三浦綾子
氷 点 (三浦綾子小説選集1)
(一九六四年)
風は全くない。東の空に入道雲が、高く陽に輝いて、つくりつけたように動かない。ストローブ松の林の影が、くっきりと地に濃く短かった。その影が生あるもののように、くろぐろと不気味に息づいて見える。
旭川市郊外、神楽《かぐら》町のこの松林のすぐ傍らに、和、洋館から成る辻口病院長邸が、ひっそりと建っていた。近所には、かぞえるほどの家もない。
遠くで祭りの五段雷が鳴った。昭和二十一年七月二十一日、夏祭りのひる下がりである。
辻口家の応接室に、辻口啓造の妻、夏枝と、辻口病院の眼科医村井靖夫が、先ほどから沈黙のまま、向かい合って椅子に座っている。座っているだけでも、じとじとと汗ばんで来るような暑さであった。
突然、村井は無言のまま立ち上がると、大股にドアのところまで行って取手に手をかけた。
取手が、ガチャリと音を立てた。長い沈黙の中で、その音が夏枝には、ひどく大きく響いた。
夏枝は思わず目を上げた。つややかな瞳に、長いまつげが影を落としている。とおった鼻筋に気品があった。紺地の浴衣に、雪国の女性らしい、肌理《きめ》こまかい色白の顔がよく映えている。
(さっきから、黙ってばかり……)
そう思いながら、夏枝は背を向けたまま立っている村井の、長身の白い背広姿を見上げて微笑した。つつましやかな、整った夏枝の唇が、ほほえむと意外に肉感的に見える。それは二十六歳の若さの故ばかりではなかった。
先ほどから、村井が何を言いたがっているかに夏枝は気づいている。夏枝は、その言葉を待つ表情になった。そのような自分を意識しながら、旅行中の夫、啓造のやや神経質だが優しい目を、ふと思い出していた。
今年の二月であった。夏枝は、ストーブの灰を捨てる時、灰が目に入って村井に診《み》てもらった。その時以来、村井は夏枝から心をそらすことが、できなくなっていた。
無論それまで、院長夫人である夏枝を知らない訳ではない。しかし夏枝には、まともに顔を合わすこともできないような、関心を持つことすら憚《はばか》られるような犯しがたい美しさがあった。
その夏枝が彼の患者となったのである。手術台の上の、夏枝の角膜につきささっている微細な炭塵をとりのぞき、眼帯をかけ終わると、村井はかつてないふしぎな喜びを感じた。
「これですね、犯人は」
村井は夏枝に、ピンセットの先の小さな炭塵を見せた。
「見えませんわ。あまり小さくて」
手術台の上に片手をついた姿勢で、夏枝は小首をかしげて微笑した。
「これなら、見えますでしょう」
村井は白いちり紙に、ピンセットをなすりつけるようにして炭塵を移した。それを見る二人の頬がふれ合わんばかりに近いのを、村井は意識していた。
「まあ、こんなに小さいんですの。あんまり痛いものですから、どんな大きなゴミかと思いましたわ」
眼帯をかけて片目になった夏枝は、遠近が定まらなかった。定まらないままに、彼女はじっとゴミをみつめていた。二人の頬を寄せ合う時間が、少し長かった。
それから半月ほど、夏枝は通院した。彼女の目がかなりよくなって、治療の必要がなくなっても、村井はだまって洗眼した。
「もうよろしゅうございますか」
ある日、夏枝がたずねると、村井は哀願するようなまなざしをした。
「もう一度、暗室でよく診なければ……」
少し声がかすれた。
暗室はせまかった。向き合って椅子に座っている二人の膝が触れた。診る必要はなかった。だが彼は、ゆっくりと時間をかけて診察した。
終わると村井は、食い入るように夏枝をみつめた。その真剣な目のいろに、夏枝はたじろいだ。同時に、胸の中にキュッと押しこんで来る、ふしぎに快い感情があった。だが、夏枝は表情を変えなかった。
「ありがとうございました」
立ち上がる夏枝の手を村井がつかんだ。
「行かないでください」
子供っぽい言い方がかわいいと思った。夏枝は、つつましく目をふせると、村井の手をそっとはずして暗室を出た。
それから村井は、時々辻口家を訪ねるようになった。しかし辻口家の幼い徹とルリ子に対しては、あまり言葉をかけなかった。
「村井さんは、子供がおきらいらしいですわね」
ある時、夏枝が言った。啓造がちょうどその場を、何かの用ではずした時だった。
「子供がきらいというんでは、ないのですが……」
村井はちょっと皮肉に唇をゆがめた。冷たい、ニヒリスチックな表情であった。
「でも奥さんの子はきらいだな。きらいというより呪いたい存在と言いますかね」
「まあ! 呪うなんて……そんな……」
「奥さんは、子供なんて産んでほしくなかった」
村井の慕情の激しさに、夏枝は感動した。
今、ドアの前に立っている村井の後ろ姿を見ながら、一カ月ほど前の、その村井の言葉を夏枝は思い出していた。
遠くで再び祭りの五段雷が鳴った。
取手に手をかけたまま、村井がふり返った。その広い額がじっとりと汗にぬれている。ややうすい唇が、もの言いたげにかすかに動いた。
夏枝は村井の言葉を待った。
その言葉を待つということが、人妻の彼女にとって、どんなことなのか今は、夏枝は気づきたくなかった。
「どうして、ぼくに結婚なんか、すすめるんです?」
村井のたたきつけるような激しい語調に、長い沈黙が破られると、夏枝はかるいめまいをおぼえて、傍らのスタンドピアノに寄りかかった。
「奥さん!」
村井はピアノに寄りかかっている夏枝に近づいた。夏枝は、すばやく椅子から立ち上がると、うしろへ退いた。
「奥さん、あなたは残酷な方だ」
村井は夏枝の前に立ちはだかるように迫った。
「残酷ですって?」
「そうですよ。残酷ですよ。あなたは、先ほど、ぼくに縁談を持ち出したじゃありませんか。ぼくは、あなたがわかっていてくださるとばかり思っていた。ずっと以前から、ぼくの気持ちがよくわかっていらっしゃったはずだ。それなのにあなたは……」
村井はテーブルの上の写真を見た。夏枝がすすめた写真の女性は、笑い声が聞こえそうなほど無邪気な笑顔で、アカシヤの樹に寄りかかって写っている。
村井は視線を夏枝の上にもどした。男にしては美しすぎる黒い瞳であった。その目が、時々どうかすると虚無的に暗くかげることがあった。その暗いかげりに夏枝はひかれるものを感じた。
今、村井はややすさんだ暗い目で夏枝をみつめている。夏枝はその村井の胸に倒れこみそうな自分を感じて目をふせた。
こんなふうに明らさまな口説《くぜつ》を聞く日が、いつか来るように夏枝は思っていた。
今日縁談を持ち出したのも、村井に結婚をすすめるためではなく、夏枝に対する関心がほんとうのところ、どの程度のものかを、はっきり知りたいためかも知れなかった。
夏枝は、よくしなう美しい手を合わせて、拝むように胸のあたりに持って来た。そのしぐさが、ひどくなまめいて見えた。
「夏枝さん」
白いしっくいの壁を背にした夏枝の前に立ちふさがると、村井は夏枝の肩に手を置いた。村井の手のぬくみが、浴衣を通して夏枝の体に伝わった。
「いけません。怒りますわ、わたくし……」
村井の顔が覆うように夏枝に迫った。
「村井さん、わたくしが辻口の妻であることを、お忘れにならないでください」
夏枝の顔が青かった。
「夏枝さん、それが忘れられるものなら……ぼくはそれを忘れたい! 忘れられないからこそ、今までぼくは苦しんで来たじゃありませんか」
村井の手が夏枝の肩を激しく揺さぶった、その時であった。廊下に足音がして、ドアが開いた。
ピンクの服に白いエプロンをかけたルリ子が、チョコチョコと入って来た。
村井はあわてて、二、三歩夏枝から離れた。
「おかあちゃま、どうしたの?」
三歳のルリ子にも、大人二人の様子にただならぬものを感じとったらしく、いっぱいに見ひらいた目で村井をにらんだ。
「おかあちゃまをいじめたら、おとうちゃまにいってやるから!」
ルリ子はそういって小さな手をひろげて、母をかばうように夏枝のそばにかけよった。村井と夏枝は思わず顔を見合わせた。
「そうじゃないのよ、ルリ子ちゃん、おかあちゃまはね、先生と大切なお話があるのよ。おりこうだから、外で遊んでいらっしゃいね」
夏枝は小腰をかがめ、ルリ子の両手を握って軽く振った。
「イヤよ。ルリ子、村井センセきらい!」
ルリ子は村井を真っすぐに見上げた。子供らしい無遠慮な凝視だった。村井は思わず顔をあからめて夏枝を見た。
「ルリ子ちゃん! いけません、そんなことをいって。村井先生は、おかあちゃまと大事なお話があるといったでしょ? おりこうさんね、よし子ちゃんのお家へ行って遊んでいらっしゃい」
夏枝は村井よりもいっそう顔をあからめてルリ子の頭をなでた。もし、村井の愛を拒むなら、今ルリ子をひざに抱き上げるべきだと夏枝は思った。しかしそれができなかった。
「センセきらい! おかあちゃまもきらい! だれもルリ子と遊んでくれない」
ルリ子はくるりと背を向けて応接室を飛び出して行った。エプロンの蝶結びが背中に可憐に揺れた。
夏枝はよほど呼びとめようかと思った。しかし今しばらく村井と二人きりでいたい思いには勝てなかった。
廊下を走るかわいい足音が勝手口に去った。何か心に残る足音だった。
「ごめんなさい、ルリ子が失礼なことを申し上げまして……」
ルリ子の出現が二人を近づけた。
「いや、子供って正直ですね。そして恐ろしいほど敏感なものですね」
村井は、立ったまま煙草に火をつけながらいった。
「あなたはうちの子をおきらいでしたものね」
「きらいというのとは、ちょっとちがうんです。徹くんにしろ、ルリ子ちゃんにしろ、何かこう神経質な感じや、はれぼったいような目なんか、院長そっくりじゃありませんか。ぼくは院長と夏枝さんの子供だという、その事実に耐えられないんです。見るのも辛いことさえある」
村井は煙草を灰皿に捨てると、両手を深くズボンのポケットに入れたまま、熱っぽく夏枝をみつめた。
二人の視線がからみ合った。
夏枝が先に視線をそらした。彼女は静かにピアノの前に座ってふたを開いた。何を弾くというのでもなかった。両手を軽くピアノの上に置いたまま夏枝はいった。
「お帰りになって頂けません?」
声が少しふるえた。夫も、女中の次子《つぎこ》も、ルリ子もいないこの家の中で、何かが起こるのを彼女は感じた。夏枝の体の中に、その何かを期待するものがあった。その自分が恐ろしかった。
夏枝の言葉を聞くと、村井は片頬に微笑を浮かべて、ピアノの前に座っている彼女のうしろに立った。
「夏枝さん」
彼はうしろから、ピアノの鍵盤に置かれた夏枝の白い両手を上からおさえた。ピアノが大きく鳴り響いた。
思わずふり向いた夏枝の頬に、村井の唇がふれた。
「いけません」
心とは反対の言葉だった。村井は無言で夏枝の肩を抱いた。
「いけません」
村井の唇を避けて、夏枝はあごを深く衿にうずめた。唇だけは避けなければ、そのあとの自分に自信がなかった。
「いけません」
夏枝の頬を上に向かせようとしている村井に三度拒むと、村井は身をかがめて夏枝の頬に唇をふれようとした。彼女はかたくなに身をよじって村井を避けた。村井の唇は夏枝の頬をかすめただけであった。
「わかりました。そんなにぼくをきらっていられたのですか」
村井は夏枝の拒絶にはずかしめられた思いで、さっとドアを開けて玄関に出た。
夏枝は呆然として立ち上がった。
(きらいなのじゃない)
拒絶は媚態であり、遊びであった。次に来るものをいつの間にか夏枝は待っていたのだった。二十八歳の村井にはそれがわからなかったのだ。
夏枝は村井を送りに出なかった。引きとめてしまいそうな自分が恐ろしかった。村井の唇がふれた頬に、そっと手を当てた。その部分が宝石のように貴重に思えた。胸をしめつけるような甘美な感情があった。結婚して六年、夫以外の男性にはじめて口づけを頬に受けたことが、夏枝の感情をたかぶらせた。
夏枝は再びピアノの前に座った。キイの上を白い指が走った。ショパンの幻想即興曲であった。次第に感情が激して来た。夏枝は長いまつ毛をとじたまま酔ったようにピアノを弾きつづけた。
ちょうど、このころ幼いルリ子の上に何が起きていたかを、夏枝は知る由もなかった。
突然ピアノ線が鋭い音を立てて切れた。不吉な感じだった。
はっとした瞬間、
「ピアノ線が切れるまで弾くとは、またずいぶん御熱心なことだね」
いつの間にか夫の啓造が、いつものように優しい笑顔でうしろに立っていた。
「あら! 今日でしたの」
夏枝は狼狽した。啓造の帰宅は明日の予定であった。ぽっと頬をあからめて立ち上がった姿がなまめいた。それが啓造には、夫の突然の帰宅を喜ぶ姿に思われた。
「だまって立っていらっしゃるんですもの、いやなかた!」
夏枝は啓造のくびに、その白いむっちりした両腕をからませて彼の胸に顔をうずめた。
今の今まで、村井靖夫を思って上気した自分の顔を、夏枝は見られたくなかったからである。
啓造はふと、いつもとちがったものを夏枝に感じた。今までの夏枝は、自分から啓造のくびを抱くというようなことはなかった。
「暑いよ」
そういいながらも、しかし啓造は夏枝の背に腕をまわした。
啓造は学者肌で、神経質だがとげとげしいところが少なかった。もの静かで優しい夫であった。信頼できる夫だった。
夏枝は、夫の胸に顔をうずめながら、心が次第に安らかになっていった。先ほどの妖しく波だった村井への感情が、今はふしぎだった。嘘のようでもあった。
(やっぱり辻口が一番いいわ)
そう思った。夏枝は啓造を愛している。医者としても夫としても尊敬していた。何の不満もなかった。
(それなのに、何故村井さんと二人でいることがあんなに楽しいのかしら)
夏枝にはそれがふしぎだった。今はこうして、夫が一番いいと思っていても、再び村井に会うとどうなるか、自信がなかった。制御できないものが、自分の血の中に流れているのを夏枝は感じた。
(おかあちゃまをいじめたら、おとうちゃまにいってやるから!)
ふと、先ほどのルリ子の言葉を思い出して、夏枝はヒヤリとした。
「おつかれになって?」
ルリ子の帰りが、なるべく遅いようにとねがいながら、夏枝は夫を見上げた。
「うん」
啓造は、子供の頭を撫でるようにやさしく夏枝の頭を撫でた。パーマをかけない豊かな髪がこころよく匂った。彼は夏枝の髪にあごをつけたまま、何気なくテーブルの上を見た。
啓造の目が鋭く光った。そこにはコーヒー茶碗と灰皿があった。灰皿にある吸いがらを啓造は目で数えた。八本までは数えられた。
彼はひややかに妻をはなれた。
夫の気配に夏枝はハッとした。
「ルリ子はどうした? 徹も次子もいないじゃないか」
啓造のきびしい視線は、なおテーブルの上にあった。啓造の表情に、夏枝は村井の来訪を告げそびれた。
「徹は次子に連れられて映画ですわ。ルリ子はその辺で遊んでいませんでした?」
「見なかった」
幼いルリ子まで外に追いやって、誰もいないこの部屋で、一体この煙草の吸いがらの主と何をやっていたのかと、啓造は探るような目になっていた。
来訪者が誰であったかを夏枝から先にいってほしかった。啓造はピアノに片手をふれた。
ドミソ ドミソ ドミソ
指は同じ鍵をくり返していた。
何かやりきれなかった。夏枝は急に不機嫌になった夫に、ますます村井の来訪をいい出しかねた。
ドミソ ドミソ ドミソ
バタンと大きな音を立てて啓造がピアノのふたをしめた。ちょうど夏枝が灰皿とコーヒー茶碗を下げるところであった。
一瞬、啓造と夏枝の目が合った。カチリと音のしそうな視線であった。夏枝が先に目をそらして部屋を出て行った。ドアを出て行く夏枝を眺めながら、啓造は来客のことに一言もふれない妻にこだわっていた。
「客があったのか」
と、さりげなく気軽に問うことが、もはや啓造にはできなかった。
「村井か、高木か」
彼の留守に通す男客といえば、この二人しかない筈である。
高木雄二郎は産婦人科医で、札幌の総合病院に勤めていた。啓造の学生時代からの親友である。高木は学生時代、夏枝を嫁にもらいたいと夏枝の父に願い出た。夏枝の父津川教授は、内科の神様といわれ、啓造と高木の学生時代の恩師であった。
「夏枝の嫁ぎ先は考えてある」
と断られた高木は、
「それは誰です。辻口ですか、奴ならおれは諦める。しかし、他の奴だったら絶対諦めません」
と大声でどなったと啓造は夏枝からも、高木本人からも聞いていた。
高木は目鼻立ちの大造《おおづくり》な豪放磊落《*ごうほうらいらく》型の男であった。時々ひょっこりと札幌から出て来て、病院に啓造を訪ねると、
「これからお前のシェーン(美人)なフラウ(奥さん)を口説きに行くがいいか?」 などと冗談をいう独身の男だった。
(高木が訪ねて来たのならいいんだ)
高木はさっぱりした気性で、夏枝のことなど、とうに忘れているらしい。どういう風の吹き回しか、専門外の乳児院の嘱託をやり、
「おれには、結婚しなくても、子供だけはゴシャマンといるぞ」
と結構楽しそうに暮らしている。
(高木は今日札幌で会って来たばかりだ。すると、訪問客はやはり村井か)
啓造は不安になった。
(村井が来たと素直にいえない何かやましいことがあったのだろうか)
彼は暗い表情になって、窓外のストローブ林に目をやった。
(うん……辰子さんかも知れない。あの人も煙草は喫う)
資産家の一人娘藤尾辰子は、夏枝と同じ二十六歳、女学校時代からの夏枝の友人で、日本舞踊の師匠である。
(あの人は応接室になど入らない)
啓造はいらいらと一人思い惑っていた。
勝手口に女中の次子と幼い徹の声がした。徹の何かいって笑う澄んだ声が聞こえて来た。
(映画から帰ったのか)
そう思いながら啓造は応接室を出て茶の間に行った。夏枝と次子は台所にいるらしく、徹は茶の間のソファに腹ばいになっていた。
「おとうさん、帰ってたの? あのね、おとうさん、ぼくアメリカの兵隊さんになろうかな」
「どうして?」
啓造は、今日の来客は村井にちがいないと思いながら、徹の傍に腰をおろした。
「うん。アメリカの兵隊さんね、とっても勇ましいの。機関銃をダダダ……と射つとね、敵がバタバタ死ぬんだよ」
「ふーん、戦争映画かい」
啓造はいやな顔をした。
「敵はみんな死ぬんだ。だけど死ぬって、どんなこと? 死んだらいつ動くの?」
「死んだら、もう動けないねえ」
「おとうさんが注射したら動く?」
「いや、どんなに沢山注射しても動かない。もうごはんも食べないし、話もしないよ」
「うーん。死ぬっていやだなあ。でも敵は死んでもいいんだね。だけど、敵ってナーニ? おとうさん」
「敵っていうのはねえ……困ったねえ」
戦争中に啓造は三カ月ほど、北支《ほくし》の天津《てんしん》に軍医として行っていた。肋膜炎ですぐ帰されたのである。そんな短い期間の兵站《*へいたん》病院での軍医生活では、戦争を実感として感ずることはできなかった。風景や女性の風俗に異国情緒を感じたが、この空の下で、どこかに壮絶な戦いがあるということすら啓造にはふしぎだった。
旭川に帰っても、艦載機が一、二度来ただけで終戦を迎えてしまった。もともと学生時代から反戦思想であった啓造には、どの国に対しても敵という意識はなかった。だから、徹に敵とは何かといわれても、答えにつまった。
「そうだねえ。敵というのは、一番仲よくしなければならない相手のことだよ」
五歳の徹にはわかるまいと、啓造は自分の言葉に苦笑した。
「ルリ子ちゃんが敵なの?」
いつも兄妹は仲よくするようにといわれている徹であった。
「いや、ルリ子は徹の妹だよ。敵というのはね、憎らしい人のことだ。意地悪したり、いじめたりする人さ」
「ああ、四郎ちゃんね。四郎ちゃんが敵?」
徹は近所の子の名をあげた。
「困ったな、どうもむずかしい。四郎君は友だちさ、敵じゃないよ」
啓造は笑った。
「とにかく、うんと仲の悪い人だよ」
「仲の悪い人と、どうして仲よくしなければならないの?」
徹はかわいい眉根をよせて考える顔になった。
「昔ね、イエスというえらい人がいてね、その人が、敵とは仲よくしなさいと教えたんだよ」
啓造は「汝の敵を愛すべし」という言葉を思い出していた。学生時代だった。夏枝の父である津川教授がいったことがあった。
「君達はドイツ語をむずかしいとか、診断がどうだとかいいますがね。わたしは、何がむずかしいといって、キリストの汝の敵を愛すべし≠ニいうことほど、むずかしいものは、この世にないと思いますね。大ていのことは努力すればできますよ。しかし自分の敵を愛することは、努力だけじゃできないんですね。努力だけでは……」
夏枝の父は内科の神様のようにいわれた学者で、その人格も極めて円満な人であったから、ひどく悲しげな面持ちで語ったその言葉は啓造に強い印象を与えた。
学生の啓造から見ると、この教授には不可能なことが一つもないように思われた。講義の時に何かのことから津川教授はそう語ったのだったが、こんな円満な人にも敵がいて、悩むことがあるのかと、啓造は不思議に思ったものであった。
「何だかよくわかんない」
敵と仲よくせよといわれた徹は、不得要領《*ふとくようりよう》の顔で台所に立って行った。空腹をおぼえたらしく、
「おかあさん、何かちょうだい」
と甘ったれている声がした。
啓造は、敵という言葉について思いめぐらしながら、不意に村井靖夫のねたましいまでに美しい目を思い出した。すると予期せずに殺意に似た感情が彼の胸をよぎった。
「敵とは、一番仲よくしなければならない相手だ」
とたった今、徹にいった自分がおかしかった。今までも、生真面目な啓造と、何か投げ出しているような虚無的な村井とはどこか肌が合わなかった。それでいて何となく気になる存在だった。
(もし今日、おれの留守に夏枝と何かあったとしたら……夏枝はなぜいきなりおれに抱きついてきたのだろう? 今までそんなことをしたことはなかったのに……)
(いつも静かにピアノを弾く夏枝が、なぜ、あんなにピアノ線が切れるまで激しい弾き方をしたのだろう? なぜ、客のあったことを夏枝は黙っているのだろう? 何かあったのだ。もしそれが村井とだったら)
絶対に許せないと啓造は思った。自分の生活を脅かす者に寛容であり得る訳はない。
(敵とは愛すべき相手ではない。闘うべき相手のことだと徹にいうべきであった)
啓造はそう思いながら二階の書斎に上がって行った。
*豪放磊落 気性が大きくこせつかない。小さなことにこだわらない性格のことをいう。
*兵站 兵站とは軍事作戦で、戦闘地域の後方で補給、修理、輸送などの業務、あるいはそれにあたる機関をさす。
*不得要領の顔 納得のいかない表情。
誘拐
「ルリ子ちゃん遅いですわね、奥さん」
馬鈴薯《ばれいしよ》のうらごしをしていた次子が手をとめた。
「ほんとうね、いつもより少し遅いわね。次ちゃん、それがすんだら迎えに行ってね、またどうせよし子ちゃんの所でしょうから」
夏枝はルリ子のことを忘れていたわけではなかった。
「おとうちゃまにいってやるから」
と村井に対して幼い反感を体一杯に示したルリ子の帰宅の、少しでも遅いことを願っていたのだった。
ルリ子を迎えに行った次子は、どうした訳かなかなか帰って来ない。時計を見ると五時半に近い。しかし七月の五時半は夕暮れには遠かった。
「どうしたのかしら」
と作りあげたマヨネーズを戸棚に入れた時、次子が帰って来た。
「奥さん、ルリ子ちゃんは帰りましたか」
「まだよ、よし子ちゃんの所にいなかったの?」
「ええ、今日は二時ごろに帰ったきりですって」
「二時ごろ?」
夏枝は青ざめた。二時といえばルリ子が応接室に入って来たころではないか。あれから今まで三歳のルリ子がどこに行くというのだろう。
「センセきらい、おかあちゃまもきらい。だれもルリ子と遊んでくれない」
そういったルリ子の言葉が、今になってへんに気になった。
その時かわいい足音がした。ほっと安心した。だがそれはルリ子ではなかった。ほっぺたの赤いよし子だった。
「これ、ルリ子ちゃん忘れたの」
さし出したのは夏枝が作った五十センチほどの抱き人形であった。夏枝はそれを見ると胸騒ぎがした。人形を受けとると急いで外へ出た。いちいの生け垣の傍に先ほど次子といっしょにルリ子を探しに出た徹がぼんやりと立っていた。
「ぼくおなかすいた。ルリ子ちゃんどこにもいない」
「次子ねえちゃんにごはんをいただきなさいね」
夏枝はよし子の家の方へ走り出していた。
「あら、まだ見えませんの?」
小学校教師をしているよし子の母が、エプロンで手を拭《ふ》きながら出て来た。
「見本林《みほんりん》は探されましたか」
「いいえ、まだ。あの子一人では、めったに林の中に入りませんの」
「でも見本林は子供達の遊び場ですもの」
よし子の母は下駄をつっかけて先に駆け出した。
啓造に告げなければと思いながら、まだいなくなった訳でもない、できれば啓造に知られずにルリ子を探したいと、夏枝はわが家のいちいの生け垣の横を駆けて見本林の中に入って行った。
見たところ見本林はひっそりとして、子供達の声も姿もなかった。
この見本林というのは、旭川営林局管轄の国有林である。
北海道最古の外国針葉樹を主とした人工林で、総面積一八・四二ヘクタールほどある。
樹種はバンクシャ松、ドイツトーヒ、欧州赤松など十五、六種類もあり、その種類別の林が連なって大きな林となっている。
見本林の中には管理人の古い家と、赤い屋根のサイロと牛舎が建っていた。
辻口家は、この見本林の入り口の丈高いストローブ松の林に庭つづきとなっている。
美しいいちいの生け垣をめぐらして低い門を構え、赤いトタン屋根の二階建ての洋館と、青いトタン屋根の平家からなるがっしりとした家であった。
この見本林を三百メートルほどつきぬけると、石狩川の支流である美瑛川《びえいがわ》の畔《ほとり》に出る。
氷を溶かしたように清い流れの向こうに、冬にはスキー場になる伊の沢の山が見え、遥か東の方には大雪山につらなる十勝岳の連峰がくっきりと美しい。
子供たちは林の中の鬼ごっこや、かくれんぼに飽きると、美瑛川で泳いだり魚をすくって遊ぶのだった。
しかし今日は、旭川の夏祭りに出かけたのか林には人影はなかった。
下草がぼうぼうと長《た》けて、林の中はうす暗かった。
「ルリ子ちゃーん」
「ルリ子ちゃーん」
叫んだが返事はない。返事のないことに夏枝は怯《おび》えた。
管理人が、林の中の家の窓から顔を出した。
「病院の奥さん、どうしたんですか。今日は珍しく子供たちは林に入って来なかったようですがな」
親切で、いつもルリ子の頭をなでてくれる男だった。
夏枝と、よし子の母は顔を見合わせた。
よし子の母は、じっとしていられないようで、ドイツトーヒの林の方に駆けて行った。夏枝は立ちすくんだままだった。
林の中で山鳩がひくく鳴いた。
「センセきらい、おかあちゃまもきらい。だれもルリ子と遊んでくれない」
ルリ子の言葉が再び思い出された。
夏枝はふらふらと歩き出した。滅多に陽に当たることのない林の中の路は、やわらかく湿っている。そのやわらかい土の上を歩くと不安が足もとからのぼってくるようであった。
窪地に入ると夏枝は何かにつまずいた。みると烏の死骸だった。烏の羽がその周辺に散乱していた。いやな予感がした。
林の中に夕光が漂っていた。煙っているような光であった。木の間越しに斜めに射す光はところどころにしま目を作っていたが、そのしま目もおぼろであった。
「ルリ子がいないのか」
低いが、厳しい啓造の声がした。夏枝はギクリとして後ろを振り向いた。
「ルリ子は、いつからいないのだ」
啓造の声はきびしかった。夏枝はおどおどして啓造を見た。他人のような夫の顔であった。夏枝は、こんな夫の顔を見たことがなかった。
「そんなおそろしい顔をなさっては、いや」
と今までの夏枝ならいったかも知れなかった。しかし今は、村井とのことがなんとなくうしろめたいのと、ルリ子の行方がわからないことで夏枝はいくじなく口ごもった。
「二時過ぎごろかしら……」
「なぜ、わたしにも探せといわないのだ」
啓造の言葉に夏枝は目をふせたまま、答えることができなかった。
「だれかに連れられて、お祭りでも見に行ったのじゃないのか」
はっとして夏枝は顔を上げた。
村井がルリ子を祭りに連れて行ったのかも知れない。これだけ探して見当たらなければ、あるいはそうかも知れない。ルリ子は「センセきらい」といったけれど、子供のことだから格別深い理由がある訳ではない。ルリ子はもともと人なつっこいところもある子で、だれにでもよくなついた。村井においでと手を出されれば喜んでついて行ったかも知れないのだ。それにしても村井は、なぜ断りもなしに連れて行ったのだろう。
「ひどい村井さん」
思わずつぶやいた夏枝に、
「村井? 村井がどうかしたのか」
啓造が聞きとがめた。
「実は今日村井さんがお見えになって……」
「村井が訪ねて来たのか。君は一度もそれをいわなかったね。どうしていわなかった?」
「どうしてって……」
夏枝をさぐるような啓造の目を見ると、反発して言葉をついだ。
「忘れていたんですもの、村井さんなど」
「そうかね」 啓造の言葉が途切れた。夏枝の見えすいた嘘に怒りと妬心がむらむらともたげてきた。しかし啓造は反射的に自分を抑えた。それが彼の性格であった。彼は静かな声になった。
「まあいい、それは。帰ったのは何時だ」
「あなたのお帰りになる十五分か二十分前でしたわ。きっとルリ子は村井さんに連れられて行ったのですわ」
夏枝は、村井に連れられて祭りを見ているルリ子を想像して安心した。村井は、啓造が明日帰る予定であったことを知っている。だから、あんな別れ方をしたものの、外で遊んでいるルリ子を見つけて祭りに行き、夕方また訪ねて来るつもりになったのかも知れないと夏枝は思った。
「やぁ、ルリ子ちゃんとすっかり仲よくなりましてね」
と夏枝を驚かすつもりかも知れない。それにしても、一言断ってから連れて行ってくれたら、こんなに心配することもなかったのにと、夏枝は啓造に従って林を出た。
「本当に村井が連れ出したのかね」
林を出ると、啓造は半信半疑の顔で夏枝をふり返った。
「あら、どうなさいましたの」
林の入り口で顔を見合わせている啓造と夏枝に、よし子の母がエゾ松林の小道から出て来ていった。
「やぁ、どうも御心配をおかけ致しまして済みません。どうやら、家に来た客が祭りに連れ出したんじゃないかということになりましてね」
「そうですか、それならよろしいんですけれど、こんなに探してもいなければ、きっとそうかも知れませんわね。わたくし誘拐かと思ったりして心配でしたけれど」
「誘拐ですか」
まさかというように、啓造はちょっと笑った。笑われて、
「ほら、ありましたでしょう。何人も誘拐された事件が。一年たたないのに、いやなことばっかり……。でも、よかったですわ、ルリ子ちゃんは」
そういってよし子の母が去ると、夏枝はまた何となく不安になった。
家に帰ると、食事を終わった徹が疲れたのか食卓の傍にねむっていた。
村井に電話をかけると、村井は留守だった。
「まだ帰っていらっしゃらないんですって」
あるいは、その辺までルリ子を背負って来ているのではないかと、夏枝は落ち着きなく外へ出て見た。夏の日は長い。七時を過ぎても、まだ外は明るかった。丈高くなったとうきびの葉が風にさやさやと音を立てている。しかし村井の姿は見えなかった。家に入ると啓造が、いらいらとした表情で食卓の前にあぐらをかいていた。
「御飯にしましょうか」
「いや、いい。それより警察に電話する」
啓造は夏枝をなじり罵りたい思いを抑えて立ち上がった。受話器を取ろうとした時、けたたましくベルが鳴った。
「村井さんからですわ、きっと」
夏枝の言葉に啓造はちょっと妻をふり返って受話器を取った。
「もしもし夏枝さん」
村井の声だった。
(夏枝さんとは何だ! いつからなれなれしく奥さんが夏枝さんに変わったのだ)
啓造は唇をかんだ。
「もしもし、お電話を下さったそうですね。怒ってはいらっしゃらないんですか。今日はほんとうに失礼してしまって……」
村井は夏枝が受話器を耳に当てて、じっと聞いている姿を想像しているらしい。相手は夏枝と信じて疑わない声であった。
「…………」
「夏枝さん、もしもし聞こえますか、やっぱり怒っていらっしゃるんですか」
啓造はうしろに来て立っている夏枝にだまって受話器を渡した。
「やっぱり怒っておられるのですね」
無言のまま啓造が聞いていた電話の言葉が何であるかを知って、夏枝は息をのんだ。
「もしもし、先ほどは失礼しました。あの……村井先生はルリ子をご存知ありません?」
夏枝はつとめて事務的な口調でいった。しかし啓造を意識して声がこわばった。「え? ルリ子ちゃんがどうかしたのですか」
夏枝の顔色が変わった。村井はルリ子を連れてはいなかった。
「ルリ子が見えないのでございます」
「いつからです、それは」
村井と二人でいたあの時に、ルリ子は応接室を出て行ったきりなのだ。
「あの……」
口ごもって夏枝は啓造を見てからいった。
「ご存知なければ致し方ございません。失礼申し上げました」
村井がまだ何かいっていたようであったが、夏枝は受話器を置いた。
「村井も知らないのか」
啓造はあわてた。村井が知らなければルリ子はどこにいるのだ。啓造は、ぼう然と立っている夏枝をつきのけるようにして、受話器を取ると警察を呼び出した。
子供がいなくなったことを告げると、なーんだ迷い子ですかというような、のんびりした口調で警官は応答した。
「いやぁ、今年の祭りは迷い子が去年の倍ちかくもありましてね。今日は参りましたよ」
「いや、いなくなったといっても迷い子じゃないと思いますが」
啓造は腹立たしくなって、事情をかいつまんでテキパキと説明した。
「一人で街の方へでも出かけたんじゃありませんか」
「さあ、ふだんはこの辺から遠くへ行ったことがありませんが」
「ふだんはともかく、今日はお祭りですからね。だれか近所の子が出て行くのを見て、あとからチョコチョコついて行くということもあるでしょう」
祭りの警戒で人手不足なのか疲れた声であった。
「もしかしたら、誘拐ではないかと思いましてね」
自分の口から出た誘拐という言葉が、凶器のように啓造を脅かした。
「誘拐ですか」
ちょっと言葉を途切らせてから警官が尋ねた。
「だれかに連れられて行ったのを目撃した人でもありますか」
「いや、それは聞いてはおりませんが」
「では電話か何かで脅迫でもされましたか」
「いいえ」
「多分迷い子になっていると思いますがね」
一応、係には連絡しておくといって電話は切れた。
「誘拐ならだれかの目にとまるはずですわ、まひるですもの」
夏枝も弱々しく否定した。
「しかし、この林をぬけて堤防づたいに行けば、どこの家の前も通らずに街の方に出て行くことはできるからね」
啓造の声は暗かった。
警察に一応の届けはしたものの、啓造も夏枝も不安はつのるばかりであった。警察だけを当てにするわけにはいかなかった。啓造は病院に電話をかけた。当直の医師が驚いて、
「すぐだれかを応援にやりましょう」
といってくれた。啓造も夏枝も、台所で洗い物をしている次子も、黙り勝ちであった。
少しの音にもビクリと肩をふるわせ立ち上がる夏枝を、啓造は苦々しげに見つめていた。啓造は夏枝を愛していた。それだけに、自分の出張中に、夏枝が村井と会っていたことを許すことができなかった。啓造ばかりか次子も徹もルリ子も家にいなかった。それはいかにも、
「男を引き入れて……」
という淫《みだ》らな言葉で形容される、そんな感じをいだかせた。しかも、その間に幼いルリ子の行方が知れなくなったのだ。啓造は言葉に出したら際限なく、どなり散らしそうな自分を感じておし黙っていた。どなることを啓造は最も恥ずべきこと、軽蔑すべきこととしていたからである。
しばらくして病院から、中年の小使二人と若い外科医の松田、そして村井が来た。既に外はまっ暗になっていた。
「どうも……済みませんな」
啓造は頭を下げたが、村井につきさすような視線を浴びせずにはいられなかった。
夏枝と次子を家に残して、一同は懐中電灯を手に林に入った。夜の林の樹々は、一本一本が不意に動き出すかのように不気味だった。懐中電灯を闇に向けると、そこにだれかがヌッと立っているような感じがした。
(こんな時間に、林の中にルリ子がいるはずがない)
そう思うと林の中を探すのが徒労のような気もした。
(村井がルリ子を知っているのではないか)
ふっとそんな思いがかすめて、啓造は立ちどまった。やがて川の畔に出た。急に視界が開けて、星空が大きくひろがっていた。
「川に落ちたのだろうか」
ふだんあまり林に入らないルリ子が、この川まで一人で来るとは考えられなかった。啓造はきびすを返して再び林に入った。電灯を行く道に向けると、光の中に長身の男がうつし出された。啓造は思わず声を上げるところであった。村井だった。村井の青白い顔がひどく不気味に見えた。
「びっくりしましたよ」
村井の方も驚いたようであった。
「失敬」
啓造は自分の驚きをかくして、さりげなくいってから、あ、そうそうというような調子でいった。
「君、今日ぼくの留守に来てくれたんだってね。何か用事だった?」
村井は黙って懐中電灯で自分の足もとを照らした。
見本林、近所一体、街に至る道筋と、一晩中の捜索に誰も彼もがつかれて、ひと眠りしようと辻口家に帰ったころは、もう三時を過ぎていて、夏の夜は既に白みかけていた。
夏枝は繰り返し昨日のことを思っては自分を責めた。
(あの時、わたしがルリ子をひざに抱き上げればよかったのだ)
小さな手をひろげて夏枝をかばうようにしたルリ子の、可憐な姿が思い出された。何ごともなければ、今ごろルリ子はこのふとんの中でスヤスヤと眠っているはずであった。
しかし今は、小さな赤い花模様のふとんに、かわいい枕が主待ち顔にあるだけであった。
「おかあちゃまもきらい」
といったその時のルリ子のさびしさを思うと、夏枝はたまらなかった。まっくらな夜を幼いルリ子が、どこでどう過ごしたことかと、あふれてくる涙にくもる瞳をこらして、明けかかった外を見ていた。
風にさわぐ林のざわめきが聞こえてくる。そのざわめきを聞きながら、夏枝は結婚したころの予感が思い出された。
この家で初めての夜であった。六年前であった。啓造の母はとうに死んで、この家には啓造の父と妹、女中の三人が住んでいた。啓造は大学の研究室にいたので新居は札幌にあった。
層雲峡《そううんきよう》への新婚旅行の帰途、この家に寄った。その夜は激しい風が吹きまくっていた。林の樹々は口のあるもののようにわめいていた。夜がふけるにつれて、ますます風は吹きつのった。林はごうごうと土の底から何かがわき返るような恐ろしい音を立てていた。
その時夏枝は、この嵐が、自分の結婚生活を象徴しているような不吉な予感に襲われて、思わず啓造の胸にすがりついたのだった。
夏枝は、今、その時のいやな予感が当たったような気がした。あのピアノ線が切れたのも、不吉の前兆ではないかと彼女はおびえた。夏枝は幼いころからピアノを習って来たが、かつてピアノ線を切ったことはなかった。
ルリ子が応接室に入って来たあの時まで、時間が逆転してくれるものならば、美貌や財産はおろか、自分自身の命を失ってもよいと夏枝は思った。あれはたった十三時間前のことなのだ。今一度ルリ子が、
「おかあちゃま、どうしたの」
と応接室に入って来たあの時まで、時間を戻すことができるなら、しっかりとこの胸に抱きしめて決してルリ子を離しはしないものを。
(しかし、あの時だって抱いてやることができたのだ。あの時だって……)
涙があふれた。それなのになぜ、
「外で遊んでいらっしゃい」
などと、むごいことをいったのか。あの時わたしはルリ子と一緒にいるより、村井と一緒にいたかったのだ。それがわたしという女なのだと夏枝は自分を罵った。
天罰てきめんという言葉を夏枝は身にしみて感じた。夫以外の男に心を寄せたその途端に、速やかに罰は下ったのだ。天罰でなくて何だろう。
(何とかしてあの時まで、さかのぼることはできないだろうか)
何かの本に、
「過ぎ去った時間だけは神でも取り返すことはできない」
とあったことを夏枝は思い出していた。
寝椅子の村井に目をやると、ぼんやりと煙草を吸っている顔が、へんに淫蕩な不健康な感じであった。
(ルリ子を外に出したのは、この男といたかったからなのか)
夏枝は自分の愚かしさが悔やまれてならなかった。
とうとう啓造と夏枝と村井の三人は一睡もしなかった。
時計が五時を打った。すでに陽は上っている。次子が起き出して台所でゴトゴト音を立て始めた。
突然、玄関の戸が激しく打ちたたかれた。啓造も夏枝も村井もハッと椅子から立ち上がった。啓造が真っ先に玄関に飛び出して行った。
戸をあけると長ぐつをはいた男が立っていた。近くの特定郵便局長である。
「お宅のルリ子ちゃんだ、死んでいる」
その顔が真っ青だった。歯の根も合わずにふるえている。
「死んでいる? どこに」
「川原だ、いま、釣に行って」
啓造は昨夜上がりがまちに置いておいた往診カバンをとっさにかかえて家を飛び出した。
夏枝は啓造より先に走り出していた。村井は眠っている松田と小使二人を文字どおりたたき起こした。
啓造は林の中を走った。川原までの数百メートルの道が十里にも思えた。死んでいると知らされても、自分のこの目で確かめなければ信じられなかった。
「よかった。死んでなどいやしないぞ。気絶していただけだ」
とルリ子を抱きかかえて来ることを想像しながら走った。死んでいるなどとは到底信じられなかった。もし信じたならば、今かすかに保っているかも知れないルリ子の命の火が、本当に消えてしまいそうで恐ろしかった。
どこで夏枝を追いぬいたかも気づかなかった。林をぬけて川沿いの小道を走った。浅瀬を飛ぶようにして渡ると、川原の石がゴロゴロとして幾度かつまずいた。
川原の遠くに白いものがひるがえった。
「あれだ!」
啓造は白く朝陽に光る布をめがけて、石によろけながら走った。夢の中で何かに追われている時のように、はがゆいほど足がのろかった。
近づくと、白く光る布はルリ子のエプロンであった。
ルリ子の死
ルリ子はうつ伏せになって倒れていた。小さな背に白いエプロンのひもが蝶のように風に揺れていた。
「ルリ子!」
ひざをついて抱き上げると顔を見た。蒼白だった。しかし死んでいるとはどうしても思えなかった。脈をとった。手がふるえて止まらなかった。
「あっ、脈がある!」
しかしその脈は、今駆けて来た啓造自身の指先の脈であった。
駆けつけた村井が、手をのばして閉じている瞼を開いた。瞳孔には何の反応もなかった。
ルリ子は血の気のない唇をかすかに開いていた。わずかにのぞいている虫くい歯が哀れだった。啓造はぼんやりと、今自分は夢を見ているんだなと思った。
その時啓造の体にぶつかるようにして、夏枝がルリ子の体を抱いた。
「ルリ子ちゃん! ルリ子ちゃん!」
夏枝がルリ子を強く揺さぶった。
「あっ、それは何です?」
松田がしゃがんでルリ子の首をのぞきこんだ。
「院長! 首をしめられましたよ、これは」
松田が叫んだ。
ルリ子の首には、はっきりと扼殺《やくさつ》の跡があった。
「殺された? ルリ子が」
啓造は、ルリ子が殺されたとは夢にも思わなかった。心臓マヒか何かの急死だと思っていた。なぜか漠然とそう感じていた。
「殺されましたって?」
夏枝は叫ぶと同時に、つんのめるようにして倒れた。村井が危うく手をのべて夏枝を支えた。
「センセきらい、おかあちゃまもきらい。だれもルリ子と遊んでくれない」
といったルリ子の言葉を夏枝は再び聞いたような気がした。
村井のひざに気を失った夏枝を見ても、啓造は自分が何をすべきかわからなかった。にわかに頭脳が働きを止めたかのように、ぼんやりとしていた。
涙も出なかった。それでいて心のどこかが煮えたぎっていた。そしてもうひとつの心の片隅は、いたく静かであった。果てしなく、むなしかった。
今まで幾十人もの人間の死を、医師である啓造は見て来た。しかし、その何れの死よりも、ルリ子の死は切実さを持たなかった。信じられなかった。これは夢だと思いながら見ている夢のような感じであった。
ぼんやりと見上げた空に、白い雲がゆっくりと流れていた。
「今日も暑いな」
啓造は、そんなことを思った。そして何となく時計を見た。臨終の時に時計を見る医師としての慣《なら》いかも知れなかった。
「六時五分か」
彼が、低くつぶやいた時である。女中の次子や、いつの間にか集まった近所の女たちのすすり泣きが聞こえ、つづいて大人たちの異様な雰囲気に怯えたのか、徹のカン高い泣き声が聞こえた。
(徹が泣いている)
啓造は、はっと我に返った。
にわかにルリ子の死が現実であることを思い知らされた。何かをしなければならないと思った。そのくせ何ひとつできなかった。ただどっかりと川原の上に座っていただけであった。
松田がルリ子をそっと川原にねかせるのも、夏枝を村井とだれかが抱えて連れ去るのも、ぼんやりとただ見ているだけであった。
「院長」
うかがうように啓造を見ていた松田が呼んだ。
「うん」
「警察に連絡させましたから、すぐ来ると思いますが……」
「…………」
「院長」
「…………」
「院長、警察に……」
「ああ、どうも」
啓造はうつろに答えた。
水底にいるように自分の動きが緩慢なのを感じながら、啓造はルリ子の手をそっと握った。小さく冷たい手であった。
「死んだのだ」
自分の指はあたたかく生きているのに、皮膚一枚をへだてただけの、そこにはルリ子の指が冷たく死んでいた。それが啓造には、ひどくふしぎに思われた。
「死んでいる」
再び啓造はつぶやいた。
わが子が殺されたという、あり得べからざるむごい現実に、どのように反応してよいのか彼はわからなかった。結婚してこのかた、自分たちの将来にこのような恐ろしい日が待ち受けていようとは、ただの一度も予想したことはなかった。
啓造は今はじめて、何が待ち受けているかわからぬ「未来」の恐ろしさを知ったような気がした。
徹の泣き声が遠ざかった。
啓造がふり返ると、次子に肩を抱かれて、しゃくり上げながら去って行く徹の姿が見えた。
「だれが殺したのだ!」
啓造はやっと自分をとりもどして、つぶやいた。
何のために、一体だれが何の罪もないルリ子を殺したのか。そう思うと、啓造は憎しみに体中の血がいっせいに毛穴から噴き出るような気がした。
朝からじりじりと照りつける太陽を彼は見上げた。この太陽の下に、だれかルリ子を殺した奴がいる。そいつは今、とにかくどこかで生きている。そう思った時、啓造はすっくと立ち上がっていた。
アメリカの飛行機が編隊を組んで、啓造たちの頭上を、音を立てて過ぎ去った。非情な響きであった。
ルリ子の葬式が終わって十日ほどたった。早目に病院から帰った啓造は、二階の書斎の机にもたれて、ルリ子のことを考えていた。
(だれがルリ子を殺したのか、何のために殺したのか)
事件以来、幾度も幾度も考えたことを、今また繰り返し考えていた。
葬式の時だった。焼香に村井の名が呼ばれると、彼は深くうなだれて立ち上がった。その時、啓造は思わずはっとして村井を見た。瞬間であったが、村井が犯人ではないかと疑ったからである。
啓造は、今その時のことを思い出していた。彼の書斎の窓から、丈の高いストローブ松の林が十メートルほどすぐ先に見える。啓造は暗い木立にじっと目を向けたまま、その林の小道を犯人に手をひかれて、何も知らずにおとなしくついて行ったであろうルリ子を思い浮かべた。
その犯人は村井であるように今もまた思われるのだ。長身の村井がルリ子の手をひいて、背をかがめながら歩いて行く姿を啓造は想像した。
(あいつのほかに、だれがルリ子を連れて行くか)
そうは思っても、村井がルリ子を殺す理由を見出すことはできなかった。それにもかかわらず、なお村井が犯人ではないかとの疑いを消すことはできなかった。あの村井の白い大きな手がルリ子の首をしめる様子まで目に浮かんだ。
そんなことを思っている時、不意に窓の前に黄色い風船がふわりと現れた。ゴム風船は白い糸を引いてゆらゆらと揺れながら、風に吹かれて窓をよぎって流れて行った。それを見ると、啓造は急に涙がこみあげて顔を机の上にふせた。黄色い風船がルリ子の可憐な魂のように思われた。ルリ子を殺された悲しみが、十日たった今はじめて、体のすみずみまでしみ透っていくようであった。
妻も徹も家も地位も、何もかも一時に失ってしまった方が、まだこれよりは淋しくはないだろうとさえ思われた。
三歳のルリ子一人だけが、このうす暗い林の向こうの川原で、何者かに殺されたということが憐れで耐えられなかった。啓造は歯をくいしばって声をころして泣いた。
あの事件の前日の朝のことであった。ルリ子は出張する啓造の手に、いつものようにすがった。
「おとうちゃまのおてて大きいね」
ルリ子は小さな手を啓造の手に重ねていった。その時、啓造は、透きとおるような白いルリ子の手に、ふと不幸なものを感じたのだった。それがルリ子との別れだった。
「おとうちゃまのおてて大きいね」
彼にとってそれは、ルリ子の短い一生の最後の言葉となった。啓造は涙を拭ったハンカチをしばらく目におしあてていたが、顔を上げると、じっと自分の手をみつめた。
啓造はじっと自分の手をみつめながら、この手はルリ子を救うことはできなかったと思った。大きいだけで何の役にも立たなかったと思った。
「おとうちゃまのおてて大きいね」
といったルリ子は、この父の手に安心を感じていたのだろうか。それとも、ただ大きいという驚きだけであったのだろうか。
啓造のこの手には、ルリ子の思い出は少なかった。ゆったりとした気分で、ルリ子を抱き上げたことが果たしてあったろうかと啓造は思い返していた。
昭和十八年の早春に生まれたルリ子は、戦時中で、病院の一番苦しいころに生まれたのだった。啓造の父が人手不足で過労のため倒れ、まだ二十八歳だった啓造が病院の経営を継いだ年だった。
医師も看護婦も薬品も、そして食糧もなにもかもが不足な中で、啓造は病院を一時閉鎖しようかと考えたことがあった。終戦になって預金が封鎖され、新円《*しんえん》生活に入ってからは経営はいっそう困難になった。二十年来の事務長の敏腕がなければ、この危機をのりこえることができなかったかもしれない。美しかった病院の庭はばれいしょ畑になり、入院患者には自炊をしてもらうことになった。病院の内外はうすぎたなくなった。
そんなわけで啓造は朝はやく出勤し、夜おそくまで働くことで人員の不足をおぎなわなければならなかった。だからそのような心労の多い日々の中で、啓造はゆっくりとルリ子を抱くということもなかったのである。
わずか三年の命しかなかったルリ子の上にも、戦争の影がいろ濃くおちていたことを、今更のように啓造はしみじみと思いながら、ルリ子を抱くことのほとんどなかった自分の両手をながめた。
父である自分のこの手に抱かれることの少なかったルリ子が、いかにも縁がうすく、しあわせがうすく思われて、あわれでならなかった。しかもあの幼い細いくびが何者かにしめ殺されたのかと思うと、啓造は大声でわめきたい思いだった。
(ルリ子を殺した犯人の手はどんな手か)
ふたたび村井が思い出された。しかし、病院で会う村井は、とりたてて事件前と変わったところはなかった。
啓造は何の根拠もないこの疑いを恥じて立ち上がった。階下にねている夏枝を見舞おうと思った。夏枝はルリ子の死以来、床についたきりであった。
椅子から立ち上がったまま、啓造はためらった。あの日、村井と夏枝がひとつ部屋にいて、ルリ子を暑い戸外に追いやったことを忘れることができなかった。啓造は激しく妻を責めたかった。なじりたかった。しかしそれらの思いをじっと今日まで耐えてきた。夏枝がずっと病床にあったからである。
しかし今は、ルリ子があわれで思わず泣いた感情のたかぶりがあった。いつにもまして妻が憎かった。
川原で夏枝は村井に抱かれるように気絶した。そのことを今になって啓造はねたましく思い出していた。
美しい妻をえてから、啓造の生来の嫉妬ぶかさは助長されたようであった。ふだんでも外出から帰った夏枝の顔が、いつもより生き生きしている時など、
(外で何かあったのだ)
と、啓造は疑心暗鬼で苦しくなることがあった。
「いやに生き生きしているね。何かいいことでもあったのか」
と口に出して気がるにひとこと問えばよいものを、ちょっとでも疑うと、疑ったことへの自己嫌悪もあって、もう問いただすことができなくなる。
夏枝もまた、きかれなければ語らない口重なところがあって、それがある時は啓造を苦しめた。
今もまた啓造は、ルリ子が殺された日は、夏枝と村井が応接室に二人きりでいたことにこだわっていた。
「手は下さなくても村井と夏枝がルリ子を殺したことになるのだ」
啓造は声に出してそういうと書斎を出た。階段をおりると廊下があり、右手に応接室、茶の間、台所、つきあたりが勝手口で、廊下の左手は客間と寝室があった。そのまた向こうに広い縁側がかぎの手になって女中部屋に続いている。
寝室にはいると、夏枝はふとんの上におきて、こちらに背を向けてすわっていた。啓造が部屋にはいってきたのにも気づかぬのか、夏枝はじっと林の方をながめている。
「夏枝!」
きびしく声をかけたとき、タオルのねまきを着た夏枝の肩から不意に白い蝶が舞いたった。それは夏枝の肩の一部が白い蝶に化して、ひらりと舞い上がったようなふしぎな印象であった。
蝶は二、三度、とまどうように部屋の中を往き来していたが、部屋をよこぎって明るい庭に出て行った。
「夏枝」
啓造の声がやさしくなった。彼は妻があわれだと思った。憎しみが全く消えたわけではなかった。しかし目に見えて痩せ落ちた妻の肩から、白い蝶が舞いたつのを見たとたん、思いがけない愛情が胸いっぱいにひろがるのをどうすることもできなかった。
妻もまた、深いかなしみのなかで、村井とのことを悔いて苦しんだにちがいないのだ。
啓造はルリ子を思うごとに、村井と妻への憎しみが深まるのをおさえがたかった。しかし今はその夏枝が無性にいとしかった。あわれだった。呼ばれても、なおじっと林の方を見たまま、もの思いにふけっている夏枝のかなしみが、そのまま啓造の胸につたわってくるようであった。
「夏枝」
ふたたび妻を呼んだとき、茶の間の電話のベルが鳴った。受話器をとると、
「警察の和田です。辻口さん、ホシがわかった!」
ルリ子の事件で懇意になった和田刑事の声であった。
「犯人が! わかりましたか!」
啓造は村井の名をちらりと思い浮かべた。声がうわずった。足がばらばらになったかと思うほどガクガクした。
和田刑事の声が遠くなった。
「え? え? だれです? 犯人は」
「あ、もしもし、電話が遠いですね。聞こえますか?」
「もしもし、聞こえました。犯人はだれです?」
「佐石土雄、佐藤の佐に石ころの石、佐石土雄という男に心当たりがありますか?」
村井ではなかった。根拠は何もないのに、啓造は村井の名が告げられるのではないかと思っていた。心のどこかで、村井が犯人であってはならないと思いながら、しかし、そうであってほしいとねがっているものがあった。その期待がはずれて啓造は一瞬ポカンとした。
(佐石土雄?)
どこかで一度聞いたことがあるような気がした。たくさんの患者の名前をいちいちおぼえることはできなかったから、心あたりがあるかといわれれば、あるようでもあり、ないとはいいきれないものがあった。
「心あたりがあるんですか」
啓造の返事がおそいので、和田刑事は少しせきこんでたずねた。
「いや、ありませんが……」
あるいは一度でも診察したことのある患者かも知れない。
「ありません」
と、いってから啓造は思いきりわるく、案外よく見かける男かも知れないと思ってみた。
「全然心あたりはないんですね」
「ないようです。なにせ仕事が仕事ですから、一応カルテを調べてみてからご返事をします。ところでその佐石土雄というのはどこの人です? どこにいます?」
そういっているうちに、啓造は見たこともないその男に、いいようのない怒りと憎しみが燃え上がるのを感じた。憎しみのために急激に体がふくれ上がるような感じであった。その男におどりかかって締め殺してやりたかった。そうしたところで何の罪にもならないような、罪悪感のともなわない殺意で受話器を持つ手がぶるぶるとふるえた。
「実はですね、佐石土雄は死んだんですよ」
「死んだ?」
啓造は耳を疑った。たった今、そいつの首を力いっぱい締め殺してやりたいと思っていた矢先ではないか。
「申しわけないんですがね、留置場で首をつりましてね」
「一体どういうことなんです? それは」
冗談じゃないと啓造は唇をかんだ。
「そいつは何で、何の恨みがあってルリ子を殺したんです?」
「それが、札幌からの電話なんで、詳しいことはわかりませんが、わかったらすぐお知らせします」
啓造は受話器を耳にあてたまま、ぼんやりと立っていた。しばらくして、電話がとうに切れているのに気づくと、彼はのろのろと電話の前をはなれた。
(なぜ、ルリ子が佐石土雄という見も知らぬ男に殺されなければならなかったのか)
依然として、それはわからなかった。
(なぜ、ルリ子はそんな男について川原まで行ったのだろうか)
啓造はどうしてもあの日のことを忘れることはできなかった。家には誰もいなかった。その家の中には村井と夏枝の二人きりだったのだ。
次子と徹が留守ならば、せめてルリ子をかたわらにおくぐらいのたしなみが、人妻の夏枝にあってもいいではないか。誰もいない家の中に夫以外の男を入れることはないのだ。
「ルリ子はね、相手さえしてあげたら、一日中でも家にいるんですのよ」
かつて夏枝がいったことがあった。そんなルリ子を家の中で遊ばせておくのはむずかしいはずはなかった。
ルリ子を見知らぬ男の手に追いやったのは、村井と夏枝ではないのか。犯人の佐石という男はもとより憎い。だがその憎む相手は、啓造が一言の憎しみの言葉もたたきつけぬうちに自殺してしまった。この上は、村井と夏枝を憎むより啓造の気持ちのやりどころがなかった。
寝室にもどると、夏枝は先ほどと同じ姿勢で背を見せてすわっていた。廊下をへだてた茶の間での今の電話が、聞こえないはずはない。だが夏枝は微動だにせずじっと床の上にいた。
(犯人のことを知りたくはないのか)
憎しみの目で夏枝をみつめていた啓造は不安になった。不安な思いで妻を見なおした啓造はぎくりとした。先ほどから同じ姿勢でじっとすわっているその姿は、生きている者の姿とは思えなかった。
啓造はズカズカとぼたん色の掛けぶとんをふんで夏枝の肩を抱いた。
「夏枝!」
うつろな目だった。死人の目よりもなおうつろだった。
「犯人がわかったんだ!」
夏枝はかすかに首をふった。
「犯人は死んだよ」
夏枝はのろのろと啓造を見た。ふたたび目を庭にもどすと、うつろだった目が異様に光った。
「あ、あれ、あそこにルリ子ちゃんが」
指さして夏枝はよろよろと立ち上がった。
「ばかな!」
啓造はもがく夏枝を抱きとめた。
「ルリ子ちゃんのところに行かせて、ほら、あのナナカマドの木の下に」
啓造は夏枝の目をのぞきこんだ。
「狂ったのか夏枝、ルリ子は死んだのだ。庭にいるはずがないじゃないか」
別人のようにやせほそった夏枝の肩を、啓造は思わず抱きしめた。
*新円 危機的なインフレに見舞われ貨幣価値が落ちた敗戦後の日本が、その対策として昭和二十一(一九四六)年三月三日、旧円に換えて新たに発行した円(日本銀行券)のこと
灯影
犯人が自殺して一週間たった。啓造は、この一週間いくたびも読みかえした新聞を、今もまた書斎の机の上にひろげていた。
金色だった夕焼けの雲が、徐々にむらさきに変わって行き、林の上にはカラスが群れて、さわがしかった。
〈留置場で首つり自殺
ルリ子ちゃん殺し犯人〉
という四段ぬきの大きな活字を見ただけで、啓造はまた胸がいたんだ。
「自殺するぐらいなら、ルリ子を殺さなきゃよかったんだ」
にがにがしくつぶやいたが、新聞から目をそらすことはできなかった。
〈旭川市外神楽町医師辻口啓造氏長女ルリ子ちゃん(三つ)が絞殺された事件を捜査中の札幌署は、八月二日午後、札幌市内で容疑者として旭川市外神楽町日雇佐石土雄(二八)を逮捕。佐石はルリ子ちゃん殺しを自供直後、同署留置場独房で、着ていたシャツで首をつって自殺した。
同署では二日朝、佐石の泊まっていた宿いさみ屋の主人長坂七郎さんから「赤ん坊連れの挙動不審の男が泊まっている」との通報を受け、午後三時すぎ、佐石が外出するのを待って不審尋問をしたところ、身をひるがえして逃走、通行人の協力で間もなく署員に逮捕された。
最初佐石は「悪いことはしていない。ただ逃げただけだ」といっていたが「夜うなされるそうではないか」と問いつめられて、去る七月二十一日、旭川市外の美瑛川《びえいがわ》畔でルリ子ちゃんを殺したことを自供した〉
階下でうた声がした。
「カム、カム、エブリボディ、ハウ、ドユー、ドゥー、アンド、ハウワーユー」
終戦と同時にはやりだした、証城寺のふしの英語の童謡を、徹が歌っている。ルリ子もこの歌を徹といっしょに幼い声で歌っていたのを啓造は思い出した。今にもルリ子が共に歌い出すのではないかと思われた。啓造は、少し糊のききすぎた浴衣の胸をはだけて、新聞に視線をもどした。
佐石の写真が載っていた。二十八歳よりふけて見え、三十五、六には見えた。佐石はぼんやりと、どこかを見ているようでうなだれてもいなかった。しかしがっちりした体格に似合わずに何か力のぬけたさびしい感じに写っている。顔は、意外に整った顔で、眉のこい額のひいでたあたりには、知的な感じすらただよっていた。やや厚い唇のあたりが甘い感じだった。タコをしていたという経歴が不似合いなぐらいだった。
(こいつがルリ子を殺したのか)
啓造は眉根をよせて、写真をみつめた。いかに敵意と憎しみをもってみつめても、犯人の顔には凶悪なものがなかった。ルリ子が手をひかれてつれられて行ってもふしぎではなかった。
写真の下に〈犯人佐石のたどった道〉という記事があった。
〈犯人佐石のたどった道。
佐石の語ったところによると、佐石は東京の生まれで幼時両親を関《*》東大震災で一時に失い、伯父に養われて青森県の農家に育ち、昭和九年の大凶作に十六歳で北海道のタコ部屋に売られ、後転々とタコ部屋を移り歩いた。昭和十六年入隊、中支に出征中戦傷を受け、第二陸軍病院に後送、終戦直前渡道、日雇人夫として旭川市外神楽町に定住、結婚した。内縁の妻コトは女児出産と同時に死亡〉
これもあんしょうできるほど何べんも読んだ記事であった。
〈父親の辻口啓造氏は「警察から聞いていました。今は何も語りたくありません」と沈痛な面持ちで語った〉
という記事も、読みかえすごとにわびしかった。
夕焼け雲がすでにくろくかげっていた。啓造は、暮れのこる空を見ながら、和田刑事の語ってくれたことを思い出していた。
「何せね、生まれたばかりの赤ん坊を残されて女房に死なれたわけで、第一に困ったのは乳ですよ。それにおしめはとりかえなければならん、洗わなければならんというんですからね。ギャアギャア泣かれても、どうしようもないわけですよ。それに働きに行かなきゃ、口がひあがってしまいますからね。さいわい間借りしていたところのおかみさんが親切で、赤ん坊に湯もつかわしてくれたりしたらしいんですがね。あの日はお祭りで、続けて行っていた道路工事が休みだったそうですよ。暑い日でね、赤ん坊に泣かれて、いいかげんくたびれていた。ええい、赤ん坊なんかおいて泳ぎに行けとばかり、家を飛び出したらしいんです。そしてお宅の前を通りかかったちょうどその時、裏口からルリ子ちゃんが駆け出してきたっていうんですよ。その時、おれの子もせめてこの子ぐらいの年になればと思って立ちどまったんだそうです。するとルリ子ちゃんも立ちどまって佐石を見上げた。メンコイな、川に行こうかというと、ウンとすぐついて行ったというんですね。ところが、川に行くと祭りのせいか、だれもいない。ルリ子ちゃんがさびしくなって泣き出した。自分も泳ぐつもりで裸になったところだから、泣くなとすかしたらしいが、おかあちゃま、おかあちゃまとますます泣きたてたというんです。まあこれは間宮刑事の話なんですがね。赤ん坊の泣き声でいいかげん疲れていて、神経衰弱だったのかも知れんというのです。自分の子ばかりか、よその子にまで泣かれると情けなくなってカッとした。おどすつもりで首に手をかけたら、すぐぐったりとなったので、驚いて逃げたと、こういうんですよ。佐石は自供後ひどく疲れた顔で、家内に死なれてから二十日間ロクにねむらなかった、これからひるねをさせてくれといったそうで、発作的な自殺じゃないかと思いますね」
和田刑事の語ったようなことも、新聞に書かれてあった。
「通り魔のようなものだった!」
啓造はつぶやいた。
(もし、ルリ子が一分あとに家を出ていたならば、犯人の佐石と顔を合わすことはなかったろうに)
ルリ子の不運というよりほかはなかった。
(いや、佐石にとっても、やはり不運といえるかもしれない。ルリ子に会わなければ、彼も殺人を犯さなかったわけだからな)
そう思うと、啓造は「偶然」というものの持つ恐ろしさに、身ぶるいした。
気がつくと、部屋はうすぐらくなっていた。先ほどまで、林の上になきさわいでいたカラスたちも、しずかになった。啓造は電気スタンドのスイッチを押した。
「おかあちゃま、おかあちゃまとルリ子ちゃんが泣くので……」
といった和田刑事の言葉を思い出して、啓造は何ともいえない気持ちだった。
「おかあちゃまとルリ子が泣きさけんでいた時に、夏枝、お前は村井と何をしていたのだ」
と、精神病院に入っている妻に、問いつめたい思いであった。
「ルリ子ちゃんが、ナナカマドの下に……」
と夏枝が指さしたとき、啓造は、
(狂ったのか)
と、ギクリとした。
(精神分裂症かもしれない)
と、とっさに彼は思った。夏枝の人になじみにくい性格から考えても、分裂症になる可能性がないとはいえなかった。
しかし、先輩の精神科医、森の診断では、
「強度の神経衰弱ですよ。神経衰弱でも、幻視をともなう例がありますからね。入院して、電気ショックをやれば、まあ半月でエントラッセン(退院)ということになりますね」
ということで、啓造は安心した。
ルリ子の幻影を見るほどの、深いなげきであったのかと、夏枝があわれでならなかった。そのようになるまで苦しんだ夏枝を、
(手をくださなくても、ルリ子を殺したのはお前と村井だ)
と、心の中で責めつづけていた自分が、ひどく冷酷な人間に思われた。今は何もかも許すべきだと思った。これからは、いたわり合って三人で仲よく暮らそうと、彼は思いを新たにしていた。
しかし、夏枝は思ったより回復が早かった。医師もおどろくほどに、ぐんぐんともとにかえった。食欲も出て、少しずつ肥ってきた夏枝を見ると、啓造はなぜか、その順調な回復を、すなおに喜ぶことができなかった。
(案外に、しぶとい神経だ。よく気も狂わんでいられるものだ)
と思うことさえあった。こんなにひどい目にあった妻を、まだ許していない自分に気づくと、啓造は自分で自分がやりきれなくて、電気スタンドのまわりを飛ぶ大きな蛾を、いつまでもみつめていた。
啓造は、やがて再び新聞に目をおとした。
(憎いには憎いが、考えてみると佐石もあわれな男だな)
そう思ったときだった。
「おとうさん、次子ねえちゃんと、おとなりで遊んできてもいい?」
階下から徹の声がした。
「ああ、でも遅くならないうちに帰るんだよ」
徹の遊び相手にもならず、この頃は夕食もそそくさに二階の書斎に、とじこもってしまう自分に啓造は気づいた。
(徹も、さびしいだろうな)
そうは思っても、今は遊んでやる気にはなれなかった。
啓造は、再び佐石のことを考えた。
わずか十六歳で監獄部屋とよばれる、おそろしいタコ部屋に売られた、孤児の佐石があわれでもあった。タコがすっぱだかに赤いふんどし一つで、道路工事をしているのを、啓造は、学生時代に旅先で見たことがある。
(あれが人間か)
と思われる恐ろしい形相の棒頭《ぼうがしら》が、けもののようにわめいていた。過酷な労働にたえかねて脱走すると、鉄砲をもった棒頭たちが、軍用犬数頭とともに、それを追い、運わるく連れもどされた男は、他へのみせしめに、川の中にさかさにつけられたり、背に焼けひばしをつけられる話も、その時きいた。
北海道や樺太《からふと》の鉄道、道路、河川の工事などは、前借金で重労働する、このタコと呼ばれる人夫達のぎせいによって、進められたことを、啓造も知ってはいた。しかし、学生時代に見たタコの悲惨さは、想像以上であった。だから、憎い犯人ではあっても、佐石が十六歳の時、養父にタコ部屋に売られたということには同情ができた。
(タコ部屋から軍隊に入り、戦地で負傷をして……とすると、なんだ、この男は自由な社会というものをほとんど知らないんじゃないか)
啓造は、佐石をただ憎いと思うばかりで、今日ほど彼の過去を思いやることはなかった。結婚して一年たつかたたぬかで、生まれたばかりの赤ん坊をおかれて妻に死なれた佐石の心のすさみが、わかるような気がした。
(佐石は、ルリ子を殺す意志はなかったのではないか)
そうも思われた。長年の労働と、軍隊生活で、佐石の手はあまりにも力のありすぎる手になっていたのかも知れない。かげんをして力を出すということも忘れていたのかも知れない。
「殺された」
と啓造は思いたくなかった。佐石の過失だったと思いたかった。憎しみにもえ、殺意のあふれる手で、力一ぱいしめ殺されたのでは、ルリ子があまりにかわいそうであった。佐石が恐ろしい形相をしてはいなかったと思うことによって、その時のルリ子の恐怖が少なかったと思いたかった。そう考える方が、父親としてはまだ耐えられそうであった。
そんなもの思いにふけっていると、
「誰もいないの? 泥棒していくわよ」
階下で、若い女の声がした。
「どなたですか?」
啓造は、浴衣の衿をかきあわせながらいった。
「どなたですかは、恐れいったわね。いやになっちゃう。この辰子さんの声も忘れるなんて。早くおりていらっしゃい」
喪の家に、無礼なほどの明るい声である。夏枝の学校時代からの友人である。
「やあ、辰子さんにはかないませんね」
啓造は、救われるような思いで階下におりていった。
「どこもかしこも、あけっ放しじゃない? 次ちゃんも徹くんも、どこへ行ったの。夏枝の着物ゴッソリ盗んで行けばよかった」
辰子はニコリともしないで、仏壇の前にすわって啓造を見上げた。
「その節は、ごていねいにどうも……」
啓造がキチンと両手をつくと、辰子は黒白のたてじまの単衣《ひとえ》お召しのたもとから、煙草を出して火をつけながら、
「いやになっちまう。ここは、夏枝もダンナも、そろって、さようしからば、ごめん遊ばせなんだから。そんな他人行儀は、私には無礼だぐらい知っているといいのにねえ」
と、啓造にも煙草をすすめた。かるく目をつむって、煙草をくゆらせると、
「大変ね」
すっと声を落とした。思いやりのにじみ出た声であった。啓造がだまってうなずくと、辰子はちょっと目頭をおさえたが、再びハキハキと、
「そうよね、大変よ。大変という言葉はこういう時つかうのね。ルリ子ちゃんは死んでしまう、夏枝はパアになる。こんな大変なことはどこにもないわ。今ね、奥方のところへ行って来たの。昨日と今日はダンナが見舞いに来ないから、来るようにいってなんて、ゼイタクなことをいってたわ。元気だったわ」
花柳流《*はなやぎりゆう》の名取《なとり》である辰子は、うつくしい手つきで煙草の灰を落とした。
「徹くんは?」
「次子とお隣へあそびに行きましたよ」
「そう、徹くんも淋しいわね。ところでダンナはどうなの?」
辰子は「どうなの」というところだけは、優しくいった。丸顔の親しみやすい顔立ちで、かっきりと彫ったような二重まぶたの目がいきいきとしている。
「辰子さん、今日はゆっくりとしていってくれませんか」
啓造は年下のような口調になった。辰子の前に出るとなぜか自分の心にひどく素直になる感じだった。
辰子はそれにはこたえずにいった。
「お盆前だというのに、今夜はすこし涼しすぎるわね、縁側のガラス戸をしめましょうよ。ダンナも手伝ってちょうだい」
美しい足さばきで、暗い廊下に立って行く辰子のうしろ姿を啓造は見おくった。
開け放っていた縁側の戸をしめると、にわかにガラス戸越しに見る夜がふかくなったように思われた。
辰子は、お茶を入れて来ると、横ずわりにすわっていった。
「あ、そうそう、三日ほど前にね、札幌に行ったら、ニシムラの喫茶で、高木さんにパッタリ会ったわ。辻口どうしてる、かわいそうなことをしたなあっていってたわ。あの人がかわいそうなんて言葉をつかうと、ちょっと身にしみるわね」
「ああ、高木は元気でしたか」
「相変わらず元気よ。あの人って生きている間じゅう元気で、丈夫で、憎らしいみたいって人よ。この間も、とても憎らしいことをいってたけれど……」
めずらしく、辰子はいいさして口をつぐんだ。
「何ていっていましたか?」
「何といわれてもつらくはない?」
辰子はちょっと、きびしい表情になった。
「さあ、いわれてみないと……」
「そうね、あなたがた、お友達だからいうわね、高木さん、乳児院だかの嘱託をしているでしょう? あそこに犯人の子が、あずけられているんですって」
啓造は、自分の膝にきた小さな蛾をちり紙にとってからいった。
「そうですか。そういえば市の乳児院に、犯人の子があずけられたとか和田刑事がいってたようですね。そうだ、高木の関係しているところですね、あそこは」
「彼、奇縁だなあって、いっているの。それからが憎らしいのよ。辻口の奴、汝の敵を愛すべしと、よく学生時代におまじないのようにいっていたが、まさか、いかに何でも犯人の子を引きとって育てるとは、いわんだろうって」
仏壇に飾ってあるルリ子の写真に、啓造の視線がいくともなしにいった。
ルリ子は白い服を着て、かがんで何かの花をさし出して笑っていた。すぐに立ち上がってこちらに走って来るような、そんな感じの写真であった。
「ばかな! 犯人の子を引きとるなんて、そんなことができるもんか!」
と、口まで出しかかって、啓造は口をつぐんだ。いつか徹に「敵とは何か」とたずねられたとき、「敵とは仲よくしなければならない相手だ」といった自分の言葉を思い出したからである。
だまっている啓造を見て、辰子がいたわるようにいった。
「わたしね、高木さんに、それが親友にいう言葉なのと、きめつけてやったの。汝の敵を愛せよなんていっていたときは、辻口さんに敵がいなかったからじゃない? っていったら、辻口って辰ちゃんが思っているより人物なんだぜっていってたわ」
啓造は答えなかった。辰子もだまってお茶を飲んでいる。沈黙がつづくと啓造はふいに、
(今、この家には辰子さんと二人っきりだ)
と思った。
「高木は妙に、買いかぶるんですよ。わたしは、敵の子を引きとるほどの人物じゃありませんよ」
この家に、辰子と二人っきりだと気づくと、啓造は沈黙をおそれて口をきった。
「そうね。わたしもそう思うわ。見かけは聖人君子だけれど。聖人君子なんて、ちょっとした化物の部類よ、大ていは眉つばものよ」
辰子と二人でいることに、おそれる自分を見すかされたような気がした。
「化物はひどい。もっとも、わたしは聖人君子じゃないですがね」
啓造は苦笑した。苦笑してから、
(ほんとうに佐石の子を引きとってみようか)
一瞬、そんな思いが心をよぎった。よぎっただけで鳥肌がたった。
(まちがったって、佐石の子など育てることができるものか)
「どうしたの、その顔」
ゆがみそうな表情の啓造に、辰子の声がやさしかった。啓造はさりげなく、
「いや、この事件で懇意になった和田刑事がね、かわいそうなのは、生後まもない佐石の子だというんですよ。母の死も父の首つりも知らずに、オッパイさえもらえば、ねむっているんだって」
「そうなの、そりゃかわいそうね」
「辰子さんも、かわいそうだと思うんですか。わたしはそれをきいた時、腹が立ちましたよ。和田刑事にもいってやりましたがね、殺されたルリ子の方が、何倍かかわいそうじゃありませんか」
「勿論、ルリ子ちゃんはかわいそうよ。かわいそうなんてものじゃないわ。むごすぎるもの。でもよ、犯人の子だってかわいそうよ」
「そうですかね」
啓造は釈然としない顔つきだった。
「もしルリ子ちゃんが、父親も母親もなくて、一人で生きて行くと思ってごらんなさい」
辰子にそういわれてみると、小さな子が一人で生きて行くのは、一人で死んで行くのと同じように、あわれであった。
「もし、ルリ子だったら、かわいそうですね」
「もし、自分の子だとしたら、もし自分だったら……というように、いちいち換算しないと、ものごとを判断することができないのね。人間ってものさしがいくつもあるものね」
「そうかも知れない。公平に考えると佐石の子もかわいそうといえなくはないですよ」
しかし啓造には、和田刑事や辰子のように、単純にかわいそうだといいきれないものが残った。
(佐石の子を引きとってみようか)
と、先ほど一瞬でも思った自分が許せなかった。
だが、この心に浮かんだ一瞬の思いが、やがて彼を苦しめ、夏枝を苦しめることになろうとは、啓造もその時は、知ることができなかった。
*関東大震災 大正十二(一九二三)年九月一日、関東地方を中心に起こった大地震災害。死者約十万人。
*花柳流 日本舞踊の一流派。名取とは、音曲、舞踊などで師匠から芸名を許されること。またその人をさす。
西日
啓造の病院は、旭川市内にあった。酒造業を営んでいた祖父が、安いころに地所を三千坪余り買っておいた。そのおかげでぜいたくなほど広々とした敷地に病院は建っていた。病院の玄関は、門から半町も入っている。
いつか高木がいったことがあった。
「辻口のオヤジは、患者に不親切な建て方をしたもんだな。やれ、うれしや、やっと病院の門までたどりついたら、なーんだ、玄関までまだ一里もあるというわけだ。病人なんて、歩くのは一歩でも少ないほうがありがたいんだぜ」
くたびれて帰る時など、啓造にも高木の言葉が実感となることがあった。
二メートルほどの高さのガッシリとした御影石の門柱に、交番の看板のような大きな板が、〈辻口病院〉と、あせた墨の色を見せてさがっている。ここも自宅と同じように、美しいいちいの生け垣をめぐらしていた。以前は、門に立ってみると、病院というより博物館のような感じであった。それは太いエルムや、根本から三つに分かれた丈高い桂の木などが、広々とした芝生に影をおとしているせいかも知れなかった。
しかし今は、美しい芝生もあちらこちら掘り起こされていも畑になっており、博物館とはいいがたかったが、やはり広々とした緑の敷地は、街の中を通ってくると気持ちがよかった。
エルムも、桂も、ナナカマドも、もちろん植えたものではない。それらは切り残された木であった。
「ここに、熊が登ってかじったあとがある」
などと、啓造は幼いころ、病院の誰かにからかわれて本気にしたことがあった。そのころ、ここは庭というより林のようであったと、啓造は記憶している。
病院はエの字型に建っていた。啓造の父は、はじめ外科医のつもりだったが、請われれば何科でも診る何でも屋になってしまった。それで昭和五年ここに病院を移したとき、外科に内科、眼科、耳鼻科を併設して新しい病院経営にふみきったのであった。
(早いものだ。ルリ子が死んで、もう一カ月も過ぎてしまった)
啓造は、西日が明るくよぎる病院の廊下を歩いていた。薬局の前を通りかかった時である。
「あ、ごめんなさい」
中からパッと飛び出して、啓造につきあたったのは事務員の松崎由香子だった。小さいがまっくろい丸い目と、小さな唇が何か必死な表情で、あっと思う間もなく走り去った。啓造はあっけにとられて、小走りに事務室の方に去って行く由香子のきゃしゃな後ろ姿を見送った。
「何かあったのか」
今、由香子が飛び出したドアのすき間から、茶色のビンが並ぶ薬品棚が見えた。啓造はドアをあけて中に入った。
窓ぎわに立っていた村井が、白衣のポケットに手を入れたまま啓造をみてうすわらいを浮かべた。
村井のうすわらいと、この部屋を飛び出していった松崎由香子の真剣な表情とは、あまりにも対照的であった。啓造はひどく不愉快だった。夏枝と村井がわが家の応接室に二人っきりでいたことがいやでも思い出された。
(その時も、こいつはこんないやらしいうすわらいを浮かべていたのだろうか)
啓造はいいようのない嫌悪を感じた。
「いいところへ、きてくださいましたね」
村井の顔から、うすわらいは消えなかった。いいところであるはずがない。
「そうですか」
わざと啓造はまぬけた返事をしてみせた。村井は、白衣のポケットから光をとり出して、火をつけていった。
「院長に、相談したいことがあったものですから……」
「相談ですか?」
啓造は、さきほどからの不快感のつのるのをおさえながら、さりげなくいった。
村井がこの病院にきて二年になる。しかし考えてみると、個人的な相談をうけたことなど一度もなかった。
(相談とは何だろうか)
啓造は、何とはなしに不安になった。
「まあ、ここでは何ですから、わたしの部屋にいきませんか」
と啓造は先に立って廊下に出た。
「お急ぎじゃありませんか」
村井は啓造と肩を並べた。村井の方が五センチ近く高かった。
「別に、いそぎません。かまいませんよ」
おだやかな口調で啓造は答えながら、
(いやな奴には、いやなように口をきけばいいじゃないか)
と自分自身にも腹が立ってきた。
夕光に長く影ひく、高いポプラの下の芝生に、うずくまって本を読んでいる男の入院患者の姿が窓ごしに見えた。
院長室をあけると、西日をうけた部屋はひなたくさかった。院長室といっても、五坪ほどの部屋で、窓には白いカーテンが、片側にしぼられていた。
窓ぎわには大きなマホガニーの机がすえられて、その上には、タイプライターや、顕微鏡、バーナーなどが、啓造らしい几帳面さで整然と並んでいるだけである。
壁いっぱいにかけられた、朝倉力男のくらい雪の絵が、院長室らしい雰囲気をただよわせていた。
「奥さん退院なさったそうですが、もうすっかりいいんですか」
村井は、長い足を投げ出すようにして、椅子にすわった。どこか疲れた感じであった。西日が暑かった。啓造は、
「おかげさまでね」
とカーテンを引きながら、
(何が、おかげさまなものか)
と、心の中でつぶやいた。
風にカーテンが静かにゆれた。
「院長、事務の松崎由香子を、どう思いますか」
村井は、ひろい額にたれた髪をかきあげた。長い指であった。
「どうって……」
啓造はいいよどんだ。村井の相談は、松崎由香子のことと知ってすこし心がなごんだ。
「なかなか、いい子じゃありませんか」
と、口早にこたえた。
「い、い、子、ですか」
ひとつひとつ、区切るようにいって村井は、にやりと笑った。村井に笑われると、啓造はちょっとうろたえた。松崎由香子は、ひとくちに「いい子」といい切れる娘でもなかった。
由香子は、ゆるいウエーブの髪を長く背にたらして、ゆっくりと歩く娘だった。病院の廊下でも、事務室でも、公園でも散歩しているような、歩きかたで歩いていた。今日のように廊下を走ることなど決してない娘だった。そして、
「先生、このクランケ(患者)の入院費のことですけれど」
などと、カルテを持って、啓造の体すれすれに立つこともあった。
廊下を歩くときなど、ほとんどよりかからんばかりにしてくるようなところがあって、啓造は時々驚かされた。しかし、そのことを由香子自身は意識していないらしく、同性にでも、年とった事務長にでも、そのようによりそって歩いているのを、幾度か見かけたことがあった。先天的な娼婦ではなかろうかと思うこともあった。ただ、化粧をしない素顔の由香子はいつも石鹸で洗いたてたような清潔感があった。
だまりこんだ啓造を見て、村井がふたたびニヤリと笑った。
「あの子は、院長にまいっているんですよ」
村井の言葉に啓造は、
(ごまかすな!)
と、思いながらも、おだやかにいった。
「あの子とハイラーテン(結婚)するんじゃないのですか」
「あの子とハイラーテン? わたしが?」
村井は、ちょっと唇をゆがめて皮肉に笑った。
「まさか、わたしは結婚なんかしませんよ」
「じゃ、松崎は?」
「さあ、あの子とぼくとは何の関係もありませんよ。あの子は、ほんとうに院長ファンなんですから」
啓造には、村井がひどく不真面目に思えた。
「相談というのは、松崎のことではないんですか」
「いいえ、相談というのは、ぼくの体のことなんです」
「君の体のこと?」
ハッとした啓造は、職業的なまなざしで村井をみつめた。村井は急に淋しい目で啓造の視線をうけとめた。
「院長、テーベ(結核)らしいんです」
「テーベ?」
啓造はとっさに、近ごろ満員の眼科の待合室を思いうかべた。
村井にはふしぎに患者がついた。このごろは特に人気があった。美男で肌ざわりがいいということだけではなかった。彼の手指の器用さは、大げさにいえば天才的といってもよかった。手術がうまかった。村井の二年つとめた成果が、今あらわれつつあった。
(今、村井に休まれたら、病院の経営にひびくだろうな)
啓造は、村井の体よりも、病院の経営のことを心配している自分に気づいた。
「ルンゲ(肺)ですね」
「ええ、この春先から、ときどきねあせをかいていたんですがね。微熱もたまにありますが、大したことはないんです。ただちょっとヘモり(喀血《かつけつ》)ましてね」
「ヘモったんですか!」
内心、(ザマをみろ)と叫びたい冷酷な思いがあった。
「すこしですがね。歯ぐきの血かと思ったていどですから。それで、今日検痰してみましたらガフキー二号でしてね」
(空洞があるな!)
啓造の背筋をつめたいものが走った。昭和二十一年ごろの医学では、空洞のある結核は死の隣に位していたといっても過言ではなかった。今日何となく村井のじだらくな感じがしたのは、肺結核発病によるショックのせいであったかも知れない。
ガフキー二号では、これ以上の勤務は当然無理であった。
「すぐ、レントゲン写真をとりましょう」
啓造は色あせたような村井の顔をながめた。彼は内科医として恥じる思いもあった。
「ええ、それでですね。病院も忙しくて、わるいんですが、洞爺《とうや》の方で療養したいと思うんです」
遠い洞爺に行けば、当分夏枝と会うこともあるまい。啓造は、それを思うと村井の発病がありがたかった。しかし、病院の経営からみると痛手であった。終戦後一年しかたたない今、医者をさがすことはむずかしかった。
(当分、眼科は閉鎖しなければならないだろうな)
(眼科の入院患者も退院させなければならない)
(しかし、この男が旭川からいなくなってくれるとは、何とねがってもないさいわいだろう)
そうしたこもごもの思いの中で啓造は、村井自身のうけた打撃は察し得ても、同情はできなかった。村井は啓造にとって、ルリ子を死に追いやった一人であった。しかも共犯者は妻の夏枝であった。
「洞爺は、事務長に手つづきさせましょう。この病院では落ちつかないでしょうし、旭川は寒くて療養には向きませんからね」
言葉だけは親切だった。
線香花火
夏枝が退院してから、目に見えて家の中も整ってきた。
「奥さん、そんなにお働きになって大丈夫ですか」
と、次子が案ずるほど、夏枝はきびきびとよく働いた。
「体を動かしている方がいいのよ。気がまぎれるの」
以前からきれい好きだった夏枝は、柱も廊下も癇性《かんしょう》にみがきたてた。よそ目には、辻口家もふたたびもとの平和な生活にかえって行ったように思われた。
夏枝は、徹にねだられて、まだ明るい夕食後の縁先で、線香花火をしている。
啓造は風呂からあがって、浴衣がけのまま縁側の籐椅子にすわって庭を見ていた。
「ルリ子ちゃんが、ナナカマドの下に……」
と、夏枝の指さしたナナカマドは、まっすぐな幹が天に向かってのびていて、家の中にすわっていては梢が見えない。十メートルほどの高さがあった。その横の春先から葉の赤い野村もみじに陽がすいて一層あかく見える。池のはたのテッセンの紫が夕光の中に美しく咲いているのをながめながら、戦争で久しく庭師を入れることもなかったことを啓造は思った。
(病院の経営が一息つくまで、庭の手入れは無理だろうな)
啓造は、今また、村井の発病で病院がどんなに痛手を受けなければならないかを考えていた。
(療養中でも給料はやらなければなるまい)
一応後任の医師については、事務長と相談して運動することにはした。このことを幾度か夏枝に知らせたいと思って口から出かかったが、啓造はおさえた。夏枝がどのような反応を示すか恐ろしかった。
徹と線香花火をしている夏枝の横顔に啓造は目をやった。濃くながいまつ毛が美しかった。大きな悲しみを経て、夏枝は一層陰影のある美しさとなった。
夏枝がふっと啓造を見上げた。夫にみつめられていたことを知ると、やさしくほほえんだ。ほほえむと別人のように唇がなまめいた。肉感的であった。
(この唇は、村井を知っているのだろうか!)
ふとそう思っただけで、啓造は焼かれるような嫉妬を感じた。先ほどまでいおうか、いうまいかと思っていた言葉が思わず口から出てしまった。
「村井は洞爺に行ってしまうよ」
夏枝はギクリとしたように目を見ひらいた。が、すぐに手に持つ花火に目をやった。
「そうですか」
しずかな声だった。なぜかとも、いつ発つのかともたずねなかった。反応を示さない夏枝に、啓造は疑惑を持った。
(洞爺に行くといえば、結核かと驚いてもいいはずだ)
「だめだよおかあさん、そんなに手を動かしたら火がつかないもの」
徹の言葉に、啓造は夏枝の手のふるえを知った。啓造の目がけわしく光った。
「徹ちゃん、もっと暗くなってからにしましょうね。こんなに明るくては、ちっともおもしろくないでしょ」
夏枝の言葉に徹はすなおにうなずいた。
「ウン、そうだね」
「次子ねえちゃんが、おいもを掘っているわ。徹ちゃんもおてつだいしてね」
「おいも? ワーッ、おもしろい」
徹は、花火をそこにおいて勝手口から裏へ出ていった。
夏枝は一人縁側にぼんやりとしていた。村井のことをきいて、花火をやめてしまった夏枝を、啓造はいらいらとしたまなざしでみつめていた。
「夏枝、何を考えている?」
夏枝が顔をあげた。
「何だとお思いになって?」
少し甘えるような口調で啓造をみつめた。のどの白さが目についた。
「さあね」
まさか、村井のことかともいいかねて、啓造はしずかにうちわをおいた。夏枝は、啓造のそばにきてすわると、ぽつりといった。
「あの、わたくし、女の子がほしいと思っていましたの」
唐突だった。
「女の子?」
「ええ、女の子がほしいわ、小さな女の子が」
(村井のことを、夏枝はなぜいわないのか。村井はなぜ洞爺にいくのかと尋ねるのが当然ではないか。それをきかずに、突然、女の子がほしいなどといい出すのはなぜだろうか)
自分の妻でありながら、夏枝の心の動きがつかみかねた。何の脈絡もない動きに見えた。だから、女の子をほしいといった言葉も、口先だけのいいかげんな思いつきのように思えた。
「女の子がほしくたって、男の子がほしくたって、君はもう子供が産めないじゃないか」
「まあ、そんなことじゃありませんわ」
夏枝は白いほおをあからめた。夏枝は、ルリ子を産んだあと、軽い肋膜をして、避妊手術をしたことがあった。
「徹とルリ子がいたら、もう子供はいりませんわ」
見たところ夏枝は、やさしそうだが一度いい出したらきかなかった。まだ若い体で子供が産めなくなるということは、夫として何か味気なく、裏切られたような感じがしてならなかった。
その夏枝が、ルリ子を失って四十九日もたたぬ今、女の子がほしいといい出すと、
「君はもう産めないじゃないか」
といわずにはいられなかった。
「わたくしは産めませんわ。だから、もらってほしいんですの。ルリ子ちゃんだと思って育てますわ」
哀願する口調であった。
「女の子がほしいなんて、ルリ子の四十九日もまだすまないじゃないか」
「そうですわ。だからさびしいんですの。わたくし、ほんとうに気が狂いそうにさびしいんですの。手のかかる女の赤ちゃんでも育てたら、何とか気がまぎれると思いますわ」
啓造は、まだ夏枝の言い分がふにおちなかった。
(村井が洞爺にいくといったのに、それには何もいわずに女の子がほしいという。まさか村井がいなくなるさびしさを、子供に求めようというわけでもあるまい)
啓造は、人の心がいつも論理に従って動くもののように考えているらしかった。
「わたしは君の気持ちがよくわからないね。そんなことをいうのは、まだ神経が疲れているのじゃないか」
「いいえ、わたくし、もう神経衰弱は治りましたわ」
夏枝はうっすらと目に涙を浮かべた。
「しかしね、さびしくて気が狂いそうだというのは、夏枝、まだ疲れているんだよ」
「誰だって母親なら、わたくしと同じですわ。さびしくて悲しくて気が狂いそうだと思うにきまっていますわ。あなたはお仕事があるから気がまぎれて、もう涙も出ないんですわ」
夏枝は涙をこぼした。啓造は涙を見ると口をつぐんだ。再発を考えれば、夏枝を刺激することは避けねばならなかった。
「女の子を育てたいんですの。わたくし、女の赤ちゃんがほしいんですの、ね、おねがいですわ」
(さびしさをまぎらすために子供を育てるなんて! 人間の子はおもちゃではないんだぞ!)
