い返すと、もう忠興は傍にはいず、部屋を出て行くところであった。忠興は甲冑《かつちゆう》姿に身をかためている。かぶとのひとところが、きらりと強い光を放った。
「あ、またご出陣でござりますか」
迎えに来たというのに、自分を置いて行くのかと、玉子はあわてて床から身を起こそうとし、目がさめた。
まざまざと忠興の手の感触が、肩に背に残っていた。香のかおりも、夢とは思われなかった。思わず玉子は部屋を見まわした。が、夢であった。
「迎えに参った」
といわれた時の心のときめきが、いつまでも玉子の胸に尾をひいた。
夕近い空が青く深い。鬼やんまが二匹、秋陽に羽をきらめかせて、縁先に飛びかっている。玉子は鬼やんまのすばやい動きに目をやりながら、文机にもたれて、今朝の夢をまた思い返していた。
忠興の夢は、無論今日がはじめてではない。共に城の庭を歩いている夢や、話し合っている夢は幾度もみた。が、今朝の夢のように、しかも迎えに来たという夢は、はじめてである。
玉子は、昼を過ぎても、くり返しこの夢を思っていた。いまも、その夢を思いながら、玉子はうらがなしくなっていた。ほんのつかの間、夢の中で喜んだことが、かえって玉子を侘びしくさせた。
玉子はその侘びしさをふり払うように、文机の上に紙をひろげた。筆先に墨をふくませ、玉子はちょっと思案する表情になった。昨夜の夢を、歌に書きとめておこうと思ったのである。色づきはじめた木々をわたる風が、折々、ひそやかに玉子の髪をなぶって過ぎた。
逢ふと見てかさぬる袖の移り香の
のこらぬにこそ夢と知りける
読み返して、玉子は「知りける」を「知りぬる」と訂《ただ》した。続いて、
逢ふとみる情もつらし暁の
つゆのみ深し夢のかよひ路
さらさらと書きとめた玉子は、ほおっと吐息をつき、
「つらし、つらし、つらし」
と書き散らした。どこかで、もずが鋭く啼いた。
忘れむと思ひすててもまどろめば
強《し》ひて見えぬる夢のおもかげ
歌に詠《よ》めば、少しは心が慰められると筆をとったが、一入《ひとしお》忠興が恋しく思われて、
恋しともいはばおろかになりぬべし
こころを見する言《こと》の葉もがな
色ならば何れかいかに映つるらん
見せばや見ばや思ふ心を
歌は次々にできた。あまりにもなまなましい今朝の夢が、このように次々に詠ませるのかと思いながら、玉子はようやく、自分を制するように筆をおいた。
隣室から、機《はた》を織る音が絶えまなくひびいてくる。佳代が織っているのだ。と、その音がぱたりとやんだ。
山の日ぐれは早い。いつのまにか、日が傾いている。今日の機織りも、終わったのであろう。玉子は佳代を呼ぼうとしてやめた。今しばらく、一人机に向かって、この頃心にとめておいたことを、書きとめておこうと思った。佳代と話していれば、心も少しは落ちつくのだが、この頃はなぜか只一人、こうして筆を走らせたくなることが多い。
玉子は想いをまとめて再び筆をとった。
〈秋の夕つかた雁のほのかに鳴き渡るも、籬《まがき》がもとの虫のこゑごゑ、げにぞ目にふるるもの、みなみの山風あらましく吹きて、小萩が上しづ心なくとまりぬ〉
二、三日前の夕べ、風に荒々しく吹きたわめられている萩を見て、玉子はそこに自分の姿を見る思いだった。その思いを秘めて、いま、書いてみたのである。ちょっと息をつめて読み返し、行を変えて書きつぐ。筆を持つその指が細く白い。
〈すべて世間に月見ることのなからましかは。何につけてか、過ぎぬるかたの哀れをも、かばかり思ひ出ん、木の間より洩《も》りくる月のかげ細くして、落葉が上、松の根に、わざと光をたたへたるやうに見ゆる、いみじうあはれなり〉
〈たぐひなく、もの心細う憂き世のあはれも身にしられて、まどろむとしもなく涙……〉
自分の書く言葉に、心が次第に揺さぶられて、玉子は筆をおいた。感情に流されてはならないと戒めるものが心の中にあった。胎内の子を思えば感情はつとめて平静に保たねばならない。
日が沈み、たちまち暮色が漂いはじめた。
(このまま日数を重ねて、秋も深まるばかり……)
やがてこの山中に雪が降れば、里との往来も絶え果てる。その雪の前に、忠興の便りが来るか、どうか。
(冬!)
ふいに玉子は、もう忠興の便りを待つまいと思った。突如として、怒りとも恨みともつかぬ感情が噴《ふ》き上げるようであった。
(頼みにならぬは人の心……)
その心を当てにして、今日は明日はと便りを待ち侘びてきた幾月かが、ひどく愚かしく思われた。腹部にそっと手を当てて、
「もう待ちますまい」
自分に言い聞かすように、玉子は声に出してつぶやいた。
その時、横笛の音が嫋々《じようじよう》と聞こえてきた。
(おや、また初之助が……)
日ぐれ時、玉子がもの悲しくなる頃、あるいは夜更け、玉子が忠興や子供たちを思い、亡き父母を思って寝《い》ねかねている頃、ふしぎに横笛の音が流れてくるのだ。それはまさに、玉子の嘆きを感じとっているかのようであった。高く、また低く、澄みきった笛の音色であった。玉子は、その笛の音を聞く度に、心が慰められた。
今も玉子は、その笛の音に、怒りに似た悲しみが次第に和らげられていくのを感じた。初之助の笛を聞く度に、なぜか坂本城から眺めた琵琶湖が目に浮かび、父光秀や母の姿が懐かしく思い出されるのだ。
七月、興元が突然訪ねて来た時、初之助は興元に伴われてこの味土野に来た。興元は男城《おじろ》に二泊して宮津の城にもどったが、初之助はあれ以来、この部落に小屋を建てて住みついている。忠興に無断で警護の一人となることは許されない。が、興元は、
「人間、どこの地に住もうと、その者の勝手。誰も文句はいえぬ」
と、警護の者にも手伝わせて、小屋を建てさせたのである。
警護する側としても、人手のうすい山中に、初之助のような武芸に秀でた若者は重宝である。控え目だが、誠実なその人柄は、警護の者一同にも、土地の者にも信頼され、初之助は細川家の者とも、土地の者ともつかぬ生活に入っていた。土地の者は、もともとは平家の落人《おちうど》で武士の出である。山中にかくれ住まねばならぬ玉子や、それを守る細川家の者たちに親近の情をもって接していた。
じっと初之助の笛に耳を傾けている玉子の部屋に、佳代が入って来て、
「お方さま、うす暗うなりました」
と、灯皿に火をつけた。
「縁のふすまを閉じてよろしゅうござりますか。夕風が冷とうござります」
「でも、佳代どの……初之助が笛を吹いておりますほどに……」
「はい。でも、閉じても初之助さまの笛は聞こえまする。夕風はお体の毒。ごめんなされませ」
佳代は静かにふすまを閉じた。
「ほんに、初之助の笛は美しい……というより、何か心に迫ります」
「はい、あの笛は、何かをうったえるような……胸のかきむしられるような……」
玉子はだまってうなずき、ややあって、
「母も横笛をたしなみました」
玉子はその切れ長な目をとじた。その玉子を、佳代はいたましげにみつめていたが、
「お方さま、初之助さまは、昨日宮津に出て、今日もどられましたとか」
「ま! 宮津に?」
「はい、興元さまにお目にかかって参られましたご様子、先ほど、金樽《きんたる》いわしをたくさん届けてくださいました」
「金樽いわし! まあ、なつかしいこと」
玉子の口もとがほころんだ。
金樽いわしは宮津の名産で、その昔、平重盛の六男忠房が舟遊びの折、酒を満たした黄金の樽を海中に落とし、何としてもその樽を拾い上げられず、代わりにいわしがたくさんとれるようになったという伝説がある。小さいが美味ないわしで、幽斎も忠興も玉子も好物であった。
「佳代どの、宮津の話が聞きたい」
玉子は少女のような一途な表情を見せた。
「え? 伊也さまがお城にもどっておられた? それはまた、どうして?」
玉子は佳代を従えて、池田六兵衛に伴われて次の間にいる初之助の話を聞いていた。
「はい」
淋しいほどに澄んだ目を、初之助は伏せた。
昨日初之助は、宮津まで出かけた。興元とは、既に訪ねる約束をしてあった。
興元の部屋で、庭を見ながら話をしていた時、熊千代を遊ばせている若い女の姿が目に入った。くろぐろとした長い垂髪と、その着ている小袖は、遠目にも侍女のものとは思えなかった。
(忠興殿の側室か?)
と不審に思った時、その表情をとらえた興元が、
「あれは、妹の伊也だ」
といい、
「哀れな奴よ、あの妹は。このごたごたの世にあってはのう、一色義有を亡ぼして、一刻も早く丹後を平定し、国をあげて秀吉に従わねばならぬと、父上はあせったのであろう。何しろ義有は強かったからのう。兄の忠興でさえ、奴の豪胆には一目おいていた。それにしても父は策士よ。その伊也の亭主をまんまとこの城に呼びよせた。何といって呼んだと思う?」
「さ、それは」
「それが、むこ、しゅうとの盃を取りかわすという口実だ。何も盃を交わさずとも、伊也が義有に嫁いだからには、むこしゅうとであるのは自明のことだ」
「…………」
「義有は強いが、単純な男だ。無論、全く警戒していなかったわけではない。たくさんの家来を引きつれてやってきたのだが、むこ、しゅうとの盃を取りかわす席には、一、二の限られた者しか通れぬ。義有が注がれた大盃を、こう両手に持った瞬間に、兄上が太刀で切りつけた。義有の肩から脇に、さっと血が吹き出たというぞ。しかし、さすがは義有、何歩かしっかりした足どりで歩き、縁まで出てドタリと倒れた。小山が倒れるような豪快な死であったそうな。それが九月八日よ。味土野にそなたを伴ってから、いく日も経たぬ。伊也はそれ以来、また城に戻っているというわけだ」
「それは……」
「何しろ父は、頭はまるめたが世渡りの名人じゃ。貴公知っているか。おやじ殿は七月の二十日に、本能寺の焼け跡で連歌の興行をした。つまり、信長様の追善供養よ。大した物入りだったが、これが評判になって、羽柴秀吉殿も、すっかり細川家を信用しているということだ」
興元はその時の連歌、
墨染のゆふべや名残袖の露幽斎
たままつる野の月の秋風聖護院道澄
わけ帰る道の松虫音に啼て法橋紹巴
を紙に書いてみせた。
「ま、おやじ殿としては、細川家を安泰におくために、あれこれ知恵をしぼったわけだ。だが、何としても伊也はあわれなことをした」
興元の語るのを聞きながら、父と兄に夫をだまし討ちにされた伊也の心は、一体どんなであろうと、初之助はいたましい思いで、熊千代といる伊也の姿を眺めた。思いなしか、伊也の姿は魂が抜けたように力がなかった。
その姿を思い出しながら、初之助は、
「はい、一色義有殿は、大窪城での、むこしゅうとのちぎりの宴において、果てられた由伺いました」
とのみ、玉子に答えた。玉子はその一言にすべてを察し、
「まあ、では伊也さまは、義有さまを殺されて……」
と絶句した。
「は、乱世の世なれば……」
初之助は言葉少なにいった。
「やっぱり……」
思ったとおり、伊也も不幸な運命であったと玉子は思いながら、嫁いでゆく日の初々《ういうい》しい伊也の花嫁姿を目に浮かべた。
去年嫁いだばかりの伊也には、既に夫はないのだ。しかも、父と兄の奸計に倒れた。玉子は、胸の中を冷たい風が吹きぬけていくような気がした。
その伊也の幸せを祈って送り出した自分も、今はこうして山中に幽閉の身である。
(女はなぜに、こんな悲しい思いをしなければならないのか)
男たちは、女をこんなにまで不幸に陥れても、尚争わねばならぬものなのか。この先、自分はどれほど長い間、この山中に身をひそめていなければならないのか。自分をここにかくしたのは、せめて命だけは助けようとの手だてかも知れぬ。とすれば、あるいは自分は、この山中に一生幽閉の身として終わらねばならぬかも知れぬ。玉子は暗い思いに閉ざされた。
「そうですか。伊也さまは、もどられましたか」
深い吐息をついた玉子の、憂いを含んだまなざしが初之助の上にもどった。初之助はちょっと目を伏せた。
今日、邸内で会った忠興の精悍な表情を、初之助は再び複雑な心で思い浮かべた。
興元との歓談を終え、興元に送られて城門近くに来た時だった。馬に乗った忠興が二、三の伴をつれて門から入って来た。初之助が忠興を初めて見かけたのは、もう五年も前になる。玉子との見合いのため、忠興が坂本城に訪ねて来た時であった。それ以来今が初めての対面である。はっとして、初之助は油断なく立ちどまった。
「頓五郎、この者は?」
浪人姿の初之助を、忠興は馬上より見おろした。
「都で知り合った浪人で、三上初之助と申す者」
「三上初之助?」
うさんくさそうに、鋭い目を向ける忠興に初之助は一礼した。
「腕が立つ御仁でのう」
興元はとぼけてみせた。
「うむ、目くばりがちがう。たしかに腕は立ちそうだ」
「そのとおり。剣も弓もよくする。鉄砲もうまい。稲富ほどではないにしても」
稲富鉄之助は日本一の鉄砲の名人といわれ、暗夜に飛ぶ蛍さえ打ち落とすといわれた。もとは一色家の家臣だったが、光秀に仕え、嫁入りの玉子に従って、細川家に入った。
忠興は馬から降りて、
「その方、仕官の志は?」
と尋ねた。
「ござらぬ」
そっけなく初之助は答えた。
「なぜだ」
「主なき身は気楽でござれば……」
「ふむ、道理だ」
忠興の言葉は意外だった。
「どこに住んでおるのだ」
「足まかせでござる」
「なるほど。気が向けば、また訪ねてくるがよい」
忠興はひらりと馬上の人となって去った。
「兄者は、余程貴公を気に入ったと見える」
忠興の後ろ姿を見送って、興元は笑った。
「……?」
「信長公は、忠義の人材を集めるのが、武将の第一になすべきことだと、よく兄者にいっていたそうだ。多分、兄者は貴公を忠勤の士と見たのだろう。ふだんは馬から降りる男ではない」
「…………」
初之助は、自分が、
「主なき身は気楽でござれば」
といった時に、
「ふむ、道理だ」
と答えた忠興の表情と声音を思った。ひどく素直な感じだった。大名とはいえ、忠興もまた信長という主人を持っていた。そしていま、秀吉に忠誠を誓わねばならぬ場に立っている。あれが味土野に妻をやらねばならなかった忠興の本音かも知れぬと、初之助は思った。忠興に対する漠然たる反感が失われたのではない。が、初之助は、玉子の夫なるが故に、忠興に抱きつづけてきた憎悪に似た感情が、ややうすらぐのを感じた。
「癇が強い。信長公に似たところがあるぞ、兄者は」
興元は別れる時にそういった。
いま、初之助は、玉子の傍にあの忠興が並んだ姿を想像した。が、その時、池田六兵衛が、玉子の憂わしげな様子をふり払うようにいった。
「ま、とにかく、一色が亡べば、細川家も安泰と申すもの。伊也さまはお気の毒なれど、お家のためとあらば、いたし方ありますまい。お家のためとあらばのう」
「お家のためとあらば……」
玉子はつぶやいた。
「さようでござる。奥方も、お家のためなればこそ、こうしてこの山中に、不自由を忍ばれておられる」
(そうであろうか)
自分はただ、夫忠興のために、こうした日々を耐えていると、玉子は考えるまなざしになった。
「さ、これにて、今宵は……」
六兵衛は初之助を促して、早々に退出した。退出際に初之助は、灯影にやや青白く見える玉子の顔を一瞬凝視した。が、玉子の視線はその膝に落とされていて、誰をも見てはいなかった。
ついに味土野に冬が来た。
ついこの間までは、くれないに燃えていた紅葉も、いまはみな散り果て、たわわに実をつけていたあけびも野ぶどうも雪をかぶり、味土野の山に冬は来た。
冬の山は、よく山鳴りがした。山全体が、あるいはうめくように、あるいは吠えるように、あるいはとどろくように、ごうごうと鳴った。山は生きもののようであった。
「山はのう、葉が落ちると鳴り出すんじゃ」
土地の者である庭男がいった。葉が落ちて、風の通りがよくなるのであろう。
山が、身をよじってうめくのではないかと思われるような日は、玉子の気もめいった。
(とうとう忠興さまは、一本の便りもくださらなかった)
気がめいれば、思いはそこに帰る。
雪の降る前に、城から食糧は届いた。米、みそ、栗、柿、干しわらび、塩魚、干し魚などである。が、やはり忠興からの手紙はなかった。
玉子は佳代と機を織ったり、縫い物をして日を過ごしていたが、気がめいると、ぼんやりと囲炉裡の火をみつめたまま、何をしようともしない。
気がめいるといえば、冬の夜のふくろうの声は、淋しかった。
「ほう、ほう」
腹にしみ入るようなその声を耳にすると、玉子は忠興や子供たちよりも亡き父母を思わせられて、思わず枕から頭をもたげることがある。だが、少し聞き馴れたいまは、淋しい声でしか啼けぬふくろうに、玉子はふしぎな親しみを感ずるようになった。自分がもし鳥になれば、やはり、ふくろうのような声でしか、啼けないような気がした。まちがっても、いまの自分は、雀や鶯のようには啼けないであろう。暗い暗い闇をじっとみつめながら、深夜、「ほう、ほう」と不吉なまでに侘びしく啼くしかないふくろうのような自分を、玉子は思った。
味土野で初めての正月が来た。
純白の新雪がまばゆくきらめいているのを、玉子は沈む思いで眺めた。
昨年の正月は、父の光秀も母の子《ひろこ》も、そして弥平次も姉の倫も、弟の十五郎たちも、めでたく正月を迎えたものをと、改めて涙のこぼれる思いであった。一族は亡び、自分は夫とわが子から引き離されて、一人この山中に幽閉されている。こんな正月を迎える日が、自分の一生のうちにあろうとは、夢にも思わぬことであった。
「佳代どの。生きていることは、何と辛いこと……」
玉子は、思いをおさえきれずに言葉に出した。と同時に、熱いものがこみ上げた。
「お方さま……」
痛ましげに玉子をみつめた佳代は、その目にみるみる涙を浮かべたかと思うと、袖で顔をおおって嗚咽《おえつ》した。
しばらくの間二人は忍び泣いていたが、やがて玉子は涙をぬぐい、
「佳代どの、わたくしの父が、信長様を倒したことを、いかが思われます?」
と尋ねた。佳代は泣きぬれた顔を上げ、
「ぜひもなき御事と……」
と言葉をとぎらす。
「まことに、そのように思われますか」
「はい」
「佳代どの。わたくしも一度はそう思いました。なれど、父の挙が一族を亡ぼし、わたくしもまた、こうしてわが子わが夫とも別れての日々を送りますうちに、なぜに反逆なされたかと、つい恨みの湧く日もありました」
「…………」
「それが、こうして、山の中の淋しい冬を迎えてみますと、父への思いは、またもとにもどったのです」
「と、申しますと?」
「人間、生きることが辛くなりました時は、何をするかわかりませぬ。父は耐えに耐え、忍びに忍んでいられたのだと、わたくしはこの雪の中で思ったのです。もし、一生この雪の中で、ひっそりと暮らさねばならぬとしたら、気も狂いましょう。父は信長様より、領地を召し上げられては、狂うよりは仕方がなかったのではありますまいか」
「…………」
「父が天下をとろうとしたこと、やはり、娘のわたくしは、ほめてあげたい思いもいたします」
「お方さま……」
佳代は不安そうに玉子を見た。
「何です?」
「お方さまは……お方さまには、そのうちにご帰城の日もございましょう。めったなことはなされませぬよう……」
「まあ、佳代どのは、わたくしも父のように狂うとでも思われましたか。わたくしは決して生害もしなければ、狂いもいたしませぬ。いっそ狂えるものなら幸せと思いますけれど……」
「お方さま。佳代には、何の力もござりませぬ。ただ祈るより……」
「何を祈ってくださるのです。一日も早く帰ることができるようにと、祈ってくださるのですか」
「……いえ、佳代は、その祈りよりも、もっと大切な祈りを捧げております」
佳代はきっぱりといった。
「帰城するよりも、もっと大切な祈り? ……それはどのような祈りですか?」
「はい。それは……それは、もろもろのご苦難が、お方さまにとって、大きなご恩寵《おんちよう》とお思い遊ばすことができますように、という祈りでござります」
「苦難を大きな恩寵と思うことができるように? それよりも、帰城できるようにとの祈りのほうが、ありがたいと思います」
「はい、お方さま。その祈りは無論及ばずながら、朝夕はもとより、機を織りながら、歩きながら、毎日欠かさずいたしております。でも、お方さま、人の一生は、苦難の連続かも知れませぬ。無事ご帰城なされても、また別の、もっと大きなご苦難が待っているかも知れませぬ」
「…………」
「よく、パアデレがおっしゃいました。苦難の解決は、苦難から逃れることではなく、苦難を天主《デウス》のご恩寵として喜べるようになることだと……」
「なるほど」
玉子はかすかに眉根をよせて考えていたが、
「つまり、こういうことでしょう。苦難が苦難である人には、いつまで経っても、苦難の解決はない。けれども、苦難がご恩寵と喜べる人には、もういかなる苦難も、苦難ではないと……」
「はい、喜びの中に苦難は住めませぬ」
「でも、苦難をご恩寵と喜べるなどということは、人間にはありますまい」
「はい。でも天主様のお助けがあれば……」
「祈ってくださる真心はうれしく思います。けれども、キリシタンのことは、わたくしにはわかりませぬ」
「…………」
「佳代どの、いまわたくしはキリシタンも信じたくありませぬ。幼い頃より手を合わせたみ仏さえも信じたくありませぬ」
「…………」
「本当に佳代どのは、デウスの神を信じているのですか」
「はい、命をかけて……」
「命をかけて信じているのですか。み仏と神と、どうちがうのです。デウスの神と、そこのほこらに祭ってある神と、どうちがうのです?」
玉子はかすかに笑って、
「信仰とは何でしょう? 本願寺の僧たちは信長様と戦いました。あちこちに仏教徒の一揆が起きました。み仏を信ずる者に、人を殺すということがあってもよいのですか。仏教には、殺生戒がある筈。それとも、近頃の仏教は、殺生してもよいということになったのでしょうか。み仏の心は、ご慈悲でござりましょう」
「…………」
「たしかにその筈……。のう佳代どの。考えてみますと、父も時折寺に詣でておりましたし、多額の寄進もいたしておりましたが、結局は人をたんと殺し、ご主君まで殺してお果てになられた。父も殺生戒を犯した以上、地獄に堕《お》つるは必定《ひつじよう》と思います」
「…………」
「わが夫忠興様もご同様、勇ましく戦っては人を殺しております。キリシタンには、殺生戒はござりませぬか」
「ござります。殺すなかれ、盗むなかれと、十の戒めの中の一つにござります」
「それはおかしい」
玉子の聡明なまなざしが光を帯びた。
「と、申しますと?」
「右近様は有名なキリシタン。なれども、また並すぐれた武将でいらせられる。なぜキリシタンの右近様は殺生戒を犯しておられるのです?」
「さ、それは」
まだ二十歳の佳代は言葉につまった。
「わたくしは、デウスの神も、み仏も信じとうありませぬ」
立ち上がって玉子は、縁の障子をさらりとあけた。まばゆい雪の光が、玉子の目を射た。
十八 味土野の春
正月五日のその日、雪は音もなく降りしきり、味土野はしんと静まりかえっていた。
朝食のあと、玉子は忠興が自分のために、三年の歳月を費やして作ってくれたかるたを手に、一枚一枚読んでいた。金箔を貼った扇形の優雅なかるたである。
百人一首のどれもが、しみじみと心に沁みた。自分がこの山奥に住んでいるために、心に沁みるのかと思いながらも、そのあまりにも淋しく切ない歌の多いのに、玉子は今更のようにおどろいていた。
わが袖は潮ひに見えぬ沖の石の
人こそ知らねかわくまもなし
こぬ人をまつほの浦の夕なぎに
焼くや藻塩の身もこがれつつ
瀬をはやみ岩にせかるる滝川の
われても末にあはむとぞおもふ
「われても末にあはむとぞおもふ」
玉子は小さく声に出して読んだ。そして、かすかな吐息を洩らして次に目をやった。
あらざらむこの世のほかの思ひ出に
今ひとたびのあふこともがな
山里は冬ぞ淋しさまさりける
人めも草も枯れぬと思へば
まるで、山中に離れ住むこの身に代わって、詠んでくれた歌のようにさえ思われて、玉子は思わず涙ぐんだ。
(それにしても、何と淋しく生きる人の多いことか……)
こんなにも多くの人が、人を恋い、淋しみ、辛く生きて来たのであろうか。この切なさは、歌詠む人のみのものではあるまい。歌をつくるすべも知らぬ人たちも、また同様に言い難い辛い思いの中に生きているのであろう。
(この身一人が辛く生きているのではない)
多くの人が辛く生きているのだと思うと、玉子は何かあらためて目を開かされるような思いであった。忠興がこの百人一首をとおして、慰め励ましてくれるような思いでもあった。
(忠興さま!)
玉子はかすかに微笑した。この味土野に追われるように住みついて、はや七カ月、忠興やわが子たちを恋い、亡び果てた父母きょうだいを思って泣いてきた自分を、玉子は静かに省みた。
この辛い境涯にあって、ともすれば崩折れそうな玉子の心を支えてくれるものがあった。それは、胎内に宿る命であった。
「素直でよい子を産むのだ。山家に生まれる子を思えば、不憫《ふびん》でならぬが……」
城を出る時、忠興はそう言って励ましてくれた。
忠興、熊千代、お長には、あるいは生涯会うことが許されないとしても、やがて生まれてくる胎内の子だけは、まちがいなく、この胸に抱きしめることができるのだ。その赤子のやわらかい触感を思いながら、心ひそかに玉子は自分を慰めていた。妊《みごも》った身で、山路を登った時は辛かったが、妊っていてよかったと、この頃は特に思うようになった。これは、佳代にも語らぬ玉子ひとりの、ひそやかな思いであった。
百人一首を読みながら、今また玉子は、自分にはやがて生まれてくる命が宿っていると、しみじみ思った。
熊千代の時もそうであったが、この度も玉子の胎は、小さく目立たなかった。土地の取り上げ老婆にあらかじめ知らせていなければ、土地の者もその懐妊に気づかぬほどであった。
百人一首を、心に沁みて読んだこの日以来、玉子は少し元気をとりもどして行った。この世に泣き悲しんでいるのは、自分一人ではないという自覚が、玉子を成長させたのかも知れなかった。
冬に入ってから、男城《おじろ》に住む細川家の警護の者たちと、土地の者たちとは、一層親密になって行った。雪に埋ずもれたこの山里までは、登ってくるよそ者もいない。警護のつとめは、あってないようなものであった。
退屈している男城の士に、村の者は度々どぶ酒を持って訪ねて来、時には夜を明かして談笑に耽《ふけ》ることもある。男城の者もまた、親しくなった家を訪ね、昔の合戦の話を聞いたりした。平家の落人である味土野の家々には、話の種が多かった。
村人ももともとは武家の出と知れば、次第にへだたりもとれ、お互いに胸襟《きようきん》を開くようになったのは、当然のなりゆきでもあった。そうした親しい雰囲気が、女城《めじろ》の玉子の館にも微妙に影響した。土地の女たちは、勝手働きの木崎|大炊《おおい》の妻園や、佳代のところに、煮物などを届けに来ては、よく話しこむようになった。さすがに玉子の部屋まで上がりこむことはなかったが、女城とはいっても、さして広くはない館、隣の佳代の部屋から、その話し声が洩れることもいく度かあった。
その話の中には、男城の者が語ってくれなかった出来ごとなどがいくつかあって、玉子は佳代や園からさまざまの話を伝え聞いた。
「柴田勝家さまは、昨年七月、信長公のお妹さまのお市さまとご祝言なさりましたそうにござります」
そう聞いた時、玉子は思わずいった。
「それは……お気の毒な……」
そういわずにはいられぬものを玉子は感じたのだ。六月に信長が果て、その翌月に、既に六十二歳の勝家の妻にならねばならなかったお市の方が、玉子はひどくあわれに思われたのだ。しかも、お市の方は、自分の兄の信長に、夫の浅井長政を焼き亡ぼされてしまい、三人の子をつれて信長のもとに帰ってきていたのである。
「羽柴秀吉さまは、たんと口惜しがったげにござります」
木崎大炊の妻の園は、おかしげに笑ったが、玉子は心の底が冷える思いであった。あの好色で名高い秀吉は、お市の方を側室にと望んでいたのであろうか。秀吉には妻がいる以上、お市の方を妻に迎えることはできない。
主君が亡びてどれほども経《た》たぬのに、その主君の妹を側室に望むとは、何ということであろう。玉子には、それが父の光秀の所行《しよぎよう》よりも、はるかに醜く思われた。父が信長を倒したのは、領地を召し上げられてはもはや生きて行けないが故であった。いわば、それは男道を尊ぶ今の世には、当然の所行とも思われた。
秀吉には、幾人もの側室がいると聞いている。主君の妹を、更にその中に加えようとする秀吉の心にうごめくものは何か。単なる情欲とは思えぬ、もっとどす黒いものを玉子は感じとった。自分は光秀の娘の立場にある。その立場が、秀吉の前にはいかに危険なものかを、玉子は改めて思わずにはいられなかった。勝ち将軍の秀吉にとって、信長を討った光秀の娘の自分を、殺そうと側室にしようと、思いのままのことなのだ。夫の忠興が、自分を味土野にかくした配慮の深さが、改めてありがたく思われた。
そんな玉子の心の動きに気づくはずもなく、園はいった。
「それ以来、羽柴さまと柴田勝家さまは、何とのうお仲が悪うなられましたげにござります。あの大徳寺での大法要には、柴田さまのお姿は見えられなかったとか」
「大法要?」
いぶかしげに玉子は尋ねた。昨秋十月十五日、秀吉によって信長の葬儀が盛大に行われたことを、玉子はまだ聞いていなかった。光秀の娘である玉子に、その葬儀の方式、礼法の一切をとりしきったのが舅の細川幽斎であることや、その葬儀が空前の大盛儀で、諸将はもとより、朝廷からも使いがつかわされ、多数の公家が出席したことなどを、わざわざ知らせる者はなかった。
気のいい園は、
「はい、信長さまのあの葬儀でござります。羽柴さまは、柴田さまにもご通知なさっておりましたに、柴田さまはサルめがとばかり無視され、ご出席なさりませんでした由。お市さまを娶られて、柴田さまは織田さまの一族になられ、ご安心なさりましたのでしょうか。でも、秀吉さまは、信長さまのご嫡孫の三法師《さんほうし》さまを抱かれて真っ先にご焼香なさり、信長さまのおあとは秀吉さまと、天下に示し、世間も納得いたしましたとか」
「そうでしたか」
もう二カ月以上も前のことを、玉子は複雑な思いで聞いた。
「何でも、秀吉さまは、その折大徳寺には一万貫(十万石)も寄進され、その上位牌所を建立のために千四百貫(一万四千石)を費《つい》えなされましたとか」
父光秀が倒した信長のために、秀吉は大いに忠勤を励んでいたのだ。玉子はしかし、皮肉な微笑を浮かべた。
(秀吉は本当に信長のために働いてきたのであろうか)
すべては、秀吉自身のためになしたことではないのか。父の光秀を討ったことも、十余万石の財を信長の葬儀のためにつかったことも。ふっと、玉子は、柴田勝家に嫁いだお市の方の運命を思った。葬儀に出席しなかった勝家と、秀吉との反目は深まるばかりであろう。この二つの勢力がぶつかる時、お市の方はまたしても戦火をくぐらねばならぬのではないか。
(幸のうすいお方……)
園が退き下がったあと、玉子は幾度か胸の中でつぶやいた。今の世に、武将の妻になるということは、多かれ少なかれ、誰もが不幸を負うことになる。
玉子の母の子《ひろこ》も、二人の弟を抱いて、坂本城で城と共に果ててしまった。その時まだ十三歳と十歳だった弟たちは、のちにフロイスによって、
「その令息は、西欧の王侯のごとき、優雅な気品あり……」
と、書簡に記されたほどの、美しい少年たちであった。
長姉の倫もまた不幸であった。荒木家に嫁いだが、舅村重の謀反で離別、明智弥平次と結婚して二年も経たずに、坂本城で夫や母たちと共に最期を遂げた。
織田信澄に嫁いでいた次姉の菊は、本能寺の変後、光秀の娘であるために、織田方の手にかかって死んだという。
玉子は、母や姉たちの血に染《そ》んだ最期の姿を見たかの如くに想像した。この味土野に隠棲している自分も、いつ秀吉方の手にかかって死ぬかも知れぬのだ。そう思えばこそ、お市の方の不幸も他人ごととは思われない。
この玉子の思いは、決して杞憂ではなかった。この三カ月後の四月には、柴田勝家は信長の子信孝と共に兵を起こし、秀吉と戦ったが賤《しず》ケ嶽《たけ》に敗れた。お市の方は、三人の娘の命を秀吉に乞い、嫁いで九カ月にして、勝家と共に越前の北庄《きたのしよう》城で果てている。
遠くで雪崩《なだれ》の音がした。
明日は陰暦二月、味土野の空もめっきり春めいてきた。ひるすぎ、玉子に茶をすすめていた佳代が、
「ま、なだれの音」
と、顔を輝かせた。
「春が近い……」
つぶやくように玉子は答えた。
「もうひと月もたたぬうちに、里への道もつきましょう」
「ほんに……でも、わたくしの下りて行く道は、雪がとけても、つきませぬ」
「…………」
「のう、お佳代どの」
「はい」
「考えてみますと、この山中の味土野に生まれ、ここに死んで行く人々の中で、里を恋しく思うのは、ぜいたくのような気もいたします」
「でも……お方さまは、この土地の方ではござりませぬ故……」
「お佳代どの。この頃、この村人たちのくらしを見ておりますと、幸せとは、このような生活ではないかと思うようになりました」
「は?」
土地の者たちは、この味土野で生まれ、育ち、そして老いて行く者ばかりだった。彼らは決して豊かではなかったが、僅かな物でも分け合って食べていた。一人が病めば皆で見舞い、子が生まれれば、全戸が喜んだ。そうした生活を眺めながら、玉子は深いおどろきを感じていた。
(ここでは、人が人を殺すことがない)
ここには戦がなかった。人々は人を殺すことを学ぶ必要がなかった。戦どころか、物盗りもなかった。彼らは畠を耕し、機を織り、物を煮、木を切ることを知っていればよかった。
(ここの人たちは、この雪深い山が一生のすみかなのだ)
そのことも玉子には、改めて大きなおどろきであった。このような山の奥に住むことなど、玉子には到底耐えられぬと思っていたが、味土野の人々にとっては、この地こそ安住の土地であった。彼らは、生涯ここからどこかに移り住もうなどとは思ってもいないようだった。彼らにとって安住の地が、なぜ自分にとって安住の地となり得ないのか。ふっと玉子はそう思うことがあった。
(もし、ここに、忠興さまと熊千代の二人が共に在るならば……)
そう思った時、玉子は目からうろこの落ちる思いがした。このようなところでこそ、自分たちは本当に人間らしい生活ができるのではないだろうか。
人間にとって必要なものは城であろうか。家来であろうか。はなやかな小袖であり、剣、甲冑なのであろうか。人間にとって、自分にとって必要なのは、戦を知らぬ、静かな、信頼に満ちた生活ではないだろうか。
玉子は、佳代にその考えを語った。珍しく熱心に語る玉子を、佳代は嬉しげに見守りつつ、うなずいた。それは、佳代のとうに考えていることではあった。いや、佳代は、それ以上に、真実の幸福を見いだして生きてはいた。が、とにかくも、主人の玉子が、今達し得た幸福観は、佳代を少なからず安堵させた。
「お方さま、ほんに、人間の幸せに必要なものは多くはござりませぬ。パアデレは、なくてならぬものは、唯ひとつである、と仰せられております」
「まあ、またパアデレですか」
玉子は、そういいながらも、
「なくてならぬものは唯ひとつ……その一つとは、何でありましょう」
と真顔になった。
「神の言葉でござりましょう。信仰と申してもよろしゅうござります」
「神や仏は、いまのわたくしには、遠々しく思われて……」
いいかけて、不意に玉子の唇が歪《ゆが》んだ。
「いかがなされました? お方さま」
「いえ、ちょっと痛みのような……」
玉子は、かすかに笑って腹部に手をやった。
夕方になって、痛みは規則的になってきた。陣痛であった。俄《にわ》かに、女城の館は緊張した空気につつまれた。
何十人も取り上げたという老婆のもよ女が呼ばれ、園は湯を沸かして待った。が、陣痛は時折弱まって、なかなか生まれない。
一同不安のうちに、遂に一夜は明けた。玉子は脂汗をひたいに滲ませ、顔も青ざめていた。
「お苦しいことでござりましょう」
佳代がいうと、玉子があえぎながらも、
「でも、やがてこの手に抱くことができるでしょうから……」
と静かに答えた。
ひる近く、更に陣痛が激しくなった。そしてひるすぎ、ようやく赤子は生まれた。が、赤子は産声を上げなかった。
「おう、これは」
生まれ出た赤子を見て、もよ女は顔色を変えた。赤子の首にへその緒が二重にからみついていた。園はおろおろと立ち上がり、またすわった。
「水を!」
よも女は手早くへその緒を切った。
「水?」
「急いで、たらいに水を!」
よも女は赤子をさかさにして尻を叩いた。が、赤子はぐったりとしたままである。
運びこまれたたらいの水に、赤子をつけるまでもなかった。既に息絶えていたからである。赤子は女児であった。
