TITLE : 三浦綾子小説選集3 塩狩峠 道ありき
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三浦光世選
三浦綾子小説選集3
塩狩峠
道ありき
太陽は再び没せず
目 次
塩狩峠
道ありき
太陽は再び没せず
塩狩峠
(一九六六年)
一《ひと》粒《つぶ》の麦、
地に落ちて死なずば、
唯《ただ》一つにて在《あ》らん、
もし死なば、
多くの果《み》を結ぶべし。
(新約聖書 ヨハネ伝 第一二章 二四節)
鏡
明治十年の二月に永《なが》野《の》信《のぶ》夫《お》は東京の本郷で生まれた。
「お前はほんとうに顔かたちばかりか、気性までおかあさんにそっくりですよ」
祖母のトセがこういう時はきげんの悪い時である。亡き母に似ているということは、決してほめていう言葉ではないことを、信夫は子供心にも知っていた。
(おかあさまって、どんな人だったのだろう?)
母は信夫を生んだ二時間あとに死んだと聞かされている。信夫は今、鏡に向かってつくづくと自分の顔をみつめていた。形のよい円《つぶ》らな目、通った鼻筋、きりっとしまった厚くも薄くもない唇。
(おかあさまは、きれいな人だったんだなあ)
十歳の信夫は、その濃い眉《まゆ》に走る自分の利《き》かん気な表情には気がつかない。
(何でおかあさまにそっくりなのが悪いんだろう?)
信夫はトセの胸の中を知るはずもない。
やがて信夫は口をへの字に曲げてみる。死んだ母親もこんな風な顔をしたのだろうかと信夫は思う。片目をつぶる。眉をつりあげて鏡に向かってにらみつける。ちょっとこわいぞと思う。おちょぼ口をして笑ってみる。
(おかあさまはこんなにして笑ったのかな)
信夫はもう一度笑ってみた。こんどは大きく口をあけて歯をながめた。一本のむしばもなく白い歯がならんでいる。奥に下がっているのどちんこを信夫はじっとみた。
(何でこんなものがあるんだろう)
母にも、こんな妙なものが下がっていたのかと思うと、信夫の胸のあたりが、ふいにへんなかんじがした。ふだんはそれほどにも思っていなかった母が、急に恋しい心持ちになった。信夫は口の中に指をさし入れて、のどちんこにさわろうとしてゲッと吐きそうになった。すると目に涙がにじんだかと思うと、涙がポロポロとこぼれてしまった。
「信夫、何を泣いています?」
うしろで祖母のトセの声がした。祖母はがっしりとした体つきで、怒ると父の貞行よりずっと恐ろしい。だがだいたいにおいて信夫をかわいがってくれたから、信夫は祖母がきらいではなかった。ただ母のことを口にする時の祖母だけは、妙に意地悪くていやであった。
「のどに手を入れたら涙が出たの」
信夫はそういったが、ほんとうは何となく悲しくなって出た涙のようにも思われた。
「ばかなまねをしてはいけませんよ。人前で涙を見せるのは平《※へい》民《みん》です。うちは士《し》族《ぞく》ですから、そんな恥ずかしいことをしてはいけませんよ」
祖母はそういって、信夫のそばにぴたりと坐った。祖母がひざをくずした姿を、信夫は一度もみたことがない。だから女はみんなこうして坐るものと信夫は思っていた。ところがそうでもないことを、信夫はつい先日発見した。
信夫の家に出入りしている小間物屋の六さんという男がいる。六さんは櫛《くし》とか羽織のひも、半えり、糸、はさみなどを、重ねた箱に入れ、からくさ模様の大風呂敷に包んで背負ってくる。
「ごいんきょさま」
六さんはトセのことをそう呼んだ。六さんはこの二、三年ほど前、新潟から東京に出てきたばかりである。トセの故郷も新潟だったから、六さんと祖母は話が合った。西洋フワッションなどという流行語を得意そうにつかったりして、六さんは長いこと台所のあがりがまちで話しこんでいく。
信夫も六さんがくるのを待ちかねていた。六さんが好きなのではない。六さんがときどき連れてくる虎雄という子供がいたからだ。虎雄は信夫より二つ年下の八歳だった。
信夫の父は日本銀行につとめていた。家は本郷の屋敷町にあり近所にはあまり同じ年ごろの子もいなかったせいもあって、信夫は虎雄のくるのが楽しみであった。
いつか信夫は六さんに連れられて、一度虎雄の家に遊びに行ったことがある。ガタゴト音のするどぶ板を踏んで、戸をあけるといきなり部屋があったのに信夫はおどろいた。だがそれよりいっそう信夫をおどろかせたのは、三十ぐらいの女が胸をはだけて、足を横に出したまま食事をしている姿だった。
(女もあんなにぎょうぎが悪いのか)
信夫はつくづくと思ったものである。
今も祖母がきちんとひざをそろえて信夫のそばに坐った時、信夫は何となく虎雄の母の姿を思い出した。
「涙はぜったい人に見せてはいけませんよ」
祖母がくりかえした。
「はい」
と信夫はうなずいてから、
「おばあさま。おばあさまの口をあけてみせて」
とトセのひざに手をかけた。
「どうするんですね、口をあけて」
「のどの奥にこんなものがあるかしらん?」
信夫は大きく口をあけてみせた。
「女が大きな口をあけることは恥ずかしいことなのですよ」
トセは信夫の相手にならなかった。
父の永野貞行は温厚であった。旗《※はた》本《もと》七百石の家に生まれたというよりは、公《く》家《げ》の育ちのような、みやびやかな雰囲気の人柄であった。信夫を勝気な母のトセにまかせたきりで、ほとんど信夫には干渉することもなかった。だから、信夫は父が恐ろしいとも、やさしいとも思わなかった。だが、生まれてはじめて、その父にきびしく叱責される事件が起こった。
もう四月もまぢかな、あたたかい日曜日のことだった。その日も小間物屋の六さんが虎雄を連れて、永野家にきていた。信夫は虎雄と物置の屋根に腹ばいになって、日なたぼっこをしていた。虎雄は名前に似ぬやさしい子で、黒豆を二つならべたような愛らしい目をしていた。
「ちょうちょう ちょうちょう
なのはにとまれ……」
近くの屋敷からきこえてくるオルガンに信夫は耳をすましていた。信夫には、オルガンを弾いているのが、なぜか大好きな根本芳子先生のような気がした。根本先生は色が白く、その細い目がやさしかった。えび茶色のはかまを胸高むなだかにしめて足早に歩く姿が、その辺の女たちとは全く別の人間のように信夫には思われた。
根本先生は毎年一年生ばかり教えている。信夫も一年の時に、根本先生に受け持たれた。先生はよく生徒の頭をなでた。先生が近よってきて、そっと頭をなでると、いたずらをしていたわんぱく小僧たちはもじもじしておとなしくなった。
先生が近よってくると、何かいい匂いが漂う。祖母のトセのようにびんつけ油の匂いとはちがうと信夫は思った。先生と手をつなぐと、やわらかくて、すべすべしていて、信夫の手までつるつるになるような感じだった。
信夫は一年生のとき、根本先生がどこかにお嫁に行ってしまうのではないかと、急に不安になったことがある。
(あした学校に行ったら、先生はもういないかも知れない)
そう思うと信夫は心配でたまらなくなってしまった。
(そうだ。ぼくが根本先生をお嫁さんにすればいいんだ。そしたら先生はずっとどこにも行かずにいてくれる)
名案だと信夫は思った。
翌日休み時間の鐘がなって、生徒たちはぞろぞろと外の運動場に遊びに出た。しかし信夫はぐずぐずと教室に残っていた。
「あら、永野さんはどうしました? 遊びに行かないんですか」
信夫はだまって、こっくりとうなずいた。先生はおどろいて足早に近づいてきた。
「おなかでも痛いのですか?」
先生のいい匂いがした。信夫は首を横にふった。
「じゃ、外へ出て元気に遊びましょうね」
先生は信夫の頭をなでた。
「先生……」
信夫は口ごもった。
「なあに?」
先生は信夫の顔をのぞきこむようにした。
「……あの……ぼくが大きくなったら、先生をお嫁さんにもらうの。だから、それまでどこにも行かないで待っててね」
信夫は思いきって一気に言った。言ってみるとそう恥ずかしくもない。
「お嫁さんに?」
先生はおどろいたようにそう言ってから、
「わかりましたよ」
とにっこりして、信夫の着物の肩あげをちょっとつまんだ。
「ほんとうにどこにも行かないでね」
念を押すと、先生は信夫の手をそっと握って微笑した。信夫はうれしかった。
(もう先生はどこにも行かないぞ)
信夫は得意満面という顔つきで、元気よくバタバタと廊下をかけて外に遊びに出た。
信夫は今三年生である。そんなことを先生に言ったことは忘れている。しかし依然として根本先生は好きだった。廊下で会うと、校長先生におじぎするよりも、もっとていねいにおじぎをする。根本先生と廊下で会った日は一日たのしかった。
「虎ちゃんの先生はやさしいなあ」
虎雄は一年生である。
「うん。うちのおかあさんは物さしを持って追いかけるけどもよ。信ちゃんのおばあさんも物さしで殴る?」
虎雄は先生のことよりも、自分の母親のことが気がかりのようであった。
「いや、おばあさまは殴らない」
いつのまにか、オルガンの音は途だえていた。父に叱られる事件はこのすぐあとに起こった。
「ねえ信ちゃん、あの空の向こうに何があるか知っているかい」
屋根の上でみる空は、下でみる空とどこかちがう。
「知らん」
信夫はきっぱりとした口調で答えた。
「ふうん。三年生でも空の向こうに何があるのか、わからんの」
虎雄の黒豆のような目がにやりと笑った。
「空の向こうに行かなきゃ、わかるわけがないや」
信夫は利かん気に眉をピリリとあげた。
「行かなくっても、わかってらあ」
虎雄は下町の言葉づかいになった。
「ふん、じゃ何がある?」
「おてんとうさまがあるよ」
「なあんだ。ばかだね虎ちゃんは。おてんとうさまは空にあるんだよ」
「うそさ。空の向こうだよ」
「空だよ」
「ちがう! 空の向こうだったら!」
めずらしく虎雄が強情をはった。
「お星さんや、おてんとうさまのあるところが空なんだ」
信夫は断《だん》乎《こ》とした口調でいった。
「うそだい! ずがをかく時、家の屋根のすぐ上は空じゃないか。ここが空だよ」
虎雄は自分の腹ばいになっている屋根の上の空気を、かきまわすように腕を振った。
「あっちだよ、空は」
信夫はゆずらない。
「うそだ! 空の向こうだ」
二人はいつしか自分たちがどこにいるのか忘れていた。二人はにらみ合うようにして物置の屋根の上に立っていた。
「うそだったら!」
虎雄が信夫の胸をついた。信夫は体の重心を失ってよろけた。
「ああっ!」
悲鳴は二人の口からあがった。
(しまった!!)
虎雄が思った時、もんどりうって信夫は地上に落ちていた。
しかし信夫は幸運だった。その日はトセが布団の皮をとって、古綿をござの上に一ぱいに干してあった。信夫はその上に落ちたのである。まっさかさまにころげ落ちたと思ったのに、打ったのは足首であった。
「信ちゃん、ごめんよ」
虎雄が泣きだしそうな顔をして屋根から降りてきた。
「おれはお前に落とされたんじゃないぞ! いいか!」
信夫は眉をしかめて足首をさすりながら言った。
「えっ! なんだって?」
虎雄は信夫の言葉がわからなかった。
「お前がおれをつき落としたなんて、だれにも言うな!」
信夫は命令するように、口早に言った。虎雄はポカンとして信夫をみた。
悲鳴をきいてまずかけつけたのは六さんであった。
「坊ちゃま、どうなさった」
六さんは青い顔をして立っている虎雄をねめつけた。
「なんでもないよ。遊んでいて屋根から落ちたんだ」
「屋根から!」
六さんは叫んだ。そしていきなり虎雄のほおをいやというほど殴りつけた。
「虎! お前だな」
虎雄はいくじなく泣き声をあげた。
「どうしたというのです?」
祖母のトセだった。
「どうも、ごいんきょさま、すみません。虎の奴《やつ》が……」
言いかけた六さんの言葉を信夫が鋭くさえぎった。
「ちがう! ぼくがひとりで落ちたんだ!」
信夫の言葉に六さんの言葉がくしゃくしゃにくずれた。
「坊ちゃま!」
「そんなことより怪《け》我《が》はありませんか」
トセは取り乱してはいなかった。
「大したことはないようですが、お医者さまにつれて行って下さい」
祖母は信夫の顔色をみて六さんに言った。あわてて六さんが信夫をおぶって近所の医者につれて行った。足首の捻《ねん》挫《ざ》だけで骨折はなかった。それでも医者から帰って、一応布団の上にねかされると、信夫は大分つかれていた。
「大したことがなくて結構でした」
貞行が部屋にはいってくると、トセはそう言って、入れ代わりに台所に立って行った。
貞行をみると、六さんがあわててたたみに額をこすりつけた。
「どうも、虎雄がとんだことを致しまして……」
虎雄もしょんぼりとうつむいていた。
「虎雄ちゃんじゃないったら!」
信夫がじれた。
「いったい、どうしたというのだね」
貞行はきちんと正座したままで、おだやかに言った。
「実はこのガキが、物置の屋根から……」
「信夫をつき落としたというのだね」
「はあ」
六さんは鼻に汗をうかべている。
「ちがう。ぼくがひとりで落ちたんだ」
信夫がいらいらと叫んだ。貞行は微笑して、二、三度うなずいた。信夫に年下の友だちをかばう度量のあることが嬉《うれ》しかった。
「そうか。お前がひとりで落ちたのか」
「そうです。ぼく町人の子なんかに屋根から落とされたりするものですか」
信夫の言葉に貞行の顔色がさっと変わった。六さんはうろうろとして貞行を見た。
「信夫っ! もう一度今の言葉を言ってみなさい」
凜《りん》とした貞行の声に信夫は一瞬ためらったが、そのきりりときかん気に結ばれた唇がはっきりと開いた。
「ぼく、町人の子なんかに……」
みなまで言わせずに貞行の手が、信夫のほおを力いっぱいに打った。信夫には何で父の怒りを買ったのかわからない。
「永野家は士族ですよ。町人の子とはちがいます」
祖母のトセはいつも信夫に言っていた。だから、町人の子に屋根からつき落とされたなんて、口が裂けても言えなかったのだ。信夫は父をにらんだ。
(ほめてくれてもいいのに!)
「虎雄君。君の手を見せてほしい」
貞行は虎雄に微笑を見せた。虎雄はおどおどと汚れた小さな手を出した。
「信夫! 虎雄君の指は何本ある?」
「五本です」
殴られたほおがまだひりひりと痛んだ。
「では、信夫の指は何本か? 六本あるとでもいうのか」
信夫はむすっと唇をかんだ。
「信夫。士族の子と町人の子とどこがちがうというのだ? 言ってみなさい」
(ほんとうだ。どこがちがうのだろう)
言われてみると、どこがちがうのか信夫にはわからない。しかし祖母はちがうと言うのだ。
「どこかがちがいます」
信夫はやはりそう思わずにはいられない。
「どこもちがってはいない。目も二つ、耳も二つだ。いいか信夫。福沢諭吉先生は天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず、とおっしゃった。わかるか、信夫」
「…………」
信夫も福沢諭吉の名前だけはよくきいていた。
「いいか。人間はみんな同じなのだ。町人が士族よりいやしいわけではない。いや、むしろ、どんな理由があろうと人を殺したりした士族の方が恥ずかしい人間なのかも知れぬ」
きびしい語調だった。父がこんなきびしい人だとは、信夫はそれまで知らなかった。しかしそれよりも、
「士族の方が恥ずかしい人間かも知れぬ」
と言った言葉が胸をついた。士族はえらいと当然のように思ってきた信夫である。それは雪は白い、火は熱いということと同じように、信夫には当然のことであった。
(ほんとうに人間はみんな同じなのだろうか)
信夫は唇をきりりとかみしめて枕に顔をふせていた。
「信夫。虎雄君たちにあやまりなさい」
厳然として貞行が命じた。
「ぼく……」
信夫はまだ謝罪するほどの気持ちにはなれなかった。
「信夫あやまることができないのか。自分の言った言葉がどれほど悪いことかお前にはわからないのか!」
そう言うや否や、貞行はピタリと両手をついて、おろおろしている六さんと虎雄に向かって深く頭を垂れた。そして、そのまま顔を上げることもしなかった。その父の姿は信夫の胸に深くきざまれて、一生忘れることができなかった。
平民 明治二年(一八六九)に設定された日本国民の族称。従来の「士農工商」のうち、「農工商」をさし、華《か》族《ぞく》(旧大名、公家など爵位を持つ者)、士族(旧武士)の下位。昭和二十二年(一九四七)にすべて廃止された。
旗本 江戸時代、徳川将軍家の直属の家臣で一万石未満、五百石以上の武士をさす。また五百石以下を御《ご》家《け》人《にん》といった。
菊人形
秋も終わりの日曜日であった。澄んだ空に白い雲がひとひら、陽に輝いて浮かんでいる。
縁側でキセルをくわえながら、貞行はしばらくじっと雲をながめていたが、ふと視線をかたわらの信夫にうつした。信夫は描いたような黒い眉を八の字によせて、何か考えている。
「何を考えている?」
貞行は微笑した。
この春に信夫が屋根から落ちた日以来、貞行は信夫をトセにだけまかせてはおけないという気になっていた。無論、信夫が屋根から落ちたからではない。
「町人の子供なんかに落とされるものか」
と言った、あの時の信夫の言葉に、貞行は心を痛めていたからである。貞行は目だたぬ程度に、信夫を見守るようになっていた。今までトセにまかせきりであっただけに急激に介入することはできなかった。トセは激しい気性で、万事自分の思うようにしなければ気のすまない人間であった。
「ぼく、根本芳子先生のことを考えているの」
「根本先生?」
「うん、ぼく一年生の時におならいした先生だよ」
「その先生がどうかしたのか」
いく分憂《ゆう》鬱《うつ》そうな信夫の様子に、根本先生に叱責されたのかと貞行は思った。
「先生をやめて、お嫁に行くんだって……」
信夫がつまらなそうに言った。
「それは、おめでたいお話じゃありませんか」
次の間で縫いものをしていたトセが口をはさんだ。
「おめでたくなんかない」
根本先生が退《や》める話を、信夫はきのうきいたばかりだった。根本先生に、どこにも行かないで自分のお嫁さんになってほしいと頼んだ一年生の時のことを信夫は忘れていた。しかし、先生の退職はやはり淋しかった。廊下で会うと、にっこり笑って礼を返してくれる先生が、もういなくなってしまっては困るのだ。なぜかわからないが無性に淋しいのだ。
「何ですね、信夫、その口のききようは。ほかの学年の先生が退めていかれたって、信夫と何の関係がありますか」
トセが、縫う手をとめて、たしなめた。
(関係だか何だかわからないが、やめて行ったらいやなんだ)
信夫はむっつりとトセをみた。
「そんな女の先生のことなど、男の子は考えるものではありませんよ」
トセはおはぐろを塗った黒い歯をあらわにして、糸をきった。トセの言葉が何となく信夫を不快にさせた。
(何で女の先生のことを、男の子が考えたら悪いんだろう)
「おかあさま。先生をしたうことはよいことではありませんか」
貞行が言った。母のいない信夫が、女の先生をしたうあわれさが貞行の心にしみた。祖母のトセでは母の代わりにはならないのだと貞行は思った。
「男の子が、女の先生を思うなんて、めめしい恥ずかしいことですよ。貞行。お前がいくらすすめても、再婚をしないから、信夫が女の先生などをしたうのですよ」
その口調に、妙に意地の悪いものを感じて、信夫は貞行をみあげた。
「これは、これは」
貞行は苦笑して、キセルの灰をぽんと落とした。
「どうだ、信夫。おとうさまと菊人形を見に行こうか」
貞行はそういって立ちあがった。
「菊人形? ほんとう、おとうさま」
信夫は、貞行につれられて外出することはほとんどなかった。信夫は根本先生のことも、何もかも忘れて貞行のあとにつづいた。嬉しくて下駄の鼻緒がうまく足の指にかからない。
「何ですか。そんなにあわてて、士族の子が見ぐるしい」
トセの声に信夫はちらりと父をみて、
「おばあさま、行ってまいります」
と、大声であいさつをした。手をついてあいさつをしなければ、トセの機嫌が悪いのも、今は信夫は忘れていた。
「菊人形って、団《だん》子《ご》坂《ざか》だね、おとうさま」
父と歩くと、いつも見馴れているはずの家々が、目新しく思われた。垣根越しに見える柿の木でさえ、新鮮に思われた。
「おとうさま、菊人形ってどんなものなの」
貞行は何か考えているらしく返事はない。だが信夫には気にならない。父と歩いているだけで満足であった。
「お人形が菊の花をつけているの? 人が菊の花をつけて立っているの?」
「うむ」
貞行は立ちどまった。
「信夫」
「なあに?」
「いや、何でもない。菊人形をみたら、ラムネでも飲ませようか」
秋の終わりとはいっても、東京の陽ざしはあたたかい。歩いていると汗ばむほどであった。
「ラムネ? ああ、うれしい」
(おばあさまはラムネはおなかに悪いといっていたけれど……)
しかし、一度でいいから、あの玉をぐっと指で押しこんで、シューと泡の吹きあがるラムネを飲んでみたいと、信夫はいくど思ったことだろう。
信夫の嬉しそうな顔をみて、貞行も嬉しかった。
「それから、団子でも食べようか」
父と二人で菊人形をみて、ラムネを飲んだら、それ以上の何を望む気もなかった。
その時、横の小路から五、六歳の色白の女の子がかけてきた。
(かわいい女の子だな)
と、信夫が思ったとき、その子が貞行をみて、パッと顔を輝かせた。
「おとうさま」
女の子はそういったかと思うと、両手を大きくひろげて貞行にしがみついた。貞行はだまって、女の子の手をとった。
「これはぼくのおとうさまだよ。君なんかのおとうさまじゃない」
信夫は、自分も甘えたことのないような、女の子の大胆な甘え方に腹をたてた。
「あら、わたしのおとうさまよ。あなたのじゃないわ」
女の子は敵意のこもった視線を信夫になげた。
「うそだい。おとうさま、うそですよね」
「うそじゃないわ。ねえ、おとうさま」
貞行は当惑気に二人をかわるがわるみていたが、女の子の肩にやさしく手をおいた。
「待子はひとりでこんなところまで遊びにきていたのか。道に迷わないで帰れるかね」
言葉づかいもやさしかった。信夫はかるく口をとがらせた。
「ええ、帰れるわ。……この人、だあれ? おとうさま」
女の子はまだ貞行にしがみついたままだった。
「うむ。……待子の……」
いいさして貞行は、
「ほらあぶない」
と、かけてきた人力車から待子をかばった。どじょうひげの中年の男が乗っていた。
「さあ、行きなさい。おかあさまが待っているよ」
貞行に肩をおされて、女の子はしぶしぶと歩きだしたが、二、三歩いってふり返った。そして信夫をにらみつけるように、みつめたかと思うと、くるりと向き直ってかけていった。
「変な子!」
信夫は女の子のうしろ姿を見送りながら、つぶやいた。貞行はちょっと顔をくもらせて歩きだした。
「ぼくのおとうさまを、自分のおとうさまだなんて、おかしな奴だ」
だが歩いているうちに、信夫は女の子のことは忘れた。菊人形を見に行く楽しみの方が大きかったからである。
菊人形の小屋が近づくにつれて、人通りが激しくなった。
「おとうさま。やっぱり菊人形っておもしろいんだね。こんなにたくさん人が集まっているもの」
信夫は坂道をのぼりながら、珍しそうに行き交う人を眺めた。
「おとうさま。こんなにたくさん人がいるのに、みんなちがう顔をしているよ」
「顔が同じでは、人の見わけがつかないよ」
流行の黒《くろ》衿《えり》の女たち、小さな洋傘をさした洋装の女、かすりの着物を着た男の子、被《ひ》布《ふ》を着た老婦人、そんな中に、ひとりのいざりがいた。
「おとうさま」
「なんだね」
「あのいざりの人も、士族と同じぐらいえらいの?」
信夫は、父のいった「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」の言葉を半分ほど思い出した。言葉は忘れたがとにかく、人間はみんな同じものだと父がいったことだけはおぼえていた。
「ああ、そうだよ。人間というのはね、両手両足がなくても、目が見えなくて、耳がきこえなくても、一言も口がきけなくても、みんな同じ人間なのだよ」
「ふーん」
どうして両手両足がなくても、同じなのか信夫にはまだわからない。
「みんな心というものがある限り、同じ人間なのだよ」
「でも、いい心の人と、悪い心の人があるでしょう? いい心の人は、悪い心の人よりえらいとぼくは思うよ」
「ちょっとむずかしい問題だな。人間にはどの人の心がいいか悪いか、ほんとうの話は見当がつかないんだよ。とにかく、天はどの人間も、上下なく造ったことはまちがいないね」
(そうかなあ)
団子坂の上までくると、もう信夫の胸はわくわくしていた。
人におされおされて、やっと小屋の木戸をはいると、小屋の中は身動きもできないほどの人だった。信夫には、そんな苦しいほど人が大勢いることも楽しかった。
信夫は生まれてはじめて見た菊人形を心から美しいと思った。一番楽しかったのは、まさかりをかついで熊にのった金太郎や、鬼とたたかっている桃太郎、犬、さる、きじであった。
「おばあさまも連れてくるとよかった」
小屋を出てから信夫はいった。
「うむ」
貞行は浮かない返事をした。
(でも、おばあさまときたら、ラムネは飲めないや)
信夫はラムネを忘れてはいなかった。
よしず張りの茶屋にはいって、信夫はラムネをはじめて飲んだ。
「ああ、すーっとした。おいしいね、おとうさま」
「うむ」
貞行は思案するように、腕を組んだまま信夫を見た。
「信夫。……さっきの、あの女の子のことだがね」
「さっきの女の子って?」
信夫はとっさには父の言葉がのみこめなかったが、思い出して、
「ああ、あのなまいきな女の子?」
といまいましげにいった。
「あの子にあったことを、おばあさまには……」
言いかけて貞行は口をつぐんだ。子供に口どめすることがはばかられた。その時、信夫の目の前に腰をかけていた少年が、吹き出たラムネの泡を胸に浴びた。それに気をとられた信夫は、父の言葉をきき流してしまった。
茶屋を出て、人ごみの中を歩きながら、信夫は満足であった。
帰宅するとすでに夕食の仕度ができていた。歩きまわって空腹であろうとのトセの配慮だった。
「おばあさま、菊人形って見たことがあるの」
信夫は箸をとりながらいった。
「食事の間はだまっておあがり」
トセがたしなめた。少し早い夕食だったが、信夫は空腹で、またたく間に食事を終えた。食べ終わってから、何を食べたか思い出せないほどだった。
「あのね、おばあさま。金太郎も桃太郎もあったよ」
「そう。それはよかったですね。きれいでしたか」
「うん、とてもきれい。犬や、さるや、きじだって菊の着物を着ているの。ぼく菊人形って、顔も菊かと思ったら、ちがってたよ」
「菊で顔はつくれませんよ。それから何かおもしろいものがありましたか」
トセはきげんよく相づちをうった。
「四十七士もいたね、おとうさま。雪の中で陣太鼓をたたいているの。あれ、大石良雄かしらん」
「ほう、四十七士がねえ。それなら、おばあさまも見たかったですね」
「でも、人がたくさんでおしつけられましてね。おかあさまにはご無理ですね」
貞行が口をはさんだ。信夫がうなずいていった。
「そうだね。おばあさまは外を歩くと、すぐくたびれるものね。きっと肩もこるかも知れないな」
トセは肩こり性で、三日にあげずあんまにかかっている。
「まあ、そんなにたくさんの人出でしたか。それでは知った人も行っていたでしょうね」
トセは急に肩がこったように、自分の肩をトントンと叩いてみせた。
「それが知らない人ばかりなの。子供や、大人や、洋装の女の人やいろいろいたけれど」
「洋装の女の人?」
トセは眉《まゆ》根《ね》をよせた。
「何だか、異人さんの女みたいだったね、おとうさま」
「そう、それからどんな人がいました?」
「ええと、よくわからない。あんまりたくさんいるんだもの。あ、そうそう、へんな女の子に会ったけれど……」
貞行の顔色がさっと変わったことに、信夫もトセも気づかない。
「へんな女の子って、おこもさんですか」
「ううん、ちがうの」
「どんなふうにへんな女の子ですか」
「それが、うちのおとうさまに抱きついてきて、〈おとうさま〉なんていうんだもの」
「え、何ですって。信夫! 一体それはどこでですか」
はげしい見《けん》幕《まく》であった。子供心に信夫は自分でいってならないことをいってしまったことに気がついた。そっと父の顔をうかがうと、貞行は膝を正してうつむいている。
「信夫、どこでその女の子にあいました?」
きげんのよかったトセの顔が一変している。
「どこだったか……ぼく忘れたけれど……」
信夫はうろたえた。何でトセが怒っているのかが、よくわからないながらも、不安だった。
「では、どんな子供ですか。いくつぐらいでした?」
トセの顔が怒りであからんでいた。
「ぼくより……」
信夫が言いかけた時である。
「申し訳もございません」
貞行が、がっくりと両手をついた。
「どうも様子がおかしいと思ったが……母にかくれて、……そんな、そんな……」
トセの鼻孔が大きくふくらんだ。
「お怒りは、ごもっともですが、そんなにお怒りになっては、お体にさわります」
貞行の声は落ちついていた。それがトセの激怒を買った。トセの体がぶるぶるとふるえた。
「そんな……」
トセの唇がわなないた。
「そんな言葉は……ききたくない! 子供まで……子供まである……」
トセは苦しそうに肩であえいだ。
「しかし、それは……」
貞行がいいかけると、トセは大きく頭を振って、
「……この、親不孝者!」
と大声をはりあげた。その瞬間、トセの体がのめるように、ずしりと音をたてて、たたみに倒れた。
トセはその夜死んだ。脳溢血であった。
母
葬式がすんで、貞行と信夫と、そして新しく雇い入れた女中のツネと三人の生活が始まると、信夫は急にトセが恋しくなった。
学校から帰ってきて、トセのいない家の中にはいると、ふいに淋しくてたまらなくなった。庭で土いじりをしていて、着物を汚すと、
(おばあさまに叱られる)
と思わず縁側の方をふり向いてから、涙をこぼすこともあった。おとぎ話をたくさん知っていて、毎晩きかせてもらったことや、夜半に信夫が咳ひとつしても、起きあがって、肩のあたりをあたたかくしてくれたことなどが思い出された。トセのよいところだけが、次第に信夫の心に残っていった。しかし、なぜあんなに怒って死んだのかと思うと、信夫は、あの女の子のことをいいだした自分が悪いようで、ひどく心が重かった。
年もあけて、トセの四十九日もすんだある夜、いつになく貞行の帰りがおそかった。女中のツネを相手にトランプをしていると、玄関先に人力車のとまる音がした。走って出てみると、父が車から降りるところだった。つづいてもう一台の人力車が門の中にはいってきた。
(だれだろう?)
父が夜おそく客をつれてくることはない。梶棒がおろされ、前のほろが外されると、お高《こ》祖《そ》頭《ず》巾《きん》の女がすらりと降りたった。月の光を受けて、その女のぬれたような目が美しかった。車が去ると女は信夫の肩をかきいだいた。
「信夫さん!」
信夫はうろたえた。恥ずかしいような腹だたしいような気もした。信夫は身をもがくようにして、その女の胸をついた。女は思わずよろけた。
「だれ! この人は」
信夫は父も、その女もいとわしいような気がして、思わずそう叫んだ。
「まあ、とにかく家へはいろう」
貞行はそう言って、信夫の肩に手をかけた。
その女の人は家にはいると、すぐにまっくらな仏間にはいって行った。
(まるで自分の家みたいな顔をして)
信夫は、トセの位《い》牌《はい》にローソクと線香を上げている女のうしろに立って眺めていた。女の人は長いことうつむいていて、なかなか居間にもどらなかった。そのうちに貞行も女の人の傍そばに坐って線香を上げた。しばらく二人は仏壇の前に黙然としていたが、やがて女は、
「お参りさせていただいてありがとうございました」
と、ていねいに貞行の前に手をついた。
居間にもどった貞行は、信夫を手招きして自分の傍らに坐らせた。
「信夫、お前のおかあさまだ」
低いが、声がややふるえていた。
「おかあさまだって?」
ランプの光に、やや青白く見える女を信夫は、じっと見た。
「そうだよ」
貞行に続いて女が何か言おうとした時、
「ぼく、二度目のおかあさまなんて、いりません」
と、信夫が腹だたしげに言った。貞行は女と顔を見合わせた。
「信夫さん。わたしがお前を産んだおかあさまですよ」
女の人は、にじりよるようにして信夫の手をとった。
「うそだ! ぼくのおかあさまは死んだのだ!」
信夫はその手をふり払って叫んだ。
「死んだのではない。よく顔を見てごらん。お前とそっくりではないか」
貞行の言葉に、信夫は再びじっと女の人を見た。言われてみれば、たしかに似ている。そして、自分の顔を鏡にうつして、心ひそかに想像していた母よりも、ずっと美しかった。
「似ているかもしれないけれど……」
「信夫さん!」
女の人は手をのばして信夫の手をとった。その黒い目から涙が溢れおちるのを信夫は見た。
「……生きていたの?」
信夫は変な心持ちがした。長い間死んだとばかり思っていた母が、自分の手を握り、ものを言っているのがふしぎだった。
「生きていましたとも、いつも、あなたのことを思って……」
女の人は信夫を抱きよせようとした。信夫は後ずさりして、
「生きていたのなら、どうして……どうして、この家にいてくれなかったの」
「おばあさまが……菊を、菊というのはおかあさまだがね。おばあさまが、このおかあさまを気に入らなかったのだ。そしておかあさまを出されてしまったのだ」
「そしたら、おとうさまはどうして、そのことを教えてくれなかったの? どうしておかあさまに会わせてくれなかったの? おかあさまは生きているよ、とどうして……どうしてぼくに知らせてくれなかったの」
いつしか信夫は涙声になっていた。
「お前にはほんとうにかわいそうなことをした」
貞行は深いため息をついた。
「大人なんてうそつきだ。ぼくにうそをいうななんて教えて……。おばあさまも、おとうさまも、こんな大うそをついていた」
信夫は、わっと泣き声を上げた。
トセがいたから、それほど淋しくはないにしても、どんなに母が恋しかったろう。死んだ母は、あの星になったのだろうかと、いく度空を見上げたことか。ぼくにもおかあさまがいたらと、よその子が母と連れ立って歩く姿をどんなに羨ましく思ったろう。そんな時に、どうして来てくれなかったのかと、信夫は何ともいえず口《く》惜《や》しかった。
「信夫、何で泣くのだ。おかあさまに会えたのがうれしくはないのか」
貞行がいく分きつい口調でいった。
「あなた、そんなことおっしゃっては信夫がかわいそうですよ。喜んでいいのか、口惜しがっていいのか、わからないのが当たり前ですもの。長いこと一番かわいそうだったのは信夫なんですもの」
信夫はその言葉をきくと、もうこらえきれずにいっそう大きな泣き声を上げた。信夫は、こんなにやさしくかばってくれる人が自分の母かと思うとうれしかった。だがうれしいとばかりもいえなかった。長い間、死んだと思っていた母が、生きてここにいるということが不思議でもあった。
「よい、もうよい。泣かんでもいい」
貞行はそういって信夫の背をなでた。
「とにかく、わかっただろう。それから、いつか会ったあの女の子だが、あれはお前の妹だ。待子という名前だ」
信夫は泣くことも忘れて父を見た。
(あのなまいきな奴が、妹だって?)
坂道をかけて行った女の子の姿を、信夫は思い浮かべた。
(ちき生、あれが妹か)
信夫は、自分にも妹か弟がほしいと、どんなに思ったことだろう。あの六さんの子の虎雄と仲よくなったのも、きょうだいがいないためだった。
(あの女の子なら、きっとおてんばだぞ)
そう思っただけで信夫はうれしくてたまらなくなった。あの子をつれて、どこにでも遊びに行く自分を想像して、信夫は心がはずんだ。
「……だけど、どうしておばあさまは、おかあさまを出してしまったの」
おかあさまという言葉が自然に出てしまってから、信夫は恥ずかしくなった。
「おかあさまが至らなかったからです。おばあさまのせいではありませんよ」
母が、信夫の涙をそっと拭《ぬぐ》ってくれた。
(何だ。この人は自分をおい出したおばあさまを、どうして悪く言わないのだろう?)
そう思った時、貞行が言った。
「むずかしいことは、お前が大きくなったらわかるだろうがね。実はおかあさまはね……」
言いかけて、貞行は菊の顔を見た。菊がやさしく微笑してうなずいた。
「おかあさまはキリスト信者なのだ。ところが、おばあさまはたいそうなヤ《※》ソ嫌いでね。ヤソの嫁はこの家におけないと、出してしまわれた」
「ヤソだって?」
信夫は急におびえた顔になった。ヤソというのが何であるかを信夫は知らない。しかし、トセがヤソというのは、人の血をすすったり、人の肉を食べるのだと言っていたことを思い出した。それから、ヤソは日本の国を亡ぼすために、いろいろ恐ろしいことをやっているとか、魔法をつかって、人をたぶらかす悪者だとか、言っていたことも忘れてはいなかった。
要するに、信夫にとっては、ヤソとは許すことのできない悪い者であった。そのヤソに母がなっているときいて信夫はうす気味悪くなった。やさしそうな声をして、何をしでかすかわからないような気がした。おばあさまが、母のことを死んだと言ったのがわかるようにも思った。死んだ母の方が、ヤソの母よりもいいに決まっていると、信夫はそっと母をみた。
ヤソさん ヤソさん
お馬の小屋で
生まれたなんて
おかしいな
トコトンヤレトンヤレナ
子供たちが、時々「宮さん宮さん」の替え歌をうたって、路傍伝道をしているキリスト信者の男をからかっていたのも、信夫は知っていた。
「よう、来たな。きょうはひとつおもしろい話をしてやろう」
男がいうと、子供たちは急に浮き足だって、わあっと逃げた。
(とにかくヤソがいいわけがない)
「いやだなあ、ヤソなんて」
信夫はむずかしい顔になった。貞行と菊はだまって、やさしく信夫を見守った。
「あしたから来ますからね」
そう言って、菊はその夜帰って行った。
貞行は、菊が出て行かなければならなかったころのことを思った。菊はトセの知人の娘で、トセのメガネにかなって貞行と結婚した。だが、結婚して三年ほどたったころ、菊がキリスト信者であることをトセは知った。トセは、貞行と菊を呼びつけて叱った。
「貞行、お前は今まで、菊がヤソだということに気づかなかったのですか」
貞行は知っていた。しかし頑《かたくな》なトセに育てられた貞行は、少年のころからかえって次第に進歩的な人間に成長していた。ヤソ、ヤソと母がキリスト教徒を目の仇にすることが、貞行には合点が行かなかった。
「知っていました」
「まあ、知っていて今まで何とも思わずに、夫婦になっていたのですか」
けがらわしいと言わんばかりであった。
「キリスト信者だからと言って、別段いけないこともありますまい」
貞行はトセに口答えをしたことはない。トセがいきり立つと手のつけられなくなる人間であることを知っていたからだ。貞行は父の血を受けておだやかな性格だった。だがきょうは、事情がちがった。貞行は菊をかばってやらねばならなかった。
「まあ、何ということを言います。それ、その通り母に向かって口を返すのは、ヤソの魔法にかかった証拠ですよ。恐ろしい」
トセは怒った。
「魔法などと……そのようなものが文明開化の今の時代にあるわけがありません。キリスト信者は別に悪いとわたしには思われませんが……」
「日本古来の神仏があるのに、何も毛《※け》唐《とう》の拝む神を拝むことは要《い》りません。それが日本人としてどんなに恥ずかしいことかわからないのですか」
「おかあさま、おかあさまの拝む仏教だって、奈良時代に外国からはいってきた宗教ですよ」
貞行は呆れたように言った。
「貞行。また口を返しますか。とにかく、永野家にヤソの嫁はおけません。菊! この家を出てもらいましょう」
「それは、ひどい!」
思わず貞行はトセをにらんで、
「菊には何の罪もないものを……」
「では、この母を去らしてもらいましょう。貞行、お前は母を捨てて、ヤソの菊と一生暮らすがよい」
トセはいきりたった。それまで、だまってうつむいていた菊が顔をあげた。
「おかあさま。どうぞお許しになって……」
キリスト信者になると、実の息子でも勘当されることが多かった。トセだけが頑迷だとは言えない時代であった。
「嫁がヤソだったから離縁しました」
と言っても、世間の人々は、
「それは、それは。嫁がヤソでは致し方ございませんな」
と答えて、姑《しゆうとめ》や夫を非難することはほとんどなかった。
「菊、許せというのは、ヤソをやめるということですか」
トセは疑わしそうに菊をみた。一度ヤソになった人間の中には、召しとられて火あぶりになっても、その心を変えない人間がいると、トセはきいていた。
「…………」
案の上、菊はうつむいたまま何とも答えない。
「菊。去っていただきましょう」
トセのきっぱりとした言葉に、菊は青ざめた。貞行は、
「おかあさま、そうまでおっしゃらなくても、信夫もいることですし、わたしからよく言ってきかせますから」
と、手をついた。
「お前が菊に言ってきかせることができますか。今、そんなことを言うくらいなら、なぜ先に言ってきかせなかったのです?