啓造はそういいたかった。啓造がだまっていると、夏枝はいいつのった。
「ね、一生のおねがいですわ。女の子だと、だんだんルリ子のような気がしてきますわ。ルリ子だと思って育てたら、供養になると思いますわ」
啓造は女の子など見たくもなかった。特にルリ子と同じ年ごろの女の子を見ると、胸がズタズタにさかれるような切なさであった。だからあわてて目をそらして過ぎ去ることがしばしばあった。
しかし、このごろの夏枝は女の子を見ると、穴のあくほどじっとみつめたり、かがんで話しかけたり、抱きよせたりした。そしてやがて放心したように、ふらふらとその場を去るのを啓造も見かけた。啓造には、夏枝のそうした神経がわからなかった。
(女というものは、みな、こんなにわからない部分がたくさんあるものだろうか)
「ね、おねがいよ。ルリ子の四十九日がすぎたら、あなた、赤ちゃんをもらってくださいな」
啓造は、夏枝の父津川教授の温容を思い浮かべた。夏枝は父親にはどこも似てはいなかった。死んだ母親というのは夏枝と似ていたのではないか。津川教授もそれにはおれのように悩まされたのではないかと、啓造は夏枝の顔をみつめていた。
「わたしはね、夏枝、もう女の子など見たくはないのだがね」
啓造はおだやかにいった。夏枝は、深くうなずいた。
「おっしゃることは、わかりますけれど……でも……でもわたくしは女の子がほしいんですの」
夏枝も女の子を見るのはつらかった。しかしルリ子と同じ年ごろの女の子を見ると、どうしても話しかけずにはいられなかった。その女の子供たちの中には、ふたたびかえることのないルリ子と共通のものがかならずあった。それはかわいらしく欠けたみそっ歯、絹のような感触の肌、ひなたくさい髪の匂い、そして幼いものの言い方などであった。それらの女の子たちと話をすることは、死んだわが子に一目あいたいという強い母のねがいがさせることであった。そのねがいは、「見るのもつらい」というそのつらさを超えるねがいであった。
とにかく共通なものの中にルリ子の姿を、何万分の一でもいいから夏枝は見たかった。ほんのわずかな、その似たものに夏枝は執着した。
女の子を育てたいというねがいは、啓造には突飛に思えても、夏枝にとっては自然な心持ちであった。どんな形ででもいいから、夏枝はもう一度ルリ子にあいたかったのだ。そしてそれは、ルリ子を死なしめたことへのつぐないの思いでもあったのだ。
夏枝は啓造に自分の心持ちを十分に語ることはできなかった。説明しなくても、親ならば啓造にもわかるはずだという気持ちもあった。わからない方が、夏枝から見るとおかしく思われた。
夏枝は思いつめたような目で、まばたきもせずに庭を見ていた。それに気づくと啓造は不安になった。
(また気がおかしくなるのではないか)
そう思うと妥協するような気持ちになった。
「もらうといっても、猫の子をもらうように右から左へとはいかないよ。まあ考えてみよう」
「まあ、ほんとうですの、考えてみてくださるの?」
「ああ」
そう返事するより仕方がなかった。
「高木さんにきいてみてくださらない? あの方、乳児院に関係がありましたわね」
「高木か」
啓造は、先夜の辰子との会話を思い出した。
「ええ、きっと高木さんなら相談にのってくださるわ」
「うん、まあね」
「あ、西瓜が冷えたころですわ」
台所に立って行く夏枝の後ろ姿に、啓造は複雑な視線を投げた。胴のくびれが人より細い夏枝の浴衣姿には、見なれている夫の啓造の目にも、うずくような、なやましさがあった。
「おいしそうですわ」
夏枝は大皿にのせた西瓜《すいか》を座敷のテーブルにおいて啓造をまねいた。
「乳児院には、不幸な子供たちもいるんでしょう? そういう不幸な子を育てることが、ルリ子ちゃんへの一ばんの供養のような気がしますの。わたくしね、ルリ子ちゃんが生き返ったと思って、大事に大事に育てますわ」
啓造は西瓜を食べながら、
(今になって何をしたって、もう死んだルリ子は決して生き返らないのだぞ)
といいたかった。今見た、妻のなやましい後ろ姿は、また村井を連想させた。村井と夏枝が、あの日いったい何をしていたのか、はっきりと知りたかった。
村井が洞爺に行ってしまうと告げたのに、そのことに一言も触れないのは不自然であった。夏枝が立って行って、
「徹ちゃん、次子ちゃん、西瓜を切りましたよ」
と、勝手口で呼ぶ声がした。やさしい声だった。
夏枝が傍らに来てすわると啓造は、やはりいわずにはいられなかった。
「村井はね、肺結核で休むことになったよ。喀血してね」
夏枝は、うなずいたが何もいわなかった。
「肺結核の特効薬は今のところ何もないからね。洞爺のようないい気候のところで、大気安静療法をするより仕方がないだろうね」
勝手口から徹が走ってきた。
「ワー、赤い西瓜!」
「手を洗っていらっしゃいね」
夏枝は徹にやさしい笑顔を向けた。
「ハーイ」
声がはずんで洗面所に走って行った。夏枝はふたたび沈黙してうつむいた。
「洞爺に行ってしまったら、なかなか見舞いにも行けないだろう。君そのうちに見舞いに行ってくれないか」
夏枝は啓造を見上げて、子供のいやいやのように首をふった。
「行かないのか」
啓造はつとめて平静をよそおった。
「ええ」
「しかし、見舞いに行くのが、院長の妻の役目ではないのかな」
「ええ。……でも……」
夏枝は行くとはいわなかった。
(やっぱり、あの日何かあったのだ)
啓造は、うちのめされた思いで夏枝をみつめた。
(村井のところには行きたくない理由でもあるのかね)
そういいたかった。しかし次子と徹が入ってくるのを見ると、口をつぐむより仕方なかった。
「徹ちゃん、おいも沢山ほったの?」
徹に西瓜をとってやりながら、ほほえんでいる夏枝に、啓造は腹がたってきた。
「徹、散歩に行こうか」
西瓜を食べ終わると啓造は立ち上がった。
「ほんとう?」
徹は手をたたいた。啓造は無邪気に喜ぶ徹を見ると胸をつかれた。ルリ子の事件以来の徹の淋しさを思い知らされたような気がした。
「ほんとうだよ、花火を持っておいで」
「ワー、うれしい」
徹の目が生き生きとした。
「そんなにうれしいか」
啓造は、徹の頭をなでながら、
(この子だけでもしあわせにしてやらなければ)
と、しみじみ思わずにはいられなかった。
「おかあさんも行こうよ」
徹が夏枝の手をひいた。夏枝が返事をする前に啓造はいった。
「おかあさんはね、またこんど。まだ少し病気だからね」
先ほど、村井のところに見舞いに行けといっても、素直にウンといわなかった夏枝に啓造はこだわっていた。
今、啓造はその気晴らしに散歩をしたくなったのだ。
「今からいらっしゃるのでしたら、お帰りのころは暗くなりますね」
次子が懐中電灯を啓造に手渡した。
「いってらっしゃい」
夏枝は啓造の気持ちを察してか、ひかえめにいった。
門を出ると、啓造は林への道を歩き出した。林の中へ入るのは、ルリ子の事件以来はじめてのことであった。
「おっかないよ、おとうさん」
徹は、見本林へ行くのを知ると、つないでいた啓造の手を放して、しりごみをした。
「ばかだね、何がおっかない。おとうさんがついているじゃないか」
啓造は、徹の手をひいて林の中に入って行った。林の上にうす赤い夕焼け雲があった。高いストローブ松の梢が風に揺れていた。それは揺れているというよりも、幾本ものストローブ松が、ぐるりぐるりと小さく天をかきまわしているような感じだった。
「どこまで行くの」
「川までさ」
「川まで?」
徹はおびえたように、しっかりと啓造の手につかまった。啓造はにぎった徹の手をふりながら、大きな声で歌をうたった。
「夕やけ こやけで
ひがくれて……」
徹も、啓造について歌い出した。
少し行くと、木の橋が水のかれた小川にかかっていた。この道を、この橋の上を、ルリ子は犯人の手にひかれて歩いて行ったのか。そしてそれっきり、再び生きて帰ることができなかったのかと、涙がこぼれて歌がとぎれた。徹は気づかずに一人で歌っている。その幼い歌声をききながら、啓造は涙にほおをぬらしていた。
橋を渡ると小高い堤防があった。
(ルリ子一人ではここを登れまい。犯人に手をひかれたのか、それとも抱かれて登ったのか)
啓造は、ルリ子のことがなまなましく思われてならなかった。
(こんなことなら散歩に来るのではなかった)
そう思いながらも、なぜか足を返すことはできなかった。
堤防一面にチモシーが夕風にゆれ、月見草が黄色い花を開いていた。だらだらと堤防を下りると、また林があった。ドイツトーヒの林である。
ひる来ても、何か不気味な感じのする林であった。陽の沈む前の林の中はかなりうす暗かった。木の間越しに金色の空がひどく遠く見えた。山鳩がひくくないた。
「おばけが出ない? おとうさん」
徹がささやいた。
「大丈夫、おばけなんかどこにもいないんだよ」
そう答えながらも、啓造は何となくあたりを見まわした。何か幽霊でも出そうな感じだった。しかし、今は幽霊でもよいからルリ子が、その辺の松の木の下に立っていてほしいと思った。
まひるま、自分の家の庭にルリ子の幻影を見た夏枝の母性愛には、遠くおよばないと啓造はこの時はじめて思い知らされた。夏枝もまた、ルリ子を愛しているという、当然の事実に啓造は感動した。ルリ子の死以来、夏枝に対して不当に冷たかった自分を啓造はかえりみた。
ルリ子が通った林の中を歩きながら、啓造は素直になっていった。
林をつききると明るく夕焼け空が開けて、美瑛川のほとりに出た。深い流れにそって、小道があった。熊笹が両側から道をおおっている。啓造は徹を背負って、笹をかきわけかきわけて進んで行った。
しばらく行くと浅瀬に出た。下駄をぬぎ、浴衣のすそをからげて中洲に渡った。
「あそこにルリ子ちゃんが死んでいたんだね。おとうさん」
徹は顔をしかめて指をさした。啓造はだまって徹の肩に手をかけると、ルリ子の死んでいた川原のあたりに、ゆっくりと歩いて行った。この道をこけつまろびつ無我夢中で走って行った四十日前のことが思い出された。
二人は、石の多い砂に腰をおろした。
「かーらーす なぜなくの
からすは やーまーに」
そこまで歌うと啓造は、
「徹、この歌を知っているか」
とたずねた。それ以上歌いつづけると、また涙があふれそうになったからであった。
「ううん、知らないよ、ぼく」
そういうと、徹は啓造のそばをはなれて、川に向かって石を投げた。
一人、石を投げる徹の姿が、逆光線の中に影絵のようであった。
夕日にきらきらと輝く川に向かって、徹はあきずに石を投げていた。
啓造は、煙草をくわえてマッチをすった。少し強い川風の中で、いくどかマッチをすっているうちに、啓造は自分の体の中にも風がふきぬけていくような感じがした。
(この川原で、この場所でルリ子は殺されたのだ。おれが、今ここにいるくらいなら、なぜその時、ここにいて助けてやらなかったのか)
思っても仕方のないことを啓造は、くりかえし思っていた。どんな理由があるにしろ、三歳何カ月かのルリ子の命をうばったのは、あまりにもむごすぎる。ここでルリ子が、
「おかあちゃま、おかあちゃま」
と泣いたのかと、啓造はその姿を想像して胸をさかれる思いだった。
「憎い!」
今ほど、佐石が憎いと思ったことはなかった。啓造は歯をかみしめて、その憎しみに耐えた。体がふるえてならなかった。
「おとうさん、おとうさんも石を投げよう」
徹が呼んだ。
「うん、もう少しあとで徹と投げっこをしよう」
「よし、ぼく負けないぞ」
徹が気おって、五つ六つ石をひろった。
今、沈もうとして一瞬、燃え上がるようにゆらめいた太陽が、見るまに山のかげにかくれた。急に川風が寒くなった。その時、啓造はいつかこんな夕べが一度あったような気がした。
(そうだ、あの時だった)
啓造は、いやな顔をした。やはりこの川原だった。啓造が十七か八の夏だった。近所の八つぐらいの女の子を連れて、この川に泳ぎに来たことがあった。
泳ぎ終わって帰ろうとするころ、あたりには、人影がなかった。夕日を背に川柳がくろぐろとしずもっていた。人影のない川原は、妙に啓造の心をそそった。
啓造はつとめて自然に、女の子をひざに抱きかかえると、
「誰にもいっては、いけないよ」
とおどすようにひくくいった。
女の子はおびえた大きな目で、じっと啓造をみつめた。泣きもしなかった。
それ以来、その女の子は、啓造の顔を見ると逃げるようになった。その子が女学校に入ったころ、大学生の啓造と町ですれちがったことがあった。その時の彼女の表情に浮かんだ冷笑を啓造はしばらく忘れることができなかった。その時、啓造はその子が何かの急病で死んでくれればよいと思った。誰にも知られずに殺すことができるものなら、殺したいとさえ思った。
(犯人の佐石とおれと、どれだけのちがいがあるのか)
(佐石は劣情を持たなかっただけ、おれよりまだましな人間かもしれない)
(おれだって、あの時あの子が泣きわめいたら首をしめたかも知れないのだ)
啓造はうなだれた。
(医学博士の辻口啓造も、殺人犯人の佐石土雄も、結局は同じなのだ)
そう思うと、啓造はやりきれなかった。
「辰ちゃんが思っているより、辻口は人物だぜ」
と、いったという高木の言葉を思い出して啓造は恥じた。ほんとうに高木は、啓造なら佐石の子をひきとって育てると思っているのかも知れない。啓造は高木を裏切りたくなかった。誰を裏切っても、高木だけは裏切りたくなかった。
学生時代、高木はある時、啓造の下宿に来て、机の上にひろげた波多野精一の「時と永遠」を見ると、無邪気に感心していったものだ。
「いつもよく、こんなおカタイ本を読んで何がおもしろいのかな。お前は頭もいいし、品行も方正だ。おれは女を見ると頭がカーッとすることがあるが、お前はどうもそんなところが見えないな。人間のうちでも、品がちょいとちがうようだな」
啓造にしても、若い女性は悩ましい存在であることに変わりはなかった。あらわに口に出せないだけに陰にこもって手に負えなかった。彼は高木のような性格がうらやましかった。
津川教授の娘であった夏枝に、高木は執心で、いかにも彼らしく教授に直談判をしたことがあった。その時、教授に、ていよくことわられたが、
「辻口以外の男と結婚するのなら、おれはあきらめない」
といった話は、高木自身の口からも語られて、同期の学生で知らぬものはなかった。そんなこともあって、啓造は夏枝と近づくことになり、多くの競争者に勝つことができたのかも知れなかった。
それだけに、啓造としては高木を裏切りたくはなかった。それは高木への友情でもあり、意地でもあり、センチメンタリズムでもあった。
(ほんとうに犯人の子をひきとってみようか)
何日か前に心をよぎった思いが、再び胸をかすめた。
(わが子を殺した犯人の子を愛するということは、絶対に不可能なことであろうか)
心のどこかで高木の拍手を期待している自分を、啓造はいやしいと思った。しかし一旦そう思いこむと、生真面目な啓造にはどこまでも突っこんで考えてみたい問題に思われてならなかった。
あたりがうす暗くなった。
「おとうさん、早く花火をしようよ」
徹が啓造のひざをゆすった。父と子は肩をよせあって川風をふせぎながら、マッチをすった。何本もマッチをむだにしてやっと火をつけると、線香花火はあるかなきかの細い光の線を散らした。
それはルリ子の短い命を思わせる、かそかな、可憐な光であった。
チョコレート
(村井さんをお見舞いになんか行けやしない)
夏枝は、啓造が散歩に出たあと、仏壇の前でルリ子の写真をながめながらつぶやいた。村井が洞爺に行くことを啓造からきいた時、おかしいほど体がふるえた。それがなぜか自分でもわからなかった。同情でも悲しみでもなかった。
今は、人に同情することよりも、自分が同情されたい夏枝であった。
(あの日、村井さんが訪ねてこなければ、ルリ子は殺されなかったのに)
夏枝はあの時ルリ子を外へ出したのが自分であることを忘れたがっていた。責任を村井に転嫁したかった。村井のせいにすることによって夏枝は、心の負担を軽くしたかった。その身勝手さに夏枝は気づかなかった。
(あの時、村井さんの情にほだされて、心がゆらいだことは悪かったとしても、それは、ルリ子の死という不当なほどの罰で罰せられたではないか)
軽い口づけをほおに受けたぐらいで、こんなつらい目にあうのは不当だと、夏枝は思っていた。
ルリ子を失ってはじめて、夏枝は「無事」ということ、何事もない毎日ということが、どんなに大事なものかを思い知らされた。あの日以来、啓造が優しさを失って、冷たい、ものいいをすることも、夏枝には耐えられないことであった。
(あの日、村井さんがあんなことをいい出したのが悪いんだわ)
夏枝は自分が村井の愛の告白を待ち受けていたことを忘れていた。都合の悪いことはみんな忘れて、すべてを村井のせいにしたかった。
(村井さんだって、少しはつらい目にあった方がいいのだわ)
夏枝は自分だけがつらい目にあっているような気がしてならなかった。そう思うことによって、夏枝は健康をとりもどしているのかも知れなかった。人間の身勝手さは、自衛本能のようなものかも知れなかった。
「こんばんは」
突然背後で男の声がした。驚いてふりかえると、リュックサックを右肩にかけた開きんシャツ姿の高木が立っていた。
「やあ、驚かしてすまなかった」
大きな声であった。
「まあ高木さん、いらっしゃいませ」
「明日から九月だというのに、今日は暑かったですなあ。辻口は?」
高木はドッカとあぐらをかいた。
「徹をつれて散歩に出かけましたの」
「散歩ですか」
高木はそばにおいたリュックのひもをといた。逆さにするとウイスキーや、チョコレート、バターなどがゴッソリと畳の上にひろがった。
「まあ」
チョコレートの山に、思わず夏枝が声をあげた。電灯の下に金銀の紙がキラキラと光っている。
「驚きましたか」
高木が満足そうに笑った。
「ええ……でも、どうしてこんなに……」
「どうしてですかねぇ」
「今時、こんなお珍しいものをたくさん……。わかりませんわ、どうしたのか」
「産婦人科医の悲しき役得ですよ」
「え?」
夏枝が、けげんな顔で高木を見た。
「パンパンがね、アメさんと仲よくなってシュワンゲって(妊娠して)やってくるというわけですよ」
夏枝も門前の小僧で、シュワンゲルシャフト(妊娠)という言葉を知っていた。
「はってでも逃げられるものならまだしもね。腹の中に入っていて、逃げもかくれもできないものを殺すんだ。月のたった中絶児は膿盆にのっかってフガフガとつぶやくように泣いてますわ。何の罪もないものをね。立派な殺人ですよ」
そういってから、気がついたように高木は口をつぐんだ。
「まあ」
夏枝の大きく見ひらいた目が、みるみる涙でいっぱいになった。
「悪かった。どうもおれは無神経でいかん」
高木が困ったようにそういってから、
「夏枝さん、お茶を一ぱい下さい。いや、水でもいい」
と、チョコレートの銀がみをむしりとるようにして口に入れた。
夏枝がお盆の上にコップをのせてきた。
「むごいことですわねえ」
夏枝はもう涙ぐんではいなかった。
「やめましょう、その話は。こんな罪なことをしなくても生きて行けるものをと、時々思うことがありますがね。そのうちにこんなことにも馴れて、へとも思わなくなるんじゃないかと思うと、つくづくさびしくなることもありますよ」
高木にしてはしんみりとしたもののいい方であった。
「あの、高木さん、おねがいがありますの」
「おれに?」
高木は夏枝の急に思いつめたような目に、がらにもなくドギマギしていった。
「ええ、きいて下さる?」
「さあ、話をきかないとね」
「わたくし赤ちゃんがほしいんですの」
「ナーンだ。赤ん坊の相談ならダンナにするんですな」
「いやですわ」
夏枝がほおを赤らめて言葉をついだ。
「女の赤ちゃんをもらいたいんですの」
「もらう? なぜ」
「わたくしさびしくって。ルリ子だと思って女の子を育てたいんですの」
「おやめなさい。ルリ子ちゃんだと思って育てても、ルリ子ちゃんじゃない」
高木の声がきびしくなった。
「赤ん坊がほしければ産めばいいんですよ」
高木はそっけなくいった。
「でも……産めませんの、わたくし」
夏枝はうつむいた。
「…………」
「避妊手術をしたものですから」
高木はふとい眉毛をビクリとあげたが、何か考えるように、くらくなった庭に視線を投げていた。
「ね、ですから、あなたの嘱託をなさっていらっしゃる乳児院から、女の赤ちゃんをお世話いただきたいと思いますの」
「腹をいためた子ならともかく、もらってまで育てることはないですよ。苦労なもんだ」
「わかりますわ。でも、わたくしさびしくて気がへんになりそうですの」
「そりゃさびしいことはわかるけれどね。さびしいなんてことは、月日がたてばうすれますわ。しかしもらった子は月日がたてば大きくなる。よく育てばいいが、まあ、よく育ったところで苦労なもんだ」
「高木さんは経験者のようなことをおっしゃいますのね」
「チョンガーでも、赤ん坊の数だけは多く見てますさ」
「それはそうでしょうけれど。でも、高木さんどうして結婚なさいませんの」
「夏枝さんに振られたからさ」
「また、そんなことをおっしゃる。そんな昔のこと」
「チョンガーでいる理由はね、手相が独身の相だから仕方がない」
高木は愉快そうに笑った。
「高木さんは、昔と同じですのね。冗談ばかりおっしゃって」
「そうだ、夏枝さんの手相を見てやろう」
高木は、手をのばして夏枝の手をとった。
(これが村井さんだったら、こう無造作にはいかない)
夏枝は、高木には何の警戒心もおこらなかった。
「えーと、この線が美人の相だ」
高木はまじめな顔でいった。
「いやですわ」
「まあまあ、待ちなさい。この線が結婚線だ。辻口とは別れた方がいいと出ている」
高木はチラリと夏枝を見て笑った。
「この線は、もらい子する線だ」
「あら、ほんとうですの」
「うん、極めつきのメンコイ女の子がもらえる。オヤ、この線があるところを見ると案外夏枝さんも浮気だな」
そういって高木は手を放した。
「浮気の相手は、病気になったかな」
「え?」
夏枝は思わず高木を見た。
「村井は女たらしだが、あんたにだけは本気だったようだな。今日村井を見舞ってきましたよ」
村井は高木の遠縁だった。
「いろんな男の思いのかかったフラウ(妻)をもって、辻口もラクじゃなかろうな」
「やあ、来てたのか」
啓造は、出かけた時とは反対に、きげんのよい声で部屋に入ってきた。徹が啓造の背中にねむっていた。夏枝は徹をそっとだきとると、
「こんなに、いただきましたの」
と、仏壇の前のチョコレートの山を啓造に示した。
「こんなにたくさんどうしたの?」
「それからウイスキーや、バターもいただきましたのよ」
「それはどうも」
啓造はかるく頭を下げた。
「いや、ウイスキーは今夜のむよ。辻口一人にやるのはもったいない。ジョニーウォーカーだからね。夏枝さんはおやすみなさい。おれは美人がきらいなんだ。美人の顔を見てのむと悪酔いがする」
高木は勝手なことをいった。
「あなた、高木さんに赤ちゃんのことおねがいしましたの」
啓造はやさしく肯いてから、
「困ってるんだ」
と高木を見た。が、すぐ夏枝の方を向いて、
「あとは次ちゃんにしてもらうから、君失礼してねるといいよ」
「でも……」
「いや、まだしばらく早ねをしなければいけない。もうすぐ九時になる」
「では赤ちゃんのことおねがいしてくださいね」
夏枝が二階に去ると、次子のゆでてきたトウキビをさかなに、高木と啓造はウイスキーをのみはじめた。
「うまいか、君んちのトウキビ?」
「ああ、次子が農家育ちなもんだからね、トウキビでも、いもでもうまく作るんだ」
「それは調法だ」
高木は、熱いトウキビにバターをぬって一口ほおばると、
「うまい!」
と叫んだ。
「それが昔から好きだったな、君は」
啓造はトウキビの粒を器用に指でほぐしながらいった。
「お前ときたら、昔からガブリッとくらいつくうまさを知らねえ。相変わらずホツリホツリとくってやがる」
しずかだった。虫の音が聞こえている。高木が来たのは葬式以来はじめてだった。
「元気か?」
「え?」
「お前は元気か?」
「まあね」
「村井がテーベだってな。迷惑かけたな」
「いや、こちらこそ。病気になるほど酷使したようで気がとがめている」
「ナーニ、体をこわしたとしたら、あいつは女遊びでこわしたんだ」
「遊ぶ? 村井が」
「だろうな。マージャンはやるし」
「仕事はよくやってくれたよ」
「いなくなった方がいいよ。お前のためにも」
「どうして? 病院は困るよ」
「村井も悪い男じゃないんだ、アレで。しかし女ぐせが悪い」
高木はウイスキーを流しこむように、グイとのんだ。
「さすがにジョニーウォーカーだね。どこで手に入れたの」
「役得さ。パンパンのあねごがくれたんだ。さっき夏枝さんに、うっかりアウスロイムング(人工流産)のことを話してしまってね。泣かれたよ」
「刺激的なことには、まだ弱いんだよ」
「赤ん坊がほしいというから、その相談ならダンナにしたらいいといってやった。おれの子でもほしいというのなら、話は別だが」
高木はつらっとした顔でいった。
「どうしたものかなあ」
「辻口はどうなんだ?」
「女の子なんか、見たくもないね」
「だろうさ。女の子をもらいたいなんて、夏枝さんも一体どういうつもりなのかな」
「女っていうのは、わからんねえ」
「女といっても、お前のフラウじゃないか」
「夫婦なんて、ますますわからんもんだよ。長年住みなれたわが家に、まだ自分の知らない部屋があったような、そんな不気味なわからなさがあるよ。夏枝は、ルリ子と同じ年ごろの子をだいたりしてね、わからんな」
「女はウテルス(子宮)で考えるか。もっとも男だって、頭で考えてるか、どこで考えてるかわかりはしないがね」
高木はそういってから、大きな目をギョロリとさせて、
「赤ん坊なんか、もらうのはやめれよ」
といった。
「…………」
啓造は何か考えこむように、持っていたグラスをおいた。
「どうした? いやに深刻な顔になったじゃないか」
「いや、ちょっと考えたことがあるんでね」
「何だ?」
啓造は少しためらったが、思いきったように顔をあげて、
「君の関係している乳児院に、犯人の子がいるそうだね」
「…………」
高木は、何をいうかというように、啓造の顔をみかえした。
「辰ちゃんから聞いたよ」
「……ああ、辰ちゃんか。あの人はおっかないよ。すっかりしかられちゃった。おれがね、辻口のやつ、学生時代は、汝の敵を愛せよ≠ネんて、お題目をとなえていたが、まさか犯人の子は引きとるめえ、といったんだ。そしたらそれが親友にいう言葉なの≠チてさ」
その時、二階で物音がした。
「聞こえたかな?」
高木は首をすくめて、二階を指さした。
「夏枝には聞こえないだろう。夏枝は今夜、ほら、君もとまった学生時代のわたしの部屋なんだ」
「ああ、玄関の上の部屋か。あの部屋なら大声で呼ばれても聞こえなかったな」
「大丈夫だ。次子の部屋も離れだしね」
「しかし、犯人のことなどは低い声で話せよ。刺激しては、いかんからな」
磊落そうにみえて、時に高木は啓造より心をつかうところもあった。
「うん。……」
「何だ? まだ考えているのか」
「ああ」
「まさか、犯人の子を引きとるなんてことじゃないだろうな」
「いや、そのことなんだ」
「おい、おい、よせよ、冗談じゃないぜ」
「……本気だよ」
「…………」
あきれた、というように、高木はまじまじと啓造の顔をみかえした。
「あきれたかね。おれもはじめは、そんなことを思っただけでもザワザワしたよ。さっきもルリ子の殺された川原まで行ったんだ。ルリ子が死んではじめて行ったんだがね。体がふるえるほど犯人が憎かった。何ともいえず憎かったよ」
「そりゃ、そうだろう。そんな憎いやつの子を引きとるなんて、おかしな話だぜ」
「そうだ。おかしな話だよ。だがね、憎いからこそ考えたんだ。考えてみると、憎むということもばかな話じゃないのかな。わが子が殺された悲しみの上に、おまけに、やりどころのない憎しみを持って一生くらすなんてね。おれの一生は、もうそんな辛い生き方しかできないのだろうかと、そう考えたんだよ。他に生き方があるとしたら、犯人を憎まないことだよ。憎まないためにはどうするか、愛するしか、ないんじゃないかと思ったわけだよ」
「あきれたやつだな。お前のようなクソ真面目な男には、うっかりした口もきけん」
高木は力いっぱい、グイッとアゴの無精ひげを一本ぬいた。
「やめれ、やめれ。犯人の子を引きとるなんて。ばかも休み休みいえ」
高木はあぐらのひざを、バタつかせた。
「そうかね」
「そうかねもクソもあるもんか。どこの世界に自分の子を殺されて、その犯人の子を育てるバカがある? それともお前、腹いせにその子をいじめぬいてやろう、とでもいうのかね」
「冗談じゃない。ちゃんと育てるよ」
「今はお前も、夏枝さんも気がどうてんしてるんだ。あんな事件のあとだからな。まともな考えを持てやしないんだ。第一さっき女の子なんかみたくもないといった、その舌の根もかわかんうちに、そんな子を引きとるなんていい出すのも、おれには納得がいかんな。それにお前、肝心の夏枝さんが、こんな話を承知すると思うのかね。どうやって話をきりだすつもりなのかね」
(そうだ。夏枝はいたわらなければ……)
と啓造は思案顔になった。
雨のあと
重くたれこめた雲が林の上にあった。
「降ってくるのかしら」
外出から帰った夏枝は、門を入ろうとして空を仰いだ。
クリーム色と明るいグリーンの縞のセルに、錆朱の帯をしめた夏枝の立ち姿が、曇り空の下にきわだってはなやかに見えた。
勝手口をあけると、うすいセーターを着た次子が、お茶の用意をしているところだった。
「あ、おかえんなさい」
「お客さま?」
「はい、村井先生です」
「村井先生?」
夏枝はかすかに眉をよせたが、
「次ちゃん、お茶をさしあげて。今参りますから」
「はい」
村井が洞爺の療養所に行くときいてから半月たっていた。しかし夏枝はまだ村井を見舞ってはいなかった。
次子が、お盆を下げて台所にもどってきた。
「徹ちゃんは?」
夏枝は、自分の子どもでも、めったに呼びすてにすることがなかった。やさしくおだやかな口調が、夏枝の美しさを奥行きのあるものに見せていた。
「坂部さんのおうちで、紙しばいを見るとかって。おむかえに行ってきましょうか」
次子が窓ごしに空を見上げていった。
「そうねえ」
坂部の家までは三百メートルほどである。
「今にも降り出しそうですよ、奥さん」
「そうねえ」
夏枝は、村井と二人になることをためらった。
「すぐ行って参りますから」
「では早く帰っていらっしゃいよ」
傘を持って次子が出て行くと、夏枝は茶の間のソファに腰をおろした。村井のいる応接室に入って行くのが何となくおっくうであった。ルリ子の殺された日、村井のくちづけをほおに受けたことを夏枝は後ろめたく思い浮かべていた。
今もまた、次子も徹もいないということが夏枝を不安にさせた。次子たちが帰ってくるまで、村井を待たせておこうかと思った。
風が出てきた。ガラス戸がガタガタと音を立てはじめた。
(でもすぐに、次子も徹も帰ってくる)
村井を待たせたまま、茶の間のソファにすわっているのも落ちつかなかった。
夏枝は鏡をのぞいた。緊張しているせいか、いつもより幾分青ざめた肌が、かえって夏枝の顔を彫りの深いものに見せている。不安そうに見ひらいた目が、夏枝自身にも美しく思われた。立ち上がると、ちょっと後ろ帯を鏡にうつして、夏枝は思い切ったように廊下に出た。
啓造の帰る時間がせまっていた。土曜日だった。
村井に会うのはルリ子の葬式以来であった。二カ月ちかくたっていた。応接室のドアの前に立って、夏枝は呼吸をととのえた。
しずかにドアをあけると、そこには、いるはずの村井の姿がなかった。帰ってしまったのかと思った。しかしそこには次子が運んだお茶もなかった。
(次ちゃんたら、客間にお通ししたのだわ)
親しい客しか通さない和室に、村井を通したことに夏枝の胸はさわいだ。よほど茶の間にもどろうかと思った。その時、客間で村井の咳ばらいがした。
思いなおして客間のふすまをあけると、黒檀のテーブルを前に村井は端然とすわっていた。
「おるすに上がりまして失礼いたしました」
村井は、しずかに座蒲団をはずしてあいさつをした。とりすました声であった。
「いいえ、こちらこそお待たせいたしまして」
初対面のような村井の作法に、夏枝は戸惑いを感じながらも安心をした。
「おわるいと伺いながら、お見舞いにも上がりませんで……」
村井はさして痩せたようにも見えなかった。
「お見舞いをいただくほどでもありませんが、わがままして、休ませていただくことにしました」
よそよそしい表情で、村井は言葉をくずさなかった。夏枝は、見舞わなかった自分の薄情を責められているような気がした。
「さ、どうぞおらくになさいませ」
「はあ、失礼いたします」
村井は夏枝に何の関心もない、路傍の人のような面もちでいった。
(もう、この人は私を何とも思っていないのだろうか)
とりつくしまもないような、村井の冷たい表情が夏枝にはやはりさびしかった。事件以来むしろうとましくなっていたはずの村井だった。今さっきまで、会うのもおっくうな村井であった。
夏枝は、人に冷たくあしらわれたことが、ほとんどなかった。誰もが、夏枝の歓心を買おうとして愛想がよかった。村井もかつてはその一人であった。今もまだ、そうあるべきであった。村井の変わりように、夏枝は次第に平静を失っていった。もっともひどい侮辱を受けたようにも思われた。
縁側のガラス戸越しに、木の枝が風に大きく揺れていた。
「いよいよ、明日洞爺にたつことにしたものですから、ごあいさつに伺いました」
村井は、庭に視線を投げかけたまま、切り口上にいった。
「まあ、明日ですの」
夏枝は、自分の声音に媚を感じた。村井の冷たさは、見舞わなかった夏枝への怒りだけなのかどうかを知りたかった。
突然、トタン屋根にパラパラと小石が当たったような音がしたかと思うと、ザアッと音をたてて雨が降ってきた。
太い雨あしが地につきささったかと思うと、たちまち地をえぐって銀色にしぶいた。
縁側のガラス戸を洗い流すような、すさまじい雨であった。ガラス戸が激しくガタガタと風に鳴った。
「ひどい雨ですわね」
夏枝の声がトタン屋根をたたきつける雨の音にかきけされた。
こんなひどい雨では徹は帰ることができないのではないか。啓造もどこかで、この雨にあったのではないかと、夏枝は気が気でなかった。
庭はたちまち池のようになった。
夏枝は、村井のいることも忘れて、すさまじい雨に気をとられていた。不覚だった。肩におかれた手をおどろいて振り払おうとしたとき、耳もとで村井がいった。
「許してください。一生の別れかもしれません」
「いいえ、はなしてください」
風が狂ったようにガラス戸をゆすぶった。
「はなしません」
村井の目が必死だった。
「おねがいです。はなして」
夏枝は次子を外に出したことを悔いた。
「死んでも、はなしませんよ」
哀願する夏枝を、村井は吸いこむように、じっとみつめた。
「ルリ子が死んだ日のことを……」
そこまでいって夏枝の目には、みるみる涙があふれた。
「思い出せというんですか」
村井は表情を変えなかった。
「ルリ子が死んだというのに……」
どうしてこんなことをするのかと、夏枝はいいたかった。
「ルリ子ちゃんを殺したのは、ぼくたちじゃない」
夏枝を抱く手に力がはいった。
「あ、はなして、はなして」
夏枝はふりほどこうとして、もがいた。
「静かにしてください。決して悪いことはしませんから」
「では、はなして。辻口が帰って参ります」
「かまいません。院長なんか。ぼくは見納めに、こうして間近にあなたを見ていたいんだ」
「見納めに?」
ふいに村井の目からキラリと涙がこぼれおちた。光った小石が落ちたような印象であった。それが涙だと知った時、夏枝は村井の手をふりほどこうとすることをやめた。
雨音がいっそう激しくなった。
「夏枝さん、あなたは冷たく優しい人だった」
いつのまにか夏枝もまた、村井の背に手をかけていた。
「夏枝さん!」
村井は、夏枝の白いうなじに強く唇をおし当てた。
「ひどい雨だったね。道が川のようになったところもあるらしいね」
めずらしく夜おそくなって帰宅した啓造は、寝巻に着かえながらいった。
「あの、今日村井先生がお見えになりましたわ、ごあいさつに」
夏枝は、村井のキラリとこぼれおちた涙を思い出していた。なにか「村井」の名を口にせずにはいられないような思いが溢れていた。夏枝のさらりとした口調に、啓造も素直にいった。
「明日たつといっていたろう?」
「ええ、明日ですってね」
ルリ子が殺されてからは、村井の顔を見るのも、うとましいと思っていた夏枝だった。
しかし「ぼくは結核患者だから」と、唇を求めずに、首にくちづけしたまま帰って行った村井を思うと、自分を愛してくれる真情にうたれずにはいられなかった。
「今日は、あなたの顔だけ見たら帰るつもりだったんです。だから、つとめて他人行儀にしていたんです。しかし雨の激しさが、ぼくの決心を狂わせてしまったのです」
村井はそういって帰って行った。激しい雨にあおられたようなひとときを、夏枝はいくどか思いかえしていた。
「赤ん坊をいつもらってこようかね」
先に床に入った啓造が、やさしくいった。
「まあ、もらってくださるの?」
啓造の脱いだ服をハンガーにかけながら、夏枝がいった。
「うん、いろいろ考えてみたが、君が喜ぶことならもらってもいいと思うようになった。だが、気が変わってやめにしたのかね。このところ、ちっとも赤ん坊の話はしなくなったようだね」
「いいえ、わたし一度思ったら、なかなかあきらめませんわ」
夏枝は、啓造に背を見せて帯をときはじめた。
「一度思ったことを、なかなか忘れなかったり、あきらめなかったりするところは、どうも似たもの夫婦だね」
「ええ、辰子さんもそうおっしゃるの。でも夫婦はあまり似ない方がいいんですって」
と、顔だけ啓造の方を見て、
「高木さん、どんな赤ちゃんをお世話してくださるのかしら。楽しみですわ」
「うん、まず見に行ってくるよ」
啓造は、腹ばいのまま、床の中から夏枝の着更える姿をながめていた。夏枝は着物の上に寝巻をふわりとかけておいて、するりと着物をぬぐと、すばやく寝巻のひもをしめた。その時、うつむいたうなじに啓造の目がとまった。
そこには紫のあざが二つ、くっきりとついているではないか。それが何であるかを啓造は知った。
村井が訪ねてきて、妻の夏枝と過ごした時間を啓造は想像した。
「何だ、そのあざは!」とどなりつけたい思いを啓造はじっとこらえた。怒ったら何をするかわからない危険を、啓造は感じていた。いま、大声で夏枝をどなりつけると、その自分の怒声がさらに自分の中の怒りの連鎖反応をよびおこしそうで恐ろしかった。
啓造は時々、キリやハサミやメスを見ただけで、何の理由もなく、発作的に自分がそれらを凶器にしてしまうのではないかと恐れることがあった。
だから、ふだんでもそれらの尖ったもの、光ったものは、机の中にしまって、目にふれるところにはおかなかった。
「ねえ、高木さんのところに行ってくださるの」
啓造は答えなかった。じっと目をつぶっていた。
「まあ、もうおやすみになったのかしら」
つぶやくようにいって、夏枝は自分のふとんの中にはいった。
(せっかく、村井とのことも水に流して、仲よく暮らそうと思っていたのに……)
啓造は、ますます夏枝がわからなくなった。あの日ルリ子が殺されたことに責任を感じているのなら、首にキスマークをつけられるようなことは、決してしないはずではないか。
(夏枝、それでもお前はルリ子の母親なのか)
啓造は、そうどなりたかった。ズタズタに引きさかれた胸から、本当に血がしたたり落ちるのではないかと思われるほど、啓造は耐えがたく苦しかった。
夏枝が灯を消した。やみの中で啓造は、夏枝の方をにらみつけていた。さっき見た紫色のあざが目にうかんだ。夏枝と村井のさまざまな姿態がほしいままに想像された。その想像の中に見る妻の姿は淫らだった。
深い絶望が啓造をおそった。
ルリ子は殺され、夏枝は姦淫をした。
(いったい、何のためにアクセクとおれは働いているのだろう)
ふいに何もかもが、無意味に思われた。日頃誇りに思っていた医師としての仕事もむなしいものに思われた。新しい患者が来る、尿や血液の検査、診断、処方、処置、やがて幾日かたって患者が治る。しかし治しても治しても、新しい患者は絶えないのだ。サイの河原に石を積むようなむなしさがあった。患者の命を救っているという誇りを、今夜の啓造は持てなかった。ただ同じことを繰り返しているようなむなしさがあった。妻の夏枝の背信が、啓造の生きる希望の光をうばったのだ。
光を失って、ながめるすべては暗黒であった。
「夏枝を殺して、共に死のうか」
冷たく横たわっている夏枝と自分の死骸を啓造は想像した。
今の啓造には、夏枝を殺すことはできるかもしれない。しかし徹を殺すことはできなかった。といって徹一人を残して死ぬことは、なおのことできないことであった。
沢山の病人をかかえた病院の院長である啓造が、いま突然、自殺することはできなかった。生きる責任、生きつづける責任が、多かれ少なかれ、社会人として啓造にも負わされていた。
(夏枝! お前は何ということを、してくれたのだ)
紫のあざをつけたまま、いま、となりに眠っている夏枝を、啓造はどのようにしていいかわからなかった。
(赤ん坊など、もらってやるものか!)
啓造は、夏枝の喜ぶことなら、その望む子をもらってでも、ふたたび平和な家庭をきずきあげたいと思っていた。しかしいまは、夏枝の喜びそうなことは、もはや何ひとつしたくはなかった。
「犯人の子など引きとるなんて、ばかげたことはやめれ。第一そんなこと夏枝さんに、どうやってきりだすのだ」
といった高木の言葉がよみがえった。
(そうだ! それを夏枝にいきなりきりだしてみよう。犯人の子ときいただけで、夏枝は怒り狂うかもしれない)
しかし今すぐ狂われたのでは、啓造の生活が脅かされる。
(そうだ! 相談せずに引きとるのだ。夏枝は何も知らずに、かわいがることだろう。秘密は絶対に守らねばならない。何も知らずに育てた子が、いつの日か犯人の子と知った時、夏枝は一体どうなるだろう。かわいがって育てただけに、うちのめされることだろう。愛して育てあげた子が、ルリ子殺しの犯人の子と知ったとき、夏枝は自分の過去の何十年間かを、どんなに口惜しがることだろう。しかしそれでもいいではないか。犯人の子はかわいがられて育つのだ。汝の敵を愛せよ≠ニいうわたしの試みは、とにかくなされるのだ。仇の子と知って育てる自分の方が、何も知らない夏枝より苦しいかもしれない。しかし、肉を切らせて骨を断つのだ。真相を知った時、夏枝がじだんだふんで口惜しがっても、すべては後の祭りになる日が来るのだ)
啓造は、その時の夏枝のおどろきかなしみ、口惜しがる様子を想像した。
啓造はいま、自分の心の底に暗い洞窟がぽっかりと口をあけているような恐ろしさを感じた。最愛であるべき妻にむかって、一体自分はなんということをしようとしているのか。この恐ろしい思いは、自分の心の底に口をあけたまっくらな洞窟からわいてくるように思われた。
(心の底などといって、底のあるうちはまだいいのだ。底知れないこの穴の中から、自分でも想像もしなかった、もっともっと恐ろしいささやきが聞こえてくるのではなかろうか)
そしてこの底知れぬ暗い穴は、自分にも、夏枝にも誰の胸にもあることを思わないわけにはいかなかった。
啓造は、昨夜の決心がぐらつかぬうちに、ことを運ばなければならぬと思った。
朝食のあと啓造は夏枝にいった。
「今日は高木のところへ行ってくるよ。日曜日だからね」
「まあ!」
うれしいというように、夏枝は自分自身のほおをもろ手ではさんだ。そんな子供っぽいしぐさは夏枝には珍しかった。啓造の目にも、夏枝が新鮮に初々しく思われた。しかし、村井との恋が、夏枝に弾むようなしぐさをとらせているように、啓造には思われた。
「わたくしもごいっしょしてはいけません?」
「相談がまとまったら電話をするよ。適当な子がいないかもしれないからね」
夏枝の白いうなじに残るむらさきのあざを、啓造は今朝もみた。
(おれは患者以外の女の手は一度だって握ったこともない。働きもあり、やさしくもあったおれを、なぜ夏枝はうらぎったのだろう)
新婚時代にうっかりキスマークをつけてから、啓造は用心ぶかくなっていた。のどや、うなじに軽く唇をふれるだけだったが、夏枝は快さそうに目をつむった。その表情を村井にも、みせたのかと思うと、今朝も啓造の胸はたぎっていた。夏枝は自分のあざに全く気づいていないようであった。
「おむつでも、何でもルリ子のものがありますの。ですからお電話くださったら、いつでも飛んでまいりますわ。なるべく利口そうな、かわいい赤ちゃんをおねがいいたしますわ」
夏枝の形のいい唇を啓造はみていた。それは裏切った唇であった。その唇は村井のどこに触れたのかと、想像するだけでも苦しかった。
「ああ、飛びきり上等の、血筋のよさそうな子をもらってやるよ」
啓造は機嫌よさそうに答えた。
(そうだ。今日は村井がたつ日だった)
気づくと、さりげない調子で啓造は、
「村井を札幌まで送ってやるよ。君も駅まで送ってくれるだろうね」
夏枝がすっと目をふせた。
「どうしたらいいでしょう、わたくし」
「送るのが当然だろう」
伏目になっている夏枝の心の中を思っただけで、啓造の体はふるえるようだった。
「ええ……でも……」
にえきらない返事だった。夏枝は台ぶきんで食卓のひとっところをキュッキュッと拭きながら、何か考えていた。
「送ることだね」
幾分きめつけるように啓造がいうと、夏枝は顔をあげて首をふった。
「いやですわ」
「なぜだね」
「……だって、わたしが精神病院に入院していたこと、病院のみなさんはご存知なんですもの。なんだか恥ずかしくて……」
啓造は、夏枝の巧みな口実に無言で食卓の前をはなれた。
回転椅子
村井は昨夜また喀血をしたとかいうことで、洞爺への出発が延期された。
(ほんとうに喀血したのかどうか)
啓造は、村井が旭川にいる口実だろうと不愉快だった。
一人札幌に出た啓造は、駅から高木に電話をかけた。高木は病院に出て留守だった。病院に電話をすると、
「おう、辻口か、どうした」
相変わらず明るい声に、啓造も心がなごむような気がした。
「ちょっと会いたいんだよ」
「会いたいなどとおれに電話をくれるのは、どうも野郎ばかりだ。ついでにト《*》テシャンのメッチェン(娘)でもつれてこいよ」
「ああ」
啓造は不器用に返事につまった。そのようすに高木は受話器のこわれそうな大声で笑って、
「用事か」
「うん、まあね」
赤ん坊のことだとは、電話ではいえなかった。
「何の用だ……。まあ病院まで来いよ。日曜だというのに午後は手術だ。忙しいからな」
受話器をおくと、啓造は五番館の前から電車に乗った。アカシヤの並木の美しい札幌は、いつみても啓造の心をなぐさめた。
(学生時代、この通りを夏枝と歩いたものだったが……)
学生の啓造が、おさげ髪の夏枝と歩くと、行き交う人々は夏枝の美しさにふりかえった。啓造は人目をひく夏枝と歩いているだけで、誇らしく、自分のようなしあわせ者はいないように思われた。
(その夏枝に、おれは裏切られたのだ)
高木の声と、並木のみどりになごんだ啓造の思いは、再び暗くなっていった。美しい夏枝を得て、しあわせに思っていた自分がひどく愚かしく思えた。
(佐石の子を育てるといったら、高木は、何というだろう。この間の様子では恐らく絶対に反対するだろうな)
望みうすいような気がした。しかし何とか説得できるような感じもした。
(汝の敵を愛せよ、には結局は反対できないだろう)
(といっても、高木はそんな言葉を別だん大事にしているわけではないのだ)
啓造は、夏枝もまた、犯人と同じように許され、愛されなければならないことを忘れていた。自分を裏切った妻は、啓造にとって敵以上の存在だった。
村井に対しても腹は立った。しかし村井は、はじめから啓造が愛し信じた相手ではない。だが夏枝はちがった。きまじめな啓造にとって夏枝は、何ものにも代えがたい最愛の妻であった。その妻の背信は、村井や犯人に対する憎しみより強く、かつ複雑だった。
裏切った妻は敵よりも残忍な存在だった。それは生きる力を根こそぎ枯らし、無力にするものであった。それにくらべると犯人や村井は、まだ自分の心の中を食いあらすほどの相手ではないともいえた。
「出張か?」
ドアがはずれるかと思うほどの勢いで、高木が応接室に入ってきた。
丸いテーブルをはさんで、回転椅子が二つあるだけの小部屋である。
白衣を着ると、高木も医者に見えないことはなかった。学生時代の友人たちが高木の品定めをしたことがある。
「どうみても高木は医者って柄じゃないよ。昔ならさしずめ幡随院の長兵衛というところだね」
「いや、知性があるからなアレで。親分肌の映画監督というのはどうだい」
「なアに、アイツは熊だよ。ドイツ語の達者な、浪花節のうまい熊だ」
啓造と高木とは、ふしぎにウマが合った。高木になら何をいわれても、心の底に通い合う温かいものを啓造は感じていた。
「九月になると、何だかつんのめるように日がたつって感じだな」
煙草の煙をくゆらせながら、高木は目を細めた。
「うん、すぐ十月だね。また雪がふるよ」
「本当だ。今年はストーブを買いかえなきゃならん。ストーブはなにがいいかなあ」
「さあ。君のムッター(母親)が知ってるよ」
「うちのお袋はわからんよ。お前もストーブなんか知らんな。子供の時からペチカだからな。寒さ知らずだ。こちとら貧乏人はそうはいかん」
高木はなかなか「何の用だ」とたずねる気配はなかった。啓造はいっそのこと、このまま何もいわずに帰ろうかと思った。来る道々よく考えてみると、ルリ子を殺した犯人の娘と、同じ屋根の下に暮らすだけでも至難なことに思われた。一日や二日ではない。少なくとも今後二十年は、父として子として一つ屋根の下に生きて行かねばならないのだ。その現実に啓造は耐えられないような気がしてきた。
(いま、右をえらぶか、左をえらぶかで、自分の一生は全く変わってしまうのだ)
そう思うと啓造はにわかにおじ気がついた。
「村井はもう洞爺に行ったのか」
村井という名が、今ほど痛く啓造の胸につきささったことはなかった。
「実は今日発つはずだったがね。ヘモったとかいって延期になったようだよ」
「ほう、それは困ったな」
高木は思案するように、太い眉を八の字によせた。
(何が困るものか。困っているのはこっちの方だ)
啓造は、夏枝の首のあざを思い出した。
(夏枝は気づかなくても、村井はあざになったことを知っていたはずだ)
(なぜ村井は夏枝に知らせなかったのか)
(あざによって引きおこされるおれたち夫婦の葛藤を見たかったのか)
そう思うと、啓造は村井に真正面から挑戦されたようで不快だった。
「何か用事だったのか?」
屈託げな啓造を見て、高木が首筋をボリボリとかきながらたずねた。
「ああ」
まだためらう心があった。
「赤ん坊をもらってくれと、夏枝さんにゴロつかれたんだろう」
高木がニヤニヤした。啓造がうなずくと、
「夏枝さんって案外強情なところがあるんだな。昔はおさげ髪でよ、真っ白なつきたての餅のようなホッペタをしてな、メンコイ女学生だったよ。おとなしそうに見えたな。はじめこの人でも口をきくことがあるのかと思ったもんだ」
高木は昔をなつかしむ口調になった。
「もののいい方の優しい女だがね」
「いやいや、もののいい方だって気性だって、他の女とくらべものにならんぐらい、夏枝さんは優しいよ。子供がほしいなんてゴロつくのも、まあいってみれば優しいからなんだ」
「そう思うかね」
高木が夏枝に対して甘いのが、啓造にははがゆかった。
「夏枝は村井と通じているらしいんだ」
といったら高木はどんな顔をするだろう。
「そう思うかねって、優しくないようないい方じゃないか」
高木は不満そうにいった。
「いや、優しいよ」
(誰にでも、優しいよ。特に村井にはね)
高木は大体において、人を買いかぶるくせがあった。単純に人を信ずるところがあった。
「夏枝さんも一緒に赤ん坊を見に行くといいんだがね。一応二人で下見に行こうか」
札幌まで出てきた啓造を見て、今日は高木も子供をもらうことについては反対をしなかった。
「いや、子供は見なくてもいいよ」
「見なくてもいいって?」
と一瞬いぶかしげに啓造を見たが、
「おれにまかせるというわけか。飛びきりメンコイのがいるぜ」
高木がうれしそうに目を輝かせた。
「いや、例のね。佐石の子がほしいんだよ」
思いきっていってしまうと、啓造の心は落ちついた。啓造の目に、むらさきのキスマークがはっきりと焼きついていた。
「佐石の子? あの犯人の子だな。お前まだそんな寝言をいっているのか。それならおれはごめんだぜ」
高木は回転椅子をくるりとまわして横を向いた。
「なぜだね」
啓造の声はしずかだった。
「なぜだねもくそもない!」
高木は再び椅子を啓造の方に向けると、両足をテーブルの上にのせて、腕をくんだ。射るような高木の視線を、啓造はたじろがずに受けとめた。
「一体その子を引きとってどうするつもりなんだ? たとえ人殺しの子供であろうと、その子には何の罪もないんだぜ。生きる権利は立派にもっているんだぜ」
「そうだよ。だからわたしは育てたいんだ」
啓造は微笑した。
「どうもおれには、お前の了見がわかるようでわからんな。とにかくいっておくがね。おれはお前のように、大学から声がかかってくるような秀才じゃないが、心意気だけはあるんだぜ。殺人犯の子であろうと華族の子であろうと、あずかった以上おれが赤ん坊の命を守らんで、だれが守るという、心意気みたいなものだけはあるんだ。世の中にだれが好きこのんで、自分の娘を殺した奴の赤ん坊を育てるものがあるもんか。おれはお前がその子に何をやらかすのかと、心配でならねえな」
「そりゃそうだろうね。こんなことを考えるバカは、おそらくこの世にいないだろうからね。しかし、そんなバカが一人ぐらい今の世にいても、いいんじゃないのかな」
啓造は本当に自分が、そのバカになれるような気がしてきた。夏枝を苦しめるためにだけ、引きとろうとしているのではないように思われた。
「チェッ! いやな野郎だな」
高木は口でそういいながら、幾分感心したように啓造をみた。
「そうだ。いやな、きざな人間だろうね、君からみると。津川先生のような人格者でさえ敵を愛することは、むずかしいといわれたのだからね。わたしにはできそうもないことかもしれない。しかしね、この前にもいったが、犯人を一生憎んで暮らすか、汝の敵を愛せよという言葉を生涯の課題としてとりくんで生きて行くか、この二つしか今は生きようがなくなったんだよ。憎んで生きて行くのはみじめだからね。わたしはその子を愛して生きて行きたいのだ」
「…………」
高木は腕組みをしたまま、だまって天井をにらむように仰いでいた。
「こんな必死な気持ちは、自分の娘が殺されてみなければ、わからないことだろうがね」
「汝の敵をか……。そういえばお前、教会に行ってたことがあったな。お前はアーメンか?」
「いや、信者ではないがね。宣教師に英語をならいに学生時代二年ほど教会に出入りしたことはあるよ。そのころの何かがかすかに残っているかも知れないね」
「三十づらを下げてもね。あきれたもんだよ。そうだ。お前って奴はもともと、ヘソから下はないんだぞ、というような顔をして、愛とか永遠とかいっていた男だったっけな。ヘソから下があった証拠に、子供の二人もつくった今でも、まだ敵を愛せとはね。恐れ入った野郎だよ」
高木は笑いもせずにそういって、啓造の顔をつくづくとながめていた。と突然ひとつ大きく何やらうなずくと、テーブルの上にのせていた足を床の上にもどしていった。
「よし! わかった! いやよくはわからんが、辻口啓造という人間を信用してわかったといっておこう。ところで、この話は夏枝さんも無論承知の上なんだろうね」
佐石の子を引きとることを、夏枝も承知しているのかと念をおされて、啓造はほおのあからむのを感じた。いかにも偉そうな言葉をならべ、自分でも佐石の子を愛せるように思ってはいる。
しかし夏枝に対する気持ちは高木にもいえなかった。
「犯人の子を育てる目的は、夏枝を苦しめることにあるのだ」
とはいえなかった。夏枝のうなじに残るむらさきのあざが、くっきりと目に浮かんだ。
「だまっているところをみると、夏枝さんには内緒だな?」
高木に問われて、啓造はうなずいた。
「そうか。内緒なのか。じゃ夏枝さんはかわいそうに、犯人の子とも知らずにその子を育てるというわけか」
そういうと高木は、右に左にぐるりぐるりと椅子を回した。
「うん。あれはまだ神経を刺激するといけないからね。今そんなことをいいだそうものなら、気絶をするだろう」
「当たり前だ。気絶しないまでも、こんな話は相手にしないよ。だれが辻口みたいなばかげたことを考えるもんか。夏枝さんはかわいい女の子をほしいんだろう? それが本当さ。ルリ子ちゃんの代わりだと思って育てたいんだろうからな」
「そうだろうね。だがどうせ育てるのなら、この際佐石の子を育てるのも悪いことではないと思うよ。ルリ子の死が大きな意味を持ってくるからね。夏枝だってばかじゃない。いつかわたしの意図を知ったとき、結局はよろこんでくれるにちがいないと思うんだ」
「フーン。そんなもんでございますかねえ」
高木はそういってから、目をつぶって何か考えている風であった。
啓造は、自分はあまり嘘のいえない人間だと今まで思ってきた。人にも正直すぎるといわれてきた。まさか、こんなにぬけぬけと嘘をつけるとは思ってもみなかった。
(案外おれのような小心者は小さな嘘はいえなくても、大きな嘘はつけるのかもしれない)
「辻口!」
高木が椅子から立ち上がった。
「何だ」
「お前は、夫婦の間にこんな大きな秘密を作ってまでも、犯人の子を引きとりたいのか?」
「そうかもしれない。わたしにとってその子を育てることは一生の課題だからね。秘密といっても、いつまでも秘密にするつもりはない。時機をみて話をすれば、夏枝にはわかってもらえるはずだと思うよ」
嘘だった。考えられないことであった。
「そうか、お前って奴は何て残酷なことをするんだろうな。夏枝さんは何も知らずにメチャクチャにかわいがるぞ。それでもいいんだな?」
「そのことも、わたしはわたしなりに考えて決心をしてきたのだ。わたしたち夫婦のことは心配しないでもいいんだよ」
自信ありげに啓造はいった。
啓造の自信ありげな言葉に、高木はニヤリと笑うと再び椅子にすわった。
「よし、わかった。お前がそこまで考えたのなら、おれはもう何もいわん」
「わかってくれたね」
「よくはわからんよ。しかしおれとお前とはデキがちがう。お前はばかが三つも四つもつきそうな真面目な奴だった。おれは納得はできんよ。しかし、納得できようとできまいとお前を信ずる。信ずるというのは、納得じゃないぜ」
信ずるといわれて啓造は答えられなかった。
「だがな辻口、こうなった以上秘密は絶対に守った方が利口だぞ。夏枝さんにもいうな。犯人の子だって生きる権利があるからな。犯人の子であることを忘れて、出生の秘密は絶対守ってやるんだな」
「守るよ」
「夏枝さんにも絶対いうなよ」
「絶対に!」
「徹くんが大きくなってもいうなよ」
「もちろんだ」
「佐石の子にもいわんな」
「無論じゃないか」
「おれには?」
「君に? 君は知っているじゃないか」
「いやおれは知らん。今日限りおれは忘れるぜ。だからおれにもいうな。君自身にもいうな。犯人の子だなんて、コレッぱかりも思うなよ。もらい子だとも思うな。お前たちの子だ。いいな」
「わかったよ」
「お前も男だ。絶対にこの秘密は守れよ」
「いやに念を押すんだね。信用してくれないのかね」
「いや、おれはアッサリしている人間だが、くどい所は人よりくどい。秘密は守るな?」
「わかったよ。いやだなあ」
あまりに念を押されると、何だか今にも秘密がもれてしまいそうで少し不安になった。
「高木、君もだれにもいわんだろうね」
「当たり前だろう」
「村井にもいわないだろうね」
「あいつに何のためにいうんだ?」
村井から秘密がもれそうな不安がふっと啓造の胸をかすめた。
高木は椅子をくるりっと、一回転させて立ち上がると、啓造をみおろした。それからしばらくの間、部屋の中を行ったりきたりしていたが、やがて立ちどまると無愛想にいった。
「もう一ついっておくがね。子供は愛のない所には育たんぞ。どんなことがあっても、お前はその子を絶対にかわいがると、約束してくれよ。秘密を守ること、かわいがること、この二つを約束してくれるか」
「わかった。約束するよ」
きっぱりとした啓造の言葉に、ようやく高木はほっとした顔で、
「乳児院の子は、案外もらい手が多いのだ。その度《たび》におれは不安になる。しかし今度ほど不安なことはなかったぜ。敵の手に渡すわけだからな」
最後の言葉は冗談のようにいって高木は笑った。
*トテシャン たいへんな美人を意味する当時の俗語。トテは「とても」、シャンはドイツ語の「シェーン」(美しい)から。
九月の風
高木との話がつくと、啓造は直《すぐ》に夏枝に電話をかけた。すぐに電話をしなければ、自分の気が変わりそうで不安だった。電話は一時間ほどして、やっと旭川につながった。
「すぐまいります」
夏枝は夏枝でまた、啓造の気の変わらぬうちにと思っているらしく、子供のことは、くどくどとたずねなかった。
高木が手術室にいる間、啓造はじっとすわっていることもできず外に出た。
病院を出ると、アカシヤの並木の下をぶらぶらと歩いていった。時々アカシヤの黄葉が落ちた。空が低く、くもっていた。
何の配給をうけるのか、街角の店の前に長い行列を作っている人々がいた。その行列の中に小さな女の子をみた時、啓造はハッとして歩みをとめた。ルリ子かと思った。
母親に手をひかれて、その子は母親の顔をみながら、どこやらを指さしていた。ほっそりとした首すじから、けずりとったようにまっすぐな、後頭部の形までがよく似ていた。
啓造は胸をしめつけられるような思いで、その場を去った。旭川に帰れば、ルリ子が家の前で遊んでいるような気がした。
しかし、川原で死んでいたルリ子の姿が、ありありと目に浮かんだ。
(ルリ子は殺されたのだ。犯人の子を引きとることなど、果たしてできるだろうか)
(とてもできない。絶対にできない)
(そうだろうか。絶対できないことだろうか。犯人の子をおれは愛することはできないだろうか)
啓造は、夏枝の肌に残るキスマークを思い浮かべた。嫉妬で血の色が、どすぐろく変わってしまうようであった。
(夏枝に佐石の子を育てさせるのだ!)
啓造はいつしか大通りのベンチに座っていた。大きな荷物を背負った軍服姿の男が、生き生きとした陽にやけた顔を、まっすぐに向けて、啓造の目の前を歩いていった。米か何かの闇屋らしかった。次に歩いてきたくたびれた背広の男が、かがんでヒョイと何かをつまみ上げた。ちょっと手で払うようにして口にくわえた。煙草だった。啓造は目をそらした。
(戦争に負けて大変な世の中なのだ。それなのにおれは自分一人の憎しみや悲しみの中におぼれている)
啓造はベンチから立ち上がると、フラフラと歩き出した。夏枝の到着時刻がわからなかった。わかったとしても、啓造は迎えに出る気にはなれなかった。
バーバリー・コートのポケットに両手をつっこんで啓造はゆっくりと歩いた。九月も半ばの風は、散歩には少し寒かった。時計台の鐘が風にのって聞こえてきた。
(夏枝が果たして佐石の子を気に入るかどうか、佐石の子はやせて、貧弱な猿のような赤ん坊かもしれない)
そう思うと、自分の思惑通りことが運ぶか、どうかと啓造は気がかりだった。風がさーっと埃をまき上げて、ズボンのすそにからまるように吹きすぎていった。
夏枝が病院についたのは、七時を過ぎていた。日はとうにくれていた。
「いま、赤ん坊さまが、くるからな」
子供のことで乳児院に行っていた高木が、部屋に入るなりそういった。そのいい方に、赤ん坊が一人で歩いてくるような響きがあって、思わず夏枝は微笑した。しかし啓造は笑えなかった。
(とうとう、くるのか!)
そう思うと胸がドキンと大きくうって、そのまま心臓がとまってしまいそうな感じであった。
「夏枝さん、かわいがってくれるだろうね」
「どんな赤ちゃんですの?」
「夏枝さんよりシェーンかもしれない」
うなだれるようにして座っている啓造をみながら、高木はニヤリとして、
「辻口、元気がないぜ。いやならやめれよ」
「いや……」
啓造は弱々しく微笑して頭をふった。
「みてからきめましょうよ。ね、あなた」
夏枝は、啓造の心をはかりかねた。
「そうだ、気に入らなきゃやめるんだな」
高木はラジエーターに腰をかけて煙草に火をつけた。
「一体どういう人の子供なんですの?」
「夏枝さん、親など詮索《せんさく》しないことですな。だれの子だってかまわない。自分以外に親はないと、そう思ってくれなきゃ困るんだ」
「でも……」
「乳児院にいる子は、それぞれ不幸を背負って生まれてきた子なんでね。いばれるほどの親なんか、持っちゃいませんのさ」
「でも、親だけは知りたいんですもの」
兄にでも甘えるような口調であった。
「そりゃそうだろうな。じゃ、この際ほんとうのことを知らせておくとしようか」
ハッとして啓造は高木をみた。
高木は、
「父は医学博士辻口啓造、母は美人のほまれ高き、辻口夏枝」
と、すました顔でいった。
「いやですわ。そんなことをおっしゃって」
「そうか。じゃ父親は学生、母親は人妻、不義の子だ。こんなところならいいですな」
高木は、夏枝をからかうようにいった。
「高木さんって、いけない方ですのね」
「いけないお方は、そちらさんだ。わが乳児院の規則はね。親もとを知らせないんだ。その代わり、親もわが子の行く先はわからない。だが大丈夫、鬼の子でも蛇の子でもない。立派な人間様の子だ。人間の子なら五十歩百歩だ。心配はないですよ」
だまりこんでいる啓造を、高木はじろりとみて、
「どうした? 辻口、子供をもらうというのはめでたいことの部類だろう? もっとうれしい顔をすることだな」
ノックして、お盆のようにまんまるい顔の看護婦が入ってきた。つづいて毛布につつんだ赤ん坊をだいた保母が、しずかに入ってきた。
高木は保母から赤ん坊をだきとった。馴れた手つきであった。神経質そうな保母は、一礼するとドアをあけた。
「あ、帰らないで詰め所で待っていてくれないか。気に入らなきゃ返すそうだから」
保母が出ていくと、夏枝は高木のそばにきて子供をのぞきこんだ。
「まあ! かわいい。何てきれいな眉をしているんでしょう」
夏枝は思わず声をあげて、高木からその子をだきとろうとした。
「気に入らなきゃ、返しますからね」
高木は赤ん坊をだいたまま、じらすようにいった。夏枝は、かるくにらんで、
「さあ、おかあちゃまにいらっしゃい」
と手をのべて自分の胸にだきうつした。もうもらうことに決めているいいかただった。
「あら笑っていますわ。何カ月ですの?」
「三カ月だったかな」
「三カ月ですの。あなた、ごらんになって。かわいい赤ちゃんですわ」
啓造は椅子にすわったまま、煙草をふかしていた。佐石の子を見るのが恐ろしかった。
「ほら、また笑いましたわ。ね、あなた」
夏枝は啓造のそばによってきた。啓造はおそるおそる子供の顔を見た。意外に目鼻立ちがととのっていた。新聞で見た佐石の顔を、啓造は思いうかべた。眉の濃い額の秀でたあたりが、あまりにも佐石にそっくりであった。赤ん坊らしくない濃い眉と、ふさふさとした髪の毛が、啓造にはへんに不気味であった。
「おとうちゃまですよ、かわいいでしょう?」
赤ん坊の目は、人間の目というよりは、動物の目に似ていた。おとうちゃまですよといった夏枝の言葉に、こだわっている自分の心の中が、写されるような無心な目であった。
(おれは、この子の父親じゃない!)
あまりに眉のあたりが、佐石によく似ていた。何も知らずに、すっかり子供が気に入ったらしい夏枝を見ると、啓造は意地の悪い喜びを感じた。
「この子の名は何というんだね」
「澄子とか一応名前はついているようだな」
「澄子ちゃんですの? かわいい名ですけれど、でもわたくしたちで名前をつけません? ね」
「澄子でいいよ」
啓造はおっくうそうに答えた。
「いいえ、新しく名前をつけますわ。わたくしたちの子供ですもの。はい、こんどはおとうちゃまにだっこ」
夏枝は、啓造に赤ん坊をさし出した。
「いいよ。だかなくても。こんな小さいのをだくと落としてしまいそうで、おそろしいよ」
啓造は手が出なかった。高木がニヤリとして、
「夏枝さん、育てかねたら、いつでも返してくださいよ。夏枝さんはまま子いじめはしないようだが、辻口はやりかねない」
車に乗ってからも、夏枝は赤ん坊に話しかけたりして、いつもに似合わず饒舌だった。
「こんなにかわいい赤ちゃんだとは思いませんでしたわ」
夏枝は、ノイローゼで入院していて、佐石の写真の載っている新聞を見ていなかった。見ていたとしても、まさかいま、自分の膝にだいている子が、佐石の子供と気づくはずはなかった。
「これから旭川に帰る汽車はあったかな」
「ありませんわ。もう九時近くですもの」
「いや、急げば九時何分かの汽車に間に合うはずだ」
「ねえ」
夏枝が声をひそめて、身をよせた。
「何だね」
「あの、宿をとってくださいません?」
「急げば、間に合うよ」
「でも、わたくしは帰りませんわ」
「しかし、わたしは病院があるからね」
啓造は時計を見た。そんな啓造を無視するように、
「あの、そこを曲がって時計台のそばの丸惣旅館に、おねがいしますわ」
夏枝が運転手に声をかけた。
「どうしたんだ? 疲れたのか」
「ええ、少し」
しかし疲れた顔ではなかった。夏枝が何を考えているのか、啓造には見当がつかなかった。車がとまった。料亭のように凝ったつくりの旅館であった。
啓造は汽車の時刻を気にしながらも、いっしょに車をおりた。部屋に入ると、夏枝は思いつめたような目で啓造を見た。
「一体どうしたんだ?」
啓造は再び腕時計に目をやった。
「ごめんなさい。わたくし当分旭川には帰りませんわ」
「なんだって?」
(まさか別れるというのではないだろうな)
村井の顔が目にうかんだ。
(もしかしたら……)
啓造は夏枝を見た。啓造のきびしい表情に、夏枝は少したじろいだように、赤ん坊の顔に目をやった。
「なぜ帰らないんだ? わたしがいやになったのか?」
「まあ」
夏枝は、なかばあきれ、半ば安心したように、笑いだした。
「いやですわ。あなたをいやになるわけはございませんでしょ? わたくしは、この子のために当分旭川には帰らずに、札幌にいたいと思っているだけですわ」
そんなことぐらい、わからないのかと、夏枝はあきれているようであった。今の今、ただ赤ん坊のことで頭がいっぱいで、啓造のことなど考えておられないんだという、夏枝の気持ちが「アッ」という思いで納得することができた。
「だがね、なぜこの子のために、札幌にいなければならないのかね」
「だって……。今この子をつれて、旭川に帰ってごらんなさい。もらい子だということが、すぐに知れ渡ってしまいますわ」
「もらい子だもの、もらい子だと知られてもいいじゃないか」
啓造が、知られて困るのはその出生の秘密であった。
「まあ、ひどいことをおっしゃいますのね。かわいそうですわ。そんなことおっしゃっては」
「だって、もらい子だということを、かくしようがないじゃないか」
「いいえ、ありますわ。わたくしね、子供をもらいたいと思ってから、おなかに布をまいていましたの。おめでたですかと、おっしゃった方もおられましたわ」
おどろいた啓造は、夏枝の帯のあたりに目をやった。夏枝は座布団の上にねむっている赤ん坊の顔をのぞきながら、
「ですから、旅先で七カ月ぐらいで、産んだことにしておいてもいいと思いますの」
「だってこの子は、もう三カ月もたっているじゃないか。すぐわかってしまうよ」
「それで、当分旭川には帰りませんの。二カ月ぐらいここにおりますわ」
啓造は時計を見た、到底終列車には間に合いそうもなかった。
「ばかだねえ。二カ月たったらこの子は生後五カ月になってしまうよ。だれでもすぐわかるだろう」
啓造は笑った。しかし夏枝は、ひるまなかった。
「いいえ、二カ月たったら十一月も半ばを過ぎて寒くなりますわ。この子を外に出しませんもの」
「しかし人は祝いに訪ねてくるよ。その時はどうする」
「当分は風邪をひいているとか、何とか口実を作ってだれにもお目にかけませんの。そしてこの子はルリ子の身代わりなのでしょうか、人一倍発育がよくて気味がわるいみたいといって、皆さんを暗示にかけておきますの。三月ごろまで、そうして何とかごまかしますわ」
「だがね、三月になったら生後六カ月のはずの子が九カ月になっているよ」
「そのくらいになったら、何とかごまかせますわ。きっとごまかしてみせますわ。次ちゃんや徹ちゃんにも、赤ちゃんが生まれたとおっしゃってくださいね。この子が大きくなって親がちがうとわかっては、かわいそうですわ。ですから、わたくし必死になって、ごまかしてみせますの」
(つい先ほどまで、見たこともなかった赤ん坊に、こうも母親らしい感情を持つことが、できるものだろうか)
啓造は、自分と同じ人類であるはずの、女性というものが、ひどくうす気味わるいものに思われた。
「とにかく、そういうわけで、少なくとも二カ月は帰らないつもりですの」
夏枝は片手をついて、あきずに子供の寝顔をながめている。
「それほど、この子がかわいいものかねえ」
啓造はためいきをついた。
「あら、あなたはかわいいと、お思いになりません?」
「今さっき、はじめて見たばかりで、かわいいも何もないじゃないか。ばかばかしい」
「まあ、わたくしはもらおうと決めたときから、かわいいと思いましたのに」
「ふーん、顔を見ただけでねえ」
啓造は、何となくがっかりと疲れて、畳の上に横になった。夏枝は女中のおいていった茶を、啓造のそばにおきなおしてから、ちょっとほおをあからめて、
「女は、おなかの中に赤ちゃんがいるとわかった時から、顔など見なくてもかわいいものですわ。男の方って自分の子が生まれても、しばらくは父親らしい実感がないとおっしゃるけど。わたくしね、この子をもらおうと思った時に、この子を産んだような気がしましたの」
異様なほどの優しさだと啓造は思った。こんな奇妙なやさしさは、男にはない。これが母性愛というものなのかと、啓造は夏枝をながめた。
(いや、むしろ自己愛というのかな)
夏枝のこの母性愛にも似たやさしさに、啓造はひどく非社会的なものを感じた。どうかすると、恐ろしく冷酷なものに一変するものが、その中にひそんでいるように思われた。
(二カ月もの間、ほうっておかれるおれと、徹のことは一体、どう思っているのだ?)
今夜、あの林のそばの広い家に、次子と徹二人だけなのだと思うと、夏枝が赤ん坊に示す情熱を啓造は理解できなかった。
この異常なほどの情熱が、ルリ子の死による深い悲しみと、悔いからきていることを、啓造はわかることができなかった。
(この子が佐石の子だと知ったら、夏枝はどうなることだろう)
啓造は腹ばいになったまま、煙草に火をつけながら思った。夫として許されない残忍な想像であることに啓造は気づかなかった。夏枝の白いうなじに、いつしか啓造の視線がいっていた。昨日のキスマークが、色うすくなったまま、まだ残っていた。
「生まれた土地で、出生届をするんでしたわね」
夏枝の言葉に啓造は思わず起きあがった。
「出生届? 出生届をするのか」
「当たり前ですわ。この子には籍はないって高木さんおっしゃっていましたもの。いま生まれたことにして、すぐ届けなければ……」
(そうだ! 籍という問題があった!)
啓造は自分のうかつさにおどろいた。
「出生届といっても産んだわけではないんだからね」
犯人の佐石によく似た赤ん坊を、啓造はつくづくとみた。
「いいえ、産みましたわ。産んだのですわ。自分の子として育てるということは、そういうことだと思いますわ」
かなわないと啓造は思った。夏枝の心にひそむ激しさを、知っているつもりであった。しかしこれほど激しいとは知らなかった。
(佐石の子でも愛せるとおれは思っていた。しかし、辻口の籍にルリ子を殺した奴の子を入れることはできない)
窓ごしに見える時計台が、月の光に青く浮いて見えた。
「あなた。名前は何とつけて届けましょう」
「澄子とかいう名が、あったじゃないか」
「いやですわ、人のつけた名前など……。あの、ルリ子とつけたら、いけません?」
「ルリ子? 冗談じゃない!」
思わず啓造の声が大きくなった。
「でも、ルリ子の身代わりと思って育てるんですもの」
涙がつーと夏枝のほおを伝わって落ちた。
妙にうきうきと、赤ん坊をだいたり、ほおをよせたりする夏枝に、
(お前はもう、死んだルリ子を忘れたのか)
と心の中で、いくどかなじっていた啓造は、夏枝の言葉と涙にうろたえた。
夏枝は声をたてずに泣いた。涙があとからあとから、ほおをぬらした。何かに耐えているように、夏枝は声をころして泣いた。
「ルリ子はルリ子だ。ちがう名をつけた方がいいね」
啓造はやさしくいった。夏枝は素直にうなずいて涙をぬぐった。
(本当はね、この子はね)
啓造はだまっていられなくなった。しかしどうきりだしてよいか、わからなかった。
「啓子はどうかしら? あなたのお名前から啓をいただいて」
(冗談じゃない)
「啓子もいいが、もっとほかにないかね」
「ではね。太陽の陽の字の陽子はいかが? わたくし、小さいころから好きな名前ですの。何かこう明るくて、親しみやすくて」
夏枝は、まだ声が泣いていた。
「陽子か、いいね。太陽のように明るく育つといいね」
名前など、ルリ子や啓子でなければ何でもよかった。
「陽子に決めます? うれしいわ」
「うん、まあ名前はいいがね。それより、どうだろう? 夏枝、この子は返した方がよくはないかね」
「まあ! どうしてそんな意地わるをおっしゃるの」
「実はね、わけがあるんだ。よく心をおちつけて聞いてほしい」
夏枝はおびえたように、一瞬啓造の顔をみつめたが、ねている赤ん坊を、ふとんごと抱きかかえて頭をふった。
「いやですわ。陽子ちゃんは返しません。だれの手にもわたしませんわ」
たった今、名づけたばかりの「陽子」という名を夏枝は口にした。それに気づくと、啓造はいっそう妻が不気味に思えてならなかった。
「だがね……」
「いいえ、返しませんわ。たとえどんな理由があったにしても。ね、陽子ちゃん」
啓造の言葉を、はげしくさえぎって、夏枝は赤ん坊のひたいに唇をよせた。
啓造は、自分と徹以外のものに、妻がくちづけをすることをゆるせなかった。少し長目の白いくびすじをみせて、夏枝は赤ん坊にくちづけをした。その姿に、村井に対する夏枝の姿態を啓造は想像した。
(ルリ子が殺されたあの日に、夏枝、お前は一体村井と何をしていたのだ。そして昨日性こりもなく再び何をしていたのだ)
うなじにうすく残るキスマークをつきさすようにみつめながら啓造はたち上がった。
(夏枝! その子は佐石の娘だ。佐石にそっくりの娘だ。存分にかわいがれ)
「冗談だよ、夏枝。本当に育てる気があるかどうか、ためしてみたんだよ」
「まあ、いけない方! 返すなんておっしゃるんですもの、おどろきましたわ」
「わるかったね、とにかくわたしは帰るよ」
啓造はハンガーから、バーバリーをとった。
「だって、もう汽車はありませんわ」
「ハイヤーで帰るしかないだろうね」
「でも、ハイヤーでは、すごく高くつきますのに……」
「夏枝、徹はあの広い家に次子と二人で留守番をしているんだよ。かわいそうだと思わないのかね」
車代が高いといっても、夏枝のこれからの宿賃とは、比較にならないはずだ、と啓造はいいたかった。
啓造の鋭い語気に夏枝は気おされたが、
「徹ちゃんには、すまないと思いますけれど……。でも、もうねむったころですわ。ねむったらさびしくはありませんわ」
(一人ねむっている徹の姿を想像しただけでも、かわいそうだとは思わないのか)
そう思った時、啓造はふいに不安に襲われた。
(もしかして今ごろ、幼い徹の上にルリ子と同じ不幸がふりかかってはいないか)
林のそばのわが家が目に浮かんだ。
(佐石の子にかかりあっているうちに、再び留守宅に何かが起こるのでは……?)
「出生届を、おねがいいたしますわ」
と、啓造のうしろから、バーバリーを着せかける夏枝には答えず、彼は急いで部屋を出た。夏枝の顔を、みることもしなかった。
ゆらぎ
朝の食事がすむと、啓造がいった。
「次ちゃん。今朝はすこし寒いようだね」
「はい。雪でも降るんでしょうか」
「まさか、十月のまだ十六日だ。雪も降るまいが、冬服を出してくれないか」
「はあ」
次子はたよりなげな返事をしてから、
「あのう……冬服の箱はお納戸《なんど》でしょうか、洋服ダンスの上でしょうか」
「さてね。次ちゃんは知らないのかい」
「すみません。衣類はいっさい奥さんがなさるものですから……でもさがしてみます」
次子は申しわけなさそうに、二階の納戸にあがっていった。しかしなかなかもどってこない。啓造はまだあとかたづけのすまない食卓の前のソファにすわっていた。
「ハイ、新聞」
徹が啓造のそばにぴったりとよった。
「ほう、昨日、上川《かみかわ》に初雪か」
新聞をひらいて啓造がいった。
「雪降ったの? 上川ってどこ?」
「層雲峡《そううんきよう》へ行ったことがあるだろう? ホラ、大きなおフロがあったね、あのすぐそばの町だよ」
「旭川はいつ降るの?」
「そうだね。旭川はたいてい十月二十日すぎると降るから、あと十ねたら降るよ」
「ウワーうれしい。雪が降ったらおかあさん、かえるんだね」
「うん」
「赤ちゃんうまれて、おかあさんおなかがいたいんだね」
「そうだとさ」
「赤ちゃん、おへそのところが、パンとわれて、うまれてくるんだよね」
「…………」
「いたいよねえ。おかあさんかわいそうだねえ」
「…………」
「ねえ、かわいそうだねえ、ねえ」
「徹の方がかわいそうだよ」
「どうして? ぼくおなかいたくないよ」
「おかあさんがいなくて、さびしいだろう?」
「うん、さびしいけれどさ」
出勤時間を気にして、啓造は柱時計をみあげた。次子が茶の間にはいってきた。
「変です。冬服がどこにもないんです」
「ないって?」
「それが、冬服の箱は五つともあいているんです。盗まれたんでしょうか」
「まさか。洋服ダンスにはいっているんじゃないか」
「いいえ、合服しかないんです」
「それは変だね」
啓造はつまようじを神経質に使いながら、次第にふきげんになっていった。
「すみません」
「なに、次ちゃんが悪いわけではない。季節の変わり目だというのに、どこに何があるかぐらい、知らせてこない夏枝が悪いんだ。しかし、それにしてもおかしいな。やっぱり盗まれたんじゃないのかな」
いつもより、少しおくれて啓造は家を出た。外は思ったほど寒くはなかった。しかし、妻にすてさられたようなわびしさが身にしみた。靴をはいてから、服があったと次子はあわててとんできた。だが、朝食をぬいて肝臓の検査を待っている患者があるので、啓造は合服のままで家を出た。
夏枝は几帳面で、衣類など何はどこにとそらんじていた。だから不意の停電の時でも、まっくらな中で必要なものを取り出すことができた。しかし几帳面なだけにめったに人手にまかすことがなく、特に衣類は次子にさえ触れさせなかった。
けさのように、着る物がすぐ見当たらないなどということはかつてなかった。それだけに啓造にはひどくこたえたのであった。
停留所には人影がなかった。すでにバスの出たあとと見える。一時間毎のバスであった。
(泣きつらにハチというところだな)
啓造は苦笑すると、仕方なく歩くことにした。ひろびろとした通りの向かい側は、高いからまつ林が道に沿っていた。もう一方の側はひくい木造の家々がたちならんでいる。
啓造は箒目《ほうきめ》のたっている家々の前を歩いていた。どの家の軒にも、たくあん用の大根がきれいに洗われ、縄にあまれてぶらさがっている。大根は秋の朝の光を白くはじき返していた。
(ことしは、うちは大根を干していないようだな)
自動車もあまり通らず静かな通りである。白菜をうず高く積んだ荷馬車を啓造は追いこした。ゆっくりと歩く馬のひづめの音がのどかにひびいた。ひづめの音に、わびしかった啓造の心が少しなごんだ。
(冬服でなくたって、セーターでも冬は過ごせるんだ)
ふるびた軍服に、軍靴の青年とすれちがったとき、啓造は四季それぞれの服を持っていることをうしろめたく思った。国民のだれもが衣類を米にかえて、辛うじて生きながらえている時代であった。
「院長先生、お早うございます」
ふいにうしろから呼ばれた。若い女性の声だった。おどろいてふり返ると、松崎由香子だった。きらきらと光る目が、まっすぐに啓造をみあげていた。
「おや? 君のうちはこっちだった?」
「いいえ」
由香子の背にたれた長い髪がゆれた。
「お友だちのところへ泊まったんです」
肩をならべて歩きだしたが、すぐ立ちどまって、
「まあ、きれい」
と蹄鉄屋の店をのぞきこむようにした。馬をつなぐ四本の丸太の柱がたっていて、店に人の影はなかった。
「何が?」
「火ですわ」
うすぐらい店の中に、蹄鉄用の炎があかく透いてゆらめいていた。
「炎ってなぜ美しいんでしょう?」
えりを立てたグリーンのバーバリーから、白いセーターがのぞいていた。まばたきもせずに、じっと蹄鉄屋の火をながめている由香子を、扱いかねて啓造は歩きだした。
「先生、炎ってなぜきれいなんですか」
由香子は白いズックの運動靴で音もなく追いついて、それがくせのピタリとよりそうように啓造とならんだ。
「さあね」
啓造は由香子から離れた。
「燃えているからですか。燃えたらすぐに灰になるんです。煙になるんです。次の瞬間すぐに亡びるということは、あんなに美しいものなのですか」
ひとりごとのようにいいながら、由香子がふたたび啓造によりそった。すぐに啓造は一歩右によった。
「ね、先生、炎というのは……」
「松崎君!」
「はい」
由香子の小さな口に、小さなまっ白い歯がぬれて光った。
「君、もう少し離れて歩いてくれないか」
「まあ」
由香子は耳までまっかになった。
「すみません。わたしどうしましょう。どうして気づかないんでしょう。いつも人に注意されるんです」
しばらくのあいだ由香子はだまって、啓造のうしろについて歩いていた。気をつけて歩いている精一杯のかんじが可憐で、啓造は、
「並んで歩いてもいいんだよ。離れてさえいればね」
と、ふり返ると、由香子は目に涙をいっぱいためて歩いていた。啓造はおどろいて、
「どうしたの」
朝から女の子に泣かれるのはかなわなかった。いつかの村井の言葉が胸をかすめた。
「松崎由香子は院長にまいっているんです」
と、村井はいったのだった。
本通りに出た。雑貨屋、食堂、金物屋、薬屋、市場などが、道の両側に低いひさしをつきだすように並んでいた。蹄鉄屋はここにもあった。人通りがふえてきた。
「赤ちゃんが生まれましたって?」
まつ毛は、まだ涙に湿っていたが、由香子は笑っていた。
「ああ」
「村井先生が……」
ちょっと首をかしげていいよどんだ。
「村井が?」
朝の話題には、何かうっとうしいようで、啓造は足を早めた。由香子は足音もなく小走りについてきて、
「村井先生が、奥さんは子供を産めないはずだがなあとおっしゃっていました」
「村井のところに見舞いに行ったの?」
いつか病院の薬局で、この娘は村井と二人っきりでいたことがあった、と啓造は思い出した。由香子は答えなかった。
(猫のような女だ)
いつのまにか、また由香子は啓造に肩を押しつけるようにして歩いていた。
玄関の戸をあけた。だれも迎えに出てこない。夏枝がるすにしてから一カ月たつというのに、啓造は出迎えのないわびしさに馴れることができなかった。
次子は大てい台所にいて、主人の帰宅を出迎えるまでには行きとどかなかった。徹は、夏枝のいない家がさびしく、夕ぐれまで外で遊んでいた。
「おや? だれの靴だろう?」
黒いハイヒールがきちんとそろえてある。洋装の女客に心あたりがなかった。
(松崎由香子だろうか?)
今朝の由香子の涙を思い出した。と、その時、ふすまがあいて、
「ダンナ、案外早かったのね」
思いがけなく辰子だった。黒いV字型のセーターにグレーのタイトスカートの辰子だった。
「おどろきましたね」
啓造は茶の間に入っていった。
「何が」
「何がじゃありませんよ。辰子さんの洋装なんて、はじめてじゃありませんか」
辰子は足くびの細いよくしまった足を、かるく組んでソファにすわった。
「洋装っていうの? これが。セーターを着ただけじゃない」
「はじめてですね。本当に」
「あきれたもんね。いくら夏枝にべたぼれだからって、辰子さんのセーターを着た姿ぐらい憶えちゃいないんですかねえ」
表情ゆたかな目をくるりとまわして、かるくにらんだ。
「いや、はじめてですよ、たしかに」
啓造は着更えもせずに、椅子にすわった。アップに結いあげた髪から、ゆたかな胸のあたりまでをチラリとみて、
「はじめてですよ、やっぱり」
「そう、わたしはお振り袖でテニスをしていたっていうの?」
「ああ!」
啓造は笑いだした。
「何よ、今ごろ思い出して!」
「いや、あれは女学生時代でしょう? 大人になってからの洋服姿は、はじめてですよ」
みなれた和服姿の辰子とは別人のようだった。美少年風のさわやかな感じであった。
「とにかく、よく来てくれましたねえ」
「奥方がいないとさびしくてたまらんという顔ね、その顔は」
「思いがけなく、札幌で赤ん坊ができたりしてね」
辰子はうつむいて煙草の灰をおとしながら、何も聞かない顔をしていた。
そこへ徹が外からかえってきた。セーター姿の辰子をみると、びっくりしてまじまじとみつめていた。が、すぐにとびついて辰子の手にぶらさがり、ちぢめた足を辰子の美しい足にからめた。辰子がいった。
「今夜はおばちゃんとねようか、徹くん」
「とまるの? ほんとう? おばちゃん」
徹は、うれしさのあまり、辰子から離れてたたみの上をごろごろところがった。徹はどうして喜びを表してよいのかわからなかった。
「おとまりになるんですか、辰子さん」
はずんだ啓造の声に、
「何もダンナまで喜ぶことないんじゃない。夏枝にたのまれたんだもの、仕方ないさ」
辰子は人に喜ばれると、いつも決まって自分のせいではないというように、ぶっきらぼうになる。そんなところが辰子らしいと啓造は微笑した。
夕食のとき、次子が徹の前に、魚の身をほぐした皿をおいた。辰子がめざとくみつけて、
「徹くんはいくつ?」
「五つ」
「お魚一人で食べられる?」
「いや、ぼく食べられない」
「どうして?」
「学校にいってないから」
「学校にいってないから?」
「うん、骨がのどにささるの」
「ささらなかったら食べる?」
「うん、でもおっかないもの」
「あのね、徹くん。むしゃむしゃ食べないで、ちょっと舌にのせるの。骨があるかどうかわかるでしょ?」
辰子はわざと骨のついたところを、徹の口に入れてやった。
「わかるでしょ?」
「わかる」
「それを、そっと出すの」
「うん」
徹はとうとう、その日の夕食は自分で魚の骨をとって食べた。
啓造は、夏枝を思い出していた。夏枝はほぐした魚の身を一つ、一つたしかめて、徹のごはんの上にのせてやっていた。夏枝には辰子のようなきびしさはなかった。
「徹くん、魚の笑ったかおを見たことがある?」
「魚笑うの? おばちゃん」
「笑うわよ。ねえ」
辰子は啓造を見る。
「さあね」
「芭蕉先生が、行く春や鳥|啼《な》き魚の目は泪《なみだ》っていってるもの。泣くぐらいなら、笑いもするわ」
辰子は声たかく笑った。電灯がいつもより明るいようだと啓造は思った。久しぶりに家庭の団らんを味わったように思った。しかし何となく落ちつかなかった。
(夏枝のすわるべきところに辰子がいる)
そのことへの違和感であったのかと、啓造は辰子を見た。辰子は明るく賑やかだった。しかしふと啓造はおもしろいことに気づいた。辰子は食器をかすかな音もたてずに、食卓においている。注意してみると、大笑いしながらも食器は何の音もさせない。見ごとだと、啓造は辰子という人間を見なおす思いであった。
徹をねかせつけてから、辰子が階下におりてきた。
「悪かったわ。出しゃばって」
と椅子にすわるなり辰子がわびた。
「何がですか」
「徹くんに、魚を一人で食べさせたりしてさ」
「いや、ありがたいですよ。夏枝は甘いばっかりだから……」
「でも、母親には母親の教育方針があるもの。了解を得るのが本筋さ」
と、ちょっと後悔の色を見せてから、
「今日のところはごめんしてもらうわね」
とさばさばといった。
「ところで、出しゃばりついでに、いってしまうけど……」
「何ですか?」
啓造は辰子が何をいい出すのかわからなかった。
「朝っぱらから、女の子と仲よさそうに歩いちゃだめよ」
辰子の目が生き生きと笑っている。
「朝から?……」
「けさ、髪の長い子と歩いていたじゃない?」
松崎由香子のことかと気づいて、思わず苦笑しながら、
「どこで見てたんですか?」
「さあね。でも別にダンナの監視まで、夏枝にたのまれたわけじゃないから、どうでもいいけれど。あの子ちょっと妙な感じだった」
「ほんとうに妙な女の子ですよ」
と、だれにでも体をすりつけてくる由香子のくせを話すと、
「そう、それ、どういうんだろ? でもあの子妙な感じだけれど、わるい感じじゃないわ」
「そうですか」
「そうですかなんて、すぐうれしそうな顔をする」
辰子がかるくにらんだ。
啓造はふっと、由香子からきいた村井の言葉を思い出した。夏枝の避妊手術は、何となく院内にも知れわたっていた。
(いくら自分で産んだといいはっても、人が信ずるわけはない)
辰子は無論そのことは知っているはずである。さきほど赤ん坊のことをいった時、辰子がきかないふりをしていた。それが自分への思いやりだったのだと気づくと、啓造は恥ずかしくなった。
「赤ん坊のことですがね」
改まっていうと、辰子がすぐに察して、
「いいじゃない。夏枝が産んだといったんだもの、それでいいのよ」
「でも、手術していて……」
「避妊手術だって失敗もあるというわね。でもあなたの奥さんはバカだねえ。七カ月で生まれたの、自分に似ているだのと、必死になって並べたてて。あんまりかわいそうで、ちょっと泣けた。こちらも上手にだまされなきゃ、かわいそうというもんよ。ルリ子ちゃんのことが、よほど身にしみてつらいんだわねえ。ルリ子の身代わりだと思って育てるって、何度も書いてあったもの」
辰子はお茶を入れながら、しみじみといった。
(この人も、まさか犯人の子をもらったとは気づくまい)
と、啓造は思いながら、
「育てたところで、どんな子に育つもんですかねえ」
と、ひとりごとのようにいった。
辰子はきき流して、
「ところで、あの子はどうしたかしら?」
「あの子?」
「ほら、何とかいった犯人の子が、高木さんのところにいたじゃない?」
「ああ」
啓造はつとめてさりげなくいった。
(この人は、高木から真相をきいているのではないか? もしそうだったら夏枝にはすぐ知れてしまう)
「うまく育つかしらね」
「どうですかねえ」
と受けて、冗談のようにつけ加えた。
「あの犯人の子をもらえばよかったかな」
辰子は、唇のところまで持っていった茶碗をちょっととめて、
「もらえやしないわよ、辻口さんには」
辰子の言葉に啓造はほっとした。
「辰子さんならもらえますか」
「もらうだなんて、思いもしないわ」
「そうですかね。辰ちゃんのようなひとなら、もらうかなと思ったんだけど……」
「わたし、それほど思いあがっちゃいないわよ。自分というものを少しは知っているもの」
啓造は、ピシリとムチで打たれたように思った。
「そうですかねえ、しかし絶対に育てることはできないとも、いえないでしょう」
「わたしにはできないな。自分の子が殺されて、その犯人の子をかわいがって育てるなんて。もし人間にできるなら、この世はもっとマシな世の中になっているはずだもの」
「わたしは、そんな人間が、この世に一人や二人はいそうに思いますがね」
「人間なんて、わたしはそれほど偉いとは思っちゃいない。自分の子でさえ育てかねたり、自分の親をさえ邪魔にする人間どもだもの。人間なんて、わたしはそれほど高く買っちゃいない」
「手きびしいですね、あいかわらず。その調子じゃ、結婚してご主人が浮気したら、どうしますかね」
「わからないな、それは。髪ふり乱してさわぎ立てるか、ものもいわずにブスリとやるか。人間だもの、浮気の虫の二匹や三匹はいるさと、案外さばけたところをみせるか、その時にならなきゃ、わからない」
「その時にならなきゃ、わからないですか。なるほどね。そんなものですよね」
(夏枝が村井とああなるまで、わたしは生涯寛容でやさしい夫のつもりであった。今はちがう。すっかり変わってしまった)
「自分が男ですからね。女性に対する男性の気持ちっていうのはわかるんですがね。女のひとの男性に対する気持ちがつかめないんですよ。辰子さんでも男性にふらふらすることがありますかねえ」
「辰子でもとは何よ。でもとは」
辰子が笑って煙草の煙にむせた。
「いや、どうも、これは失礼」
「全く失礼よ。わたしなんか始終男性にふらふらしっ放しよ。優等生の女と話をするより、落第っぺの男の子と話をする方が、なんぼ面白いかわかりゃしない。だから、いつ何のはずみでどうなるものやら、知れたもんじゃないわ」
「本当ですか。辰子さんがそうなら、うちの夏枝などはなおのこと、やはり何かのはずみで、どうなるものかわからないんですね。いや、もうどうかなっているかもしれない」
冗談のように啓造はさぐりをいれた。
「つまらないことばっかり。ダンナでも、こんなくだけた話をするの? 見直してあげる」
辰子は、まろやかな膝をかかえて啓造をみた。
(もしかしたら、辰子は村井と夏枝のことを知っているのではないか)
辰子にうまく逃げられたような気がした。
「辰子さんって、どこかおとななんですね。踊りなんかやると、おちついてしまうのかな。未婚の人とは思えない」
「それ、ほめてるの? ありがとうとお礼いわなきゃならないの? 未婚の人と思えないなんて、あまり人ぎきの悪いことをおっしゃいますな。お嫁入りに差しつかえますからね」
さっとたちあがると、
「おやすみ、ダンナ」
にっこり笑って二階へあがって行った。
床に入ると啓造は、何となくつかれて、いつもより早くうとうととした。
うとうとしたかと思うと、部屋のふすまが静かに開いた。
「辰子さん……」
啓造が枕から頭をあげると、ほおに女の髪がふれた。
(ああ辰子さんだな)
と啓造が体をおこそうとした。
「ちがいます。由香子です」
女が体をすりよせてきた。女はズックぐつをはいていた。
「どうして、くつなんかはいてるの」
女はだまっていた。
「くつなんか、ぬいでくださいよ」
やはり女はだまっていた。かわいそうに思ってだきしめると、いつのまにか女は夏枝になっていた。
どろぐつ
辰子が泊まった日から、十日ほどたった。
玄関をあけると、家の気配が何となくちがった。賑やかな人声がした。
「あなた、おかえりなさい」
ふすまがあいて、夏枝が赤ん坊をだいて出てきた。
「早かったじゃないか」
啓造はさすがに喜びをおさえかねた。夏枝も家が恋しくなったのだろうと思うと悪い気はしなかった。
「ええ。陽子ちゃんのおっぱいがなかなか思うように手に入らなかったものですから」
「汽車はたいへんだったろう」
「ええ、でも、うちなら牛乳がすぐおとなりにあると思うと、もうたまらなくなって急いでかえってまいりましたの」
「…………」
「それに、宿屋ずまいは高くつきますし、何より寒くなると、ペチカのあるわが家が陽子ちゃんに一番いいと思いましたの」
「…………」
「ごらんになって。大きくなりましたでしょう。泣かないので育てやすい子ですわ」
「…………」
「本当ですわ。ちっとも泣きませんのよ」
夏枝は、陽子を啓造の手に渡そうとした。啓造はむっとしたまま、夏枝をみつめた。
「あなた。この家に初めて陽子ちゃんが来たんですもの、だいてあげてくださいな」
夏枝はやっと啓造の不機嫌な様子に気づいて、陽子をベビーベッドにつれていった。徹やルリ子がつかったベッドであった。
(お前は赤ん坊のことばかりいって、徹やわたしのことは少しもたずねないじゃないか)
啓造は口には出さずに、次の部屋に着更えに立った。夏枝がついてくるとばかり思ったが、
「次ちゃん、ダンナさまのお着更えを手伝ってくださいな」
という夏枝の声に、啓造はむらむらとした。かつて夏枝は一度だって啓造の着更えを手伝わないことはなかった。
「夏枝を呼びなさい」
啓造はタンスに手をかけようとした次子にいった。
「あの、いまおむつをかえていらっしゃるんです」
次子は困ったようにいった。啓造はいいようのないさびしさが、体中にじわじわとひろがって行くのをかんじた。
「終わったら来るようにいいなさい」
啓造は、つっ立ったままいった。
「陽子ちゃん、陽子ちゃん」
徹がうれしそうにいう声が聞こえた。
「あ、だめよ。徹ちゃん。陽子ちゃんはねんねよ」
夏枝のやさしくたしなめる声がした。啓造は、いつ夏枝が来るかといらいらしながら、じっとタンスの前に立っていた。
「ながい間、ご不自由をおかけしてごめんなさい」
夜になってはじめて、夏枝は留守にしたわびをいった。
「うん」
(何だ、今ごろになって)
と、啓造は思いながらも、夏枝の一言で、夕方からの心のしこりが他愛なくほぐれていった。
「このおふとん、少ししめっていますわ。明日よく干しましょうね」
啓造の床に入りながら夏枝がいった。
「少しやせたようじゃないか」
「そうでしょうか」
「うん。いや、そうでもないかな」
「あなたはお肥りになったようですわ」
夏枝の声が、しっとりとうるおっていた。
「ああ、浮気をしなかった証拠だ」
夏枝がひくく笑った。
「何がおかしい?」
「あなたは浮気などなさいませんわ」
「みくびられたものだねえ」
「頼まれたって、浮気はなさいませんわ」
「信用絶大だね」
村井の、長い指がへんになまなましく思いだされた。啓造は強く夏枝をだきよせた。
少し風がでているのか、時々林のさわぐ音が聞こえた。無言の時が流れた。
「やはりペチカはあたたかですのね」
夏枝も啓造も肌が汗ばんでいた。
「ねえ。辰子さんが泊まってくださったって?」
「徹が喜んだよ。洋服を着てきたよ」
「まあ、辰子さんが? どうしたんでしょう」
「心境の変化っていうヤツかね。和服もいい人だが、辰子さんは洋装が似あうようだね」
「…………」
「足がきれいだ。細くなく太くなくね」
「…………」
「足くびがキュッとしまってね。踊りをやっているからかね」
「辰子さん、どこにおやすみになって?」
「二階だよ、徹と一しょにね」
「…………」
「どうした?」
「辰子さん、そんなにおきれいでしたの?」
「ああ、あの人は足と表情がいい」
「いやですわ」
「…………」
「いやですわ」
「バカだね」
啓造は夏枝のまぶたに唇をあてた。夏枝はだまって啓造の胸に指で何かをかいていた。
「何の音だろう?」
縁側のガラス戸に吹きあたるかすかな音に、啓造も夏枝も首をあげて耳をすました。
「あ、雪かもしれませんわ」
「雪? そうか。そうかもしれんね」
夏枝は、そっと自分の布団にかえると、
「陽子ちゃんの生年月日は何日にして届けてくださいました?」
とたずねた。啓造は思わず唇をゆがめた。
「…………」
「何日生まれに届けたか、お忘れになって?」
「うん……」
「のんきでいらっしゃる」
夏枝は、啓造が当然出生届をしたものと、信じきっている。啓造は思わず、ため息をついた。赤ん坊をもらって四十日近くたっている。出生届をしていないとはいいだしかねた。
出生届は、医師の証明が必要であった。啓造は医師としての自分の地位を利用する形になることをもためらってはいた。しかし、それが理由で届けがおくれたわけではなかった。
「困りますわ。お誕生日がわからないと」
「そうかね。今すぐわかる必要もあるまいがね」
「いいえ。いつ生まれましたって、人様にきかれて、わかりませんとは申しあげられませんもの」
「君はあの子を、やはりしばらく人には見せないつもりかね」
「ええ」
「四十日ぐらい前に生まれたというつもりか」
「わたくしの産んだ子だということにするには、そういわないと日が合いませんもの」
「四カ月以上たっている子が四十日か。無理だね。人がみたら化物だというよ」
「人にはみせませんわ」
「…………」
「ね、陽子ちゃんは泣かないでしょう?」
ほんとうに陽子は泣かなかった。
(佐石はこの子の泣き声になやまされて、神経衰弱になったと聞いていたが……)
やはり夏枝の育て方がうまいのかと、今さらのように啓造は、男と女のちがいに感じ入っていた。
「ミルクをあたためてきますわ」
夏枝は寝巻の上に羽織をひっかけて、台所に立っていった。
啓造は複雑な思いで、部屋のかたすみのベビーベッドに目をやった。
(おれは、この子を愛するつもりで引きとった。それなのに、陽子と口に出して呼ぶことさえできないのだ。とても夏枝には及ばない)
(夏枝はこの子が佐石の子と知らないからな。知っていては決して、引きとりもしまい)
(だがこの一冬を夏枝は、夜おきて乳をつくったり、おしめを洗ったり大変なのだ。おれはそれを、ただ、だまってながめているわけか。何も知らない夏枝を哀れとも思わないのか)
(夏枝が村井と二人っきりでいたいために、ルリ子を外に出したのだ。今、夏枝は当然の罰を受けているのだ)
夏枝が、哺乳ビンを手にくるむようにして入ってきた。
「あなた、やっぱり雪ですわ。もう、まっしろになっていますわ」
「うん」
啓造は、ねむそうに寝返りをうった。
朝はやくから、徹が陽子のベッドをのぞきに部屋に入ってきた。
「陽子ちゃん、陽子ちゃん、バア」
徹がかわいい声で、一生けんめい陽子をあやしている。
赤ん坊が一人ふえただけで、こんなに家の中がにぎやかになるものかと、啓造は床の中で腹ばいになったまま、煙草をすっていた。
「徹、赤ん坊、めんこいか」
「うん、めんこいよ。陽子ちゃん、ルリ子ちゃんよりめんこいね」
「ルリ子よりめんこい?」
「うん、泣かないもの」
啓造は思わず、煙草の灰をシーツの上におとした。
徹が、少年になって、あるいは青年になって、万一、陽子の出生を知った時、一体どうなることかと、啓造は徹をみつめた。神経質に、ちょっと眉根をよせるくせのある徹の、青年に成長した時の姿が目にみえるようであった。徹は、啓造に似ていた。正義感の強い青年の徹が容易に想像された。
(たった一人の息子に、生涯うらまれることをしてしまったのではないか?)
出生届をしていなかったさいわいを啓造は喜んだ。啓造は起きあがった。
(何としてでも、赤ん坊をよそにやってしまうことだ)
「徹。おかあさんを呼んでおいで」
「ハーイ」
徹が走って部屋を出ていった。
「何かご用ですの」
エプロンをつけた夏枝が入ってきた。啓造は床の上に丹前を着たまま正座していた。不機嫌な夫の様子に夏枝はちょっとおどろいた。
「この子を何とかならないか」
「え?」
啓造の言葉がのみこめなかった。
「赤ん坊がいると、うるさくてよく眠れないんだ」
「あら、おやすみになれなかったんですの。ごめんなさい」
夏枝は、したでに出た。
「でも、陽子ちゃんはあまり泣きませんでしたわ。おじゃまになりましたかしら」
「泣かない赤ん坊なんて、うす気味がわるい。とにかく気分的にうるさいんだよ」
「では、今夜から陽子ちゃんとわたくしは、二階にやすむことに致しますわ」
夏枝はさからわなかった。
「いや、おれはこの子の、髪の毛のふさふさしているところや眉毛のこいところ、泣かないところが、いやなんだ」
「まあ、陽子ちゃんのいいところばかりがきらいでいらっしゃる」
「虫がすかないんだ。とにかく、高木に返さないか。さいわい籍もまだ入れていないからね」
さっと夏枝の顔色が青ざめた。
「あなた! まだ届けてくださらなかったんですの」
陽子を返すという言葉よりも、出生届をしていないということが、夏枝には打撃だった。
「ああ、まだね」
「ひどい方! ひどい……」
夏枝の唇がけいれんした。唇にも血の気はなかった。夏枝は、つき刺すように啓造をみつめた。その目に啓造はたじろいだ。未だかつて、啓造は夏枝のこんな鋭い冷たい目をみたことはなかった。夏枝は啓造から視線をそらさず、陽子をかばうようにベッドのそばにすわった。その姿にはゾッとするような妖気がただよっていた。夏枝が容易ならぬ相手であることを、啓造はこの時はじめて思い知らされた。
啓造はふだんの夏枝のやさしさに馴れていた。夏枝の、やや強情なところも、いいだしたらきかないわがままなところも、啓造にはまだかわいいと思える女らしさでもあった。強情でも、わがままでも夏枝の言葉づかいや態度にはやさしさや甘さがあった。
「ね、おねがいですわ。おねがいいたしますわ。わたくし赤ちゃんが、欲しいんですもの」
などと、やさしくしずかに、幾度もくり返す夏枝に、つい啓造は負けてきた。負けながらも、いやではなかった。
しかし今のこの夏枝の冷たさは、あたたかい血や涙とは、まったく無縁のものであった。啓造はルリ子の死以来、夏枝を憎みはした。村井から受けた愛撫のあとをその白いうなじにみて、殺そうと思ったことさえあった。しかし、それは妻への愛の変形ともいえた。今の夏枝から受けるものは、そうではなかった。憎しみだけを身に浴びているようで、啓造は辛かった。自分は夏枝を憎みながら、夏枝からは、やさしくしてほしかった。尊敬され、愛されたかった。
やがて夏枝は無言で部屋を出ていった。
(陽子を返す相談は、思いもよらないことになってしまった)
啓造は、ベッドに近よって、まじまじと陽子をみつめた。陽子は無心に笑って、何か話しかけるように、のどをならした。
(おれは、この子を愛することを、人間としての一生の課題にしたはずだった)
佐石に似た眉のあたりをながめながら、たえずゆらぐ自分をかえりみた。
(愛するとは、一体どんなことなのだろう)
啓造はガラス戸越しに、初雪のふった庭をながめた。純白の雪が、時々霧のように煙って風に散った。
(おれはほんとうに、この子を一生愛しようとしているのだろうか)
陽子という名を口に出して呼ぶことさえ、啓造にはできなかった。佐石のことが心にひっかかっていた。
(この子には、何の罪も責任もないのだ)
理くつではわかっていても、だく気にはなれなかった。笑う陽子に笑い返すこともできなかった。
「ごはんだよ。おとうさん」
部屋の入り口で徹が呼んだ。
夏枝は、かたい表情をみせて食卓の前にうつむいていた。啓造が茶碗をさし出しても、顔をあげなかった。徹が、
「おとうさん。パパっておとうさんのこと?」
「ああ。そうだよ」
「どうして、パパっていうの?」
「煙草をパッパ、パッパとふかすからさ」
次子と徹は笑ったが、夏枝はきびしい目をチラリとあげただけだった。
「そしたらね、おかあさんのことは、どうしてママというの」
「おかあさんはね、ママをたいてくれるからだよ」
「じゃ、次子ねえちゃんがうちのママだね」
啓造と次子は声をあげて笑った。夏枝は、
「徹ちゃん。パパもママも英語ですよ。ママをたくからママというのではないのよ」
「フーン。でもさ、煙草をパッパとふかすからパパで、ママをたくからママのほうがいいよね」
徹は、啓造をみあげていった。
「そんなのは、でたらめですよ。徹ちゃん」
夏枝は、徹にやさしくいった。
啓造は気まずい食事を早々にきりあげて、着更えにたった。夏枝がついてきた。
「いいよ。一人で着かえるから」
夏枝は無言でワイシャツを、啓造のうしろから着せかけた。着せかけた手をそのまま啓造の肩において夏枝はいった。
「陽子は、返しませんわ。もし返すのでしたら、わたくし死んでしまいますわ」
啓造はほっとした。無言でいられるよりは、言葉するどく責められる方がずっとらくであった。
「わるかったよ。寝不足だったんだ」
夏枝は、ひざまずいて、いつものように啓造に靴下をはかせた。靴下をくるくると外にまいて、啓造のつま先に靴下をはかせる。あとはまいた靴下をもとにもどせばよい。はかす方も、はかされる方も、長年の馴れで呼吸がぴったりと合った。四十日ぶりに、夏枝のまろやかなももの上に足をのせて、靴下をはかせてもらうと、啓造はしみじみと、
(夫婦だなあ)
と思わずにはいられなかった。
しかし靴下をはく呼吸はぴったり合ってはいても、今二人の心はどこかでくいちがっていた。
夫婦の夜の生活も、この靴下をはく呼吸のように、いわば熟練で合っているようなものかもしれないと啓造は思った。
(夫婦の本当の結びつきは、体以外の、もっと心のふかいところで、ぴったりと合うものではないだろうか。おれたちには今、性生活以外に共鳴し得るものを、持っているだろうか)
「なぜ出生届をしてくださいませんでしたの」
啓造のぬいだ丹前をたたみながら、夏枝がいった。
「どうして届けを出さなかったかといわれても困るがね。忙しくてね」
「忙しいとおっしゃっても、あれから一カ月以上もたっていますのよ」
「うむ……」
啓造は、忙しく弁解の言葉をさがした。
「そういえば、そうだな。今日は今日はと思いながら、もうそんなに日がたっていた訳か。早いものだなあ」
「あなたはもっと几帳面な方かと思っておりましたわ」
夏枝の声がやさしくなった。
「別にだらしなく投げておいたつもりはないがね。病院という所は生身の人間を扱っているんでね。何かと思いがけない事故もあって、とても予定通りに自分の体をつかうことはできないんだよ」
「お忙しいのはわかりますわ。でも三十分ぐらい脱けだすおひまはございましょう?」
夏枝は、めずらしく強い語調でしりあがりにいった。
「冗談じゃない。病院という所は三十分はおろか、ひる飯をたべるひまもないくらい忙しいところだ」
「…………」
「午前は外来、午後は病室。その間をぬって往診だよ。しかも聴診器を持つばかりが医者ではないからね」
「…………」
「事務長や、他の科の医師や、薬剤師、レントゲン技師などの話も聞いてやらねばならない。おまけに看護婦の恋愛から、患者の身の上相談まで聞いてやるというわけだ。わたしの体のあくのを、みんなねらっているのだよ」
うつむいて聞いていた夏枝が顔をあげた。
「まあ、そんなにお忙しいんですの。それは、大変ですわね。わたくし、ちっとも知りませんでしたわ。本当にごめんなさいね」
気味のわるいほど、やさしくわびて、
「よくわかりましたわ。わたくし早速、今日届けに行ってまいりますわ」
啓造はふいに足をすくわれたような、不安な心のままにいった。
「ああ、そうしてくれると助かるね」
だが、夏枝に籍の手つづきをまかせるのは不本意だった。何とか奇跡がおきて、陽子をどこかにやることになってほしいとねがった。
(引きとることはできても、籍を入れるというのは、何とむずかしいことだろう)
啓造は玄関に出た。長ぐつが用意されてあった。
「おとうさんの長ぐつ、長いねえ」
徹の声に啓造はうなずいて、夏枝にいった。
「この雪道を君が出かけるのは大変だろう? そうだ。今日は出がけに役場によっていこうか。病院には少しおくれると電話をたのむよ」
「まあ、あなた行ってくださいますの?」
夏枝は、パッと明るい表情になった。
「ああ、一度病院の中に入ってしまうと、私用で外出することは、先ず不可能だからね」
出生届をしぶりすぎて、夏枝が陽子の身の上に疑いを持つことを、啓造はおそれた。
「すみませんわ。お忙しいのに」
弾んだ声に送られて家を出ると、啓造は昨夜ふった初雪の上をゆっくりと歩いた。
(陽子を愛することを、一生の課題だと、おれは本気で考えたはずだ)
啓造は、身のほど知らずに、大きな問題をかかえこんでしまったことを悔いた。
(愛するならば、籍に入れることを、こんなに迷うはずがない)
バスにのったのも、おりたのも、啓造は無意識だった。バスからおりて道をよこぎろうとした時だった。音もなく一台のジープが、啓造の鼻の先をかすめるように走りすぎた。ハッと立ちどまると、
「ヘーイ」
走りさるジープの中から、まだ少年の感じのうせないアメリカ兵がニヤリと笑った。
啓造は陽子の問題に心をうばわれて、危うくジープにひかれそうになった自分が淋しかった。
しかも、町役場の古びた門柱の傍に立ったまま、啓造はまだ迷っていた。
(おれは、陽子に本気なのだろうか)
また雪がちらついてきた。啓造はオーバーの衿をたてた。
(本心は、陽子を愛することではない。夏枝に犯人の子を育てさせたかったのだ。おれをうらぎり、村井と通じた夏枝のために、あの日ルリ子は殺されたのだ。おれはその夏枝が陽子の出生を知って苦しむ日のために、あの子を引きとったのだ)
(しかし佐石の子と知って育てるおれの方が、長い年月を苦しむことだろう)
(それは覚悟の上だ。知らずに陽子を育てる夏枝をみるだけで、おれは慰められるのだ)
(夏枝の不貞を、一時の気の迷いとして、何とか許す気にはなれないのか)
(一度はおれもゆるしたつもりだ。ルリ子の死に、気がくるいそうなほど悲しんだ夏枝を、おれはゆるした。だが本当にルリ子の死を悲しんだならば、再び村井にだかれるはずがない)
啓造は、役場の前を行きつ、もどりつ、自分の思いにふけっていた。
(おれは、一度だって夏枝以外の女性に手もふれたことがない。女のクランケ(患者)は、あれは女としてじゃない。村井だって、おれが夏枝をどんなに愛しているかを知っているはずだ。そのおれを、夏枝と村井は、うらぎったのだ)
夏枝の白いうなじにみた紫のあざが、今も啓造の心に痛いほど焼きついていた。
(とにかく籍を入れるか、どうかだ)
啓造は役場の門柱によりかかった。
こんなに迷っている姿を、高木がみたら何というだろうかと、啓造は恥ずかしくなった。
「ナーンだ。それが辻口啓造のほんとうの姿かね。汝の敵を愛せよだって? これは笑わせる。それより汝の妻を愛せよだぜ。バカな男だ」
高木の大きな声が聞こえてくるようであった。
(全く、おれはバカだ。自分の子を殺されて、その犯人の子を引きとって、その子に財産までわけてやる。汝の敵を愛せよは字数にしてわずか七字だ。しかしこの七字は、また何と途方もなくバカげたむずかしい内容を持っていることだろう)
全くのバカにならねばならない。
「そんなバカが、この世に一人ぐらいいてもよい」
と高木にいった自分自身の言葉が思い出された。
(バカになったついでに、夏枝の不貞もゆるせないものか)
ふいに、目の前にハイヤーが止まった。ドアがあいて、
「院長、しばらくでした」
村井だった。長いまつ毛が、いつもよりくろぐろと美しかった。少しやせたせいかもしれなかった。
「やあ。しばらく。出て歩いてもいいんですか」
「よくもないんですが。しかし近いうちに、いよいよ洞爺に行けるようです」
村井は、ドアをあけたままで、車からおりようとはしなかった。
「その後ヘモり(喀血)ませんか」
啓造は、村井のあかい唇をみた。
(この唇が、あのあざをつけたのだ!)