産後十日ほど、玉子は誰とも口をきかなかった。生まれてくる子を育てることの喜びも楽しみも、無残に奪われてしまったのだ。食事を運んでくる園にも、枕辺に侍っている佳代にも、玉子は顔を合わせようとさえしなかった。
が、ある朝、玉子は部屋に入ってきた佳代をじっとみつめた。
「お方さま!」
十日あまりも視線を避けつづけていた玉子に見つめられて、佳代の声がはずんだ。
「佳代どの、お世話を……かけました」
「いえいえ、佳代の祈りが足りぬばかりに……」
佳代の声がうるんだ。
「…………」
「申し訳もござりませぬ、お方さま」
真実な声であった。
「そなたのせいであろう筈はありません。みな、この身に負った運命《さだめ》です」
「そんな……」
「佳代どの、日の目を見ずに死ぬということ、何と考えたらよいものやら……」
「…………」
「十月の間、胎内に生きておりましたものを……母のわたくしの悲しみが、あの子を殺してしまったと……」
「いえ、いえ、それは……」
「いや、そうであろう。いわばあの子は、人の世の悲しみと苦しみを小さな命に負って、絶えたのです。それでなければ、あの子の死んだ甲斐はありませぬ」
「…………」
「あまりにも短かったあの子の命を、無駄にしとうはない。佳代どの、そのために何をすべきか、そのことばかり考えておりました」
「お方さま!」
「あわれな命でした」
はじめて玉子は、はらはらと涙をこぼした。佳代は、死んだ赤子よりも、玉子の重なる不幸に胸が痛んだ。父母、きょうだい一族が亡び、夫と子に別れ、更にいままた、生まれ出んとした生命を失ったのだ。佳代には慰める言葉もなかった。
三月、里に下りる道がつくと、河喜多石見と池田六兵衛が、死産の報を忠興に伝えた。忠興からは、やはり便りはなかったが、米、魚、海草などと共に、一枚の短冊が届けられた。
河喜多石見は、短冊をうやうやしくさし出しながら玉子に告げた。
「いまだ、羽柴殿の目のきびしき折から、殿には尚お文をお控えのご様子ながら、御身くれぐれもおいといなさるようにとの、ご伝言でござりました」
短冊には、なつかしい忠興の筆蹟で、
な嘆きそ枯れしと見ゆる草も芽も
再び萌ゆる春にあはむに
と詠《うた》われてあった。
一読して、玉子はこらえかねて嗚咽《おえつ》した。
忠興の心に、十月ぶりにふれたのだ。待ちに待っていた夫の言葉であった。三十一文字の歌に托した忠興の心が、耐えに耐えてきた玉子の淋しい心を激しく揺さぶった。
(死産の女子《おみなご》をあまり嘆くではない。再び子供を産める春に会うであろうから)
と、忠興は言っているのだ。その春は果たしていつの日であろう。よし、いつの日であろうとも、忠興も玉子を再び迎える日を待っているのだ。その言葉だけで、玉子は充分に励まされ、慰められた。忠興の便りを待って十カ月の間、ただ悲しみ苦しんできたことが、愚かにさえ思われるほどであった。
目に見えて、玉子は元気を取りもどした。
冬を越えた味土野はいま、木々が芽吹き、かげろうが燃え、鳥の囀《さえず》るのどかな春であった。土地の者の礼儀正しさ、柔和な気心も知れて、玉子への警備も更にゆるんだ。よそ者が襲い来ぬ限り、玉子の身は安全であった。おのずと玉子の外出の自由も認められた。それは、もの心ついて以来、城中に育ち、城中を世界としてきた玉子にとって、ひどく新鮮な生活であった。
玉子は、佳代や園を伴に、時折外に出た。館の下の蓮池のあたりならば、一人で出て行くこともあるが、無論要所要所に男城の者たちの警備の目はあった。
蓮池の傍に大きな桜の木があった。その桜が花の盛りである。佳代に誘われて、玉子は桜の下に来た。うすぐもりの空の下に白じろと咲く桜花は、その輪郭もおぼろに、空ににじんで見える。池の水に、桜と、玉子、佳代の姿がさかさに映っているのも美しい。
「お城の桜は、盛りが過ぎた頃でありましょう」
佳代がいった。忠興の歌が届けられてからは、城の思い出を語ることも、もはや禁句ではなくなった。
「あの庭に、花びらが一面に散り敷いているかも知れませぬ」
玉子がそういった時、ほとほとと幼い足音が聞こえた。ふり返ると、草の萌え立つ小道を、三歳ほどの男の子が走ってくる。
「まあ、愛らしい」
玉子は思わずつぶやいた。顔に泥をつけた幼子は、立ちどまり、きょとんとして玉子と佳代を見上げた。
「おいでなさい」
玉子が手を出すと、幼子はにっこり笑って素直に抱かれた。
「ま、お方さま」
顔も手も、泥に汚れた幼子に、玉子は愛《いと》しげに頬ずりをした。
「佳代どの、城を出る時、熊千代はこの子ぐらいの大きさでした」
「はい」
佳代はうつむいた。
「なんといとしいこと」
玉子は再び頬ずりをして、しみじみと幼子をみつめた。子供は珍しげに、玉子の長い垂髪に手を触れた。と、女の声がした。
「も、もったいのうござります。もったいのうござります」
三十近い女が、恐縮して頭をていねいに下げ、
「末吉!」
と叱るように呼んだ。
「叱ることはありませぬ」
玉子が微笑した。叱られても幼子は、嬉しそうに母親のほうに両手をのばした。
「ごめん遊ばして」
女はすばやく幼子を抱きとり、
「失礼申し上げました」
と、逃げるようにその場を去った。
「うらやましいことよ」
母子の姿を見送っていた玉子は、吐息をついた。
玉子が幼子を抱いた噂は、その日のうちに部落中に伝わった。
「おやさしい方じゃ」
玉子の評判は上がった。
園から、その評判を聞いて、玉子は佳代にいった。
「何のやさしいことがありましょう。ただ熊千代を思い出したまでのこと」
佳代は玉子を正直だと思った。
「あの子を抱いて、わたくしが慰められたのです」
玉子は、今の自分にとって、幼子ほど心を慰めてくれるものはないような気がした。
その後、玉子は幼子を見たさに外に出るようになった。子供を見かければ、話しかけ、抱き上げ、小袖のたもとにしのばせた菓子などを与えた。
次第に子供たちは、玉子の姿を見るとそばに寄ってくるようになり、玉子の姿が幾日か見えなければ、女城の庭まで遊びに来る子さえいた。
そんな姿を、いつも遠くから見守っている初之助に、玉子は無論気づく筈もなかった。
五月も末になって、館に遊びに来る子供たちの姿が、二、三日ぴたりと途絶えた。
「佳代どの、子供たちの姿が見えのうなりましたが、どうしたわけでしょう?」
子供たちのために、細川家から届けられた砂糖で、豆などを煮て待っていた玉子は、淋しげにいった。
「はい、実は、子供たちの間に疫病がはやっておりますとか」
「疫病が? それは一大事」
玉子は顔色を変えた。直ちに佳代を従えて、玉子は病む子を見舞って歩いた。病む子の頭に手を当て、腹をさすり、玉子は親身に見舞った。その姿が人々の心を打った。
が、子供たちの三人ほどが、血をくだして死んで行った。玉子は、それを聞いて、わがことのように嘆いた。
「なぜに、あの罪もない幼子たちが死なねばなりませぬ? 佳代どの、ほんに神はあるのでしょうか。神はなぜ、わたくしを慰めるものを次々に奪ってしまうのでしょうか」
「お方さま、それはわかりませぬ。神の御心は、人間にはわからぬものでござります」
「神は、わたくしのいささかの幸せをさえ、ねたむとしか思えませぬ。のう、佳代どの。あの幼い子供たちの命を、何とか取りとめる工夫はありますまいか」
取り乱さんばかりに嘆く玉子に、佳代は気圧《けお》されて言葉もなかった。
村の名代《みようだい》が訪ねて来た。
「いかなる祟《たた》りでござりましょうか。つきましては、おねがいがござります。御仏のように情け深い奥方さまの、ありがたいお歌をいただけば、この恐ろしい疫病もやむのではないかと、村人たちは申しておりまする」
熱心に乞われてやむなく玉子は筆をとった。
いかでかは御裳濯川《みもすそがわ》の流れくむ
人にたたらむ疫癘《えきれい》の神
村の戸数分を紙に書いて渡すと、村の名代は幾度も礼をいって帰って行った。
「あのような紙が、病を絶やすわけもありますまい」
玉子は佳代にいった。が、その紙を村人が家の戸口に貼りつけたところ、ふしぎにも疫病は去った。
早速、村人たちが、野菜や川魚を持って女城に礼に来た。
「まことに霊験あらたかな御歌。奥方さまは御仏の化身ではござりませぬか」
村人たちの玉子を見る目が崇敬に変わった。玉子は狐につままれたような思いであった。
「佳代どの、わたくしの歌などに、霊験があるとは信じられませぬ。そなたはこのことをどう思います?」
「はい、紙に書いた歌に霊験があるとは、デウスの神も申されませぬ。けれども、奥方さまは、心から村の子供たちの疫病をご心痛なされておりました。その真実が、神に届いたのかも知れませぬ」
「子供を思う真実ならば、あの子たちの親のほうが、はるかにまさっておりましょうほどに」
玉子は笑った。
「はい、その親御たちの真実と、お方さまの真実が、神に届いたのだと佳代は信じます」
「そなたは、神を信じて疑うことがない。けれども、わたくしには神は信じられませぬ」
「なぜに、お信じになりませぬか」
佳代は、その澄んだ目を憂わしげに玉子に注いだ。
「罪もない幼子が死んだり、弱い女が苦しんだりするこの世に、神がいるなどとは思えるはずもなし……」
「お方さま、善い者には必ず善い報いがあり、悪い者には必ず悪い報いがあるならば、人は心がけ次第で幸せになれましょう。それならば、何も神におすがりする必要もござりませぬ」
「なるほど、善因善果ならば、善いことさえしていればそれで事はすむことになるやも知れませぬ」
玉子は興深げにうなずいた。
十九 帰館
六月、玉子は味土野において、父光秀をはじめ、母、姉、弟たちの一周忌を迎えた。一方この月の二日、信長の一周忌を早朝にすました羽柴秀吉はその日のうちに大坂城に初入城した。当時はまだ石山本願寺を大坂城としていた。
忠興が、大坂城の秀吉に砂糖を献じたのは、その二カ月後の八月であった。
秀吉は四月に柴田勝家を亡ぼし、五月二日には敵対した信長の三男信孝をも、尾張野間の内海《うつみ》において自刃せしめた。信孝は、
むかしより主をうつみの野間なれば
むくいを待てや羽柴筑前
の辞世を残し、秀吉への恨みのうちに死んだ。二十六歳であった。野間は源義朝が内海の長田|忠致《ただむね》に討たれた所でもある。
その直後、勝家に与した佐久間盛政も勝家の息子権六も、秀吉によって六条河原に首をさらされた。こうして、今や日の出の勢いの如き秀吉だった。
秀吉は今、忠興を前に、扇子を忙しく使いながら、丹後の様子などを聞いていたが、ふっと表情を改めていった。
「のう、忠興、この大坂城は、何《いず》れ難攻不落の城に築き直すつもりじゃ」
「承っておりまする」
「わしは大坂を、この大坂城にふさわしい町にしようと考えているのじゃ。堺の商人衆は、みなこの町に移ってもらう」
「さすがに大いなるお考え、恐れ入りまする」
忠興はかしこまった。
宮津とちがって、大坂の残暑はきびしい。黙っていても汗がふつふつと噴き出る。
「そして、大名衆には、この大坂城のまわりに邸宅を構えてもらいたいと思っている」
「ははっ」
それは結構と言おうとして、忠興は口をつぐんだ。難攻不落の城のまわりに邸宅を置かせ、そこに住まわせるということは、つまりは大名たちの命を家族もろとも秀吉が預かるということではないか。ていのいい人質である。
天下は平定しているように見えるが、秀吉の強敵に家康がいた。表面、お互いに礼をつくし合ってはいるが、秀吉が柴田勝家を攻めた時、家康は中立を守って、秀吉に味方しなかった。織田の旧臣がぼつぼつと家康に仕官していることも、暗に織田|信雄《のぶかつ》が家康に接近していることも、秀吉は知っている。信長でさえ、客臣としての礼をもって、家康には丁重に対したのだ。家康が只者でないことは、いうまでもない。現に、滅亡した武田の領土の治政を見ても、万事行き届いている。
「心頭滅却すれば火もまた涼し」
との言葉を残して、炎の中に消えた傑僧|快川《かいせん》の恵林寺は、武田家の菩提寺だ。家康は先ずこの寺を復興し、且つ武田勝頼の自害した地に、景徳院を建てて礼をつくした。
荒武者武田の残党も、この家康の情けあるはからいに打たれ、進んで家康の臣下となっている。
秀吉としては、諸将を城のまわりに置いて忠誠を誓わせねば心休まらぬのである。
「で、無論、そなたにも新邸を築いてもらいたいが、どうじゃ」
「はっ、喜んで……」
忠興は頭を下げた。
「そうか、喜んでくれるか。それで、わしもほっとした。何しろ、そなたは右近と肩を並べる武勇のほまれひときわ高き大名じゃ。新邸を城近く構えてもらえば、これ以上の力強いことはない」
如才なく、秀吉は相好をくずしてみせた。信長が死んで、僅か一年しか経たぬうちに、秀吉は、一まわりも、二まわりも大きくなったように見える。四十八歳とは見えぬ貫禄があった。
「ありがたきお言葉、恐悦至極に存じまする」
忠興は完全に臣下の礼をとっていた。
「ところで、忠興、そなたはいま、独り身であったのう」
「はっ、その……」
忠興はどきりとした。その忠興を秀吉は見据えて、
「離縁にしたというそなたの奥は、惟任の娘であったと聞いたが……」
「……ははっ」
忠興は、俄かに舌が上あごに張りついた心地になった。
「評判の美形であるそうな」
「いや、それほどでも……」
「お市の方も惜しいことをした。あんな柴田の老いぼれと共に死なせてのう。わしが欲しかったものよ」
真実惜しむ口調になったが、忠興は相槌を打ちかねた。玉子について何を言い出そうとしているのか、皆目わからないのだ。
「そなたの奥は行方不明とか」
「はっ……」
「その稀なる美しいおなごを一目わしも拝みたかったぞ。おお、そうじゃ、そなたが捨てたとあらば、わしが拾っても文句はあるまいの」
忠興は顔を上げ得なかった。
「ところで、そなたも一人とあらば不自由であろう。わしが媒酌してとらす。どうじゃ娶るか」
「そ、それは……」
忠興は答えに窮した。
「わしの媒酌では不服か」
「滅相もござりませぬ。しかし……」
「美女じゃ。偉い武将の娘での」
「…………」
「ただし、出戻りじゃ」
秀吉はかなつぼまなこをじっと忠興に注いだ。
「…………」
「そのもとの亭主も無論武将じゃ。しかも、信長公生きうつしといわれるほどの強い男での」
秀吉の目が笑った。
「は?」
「女は味土野という山奥にいるわ」
「え!?」
「恋しい亭主と離れての山奥住まいよ。殺生なことよのう」
「…………」
ものもいえずに平伏する忠興に、秀吉は満足気に打ちうなずき、
「何の遠慮も要らぬ。そなたたち親子の気持ちもわかった。殿の一周忌も既にすんだことなれば……」
信じ難い寛大さに忠興は感動したものの、秀吉の心がいささか無気味でもあった。
「忠興、そなたの屋敷は、玉造《たまつくり》に決めようのう」
秀吉は扇子で東のほうを指し示し、
「新邸成ったあかつきは、遠慮なく妻子を呼びよせよ。わしも、味土野の件はうすうす聞いてはいた。が、世間の思惑もあること故、信長公の一年忌を過ぎるまで、口に出すことは控えていたのじゃ。今はまだ三法師も幼く、織田信雄といえども、わしのすることに文句はつけられまい。このわしが許すのじゃ。誰にも憚《はばか》ることはないぞ」
「ご懇情、終生忘れませぬ。命の限り忠誠をつくす所存にござりまする」
忠興は夢のような気がした。秀吉が玉子を許そうとは、想像もできないことであった。
「父上、早々に味土野に知らせましょう」
宮津に帰って、幽斎に報告した忠興はいった。
「待て、しばらく待て」
思慮深い幽斎は腕を組んだ。
「なぜでござりまする、父上」
「うむ。そちの話では、羽柴殿は玉造に新邸成ったあかつきは、遠慮なく妻子を呼べといわれたそうな」
「確かに。新邸を大坂城の傍につくることが、第一の条件でありましたが」
「それよ。羽柴殿はかしこいからのう。とにかく城のまわりに大名たちを置くために、それぞれに何か好餌を投げ与えていると見てよかろう」
「かも知れませぬ」
「そこじゃ。他の大名衆との約束はともかく、お玉を呼びもどす約束は、いつ反古《ほご》にされるかも知れぬ。約束はしたが、周囲の者が明智の娘お玉を斬って捨てよといったから、斬り捨てよといい出すやも知れぬ。この約束ばかりは反古にされても、吾々細川家としては文句の言いようのないところでのう」
「しかし、父上。周囲の者が反対するかも知れぬと、最初からわかっていることを、羽柴殿は約束下さった。それだけに、軽々と反古にされるとは思えませぬ」
「ま、それもそうじゃ。が、とにかく玉造に邸をつくるには、三月《みつき》や四月《よつき》の日数が要る。とすれば、味土野は冬の最中、迎えるは早くとも来年の三月であろう。忠興、大きな声ではいえぬが、天下はまだ羽柴殿のものとは限らぬ。徳川家康の底力が、わしには無気味じゃ」
幽斎は身を乗り出して声を低め、
「のう、忠興。よう考えてもみるがよい。昨年、信長殿が本能寺に倒れてから、まだ一年と二カ月しか経たぬ。僅か一年の間に、羽柴の上にあった柴田勝家は亡び、佐久間盛政もその首をさらした。信長殿のご子息の、あの切れ者の信孝殿さえ、恨みの辞世を残して生害された。いま、信雄殿が家康と気脈を通じているとあれば、果たして家康がじっとこのまま息をひそめているかどうか。忠興、わしには、戦が目前にあるように思われてならぬ。しかも、その結果を誰が知ろうぞ。天下は、よし羽柴殿のものになったとて、いつの日無事にお玉を迎えられることやら、糠《ぬか》喜びをさせてはかえって哀れというものじゃ」
天下を見るに明るい幽斎の目である。忠興は、その点一目も二目もおいていたから、幽斎の言葉に従うことに決めた。実際の話、羽柴と徳川の戦が起きたとしても、その時にならねば、細川家としてはどちらにつくか皆目わからぬのだ。
あれこれ考え合わせると、今すぐ玉子を迎えることは控えねばならぬ。味土野には、なおしばらく知らせずにおき、その時になって、いきなり使いの者をつかわすほうが、よいかも知れぬ。知らせたい心のはやりをおさえて、忠興も納得した。
秀吉と家康が、小牧・長久手《ながくて》において対戦したのは、この半年後の三月であった。
玉子に、味土野での二度目の夏が来た。と思う間もなく再び秋が来、そして秋も去り、いつの間にか冬も過ぎていた。
忠興からはただ一首の歌が届いたのみで、遂に便りはなかった。
二月も末、まだ山ひだには雪が残っていたが、めっきり春めいて、里への道もついていた。玉子は、その夕べ、いつものように流れてくる初之助の笛の音に耳を傾けていた。初之助には、天性笛の才があるようであった。あるいはほそく、あるいは高く、澄み切ったその調べは、いつ聞いても人の心を惹きつけずにはおかなかった。特に玉子にとっては大きな慰めであった。
もう一年半余、初之助の笛を聞いてきたと玉子は思った。この先何年、ここでこの胸迫る笛を聞くことになるのであろう。ふっと、初之助の端然と笛を吹く姿が目に浮かんだ。
(初之助は、何を思って吹いているのか)
父光秀を悼《いた》み、明智一族の末路を思って吹いているのか。玉子は、流れて来る笛の音を通して、初之助が自分を語っているような気がした。
忠興からの歌が届けられたのは、昨年の三月である。その後今日までの一年、もう玉子は便りを待つまいと思ってきた。にもかかわらず、もしやの思いにひかされて、つい便りを待ってきた。
その淋しさをいささかでも慰めてくれたものの一つに、初之助の笛があったと、玉子はいま改めて初之助の存在を思った。
初之助は、いつ見ても孤独のかげ濃い若者に見えた。亡き主君、光秀の命《めい》を遵守して、玉子の身近を守っている一人の若者の心情を、玉子は今まで深く思いやることがなかった。それが、今日はなぜか、初之助が気になった。細川家の禄も食はまず、娶りもせず、浪々の身で、この山中にこもっている初之助の忠誠が、今更のように身に沁みた。
二月の末にしては、あたたかい夕べである。笛の音に合わせるかのように鳶《とび》がやさしく啼いた。玉子の片頬が淋しく微笑した。
と、その時、玄関に聞きなれた男城の河喜多石見の声がした。木崎大炊《おおい》が応対に出たようである。
やがて、襖の向こうで、大炊の緊張した声がした。
「奥方さま、お城より殿の急使として、松井康之殿が、河喜多様のご案内でお見えでござりまする」
「え? 松井どのが?」
はっとしたが、さりげなく玉子は命じた。
「それは珍しい。すぐにお通しを……」
「はっ、かしこまりました」
大炊の去る気配がした。
(何の用であろう? ……)
松井康之は城代家老である。ただの早足者の使いとはちがう。玉子の心が波立った。その心を押ししずめるように息をととのえ、玉子は静かに両手を膝においた。
「ご免くださりませ」
襖がさらりと開かれ、河喜多石見を従えた松井康之が平伏していた。
「遠路、ようこそおいでくだされました。さ、これへ」
「奥方さまにはお変わりもなく、ご機嫌うるわしゅう……」
さすがに松井康之の声がうるんだ。女城とか、お館とは称していても、宮津の商家よりずっと粗末な山家である。囲炉裡の煙に、天井も壁も煤《すす》けて黒い。その中に、玉子の凜とした気品と、美貌はまばゆいほどである。
話には聞いていたが、自分で来てみれば、道は険阻で、男の自分でさえ身に応えて、しばしば歩きなずんだ。この山中の、この山家の二冬は、姫育ちの玉子にとって、どれほど辛く淋しかったことか。苦労人の松井康之には痛いほどわかるのだ。その苦労にもめげず、玉子がいよいよ気高く、いよいよ美しくある姿に、松井康之はいい難く哀れにも健気にも思われて、心打たれたのだった。
「奥方さま、この山家での二冬、ご不自由いかばかりでござりましたことか。うらわかき御身で、よくぞご辛抱くださりました。今日只今、お変わりもなき御顔を拝し……松井……」
言葉が途切れたが、松井康之は声を励まし、
「長い間の数々のご心労、お察し申し上げまする。なれど、奥方さま、お喜びくださりませ。この地でのご生活も、あと幾日かのご辛抱でござりまするぞ」
「え? あと幾日かの?」
「はい、この度羽柴殿のお許しが出ました故、あと数日以内に、大坂の新邸にお移りいただくことに相なりました。そこにて殿や熊千代さまお長さまと共に、幾久しゅうお過ごしくださりまするよう、家臣一同伏しておねがいつかまつりまする。殿からも、待ちかねているとの厚きご伝言でござりました」
「それは……それは真《まこと》か?」
玉子の白い頬がみるみる紅潮した。
「真でござりますとも」
傍の佳代が、
「お方さま、お、おめでとう……ござります」
と泣き伏した。
「ありがとう、佳代どの。……そなたにも苦労をかけました」
泣くまいとする玉子の、匂やかな肩が小きざみにふるえた。
(帰れるのだ!)
熊千代お長の幼い姿が、真っ先に自分に駆けよってくるように見えた。忠興の笑顔も大きく迫ってくる。
「おめでとうござりまする、奥方さま」
ふいに河喜多石見がはらはらと落涙した。男でさえ、狐の鳴く山中は淋しかった。しかも、一挙に父母きょうだい一族の亡びにあい、その上、子と別れ、夫と別れ、死産の憂《う》き目《め》にまであった玉子の、この山中での淋しさは察するに余りがある。玉子の嫁入りに従って、明智から細川家に入った河喜多石見には、坂本城での幼かった玉子を知っているだけに、痛わしくてならなかった。このまま玉子は、あるいは一生を味土野の地に送るのではないかと案じてもいた河喜多石見は、万感胸に迫り、涙をとどめ得なかったのだ。
松井康之は、必要な指示を女城男城の者に与えると、数日中に迎えるといって、翌朝宮津に向かって帰って行った。
俄《にわ》かに味土野は色めきたった。男たちにとっても、山中の生活は耐えがたかった。近々城に帰り、家族のもとに帰れるとわかれば、鼻唄の一つも歌いたくなり、ともすれば笑いがこみ上げる。
玉子も、つい笑《え》みがこぼれた。それを見る佳代の喜びも大きかった。木崎大炊も妻の園も、朝から大声で、更に快活に話すようになった。館の雰囲気が一変したのである。
ところが、こうした中で二日経ち、三日経つうちに、玉子の喜びが、次第に萎《な》えてきたのである。なぜか、心が弾《はず》まないのだ。
(なぜであろう)
玉子は、自分の胸のうちが、自分でもわからなかった。夫とわが子のもとに帰る日を、どんなに自分は待ちつづけたことであろう。幾度夫の姿を夢にみたことであろう。あんなにもひたすらにねがっていた帰る日が、いま目前に迫ったというのに、なぜこのようにむなしいのであろう。
帰る日が、思いがけなく早かったからであろうか。そのために現実感が湧かぬのであろうか。時折、玉子はふっと荷物をまとめる手をやすめて思う。
(それとも……)
遂に一本の便りもくれなかった夫の忠興に、いま、自分はすねているのであろうか。そのような気がないでもない。やすやすと、只喜んで帰る気にはなれぬという、天性の気位の高さがある。
が、それだけではなかった。次第に玉子は、浮き立たぬ思いが何に因《よ》るかを知るようになった。
今も玉子は、浮かぬ顔で、滞在中に認めた歌稿などを整理していた。その玉子を、佳代はさっきから憂わしげにうかがっていた。が、佳代は思い切ったように尋ねた。
「お方さま、どこかご気分がすぐれませぬか」
「いいえ、別に」
「でも、ちっともはじめのように嬉しそうではありませぬ」
「佳代どのにも、そう映りますか」
「はい、何か浮かぬお心のように思われて、佳代は心配でなりませぬ。何か、ご不快なことでも……」
佳代はいいよどんだ。
「別に不快なこともありませぬ。けれども、佳代どの。なぜか、あの帰れるとわかった日の喜びが萎えてしまったのです」
「それはまた……なぜでござりましょう」
「のう、佳代どの。ここでの月日は、一年と八カ月、一年八カ月は平凡な暮らしの中では、さして長い月日ではありますまい。けれども、わたくしには、十年にも二十年にも思える長い月日でした。特にはじめの三月《みつき》の長かったこと、一日千秋とは、あのような思いかも知れませぬ。この暦を越えた長い日月の間に、わたくしはあまりにも不幸の正体を見たような気がするのです」
「…………」
「今まで幾度も語ったことながら、お市の方は、柴田さまに嫁がれて、一年も経たぬうちに、お子と別れて、城と共に果てられました。伊也さまも、嫁いでどれほども経たずに、夫を討たれてお戻りになられた。姉のお倫も、弥平次どのと結ばれて、いくばくもなく共に亡びてしまわれた。わたくしにしても、このような所に殿と熊千代に別れてのはかない暮らし。いま、喜んで大坂の新宅とやらに戻ってみても、佳代どの、どれほどの幸せが続きましょう」
「それは……いつまでも続いていただきたいと、佳代はねがっております」
「とにかく佳代どの。またしても思わぬ憂き目にあって、折角幸せになったと思ったのも束の間、ということにならぬわけでもありますまい。そう思えば、いつ帰れるかと待ちわびていた日々のほうが、何やら望みがあって、幸せであったとも思います。いまはかえって恐ろしい。幸せになることが、わたくしにはひどく勇気のいることに思えるのです。二度と不幸せになることには、もう耐えられぬ気がするのです」
思いつめたような玉子の表情に、佳代は答える言葉を探した。玉子はふと、遠くを見るまなざしを見せ、
「いまになって、いつぞやそなたが申された言葉の深さが、ようやくわかりました」
「わたくしの言葉の? ……」
いぶかしげに問い返す佳代に、玉子は深くうなずいた。
「そうです。そなたは申されました。あれはたしか、去年の正月のこと。……そなたは、このわたくしのために祈っていると申された。それでわたくしは、一日も早く帰ることができるようにと祈っていてくださるのかと、そなたに尋ねました。その時のそなたの答え、憶えておりますか」
「はい。たしか、それよりも、もっと大切なことをお祈りしていますと、申し上げました」
「それです。佳代どの。たしか佳代どのはそう申された。その時わたくしは、何とのうその言葉が気に入らず……今にして、その言葉の重大さがよくわかります」
「もったいのう存じます、お方さま」
「佳代どの、あの時そなたは、たしかもろもろの苦難を、恩寵と思えるように祈ると申されました。そしてそなたは、人の一生は苦難の連続かも知れぬ、無事帰っても、もっと大きな苦難があるかも知れぬと申されました」
「お憶えくださっておられましたか」
「その時は、不吉なことをと、いささか不快にも思いました故、気に入らず……」
「申し訳もござりませぬ」
「いいえ、今になって、その言葉がわたくしを思っての言葉であったと、よくわかるのです。人の世に苦難はつきもの、ただ苦難を逃れよう逃れようとして生きていては、今幸せであることすら恐ろしい。幸せの時すら、この幸せが、いつ崩れることかと、恐れて生きて行かねばなりませぬ」
「はい、人間はそのように弱いものでござります」
「佳代どの、人間の真の幸せとは、こんな崩れやすい、はかないものではありますまい。とは思いつつも、わたくしは帰ることが恐ろしい。この恐れを取り除くものが、ほんにあるのなら……」
「ござりますとも!」
きっぱりと佳代はいって玉子をみつめた。その確信に満ちた清らかなまなざしを、玉子はみつめ返しながら尋ねた。
「やはり天主《デウス》の神ですか」
「はい、お方様」
「真に恐れを取り除くことができるのなら……佳代どの、わたくしは、もっと早くに、天主《デウス》の神を知るべきでありました」
「お方さま、今からでも遅くはありませぬ。大坂の地には宮津とはちがって神父《パアデレ》もおられます。かの地に参りまして、共に天主《デウス》の神に祈りを捧げましょう」
佳代は一層生き生きとした表情になった。
「この味土野での、そなたの暮らしを見ていて、信ずることの尊さ、強さを感じました。でも、果たして、わたくしにその教えが信じられるか……どうか」
「ご恩寵によって、きっと」
「信じられますか」
玉子は淋しそうに笑い、
「けれども、佳代どの。今は何とも心が揺らぐのです。海に漂う小舟のように。今、あの子たちに会えると思って喜んでいても、たちまち、また引き離されはしまいかと思い、そして限りなく心は沈むのです。時には、帰りとうないとさえ思う、この心の定めなさは……」
ほうっと玉子は深い吐息を洩らした。
二十 人の心と天の心と
昨日の雨のせいか、八月の大坂にしては珍しく風がさわやかで、凌《しの》ぎよかった。玉子は妊《みごも》って六カ月目の体をかばうように、庭の木陰に立っていた。
十数丁向こうに、五層八階の大坂城が、のしかかるように見えた。照りつける日の下に、真新しい天守閣が眩《まばゆ》いばかりに光っている。その天守閣をみつめる玉子の目に、冷ややかな微笑が浮かんだ。凄艶とさえいえる切れ長な目である。
大坂城は、父光秀を討ち取った男が築いた城なのだ。もし父が信長を倒さなかったなら、秀吉といえども、容易に天下を取ることはできなかったのだ。
玉子が味土野から帰って、今日までのおよそ半歳、築城の賑わいはこの邸にも、終日どよめきのようにひびいた。
「一日、三、四万の人夫を使っているのじゃ。何しろ、三十余国の大名衆が工事にあずかっている。日の出の勢いよ、羽柴殿は」
「黄金の好きなお方でな。天守の中も黄金、軒瓦も金じゃ」
わがことのように誇らしげに告げた忠興の言葉を思い出しながら、玉子はひっそりと笑った。
六十丈近い金の城に住もうと、つぶれそうな破れ小屋に住もうと、人間の価値に変わりはあるまいと、玉子は思う。玉子自身、この春までは、味土野のむさくるしい山家に住んでい、今は二千坪からなる屋敷に建てられた、木の香も新しい邸宅に住んでいる。が、住む自分の価値に変わりはないと思うのだ。
(羽柴どのとて、いつまであの城に権勢を誇っていられることやら)
玉子は真実そう思う。輝く天守閣を望み見つつ、人間のすることはむなしいと思うのだ。
城から視線を外して、玉子は池のほとりに歩みを移した。池には蓮の葉が幾つも浮いている。蓮を見ると、池の半分を埋めつくすほどであった味土野の蓮池が、おのずと思い出されてくる。あの蓮池のほとりに立ちながら、侘びしさに思い沈んだ自分の姿が、目に浮かぶ。
今朝も玉子は夢を見た。
暗い暗い部屋の中に、玉子はひとりすわっていた。外でふくろうの声がほうほうと啼いている。ああ、またふくろうが啼いていると玉子は思った。ふいに、熊千代か忠興の身に何か起こったような気がして、不安になった。玉子は切実に帰りたいと思った。
(いつになったら迎えにきてくれるやら)
もう迎えにくることはないかも知れない。と思うと、矢も盾もたまらず、
「忠興さま! 熊千代!」
と、身をよじって叫んだ。涙がぽとぽとと膝に落ちる。その音が、玉子に聞こえるようだった。
「お玉、お玉」
ゆり動かされて目がさめると、近々と忠興の顔が目の前にあった。
「いかがいたした。涙で枕がぬれているではないか」
忠興は玉子の肩を抱きよせた。
「いつも味土野では、このように泣いておりました」
「うむ。そうであったろうのう。しかし、ここは大坂じゃ。わしの傍じゃ。もう、決して離しはせぬ」
玉子を抱く忠興の手に力が加わった。
(そうでござりましょうか)
玉子はじっと忠興を見た。
味土野の山を下りた玉子が、一旦宮津の大窪城に入った時、忠興は式台の上に立って迎えた。忠興は目を大きく見張ったまま、食い入るように玉子をみつめた。が、一言も口はきかなかった。
「おう帰ったか」とも「ご苦労であった」ともいわなかった。が、二人の部屋に入るや否や、ピタリと襖をとざし、
「ううっ」
と子供のように号泣した。部屋の真ん中に突っ立ち、腕を顔に当てて忠興は泣いた。
その思いがけない忠興の姿に、玉子は、便りのなかった二年の恨みも消えた。家臣に便りを托することも憚られた忠興の立場を、玉子は知ったのだ。
忠興は泣いて迎えたが、熊千代やお長は見知らぬ人を迎えるように玉子を迎えた。
「お母上ですよ」
と乳母にいわれても、熊千代もお長も乳母のうしろにかくれ、そっと目だけのぞかせて玉子をうかがった。お長はこの頃でこそ、母の自分にまつわるようになったが、熊千代は、ともすれば乳母の手に行きたがる。それが玉子の心を淋しくさせた。
再び、玉子の視線が大坂城にもどった。
(あの大坂城から羽柴殿が姿を消す時……)
その時は、夫忠興の運命の変わる時でもあると玉子は思う。そしてそれは、自分と夫との間を再び引き離す時になるかも知れない。
玉子はふっと空を仰いだ。雲があわただしく東に動いていた。
その時、絡《から》みつくような視線を、玉子の腹部に注いでいる女が、廊下に立っていることに玉子は気づかなかった。
その夜、五つ(八時)も過ぎた頃、忠興が思い立ったように玉子にいった。
「そうじゃ! そなたに会わせたい者がいる」
問い返す間もなく、忠興はみすを上げて部屋を出て行った。
みすの揺れを眺めながら、玉子は微笑した。玉子が味土野から帰って以来、忠興の所作には、童児のような単純さが多く見られるようになった。それは、玉子に対する甘えのようにも思われて、玉子は微笑を誘われるのである。
(それにしても……)
この時刻になって会わせたいというのは、一体誰であろう。
大坂玉造のこの邸は三棟に分かれてい、玉子が奥の棟から外に出ることはめったになかった。忠興は、いまだに織田方が玉子に危害を及ぼす恐れがあるとして、奥の棟から玉子の出ることを禁じていたからである。侍女の数もふやし、佳代のほか十七人を玉子に侍らせたが、男たちは何人かの役職を除いて奥の棟には入れなかった。それは味土野から帰って、ますます美しさを増した玉子が、人目にたつのを恐れたからでもあった。わけても忠興は、好色な秀吉を恐れて、玉子の美しさが人の口端にのぼることさえ極度に警戒したと、今に伝えられている。
こうした日々の中で、玉子は別棟にいかなる人が出入りしているかを知らなかった。忠興や清原佳代などの口を通して、はじめていかなる客人があったかを知るだけであった。
それが、珍しくも「会わせたい者がいる」と忠興はいったのだ。かすかに不審な思いはしても、玉子は楽しい期待で客を待った。
やがて、忠興の強い足音にまじって、ひそやかな足音が聞こえてきた。客はどうやら女性らしい。と思う間もなく、忠興がみすをぐいと上げた。
「お玉、これはおりょうじゃ。宮津の大窪城から、そなたに挨拶に来た」
次の間には、はなやかな小袖を着た女が、灯火を受けてひれふしている。肉づきのよい肩に広がる垂髪が豊かだった。
「おりょうどの?」
聞いたことのない名である。
「うむ、ま、おりょうも部屋に入るがよい」
忠興につづいて、おりょうが小腰をかがめて入ってきた。その瞬間、玉子ははっと直感した。ただの侍女ではない。
(もしや!?)