菊! 菊はそんなにヤソが大事ですか。この家を去られても、ヤソから離れられないのですか」
トセは、菊の強情に腹が立った。離縁すると言えば、信夫という子供もいることだし、心を改めて許してくれと言うはずだと思った。何も言わずに、ただうつむいている菊の顔が、ひどくふてぶてしく思われた。
〈人の前で我を否定する者を、我もまた天の父の前で否定する〉
というキリストの教えを菊は思っていた。菊はその言葉を心の中で繰り返していた。
(わたしは信じている。たとえ殺すと言われても、わたしはイエス・キリストを否むことはできない)
菊は、迫害されて十字架につけられた、イエス・キリストを思った。十字架につけられたイエスが、祈った言葉を思った。
〈父よ、彼らを許したまえ。その為す所を知らざればなり〉
今、菊はトセが気の毒だった。最愛の夫と子をおいて去れという姑が哀れであった。キリストを知らずに、信ずる者を責めたてているトセが気の毒だった。
(だれだって、みんなヤソ、ヤソときらうんだもの。おかあさまが怒られるのは無理もない)
菊は、夫や信夫と別れるのは死ぬよりも辛かった。幼い信夫のために、
「もう、キリストは信じませんから」
と、あやまろうかと幾度か思った。だが、口先だけではあっても、キリストを否定することは菊には不可能であった。それは神を否定すると同時に姑を欺くことでもあった。菊の純真な信仰は、口先だけで事を済ませることを恥じた。
(だけど、信夫と別れなければならない。母を失った信夫はどんな生涯を送ることだろう)
菊は進退きわまった。ともすれば心がくずおれそうであった。
(でも、いよいよとなれば、信夫のことは神さまにおまかせするより仕方がないかもしれない)
やっと歩きかけた信夫の、愛らしい顔を思うと、菊は涙がこぼれた。
「やはり、ヤソは鬼ですね。わが子と別れようが、わが夫と別れようが、かまわないというのですからね」
トセは、呆れたように言った。別れさせようとしている自分の方が鬼だとはトセは思わない。士族ともあろう者が、邪教といわれる宗教を信ずることは断じて許すことができないのである。
「おかあさま。わたしは菊を去る気はないのですが……」
貞行は言いかけると、
「おだまり! 菊は永野家の嫁です。母の目の黒いうちは、ヤソの嫁をおくことはできません。どうしても菊をこの家におきたいのなら、わたしが去りましょう。ヤソの嫁をおいたとあってはご先祖さまに申しわけがたちません」
と、トセには妥協のすきがなかった。寝室に引きとった貞行も菊も、すやすやと眠る信夫の顔をだまってのぞきこんだ。
「申しわけございません」
菊は貞行の前に手をついた。
「いや、母が頑迷なのだ。許してほしい」
「とんでもございません。みんなわたしが至らないからですもの。いっそのこと、もう信じませんと申し上げた方がとも思いますけれども……」
「菊。節は曲げるなよ」
それは貞行がよく父に言われた言葉である。今の世に受け入れられない信仰を持っている少数のキリスト教徒が、貞行には尊敬すべき人々に思われた。自分がその信仰は持ち得ないにしても、最愛の妻にはその道を全うさせてやりたかった。
「言いだしたら、決して後へひくことのない母だ。といって、まさか母に去り状を書くわけにも行くまい、この家さえ出れば何をしようと菊の自由なのだ。たとえ菊の所に男が通ったとしても……」
「男など……そんな、お恨みいたします」
「いや、よく後まで聞くことだ。その通い男が、このわたしであってもいいではないか。どうだ、菊」
「まあ」
菊は涙をこぼした。
信夫を連れていくことはトセが許すまい。そのうちに、トセも孫不憫さで、菊を家に入れると言わんでもないと、貞行は思案した。
勤め先の日本銀行と、自宅の本郷弓《ゆみ》町《ちよう》との間に、菊の家を定め、菊の実家の内諾を得て、菊は永野の家を去って行った。母にさからって菊を家においたとしても、永野家はもはや、菊にとって安住の地ではあり得ないと貞行は思った。
菊が家を出ると、トセは菊をののしった。
「あんな女は、信夫の母とは言わせない。わが子よりも、キリストとやらの方がいい母など決して母などと呼ばせません」
そしてトセは、お前の母は死んだと信夫に言いきかせて育てたのである。
(今は辛くても、きっとこのことも、結果としてはよいことであったという日が来る。神が生きておられる以上、信夫のことも、神が守って下さるにちがいない)
菊はそう思って耐えてきた。
ヤソ キリスト教徒のこと。イエスの近代中国語訳「耶蘇」を日本語読みにしたことに由来する。
毛唐 毛唐人の略。江戸時代、中国人に使われた蔑称だが、明治時代以降はもっぱら欧米人をこのように呼んだ。
桜の下
菊は翌日、信夫の妹の待子をつれてふたたび永野家の人となった。信夫が学校から帰ってくると、待子が門のそばで、地面に何やら書いて遊んでいた。
「あら、ここはわたしの家よ」
信夫をみて立ち上がった待子は、両手をひろげて通せんぼをした。
口をきりっとしめて通せんぼをしている待子の顔を、信夫はまじまじとみた。
(これがぼくの妹なんだ)
待子は目がくるりとした丸顔で色が白い。きりっとむすんだ口もとが生意気なのも愛らしかった。妹だと思うと信夫はうれしくて、わざとだまって待子の横をすりぬけようとした。待子は、
「だめよ。ここはわたしの家よ」
と、ゆずらない。
(ふん、チビのくせにいばっている)
ぼくはお前の兄なんだと信夫は言いたくてたまらなかった。信夫はだまって待子を見おろした。そのおかっぱ頭は、信夫の肩ほどの背丈もない。
「あら、信夫さん。おかえりなさい」
菊が玄関から姿をあらわした。信夫は何となくあかくなって、ぺこんとおじぎをした。
「まあ、待子。おにいさんに向かって何ですか」
菊がやさしくたしなめた。
「あら、この人がおにいさん?」
たちまち待子はあかるい笑顔になって、
「おにいさん。待子、知らなかったの。ねえ、待子、あねさま人形を持っているの。遊びましょうよ」
と信夫の手をひっぱった。そのふっくらとした小さな手の感触が、妙にくすぐったくこころよかった。甘える声も愛らしかった。しかし信夫は何となく恥ずかしくなって、
「うん」
と言ったまま、さっさと家の中にかけこんでしまった。
「信夫さん、おひるですよ」
菊が信夫のそばにきて肩に手をかけた。根本芳子先生のようないい匂いがして、信夫はうれしかった。膳につくと、待子が信夫のひざに手をかけて、
「あとでお手玉しましょうね」
と、重大そうに耳にささやいた。
(甘えん坊だな)
そう思いながら、信夫が、
「いただきます」
と箸をとった時、待子がびっくりしたように言った。
「あら、おにいさん。お祈りをしないの」
「お祈りなんかしないよ」
「おかしいわ。神さまにお祈りもしないなんて。ねえおかあさま」
「いいえ、おにいさんはいいんですよ、まだ」
菊はそう言って、しずかに祈りはじめた。信夫は両手を組んで、祈っている母と待子をだまってみつめていた。祈り終わると、待子が大きな声で、
「アーメン」
と言った。
ふっと、信夫は淋しくなった。自分だけが除《の》け者にされたような気がした。
(おばあさまなんか、お祈りをしなかったのに)
信夫は不満だった。
信夫は皿の上の黄色い半月型のものが何であるかわからなかった。祖母も、女中のツネも、こんなものは作ってくれたことはない。待子がそれをおいしそうに食べているのをながめながら、信夫は漬物ばかり食べていた。
「あら、信夫さんは卵焼きがきらいでしたか」
菊にきかれて、信夫はだまって箸をつけた。きらいも好きもない。食べたことがないのだからと、信夫は箸の先にいらだたしいような思いをこめて、卵焼きをつついた。一口ほおばって、信夫はびっくりした。こんなおいしいものが、この世にあったのかとおどろいた。
(卵焼きって名前はきいていたけれど、そうか、これが卵焼きか。待子はこんなおいしいものを、いつも食べていたんだな)
信夫は待子にねたましさを感じた。祖母のトセは肉も卵も食べなかった。魚とか、野菜の煮付けとかが永野家のおかずであった。
夕方になって父の貞行が帰ってきた。待子は、いつか道で会った時のように、大手をひろげて貞行の腰にまつわりついた。信夫は、おかえりなさいとあいさつすることも忘れて、ぼんやりとそれを眺めていた。貞行が、ちらりとその信夫をみて、肩をたたいた。
「どうした、元気がないぞ」
「何でもない」
信夫はちょっとすねたようにいって、貞行の顔をみなかった。
夕食の時、信夫は箸をとろうとして、ハッとした。貞行も菊も待子も、じっと頭をたれている。菊が祈りはじめた。信夫は、
(かまうものか。ぼくはヤソじゃない)
と、箸をとった。菊が祈り終わったとき、貞行も待子と共に、
「アーメン」
と言った。貞行が「アーメン」という声をきいて、信夫は父にうらぎられたような感じがした。
(何だ。今まで、おとうさまだって祈ったことがなかったのに。アーメンなんて言ったこともないのに)
信夫は父が少しきらいになったような気がした。
寒い日曜日の朝だった。信夫が目をさました時は、もう貞行も待子も起きていた。朝食が終わると、待子はよそゆきのちりめんの被布に着がえて信夫に言った。
「おにいさん、早く教会に行きましょうよ」
「教会って、何さ」
「あら、教会って、おいのりをしたり、お話をきいたり、それからうたをうたうのよ」
「ふーん」
嬉しそうに片足をあげて部屋の中をはねまわっている待子を、信夫はだまってみていた。
「信夫さんもまいりましょうか」
菊は黒い羽織を着ていて、それがよく似合うと信夫は思った。
「いや、行かない」
信夫は内心、母と一緒に外出したいような気がした。しかし、教会に行くのはいやだった。いやというよりうす気味が悪いといった方がほんとうだった。
菊と待子が出て行くと、貞行は火鉢に手をかざして本を読みはじめた。信夫は凧《たこ》でもあげに外に出ようと思ったが、妙に気がのらない。仕方なく本を読んでいる貞行のそばでぼんやりとしていた。
「どうした」
貞行が本から信夫に視線をうつした。
「おかあさまは、いつも日曜日には教会に行くの?」
「まあ、そうだね」
「ヤソなんて、やめればいいのに……」
信夫は腹だたしそうにいった。
「信夫」
貞行は本をたたみの上においた。あらたまった声である。
「はい」
信夫もあらたまって返事をした。
「人間には、命をかけても守らなければならないことがあるものだよ。わかるか?」
何のことか、信夫には見当がつきかねた。
「大人になったら、またよく話をしてあげるがね。おばあさまは、キリスト教ぎらいだったので、おかあさまを出してしまわれたのだ。お前が赤ん坊の時だった」
「どうして、ぼくも連れていかなかったの」
明るい陽ざしに、部屋もあたたかくなってきた。
「おばあさまが、いけないとおっしゃったのだ」
貞行は信夫にこんな話がわかるかとあやぶんだ。
「じゃ、ヤソをやめて、家にいてくれればよかった」
信夫は不満をかくさない。
「だがね、信夫。人間には、やめることのできるものと、できないものとがあるんだよ」
「だって、ぼくよりもヤソが大事だったの?」
信夫に菊の気持ちがわかるはずはない。
「そうかも知れない。おかあさまは、たとえはりつけになっても、信者であることをやめなかっただろうな」
「はりつけって、どんなこと?」
「そうだね、ちょっと待っていなさい」
貞行は立ちあがって寝室に行ったが、やがて一枚の小さなカードを持って、もどってきた。
「信夫、はりつけとは、こんなことだよ」
カードを手にとった信夫は、一目見てハッとした。それは今まで見たこともない、きれいな色刷りの絵だが、そこにえがかれているものは、むごたらしいものだった。両手両足を釘にうたれ、その脇腹から血を流している十字架の上のやせたキリストがいた。信夫はしばらく息をつめて、その絵をみつめていた。
「それをはりつけというのだ」
信夫は、母がはだかにされて、こんなむごいはりつけになったらと、思っただけでも身ぶるいがした。こんな目にあっても、ヤソをやめないという母の気持ちが、信夫には無気味だった。
「この人は、よっぽど悪いことをしたんだね、おとうさま」
信夫の声は少しかすれた。まだ三年生の信夫に、このはりつけの絵は強烈でありすぎた。
「いや、このイエス・キリストは何も悪いことをしなかった。人の病気を治してやったり、神様のお話をしたり、人々をかわいがってやったのだよ」
「いいことをしていたのに、はりつけになったの? ひどいな。それはひどいよ」
高等科の生徒の中には、学校の廊下を歩いている信夫たちの頭をいきなり殴ったり、背中を叩いたりするのが何人かいる。殴られただけでも、利かん気の信夫は腹がにえくりかえるほど口惜しくて、自分より大きな生徒にかかってゆく。まして、よいことばかりしていたのに、こんなはりつけにされては、どんなに口惜しくて残念だろうと、信夫は涙が出そうだった。
「ひどいだろう?」
貞行はそう言って、自分もカードをながめた。
「怒ったでしょう? このイエスという人は」
「いや、それが怒らなかったのだな。その反対だったそうだよ。神さま、どうかこの人たちをゆるしてあげて下さい。この人たちは、自分が何をしているかわからない、かわいそうな人たちですからと、はりつけにした奴たちのために祈ったそうだよ」
「ふーん」
イエスというのは変な奴だと信夫は思った。怒らなかったのは、やっぱり何か悪いことをしたからだとしか信夫には思えない。
(やっぱりヤソって変なものだな)
信夫には、ただはりつけのむごたらしさだけが心に残った。
もう汗ばむぐらい暑いことがあって、校庭の桜が満開だった。四年生になった信夫は級長になった。先生の仕事を手伝い、少しおくれて学校を出ると、一番大きな桜の木の下で、同級生が十人ほどかたまって何かひそひそと話し合っていた。信夫が近づくと、みんなはちょっと顔を見合わせてから、信夫のために場所をひらいた。
「何かあったの」
「知らないのか? 高等科の便所に女の髪の毛があったんだって。そして血がいっぱい落ちているんだって」
重大そうに答えたのはクラス一のガキ大将松井である。
「知らないな」
「そしてな、夜、女の泣き声がきこえるんだとよ。おばけが出るんじゃないかな」
副級長の大竹が恐ろしそうにつけくわえた。
「いったいだれがその泣き声をきいたのさ」
信夫はおちついて言った。
「知らん。知らんけれどほんとうらしいよ。なあ」
松井がみんなの顔を見た。みんな一《いつ》斉《せい》にまじめな顔でうなずいた。信夫はばかばかしそうに笑った。
「うそだよ、そんなこと」
「うそだって、どうして永野にわかるんだ? みんなはほんとうにおばけが出るって言ってるんだぞ」
松井の言葉に、そうだ、そうだというように、生徒たちはうなずいた。信夫は少し困ったが、言い返した。
「だって、おばけなんかいないって、おとうさまが言っていたもの」
「うちのとうさんは、おばけを見たことがあるって」
「うん、うちでも、おばけはほんとうにいるって、いつでも言うよ」
みんな、いるいると口々に言った。たしかにおとなも幽霊やおばけの存在を信ずる者が多かった。
「そんなものはいないよ」
信夫が断乎として言った。
「そうかい。じゃ、ほんとうにおばけが出るかどうか、今夜八時にこの木の下に集まることにしないか」
松井が言った。みんなおしだまってしまった。そっとどこかに行くふりをして離れた者もいた。
「どうする? 集まらないのか?」
松井が返事をうながした。風が吹いて、うつむいている男の子供たちの上に、桜の花びらが降りしきった。
「みんなで集まるんだから、こわくはないぜ」
「そうだ。みんなで夜集まるのはおもしろいぞ」
副級長の大竹が、ガキ大将の言葉に賛成した。
「永野はくるだろうな」
松井は、逃がさないぞという顔をした。
「くるよ。今夜八時にここに集まるのだな」
信夫は級長らしい落ちつきを見せてうなずいた。
「よし。じゃ、みんなもくるだろうな。どんなことがあってもな」
松井はそういって一同を見まわした。みんな口々に「うん」といった。
夕食の時になって、雨がぼつぼつ降りだしていたが、七時をすぎたころには、雨に風をまじえていた。
「おかあさま、ぼくこれから学校に行ってもいい?」
さっきから、暗い外をながめていた信夫がいった。
「まあ、これから学校にどんな用事がありますの」
菊はおどろいて、信夫を見た。
「つまらないことなんだけれど……。そうだ。行ってもつまらないことだから、やめようかな」
信夫はふたたび外を見た。雨の音が激しかった。
「何かあるのか」
新聞を見ていた貞行が顔をあげた。
「高等科の便所に夜になると女の泣き声がするんだって。みんなで今夜集まって、それがおばけかどうか見るんだって」
「まあ、おばけなんて、この世にいるわけがありませんよ。そんなことで、こんな雨降りに出かけることはありませんよ。ねえ、あなた」
菊はおかしそうに笑った。貞行は腕を組んだまま、少しむずかしい顔をしていた。
「ええ、ぼく、行かないよ。こんなに雨が降ってきたらだれも集まらないのに決まっているから」
「そうか。やめるのはいいが、信夫はいったい、みんなとどんな約束をしたんだね」
「今夜、八時に桜の木の下に集まるって」
「そう約束したんだね。約束したが、やめるのかね」
貞行はじっと信夫をみつめた。
「約束したことはしたけれど、行かなくてもいいんです。おばけがいるかどうかなんて、つまらないから」
こんな雨の中を出ていかなければならないほど、大事なことではないと信夫は考えた。
「信夫、行っておいで」
貞行がおだやかにいった。
「はい。……でも、こんなに雨が降っているんだもの」
「そうか。雨が降ったら行かなくてもいいという約束だったのか」
貞行の声がきびしかった。
「いいえ。雨が降った時はどうするか決めていなかったの」
信夫はおずおずと貞行を見た。
「約束を破るのは、犬猫に劣るものだよ。犬や猫は約束などしないから、破りようもない。人間よりかしこいようなものだ」
(だけど、大した約束でもないのに)
信夫は不満そうに口をとがらせた。
「信夫。守らなくてもいい約束なら、はじめからしないことだな」
信夫の心を見通すように貞行はいった。
「はい」
しぶしぶと信夫は立ちあがった。
「わたくしもいっしょにまいります」
菊も立ちあがった。待子はすでに夕食の途中でねむってしまっている。
「菊。信夫は四年生の男子だ。ひとりで行けないことはあるまい」
学校までは四、五丁ある。菊は困ったように貞行を見た。
外に出て、何歩も歩かぬうちに、信夫はたちまち雨でずぶぬれになってしまった。まっくらな道を、信夫は爪先でさぐるように歩いていった。思ったほど風はひどくはないが、それでも雨にぬれた、まっくらな道は歩きづらい。四年間歩きなれた道ではあっても、ひるの道とは全く勝手がちがった。
(つまらない約束をするんじゃなかった)
信夫はいくども後悔していた。
(どうせだれもきているわけはないのに)
信夫は貞行の仕打ちが不満だった。ぬかるみに足をとられて、信夫は歩きなずんだ。春の雨とはいいながら、ずぶ濡れになった体が冷えてきた。
(約束というものは、こんなにまでして守らなければならないものだろうか)
わずか四、五丁の道が、何十丁もの道のりに思われて、信夫は泣きたくなった。
やっと校庭にたどりついたころは、さいわい雨が小降りになっていた。暗い校庭はしんとしずまりかえって、何の音もしない。だれかきているかと耳をすましたが話し声はなかった。ほんとうにどこからか女のすすり泣く声がきこえてくるような、無気味なしずけさだった。集合場所である桜の木の下に近づくと、
「誰だ」
と、ふいに声がかかった。信夫はぎくりとした。
「永野だ」
「何だ、信夫か」
信夫の前の席に並んでいる吉川修《おさむ》の声だった。吉川はふだん目立たないが、落ちついて学力のある生徒だった。
「ああ、吉川か。ひどい雨なのによくきたな」
だれもくるはずがないと決めていただけに、信夫はおどろいた。
「だって約束だからな」
淡々とした吉川の言葉が大人っぽくひびいた。
(約束だからな)
信夫は吉川の言葉を心の中でつぶやいてみた。するとふしぎなことに、「約束」という言葉の持つ、ずしりとした重さが、信夫にもわかったような気がした。
(ぼくはおとうさまに行けといわれたから、仕方なくきたのだ。約束だからきたのではない)
信夫は急にはずかしくなった。吉川修が一段えらい人間に思われた。日ごろ、級長としての誇りを持っていたことが、ひどくつまらなく思われた。
「みんな、こないじゃないか」
信夫はいった。
「うん」
「どんなことがあっても集まるって約束したのにな」
信夫はもう、自分は約束を守ってここにきたような気になっていた。
「雨降りだから、仕方がないよ」
吉川がいった。その声に俺《おれ》は約束を守ったぞというひびきがなかった。信夫は吉川をほんとうにえらいと思った。
かくれんぼ
「永野は大きくなったら、何になるつもりだ」
吉川修が信夫にたずねた。あの雨の夜に、校庭の桜の木の下まで行ったのは、信夫と吉川だけであった。それ以来、級友の誰もが二人に一目おくようになり、自然、信夫と吉川は親しくなっていった。
六月にはいった今日、信夫は吉川の家にはじめて遊びにきていた。家には吉川修だけがいた。吉川の家には信夫の家のような門も庭もない。信夫の屋敷の三分の一もない三間ほどの二戸建ての家である。よしずでかこった出窓に植木鉢が並べられ、窓のすぐそばを人が通る。窓すれすれに人が通るということが、信夫には珍しかった。吉川の父は郵便局につとめていた。
「大きくなったらか?」
信夫は吉川の丸いおだやかな顔をながめた。どうして、こんなに吉川が好きになったのだろうと信夫はふしぎに思っている。いや、どうして今まで吉川と仲よしにならなかったのか、ふしぎだといった方が的確だった。信夫にとって吉川は、あの雨の夜、突然桜の木の下に現れた人間のような存在だった。あの夜までは、信夫は吉川に注意を払ったことがない。吉川は口重で、目立たなかった。
「吉川は何になる?」
信夫は問い返した。信夫自身、とりたてて何になろうと思ったことがない。男の子らしく軍人になる夢もない。第一、信夫には、大人になるということが、実際にはどんなことか見当がつかなかった。何だか、いつまでも、自分は大人にならないような気さえしていた。
「おれか。おれは、お坊さまになろうと思っているよ」
「何? お坊さま?」
おどろいて信夫は思わず大きな声を出した。
「うん、お坊さまだ」
「どうして、お坊さまになりたいの? 頭をつるつる坊主にして、長いお経を読むんだろう?」
祖母のトセが生きていた頃、毎月一回は僧侶が経をあげにきていた。しかし、この頃はあまり見かけないような気がする。
「そうだよ。永野は何になるつもりだ?」
「そうだなあ。学校の先生なんかいいな」
信夫は根本芳子先生の白い顔を思い出した。学校の先生の方が、寺のお坊さまよりいいような気がした。学校の先生には、生徒たちも、親たちもきちんと立ちどまって礼をする。
「学校の先生か。それもいいな」
吉川は考え深そうにうなずいてから、
「しかし、学校の先生は大人を教えることができないだろう? おれは子供も大人も教えることのできるお坊さまになりたいんだ」
「ふうん」
信夫は吉川がひどく大人に見えた。
「永野は死にたいと思ったことはないか」
「何だって?」
一度だって死にたいなどと思ったことはない。信夫は何だか吉川が無気味になってきた。吉川が何を考えているのか、さっぱり見当がつかなかった。信夫はトセが死んだ時、たった今まで生きていた人間が、あまりにも、あっ気なく死ぬのに恐怖を感じた。今まで生きていた人を、死んでしまったと思うことにも、ふしぎな感じがした。トセの死は、病気で死んだというより、何ものかにいきなり命を奪われたというような印象を与えた。
そのトセの死を思い出すことさえ、信夫には恐ろしかった。そして、信夫にとって死というものは、突如見舞うものとしてしか感ずることができなかった。長いこと病気をしていて、次第にやせ細り、苦しみ、そしてやがて死んで行くという死があることを、信夫には考えることができなかった。信夫はたまに、くらがりの中でうしろをふり返ることがあった。突如として死神が自分を捉《とら》えはしないかという恐怖におそわれるからであった。
「死にたくなんかないなあ。ぼくはいつまでも生きていたいよ。吉川は死にたいと思うの?」
「うん、死にたいと思うことがあるな」
吉川が寂しそうに笑った。信夫は吉川をじっとみつめていたが、鉢の万《お》年《も》青《と》に目を外《そ》らした。窓の向こうを子供たちが四、五人走って行った。
「だけど、死ぬって、こわいだろう?」
「そりゃ、こわいかも知れないけれどさ。でも、うちのおとうさんは酒をのむと、おかあさんをけっとばすんだ」
「へえ、けっとばすの? いやだなあ」
自分の父は、大きな声さえめったに出したことがないと信夫は思った。
「そうなんだ。おかあさんがかわいそうだから、殴ったりけったりしないで下さいって、おとうさんに手紙をかいて死のうかなあと思うことがあるんだよ」
「ふうん」
信夫はまじまじと吉川の顔を見た。えらいと思った。そして、そんなにまで母のことを思う吉川が少しうらやましくもあった。
「だけどね。ふじ子のことを考えると、ふじ子のこともかわいそうだしね」
「ふじ子って、吉川の妹か?」
「うん。足が少しびっこなんだ。生まれた時からびっこなんだ。外に出ると、みんながびっこびっこっていじめるからね。おれがついていてやらなければ、かわいそうなんだ」
「ふうん」
信夫は何となく自分が吉川より子供のように思われた。今まで友だちの家に行くと、たいてい外で鬼ごっこをしたり、相撲をして遊んだ。しかし吉川は遊ぶよりも、話をしたがった。吉川には話をしたいことが、いっぱいあるようであった。
「まあ、ようこそ。いつも修が仲よくしていただいて」
外から帰ってきた吉川の母は、初対面の信夫に愛想よく声をかけた。あかるい声であった。
(この人が、けられたり殴られたりしているのだろうか)
母がかわいそうだから死にたいといった吉川の言葉がとてもほんとうとは思えなかった。
「こんにちは」
その母親におくれて、外から元気よくはいってきた吉川の妹のふじ子はくるりと愛らしい目を信夫に向けた。待子と同じ年ごろである。
「こんにちは」
信夫がこたえて、ぺこりとおじぎをすると、ふじ子は急にはにかんで母の肩にかくれるようにした。
「何だ、ふじ子。はずかしいのか」
吉川がいうと、ふじ子は、
「もう、はずかしくないわ」
と、無邪気に部屋の中を横切って、お手玉を持ってきた。歩くと足をひきずって肩が揺れた。歩くたびに肩が上がり下がりしたが、何だかふじ子がおもしろがってそうやっているように見えた。
お手玉はふじ子が一番上《じよう》手《ず》だった。いつも相手をしているのか、吉川も案外上手だった。信夫が一番下《へ》手《た》だったが、少し上手にやると、ふじ子のつぶらな目が嬉しそうにそっと笑った。
信夫は家に帰って、妹の待子を見るとふじ子の顔が目に浮かんだ。あのふじ子が外に出て、子供たちにいじめられるなんて、信夫には信じられなかった。母親が殴られたり、けられたりすることも、ふじ子がいじめられることも、何だか吉川修がうそをついているような気がしてならなかった。それほど吉川の母は明るく、ふじ子は愛らしかった。
「おかあさま、お仏壇にごはんを上げてきます」
信夫は母の菊に手をさしのべた。
「え? お仏壇に?」
菊はいぶかし気に信夫を見た。今まで信夫はこんなことをいったことがない。
「はい」
信夫はこの頃、母が仏壇の前で手を合わせないのが、ひどく気になりはじめた。この前、吉川の家に遊びに行くと僧が来て経を上げていた。仏壇に燈《とう》明《みよう》が上がり、線香の煙が部屋に漂っているのを見て、信夫は自分の家の仏壇が、ずっと閉ざされたままになっていることに気がついた。
(おばあさまの生きていた時は、毎日お仏壇にごはんを上げたり、おローソクを上げた)
そう思うと、信夫は急に母が冷たい人間に思われてきた。
「貞行。わたしが死んだら、お線香ぐらいは上げてくれるでしょうね」
よく祖母のトセがそんなことを言っていたことを、信夫は思い出した。死んだ祖母がひどくかわいそうに思われた。
(おかあさまは、おばあさまのことを、何にも思っていないのだろうか)
信夫は母がきらいではない。申し分のないほどやさしい母に思われた。しかし、食事の時になると、何となく母がきらいになるような妙な気がした。
食前には、必ず菊が祈り、父の貞行と待子は指を組んで祈る姿勢になった。その度に信夫は自分だけが除《の》け者にされたようで、三人の祈る姿をじっと見すえるように眺めた。その寂しさは、ともすると食事中も消えないことが多かった。信夫はなかなか祈りに馴れることができなかった。自分も祈ってみようと思うこともあったが、なぜか素直についていけなかった。
(お祈りなんか、なきゃいいのに)
食事時が近づくと、信夫はふっとそう思って侘しくなることがあった。そして、きょうはわけても寂しかったのである。
「おかあさま。あした美乃ちゃんのおうちにお魚を見に行きましょうよ」
待子がさっきから何度も母にせがんでいる。
「美乃ちゃんのおとうさまはご病気ですからね。おじゃまになりますよ」
母の菊は、その度にそう答える。待子はまたそれを忘れたように、
「ねえ、美乃ちゃんのおうちにあしたお魚を見に行きましょうよ」
とねだっている。それをきいているうちに信夫はひどく寂しくなってきたのだ。信夫には美乃がどんな子供でどんな家に住んでいるかもわからない。どんな魚がその家にあるかもわからない。しかし、母の菊と待子には、よくわかっているのだ。自分の知らない人たちや、知らない家の話を、話し合っている二人に信夫は嫉妬した。自分だけが母の子でないような、ひがみすら感じた。
(いいよ。ぼくはおばあさまがまもっていてくれるから)
信夫はふっとそう思って慰められた。
「おかあさま。お仏壇にごはんを上げてきます」
信夫は表情をかたくして繰り返した。菊は当惑したように何か言いかけようとした。その時、待子が、
「ねえ、おかあさま、おとうさまはまだお帰りにならないの」
と、信夫のことには頓着せずに菊のひざをゆすった。
「ええ。おとうさまはね、今日は夜おそくお帰りになるんですって」
菊は待子に微笑を向けた。
「おみやげを買ってきて下さるの?」
「さあ、どうでしょうね」
(やっぱり、ぼくはおかあさまのほんとうの子供じゃないかもしれない)
ほんとうの母は、祖母の言ったように、自分を生んで二時間で死んでしまったような気がした。信夫は菊と待子を半々に見ていたが、すっと立ちあがると台所にはいった。だが、どこに仏壇の膳があるのかわからない。
祖母のトセは、信夫が台所にみだりにはいることを、きびしく禁じていた。
「男子厨《ちゆう》房《ぼう》に入るべからず」
「男子厨房に容《よう》喙《かい》すべからず」
そんなむずかしい言葉をつかって、トセは信夫をいましめた。
「男子には男子の分があり、女子には女子の分があるのですよ。男子はお上《かみ》に忠義をつくし、家の誉《ほま》れをあげることだけを考えていればよいのです」
台所に顔を出すと、トセは必ずそう言った。もっとも、トセのお上は天皇になったり、徳川様になったり、定かではなかったが。
今、その禁制を破って台所にはいったとたん、信夫はトセのきびしい言葉を思い出した。こんなところにいてはトセがなげくと思ったが、そのまま台所から出ることもできなかった。
「信夫さん」
菊の呼ぶ声がした。信夫はだまってうつむいた。ふいにポタリと涙がこぼれた。
「信夫さん、ごはんにいたしますよ」
菊が立ってきた。
「あら、おにいさま泣いていらっしゃるの」
かけてきた待子が心配そうに信夫を見上げた。
「一体どうしました?」
菊が顔をのぞきこんだ。信夫は顔をそむけて菊のそばをすりぬけ、仏間にかけこんだ。仏壇の前に坐ると、何か自分でもわからぬ悲しみがドッと胸に溢れた。祖母がかわいそうなのか、自分がかわいそうなのか信夫にもわからない。ただ、涙が次から次と頬を伝わった。
「信夫さん。おかあさまが、ご仏壇にごはんを上げないから怒ったのですね」
菊が信夫の肩に手をかけた。
「だって……おばあさまが……かわいそうです」
信夫は菊の手をのがれて、体をずらせた。
「でも、おかあさまはおばあさまのことを忘れているから、ごはんを上げないのではないのですよ」
菊は信夫の前にきちっと坐った。今まで見たことのないようなきびしい菊の姿だった。
「それなら、どうしてお線香も上げないのですか」
「だから、それは……」
言いかける菊の言葉を信夫はきこうともせずに続けた。
「おかあさまは、もともとおばあさまがきらいなんだ」
「そんな……」
「おばあさまが、おかあさまを追い出したから、だからおかあさまはお線香も上げないんだ」
「……そんな……」
菊はおどろいて信夫の手をとった。信夫は手をふり放して叫んだ。
「死んだおばあさまがかわいそうだ」
「信夫さん、おかあさまはね」
菊は信夫をなだめようとしたが、いったん心をぶちまけると、信夫はそれをおさえることができなかった。
「ぼくは、大きくなったらお寺のお坊さまになるんだ」
信夫は思わず言い放った自分の言葉におどろいた。今の今まで、僧侶になる気など少しもなかった。だが、思わず言ってしまった言葉が、自分のほんとうの気持ちのような気がした。そうだ、自分はほんとうにお坊さまになって、ありがたいお経を祖母のトセに上げてやりたいと心から思った。
「お坊さまに?」
菊は信夫から仏壇に視線をうつした。
「そうです。吉川もお坊さまになるんです。ぼくもなるんです」
頭をまるめた自分と吉川が、並んで経を上げている姿を信夫は想像した。
菊はだまってうなずき、そっと目《め》頭《がしら》をおさえてうつむいた。その夜、信夫は布団の中にはいってからも、ねむられなかった。母の涙が気になった。自分が母に悪いことをたくさん言ったような気がした。
(あんなことを言わなければよかった)
信夫は、それが母への甘えであることを、自分では気がつかなかった。
「おにいさま、お友だちよ」
庭の蟻の巣を見ていた信夫のところに、待子がかけてきた。
「誰だろう?」
立ち上がった信夫に待子が低くささやいた。
「あのね。びっこの女の子も一しょよ」
信夫は待子をにらみつけた。
「びっこなんて二度と言ったら承知しないぞ」
信夫はそう言い捨てると、門の方に走って行った。
「暑いなあ」
吉川修がふじ子の手を引いて立っていた。
「暑いなあ」
信夫も同じことを言った。ふじ子が、ちょっとはにかんで笑った。
木陰にむしろを敷いて、待子とふじ子はすぐにままごとをはじめた。二人は以前から遊び馴れた友だちのように仲よく見えた。
「おにいさまが、おとうさまよ。ふじ子さんがおかあさまよ」
待子は、信夫に言った。
「そうよ。そして、待子さんとおにいさんが、おとなりのおとうさん、おかあさんね」
信夫と吉川は顔を見合わせて笑った。
「あなた、お帰り遊ばせ」
待子は母の菊をまねて吉川の前に手をついた。
「あら、おとうさん、今日はつかれたでしょう」
ふじ子も、どうやらその母をまねているらしかった。
「だめねえ。おにいさまも何かごあいさつをしてちょうだい」
信夫と吉川はげらげら笑って逃げだした。
二人は物置のうらの銀杏《いちよう》の木に登った。庭で遊ぶ待子とふじ子の姿が見えた。
「吉川、ぼくもお坊さまになろうと思うんだ」
この間から言おう言おうと思いながら言いそびれていたことを、信夫は木に登ったとたんにすらすらと言えた。
「ふうん」
吉川は木の枝にまたがって足をぶらぶらさせながら、そう答えただけだった。喜んでくれるかと思っていた信夫は拍子ぬけした。
「おとうさまたちはどこへ行ったのでしょう?」
待子の声がした。
「また、きっとお酒でも飲んでいるのでしょうね。いやですこと」
ふじ子の答える声に、ぶらぶらさせていた吉川の足がとまった。
「信夫さん、おやつですよ」
菊の呼ぶ声がした。澄んだ声である。いちょうの木の上に登っている信夫と吉川修には、縁側に立っている菊のすらりとした姿が見える。菊は方角ちがいの方を見て呼んでいる。
「ハーイ」
信夫は答えて、いちょうの枝をゆさゆさとゆすった。菊の白い顔がこちらを向いて笑った。
「あの人がおかあさんか」
「うん」
信夫はいくぶん得意であった。だれに見せても恥ずかしくない美しい母だと信夫は思っている。
「おにいさまあ、おやつですよう」
待子のかんだかい声がきこえた。
「行こうか」
「うん」
二人は木からおりると、かけ足で縁側にもどって行った。菊を見ると、吉川はぼうっと耳まであかくなって、ぺこりと頭を下げた。
「おりこうそうでいらっしゃいますね」
菊は縁側に手をついて、ていねいに礼を返した。
「かわいらしい、お妹さんですことね」
吉川は頭をかいた。
「かわいらしいでしょう? おかあさん。わたし、ふじ子さん大すき。おにいさまは?」
待子が信夫を見上げた。
「吉川。手を洗ってこよう」
信夫はとっさにかけ出していた。かけながら、どうして、ふじ子をかわいいと言えなかったのかとふしぎだった。
「男だものな」
井戸に行って、つるべから冷たい水を飲んだ。
「うん?」
ふしぎそうに吉川が信夫を見た。
「おれたちは、男だな」
「当たり前だ」
吉川は、ばかだなというように笑った。
縁側に腰をかけて、二人は盆の上の塩せんべいを食べた。菊の姿は、すでにそこにはなかった。
「やさしそうなおかあさんだな」
だまってせんべいを食べていた吉川が言った。そのことを言おうとして、ずっとだまっていたような感じの言いかただった。
「そうかなあ」
信夫は待子たちの方を見た。待子とふじ子は、陽をさけて八つ手の下のむしろにすわっていた。
「ほんのおひとつですけれど、どうぞおあがり下さいませ」
澄ました待子の声に、
「ごちそうさまですわね」
と、ふじ子もすました声ながら、ややあどけなく答えている。どうやら、せんべいもようかんも、ままごとの道具になってしまったらしい。
「だけど、……うちのおかあさまはやさしいのかな」
信夫は声をひそめた。
「どうして? やさしいじゃないか」
吉川はバリッと音を立てて、せんべいをかじった。
「だってさ。うちのおばあさまが死んだのに、ご仏壇にお線香も、ごはんもあげないんだよ」
信夫には、それは大きな不満であった。
「ふうん」
信じられないというような顔で、吉川はようかんを口に入れた。吉川の母は、朝夕仏壇にお燈明をあげて必ず拝む。
「おばあさまとおかあさまは仲が悪かったんだよ。だから、お線香もあげないんだ」
自分が何でこんなことを言いだしたのか、信夫にもわからない。母を好きだと思っているのに、どこかに、なじめないものを、信夫は感じていた。だからといって、母のことを人に悪く言うつもりはなかったのに、
「やさしそうなおかあさんだな」
と言われると、何か反発しないでいられない気持ちもあった。
「いくら仲が悪かったからといって、死んだらみんな仏さんじゃないか」
吉川はふしぎそうであった。
「そうだとぼくも思うよ。でも、仏さまにお線香もあげないんだもの、おばあさまがかわいそうだよ」
「うん」
吉川は考え深げにうなずいた。
「だから、ぼくもお坊さまになって、おばあさまにお経をあげようと思ったのだよ」
「ふうん」
吉川はまじまじと信夫を見た。
「じゃ、ほんとうにお坊さまになるのか、永野」
「うん、げんまんだ」
信夫は小指を出した。信夫よりふとい吉川の小指がそれにからんだ。
「あら、おにいさま、何のげんまん?」
待子が走ってきた。
「何のげんまん?」
ふじ子も待子におくれて、足をひきひき走ってきた。
「ないしょだよ」
吉川は待子たちをふり返って言った。
「教えて下さいな」
待子は吉川のひざをゆすった。吉川はきりっと結んだ唇に人さし指を当てて、信夫にうなずいてみせた。
「ないしょだ。ないしょだ」
そう言った信夫を見上げて、ふじ子が人なつっこく笑った。信夫は何だか胸の奥がへんにくすぐったかった。
「まあ、楽しそうですこと。何のないしょか、おかあさまもうかがいたいと思いますよ」
いつのまにか、菊が縁側に出てきていた。ハッとして信夫は母を見た。母の悪口を言ったようで、うしろめたかった。
「おかあさまも知っていることです」
信夫はぶっきら棒に言った。
「まあ、何でしょうねえ」
菊はほほえんで、ふじ子の頭をなでていた。
今にも降り出しそうな空を気にしいしい、信夫は吉川の家にむかって歩いていた。風がにわかにぴたりとやんで、家々の庭の草木も動かない。
(もうじき、夏休みも終わるんだな)
けやきの木の下で、信夫はいつものように何となく立ちどまった。このけやきは、吉川の家の道に曲がる角の空き地に立っている。このけやきを見ると、もう吉川の家だなと信夫は思う。そして何となく、いつも立ちどまってしまうのだ。吉川に会いたくて、やってくるのに、どうしてか一目散に走って行くことができないのだ。
(吉川はいるだろうか)
そんなことを考えたりするのは、このけやきの下にきてからである。しかし、ここでちょっと立ちどまると、信夫はもう元気にかけ出していた。
「いいものを見せてやろうか」
吉川は待ちかねていたように、そう言った。
「いいものって、何さ」
吉川の家は部屋の隅にまで、なめたように掃除がしてある。玄関の下駄も飾ってあるように、きちんとぬいであって、決して乱れていることはない。
(甲ノ上だな)
信夫は級長になってから、毎日教室の整理整頓の点を黒板に書く。そのことを、信夫は思い出して、吉川の家の整然とした様子が甲ノ上だと思ったのだ。
「あてたら、そのいいものをやってもいいよ」
吉川はニヤニヤした。
ふじ子も母親もるすだった。
(今に雨が降るのにな)
ちらりと信夫はそんなことを心の片すみで思いながら、
「何だろう。コマかな」
といった。吉川は笑って首を横にふった。
「そんな、子供のものじゃないよ」
「じゃ、大人のもの?」
「子供も大人も見るものさ」
「見るもの? 絵双紙?」
「まあね」
吉川は仏壇の下のひき出しから本を出した。第一ページを開くなり、信夫は眉根をよせた。
そこには、やせた死人たちが、青鬼や赤鬼に追われて針の山に逃げて行く絵があったからである。
「どうしたの、この絵は」
「恐ろしいだろう?」
吉川はちょっと得意そうに言った。
「何だか気持ちが悪いな」
信夫は次を開いた。まっ赤な池に人が沈みそうになって助けを求めている。そして岸から這《は》いあがろうとする人を鬼たちが金棒でついているのだった。
「かわいそうになあ」
信夫はひどくいやな心持ちがした。
「仕方がないよ。この世で悪いことをしたんだからね。これは血の池なんだ」
「血の池?」
ぬるりとした血のぬめりを信夫は思い出した。
「うん。この死人たちは、人殺しをして人の血を流させたから、血の池に入れられたんだって、おかあさんが言っていた」
「ふうん」
次を開くと火にかけられた釜の中で人が手をあげて、わめき泣いている絵である。
「ひどいなあ」
信夫はだんだん気がめいってきた。
「仕方がないよ。地獄って、悪い奴たちが落ちるところなんだもの」
吉川は信夫の不安そうな顔を見て笑った。
「悪いことをしたら、こうなるより仕方がないのかなあ」
信夫は何だか不安になった。
(もし、悪いことをしたら、どうしよう)
吉川は信夫の憂鬱そうな顔を見て、ぱらぱらと頁をくった。
象や兎《うさぎ》や獅子が、子供たちを背に乗せたり、子供たちと角力《すもう》をとったりしている絵であった。動物たちも子供たちも笑っていた。思わず信夫も笑った。
「極楽の絵だよ」
吉川も笑った。
「極楽はいいね」
次を開くと、仏のまわりにおだやかな顔の男たちが集まって話を聞いている絵であった。
「この人たちは、いい人たちだったの?」
「そうだよ」
「ふうん」
信夫は、さっきの釜ゆでの絵をそっとめくってみた。
「吉川。地獄に行った奴は、一度だけ悪いことをしたのかい。毎日悪いことをしたのだろうか」
「さあ」
「ただの一度もよいことをしなかったのだろうか」
「そうかも知れないな」
「そしたらね。極楽に行く人は悪いことを一度もしたことがないことになるね」
「そうだろうな」
吉川は信夫の真剣な顔を見て、ちょっとおどろいた。
「吉川は自分が地獄に行くと思うかい」
「さあ。永野はどうだ?」
「うんと悪いことをしたことがないような気がするけどさ。妹とけんかするのも悪いことだろう? ぼく、けんかをしたこと何度もあるしね」
「けんかなら、俺だってするよ。おとうさんがよっぱらって暴れると、俺は殴ってやりたいぐらいだしな」
吉川はげんこつをつき出してみせた。
「うん。でも、地獄や極楽ってほんとうにあるんだろうか」
「お坊さまはあるっていうよ」
「お坊さまなら、うそをつかないだろうな」
二人はうなずき合った。信夫はもう一度、地獄の絵を開いてみた。その時雷の音が遠くで鳴った。
「夕立がくるのかな」
吉川が窓から顔を出した。血の池から這いあがろうとする亡者の絵をながめながら、信夫はふと、父に見せてもらったキリストのはりつけの絵を思い出した。
(あの人は地獄に行ったのだろうか。天国に行ったのだろうか)
あれも地獄の絵でないかと信夫は思った。
今日でいよいよ夏休みが終わり、あすから学校に行かなければならない。まっ白い入道雲が南の空に高く見えた。その日信夫は湯島天神にせみを取りに遊びに行った。
帰ってくると、待子とふじ子の歌声が聞こえた。二人はいつものように、八つ手の下にむしろを敷いて坐っている。その横に男の子がうしろ姿を見せていた。吉川ではない。
(だれだろう)
信夫が近づくと、三人がいっせいにふり返った。
「なあんだ。虎ちゃんか」
信夫はなつかしそうに叫んだ。祖母のトセが生きていたころ、小間物屋の六さんに連れられて、いつも遊びに来ていた虎雄だった。
「信ちゃん、どこに行っていた?」
虎雄は例の黒豆を二つ並べたような愛らしい目をパチパチさせて、ちょっとはにかんだ。
「天神さんにせみ取りに――。どうして遊びに来なかったの、虎ちゃん」
「だって、ご隠居さんが死んだから――」
虎雄は父の口まねで、トセをご隠居と呼んだ。
「そうよ。ご隠居さんが死んだからよ。ねえ虎ちゃん」
待子は何もわからずにそういった。人なつっこい待子はもう虎雄と仲よくなっていた。
「六さんも来ている?」
「いや、このごろは本郷の方は回らないから――」
虎雄に久しぶりに会った喜びがおさまって信夫はふじ子を見た。
「吉川は来ていないの?」
「おかあさまとおうちの中でお話をしてるわ」
待子がふじ子の代わりに答えた。
「おかあさまと?」
信夫は家にはいろうとして、ふっと気おくれがした。
「おにいさま。かくれんぼをしましょうよ」
待子が立ちあがった。虎雄も立った。虎雄の背が少し伸びたようだと信夫はながめながら、じゃんけんをした。鬼は虎雄だった。
「――六つ、七つ、八つ」
間をおいてゆっくり数える虎雄の声が、信夫のかくれている物置小屋まで聞こえてくる。静かだった。虎雄の声のほかは何ひとつ聞こえてこない静かなひる下がりだった。
「――九つ、十。もういいかい」
のんびりとした虎雄の声に、
「まあだよ、まだよ」
あわてたように答えて、物置小屋の戸をあけたのはふじ子だった。
「もういいよ」
ふじ子は安心したように大きく叫んだ。
「ふじちゃん。声が大きいよ」
信夫は低く答えた。
「あら、ここにいたの?」
信夫を見て、ふじ子はおどろいた。
「ぼくのうしろにかくれなさい」
こっくりうなずいて、ふじ子は信夫のそばによった。ふじ子の着物の裾から、悪い方の足が少し前に出ていた。かぼそい足だった。
「見つけた、待子ちゃん」
どこかで、虎雄のはずんだ声が聞こえた。うす暗い物置小屋の中で、信夫とふじ子は顔を見合わせて首をすくめた。その時、信夫はふじ子を抱きしめたいような、へんに胸苦しいような気がした。
「ふじちゃん」
信夫はそっと呼んだ。
「なあに」
ふじ子もそっと答えた。長いふかぶかとしたまつ毛の下の澄んだ目も「なあに?」といっている。
「ううん、何でもない」
(いつまでも見つからないといいな)
信夫はふじ子と二人でそっとかくれているのが楽しかった。今まで、かくれんぼをして、こんな風に何か甘っ苦しいような楽しさなんか信夫は知らなかった。信夫はふじ子のかぼそい足をみつめた。
次は待子が鬼になり、次は信夫が鬼になった。
「もういいかい」
いちょうの木によって信夫は十まで数えて目をあけた。せみが鳴いている。だれも答えない。信夫はそっと足をしのばせて物置小屋を見た。だれもいない。勝手口の方に信夫はそっと歩いて行った。居間の方で菊の声がした。吉川の何かいう声も聞こえた。信夫は足をとめて居間の窓を見た。
菊が吉川の肩に手をおき、吉川はじっとうつむいている。ふいに信夫は胸の中にぽかっと穴のあいたような寂しさを感じた。母が吉川にとられ、吉川が母にとられたようなそんな感じであった。信夫はすぐに窓をはなれ、はなれてからたまらなくなって、
「吉川!」
と叫んだ。
「何だ、帰っていたのか」
窓から吉川の顔がのぞき、そのうしろに菊が立っていた。
「信夫さん、吉川さんはお別れに見えたのですよ」
菊の目がうるんでいた。
「お別れって?」
信夫は、何のことかわからなかった。
「俺、え《※》ぞへ行くんだ」
いつもおだやかな表情をしていた吉川が、今にも泣き出しそうな顔で、じっと信夫を見た。
「えぞ? えぞへか?」
「うん」
うなずいた吉川の目に涙がみるみるうちに盛りあがった。
鳥も通わぬえぞが島と歌に聞くさええぞは遠い寂しいところである。あまりにも突然の話に、信夫は呆然として、吉川を見あげていた。
えぞ 北海道の旧称蝦夷地のこと。
二学期
二学期が始まった。長い夏休みのあと、はじめて学校へ行く日というものは、何となく妙なものだ。信夫は先生や友だちに会うのは嬉しいくせに、ちょっと気恥ずかしい。
友だちも、みんなちょっとはにかんでいるが、すぐになつかしそうに話し合ったり、いつものように喧《けん》嘩《か》をはじめたりする。みんな胸の中にたまっている話を一度に話そうとするので、ひどく騒々しい。だが、その中に吉川の姿を見なかった。学校をやめるにしても、吉川は先生のところにくるはずだ。
(おそいなあ)
信夫がそう思った時、近くにいた副級長の大竹が大声で言った。
「おい、みんな、吉川の奴、学校をやめたの知ってるか」
みんなはいっせいに大竹の方を見た。
「へえ、吉川は学校をやめたのか。どうしてだ?」
ガキ大将の松井がおどろいたように、大竹に近づいてきた。
「夜逃げしたんだ。あいつの家」
大竹は日ごろから、信夫と吉川の仲がよいことを心よく思っていない。副級長の自分より吉川と仲がいい信夫に、何となく腹をたてていた。
「夜逃げだって?」
だれかが、頓《とん》狂《きよう》な声をあげ、みんなが笑った。信夫は自分が笑われているような気がした。
「夜逃げじゃないよ。吉川のおとっつぁんが酒をのみすぎて、借金がたくさんになったんだって」
だれかが言った。
「ばかだな。借金がたくさんで払えないからいなくなるのを夜逃げというんだ」
大竹は大人くさいものの言い方をして笑った。
「いや、酒をのんで人と喧嘩して、相手の肩だか胸だかをつきさしたんだって言っていたよ」
「九州に行ったって、うちのおばあさんが言っていたよ」
「ちがうよ、新潟だって聞いた」
みんなは自分の聞いたことを口々に言った。子供たちはおどろくほど大人たちの話を敏感に聞きとって、大人たちと同じぐらい熱心に、話し合うものである。
授業時間になっても吉川の姿は見えなかった。
(夜逃げか? かわいそうになあ)
自分の前の、ひとつぽつんと空いた吉川の席をみつめながら信夫は寂しかった。
「何だ吉川は休んだのか」
受け持ちの田倉先生は、生徒の席を見渡して言った。
「ちがいます。吉川の家は夜逃げしたんです」
大竹は得々として告げた。
「夜逃げ?」
田倉先生はそう言ったまま、だまってしまった。
放課後、信夫は田倉先生に呼ばれて職員室へ行った。
「永野。吉川はどこに行ったか知らないか」
むし暑い午後である。どこかでひぐらしが鳴いている。
「さあ」
信夫は、吉川がえぞに行ったとばかり思っていた。だが、けさの友だちの話では、九州だとか新潟だとか行き先はまちまちである。だから、北海道に行ったという確信が信夫にはなかった。それに、信夫は吉川が北海道にほんとうに行ったとしても、そのことはだれにも知らせないでおきたいような気がした。いつかトセが、
「北海道に行くのは、よほどの食いつめ者か、悪いことをして逃げ場のなくなった者ですよ」
と言っていたことを思いだしたからである。
「何だ。お前と吉川は仲よくしていたようだが……。やっぱり子供というのはあっさりしたものだな。行き先も知らせないと見える」
田倉先生はそう言って笑った。信夫は吉川も自分も共に笑われたような気がしてむっとした。先生は扇《せん》子《す》をパチリと音をさせて開き、パタパタといそがしく風を送った。
「あの、吉川はえぞへ行きました」
信夫は思わず言ってしまった。
「何? えぞ? なるほど北海道か。しかし、何もはるばるえぞくんだりまで逃げなくても、どこへでも逃げて行くところはあったろうにな。永野、お前それをだれにきいた?」
「吉川です」
「そうか。しかし永野。お前は級長のくせに嘘つきだな」
田倉先生は、そういって扇子をいっそういそがしく動かした。
(嘘つき?)