「このごろは喀血の方はおちついています。病院までお送りしましょう」
「いや、いま、ここに出生届にきたんでね」
村井の唇から視線をそらすことができなかった。
「ああ、そうですってね。おめでとうございました」
村井のほおに皮肉な微笑がうかんだ。
「院長の奥さんは子供がうめないはずだ」
村井は、そう由香子にいったときいていた。
「めでたいんだか、めでたくないんだか」
「え?」
「いや実はね。夏枝は避妊手術をしているんですよ。大丈夫と安心していて……。やはり、あの手術も失敗があるんですね」
村井の皮肉な微笑は消えた。かるく唇をかんで疑わしそうに啓造をみた。
「女の子だったものですから、夏枝がよろこびましてね」
村井は、それとわかるほどに、ありありと失望の色をみせた。
「じゃ、お大事に」
啓造は、村井に背をみせて大またで役場の中にはいっていった。
届け出をすますと、ふしぎに一日中、心がおちついた。久しぶりに気持ちよく働くこともできた。
「出生の秘密を守ること。陽子を愛すること」
高木との二つの約束を思いながら、啓造は暗くなった道を急いでいた。
けさの雪がとけて、長ぐつについた泥が重かった。家が近づくにつれて、啓造の心はふたたびおちつきを失っていった。だれかに助けてほしいような、不安な心もとない孤独感があった。そしてまた、スタート・ラインに立ったマラソン選手にも似た緊張感があった。
「あなた、届けてきて下さって?」
夏枝は、玄関に飛んでくるだろうか。
「何を届けるんだったかね」
と、しらばくれてみたい気もした。
「夏枝、届けてきたぞ!」
と、大声で叫んでみたい気もした。
陽子の入籍に、どれほど自分が迷い、悩んだかを夏枝は知らない。
(今後どれほど陽子のことで、おれは苦しむことだろう? 出生の秘密を守りとおすという一事だけでも、どれほど神経をつかうことだろう)
(だが、しかし、おれはこの道をえらんでしまったのだ。いかなる苦しみにも、一人でじっと耐えてみせる!)
啓造は心をおちつけて玄関の戸をあけた。
ピアノできたえた夏枝の耳は敏感である。夏枝は戸があくと同時に必ず出迎える。しかし今日は、夏枝もだれも出てこなかった。家の中で笑い声がした。
「届けを出してきたよ」
と、告げるつもりの啓造は、出ばなをくじかれた思いであった。むっつりと、泥だらけの重い長ぐつをぬいだ。泥が手にべったりとついた。
茶の間には、だれの姿もみえなかった。廊下をへだてた寝室から、明るい笑い声があがった。
「まあ、わかるのねえ。もう一度徹ちゃん、手をふってごらんなさい」
夏枝の声がした。
啓造は、ふすまを細目にあけてそっとのぞいた。ガラリとあけてはいってもよいのだと思いながらも、啓造はなぜか素直にはいっていく気にはなれなかった。
夏枝が陽子をだき、徹と次子が両側から陽子をのぞきこんでいた。啓造はふすまの傍をはなれて、オーバーのまま茶の間のソファに腰をおろした。
再びみんなの笑う声がした。
(ルリ子のことは、だれも忘れてしまったのか)
啓造は煙草に火をつけながら、ふっと涙ぐむ思いだった。川原で死んでいたルリ子をだきおこした時のことが思いだされた。
(かわいそうに、一晩中ルリ子は、あの川原でうつぶせのまま死んでいたのだ)
みたび、ドッと笑い声がひびいた。啓造は立ちあがると、寝室のふすまをガラリとあけた。
「何だ! うるさいぞ。ルリ子が死んで年も明けないのに、何がそんなに面白いのだ!」
みずうみ
「早いものですねえ」
啓造と夏枝は、湖のみえる高台のあずまやに並んで腰をかけていた。湖は空の青をうつして美しかった。
「何が?」
啓造はさきほどから、向こう岸の、あざやかに紅葉した山々をながめていた。
樽前の頂上は、カンカン帽をおいたようで、その山の姿がめずらしかった。白い雲がひとひら、秋の陽をうけて輝いている。
「陽子のことですわ。あれからもう七年になりますわ」
「うむ、わたしもいまそのことを考えていたところだ」
啓造たちは、一家そろって支笏《しこつ》湖にあそびにきていた。
「おかあさーん」
遠くで呼ぶ陽子の明るい声に、夏枝は座ったままふりかえった。白いセーターに黒の半ズボンのひょろりと背の高い徹と、クリーム色のセーター、茶色のスカートの陽子がならんでかけてきた。
「おとうさん、おかあさん。これこんなにドングリをひろったのよ」
陽子は白いハンカチの包みを、啓造と夏枝の間にひろげてみせた。
「まあ、ずい分たくさんね、陽子ちゃん」
「ううん、ちがうの。陽子一人でひろったんじゃないの。ね、おにいちゃん」
「うん」
徹は幼いころからのくせで、眉根をかすかによせて父の啓造をみていた。啓造は陽子のひろげたドングリをチラリとみただけで、湖をみおろしている。
「おかあさんも拾いに行かない?」
陽子は、啓造にはとん着なく無邪気に夏枝のひざに手をかけた。
(何という目だろう?)
毎日みているはずなのに、一日に一度は夏枝の心の中でそう思う。何かがたえず燃えているような、それでいて人の心を吸いとるような、ふかぶかとした陽子の目であった。
「もう、ドングリはたくさんよ。ありがとう」
「陽子ちゃん、今度は落葉をひろおうか」
背は啓造の肩をこえているが、まだ澄んだ少年の声である。
「うれしいわ。しおりにするわ、陽子」
ポンとゴムまりのように飛びあがって、陽子はもうかけだしていた。
「いつもああですわ。陽子ちゃんのすばやいこと」
夏枝は七年前と、顔も姿もさほど変わってはいない。ただ一層言葉にも態度にも落ちつきがでていた。
「うん」
啓造は白いしぶきをあげて走るモーター・ボートを目で追いながら答えた。ひたいが七年前よりわずかにはげあがっている。少し肉づきがよくなっていた。
「あなたは、まだ陽子ちゃんのおとうさんにはなれませんのねえ」
なかなか陽子の父親らしくならないと、夏枝にいわれると啓造は、
「そうかね。これで十分父親のつもりだがね」
と、とぼけた。
「でも、いまだって陽子ちゃんのドングリをチラッとごらんになっただけですわ」
「…………」
「学校のことでも……」
いいさして夏枝は口をつぐんだ。
下の船着場から、遊覧船出航案内のアナウンスが流れてきた。
「学校のことでも……」
と、いま夏枝がいいかけた。それは陽子を近くの神楽小学校に入れるか、旭川の学芸大学の付属小学校に入れるかで、二人がいいあらそったことがあった。夏枝は付属小学校に入れるといいだした。
「わざわざ遠い所へやることはないよ。神楽小学校でいいじゃないか」
「いいえ。付属は父兄も教育に熱心で、子供たちの成績もいいんですって」
「成績のわるい子がいたら困るのかね」
「だって、教育は環境が大切ですわ。父兄がそろって熱心で、お友だちの成績もそろっていたら、よい環境じゃございません?」
夏枝は陽子のこととなると、いつも急にはきはきと意見をのべる。
「そうかねえ」
啓造は気のりのしない返事をした。
「そうですわ。あんまり貧しい家の子も行っていませんし……」
「そうか。ではやはりこっちの学校に、わたしは入れるよ」
啓造はさえぎるようにいった。
「まあ、どうしてわかって下さいませんの」
「わたしはね。貧しい家の子や、成績のわるい子のいる学校の方が好きなんだ。今の日本にはいろいろな子がいるんだ。どんな子供とでも友達になるということが大事なんだ」
「…………」
「能力のない子は励ましてやればいいんだ。貧しい家の子というのは、金持ちの子よりは大てい自立心があるよ。それにみならうことだな。体の弱い子にはやさしくしてやる。それでいいじゃないか」
「…………」
「どんな人間でも拒まずに、一人一人を大事にするというのが教育の根本だよ。人間を大事にしないのは諸悪のもとだと、だれかがいっていたがね。いろいろな子がいる学校でいいじゃないか。大学だっていわゆる名門ほど、エリート意識が強くて、他の人間をバカにするんじゃないのかね」
「わかりましたわ。どんな人間でも拒まず、大事にするということが大切だとおっしゃるんでしょう? あなたは、陽子ちゃんを大そう大事にして下さいますものね」
夏枝がその時冷ややかに笑ったことを、啓造はみずうみをながめながら思いだしていた。
「あなたは陽子ちゃんを、大そう大事にしてくれますものね」
といわれて、その時啓造は返答につまった。
陽子を引きとって以来、啓造は何とかして陽子を愛そうと心がけた。だが抱くことすらできなかった。生理的に受けつけなかった。佐石の子だから愛さなければならないとも思った。それが一生の自分の仕事だとも思った。しかしそう思えば思うほど、陽子を抱くことができなかった。
陽子がまだ三歳にならないころのことだった。夏枝のひざで陽子は絵本を大ごえに読みだした。いくども読んでやった絵本なので、夏枝は気にかけなかった。と、陽子が、
「てにてんてん、なあに」
「え? 陽子ちゃん字が読めるの?」
おどろいて夏枝は絵本を指で、
「この字は?」
「の」
「これは?」
「う」
「じゃこれは」
夏枝の声がうわずった。
「ふ」
陽子はいつのまにか字をおぼえていた。夏枝は思わず陽子を力いっぱいだきしめて、ほおずりをしながら啓造にいった。
「あなた! 陽子ちゃんは字が読めますのよ」
啓造は新聞に目をやったまま、いやな顔をした。
「ルリ子も徹も、こんな年ではまだ字は読まなかったよ。字なんか学校に行くころか、行ってからおぼえてもいいんじゃないか」
「まあ」
「その方がおっとりしていて、わたしは好きだね」
夏枝はその時あきれたように、啓造をみた。
「あなたって冷たいんですのねえ。わたくしはあなたと別れることができても、陽子ちゃんとはもうぜったい別れられませんわ」
その言葉に冗談のひびきはなかった。
啓造はしかしその時も、
「おりこうだね。陽子」
ということも、頭をなでることもできなかった。
陽子は、言葉も人より早くおぼえた。しかも幼児語をほとんどつかわなかった。
「おとうさん、いっていらっしゃい」
「おとうさん、おかえんなさい」
と、毎日夏枝にだかれていった。しかし妙にハキハキとした言葉づかいが、啓造の神経にさわった。
(今日こそはだきあげてやろう。頭もなでてやろう)
と、思って帰っても、陽子をみると反射的ににがい顔をした。しかし陽子はそのような啓造にも、何のこだわりもないようであった。一年生になったいまも、相かわらずとんで迎えに出てくる。陽子には、人の悪意をも、善意にうけとるふしぎなものが、生まれつき備わっているようであった。
「宿にもどりましょうか」
遊覧船をみていた夏枝の言葉に、啓造はわれにかえった。
「少しくもってきたようだね」
先ほどまで青かった湖水のいろも、微妙に変わって、いくらか鉄色がかっていた。
二人が立ちあがるのをみて、徹と陽子がかけてきた。
「ああ、こわかった(つかれた)」
陽子が小さな肩で息をしながら夏枝の手をとった。
「こわくなるほど走っちゃいけないわ」
最初は、ルリ子の身代わりと思って陽子を育てているつもりだった。しかし次第に、ルリ子だってこんなにかわいいと思えたろうかと考えるようになった。
「おかあちゃまもきらい、センセもきらい。だれもルリ子とあそんでくれない」
と、いったあの最後の言葉が、時折おびやかすように夏枝の心をかすめた。夏枝にとってこれ以上につきささる言葉はなかった。ルリ子への思いは、かわいいよりは哀れだった。そして、悲しく、にがく、つらかった。
だが陽子に対しては、負わねばならぬ責めはなかった。他人の手に育てられなければならなかった陽子の運命が、いとしさを誘った。そのうえ陽子はまちがっても、
「おかあちゃまもきらい、センセもきらい」
といいすてて、外に走りさってしまうところはなかった。外であそんでいても、陽子ほど明るい声の子はなかった。
啓造に頭をなでられたことがなくても、気にもかけず、無論おそれもしなかった。人をおそれないように犬や、ねこをもおそれなかった。よく近所の大きな犬の背にまたがり、
「ハイシイハイシイ、あゆめよ、こうま」
などと歌っている陽子は、人の微笑を誘わずにはおかなかった。
「こわかったら、お宿でおふろに入りましょうね」
「ぼく、またモーター・ボートにのりたいな」
徹がつまらなそうにいった。
「でも、もう二度ものったでしょう?」
「でもさ、もう一回のりたいなあ」
徹は口をとがらせた。
「おにいちゃん。おふろで泳がない?」
「うん」
徹はふしぎに、陽子の言葉には、ほとんどさからうことはない。それが、啓造には何となく気にさわった。二人は手をつないでかけていった。啓造と夏枝も歩きだした。
「仲がよくて助かりますわ」
啓造は、それには答えずに、
「村井は死ぬところだったらしいな」
とポツリといった。
「え?」
夏枝は、土の上に出ている、ニレの根に足をとられてよろけた。
「自然気胸をおこしたらしいと昨日高木がいっていた。あれは苦しいよ。肋膜腔に空気がどんどん入って、肺を圧迫するからね」
「おそろしいですわね」
「ここからハイヤーをとばして、洞爺まで見舞いに行ってみようか」
村井を見舞おうといわれて、夏枝は顔をくもらせた。
「療養所に子供たちを連れて行きますの?」
夏枝は村井よりも、いまは徹と陽子の方がたいせつであった。
「子供たちを病室まで連れて行かなければいいだろう? 君だって一度ぐらい見舞ってやるといいね」
啓造は、七年たったいまも、村井と夏枝のことを決して忘れてはいなかった。思い出す回数が少なくなっただけである。啓造は、かなり遠い昔のことでも、その当時のようにあざやかに思い出すことができた。あるときは、その当時よりも一層はげしい感情におそわれることさえあった。啓造の胸の中には、思い出をいつまでも新鮮に保つ何ものかがすんでいるようであった。
村井といえば松崎由香子が連想された。
(あの子はなぜ、いつまでも独身なのか)
しかし考えてみると独身は由香子だけではなかった。高木も辰子も相変わらず独身であった。辰子は親からの遺産が、不動産だけでも、かなりのものがあった。踊りと金がある。そのために人々は辰子の独身を不審には思わなかった。
(高木だって、もう三十八歳になる)
しかし啓造は、独身の高木に、いく分のうらやましさを感じてもいた。
「村井さんの療養所へは、あなた、お一人でいらっしゃいません? 徹は自動車に弱くて無理ですわ」
「そうか」
啓造は強いてとはいわなかった。
宿についた。コの字型に建った、だだっ広い宿である。徹と陽子が玄関前のひろばで石けりをしていた。
部屋に入ると炭火があかくおきていた。
「おかあさんは、おふろに入らないわ」
だれにともなく夏枝はいった。
「どうしたの」
徹と陽子が左右から夏枝にとりすがった。
「おかあさんね。ちょっとつかれたのよ」
夏枝は啓造にかるくうなずいてみせた。
「わるい時にきてしまったね」
啓造が苦笑した。
「バスにゆられて、二、三日くるったようですわ」
徹と陽子は何のことかわからず、啓造につれられて部屋をでていった。
夏枝はテラスの窓ごしに、みずうみをながめながら、ふっと四、五年前のことを思い出した。
たしか徹が二年生の時である。その日十月二十七日は陽子の三つの誕生日であった。
夕食のあと、夏枝は陽子と風呂に入っていた。すると徹が、
「ぼくも、はいるよ」
と風呂場のガラス戸をあけた。
そのあとのできごとを、夏枝は昨日のことのように思われてならなかった。
徹は、かぼそい体で、ガラス戸を押しあけるようにして、風呂場に入ってきた。
「徹ちゃん、おとうさんと入ったばかりでしょ?」
夏枝はたしなめる口調になった。
「でもさ、また寒くなったもの」
そのころの徹は、二年生といっても同じ年齢の子からみると、体も気持ちも幼かった。
「陽子ちゃん、おにいちゃんがダッコしてやるよ」
徹は、いつも湯舟の中で陽子をだきたがった。
「うん」
陽子はすなおに、ふとったかわいい手を徹のくびにまいた。
夏枝は体を洗いながら、湯舟の中の二人をほほえましくながめていた。子供を産んだとは思えない胴のくびれが、夏枝の下半身を一層ゆたかにみせている。まろやかなももの上を石ケンの泡がゆっくりと流れていた。
「陽子ちゃんは、今日で三つだよ」
「これだけ?」
陽子は小さな指を三本、徹の目の前に出してみせた。
「おにいちゃんはいくつ?」
「八つだよ」
「陽子一人ではいるの」
湯舟には陽子が一人で立てるように段があった。
「もう少しダッコしてやる」
徹はなかなか手放したがらない。
「大きくなったら、陽子ちゃんはぼくのおよめさんだよ」
夏枝は思わずハッと、洗う手をとめた。
「うん、およめさんになるよ」
陽子はあどけなくこたえた。
夏枝は、こんな寒い月の夜に、ほんとうに陽子を産んだような気がしていた。ルリ子が早春に生まれたためかも知れなかった。しかし徹の言葉に、夏枝は青年になった徹が、ふたたび同じ言葉を母の自分に告げる日がくるかも知れないと思った。
夏枝は、一生陽子が自分の真実の娘であってほしいと思った。しかし徹の妻になる陽子を想像するのも、たのしいような気がした。
「ぼくのおよめさんは陽子ちゃんだよ」
風呂から上がった徹は、いくぶん得意気に啓造に告げた。
「そうか」
啓造は聞いていたラジオのスイッチをきった。啓造の目がきびしかった。改まった口調で、
「徹、お前も二年生だからよく聞きなさい。陽子は徹の妹だよ。妹はぜったいおよめさんにできないのだ」
「どうして?」
「それは、大きくなったら、わかるがね」
「いやだよ。陽子ちゃんは、ぼくのおよめさんだよ」
徹が泣きだしそうな顔をした。
「ばか者!」
啓造の手が激しくとんだ。いまだかつて啓造は人をなぐりつけたことがなかった。
なぐられた徹はおどろいてポカンと啓造を見上げた。なぜ自分がなぐられたのか、何が起きたのかがわからなかった。
「あなた! 子供のいうことじゃございませんか。何もそんなに怒らなくても……」
夏枝の言葉に徹はわっと泣きだした。
「いや、こういうことは子供のうちにハッキリさせておこう。いいか徹。陽子は妹だ。どんなことがあっても、徹のおよめさんにはなれないのだぞ」
夏枝は啓造の少しあおざめた顔をみつめた。夫が何となく異常に思えてならなかった。
「徹。今なぐられたことを大きくなっても忘れるな。しっかりとおぼえておけ!」
啓造がなぜそのように激しくしかるのか、夏枝にはよくわからなかった。兄と妹として育てたものに、万一のことがあってはと恐れる老婆心《*ろうばしん》にしては冷静をかきすぎていた。
その時、啓造が心の中で、
(徹と陽子が、万一実の兄妹でないとわかり、恋するようになったとしたら……。そして陽子の父親がだれであるかを知ったとしたら……。想像以上の悪い事態におちいるのではないだろうか。どんなことがあっても、陽子を実の娘として通さねばならない)
と思ったことまでは、無論夏枝は知るはずがなかった。
(あれから四年たったのだわ)
夏枝は、宿の風呂にいる徹と陽子を思っていた。
村井が死ぬところだったと、啓造から聞かされても、夏枝は単純におどろいただけであった。何の切迫した感情もわかなかった。
村井が療養所に入ってからの七年を、夏枝は徹と陽子のことに心をうばわれてきた。
村井のことは、夏枝にとっては一時の心のゆらぎにすぎなかった。目の前から去った人をいつまでも愛するという心が夏枝にはなかった。愛してくれるから愛するという幼さが夏枝にはあった。特に、村井の思い出は、ルリ子の死につながっていた。一人胸の中にひめて、いくたびも思い出したいなつかしさはなかった。
夏枝はやはり夫の啓造が一番頼りであった。それは啓造に対する愛というよりは、むしろ利己的なものであった。しかし夏枝はそれを愛だと信じていた。
ひろい宿の中は静かだった。向かい側の棟には団体客の姿が見えた。だが騒音は夏枝の部屋にはひびかない。
(いかにも山の湖という感じだわ)
夏枝は満ちたりた思いであった。病院の経営もいよいよ順調であった。何もいうことはなかった。
かるい足音がした。陽子だった。
「おかあさん、元気になったの?」
かけよった陽子を、夏枝はにっこりと笑ってうなずきながら抱きよせた。湯上がりの陽子の匂いがこころよかった。夏枝はかるく目をつむった。長いまつげがかすかにふるえた。いつまでも、このしあわせが続くと夏枝は信じきっていたのである。
*老婆心 必要以上な親切心、配慮。
雪けむり
降ってはとけ、降ってはとけていた雪も、いつしか根雪になった。
十二月のはじめのことである。出勤した啓造が院長室のドアをおすと、
「よう!」
と中から声がした。高木であった。めずらしく疲れた顔をしていた。
「驚かすじゃないか。こんなに早くからどうしたんだね」
「斜里《しやり》からの帰りなんだ」
「斜里? 妹さんがいる所だね」
「うむ、その妹の長男の葬式で行ってきた」
「ほう、何の病気で?」
「うん、馬橇《ばそり》にひかれたんだ」
「それはまた、どうしたんだね」
「妹は斜里の奥にいるんだ。あそこはよく馬橇が通っているんだ」
「それに、ひかれたのかね」
「吹雪になったんで、学校がえりに近道をしたらしい。吹雪で顔も上げられなかったんじゃないか。顔を上げたって吹雪じゃ見通しがきかんだろう。馬の横っ腹にぶつかって、ころんだらしいんだ」
「かわいそうなことをしたものだね。何年生だったの」
「まだ一年生さ、かわいそうだったよ」
と、煙草に火をつけて、
「一年生といえば、君んとこの一年生はどうしている? この間支笏湖にきたとき、みたかったんだ」
「相変わらず子供にはよわいんだね。あの時、夏枝がね、君の病院に行くと、もらった当時を思い出して、いやだというんでね。電話で失敬したわけだよ」
「去年の春から会っていないな。どうだ一年ぺになって」
「うむ。まあ見ていってくれ給え。夏枝に似ているとよくいわれたんだが、このごろは丸顔になってきたよ。子供の顔って、何べんか変わるようだね」
(眉だけは相変わらず佐石に似ている)
と、思いながら啓造はいった。
「ああ、陽子くんはいいメッチェン(娘)になるぞ。あの子の目ってふしぎな目だな。みつめられると、大の男のおれでさえ、胸のあたりがおかしくなるぜ」
「うん。夏枝が自慢なんだ。外をつれて歩くとね、知らない人にもかわいいといわれるんだとかいってね」
「ほう! 末がおたのしみというところだな」
「それに、どこか超然としている子でね。周囲の人間の機嫌がよかろうと、悪かろうと気にもとめないんだ」
啓造の言葉には、いかにも親馬鹿のようなひびきがあった。高木が立ち上がった。
「それでは、シェーンな君のフラウ(妻)とめんこい陽子くんに会って行こうかな」
長い廊下を二人は何となくおしだまっていた。
「じゃ」
「うん」
雪の上に黒い影を落として高木が去って行った。
「夏枝さん、大変だ! 辻口が大変なんだ」
高木が辻口家の玄関で大声にさけんだ。
夏枝が出てきて、ていねいにおじぎをした。
「ようこそ! どうぞお上がりくださいませ」
夏枝は微笑した。
「辻口が大変なんだがなあ。おどろいてくださいよ」
高木がてれて、頭をかいた。
「おどろくものですか」
客間には、いっぱいに差しこんだ日の光があたたかかった。
「高木さんは、ちっとも学生のころとお変わりになりませんわ。いつでしたか津川先生が、たった今研究室で倒れた≠ニ、とびこんでいらっしゃいましたわね。父が倒れたのは、どこの津川先生かな≠チて、奥から顔を出しましたわ」
「あの時は、こっちがおどろいて倒れるところだった。参ったですよ」
「あれ以来、高木さんの大変だ≠ノはおどろかなくなりましたの」
顔を見合わせて二人は笑った。高木は出された座布団をふんで縁側に立っていった。
「この家は林がすぐそばでいいな。寒い朝はきれいでしょうなあ」
「ええ、樹氷がきれいですわ。植物という感じのしない非情な美しさですわ」
「少し木が少なくなったのかな。何だか林が明るくなった」
「ええ、ほら聞こえますでしょう」
耳をすますと何かかたい物をたたく音が、澄んでひびいた。
「木をたたくオノの音ですわ」
「ふうん。カーンカーンといい音ですがね。しかし惜しいな。学生時代には、この林も暗くて、うっとうしい感じで、好きだったがなあ」
高木は部屋にもどってあぐらをかいた。
「何時の汽車でいらっしゃいましたの?」
高木は斜里の葬式からの帰りであることを告げた。
「人間の命なんてわからんもんですな。村井は自然気胸で、あぶなくステっちゃう(死ぬ)ところだったが、その後もりもり元気になってきたようですワ」
「それはよろしゅうございました」
夏枝はさりげなく受けた。
「辰ちゃんはどうしてますかね。二、三年、いや四、五年は会わんな」
「あら! そんなにお会いになりません? 相変わらずでいらっしゃいますわ」
「いつだったかなあ。面倒くさいから辰ちゃんとでも結婚するかといったら、高木さんなんかと結婚したら、なお面倒くさいってやられたことがあったっけ」
「まあ、辰子さんたら……」
「あの人は一体、女かね。浮いた話も聞かないし、こちとらは男のうちに入れないのか、話をしていても妙にサバサバとしていて、どういうのかねえ」
その時、
「ただいま!」
と、勝手口で明るい陽子の声がした。
陽子の声に、高木は下唇をかるくかむようにして耳をかたむけた。
「おかあさん。どこ?」
茶の間の方で陽子の声がした。高木が、
「次ちゃんはいないんですか」
「ええ。急に結婚いたしまして」
夏枝が会釈して席を立った。次子は急に話がきまって秋に結婚した。そのあと、女中はいなかったが、さいわい次子が近所に所帯をもったので何かと重宝《ちようほう》していた。
夏枝と陽子が入ってきた。
「おじさん、いらっしゃい」
陽子を見て高木がいった。
「ほう、似ているな」
「え?」
思わず夏枝は高木を見た。
「そっくりだ。おかあさんによく似ている」
と、夏枝のいぶかし気な目をおしかえすように見かえした。
「どれ、おじさんにだっこするか」
と手をさしのべると、陽子はにこにこしてすぐに、高木のあぐらの中に小さな腰をすっぽりと落とした。高木は目を細めてほおずりをした。陽子は高木のひげづらをいやがる様子もない。
「陽子ちゃん。学校は面白いか」
「とっても面白い」
「とっても面白いか、それはよかった。何という先生だい?」
「わたなべ、みさを先生よ」
「男かい、女かい」
「女の先生よ。目が大きくて、とてもやさしいの」
「だれと並んでいる?」
「みわ、まさこさんよ」
「いい子かい」
「きれいなお顔をして、やさしい声で、お勉強ができるの」
「前に並んでいる子はだれだ?」
「ささい、いくちゃんと、よねつ、とよ子さん」
「いくちゃんはどんな子だ?」
「字が上手で、色が白くて、おりこうさんなのよ」
「フーン。じゃとよ子ちゃんはどうだ? 悪い子だろう?」
「悪い子じゃないわ。ハキハキして、とってもお勉強をして、おしゃべりしないもの」
「なんじゃい、これは!」
と、夏枝の顔を見て笑った。
「悪い子のいない組ですかね。陽子くんのクラスは」
「いるかも知れないけど、わかんないの」
「だめだなあ、こう素直なのは。陽子くん、もっときかん坊になるんだな」
「陽子、きかん坊よ。木のぼりするもの」
「へえ、女の子の木のぼりか、これはいい」
「それがとても上手ですのよ。おさるさんのようですわ」
「そうか、そうか。ところで陽子くん、おとうさんとおかあさんとどっちが好きだ?」
高木は陽子の顔をうしろからのぞきこんだ。
高木の問いに他意はなかった。しかし、夏枝は何となくハッとした。
「おなじくらい好きよ」
陽子は無邪気にこたえた。
(わたしの方が、こんなにかわいがっているのに)
夏枝はいささか不満だった。高木の前で、おかあさんの方が好きだといってほしかった。陽子の言葉に、夏枝は母親として感動すべきであった。夏枝には、それができなかった。
陽子は昼食を終えると、スキー遊びに外に出て行った。
「いい子だなあ」
「本当におかげさまですわ。わたくし、しあわせだと思っておりますわ」
「しあわせですか」
一瞬、高木の目がキラリと光った。
「ええ、本当に自分のおなかを痛めたように思われますの」
高木はお茶をのんで答えなかった。
「一度おたずねしたいと思っていましたが」
夏枝がいいよどんだ。
「何です? むずかしい話ならごめんだな」
高木が先手をうった。
「…………」
「何です? 気になりますぜ」
「でも……むずかしい話はごめんだとおっしゃるんですもの」
「そうですな。高木という男は、ちょっといい男だなんていってくれるのなら、さしつかえはありませんがね」
「また、そんなことをおっしゃる」
思わず夏枝は笑った。
「いいだしておいて口をつぐまれるのは、どうも気になる。なんです? まあ仕方がない。何でもききますよ」
「陽子ちゃんのことですけれど……。あの通り気性も頭も顔も申し分がございませんでしょう? 時々わたくし、あの子の親は、どんなお方かと気にかかりますの」
高木は黒檀のテーブルにほおづえをついた。
「あの子の親は、この目の前にいますさ」
「また、そんな……」
「そんなも、こんなもありませんな。さっき夏枝さん、あんたがいったじゃないですか。ほんとうに腹をいためたような気がすると」
「でも……」
「親を知ってどうするっていうんです? こんなできのいい子をもらって申し訳がないと返すわけですかね」
「まさか、そんな……」
「最初っから、辻口にもはっきりいってある。もらった子と思うな。自分の子だと思ってくれ。陽子くんのことは、高木は一切あずかり知らぬと思ってくれ。とまあ、こう約束したんだ。それでいいじゃないですか、夏枝さん」
地ひびきをたてて、屋根の雪が庭におちた。
雪けむりが霧のようにうつくしかった。
つぶて
高木の訪問があってから、二、三日たった。
「陽子ちゃん。ちょっと着てごらんなさい」
その夜、夏枝は陽子のための、正月のセーターを編みあげたところであった。
「はい」
ソファによって童話の本を読んでいた陽子が顔をあげた。その顔が、いくぶん青ざめている。しかし夏枝はできあがった白いセーターを満足気にながめていて、陽子の顔色に気づかなかった。
陽子は着ている服をぬごうとして、思わず顔をしかめた。
「あら、どうしたの? どこか痛い?」
「ううん、何でもないの」
陽子はかすかにほほえんだが、服をぬぐ手がぎこちなかった。夏枝は手をかしながら、
「どこか筋でも痛くしたんじゃないかしら。おかあさんにみせてごらんなさい」
「何でもないの」
陽子が少しあとずさりした。その顔色が、いつもよりさえないのに気づいて、夏枝はあわてて額に手をあてた。
「熱はないようね」
さらに、夏枝は自分のひたいを、陽子のひたいに当ててみた。
「陽子ちゃん、病気かい」
勉強をしていた徹がくるりとふりむいた。
「変ねえ。やっぱり手を痛めたのよ。手を上にあげてごらんなさい」
陽子は唇をきゅっと結んで両手をあげようとしたが、左手がうまくあがらなかった。夏枝はあわてて、下着をそっとぬがせた。と、同時に夏枝は悲鳴をあげた。
「まあ、どうしたの、陽子ちゃん」
陽子のかたぶとりの白い肩がドス黒くはれあがっていた。
「これじゃ、痛いわねえ。かわいそうに」
「やあ、これはひどいや。どうしたの」
徹もおどろいて声をあげた。
「陽子わかんないわ」
「わからないはずはないでしょ? こんなにひどいんですもの」
夏枝は、陽子が何かをかくしているのを感じた。
「何かぶっつけられたのかな」
徹は、自分自身も痛むかのように顔をしかめた。
「…………」
陽子は徹にほほえもうとしたが、眉をよせた。夏枝は陽子に寝巻を着せながら、
「何だかおとなしく本を読んでいると思ったわ。毎日スキーに行くのにねえ」
夏枝は、陽子のこんなひどい傷にも気づかなかった自分が責められた。
「だめよ。ケガをしたら早くいわなければ」
「うん」
陽子はこっくりうなずいて、夏枝の肩にほおをよせた。
「あなた! 陽子ちゃんを診てくださいません? ケガをしましたの」
夏枝は二階を見上げて啓造を呼んだ。
「何? ケガをしたって?」
啓造が二階でききかえした。
「肩がドス黒くはれていますの」
啓造は階段をかけ降りてきた。傷をみるなり、
「これはひどい。打撲だな。下手をしたら肩にヒビが入っているかも知れない。痛いだろう」
と陽子の顔をのぞきこんだ。
「少し」
「少しぐらいの痛みじゃないよ、これは」
と、夏枝をかえりみて、
「君、気がつかなかったのかね」
幾分とがめるような口調になった。
「すみません。陽子ちゃんが何もいわないものですから」
「そういえば、晩ごはんの時にも気がつかなかったな。陽子、だれかになぐられたのか? どこで痛くしたんだね」
啓造は、陽子のガマン強さにおどろきながらも、何となくいらだたしくなった。
「陽子、わかんない」
「わからない? そんなはずはない。だれかにぶたれたんだろう?」
陽子の目が明るく啓造を見返した。啓造は、
「痛い時は痛いとすぐいわなければいけないね。夏枝、すぐ車を呼びなさい」
少し腹立たしげにいった。
外科の松田が辻口病院の裏に住んでいる。
レントゲン写真の結果、骨に異状は認められなかった。
「危なかったですね。これではさぞ痛かったでしょう」
松田は人のいい笑顔を見せて陽子の頭をなでた。
「それがごらんの通り、泣きもしません」
啓造は、多少あきれ気味に陽子の顔をながめながらいった。
「ガマン強いお嬢ちゃんですね」
「どういうんですかね。神経ライのクランケ(患者)みたいですよ」
冗談のつもりでいった自分の言葉に、啓造は思いがけない毒を感じた。
手当てを終えて家へ帰ると、夏枝と徹が飛んで迎えに出た。
「いかがでしたの?骨は」
「うん、さいわい異状はなかったがね」
「まあ、よかったわねえ、陽子ちゃん」
夏枝は思わず大きな吐息をついた。
「バカだな、陽子!」
徹が、ニコリともせずにいった。
「バカだって? なぜだね」
啓造は、にわかに疲れが出たようにソファに寝ころんだ。
「バカじゃないわ。陽子ちゃんはほんとうにえらいんですのよ。実はね、あなた……」
夏枝の言葉をひったくるように、徹が興奮していった。
「井尾の奴、今度なぐってやる!」
「何だ、どうしたんだ?」
啓造は、徹の目が涙ぐんでいるのに気づいて、ソファから身を起こした。
徹はむすっと唇をかんだ。啓造が、
「どうしたんだ」
「あの、実は先ほど町内の井尾さんの奥さんが、二三夫ちゃんを連れてあやまりにいらっしゃいましたの。二三夫ちゃんが、陽子に石を入れた雪玉をなげたんですって。ね、陽子ちゃん、そうでしょう?」
陽子はだまったまま、肩に手をやった。
「二三夫ちゃんは、親にだまっていたらしいんですけれど、おとなりの進さんが、それを見ていたんですって」
「うん、それで?」
「進さんが、陽子ちゃん、とっても痛そうにしばらくじっと、しゃがんでいたよ、ってしらせたのだそうですの。それで、びっくりしてあやまりに見えたんですわ」
啓造は思わず陽子の顔を見た。しばらくじっとその場にしゃがんでいたという陽子の痛さが、啓造の身にしみてくる思いだった。
「神経ライのクランケみたいだ」
といった先ほどの、心ない自分の言葉が思い出された。
「陽子、どうしてそのことをいわなかったのだ?」
啓造の声はやさしかった。
「だって二三夫ちゃんがしかられたら困るもの」
「悪いことをした子は、しかられても仕方がないんだよ」
「でも、二三夫ちゃんね、ずっとせんに、いろがみくれたもの」
かばうというのではなく、陽子は心からその時の、二三夫のやさしさを忘れずにいっているらしかった。
「まあ、陽子ちゃん!」
夏枝は涙ぐんだ。
「徹は陽子がかわいそうだって、くやしがっておりましたの」
その夜、啓造はなかなか寝つかれなかった。
(おれは、ちょっとした人の言葉でさえも、何日も心にかかって恨むことがある。この七つの陽子には遠く及ばない)
啓造は、陽子がはいはじめたころのことを思い出した。書斎で本を読んでいると停電になった。啓造は用事ができて、ロウソクを持って向かいの部屋に入って行った。
すると、ねむっていたはずの陽子が闇の中を一人はいまわっていた。啓造を見ると、ニコッと笑って、陽子はふたたび機嫌よくはいだした。
その時、啓造は何となくゾッとした。生後七、八カ月の赤ん坊が暗やみの中で泣きもせずに、はいまわっているというのは、たしかに変に不気味であった。
その時の陽子と、今日の事件の陽子を啓造は思い合わせてみた。陽子は天性、恐怖とか悪意というものを持たずに生まれてきたように思えてならなかった。
(人の憎しみを負って生まれていながら、何とふしぎな子供なのだろう)
啓造は吐息をついて寝返りをうった。
「あなたもおやすみになれませんの?」
啓造は、陽子への感動を夏枝にさとられたくなかった。
「ああ、ねむられないな。コーヒーをのみすぎたのかもしれない」
夏枝はそれには答えず、
「ねえ、陽子ちゃんって、すばらしい子ですわねえ」
しかし、夏枝の言葉に啓造は、素直に相づちをうつ気にはなれなかった。
「あの子は人を憎むということを知りませんわ」
(佐石の子に、人を憎んだりする資格があってたまるものか)
すっと、陽子への感動が冷えた。自分でもおどろくような心のうごきであった。
(誰の子だろうと、その子に罪はあるものか。偉いものは偉いと、なぜおれは率直に認めることができないのだ)
「あなた」
「うん」
「陽子ちゃんの親って、ほんとうにどんな方達なんでしょうねえ」
「…………」
「私たちより立派な人であることは、たしかですわねえ」
「立派な人間がなぜ子供を手放したりするのかね」
「だって、どんな方だって、いろいろ事情はございますでしょう?」
(ルリ子を殺した奴の娘だ)
啓造はそういい出したい思いをおさえて再び寝返りをうった。その時ふいに、啓造は陽子が果たして佐石の子かどうか疑わしくなった。高木を信じている啓造は、このことについて疑ったことはかつて一度もなかった。
啓造はむっくりと床の上に起きあがった。
「どうなさいましたの」
夏枝もおどろいて体を起こそうとした。
「いや、何、ちょっと調べ物を思い出した。君はもうやすみなさい」
啓造はどうきをおさえかねた。
書斎に入ると、机の左袖の一番下のひきだしをあけた。ひきだしの底に四つ折りにたたんだ新聞が三部入っている。いずれもルリ子の殺人事件の記事がのっている新聞であった。
啓造はその一枚をひろげて机の上においた。それには佐石の顔写真がのっている。啓造は食い入るように佐石の顔をみつめた。
「うむ」
啓造は思わずうなった。今まで陽子の眉のあたりだけが佐石に似ていると思っていた。しかし今みると、頭の形や、顔のりんかくまでが、実によく似ていた。
啓造は、重大なことについて高木を疑った自分を恥じて、顔がゆがみそうになった。
「あなた」
階段をのぼってくる足音がした。
啓造はあわてて新聞をひきだしの中にほうりこんだ。
激流
その日は、部屋いっぱいに陽がさしこんで汗ばむほどであった。十二月中旬とは思えなかった。
(あたたかい日は何かいいことがあるような気がするものだわ)
凍りつくと、なかなか開かない窓も今日はしぶらずに開いた。
夏枝はハタキをかけながら、久しぶりにピアノを弾きたいような思いになっていた。体の底で音楽がなりひびき、それが自然と指先にのぼってくるような、耐えがたい衝動をおぼえた。こんなことはルリ子の死以来、絶えてないことであった。ピアノはあれ以来閉ざされたままになっている。
キーンと切れたピアノ線のあの不気味な金属性の音の印象が、直ちにルリ子の死を思いおこさせた。
(でも、もうそろそろ弾こうかしら。あれから七年弾かなかったんだもの)
陽子にもピアノをならわせたいと、夏枝は、かなり前から考えていた。
再びピアノを弾こうと心が決まると、ハタキを持つ手がふしぎなほどに、リズミカルに動いた。掃除が終わると、夏枝は窓をしめた。
書斎は八畳の洋間だった。入り口の半間と、窓の一間をのぞいた壁面は全部書棚である。父の代からの医書や、啓造が集めたドイツ語とフランス語の文学書も少なくなかった。
几帳面な啓造は、夏枝にも机の上は手をふれさせない。一かかえもある大きな地球儀と少し色あせた青い笠の電気スタンド、そして丸木舟の形をしたアイヌ細工の木彫りのペン皿が、作りつけのようにいつも同じ場所に置かれている。
日記帳がペン皿の横にきちんと置かれているのも、結婚以来、いまに至るまで変わらない。啓造は小学校三年ごろから、日記をつけていた。ほとんど一日も欠かさずつづけていた。
「日記を三年つづけて書いた人間は、将来何かを成す人間である。十年間つづけて書いた人間はすでに何かを成した人間である」
という誰かの言葉を引いて、高木が、
「そうすると、辻口って奴は、よほどドエライことをしでかすっていうことになるはずだがなあ。たいしたこともないようだぜ」
と、ひやかしたことがあった。
啓造の日記は、ドイツ語、英語まじりの、ほとんどメモのような簡潔なものであった。
新婚当時、夏枝はときおり、啓造の日記をのぞき見した。しかしそこには、夏枝の心を乱すようなことも、楽しくさせるようなことも、何ひとつ書かれてはいなかった。それで、夏枝は次第に夫の日記に無関心となり、以後全く手をふれることもなくなった。
日記帳はいつも机の上にあった。しかしそれはペン皿と同じように、夏枝にはただそこに置かれている物にすぎなかった。
その日記帳を何年ぶりかに手にとって開いてみたのは、今の夏枝の心が、何となくうきうきと心楽しくなっていたせいであったろうか。
夏枝は日記帳を開いた。
〇月〇日〇曜 晴
薬屋の外交員二名来訪 ヒドロンサンの件。看護婦貝森結婚のため辞意を洩らす
〇月〇日〇曜 曇
栄養士と入院患者代表、給食について懇談す。成果あり
〇月〇日〇曜 吹雪
近頃レントゲン写真現像拙し、技師に注意のこと
夏枝は読みながら微笑した。夫の日記は十年前と書体も文も全く同じであった。
(しかし……)
ふっと夏枝は、日記から視線をそらして、考える目になった。
(なぜ、私や子供のことを日記に書かないのかしら)
(妻や子供よりも仕事の方が大事なのだろうか)
夏枝には、啓造がそのような夫には思われなかった。七年前ルリ子が死んだころの啓造は、夏枝にも冷たく、とげとげとしていたことがあった。しかし今では、啓造はやはりやさしい夫であった。無論夏枝は、啓造が佐石の子を引きとったことも手伝って、夏枝につとめてやさしくしていることは知らない。
「辻口という男は、腹の底のわからないところがある」
一度だけ父の津川博士がいったことがあった。
「腹の底がわからないというのは、それだけ自分を律しているということにもなるがね」
その時、つけ加えるように夏枝の父はいったのであった。
(いつも何か考えこんでいるようでも、案外、病院のことだけで頭が一杯なのかもしれないわ)
あれだけ大きな病院を経営している夫に、妻や子供のことを考えてほしいというのは、無理というものかも知れないと夏枝は思った。
それにしても、女というものは、掃除をしている時でも、縫い物、洗濯、買い物の時でも、家族のことはかた時も忘れてはいない。
男が妻や子のことを考えるのは、一体いつなのかと、夏枝は日記をパラパラとめくった。いくら読んでも、十年前の日記と同じ調子のものであった。半ばあきれ、半ば感心しつつ日記帳をサックに納めようとした時である。
サックの中から、折りたたんだ紙が机の上に落ちた。何の気なしに開くと、病院用の太い罫紙に書かれた啓造の手紙であった。
何の期待もなしに、夏枝はその手紙を読みはじめた。部屋いっぱいに差しこむ、あたたかい陽の光がなければ、あるいは読まずに、もとに納めたかも知れぬ手紙だった。
啓造の一点一画をおろそかにしない几帳面な字が、整然とならんでいた。
読むうちに、夏枝の顔色が変わった。机のそばに立って読んでいた夏枝は、ずるずるとくずれるように床板の上にかがみこんでしまった。息をつめて読んでいる夏枝の口がかすかに動いた。しかし言葉にはならなかった。
――高木、この間君が斜里からの帰りに寄ってくれた時、よほどいおうかと思ったのだ。だが、やはりいうことはできなかった。
こんなことは誰にうち明けようもないことだし、よく事情のわかっている君に聞いてもらうより仕方のないことなのだ。
わたしは苦しいのだ。何としても辛いのだ。陽子は七つになった。七年という月日は、あるいは長い月日ではないかも知れない。しかしわたしには実に実に長かった。辛かった。
一体どんな理由があるにせよ、自分の娘を殺したその犯人の子を、何で引きとる気になったのだろうか。
高木、わたしはルリ子があの川原で死んでいた姿を決して忘れることはできないのだ。ルリ子のあの姿を思うと、わたしは陽子が憎いのだ。
「汝の敵を愛せよ」をわたしの一生の課題として生きるなどと、あの時臆面もなくわたしは君にいった――
最初ここまで読んだ時、夏枝はよく意味がのみこめなかった。一体夫は何をいっているのかと再び読み返した。そして何が書かれているかを知ったとき床板の上に、ずり落ちるようにかがみこんでしまったのである。
――そして、わたしも何とか陽子を愛しようと思って努力もした。こんな生涯を送る人間もあっていいではないかと、わたしはわたしの生き方を肯定してきた。
正直にいって陽子は、気味のわるいほど、善意に満ちた子供なのだ。こんな子の体の中に、殺人者の血が流れているのかと思うと、一体人間とは何だろうと、わたしは思うことがある。
わたしは、恥ずかしい話だが、あの子の頭をなでることができなかった。いくら努力しても、手があの子の頭にいかないのだ。それは生理的といってもいい、ふしぎなほど根強い嫌悪なのだ。
ところが、この間とうとう、あの子の頭をなでてしまった。いつものように「おかえりなさい」ととんできた陽子の頭を思わずわたしはなでてしまった。しかしそのあとが、たまらなかった。わたしは反射的にルリ子の死んだ姿を思い出したのだ。陽子をかわいがって、果たしてルリ子は喜ぶだろうか、そう思うとたまらなくなった。
ついでに白状することがある。わたしは、「汝の敵を愛せよ」をかくれみのにした、みにくい男なのだ。君ばかりか自分自身をもダマしながら、実は夏枝を許すことができなかったのだ。陽子を引きとったのは、夏枝に、佐石の子を育てさせたいという残忍な思いがあったことを、わたしは白状してしまいたいのだ。
高木、夏枝は七年前にわたしを、うらぎっているのだ。ルリ子が殺された日、夏枝は村井と二人っきりで、一つ部屋にいたのだ。二人がそこで何をしていたか、想像しただけでわたしは今も胸が煮えかえる思いだ。
しかも、夏枝はその後も、村井と通じていたのだ。無論、その場を目撃したわけではない。だが村井がきたというその日の夜、わたしは夏枝のうなじにキスマークをみてしまったのだ。二人が何をしたのか、意気地なしのわたしには問いただす勇気はなかった。事の真実を知りたいのに、知る勇気がなかったのだ。それ以来、わたしがどんなに苦しんだか君は知るまい。いっそのこと夏枝を殺して共に死のうかとさえ思ったのだ。
とにかく、わたしは陽子を愛するために、引きとったのではないのだ。佐石の子とも知らずに育てる夏枝の姿をみたかったのだ。佐石の子と知って、じだんだふむ夏枝をみたかったのだ。佐石の娘のために一生を棒に振ったと口惜しがる夏枝をみたかったのだ。高木、しょせん、わたしという男は――
手紙はそこで切れている。
書きたして出すつもりの手紙か、出すことをやめた手紙かわからない。ところどころ字が滲んでいた。啓造の涙のあとかも知れなかった。
夏枝は呆然としたまま、床板にすわりこんでいた。何の脈絡もなく、少女のころ海水浴に行った苫前《とままえ》の海が目に浮かんだ。眉のように浮かんだ天売《てうり》、焼尻《やぎしり》の二つの島の間に、夕陽が沈んでいった光景であった。
そのまま、夏枝は頭が突然マヒしたように、何を考えることも思うこともできなかった。
どのくらい時間がたったことであろう。夏枝の白くかわいた唇が、かすかに動いた。
「何という……おそろしい……」
夏枝は、啓造の愛を今の今まで信じきっていた。啓造の愛をうたがったことはなかった。夜遊びひとつせず、誰と浮気をしたといううわさも聞かない夫だった。
夏枝自身、村井への心のゆらぎはあった。しかし、啓造を去って村井のもとへ走るというような激しいものではなかった。村井への感情は、たとえ啓造に知られても、それほどとがめられることとは、夏枝には思われなかった。
だから、自分は夫に愛されている幸福な女だと信じきっていた。まさか夫が、七年も前から自分を憎み、佐石の子供を育てさせているとは、思いもよらぬことであった。
(嘘だわ。陽子が佐石の子供だなんて……)
啓造の手紙に一旦は驚いたが、信ずることはできなかった。陽子が殺人犯の子であることを、信ずることができなかった。たとえどんなことがあっても、ルリ子を殺した佐石の娘を、引きとることができるわけはない。
啓造はルリ子の父親ではないかと、夏枝は手紙のすべてを信ずることができなかった。
夏枝はふたたび啓造の手紙を読み返した。手紙に嘘のにおいはなかった。自分のうなじにキスマークのついていたことを、夏枝ははじめて知った。
(ただのくちづけだったのに……)
しかし、もし啓造が、他の女性によってキスマークをつけて帰ってくることがあるとしたら、自分は啓造を許せないだろうと思った。そう思った時、夏枝は啓造の怒りや、口惜しさが身にしみてわかった。
キス以上のことはなかったと、身の潔白を証しする手だては何もないことに夏枝は気づいた。
自分を殺して共に死のうと思ったという啓造の苦悩の中に、夏枝は啓造の愛を感じないわけではなかった。しかし、事もあろうに、えりにえって、ルリ子を殺した佐石の子を育てさせた啓造を、夏枝は許せなかった。
(陽子ちゃんが佐石の子供だなんて……)
夏枝は激しく首をふった。
(あんな明るい、かしこい、そして優しい子が佐石の子なんかであるわけがない……)
陽子の明るい目の底に、炎のように燃えるふしぎな輝きを夏枝は思った。
(嘘だわ!)
悪い夢をみているような心持ちだった。
軒のしずくが、たえまなく流れ落ちた。どこかで屋根の雪の落ちる音が聞こえた。
(夢かも知れないわ)
夏枝は、みたび手紙に目をやった。
村井と、自分とのことに気づきながら、かつて啓造は面と向かって詰問したことはなかった。知っていながら何もいわずに来た啓造を思うと、夏枝はこの七年の間の夜の生活がひどく不気味なものに思われてきた。
(村井さんのくちづけを、うなじに受けただけなのに、ルリ子は殺され、その上、殺人犯の子を、私は何も知らずに育ててきた。私はこんなに罰せられなければならないほどの悪いことをしたというのだろうか)
夏枝は、かわいい陽子を思い浮かべていた。
(嘘だわ。何かのまちがいだわ)
夏枝は、今は陽子がどこかの死刑囚の娘でも何でもかまわないと思った。しかし、佐石の娘であってはならなかった。
(ルリ子の命をうばった人間の娘だとしたら、これ以上育てて行くことはできない)
ルリ子の座るべき場所に、どうして佐石の子を座らすことができるだろう。
陽子が病気をして、いく晩も寝ずに看病していた時も、啓造はだまってみつめていたのかと思うと、夏枝は体から血が失せて行くような感じだった。
(そうだ! 夫は私が陽子の出生を知って、いかに嘆き、悲しみ、口惜しがるかを楽しみに待っているのだ)
(何という残忍な……)
やっと夫の自分に対する憎しみが夏枝の胸にじかに迫った。悪夢のような感じがにわかに現実となった。夏枝のかわいた目が動かなかった。
どこを見ているのでもなかった。じっと息をひそめて、夏枝は身動きひとつしなかった。今はただ夫啓造が憎かった。ルリ子の身代わりと思って、精魂かたむけて夏枝が愛したのは陽子ではなかったか。その陽子がルリ子を殺した佐石の娘であったのだ。夏枝はじっと息をひそめている間に、自分が恐ろしい鬼女に生まれかわって行くのではないかと思われた。それほど啓造が憎かった。
整った美貌であるだけに、表情を失った夏枝の顔は能面のように不気味であった。
と、突然、能面のような夏枝の顔が大きく変わった。目を一杯に見ひらいて、下唇を血のにじむほどぎりりとかんだ。青白かった顔が、みるみる充血してあからんだ。と思うと、あえぐように肩が大きく動いて、夏枝は床の上にうつぶせに倒れた。
「ルリ子ちゃん、ううっ」
全生命をしぼり出すような、悲痛な泣き声であった。
ルリ子を殺した佐石の娘とも知らず、陽子を愛し育てたことを、何とルリ子にわびてよいか、夏枝はわからない。七年前、死んだルリ子を抱きしめて夏枝は泣き叫んだ。だが今はその時よりも、もっと悲痛であった。
「許して、ルリ子ちゃん」
啓造は、自分のこの悲しみの日を待っていたのだと思うと、夏枝は二重にも三重にも苦しかった。
(あんなにかわいい陽子が佐石の子供だなんて)
信じがたいことだった。しかしそれをいつのまにか夏枝も信じていた。
(もう、陽子ともお別れだ)
そう思うと夏枝は、涙で何も見えなくなった。実の子ルリ子よりも今ではかわいい陽子なのだ。死別よりも辛いと夏枝は思った。
(高木さんだって、陽子が佐石の子と知っているのだ。何の恨みがあって、高木さんまで……)
高木が、陽子の親のことに触れると話題をそらした理由が、今になってやっと納得がいった。啓造が出生届をしぶった理由も、陽子の頭ひとつなでることのない理由も今はじめてわかったのだ。
(夫も、高木さんも、そして陽子ちゃんも……みんな私のところから去ってしまうのだ)
不意に夏枝は、ひどく孤独になった。
(徹と、辰子さんだけだわ)
いつか徹が、陽子はぼくのお嫁さんだといって、啓造に激しく打たれたことがあった。佐石の娘陽子と、徹の結婚を啓造がおそれていたのだということを夏枝は知った。
無論戸籍は兄妹となってはいる。しかし法律で認められない夫婦になる可能性はあるのだ。
(徹には、やはり陽子は本当の妹として通すしかない)
否も応もなく、夏枝は陽子の母親として一生を過ごさねばならないのだ。
(それとも真実を徹に打ち明けるべきか)
あの感じ易い徹が、どのような反応を示すか夏枝には想像ができなかった。
夏枝は、泣きはらした目を冷たい水でいく度も冷やした。しびれるような冷たい水が、夏枝の心をも冷たくさせていくようであった。
目を冷すと夏枝は、鏡台の前に静かに座った。結婚以来この鏡に夏枝は、自分の姿を映してきた。
(まさか、こんな思いで、鏡の中の自分を見る日が来るとは夢にも思わなかった)
自分でもひやりとするような、底光りのする目が、じっと自分自身をみつめていた。
夏枝は、その目をのぞきこむようにして、いつもより念入りに化粧をはじめた。
(陽子をこれ以上育てていくということはできない。といってあんなにかわいがっていたものを、急に手放したならば、世間の人々は不審に思うだろう)
(世間の人はとにかく徹が承知しないだろう。もし陽子が本当の妹ではないと知ったなら、徹は一体どうするだろうか)
夏枝は、先ほどからいく度も同じことを繰り返し思っていた。
鏡の中の自分を見すえるようにしながら、夏枝は上まぶたに、紅をはいた。泣いた感じが失せた。
(陽子の出生を知って、泣いたことを夫には絶対にさとられたくない)
夏枝は眉を心もち長くひき、口べにもいつもよりていねいに塗った。
(辻口は、事の真実を知った日の、わたくしの悲しみ悩む姿を見たかったのだ。絶対にとり乱した姿を見せてはならない)
化粧をすると、心が落ちついた。化粧は女の武器かも知れないと夏枝は思った。
(辻口は村井とのことを許さず、佐石の子を育てさせた。わたしもまた、決してその辻口を許しはしない)
村井との間を、誤解して苦しむのなら、誤解させておこうと夏枝は思った。
そして、陽子を少なくとも啓造の前では、今まで以上に愛しているように見せようとも考えた。
「そして、いつか身も心も辻口をうらぎってみせるのだわ」
夏枝は鏡の中の自分に誓うように、声を出して大胆につぶやいた。口に出すと、その言葉には妙に力がこもっていて、いつかきっと、自分は啓造をうらぎるにちがいないと思わずにはいられなかった。
ふいに村井靖夫の淋しいような、ニヒルな表情が思い出された。それは思いがけないほどのなつかしさであった。
(七年も会っていない)
村井の広いひたいも、長い指も、少し前かがみの長身も、何もかもがなつかしかった。
なぜ七年もの間、忘れたように過ごしてきたかが、ふしぎなくらいなつかしかった。
(陽子を育てていたからだわ。ルリ子の身代わりと思って必死になって育てていたからだわ)
それが佐石の娘だったのだと夏枝は、胸がたぎった。
「ただいまあ」
明るい陽子の声がした。
いつもと変わらぬ陽子の声だった。夏枝は息をつめた。今考えていた村井のことなど、みじんも心にはなかった。のどがひからびた。つばをのみこもうとした。しかしつばも出なかった。夏枝は化石のように、身うごきもしなかった。
ふすまがあいた。ランドセルを背負った陽子の笑顔が鏡にうつった。
「まあきれい。どこに行くの? おかあさん」
陽子は走りよって夏枝の肩に手をかけた。陽子は、夏枝にほおをよせて、鏡にうつる夏枝に笑いかけた。
(陽子だわ。昨日までと同じ陽子だわ)
夏枝は、まじまじと鏡の中の陽子をみつめた。陽子は、いつもとちがう夏枝のようすに気づいて、夏枝の顔をのぞきこんだ。
「病気なの? おかあさん」
(この子の親が、ルリ子を殺した?)
その実感が湧かなかった。啓造の手紙を読んだことが、夢ではなかったかと思われた。
「どうしたの? 病気ね。きっと」
そういって真実心配そうに夏枝を見上げる陽子の手をとって夏枝はいった。
「陽子ちゃん!」
夏枝の声がかすれた。夏枝は陽子のほおを両手にはさんで、その顔をのぞきこんだ。形のいい濃い眉。たえず何かがきらめくような黒い瞳。ややうすい形のよい唇。
(この子の中に恐ろしい血が流れているというのか)
「どうしたの? おかあさん」
夏枝のようすは、陽子にも異様に感じられた。陽子は首を少しかたむけて、
「あそびに行ってもいい?」
と立ち上がりかけた。
その時である。どうしてそんな気持ちになったのか、夏枝自身にもわからない。にわかにぐっと高まる感情が夏枝の両手に集まった。
「陽子ちゃん! おかあさんと死んで……」
言葉の終わらぬうちに、夏枝の手が陽子の首にかかった。
「いや、いや」
陽子がもがいて声をあげた。
陽子の目に恐怖のいろが走るのを、夏枝は見た。
「いや、いや」
陽子がふたたび声をあげた。
「死ぬのよ。二人で……」
二人が死んでいるのを見て、ろうばいする啓造の顔が目にうかんだ。
夏枝は、何かにつかれているようであった。ふしぎな恍惚とした思いで、夏枝は次第に手に力をこめていった。
啓造の驚愕した顔。呆然と立っている顔。そして、泣いている徹。
「ああっ!」
思わず夏枝は手を放した。
陽子は口から、泡をふいていた。そして息を引くように、くくっとのどを鳴らしたかと思うと、ワッと泣きだした。
「ああ、陽子ちゃん」
夏枝は思わず陽子をだきしめた。陽子も夏枝にしがみついて泣いた。
(何の罪もない子に、一体わたしは何をしようとしたのだろう)
夏枝は自分のしたことに気づくと、恐ろしさに体がふるえてならなかった。どんなことがあっても、自分の一生に人を殺そうとすることがあろうとは、夢にも思わなかった。
夏枝と陽子はだきあって泣いた。陽子はなかなか泣きやまなかった。ほとんど泣いたことのない陽子だった。それだけに、しゃくり上げては泣き、泣いてはしゃくりあげる陽子が、別人のように思えた。夏枝はあやまる言葉も、なぐさめる言葉もなかった。
(陽子は、この日のことを決して忘れることができないだろう)
成人した陽子が、どんな思いで今日のこの事件を回想することかと思うと、夏枝はたまらなかった。
やがて、夏枝は昼食の支度に台所に立っていった。何か夢をみているようで、現実感が伴わなかった。足もとがふらふらとした。
食事の支度を終えて茶の間にもどると、陽子がのどに手をやって、ぼんやりとすわっていた。いいようもない淋しげな表情だった。夏枝は胸をつきあげる思いで、
「陽子ちゃん、ごめんなさいね」
と手をとった。陽子は泣きはらした目で、まっすぐに夏枝を見かえした。
「おかあさん。どうして怒ったの?」
「怒ったんじゃないの。きっとおかあさん、夢をみていたのよ」
「起きていても夢をみるの?」
陽子の声には甘えがなかった。
「あのね。おとなは眠らなくても、夢をみることがあるのよ」
夏枝はドギマギして答えた。
「でも、夢のなかで、どうして陽子を殺そうとしたの?」
「まあ! 殺そうなんて……」
たしかに陽子の首に手をかけたはずである。だが殺そうとしたとなじられると、夏枝は涙ぐまずにはいられなかった。
(憎かったのではない)
夏枝は、七歳の陽子にいうべき言葉がなかった。
(陽子は、啓造や徹に、今日のことを告げるのではないか)
夏枝は何かに追いつめられたような、弁解しようのない自分の立場を思った。
「陽子ちゃん。おとうさんや、おにいちゃんにいわないでちょうだいね」
夏枝は自分の言葉にみじめになった。陽子はいぶかしげに夏枝を見た。
「おかあさんのこと、陽子はだれにもいわないわ」
その日、夏枝は啓造の帰りを待ちかまえるような思いで待っていた。全身を耳にするとは、こういうことかと思いながら、啓造の足音にきき耳をたてていた。
「今夜はまた少し凍《しば》れてくるね」
夕方、いつものように無造作にカバンを渡して、啓造はあがりがまちに腰をおろした。毛糸の靴下をはいているので、長ぐつは簡単にはぬげなかった。
夏枝は、かがんでくつをぬいでいる啓造の背を刺し通すようにみつめた。
(何も知らずに、わたしはこうして、毎日いそいそと迎えに出ていたのか!)
夏枝は怒りの表情を気づかれぬように、啓造のぬぎすてたくつを、ゆっくりとそろえた。
「どうした? 元気がないようだね」
啓造は、いつも出迎える陽子の姿が見えないことに気がついた。しかしたずねることはできなかった。
「すこし肩がこりましたの」
夏枝は肩のあたりに手をやって、首を左右にまげた。自然なしぐさだった。
夏枝は内心ほっとした。自分の声が、ふだんと変わりなかったからである。夏枝はあくまで、陽子の出生に気づかぬふりをして通さなければならなかった。もっとも打撃を与える方法で、啓造に報いなければならなかった。
茶の間にも陽子はいなかった。
啓造は、おちつきなく部屋を見まわした。
「おとうさん、おかえりなさい」
二階から徹がおりてきた。
「ああ、ただいま」
啓造は、徹のうしろから陽子がおりてくるようで、オーバーのまま立っていた。
「お着更えになりません?」
「ああ」
陽子は、いまだかつて、出迎えを怠ったことがないのに、啓造は今さらのように気がついた。同時に自分の冷たさをも省みられた。陽子がいないということに、こんなに気がかりになるということも、啓造には意外であった。
和服に着更えている間中、啓造は陽子のことに気をとられていた。だから、ともすればけわしくなる夏枝の視線に気づくはずもなかった。
茶の間にもどると、徹がいぶかしげに、
「陽子ちゃんは? おかあさん」
「お部屋で御本でも読んでいるんじゃないの」
夏枝も、さきほどから陽子が茶の間にあらわれないのを気にかけていた。いくら明るい元気な陽子でも、今日のことは子供心に相当こたえたにちがいないはずである。
「おかあさんのこと、陽子だれにもいわないわ」
といった先ほどの陽子の言葉に、夏枝は感動した。と同時に、負い目を感じないではいられなかった。
「変だよ、陽子ちゃんが見えないよ」
陽子の部屋を見に行った徹が、とがめるように夏枝を見た。
「えっ?」
夏枝がさっと顔色を変えた。
「なに、陽子がいない? まさかルリ子の二の舞ということもないだろう」
啓造の言葉に、徹が神経質な視線を走らせた。啓造は徹の鋭い感受性を無視していたことに気づいて、ハッとした。
「まだ外であそんでいるんじゃないか。そのうち帰ってくるよ。それより腹がすいたよ」
啓造は、不安をかくして、さりげなく食卓の前にすわった。
「ええ」
夏枝はうかぬ顔をした。啓造は、ひるに何があったかを知らない。徹を刺激しないようにと啓造はいった。
「心配することはないよ」
啓造の言葉に、夏枝はむらむらとした。
(やっぱり陽子は佐石の娘なのだ。夫のこの冷淡さは何ということだろう)
夏枝はだまって啓造の茶碗を手にとった。
(わたしが陽子を案ずると、夫は内心喜ぶにちがいない。といって冷静にしていると、不審がるにちがいない)
夏枝はいても立ってもいられない思いであった。
(陽子のうえに万一のことがあったとしたら。……もし二度と帰らなかったら……)
夏枝は思わず涙がこぼれそうになって、用事ありげに台所に立っていった。
(陽子ちゃん、どこにいるの? 早く帰ってきて。おかあさんが悪かったわ)
夏枝は陽子の首に手をかけたことを思うと、陽子がふびんでならなかった。
「おかあさん」
鋭い徹の声に、夏枝はあわてて涙をふいた。茶の間にもどると徹は啓造を見おろすように食卓の前につっ立っていた。
「おかあさん。陽子ちゃんはもらい子かい?」
徹がつっかかるようにいった。啓造と夏枝は思わず顔を見あわせた。
「なぜだね」
啓造はおだやかにいった。
「陽子ちゃんはおかあさんが産んだんじゃありませんか。月の出た寒い夜だったのよ。徹ちゃん、どうしたの?」
夏枝もやさしくいった。陽子が佐石の子と知った今、徹と陽子は真実のきょうだいであると、どうしてもいわねばならなかった。
「だってさ。陽子ちゃんがこんなに暗くなっても帰ってこないのに、おとうさんは平気な顔でごはんを食べているじゃないか」
「暗いといっても、まだ五時半だよ。陽子はしっかりしているからね。迷い子にもなるまい」
啓造は相かわらずおだやかにいった。
「それからさ。おとうさんは、陽子ちゃんにやさしくしたことがないじゃないか。おとうさんは陽子ちゃんをだいたことがないじゃないか。陽子ちゃんが……陽子ちゃんが、かわいそうだ」
徹は、半分泣きだしそうな顔で啓造をにらんだ。
陽子は水色のオーバーの上に、赤いランドセルを背負っていた。家を出たのは午後三時ごろである。
家を出てどこに行くというあてもなかった。自分の貯金箱をカギであけて、金は持ってきた。とにかくバスに乗ろうと思ったのである。
自分の首に手をかけた時の、夏枝の顔が忘れられなかった。
(おかあさんは、どうして陽子を殺そうとしたのかしら)
それが陽子には、どうしてもわからなかった。わかるはずもなかった。
陽子は、夏枝のすべてが好きであった。毎朝、かみをとかしてくれるのも好きだった。いつも、何となくいい匂いがするのも好きだった。上品でやさしい言葉づかいも好きだった。笑ったときの口もとが、子供心にも、何ともいえず好きだった。茶わんを洗っているときの後ろ姿も好きだった。雑巾がけをするときの、きびきびとした身のこなしも好きだった。わけても、
「陽子ちゃん」
と呼んでくれる時の、いくぶん低いが、やさしい声が何ともいえず好きだった。
夏枝さえ、いてくれれば淋しいことも恐ろしいこともなかった。二三夫に、石の入った雪玉を投げられた時も、そんなに辛いとは思わなかった。啓造の冷たさが、陽子の心に影をおとすことがなかったのも、夏枝の愛が満ちあふれていたからであった。
その夏枝が、陽子の首をしめたのである。その時の何かにつかれたような、夏枝の顔を陽子は真実恐ろしいと思った。
自分の信じきっていた、頼りきっていた母の夏枝が、一度も見せたことのない恐ろしい姿を見せた時、陽子の心にも、別の面がうまれたのである。
夏枝を、きらいというより、ただ恐ろしかった。今まで、陽子は暗いところも、大きな犬も恐ろしいと思ったことはない。だが、今日の夏枝の恐ろしさは、幼い陽子にはいいがたい複雑なものであった。
死ぬということが、どんなことかよくわからないながら、殺される恐ろしさを陽子は知ってしまったのだった。
陽子は神楽農協の前でバスに乗った。旭川に行くには、橋をひとつ渡らねばならなかった。バスがその橋の上をすぎるとき、陽子は生まれてはじめて「淋しい」ということを知った。今まで、一人で旭川に出たことはなかった。橋の下を流れる冬の川はくろかった。バスの窓に、ひたいを当てて陽子は外を見ていた。橋の下のサムライ部落の一軒の窓に、赤い布がぶら下がっていた。それが何となく陽子には淋しかった。あの赤いものは何だろう。マフラーだろうかと思った。
橋をこえると旭川市内であった。
バスはやがて、マルイデパートの横にとまった。いつも夏枝ときた時におりる停留所であった。陽子はそこでおりた。それから、どこへ行ってよいかわからなかった。信号が青に変わって、歩きだした人の流れに陽子は入った。人々は旭川駅の方に向かって歩いていた。
ぞろぞろと人の出てくる改札口の柵にもたれて、陽子は今ついたばかりの汽車を見ていた。
汽車の窓に、白いベビー服を着た赤ん坊をだいた女の人がいた。女のひとは陽子の方を見て、ほほえんだ。やさしいかんじだった。
(おかあさんみたいだわ)
女の人のそばにすわっていた男が、何かいった。女の人は笑いながら、しきりにうなずいている。
陽子は、その人がもう一度こちらを見ないかと、じっとみつめていた。発車のベルが鳴った。その人はとうとうふたたび陽子の方を見ずに、男の人と何か話しているうちに、汽車は去った。
汽車の出た向こうの構内には、黒い貨車がとまっていた。雪を白くつけた大きな原木がつんであった。
(おかあさんみたいに、やさしい人だった)
陽子は、のろのろと動きだした貨車をながめながら、目にいっぱい涙をためていた。
「どうしたの?」
駅員が陽子に近づいて、たずねた。陽子はうなだれたまま、ふたたび街の方に歩いていった。
マルイデパートの前までもどったとき、
(踊りのおばちゃんのところに行こう)
と陽子は思った。
辰子のことを、陽子は「踊りのおばちゃん」と呼んでいた。陽子は辰子を思い出すと、急に元気になった。
辰子の家は六条十丁目にあったから、八町ほど歩かねばならなかった。通りから一間ほど入った、がっしりした木造の二階建てであった。少しくろずんだ板に、花柳流、藤尾研究所と墨で肉太に書いた看板が下がっている。
玄関を入ると、まっすぐに一間幅の廊下があって、つきあたりが稽古場。廊下の右手がトイレ、台所、浴室、左手が内弟子二人の部屋と茶の間であった。辰子の部屋は二階に二間あるが、二階にあがった客はほとんどいない。
茶の間は十畳。この茶の間がおもしろい。踊りにはあまり関係のない、学校の教師、医者、銀行員、商店主、新聞記者など雑多な職業の男たちが、何とはなしに集まってくる。ひるでも、夜でもひまがあると出かけてくる。
辰子がいても、いなくても遠慮はなかった。ねころんだり、出窓に腰をかけたり、好きなところに、好きなように席を占めて雑談をする。
中には碁をうつ者、酒を飲む者、飯を炊く者、自分の家か人の家かわからない。
「米がなくなった」
と、だれかがいった翌日は、だれが持ってくるのか、もう米びつは一杯になっている。
この茶の間では、ニーチェも、ピカソも、サルトルも、ベートーベンも親しい友のように語られていた。
稽古のない時は、辰子は柱を背にして、ふところ手のままみんなの話をきいている。
太宰治が死んだ時、会ったこともない彼のために、この部屋で神妙にお通夜をしたこともある。
辰子はここに集まる人たちを「茶の間の連中」と呼んでいた。
酒もさかなも、だれがいくらという割勘ではなしに、何となく集まった物を何となく飲み食いするのだった。
「足ぐらい、きちんと拭いて上がってよ」
などと辰子にポンポンいわれようものなら、ほめられたように、喜んだりはにかんだりする連中で、他愛がない。
たまに、陽子をつれて夏枝が訪ねると、知っている顔も、知らない顔も喜んで拍手で迎える。しかしそのあとは別段チヤホヤするわけでもなく、
「自由というものは、本当に人間に与えられているものかねえ」
などと話が始まる。
夏枝は、辰子の茶の間の、この雰囲気をきらっていた。しかし陽子は、何となく活き活きした感じが好きだった。
「ごめん下さい」
と改まったあいさつはだれもしない。ノッソリと自分の家のような顔をして入ってくる。だらしがないようでいて、そのくせ、何となく不文律のようなものもあった。
辰子を独占しない。稽古場をむやみにのぞかない。弟子たちには言葉はかけず目礼する。
その日、陽子もだまって靴をぬいだ。そのまま真っ直ぐに稽古場に行くと、稽古はないと見えて、辰子が一人、舞台に立って踊っていた。内弟子が二人電蓄のそばにきちんと正座して、辰子の動きにつれて首を動かしていた。
陽子が入って行っても、言葉もかけずに辰子は一心に踊っていた。陽子には何の踊りかわからない。だが黒地に銀の柳の葉をパラリと散らした和服姿の辰子が、子供心にも美しく思われた。
レコードがとまった。すぐに、そばに来てくれるかと陽子は少し胸をときめかせた。だがレコードが鳴ってふたたび辰子は踊りはじめた。踊りが始まると同時に、辰子の体に別の魂がすっと入るようなふしぎな印象があった。
陽子はそれを、説明できないが感じとった。踊っている辰子の表情が時にきびしく、時にやさしく、時にうつろに変化するのが陽子には面白かった。
それから、なお三回ほど同じ踊りを踊って、ようやく辰子は舞台を降りてきた。
「おかあさんは?」
辰子はそっけなくたずねた。
辰子は陽子がかわいくてたまらない。そっけないのは情を制する時の辰子の態度である。意識してそうするのではなく、天性そうしたものが辰子にそなわっていた。
「おうちにいるわ」
「陽子一人で来たの?」
「そうよ」
「フーン」
なぜ一人で来たのかと辰子はたずねなかった。だまって陽子の背からランドセルをはずして、
「学校帰りなの?」
「おうちから来たのよ。おうちに帰りたくないの」
陽子の言葉に辰子は大声で笑った。
「なあんだ。家出をしたの? 生意気だねえ。陽子一年生だったね」
「そうよ」
「そうよは恐れいった。一年生の家出か。これは愉快だわ」
辰子は笑いながら茶の間に入って行った。四、五人いた男たちがふりむいた。
「何が愉快だって? 辰ちゃん」
「この一年ぺが家出してきたのさ」
「反骨精神じゅうぶんだぞ」
「話せるなあ」
男たちが手をたたいた。
陽子はかしこそうな目を見ひらいておじぎをした。
「おかあさんにしかられたのかい?」
高校の国語教師の市川が陽子にきいた。
「しかられないわ」
「なーんだ。しかられないのに家出をしたのか」
陽子は夏枝の今日の顔を思い出していた。
辰子は別だん陽子に言葉もかけなかった。陽子はランドセルから教科書を出した。外がだんだん暗くなった。
「淋しくないの?」
ヒナ人形のような顔立ちの内弟子がたずねた。
陽子はだまってニコッと笑った。辰子は見て見ないふりをしている。
夕食の時、内弟子が三角にむすんだおにぎりと、ゆで玉子を持ってきた。浅草のりの匂いが香ばしく鼻をついた。
碁を打っている二人の男だけが残って、他の連中は帰っていた。
「陽子ちゃんのおふくろさん、心配しているぜ。辰ちゃん電話をしないのか」
「あほらしい。おふくろさんは心配するのが商売じゃないの。心配させておけばいいじゃない?」
「辰ちゃんがいうと、それもそうだなと思うんだからふしぎだよ」
「だって、そうじゃない? こんな小さい子が家を出てくるのは、それ相応に親にも悪いところがあるんだよ。親だって心配しながら、自分が悪かったとか、ああすればよかったとか、反省もするんじゃないの。心配ぐらいさせておきなさいよ」
辰子は三味線の糸をゆるめながら、陽子を見てにっこり笑った。
「この子はね」
辰子は陽子を目で指して、
「今までばかじゃないかと思っていたのよ。いつもニコニコ笑っていてさ。ちっとも怒るということがないんだもの。怒らない人間なんて、何となく不正直なにおいがして、わたしは好かないねえ」
茶色のセーターを着た高校の教師の市川が、陽子をまじまじと見て、
「怒らないのは不正直か」
とつぶやいた。
「それが今日はランドセルをしょっておうちに帰りたくないの≠ニきたじゃない。気に入った。この子は頭がいいけれど、人間、頭がいいだけじゃつまらないからねえ。性根がなきゃねえ」
「辰ちゃんは、また滅法性根がありすぎるからな」
碁盤を横にかたづけて、市川が立ちあがった。
陽子ははじめて母のそばをはなれて眠るのに淋しい顔もせず、辰子の部屋で眠ってしまった。
午後九時を過ぎたころである。電話のベルが鳴った。
「きたね」辰子は一人ニヤリと笑って受話器をとった。夏枝の声であった。
「もしもし辰子さん? わたくしですの」
「わたくし? 何かご用?」
「あの、陽子ちゃんがいないんですの」
「フーン」
「一応、警察に届けましたけれどね、どうしましょう、わたくし」
「どうしましょうったって、どうしましょう。何でまた陽子くんがいなくなったのよ?」
「それが……辰子さん、陽子が万一またルリ子のようになったら……」
夏枝の声がすすり泣きに変わるのを、
「陽子くんはここに来ているよ」
と制しておいて軽く舌うちをした。
「まあ! 本当ですの。ひどいわ辰子さん、なぜ早く知らせて下さいませんでしたの。ひどい方、ひどい方」
夏枝の声を聞きながら辰子は答えない。
「もしもし、辰子さん聞こえます?」
「ひどい方、ひどい方って聞こえてるわよ」
「まあ、いやな方ですわ。わたくしこれからお伺いしてもよろしゅうございます?」
「お伺いされては困ります。朝稽古で毎日四時には、起きなきゃならない。陽子は眠っているもの。どこへも逃げやしない。明日送り届けるよ」
「でも、陽子ちゃんの顔を見なければ、安心してねむれませんもの」
「陽子はね、おうちに帰りたくないってさ。何があったか、たずねもしないからわからないけれど、よくよくのことじゃないのかな」
「…………」
「ゆうべ、おかあさんから電話がきたよ」
朝の食卓で、辰子は陽子にいった。
「そう……」
陽子は何かいいたそうに辰子の顔を見た。
「おかあさん、心配して泣いていたよ」
「泣いていたの? おかあさん」
陽子は困ったように箸をとめた。
「泣かせておけばいいさ。あんなおかあさん」
辰子の目が笑っている。
「かわいそうだもの、泣いたら」
「だけど、陽子を怒ったんでしょ?」
陽子は自分がもらい子だとわかって家を出たのではないかと、辰子は昨夜からそのことを心配していたのであった。
「しかられたんでないの」
「じゃ、どうしておばちゃんの家へ来たの」
「…………」
陽子はきのうのことを思いうかべた。しかし夏枝に首をしめられたことを、いいたくはなかった。思い出すだけでも、いやなことであった。
「しかられもしないのに、だまって家を出てくるなんておかしいな」
(やっぱり陽子は、自分がもらい子だということを知ってしまったのかも知れない)
うつむいて何か考えている陽子の姿に、辰子は次第に不安になった。
「今日も、おうちへ帰りたくないの?」
「ううん、陽子帰るわ」
明るく、ハッキリした声であった。
「おにいちゃんとケンカした?」
「しないわ」
「おともだちに、何かいわれたの?」
「何もいわれない」
「フーン」
辰子は陽子の目をのぞきこむようにして、
「陽子はおとうさん好き?」
「好きよ」
「おかあさんは?」
「好き」
陽子の目に、かすかなかげりを辰子は見たような気がした。
「おにいちゃんは?」
「大好き!」
陽子は、にっこりした。
(では、一体何で、この子は家を出てきたのだろう?)
ふだんなら、根ほり葉ほり≠ニいうことを辰子はしない。しかし、陽子のようなこだわりのない性質の子が、家を出てきたということは、納得できないものがあった。原因をある程度はつきとめておきたかった。
(夏枝にきいた方が、手っ取りばやいかな?)
食事を終えた辰子は、煙草に火をつけた。
「おばちゃん。うちのおかあさん好き?」
陽子の目が、真剣であった。
「そうねえ……」
辰子は、陽子の真剣な目に、まじめに答えなければならないと思った。
「陽子のおかあさんは、好きだよ。でも、きらいなところも少しはあるね」
「ぜんぶ好きじゃないの?」
「だれでも、人間というものは、好きなところや、きらいなところがあるもんだからね」
「おばちゃんにもあるの」
「ああ、もちろんさ」
「でも陽子、おばちゃんはぜんぶ好きよ」
「うれしいことをいってくれる」
辰子は、本当にうれしそうに笑って、
「だけどね、自分で、あの人が好きと思っても、その人がいい人だとは、きまっていないんだよ。その反対に、きらいだと思っても、その人が悪いというわけでないこともあるんだよ」
「フーン、どうして?」
「きらいだと思う自分の方が、悪いことだってあるんだよ」
(一年生の陽子には、むずかしいかも知れない)
辰子は煙草をくゆらしながら、どう説明しようかと思案した。
「よく、わかんない」
「そうそう、ほら、だれのことでもきらって、人の悪口ばかりいっている人が、陽子の友だちにもいるだろうさ。ね? そんなときは、悪口いって歩く方が悪いんだよ」
陽子はコックリとうなずいた。
「陽子は、たいていの人が好きでしょう?」
「うん、たいてい好き。おばちゃんは?」
問われて辰子は苦笑した。
「おばちゃんも、たいていの人が好き。だけど、それはおばちゃんに親切にしてくれるからよねえ。人間って、あまりりこうじゃないんだよ。その親切な人が、ちょっといやなことをすると、すぐきらいになるのさ」
陽子は、目をパチパチさせた。
「陽子だってさ。おかあさんにいつもやさしくしてもらっていても、たった一度、いやなことをされると、きらいになるかも知れないね」
思わず陽子が、大きくこっくりとうなずいた。
(おばちゃんは、昨日のことをぜんぶ知っているみたいだ。本当だわ。おかあさんは、ずうっとやさしくしてくれた。そして、いやなことは、昨日たった一度だったんだもの)
陽子は、急に母の夏枝が恋しくなった。
「少しぐらいのいやなことは、人間はガマンをしなければだめよ。いやなことがあるたび、おばちゃんのうちへ来て、そのおばちゃんのところもいやになったら、こんどはどこへ行くの。あそこもいや、ここもいやで、だんだん行くところがなくなるよ。そして、人は自殺したりするんだよ。自殺って何のことか知っている? 陽子」
「知っている。自殺ってね、自分でドクをのんだりして死ぬの」
辰子は、一年生の陽子を相手に、自殺の話までしたことに気づいて、苦笑した。
「とにかく、少しぐらいのいやなことはがまんすることさね」
「おばちゃんも、いやなことがある?」
ふたたび陽子が反問した。
「それはあるよ。いやなことや淋しいことも」
辰子の顔が、ふっとかげった。
辰子は、昨夜の夏枝の電話の様子では、朝はやばやと迎えに来るだろうと思っていた。それが七時を過ぎても、電話さえこない。辰子は、夏枝がどんな一夜を過ごしたか、知らなかったのである。
夏枝は、陽子の行方がわかると、急に腹だたしくなった。陽子が辰子に告げ口したことだろうと思うと、恥ずかしさで身のすくむような思いであった。
「陽子ちゃんはもらい子か」
と、鋭く放たれた徹の言葉も、結局は陽子がだまって家を出たためだと、夏枝はそのことでも腹がたってねむれなかった。徹の手前、佐石の子と知りながらも、陽子を今までのように育てなければならないと思うと、啓造への憎しみが、新たになった。
どこへもやりようのない、陽子のことを思うと、自分と徹の将来が不安でならなかった。今から家出するようでは、あの明るい、くったくのない陽子の心の奥に、何がひそんでいるのかわかったものではない。陽子がいる限り自分の将来のすべての希望や幸福が断たれてしまったように、夏枝には思われた。
夏枝は一夜で、陽子に対する心持ちに距離ができていた。
そのような夏枝の心情が、辰子には無論わかるはずはなかった。
夏枝が食事の支度をしていると、外に車の止まる音がした。
「陽子ちゃんだ!」
窓から外を見て、徹が玄関にとびだしていった。一夜ねむることのできなかった夏枝は、目の下が少しくろずんでケンのある表情になっていた。
「まあ、辰子さん、ご迷惑をおかけいたしましたわ」
迎えに出た夏枝は両手をついて低く頭をさげた。
「おかあさん!」
陽子が靴をけちらすようにして脱ぎすてると、夏枝の肩にしがみついた。
「陽子ちゃん」
それは、昨夜夏枝が憎んでいた陽子の姿ではなかった。夏枝は思わず陽子をだきしめて涙ぐんだ。
徹が食い入るように、その二人の姿をみつめていた。
「チョン! チョンチョンチョンチョンチョン」
辰子が芝居の幕切れの拍子木を、口でまねてニヤニヤした。この家に昨日以来、何が始まっていたかを知らない辰子には、単にめでたしめでたしの一幕にすぎなかった。
啓造も、徹も陽子も出て行ったあと、夏枝と辰子はペチカの傍らに向かいあっていた。
「母親失格じゃないか。今からきらわれちゃ」
辰子は夏枝の気を引きたてるように明るくいった。くろずんだ目のあたりや、何となく沈んで見える夏枝の様子に、辰子は、
(腹をいためた子供のように、心配でならなかったのだ)
と感じ入っていた。
「陽子も、家出するほど大きくなったかと思うと、たのもしいじゃない?」
「…………」
「たのもしいといえば、ほんとうにたのもしい子だよ。何でおばちゃんの家へ来たのと、きいてもさ。コレッポッチもしかられたなんていわないんだもの」
「…………」
疑わしそうに、夏枝は辰子を見た。
「おかあさんにしかられたのか、徹くんとけんかでもしたのかと、きいたけれど、だれともけんかもしないし、しかられもしないっていうのよ」
「…………」
「一年生の家出にも感心したけれど、告げ口や陰口のない子なのにも、ちょっと驚いた」
辰子の言葉にウソのにおいがないことを、夏枝は感じた。陽子の首に手をかけた昨日の姿をだれにも知られたくなかった。ふっと「殺人未遂」という、よく新聞記事に見る文字が大きく迫ってくるようであった。しかし辰子にも知られていないと判って、夏枝はひそかに安心した。
「女の子なんか、小さい時からペチャクチャと、人の陰口をいうために生まれてきたようなのが多いじゃない? 一体あの子は……」
(どんな親の子どもなのかねえ)
と、うっかり口に出かかった。
七年前、夏枝が陽子を産んだといった時から、辰子は進んでだまされてきたのである。
「……ばかなのか、利口なのかねえ」
「さあ、どうなんでしょう」
夏枝は、何か考えている様子であった。
「何せ、陽子っていうのは魂のあるという感じだね。頭もよいが性根はもっとすわっているっていう子だね」
「それほどでもありませんけれど……」
辰子が陽子をほめる言葉に、夏枝は次第に気が重くなってきた。
陽子が、昨日の事件を辰子にもいわなかったことに、夏枝は感動すべきであった。しかし、いまは素直にものごとを受けとることが、できなくなっていた。
「ダンナも心配したでしょうさ」
「さあ、どうでしょうか」
(佐石の子供のことなんか、気にするものですか)
「夏枝、疲れているね。眠られなかった? 陽子を昨日のうちに帰してやればよかったね」
辰子は、夏枝の浮かない表情を、ただの疲れと思ってながめていた。
青い炎
「院長先生。何とか正月までに退院させていただけませんか」
入院患者の、このような訴えは、毎年十二月ともなれば必ず何度か聞かされる。
今日も、三人ほどの患者から、その申し出をきくと、何かに追われるようで、啓造は疲れてしまった。仕事が終わっても、すぐに帰る気にもなれず、院長室でぼんやりと煙草を手にしていた。
(疲れの原因は、入院患者のことだけではない)
昨夜一睡もしなかったらしい夏枝の、浮かない表情をいつのまにか、啓造ははっきり思い浮かべていた。
(あれほどまでに、陽子を愛しているのか)
夏枝が陽子の出生を知ったとは、啓造は夢にも思わない。
陽子が無断で辰子の家に行った原因は、夏枝の言葉通りに信じていた。
「わたくし今日ちょっと、きつく陽子ちゃんをしかってしまったんですの。わたくしに、きつくしかられたことなどなかったものですから、悲しかったのかも知れませんわ」
夏枝は、そう啓造にいったのである。
啓造は、陽子については、辰子の家に泊まると知って安心していた。それよりも徹が、
「陽子ちゃんはもらい子か」
といって、父の自分を強く責めたことに、心を痛めていた。
(徹と陽子は、どんなことがあっても、実の兄妹で通さねばならない)
啓造は、改めてこのことを決意させられた。そして徹に疑いを持たせるような態度を捨てて、もっと陽子の父らしくふるまわねばならぬと床の中で幾度も自戒した。
幸か不幸か、啓造の心は徹の鋭い言葉にのみこだわっていた。だから、夏枝が陽子の出生を知ってしまったことに気づかなかった。しかも、今朝帰ってきた陽子が、夏枝にしがみつき、二人が泣かんばかりに抱きあっているのを啓造は見た。その時、啓造は、
(全く本当の親子のようだ。こんなに夏枝は陽子を愛している。もし、陽子が佐石の子だと知ったら……)
と思っていた。昨日、夏枝が知ってしまったことを、啓造はついに気づかなかったのである。それで啓造は、夜も眠らずに過ごした夏枝のことを思うと、佐石の子を育てさせている自分の残忍さを責められる思いであった。疲れは、病院の仕事のせいばかりではないことに気づくと、いよいよ啓造は帰るのがおっくうになった。
思いきって帰ろうと立ち上がった時、電話のベルが鳴った。受話器をとると、
「札幌の高木様からお電話でございます」
と交換手が告げた。
「おい辻口か」
相変わらず元気な高木の声であった。
「ああ、元気かね。何か急用かね」
「フン。愛想のないいいぐさだな。用なき電話という、イキな電話のあることを知らねえな」
上機嫌な、高木の笑い声が聞こえた。誘われるように啓造も微笑した。疲れがほぐれていくようであった。
「元気か」
高木がたずねた。
「ああ、元気だよ」
「元気といったところで、どうせお前はピンシャンと生きのいい顔をしていないだろう? 病院の方はどうだ?」
「うむ。おかげ様で、はやり過ぎているよ」
「おかげ様は、よかったな。医者や坊主のはやるっていうのは、どうも気がひける話だ」
「…………」
「もっとも、はやったところで健康保険じゃ、倉が建つほどのこともあるまい」
「ああ、重労働だ。今日は内科の外来だけで四百人近かった」
高木は、今まで札幌から電話をかけてきたことがなかった。啓造は何の用事か見当がつきかねた。
「四百人? 七時間に四百人とすると、一時間に六十人近くじゃないか。一人当たり一分か」
一通話の終わりの信号がはいった。
「いや、内科の外来は二人でやっている。注射や投薬だけの再来もあるから、一分の診察というわけでもない」
啓造の生真面目な応答に高木が笑って、
「相変わらずの奴だな。ところで、どうだ? 眼科の診療具は、どこかに売りとばしたのか」
啓造はかすかに顔をくもらせた。
「いや、まだあるがね」
「だろうと思って、実はそれで電話したんだ」
用なき電話といった言葉を、高木はとうに忘れているような言い方で、
「村井の奴が、春にはエントラッセン(退院)するらしいんだ。奴、今札幌にちょっと帰ってきているんだ。開業というのは、まだ早いだろう? 体はともかく金がない。他に頼むところがない訳じゃないが、先ず順序として辻口に相談してみようと思ったわけだ。お前だって今また、眼科をひらくというのは大変だろうけれどな」
すぐには返答しかねる話であった。
「もう、そんなにいいのかね」
「そうらしいんだ。秋に自然気胸を起こして、あぶなくステっちゃう(死ぬ)ところだったろう? 面白いことに、あれが幸いしたんだな。マイシンで小さくなっていたカベルネ(空洞)がおしつぶされたんだよ」
「ああ、時々ある例だね」
「もともと、この二年ほどは無菌だし、肥ってね。エントラッセンの話は何度か出ていたぐらいだ。自然気胸のおかげで総仕上げになったらしいぜ。悪運の強い奴だよ、村井も」
「…………」
「まあ、考えておいてくれ。今すぐ返事もできないだろうからな」
「ああ、事務長に相談しておこう」
受話器をおくと、啓造はふしぎな淋しさを感じた。外はまっくらであった。灯のとどくところだけに、雪の降るのが見えた。暗やみの中から、踊り出るように雪は乱舞していた。
(高木らしくない)
啓造は、そのことが淋しかった。今の電話には、高木らしい率直さがなかった。別に用事のない電話かと、話をしているうちに、うまく話にのせられたような後味の悪さがあった。
それは、裏切られたような感じであった。
啓造は、大事なことほど、口に出していえない性格であった。だからこそ高木の豪放磊落な、腹の底まで見えるような率直さに啓造は、ひかれてもいた。
その高木が、今日は単刀直入に用件をきりださなかったことに淡い失望を感じた。村井のことだけに、それが変に啓造には淋しかった。
しかし半面、慰められる思いもあった。一つのことをいうにも、いおうか、いうまいかとたえずぐずぐずと思い悩む啓造であった。その啓造から見ると、いつも思ったことをズバリズバリといって、人を恐れぬ男に見える高木にも、時には率直にいえないこともあるのかと思うと、高木と啓造の人間の差が縮まったようで、慰められた。
(しかし、どうして高木は率直に、村井を使ってくれときり出せなかったのだろう?)
(村井と、夏枝のことを知っているからだろうか?)
しかし、そのことを知って村井の復職を希望するような男とは思えなかった。
啓造はオーバーを着てドアを開けた。
ドアを開けると、ぶつかりそうなほど近いところに、事務員の松崎由香子が立っていた。
「どうしたんだね?」
由香子の円《まる》い小さな目が、すがりつくような表情を見せていた。
「あの……村井先生なんか帰っていらっしゃらない方がいいと思います」
(なぜ村井の動向を、この子は知っているのか)
「村井君から、手紙でも来たの?」
いつも一点をみつめているような、激しい由香子の目の色がふいにうるんだ。啓造はだまって由香子と院長室にもどった。
「手紙なんかもらいません。いま、わたくし交換室に遊びに行っていたんです。交換の晴子さんが、ちょっと席を立ったとき、私に代わりに座っていてとおっしゃって……」
「その時、高木から電話が来たのかね」
「ハイ」
「そして、盗聴したというわけか」
「ハイ」
由香子には、悪びれた様子がなかった。
「いけないね。そんなことをしては……」
(村井の愛人なのだろうか)
啓造は立ったまま、由香子を見おろした。
「先生、村井先生は帰らないでしょうね」
「さあ、どうなるのかねえ」
由香子は、啓造を見上げたまま一歩前に出た。
「院長先生。先生は何もご存知ないんですか」
「何も知らないのかって、一体何のことをだね?」
由香子は、啓造の言葉にじっと唇をかみしめた。かわいそうなほど小さな唇であった。電灯の光に、由香子の長い髪が一部分だけ金髪のように輝いて見えた。
「院長先生。ご存知ないんですか? 村井先生は、院長先生の奥さんを好きなんです」
「それで?」
啓造は椅子に腰をおろした。彼は表情を変えなかった。
「それでって、院長先生はかまわないのですか?」
啓造はだまってバーナーに火をつけた。青い炎がしずかにゆれた。
「コーヒーを入れよう」
「コーヒーなんか、のみたくありません」
由香子は怒ったようにいった。
「君は、村井君が好きだったの?」
啓造の問いに、由香子はまじまじと啓造をみつめた。そしてくずれるように椅子に座ったかと思うと、肩をふるわせて泣き出した。
「どうしたの?」
啓造は、何の涙ともわかりかねて呆然とした。
「困ったなあ」
(人におかしく思われるじゃないか!)