息をつめて玉子は女を見た。
「おりょうでござりまする」
玉子の視線を避けるように、再びおりょうは頭を下げた。
「お玉、おりょうは郡《こおり》の娘じゃ。大窪でわしの世話をしている」
忠興は宣言するように、きっぱりといった。郡氏は清和源氏の流れで細川家の家臣である。
玉子はつとめて無表情に忠興を見た。
父の光秀や、舅の幽斎には側室はいなかった。が、秀吉には十指にあまる女がい、他の大名たちにも側室のいるのは珍しいことではない。
味土野にいた時、玉子と忠興は、世間には離縁ということになっていた。だから、側室はおろか、いついかなることで正室を迎えられても、やむを得ぬことと覚悟はしていた。が、味土野から帰ってきても、忠興に側室のいる様子は全くなかった。そこに忠興の愛の証《あかし》を見たようで、玉子はいいようのない安らぎを覚えたのであった。
それが今、突如目の前におりょうを見せられたのである。玉子は、いきなり足をすくわれた思いがした。
「そなたが味土野に行って、たしか一年経った頃からかな」
玉子は、忠興もおりょうをも見ようとはしなかった。
「いいえ、殿、一年三カ月目でござりました」
おりょうはそういうと、うっすらと笑った。厚い唇が濡れて肉感的である。
「よう憶えているのう、おりょうは」
忠興も笑った。
「はい、それは……憶えておりますとも」
媚びるような含み笑いをして、おりょうは忠興を見た。はじめて忠興に抱かれた日を、どうして忘れ得ようといいたげな、あらわな表情である。
「お玉、おりょうも懐妊しているわ。そちは十二月、おりょうは正月じゃ。一度に二人の子ができるとは、何とめでたいことよのう」
玉子の顔色が変わった。
おりょうの底光りのする目が、再びうっすらと笑った。
「どうじゃ、おりょう。お玉は美しかろうが。そちなど足もとにも及ぶまい」
「はい、まぶしいほどにお美しゅうて、気高うて」
「そうじゃ、お玉は気高い女じゃ。お玉より気高い女はいまい」
「ほんに……」
いいかけるおりょうに、玉子は冷たくいった。
「おりょうとやら、下がってよろしい」
おりょうの顔から笑いが消えた。
「おお、下がってゆっくり休むがよいぞ」
ねぎらうように忠興がいった。
おりょうが早々に立ち去ると、
「どうやらお玉は、あの女が気に入らぬようじゃの」
「…………」
「無論、そなたとは較《くら》べものにならぬ女よ」
「…………」
「有吉がすすめてくれたのじゃ」
無表情にゆらめく灯をみつめていた玉子の視線が、ちらりと動いた。
味土野に行く幾日か前の夜、重臣の評定の席で、有吉は忠興にいったのだ。
「奥方のお命は、われらが頂戴いたしまする」
ふすまごしに聞いたその言葉を、玉子は今も忘れてはいない。
「そう悪い女ではあるまい」
幼児が母のるすに、人からもらったものでも見せるような無邪気さで、忠興はいった。いや、無邪気さをよそおっていたのかも知れない。
「…………」
「何じゃ、怒っているのか」
「…………」
「悋気《りんき》か、お玉。悋気は下々のすることよ。そなたには似合わぬ。……あれは只の側室じゃ。そちは正室ではないか」
ようやく玉子は忠興を見た。
「悋気ではありませぬ」
「では何じゃ、何をすねているのじゃ」
「……殿には、女の気持ちなどおわかりにはなりませぬ」
側室をおくのが当然と心得ている夫に、玉子はいうべき言葉を持たなかった。
忠興があの女を夜々抱いていた時、自分はただひたすら、夫忠興を恋いつつ、味土野の山奥にひとり淋しく暮らしていたのである。男の忠興には、その淋しさを思いやることはできないのであろうか。
しかも、おりょうが懐妊したのは、既に自分が帰ってから後のことになる。そのことへのいいがたい不快さも、忠興にはわからぬのであろう。
それにまして耐えがたいのは、妊《みごも》っているおりょうを、同じく妊っている玉子の前に、いきなり突きつけるようにした会わせ方であった。おりょうの子に、自分の胎内の子が足蹴にされたような侮辱を玉子は感じた。が、そんな思いを、忠興は察することもできないにちがいない。第一、側室などと顔を合わせる必要はないのだ。
「女の気持ちなどわからぬか……。わしはただ、あの女に、そなたがいかに美しいかを見せてやりたかったまでじゃ」
忠興はごろりと横になって、ひじ枕をした。
「殿、殿はなぜ、事前にひとこと、おりょうのことを耳に入れてはくださりませんでしたか?」
「ふいに会わせたほうが、おもしろかろうと思うてな」
「おもしろかろうと?」
「うむ」
玉子は口をつぐんだ。では本気で、
「一度に二人の子ができる。めでたいことよのう」
と忠興はいったのであろうか。
ふいに忠興が、遠い人間のように思われた。
忠興は玉子のために、扇形のかるたに一枚一枚金箔を貼り、心をこめて百人一首をつくってくれた。茶をよくし、父幽斎に似て、包丁も巧みにこなした。それらは、元来忠興がやさしく、繊細な感情を持つことを物語っていると、玉子は思ってきた。が、いま、忠興もまた他の武将たちと同様に、女を単なる道具と思って生きている男の一人でしかないことを、玉子は思い知らされたような気がした。
忠興はその妹伊也の夫を大窪城に招き、だまし討ちにして亡ぼした。伊也は自分の夫を殺した兄のもとに帰って、日を送っている。それは、信長が妹お市の方の夫浅井長政を火攻めにしたのと同様である。信長といい、忠興といい、男はすべて、女を策略や戦の道具に、あるいは子を産む道具にしか考えていないのではあるまいか。
(これが男というもの……)
味土野で恋い慕っていた忠興は、決してこのような荒々しい男ではなかった。いつの間に忠興と自分との間に、このようなへだたりができたのか。あるいは、最初からあったこの大きなへだたりに、自分は気づかずにいたのだろうか。そうかも知れない。父光秀は、母の子《ひろこ》に対してやさしかった。その父の姿を、自分は夫の上に重ねていたのかも知れない。二人の子が同時に生まれることを、お家繁栄のめでたいしるしという忠興は、以前から、父光秀とは全くちがった考えの持ち主なのだ。今になって俄《にわ》かに変わったのではないのかも知れぬ。
玉子はいい知れぬ淋しさを感じた。それは、味土野にあって忠興との再会を待ちこがれていた時のものとは、全く異質の淋しさであった。誰にも慰めを求め得ない淋しさであった。離れ住む忠興と会えば、すぐにも癒《いや》され得たであろう味土野での淋しさは、まだ単純であった。が、今は、忠興を目の前にしての、いい難い淋しさなのだ。
黙りこんだ玉子を眺めていた忠興は、ひじ枕をしたまま、いつしか寝息を立てていた。口を少しあけて眠っている忠興の顔を、玉子は他人を見るように眺めた。濃い眉、しわひとつないつややかな額、血色のよい唇、人一倍上背のあるがっしりとした体。眠っていても忠興は美丈夫であった。
(頼みがたきは人の心)
味土野から帰る時、幸せになるのは恐ろしいと、玉子は佳代にいった。が、大坂に帰って以来今日まで、玉子はひたすら忠興を愛して幸せであった。父母と一族を失った玉子には、夫忠興のほかに頼むところがなかったのだ。その忠興に、今何を頼めばいいのであろう。玉子はうつろな思いで、身じろぎもせずすわりつづけていた。
この夜から三日ほどして、忠興は戦に行った。三月からの徳川家康と秀吉との小牧・長久手の戦いが長引き、秀吉は美濃に出兵していた。お互いに、そろそろ長戦に倦《う》み、激戦はなかった。出兵も、いわば徳川勢牽制のためであった。
九月初旬、戦陣から帰ってきた忠興は、玉子が一まわりも細くなっているのを見た。顔色も悪い。病気かと驚く忠興に、玉子はひっそりと、
「気鬱でござります」
とのみ答えた。
この年の七月、近畿地方はひでりに見舞われ、九月になっても、引きつづいて暑かった。
「暑さのせいじゃ。涼しくなれば治るであろう」
忠興はそういい、深く気にもとめなかった。忠興は、一カ月前、自分が玉子に与えた深い傷手《いたで》など知るよしもない。その証拠に、
「宮津は涼しいぞ。しばらく保養に行くがよい」
ともいった。宮津の大窪城にはおりょうがいた。玉子は黙って、首を横にふった。玉子はあの日以来、すべてがむなしくなっていたのだ。忠興が戦に出向いていたのが、せめてもの救いであった。二十人近い侍女にとりかこまれているさえ、わずらわしかった。
清原佳代は、味土野から帰って、俄かに安心したためか、疲労が出て京都の実家にもどっていた。佳代がいれば、よい話し相手になったかも知れなかった。が、日々心から打ちとけて話す相手もないままに、玉子は毎日、心の中で同じことをくり返し考えていた。
(男はなぜ、女を道具のように扱うのか、女も男と同じ情を持つ人間ではないか)
ということであった。
こう考えるべきは、むしろ男の側でなければならぬと玉子は思う。男がそう自覚せぬ限り、解決のつかぬ問題なのだ。生殺与奪《*せいさつよだつ》の権は、現実に男が握っている。そうした社会の中で、解決のつかぬこの一つことを考える玉子がますますむなしさに陥《お》ちていくのは当然であった。
玉子は、既に十四歳の時に、父光秀に向かって嘆いた。
「なぜお玉は女に生まれたのでしょう。女は男より弱い。それが何とも口惜しゅうございます」
当時の女性が、つきつめて考えたことのないことを、早くから玉子は考えて成長していたのだ。それは、当時には珍しく、妻をあくまで一個の人間として愛した光秀を父として育ったためかも知れない。が、そうでなくても、天性誇り高い性格の玉子には、男の単なる道具のように扱われることには、耐えがたかったのだ。
戦から帰った忠興は、うつうつとして心晴れぬ玉子を、遠慮なく抱いた。が、玉子は骸《むくろ》のように応えなかった。
ひるも夜も笑顔を見せなくなった玉子に、忠興はようやく不安を抱いた。忠興にとって、美しい玉子は何ものにも替えがたい存在である。忠興は忠興なりに、玉子を愛していた。
城からもどる度に、見聞きしたことをぼつぼつ話して聞かせるのだが、玉子の顔は一向にほころばなかった。どんな話題が玉子を喜ばすのか、忠興には見当もつかなかった。
そんなある日、忠興は高山右近の邸に招かれた。翌朝、食事の折に忠興はいった。
「お玉、昨夜は牛肉というものを馳走になったぞ。なかなかうまいものだった」
玉子はいつものように、無表情にうなずいただけであった。
「それはよいのだが、右近はキリシタンでのう、食事の前に祈るのじゃ。声を出して、まじめな顔で長々と祈るのじゃ。何やら滑稽《こつけい》になって笑うたら、あの右近が怒ってのう。デウスに祈る祈りを笑う者には牛肉を食わさん、とこうなのじゃ」
玉子の唇もとに、かすかな微笑がのぼった。忠興が戦から帰って、はじめて玉子は、かすかではあるが笑った。忠興は勢いを得て言葉をついだ。
「右近は本気で神を信じているのじゃのう。この右近をあしざまにいってもよいが、神への祈りは笑ってはならぬと真剣にいうのだ。わしは不信心で、仏のことさえよく知らぬ。そこで、神と仏とどうちがうと尋ねた」
「どうちがうと申されましたか?」
うつろだった玉子の目が光を帯びた。
「うむ。神という字を見よと右近はいった。神の字は、示す申すと書くであろう。神とは、自らを示し申すお方だとな。何を示し申すのだと尋ねたら、神の御ひとり子をこの世に下し、そのひとり子にご自分を示された、といっていた」
「神のひとり子にご自分を示された……」
つぶやくように玉子はいい、
「では、仏については何と仰せられました」
「仏は、人でござるという字じゃといった。仏は即ち人、迷いから解脱《げだつ》し、悟りを得たる者の尊き霊とか申しておった。もとよりその教えは深く広い。また、人は仏にはなれても、神には決してなれぬとも申したわ」
「それから、何か仰せになられましたか」
「うむ、そうじゃ。神のひとり子キリストは、馬小屋に生まれたといっていた。わしは、おや、どこかで似た話を聞いたことがあると思った」
「似た話? ああ、聖徳太子様もたしか……」
「それじゃ。聖徳太子の母親は禁中の庭内を歩いていて、馬屋で太子を産んだと聞いた。それで、太子を厩戸《うまやどの》皇子《みこ》というのであろう」
「ほんに、似た話ですこと」
興深げに玉子はうなずく。
「それで、わしも、それは聖徳太子と似た話だといった。右近はよう気づいたと、気をよくしてのう。キリストは死んで三日目に甦《よみがえ》った。その墓はからっぽで、衣だけがそこにあったのだが、日本書紀の太子の伝記にも、死人が死後数日にして復活し、棺の中はからになり、その着物だけが残っているという話が書かれてあると申していた」
「まあ、それでは、あんまり似すぎておりますこと」
「うむ、わしもいった。その話は、太子の真似ではないかとな。すると、右近は何と申したと思う?」
「また、お怒りになられましたか」
「いや、怒りはせぬ。太子がキリストの真似だと申した。キリストが死んでから、五百四十年後に太子が生まれたから、キリストが真似たのではなく、太子の話のほうが真似たのだとな。そして、日本書紀が世に出たのは、聖徳太子の没後、およそ百年で、支那には既にキリシタンの寺があったそうじゃ」
「まあ、そんなに早く?」
日本では、今ようやく南蛮《なんばん》寺が建ちはじめたのだ。
「そうじゃ。何しろ、支那にキリシタンがこっそり渡ったのは、聖徳太子の生まれる二百五十年以上も前のことだったと、右近はいっていた。だから、わしらが異人の神を拝まずともよいとキリシタンを毛嫌いするのは、見当ちがいじゃ。日本人の崇《あが》めた聖徳太子は、とうにデウスの教えを信じていたのだと、右近は申すのじゃ。何しろ、右近は物知りでの。神とか仏のことには、わしらには歯が立たぬ」
気がつくと、玉子の食はいつもより進んでいて、飯も汁も残り少なであった。忠興はほっとしていった。
「今度、右近を家に招くことにしよう。そなたも一度、会って話を聞くがよい」
忠興は玉子を喜ばせたく思った。喜べば食も進み、健康ももとに復する。忠興は、玉子が早くもとの生き生きした姿にかえってほしかった。が、玉子の真に喜ぶものが何かを、つきつめて考えていたのではなかった。
彼岸が近くなった頃、京都の実家に帰っていた清原佳代がもどってきた。以前にもまして元気になった佳代を、玉子は喜んで迎えた。玉子もいく分生気を取り戻しつつあるとはいえ、まだ顔色も冴えなかった。
佳代は、そんな玉子の様子に、はっと胸をつかれたようだが、
「お変わりもなく、ごきげんうるわしゅう……」
と、さりげなく挨拶をした。玉子はふっと微笑をおさめて佳代を見た。が、その日はそのままに過ぎた。
彼岸の中日が来た。彼岸は、侍女たちも墓参や寺参りに名を借りて、晴れて外出できる日であった。屋敷のうちには、ほんの二、三人の侍女と、郎党を残すのみで、ひっそりと静まりかえっていた。時折、熊千代のかん高い声が遠くの部屋から聞こえるのも、かえって静かな感じだった。
暑くも寒くもない曇天である。玉子と佳代は向かい合って茶を飲んでいた。風に乗って楠の木の匂いが部屋に流れてくる。
「お佳代どの」
改まった声で玉子がいった。
「はい」
佳代は目を上げた。
「そなたは、ここにもどられた日、変わりもなく機嫌うるわしゅうと申されました」
「は、はい」
「ほんに変わりなく見えましたか」
「…………」
伏し目になった佳代に、
「そなたは、宮津の大窪城にいるおりょうのことを、知っておりましたか」
「おりょう? ……」
と、低くいってから、佳代の顔にさっと狼狽の色が走った。
「やはり知っておりましたか」
「はい、京に帰ってから、人の噂に」
「京に帰るまでは?」
「わたくしの耳には……」
その細い首を佳代は横にふった。
「お佳代どの、おりょうが先日ここに参りました」
「…………」
「おりょうも、正月に……生まれるとか」
「まあ」
「殿は、一度に二人の子が生まれるのは、めでたいと申されました」
親きょうだいがすべて死に果てた玉子には、今まで、訴えたくも訴えるところがなかった。
「それはまた……あまりな……」
佳代の目がうるんだ。
「そなたにも、あまりなことと思われますか」
「はい」
「妊っているおりょうを、いきなりつれて来て、殿はおもしろがっておられました」
「…………」
「それ以来、味土野にいた時よりも、淋しい思いで……暮らしておりました」
「お方さま」
「そなたは賢い。嫁がぬそなたはほんにかしこいと思います」
「……でも、お方さま、殿はお方さまを大事に思っておられます」
「ええ、顔や体は大事に思っておりますけれど……」
「顔や体?」
「殿には、わたくしの心などわからないのです。お佳代どの、味土野から出る時、幸せになることは恐ろしいとわたくしが申しましたこと、憶えておりますか」
「はい、憶えております」
「その時、そなたはデウスの神が真の幸せを与えてくれると申しました」
「はい、お方さま」
「今こそ、本当にデウスの神のお話を聞きたいのです。デウスの神は、一体わたくしが何をしたら、救ってくださるのです」
玉子は真剣であった。
「お方さま、天主さまは、わたくしどもが何かをすれば救うとは仰せられません。ただ、キリストさまを救い主と信ずれば、それで許してくださるのです」
「ただ信ずればよいのですか」
「はい、わたくしには、どのように申し上げてよろしいかわかりませぬけれど……神の子キリストさまは、十字架におかかりになられました」
「なぜ、神の子が、そんな惨《むご》い死に方をなされたのです」
からになった茶碗を手に持ったまま、玉子は熱心に問いつめる。
「はい。本当は、あの十字架にかからねばならぬのは、わたくしどもすべての人間なのです」
「すべての人間? ではわたくしも!?」
「はい、おそれながら……」
「わかりませぬ。十字架は極悪人がかかるものではありませぬか。何の罪もないわたくしどもが十字架にかからねばならぬなどとは……ずい分訳のわからぬことを、キリシタンは申しますこと」
落胆したようにいう玉子を、佳代は困ったように眺めていたが、
「でも、お方さま、いつかも申し上げたかも知れませぬが、人間は一人として義《ただ》しい人がおりませぬ。人間はみな罪人だと……」
いいかける佳代を制して、
「もうよろしい。お佳代どの。わたくしは生まれて今日まで、人に指さされるような悪いことなど、した憶えはありませぬ。すべての人が罪人などと申すのは……どうにも腑に落ちませぬ」
誇り高い玉子には、キリシタンの教えは気に入らぬようであった。佳代はさからわず、
「高山右近様のようなお方なら、上手にお話しできましょうに、佳代は口下手で申し訳もござりませぬ」
と、両手をついて詫《わ》びた。
玉子は、その佳代の素直な様子を見て哀れをおぼえ、
「お佳代どの、キリシタンの教えの書物はありませぬか」
とやさしく尋ねた。
「はい、わたくしの持っておりますのは、『こんてむつすむん地《ぢ》』という本で……」
「こんて? ……」
「こんてむつすむん地」
「こんてむつすむん地? 異国の言葉ですか」
「はい、ラテン語とやら……」
「ラテン語?」
玉子は目を見張った。
「はい、いみたちお・くりすち、とも、こんてむつすむん地とも申しますとか」
「やまとの言葉にすると、どういうことなのでしょう」
「たしか、キリストさまにならいて、もろもろのこの世の、取るに足らぬ栄えを軽んずることとか伺っております」
「中もラテン語とやらで書いてあるのですか」
「いいえ、やまとの言葉で書いてござります。部屋にあります故、急いでお持ちいたしましょう」
佳代はうれしそうに立って行った。
「ラテン語……」
そのうしろ姿を見送りながら、玉子はつぶやいた。まだ二十二歳の玉子は、異国語の題名を持つ本と聞いて、大きな興味をそそられずにはいられなかった。
期待に胸をはずませながら庭に目をやると、萩の花が咲きこぼれている。蜻蛉《とんぼ》が五つ六つ、ついついと空中に止まるような飛び方で、飛び交うのが見えた。
待つほどもなく、佳代はやや古びた本を持ってきた。一見して、よく読んでいることがわかる古び方である。玉子は本を開いた。
〈第一 世界のみ(実)もなき事をいとひぜずきりしと(イエズス・キリスト)をまねび奉る事〉と書いてある。
次にラテン文が二行ほど書かれている。生まれてはじめて横文字を見た玉子の目は、好奇に輝いた。
「まあ、何という字でしょう。やまとの字とも、漢字とも全くことなって……」
玉子は横文字の上を指でなぞって、
「こんな字を書いたり読んだりしている国があったとは……わたくしも読みたい」
といった。佳代は内心おどろいた。自分はラテン語など、どうせ読めぬものと、とばして読んできた。一度だって読みたいなどと考えもしなかった。それを玉子は、一目見ただけで、指で字をなぞり、読んでみたいといったのだ。
(お方さまは、何とすぐれた方であろう)
佳代は誇らしくさえ思った。
玉子が低い声で次の本文を読みはじめた。
〈御あるじのたまはく。吾をしたふものは闇を行かず、ただ命のひかりを持つべしと。
心の闇をのがれ、まことの光を得たくおもはば、きりしとの御功績と御かたぎ(御気質)をまなび奉れと。
この御ことばをもて、すすめ給ふなり〉
玉子は本をとじ目をつむって、
「……吾をしたふものは闇を行かず、ただ命のひかりを持つべしと、心の闇をのがれ、まことの光を得たくば。……お佳代どの、わたくしもほんとうに、心の闇をのがれて、まことの光を得たいもの。……ここに、キリストの御功績と、その御かたぎを学び奉れとありますけれど、そなたの気性は、たしかにキリストさまに似ているように思われます」
玉子は一度読んだだけで、既に諳《そら》んじていた。佳代は再び、驚きの目を見はって玉子を見つめた。
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生殺与奪の権 生かすも殺すも、与えるも奪うも思いのままの権利。
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二十一 こんてむつすむん地
その年、天正十二年も暮れて、大晦日を明日に控えた三十日、玉子は次男与五郎興秋を挙げた。
明けて正月十三日、宮津の大窪城では、側室りょうが娘|古保《こほ》を生んだ。
与五郎は泣き声もかぼそく、痩《や》せてひ弱であったが、りょうの生んだ古保はまるまると肥って元気であった。この与五郎の虚弱が玉子の心をひどく痛めた。
与五郎を妊《みごも》っていた最中《さなか》に、玉子は側室おりょうの存在を知った。その後しばらくの間、玉子は生きる力を失い、病人とまがうほどに痩せおとろえた。それが災いして、与五郎がひ弱く生まれたかも知れない。
与五郎は赤子ながら、見るからに淋しい表情をしていた。ふにゃふにゃと泣くその声を忠興は嫌って、
「何じゃ、これが男子たる者の泣き声か。いかに育てても、ろくに育ちはすまい」
暗に捨ててしまえといわんばかりであった。
確かに与五郎は、生来剛毅な忠興の子には似合わしくなかった。が、忠興が毛嫌いをすればするほど、それだけ玉子の与五郎に対する愛は深まった。おりょうの子古保の、人一倍元気な様子を伝え聞いているためもあった。元気に生まれただけあって、古保は七十四歳という、当時としては稀な長寿を全うしている。
与五郎が生まれて間もなく、忠興の弟の興元が祝いに来た。ちょうどその場に居合わせた忠興は、
「とんだ弱い子が生まれたものよ」
といい捨てて、苦々しげにその場を去った。興元はその忠興のうしろ姿をじろりと見ていたが、視線を与五郎に移し、
「おう、よい子じゃ、よい子じゃ」
と、床の中から気軽に抱き上げ、
「小さく産んで、大きく育てるものなのじゃ。わしも小さく生まれたが、今では兄上よりも大きいわ、のう与五郎」
と、しわくちゃの与五郎に頬ずりをした。
興元が小さく生まれたとは聞いていない。が、そのあたたかい言葉に、玉子は慰められた。
「大きく育ちましょうか、興元さま」
玉子にみつめられて、興元は面映ゆげに再び与五郎に目をうつし、
「育たないでか。のう与五郎。与五郎よ、そなたも次男坊、わしも次男坊、こりゃ同病相哀れむじゃのう」
といとしげにいった。次男の興元は、同じ屋敷の中に部屋住みの身だ。
「丈夫にさえ育ってくれましたなら、申すことはござりませぬ、興元さま」
玉子は与五郎に手をのべた。
「姉上、いつぞやの約束、憶えていられるか」
興元はふいにまじめな顔をした。
「約束? どのような?」
「忘れられては困るのう。熊千代が生まれた時、この次生まれたお子は、わしの養子にくださるといわれたではないか」
「まあ。あれはざれごとと申すもの」
「ざれごと? それはむごい。わしにはざれごとではない。まじめな話じゃ。のう与五郎、きっとわしが、そなたの父になってみせるぞ」
興元はきっぱりといって、与五郎を玉子の手に返した。
この時の言葉のとおり、後に興元は、忠興に申し出て与五郎を自分の養子とした。その後さまざまの紆余《うよ》曲折があり、最後に与五郎は、父忠興に切腹を命ぜられている。が、キリスト信者となっていた与五郎は、自殺行為であるその命に服さなかった。そのため忠興に斬り捨てられ、三十三歳で死んだ。
そのような悲運にあうにふさわしく、与五郎は弱く生まれたのであろうか。忠興が与五郎をうとんずるにつれ、玉子の心の中で、おりょうの子古保に対する憎しみが高まった。元気な古保は与五郎の生命力をも奪って生きているように思われてくるのだ。それは、忠興におりょうをひき合わされた日、おりょうの胎内の子に、自分の腹にある子が足蹴にされたと感じた時に始まった思いでもあった。
時折、心の底で、古保の死をねがっていることがある。そのような自分を、
(恐ろしい! 醜い!)
と玉子は嫌悪した。自分の中に、このような醜さのあることに、玉子は耐えられなかった。
(罪もない子を……)
そうは思っても、古保という名が浮かぶだけで、いい難い憎しみに傾くのを、玉子はどうすることもできなかった。
三月三十一日、秀吉は紀伊、四国の一揆征討に軍を向けた。忠興は蒲生氏郷《がもううじさと》と共に、積善寺に兵をすすめ、高山右近は根来《ねごろ》寺を攻めた。
四月末、共に凱旋《がいせん》したが、その数日後、右近がひょっこりと細川邸を訪れた。右近も忠興と同様、大坂城の近くに邸をかまえ、妻子をおいている。が、忠興はしばしば宮津に在って丹後を治めねばならず、右近もまた高槻に領国があった。時折出陣もある。それで、以前から右近の話を玉子に聞かせたいと願っていた。が、忠興は機会を得ないで過ぎていた。それがきょうは思いがけず、右近と歓談の時を持つことができたのである。
何年かぶりに右近を見たその夜、玉子は床に入ってもなかなか寝つかれなかった。
以前にもまして澄んだ表情の右近であり、挙止も茶をたしなむ人にふさわしくもの静かであった。あの人のどこに、ほまれ高い武人の猛々《たけだけ》しさがあるのかと、いま玉子は思い返していた。
「奥方、すこやかなご様子、何よりでござる」
親しみ深い微笑を浮かべた右近の挨拶を受けた時、玉子は思わず顔をあからめた。
以前、玉子は忠興との閨《ねや》の中で、幾度か右近の顔を思い浮かべたことがある。忠興に抱かれているつもりが、いつの間にか右近の胸の中にいるような思いとなったものである。そんな許しがたい放埒《ほうらつ》な自分を思い出して、いつになく顔をあからめたのである。
(立派な御方!)