信夫は唇をかんだ。不満そうな信夫の顔をみて先生は言った。
「だって、そうじゃないか。先生が吉川の行方《ゆくえ》を知っているかときいたら、お前は〈さあ〉と言ったじゃないか。どうしてすぐ、北海道に行ったと言わなかったのだ」
(だけど、ぼくは嘘つきじゃない)
「武士に二言はないという言葉を知っているか。明治になって、ザンギリ頭になってから、どうも人間が軽薄になっていかん。級長というのは人の模範にならなければならん」
田倉先生は信夫がなぜ〈さあ〉と言ったかを知らない。むし暑いせいか、教え子の吉川がだまって学校を去ったせいか、先生はいつもよりきげんが悪かった。
(ぼくは、吉川が北海道に行ったのが、かわいそうだから、だまっていたんだ)
信夫はうつむいたまま先生の言葉をきいていた。
「これから、決して嘘は言ってはならんぞ。よし、帰れ」
先生はそう言って机に向かった。信夫は先生におじぎをして職員室を出た。
(ぼくはうそをついたのじゃない)
信夫は少しすりきれたはかまのひもをだまってみつめていた。
(ぼくはうそつきなんかじゃないのに……)
信夫はくやしかった。先生がにくいのではない。うまく説明のできなかった自分がくやしかった。
(大人だったら、うまく説明できるんだ。早く大人になりたいなあ)
信夫はつくづくそう思った。この時のくやしさを、きかん気の信夫は長いこと忘れなかった。
その日は、日が落ちても、むしむしと暑かった。
「今夜あたり雨でしょうか」
濡れ縁にいる貞行のそばに、蚊やりをたきながら菊がいった。
「うむ」
貞行はしずかにうちわをつかっている。いつも父はおだやかだと信夫は思った。どんなに暑くても、田倉先生のようにパタパタといそがしくうちわをつかうということもない。そんな父を、以前の信夫は好きだった。しかしこのごろは少しちがう。
食事の時など、ゆっくりと香の物をかみ、ゆっくりと茶をのんでいる父をみると、なぜか信夫はいらいらしてくる。話をしても、何かもどかしい。心が通じないような気がするのだ。と、いって父がきらいなのではない。もっともっと父と話をしたいと思うようになったから、悠然とかまえている父がもどかしいのかもしれない。
「おとうさま」
信夫が呼んだ。貞行は一度ゆっくりとうちわをつかってから、
「何だ」
と信夫をみた。信夫はすぐに返事をしてほしいのだ。
「あのね、心の中のことを全部上手に話をするには、どうしたらいいの」
貞行はかるくまばたきをしてから、
「そうだな」
と、言った。
「信夫は何年生だ?」
貞行はほかのことを言った。
「四年生です」
「四年生か。来年は高等科一年だね。では自分の思っていることは大てい話ができるだろう」
「できません」
信夫は、田倉先生に「うそつきだ」と言われても、うまく弁解できなかったのだ。
「そうか」
貞行はしばらく庭をながめていた。
「やはり雨がくるな」
貞行はぽつりと言った。信夫は返事を待っているのだ。少し、いらいらとしてきた。
「信夫。自分の心を、全部思ったとおりにあらわしたり、文に書いたりすることは、大人になってもむずかしいことだよ。しかし、口に出す以上相手にわかってもらうように話をしなければならないだろうな。わかってもらおうとする努力、勇気、それからもうひとつたいせつなものがある。何だと思う?」
「さあ」
信夫は首をかしげた。
「誠だよ。誠の心が言葉ににじみ出て、顔にあらわれて人に通ずるんだね」
貞行はそう言って、またしずかにうちわをつかいはじめた。
(誠の心、勇気、努力)
信夫は少しわかったような気がした。
「おとうさま、それでも通じない時もありますね」
「うむ、ある」
貞行は、トセに通じなかった菊の信仰のことを思った。
「しかし、致し方ないな。人の心はいろいろだ。お前の気持ちをわからない人もいるし、お前にわかってもらえない人もいる。人はさまざまの世の中だからな」
(だけど、うそつきになんか思われるのはいやだな)
信夫は蚊やり線香のうすい煙をながめていた。
(そうだ。もっと本を読もう。本を読んだら、自分の気持ちを上手にあらわすことができるにちがいない)
信夫はその時から、読書に力を入れようと決心した。そして、その本は本の方から信夫のところにやってきた。
それから二、三日して、信夫が学校から帰ると、大きな荷物が三つほど縁側におかれてある。菊の甥《おい》の浅田隆《たか》士《し》が大学入学のため、大阪から出てきたのだった。隆士は信夫をみると、
「ふん、かしこそうやな。そやけど、日かげの草みたいにひょろひょろやないか」
とずけずけ言った。声も体も大きいが、目が笑っている。信夫は一目で隆士が好きになった。
夕食の時になって、信夫はもっと隆士が好きになった。
「いただきます」
膳につくが早いか隆士は一番先に箸をとり、ごはんを口の中にほうるように入れた。
(お祈りがあるんだよ、おにいさま)
信夫ははらはらして隆士をつついた。
「なんや?」
隆士はそう言ってから、はじめて皆のようすに気がついた。菊がいつものように祈りはじめた。だが隆士は悠々と食事をつづけた。菊の祈りが終わると、
「そうや、おばさんヤソやったな」
そう言って、隆士は三口ほどでからになった茶わんを菊につきつけた。
「そやけど、ぼくはヤソやあらへんで。ぼくは祈らへんで」
隆士は快活に宣言した。信夫はおどろいて隆士をみあげた。待子も目をまるくして隆士をみつめていた。
「そうですね。それはご自由になさるといいわ」
菊もあっさりと言った。何のこだわりもない隆士の宣言は、だれをも傷つけなかった。信夫は感動した。だが、その次に言った隆士の言葉には信夫はおどろいた。
「ウヘッ、ちょっとこの煮つけからすぎるで」
祖母のトセは、男というものは、思ったことを何でも言ってはいけないと教えてくれた。
「信夫、武士は食わねど高《たか》楊《よう》枝《じ》という言葉を知っていますか。おなかがすいたとか、寂しいとか、つらいとか言っては、男とはいえません。思っていることを、ぐっと腹の中におしこんでこそ、はじめて、ほんとうの肚《はら》のすわった男になれるのですよ」
そんなことをトセは言った。
「思ったことを顔に出すのはいけません。心で泣いても笑っているのが男というものです」
そうも、トセは言ったものである。食物のうまいまずいを言うのは下《げ》賤《せん》のもののすることだと戒められもした。だから、たった今、煮つけがからいといって、けろりとしている隆士に信夫はおどろいてしまった。
「あら、それはすみませんでしたこと。関西の味とだいぶちがいましょう?」
菊も気がるに応対している。菊の実家の家風と、永野家のそれとは全くちがっていたのである。
(思ったことを言うって、いいことなんだなあ)
黙々と箸を運んでいる父の貞行を信夫はみた。次の食事の時も、隆士は菊の祈りを無視してさっさと食べはじめた。それでいて、隆士は決して気まずい空気をつくらなかった。否むしろ、隆士がきてから永野家はあかるくなったといった方がよかった。
「隆士おにいさま、好きよ」
待子もそう言って隆士の大きなひざにすわりたがった。
その隆士の部屋には、おびただしい書籍が整然と並べられていた。
「ぼくは本だけかたづけとけばええのや。ほったらかしにしとくと探すのにしんどいからなあ」
そして、隆士は信夫に言った。
「読める本あったら、読んだらええで。本というものは丁度お前ぐらいの年から、何でも読むとええんや」
隆士は信夫のために少年園という雑誌や、名将豪傑武勇伝という赤本や、絶世奇《き》譚《たん》露《ロ》敏《ビン》孫《ソン》漂流記などを買ってきた。また、若い女性の読む女学雑誌などまで、どこからか借りてきて、信夫に読ませた。
女学生の投書のある雑誌をみて、自分からすすんで文章を発表している女のあることを信夫は知った。女というものは、祖母のトセや母のように、家の中の仕事をしているものだとばかり思っていた信夫にとって、これは大きな発見であった。
武勇伝もおもしろかったが、しかし露敏孫漂流記はいっそうおもしろかった。たったひとりで島に流れついたロビンソンの、希望を失わない忍耐づよい生き方に、信夫はたちまち魅せられてしまった。
(もし、自分だったらどうするだろう)
たぶんロビンソンのように、ひとりっきりで無人島にいることはできないだろうと信夫は思った。
(もし自分だったら……)
読書は、人と自分の身をおきかえることを、信夫に教えた。
そのうち、信夫は坪《ちぼ》内《うち》逍《しよう》遥《よう》の当世書生気質かたぎなどを読むようになった。論語を小さい時から習っていた信夫には大人の小説も、そうむずかしくはなかった。
当世書生気質の小説の中で、信夫はいくつかの英単語をおぼえた。
そのおぼえたてのブックス、ウオッチ、ユースフルなどという言葉を、信夫は使ってみたくて仕方がなかった。自分がひどく大人になったようで、いく分得意だった。だがある日、隆士が読んでいるドイツ語や英語の本を見て、信夫の得意な気持ちは一ぺんに消しとんだ。信夫の読める字は一字もなかったからである。
「おにいさま」
思いきって、信夫はいった。
「なんや?」
「ぼくに英語を教えて下さい」
「なんやて?」
「ドイツ語や英語を習いたいんです」
「ぼんぼん、お前何年生や?」
「四年生です」
「ふん、まだ無理やな」
「どうしてですか」
信夫はあとへ退《ひ》かなかった。
「中学にはいったら習うもんや」
「だって、この英語は、アメリカやイギリスの国の子供も使っている言葉でしょう?」
「そりゃ、そうや」
「アメリカやイギリスの子供の使っている言葉ぐらい、日本の子供だって、おぼえられます」
信夫はきっぱりといった。
「ふーん、おもろい子やな、お前」
「アメリカ人より、日本人の方が頭が悪いわけはないでしょう?」
「そりゃ、そうやけど。向こうの子供たちは毎日その言葉で暮らしているんや。おぼえているのは当たり前や。言葉ってくり返しつかわんと、おぼえられへんで」
「くり返して使えばおぼえられるのなら、そうむずかしいことではないでしょう? おにいさま」
信夫の言葉に、隆士はまじまじと信夫をみつめた。
「お前、体はひょろひょろやけど、えらいきつい根性を持ってるんやな」
隆士はこの日から、信夫を見直したようであった。そして信夫は英語の勉強をはじめることになった。
あこがれ
信夫は高等科三年になった。待子は小学校三年生である。
「おにいさま、学校におくれますよ」
待子が玄関で信夫を呼んだ。信夫は家の中でぐずぐずと、いくども本をかばんに入れたり出したりしている。
「おにいさまったら……」
待子が泣き出しそうな声になった。
「先に行ってもいいよ」
信夫が大声で叫ぶと、待子は門をかけ出して行った。信夫はそのあとからゆっくりと歩いて行った。
高等科三年になってから、信夫は、待子といっしょに学校に行くのが、何となくいやになった。
「おにいさま、おにいさま。あの赤い花はなあに?」とか「あの方きれいね」とか、すぐ大声で信夫に話しかける。今までは何とも思わなかったそんなことが、信夫には急に恥ずかしく思われてきたのだ。
昨日もそうである。
校門のところで、かわいらしい少女がかけてきた。
「おにいさま。宮川敬子さんよ。かわいらしい人でしょう」
待子が大きな声でいった時、信夫は体に火がついたように、熱くなってしまった。
(だいたい、待子の声が大きすぎるのだ)
信夫はそう思う。待子は人なつっこくて、だれとでも、すぐ友だちになった。待子の組の友だちだけでなく、高等科の女子とも、すぐに仲よくなった。だから、待子と学校に行く途中で女の子が何人か連れになる。
それが高等科三年になってから、急に信夫は何となくいやになった。信夫は、小走りにかけて行く待子をうしろからながめながら、
(女って、へんなもんだな)
と、ふっと思った。
信夫はこのごろ、小説を読んでいても、女の人の出てくる場面になると何となく息ぐるしいような感じがした。それが美しい女性だと、いっそう息がつまるような妙な気持ちになる。そして、いつの間にか、その美しい女性の顔を思い浮かべる時、結婚している女性は母の顔になっていた。未婚の乙女おとめはふしぎに、あの三年も前に別れた吉川修の妹ふじ子の顔になっている。これは、信夫ひとりの秘密だった。
まだ学校にもはいっていなかったあのふじ子の顔が、美しい少女になって、小説の中に現れるのはなぜなのか、信夫にもわからない。信夫の学年にも美しい少女がいた。大きな下駄屋の娘で廊下で信夫にすれちがうとまっかになって、たもとで顔をおおってうつむいて行く。
そんな時、信夫はドキッとするが、しかし、小説の中にあらわれるふじ子ほどには美しくはなかった。
(吉川の奴どこに、いるのかなあ)
四年生の夏に北海道に行くといって去ったまま、吉川からは何の便りもない。はたして北海道に行ったのか、どこに行ったのか、信夫には見当がつかなかった。北海道はあまりにも遠すぎて、生きてふたたび会えるかどうかわからないような気がする。
(吉川はお坊さまになると言っていた)
自分もまた、そう言って吉川とげんまんしたことを信夫はおぼえている。吉川のふとい小指にこの自分の指をからませたのだと、信夫は思うことがある。
ずいぶん遠い昔のような気もするが、吉川や、ふじ子はふしぎになまなまと思い出される。
「信ちゃん、花見に行かんか」
ある土曜日の午後、信夫は隆士に誘われた。隆士と歩くのは、信夫は好きだった。だが、このごろは花見も祭りも格別楽しくはなくなった。
「勉強があるから」
信夫はそう言ってことわった。
「ふむ」
隆士の顔は西《※さい》郷《ごう》さんのようだと信夫は思う。目だけがいつも笑っていて、隆士には平気で甘えて行けるような気がする。
「ほんまに勉強があるのか」
隆士は目を大きく見ひらいて、信夫の顔をのぞきこむようにした。信夫は頭をかいて、あいまいに笑った。
「そうやろう? このごろ、お前少し変わったんとちがうか」
隆士は信夫の前にどっかとあぐらをかいた。信夫は思わずひざを正した。
「すわり直さんでもええで」
隆士は微笑した。
「ぼく、変わったかしらん」
「まあ、年ごろになったんやな。色気がついたんやろ」
隆士は笑った。色気という言葉をきいて、信夫はあかくなった。
「お前、このごろ待子を連れて歩かんようになったやろ? 色気づいたんや。ここ二、三年、人の家にもよう行かんようになるわ。今までおもしろかった花見がつまらんようになるのは、俺にもおぼえがあるで」
隆士は、そう言ってうなずいた。
「おにいさまも、外に出るのがいやな時があったのですか」
信夫はほっとしたように言った。隆士はひまさえあればよく外を出歩いた。だからどこに家が建ったとか、桜のつぼみがふくらんだとか、どこの何がうまかったとか、たえず話題を提供するのは隆士だった。
「そりゃ、あったがな。どこにも出歩かんと部屋にひっこんで、俺は長生きするやろかと、妙に沈んでばかりいたもんや。そのくせ、めし時になったら、七杯も八杯も平らげてしもうてな」
隆士は大きな声で笑った。信夫はおどろいた。大きな笑い声におどろいたのではない。実は信夫もこのごろ、なぜか自分が長生きしないような気がしていたのだった。人間はなぜ死ぬのだろうとしきりに考えるようになっていた。祖母のトセの死に顔がまざまざと目に浮かび、自分はどのような死に方をするのかと思うことがある。
「おにいさま。人間ってどうして死ぬんですか」
信夫は真顔になった。
「生きてるから、死ぬんや」
隆士はけろりとした顔で言った。
「生きてるから死ぬんですか」
なるほどそうかもしれない。だが、信夫ははぐらかされたような気がした。
「生きているものなら、ずっと生きつづければいいじゃないですか」
「そりゃ、そうや。どうして生きつづけられんのやろと、俺もよう考えたもんや。信ちゃん、お前、生《しよう》者《じや》必《ひつ》滅《めつ》会《え》者《しや》定《じよう》離《り》って知ってるか」
「先生にききました。生きてる者は必ず死ぬ。会った者は別れるって」
信夫は吉川修のことを思った。今いっしょに勉強している級友たちとも、あと二年したら別れるし、先生とも別れてしまう。この目の前にいる西郷隆盛のような隆士も大学が終われば別れなければならない。父や、母や、待子だって、いつか別れてしまうことになるのかもしれない。そう思うと、信夫は生きているということは寂しいものだと思った。
(会うということが別れなら、むしろだれにも会わない方がいい)
信夫は心の底がしんと寂しくなった。
「そのとおりや、信ちゃんのきいたとおり生者必滅とは、つまりな、生きている者は死ぬもんやっていうことだけやな。なぜ死ぬんやなんてたぶん、考えても人間どもにはわからないことや。わかっているのは、俺もいつか死ぬんや、お前もいつか死ぬんやっていうことや」
そうだろうかと信夫は思った。どうして死ぬのか、ほんとうに人間にはわからないのだろうか。
「おにいさまは死ぬのがこわくありませんか」
「恐ろしいな。死ぬとわかっていても、一分でも長いこと生きていたいがな。まあ、しかたあらへんのやけど」
「どうしても、いつまでも生きてはいれないものですか」
「無理やろな。もっともおばはんなんかヤソやから、永遠の命なんて信じていやはるがな」
「永遠の命?」
「ふん、そんなことをヤソは信じてるわ」
隆士はそう言ってから、
「信ちゃん。お前もヤソになるんとちがうか」
と、笑った。
「ぼく、ヤソになんて、死んだって絶対になりません」
信夫は憤然として言った。
「何も、そんなにいばらんでもええがな。人はそうかんたんに絶対なんて言えへんで」
「だって……」
信夫は不満だった。
「人間ってなあ、自分の思ったとおりの人生を送るというわけにはいかんもんや。俺だって、東京に出て、がりがり勉強して、帝大を一番で出てやろうと思ったことは思ったんや。しかし、会う女《おな》子《ご》、会う女子にふらふらや。勉強より女子と遊びたくてうずうずしてるがな」
隆士の言葉に信夫はあかくなった。
「お前はどうや、女子の夢など見たこともないんやろ?」
隆士はたばこの煙を信夫に吐きかけるようにした。信夫はますますあかくなった。信夫の体はもう大人になっていた。どこの女とも知れない人の夢を、信夫はいくどか見ていた。
「女子の夢も見る。手をにぎってみたいとも思うようになる。それが男や。女子のことでくよくよ考えることもある。それでいいんや。女子のことを考えるのはめめしいなんていう奴がいるやろ。ありゃ大うそや。女子は男の大事な生きる相手やからな。女子のことを考えるのはめめしいことでも、きたないことでもあらへんで」
隆士はまじめな顔でそう言った。信夫はふじ子の顔を思った。小さな女の子だったふじ子が、信夫と同じ年ごろの女性と思われた。
二人ともその日はとうとう花見に行かずに終わってしまった。
このごろ、貞行は日曜になっても教会へ行くことが少なくなった。隆士が来たころから、貞行は菊といっしょによく教会へ行っていた。
「年のせいかな。どうも疲れるようだ」
貞行はそう言って、家の中でぶらぶらするようになった。
「四十すぎたばかりやで。何が年かいな。早《はよ》う医者にかからんと、あかん」
隆士は心配したが、貞行も菊ものんきだった。
「お仕事が重なってお疲れなんでしょう。日曜日はごゆっくりお休みになって」
その日も菊はさして貞行の体に気をとめてはいなかった。だが、信夫は疲れた顔で横になっている父を見ると不安になった。
「おかあさま。おとうさまは医者にみていただかなくてもいいんですか」
言外に、父を置いて教会に出かける母を、信夫は責めていた。母は雨が降っても雪が降っても、日曜日の午前は教会に行った。父母と待子が出かけたあとの、言いようもないむなしさに、信夫はどうしても馴れることができなかった。
隆士が来て以来英語をならったり、いっしょに浅草に遊びに行ったりして日曜日の父母のるすも、信夫は信夫なりに過ごしてきた。しかし、それでも、待子をつれて出かける父母の姿に、信夫は嫉妬に似た妙な気持ちを味わわずにはいられなかった。
「そうやな。おばはん、たまに教会休んだらええがな。信ちゃんは、日曜日いつも寂しい顔をしてはるで。医者のことより、信ちゃんはおばはんに家にいてもらいたいんやで」
隆士は遠慮がなかった。
「そんなことはありませんよ。ただ、おとうさまが……」
信夫はしどろもどろになった。
「医者はいいよ。菊、行っておいで」
貞行はひじ枕をしたまま、菊を促した。信夫は何となく貞行に無視されたような気がした。
「でも……」
菊は貞行の体よりも、今の隆士の言葉が気にかかって信夫の顔を見た。信夫は知らぬ顔をして、読みかけの本を開いた。
「信夫は子供じゃないよ。もう高等三年だ」
貞行は菊を促した。
「ぎょうさん、うまいもん買こうてきてや」
隆士が言った。
「はい、はい。では行ってまいります」
菊はにっこり笑って隆士にうなずいた。信夫は隆士と菊のこの親しさにも、ついていけなかった。母は自分よりも、隆士と親しいような気がした。
「おにいさまも早く教会にいらっしゃるといいのにねえ、おかあさま」
待子はちょっと信夫をあわれむような目で見た。いつも待子が教会に行く時に見せる表情である。信夫はこの時の待子がきらいだった。この表情もきらいだったが、母をわがもの顔に独占している待子に、腹を立てていた。
「信ちゃん、何をぼんやりしてるねん」
隆士が信夫の肩をおすようにして、自分の部屋に連れて行った。
「お前、自分の母さんに何を遠慮してるんや」
部屋にはいるなり、隆士はずけずけと言った。
「何も遠慮などしていないけど……」
「そうやろか。お前、母さんをきらいとちがうか」
隆士はまじめだった。
「きらい?」
きらいどころか、信夫は菊にあこがれのような愛情すらいだいていた。きらいではない。ただ、何となく馴じめないのだ。腹の底を全部きいてもらいたいと思うのに、やはり話しづらいのだ。
「あのね、おかあさま。となりの犬がわたしを見ると笑うんですよ」
待子はそんなたわいのないことを母に言う。
「犬が笑うんですか」
菊もおかしそうに笑ってきいている。
「そうよ。待子さん、あなたはきょううれしいことがありますね。きっといいことがありますねって笑うのよ」
「それはよかったわね」
そんなことを言っている待子が信夫はうらやましい。どうして、自分はあんなふうに言えないのかと思う。
「おかあさま、ゆうべおかあさまの夢を見たわ。とってもきれいなお花をたくさん持っていらっしゃったの」
待子が夢の話をする。自分だって、母の夢を見ることはある。
しかし信夫は言えないのだ。
「おかあさま。ゆうべ、おかあさまは夢の中で、ぼくと二人で学校へ行きましたよ。おかあさまははかまをはいて、ぼくと同じ生徒だったのです」
そう言いたいが、何となく気恥ずかしくて言えないのだ。決して、母をきらいなのではない。
「もっとはきはきと自分の思ったことを言わにゃ、あかんで。心の中なんて、親子でもそう見透せるもんやないからな。そのために言葉っていうもんがあるんやないか」
隆士はそういって、
「お前の気性じゃ、ラブしてもしんどいなあ」
と笑った。
(ラブ?)
信夫はふいに胸が動悸して、うつむいてしまった。
毎日じめじめとうっとうしい日が続く。信夫が学校から帰ると、待子がとんできた。
「おにいさま、たいへんよ」
「なにが大変なの?」
父でも体が悪くなったのかと思ったが、待子はにこにこ笑っている。
「あててごらんなさい」
待子はじらした。
「何だ? わからん」
信夫はわざととりあわずに家の中にはいった。待子が追いかけてきて、信夫のはな先に手紙をつきだした。
「これよ」
信夫には手紙などきたことがない。おどろいて信夫は封書をうら返した。
「吉川からだ!」
信夫は持っていた勉強道具を放りだして、封を切った。封を切る指先がふるえた。
「永野君。ずいぶん長いことごぶさたしてしまった。君は元気か。少し肥ったろうか。ぼくも北海道にきて、三年になった。ぼくと母と妹は元気だが、父はついこの間死んでしまった。血を吐いて死んだんだよ。酒をのみすぎて胃を悪くしていたそうだ。
生きている間は、母をいじめてひどい父だと思ったが死なれてみると、やっぱり悲しかった。
人間が死ぬというのは、おかしなものだよ。どうして憎しみが消えるのだろうな。
ふじ子は元気だ。このごろはよく本を読んでいて、ずいぶん大人になった。やっぱり足が悪いので、同じ年ごろの子より大人になるのだろうか。
北海道にくるまではいやなところだと思ったが、住めば都よふるさとよだね。札幌はいいところだよ。冬は雪が背丈よりも高く、屋根までつもるのでおどろいたが、まっしろい、けがれのない雪げしきもいいものだ。
君はすっかり、ぼくのことなど忘れたかもしれないね。
父は借金をたくさんのこして東京を出たので、ぼくが先生や友だちに手紙を書いてはいけないといっていた。だから手紙は書けなかった。今、ぼくはむしょうに君に会いたいと思っているよ。
永野信夫君」
吉川のまるい字がなつかしかった。信夫は立ったまま二度読み返し、すわってまた読んだ。北海道がにわかに近くなったような気がした。
もう信夫は、じめじめとした梅雨も気にはならなかった。吉川の手紙を読んだだけで、体の中に新しい力がみなぎるのを感じた。すぐ返事を書こうとして机に向かったが、妙に胸がわくわくする。
信夫は鉛筆を丹念にけずった。
「吉川君、ずいぶん久しぶりだね。君の手紙を読んで、ぼくはうれしくて、うれしくてたまらなかった」
ここまで書いて、信夫は少しおかしいなと思った。吉川の父親が死んだと書いてあるのに、うれしくてたまらなかったなどと書いては、何と薄情な奴だろうと吉川は思うことだろうと考えた。
(しかしほんとうにうれしかったんだ)
信夫は、吉川の手紙をもう一度読み返した。これで四度読んだことになる。よく読むと、やっぱり吉川が父親に死なれたということは、たいへんなことなのだと信夫はつくづく思った。
(もし、ぼくのおとうさまが死んだとしたら……)
このごろ、元気のない父の姿を見るだけでも信夫は心配だった。今、父に死なれたら、自分はどうなることだろうと思っただけでも、信夫は不安な気持ちにおそわれた。
(第一、だれが働いて、ごはんを食べて行くことになるのだろう?)
母親の菊が働けるとは思えない。自分自身が働くより仕方がないではないかと信夫は思う。働くとしたら、どこかの大きな店の丁稚《でつち》奉公ぐらいしかないような気がする。母親と待子はどんなに寂しいだろう。そう思うと、吉川が父を失ったという事実が、どんなにたいへんな現実であるかということに信夫は気づいた。
こんなにたいへんな生活の中にいる吉川に、手紙を読んでうれしかったなどと書く気になった自分が、何とも冷たい人間に思われて仕方がなかった。信夫はいろいろと吉川の生活を想像しながら、鉛筆をとり直した。
「吉川君。ほんとうに久しぶりだね。君が北海道に行ってから、ぼくはずいぶん君に会いたいと思っていた。ときどき思い出しては、北海道のどの辺にいるのだろうかと地図をながめたりしていた。
きょう、手紙をもらって、喜んで封を開いた。うれしくて、指先がふるえて封を切ることもできないくらいだったよ。だけど、手紙を読んで、おとうさんが死んだと知って、ぼくはびっくりした。どんなに悲しかっただろうね。おとうさんが死んだら、いったいだれが働いて食べて行くのだろう? 君が働くのか。ぼくと同じ年の、まだ十四歳にしかならない君が働くのだとしたら、これはたいへんなことだとぼくはつくづく思った。
どうか力を落とさずに元気を出してくれ。北海道も、住めば都だそうだね。雪が屋根までつもるときいて、おどろいたよ。さぞ寒いことだろう。ぼくの方は変わりがない。大阪から従兄《いとこ》がきて、大学に通っている。この従兄はおもしろい人で英語を教えてくれている。待子はますます元気だ。学校の方はあまり変わらないが、君がやめて行く時の受け持ちの先生は、やめていったよ。ではまた、手紙を書きます。さようなら
永野信夫
吉川修君」
信夫は書いた手紙を読み返してみた。吉川の手紙を見て、ほんとうはうれしかっただけなのに、いかにも吉川の父の死を悲しんで、吉川のことを思いやっているような自分の手紙に、信夫は心がとがめた。自分が不正直のような気がした。
(変だなあ)
信夫は書いた手紙を机の上においたまま、窓の外を見た。雨がしとしと降っている。待子がつくったてるてる坊主が軒に濡れていた。
(変だなあ)
信夫はふたたび、そう思った。信夫は吉川が好きだった。ときどき思い出して会いたいと思っていたことも事実である。それなのに、その吉川の父の死を聞いても、信夫は吉川の上に起きた不幸を心から悲しんでやることができない。
(友情ってこんないいかげんなものだろうか)
信夫はそう思った。人の身になって、共に泣いてやることのできない自分が、冷たい人間なのだろうかとも思った。
信夫はもう一度、手紙を読み返した。読み返して、もうひとつ大事なことに気がついた。ふじ子のことについて、何も書いていないことである。ほんとうはふじ子のことも書きたかったのに、信夫は自分自身でもそんなことは考えなかったように、ふじ子のことは書かなかった。
(何だか、うそばかり書いたようだな)
一通の手紙にも、自分のほんとうの気持ちをさらりと書くということはむずかしいと信夫は思った。もし、ほんとうの気持ちを書いても、それが正直な手紙ということにもならないような気がする。しかし、この何となく自分でも納得のいかない手紙を、吉川が読むのだと思うと、信夫は心もとないような気がした。信夫と吉川の友情が、こんな心もとないものの上に結ばれるのかと思うと、信夫はやっぱり変な気持ちだった。
信夫はそう思いながら、しかし、この手紙をとうとう出してしまった。
日曜の朝目をさますと、信夫は何だか背中が寒いような気がした。毎日雨が降っているせいでふとんが湿っているのかも知れないと思ったが、のどが痛く体もだるかった。
例によって待子が朝早くから外出着を着て、はしゃいでいる。
(待子は学校に行くより教会に行く方がうれしいんだ)
変な奴だと信夫はふきげんに、ねがえりをうった。
「おにいさま、ごはんですよ」
待子が信夫を起こしにきた。信夫はものを言うのもけだるいようでだまって目をつむっていた。
「おねぼうおにいさまぁ」
待子は、信夫のふとんをさっとはぎとった。信夫は体中がぞくっとして思わず身をちぢめた。
「寒いじゃないか」
信夫がどなった。
「あら!」
信夫の怒った顔を見て待子はおどろいた。信夫が本気で怒っているからである。
「おねぼうさん」
待子はそのまま茶の間の方に逃げて行った。信夫ははがされたふとんをふたたびかけたが、どうにも寒くていやな心持ちだった。
「どうした? まだ起きないのか」
洗面を終わった貞行が声をかけた。信夫は返事をせずに貞行を見上げた。
「何だ? からだの具合が悪いようだな」
貞行は片ひざをついて、信夫のひたいに手を当てた。
「菊、菊」
貞行はめずらしく、あわただしく菊を呼んだ。
「どうなさいました」
菊は部屋にはいってくるなり、信夫を一目見て、信夫のひたいに自分のひたいをつけた。信夫は恥ずかしさとうれしさにまっかになった。今まで、菊が待子にほおずりするのを見たことはあったが、信夫はほおずりされたことはない。
はじめて信夫が菊を見た日に強く抱きしめられたことはあった。しかし、その後はたまに肩に手をおかれたことがあるくらいであった。信夫は母が自分のひたいに、ためらわずにひたいをつけてくれたことで、心の底に深い安らぎをおぼえた。
すぐに医者が呼ばれた。菊は真剣な表情で医者の診察の様子を見守っていた。信夫は母の心配そうな顔を見ながら、いつしか眠ってしまった。
(ずいぶん暗いなあ)
信夫ははだしでまっ暗な道を歩いていた。足が冷たくて仕方がない。信夫は学校に行こうと思って歩いているのに道がわからない。ただ足が冷たいのだ。足は冷たいのに、頭は熱い。
(ああ火の粉がふってきたんだ)
信夫はどうしてこんなに頭が熱いのだろうと思いながら、うしろをふり返るとどこかの家が燃えている。信夫はひどくからだがだるくなった。
(つかれた、つかれた)
信夫はその場にしゃがみこむようにして眠りはじめた。
しばらくして信夫はふっと目をさました。電球が黄色く見える。
「信夫さん」
菊の顔が信夫をさしのぞいた。その菊の心配そうなまなざしが、かすかに笑った。
「ずいぶん眠りましたね」
そうか、眠っていたのかと信夫はぼんやりと母を見ていた。
「頭が痛みますか」
菊は手ぬぐいをしぼった。どこかで夜番の拍子木の音がした。
(ああ、真夜中なんだな)
信夫は菊を見て何かいいたかったが、いつのまにかまた眠ってしまった。
お《※》もゆをだれかに食べさせてもらったような気がする。医者がきて何か言っていたような気もする。寝まきを取りかえてもらったような記憶もかすかにあった。のどがひどく痛んだのだけはおぼえている。
信夫がはっきりと目をさましたのは、その翌日の夜半であった。
「信夫さん」
菊の顔が信夫のまぢかにあった。
「もう大じょぶですよ。のどが痛かったのでしょう」
菊が安心したように言った。
「うん」
信夫は、ひどくすなおな気持ちでうなずいた。
「おかあさま、もうねてもいいですよ。ぼく何時間ぐらい眠ったの」
「信夫さんは昨日の朝から、今まで熱が高くて、はっきり目がさめなかったのよ」
「昨日の朝から!」
信夫はおどろいて母をみた。
(昨日の朝から、おかあさまはずっとぼくのそばにいてくれたのだろうか)
信夫は、帯をしめたままきちっとすわっている母をみた。
「おかあさま。ずっと眠らなかったの?」
「信夫さんの病気が心配でしたからね」
菊はやさしい笑顔でうなずいた。
(そんなに、おかあさまはぼくのことをかわいがってくれていたのか)
信夫は、何ともいえない甘い喜びが、わきあがってくるのを感じた。
信夫は、自分でも理由のわからないままに、母にうちとけることができなかった。それは、長い間別れて暮らしていたという理由もあったかもしれない。母が食事のたび祈ることに、何とはなしにとり残されたような寂しさを感じていたこともそのひとつかもしれない。しかし、信夫は無意識の中に、幼い自分を捨てて家を出てしまった母を、心の中で決して許していなかったのかもしれなかった。母を美しいと思い、やさしいと思い、あこがれのような愛をすら抱《いだ》きながら、しかし心の奥底では、そのやさしさ、美しさを全く信じ切っていたわけではなかったのかもしれない。いや、やさしければやさしいだけ、どこかで油断のならないものを信夫は子供心に感じていたのかもしれなかった。自分よりも大事なものが母にあるということが、信夫には納得できなかったのだ。
(子供を捨てて家を出て行く母がこの世にあるだろうか)
そんなみじめな気持ちを、子供の時に知ったということは、わずかの年月ではとうていいやすことのできないものであった。信夫はほんとうに母が自分を愛しているということを知りたかったのだ。
いま、母が自分の病気を案じて、昨日から眠らなかったことを知った信夫は、いいようもない深い安《あん》堵《ど》にも似た喜びを感じた。
(おかあさまは、やっぱりぼくのおかあさまだったのだ。待子だけのおかあさまではなかったのだ)
信夫は心からうれしかった。
「おかあさま」
信夫は、その喜びを言いたいような気がして母を呼んだ。だが、ひとことおかあさまと呼んだだけで、何も言わなくてもいいような、そのままそっくり自分の気持ちが母に流れていっているような、そんな気持ちがした。こんなことは、今まで一度もないことであった。
「なあに、信夫さん」
菊の目がうるんでいた。
「どうしたの、おかあさま。どうして泣いているの」
いままでの信夫ならこうは素直にたずねることはできなかった。
「おかあさまはね、もし、あなたがこのまま病気が悪くなってしまったらと思うと、心配で心配で、生きたここちもしなかったのですよ。だってずいぶん長いこと高い熱が出て眠っていたでしょう。でも、いま目がさめた信夫さんをみて、ほんとうに安心したんですよ」
「安心して涙が出たんですか。おかあさま」
「変ですねえ。うれしくても、悲しくても涙が出るなんて」
菊はそっと目頭を袖口でおさえた。
(ぼくが死ななくて、おかあさまは喜んでいる。おかあさまはほんとうにぼくのおかあさまなんだ)
信夫はくり返しそう思った。
「おにいさま、よかったわねえ。ほんとうによかったわねえ」
待子が、おおいかぶさるように信夫の顔をさしのぞいて言った。翌朝のことである。
「ああ」
信夫は、待子をきらいではなかった。しかし、ときどき待子と母がひどく親密に思われる時があって、そんな時の待子を信夫はにくらしかった。だが、今朝はちがう。待子の丸い目がたまらなく愛くるしく思われた。
「わたしは子供でしょう。だから、夜はねなさいって、おとうさまもおかあさまもおっしゃるの」
そう言った待子は、かたわらにあった人形を信夫にさし出して、
「このお人形さんが、おにいさまのそばでずっとねないで心配してくれたのよ。わたしのかわりにね。このお人形おにいさまにあげるから早くなおしてくださいって、イエスさまにお祈りしたのよ」
待子は、そう言ってすぐに両手を胸に組んだ。
「神さま、待子のお祈りをきいてくださってどうもありがとうございます。ほんとうにありがとうございます。もう、おにいさまはきょうはごはんをたべることができるのです。ほんとうにこのお人形さんをおにいさまにあげますから、もう、おにいさまを病気にしないでください。イエスさまのみ名によってお祈りいたします。アーメン」
信夫は、待子の祈る言葉を初めてきいた。信夫は感動した。待子のその人形は一尺五寸ほどの人形で、赤い花模様の長い振り袖を着ていた。待子はふだんその人形を母の菊にさえさわらすことをしないほどたいせつにしていた。むろん、友だちがどんなに頼んでも、抱かすことさえしなかった。そのたいせつな人形を信夫にくれようとするのは、考えることができないほどたいへんなことであった。
信夫は待子に、自分の一番大事なラ《※》デン入りの文鎮ぶんちんをやることができるだろうかと思った。
(どうしても、やることはできない)
二番目に大事なソロバンをやることができるだろうかと考えてみた。
(とてもやることはできない)
そう思うと、信夫は待子がどんなに自分を好きなのかがよくわかった。自分にはできないことをこの小さな妹はできるのだと思うと、急に待子がたいそう偉い人間に思われてならなかった。
「待子、ありがとう。ぼくは男だからお人形はいらないよ」
信夫はやさしく言った。
「いいのよ。あげるわよ。あげるってイエスさまにお約束したんだもの」
待子はまじめな顔で言った。
「いいよ、このお人形は待子の大事な大事なお人形なんだから」
「そしたらね、おにいさま。おにいさまがイエスさまにお祈りしてちょうだい。待子がくれるといったお人形を、待子に返してもどうか待子を怒らないでくださいって」
「お祈り? ぼくヤソじゃないもの。お祈りなんて知らないよ」
そう言ってから信夫は、こんな小さな待子が自分のためにお人形もいらないと祈ってくれたことを思って、何だかヤソヤソときらっていたことが、急に恥ずかしいような気がした。
「おにいさまが、お祈りできなかったら、待子がお祈りを教えてあげましょうか」
待子の言葉に、信夫は何と答えてよいかわからなかった。お人形をもらうことはできない。と、いって、祈ることもできない。信夫は途方にくれて待子の顔をながめていた。
西郷さん 文政十〜明治十年(一八二七〜一八七七)。幕末、明治維新に活躍した薩摩藩の勤王志士西郷隆盛のこと。大久保利通、木戸孝《たか》允《よし》(桂小五郎)とともに維新の三傑といわれた。容貌が立派なことで知られたが、写真は残っていない。
おもゆ 乳幼児、病人用に炊いた米汁。
ラデン 螺鈿。あわび、蝶貝などを素材とした装飾細工。日本では奈良、平安時代より盛んになる。
門の前
信夫が、中学を出る年であった。大阪から、従兄の隆士が遊びに来た。隆士は大阪で、家業の呉服問屋を手伝っていた。
「商人なんて、つまらんで。月給取りの倍も長いこと働いて、だれを見てもペコペコせにゃならん」
そんなことを言いながら、隆士は大してつまらなそうな様子でもなかった。
日《※につ》清《しん》戦争の後で、全般に景気の悪いころであったから、隆士が商人をつまらないと思うのも、決して口だけではなかった。しかし、持ち前の楽天的な性格が、そんな苦しさをまともに感じている様子でもないのが、信夫にはうらやましい気がした。
「信ちゃん。お前、えらいいい男ぶりになったやないか」
隆士は、大きな手で信夫の肩をポンと叩いた。
「待ちゃんもえらいべっぴんやけどな」
隆士は如才なく待子にも世辞を言ったが、待子はつんとして、
「隆士おにいさまにほめられても、うれしくありませんわ」
と、応酬した。信夫の方が美しい菊によく似ていることを、待子は十分に承知していたのである。
久しぶりに隆士を迎えての夕食後、信夫は隆士に誘われて、町へ出た。
「信ちゃん、もう卒業やろ」
「はあ」
「きょうは卒業祝いに、いい所に連れてってやろう」
隆士は、先に立ってずんずんと歩いて行った。時々、立ちどまって、
「東京も変わったなあ。道がわからんようになってしもうたわ」
と、信夫をふり返った。
「お前、おなごと遊んだことがあるんか」
不意に声を低めて隆士が言った。
「女の人と遊ぶって?」
信夫は隆士の言った意味がのみこめなかった。
「たとえばやな。吉《よし》原《わら》で遊んだことがあるかっていうことや」
吉原ときいて、信夫は真っ赤になった。何と答えてよいかわからぬほど体の中がカッとほてる思いであった。
「何や」
信夫の様子を見て、隆士は大声で笑った。三十歳の隆士には、妻も子もある。
「どうせ、男がいつか一度は行く所や。卒業祝いに今夜連れてってやろう」
信夫は、二、三歩後ずさって立ち止まった。吉原という所は信夫も話にきいて知ってはいた。そこには、見たこともない美しい女たちが、幾百となくいるように想像された。そして、そこで男たちが女と遊ぶということが、何を意味するかも信夫は知っていた。
行きたくないと言ったらうそになる。しかし、行きたくないという気持ちも強かった。何となくそこは信夫にとって恐ろしい所であった。ちょうど、化け物屋敷を見たいと思う一方、恐ろしいと思う子供心に似ていた。
信夫にとって、女とはいかなる者か、皆目見当のつかないものであった。この世に男性と女性の二つの性しかないことは、信夫にとってひどく不思議な感じのすることであった。
母はたしかに女性であり、待子も十六歳の初《うい》々《うい》しい乙女であった。同じ屋根の下に起き伏ししているこの二人の肉親にさえ、信夫は時に妙な圧迫感を覚えることがあった。待子が信夫の間近に寄って来ると、信夫は不意に狼《ろう》狽《ばい》して、待子を避けることがある。妹なのになぜか嫌悪することもある。そしてまた、言いようもなく愛らしく思うこともある。そこには理由がなかった。不意に嫌悪し、そしていとしく思うのだ。そんな感情を起こさせる女というものを、信夫は何かしら恐れていた。
夜、夢の中でどこのだれともわからない女性が、あらわれることがあった。そんな後、いつまでも信夫は、夢の中の女のことを忘れることができなかった。顔も姿もさだかではないのに、たしかに女性として感ずることのできるというのは、考えてみるとやはり無気味であった。そんな女のことが、学校で友だちと話をしている最中にも、不意に信夫の胸の中に浮かぶことがある。信夫は、首まで赤くなって友人を驚かすことがあった。
時々、夕ぐれの町を人力車の上に、体を斜めにした美しい姿勢で、女の人が乗って行くのを見ることがある。すると、信夫はその女の体温をじかに感じたように体が熱くなり、その夜一晩、女の幻影から逃れることができなかった。信夫はかなり意志的で、理性的な人間のつもりであったが、一たん女性のこととなると、自分自身がどうにも自由になることができない。自分を不自由にしてしまう女性という存在が、信夫には恐ろしくもまた無気味であり、しかも厄介なことにひどく慕わしくもあった。
そのころ、兵《※》隊前に男が女を知ることは、当然のようになっていた。だから、同級生の半数以上は得意になって、女を知った話を披露していた。今、隆士が信夫を吉原に誘うということも、世間一般からみるとさして不道徳でも、また珍しい話でもなかった。
「何や、弱虫が!」
そう言って、隆士に背を押されると、信夫は呼吸を静めるようにして歩き出した。町並みも、行き交う人も何も目にはいらない。信夫は体がだんだんこわばってくるのを感じながら、幾度か大きく深呼吸をした。
「信ちゃん。女なんか、こわいことあらへんで。知ってしまえばどうということもないがな」
そう言いながら、隆士も遊びに行く楽しさで幾分興奮しているのか、いつもより声が大きくなりがちだった。
信夫は歩いている中に、何の脈絡もなく吉川修のことを思い出した。
(吉川はもう女を知っているだろうか)
小学校四年の時に別れたっきりで、今は、文通しているだけの吉川の顔が目に浮かんだ。吉川の顔は、別れた時の四年生の顔なのに、ひどく分別くさく、大人に思われた。
(吉川なら、女と遊びはしないにちがいない)
このごろ、よく寺に通っているという吉川の手紙を信夫は思った。北海道の炭鉱鉄道にはいって母と妹のふじ子を養いながら、一方では寺に通って、僧の話をきいているという吉川に、女と遊ぶ余裕も思いもないにちがいないと信夫は思った。今の信夫にとって、吉川はひとつの良心の基準でもあった。
(あいつのしないことを、おれはしようとしている)
信夫は、よほど一人で家へ帰ろうかと思った。しかし、足は依然として、隆士の後に従っていた。
(どうして帰ることができないのだろう)
そう思いながらも、歩みをとめることはできなかった。やはり、一度も見たことのない吉原の華やかさを、信夫は期待しながら歩いていた。
(どんな女たちがいるのだろう)
(女に何と話をしたらいいのだろう)
次第に、そんなことすら想像しながら、信夫は黙って隆士と歩いていた。
「信ちゃん、ホラ、向こうに大きな門が見えるやろ。あの向こうが吉原や。いよいよ来たんやで」
隆士の指さす方を眺めた時、信夫の胸がひどく動悸しはじめた。気がつくと、人力車に乗った男たちや、着流しの男たちが、幾人も信夫たちを追い越して行く。みんな、楽しそうな様子であった。若い学生たちが五、六人大声で、
「敵は幾万ありとても……」
と、わめきながら手をふって歩いて行った。どれもこれも、暗い中で影絵のように見えながら、ひどく鮮明に信夫の胸に灼《や》きついた。
「ずい分たくさんの人が行くんですねえ」
信夫は自分の声がおかしいほど、ふるえているのに気がついた。
「そりゃあ、男やもん」
こともなげに言って隆士は笑った。
自分も、この多くの男たちの一人かと思うと、信夫はふっと淋しくなった。
(おれは今、どこに行こうとしているのだろう)
信夫は、自分が急にいやになった。女を買うということは、今の時代では必ずしも悪いことではないかも知れない。しかし、ほめられることでもないと信夫は思った。しかも、心の奥底で信夫は決してそのことをいいことだと、思ってはいなかった。
(吉川なら、おめおめとこんな所までやってきはしないだろう)
信夫は、明るい吉原の一画を遠くに眺めながら、まだ帰る決心がつかなかった。夢の中に出てくるあの柔らかい女の肌が、現実のものとなることに、やはり執着があった。
「おい、どうしたんねん。男らしくないぞ」
そう隆士に言われたとたん、信夫はハッとした。
(そうだ。おれは男らしくはない)
そう思うと、信夫は心の中で、大きく自分自身に気合いをかけた。
(回れ右!)