啓造は、いらだたしげにいった。
「泣くのはやめなさい」
少し強くいうと、由香子は意外に素直に、
「はい」
と答えて顔を上げた。
(いつか、出勤の途中でこの子に泣かれたことがあった。この子は泣き虫なのかな。一体何で泣き出したのだろう)
啓造はバーナーの火を消した。由香子はじっとうつむいてハンカチを目にあてている。
「まだ泣いているの?」
「いいえ」
由香子はハンカチを膝の上において、啓造を見上げた。ぬれた目が笑いかけてきた。あどけない感じであった。
(この子はいくつなんだろう? 二十六か七にはなっているはずだ)
「どうして泣いたりした? 困るじゃないか」
由香子は幼くうなずいて、
「すみません。でも村井先生を好きかなんて、おっしゃるんですもの」
「…………」
(村井を好きだから泣いたのか、きらいで泣いたのか)
啓造には、娘心がよくわからなかった。
「とにかく、お帰り。泣かせて悪かった」
啓造はおだやかにいった。
「はい」
ちょっと、うなだれたままたたずんでいたが、
「村井先生は、帰ってこないようにおねがいします」
(村井は来ることになるかも知れない)
反射的に村井の復帰が、啓造にものがれようのないことに思えた。予感のようなものであった。
白い服
正月も過ぎ、二月に入った。
暦の上では春がきても、零下二十度を越える日が幾度かあった。
「三月三日のおひなまつりにね」
陽子が学校から帰ると、ランドセルをおろしながら夏枝に話しかけた。
「ええ」
夏枝は鏡台に向かって肌の手入れをしていた。
「陽子、学芸会に出るのよ」
「そう」
夏枝はそっ気なく答えて、鏡の中の自分の顔から視線をそらさない。
村井が四月から、再び辻口病院に帰ってくると、啓造は昨夜夏枝に告げたのである。啓造は事務長に、眼科を再開し、村井を復帰させることを相談していた。事務長は意外に乗り気で、
「そうですか。村井先生が帰ってきますか」
と喜んだ。村井の以前の成績を事務長は忘れていないようであった。
村井が、肺結核になったころ、眼科は外来患者も入院患者も溢れるほどで活気があった。
しかし、いまの辻口病院は、内科、外科、耳鼻科だけで十分にやって行くことができた。忙しすぎるぐらいであった。何も村井の復帰のためにわざわざ眼科を開設することはなかった。
しかも、そのために病室を眼科にさかなければならなかった。眼科の仕事を知った看護婦がいなかった。
「何も、いまさら眼科を開くことはない」
と、一部では反対の声も上がった。村井を知っている医者は、外科の松田だけであった。ほとんどの看護婦も村井を知らなかった。
七年前に病気で倒れた村井に対して、院長は温情すぎるという者もいた。しかし、内科の医者は眼科をおくことに賛成した。
高血圧、糖尿病、バセドー氏病などは、眼科医の協力が必要であった。
病院が繁栄しているいま、少しぐらいの経済的な負担があっても開設にふみきろうという意見もあった。
啓造も内科医としては、眼科はあってもいいと思っていた。しかしそれは、村井でなければならないということではなかった。
啓造は、学生時代から高木の前にいい子になりたいという思いがあった。高木ほど啓造を賞揚する人間はいなかったからである。
一人前の病院長になっているいまも、啓造は高木に悪く思われたくなかった。
夏枝と村井の件を、あるいは高木が知っているかも知れないと思えば、なおのこと村井の復帰を拒めなかった。
ふたたび村井と夏枝が近づくかも知れないという不安がなくもなかった。
しかし七年半という月日が、啓造の不安を少なくさせた。
「おかあさん。陽子ね、学芸会に白い服を着て踊るのよ」
陽子は、熱心に鏡の中をみつめている夏枝の姿を、ふしぎそうにながめながらいった。
「白い服?」
夏枝は、オウム返しに答えただけであった。
(村井さんが帰ったとき、わたしは七年前と少しも変わっていてはならないのだ)
むしろ、七年前より若々しく美しくなければならなかった。夏枝は、手鏡をとって顔に近づけた。鼻の下に、かすかな一本の横じわがみえる。夏枝はそっと指でおさえてみた。
「おかあさん」
「…………」
夏枝は、てのひらでかるくほおをたたいた。肌理きめはこまかいが、弾力がないような気がした。
陽子は、話をきいてくれているのか、どうかわからない夏枝を不安な目でながめた。
「おかあさん。白い服をつくってくれる?」
「白い服?」
夏枝は再び手鏡をのぞきこんだ。鼻の下のかすかなしわにこだわっている。
陽子が佐石の娘であることを知ってから二カ月経った。
夏枝の陽子に対する気持ちは、いまでは大きく変わっていた。以前は誇りに思っていた陽子のこだわりのない明るい性格さえ、
(しかられても泣きもしない。蛙の面に何とやらのようだ)
というような思いに変わっていた。
徹が神経質に、啓造や夏枝の表情をみつめているので、表面にあらわすことはできなかった。
それでも、以前は魚などを陽子に一番大きいところをやったりしていたのが、いまではいつのまにか一番小さくなっていた。徹や啓造の気づかぬところで、夏枝の陽子に対する態度が変わっていた。
以前は陽子に呼ばれると、何をおいても先ず陽子の言葉に熱心に耳を傾けた。それがいまではおざなりになった。陽子のために何かしてやるという気持ちが失われていた。
陽子に何の罪もないとは、わかっていた。しかし、ともすると、陽子がルリ子を殺して何くわぬ顔で辻口家に入りこんでいるような気がするのである。
「おかあさん。三月三日までよ」
「三月三日? なあに」
夏枝は、村井の帰旭に心をうばわれていた。
(夫はわたしをうらぎった。今度こそ、わたくしも夫をうらぎろう)
啓造を苦しめるには、村井に近づくのが第一であることを、夏枝は知っていた。
(わたしは、何も知らずに陽子を育ててきた)
そう思って、夏枝は陽子をふり返った。
陽子がにっこりと笑いかけた。
「つくってね、おかあさん」
「何をつくるの」
「あら、白いお服よ」
「どうして?」
陽子は夏枝が、自分の言葉を何もきいていないことを知った。
「あのね。おひなまつりの学芸会に出るの。白いお洋服で踊るのよ」
「学芸会で踊るの?」
夏枝は、はじめて陽子の方に向き直った。
「そうよ。白いお洋服で」
「おそろいにするのね?」
「作れない人はいいって先生がおっしゃったの」
「そう。作れない人もいるわね。何人で踊るの?」
「石原スミちゃんと、野口チヨさんと……」
陽子はそういって、あとは思いうかべるようにしてから、
「六人よ」
「そう」
夏枝は再び鏡の中をのぞきこむようにして、眉のあたりを軽くマッサージした。
「作ってくれる? おかあさん」
「…………」
(学芸会に白い服を着て出るのは、陽子ではなく、あの死んだルリ子でなければならないのだ)
夏枝は陽子に白い服を作ってやる気にはなれなかった。
「三月三日に着るんでしょう?」
「そうよ」
陽子はうれしそうに、鏡の中の夏枝の顔にうなずいた。
「白ければどんな服でもいいの?」
「白いセーターと、白いスカートと白いくつ下だって」
「白いセーターと白いスカートと白いくつ下ね。わかったわ」
夏枝は着物の袖を二の腕までたくしあげて、乳液をたっぷりとすりこんだ。青味を帯びた白い肌が、てのひらに吸いつくようであった。夏枝は満足気に二の腕を、軽くつまんだ。
「おかあさん、学芸会に来てくれるの?」
「そうねえ」
夏枝はこんどは首すじにコールドクリームでマッサージを始めた。
陽子は、だまって夏枝をみつめていた。母の気持ちがそれていることを、陽子は体一ぱいに感じとっていた。
「行けたら、行くわね。外で遊んでいらっしゃい。おかあさんは忙しいから」
夏枝は白い腕をみせて首すじのマッサージに休みなく指を動かした。
さびしそうに部屋を出て行く陽子の姿を鏡の中に夏枝はながめた。
(何もかも、夫が悪いのだ。どこの母親が、自分の娘を殺した者の子供を育てることができるだろう。何も知らずに、今まで実の娘のようにかわいがって育てたこの口惜しさ、無念さを一体だれがわかってくれるだろう)
いつしか、鏡の中の夏枝の目が涙にぬれているのを、夏枝自身も気づかなかった。
「おなか、すいちゃった。おかあさん、何かない?」
徹は学校から帰るなり、ソファにねころんで夏枝にいった。夏枝は皿に盛りあげた手製のドーナツをテーブルの上においた。
「少し、おそかったのね」
「うん、あしたの学芸会の会場作りをしてきたの。六年生って使われるんだ」
「それは御苦労さまね」
「あした、おかあさんも見に来るでしょう?」
「そうねえ。忙しいのよ、おかあさん」
「だって陽子ちゃんが、ゆうぎに出るんだもの。見に来たらいいよ」
「…………」
徹は、ドーナツを持つたびに、一回一回手拭で指をぬぐった。
「陽子ちゃん、上手だよ」
「そう」
「何となくカッコがいいんだ。手をたたくのも、首をまげるのも」
「そう」
「みんな、白い服を着るんだよ。今日から、もうみんな白い服を着て踊っていたよ。陽子ちゃんだけさ、ちがう服着ているの」
「…………」
「陽子ちゃん、明日は白い服を着て行くんでしょ?」
「勿論よ!」
一瞬、戸惑って答えた夏枝の表情から、何かを鋭くかぎ当てたように、徹はドーナツを食べる手をとめた。
「どうして、今日着せてやらなかったの?」
「だって、学芸会に着ればいいんですもの」
「白い服は、あるの?」
夏枝は、ちょっとためらって、
「今日、できてくるのよ」
「今日?」
徹は、眉をよせて何かを考えるように、
「なんだ、まだ、できていないのか。どこに頼んだの、おかあさん」
徹の目が何かをさぐるように、夏枝をみた。
「アサヒ・ビルの武田さんよ。今日届けて下さるはずだわ」
「フーン」
徹は指を一本一本ていねいに、手拭でぬぐっていた。
「心配しないでもいいのよ、徹ちゃん」
「うん」
徹はむっつりと部屋を出て行った。
(陽子が、一人だけ白い服を着ていなければ、徹は何といって怒るだろう)
夏枝は、しかし逃げ口上を用意しておいた。
(武田さんがうっかりして忘れてしまったか、どこかに失くしてしまったことにしてもいい)
徹の感情も考慮しないわけではなかった。しかし、夏枝は陽子に「おかあさん」と呼ばれることさえ、時には耐えられない気持ちになっていた。わざわざ、服を新調してやる気には、なれなかった。一人だけが、ちがう服を着て学芸会に出る辛さを、陽子は味わってもいいのだと、夏枝は当然のようにそう思っていた。
アサヒ・ビルの武田生地部には、徹もいくどか夏枝に連れられて行ったことがある。徹は陽子の服をとりに行こうと、自転車に乗って街へ出た。早く陽子を喜ばせてやりたかった。旭川駅前のアサヒ・ビルは、辻口家から四キロほどのところにあった。
武田生地部はビルの二階にある。徹は階段を一段おきにとび上がるようにして上って行った。客が四、五人いて、女店員が応対している。徹は急に気恥ずかしくなって、陳列してある生地を見上げた。色とりどりの春ものの生地が天井から流れるように並べられてあった。
その時、一人の店員が徹に近づいて微笑した。客の連れてきた子供と思ったようである。徹はかたくなって女店員にいった。
「あの辻口ですが、頼んであった服はできていますか」
「辻口さん? ちょっとお待ち下さいね」
ばら色のほおをした店員は、やさしくいって、台帳を開いた。徹の見たことのない顔であった。
「辻口さんは、お正月から御注文をいただいていないようですけれど、少々お待ち下さいね。いま主人にきいて参りますから」
徹は少し不安になった。
(たしか、アサヒ・ビルの武田さんといっていたけどなあ)
その時、メジャーを長く首から垂らした女主人が近づいて、
「まあ、辻口さんの坊ちゃんじゃありませんか。御注文のお洋服をとりにいらっしゃったんですって?」
「はい」
日本人ばなれのした顔立ちの女主人は、目を大きくくるりと動かして愛想よく笑った。
「どんなお洋服でしたかしら?」
「白いんです」
「白い生地ですの? たしか、お宅は今年になってから、一度もお見えになっていらっしゃいませんけど」
と、女主人はちょっと頭をかしげてから、
「お宅にお電話して伺ってみましょうか。どこか、よそのお店かも知れませんわね」
徹は何かで頭をなぐられたような感じがした。
「いいんです。まちがいました。さようなら」
何かいっている声をうしろに、徹は階段をかけおりた。
(おかあさんの嘘つき!)
徹は自転車にとび乗ると、力一杯ペダルを踏んだ。
「おかあさんの嘘つき!」
徹は怒りと恥ずかしさで頭が熱くなった。ペダルを力の限りに踏みながら、ポタポタと涙をこぼしていた。
陽はすでに山にかくれて、三月の夕風が冷たかった。雪どけの水が、アスファルトの上にうすく凍りついていた。いつもの徹なら、神経質で万事に用心ぶかかった。凍ったアスファルトの道が、どんなに滑りやすく、危険であるかを知らないはずがなかった。だから、いまのように、無茶苦茶に自転車を走らせるということもないはずであった。
(陽子の奴、かわいそうに、あした何を着て学芸会に出るのだろう)
徹は自分が車の往来の激しい街の中にいることを忘れていた。
(おかあさんったら……)
徹は母のことを考えると、悲しくなった。美しくて、やさしくて、上品な母親だと、徹は心ひそかに誇りに思ってきた。その母がなぜこんな嘘をいったのかと思うと、情けなくてしかたがなかった。
(あんなの、ぼくのおかあさんじゃない)
その時、徹は一条二丁目の交差点にかかっていた。
信号が赤に変わった。徹はそれに気づかなかった。
(おかあさんは、なぜ服を作ってやらないんだろう? そのくらいのお金は……)
涙を腕でグイと拭ったその時である。
「キイッ!」
急ブレーキの音がした。
青信号で進んできたトラックが、徹のすぐ前にあった。
アッと思った瞬間、自転車は横すべりにずるずるっと滑って倒れた。
「信号が目に入らないのか! バカヤロウ」
トラックの運転手は、自分が轢ひかなかった安心で、大声にどなった。人が集まって来た。道が凍っていたことが幸いした。徹は転んだだけですんだ。もし転ばずにそのままトラックにぶつかったならば、大ケガをするところであった。
徹は、痛めた膝をさすりながら立ち上がった。自転車のハンドルが曲がって、きかなかった。よろよろと自転車を押して人目を逃れるように歩道に入って行った。
(罰だ!)
歩いているうちに、膝の痛みが増してきた。
(おかあさんが陽子ちゃんの服を作ってやらなかったから悪いんだ!)
(もしかして、ぼくがここでトラックにはねられて死んだら、それは一体だれのせいなんだ?)
徹は痛む足を引きずった。
(陽子ちゃんは井尾の奴に石を投げられて、あんなにどすぐろくはれていたのに、だまっていた。だけど、ぼくはだまってなんかいられない)
ハンドルのきかない自転車が重かった。半里もの道を、徹は母への腹立たしさをつのらせながら、のろのろと歩いて行った。
ようやく家に帰りつくと、夏枝が外に立って徹の帰りを待っていた。
「まあ、徹ちゃん。転んだの? ケガをしたんじゃない?」
徹は母の顔を見ずに、大げさにビッコをひいた。
「まあ、自転車もこわれて……。ケガをしたところ、見せてごらんなさい」
「…………」
「こんなに暗くなるまで外にいては危ないのよ。早く帰っていらっしゃいね」
「おかあさん! ぼくアサヒ・ビルに行ってきたんだ」
徹は自転車を放りだした。
「アサヒ・ビルに行ってきたんだ」
という徹の言葉が夏枝の耳を打った。夏枝は返事のしようがなかった。暗いのがさいわいであった。
夏枝は徹が放りだした自転車を起こしながら、
「どこへ、行ってきましたって?」
「アサヒ・ビルに行ってきたんだ」
「あら、お洋服とりに行ってくれたの? それはごくろうさん」
「…………」
徹は先にたって家に入った。
啓造はまだ帰ってはいなかった。徹は膝を打ったほかに手にもかすり傷を負っていた。夏枝が心配して問いかける言葉を、徹は怒りにふるえる唇をかんで、一切答えなかった。
「おにいちゃんのお耳は、今日は日曜日なのね」
陽子が徹をなぐさめるように話しかけても、徹はむっつりとおしだまっていた。
「どうしたの? 徹ちゃん。そんなに足が痛むのなら、病院に行かなくてはいけないわ」
夏枝は、徹の怒りの原因を知らぬかのようにふるまった。
「足なんか、どうだっていいよ」
徹は、反抗的な口調でいった。
「何を怒っているの? ああ、徹ちゃん、アサヒ・ビルに行って、お洋服はどうしたの? 持ってこなかったじゃない?」
「持ってこれるはずないじゃないか!」
「まあ、どうして?」
「おかあさんのうそつき!」
徹が泣き声になった。
「どうしたの? 徹ちゃん。おかあさんをうそつきなんていったりして」
夏枝はおだやかにいった。
「武田さんに陽子の服なんか、頼んでいなかったじゃないか」
「あら! 武田さんでそうおっしゃってたの」
夏枝は、本当に驚いたようにいった。
「今年はまだ、おかあさんは一度も武田さんに行っていないって、小母さんがいっていたよ」
夏枝の態度に徹は少しわけがわからなくなってきた。
「あら、おかあさんは、あの背の一番高い店員さんに頼んできたのよ。奥さんは、まだお店に出ていらっしゃらなかったから……」
いま、徹を怒らせては大変なことになると、夏枝は嘘を重ねた。
「背の高い人?」
「ほら、徹ちゃんのオーバーを作る時、寸法をとって下さったでしょ?」
「ああ、あの人か。いなかったようだよ。だけど帳面にもつけてなかったがなあ」
徹はそれ以上、母を疑うほどの気持ちを、まだ持っていなかった。
「あら、困ったわねえ。あの店員さん、忘れてしまったのかしら。陽子ちゃん、どうしましょうねえ。あしたの白い服ができていないらしいのよ」
「白い服できてないの?」
陽子は、ちょっとうなだれた。
「そうなんですって。困ったわねえ」
夏枝は、陽子が学芸会に出ないといい出すのではないかと思っていた。
「陽子ちゃん一人だけ、ちがう色の服じゃ、恥ずかしいよ。かわいそうだなあ」
徹は、慰めようのない顔で、陽子をみた。
「おかあさん。陽子どの服を着ていくの?」
陽子が顔をあげた。夏枝を責める顔ではなかった。
「そうねえ」
(自分一人だけ、服がそろわないのに、この子ったら何とも思わないのだろうか)
陽子はこの二、三日、学芸会の服ができてくるのを、楽しみにしていたはずであった。
「だって、みんな白い服なんだろう? 陽子ちゃん一人だけ、ちがう服なんて恥ずかしいだろう?」
徹は弱りきっていた。
「恥ずかしくないの。陽子」
「まあ、恥ずかしくないの? 陽子ちゃんが恥ずかしくなくても、おかあさんが恥ずかしいわ」
夏枝は、陽子が少しも困った顔をしていないのが不満であった。
「おかあさん恥ずかしいの?」
「そうよ。みなさん、おそろいのお洋服で、陽子ちゃんだけ、ちがうお服だったら、おかあさんが笑われるわ。どうして作ってあげないんでしょうって」
「そうだな。辻口のおかあさんってケチンボだなんていわれるかも知れないな」
「まあ、どうしましょう」
「カネがあるのに、ケチンボだって、きっとみんなにいわれるよ」
徹は陽子が服のことを気にしていないので、安心して冗談をいった。
「本当ね。陽子ちゃんだって恥ずかしいでしょ?」
夏枝は、何とか陽子が恥ずかしがってほしかった。
「だって、おかあさんはケチンボじゃないもの。恥ずかしくないの、陽子」
「おそろいでなくても、いいの?」
「うん。陽子ね、人とおなじお洋服を着るのは好きじゃないの」
「フーン」
徹が感心したように陽子の顔をみつめた。
(あした、学芸会の時になったら、陽子だって気がひけるにちがいない。それとも、まだ一年生だから、何とも思わないのだろうか)
と思っていた。
「おなか、すいたわ」
服のことなど忘れたようにいう陽子が、夏枝にはひどくふてぶてしく思われてならなかった。
次の朝、陽子は一人で真っ赤なビロードの服を着て起きてきた。
陽子は、白い服のことを一言もいわずに、家を出た。
登校の途中で徹がいった。
「かわいそうになあ陽子。赤い服で恥ずかしいだろう?」
徹は今朝になってから、また急に陽子のことが心配になっていた。
「この赤い服だってきれいよ。学芸会に出て一生懸命踊るのがうれしいもの」
陽子は、うれしそうだった。
ベルが鳴って、屋内運動場に生徒が集まった。運動場の正面に舞台ができていて、舞台の横の、赤い毛せんの段に雛人形が飾られてあった。
徹は、陽子が心配で一年生の方を見た。一年生は、舞台に近い最前列にすわっている。
再びベルが鳴ると、教師や、父兄たちが、ぞろぞろ入って来て父兄席についた。
(おかあさんは、来るだろうか)
徹はせめて母が見に来てくれたら、陽子もうれしいだろうと思って父兄席をながめていた。夏枝の姿は見えなかった。
(陽子だって、本当は白い服を着たかったんだ)
徹はだんだんもの悲しくなった。
(おかあさんが、来てくれますように……)
徹は、祈りたいような気持ちで夏枝を待っていた。
三度目のベルが鳴った。拍手が起こった。黒い引き幕がひかれると、舞台の中央に一年生の男の子が一人立っていた。紺の背広に白い衿を出した、その一年生は両手をピンとのばし「気をつけ」の姿勢で立っている。ピョコンとおじぎをすると、その子はもものあたりをズボンの上から、もそもそとかいた。観客がワッと笑い声をあげた。その子は何を笑われたのかわからずに、袖幕のかげにいる教師を見た。再び皆が笑った。その子は何をすべきかを忘れて、だまって舞台の真ん中につっ立っている。男の子は開会の辞をのべるはずなのである。
(おかあさんは、まだ来ないのかなあ)
徹は舞台から目をそらして、父兄席に母の姿をさがしていた。
陽子たちの「雪やこんこ」と「仲よし小道」は、プログラムの三番目にあるはずだった。
(陽子は一人だけ赤い服なんだ)
徹はやはりそのことが気になった。徹は立ちあがって、陽子の受持の渡辺先生のところへ行った。
先生のまわりには、そろいの服を着た女の子供たちがすわっていた。
「先生」
「なあに? 陽子ちゃんのおにいさん」
先生は、機嫌のよい声でいった。
「陽子、白い服着てこないで……すみません」
そういった途端に、徹は涙であたりが見えなくなった。
「あら、徹さん。泣いているの? 先生がわるかったわね。いいのよ、白い服でなくっても。みんなが学芸会に新しい服を作ってもらうというので、作るのなら白い服にしたらと思ったの」
先生は、幾度もあやまって徹の肩に手をおいた。
「でも……陽子一人……」
徹はやさしくされると、何かひどく悲しくなって、一層すすり泣いた。
「おにいちゃん。陽子一生懸命に踊るもの、恥ずかしくないわ」
陽子がきっぱりといった。
徹はうなずいて涙をふいた。
いよいよ陽子たちの番がきた。徹は唇をかみしめ、しっかりとこぶしを握って、まだ開かない幕をみつめていた。自分のことのように胸の動悸が激しくなった。
(かわいそうになあ、陽子の奴)
ベルが鳴った。幕がするすると開いた。徹は思わず、
「ああ!」
と叫んだ。
真っ白な服を着た六人の生徒たちの真ん中に立っている陽子の赤い服が燃えるように鮮やかであった。
「雪やこんこ あられやこんこ」
レコードが鳴ると、陽子一人が雪の中で踊っているように、きわだった。陽子一人があらかじめ赤い服を着る約束の舞台のように思われた。徹は思わずにこりとした。
赤い服のためか、陽子は一番上手に見えた。陽子は手をたたいても、首をひとつ曲げるのでも、どこか他の生徒より愛らしく見えた。
「あの赤い服の子、めんこいな」
「あいつ、辻口の妹だぞ」
「へえ、辻口よりずっとめんこいぞ」
「勉強は男子よりも、できるんだとよ」
徹は周囲のひそひそ話し合う声に、誇らしくなった。
舞台の陽子は、にこにこ笑いながら、元気一杯に踊っている。
(よかったな。陽子)
徹は、何で自分が泣いたりしたのかと、思わず笑ってしまっていた。
「どうして、あんなにめんこいんだ?」
「めんこかったら、お前の嫁さんにすればいいさ」
「ばかやろう」
ふざける声も、徹にはうれしく響いた。
「あの赤い服の子、もらい子だってね」
同じ六年生の女生徒の小さい声がした。徹はギクリとして耳をそばだてた。
「あら、本当?」
「ママがいっていたわ。辻口病院の女の子は、おとうさんにも、おかあさんにも似ていないから、きっともらい子だって」
ひそひそとささやき合う声が、徹には恐ろしくはっきりと聞こえた。
(やっぱり、そうなんだろうか)
舞台の陽子たちが、ていねいにおじぎをしている姿を、徹はぼんやりとながめていた。
徹は校門のところで、陽子の帰りを待っていた。明るい陽ざしの下で雪が氷水のようにとけている。徹はにわかに昨日のひざが痛むような、がっかりとした思いであった。
(陽子がもらい子だから、おかあさんは服を作ってやらなかったのか?)
(そうだ。武田さんの店員さんが忘れたなんて、おかあさんはきっと嘘をいっていたんだ)
(だから、今日だって学芸会を見に来てやらなかったんだ)
(だけど、おかあさんはとっても陽子をかわいがっていたけどなあ)
徹は何が何だかわからなくなった。
(おとうさんは、陽子をかわいがらないものな。やっぱりもらい子かも知れない)
(だけど、もらい子だってかわいがる人もいるんだがなあ。本当に、陽子がもらい子だったら、やっぱりかわいそうだなあ)
陽子が自分の本当の妹ではないということは、徹には淋しかった。
(あんな、めんこい妹なんかどこにもいないんだがなあ)
「おにいちゃあん」
陽子が玄関から駆けてきた。
「おにいちゃん、待ってたの?」
「うん。陽子が一番上手だったぞ!」
「そう。うれしいわ」
「赤い服がとっても、めんこかった」
徹は「とっても」というところに力をいれていった。二人は雪どけの道を歩いた。
「めんこかった? よかった?」
陽子は素直に喜んで、
「おかあさんは見に来たの?」
「おかあさん?」
徹は何と答えようかと迷った。見に来なかったというのが、かわいそうだった。
「お客さんがいっぱいで、来ているかどうかわからんかった」
「そう」
陽子は大して気にもとめないように、
「あれ、トンビがとんでいるわ」
と林の方の空を指さした。
「うん」
徹は、学芸会を見に来なかった母にこだわっていた。
「どうしたの? まだ足がいたいの?」
「うん」
「陽子がおんぶしてあげようか」
「ばかだな。陽子はぼくをおんぶなんかできないよ」
徹は笑いだした。
曲がり角に来た時だった。
「ずいぶん待ってたよ」
つんである材木のかげから、黒いベルベットのコートを着た辰子が現れた。
「小母ちゃん……」
徹と陽子が同時に声をあげた。
「陽子、なかなか上手だったねえ」
「小母ちゃん、見ていたの?」
徹と陽子は、辰子の両側から手にすがった。
「勿論。見ていたわよ」
辰子は陽子の手を強くふってから、手をつないだまま歩きだした。
「陽子が学芸会に出るのを知っていた?」
徹がたずねた。
「そりゃ、知っていたわよ」
「どうして?」
「小母ちゃんは千里眼だもの」
「千里眼ってナーニ?」
陽子がたずねた。
「千里も向こうまで見えるのさ」
「へえ。すごいのね小母ちゃん」
徹は再びむっつりとして何か考えていた。
「徹くん、どうしたの」
「うん」
「歩き方が少しおかしいじゃない? 足がいたいの?」
「足よりもさ、面白くないんだ」
「どうして面白くないの?」
「陽子が上手に踊ったのを見ても、面白くないの?」
「それは面白いけれどさ」
「何が面白くないの?」
「うん、面白くないんだ」
「欲ばりだよ。世の中ってものは、一つうれしいことがあったら大したものさ。小母さんは面白い日ばっかりだわ」
「フーン」
「徹くんは、まず一生面白くない面白くないで暮らすタチだね」
「だって面白くない時は仕方ないもの」
「そうかな。もし百円落としたら徹くんはどう思う?」
「損したと思うさ。当たり前さ」
「陽子は、どう思う?」
「百円落とさないと、わかんないけれど、ずっとせんに十円落としたの」
「その時どう思った?」
「だれかが拾って喜ぶだろうと思ったわ」
「だれかが拾って喜んだら、つまらない?」
「だれかが喜んだらうれしいわ。乞食が拾えばいいなと思ったの」
「だってさ。落としたら損だぞ。うれしくないよ、ぼくは」
「徹くん。十円落としたら、本当に十円をなくしたのだから損したわけよ。その上、損した損したと思ったら、なお損じゃない」
「あ、そうか」
「百円落としたら百円分楽しくするのよ。二百円落とさずに百円だったからよかったなと思ってもいいしね。あの百円拾った人は、もう死ぬほどおなかがすいていて、あの百円のおかげで命が助かって、それからだんだんいいことばかりあるんだと思ってもいいさ。百円落とした上に、損したといつまでもクヨクヨしていたら大損よ」
「フーン。足をケガしたら、手はケガをしなくてよかったと思うのかい?」
「そうよ」
「じゃ、もしさ、もしもだよ。ぼくがもらい子だったら、どう思ったらいいの?」
辰子は徹の言葉に、歩みをとめた。
「もしさ、もしもだよ。ぼくがもらい子だったら、どう思ったらいいの」
という徹の問いには、聞き流すことのできない何かがあった。
「徹くんはもらい子じゃないもの。そんなことは考えなくてもいいじゃない?」
(この子はすでに知っているのだ。十円か百円落としたぐらいの問題とは根本的にちがう問題にぶつかっている)
「だからさ。もしもなんだ」
「そうだね。ほんとうに困ったり悲しくなるようなことが起きたら……」
陽子が空のトビを目で追って、二人の話を聞いていない様子に安心をしながら、
「……本気で困ることだよ。その困難なことに、真正面からぶつかって、よく考えてみるんだね」
「一人で考えるの?」
徹は心もとない返事をした。
「どうにも大変なことなら、親や先生に相談するといいけれどね。でも大人になるにつれて、誰にも相談しようのないことにぶつかるかも知れないのよ」
辰子は自分がひどく軽薄に思われてならなかった。今まで自分は根の浅い、単なる処世術をふりまわして、生きてきたように思えてならなかった。この世にはもっと深い英知というものがあるように思えてきた。いつか陽子が泊まった時に、
「いつもやさしくしてもらっていても、一度いやなことをされると、すぐにいやになる」
と、陽子に教えたのも、処世術的なものにすぎない。ほんとうはその「いやなこと」にも質がいろいろあることに、その時、自分は気づかなかったと、省みられた。
「もしさ、もしもだよ」
と、用心深く念を押してから、
「ぼくがもらい子だったら……」
と、いい出した言葉は、辰子を驚かせた。
その言葉に、いま辻口家に何かが起こりつつあることを辰子は知らされた。夏枝が学芸会に姿を見せなかったことも、徹の言葉を聞くまでは、気にしていなかった。
気にしはじめると、暮れの陽子の家出も、その翌日の夏枝の異様につかれた顔も、ただごとではなく思われた。
(やさしい夫婦と、かわいい子供たちの、しあわせそうな家庭と思っていたけれど)
辰子は今更のように、辻口家にひそんでいた危機に気づいたのである。しかしそれは単に世にあり勝ちな「生《な》さぬ仲」の悲劇的なものにすぎないと辰子は思っていた。陽子が佐石の娘であるなどとは、無論、辰子には想像もできないことであった。
「あ、とうとう、あのトンビ、林の向こうに行っちゃった」
陽子が辰子の顔を見上げた。それまで何か考えていた徹がいった。
「人に相談できない時は誰に相談するのかなあ。神さまかな。だけど神さまってどこにいるのか見たこともないしなあ」
よそおい
四月、徹は中学一年、陽子は小学校二年生になった。
(いよいよ、あすは村井が来る)
夕食後、啓造はソファによって、そのことを夏枝にいつ告げようかと迷っていた。夏枝は台所で夕食の跡始末をしている。
「猛烈に勉強するんだ」
と、徹は中学校の新しい教科書に興味があるらしく、このところ毎日部屋にひきこもっている。
陽子は、茶の間で童話の本に読みふけっている。しずかだった。
どこかの家の戸の鈴の音が聞こえた。
「春だな」
啓造はつぶやいた。雪のある間は聞こえなかった音である。
夏枝がエプロンをはずしながら茶の間に入ってきた。
「あら、お二階かと思いましたわ」
「うん」
啓造は夏枝を見た。このごろ夏枝の肌がうつくしくなったのが妙に気にかかる。春になったせいかも知れないと思いながら、夏枝をながめていた。
村井との再会に備えて、毎日念を入れて肌の手入れをしているとは、啓造も気がつかない。しかし夏枝の、ちょっとさわってみたいような、肌理《きめ》のこまかいなめらかな肌に気づくと、村井には会わせたくないような気がする。一方、村井と夏枝の再会の瞬間を、自分の目ではっきりと見たいような思いもないではない。
「陽子ちゃん、おやすみなさいね」
啓造の前では、夏枝は陽子にやさしい。陽子は本を読みはじめると、もう人の言葉は聞こえない。それと知っていながら、夏枝は内心返事をしない陽子に、いらいらとした。
「まだ七時半じゃないか。今からねるのは早いよ」
「ええ」
「今日高木から電話があってね。村井はあすの午後二時五十分に旭川に着くそうだよ」
夏枝がうつむいてお茶を入れている。夏枝の目の色はわからない。
「そうですか」
「君も迎えに行ってほしいんだがね」
「ええ、まいりますわ」
夏枝の声はさりげなかった。
啓造はいくぶん安心をした。
「明日は日曜だからね。わたしと事務長と江口婦長が迎えに出ることにしたよ」
「高木さんもいらっしゃいますの?」
「来るらしい。高木は村井の世話をよくするよ。一応落ちついたら村井の嫁さがしだといっていた」
啓造の言葉に夏枝は不意をつかれた。何と答えてよいかわからなかった。
夏枝はとっさに、口に手をあててあくびをかみころすようにした。それはいかにも、村井の結婚などには関心のない態度に見えた。
「わたくし、お風呂をつかわせて頂きますわ」
夏枝は立って行った。
啓造は夏枝が部屋を出て行くと急に不安になった。夏枝が村井を忘れかねているように思えた。もし、八年前、村井に抱かれていたとすれば、それは恐らく結婚後はじめての不貞なのだ。はじめて夫を裏切ったということが、夏枝の心に何も残していないはずはない。
(そんなに簡単に村井を忘れられるだろうか?)
啓造は本をかかえこむようにして、一心に本を読んでいる陽子をながめた。
(夏枝と村井の間に何もなかったのならば、この子を引きとろうとは決して思わなかったはずだ。多分、永久に会うこともなかったはずの子供だ。それが、仮にも親と子として一つ屋根の下に、七年も八年も住んできている)
そう思うと啓造は、陽子が急にあわれにもなった。
(もし自分が引きとらなければ、陽子はどんな家にどんなふうに育ったことだろう)
啓造は立ち上がった。
「陽子」
陽子はちょうどページをめくったところだった。
「なあに」
「まだ、ねむらないのかい。もう八時になるよ」
「あら、ほんと」
陽子は時計を見上げて、にっこりした。その素直なかんじが啓造の心に応えた。
「おかあさんは?」
「お風呂だよ」
「そう、じゃ、おやすみなさい。おとうさん」
陽子が廊下を走りさった。風呂場の夏枝に何かいっている声が聞こえた。
啓造は二階に上がって行った。
"am a boy."
"I am a girl."
啓造は書斎に入ろうとして立ちどまり、リーダーを読む徹の声に耳を傾けた。
啓造の胸に二十何年か前の、自分の少年時代がよみがえってきた。堅い板のような表紙の、まっ白のリーダーズブックを、はじめて開いたころの喜びが昨日のことのように思い出された。
徹の今の部屋が、啓造の部屋であった。啓造は思わず徹の部屋のドアを開いた。
「勉強しているね」
啓造が徹の部屋に入ることは珍しかった。徹はいぶかしげにふりかえっていった。
「何か用なの、おとうさん」
「いや、今ね、徹がリーダーを読む声に、おとうさんの子供のころを思い出したんだ。おとうさんもこの部屋だったからね」
啓造は今更のように、なつかしそうに部屋の中を見回した。そんな啓造の感慨には頓着なく徹がいった。
「おとうさん。ぼくこのごろおかあさんがきらいになった」
「おかあさんがきらいになったって? それは困ったね」
啓造はおだやかに微笑した。内心、
(自分にも、そんなころがあった。反抗期というやつだな)
と思っていた。
徹は何かいいたそうに、じっと父親の顔を見ていたが、
「やっぱり、陽子ちゃんはもらい子だね」
「何をいうんだね。徹」
「だって、おかあさんは陽子ちゃんに意地悪のような気がするよ、おとうさん」
大人びた表情で徹は考え深そうにいった。
「おかあさんが陽子に意地悪をするはずがないよ。あんなにかわいがっているじゃないか」
「そうかなあ。ぼくにはそう思えないな。学芸会の時、みんなとおそろいの服も作ってやらなかったし……」
「ああ、あれは店員が、忘れていたとおかあさんがいっていた」
「それなら、それでもいいよ。しかし学芸会ぐらい見に行ったっていいじゃないか。辰子おばさんでさえ、見に来ていたのにね」
中学に入ってから徹は、もののいい方も少し大人っぽくなっていた。
「おかあさん、体の具合でも悪かったんじゃないか」
啓造は、夏枝が事の真実を知ったとは、想像もできなかった。万一、陽子の出生を知ったならば、夏枝は決して陽子を家には置かないはずである。啓造に、何か詰問するはずである。とにかくこんな、おだやかな毎日が続くはずはなかった。
神経質な少年特有のかんぐりに過ぎないと、啓造はたかをくくっていた。
「それにさ……」
徹はいいよどんだ。
「それに、どうしたね」
「うん」
徹は口をつぐんだ。
「どうしたんだ? いいかけてやめるもんじゃないぞ」
「学芸会の時、ぼくのクラスの女の子がさ、陽子ちゃんのことを、もらい子だっていっていたよ」
「そうか。おとうさんの言葉より世間の者の言葉の方を、徹は信用するんだね」
「…………」
「心配なら役場に行って、調べておいで。もらい子なら、必ず養女になっているはずだ」
啓造はそういいながら、徹の机の上の本立てをのぞいた。徹がさっと手をのばしてそのうちの一冊をすばやく机のひき出しに入れた。
「何の本だ?」
「何でもない」
「何でもないのなら、かくすことはないだろう?」
啓造がややきびしくいうと、徹はしぶしぶ、ひき出しをあけた。
「何だ、文集じゃないか。何もかくすことはないだろう」
啓造はぱらぱらと目次をめくった。
「六年生の時の文集か」
徹は答えずに、ちらりと啓造の顔をうかがった。
「川泳ぎ」「旭山のスキー大会」「図画の時間」「六年生になって」などという題名の中に「殺された妹」という字が啓造の目にとびこんできた。徹の名前がその下にあった。
「ここで読んではいやだよ」
「ああ」
啓造は立ちあがって、部屋を出た。
書斎に入ると、啓造は息をつめて、徹のつづりかたを読みはじめた。
「殺された妹」
六年二組 辻口 徹
ぼくのきょうだいは妹が一人しかいない。だが本当は二人いるはずなのだ。今生きていたら、三年生か四年生になっている。ルリ子という名前だった。
昭和二十一年七月二十一日は、ルリ子の死んだ日である。昨日の七月二十一日には、お客さんが集まって、にぎやかだった。
坊さんも、お客さんも、みんな酒をのんだり、ごちそうを食べたりして、楽しそうだった。死んだ日でも、たのしいものなのかと、ぼくは何だか変な気がした。妹の陽子が、
「お祭りは、にぎやかで面白いね」
と大よろこびだった。昨日は旭川のお祭りだから、一年生の陽子はきっと、お祭りだと思ったのだろう。すると母が、
「陽子ちゃん、お祭りじゃないのよ」
といって、急に泣きだした。
その時まで、母は台所に行ったり、お客さんと話をしたりしていたのだ。ぼくは何だか、へんな気持ちになってしまったので、陽子をつれて外へ出た。
「どうして、おかあさんは泣いたの」
と、陽子がきいた。
「あのね、ルリ子の死んだ日だから、思い出したんだろ」
「ずっと、ずっと、ずっとせんに死んだのに、どうして泣くの?」
陽子がふしぎそうにいった。
「ずっとせんに死んでも、思い出せば悲しいよ。それにルリ子は、林の向こうの川原で、悪いやつに殺されたんだもの。なお悲しいさ」
と、ぼくがいうと、陽子はびっくりして青くなった。父も母も、ルリ子の殺された話なんか、したことがないので、陽子は何も知らなかったらしい。
陽子があんまり青い顔をしたので、いわなきゃよかった、失敗したとぼくは思った。でも本当のことだから、いっても仕方がないと思った。
ルリ子は、ぼくが五つの時に殺された。ルリ子は三つだった。その時のことを、ぼくはあんまりよく、おぼえていない。ただ川原に集まって、みんなが泣いていたような気がする。
今まで、ぼくはルリ子の殺されたことを考えるのがいやだった。だがぼくは六年生なのだ。最高学年なのだ。そう思って、こんどはゆっくりとルリ子のことを考えてみようと決心をした。
「だれが殺したのだろうか。犯人はつかまったのだろうか。死刑になったのだろうか。なんのために、ルリ子のような小ちゃな子供を殺したのだろうか。どんな顔をしたやつなのだろうか」
などと考えた。すると毛虫のような眉毛の、目のギョロリとした悪漢の顔が目にうかんだ。ルリ子の顔はすっかり忘れた。写真は仏壇にかざってあるが、ぼくはなるべく見ないことにしている。たまに見ても、ぼくの見たルリ子とはちがうような気がする。
ぼくは林の中の木の株に腰をかけて、長いことルリ子のことや、犯人のことを考えていた。あんまり長いこと考えているので、陽子はどこかへ遊びに行ってしまった。
ルリ子は殺されるとき、どんなに恐ろしかったろうと思うと、ぼくは胸がドキドキした。そして、
「人は死んだらどこに行くのだろう。天国だろうか、本当に天国や地獄があるものだろうか」
などと考えた。いつかのお祭りで、六丁目の見世物小屋を見たら、地獄の絵があった。
針の山に、鬼に追いかけられて逃げてゆく死んだ人の絵が、とっても気味わるかった。でもルリ子は地獄にはいかないだろうと思う。何も悪いことをしていないから。しかし本当に地獄があったら、犯人は必ず地獄行きだ。ぼくはどこへ行くか、まだわからない。
何だか急に考えることが多くなったので、早くいろんなことがわかるように、大人になりたいものだと思った。
陽子がインク花(つゆ草)や赤クローバーをたくさんつんできた。
「このお花、ルリ子姉ちゃんにあげるの」
といった。それから二人で、林の中に小さな石をつみ重ねてお墓を造った。ぼくは何だか子供くさいような気がしたが、陽子がせっかくお花をつんできたので、お墓を造ってやったのだ。陽子が手を合わせて長いこと何かおがんでいるので、
「何といって、おがんだの」
ときいたら、
「ルリ子姉ちゃんが早く生き返って、陽子やおにいちゃんと、遊べますようにって」
というので、ぼくは、
「何だ。バカだな。死んで、焼いて骨になったから、もう生き返らないんだぞ」
と、いってやった。陽子はすました顔で、
「生き返りますからね。百年たったらね」
といった。陽子はまだ一年生だから、そんなバカなことをいっても仕方がないと思う。
殺された妹は本当にかわいそうでたまらない。だから陽子を、ぼくは死んだ妹の分までかわいがるつもりだ。おわり。
啓造は徹のつづりかたを読み終わると、思わず深いため息をついた。
啓造の少年期は、ただ学校に行って勉強をし、川泳ぎをしたり本を読んだりして、他愛なく過ごしてきた。少なくとも、「一人の妹は殺された」「もう一人の妹はもらい子だ」などという複雑な、暗い影は啓造の生活にはなかった。
(かわいそうな徹だ)
啓造は今さらのように、陽子を引きとった自分が責められた。
(徹の将来に、どんな生活が待っているのだろう)
一途に夏枝の不貞を怒り、佐石の子供を育てさせようと陽子を引きとったための暗い影が、いま辻口家全体をおおっていることを、啓造は思い知らされたような気がした。
(結局は、復讐しようとした自分が、一番手痛く復讐されることになるのではないか?)
にわかに、明日旭川に来る村井のことが気にかかった。何か不吉な感じだった。
(なぜ、村井の復帰を承諾したのだろう)
ただ、高木に悪く思われたくないという、自分の愚かさがさせたことだった。今、徹のつづりかたを読んで、啓造は陽子を育てたことを悔いていた。村井の復帰も、大きな悔いになるのではないかと思うと、何重にも自分が愚かしく思われた。
(陽子のことも、村井のことも、避ければ避けられることだった)
そう思いながら、啓造は窓に倚《よ》った。みどり色の重いカーテンを少し開けた。かぎの手になった離れは、陽子の部屋である。
陽子の部屋は既に暗かった。二年生の陽子が、あの暗い中に一人ひっそりとねむっている姿を想像すると、啓造は陽子にあやまりたいような思いに襲われた。
(村井と夏枝が、八年前のあの日、ルリ子を外に出さなかったならば、ルリ子は殺されないですんだ。佐石はルリ子と会わずにすんだ。そして陽子は実の父の佐石と、どこかで暮らしていただろう)
事のおこりは、やはり村井と夏枝にあるように思われてくる。
くらい庭に電灯の光がさっと流れた。啓造たちの寝室に灯りがついたのである。夏枝が風呂から上がったらしい。夏枝が布団でもしいているのか、時々黒い影が庭にゆれた。
(夏枝は何を考えながら、風呂に入っていたのだろう)
啓造には、いま夏枝の心を占めているのは、ただ村井だけのような気がした。
こんな生活から、何とか脱け出す方法はないものかと、啓造は徹のつづりかたに目をやった。
「だから陽子を、ぼくは死んだ妹の分までかわいがるつもりだ」
という結びの言葉が啓造の心をつらぬいた。
(本当だ。陽子を佐石の娘と知っていて、自分も、夏枝も、徹も、心から陽子を愛することができるなら、こんなにすばらしいことはないのだが……)
夏枝は下着から着物まで、真新しいものをつけていた。村井がふたたび辻口病院にもどると知ってから、ひそかに調《あつら》えておいたものである。羽織のひもも、下駄も真新しい。
それが村井に対する夏枝の心であった。啓造の妻として、許されることではなかった。その許されない思いを新しい着物に包んで、夏枝は駅の前で車を降りた。
既に、啓造と事務長が来て何か話し合っているのが見えた。夏枝の姿を見ると、事務長は足をひきながら夏枝に近よってきた。その足は生来のものときいていたが、立っている時は平凡に見える老事務長に、歩くとふしぎな威厳がただよった。謙虚で重々しく見えた。
「やあ、どうもご苦労さまで……」
辻口病院の事務長としてやりぬいてきた自信のようなものが、事務長をたのもしい人柄に見せた。
「ご苦労さまでございます」
夏枝はていねいに頭を下げた。啓造はちらりと夏枝を見ただけで何もいわない。少し離れたところから、婦長が目礼をした。夏枝は近よって言葉をかけた。婦長はだまって微笑した。無口だが、感じは悪くはなかった。
啓造は夏枝が自分の見たこともない着物を着て、ひどく生き生きとしているので気になった。深い、あい色の対《つい》の着物と羽織に白いレースのショールが、夏枝の美しさをきわ立たせていた。人々が夏枝の美しさに圧倒されたように、盗み見ているのが啓造にもわかった。
(取り返しのつかないことになるかも知れないぞ)
啓造は夏枝が村井と顔を合わせる瞬間の目のいろを、しっかりと見ておこうと思わずにはいられなかった。
おさえても、おさえきれない心の思いが、自然と顔ににじみ出ているのを、夏枝は自分自身にもよくわかった。自分の美しさに、村井はきっと驚くにちがいないと想像するだけで、心がはずんだ。
(あと、一分だわ)
夏枝は一分という時間の長さにおどろきながら、その一分のたつのを待った。事務長に何か話しかけられても、相づちがうてなかった。その、そわそわとした夏枝の表情に啓造が鋭い視線をあてていることにさえ、彼女は気づかなかった。
汽笛が鳴って汽車がホームに勢いよく入ってきた。
「あさひがわ、あさひがわ」
拡声器から流れる声に合わせるように、汽車は次第に速度をゆるめ、そして遂にとまった。
夏枝はハンドバッグをしっかりと胸にかかえて、降りてくる人の波に目を走らせた。
「ああ、見えました、見えました」
事務長が指さす方に、夏枝は顔を向けた。高木が手をあげて、笑うのが見えた。しかし村井の姿が見えなかった。
高木が人々におされるようにして、その大きな体を横にしながら改札口を出た。
(村井さんは?)
夏枝が高木の周囲に目を走らせた。村井の姿がなかった。
「やあ、どうも」
高木が大きな声でいった。そのうしろの、肥った男を見たとき、夏枝は思わず声をあげるところであった。村井だった。そこには、長身のスラリとした、かつての村井はいなかった。
「どうも、この度は」
という声は村井の声であった。しかし、むくんだような、輪かくの線のぼやけたその顔には、かつての村井の美しさはなかった。
どこかが、うすよごれていた。七年半の村井の生活の疲れのようなものが、その顔によどんでいた。
(この男に、身も心も任せようと、私は待っていたのか)
ありありと、夏枝の目には失望のいろが流れ、その目が、冷ややかに見ひらくのを、啓造はすばやく見てとった。
「大丈夫ですか、体の方は」
啓造は、自分でもおかしいほど上きげんで、村井に声をかけた。
「発つ間際になって、ちょっと風邪を引きましてね」
村井は、啓造にていねいにあいさつをしてから、そういって夏枝のそばに来た。村井はなつかしげに笑いかけたが、夏枝はとりすまして、通り一ぺんのあいさつをした。
夏枝の待っていたのは、こんなうすぎたない男ではなかった。幾度か夏枝が胸にえがいた村井との再会は、こんなものではなかった。もっと詩的で、もっと劇的でなければならなかった。
「奥さん。また村井が世話になりますなあ」
愛想よく声をかけた高木に、夏枝はわれにかえった。
「こちらこそ、お世話さまになりますわ」
普段の夏枝の態度であいさつしたことが、夏枝自身にもふしぎだった。
(磊落そうな顔をして、この男は啓造と二人で何を企んだのか。佐石の娘と知っていて、陽子をわたしの手に渡したのは、この男なのだ)
病院の車に一行がのりこみ、夏枝一人がとり残された。車が遠ざかると、夏枝はにわかに身も心も疲れてしまった。
こんな時、男ならば酒を飲むのかも知れない。世のすべてから捨てさられたようなわびしさを、夏枝は持てあましていた。四月の風がすそにからまるように、つめたく吹きすぎて行った。
(下着から、上まで新しく取りかえて……)
夏枝は自嘲しながら、いまの自分にはどこに行っても心休まるところのないことに、気がついた。
歩調
昼食のあと、啓造は煙草に火をつけて、コスモスが風に揺れている庭を見ていた。ノックをして松崎由香子が入ってきた。由香子は一礼して啓造に郵便物を手渡した。
「ありがとう」
由香子は無言で一礼すると部屋を出て行った。由香子は堅い表情で、啓造の顔を見ようともしなかった。村井が四月に復職してから五カ月たった。由香子の啓造に対する態度が目に見えて変わった。以前は院長室に来るたび、何か話をしたいようなそぶりが見えた。啓造の机の上の花を代えるのも由香子だった。しかし、村井が復職してから由香子は一度、
「院長先生。村井先生なんか、どうしてまたおよびになったのですか」
と、詰問するようにいったことがある。
「君に人事権はないと思うがね」
おだやかに啓造は答えたつもりだが、由香子はパッと顔をあからめて、
「すみませんでした」
と、意外なほど素直にあやまって、部屋を出て行った。
しかし、それ以来、由香子は事務的な用事以外、口をきかなくなってしまった。
(村井と一体どんな関係のある娘なのかな)
と、思いながらも、このことを啓造はあまり心にとめなかった。いまも、郵便を一つ一つあらためながら、啓造は由香子の態度をそれほど気にはしていなかった。
村井の復帰で、最も気がかりであった夏枝の上にも、何事も起こらぬ様子だった。
村井は復職後すぐ風邪が原因のかるい腎臓炎で二週間ほど休んだ。その時、夏枝は、
「テーベはやっぱり弱くって、役にたちませんのね」
と冷たいことをいって、何の同情も示さなかった。
「たまには遊びに来給え」
と啓造が誘ってみても村井は以前のように、辻口家を訪れることがなかった。
(心配したようなものでもない)
と、このごろは啓造もすっかり安心をしていた。
ただ、夏枝が何となく元気がなく、床の間の花が素枯れても、代えるのを忘れているようなことがあった。鉢の蘭のみどりの葉に、ほこりがうっすらたまっているということも、癇性の夏枝にはないことであった。
「体が悪いのか」
と、訊ねても、だまって首を振るだけで、口数も少なくなっていた。だから、啓造には由香子よりも夏枝のことが何となく気がかりでならなかった。
もし、由香子のほんとうの生活がわかっていたら、啓造も無関心でいることはできないはずであった。
「ほう、今年は京都で学会があるのか」
啓造は思わずつぶやいて、学会の案内状を、再び読んだ。内科の学会は九月三十日である。啓造は終戦後、病院の経営にとりまぎれて、内地へまだ渡っていなかった。
久しぶりに、学会に出てみたいと啓造は思った。何となくものうげな夏枝から、少しの間、離れてみたい気持ちもあった。
「九月の末にね。京都で学会があるんだ」
家に帰った啓造は、着更えながら夏枝にいった。
「あなた、いらっしゃいますの?」
「うん、秋は病院も、少しはひまになるからね」
「そうですか。行っていらっしゃるといいですわ。内地はいい季節ですし」
夏枝はそういってから、
「わたくしも、連れて行ってくださいます?」
「君も?」
思わず啓造は眉をよせた。夏枝のそばを離れて、久しぶりに一人になってみたかった。
「茅ケ崎の父に会いたいんですの」
夏枝の父の津川教授は、停年退職のあと、茅ケ崎に住んでいた。夏枝の長兄が茅ケ崎から、東京の病院につとめていた。
「しかし、徹と陽子はどうするのかね」
「そうですわねえ。次ちゃん夫婦にるす番を頼みましょうか」
「次ちゃんの都合もあるよ」
「あの子は頼まれたら、決して、いやとはいいませんわ」
今までも、一度いいだしたら、夏枝は必ず自分の意志を通してきた。啓造は仕方なく、
「じゃ、行くといいよ」
「まあ、連れて行ってくださいますの」
夏枝は久しぶりに、きげんのよい笑顔をみせた。その笑顔をみると、他愛なく啓造の心も軽くなった。啓造は妻のきげんの好しあしに左右される自分を、なさけないと苦笑した。しかし、人間というものは案外、同じ屋根の下に住む者の影響を、このように強く受けているのかも知れないと啓造は思った。ゲーテかだれかの、
「ふきげんは、最大の悪だ」
とかいった言葉が思い出された。この世界的な人間でさえふきげんな奴≠ノはこっぴどく悩まされたにちがいない。そのふきげんな奴≠ェ彼の妻だったかも知れないと思うと、啓造は少し慰められた。
夏枝はゆううつになると、自分からはほとんど口をきかなかった。しかし、話しかければ、言葉少なに受け答えはした。言葉づかいはいつものようにていねいで、口調もやさしくはあった。それでも、進んで口をきこうとしない夏枝には、啓造も気が重かった。
(いつもきげんのよい陽子のようだといいんだが)
しかし、夏枝にとっては、そのゆううつは決して得体の知れないものではなかった。それはいいたいことが胸にうずをまいているというのに、そのどれもこれも、口に出すことができなかったからであった。啓造には、
「なぜ佐石の娘を育てさせたのか」
といいたかった。徹には、
「陽子はルリ子殺しの犯人の娘だ。何でそんなにかわいがるのか」
と、いいたかった。陽子には、
「そこはルリ子の座るべき所だ。その服はルリ子の着るべき服だ」
といいたかった。そして村井にもいいたいことがあった。
「どうして、あなたはあんなにうすぎたなく変わってしまったのですか。わたしは、あなたを待っていたのに」
そう夏枝は、村井にいいたかった。しかしそのどの言葉も、うっかり外に吐き出すことのできない言葉であった。だれにもいえない言葉を抱いている自分自身が、夏枝にはだれよりもあわれに思えてならなかった。そんな思いで、ゆううつに閉ざされていく夏枝の心が、啓造にわかるはずもなかった。
夏枝は茅ケ崎の父に、無性に会いたかった。早く母に死なれた夏枝には、父は単なる父ではなかった。父であり母であった。その父に会いたさに、夏枝は旅行の準備に余念がなかった。みやげ物や、履き物やハンドバッグなどが、次々に買いととのえられていった。何となく活気が家の中にみなぎってきた。啓造も、今では夏枝との旅行を楽しみにするようになっていた。
出発がいよいよあと二日に迫った日であった。その日、夏枝は、街に出たついでに美容院によった。美容院を出たのは、もう四時半をすぎていた。久しぶりの旅行を前に、夏枝は少し興奮しているようであった。父に会うということで、少女のころにかえっている何かがあったのかも知れなかった。夏枝はこのまま真っ直ぐ家へ帰りたくはなかった。
(コーヒーでも飲もうかしら)
昨日から次子に泊まってもらっていたから、食事の支度の心配はなかった。以前に何度か、啓造に連れられて行ったちろる≠ノ入って行った。
ちろる≠フ主人は詩人であった。その詩人らしい雰囲気が店にもただよっていた。少しこんではいたが、店の中はいかにも静かであった。夏枝は大きな棕櫚《しゆろ》のかげのテーブルについた。
夏枝は一人で喫茶店に入ることなど、ほとんどなかった。だから何か知らない街にでも来たような、新鮮な感じだった。時々、夏枝は周囲の視線を感じた。その一人一人に、微笑を送りたいような大胆なものが、夏枝の心の中にあった。
(家の中にばかり、引きこもっていることはないんだわ)
運ばれてきたコーヒーにミルクを滴《た》らそうとした時である。黒いソフトを目深にかぶった紳士が、目の前のイスに腰をおろした。夏枝は紳士が人ちがいをしたのかと思って、
「あの……」
と、いいかけてハッとした。紳士は村井であった。五カ月前、旭川駅に村井を迎えて以来、夏枝は一度も村井に会っていなかった。
深々とした黒い目が、夏枝にほほえみかけていた。村井はだまって、煙草を口にくわえ、ちょっと首をかしげて、ライターで火をつけた。それは五カ月前の、あのうす汚く疲れて、むくんでいた村井ではなかった。顔も体も別人のように引きしまって、昔よりずっと渋味のある美しい村井であった。
「まあ」
夏枝は、とっさに言葉が出なかった。
白いバーバリー・コートのベルトをきゅっと締め、黒いソフトをかぶった村井を、夏枝はおどろいてながめていた。
四月、旭川に来た時の村井は、療養所を出たばかりで、運動不足のために肥満気味であった。その上、腎臓炎になりかかっていて、顔もみにくくむくんでいた。そのことを夏枝は知らなかったのである。
「びっくりなさいましたか」
村井は幾分皮肉に微笑した。
「はあ。まさか、こんなところでお目にかかるとは、夢にも思いませんでしたもの」
「そうですか。ぼくは病院の帰りには、たいていここでコーヒーを飲むんですよ。おいしいでしょう? ここのコーヒーは」
夏枝はうなずいて、
「今日はお帰りが、お早いんですのね」
と、ようやく落ちついてたずねた。
「いま、内科付属の眼科医のようなものですからね。らくをしていますよ」
村井はちょっと唇をゆがめて笑った。
「お体の方は、すっかり、およろしいんですの?」
夏枝の言葉に村井は、チラリと一べつしただけであった。村井は虚無的な表情で、ぼんやりと煙草の煙を目で追っていた。
(怒っていらっしゃるのかしら?)
夏枝は村井を駅に迎えた時の、自分の冷たさを思い出していた。
(でも、あの時の村井さんは、きたなかったのだもの。仕方がないわ)
夏枝自身にしか通らない論理であった。夏枝はみにくい人間がきらいだった。生理的に受けつけなかった。みにくい人間を見ると、自分の美貌が犯されるようで不安だった。それは妊娠中の母親が、火事を見ると赤痣《あざ》のある子が生まれると信ずるのと、同じような感覚であった。みにくい者への同情がなかった。みにくさは、夏枝にとっては悪ですらあった。その冷たさがなければ、もっと美しくなるということなど、夏枝は知らないようであった。
その反対に、美しいものは無条件で愛した。美しく生まれついた夏枝には、自分自身が偶像であった。美しいものを愛するのは、夏枝にとって、自分自身を愛することかも知れなかった。
夏枝は鏡の前に座ることが好きだった。鏡の中の自分に見ほれることは、快かった。そこには、自賛があった。しかし鏡にうつる自分に見ほれることからは、人への愛は生まれなかった。鏡は目に見えるものしかうつさなかった。心をうつすことはできなかった。
とにかく夏枝は、みにくかった五カ月前の村井を愛することはできなかった。それは、夏枝にいわせると仕方のないこと≠セったのだ。
しかしいま、夏枝は目の前の村井から視線をそらすことはできなかった。
村井の前にコーヒーが運ばれてきた。
「院長は、学会へ行かれるそうですね」
村井は器用な手つきで、くるりとコーヒー茶碗をまわしながらいった。
「ええ。戦後はじめてですの」
「二十六日に発たれるそうですね」
「ええ、ちょうど日曜日なものですから」
「ご一緒にいらっしゃるんですか」
村井と夏枝の視線が合った。
「どうしようかと思っておりますの」
夏枝は、なぜか一緒に行くと答えることができなかった。
「行っていらっしゃい。こちらの秋とはまたちがったよさがありますよ」
そういってから、村井はニヤリと笑った。その笑いに夏枝は戸惑った。自分が嘲笑されているようにも、村井の自嘲にも思えた。
「ばかなことをいいましたね。人の奥さんが、そのご主人と旅行に出ようが出まいが、ぼくには関係のないことだった」
そういって、再び村井は笑った。夏枝は、その言葉を胸の中で反すうした。夏枝の胸が次第に苦しくなってきた。旅行を中止したくなった。二人はだまったまま、向かい合っていた。
(もしも、ここへ夫が来たら……)
夏枝はふっとそんなことを思った。その時の啓造を見たいような気がした。さらに旅行をやめて、啓造の留守に、夫を裏切りたいような誘惑もかんじた。夏枝は自分が恐ろしくなった。思わずハンドバッグを手に持った。
「あの、失礼いたしますわ」
村井が、冷たく笑って、
「逃げるのですか」
と、二本目の煙草を口にくわえた。目を細めて火をつける表情が、夏枝の心をひいた。
「逃げるなんて……そんなこと……」
「だって、そうじゃありませんか。いまお目にかかったばかりなのに、どうして帰るとおっしゃるんです」
ふっと、村井の表情がかげった。
「冷たいな。あなたって」
「…………」
「ぼくが洞爺から帰ったとき、あなたを見て、ああ旭川になんか来るんじゃなかったと思いましたよ」
「…………」
「洞爺にいた七年間、一度も見舞いに来てはくれませんでしたね。それはまあいい。年賀状以外ハガキ一本もくださらなかったじゃありませんか」
「ごめんなさい。わたくし」
「健康人というのは、病人に冷たくてね。健康人は忙しいんだ。働いているんだ。たまにはおれもねてみたいよなんていう。ねたきゃ肋骨の五、六本を切って血を吐いて七年でも八年でもねてみるといいんだ」
村井は激したように、そういってから、優しい目のいろになって、
「こんなことをいうつもりじゃなかった。何だか、あなたをいじめているみたいですね。本当は、ぼく相談にのっていただきたいことがあるんですよ」
相談があるといわれ、夏枝の胸がさわいだ。
(縁談ではないだろうか)
「どんなことですの?」
「ここではちょっと……」
と、ためらって村井は煙草の火をもみ消すと、
「出ましょうか」
と、立ち上がった。
外へ出ると、うす暗くなっていた。夏枝は村井と歩くのが初めてであった。並ぶと村井がひどく長身に思われた。夏枝のかんじ方は、啓造が基準であった。村井は夏枝の歩調に合わせてゆっくりと歩いた。
とうきびを焼くにおいが流れてきた。街角のとうきび売りの男が、村井を見て、
「先生。おそろいで」
と声をかけた。
「やあ」
村井はちょっと帽子に手をかけて、通りすぎた。
「クランケ(患者)ですよ」
村井がいった。夏枝は、
(もしかしたら、病院の誰かに会うのではないか)
と少し不安になった。一方、誰に会ってもかまわないという気持ちもないではなかった。
「相談って、どんなことですの」
いつか、二人は人通りの少ない道をえらんで歩いていた。
「二、三日中に、ご相談に上がりますよ」
(二、三日中? わたしは旅行に出ているはずだわ)
「いけませんか。いろいろと、ゆっくり聞いていただきたいこともあるんです」
「縁談ですの?」
夏枝の歩みが、おそくなった。
「…………」
村井は立ちどまった。夏枝も思わず立ちどまった。迫るような村井の目が、夏枝の上にあった。夏枝はその目に応えるように村井を見上げながら、旅行を中止しようと思った。それは、新しい玩具を見ると、今持っている玩具を投げすててしまう子供の、あの幼さによく似ていた。ベルを鳴らして、自転車が二人の横をわざとすれすれに通りすぎた。岡持ちを下げた若い男であった。
「いつでも、どうぞおいでくださいませ」
夏枝は歩きだした。その時、村井が、
「あ!」
と、小さく叫んで、
「そのうち、お電話します。急に用事を思い出して、失礼します」
身をひるがえすように、去っていった。あっけにとられて、夏枝は見送ったが、村井はすぐ角を曲がって姿を消した。しかし、村井が由香子の姿を見かけて、そのあとをあわてて追ったことには、夏枝は気づかなかった。
夏枝の一足あとに啓造が家に帰ってきた。出迎えた夏枝が、
「わたくし、旅行をやめますわ」
と、甘えるように啓造を見た。
「やめるって? どうしてだね」
最初は一人旅をしたいと思っていた啓造も、日がたつにつれて、夏枝と二人で旅行するのが次第にたのしみになっていた。それは、旅行と決まってからの夏枝が、明るさをとりもどして行ったからでもあった。
「何だか子供たちのことが心配ですの」
啓造はムッとしたまま、茶の間に入った。
「おかえりなさい」
食卓をととのえていた次子と、次子の手伝いをしていた陽子がいった。
「ああ、ご苦労だね。せっかく次ちゃんにも頼んだが、夏枝は行かないそうだよ」
啓造はつとめて、おだやかにいった。何だか夏枝にほんろうされているようで、腹が立った。
「あら、本当ですか。奥さん」
「ええ。何だか子供たちが心配で。ごめんなさいね。次ちゃん」
「わたしはいいんですけれど、旦那さんが、がっかりですよねえ」
次子が気の毒そうに啓造を見た。
「そうだよ。おかあさん行ってくるといいよ。茅ケ崎だって待っているよ。ぼくたちはちゃんと、るす番をするよ。な、陽子」
このごろ、徹は陽子を呼びすてにするようになっていた。
「何だ。妹に、ちゃんをつけてるぞ」
と友だちに笑われたからである。
「ええ。仲よく、るす番をするわ」
「でも、急に行くのが心配になりましたの。万一、子供たちが病気でもしたらと思いましたの。やめますわ。わたくし」
夏枝は、不安そうな表情をした。
「そうかね」
啓造は、何となくわりきれなかった。
(母親であれば、子供のことを真っ先に心配するのが当たり前だ。それを何だ。今ごろになって心配だなんて! 勝手な奴だ)
(最初っから、行くなんていわなきゃいい)
(津川先生のような人格者から、よくもまあ、こんな勝手な奴が生まれたものだ)
(親はどうでも、陽子のような子も生まれるし、人間ってわからんもんだな)
食事をしながら、啓造は胸の中でブツブツ文句をいっていた。その自分に気づくと、啓造はきまりわるげに徹にいった。
「徹。おみやげは何がいい?」
子供の関係のないことで、ふきげんになったことを啓造は恥じた。
「ぼく? 何でもいいよ。陽子は何がいい?」
徹は、小さな陽子に先にきいてほしかった。その徹の気持ちが啓造にも敏感に伝わった。
「陽子には、大きな人形を買ってきてあげようか。どうだね」
啓造は箸をおいて、陽子の顔をのぞきこむようにした。夏枝に対する腹だたしさが、陽子にやさしくさせているようだった。
「ダンケ・シェーン(ありがとう)」
陽子は、おどけて父の口真似で礼をいった。
台風
啓造と夏枝は日曜日の朝八時に、発つ予定であった。しかし、夏枝が同行しないと決まると、啓造は土曜の午後に発つことにした。札幌の高木に会って行きたかったからである。
土曜日の午後なので、徹も陽子も、夏枝と一緒に駅まで送りに来た。
「はじめてだね。みんなに送ってもらうなんて」
列車の中まで乗りこんだ自分の家族を見て、啓造は満足そうであった。
「本当ですわ。みんなでお見送りするほどの旅行は、今までなかったのですもの」
夏枝も、きげんよく相づちをうった。
「おとうさん。おみやげ何でもいいって、いったけれど、やっぱり注文つけるかな」
徹がはにかむようにいった。
「その方がありがたいね。何を買おうかと心配しないでいい。何にしようかね」
「ぼくね。なるべく色々な所のエハガキと地図がいいな」
「これはまたお易い御用だね」
「それからね。行った先々の土を少々。茅ケ崎のおじいさんの家の土もね。封筒に入れて、どこの土って書いてほしいの」
「ほう、土の勉強か?」
「うん、ぼくは医者になんかならないで、科学者になるんだ」
「地質学者というわけか。まあ何でもいいが、おとうさんの病院をやってもらえないのかね」
夏枝も陽子も二人の会話を、微笑しながらきいていた。
「病院は、おとうさんの代で終わりさ。ぼくはいやだよ。病院で人が死んだりするのを、見ているのはいやなんだ」
「そうか。病院はおとうさんの代で終わりか」
啓造はちょっと淋しそうに笑った。
「あなた、十五号台風は大丈夫でしょうね」
「何が?」
「連絡船ですわ」
「大丈夫だろう。危険なら船は出ないからね」
「おとうさん、連絡船は何時に乗るの?」
徹がたずねた。
「明日の朝八時に札幌を発つからね。たしか午後二時四十分のはずだよ」
「あなた。父におわびしておいてくださいね。きっと待っていらっしゃるでしょうね」
夏枝が少しきまり悪げにいった。
発車のベルが鳴った。あわてて夏枝たちがホームに降りる姿を、啓造はカメラに納めた。啓造が列車の窓から、顔を出した。
汽車が動きだした。啓造は汽車の窓から、いつまでも手を振っていた。
「もうおとうさんからは、見えませんよ」
夏枝にいわれても、陽子は列車の後尾が見えなくなるまで、一心に手を振っていた。
「せっかくの日曜日も雨か」
窓によって午後の空を眺めていた徹が、夏枝をふりかえった。
「ほんとうにねえ」
今日の夕方訪問するという村井の電話を受けてから、夏枝は仕事が何も手つかずにいた。
「おとうさんは、けさ札幌を出たんだね。今ごろどこだろうね」
徹は夏枝のそばに来て、あぐらをかいた。
「そうねえ。二時四十分に船が出るとおっしゃっていらしたから、もうそろそろ函館を出るころよ」
夏枝は啓造のことなど案じてはいなかった。それよりも、村井の今日の訪問を、徹に何といったらよいのかと考えていた。
(徹はもう子供じゃない)
夏枝の背丈ほどに伸びた徹は、中学一年とはいっても、すべてに敏感な少年になっている。
「おとうさんの船は、台風にあわないだろうね。やっぱり台風は北海道に上陸するって、さっきラジオのニュースでいっていたけれどさ」
「おとうさんは、徹さんと同じで用心深いから、あぶないとお思いになったら船には乗らないわ」
「うん。そうだね。だけど今度の台風は旭川にも来るかなあ」
「旭川の測候所は何もいっていないでしょ? 大丈夫よ」
「うん。何も警報は出ていないけれどね」
「旭川に台風らしい台風なんて、今まで来たことがないでしょう? だからそれは心配ないけれど……。それより、困ったことがあるのよ」
「何が困ったの」
徹が大人っぽい表情で相談にのる口調になった。
「今日の夕方に、村井先生がお見えになるんですって」
「村井?……ああ、あの洞爺から帰ってきた先生?」
「ええ、そうよ」
「何しに来るの?」
「大事なお話があるらしいの」
夏枝は徹に予防線を張っていた。
「大事な話なら、おとうさんにすればいいのに。困るのなら断ればいいよ」
「そうもいかないから困っているのよ」
「おかあさんじゃ、わかんない話なの?」
「それが、おかあさんでもわかる話なの」
「なアんだ。なら来たって困ることはないよ」
徹はあっさりといった。
「それも、そうね」
夏枝は、徹がまだまだ子供であることに安心して笑った。啓造の留守に男が訪ねてくる≠ニいうような感じ方を、徹はまだ知ってはいない。そう思うと、夏枝は心がかるくなった。そのうえ、村井が訪ねてくるころ、啓造は本州に渡ってしまっていると思うと、夏枝は解放感で身も心ものびのびする思いであった。
夕方訪ねてくるはずの村井は、なかなか姿を現さなかった。夕食を終えても、食後のあとかたづけを終わっても、村井は訪ねてこなかった。
人を待つことの、胸ぐるしいような甘い思いを、夏枝は何年ぶりかで味わっていた。全身を耳にして、村井の足音に耳をかたむけた。砂利をふむ音に思わず立ちあがると、どこかの犬がのっそりとよぎっていくのが門灯の下に見えた。胸が動悸していた。夏枝は苦笑した。
(もう、いらっしゃらないかも知れない)
時計は七時半をすぎていた。
「おかあさん、病院の先生来ないね」
徹と陽子はラジオに耳を傾けていた。
「そうね」
「約束して、来ないなんて失敬だな」
「何か急用でも、おありになるのよ」
弁護するような夏枝の口調に、
「電話ぐらいかけるといいんだ。ぼく約束守らん奴って、嫌いだな」
と、徹はにべもなくいった。陽子はラジオの落語にききいって、クスクス笑っている。
「でも……」
いいかけたとき、電話のベルが鳴った。
夏枝は、あわてて足がもつれそうになった。何もこんなにあわてることはないのにと、受話器をとった。
「もしもし辻口でございます」
「あ、ぼく村井です。今日お伺いするつもりだったんですがね。急患が出たんです」
夏枝は体中の関節がはずれたように、力がぬけた。
「もしもし、緑内障なんです。急を要する病人だったものですから、電話をするひまがなくって申し訳ありません」
「はあ」
「あしたの夕方は必ずお伺いしたいと思いますが」
村井はあわただしく電話をきった。
明日までの一日が、今の夏枝にはおそろしく長く思われた。しかし緑内障が容易ならぬものであることは、夏枝にもわかっていた。あわただしい電話ではあっても、電話をくれただけ村井が誠実に思われた。
夏枝は急に疲れが出たようで、いつもより早目に床についた。床の中にはいると、明日の村井の訪問がたのしく想像された。相談があるといった言葉も、会うための単なる口実にすぎないように思われた。
とにかく、夏枝は啓造をうらぎりたいと思った。村井によって啓造を苦しめたかった。しかし陽子を育てさせられた口惜しさは、それで消えるとも思われなかった。だが、どうにかして啓造に復讐したかった。村井と結ばれた自分自身がどうなるかということは、考えなかった。復讐の名によって、あるいは単に情事をねがっているのかも知れなかった。けれども、それは夏枝自身にも気づかぬことであった。いつか夏枝は深いねむりにはいっていた。
何時間たったことだろう。誰かが激しくガラス戸をうちたたく音に、夏枝はハッと目をさました。
(誰だろう?)
まっくらな中で息をじっところしたまま、夏枝は全身を耳にした。再び激しくガラス戸が鳴った。家じゅうのガラスというガラスが鳴っていた。人ではなかった。風であった。風の少ない旭川に住みなれて、夏枝は台風を忘れていた。台風は夏枝の気づくのを待っていたようであった。
林がうなっていた。うず巻く濁流のようなうなりであった。戸をうちたたいたのは風であったと知ったいまも、夏枝の恐怖は全く去ってはいなかった。嵐に乗じて、誰かが侵入しているような不安があった。廊下がミシッミシッと音を立てていた。いまにも、夏枝の部屋にヌッと恐ろしい人影が現れそうに思えてならなかった。
家がゆれた。荒れ狂ったように巨大な風のかたまりが家にぶつかってくる。だが、夏枝は台風よりも、人が恐ろしかった。やはり誰かが、家の中にひそんでいるように思えてならなかった。バリバリと木の枝がひきさかれる音がする。それが風にかき消されたかと思うと、ふたたび家が激しく揺れた。夏枝は暗やみの恐怖に耐えられなくなった。おそるおそる枕もとの電気スタンドに手をのばした。電気はつかなかった。その時、暗やみを切り裂くような鋭い光が、さっと夏枝の手を照らした。稲妻であった。ふたたび深い闇にもどると、広い家の中が一層不気味だった。
屋根のトタンが二、三枚つづけざまに風にひきはがされる音がした。夏枝は懐中電灯をとりに行こうと身を起こした。その時、うしろのふすまがさっと開いた。ハッと身をちぢめた瞬間、
「おかあさん」
と、徹の声がした。
「あ、徹さん」
はりつめていた身も心も、一時に力がぬけて行くようであった。
「おっかない風だね。おかあさん」
「本当にね。まっくらなのによく降りてきたのね」
「自分の家だもの。手さぐりで降りられるよ。二階は風でゆらゆらだよ。今にも家が吹っとびそうだ」
夏枝はやっと人心地がついて、懐中電灯をとってきた。どこか遠くで消防車のサイレンが聞こえ、風にのまれてすぐ消えた。身支度をととのえると、夏枝は徹としっかり手をつないで、陽子の部屋に行った。陽子はよく寝入って、激しい風にもさめなかった。夏枝はぐったりと重い陽子を抱きかかえて部屋に帰った。
「おかあさん、何時だろう」
「もう、一時ですよ。徹さんもここでお休みなさいな」
「うん。でもラジオで台風の進路を聞こうかな」
「停電でラジオは聞こえないのよ」
「あ、そうか……。でも携帯ラジオがあるもの。ぼく二階からとってくる」
「陽子ちゃんが寝ているから、イヤホーンでお聞きなさいね」
徹の布団をそばに敷くと、夏枝は陽子のかたわらに横になった。徹は枕もとに懐中電灯をつけたまま、ラジオのスイッチを入れた。
林のたけり狂う音が激しくなったかと思うと、ドッと地ひびきがした。
「木が倒れたのかしら?」
夏枝がつぶやいた時、徹が大声をあげた。
「おかあさん! 大変だよ。連絡船がひっくり返ったんだ」
「まあ」
イヤホーンをぬくと緊迫したアナウンサーの声が流れた。
「……突風のため横倒しとなり、女、子供の多くは甲板に出るひまがなく、船内は水浸しとなった模様で、その生命は絶望視されて居ります。二十七日午前一時百数十名が上磯町七重浜《かみいそまちななえはま》に死体となって発見され、他はいずれも激浪にのまれ水死したものと思われます……」
夏枝と徹は顔を見合わせた。
「まさか、おとうさんの船じゃないだろうな」
「おとうさんは、二時四十分に函館を出たはずですもの。今ごろは内地の汽車の中ですよ」
二人はふたたびラジオに耳を傾けた。
「……二十二時二十六分座礁の連絡が入り、二十二時三十九分SOSの無電が入って居ります。しかしその後二十二時四十二分には通信が途絶致しました……」
「どうして、こんな時に船なんか出したんだ?」
徹が怒ったようにいった。
「まさか、こんなことになるとは思わなかったのよ」
「しかしさ、小さな船じゃないんだもの。少しぐらいの風では、こんなことにならないよ。沢山の人を乗せてるのに、何で気をつけなかったんだろう」
徹は少年らしい、妥協を許さぬ態度で憤慨した。
「本当にね。死んだ人たちがかわいそうね。家族の人たちも、どんな思いでいらっしゃるでしょう」
「かわいそうぐらいで、すまないよ。死んだ人は二度と生き返らないんだ」
放送は、まだつづいている。
「……沈没した連絡船、第四便|洞爺丸《*とうやまる》は、二十六日十四時四十分出港の予定でしたが……」
徹が叫んだ。
「十四時四十分? おかあさん!」
はっと夏枝は息をのんだ。
「十四時四十分といったら、午後二時四十分のことだよ。おかあさん」
徹はにらみつけるように夏枝を見た。
「でも……でも、おとうさんが予定通りに乗られたか、どうかわかりませんよ」
夏枝の声がかすれた。
風はますます吹きつのっていたが、今はもう、夏枝の耳には入らなかった。
「だけど、午後二時四十分に乗るといってたよね? おかあさん」
「…………」
「ちくしょう!」
徹の顔がゆがんだ。
「でも、おとうさんは用心ぶかい方ですから、嵐の時に船に乗られるわけはありませんよ」
夏枝には、啓造がそんな危険をおかすとは思えなかった。晴れていても、ちょっと雲が多いと雨傘を持って出勤する啓造である。
「だけど、乗ったかも知れないよ」
「でも、きっとお乗りにならないわ」
「乗ったよ。きっと乗ったよ」
徹にそういわれると、夏枝はふいに不安になった。二十六日の朝、札幌を八時に出たのであれば、当然啓造は洞爺丸に乗ったはずである。
(もし、わたしが旅行を中止しなければ、旭川を二十六日の八時に発つはずだった。だから、決して洞爺丸に乗ることはなかったはずだ)
啓造をうらぎりたいばかりに、旅行をとりやめた夏枝であった。村井に会いたいばかりに、旅行を中止した夏枝であった。
「洞爺丸乗船者の名簿を読みあげます」
アナウンサーの声に、夏枝と徹はビクリとした。のどがからびた。のみこむつばも出なかった。
「旭川市|春光町《しゆんこうちよう》……」
真っ先に旭川と読みあげられて、夏枝は心臓がとまったかと思った。次々と名前が読みあげられた。一人の名前が終わるごとに、次に移る一秒に満たない時間が長かった。
夏枝は何ものかに、すがりたくなった。しかし何にすがってよいかわからなかった。乗船者の名は、いつ果てるともなく読みあげられた。啓造の名前はなかなか出てこなかった。
「ああ」
夏枝はいつしか祈るように、しっかりと手を合わせていた。啓造を裏切ろうとした自分がふしぎだった。
(こんなに、生きていてほしいのに)
恨みも憎しみも今はなかった。いま、あるいは死んだかも知れぬ啓造に、夏枝はただ生きていてほしかった。生きていてくれさえすればよかった。
「旭川市……」
そういってから、アナウンサーは咳をした。次が読まれるまでに、夏枝は不吉な予感に胸が激しく鳴った。耳をふさぎたかった。徹と陽子をかかえて、一人生きて行く運命が逃れようもないものに思えた。
「旭川市宮下通り……」
啓造ではなかった。
夏枝は、じっとりと手に汗をかいていた。いつ啓造の名が読みあげられるかと、ラジオに耳を傾けていることが辛かった。と、いってラジオから耳をそらすことはできなかった。間断なく胸をしめあげられるような苦しさであった。
(あんな慎重な夫が乗るはずはない)
ふっとそう思った。案外、いまごろ函館のどこかの宿に眠っているような気もした。考えてみると、石橋をたたいて渡る啓造が、嵐の船に乗ったと思う方がおかしいような気もしてきた。
「徹さん。大丈夫よ。おとうさんは」
夏枝がそういった時、紙をめくる音が大きくマイクに入って、
「旭川市外神楽町辻口啓造」
と読みあげる声が、電流のように夏枝の体をつらぬいた。
「どうする! どうしたらいい」
徹が叫んだ。
(うそ! 何かのまちがいだわ)
夏枝は信じられなかった。信じまいとした。村井を思いながら、自分が眠っていた、その間に、啓造が海に沈んだとは思いたくはなかった。自分が旅行を中止したために、啓造を死に追いやった事実を信じたくなかった。
「どうするの? おとうさんが死んだんだ!」
徹は夏枝のひざを揺すぶった。
夏枝は涙も出なかった。ふらふらと立ちあがった。辰子に電話をかけようと思った。受話器をとると、発信音がなかった。電話も既に切れていた。外界との遮断ということが、どんなに恐ろしいものであるかを、夏枝ははじめて知った。いま、一番、人の救いを必要とする時に、電話は何の役にも立たなかった。夏枝は誰に助けを求めることもできなかった。
(乗船者名簿に名前が書かれていたからといって、必ず死んだといえるだろうか)
出航間際に下船したということもあり得るような気がした。
ふとんの上に、陽子がすわっていた。夏枝を見ると、
「おとうさん、死んだって? ウソよね」
「ウソじゃないったら!」
徹が激しくいった。
汽車の窓から顔を出して、いつまでも手をふっていた啓造の姿が、妙にはっきりと目に浮かんだ。
玄関の戸が鳴った。風にしてはおかしかった。人声が聞こえた。
(夫かも知れない)
ハッとして、夏枝は玄関に出て行った。しかし人は一人や二人ではないようだった。
「奥さん、奥さん」
事務長の声であった。戸を開けると、事務長のうしろに、外科の松田や、村井の緊張した顔があった。夏枝はすべてを察した。暗い波間に消えてゆく啓造の姿が見えた。と思った瞬間、夏枝は気を失っていた。
船はなかなか出る様子がなかった。スピーカーから流れるラジオの歌謡曲が、船内を何となく浮きたたせていた。
「どうして船は出ないんですか」
啓造は傍らにいる商人風の男にたずねた。
「貨車か何かのためでしょう。なあにそのうちに出ますよ」
男は読んでいた週刊誌を丸めて、愛想よく答えた。
「台風のせいじゃないんですか」
「台風はあんた、江差《えさし》の方を通るそうですよ。心配ありませんさ」
旅なれた様子の男は、そういってゴロリと横になった。
「そうですかね」
「第一、この船が青森について、二時間ぐらいしてから、台風がくるらしいんですからね」
啓造は、のんきな男の調子につられて安心した。見わたしたところ、ウイスキーを飲む者、早くも眠る者、本を読む者、みな思い思いの姿勢で、出港のおくれを気にしている様子は見えなかった。
風もそれほど激しくはなかった。汽車の中で眠れなかった啓造は、少し船の中で眠っていこうと横になった。
どのぐらい眠ったのか、大相撲の中継放送が遠くから聞こえていたが、だんだん近くなって、啓造はハッキリと目をさました。
「もうどの辺ですか」
啓造は先ほどの商人風の男にたずねた。
「まだ出港していませんよ」
「え? まだ函館ですか」
啓造は不安になった。甲板に出てみると、先ほどの風も雨もやんでいたが、波のうねりが大きかった。空一面の赤い夕焼けが、美しいというより啓造には何か異様な感じだった。甲板には、カメラを下げた人たちが群れていた。
ドラの音がひびいた。ボーイがドラをたたきながら、啓造の横を足早に去って行った。
啓造はふたたび二等船室にもどった。
「やっと出ましたなあ」
愛想のよい例の男が、うす皮の包みを開いた。大きなにぎり飯が四つ、つやつやとした黒い海苔に包まれていた。
「いかがです、一つ。わたしは船の食堂というのが苦手でね」
なるほど、食堂で何かを食べるよりも、うまそうであった。醤油にまぶした削り節の入っているにぎり飯が、啓造にはひどくうまかった。何となく、少年の日の、母の作ってくれたにぎり飯がしみじみと思い出された。死んだ母のことなどを思い出すのは、やはり旅の感傷かと啓造は思った。
やがて、アンカーをおろすチェーンの音が聞こえたような気がした。啓造はハッとした。
「碇をおろしたようですね」
「はてね、ちょっときいてみましょうか」
と、例の男が腰を浮かした。
「台風か?」
ふいに啓造の胸が不安にとどろいた。船窓はすでに暗かった。明るい船室が窓に写って、暗い海は見えなかった。
ややしばらくして、
「ただいま海峡の波が荒いため、本船は港内に仮泊いたします。ご了承ねがいます」
と、拡声器が船内放送を伝えた。
エンジンの動いている間は、それほど心配はないとは聞いていた。しかし啓造は、いいようもなく不安だった。人々のやれやれといった表情で、ふたたびねころんだり、本を読みはじめるのが、ふしぎであった。その時、ふたたび拡声器が、
「お客さまにおたずねいたします。急病人が出ましたので、お医者さまが乗っていらっしゃいましたら、ボーイまでおしらせをねがいます」
啓造は思わず身を起こした。啓造は父からきびしくしつけられていたことがあった。それは、
「医師は、いついかなる時にも医師であれ。そのためには散歩、映画の時を問わず、医師の七つ道具を身から離すな」
ということであった。いまも、スーツケースの中には、聴診器、血圧計から注射器、薬剤、小型の懐中電灯まで入っていた。啓造はスーツケースを持って、ボーイに従って三等船室へ降りて行った。廊下のようになっている三等デッキには、大波が窓をうっていた。
病人は二十歳ぐらいの肥った娘だった。啓造は自分の体で、娘を人の目からかばうようにして診察した。胃けいれんであった。痛みどめを打って、病人の様子をみるために、そばに座った。娘は一人旅らしかった。
「ドーモ、ゴクローサンデスネ」
うしろから声をかけられてふり返ると、外人が人なつっこく笑いかけていた。言葉のあとに、
「……オモイマスネ」
を連発しながら、外人は自分は宣教師だといった。
病人は次第に痛みがやわらいでいるらしく、啓造にはにかんだ目礼をした。やがて、通風管から風が吹きこみ、水が流れこんだ。
(あぶない!)
啓造は思わずスーツケースを引きよせた。ボーイがバケツを持ってきた。
「荒れますね」
近くの客はそういったが、起きあがるふうはなかった。ボーイも落ちついていた。啓造は不安をおさえることができなかった。思いきってスーツケースをあけた。セーターを着こみ、背広を着た。替えズボンをズボンの上にさらにはいた。身にまとえるものは、全部身につけたかった。海難も、山と同様に薄着はタブーであると、啓造はこの間、看護婦に講義したばかりだった。
「サムイデスカ?」
宣教師がいった時、船が左に、大きく揺れた。たなから誰かの風呂敷包みが落ちてきた。
船の揺れが次第に激しくなってきた。老婆がへたへたとうつぶして泣きだした。啓造は思わず時計を見た。十時少し前であった。
「大丈夫です。大丈夫です」
船員が連呼して走りさった。啓造は娘に、
「なるべく沢山着こみなさい。皮膚を露出しないように」
と注意した。船がふたたび大きく揺れた。異様に緊張した空気が船室に満ちた。啓造は病院のことがチラリと頭をかすめた。
(エンジンが聞こえない)
サッと啓造の背筋が冷たくなった。いよいよ揺れがひどくなり、啓造は壁に背をおしつけるようにして、あぐらをかいていた。
船内放送のサインが入り、船室はシンとしずまり返った。
「本船は、これより七重浜に座礁いたしますが、危険な状態にはなりませんから、乗客は全員救命具をつけ、そのまま船室に居残り、乗組員の指揮に従ってください……」
ボーイが走ってきて、船室の天井からつりさがっているひもを引いた。救命具がドッと座席に落ちた。人々は一斉に救命具に殺到した。もはや誰もが無言だった。目と手と足だけがすばやく動いた。
啓造はなぜか争って救命具を取ることができなかった。宣教師も座っていた。その時、船が三十度に傾き、救命具がひとつスッところがって宣教師のひざに来た。
「ドーゾ」
宣教師は、それを啓造の手に渡した。啓造は瞬間ためらったが、もう一つ救命具がころがってくるのを見ると、礼を忘れてそれを背負った。
「ギイッ」
船は大きく音を立てて砂地に座礁した。と思う間もなく船体が傾いた。みるみるうちに海水が部屋に流れこんだ。すでに人々は左舷階段にひしめいていた。啓造は三十度にかたむいたタタミを一気にかけのぼって、階段口に出た。廊下状の三等デッキにあがると、船がさらに大きく九十度に傾いた。
啓造は壁の上に立っていた。もう一方の壁は頭上にあった。船窓から音を立てて海水が流れこんできた。みるみるうちにくるぶしまで水がきた。電灯が海水を明るく照らしていた。
ふいに近くで女の泣き声がした。胃けいれんの女だった。
「ドーシマシタ?」
宣教師の声は落ちついていた。救命具のひもが切れたと女が泣いた。
「ソレハコマリマシタネ。ワタシノヲアゲマス」
宣教師は救命具をはずしながら、続けていった。
「アナタハ、ワタシヨリワカイ。ニッポンハワカイヒトガ、ツクリアゲルノデス」
啓造は思わず宣教師をみた。しかし啓造は救命具を宣教師にゆずる気にはなれなかった。
水が遂に腹をひたした。腹まで水につかると、むしろ啓造の心は落ちついた。ふっと気づくと、夜光虫が模様のように、青く光って揺れていた。死に面した人々の前に、夜光虫は非情なまでに美しかった。
突然ガーンという音と同時に船は遂にてんぷくした。まっ暗だった。浮いていたつま先が床についた。
頭の上から水が流れこんだ。
(とにかく船の中だ。鼻さえ出していれば、助かるにちがいない)
啓造はじっと動かずに船の中にとどまろうと決心した。だが啓造は誰かに足をひっぱられて倒れそうになった。船の中にいることも危険であった。
破れた窓わくに手をのばすと、体が浮いた。窓から顔がすっと出た。黒い海が恐ろしかった。再び足を船内に入れると、また誰かに足をつかまれた。啓造は思いきって、窓外に身を乗りだした。黒く弧をえがいた船腹が目前にあった。
高い波が船腹めがけていどみかかった。船体を流れる滝のような水しぶきに、啓造は海に投げこまれた。
ふり返ると、意外に船は遠かった。
美瑛川《びえいがわ》で幼いころから泳いで育った啓造だった。水はそれほど恐ろしくはなかった。しかしいま、泳げるということが、この大波の中でどれほど役に立つとも思えなかった。すでに心のどこかで深い絶望があった。それは静かなあきらめに似ていた。助かりようのない患者の臨終を待つ心に似ていた。
そのくせ、体は助かろうとして、懸命であった。啓造は手足をなるべく動かさなかった。エネルギーの消耗を恐れた。波に巻きこまれまいとしながら、海の上に浮いているだけで精一杯だった。啓造は波に気を取られ、激しい風に気づかなかった。
見あげるような大波が啓造におそいかかった。啓造の体はくるりと一回転して海にもぐった。
(ああ、これが最期か)
まぶたが波にこすられて、ピリピリ動くのがわかった。息苦しくなった。
(もう、だめだ)
そう思った瞬間、啓造は再び海の上に浮いていた。
(徹!)
再び波に巻きこまれたら、今度こそ最期かも知れなかった。
(夏枝!)
夏枝につづいて村井の顔が浮かんだ。
(死ねないぞ!)
村井と夏枝の顔が波間にダブった。死ねないと思った時、死がにわかに恐ろしくなった。冷静さが失われた。いつか啓造は手足を動かしていた。
死に面したいま、地位も医学も何の役にも立たなかった。死に対して啓造は何の心がまえもなかった。いままで医師として数多くの死を見てきたはずであった。しかしそれは、他人の死であった。自分のこととして見た死ではなかった。いま、啓造は全く無力だった。
「ああっ!」
丈余の波が襲いかかってくるのを啓造は見た。恐怖が全身を刺しつらぬいた。次の瞬間、啓造は一片の木片のように波に巻きこまれて姿を消した。
啓造は息苦しくなり、意識が混濁しかけた。
(これでおしまいだ)
そう思った時である。啓造はハッとわれに返った。スーッと背中が砂にふれたのである。啓造の体はいつの間にか、砂浜に打ちあげられていた。
(助かった!)
へたへたになりそうな心を励まして、立ちあがろうとした。このまま、ここにいては、再び波にさらわれる危険があった。しかし水を含んで重くなった衣服が体にはりついていた。
うめきながら、啓造は思いきって立ちあがろうとした。よく見ると、すぐそばに二尺ほどのコンクリートがある。この向こうに行きたいと思った。だが足は立たなかった。腰がぬけていた。啓造ははいながら、やっとの思いでコンクリートに沿って迂回した。
(ああ! 助かった!)
そう思った途端に激しい疲労が啓造を襲った。
(眠っちゃいけない!)
啓造は、しかし、いつしか深い眠りにおちていた。どのくらい経った後か、啓造は背中を洗う冷たい波に目をさました。二尺ほどのコンクリートを越えて、波がおしよせてきたのだった。
啓造は闇の中にじっと目をあけていた。闇になれた目に、白いものが二、三メートル先にボーッとうつった。白い救命ボートだった。そのすぐ前に、真っ裸の白い体が横たわっていた。女らしかった。
(死んでいるな)
しかし、哀れとも恐ろしいとも思わなかった。
(眠ってはならない)
啓造は救命具をはずして頭の下にした。よく見ると、啓造のまわりに人が幾人も倒れていた。難破した黒い貨物船がすぐ近くに見えた。啓造は思わずギクリとした。
(あの船のところに打ちあげられていたら)
たたきつけられて無残に死ぬより仕方がなかったろうと思われた。
(どこか怪我をしていないか)
啓造は、自分の頭に手をやった。船でかぶった風呂敷がぺたりと吸いついていた。胸も傷はないようだった。腕のどこかが痛むような気がしたが、それもよくわからなかった。
啓造はふたたび次第に眠りに襲われた。眠るまい、眠るまいと目をカッと見開いた時、啓造の傍を懐中電灯が動いた。
啓造は手をさしのべた。懐中電灯は気づかずに去ろうとした。
「助けてくれ」
啓造の声に、懐中電灯がサッと光を投げてきた。近よって、
「おお、生きているな」
男は啓造の顔をのぞきこんだ。
うなずくと、啓造はそのまま、眠りこんでしまった。
ふり返ると汽車の窓から紅葉の函館山が目にはいった。海が銀色におだやかだった。
(生きている!)
啓造は、ふっと涙ぐんだ。あれから半月たっていた。顔や足にかすり傷があった程度で、他の人々に気の毒なくらい啓造は目に見えて回復した。夏枝や外科の松田がかけつけた時は、さすがに疲れて昏睡していた。しかし外傷がないだけに回復は早かった。
助かって病院に運ばれてから、出血がひどくて死んだ者もいた。三寸釘が櫛の歯のように出ている木に頭を刺された者もいた。
啓造はあのにぎり飯をくれた愛想のよい男のことを思い出していた。あの男は生きているような気がした。しかし、一、二等の船客で助かった者はほとんどいないと聞いていた。あんな気のいい男も、あの暗い海の中で死んだのかと思うと、啓造は自分のいのちがひどく厳粛なものに思われた。千数百名の人々の犠牲の上に生きているような辛い、しかし激しい感動があった。
(みんな生きていたかったのだ)
啓造は、自分が死んだ人々の命を引きついで生きているように思えた。あるいは自分の頭を刺し通したはずの釘が、ほんの僅かのことで、誰かの頭をつき刺さなかったとはいえなかった。そう思うと、今生きて帰ることが、単なる幸運とはいえないような気がした。
もっと厳しい、もっと重たい命を注ぎこまれた思いであった。
汽車の中まで照り映えるような、紅葉と美しい水の大沼も過ぎた。新しい命を得てながめる風景は、くるしいほどに美しかった。
(あの宣教師は助かったろうか?)
あの胃けいれんの女に、自分自身の救命具をやった宣教師のことを、啓造はベッドの上でも幾度も思い出したことだった。啓造には決してできないことをやったあの宣教師は生きていてほしかった。あの宣教師の生命を受けついで生きることは、啓造には不可能に思われた。
あの宣教師がみつめて生きてきたものと、自分がみつめて生きてきたものとは、全くちがっているにちがいなかった。
いつしか汽車は海岸を走っていた。海霧《ガス》が低くはうようにわいていた。やがて、海霧はあたり一面乳白色にたちこめた。空も海も、ただ一色に乳白色に煙っていた。
海は見えなかった。たしかに、そこには、あの巨大な海があるというのに、海は見えなかった。たしかにそこにあるはずの海が見えないということ、そのようなことが、自分の人生にも、あるように思えて、啓造はそれが恐ろしかった。
今日帰ることを、啓造は、夏枝にも知らせなかった。突然帰って喜ばせてやりたかった。旭川に帰って啓造は本当に悔なく、生きたいと思っていた。
夏枝を愛し、徹を愛し、陽子を愛し、そして村井とも仲よく生きて行きたいと思った。
汽車は東室蘭《ひがしむろらん》に近づいていた。
*洞爺丸 昭和二十九年九月二十六日、青函連絡船洞爺丸(四三三七トン)が、台風十五号による強風のため、函館港出港後、座礁転覆した事件。乗客一一七七人、乗組員一一〇名のうち、生存者は二〇〇名足らずという大惨事となった。
雪虫
雪虫がとぶころになった。啓造が函館から帰って、五日ほど過ぎた。
北国では、雪の降る前になるときまって、乳色の小さな羽虫が飛ぶ。飛ぶというよりも、むしろ漂うような、はかなげな風情があって、人々は寒さを迎える前のきびしい構えが、ふっと崩されたような優しい心持ちになるのであった。
もう、少しの暖かさもなくなった晩秋の夕光の中を、啓造は、病院の帰りに街に向かってうつむきながら歩いていた。
今朝の食卓で、徹のいったことが、心につかえていた。今朝、徹は、
「おとうさん。病院の村井って先生、なかなかハンサムだね」
といった。村井や事務長が台風の夜に、放送で啓造の難を知っていち早くかけつけたことを、啓造もきいて知っていた。だからめったに病院に行かない徹が、村井の名を知っていても不審には思わなかった。
「うん。映画俳優になった方がよかったようだね」
啓造は、そうおだやかに答えた。すると徹が無邪気にいった。
「あ、そうそう、おかあさん、あの先生だね。台風の日に何か相談があるって、おかあさんと約束して来なかった先生は……」
とっさに返答につまった夏枝を見て、啓造はうちのめされたような思いだった。
(おれのるすに、夏枝はまた村井と会う約束をしていたのか)
夏枝が突然旅行を中止した理由が、村井にあったことを、啓造はいやでも思い知らされずにはいられなかった。啓造はけさのそのことを思い出していた。
雪虫がひたと吸いよせられるように、啓造の合オーバーについた。うすいかすかな羽が透いて、合オーバーの茶がうつった。啓造は雪虫をソッとつまんだ。しかし雪虫は他愛なくペタペタと死んだ。それは一片の雪が、指に触れて溶けるような、あわあわしさであった。
(幸福とか、平和というのも、この雪虫のようなものだな)
啓造は生きているということが、どんなに厳しい事実であるかを、今度の海難事故で知ったつもりだった。あの痛ましい犠牲の上に生きている事実を生涯忘れずに、本当に真剣に生きようと啓造は旭川に帰ってきたのだった。
しかし、あの体験は啓造一人の体験であった。夏枝も、徹も、周囲の者も、あのたけり狂う波の中をくぐって来て、いまを生きているのではなかった。小学校一年生のような、ういういしい真剣さで生きようとした啓造の心持ちは再び垢にまみれた手で、もとの生活にグイと引きもどされた感じだった。啓造がいくら忘れよう、許そうとねがっても、夏枝は啓造を裏切ろうとしているように思われてならなかった。
(しょせん、人間は誰も自分一人の生活しか生きることはできないのだ)
啓造はふっと、今年の春死んだ前川正《まえかわただし》を思い出した。
茫々天地間に漂ふ実存と己れを思ふ手術せし夜は
肺結核で肋骨切除をした時の、前川正の歌だった。前川正は、啓造の三期後輩だった。同じテニス部の頭のよい医学生だった。彼のこの歌境にあった時の孤独を、いま啓造はしみじみと思いやることができた。それはあの暗い波間に浮き沈みしていた時の啓造に似ていた。
(この孤独を通って彼は死に、そしておれは生きた)
しかし生きるということは、あの大波とたたかうことに何とよく似ていることだろう。啓造は明るく平和に暮らしたいとねがっているのに、波はまた啓造に襲いかかっていた。
(夏枝! 静かに暮らさせてくれ!)