玉子は静かに寝返りをうって、忠興に背を向けた。
今夜、玉子は右近と忠興の話を、傍でだまって聞いていた。最初、三木パウロという信徒の噂が出た。
「安土の神学校《セミナリヨ》を出た秀才でのう。いま九州の有馬で布教しているが、非常に雄弁だという噂じゃ。三木パウロの説教がはじまるとのう、大人はもとより、赤子さえ泣きやんで耳を傾けるそうじゃ。いや、犬やねこさえも、その場を動かぬとたいへんな評判よ」
「犬やねこもその場を動かぬとは、話半分にしてもたいそうな話し上手じゃな。その、ミキパウロという異人は、そんなに日本語がうまいのか」
「異人? いや日本人じゃ。パウロというのは洗礼名でのう。佳代どのがマリヤという洗礼名を持っておられるのと、同じことじゃ」
席に侍っている佳代がうなずいた。話は自然、キリシタン信仰に入って行った。
神が天地も人をも創られたこと、しかし人は神を離れて堕落したこと、その堕落した人間を救うために、神は一人子のイエズス・キリストをこの世に送られたこと、もしキリストがこの世に来なければ、人はすべて永遠に亡んでしまったこと。キリストが十字架にかかられたのは、人々の身代わりであって、本来は人間一人一人があの十字架にかからねばならぬ罪人であることなどを、右近は熱心に話した。が、いま、玉子の心に強烈に焼きつけられているのは、それらの言葉ではなく、次の会話であった。忠興が、
「しかしのう、今は秀吉公がキリシタンを許しているからよいわ。おぬしが大坂に教会を建てる時も、秀吉公が自ら土地を決められたほどじゃ。だが、これがもしもじゃな、もしも御禁制の世となったら、いかがなさるかのう」
右近は表情を変えずにいった。
「国法で人間の心を変えることはできぬものよ。いかなる世になろうとも、わしは信仰は捨てぬ」
「しかし、信長殿が仏閣を焼き打ちなされた例もある。万一、領地没収、国外追放などの憂き目にあうとなれば……」
「かまわぬ。領地を没収されれば、無一文になるまでじゃ。国外追放になれば、他国に行って住むまでのこと」
「では、磔ということになれば」
右近は声を上げて笑い、
「磔になろうと、火焙《ひあぶ》りになろうと、信仰は捨てぬ」
ときっぱりといった。
「それほどに信仰は大切なものかのう」
忠興は呆《あき》れたように、右近をまじまじと見た。右近は答えた。
「のう、世には信仰を持たずとも生き得る人間はたくさんいる。が、まことの神を信じた者にはのう、そのまことの神を捨ててまで生きのびるなどとは、思わぬものじゃ。死んでも、永遠の命を与え給うのが神じゃ。生きのびたとて、人間何年生きのびられるものか。神を捨ててわずかに生きのびるよりは、早く死んでも永遠の命をいただくほうがよい。もし、神の御名の故に磔になるとすれば、それこそ身に余る光栄と申すもの。のう、細川殿、神からいただく平安と喜びは、人の力では決して奪い去ることのできぬものなのじゃ」
たんたんとした語調が、かえって強く玉子の胸を打った。
「そんなものかのう。とすれば右近殿、貴公は、秀吉公の命令よりも、神の命令に従うというのじゃな」
「万一、秀吉公がキリシタン禁制を敷いた時にはのう。人に従うよりは、神に従うべきなりと聖言《みことば》にもござるわ」
さわやかに右近は笑った。
右近の言葉は、玉子に強い衝撃を与えた。信仰とは、領地没収をも、磔をも恐れさせぬ強い力を持っているのか。それほどに信仰とは、人間に平安を与えるものなのか。それほど強いものが信仰ならば、苦難にあっても、いたずらに嘆くことをしないですむのだ。
(しかし、一体なぜ、人は苦しみにあうのか)
玉子は、幾度こう思ってきたことであろう。父と共に、親きょうだい一族すべて亡び、自分は夫や子供に離れて、味土野の奥に幽閉された。
(何のために、こんな苦しみ悲しみにあわねばならぬのか)
味土野で、幾度自分は枕をぬらしたことであろう、と玉子は思う。
昨日も、味土野で書きつけた歌や日記を読み返しながら、玉子は涙がこぼれてならなかった。その墨の跡もうすく、
〈くやしくも、くち惜しくも思はれ候。閨洩る月も見しよのかたみと、過ぎし昔思ひ出し、ありしかたにも月にやかげを、御うつしとも思ふに、ひたすら袖のみぬれまいらせ候〉
つらねられた自分の文字が新たに悲しかった。
さりとだに人は知らじな同じよの
たのみばかりにながらふる身を
いつはりと思ふ契りをせめて身の
慰さむかたにたのむはかなさ
さだめなき心と人を見しかども
つらさはつひに変らざりけり
憂《う》きを憂しと思はざるべきわが身かは
なにとて人の恋しかるらん
せきかへし言はぬ思ひもあるものを
つらき心のいかでみゆらん
どの歌一つにも、味土野での切なく辛い思いがこもっている。
あの日々の中で、もし自分に、あの右近ほどの堅い信仰があったならば、味土野の生活は全く変わったものになったにちがいない。
味土野から帰って、いま、ここに共に一つ部屋に臥《ふ》しているのは、あんなにも恋い慕った夫の忠興である。だが、おりょうに会って以来、玉子は再び生きる喜びを失った。その玉子の苦しみは、忠興にも癒すことのできぬ苦しみであった。もし、自分が右近のような信仰を得たならば、こうした苦しみは消えるかも知れないのだ。
(なぜ人は苦しみにあうのか)
という問いは、信仰ある者にはないにちがいない。
(それにしても、何というすばらしい)
右近はいった。
「領地を没収されれば、無一文になるまでじゃ。国外追放になれば、他国に移って住むまでじゃ」
その時の名状しがたい感動、そしておどろきが、いまもまた波のように盛り上がってくるのを、玉子はかみしめていた。
武将にとって、領地は唯一のよりどころではないか。父光秀を反逆に走らせたきっかけも、「領地召し上げ」の苛酷な信長の処遇にあった。武将にとっては、何よりも「お家が大事」であった。忠興も近頃は、
「お家が大事だからな」
とよくいう。おりょうを側室にしたことも、お家の大事のためといった。無論味土野へ行く前も、「お家が大事」といわないわけではなかった。
もともと、舅の幽斎がよくそういった。が、忠興はそう度々はいわなかったような気がする。光秀が滅亡したあと、「お家」のためには玉子を斬ると、家臣の有吉が忠興に迫った。その時、
「玉の命を奪う者は、誰でも斬り捨てる。羽紫筑前であろうと!」
といった忠興の言葉を、玉子は決して忘れていない。確かにあの時の忠興には、細川家より玉子が大事であるかに見えた。それはしかし、二十歳の若さの故であったのであろうか。今の忠興ならば、もはや決して、
「玉子の命を奪う者は、誰でも斬り捨てる」
などとはいわないような気がする。忠興から何かが失われたように玉子は思った。それは、信長死後の波乱の多い時代を生きのびるために、必要なことであったのか。忠興は、世故《せこ》に長《た》けた考え方をする人間に、明らかに変わってきている。一見、成長したようでもある。が、玉子には淋しいことであった。
「お家が大事」
それはどの武将にもいえることだった。信長も光秀も幽斎も秀吉も、誰もがお家が大事なのである。そのことに玉子自身、ほとんど疑いを持たなかった。それだけに、右近の言葉は玉子に強い衝撃を与えた。
(もし、あの方の妻であったなら……)
右近はあの時、自分を味土野に幽閉したであろうかと、ふっと玉子は思った。玉子は、静かに目を閉じた。切実に神を信じたいと思った。信ずる以上は、右近のような信仰でありたいと思った。
右近が帰りかけた時、忠興は何か尋ねることはないかと玉子にいった。玉子は、
「神を信じようといたします時、一番大切な心がけは何でござりましょう」
と尋ねた。右近の顔が輝いた。
「よいお尋ねじゃ。神を信ずる者に第一の心がけはのう。それは、何事も神の御心のままになさしめ給え、と祈ることではないかと存ずる」
「何事も神の御心のままになさしめ給えと、お祈り申すのでござりますか」
「さようでござる。神は全智全能で全き愛のお方。この神のなさることに、われわれ小さな人間が罪深いものがあれこれかしこげに理屈を申し立ててもいたし方ござらぬ。先ず安心して己《おのれ》を神の御手にお委《ゆだ》ね申すことが肝要じゃ。われわれ人間の、あさき心のままになるよりも、神の深き御思いのままになるほうが、安全確実というものでござる故」
その言葉が、玉子の胸に素直に沁みて行った。
(与五郎のことも、神の御心のままにおまかせするのがいいのかも知れぬ)
そう思うと、確かに心が軽くなった。
「人間、じたばたしても、自分の力では髪の毛一本増やすこともできぬものでのう」
右近はそうもいっていた。
まことにそのとおりだと、玉子も思う。キリストがどういう御方か、神がいかなる御方か、玉子にはまだわからない。神のなさるままにお委ねして、黙ってキリストのあとに従って行きたいと、玉子はいま、心から思った。
翌朝……。
忠興はきょう、領国の大窪城に発つことになっていた。が、忠興は朝から不機嫌であった。
「よいお日和《ひより》で、よろしゅうございます」
晴れ晴れという玉子とは反対に、忠興はなぜかいらいらとしていた。食膳についても、忠興は箸をとろうともしない。
「いかがなされました? お体でもお悪うござりますか」
忠興は返事もしない。
(みこころのままになりますように)
玉子は、昨夜右近のいった言葉を思った。ふしぎに心が波立たない。その静かな玉子の表情を、忠興の暗い目がじっとみつめた。
「お玉、そなたは今朝がた誰の夢を見た?」
陰気な声だった。忠興とも思えぬ声である。驚いたが、玉子は表情を変えずに、
「今朝がたでござりまするか……」
考えたが、思い出せない。
「白《しら》を切るな!」
ふいに忠興は一喝した。
(みこころのままに……)
玉子は静かに微笑した。
「何がおかしい?」
再び怒声が飛んで、
「誰の夢を見たと聞いているのだ」
「夢のことなど、存じておりませぬ」
玉子はおだやかに答えた。
「いつわりをいうな! そちは寝言をいっていたぞ!」
「寝言?」
「右近の名を呼びおったわ!」
「ま、右近さまの?」
「右近の夢を見たであろう」
「いいえ、憶えはござりませぬ」
「憶えはない? はっきりと二度も右近の名を呼びおったわ」
「お言葉ながら……」
「いうな! 二度と右近には会わせぬ。いや、今後は誰にも会わせはせぬ」
「それは……」
誰に会わなくてもよい。しかし、右近の話だけは聞きたいと玉子は思った。が、玉子は三度、昨夜の右近の言葉を思った。
(み心のままになさしめ給え)
この世を、決して自分の思いどおりにしてはならないのだ。ただ神のみ心が成ることを祈ればいいのだ。忠興が、このような無体なことを言い出すのも、あるいは神のみ心に叶《かな》うことなのかも知れない。
(二度と右近さまにお目にかからぬことのほうが……)
確かにそれは、自分にとって必要かも知れぬと玉子は思った。三度《みたび》、五度と会ううちに、自分は神よりも右近に心を奪われてしまうような気がした。
「かしこまりました。殿の仰せのようになさってくださりませ」
忠興はむっつりと箸をとった。何事もなかったように玉子も箸をとった。
忠興のこの嫉妬の激しさは、のちの世までの語り草になっている。その一つにこんな話がある。
二人が朝食をとっている時に、屋根の修理をしていた柾葺き職人が、軒から顔を差し出して、美人と評判の玉子を盗み見ようとした。途端に体の平衡を失って、職人は大きな音を立てて地に落ちた。忠興は、職人が座敷を盗み見ようとしたところを、見つけてしまったのだ。
「無礼者!」
忠興は一刀のもとに首をはねた。血しぶきが上がった。忠興はその首を玉子の膳の上に置いた。
愛する妻を盗み見するさえ、決して許してはおかぬと、玉子に宣言したかったのかも知れない。が、玉子は顔色も変えず、静かに食事をつづけた。忠興が、
「そなたは蛇のような女じゃ」
と呆れたようにいうと、
「とがのない者を殺す殿は、鬼のようなお方、鬼の女房には蛇が似合いでござりましょう」
と答えたという。
この職人は庭師であり、敵国の間諜であったともいわれている。また一説にはこうも伝えられている。二人が食事をしている時に、玉子の椀に髪の毛が一本入っていた。玉子はさりげなく、髪の毛をたもとに入れたが、忠興が見咎《みとが》めた。忠興には、玉子が膳部の者をいたわったことが癇にさわった。忠興は直《ただ》ちに台所に行き、男の首をはねて、血だらけのまま玉子に渡した。玉子は小袖で首を受け、その首を前に置いたまま、表情も変えずに食事をした。そして、小袖を洗いもせず、何日も血糊をつけたままにしていたという。
有名な話だが、真偽のほどはわからない。多分伝説であろうが、こんな話が残るほどに、忠興の妬心は激しかったのであろう。また、玉子は常に冷静な、理知的な女性であったのであろう。
もし、そのような事件が事実あったとするならば、いま玉子の夢を咎めた朝のような、不機嫌な時であったのかも知れない。
話を戻そう。
むっつりとしたまま食事を終えた忠興は、侍女が膳を下げて行くと、矢にわに玉子を抱きすくめた。
「右近の夢などを見てはならぬ」
「殿、信長公の夢を見たこともござります。夢は心のままになりませぬ」
忠興の胸の中で、玉子は甘えるようにうったえた。
「誰の夢も見てはならぬ。そなたは大事な宝なのじゃ」
駄々っ子のようにくり返す忠興に、玉子がにっこりとうなずき、
「殿の夢だけ見とうござります」
といった。忠興はようやく機嫌をなおし、宮津に出発して行った。
その後、右近が幾度細川家を訪れても、忠興は決して玉子を同席させることはなかった。同席させなかったが、右近の話は、その都度詳しく玉子に伝えた。何の話よりも、玉子がキリスト教の話を喜んだからである。
玉子は、夫を通しての右近の話や佳代の話によって、次第に信仰を培《つちか》われて行った。『こんてむつすむん地《ぢ》』(キリストにならいて)も、たゆまずに読んだ。しかも、その驚くべき暗記力と理解力で、『こんてむつすむん地』を、玉子は全文暗記するに至った。
佳代との会話の中でも、
「『こんてむつすむん地』には〈世をいとひて、天の国に至らんと志すこと、最上の知恵なり〉とありますけれど」とか、
「〈わが身に克《か》たんと嘆く人にまさりて、強き合戦をする者あらんや。わが身に克ち、日々に勝りて強くなり、善のみちに先に行くことを第一のいとなみとすべし〉という言葉は、何とすばらしいことでしょう。殿方も、血を流し合う戦よりも、先ず自分に打ち克つ合戦に、強くなってほしいとは思いませぬか」
などと、『こんてむつすむん地』を縦横に駆使するのである。
こうした中で、おりょうや古保の存在も、与五郎の虚弱も変わりはなかった。しかし、玉子は熱心な求道の日々の中で、新たな自分をつくりはじめつつあった。むなしかったまなざしに、希望の色が溢れ、健康もすっかり取りもどして行った。それと共に、内面から輝くような美しさが備わってきた。
玉子はただ、『こんてむつすむん地』にある通り、ひたすらキリストの御跡に従い、キリストに学んで生きようとした。キリストのご性質のように、自分もなりたいとねがった。理屈よりも、行為で知りたかった。頭よりも胸でキリストを知りたかった。右近のいった、
「み心のままになさしめ給え」
の祈りに、玉子は忠実であろうとした。そして、いかに自分が、万事を自分の思いどおりにしたいと、根強く思っているかを知るようになった。
ある日、忠興が告げた。
「古保が歩いたぞ」
誕生も来ぬうちに歩いたのだ。古保より半月先に生まれた与五郎は、まだ這《は》うことさえ充分ではなかった。
(ああ、与五郎も早く歩いてほしい)
切実にねがう玉子は、与五郎のよたよたと這う姿にいら立たしくなることがあった。誕生も来ぬ間に歩いたという古保が憎かった。そのような時、
(みこころのままに)
と祈るよりも、
(どうか一日も早く歩ましめ給え)
と祈りたかった。神のはからいよりも、自分のねがいどおりに事を運びたかった。
言葉を語りはじめたのも、古保がはるかに先であった。
「先のカラスがあとになった」
と忠興は与五郎をわらった。
「この子は満足に育つのか」
そうも忠興はいった。玉子は、おりょう、古保、忠興の三人から嘲笑されている気がして、憎むまいとしても憎まずにはいられなかった。が、その度に玉子は思った。
(キリストさまなら、どうなさるであろう)
そう思うと、玉子はキリストにほど遠い自分に気づき、憎しみがゆるむのだった。
「キリストさまは、何と気高いお方でしょう」
佳代に、つくづくと述懐することもあった。
「でも、お方さま、お方さまもいっそう気高うなられました」
「いえいえ、いよいよ自分の小ささ、みにくさが加わるばかり……。ほんに、自分がこのような罪深い者とは、思いもよりませんでした。何と高慢なわたくしであったことでしょう」
気位の高かった玉子が、侍女たちにも、ていねいに朝夕の挨拶をするようになった。いままで、佳代ひとりが話し相手であったが、いつしか侍女たちも玉子に心を開いて話すようになり、次第に奥の棟の空気が和《なご》やかになって行った。
忠興は、相変わらず宮津に行ったり、出陣したり、登城したりの多忙な生活であったが、右近とはいよいよ親しくなり、往き来することも多くなった。右近は、忠興を通して玉子に語りかけているようであった。玉子が『こんてむつすむん地』を諳《そら》んじていると聞いた時の喜びようは大きく、
「お玉、あの落ちついた男がのう、思わず箸を取り落としてしまったぞ」
と、忠興が玉子に告げたほどであった。
その時玉子は、
「殿、殿がキリシタンになられれば、高山さまも、どんなにかお喜びになりましょう」
と、さりげなくいった。
「うむ。小西行長や黒田官兵衛ほどの男も、右近の話を聞いてキリシタンになったからのう。しかし、わしはキリシタンにはならぬわ」
「なぜでござりまする」
「ま、秀吉公と同じ気持ちかの。秀吉公はいかい右近びいきでの。ある男が、なあに、高山右近には裏があると言いおった。さあ、秀吉公、怒るまいことか、二度と右近の悪口|雑言《ぞうごん》を申してみよ、斬り捨ててくれるわといきまかれた。わしも、そのように右近を買っておる。が、キリシタンにはならぬ。なぜか、わかるか」
「はて、なぜでござりましょう」
「これも秀吉公と同じところじゃ。秀吉公はキリシタンはよい宗教じゃが、あの十戒とやらがある限り、キリシタンにはならぬそうじゃ」
「まあ」
「わかるじゃろう。秀吉公は女好きじゃからのう。男子たるもの、あの戒めは受け入れ難いものよ」
忠興は笑った。玉子は十戒のうちの、
「汝、姦淫するなかれ」
「汝、隣人の妻を貪《むさぼ》るなかれ」
を思った。途端に、おりょうの底光りする細い目と、肉感的な厚い唇が目に浮かんだ。
二十二 狭き門
天正十五年三月。
彼岸の中日のひるさがりである。細川邸の奥の棟に、幼子の声がにぎやかだった。
十二年の十二月に与五郎興秋を産んだ玉子は、十四年十月十一日には三男光を産んだ。この光は、のちに徳川秀忠の忠の字を授けられて忠利と名のり、細川家を継いだ。
忠興は間もなく、古保《こほ》を産ませた側室おりょうを遠ざけ、再び玉子のみを愛して、他に子供をもうけることをしなかった。その、ひたむきともいえる忠興の激しい愛の中に、光を産んだのである。
長男の熊千代は、読み書きも人に秀れ、七歳にしては利発であった。また、父忠興にさえうとまれるほどに弱かった与五郎は、思いのほか大病もせず育っていた。与五郎のまなざしや口もとが、時に、はっとするほど光秀に似ていることがある。玉子は与五郎を膝の上に抱いて、
(お父上さまの生まれ代わりか)
と、まじまじと見つめることがあった。
お長《なが》は、目もとの涼しさは玉子に似、めったに泣かず手のかからぬ子である。
が、唯ひとつ、昨年十月に生まれた三男の光の病弱が、与五郎を産んだ時よりも更に玉子の心を痛めた。乳母の乳房をくわえる力もないことが度々あり、痩せた蒼白な顔は赤子とは思われなかった。息をしているかどうかと、幾度乳母を狼狽させたかわからない。与五郎の時も、その病弱さをあらわに嫌悪した忠興だったが、しかし捨てよとまではいわなかった。だが光に対しては、
「こんな虫けらのような子は、捨ててしまえ。役立たずじゃ」
と幾度かいった。その度に、玉子はわが夫ながら、忠興がうとましかった。
(人の値は、果たして体の強弱で定まるものであろうか)
(キリストさまならこの子をごらんになられて、何とおおせになるであろう)
必ず、あわれみ深く抱き上げて、祝してくださるにちがいない。玉子はそう思う。
玉子がキリシタンに深く心をよせはじめてから、既に三年たっていた。が、玉子は未だに教会堂に列席したことはない。一度参上して、神父《パアデレ》に会い、教えを乞いたい。そして、できることなら、すぐにも洗礼を受けたい。玉子はそうねがいつづけてきた。
しかし忠興は、かたくななまでに、玉子を他の男性に会わせることをしなかった。ほんの二、三の重臣が、みす越しに部屋の外から声をかけることは、まれにはあった。しかし他の家臣は、奥の棟には一歩も踏み入ることができず、庭師も玉子を見かけたら、急いでその場を立ち去らねばならなかった。父の幽斎と、弟の興元だけが、奥への出入りが自由であったが、それさえ、内心忠興は喜ばなかった。
無論、幾度ねがいを求めても玉子の外出を許すはずはなく、領地に赴く時や出陣の時には、家臣一同に、玉子の外出を厳重に禁止し、監視することを命じた。そればかりか、帰宅するや否や、
「奥は外出はしなかったであろうな」
と、真っ先に問いただすのである。これが、忠興の愛し方であった。いかに愛する小鳥でも、掌でぎゅっと握りしめては、苦しめるだけだ。忠興にはしかし、それがわからなかった。
忠興は異常に嫉妬深かったといわれている。無論それもあるが、前にも述べたとおり、秀吉の好色を忠興は極端に恐れていたのだ。玉子には犯しがたい気品と、誰の心をも捉えずにはおかない魅力があった。忠興の知る限り、玉子を一目見ただけで、男女の別なく、誰もがはっと息をのむ。この美しさが秀吉の目に触れたなら、只では治まらぬと、忠興は恐れていたのである。玉子が味土野に行ったのち、家臣のすすめでおりょうを側室としたが、その後、玉子の生きている間は、玉子一人を守り通したほどに熱愛した忠興だった。その忠興にとって、どれほど秀吉の好色が恐ろしかったか、想像以上のものがあったろう。
秀吉は曾て、大坂城落成の祝いに、諸侯の夫人を城に招いたことがあった。が、この時も忠興は、玉子が妊娠中であるのを幸い、清原佳代を代理として城に赴かせた。
細川邸は、大坂城の東方玉造門外にあり、教会は城の西にあった。距離にして決して遠くはない。が、他出を許さぬ忠興のもとにあっては、教会も江戸か長崎と同様、遠いところであった。
しかし、今日という今日こそは、玉子は教会に行こうと決意していた。長い間ねがっていたように、今日こそは直接|神父《パアデレ》に教えを乞いたかった。が、それだけが目的ではなかった。いつ死ぬかわからぬ三男光に、洗礼を授けてほしいという強いねがいもあった。
折も折、忠興は秀吉に従って、九州鎮圧に向かい、もう幾日も前から留守である。屋敷内の男の数も少なく、警護の手は薄い。しかも今日は彼岸の中日、侍女たちの多くは例年どおり、寺参りや墓参を許されている。この侍女たちの群れにまぎれて屋敷を出ることは、そう不可能なことには思われなかった。
このような絶好の機会は二度とない。侍女たちは一人残らず玉子の腹心である。あらかじめ、玉子は侍女たちに相談してあった。頼みにする清原佳代は、所用で京都の実家に帰ってはいたが、手筈は決めてあった。
先ず風邪と称して、三日前から玉子は臥していた。玉子が病床にあることは、膳部に働く男や、門を固める者たちにも知られている。留守を守る筆頭の重臣、小笠原少斎も玉子の風邪を疑ってはいない。
(今日こそ!)
床の中で、玉子は高なる胸をしずめていた。
「奥方様」
ひそかに侍女の霜が入ってきた。霜は江州和爾城《ごうしゆうわにじよう》の城主、入江兵衛尉の妻であったが、夫は山崎合戦で討ち死にしている。玉子はそっと床の上に身を起こした。玉子は既に、侍女から借りた小袖を着ていた。
「まあ、勿体ない」
霜は大きな体をちぢめて頭を下げた。
「似合いましょう」
玉子が微笑した。
「お召しものをお代えなされても、奥方様の気高さとお美しさは、かくしおおせませぬ」
霜は不安げにいい、侍女のかつぎをうしろからかけた。
「このかつぎで、お顔を深くおかくしなさいませ。他の者も同様に、深くかくして門を出ますほどに」
霜は急いで、玉子の夜具の中に三つ折りにした座布団を入れ、あたかも人の臥ているようにしつらえた。万事、幾度も相談した手筈に従って、事が運ばれて行く。
廊下を渡る玉子は、さすがに心がふるえた。三年の間ねがいつづけた教会に、今こそ行くことができるのだ。しかし、家中《かちゆう》の者に見咎められたなら、事は終わりである。果たして無事に門外に出られるか、どうか。警護の者は、信長に似た激しい気性の忠興を恐れている。
「さ、裏口からどうぞ……」
裏口に侍女たちが四人ほど待っていた。玉子の姿を見ると、思わず侍女たちは頭を下げた。霜が狼狽して、
「新参のおゆうどのに、頭を下げることは要りませぬ」
と、小さな声で咎め、
「おゆうどのを中にして、急いで裏門を出て行きましょう」
表門の警護はきびしいが、裏門のあたりには、二、三人しか男たちはいない。六人は急いで裏門に来た。
「お寺に参ります」
霜がいった。
「おそろいで、お楽しみなことじゃ」
警護の者は、軽口を叩いて門を開けた。出ようとすると、
「奥方はお病気と伺ったが、こんなに多勢で出てよいのかのう」
霜ははっとしたが、
「奥方さまは、明日あたりからご本復なされましょう。今日は奥方さまのおゆるしをいただいて参りました」
と、先に立って門を出た。
つづいて、みんなが無事に門を出、ほっとした途端である。
「待たれい」
と声がかかった。ぎくりとしてふり返ると、六尺棒を持った背の高い男が、
「その中央に、見かけぬ姿の……」
いいかけた時、横にいた同じく六尺棒の男が、つっと走り寄って、玉子の前に立ちふさがった。
「ご免」
玉子は色を失った。侍女たちも固唾《かたず》をのんだ。男はかつぎにそっと手をかけ、玉子の顔をさしのぞいた。が、
「ははは、こりゃ、先月入ったばかりの新参者よの。行かれい」
と笑った。
しばらくは誰もが無言で足を急がせた。一町ほど行って、ようやく誰かが、
「命が縮む思いでした」
とつぶやいた。
「警護の者たちは、奥方様のお顔など、存じ上げませぬゆえ……」
「ほんに、これは先月入ったばかりの者じゃなどと……」
思わず一同は笑った。が、唯一人玉子だけは笑わなかった。
(初之助!)
自分の顔をのぞかれた時の驚きが去らない。
(初之助、礼をいいます)
それにしても、初之助はいつ、細川家に仕えるようになったのであろう。清原佳代にも初之助の噂は聞いたことがない。
(思いがけぬ時に、現れる男……)
玉子は知らなかったのだ。初之助が去年の暮れ、興元を通して仕官したが、まだ出陣には加えられず、主に警護に廻されていたことを。
(神のお守りというもの……)
玉子の心は、もう初之助から教会に飛んでいた。
大坂城の濠にうつる三月の雲がやわらかい。あたたかい日ざしの中を、自由に歩ける町の女たちの姿が、玉子には珍しくも羨ましかった。あのように自由であれば、自分もまた思いのままに教会に行けるであろうに。そうは思いながらも、初めて教会堂に近づく玉子の心は弾んでいた。
午後の聖堂には、人は一人もいなかった。祭壇には、黄色いれんぎょうの花が飾られ、マリヤとキリストの像が立っている聖堂は、清い静けさに満ちていた。霜ともう一人の侍女加賀を伴った玉子は、いばらの冠をかぶり、十字架に釘づけられたキリストの像を見上げて立った。その手と足の、何と痛々しいことであろう。しかしまた、そのまなざしの、何といつくしみ深いことであろう。
(み仏の像ともちがう)
半眼に、開けるとも閉じるともつかぬ仏像の目を思いながら、玉子は深いおどろきをもってキリスト像を見上げた。そのいつくしみのこもったまなざしには、手足を釘づけにされているとは思えぬやさしさがあった。悲しみを知った者のみが持つ慈愛に溢れていた。
「父(神)よ、これらの人々をゆるし給え。その為すところを知らざればなり」
この十字架の上で、キリストはご自分を十字架につけた者共のために祈られたのだ。佳代から聞かされていたそのキリストの言葉が、玉子の胸に迫った。玉子はキリスト像から目をそらすことができなかった。今にもその口から、自分に語りかけるみ声が聞こえてくるようであった。
恍惚として立ちつづける玉子の前に、黒衣を長く着た神父《パアデレ》が静かに現れた。
「何カ、ゴ用デ、ココニキマシタカ」
玉子は、深々と礼をしながら、これが神父《パアデレ》かと、心がふるえた。
「はい、教えをいただきに伺いました」
「オオ、ソレハ、ウレシクオモイマス」
セスペデス神父は、血色のよい笑顔を、玉子に向けた。威厳に満ちつつ、親しみ深い笑顔だった。玉子はそこに、キリストに従う者の姿を、いち早く感じ取った。
「何、オキキシマスカ」
セスペデス神父の日本語は、あまり上手ではなかった。特にカ行の音がいいづらそうであった。神父はコスメ修士を呼んだ。しかし玉子の豊かな感受性と知性は、セスペデス神父の人格のうちに、ただちに真理の光を見た。一言の説教をせずとも、そこには真の信仰者の姿があった。
のちに玉子は、この時の印象を次のように佳代に語った。
「セスペデス神父さまのような、深く、清く、慕わしいお方が、この世にいられるとは、想像もできないことでした」
当時日本へは、特に優れた神父が選ばれて派遣されていたといわれるが、このセスペデス神父は、その中でもとりわけ高潔な人格の持ち主であったと伝えられている。
さて、短躯だが知性のひらめきを感じさせるコスメ修士が、セスペデス神父に代わって現れると、玉子はすぐにいった。
「故あって、名前も申し上げられませぬ非礼を、先ずおゆるしくださりませ。わたくし、三年前より、キリシタンの教会に参上いたしたく、ひたすらねがって参りました者でござります。いま、ようやく念願かなって、夫の留守を幸い、ここに駆けつけることができました。二度と伺えるかどうか、わかりませぬ。一生に一度のことかも知れませぬ故、時を惜しんでのお尋ね、失礼とは存じますが、どうぞおゆるしくださりませ」
その美貌と明晰な語調に、コスメ修士は圧迫さえ感じた。
「あの十字架にかかるべきは、実はわたくしども罪深い人間であると申さるること、それはまことでござりましょうか」
「死後、人はいずこにおりますのか」
「己が主人を殺した臣下の魂を、神はいかに罰せられましょうか」
「神を信ずることなく死んだ魂は、いかが相成りましょうか」
「死者に代わって、生きているわたくしどもが、何か償うことができましょうか」
「親の罪は、子に報いが参りましょうか」
矢つぎ早に発せられた質問の多くは、死後のこと、死んだ者に関することであった。コスメ修士は、のちにこの問いが、明智光秀の娘としての悩みであり、ひよわい幼子を持つ母の悩みであることに、思い当たるものがあった。
玉子はまた、コスメ修士から、今日は復活節《イースター》でキリストのよみがえりを祝う日である、と告げられると、
「キリストさまがご復活なされたことは信じますが、わたくしどもまで復活できるとは信じられませぬ。あなたさまは、心からお信じになられますか。ご復活をお信じになるなら、いついかなる時も、死はむしろ喜びでござりましょう」
と迫るように尋ねた。
玉子の態度は、終始真剣そのものであった。一言一句、魂の奥底から叫び出るようであり、しかも、全身全霊に彫りつけるように、答えの一語一語に耳を傾けた。腑に落ちねば、率直に、
「今のお言葉、わかりかねます。申しわけござりませぬ。もう一度お教えくださりませ」
と問い返した。ひき入れられてコスメ修士も、熱誠こめて語った。
玉子の問いには、既に右近や佳代を通して答えを得ているものもあった。が、玉子は、今は人づてではなく、直接自分の耳で確かめたく、必死だった。
「キリシタンは、啓示の宗教と伺っておりますが、何をご啓示なされましたか」
「おんいつくしみの神が、なぜ人々に苦しみをお与えなさるのです」
「なぜ、神にそむくような人間を、神はおつくりなさったのです」
問いは次から次へと、絶えることがなかった。
その玉子の熱心さを、ルイス・フロイスは故国への報告書に次のように書き残している。
〈夫人は非常に熱心に修士と問答を始め、日本各宗派から、種々の議論を引き出し、また吾々の信仰に対し、様々な質問を続発して、時には修士をさえ、解答に苦しませるほどの博識を示された。修士は夫人を、
「日本で、いまだかつて、これほど理解ある婦人に、また、これほど宗教について深い知識を持っている人に会ったことはない」
といった。〉
玉子は、長い間ねがってきた教会に来て、こうして話し合えることに、溢れるばかりの感激を覚えながら、
「修士さま、お時間をとらせて申し訳ござりませぬ。もうひとつ、お教えくださりませ。なぜ、パアデレさま方は、そのようにお顔が輝いておられるのでござりましょう。親きょうだいを遠いお国に置かれて、言葉も習慣もちがう異国で、何の淋しいこともござりませぬか」
かつて、味土野の山奥に、夫や子供と引きさかれて暮らした玉子らしい問いであった。
「ムロン、親キョウダイトハナレ、クニヲハナレテイルノハ、淋シイデス。ワタシタチモ、オナジ心ヲモツ人間デスカラ。ケレドモ、神サマハオンイツクシミノ方デス。ニッポンニモ、キョウダイタクサン与エテクダサイマス。神ヲ信ズルヒト、ミンナ神ノ子デス。神トトモニアルカギリ、セカイジュウ、ドコモワタシノフルサトデス。神サマハ、オンイツクシミノオ方デス」
コスメ修士は楽しそうに微笑し、
「カナシム者ハサイワイデス。神ノナグサメガタクサンアリマス」
「え? 悲しむ者は幸い? ……」
「ハイ、カナシム者、弱イ者ハサイワイデス。神サマノオチカラハ、弱イトコロニ完全ニアラワレルト、聖書ニ書イテアリマス」
玉子の全身は、何ものかに貫かれたような衝撃を覚えた。
「オサナゴニナルノデス。オサナゴハ、母ノフトコロニ、ナンノ不安モ、オソレモナク眠ルデハアリマセンカ。神ノフトコロニ、安心シテネムルノデス。神ハ慈愛ノ方デス。母ヨリモ慈愛ブカイノデス。慈愛ブカイ人ニハオソレガナイ。神ヲ信ズルモノニハ、オソレガナイ。神ヲ信ズルモノハ、人ニ慈愛ブカイノデス。慈愛ブカイ人ニハオソレガナイ。平安デス。君主モ、敵モオソレマセン。神トトモニアルモノハ、敵ニモ慈愛ブカイノデス。神ハ慈愛ブカイノデス。神カラ慈愛ヲモラッテクダサイ。神ハ、異国モフルサトニ変エテクレマス。ワタシハフルサトニイマス。ヨロコビマス。ウレシイデス。神ハ慈愛ブカイカラデス」
玉子の真剣さに打たれて、コスメ修士は更に熱心に話しつづけた。その言葉がまた、玉子の心を打った。そこには、人々の持つ感情をはるかに超えた高い世界があった。父母一族の滅亡を悲しみ、側室おりょうの子を呪い、右近の面影に惑い、病弱なわが子に心沈み、しばしば夫に不満を抱いてきた玉子にとって、それは、今更のように驚くべき世界であった。
日頃、右近や佳代の信仰に心打たれていた玉子に、コスメ修士の話は、更に新たな力を持って迫った。いつしか、玉子の目には涙が溢れていた。玉子は、傍に侍女たちのいるのも忘れて言った。
「何卒《なにとぞ》、この場でわたくしに洗礼をお授けくださりませ」
「コノ場デ!? キョウ、ハジメテ教会ニコラレタアナタサマニ!」
コスメ修士は狼狽した。
「修士さま、教会に参りましたのは、今日がはじめてでも、わたくしは『こんてむつすむん地』をそらんじております。キリストさまが、この罪深き者のために十字架にかかられましたことも存じております。このキリストさまを信ずる者が救われることを、存じております。この教えには、まことに『命』のあるのを感じます。人間を生かす、本当の命が感ぜられます」
「ワカリマシタ。デハ、スグニ洗礼ノジュンビヲイタシマショウ。イマ、セスペデスサマニ、ウカガッテキマス」
「まあ、何とありがたいことでござりましょう」
玉子が喜んだのも束の間、セスペデス神父が入って来て言った。
「信仰ハ、シンケンナコト、命ガケノコト。ナガイ準備、祈リ、タイセツデス。マタ、オイデナサイ」
「神父《パアデレ》さま、わたくしは二度と伺えませぬ」
「ナゼデス。アナタ、オナマエ、ワタシ、シリマセン。オナマエ、イッテクダサイ」
「おゆるしくださりませ。名前は、故あって申し上げられませぬ」
「ソレ、コマリマス」
神父たちは、玉子の気品と美しさに、只者ではないことを感じとっていた。内心、関白秀吉の側室で、大坂城内に住む女性ではないかと危惧《きぐ》していた。関白の側室に軽々しく授洗することは、宣教上危険でもあり、またさまざまの疑義もあった。