足がきっぱりと、回れ右をしたかと思うと、信夫はもう駆け出していた。うしろで叫ぶ隆士の声も、行き交う人のあきれたようにふり返る姿も、目にはいらなかった。信夫は、
(前へ進め! 前へ進め!)
と、繰り返し、号令をかけながら、走っていた。
布団の中で、信夫は、さっきから自分の体をあちらこちらつねりあげていた。
(こんな姿を吉川に見られたら、どうしよう)
信夫は、吉原の大門までついて行った自分の弱さを罰するように、幾度も幾度も自分の体をつねっていた。しかし、心はなかなか静まらなかった。信夫は、起き上がって電灯をつけた。机に向かって、便箋をひらくと、やはり吉川に告げずにはいられなかった。明日読み返して、破り捨てるかも知れないとしても、ひとこと書いておかずにはいられなかった。
吉川君。
今、午後十時だ。急に、君に書かなければならないことが起きて、筆を取った。
吉川君。人間て、不自由なものだね。実はぼくは、今夜初めて、人間というものが、いかに不自由な存在かということを痛切に知った。ぼくは中学にはいっても学力では決して人に劣りはしない。体は細いが、柔道だって、講道館の二段だし、実のところ、自分という人間は、何をしても、人より優まさっていると心ひそかに自負していた。人間としても、同じ年ごろの青年とくらべれば、かなり分別もあるし、意志も人より強いつもりでいた。だから、実のところ、人間は万物の霊長という言葉を、何の抵抗もなく、ぼく自身も使っていた。
そこまで書いて信夫は、この先、書き続けようかどうかと、思案した。遠い北海道にいて、何も知らない吉川に、ことさらに自分の弱点をさらけだすこともあるまいという思いがかすめた。しかし、信夫にとって、吉川は単なる友人以上の存在であった。常に吉川は、信夫よりも一歩先を歩いている人間に思われた。いや、先というより、一段高い所に生きているように思われた。
それは、遠くに離れているために、吉川を美化して考えているというのではない。小学校の時以来、信夫は吉川に対して、そんな印象を今も変わることなく持っていた。
信夫は再び筆をとった。
吉川君。
恥ずかしい話だが、ぼくは今日吉原に行くところだった。吉原といえば、遊女のいる所だが、ぼくは従兄に誘われて、その近くまで行ってしまった。ぼくはそのすぐそばから走って逃げ帰って来たが、それは、君のおかげなのだ。
ぼくは、君ならこんな所に来るはずがないと思った時、急に恥ずかしくなったのだ。もし、君という人間がほんとうに立派な人間でなければ、ぼくは今ごろ遊女とひとつ枕でねていたことだろう。
吉川君。ありがとう。君は遠い北海道にいながら、ぼくの危機を救ってくれたのだ。いい友だちというものはほんとうにありがたいものだね。君を知らなかったら、ぼくはどんな無反省なことをしでかしたことだろう。
吉川君。ぼくが不自由だと言ったのは、実はこの女性に対する迷いのことなのだよ。ぼくは、たぶん目の前に百円落ちていたとしても、それを自分のものにしようとする気持ちはないだろう。その点においては、ぼくは金銭に対してとらわれない自由な人間といえるかもしれない。
しかし、だれも見ていないところで女の人に手を握られたら、それをふり切って逃げてくるということはできないような気がする。端的に言って、ぼくにとって最もむずかしいのは性欲の問題なのだ。
吉川君。ぼくは性欲に関する限り、決して一生自由人となることができないような気がする。幾度か、性的なあやまちを犯しそうな不安すら感ずる。君、どうか、ぼくを笑わないでくれ。そして、ぼくにこのことから自由になる道を教えてくれないだろうか。
何だか妙な手紙になったけれど、二十歳のぼくにとって、今これ以上の大問題はないのだ。どうか笑わずに助けてくれないか。君。頼むよ。おねがいだ。至急の返事を待っている。
きょうは吉原の灯を見ただけで逃げて帰って来たけれど、この後はたして逃げ帰れるかどうか、ぼくには自信がないのだ。
永 野 信 夫
吉 川 君
追伸
すまないが、この手紙はすぐ焼き捨ててくれないか。おかあさまや、ふじ子さんに見られてはどうにも恥ずかしくて仕方がないから。
書き終わって、信夫は少し心が落ち着いた。しかし、ふじ子さんと書いたその時に、思いがけなくやさしい感情が胸に広がるのを感じずにはいられなかった。
隆士が大阪に帰って二、三日たった。その日は一月というのに、四月のような暖かさで、朝から空が晴れ渡っていた。
「桜が咲きそうな日和《ひより》ですわね」
菊が言うと、
「うむ、暖かすぎるというのはどうも体によくないんじゃないのかな」
貞行は答えた。
「あら、おとうさま、どこかお悪くって?」
おさげ髪に白いリボンをつけた待子が、貞行を見た。
「うむ。どうも肩がこるねえ」
貞行は、めっきり娘らしくなった待子を見て微笑した。
(具合が悪ければ休むといいよ)
信夫はそう言おうとしたが黙っていた。
このごろ信夫は、いつも口まで出かかってやめることがしばしばある。なぜか、言おうとしている言葉が、どれも大した意味のある言葉に思えなくなってしまうのだ。言おうとした言葉を心の中で言ってみると、どの言葉もその大半は言わずにすむような気がするのだ。信夫は、人と言葉を交わすことにむなしさを覚えはじめていた。
「あなた、大丈夫でしょうか」
「大したことはないだろう」
服に着がえながら、答える父の顔を信夫はみつめていた。
(休めばいいのに)
父の顔が疲れて見えた。しかし、やはり信夫は黙っていた。自分より分別のある父に、何も言うことはあるまいと思ったのである。その信夫をふり返って貞行が言った。
「受験勉強は順調かね。少し疲れた顔をしているようだが、体をこわしてはいけないよ」
信夫は顔をあからめた。受験勉強よりも信夫の心を悩ましているのは、性欲の問題であった。信夫は、門を出て行く父の人力車をぼんやりと見送った。
「行ってまいります」
待子が、ふろしき包みを抱《かか》えて、信夫の横をすりぬけた。
「ああ」
ぼんやりと答える信夫を見て、待子が歩みを返した。えび茶の袴《はかま》のひだがやさしくゆれた。
「おにいさま、こんないい日和にどうしてそんなお顔をしていらっしゃるの」
「なに、何でもないよ」
「それならよろしいけれど、おとうさまもおにいさまもお元気がないのでは、わたくしは淋しくってよ」
待子はそう言い捨てると、今度はふり返らずにさっさと門を出て行った。待子の後を信夫は門までゆっくりと歩いて行った。ついこの間までは、どこへ行くにもついて来たがった待子も、このごろは決して信夫といっしょに歩きたがらない。
同じ方向の学校に行くにも、待子は必ず信夫よりひと足先に家を出る。信夫は門の前に立って、もう半丁ほども先を行く妹の元気な後ろ姿をじっと見ていた。何の苦労もない、明るい待子の持つふんいきはさわやかで、妹ながら気持ちがよかった。
信夫も学校に行こうと、門を離れて二、三歩行った時、うしろからけたたましく呼ぶ男の声がした。ふり返ると先ほど父を乗せて家を出たいつもの車屋であった。車夫は、人力車を曳ひいていない。信夫はさっと背筋が冷たくなった。何かが父の上に起こったのだ。
車屋の叫ぶ声が、ハッキリとした言葉になって聞きとれるのには少し時間がかかった。信夫は急いで歩みを返した。急いだつもりだったが、実はひざががくがくとして、よそ目にはひどくのろのろと歩いているように見えた。
貞行はもう六時間も、高いびきをかいて眠りつづけている。菊も信夫も待子も、今はただおろおろと貞行の寝顔を見つめているだけであった。
信夫は、今朝、父の疲れた顔を眺めながら、
「休んだら」
と、心の中で思いつつついに口に出さずに見送ってしまったことを、痛切に悔いていた。
(なぜ、たったひとことの言葉も口に出すことができなかったのか)
血の滲《にじ》むほど強く唇をかみしめながら信夫は思った。
「おとうさま、おとうさま」
時々涙声で待子が貞行を呼んでむせび泣いた。何の苦労もなくのびのびと育った待子には、耐えられない悲しみであった。菊はさすがにだれよりも落ちついてはいたが、半日のうちにその美しいほおがげっそりとこけていた。
信夫はいつの間にか両手を固くにぎりしめていた。
(もしもこのまま父が死んでしまったら……)
そう思っただけで、いても立ってもいられなかった。ひれふして何者かに祈らずにはいられない気持ちだった。母と待子が両手を組んで祈る姿を見ると、信夫はいいようもない羨望を感じた。そして、この二人の祈りなら、ヤソの神はきいてくれるのではないかと、心ひそかに思ったりもした。
(おとうさま)
信夫は父に叱られた幼い時のことを思い出していた。
(あれは虎ちゃんに物置の屋根から突き落とされた時だった)
「町人の子なんかに突き落とされたりはしない」
そう言った信夫を、父は初めてなぐった。その父の心が、二十歳になった今の信夫にはよくわかった。
(よくなぐってくださった)
もしあの時なぐられずに終わったら、自分が屋根から落とされたということは、単なるひとつの思い出でしかなかったであろう。その時にはよくはわからなかった父というもののえらさが、こうして眠りつづける姿を前に、実によくわかるような気がした。
(自分には父がいる)
それがあるいは過去のことになってしまうかもしれないと思うと、どんなことがあっても生きていてほしかった。眠りつづけるだけでもいい。とにかく、息をして、生きていてくれるだけでもありがたいと信夫は思った。
しかしその夜、ついに貞行は死んだ。
信夫は、葬式というものが、仏教以外で行われるとは夢にも思わなかった。親戚のものたちも当然仏式で行うものと決めていたのに、菊がキリスト教式で行うと申し出たから、にわかに人々は気《け》色《しき》ばんだ。
「そんな恥ずかしいことはできますかい」
トセの弟は、ヤソの葬式なら帰ると言い出した。
「あんたがヤソなのは知っているが、何も貞行さんまでヤソで葬ってもらわなくてもいいですわ」
人々は口々に菊を非難した。今までのトセとのいきさつを心よく思っていなかった者が多かった。ただ、貞行のおだやかな人柄や菊のやさしさに、そうしたことを表立たせずに来ただけであった。
それだけに、人々の反対を押し切ってキリスト教式にしたいという菊の申し出は人々の反感を招いた。
「貞行さんもおそらくそんな葬式では浮かばれまい」
だれかがそう言った時、菊は一通の封書を人々の前にさし出した。
「これは主人の遺書でございます」
菊はそう言って、ていねいに一礼した。
信夫は驚いた。
(遺書だって? おとうさまはいつそんなものをお書きになったんだろう)
信夫には不思議であった。
遺書は、トセの弟によって読み上げられた。
「人間はいつ死ぬものか自分の死期を予知することはできない。ここにあらためて言い残すほどのことはわたしにはない。わたしの意志はすべて菊が承知している。日常の生活において、菊に言ったこと、信夫、待子に言ったこと、そして父が為したこと、すべてこれ遺言と思ってもらいたい。
わたしは、そのようなつもりで、日々を生きて来たつもりである。とは言え、わたしの死に会って心乱れている時には、この書も何かの力になることと思う。
一、信夫は永野家の長男として母に孝養を尽し、妹を導き、よき家庭の柱となって欲しい。
一、ただし、立身出世を父は決して望んではいない。人間としての生き方は、母に学ぶがよい。
一、信夫は、特に人間として生まれたということを、大事に心に受けとめて、真の人間になるために、格別の努力を為されたい。
一、わたしは菊の夫とし、信夫、待子の父として幸福な一生であった。それはすべて神が与えたもうたからである。
一、父の死によって経済的に困窮することがあるとしても、驚きあわてないこと。必要なものは必ず神が与えたもう。
一、わたしの葬式は、キリスト教式で行われたい。
以上、このごろ時々疲れを甚《はなは》だしく覚えるので、万一の為に記《しる》して置く。
貞 行
一月十四日
菊 殿
信夫殿
待子殿」
一同は、遺言を聞き終わると、互いにうなずき合っているのみで、ほとんどささやくことすらしなかった。彼らにとって、遺言とはすなわち財産分与であると言っても過言ではなかった。だから、どこと言ってとらえどころのないようなこの遺言は、彼らをとまどわせた。
しかし、たしかに遺言を書き残した甲《か》斐《い》はあった。なぜなら、キリスト教式にすることを、もはやだれも非難するものはなかったからである。
葬式がすんで家の中が急にひっそりとなった。朝夕床の中で、目をつぶっていると、信夫は死という字が、大きく自分に向かってのしかかってくるような圧迫を感じた。祖母の死といい、父の死といい、いずれも余りにも急激であった。それは、有無を言わさぬ非情なものであった。そこには、全く相談の余地も、哀願の余地すらもなかった。
せめて、二日、三日でも看病することができ、死んで行く者と残される者とが、話し合うことができたならば、いくらか悲しみは和《やわ》らぐかもしれなかった。けれども祖母も父も、あっという間に意識を失い、ただおろおろと見守る中に息を引き取った。
(余りにも一方的だ)
信夫は、何かに向かって訴えたいような、恨みたいような思いであった。
(おれもおばあさまや、おとうさまのように、何時とも知らぬ時、突然死んでしまうのではないだろうか)
信夫は恐怖した。父の死の寸前まで、信夫の心を占めていたのは性欲の問題であった。しかし今、信夫にとって最も大いなる問題は死となってしまった。死にくらべれば、性欲の問題はまだしも相談の余地があった。何か逃れ道があるような気がした。しかし、死は絶体絶命であった。どこにも逃れようのない大問題であった。
(おれも必ず死んでゆくのだ。いつか、どこかで、何かの原因で……)
信夫は目を開けて、じっと自分の両手を見つめた。うす桃色をしている掌《てのひら》を眺めながら、
(これは生きている手だ)
と信夫は思った。しかしこの手が、いつか全く冷たくなり、もはや動かぬ手となることのある日を信夫は思った。信夫は親指から順に指を折り、そして開いてみた。その時ハッキリと信夫は、人間は必ず死ぬものであるということを納得した。
(どうして自分が死ぬものであるというこの人生の一大事を、今まで確かに知ることができなかったのだろう)
信夫は父を偉いと思った。生きている時は余りにもおだやかで、歯がゆいほどに思われた父であった。しかし父は遺言の中で、
「日常の生活において、菊に言ったこと、信夫、待子に言ったこと、そして父が為したこと、すべてこれ遺言と思ってもらいたい。わたしはそのようなつもりで、日々を生きて来たつもりである……」
と言っている。それは常に死を覚悟して生きて来た姿とは言えないだろうか。あのおだやかな日常の生活において、父は心の奥底に大きな問題を、たしかに受けとめていたのだ。
(おれは自分の日常がすなわち遺言であるような、そんなたしかな生き方をすることができるだろうか)
信夫は、父の死を悲しむよりも、むしろ父の死に心打たれていたのである。
父の死によって、はじめて信夫はキリスト教会堂に足を踏み入れた。高い天井も、少し暗い教会堂内も、信夫が想像していたような、キリシタンバテレンの妖しさは何もなかった。集まった人々も格別恐ろしげな人々でも、風変わりな人々でもなかった。
けれども、葬式だというのに、お経もあげず、線香もあげず、オルガンをひき歌をうたっているのはひどく不人情に思われてならなかった。牧師が祈り、信者たちが声を合わせて「アーメン」というのもそらぞらしくひびいて馴じめなかった。
(だが、あれほどのおとうさまやおかあさまが信じている宗教なのだから、たぶんいい所もあるのだろう)
信夫はそう思いながらも、しかし自分は一生あんな所に通うことはないだろうと思った。
父の死によって、たちまちに現実の問題として考えなければならないことがひとつあった。それは、信夫自身の大学進学の問題であった。銀行勤めの身としては、かなり収入のあった父であったから、ここ二、三年食べていけるだけのものはないではなかった。
けれども、信夫は一家の主人として考えた時、それを食いつぶすということはできなかった。むろん、大学に進んで勉強したい思いは山々である。だが利かん気の信夫には、独学で大学程度の学問をやりとげる自信があった。
大学進学よりも、母と妹を養わねばならぬということが、青年期に移りつつある信夫にとって誇らしいことでもあった。
(吉川は、小学校を出ただけで立派に母親と妹を養って行っているではないか)
いまさらのように、それは大きなことに思えて、信夫は吉川を偉いと思った。
父のひと七日がすんだ翌日、信夫は吉川に再び手紙を書いた。
「吉川君。
ぼくの手紙が届いたころだろうか。今、ぼくは思いもかけない父の急死に会った。昨日ひと七日をすましたばかりで、実際の話、父の死はまだ現実として、納得できないような気持ちでいる。
朝目をさました時など、長い夢をみていたようで、ほんとうは父が生きているような気がする。そのあとの寂しさと言ったら、君、実にいやなものだね。君もお父上を失っているから、この気持ちは察してくれられるだろうと思う。
父は、卒中で実にあっけなく死んだ。万物の霊長ともあろう人間が、こんなにもあっけなく死んでいいものだろうかとさえぼくは思った。祖母も卒中だった。そして父も同じ病気で、急死したとなると、ぼくにとって死とは実に、不意打ちをくらわすいやなものに思われてくる。
むろん、死がいやでない人間はいないと思う。けれども、何の前ぶれもなく一撃されるというのは、たまらなく恐ろしいものだよ。ぼくは今、死についていろいろなことを考えている。いずれまたいろいろときいて欲しいと思っている。
しかし、何だか不思議な気がするね。君もぼくも両親と妹があった。ところが、二人共父親を失ってしまうなんて。何だかぼくと君は同じ運命にあるような気がしてならない。いいことででも、似た運命になりたいものだね。
とにかく君は小学校の時にお父上を失ったのに、立派に生活しているのだからね。ぼくも先輩の君に負けないようにがんばりたいと思う。何だかまとまりのない手紙だが、一筆書いてみた。
先日は妙な手紙を出して失敬した。笑わないでくれたまえ。
信 夫
吉川君」
書きたいことが何も書けていないような気がしたが、信夫は今ひとことでもいいから、吉川と話をしてみたいような心持ちだった。
信夫には中学にはいってからも、友人は何人かいた。だが、心の底まで話し合いたいような友だちは、なぜか一人もいなかった。遠い北海道に住む吉川が、一番話しやすい友人であったためかもしれない。今会えば、案外何も話し合えないかもしれないのに、相手の顔を見ずに手紙を書くということが、信夫を吉川に大胆に結びつけていたのかもしれなかった。
信夫が手紙を出したその翌日、吉川から手紙が届いた。信夫は昨日出した手紙に返事が来たような錯覚で喜んで封を開いた。吉川の丸味を帯びた暖かい字が、ぼつんぼつんと間隔を置いて書かれている。字《じ》面《づら》を見ただけで慰められるような心地《ここち》であった。
「永野君。
君の手紙をよくよく拝見した。実のところ、君はこんな手紙を書けるほどの人物とは思わなかった。こんな言い方は失敬だろうね。しかし、君ってちょっと取りすましたところのある人間に見えるからね。性欲に悩むなどと書いてくれようとは、夢にも思わなかったよ。
君。君も人間なんだね。ぼくはだれもかれもみんな凡夫だと、お坊さまから聞かされていながらも、何となく心の中では、いや、永野だけは少しちがうのじゃないかと思っていた。
だが、君の手紙を見て実に安心もし、あらためて尊敬もしたよ。ぼくも性欲の問題にはほとほと手を焼いている。しかし、これは人間と生まれた以上、仕方のないことなのだね。こんな悩み多い人間だからこそ、み仏の救いが必要なのではないだろうか。
君は、何か信仰的な本でも読んでいるのだろうか。どうやら、まだらしいようすだね。ぼくは早くに父を失って、いろいろと生活上の苦労もあったから、やはりお坊さまのお話が何よりの力であり慰めであった。
いろいろとお話を聞いていると、人間というものは過失を犯さずには、生きて行けないものだということをつくづく思うようになった。
よいことだと知りながら、それを実行するということは、何とむずかしいことなのだろう。したいと思うことをし、していけないと思うことをやめればそれでいいはずなのだ。ところがそうはいかない。全く君のいうとおり、人間て不自由なものだね。妹のふじ子はあのとおり、足が不自由だから、人々はふじ子を不具者だと思っているよ。
しかしねえ、目に見えた不具者を笑うことはやさしいが、自分たち人間の心がどんなに不自由な身動きのとれない不具者かということには、なかなか気付かないものだよ。
それにしても、ぼくたちは性欲のことについてまじめに話し合えるようになったのだね。これは大いに祝盃をあげて祝うべきことではないだろうか。君の待っていたような手紙ではなくて気の毒だった。盃《さかずき》といえば、近ごろ、ぼくは少しずつ酒も飲めるようになってきたよ。何しろこちらの冬は君たちの想像もできないような寒さだから、つい一ぱい飲むということになるらしいね。
だがね、ぼくも親父の酒乱にはほとほと手こずったことだから、あんな酒飲みにはなるまいと気をつけている。昔から、
『朋あり遠方より来たる また楽しからずや』
とかいうではないか。いつの日か君を北海道に迎えてまあ一ぱいということをやってみたいものだね。
何と言っても君は両親がそろっていて大学にも行けるし、しあわせなことだよ。一生君にだけはしあわせがつきまとっているようにと、ぼくはねがっている。と、言ったからと言って、ぼくは何も自分が不幸だなどとは思っていないよ。飲んだくれの父がいたことも、早くに死んだことも、ぼくが小学校しか行けなかったことも、結局はぼくに与えられたひとつの試練だと思っている。
人間だれしも自分に同情をしはじめたらきりがないからね。大学にはいったらすぐ手紙をくれたまえ。
吉 川 修
永 野 君
追伸
ふじ子の奴が、このごろ急に大人びて、ちょっとした美人になった。妹というのは、何となく妙な存在だね。女性という異性でありながら、しかし、ぼくにとっては異性ではないのだから。こんな存在が世にあるということ、姉や妹のいない人にははたしてわかるものだろうか」
信夫は、読み終わってほっとため息をついた。
「吉川はまだおれの父の死を知ってはいない」
そうつぶやきながら、信夫は再び吉川の手紙を読みなおした。
(吉川はとうに父親を失っているのだ)
急にその吉川の過ごしてきた年月が、信夫にとって具体的なものとなった。性欲のことを書き送った時の自分の気持ちが、ひどくぜいたくなものに思えてならなかった。
吉川が信夫の幸福をうらやんだり、そねんだりすることなく、いつまでもしあわせであるようにと書いてくれた心がうれしかった。
(おれには、もう父はいない)
信夫は涙をこぼした。しかしそれは、父の死を悲しむ涙とはちがっていた。客観的に自分よりも不幸なはずの吉川が、限りなく信夫を祝してくれた美しい心に対する感動の涙だった。
(おれも、決して不幸じゃないぞ)
信夫は、大学に行けないことも決して不幸ではないと心からそう思った。
日清戦争 明治二十七年(一八九四)から二十八年にかけて、朝鮮半島の領有をめぐり、日本と清国(現在の中国)との間で行われた戦争。
兵隊前 第二次大戦前、徴兵制度のあった日本で徴兵適齢(満二十歳)前の男性をいった。
捕《ほ》縄《じよう》
中学を卒業した信夫は、父の上司の世話により、裁判所の事務員になった。
就職して一月ほどしたある雨の日であった。信夫は書類を持って室を出た。廊下を曲がると、廷吏につきそわれた男にバッタリ出会った。今までそういう囚人に廊下で会うと、信夫はなるべく目をそらして、相手の横を通りぬけた。それでも、すれちがった瞬間は、胸がどきどきしたり、この男にも父や母はいるのだろう、どうしてこんなことになったのか、妻や子はいないのかなどと、思わないことはなかった。
だが、きょうは廊下の角を曲がった所で、出合いがしらにぶつかった。避けようもなかった。いつもなら見ないで通る囚人の、しかもその胸にまともに突き当たった。囚人は深《ふか》編《あみ》笠《がさ》でかくした顔を上に向けて、咎《とが》めるように信夫を見た。
その顔に信夫は、危うく声をあげるところであった。それは、あの幼いころによく遊んだ虎雄だったのである。
「虎ちゃん」
信夫は、口まで出かかった言葉をのみこんだ。つと、信夫の視線を避けるように顔をそむけて行き過ぎた虎雄の後ろ姿を、信夫は呆然と見送った。
(人ちがいだっただろうか)
あの、黒豆を二つ並べたようなつぶらな目は、たしかに虎雄だったと信夫は思った。信夫は、虎雄と物置の屋根の上で、言い争って突き落とされた日のことを、懐かしく思い出した。
(いつも、小間物屋の六さんに連れられて、来ていたが……)
虎雄はおとなしい、そして気のいい子供だったように信夫は覚えている。あの虎雄が、その後どんなことに会って、手がうしろに回るようなことになったのかと、その日一日心が落ちつかなかった。
退庁前に、法廷前の廊下の告知板を見ると、それはたしかに虎雄であった。虎雄は窃盗と傷害で、その罪を問われていたのである。
家へ帰って、夕食を食べる時にも、妙に心が落ちつかない。軒の雨だれの音も信夫の耳にははいらない。
「どうしたの、おにいさま」
ふしぎそうに待子が信夫を見た。
「うむ、何が?」
「だって、さっきから、そのお豆腐をつついてばかりいるじゃありませんか」
几帳面な信夫は、豆腐を決して崩したりせずに、四角のまま口に入れる。言われてどんぶりの中を見ると、豆腐はどれもこれも、すっかり崩されている。
「まあ、ほんとうに。信夫さんらしくもないこと」
母の菊は、待子より先に、信夫の様子に気づいていたが、今、初めて気づいたかのようにそう言った。
「体でも悪いのですか」
菊は、不安を押しかくしてたずねた。体よりも役所で何か悪いことがあったのではないかと思っていた。
「いいえ。今日は雨が降って少し冷えたようです」
信夫は、虎雄のことを言おうか言うまいかと迷っていた。幼い時の友だちではあっても、人に知られたくないその姿を、できるなら黙っていてやりたかった。だが、こうして自分のことを心配してくれる母と妹には、何でも打ち割って話していいような気もした。父が死んで以来、信夫は一家三人の心の結びつきを、非常に大事に思って来た。この母と妹にだけは、喜びも悲しみも共に分け合いたいという、溢れるような愛情を信夫は持つようになって来た。
それは、一家の柱としての自覚によるものだったろうか、青年特有のみずみずしい情感のためでもあったろうか。自分のことをまず第一に主張したい、自我の強い青年期に、父を失った信夫は、母と妹を養わねばならぬという気負いのゆえに、いつも、母と妹のことを考える大人に成長してしまったところがあった。
「おかあさま、あの六さんという小間物屋を覚えていますか」
夕食を終えてから信夫が言った。
「六さん? さあ、どんなかただったかしら」
菊は全然見当がつかないという顔をした。
「ほら、よく櫛や、半襟や糸など持って来た小間物屋があったじゃありませんか」
「小間物屋さん?」
「ええ、虎ちゃんという子供がいつもついて来て、いつかぼくを、屋根から突き落としたことがあったでしょう」
言ってから信夫は、ハッと気づいた。
(そうだ。あの時はまだ、おばあさまが生きていらっしゃった)
「ああ、屋根から落ちたことは、おとうさまにうかがいましたよ」
菊はうなずいた。別段、何のこだわりも見せてはいない。
「ああ、虎ちゃんて、目の黒いおとなしい人だったでしょう」
待子が思い出したというように手を打った。
「わたし、あの子とかくれんぼなんかして、遊んだのを覚えているわ。でも、六さんという人は、うちに来ていたかしら」
祖母が死んでから、六さんはなぜかこの家に寄らなくなってしまったことを、信夫も思い出した。虎雄だけが、一年ほど経ってから、ひょっこりと遊びに来るようになって、いつかまた足が遠ざかって行った。
「その六さんとかが、どうかしましたか」
菊が話をもとにもどした。
「ええ、実は今日、役所の廊下で、バッタリとその幼友だちの虎ちゃんに会いましてねえ」
「まあ、今、どこにいるのかしら。ずい分大人になっていて?」
待子が言った。
「いや、それが……手がうしろに回っていたんですよ」
信夫は自分の両手をうしろに回して見せた。
「まあ」
菊と待子が声を上げた。
「どうしてまた」
菊が眉根を寄せた。
「窃盗と傷害の罪名で、ぼくもすっかり驚いてしまったんです。あんなやさしい子が、どうしてそんなことをしたのかと思うと、どうも気が重くて……」
信夫の言葉に、菊と待子がうなずいた。
「そう言えば、わたし、やっぱりあの時見たのが、虎ちゃんだったのね。浅草でひるまから酔っぱらって、何か女の人にからんでいた男がいるの。もう半月も前のことだったけれど、その時わたし、どこかで見た顔だわと思って、行き過ぎてから、ああ、あれは虎ちゃんに似ているって、思ったの」
「そんなことがあったのか」
信夫は、虎雄の酒に酔った姿を想像しようとしても、なかなか思い浮かべることができなかった。
「でも、その時は虎ちゃんに似ていると思っただけで、まさか、あの人だとは思わなかったわ」
待子は、その時のことを思い出すまなざしになった。
「おかあさま、人間て小さい時にいい子でも、大きくなって、そんなふうに変わるものでしょうか」
さっきから二人の話をじっと聞いている母に、信夫はそうたずねた。
「信夫さん。人間てね、その時その時で、自分でも思いがけないような人間に、変わってしまうことがあるものですよ」
ひざにきちんと手を置いたまま、菊は静かにそう言った。
(自分でも思いがけない人間になることがある)
信夫はふっと、顔の赤らむ思いがした。あの吉原に、まさか自分が足を向けるとは、あの時まで思いもよらぬことであった。今考えてみると、それは決して、自分一人でなら行かなかったにちがいない。あの吉原の大門の手前で、逃げて帰って来たのが、ほんとうの自分だと、今まで信夫は思っていた。
しかし、あの吉原に足を急がせていた自分も、たしかにこの自分ではなかったかと、信夫は今やっと知らされたような気がした。時々、女体の悩ましい姿に眠られなくなる夜の自分の心や姿を、だれに見せることができようかと、信夫は恥ずかしかった。
(その時の自分も、まさしくこの永野信夫なのだ)
あの、気の弱く見えた虎雄もほんとうの虎雄なら、人を傷つけるようなことをしたのも、まさしくあの虎雄なのだ。考えてみると、いかに子供だったとは言え、屋根の上から、自分を突き落としたということは、すでにそのころから、かっとなれば何をするかわからないものを持っていたということになると、信夫は思い返した。
「人間て恐ろしいものね。わたしだって時と場合によっては、ずい分やさしくもなるけれど、自分でもいやになるほど意地悪にもなるわ」
このごろめっきり女らしくなったその肩を、待子はちょっとゆするようにして言った。
「おかあさまだってそうよ」
菊も微笑した。
「おかあさまが……?」
この母はいつも静かでやさしいと、信夫は思って来た。この母のどこに乱れがあるであろうかと、信夫は母の顔を見た。
「そんな驚いた顔をして、信夫さん、おかあさまも人間なのですよ。おかあさまって、とても弱虫なの。すぐに寂しくなったり、人を憎んでみたり、腹を立ててみたり……」
「まさか、そんなことはうそでしょう。おかあさまが人を憎んだり、腹を立てたりなんて、ぼくは想像ができない」
信夫は、母の言葉をさえぎった。
「信夫さん、腹を立てるように見えないということと、腹を立てないということは別ですよ。おかあさまはひとつも腹を立てたことがないなどと思っていたら、大まちがいですよ」
菊は、乳のみ児の信夫を置いて、この家を出なければならなかったころのことを思い出しただけでも、決して心がおだやかではなかった。決してトセを悪い人だとは思いはしない。どの家の姑でも、そして親兄弟でも、キリスト信者になることを、疫病のようにきらい、さげすんだ時代であった。トセだけが特に意地が悪かったとは思えない。それをじゅう分承知の上で、菊はそれでもトセをこころよく思うことはできなかった。自分を迫害したトセに対して抱《いだ》くこの思いは、決して許されるべきものだとは、菊も思ってはいない。それどころか、そんな自分をキリスト教徒にあるまじき人間だと、菊は自分を責めていた。
「汝《なんじ》を責むる者のために祈れ」
教会で聞くこの言葉は、菊には痛かった。
床にはいってから、信夫は母の言葉を思い出していた。
「腹を立てるように見えないということと、腹を立てないということは別ですよ」
母はそう言った。
「人間てね、その時その時で、自分でも思いがけないような人間に、変わってしまうこともあるのです」
母はそうも言った。
今、二十歳の自分が、今後何十年間かにおいて、虎雄のように、法にふれる罪を犯さないとは、断言できなかった。たぶん、どんなことになっても、まさか泥棒はしまいと信夫は思う。しかし、いっさい無一物になって、腹が空《す》いてたまらない時、目の前に握り飯があったとしたら、それに手を伸ばさないとは断言できないような気もする。
そんな追いつめられた状態は、あまりないことだが、女色に関しては、信夫は自信が持てなかった。たとえば、どこかに自分が下宿して、そこに年ごろの娘でもいるとする。その娘と二人っきりになった時、どうかして自分は、狂暴な狼に変わらないとは断言できなかった。そしてまた、相手が人の妻であっても、あるいはどうならないものでもないと信夫は恐ろしい気がした。人妻に手を出しても、未婚の乙女に手を出しても、これは法律にふれることになると信夫は思う。
(しかし、法律にふれさえしなければ、何をしてもいいというわけではない。法律にふれることだけが罪だとはいえないのだ)
信夫はそう思うと、ふっと不思議な気がした。
屋敷街の夜は早い。皆寝しずまったように、物音ひとつしない。と、その時どこかで、犬の遠吠えが聞こえた。その声がいかにも寂しかった。
(法律にふれない罪でも、法律にふれる罪より重い罪というものがないだろうか)
信夫はそう思うと、ほんとうにそんなことがあり得るような気がした。たとえば、リンゴひとつ盗《と》っても、見つかれば法に問われるだろう。しかし、ふとした出来心で人のものを盗むよりも、もっと罪深いことがあるのではないか。そう思ったのは、信夫の上司に、ひどく意地の悪い男がいたからである。その男は、部下に対して必ずと言ってもよいほど不完全な指示をした。
「甲の書類を作れ」
と、いうから、甲の書類をさし出すと、
「甲の書類をだれが出せと言った。乙の書類だ」
というようなことが幾度かある。それを信夫は、彼が言いまちがったのであろうと思っていたが、どうもそうではないらしい。一日に一度や二度、だれかがこれに似た叱責をくらうのを見て、信夫は、その男の心理状態をふしぎに思うようになった。それは、叱り方がひどく意地悪で、いかにもそう叱りたいために設けたワナのような気がする。上司に口答えする者はいないのに、なぜあんなにいばってみたいのかと、信夫はつくづく思うことがあった。
あの上司の意地悪は、法にはふれないにちがいない。だが、リンゴのひとつやふたつ盗んで、法にふれるとしても、あの意地悪よりは、人に及ぼす影響は少ないと信夫は思った。
(どうも、あいつの方が罪が重い)
そう考えると、信夫もあらためて自分を省みなければならなかった。
(人に不快な思いをかけるというのも、やはり大きな罪ではないか)
信夫の同僚に、いつも不機嫌な男がいる。上司に呼ばれた時は、不承不承ながら返事はするが、同僚や給仕が声をかけても、ろくな返事をしたことがない。いつもぶすっと、むくれた顔をして、そばにいる者は何となくその不機嫌を持て余してしまう。こちらまでが不愉快になって、その不機嫌がうつってしまいそうになる。
(あれだって、かなり、はた迷惑なことなのだ。こそ泥より悪いと言えはしないか)
そんなことを信夫は思った。だが、どうも罪という言葉は、考えれば考えるほどわからないところがあった。他人に何の迷惑も与えなければ、それでいいというものでもないような気がする。
(おれのように、心の中で女を想像し、いつもそんなことに悩まされているというのは、人には知られない心の中のことだけど、これは罪ではないのだろうか)
そう思ってみたが、ふしぎなことにそれは喧嘩で人をなぐるよりも、もっとねばねばとした罪の匂いがした。それは、人の目にふれることではないのに、そして他人の生活に何の脅かしも、もたらさないのに、なぜこんなにも罪の匂いがするのかと、信夫はふしぎだった。
(だれにも知られない、奥深い心の中でこそ、ほんとうに罪というものが育つのではないだろうか)
そんなことを思いながら信夫は眠った。
いちじく
翌日、役所から帰ってくると、隆士の大きな声が玄関まで聞こえた。
「やあ、いらっしゃい」
隆士一人だけかと思って、居間にはいって行くと、客はもう一人あった。髪をハラリと額に垂らし、黒い着物に黒い袴の、三十近い男だった。柔和な目が、信夫の心をとらえた。滅《めつ》多《た》に見ることのできない、やさしい目であった。
「こいつが従兄の信夫ちゅう奴《やつ》や」
隆士はそう言って、信夫を男に紹介した。
「ほら、例の吉原から、回れ右して逃げ出した意気地なしや」
隆士はずけずけと遠慮なく言った。信夫は赤くなって挨拶をした。そばに待子も母もいないのが幸いだった。吉原に行った話は母たちにしていなかったからである。
「お前、いやに分別臭い面《つら》になったやないか。この先生は、よう話のわかる人やで。何なりと聞いたらいいがな」
隆士はそう言ったが、信夫には相手が何者か、さっぱりわからない。
「おにいさま、このかたはどこの先生ですか」
信夫はまだひざを崩さずにたずねた。
「どこの先生てお前、そりゃ日本中の先生やがな。小説書いている中村春雨ちゅう先生や」
中村春雨という名前を、信夫は知らなかった。だが、小説の好きな信夫には、小説を書く人間が珍しかった。
「中村春雨です。どうぞよろしく。この隆士さんには、家が隣なのでよくおせわになっています」
中村春雨は、大阪弁を使わなかった。少しなまりはあるが、大阪の人とは思えなかった。
「先生は、ちょっと調べることがあって、東京に半年ほどおいでなはるんや。お前、その間いろいろ勉強させてもろうたらええで」
隆士は上機嫌であった。世の中の景気は悪いが、隆士の店は順調に伸びているようであった。
「これはぼくの小説です」
そう言って、中村春雨はふところから一冊の本をとり出して信夫の前に置いた。
『無花果《いちじく》』という本であった。
晴れた日曜日の午後、信夫は、中村春雨にもらった『無花果』という小説を手に取った。新しく本を読む時の、いつもの信夫の癖で本を掌にのせて、しばらくその重みを楽しんでみる。庭には、さつきの花が八つ手の陰に朱《あか》く咲いていて、そのあたりだけがいかにも静かであった。日の下を羽を光らせながら飛んで来た蜂がさつきの花に、少しためらうようにしてから止まった。
こんな時が、信夫の一番楽しい時である。信夫は、いつもこうして本を読む前には、じっと手に持ったまま、何が書かれているのかと想像する。そこには必ず自分の知らない世界や、物語があるのだ。特に、この小説は、作者自身の手から手渡されたものである。あの柔和な、どこか控えめな、目の細い中村春雨が、どんな小説を書いたのかと思うだけでも、じゅうぶん楽しかった。信夫はなぜか、小説を書く人間はどこか尊大で、崩れたところのある人間のように思っていた。だが、中村春雨には、尊大な感じは全くない。その細い目の中にも、澄んだ光を感じさせるものがあった。
(あんな人でも、小説を読んだり書いたりするのだろうか)
一般に、小説を読むということは、堕落の第一歩であるかのように思う人間が多い時代であった。信夫自身、最初は小説を読むことに、かなりためらいを感じたものである。
信夫は、さつきの朱から目を転じて、静かに本を開いた。何ページも読まぬうちに、信夫の心はたちまちこの小説の中に引きこまれて行った。