啓造はそう叫びたかった。啓造はいつまでも雪虫のただよう街を歩いていたい思いだった。
いつしか啓造は富貴堂《ふうきどう》書店の前に来ていた。
夕方の書店は、歩くこともできないほど混み合っていた。土曜日のせいかも知れなかった。人をかきわけて店の奥まで入ることがおっくうで、啓造は目の前にある書棚を見あげた。
「クリスマス・プレゼントには聖書を」
という貼り紙があった。その下に黒表紙に金の背文字の聖書が、おどろくほどたくさん並べてあった。
クリスマスが間近いような貼り紙だったが、まだ十月の中旬であった。
啓造は聖書を一冊手にとってみた。ずしりと重い聖書に、啓造は学生時代を思い出した。英語の勉強が目的で、宣教師の所に通っているうちに、バイブルを読み、教会にも出入りした一時期があった。別段何のなやみも、問題もなくて聞く説教には、さして胸にひびくものはなかった。それでも、神の存在や、永遠について、教会の青年たちと論じ合った思い出はあった。
卒業後は、聖書が本棚のどこにあるかもわからぬほど、読むことはなくなった。いまこうして再び聖書を手にすると、やはり読んだころがなつかしく思い出された。
(ほう、口語訳か)
啓造はあちらこちらと拾い読みをした。
「求めよ、さらば与へられん。尋ねよ、さらば見出さん」
と記憶していたマタイ伝の聖句が、
「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう」
となっているのも珍しく、何かユーモラスでさえあった。
拾い読みをしているうちに、啓造の視線はマタイ伝第一章に、熱心に注がれはじめた。一読して啓造は、息をのんだ。再び啓造は読み返した。
処女マリヤが、妊娠をした物語であった。
「イエス・キリストの誕生の次第はこうであった。……母マリヤはヨセフと婚約していたが、まだ一緒にならない前に、聖霊によって身重になった。夫ヨセフは正しい人であったので、彼女のことが公になることを好まず、ひそかに離縁しようと決心した。彼がこのことを思いめぐらしていたとき、主の使が夢に現れて言った。ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼はおのれの民を救う者となるからである=Bすべてこれらのことが起こったのは、主が予言者によって言われたことの成就するためである。…………ヨセフは眠りからさめた後に、主の使が命じたとおりに、マリヤを妻に迎えた」
啓造にとって、これほど重大な言葉は、聖書のどこにもないように思われた。
学生時代の啓造が、ここを読んだ時の問題は、「バージン(処女)の妊娠は可能か」という医学的、科学的な疑問であった。
無精《むせい》で卵子が分裂するということが、人間の場合、可能かどうかと論じ合った。卵子を針で何万回も突いて、処女妊娠の可能を証明しようとしている学者の話などに興味があった。
「聖霊による処女の妊娠なんて、まっぱじめから書いてあるのでは、聖書もあやしいものだ」
といったり、また、
「処女懐胎が嘘ならば、わざわざ、こんな疑われるようなことを、第一章から書くはずはない。これは、とにかく事実であったからだ。しかも二千年、消されも、書き直しもされずにきたというのは、事実だった証拠だ。奇跡はあり得る。科学では証明できないものを奇跡というのだ。われわれ科学するものの対象は、不思議であって奇跡ではない」
と話し合ったこともあった。
だがとにかく、そのころの啓造にとって、処女の妊娠など、どうもばかばかしく思われたことは事実だった。しかしいま、この話は啓造の胸を打った。夏枝の背信に悩んだ啓造にとって、読み過ごすことのできない話であった。
結婚していない婚約者の妊娠が、人目につくほどになった。それを知った時のヨセフの懊悩が、啓造にはじゅうぶんに察することができた。
「ひそかに離縁しようとした」
という短い一句に、その思いがこめられているように思えた。しかし、夢に現れた天使が、その妊娠は神の意志によると告げたのである。破約しようとまで考えていたヨセフが天使の命じた通りに、マリヤを妻に迎えたという、その一事に啓造は、強く心打たれた。啓造は、深い吐息をついた。二千年来、世界に何十億のキリスト信者がいたであろうが、マリヤの処女懐胎をヨセフほど信じがたい立場にあったものはいなかったと、啓造は思った。
最も信じがたい立場にあって、天使の言葉に素直に従ったヨセフに、啓造は驚嘆した。ヨセフが神を信じ、マリヤを信じたように啓造も、夏枝の人格を信じたかった。
啓造は、時おり彼の体にぶつかりながら出入りする客の中で、聖書を持ったまま溢れる涙をこらえかねた。
夏枝のうなじに残った紫のキスマークが、八年を経た今もなお啓造の目にありありと浮かんだ。
ヨセフが、マリヤの処女妊娠を信じたことで、マリヤの日ごろの人となりが、啓造にもうかがうことができた。ありきたりの、清純、正直なぐらいの女性ではなかったのだ。崇高といえるものがあったのだ。そう啓造は思った。
夏枝と村井が、どの辺までの深いつながりがあったのか、それは啓造にもわからなかった。しかし、いまの啓造には、夏枝が村井に惹かれたという、その事実が耐えがたかった。
(あんなに行きたがっていた旅行をやめてまでも、夏枝は、今すぐにでも村井に会いたかったのだろうか)
(村井が夏枝に相談があるといったという、徹の言葉をそのまま、うのみにしないまでも、とにかく、二人が会う約束があったのは事実だったのだ)
啓造は、口語訳の聖書を一冊買って外へ出た。
(ヨセフがマリヤを信じたほどの、堅い信頼で結びつく人間関係というものがあるだろうか)
啓造は、わびしかった。荒波のなかであれほど苦しい思いをして新しく生命を得たというのに、結局はつまらぬ思いにとらわれて生きていることがわびしかった。
(こんな思いを繰り返して、愚かしく一生を終えるのだろうか)
とすれば、あのまま海に死んだところで、それほど惜しい命でもなかったように思われた。
救命具を胃けいれんの女に与えた宣教師は死んだと、啓造は聞いた。
(あの宣教師に、この命をやるんだった)
啓造はそう思って自嘲した。
既に外は暗かった。寒さが足もとから、静かにからみついてくるようだった。家に帰ると門灯の下に陽子が立っていた。啓造を見ると駆けてきて、
「おかえりなさい。土曜なのに遅いんだもの。陽子心配した」
と、啓造の手にぶらさがった。
「うん……」
街を歩き回って、啓造は、疲れていた。思わず陽子の手をふり払うようにした。ふり払った手が陽子の顔を打った。陽子がおどろいて啓造を見あげた。
「あ、ごめん。痛かったかい。おとうさん疲れていたんだ」
自分の帰りを心配して待ちつくしていた陽子のほおを誤ったとはいえ打ってしまった。啓造はやりきれない思いで一ぱいになった。
歩き回った疲れが出て、あくる日、啓造はひるごろまで眠ってしまった。日曜日であった。午後になって夏枝は啓造への見舞い返礼のため、市立図書館に行く徹と車で出かけた。
次子が手伝いにきて、台所で越冬の漬物をつけていた。啓造は本を読むこともおっくうだった。何ということもなく漬物をつけるのを見たり、家の前に出たりしてぶらぶらとしていた。
林の方から、陽子を先頭に、女の子供たちが四、五人、なわとびをしながら駆けてきた。啓造が家の前に立っているのを見ると、陽子ははにかんで、なわとびの紐が足にもつれた。あぶなく転びそうになった陽子を啓造がささえた。陽子は、遊んであかくなったほおを啓造に向けた。
「あぶないよ」
陽子はこっくりとうなずいた。
「どれ、おとうさんに、それをかしてごらん」
「あら、おとうさんも跳ぶの?」
陽子がうれしそうに、なわとび紐を啓造に手わたした。他の子供たちも珍しそうに啓造のまわりをとりかこんだ。啓造は、和服に下駄のままで、なわをくるくる回したが、紐がみじかかった。
「ざんねんながら、みじかいね」
啓造がそういって、紐を陽子に返すと、陽子がつまらなそうにいった。
「おとうさん。もう遊ばないの?」
子供たちが、再び林の方に駆けて行った。啓造は昨夜、陽子のほおを誤って打ったつぐないをしたいような、やさしい気持ちになっていた。
「陽子、おとうさんと遊ぼうか」
陽子の顔がパッと輝いた。
「本当? 何をして遊ぶの?」
きかれて、啓造は返事につまった。小さな女の子を遊ばせた経験を、啓造は持たなかった。
「外は寒いよ、とにかくおうちへ入ろう」
啓造は陽子の手をとった。陽子はうれしそうに、スキップしながら門の中に入った。
(陽子とならば、自分の心がけ次第でもっと楽しくできるはずだ)
陽子の喜ぶ姿を見ると、啓造もやはりうれしかった。昨日ほおを打ったつぐないに、もっともっと喜ばせてやりたい思いだった。いま、啓造は陽子がだれの子であるかを忘れていた。
「折り紙をしようか」
啓造がいうと、陽子は廊下をバタバタと走って、すぐに大きなボール箱を持ってきた。
「何を折るの? おとうさん」
「陽子は何を折れる?」
「つるも、奴さんも、だまし舟も……」
「たくさん折れるんだね。だまし舟ってどうだったかな」
明るい陽ざしの窓を、何鳥かよぎって消えた。
(愛そうと思えば、おれだって陽子を愛せるのだ)
啓造は自分をほめたい思いになっていた。
陽子は唇をキュッと固くつぐんで、器用にいろ紙を折っていた。いろ紙の角と角を重ね折る時の、少しの狂いもない正確な折り方に、啓造は驚いた。でき上がると陽子はにっこりして、いった。
「おとうさん、この舟の先を持ってちょうだい。それから目をつむるのよ」
(こんなにかわいい子どもだったのか)
啓造はいまさらのように、陽子の笑顔をあかずに見つめた。
「あら、目をつぶるのよ」
陽子が、おかしそうに笑った。陽子の笑顔は明るくて、その髪の毛まで笑っているようだった。
「陽子」
「なあに?」
「おとうさんにだっこしないか」
二年生のいままで、陽子は啓造に抱かれたことはなかった。陽子はうれしさと恥ずかしさで真っ赤になった。しかし、素直に啓造のひざに抱かれた。
「陽子はずいぶん重いんだねえ」
意外に肉づきのよい陽子を膝に抱きながら、啓造は一度も抱いたことのない自分の冷たさがかえりみられた。
「だって陽子二年生だもの」
「組で大きい方だろう?」
「そう、二番目に大きい」
「ほう、それはえらいな」
啓造は患者の体にふれるように、静かに両肩に手をおいた。陽子はちょっと首をかしげて、おとなしくしていた。次に啓造は、かるく両腕に手をふれた。腕も思ったより太かった。
向こうむきに抱かれている陽子の背に、ほおをおしつけるようにして、足に手をやった。すべすべの丸い膝小僧があいらしかった。
「何だ。くつ下をはいていないの?」
「長いソックスをはいていたもの」
「こんなに、膝小僧なんか出して寒いだろう?」
「ううん。今日はあったかいもの」
絹繻子のような感触の、膝のあたりを啓造はなでていた。なでながら、幼女が痴漢におそわれた話を思い出していた。
小さな女の子に、大の男が何が面白くて、ばかなことをするのかと、啓造は自分の少年の日の過失を忘れて、嘲笑してきたことだった。しかしいま、陽子を膝の上に抱きながら、啓造はその痴漢の幼女に対する心理が、わかるような気がした。
それは、成熟した女性といる時とはちがった、もっとひそかな、妖しい心持ちであった。
一人前の女性ともなれば、性に対する知識も感情も豊かで、必ず何らかの応答があるはずである。しかし、幼女には、その知識も感覚もなかった。幼女を抱くのは、密室の一人の遊びに似ていた。女の子は無邪気に抱かれているだけで、何も誘ってはいないのに、成熟した女性の誘いとは別の、妖しい魅惑があった。
啓造は、そのことに気づくと、あわてて陽子を膝からおろした。
「重いなあ。陽子は」
陽子はちょっと首をすくめて笑った。仮にこの小さな唇をむさぼり吸ったとしても、陽子はそれを父の愛として受けるだけであろう。そう思いながら啓造は、そのような想像をした自分におどろいた。
(陽子が、実のわが子なら、決してこんな想像はしないはずだ)
自分という人間が底知れぬ醜い人間であることを、思わない訳にはいかなかった。
(おれも、陽子を愛することができる)
と自負した先ほどの思いは跡かたもなく消えた。
(こんなのは愛じゃない。しょせんおれは感覚的にしか人をかわいがることができないのじゃないか)
陽子は、そんな啓造の思いを知るはずもなかった。抱かれたことがうれしくて、一所懸命つるを折っていた。
(愛するというのは……一体どうすればいいんだ?)
啓造は、みるともなしに折り紙をしている陽子の手もとを、ぼんやりみていた。
(愛するというのは、ただかわいがることではない。好きというのともちがう)
「こんどは、何を折ったらいい?」
「…………」
「ねえ、おとうさん」
「うん?」
啓造は、陽子をみた。
「何を折るの」
「うん、飛行機だな」
「飛行機?」
啓造は、少年のころ広告のチラシで飛行機を折って遊んだ。それが思わず口から出たのである。
(愛するとは……)
ふっと、洞爺丸で会った宣教師が思い出された。
(あれだ! あれだ! 自分の命を相手にやることだ)
啓造は思わず膝を打った。
(だが……おれにはできない。長い間、陽子を膝の上に抱くこともできなかった。そして、やっと抱きあげたと思ったら、おれはただ感覚的になってしまうところだった。そんな自分に、あの宣教師のまねはできない)
それはなぜかと、啓造は思った。
(おれは、汝の敵を愛せよという言葉は知っていた。しかし、人を愛するのは、スローガンをかかげるだけじゃ、だめなんだ。あの宣教師は、もっと大事な何かを知っていたんだ。単なる言葉じゃないものを知っていたのだ。言葉だけじゃなく、もっと命のあるものを知っていたんだ)
それを啓造は知りたかった。
「おとうさん、ハイ飛行機」
陽子が折りあがった飛行機を、啓造に向かってとばした。飛行機があざやかに弧をえがいて啓造をとびこえた。その時、
「おう、生きてる、生きてる」
高木が、ふすまを開けて顔をつき出した。
「おう」
啓造は、ちょっと顔をあからめた。
「悪運の強い奴だな。いや、辻口は精進がいいっていうやつか。あまり悪人じゃないもんな」
高木は、啓造の膝にふれんばかりに間近にすわりこんで、じっと啓造の顔をのぞきこんだ。啓造は胸が熱くなった。
「よかった。何せ生きていることだ。人間死んじゃだめだぜ。なあ、陽子くんや」
高木は、そういって、そばにすわった陽子をかるがると抱きあげて、自分の膝においた。
「おとうさん生きてて、よかったな」
「よかったわ」
「死んだら、どうした?」
「泣くわ」
「泣くか。どのくらい泣く?」
「わかんない。おかあさんね。きぜつしたの」
「気絶?」
「病院の先生がたが、注射したのよ。おにいちゃんも泣いたの。おとうさんが死んだって」
「フーン。大変だったな。陽子くんも泣いたのか。エーンエーンって」
「陽子は泣かなかったわ」
「どうして? 悲しくなかったか」
「だってね。おにいちゃんはおとうさんが死んだっていうけれど、陽子はウソッと思ったの。きっとウソだと思ったの」
啓造は高木が陽子を抱いているのを見ながら、先ほどの自分の醜い思いを恥じていた。
陽子をよぶ友だちの声が、林の方から聞こえた。
「いま行くわ。待っててね」
陽子はよく通る大きな声で答えると、いろ紙の箱をかかえて出て行った。
「…………」
「…………」
高木と啓造は、じっと顔を見合わせた。顔を見ただけで何もいうことはなかった。
「ひどい目にあったな」
「ああ」
「思い出すのもいやだろう」
「うん」
「人に会うたび、同じことを何べんもきかれるだろう? おれはきかんぞ。どうせ興味だけできくんだ。世間の奴らは」
「とばかりも、いえないだろうが……」
「なあに、命がけの苦しい目にあったことを、情け容赦もなく、きくもんだよ、人間なんて」
「…………」
「こんな目にあったからって、心を新しくして生きようなんて、気ばらんことだな」
「…………」
「どうせ、人間なんて何べん焼き直しても、どうにもならんもんさ。まあ、あんまり自分は利口だとさえ思わなきゃいいんだよ。気楽に生きることだな」
啓造は、自分の愚かさを見すかされたような気がした。しかし、高木の言葉に何かが欠けているのを啓造は感じた。
「あ、少しあとで村井も来るぜ」
「村井が? 何か用事かね」
「いや、別に」
二、三日前から、啓造は病院に出ていた。だから、村井とはいくども顔を合わせていた。
「夏枝さんは?」
次子が、ウイスキーを出して立ち去ると、高木がたずねた。
「返礼回りだ」
「返礼? 何の返礼だ」
「今度のことで見舞ってもらった礼だがね」
「なあんだ。一世一代の、それこそ、へらからい目にあったんだ。この度の見舞いはもらい放しでもかまうめえ」
高木は、まっ白な歯を見せて笑った。林の方で、陽子の笑う声がひときわ澄んで響いた。
「元気のいい子じゃないか」
「ああ、陽子かね」
啓造は、耳を傾けるようにして、
「とにかく、いうところのない子だね」
と、高木を見た。
「それは、何よりだ」
「…………」
啓造はじっと高木の顔をみつめた。
「どうした?」
「陽子は……本当に犯人の子供なのかね」
啓造は高木をみすえるように、しっかりとみつめた。先ほどからそれを聞きたかったのである。
「約束を忘れたな」
高木も、おし返すように啓造を見た。不意をつかれたろうばいの色はなかった。
「いや、約束は憶えている。しかし……」
「お前たちの子のはずだ。犯人の子だなんて、おれは知らん」
高木はそういうと、ネクタイをひいてグイとゆるめた。
「陽子は、頭がよくて、学校の成績も二位と下がったことがない」
「フン」
「あの通り、明るくって、しかもやさしい子だ」
「それで?」
「おまけにあの顔立ちときている。殺人犯の子に、あんな子が生まれるものかね」
「フン、何だ、つまらねえ。じゃ何か。殺人犯の子というものは、みんな少し、頭がわるくて、顔も下卑てて、性質がひねくれているとでもいうんか」
「いや、そうじゃないが、佐石というのは、タコなんかしていたし……」
「辻口、お前の祝い酒をのんでいて、文句はいいたくはないがねえ。おれが、乳児院の子を見に来る奴らに、いつも腹の立つのはソレなんだ。何か一段低いものでも見るような目つきで、子供たちを見るんだ。たとえ親がタコだろうとイカだろうと、おれたちの子とどれだけ違うっていうんだい。陽子くんが、医者のタネなら文句はない。タコの子じゃ、どうもおかしいと、辻口もそう思うんだろう?」
高木が、にらみつけるように啓造を見た。
「そうかも知れん」
啓造は、高木の言葉に自分を恥じた。
「おれはなあ、辻口。いつも乳児院の子供を見て思うんだ。おれと、この子らと一体どこがちがうのかなって。見学者たちが、何か一段上の人間のような顔つきで、見て行くたびにそう思うんだ」
「…………」
「お前のところには、忍術の巻物のような長い長い系図とかいうのがあったな。由緒正しいなんていってみたって、みんな人殺しをしたようなもんだ。メカケのいたのや、合戦のたびに殺し合ったのやな。そんなのが一人もいない家系なんて、先ずないだろう?」
「まあ、そうだね。しかしそれは犯罪人とはちがうよ」
「そうかね。おれなんて、何十人も何百人も、腹の中の赤ん坊を殺して来たぜ。逃げも、かくれもできない胎児をね。あれだけ殺せば化けて出そうなもんだが、かわいそうに化けても来ない。法律に反したことでもないから警察にもつかまらない」
高木は自嘲した。
「そりゃ犯罪人じゃないもの」
「チェッ。わからねえ野郎だな。法にふれなきゃ、何をしてもいいのか? 戦争中にこんなことをしたら、みんなカンゴク行きだったぜ。医者も、母親もな。その時代ならおれは前科何百犯だぞ」
「…………」
「というぐらいなら、おれもこんなことをやめればいいんだ。それもしないで、乳児院の子をかわいがって、お茶を濁しているケチな野郎さ」
啓造は高木の言葉に深い共感をおぼえながら、うなずいた。
「天は人の上に人を作らずか。福沢諭吉ってのはやっぱりえらい男だな」
「福沢諭吉といえば、福沢の恋人がいたのを知っているかね」
「知らんな」
「旭川にその恋人の息子や、孫がいるんだがね」
「へえ。本当か」
「ああ、本当らしい。息子といっても、もう七十だ。立派な人でね。孫も慶応出の、できた人間だよ」
「ふうん。これは初耳だ」
「何でも、その恋人は福沢の血縁でね。福沢は結婚を申しこんだが、身分がちがうとかで親に断られたそうだ」
「なるほど。天は人の上に人を作らずともいいたくなるわけだ」
「いや、福沢の思想とかかわりがあるか、どうかはわからんがね。そんな話を人から聞いたことがある。その恋人の孫などは、長いことわたしの知っている人間だが、福沢の身内だなんて一度もいったことはないがね」
「へえ。どうしてだね」
「謙遜でね。福沢がえらいからといって、ひけらかさないんだな。君のおばあさんは福沢の恋人だったのかときいたら、どこから聞いたと、おどろいていたよ。ところで村井君はおそいようだね」
啓造の言葉の終わらぬうちに、村井が訪ねてきた。
「奥方のご帰館まで、ゆっくり飲むとしようか。辻口はもう大丈夫かな」
「かまわんよ」
啓造は村井を見ただけで、心が波立った。
「病院には、もう出てるんだって?」
高木は、次子の持ってきたチーズを三片ほど、いっぺんにほおばった。
「病院に出てる方がラクだよ」
「ぜいたくなもんだな。シェーンな奥方の顔でもながめていたらよさそうなもんだ」
村井は、ぼんやりとウイスキーのグラスを手にしていた。
「どうした村井」
「どうって」
「元気がないぜ」
「そうですかね」
村井はニヤリと笑った。
「ところでお前、ハイラーテン(結婚)する気はないか」
「ハイラーテン?」
「体が無理かな」
高木は啓造にきくような表情を見せた。
「仕事の方も休まないし、そろそろ、いいんじゃないかね」
啓造は、そう答えてから、いかにも村井の結婚を望む態度をとったことを悔いた。
「結婚なんて……」
そういって村井はニヤニヤした。
「いやな笑い方をするぜ。結婚なんて、どうせ、したところで、大ていの人間は後悔するさ。しかし、だから結婚しない方がいいということでもないんだ。人間というものは、どうせ何をしたところで、年中後悔したり、愚痴をいったりしているもんだ」
高木の言葉に、村井がまたニヤニヤした。
「高木さん。院長と同じ年でしょう?」
「ああ、そうだよ」
「ぼくより、先にハイラーテンしなきゃ」
「ああ、そうか」
高木は首をなでて、
「世間一般からいうと、そういうことになるな。しかしだな、村井。おれが一人でいるのと、お前が一人でいるのと、一体どっちが目ざわりだと思う?」
啓造は思わず笑った。村井は、
「人聞きの悪いことをいわないでくださいよ。何だか、ぼくが悪いことでもしているみたいじゃないですか」
「みたいじゃなくて、悪いことをしているぜ。きっと」
「いやだなあ」
「まあ、とにかくさ、おれが一人でいても、世間の娘どもは、騒がない。しかし、お前が一人でいると、こりゃあ、うるさいに決まっているぜ、なあ辻口」
啓造は、仕方なく笑ってから、思いきっていった。
「夏枝に何か相談があったそうで……。結婚のことでしたか」
村井はちょっとろうばいして、
「あ、別に相談ってことも……」
と、言葉を濁した。
「病院の中に誰か、これというのがいないのか」
高木は、あかくなった顔を大きな手でつるりとなでた。顔をなではじめるのは、高木の酔ってきたしるしだった。
「いませんね。残念ながら」
「辻口のところのプレ(看護婦)は割にそろってるじゃないか」
「さあ、大したこともありませんよね。院長」
村井の言葉に、
「事務員の方にはいませんか」
珍しくズバリと啓造はいった。
「いませんね」
村井はそっけなかった。
「そうですか。松崎由香子は割と気が合うんじゃないですか」
啓造は意地悪く追った。
「松崎? あれは院長の他にはこの世に男性なしという女ですよ」
村井は平然として、ウイスキーをグラスについだ。
「ほう。辻口にもそんなのがいるんか。見なおしたぜ」
高木は、啓造の顔をのぞきこむようにした。
「冗談じゃない」
啓造は手をふった。
「あわてるところがおかしいぞ。なあ村井」
「松崎ってのは、院長には真剣なんですよ」
村井はニヤニヤした。
「けしからん奴だな、辻口も。品行方正な面をして、おれには一言も話したことがない」
高木は、啓造のグラスにウイスキーを注いだ。啓造は村井の顔をちらりと見た。
(もし、松崎がそうだとしても、なぜ村井は松崎由香子の気持ちを知っているのか)
「だが、あまり深入りするなよ。夏枝さんが泣くからな」
高木は、そういってから、くるりと村井の方に体を向けた。
「村井、とにかくお前は結婚することだな」
「…………」
「お前のムッター(母親)に、口説かれたんだ。早く嫁をもらうようにいってくれとな。悪く思うなよ」
「高木さんがもらえというならもらいますよ」
「ほう、ほんとうか」
高木は相好をくずした。胸ポケットに手を入れて、高木は写真をとりだした。
「どうだ。この娘は」
啓造は二人のやりとりをじっとながめていた。
「写真なんか見る必要はありませんよ。どうせ女なんて五十歩百歩だ。高木さんがいいといったら、無条件でもらいますよ」
村井は、ウイスキーのグラスを指にかぶせて、くるくると回した。
「いやなことをいう奴だな。見合いぐらいしたっていいじゃないか」
「見合いなんか七めんどうくさい」
村井が唇をゆがめた。
「じゃ、いきなりつきあうというのか」
「どうせ結婚したら、いやでも毎日つきあわされますよ。結婚前ぐらい顔を見せないでほしいですね」
「ふん、じゃ何か。写真も見ない、本人も見ない、結婚式ではじめて顔を見るというんか」
高木はあきれて村井を見た。啓造はおどろいた。
「高木さんがいいと思ってすすめてくれるんなら、それでいいでしょう」
「しかし、写真ぐらい見たって罰も当たるまい」
「写真なんか見たって、その女性の何がわかりますかね。会って見たって、わかりゃしませんよ。三カ月や半年ぐらいつきあったって、お互いにごまかせますからね。いいとこばかり見せ合うようですからね」
「だから、つきあわんのか」
「ぼくはぼくなりに、持っている結婚観ですよ。結婚してみなきゃわからない。いや、結婚して何十年たったってわからない。人間ってそんなところがあるんじゃないですか」
「どうだ、辻口。村井の論法は?」
高木がもて余したように、啓造を見た。啓造は、思いがけなく村井の傷口にふれたような気がした。
(村井は、いつ、どこで、こんな深い傷を負っていたのか?)
「高木さんはチョンガーだから、わかりゃしませんよ。しかし院長、結婚なんてカケみたいなもんですよね。うまくいくか、いかないか。どっちかですからね」
「そうですかね」
啓造は、答えかねた。
「猛烈なリーベン(恋愛)をしたり、気の知れた幼なじみと結婚したからって、うまくいくとは限らない。どんな結婚をしたって、成功するか、しないか確率は五十パーセントしかない」
「顔に似合わんことを考えている奴だな」
高木は、頭をポリポリとかいた。
「丁か半かですよ。カケをする以上、ぼくは、顔も年齢も名前も親も性質も、その他一切何も知らずにスパッとカケたいですよ」
「マージャンばかりやりやがって、とうとうお前バクチウチになったんか」
「ああ、バクチウチですよ。カケる気にでもならなきゃ、ハイラーテン(結婚)する気になど、なるもんですか」
酔って青くなった村井の顔を見ながら、啓造は村井に対して、はじめて暖かい気持ちがかすかに動いた。
「しかし、それじゃ女の方でウンとはいわないんじゃないですか」
啓造の口調はおだやかだった。
「何より、人間をバカにした話だよ。あきれた奴だ。おれはお前の嫁の世話なんかごめんこうむるぜ」
高木が、怒ったようにいった時、夏枝が部屋に入ってきた。
客は高木だけかと、夏枝は思っていた。
「高木さんがいらしてます」
次子は、村井の名はいわなかった。次子は高木の名前に村井も含めたつもりかも知れなかった。夏枝は部屋に入るなり思いがけなく村井の姿を見て、思わずほおをあからめた。そのことに気づくといっそう血がのぼって、首すじまであかくなった。
啓造と高木の目がそれぞれに、鋭く光った。
「留守に致しまして、失礼申しあげました」
あいさつをすると、いくぶん夏枝の心は落ちついた。
「夏枝さん。村井が結婚することに決めましたよ」
高木は、夏枝を見すえるようにして、いった。啓造はまた高木の冗談だと思った。たったいま高木は、
「お前の嫁の世話なんかごめんこうむる」
と、いったばかりだったからである。
「まあ、それはおめでとうございます」
夏枝はちょっとおどろいたが、顔色はかわらなかった。台風の夜、啓造が死んだと思って失神した。それ以来、つきものが落ちたように村井を思うことがなくなった。
いま、村井の姿を見て、ほおをあからめたのは、単純なおどろきであった。あるいは全く単純といえないまでも、恋心とはちがっていた。夏枝の感情は、小児的な部分があった。いまの夏枝には何よりも啓造がだいじだった。啓造の死を思うだけでも夏枝はおびえた。しかし村井が結婚したところで、夏枝の生活がおびやかされることはなかった。陽子を育てさせた啓造は憎くても、死んでほしいということではなかった。
「おめでとうございます」
という夏枝の言葉を、三人はそれぞれに受けとった。啓造は、
(うそをつけっ!)
と思った。高木は高木で、
(顔色も変えずに、おめでとうとは、どういうことだ? いま真っ赤になったばかりじゃないか。あれは単なるはじらいだったのか)
と思った。村井は夏枝の感情をそのまま感じとった。
(これが、この人の本当の言葉だ)
「高木さんにすすめられましてね」
村井は平然としていた。夏枝の態度は、ちろる°i茶店で会った時とは、全くちがっていた。冷たくはないが、遠かった。
「まあ、どんな方ですの?」
夏枝は高木に微笑して、首を傾けた。
「こんな方ですワ」
高木は村井をジロリと見て、夏枝の前に写真をおいた。
「かわいい方! ねえ、あなた」
夏枝は啓造にいった。
「いや、わたしはまだ見ていない」
啓造は、村井も見ていない写真を見ることを、ためらった。啓造は、夏枝の態度に不安を感じた。
(白っぱくれるのも、いい加減にしないか)
行くえ
洞爺丸事件から、八カ月過ぎた。
「高木さんの世話なら結婚する」といった村井は、六月には式をあげることになっていた。
夏枝は、あれ以来、村井に近づいてはいなかった。ルリ子の死も、啓造の遭難も、夏枝が村井に近よった時であるという、この偶然の暗合が夏枝を恐怖させた。夏枝は自分自身を責めるよりも、「村井に近よるとわざわいが降りかかる」という迷信めいた恐れを持った。夏枝らしい幼さであった。
村井の結婚が決まったと聞いた時、夏枝は淋しくもあったが、何とはなしにほっとした思いであった。厄のがれをしたような、身勝手な心持ちだった。
啓造の遭難以来、啓造自身も夏枝も、いっそう、無事ということのありがたさを知った。しかし、お互いの心にかかるものがひとつあった。陽子のことであった。無事な日が続けば続くほど、啓造はふっと不安におそわれることがあった。
(夏枝に、陽子の出生がわかったら、この平和もつづくまい)
啓造は夏枝が一年以上も前に、すでにそれを知っていることに気づかなかった。
夏枝は、陽子に対して心が定まらなかった。ただ憎くてたまらない時もあった。哀れな運命の子だという思いもあった。つい、うっかりと、かわいいと思う日もあった。
陽子を育てさせた啓造を、許すことはできなかった。しかし、洞爺丸事件以来、少し心持ちが変わっていた。許すことはできないが、ホコ先がにぶっていた。啓造の遭難が、夏枝を和らげた。
辻口家は今のところ平穏であった。徹は中学二年、陽子が小学校三年になっていた。
「桜が咲きはじめたようだね」
徹も陽子も床につき、啓造と夏枝は茶の間でテレビを見ていた。徹にねだられて、この四月に買ったばかりのテレビだった。
「神居古潭《かむいこたん》にお花見に行きましょうか」
夏枝がテレビのスイッチを切った。
「しかし、村井のこともあるしね。仲人なんて、ご免こうむりたいんだが……」
「…………」
夏枝は、何かを考えるように、うつむいた。
村井の結婚の仲人を、啓造は高木に頼まれていた。
「君が世話をしたんだから、君が仲人をするといいよ」
啓造がいうと、その時、
「おれはチョンガーだぜ」
高木はあわてて大きな手をふった。
高木のあわてた様子に啓造はめずらしく、声をあげて笑った。
「チョンガーだって、誰かと組んでやったらいい。辰ちゃんなんかいいんじゃないかね」
「辰ちゃんか。いい女だが、どうも苦手だな。あの人、人の心の底まで見通すようなところがあるぜ」
「君にも、苦手なんてあったのか」
啓造はおどろいた。
「大ありさ。夏枝さんを借りるんなら、話は別だ。知らん奴は、なかなかお似合いの夫婦だなんて、いってくれないわけでもないぜ」
と、高木はうれしそうに笑ったが、
「しかし、新郎は秀才で品行方正、新婦は才媛で何とかだなんて、おれがいうと、いかにもウソッパチに聞こえるだろう? 辻口みたいな奴がいうと、全くほんとうに聞こえるからな」
高木はそんなことをいって、強引に仲人役を押しつけたのだった。
「ことわってくださればよかったんですのに」
夏枝は、仲人役を押しつけた高木にこだわっていた。何くわぬ顔で陽子を自分に育てさせた張本人が、高木のようにも思われて、夏枝は以前のように高木に対して虚心になることができなかった。仲人を押しつけた高木の心の底が、わかるような気がした。
(夏枝さん。村井に引導を渡すのは、あんたが一番ふさわしいよ)
そう高木がいっているような気がした。夏枝は村井に心をひかれはした。しかし、いま考えてみると、どうしても村井でなければならないということはなかった。他の男性でもよかったのかも知れない。夫以外の男性が、家の中にとじこもり勝ちな夏枝には、目新しく刺激的であったのかも知れなかった。もし、高木にいいよられれば、高木でもよかったかも知れなかった。
啓造との生活にいくぶん退屈していたとはいえ、他の男のもとに走ろうとするほど、夏枝は積極的ではなかった。ちょっとした自分の身ぶりそぶりに、男が情熱を示してくるのが面白かったのかも知れなかった。
「しかし、断る理由もないしね。一応、わたしは村井の職場の長ということになるわけだからね」
啓造は気重そうな夏枝のようすに、困っていった。
村井と立ち並ぶ花嫁を夏枝は想像した。そして、その横につつましやかに立つ自分の姿を想像した。
(きっと、わたしの方が、花嫁よりも美しいわ)
「じゃ、とにかくお引き受け致しましょうよ」
夏枝はきげんよく啓造を見た。啓造には何が何だかわからなかった。
その時、電話のベルが鳴った。啓造が受話器をとった。
「もしもし、辻口ですが」
「あ」
かすかに叫ぶ女の声がした。
「わたし松崎由香子です」
しずかな声であった。
「なんだ、君か」
啓造は何となく夏枝をかえりみた。夏枝は座ったまま啓造をみあげていた。
「…………」
「どうしたの、もしもし松崎君」
「……はあ、奥様がお電話に出られるとばかり思っていたものですから」
肉体のない人間のような、頼りないもののいいようが、へんに啓造の胸にこたえた。
「わたしが出て、悪かったかね」
「いいえ、そんな。うれしくてわたし……」
涙ぐんでいるような気配が異常だった。
「どうしたの」
ふたたび啓造は夏枝をかえりみた。
「いいえ、あの……」
と、やや口ごもってから、急に語調がハキハキとした。
「ごめんなさい。院長さん。こんなにおそくにお電話致しまして。わたし今夜カケをしましたの」
「カケ?」
「はあ、実は事務長が結婚をすすめてくださいまして……」
「ほう」
「事務長は、お前は少しおかしいっておっしゃって。あまり院長室の前をうろつくな。早く結婚してしまえって……」
「…………」
啓造は由香子が何をいいたいのか、さっぱりわからなかった。
「……あまり事務長がきつくおっしゃるので、いっそのこと、事務長のいわれるように結婚しようか、どうかと迷って居りましたの。それで、今夜院長さんのお宅にお電話をして、もし奥さんが出られたら、結婚しよう、院長さんが出られたら、一生独身で暮らそうと、そうカケをして……」
「それじゃわたしが出て悪かったね」
啓造は、由香子が酒でも飲んでいるのかと思った。村井の結婚が近いのをチラリと思い浮かべた。
「いいえ。うれしいんです。わたし院長さんのこと一生忘れません」
由香子の必死な声が、受話器を通して熱っぽくひびいた。
「わたしのこと?」
啓造は、夏枝をふりかえった。敏感に何かを感じたらしく、夏枝の視線が鋭く啓造に注がれていた。啓造はあわてた。
「はい。院長さんのことを思って一生独身で通してもいいと、神さまがゆるしてくださったような気がしてうれしいんです」
「ばかな……」
「ばかでも、かまいません」
「君、どうかしたの。何かあったんじゃないか」
「……何も……何もありません。わたし、おねがいです。院長先生の子供を産みたいんです」
「ばかな!」
啓造は思わず受話器をおいてしまった。
「どうしましたの。どこからですの」
夏枝が、啓造のすぐうしろに立っていた。
「病院の事務員からだ」
ばかばかしくて、電話の内容を知らせる気にはなれなかった。
「男の方ですの」
「女だ。松崎という事務員だよ」
(院長先生の子供を産みたい)
といった、二十七、八とはいえ、娘にしては大胆な言葉が啓造には不愉快だった。
夏枝は何かいいたそうにしたが、あとは何もたずねなかった。啓造も、いまの電話をそのまま夏枝に伝えたところで、夏枝の誤解を招くだけだと感じた。
床に入ってからも、啓造は何となく気になった。啓造はふだんでも自分から電話を切る方ではなかった。目上、目下を問わず、相手が受話器をおくのを確かめてから、受話器をおいた。今日のように、電話の途中で荒々しく受話器をおいたことはなかった。
いまになってから、啓造は由香子の電話が、気になった。異常というよりも、真剣な電話であったような気がした。
「院長先生の子供を産みたい」
といったことも、案外、軽薄とは、いいきれない、せっぱつまった言葉にも思えた。
(だからといって、まともに返事のできることではない)
寝ぎわに、妙な電話をかけてきた由香子に、啓造は腹だたしいような、哀れなような気持ちでねむれなかった。
(村井と由香子は一体どんな関係なのだろう)
そう思ってから、ハッと気づいた。
(村井の結婚が、ショックになっているのではないか)
村井の結婚は、一カ月あとに迫っている。
村井の相手は、高木の知人の妹で咲子といった。高木の話によると、
「おれの遠縁に、世にもバカげた奴がいるんだ。三十六にもなって、嫁にするなら、名前も顔も、年も知らない女がいいなんていってやがる。こんな女はどうだと、せっかく見合い写真を持って行っても、見向きもしない。何も見なくても、高木がいいという女なら、もらうというんだ。だからそんな奴に嫁にくるなんていうバカな女は一人もいねえ。と、こう咲子さんにいったんだ。すると、咲子さんがわたしがそのバカな女になろうかしらなんていい出したんだよ。世の中だよ。おれはあわてて、やめた方がいいぜ、その上、奴はテーベ(結核)だったんだといったんだ。咲子さんは、あら、そう、かまわないわよ、なんて、少しも驚かないんだ。あきれたメッチェン(娘)もいたもんだな。これも縁というヤツかね」
ということだった。そんな、村井たちの希望のない結婚が一カ月あとに迫っていた。
今日の由香子の電話が、啓造には村井の結婚と、かかわりがあるように思えてならなかった。
村井の結婚式が十日後に迫っていた。
結婚祝いを持って、夏枝は村井の家を訪ねた。村井の家は病院のうらにあった。土曜日の午後で、今日の訪問をしらせてあったから、村井は家にいるはずだった。
このごろでは、もう珍しくなった格子戸を開けると、和服姿の村井が出てきた。
「ああ、どうも」
村井は上がりがまちにつったったまま、夏枝を見おろした。下駄箱の上にライラックの紫が豊かに活《い》けられていた。
「きれいですこと」
夏枝が微笑して、ライラックをながめた。
「お入りくださいませんか」
村井は、あとずさるようにして、右手のふすまを開けた。
六畳の和室だった。その床の間にも、ライラックが活けられてあった。
(だれが活けたのか)
婚約者の咲子が札幌からあそびに来たのかも知れないと思いながら、
「おきれいにしていらっしゃいますのね」
と夏枝はいった。
「おとなりの松田先生のところと共同で、おばさんを頼んでいるもんですから」
「あら、それはよろしいですわね。お食事も用意してくださいますの?」
「あさ、ひる、ばんと三食とも、病院で食べています」
村井は何となく顔色がわるかった。
「この度は、ほんとうにおめでとうございます」
ふくさからつるかめの水引《みずひき》のかかったのし袋をとり出して、夏枝は座敷机の上においた。
「どうも、この度は何かと……」
村井はかるく頭を下げた。仕方なしに頭を下げたような、そんな感じだった。
「お体の方はいかがですの」
「丈夫すぎて困りますよ」
村井は投げだすようなもののいい方をした。結婚を間近に控えた男の感じではなかった。
ライラックが美しく活けられているというのに、妙にさむざむとした雰囲気だった。床の間には、何の掛け軸もなかった。部屋の壁にも、柱にも何もかかっていなかった。
村井は夏枝を見ることもしなかった。
「新婚旅行はどちらにいらっしゃいますの」
「え?」
村井が顔をあげた。いままで、村井が夏枝に対してこれほど無関心な態度を見せたことはなかった。
「新婚旅行はどちらですの」
「ああ、旅行なんて疲れるだけですからね。やめようと思っているんです。まあ札幌に両方の家がありますからね。家にちょっと顔を出すぐらいのもんでしょう」
張りのない、もののいい方だった。村井は何か考えているようだった。陰惨ともいえる暗い目であった。夏枝は、結婚祝いに来ているような気がしなかった。
毎日啓造の部屋に新聞を持ってくる由香子が、あの夜の電話以来、ずっと姿を見せなかった。
「院長先生の子供を産みたい」
という電話にこだわって、啓造は由香子と顔を合わせたくはなかった。
啓造はめったに事務室をのぞかなかった。事務長にまかせてある部屋に、院長である自分が顔を出すことは、控えた方がよかった。用事は院内電話で事が足りた。用事のある者は院長室を訪れた。
しかし、今日久しぶりに事務室をのぞいてみる気になったのは、このごろ由香子と廊下で会うこともないのに気づいたからである。やはり、幾日も会わないと、電話の件もあって気がかりだった。
ひる休みだった。由香子も事務長もいなかった。啓造は、とじこんだ新聞を机の上において、何かを調べるような顔をしていた。事務室はかぎの手になっていて、新聞をおいてあるところは、来客用のテーブルとイスがあり、由香子たちの席からは見えなかった。
「松崎くんは?」
村井の声がした。啓造の所からは姿は見えない。
「まだ、お休みです」
いつも由香子の隣にいる女子事務員の声だった。
「長いな。もう一週間になるね」
「ええ。風邪じゃないんですか」
「欠勤届は出ているの」
「出ていません。下宿の小母さんから、休むという電話があったんですけど」
「そう」
村井の出て行く気配がした。
「村井先生と由香子さん一体どうなの。これで三日もつづけて、来てるわよ。いい仲なの?」
啓造のいることに気づかず、もう一人の事務員がいった。
「わかんないわ」
「へんよ、何だか。時々廊下でこそこそ立ち話をしたりしてね」
「…………」
「由香子さん、村井先生の結婚式が近づいたから休んでるんだわ」
「…………」
由香子の隣の事務員は、返事をしなかった。
「由香子さんって、何だか妙ね。院長先生のことだって、あんなに……」
「いやね。由香子さんが誰を好きになったって、かまわないでしょ」
はねつけるような口調だった。
「だってさ……」
「やめてよ。由香子さんのいるところで、いうといいわ。かげでこそこそいうのきらいだわ。わたし」
啓造は、来客用の出入り口から、ソッと事務室を脱けだした。
由香子が風邪で休んでいるとは思われなかった。
村井の結婚式も過ぎた。アカシヤの甘い匂いが、風にのって院長室にも入って来た。
(とうとう、村井も結婚した)
咲子という娘は、案外知的な涼しい瞳の女性だった。村井が選んだとしても、あれぐらいの女性とめぐりあえたかどうかわからないと啓造は思った。
(うまくやってくれるといいが……)
厄介払いをしたような、さっぱりした気持ちが、ふっとかげった。
(村井のことだ。結婚したからって、油断はできないかもしれない)
新妻の珍しいうちは、当分おとなしくしているかも知れない。しかし、考えてみると、きれいさっぱり夏枝から離れて行ったとも思えなかった。
村井の結婚のしかたは、結婚に対する何の決意も見せていなかった。結婚披露宴の時も、村井は祝辞を受けながら白いカーネーションを、ひざの上でくるくると回しつづけていた。仲人の啓造は村井の隣にいて、何かやりきれないような村井の心を感じていた。そんなことを考えている時だった。
「やあ、どうも弱りましたなあ」
事務長が院長室に入って来た。
「どうしました」
啓造は立って事務長にイスをすすめた。
「これは、どうも。実は松崎のことですがね」
啓造の胸がドキッとした。
「このところ、しばらく休んでおりましてね。あまり長いんで、昨日行って来ました」
「それで? 病気ですか」
「いや、病気ならいいんですがね。下宿のおかみさんの話では、風邪を引いたと電話しておいてくれといって、旅行に出たというんですよ」
「旅行?」
「そうなんですよ。一カ月ぐらいゆっくり内地に行くから、病院の誰かがたずねて来たら、適当にいっておいてくれ、とこういって出たそうですがね」
「じゃ、そのうち帰って来るでしょう」
「ところがですね。わたしは少し気になって部屋を見せてくれと、いったんですよ」
「…………」
「どうかしたんですかと、下宿のおかみさんが心配しましてね。いや、欠勤届でもないかと思ってといって、松崎の部屋に入ってみました」
「で?」
「娘一人の部屋に入るのも、気がひけたんですがね。部屋には、姫鏡台をのせた小机が一つあるっきりなんですよ。何もないんです。姫鏡台の引き出しを開けたが何も入っていない。拭ったようにきれいなんです」
「じゃ……」
「机の引き出しもからっぽです。おどろきましてね。押し入れをあけてみたんです。押し入れは、一間の押し入れですがね。上の段には、夜具がきちんとたたんで重ねてありました。下には、本がギッシリつまっていましてね。衣類は二つの柳行李《やなぎごうり》にはいっているだけでタンスもありませんよ。ちょっとかわいそうでしたな」
「手紙か何かありませんでしたか」
「実はね。わたしもそれが心配で探してみたんですが、退職ねがいも、置き手紙もありませんでしたよ」
「それなら、一カ月の旅行が終われば帰って来るでしょう」
「と、わかればいいんですがね。少しあの部屋がかたづきすぎていましてね」
事務長はじっと啓造を見た。何かをさぐるような視線であった。
「院長」
「何です?」
「松崎はほんとうに帰ってくるでしょうかね」
「どうして? 帰ってくるでしょう」
そういってから、啓造は事務長が何かを知っているような気がした。
「院長は、あの子をどう思いますかね」
煙草をすわない事務長は、ポケットから出したちり紙を、折ったり広げたりしながら、そういった。
「何か、よくわからないんですがね」
「わかりませんか」
「どういう娘なんですか」
啓造が問い返した。
「悪い子じゃありません。わたしに息子があったら嫁にしてもいいような、やさしい娘でしてね」
「ほう」
「両親に早く死に別れたせいか、妙に人なつっこいところもあるんですがね。兄と二人ぐらしだったのが、その兄貴も結婚して、一人ぐらしになってから、ひどく淋しがりやになりましてね」
啓造は、事務長の話をききながら、由香子の電話を思いうかべていた。
「だれにでも、いやに自分の体をすりつけてくる猫のようなところもありますよ」
「そう、そう。わたしもそれには気がついていた」
「とにかく帰ってきてほしいもんですな。どうも気になっていけません」
事務長は、そういって部屋を出ていった。
病院を出ると、啓造は久しぶりにすぐ近くの石狩川の堤防に立った。夕焼け空をうつした石狩川がうつくしかった。みどりいろの弧をえがいた旭橋の向こうに遠い山脈がうすむらさきの線をくっきりと見せていた。土手下の公園の中には早くも灯がついた。池にうかんだ沢山のボートをながめながら、啓造はふっと由香子があわれになっていた。
このうつくしい季節に、何に傷ついて旅に出たのかと、啓造はやさしい気持ちで由香子を思っていた。
「おかあさん。お客さまよ」
陽子が、台所に来て夏枝を呼んだ。
「どなた?」
夏枝は夕食のあとかたづけを終わったところだった。
「村井先生よ」
そういってから、陽子が、
「おっかない顔をしているの」
と、自分も口をへの字にしてみせた。
「村井先生が?」
夏枝はちょっと衿をかき合わせて、玄関に出た。村井が戸によりかかるようにして立っていた。
「まあ、ようこそ」
花嫁の咲子とあいさつに来てから、まだ十日と経っていなかった。
「お邪魔しますよ」
そういいながら、しかし村井はまだ戸によりかかったままだった。
「どうぞ、お上がりくださって」
「酔っているんです。いいですか、奥さん」
夏枝さんとはいわなかった。くらい声だった。
「ええ。どうぞ」
村井は足もとが定まらなかった。
「陽子ちゃん。おとうさんをお呼びして」
夏枝はそういって応接室のドアを開いた。村井は今まで、一度も酔って訪ねてきたことはなかった。何のための訪問かと、夏枝は少し不気味に思った。
村井の目は血走ってにごっていた。ふらふらとよろけながら、村井は靴を脱いだ。
(もう、咲子さんと何か面白くないことでもあったのかしら)
夏枝はそう思いながら、イスをすすめた。
「やあ、いらっしゃい」
大島を着た啓造が入ってきた。
「院長!」
どなるように一言そういうと、村井は啓造を、じっとみつめた。夏枝が茶の用意に部屋を出ようとした時、
「奥さんもここにいてください」
と、村井はわめくようにいった。
「どうしました? だいぶ酔っているようだね」
啓造がいうと、
「酔っていませんよ。酔ってなど」
村井はそういって額にたれた髪を乱暴にかき上げた。啓造はかつてこんなに荒々しく酔った村井を見たことはなかった。村井の酒は静かな酒であった。
(一体、何が起こったのか)
啓造と夏枝は顔を見合わせた。
「酔ってなどいません、酔ってなど」
村井はふたたびそういうと、テーブルに顔をふせた。頭がぶつかったかと思うようなふせかただった。
啓造も夏枝も、だまったまま村井をながめていた。何が村井を荒れさせているのか、見当がつきかねた。ふいに村井は顔を上げた。
「院長!」
「院長!」
かさねて村井は叫んだ。村井はにらむように、啓造をみつめ、つづいて夏枝をゆっくりと見た。夏枝は何となく自分にかかわりのあることをいい出されそうな気がして、落ちつきなくイスから立ち上がった。
「奥さん。すわっていてください」
「お水を持ってまいりますわ」
夏枝はやさしくいった。
「ああ、すみません」
村井は意外にしずかにいった。
夏枝が水を持ってきた。村井はちょっと頭を下げて、一息に水を飲んだ。のどぼとけが大きく動いた。
「酒はありませんか」
村井は夏枝を見上げた。夏枝は困惑したように啓造を見た。
「あいにくと、わたしはあまり飲まないんでね。買いおきはないんだが……」
啓造がいうと、
「そうでした。院長は酒もろくに飲まない、女にも手を出さない、立派な聖人でありました。ふん聖人か!」
村井は、かすかに笑った。啓造は苦笑しながら、煙草の火を灰皿に強くおしつけた。
「おかあさん」
陽子がドアをあけた。
「よう、めんこいおじょうさん、ここにいらっしゃい」
村井が手招きした。
「先生、お酒飲んだの」
陽子がそばにきて村井にいった。
「ああ、飲んだよ」
「先生、お酒きらいなの」
「きらいじゃないから、飲んだんだ」
「でも、うれしそうじゃないわ」
村井は、陽子をじっとみつめた。
「おとうさんにも、おかあさんにも似ていない」
村井がいった。
「陽子ちゃん、何か用事?」
夏枝がとがめるように陽子の顔を見た。
「あ、おやすみなさいをいいにきたの」
陽子はそういうと、村井の足もとに落ちていた白いハンカチを拾った。村井にそれを手わたして、にっこり笑った。
「おやすみなさい。先生」
陽子が出て行くと、村井は気勢をそがれたように、だまってしまった。啓造も夏枝も、何をいってよいのかわからなかった。
何の鳥か林の方で、鋭く鳴いた。
「どうも……」
村井が口ごもった。
「咲子さんが、お待ちになっていらっしゃいますわ」
夏枝の言葉に村井は答えなかった。
「院長! 松崎は死にましたよ」
「え?」
村井は、目をつぶったまま、くり返した。
「松崎は死にましたよ」
「松崎が死んだ? ほんとうですか」
思わず啓造は腰をうかした。夏枝がけげんそうに、啓造と村井を交互に見た。
「死にましたね。あいつは」
村井はうなだれた。
「どこで? いつですか?」
「いつだかわかりませんがね。何の手紙もないんですから」
「どこから、知らせがあったんです?」
啓造は少し落ちつきをとりもどした。
「どこからも、きません」
「なあんだ。かついだんですか」
啓造はほっとした。
「かつぎません。死んだはずですよ。きっと」
村井はしつこくいった。
「何か死ぬわけでもありますか」
啓造は村井の相手をするのが、ばかばかしくなった。
「奥さん」
村井は啓造に答えずに、夏枝を呼んだ。
「何でございましょう?」
「松崎由香子っていうのはね、病院の事務員ですよ。由香子は、院長に恋していたんですがね」
「え?」
夏枝は啓造をみた。
「辻口をですって?」
夏枝は微笑した。
「でたらめだよ」
啓造はとりあわなかった。いくら酔っているにもせよ、村井は何のために、そんなつまらぬことをいうのか、わからなかった。
「でたらめ? でたらめじゃ、あんまり松崎がかわいそうだ。今日は何もかもハッキリさせましょう。奥さん。奥さんだって由香子をかわいそうだと思ってやる義務はありますよ」
「村井先生のおっしゃること、よくわかりませんわ、わたくし」
「わからせてあげましょう。まあ聞いてください」
村井は上衣を脱いで、イスの背にかけた。
「村井君。君、今日は早く帰って休んだ方がいいんじゃないですか? 話はあした病院で聞くことにして……」
啓造は不愉快になった。
「いや、院長。ぼくはどうしても今日話をするつもりできたんです」
「…………」
「由香子のために、聞いてやってください」
「しかし……死んだというのは、うそでしょう?」
「いや、死にますよ。あいつのことだ。きっと死にますよ。ばかな奴だ。あいつは」
村井は上目づかいに、啓造を見た。その目に、さっと涙が走ったかと思うと、みるみる涙は盛りあがった。泣くまいとして村井は開けるだけ大きく目を見ひらいた。
村井は涙をぐいとぬぐった。
「由香子ってのは、妙な女の子でしてね。ぼくが洞爺に行く前でした。ある日、ぼくの家に訪ねてきて、院長の奥さんが好きなのかと、つめよるようにいいましてね」
夏枝は思わず顔をあからめた。啓造の顔がくもった。村井はつづけた。
「ぼくは、ああ好きだよ、ぼくが誰を好きになろうと、かまわないだろうといいました。すると松崎は、好きになるのはかまわない、かまわないが、態度にあらわすのはやめてくれというんですよ」
啓造は、少しいらいらしてきた。
「態度にあらわすなという権利が君にあるのかと、松崎にいうと、あるとあの子はいうんです。実はわたしは院長先生が好きです。だから、院長が不幸になるようなことは阻止する権利があると、松崎はいいましてね。非常にムキになっているんですよ」
夏枝が啓造を見た。
「君、そんな……。わたしは松崎由香子の、そんな話は知らないんだがね」
啓造は、迷惑そうにいった。
「まあ、今日はだまってきいて下さい。松崎の話では、初めて勤務する日、事務長に連れられて、院長室へあいさつに行ったそうですよ。そこで、父母に早く死に別れた話をしたところ、院長がやさしくうなずいて、苦労してきたね、かわいそうにといって、その場で給料を三割あげてやるように事務長にいった。事務長が不服そうな顔をして、他の事務員とのつり合いもあるからというと、片親でも親がいれば、少なくとも住居は心配ない。この人は住むところから、食べることまで心配しなければならない。住居手当か何かの名目で給料をふやしてやりなさいと、院長はいってくれたそうですね」
村井はそういって、啓造の反応を見るように、顔を見た。そういわれれば、そんなことがあったようにも思えるが啓造には忘れていたことであった。八、九年も前のことである。
「兄と二人ぐらしの、身よりのない樺太からの引き揚げ者だったあの子には、それがひどく身に沁みたらしいんですよ。そのことをぼくに話した時も涙をこぼしていましたからね。
だから、院長ほどやさしい立派な人間はいないと、初めから好きになったというんです。そして、女のわたしだって、好きなふり一つ見せずに、じっとこらえているのに、村井先生ときたら、院長先生の奥さんのあとばかり追いかけているという評判じゃありませんか。好きなのは仕方がないけれど、もっと院長先生のために、冷静に行動してくれと、松崎はぼくにつめよったのです。ぼくが洞爺へ行く半年ぐらい前でしたがね」
酔った村井は、青い顔をしていた。あるいは醒めて青いのかも知れなかった。
「その夜は、ぼくもどうかしていたんです。ぼくは、松崎が院長を愛していると、悪びれもせずにいうのを見て、妙に小にくらしいような、悩ましいような気持ちがしてきましてね」
村井は大きな吐息をすると、言葉をつづけた。啓造たちに口をはさませなかった。
「……じゃ、松崎君は院長とよろしくやり給え。ぼくは奥さんと仲よくしようじゃないかと、いってやった。何か、松崎をいじめたいような気持ちだったんです。松崎は怒って、絶対そんなことはいけない、院長は奥さんを愛している、院長を不幸にしては困る、院長が不幸になるようなことは、命をかけても阻止すると、こうなんですね。
そうか、ぼくだって奥さんを命がけで好きだ。院長、怒らんで下さい。ぼくはどれだけ院長が憎かったかわかりません。院長の死んだ夢を何度みたかわからない。しめた! 院長が死んだと思った途端にパッと目がさめて、なんだ夢だったのか、いく度がっかりしたかわかりません」
啓造は思わず夏枝を見た。夏枝はふし目になって、上気した横顔を見せていた。啓造は夏枝の目のいろをのぞきこみたい思いだった。
「あのころはぼくも若かった。奥さんを得るためなら、院長を殺しかねない人間でしたよ。だから松崎に、君がいくら院長の幸福のために命がけだといっても駄目だといってやりました。
すると松崎はだまって、すっと立ち上がりました。その時あの子は立ったまま、すごい目でじっとぼくをにらみつけました。いいにくいことですが……わたしも若かった。その目を見ると、急に由香子を征服したい欲望にかられてしまったのです。
わかったよ、ぼくはもう奥さんのあとは追わないよと思わずいってしまいました。松崎は信じがたい顔をして、そのまま立っていました。しかし、その代わり条件がある。君は院長のために命も要らないというのなら、その体を、ぼくにくれ。男というものは、そうでもしなければ、愛する女のことなど忘れられないのだといいました。松崎の逃げようとする手をとって、何だ、院長の幸福のためなら命も要らないなんて、口ばかりじゃないかとののしったんです。
悪い奴ですよわたしは。それが由香子の不幸の始まりでした。あいつを、その後いつも自由にしていた訳ですからね」
結局は松崎由香子も、村井を愛したのだろうと、啓造は思った。由香子が単に啓造のために、村井の自由になったというのは、作り話のような気もした。しかし、由香子が語ったのではなく、村井が話したことで、真実にも思えた。夏枝は、先ほどとは打って変わった冷えきった目で村井をみつめていた。啓造は、それに気づいた。
「松崎は、激しくぼくを憎んでいました。それだけに、院長に対してはこの世のものではないような、憧れと愛を持っているようでした。わたしが洞爺から帰ると知って、非常に不安だったようです。よほど、病院から逃げ出したかったらしいんですが、院長の顔を一日に一度でも見ることが唯一の楽しみで、由香子はやめることもできなかったそうですが。
洞爺から帰って、ぼくはまた松崎をだいぶ追いかけましたよ。しかし、あいつも歳が歳ですから、大人になっていつもうまく逃げられましたよ。ぼくの結婚をきくと喜びましてね。祝いを持ってきましたよ。この結婚を一番喜んでいるのは、わたしだなんていいましてね。それから、ライラックを沢山活けてくれました。そうそう、奥さんがお祝いを持ってきて下さったあの日でした。院長の子供がほしい。院長の子供を産みたい。それだけがねがいだなんていいましてね。だけど、院長に面と向かってはとてもいえないから、電話をかけた。すると院長先生は、ばかなことをいうなと、ガチャンと電話を切った。どんなにけいべつされたかわからないと思うと、死んでしまいたい。そんなことをいいながら、ライラックを床の間に活けていました。ぼくは、そんな話をする由香子に、次第に心が乱れて、とうとうふたたび過ちを犯してしまったのです」
夏枝は、祝いを持って行った日の、あの異様につかれた暗い村井の顔を思い出した。夏枝はこれ以上、村井の話を聞く気がしなかった。あれが由香子という女性を犯したあとの顔だったのかと思うと、いいようもなく村井がうとましかった。
啓造は、由香子の電話を思い出していた。
「松崎は必死になって抵抗しましたがね。しかし、以前の馴れが二人にはありましたからね。由香子は、もう院長にも会えない……そういって帰りました。翌日、病院に出て、多分机の中もきれいに片づけたのでしょう。それっきり、休んだまま帰ってこないんです」
村井は話し終わると、ぼんやり遠くを見る目になった。
「松崎君と結婚すればよかったのになあ」
つぶやくように啓造がいった。
「院長!」
村井は啓造をにらんだ。
「院長は、今の話をきいて、よくそんなことをいえますね。実はぼくも一度はいった。ニベもなく、いやだといわれましたよ。院長は、若い女が思いきって電話をかけたのに、よくもまあガチャリと電話を切ったもんですね。あの子は死にましたよ。院長のように木のまたから生まれたような男なんて男じゃない。あの子の気持ちがどうしてわかってやれなかったんだろう。ぼくも加害者だが、院長はもっとひどい。いや、おれの方がわるいかな。とにかく、由香子はもう帰ってきませんよ。死にましたよ。あいつはそんなバカな女なんだ」
村井は、ふらりと立ち上がって、つぶやいた。
「今までわたしを嫌った女は由香子だけだった」
冬の日
夏枝は、陽子が前にもまして、うとましくなった。
「陽子ちゃん」
朝々、学校へ行く陽子の友だちが、声をそろえて呼びに来る。それだけのことが、なぜか気に入らない。
「陽子は?」
外から帰ると、徹は先ずそうたずねる。そのことが、夏枝をいらいらさせる。
陽子は、叱られるようなことはほとんどしない。叱る種がないということが、夏枝には腹だたしかった。
こうした陽子への感情が何によるかを、夏枝は気づかなかった。酔った村井のあの夜の告白が、夏枝を憂鬱にさせていた。村井は自分を愛しているはずだった。自分を愛する者は、ほかの女をもてあそぶような男であってはならなかった。村井の告白は、夏枝に対するいいようもない侮辱であった。そうした村井への憎しみや怒りが、いつのまにか形を変えて陽子に向かっていたことに、夏枝自身は気づかなかった。
夏枝の陽子に対する冷たさが、啓造にも感ぜられた。次第に啓造は、陽子にチョコレートや本を買って帰るようになった。それがまた夏枝の感情を刺激する。
(いいわ。陽子を決していつまでも、しあわせにしてはおかないから)
(陽子がだれの子か知っていて、夫は何とも思わないのだろうか)
更に松崎由香子のことを、全く啓造と何もなかったとは思われなかった。啓造の子供を産みたいなどと電話をかけた以上、全く何の交渉もなかったとは考えられない。
夏枝は、避妊手術のために、とうに子供を産むことができなくなっていた。だから一層由香子のその言葉が、いつまでも心につきささり、その傷がじくじくと膿《う》んでいた。つまり村井の告白に、夏枝は二重にも三重にも傷ついていたのである。
啓造はどうかすると、いつのまにか由香子のことを考えている自分に気がついた。病院の玄関に入ると、つい窓ごしに事務室の中をながめる。毎朝「もしや……」という万一の望みが失われる。既に由香子の机には、他の事務員がすわっていた。
由香子がいなくなってから半年をすぎても、啓造ははかない期待をかけて事務室の中をながめるのだった。辞表も遺書もなく、どこかで由香子の死体が発見もされない間は、ひょっこり思いがけなく帰ってくるような気がした。
夏枝との夜、村井に凌辱《りようじよく》されている由香子の姿態が、ふっと啓造の目に浮かぶこともあった。去られてはじめて、由香子は啓造の胸に生きてきたようであった。
遂に由香子の行方は知れぬままに年が暮れ、陽子たちの三学期が始まった。
「おかあさん。給食費ちょうだいね」
陽子は今朝からこれで三度目の催促をした。
「給食費ね。ちょっと待っててね」
その度に夏枝は心得たように返事をして、忙しそうに台所に立っていく。陽子は、グリーンのオーバーの上に黒いランドセルを背負って、柱時計を見上げている。夏枝はまたしてもなかなか台所から出てこない。
ふたたび陽子は時計を見上げた。もう時間ぎりぎりだった。
「おかあさん、学校がおくれるわ」
「そう、早くいらっしゃい」
「給食費は?」
「あら、そうだったわね。今ちょっと忙しいの。あしたにしてね」
夏枝は茶わんを洗っている。陽子はだまって家を出た。陽子は泣きたくなった。しかしめそめそするのは、きらいだった。いつか学校で先生がいった言葉、「汗と涙は人のために流しなさい」が陽子は好きだった。何となくわかる言葉だった。だから泣きたくなると、陽子はあわててこの言葉を思い出す。そしてにこっと笑ってみる。笑顔になると心が少し静まって、心まで笑っている。
(ふしぎだなあ)
と、陽子は思う。今も、陽子は笑ってみた。だが何となく泣きたくなる。
(何くそ!)
と、陽子は思った。
陽子も四月には四年生になる。夏枝の冷たさが毎日いろいろな形で身にしみた。
(おかあさんは、病気なんだわ)
陽子はそう思う。
(でも、どうして給食費をくれないのかしら)
陽子にはわからない。夏枝は徹には注意する。
「徹さん。今日学級費を持って行く日よ。忘れないでね」
しかし陽子には、二日も三日も催促しないと金をくれない。
(あしたも、きっとくれないわ。ちょっと待っててねというんだわ)
その日、学校が終わると、陽子は辰子の家に向かって歩いていた。バス賃がないので歩くことにした。今まで陽子は、街まで歩いたことはない。辰子の家までは一里近い。
橋の上まで来るとサムライ部落が下に見える。雪がつもってらんかんが低くなっていた。一年生ぐらいの男の子が四、五人、太いつららを持ってチャンバラゴッコをしている。そのそばで五歳ぐらいの女の子が、オーバーも着ないでにこにこしている。つららがぶつかって、飛び散った。氷のかけらが女の子のほおに当たった。まっかなほおの女の子は、気にもかけずに笑っている。
陽子はらんかんにもたれて、それを見ていた。だれとも遊んでもらえないのに笑っている女の子が好きになった。陽子は元気よく歩きだした。今日は先生にいつもよりきびしく注意された。
「いつもお金を忘れてきますね。宿題は忘れないのに、なぜお金を忘れるのですか」
「催促しても、おかあさんはくれないんです」
そんなことは陽子にはいえない。陽子はうつむいたまま、だまって叱られていた。叱られながら、辰子の家へ行こうと思っていた。空は晴れていた。学校から辰子の家までの道は遠かった。馬橇の通った雪みちが、つるつると光っていた。歩いても歩いても辰子の家は遠かった。歩いているうちに、肌が汗ばんでくる。バスの停留所にある水色のベンチが、雪に埋もれて、ベンチの背がわずかにのぞいている。バスが何台も、陽子を追い越して行った。
広々と雪をはねた辰子の家の前に来た時、陽子はほっとした。玄関には毛のついた赤い防寒草履や、子供の長ぐつが並んでいる。陽子はちょっと考えてから、稽古場には行かずに、茶の間に入った。
茶の間には珍しく誰も来ていない。陽子は急に空腹をかんじた。学校は土曜日なので給食はない。オーバーを脱ぐと、陽子はストーブのそばに横になった。疲れて陽子はいつのまにかねむっていた。
人の笑い声に目をさますと、辰子がそばにすわっていた。いつのまにか、茶の間には人々が五、六人あつまっている。辰子は陽子をみつめたまま何もいわない。
「こんにちは」
陽子は辰子の視線にはにかんだ。
「よう、起きたな」
高校の国語の教師市川が声をかけた。辰子は、
「よく眠ったね。おかあさんには電話をかけておいたから、もっとねててもいいよ」
と笑った。
「おきるわ」
陽子は辰子の笑顔を見ると、うれしくなって笑った。
「おひるはまだだね」
辰子は時計を見上げた。三時近い。
用意してあった黒塗りのお膳を、辰子は陽子の前においた。陽子の好きな煮豆やたまご焼きが、鮭のあんかけと並べてある。辰子は陽子のうれしそうな顔を見て、にっこりした。
「占領中には電車にまで、オキュパイド・ジャパンなんて書いていやがったんだぜ。知っているか」
急に大声を出したのは、旭川ではちょっと名の通っている歌人の井沢である。
「何だ。そのオキュパイド・ジャパンってのは」
「ジャパンよ、汝は余の捕らわれ人だぞよっていうことだな」
「ふーん、占領されてるんだってことか」
「被占領国日本さ、植民地ジャパンさ」
歌人の詠嘆的な言い方が、皆の笑いを誘った。
「笑う奴がいるか」
「しかし、今はやせても枯れても独立国日本ですからね」
生真面目な俳人の新井が、将棋盤から顔をあげた。
「だが、新井さん、ひもつき独立じゃね」
歌人がいった。
「そうだ。サルまわしじゃないか。ひもをグイと引っ張られると、親分の肩にのってどこへでも連れて行かれてしまう」
何となく皆がだまった。陽子がパッチリとした目を光らせて、話を聞いている。
「陽子ちゃん。おじさんたちの話がわかるのかい」
市川がいった。
「わかんないけれど……わかる」
「ほう、わかんないけれど、わかるか。あのね。ほかの国に頼ったり、外国のいいなりになっていてはだめだということさ。人間同士も同じだな。あまり人にたよってはいかんということさ」
「辰ちゃんの家のめしびつを、いつも空にしてはいかんということだ」
皆が笑った。いつも辰子の家で食べている連中である。
「辰ちゃんがどこかの国で、おれたちは日本か。これはちょっとちがうぞ」
辰子がにやにや笑って、お茶をいれている。
「あのな陽子ちゃん、アメリカの国ではね、金持ちでも大学に行く金は自分で働くってさ」
「イギリスでもそうだって。大学に行っても、嫁をもらっても、親のすねをかじれるだけかじろうなんていうのが日本には多いな」
その時、陽子がたずねた。
「アメリカの小学生は働くの?」
「小学生には親が金を出すのが当たり前だよ。義務教育だからね」
歌人が答えた。
「でも、親が出さない時はどうするの」
「親が出せない時は、国で学校の用意をしてくれるさ。親が金を出せるのに出さなきゃ罰金だな」
「でも、小学校でも働いている人いるわ。牛乳配達や新聞配達をして……」
陽子の言葉を、辰子は気にとめずにきいて、
「陽子。ごはん食べたらお帰りよ」
「…………」
陽子が何かいいたげに辰子を見た。
「おばちゃん送って行ってあげようか」
辰子が声をひそめた。辰子の名づけた「茶の間の連中」の話題は、どうやら文学の話に移っていったようである。歌人がクローデルの話をしていた。
「陽子ひとりで帰るわ」
陽子も声をおとした。
「バス賃はある?」
「ないの」
「じゃ、来る時はどうしたの」
「歩いてきたの」
「歩いて?」
思わず辰子の声が大きくなった。
「何だい?」
辰子の傍にいた国語の教師が、辰子の声におどろいてたずねた。
「わたし、ちょっと出かけてくる」
すっと立ち上がると、辰子は茶の間を出た。辰子は階段を上がって、自分の部屋に入った。陽子もついて行った。
「陽子はひとりで帰るからいいの」
陽子の言葉に、辰子は返事をしない。タンスの引き出しから、黒地に白のよろけ縞の羽織を出した。
「あのね、おばちゃん。どのくらい働いたら三百八十円もらえるの?」
辰子は羽織の袖に通す手をとめた。
「どうして、おばちゃんにちょうだいといわないの」
「だって、おばちゃんはよその人だもの」
なぜ夏枝にもらわないのかとは、辰子はいえなかった。バスにも乗らずに歩いてきた陽子に何の事情もないとは思えなかった。陽子は夏枝のことには一言もふれない。
「おかあさんがくれないから、おばちゃんちょうだい」
と、素直にいえば子供らしいのにと、半ば腹をたてながらも、いじらしくて辰子は思案した。
「じゃね。稽古場を一人で掃除してちょうだい」
「三百八十円下さるの?」
陽子が顔を輝かせた。
陽子の掃除する様子を、辰子はふところ手をしたままじっとみつめていた。稽古場は二十畳のたたみ敷と、十二畳ほどの舞台からなっている。二十畳のたたみ敷を陽子はていねいに掃いている。箒を持つことを三つの年からおぼえた陽子だが、掃き方に心がこめられていた。箒の先をはね上げずに圧えるように掃いている。
掃き掃除が終わると、舞台にカラブキンをかける。陽子は隅の方から、きゅっきゅっと力をこめて拭きはじめた。床に膝をつけずに拭くその姿勢には、内弟子よりもきりりとした気構えがあった。
幾度か流れる汗をぬぐいながら舞台を拭く姿を、辰子は弟子の踊りを見るようなきびしい視線でながめている。しかし陽子は辰子の目を意識してはいなかった。今はただ、床を磨くことが楽しかった。よく拭きこまれた板がすべすべとして気持ちがよかった。その一心さを辰子は感じとっていた。
(ものになる。この子は)
掃除が終わると、陽子は五枚の雑巾を三度すすいだ。ちり取りもきれいに拭い、箒も石けん水で洗って水をきった。
「いつも陽子は箒を洗うの」
内心舌をまきながら、辰子はさりげなくたずねた。
「いつもじゃないけれど、よごれたら洗うの」
辰子は五百円でも千円でもやりたいほど、陽子の仕事ぶりが気に入った。しかし三百八十円きっちりしかやらなかった。
「帰りは暗くなるから送って行こうね」
時計は四時を過ぎていた。
車から降りると、下駄の下で雪が音を立てて、澱粉をふんだような音である。寒気がするどいしるしである。辰子は黒い防寒ゴートの肩をすぼめるようにして、辻口家に入って行った。
「まあ、恐れ入りますわ。送っていただいたりして」
夏枝はかっぽう着姿で出迎えた。
「今夜は凍《しば》れるわよ。下駄がきゅっきゅっと鳴ってるわ」
「いつもお邪魔して、すみませんわ」
夏枝は茶の間に入ると、ていねいに頭を下げた。
「ただいま」
陽子がわるびれずに挨拶するのを、辰子はちらりと見て笑った。
「いけないわ、陽子ちゃん。学校帰りに寄り道をしては」
夏枝の言葉はやさしかった。
「はい」
陽子は自分の部屋へ、走って行った。
「ねえ。陽子は何しにわたしのところに来たと思う?」
辰子の横顔を、夏枝はそっとながめて、
「さあ、わかりませんわ」
と、首をかしげた。
「陽子はね。アルバイトに来たのよ。三百八十円がほしいんだってさ」
「え?」
夏枝の顔から笑いが消えた。
「ダンナや徹ちゃんは?」
「ごめんなさい。二階ですの。徹は来年高校なものですから、このところずっと猛勉強ですの」
夏枝は話題をそらして、
「高校ぐらい行きたい人が全部入れるといいんですのに」
と逃げた。
「三百八十円ぐらい、やったらいいじゃない?」
辰子は本題からはなれない。
「……いやですわ。やらないなんていいませんのに」
たしかに夏枝はやらないとはいわなかった。「ちょっと待って」とか、「今日は忙しいから」とかいっただけである。夏枝らしいいい分であった。
「とにかくね、夏枝さん。あの子は三百八十円の仕事をしに家に来たのさ。あんまりつまらない心配を、子供にさせるものじゃないよ」
夏枝は台所に立って行って天火の中をのぞいた。
「この通り忙しいでしょう? 朝は特に忙しいでしょう? つい忘れたんですもの。でも辰子さんの所にお金をもらいに行くなんて……少し素直じゃありませんわ」
「親が悪いのよ。あんな素直な子にそんな苦労をさせるなんて。あんたって昔からケチなところがあったけど、まだなおらないのね」
辰子は夏枝を意地が悪いとは思いたくなかった。
「まあ、ケチなんていやですわ」
夏枝が苦笑した。夏枝は結婚前、人から物をもらっても、おごられても、めったに返すことをしなかった。それは教授のうちに生まれて、部下や学生たちから物をもらうことに、夏枝自身までが馴れたせいかもしれなかった。
「それとも意地が悪いのかな」
「ひどいわ、辰子さん」
と、やんわり受けとめて、
「わたくし、そんな意地悪じゃありませんわ」
と、やさしい笑顔を見せた。たしかにその笑顔から、意地悪いものを見ることはできなかった。陽子が部屋に入ってきた。
「陽子ちゃん。どうしてお金なんかいただきに行ったりするの? おかあさんにそういえばあげるじゃないの」
陽子は目をくるりと夏枝に向けた。辰子の手前、そういわなければならない夏枝の心の動きが陽子にわかった。
「あのね。陽子、お掃除をしてお金いただいたのよ。陽子、これから何かして働きたいの」
「働くって?」
夏枝は困惑して、救いを求めるように辰子を見た。辰子はそしらぬふりをしている。
「そうよ。牛乳配達か新聞配達をするの。納豆売りでもいいわ」
陽子が目を輝かして、楽しい遊びの話でもするような顔をした。陽子は金の要るごとに、何日も夏枝に催促するよりも、働きたかった。
「まあ、よしてね、陽子ちゃん。おとうさんやおかあさんが笑われますよ。病院の子ですよ、陽子ちゃんは」
夏枝は哀願するようにいった。
「やあ、しばらく」
啓造と徹が書斎から降りてきた。
「ダンナも受験勉強?」
辰子がかるくえしゃくした。
「やあ、どうも」
啓造は首すじをなでた。夏枝が食事の支度に立った。
「徹君は大きくなったじゃない? おとうさんより大きいくらいよ」
「図体ばかり大きくなって! と説教の材料にされるだけさ」
という徹は声変わりがしていた。
「そろそろ今年も春のおさらいで大変でしょうな。辰ちゃん」
啓造は辰子に向かうと、何となく心が晴れ晴れとした。
「稽古も大変だけれど、雑事が多いのよ。ところが面白いことに、いつも茶の間にごろごろしている連中が、こんな時はよくやってくれるんだからねえ。会場やら、プログラムや会券の印刷からポスターまで、いつのまにか役割が決まってしまってね。おかげで助かるわねえ」
「そりゃ、辰ちゃんの人徳だ」
食事が始まると、陽子がいった。
「おにいさん。わたし働きたいの」
「陽子ちゃん。その話はやめましょうね」
夏枝の声がきびしかった。
めずらしく語気の鋭い夏枝を、啓造も徹もおどろいてみつめた。
「何さ。陽子、何でしかられたの」
徹が陽子をかばうようにいった。
「いいえ、しかったわけじゃないんですけれど、牛乳配達か納豆売りをするなんていい出しましてね」
夏枝は、三百八十円のことには触れなかった。辰子はその夏枝の顔も見なかった。
「いいんでしょ。働くって悪いことじゃないもの。ぼくらの先生は、働くということは、はたのものがらくになることだなんていってるよ。しかし、陽子、牛乳配達って毎日だからね。毎日というのは大変なことだよ」
徹は、考え深げに眉をよせた。
「そうだな。おにいさんのいう通り大変だよ。働くことって、遊ぶことと全然ちがうんだ。毎日となれば、雨の日も雪の日もあるからね、陽子」
啓造のやさしい口調が夏枝のカンにさわった。このごろの啓造は、陽子に対していつもいたわるような、やさしいもののいい方をする。
「でも陽子、働きたいのよ。陽子の組の吉田くんだって、新聞配達しているの。陽子だってできると思うけれど……」
いつもの陽子らしくなかった。そのことが、徹を不審がらせた。徹は夏枝の顔を見た。
「陽子ちゃん。陽子ちゃんは辻口病院の子供ですよ。病院の子が、新聞配達や牛乳配達なんかできますか」
「どうしてさ」
徹がフォークにつきさした肉を皿にもどして、面白くない顔をした。
「どうしてって……」
夏枝は助けを求めるように辰子を見た。徹がつづけて、
「働くことが悪いのかい」
「働くということは、悪いことじゃない」
啓造は夏枝に助けを出したつもりだった。
「そうでしょう。辻口病院の子が新聞配達をしていけないっていう法律はないからね」
徹の言葉が、夏枝には反抗的にひびいた。明らかに、徹は陽子の肩を持っていた。
「でもね。陽子ちゃんがそんなことをしてごらんなさい。世間の人におとうさんやおかあさんが笑われますよ」
言葉はおだやかであった。
「笑われるの? どうして?」
陽子のいい方は素直だった。素直にわからないから、たずねているといういい方だった。
「小さい時から働くのは、貧乏人の子供だけですよ」
夏枝は、陽子にまでばかにされたようで、腹が立ってきた。
「そんないい方、いやだなあ、ぼく」
あきれたというような徹のいい方だった。
徹のあきれたようないい方が夏枝にこたえた。徹にけいべつされたようで辛かった。
「貧乏人なんていい方はばかにしてるなあ」
徹は容赦なくいった。
「今のは、おかあさんの失言だな」
一番先に食事を終えた啓造が、灰皿をひきよせながらいった。夏枝には、啓造と徹がそろって自分を責めているように思われた。
「じゃ、あなたは陽子ちゃんが、牛乳配達をしたり、納豆売りをしてもかまわないとおっしゃいますの」
「別だん悪いことではないからね。したければしてもいいだろうね」
「まあ恥ずかしい」
夏枝は思わず声をあげた。
「どうして恥ずかしいの。わかんないな。ぼく」
徹が食いさがった。
「だって納豆売りなんて……」
「ほら、ね。そのいい方がいやなんだ。納豆売りが何で悪いの。医者はいい仕事で納豆売りは恥ずかしい仕事なの? 全然うちのおかあさんは古いんだなあ」
徹の言葉に、夏枝は思わず辰子の顔を見た。辰子の前ではずかしめられたような思いだった。先ほどから辰子が、だまっていることにも夏枝は腹が立った。何かいって助けてくれてもいいと夏枝は思った。
(この家族はもっといいたいことをいわなければだめになる)
辰子は先ほどからそう思って、だまってなり行きを見ていたのである。
「ところで、陽子はどうして働きたいなんていいだしたのかね」
とりなすように啓造がいった。
「……働きたいって思ったのよ、ただ」
「うそさ! 陽子は金がほしいんだろう?」
徹は陽子の顔をのぞきこんだ。
「お金がほしければ、おかあさんにもらうことだね」
啓造は何も知らない。
夏枝は今にも辰子が何もかも話してしまうのではないかと、はらはらした。啓造には勿論、徹にはぜったい知られたくない「三百八十円」の件である。徹の知らないところで、夏枝は陽子に冷たかった。しかし徹は、陽子の働きたい理由を敏感に感じとっていた。
(おかあさんは金をやらなかったんだ。きっと)
「どうしましょう、辰子さん」
夏枝がいった。
「働きたければ、働かせればいいじゃない」
「だって、世間の人が……」
「世間のだれが何といったってかまわないさ。陽子が牛乳配達でもはじめたら、この辰子さんがほめてあげるよ。まさか辻口病院は、子供を働かせなければ食べていけないなんてだれも思いはしない。偉いとほめる人はあっても、くさされはしないさ。ところで陽子ちゃん。おかあさんがいいといったら牛乳配達でも何でもしてごらん。一日か二日でいやになったら、毎日働いている子が本当に偉いと思うよ。それだけでも勉強さね」
うしろ姿
とうとう陽子は、五月から牛乳配達をすることになった。四月の間は、雪がすっかりとけないので道が悪い。それで五月からに決めたのだった。
啓造は陽子が、ただ素直なだけではなく、自立心の強いのが気になった。考えるまでもなく、働きたいということは決して悪いことではなかった。しかし、啓造にしろ夏枝にしろ、また徹にしろ、子供の時に働こうと思ったことはない。やっぱり血の相違を認めずにはいられなかった。
(佐石は十六の時にタコに売られたといっていたが……)
そんなことを思いながら、啓造は病院の門を入って行った。まだ木の芽の固い、四月初めの庭はさむざむとしていた。
ふと見ると、十メートルほど前を村井が歩いて行く。長身の背を、心もちかがめるようにして、村井はのろのろと歩いている。啓造と同じように、村井もまたオーバーを重たげに着ていた。病院の中から駆けてきた患者の付き添いらしい女が、村井に頭を下げた。村井は挨拶も返さずに、うつむいてのろのろと歩いて行く。すれちがった女は不審そうに村井をふり返った。
(由香子のことで、まだ参っているのだろうか)
啓造は、村井に友情に似たものを感じた。啓造自身、あれ以来ずっと由香子のことが心にかかっていた。由香子のことを気にかけているという点では、村井はだれよりも啓造に近い存在である。
(村井だって、そう悪党じゃないんだ)
立場を変えれば、啓造自身、人妻の夏枝にひかれたかも知れなかった。そう考えて村井に同情しそうになるほど、村井のうしろ姿は気力がなかった。
その日の午後、啓造は、手術着姿の村井が、マスクをはずしながら手術室から出て来るのに出会った。手術着の下から長い毛ずねが見えた。
「摘出でしたね」
啓造の問いに村井は微笑を浮かべた。手術の興奮で、血色がよく目が生き生きと輝いていた。今朝ののろのろと歩いていた村井の姿はどこにもない。
「ごくろうさん」
啓造のねぎらいに、村井は立ちどまって何かいいたそうにした。しかし、すぐに啓造と肩を並べてだまって廊下を歩きだした。
「あとで、部屋に伺ってもいいですか」
村井が立ちどまった。浴室の前だった。手術後の入浴は慣例である。
「ああ、どうぞ。松崎のことですかね」
啓造がいった。村井の顔がくもった。
「いや、あれは死にましたよ」
「しかし、死ぬつもりなら、遺書ぐらい書きそうなものだがね」
「恨みの深い証拠ですよ」
そういって村井は浴室のドアを開けて入っていった。一瞬、もやっと暖かい空気が流れた。
村井の一言が啓造の胸を刺した。
(そうか。遺書のないのは恨みの深い証拠か。思いのたけをいいのこすには、あまりに深い思いであったということか)
入浴をすませた村井が院長室に入ってきた。服の上に白衣を着ていた。
「疲れたでしょう」
啓造はねぎらってウイスキーのビンを出した。
「いや、今日はのみません」
村井はおしとどめた。窓が水蒸気にぬれていた。
「恨みが深い証拠」
先ほどの村井の言葉が思い出された。
「何か用でしたか」
ぼんやりしている村井に啓造はいった。
「恨みの深いのは由香子だけじゃないような気がしましてね」
「え?」
「院長は高木さんをどう思いますかね」
「どうって、なかなかいい男だよ」
「それだけですか」
「それだけって?」
「じゃ、高木さんは院長をどう思っていると思いますか」
村井の問いが、啓造には唐突だった。
「どうって、学生時代からの友だちだからね。別段どう思われているかなんて考えたこともないですよ」
高木と村井は遠縁だが血はどこかでつながっていると聞いた。しかし何と容貌にも性格にも共通点のない二人だろうと、啓造は思いながら村井をながめた。
「じゃ、高木さんは院長の奥さんのことを、どう思っていると思いますか」
いやなことをいう男だと啓造は眉をよせた。
「どうも思っていないでしょう」
(高木はお前とはちがうよ)
啓造はそういいたかった。
「そうですか」
村井はふっと冷笑を口もとに浮かべた。啓造はだまっていた。
「院長も案外、のんきですね」
「?…………」
ばかばかしいと啓造は相手にしなかった。
「院長。ぼくは多分奥さんのことを忘れますよ。しかし、高木さんはどうかな」
(つまらないことをいうな)
啓造は暗くなった窓に写っている村井を見た。
「高木さんは一生奥さんのことを……」
「やめましょう」
啓造はつとめておだやかにいった。
「高木とわたしは友人ですよ」
「友情に傷をつけるなというんですか」
村井はひるまずにつづけた。
「由香子のことがあったから、いうんですよ。恨みの深いのはおそろしいと思いましてね。高木さんはどうして独身でいるか知っていますか」
高木という人間を知らないにもほどがあると、啓造は村井の視線をおし返した。
高木はどうして独身なのかなどと啓造はあまり考えたことはなかった。高木が独身をかこつこともなく、さりとて誇ることもなく淡々としていたからかも知れない。周囲の者に高木の独身を気にかけさせるようなものを、高木は持っていなかった。いつものんびりと朗らかだった。
(考えてみると、高木も四十を過ぎた)
啓造は今まで高木に結婚をすすめたことはなかった。そのことに気づくと、啓造は自分がひどく友だちがいのない人間に思われた。
(しかし、独身で通せるものなら、その方が気らくなことだ)
だまりこんだ啓造を村井はじっと見ていた。
「院長、高木さんには、ずいぶん縁談はあるんですよ」
医師であるというだけで、不当なほど女性は近づきたがることを、啓造も知っていた。
「そりゃ、そうでしょう」
「しかし高木さんは見向きもしない。なぜだと思います?」
夏枝が原因だと村井はいいたいようであった。高木が学生時代に、夏枝にプロポーズしたことは啓造も知っている。しかし、今も夏枝を忘れかねて独身でいるなどとは考えることはできなかった。
「それは、高木さんが……」
村井が強引にいいかけた時、ノックがした。ドアが開いて思いがけなく辰子が入ってきた。啓造はおどろいて、
「おや、病院に見えるとは珍しい。どうしたんです。今ごろ」
「いま、知っている人のお見舞いの帰りよ」
辰子は空色の防寒ゴートを脱いだ。くすんだ、えんじの着物が辰子によく似合った。村井を少々もてあましていた啓造は、ほっとして辰子を迎えた。村井に気づくと辰子は、
「おじゃまします」
と、そっけなく頭を下げた。初対面の人間に、村井は今まで辰子のようなそっけない態度をされたことはなかった。男であっても、女であっても必ず村井を見た瞬間、はっと息をのむように凝視する。それが辰子にはなかった。辰子の大きな目は、村井よりも部屋を見まわしていた。
「おや? 辰ちゃんは村井君とははじめてだったかな」
「そうね、多分ね」
啓造はあわてて二人を紹介した。
「いやぼくはお目にかかっていますよ」
村井が珍しく堅くなっていった。
「あら、そう」
どこでとは辰子はいわない。
「どこで?」
啓造がたずねた。
「……ルリ子ちゃんの時……」
ルリ子の葬式に手伝っていた辰子を、村井はおぼえていたのである。
「案外いい部屋じゃない? あの絵は朝倉さんの雪ね。これはだれの絵?」
と、壁にかかっている小さな風景画を見あげた。辰子は完全に村井を無視していた。
「いやあ、これは」
啓造があかくなった。
「へえ……、ダンナの? おどろいた。ユトリロかと思った」
学生時代にかいた札幌の街であった。自分でも何となく好きで、つい先日壁にかけた絵である。
村井は、はじめて女性から無視されたはずなのに、傍若無人な辰子になぜか反感は起きなかった。
「あ、辰ちゃん。村井君は高木の遠縁なんだ」
啓造は、さすがに村井に気の毒になって、言葉をそえた。
「そう」
辰子はちらりと村井を眺めただけである。
「なぜ、高木は独身かと村井君が推理しているんですがね」
啓造の言葉に辰子がにやにやした。
「どういうことになったの」
村井もさすがに辰子の前で「高木は夏枝を忘れられずに独身を通している」とはいいかねた。
「忘れられない女がいるとか何とかいってるんでしょう? 高木さんは」
と、辰子がいうと、村井は苦笑した。
「本気にして気に病むことはないのよ。高木さんは巣の作り方を忘れた鳥なんだもの。雨傘を持つたびに忘れて歩く高木さんに、女を一生忘れられないなんて器用なマネ、できるわけないわよ」
「辰ちゃんに結婚を申しこんだら、断られたとかいってたことがありましたよ」
啓造が思い出していった。
「申しこみなんてものじゃないの。めんどうくさいから辰ちゃんとでも結婚しようかっていったのよ」
辰子がおかしそうに笑った。村井は何となく辰子に気おされて、部屋を出ていった。村井が部屋を出ると、辰子がいった。
「村井先生ってあの人なの! いったいあの人のどこがよくてさわいでいるんだろう?」
夏枝と村井のことを辰子は知っていたのかと、啓造は顔をこわばらせた。
「知ってるんですか、村井君のこと」
「知ってるわよ。名前はね。うちに踊りをならいに来ている子が、眼科に入院しているの。今見舞いに行ったら、六人の患者が村井先生村井先生ってさわいでいるの。集団ラブとかいってね、ばかばかしい。どんな男かと思ったら、ここにいたじゃない。わたしの趣味には全然合わないな、あんなタイプは」
啓造はほっとした。夏枝と村井のことを、辰子は知らないようであった。
「どんなタイプが辰ちゃんのお気に入りです?」
啓造は、気が安らいで辰子にいった。辰子の目がチカリと光った。
「好きなタイプ?」
辰子は笑って、
「ダンナのタイプでもないわよ。安心したでしょ。といって無論高木さんのようなのでもないわ。どんなタイプにしておこうかしら? 困ったわねえ」
「男なんか眼中になしですか。さっき高木は巣をつくることを忘れた鳥だといわれましたね。ところで辰ちゃんはどうなんです?」
「わたしも、高木さんと同じようなものね」
「まさか、まだ若い。そろそろ結婚なさるといいですよ」
「ありがとう。まだ女の中に入れておいてくれる?」
「辰ちゃんのような人が一人でいるなんて全くもったいない。辰ちゃんこそ、どうして一人でいるんですかね。財産と踊りがあるからでしょうがね」
辰子は答えずに、じっと啓造の顔を見た。思わず啓造は視線をそらした。それは今まで見たことのない辰子の表情であった。張りつめた美しい表情だった。冬の陽に輝く、樹氷にも似た美しさだった。
「財産や踊りと、心中しているつもりはないの。ね、ダンナ。だれだって多かれ少なかれ秘密って持ってるわね。そうじゃない?」
啓造は思わずうなずいた。陽子を思いうかべた。夏枝にもいえない秘密だった。しかも陽子を引きとった理由など、高木にもいえないことだった。しかし辰子には、人にいえない秘密があろうとは思えなかった。
「辰子さんに人にいえないことがあるとは思えないなあ」
「あるわよ。人にいえないことじゃないけれど、いわないことがね」
辰子は、やさしく笑った。
「ほう。知りたいもんですね。どんな秘密か」
「知ってどうするの」
「そういわれると困るけれど……」
「わたしはね。子供を産んだことがあるのよ」
辰子は啓造の顔をじっとみつめたままいった。
「え?」
啓造は聞きちがえたのかと思った。
「そんな顔をしないでよ。女学校を出て、しばらく東京にいた戦争中のことなの。子供は生まれてすぐ死んだわ。男の子だった」
「…………」
「相手はマルキストでね。節を曲げずに獄死したのよ。万葉集なんか読んでいてね。死なすのが惜しい人だった。あんな男には、もうなかなかお目にかかれなくなったわねえ」
啓造は胸をつかれた。それほどの秘密を今までだれにもいわずに明るく生きてきた辰子に啓造は驚嘆した。辰子を支えているその男との思い出に啓造は頭をたれた。自分の秘密とは全くちがった、辰子の誇らかな秘密に啓造はおのれを恥じた。
「別にだれに聞かれても困ることじゃないの。だからだれにいってもいいわよ。でも、今まではあんまり大事で話したくなかったの。少し大人になったのかな。とうとういってしまっちゃった」
大吹雪
陽子が牛乳配達をするとはいっても、一カ月もつづけばいいと夏枝は思っていた。しかし雨の日が幾日つづいても、陽子はやめるとはいわない。ライラックの花の美しい六月も過ぎ、白い馬鈴薯の花が咲く真夏を迎えても、陽子は一向にやめる気配がない。
陽子は朝五時になると、決まってパッと目がさめる。すばやく身じまいをすると、足音をしのばせてそっと裏口から外に出る。物置から自転車を出して身がるに飛び乗る。
牛乳の集配所で四十本入りの牛乳箱を荷台に積む。これが陽子には一番むずかしい。うしろの重くなった自転車を陽子がおさえ、集配所のあるじが牛乳箱を荷台にしばりつけてくれる。馴れない間はフラフラしたが、三カ月たった今では大分馴れてきた。
まだ人通りのない街を、ガチャガチャとビンの音をさせながら、陽子はペダルを踏む。
陽子が牛乳配達をしているといううわさは、いつのまにか学校にも広まった。
「陽子ちゃん、どうして牛乳配達をしているの」
ならんでいるケイ子がたずねた。
「自分のノートや、鉛筆を自分で買いたいの」
「あら、わたし、自分のおこづかいでチャンと買ってるわよ」
ケイ子は、鉄工所の娘である。
「でも、ケイ子ちゃん。わたしはおこづかいより、自分で働いたお金がいいの」
「フーン。へんな陽子ちゃん。辻口病院はお金持ちでしょ? それなのに陽子ちゃんが牛乳配達をしているのは、人にほめられたいからだって、うちのおかあさんがいってたよ」
ケイ子は気のいい子である。意地悪い気持ちでいったわけではなかった。
「ちがうのよ、人にほめられたいからではないの」
「だって、うちのおかあさんが、今に新聞に出るよ、新聞でほめられるよ、っていってたよ」
ケイ子は陽子をほめたつもりかも知れなかった。しかし陽子はちょっと淋しかった。自分の気持ちが人にわかってもらえないのが、いやだった。しかし、説明のしにくいことだった。生まれてはじめて、陽子は誤解ということがこの世にあることを知った。
毎朝人通りのない朝の街を自転車で走る時の楽しさ、一本一本牛乳を配って、空ビンだけになって荷が軽くなった時の満足、その陽子を、だれも知らないのであった。
二学期が始まって、にわかに朝の風が寒いほどになる。いつのまにか丈の高くなったとうきび畑が風にさやさやと鳴る。そしてみぞれまじりの雨の降るころは、体のしんまで冷たくもなった。雪が根雪になるまでは、道が悪くて自転車は乗りづらい。そして遂に自転車のきかない冬がきた。
陽子の一生にとって忘れることのできない冬であった。
自転車のきかない冬は、ズックの袋に牛乳ビンを入れて配達をする。二十本ずつ入れた袋を両手に持つと、手が痛かった。しかし馴れると力が出るのか、辛くはない。
冬は六時に起きた。あまり朝早く配達すると牛乳が凍ってビンがわれる。だから、人が起きて戸を開けるころに配達をしなければならない。そんなことも陽子は知った。
毎朝起きると、陽子は先ず窓越しに林を見た。木の枝が霜を吹いたように、一本一本凍っている朝は、外に出た途端にまつ毛が凍ってねばりついたようになる。息をすると鼻の中がゴワゴワとした。こんな日は耳かけをして外へ出る。凍傷になるからだ。
今にやめるだろう、今にやめるだろうと思って見ていた啓造も夏枝も、正月に入るとさすがに驚きもし、幾分あきれもした。夏枝は、
(やはり生まれがちがうんだわ。外でばかり働いていた佐石の血が流れているのだわ)
と、配達を終えた陽子が、おいしそうに朝の食事をとる姿を眺めながら思った。
啓造が、
「陽子はなかなか見所のある子だね。ねばり強い。一向にやめる気配がないじゃないか」
といった時、
「一体どんな親だったのでしょうね。一度高木さんにくわしくおうかがいしたいものですわ」
と、夏枝は痛いことをいって、そしらぬ顔をした。近所の人々に、陽子がほめられると、夏枝は、
(陽子ったらなぜピアノをならいたいとか、踊りをならいたいとかいってくれないのかしら。十や十一の年から、お金がほしくて働くなんて、ほんとうにお里が知れるというものだわ)
と、胸の中で毒づいていた。
「ねえ陽子ちゃん。もう五年生になるのよ。牛乳配達はやめてちょうだいね」
と、いったが、陽子はにこにこ笑うだけで、
「ハイ、やめます」
とは決していわなかった。夏枝はそんな陽子が、しぶとく思われて腹が立った。子供が外で働くということが夏枝には、どうしても納得のできないことだった。夏枝は恥ずかしくてならなかった。
陽子は夏枝に何といわれても、牛乳配達をやめる気にはなれなかった。その陽子が、やめようと決意せざるを得ない事件が起きたのである。
学校はまだ冬休みだった。
その朝は、夜半からの吹雪がいよいよ荒れくるっていた。窓ガラスが風に鳴って、雪の吹きつけた窓は真っ白だった。夏枝は風の音に目をさました。よほど陽子に今日は休むようにいおうかと思った。しかし陽子は決して休まないにちがいないと思うと、夏枝は何をいう気もなくなって、陽子が吹雪の中に出て行く気配に耳をすましていた。
陽子はオーバーのえりを立てて、その上から毛糸のマフラーをぐるぐると巻いた。そして帽子をかぶって外に出た。が、たちまちたたきつけるような激しい吹雪に息がつまった。
思いきって歩き出したが、まともに吹きつける風に顔もあげられない。道もない。陽子は一歩一歩雪の中をこいで行った。電線が風にうなった。押し倒すような風に思わず背を向けて、風をやり過ごし、陽子は体をかがめて歩き出す。だいぶ歩いたつもりだが、林の風に鳴る音が間近に聞こえた。長ぐつの中に雪が入ってはとけた。
少し行くと吹きだまりがあった。陽子の胸ほどの深さである。一歩一歩雪の深さをたしかめながら、陽子は前に進んだ。汗がじっとりと額をぬらす。陽子はあえぎながら歩みをとめた。
(でも川の中よりは、こわくない=疲れない=。流れていないもの)
陽子はそう思って元気を出した。吹きだまりをやっとぬけると、吹きざらしの堅い道に出た。しかし三メートルとつづかない。
牛乳屋まで、夏なら五分くらいで着く道のりだった。しかし、今朝は歩いても歩いても、どれほども進んではいない。
(帰ろうか)
陽子は立ちどまって、あたりを見回した。人一人通ってはいない。陽子は道のかたわらの、丈高く積もった雪に寄りかかって体を休めた。風は時折り雪けむりをあげて吹き過ぎた。
(赤ちゃんたちが牛乳を待っているわ)
陽子はふたたび体を前にかがめて歩き出した。幾度か呼吸をととのえ、風をやり過ごし、必死になって雪の中を歩いた。ふたたび吹きだまりがあった。吹きだまりを何歩も歩かぬうちに体中に汗をかく。
(行けるだろうか)
(行ってみせる!)