「名前を申し上げねば、洗礼をお授けくださりませぬか」
玉子は、はらはらと涙をこぼした。どんな思いでここまで出てきたかを、玉子は語りたかった。が、胸が迫って言葉とならない。玉子は吾を忘れて嗚咽《おえつ》した。
と、その時、外が俄かに騒がしくなった。はっとする間もなく、聖堂の戸があけられ、どやどやと五、六人の男たちが入ってきた。
「おお、ここにおられましたか」
小笠原少斎が平伏した。
「…………」
「大坂の寺という寺、いや、もう必死でお探し申しましたぞ。さ、すぐにお帰りくださりませ」
「少斎、情けじゃ。今しばらくの時を、ここに……」
何とかして玉子は、セスペデス神父に洗礼を授けてほしかった。
「なりませぬ。万一、このことが殿のお耳に入らば、いかなるきついお咎めを受けるや知れませぬ。さ、奥方を輿《こし》にお乗せ申せ」
あっという間のできごとであった。神父も修士も、口をはさむひまもなく、玉子は無理矢理連れ去られてしまったのだ。
修士はひそかにあとをつけ、輿が細川邸に入るのを見届けた。
初之助は、御留守居役小笠原少斎の咎めを得て、数日謹慎させられたが、玉子は無論それを知らなかった。
受洗こそできなかったが、教会に行って玉子の信仰は全く定まった。十日ほどして清原佳代が京都の実家から細川邸に帰ってきた。玉子の顔は霊的な喜びに輝いていて、留守に何か起こったのを佳代は敏感に感じとった。
玉子は早速一部始終を佳代に告げた。
「お方さま、何とよいことを……」
佳代は喜んだ。
「でも、佳代どの。もはや二度と外出はできませぬ。あのお城のすぐ向こうに、教会はありますものを」
と玉子はいい、
「佳代どのに早速おねがいがあるのです」
「何なりとお申しつけくださりませ」
「あなたは、この奥の中では、一番自由に外出を許されております。今後は、わたくしの代わりに足繁く教会に行き、パアデレさまのお教えをとりついでほしいのです」
「まあ、何と幸いなおつとめでござりましょう」
「わたくしの手紙に、パアデレさまから、お返事をいただいてきてくださるように」
「かしこまりました、お方さま」
「行く時には、必ず侍女を二、三人ほど、かわるがわる連れて行くのです。みんなが教会に馴染み、み教えが聞けるように」
玉子の顔は生き生きとしていた。
「佳代どの。ふしぎなことに、わたくしは、この不自由な生活さえ、何か楽しいことのように思われてきました」
「お方さま、何とすばらしい……」
佳代は声をつまらせた。
「そなたの長い間の祈りがかなえられたのです。殿のお留守を幸い、毎日少しずつでも、『こんてむつすむん地』を読む席を設けるつもりでおります」
「申し上げる言葉もござりませぬ」
玉子の中に、明らかにちがった玉子が誕生したのを、佳代は感じないではいられなかった。
「わたくしは、侍女たちにも、何か詫びたいような心持ちになるのです」
「…………」
「誰にでも、やさしくしてあげたい思いで一杯になるのです。今までは、誰にもやさしくすることを知らなかったような気がして……」
「いいえ、お方さまは、本当におやさしくしてくださります」
「いえいえ、わたくしは今まで、知らず知らずのうちに、自分が何か、人より値うちのある者のように思っておりました。神のひとり子のキリストさまが、わたくしたちのために十字架におかかりになられた尊いみ心を思いますと、高慢だった自分が身に沁みて恥ずかしくてならないのです」
謙遜な態度が、その表情にも姿にもあらわれていた。佳代は、玉子の純一な信仰に、またしても驚嘆せずにはいられなかった。
半月ほど経って、玉子はいった。
「佳代どの。いつわりはいかなる場合も、罪でありましょうか」
「さあ、どのようないつわりでござりましょう」
「実は昨日、このようなことがありました」
玉子は昨日、侍女に警護長を呼びにやった。警護の長は、奥に出入りを許されている家臣の一人である。何事かと急いでやってきた警護の長に、玉子はみす越しにいったのである。
「あなたはすべてのことに知識の深い方とのこと、お尋ねしたいのですが」
警護長は、あまりにもやさしい玉子の声音に平伏し、
「いや、身共は浅学の者なれば……」
「いえいえ、あなたにお尋ねすれば、大ていのことはご存じと聞いております。実は侍女の一人が南蛮寺から帰ってきて申すには、キリシタンでは、死者に供養の物品を祭るは無意味であると申しているとのこと。キリシタンは、まことにそのようなことを申すのでしょうか」
「さて、身共は、キリシタンのことはとんと存じませぬが……」
「そなたほどの方でも、キリシタンのことは存ぜぬといわれるか。さて、それは困りました。もっとも、キリシタンは近頃入った宗教ゆえ、そなたのようなもの知りでさえ、知らぬも当然かも知れませぬ」
もの知りもの知りといわれては、警護長も悪い気はせず、
「そのことをどうしても、お調べになりとうござりますか」
「はい。実は六月には、父の命日も参ります。供養の品々について、今から心づもりもしております。たとえ異教の教えでも、死者への供物は無益だと申されますと、わたくしの気性としては、妙に心にかかるのです」
「なるほど、わかりましてござります。では、わたくしが南蛮寺に参り、パアデレたちに伺って参りましょう」
「まあ、ほんに、そうしてくださりますか。侍女たちの言葉だけでは、心もとなく存じます。そなたなら、よくわかるように説明してくださるでしょう。死者に関してのことを、特に詳しく伺ってきてくださるように」
警護長は喜んで、早速明日にでも教会に行こうと誓って退出した。玉子はこれらの次第を佳代に告げ、
「佳代どのにも、急いで教会に参り、これこれの者が教えを乞いに来ます故、キリストさまのこと、よくよくお教えくださるようにと、伝えてほしいのです。只、このようなことが、いつわりにならぬかどうか、気にかかるのです」
早くも玉子は、あらゆる機会に、あらゆる方法をもってキリストを伝えたかったのだ。佳代は玉子の積極性に瞠目した。なお、この警護長は、前年息子を死なせていた。その嘆きを玉子は知っていて、死者の問題を問わせたのである。いわば一つのはからいであった。これがきっかけで、この警護長は、妻に洗礼を受けさせたのち、自分もまた信者となった。
キリシタンとして自覚した玉子はこのようにして働きはじめたのであった。当時日本語の聖書はまだなかった。玉子は、自ら聖書を学ぶために、いち早くポルトガル語、ラテン語を学びはじめた。
こうして玉子が確たる信仰の歩みをはじめた時、関白秀吉は、突如キリシタン禁令を発したのである。
二十三 玉子受洗
玉子の部屋に、侍女たちが集まって、玉子と共に『こんてむつすむん地』を学んでいる。六月下旬の、むし暑い雨の午後である。佳代と二人の侍女が教会に行っていて、まだ帰らない。いつもは疾《と》うに戻っている筈なのだ。心にかけながらも、玉子は澄んだ声で読んでいく。
「皆人《みなひと》、生得《*しようとく》物を知りたく思ふなり」
一同が玉子につづいて、
「皆人、生得物を知りたく思ふなり」
と和す。
「しかれども、でうす(デウス)のをそれなき知恵は、なにの益ぞ」
「しかれども、でうすのをそれなき知恵は、なにの益ぞ」
侍女たちの声が弾《はず》んでいる。一人残らず洗礼を受けているのだ。自由に外出できぬ玉子に代わって、しばしば清原佳代が教会に質問を持って行く。侍女が二、三人共に行き、神父の懇切な答えを何時間も聞いてくる。そうした中で、侍女たちはおのずからキリストを求めはじめていった。
屋敷に帰れば、彼女たちの学んだ言葉に、誰よりも熱心に耳を傾ける玉子がいる。玉子は玉子で、一日のひまな時をえらんでは、一同に『こんてむつすむん地』を教える。こうした日々を重ねているうちに、誰もが洗礼を受けるようになって行ったのだ。
いまは、受洗していないのは、他出を禁じられている玉子だけとなった。その玉子の指導で今日も共に道を学んでいる。
「まことにわたくしどもは、さまざまなことを知りたく思うものです。縫うこと、料理すること、花を活《い》けること。殿方も、築城のこと、戦いのこと、学問のことなど、より深く知ろうとして励んでおられます。でも神《デウス》を畏《おそ》れかしこまぬ知恵は、本当に何になりましょう。わたくしも、少し何かを知りますと、恥ずかしくも心|傲《おご》り、無知な者を見下げたりいたします。本当にデウスを畏れる思いがあるならば、学んだ知識を、人々に仕えるために、人々のお役に立つために、使わせて頂こうと思うでありましょうに」
玉子は語った。侍女たちがうなずいて聞いている。
「ところで、佳代どのたちは今日はずいぶんと帰りが遅いようですこと。道々、もしや何かのまちがいでも……」
「お方さま、佳代さまに限って、そのようなことは……。神父さまとのお話が弾んだのでござりましょう」
と侍女の一人が打ち消したが、他の一人が、
「でも、いつもならもう疾うに戻られている頃。万一暴れ馬などに……」
と顔をくもらせる。
「まさか、そんな変事があれば、すぐに邸に知らせが参りましょう。教会はそれほど遠くはありませぬ」
「おや? あの足音は」
一人がすばやく立ち上がって廊下に出、
「お方さま、佳代さまがただ今戻られました」
と、うれしそうに声を上げた。
佳代と、二人の侍女が急いで部屋に入り、平伏した。
「お方さま、遅くなりまして、も、申し訳もござりませ……」
語尾が消えた。佳代は泣いているようであった。ただ遅くなっただけでは、泣くはずもない。供の侍女たちも、肩をふるわせている。
「みんなで心配していたところです。でも、無事で戻られて安心しました。神父《パアデレ》さまは、お元気でいられましたか」
今日は、特に質問があったわけではない。大きな鯛《たい》が手に入ったので、手づくりのカステーラと共に届けさせたのである。
「はい、それが……」
佳代は顔を上げて、じっと玉子を見つめた。まぶたが赤くはれている。はっとして玉子は、
「お病気でしたか」
「いえいえ、神父さまはおすこやかにいられましたが、わずか二、三日教会へ参りませぬうちに、大変なことに相成って……」
「大変なこと? 一体それは」
「お驚きなされませぬように。お方さま、殿下は、九州にてキリシタン禁制を発布なさりました」
「えっ!? キリシタン禁制を?」
侍女たちも一斉にざわめいた。
「はい、お方さま。宣教師国外追放とやらも……」
「まさか、そんな……」
さすがの玉子も息をのんだ。
「はい。ついこの間まで、殿下は大のキリシタンびいきでありました」
「たしかに。島津征討の折には、秀吉様は一同に告解やら、聖体拝領までさせたとか、旗じるしも十字《クルス》に揃えたとも伺いましたが……」
「はい。でもお方さま、ご禁制の第一の槍玉には、右近さまが上げられ、キリシタンを捨てねば、領地没収との使いをたてられて、改宗を迫られましたとか」
「まあ」
侍女たちもみな顔色を変えた。
「それで、右近さまは?」
「はい、お方さま、右近さまは平然として、領地没収の儀をお受けになられました由」
佳代ははらはらと涙をこぼした。
「さすがは右近さま。いさぎよく領地は召し上げられましたか」
玉子は深い感動に、戦慄さえおぼえた。
父の光秀は、信長のいわれなき領地召し上げに悩んだ挙げ句、反逆したのである。しかし右近は、平然と領地を捨てて、無一文となったのだ。玉子は、右近の日頃の言動が、全くいつわりでなかったことを改めて知らされ、信仰の火が胸の底から燃え上がってくるのを覚えた。
「では、神父さまたちも、日本の国を去られますのか」
「はい、二十日以内に、去らねばならぬとの命令だそうにござります」
「二十日以内?」
玉子は胸のうちで日を数えるまなざしになったが、やがて侍女たち一人一人に目をとめて、静かにいった。
「キリシタンご禁制となりましたからには、わたくしどもの上にも、どのような迫害がくるやも知れませぬ。特に、殿の留守に洗礼を受けました故、殿お帰りのあかつきは、どれほどのお怒りをこうむるやも知れませぬ。万一の場合は命にかかわらぬとも限りませぬ。それ故そなたたちに申しておきますが、この邸よりひまを取るも、信仰を捨てることも、一切そなたたちの心のままになさるがよいと思います」
「お方さま、お言葉ながら……それはお方さまのお言葉とも思えませぬ」
先ず、佳代がいった。
「さようでござります。お方さまは、たとえ主君の命といえども、信仰は大事、決して信仰を捨ててはならぬと、常日頃仰せられておられたではござりませぬか」
「ほんに、お方さまはいつもそのようにお教えくださりました。わたくしは信仰を捨てませぬ」
「わたくしも捨てませぬ」
侍女たちは口々に言った。
「わかりました。そなたたちの真の信仰を、どうか神《デウス》が祝してくださりますように。では、わたくしも、一刻も早く受洗を急がねばなりませぬ」
「え? ご受洗を」
「そうです。ご禁制になったと聞けば、じっとしてはいられませぬ。二十日以内に神父《パアデレ》さま方は、ご帰国なさりましょう。何とか、一日も早く、わたくしも洗礼を受けねばなりませぬ」
「お方さま、それは……」
「殿のご帰陣も間近故、お留守の間に事を運ばねばなりませぬ」
「お方さま。……でも、それは……」
一同は顔を見合わせた。
たった今、右近が領地没収になったと聞いたばかりである。身軽な侍女たちと、細川忠興の妻である玉子とは、立場がちがう。玉子が受洗してキリシタンになったとあれば、細川家もいつ没収の憂き目に遭うか計り知れぬ。しかも玉子は明智光秀の娘である。侍女たちがためらうのも当然であった。事があまりにも大きすぎるのだ。
「そなたたち、何をうろたえているのです。神《デウス》ご一体を万事に超え、大切に敬い奉るべしとの御教えに、只従うだけのこと。秀吉どのは、いかに位は人臣を極めても、人間に過ぎませぬ。たとえ、わたくしどもの体を亡ぼし得ても、魂まで亡ぼす権威はござりませぬ。恐れることはありませぬ」
「…………」
「キリストさまにならって、今こそ迫害を受ける光栄に預からせていただけるのです。ああ、キリストさまに従って、永遠の命に入らせていただけるとは、何と幸いなことでしょう。さ、何とかして、教会に参れる手段《てだて》はありませぬものか」
玉子の顔は輝いていた。キリシタン禁制が玉子を強くしたのだ。右近の信仰が玉子を励ましたのだ。戦に赴く武士のように、玉子は心躍るのを覚えていた。一同は心打たれて、今はもう、その受洗の決意を妨げようとはしなかった。
「では、お方さま、誰か一人が、宿下がり(辞職)をねがい出たことにいたします。荷物は長持ちにて運び出します故、おそれ多いことながら、その中におかくれなされては……」
佳代がいった。玉子は手を打ち、
「さすがはお佳代どの。では早速、神父さまにお便りいたします故、その手筈をととのえてくださるように。みんなもどうか心を合わせて、すべてのキリシタンのために、そして、この事が成しとげられるために祈ってくださるように」
玉子の言葉に、一同は平伏した。
俄かに奥の棟に緊張の気が漲《みなぎ》った。侍女たちの和が、一層よく保たれた。が、玉子が長持ちに入って、無事脱出できるかどうか、且つ受洗が許されるかどうか、神父の返事も待たねばならなかった。
(それにしても、なぜ、こうも急にキリシタンご禁制となったのであろう)
玉子はふしぎでならなかった。
大坂に教会の敷地を選定し、ここに教会を建てるようとりはからったのは、ほかならぬ秀吉である。秀吉はキリシタン大名高山右近を称揚し、右近に新たに明石を領地として与えた。明石の仏僧たちはキリシタン大名である右近を恐れ、秀吉に特別の庇護をねがい出たが、
「そんなことは、わしの知ったことか。領地は領主の思うままにするがいい」
と、言い放って、とりあわなかった。
いや、ついこの間まで、
「わしは信長公に負けぬキリシタンびいきじゃ」
と言って、秀吉を訪ねた新任の日本イエズス会準管区長コエリョを、大名たちにも見せぬ茶室に案内し、その寝所で宴を催し、箸使いの無器用な神父たちのために、さしみを自分ではさんで馳走するなど、歓待の限りをつくしたりしていたのだ。
何が秀吉にキリシタン禁制を敷かせたかは、諸説がある。
九州討伐を終えた六月十九日のひる、秀吉はコエリョを博多滞在中の彼の軍船に訪ね、キリシタン布教を援助する約束をしている。が、その夜半、突如としてパアデレ追放令を発したのである。
一つには、このコエリョを訪ねたことと、禁制が無関係ではなかったのではないかといわれるが、多分にそうかも知れない。
即ち、この新任のコエリョは、浅薄な人物で、秀吉の性格及び当時の日本の実情を見きわめることができなかったというのだ。宣教師オルガンチノや、キリシタン大名高山右近、小西行長の助言を容《い》れずに、
「九州の全キリシタン大名を、わたしは一言の命令で、直ちに殿下にお味方させてみせましょう」
とか、
「ご入用なら、外征の際、ポルトガル船を殿下のためにお世話してさし上げましょう」
などと約束した。
九州討伐は、全軍|十字《クルス》の旗印のもとに戦って、忽ちにして戦果をおさめた。コエリョをその持ち船に訪ねた際、秀吉は内心、自分が九州征伐に勝ち得たのは、あるいは自分の力ではなく、このコエリョの力ではないかと恐れをなした。
確かに、キリシタン大名の神父に対する礼は厚かった。その出陣の途中、右近は黒田官兵衛のはからいで、わざわざ山口に神父たちを訪ねている。神父たちは戦火を避けて、九州から山口に逃れてきていた。
キリシタン大名たちが、このコエリョや神父たちの命令で、いつ自分を亡きものにするかわからない。信仰者の一致団結の強さは、これまでの度々の一揆、そして石山本願寺の反撃など、信長でさえ手を焼いたほどで、秀吉も身に沁みて覚えている。わけても小西行長、黒田官兵衛、高山右近らキリシタン大名は、諸大名の中でも実力者である。彼らが一致して神父の命令に従うことを、秀吉が恐れたであろうことは充分に想像される。
そうした秀吉の前に、もう一つの事件が生じた。
名代の好色家の秀吉には、九州に来ていて見そめた女があった。馬上から一べつしただけだが、そのふくよかな頬から肩へかけてのみずみずしさ、微笑をたたえた口もとの愛らしさには、曾て知らなかった新鮮な魅力があった。
その女の斡旋方を頼まれていた男が、その夜秀吉に催促された。
「どうした、あの女のことを忘れたのか」
「殿下、忘れはいたしませぬ。身共も幾度となく足を運んで、説得これつとめましたが……あれは、おあきらめになったほうがよろしゅうござります」
「なに? あきらめろとな。それはまたどうしてじゃ」
関白の身に、ままにならぬ女がいようなどとは、思いもかけぬことだった。
「あの女はキリシタンにござります」
「キリシタン? キリシタンでも別にかまわぬ。金はいくらでも積んでやれ」
「殿下、キリシタンは小娘でも油断がなりませぬ。たとえ殺されても、男のおもちゃにはならぬ、かように申しますれば……」
「なに? たとえ殺されても、この関白のわしの寵は受けぬとな」
「は、キリシタンは、死ぬことなど何とも思ってはおりませぬ。神の心に反することは、殺されてもしないと、はっきりその娘は申しましてな。永遠の命に入ることのほうが大事だと、身共は逆に説教されましてござります」
「ふむ、あの小娘が、死をも恐れぬというのか」
「はい殿下、キリシタンは小娘でさえ、殿下の命令を、何とも思ってはおりませぬ」
「そうか、あの小娘でさえ……」
秀吉の目が異様な光を帯びた。小娘でさえ意のままにならぬとあれば、大名たちは、どうであろう。不安にかられた秀吉は即刻高山右近に手紙をつきつけた。右近は秀吉の宿舎の近くに宿っていた。
「其方、平素より伴天連宗門の流布に努め、諸大名を入信せしめたる上、肉親以上の深き心にて交わり居る。これ深く思えばまことに天下を危うする虞あり。其方予の臣たるならば直ちにこの信仰を捨つべし。もしこの命に服さぬ折は領国召し上げと存知すべし」
という文意である。
右近は、使者のあわただしい様子を怪しみつつ、秀吉の手紙を読んだ。コエリョの日頃の言動から、いつかはかかる事態に陥ることを憂えていた右近は、覚悟ができていた。右近は、秀吉の猜疑《さいぎ》心の強さ、嫉妬心の強さを知悉《ちしつ》していたからである。
秀吉の急使が右近の宿舎につかわされたことは、近隣の諸大名たちの宿舎にすぐ伝わった。
「何事ぞ!?」
と馳せ集まった諸公たちは、その手紙に驚き、
「右近殿、いかがなさる所存じゃ」
と憂えた。
「神《デウス》が、身共のような者を、このような迫害を受けるに足る者としてお選びくだされたことは、何という光栄でござろう。喜んで領地を没収されようではないか」
「な、何と申される……」
一同はあまりのことにしばし絶句したが、
「のう、右近殿。これは、殿下の一時の気まぐれかも知れぬ。そう本気で答えることは不要と申すもの。ここはひとまず、仰せに従いますと申し上げ、心のうちの信仰は捨てねば、それでよいではござらぬか」
使者も、
「右近殿、それがよろしゅうござるぞ。明日になれば、殿はもうご機嫌がなおっているやも知れませぬ」
とすすめた。
「ご厚情はありがたく存ずる。しかし、事、神《デウス》に関する限り、いささかの不真実をも許されませぬ。神《デウス》は真実な方でいられる。拙者は今、神《デウス》に、汝は吾と彼といずれに従うや、吾と領地といずれを大切とするや、と問われているように思われるのじゃ。御使者、ご苦労に存ずる。禄も領地もお返し申し上げるとお伝えいただきたい」
使者はためらって、立ち去ろうとしない。
「よろしい。では身共が殿下にじきじきご返答申し上げる。身共に信仰があればこそ、殿下にも真実と忠誠をつくし得てきたことを申し上げようぞ」
立ち上がった右近を、使者は蒼くなって止めた。
「殿下に今宵お会いになるは、危険でござります」
「そうじゃ、そうじゃ、今はならぬ。やまれい、右近殿」
友人たちも、あわてて押しとどめた。
使者より返答を聞いた秀吉は、
「う、右近めが!」
と、声をふるわせた。
恐れていた答えが、最も頼みとしていた右近からさえ跳ね返ってきたのだ。秀吉は激怒した。
が、秀吉はやがて怒りを押し静めた。
(本心ではあるまい)
秀吉は狡猾な笑いを浮かべた。いま、右近を失うことは、秀吉にとって大きな損失である。右近の勇敢さは他に比すべくもない。秀吉は九州征討の陣に侍っていた千利休を呼び、再度使者に立てた。利休は右近や忠興などの茶道の師であり、右近は利休七哲の一人なのだ。
「よいか、利休。右近が思い返すならば、肥後の佐々氏に仕えさせようとな、そう伝えて説得してほしいのじゃ。このまま捨て去るには惜しい男じゃ」
「かしこまりました」
利休は右近のもとに急いだが、内心、右近の潔さに深い感動を覚えていた。
「これはこれは、夜分、恐縮に存じまする」
師の利休の入来に、右近はひれふした。利休が秀吉の言葉を伝えた。
「お師匠さま、君主の命《めい》といえども、師の命といえども、神《デウス》よりこの身を離れさせることはできませぬ」
利休はじっと右近を見、
「右近殿、天晴れでござる。その清く静かなる境地こそ、茶人の吾々も究めたきものでござる」
と感嘆した。
利休が秀吉に切腹を命じられたのは、この四年後であった。利休もまた、秀吉の権力に屈服する人間ではなかったのだ。更に、その娘が秀吉の寵を拒否して死んだことも、史上よく知られているところである。利休もキリシタンであったのかも知れない。茶道と、カトリックの聖餐の作法が酷似しており、濃い茶の廻しのみも、その精神はキリシタンに発するともいわれる。
それはともかく、こうしてその夜、コエリョに詰問状が発せられ、ついで夜半、キリシタン禁令が布かれたのであった。
その詳細を玉子が伝え聞いたのは、無論後のことである。
玉子は、いまはただ、一刻も早く受洗をしたいとねがい、長持ちに入って邸を出る旨を、神父に手紙で訴えた。が、その企ては神父たちの受け入れるところとはならなかった。神父たちは、突発した非常事態の中で、玉子の企てを好ましくないと判断した。もはや、誰もが禁制の事情を知っている。このような時に、玉子の受洗のための外出が、万一他に洩れては、教会の立場も一般信徒の立場も、危険を増すばかりであるというのである。
但《ただ》し、受洗は必ずしも神父の手を要するとは限らない。信徒が神父の代わりに洗礼を授けることもできるから、その任を清原マリヤに果たさせようという返事であった。
今まで、神父のみが洗礼を授け得ると信じていた玉子が、この特例に大いなる感謝を覚えたのはいうまでもない。佳代が、神父の入念な指導のもとに、玉子に洗礼を授けたのは、その二、三日後であった。洗礼名は伽羅奢《ガラシヤ》といった。恩寵、聖寵の意である。
玉子は、病弱のみどり児光にも受洗せしめた。幼児洗礼である。ところがふしぎにも、光はこの受洗後、乳房を吸うにも力が出、忠興が九州から帰ってきた七月十四日には、見ちがえるばかりの顔色となっていたのである。
ふだんの時ならば、忠興の帰還は待ち遠しいことであった。が、この度は、信仰の喜びのうちにも一抹の不安を抱いて、玉子は忠興の帰りを待っていた。
留守中に、玉子ばかりか光までが受洗し、侍女たちも一人残らず信者となったのだ。折からのキリシタン禁制の中にあって、忠興が何というかわからないのだ。右近の話を、こと細かく取りついだ忠興が、よもやキリシタンに真っ向から反対はしまい。といって、禁制を破ることに、たやすく同意するとは到底思えない。
その夜、いつまでも盃を傾けながら、忠興は冗舌だった。忠興はまだ、留守中の玉子入信のことを知らないのだ。
「よかった、よかった。光がすっかり元気になった」
「九州は暑かったぞ」
などとくり返し言い、九州の気候や、食事、習慣などを土産話に玉子に聞かせて機嫌がよかった。
「ところで右近は、偉い男だが惜しかったな」
玉子は、はっとしたがさりげなく、
「ほんに、ご領地を去られて、どこにおいでになられましたやら……」
「うむ、小西行長が、小豆島にかくまったということだが……」
「して、ご家族も?」
「いや、家族は淡路島に行ったという噂だ」
「どんなお思いでいられますやら」
一国の領主にして、今や一家離散の境涯……玉子は改めて心が痛んだ。
「何でも、右近の信仰を、家族一同も喜んでいたそうだ」
「まあ、それはまた」
ほっとする玉子に、
「しかし、ばかな奴よ、右近も」
と忠興は言った。
「ばか? でござりましょうか」
「そうではないか。右近が信仰を持ったために、あの家中の者は路頭に迷っているわ。わしならば、信仰を守るよりも、家臣を守る。家族を守る。領地、領民を守るぞ」
「…………」
「どうじゃ、それが領主たるものの、つとめであろうが」
「…………」
「何じゃ、お玉、何で答えぬ? そちはそうは思わぬのか」
急に沈黙した玉子に、忠興は不審の目を向けた。
「殿」
玉子はじっと忠興の顔をみつめた。
「何じゃ」
「殿のお考えは、ご立派でござりまする。でも……」
「でも?」
「はい、右近さまもご立派だと存じまする」
「お玉、右近にとって大事なのは、自分の信仰だけじゃ。わしは、領民や家臣や家名を考えているのじゃ」
「はい、けれども、死よりも恥ずかしい領地召し上げに、見事に耐えられました右近さまは……」
「勝手な奴よ、気ままな者よ」
「殿、でも、殿はキリシタンの御宗旨を、大そうほめていられたではござりませぬか」
「それはそうじゃ。が、信仰はほどほどでよい。何も、地位や命を捨ててまで信仰をするものではないわ」
「…………」
「もとより、一人の家来も持たぬ身軽な人間ならば、何もいわぬ。しかし大名たる者が、あのようなことでどうなる。家臣たちはどうすればよいのじゃ。それに、武将が命を捨てるは、先ず主君のためであらねばならぬ。その主君の命令をないがしろにしたるは、勝手気ままな不忠者といわれても仕方がないわ」
もっともらしい言葉だと玉子は思う。しかし、人間が真に人間として生きるということは、権力に従うだけのことであろうか。人間は神の意志によってつくられた。だから、神につくられた者にふさわしく、神の意志にそって歩まねばならない。神の聖潔、正義、真実、そして恩寵を阻もうとする不遜な権力があってはならないのだ。人間には本来尊い心がある。いかなる強い権力をもっても、どうしようもない尊い心がある。この心を大切にせずして、本当の生き方はあり得ない。玉子には、既にそうした確信があった。
「殿、でもわたくしには、力ずくで人の信仰を変えようとなさる秀吉さまのほうが、まちがっておられると存じます」
「お玉! ばかなことを言ってはならぬ」
「いいえ、殿。秀吉さまといえども、人間に過ぎませぬ。人間には、体を亡ぼすことはできても、心を亡ぼすことはできますまい」
玉子は、受洗したことを告白しようと決意した。所詮、いつまでもかくしおおせることではない。いや、かくしてはならぬことなのだ。
「お玉! そちはまるで、キリシタンのようなことをいう」
忠興を見つめたまま、玉子はきっぱりと言った。
「殿、わたくしはキリシタンになりました」
「な、なに!? 何だと? そちがキリシタンだと?」
忠興の顔がさっと変わり、みるみるこめかみの静脈が怒張した。
「はい、無断にて、キリシタンとなりました。何卒《なにとぞ》おゆるし下さりませ」
「そちはあっ!」
喚《わめ》いた忠興は、盃を膳に投げつけ、いきなり玉子の胸ぐらをつかんだ。
「ま、まことか、お玉!」
「はい、まことに」
「そちはわしの妻ではないか。細川忠興の妻ではないか。殿下の耳にこのことが入ったならば、一体そちは何とする!」
「…………」
「そちは、この細川家をとりつぶすつもりか。わしと父上が、苦労して今日まで築いたこの家を、ほ、亡ぼす気か!」
激しく揺さぶられて、玉子の頭ががくがく揺れた。玉子はさっきから、十字架上のキリストの姿を思っていた。自分でもふしぎなほどに心がしんと静まっている。
「いいえ、そんな大《だい》それた……」
「ならば、何でキリシタンになった?」
「殿、わたくしには、キリシタンになる以外に、生きる道がござりませんでした」
「なに? キリシタン以外に、生きる道がなかったと? なぜじゃ。何が不満なのじゃ、何が不足なのじゃ」
「殿、神を信ずる以外に、生きる道のない弱いわたくしの心根が、殿にはおわかりになりませぬか」
「わからぬ。この広い屋敷に十七人もの侍女をつけ、何不自由なく暮らさせているのに、何というわがままじゃ。わしが、そち一人を大事に思うて、宮津のおりょうにひまをとらせたことさえ、そちにはありがたくも、うれしくもないのか」
忠興はぐいと玉子をつき放した。玉子の体が大きく揺らいだ。
「殿、わたくしの……」
「ええい、もう何も聞きとうないわ。キリシタンを捨てよ、キリシタンを捨てるのじゃ。お玉、捨てればよいのじゃ。なぜ答えぬ? 捨てねばわしはそちを斬らねばならぬ。お玉、只一言、捨てると申してみよ」
「殿、憚《はばか》りながら、もはや……」
「捨てられぬと申すのか! お玉!」
やにわに忠興は刀のさやを払った。刀身が無気味に灯に光った。
「殿、ご存分になされませ」
白刃を斜めに、仁王立ちになった忠興を、玉子はじっと見上げ、そして静かに手を合わせた。灯芯がかすかにゆらぎ、壁に映る忠興の黒影が大きく動いた。
と、その時、
「殿! お待ちくださりませ」
駆けこんできたのは、澄という小柄な侍女であった。
「ならぬ! 玉はキリシタンじゃ」
「殿! ではわたくしをご成敗なされませ。わたくしも……」
「なに!? そちもキリシタンか」
「は、はい、殿!」
「うぬっ!」
さっと刀身がひらめき、
「あーっ」
悲鳴を上げて澄がのけぞった。
「何をなされます!」
鼻をそがれてみるみる顔を血に染める澄を抱き起こして、玉子はきっと忠興を見すえた。
「か弱い者にむごいことを! 殿、何卒わたくしの命を召されませ!」
「そちは生かしおく。そちが信仰を捨てねば、女たちの鼻をそぐ!」
顔面蒼白になった忠興は、言い捨ててその場を去った。
二、三日して、忠興はまた、他の侍女の鼻をそいだ。玉子にとって、それは自分が殺されるよりも辛い拷問である。
その夜、玉子を狂おしく抱こうとした忠興に、玉子は言った。
「殿! 殿はこの玉を愛《いと》しいのでござりますか。それとも憎いのでござりますか」
「愛しいに決まっているではないか」
「まことに愛しいのでござりますか」
「愛しくなければ、本能寺の時に、わざわざ味土野にかくまいはせぬ。疾《と》うの昔に殺していたわ。キリシタンのお玉を、こうして抱きはせぬわ」
「殿、玉を愛しく思われますならば、おねがいがござります」
「何じゃ」
「…………」
「何じゃ、何を申したいのじゃ」
「殿、侍女の鼻や耳をそぐことだけは、お許しくださりませ」
「ならぬ! と申したら?」
「わたくしの命を召してくださりませ」
「ならぬ! それはならぬ! そなたを殺すわけにはいかぬ」
「ならば……」
「ならば、何じゃ」
「…………」
「何じゃというに」
「殿! わたくしを去らせてくださりませ」
「去る? お玉、そちは去るというのか」
「はい、わたくしが去りますれば、殿は侍女たちを苛《さいな》みもなされませぬ」
「ならぬ! そなたは去らせもせぬ。殺しもせぬ」
「……では、わたくしはどうすればよろしいのでござりまする」
「キリシタンを捨てればよいのじゃ」
「……それだけは、何としても……」
「聞かれぬというのか。夫のわしの言葉を聞かれぬというのか」
「殿、信仰を捨てよとのお言葉だけは、たとえ殺されようとも従うわけには参りませぬ」
「な、なんとぬかす!」
「けれども、他のことなら、いかなることでも従いまする。食を断てと仰せならば食も断ちましょう。この部屋から出るなと仰せならば、一生この部屋から出はいたしませぬ」
「…………」
「殿! どうでも信仰を捨てよと仰せならば、わたくしを去らせてくださりませ。信仰が細川家を危うくするならば、それが当然……。新しき女性《によしよう》をお迎えなされてくださりませ」
必死な玉子の言葉に、忠興は黙った。
「信ずることは、神より出た力でござります。人間の手で阻むことはできませぬ」
忠興は不機嫌におしだまり、荒々しく玉子を抱いた。
その後も、キリシタンの侍女の耳や鼻をそぎ、あるいはむちで打ったり、剃髪して寺へ追いやるなど、忠興の迫害はつづいた。信仰を捨てよと迫る忠興と、受けつけぬ玉子との間の口論もくり返された。が、信仰以外のことでは、玉子の態度は以前にもましてうやうやしかった。
「夫にはキリストに対する如く仕えよ」
と聖書にあるように、玉子はきわめて従順であった。その従順さが忠興をなだめもし、またいら立たせもした。
が、次第に忠興の迫害は弱まった。父幽斎にたしなめられたことも理由の一つであったが、迫害に屈せぬ玉子や侍女たちの姿に、あなどり難いものを感じてきたからである。しかし、そればかりではなかった。
九月、贅を極めた聚楽第《じゆらくだい》に秀吉が移り、つづいて十月、秀吉は北野で大茶会を開いた。明けて天正十六年四月、後陽成天皇の聚楽第行幸があった。こうした諸行事の中で、秀吉のキリスト教迫害がゆるくなっていたのだ。その上、九月、ポルトガルの大商船が長崎に入港し、商人エマヌエロ・ロベスが秀吉を訪ねた。
前年の宣教師国外追放は、船のないまま、まだ実現してはいなかった。宣教師たちは、ようやくこのポルトガル船で退去することになった。宣教師は追放しても、貿易だけは望んでいた秀吉は、エマヌエロ・ロベスを大いに歓待した。
ポルトガルの様子などを聞きながら、酒を酌《く》み交わしていた秀吉は言った。
「ところで、この度退去する宣教師たちを、貴船に乗せてもらう手筈じゃが」
「伺っております。宣教師たちはみな、もう全員乗船しております」
「それはそれは。いや、宣教師はみな尊敬できる人物ばかりじゃが、どうも日本の国風にあわぬのでな」
弁解するように秀吉は言った。
「さようでござりますか。しかし、殿下。吾々商人も、もうこれを限りに日本に伺うことはできなくなりました」
「なに? もう日本に来れぬと? それはまたどうしたことじゃ」
貿易によって利するところが大きい秀吉は狼狽した。
「はい。わたくしどもは参りたくても、ポルトガル王が……。王は宣教師のおりませぬ国には商船を廻したくないご意向でして……」
「それはなぜじゃ」
「はい、吾々ポルトガル人のほとんどが天主《デウス》を信じておりますので、常に宣教師を必要としております。一日として欠かすことができませぬ。仲間うちに何か争いが起きました時は、宣教師が仲介人となりませぬと、事がおさまりませぬ」
「そうか。なるほどのう」
この後秀吉は、貿易の重要さを思って、キリスト教迫害をゆるめたのである。結局は、一人として日本を退去した宣教師はいなかった。