それは、あるアメリカ帰りの牧師の話であった。牧師はエンゼルのような、優美で清らかなアメリカ人の女性を妻にして帰って来た。牧師は着任の挨拶の際、信徒たちの前で、十数年前の自分の過失を告白する。牧師の名は鳩宮庸之助と言った。鳩宮は十数年前、法律を勉強する書生であった。その学資を貢ぐために、姉は新橋の芸者になった。
鳩宮は、ある弁護士の家に住みこんでいたが、そこに一人の娘があった。その娘と鳩宮は恋愛をした。だがこの恋には立身出世を願う鳩宮の気持ちが、全く働いていないとは言えなかった。いつしか二人は互いに許し合う仲になった。しかし、このことが親たちに知れて、鳩宮は弁護士の家を追い出される。傷心の鳩宮は判事試験にも失敗し、その上相手の娘は他の男と結婚してしまった。失望が重なって、彼は海外に飛び出した。アメリカでメリナという熱心な牧師の教えを聞き、キリスト信者となった。彼はメリナに助けられてエール大学にはいり、神学士となって帰朝した。
妻は、そのメリナの令嬢であった。妻エミヤも、熱心な信者で、海外伝道を志していた。
こうして帰って来た鳩宮は、信者たちの前に、昔、愛人を犯したことを、「処女の神聖を犯した」と心からざんげする。その後、長いこと音信不通であった父母と姉の居所が知れた。姉は銀行家の妻になり、自分の父母を引き取っていた。一同は、訪ねた鳩宮を喜んで迎えたが、職が牧師と聞いてひどくガッカリする。
「牧師なんて、そんなろくでもない」
という、親や姉たちの言葉は鋭かった。
「牧師なんか辞《や》めて、銀行にはいりなさい」
義兄もすすめた。牧師は三十円の月給だが、銀行は月百円になるというのである。
この申し出をキッパリと退けた鳩宮は、意外なことを親から聞かされた。
一別以来、幸福に暮らしているとばかり思っていた、かつての恋人が牢にいるというのである。その娘は沢《さわ》といった。沢は親に強《し》いられて、泣く泣く結婚したが、すでに鳩宮の子をみごもっていた。鳩宮の子をおろせと迫る夫と争って、ついに夫を殺してしまう。沢は獄の中で鳩宮の娘を産み、その娘は看守長の家に預けられたが、間もなく行くえ知れずになってしまったというのである。
これを聞いた鳩宮は、悔い改めて牧師にまでなったものの、かつて、処女の神聖を犯した罪が、このように罪に罪を産むに至ったのかと、幾日も悩み苦しむ。
やがて、妻エミヤは妊娠する。エミヤは妊娠の身でありながら、孤児院を始めようと、まず手始めに三人の乞食の子を引き取る。エミヤは汚い着物を着た乞食の子を招じ入れて、王子や王女でも迎えいれるように、立派な椅子にすわらせる。その乞食の中に、獄の中で生まれた私生児がいた。十二、三の娘である。それが実はわが子と知って、牧師の鳩宮はさらに驚き苦しむ。
鳩宮は市ケ谷の刑務所に教《きよう》誨《かい》師《し》として説教に行く。そこにかつての愛人沢がいた。ある嵐の夜、沢は脱獄して牧師館に助けを求めて来た。疲れて何も知らずにエミヤは眠っている。びしょぬれにぬれて、髪をふり乱して脱獄して来た沢に、鳩宮は自首をすすめる。だが、自分のためにこのような境涯に落ちた沢を思うと、再びあの冷たい牢獄に帰れとは重ねて言いかねた。止《や》むなく他に部屋を借り沢をかくまう。
一方、鳩宮の父母は、姉の家を引きはらい鳩宮の家に同居していた。目の青いアメリカ女のエミヤをきらって、父母はことごとくに辛く当たった。エミヤが妊娠しても、
「猫の目のような孫なんてうす気味が悪い」
と喜ばない。しかも息子の鳩宮には、しきりに離縁をすすめる。だが、エミヤはしとやかに、素直に、夫にも父母にも従っていた。乞食の子たちは、エミヤをマリヤ様と言い、鳩宮の母を鬼婆と呼んだ。
やがて沢の身元が知れ、沢もかくまった鳩宮も牢獄につながれる身となる。留守宅を守るエミヤに、鳩宮の両親はいよいよ辛く当たった。ある日、鳩宮の母は自分のためにエミヤが薬を注いでさし出した盃を、エミヤに投げつける。エミヤの白い額から血が流れた。だがエミヤは、その痛みをこらえてほほえんでいる。その姿に、まず父親の気持ちが折れた。牢獄の夫に面会したエミヤは、
「その傷はどうした」
と問われた。しかし、エミヤはちょっと打っただけだと答えて、母に盃を投げられたとは言わない。エミヤは沢が夫にかくまわれていたことも、二人の仲に子供がいたことも、その子供が自分の世話している乞食の子であることも、何も知らなかった。まして夫が沢のかくれ家に泊まったことも知らずにいた。そのすべてを知った時、さすがのエミヤも腹にすえかねて、ついに怒った。早速アメリカの父母に手紙を書いた。泣きながら書き上げたその手紙を、エミヤは出すことができなかった。ひとつひとつ夫の罪をあばきたてる自分のみにくさに、エミヤは恥じたのである。
「義人なし、一人だになし」
壁に貼られたこの言葉を見るや否や、エミヤは手紙を屑かごに破り捨てた。エミヤの顔は白く清らかに輝いていた。
やがて、沢は獄中で縊《い》死《し》し、エミヤは子供を産む。すでにその時は鳩宮の父も母も心が溶けていた。子供の生まれた平和な家に鳩宮は帰って来る。しかし、沢の死を聞いた鳩宮は以前にも増して悩み苦しむ。次第に心弱った鳩宮は、沢の白骨を幻に見るようになる。沢の一生を誤らせたのは、全く自分の仕わざであると心責められて、ついに彼は家出をした。そして放心の鳩宮は鉄道をふらふらと歩いていて、汽車にはねられ、死んでしまった。
三百ページ余りのこの小説を信夫は一気に読み終わった。気がつくと、すでに日は落ちてあたりに夕色が漂っている。信夫はがっかりして、見るともなく、疲れた目を庭にやった。さつきの色は、昼間見た時より、少しくろずんで見える。庭の草花はほとんどその輪郭がぼやけていた。
(せっかく鳩宮家に平和が戻って来たというのに、どうしてこんな結末になってしまったのだろう)
信夫は、それが何とも残念でしかたがなかった。死んだ鳩宮牧師よりも、はるばるとアメリカからやって来た天使のようなエミヤが哀れであった。
(たとえ、どんなに自分の犯した罪が身を責めるからと言って、こんなにも自分を痛めつけなければならないものであろうか)
何か鳩宮が、ひとりよがりのような気がしてならない。
(信仰を持っている人間が、こんな結末になるのならむしろおれのように何も信じていない方が、しあわせなくらいだ。結局、キリスト教は鳩宮に生きる力をひとつも与えていないではないか)
そう思わずにはいられなかった。鳩宮とは反対に、妻のエミヤは、何とちがった生き方をしていることだろうと信夫は思った。鳩宮の親たちに返事をしてもらえなくても、ハタキのかけ方が下手だと罵《ののし》られても、決して怒らない。そればかりか、エミヤは、自分を裏切った獄中の夫に、何かと慰めの言葉をおくり、また獄死した沢の遺体を引き取って、ねんごろに葬式までしてやった。このことも信夫には大いなる驚きであった。沢は、いわばエミヤの仇ではないか。
(その仇の子を引き取って、大事に育てるだけでも容易なことではないのに……)
エミヤの美しい心は信夫を打った。
夕食の席でも、信夫は小説のことを思い続けた。それは、今まで読んだ小説とは、全くちがうものを感じさせた。どこがちがうのか、明確には言い難かったが、深く考えこませるものを持っていた。
「おにいさま、きょうはだいぶお勉強のようでしたわね。わたしが二、三度お部屋に行っても、気がつかなかったようね」
「うん、おもしろい小説を読んでいたんだ」
「あら、小説?」
待子はちょっと眉を寄せた。
「待子、小説というものは、読んでおいても悪くないものだよ」
「でも、男と女のことなんか書いているんでしょう。聖書ほど、ためになることは書いてはいないと思うの」
聖書と聞いて、信夫は黙った。母や待子が聖書を持っていることは知っていた。だが今まで、一度だって読んで見たいとは思わなかった。今、聖書と聞いて、急に信夫は聖書を手にとって見たく思った。あの鳩宮や、エミヤが毎日読んでいた聖書というものを、自分の目で確かめてみたかった。
「聖書には、『義人なし、一人だになし』なんて書いてあるのか」
「あら、おにいさま、そんな言葉をどこで覚えて? その言葉は聖書の中でも、たいそう大事な言葉なのよ」
いきいきと待子が言った。自分の知らないことを知っている妹に、信夫はあらためて尊敬と嫉妬の入りまじった気持ちを抱かずにはいられなかった。
「信夫さん、何という小説ですか」
菊が笑顔を向けた。信夫の口から聖句を聞いて、内心菊は、叫び出したいほどうれしかった。
「昨日、隆士にいさんといっしょに見えた、中村春雨先生の『無花果』という小説です」
信夫は、もらった『無花果』のことを母に知らせるのを忘れていた。
「あら、おにいさま、あの方が小説をお書きになるの? あんなおとなしいきちんとした方じゃありませんか」
待子が箸をとめた。どうやら待子も、小説家という者は、もっと常人と異なっていると考えているようである。
「中村さんが小説家だとはうかがいましたけれど、聖書の言葉など、小説の中に書いてあるのですか」
菊はふしぎそうに尋ねた。
「それがね、牧師さんの話なんですが、どうも僕にわからないことがあるんですよ」
「まあ、牧師さんなの。その人はむろんいい人なのでしょうね、おにいさま」
「さあ、僕にはよくわからないな。ずいぶん良心的で、十何年も前のことを、ひどく後悔したりしているんだが、そのくせ、自分の奥さんを裏切ったりするんだからねえ」
「まあ、いやねえ。おにいさま、それはやっぱり小説よ。牧師さまは自分の妻を裏切ったりはなさらないわ。小説家なんて、牧師さまのことをよく知らないんだわ」
待子は口を尖らせた。
「待子さん、それはどうかしら。牧師さまも人間なのですよ。人間である以上、どんなにりっぱな信仰を持っていても、サタンの誘惑に負けないとはいえないのですからね」
「でも、わたし、中村さんて、ひどいと思うわ。何も牧師さまのことを、そんなふうに書くことはないじゃありませんか」
「だけど待子、僕にもその牧師がいいか悪いか、わからないんだよ」
「いいえ、妻を裏切るなんて、悪いにきまっているわ。そんな悪い人なんて牧師さまじゃないわ」
「あのね、待子さん。信夫さんも聞いてくださいね。人間はいい人と悪い人の二種類しかないように思っているようだけど、ただ一種類なのよ。さっき信夫さんが言ったでしょう。『義人なし、一人だになし』って。人はみんな、神さまの前に決して正しくはないの」
菊はおだやかに、しかし厳然と言った。
「そうかなあ。いや、正直なまじめな、ほんとうに心の正しい人というのがあると思うんだがなあ」
「おにいさま、わたしもついそう思ってしまうの。でもね、教会で牧師さまは、おかあさまのようにおっしゃるわ」
待子は、きまり悪そうな微笑を見せた。
「なあんだ、じゃ牧師だって、自分の妻を裏切ることはないとはいえないじゃないか」
「そうよ、そうかもしれないけれど、でも、うちの教会の牧師さまはそうではないわ。そんな悪い牧師は百人のうち一人もいないと思うの。まあ、そりゃあごくごくたまにいるかもしれないけど……」
「おかあさま。しかし、この世に正しい人はほんとうに一人もおりませんか」
「いないでしょうね」
あっさりと言われて、信夫は何となく自分が辱しめられたような気がした。自分など、正しい人間の部類ではないかと思っていた。母は自分をまじめな青年だと思ってはくれないのだろうかと、うらめしくさえ感じた。
(俺は大学に行くこともあきらめて、こうして母と妹を養っているではないか、それなのに、母はその俺を何とも思ってはくれないのだろうか。俺はどこに遊びに行くわけでなし、役所からまっすぐ帰ってくるではないか。酒はおろか、煙草さえのみはしない)
信夫は自分をもっともっとほめたい思いにかられていた。
「信夫さん。どうやらご不満のようすね。あなたは自分が、こんなにまじめなのにと思っているのでしょう」
心を見すかされて、信夫は苦笑した。いつしか食事は終わっていたが、三人はその場にすわったまま語り続けた。
「信夫さん。おとうさまはどんなお方だと思っていますか」
「そりゃあ、とてもりっぱな、あれこそほんとうに僕よりずっとずっと偉い人だと思っています」
「でもね、おとうさまはご自分を決して正しい人間だとは、おっしゃらなかったのよ。自分は罪深い人間だ。すぐに人よりも自分が偉いものであるかのように思い上がりたくなる。これほど神の前に大きな罪はない、とおっしゃっていられましたよ」
菊の声がしめった。待子はもう涙を浮かべている。貞行が死んでまだ四カ月もたってはいない。
「そうですか。おとうさまがねえ。だけど、おとうさまはほんとうにりっぱだったから、人より偉いと思ったって、何もおかしくはありませんよ」
わざと快活に信夫は言った。
「いいえ、自分を偉いと思う人間に、偉い人はいないのですよ。このことは今すぐに信夫さんにわかるかどうか……。とにかく、今に思い当たる時がくると思いますけれど」
自分を偉いと思う人間に、偉い人はいないという言葉は、信夫に痛かった。どうしても自分のことはすぐにほめたくなってしまう。どうも妙なものだと、あらためて信夫は思った。
『無花果』を読み終えて十日ほどたった夜、思いがけなく中村春雨が訪ねて来た。何と澄んだ目であろうと、信夫は初めての人を見るように、つくづくと中村春雨の顔を見た。油気のない髪が、この間来た時と同じように、広い額に垂れている。この前は、ただ挨拶に来たばかりで、すぐに隆士と町に出て行ったから、ほとんど話をしていない。
「小説を読ませていただきました」
信夫は、この前よりもずっと親しみをこめて挨拶をした。
「それはどうも」
言葉少なに答えて、中村春雨は少し恥ずかしそうに頭をかいた。
「でも、いろいろとむずかしい小説ですね」
「そうでしょうね。あれはどうも一般向きの小説ではなかったようで……」
「結局、あの牧師は悪い牧師なのでしょうね」
やはり、そう尋ねずにはいられなかった。
「さあ、悪くない人なんかいませんからねえ」
「母も、この間そんなことを言っていましたが、やはり先生も……あれですか」
信夫は、キリスト信者かと尋ねることをためらった。
「あれって、ああキリスト信者かということですか。むろんわたしはキリスト教徒です」
中村春雨は、さりげなく答えた。格別威張るわけでも卑屈になるわけでもなかった。
「そうですか、先生もそうだったんですか。そしたらもっと牧師を賞《ほ》めて書けばよかったと思いますが」
「なぜですか」
「だって、正直のところ、世間の人はヤソ嫌いでしょう。僕の母だって、ヤソだったばっかりに、乳のみ児の僕を置いて、この家を出なければならなかったのですからね。少しでもキリスト教を人によく思われるのには、牧師のいいところばかり書いた方がよかったと思いますけれど……」
「ほう、お母さまはそんなご苦労をなさったのですか」
中村春雨は驚いて、菊のいる茶の間の方をふり返った。
菊がキリストを信じていることを、隆士は一度も中村春雨に言ってはいない。だから、むろん、菊が信仰のために家を出たことなど春雨は聞いたことはない。菊について中村春雨が知っていたのは、
「これでも、江戸には別《べつ》嬪《ぴん》のおばはんがいるのやで」
と、自慢げに隆士に聞かされた、その美人であること、そして近ごろ夫を失ったこと、子供が二人いることなどであった。つまり、ごく一般的なことだけであった。
「それで、おかあさまは、信夫さんを置いてひとりで暮らしていたわけですか」
中村春雨は、感じ入ったような面持ちであった。
「僕は、母が死んだと聞かされて、祖母の手で育ったのですよ。祖母は大のヤソ嫌いだったらしいのですね。父は祖母に逆らうような人ではないので、やむなく母と別居したわけです。でも父は、勤めの帰りには、母の所に寄っていたようで、妹も僕の知らないうちに生まれたのです」
「そうでしたか。それは、おかあさまも、おとうさまも、そして信夫君もご苦労なさったわけですね」
「まあそういうわけですが、祖母としては、先祖伝来の仏教が大事だし、ヤソの嫁など恥ずかしくて、家に置けなかったのでしょうね」
無意識のうちに、信夫は祖母のトセをかばっていた。
「僕の小説にも書いてあったように、牧師やキリスト信者などはろくでなしだと、まだまだ世間では思っていますからね」
「正直言って、僕もヤソはあまり好きじゃありません。何だか日本人のくせに、西洋人のまねをして、アーメンなどと、他国の言葉を使ったり、イエスとかいう外国人を神様だなどと信じているのは、どうにも虫が好かないのです」
率直に信夫は言った。中村春雨という人間には、口先でいいかげんなことを言う必要がないように感じたからである。春雨の顔には真心が現れているように信夫は感じた。いや、真心というより、それはもっと、暖かい、包容力のようなものであった。
「そうでしょうね。初めはわたしもそんなふうに感じていましたよ」
無理もないというようにうなずいた。
「どうして、先生はキリスト教なんか信ずるようになったのですか」
「そうですね。そのうちにいずれ話すようになるとは思いますが、いろいろな事情がありましてねえ」
何かを思い出すように春雨は言葉を区切った。そこへ菊が茶とようかんを運んできた。
「この間はたいそう結構なご本をちょうだいしましてありがとうございます」
あらためて菊は礼を言った。
「いいえ、どうもお恥ずかしいものでして……。ところであなたもキリスト信者だとうかがいましたが……」
中村春雨はまぶしそうに菊を見た。とても、信夫の母とは思えない、匂やかなみずみずしさの中に、喪にある人の憂いがあった。
「わたくしなど、キリスト信者と申しましては、お恥ずかしゅうございますが……」
菊は静かにうつむいた。この人のどこに、婚家を出てまで信仰を守り通した強さがあるのかと、中村春雨はじっと菊を見つめた。
「いやいや、あらましは信夫君からうかがいました。わたしも同じ信仰に生きる者ですが、いつになったら、キリストを信ずる者がこの日本に受けいれられるかと、悲しくなることもあるのです」
二人の言葉を聞きながら、信夫は自分がなぜこんなりっぱな人たちの信仰を嫌うのかと、ふしぎに思った。自分は初めから食わず嫌いで、ちっともほんとうのキリスト教を見ようとしていなかったのではないかと思った。その証拠に、キリスト教の教えがどんなものであるかを知らない。聖書に何が書いてあるかを読んだこともない。それでいて、キリスト教はバタ臭いとか、外国の宗教だとか言って毛嫌いしているのだ。自分が嫌っている理由は、全くのところどれほどの根拠もないのだと思わずにはいられなかった。
母と、この中村春雨と、そして死んだ父とは共通するものがあった。それはまず、いかにも謙虚な点である。もしそれが、生来のものではなく、キリスト教を信ずることで培《つちか》われたものなら、キリスト教を見なおしてもいいと思った。
「おかあさま、おかあさまはどうしてキリスト教を信ずるようになったのですか」
信夫は初めて真剣にたずねる気持ちになった。その真剣な信夫の面持ちに、菊はハッとしたようであった。しかし、軽くうなずいてから、「そうですねえ」と、しばらく考えていた。
「わたくしはねえ、小さな時から、人はどうしてこの世に生まれたのか、何のために生きているのか、そして死んだ後はどうなるのかなどと、いつも考えていたのですよ。ところが、ある日大阪の近くの村に遊びに行った時、たいへんなことにぶつかったのです。何だか通りが、ワイワイうるさいので、けんかかと思って出て行きました。みんなが、ヤソの坊主だ、くそ坊主だと言って、ひとりの若い青年を罵《ののし》っているのです。その人は黙って立っていましたが、ある人が、くそ坊主だからこれでも食らえと、乱暴にも肥だめから柄《ひ》杓《しやく》で汚いものを、そのキリスト教の先生にかけたのです。頭も目も口も、臭い肥で汚れましたのに、その人は黙って、すぐそばの川にはいって行きました。さすがに村の人たちはそのまま散って行きましたけれど、わたくしはまだ子供でしたから、土橋の上でながめていたんですよ。そしたら、まあどうでしょう。小川の水で、頭も顔も洗ってから、何だか勇ましい大きな声で歌をうたいはじめたのです。その顔があまりにも明るくて、子供心にもひどく打たれたものでした」
「ほう、それはひどい村人たちですねえ、おかあさま」
「全くですね。それでそれ以来あなたは信者になったのですか」
「感じやすい子供のころに見たその光景は、決して忘れることはできませんでしたけれど、でも、すぐ信者になったわけではないのですよ。だれもキリスト教のことを教えてくれる人はいませんでしたからね。結婚する二年ほど前、実家によく見えたお客さんが、わたくしにキリストのお話をしてくださるようになって、わたくしはすぐに信じました。子供のころに見た、あの村のできごとが、わたくしに大きな影響を与えたのでしょうね」
「でも、先祖から仏教があるのに、外国の宗教を信ずることはないではありませんか」
「でもね、信夫さん、おかあさんはこう思いましたの。みんな、キリスト教は邪教だと嫌いますけれど、お話を聞いて、どこが邪教かしらとね。あの村の人たちは、おそらく仏教を日本の宗教だと思っていたのでしょうが、ほんとうに仏さまのことを信じているのなら、どうして何もしないあの若い先生に肥をかけたりしていじめたのでしょう。いじめた方より、いじめられて黙って歌をうたっていた人の信仰の方が、わたくしには好ましく思われたのですよ」
淡々と菊は話した。信夫は黙っていた。
「信仰というものは、なかなかめんどうなものでしてねえ。キリスト教の歴史にも、決してほめることのできない宗教戦争などがありましたからねえ」
中村春雨は腕組みをしたまま、つぶやくように言った。
「そうですわね。キリスト教の人間だから、みんな正しいのではないのですけれど、でも、まだ結婚前の少女でしたから、わたしはやはり義憤のようなものから、信仰にはいったのだと思いますわ」
「では、おかあさま、僕が仏教を信じても、別段不都合ではないわけですねえ」
信夫はいくぶんほっとしてたずねた。
「それがあなたの道ならば、おかあさまは何も申しませんよ」
菊と中村春雨が顔を見合わせて、笑いながらうなずいた。それは信者同士であることの親しい笑顔であった。だが、信夫は何となく自分だけが別物のような感じになった。
「おかあさま」
茶の間の襖《ふすま》をあけて待子が呼んだ。
「こちらへ持って来てくださいね」
言われて待子は、ちょっとはにかみながら、せんべいを持って来た。
「この間、ちらりとお見かけいたしましたが、かわいいお嬢さまですね」
春雨は、年かさらしい落ちつきを見せて、待子をながめた。
「小説をお書きになるのですって?」
待子は生来の人なつっこさで、すぐにうちとけて言った。
「あなたは、小説をお読みになりますか」
「いいえ、わたし小説って何だか、まだわかりませんの」
「でも、待子。中村先生の『無花果』だけは読んでおいた方がいいよ」
「でもね、牧師さまの悪いことが出ているんでしょう。どうして牧師さまの悪いことをお書きになったの」
少し恨むような口調になった。
「お嬢さんも信者ですか」
中村春雨は腕組みをしたまま、ちょっと笑った。
「そうよ。わたしは小さい時から教会に行ってたんですもの」
待子は紫の矢がすり銘《めい》仙《せん》のたもとを、ひざの上で折りたたみしながら答えた。
「そうですか。それでは牧師さんの悪口を書いたと叱られるのもしかたがありませんねえ。わたしは牧師になるほどの信仰には心から頭をさげていますがねえ。それほどの強い信仰を持っていたとしても、いったんサタンに襲われると、つい人間はだめになってしまうものじゃないかと思うのですよ。われわれはみんな、自分は信仰に固く立っていると、かなり自負していますがね。しかし下手をすると、自分の力を信じているようなことになりかねないと思うのです。信仰は、そんな自負心を持った時、たとえ牧師でもガタガタに崩れていくような気がしましてね。つまり、あれはわたしたち信者の自戒のための小説なんですよ。それは巻頭に書いてある聖句をごらんいただければわかることと思うのですが……」
信夫は本を開いてみた。
〈路《ル》加《カ》伝第十三章
『シロアムの塔《やぐら》たおれて、圧《お》し殺されし十八人は、エルサレムに住める凡すべての人に勝りて罪の負債《おいめ》ある者なりしと思うか。われ汝らに告ぐ、然《しか》らず、汝らも悔《くい》改《あらた》めずば、みな斯《かく》のごとく亡ぶべし』又この譬《たとえ》を語りたまう『或《ある》人《ひと》おのが葡《ぶ》萄《どう》園《その》に植えありし無花果《いちじく》の樹に来《きた》りて果《み》を求むれども得ずして、園《その》丁《つくり》に言う「視《み》よ、われ三年きたりて此の無花果の樹に果を求むれども得ず。これを伐《き》り倒せ、何ぞ徒《いたず》らに地を塞《ふさ》ぐか」答えて言う「主よ、今年も容《ゆる》したまえ、我その周囲《まわり》を掘りて肥料《こやし》せん。その後、果を結ばば善し、もし結ばずば伐り倒したまえ」』〉
「おっしゃることはわかります。義人なし、一人だになしと聖書にも書いてありますから。でも、ただでさえ世間の人はヤソヤソとばかにするのに、牧師さまの悪いことなど書いたら、いっそうばかにされるではありませんか」
待子は反論した。
「どうも弱りましたなあ」
額にたれた髪をかきあげながら、中村春雨はいかにも困ったように言った。
「でも、この小説を読んで、僕はエミヤという奥さんが、ほんとうにりっぱだと思いましたよ。たとえば病気のお姑《しゆうとめ》さんに薬を持って行ったら、その薬のはいった盃を投げつけられたでしょう。ところが、盃をぶつけられた額の傷の痛みをこらえて微笑してるんですよね。それから夫の愛人の子をかわいがったり、牢死した夫の愛人をりっぱに葬ってやったりして、実に何というか、僕は涙が出ましたよ」
「あら、そんなりっぱな奥さまなの。どうしてそんなりっぱな奥さまがいるのに、裏切ったりしたんでしょうねえ」
待子は、信夫のそばにある『無花果』の本を手にとって、
「ちょっと拝借ね」
といった。
「小説というのはめんどうでしてね。つまり寛容な妻のエミヤがいるのに、結局はその妻を裏切ることになってしまった牧師の姿は、神の愛を知りながら、ともすれば不信仰におちいるわれわれキリスト教徒の姿、というより、まあわたし自身の姿でしょうかね。そんなつもりが、なかなか皆さんにわかってもらえなくて、わたしの教会でもかなり腹を立てていた人がありましたよ」
中村春雨は、信夫と菊の顔を交互に見た。
「それはまあたいへんなことでしたね」
菊は、そういってお茶をひと口飲んだ。
「ぼくはキリスト教をよくわからないけど、それじゃあの小説は、中村先生ご自身の信仰生活の反省のようなものですか」
「まあそうでしょうね」
「何かはわからないながら、どうも腹わたの煮えくりかえるような、いつまでも腹にずしんとこたえる小説ですね」
「そうですか。腹にこたえてくれましたか」
春雨はうれしそうに微笑した。東京にはまだしばらくいるから時々遊びに来るといって、春雨は帰って行った。
トランプ
信夫はそれ以来、何となく神ということについて考えるようになった。
六月のはじめのある雨の日であった。ひる休みがきて、信夫は弁当の包みをひらいた。弁当箱は青い花模様のセトの重ねものである。ふたをひらく前に、信夫はいつもキキョウの花模様をちょっと見る。すると何となく母を感ずるのだ。おかずは卵と肉をいためて、甘じょっぱく味つけたもの、コンニャクとガンモの煮つけ、それにタクアン漬けが二きれ添えてあった。信夫は弁当を食べながらぼんやりと窓の外をながめていた。外は役所の中庭になっている。桐の木が一本まっすぐに立っていて、その下に紅バラの花が雨にぬれていた。見えるか見えないかの雨の中で、バラの花も葉もしっとりとぬれている。
(きれいだなあ)
ふっとそう思った時、信夫は思わずハッとした。
(こんな美しい花が、この汚い土の中から咲くなんて……)
それはいかにもふしぎだった。信夫は今まで自分の家の庭を見ていても、いまだかつてこんなにも花の美しさがふしぎに思われたことがない。毎年信夫の部屋の前に山吹が咲き、アヤメが咲きボタンが咲いた。ボタンの時期がくればボタンの木にボタンの花があでやかに咲く。山吹の時期がくれば山吹の枝に山吹の花が黄色に咲く。それは何の変てつもない、あたりまえのことであった。だがはたして、それはあたりまえといえるだろうか、信夫はいま雨にぬれている紅バラを見た。この土の中から、白や黄色や青や赤の、さまざまの花が咲くことに、なぜ自分は一度も驚いたことがなかったのかと思わずにはいられなかった。
「きれいなバラですね」
信夫は隣の席の同僚にいった。
「うん、毎年咲くんだ」
同僚は、飯を口にほおばったままバラをちらりと見ただけである。それを見て信夫は何と感動のうすい人間だろうと思った。だが、考えてみると自分だって、同じようにほとんど何の感動もなく、
(咲いているな)
と思ってきたではないかと、思い返した。
あたりまえに見えていたものが、いったんふしぎになるとすべてのものが新たな関心を呼んだ。
(花ばかりじゃない。朝が来て一日があり、そして夜が来る。このことだって決してあたりまえではないのだ。宇宙のどこかには、一年中夜の所もあれば、一日中ひるの所もあるにちがいない。いや、この地上にだって、薄《はく》暮《ぼ》のような場所があるではないか)
信夫はとりとめもなくそんなことを考えていた。
(第一、この自分はいったいどこから来たんだろう)
母から生まれたことはわかってはいる。だが、それを単に当然のように考えることはできなかった。父と母がこの自分を生もうと思っていたわけではない。生まれた赤ん坊が偶然この自分だったのだと、信夫は思った。
(だが待てよ。それはほんとうに偶然であろうか)
信夫は必然という言葉を思った。自分は必然的存在なのか、偶然的存在なのか。そんなことを考えていると、給仕が信夫の名を呼んだ。
「永野さん。ご面会です」
給仕はそういうなり信夫に背を向けて、廊下に出て行った。裁判所に勤めてまだ二カ月余りしかたっていない。信夫を訪ねてくる者など、見当がつかなかった。
(だれだろう)
雨のふる窓にちらりと目をやって、自分の服のボタンを見てから、信夫は廊下に出て行った。玄関に出てみると、和服姿の青年がいた。背の高い、肉づきのよい丸顔の青年だった。信夫はけげんな顔をしてその男を見た。
「よう、永野君、吉川だよ」
青年は大きな手をあげて人なつっこく笑った。
「えっ? 君、吉川君? 北海道の……」
驚きのあまり信夫の声がうわずった。
「そうだよ、吉川だよ。君は相変わらず青白い顔をしてるじゃないか。街でバッタリ会っても、君なら見まちがうことはないよ」
吉川は懐かしげに信夫の姿を頭から爪先まで、いく度も見た。
「やあ、君はすっかりほんとうの大人になったねえ。それでいつ東京に出て来たの」
吉川は信夫より五つ六つ上に見えた。
「今朝着いたんだ。おれの祖母が死んで、どうしても母が葬式に出たいというんだ。しかし遠いからむろん葬式に間に合いはしない。まあ、間に合わなくても、親孝行だと思って、十日ほど休むことにして親子三人で出て来たのさ」
「えっ、三人で……。それはたいへんだなあ」
三人と聞いて信夫は心がときめいた。
夜、信夫の家に来る約束をして、吉川は帰って行った。
夕方になっても、小《こ》糠《ぬか》のような雨はふりつづいていた。信夫は、吉川が訪ねてくると思うと、妙に心が落ちつかない。いくども門の所まで出ては、また部屋に戻ってみる。吉川を待つ心の中に、何となくふじ子との再会を期待するものがあった。だが、それは自分自身も気づきたくないような、そして人には無論知られたくないような思いなのだ。玄関から門までのとび石が雨にしっとりとぬれているのを見ると、いつもは感じたことのないやさしい思いが信夫を包む。
「おにいさま、おにいさまったら、いやねえ。ちゃんとお部屋にすわってらっしゃいよ。吉川さんがおいでになったら、わたしがすぐにお知らせしてよ」
待子の言葉が、自分の気持ちを見すかしているようで、信夫は何となくきまりが悪かった。
「いや、道を忘れたんじゃないかと思って……」
信夫は口ごもるようにそう言いながら、自分の部屋にはいって行った。吉川が東京を出てから十年近い。そのころから見ると、東京はかなり変わっているかもしれないと、あらためて自分の言葉に信夫は不安になった。
それからどれほどもたたぬうちに、待子の声がした。
「おにいさま、おにいさま、お見えになりましたよ」
信夫はあわてて立ち上がってまたすわり、そしてゆっくりと立ち上がった。
(たぶん吉川一人だろうな)
玄関に出迎えて、信夫はハッとした。大きな吉川のうしろに、色白の美しい、桃われ髪の女性が立っていた。
「やあ、いらっしゃい」
信夫は吉川を見て言った。自分の中に、ざっくばらんになれないよそゆきの気持ちがあった。それを顔に現すまいとして信夫は、
「遅かったなあ」
と笑顔になった。
「いや、すまんすまん。何せすっかりおのぼりさんになってしまってね」
吉川は快活に言ってうしろをふり返った。
「ふじ子もつれて来たよ」
「お邪魔いたします」
ふじ子は、待子に向かって先に頭を下げ、次に信夫に黙礼した。
銘仙の着物に赤いメリンスの帯が可憐だった。
「ようこそ、きっとあなたもいらっしゃると思って楽しみにしていましたのよ。ねえ、おにいさま」
待子は、いかにも信夫もふじ子を待っていたような言い方をした。
「いやあ……」
信夫は、何と言っていいかわからずに頭をかき、先に立って客間にはいった。吉川も遠慮なく大股ですぐにつづいた。
「懐かしいな。このうちは十年前と同じだね。この山の絵も同じじゃないか」
吉川は懐かしそうに部屋をぐるりと見まわした。まだ明るい庭が、縁側のガラス戸越しに見える。
「八つ手が大きくなったなあ」
吉川はそう言ってから、しみじみとした表情で信夫を見つめた。
「しばらくだなあ」
「うん、十年になる」
待子とふじ子は、すぐに客間には通らずに、何か親しそうに玄関で笑いあっている。
「まずお参りさせてもらおうか」
吉川は開け放ってある仏間の方をふり返った。
「ああ、ありがとう。だがね、父の位《い》牌《はい》はないんだよ」
「ほう」
「父はいつの間にか、キリスト教徒になっていたらしいんだ」
信夫は、何だか恥ずかしいような気がした。
「そうか。それじゃ線香を買って来ても仕方がなかったな」
吉川は案外さらりと言ってから、手もとの風呂敷包みをあけた。
「だけど、仏壇がある以上、線香もむだにはなるまい」
と信夫の前に置いて、
「それから、これは北海道土産《みやげ》のコンブだ」
大きな紙包みを押しやった。
「これはどうも。こんな大きな荷物では、途中がたいへんだったろう」
信夫は両手をついて礼を言った。その時、母の菊と待子とふじ子が部屋の中にはいって来た。
「まあ、大きくなられて……すっかりりっぱな大人になられましたのね」
菊は親しみをこめてそう言い、吉川の祖母や、もう何年も前に死んだ吉川の父の悔やみを言った。
「お妹さんも美しくおなりになって……」
ふじ子の、そのパッチリとした目もとや、微笑の消えない形のよい唇は、信夫の想像していた以上に美しかった。しかもその美しさには、単に眉《み》目《め》形の美しさの外に心の清らかさがにじみ出ているような輝きがあった。
「ほんとうに、ふじ子さんはおきれいよ」
待子も率直に賛嘆して言った。吉川もふじ子も、小さい時から父親を失った者の淋しいかげはみじんもない。いかにも長い冬を、純白の雪の中で寒さに耐えて生きて来たような清純さと、質実さがあった。
食事は、吉川たちのために菊が調《ととの》えてくれた牛鍋だった。吉川は、父に死に別れてからいままでのことを、ほとんど何も話さなかった。苦しかったとか、学校へ行きたかったとか、そんなことは何も言わない。ただ、北海道の雄大な景色や、寒さのことを語るだけである。聞いているうちに吉川その人があたかも北海道の原野に伸び伸びと枝を張った若木のように思われて来た。
「信夫君、君も北海道にやって来ないか」
盛んな食欲を見せて肉をつつきながら、吉川はまじめな顔で言った。
「北海道か、どうも遠すぎるねえ」
信夫は尻ごみするように答えた。
「意気地のないことを言うなよ。日本なんて地図で見れば、小さなものじゃないか。このごろはアメリカくんだりまで勉強《し》に行く女もいるのに、北海道ぐらい遠いなんて言えないよ」
吉川はそう言って、大声で笑った。
「でも、北海道って熊がいるんでしょう。わたしこわいわ」
待子が恐ろしそうに眉を寄せた。
「いやいや。熊なんてぼくはまだ一度もお目にかかったことはありませんよ」
「あら、ほんとうですか」
「ほんとうですとも。熊の方だって、人間が恐ろしいですからね。山の中はともかく札幌のような大きな街になんぞやって来ませんよ」
「でも、何だか北海道って、こわいわ」
「いやいや、人間のうようよしているお江戸の方が、ずっとこわいですよ」
そんな話をしている間も、信夫は、ともすればふじ子に視線の行きそうな自分を意識していた。ふじ子と視線が合うと、胸の中が何ともいえない妙な気持ちになる。あわてて視線をそらすのだが、またいつの間にかふじ子のきれいな額や、パッチリとした目もとにひきよせられてしまう。
食事が終わると、女たちは茶の間に移った。その時、信夫はふじ子が足を引きながら歩くうしろ姿を、思わずじっと見てしまった。その歩き方は決してみにくいとは思わなかった。何か不安定な頼りなげな歩き方に、そばに行って、そっと肩を抱きかかえてやりたいような、そんな感じがした。そのふじ子をじっとみつめる信夫の顔を、吉川は黙って見ていた。
「信夫君。ふじ子をかわいそうな奴だと思うかい?」
いわれて信夫は狼狽した。
「ううん、ちっとも……。きれいになったと思いはしたけれどね」
信夫はそう言わざるを得なかった。
「あいつはね、足が悪いだろう。だが、一度だって人の前に出るのをいやだと言ったことはない。平気で毎日買い物にも行くし、こうして東京に来ても、君の所に来る奴だ」
吉川は言葉を切った。外は暗くなっている。信夫は立って縁側の障子を閉めた。
「だがね、ほかの娘とはどこかやはりちがうような気がするよ。よく本を読むんだ。ちっともひがんではいないようだし、自分の足のことなど、これっぽっちもぐちったことがないんだ。だがふじ子はね、足が悪いって、ある意味ではしあわせね、生きるということに対して、自覚的になるような気がするの、なんて言うことはあるよ」
吉川の顔は、妹への同情にあふれていた。自分は吉川のように、待子をいとしく思ったことがあるだろうかと、信夫は急に自分がひどく冷淡な人間に思われてきた。
「君は偉いなあ。君は小さい時からいつもぼくより遥か先を歩いていたからなあ」
それはいったい何のゆえの相違だろうかと信夫は思った。
「そんなことはないよ。君の方がよっぽど君《くん》子《し》だ」
「いや、ぼくには、君のような広やかさや、暖かさがないよ。君は何とも言えない暖かいいいものを持っているよ」
「そうかなあ、だとしたら、それはふじ子のせいだよ。ぼくは小さい時から、ふじ子の足がかわいそうで、何よりも先にふじ子のことをしてやりたかった。菓子をもらってもふじ子にたくさんやりたくなる。外を歩いても、ふじ子には道のいい所を歩かせたくなる。ぼくが何かを買ってもらうよりも、ふじ子が先に買ってもらったほうがうれしかったものだ。そんなふうにいつの間にかなってしまったんだな。君だって、万一妹さんが……待子さんと言ったっけ……体が不自由ならそうなるよ」
「そうかなあ」
自信なく信夫は答えた。
「そうだよ。考えてみると、永野君、今ふっと思いついたことだがね。世の病人や、不具者というのは、人の心をやさしくするために、特別にあるのじゃないかねえ」
吉川は目を輝かせた。吉川の言うことをよく飲みこめずに、信夫がけげんそうな顔をした。