大人でも、ひどい吹雪の日は、あと二、三十メートルでわが家というところで行き倒れになることがある。しかし陽子はその吹雪の恐ろしさを知らなかった。一歩一歩前に進みながら、陽子は次第に喜びを感じはじめていた。困難を克服する喜びだった。
激しい雪が吹き過ぎるたび、あたりは雪けむりの白い幕におおわれる。雪けむりの静まるのを待って、また歩く。うっかりすると方角を失いかける。しかし、ポツンポツンと家が建っているので、誤たずに歩くことができた。
やっとのことで牛乳屋の前までたどりついた。煙突から煙が出ている。陽子はぐったりと疲れて、たてつけの悪い戸をガタピシさせていると、牛乳屋の主人が中から戸を開けた。
「おやまあ、陽子ちゃんじゃないか。こんな吹雪によくまあ歩いてこれたものだなあ」
主人はあきれて、まじまじと陽子の顔を見た。ぽかんとあいた口から、虫歯が一本のぞいていた。
「本当にまあ、あきれたね。よくこんな日に出す親もいるものだ」
男のように太い眉の小母さんは、そういって主人に目くばせした。陽子はそれが何のことかわからない。
「今日は休めって、おとうさんもおかあさんもいわなかったんかい」
主人は土間のストーブの火を、太いデレッキで二、三度つついた。ストーブはゴーッと音を立てて、みるみる煙筒の方まで赤くなった。
「陽子はいうことをきかないのよ」
父や母のことを悪くいわれるのは、いやだった。
「ふうん。にこにこしていても、きかないんだね。おにいさんとはちがうようだね」
陽子の長ぐつの雪を払いながら、小母さんは再び主人に目くばせをした。太い眉がピクリと動いた。陽子は小母さんの目くばせが気になった。
主人は小母さんをにらみつけるようにして、再びストーブの火をつついた。小母さんは平気な顔で、
「吹きだまりがあったでしょう?」
と、陽子にいった。
「すごいの。おなかぐらいまで深かったわ」
「へえ! おなかまで? たまげたねえ。だけど何でおとうさんやおかあさんは陽子ちゃんに牛乳配達なんかさせるんだね?」
小母さんは、腹立たしげにいった。
「何でってお前。子供さんを教育するためだよ。つまらんことをいうんでない」
「教育のためなら、何も陽子ちゃん一人に牛乳配達させることがあるかね。おにいさんにも配達をさせればいい。なにせ、きつい親たちだよ」
小母さんは熱い牛乳を大きな茶わんに注いで、陽子にすすめた。雪にぬれた長ぐつも、陽子のニッカーズボンも、湯気を立てている。
「あのね、小母さん。おかあさんは牛乳配達をしてはいけないっていったのよ。でも陽子が、したいしたいって、ねだったのよ」
陽子は、小母さんが父と母を悪くいう理由がわからない。
「ふうん。何で陽子ちゃんはまた、牛乳配達をしたかったの」
「どうしてかわかんないけれど、働いてみたいなって思ったの」
陽子は、熱い牛乳に息を吹きながら、何となく変な心持ちだった。
「今朝は配達は休みだ。風がおさまってから、小父さんがゆっくり配達するからな」
主人も牛乳をのみながらいった。
「あら、赤ちゃんのおっぱいがないと困るわ。かわいそうだわ」
「そりゃそうだがね。こんな日に配達したら、こっちが参っちゃうからね」
「でも、わたし、配達するわ」
「冗談じゃない!」
主人は大きな声でさえぎった。
積もった雪を巻きあげるようにして吹く風は、一向に衰えをみせない。
「ここまで歩いてくるだけでも、大変だったろうが。これからはこんな無茶なことをするもんじゃない。郵便配達の小父さんや、大人でも行き倒れで死ぬことがあるんだよ。こんなひどい吹雪の日にはな」
と、いう主人につづいて小母さんも言葉を添えた。
「ほんとうだよ。それでもこの辺は家が少しでもあるからいいけれどね。もっと田舎だったら、今日あたり陽子ちゃんは死んでしまうよ。とにかく風が静まるまでゆっくり休んで行きなさい。どうせ学校は冬休みなんだからね」
しかし、陽子は牛乳配達に来たつもりなのに、ただストーブにあたっているのがつまらなかった。一度も休んだことのない配達を休むのは残念でならない。
熱い牛乳とストーブで、体がすっかり暖まった。陽子はぼんやりと窓の外をながめていたが、疲れてベンチに横になった。横になるとついうとうととなり、やがてすっかり寝入ってしまった。
ふと目をあけると、いつのまにか陽子は小ぎれいな床の間のある部屋に、寝かされていた。陽子はおどろいた。夢をみているのかと思ったが、すぐに牛乳屋の座敷にいることに気がついた。長くねむったように思ったが、二十分ほどだった。陽子が蒲団の上に起きかけた時、隣の部屋からひそひそと話し声が聞こえてきた。
「…………。そんなことをいう、お前は」
おしころすような小父さんの声だった。
「だってさ……」
小母さんが何かいっている。
「しかしね。牛乳配達をしたいっていったのは、陽子ちゃんなんだ。何も……」
自分のことをいわれていると知って陽子は起きて行くことができなかった。
「それはそれでもいいよ。しかしね、こんな吹雪の日に……。自分の……なら、とてもこんな日に外に出せるものかね」
「…………。……だってわかるかね」
「みんないってるよ。第一、顔が似ていないよ」
障子一枚をへだてただけの隣の部屋の声は、ひそひそ声でもよく聞こえる。
「しかし、似ていない親子はあるよ。お前だって、時子とちっとも似ていない」
「あほらしい。あの子は、わたしが産んだじゃありませんか」
小母さんの低く笑う声がした。
「だがね。とにかく陽子ちゃんの知らないことだ。だまってるんだな」
「ああ、わかってるよ。だけど遠からず知れる話さ。だれだって陽子ちゃんはもらい子だって知って……」
「しっ。大きな声を出すな」
陽子はハッとした。
(もらい子? わたしが、もらい子だって……)
しかし、ふしぎに陽子はひどく驚きはしなかった。子供心にも、もう大分以前から、夏枝の中に本当の母親でないものを、陽子は感じとっていた。自分でも何となく、もらい子ではないかと思うこともあった。だが今、はっきりとそのことを知ったのは淋しかった。
(おにいさんも、ほんとうのおにいさんじゃないのだろうか)
陽子は涙があふれそうになった。いつもの「汗と涙は人のために流しなさい」という言葉を思い出したが、涙があふれた。
(もらい子なんかじゃない)と、心の中で思ってみたが、だめだった。啓造も夏枝も徹も、にわかに遠い人に思われた。陽子は一人ぼっちになったような淋しさに唇をかんで涙をこらえた。牛乳屋の小父さん小母さんに涙を見られたくはなかった。
(もらい子だっていいわ)
そう思ったが涙はとまらない。陽子は思いきって涙をふいて土間に出た。
「起きたのかい」
小母さんが顔を出した。
「ええ」
陽子はうつむいて長ぐつをはいていた。
「まだ九時だよ。ゆっくりねむったらいいよ」
小母さんはそういったが、陽子は外へ出た。風はうそのようにパタリとやんで、青空がのぞいている。
陽子は何だか自分がちがう人間になったような感じがした。道がほそぼそとついている。
(どこからもらわれてきたのだろう)
陽子はとぼとぼと歩き出した。
(もらい子だから、おかあさんは給食費をくれなかったのだろうか)
学芸会の時、服を作ってくれなかったことも思い出された。うしろの方で大きな音がした。ふり返ると、大通りを黄色いラッセルが水しぶきのように雪けむりをあげて走っているのが見えた。陽子はふっと涙ぐんだ。何がきっかけでも、涙の出る淋しさだった。
(あしたから牛乳配達をやめよう)
陽子は、自分が働いたために、牛乳屋の小母さんが父や母を悪くいったことを思い出した。自分の働くことをきらった母の気持ちを、今はじめて陽子は知った。
家のそばまで来た時、陽子は不意に夏枝の恐ろしい顔を思い出した。夏枝がのしかかるようにして、陽子の首をしめた時の顔である。
(どうしてもらい子だって、かわいがってくれないのだろう)
本で読んだ白雪姫が思い出された。いつか自分も白雪姫のように、家を出されるのではないかと、陽子はしょんぼりと勝手口をあけた。待ちかまえていたように中から夏枝がとび出してきた。
「まあ、こんな吹雪に、かわいそうに……」
そういって夏枝は陽子を抱きしめた。
夏枝は七時ごろ起きて、あまりのひどい吹雪におどろいた。こんな日に陽子を出してしまったと思うとかわいそうで、陽子の帰るまで気が気でなかったのである。抱きしめられて、うれしいのか悲しいのか、自分でもわからぬ涙をこらえきれずに、陽子はワッと声をあげて泣きながら夏枝にしがみついた。
陽子は牛乳配達をやめた。
「さすがの陽子も吹雪には、恐れをなしたね」
と、啓造にいわれた。夏枝も徹も、そう思っていた。
「やっぱり、長つづきするはずがありませんわ。子供ですもの」
陽子はだまっていた。牛乳屋の小父さん小母さんに聞いた「もらい子」のことをだれにもいわなかった。
吹雪の日、夏枝が心配して、おろおろしながら陽子を待ちかねて抱きしめてくれたことがうれしかった。
(いいおかあさんだわ)
そのことを思い出すと、心がなぐさめられた。
(わたし、ぜったいにいい子になるわ。いつか、ほんとうのおかあさんにあったら、いい子だねって、ほめてもらえるように、うんといい子になるわ)
陽子は、そう考えるようになった。だが、このごろひとつ心配なことがある。それは、徹がめっきり無口になったことだ。陽子が学校の話をすると、夏枝や啓造よりも熱心に話を聞いてくれた徹が、このごろは「うん」とか「そうか」とかいうだけだった。
(おにいさんは高校の入学試験で忙しいんだわ)
陽子はそう思いながらも、夕ごはんの時に徹がだまっているとさびしかった。
そのような徹の変化に夏枝も気づいていた。今まで徹は学校から帰ると必ず、
「おかあさん、陽子は」
と、たずねていた。しかし、このごろの徹は陽子のことを口に出さなくなった。
そして、ある夜、啓造も陽子に対する徹の態度が変わったことに気づかずにはいられなかった。夕ごはんを終わって入浴していた陽子がパジャマに着更えて茶の間に入ってきた。啓造も夏枝も徹も、茶の間にいた。陽子が何か話しかけようとして、
「ね、おにいさん」
と、徹の肩に手をかけた。その瞬間、徹はまるで電流にふれたようにピクリと体をふるわし、さっと身をかわした。
陽子はあぶなく倒れるところだった。徹は自分でも驚いたらしく、顔をあからめてさっさと二階にかけ上がってしまった。
「まあ、大丈夫? 陽子ちゃん」
夏枝にやさしくいわれて、陽子はうなずいた。
「大丈夫よ」
陽子は泣きたいほどさびしかった。
「あきれた徹さんね」
「きっと神経がいらいらしてるんだろう。受験勉強で疲れているんじゃないかな」
啓造は内心の動揺をおしかくして、おだやかにいった。啓造は、徹が陽子の出生を知るわけはないと思いながらも、平静になることはできなかった。
徹は市立図書館に出かけ、陽子も川向こうの伊の沢スキー場に出て行った。天気のよい日曜の午後を、啓造は客間でパイプの掃除をしていた。陽がいっぱいにさしこんでいるが、啓造の心は重かった。
啓造は昨夜の徹を思い出していた。陽子が徹の肩に手をかけた途端に、身をかわしたのはどう考えても異常だった。啓造は自分が陽子をこの家に引きとったことが、どんな結果になっていくのかと不安になっていた。
夏枝が部屋に入ってきた。
「あら、ここにいらっしゃいましたの。お二階かと思いましたわ」
熊の皮の上にあぐらをかいてパイプをみがいている啓造を見て、夏枝がおどろいた。
「ああ」
「陽が入ってあたたかですこと」
「うん」
うわの空で返事をしている啓造を見て、夏枝はちょっと眉根をよせた。
「いやですわ。何を考えていらっしゃいますの」
夏枝は啓造の横にすわった。熊の毛がつやつやと輝いている。
「いや、別に何も考えていない」
啓造はあわてて答えた。
「徹さんにも困りましたわねえ」
啓造の心を見すかすように夏枝はいった。
「どうしてだね」
啓造の口調はさりげない。
「どうしてって、ゆうべの徹さんをごらんになりましたでしょう」
「ああ。なんだ、そんなことか」
「そんなことって、少し変だとお思いになりませんの」
「ふいに肩に手をおかれて、おどろいただけだよ」
「いいえ。徹さんはこのごろ陽子とめったに話をしませんわ。学校から帰って陽子ちゃんがいないと、必ず陽子は? っていいましたのに、たずねなくなりましたし……」
「試験が近づいて、落ちつかないんじゃないかな」
「そうでしょうか。わたくしとも話をしたがらないんですの。話はしなくても時々じっと陽子ちゃんをみつめていたり、何だか気になりますわ」
「徹だって思春期だからね。それはいろいろと変わって行くよ。あの年ごろになると、人を避けたくなったり、親とろくに口もきかなくなる時期があるものだ。一人でいたいんだな。一人でいたいということも、人間の成長を意味しているんじゃないのかね。夏枝もあまり神経質にならないことだね」
啓造はめずらしく饒舌になった。不安が啓造を饒舌にさせていたのである。
「でも、特に陽子を意識して避けているようですわ。思春期だからでしょうか。陽子ちゃんも、もう五年生になりますわ。体がそろそろ大人になる年ごろですわ」
「…………?」
「徹は陽子に異性を感じはじめているのではないかと思いますの」
夏枝の心配は今の啓造には思いもよらなかった。啓造は徹が陽子の出生を知って、陽子を避けているのではないかと不安だったのである。だが、夏枝は徹が陽子を異性として感じているのではないかと、案じているらしい。
「まさか、そんな」
「いいえ、徹は体もすっかり大人ですわ」
夏枝はふっとほおをあからめた。
「だが、陽子は徹の妹だよ。まさか君の心配するようなこともないだろう」
徹は佐石の娘と、絶対に結ばれてはならないのだ。啓造は自分自身の不安を打ち消すように強くいった。しかしいわれてみると、昨夜の徹の様子はあきらかに、陽子を妹とは見ていない。
「あなた。あの子はもうずっと以前から、陽子が妹でないことを知っていますわ」
無論啓造にも、それはわかっていた。
啓造はパイプをひざの上でもてあそびながら、林を見た。時々、音もなく木の枝から雪がはらはらと落ちている。啓造は自分が今何をすべきであるかと思った。
(陽子をだれかにやるべきか)
(徹に、陽子の出生を知らすべきか)
いずれにしても、兄妹として戸籍にある以上、徹と陽子の結婚は不可能のはずである。
啓造が、いつまでもひざの上でパイプを立てたり、倒したりしている。その単純な動作に夏枝は次第にいらだってきた。啓造の困惑の原因を夏枝は知っている。
(陽子が佐石の娘だということを、わたしは知っているんですよ。あなたは、ルリ子を殺した男の血の流れが、辻口家に混じることを恐れているのでしょう)
「あなた」
びくっとしたようにパイプの動きがとまった。
「何だね」
「わたくし、いっそのこと、徹さんと陽子ちゃんを結婚させるつもりで育てたら、いいと思いますの」
「冗談じゃない!」
激しい語気に、夏枝はわざとやさしくいった。
「そんなにお怒りにならなくても……。徹はどうせ妹とは思っていませんし、陽子はほんとうによい子ですわ。頭も気性も顔も申し分ありませんわ」
啓造は脅迫されているような気がした。
「ね、そうお思いになりません?」
夏枝のやさしい声が、一層啓造を脅かした。
(何も知らないのだ!)
「そうか、ほんとうに君は陽子をそんなによい子だと思っているのかね」
そういってから、啓造はあわててつけ加えた。
「それなら、もっとかわいがったら、いいだろうに」
何げなくいったこの言葉が夏枝に何を引きおこすかを啓造は気づくはずもなかった。
さっと夏枝の顔色が変わった。
「もっと、かわいがったらいいだろうですって?」
啓造は思いちがいをしていた。冷淡を指摘されて、夏枝が気色ばんだのかと啓造は思った。
「そうだよ。徹の嫁にしたいほどの子なら、もっとかわいがることだね」
夏枝はうつむいたまま、唇をかんでいた。
「君とはじめて会った時、紫矢がすりの着物に黄色い三尺帯をした、お下げがみの女学生だったね。わたしは、この世にこんな人がいたのかとおどろいた。全く君は美しくてやさしかったよ。君は今も美しい。陽子にもっとやさしくした方が、君に似合うよ」
夏枝は低く笑った。啓造は夏枝が何かいうのかと待っていた。だが夏枝は笑っただけで何もいわない。
「とにかく、わたしとしては徹と陽子は、あくまで兄妹として育てたいね。同じ屋根の下で兄妹として育った者同士が結婚するなんて、不健康だよ。近親相姦の感じだね。君も二人を結婚させるなんて考えないでほしいんだ」
夏枝はだまっていた。うなずきもしない。
「どうした? 夏枝」
夏枝の沈黙に啓造はようやく不審を持った。夏枝は、しゃんと首をあげて真正面から啓造をみつめた。唇がかすかにけいれんしている。
「おっしゃることは、それだけですの」
「どうしたね。いやに切り口上じゃないか。わたしのいいたいのは、徹と陽子は兄と妹だということだけだ」
「あら、わたくし、まだおっしゃることがあると思いましたわ。そうですの、たったそれだけですの」
いつもの夏枝とはちがっていた。
「あなた! 何で陽子なんか引きとりましたの」
「何でって、君がいい出したんだよ。ルリ子の四十九日も終わらないうちに、女の子がほしい、ルリ子と思って育てるから、ぜひ高木に頼んでくれと、いったのは君だよ。忘れたのかね」
啓造は、夏枝の様子に不審を感じた。
「忘れませんわ。わたくしはたしかにそう申しました。ルリ子と思って育てたいと、わたくしは申しました」
夏枝は蒼白だった。
「だから、仕方なしに陽子をつれてきたのだよ。あの時わたしは反対したはずだね。だが君は死んだルリ子のことなど忘れたように、陽子陽子と夢中でかわいがっていたようだった」
夏枝は、じっと啓造をみつめた。啓造は思わずハッとした。冷気が背筋を走った。
「おっしゃる通りですわ。まさか、ルリ子が陽子の父親に殺されたとは、夢にも……夢にも思いませんでしたから……」
啓造は不意に棒で足をすくわれたように、呆然とした。
啓造は何かいおうとしたが、言葉にならなかった。
(夏枝は陽子の出生を知っていた!)
不意に胸もとに短刀をつきつけられた思いだった。
「お返事がございませんのね……」
涙声になった。
「あなた。あなたという方は、わたくしが何も……何も知らずに陽子を……陽子を……寒い夜を、幾度も起きて……お乳を作ったり、おむつを代えたり……するのを、よくも……よくも、平気で見ていらっしゃいましたのね」
夏枝は涙を拭わなかった。真正面から啓造をきっとみつめる夏枝のほおがけいれんした。
「あなた!……そんなに、そんなに」
涙で言葉がとぎれた。夏枝は声を殺して泣いていたが、
「……そんなに、わたくしが憎いのですか」
と、声をあげて泣き伏した。陽子の出生を知って以来四年間、だれにも訴えることのできない怒りと悲しみが、夏枝をおそった。
啓造は呆然と、泣き伏す夏枝をながめていた。
(高木と自分だけの秘密が、どうして、いつ夏枝に知られたのか)
それが不思議であった。
「そんなに、わたくしが憎いのですか」
という、夏枝の言葉に戸惑った。陽子を引きとって十余年たった今、啓造の夏枝に対する憎しみはうすれていた。啓造はだまって夏枝の肩に手をかけた。夏枝ははじかれたようにパッとうしろに退いて叫んだ。
「さわらないで下さい!」
今、高木あての啓造の手紙を読んだ四年前の憎しみと悲しみがありありと夏枝の胸によみがえった。その時の手紙の文句を忘れることができなかった。
〈……とにかく、わたしは陽子を愛するために、引きとったのではないのだ。佐石の子とも知らずに育てる夏枝の姿を見たかったのだ。佐石の子と知って、じだんだふむ夏枝を見たかったのだ。佐石の娘のために一生を棒に振ったと口惜しがる夏枝を見たかったのだ……〉
夏枝にとって決して忘れることのできない文句であった。
啓造は自分の手をけがれたもののように振りはらった夏枝の激しい憎しみにふれて、反射的に心に浮かぶものがあった。それは、夏枝の白いうなじにくっきりと残ったむらさきのキスマークであった。それはどれほど啓造を長いこと苦しめてきたことであったろう。むらさきのキスマークは、夏枝と村井の抱擁の姿態をさまざまに想像させた。想像の中にえがく妻の姿は深く啓造を傷つけた。新たな怒りが啓造の全身をさしつらぬいた。怒りをおさえて、啓造はつとめておだやかにいった。
「さわらないでくれと、けがらわしいもののように、わたしを振りはらったがね。わたしは君ほどけがれてはいないつもりだ」
「何ですって? わたくしがけがれて……けがれていますって?」
夏枝は肩をふるわせた。
「夏枝。まあ落ちついてよく思い出してほしいね。なるほど君のいうように、陽子はいかにも佐石の娘だ。君がそれをどこでどうして知ったかは知らないが、それは事実だよ。わたしもルリ子の父親だ。ルリ子を殺された悲しみは、君よりも深くても、決して浅くはないつもりだ」
泣きはらした夏枝の目に、みるみるうちにあらたな涙が盛りあがった。
「ルリ子の父であるわたしが、なぜ佐石の娘を育てたか。いいかね。ルリ子が殺された時、わたしには憎いヤツが三人いた。一人は無論佐石だ。ルリ子を殺したヤツだ。あとの二人は、夏枝と村井だ」
夏枝は青ざめた。青ざめた顔が凄艶であった。
「わたしにいわせると、ルリ子を殺したのはこの三人だ」
啓造は今こそ、はっきりとこの事実を夏枝につきつけたかった。
「まあ! わたしが殺しましたって? そんなひどい……」
「ひどい? ではきくがね。ルリ子が殺された時、君はどこにいた?」
「…………」
「どこにいて、何をしていた? 答えられるかね。あの日のことを、十年以上たった今でもわたしは、はっきりおぼえているがね。あのころは次子もいた。わたしの出張中に、次子と徹は映画にやり、小さなルリ子まで外へ出して、君は一体何をしていた? いってみたまえ! だれとどこで何をしていたか、今ここでハッキリといってみたまえ!」
啓造は自分が次第に狂暴性を帯びてくるのに気づいて口を閉じた。深呼吸をして息をととのえながら、うなだれている夏枝を刺すように見た。
「答えられないのか!」
答えもしなければ、あやまりもしない夏枝に啓造の怒りはあおられた。
「答えられまい。わたしの出張中、村井を引き入れて、何をしていたか。いいか! お前がわたしを裏切っている最中に、ルリ子が殺されたのだ。ルリ子は三つだった。あの暑い日盛りに外に出ていたら、家の中に連れてくるのが母親じゃないのか。お前は村井と二人っきりでいたいために、それを怠った。ルリ子にいわせると殺されたのは、おかあさんのせいだろう」
夏枝は体をふるわせた。
(あの日、ルリ子が応接室に入ってきた。それを外で遊んでおいでとわたしはいった)
夏枝は一層蒼白になった。
「おれにいわせれば、犯人も村井もお前も同罪だ。だがお前は、どうやらルリ子に済まないとは思わなかったようだ。お前はそのあとも、村井と……村井と……」
啓造の声が一段と大きくなって途切れた。廊下で音がかすかにした。しかし二人は気づかなかった。
夏枝の口が何かをいっていた。
「わたしは、何もかも許そうと思っていたんだ。お前のいうようにかわいい女の子をもらってやろうと思っていたんだ。だがお前は村井を好きになったじゃないか。お前のそのうなじに、キスマークをおれは見てしまったのだ」
夏枝は、何もいわずにうつむいている。一言の弁明も謝罪もしない。啓造はたかぶる感情をおさえかねて、夏枝の両肩をはげしくゆすぶった。
「何度お前は、おれを裏切った。子供のできない体をいいことにして、いくど村井と……」
啓造は夏枝の沈黙に不安がつのった。
(そうか! やっぱり答えられないのか)
夏枝は、ゆすぶられるままになっていた。仮面のように動かない顔には、既に涙もなかった。
(何とか、いってくれ)
啓造はふたたび夏枝の肩をゆすぶった。
「佐石の娘を育てさせられて、お前に文句をいう資格があるのか。佐石とお前は同罪なのだ。お前の仲間なんだ。仲間の娘を育てさせられたからって、何の文句があるんだ」
啓造は、次第に気がめいっていった。先ほどからいった言葉が、そのままギッシリと胸につまったような、重い気分に沈んでしまった。いうだけいっても、胸は少しも晴れてはいない。
(これだけいっても、夏枝は何も答えない。やっぱり村井と夏枝は……)
十一年前の思いを洗いざらいいったあとには、ただ孤独だけがあった。黙然として何の応答もなくかたくなに座っている夏枝を啓造は見た。十六年間連れそった妻とは思えなかった。これだけいっても通い合うものは何もないのかと、啓造は腕組みをして林を見た。冬日が明るく林の上にあった。明るい日ざしの下にみにくく争う淋しさを啓造は感じた。十六年の結婚生活に、一体自分たち夫婦は何を築き上げたのかと思わずにはいられなかった。徹という子供はいても、ちょっとつつくとガラガラと音を立てて崩れさるような、もろい家庭しか築いていない。
(よそ目には、幸せそうな夫婦に見えていたかも知れないが……。とにかく心の底をぶちまけていま得たものは、他人よりも遠い二人であったということだ)
啓造は書斎へ行こうと立ち上がった。
その時、夏枝がきっと啓造を見上げた。二人の視線がピシッと音を立てるようにぶつかった。啓造は視線をそらせた。その瞬間、夏枝がガックリと手をついた。
「お許しになって!」
啓造はだまって夏枝を見おろした。
「でも、でも……村井さんとは、あなたのご想像になるような、そんなことは一度だって……」
夏枝は激しく首をふった。
啓造はふたたびひざをついた。
「信じられないね。わたしには」
「信じることはできないね」
啓造はくり返していった。
「……でもわたくし、ほんとうに何も……」
必死な夏枝の表情だった。
(では、あのキスマークはどうしたというのだ? 由香子を犯した村井が、キスだけでおとなしく帰って行くはずがない)
だが、夏枝の必死なまなざしを見ていると、ほんとうに何もなかったように思われてくる。
「しかし、お前のうなじについていたキスマークはどうしたのだ」
夏枝はちょっとうなだれた。うなだれたまま、口ごもった。
「……でも……」
「でも、どうしたんだ」
「……それだけでしたわ」
「それだけ? どういうことだね」
啓造は鋭く問い返した。
「……ベーゼ(接吻)だけでしたわ。村井さんは洞爺の療養所へ行かれるので、ごあいさつに見えまして……。そして……ふいに、首すじに……。わたくし、びっくりして……。でも村井さんは、すぐ立ち上がってお帰りになったのですわ」
夏枝のまなざしには嘘は感じられない。といって長い間啓造を苦しめた疑惑が簡単に消えるはずはなかった。
「ほんとうかね、それは」
啓造は念をおした。
「ほんとうですわ」
(夏枝の言葉がほんとうなら、おれは何のために長いこと苦しんだのだろう? 何のために陽子を育てさせたのだろう)
啓造の表情がいくぶんやわらぐのを見ると、夏枝は涙ぐんでいった。
「わたくし、犯人の娘を育てさせられるほど、悪いことはしませんわ」
啓造は、ちょっとだまっていたが、
「だがね夏枝。お前が村井と二人っきりで話をしていた間に、ルリ子は殺されたんだ。それに、お前は体さえ結ばれなければ、何をしてもいいと思っているようだがね。他の男と心が結ばれるということは、それ以上のわたしへの裏切りだとは思わな……」
ふいにガラリとふすまがあいた。二人がはっとしてふり返ると、徹が敷居の上につっ立っていた。
「今帰ったのか、徹」
徹は無言で宙をにらんでいる。思わず啓造と夏枝は顔を見合わせた。
「どうしたの、徹さん」
夏枝の言葉に、徹は憎しみに満ちた視線を二人にうつした。唇がひくひくとけいれんしている。
「そんなところに立っていないで、すわったらどうだね」
徹は動かなかった。
「おかあさん! ぼくは……自分のおかあさんがそんな、そんなだらしのない人だとは、今の今まで知らなかった」
徹は、そういって夏枝をにらみつけた。
夏枝よりも、啓造の顔色が変わった。
「だらしないなどと、おかあさんに向かっていってはいけないね」
啓造は、言葉をおさえた。
「だらしがないから、だらしがないというんです。ぼくはおかあさんがほかの男に、接吻させるような、そんな、だらしのない……」
「やめなさい!」
啓造は声を荒だてた。
「聞いていたのか。盗み聞きはいやしいことだよ、徹」
啓造は、つとめて平静をよそおった。
「聞こえてきたんだよ。あんな大声なら外までだって聞こえるにきまっているよ。家に入ったら、おとうさんが大声でどなっていたんだ」
徹はそういうと、ふたたび夏枝にいった。
「おかあさんは不潔だ! あんな村井なんかと、何もないなんていっても、ぼくはいやだ! 不潔だ!」
「徹、おかあさんに言葉をつつしみなさい」
啓造はおさえつけるようにいった。
「こんな、だらしのない人は、ぼくのおかあさんじゃない!」
「だまりなさい!」
「言論は自由だよ」
啓造は立ってきて、いきなり徹のほおをなぐった。徹はよろけながらも、
「なぐられても、殺されてもいうんだ! ぼくはね。ぼくはおとうさんや、おかあさんがどこの誰よりも立派な人でいてほしかった。いや、立派でなくてもいい。清潔な人であってほしかった。おとうさんだってひどい。おかあさんを許せなければ、別れればいい。おとうさんは卑怯だ。だまって陽子を引きとって……。男らしくないんだ! そのくせ、あんなに大声でどなっていたくせに、今はもうおかあさんの肩を持っている。……そんなに簡単に仲よくなるぐらいなら、何で……何で陽子を引きとったんだ」
なぐられても、殺されてもいうといった徹の気迫に、啓造も夏枝もだまっていた。
「徹。お前は深い事情を知らないんだ。部屋の外で聞いていては、聞きまちがいもあるだろう」
「だけど……」
「いや、まあ、とにかくすわりなさい。すわってよく聞きなさい。おとうさんだって、おかあさんの話を聞くまで誤解していたことがある。おかあさんは不潔じゃない。何でもないんだ。思いちがいをしてはいけないね」
啓造は下手に出て、何とかこの場をとりつくろおうとした。夏枝は顔をあげることができなかった。
「そんなこと、ぼくは信じない。とにかく、陽子が犯人の子供だというのは、ぜったい聞きちがいではないよ。そうでしょう、おとうさん」
徹は立ったまま、すわろうとはしなかった。
啓造は夏枝のそばに黙然としてすわった。何と答えるべきかわからなかった。
「陽子のことは、ぜったいぼくの聞きちがいじゃない」
徹はくり返した。
「陽子は何も知らないことだ。もうだまりなさい。陽子に聞かれたら大変だからね」
「おとうさん! 聞かれて大変なことをなぜしたんです。この家で育って、大きくなった陽子が、万一知ったらどうなるというの? 陽子はこの家にいられないんだよ。生きていることもできないかも知れないんだ」
徹は涙声になった。
「だから、みんなでかわいがってやろうじゃないか。さあ、もうだまりなさい」
「おとうさんは自分勝手だ。……大人なんて勝手だ。おとうさん。どんなにかわいがられても陽子は、どこの家で育つより、この家で育つ方が一番不幸なんだ。何の権利があって陽子を不幸にするの。ぼくだって、こんな不幸の種のまかれている家なんか、ごめんだよ。何だ、こんな家!」
「わかった。悪かった。おとうさんが悪かった。もう何もいうな」
「おとうさん、陽子をかわいがって育ててくれる?」
「育てる」
「おかあさんは?」
夏枝は、たもとに顔をうずめたまま、かすかにうなずいた。
「ぼくは大学を出たら陽子ちゃんと結婚するよ」
「ばかな!」
啓造があわてた。一番恐れていることである。
「ばかでもいいよ。陽子は、この世で一番居辛い家に来たんだ。だから、ぼくは陽子がかわいそうなんだ。ああ、おかあさんさえ、他の男と仲よくしなければよかったんだ。やっぱりおかあさんが悪いんだ」
徹は夏枝を許すことができなかった。
「わかった。もう何もいうなといっているじゃないか」
厳しい啓造の語調に、徹はだまった。だが徹の顔はみるみる紅潮した。
「わかってなんかいないんだ。おとうさんはわかってなんかいないよ。おとうさんだって悪いんだ。おかあさんに復讐したければしてもいいよ。だけど、そのために一人の人間の運命を不幸にするなんて、そんな、人間を大事にしない考え方にぼくは腹が立つんだ」
「わかった。おとうさんが悪かった」
「いや、わからない。おとうさんとおかあさんが仲よくなって、めでたしめでたしではないんだよ、おとうさん。それで終わりじゃないんだよ。陽子はどうなるの。この家で育たなければならない陽子は……。だから、ぼくは結婚するんだ。おとうさんは、たった今、陽子をかわいがるといったくせに、すぐ反対をした。それがおとうさんのかわいがるって……いうことなんだ!……」
徹は興奮のあまり、言葉を失った。
「無断入室を禁ず」
徹の部屋のドアに貼り紙がはられた。啓造と夏枝を激しく憤った翌日からである。徹はだれともほとんど口をきかなくなった。
それまでも、だんだん言葉少なになりつつあった徹である。それには、ひとつの理由があった。徹は何となく陽子が面はゆくなってきていた。何でそのようになったのか、徹は自分自身でもわからない。とにかく今まで、陽子がほんとうの妹ではないと知っていても、妹のようにかわいかった。それが急に妹のようなかわいさではなく、もっと秘密なかわいさになったのである。湯上がりの陽子に肩に手をかけられた時、思わずピクリと身をかわしたことがあった。それも徹自身にはどうしてだかわからない。
そのような不安定の状態にあった時、徹はわが家の秘密を知ってしまったのである。それまで、徹にとって自分の家庭は誇りであった。病院長である、おだやかな父、美しくてやさしい母、明るく、かしこい妹、そして生徒会長の徹自身、申し分のない家庭のはずであった。
それが一皮むくと、卑劣な嫉妬深い父であり、不貞な母であり、殺人犯人の娘が妹であったという事実に、徹は深く傷つけられた。徹は人が変わったように陰気になった。啓造も夏枝も、その徹をはらはらしながら見守るばかりで、特に夏枝は徹を恐れておどおどした。
「徹さん、ごはんですよ」
と、おそるおそる声をかけても、徹はつき刺すような視線で一べつするだけであった。
啓造が、一度よく話し合おうとしても、徹は勉強を口実に部屋に引きこもった。感じやすい年ごろの徹を、へたに叱責して家出などされてもと、啓造は強い態度に出ることができなかった。ある日、学校から徹のことで相談したいという手紙がきた。
その夜啓造は、自分自身の愚かさを悔いていた。
(何で佐石の娘を、夏枝に育てさせようと思ったのだろう)
(だが、あの時おれは夏枝を許すことができなかった)
(と、いって、許さなかったばかりに、だれもかれも不幸にしてしまったではないか。復讐しようとして、一番復讐されたのは自分自身ではなかったか)
(そうだ。陽子を愛することのできない苦しみ、その秘密を妻にかくしていることの苦しみ、ただ苦しいだけだった)
(それだけではない。徹にもすべてを知られてしまったのだ。しかも徹は陽子と結婚するといっているのだ)
啓造は恐ろしくなって、聖書の言葉を思い出そうとした。だが、啓造には、何の言葉も思い起こせなかった。啓造は、徹が一体どんなことをしたのかと、学校からの手紙を思って、その夜はなかなか眠ることができなかった。
「どうも困ったことが起こりましてね」
夏枝が徹の学校に行くと、教師は事情を説明した。
中学に入って以来、一、二の成績を争っていた徹が、三学期にどの学科の試験も白紙で提出したというのである。教師が徹を呼びつけて、
「どうしたんだ。何かあったのか」
と、たずねると、
「試験の答案を書いても書かなくても、ぼくの実力には変わりありませんから」
と、答えて、何か事情があるのかとたずねても、何もいわない。
「ばかなことを考えずに、追試験を受けなさい。今年の卒業生総代は辻口に決まっているのだから」
すると、徹は、
「総代なんてくだらない」
と、吐きすてるようにいって、
「うちの父も母も優等生だったそうですよ」
と冷笑した。
「まあ、ざっとこういうことなんですがね。何か心当たりはございませんか」
「どうも恐れ入ります。わたくしどもには、別にこれといって思い当たることもございませんが」
夏枝は全然見当がつかないという顔をした。
「そうでしょうな。お宅のようなご家庭に、何か事情があるとは、わたしたちにも考えられませんからね」
中年の教師は夏枝の言葉にうなずいた。
夏枝からその話を聞くと啓造は、徹に何といってよいか、ますます自信がなくなった。徹の負っている傷の深さを知った今は、責めることもわびることもできない。次第に家の中は暗く沈んでいった。
その中で陽子だけは変わらなかった。だが陽子も啓造と夏枝が生みの親ではなく、徹が兄でないことを知って、陽子なりに傷を負っていたのである。陽子は時々、
(わたしのおとうさんやおかあさんってどんな人かしら)
と、考えることがあった。けれども、
(わたしを育ててくれたおとうさん、おかあさんを大事にしよう。よその子のわたしにごはんを食べさせたり、着物を聞せたり、ありがたいことだわ)
と、素直に感謝する心は失わなかった。継子ままこいじめの話などを読むと、夏枝と全然ちがう恐ろしい母親が出てきた。そのたびに陽子は夏枝をやさしいと思った。
陽子は徹がどんなに不機嫌でも、はらはらしたり嫌ったりはしなかった。徹が聞いても聞かなくても、食事時には学校の話や、読んだ本の話をした。
「ねえ、おにいさんはどう思う」
と、こだわりなく話しかける陽子に、徹の表情はやさしくなって、一言二言返事をする。しかし夏枝と啓造にはろくに返事をしない。自然、啓造も夏枝も、陽子を通して徹と話をすることが多くなり、陽子の存在だけが辻口家の灯となっていった。
遂に徹は、高校入試も白紙提出をして、啓造と夏枝の期待を全く裏切ってしまったのである。
答辞
高校入試に落ちてから、徹は次第にあかるくなった。徹は高校に入らないということによって、せめて陽子への心ひそかなわびとしたかったのである。父と母の過去を、こうした形ででも、陽子にわびずにはいられなかったのである。
啓造と夏枝の落胆を見ると、徹は心がなごんだ。父も母もこれで一応罰せられたことになると、徹は思った。このことを陽子が知ったなら、きっと許してくれるだろうと、徹は思った。
「無断入室を禁ず」
の貼り紙もはずされた。
徹は陽子をつれて、よくどこにでも出かけるようになった。以前あまり行かなかった辰子の家にも、顔を出すようになった。
徹の目が恐ろしいので、夏枝は陽子にやさしくした。だが陽子を心から愛することは、夏枝にはやはりできなかった。陽子がルリ子を殺したわけではない。しかし陽子の父がルリ子を殺したというその事実によって、夏枝の本能的な母性が陽子を憎んだ。特に、徹が陽子をかわいがっていると、
「ぼくは陽子と結婚する」
と、いった彼の言葉を思い出して、夏枝はおびえた。
(いつか必ず、陽子に真実を伝えねばならない)
夏枝は深くそう心に決めた。事実を知ったならば、いくら何でも陽子は徹と結婚することはあるまいと夏枝は思ったのである。どんなことがあっても仇の血を辻口家に伝えることはできない。佐石の孫が、自分たちの孫であるなどという現実は、あってはならなかった。
翌年、徹は格別の受験勉強をすることなく、道立旭川西高校に入学した。夏枝にも次第にやさしくなって母の日にブローチを贈ったり、時には映画に誘うようにもなった。
「おふくろと一緒なら、おこづかいが浮くからね」
徹はそのようないい方をして、夏枝を誘った。自分より丈高い徹と肩をならべて外を歩くということだけでも、夏枝はうれしかった。
「おとうさん、ぼくやっぱり医者になるよ」
化学をやるといっていた徹が、そういうようになり、北大に入学して一年たった。
陽子が高校へ入学するという三月のことである。
「ただいま」
陽子が学校から帰ってきた。夏枝と同じ背丈ほどに成長した陽子は、豊かな髪を肩まで垂らしている。映画で見るクレオパトラのように前髪を切って、その黒い髪が陽子の顔を白い花のように清潔に見せていた。
「おかあさん、卒業式は二十日に決まったわ」
「あら、そう」
「ところが、今年の答辞は女子なんですって。わたしがその役目を仰せつかってしまったの」
「あら、よかったわね」
夏枝は笑顔をつくったが、心はおだやかではなかった。
陽子のセーラー姿が廊下に消えると、夏枝は唇をかんだ。
(陽子が答辞をのべるなんて!)
夏枝は徹の中学卒業のころのことを思い出さずにはいられなかった。徹も卒業生総代に内定していたのであった。だが徹は学年末試験に白紙を提出して、総代はおろか高校へも入学しなかったのである。
(あれは徹が、陽子をルリ子殺しの犯人の娘だと知ったショックのためなのだ)
徹の受けたショックは、父と母への信頼が裏切られたことの方に、より大きい原因があった。しかし夏枝は、夏枝らしい身勝手さで、それを都合よく忘れていた。夏枝にいわせると、いわば陽子のために、徹は卒業生総代の栄光を失ってしまったのに、当の陽子が答辞を読むなどという晴れがましいことは僣越もはなはだしい、という思いであった。夏枝は自分たちが佐石の娘に敗北したようで口惜しかった。
「あなた、陽子ちゃんが卒業式で答辞を読むんですって」
夕食の時、夏枝はうれしそうに啓造に告げた。
「ほう! それは、それは。もっとも陽子なら当然だという気がしなくもないがね」
啓造は相好をくずした。
「おかあさん来て下さるの?」
「当たり前じゃありませんか。陽子ちゃんの晴れ姿を見ないでどうしますの。何日かしら、卒業式は」
「二十日よ」
陽子がうれしそうにいった。
「茅ケ崎にも、徹にも、しらせるといいね」
大学生活一年を終えた徹は、いま茅ケ崎の夏枝の父のところへ遊びに行っている。
「ほんとうですわ。徹さんもきっと喜びますわ」
そういいながら、夏枝は啓造が本気で喜んでいるらしい様子に腹をたてていた。徹が卒業試験に白紙提出をした中学卒業のときのことを、夫は忘れているのだろうかと、夏枝は啓造の顔を見た。
「おとうさんも来て下さる?」
陽子の言葉に、
「二十日だね。ぜひ行きたいが、二十日はちょっと会議があってね。無理かも知れないな」
カレンダーを見あげた啓造の視線が白いセーターの陽子の豊かな胸のふくらみに移ったのを夏枝は見た。一瞬ではあるが、啓造の目の中に夏枝を不安にさせるものがあった。それが一層、陽子を許しがたい存在に思わせた。
(どんなことがあっても、答辞を読ませてはならない。そういったとしてもだれがわたしを責めることができるだろう。自分のかわいい子供の仇の娘を、だれも育てることなんかできはしない。わたしは陽子を育てただけで十分なんだ)
「答辞といっても、このごろはどんなことをいうのかね」
啓造は食事を終えて、陽子にたずねた。
「そうね。あんまり心に残るような答辞はないわ」
「陽子は何をいうつもりなんだ」
啓造は陽子にやさしかった。五年前徹に、
「この世で、この家ほど陽子ちゃんにとって居づらいところはないのだ」
と、せめられた時、啓造は久しく忘れていた「汝の敵を愛せよ」という言葉を思い出した。だが、その言葉は頭で知っただけではどうにもならなかった。啓造は洞爺丸で会った宣教師を慕わしく思うことがあった。よほど教会に行って、説教を聞いてみようかと思うこともあった。だが、思うだけでなかなか若い時のように、ちがう世界へとびこむことはできなかった。ただ一人書斎にこもって聖書を開くことが多くなった。
だが、陽子にやさしくなったのは、ただ聖書を読んだためではなかった。聖書をパラパラ読むだけでは、啓造の心の中にまだ信仰の実りはない。ルリ子が殺されて十六年という長い月日が、陽子に対する感情にも作用していた。けれども、それよりも、もっと強く作用しているものがあった。それはだれにも知られたくないことではあったが、憎むには余りにも美しく、陽子は成長していたのである。
ちょっと上を見て笑う時の、白いなめらかな、のどを見ただけで、啓造はひそかに平静さを欠くことすらあった。一間に半間のせまい洗面所で、
「あら、しらがよ。おとうさん」
などといって、しらがをぬいてくれる陽子の豊かな胸が啓造にふれると、抱きよせたいような誘惑に耐えねばならなかった。自然、啓造は陽子にやさしくなって行ったが、自分自身のやさしさの意味を知っていた。啓造は、時々、
(おれは何という人間なんだろう。佐石の娘におれは何を感じているのだろう。かりそめにもおれは陽子の父ではないか。おれは遂に陽子を、真実に清く愛することのできない人間なのか)
と、絶望的になることがあった。
「そうね、答辞にはこういうわ。中学時代は受験受験でつまらない」
陽子は啓造にそういって笑った。
夏枝も笑った。笑いながら夏枝はどうやったら、陽子に答辞を読ませないですむかを考えた。
(そうだわ)
夏枝は心に決めた。徹がいないことが夏枝を大胆にした。徹がいてはやりにくいことであった。そのやりにくいことを夏枝はやるつもりだった。
(もし、わたしのしたことがわかって、陽子に責められたなら、わたしはいってやってもいい。陽子はだれの娘であるかということを)
「陽子ちゃん。卒業式にはセーラーを着て行くわね」
夏枝は機嫌のよい声で陽子にいった。
いよいよ陽子の卒業式の朝がきた。昨夜浄書した奉書紙《ほうしようがみ》をむらさきの風呂敷に包んで陽子は出かけた。
「あとから行きますからね。上手におやりなさいね」
夏枝は門の外まで送って出た。
大きな春の雪がふわりふわりと降ってくる下で、陽子はふり返って高く手を上げた。黒いオーバーが少し短くなっていた。夏枝も手を振った。だれが見ても和やかな美しい光景であった。
(今日はさすがの陽子も泣きだすにちがいない)
夏枝はそう思いながら手を振っていた。
青い小紋《こもん》に淡いクリーム色の絵羽織《えばおり》、帯は金茶《きんちや》の西陣にしじんに着更えて、夏枝は鏡台の前に立った。鏡に顔を近づけると目じりにも口のまわりにも、目立つほどではないが小ジワがある。どう見ても三十二、三にしか見えないと人にいわれる世辞も、四十を過ぎた夏枝にうれしくはない。
(どんなに若く見えたとしても、もう二十代とまちがわれることはなくなった)
このごろ、鏡をのぞきこむ度に意識するのは、陽子の若さと美しさであった。十五歳の陽子に、四十二歳の自分を較べる滑稽さに夏枝は気づかない。
「鏡や鏡や、世界の中でだれが一番美しいの」
と、しばしば鏡にたずねて、
「それはあなたです」
と、いう答えに満足していた白雪姫の継母が、やがては、
「それは、あなたではありません。白雪姫です」
と、いう鏡の声を聞かねばならなかった口惜しさを、夏枝は身にしみてよくわかった。
陽子と連れだって街を歩くと、二、三年前までは夏枝に注がれていた視線が、今ではほとんど陽子に集められるようになった。いきいきと表情豊かな、何かが燃えているような陽子の目は、ひとめで人をひきつけずにはおかなかった。
しかし今日はさすがの夏枝も、自分の容姿よりも、これから起こるはずの出来ごとの成りゆきが気がかりで鏡の前を早々に離れた。
夏枝が学校に着くと、卒業式は既に始まっていた。来賓の祝辞が次々と続くのも、夏枝は上の空だった。少し心が落ちつくと夏枝は陽子の席を探して式場を見わたした。来賓席、父兄席が両側にあって、生徒たちより高い椅子だった。陽子は、前から二番目の中央にすわってうつむいている。陽子の姿を見ると、夏枝の動悸は激しくなった。
(陽子は、わたしの仕業と気づくだろうか)
気がつくと、既に祝電の披露も終わるところであった。
「答辞。第十三回卒業生総代、辻口陽子さん」
痩身の教頭が呼んだ。
「はい」
澄んだ声がひびいて、陽子が静かに椅子から立ち上がった。
(いよいよ、始まるのだ)
激しい動悸に、夏枝は少し息苦しくなった。陽子が来賓席に一礼し、教師席に一礼した。それから陽子はおもむろに奉書紙を開いた。
美しい陽子に、来賓席はかすかにざわめいた。しかし、すぐに再び場内はしんと静まりかえった。だれかの小さな咳ばらいが、はっきりと聞こえる。陽子は開いた奉書紙を持ったまま、なぜか一言も発しない。陽子を見つめたまま夏枝は、めまいがしそうになった。
会場にざわめきが起きた。陽子がゆっくりと奉書紙をもと通りにたたむのが見えたのである。
「どうしたのかしら」
夏枝のうしろでささやく声がした。教頭があわてて立ちあがる姿が見えた。夏枝も立ちあがりそうになった。
ざわめきが更に大きくなった。答辞は卒業式の華である。一言も発することなく奉書紙をたたんだことは一大事であった。陽子はていねいに一礼した。
「あがったんじゃないのか」
「いや、何も書いていないらしいね。だれかにすりかえられたのかな」
一礼した陽子はざわめく人々を尻目に、落ちついた足どりで壇上に登った。無論定められた行動ではない。あわててかけよろうとした教頭は、かたわらの教師におしとどめられて席にもどった。
壇に登った陽子を見て、人々は静まった。場内はしんとして、陽子に好奇的な視線が注がれている。陽子はそこでまた、ていねいに一礼した。
「みなさま、高いところから誠に失礼ではございますが、卒業生一同を代表いたしまして、一言答辞をのべさせていただきます」
よくとおる声であった。
夏枝は額に汗をにじませていた。
(何をいうつもりだろう)
「実はただ今、答辞を読もうと思いましたところ、これは白紙でございました」
陽子は奉書紙を高く、さしあげた。人々はふたたびざわめいた。
「どこでどう、まちがいましたか、わたくしにもわかりません。けれども、これはとにかく、わたくしの不注意であることは、たしかでございます。御来賓の方々。先生方。在校生のみなさま。そして本日晴れの門出をなさる卒業生のみなさま。わたくしの不注意を何卒おゆるしになって下さいませ」
陽子はふかぶかと頭をさげた。
「みなさま。ほんとうに、わたくしの不注意を心よりおわび申しあげます。わたくしといたしましても、何日もかかって書きました答辞が、まさか白紙になっているとは夢にも思わないことでした。それでただ今は少しばかり驚いたのでございます」
場内は、しんと静まりかえって、緊張した空気がピシッとはりつめた。
「このように、突然、全く予期しない出来ごとが、人生には幾度もあるのだと教えられたような気がいたします」
陽子の言葉に夏枝は唇をかんだ。
陽子は言葉をつづけた。
「自分の予定通りにできない場合は、予定したことに執着しなくてもよいということも、わたくしはただ今学ぶことができました。それで、勝手なのですが、ただ今予定外の行動をとらせていただきました。雲の上には、いつも太陽が輝いているという言葉を、先生に教えていただいたことがございます。わたくしは少し困難なことにあいますと、すぐにおろおろしたり、あわてたり、べそをかいたりいたします。けれども、それはちょっと雲がかかっただけで、その雲が去ると、太陽がふたたび輝くのだと知っておれば、わたくしたちはどんなに落ちついて行動できることでしょうか。今日わたくしはそれを学ぶことができて、よかったと思います。わたくしたちは、中学を卒業いたしますと、進学する人、就職する人の別こそありますけれど、一歩、大人の世界に近づくことでは同じだと思います。
大人の方々の前で失礼ですけれども、大人の中には意地の悪い人もあるのではないかと思います。でもわたくしたちは、その意地悪に負けてはならないと思います。どんな意地悪をされても困らないぞという意気込みが大切だと思うのです。泣かせようとする人の前で泣いては負けになります。その時にこそ、にっこり笑って生きて行けるだけの元気を持ちたいと思います。このこと一つだけでも、わたくしたち卒業生の一人一人の心の中にあるならば、今日お祝詞を下さった方々、先生方、また仲よくして下さった方々への御礼になるのではないかと思うのです。……しどろ、もどろでつまらないことを申しあげましたが、これを以て第十三回卒業生一同を代表いたしましての答辞と致します」
陽子はていねいにおじぎをした。
嵐のような拍手が起こった。夏枝はめまいを感じた。拍手をされている陽子が憎かった。
人々は陽子がだれかの悪質ないたずらにあったことを同情した。落ちついて、澄んだ声で話をした陽子が、ひどくけなげに見えた。答辞に対して拍手をしないのが今までの慣例である。しかし今は、教師も父兄も生徒たちも、陽子に対して拍手を惜しまなかった。場内にみなぎる一つの感動があった。卒業生の持つ感傷のせいもあった。とにかく、だれかの悪質ないたずらに負けなかった陽子を、人々はほめたかった。
しかし、拍手の中を降壇する陽子の心は、複雑であった。直感的に陽子は、夏枝の仕業であることを感じた。級友がすりかえるはずはなかった。陽子は学校に来て、一度も手放さなかったからである。
「仰げば尊し、わが師の恩……」
歌の途中で泣き出す者がいた。女生徒の中には声をあげて泣いている者もいた。くすくす笑っている男子もいる。しかし陽子は歌うことも忘れていた。単に悲しいというのではない。
(ほんとうの母なら、こんなことは決してしない)
世のすべてから捨てられたような、深いしんとした淋しさであった。
気がついた時、陽子は卒業生の一人として、在校生の拍手の中を級友と共に退場するところであった。夏枝は陽子のうなだれた姿をみつめながら、いまいましくてならなかった。
今朝、陽子が洗面所にいる間に、こっそりと答辞の奉書紙をすりかえておいたのである。夏枝には、佐石の娘に徹が敗北するのは承服できないことだった。
(絶対に、答辞を読ませてはならない)
という、つかれたような思いを夏枝から取りのぞくことは遂にできなかった。
(陽子は皆の前で白紙を広げるだろう。読むべき字は一字もない。陽子はきっと青くなり、おろおろとして泣き出すことだろう。晴れの場所で恥をかいた陽子は、すっかりしょげこんで高校入試にも失敗するかも知れない。白紙にすりかえたのは、級友の嫉妬だということになるだろう。心を傷つけられた陽子は、当分ゆううつになり、悩みぬくことだろう)
夏枝のこの予想は見事にうらぎられたのである。
陽子には少しも困った様子もなく、人々の同情が陽子に集まった。夏枝の席のうしろでも、
「落ちついた立派なお嬢さんね」
「憎らしいわね。意地悪したのはだれかしら」
「ちょっと我々にはまねもできませんな」
などとささやく声がした。
夏枝は謝恩会に出る予定をとりやめて家へ帰った。謝恩会で人々から陽子への讃辞を聞くのは当然である。家へ帰る途中も夏枝はみじめだった。陽子に愚弄されたような思いであった。
困って泣き出すかと思った陽子は、予期していたかのように、振り当てられた役を十分に練習した俳優のように、何と見事に落ちついて果たしたことだろう。
(わたしの仕業と陽子は気づいているかしら)
夏枝は自分の敗北を知られたくはなかった。陽子が帰ったら、なかなか立派だったとほめてやらなければならないと思っただけでも、夏枝はみじめだった。家に帰ると、疲れが出て夏枝は鏡台の前にぐったりと座った。
(どんなに意地悪をされても、困らないぞなどといったのは、わたしに聞かそうとした言葉ではないのだろうか)
夏枝は腹立たしい気持ちで鏡の中の自分をみつめた。疲れた顔が、急にふけこんで見えた。夏枝は一層ふきげんになった。夏枝は自分のしたことに良心の苛責はない。むしろ殺されたルリ子の復讐をしているような気にさえなってきていたのである。夏枝は自分の計画通りにならないことに、無性に腹を立てていた。
(いいわ。ほんとうにあの子が、一生困った顔をしないで過ごせるか、どうか……。何としてでも困らせてみせる。わたしにはそれができるのだ。あの子の出生を知っている限りは)
だが夏枝は知らなかった。そのころ陽子が、どこで何を考えていたかということを。
陽子は家の前まで来たが入る気はしなかった。卒業証書と通知箋を夏枝に見せる気はしないのだ。陽子は林の中に入って行った。
春の陽にやわらかくなった雪に足が埋まる。陽子は切り株の上に腰をおろした。
(おかあさんは、どうしてあんなことをしたのだろう? いくらもらい子だからって、答辞を読むと聞けば喜んでくれるのが当たり前ではないだろうか)
陽子に夏枝の気持ちがわかるはずはない。
(でも、おかあさんがしたことかどうかは、わからないのだわ。その場をわたしは見たわけでもないんだから)
だが、夏枝のほかにだれを考えることもできなかった。一度も手放さないものを、級友たちは取りかえることはできないからである。
(わたしが困るのを見て、おかあさんはうれしいのだろうか。これほど、ひどいことをするおかあさんとは思えないけれど)
ふっと、陽子は小学校一年生の時に夏枝に首をしめられたことを思いだした。
(わたしは一体だれの子供なのだろう? もしかしたら、おかあさんの憎い人の子供ではないのかしら)
陽子は自分のほんとうの父と母のことを想像してみた。どんな人が、夏枝にとって憎い人になるのかと、陽子は考えた。
(もしかしたら、わたしの生みのおかあさんと、今のおかあさんはライバルだったかも知れないんだわ。わたしを産んだおかあさんに恋人をとられたのかも知れないんだわ)
だが、どうしてそのライバルの子が辻口家にもらわれて来ることになったのかを考えると、この想像は当たらないような気がした。
(ああ、もしかしたら、わたしはおとうさんの愛人の子かも知れないんだわ。おお、いやだ。人の奥さんを苦しめるようなおかあさんが、わたしのほんとうのおかあさんだなんて、ごめんだわ)
陽子は眉根をよせた。
(でも、とにかくわたしはおかあさんの嫌いな人の娘なのかも知れないわ。何かの事情で、おかあさんはわたしを育てたのかもしれないわ。何の理由もなくて、今日のようなことをするわけがないもの。だとしたら、わたしは知らないことでも、おかあさんにはずいぶん気の毒なことだと思うわ。おかあさんって、それほど悪い人じゃないんだもの。よほどの事情があるかも知れないのに、何も知らずに恨んだりしてはいけないわ)
人を悪く思うことができないのは、陽子の生来の性格だった。
(それに、わたしを産んだおかあさんがしたわけではないもの。わたしを産んだおかあさんがもし、こんなことをするのなら悲しいけれど、そうじゃないんだもの。わたしは石にかじりついても、ひねくれないわ。こんなことぐらいで人を恨んで、自分の心をよごしたくないわ)
陽子はそう思って、心が明るくなっていった。
千島から松
陽子が高校の一年、徹は北大二年になった。
徹が札幌に行って以来、家の中が妙に陰気になった。夏枝はいつも家の中をきちんと整頓して、廊下も滑って転びそうになるほど、念を入れてみがいてある。しかし、どこか住み心地がよくない。
特に啓造の帰宅が遅れて、夏枝と陽子二人っきりの食事になると、夏枝はだまりこんでしまうのだった。食卓は毎日糊のきいた白布がかけ代えられ、食卓の上には花が飾られている。
あたためられた皿に分厚い焼き肉がのせられ、そばにアスパラガスのマヨネーズかけが添えられている。スープ皿にはシチューが湯気をたてていて、食後のりんごが形よく果物皿に盛られている。申し分のない食卓なのだ。それなのに陽子は妙にさむざむとしたものを感ずる。おしだまっている夏枝と向かい合って食事をしながら陽子は話題を見つけて語りかける。だが、夏枝は何か考えこんでいるのだ。
(おかあさんはどうしてこうなるんだろう。わたしがきらいなのかしら)
さすがの陽子も、夏枝と二人っきりの食事の時は語りかける言葉を失ってしまう。
(でも、わたしは明るく生きたいわ。世の中には沢山の人がいるんだもの、おかあさんの影響だけを受けて、暗くなることはないんだわ)
このごろ陽子は週に一度は辰子の家に足が向いた。辰子の家には幼いころと少しも変わらない、何かなつかしい雰囲気があった。辰子が別段とりたてて優しいというのではない。
入っていくとニコリと目顔で迎えるが、
「いらっしゃい」
ともいわないことが多い。
(辰子小母さんは踊りできたえたから、体全体で表現するようになったのかしら。口で伝えるよりも、体全体で感情を伝えるというのは、せつない美しさがあるものだわ)
陽子は微妙に変化する辰子の顔を見あきない。踊っている間は、話しかけることも近づくこともできないきびしさがあって、辰子の体の周りには冷たいといってよいほどの雰囲気が漂うこともある。
その日も陽子は学校の帰りに辰子の家に寄った。この数年来、常連になった黒江は陽子の高校の絵の教師だった。小学校の時から知っていた陽子から見ると、余程の年齢に思えたが黒江はまだ三十前の独身だった。黒江は、
「おれは辰ちゃんより好きな女性が現れたら結婚するんだ」
といっていた。辰子はいやな顔もうれしい顔もしないで聞き流している。
「辰ちゃんと結婚するといいよ」
と、だれかがいうと、
「いや、辰ちゃんを好きな程度ではだめさ。辰ちゃんより好きでなくてはね」
黒江はそう、うそぶいた。その黒江が陽子にいった。
「秋の展覧会に、陽子ちゃんをモデルにかきたいんだがな。どうだモデルにならないか」
モデルになるより、自分で絵をかく方が面白いと陽子は思った。
黒江は熱心だった。陽子にモデルになってほしいと以前から思っていたようだった。そのことを夏枝は辰子から電話で聞いた。夜になって夏枝は啓造に告げた。そして、
「黒江先生はまだ独身でしょう? 女の子一人をやるわけにもいきませんわね」
と反対したが、
「無論だよ。陽子をモデルになんかに絶対させない」
と、啓造が強硬にいうのを聞くと、
「でも、黒江先生って、さばさばしたいい方ですわ。陽子の高校の先生ですし、むげにおことわりもできませんわ」
と急に夏枝は陽子のモデルになることに賛成した。
「いや、いけないね。陽子はまだ学生だからね。高校の先生といっても、この間も教え子に子供を産ました事件があったじゃないか」
啓造は不機嫌にいった。
「でも黒江先生のお宅にはご両親もいらっしゃるし、アトリエといっても、お茶の間の隣ですって。それに着物を脱いだりするわけじゃ勿論ありませんから、ご心配なくって辰子さんがおっしゃっていらしたわ」
「しかし、何もその先生のために、うちの陽子がモデルにならなくてもいいじゃないか」
啓造はゆずらなかった。ふっと夏枝の表情がかげって、
「あら、あなた、やいていらっしゃるの」
と冷笑した。
「何で、わたしがやくわけがあるんだ」
と、啓造は平然といったが、内心、夏枝の勘の鋭さにギクリとした。
昨年の夏のことである。土曜日の午後、いつもより早く帰ると家の中が静かであった。洗濯機の音がひくくうなって、水の音がしていた。茶の間に一歩足をふみ入れた啓造は、思わずハッとして立ちどまった。
シュミーズ一枚の姿で、陽子がデッキチェアに眠っていたのである。洗濯機の回転音に眠りを誘われたのかも知れない。短いシュミーズのままで足をくんでいるため、太ももがあらわに啓造の目に入った。足首の細いすらりと伸びたその足が、太もものあたりでは、まろやかに白く肉づいている。
啓造は、その太ももから視線をそらそうとしても、しばらくはそらすことができなかった。その肌にじかに触れたかのような戦慄が身内を走って、啓造はそのまま、書斎に上がってしまったのである。その後、ともするとその時の陽子の姿態が思い出されて啓造は心がとがめた。しかし、ひそかに楽しくもあった。
いつか夢の中で、抱いていた夏枝がだんだん細くなった。おどろいて「夏枝、夏枝」と叫ぶと再び腕の中でもとの体にかえってきた。よかったと思って顔をのぞくと、それは夏枝ではなくて陽子だった。
「あなた、やいていらっしゃるの」
と、今、夏枝に冷笑されると、デッキチェアにシュミーズ姿で足を組んでいる陽子の姿が描かれるような気がしていた自分に啓造は気づいた。たしかに啓造は黒江という教師に嫉妬していたのである。
モデルになる話は、もともと陽子自身も気が進まず、啓造が強く反対したことでもあるのでとりやめになった。
夏枝は陽子をモデルにと望まれたことで、陽子の美しさが辰子の茶の間でしばしば話題になっていることを想像して、平静ではいられなかった。陽子が辰子の家に行くことが不快になった。ある日、夕食が終わると、
「陽子ちゃん、辰子さんの家をどう思っているの」
夏枝は改まった口調になった。
「好きよ」
陽子は不審そうに夏枝を見た。
「好きなだけ? 少しだらしがないと思うでしょう?」
「いいえ、ちっとも」
「まあ、陽子ちゃんはちっともだらしがないとは思わないの。茶の間にゴチャゴチャ人が集まって、何かだらしのない感じではない?」
「ええ、いわゆるお行儀のいい人たちではないわ。でもだらしがないとは思わないわ」
「おかあさんは、もし自分の家に、あんなに始終五人も六人もねころんだり、いぎたなくしていられたらと思っただけでも、ざわざわしますけれどね」
夏枝は顔をしかめた。陽子は思わずふきだしそうになった。辻口家のこの茶の間に、あの人たちが集まったら、みんな神妙にかしこまってしまうのではないかと、そう思っただけで陽子はおかしかった。夏枝には人をくつろがすものがなかった。辰子は十分に人をくつろがせながら、しかし自分の心の中まで踏みこまれない節度があった。それは決して夏枝がいうようにだらしがないという印象は与えなかった。
「辰子さんの家には男の人がほとんどでしょう。陽子ちゃんもそろそろ男の人の目につく歳ですからね。おかあさんのお友だちで、あなたの歳にお嫁に行った人がありますもの。もう子供じゃないのよ。あんな人たちの集まるところに行くのはおやめなさいね」
陽子は夏枝の言葉に承服しかねた。
「でも皆さん、いい方ばかりよ」
「おかあさんはきらいですよ。人の家も自分の家もわからないようなお行儀でしょう? 黒江先生など、右と左別々の下駄をひっかけて、いつもセーター姿でしょう? よそのお家へ行く姿ではありませんよ」
陽子はそんな黒江が好きだった。
「それに御飯時でも平気でいるでしょう? 辰子さんも甘やかすからいけないの。いくらお金があるからって、いつもいつも食事をさせることはないんですのに」
とにかく陽子が辰子の家に行くのが夏枝はいやだった。
それ以来、陽子は辰子の家に行くことが少なくなった。辰子に会わないと陽子は時々、自分の生みの親のことを想像するようになった。辰子のそばにいると満ち足りていた感情が、陽子の生活から失われて行ったことに夏枝は気づかなかった。
陽子は時々さびしくなった。
(どんな事情があって、わたしの親は人手にわたしをやってしまったのだろう。わたしは親にとってさえ、かけがえのない大切な存在ではなかったのだろうか)
そう考えると、どんなに一所懸命に生きてみても、その自分を愛してくれる人はいないように思えた。若い陽子には、自分の父母が死んでいるという想像ができない。どこかで父と母は生きているような気がする。しかしその手を離れたということは、どう考えても自分の存在が祝福されているようには思えない。
(この世で、わたしをかけがえのないものとして愛してくれる人がいるだろうか)
夏枝には無論、愛されているとは思えなかった。啓造はやさしかった。だが陽子に積極的な父らしい愛情は見せることはない。陽子と二人っきりになると、何か重くるしいぎこちなさが啓造にはあった。
札幌に行った徹は、日曜日毎に帰ってきた。しかし二人っきりになると、啓造よりも、もっと重くるしく妙におしだまってしまうのだ。時々ふっと熱っぽい徹の視線にぶつかって、陽子はかすかな不安を感じた。陽子が徹に求めているものは、兄としての愛情である。だが徹には陽子がこだわりなく甘えてゆける兄らしい雰囲気がなかった。
(おにいさんにとって、わたしはかけがえのない存在かもしれない)
しかし陽子にはそれがうれしくはなかった。徹の目に恋情があらわになった日が、自分がこの家を出て行く日のように陽子は思った。
夏休みが近づいた。徹から夏枝にハガキが来た。
「近いうちに帰ります。寮で同じ部屋の北原君を一週間ほど家においてください。彼は化学専攻の男で、ぼくより一年上です。いつも世話になっていますから、歓迎してください」
夏枝はそのハガキを陽子に見せて、
「徹さんったら、こちらの都合もきかずにいやな人ねえ」
と、気重そうだった。夏枝は人と知り合うことがきらいで、どちらかというと客ぎらいだった。
北原という学生のことを、時々徹がいっていたから、陽子は少しは知っていた。
音楽が好きで、剣道三段とかいっていた。どこかからの引き揚げ者で、母親がいないということも聞いていた。
しかし、なぜ徹が北原を家に連れてくるのかは陽子にも分からないことだった。徹がそのことについて、どれだけ考え、悩んだかということも無論分かるはずはなかった。
気重そうな夏枝の様子では、北原という学生にもあまり居心地のいい家ではないだろうと陽子は、徹に対しても気の毒に思っていた。
その日は暑い日曜の午後だった。陽子は林の中の木の株に腰をかけて、読みかけの「嵐が丘」を読んでいた。林の中は涼しかった。
小説の主人公ヒースクリッフが捨て子であるということが、陽子の感情を刺激した。ヒースクリッフの暗い情熱が陽子にのりうつったような感じだった。陽子は息をつめるようにして読んでいった。捨て子だった主人公が、兄妹のようにして育ったキャザリンを愛し、キャザリンが人妻になっても執着し、遂には死んでしまったキャザリンの墓をあばき、キャザリンの幻影をいだきながら死んで行く激しさが、生みの親を知らない陽子には共感できた。
(親に捨てられた子は、ヒースクリッフのように、両手をさしのべていつまでもいつまでも自分の愛するものを、〈ただひとつのもの、かけがえのないもの〉として追い求めずにはいられないんだわ。自分が親にとってさえ、かけがえのない者ではなかったという絶望が、こんなに激しく愛する者に執着するんだわ)
読みながら陽子は、自分もまた、激しく人を愛したいと思っていた。そして愛されたいと思っていた。
時々釣竿を肩に、小さなバケツを下げて、林の中の堤防を子供たちが通った。だが陽子は小説に熱中して気づかなかった。まして、陽子の思いつめたような横顔に、じっと視線を当てている青年が、チモシーの茂る小径に立っていることなど、気づくはずはない。
(すごいわ。ヒースクリッフは床を見ても、敷石を見ても、どの雲も、どの木も、キャザリンの顔に見えるんだわ)
陽子はヒースクリッフがうらやましかった。死んだ愛人の墓をあばいて、その後もなお面影を求めつづけるヒースクリッフこそ「かけがえのない存在」を持った人間なのだと陽子はうらやましかった。
(でも、彼はキャザリンにとって〈かけがえのない存在〉ではなかったのだわ)
陽子は本から顔を上げたまま、思いつづけた。
(恋愛をするのなら、わたしもこんなに激しく真剣な恋愛をしたいわ)
その時、陽子の足もとをリスが走った。おどろいて立ち上がった時、白いワイシャツに黒ズボンの青年が、陽子をじっとみつめているのに気づいた。
陽子は思わずほおを染めた。自分のいま思っていることを見ぬかれたような感じだった。青年ははにかんだように微笑した。中肉中背の色の浅ぐろい青年だった。眉の濃い、どこか、さわやかな感じの青年である。
「こんにちは」
青年は陽子をどこのだれと知っているような親しみをこめて挨拶した。張りのある声であった。
「こんにちは」
陽子も快活に挨拶をした。小説を読んだ心のほてりが、陽子の目をきらきらと輝かせていた。
「ぼく北原です」
青年には、すぐに人の心の中にするりと入りこむような親しさがあった。
「ああ、おにいさんのお友だちですのね」
陽子は改めて頭を下げた。
「わたし、妹の陽子です」
「聞いていましたよ。辻口の自慢の妹さんですからね。辻口は陽子がと、あなたの名をいわない日はないんですよ」
北原は明るく笑った。
陽子は、夏枝がどんなふうにこの人を迎えたのかと少し気にかかった。
「こんな林がそばにあるなんて、辻口は一度もいったことがないんですよ。あきれた奴だな」
北原はニコッと笑って、
「ぼくは林って好きですよ。こんなふうに、松また松の林って珍しいですよね。今そこの立て札で名前をおぼえてきましたよ。トド松。ストローブ松。カナダトーヒ。ドイツトーヒ……ええと、それから何でしたっけ」
北原と陽子は林を出て堤防の上に登った。堤防の上は強い日光がまぶしく照りつけていた。
「ムラヤナ松」
「ムラヤマ松?」
「いいえ、ムラヤナ松。モンタナ松」
「実にいろいろあるんですね。このひょろひょろと栄養失調のような松は何というんですか」
「ああこのなよなよと、やさしい感じの松? これは千島から松ですわ」
「え? 千島から松?」
北原の顔が輝いた。
「そうですか! これが千島から松……」
いうや否や、北原は堤防をかけておりて、千島から松の幹に手をふれた。陽子はおどろいて堤防の上から、北原を見た。輝いていた北原の顔が次第にかげって行くのを陽子は見た。陽子は堤防を降りて北原のそばに寄って行った。
「どうなさったの?」
「ぼくはね。千島生まれで四つの年に千島から引き揚げたんですよ。母は千島にねむっています。だから、ぼくは毎年斜里岳に登って、千島を見るんですよ。でも曇っていると千島は見えなくてね。高校一年の時なんか十日間毎日斜里岳に登りましたよ」
陽子はぐっと胸をつかれた。今はもう訪れることのできないふるさとの千島を、毎年、山に登ってながめる北原の気持ちがよくわかった。
(そこには、おかあさんがねむっていらっしゃるからだわ)
生みの母を知らぬ陽子には、母のない北原が急に近い存在に思われた。
北原は陽子の持っている本に目をとめた。
「ああ、『嵐が丘』ですね。ぼくも二回読みましたよ」
二人は林の小径に入って行った。しめったやわらかい道だった。下草が丈高く茂って林の中は暗かった。
「うすぐらいですね。こんなに木の沢山あるところに住んでいて、しあわせですね?」
「しあわせ?」
陽子は自分を不幸だと思ったことは一度もない。啓造と夏枝が実の父母でないと知った時も、卒業式に答辞が白紙であった時も、悲しくはあっても、不幸だとなげいた記憶はない。しかし、いま「しあわせですね」という言葉を聞くと、ずいぶん遠々しい言葉に思えた。
「辻口はね。実にあなたのことを自慢していますよ。街を歩いていて、すれちがった女性をふり返ると、途端に(あんなの、陽子の足もとにも及ばないぜ)とくるんですからね。寮の連中が、一度だれか首実検に行ってこい、なんていったくらいですよ」
「まあ、いやなおにいさんね」
陽子は笑った。
「ぼくにも妹が一人いますからね。辻口がいくら自慢しても、そううらやましいとは思わなかったけれど……」
いいかけて北原は、ちょっとはにかんだ顔をした。胸に組んだ北原の腕が、たくましく日にやけていた。二人はだまって歩いた。
「美しいおかあさんですね」
北原がぽつりといった。
「ありがとう」
陽子も、夏枝はきれいだと思っている。ほめられれば、やはりうれしかった。
「辻口も、あなたもしあわせですよ。あんないいおかあさんがいられて……。うらやましいな」
陽子はだまっていた。答えようがなかった。北原の母は死んでいるとは知っていても夏枝を「いいおかあさん」ということには、抵抗を感じた。
「もう帰りましょうか」
陽子はいった。
「そうだ。辻口が心配しているかも知れないな。いい林なものだから、少し散歩してくるといって出たっきり、一時間近くあちこち歩いていましたからね」
堤防に出ると、徹の声がした。
「北原さーん」
徹が迎えに出ているらしい。
「ヤーホー」
北原が美しい声で答えると、徹が走ってきた。
「あ、陽子と一緒だったんですか」
徹が微笑した。
「紹介されなくても、ひと目で陽子さんとわかったよ」
北原の言葉に、徹がうなずいた。かすかな苦渋が、徹の顔に浮かんだことに、北原も陽子も気づかなかった。
「お帰りなさい、林はいかがでしたか」
夏枝は北原を見ると親しみぶかい微笑を浮かべた。
「色々な種類の松林がつづいていて、珍しく思いましたよ」
北原がいくぶん甘えた口調でいうのを、陽子は聞きのがさなかった。
「お気に入ったら、くるみ林や、やちだもの方もあとで御案内しましょうね」
夏枝の表情はあかるかった。
「ああ、おかあさん連れて行ってくれるとありがたいな」
徹がいうと、
「おかあさんに、……そんな、ぼく悪いな」
と、北原は例のはにかんだ表情で夏枝を見た。北原のはにかんだ表情には、少年のようなういういしさと、青年らしい甘さがあった。
「いいえ、ちっとも。ここにいらっしゃる間だけでも、おかあさんと思って甘えて下さいね」
夏枝はやさしくいって、台所から冷たい牛乳を持ってきた。
(おにいさんからハガキが来た時は、〈こちらの都合もきかずに、いやな人ねえ〉と気重そうだったのに、何と今日は機嫌よく、うきうきとしているおかあさんだろう)
陽子は、愛想よく北原をもてなしている夏枝を喜んでいいはずなのに、なぜか喜ぶことができなかった。
夕食が終わると徹がいった。
「街に行ってみようか。何しろ北原は旭川がはじめてだからね」
「じゃ案内してもらおうか。陽子さんも行きませんか」
「もちろんさ。陽子は君の接待役だ」
徹がいうと、夏枝が、
「陽子ちゃん、すまないけれど、るす番をしていてね。おかあさんはちょっと買い物もあるのよ。いいでしょう」
と、徹と陽子の顔を半々に見た。
「おとうさんが帰ってくるよ」
徹は不快そうにいった。
「おとうさんは今夜九時ごろお帰りですって」
夏枝の声がはずんでいた。
北原たちの車を見送りながら、陽子は夏枝の態度が気になった。不愉快というより、もっと奥深く心にからみつくものだった。少女特有の潔癖が、敏感に嗅ぎわけているものかもしれなかった。
陽子は門によりかかって、くれのこる空を見上げていた。烏が林の上でさわいでいる。遠く西空に細い黄色い雲が見えた。それを誰かが清姫《きよひめ》の帯と呼んでいたのを思い出した。
陽子はしばらく、清姫の帯と呼ばれる雲をながめていたが、家に入って風呂の火をたいた。
だれもいない家の中で、火の燃える色をながめているのは、いかにも淋しく静かだった。
北原のために白がすりを買ってきた夏枝は、早速翌日一日かかって仕立て上げた。徹のまだ手を通さない浴衣があるのに、わざわざ買ってきたことが陽子には不審に思えた。
北原が来て二、三日たった午後、陽子は友人の家に出かけていた。帰ってくると、北原が夏枝の肩をもんでいた。徹がそばでうたたねをしている。北原は陽子を見ると、てれたように笑ったが、肩をもむ手をとめなかった。
夏枝は陽子をチラリと見上げて、北原に、
「ほんとうにもう、結構ですわ」
と、くすぐったそうに笑った。北原はまじめな顔で、
「もう少しもみますよ」
と、もみつづけると、
「どうも、ありがとうございました。ほんとうに」
と、夏枝は肩におかれた北原の手に、自分の手をおいた。
「そうですか、お粗末でした」
北原はそういって、さっさと徹のそばにもどって、あぐらをかいた。
「陽子さん遅かったですね」
北原が陽子に声をかけた。陽子はかるくうなずいた。夏枝が北原の手に、自分の手をおいたことに陽子はこだわっていた。
「ぼくね、母の肩をもんだ経験ってないでしょう? 小さい時に死なれましたからね。だから、母さんお肩を叩きましょう≠ネんていう歌を聞くと、小さいころなんか、いつも淋しくって涙ぐんだものですがね。今日はおかげで親孝行のまねごとができてうれしかった」
北原はほんとうにうれしそうだった。夏枝と陽子がうなずいた時、うたた寝していたはずの徹が、
「それはよかった」
と、いって寝がえりをうった。
ふっと北原と陽子の視線が合った。思わず二人は微笑した。それを徹はだまって見ていた。
「目をさましたのか」
北原がいうと、徹が起きあがった。
「北原さん、林の中に行きましょうか。肩をもんでいただいたお礼にくるみ林にご案内しましょうね」
夏枝がいった。陽子は夏枝の唇がいつもよりあかいのに気づいた。
白がすりを着た北原と、紺の浴衣を着た夏枝が林の中に入って行くのを、徹と陽子はだまって見ていた。
「陽子」
「なあに」
徹はだまっていた。
「なあに、おにいさん」
「あした、北原と三人で層雲峡にでも行こうか」
「ええ、でもおかあさんは?」
「おふくろには、おやじがいるよ」
徹が吐きだすようにいった。
「わたしは、行かないわ」
陽子は徹を見た。
「行かないって、どうして?」
徹は陽子を見た。
「わたし、いやなの」
「いや? 何が?」
「何がって……。どこにも行きたくないの」
「北原がきらいなの? 陽子」
徹は陽子にきらいだといってほしかった。徹は陽子の出生を知って以来、陽子を幸福にするのは、自分しかないと思ってきた。しかしこのごろは考えが変わった。
(陽子は辻口家には一番居づらいのだ。おれと結婚して、万一出生がわかった時、陽子は自分が愛されていたのではなく、あわれまれていたのだと誤解するだろう。自分の父親が夫の妹を殺したと知っては、結婚生活はつづけられないだろう)
そう徹は思うようになっていた。だが徹は、真実陽子を愛していた。戸籍上のことは、家裁に持ちこんで訂正できると徹は思った。少年のころから陽子と結婚しようと思ってきた心に嘘はない。だが年と共に陽子の立場がわかってきた。
(陽子は、おれとだけは結婚できない人間なのだ)
そのことを徹は自分に無理矢理納得させた。北原は同室にいて徹は気心もよくわかっている。頭もいいし、性格もあかるく、さっぱりとしていた。思いやりもあり、勇気もある人間に思えた。
(自分が陽子と結婚できないならば、北原に陽子を託そう)
青年らしいせっかちで、徹は北原を旭川に招待したのである。
だから、北原と陽子が親しくなることをねがいながら、一方ではその反対をねがってもいた。少しでも北原と陽子の親しそうな様子を見ると、徹は苦しくてうめきたくなった。
(陽子さえ幸せになればいいんだ。おれは一生結婚なんかしない。陽子の幸福だけをねがって生きていくんだ)
苦しくなると、徹はそう自分の決意を自分にいい聞かせた。
「北原がきらいなの?」
そう陽子にたずねながら、徹は心が乱れていた。
「きらいじゃないわ。きらいになるほど、おつきあいをしていないもの」
「じゃ、一緒に行ってもいいじゃないか」
「でも、わたし北原さんとおつきあいしなければならない理由もないわ、おにいさん」
徹はうれしさに叫びだしたい思いだった。徹はだまって陽子をみつめた。
「北原っていい奴なんだがなあ」
(おかあさんのお気に入りなんて、わたしきらいよ)
陽子はそう思った。思いながら、陽子は自分が淋しくて泣きだしそうになっているのがよくわかった。
林の方で北原と夏枝の声がした。
ひるごはんを終わって今、陽子は台所で茶わんを洗っている。茶わんを洗っていても、北原がどの部屋にいるか陽子にはふしぎによくわかるのだ。
(とうとう北原さんはあしたお帰りになる)
陽子は洗い終わった茶わんをざるに入れて、水道の水ですすぎ流していた。
「すみません、お水を下さい」
北原が台所に入ってきた。
「はい、ただいま」
陽子はコップに入れた水をさしだした。受け取ろうとした北原の手が、陽子の指にふれた。陽子はピクッとした。ふしぎな感覚が身内をつらぬいた。
北原はコップを持ったまま、だまって陽子をみつめている。陽子はくるりと背を向けて茶わんをふきはじめた。乾いたふきんでキュッキュッと力をこめて茶わんをふいた。だが陽子の全神経は北原に注がれている。茶わんをふき終わった。まだ北原は陽子のうしろに立っている気配がする。思いきってふり返った。
北原はまだ水が入ったままのコップを持って立っていた。
「お水をどうしておあがりにならないの」
陽子はそういいたかった。だが北原に対してはいつもの陽子のようになれないのだ。
陽子はふたたびくるりと背を向けて、今使ったふきんを消毒用の鍋に入れてガスに火をつけた。
「陽子さん」
北原が呼んだ。
陽子はだまってガスの青い焔をながめている。
「なあに、北原さん」
陽子はそういいたいのだ。
「とうとうあすはお別れですのね」
そう気がるにいいたいのだ。
(どうしてこんなに変なわたしになったのだろう)
陽子はじっと焔から目をそらさない。
「陽子さん、川の方へ行ってみませんか」
北原は、そこでやっと水を飲みほした。その時、夏枝が台所に入ってきた。
「北原さん、散歩にいらっしゃいません?」
夏枝が声をかけた。北原は陽子を見た。北原のおいたコップを洗っていた陽子が二人のそばをするりとぬけて、さっさと自分の部屋の方に行ってしまった。
(いやだわ。わたしってこんなつまらない人間だったのかしら。もっと快活で、もっと素直なはずだわ)
陽子は自分の部屋に入って、すぐに後悔した。
(だめな陽子ね。もっと思った通りにふるまうのよ)
陽子はふたたび台所にもどった。北原も夏枝ももういない。ふきんを煮る湯がたぎっていた。陽子は北原の飲んだコップで水を飲んだ。
徹と陽子は、北原滞在の最後の夕飯を高砂台でとる予定だった。三人が出かけようとすると、夏枝も一緒に行くといいだした。
「おとうさんが帰ってくるよ」
徹がいうと、
「おとうさんは今夜もどうせ九時すぎになりますもの。今夜はみんなで北原さんの送別会をしましょうよ」
夏枝は北原のことだけ考えているようだった。
「しかし、もし早く帰ったら困るんじゃない? 電話したら」
「大丈夫ですわ。このところ連日お忙しいようだから」
夏枝の言葉に陽子は啓造が気の毒になった。
「困ったな。辻口のおかあさんにこんなによくしていただくと、帰りたくなくなってしまう」
「ですから、どうぞ一夏お泊まり下さいと申しあげておりますのに」
息子と同年配の青年に対する声音ではなかった。徹はさすがにそれには気づかない。母親の夏枝が、自分と同じ年ごろの北原に心ひかれるなどと想像することが徹にはできなかった。徹自身が異性を感ずる対象は、年下の女というきまりのようなものを持っていたからでもある。
徹は徹なりに、北原を厚遇する夏枝の気持ちを、こう考えていたのである。
(おれが陽子に心ひかれているのを知って、おふくろは結婚するのではないかと心配しているのだ。おふくろは北原にとりいって、陽子を北原に押しつけようとしているのかも知れない)
そのことは徹にとって、望ましくもあり、さびしいことでもあった。
(あるいは陽子は北原と結ばれることになるかも知れない。おふくろは陽子のためにではなく、辻口家のために、懸命に北原にとりいっているのだ)
そう思うと、夏枝の北原に対する態度が、時に腹だたしくもなった。
高砂台は辻口家の川向こうの山つづきの台地である。高砂台にはレストハウスや、タワーがあった。レストハウスの前で車を降りると、
「すばらしい眺めだ」
と、北原が目を細めた。旭川の町が一望の下に見える。遠くに夕日を受けた大雪山の連峰が紫がかった美しい色をしていた。その右手に十勝連峰がびょうぶを立てたようにつらなっている。
「いいところでしょう」
夏枝が北原によりそった。
「旭川って、大きいんですね」
「上川盆地が大きいのさ。ぐるりが山だろう? だからあの山の下まで旭川みたいに見えるんだ。車で行くとね、ずっと田んぼまた田んぼで、かなり広い盆地だということがわかるよ」
国策パルプの白い煙が美しかった。
「あの林が、辻口の家のそばの見本林だね」
北原が指すと、夏枝がにっこりとうなずいた。
レストハウスに入って、ジンギスカン鍋をつつくころ、旭川の街の灯がまたたきはじめた。夏枝も今夜はビールを飲んだ。
「ジンギスカンはおいしいですね」
北原は陽子を見ていった。陽子はだまって微笑した。夏枝は北原のためにこまめに肉を焼いてやったり、ビールをついでやった。
「おかあさん。ぼくだって息子だよ。北原におかあさんをとられたみたいで少しやけるな」
徹は少し酔ってきた。そういう徹も先ほどから、陽子にジュースをついでやったり、野菜や肉を焼いてやっていた。
「ぼくは辻口のような妹思いの人間を見たことがないな。ぼくもかなり妹にやさしいつもりだったけど、辻口にはかなわない。兄妹というより恋人同士みたいですよね」
北原は最後の言葉を夏枝にいった。夏枝はふっと表情をこわばらせたが、すぐにさりげなく、
「小さい時から仲がいいんですのよ」
と微笑した。
陽子はじっと、肉からしみでて流れる脂をながめていた。脂がしたたり落ちて、時々ぼっと火が小さく上がる。脂の焼けた煙がゆったりとたなびいて、部屋の中にただよっていた。
「陽子って、特別いい妹なんだ」
徹は酔うとほがらかになった。
「はい北原さん、焼けましたわ」
夏枝が北原の皿に肉をのせた。つづいてピーマンや玉ねぎを皿に分けた。陽子は夏枝が北原にやさしくしているのをだまって見ていた。
食事が終わると四人は外に出た。徹が車を呼ぶために電話をかけに行き、夏枝も用に立った。
陽子は空をながめた。星が空いっぱいに輝いている。陽子はこんなに沢山星があったのかとおどろいた。いつも林のそばで星を見ていたせいであった。陽子はそれに気づくと何となくさびしくなった。
(空の半分しか見ていなかったなんて……)
たしかに自分は何事もまだ半分以下しか見ていない。いや、半分も見ていない、何も知らない子供なのだと陽子は思った。
「陽子さん」
ふいに切迫したような、北原の声がした。あたりにはだれもいない。陽子は一歩退いた。
「ぼく……」
口ごもった北原の目がまっすぐ陽子をみつめていった。
「手紙をさしあげてもいいですか」
陽子は思わずうなずいた。
それを見ると北原は、はにかんだように笑顔になった。
「手紙をさしあげてもいいですか」
という言葉が、陽子の胸の中で繰り返し、繰り返しひびいていた。
この一週間ほど、遅い日が続いて、啓造は少し疲れた。気にかかる患者があると、啓造は当直の医師にまかせて帰ることができなかった。もっと他の医師にまかせなければ、医師たちが働きにくいのを知ってはいる。それを知りつつ、啓造はぐずぐずと帰宅が遅くなった。啓造自身そんな自分がいやになった。責任感が強いというのとはちがっている。小心なのだと啓造は思っていた。
思いきって今日は定時の五時に病院を出た。定時に帰らないと、またぐずぐずと遅くなると啓造は思った。久しぶりに明るい街を啓造はぶらぶらと歩いていた。
「辻口病院の院長ともあろう者が、バスで通うこともあるまい」
と、人々にいわれることがある。しかし啓造は病院の車は往診と、病院の用事で出る以外に使わなかった。啓造のために、朝は早く、夜はおそくなる運転手を啓造は気の毒に思った。好きな所で乗れるバスかハイヤーの方が気楽だった。気が向けば歩きもした。徹が車の免許をとって、車をほしがっていたが、啓造は買わなかった。啓造は車を運転するのはきらいだったし、大学生の徹に車を買うこともないと思っていたからである。
啓造は北原のことを考えながら歩いていた。北原が来てから家の中に活気があふれていると思った。ちょうど北原が来たころから啓造は忙しかった。今日はゆっくり夕食を共にしながら話し合ってみたいと思っていた。途中で啓造は陽子のためにチョコレートを買おうと思った。店が二軒ならんでいる。啓造は小さい、あまり繁盛していない店の方に入った。その小さい店は包装紙も悪いし、包み方もまずい。しかし百円のチョコレートを五枚ほど買うと、そこのおかみさんはかわいそうなほどうれしそうな顔をする。啓造にとってはささやかな買い物が、その店の生活に大きなかかわりがあることを知って、気の重いような、しかしよいことをしたような思いだった。
店を出ると、さすがに疲れてハイヤーに乗った。玄関の戸をあけようとすると鍵がかかっている。物置にある合鍵で裏から入ると、テーブルの上に紙片があった。
「北原さんの送別会を高砂台のレストハウスで致します。よろしかったらおいで下さいませ」
読んで啓造はムッとした。
(電話というものがあるじゃないか!)
この一週間、遅い日が続いたからといって、今日も遅くなるとは限らないのだと啓造は思った。
(北原の送別会は徹と陽子にまかせておけばいいじゃないか。何も夏枝まで家を留守にしていくことはないんだ)
夏枝の一オクターブ高くなった感情の変化を、啓造は見たように思った。
北原に浴衣を買ってやったと聞いた時は、別段気にとめなかったことが、急にカンにさわった。
(一夏いる客じゃあるまいし、わざわざ浴衣を買ってやることはないんだ)
啓造は冷蔵庫の中からビールを一本とりだした。つまみがどこにあるかわからない。仕方なく、買ってきたチョコレートをつまみに飲みはじめた。
(夏枝が四十を過ぎたと思う者はいない。だれが見ても三十そこそこにしか見えやしない。二十二、三の学生から見ると大した年齢の差を感じないのではないか)
四十を過ぎて、夏枝は性格が少し変わったように啓造は思う。性格が変わったというより、夜の生活が積極的になったというべきかも知れない。
何となく啓造は不安になる。
(村井との例もある)
啓造はたちまちビールを一本あけた。二本目を冷蔵庫から出した時、窓をたたく音がした。辰子だった。
「玄関をあけてちょうだい」
まだ外は明るかった。
あわてて啓造が玄関の戸をあけると、
「何よ、ダンナの今窓からのぞいた顔。奥方に捨てられて、やけになってるような顔よ」
辰子がぽんぽんといった。
「やあ、どうも」
啓造は首をなでた。
「陽子くんもいないの?」
「みんなで、徹の友だちの送別会だとかって」
辰子は啓造を見てにやにやしながら、
「やっぱり、それで、すねてたんでしょ? 辰ちゃんがビールのお相手してあげるから、もう泣かないのよ」
辰子はさっさと台所に行って、ビールやコップをチーズ、バターピーナツと共に持ってきた。
「バタピーはどこにありました?」
啓造がおどろくと、
「お宅の奥様は、結婚した時から今に至るまで、同じ缶を同じ場所においてるのよ。わたし、ここの家の現金のあるところも、貯金通帳のあるところも知ってるわよ」
辰子は陽気にいって、
「あ、そうそう、いま四条の平和通りで、わたしの車の前を村井さんが通って行ったわ。奥さんと子供さんと一緒だったわ」
と、つけくわえた。
村井は正月以外は辻口家を訪れることはない。妻の咲子と何とかうまくやっているようであった。
「村井さんといえば、ここしばらく高木さんに会っていないわ。どうしているかしら」
「ああ、高木は開業して以来、ほとんど旭川に来ないな」
「はやっているのかしら」
「去年の税金は二百五十万とかいう話だからね。高木は商売気がないと思っていたが、見直したよ」
啓造はやっとビールがうまくなった。今夜の辰子は、夏枝より生き生きとして若いと啓造は思った。
「健康優良児はこのごろちっとも顔を見せないわ。どうしているのかしら」
辰子がいった。
「健康優良児? ああ、陽子のことですか。なるほどあの子は丈夫で発育良好だな。元気でいますよ」
このごろ陽子はまた少し背丈が伸びたようだと思いながら啓造はいった。
「元気ならいいけれど、六月ごろからパッタリ来なくなったのよ」
辰子は啓造のコップにビールをついだ。
「どうしたのかな、それは」
啓造は心にかかった。陽子は辰子の家に週に一度は行っていたはずだ。
「高校に入って、急に大人びてしまったのかも知れないわね」
「なるほどね。そうかも知れない。お宅には沢山男性が集まりますからね」
陽子が夏枝に足どめされているとは啓造も知らない。陽子が辰子の家から遠ざかるようになったのは、年ごろになったためかも知れないと啓造は思った。
めずらしく辰子はだまりこんだ。一人でビールをついで飲んでいる。
「どうしました?」
「どうもしないけれど」
辰子は窓の方をぼんやりとながめている。辰子は正面より横顔の方が美しいと啓造は思った。
(辰ちゃんも子どもを産んだことがあるのか)
そう思うと、辰子が妙に女らしく思われた。ふいに辰子が啓造を見た。啓造はちょっとドギマギして目をふせた。
「陽子は大学へやらないの? ダンナ」
辰子がいった。
「大学へ?」
啓造は陽子の進学のことは考えていなかった。高校を終えたらすぐにでも、結婚させたいと思っていた。啓造にとってやはり恐ろしいのは徹が陽子を妻にするということである。
「そうよ。いい成績だというじゃないの。うちによく来る沼田さんという社会科の先生がいるのよ。陽子の高校の先生なの。二学期から進学組と就職組に分けるために希望のコースを調べたら陽子は就職組に入っているというのよ」
「就職組ですか」
啓造は就職させようとも考えてはいない。
「沼田さんが惜しがっていたわ。社会科の時間でも、陽子はとても鋭い質問をするんだって。沼田さんはぜひ大学へやりたいっていっていたわ」
啓造はだまっていた。一日も早く結婚させてこの家から出してしまいたいのだとはいえなかった。
「怒っちゃだめよ。わたしも陽子を大学へやりたいと思うな。どうせ、そのうち結婚させるんだろうから、思いきって、いまからわたしにあずけてほしいと思うのよ。今まで育てて、手放すのは惜しいだろうけれどね」
思いがけない辰子の言葉に啓造は何と答えてよいかわからなかった。
啓造がだまっているのを見て辰子は、
「やっぱりこれは無理な注文だったわね。あんないい子をほしいという方が無理かも知れない。大した財産じゃないけれど、あの子になら全部やってもいいと思っているの。そしてさ、好きな勉強を好きなだけさせて、あの子を伸びるだけ伸ばしてやりたいのよ」
(辰子に陽子をやるというのも一つの手だ)
啓造は少し心が動いた。このまま家においておくより辰子にあずける方が陽子にとって幸せなことだと啓造は思った。
「無論、辻口家はうなるほど金があるんだから、大学はおろかフランスにでもイギリスにでも留学させることもできるでしょ? わたしの出る幕じゃないことは百も承知なんだけれど、あの子が進学しないと聞いて何となく考えちゃったのよ」
「いや、どうも。わたしはついうっかりして、女の子が大学に行くなんて考えてもみなかったものですからね」
「陽子は行きたいとはいわないの?」
「夏枝には何といっていますかね」
「とにかく悪いことをいったわ。でも何かの拍子にあの子をわたしにくれてもいいと思う時がきたら、わたしはいつでも喜んで迎えるわ」
辰子はそういうと、車を呼んで帰って行った。
啓造は何となく今夜は夏枝に顔を合わせるのがいやで、早く寝室に入った。床に入ってから、陽子を辰子のところにやって、なるべく徹から遠ざけた方がいいように思われてきた。辰子の家なら陽子も行くというような気がした。そのうちに折りをみて夏枝に相談してみようと思っているうちに、連日の疲れが出たのか啓造はいつのまにかぐっすりと眠ってしまった。
帰ってきた徹や北原の笑い声に目をさまされて、時計を見るとまだ九時前だった。そっとふすまが開いた。夏枝である。啓造は目をとじてだまっていた。すると夏枝はちょっと部屋をのぞいただけで、すぐにまた茶の間に行ってしまった。
時々夏枝の笑い声も聞こえた。啓造は腹だたしくなった。北原のはにかんだような笑顔が目に浮かぶ。何となく夏枝が北原のそばにべったりと座って話しているような気がする。北原の体温が夏枝に伝わって、時々二人が顔を見合わせているような感じがする。啓造はすっかり目がさえてしまった。
やがて廊下にひそやかな足音がした。つづいて力強い男の足音がした。啓造は全身を耳にした。
「ほんとうにお手紙あげますよ。おやすみなさい。陽子さん」
北原の低い声がして、北原は二階に上がっていった。
(夏枝ではなかった!)
啓造は暗い中で思わず微笑した。先ほどの妬心がわれながらこっけいなことに思われた。
(北原と陽子か)
啓造は徹の顔を思い浮かべた。
北原が帰って三日目である。朝食のあと徹は部屋に上がってカロッサの「美しき惑いの年」を翻訳していた。ドイツ語は中学時代から啓造の手ほどきで勉強している。だから大学に入って二年目とはいっても、徹のドイツ語はかなり進んでいた。
翻訳につかれた徹は、窓によって外をながめた。
(ずいぶん家が建ったなあ)
徹の小さいころはあたりはまだ広々とした馬鈴薯畑だったような気がする。それが今では見本林のそばまで赤や青やみどりの屋根の家々が建っている。それでも、まだとうきび畑や、馬鈴薯畑が見えるのはうれしかった。
ふと窓の下を見ると思いがけなく陽子が庭の草むしりをしている。白いネッカチーフに頭を包んで、暑い日ざしの下に陽子は熱心に草むしりをしている。見られているとは知らない陽子の姿を見ると徹は何となく微笑した。陽子は白いブラウスに黒いショートパンツをはいている。陽子はショートパンツはきらいだが、やはり働きやすいとみえて、仕事をする時ははいている。
徹は陽子の姿をながめながら、何年かのちに自分の妻として、今と同じように草むしりをしている陽子を想像した。医師になった自分が、日曜のひとときを、こうして妻の陽子の働く姿をながめている。
(だが、それはあきらめなければならない)
陽子を自分の妻にするためには、二人が他人であることを知らさなければならない。そのために陽子は自分がだれの娘であるかを知ってしまうかも知れない。
(やっぱり二人は本当の兄と妹として一生を送るべきなのだ)
徹は陽子が既に自分自身をもらい子だと知っているとは気づかない。陽子のようすには何の屈託も見えないのだ。
(北原にも陽子の出生を告げてはならない)
北原に事をうちあけて、陽子のことを頼もうと思っていた徹であった。徹は自分の愚かしい考えに気づいて身ぶるいした。
(知っているのは、父母と自分と、そして札幌の高木の小父さんだけだ。まさか秘密はもれまい)
(だが、ひょっとするとムッター=母=からもれないとも限らない)
徹は何も知らずに一生懸命草むしりをしている陽子がかわいそうでならなかった。陽子を呼ぼうとした時、郵便配達の赤い自転車がとまった。
手の土を払って陽子が受けとった。郵便配達が去ると、陽子がそのうちの一通を見て急いで封を切った。封を切ってから何を思ったか、ショートパンツの大きな前ポケットに手紙をつっこんで陽子は林の方に歩き出した。林の中でゆっくり読むつもりらしい。
(北原からの手紙だな)
ふいに徹は胸苦しくなった。
「陽子」
徹は思わず窓から身をのり出して叫んだ。
「なあに?」
陽子がふり返った。
「手紙が来たの?」
「ごめんなさい。おにいさんにも来てるわ」
陽子はそういうと、やがて二階にかけ上がってきた。封を切らない方の封書は、夏枝と徹あての北原の手紙だった。
「陽子にも北原から来たの?」
陽子がほおをあからめて、うなずいた。それを見ると、
(陽子はもう、北原を愛しているのか)
と徹は寂しかった。
(いいんだ。それでいいんだ。陽子はおれの本当の妹なんだ)
徹は北原の封書を机の上にのせたまま、さりげなく翻訳のノートを開いた。
陽子はだまって階段を降りると、洗面所で手を洗った。手を洗ったついでに顔も洗い、ショートパンツをグレーのプリーツスカートにはきかえた。
「陽子にも北原からきたの」
と徹にきかれた途端に、急に北原の手紙が大事なものに思われたからである。
何気なく土に汚れた手で北原の手紙を読もうとしていたのが、われながらふしぎだった。陽子は自分の部屋に入っていつものようにデッキチェアに腰をおろしたが、すぐに机の前の白いレース編みのカバーをかけた座蒲団に正座して、北原の手紙を出した。さきほど指で封を切ったところをはさみで切りなおした。
右肩上がりの堅い字がならんでいる。
〈遠くに知床半島がかすんで見える斜里《しやり》の海岸に来ました。軽石がごろごろしています。毎年来ているところですが、軽石がこんなに多いと気づいたのは今年がはじめて。
けさ、この海岸に若い女性がうち上げられて倒れていました。死のうとして、海に入ったのに、波が彼女を岸に運んでしまったのです。浜辺に気絶していたその女性は助かりました。
死のうとしても死ねない時があるということが、ぼくには意味深いものに思われてなりません。それこそ文字通り死にものぐるいの人間の意志も、何ものかの意志によってはばまれてしまったというこの事実に、ぼくは厳粛なものを感じました。単に偶然といい切れない大いなるものの意志を感じます。ある意味において、それは人の死に会った時よりも厳粛なものとはいえないでしょうか。
長い滞在を恥じています。
昭和三十七年七月
北原邦雄
辻口陽子様
手紙はそれで終わっている。一行ほど、紙が破れそうになるまで字を消したところがあった。陽子はその消された文字の上を指でいくどもなでていた。陽子への感情がひとつも示されていないこの手紙に、陽子はなぜか強くひかれた。北原の清々しいがいくぶん甘さのある印象と、この手紙から受ける印象が、かなりちがっていることに心ひかれたのかも知れなかった。
陽子は北原の手紙をふたたび読み返した。
(大いなるものの意志とは何のことかしら? 神のことかしら)
若い陽子には、神という言葉が漠然としていた。神について考えたことはなかった。神を信じなければならないほど弱くはないと、陽子は思っていた。しかし、北原の手紙を読むと、「大いなるものの意志」という言葉に共感した。他人の書いたものならば、読みすごしたかも知れない言葉だった。
(わたしがこの家にもらわれてきたのも、大いなるものの意志であろうか)
陽子はだれが自分をこの家に連れてきたのかを知りたかった。
(生まれたばかりのわたしを、この家によこしたのはだれだろうか)
父、母のいずれだろうと陽子は思った。そして赤児の自分を見て、この家に連れてきたのは啓造か夏枝かを知りたかった。
(北原さんのような考え方をすると、わたしがこの家にもらわれてきたのは、父や母の意志ではなく、ここのおとうさんやおかあさんの意志でもなく、それらをこえた何ものかの意志ということになるのかしら?)
陽子は運命という言葉を思った。だが北原のいう「大いなるものの意志」と「運命」とはちょっとちがうように思った。
(どこがちがうのかしら? 北原さんのおっしゃるように、この手紙の中の女の人は死にたいのに助かってしまった。本当にこの世には人間の意志をこえた、もっと大きな意志があるような気がする。でも、それは運命ということともちがうわ。どこがちがうのかしら)
陽子はもっとつきつめて考えたかった。その時、廊下に足音がして夏枝が顔を出した。
「陽子ちゃん。北原さんからお便りが来ましたって?」
「ええ」
「どこから?」
夏枝は陽子のそばにすわった。
「斜里からよ」
「あら、おかあさんには北見からよ。原生花園はちょっと遅かったって書いてあったわ」
夏枝は陽子のひざの上にある北原の手紙を見た。
「北見っていいところなんでしょうね」
陽子は手紙を封筒に入れながらいった。
「それ、北原さんのお手紙?」
「ええ、そうよ」
「何て書いてあって?」
「斜里の浜に女の人が大波にうち上げられましたって」
「自殺かしら?」
「ええ、でも気絶しただけで助かったんですって」
「まあ、そうなの。ちょっと読ませて下さる?」
陽子はだまって北原の手紙を夏枝に手渡した。夏枝は手紙を受けとると立ち上がった。そしてその手紙はついに陽子の手もとに返らなかった。
八月の末に徹が友人から自動車を借りてきた。層雲峡にアイヌの火まつりがある。それを見に行こうと徹は夏枝と陽子を誘った。
「層雲峡まで車で行くの?」
夏枝は気が進まないようであった。夏枝は徹が大学に帰る時、一緒に札幌に出る心づもりがあった。そしてもう一度北原に会いたかったのである。だから、そう度々家をあけることはできないと夏枝は思った。
「二人で行ってらっしゃい。どうせ日帰りでしょう?」
「層雲峡まで行ったら、ゆっくり温泉に入って泊まってくるよ。なあ陽子」
「陽子ちゃんと二人で?」
夏枝は思わず不安げにいった。
「そうさ。陽子と二人でさ」
徹は夏枝の不安そうな顔を見て、さりげなくいった。だが徹の表情は、それ以上夏枝に何もいわせないきびしさがあった。
「おにいさんの運転大丈夫? 遺言を書かなくてもいい?」
陽子は車に乗りこんでから、徹に冗談をいった。
「さあ、わからんぞ。北原にでも遺言を書いておいた方がいいぞ」
徹は快活にいった。
(おれは陽子の本当の兄なんだ。同じ部屋に何泊しようと、おれは本当の兄なんだ)
夏枝の不安そうな視線に徹は腹を立てていた。
旭川を出て、屯田兵《*とんでんへい》が開拓したという永山村に入ると、稲田の深いみどりが美しかった。徹らしい慎重な運転だった。
「おにいさん、上手なのね」
陽子はチョコレートを割ってそのひときれを徹の口に入れてやった。
「札幌ではいつも友だちの車に乗っているからね」
徹はうれしそうにいった。
陽子はこのごろの徹には変に気重なものがなくなり、兄らしくて好きだった。
「まあ、きれいな川。これがほんとうの石狩川の姿なのね」
広い川床に、夏の陽を乱射しながら流れる水は澄んで底がすいて見える。
「そうさ。ぼくらは工場の廃液の酸っぱいにおいのする、あのまっくろな川が石狩川だと思って育ったろう? 昔はあの石狩川に鮭がうようよのぼったんだってさ」
「川って公のものでしょう? 一つの会社のために、魚も人も泳げないようなものになってもいいのかしら。下流の漁師の人たちの生活を侵害してもいいのかしら」
陽子はめずらしく怒ったようにいった。
「うん。だがね、あれでもだいぶきれいになったんだそうだよ。会社もかなり努力はしているんだということだがね」
大雪山の連峰がくっきりと大きく迫ってきた。車は上川の町を過ぎ、次第に山峡の中に入って行った。巨人が大きなのみで削ったような岩壁が続く。車はようやく層雲峡についた。
夕食を終わると、徹と陽子は火まつりを見に宿を出た。既に日は暮れて道は暗い。宿から少し離れたバスターミナルの舞台には祭壇がしつらえてあって、その回りには何千人もの観光客がひしめいていた。祭壇には鮭や大根やきゅうり、なすをはじめ沢山の供物が飾られ、その横に三メートルほどの聖火台があって時折り火の粉を散らしている。
陽子は徹の浴衣の袖につかまりながら、人ごみの中に入って行った。二人は聖火の近くによった。火のほてりが熱いので人々は、その近くにはいなかった。
祭壇の前の舞台には美しいししゅうのアツシを着たアイヌの女性たちが輪になって、手をたたきながらかけ声をかけている。単調なふしのかけ声はどうやら素朴なアイヌの歌らしかった。かけ声だけのその素朴な歌に次第に熱気がはらんで、輪になって踊るアイヌの女性たちの深々とした黒いまつ毛が美しかった。
「ねえ、おにいさん」
陽子がそっと徹の耳にささやいた。
「なあに?」
「帰りましょうか」
「どうして? 気分が悪いの?」
おどろいて徹は陽子の顔を見た。その時、踊りが終わって人々がどっと川の方におしよせた。
「気分は悪くないけれど……」
三人のアイヌの女性が、聖火からうつした火の矢を弓につがえた。弓はたちまち炎となった。一人の娘はこわごわ矢をつがえている。と、引きしぼられた弓から炎の矢が川に向かって放たれた。ワッと喚声が上がった。次の瞬間、川の中に蛇のように火が走り、川向こうにも火が走った。仕かけられた花火が「峡谷火まつり」の字の形に燃えた。再び喚声が上がった。
「陽子帰る?」
徹がきいた。
「いいわ、もう。きれいな花火だわ」
陽子が明るく答えた。陽子は、アイヌを見せ物にすることに強い抵抗を感じたのである。
続けざまに大きなスターマインが上がった。川水に花火が映って美しかった。花火が大きく夜空に広がると、暗やみの中からおし出されるように、そそり立った岩壁がスーッと姿をあらわす。花火が消えると、岩も姿を消した。それに気づくと陽子は花火が上がるたびに、岩肌のあらわな山のあらわれるあたりを見つめた。その暗くがっしりとした岩は、花火と対照的な美しさだった。闇の中から現れ闇に消える岩は、地球が大きく息づいているような不気味さがあった。不気味ではあったが、心に迫る美しさでもあった。
陽子はいつしか徹の肩に頭をよせていた。
「岩が生きているみたい」
「岩が?」
徹は両腕を胸に組んだまま陽子を見た。
花火にうつる陽子の顔が美しいと徹は思った。花火が上がるたびにヒューンと金属性の音をたてた。
「まるで焼夷弾の音みたいだ。戦争を思い出すな」
傍らにいた五十近い男が吐き出すようにいって、離れていった。思わず徹と陽子がそのうしろ姿を見送ると、男は松葉ヅエをついていた。戦争を知らない陽子は、その時生まれてはじめて戦争の、いいようもない恐ろしさを肌にじかに感じた思いがした。
宿に帰ると蒲団が敷いてあった。
「山あいの花火ってすごく迫力があるわね」
「うん。音がこだまするからね」
徹は陽子と一つ部屋に寝ることが急に恐ろしくなった。
「陽子、風呂に入ってくるといいよ」
「そうね。おにいさんはもう入らないの」
「二度も入らなくてもいいよ」
陽子が出ていくと、徹は蒲団の中にもぐりこんだ。陽子が帰ってこないうちに、ねむってしまいたかった。体がこきざみにふるえている。そんな自分が徹には腹だたしかった。夏枝の不安そうなまなざしを思い出した。
(ばかな! 陽子は妹なんだ!)