秀吉の迫害がゆるめば、忠興も玉子たちを責める口実がなかった。忠興としては、細川家さえ安泰ならば、問題はなかったのである。
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生得 生まれつき。また、生まれつき持っていること。
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二十四 迫害
天正十七年、秀吉は小田原の北条氏を攻めた。その前に、諸将の妻子たちを京都に移した。北条氏征討の間の人質である。秀吉は、諸将の中に、北条氏につく者が出ることを予め防いだのだ。このため、邸内から外へ出ることのなかった玉子も京都に移った。
迫害によって、却って信仰の篤くなった者たちが、京都の教会に出入りしていた。その中には、無禄となった高山右近をはじめ、小西行長、黒田孝高、黒田長政の諸将がいた。そればかりか、秀吉の妻の甥、木下勝俊、織田信長の弟織田長益たちも、受洗して教会に集まった。
玉子の外出は依然として許されはしなかった。が、侍女たちが教会に行き、孤児院などに働く信者の熱心な様子を、玉子に絶えず伝えた。
右近が領地を没収された当時、宣教師は六十六名であったが、三年後には百四十名になっていた。信者数も五万を超えていたといわれる。秀吉の迫害は、結局は火に油を注ぐことになったが、玉子もまた油をそそがれた一人であった。
北条氏征討が終わって、再び大坂の玉造にもどった玉子は、邸内に孤児院をつくった。自分の子を見るにつけ、捨てられた孤児たちがあわれで、玉子は侍女たちと共に、むつきの世話から食事のせわまで、心をこめて当たった。
「この小さき者になしたるは、吾になしたるなり」
とのキリストの言葉を思いつつ、玉子はキリストに仕えるように、幼い孤児たちに仕えた。
そんなある日、侍女の霜が、
「お方さま、太閤様のお言葉で、前田利家様は右近さまを、三万石の客礼を以てお迎えなされたげにござります」
と伝えた。
「ま、では太閤様のご勘気がとけて……。それは何よりのおよろこび……」
玉子は思わず声をつまらせた。
つづいて思いがけない知らせが、清原佳代から入った。
「ガラシャ様」
二人っきりの時は、お互いに洗礼名を呼んだ。二人は全く姉と妹のような親しさであった。
「何です、マリヤどの」
「ガラシャさまは、初之助さまをご存じでいらっしゃいましょう?」
「おお、存じておりますとも」
あの、唯一度教会に行った日、かつぎの中の玉子をのぞき、
「先月入ったばかりの新参者よ」
と見のがしてくれた初之助を、玉子は決して忘れてはいない。あれから、早三年になる。が、同じ屋敷にいながら会ったこともない。
「あの初之助さまが、洗礼を受けられました」
「まあ、それは何とうれしいことでしょう」
味土野にいた日に、初之助の笛に慰められたことも新たに思い出された。
「ガラシャさま、初之助さまは修士《イルマン》になられるとか……」
「修士に?」
「はい、いまだお独りの身で、この上は唯神に捧げたいと申しておられました」
「では、細川家を去るのですか」
玉子は一抹の淋しさを覚えた。
「ガラシャさま、初之助さまは、亡き明智光秀さまのご命令で、坂本城と共に果てることは許されませんでした。生涯、ガラシャ様を見守るようにとのご遺言で、あの味土野の奥まで参られ、この細川家にも仕えられました。でも初之助さまは、ガラシャさまのご入信を伝え聞き、孤児院でのお働きをお聞きして、細川家での使命は終わったと思われたのでござりましょう」
「…………」
「けれども、同じ天主《デウス》を信じた初之助さまは、日夜祈りの中で、ガラシャさまをお守りしたいとお思いなのでしょう」
「まあそうでしたか。それは何より心強いことです。この後は、修士になる初之助のために、わたくしのできる限りのことをいたしましょう。先ず水晶のコンタツ(数珠)を届けて下さるように」
玉子はいそいそと告げた。坂本城で唯一人生き残った初之助である。その初之助が信者になったことは言いがたい喜びだった。
〈そなたとわたくしが天主の御血潮により、かく兄妹となりたる上は、永遠までの堅き交わりのほど幾重にもねがい上げ参らせ候〉
コンタツに添えたこの一節が、初之助をどれほど狂喜させたかは、玉子の測り知らぬことであった。
文禄元年、秀吉は宿年の野望、明《みん》征伐の軍を起こした。三月、忠興も朝鮮に渡ることになり、諸将と共に先ず肥前名護屋に集結した。
その出発の前夜、忠興は玉子に言った。
「よいか、お玉、この度は異国までの遠征じゃ。何年かかるかわからぬ大業故、留守は長いと覚悟せねばならぬ。その間、唯一つの心配は太《*》閤殿の悪い癖じゃ」
「悪い癖? と申しますと」
「女癖じゃよ。必ずや諸将の妻たちを慰めると称して、茶会か何かに招くであろう。そして手を出すにちがいない。しかしお玉、どんなことがあっても、そちはなびいてはならぬぞ」
「おっしゃるまでもござりませぬ」
「だがのう、太閤殿は名にし負う好き者、その手だても想像を超えるということじゃ、わしはそれを思うと、気が狂いそうじゃ」
「殿、ご安心召されませ」
「お玉は男の恐ろしさを知らぬ。まして太閤殿、もし難題をかけてきたら、いかがする?」
「お委せくださりませ。玉は殿の妻、いかなる者にもなびきませぬ」
玉子は笑った。夫以外に肌を許そうなどとは夢にも思わぬ。まして秀吉は、父光秀を討った男ではないか、と玉子は思う。だが、臣下の妻たちに手を出すことなど、意にも介さぬ秀吉である。今まで幾人の妻たちが、秀吉にもてあそばれたかわからない。忠興の憂いは、あながち取り越し苦労とは言えなかった。
果たして、忠興の留守中、肥前から大坂城に立ち寄った秀吉は、玉子に内謁の命を下した。もはや絶体絶命である。
見送る侍女たちも、しきりに不安がった。いかなる奸計が待ち受けているかわからないのだ。敵中に送る思いで不安がる侍女たちに、
「今日は、デウスがおやすみになられたとでもいうのですか」
玉子はにっこりと笑って、輿の戸を閉ざした。だが、確かに事は重大であった。千利休の娘が秀吉を拒み、死体となって返されたのは昨年のことである。その上、親の利休さえ切腹させられているのだ。既に覚悟を決めていた玉子は、白無垢を下に着、懐剣を胸に秘めていた。父、光秀がその最期に初之助に托した懐剣である。が力ずくでも手ごめにするという秀吉に、女の身で抗うことができるであろうか。万一抵抗できたとしても、懐剣で相手を殺すことも、自刃することも、天主は許し給わぬであろう。
「天主よ、よき道を与え給え」
輿の中で、玉子は心静かに祈りつづけた。
邸内から日毎に眺めていた大坂城は、近づくにつれていよいよ大きく眼の前に迫ってくる。しかしその大きさも玉子の目には入らなかった。きらめく天主閣も、何十畳の石垣も、玉子の心をひかなかった。
従者を供待ちの部屋に置き、玉子は、ひっそりと人気のない一室に案内された。その案内の者も去ると、
「これはこれは細川のご内室、よう見えられた」
気さくに声をかけて、小姓を従えた秀吉が入ってきた。
平伏していた玉子が静かに面《おもて》を上げた。
「おお」
秀吉は思わず声を上げた。うわさをはるかに超える美しさである。秀吉は声を上ずらせ、
「……そこもとが……」
「細川忠興の妻、玉にござりまする」
「聞きしにまさる美形よのう。忠興め、風にも当てぬとの評判だったが、無理もない」
玉子は切れ長の目を涼しく見張って、臆するふうもなく秀吉を見た。秀吉はいささか勝手がちがった。他の女たちのように、伏し目になったり、媚びた笑みを浮かべたりはしない。玉子の気品に、部屋の空気さえぴしりと引きしまるばかりである。
「そこもとは、日向殿の娘御とやら、さぞ、このわしが憎かろうのう」
「勝敗は武家のならいなれば……」
「憎くはないか」
「お恨み申す筋ではござりませぬ」
澄んだ明晰な語調である。
「ふむ」
秀吉は膝の扇子をパチリと音をさせて開いた。手ごわい相手に、かえって心をそそられたようである。ようやく三十になったばかりの、玉子の匂うような美しさに、秀吉は目を外らすことができなかった。
「ふむ」
再び扇子を鳴らし、
「お玉どのとか申されたの」
「はい、玉にござります」
「この度の戦いは、遠い他国のこと故、さぞ気鬱なことであろうの」
「ありがたきお言葉、恐れ入りましてござります。わたくしどもは、只々無事忠節を尽くし奉るよう、祈るばかりにござります」
「ま、心配であろう。ところで今日は、その留守をわしが慰めて進ぜようと思っての」
「ありがたき幸せに存じまする」
秀吉が手を叩くと、侍女が小袖を捧げ持ってきた。
「この小袖をとらせよう。留守宅を守るそなたへのほうびじゃ」
縫い取りししゅうも鮮やかな、青地に桜の模様である。一見して高価な品とわかる。
「ありがたくは存じまするが、身に余る御品……」
「苦しゅうない。ほんの手みやげじゃ。気に入ったかの」
「は、もったいのう存じまする」
秀吉は、玉子の日ごろの生活や、忠興の日常などを二、三玉子に聞いたあと、
「さて、茶室にて茶を進ぜよう」
と立ち上がった。
茶室には小姓も侍らない。亭主の秀吉と客の玉子の只二人だけである。小さな部屋だ。秀吉の体臭が漂う。菓子が出された。落がんであった。うす茶が型の如く点《た》てられた。
この茶を飲み終わった時が危ない、と玉子は直感した。玉子はゆっくりと茶わんを廻し、静かに飲みながら、全神経で秀吉を警戒していた。その緊張に満ちた玉子の容姿を、秀吉はなめるように見守り、
(ふむ、茶わんを持つ手までが……)
妙《たえ》に美しいと秀吉は飽かず眺めた。と、その目がぎらりと光って、玉子の腰から股《もも》のあたりに走った。
その瞬間、玉子の左手が、秀吉も気づかぬす早さで、八つ口からふところに入った。が、次の瞬間には、何ごともなかったかのように、玉子は両手をついて深々と礼をした。途端に秀吉の膝が進んだ。と同時に、玉子のふところから懐剣が畳の上にすべり落ちた。
はっと息をのむ秀吉に、
「これは、飛んだそそうを仕りました。申し訳もござりませぬ。何卒お許しくださりませ」
玉子はゆっくりと懐剣をふところに納めた。出鼻をくじかれた秀吉は、
「はははは」
と照れかくしに笑い、
「夫の留守を預かる女性《によしよう》は、みなかくありたきものじゃ」
と、早々に茶室を出た。
玉子は、左手で懐剣をわざと落ちやすくし、相手も自分も傷つけずに、危機を切りぬけたのである。
秀吉は、この時ほど、女相手にひやりとしたことはなかったと、人に語ったという。万一、手ごめにして自刃でもされたら、いかに太閤とは言え、武将たちに向ける顔はない。その後、秀吉は再び玉子を招くことはなかった。
当時は、泊まり客に自分の娘を夜伽《よとぎ》に出す者さえいる時代で、君主の一時の慰みものになる妻も少なくなかった。そうした中で、この玉子の話は、誰いうともなく伝わり広まって、人々に敬仰の念を抱かせたのである。
緒戦は大勝を博していた朝鮮役も、結局は五万の死者を出し、九カ月で講和談判となった。徳川家康をはじめ、前田、上杉、毛利たちが朝鮮役に参加しなかったこと、日本の船が貧弱で、朝鮮に渡る途中で、何百艘も朝鮮方に捕らえられたこと、この二つの事情で、援兵がつづかなかったことが原因であった。その上、秀吉は七月に母を失い戦意を喪失していた。
だが忠興は、二千七百に近い敵の首を挙げて、武勇をとどろかして帰ってきた。帰陣した忠興が、秀吉の玉子への誘いを真っ先に尋ねたのはいうまでもない。その時の様子を玉子から聞いた忠興は、玉子の手を固く握りしめ、
「お玉、ようやった。よくぞ太閤どのを撃退した。お玉、礼をいうぞ。それにしても、懐剣をすべり落としたとはのう、そちの知恵は大したものじゃ」
と、顔をくしゃくしゃにさせた。その忠興に、
「いいえ、殿、わたくしの知恵ではござりませぬ。あの時|天主《デウス》が与え給うた知恵にござります」
と、玉子は微笑した。
玉子が天主《デウス》を口にしても、忠興は既に怒らなくなっていた。ばかりか、忠興は奥の棟に聖堂をつくり、玉子の信仰を援《たす》けるようにさえなった。一般世上も、秀吉のキリスト教禁制さえ、全く廃せられたかのような状況だった。当時、日本宣教師団には、フランシスコ会とイエズス会があったが、秀吉はフランシスコ会の天主堂建立を許可し、寄進さえしている。フランシスコ会の宣教師たちが、清貧に耐え、禁欲生活をつづけていることに、秀吉は改めて感動したのである。
また、キリシタン禁制の先鋒と目されていた長崎奉行寺沢広高は、信徒たちの生活に感服し、遂には自ら受洗し、京都所司代前田玄以の長男、次男も洗礼を受けた。
こうした最中《さなか》、文禄四年の秋のある日、頓五郎興元が奥の棟に玉子を訪ねてきた。つい先ごろ、関白秀次が秀吉への謀反の咎《とが》で高野山に追放された上、自刃せしめられ、その妻妾三十余名が京の三条河原で処刑されたばかりのことである。忠興は宮津城に赴いて留守であった。
興元は今や父幽斎の領内、丹後峯山城の主であった。
「ま、お久しゅうござります」
喜んで玉子は興元を迎えた。
「姉上さまも、いよいよご機嫌うるわしく……」
珍しく神妙に興元は挨拶した。
「で、お変わりもなくいらっしゃいましたか」
「いや、もう、変わったの、何のって……」
真面目な顔で興元はいう。
「まあ、では興秋に何か?」
この正月、興元は生まれる前からの約束だといい、興秋を養子にと所望し、遂に忠興の許しを得て連れて行ったのである。
玉子は、まだ十一歳の興秋を手放すのは忍びなかったが、興元が何年も前から所望していたことでもあり、やむなく折れた。
「姉上、興秋は元気じゃ。が、実にあの子は立派な子じゃ。朝夕必ず、神《デウス》に祈る。いや祈るだけではない。心根が素直じゃ、真実じゃ。よく、まあ、あれまで躾《しつ》けたものよ。いや全く感服仕った」
「まあ、そのようにおほめをいただきましては……。で、変わられたと申されますのは?」
興秋のけなげな信仰生活の日常を聞いて、思わず玉子もまつ毛をぬらした。父光秀に似た興秋の静かな挙止は親の自分が見ても、品格があると玉子は思う。
「変わったのは姉上、実は、このわしじゃ。興秋を手元に置くことになって、つくづくとわしは、信仰のない自分を思うようになったのじゃ。女性《によしよう》ながら、姉上の立派さも群をぬいている。その上……」
「その上?」
「この頃、時折、初之助が訪ねてくれる」
「ああ、初之助が……。修士になる決心とか聞きましたが」
「あの男も変わった。それでじゃ姉上、このわしも、遂に受洗の決意をいたしたわ」
「えっ!? 興元さまもご受洗なされますか。それはまことでござりますか」
「何で、うそいつわりを申すものか」
ふいに興元は、はらはらと涙をこぼした。
後に、この受洗を知った興元の母は、嘆き悲しみ且つ怒って、直ちに取り消すように迫った。が、父の幽斎は、
「信仰は一人一人の自由である」
と言って、これをなだめた。
興元は積極的な信仰で忠興を説き、まだ受洗をしていないその子供たちにも洗礼を受けしむるようにすすめた。こうして興元は、ガラシャの子供たちと、忠興よりも精神的に強い結びつきを持つに至り、終生よき相談相手であったと言われている。
このように内も外も、ガラシャの信仰を圧迫する者はなくなったかのように見えた頃、慶長元年、再びキリシタン大弾圧が起こった。
その年九月二十八日、土佐沖に軍船サン・フェリーペ号が漂着した。軍艦には絹布のほか武器をも積んでいることが秀吉の忌諱《きい》にふれた。かくして起きた弾圧に、信徒たちの多くは、
「我らも行きて、彼と共に死なん」
との聖書の言葉を唱和しつつ、喜んで処刑されることをねがったという。
これを聞いた玉子は、侍女たちを集めて、いかにすべきかを改めて話し合った。侍女たちは、
「ガラシャさまと共に、キリストさまに従いまする」
と決意のほどを述べ、早速白衣を縫いはじめさえした。そして、
「天主《デウス》よ。ねがわくは、殉教者の栄冠と幸を吾らに与え給え」
と、祈りつつ針を運ぶのであった。
十一月二十一日には、三木パウロをはじめ、二十四名の男の信者たちが、長崎で刑に処せられるため、堺を出発することになった。それと知った玉子は、たとえ夜半であろうと彼らを見送りたいとねがった。が、警護の者たちに妨げられて果たさなかった。代わりに佳代をはじめ、霜女、加賀女たちが見送りに行った。
沿道は既に、嘆き悲しむ住民たちや、祈りつつ見送る信徒たちで人垣ができていた。その中を、数珠つなぎになった信徒たちが、警吏にむちで追われながら歩いてくる。小突かれて倒れる者もある。佳代は霜と手を固く握って、
「天主《デウス》よ、御あわれみを垂れ給え」
と祈った。が、殉教者たちの顔は、悉《ことごと》く輝いていた。一人として、悲しい面持ちの者はいない。佳代は、この人々の姿を、玉子に一目見せたい思いでいっぱいだった。
ふいに、朗々たる声がひびいた。
「キリストは言い給うた。人もし吾に従わんと欲せば、十字架をとりて吾に従うべしと」
人々は驚いて声の主を見た。先頭を歩いていた男が、一同をふり返って語っている。
「おお、あの方は三木パウロさまだ」
「まことに三木さま」
雄弁を以て、九州から関西一円にその名をとどろかせた三木パウロであった。齢三十三歳、その澄んだ目に光があった。
「われらは、主と共に十字架につけられる光栄にあずかった。その光栄ある者にふさわしく、天主の聖名《みな》をほめたたえつつ歩もうではないか」
一同が、
「アーメン(然り、本当にの意)」
と称えた。
その一行を、佳代たちは凝然と声もなく見送った。
途中、二名の決心者が加わり、計二十六名は、十二月十九日、長崎の立山で十字架の刑に処せられた。その十字架上から、三木パウロは、仲間と人々に向かって長い説教をした。
「各々方、人は何のために生き、何のために死ぬべきか。富のためか、宝のためか、位のためか。それらはすべて朽ち果てるのじゃ。各々方、吾らは、吾らを創り給える天主のために生き、また死ぬべきではござらぬか。己が欲に従わず、天主の聖なる御心に従って生き、また死ぬべきではござらぬか。この天主にこそ、まことの救い、まことの道がござる。天主は、天主に来る者を一人として斥《しりぞ》け給わざる方なれば、己が罪を悔いて、いざその尊き救いに入られよ」
十字架の上にありながら、顔を輝かせて語る三木パウロの姿と、同じく十字架上に、静かに耳を傾ける他の二十五人の姿は、人々の肺腑をえぐった。
のちに、この様子を伝え聞いた玉子が、更に信仰を燃え立たせたのは無論のことである。それは、いかなる名説教にもまさって、玉子の信仰を強めたのであった。
その処刑を命じた権力者秀吉は、翌々年八月あわれな死に方をした。
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太閣殿 本来は摂政、または太政大臣の尊称で、のちには関白をその子供に譲った人をさした。豊臣秀吉は一五八五年関白、翌八六年太政大臣、九一年養子の豊臣秀次に関白職を譲っている。一般に太閣といえば、秀吉をさす。
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二十五 秀吉の死
慶長三年十一月末。朝からの雨が午後になってもやまない。
大坂玉造の細川邸の一室に、忠興が茶を点《た》てていた。利休七哲の一人といわれる忠興の挙止は、こせこせとしたところのない、動きの大きな美しさがある。その手もとを、玉子は長男の忠隆、舅の幽斎と共にみつめていた。幽斎は田辺城から昨日久しぶりに大坂へ出て来ていた。
「太閤どのが逝《ゆ》かれて、早三月よのう」
幽斎がつぶやくようにいう。
「まことに」
忠興がうなずき、茶筅の動きが止まった。忠興は茶碗を幽斎の前に置く。
「将軍が逝かれたのも八月じゃったの」
「はい、義昭様は、昨年の八月二十八日でござりました」
忠隆が静かに答えると、
「して、太閤様は一年後の八月十八日か」
忠興が言った。
「うむ。全く、太閤どのの辞世の通りじゃのう。何もかも夢のまた夢じゃ」
飲み終わって、幽斎は茶碗を置いた。忠興が次の茶を点てはじめた。みな黙然としている。
露と落ち露と消えぬるわが身かな
難波のことも夢のまた夢
秀吉のこの辞世を、一人一人が胸の中で思っていた。
幽斎は、足利義昭将軍の一生と、秀吉の一生を較《くら》べていた。義昭は衰微した将軍家に生まれて、食うに事欠く日々さえあった。その将軍を、自分は光秀と共に信長に引き合わせた。信長は義昭将軍を奉戴して京に上り、天下に名を轟かせた。
が、信長と将軍の仲が不仲になり、遂に将軍は毛利氏を頼って逃げ、十年前に出家して昌山と称した。秀吉に従って肥前名護屋に出陣はしたが、その後かなり体が衰え、遂に昨年八月、六十一歳を一期に死んで行った。将軍を逐《お》った信長も、将軍をかつぎ出した光秀も疾うに死に、義昭自身はそれから十六年も長生きしたことになる。
将軍がこの世に出た頃、信長の一介の臣に過ぎなかった秀吉が、光秀の反逆を機に天下をとり、朝鮮にまで出兵したが、これも六十三歳で死んだ。長いようで短い人生が、まことに露のように儚《はか》ないと幽斎は思う。
「本能寺も、大坂築城も、朝鮮役も、何もかも、夢のまた夢よのう」
幽斎が言った。
「全く」
忠興は静かに父の幽斎をうち眺め、
「あの辞世を詠まれた御心がいたわしい」
と、しみじみという。
しかし玉子には、秀吉の死を悼《いた》む思いがない。はじめて秀吉の死を知ったのは、九月はじめであった。明智家から玉子に従《つ》いてきた家臣の河喜多石見が、その死を玉子に伝えた時、玉子は思わず微笑するところであった。
六月末、朝廷では秀吉の病気平癒の祈願のため、御神楽をあげたと聞いている。秀吉の病の重いのは、知ってはいた。七月には、全国の神社や寺院でも祈願が行われていると聞いた。
八月五日に、秀吉は五大老である徳川家康、毛利輝元、前《*》田利家、宇喜多秀家、上杉景勝を伏見城の病床に呼び、六歳の秀頼への忠誠を誓わせた。五奉行の石《*》田三成、浅野長政、増田《ました》長盛、長束《なつか》政家、前田玄以以下諸大名にも忠誠の誓書を差し出させた。
更に、前田利家には秀頼の保護を、家康には後見役として、その地位を損なわれることのないよう依頼した。二人は感涙にむせび、堅く誓って秀吉を安心させようとした。が、秀吉はそれだけでは安んぜず、家康の孫娘を秀頼の妻にすることをも誓わせた。これ以後、秀吉は秀頼に家康を父と呼ばしめた。
秀吉の、六歳のわが子に対する愛着と、その前途への憂慮は、一見異常とも思えた。が、決して異常ではなかった。わずか六歳のわが子の運命は、秀吉にはわかっていた。わかっていて、尚幾度も諸大名に後事を托さねばならぬ心は、哀れでもあった。
その五大老への遺書は、秀吉の心もとない姿を如実に示している。
「返す返す、秀頼こと頼み申し候。五人の衆頼み申すべく候。委細五人の者に申し渡し候。名残惜しく候。以上。
秀頼こと、成り立ち候ように、此の書きつけ候しゆを、真たのみ申、何事も此の他には思い残すことなく候。かしく」
これらのことを、玉子は聞いて知っている。これが、わが父光秀を亡ぼし、わが一族を坂本城に亡ぼした秀吉の最期なのだ。秀吉は光秀を亡ぼしたばかりか、文に秀れた大村|由己《ゆうこ》に、「明智」の謡曲を作らせ、興行させた。能は秀吉によって演劇化され、秀吉は自分を主人公に五つの謡をつくった。「明智」はその一つであった。このことを、利かぬ気の玉子は、許しがたい思いで肝に銘じている。
秀頼のことのみくどくどと遺言し、
「何事も此の他には思い残すことなく候」
と書き残した秀吉の死を、玉子は皮肉な思いでみつめていた。秀吉は誰をも信じられないのだ。もし秀吉が、信長の遺児たちを立派に遇していたならば、このような心配はなかったのではないかと玉子は思う。主君の遺した子に対して、武将が如何になすかは、自分自身に照らして、秀吉自身よくよくわかっていたにちがいない。
秀吉が迫害し、十字架につけた三木パウロたち二十六人の死と較べると、秀吉の死は、あまりにも哀れに惨めに思われる。秀吉には朝鮮にまで戦いを起こし、前後七年にわたってその戦によって、全国の疲弊がいかに甚だしかったかなど、どれほども心にかかってはいなかったのだ。
次から次と、玉子には秀吉のむなしい栄華や悪行のほどが思われてくる。
(黄金の茶室も、寝室も、何とむなしいこと……)
その茶室は三畳で、天井も壁も、障子の骨も、すべて黄金で造られてい、持ち運ぶことができ、組み立てられるようにできていた。この黄金の茶室を御所に組み立て、正親町天皇に茶を献じたことは有名だった。
また、秀吉の大坂城の寝室には、長さ七尺、横四尺、高さ一尺五寸の寝台があり、寝台の頭のほうには、これまた黄金の彫り物があったと聞く。この寝室に、秀吉は幾人の側室を迎えたことか、玉子は胸の中で数えて行く。
(浅井長政さまの長女、淀君さま、前田利家さまの御三女摩阿さまは加賀の局)
ここで玉子は眉をひそめる。その摩阿の妹千世が忠隆の妻である。加賀の局は、僅か十四歳で側室にさせられている。
(それに……松丸どの、三条局、姫路どの、三丸どの……)
再び玉子は眉をひそめた。三丸どのは信長の第五女なのだ。
宣教師ルイス・フロイスの記録に、
「関白はこの上なく破廉恥にして不身持。動物的肉欲に溺れて、その諸宮殿内には二百人以上の婦人を有す」
とあるほどで、玉子には数えがたい。玉子は一度会った時の秀吉を思う。好々爺に見えたが、一瞬にしてぎらぎらしたまなざしに変わったその時の秀吉の顔が、いやでも浮かんでくる。懐剣をすべり落として、決意のほどを示し、危うく難を逃れたものの、思い出すだけで、鳥肌の立つ思いがする。
(思っても詮なきこと、いや、思ってもならぬこと)
玉子はふと、秀吉の素行を思い出すこと自体、天主の御心に反する気がして、恐れを覚えた。いかに父光秀を亡ぼした相手とはいえ、そしていかに多くのキリシタンを迫害したとはいえ、その死を喜ぶが如きは、許されぬ筈である。にもかかわらず、玉子には秀吉の死は喜ばしいのだ。
(おぞましきは、己が心……)
玉子は忠隆を顧みた。忠隆は茶を静かに喫している。去年、忠隆は前田利家の第六女千世姫と結婚したばかりである。
(早いもの……)
この熊千代を残して、味土野に去った日がありありと思い出される。あの幼い日に、母に別れた二年の空白が、どんな形でこの忠隆に残っているのか、忠隆はあまり母になつかぬままに育った。
「ところで、問題はこれからじゃて」
幽斎が、両膝に手を置き、ぐいと三人を見た。
「さよう」
忠興が深くうなずく。
「忠興、そちは、どう見るな?」
「はい、誰が見ても、東の徳川家康、西の毛利輝元の勢力は、あなどりがたいところ」
「うむ」
「しかも、この十一月はじめ、輝元は博多で、石田三成を主客として茶会を開いたとか」
「なるほど、そちも相変わらず耳が早いのう」
「なに、それほどでもござりませぬが、とにかくその折、二人は深夜まで話し合ったとか。また、その後石田も輝元を茶会に招いている様子……」
「なるほど。で、前田はどうじゃ」
幽斎も忠興も忠隆を見た。まだ十八歳の忠隆に、天下の形勢はわからない。が、忠隆は前田利家の娘千世姫の夫なのだ。
秀吉は利家に、秀頼の保護を懇《ねんご》ろに頼んでいる。で、利家は大坂城にあり、家康は後見役として伏見城に政務を司っている。この利家に五奉行の筆頭石田三成が接近していた。つまり、家康と利家が対立し、その利家に三成が近づき、更に三成と毛利輝元が組んでいることになる。ふつうならば、姻戚関係のある前田利家と、細川家は手を結ばねばならぬが、忠興は石田三成を嫌っていた。
「石田は嫌いじゃ。陰険で、策士で」
といい、石田三成もまた忠興とは意見が合わない。
忠興は言った。
「父上、石田はこう申しておるとやら。前田利家は老いぼれじゃ。今は手を握って徳川を亡ぼし、次は前田を亡ぼす。そうすれば、天下はわがものとのう」
「奴の言いそうなことじゃ」
「石田の肚《はら》も知らずに、利家公は奴に利用されているわけじゃ。のう忠隆、今のうちに、利家公は徳川家康と手を結ぶべきじゃぞ」
忠隆は真剣なまなざしでうなずく。
「そうじゃのう。前田と徳川が手を結ぶということは……つまり、細川家も徳川家につくということじゃのう」
幽斎は、一語一語確かめるように言う。
「そういうことになりまするな。ところで忠隆、わしが、千世の兄の利長に、石田の肚を吹きこんでおこう」
忠興の言葉に、忠隆はおとなしく、
「はい」
と答えた。
(また、大きな戦が始まる)
玉子は口に残ったとろりとした茶の苦味を味わいながら、思った。幼い時から今に至るまで、いくつかの戦いがあった。が、徳川と、秀頼を奉ずる石田の戦いは、容易ならぬ戦になることを、女の玉子も感じた。忠興も忠隆も、舅の幽斎も、その戦いの中に巻きこまれて行くのであろう。玉子は思わず深い吐息をついた。
「結構な服であった」
幽斎がいった。玉子には、意味ありげな挨拶に思われた。
明けて慶長四年二月、病を得た前田利家は、徳川家康に会い秀頼の後事を托した。忠興が仲に入ったのである。その後、利家の病が重くなり、家康が見舞いに行くことになった。情報を聞いた三成は、まだ忠興の真意を悟らず、家康を闇討ちする相談を持ちかけた。忠興は反対したが、三成が計画を改めぬと知るや、これに同意した。が、忠興はひそかに家康を逃れさせた。
前田利家の死は、家康の勢力を俄かに強める結果となった。利家の死の翌日、忠興をはじめ、加藤清正、福島正則、黒田長政ら七人の武将が石田三成を討たんとした。
三成は笑止にも、曾て自分が夜討ちをかけようとした家康に救いを求めた。しかもその時、三成は女装し、女籠に乗って行った。家康は呆《あき》れて、
「妙な者が来た」
とつぶやいたという。が、この時家康は、忠興ら七人の将たちと三成との間を仲裁し、三成はしばらく佐和山に謹慎することになった。
その年九月、秀頼の母淀君の乱行が風評にのぼり、武将たちの心は淀君を離れ、淀君の生んだ秀頼からも離れた。彼らは秀吉の正妻・北政所《きたのまんどころ》に親しみ、家康もまた同様であった。
家康が大坂城に入り、五大老の一人として政務にあずかるようになったのも、その頃である。当時忠興は、領地の丹後宮津に赴いていた。
夫の留守をまもる玉子は、いつものとおり、侍女たちと共に、忠隆の新妻千世姫もまじえて、はた織りをしたり、絵を描いたり、孤児たちの世話に励んだりしていた。こうした日々にも、『こんてむつすむん地』を読む会はつづけられた。
千世姫の兄前田利長は、受洗こそしてはいないが、キリストを深く信じていたから、千世姫もその影響を少しは受けていた。だから、『こんてむつすむん地』を読んだり、孤児の世話をすることに抵抗はなかった。が、深い求道心があるわけでもない。千世姫は大名の家に育って、身も心もまだ幼かった。
邸内から仰ぐ大坂城は、よそ目には何の変わりもないが、世の動きが日増しに険しくなって行くのが、玉子たちにも察せられた。しかし、玉子たちの住む奥の棟には、浮足立つような世にあって、ふしぎな落ちつきがあった。
「戦わずにすむものならすんでほしい。誰一人、刃にかかって死ぬことのないように祈りましょう」
玉子は、佳代や千世たちによく言った。
「こんど戦が起きれば、忠利さまもご出陣でござりましょうか」
佳代がある時、不安げに玉子に問うた。
「ほんにあの子も早十四歳。生まれた時は弱うて、殿が捨てよと仰せられたほどでしたが……」
「見事ご立派になられました」
三男忠利は父の忠興に従って、宮津に赴いている。
(興秋も大きくなったことであろう)
玉子はふと、興元の養子になった興秋を思った。興秋には、久しく会っていないのだ。もし戦があれば、興秋も出陣しなければなるまい。玉子は、人間は戦をするために生まれてきたのではないと思う。人間には、戦よりももっと尊い仕事があるように思われるのだ。しかし、武将の家に生まれた子は、朝に夕に武術に励まねばならない。そして、いつ戦場に散るか測り知れない。
男子であればこそ、いつ討ち死にしてもよいように、受洗させたい願いを玉子は持っている。だが、忠隆はまだである。忠興から受洗の許しは出ていない。
「信仰はほどほどでよい」
忠興の常日頃の持論なのだ。
十一月に入ると大坂にも肌寒い日が続く。が、主《あるじ》のいない日々は、何となく奥の棟の空気ものびやかである。侍女たちのはしゃぐ声が今日も聞こえる。
佳代が玉子に言った。
「ガラシャさま、来月はキリストさまの御降誕祭。宮津はもう雪でござりましょう」
「ほんに、どんなに積もっておりますやら」
「殿もお寒くて大変でござりましょう」
正月近くにならねば忠興は帰らない。
「殿のことゆえ、雪を見れば益々元気になられましょう。ところでマリヤどの、今年の御降誕祭には、殿もご一緒くださるとのこと、よろしく頼みます」
玉子は、過日忠興の言ったことを伝えた。
「まあ、殿もご参加くださりまするか。何とありがたきこと。して、今年はどのように御降誕をお祝い申し上げたらよろしゅうござりましょう」
「それは、マリヤどの、そなたとみんなで相談の上……」
「では今年は、みんなで能でもいたしましょうか」
教会では、降誕祭の夜、信者たちがキリシタン能を公開する。新約・旧約聖書の物語を題材にした能は、人々に珍しがられ、喜ばれた。佳代や侍女たちの口からは聞いてはいるが、一人玉子だけは見たことがない。
「ま、それは面白いこと」
「お方さまに、その謡をお作りいただいて……」
「それは無理と申すもの」
二人は楽しげに笑った。
そして幾日か経ったある日、思いがけなく宮津から忠興が帰ってきた。
「殿、お帰りでございましたか」
玉子は微笑を浮かべて、むっつりと突っ立っている忠興の前に両手をついた。下唇をかんだ忠興の顔は、げっそりと憔悴《しようすい》している。
「殿、いかがなされました」
玉子は変わらぬ語調で静かに言った。
「お玉、とんだことになったぞ」
着物を着更えてから、ようやく忠興は口を開いた。
「とんだこととは?」
「この忠興に、逆心あり、との疑いを受けたのじゃ」
忠興は玉子の顔をみつめた。
「な、何と仰せられます?」
驚く玉子に、
「徳川殿は、細川家征討のため、宮津に軍を出そうとしているというのじゃ」
「まさか!? それは、殿、何かのまちがいでは?」
「いや、まちがいではない。常日頃、わしが情報を集めている故、幸い早く耳に入ったが……。お玉、徳川殿は、前田利長と、その縁つづきのわしとが組んで、叛旗をひるがえすと疑っておられるのじゃ」
「……殿、それは、どなたかのざん言でござりましょう」
きっぱりと玉子は言った。
「うむ、確かにその通りじゃ。あの五奉行の一人の増田長盛のざん言じゃ」
「増田さまが?」
「そうじゃ。前田利長が浅野長政たちを抱きこんで、家康殿を殺そうとしていると言ったらしい」
「そして、殿もその仲間にあると、仰せられるのでござりますか」
「うむ。陰で、石田が糸を引いている気配がする」
忠興は嘆息した。
佳代が膳を運んできた。旅からもどると、湯づけをかきこむのが、忠興のならいだったからである。
「で、いかがなされます」
「登城の用意をいたせ。とにかく、徳川殿に対して、わしも前田も決して二心なきことを弁明せねばならぬ。今日にも出兵とのこと、急がねばならぬ」
湯づけに箸をつけたが、忠興は二口三口で碗を置いた。
「徳川さまはわかってくださりましょうか」
「それはわからぬ」
忠興は首を横にふった。今の場合、一人大坂城に出向いて、無事に終わるかどうか、わからぬのだ。
忠興は、服装も礼装の素襖《すおう》に改め、
「お玉、覚悟はよいな」
と玉子を見まもった。
「すべては、よろしきことになりましょうほどに」
忠興を励まして玉子は言った。
「うむ」
小笠原少斎と二、三の伴を従えて、あわただしく登城する忠興を、玉子は玄関の敷台にすわって見送った。
(信じ合えぬ世に、人は生きている)
つくづくと玉子は思った。
忠興は日頃から徳川びいきで、現実にその命を助けてさえいる。家康もまた、何かと忠興に好意を見せながら、一度、他からの密告を聞くや、直ちに忠興征討の命を下す。
(信じてもくださらぬ徳川さまの前に、命をかけて弁明に行かれるのか)
思わず玉子の目がうるんだ。細川家の運命を担って生きている忠興の、男としての辛さを、玉子は今しみじみと感じたのである。あのまま、城中で殺されるか、切腹を命ぜられるかわからないのだ。それでも、忠興は一家の浮沈にかかわる一大事|故《ゆえ》に、出向いたのだ。
玉子は奥の一室に入ると、忠興の無事を天主に祈った。
「天主を信ずる者にとりては、すべてのこと相働きて益となるべし」
という聖書の言葉を思いつつ、玉子はひたすら祈った。人の目にはいかに悪い状況に思われても、結局はよい結果への過程であることがある。