「そうだよ、永野君、ぼくはたった今まで、ただ単にふじ子を足の不自由な、かわいそうな者とだけ思っていたんだ。何でこんなふしあわせに生まれついたんだろうと、ただただ、かわいそうに思っていたんだ。だが、ぼくたちは病気で苦しんでいる人を見ると、ああかわいそうだなあ、何とかして苦しみが和らがないものかと、同情するだろう。もしこの世に、病人や不具者がなかったら、人間は同情ということや、やさしい心をあまり持たずに終わるのじゃないだろうか。ふじ子のあの足も、そう思って考えると、ぼくの人間形成に、ずいぶん大きな影響を与えていることになるような気がするね。病人や、不具者は、人間の心にやさしい思いを育てるために、特別の使命を負ってこの世に生まれて来ているんじゃないだろうか」
吉川は熱して語った。
「なるほどねえ。そうかもしれない。だが、人間は君のように、弱い者に同情する者ばかりだとはいえないからねえ。長い病人がいると、早く死んでくれればいいとうちの者さえ心の中では思っているというからねえ」
「ああ、それは確かにあるな。ふじ子だって、小さい時から、足が悪いばかりに小さな子からもいじめられたり、今だって、さげすむような目で見ていく奴も多いからなあ」
紺がすりの袖から陽にやけた太い腕を見せて、吉川は腕組みをした。
茶の間の方から、待子たちの何か話す声が聞こえる。
「うん、そうか」
吉川が大きくうなずいた。
「じゃ、こういうことは言えないか。ふじ子たちのようなのは、この世の人間の試《し》金《きん》石《せき》のようなものではないか。どの人間も、全く優劣がなく、能力も容貌も、体力も体格も同じだったとしたら、自分自身がどんな人間かなかなかわかりはしない。しかし、ここにひとりの病人がいるとする。甲はそれを見てやさしい心がひき出され、乙はそれを見て冷酷な心になるとする。ここで明らかに人間は分けられてしまう。ということにはならないだろうか」
吉川は考え深そうな目で、信夫の顔をのぞきこむように見た。信夫は深くうなずいた。うなずきながら、自分がきょう感じたバラの美しさを思い出していた。この地上のありとあらゆるものに、存在の意味があるように思えてならなかった。
「いいことを聞いたよ。君はいつもそんなふうに深く物事を考えているのか」
「いや、別に自分では深く考えているとは思わないがね」
「ぼくはかなり自信家だったが、このごろ自分がこの世に何の取柄もない存在だと思うようになっていたんだ。しかし今、吉川君の話を聞いていると、この自分もまた何らかの使命をおびている存在ではないかと、あらためて考えさせられたよ。花には花の存在価値というものがあるんだな。花を見て美しいと思い、ふしぎと思う心が与えられているかどうかは、やはりぼくたちにとって大きな問題なんだろうね」
「うん、そうだろうな。この世の中に、何らの意味も見いだせないとする考え方もあるかもしれん。人間も犬も猫も、単なる動物に過ぎない。そして、死んでしまえばいっさいが無になる、という考え方もあるだろう。だが見るもの聞くものすべてに、自分の人格と深いかかわりを感じとって生きていく生き方も、あるわけだからね」
二人は、お互いの言葉がそのまま相手に伝わるのを感じて、青年らしい純な喜びを感じた。
「そうだね。いっさいを無意味だといえばそれまでだが、ぼくはすべての言葉を意味深く感じとって生きていきたいと思うよ。君のおとうさんの死だって、ぼくの父のあの突然の死だって、残されたぼくたちが意味深く受けとめて生きていく時に、ほんとうの意味で、死んだ人の命が、このぼくたちの中で、生きているといえるのではないだろうか」
信夫は、今はじめて、死んだ父の命がこよなく尊いものに思われてきた。貞行と自分が、父と子であるという切っても切れない絆《きずな》の意味が、納得できるような感じであった。
「永野君、しかし何だねえ、ぼくたちは死とか愛とかいう問題に、ほんとうにまじめにぶつかって生きていきたいものだなあ。こうして君と話していると、つくづくとそう思うよ。だが、毎日の忙しい生活の中では、話し合う友人も少ないし、すぐにうわすべりな生き方になってしまうので、気をつけないといけないと思うよ。君が北海道にいるのなら、どんなに楽しいだろう」
信夫も、この吉川と毎日語り合って生きていけるのなら、自分の人生ももっと豊かなものになるだろうと思わずにはいられなかった。
「ぼくが、北海道に行くより、君が東京に帰って来たまえよ」
「ところが、そうはいかないんだ。北海道という所は、おれの性分に合っているんだな。北海道の冬は、うんざりするほど長いんだ。何もかも白一色の雪におおわれて、青いものはこれっぽっちも見えやしない。ただときわ樹の松だけが葉をつけているだけで、あとはみんな枯れ木になる。そんな大自然を見ていると、ぼくは最初、これが自然の枯れ果てた死の姿だと思ったものだよ。だが、やがて半年もの冬が過ぎて、雪の下から青い草が姿を見せると、冬は決して死の姿ではないと思うんだな。このごろでは、人間の死も、あるいはこの冬のような姿ではないか、いつか生き生きと息を吹きかえすことが、ありはしないかなんて思うほどだ」
「北海道の冬って、ずいぶんきびしいもんなんだなあ」
「ああ、そりゃ東京では想像もできないほどきびしいよ。ぼやぼやしていれば凍死するような寒さだし、あの一寸先も見えない吹雪《ふぶき》になったら、道も野原も区別がつかなくなってしまう。吹雪で死ぬ人も毎年いるからねえ。だが、ぼくにとって、この自然のきびしさがやっぱり必要なんだな」
「なるほどねえ、それに、そんな長い冬では、待つというか、忍ぶというか、かなりの忍耐心も知らず知らずのうちに養われるだろうからねえ」
信夫は、まだ見ぬ北海道の冬のきびしさと長さを想像した。自分が知らないその冬を、吉川はすでに十回近くも体験しているのだと思うと、何かかなわないような気がしてならなかった。このまま自分が東京にいる限り、いつ春が来て夏になり、そして秋に移ったかもわからないおだやかな四季の中で、のんびりと一生終わるのだと思うと、少し残念な気もした。一生を北海道に暮らす気はないが、四年や五年くらいなら住んでみてもいいような気がした。
その時襖があいて、待子がお茶をもってはいって来た。
「ずいぶんお話がはずんでいるのね。今夜はお泊まりになってくださいって、母が申しておりますわ」
「ああ無論。そのつもりだよ待子。吉川君、今晩だけといわずに、東京にいる間ここに泊まってくれたまえ」
「そう願えたら楽しいが、まさかそんなに長いこと迷惑もかけられまい」
吉川が大きな手でお茶を飲んだ。
「いいえ、わたしたちはお泊まりいただいたほうが、うれしいのよ。ねえおにいさま」
「そりゃそうだよ。今夜寝ないで話しても、話の種がきれるとは思えないからね」
信夫も、吉川たちに泊まって欲しかった。
「とにかく今夜だけはおせわになるよ」
吉川の言葉に、待子は、
「じゃ、少しはわたしたちもお仲間にいれてよ。トランプでもして遊びたいわ」
と甘えた。
「トランプか」
信夫は苦笑した。やはり待子は十六歳の少女らしい幼さがあると思った。
「そうだね、まあトランプもいいだろう。ふじ子さんもたいくつするといけないから」
菊もはいって五人でトランプをはじめた。信夫の隣が待子、次に菊、ふじ子、そして吉川がまるく座をつくった。トランプなど、あまり好きでない信夫も今夜は楽しかった。
「あら、その札が永野さんのところにあったのね」
などと、ふじ子が親しみを見せて言葉をかけてくれると、信夫の心は、おさえきれないほど喜びが溢れた。この夜が、自分の一生にとって、忘れられない夜になるのではないかと思いながら、信夫はトランプ遊びに興じていた。
その夜、信夫と吉川は同じ部屋に床を並べて寝た。
「吉川君、北海道から東京まででは、ずいぶん疲れただろう」
何か考えているらしい吉川に、信夫は言葉をかけた。
「いや、疲れはしないよ。おれは鉄道員といっても、荷物を持ったり担いだりする労働者だからね。汽車の中でもぐっすり眠ったし、きょう君の役所を訪ねたあとも少し眠ったからね」
疲れていないと言いながら、なぜかその声には先ほどまでの明るさはなかった。信夫は気になったが、立ち入って尋ねるのもはばかられた。
「あのね、吉川君、ぼくはこの間おもしろい小説を読んだよ。しかも、その小説を書いた作者から、その本をもらったのだ」
暗に吉川の気をひきたてるように、信夫は中村春雨の小説『無花果』をかいつまんで話した。
「なかなかおもしろそうな小説じゃないか」
うんうんと、うなずきながら聞いていた吉川が、枕から顔を上げた。
「ああ君も読んでみるといいよ。何かこうずしりと腹に応こたえてねえ。ぼくは二、三日考えこんでしまったよ」
「そうか。君は全く見かけによらないところがあるんだね。小説なんか目もくれないような堅物に見えるけれど……」
吉川はむっくりと床の上に起きあがって、あぐらをかいた。
「ぼくだって、小説ぐらい読むよ。芝居にはほとんど行かないが」
ちょっと顔を赤らめて信夫は笑った。
「見かけによらないといえば、君のあの吉原の大門まで行った手紙には驚いたな」
ずばりと言われて、信夫は再び赤くなった。
「永野君にも、性的な悩みがあると知って、ぼくは安心したよ。君は高遠な哲学でも論ずるような、そんな感じでちょっと恐れをなしていたんだ」
煙草盆をひきよせてキセルに煙草をつけた。その丸みをおびた太い指が、吉川の暖かさを感じさせた。
「だけど、ほんとうにぼくは悩んだんだよ。何かいつも頭がおおわれているような感じなんだ。勉強など手につかなくってねえ」
「みんなおんなじさ。あるがままでいいんだよ。おれはおれなりにちょっとつらい思いも無論したことはしたがね。しかし、男が女に心をひかれるように作られているのは、これは事実なんだから、そのままに受け取っていこうと思ってね」
落ち着いた吉川の話しぶりに、信夫は羨ましさを感じた。
「えらいね君は。何だかすっかり悟っているように見えるな」
「冗談じゃない。悟るなんてものじゃないよ。おれというのは、君のように罪の意識なんていう高級なものを持ち合わせていないだけだよ」
大きな手を振ると、電灯の下にただよっていた煙草の煙が乱れた。
「ひやかしちゃいけないよ。ぼくだって罪の意識なんて、よくわかりはしないよ。『無花果』という小説を読んで、つくづくそう思ったよ」
「そのつくづく思うというところが、えらいところだ」
「だって、あまりに自分が何もわかってはいないんだもの」
「そうだよ君。自分が何もわかっていないと、ほんとうにわかったなら、それがほんとうの賢い人間だと、うちにくるお坊様は言っていたよ」
「君は、やっぱりお坊様になるつもりなのか」
「えっ? 何だって? このおれがお坊様になるんだって」
吉川は驚いてから大声で笑った。信夫は、自分とゲンマンをして、僧侶になると言った少年の日の吉川を、忘れてはいなかった。そのことを言うと吉川は、
「君、君って驚いた男だよ。それは少年の日の夢というものさ、十歳の時には十歳の時の夢というものがあってもいいだろう。しかしまた、十五歳になれば十五歳の時の抱負というものがあってもいいではないか。人間ははじめから、この木にはこの花が咲くというような、きまりきったものじゃないからね」
「どうしてぼくはこう幼稚なんだろう。吉川君、ぼくはね、君とお坊様になる約束をしたものだから、絶えずそのことが気にかかってねえ。こうして裁判所に勤めているのが、何だか悪いことをしているような気持ちさえしていたんだよ」
その言葉に、吉川は大きな声を立ててひとしきり笑った。笑ってから、つくづくと信夫の顔を眺めて言った。
「永野君、君って実にいい人間だねえ。正直だねえ。こんなお江戸の真ん中に、君のような人間がいようとは思わなかったよ」
しみじみとした口調であった。信夫は自分の幼稚な考えが恥ずかしかった。その自分を、暖かく包むように見つめてくれる吉川のまなざしがうれしかった。
「永野君、おれはねえ、いまは鉄道屋で一生終わるつもりでいるよ。ふじ子をいい男と結婚させて、おれもおれにちょうど似合った女と結婚して、子供の五、六人も育てて、おふくろを、ああ生きていてよかったなと思わせる程度には親孝行もして……まあそんなところが、おれの身に合った暮らしというもんじゃないかと思っているんだ」
吉川の賢そうな目を見つめながら、信夫はうなずいた。吉川という人間が、いかにも偉大なる平凡というにふさわしい人間に思われた。だれもかれもが立身出世を夢みるこの明治の時代に、吉川のような言葉を聞くことは珍しかった。大学を出て学士になるとか、博士になるとか、また、大臣とか、金満家になろうなどと、夢みる青年の多い時代に、吉川のように口に出していうことは、勇気のいることでもあった。しかも吉川は、別段自分に見切りをつけているというのでもない。むしろ鉄道員として終わることを、自ら選び取っている落ち着きがあった。何が吉川をそのように育てているかを、信夫は知りたかった。それは生来のもので、自分のような者が一生かかっても得られないものなのだろうかとも思いながら、信夫は言った。
「偉いなあ、吉川君は。実に偉いよ」
「何が偉い?」
吉川は、自分を偉いとも偉くないとも思っていないようである。
「だってね、君とぼくとは同じ歳だろう。ぼくなんかまだまだ、地に足をつけた考え方はできないよ。やはり心の底では、いまに何かやるぞというような功名心がうずうずしているんだ。このまま裁判所勤めで一生終わろうとは思っていない。何をやりたいのか、この歳になってもわからぬくせに、何かやろうという気持ちだけは、どうしても抜きがたいんだよ」
「君の方が正直だよ。それが二十歳の青年のほんとうの姿だろう。それに君は、小学校の時から勉強もよくできた。何かやれると思うのは自然だよ」
吉川はそう言って再び布団の上にごろりと寝た。遠くから次第に近づいて来る夜回りの拍子木の音が聞こえた。
「だけど吉川君、君のように生きようとする青年は少ないよ。君という人間は、きょう一日をじっくりと大事に生きるほんとうの意味で生きている人だ。ぼくなど、何かやりたいと心がはやるだけで、一日一日がうかうかと過ぎてしまう。気がついた時には、ぼくたちは相変わらずヒョロヒョロの苗木だが、君はいつの間にか見上げるような大樹に育っているのではないかと思うよ」
「これはまた買いかぶられたものだ」
吉川は寝ころんだまま腕組みをして笑った。
「ところで話が変わるけれど、君は死ということをどう考えているんだい。恥ずかしい話だが、ぼくは祖母も父も突然死んだせいか、死ということがむやみに気になるんだよ。夜中にふと目を覚まして、ああおれは生きているんだなあと、思うことがあるよ。だが次の瞬間には、おれは何の病気で、いつどこで、どんな人たちに取り囲まれて死んでいくのだろうなどと、子供のような他愛のないことを考えたりするんだ」
「そりゃあ、おれだって同じだよ。死ぬのは恐ろしいな。そして一日でも長生きしたいと思いはするよ。ただつきつめて絶えず考えていないだけさ。お国のために、なんて、日清戦争で死んだ人たちだって、実はおれと同じだったろうと思っているよ」
「そうか、吉川君でも死ぬのが恐ろしいのか」
信夫はホッとしたように吉川を見た。二人は顔を見合わせて笑った。
「吉川君と話していると気が楽になるなあ」
「そうか。しかしそれは楽な気がするだけだよ。ほんとうに気が楽になったのとはちがうよ」
「そうだろうか」
「そうさ、ただこうして話し合っただけで、死などという問題が解決されるわけはないじゃないか。やはり何のために自分は生きてるのだろうかと思うと、何のためにも生きていない気がして淋しくなるだろう。生きている意味がわからなきゃ、死ぬ意味もわかりはしない。たとえわかったところで、安心して死ねるというわけでもないさ」
「なるほどねえ」
「永野君。君という人間は、元々死とか生とか考えて生きる種類の人間じゃないのかな。生きている者は死ぬのが当たり前さと、おれのように考えてしまえばそれまでだよね」
「すると、ぼくは諦《あきら》めが悪いんだなあ。祖母だって父だって、死ぬすぐ前までは元気だったんだ。生きている者なら、いつまでも生きつづけたっていいじゃないか。なぜ死ななきゃあならないんだと、ぼくはだれかに談判したいような気がしてねえ……さあそろそろ眠ろうか。君も疲れただろうから」
「うん」
信夫は電灯のスイッチを切った。
しばらくして闇に目が馴れると、襖や障子がほのかに白く目にうつった。その白さが、ふじ子の顔を連想させた。清純なふじ子の額や目が、目の前に浮かんだ。ふじ子も、この同じ屋根の下で眠っているのかと思うと、信夫は何ともいえない思いがした。別段取りたてて、ふじ子との思い出があったわけではない。だがひとつ、忘れられないのは、かくれんぼうをして遊んだ時のことである。信夫のかくれていた物置の中に、ふじ子がはいって来て、二人で息をころしてかくれたその時のことが、なぜか信夫には忘れられなかった。あの少年の日に、はじめて息のつまるような異性への意識を知ったような気がするのだ。そしてなぜかその日に見たふじ子の萎なえた足が、愛《いと》しいような思いで思い出されるのだ。
「永野君、眠ったか」
とうに眠っていると思っていた吉川が、寝返りをうった。
「いや起きているよ」
「おれもちょっと眠られないな」
「床が変わったからねえ」
「いや、床が変わっても寝つきはいい方なんだ。しかしきょうは、何となくふじ子のことが気がかりでね」
信夫は答えなかった。いまのいままでふじ子のことを考えていた自分の胸の底を、見透かされたような思いがした。
「ふじ子はもう十六だろう。そろそろ嫁にやらなきゃならないんだ」
「えっ、十六で……少し早いじゃないか。十六といえばうちの待子と同じ歳じゃないか。待子なんか、まだ女学校に通っているよ」
信夫は、ふいに足をさらわれたような感じだった。
「女学校に行ってる人は、だいたい十八ぐらいで結婚するだろう。向こうじゃ十六で嫁に行くのはそう珍しくはないよ。ふじ子はあんな足だから、実はもらってくれるものがいないかと、心配していたんだが、話があるんだ」
「ほう、それはおめでとう」
信夫は、そう言うより仕方がなかった。
「いや、話があるだけでまだ決めてはいないのだ。相手はおれと同じ職場の男でね。悪い奴ではないんだが、ふじ子の一生を託すという気にもならないんだよ。どうしたらいいかと思ってねえ」
先ほどの、何か考えあぐんでいたような吉川の語調の理由が、信夫にもハッキリとわかった。
「そしたら、ことわればいいじゃないか」
「君の言うように、そう簡単にことわれるものなら、何の心配もいらないよ。あの子は君の妹さんのように、五体健全ではないんだからねえ。二度とまた縁談があるとは限らないじゃないか」
信夫は黙って、闇の中にほのかに浮かぶ白い障子を見た。なるほど言われてみれば、その縁談はふじ子にとって、生涯にただひとつのものかもしれなかった。
信夫は、きょう会ったばかりのふじ子に、自分でもふしぎなくらい心がひかれた。それは、俗にいう一目ぼれというものかもしれなかった。しかしこの思いが、それ以上に育っていくという確かさは、いまただちに持てるはずはなかった。ただ、縁談と聞いたとたん、ふじ子はだれのものにもなって欲しくないという気持ちになった。
「十六か十七で嫁にやらなければ、すぐに十八になってしまうよ。十八で適当な話があればよいが、十九になればみんな女の厄《やく》年《どし》だといって、嫁《とつ》いだりもらったりはしないからね。さて二十になれば、もうとうが立ったというくらいだから、足の悪いふじ子には、いよいよ適当な話もなくなるだろう。たいていのことは割り切れるつもりだが、ふじ子のことになると、どうも迷っていけないなあ」
吉川は自嘲するように笑った。信夫はとても吉川にはかなわないと再び思った。自分は待子のことを、そんな千《ち》々《ぢ》に乱れた気持ちで心配してやることは、たぶんないだろうと思った。それは、ふじ子の足が不自由だという理由だけだろうかと考えてみた。たとえ待子の足が不自由でも、自分はもっと冷淡ではないかという気が、しきりにした。
「君は偉いなあ」
いく度かくり返した言葉を、信夫はまた言った。
「偉くはないさ……身びいきという奴なんだなあ。つまり、ふじ子より自分がかわいいんだよ。あいつがつまらん男のところへ行って、苦労をするのを見たくはないという、自分勝手な考えなんだ」
ふっと口をつぐんでから、
「そうだ、よし決めた。帰ったらすぐ、ふじ子の話をまとめてしまおう。そうだ、そういうことにするよ。じゃおやすみ」
何を思ったか、吉川はそう言うと明るい声で笑った。そして、何分もたたぬうちに吉川の寝息が聞こえた。
しかし、信夫は眠れなかった。吉川は、ふじ子の幸福を願う心の中に、利己的なものを見いだして、急にそれをふり捨てるように、縁談をきめることにしたらしい。だが、決めると聞いたとたんに、信夫はふじ子が急に大事なものに思われてきた。と言って、ふじ子が欲しいと言い出すだけの気持ちもなかった。信夫は、ただ淋しかった。
北海道に帰った吉川から手紙が来たのは、もう七月も近いむし暑い日であった。
「うっとうしい梅雨の東京から帰ると、北海道はカラリとした晴天つづきで、何だか別天地に帰って来たような気がするよ。東京では何かとおせわになった。お互い、とにもかくにも二十歳の青年になったことだけは、たしかなようだね。君と行ったあの小学校の校庭も、木々がすっかり大きくなっていて、十年の歳月を感じさせてくれたよ。あの桜の木の下で、四年生のころのお化け事件を話し合ったり、すっかりにぎやかになった銀座や浅草をぶらついたり、いろいろとつき合ってもらってありがとう。
ふじ子の奴は、君が浅草で手相を見てもらったことをしきりに気にしているよ。君は短命だと、あの天神ヒゲのじいさんは言ったね。おれが八《はつ》卦《け》見《み》でも、まあそう言うだろうな。君は色白で体が細いから、肺病じゃないかとあの八卦見は思ったんだ。しかしいっしょに歩いてみて、君は案外しんが強いので、ぼくは安心した。
帰って来て、ちょっと忙しかったせいか、どうもまとまった手紙も書けない。この忙しかった中に、ふじ子の縁談のこともある。おかげさんで今年の秋ふじ子を嫁にやることに決めたよ。相手は佐川という頑丈な男だ。結納はまだだが、とにかく話だけは決めてホッとしたよ。母もふじ子も安心したようだ。
またゆっくり手紙を書くが、これでも礼状のつもりだ。
御母上様と待子さんにくれぐれもよろしくお伝えを乞《こ》う。
吉 川 修
永野信夫様」
役所から帰った信夫は、自分の部屋に突っ立ったまま、くり返しその手紙を読んだ。じっとりと首筋の汗ばむのが不快だった。
「なんてむし暑い日だろう」
さっきから信夫は同じことを呟《つぶや》いていた。もう、あの雪の精のような、清純なふじ子は、この秋には人妻になってしまうのかと思うと、やはりいいようもなく淋しかった。足の悪いことぐらい、どれほどの欠陥でもないと、信夫は取り返しのつかないような思いであった。わずか二、三日、東京を案内しただけなのに、信夫はふじ子を忘れられなくなっていた。
わけても、浅草の手相見の所で、吉川がニューと大きな手をその前につき出し、将来は相当の地位につくと言われ、つづいて自分が手を出した時のふじ子の顔は忘れられなかった。
「あんたは、あと二、三年の命だが、わしの言うことを聞いて、飯をよく噛《か》んで食べ、日当たりのいい部屋に寝ると、多分五十までは生きるだろう」
そう言った時、ふじ子はそのつぶらな目をじっと信夫に注いで、
「長生きしてくださいね」
と、信夫の耳元にやさしくささやいた。その耳をくすぐった暖かい息が、信夫には得がたい宝のように思われてならなかった。
連絡船
信夫は二十三になっていた。
吉川たちが東京に訪ねてから、三年たった七月である。信夫はいま、青函連絡船の甲板に立っていた。
海は静かだった。まだ青森の港に、人の姿がハッキリと見える。信夫はふと、海の中に飛びこんで泳いで帰りたいような思いにかられた。東京に残して来た母と待子の姿が、目にちらついてならなかった。
(待子は、あの岸本とならしあわせにやっていくにちがいない)
待子は去年の秋、帝《※》大出の医師岸本と結婚していた。岸本は、大阪にいる中村春雨の紹介で知り合ったキリスト信者である。中村春雨と同じ大阪の出で、東京のある病院に勤めていた。待子とは九つちがいで、信夫より五つ年上の男だった。
何かの時に、北海道に行ってみたいと信夫が言った。岸本は即座に賛成して、二、三年ぐらいなら、北海道に暮らしてみるのも悪くはないと奨《すす》めてくれた。
「おにいさん、ぼくも結婚前に、北海道に行ってみたかったなあ。北海道には、内《うち》村《むら》鑑《かん》三《ぞう》の出た農学校がありますからねえ」
岸本は、キリスト信者らしいあこがれで北海道を考えているようだった。
母の菊も、信夫が大学にも行かずに働いてくれたことをすまながっていた。信夫が行きたいという北海道に、自分もついて行ってもいいと、菊は言うようにさえなった。だがそのうちに、待子が妊娠した。それを機会に、借家住まいの岸本は、待子と共に永野家に移り住むことになった。
岸本は気持ちの大きな男で、誰もが甘えたくなるようなふんいきを持っていた。二、三年なら、この岸本に母の菊を頼んで北海道に行っていてもいいような気がした。
信夫は徴兵検査に不合格だったから、ずっと裁判所に勤めていた。すでに判《※》任官になっていたが、なぜか裁判所に一生勤める気はなかった。三十までには、何とか自分なりに生きる道が見いだされるような気がして、法律学校に夜間学んだりしていた。
いま信夫は、遠ざかっていく本州の山に、ふり切るように背を向けた。思いがけなく北海道の山々が、行く手に見えた。信夫は思わずハッとした。
(北海道だ!)
何時間か船に乗らなければ見えないと思っていただけに、行く手に北海道の山が見えたことは、信夫を力づけた。
(ふじ子!)
信夫は心の底に秘められた面影に呼びかけた。ふじ子が佐川という男と婚約したと聞いたのは、三年前の六月であった。つづいて、吉川から手紙があり、ふじ子の発病を信夫は知った。
「人生いいことばかりは続かないとみえるね。この間ふじ子の結納がはいったばかりなのに、突然ふじ子が病気になってしまったのだ。今考えると、必ずしも突然でないような気もする。東京から帰ってしばらく食欲がなかった。旅の疲れだろうと思っているうちに真夏になった。秋になったら食欲ももとに戻るだろうなどとのんきにしていたら、秋にはいって風邪が長びいたり、どうも変だと気づいた時には、少し胸をやられていたのだ。かわいそうに、あいつもせっかくの縁談をこれでふいにすることになるかもしれない。佐川はよほどふじ子を気に入っているらしく、返しに行った結納を受け取ってはくれなかった。だが、そういつまでも相手の好意に甘えているわけにもいかなくなるだろう」
そんな手紙が来て、その後しばらく吉川からは何の便りもなかった。信夫は信夫で、さっそく見舞いの手紙を出そうと思いながら、なぜか手紙を出しそびれた。その心の底に、胸の悪いふじ子とかかわることを恐れる気が、まったくなかったとは言い切れなかった。肺病の患者は、近所から立ち退《の》きを迫られるほど嫌われていた時代である。
そのうちに年も暮れて、信夫は葉書を書いた。父の貞行が死んだ年だったから、年賀状を書くことはできなかった。
「凜《りん》冽《れつ》たるそちらの冬は、ふじ子さんの体に障《さわ》らないだろうか。早くに見舞状をと思いながら、君やふじ子さんの胸中を推察すると、何を書くこともできなかった……」
信夫は自分の葉書を読み返して不快だった。自分が見舞状を出さなかった胸の底には、もっと自分勝手な、冷酷な気持ちがあったはずである。と言って、この葉書の文面は全くうそではなかった。
その葉書と行き違いに吉川から葉書がきた。
「君も淋しい正月だね。お父上様のいない正月が、身に沁《し》みることだろう。ふじ子は元気だ。相変わらず微熱は取れないが、気持ちだけは元気だ。いや、元気に見せかけているのかも知れない。母も調子を合わせているようだが、母が一番参っているよ」
佐川との婚約については、何もふれていなかった。たぶんもう破棄されたことだろうと思いながら、その葉書を信夫は読んだ。
やがて春になり、信夫は桜の花を押し花にして、春のおそい北海道に送ってやった。すると折り返し吉川から分厚い手紙がきた。
「君の送ってくれた桜の押し花を、どんなに喜んだことかわかりはしない。おれよりもふじ子が喜んだ。その日はちょうど吹雪で、ガラス戸がまっ白だった。吹雪の中で見る桜の押し花は、君が考えもしなかったほど、ふじ子の心を慰めてくれた。
このごろふじ子は、ずっと寝たっきりなのだ。胸の方はそれほど悪くないようだが、脊《せき》椎《つい》がやられたらしいんだ。歩くとよろけるものだから、仕方なしにずっと寝ている。佐川が時々訪ねてきて慰めてくれるが、もう結婚のことは佐川も諦めたらしい……」
その手紙の外に、ふじ子の手紙もはいっていた。
「永野さん、桜の押し花ほんとうにありがとうございました。あんまりいく度も眺めているものですから、母に笑われました。
わたしは桜の花を見るまで、生きていることができるとは思わなかったのです。ですから、この押し花を見た時、それはもう何とも言えない喜びでした。何だか、もう後一年生き伸びることができるような気がいたします……」
そんなことが、ふじ子の手紙には書いてあった。信夫はそれからは花を見る度に、押し花にせずにはいられなかった。チューリップも、芍《しやく》薬《やく》も、エニシダも、小さな花も大きな花も、押し花にしてふじ子に送った。そのたびにふじ子から簡単だが心のこもった礼状がきた。信夫は、その手紙を一通一通白い半紙に包んで机の中にしまった。
役所にいても、花に目がとまると、ふっと白いふじ子の顔が瞼《まぶた》に浮かんだ。ふじ子の病気が恐ろしいと思ったのは、初めのうちだけであった。人に嫌われる肺病になったふじ子が、何ともいえなく憐れであった。もう来年までは、生きていることのできないような気がして、信夫はそのふじ子の心になって花を見た。するとバラひとつ芍薬ひとつにも、何か涙のにじむような思いがした。
待子が母の菊と楽しそうに、学校の話をしているのを見るにつけても、信夫はふじ子を思った。待子はこの先何十年もこうして元気に生きていけるかもしれない。しかし、ふじ子はあのまま十七歳の命を閉じるかもしれないのだ。そう思うと、ついまた机の前にすわって便箋をひろげずにはいられなかった。何かひとことでも話しかけてやれば、それだけふじ子の命が永らえられるような気がした。
ふじ子からの手紙はいっそう短くなっていった。それはちょうど、ふじ子の命が次第に残り少なになっていくようなそんな心もとない感じであった。
こうして、ふじ子のことを考えて暮らしているうちに、いつしか信夫もまた命という問題について、まじめに考えるようになっていた。道の途中で見かける元気な小学生を見ても、この子たちもやがては死ぬのだ、と不意に考えることがあった。
「行って参ります」
と、母の前に手をついて顔を上げたとたん、きょう再び生きて家に帰ってくるかどうか、何の保証もないのだと思うこともあった。それは、父の貞行が人力車に乗って門を出てから、どれほどもたたずに、途上で意識不明になったまま、ついに帰らぬ人になってしまったことも与《あずか》っていたが、とにかく、信夫の命に対する考え方が、単なる「考えごと」ではなくなってしまっていた。
父の貞行の急死に会った時は、信夫は死というものが恐ろしかった。そして、人間は必ず死ぬものであるということを知らされた。今の信夫の、死についての考え方は、その時とは少しちがっていた。やがて自分も死ぬものとして、どのように生きるべきかということを思うようになっていた。
ある日、信夫は母の菊にたずねた。
「おかあさま、人間は、死んだら何もかも終わりですね」
信夫はふじ子のことを思いながら言った。菊は、突きつめたような信夫の表情に、しばらく黙っていたが、
「信夫さん、おかあさまはね、死がすべての終わりとは思っておりませんよ」
「だって、おかあさま、死んで何が始まるのです? 死んだ人間に未来があるとでもおっしゃるのですか」
信夫はせきこんでたずねた。菊は静かにうなずいた。確信にみちたうなずき方である。
「どんな未来があるというのですか」
重ねて信夫は聞いた。
「あのね、信夫さん。おかあさまが今、死は永い眠りであって、また覚めることがあるのだと言っても、あなたは信じませんよね。ほんとうにこの問題をまじめに考えているのなら、せっかちに答えを求めてはいけませんよ。謙虚に牧師様かお坊様にたずねてみることですね」
菊はそう言った。信夫は何となく釈然としなかった。母が自分とは遠い世界にいるような、そしてまた、安易に死後の未来を信じているような気がした。だれにたずねたところで、それはとうてい自分には信じられそうもないような気がした。
そう思いながらも、あのふじ子が死を目の前にして、
「確かに死はすべての終わりではない」
と、信ずることができたなら、それはどんなに大きな力になることだろうかと信夫は思った。そして自分では信じていないその言葉を、ふじ子に告げてやりたいような気がしてならなかった。
(だがはたして、その言葉が人間にとって、ほんとうに生きる力となるだろうか。生きる力はいったい何なのだろう)
信夫はそのことが知りたかった。自分のためにも、ふじ子のためにも、それが知りたかった。
そんなことを思っているころ、吉川からまた手紙があった。ふじ子の婚約者の佐川が、ついに婚約を破棄して妻をめとったということであった。その手紙を読んで、信夫は、佐川という男が今の世には珍しい立派な男だと思った。肺病といえば、その家の前を、人は口をおおって走るのだ。しかし佐川はその肺病のふじ子を、一年も見舞いつづけたというのである。信夫は、自分にはまねのできないことだと思った。自分は遠く離れた東京にいるからこそ、こうして手紙を書いたりはするものの、もし身近にあったなら、はたして見舞うことができただろうかと思わずにはいられなかった。
ふじ子は、信夫にとって愛する対象ではあったが、それは考えてみると、無責任な愛であった。言葉に出して愛しているとは告げなかったし、むろん何の約束もしていない。見舞いに行こうと言ったこともない。それは、空に輝く星を愛しているような、非現実的な愛であった。ただ、ふじ子を思うことによって信夫自身が満たされているような、そんなひとりよがりな愛でもあった。
ふじ子からは、佐川のことについて書いてきたことは、一度もなかった。だからふじ子は、佐川を愛していないように信夫には思われた。夜の浅草で、
「長生きしてくださいね」
と、自分の耳元にささやいたふじ子の声を思い出すたびに、信夫は甘い感情にひたった。そしていつしか、それが自分に対するふじ子の愛のように錯覚をしていた。
(もしかしたら、ふじ子は佐川を心から愛していたのかもしれない。いま、佐川を失って、ふじ子は苦しんでいるのかもしれない)
信夫は、はじめてそんなことを考えた。嫉妬に似た感情が信夫を憂鬱にさせた。
その後しばらく、信夫も手紙を書かなかったし、吉川たちからも便りがなかった。
(ふじ子は、佐川の結婚に参ってしまって、もうこの秋が最後になるのではないだろうか)
ある晴れた日曜日、縁側に寝ころんだまま信夫はじっと空を眺めていた。秋の陽に輝きながら、白い雲がいくつか軒のひさしの向こうに流れては消えた。
(あの雲は、どこから来てどこへ行くのだろう)
犬の顔に見えていた雲が、秋の風に見る間に形を変えて流れる。少しの間も雲は同じ形ではなかった。たしかにそこに流れていた雲が、いつの間にか消えて跡形もなくなったりする。その移り変わりの早い雲の形を眺めながら、信夫は、
「はかないなあ」
と、思わずつぶやいた。それは信夫自身の姿のように思われてならなかった。人間はあまりにもさまざまに変わっていく。
ふじ子を思う心には変わりはなかったが、しかしこのごろ信夫の中に、少しずつ変わっていくものがあった。役所の行き帰りに見かける女の姿に、目をうばわれることが多くなったような気がする。赤いたすきをキリリとかけて、格《こう》子《し》戸《ど》を磨きこんでいる若い女の白い二の腕や、黄《き》八《はち》丈《じよう》を着て、駒下駄の音をたてて歩く娘の姿などに、信夫はつい目を誘われてしまうのだ。袴のひもを胸高に結んで、快活に歩いてくる女学生たちの群れにも、信夫はやはり興味をそそられた。
以前は、母と同じ年ごろの女性でも、恥ずかしくて真正面から見ることのできなかった信夫だった。どこで、どうして、このように変わっていくのかと思うと、ふっと不安になることがある。
(定めなきは人の心)
そんな言葉が胸に浮かぶ。まだまだ自分の心が思いもかけない方向に行ってしまうような気もする。
心の底では、やはりふじ子を思っているのだが、考えてみると、それはふじ子を思っているというより、若い女性というものを、ふじ子を通して愛しているような気もした。必ずしも信夫にとって、相手がふじ子でなければならないというほど、強いものではないような気がした。
信夫は、流れる雲を眺めながら、人間の心の不確かさにいまさらのように驚いていた。
(あの雲のように、自分もまた、どこから来てどこへ行くのかわからないのだ)
信夫はそんなことを思うと、ひどく寂しかった。何の目的もなく流れている雲と、何の目的もなくこの人生をさすらっているような自分が、あまりにも同じように思えてならない。何だか生きていることがむなしいような気がしてきた。
吉川が東京に訪ねて来た時は、
「人それぞれに存在の理由がある。病人には病人の存在理由があり、自分たちもまたそうなのだ」
と、話し合ったことがある。たしかにその時はそう思っていたのに、今は何もかも無目的に思えてきた。
自分の心の中に、何ひとつ確かな形を残していないことに気づいた秋の日以来、信夫は空き家にいるような荒れた寂しさを感ずるようになった。
そしてある夜、信夫は長いこと自分に禁じていた情欲にひとり身を委せた。激しい嵐のような一時が過ぎると、信夫はいっそう寂しく味気なかった。自己嫌悪とむなしさの中で、信夫は生まれて初めて、もう一人の自分の顔を見たような気がした。それは勤勉で自制的な、そして向上しようとする自分の姿ではなく、どこまでも堕《お》ちて行きたいような、いく分ふてぶてしい、荒《すさ》んだもう一人の自分の姿であった。
それは、今まで信夫が自分の中に気づかなかったもう一人の自分の姿だった。それに気づくと、信夫は掛布団を跳はねのけてガバと飛び起きた。信夫はそっと縁側の雨戸を開けて井戸端に出た。確かな手ごたえをつるべに感じながら、桶一杯の水を汲み上げると、信夫は裸の自分に水を浴びせた。十一月も終わりの水は冷たかった。信夫は唇をギュッと噛みしめながら、つづけて三杯の水を浴びると、やっと自分自身に戻ったような気がした。
(あれから二年になる)
今、次第に近づいてくる函館山の、むっくりとした姿を眺めながら、信夫は、そのころの自分を思い出していた。だが二年前の自分と、今の自分と、どれほどのちがいがあろうかと信夫は思っていた。
昨日の朝早く、上野まで送りに来てくれた待子の夫の岸本が、聖書を贈ってくれた。その扉に、岸本の筆で、
「神は愛なり」
と、書いてあった。信夫は、その言葉を胸の中でつぶやいてみた。
(はたして神は愛だろうか)
何の罪もないふじ子が、足が悪く、その上肺病とカリエスで寝ているということ自体、信夫にはうなずくことのできないことであった。水を浴びた二年前のあの夜から、信夫は、自分を律する者は、自分の意志と理性であると考えるようになっていた。神に頼るほど自分は弱くはないと、信夫は自分を考えるようになっていた。なぜなら、あの夜以来、信夫は猛然と自分の情欲と闘って、そのたびに打ち勝ってきたからであった。
帝大 帝国大学の略称。帝国大学は、明治十九年(一九八六)の帝国大学令により、東京大学が東京帝国大学となったのが始まり。その後、京都、東北、九州、北海道、京城(韓国・ソウル)、台北(台湾・タイペイ)、大阪、名古屋の各帝国大学が設置された。第二次大戦後改編、新制国立大学となった。
判任官 明治憲法下における官史の最下級で、属する役所の長により任免された。
札幌の街
広い石狩の野を、信夫の汽車は走っていた。カッと照りつける七月の陽の下に、人一人見えなかった。
(広い!)