徹は夏枝に反発するように心の中で叫んだ。こんなに動揺するようでは、陽子の幸福をねがって一生よい兄で過ごすことができるかどうかと不安だった。
(陽子は北原のものだ)
徹は無理にもそう思いこもうとした。将来、陽子と北原邦雄が結ばれるかどうかわからない。だがとにかく他の男と結婚する陽子なのだと徹は思いたかった。
ふすまがあいて陽子が入ってきた。
「いいお湯だったわ」
陽子は自分の蒲団の上にすわって、徹を見た。
「うん」
たんがのどにからんだようで声にならなかった。
陽子は水さしから水をコップに注いで飲もうとしたが、徹にいった。
「おにいさん、お水ほしい?」
「ああ」
徹は手をのばした。冷えた水をのむと少し心が落ち着いた。
「陽子は生まれた時から、大きな赤ちゃんだっただけあって、今もなかなか大きいね」
徹はそういってほっとした。陽子の生まれた時を知っているかのように、徹はふるまいたかった。そうすることによって、自分と陽子は血のつながっているきょうだいだとはっきり自分にいいきかせたかった。
陽子はだまって自分の蒲団の中にすべりこんだ。
「陽子はやっぱりおふくろに似ているね。おふくろの方のおばあさんに似ているね」
徹は若くて死んだ夏枝の母親を知らなかった。色あせた写真で見たことがあるだけであった。
「そう?」
陽子がつぶやくようにいった。
「ぼくは、陽子のまくらもとでいつまでも陽子を見ていたもんだよ。頭をなでようとしたら、生まれたばかりの赤ちゃんは頭がやわらかいからさわるなってしかられたものだよ」
陽子はだまって天井を見つめていた。
「そしてね……」
「いいのよ、おにいさん。そんなお話をしなくても」
陽子は蒲団の上に起き上がった。
「知っているのよ。わたしがもらわれてきたっていうこと」
陽子の言葉に徹は思わずはね起きた。
陽子は大人っぽい微笑を見せて、しずかに徹を見た。
(知っていたのか!)
「いつから?」
徹の声が少しふるえた。
「小学校の四年生の冬よ。ひどい吹雪の日だったわ」
「そんなに早くから?」
徹はふたたびおどろいた。
そんなに小さい時から、生《な》さぬ仲と知っていて、どうして素直に明るく生きてくることができたのかと思うと、よく知っているつもりの陽子が、突然全く未知の女性のようになぞにつつまれて見えた。全く、何と陽子の表情には暗い影がないことだろう。自分よりも陽子のほうが明るいということが徹にはふしぎだった。
「だれに聞いたの?」
「よその人がいっていたの」
陽子は牛乳屋の夫婦を思いうかべた。
「そしてだれかにそのことを話した?」
「話さなかったわ」
小学生のころから、陽子はその秘密をひとり胸のなかにたたみこんできたのかと思うと、徹は憐れというよりも恐ろしくさえなった。
「そのことを聞いて、陽子は本当だと思ったの? おどろいただろう?」
「ううん。それがそれほどびっくりしなかったの。何となく子供心に感じていたのかしら。もっと小さいか、もっと大きくなっていたら、感じ方はちがっていたかも知れないけれど……。それは少しは淋しかったわ。でも、あまりひどいショックは受けなかったの」
「そんなものかなあ。それにしても、陽子はよくひねくれずに育ったものだなあ」
徹はつくづくと陽子の顔を見た。
「でもね、そこがわたしのひねくれたところかも知れないわ。本当のおかあさんに会ってほめられるようないい子になろうと、はじめは一所懸命だったのよ。中学に入ってからは、よく新聞で非行少年とか少女とかって記事が出ているでしょ。両親がいないからとか、片親だから、継母だからとかって、ひねくれている人間がザラにいるでしょ? でも、わたしはね。そんなザラにいる人間の仲間入りをしたくないっていう生意気さがあったの。自分が悪くなったのを人のせいにするなんていやだったの。自分が悪くなるのは自分のせいよ。それは環境ということもたしかに大事だけれど、根本的にいえば、自分に責任があると思うの。
陽子ね。石にかじりついてもひねくれるものかというきかなさがあるの。層雲峡に来る時、石狩川の上流がきれいだったわ。下流は工場の廃液で黒くよごれているけれど。あれを見ても陽子は思うのよ。わたしは川じゃない。人間なんだ。たとえ廃液のようなきたないものをかけられたって、わたしはわたし本来の姿を失わないって、そう思ってたの。こんなの、やはり素直じゃないわね、おにいさん」
陽子の声は明るかった。
*屯田兵 北海道の警備、開拓およびその家族移住奨励のために設けられた制度。明治八〜三十六年まで行われた。
赤い花
大学へ帰る徹と共に、夏枝も札幌に発った。結婚するまで札幌に育った夏枝が、久しぶりに札幌に出てみたいというのは自然だった。高木も開業して以来、「お産っていうのは、何でこう医者の休みたい時をねらってあるのかね」と嘆くほど、土曜日曜もない忙しさで、旭川を訪れることは絶えてなくなった。だから夏枝が高木を訪問するということも、立派に札幌に出る口実になった。
だが実は夏枝は北原に会いたかったのである。北原が夏枝に見せた優しさに、夏枝は自分の美しさと若さへの大きな自信を取りもどした。いま、夏枝はふたたびそれを確かめたかった。
「おかあさんがいらっしゃらないんだから、お気の毒よ」
夏枝はそういって、北原の寝巻や靴下も買いととのえて札幌に発ったのだった。
日帰りだといって出かけた夏枝は、八時を過ぎても帰らない。このごろ早く帰る啓造も、どうしたわけかまだ病院から帰っていない。
十八ヘクタール以上もある林の静けさが、林のそばの家の中にも満ち満ちて、しんとしている。何の音もしないと、自分の存在さえ不気味に思えた。元気な陽子も、さすがに啓造の帰りが待たれた。
テレビのスイッチを入れるのも妙に不気味だった。テレビの中の人物がすっと画面から抜け出てきそうな感じがする。しっかりしているようでも陽子も高校一年の少女にすぎなかった。読みかけのカミュの「ペスト」にやっと気が乗りかけた時、電話のベルが鳴った。
「もしもし、陽子ちゃん」
夏枝の声だった。
「お留守番ごくろうさま。おとうさんはいらっしゃらない?」
うきうきした声である。
「ああ、おかあさん。おとうさんはまだお帰りにならないの」
「あら、それでは、あしたの晩には帰りますからってお伝えしてね。いま高木さんの所にお邪魔しているのよ」
「もしもし、陽子」
ふいに徹の声がした。電話で聞くと啓造の声にそっくりだった。
「おにいさんもごいっしょなの?」
「うん。……」
徹は何を話してよいかわからない様子で、
「……元気でな」
といった。ついで、高木の大きな声が耳をうった。
「陽子くん。大きくなったか。うんとグラマーになれよ。しばらく会わんとまだ小学生のような気がするな。こんど陽子くんも札幌に来いよ。小父さん毎日赤ん坊をこの世に迎えるのに忙しくてな。何がほしい。小父さん少し金持ちになったからな。おとうさんはまだ帰らないのか」
いいたいことをいって急に高木は声をおとした。
「出るぞ。出るぞ。うらめしや!」
「いやよ。小父さん」
陽子の言葉に高木の大きく笑う声がした。
高木のにぎやかな電話が切れると、一層家の中が静かになった。啓造は十時をすぎてやっと帰ってきた。
「やっぱり、陽子一人だったのか。それは淋しかったろう」
啓造は浴衣に着かえながらいった。
「もしかしたら、おかあさんは帰らないかも知れないとも思って、早く帰りたかったんだがね」
啓造は疲れた顔をしていた。
「お食事は?」
「そうだな。あまりほしくもない。牛乳があったら、ビスケットでも食べようか」
「ビスケット?」
「うん。そんなものでいいよ」
啓造は何か考えているふうだったが、
「実はね、患者が自殺したんだ。それで家へ電話するひまもなかったんだが……」
「まあ、自殺? 病気が悪かったのかしら」
「いや、それが明日退院の予定のクランケ(患者)なんだ。医者になって二十年にもなるが、退院を前に自殺されたのは初めてだったよ」
啓造はビスケットを一つ口に入れた。
「まあ、病気が治って自殺なんて……」
その通りだった。
患者は二十八歳の青年である。病気はかるい肺結核で空洞もなかった。銀行員で復職も決定していた。父母は健在。兄と弟との三人きょうだいで、父は小学校の校長である。何の問題もない環境であった。
本人は五《*》尺五寸、やや痩型だがひよわい印象はなかった。療養態度もまじめで、軽症患者にありがちな、無断外泊や飲酒もなかった。
啓造は、夏枝が帰るかどうかわからないから、陽子一人留守番をさせるのもかわいそうで、早く帰ろうと思っていた。白衣を脱ぎかけているところに、院内電話がけたたましく鳴った。また急患か、あるいは往診かと思いながら受話器をとると、結核病棟の婦長越智和江の声がとびこんで来た。
「院長先生ですね。二号室の正木さんが、いま屋上から飛び降りて……」
「何? 正木って、正木次郎か」
「はい、正木次郎さんです」
「あす退院する正木か? まちがいないね」
「まちがいありません」
啓造は脱ぎかけた白衣に手を通して院長室を飛び出した。即死だった。
啓造は正木の死に思い当たることがないではなかった。正木は病状が快方に向かうにつれて無口になっていった。復職が決定しても、退院の日が決まっても、何となく浮かない顔で、ぼんやりとしているようであった。
あるいは好きな看護婦でもできて、退院するのが淋しいのかと、啓造は正木を院長室に呼んだ。一週間前のことである。
もし正木に好きな女性がいれば、一年後には結婚してもいい、と啓造は告げてやりたかった。院長室に入って来た正木には生気がなかった。
「何だか少し元気がないようだね。どこか悪いのかね」
「どこも悪くありません」
「気がふさいでいるようだね」
「つまらないんです。何もかも」
「どうして? 失恋でもしたのかね」
啓造の言葉に正木はニヤッと笑った。思わず啓造はヒヤリとした。冷たい笑いであった。
「失恋なら、まだいいんです。ぼくは自分が何のために生きているのかわからなくなりました」
「何をいってるんだね。病気は完全治癒だし、職場にはもどれるし、これからじゃないのかね」
「いいえ、先生。病気の間は治すという目的がありました。しかし治ったら一体何をしたらいいんですか」
正木は絶望的なまなざしをした。
「何をって、仕事が待っているじゃないか」
「仕事って、先生何ですか。ぼくは六年もの間、そろばんをはじいたり、金を数えたりして働いてきました。しかしそんなことは機械にだってできることじゃありませんか。ぼくはこのごろゆううつで仕方がないんです。こうして自分が二年間休んだって、銀行はちっとも困りませんでした。そればかりじゃなく、ぼくの休んでいる間に市内にだけでも支店が二つもふえて繁盛しているんですからね。ぼくが休もうが休むまいが同じなんですよ。つまりぼくの存在価値はゼロなんです。そんな自分が職場に帰って何の喜びがあるものですか」
啓造はその時、ぜいたくな言い分だと思って、笑ってとり合わなかった。その正木が今日自殺したのである。
名あてのない遺書には、
「結局人間は死ぬものなのだ。正木次郎をどうしても必要だといってくれる世界はどこにもないのに、うろうろ生きていくのは恥辱だ」
と書いてあった。
啓造の話を、陽子は幾度もうなずきながら聞いていた。
(結局は、その人もかけがえのない存在になりたかったのだわ。もし、その人をだれかが真剣に愛していてくれたなら、その人は死んだろうか)
陽子はその人の死が、人ごとに思われなかった。
「おとうさんはね、つくづくと考えちゃったよ」
啓造はソファに横になりながらいった。
「おとうさんは正木君の病気を治すことはできたが、生きる力を与えることはできないと思ったよ。正木君は魂が病んでいたんだ。ところがおとうさんは肉体の病気には細心の注意を払っても、心の病気には無関心だったのだね」
啓造は淋しい表情で陽子をみた。
「だが、よく考えてみると、たとえ正木君の心の病気におとうさんが気づいても、咳に咳どめ、結核にマイシンのような、ドンピシャリの処方は、心の病気にはないと思うんだよ」
啓造は陽子がじっと自分の話に聞きいっている様子に心をとめてはいなかった。陽子に心をとめるには、あまりに啓造自身が正木の死によって受けた衝撃が大きかった。
啓造はいま、自分も一体何のために生きているのだろうかと思っていた。医師を男子一生の仕事としていることを悔いたことはない。むしろ誇りですらあった。しかし、よく考えてみると、この自分がこの世に生まれて医師にならねば、世の人々が必ずしも困るというわけでない。自分がいま突然死んだとしても、また、病院が閉鎖されたとしても、患者たちは他の病院にかかればよい。
病気を治すという仕事に啓造は大きな喜びと使命感を持っていた。しかし啓造でなければ治せないという病気はないはずである。いつのまにか啓造もまたむなしい思いに陥っていった。それは全治した正木に生きる力を与えることができなかったための絶望感でもあった。
自分の考えの中にひたっていた啓造は、ふと気づいて陽子を見ると、陽子の輝く目が啓造を見上げていた。
「おとうさん。わたしも正木さんって方の気持ちがよくわかるような気がするわ」
「ほう、わかるかね」
「ええ、わたしも自分がこの世でかけがえのない存在だということが、よくわからないの。本当はどんな人間だってみんな一人一人かけがえのない存在であるはずなのに、実感としてはよくわからないの。だれかが心から陽子はかけがえのない存在だよといってくれたらわかるかも知れないけれど……。正木さんって方も、だれかに強く愛されていたら、死ななかったと思うの」
陽子は自分の言葉にパッとほおをあからめた。愛という言葉は面はゆい言葉であった。陽子は生まれてはじめて、人の前で愛という言葉を使ったのであった。
陽子の言葉に啓造は胸をつかれた。
「だれかが心から、陽子はかけがえのない存在だよといってくれたら……」
という言葉に、啓造は愛に飢えている陽子の孤独を感じた。
(おれも夏枝も、陽子が高校を出て、一日も早く結婚する年齢になってほしいとねがっている。早くこの家を離れてほしいとねがっている)
啓造はしみじみと陽子があわれであった。
「おや、もう十一時だ。おやすみ」
啓造はさりげなくそういいながら、あすは陽子を連れて、どこかにドライブに行ってやろうと思っていた。庭に虫の声がしていた。
「ここがアイヌの墓地だよ。旭川に住んでいる以上、一度は陽子にも見せたかったのだがね」
丘の上で車をとめて、降りたつと、そこはただの松の林のようであった。火山灰地の道に啓造と陽子の靴がたちまちよごれた。
「まあ」
一歩、墓地の中に足を踏み入れた陽子は、思わず、声をあげた。
墓地とはいっても、和人のそれのように『何々家』と境をしたものではなく、エンジュの木で造った墓標がつつましくひっそりと、並んでいるだけであった。それはいかにも死者がねむっている静かな感じだった。死んでまで、貧富の差がはっきりしている和人の墓地のような傲岸《ごうがん》な墓はない。
「まあ、何てよい墓地なんでしょう」
陽子は啓造を見上げた。
「このごろはここにも石の墓が入ってきたがね。いいだろう? この世の富にも地位にもすべて縁を切ったつつましさがいいだろう?」
「本当ね、おとうさん。このキネ型と、とがったペーパーナイフのような型とどうちがうのかしら」
陽子は、小さなキネ型の墓標の前に立った。
「テキシラン」という名が刻まれている。
「ああ、それは女だよ。とがっている方が男だよ。この木は百年はくさらないものだそうだがね」
クローバーが一面に生えていて、一升ビンが一本ゴロリと墓標の前に転がっていた。破れた新聞紙の上にくさったリンゴが一つ、その横にアワかヒエのようなごはんが供えられていた。
「もとアイヌの人たちは、一度死人を葬るとその墓には近づかなかったらしいがね。和人のお盆の墓参りの風習が、アイヌの人たちにも入って行ったのだろうね」
啓造は陽子をやさしくかえりみた。
「おとうさんのあとをついておいでよ。ここは土葬で、あまり深く掘ってないそうだからね。おまけに学生たちが副葬の飾太刀や飾玉を考古学の参考にとかいって、荒らしに来ているということだからね」
「ひどいわ!」
陽子が悲しそうに叫んだ。
「わたしね、おとうさん。今この死んだアイヌの人たちの一生はどうだったろうと思っていたのよ。みんな決して幸せじゃなかったと思うの。きっとアイヌであるというだけで、和人のために小さな時から悲しい思いをさせられたと思うの。それなのに、死んでまで墓を荒らされるなんて、ひどいわ」
陽子の言葉に啓造はうなずきながら「明治二十八年生れ」と書かれた墓標をながめた。この人も辛い目にあって死んだのではなかろうかと啓造は思った。
「いま、ここにねむっている人たちが何をいいたいか、わかるような気がするね」
明治三十八年には一万坪だったアイヌ墓地が、今は九百五十坪に減らされたということだけでも、アイヌの人たちに気の毒なことだと啓造は思った。
(昨日の今ごろは、正木はまだ生きていたのだ)
啓造はふいに正木の死に顔を思い浮かべた。
正木は唇をゆがめ、顔全体をゆがめて苦しそうな死に顔だった。今にもうめきが唇からもれそうな顔だった。未来永劫苦しみ続けるように見えた。
九月の陽の下に旭川の街がうす青く煙って見える。啓造と陽子は並んでじっと丘の下の街をながめていた。
(死は解決だろうか――)
正木が自殺しても、彼がいうところの、個人の存在価値はこの世において無に等しいと感じさせることの解決にはならない。社会が複雑になればなるほど、個人の人格も価値も無視される。その人間でなければならない分野はせばめられて行くだけなのだ。
(死は解決ではなく、問題提起といえるかも知れない。特に自殺はそういうことになる)
啓造は墓標にとまっている赤トンボを見た。トンボのうすい翅《はね》が陽に輝きながら、じっと動かない。
(命をかけて問題提起をしたところで、周囲の人々も、社会もそれに答えることは少ないのだ)
啓造は人間というものが、ひどく冷たく、そして愚かに思われた。
「陽子」
陽子はじっと旭川の街をながめていた。
「なあに」
「この街の人々に公平に与えられているものが一つあるよ。何だと思う」
「陽の光?」
「陽の当たらない場所に住んでいる人もいるよ」
「じゃ一日の長さ? だれにもみんな二十四時間よ。一日は」
「なるほどね。おとうさんはいま、こう思っていたのだ。貧しい人にも金持ちにも、健康人にも病人にも、死だけはまちがいなく公平に与えられているとね」
「本当ね。わたしも死ぬのね、いつか。でもわたしはいま街を見ながら、あの沢山の屋根の下にいる人はみな何か働いて生きているんだわ、たくましいなと思っていたのよ」
陽子は死よりも働いて生きて行くことに心ひかれる年代であることに気づいて、啓造はうなずいた。だが、この陽の下の旭川の街を見て、美しいと感ずるはずの年ごろの陽子が、働くエネルギーに、より心ひかれていることが、啓造を不安にした。陽子が就職組に入っているといった辰子の言葉を啓造は思い出した。
(陽子は自分の出生に気づいているのだろうか)
何百メートルか先に、和人の墓原が白く輝いて見える。
(とにかく人はみんな死ぬのだ。一度しか生きることのない人生なのだ。二度とやり直しがきかないのだ)
啓造は自分の生きてきた道をかえりみて、ひどくむなしかった。何をめあてに生きてきたのかわからなかった。
(人間は何を目標として生きるべきなのだろう。おれには社会的な地位も、一応の財産も、美貌の妻もある。しかしそれらは必ずしもおれを幸福にはしなかった)
啓造は足もとに咲く小さい赤い花をじっと見ていた。
辰子が陽子をもらいたいといったことを、夏枝にいおうか、いうまいかと啓造は思いあぐんでいた。そのことを辰子が夏枝に直接いいださないのは、啓造の判断で夏枝にいうようにというはからいであろうと思った。
「辰ちゃんが陽子をもらいたいなんていっていたよ」
と気がるに話を出してもいいと啓造は考えた。だが、夏枝は夏枝でそれをどのように受けるか、はかりかねた。
「まあ、辰子さんたら、そんな大事なことを二人のいるところで話さないで、ひどい方」
と、いうかも知れない。
「変ですわ。どうしてそんなことをいいだすのでしょう。あなたから頼んだのじゃございません? わたしがあの子を育てる育て方が、あなたにはお気に入りませんの」
そういわれるような気もする。
「あなたは陽子をそんなに幸福にしたいんですの? そんなにあの子がかわいいんですの」
と、からまれるようにも思えた。
だが、啓造がそのことをいいだし得ないのは、ありていにいえばもっと別の理由からであった。もしか夏枝が辰子の言葉に応じて、陽子をやってしまいはしないかとおそれていたのである。この家に陽子の姿を見ることができないと考えるだけで、啓造はさびしかった。
書斎のペン皿の鉛筆がいつもきれいにけずられてある。陽子の仕事であった。それひとつを見ても、啓造は娘というもののやさしさを感じた。
二、三年前から毎朝、洗面所に行くと、すぐに陽子がついてきて、歯ブラシに歯みがきをつけてくれた。それは妻の夏枝から一度も示されたことのない心づかいであった。啓造は時々、陽子の夫になる男は、毎朝こうしてやさしくしてもらえるのだと想像することがあった。
病院から疲れて帰ってきても、陽子の明るい笑顔に啓造は慰められた。徹さえ、一生陽子を妹としていてくれるならば、陽子をだれにもやりたくはない。
「汝の敵を愛せよ」
という言葉を啓造はふっと思い出した。久しく忘れていた言葉である。
(この言葉を自分の一生の課題としようなどと気負ったこともあった。そしていつのまにか言葉さえ忘れ去り、いまのおれには、陽子が佐石の子だと思うことさえ少なくなった。徹のことがなければ、すっかり忘れているかも知れない)
このごろ、啓造は「時がすべてを解決する」という言葉を思い出すことがある。
(今の陽子に対するこの愛情は、時が与えたものではないか。すると、それはおれの人格とは何のかかわりもなしに与えられたものなのだ)
時が解決するものは、本当の解決にはならないと啓造は思った。
とにかく、啓造は陽子を手放したくなくなった。辰子の言葉を夏枝に伝えようと思いながらも、ぐすぐずとしてその年もいつか過ぎていった。
*五尺五寸 ともに尺貫法の長さの単位。尺は約三〇・三センチ。寸は尺の十分の一。
雪の香り
新しい年が明けた。
ひるすぎになって、辻口家に年賀状の束が投げこまれた。
「郵便!」
という声に、陽子は玄関に飛んで行った。陽子は待っていたのである。この日こそは、北原邦雄の年賀状がくるにちがいないと思っていた。
北原は、
「手紙をさしあげてもいいですか」
と陽子にいった。そして旅先から一度手紙がきたが、北原の手紙は夏枝の手に渡ったまま、返ってこなかった。そのために何となく陽子は返事を書きそびれた。札幌に帰ってから北原がふたたび手紙をくれるだろうと心待ちにしていたが、とうとう手紙はこなかった。陽子は自分が返事を書かなかったから手紙をくれないのかと思いながらも、北原の手紙を待っていた。だが遂に手紙がこないままに年が明けたのである。
年賀状ぐらいはくれるかも知れないという期待があった。そして陽子も暮れのうちに、北原あてに年賀状を書いた。
〈あけましておめでとうございます。
昨年はお便りをいただきましたのに、お返事も差しあげないでごめんなさい。あのお便りの消してあった所には、何が書かれてあったのでしょうか〉
平凡すぎる文面だと思ったが、その方がいいように思って、陽子は雪の中を大通りのポストまで出しに行ったのである。
いまごろ、北原が読んでいるかも知れないと思うだけで何か楽しく思いながら、陽子は年賀状の束をほどいた。ねころんでテレビを見ていた徹が、
「どれ、ぼくにも二、三枚はきているだろう」
と束の半分をとって、よりわけてくれた。大方は啓造あてで患者からの年賀状が多かった。夏枝と啓造は午前中から、客間で年始客の接待をしていた。
陽子あての年賀状も多かった。同級生や、中には陽子の知らない上級生からのものもあった。
「へえ、陽子も名士級だね。なかなか多いじゃないか」
中には男生徒からの年賀状もあるのを見て、徹がひやかした。
陽子は男文字の度に北原邦雄からではないかと胸をおどらせた。だが北原のハガキはなかなか出てこない。
(北原さんは、もう、わたしのことを忘れたのかしら)
陽子は残り少なになったハガキを一枚一枚たんねんによりわけた。
(今日年賀状がこなければ、縁がないということかも知れない)
そんなかけめいた思いもあった。
「何だ、あいつ九州に行っていたのか」
「うん、これはいい版画だ。ねえ、陽子」
などと、一枚ごとにゆっくりとながめているので、徹のよりわけるのは遅かった。
北原の年賀状は遂にないと思ったその時、北原邦雄の名前が、陽子の目にとびこんできた。陽子の顔が輝いた。なぜこんなにもうれしいのか、陽子自身にもふしぎであった。恥ずかしいほどうれしかった。だがよく見ると喜ぶのは少し早かった。あて名は夏枝と徹である。陽子はしかし落胆しなかった。徹の手もとには、まだ三十枚ほど残っているからである。夏枝と徹にきている以上、自分にもきていると陽子は思った。しかし、とうとう陽子の期待ははずれてしまった。陽子はあきらめきれない思いで、ふたたび二百枚ほどの年賀状を全部しらべなおした。やはり北原のハガキは一枚しかきていない。
(どうして、こんなに北原さんの年賀状を待っているのかしら)
北原はわずか一週間滞在した徹の友人ではないかと陽子は思った。
(わたしは北原さんの友人の妹にすぎないんだわ。わたしは友人ではないんだわ。忘れられても仕方がないけれど……)
しかし陽子は忘れることができなかった。どこにひかれているのか陽子自身もよくはわからない。
陽子は夏枝と徹にあてた北原の年賀状を手にとった。
「賀正」と書いた横に「昨年はお世話さまになりました」と書いてあるだけである。
陽子は自分にきた五十枚ほどの年賀状をかかえて立ちあがった。
「陽子、初すべりに出かけようか」
年賀状を見ていた徹が顔をあげた。
「そうねえ」
陽子は珍しく気重そうに答えた。
グレーのスラックスにピンクのセーターがよく似合うと、徹はねそべったまま陽子を見上げた。
「どうした? 元気がないじゃないか。元旦に伊の沢ですべらないと、どうも元旦の気がしないよ」
二人は小学校のころから、元旦には川向こうのスキー場に行っていたのである。だが今年の陽子はスキーには何の興味もなくなっていた。
「行きましょうか」
徹の誘いをことわるのは気の毒だと陽子は思った。
二人はスキーをはいて、林の中に入って行った。運動神経は陽子の方がすぐれている。しかし徹もスキーは上手だった。二人はたくみに林の中を通りぬけ、堤防づたいにスキーを走らせた。粉雪がチラチラとしていて寒い日である。川風がほおを刺したが、スキーに乗っていると体があたたかい。
「冬の川って好きよ」
陽子がストックを雪ふかくさして、立ちどまった。
氷と雪におおわれた川は、川幅がせまい。純白の雪の中を流れる冬の川は、くろく、しっとりと落ちついていた。
「おにいさん」
陽子は徹をふりかえった。
「なあに? 陽子」
徹は陽子の顔がひどく淋しそうなのに、おどろいた。
「雪って清らかね。おにいさん」
「ああ……」
「だけど、香りがないのね」
「こんなに一面つもっている雪に香りがあったら大変だよ、陽子」
徹が笑った。つられて陽子も笑った。
本当は陽子は北原から年賀状がこないことを徹に告げたかった。二人は再びスキーを走らせた。
元旦のスキー場はほとんど人影がなかった。いつもの赤や黄やみどりの花を散らしたような、派手なスキー服でにぎわっている山とは、全く別の山のように静かだった。
山の上までのぼりつめると、徹と陽子は顔を見合わせた。
「やっぱり、ここに立たないと元旦の気分がしないだろう?」
「ほんとうね。毎年の習慣って恐ろしいものね。お雑煮をたべないと元旦の気分にならないのと同じね」
静かだった。何の物音もない。チラチラと粉雪が降っているばかりだ。旭川の街も降る雪にけむって見えない。
「北原から年賀状がきた?」
徹がさりげなくたずねた。陽子はじっと街の方を見おろしたまま、頭を横にふった。
(どうして、年賀状もくださらないのかしら?)
陽子は力いっぱいにストックをついて、徹の傍をはなれた。徹は陽子のたくみな滑降をみつめながら、
(そうか、北原とはやっぱり文通もしていないのか)
と、いくぶんほっとした。寮で同じ部屋の北原が、陽子のことを話しすることはなかった。陽子から手紙のきている様子もない。はじめは北原を陽子に近づけようとせっかちになった徹だった。
しかし層雲峡に花火を見に行った夜、徹は陽子が自分自身をよそからもらわれたと知っていることをきいた。それ以来、徹の心はまたゆらぎはじめた。既に陽子が徹を本当の兄でないと知っているのなら、徹との結婚の話を持ちだしても不自然ではないような気がした。
陽子の出生の秘密がもれるようには思えなかった。万一、何かのことで陽子がそのことを知ったとしても、何の証拠もないことだから、
「陽子がそんな犯人の娘なら、どうしてぼくが結婚なんかするものか」
と、いってやれるような気がした。とにかく徹は、やはり陽子を幸福にできるのは、この世で自分一人のように思っていた。
いま北原から年賀状もこないときいて、急に徹は体の中に力が満ちあふれるようであった。
ふもとに小さく見える陽子をめがけて、徹は元気よく滑りはじめた。風を切って山をすべると、降る雪が顔につきささるように痛いのも、むしろ徹にはこころよかった。
降りてくる徹を見て、陽子は急いで左手の山を登りはじめた。
「北原から年賀状がきた?」
と、徹にいわれた途端、いいようもない淋しさに襲われて、陽子は山を降りながら涙がこぼれた。その涙にうるんだ目を徹に見られたくはなかった。
しかし徹は逃げる陽子をめがけて滑ってくる。陽子は逃げ場を失って、さらさらと乾いた雪の中に横になって、顔を埋めた。
「どうしたの、陽子」
黒い雪めがねが、徹の顔をきりりと見せた。
「ううん。何でもないの」
雪だらけになった顔を陽子は徹に向けた。徹もそばに腰をおろした。
「こうやって、雪の中にねころんだまま、降ってくる雪を見たものだったなあ、子供の時は」
「ほんとうね」
ふんわりと積もっている雪に身を埋めて、降る雪を見るのは楽しかった。灰色の空から降ってくるようには見えなかった。雪はふいに空中で湧いてくるように見えた。口をあけて待っているのに、ふしぎに雪は口の中に入らずに、すぐ目の前まで降ってきては、ひらりと逃げて行くようだった。
「ね、小さい時と同じだわ。こうやって仰向けになって見ていると、何だか空の中に吸われて行くみたい」
「うん」
徹も仰向けになったまま、陽子と並んで空を見ていた。
「陽子知っているか。二年生ぐらいの時、雪ってどうして白いの? わたしが神さまなら日曜に降る雪は白、月曜日は黄、火曜日は赤って決めるのにっていっていたこと」
「そんなことをいってたの」
「そうさ。それから雪女郎の話をしてやったら、雪女郎は雪のおふとんでねるの? っていっていたよ」
「小さなころは雪女郎って本当におそろしかったわ、わたし。軒のつららが月の光で青く光ると、何だか雪女郎が氷の中から生まれるような気がしたりして……」
小学生のころの話をしていると、徹も陽子も楽しかった。兄妹として仲よく育った二人には、共通の思い出がいくつかあった。
(こんな二人が夫婦となるのは、すばらしいことじゃないか)
そう思った時、陽子が雪を払っていった。
「さあ、今日は暗くなるまで滑りましょうよ」
「ああ」
徹も雪を払った。もっとゆっくり話をしていたいような気がした。しかし冷たい雪の上では、これ以上横になっていることはできない。
雲のきれ目から青空がのぞいていた。徹はカンダハーを締めると、陽子の先に立って山を登りはじめた。
正月の七日もすぎた。その日は空気も凍るような寒さで、二重窓の外窓がまっ白く凍りついていた。去年こわれたペチカの傍らに石炭ストーブが燃えている。
「冬休みというのは、やはり必要だね。こうして暖まっていても背中の方が寒いんだからなあ」
徹がそういいながら背中をストーブに向けた。
「そうよ。今日あたり小学生が学校に行ったら大変でしょうね。旭川の冬休みは二十五日までですけれど、二月一杯はどうしても寒いわねえ」
夏枝はグレーの毛糸で、啓造の靴下を編んでいる。啓造はひざまでくる夏枝の手編みの靴下以外、冬は、はかない。
「おとうさんが小学校のころは、零下二十度になるとドンと花火があがって十時はじまりになったんですってね。今は六時のニュースで、わかるけれど」
陽子は押し花を額に入れ終わった。夏の間に作っておいた押し花を、絵のように布や紙に貼りつける。陽子の押し花は、ほとんど色が失せず、鮮やかだったから、額の中に花が咲き出しているようにみずみずしい。寒さのきびしい北国では、生け花の水も凍るほどだから、陽子の色鮮やかな押し花は喜ばれた。
「わたし、ちょっと辰子小母さんの家へ御年始に行ってきたいわ」
陽子は、できあがった額をちょっと離してながめながらいった。
辰子の家に陽子は久しく行かない。正月ぐらいは行ってみたかった。辰子のところときいて夏枝はだまっている。
「こんなに寒いのに?」
徹が窓の外をみた。
「ええ。こんな凍しばれる日なら、小母さんのところも、お客さんがいないわ」
陽子はひっそりとした辰子の茶の間を想像すると無性に行きたくなった。
「小母さんのところなら、まあ仕方がないさ」
徹は、だまって編み物をしている夏枝を見ると、そういわずにはいられなかった。
外へ出るとたちまち、まつ毛が粘り、眉も前髪も吐く息も凍りついて、みるみる白くなった。
バスの停留所で陽子は足ぶみをしながら、バスを待っていた。寒くてじっと立っていることはできない。車のクラクションが近くで鳴った。陽子は気にもとめずにバスの来る方を見ながら足ぶみをしていた。ふたたびクラクションが鳴った。何気なくふり返った陽子は、おどろいて目をみはった。
自動車をとめて、陽子を見ているのは北原だった。
「まあ、北原さん」
革のジャンパーを着た北原は無言で、うしろのドアをあけた。陽子は喜びをかくすことができなかった。
「わたしの家へ、いらっしゃるところでしたの?」
陽子の声には、なつかしさが溢れていた。北原は少し考えるようにしてから、うなずいた。
「あら、わたしの家へおよりにならないの」
車が走り出すと、陽子がおどろいた。北原の目がチラリとバックミラーの陽子を見た。久しぶりに会った喜びで、陽子は北原がまだ一言も発していないことに気づかなかった。
「どこへいらっしゃるの、北原さん」
陽子は北原の沈黙に、ようやく気づいた。陽子はかすかに不安になった。
「ね、うちへいらっしゃらない?」
「いやですね」
その時はじめて北原がいった。きっぱりとした語調だった。
「…………?」
バックミラーにうつる北原の目が、陽子を見た。
「ぼくは陽子さんにだけ会いに来たんです」
怒ったようないい方だった。陽子は思わずハッとした。体中が熱くなるようだった。
北原は四条通りのホテルの前に車をとめた。彼は夏に来た時、ここのグリルで徹と食事をしたことがあった。北原は旭川でここしか食事するところを知らない。陽子は時計を見た。十二時少し前である。
スチームが通っていて、店内はあたたかだった。二人は二階の窓ぎわに腰をおろした。泊まり客が食事をしているだけで、人はまばらだった。陽子は窓によった。
「ぼくは陽子さんにだけ会いに来たんです」
と、いった北原の言葉を胸の中でつぶやいてみた。角の薬屋の前に立っている黄色い旗が、ダラリと垂れ下がっている。寒いためか人通りも車もさすがに少なく、大きな犬がのっそりと車道を横切るのが見えた。
「陽子さん」
ふり返ると、北原が、
「何をおあがりになりますか」
とたずねた。陽子は胸がいっぱいで食欲がない。
「おなかがすきませんわ」
陽子は椅子にすわった。
「じき十二時ですよ」
北原はカレーライスを二つ注文した。それが小学生の男の子のようで陽子はふっと笑った。
「カレーライスがおかしいですか」
北原はちょっとはにかんで、
「ぼくには母がいないでしょう? ですからね、誕生日でも、おまつりでも、父の手づくりのカレーライスで育ったんですよ。だから、ぼくにとってカレーライスはやっぱり、ご馳走なんですね」
と、北原は笑った。が、北原はすぐ表情を改めて、じっと陽子をみつめた。
「陽子さん。あなたから年賀状をいただいて、ぼくは何が何だか、わからなかった」
「わからないって……何がですの」
「陽子さんという人がですよ」
「わたしが? どうしてかしら」
「だって、年賀状を下さるくらいなら、なぜ斜里からさし上げた手紙をつっ返して来たんです?」
「わたしが、あなたの手紙を?……」
陽子の顔にありありと驚きの色がみなぎった。大きな目を一層大きく見開いて、ほんとうにびっくりしたという無邪気な驚きの表情である。
(あの手紙は、おかあさんにかしたままになっている)
無邪気な驚きの表情が、かすかにかげった。
「じゃ、あなたの知らないことなんですか」
陽子のおどろきを見て北原はいった。
「…………」
(わたしが知らないといえば、おかあさんのことをいわなければならない)
陽子は困った。だがその時、北原がいった。
「どうして、あなたのおかあさんは嘘をいったんだろう」
北原は昨年の夏休みの最後の日を思いうかべた。この日のことを北原は決して忘れてはいなかった。
夏枝が札幌に来たというので、徹が寮に北原を迎えに来た。コックドールというレストランに夏枝が二人を待っていた。何という生地か北原にはわからなかったが、白地にうすいみどりの模様の着物がよく似合って、夏枝は若々しくなまめいて見えた。
大きな包みのおみやげを手渡されて驚いている北原に、夏枝はハンドバッグから白い封筒を手渡した。
「これ、陽子から、あなたにですって」
北原は思わず赤くなって受けとるのを、夏枝は婉然えんぜんと笑ってみつめた。
「陽子がお好きですの?」
「ええ、好きです」
その時、夏枝はめずらしく声高く笑っていった。
「正直でいらっしゃいますのね」
たしかその時、徹は煙草を買いに席をはずしていた。徹がいたら恥ずかしかったろうと思ったことを、北原はおぼえている。白い封筒を大事にポケットに入れて食べたその時のビフテキは、忘れられないほど、おいしかった。
北原は斜里から陽子に出した手紙への返事を待ちあぐねていた。だから、きっとその返事であろうと思って受けとった封筒の中に、自分自身の手紙を見いだした時、北原はあまりのことに呆然とした。いいようもない屈辱感にしばらくの間は徹の顔を見るのも苦痛だった。
そのくせ、北原はいつも林の中ではじめて会った時の陽子の姿を思いだしていた。
つかれたように一心に本を読みふけっている陽子の顔は、一目で北原の心をとらえた。陽子の顔には力がみなぎっていた。何ものかに精いっぱい立ち向かっている張りつめた美しさがあった。なよなよとした感じはなかった。こびもなかった。命そのものが息づいているような美しさであった。本から顔を離して、しばらくもの思いにふけっていた時の、思いつめたような燃えるような目が、何気なく北原を見た時のまなざしを、北原は決して忘れることができなかった。
「そうですか。あなたがあの手紙を返したのではないんですか。ああ、安心した。ぼくはてっきり陽子さんから手紙をつき返されたのかと思っていたんですよ。安心したら、途端におなかがペコペコだ」
北原は機嫌よく笑った。気がつくとカレーライスはすっかり冷えていた。
「わたしも、ペコペコよ」
陽子も笑った。北原は早速スプーンに山盛りすくって一口入れたが、ちょっと考える顔になった。
「陽子さんが、お返事を下されば、こんな長いこと悩まずに済んだのですよ」
「ほんとうにね。ごめんなさい」
「今朝年賀状を見て、ぼく飛んできたんですよ」
「あら、そんなに遅く?」
「郵便事情が悪いですからね。ようし、今度は遠慮しないで、じゃんじゃん書きますよ。考えてみると、ぼくも悪かった。どうして手紙を返したかと一言あなたに書けばよかったわけですからね。だけど、つき返されたショックで、そんな元気なんかなかったのは仕方ありませんよね」
「とにかく、わたしが悪いのよ。お便りいただいてお返事を書かなかったのですもの。でもわたし、何となく書けなかったの」
「仕方がない。もう許してあげます」
北原はあかるく笑った。みるみるうちに北原の皿は空になった。
「まだ足りないでしょ? わたしが何かごちそうしましょうか」
「年下の人からおごられるのは気がひけますよ」
「そのお言葉はなかなかご立派よ。女の人からとおっしゃらなかったから」
二人は顔を見合わせて笑った。何ということのない会話でも、二人には楽しかった。
「何になさる? ビフテキ?」
「ビフテキはこりごりですよ」
北原は、夏枝と一緒においしく食べたビフテキが口惜しかった。
「あら、ビフテキがおきらい?」
何も知らない陽子が驚いていった。
二人はホットケーキを頼んで、ただ顔を見合わせていた。
「北原さん」
「何です?」
「斜里からの、あのお手紙のことを伺いたいの。紙が破れるほど消してあったところがあったでしょう?」
陽子はききたいと思っていたことを口にした。
「ああ。あれね」
北原がてれたように笑った。
「何とお書きになったのか知りたいのよ」
「でも……陽子さんにしかられそうだな」
「あら、わたしが怒るようなこと? どんなことか伺いたいわ」
陽子はまっすぐに北原をみつめた。
「困ったな。実はね。あの手紙にぼくは、大いなる者の意志、ということを書いたでしょう? おぼえていますか」
「ええ、忘れませんわ」
「そのことなんです。ぼくが辻口と寮で同じ部屋になり、そしてあなたと知り合うことができたでしょう? そのことをぼくはぼくなりに考えてみたのですよ。それで、〈陽子さんと会ったことに、大いなる者の意志を感じてもいいでしょうか〉と書いたのですけれどね」
北原のまなざしがきびしいほどに、まじめだった。陽子はほおをあからめながらも、北原の視線をしっかりと受けとめた。
「……でも、どうして……消してしまったのでしょう」
思いきって陽子はたずねた。
「そんな大事な言葉を、知り合ったばかりでいうもんじゃない、軽薄だと思ったからですよ」
たしかに北原は一週間しか、辻口家に滞在していない。しかし一週間同じ屋根の下にいたということは、青年である北原と、乙女である陽子にとって決して小さなことではなかった。
「あのお手紙はどうなさったの? 持っていらっしゃる?」
「燃やしましたよ。てっきりあなたがつき返してよこしたと思って……」
「まあ、燃やしてしまったなんて、惜しいわ」
夏枝がなぜ北原に手紙を返してしまったのかと、陽子は残念でならなかった。北原もまた、夏枝のことを考えていた。
(レストランでビフテキを食べてから、辻口はどこかに用事があると別れて行ったっけ)
そして荷物をデパートの一時あずかり所にあずけて、北原と夏枝は札幌の街を歩いたのである。往き交う人々が、夏枝をふり返った。
「わたくしたちは何に見えるのでしょうね」
夏枝は北原を見上げて、ささやくようにいった。
「おばさんは若いから、親子には見えないかも知れません」
北原の言葉に、夏枝は不満そうであった。
「北原さん。おばさんとお呼びにならないで」
「ではなんといったらいいんですか。辻口君のおかあさんですか」
「まさか」
「では奥さんですか」
「いやですわ。奥さんなんて……。わたくし夏枝と申しますのよ。名前を呼んで下さらない?」
夏枝はあきらかに、自分の年齢も立場も忘れていた。夏枝は北原がよせる好意を、かんちがいしていたのである。自分の美貌が、まだ十分に二十代の男性の心をとらえ得ると思っていた。
「夏枝さんと呼ぶんですか」
北原がふしぎな顔をした。
「ええ。わたくしも邦雄さんとお呼びしますわ」
北原はむっつりとだまりこんだ。北原は夏枝の中に亡き母を見たかった。だまりこんだ北原に夏枝がいった。
「邦雄さんはわたくしがおきらい?」
「いいえ」
「お好き?」
夏枝は大胆にいった。
「好きですが、いま、少しきらいになりました」
北原は立ちどまって、夏枝を見おろした。
「まあ、どうしてでしょう」
夏枝の目の中に妖しい光があった。それは断じて母性的な光ではなかった。北原はふっと視線をはずした。
「ここにお入りにならない?」
夏枝が先に立って喫茶店に入って行った。うす暗い中で見る夏枝の顔は、一層なまめいて若々しかった。
夏枝が若く見えることは北原には無意味だった。いま、くらい茶房の中で見る夏枝には、母らしさはどこにもないと北原は思った。夏枝は自分の母と同じくらいの歳であってほしかった。水色の服を着たウエートレスが、水のコップを持ってきた。ウエートレスは好奇心をあらわにして、北原と夏枝をじろじろと見た。注文を聞いて立ち去る時も、ふり返って詮索するような表情をした。
「わたくしたち、何に見えるのでしょうか」
ふたたび夏枝はいった。夏枝の言葉に北原はきびしい語調になった。
「おばさんは、何に見えたらご満足ですか」
北原の言葉におどろいて、夏枝が顔を上げた。
「ぼくは母と子に見られたい。ぼくにほしいのは母です。小さい時から、ぼくは母がほしかった」
夏枝はうつむいたまま、コップに唇をつけていた。
「わたくしたちは何に見えるでしょうか」
と二度も繰り返した夏枝を、北原はくだらないと思った。
(恋人に見えるといったら喜ぶ人なのだ)
たしかに夏枝が四十歳を越しているとは誰も見ない。誰にも三十そこそこに見られるだろう。逆に二十三歳の北原は、二十七、八歳に見えるから、よそ目には恋人のように見えるかも知れなかった。しかし北原は夫ある女が、他の男にひかれる話は、たとえ映画でも小説でもきらいだった。それは即ち、北原自身の亡き母の神聖が犯されることだったからである。
「おばさん、失礼します。陽子さんに手紙をありがとうとお伝え下さい」
ふいに北原は立ち上がった。おどろく夏枝の顔が、うす暗い中に美しかった。
「急用を思い出したものですから……」
北原はそういって夏枝と別れたのである。
「何を考えていらっしゃるの」
陽子がいった。いつのまにかホットケーキがテーブルの上にあった。北原はバターをホットケーキの上にのせながら、陽子に微笑した。
陽子が玄関の戸を開けると、徹がとんで来た。
「陽子、辰子小母さんのところに行くといって出かけたのに、行っていなかったじゃないか」
徹はとがめるように、きびしくいった。
「あら、どうしてわかったの。おにいさん」
陽子は明るくたずねた。
「さっき辰子小母さんのところに電話をかけたんだ。今日は寒いから泊まらせて下さいって。そしたら来ていないっていうじゃないか。嘘をいうなんて陽子らしくないな」
「ごめんなさい。嘘をついたんじゃないの」
陽子は輝くように明るい顔で茶の間に入った。
「ただ今。おそくなってごめんなさい」
陽子の声に夏枝はだまって食卓の用意をしている。顔もあげない。陽子は、ちょっとその夏枝を見ていたが、明るい表情に変わりはなかった。
徹は陽子を注意ぶかく見まもっていた。辰子のところに出かけると偽って出かけたようなものが、陽子のどこにも見られない。悪びれた様子は全くなかった。むしろいつもの陽子よりずっと明るい。体の中に灯がともったように、てり輝くものがあった。
「おとうさんはまだ?」
「医師会の新年宴会だってさ」
徹は陽子が外でだれに会ったのか知りたかった。
(何かあったのだ)
それが何かを知りたかった。
「陽子、どこへ行っていたの」
「当ててごらんなさい」
「わからないから、きいてるんじゃないか」
「農協のバスのところで、お友だちに会って、それからホテルでカレーライスをいただいた……」
思い出して陽子が笑った。
「それから街の中をぐるぐる走ったり……」
「この寒いのに?」
「でも車には暖房がありますもの」
徹はじっと陽子の顔を見た。会った友だちというのは男のような気がした。
(車を運転する男の友だちが陽子にいたのだろうか)
ふっと北原の顔を思い浮かべた。北原の父は滝川で肥料会社をやっていて、車を二台持っている。
(まさか、この寒さの中を、わざわざ旭川まで自動車で来るはずはない)
陽子は北原と文通もしていない様子だった。
陽子が着更えに去ると、夏枝がいった。
「徹さん。あなた陽子ちゃんのこと、あまりかまわないといいわ」
「どうして? ただいまといってもお帰りともいわないおかあさんの真似をした方がいいんですか」
徹は思わず意地の悪い口調になった。
「まあ、ずい分ごきげんが悪いこと。でも、陽子ちゃんがかくしていることを、根ほり葉ほりたずねるよりは、知らん顔をしている方が親切なのよ」
夏枝は徹にはやさしかった。徹はだまって、読みかけの「ツアラトゥストラ」をパラパラとめくった。
「おかあさんは、陽子ちゃんがどなたにお会いしたか、わかりますよ」
徹は聞こえないふりをした。
「陽子ちゃんも高校二年生になるでしょう? もう昔ならお嫁に行くころですものね」
夏枝が何をいいたいのか、徹にもわかるような気がした。だが夏枝の心の中まで徹にはわからない。夏枝は敏感に北原と陽子のことを感じとっていた。夏枝は札幌で北原に会った時、北原の胸に陽子がすみついているのをありありと感じた。
「陽子がお好き?」
と、たずねた時、
「ええ、好きです」
と、率直に答えた北原の表情を忘れることができなかった。そして、喫茶店でふいに用事を思い出したといって中座した北原の、自分をさげすむような表情を忘れることはできなかった。
「二人は何に見えるでしょう?」
と、いった夏枝に、
「何に見えたらご満足ですか」
ともいった北原のきびしい語調を忘れることはできなかった。
夏枝にとって、北原は徹の友人ではなく異性であった。すべての異性は夏枝の美しさを讃美し、夏枝の意を迎えようとするものでなければならない。夏枝は北原から受けた屈辱を決して忘れてはいなかった。
陽子と北原が結びつくことは、夏枝にとっては、さらに大きな屈辱であった。
「徹さん。陽子ちゃんのことは、おかあさんが注意しますからね。おねがいだから、だまっていて下さいね」
「陽子のことに口を出すなというんですか」
徹は、ふいに陽子をだれの目にもふれさせたくないと思った。陽子が今日会った人間に徹は嫉妬していた。
「あすは今日ほどしばれないわね。雪が降って来たもの」
和服に着更えた陽子が部屋に入って来た。
辰子の家へ行くといって出かけて、だれかと街の中をうろついていた陽子が、何の悪びれた様子も見せないことに、夏枝は腹をたてていた。
「陽子さん。今日どなたとご一緒だったの」
「おかあさん、太宰治の『斜陽』をお読みになった?」
「どなたとご一緒だったか、きいているのですよ」
「『斜陽』にひめごとを持っているのは大人のしるしと書いてあったの。陽子も大人になったのね。ノーコメントよ、おかあさん」
徹は陽子の言葉におどろいて、陽子を見た。
階段
軒の細いつららが、ガラス細工ののれんのように、ずらりと並んで輝いている。日曜日の午後啓造は、茶の間でつららを眺めながら、陽子の幼いころのことを思い出していた。陽子が風邪を引いて熱を出した夜半、庭に物音がするので縁側の障子を細目にあけてみた。すると、外には、夏枝が積もった雪に深く足を埋めたまま、一心につららを洗面器にとっていた。そのころの啓造は、夏枝を深く恨んでいたが、寒さのきびしい夜半に陽子のために氷をとる姿を見ると、さすがに何ともいえない痛みを感じたものであった。
「プリンができましたわ」
夏枝が啓造の前に、白いプリンをおいた。
「ありがとう」
啓造はやさしくいった。昔のことを思い出していたので、ひどく夏枝にすまない思いだった。
「あなた」
夏枝は啓造のやさしさに気づかなかった。夏枝はいま台所で仕事をしながら、ひな祭りが近づいてきたと思っていた。夏枝が結婚する時に持ってきたひな人形と、ルリ子の初節句に買ったひな人形があった。しかし、陽子の出生を知って以来、夏枝は忘れたようにひな人形を飾らなくなった。
よく気がつくようでいて、啓造はそのことに気づかなかった。夏枝はひな祭りの度に、飾ることのないひな人形を思っては、ぐずぐずと心の中で啓造や陽子を憎んでいた。ルリ子のために買った人形を、陽子のために飾ったことが口惜しかった。毎年、ひな祭りの近づくころになると、夏枝はそのことを思い出した。
今年はわけても陽子が憎かった。その理由を人にきかれると、答えられることではない。
正月以来、時々陽子に北原から分厚い封書がきていた。その手紙がくるということだけで、夏枝は自分が無視されて侮辱されているような気がした。
札幌の喫茶店で、北原が突然中座した時のことを、夏枝は決して忘れてはいない。北原の青年らしい、すがすがしさに惹かれていた夏枝にとって、それは大きな侮辱だった。しかも北原が陽子を愛しているらしく、度々手紙がくることは、夏枝を刺激した。そしてその手紙を陽子が決して、見せようとしないことにも、夏枝は腹を立てていた。
「見せられない手紙なの」
陽子はそういって、夏枝が読むことを拒んだ。
だから毎年くりかえすひな祭りのにがい思いが、今年は一層強かった。いま啓造が夏枝にやさしく言葉をかけているのが、自分の思いにとらわれている夏枝にはわからない。
「あなた、陽子ちゃんもむずかしい年ごろになりましたわ」
夏枝はプリンを一口スプーンですくった。
「何かあったのか」
啓造は不機嫌な夏枝を見た。
「異性と文通ばかりしていますのよ」
夏枝は形のいい口の中にプリンをすべりこませた。
「異性って、あの徹の友人の北原君かね」
「ええ」
「北原君なら、悪くはないじゃないか」
ほっとしたように啓造がいった。
「でも、北原さんにお気の毒ですわ」
夏枝は啓造を見た。啓造は夏枝が何をいおうとしているかを知らずにいった。
「気の毒? 何がだね。北原君なら、なかなか感じのよい青年だよ」
「…………」
「陽子も悪い子じゃない。何なら今から話を決めておいてもいいんじゃないかね」
啓造は、徹が陽子と結婚できない事態になることを望んだ。北原との話さえ決まれば、自分が陽子を引きとったこともハッピー・エンドということになると啓造は思った。
「あなた、本気でそうおっしゃいますの」
「本気だとも。どうして?」
「あなた、知らない顔で、陽子ちゃんを北原さんに押しつけますの?」
夏枝は冷たくいった。
「ああ、君がいいたいのは陽子のあのことだね」
陽子は街へ買い物に出て、るすだったと啓造は思いながら、
「陽子はだれの子かといえば、やはりわたしたちの子だよ。あの子は親の胎内に十カ月、生まれて一カ月親といただけだからね。しかし、陽子はこの家で十七年もくらしたのだよ。わたしたちの子でいいじゃないか」
「そうでしょうか」
「秘密を守ってやるのが、わたしたちのつとめだよ。だからって、あの子を北原君に押しつけるということにはならないと、わたしは思うね。陽子はなかなかよくできた子だよ。わたしたちの子でも、こういい子には育たないんじゃないか」
啓造の言葉が夏枝のカンにさわった。
「わたくし、陽子ちゃんって、きつい子に思いますわ。小さいころから、ほら、肩に石をぶつけられても泣かなかったことがありますし……」
中学の卒業式の答辞のことを思い浮かべながら、口をつぐんだ。
「わたしはそうは思わない。明るくて、やさしい子だと思うよ」
「でも、強すぎることはたしかですわ。辰子さんだって、打ち明けるということのない子だとおっしゃっていましたわ」
夏枝の言葉にトゲがあった。啓造はだまってストーブの灰をデレッキで落とした。これ以上、夏枝に陽子を育てさせるのは、むごいような気もした。
「その辰子さんで思い出したがね。どうせ陽子も二、三年したら家を出るわけだから、いっそのこと、辰ちゃんに陽子をあずけたらどうだろうというんだがね」
啓造は夏枝を刺激しないように、さりげなくいった。
「辰子さんのうちに?」
「ああ」
「そのこと、辰子さんからおっしゃったことですの? それとも、あなたがおたのみになりましたの」
夏枝は改まった表情を見せた。
「辰ちゃんがいい出したことなんだがね」
「いつですの」
「いつだったかなあ。ああ、そう、ほら、北原君が泊まっていたころだよ」
「まあ、あれから半年以上たちましたわ。なぜすぐそのことを、おっしゃいませんでしたの」
夏枝の顔がこわばった。
「何ということもないがね」
「辰子さんもひどい方ですわ。わたくしには一度もそんなことをおっしゃいませんのに……」
夏枝はふきげんに口をつぐんだ。
「辰ちゃんは陽子が進学しないらしいと聞いて、大学へあげないのかといっていたよ」
啓造は夏枝のふきげんを無視するようにいった。いい出したことが、うやむやになるのがいやだった。
「辰子さんは何もご存じないんですわ。陽子ちゃんは進学するよりも、高校を出たらすぐにでも結婚したいと思っているんですのに」
(陽子が大学に行くなんて!)
このごろは女子の進学が珍しくはないことを、夏枝も知っている。しかし夏枝は陽子を大学にやりたいとは一度も思わなかった。陽子の意向をたずねようともしなかった。夏枝自身、旧制の女学校を出ているだけである。陽子が夏枝以上の学歴を持つということは、夏枝には耐えられなかった。
(陽子を辰子さんには、やらないわ)
夏枝は辰子の財産を思った。物欲に執着のない辰子は、きっと陽子に財産をゆずるにちがいない。陽子が辻口家の娘としての籍がある以上、辻口家の財産も陽子に分けねばならない。両家の分をあわせたならば、陽子は夏枝よりも多くの財産を持つことになるはずである。
(そんな、ばかな話があるだろうか。これが佐石の娘の運命だなんて……)
殺されたルリ子のことを思うと、夏枝は辰子の申し出に、がまんがならなかった。
「それで、あなたは何とお返事なさいましたの」
「何もいってはいないよ」
「でも、今はどうお思いになりますの」
「場合によっては、辰ちゃんのところにあずけてもいいとは思うがね」
その方が、陽子も幸せになるように啓造は思った。
「まあ、ひどい方。それではわたくしが、いかにも陽子ちゃんを育てかねているようではございません? わたくしはいやですわ。せっかく今日まで育てたんですもの。ここから花嫁姿で出したいのが人情じゃございませんか」
夏枝の言葉は、もっともに聞こえた。
「わかったよ。悪かった」
啓造は軒のつららに目をやった。生まれて間もなかった陽子を、今まで育てたということが、夏枝にとってどんなに大変なことであったかを、啓造は思った。自分の腹を痛めた子供でさえ、一人前に育てあげるということは容易ではない。まして陽子はただのもらい子ではないのだ。夏枝は、佐石の子と知っても、なお、陽子を育てなければならなかったのだ。
(陽子を目の前に見ている限り、夏枝は心の晴れることはなかったろう。その出生の秘密を守っているだけでも、どんなに精神的に苦痛なことだったろう。何というむごいことをおれはしたのか)
陽子を花嫁姿でこの家から出したいという夏枝の言葉を、啓造は額面通り受けとった。夏枝にはかなわないと啓造は思った。
やがて啓造は書斎に入ると、何を読もうかと本だなの前に立った。ちょうど目の前に、阿部次郎の「三太郎の日記」があった。大学の予科のころに読んで以来、長いこと忘れていた本だった。啓造は手にとってパラパラとページをめくった。
「此処に一人の馬鹿がいる」
という言葉が目に入った。次のページでは、
「お前の生活には何と言っても、まだ内容が足りない」
という言葉が目についた。ページを前にくると、
「生きるとは何ぞ。平凡非凡併せて空となる」
と書いてあった。どれもこれも目にとび込んでくる字が、自分と深いかかわりがあるように啓造は思った。本をたなにもどして啓造は机の前にすわった。
「生きるとは何ぞ」
啓造は口に出していってみた。退院の前日に自殺した正木次郎を啓造は思い出した。正木次郎は自分自身の存在理由を見いだせずに死んだ。啓造は自分の生活をかえりみて、これが生きることだといえる生活がないことを感じた。
洞爺丸事件から十年近くたった今でも、啓造は疲れると海の中にひきこまれそうな夢をみることがある。これから死ぬまで、まだ何回も海の夢はみるような気がした。だが、あの時に「真実に生きよう」と初々しく決意した思いは、二度とかえってこないような気がした。
(憎んだり、ねたんだり、愛したり、怒ったり、これが生きるということだろうか)
机の上の聖書を啓造は手にとった。
(この本は、本当におれに新しい生き方を教えてくれるだろうか)
教えてくれるような気がした。洞爺丸台風の時、自分の救命具を若い女性に与えて、死んだ宣教師のことを啓造は思った。
(あの人のように、おれは生きたいのだ)
この目でたしかに見たあの尊い生き方を、なぜ自分は真似ようとも、求めようともせずに十年近くも、だらだらと生きてきたのかと啓造は思った。自分が怠惰で愚かしい人間に思われた。啓造はそう思いながら聖書を開いた。
ページを開いたところに、啓造は目をやって、思わずハッとした。
「夫は家にいません。遠くへ旅立ち、手に金袋を持って出ました。満月になるまで帰りませんと、女が多くのなまめかしい言葉をもって、彼を惑わし、巧みなくちびるをもって、いざなうと、若い人は直ちに女に従った」
旧約聖書の中にある言葉だった。旧約といえば、少なくともキリストの生まれる何百年以上か前のものである。
(すると、今から三千年も四千年も前に、既に夫の留守に男を引き入れた女がいたわけか)
姦通は遠いむかしから、あくことなく今に至るまで繰り返されていたのかと、啓造はおどろいた。否、この後、何万年も同じことが繰り返されるにちがいないと啓造は思った。
啓造は自分と同じように、妻を憎み、のろったであろう数知れない男たちのことを思った。
(いや、夫をうらぎった女よりも、妻をうらぎった男の方が何十倍も何百倍もあるのだ)
啓造は新聞の身の上相談欄に、夫の不貞に悩む女性たちの手紙をよく見かけることを思い出した。
(そうか。悩んだのはおれ一人ではないのだ。何千年、いや、何万年のむかしから、今も、そして恐らく人類のこの世にある限り、不貞は繰り返されて行くのだ)
憎しみと嫉妬にかられて妻を殺した記事がついこの間も新聞に出ていたと、啓造は思った。
(だが、おれのように、妻への憎しみのために、自分の子を殺した犯人の娘を引きとるなどという、たわけたやつはいなかったろう)
今考えると啓造は、どうして陽子を引きとったのか自分自身にもわけがわからなかった。「汝の敵を愛せよ」という言葉で自分自身と高木をだまし、実は夏枝に犯人の子を育てさせようとした卑劣で冷酷な人間が自分なのだということを、啓造はいやでも認めずにはいられなかった。
(だれにも顔向けのならないことをしながら、それでもおれはまだ内心夏枝を責める心がある)
このまま何かの病気で死ぬことがあれば、自分の一生は何と泥にまみれた一生だろうと啓造は思った。
(思いきって教会に行こうか。教会に行って、こんな愚かな醜い自分でも、なお真実に生きて行くことができるか牧師にきいてみようか)
啓造は聖書を閉じた。
(とにかく行ってみることだ)
今まで時折り教会に行ってみたいと思うこともあったが、啓造は何となく行きそびれてきた。啓造は聖書をふろしきに包んだ。
時計を見ると四時を過ぎていた。外出から帰ったらしい陽子の声が階下から聞こえてきた。
夕食を終えると啓造がいった。
「陽子、車を呼んでくれないか」
「はい」
陽子がすぐに立ちあがって電話器を取った。夏枝がふしぎそうに啓造を見ていった。
「あら、どこへいらっしゃいますの」
「いや、ちょっと、そこまで」
啓造は口ごもった。教会に行くということが恥ずかしかった。啓造は用もないのに、夕食をすましてから外出するということはなかった。行き先をいわずに出ることもなかった。夏枝はけげんそうに啓造を見たが、だまって着がえを手伝った。
「お帰りは何時ごろになりますの」
「さあ、多分、九時ごろまでには帰るよ」
車がくると啓造は逃げるように家を出た。
(何も悪いところへ行くわけでもないのに)
車の中で啓造は苦笑した。しかし教会に行くと夏枝に告げたなら、夏枝は何というかわからない。何となく冷笑されそうに啓造は思った。
月が出ているらしく、雪は青かった。軒のつららが月の光に輝いている。
「どこまでですか」
大通りに出ると、運転手がたずねた。啓造はあわてた。教会のあるところを知ってはいなかった。ふと啓造は辰子の家から見た教会を思い出した。何年か前の日曜日の朝、夏枝と陽子と三人で辰子をピクニックに誘ったことがあった。その時、近所で鐘が鳴っていたので、何かとたずねたところ、教会の鐘だと辰子は教えてくれた。教会の十字架が辰子の家のななめうしろの方に見えたのを、いま啓造は思い出したのである。
「六条十丁目のキリスト教会へ」
そういうと啓造はほっとした。
車が教会に近づくにつれて、啓造は気が重くなってきた。啓造は人の家でも、どこでも訪ねるということが苦手だった。まして全くはじめてのところは、なおのことである。
車が緑橋通りを走り、市役所の角を曲がった。市役所の傍の高いポプラの裸木が夜空にくろく美しい。車がとまった。教会堂の前である。チケットを渡して車の外に出ると、啓造は教会堂を見あげた。十字架の下の明るく灯ったプラスチックの飾り窓に、
「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった」
と筆太に書いてあった。
若い学生が二人、啓造の横を通って教会の段をあがって行った。礼拝堂は二階にあるらしく、階段は外から直ちに登るようになっている。啓造は何となく入りそびれて、隣の石油スタンドの方に歩いて行った。寒さがきびしかったが、それは啓造は気にならない。ふたたび教会の方に行こうとした時、中年の夫婦らしい一組が啓造を追い越した。
「あなた、寒くない?」
「大丈夫だよ」
二人が教会の階段を、いたわり合うようにしてあがって行くのが見えた。それはほんの一瞬であったが、啓造は自分たち夫婦にはないあたたかいふんいきを二人に感じた。啓造が教会の門に近づいた時、ふいにうしろから肩をたたかれた。
ふり返ると辰子が、にやにやと笑っていた。
「どうしたの? 教会へ行くの」
「いや、べつに」
啓造はあかくなった。
「説教の題は〈なくてはならぬもの〉と書いてあるわよ。入るんなら早くお入んなさい」
辰子はそういって啓造を見た。啓造は入る気がしなくなった。
「辰子さんは教会のすぐ近くにいて、ここへ来たことはないんですか」
啓造はふたたび石油スタンドの方に歩みを返した。
「あるわよ」
「ほう」
「感心することないわ。毎年五月のバザーの時におすしやおしるこを食べに来るだけよ」
辰子は笑った。教会というところは、近所だからといって必ずしも近いということではないと啓造は当たり前のことを、今さらのように思った。
「家へお寄りなさいよ。せっかくここまで来たんだもの」
辰子の言葉にちょっと心が動いたが、啓造はことわった。
「ダンナ。ダンナにはやっぱり教会が似合うわ。行っていらっしゃいよ。帰りには寄ってちょうだい」
辰子は啓造の気持ちを察したらしく、そういってさっさと別れて行った。啓造は説教の題名〈なくてはならぬもの〉に心をひかれた。教会の前に行くと、中から讃美歌が聞こえてきた。自分の知らない讃美歌を聞くと、啓造はやっぱり入りにくいような感じがした。啓造は自分の優柔不断さに情けなくなった。
(思いきって入ればいいじゃないか)
それはわかっていた。だが何となく入りづらいのだ。
(じゃ、さっさと帰ればいいんだ)
しかし啓造は帰ることもできなかった。ようやく寒気が身にしみてきた。啓造はオーバーの衿をたてた。
(なくてはならぬものとは何だろう? おれにとって、なくてはならぬものとは何だろう)
啓造は十字架を見あげた。
学生時代に英語をならいに宣教師のところに通った時は、教会はこんなに入りにくくはなかったと思いながら、ついにぐずぐずとして啓造は教会に入りそびれた。緑橋通りに来て車をひろうと、啓造はつくづく自分という人間にあきれた。
(これでは、また当分、教会に足を向けることがないだろうな)
啓造は自嘲した。こんなことでは、求道のきびしい生活に入ることはできないと、啓造は思った。
(神はこの世を愛して下さったと書いてあったが、ほんとうに神は人々を愛しているのだろうか)
神に愛されるには、あまりにも醜いと啓造は自分の心の中を考えていた。
写真
陽子は高校二年生になった。体格がいいので、和服を着ると高校を卒業した娘に見えた。陽子が学校から帰って着がえていると、夏枝が機嫌よく陽子の部屋に入ってきた。
「徹さんから写真を送ってきたのよ」
「あら、どんな写真かしら」
「まあ、ちょっとお待ちなさい。今日は六月と思えないくらい暑いのね」
夏枝は陽子の着がえるのを待って白い角封筒から、写真をとりだした。二人は顔をよせ合って、写真を手にとった。いかにも仲のよい母娘に見える。
一枚目は、徹と北原が腕相撲をしている写真だった。徹も北原も口を横に曲げて、相手の腕を押し倒そうとしている。腕の細い徹の方が少し負けているようであった。
「まあ、おにいさん、負けそうよ」
夏枝はだまって次の一枚を手にとった。北原と徹が寮で机を並べて本を読んでいる。徹の机の上は整然としているが、徹よりひとまわり大きい北原の机の上は雑然と本が積まれ、机の下も横も本の山だった。陽子は思わず微笑した。雑然とした中にあっても、北原の清潔な印象は変わらなかった。
「北原さんって案外だらしがないのね」
夏枝がいった。
(でも、わたしには魅力的よ)
陽子はだまっていた。次は徹が馬に乗ろうとしている写真である。腰がつきでてユーモラスな写真に、二人は笑った。
「おにいさん、乗馬をはじめたといってたものね」
次は馬上の徹である。いつもの神経質な顔ではない。
「男らしくて、りりしいわ。おにいさんでないみたいね」
陽子の言葉に夏枝が顔をあげた。唇のあたりに冷たい微笑を見せて、夏枝は次の一枚を陽子の前においた。陽子は思わずハッとした。北原と女子学生が温室のベンチで話をしている。二人ともたのしそうに笑っていた。
「この女の方、ずいぶんきれいなかたね」
夏枝がいった。感じのよい女性だった。北原を見ている少し横向きの顔である。陽子はその顔を正面にねじ向けたいような嫉妬を感じた。
次の写真は、その女子学生が北原の腕にかるく手をかけて、ポプラ並木を歩いている。ねじ向けたいと思っていた顔が、注文通り真正面を向いている。ゆるやかにウエーブのかかった短い髪が風に吹かれて、笑ったくちもとの八重歯が愛らしかった。
「このかたが北原さんの恋人だという女性かしら」
夏枝はさりげなくいった。以前からこの女性の存在を知っているような、言い方だった。陽子はとどめを刺されたような思いがした。そのあとの幾枚かの写真は陽子の目には、入らなかった。
小学校から男女共学の陽子には、男と女がちょっと肩をたたいたり、顔をよせ合って一つの本や何かをのぞくということを、何とも思わずに眺めてきた。
しかし北原と、見知らぬ女性との写真にはそうはいかなかった。写真というものは、何日たっても心にはっきり焼きついて始末が悪かった。いまだに二人が温室のベンチで話し合っているようであった。いつまでも二人が腕を組んだまま、ポプラ並木を歩いているように思われた。二人がやがてベンチを去り、組んでいた腕をはなしたはずのことが想像できないわけではない。しかし心に焼きついた影像は、いつまでも温室のベンチでむつまじく語り合い、ポプラ並木を腕を組んで歩いていた。
「北原の恋人」だといった夏枝の言葉が耳に残っていた。陽子は自分と北原は単なる友人だとは思えなかった。正月のあの寒い日に会って以来、北原と陽子は文通していた。陽子は人にかくれたじめじめとした交際はいやだった。二人の手紙はからりとしていた。教室で話し合うような手紙だった。お互いの親密さを示す言葉を陽子は不要だと思っていた。心から話し合える相手がいるというだけで、陽子は十分に満足していた。
その北原に恋人がいたと思うと、陽子は悲しいというよりもさびしかった。何でも話し合えると思っていた相手に自分の知らない大事なことがあったことがさびしかった。陽子はちょうどかきかけの手紙を細かく破って捨ててしまった。今までもらった七通の北原の手紙を読み返しもせずに捨ててしまった。陽子の心の奥底にひそんでいた激しさが、一度に爆発したようであった。
「お互いにかけがえのない存在でありたい」
というねがいが陽子の大きなねがいであった。自分が一筋であるように、北原も一筋であってほしかった。
北原から手紙が来た。陽子は一瞬、心がゆらいだ。はさみを手に持って封を切ろうとしたが、やめた。あの写真を見たあとでは、北原のどんな手紙も読みたくはなかった。「嵐が丘」のあの激しい愛が陽子はほしかった。陽子は生まれてはじめて、人をゆるすことのできない思いにとらわれた。それは異性を愛することを知った少女の潔癖であった。恋のかけひきも何も知らない、体ごとぶつかって行きたいような、激しく、そして高貴といってよいほどの陽子の純な熱情であった。
陽子はマッチの小箱と手紙を持って、林の中を歩いて行った。川の畔《ほとり》に出ると、陽子は北原の手紙に火をつけた。六月のあかるい太陽の下の炎は透明であった。北原の手紙はめらめらと他愛なく、陽炎《かげろう》のように透明な炎となって燃えてしまった。
陽子は、ひとつまみの灰になった北原の手紙をじっとみつめていた。郭公が鳴きながら川の上を、ひくく飛んだ。向こう岸に渡った郭公の声が次第に遠のいて行った。
堤防
その後、二度ほど北原から手紙が来たが、そのたびに陽子は封を切らずに焼き捨ててしまった。いかなる弁明も陽子は聞きたくなかった。
(かけがえのない存在でありたい)
と激しくねがっていた陽子にとって、北原と他の女性のむつまじそうな写真は、陽子を深く傷つけた。
七月に入って、徹が夏休みで帰ってきた。
「北原が陽子は病気じゃないかと心配していたよ。あいつは盲腸をこじらせて、ずっと入院しているんだ」
(入院?)
陽子は胸をつかれた。
「だいぶおわるいの?」
「今はもう危機を脱したというところだがね。一時は血圧も下がってあぶなかったよ」
「そんなにおわるかったの?」
陽子は、もし北原が死んだらと思うだけで、体がふるえそうだった。
「北原はもてるんだな。いつ行ってもメッチェンが見舞いに来ていたよ」
飛んで見舞いに行きたいと思っていた陽子の心に、水をかけるような言葉であった。
「ところでおにいさん、乗馬はだいぶ上手になって?」
陽子はあかるい声でたずねた。北原に傷つけられた自分を、陽子は自分一人の中にそっとしまっておきたかった。
徹が帰ってくると、やはり家の中はあかるくなった。しかし陽子の心は淋しかった。病院にいる北原のことが、たえず心にかかった。ともすれば一度会ってみたい思いにおそわれた。去年の今ごろ、あの林の中ではじめて北原に会ったのだと思うと、陽子は林の中に入ってみないではいられなかった。
その日も、陽子は北原とはじめて会ったストローブ林の中の切り株にすわっていた。このごろは北原に会いたくなると、必ずこの切り株に陽子はすわった。ここにいるとまた北原が、チモシーの揺れる小道に現れるような気がした。
(こんなに会いたいのに、でも、わたしはあの人をゆるすことはできない)
病気と聞きながら見舞い状一本出さない自分自身に、陽子はおどろいていた。
(恋とは憎しみだろうか)
陽子は自分のふしぎな心の動きがくやしかった。かつて陽子はこんなに人にむかって怒り、憎み、そして惑い、なつかしむ激しさを持ったことはなかった。
陽子は切り株に腰をおろして、空を見上げた。ストローブ松のやわらかいみどりの梢が、日に輝く白い雲の中を流れて行くようであった。
その時、うしろに足音がした。一瞬、陽子は息をつめた。
(北原さんがいらっしゃるはずがない)
陽子は苦笑した。
「陽子、何をぼんやりしているの」
徹が白がすりを着て、立っていた。
「何もしていないわ」
陽子は快活に立ち上がって、ノースリーブの腕をかるくだくようにした。
(もし、ここに本当の北原さんが現れたら、わたしはどうするかしら。胸にすがって泣いてしまうかしら。それともパッと逃げ出すかしら。おにいさんじゃ、そのどちらもできないわ)
「このごろ何だか元気がないじゃないか」
徹は、北原と陽子が正月以来ふたたび文通をはじめてから、陽子を独占したい思いにとらわれていた。いま、ここに白い腕をかるく組んで立っている陽子を見ると、徹はつくづく美しいと思わずにはいられなかった。
「あら、元気よ、この通り。わたし鬼ごっこをしたいわ。逃げるわよ、おにいさん」
陽子はすばやく徹の横を通りぬけて、一気に堤防をかけ上がった。堤防に接して青い空がある。下から見ると、堤防の上の陽子は青空の中をあまかけているように見えた。それを見ると、徹も「よし」とかけ声をかけて後を追った。徹が堤防にかけ上がると、陽子はもう堤防をおりて、ドイツトーヒの暗い林の中に、白いスカートをひるがえして入って行くところだった。
うす暗い林の中に入ると、徹は松の根に足をとられてころびそうになった。下駄で走るのは無理だと、徹はゆっくりと歩きだした。林の中の笹やぶや、窪地を見ると子供のころの遊び場だったと、徹はなつかしく立ちどまった。登山帽をかぶって、輪尺を持った青年が、
「やあ、お元気ですか」
と、あいさつをして過ぎた。この見本林を管轄している旭川営林局の職員である。子供のころにも、こうした営林局の人の姿を、この林の中でよく見かけたものだと徹は思った。林の中だけは、むかしの感じが変わらないような気がした。
(あのころは、陽子がほんとうの妹だと思っていたものだ)
そう思った時、陽子の声がした。
「おにいさあん。早くいらっしゃいよう」
林の外からの声である。林をぬけると陽子が川の畔ほとりのどろの木を背に立っていた。
「このごろこんなに、一所けんめい走ったことはなかったわ。とても楽しかった」
「それはよかった。ぼくは下駄だから、ころびそうになったよ」
徹は笑って草の上に腰をおろした。陽子もならんですわった。
空が晴れて、十勝岳の連峰が青く、くっきりと美しかった。
「陽子」
「なあに」
「シリトリをしようか」
「いいわ」
陽子が笑って、
「でも、連想遊びの方が面白いわ」
「そうだね、間髪を入れずに答えなければ負けだよ。いいか。林」
「嵐が丘」
あやうく北原の名を、陽子はいうところだった。
連想遊びにもあきて、徹と陽子はだまって川の流れをみつめていた。徹はやわらかい草をまさぐっていたが、そのひとむしりを川に落とした。草は一度くるりと回って流れて行った。
「陽子」
「なあに」
「どこへ進学するか決めたの」
陽子はだまって首を横にふった。
「早く決めて、受験の方針を立てるといいよ」
「わたし、大学へは行かないわ」
「行かない? どうして」
徹はおどろいて陽子を見た。
「勉強したいと思わないのよ」
「嘘をいってはだめだよ。陽子は数学をやりたかったんじゃないの?」
陽子は答えなかった。
「陽子は進学コースをとらなかったのか」
「おにいさん、わたし、やっぱりひねくれているのかしら。高校を出していただくだけで、もったいないと思っているの」
「ばかだね、陽子。何をいうんだ」
「しからないで、おにいさん。でも正直のところ陽子は大学に行かせてっていえないの。それより自分で働きたいの。わたしってきかないのね。それともひねくれているというのかしら」
陽子は淋しそうだった。
「陽子はちっともひねくれてはいないよ。だけど、ちょっと気になるな」
「なにが?」
「陽子、高校を出たらつとめるつもりだろう」
「そうよ」
「何になるつもりなんだ」
「国家公務員の初級職をとって、営林局にでもつとめたいわ」
「しかしね、陽子。家では陽子が働いたってありがたくもないし、大学へ行ったって、財産にはそう大きくひびかないんだよ」
「それはわかっているの。問題はわたし自身にあるの。わたしの自立心を尊重したいの。大人であるということは、経済的にも自立することだと思うのよ」
徹は不安げにじっと陽子をみつめていたが、
「陽子。もしかしたら、高校を卒業してすぐに、家を出るつもりじゃないか?」
といった。
「どうして? つとめるというだけのことよ。家をとび出したりはしないわ。そんなことをしたら、今まで育てて下さったおとうさんおかあさんにわるいわ」
「そうか」
徹は安心したように微笑した。
「わたしがこの家を出るのは、死んだ時だけよ」
陽子の言葉に徹はハッとした。陽子は結婚する時にこの家を出て行くはずである。
(もしかしたら、陽子は結婚しないのだろうか。それとも……)
徹は青年らしいうぬぼれをもって陽子を見た。
「陽子がうちを出る時は結婚する時じゃないか」
徹はさりげなくいった。川が陽に光ってまぶしかった。
「いやよ。わたし結婚はしないの」
「どうして」
「どうしても」
「じゃ、一生うちにひとりでいるつもりかい」
「いけないかしら?」
「陽子の年ごろでは、みんな一生結婚しないなんていいたがるものだからね」
徹は陽子が北原をどう思っているかを知りたかった。
「そうかしら。でもわたし、ほんとうにいつまでも家にいたいわ」
陽子は北原の写真を思い出していた。淋しかった。林の中から山鳩の低く鳴く声が聞こえた。
「陽子」
「なあに」
「陽子が本当にいつまでも家にいてくれるとしたら……」
徹は口ごもった。陽子が家にいたいということは、あるいは自分と一緒にいたいということではないかと、徹は思った。
「あ、おにいさんが結婚なさったら、困るわねえ。いつまでも小姑のわたしが家にいては」
陽子がおどけたように首をすくめて笑った。徹は笑わなかった。陽子が徹との結婚を望んでの言葉か、全くそんな気持ちがないのか、徹にはわからなかった。
「ぼくはね……」
(陽子と結婚したいんだ)
兄と妹として育ったということが、徹をためらわせた。もう少し距離をおいて生活していなければ、いえない言葉だった。
「陽子、辰子おばさんのことを聞いた?」
徹は夏枝から聞いたことを思い出した。
「辰子おばさんがどうかなさって?」
「陽子をほしいっていっているんだってさ」
「あら、どうしてかしら」
「おばさんは子供がいないからじゃないか。どうせ陽子は結婚して辻口家を出るんだから、今のうちにくれないかっていうんじゃないのかな」
徹も詳しいことは聞いていない。夏枝がいっていたことだけを徹は告げた。
(生まれてすぐにもらわれてきて、今またよそに行くなんて……)
そこがたとえ大好きな辰子の家でも、陽子は耐えがたく淋しかった。自分の知らないところで「もらう」とか「やる」とかいわれている自分が、ひどくあわれに思われた。
「おかあさんは何とおっしゃったのかしら」
「おふくろは、せっかく今まで育てたんだもの、ここの家から花嫁姿で出したいっていっていたよ」
陽子の顔がパッと輝いた。辰子の家へやることによって、陽子があるいは大学へ行き、あるいは多くの財産を持つようになるのではないかと思って、夏枝がそういったとは徹も陽子も知らなかった。陽子は夏枝の言葉が涙のでるほどうれしかった。
「うれしいわ、おにいさん」
陽子はそういうと、徹の手をとって立ちあがった。陽子には冷たい夏枝だが、自分を手放そうとしなかったと思うと、それだけで陽子は素直にうれしかった。その陽子のうれしさが徹にはわからなかった。辻口の家にいるのがうれしいのは、自分と一緒にいるのがうれしいのではないかと、徹は手前勝手に考えた。
二人はふたたび夏草の長《た》けた暗いドイツトーヒの林にもどって行った。林の中は、光が夕もやのようにたちこめている。印象派の絵を見るような美しさだった。
「この林は暗いけれど、一番好きよ」
「うん」
徹は、陽子にいいたい言葉が胸につかえていた。
「おにいさん」
陽子がたちどまった。山鳩がまた低く鳴いた。
「何だい」
「あの……、あのね。おにいさんはわたしの本当のおとうさんやおかあさんを知っていらっしゃる?」
思いがけない言葉に、徹はとっさに言葉がなかった。木の根に足をとられたりして、徹は、
「ああ、痛い。足をぶった」
と、顔をしかめた。
「大丈夫? おにいさん」
「大丈夫だよ。だけどちょっと痛いな。ええと、陽子のおとうさんとおかあさんを知っているかって? どうして? ぼくの小さい時だから何も知らないよ。うちのおやじだって知らないんじゃないか」
徹は内心必死だった。
「そう。知らないの、おにいさん。わたしね、わたしを産んでくれた親たちと、辻口のおかあさんとは、どんな関係かしらと思うことがあるのよ」
陽子は中学卒業の時の答辞のことを思いながらいった。
「でも、もう考えないわ、そんなこと」
(おかあさんは、わたしを辰子おばさんのところにもやらないといってくれたんだもの)
「そうだよ。そんなことを考えたって、だれもわかりゃしないことだからね」
徹はほっとした。陽子に生みの親など詮索されては、かなわないと徹は思った。だが、何も知らない陽子がつくづくとあわれだった。
「陽子。何でも困ることがあったら、ぼくにいうんだよ」
「ありがとう」
徹の言葉がうれしかった。
「陽子がだれと結婚しても、また一人でいても、とにかくぼくは独身でくらすよ」
「あら、なあぜ?」
陽子が無邪気におどろいた。徹はだまって歩きだした。急にだまりこんだ徹を陽子は立ちどまって見送った。徹がくるりとふりむいて大またで近づいてきた。
「陽子、ぼくは陽子ときょうだいで育たなければよかったと思っているんだ。北原がうらやましいよ」
徹の言葉に陽子はハッとした。
「いけないわ、おにいさん。そんなこといっては」
陽子はドイツトーヒの幹に手をかけた。体がゆらゆらとゆれるような思いであった。徹の目のいろの激しさが、陽子を不安にした。
「陽子はぼくをきらいなのか」
「好きよ。大好きよ」
陽子はふいに孤独をかんじた。
「そうじゃないんだ。つまり、陽子は……兄としてのぼくを好きなだけだろう?」
「そうよ。当たり前じゃないの、おにいさんですもの」
陽子の言葉に徹は臆さなかった。
「陽子、ぼくはね。ずっと前から、陽子を妹としてではなく、血のつながっていない他人として、女性として、陽子のことを考えてきたんだ」
「…………」
「しかし、陽子はぼくを兄としてしか、考えてはくれなかっただろう」
風がしずかに林の中を過ぎていった。陽子は徹の言葉がさびしかった。
「おにいさん。おにいさんは陽子が小さい時から、ずっとおにいさんよ。いつまでもおにいさんでいてほしいの」
哀願するように、陽子は徹を見あげた。
「だけど、ぼくは陽子に結婚を申しこむ資格があると思うんだ。おねがいだ。今日から、ぼくを兄だと思わないでくれないか」
徹はひたいに汗をうかべていた。
「おにいさんにそんなことをいわれたら、陽子は一体どうしたらいいの? 陽子はだれに頼ればいいの? きょうだいとして育ったということは、大きなことよ。血がつながっているかいないかということより、大きなことよ。陽子はいつまでも辻口の家にいたいと思ったのに、おにいさんにそんなことをいわれたら、いるにもいられないじゃないの」
陽子は徹の前から逃げだしたくなった。徹と結婚するなどということは夢にも考えることはできなかった。と、いって無論、徹がきらいというのではない。そのことが徹にわかってもらえないことが、陽子には辛かった。
「陽子、やっぱり北原が好きなんだね」
(そんなこととは、ちがうわ。北原さんが好きでもきらいでも、おにいさんと結婚する気にはなれないのよ)
陽子はだまって、傍らの桑の葉を一枚つんだ。だまっているより仕方のない思いだった。
「しかしね、陽子、陽子は北原とは結婚できないんだよ」
陽子は「なぜ?」ともたずねなかった。あの写真の北原と女性の顔が目にうかんだ。
(陽子は、だれの子か知っているのか)
徹はそういいたかったのである。気づいて徹ははっとした。陽子のさびしそうな顔が目の前にあった。
(何という卑劣なおれだろう? 陽子を得たいばかりに、おれは何を考えているのだろう。この秘密だけは口がさけても、だれにもいえないことなのに)
向こうからヨチヨチと歩いてくる女の子がいる。女の子は赤い服を着ていた。ルリ子ではないだろうかと思いながら、啓造は女の子の方に向かって歩いていった。
(はてな。ルリ子であるわけがない。ルリ子は死んだはずだ)
そう思っていると、小さな女の子は急にまっしぐらに啓造をめがけて走ってきた。犬ころが走ってくるようなかんじだった。
「あぶないよ。そんなに走ったらころぶじゃないか」
と、啓造が抱きとめると、女の子は陽子だった。幼い陽子を抱きあげると、盛りあがった胸が啓造の胸をおしつけた。ふしぎに思って陽子の胸をまさぐると、豊かなまろやかな乳房が指にふれた。啓造は思わず、その胸に唇をよせると、たちまちさっと黒い幕が二人の間をさえぎって、啓造はおどろいて目がさめた。
(夢か)
いま夢の中でふれた豊かな乳房の感触が、まだなまなまと指先に残っている。夢とは思えなかった。ふれた乳房が、陽子のそれであることに、啓造は深い罪をかんじた。陽子が中学生のころ、シュミーズ一枚でデッキチェアにねむっていたことがあった。その時の陽子のあらわな太ももを、啓造はおりおり思い出すことがあった。それはだれにも語れない、しかしひそかな楽しみでもあった。だが、いま見た夢には底深い罪のにおいがあった。「不倫」という言葉を啓造はつぶやいてみた。
三時ごろでもあろうか。短い夏の夜は既にしらみかかっている。部屋の中がぼんやり見えている。夏枝の規則正しい寝息が、清潔で健康に思えた。妻にもいえない夢をみて、人のまだねむっている時間に目をさましている自分が、啓造は恥ずかしかった。
「世の男は、自分の娘の胸をまさぐる夢をみることがあるだろうか」
そんなあさましいことは、だれにもたずねようがないと啓造は自嘲した。啓造は寝そびれてしまった。このごろ啓造は目がさめると、床の中にゆっくりしていることができなくなった。そっと床をぬけ出すと、夏枝が寝返りをうった。
顔は定かには見えないが、啓造はふいに夏枝がいとしいと思った。いとしいというより、あわれといった方がよかった。夏枝があわれなのか、夫婦というつながりがあわれなのか、啓造にもよくわからない。
一つの部屋に、こうして一人の男と一人の女がねむっていることがふしぎでもあった。一つ部屋にねむるということは、心ゆるしていることでなければならなかった。夫婦ではあっても、心の中に何をかくして生きているかはお互いにわからない。あるいはただ憎しみだけしか持たずに生きている夫婦もあるのではないかと、啓造は思った。一つ部屋にねむっているという、平凡なこの事実がひどく啓造の心にこたえた。陽子の夢をみたためかも知れなかった。
啓造はそっと寝室を出て、書斎に入った。書斎の窓のカーテンをあけると、すでに外はすっかり夜が明けていた。ふいに空から黒い小石がひとつ落ちてきた。おどろいて窓をのぞくと雀だった。めまぐるしいほど敏捷に雀は餌をあさって飛び立った。次にまた、さっと二羽の雀が庭に降りた。活気に満ちた雀の動きを見ていると、啓造はいかにも自分がじだらくに見えた。
(こんなに命いっぱいに生きているだろうか)
ふたたび啓造は陽子の夢を思った。その時、思いがけなく林の中から人影があらわれた。陽子だった。啓造は夢のつづきを見ているのかと疑った。陽子は啓造に見られていると気づかずに林の入り口で立ちどまった。
水色のブラウスに、紺のチェックのスカートをはいている。長い形のよい足を啓造はみつめた。陽子は腰をかがめて何かを拾った。落ち葉でも拾うような、そのしぐさに乙女らしさがあふれていた。立ちあがると、陽子は林に沿った小道をゆっくりと歩いて行った。
林の中には、いくつかの小道があって、いま、陽子が歩いて行った小道はムラヤナ松の林につづく道である。
(まだ四時になっていないではないか。こんなに早くから陽子は何をしているのだろう)
陽子がふたたび立ちどまるのが見えた。下半身は草におおわれて啓造からは見えない。立ちどまって陽子は何か考えているように見えた。
(何か悩んでいるのだろうか)
啓造は今しがたの陽子の夢を思い出した。自分が蒲団の中で陽子の夢をみているころに、すでに陽子は林の中を歩いていたのかと思うと、啓造は自分の夢がたまらなくあさましく思えた。
(それにしても、陽子はこんなに早くから、何を考えているのだろう)
啓造はハッとした。
(まさか、陽子は自分の親のことを知ったわけではないだろうな)
十年前うかつにも啓造は、自分の手紙で夏枝に秘密を知られてしまった。そして、徹にも何年か前に、陽子の出生は知られてしまった。いままた、陽子はそれを知ったのではないかと、不安になった。
すでに陽子の姿は林の中に消えている。啓造はのびあがるようにして、林の方をみつめた。
(陽子の年ごろでは何時間ねむっても、ねむいころなのだ)
夜もねむられないほどの悩みは何かと、啓造の不安はふくれあがった。
(いくら何でも、夏枝だって、徹だって、陽子にだけは秘密はもらすまい)
花嫁姿でこの家から陽子を出したい、といった夏枝を啓造は信じたかった。しかし心の隅に、夏枝が、いったん思いつめると何をやるかわからないという、不信の思いがかすかにあった。夏枝ならば、あの秘密をぜったいに守ってくれるといいきる自信がなかった。考えてみると、徹にしても同じことがいえそうだと、啓造は気が落ちつかなかった。
陽子はなかなか林から出てこない。陽子の姿が見えないことが、啓造の不安をいよいよ大きくした。
(よし、迎えに行ってみよう)
椅子から立ちあがった時だった。ムラヤナ松の林の方から、陽子が姿を現した。啓造はほっとした。うつむいたまま家の方に歩いてくる。啓造に見られているとは気づかない。枝折戸をあけて陽子は自分の部屋の戸口をソッとあけている。庭に向いて部屋の入り口があった。
(案外、ただねむられなかっただけかも知れない)
姿を見ると安心して啓造は椅子にすわった。自分は何も知らなかったことにしておこうと、啓造は思った。
(秘密を持っているというのは、不安なものだ)
啓造はつくづくとそう思った。陽子を高木から世話してもらって以来、いつも心の中にしこりのようなものがあった。夏枝にかくしていることのうしろめたさと、いつ真実が暴露するかというおそれがあった。それが夏枝に知られ、徹に知られてしまった。徹はそのことのために高校入試を拒否したが、過ぎてみると案じたほどの悲劇にもならなかった。夏枝もこの家を出て行くということさえしなかったと、啓造は今更のようにほっとした。
よそ目には、円満な模範的な家庭と思われながら、生活してきているということが、考えてみると不思議だった。案外どこの家にも夫の不貞、妻の浮気、嫁姑の不仲、子供の非行など、人には聞かすことのできない恥ずかしい話があるかも知れない。けれども人々は、何とか一応の体面を保っているのかも知れない、と啓造は思った。その、かくされたドラマが、何かの動機で自殺、家出、殺人、離婚などという形になった時、世の人々ははじめてそのことに気づくのではないかと思うと、啓造は今更のように、陽子を引きとった自分が恐ろしい人間に思われた。
(しかも、けさ見た夢はどうだ?)
啓造は自分の指を見た。
(夢の中の自分だって、自分だ。夢の中の思いや行動だって、みんなこの自分から出たものなのだ)
啓造はつくづく自分を罪ぶかいと、思った。そうは思ってもまた、どこのだれよりもやはり自分がかわいいのが不思議だった。
(もし他人が、おれのように妻の不貞を憎んで、陽子を妻に育てさせたと聞いたなら、おれはその男を罵倒するだろう。第一、おれ自身がもし一夜の浮気をしたとしても、おれは決して自分を怒りはしない。それなのに妻の浮気は絶対許せないのだ。一体これはどういうことなのだろう。人がやって悪いことは、自分がやっても悪いはずだ)
人のことなら、返事の悪いことでも、あいさつの悪いことでも腹が立つくせに、なぜ自分のことなら許せるのだろう、と啓造は人間というものの自己中心なのにおどろいた。
(自己中心とは何だろう。これが罪のもとではないか)
啓造は、陽子の部屋のカーテンがかすかに揺れるのをながめていた。
街角
夏休みの間、徹は二度と自分の気持ちを、陽子に持ちだすことはしなかった。しかし陽子には、辻口家がひどく居づらい場所に思われた。徹と二人っきりになるのを、陽子は避けた。
北原とは遠ざかり、徹にも心をひらくことができなくなった陽子は、孤独だった。夏休みが終わって徹が札幌に帰っていった。陽子も二学期が始まると気がまぎれた。しかし、仲のよい何人かの友人は進学組で、廊下を歩く時も単語カードを見ながら歩いていて、ゆっくり話し合える友はいなかった。
「陽子ちゃん、北原さんから手紙がこなくなったわね。けんかでもしたの?」
夏枝は陽子にそんなことをいうようになった。陽子は答えられなかった。陽子は北原からの何通かの手紙を封も切らずに燃やしてしまったくせに、ぱったりと手紙がこなくなると、さびしくて、いても立ってもいられない思いがした。
日曜など、郵便の配達される時間になると、じっと家にいることが苦痛でさえあった。苦痛ではあったが、耳をすまして「郵便!」という声を待っている間は、さびしさを忘れることができた。
(今度、お便りがきたら、決して燃やしたりはしないわ)
待っている間は、ほのかに甘い期待があった。そんな陽子の気持ちを見とおすように、夏枝は、
「北原さんから手紙がこないのねえ。あなたから出してごらんなさいよ」
と、いうことがある。しかしあの北原の写真で傷つけられた陽子は、自分から先に手紙を出す気にはなれなかった。あんなに心から「かけがえのない存在」でありたいとねがった自分をうらぎった北原を、やはり陽子はゆるせなかった。
夏枝は、北原と陽子が文通していないのが気になっていた。自分の知らないところで、二人は文通しているのではないかと、思っていた。
陽子の友人のところにでも、北原の手紙がきているように思われた。夏枝は自分が北原の手紙を、陽子にだまって返したことを心にとがめていた。だから、二人は夏枝にかくれて文通しているように思われてならなかった。
「おかあさんは北原さんって、あんまり好きじゃありませんよ。あなたに手紙をよこしながら、どこかのお嬢さんと仲よさそうに写真をうつしたりして……、北原さんて女のお友達が多いのね」
夏枝はそんなこともいった。陽子は夏枝が北原に親切だったことを忘れてはいない。北原と毎日のように林に散歩に行った夏枝を陽子は知っていた。北原がきらいだという夏枝の言葉を、陽子は素直に受けとれなかった。だが、夏枝は北原が札幌の喫茶店で、自分をふり捨てるように中座《ちゆうざ》したことを、恨みに思っていた。その恨みが、北原と文通している陽子の上にも向けられていた。北原の手紙がこないままに、秋になり、冬になった。冬休みがはじまっても、徹はなぜか帰ってこなかった。
〈ことしの冬休みは帰りません。札幌の療養所でアルバイトをします。大晦日から一週間ぐらいは、帰るかも知れませんが、あてにしないで下さい〉
徹からの簡単なハガキを、夏枝は淋しがった。
「変ですわねえ。どうしてアルバイトなんかするんでしょう。おこづかいに不自由させてはいませんのに。働きたいのなら、うちの病院でおてつだいをしたらいいんですのに」
啓造は徹のアルバイトをあまり気にもとめてはいなかった。啓造にも、同じ経験があったからである。
「まあ、いいんじゃないか。おやじの病院なんて、働いた気がしないものだからね。もっとも、徹なんかのできることは、せいぜい喀痰検査か、赤血球、白血球をかぞえることぐらいだろうがね」
陽子は、やはり徹のことが気になった。自分とのことが原因で、徹は冬休みだというのに、家にもどれないのではないかと、陽子は心配であった。
徹が帰らない理由はあった。それは、陽子が自分と他人になるためには、少しでも離れていた方がよいということだった。北原が病気になっても見舞おうともせず、文通もしていないらしい陽子の様子に、徹は心ひそかに安心していた。
最初は北原に陽子を託そうとした徹であった。しかし、陽子が小学校四年の時から、実は養女であるという自分自身の身の上を知っているときいて、徹の陽子に対する恋情はおさえがたくなった。
しかも北原が陽子を深く愛しているらしい様子を見ると、徹の思いもあおられた。陽子のことを何も知らない北原と結婚した方が、陽子の幸福になると思いながらも、長いこと愛してきた陽子を徹はやはりあきらめることはできなかった。
徹が帰らないままに、クリスマスが近づいた。庭のナナカマドの真紅な実に、白い雪がつもると、教会のベルのような形になるのが陽子には楽しかった。陽子は淋しさに馴れて次第に独りいることの楽しさを知った。陽子は独りで、ギリシャ語の勉強をはじめたり、もともと好きな数学に没頭して、ユークリッドの幾何学を啓造の本棚から見つけだしたりするようになった。
しかし、ナナカマドの紅い実の雪をかぶった姿を見上げながら、陽子はいつのまにか、
(北原さんにも見せてあげたい)
と、思っていた。それに気づくと陽子は自分の心がふしぎだった。北原から手紙がこなくなっても、陽子の淋しさを支えているものがひとつあった。それは、
(北原さんは、わたしをうらぎったけれど、わたしはあの人をうらぎらなかった)
ということである。北原のことで陽子の良心が責められることはなかった。
夏枝から買い物をたのまれた陽子は、夕食を終えて街に出た。大きなぼたん雪が、ふわりふわりと降っていて、あたたかい晩である。クリスマスの近い夜の街には、ジングル・ベルの曲がにぎやかに流れていた。どの店もクリスマス・セールと横文字で書いた看板をかかげ、ショーウインドウには、クリスマス・ツリーが飾られて赤や青の豆電球が点滅している。
買い物を終えた陽子が、洋品店を出た時だった。二、三メートル向こうに雑踏の中を歩いてくる北原を見た。陽子はハッとしてすくんだように立っていたが、北原は黒いネッカチーフをかぶった女性と話をしながら、陽子の方に近づいてくる。陽子はとっさに店先の大きなクリスマス・ツリーのかげにかくれた。
写真で見た女の顔が笑って、まっ白い八重歯が愛らしかった。陽子は目の前を通って行く北原を、クリスマス・ツリーの枝越しにじっとみつめた。北原は少し痩せたようで幾分かふけて見えた。二人は陽子に気づかずに店の前を通って行った。
なつかしかった。深く自分を傷つけたはずの北原が、どうしてこんなになつかしいのか、陽子にはわからなかった。陽子は二人のあとを追った。追ってどうしようとするのか考えてはいなかった。ぼたん雪の降る中に、北原と女性の姿だけが、陽子をとらえて離さなかった。女は時々北原を見上げて話しかけていた。
四条の平和通りの信号のところで二人が立ちどまった。北原だけが交差点を渡って、連れの女性は右に曲がった。二人とも、ふり返りもせず、手も上げない。あっさりとした別れである。
陽子は赤に変わった信号の向こうに、北原の姿を見うしなった。追って行ってみたところで、話しかけることもできないはずである。すぐ角の薬局に赤電話があった。その電話のダイヤルを回しているのが、いま北原と別れた女性だった。陽子は思わずその女性のうしろに立ちどまった。相手は話し中なのか、女性はふたたびダイヤルを回した。受話器をじっと耳に当てたまま、その人は何気なく陽子を見た。
「ごめんなさい。話し中らしいんですの。おさきにどうぞ」
愛らしい八重歯を見せて、その女性は陽子に電話をゆずろうとした。
「いいえ、よろしいんですの」
陽子は微笑した。
(この人はわたしを知らないんだもの。この人は悪い人ではないわ。感じのよい人だわ)
女性は陽子の言葉に素直にふたたびダイヤルを回した。陽子は立ちさりかねていた。
「もしもし、あ、やっちゃん。あら、わたしよ。いやね、わからないの。わたしよ。みちこよ。北原みちこ」
(北原みちこ?)