「徳川どのの心を和らがしめ給え」
玉子はそうも祈った。
父の光秀が信長を倒した時も、細川家は大混乱を呈した。が、この度は、直接細川家が亡ぼされようとしているのだ。
あの時のように、忠興は宮津において、幽斎や重臣たちと協議を重ねた結果、自ら早馬を飛ばして来たのであろう。
忠興の帰りが長引くにつれ、玉子にも事の重大さがひしひしと身に感じられた。廊下を行き交う侍女たちの足音さえ、ひそやかになった。事情はわからぬながらも、只ならぬ事件の出来《しゆつたい》を感じているにちがいない。
夜になった。が、忠興は帰らない。
(話がこじれているのか、それとも……)
忠興の身に危険が迫っているような気がした。
五つ半(九時)も過ぎた頃、玄関のほうが騒がしくなり、侍女が忠興の帰りを告げた。
「ご無事で」
と言いたい思いをこらえて、玉子は静かに、
「お帰りなされませ」
と頭を下げた。
「うむ、今もどった」
一言いったまま、忠興は家臣たちの住む別棟にずいと入って行った。
どのような結果になったか、口では語らぬが、一つの危機を乗り越えたのを玉子は感じた。玉子は、直ちに膳部の者に、忠興や伴の者への食事の用意を命じ、再び部屋にもどった。
忠興は九つ(零時)少し前に、部屋に戻ってきた。酒の匂いがしていた。が、酔ってはいない。
「心配をかけた」
着更えながら、忠興は言った。
「さぞお疲れでござりましょう」
玉子は改めて、確かめるように忠興の肩に手をふれた。死を覚悟で出て行ったのだ。出陣よりも悲壮な登城だった。よくぞ無事にもどってくれたという感慨が深かった。
「徳川殿は、最初わしを疑っていた。が、誠心誠意の言葉は通じたと見える」
「通じましたか」
本当に信じてくれたのかと、玉子は思う。
「うむ、わかってくれた。もともと話はわかる御仁なのじゃ。前田のためにも弁じて、その嫌疑も晴れた」
「まあ、それは、よろしゅうござりました」
「が、無条件で許してくれたわけではない。前田からも家臣が来ていたが、とにかく、一応は逆心なしとわかってはくれた。しかし、人質を出せと申されるのじゃ」
「え!? 人質……」
玉子は忠興を見つめたまま、しばし口を開かなかった。
やはり徳川どのは信じてはくださらなかったのか。命をかけて弁明に出かけた忠興を、なぜ信じられないのか。人間は人間を信じることはできない……。当然とも思いながら、玉子は人の心のむなしさを感じないではいられなかった。
「で、その人質だが……」
忠興はあぐらをかいた自分の膝にじっと目を向けながら、
「忠隆、千世、忠利と、こう考えて行くと……」
言いかける忠興に、
「殿、わたくしではいけませぬか」
玉子は膝を進めた。
「ならぬ!」
言下に忠興は退けた。
「なぜでござります」
「そちは……そちは、わしにとって、なくてはならぬ存在じゃ」
「…………」
「いかなることがあろうと、わしはそちを人質にはせぬ」
「お言葉ながら……」
「ならぬ。そちはまだまだ美しい。人目には触れさせたくないのじゃ」
駄々をこねるような言い方で、忠興はいう。その忠興の心が玉子の胸に沁みた。
「と申されましても……」
誰を人質に出したらよいのかと玉子は思う。玉子にとって、わが子はわが身よりなお愛しい。
「お玉、わしは忠利と決めた」
「まあ! 忠利を……」
「うむ、忠利も十四じゃ。出陣できる年齢じゃ」
「では、忠利を一人、遠い江戸にやるのでござりますか」
「そうだ」
「まだまだ子供ですのに」
「苦労は子供の時からしてよいものじゃ。家康殿を見てみろ。僅か六歳で今川氏に人質にやられたではないか。しかもその途中織田信秀殿に奪われて、二年の間織田の人質、それからまた今川の人質と、難儀に遭い通しじゃ。十四の忠利が、人質に行くぐらいで、驚いてはならぬ」
「はい」
玉子は目頭をおさえた。三男の忠利は、幼い頃乳房をくわえる力もないほど弱い子であった。その弱かった赤子の頃の姿が、今の忠利の上に重なって、玉子は忠利を不憫《ふびん》に思わずにいられないのだ。
玉子には、次男興秋を興元の養子にしたことさえ、侘びしく耐えがたいのだ。まして忠利を、見も知らぬ江戸の徳川家に人質にやることは、いかに天主を信ずる身とはいえ、耐えがたく悲しいことであった。無論、人質である以上、大事にはされるであろうけれども、一旦事があれば、人質の忠利は無残にも殺されなければならないのだ。
玉子が結婚して間もなく、祖母登代が人質として八上城に預けられ、無残な死を遂げたことは、玉子にとって忘れようにも忘れ得ぬことである。
「お玉、そのうち、どうしても、石田三成と徳川殿は戦うぞ」
「はい」
一度はそうならねば治まらぬことは、玉子も感じている。
「その時、細川家がどちらにつくか、これで、もう定まったも同然じゃ」
「はい」
忠利を殺すことはできない。
「といって、石田を全く敵に廻してよいか、どうか。これが問題じゃ」
「なぜでござります」
「細川家は、生きのびねばならぬ。もともとは誰が天下をとるかが問題ではない。細川家は強い方について生きのびるしかないのじゃ」
「では、忠利は」
「徳川殿がもし弱ければ、わしは石田方につく」
「では忠利の命は……」
「忠利の命よりも、細川家の命が大事と知らねばならぬ。お玉、わしも今日は自分の命を賭けた。それが武家の覚悟というものよ」
生きのびることの厳しさは、同時に醜さ、むなしさでもあると玉子は侘びしかった。
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前田利家 一五三八〜九九(天文七〜慶長四)年。安土桃山時代の大名。金沢藩主前田家の藩祖。信長に仕え、数々の戦功を立てる。賎ケ岳の戦いでは事実上の上司柴田勝家と袂を分かち、秀吉勝利の原因を作る。豊臣政権下では五大老の一人として徳川家康に次ぐ実力者で、秀吉没後は豊臣家と徳川家の間を調整する役割を果たすが、関ケ原の戦いの前年病没。
石田光成 一五六〇〜一六〇〇(永禄三〜慶長五)年。安土桃山時代の大名。近江の出身で小姓として秀吉に仕え、秀吉の天下統一に尽力、五奉行の一人として政策運営にあたり、一五九五年には近江佐和山二十一万石の領主となる。秀吉の死後、加藤清正、福島正則ら尾張出身の秀吉子飼いの武将との対立が表面化、さらには徳川家康の勢力拡張を恐れ、一六〇〇年九月十五日、関ケ原で戦うが惨敗、捕らえられて斬首された。
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二十六 恩寵の炎
徳川家康の台頭、そして家康と石田三成の対立、いままた歴史は大きく揺れ動いていた。そしてその渦の中に、はしなくも玉子の命がのまれようとしていた。
陰暦六月、むし暑い夜である。寝静まった邸内の奥の間に、忠興と玉子のみが、さっきから向かい合っていた。
「出陣はもとより……」
忠興の語尾が苦しげに消える。玉子はその忠興の顔をじっと見守っている。
「覚悟はしているが……」
再び忠興の声がかすれた。
戦乱の世に生まれ、十五の初陣に名を上げて以来、出陣には馴れている。が、この度の出陣は、忠興の胸に言い難い苦悩を与えていた。命令に従って出陣し、戦いが終われば帰ってくればよい、というわけにはいかないものが、忠興の前に大きく横たわっていた。
出陣命令は徳川家康から出たのだ。家康は豊臣家五大老の一人である。その家康が、同じく大老の一人である上杉景勝を征討せよというのである。他の三人は各自の国に帰っている。
家康は今や、秀吉亡きあとの豊臣政権の実権を握る者であった。豊臣の名を以て、家康は諸将を自分のもとに馳せ参じさせる実力を持っていた。
上杉景勝征討の口実は、景勝の謀反ということであった。久しく領地を留守にして京都にあった景勝が帰国した。帰るや否や、道路や橋を整え、城を修理し、武器や兵を集めた。景勝はもと越後の領主で、一昨年会津に移ったばかりである。新しい領地において、城や道路を整え、兵糧や人を集めることは、領主として当然のことであった。
が、これを出羽の城主戸沢政盛が「上杉景勝に謀反の心あり」と、家康にざん言した。家康が、これを謀反と信じたかどうかはわからない。が、このざん言を家康は取り上げたのである。
この前年、家康は前田利長謀反のざん言に、征討の準備をした。が、利長は直ちに謝罪し、その母を人質として差し出した。細川忠興にも、同様征討の軍を向けようとしたが、忠興も直ちに息子忠利を人質に出して、釈明につとめた。
家康としては、これらのことはむしろ目算の外《はず》れたことであった。家康は、豊臣家の大老の地位を利用して、諸将を己が意のままに戦わせたかったのだ。今も、戦う相手は無論一人上杉景勝だけではない。この時にあたって、自分に従わぬ諸将が即ち敵であった。その家康の肚《はら》を、細川幽斎も忠興も見ぬいていた。
「さようでござりますか。……徳川さまが、会津にご出陣なされますと、その背後を石田さまが……」
玉子が言いかけると、
「その通りじゃ。石田三成めが、必ず背後を衝《つ》く。恐らく、景勝と石田はもう、徳川殿を挟《はさ》み討ちにしようと、肚を合わせているであろう。それを徳川殿は百も承知よ。いや、会津征討は徳川殿の石田に対する誘いの隙じゃ」
「では遠からず、徳川さまと石田さまとは、天下分け目の戦を……」
「その通りじゃ。賢いそなたは、女性ながらよく見通している。われわれとしては、徳川殿の胸のうちも石田の肚の底も、知らぬ顔で出陣せねばならぬのじゃ」
玉子はしっかりとうなずき、再び顔を上げた。
「常の戦ならば、出陣して戦ってくれば、それで事は終わる。だがこの度は、誰しもが家運をかけての戦じゃ。徳川が勝てばこの細川家は安泰。石田が勝てば、亡びねばならぬ」
「まことに、玉にもそう思われます」
「そこでじゃ、お玉、徳川殿には何としても勝っていただかねばならぬ。そのためには、従う吾らも細心の心くばりをせねばならぬ。先ず第一に、上杉を討つ以外に他意はないという顔をしていること、これが大事だ。でなければ、徳川殿の誘いの隙が、石田に見破られる」
「はい確かに……」
「実はのう、お玉」
忠興は苦しげに息をつき、
「この度の出陣にあたって、わしは考えに考えたのじゃ。……それはのうお玉、先ずそちをひそかにどこぞへ隠して、出陣したいと思ったのじゃ。しかし、それが叶《かな》わぬのだ」
玉子は深くうなずいて忠興を見守った。
「上杉を見てもわかるとおり、自分の領地の城や橋を修復しただけで直《すぐ》に、ざん言される世の中じゃ。もし、そちを逃して出陣したとあれば、吾らの徳川殿への並々ならぬ覚悟のほどを、石田は忽ち読みとるであろう。何しろ石田は、わしを目の仇にしておりながら、いつでも味方に引き入れようとしておるでのう。それでわしの一挙手一投足を見守っているのじゃ」
「殿、殿のお言葉、この玉にもよくわかりまする」
「お玉、わかってくれるか。わしは、辛いのじゃ。お玉をこの邸に残して行くのは、わしには身を切られるように辛いのじゃ。苦しいのじゃ。石田は、徳川殿に追い討ちをかける時、必ずそなたに目をつける。人質にとって、わしを牽制するのが目に見えている。と言って、お玉、そちが石田の手に渡ってもらってはこれまた困るのじゃ」
隠すこともならぬ、人質に取られることもならぬ、ということは、つまり万一の時には死ねということである。それを言おうとして、さすがにそれとは言えずに、忠興の歯切れの悪い言葉がつづく。
玉子は、忠興の言葉を聞きながら十八年前の夜をありありと思い起こした。父光秀が本能寺に信長を亡ぼした。その光秀の娘である自分の進退が、重臣たちの間で問題になった時のことだった。
有吉が玉子を斬ると言った。忠興が、
「玉子を斬る者は、俺が斬る」
といって、玉子をかばった。
そのやりとりを、玉子は襖をへだてた廊下で聞いた。その時の忠興の苦悩が今も胸にきざまれている。あの時は味土野にかくまってくれた。が、今回はそれができない。忠興の今の苦悩は、あの夜にまさるとも劣らぬ苦悩に違いない。
玉子の唇に、ほのぼのと微笑が浮かんだ。
「……それでじゃ……お玉」
言いよどむ忠興の言葉をさえぎるように、玉子は静かに言った。
「殿、ご安心召されませ。玉は、いかなることが起こりましても、この邸より、一歩も動きはいたしませぬ。心おきなくご出陣くださりませ」
玉子の心が、忠興の全身をつらぬいた。
「お玉!」
万感の思いをこめて、忠興は玉子をみつめた。玉子は静かに忠興をみつめ返した。
「お玉! そなたにここに居よということは……そなたに、死ねということなのじゃ……」
忠興の声がつまった。
「殿、覚悟はいたしておりまする」
涼しい目が、まばたきもしない。
「死ぬというのか、そなたは……」
悲痛な声であった。
「はい、殿。いつか玉が申し上げましたる言葉、ご記憶でござりましょうか。殿が、天主《デウス》への信仰を捨てよと仰せられました時、わたくしはこう申し上げました。そのお言葉には、たとえ殺されようと従うわけには参りませぬ。けれども他のことなれば、いかなるお言葉にも従いまする。食を断てと仰せなら、食を断ちまする。部屋から一歩も出るなとのご命令ならば、一生この部屋から出ますまいと……」
「…………」
「殿、あれは玉が、命がけで申し上げました真実の言葉にござります。苦しまぎれに、嘘偽りを申し上げたのではござりませぬ。あれ以後、いつも玉はその覚悟で殿のお言葉に従って参りました」
「お玉! それでは……」
「ご安心召されませ。玉は、殿のお言葉は命をかけて守りまする」
「お玉、そなたは……」
忠興は涙をこらえ、
「万一、石田方から、そなたを人質に捉えに来たる時は……」
「はい、決して人質にはなりませぬ。もし、わたくしが人質になりましては、徳川殿も、殿の忠誠を疑いましょう。忠利を徳川殿に、わたくしを石田方に人質にでは、二心を疑われてもいたしかたござりませぬ。殿、玉は死んでも人質にはなりませぬ」
「お、お玉!」
忠興は、しっかと玉子の手を握りしめた。
「そなたを……そなたを殺しとうはない」
はらはらと忠興は落涙した。玉子も涙をこぼしながら、
「殿、天主《デウス》を信ずる者には、肉体の死はありましても、霊魂の死はありませぬ」
と、きっぱりと言った。忠興は玉子をひしとかき抱き、
「ああ、あの味土野に、再びそなたをかくまえるものなら……」
「いいえ、殿、あの時殿に助けられ、玉は今日まで生きて参りました。殿、玉は充分に幸せにござります」
玉子は忠興の胸に顔をふせた。
玉子は聡明であった。今、自分たち夫婦が、いかにあがいても、時代の危機から逃れることができぬことを感じた。忠興が細川家の安泰をねがって徳川方につくことも、自分を大坂に残さざるを得ないことも、すべては余儀ないことなのだ。もとより忠興は妻の自分の死をねがっているのではない。が、結果として見殺しにせざるを得ないところに、立たされているのだ。徳川家康にしても、寵愛の側室を大坂城に残して出陣するという。
玉子はふっと、二十何年も前に、姉のお倫の言った言葉を思い浮かべた。
「嫁ぐことは、死にに行くことです」
お倫はこう言って、淋しく笑った。そのお倫も、本能寺の変のあと、坂本城で、母や弟たちと共に死んで行った。が、今、玉子は、自分にとって結婚は、死ぬ場ではなく生きる場であったと思う。もし石田三成が、自分を人質にしようとするならば、自分は生きてはいられまい。が、その死もまた、自分にとっては生きる道だと玉子は思った。このあと何年生きたとしても、結局は肉体は死なねばならない。
(死ぬべきときに、人は死すもの)
玉子は、忠興の胸に抱かれながら思った。
「殿」
「……む」
忠興は、玉子のつややかな黒髪に唇をつけていた。目に涙が光っている。掌中の玉と愛《いとお》しんだこの玉子を死地に置き、明日は宮津に発《た》たねばならない。出兵の手筈は六月二十七日と決まっていた。
「何じゃ、お玉」
「……散りぬべき……」
「散りぬべき?」
「はい、散りぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ」
「散りぬべき時知りてこそ世の中の
花も花なれ人も人なれ……。お玉!」
辞世か、と口に出かかって、忠興は言葉をのんだ。互いに十六歳の幼い年に結婚した二人であった。あれから二十二年、さまざまなことがあった。が、いとしい玉子の口から、辞世を聞かねばならぬ悲痛な夜があったろうか。
「散りぬべき……」
再び言おうとして、忠興は絶句した。忠興の肩が小きざみにふるえ、傍の灯火がほのかにゆらめいていた。
忠興が、会津に向かう家康に従って宮津を出発したのは六月二十七日、石田三成が、家康討伐の兵を挙げたのは七月十七日であった。
三成は、二十年にわたる豊臣家の恩顧には、家康に従った諸将もそむけぬと見ていた。自分が挙兵すれば、必ず大方の諸将は馳せ帰ると誤算していた。
一方家康は、石田三成の動きを知るや、自分に従う諸大名を集結させて言った。
「大坂がかかる雲行きとなったからには、諸将は自由にその進退を決めるがよい。大坂の妻子の安否も心配であろう」
福島正則が先ず答えた。
「承りたいのは、秀頼公のことじゃ。秀頼公さえ安泰ならば、わしは石田などにはつかぬ。太閤殿下が、あのご臨終の床で、涙を流してお頼みなされた秀頼公のことだけは、何としてもお守り申さねばならぬ」
「そうじゃ、わしも福島殿の意見に賛成じゃ」
黒田長政、加藤清正など、豊臣の家臣たちも口々に言った。家康は答えた。
「それは無論じゃ。わしも秀頼公の前で固く誓ったことだ。秀頼公を奉じていればこそ、今かように、大老として戦っているのじゃ。石田らは、その秀頼公に弓を引く者じゃ」
こうして家康たちは石田を反逆者とした。武将たちは、秀頼公さえ安泰ならば、何も日頃嫌いな石田に走ることはない。
一方、石田三成は、案の定先ず細川忠興にねらいをつけた。忠興は果敢であり、家康に心服している。その忠興の妻玉子を人質とし、かつ領地丹後を守る細川幽斎を討つ。忠興は名代の愛妻家であり、親孝行者である。必ずや、急先鋒の忠興も動揺し、西軍に降るであろう。忠興が降れば、他の者も浮足立つこと必定と三成は見た。
この時の、丹後征討の要請が別所豊後守宛の書簡に次のように記されている。
「(前略)今度何の咎もこれなく景勝追討のため内府(家康)へ助勢、越中守一類残らず罷《まか》り立ち候段、是非に及ばず候。然る間、秀頼公よりのご成敗のため各々差しつかはし候条、軍忠をぬきんぜらるべく候。至つて下々まで働によりて御褒美を加へらるべく候」
忠興、興元、忠隆らが宮津から会津に向かったあと、丹後の幽斎のもとには、領内ことごとくかき集めて、武士が五十余人、雑兵五百人ほどであった。
石田三成は、丹後征討の準備とともに、いち早く、大坂の細川邸をはじめ、黒田長政邸、加藤清正邸などに人質を要請する手筈をきめた。家康に従った大名の内室を人質にとるという噂は、十三日に既に大坂市内に広まっていた。黒田長政の妻は、噂を聞くや、ひそかに邸を脱け出ていた。加藤清正の妻は、大きな水桶の底に、更に底をつくり、そこにかくれて船に乗って逃げた。
大坂に在る大名の妻たちは、人質の噂に恐れおののいた。今日人質に取られるか、明日取られるかわからない。留守居役の小笠原少斎は、その噂を玉子に知らせようかどうかと迷ったが、やはり一応知らせるべきだと奥の棟に伺候した。清原マリヤと、お霜という侍女に少斎は先ず言った。
「石田方は今日にも、徳川殿に従った諸将のご内室を人質にとるという噂じゃ。心苦しきことじゃがお耳に入れていただきたい」
「え? 今日にも!?」
霜女はさっと顔色を変えたが、マリヤは、
「かしこまりました」
と静かに答えた。
二人は少斎をその部屋に待たせて、急いで玉子の部屋に行った。玉子は静かに、自分の書いたものなどを読み返していた。
逢ふと見てかさぬる袖の移り香の
のこらぬにこそ夢と知りける
會て味土野でつくった歌である。ありありと忠興の姿を見、醒《さ》めて夢と知った時の侘びしさが、昨日のことのように思われる。
朝夕は忘れぬままに身に添へと
心を語る面影もなし
あの頃の、言い難いうつろな侘びしさから見ると、今は何と幸せであろうと玉子は思う。
忠興が宮津に向かって発つ朝、玉子も門に立って見送った。忠興は食い入るように玉子を見、何か言おうとしたが、唇がわなないただけであった。ようやく玉子から視線をもぎとるように外らすと、忠興はひらりと馬上の人になった。
「少斎、石見、稲富、あとを頼むぞ!」
言ったかと思うと、忠興の馬は駆け出していた。じっと見送る玉子を、忠興は振り返らなかった。その振り返らぬ忠興の心が、玉子には痛いほどわかった。坂を東へ走り去る忠興とその伴の影が、左へ曲がって消えるまで、玉子はまばたきもせずに、じっと見送っていた。
その時の忠興の姿が、今も鮮やかに目に浮かんでくる。
(再び、決して相まみゆることはないであろう)
しかし、いつの日か逢えるであろうと思っていた味土野の頃より、今は心が満ち足りていた。平安であった。
「御心《みこころ》のままに従わしめ給え」
今も玉子の唇から、低く祈りの言葉が洩れた。
「ガラシャさま」
清原マリヤが静かに声をかけた。
「おや、お霜と二人で、何のご用でしょう」
「はい、只今小笠原さまが参りまして、今日にも石田軍が、人質をとりに押しよせるという噂。いかがとり計らいましょうかとのことにござります」
玉子は、
「ご出陣の際、殿がお指図なされておられましょう。その通りにご返事なさるがよいとお伝えしてください」
引き退った二人が、しばらくしてまた玉子の前に来た。
「小笠原様と河喜多様が、仰せになりますには、人質に出すにも、当家には適当な人がござりませぬと石田方にお返事申すには、いかがかとのことにござります」
「なるほど」
「長男、次男は会津に向かっており、三男は江戸の徳川様の御邸に人質の身。差し出す人とてござりませぬ、かように申し上げるとか」
「して、それでも、たって出せと言われた時は?」
「はい、その時は、丹後の大殿様にご相談の上、お指図を待ってお返事申し上げまする。殿の留守故、家来どもの一存では、事を運びかねますと、お答えしたいとか、いかがでござりましょう」
「なるほど。最初から、死んでも人質は出せぬなどと、角立つ返事もできますまい。それでよろしいでしょう」
と静かに笑った。
その時、他の侍女が、
「うごんさまが、折り入ってお話し申し上げたいとのことにござります」
と言いに来た。うごんは、年に一、二度顔を見せに来る比丘尼《びくに》である。マリヤと霜女が去り、比丘尼が小腰を屈めて入って来た。
「まあ、ご機嫌うるわしゅう。相変わらずお美しゅうて……」
「うごんさまにも、お変わりもなく……」
「お方さま。何かとまた騒がしゅうござりますな。何でも、石田さまが、奥方さま方を人質になさるとやら、何とやら……」
玉子は微笑したまま黙って聞いている。
「けれども石田さまは、人質は大事にお扱いになるとか。いつ、人質にとられるかと怖《お》じ恐れておりますよりも、早く大坂城に行かれたほうが、ご安心と申すものでござりましょう」
親切げにうごんは言う。玉子は、うごんが石田三成の内命を受けて来ていると察知した。
「うごんさま。ご親切はかたじけのうござりますけれど、わたくしは、いささかも石田さまを怖じ恐れてなどおりませぬ」
きっぱりと玉子は言った。
「え? 恐れない、と仰せになられますか」
恐れぬという返事が、よもや、女の玉子から出るとは思わなかった。比丘尼は早々に帰って行った。
が、その翌々日、うごんはまた訪ねて来た。
「奥方さま。石田さまは、武力をもっても、人質を取ろうとお考えのご様子です。悪いことは申し上げませぬ。急いでお逃げなされませ。加藤様の奥方も、黒田様の奥方も、既にお逃げになられました」
「いえいえ、殿は、この家より一歩も出てはならぬと申されました。聖書にも『夫にはキリストさまの如く仕えよ』というお言葉がござります。わたくしは神のお言葉に従いまする。殿に逆らうわけには参りませぬ」
比丘尼は、困惑げにその青白い顔をうち伏せていたが、
「奥方さま、お隣の宇喜多様はご親戚でござりましたのう」
宇喜多家には、前田利家の娘が嫁いでいる。その妹が、長男忠隆の妻千世でもある。
「はい、親戚でござりまするが……」
「宇喜多家ならば、小路一つ隔てて隣故、かくまっていただくに恰好の場所ではござりませぬか。万一、このお邸が兵火に囲まれましても、宇喜多家に居られればお命は安全。悪いことは申しませぬ。宇喜多家にお逃げなさりませ」
「うごんさま。いかに親戚でも、宇喜多家は石田さまと同心のお方でござりましょう。やすやすと捉えられて、大坂城に人質となるやも知れませぬ」
玉子はうごんの手には乗らなかった。
うごんが帰った。玉子は縁に立って大坂城を仰いだ。美しい夕あかねの下に、天守閣がきらりと光る。廻廊に立つのは大勢の武士であろう。細川家には、小笠原少斎、河喜多石見、稲富鉄之助をはじめ、十人に満たぬ武士が留守を守るだけだ。それぞれに武術には秀れている。わけても稲富鉄之助は、糸で吊るした大豆を打ち落とすといわれるほどの、天下第一の鉄砲の名人である。が、何万の兵力を持つ石田勢の前には、どれほどの役にも立たない。しかも稲富は、生まれついての臆病者で、至って小心である。
(城とは何であろう)
威圧するようにそびえ立つ大坂城を見上げつつ、玉子は思う。日本国内にどれほど多数の城があるかわからない。その城を拠りどころとして、武将たちは命をかけて戦う。が、その城は、どれも絶対的に強固なものではない。
父の光秀の坂本城も落ちた。天下に誇った安土城も亡んだ。この大坂城も、いつまでその堅固さを誇れるか。
城は、人間のむなしい拠りどころに過ぎぬと、玉子はひっそりと笑った。強い者も、弱い者も、やがては死ぬ。その人々は、死んで果たしてどこに行くのであろう。
「殿も未だ……」
忠興が天主《デウス》を信じていないことが、玉子には心がかりであった。
その時玄関がざわめいた。石田方の正式の使者であった。遂に来るべきものが来たのだ。使者は命令を伝えた。
「秀頼公への忠義従順の心あらば、即刻ご内室を城中に差し出されよ。万一、この命令に背《そむ》くことあらば、武力をもってご内室を申し受くる者也」
有無を言わせぬ高圧的な命令である。しかも、他の誰でもない、内室を即刻差し出せ、出さねば武力を行使するというのだ。
使者の前に、河喜多石見は答えた。石見は明智から来た重臣である。玉子の生まれぬ前からの光秀の臣であり、嫁ぐ玉子に従《つ》いて、細川家に来た忠義の臣である。七十九歳の老骨ながら、凜《りん》とした態度で答えた。
「これはまた何と理不尽なお言葉でござろう。当主忠興殿の留守は、先刻ご承知の筈。その殿の留守に、家臣たるわれらが、勝手に奥方を差し出せるものでござろうか」
「そのようなことは身共のあずかり知らぬこと。御奉行石田三成殿の命令じゃ」
「待たれい。これほどの大事、何故当主に直々早馬をもってその意を告げ申さぬか。あるいはわれらが大殿幽斎殿にご使者を差し向くる道もある筈」
「…………」
「石田殿ほどのお方が、その理《ことわり》がわからぬ筈はござらぬ。ともあれ、武士にとって、主人の命令が至上じゃ」
「では、御奉行の命には服さぬと申すか」
「御奉行といえど、大老といえど、われらが主人ではござらぬ」
「されば武力をもってしても、かまわぬと申すのか」
「そのような無体なる命令には、到底従うわけには参らぬ。この老腹かき切るとも、奥方をこの邸の外へは一歩も出し申さぬと、復命せられよ」
「よしっ、その儀なれば覚悟を召されい」
足音荒く使者が帰って行った。
少斎と石見は危急のこととて、急ぎ直々の目通りを玉子にねがった。
「奥方様」
石見が、いたましげに目をしばたたいた。坂本城以来、幼い時からの玉子を見守ってきた石見には、肉親に劣らぬ玉子への情がある。
「石見どの、達者で何より……」
ねぎらう玉子の言葉が、石見の涙を見て途切れた。
「奥方様、遂に石田方より使者が参りました」
少斎が様子を伝え、
「人質を、武力をもって連れ行くとは、あまり聞かざるところ……」
「石見どの、少斎どの、武力などに決しておどされたりしますまい。人に従うよりは神に従うべきなり、と御教えにもござります。また、妻はキリストさまに仕えるように、夫に仕えよ、との御言葉もござります。わたくしはこの御言葉を守りましょう。殿の命《めい》に背いて、人質などには決してなりませぬ故、安心なさるがよい」
「はい、お心のうち、よく存じ上げております。吾らも、武力を以て戦いまするが、吾々が討ち死にしたあと、奥方様お一人が残れば、そのまま城中に連れ去られましょう。そうなっては……」
「石見どの、なぜわたくし一人が生き残ることになりましょう?」
「それは……奥方様はキリシタン故……」
「なるほど、キリシタン故自ら生害はいたしませぬ。自害は恐ろしい罪故、自害はなりませぬ。この命は、少斎どの、石見どの、そなたたちの手に果てましょうぞ」
「奥方様……」
石見の白髪頭がふるえた。
「でき得るならば、吾々は奥方様を、何とかお逃し申し上げたい」
「この期に及んで、石見どの、未練でありましょうぞ。わたくしはもはや、生きのびようなどとは夢考えてはおりませぬ。殿は、徳川殿に従った以上、万々一にも、わたくしが石田方の人質となってはなりませぬ。徳川殿に忠心なきものと疑われまする。それでなくても、疑われて忠利を人質にとられておりますものを。殿には心おきなくお働きいただかねばなりませぬ」
涙一つ見せぬ玉子に、石見は言葉もない。少斎は、
「奥方様、お心のほどお察し奉ります。吾らも、奥方様のお命を頂戴いたしましたあと、直ちにお供つかまつりまする」
「お供? 少斎どの、そなたたちは自害なさるおつもりか」
玉子は、その美しい目を二人に注いだ。
「はい、殿より御殉死のおゆるしをいただいております故、家臣としてこれに過ぐる名誉はござりませぬ」
「なりませぬ。わたくし一人死ねば、それにて足りることではござりませぬか。わたくしの死は、神を信ずるが故の死。神は夫に従えと仰せになりまする故、喜んで死んで参りまする。けれども、そなたたちは、わたくしの死んだのちは、この屋敷に火を放って立ち去ってくださるように……」
「殿のご命令なれば、お伴をおゆるしくだされたく……」
「石見どの、少斎どの。死んで、そなたたちはどこへ行かれる?」
「どこへと申しますと?」
「死んでどこへ行くかもわからず、死に急いではなりませぬ。のう石見どの」
と玉子は豊かな膝を進め、
「石見どの、幼い時からまことにお世話になりました。もう、そなたも七十九歳、ただ苦労をかけて……何とお礼を申し上げてよいやら……。今、また、このわたくしと共に死のうとの言葉、決しておろそかには聞きませぬ。ありがたい心とお礼を申します」
「何の勿体《もつたい》ない」
「いえ、勿体ないはこちらの申すこと。のう石見どの、少斎どの、共に死ぬならば、共に同じ天国《ハライソ》に行こうではありませぬか」
「天国《ハライソ》へ?」
「そうです。死んでもどこへ行くかわからぬそなたたちと共に死ぬるは、心が重い。どうかそなたたちも天主《デウス》を信じてくださるように。キリストさまが、そなたたちの罪を負って十字架にかかられたことを、信じてくださるように。信ずれば、共に天国《ハライソ》に参れますものを」
死を前にした人とも思えぬ熱した語調で、玉子は二人に信仰をすすめた。
「お言葉、ありがとう存じまする。が、かく申すうちにも、石田の軍勢が押しよせぬとは限りませぬ。身共が信者になるひまは、残念ながらござりませねば……」
少斎が言う。石見は老いの目を拭って、
「奥方様、姫さま方や家の者とお別れのご準備を……」
と声を励ました。
「ではどうか、二人とも、くれぐれも死ぬることは急がぬよう、わたくし一人を静かに天に送ってくださるように」
玉子はていねいに頭を下げた。
部屋に一人入って、かねて用意の白無垢《しろむく》を着、静かに神に祈りを捧げようとした時、ふいに嫋々たる笛の音が、塀の外から流れて来た。修士になった初之助の吹く、聖なる讃美の曲であった。
玉子に力を添えるが如く、初之助の笛の音は塀を越えて静かに流れてくる。その初之助の心を玉子は瞬時にして深く受けとめた。味土野に現れて以来の初之助の忠誠を、玉子は今改めて思った。が、思いにひたる余裕は既にない。
玉子は膝を正し、神の前に心を静めて祈りを捧げた。
「尊き天地の主なる御神、聖なる御名のとこしえに尊まれんことを。この卑しき身を、三十八年の間、今日この日まで御守り下されましたる御恵み、心より感謝し奉ります。取るに足らぬこの身に、御救いの道を示し、信ずる者とならせ給いましたる深き御恩寵、ひたすら感謝を捧げ奉ります。
わたくしの気づいて居ります罪をも、気づかずに居ります罪をも、すべてをおゆるし下さりませ。また、わたくしの心の中より、石田どのに対する恨みがましき想いを、ことごとく除いて下さり、清き、砕かれたる魂となって、御許に召されますよう、御導き下さりますように。
父光秀の娘と生まれたること、忠興どのの妻となりたること、すべては相働きて益となりたる御恩寵を謝し奉ります。残れる細川家の人々の家に、わけても夫忠興の上に、わが子忠隆をはじめ、幼き万に至るまで、限りなき御いつくしみの御手を以て、信仰に御導きあらんことを乞い願い奉る。また、清原マリヤ、霜女、侍女たち一人一人の上に、石見どの、少斎どの家臣の一人一人の上に、父光秀より遣わされた初之助の上に、同様の御恩寵を賜らんことを。何卒《なにとぞ》、わたくし一人の命を召されて、他の者どもの命をお助け下さりますように、お願い申し上げまする。
御恩寵によりて信仰を与え給い、御恩寵によりて信仰の死を与え給う天主の上に、限りなき御栄えを祈り奉る」
心をつくして祈り終わると、玉子は胸に十字を切った。その玉子の目がこよなく澄んでいた。
礼拝の場を出ると、もう六つ半(七時)を過ぎる頃でもあろうか、夕色の濃くなった部屋に、侍女たちが張りつめた表情で玉子を待ち受けていた。武力をもってしても玉子を人質に申し受けると言い、石田の使者が帰ったのは半刻(一時間)前、折り返しに石田勢が押しかけてくるのは必至であった。
白無垢を裾長く着た玉子の清らかな立ち姿を、侍女たちは瞬きもせずに見上げた。その中には、長男忠隆の妻千世と、七十歳を過ぎた忠興の叔母とがいた。忠興の叔母は、昨秋来細川家に寄食していた。
「千世どの、もはや六つ半も過ぎていましょうほどに、今にも石田勢が攻め寄せるやも知れませぬ。一足先に宇喜多様へ叔母上さまをご案内くだされませぬか」
人形のような幼い顔立ちの千世姫はうなずいて、
「して、お姑様は?」
「一度に行っては目立ちます故、のちほど参りますほどに……。叔母上様、このような事態になり、お心を痛めて申し訳もござりませぬ。さ、千世どの、叔母上様を急ぎご案内を……」
年老いて事の判別もできぬ叔母と、まだ年若い嫁の千世には、不要な心配をかけまいと、玉子はわざと永の別れのそぶりを見せずに言った。千世は、白無垢の玉子の姿を見ても、まさか死の覚悟があるとも察せぬほどに、石田勢の襲来におびえて、気が転倒している。
「では、お先に参らせていただきまする」
刻々と時が移り、部屋の中は既にうす暗くなっている。霜女が立って、灯をつけた。
「マリヤどの、急ぎ多羅と万をここへ」
灯の光を受けた玉子の姿は、気高いほどに凜としている。すぐに佳代が十三歳の多羅と三歳の万を連れてきた。多羅はもう垂髪にして小袖を着、背丈も高く乙女さびている。三歳の万は玉子の白無垢姿を見、
「お母ちゃま、おべべが白くてきれい。どこへおいでになるの」
と、あどけなくいぶかる。玉子は万をひしと抱きよせて、
「万、そなたはかしこい童《わらべ》故、よくよくお聞き。母さまは、天のかみさまのおそばに白いおべべを着て参ります」
僅か三歳の万に、何のことかわかる筈もない。が、この幼さで、母の自分を失う万のこれからの一生を思うと、玉子は尚のこと、幼い魂の中に信仰を刻みつけておきたい思いに駆られた。
「万も、お母ちゃまといっしょに、いきたい」
小さな口を丸く開いて万は言う。玉子は思わず頬ずりをし、
「天の神さまは、いま、母さまにだけ、ご用なのですよ」
姉の多羅は、わっと泣いて玉子にしがみつく。
「どうして泣くの、お姉ちゃま」
万はふしぎそうに多羅の肩に手をおいた。
「多羅、泣いてはなりませぬ。そなたが万の母代わりです。母が孤児院の子らにしたことをそなたは見ていたはずです。多羅、そなたもどうか、母の信じた天主を信ずるように。そうすれば必ずまた会えますほどに」
泣きじゃくりながらも、多羅はしっかりとうなずいて、
「お母さま、多羅も……きっと天主さまを信じます」
「多羅、よくいってくれました。人間にとって最も大切なものは命です。けれども、その命よりも、もっと大切なものが人間にはあるのですよ。それが信仰です。このことを、そなたは万に教えてください」