信夫は、馬《ば》鈴《れい》薯《しよ》の白い花がつづく野の果てに目をやった。間もなく汽車は札幌に着くはずである。信夫は、われながら思い切ったことをしたと、つくづく思った。
(自分はいったい、何の目的で、裁判所の仕事を捨て、母と妹を東京において、北海道までやって来たのだろう)
新しい北海道で暮らしたいという情熱が、実のところ何によって自分の中に燃えたのか、今となっては信夫自身にもとらえどころがなかった。
吉川の住む札幌に、自分も住みたいというのでは、理由が薄弱のように思える。吉川の妹のふじ子を愛して、ここまでやって来たのだといえば、それもまたほんとうとは思えなかった。たしかに、冬の長い北海道に三年越し病んでいるふじ子は哀れであった。東京で描くふじ子の幻は可憐で、今すぐにでも見舞ってやりたいような思いがした。と言って、そのふじ子のことだけで、北海道にはるばるやって来るほど、たしかな愛を信夫は持ってはいない。ひっそりと心の中に、いつの間にか住みついたふじ子ではあったが、それはあるいは、二十三歳の信夫の感傷かもしれなかった。
(若さだ。おれは若いのだ)
信夫は心の中で呟いた。まだ見ぬ土地にあこがれ、そこにくり広げられる新しい生活に冒険を感じ、そしてひそかにふじ子の面影を想う。それはたしかに、二十三歳という信夫の若さがもたらしたものかもしれなかった。
にわかに家数が増え、汽車の速度は次第にゆるくなった。やがて汽車は大きく揺れ、札幌の駅にはいった。信夫は網棚からトランク二つをおろして、両手に持った。コツコツと窓ガラスを叩く音に気づくと、窓の外に、あの吉川の顔が懐かしそうに白い歯を見せていた。
プラットホームにおりると、吉川が体をぶつけるようにして、信夫の肩を抱いた。
「よく来たなあ。ほんとうによく来た」
吉川は腕でぐいと涙をぬぐった。
「うん、来たよ。とうとうやって来たよ」
信夫も胸が熱くなった。二人は一別以来のお互いをじっと見つめあってから、微笑した。
「君は相変わらず細いねえ」
「うん、丙《※へい》種《しゆ》だもの、君のようにくじ逃れとは言っても、甲種合格とはくらべられないさ。君はまた、何だかひと回り大きくなったような気がするねえ」
「うん、まだ育ち盛りなのかな」
二人は笑った。吉川の声が、信夫の声をかき消すほど大きかった。吉川は二つのトランクを軽々と持った。
「いいよ。一つはぼくが持つよ」
「なあに、おれはこの駅で、毎日貨物を扱っているんだぜ。心配するなよ」
吉川は大股で歩き出した。
「なかなか大きい駅じゃないか」
「君もここに勤めるつもりだと言っていたね。君は判任官だったから簡単にはいれるよ。だが、ほんとうによく決心したものだなあ。永野って、案外行動力があるんだなあ」
「ぼくだって、若いもの」
今、汽車の中でひとり考えて来た結論を、信夫はさりげなく言った。
「うん、なるほどなあ。おれたちはほんとうに若いんだものなあ」
その言葉を聞きながら、信夫は若いということが、いったいどういうことであろうかと思った。
駅前に出ると、緑のアカシヤ並木が、街の遥かまでつづいている。その並木通りを、レールが敷かれ、乗り合いの鉄道馬車が、足音軽く走っている。すぐ駅前に大きな山形屋という旅館があった。
「ほら、向こうに見えるあの建物が裁判所だよ」
二、三町向こうの大きな建物を、トランクを持った吉川の太い指がさした。ふっと信夫は、東京の裁判所の自分の席を思い出した。だが、心の底のかすかなうずきはすぐ消えた。
駅前には宿引きがうるさいほどたくさんいたが、吉川が駅にいることを知ってか、誘うものはなかった。
「宿屋もずいぶんあるんだねえ」
「うん、山形屋だの、丸惣だの、けっこう大きな旅館があるよ」
「北海道というと、ただ山か野のように思っていたが、どうも認識不足だったね」
二人は駅前の広い通りを歩いて行った。
「野《のつ》幌《ぽろ》だったか、汽車の窓から煉瓦工場が見えたよ。ア《※》マ会社やビール工場なども、札幌にはあるんだものなあ。想像もしなかったよ」
「札幌の人間が聞いたら、それは吹き出すよ。だが、そうは言っても、まあ東京から見ればまだまだ田舎だからねえ」
「いやいやどうして、白《はく》堊《あ》の洋館が、エルムの茂りの中に見えがくれしていたり、道が広くて真っすぐだったり、なかなかハイカラじゃないか」
信夫は、ふじ子の容態を聞きそびれた。吉川の家は、すぐ五、六町の所にあると聞いたが、近づくにつれ信夫の口は重くなった。ふじ子の痩《や》せ衰えて青ざめた顔が目に見えるようである。三年も臥《ね》ていては、どんな慰めもそらぞらしく聞こえるにちがいないと思うと、会って何と励ましてよいかわからない。一日二日風邪で臥てさえ、気ぶせなものである。三年越し、来る日も来る日も臥ているということは、どんなにつらいことであろう。まして若い乙女である。同じ年の待子は、よき伴侶を得て、はや母になろうとしているのにと、信夫は胸のふさがる思いがした。
大きな風呂敷包みを背負って、子供の手を引いていく女も、カンカン帽をかぶり、浴衣《ゆかた》を尻はしょりしていく老人も、大八車を引き、額に汗してくる若者も、みなどこか悠々としている。その悠々とした街の眺めさえ、ふじ子を思うと信夫には悲しかった。
アカシヤの並木をしばらく行って左に曲がると、
「そこの三軒目の家だよ」
と、吉川がアゴでさし示した。大きな柾《※まさ》屋根が、家の半ばをかくしているような、二戸建ての家である。何となく、東京の吉川の住んでいた小さな家を想像していた信夫には、意外なほど大きな家であった。と言っても、部屋数は四つぐらいのものであろうか。
「お袋も妹も待ちかねているよ」
吉川はあけ放しになっている玄関に片足をかけたまま、信夫をふり返った。
「まあ、ようこそ」
愛想のよい吉川の母に、信夫はたちまちその手をしっかりと取られていた。吉川の母は三年前上野の駅で見送った時より、かなり老《ふ》けてみえる。ふじ子の病気が、この母を老けさせたのではないかと思いながら、信夫は深く頭を下げた。
「ほんとうによくおいでくださいましたねえ。お疲れになったでしょう。室蘭から岩見沢回りでいらっしゃったんですってねえ。わたしたちは函館から小樽まで船で来たんですけれど、わたしは船に弱くて酔いましてねえ。函館から室蘭までの船は揺れませんでしたか」
吉川の母は、何から話してよいかわからないようであった。
「北海道と言っても、ずいぶん暑いんですねえ。安心しましたよ」
「そりゃあ、永野さん、お米がとれるかもしれないというぐらいですもの。東京と同じぐらい暑い日だってありますよ」
いつまでたっても、ふじ子のことはだれも言わない。信夫は何となく不安になった。もしかしたら、この家にふじ子はいないのかもしれない。病院にでも入院したのだろうかと思ったりして、信夫は次第に落ち着かなくなってきた。
「あの……、いかがなんですか」
信夫はふじ子の名を言わずに、やっとの思いで聞いた。
「ああ、ふじ子か、君、会ってやってくれるか。何しろ結核などという病気だから、ちょっと言い出しかねていたんだ」
吉川は立ち上がりながら言った。
「結核と言っても、胸の方はほとんど悪くはないんだが……」
そう言いながら、吉川はいかにも恐縮しているようである。結核の病人がいるということで、世間にたいへんな気がねをして暮らしている吉川の生活に、信夫はじかにふれた気がした。
(何と言って慰めてやったらいいのだろう)
信夫はいくぶん固くなりながら、吉川の後に従った。部屋一つ隔てた奥の間の襖を、吉川は無雑作にあけた。
「ふじ子、永野君だよ」
吉川の声が、ひどくやさしく、信夫の胸を打った。
「まあ、ようこそおいでくださいましたこと」
余りにも明るい声に、信夫はハッとして立ちどまった。四畳半の窓際に、ふじ子はか細い体を横たえていた。だが、その顔は未だかつて信夫が見たことのないような、明るい輝きにあふれていた。
「ふじ子さん」
信夫は、そう言ったまま、その場にすわった。こんなに細くなって、しかも臥たっきりの生活の中で、何と朗らかな顔をしていることだろうと、信夫は心打たれて言葉がつづかなかった。
「おつかれになったでしょうね。東京はずいぶん遠いんですもの」
可憐な声が、童女のようにあどけない。信夫はちらっと待子の花嫁姿を思った。ふと目をやると、ふじ子の臥ている壁に、押し花がズラリと貼られている。信夫が折り折りに送った押し花である。桜も、スミレも、梅も、それぞれに受け取った月日を小さく書きこんで貼ってあった。信夫は胸が熱くなった。
「永野さんの送ってくださった押し花が、こんなにたくさんになったのよ」
吉川はすでに座を立って、そこにはいない。信夫は何か胸のしめつけられるような思いがして、あらためてふじ子の顔をじっと見た。その信夫を、ふじ子は静かに見返した。恐ろしいほど澄んだ目である。と、その目にさっと涙が走った。だが次の瞬間、ふじ子はニッコリと笑っていた。
「わたし、ほんとうに押し花がうれしかったの」
笑ったその目から、ほろりと涙がこぼれた。その涙を細い指でぬぐいながら、
「変ね、うれしい時でも涙が出るのかしら」
と、ふじ子ははじらった。信夫は、そのふじ子をみつめながら、心の底からふじ子をいとしいと思った。この可憐なふじ子のために、どんなことでもしてやりたいような思いがした。自分でできることであれば、ふじ子を喜ばすためには、どんな努力も惜しむまいと思った。長い間東京で考えていたふじ子とは、全くちがったその明るさに、信夫は感動した。それは、自分が健康な者としての憐れみに似た思いではなく、尊敬とも言える感情であった。信夫は自分の手の中にはいってしまいそうなふじ子の手を見た。その手を強く握りしめたいような思いに耐えながら、
「ふじ子さん、また後で来ます。ぼくはこれからずっと札幌にいるのですから、今度は押し花ではなく、いろいろな花を持って来てあげますよ」
と、言った。ふじ子の目は、みるみる涙でいっぱいになり、その長いまつ毛がキラリと光った。窓の風鈴が風に鳴った。
信夫は予定どおり、炭鉱鉄道株式会社に就職することができ、札幌駅に勤めることになった。吉川は貨物係であったが、信夫は経理事務を担当した。
吉川の家から、二町ほど離れた所に下宿をし、週に一度は吉川の家を訪れる。毎日でも訪ねたい気持ちだったが、それもはばかられて、信夫は吉川を訪ねるような顔をしてふじ子を見舞った。
札幌に来て一カ月余りたったお盆の夜、信夫は上司の和倉礼之助に招かれた。北海道のお盆は八月だった。街のあちこちにやぐらが築かれ、盆踊りの太鼓の音が風に乗って聞こえていた。
和倉礼之助は酒好きである。
「何だ、いい若いもんが盃に二つや三つで真っ赤になるなんて、だらしがないぞ」
和倉は、浴衣を片肌脱いで、よく筋肉の発達した胸をぴたぴたと叩いてみせた。和倉は弓道の達人とかいううわさで体の大きな男であった。傍らで和倉の娘の美沙が微笑していた。和倉に似て、大柄な勝気そうな十七、八の娘である。首まで塗ったおしろいが、少し濃すぎるように思われた。
「しかし、何だなあ永野君。君はずいぶん体が細いが、どこも悪いところはないようだね」
和倉は少しあらたまったように信夫を見た。
「はあ、柳に風折れなしという方ですか。めったにかぜもひきません」
「うん、だが、北海道は内地とはちがうぞ。冬の寒さは骨身にしみる。まあ悪いことは言わないから、今から酒を飲む稽古をしておくんだなあ。美沙、お前も酒を飲む男は頼もしいだろう」
和倉は大声を上げて笑った。美沙はまっ赤になってうつむき、盛り上がってはち切れそうなももの上をしきりになでた。信夫はふと、この席がどんな席であるかに気づき、内心あわてて、縁側に吊られた盆ちょうちんを見あげた。
「永野君、おれもいろんな部下を持ったが、君のような男は、いままでに見たことはない。正直な話、君が東京の裁判所を何で辞めて来たのかと、少々怪しんだものだ。任官までしながら、何も蝦《え》夷《ぞ》くんだりまで流れてくることはないからなあ」
和倉は盃を幾つか重ねた。てらてらと赤い鼻が憎めなかった。時々、美沙は台所の母親のところに、銚子を取りに立っていた。立つ度に、濃い化粧の匂いがただよう。それがどうにも信夫には気になった。黒目がちの、愛くるしい顔立ちなのだが、化粧が濃すぎるのだ。信夫はつい毒花を連想する。
「しかし、おれが聞いたところでは、永野君は何の過失もなしに、いやむしろひきとめるのをふり切るように、北海道に来たというんだな。おれは君がひな人形の男《お》びなのようなやさしい顔をしてるんで、ちっとばかり虫の好かねえ野郎だと最初は思ったんだ。骨なしのグニャグニャかと思ってねえ。ところが仕事をさせてみると、頭が滅法いいから飲みこみが早い。責任感が強くて仕事が正確だ。こりゃ大した拾い物だと思って、近ごろじゃすっかりお前にほれたんだ。全くの話、三月のヒナ人形じゃなくて、五月の武者人形だよ君は」
信夫は、その次に来る言葉を覚悟した。
「とんでもございません。勤めの初めですから、少しは気をつけているだけで、今にたくさんぼろが出て来ます」
「いやいや、おれはこんながさつな人間だが、人を見る目はない方じゃない。まあ、ざっくばらんに言えば、うちの娘を君にもらってもらえんかと、欲を出してしまったわけだ。今すぐにどうこうとは言わないが、あんな奴だが考えておいて欲しいと思ってな。思い立ったら吉日と、急に娘を見てもらいたくなって、今夜来てもらったわけだ」
酔ってはいるが、まじめな口調だった。ちょうど美沙が銚子をかえに台所に立って行った後なので、信夫はいくぶんホッとしながらも、困ったことになったと思った。
「たいそうありがたいお言葉で、恐縮です」
それだけ言って頭を下げた。
「ちょっと聞いておきたいんだが、永野君、君にはもうきまった人がいるのかね」
「いいえ。おりません」
答えてから、信夫はふじ子を思った。おそらく一生なおることのないであろう病人のふじ子との結婚を、信夫は一度も考えたことはなかった。無論何ひとつ言葉に出して言いかわしたわけでもない。だが今、和倉の娘と見合いをさせられて思ったことはあのふじ子をおいて、他のいかなる女性とも結婚できないのではないかということである。もし、きまった人がいるかと尋ねられたのではなく、好きな人がいるかと尋ねられたのであれば、信夫はためらわずにうなずいたかもしれなかった。
「ではもうひとつ聞くがね。君は一生札幌に永住するつもりかね。それとも、一《ひと》旗《はた》組のように、何かの機会に金もうけの口でもあれば、ゴッソリもうけて内地へ帰ろうというつもりかね」
「ぼくは長男で、東京の本郷に家も土地も持っております。母を見なければならないので、母が北海道に来なければどうなるかわかりませんが、ぼくはぼくなりに、今の仕事に打ちこんでいくつもりはあります」
就職したばかりで、二、三年で東京に帰るとは言いかねた。だが、遠からず日本中の鉄道が官営になれば、東京に転勤も不可能ではないだろうと思ってはいた。
夜風に吹かれて、下宿に向かいながら、信夫は、帰りがけに見せた和倉の娘の表情を思い出していた。上目づかいに媚《こ》びるように信夫を見た目は、女の妖しさを感じさせた。それは決して不快ではなかった。その不快ではなかった自分に、信夫はこだわっていた。
(これもまた、若いということなんだろうか)
信夫は、若さとは何だろうと、考えるような顔になった。
(若さとは、混沌としたものだろうか)
そんな気もした。混沌をもたらすものは、若いエネルギーのようにも思えた。地球の初めがドロドロとした火のようなものであったという。それは地球の若さだった。今、信夫の心の中に、肉体的な欲望と、青年らしい理想とが混沌としているようだった。
(いや、若さとは成長するエネルギーだ)
ふと、信夫はそう思った。ならば、何に向かって自分は成長すべきであろうかと、立ちどまって信夫は夏の夜空を仰いだ。北斗七星が整然と頭上に輝いていた。
丙種 第二次大戦前、日本で行われた徴兵検査の結果つけられたランクで、身体的には頑健ではないという評価であった。
アマ会社 アマは亜麻のこと。北海道で広く栽培された一年草。茎の繊維で織物を作り、種子からは油がとれる。
柾屋根 日本家屋の屋根の葺き方の一種、柾葺きの屋根のこと。板の厚いほうを下にして羽重ねに葺く。
しぐれ
日曜日の午後、信夫は下宿の二階の窓から、裏庭の丈高いトーキビ畠を眺めていた。わずか五十坪ばかりのトーキビ畠だが、時雨《しぐれ》にたたかれているその葉を見ると、信夫は限りなく広い野にいるようなさびしさを感じた。
「どんなもんだろう。そろそろ気持ちを聞かせて欲しいんだが」
和倉礼之助は、きのう、勤めから帰りかける信夫を呼びとめて言った。
「美沙の方は、君の心次第だと言っているんだが」
礼之助に促されるまでもなく、信夫は一カ月半ほど前に和倉の家に招かれてから、ずっと考えてきたことなのだ。あれから一度、信夫は美沙に街角で会った。美沙は信夫を見てお辞儀をしたが、首筋まで真っ赤になって、逃げるように去って行った。風呂敷包みを胸に抱えたその姿が、和倉の家で会った時よりずっとなまめかしく見えた。別にどこと言って、とりたてて嫌うべきところはない。むしろ艶のある上目づかいのまなざしや、形のいい口元など、心ひかれるものがあった。しかしそれだけのことであった。第一、北海道に渡ってすぐに、妻をめとる気にはなれなかった。そのくせふっと美沙の顔が胸に浮かぶことがある。生まれて初めて見合いをした相手だったから、ひとり住まいの信夫にとって、それだけでも美沙は刺激的な、そして心にかかる存在であったのかもしれない。
このままふっつりと美沙に会わないのも、何となく淋しい気がする。と言って、まだ結婚する気にはなれない。一方、吉川の妹のふじ子のことも決して忘れてはいない。時々訪ねて行っては、ほんの五、六分だが話し合ってくる。きょうは暑いとか寒いとか、体の具合はどうだとか、不器用な信夫は、いつもきまりきった言葉で見舞ってくるのだが、いつ行ってもふじ子は明るかった。その顔を見ると、何となく信夫の心は静かになる。どこにいる時よりも、ふじ子の前にいる時の自分が、信夫は好きだった。もし自分が、いま美沙と結婚したら、ふじ子はどう思うだろうと思ったりする。案外何も思わずに、やはり明るく、ひっそりと生きていくような気もする。しかし自分の方は、そうたびたびふじ子を見舞えなくなるから、ずいぶん淋しい思いをするのではないかなどと、考えたりする。
階段のミシミシきしる音がして、はいってきたのは吉川修だった。
「何だ、憂うつそうな顔をして、東京でも恋しくなったのか」
絣《かすり》の着物を着た吉川は、どっかとあぐらをかいた。
「きょう非番なの? ぼくの休みとちょうどぶつかったんだね」
信夫は自分の敷いていた座布団を裏返して吉川にすすめた。吉川は、いく度も来た信夫の部屋をあらためて見回すようにしてから、
「淋しいだろう。特にきょうのような雨の日はなあ」
と、ぽつりと言った。信夫が苦笑すると、
「君が来て、もう三カ月近いなあ。三カ月ごろがたまらなく故郷の恋しいころだそうだよ。張り切っていた気持ちが、だれでも一度はしぼむころらしいからな」
信夫は吉川の前に、塩せんべいを袋のまま出して、階下からお茶をもらって上がってきた。
「いや別に、東京が恋しくなったわけじゃないが……。ちょっと話があるんだ。縁談なんだがねえ」
「ほう、さすがは君だね。もうだれかに目をつけられたのか」
飲みかけの湯呑み茶碗を畳に置いた。お盆の夜、見合いのようなことになってしまったいきさつを、信夫は手短に話してから言った。
「どうしたもんだろう」
「どうするって、それは君の心持ち次第さ」
「それがよくわからないんだ」
信夫は、自分の美沙に対する気持ちを語った。
「なるほどねえ。永野、お前はまだ……なんだろう。女を知らないだろう」
ずばりと吉川が言った。信夫はたじろいだ。
「永野、実はおれねえ、君と同じように女を知らないもんだから、何となく会った女、会った女が妙に神秘的で得がたいものに思うんだ。だからちょっと知り合えば、手放すのが惜しくて、思いっきりが悪いんだよ。君と同じにねえ」
信夫はうなずいた。
「しかしなあ永野、おれはふじ子の縁談で辛い思いをしているからね。縁談と聞くと、何か気が重いよ。なるべく女を傷つけないように、一日も早く結婚してやれよ。いらんおせっかいかもしれないがねえ。とにかく、いいと思ったらもらってやれよ」
吉川らしいおおらかな言い方だった。しかし信夫は、かえってその一言一言に、妹ふじ子への思いやりが溢れているような気がした。美沙の話を持ち出したことが、心ない仕打ちだったような気がした。女を傷つけないようにという言葉が、何か心に痛いまでにしみ通った。そして信夫は、自分でも思いがけない気持ちが湧き上がってくるのを感じた。
(おれはやはり、ふじ子を愛しているのだ)
なぜか、そのことがいまハッキリと、信夫自身にもわかったような気がした。いま信夫の心を占めているのは、あの美沙ではなくして、ふじ子の病床の姿だった。今後縁談のあるたびに、少しは迷い、心を動かすことがあるとしても、結局は自分はふじ子を見捨てて、他の女と結婚することはできないのではないかと、信夫は思った。
(そうだ、おれはふじ子一人を自分の妻と心に決め生きて行こう。たとえ一生待つとしても!)
ひとしきり時雨が柾屋根を騒がしくたたいて過ぎた。
「吉川君」
信夫はすわりなおした。
「何だいあらたまって」
塩せんべいをボリボリ食べていた吉川が驚いた。
「吉川君、ふじ子さんをぼくにくれないか」
信夫は両手をついた。
「何だって永野。ふじ子をくれって、それはどんな意味だ」
さすがの吉川も驚いて、あぐらの片ひざを立てた。
「ふじ子さんを、ぼくにくれないかとおねがいしているんだ」
「何を言ってるんだ、永野。ふじ子は病人だよ。いつなおるかわからない病人なんだ。冗談を言っちゃいけないよ」
「無論、冗談ではない。唐突にこんなことを言い出しては、ふざけていると君は思うだろう。ぼくはだいたい慎重な方で、何でもよく考えてから話をするが、実のことを言うと、いまのいままで、ふじ子さんを一生の妻にという考えはなかった。だが、一所懸命考えたことが必ずしもその人間の本音とは限らないし、突然思い立ったからと言って、それが軽薄とも、嘘とも言えないのじゃないだろうか」
「うむ」
吉川は少し晴れ間の見えて来た空を見ながら、うなずいた。
「洗いざらいを言うとね、ぼくは三年前、成長したふじ子さんに会った時、ひと目ぼれをしたようなんだ。それでふじ子さんの婚約の話を聞いた時は、とても淋しかった。しかしふじ子さんが病気になり、その間いく度か手紙をやりとりしながら、ぼくはずいぶんふじ子さんのことを思っていたつもりだ。考えてみれば、ぼくが北海道に来たのは、ふじ子さんがかなり大きな原因であったような気がするんだ」
「永野、君の気持ちはありがたいよ。ふじ子の兄として何と礼を言ったらいいかわからないくらいだ。しかしねえ、現実として、ふじ子は病人だよ。医者もなおるとは言っていない。おれもなおるとは思っていない。そのふじ子を君にもらってくれとは、言えるはずがなかろうじゃないか」
「無論いますぐとは言わないよ。だがぼくは、あの人を何とか元の体にしてやりたいのだ。何だか元気になってもらえそうな気がするんだ。ぼくがこんな気持ちを持っていることを知った上で、ふじ子さんとつきあうことを許して欲しいのだ」
雲の隙《すき》間《ま》から光がさした。
「ありがたいがねえ、しかしぼくは断るよ。ひとつは君のため、ひとつはふじ子のためだ」
「ぼくのため?」
信夫はけげんな顔をした。日焼けした畳の上を、蠅が二つ歩いていた。
「ああ、君はいま言った言葉にしばられて、将来他の人と結婚したいと思う時、身動きがとれなくなるよ。君という男は、十歳の時にお坊様になる約束をしたことを二十過ぎても気にかけている正直者だからねえ。うっかりへたな約束をしない方がいい」
吉川の言葉はもっともである。しかし信夫は、あのふじ子をおいて、他の女と結婚する自分を、いまはもはや想像できなかった。その点信夫は強情な一面があった。
「まあ君はいいとするか。しかし、ふじ子はどうなるんだ。ふじ子はねえ、婚約者の佐川が結婚した時も、ひとことも愚痴は言わなかったよ。だがね、兄のおれはつらかった。何もくどかれないだけに辛かったよ。今度は君が現れて、一時は慰められもするだろう。しかしその君が、まただれかと結婚する時、さらに何倍もの悲しみを味わうんだ」
いつの間にか空はすっかり晴れていた。
「晴れたりくもったり、秋の空と女心か……。しかし男心はそれより変わりやすいよ」
信夫はしかし、いま言った自分の言葉に嘘はないと思った。それは自分自身でさえ気づかなかったほんとうの自分の心のように思われた。
「永野、いま聞いた言葉は忘れるよ」
「いや、忘れないでくれ。ぼくはふじ子さんが欲しいんだ」
「永野、北海道に来て君は感傷的になっているんだ」
「それはちがう」
「いや、いまに北海道に馴れたら、もうそんなことは言わなくなるよ」
「そうじゃないったら……吉川、君はそんなにぼくを信じられない男だというのか」
信夫は詰めるように言った。
「いや、君はこの文明開化の明治には珍しい堅物だと思っているよ」
「ではどうして信じてくれないのだ」
「しかしねえ、永野。どんなに立派な人間だとしてもしょせん君は人間なんだよ。神でも仏でもないんだ。それにもう一度言っておくが、ふじ子は病人なんだぞ」
「よくわかっている」
「そうか、よくわかっているのか。だが君は、ふじ子という人間を、まだほんとうには知っていないぞ」
吉川は見すえるように信夫を見た。
「そうかなあ。ぼくはふじ子さんという人間を、少しは知っているつもりだ。病気なのに、いつも明るくて、ニコニコして、それだけでもじゅう分えらい人だと思っているんだ」
「そうか、それだけか。君はふじ子の最も重要な面を見落としているぞ」
相変わらず吉川は信夫を見すえたままである。
「重要な面?」
「永野、ふじ子はね、ふじ子はキリスト信者なんだ」
「えっ!?」
信夫は驚いて言葉がつづかなかった。
「知らなかったろう、永野。ふじ子はキリスト信者なんだよ。君の嫌いなね」
信夫は、いつ見舞っても明るいふじ子の顔を思った。さわやかなあの明るさの原因がやっとわかったような気がした。
「しかし吉川、ぼくは何もキリスト教をやみくもに嫌っているわけではないよ。母だって、妹だって、妹の連れあいだってみんな信者なんだ」
「だが君は、かなり以前から、キリスト教には問題を感じているように、ぼくには思われたがねえ。勘ちがいかもしれないけどなあ。少なくとも、キリスト信者を妻にしたいとは思うまいがねえ」
吉川はおだやかに言った。雲足の早い空だ。見る間に形を変えながら雲が流れている。トーキビの葉が、またいっせいにざわめいた。
「吉川、いったいどうしてふじ子さんはキリスト信者になったんだ。臥ていて教会へ通うこともできないだろうに」
「うん、それがね、臥つく以前に、うちのお袋がたくさんの娘たちを集めて、裁縫を教えていたんだよ。その中に独《※》立教会に通っている信者がいてね。嫁にいくまでふじ子を見舞ってくれたんだ」
「ほう」
「肺病なんていうと、だれもよりつかなくなるのが当たり前だ。お袋もふじ子の病気で、裁縫所をやめてしまったわけだが、その娘さんだけは平気で出入りしてくれたよ。そして、ふじ子にはずいぶん親切にしてくれてねえ。小樽に嫁にいく時は、ふじ子の手をとって、泣いて別れてくれたそうだ。そんなことから、ふじ子はその人のくれた聖書を読んだりして、じきに信者になってしまったんだよ」
「じきに?」
「ああ、ふじ子は足が不自由だったから、いろいろ考えてもいたんだろうね。その上婚約したとたんに、肺病にとりつかれてしまったんだから、どうしてこんなに自分ばかり苦しい目に会うのだろうと、思ったんじゃないのかな。もっとも、そんなことは一度もおれたちに言ったことはないがね。神様をあいつは心から信じて喜んでいるよ。よく、神は愛だって言ってるからねえ」
信夫はハッとした。自分が北海道に来る時、待子の夫の岸本から聖書をもらった。その聖書の扉に書いてあったのが、「神は愛なり」という言葉であった。いま吉川の口から、「神は愛なり」と喜んでいるふじ子を伝えられたことに単なる偶然でないものを感じた。人間以上の存在が、この世にあることはもともと信夫も感じている。小さい時から神棚と仏壇に手を合わすことを、何の疑いもなくつづけて来たのは、つまりは人間を超えた偉大なる者を信じてきたためといえるだろう。ただそれが、信夫にとっては、あくまでも日本的な神観念であった。八百万《やおよろず》の神は、信夫にとっては遥かなる神代時代の人を意味し、仏はご先祖様のようなものである。ただ人間が死ねば、汚れや欲望の消えた尊い存在になるような感じであった。そしてそれがすなわち、考えられる限りの、人間を超えた存在ということである。だからいま感じた、単なる偶然でないという思いも「仏様の引き合わせ」という程度のものではあった。しかしそれなりに信夫は、自分とふじ子をつなぐ何ものかを強く感じないではいられなかった。
「しかしねえ、吉川。君の家は仏教だろう。よくふじ子さんがキリスト信者になることを、君も君のおかあさんも許したなあ」
「永野、君のその言い方はねえ。キリスト教より仏教の方が、正しくかつ良いものだと頭から決めてかかっている言い方だな。しかしそうとも限らんぞ。おれもふじ子の枕元で時々聖書を読んでみるんだ」
「君も読むの?」
信夫は驚いて言った。
「そりゃ読むよ。ふじ子は、聖書を読むようになってから、ずいぶんと物の考え方が変わってきてね。おれはふしぎな本だなあと思ったもんだからねえ。その中で、おもしろい、いやおもしろいというより、おれには一番痛い言葉が書いてあったよ。驚いたなあ、それを読んだ時は……」
吉川はそう言って、信夫の顔を真剣な目で見た。
「何ていう言葉が書いてあるの」
吉川の真《しん》摯《し》な態度に、気《け》圧《お》されながら信夫は尋ねた。
「おれは暗記して知っているがね。こういうんだ。『姦《かん》淫《いん》するなかれと言えることあるを汝《なんじ》等きけり。されど我は汝らに告ぐ、すべて色情を懐《いだ》きて女を見るものは、既に心のうち姦淫したるなり』というんだよ」
「ほう、もう一度言ってみてくれないか」
吉川はくり返した。
「驚いたなあ」
信夫はその言葉を反《はん》芻《すう》するように、自分のひざに目を落とした。
「驚いたろう」
「うん。ずい分、高等な考えだなあ。思っただけでもだめなのか。じゃぼくは、何百回姦淫したかわからないことになるねえ」
「そうだよ。おれも同じだ」
「そうしたら、思っただけで姦淫したことになるなら、姦淫しない人間など、この世にいないことになるねえ」
「そうだよ。だから聖書には、『義人なし、一人だになし』と書いてあるよ」
吉川は自分の首を、掌《てのひら》でバッサリと切る真似をして笑った。
「ちょっと待てよ。その言葉はぼくも知っている。三年ほど前に、中村春雨の小説の中で読んだことがある」
信夫はそばの机に頬杖をついた。以前に読んだ時は、それほど心に突きささる言葉ではなかった。しかしいま、なぜかふしぎにその言葉は信夫の心を捉《とら》えて放さなかった。突然、心の奥底でその言葉がわかったような気がした。それは姦淫するなかれという言葉につづく、きびしい聖書の言葉を吉川から聞いたためであったろうか。信夫は急に、聖書を一字残らず読んでしまいたいと思った。まだ自分の知らないすばらしい言葉が、聖書の中に溢れているような気がしてならなかった。
「どうした。いやに考えこんだじゃないか」
吉川が感心したように言った。信夫は、その吉川の暖かい表情を眺めながら、渇いた者が水を欲するような思いで、聖書を読みたいと切に思っていた。
吉川が帰るとすぐに、信夫は、待子の夫から贈られた聖書を開いた。いま信夫は、聖書を一字余さず読みたいという気持ちにかられていた。ランプの下で、勢いこんで開いた聖書は、しかし少しもおもしろくはなかった。まず第一ページに、人の名前ばかりがたくさん書かれてある。それは少しも親しみのない異国人の名前の羅《ら》列《れつ》に過ぎなかった。むしろ日本の歴代天皇の名前の暗《あん》誦《しよう》の方がおもしろいと、信夫は思った。
(なんでこんなつまらぬことを、真っぱじめに書いてあるのだろう)
信夫はふしぎに思った。
こんな名前よりも、さっき吉川に聞いた、
「色情を懐きて女を見るものは……」
のような言葉が書かれてあれば、どんなに取りつきやすいだろう。そうは思いながらも、几帳面な信夫は、一字一句もとばさずにその名前を読み進めた。だが、名前の後につづく記事はさらに信夫を困惑させた。
それは、処女マリヤからイエスが生まれたという話である。
「ばかばかしい。処女から子供が生まれるわけがあるだろうか」
信夫はばかにされたような気がして、聖書から目を上げた。机がひとつっきりの自分の部屋が、きょうはいっそう寒々しく見える。壁にかかった服と、手《て》拭《ぬぐ》いが一本あるだけで、あとは何もない。信夫は再び聖書に目を落とした。もう一度マリヤの個所を読み返してみた。やはりどうにも妙である。だが信夫は、その時、聖書という本が、まことに商売っ気のない本だということに気がついた。
(このたいくつな人名と言い、処女から子供の生まれた記事と言い、読むのがいやになって、投げだしたくなるようなことばかりだ。ここで投げだしたとすると、聖書という本は自分に縁のない本となる。ここを我慢して読み進めていけば、もっといいことが書いてあるのかもしれない)
つまりこれは、第一の関所のようなものではないかと、信夫は次に目を走らせた。五ページほど読み進めると、吉川の言った言葉が出てきた。信夫は早速そこを暗記し始めた。
〈『姦淫するなかれ』と言えることあるを汝等きけり。されど我は汝らに告ぐ、すべて色情を懐きて女を見るものは、既に心のうち姦淫したるなり〉
くり返せばくり返すほど、信夫はその言葉に畏《おそ》れを感じた。
(いったい、こんなことを説いたヤソという男は、どんな男なのだろう)
ふしぎな言葉だと、信夫はくり返して言ってみた。ひとつ暗誦し終えると、聖書がぐっと身近になったような気がした。信夫はさらに何かいい言葉を暗誦しようと、次のページに目を移した。
〈悪《あ》しき者に抵抗《てむか》うな。人もし汝の右の頬をうたば、左をも向けよ。なんじを訴えて下《した》衣《ぎ》を取らんとする者には、上《うわ》衣《ぎ》をも取らせよ〉
この言葉が、信夫の目をひいた。それはまことにふしぎな言葉であった。小さい時信夫はよく祖母のトセに言われたものである。
「信夫、男の子というものは、ひとつなぐられたら、ふたつなぐり返してやるのですよ。三つなぐられたら、六つなぐってやるものです。それでなければ男とは言えません」
何と、その言葉と聖書の言葉とはちがうことだろうと、信夫は驚いた。
(なぐり返すことよりも、なぐり返さぬことの方が、男らしいことだろうか)
信夫は目をつむって考えてみた。だれかが自分の頬をひとつなぐる。何をとばかりにこっちは二つなぐり返す。そしてまた別の自分は、頬をひとつなぐられる。悠然と微笑して、もうひとつの頬をいきり立つ相手の前に向ける。はたしてどちらの自分になりたいかと、信夫は自分自身に問うてみた。信夫はそう自問した時、自分が祖母に受けたしつけや、その影響を受けた考え方が、いかに薄手なものであるかに気がついた。
(それにしても、なぐられてもなぐり返さず、下着を取ろうとする者に、上着までくれてやるとは、悪人をただ甘やかすことではないだろうか)
深い教えのようでいて、その辺がどうもわからない。だが信夫は、この聖書の中に、自分の考えとは全くちがった考え方が、たくさんあるのを認めないわけにはいかなかった。つづいてすぐに、
〈汝らの仇《あだ》を愛し、汝らを責むる者のために祈れ〉
という言葉があった。この言葉にいたっては、信夫は、日本人の感情と全く相容れないものを感じた。日本人は仇討ち物語が好きである。もし、赤穂の浪士四十七人が、この聖書の言葉を守ったとしたらどうだろうと、信夫はまじめになって考えた。浅《あさ》野《の》内匠《たくみの》頭《かみ》の無念は、あの吉《き》良《ら》の首を上げなければ晴れないものであったはずである。
あの四十七人が、吉良上野介《こうずけのすけ》を許し、しかも愛し、その者のために安泰を祈るとしたなら、世間は決して、四十七士を許さなかったにちがいない。武士の世界では、仇討ちは大いなる美挙であったはずだ。このイエスという男は、自分の父が殺され、殿様が殺されても、その仇を討たないのだろうか。その仇を愛することができるのだろうか。何という妙な人間だろうと、信夫は思った。
(憎まないということは、そんなにたいせつなことであろうか。憎むべきものは憎むのが、人間の道ではないだろうか)
そうは思ったが、しかし信夫は、その自分の考えに確信はなかった。どこか浅はかな考えのような気もしてならなかった。
独立教会 キリスト教プロテスタントの一派で、会衆派のこと。十七世紀イギリスで、個々の教会の自治独立を主張したことに由来する。
藻《も》岩《いわ》山《やま》
階下の茶の間で夕食を食べながら、信夫は自分が吉川に言った言葉を思い出していた。ふじ子をもらいたいと信夫は吉川の前に手をついたのである。言葉というものは、いったん口に出すと、それは思いがけない大きな作用をなすように、信夫には思われた。いつも寝たままで食事をとっているふじ子に、自分と同じように、こうしてすわったまま食事をとらせてやりたいと、信夫は切実に思った。信夫は、いまだかつて、これほど身近にふじ子の寝ている辛さを感じたことはなかった。どうして今までそう思わなかったのか、信夫にもふしぎだった。
「ふじ子さんをぼくにくれないか」
と言った言葉が、自分自身の中に眠っていたものを、いっぺんに揺りおこしたような感じである。
「おばさん、札幌で一番の名医と言ったら、どこの医者なんでしょうね」
食事のあとの茶をすすりながら信夫が聞いた。下宿の主婦は五十過ぎた未亡人で、息子が小学校の教師をしていた。息子は今夜宿直で姿が見えない。
「あんた、永野さん、体がどこか悪いのですか」
驚いたように尋ねた。
「いいえ、ぼくは悪くはありません……」
信夫は言葉を濁した。
「それなら安心ですけど。この札幌には三十人以上も医者がおりますが、そりゃ何と言っても北辰病院の関場先生が評判がいいですよ」
即座に下宿のおかみは答えた。北辰病院の関場不二彦と言えば、だれも知らぬ者のないほど有名である。脈をとってもらっただけで、病気がなおるという患者もあった。それを聞いた信夫は、善は急げ、早速明日訪ねてみようと決心した。
「しかしおばさん、いかに名医でも、肺病やカリエスはなおせないでしょうね」
肺病と聞いて、おかみはあわてて自分の口を手でふさいだ。
「永野さん、そんな恐ろしい病気は、口に出しただけでも胸が腐りますよ。そんなおっかない病気は、神さんでも仏さんでもなおせませんよ。あんた、だれかそんな病人を知ってるのですか」
「いいえね、いま、はやりの『不如帰《ほととぎす》』という小説を、おばさんも知ってるでしょう。あの浪《なみ》さんが何とかなおらなかったもんだろうかと思ったもんだから……」
万一、吉川の妹が病気だなどと言ったものなら、このおかみは吉川を家に入れるとは言うまいと思った。
「何ですね、小説の話ですか。若い人はしようがない」
おかみは笑って、膳を下げた。
信夫は部屋に戻って、明日は半日休もうと心に決めた。ふじ子は葛《かつ》根《こん》湯《とう》を煎《せん》じて飲むばかりで、いま医者には診《み》てもらってはいない。医者に診せたところで、高い薬代を取られるだけで、そう早急になおるという病気ではなかった。と言って、ああしてただ寝せておくだけでは、何とも心もとない気がしてならない。もしできることなら、札幌一の名医にふじ子を診てもらいたかった。名医なら万にひとつ、なおらぬ病気でもひょっとしてなおせないものでもない。
(吉川に相談してから医者の所に行こうか)
そうも思った。だが、吉川の給料と、吉川の母の仕立て仕事だけでは、医者にかかることは無理と思われる。いずれにせよ名医といわれる関場博士に相談すれば、何とか療養の仕方にも、道がひらけるだろうと信夫は考えた。
翌朝、会社に行くとすぐ、信夫は和倉礼之助に、午後から休ませて欲しいと、早退《の》届けを出した。
「どうしたんだね。医者に行きたいなんて」
和倉は親身な顔になった。豪放に見えるが、心の温かい男である。遠からず和倉の娘美沙のことも断らなければならないと思うと、信夫は和倉の親切が負担に思われた。
「いや、たいしたことはありません」
信夫は低い声で言った。
「永野君、工合が悪いんなら、無理をせずに朝から休んでもいいんだよ。君は北海道が初めてだから、秋が早くて風邪でもひいたんだろう」
大きな手を、和倉は信夫の額に当てた。
「おや、少し熱があるようだよ。大事にしなけりゃいかん」
和倉はあくまで親切であった。信夫は逃れるようにして自分の机に戻った。早く美沙のことを断らなければならない。しかし和倉礼之助がさぞガッカリするだろうと思うと、何とも断りづらい。
しかも、いつなおるかわからぬふじ子を思って、あの健康でピチピチしている美沙を断るのは、とうていだれにもわかってもらえない気持ちのように思われた。
午《ひる》になって、信夫は会社を出た。駅前通りの食堂で、信夫は鍋焼きうどんをひとつ食べた。関場博士に会う緊張のためか、和倉礼之助に対するすまなさのためか、たった一杯の鍋焼きうどんが、胸につかえるようであった。
病院は、患者が廊下にまであふれていた。だれもかれもじいっと自分のことばかり考えている目つきである。人口わずか四万余りの札幌に、こんなにもたくさんの病人がいるのかと、信夫は驚いた。カサカサに乾いた黄色っぽい肌、絶えず聞こえる軽いせき。目やにのたまった赤い目。だれもかれもが暗い穴をのぞいているような、憂鬱なまなざしだった。信夫は自然ふじ子の明るい表情を思い出した。
ふじ子はもう三年もあの部屋に寝たままなのだ。ここにいる患者たちは、とにかく病院まで来ることのできる体だが、ふじ子はそれすらもできない。それでいて、ここにいるだれよりもふじ子の顔は明るかった。いや、職場のだれよりもふじ子の方が明るいと、信夫は思い返した。だれの前にもふじ子を自慢したいような気持ちが、いま信夫の心にあった。
患者たちは次々と診察室に呼びこまれ、帰りにはホッとしたような顔で出ていく者もある。みんな茶色の水薬や、透明な水薬などを、散薬と共に大事そうに風呂敷の中にしまいこんで帰っていく。信夫は次第に不安になってきた。
(あんなにたくさん薬はあるけれど、ふじ子に効きく薬はあるのだろうか)
やがて信夫の名前が呼ばれた。
秋陽のまぶしい札幌の町を、信夫は急ぎ足で歩いていた。気がつくと、信夫は広い通りの真ん中を歩いていた。馬車や、人力車がいく台も通っていく。どうもいつもよりにぎやかだと思って、信夫はあたりを見まわした。半町ほど向こうに、万国旗が四方八方に張りめぐらされている。何だろうと思って近づいて行くと、瓦屋根の二階建ての大きな軒先に大売り出しのちょうちんがずらりと並んで、祭りのようなさわぎである。万国旗がハタハタとはためく音も楽しかった。ハッピを着た若い男衆や、桃割れを結《ゆ》った娘たちが、店先にとりわけ目立っていた。マルイ呉服店の大売り出しなのだ。
信夫は立ちどまって、少しの間その店のようすを眺めていたが、再び足を急がせた。いま信夫は、北辰病院からの帰りだった。関場博士は、一度ふじ子の体を診てからでないとよくはわからないがと言ってから、カリエスという病気についていろいろと説明してくれた。
「要するにね、カリエスというのは、結核菌で骨が腐れる病気なのだ。いったんカリエスにかかると、十年も二十年も寝たままで、やがて痩《や》せ細って死んでいく。なおったところで、せむしのように背中が曲がってしまうことが多い。実にかわいそうな病気だよ」
関場博士は同情したように言った。
「しかしね、決して不治というわけではない。要は体力をつけることだね。第一に静かに寝ていること、次に小魚や野菜をよく噛《か》んで食べること。次に体を二日に一度はきれいに拭いてやること。以上を、病人もまわりの者も忍耐強くつづけることだね。そして何よりたいせつなのは、本人も家族の者も、気持ちを明るく持つことと、必ずなおるという確信を持つことだ」
信夫はさっきから、その関場博士の言葉を噛みしめるように、いく度もいく度も、くり返し思っていた。途中寄り道をして目刺しや、大根、人参などを買いこんだ。とにかく関場博士は不治だとは言わなかった。信夫はそれだけでも心がはずんでいた。その矢先マルイの大売り出しのにぎわいに出会って、信夫は何となく縁起がよいように思われてならなかった。
(一番むずかしいのは、心の持ち方だと博士は言った。しかし、ふじ子はあんなに明るいのだ)
そう思うと信夫は、すでにふじ子がなおったかのような錯覚を感じた。ふと顔を上げると、二、三間先に和倉の娘美沙が、いつかのように風呂敷包みを持って立っていた。以前に会った時も、たしかこの街角あたりで会ったと思いながら、信夫はあわてて礼をした。きょうは美沙も、逃げずに礼を返した。
「お使いですか」
美沙が立っているので、信夫もそのまま通り過ぎるわけにはいかなかった。
「いいえ。お裁縫の帰りですの」
美沙はそう言ったまま、まだ立っている。信夫は困ったと思った。ひる日中若い娘と立ち話をすることは、はばかられた。と言って、このまま美沙を置き去りにすることもできない。
「あの……何かぼくに用ですか」
そんなことしか信夫は言えなかった。
「いいえ」
美沙はニコニコ笑って立っている。美沙にしても、何を話してよいのかわからないのだ。うつむいてはちらちらと信夫を見ていた。
「あの、ぼく失礼します」
信夫はペコリと頭を下げると歩き出した。
「あら」
美沙が驚いたように小さく叫ぶ声がした。信夫がふり返ると、赤いメリンスの帯が美沙の胸元にちらりと見えた。風呂敷包みを抱えなおすと、その帯はすぐにかくれた。二人は顔を見合わせ、再び礼をかわして別れた。信夫はまた少し気が重くなった。いまの美沙のようすでは、決して信夫をきらってはいない。何か話したそうにしていたと思うと、信夫も気重ながらも満更悪い気がしなかった。もしふじ子がいなかったなら、信夫はあの美沙と結婚するかもしれないと思った。しかしそれは、心に誓ったふじ子に対して申しわけのない感じ方である。信夫はふり切るように、ふじ子の家を目ざして、足を早めて行った。
だが、美沙に会って、一瞬でも美沙に心ゆらいだことが、信夫の心をとがめた。信夫は、まっすぐに吉川の家に行くことをやめて、創成川のほとりに立った。創成川は札幌の町を南北につらぬく小さな川である。空が晴れていて、藻岩の山の姿がくっきりと見えた。ぼつぼつ色づいてきたのか、山の頂のあたりが紫に見える。いつ見ても同じ姿の藻岩の山を見て、信夫はふっと寂しさを感じた。それはいま、自分の心がかすかに揺れたことに対する寂しさであったかもしれない。
(あの山は、この札幌の町が、うっそうたる原始林であった時から、あの形のままにあそこにあったのだろう)
やがて人がはいり、木を伐《き》りひらき、畑を耕し、そして整然とした町がひらけ、その町はまた大火にあい、洪水にもあった。そのいかなる時も、あの山はあそこにあって、じっと札幌の町を眺めおろしていたのかと、信夫は自然の非情さをあらためて感じた。
それは、太陽にしても月にしても、同じことがいえると思った。この地上にいくかわり人が生まれ、人が死に、戦いが起こり、飢饉があったとしても、太陽も月もその場にあってただ地球を眺めていただけなのだ。