陽子は、その女性をじっとみつめた。
「ええ、ありがとう。でも、兄と二人で来ているの」
その女の人は赤電話にかがみこむようにして話をしている。
(兄と二人で?)
陽子はあまりのことに、呆然とした。
(何という思いちがいをしていたのだろう)
北原の妹は、少しも北原に似ていない。
(しかし、あの写真を見ていた時、おかあさんは、これが北原さんの恋人だという人ねとおっしゃったわ)
北原の妹は受話器を耳にしたまま、何かしきりに笑っている。
(おにいさんだって、北原とは結婚できないんだといっていたわ。どうして、あんなことをおっしゃったのかしら)
陽子は、徹がいった「北原とは結婚できない」という言葉を、「北原には恋人がいる」というように受け取っていた。そして、その恋人は写真の人だと思っていた。
(この人が妹さんなら、ほかに恋人がいるのかしら)
陽子は、徹がまさか、
「お前は殺人犯の娘だから、素性を知られたら北原と結婚はできないよ」
といっているとは知るはずがなかった。陽子は空を見上げた。街の夜空はほのかに明るかった。
「すみません、お待たせして」
北原の妹が、陽子にあいさつをして立ちさろうとした。陽子は思わず声をかけた。
「あの……」
「…………?」
北原の妹がいぶかしそうに立ちどまった。
「失礼ですけど、北原邦雄さんの妹さんですの?」
「ええ、そうですけれど……。ああ、あなたが辻口陽子さん?」
北原の妹は親しみを見せた。
「辻口です」
陽子は次にいうべき言葉がなかった。
「兄はすぐそこの本屋に行きましたわ」
北原の妹はやさしくいった。陽子はおじぎをすると、信号もたしかめずに飛び出しそうになった。いつもの陽子には決してないことであった。交差点をわたると、角から二軒目に本屋があった。
本屋の中は混んでいたが、あまり大きな店でなかったから、北原はすぐに目についた。蛍光灯のあかるい下で北原は本を手にとってページを繰っていた。陽子は北原のそばに行くことがためらわれた。
(どうして北原さんを信ずることができなかったのだろう。ただ一人のかけがえのない人として、どうして信じて行けなかったのだろう)
陽子は自分がなさけなかった。先ず、あの仲のよさそうな写真に陽子は心を傷つけられ、次に夏枝のいった、
「これが北原さんの恋人だという人ね」
という言葉に、迷わされた。さらに徹が、
「北原は女にもてる」
といった上に、
「北原とは結婚できないよ」
と、とどめを刺した。それでも、よく確かめずに疑ったという自分は軽率だったと陽子は、北原の姿を人越しにみつめながら悔いていた。
北原が本を二冊ほど買って、入り口に近づくのを見ると、陽子はやはりかくれてしまった。
「妹さんだとは思わなかったのです」
で、すませることではないと陽子は思った。北原の手紙を封も切らずに焼きすてた日の激しい怒りを陽子は思い出していた。
(もう、北原さんの胸にもどる資格はないわ)
陽子は、それが恋というもののなす激しさであることに気づかなかった。ただ疑った自分が恥ずかしかった。
(もしも、これが逆に北原さんから、こんな疑われ方をしたら、わたしは決して許さないかも知れないわ)
陽子は自分がもっと善意で、もっと理性的であり、意志的であると思っていた。陽子はわずか五、六メートル先を歩いて行く北原のうしろ姿をみつめながら歩いていた。
(北原さんがお病気だったというのに、わたしはお見舞いもしなかったわ。丈夫な北原さんにとって、あるいは一生に一度の入院生活かも知れなかったのに……。やっぱり、わたしは北原さんとおつきあいする資格はないわ)
三条通りを北原が左に曲がった。三条通りは少し暗かった。陽子も北原のあとについて行った。北原は三条食堂に入って行った。三条食堂は、歩道からすぐに地下に向かって階段がある。陽子は地下の入り口に立って、階段を見おろした。入って行く勇気はなかった。
ぼたん雪の降る夜の歩道に陽子は立っていた。北原の出てくるまで、陽子はそこにじっと立ちつくしていたかった。
(滝川からわざわざ旭川まで、何しにいらっしゃったのかしら)
オーバーの肩につもった雪をふり払いもせずに、陽子は店の灯りのとどかない路地にじっと立っていた。
(おにいさんが帰ってきた時に、どうして、この写真の女の人は、北原さんの何にあたるかとたずねなかったのだろう)
しかし、それは少女の陽子にできることではない。陽子のプライドがそれを許すはずがなかった。
(それにしても、おにいさんはどうしてあんな写真を何の説明もつけずに送ってきたのかしら)
何だか徹があの写真を送ってきた理由が、今になってわかるような気がした。
(だけど、おにいさんって、そんな心の人ではないわ。おにいさんは男らしくて、やさしくて、とてもいい人だわ)
北原と徹を公平に比べてみると、決して徹は北原以下ではないと陽子は思った。
(だけど、おにいさんより北原さんの方が好きなのは仕方がないわ。おにいさんは、おにいさんとして好きなんですもの)
陽子は、ぼたん雪の降る中に立ちつくしていた。賑やかなジングル・ベルの曲も、明るいネオンサインも、いまは陽子の思いを妨げることはなかった。暗い路地にギターを胸に下げた男が二人消えて行った。
〈北原さん。
わたくしには、お手紙をさしあげる資格のないことを、よくよく存じております。あるいは、この手紙が封も切られずにストーブの中に投げ捨てられるかも知れないと思いながらも、しかしやはり一言おわび申し上げずにはいられませんでした。
北原さん。どうか、わたくしをお許しになって下さい。わたくしは誤解していたのでした。
徹にいさんから送られてきた写真の中に、わたくしは北原さんのお写真を見たのです。ポプラ並木の下を、女の方と睦まじそうに手を組んで歩いていらっしゃるお写真です。
「北原さんの恋人というのは、この人のことなのね」
母はその時そう申しました。その時のわたくしの心持ちをご想像いただけますでしょうか。わたくしは自分の体が断ち割られたような思いでした。ちょうどその時書きかけていた北原さんへの手紙も、大事にしまっておりましたあなたからのお便りも、わたくしは悲しみの余り焼き捨ててしまったのです。
「この女性はどなたですか」
と、一言おたずねする、へりくだった気持ちを持っておりましたなら、こんな誤解は生まれませんでしたのに。
その後の北原さんからのお便りを、わたくしは封も切らずに焼いてしまいました。誤解とはいえ、わたくしはあなたの人格を疑ってしまったことを、取り返しのつかない思いで悔いております。
今夜、わたくしは妹さんにお目にかかりました。そして本屋から出られたあなたのあとを歩きました。北原さんが本屋を出られ、食堂に入られると、雪の中にわたくしはじっと立っておりました。愚かなことですけれど、そうしているより仕方のない思いだったのです。こんなことで自分への罰と思ったわけではございません。ただわたくしはあなたをじっと待っていたかったのです。
あなたは食堂を出られてから、駅に向かって歩いていらっしゃいました。わたくしは入院していらっしゃったあなたにさえ、お手紙をさしあげなかった自分の冷たさを思いながら、あなたのあとに従って歩いておりました。
駅には妹さんが待っていらっしゃいました。あなたは妹さんの買い物包みを持ってあげて、改札を入ってから、ちょっと街の方をふり返られました。その時わたくしはハッといたしました。わたくしにお気づきになったのかと思ったのです。わたくしはホームに入らずに待合室から、お見送りいたしました。
北原さん。何と書いたらおわびの手紙になるのか、わからなくなりました。何を書いても、わたくしの今の心をお伝えできるとは思えないのです。
北原さん。今はただお目にかかりたいと思っております。
陽子
北原邦雄様
ピアノ
北原へ手紙を出して三日目である。陽子は外で雪はねをしていた。北原が陽子の手紙を読んだかどうか不安だった。破りさられたとしても仕方がないと陽子は、力いっぱいに雪をはねていた。
今はじめて、陽子は、自分の手紙を待ちわびた北原がどんなに淋しかったことかと思いやることができた。
「速達ですよ」
ふり返ると郵便配達が陽子に封書を手わたした。北原からの手紙だった。陽子は玄関のあがりがまちに腰をおろした。足がふるえるようで立っていることができなかった。
(お返事を下さった!)
しかし、封を切るのが恐ろしかった。
「いま、郵便屋さんが見えたわね」
夏枝が外出着で、玄関に顔を出した。
「ええ」
「どこから」
「わたしにきたの」
夏枝は、あがりがまちに腰をおろしている青ざめた陽子を見た。陽子は弱々しく微笑した。それは夏枝が見ても、心を打たれるような、かなしげな微笑だった。
「辰子さんのところにいますから、用事があったら、お電話してね。おとうさんも今日は遅いとおっしゃってたから、晩ごはんは陽子ちゃん一人でおあがんなさい」
陽子はうなずいて、下駄箱から夏枝の防寒草履を出してそろえた。
「元気をお出しなさいね。帰りにはクリスマス・ケーキを買ってきてあげるわね」
夏枝は、陽子に悪い便りがあったものと、一人ぎめをしていた。弱々とした陽子の顔を見ると、夏枝も冷淡にはなれなかった。
「行ってらっしゃい」
夏枝のやさしさが、感じ易くなっている陽子の胸に素直に流れてきた。
「バスでいらっしゃるの?」
玄関に出た夏枝に陽子がいった。
「そこまで出て、農協によってから車をひろいますわ」
黒いアストラカンのコートの下に、淡い青のりんずが美しかった。
陽子は茶の間のストーブのそばにすわると、はさみで北原の手紙の封を切った。今まで、封も切らず燃やしてしまったことが、またしても悔やまれた。陽子は祈るような思いで、手紙を開いた。
〈お手紙拝見。いつかは、ぼくが誤解し、今度は君が誤解した。一対一ですね。
昨夜、何十分もの間、雪の中に立っていたなんて、ずいぶん無茶なおじょうさんだ。風邪を引かれませんでしたか、心配しています。
クリスマス・イブの六時に君の家を訪ねます。正々堂々と訪ねなかったぼくが悪かったと思っています。妹が君に会った由、よろしくといっています。
北原邦雄
陽子さま
(クリスマス・イブは今夜だわ)
陽子は手紙を持って、うろうろと立ちあがった。
北原の手紙に、陽子は心打たれた。ひとつの恨みごともいっていない。そればかりか、訪ねなかった自分が悪いと北原はいっている。そして、ふたたび、汽車に揺られて旭川まで来てくれるのかと思うと、陽子は北原という人間の大きさと誠実さに感動した。
日が暮れると、陽子は無意味に家の中を歩き回ったり、幾度も時計を見あげたり、落ちつくことができなかった。自分が恐ろしく愚かな女になったような気がした。人間の中には愚かな部分がなければ、人を愛することなどできないのかも知れないと、陽子は思った。
外に自動車のとまる音がした。陽子はあわてて時計を見た。まだ五時半である。小走りに出て玄関の戸をあけると、
「ただいま」
門灯の下に徹がにこにこと立っていた。
「まあ、おにいさん」
北原ではなかったと思うと、幾分がっかりした。
「驚いたろう? 大晦日まで帰らないつもりだったんだが」
徹は陽子の驚きの表情に満足そうだった。
「お帰りなさい。おかあさんがびっくりなさるわ」
やっぱり陽子にとって、徹はただ一人の兄である。久しぶりに顔を合わすことは、うれしかった。
「おかあさんはどこかへ行ったの」
徹はオーバーを脱ぎながらたずねた。
「辰子小母さんのおうちよ。お電話しましょうか」
「いいよ。帰ってきて、いきなり顔を合わした方がうれしいだろうからね。おやじさん遅いのかな」
「そうですって。おにいさん、お食事は?」
「汽車の中ですましてきたよ」
徹はあぐらをかいて、早速スーツケースを開いた。
「陽子にクリスマス・プレゼントを買ってきたんだ」
徹はうれしそうだった。電灯の下の徹の影がたたみにゆれた。
「まあ、ありがとう。何かしら」
陽子は時計を見あげた。北原の訪問が気になった。
「何だかあててごらん」
「さあ、何かしら」
応接間のストーブには火は入っている。お茶もお菓子も用意してある。そう思いながらも、陽子は落ちつかなかった。徹に北原が来ることを告げようと思ったが、徹は楽しそうにスーツケースの中をのぞいている。
「何だと思う?」
ふたたび徹がたずねた。
「それは、アクセサリーでしょう?」
徹が今まで陽子に何か買ってくる時は、ブローチ、マフラー、手袋などが多かった。
「はい、そうです。アクセサリー」
徹はまじめな顔をして答えてから、にやにやした。いかにもうれしそうだった。今までのプレゼントとはちがうようだと、陽子は徹のうれしそうな顔を見た。
徹は陽子と北原の交際は終わったものと思っていた。北原さえ遠ざかれば、陽子は必ず自分を慕ってくれるように思っていた。
「兄としてではなく、異性として考えてくれないか」
夏休みに帰った時、徹は陽子にそういった。そのことが、きっと陽子の中で何らかの形で成長していると徹は期待していた。兄と妹として仲がよかった以上、自分の希望通りになるのは、そうむずかしいことには思わなかった。この期待が徹にオパールの指輪を買わせたのである。
(妹だもの、何を買ってやっても、そうおかしくはない)
徹はほんとうは、婚約の指輪ということにしたかった。しかし、今すぐそれをいうことは早いような気がした。
「アクセサリーといっても、広うござんす」
なかなか当たらないだろうと思うと、徹はうれしかった。
「それは上半身と下半身とに分けて、上半身に使うものですね」
「はい、そうです」
「では、頭と、胸に分けて、頭につけるものですか」
「ちがいます」
「では胸ですね」
陽子は柱時計を見あげた。六時に近い。
「ちがいます」
「まさか、腕輪や指輪じゃないでしょうし……」
その時、玄関のブザーが鳴った。
「あら、北原さんよ」
陽子はパッと顔をあからめて、急いで玄関に出ていった。
「指輪だよ」
と、いおうと楽しみにしていた徹は、ふいに口の中に何かを押しこまれたような感じがした。
(そうか。今夜は北原が来ることになっていたのか)
陽子が待っていたのは北原だと知って、徹は自分をわらいたくなった。
(やっぱり、おれの役目は兄貴というだけなのか)
徹は買ってきたオパールの指輪を、てのひらにのせた。電灯の下にうすいみどりや、ピンクが微妙に変わるのを徹はじっとみつめていた。兄妹として育った陽子が、徹を兄としか感じないのは当然かも知れないと、徹は指輪をスーツケースの中にもどした。
(しかし、おれはもう妹として、陽子を見ることができなくなっている)
ストーブがごうごうと音をたてて燃えていることさえ、徹には淋しく思えた。
「しばらくでしたね」
北原は例のはにかんだ笑いを来せて、玄関に立っていた。
「ごめんなさい、わたし……」
陽子は涙ぐんだ。
「雪の中に立っていたりして、風邪を引きませんでしたか」
北原の言葉に、陽子はみるみるうちに目に涙をいっぱいためた。
「あがらせて下さいよ、玄関に立ちんぼをさせられるのはかなわない」
北原は笑って靴をぬいだ。つられて陽子も笑いながら、
「あら、すみません。どうぞ、どうぞ」
と、応接室のドアを開けた。
「おかあさんは?」
「父も母も今日はおそくなりますの。でも兄がおりますわ」
「ああ、辻口は帰っていますか。アルバイトで大みそかに帰るっていっていたけれど」
「さっき、帰ったばかりよ」
北原は、うなずいて、じっと陽子をみつめた。
「ほんとうにごめんなさい。何とおわびしていいのか……」
「あいこですよ。この前はぼく。こんどはあなた。若いっていうことなんでしょうね。こんなことで本気になって怒ったり、誤解したり……。そして、だんだん利口になっていくんじゃないかな」
二人は向かい合って椅子にすわった。
「利口になっていくでしょうか」
二人はだまって顔を見合わせていた。しばらくして陽子は、お茶の用意に立とうとした。
「あ、ちょっと、その前にきいておきたいことがあるんですけれどね」
北原は改まった口調になった。
「何ですの」
陽子はもどった。
「きいてよいことか、どうかと思ったんだけれどね。……やっぱり、きいておきたいんですよ」
「まあ、何でしょう」
陽子は不安な顔をした。
「実はね、辻口から聞いたんだけれど、君と辻口とは、血がつながっていないっていう話は……」
「ええ。わたしは生まれて間もなく、この家に聞たんですって」
陽子はわるびれずにいった。
「……それで、辻口のことが少し気にかかるんですよ」
「気にかかるって……。何がですの」
「辻口は、あなたのことをただ妹として、かわいがっているとも思えないんですよ。辻口の気持ちを、あなたは知っているんでしょうね」
「わたしたち、兄妹ですわ。わたしは兄が好きよ。大好きですわ。でもそれは兄として好きだということよ。それでいいと思いません?」
陽子は、そういいながら、何かプレゼントをもってきてそれを自分に当てさせようとした楽しそうな徹の顔を思い出した。一人置きざりにしたようで、徹がかわいそうになった。
茶の間に行くと、徹はスーツケースに手をかけたまま、ぼんやりとすわっていた。
「北原さんよ、おにいさん。おにいさんも応接間にいらっしゃいよ」
陽子は徹のそばにすわっていった。
「ああ、今行くよ」
徹は、陽子をチラリと見た。陽子はココアとみかんをお盆にのせて立ちあがった。
「おにいさんの分も、あちらに運んでおくわ」
「ああ、ちょっと休んでから行くよ」
徹はごろりと横になった。茶の間を出ようとして陽子がふり返ると、どきっとするほど淋しい表情で徹が陽子を見あげていた。陽子は立ちさりかねた。
「今行くよ。先に行っていなさい」
応接間に入ってからも、陽子は今の徹の淋しそうな表情が気にかかった。
「兄はいま一休みしてから参りますって」
「そう。アルバイトで大分疲れてるのかな」
北原はココアをスプーンでかきまわした。
(疲れている顔だろうか)
陽子には徹が疲れているだけとは思えなかった。
「陽子さん」
「なんですの」
「君はこんど三年生でしょう? 進学はどこにしたの」
「わたしは進学しないんです」
「どうして?」
おどろいたように北原は、ココアを飲む手をとめた。陽子はだまって微笑した。
「そうか。そういうものかなあ」
北原は察したようだった。
「北原さんは大学院にいらっしゃるの?」
「行きたいと思っているんですよ。それで、今後ぼくも陽子さんもよっぽどしっかりしなくてはと思ってね。君はまだ高校生。ぼくはこれから大学院だとなると、ゴールインまで長い年月があるわけですからね。誤解をしたりなんかしてはいられませんよ」
北原はしみじみといった。
「ごめんなさい。もう誤解などしませんわ」
「いや、ぼくだって辻口と君とが他人だときいてから、どうも落ちつかなくって……」
北原はいく分ゆううつそうだった。
「いやですわ。そんなこと、おっしゃって」
「しかし、人間の心なんて変わりやすいものですからね」
「わたしは変わりません」
陽子が怒ったようにいった。
「陽子さん。そんなこと、いってはいけませんよ。人間なんて、あすにもどう変わるかわかりませんからね」
「あら、では北原さんは変わります?」
「変わるとも変わらないとも断言できませんよ。今は一生変わらないつもりではいますけれどもね。あくまで、つもりですよ。でも口に出して永遠にぼくの気持ちは変わらないなんていえないなあ。だから、結婚の約束もぼくはしませんよ」
陽子は北原の言葉に誠実を感じとった。だが、少し淋しかった。
「永遠を誓わない」という北原の言葉にうなずきながらも、陽子はやはり誓ってほしかった。陽子の顔を見て北原は笑った。
「ご不満ですか、陽子さん。幾億の男女が、永久に変わらないとか、結婚をするとかいって誓いながら、破れているのが多いでしょう。みんな自分たちだけはと思って誓い合うんでしょうがね」
陽子がうなずいた。
「陽子さんはぼくの所有物じゃないし、ぼくも同じですよ。だから、陽子さんだって、北原邦雄以外の人と結婚することになったって仕方がないんですよ」
「まあ、いやよ、そんな……」
「いや、それを希望しているわけじゃありませんよ、ぼくだって。だけど、お互いに自由ですからね。好きな人ができたら、いって下さい。ぼくのねがうのは、毎日を誠実に生きていきたいということなんです。その誠実な生活の結果が別れになったとしても、これは仕方がないことでしょうからね」
陽子は、北原のいうことが、わかるような気がした。そして、こんなことをいう北原は、多分心の変わらない人間ではないかと、思った。
「わかりましたわ。ではおにいさんを呼んできましょうか」
陽子は茶の間のふすまをあけた。さっきまでいたところに、徹の姿はなかった。スーツケースも、オーバーもない。二階の徹の部屋かと、陽子は階段を登っていった。徹の部屋は暗かった。陽子は不安になって、階段をかけおりた。
ふたたび茶の間に入っていった。やはり徹はいなかった。ふと、茶だんすの上を見ると、便箋が折りたたんである。陽子は動悸をおさえかねた。
〈急に雪のない正月をしてみたくなりました。茅ケ崎のおじいさんのところに行きます。よい正月を迎えて下さい。
徹  〉
あて名はなかった。陽子は胸がしめつけられるような思いがした。先ほどの、胸をつかれるような、徹の淋しい表情を陽子は思いうかべた。
北原に徹のいないことを告げようとして、陽子はやめた。帰ってきたばかりで急に茅ケ崎に発って行かずにはいられなかった徹の淋しさを、だれにもかくしてやりたいような気がした。
陽子はお茶を入れて、北原のところに運んでいった。
「ごめんなさい。兄は疲れてねむったようですわ」
北原はじっと陽子をみつめた。徹が顔を出さないのは不自然だった。北原はだまってピアノのそばによった。
「これは、あなたが弾くんですか」
「いいえ。だれも弾きませんわ」
「飾りですか」
「母が小さい時から弾いていたピアノですって。でも、いまは母も弾きませんわ。鍵を失くしたんですって」
陽子はこのピアノが開かれたのを見たことがない。ピアノはいつも、ただここに置かれてあるだけであった。考えてみると、このピアノはふしぎな存在であった。
「じゃ、みなさんによろしく」
北原は握手を求めずに玄関を出た。
「またどうぞ」
「正月の二日には出てきますよ」
その時、さっと車のヘッドライトが雪道を照らした。
「あら、父か母ですわ」
車が門の前にとまって、ルーム・ランプがついた。夏枝だった。車から降りた夏枝は北原を見て、表情をこわばらせた。
「ごぶさたしてすみません。おるすにお邪魔しておりました」
北原はハキハキとした明るい態度だった。
「まあ、しばらくでした。もうお帰りですの?」
夏枝は笑顔になって北原を見た。しかし、札幌の喫茶店で、ふいに「失礼します」と中座した時の北原を、夏枝は決して忘れてはいなかった。北原が去ると、夏枝は陽子に何もいわずに、さっさと家へ入って行った。
「陽子ちゃん。だれもいない時は男の方を家にお上げしないようになさいね」
夏枝はそういって、クリスマス・ケーキの箱をテーブルの上においた。
「ごめんなさい。これからは気をつけますわ。でもね、おかあさん。北原さんがお見えになった時は、おにいさんが帰っていたのよ」
「あら、帰ったの、徹さん」
夏枝が部屋の中をぐるりと見まわした。
「ええ、でも……」
陽子は、徹の書きおいた便箋を夏枝にさし出した。夏枝は不審そうに手にとって一読した。
「どうしたの? 一体」
夏枝は顔色をかえて陽子を見た。陽子にも、わかるようで、わからないことだった。
「なぜ今夜帰ってきて、今夜すぐに発たなければならないのでしょう。あなたはなぜとめなかったの」
夏枝がいうことは、もっともであった。「知らなかった」ですむことではなかった。すぐに車で追えば、徹が汽車に乗るのを引きとめることができたと、陽子は思った。
「すみません」
陽子はうなだれた。
「すみませんって、徹さんとけんかでもしたというの」
夏枝はいらいらとしていった。
「いいえ」
「けんかも何もしないのに、親にも会わずに行ってしまうなんて……」
北原の来訪が徹にとって、それほど大きなショックだったのだとは夏枝も思えなかった。
「陽子ちゃん。あなたは徹さんがいないのに、平気で北原さんとお話をしていたんですね」
夏枝には、徹が陽子にこの家から追い出されて、遠い旅に立ったように思えてならなかった。
「すみません」
陽子は、そうより答えようがなかった。
啓造が帰ってきた。夏枝が玄関に迎えに出た表情に、啓造はギクリとした。夏枝は冷たい能面のような顔をしていた。茶の間に入ると陽子がうなだれて座っている。その様子に、
(いってしまったのか!)
思わず啓造は、夏枝をふり返った。決して陽子にいってはならないことを、夏枝がいってしまったと啓造は思った。
夏枝はだまって徹の書いた便箋を啓造の前においた。啓造はそれに目を走らせていった。
「何だ。徹は帰ったのか」
啓造は、陽子のことではないと知って安心した。
「帰ったかと思うと、すぐ出て行くなんて、一体どうしたんでしょう」
夏枝は陽子を射るように見た。
「どうしたって、こうして書いてあるところを見ると、徹はこっそり出て行ったんだろうね。陽子は家にいたのかね」
啓造はやさしくたずねた。
「北原さんと応接間にいたんです。おにいさんが、ひと休みしたら行くからとおっしゃったので、いらっしゃるかと待っていたんですけれど……。茶の間に来てみたら、もういらっしゃらなかったんです」
陽子は徹の淋しそうな顔を思いうかべた。
「それじゃ、仕方がないな」
なぐさめるように、啓造は陽子の言葉にうなずいた。
「仕方がないって、あなた、ここは徹の家ですわ。何もこそこそ出て行かなくってもいいと思いますわ」
「何も家出したわけじゃない。急に東京にでも行ってみたくなったんだろう。若い時は、ふっと思いついて、そんなことをすることがあるよ」
「でも、陽子ちゃんは気がついたら、どうしてすぐに駅に行ってくれなかったんでしょう」
夏枝はあくまでも陽子を責めたかった。
「北原君がいるのに、ばたばたすることもできないよ。小さい子ならともかく、徹は陽子より大人なんだからね。徹は茅ケ崎はおろか、フランスにだってアフリカにだって、一人で行ける年なんだよ。しかもだれが出て行けといったわけでもない。親にも顔を見せずに行ったのは徹なんだ。何も陽子が責任を負わされることはないよ」
啓造は、陽子がしょんぼりとしているのを見ると、かわいそうであった。夏枝は啓造の言葉を聞くと、キュッと口をつぐんだ。徹が旅立ったのは北原と陽子が原因ではないかと、夏枝は今になって気づいた。二人の親しげな様子に徹が傷ついたのではないかと、夏枝は思った。陽子の親がだれであるかを知っていながら、それほど陽子を愛していたのかと夏枝は恐ろしくなった。このままほっておけないような気がした。北原と陽子が結ばれることは、徹にとっては喜ばしいことに思えた。
しかし、夏枝は北原と陽子のことを喜べなかった。夏枝は北原から受けた屈辱を忘れられなかった。夏枝は陽子に嫉妬していた。
とびら
年があけた。おだやかな元旦であった。たくさんの年賀状には、茅ケ崎の徹からのハガキもあった。
〈海を渡ってこちらについた途端に、正月はやはり雪のあるところで、過ごした方がよかったと思いました。今は何よりもおかあさんの料理が恋しい。一月一ぱいこちらにいるつもりでしたが、二十日までには帰ることになると思います。おじいさんは相変わらずお元気。他もお変わりなし〉
夏枝はこのハガキをいくども読み返した。くらい影はどこにもなかった。夏枝はほっとした。わけても「今は何よりもおかあさんの料理が恋しい」という言葉は、涙の出るほどうれしかった。徹が遠く旅立ったのは、陽子と北原のためだと思っていた気持ちも、ふしぎなほど和らいだ。
何年来味わったことのないような元旦の気分で、その日一日、夏枝は陽子にも、つとめてやさしく振る舞った。年始客に疲れた啓造が早く床についたあと、夏枝は陽子にきげんよくいった。
「陽子ちゃん、あしたのお買い物は、あなたの着物を買いに行きましょうね」
辻口家の娘として持っているべき着物は、大たいそろえておかなければならないと、夏枝は思った。夏枝は着物が好きであった。だから、それがたとえ陽子のものであっても買うということは楽しかった。
「あら、あした? あさってではいけないかしら、おかあさん」
「どうして? 都合が悪いの」
夏枝は出ばなをくじかれた思いで、ふきげんにいった。
「ごめんなさい。あした北原さんがいらっしゃるんです」
陽子が白いセーターの腕をかるくだくようにして、夏枝を見た。それは夏枝の一番きらいなポーズだった。なんとも小生意気な態度に見えた。せっかくの気持ちのよい元旦が一挙に陽子にふみにじられたように感じられた。しかも、北原が陽子を訪ねるときいて、夏枝は深い屈辱を感じないではいられなかった。
(ふん、いい気になって、何よ、腕を組んだりして。どこのだれの子か知りもしないで!)
長年の間に、生理的といってもいいほどの陽子への憎しみに、ふいに火がついたような思いだった。
(いいわ。あした北原さんの前で何もかもぶちまけてやるから)
夏枝はとっさに心にきめた。北原は当然おどろいて陽子から去るだろうと夏枝は思った。それは、茅ケ崎に旅立った徹のためにすることだと思うと、そうしたところで悪いとは思えなかった。
とにかく、あした北原にすべてを告げようと心にきめると、夏枝の怒りが少しおさまった。
「北原さんは何がお好きだったかしら」
夏枝のきげんがなおったように見えた。
夏枝の言葉に陽子はほっとした。
「北原さんはカレーライスがお好きですって」
「まあ、カレーライスなんていやね。寒い時は鍋物がいいわ。よせなべか石狩なべはどうかしら」
夏枝は、打って変わって異常なほどに、きげんがよかった。
「そうね」
「おビールはおあがりになったけれど、日本酒はどうかしら。ウイスキーの方がいいかしら」
「さあ、わからないわ。ちっとも」
「まあ、だめじゃないの、陽子ちゃん。大事なお友だちのことが何もわからないなんて。そんなことも、こんどよくおたずねしておくのよ」
夏枝はかるく陽子の肩をたたいて笑った。陽子は夏枝のはしゃいだ調子に何か不安なものを感じた。たった今の冷ややかな夏枝の態度が、なぜに急に変わったのか陽子にはふしぎだった。
「じゃ、今日は早くおやすみなさいね」
「おやすみなさい」
陽子が去ると、夏枝はソファにすわったまま、じっと動かなかった。北原と陽子の前にすべてを知らせる明日のことを思った。陽子は苦しむかも知れない。しかし被害者である自分たちだけが長い間苦しんできたのに、加害者側が何も知らずにいるということは、不当に思えた。陽子も苦しみをわかつのが当然だと夏枝は考えた。
(子供ならともかく、陽子はもう子供ではない。自分で大人だといっているんだもの。もう知っていいんだわ)
去年の冬、陽子は、
「ひめごとを持っているのは、大人のしるし。陽子も大人になったの」
といったことがある。そのことを思い出して、夏枝は皮肉な微笑をうかべた。
(でも、ことによったら、あの子は苦しまずに、胸を張って生きて行くかも知れない)
夏枝は陽子の中学卒業の答辞を思いうかべた。
「泣かせようとする人の前で泣いては負けになります。その時にこそ、にっこり笑って生きて行けるだけの元気を持ちたいと思います」
陽子はそういった。何を知らされても、陽子は平気で生きて行くかも知れないという想像が、夏枝の憎しみをあおりたてた。
(陽子も苦しむべきだわ)
夏枝はそう思って立ち上がった。寝室に入ると、啓造は寝息もたてずにねむっている。起きているのかと、電気スタンドの笠をかたむけて、顔を近づけたが啓造はねむっていた。
(あなたも、このごろは苦しんだりしてはいないようね)
夏枝は、自分だけが苦しんでいるようで腹だたしかった。ふと徹のことを思い出した。徹だけは恐ろしかった。陽子の秘密をあばいたと知ったなら、徹はどんなに怒るかわからなかった。しかし、陽子は決して告げ口をする性格でないことに、夏枝は安心もしていた。
外は吹雪のようである。ガラス戸が止む間もなくガタガタと鳴っていた。夏枝は風の音で目をさました。この吹雪では北原は出てこれないのではないかと、夏枝は頭をもたげて枕もとの時計をみた。暗い中で夜光時計が六時を指していた。
目をさますと同時に、今日何もかもぶちまけるのだと思うと、目がさえた。
廊下に足音が聞こえた。やがて茶の間でストーブをつつくデレッキの音がした。陽子も風の音に目がさめたのか、それとも北原の訪ねてくる日で眠っていられなかったのかと、夏枝は床の中で、茶の間の様子に耳を傾けていた。
「風がうるさいな」
隣の床で啓造が寝返りを打った。
「お正月早々荒れますわね」
「うん」
啓造は腹ばいになって枕もとの電気スタンドをつけた。
「わたくしも茅ケ崎に行けばよかったと思いますわ」
「三月になったら、行くといいよ。陽子も連れて行くといい」
「陽子ちゃんは修学旅行で行きますもの」
「しかし、茅ケ崎にはよらないだろう」
「あなた」
「何だ」
「茅ケ崎に陽子ちゃんを何しにやりたいんですの」
「何しにって……」
啓造は、夏枝が何をいおうとしているかに気づいて口をつぐんだ。
「わたくしは連れて行きませんわ」
「うん」
啓造はだまって、電気スタンドの笠を傾けた。灯りが夏枝の髪を照らした。つややかな髪だった。
「しかしね、夏枝。陽子の親のことはもう忘れていいんじゃないか」
啓造は小声になった。夏枝は答えなかった。無論、啓造は夏枝が何を考えているかに気づくはずはない。
「殺人の時効だって十五年だ。まして、当の張本人は死んでいるんだからね」
啓造はさらに声を落とした。
「けれども、あの子は生きていますわ。わたくしの目の前に生きていますわ」
夏枝の声が少し高かった。
「あの子に罪はないよ」
「あきれましたわ。そんな人ごとのようないい方をなさって。陽子ちゃんに罪はないかも知れませんけれど、あの子がだれの子かと思うだけでも、わたくしの胸はにえくりかえりそうなことがありますわ」
啓造は床の上に起きあがった。廊下ひとつへだてた茶の間に陽子は起きている。話がもれるのを啓造はおそれた。
「起きないか。目がさめると、どうも床の中にじっとしていられない」
啓造は夏枝の口を封ずるように部屋を出た。
「すこし吹雪がおさまったようだな」
啓造は洗面を終えて、すっかりあたたまっている茶の間にもどった。
「列車は何本か運休になりますって、テレビでいっていましたわ」
陽子がストーブの灰をおとしながらいった。
「じゃ、北原さんはいらっしゃるかしら」
夏枝は、先ほどの寝室での言葉を忘れたような顔をしている。
「ほう、今日北原君が来ることになっていたのか。来ても徹がいなくて気の毒だな」
外はようやく明るくなってきた。時計が七時を打った。
「北原さんは徹さんなんかに用事はございませんわ」
夏枝の言葉に陽子がかすかに眉をくもらせた。啓造は夏枝の言葉をきき流して、新聞をひらきながらいった。
「陽子はことしいくつになったんだね」
「陽子ちゃんは十九になりましたのよ」
夏枝は食卓を拭いていた。
「ほう、十九? 十九の春か。厄年《やくどし》だな。そうか、早いものだなあ」
啓造は新聞から顔をあげて陽子をみた。ほおからあごにかけての線が、ふっくらと、しかも引きしまっているのが、いかにも若々しかった。
「いやよ、十九なんて。十七なんですもの、まだ」
「だがね。おとうさんには数え年の方が見当がついてピッタリするよ。むかしの十九というのは感じがあったよ。そうそう、おかあさんは陽子の年に婚約したはずだったね?」
夏枝があいまいに微笑した。
「そして、二十で結婚したんだからね。陽子もそんな年になったというわけか」
啓造は新聞に視線をもどした。はじめて夏枝にふれた時のその年齢に、陽子が達しているということが啓造の感慨を誘った。
陽子は食事をととのえながら、時折り外をみていた。北原は出てこれないような気がした。陽子の様子をチラリチラリとみながら、夏枝も北原のことを考えていた。すべてを知ったならば、北原は陽子からはなれていくだろうと思った。
「なんとまた、かわいそうなことをしたもんだね」
新聞をみていた啓造が声をあげた。
「どうしたんですの」
夏枝が茶わんを啓造の方においた。
「うん。開拓農家の未亡人の家に泥棒が入って、現金二万円を盗まれて、一家心中したんだそうだ」
「あら、それは暮れの新聞じゃございません?」
夏枝が笑った。
「ああそうか。十二月三十日の新聞か」
啓造はまじめな顔でいいながら箸をとった。
「二万円ぐらい、男の人達なら一晩か二晩で飲んでしまうお金ですわね。それくらいのことで死ななくてもよかったでしょうに。三つと五つの子供も死んだそうですわね」
夏枝の言葉に啓造は箸をとめた。
「二万円を盗まれたぐらいでというがね。開拓農家で三つと五つの二人の子をかかえた生活の中での二万円は大きいよ」
経済的な苦労をしたことがない夏枝でも、わかりそうなことだと啓造は思った。
「でも、死ぬ気になれば何でもできると思いますわ。道連れにされた子供たちがかわいそうじゃありませんか」
一応もっともな言葉である。啓造はしかし、この未亡人は何がきっかけでも、死んだのではないかと思った。女手ひとりの開拓農家の生活の中で、二万円の現金を握るということは、死にものぐるいの生活ではなかったかと啓造は思った。一所懸命に働きながら、この人は疲れきっていたのだろうと想像できた。ある限りの力をふりしぼって走っている時には、小さな石につまずいても、もう起き上がる力はないのではないかと思われた。
正木次郎が退院を前に自殺したことを啓造は思い出した。この生活に疲れた開拓農家の未亡人の死からみると、正木次郎の死はぜいたくにみえる。しかし一人の人間が死のうとする時には、他の者がうかがい知ることのできない、絶望があるにちがいないと啓造は思った。
「絶望か」
啓造はつぶやいた。
「え?」
夏枝がきき返した。
「いや、君は自殺をどう思うかね」
「どうって……」
夏枝はふいに、ルリ子が殺された時も、死なずに生きてきた自分を思った。そのことを啓造にいわれたような気がした。
「自殺なんて、わがままですわ。死ぬより辛いことはだれにだってありますわ」
「なるほどね、わがままか」
啓造は陽子をみた。陽子は微笑しながら二人の話をきいている。
「陽子はどうだね」
「自殺のこと? わたしって、すごく生きたがりやなの。死にたくなんかないの。殺されたって生きているかも知れないわ。だから、自殺する人の気持ちってよくわからないわ」
生きたいというのは、だれにとっても自然なことだった。
「でも自殺する人って、とにかくわがままですわ」
夏枝がくり返した。
「そうかも知れないね。自分の命をかけてまで、自己主張するというふうに考えればね。しかし、そうとばかりもいい切れないな」
「あなたは決して自殺なさらないでしょうね。いつも冷静でいらっしゃるから」
夏枝はお茶をいれながら、啓造をみた。
「さてね。ふっと誘われるように死ぬことだってありそうだな」
啓造は行方不明になって何年にもなる松崎由香子を思い出していた。由香子となら、死ぬことがあったかも知れないと思った。正月ごとに、もしや、どこかに生きてはいないかという、ひそかな望みで待つ由香子の年賀状は今年もこなかった。
二日に来る約束だった北原は、吹雪のためか、とうとう訪ねてこなかった。列車が復旧したら、すぐにでも来るのではないかと、陽子は心待ちにしていたが、翌日も、そして十日を過ぎても北原からは何の便りもなかった。陽子は毎日外出もできずに落ちつかなかった。それ以上に夏枝も落ちつかなかった。
その日十四日は朝からおだやかな天気だった。陽子は小学校時代のクラス会が一時からあるので、出かけなければならなかった。
「もし北原さんがお見えになったら、お電話してあげるわね」
夏枝は陽子の心を見とおすようにいった。
「ありがとう」
陽子は素直に礼をいって出かけた。陽子が出ていくと、夏枝は気分がくつろいだ。陽子は夏枝にさからうようなことも、気にさわるようなことも、自分からは何ひとつしなかった。しかし、陽子がいくら、何もしなくても、陽子の存在そのものが、夏枝には気にさわる存在だった。やさしくされればされたで、夏枝はカンにさわった。
(いくらやさしくされたって……)
明るい笑い声をきくと、それも喜べなかった。
(わたしは心から笑うこともできないのに……)
とにかく夏枝は陽子がうとましかった。それはルリ子の母として当然な感情だと、夏枝は思っていた。陽子を愛さなければならないという責任も感情も、夏枝にはなかった。一つ釡の飯を食べさせ、着物を着せ、学校にやっているだけで十分だと夏枝は思っていた。
陽子がクラス会に出て行って一時間ほどたった時、玄関のベルが鳴った。短い控え目な音である。夏枝はこのベルの押し方におぼえがあった。村井靖夫の押し方である。だが、その村井は夫婦そろって、三日の日に年始に来ていた。村井の訪問であるはずがないと思いながら、夏枝は玄関に出ていった。北原だった。
「まあ、ようこそ。お待ちしておりましたわ」
夏枝は、北原と村井のベルの押し方が似ていることに軽いおどろきをおぼえた。こころよいおどろきであった。夏枝は応接室に北原を通して、ガスストーブに火をつけた。北原は冷たい部屋の中にぎこちなく立っていた。
「あら、どうぞおかけになって」
かたい表情をみせて立っている北原に、夏枝は年長らしいやさしさをみせていった。
「あけましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくおねがい致します」
夏枝は月並みな年始のあいさつを、改まった態度でのべると、
「滝川から汽車でいらっしゃいましたの」
と笑顔になった。
「はあ」
「滝川はこちらより雪が多いんでしょうね」
あくまで夏枝はやさしかった。母親のようなやさしさであった。それが北原の一番のぞんでいる態度であることを、今は夏枝も忘れてはいなかった。
部屋の中があたたかくなった。ガスストーブの上のやかんの湯が音をたてはじめた。
「ごめんなさい。寒い部屋にお通しして」
「いいえ」
北原のかたい表情がいつしかほぐれていた。
「今日は何をごちそうしましょうね。お酒は召し上がります?」
北原は思わず夏枝の顔をみつめた。
(札幌の喫茶店で中座した時の失礼を、この人は忘れているのだろうか。あの時この人が特別の感情を示したように思ったのは、自分の思いちがいだったのだろうか)
そう北原が思ったほど、夏枝はこだわりなく、さらりとしていた。
「……ぼく、酒はあまり飲みません」
北原もすなおにいった。
「お正月ですもの。少しくらいはよろしいでしょう?」
「ええ、ウイスキーなら少し……」
この世にこれほどやさしい笑顔の人がいるだろうかと、北原はつい夏枝に見とれていた。
(辻口の奴、しあわせだなあ)
北原は母性的なものには強く心がひかれた。夏枝が部屋を出ていくと、北原は訪ねてよかったと思った。陽子のことも、夏枝は了解してくれるだろうと安心だった。
夏枝がウイスキーとチーズを運んできた。
「徹のおつまみはいつも板チョコですのよ。ご存じでしょう?」
「そうですか。知らなかった」
「あら、寮では板チョコをいただかないのかしら。やっぱり恥ずかしいのでしょうか」
夏枝が北原のグラスにウイスキーをついだ。夏枝は陽子がいるともいないともいわなかった。北原は落ちつかなかった。
「あの、徹君はいないんですか」
北原は陽子の名をいいそびれた。
「徹は茅ケ崎に参りましたの」
「ほう、茅ケ崎とはいいところに行きましたね」
北原は夏枝をみて微笑した。
(なぜ徹が行ったのかを、この人は知らない)
徹が陽子を愛していると知ったなら、北原はどんな顔をするだろうと夏枝は思った。
「あの……陽子さんも茅ケ崎に行ったのですか」
北原は顔をあからめた。夏枝は北原をじっと見まもった。北原のがっしりとした肩や、はちきれそうにもりあがったもものあたりを夏枝はながめた。夏枝はふっと息ぐるしいような圧迫感をかんじた。そっと身じろぎをして、夏枝は目をふせた。
「陽子さんも茅ケ崎に行ったのですか」
北原は、夏枝が何かほかのことを考えているのかと思って、くり返した。夏枝はねたましい思いで、北原が陽子の名を口にするのをきいた。
(陽子がだれの子か知ったなら、どんなことになるだろう)
「陽子はクラス会に行きましたの」
夏枝はさりげなく答えた。窓ガラスが水蒸気でしっとりとくもっていた。
「クラス会ですか」
ほっとしたように北原がいった。
「どうぞ」
夏枝は北原にウイスキーをすすめた。北原のどこにひかれるのか、夏枝は自分でもよくわからなかった。最初は青年らしいすがすがしさや、すぐにはにかむ初々しさに心ひかれていた。しかし北原が自分を異性としてみていないということのために、夏枝は、自分ながら腹だたしいほど北原の心を得たいと思うようになっていた。だが、そんな態度を北原にみせることはできなかった。北原に軽蔑されるのが恐ろしかった。夏枝はふたたび北原の広い胸のあたりをみた。
「おばさんはウイスキーはお上がりにならないんですか」
北原はだまっている夏枝に言葉をかけた。
「わたくし、すぐあかくなって……」
夏枝は思いきり酔ってみたいような気もした。その時、ドアをノックして陽子が入ってきた。
「やあ」
陽子をみたとたんに、北原の顔がさっと明るくなったのを夏枝はみた。
「あら、やっぱり北原さんでしたのね。あけましておめでとうございます」
陽子の声もうれしさをかくしてはいなかった。
「おかあさん。ただいま。北原さんはいついらっしゃいましたの」
寒さで赤くなったほおを陽子は両手でおさえた。
「いま、さっきよ」
夏枝は北原が来たら電話で知らせるといった自分の言葉を忘れたような顔をしていた。
「二日にいらっしゃるとおっしゃったのに、今日までいらっしゃらないなんて、ひどいわ、北原さん」
陽子が明るい声で、うらみごとをいった。
「わるかったですね。実は二日のあの吹雪の日から風邪をひいて、一昨日までねこんでいたんですよ。ぼくも気が気でなかったんだけれど、去年盲腸をこじらせてから、少し弱くなったんですね」
北原は陽子をくるむようにみつめた。夏枝はちらりと北原の視線をみた。
「まあ、それは大変でしたのね。もうすっかりよろしいんですか」
「大丈夫。このとおりです」
二人は顔を見あわせて、にっこりと笑った。夏枝は、自分が完全に無視されているように感じた。ガスストーブの火を細める夏枝の横顔が、皮肉な微笑を浮かべていることに、北原も陽子も気づかなかった。
「あら、ウイスキーを召し上がるの」
陽子は北原の顔をのぞきこむようにした。
「少しは飲みますよ」
北原がはにかんで、頭をなでた。陽子が北原のグラスにウイスキーをついだ。二人は楽しそうに微笑しあった。
「お似合いですことね。あなたがた」
夏枝も微笑していた。やさしい笑顔に見えた。
「お似合いですこと」
といわれて陽子と北原は、はにかんだ。
「おばさん、ぼくたちはおたがいの気持ちがよくわからなくて、いろいろ誤解していたんですけれどね。やっと仲なおりをしたところなんですよ」
北原は、率直にいった。この際はっきりと、陽子との交際を夏枝の前でいっておきたかった。
「そうですの? でも誤解しあっていらっしゃるから、仲がよくいっているんじゃありません?」
夏枝は皮肉な微笑をうかべて、北原と陽子を交互にみた。
「……おばさんのおっしゃること、ちょっとよくわかりませんが……」
北原はとまどったように、夏枝をみた。
「わたし、もう誤解なんかしていませんわ」
陽子も言葉を添えた。
「誤解という言葉は的確じゃないかも知れませんわね。じゃ、お互いにあなたがた買いかぶっていらっしゃいますわ」
夏枝は北原をみた。
「買いかぶりですか。それは少しはだれにでもあることでしょうがね」
北原は夏枝のもののいい方に、ようやく毒があるのをかんじた。
「少しぐらいじゃありませんわ」
夏枝は胸の高まるのをおぼえながらも、落ちついていった。北原が少し考える表情をした。
「おばさん。おばさんは、ぼくたちがつきあっていることを、あまり賛成なさっていられないようですね」
「あら、いまごろお気づきになって? わたくし、いつかあなたのお手紙を陽子ちゃんに代わってお返ししたことがありましたでしょう? あれで、わたくしの気持ちがおわかりにならなかったんですの、あなたがた」
「おばさん。ぼくたちのこと、それこそ誤解していらっしゃるんじゃありませんか。ぼくたちは、まじめにつきあっているつもりです。セクシャルなものじゃありませんよ。握手だってしたこともありませんからね」
「そんなこと、わたくしは存じませんけれど……母性的なものにひかれるなんておっしゃって、肩などもんだりなさる北原さんですからね」
夏枝が冷たく笑った。あまりのことに北原は呆然とした。
「おばさん、変な誤解はなさらないで下さい」
「変な誤解をなさったのは、あなたの方ですわ。何をかんちがいなさってか、札幌の喫茶店でふいに席を立って……。わたくし、あんなに恥ずかしい思いをしたことは、ありませんわ」
夏枝の巧妙ないい方に北原は唇をかんだ。何もわからない陽子は、じっと二人の話をきいていた。
「北原さんって、女のお友だちも多いんですってね。徹がいっていましたわ」
夏枝はまず、陽子の心から北原を追い出してしまいたかった。
「おかあさん。北原さんのこと、そんなにおっしゃるのは失礼ですわ。北原さんのいつかのお写真も、おかあさんは恋人のようにおっしゃったけれど、妹さんでしたわ。わたしはそれで北原さんにあやまりましたけれど」
夏枝は刺し通すような、まなざしでじっと陽子をみつめた。
(ふん。佐石の娘なんかに負けていられるものですか。高校生の分際で、大っぴらに恋人気どりでいるなんて……)
「おばさん。どうも、おばさんは最初っから、ぼくたちの仲を遠ざけようとしていられるようでなりませんが……」
北原は感情をおさえて、ていねいにいった。夏枝はだまって北原を見返した。とうとうこの北原からは、一顧だにされなかったという思いが、夏枝の気持ちを新たに刺激した。
「どうして、陽子さんとぼくが仲よくしてはいけないのですか」
北原は陽子のためを思って、した手に出た。
「それをいえとおっしゃいますの、北原さん」
夏枝は落ちつきはらっていた。
「もし、さしつかえなければ……」
北原は言葉を乱さなかった。陽子はこの場は北原に一任するしかないと思った。先ほどの刺しとおすような夏枝の視線が陽子を不安にさせていた。
「さしつかえはありますわ」
夏枝は陽子をみつめた。
「ぼくのどんな点がお気にいらないんですか。ぼくはおばさんには喫茶店で中座したりして失礼致しました。それはあやまります。しかし、ぼくはぼくなりにまじめに生きているつもりです。でも、悪いところがあれば、おっしゃって下さい。改めますから」
北原は、頭を下げた。
(こんなにまでして……。この人は陽子を得たいのかしら。知らないということは、こんなに若い人をおめでたくするものなのね)
夏枝はどういいだそうかと思った。自分からいいたくていったのではないように、しなければならないと思った。
「さしつかえがあると申しあげたのは、陽子のことですの」
「陽子さんのこと?」
北原は陽子をみた。
「ええ。いわない方がいいんじゃありません? これをいいたくないばかりに、わたくしは最初にあなたのお手紙を、お返ししたんですわ。あれはわたくしの好意でしたわ。わたくしの好意を、あなたがたがどう取ったかはわかりませんけれどもね」
「どんなことですの、おかあさん」
陽子がしずかにたずねた。
「どんなことって、北原さんがおききになったら、逃げ出すことですよ。いいのかしら、申しあげても」
夏枝は陽子の顔を見返した。
「ぼくは逃げだしませんよ。何をきいても。しかし、そんなにいいにくいことなら、伺わなくって結構です。ぼくはぼくの知っている陽子さんで十分ですよ」
北原は、夏枝の言葉に陽子が傷つけられることを恐れた。
「ほら、ごらんなさい。やっぱり北原さんはきくのが恐ろしいんですわ」
夏枝が笑った。
「恐ろしくなんか、ありません。しかし、そんなにいいにくいことなら、伺わなくてもいいんです」
「しかし、何もご存じないんじゃ、あまり北原さんにお気の毒ですものね」
「ぼくが気の毒ですって? 気の毒でもかまいません」
北原はいよいよ、陽子の前では何もきかない方がよいと思った。
「わたしは知りたいわ、おかあさん。わたしが、北原さんにお気の毒な人間だとしたら、北原さんに申し訳ありませんもの」
陽子の目がきらきらと美しく輝いていた。その美しさが夏枝の憎しみを誘った。
「いっても、いいのね、あなたの秘密を」
夏枝は陽子を見すえた。
「いいわ。何をおっしゃっても」
「おばさん、おやめなさい」
北原は、秘密という言葉におそれた。
「でも、この人がいってもいいと申しておりますもの」
夏枝の顔は蒼白だった。
「どうぞ、伺いたいわ」
陽子の言葉が、夏枝にはふてぶてしくひびいた。
「北原さん。この人の父親は、徹の妹を殺した犯人ですのよ」
夏枝の声が上ずってかすれた。
「おばさん!」
北原はかみつくようにいって立ちあがった。陽子はかすかに眉をくもらせたが、ほとんど表情を変えなかった。
「もう一度おっしゃって」
陽子はあまりにも思いがけない夏枝の言葉に、かえっておどろくことができなかった。あまりにも信じがたい言葉だった。
「何度でもいいますわ」
夏枝は肩で大きく息をした。
「ルリ子は、あなたの父親に殺されたのですよ」
陽子がかすかにうめくような声を立てた。
「うそだ!」
北原が叫んで、陽子のそばにかけよった。陽子はいつのまにか、ピアノの横に立っていた。
「うそじゃありません」
夏枝の目がつりあがって、唇がけいれんしていた。
「では、ほんとうだという証拠を見せて下さい。この陽子さんが犯人の娘だという証拠がどこにあるんです」
陽子の肩をだいたまま、北原は夏枝をにらみつけた。
「いま、証拠をお目にかけますわ」
夏枝は、急いで部屋を出ていった。陽子も北原も化石のように、じっと動かない。ただ、夏枝のもどってくるのを、息をひそめて待っていた。夏枝は変色した古新聞や、日記帳をかかえて入ってきた。
「これをごらんなさい。これがルリ子の殺された時の新聞ですわ。この写真の男が、佐石土雄という犯人です。これがこの人の父親ですよ」
北原は新聞を手にとって、さっと目を走らせたが、やがて読み終わると、
「この新聞が何の証拠となるんです。陽子さんの父親はこの男だと、どこに書いてあるんです」
と、きびしく問いつめた。夏枝はひるまなかった。
「この古い日記をごらん下されば、わかりますわ、陽子はこの時生まれて一カ月で、すぐに高木さんが嘱託をしている乳児院にあずけられました。わたくしがルリ子の身代わりと思って女の子を育てようと、高木さんにお世話していただいたのが、事もあろうに、この陽子だったのですわ」
「少し話がおかしいな」
北原の唇に笑いがうかんだ。
「何をお笑いになりますの」
「だって、その話だけでは、この陽子さんが確かに犯人の娘であるという証明にはなりませんよ。その確かな証拠はどこにもないじゃありませんか」
北原は疑わしそうに夏枝を見た。日が暮れかかって、部屋の中がうすぐらくなった。北原は電灯のスイッチを入れた。
「だから、この日記をごらん下されば、よくわかりますわ。わたくしはまさか犯人の子供とは夢にも思わず、それはかわいがって育てていましたのに……。こんなひどいことって、あるでしょうか」
夏枝は憎々しそうに陽子を見た。陽子は北原に肩を支えられて、一語も発しない。
「しかし何で高木という人は、わざわざ犯人の娘を、ここによこさなければならなかったんですか。それがわからないな」
北原は、今は落ちついていた。
「辻口がわるいんですわ。辻口が高木さんに犯人の子をほしいって、おねがいしたんですもの」
「おばさんにないしょで、何のためにそんなことをする必要があったんです?」
夏枝は答えられなかった。村井と夏枝の間を啓造が嫉妬したとはいえなかった。
「まあ、かりにおじさんがそう頼んだからって、この陽子さんが必ずしも犯人の娘であるとは限らないじゃありませんか。犯人の娘だよといって、ちがう子供をよこしたかも知れないじゃありませんか。何の証拠もないことを、どうして信ずることができるんですかね。ぼくなら、その証拠を見ないうちは決して信じませんがね。ね、陽子さん」
北原はかたわらの陽子の顔を見た。陽子は青ざめたまま、だまって夏枝をみつめていた。
「証拠ですって?」
夏枝は冷笑した。
「そんなことをおっしゃるなら、北原さんは北原さんのおとうさんとおかあさんの息子さんかどうか、何か証拠を見て信じていますの?」
「…………」
北原は夏枝の逆襲にちょっとたじろいだ。
「ほら、ごらんなさい。あなたがおとうさんを信ずるように、わたくしたち夫婦も、高木さんという人を信じられますもの。高木さんは辻口の親友ですわ。高木さんは辻口の信頼をうらぎるような方ではございませんわ。あなたは高木さんというお方をご存じないから、証拠などとおっしゃいますけれど、高木さんは嘘をいうようなお方ではございません。さっぱりとした男らしいお方ですわ」
夏枝の言葉に北原がふたたび笑った。
「ますますもって、おかしな話じゃありませんか。そのさっぱりとして男らしい、嘘をいわない高木という男が、何でおじさんと組んで女のおばさんをだましたりしたのですか」
笑われて夏枝は唇をかんだ。何といっても陽子が犯人の娘だという事実を、北原は、がんとして受けつけないのが口惜しかった。
「とにかく陽子さんは犯人の娘じゃありませんよ。ぼくは札幌に行って高木というけしからん男に談判してきます。はっきりした証拠があるかないかを、聞きだしてきますよ」
「どうぞ、聞いていらっしゃい。まちがいなく陽子には殺人犯人の血が流れていますから」
陽子が北原の腕の中で、ゆらりとゆれた。
「大丈夫? 陽子さん」
陽子は青ざめたまま、かすかにうなずいた。
「おばさん。ことわっておきますがね。陽子さんが、たとえ殺人犯の娘でも、ぼくは逃げたりはしませんよ。陽子さんには何の責任もないことですからね」
陽子は辛うじて立っているようにみえた。
「どうしたの、陽子さん。こういう時こそ元気を出すんだ。君は断じて殺人犯の娘じゃないよ。それを信ずるんだよ」
「もう、いいわ」
陽子が、かすかに頭を横にふった。
「何がもういいの? 陽子さん」
いま、陽子には、いろいろのことがよくわかった。小学校一年の時に夏枝に首をしめられたこと、中学卒業の答辞の紙をすりかえられたこと、それらがどんな意味を持っていたかを、陽子ははっきりと知ることができた。陽子はだまって、夏枝をみつめた。みつめたまま陽子はのろのろと夏枝のそばに寄って行った。夏枝は、おびえたように退いた。陽子はその夏枝を、目の中に吸いこむようにじっとみつめた。憎しみの目ではなかった。悲しいほど淋しい目であった。
「長い間、わたくしはあなたのために、どんなに苦しんだか、わかりませんよ」
夏枝は後ずさりしながら、そういって急いで部屋を出て行った。陽子は夏枝の出て行ったドアを、しばらく身動きもせずにみつめていた。
「あんな、でたらめを気にしてはいけないよ」
北原は陽子の肩に手をおいた。陽子はだまって、テーブルの上においてある新聞を手にとった。陽子は一枚一枚丹念に読んでいった。
「犯人佐石の子供(生後一カ月)は市立乳児院に、あずけられた」
という記事に朱線が引いてあるのを陽子はみた。いくども、いくども、いくども陽子はその個所を読み返した。その陽子の姿が不気味に思われるほどしずかであった。
「陽子さん。もう、そんなものを読むんじゃない」
北原は陽子の手から、新聞をとりあげた。
「あすは札幌の高木っていうヤツのところに行って、とっちめてやりますよ」
北原はそういって、陽子の手をとった。
「ありがとう。でも、もういいのよ」
「もういいって、一体何のことです。陽子さんらしくもない。さあ、もっと元気を出すんですよ」
陽子は乾いた目を北原に向けた。北原は思わずハッとした。暗い目であった。陽子特有の燃えるような輝きは失われていた。何かヒヤリとするようなものを北原は感じた。
「だめだ、陽子さん。君は犯人の子なんかではないっていうのに……」
不吉なものを感じて、北原は陽子を強く抱きしめた。陽子はされるままになっていた。
「陽子さん! 君はおかあさんなんかの言葉を信じているの?」
「心配なさらないで。犯人の子でも、そうでなくても、とにかく同じことなのよ、北原さん」
陽子が淋しく笑った。
「冗談じゃない。同じことじゃないよ。大ちがいだ」
北原は陽子が何を考えているのか、はかりかねた。にわかに陽子と言葉が通じなくなったような感じだった。鳩時計が四時をしらせた。北原はこのまま陽子をおいて帰るのが不安だった。
「外へ出ませんか? お茶でも飲んで、今のおばさんのヒステリックなたわごとは、忘れてしまいませんか」
「どこにも行きたくありませんわ」
陽子は何かを考えている表情でいった。
「まさか……」
(死んだりはしないでしょうね)
いおうとして、北原は口をつぐんだ。言葉に出すと、何だか陽子がほんとうに死んでしまうように北原は思った。いま、陽子は自分のどんな慰めの言葉も受けつけないように北原は思った。
(一番感じ易い年ごろだというのに……。ひどいことをいったものだ)
北原は、夏枝に対する憎しみをこらえきれなかった。北原は陽子のほおを両手ではさんで上に向けた。陽子はされるままになっていた。北原はそっと唇を近づけて、陽子をみた。陽子の白っぽく乾いた唇がいたいたしかった。北原は顔をはなした。今はくちづけすることもできなかった。
冬休みの間は、三度の食事の支度は陽子がしていた。しかし、その日の夕方は五時をすぎても、陽子は茶の間に顔を出さなかった。四時を少し回ったころ、北原が玄関で何かくどくどと陽子に話しているのを聞いたが、夏枝は送りに出ていかなかった。
そのあと、陽子は外出した気配がなかった。多分、自分の部屋にひきこもっているのだろうと夏枝は思っていた。
(いくらシンの強い陽子でも、自分の親がルリ子を殺したと聞いては、今日はごはん支度もできないだろう)
夏枝はそう思いながら、暗くなった窓のカーテンを引いた。先ほどの落ちついた陽子の表情を思い出すと、泣き出しもしなかったのが、妙に小憎らしく思えた。
(もっといろいろ言ってやるのだったわ)
北原が、犯人の娘だという証拠があるかなどと、ばかげたことをいいだして、思っていたことの十分の一もいえなかったのが口惜しいと、夏枝は腹を立てていた。
その上、陽子の出生を聞いた北原が、陽子を捨てて逃げさるだろうと思っていたのに、その話を信じないばかりか、たとえ犯人の子でもかまわないといったことも心外だった。
(徹といい、北原といい、今の若い男性は、恋人の親が人殺しでも泥棒でも、大して気にもとめないものかしら。わたしなら、どんな好きな人でも、人殺しの息子だと聞いたら、逃げださずにはいられないわ)
ふしぎなことだと夏枝は思った。
(あすからの、陽子の出方がみものだわ)
しかし、今日のとり乱した様子のない陽子を思うと、夏枝はつくづくと、しぶとい人間だとあきれていた。
食事の支度ができても、陽子は部屋から出てこなかった。
(何もこちらから、きげんをとるように呼びに行くこともない)
夏枝はそう思って、啓造と自分の二人分だけを食卓に並べた。
帰ってきた啓造が、食卓をみていった。
「陽子はどうしたんだね」
「さあ、何か気に入らないことでもあるのでしょうか。部屋にいるようですわ」
「ほう、陽子らしくないことだね。わたしが行ってみようか」
「いいえ、わたくし見てまいりますわ」
廊下に出ると、離れになっている陽子の部屋に灯りがついていた。夏枝は陽子の部屋まで行かずにもどってきた。
「眠っているようですわ」
夏枝はさりげなくいった。
「そうか。陽子がいないと、やはり淋しいね。ところで、徹はいつ帰るんだろうね」
厚い鮭の切り身をほぐしながら、啓造はいった。
「たしか、年賀状には二十日ごろまでに帰ると書いてありましたけれど」
夏枝は暦をみあげた。徹の帰りが何となく恐ろしかった。
「今日は十四日か、まだ少し日があるね」
何も知らない啓造は、おいしそうにごはんを食べていた。
遺書
長い間、辻口家の娘として育てて下さった御恩に、何のおむくいすることもなく、死んでしまうということは、ほんとうに申しわけないことと思います。
ついこの間、私は、
「殺されても生きる」
と申し上げました。自殺など、まちがってもしない人間だと、自分でも思っておりました。人間の確信など、こんなにも他愛ないものなのでしょうか。
自殺ということは、まちがっていると、今も思っております。どんな理由があるにせよ、自殺ということを、私は決してよいことだと思ってはおりません。でも、悪いと知りつつ、私はやはり死ぬことにいたしました。
死の覚悟を決めてからは、心がひどく静かです。
私は、小学校四年生の時に、自分が辻口家の娘でないことを、ある人の話で知りました。しかし、そのことは、もっと以前から漠然と感じとっていたように思います。けれども、私は、実の娘でないからこそ、決してそんなことでひねくれたりはしまい、石にかじりついても、ひねくれたりはすまいという、強い気持ちで生きて参りました。
中学の卒業式の時、答辞が白紙になっていた時には、おかあさん(今は、こう呼ぶことをおゆるし下さい)の意地の悪さに驚きました。私は生意気にも、
「こんな意地悪い人のためには、どんなことがあっても、自分の性格をゆがませたりする愚かなことはすまい。私を困らせようとするならば困るまいぞ、苦しめようとするのなら苦しむまいぞ」
という不敵な覚悟で、少なくとも表面はかなり明るく振る舞って生きて来たのでした。
しかし、私がルリ子姉さんを殺した憎むべき者の娘であると知った今は、おかあさんが、私に対してなさった意地悪も、決して恨んではおりません。ああなさったのは当然であると思います。当然というより、どんなにおつらい毎日であったことかと、心からお気の毒でなりません。
おかあさんは、少なくとも人間として持ち得る限りの愛情で、育てて下さったこととしみじみ思います。
誰が、自分の娘を殺した人間の子に、着物を着せ、食べさせ、学校にやって二十年近くも同じ屋根の下で暮らすことができるでしょう。おとうさん、おかあさんだからこそ、でき得たことで、他の人には、一日も真似のできないことでした。
ほんとうにこのことだけは信じて下さい。陽子は死を前にして、おとうさんおかあさんの心持ちを思うと涙がこぼれるのです。心から感謝しないではおられないのです。
しかし、自分の父が、幼いルリ子姉さんの命をうばったと知った時、私はぐらぐらと地の揺れ動くのを感じました。
今まで、どんなにつらい時でも、じっと耐えることができましたのは、自分は決して悪くはないのだ、自分は正しいのだ、無垢なのだという思いに支えられていたからでした。でも、殺人者の娘であると知った今、私は私のよって立つ所を失いました。
現実に、私は人を殺したことはありません。しかし法にふれる罪こそ犯しませんでしたが、考えてみますと、父が殺人を犯したということは、私にもその可能性があることなのでした。
自分さえ正しければ、私はたとえ貧しかろうと、人に悪口を言われようと、意地悪くいじめられようと、胸をはって生きて行ける強い人間でした。そんなことで損なわれることのない人間でした。何故なら、それは自分のソトのことですから。
しかし、自分の中の罪の可能性を見いだした私は、生きる望みを失いました。どんな時でもいじけることのなかった私。陽子という名のように、この世の光の如く明るく生きようとした私は、おかあさんからごらんになると、腹の立つほどふてぶてしい人間だったことでしょう。
けれども、いま陽子は思います。一途に精いっぱい生きて来た陽子の心にも、氷点があったのだということを。
私の心は凍えてしまいました。陽子の氷点は、「お前は罪人の子だ」というところにあったのです。私はもう、人の前に顔を上げることができません。どんな小さな子供の前にも。この罪ある自分であるという事実に耐えて生きて行く時にこそ、ほんとうの生き方がわかるのだという気もいたします。
私には、それができませんでした。残念に思いますけれども、私はもう生きる力がなくなりました。凍えてしまったのです。
おとうさん、おかあさん、どうかルリ子姉さんを殺した父をおゆるし下さい。
今、こう書いた瞬間、「ゆるし」という言葉にハッとするような思いでした。私は今まで、こんなに人にゆるしてほしいと思ったことはありませんでした。
けれども、今、「ゆるし」がほしいのです。おとうさまに、おかあさまに、世界のすべての人々に。私の血の中を流れる罪を、ハッキリと「ゆるす」と言ってくれる権威あるものがほしいのです。
では、くれぐれもお体をお大事になさって下さい。これからは、おしあわせにお暮らしになって下さいませ。できるなら私が霊になって、おとうさんおかあさんを守ってあげたいと存じます。陽子は、これからあのルリ子姉さんが、私の父に殺された川原で薬を飲みます。
昨夜の雪がやんで、寒いですけれど、静かな朝が参りました。私のような罪の中に生まれたものが死ぬには、もったいないような、きよらかな朝です。
何だか、私は今までこんなに素直に、こんなへりくだった気持ちになったことがないように思います。
陽子
おとうさま
おかあさま
北原さん
短い御縁でした。お礼の申しようもない程、やさしくしていただいて、陽子はどんなにうれしかったことでしょう。
でも、北原さん、陽子は死にます。
「陽子には殺人犯の血が流れている」との母の言葉が耳の中で鳴っています。この言葉は、私を雷のように打ちました。私の中に眠っていたものが、忽然と目をさましました。それは今まで、一度も思ってもみなかった、自分の罪の深さです。
一度めざめたこの思いは、猛然と私自身に打ちかかって来るのです。
「お前は罪ある者だ、お前は罪ある者だ」と、容赦なく私を責めたてるのです。
北原さん、今はもう、私が誰の娘であるかということは問題ではありません。たとえ、殺人犯の娘でないとしても、父方の親、またその親、母方の親、そのまた親とたぐっていけば、悪いことをした人が一人や二人必ずいることでしょう。
自分の中に一滴の悪も見たくなかった生意気な私は、罪ある者であるという事実に耐えて生きては行けなくなったのです。
私はいやです。自分のみにくさを少しでも認めるのがいやなのです。みにくい自分がいやなのです。けれども、既に私は自分の中に罪を見てしまいました。こんな私に、人を愛することなど、どうしてできるでしょう。
さようなら北原さん。
おしあわせをお祈りいたします。
さようなら
陽子
北原邦雄さま
徹兄さん
今、陽子がお会いしたい人は、おにいさんです。
陽子が、一番誰をおしたいしているか、今やっとわかりました。
おにいさん、死んでごめんなさいね。
陽子
徹さま
P・S
辰子小母さんによろしくお伝え下さいね。小母さんには、死んだりしてなぐられそうな気がいたします。
おかあさんを責めないで下さいね。おかあさんのおかげで、陽子は自分の中のみにくさを知ることができたのです。
何も知らずに、安易に生きて行くよりも、今死ぬ方が陽子にはしあわせなのですから。
さようなら
三通の遺書を書き終わると、陽子はそれを机の上に置いた。家の中はしんと静まりかえっていた。陽子は黒いセーターに、黒いスラックスを着けて、オーバーを着た。今、死にに行くのにオーバーを着て暖かくしたいというのが、自分でもふしぎだった。
ねむり
思ったほど新雪はない。しかし林の中の雪は深かった。ひざまで埋まる雪の中を陽子は一歩一歩、歩いて行った。時折り音もなく木の上から、雪がはらはらと散った。雪を吹きつけられて、片側だけが白い松の幹に、陽子は歩きなやんで手をかけた。
手も足も冷たかった。やっとストローブの松林をぬけると、堤防があった。陽子ははうようにして、堤防をよじのぼった。堤防にあがってふり返ると、陽子の足あとが雪の中に続いていた。まっすぐに歩いたつもりなのに、乱れた足あとだと、陽子はふたたび帰ることのない道をふり返った。
夜はすっかり明けていた。意外にてまどった。家人に気づかれては大変だと、急に陽子の気がせいた。林の向こうの辻口家に別れをつげて、陽子は堤防を降りていった。
ドイツトーヒの林の中に入ろうとして、陽子はハッと立ちどまった。吹きさらされて固い雪の上に、カラスがおびただしく落ちていた。白い雪の上に死んでいる黒いカラスは美しくさえあった。陽子は息をつめて、カラスをみた。あたりに生きたカラスが一羽もいないのが、ひどく淋しかった。雪に埋まって死んでいるカラスも、いるらしい。雪の下のカラスを思うと、
「淋しい」
と思わず陽子はつぶやいた。
自分の死と、これらのカラスの死と、一体どのようなちがいがあるであろうかと陽子は思った。人間の死も鳥の死も、全く同じであると考えることは淋しかった。
(人間は沢山の思い出をいだいて死ぬのだわ)
何らかの思いを秘めて死ぬならば、その思いは冷たいむくろの中にあってもなお、なまなまと生きつづけるのではないかと陽子は思った。
陽子は徹を思った。自分の出生を知っていて、なおやさしかった徹を思うと、陽子はほんとうに会いたかった。カラスの死骸をさけながら、陽子はドイツトーヒの林の中に入っていった。雪があって、この暗い林も意外にあかるかった。徹が陽子と鬼ごっこをして、この林の中を追ってきた日のことが思い出された。あの時、自分は北原を愛していたのだと思うと、徹の淋しさが今の陽子には切ないほどよくわかった。
(小さい時からよく遊んだ、思い出の多い林だわ)
陽子は一歩一歩深い雪の中を歩くことに、ひどい疲れをおぼえた。やっとの思いで林をぬけると、美瑛川の流れが青くうつくしかった。川風がほおを刺した。川の凍ったところを渡って、陽子はルリ子が殺されたときいていた川原にたどりついた。
陽子は静かに雪の上にすわった。朝の日に輝いて、雪はほのかなくれないを帯びている。
(こんな美しい雪の中で死ねるなんて)
陽子は雪を固くまるめて、それを川の流れにひたした。それを口に入れると同時にカルモチンを飲んだ。いくども雪を川にひたしては、くすりを飲んだ。
(どの位苦しんで死ぬのかしら)
もし、苦しんで罪が消えるものならば、どんなに苦しんでもいいと、陽子は雪の上に横たわった。
徹は駅に降りたつと、すぐに車をひろった。どの店もまだブラインドを閉ざしたままで、へんによそよそしく、自分の街に帰ってきたという感じがなかった。
(何で、こんなに早い汽車で帰る気になったのだろう)
茅ケ崎からの帰途、二、三日札幌でゆっくりするつもりで、徹は昨夜札幌についた。人っけのないガランとした寮には、それでも何人か、帰省せずにアルバイトをして残っている寮生がいた。そんな中で、何もかも忘れて眠りたいと床についたはずなのに、徹は妙にねつかれなかった。何か不安であった。「虫のしらせ」と俗にいう、そんな感じがあった。余程、電話で家人の安否をたずねようかと思った。
一刻もはやく帰りたい。そんな思いで帰ってきて、街がひっそりと静まって人影もまばらな様子をみると、不安は一層色こくなった。眠たそうにむっつりしている運転手に話しかけることも億劫で、徹はいらいらと体をのりだすような姿勢で外をみていた。時計をみた。七時五十分である。
日の丸の旗の出ている家が一軒あった。今日は成人の日だと気づいたのは、その家を二百メートルも過ぎてからだった。祝日で街の夜明けがおそかったのである。街を行く人影のまばらなのも道理だと、徹は苦笑した。
(祝日なら、わが家も八時すぎまで眠っているな)
陽子だけは起きているかも知れないと、徹は思った。今日が成人の日と気づいてから、昨夜からの不安は忘れたように消えていた。陽子に贈ろうとした指輪を徹は思い出した。スーツケースの底から、指輪の小箱を出して、徹は上衣のポケットに入れた。
陽子が北原を愛して、それが幸福ならば、その幸福が永遠のものになるように、せい一ぱいの努力をしてやろうと徹は思った。北原と陽子のためには積極的に何でもしてやろうと、この旅で徹は思うようになっていた。
自分でなければ、陽子をしあわせにすることはできないと思いこんでいたことを徹は恥じていた。
(北原の方が立派な人間だ。万一陽子の出生を知ったとしても、北原なら陽子を愛しつづけてくれるにちがいない)
と、思えるようになっていた。淋しいことではあった。しかし陽子を思うと、ほんとうに心から、陽子が幸福になってほしいとねがわずにはいられなかった。
(かわいそうに。何という運命に生まれてきた奴だろう)
遠くに離れていると、陽子のことが一層身にしみて、あわれに思われてならなかった。
「北原としあわせに暮らす日がくるからね。あと二、三年のしんぼうだよ」
帰って、そう陽子をはげましてやりたかった。家の前で車を降りると、徹は少しきまりの悪いような思いで、わが家をながめた。
裏口の戸はあいたのに、家の中はひっそりとしていた。茶の間には誰もいなかった。ストーブも燃えてはいない。徹はオーバーを着たまま、ストーブの灰をおとした。冬の間は何カ月もストーブの火を絶やすことはない。灰をおとすと、火はすぐに音をたてはじめた。
徹はオーバーを脱ぐと、そっと父母の寝室の前に立った。
「おかあさん、ただいま」
「あら、徹さん?」
夏枝はさめていたようである。
「おかえりなさい。早かったのね。おかあさんも今起きますわ。もう八時ですものね」
徹は寝室のふすまをあけた。夏枝がふとんの上に起きあがって徹をみあげた。
「早いじゃないか」
啓造は寝たまま声をかけた。
「ただいま。茅ケ崎からのおみやげがたくさんありますよ」
徹は部屋を出た。
「お元気でした?」
夏枝がふすまごしにたずねた。
「おじいさんは一年一年若くなるみたいですよ」
徹はそういって廊下を曲がると、陽子の部屋の前に立った。
「陽子、ただいま」
返事がなかった。
「陽子」
めずらしくまだねむっているのかと思った。陽子は朝の早い方である。
「陽子」
やはり返事がなかった。徹はふいに胸が動悸した。思いきってふすまをあけた。陽子はいなかった。今までここにいたという気配もない。部屋はきちんと整頓されている。徹の目は机に釘づけになった。白い角封筒が三つ並べておいてある。徹は思わずかけよった。
父母あて、北原あて、徹あての封書だった。徹は自分あての封筒をひきさくように開いた。手がふるえた。
「死んでごめんなさいね」
の字が目にとびこんできた。
「陽子が、陽子が」
徹は大声で廊下をかけもどった。
「どうした!」
寝巻のまま啓造が顔を出した。
「陽子が、自殺した」
徹はあえぐように叫んだ。啓造があわてて陽子の部屋にかけていった。陽子が部屋で死んでいると思った。夏枝も蒼白な顔で、よろけるように走った。それを見送って、しばらくぼんやりとしていた徹はまもなく陽子の遺書をわしづかみにしたまま、廊下の壁に倒れかかった。かけもどってきた啓造が、
「徹! しっかりするんだ!」
と、叫んで、いきなりほおをなぐった。気を失いそうになっていた徹はハッとした。啓造はすでに電話機にしがみついていた。
「辻口だ。そう、院長の辻口。看護婦二名、胃洗滌用具、ビタカンフル、リンゲル、アンチバルビ。うん、そう、解毒剤だ。以上、至急わたしの家までたのみます」
啓造の緊張した声がきびきびとしていた。
「助かる? おとうさん」
徹は不安げに陽子の顔をのぞいた。家に運びこんでからも、陽子は蒼白な顔で昏睡をつづけている。
「服毒時間がわかれば……」
啓造は言葉をにごした。病院の車が着いて胃を洗滌したのが、八時四十分をすぎていた。服毒後二時間以内なら助かるはずだと啓造は考えていた。
(何とかして助けたい)
ただこの一事だけが、いまの啓造の心を占めていた。啓造はそっと陽子の脈をとった。
「大丈夫? おとうさん」
ふたたび徹がたずねた。
「ヘルツ(心臓)は丈夫だがね。しかし……」
啓造は苦しそうに口をつぐんだ。看護婦二人が陽子の足もとの方にすわっている。二人は啓造を注視して、待機の姿勢をとっていた。
ふすまをあけて夏枝が入ってきた。徹は刺すような視線を夏枝に投げた。夏枝のうしろから辰子が入ってきた。辰子はだまって陽子の顔をのぞきこんだ。辰子はじっと陽子をみつめたまま微動だにしない。どうして、こんなことになったのかとも、助かるかとも辰子はたずねなかった。
夏枝はぐったりとうなだれていた。
(何も死ななくてもいいのに)
自分への面あてのように薬を飲んだ陽子を、夏枝は心の中で責めていた。かわいそうだと思うよりも、自分の立場も考えてみてほしいと夏枝は思っていた。
(このまま死なれたら、人はわたしを何というだろう)
夏枝はそのことが気がかりだった。
「かきおきは?」
しばらくして辰子が低い声で啓造にたずねた。啓造は、ちょっとためらったが、だまって自分たち夫婦にあてた遺書を辰子に手渡した。辰子はきびしい表情で遺書を読んだ。読み終わると、長い指をそろえて瞼をおさえた。涙がつうとほおを伝って落ちた。
それをみると、徹ははじめて悲しみがこみあげてきた。こらえきれずに部屋を出ようとした時だった。にわかに玄関の方がさわがしくなった。辰子がそっと立っていった。
玄関で何かいう声がきこえた。
「何? 薬を飲んだ?」
廊下をドタドタと歩きながら、高木の声が近づいてきた。啓造も夏枝もハッと顔をあげた。さっとふすまが開かれた。
「…………」
高木の大きな体が、入り口一ぱいに立ちはだかっていた。啓造は思わず身をすくませた。高木に何とどなられても仕方がないと思った。その時、高木がのめるようにすわったかと思うと両手をついた。
「すまん。おれがわるかった」
高木のうしろから北原が入ってきた。北原は陽子の枕もとにすわるなり、ねむっている陽子の前に一枚の写真をつきだした。
「陽子さん。やっぱりぼくの思った通りだ。これがあなたのおとうさんおかあさんだったのに……」
思わずみんなの視線が北原の持つ写真にそそがれた。一目見て、啓造も夏枝も徹も辰子も一瞬ハッと息をのんだ。
そこには、陽子を三十歳代にしたような、陽子そっくりの女性と、眉の秀でた知的な和服姿の青年が並んで写っていた。
「すまん。おれがわるかった」
ふたたび高木はそういって、がっくりと頭を垂れたが、すぐに頭をふりあげるようにして、
「いつ飲んだ?」
と陽子の顔をのぞきこんだ。
「時間がはっきりしないが、朝方だろうと思う」
「そうか。ハルン(尿)は?」
「あまり、はかばかしくないんでね」
高木は陽子の手をとって脈をみた。
「プルス(脈)はわるくはないな」
「ああ、ヘルツが丈夫なので、少しは希望を持てるが……」
写真の人を問いただすよりも、いま啓造にとって陽子の命の方が大事だった。
「洗滌は何時だった?」
高木は時計を見た。十二時半である。
「八時四十分をすぎていた」
「四時間たったのか。少しねむりすぎるな」
高木が不安そうに陽子の顔をさしのぞいた。
「うん」
啓造の声も重かった。
「この男を知ってるだろう?」
高木が北原から写真を受けとって、啓造の前においた。
「見たことはあるようだが……」
「理学部にいた中川光夫だよ」
「ああ、中川光夫か」
学部はちがっても、中川光夫の名は大ていの学生が知っているほど、有名な秀才だった。中川光夫は下宿先の、三井恵子と恋愛をした。恵子の夫が出征中に終戦になり、あすにも夫が帰るのではないかという時になって、恵子は妊娠した。二人は困って高木に相談に来た。まだ姦通罪のある時代だった。堕胎も懲役になる時代だった。高木の知り合いの産院の離れにこっそりと五カ月もあずかってもらって、無事生まれたのが陽子だった。
中川光夫は生まれたら自分が引きとるといっていたが、陽子の生まれる半月前に心臓マヒでポックリと死んだ。そのうちに、恵子の夫が復員するという電報が入った。やむなく陽子は乳児院にあずけられた。
「ちょうどそのころだよ。お前が犯人の子をほしいといってきたのは。辻口はあの時、夏枝さんには犯人の子だといわずに育てさせると固く約束したはずだ。そして、辻口は汝の敵を愛せよ≠一生の課題とすると言ったんだ。おぼえているか、辻口」
おぼえているかといわれて啓造はうなだれた。
「おれはお前のその言葉を信じた。辻口のような君子なら、本当に汝の敵を愛せよという言葉を実行するだろうと思った。それなら犯人の子でなくても、だれの子でもかわいがるだろうと思ったんだよ」
徹がきびしい視線を啓造に向けて、高木の話をきいていた。夏枝はすっかり青ざめた顔を、ひくひくとけいれんさせていた。
「正直にいうがね。おれは夏枝さんがかわいそうだった。こんなやさしい人が、犯人の子とも知らずにかわいがって育てるのかと思うと、辻口をつくづく残酷なヤツだと思ったんだ」
啓造は顔をあげることができなかった。
「それで、行きどころのない陽子ちゃんを夏枝さんに育ててもらおうと思った訳だ。おれは辻口が憎くもあった。夏枝さんにおれはほれていたからな」
夏枝の泣く声に高木は口をつぐんだ。
「おじさんは、どうして陽子さんが犯人の子供だと信ずることができたんですか」
さっきから、陽子のそばにうちのめされたようにうずくまっていた北原が顔をあげた。
「高木を信じていたからね」
啓造の声はかすれていた。
「おれも辻口という男は、犯人の子供だということを夏枝さんにはいわずに、本気で汝の敵を愛せよ≠真面目にやる男だと信じていた。人間なんか信用できないと知っていながら、辻口だけは信じていたんだ」
(信頼し合ったことさえ、悲劇になることもある)
啓造は心の中でつぶやいた。お互いに信頼し合いながらも、結局は高木も自分も相手を欺いていたのだと思うと、啓造は背筋の寒くなるような思いがした。どこかがまちがっている。信頼とはこんなものではない、と啓造は思った。
(人間同士は心の底まで見とおすことはできないからな。これがもし、神の前だったら……)
しょせん、高木も自分も神の前に立つということを知らなかったのだと啓造は思った。
(人目はごまかせるからな)
啓造はだまって、陽子の手をとった。
(自分自身さえ、ごまかしてきたおれだ)
ここに、自分をごまかさずに、きびしくみつめた人間がいると、啓造は陽子のかすかにひらいている口もとをみつめた。その時ふいに、
「ゆるして、陽子ちゃん」
夏枝が陽子をゆさぶるように叫んだ。辰子がそっと夏枝の肩をだいて連れ出そうとしたが、夏枝は陽子のふとんにしがみついて泣いた。犯人の子でもないものを、そう思いこんで憎みつづけたことを思うと、夏枝は陽子も自分もあわれでならなかった。
(おれも佐石も、夏枝も村井も、高木も、そして中川光夫も三井恵子も、みんなで陽子をここまで追いやったことになる)
人間の存在そのものが、お互いに思いがけないほど深く、かかわり合い、傷つけ合っていることに、今さらのように啓造はおそれを感じた。
夏枝が辰子にかかえられて部屋を去ると、高木が深いためいきをついた。啓造は思いきったように、高木に遺書をさし出した。裁かれるような気持ちだった。北原あての遺書も、陽子の机の中から出して北原の前においた。
高木と北原がそれぞれに遺書を読んでいる。徹が陽子のプルス(脈)をみていた。啓造はじっと陽子を見守った。
(陽子はだれをも責めずに、自分だけを責めて薬を飲んでしまった)
責められないことの苦痛を啓造は感じた。
(おれさえ、最初から夏枝をゆるしていたら、こんなことにはならなかった)
「かわいそうなことをしたな」
高木は、読み終わった遺書を手に持ったままつぶやいた。そのまま高木は何かを考えているようだった。
相変わらず陽子は昏睡状態だった。
(いつまでねむるのだろう)
脈が少し微弱になったようであった。
「ビタカン」
啓造の声に徹と北原がビクリとしたように顔をあげた。看護婦が注射針をさしても、陽子の顔に動きはなかった。
「何錠飲んだ」
高木は暗い表情になった。
「百錠ぐらいらしい。ふだん時々飲んでいたようで、よくはわからないが」
「そうか、弱ったなあ」
高木が心細そうにつぶやいた。
「もう一日早ければ、陽子さんは自殺しないですんだのに……。残念です」
北原の声も重かった。
「いや、陽子ちゃんは、だれの子に生まれても、いつかは、こういうことになったんじゃないのかな」
高木はいま読んだ遺書を思い浮かべながらいった。
「そうでしょうか」
北原は納得のいかない顔をした。
「まあ、そうだな。罪について、こんなにきびしく意識する人間は、だれの子に生まれても、結局同じ考え方をするようになるだろうな」
「しかし、おばさんがあんなひどいことをいわなければ、こんなことにはならなかったはずですよ」
北原は腹だたしそうにいった。
「そうかも知れない。だが、いつかは同じ罪意識を持つような人間だよ、陽子ちゃんは」
高木はそういって啓造の顔を見た。
(そうかも知れない。おれは犯した罪のことを問題にしているが、陽子は罪の根本について悩んだのだ。姦通によって生まれたということを知っても、苦しむだろうし、何の問題もなく育っても、同じように苦しむ人間なのかも知れない)
啓造は、自分がそこまで悩んだことがないことに気づいた。
夕食時になっても、陽子は昏睡からさめなかった。次第にだれもが無口になった。食卓の前にすわっても、みんな黙然とうなだれていた。
昏睡したまま、ふしぎに陽子の生命は保たれて三日目を迎えた。酸素吸入の音だけがきこえている。二晩一睡もせずに、陽子を看病して、泣いてばかりいた夏枝も、今はただぼんやりとすわっていた。北原も高木も、今朝まで起きていたが、夜が明けると別室でねむってしまった。徹は、ときどきうつらうつらしながらも、陽子の傍から離れない。辰子は目の下に黒いくまができていた。すでにだれもかれもが、疲労しきっていた。
啓造は、陽子の意識がもどることだけを、念じて、じっと見守っていた。しかし陽子はねむりつづけている。啓造は、自分や高木が医師であるということが、今は何のたのみにもならないような気がした。
「だめかも知れない」
つぶやいた啓造の言葉に、徹が顔をあげた。
「だめだって?」
徹の顔がしわくちゃにゆがんだ。
「ああ、何とかして助かってほしいが」
啓造の言葉に徹はポケットから指輪を出した。涙がオパールをぬらした。徹はそっと陽子の手をとった。
「陽子がだれを一番おしたいしているか、今やっとわかりました」
と、遺書にあった言葉を思いながら、オパールの指輪を青白い手にはめてやった。啓造も思わず、涙がこぼれた。
夜になった。依然として陽子の命は絶えそうで絶えなかった。さすがに三晩目になると、夏枝も徹もねむたかった。うとうととしては、何ものかに引きもどされるようにハッと目をさます。そして昏々とねむる陽子を見た。しかし、陽子が死ぬかも知れぬという恐怖が、現実感を伴わずにふたたび眠りにひき入れられた。
今朝少しねむった北原と高木が、やや元気だった。啓造はふらふらになりながらも、陽子の枕もとにすわっていた。打つ手はすべて打った。これ以上何をしていいのか、精も根もつき果てた思いだった。
「今夜かな」
啓造はつぶやいた。お茶を運んできた辰子が、陽子の顔をそっとなでた。
「ねむるだけ、ねむったら早く起きるのよ。全くちがった人生が待っているんだもの」
辰子はつぶやくようにいった。看護婦が四時間ごとの肺炎予防のペニシリンをうった。
啓造はハッとした。注射針をさされた陽子の顔がはじめて苦しそうにゆがんだのだ。
(助かるかも知れない!)
啓造は、陽子の脈をみた。微弱だが、正確なプルスだった。高木も、すばやく手をのばして脈をみた。高木の唇に微笑が浮かんだ。啓造と高木は顔を見あわせて、しずかにうなずいた。啓造は祈るような思いで、陽子の青白い顔をながめた。
ガラス戸ががたがたと鳴った。気がつくと、林が風に鳴っている。また吹雪になるのかも知れない。
創作秘話(一)
「氷点」にまつわる話
三浦光世
小説「氷点」は、綾子が、初めて公の場で書いた小説である。
今までに綾子自身、この「氷点」については少なからず、記事を発表している。が、私にしても思い出すことが多い。多少の重複を承知の上で、少しく詳しく述べておくことにする。
一九六三年一月一日、日が暮れてから、いや夕食後であったか、綾子の父母の家に年始の挨拶に行った。当時、父母の家はタクシーで十数分の距離にあった。その時、母が綾子に言った。
「あのね、秀夫がね、これを綾ちゃんに見せるように言って、出かけて行ったわよ」
見ると朝日新聞である。その社告を指し示されて綾子は手にとった。懸賞小説募集の社告である。
枚数 一千枚
賞金 一千万円
資格 プロ、アマを問わず
綾子は一読して笑った。
「わたしには無縁のことね」
その夜、帰宅していつものように床に就いた。そして翌朝、綾子は私に言った。昨夜一つの小説の粗筋ができたのだという。
「光世さん、書いてもいい?」
どんなことでも、私に許可を求める綾子の言葉だった。むろん賞金の額に目が昏くらんだとは思わなかった。只、愚図の私には珍しく、即答したのが不思議だった。
「いいだろう。神の御名が崇められるようなものを書くといい」
彼女は直ちに全体の構成や、人物設定などを考え始めたようであった。一月九日にはもう執筆を開始している。綾子らしいスピーディーな事の運び方といえた。タイトルを「氷点」と決めたのが一月十二日である。このタイトルは私の提案であった。朝、出勤の途次、乗り換えのバスを待っていて、ふと頭に浮かんだタイトルであった。これを綾子はいい題だと大いに喜んでくれた。
朝日新聞に連載された「氷点」
舞台は、旭川市神楽にある外国樹種見本林を想定した。この見本林は美瑛川の畔に創設された林で、かなりの広さがある。当時私は、旭川営林局に勤務していた。ある日、熊谷猛哉《くまがいたけや》氏が私に言った。
「三浦君、見本林を見たか。いい林だよ。ぜひ一度見に行っておくといい」
熊谷氏は、一九四〇年、中頓別《なかとんべつ》営林署(当時営林区署)の毛登別《けとべつ》伐木事務所の主任であった時、私を検尺補助として採用してくださった。以来大変私を可愛がってくださり、面倒を見てくださった恩人である。
ともあれ、この見本林を一度見ておくようにとの一語は、まことにありがたいことであった。私はお言葉に従って、勤務の昼休みに行って見た。なるほど特有の趣のある林である。一度どころか、私は幾度もこの林に足を運ぶようになった。
そのころ、私は病臥中の綾子(当時堀田姓)を時々見舞に行っていた。ある時、彼女に見本林に行ったことがあるかと、尋ねてみた。
「小学生の時と、女学校の時、遠足で行ったことがあります」
という。それを聞いて、ぜひもう一度あの林に立たせたいと思った私は、見本林に行く度に、再び彼女がここに立ち得るようにと、切に祈るようになった。
その見本林である。正に小説「氷点」にふさわしい舞台であった。もし熊谷氏の勧めがなく、見本林を知らなかったなら、どこに舞台を考えたことであろう。小説もかなり変わったものになり、あるいは「氷点」は到底成功しなかったかもしれない。
人生にとって、たった一言ひとことに大きく左右されることがある。弟秀夫の一言と共に、熊谷氏の一言も、実に大きな影響を私たちにもたらしたことになった。
こうして、綾子はひたすら書きつづけることになっていったが、当時綾子は私の姪隆子を手伝わせて、雑貨店をひらいていた。日中は店に出て物を売り、夜、店の戸をおろしてから床に就く。その就床時の十時頃から、十一時十二時、時には午前一時までも原稿用紙に向かった。寝床に入って腹這いになって書き進めたわけである。一月、二月の厳寒のころは、夜インクも凍る。そのインクを万年筆で突き崩しながら書いたのであった。なにぶん、職場から五十万を借りて建てた家である。寒いことこの上もなかった。
小説の締切期限は一年であった。一九六三年十二月三十一日午前一時頃に脱稿したのであったろうか。それを私が一個の小包にしたのが午前二時、ひと眠りして本局に持っていったのは午前十一時前後であったと思う。十二月三十一日のスタンプがあれば有効ということで、私は局員に明瞭に押してほしいと注文をつけた。
「はい、わかりました。二回押しておきましょう」
と言ってくれた局員の言葉は、今も耳にある。遂に矢は放たれたのである。
「氷点」入選のころ。後ろは姪の隆子。
翌一九六四年、一月になって間もなく、私は急性肺炎になる。「氷点」の原稿のコピーを私が取っていて、その疲れが出たのかもしれない。複写機などは持っていなかった。一枚一枚私が書き写していたのだ。最後のほうはその時間もなく、ままよとばかりコピーを取らずに送り出したのであった。
肺炎は春になって治り、勤務に復することができた。綾子は小説を書いた疲れもなく、至って元気であったが、私の看病で疲れたのか、階段を二、三段踏み外して、尾底骨をしたたかに打ったことがあった。下手をすれば一生からだが不自由になるところを、幸いそこまではいかなかった。
こうして、第一次発表の六月十九日を迎えることになる。その二十五人の中に「氷点」の作品名と、三浦綾子の名があった。次いで六月三十日が第二次発表の日で、十二篇の中に再び「氷点」が登場する。
この第二次発表の一週間程前に、朝日新聞東京本社のデスク、門馬義久《もんまよしひさ》氏が綾子を訪ねて来られた。私は職場に行っていて、綾子だけが応対した。
「あの時は、実は首実検に行ったのでした」
のちに門馬氏は、そう言われた。どうやら、入選圏内の幾篇かが絞られつつあったのかもしれない。門馬氏は、「氷点」が確かに本人の作か、盗作ではないか、過去にいかなる文学的な体験があるのか。今後も文章を書く可能性があるのか。そんなことを、綾子との会話の中でそれとなく判断されたようである。
綾子は小学五年生のころ、大学ノート一冊にびっしり時代小説を書いたという。女学校時代、教師や生徒たちの大きな話題になる作文を書いたとも聞いている。小説は小学生時代から実に多く読んでいる。長じては短歌も学んだ。
が、そんな程度では取るに足らない。一つだけ、主婦の友誌に五十枚の手記を書き、これが入選していた。一九六三年一月号に発表されていて、これはいくらか判断の助けになったかとは思うが、そんなズブの素人がいきなり一千枚の小説に手をつけたのだ。何とも心もとないことではなかったろうか。
しかも「氷点」のテーマは「原罪」である。原罪とは人間が生まれながらに持っている罪を指す。キリスト教の専門用語である。となると文学には馴じまない。文学作品の中に自分の思想信条を盛りこむことは、「主人持ちの文学」として、忌避される傾向がある。もし門馬氏がそれを持ち出せば、それだけで「氷点」は根本的に不可ということになる。
ところが何と、門馬氏は朝日新聞のデスクであると同時に、牧師でもあった。小さい教会ながら、鎌倉山教会において毎週その奉仕もされていたのだ。テーマの原罪に異議をさし挟むはずはなかった。
門馬先生(以来私たちは、氏を先生とお呼びしてきた。特に綾子は、信仰上でも小説の上でも多くの指導を受け、生涯尊敬していた)が、もし牧師でなかったらどうであったろう。評価も、社に帰っての報告も、全くちがったものになったこと、疑う余地がない。明らかに先生のおかげで、「氷点」は日の目を見ることになったと言える。
この第一回の会見を終えて帰られる時、門馬先生は、
「応募原稿は、すべて一日三枚半になっているのですが、もし全篇を一日三枚強に書き直して欲しいということになれば、三浦さんは直せますか」
と言われたという。これに対して、すべてに物怖じしない綾子は、
「はい、できます」
と即答したと、あとで綾子から聞いた。綾子のこと、いとも簡単に答えたにちがいない。
こうして遂に最終発表の一九六四年七月十日が来た。これが小説「氷点」一位入選の日であった。
このあと、新聞連載開始の十二月九日に向けて、綾子は書き直しに努力することになる。雑貨店は八月に閉店した。「小説を書きながら店もつづけられないか」、との声もあったが、「二兎とを追うもの」になってはと、小説一筋で行くことになったのだった。
十二月九日の連載が始まった時、綾子は何十回分を送っていたのだろうか。記憶にない。少なくとも三十回位は送っていたと思うのだが……
新聞小説の挿絵は福田豊四郎画伯で、気骨のある方だった。
「もし節を曲げるようなことがあれば、わたしはあなたの挿絵を描かない」
と言われたこともあった。この世の力や富に妥協するなと戒《いまし》められたようで、私も身の引きしまる思いをしたことだった。
翌年一九六五年、二月か三月ごろ、私はふと思いついたことを、綾子に勧めた。「氷点」の中に、洞爺丸台風の場面を挿入できないかと言ったのである。入賞した原稿には、その場面はなかった。一九五四年、函館港を出帆した青函連絡船洞爺丸は、台風のために座礁転覆、多数の死者を出した。洞爺丸にはアメリカ人宣教師が二人乗っていたが、二人共自分の救命胴衣を日本人に譲って、自らは死んでいったと聞いていた。
これを小説「氷点」の中に組みこめないかと、私は提案したのだ。綾子はこれも直ちにOKして、四月末から五月初めにかけての連休のころ、共に函館、青森に取材旅行をした。旭川から函館まで汽車で六時間余、その日は函館に一泊させればよかったものを、すぐにも夜の海を見せたくて、青森まで強行させた。綾子は幾度もデッキに出て、夜の海を凝視していた。これがきつかったのであろう、翌々日函館の宿で床に就き、医師の来診を乞うことになった。その上、まだ完全によくならぬうちに、連休の休暇がなくなるからと、無理に起こして、旭川まで帰らせた。これも痛恨事の一つとして、いまもって申し訳なく思っている。綾子は終始一貫、私の無理な勧めにもよく従ってくれた。
「氷点」の賞金は前述のとおり一千万円であった。が、国税地方税合わせて四百五十万であった。講演などでこれを語ると、聴衆の皆さんがお笑いになる。なぜ笑われるのかわからないが、「なーんだ。一千万丸々もらわなかったのか」とでも思われるのであろう。それにしても差引五百五十万円、大金であった。私はこの時、人生最大の危機と受けとめ、いっさい私たちのためには使うなと綾子に宣言した。十三年間に及ぶ綾子の療養で、父にはかなりの借財があった。教会や信仰の友などの援助もあった。それらの返礼に用いよと私は言ったのである。
「わたしには背広はもちろん、ネクタイ一本もいらない」
偉そうにそんなことも言った。綾子は、せめてテレビの一台は欲しいと言ったが、これも許さなかった。ふつうなら、大いに抗議して然るべきところを、綾子は決して文句を言わなかった。テレビを買ったのは十年後であった。
なぜそうまで、危機感を抱いたか。人間金があれば何でもできる、と思ったら大変、と自戒したのである。
「金を愛することはもろもろの悪の根である」
と聖書には書いてある。「金銭欲は諸悪の根源」と、私たち夫婦は言い換えて、お互いを戒め合ったものだった。それにしてもテレビくらい買ってもよかったのだが、それもしなかった。横暴な亭主であった。綾子の亡きあと、これも悔やまれてならない。
テレビといえば、「氷点」はテレビドラマにも映画にもなった。テレビドラマになると、二人で綾子の父母の家に、見せてもらいに行った。その頃は父母が隣りに住むようになっていたからである。
「氷点」は五回もテレビドラマになったと聞いた。その全部を覚えていないが、一つは天然色(カラー放送)だったと思う。いわゆる単発の番組もあったはずである。それぞれ特長があったが、何といっても最初にドラマ化された番組は人気があった。白黒で十三回の帯ドラマだった。芦田伸介、新珠三千代《あらたまみちよ》、内藤洋子の俳優諸氏が名演技を見せた。驚異的な視聴率となり、その時間帯には、公衆浴場はガラ空きになったなどといわれた。
映画は山本|薩夫《さつお》監督により、見本林でのロケも行われた。真冬に綾子と二人で見に行ったことを覚えている。映画には船越英二《ふなこしえいじ》、山本|圭《けい》、若尾文子《わかおあやこ》、安田道代の諸氏が出演し、よくまとまっていた。若尾文子さんが、狭いわが家に寄ってくれたことも忘れられない。
「氷点」映画化の際、主演の若尾文子さんと見本林で。
小説「氷点」で書きおとしてはならない一つがあった。主人公の家のモデルである。どんな家にするかと、綾子は「氷点」を書き始めて思いついたのが、藤田|旭山《きよくざん》邸である。昭和初期に建てた家と聞いたが、和風と洋風のその建物はまことに立派な邸宅であった。この家を小説の主人公辻口啓造の家のモデルに使わせていただくことにして、許可を仰ぎ、幾度も取材させていただいた。大きなペチカも珍しかった。藤田旭山氏は俳句の先生で、戦後綾子もその句会で教えを受けている。
そんな関係で実現した次第であったが、この家も見本林同様、小説にぴったりだった。旭山夫人は俳号|月女《つきじよ》という、美しい女性であった。
「いつまでも、明るい話にならないのですね」
と、一度月女さんが綾子に言っていたが、「氷点」の筋は、最後には陽子の自殺未遂に終わり、ありがたくないことだったと思う。むろん、人物をモデルにしたわけではなく、ハウスをモデルにしたわけで、いたしかたもなかった。その旭山先生ご夫妻もとうに亡くなられ、今はご子息の尚久《なおひさ》氏が住まわれている。
主婦の友社『三浦綾子小説選集1 氷点』平成12年12月1日 第1刷発行