「はい、お母さま。お母さまは、その命よりも大切な信仰によって、天に……天に……召されたと……万に……いって聞かせ……」
すすり上げつつ、多羅は言った。
「よく……言って、くれました。多羅、その言葉、母への何よりのたむけです」
玉子は多羅と万を両腕に抱いたが、既に夕闇の濃くなった外の気配に気づいて、はっと吾に帰り、
「ではマリヤどの。直ちに二人を教会に送り届けてくださるように」
と佳代に頼んだ。
「え、わたくしに?」
「そうです。子供の行く末はそなたにおねがいしたいのです」
「お方さま!わたくしはお方さまにお伴させてくださりませ」
涙ながらに事のなり行きを見ていた侍女たちが、膝を進めて玉子にとりすがり、
「お方さま、わたくしも……」
「わたくしにも、お伴を……」
「お伴をおゆるしくださりませ」
と口々に叫ぶ。
「なりませぬ。そなたたちの心のほどは嬉しくとも、死ぬことはなりませぬ。長い間、そなたたちには……まことに……おせわになりました。この邸を一歩も外に出ることの許されなかったわたくしにとって、そなたたちは、……何と……大事な、大事な友であり、信仰の姉妹であったことでしょう。いまここに、ありがたくありがたく、お礼を申します」
一同は声もない。涙をこらえて必死で玉子を見つめる者、肩をふるわせてひれ伏す者、誰一人玉子を離れようとしない。
「今にも石田方が攻めてくる気配、さ、急いで、おのおのの家に立ち帰り、幸せに暮らしてくださるように。おお、忘れるところでした。ここに用意の形見の品々、心をこめて……贈ります」
和紙に包んだ匂い袋、ふくさ、髪かざりなどを、一人一人に手渡しはじめると、侍女たちは嗚咽《おえつ》して、
「お方さま、わたくしどもと、わたくしどもと……どこぞへ……」
「一刻も早く、お逃げくださりませ。身をおやつしになられて……」
「ほんと、闇にまぎれて……」
「お隣の宇喜多さまになりとおかくれなされませ。宇喜多さまはご親戚故、お命はお守りくださりましょう」
必死に願う一人一人にうなずきながら、しかし玉子は凜然と、
「なりませぬ。逃げることは」
「なぜでござります。黒田長政さまの奥方も、加藤清正さまの奥方も、疾《と》うに無事にお逃げになられましたに……なぜ、一人お方さまのみが……」
「不審はもっとものこと。そなたたちも信者故、事をよく知って頂きましょう。殿は出陣のみぎり、この家より一歩も出てはならぬと仰せられました。殿には殿のお立場があっての、この重きご一言、わたくしは妻として、命をかけて守らねばなりませぬ」
「でも、それは……」
「いいえ、妻たる者は、夫にはキリストさまのごとく仕えよと、聖言《みことば》にもござります」
「わ、わかりましてござります」
霜女が叫ぶように言い、
「ならばお方さま、なおのこと、何卒《なにとぞ》何卒お伴をおゆるしなされて」
「お伴いたしまする、わたくしも」
「佳代も共に天国《ハライソ》に参りとう……」
佳代も必死に両手をつく。
「これはマリヤどののお言葉とも思われませぬ。わたくしの今ここに死ぬるは、天主の教えに従っての死ではありませぬか。そなたたちはいかなる信仰の故に、共に……共に死のうというのでしょう」
「……ただ、お慕わしゅうて……」
「お方さまとは離れとうござりませぬ」
「その熱い心、あだやおろそかには聞きませぬ。けれども、そなたたちは信者。マリヤどのも、みなの者もよくお聞きなさい。『すべて信仰によらぬことは罪なり』との教えを、そなたたちもよくよく知っている筈。一時の感情に委せて、天主よりあずかった貴き命を、勝手に自らの手で縮めてはなりませぬ」
「は、はい」
「天主からあずかった命は天主のもの、自分のものではありませぬ」
一同はただ、嗚咽するばかりだった。その時、廊下を走る音がして、小笠原少斎が現れた。
「申し上げまする。只今、大坂城玉造の門が開かれ、三百人近い兵が繰り出されたげにござりまする」
少斎が走り去った。一同がはっと顔を見合わす。玉子は凜として、
「さ、これで、急ぎお別れいたします。生涯信仰を持ちつづけてくださるように」
誰も立ち去ろうとする者がない。ただ床に打ち伏し、声を上げて泣くばかりである。
「お、お方さま!」
一人が前後の見境もなく玉子にしがみつく。それまで、異様な部屋の空気に、呆然と立ちつくしていた幼い万が、誘われてワッと泣き出した。
「マリヤどの、さ、多羅と万をおねがいいたしまする。そなたには、輿入《こしい》れの日から今日まで……共に……苦労を……。わけても、あの味土野の二年有余のお心づくし、忘れませぬ。そなたとは、姉、妹とも人にも思われ……信仰に導いていただき……洗礼をそなたの手で……」
さすがに言葉の途切れる玉子に、
「お方さま!」
と佳代は泣き伏す。
「のう、佳代どの、多羅と万を、わたくしに代わって導いてくださりませぬか。おう、あの物音は……さ、急いで……」
次第に大勢の喚声が近づいてくる。佳代も今はこれまでと、多羅と万の手をとり、
「では、お別れいたしまする」
と立ち上がる。玉子は再び万と多羅を抱きよせ、
「幸せに……」
はらはらと涙をこぼした。多羅はもう顔も上げ得ない。佳代は、
「さ、共にお別れを」
と侍女たちを励まして立たせる。侍女たちは泣く泣く一人立ち、二人去り、残ったのは霜女と加賀女の二人だった。
「そなたたちも急いで……」
「いいえ、お方さま、せめて……せめて」
霜女が身をもむようにひれ伏す。
「では、そなたたち二人は、わたくしの最期を見届けて、殿や大殿にお知らせくださるように。そして、これをそれぞれに渡してくださるように」
玉子は涙を払って、衿を正し、文箱から、幽斎、忠興と、息子の忠隆、忠利、興秋への遺書を手渡した。
西の門がひときわ騒がしくなった。
再び小笠原少斎が長刀《なぎなた》を抱えて駆けてきた。
「奥方さま、遂に石田勢が、大挙して押しかけて参りました。お痛わしきことながら……お覚悟を!」
平伏する少斎に、玉子は静かに言った。
「長い間のそなたの忠義、かたじけなく思います。では、心静かにそなたの手にかかりましょうぞ」
十字を切り、瞑目する玉子の神々しさに、傍の霜女は息をのんだ。
玉子の胸の中に、坂本城、琵琶湖の水、輿入れの日の夕日、味土野のこがらし、父の死、一族の死、夫忠興の顔、わが子の顔が次々と浮かぶ。
(明智の一族は、父をはじめ、母も姉も弟もみな、非業《ひごう》の死をとげた)
と玉子は思う。そして、自分も今、子供たちをおいて三十八歳の最期を遂げようとしている。
(けれども、わたしの死は、神の恩寵によって、光栄ある死とされたのだ)
深い感謝と法悦に輝く玉子の顔を、灯火が照らしている。玉子は澄んだ目を静かに開き、
「では天主のみもとに!」
長い垂髪をくるくると巻き、白い首をさしのべる。一瞬、顔がさっと紅潮した。
敷居のそばまでにじりよった少斎は、部屋の外から、
「憚《はばか》りながら、奥方さま、御胸を!」
とひれ伏す。玉子は、
「まちがいましたか」
と落ちついた声音で言い、ちらりと霜女に目をやって微笑さえ浮かべ、
「では」
と、白無垢の胸もとを、ぐいと開いた。
「恐れながら、奥方さま、今少しくこちらにおよりくだされませ。お部屋に入るはご無礼故……」
「わかりました」
玉子は敷居のきわまで進んで、目をつむり、
「聖名《みな》の尊まれんことを、聖国の来らんことを、御心《みこころ》の天になるごとく地にもならんことを……」
と、主《しゆ》の祈り(キリストの教えた祈りの言葉)を唱えはじめた。少斎は引き下がって長刀をかまえ、
「奥方さま、では、お覚悟を。直ちにわれらこれよりお伴申し上げまする。しかしながら、このお傍に果てるはあまりに恐れ多きこと故、われらは玄関にてお伴させていただきまする」
「自害は許しませぬ。天主のみもとに行くは、わたくし一人にとどめますように。では、早う、少斎どの、頼みまする」
「奥方ごめん!」
閃めくと見た少斎の長刀が、一瞬のうちに玉子の胸を刺しつらぬいていた。真紅の血がさっと飛び散り、玉子の上体がぐらりと前に傾いたかと思うと、そのまま玉子は床に打ち伏した。
かすかに玉子の口が動いた。玉子の目に、天使の群れに囲まれ、自分の方に手をさしのべるキリストの姿が、ありありと浮かんだ。
「お方さまあ!」
霜女と加賀女が思わず駆けよろうとした。
「ならぬ。二人共、直ちに立ち去られい」
厳然として少斎は言い、かねて用意の白い絹布団を玉子にかけて、手を合わせた。そして、立ち上がるや部屋に火薬をまき、ふすまや蔀《しとみ》を玉子の傍に積み上げて火を放つと、西門に駆け出して行った。
霜女と加賀女は気をとりなおして炎の中を裏門より逃れ去った。
西門を守っていた鉄砲の名人稲富は、三百の兵士に恐れをなし、既に逃げ出していた。兵士たちを相手に、応対しつつ時をかせいでいた石見が、駆けよってきた少斎の長刀を、赤々と燃えるかがり火にかかげて叫んだ。
「やあ、やあ、皆の衆ようく承れよ。この長刀の穂先には、わが殿のご内室玉子さまの真っ赤な血がしたたっているわ」
つづいて少斎も、
「お見事な死を、汝ら腰ぬけに見せたかったわ。さすがは勇名とどろく細川忠興殿のご内室、死すともとりこの辱しめを受けなんだぞ」
再び石見が、白髪頭をふるわして、声の限りに呼ばわって言う。
「残るわれらも、この門前に見事奥方さまのお伴を仕るぞ。ようく近よって、その最期を見よ!」
言い終わるや否や、少斎、石見、石見の甥六右衛門とその子、そして金津助二郎と、他の三、四人の者が、見事に切腹して果てた。これが細川邸、忠興の留守を最後まで守った全員であった。
一同が切腹すると同時に、轟音を発して細川邸は火炎に包まれた。その夜、細川邸の燃える炎は、大坂の夜空を炎々と焦がしつづけた。
玉子、洗礼名ガラシャ、実に三十八歳、慶長五年七月十七日の夜のことであった。
この悲報は、直ちに田辺城の幽斎のもとに、そして戦場の忠興のもとにもたらされた。玉子の死を聞いた忠興は、一瞬呆然自失の態であったが、地に打ち伏して号泣した。忠興の弟興元もまた、忠興にもまして吠えるように泣いて、玉子の死を悼《いた》んだ。
石田三成は、死をもって人質を拒んだ玉子の壮烈な死に驚き、他の武将の妻を人質にとることをぴたりとやめた。この玉子の死が全国を感動させ、三成への反感を高めたからである。結果として、玉子の死は大きく徳川方の士気を鼓舞し、結束を固めさせることになった。天下分け目の関ケ原の合戦において、徳川方を勝利に導いた一因に、実にこの玉子の死があったといわれている。
家康も玉子の死にいたく心を打たれ、自ら賞詞を与え、後々幽斎、忠興を重く用いるようになった。
玉子が昇天した翌日、教会のオルガンチノ神父をはじめ、清原マリヤ、侍女たちが、焼け跡に玉子夫人の遺骨を探した。まだ、煙のぶすぶすといぶる熱い焼け跡に立つマリヤや侍女の目は、泣きはれていた。
一物も残さず焼けた家の廻りには、焼けただれた塀と、立ち木があるばかりである。焼け残った木に、蝉がとぎれとぎれに鳴くのも、玉子を惜しんでいるように思われて、侍女たちはまたしても泣けてくる。
このあたりと思われる熱い灰の中に、玉子の白い骨があった。
「こんなになられて……」
泣きくずれる一人に、オルガンチノ師が言った。
「夫人は神のみもとに居られます。平安に……」
黙々と骨がめに拾い終わって帰ろうとした時、侍女の一人が言った。
「おや、ここにも……お骨が……」
三間ほど離れた裏手のほうに、骨があった。玉子の骨とちがって、太い骨だ。骨の傍に、僅かに焼け残った笛がころがっていた。笛に気づいたマリヤは、はっと胸をつかれたが、初之助の名は言わなかった。初之助は修士の筈である。最後まで玉子を見守るようにと光秀に言われていたにせよ、信者に殉死は許されぬことであった。
「どなたか、家士の方でしょう」
この骨も侍女たちは拾った。
玉子の遺骨は、殉死した河喜多石見や、小笠原少斎、初之助たちと共に、大坂の崇禅寺《そうぜんじ》の境内に手厚く埋葬された。
忠興は、関ケ原の合戦ののち、細川邸の焼けあとに一夜玉子を偲《しの》んで立ちつくし、幾度か激しく慟哭《どうこく》した。そしてオルガンチノ師に相談し、その年十月盛大なるキリスト教式の葬式を行った。
当日、関西にある神父、修士は無論のこと、高山右近、黒田父子など、キリシタン大名そしてその夫人たち、玉子の死に感動した多数の信者など、実に千人を超える参会者が堂に溢れた。
この時、日本の教士が立って、会衆に向かって説教した。
「ご一同と共に、今ここに細川越中守忠興殿の奥方、故玉子夫人を偲んで、ひと時を過ごしたく存じまする。
玉子夫人の死は、天下の人々の衿を正さしめたことは、ご存じの通りでありまする。玉子夫人の死は、単なる死ではありませぬ。それは忠実に天地の主なる神に従って生きたる途上での、神への忠実なる死でござりました。平生の生き方が、その最後にも、おのずから現れるのでありまする。
玉子夫人は、洗礼名をガラシャと申し上げた。これは神の恩寵、み恵みということでありまする。玉子夫人はこの名を、ことのほか喜んで居られ、平生、すべてはみ恵みであると仰せられて居りましたと伺って居りまする。
さて、この度、ご夫君越中守殿がご出陣のみぎり、いかなることがあっても、一歩も屋敷を出ては相ならぬと申されました。他の大名のご夫人の中には、いち早くその邸を逃れ出られた方もあるやに伺って居りまするが、玉子夫人は、このご夫君のお言葉を死をもって守られたのでありまする。
もとよりその言葉が、いかなる重大な意味を持つかを、聡明なる夫人は知っていたからであります。が、命をもって守ったのは、実に夫人の信仰によるのでありまする」
ここまで教士が言った時、忠興は人目も忘れて、
「ううっ」
と、うめきとも、号泣ともつかぬ声をもらした。
忠興は、自分に嫁いで二年後に、その父母姉弟を一挙に失った玉子の淋しさを思った。味土野の奥に玉子を送り出した夜を思った。その二年半、一度も見舞わなかった自分の非情さと、玉子の侘びしさを思った。ようやく味土野から帰った玉子に、側室おりょうを引き合わせた自分の無情さが悔やまれた。わけても、キリシタンとなった玉子を迫害して、侍女たちの鼻や耳を斬ったことが恥ずかしかった。
何もかも耐え忍んで、なお自分に熱い愛を注いでくれた玉子を思った。もう、あの澄んだまなざしも、豊かな胸もこの世にはない。
(死なせずにすむ道はなかったか)
忠興はそのことを思って、心が刺された。
(結局は、わしがお玉を、殺したのだ)
他の大名たちは一人も妻を失ってはいない。
(味土野から帰って十何年、なぜ一歩も外に出してやらなかったのか)
自分の無情さがやりきれない。
(お玉、そちがあまりに美しすぎたからだ)
忠興は、玉子が人目に触れることを極度に恐れていたのだ。玉子を見て心を動かさぬ男は一人もいないと信じていたのだ。人質になることを極度に恐れた一因に、そのこともあった。
ひそかに逃げ出させても、どこかで石田方に捕らえられぬという保証は、全くなかった。捕らえられて、他の男の餌食《えじき》になるよりは、むしろ死んでほしかった。
取り返しのつかぬ悲しみの中で、しかし忠興は、一方一抹の安らかさをも覚えていた。
(とうとう、お玉は、わし一人のものであった)
秀吉をすら、懐剣によって斥《しりぞ》けた玉子を思うと、忠興は嗚咽しながらも、深い安堵があった。
結婚以来、狂気じみた玉子への執着に終始していた忠興だった。愛する玉子を失って、はじめて安らぎが来た。それは愚かなことかも知れない。が、あまりにも玉子が美しく聡明であったからだと忠興は思いながら、再び教士の言葉に耳を傾けた。
「……夫人は、死の直前まで、天主を信ずることをすすめて居られました。即ち、夫人の残された方々への願いは、天主を信じ、真の平安、真の望み、真の幸せに至ることであったのでありまする」
教士の話は終わった。感動にすすり泣く声が会堂に満ちていた。
美しく晴れた秋の日の午後であった。
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終わりに
この「細川ガラシャ夫人」は、昭和四十八年一月から昭和五十年五月まで、二年五カ月に亘って「主婦の友」に連載されたものであり、わたしとしては、初めての歴史小説である。当初一人では取材も資料調べも、全く見当がつかなかった。が、いろいろな人から、資料が送られたり、編集の藤田敬治氏や、渡辺節氏、カメラの武井武彦氏に助けられて資料も整い、取材もできた。また、ガラシャゆかりの寺院や教会、郷土史家や学者の方々の大きなご協力もありがたかった。
連載中毎月、中村貞以先生の素晴らしいさし絵にはげまされ、ひきだされたことも感謝であった。また単行本として刊行されるに際しては堀文子先生の情感豊かな装丁をいただいたことも心から嬉しく思う。
書き終えて、わたしは改めて今、ガラシャ夫人の死を、生を、実に重たく感じている。いや、ガラシャ夫人のみならず、どの人の生も死も、それは誰かが言ったように、
「この地球よりも重い」
ものなのだ。
どの時代にあっても、人間が人間として生きることはむずかしい。人形のように生きるのではなく、猫か犬のように生きるのでもなく、真に人間として生きるということは、実に大変なことなのだ。
恵泉女学園の創始者河井道先生は、人は一人で食事をする時も、決して、つくだにや漬物だけでそそくさと食べてはならないと、戒められたという。夫や家族のいる人と同様に、ちゃんと心をこめて料理をつくり、食卓にきちんと並べて食事をするようにと、教えられたという。
これは、人間が人間らしく生きるために、決しておろそかにはできない大事な点なのだ。人間らしさは、いろいろな所から崩れ去る。一人の生活の中で、だらしなく生きると、たちまち人間性が崩れて行く。一人でいても、きちんとした生活を保つ人は、それは真に人間として生きる人と言えるだろう。
今の時代のように、女性にも選挙権が与えられ、権利もほとんど男性と同じように認められる時代になっても、少し油断をすると、人間らしさは崩れていく。
まして、四百年前、女性は男性の所有物であり、政略の具であった時代に、女性が人間らしく生きるということは、極めてむずかしいことであったと、想像される。そうした時代に、霊性に目ざめ、信仰に生きたガラシャの生き方は、わたしの心を深く打つ。
この小説を書きながら、わたしは自分が人間として生きることの大変さを改めて考えさせられたことであった。
余談だが、隣家に逃げた千世は、玉子を捨てて逃げたという廉《かど》で、忠興の怒りにふれ、離縁となった。夫の忠隆は、一足先に行くようにと玉子に言われた千世を、後から玉子も来ると思って逃げたのだとかばい、これまた忠興の激怒を買った。そして忠隆は、廃嫡にさえなってしまった。
また、忠興の弟興元は、玉子を横恋慕したということで、養子にした興秋を取り戻されている。かと思うと、葬儀の際、忠興は教会に金子二百両を捧げ、その夜は盛大な追悼の宴をひらいている。
更に、このキリスト教の葬儀を、領地小倉においても行っている。
忠興の生来の激しい性格は、玉子の死後にも、このような様々な形で現れたのであろう。そしてそれらはすべて、玉子への愛惜の念から、あるいは自責の念から出ているようにわたしには思われる。
忠興は玉子の死後、四十五年生きて八十三で死んだ。三代の将軍に仕え、将軍を叱りつけるほどの重臣にもなった。このように細川家を不動の地位にしたのは、むろん忠興の器量にもよるであろうが、玉子の死に大きくあずかっていたことは否めないと思う。
恐らく忠興は、八十三で死ぬその日まで、ありし日の玉子の姿を思い、その最期を思っていたことであろう。玉子の死後、妻は迎えてはいない。
逆臣光秀の娘という恥を見事に雪《そそ》ぎ、立派な最期を遂《と》げた玉子のことを思うと、わたしはふっと、あのホーソンの「緋文字」の女主人公が浮かぶ。罪ある女としての印の緋文字を、終生胸につけなければならなかったその女主人公は、信仰と善行とによって、その緋文字を罪のしるしから尊敬の印に変えてしまったことを思う。
顧みて、自分の信仰の貧しさを思いつつペンを擱く。
参考文献
「日本の歴史」戦国大名 杉山博
中央公論社
「日本の歴史」天下一統 林屋辰三郎
中央公論社
「日本の歴史」江戸開府 辻達也
中央公論社
「日本の歴史」年表地図 児玉幸多編
中央公論社
細川幽斎 細川護貞
求龍堂
明智光秀 高柳光寿
吉川弘文館
日本武将列伝 桑田忠親
秋田書店
高山右近 海老沢有道
吉川弘文館
伽羅奢細川玉子夫人 宮島真一
中央出版社
丹後の宮津 岩崎英精編
細川忠興夫人 大井蒼悟
武宮出版部
禅仏教(稲葉襄編「禅と学生」より)
朱なる十字架 永井路子
文藝春秋
細川ガラシャ 小山寛二
新風社
細川幽斎 川田順
甲文社
細川ガラシャ夫人 H・ホイウエルス
カトリック中央書院
細川ガラシャ夫人 満江巌
刀江書院
細川家家系図
大徳寺高桐院蔵
公教要理
「日本古典全書」吉利支丹文学集
朝日新聞社
「歴史読本」昭和四十一年十一月特別号
「歴史読本」昭和四十七年十二月号
「歴史読本」昭和四十八年二月号
新名将言行録 松本清張ほか
河出書房新社
日本食生活史 渡辺実
吉川弘文館
日本女性史 山本藤枝・和歌森太郎
集英社
「富山昌徳遺稿集」日本史のなかの佛教と景教
東大出版会
日本城廓事典 大類伸
秋田書店
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創作秘話(七)
「細川ガラシャ夫人」―――
初めての歴史小説
[#地付き]三浦光世
前述のとおり、綾子が小説「氷点」を書き始めたのは、一九六三年である。
その十年後に、「細川ガラシャ夫人」の連載が始まる。すなわち一九七三年一月号から一九七五年五月号まで、主婦の友誌に連載された小説で、綾子にとって初めての歴史小説であった。
「氷点」以後、綾子は「積木の箱」「続氷点」「塩狩峠」「ひつじが丘」「道ありき」「この土の器をも」等の長篇小説や自伝等を発表している。右の他、短篇小説やエッセイも多く書いていて、十年の間によくぞこれだけの仕事をしたと、今更ながらおどろかされる。
その忙しさの中で、一度歴史小説も手がけてみたいと思ったことがあったか、どうか、多分それはなかったであろう。
では、なぜこの歴史小説を書く気になったのか。綾子にその動機を与えたのは、当時の主婦の友社社長石川数雄氏の言葉であった。「道ありき」「この土の器をも」は共に自伝で、主婦の友誌に連載された。「道ありき」は彼女の十三年の闘病生活を軸に、絶望から希望に立ち上がる経緯、そして結婚に至るまでが書かれている。連載中から大きな反響もあり、石川社長も注目しておられたのであろう。一九七一年頃であったか、二人で社長室を訪ねた時にお言葉があった。
「今度は三浦さんに、ぜひ細川ガラシャの伝記を書いてほしいのです。いわばガラシャの『道ありき』を書いてください」
と言われたのである。しかし歴史小説ともなると、多量の資料を調べなければならない。各地に取材に出ることも必要である。さすがに綾子も、二つ返事とはいかなかった。
一応引き受けはしたものの、いっこうに手はつかないままに、時間が過ぎていった。石川社長は大いに期待して待っていたらしいが、なかなか実現しない。再々督促の言葉も伝えられた。その後また社長室を訪ねた時、石川社長は激励してくださった。
「とにかく手を着けることですよ。資料などは、書いているうちに、いくらでも調べられます。先ずは書き始めてください」
確かに仕事は、手をつけなければ話にならない。想を練っているだけでは、いつになっても事は実現しない。すべてに愚図な私は、いつも痛感している。どうしても、簡単な仕事、とっつきやすい仕事を先にする傾向がある。兄にも言われたことがあった。
「仕事は、むずかしいものを先に叩かなきゃならんぞ」と。
ともあれ、綾子は一九七二年の夏頃には、この小説を書き始めたようである。そしてその秋、大阪、京都、若狭地方に取材に行くことができた。同行者は「主婦の友」編集長の藤田敬治氏と担当記者の渡辺節氏、武井武彦カメラマンであった。三人とも、弱い私たち夫婦に何くれとなく面倒をみてくださった。
(写真省略)
玉造教会取材中の三浦さん。マリア像(マリアの脇にいるのが高山右近とガラシャ夫人)を見る。
京都府の若狭地方へ出向いたのは、丹後半島の味土野を訪ねるためであった。険しい山道を車に揺られて行ったのを覚えている。下手をすると谷底にころがり落ちそうな危険な所もあった。現代でさえあまりにも辺鄙な山の中で、そこに、ガラシャ幽閉の跡があった。萓葺の古びた家があったが、これはむろん後年建てられたもので、ガラシャが住んでいた家とは思われなかった。
この味土野には、連載中もう一度行こうとした。多分綾子が再びその情景に触れたいと思ったのかも知れない。が、果たせなかった。一度目とはちがうコースを藤田編集長が考えてくださったのだが、険しいことに変わりはなく、車では無理ということで、途中から引き返したはずである。
味土野へ行く前日は宮津市に滞在した。二度とも、「天の橋立」がすぐ近くに見える宿で、文殊荘という宿に泊まった。あるいは前後二泊も三泊もしたかも知れない。この宿のサービスが実に行き届いていて、料理もおいしく、綾子は大いに喜んだ。思いがけなく、日本三景の一つ「天の橋立」を見て、心も浮き立っていたのであろう。
当時綾子は、心臓があまり丈夫ではなく、講演中目の前が真っ暗になったということもあった。時には血小板減少症(紫斑病)を懸念することもあったのだが、なぜか取材時はほとんど元気だった。
(写真省略)
一九七二年秋の取材。ガラシャの墓がある大阪|崇禅寺《そうぜんじ》。
取材には九州にも足を伸ばした。連載開始一年目の、一九七三年の春頃であったろうか。長崎から茂木《もぎ》に赴き、そこから天草へは海路になった。なぜ海路を選んだのか。おそらく、少しでも多く遠い昔の生活に触れるためであったと思われる。
茂木から本渡《ほんど》への波は荒かった。正に小山のように盛り上がる大波に、乗っている客船はやすやすとせり上げられる。と思う間もなく、波の谷間に斜めにすべり落ちる。あのような体験は、私たち二人にとって、後にも先にもないことだった。よくぞ、船が転覆しなかったと思う。
船客は大の男たちも皆、一様にもどしたり、横になったりして耐えていた。私は、自分が船を操縦するようなつもりで、酔いをコントロールした。車でも、飛行機でも、こうするとかなり酔いを制することができる。
しかし、とてもその船の中で昼食を摂る気にはなれなかった。そんな中で、綾子が只一人、平気で弁当の鮨か何かをうまそうに食べていた。よく人さまから、
「童女だ」「童女だ」
と言われた綾子は、確かに子供のようなところがあり、船に乗っても、車に乗っても、揺れに抵抗することがなかった。乗物だけでなく、すべてに順応できた。それにしても、あの揺れの中での食事はおどろきであった。今もって忘れることができない。
本渡から、熊本に行った。熊本には細川家代々の菩提寺がある。その寺を見て、波乱に富んだ細川家の歴史を偲んだことであった。
大阪で取材をしたのは、この九州旅行の帰りであったかどうか、さだかではない。多分帰途であったと思う。
大阪には玉造《たまつくり》に、ガラシャゆかりの玉造教会がある。この教会堂は大きく美しかった。綾子はノートを片手に、会堂内をしばらく見てまわった。
大阪といえば、大阪城が今もそびえている。小説「細川ガラシャ夫人」の中にも、豊臣秀吉は幾度も登場する。名にしおう大阪城を私たちは見過ごすわけにはいかなかった。エレベーターがあったりして、見学に便利なようになっていたが、幾多の発見や感慨があった。
大阪からは大津市にも足を向けた。大津市は美しい琵琶湖のほとりにあり、歴史的な社寺や名所の多い所である。見たい所は近江八景はじめ幾つもあったが、目的は小説「細川ガラシャ夫人」の取材である。
私たちはすぐに、この大津にある西教寺《さいきようじ》に向かった。この西教寺には明智光秀一族の墓があると聞いていたからである。西教寺とは珍しい名前と思った。綾子も同じ思いで、二人でいろいろ話し合ったりした。
それはともかく、明智光秀といえば、主君織田信長を倒した逆臣として、私たちの年代の者は、小学生の時から教えられてきた。ところが、単なる逆賊とは言えない優れた人物でもあったことが、綾子は資料を調べていくうちにわかってきて、この小説を書く意欲が盛り上がっていった。
その光秀の娘玉子が、無類の美女であり、才女であった。それにもまして、キリストへの深い信仰に到達し、壮絶な最期を遂げるに至る。そのどこを取っても、大きなドラマである。石川社長が、ガラシャの「道ありき」を書けと言われたのは、正にむべなるかなと言えた。
石川社長が、綾子の「道ありき」に注目していたことは先に書いたとおりで、むし返すわけではないが、「道ありき」は今も多くの人に読まれていることを言っておきたい。特に若い人にも少なからぬ感動をもって愛読されている。綾子の小説「塩狩峠」も、「これを読んで自殺を思いとどまった」という方が絶えないのであるが、「道ありき」も読む方に多くの希望を与えている。やはり、十三年の死の床から奇跡的に立ち上がらせられた体験が、読んでくださる方の感動を呼ぶのであろう。
「道ありき」にも、絶望から信仰による希望へのプロセスの中に、聖書の言葉は多く出てくるが、「細川ガラシャ夫人」では、それ以上に聖書の言葉が無理なく引用されていて、ガラシャの入信は、おそらくそう抵抗がなく受けいれられるような気がする。
ところで、小説「細川ガラシャ夫人」を主婦の友誌に連載中、毎号挿絵を描いてくださったのは、今は亡き中村貞以《ていい》画伯であった。明るく、あたたかい先生で、お会いすると必ず私たちの健康を案じてくださった。もっともっと長生きしていただきたかったと思う。
が、只一つ、中村貞似先生は、この小説に不満があった。挿絵が描きにくかったというのではない。挿絵は毎回、大家にふさわしい作品をお描きくださっていた。不満――あるいは不服といってよいのだが――それは次の理由によるものであった。
「いつまで経っても、織田信長がよい人物にならないんですね」
と言われたのである。先生は大の信長びいきであったのだ。確かに「細川ガラシャ夫人」の中に登場する信長は、先生の満足されるような人物像に描かれていない。
あの時、綾子は何と先生に答えたのであったろう。
「別の小説ですと、自ら見方を変えて、信長の長所や優れた業績を書けるかも知れないのですが、相すみません」
とかなんとか、苦しい返事をしたような気がする。
言うまでもなく、この世には絶対に正しい人間もいないし、全く悪い人間もいないであろう。時に視点を変えて人間を見ることは、必要であるといえる。が、「細川ガラシャ夫人」という小説の流れの中で、中村画伯のご満足をいただけることは、むずかしかったにちがいない。
(写真省略)
三浦さんが取材した当時の味土野。口絵写真にあるガラシャ夫人の碑はまだない。
それはさておき、歴史小説とはなんと多くの資料を要するものかと、私は傍から見ていて思ったことだった。僅か二、三行を書くためにも、幾冊もの参考文献を調べなければならない。が、綾子は当然のことながら、これをよくした。資料を渉猟すること自体、彼女には楽しみでもあったようだ。
単行本になった「細川ガラシャ夫人」の巻末には、参考文献として三十冊に近い書名が並んでいる。これらを綾子は、実に忠実に読んでいた。当たり前のことながら、このためにかなりの時間をかけたように思う。
この参考文献の中に、永井路子氏著「朱なる十字架」がある。これも綾子は大いに参照した。そのあまり、永井氏の著作の中に出てくる登場人物の名前を、本名と思いこみ、自分の小説の中に登場させたのである。
「朱なる十字架」の中に玉子の姉が二人出てくる。その名が「倫」と「菊」である。これを綾子は、てっきり本名と思って、自分の小説に取り入れてしまったのだ。
これをある時、永井路子氏に告げたところ、
「あれは、わたしのつけた名前ですよ。昔の女は名前などほとんど残っていないのですよ」
と言われて、愕然とする。
参考資料や文献を、私は読んでやったことはない。口述されたとおりに文章の筆記をしていて、綾子が資料を読みちがえていないかなどと思ったことは一度もない。私は只ひたすら言われたとおりに、一字一句書きちがえないよう原稿用紙を埋めていた。そのようにして、綾子の著作が生み出されたのだが、口述している事柄に誤りがないか、などと思ったことは先ずなかった。
もっと資料にも目を通して、協力できなかったかと思わぬでもないが、そんなゆとりも能力もなかった。ガラシャという名前も、綾子から聞いて、キリスト教の洗礼名だと知った。ガラシャはグレーシア(恩寵、神の恵みの意)であることも綾子から聞かされた。もっとも綾子自身も、参考文献を見るまで、それは知らなかった。
私の協力は以上のとおりで取るに足りないが、綾子が作中の人物に和歌を詠ませたことがあり、これにひとことふたこと提案したことはある。
細川忠興は、いうまでもなく玉子の夫であるが、忠興の父すなわち玉子の舅細川幽斉は、有名な歌人であったと伝えられている。その幽斉があたかも詠んだかのように、綾子の作った和歌が「細川ガラシャ夫人」の中にある。ガラシャの長子熊千代が生まれた時の歌である。
綾子はこの小説を書き終えたあと、「初めての歴史小説あれこれ」と題して感想を書いているが、これに右の歌のことも告白している。
〈わたしの小説の中に、ガラシャの長子熊千代が生まれた時の歌が出てくる。
ちよろづに強くぞあれな熊千代と
名づけて乞ひ祷《の》む神々の前
ちよろずに熊千代の千代をかけて、古今和歌らしく詠んではいるが、実はこれはわたしの作なのである。最初は「名づけて祈る」としたのだが、三浦が「乞ひ祷む」としたほうがよいといい、訂正した〉
いつ「乞ひ祷む」などという言葉を覚えたのか、自分でもわからない。私は若い時から、一般にあまり使われない古語を会話の中に入れる癖があって、同僚や先輩に笑われたことが、時々あった。
「そうですか。昨夜はまんじりともしませんでしたか」
昨夜は眠れなかったという先輩に、そんな返事をして、笑われたりもした。「まんじりともしない」くらいは、それほど珍しくもない言葉だと思うのだが、多分私の癖を相手は笑ったにちがいない。
(写真省略)
大津市の古刹西教寺にある明智|熈《ひろ》の墓前で。
短歌を詠むようになって、正岡子規の作品に大いに魅きつけられた。それはそれでよいのだが、「けるかも」という結句に魅力を覚えたりしたのは、いささか筋ちがいであった。子規の作品にあったかどうか記憶にないが、「かりけり」という語も好きで、一度使ってみたいと思ったことがある。北原白秋作であったか、
落葉松《からまつ》の林を出でて
落葉松の林に入りぬ
……
落葉松はやさしかりけり
というのがあったと思う。これは詩であるが、短歌に「かりけり」を使ってみたくて、たまらなかった。こういう姿勢だから、いまだにろくな作品はできない。綾子に自作を見せて、一言のもと、
「つまらん」
と、決めつけられたことがある。その綾子が、私の勧めを容れて「乞ひ祷む」に直してくれたわけである。今、念のため大きな辞典を三、四冊調べて見たところ、「乞ひ祈む」はあったが「乞ひ祷む」は出ていない。祈祷という語は「祈」も「祷」もいのることである。とにかく私は何かで読んで覚えていて、「乞ひ祷む」を勧めたのであろう。この言葉に反対しなかったところをみると、綾子もあるいはそのように覚えていたのかも知れない。
幽斎作として、綾子は右の歌の他に、もう一首、
ふた柱帰りきまさぬ橋立に遊ばむ
吾は丹後の長ぞ
を、作中に入れている。ふた柱というのは、いざなぎ、いざなみの命《みこと》で、天の橋立を伝って天にのぼり、時を忘れて睦びあっているうちに、天の橋立は天から外されてしまったという伝説があるとか。この伝説にちなんで、綾子は幽斎になりかわって歌にしたのだが、さまになっているか、どうか。
更にもう一首、忠興が詠んだごとくに作ったのが次の歌である。
な嘆きそ枯れしと見ゆる草も芽も
再び萌ゆる春にあはむに
味土野に幽閉中の妻玉子に、夫忠興が送った歌というのであるが、多分に現代的な表現である。私なら結句を「ならなくに」といった語で締め括りたいと思うのだが……。
歴史小説という以上、時代考証という問題がある。綾子はこの時代考証を、毎号樋口清之氏におねがいした。二、三度誤りを指摘された程度であったというが、初めての歴史小説、いろいろと神経を使ったことと思われる。
(写真省略)
ガラシャ夫人終焉の地、大阪玉造の細川屋敷跡。