(何と非情なものだろう)
その非情さが、いまの信夫には羨ましかった。白い長いネギが一本、浮きつ沈みつして流れてきた。その白さが信夫の目に沁みた。それは寝ているふじ子の白い顔を連想させた。
(おれはとうてい、非情にはなれない)
苦笑して信夫は、ゆっくりと歩き出した。
信夫が北辰病院の関場博士を訪れてから、ひと月ほどたった。ふじ子は素直に信夫のすすめをよく守った。何回でもよく噛んで食べよと言われると、一口ごとに五、六十回は噛む。思いなしかふじ子の頬が、少しふっくらとしてきたような気がする。ふじ子の母も、いままで病状にさわりはしないかと恐れるあまり、拭いたこともなかった体を、一日おきに拭くようになった。何か吉川家に新しい風が吹きこまれたように、活気づいてきた。
降ったり、とけたりしていた雪が、この二、三日はいっこうにとける気配もない。信夫は、美沙との縁談を断りに、いま和倉礼之助の家に行く途中であった。雪明かりで明るい街を、信夫はさすがに気重になって歩いていた。師《※》範学校の生徒が五、六人、大声でしののめ節《ぶし》をうたいながらすれちがった。
和倉礼之助の玄関の戸を開ける時、信夫は逃げて帰ろうかと思った。だが、いつまでも返事をしないというわけにはいかない。思い切って戸をあけると、美沙が中から障子をひらいた。
「こんばんは。永野です」
暗がりの中で、お互いに顔は見えない。
「あ!」
軽く声をあげて、美沙はあらためて信夫を招じいれた。
「やあ、寒いのに、よく出てきたね」
和倉礼之助は、大きな手で薪《まき》をストーブの中に投げこんだ。
「美沙、酒を買ってこい」
和倉は、すぐに美沙に言いつけた。
「いや、酒など……」
信夫が制すると、和倉は笑って言った。
「君に飲めとは言わんよ」
美沙が出て行った。和倉はかしこまっている信夫のそばによって肩をたたいた。
「そうかしこまることはない。君が何しに来たかぐらい、わからんおれではない。上役の娘の縁談など、持ち出した方が悪いようなもんだ。これほど断りづらいものはないだろうからな」
信夫は驚いて和倉礼之助を見た。磊《らい》落《らく》そうに見えても、縁談を断れば、いやみのひとつやふたつ言われても仕方がないと覚悟していた。だが礼之助は、かえって信夫の立場に立って、こちらの気持ちをくみとってくれていた。
「申しわけございません」
信夫は両手をついて頭を下げた。美沙はともかく、こんな人を父と呼んでみたいような甘えをさえ、信夫は感じた。
「未練な話だがね。どうして美沙を断るのか、父親として知っておきたいんだ。たしか君は、決まった人はないと言っていたはずだね」
「はあ……しかし……」
信夫は思い切って、ふじ子のことを告げた。美沙との縁談が起きてから、急にふじ子のことが心にかかり、ついにふじ子のなおるまで待っていようと決心をしたいきさつを語った。
「そうか、それじゃ君の恋愛を固めるために、美沙の話をしたようなものだな」
和倉礼之助はそう言ってから、しばらくじっと信夫の顔をみつめていた。
「しかしな、その娘さんが何十年もなおらなかったら、どうするつもりだ」
「何十年でもなおるまで待つつもりです」
「ほう、君はあきれた馬鹿だな。全く偉い馬鹿だ。開化の御《み》代《よ》になってからこっち、みんな小りこうになってしまったと思ったら、君のような大馬鹿もまだ残っていたのだな」
礼之助は、自分の感動をおしかくすように大声で笑った。
信夫は黙ってうつむいた。
「親馬鹿だと笑われてもいい。実のところ、おれは美沙に縁談を断られたと告げるに忍びなかったのだ。できるなら、おれの方から断ることにしてほしいと思って、美沙を外に出したんだが……。しかし、それはやめた。君のような男がこの世にいることを、あいつにも知らせておきたいような気がする。まあとにかく、その娘さんを大事にしてやるんだな」
「ハイ」
信夫は深く一礼した。
「まあいい。あんな娘でも、美沙にはまたもらい手もあるだろう。しかし、その病気の娘さんには、君のような男は二度とあらわれることはないだろう。おれも人の子の親だからな」
和倉礼之助は、そのまま黙って、燃えているストーブをじっとみつめた。台所では、和倉の妻のコトコトと何かを刻む音がしていた。
師範学校 小学校、国民学校の教員を養成する学校。明治十九年(一八八六)の師範学校令により、各府県に一校以上設立された。第二次大戦後廃止され、学芸学部、教育学部の母体となった。
雪の街角
社に出ても、和倉礼之助の態度は変わらなかった。
暮れもおし迫ったころ、信夫の同僚の三堀峰吉が不祥事件を起こした。その日は給料日だったが、同僚の一人が、もらったばかりの給料を紛失した。彼はうっかり給料袋を机の上に置いたまま、仕事で部屋を出た。その間わずか十五分あまりであった。帰ってきて、机の上に置いた給料がないのに気づき、彼はさわぎだした。
和倉礼之助が、その男を呼んで、あまりさわぎたてるなと注意をした。ほんとうに机の上にあったものなら、同室のだれかが盗んだことになる。だれしも嫌疑をかけられるのは愉快なことではない。帰りぎわで、いく人も立ったりすわったりしていたから、だれがその給料袋にさわったか、見当がつかなかった。和倉は、部下を全員各自の席に着かせた。
「いやな話だが、いま給料袋がひとつ紛失した。きょうは外から人が来ていないから、いやでもこの部屋にいた者に嫌疑がかかる。全員目を固くとじて、自分の給料を机の中に入れてほしい。わたしが目を開けよと言うまで、決してあけてはならない。もしまちがって、二つ給料袋を持っているものがあれば、二つ机の中に入れてほしい」
全員は、言われたとおり机の中に給料を入れた。そして、和倉一人が部屋に残り、全員は廊下に出た。机の中をあらためたが給料袋はみなひとつずつであった。だが、三堀の机の中にあった給料袋は、彼自身のものではなかった。紛失した者の名を書いた給料袋だったのである。三堀はうかつにも、自分の給料袋と盗んだ給料袋をとりちがえてしまったのである。
和倉礼之助は、再び全員を部屋に呼び入れ、各自の給料を持って家に帰るように命じた。
「紛失した袋は見当たらなかった。わたしは君たちの良心に訴えたいと思ったのだが、どうやらわたしの気持ちは通じなかったようだ。きょう中にわたしの所に届け出ればよし、さもなければ、鉄道会社の社員として認めるわけにはいかないから、そのつもりでいてほしい」
三堀は、自分があやまって給料袋を置いたことに気づいたが、まだ和倉が気づいていないと思って、そのまま家に帰ってしまった。
翌朝、三堀がまだ床の中にいるうちに、和倉礼之助の急襲に会った。母親に起こされて、和倉礼之助の顔を見たとたん、三堀の顔色がサッと変わった。
「なぜ昨夜、おれの家に来なかった」
和倉は家人に悟られぬように、ただそう言った。
「すぐここに、あれを持ってきなさい。きょうから出社するには及ばぬ。いずれ沙汰があることだろう」
三堀は青ざめて、ボンヤリとうなずいた。給料袋を受けとって和倉は帰って行った。
三堀の欠勤は、時が時だけにみんなの注目をひいた。和倉は一日きげんが悪かった。翌日も、翌々日も三堀は欠勤した。信夫は、三堀峰吉が給料紛失の犯人であることに気づいたが、三堀という人間が、このまま職場から去るのは憐れに思われた。どちらかと言えば軽率で、ときおり薄《すすき》野《の》の遊廓に遊ぶことも、本人の口からいく度か聞いたことがある。たぶん遊ぶ金につまって、悪いと知りつつやったことにちがいない。
信夫は、自分が入社した当座、だれよりも親切にしてくれた三堀のことを思い出した。
(根っから悪人じゃない)
たしか母一人子一人の家庭だと聞いていたが、息子がクビになったと知っては、母親もどんなにつらかろうと信夫は思った。だが、和倉に、あまり僭越なことも言えなかった。また、三堀の家を訪ねようにも、どうにも工合が悪い。三堀だって、誠意を見せてあやまれば、和倉は持ち前の大きな気性で聞きいれてくれそうな気がする。どうしようかとためらいながら、やはり信夫は三堀を訪ねてみることにした。
日曜の午後、三堀はしょんぼりと部屋にとじこもっていた。信夫のすすめを聞くと、三堀は頭を横に振った。
「そうしたからって、許してくれるかどうか、わかんないもんな。あのオヤジはなかなか手ごわいぜ」
いく度すすめても、それなら行ってみようか、とは言わなかった。そればかりか、
「おれだって悪いけど、机の上に給料袋なんか置いておいた奴だって悪いんだ」
見かけによらず、三堀は強情だった。当の本人があやまると言わないのに、首に縄をつけて和倉の家に連れていくわけにもいかなかった。信夫は、キュッキュッと鳴る雪の道を歩きながら、駅前通りに出た。暮れもおし迫って、人通りもいつもよりにぎやかである。馬《ば》橇《そり》がリンリン鈴を鳴らしながら、いく台も通る。赤煉瓦で有名な興農社の所まで来ると、何か大声が聞こえた。見ると、一人の男が外《がい》套《とう》も着ないで、大声で叫んでいる。だれも耳をかたむける者はない。信夫は、ふと耳にはいった言葉にひかれて立ちどまった。
「人間という者は、皆さん、いったいどんな者でありますか。まず人間とは、自分をだれよりもかわいいと思う者であります」
寒気の強い午後だ。年のころ三十ぐらいか、いや、三つ四つは過ぎているだろうか。その男が口をひらくたびに、言葉は白い水蒸気となってしまう。足をとめた信夫を見て、その男は一段と声を大きくした。
「しかしみなさん、真に自分がかわいいということは、どんなことでありましょうか。そのことを諸君は知らないのであります。真に自分がかわいいとは、おのれのみにくさを憎むことであります。しかし、われわれは自分のみにくさを認めたくないものであります。たとえば、つまみ食いはいやしいとされておりましても、自分がつまんで食べるぶんには、いやしいとは思わない。人の陰口を言うことは、男らしくないことだと知りながらも、おのれの言う悪口は正義のしからしむるところのように思うのであります。俗に、泥棒にも三分の理という諺《ことわざ》があるではありませんか。人の物を盗んでおきながら、何の申しひらくところがありましょう。しかし泥棒には泥棒の言いぶんがあるのであります」
信夫は驚いて男を見た。男の澄んだ目が、信夫にまっすぐに注がれている。
(まるでこの人は、いまのおれの気持ちを見とおしてでもいるようだ)
信夫と男を半々に見ながら、赤い角《かく》巻《まき》をまとった女や、大きな荷物を背負った店員などが、いそがしそうに過ぎていった。しかし、いま信夫は、自分がどこに立っているのかを忘れて、男の話にひきいれられていった。
「みなさん、しかしわたしは、たった一人、世にもばかな男を知っております。その男はイエス・キリストであります」
男はぐいと一歩信夫の方に近よって叫んだ。
「イエス・キリストは、何ひとつ悪いことはなさらなかった。生まれつきの盲《めしい》をなおし、生まれつきの足なえをなおし、そして人々に、ほんとうの愛を教えたのであります。ほんとうの愛とは、どんなものか、みなさんおわかりですか」
信夫は、この男がキリスト教の伝道師であることを知った。男の声は朗々として張りがあったが、立ちどまっているのは、信夫だけである。
「みなさん、愛とは、自分の最も大事なものを人にやってしまうことであります。最も大事なものとは何でありますか。それは命ではありませんか。このイエス・キリストは、自分の命を吾々に下さったのであります。彼は決して罪を犯したまわなかった。人々は自分が悪いことをしながら、自分は悪くはないという者でありますのに、何ひとつ悪いことをしなかったイエス・キリストは、この世のすべての罪を背負って、十字架にかけられたのであります。彼は、自分は悪くないと言って逃げることはできたはずであります。しかし彼はそれをしなかった。悪くない者が、悪い者の罪を背負う。悪い者が悪くないと言って逃げる。ここにハッキリと、神の子の姿と、罪人の姿があるのであります。しかもみなさん、十字架につけられた時、イエス・キリストは、その十字架の上で、かく祈りたもうたのであります。いいですかみなさん。十字架の上でイエス・キリストはおのれを十字架につけた者のために、かく祈ったのであります。
『父よ、彼らを赦《ゆる》し給え、その為す所を知らざればなり。父よ、彼らを赦《ゆる》し給え、その為す所を知らざればなり』
聞きましたか、みなさん。いま自分を刺し殺す者のために、許したまえと祈ることのできるこの人こそ、神の人格を所有するかたであると、わたしは思うのであります……」
突如として、伝道師の澄んだ目から涙が落ちた。信夫は身動きもできずに立っていた。
「わたしはこの神なる人、イエス・キリストの愛を宣《の》べ伝えんとして、東京からここにやってまいりました。十日間というもの、ここで叫びましたが、だれも耳を傾けませんでした」
彼は両手を胸に組んで祈り始めた。
「ああ在天の父なる神よ、大いなる恵みを感謝いたします。いまわが前に立てる小羊を主は見たまいました。主よこの小羊をとらえたまえ。主よこの小羊を用いたまえ。わが唇の足らざるところを、主おん自ら訓《くん》したまえ。尊きみ子キリストの名によって、この祈りをおん前に捧げ奉《たてまつ》る。アーメン」
大声でアーメンと叫んだ時、道を行くいく人かが笑った。
「ヤソだ」
「ヤソの坊主だ」
聞こえよがしに言い捨てていく男もいる。だが伝道師は気にもとめずに信夫を見て、頭を下げた。そのとたん、信夫の耳をかすめて雪玉が飛んだ。ハッと思った瞬間、つづいて雪玉が信夫の肩に当たった。信夫はキッとしてふりかえった。
「痛かったでしょう」
男は眉根を寄せて、信夫の肩に手をかけた。
「ひどいことをする」
信夫は怒ってあたりを見回した。すぐ横町をかけていく子供たちの姿が見えた。
その夜、信夫は興奮のあまり眠れなかった。伝道師は伊木一馬と言った。信夫は伊木一馬をともなって自分の下宿に来た。そこで信夫は言った。
「先生、ぼくは、先生のお話をうかがって、イエスが神であると心から思いました。いや、この人が神でなければ、だれが神かと思いました」
信夫は、真実心の底からそう思った。子供の投げた雪つぶてが、自分の肩を強く打った時、思わず信夫は怒りに満ちてうしろをふりかえった。そして初めて、十字架の上でイエスが言ったという、
「父よ、彼らを許し給え、そのなす所を知らざればなり」
の言葉が、痛いほど身にしみた。全くの話、子供は何もわからずに、ただおもしろ半分に雪つぶてを投げたのだ。だが、もしま近にいたとしたら、自分は果たして子供たちを許したことだろうかと、信夫は思った。彼らをつかまえて問いつめ、あるいはゲンコツのひとつもくれてやったことだろう。
しかしイエスは、いままさに殺されんとする苦しみの中にあって、殺す者共を憐れんだのだ。もしこれが神の人格でないとしたら、どれが神の人格といえようと、信夫はいたく感動した。このイエスは、マタイ伝の中で、
「汝《なんじ》の敵を愛せよ」
と言っている。その教えのごとく、敵を愛して死ぬことのできたイエスを思うと、信夫はだまされてもいいから、このイエスの言葉に従って生きたいと、痛切に感じた。
「では、永野君、君はイエスを神の子だと信ずるのですか」
「信じます」
キッパリと信夫は言った。
「では、あなたはキリストに従って一生を暮らすつもりですか」
「暮らすつもりです」
「しかし、人の前で、自分はキリストの弟《で》子《し》だと言うことができますか」
伊木一馬はゆっくりとたずねた。
「言えると思います」
信夫はたじろがなかった。
「しかしね、いま聞いたばかりで、すぐにイエスを信ずることができますか」
「ぼくは、ぼくの父も母も妹も、妹の夫も、そして……ぼくの未来の妻も、みんな信者です。ずいぶん以前から、ぼくはキリスト教に関心は持っていたのです」
しかしその関心には、たぶんに反感がふくまれていた。特に、キリスト教が外国の宗教だということに、信夫は強い抵抗を感じていたのであった。だが先日、ふじ子がこんなことを言った。
「お先祖様を大事にするということは、お仏壇の前で手を合わせることだけではないと思うの。お先祖様が見て喜んでくださるような毎日を送ることができたら、それがほんとうのお先祖様への供養だと思うの」
この言葉が、信夫の心の中にあった。そんなことも、信夫は伊木一馬に語った。
「すると、君の心は、ずいぶん昔からキリストを求めていたわけですね」
一馬はやっと、信夫の告白にうなずくことができたようであった。
パチパチとストーブの中で火が爆(は)ぜていた。
「そうですか。では、もう一度質問しなおしますがねえ。永野君、君はイエスを神の子と信ずると言いましたね。そして、キリストに従って一生暮らすと言いましたね。人の前でキリストの弟子だと言うこともできると言いましたね」
信夫はハッキリとうなずいた。
「しかしね。君はひとつ忘れていることがある。君はなぜイエスが十字架にかかったかを知っていますか」
信夫はちょっとためらってから、
「先ほど先生は、この世のすべての罪を背負って十字架にかかられたと申されましたが……」
「そうです。そのとおりです。しかし永野君、キリストが君のために十字架にかかったということを、いや、十字架につけたのはあなた自身だということを、わかっていますか」
伊木一馬の目は鋭かった。
「とんでもない。ぼくは、キリストを十字架になんかつけた覚えはありません」
大きく手をふった信夫を見て、伊木一馬はニヤリと笑った。
「それじゃ、君はキリストと何の縁もない人間ですよ」
その言葉が信夫にはわからなかった。
「先生、ぼくは明治の御《み》代《よ》の人間です。キリストがはりつけにされたのは、千何百年も前のことではありませんか。どうして明治生まれのぼくが、キリストを十字架にかけたなどと思えるでしょうか」
「そうです。永野君のように考えるのが、普通の考え方ですよ。しかしね、わたしはちがう。何の罪もないイエス・キリストを十字架につけたのは、この自分だと思います。これはね永野君、罪という問題を、自分の問題として知らなければ、わかりようのない問題なんですよ。君は自分を罪深い人間だと思いますか」
正直言って、信夫は自分をまじめな部類の人間だと思っている。性的な思いにとらわれた時は、自分自身でも罪の深い人間に思うことはある。しかし、こうして他人から問われると、さほど罪深いような気はしない。
「そのへんのところが、ぼくにはよくわからないのです。ぼくは自分が特別に罪深い人間だとは思っていないのですが……。聖書に、色情を抱いて女を見る者は、すでに姦淫した者だという言葉を読んで、これはずいぶん高等な倫理だと思いました。そして、あの義人なし一人だになし、という言葉が、ぼくなりにわかったような気はしているんです。でも、いま先生に、自分を罪深いかといわれると、ハッキリとうなずくほどの、罪意識は持っていないように思うのです」
伊木一馬は、いく度か大きくうなずきながら聞いていたが、ふところから聖書を出した。
「わかりました。永野君、これはぼくも試みたことなんだが、君もやってみないかね。聖書の中のどれでもいい、ひとつ徹底的に実行してみませんか。徹底的にだよ、君。そうするとね、あるべき人間の姿に、いかに自分が遠いものであるかを知るんじゃないのかな。わたしは、『汝に請う者にあたえ、借らんとする者を拒むな』という言葉を守ろうとして、十日目でかぶとを脱いだよ。君は君の実行しようとすることを、見つけてみるんだね」
伊木一馬は、夕食を食べ、そして帰って行った。その一馬の数々の言葉を思いながら、信夫は、一夜ほとんど眠ることができなかった。
翌朝、信夫は三堀峰吉の家を訪ねた。峰吉は眠い目をこすりながら、ふきげんな顔で起きてきた。しかし信夫はかまわずに、自分から進んで茶の間に上がり、峰吉とその母を前に言葉を切った。
「君、これからすぐに、和倉さんの家に行かないか」
いつもの信夫とはちがった、リンとしたものの言い方であった。信夫はキチンと正座していた。
「行ってもむだですよ」
少しふてくされたように峰吉は答えた。
「そうです。三堀君の言うように、あるいはむだかもしれません。しかし、たとえむだであってもですね、君も人間として、心の底から人の前に頭を下げたらどうですか。それはこの際必要なことじゃないんですか」
その言葉には、否《いや》応《おう》を言わせぬひびきがあった。峰吉の母も、
「お許しが出るかどうか、わからないけれど、とにかく手をついてあやまることが人間の道ですよ。せっかく永野さんがこうおっしゃってくださるのだから、峰吉、お前、行ってきなさい。峰吉、わたしもいっしょにあやまりに行きますよ」
と、言葉を添えた。峰吉の母も、すでに事情はわかっているらしい。峰吉も、それ以上逆らうことはせず、不承不承和倉の家に行くことにした。まだ勤め人の出ない時間で、雪道に白い靄もやが流れていた。時々影絵のように近づいてくる人々とすれちがいながら、三人は黙々と和倉の家に急いだ。
和倉の家が近づいたころ、峰吉が言った。
「永野君、君、どうして君までいっしょに行ってくれるんですか」
「どうしてって、ぼくが会社にはいった時、三堀君はほかの人より、ずっと親切に言葉をかけてくれたじゃありませんか。その三堀君にいま辞められたら、ぼくだって淋しいですよ」
その言葉に、うそはなかった。だが、それ以上に信夫を動かしているものがあった。それは昨夜、伝道師の伊木一馬が言った言葉である。伊木一馬は、罪の意識が明確でないと言った信夫に対して、こう言ったのだ。聖書の中の一節を、とことんまで実行してみよと、彼は言ったのだ。信夫は眠れないままに聖書を一心に読んだ。そして、その中で、信夫の心ひかれた個所があった。
〈《※》視《み》よ、或る教法師、立ちてイエスを試みて言う『師よ、われ永《とこ》遠《しえ》の生命《いのち》を嗣《つ》ぐためには何をなすべきか』イエス言いたまう『律法《おきて》に何と録《しる》したるか、汝いかに読むか』答えて言う『なんじ心を尽し、精神を尽し、力を尽し、思《おもい》を尽して、主たる汝の神を愛すべし。また己《おのれ》のごとく汝の隣を愛すべし』イエス言い給う『なんじの答は正し。之《これ》を行え、さらば生くべし』彼おのれを義とせんとしてイエスに言う『わが隣とは誰《たれ》なるか』イエス答えて言いたまう『或《ある》人《ひと》エルサレムよりエリコに下るとき、強盗にあいしが、強盗どもその衣を剥《は》ぎ、傷を負わせ、半死半生にして棄《す》て去りぬ。或る祭司たまたま此の途《みち》より下り、之を見てかなたを過ぎ往《ゆ》けり。又レビ人《びと》も此《こ》処《こ》にきたり、之を見て同じく彼方《かなた》を過ぎ往けり。然《しか》るに或るサマリヤ人《びと》、旅して其の許《もと》にきたり、之を見て憫《あわれ》み、近寄りて油と葡《ぶ》萄《どう》酒《しゆ》とを注ぎ傷を包みて己が畜《けもの》にのせ、旅舎《はたご》に連れゆきて介抱し、あくる日デナリ二つを出《いだ》し、主人《あるじ》に与えて「この人を介抱せよ。費《ついえ》もし増さば我《わ》が帰りくる時に償わん」と言えり。汝いかに思うか、此の三人のうち、孰《いずれ》か強盗にあいし者の隣となりしぞ』かれ言う『その人に憐憫《あわれみ》を施したる者なり』イエス言い給う『なんじも往きて其の如くせよ』〉
はじめ、信夫はこんな不人情な話があるだろうかと思った。強盗におそわれて、半死半生の目にあっているけが人を助けないなどということは、あり得ないことに思われた。
(おれなら、きっとこのけが人を助けたにちがいない)
そう思って、再び信夫は読み返した。その時ふと、三堀峰吉のことを思い出した。考えてみると、峰吉もまた半死半生の思いでいるのではないだろうか。だが、同僚のだれもが峰吉に冷淡であった。
「人の金を盗むなんて、とんでもない野郎だ」
だれもがそう思っているようであった。少なくとも鉄道会社の社員ともあろう者が、同僚の給料袋を盗むなどとは、口にも出せない恥ずかしいことだと、みんな腹を立てていた。
「御維新この方、どうも人間が軽薄になったなあ。洋服を着て、大和魂をどこかに置き忘れてしまったんじゃないのか」
と、暗に峰吉を非難するものもいた。信夫自身も、人の物を盗むなどということは、許しがたいことに思われた。だが信夫としては、峰吉に恩義を感じていた。
信夫は年のわりに優遇されて入社した。裁判所ですでに任官していた前歴があったからである。それを妬《ねた》んでか、入社当時何となく信夫を冷たくあしらう者が多かった。だが、峰吉だけは、仕事や社内のことを何くれとなく親切に教えてくれた。「紙一枚いただいても、恩は恩。人の恩を忘れるのは、犬か猫ですよ」祖母のトセはよく言ったものであった。そのせいか、信夫は同僚たちのように、峰吉には冷淡になれなかった。
信夫は、聖書を読みながら、次第に、峰吉が重傷を負って道に倒れているけが人に思われてきた。
(おれは、ほんとうに彼の隣人となることができるだろうか。この聖書の中の、隣人となったサマリヤ人は、見も知らぬ人を助けたのである。まして、自分にとって、三堀は同僚であり、恩義さえ感じている人間である。よし、おれはこの聖書の言葉に従って、とことんまで彼の立派な隣人となってみせよう)
そう信夫は、堅く心に思い定めたのであった。
「ぼくのようなものが辞めても、永野君は淋しいって言ってくれるんですか」
峰吉は信夫の言葉に感動したようであった。
玄関に出た和倉礼之助は、三人を見るといやな顔をした。その表情に、三堀峰吉は詫《わ》びる言葉が出なかった。
「ほんにまあ、峰吉が悪いことをいたしました……どうかお許しねがえませんでしょうか」
おどおどと頭を下げた峰吉の母に、和倉は言った。
「おっかさん、あんたも親不孝息子を持って、不しあわせになあ」
しかし和倉は、許すとも、家に上がれとも言わなかった。峰吉は、ただうつむいて立っているだけである。
「三堀、札幌には、ソバ屋もうどん屋もある。働こうと思ったら、働く所はいくらでもあるだろう」
にべもない言いかたであった。信夫は、その和倉にすがりつくような目を向けた。
「和倉さん、どうか三堀君を、今度だけ許してあげてくれませんか。たしかに三堀君は、あの時魔がさしたのだと思うのです。しかしおそらく今後二度と、こんなことをしないだろうと思います。おねがいです。こうしておかあさんもいっしょにお詫びに来ているのですから、どうかお許しになってください」
信夫も深く頭を下げた。
「詫びに来るには、少し遅かったな。ほんとうに三堀が悪かったと思うなら、あの翌日にでも、おれの家に来なければならなかった。まあ勤め先はどこにでもある。あきらめて帰るんだな」
和倉は、閉めようと障子に手をかけた。信夫は必死だった。
「和倉さん」
いきなり信夫は三《た》和《た》土《き》に両手をついて、頭をすりつけた。峰吉も、峰吉の母も、つりこまれて三和土にすわった。
「和倉さん、ほんとうに、人の金を盗むなんて、恥ずかしいことです。悪いことです。三堀君も、きっと、お詫びに上がりたくても、一人では恥ずかしくて、伺えなかったと思うんです。同僚として、そのことにもっと早く気がつけばよかったんです。そしたら三堀君も、もっと早くお詫びに伺っていたと思います。ぼくの友情が足りなかったのです。和倉さん、たしかに勤め先は札幌の中に、あるにはあるでしょう。しかし、それでは三堀君がいつまでも人に言われます。あいつは金を盗んでお払い箱になったんだと、いつまでも言われるにちがいありません。三堀君はきっと、結婚する時にも人に言われます。生まれた子にも、だれかがいつか知らせるかもしれません。和倉さん、今度三堀君に何かあやまちがあったなら、ぼくも共に辞めさせられてもかまいません。どうかこの度《たび》だけは、何とか助けてやっていただけませんか」
信夫は、冷たい三和土に額をすりつけたまま、頭を上げようともしなかった。
〈視よ、或る教法師……〉 新約聖書の「ルカによる福音書」10章25〜37節で、「よきサマリヤ人」のエピソードとして名高い。文中のデナリは古代ローマの貨幣のこと。
辞令
年も暮れた。が、和倉からは何の沙汰もなかった。信夫は心にかかりながら、札幌で初めての正月を迎えた。しかし三堀のことが気になって、楽しむこともできなかった。
(ほんとうに神がおられるのなら、おれのこの祈りをきいてくれるはずだが……)
いく度か信夫はそう思った。
正月休みがあけた。相変わらず和倉は何も言わない。信夫は次第に不安になった。そしてまた幾日かが過ぎた。
信夫は、自分が三堀と共に行ったのが悪かったのではないかと思いはじめていた。美沙との話を断って、どれほどもたたないうちに、和倉の家に行ったのは、いかにものこのこと出かけたような無神経さに思われたかもしれない。信夫としても、行きづらいところを行ったつもりだが、和倉はそれをどう受けとったかわからない。よく三堀母子に言いふくめて、二人だけであやまりに出向かせた方がよかったかもしれないと、信夫は悔やんだ。
半月ほどたったある朝であった。出勤すると、部屋の中が妙に落ちつかない。みんなひそひそと語り合っている。信夫は、三堀が許されたのだろうかと、瞬間心が躍った。
「しかし、惜しいなあ。主任もとうとう旭《あさひ》川《かわ》に栄転と決まったそうだよ」
隣の同僚が信夫にささやいた。
「えっ? 和倉さんが……」
信夫は耳を疑った。和倉がどこかに栄転になる日が、全く来ないと思っていたわけではない。下からも上からも受けのよい和倉が、このまま札幌にいるとは考えられなかった。上司としては、申し分のない人間と言ってよかった。だから、信夫がいま驚いたのは、栄転のことではなかった。和倉が札幌を離れれば、もう三堀峰吉の復帰は望めないということへの、絶望に似た衝撃であった。
「さ、そんな所に手をついていないで、早く帰りなさい。悪いようにはなるまいから」
たしかに和倉は、あの朝そう言ったのである。だがあれも、単なるその場逃れの言葉であったのかと、信夫はボンヤリと外を見た。大きなボタン雪が音もなく降っている。信夫は淋しかった。和倉ほどの男でも、その場逃れの言葉を使ったのかと思うと何とも言えなく侘しかった。和倉への期待を裏切られたような淋しさと共に、祈りがきかれなかったというむなしさがあった。
(そうやすやすと、祈りなどきかれるものではないのだ)
と思いながらも、何か、がっくりとして、仕事も手につかなかった。和倉礼之助は、一日いそがしそうに席を立っていた。
朝からの雪も止《や》み、信夫が帰り仕度をしていると、和倉が信夫の肩を叩いた。目顔で和倉は信夫を応接室に連れて行った。
「とうとう旭川行きに決まったよ」
椅子に腰をおろすなり、和倉は言った。
「おめでとうございます」
信夫はいくぶん冷ややかに、頭を下げた。
「すまじきものは宮仕えとか言ってね。旭川は寒くて、あまり歓迎しないのだがね、まあ仕方がないよ」
そう言ったまま、和倉は黙った。信夫も黙っていた。和倉は口をきかない。何を考えているのか、和倉の胸の中がわかるような気がした。三堀のことは、時間が足りなくて、どうしようもなかったと言うつもりかもしれない。信夫も口を開かなかった。
「初めての冬だな」
ぽつりと和倉が言った。信夫のことを言っているのだ。
「はあ」
「寒いだろうね」
「いいえ、まだ思ったほど寒くはありません」
「うん……」
再び和倉の言葉がとぎれた。
「あの、何かご用でございましょうか」
「うん、用だ。大事な用が二つある」
和倉はニコリと笑った。
「どんなご用でございますか」
「永野君、君は実に驚いた男だな。うちの美沙のように、丈夫で子供を何人も産めそうな女を断って、いつなおるかわからない女を待つという、それだけでもおれは驚いたが、今度はまた二度ビックリさせられたよ。士族の出の君が三和土に手をついて、土下座してまで、あのろくでなしの三堀の命乞いをした。しかも、こんど三堀があやまちを犯したら、自分も共に職を退くとキッパリと言い切ってな。全く驚いた男だよ」
和倉は、信夫をつくづくと見た。信夫はうつむいた。
「顔を見れば、やさしい顔をしているのになあ。おれもいろんな男を見たが、貴様のような男は初めて見た。だれも恐ろしいと思ったことはないが、君だけは心の底から恐ろしい奴だと思ったよ。その恐ろしい男の願いを聞くために、おれもいささか奔走した。永野君、三堀は旭川へ連れて行くよ」
「えっ? 旭川にですか」
「うん、ここでの職場では、あいつも勤めづらいだろう。旭川に連れて行って、根性を叩きなおしてやるよ。あいつにも転任の辞令が出たよ」
和倉は、ポケットから丸めた辞令を、ポンとテーブルの上に置いた。思わず信夫は立ちあがり、最敬礼をした。
「ありがとうございます。ありがとうございます」
再び信夫は、深く頭を下げた。
「いや礼を言われるのはまだ早い。実はね、永野君、おれもあきらめのいい男のつもりだったが、どうやらヤキが回ったらしい。君をこのまま札幌に置いていくのは、未練だが惜しいのだ。君のような部下は二度とめぐりあえないと思うとね。君にも旭川に来てもらいたいと思うがどうだろう?」
信夫は、とっさに返事ができなかった。
「三堀のことも、君は責任を持つつもりなんだろう? まあ、そんなことを言っては男らしくない話だが、やっぱり、君もああ言い切った以上、あとあとまで三堀を見てやるべきではないかという気もするしね。考えてみてくれないか」
信夫はうなずいた。
「母上様、ごぶさたいたしました。その後母上様も、待子たち一家も、お変わりはございませんか。ぼくはいま、下宿の二階の窓から、雪の積もった屋根屋根を見おろしながら、この手紙を書いております。こちらは屋根の軒先までも雪が積もっております。
母上様、東京のあの庭には、水仙がさいているのですね。この雪一色の札幌の街を眺めていると、ぼくは実にふしぎになるのです。東京に住む者たちは、当然のように雪のない冬を過ごしており、北海道では、これまた当然のごとく雪と寒さに耐えて暮らしております。ぼくは何だか北海道の人たちが、いじらしいような気がしてなりません。こちらでは、寒さのきびしいことを、凍《しば》れたと言います。しばれた日は布とんの襟がガチガチに凍り、ガラスは美しい模様を見せて白く凍りつきます。その模様も、ある所はシダの葉のように、ある所はクジャクの羽のように、そしてある所は渦のように、実に千変万化なのですから、どう説明してよいかわからないほど美しいのです。
ぼくは若いせいか、吹雪の日も、しばれた日もそれぞれに楽しいと思います。背中を丸めて荒れ狂う吹雪に向かって歩く時、たしかに生きているという実感がいたします。刺すような痛いほどのしばれた日も、同じように緊張した喜びがあります。
母上様、信夫は北海道に来て冬を迎え、やはり来てよかったと思います。うららかな日の下で、花見をするのもひとつの喜びでしょうが、しかし、全身全霊をピンと張りつめて、きびしい寒さに耐えるということも、それ以上に大きな喜びではないでしょうか。
来年の冬、ぼくはさらにさらに寒さのきびしい旭川に行っていることでしょう」
信夫はそこでペンを置き、ストーブに薪《まき》を入れた。馬橇の鈴の音が、音高く家の前を過ぎて行くのが聞こえた。信夫は、三堀峰吉のことを告げようかどうかと、しばらく思案した。信夫は和倉礼之助にすすめられて、承諾の返事をその場でしたのであった。和倉は、
「永野君、君は驚いた奴だなあ。いくら何でも、三堀のために二つ返事で、旭川くんだりまで行こうとはなあ」
と驚きあきれたように感心したのであった。ややしばらくの間、信夫は窓に下がっている太い氷柱《つらら》を眺めていたが、再びペンを取った。
「母上様、ぼくは北海道に来て変わりました。ぼくは毎日キリストのことを考えています。人間という者は、おかしなものですね。ぼくは母上様が、キリスト信者であることが、なぜか嫌いでならなかったのです。それなのに、いまぼくは、キリストの言葉に従って、ある一人の人間のために、寒い旭川に転勤することを決心したのです。しかし、決心したものの、日がたつにしたがって、この決心がいささか怪しくなって来ているのです。どうかぼくが、立派なキリスト信者になれるように、母上様もお祈りしてください。
くれぐれも御身たいせつに、岸本様や待子にくれぐれもよろしくお伝えください」
読み返して、それを封筒に入れる時、信夫はふと、自分もこの封筒にはいって、東京に帰りたいような気がした。いく日かすれば、この手紙はあの本郷の家の門をくぐり、あのやさしい母の手に渡されるのかと思うと、やはり家が懐かしかった。母が鋏《はさみ》で封を切り、この手紙に目を走らせるようすが瞼《まぶた》に浮かんだ。信夫は封筒に、自分の息をふっと吹き入れて封をした。
四月になって雪が消え、桜の五月が終わり、アカシヤやライラックの咲く六月になっても、どういうわけか、信夫が旭川へ転勤する気配は全くなかった。たぶん和倉礼之助が、ふじ子とのことを思いやって、転勤を延ばしてくれているのだろうと、感謝しながらも、信夫は辞令の出ないことが気になっていた。
だが一方、このまま旭川に行かないですむものなら、どんなにありがたいことかと思うようにもなっていた。週に一度は必ずふじ子を見舞って、二人は聖書を読み、共に祈った。信夫がふじ子に対する気持ちを口に出さなくても、お互いの心はいつしか通い合っていた。ふじ子といる時が、信夫には一番充実した時間のように思われた。
信夫は、外の景色や、街で見た出来事などをよく語って聞かせたが、ふじ子はいつも心から喜んで聞いた。そしてまた、どんな見舞いの品でも、たとえば道端のタンポポ一本持って行っても、ふじ子は喜びを顔一ぱいにあらわした。
「あのね、永野さん。わたしにはこのタンポポを摘んでくださった時のあなたの姿が、目に見えるように想像できるのよ。このタンポポは、ある静かな通りの洋館建てのおうちの前にあったような気がするの。その家のそばには、大きなドロの木があって、小さなかわいい女の子が、赤いお手玉で遊んでいたのじゃなくて。そこで永野さんはこのタンポポを摘んでくださったのね。このわたしのために……」
いつも寝ていて、何年も外を見ることのないふじ子には、ありふれたタンポポ一本にも、いろいろな風景が目に浮かぶらしかった。だがそれにもまして、自分を喜ばせようとする信夫の心持ちを、いつも鮮やかに感じとってくれるのだった。そんなふじ子を、信夫はつくづくとかわいいと思い、やさしいと思った。
人の好意を受けとることにかけては、ふじ子は天才的ですらあった。ほんのちょっとした好意でも、それをふじ子が受けとめる時、限りなく豊かな想像を加えて、ひとつの楽しい童話や詩となった。
リンゴやミカンを買っていくと、ふじ子は手にとって飽かず眺めた。
「ねえ、永野さん。こんなきれいな色をお作りになったのは神様なのね。わたしは神様の絵の具箱が見たいわ。神様の絵の具箱には、いったいどれほどの種類の絵の具があるのかしら」
そんなことを言って、ふじ子は無邪気に喜んだ。見舞った者のほうが、かえってうれしくなるほど喜ぶのだ。
いつもふじ子が喜ぶものだから、信夫もつい、何を見てもふじ子に見せたいと思った。とりわけ山に沈む夕日や、アカシヤの並木を見せてやりたいと思った。どんなに喜ぶだろうと想像しただけで、信夫もふじ子と共に見ているような心持ちになる。
こうして、ふじ子を見舞い、語り合うことは信夫の大きな喜びであり、心の支えとさえなっていった。それだけに、いつ旭川に転勤になるかということは、次第に信夫の心の大きな重荷となっていった。
信夫に辞令が出たのは九月の初めであった。コスモスの花が風に立ちさわいでいる朝、信夫は転勤の発令を知った。覚悟していたことではあったが、信夫はやはりがっかりした。
和倉礼之助は、ふじ子の病気を知っているはずである。和倉にも娘がいることだから、ふじ子の気の毒な立場も察してやってもいいではないかと、信夫は腹立たしくさえなった。このままふじ子と別れて旭川に行ったとしたら、和倉はまた、娘の美沙を自分に近づけるのではないかと勘ぐってもみた。
信夫は、自分の読んだ聖書の言葉を忘れていたわけではない。三堀峰吉の真の友、真の隣人になろうと決意したことを、忘れたわけではない。だが正直のところ、体の丈夫な三堀のために、なにも旭川まで行かなくても、病気のふじ子の隣人になってやったほうが、いいのではないかと思った。自分が代わりに詫《わ》びてやったおかげで、三堀はクビにならずにすんだのだから、それでじゅうぶんではないかという気持ちもした。何かもやもやとした思いのままに、信夫はその日まっすぐにふじ子の家に行った。
非番で家にいた吉川の顔を見ると、信夫は急にがっくりとした。
「吉川君、転勤だよ」
茶の間にあがるなり信夫は言った。
「何、転勤? どこだ?」
吉川はさっと顔をこわばらせて、ふじ子の部屋のほうをかえりみた。
「旭川だよ」
信夫も、ふじ子の部屋のほうをうかがった。
「旭川か。しかし、君は入社してやっと一年たったばかりじゃないか」
「うん、だがね、仕方がないさ」
信夫は、三堀のことを話そうと思ったが、それは吉川にも打ち明けるべきことではないと思った。
「そうか。旭川か」
吉川は、あぐらのひざを大きな手でギュッとおさえるようにしてつぶやいた。台所から顔を出した吉川の母も、転勤と聞くと、オロオロと涙声になった。
「まあ、どうしましょう。どうしたらいいかしらねえ」
信夫は、吉川とその母のようすを見ると、急に不安になった。この二人でさえ、こんなに悲しむのであれば、当のふじ子はどうなることかと心配でならなくなった。
この一年、ふじ子の体は順調に回復しつつあった。そのせっかく快方に向かいつつある体にさわりはしないかと思うと、転勤を告げるのはいかにも酷に思われた。
「まあ、仕方がないだろう。会《え》者《しや》定《じよう》離《り》っていうからね。この大鉄則には、逆らうわけにはいかないからな。しかし永野君、ふじ子には君が言ってくれよ。おれはここにいるからな」
ふだんの吉川に似合わず気が弱かった。吉川の母もペタリと畳にすわったまま動こうともしない。いたし方なく信夫はふじ子の部屋に行った。
「ようこそ、きょうはね永野さん。トンボが部屋の中にはいってきたのよ。とてもうれしかったわ」
輝かしいほど明るいふじ子の表情に、信夫はいっそう気重になった。この部屋を、何度自分は訪れたことだろう。いく度訪れても、ふじ子は一度として不きげんであったことはない。この分なら打ち明けても大丈夫かも知れないと、強《し》いて心をふるいたたせながら、信夫はふじ子の枕もとにすわった。
「ふじ子さん」
あらたまった信夫の声に、ふじ子は不審そうに澄んだ目を向けた。その目を見ると、信夫はやはり言い出しかねた。何と言ったら、一番驚かさずにすむだろうか、悲しませずにすむだろうかと、信夫は言葉をさがしていた。
「どうなすったの。ずいぶんむずかしいお顔をしてらっしゃるわ」
「ええ、とてもむずかしいことなんです」
信夫は少し笑った。自分が札幌を去っても、ふじ子はここにこうして、ただ寝ているより仕方がないのだと思うと、ただちに転勤を告げることはできなかった。
「ふじ子さん」
信夫は思わずふじ子の手を取った。細い柔らかい手が、信夫の両手に素直に握られた。とけてしまいそうな柔らかなその手を握っていると、ふじ子の細々とした命がじかに感じられて、信夫は胸がつまった。もし転勤を告げたなら、この手はほんとうに生きる力を失ってしまうのではないかと、信夫はその手をそっと包むように握りなおした。
「なあに? なんだかいつもの永野さんとはちがうわ」
手を取られて、ふじ子は恥じらっていた。
「あのね、ふじ子さん」
信夫は思い切って言った。
「ぼくは旭川に転勤になったんです。旭川はすぐ近くだから、一カ月に一度や二度は、お見舞いに来ますけどね」
じっと信夫の顔をみつめていたふじ子のつぶらな瞳が、みるみるぬれていき、いっぱいに見ひらいたその眼に涙が盛り上がった。と思うと、涙がころがるように両耳に流れた。
ふじ子はひとことも発しなかった。そっと掛け布とんを胸元まであげ、次に首までかくし、ついにすっぽりと顔までかくしてしまった。掛け布とんがかすかに動き、ふじ子はその下で、声を立てずに泣いているようであった。掛け布とんを持っていた細い手が、布とんの中にかくれた。その細い手が涙をぬぐっているのだろうと思うと、信夫は胸がしめつけられるようであった。
どれほどたったことだろう。やがて掛け布とんの下から、ふじ子が顔を出した。目を真っ赤に泣きはらしたまま、ふじ子はそれでも信夫を見てニッコリと笑った。
「変ねえ、わたしには涙がないと思っていたの。こんなにたくさんの涙が、どこにかくれていたのかしら」
笑った目から、また涙がこぼれた。
「おめでとうって、申しあげなければならないのでしょうね」
そこまで言って、唇がひくひくとけいれんし、ふじ子はまた涙をぬぐった。信夫も、自分の涙を拭いた。
「わたしね、み心のままになさしめたまえって、いつも祈っていましたの。でも、神様のみ心のとおりになるということは、ずいぶんつらいことですわね」
しばらくしてから、ふじ子は言った。
「しかしね、ふじ子さん、一生の別れじゃないんですよ。日曜ごとにだって見舞いに来てあげられますからね。そんなにつらがっちゃいけない」
「ありがとう。でも、そのうちに永野さんは、わたしのことを忘れておしまいになるわ。でもそれは、永野さんのためにいいことかもしれないわ」
「ふじ子さん、それはあんまりですよ。ぼくは口に出して、自分の気持ちを言ったことはないけれど、あなたはわかっていてくれると思っていた」
「……でも……永野さんは健康ですもの」
「いい機会だから、ぼくはハッキリと言っておきますよ。実はね、ふじ子さん。ぼくは札幌に来てすぐに縁談があったんです。上役の娘です。しかしぼくは断りました。それはね、ふじ子さん。ぼくにはふじ子さんという人がいるからです」
驚いてふじ子は信夫を見た。
「必ず、あなたはなおって、ぼくのお嫁さんになるんだ。どんなに長くかかっても、必ずなおってくれなければ困る。しかし、なおらなければなおらないで、ぼくは一生他のひととは結婚しませんよ」
信夫は初めて自分の想いをふじ子に告げることができた。そしてほんとうに、この可憐なふじ子以外のだれとも結婚すまいと、あらためて心に誓った。
「まあ、そんな……もったいない……」
「何がもったいないんです。ぼくのほうこそ、あなたのような美しい心の人と、こうしていられるなんて、どんなにもったいないかわかりゃしない」
信夫は、ひざを正して言った。
「ふじ子さん、ぼくと一生を共にしてくれますか」
再びふじ子の目から涙があふれた。ふじ子は激しく首を横にふった。
「いけません。永野さんは、健康な方と結婚なさってください。わたしを憐れんではいけませんわ」
信夫はふじ子のそばに、にじりよった。ハンカチでふじ子の涙をぬぐいながら信夫は言った。
「ふじ子さん、人間にとって一番大事なものは、体だとでも思うんですか。ぼくはそうは思いません。ぼくには体よりも心のほうが大事です」
「ありがとう……でも……」
「何がでもなんです。人間が人間であることのしるしは、その人格にあるはずですよ。手がなくても、目がなくても、口がきけなくても、人間としての大事な心さえ立派であれば、それが立派な人間といえるのじゃないですか。病気のことなど、決して卑下してはいけませんよ。あなたにはだれにも真似のできないやさしさや、純真さがあるのですからね」
信夫は熱心に言った。
「うれしいわ、永野さん。そんなにおっしゃっていただいて。でも……」
「なあんだ、また、でもですか。もう、でもなんて言っちゃあいけない」
「でも……」
その時、信夫はおおいかぶさるようにして、ふじ子のぬれた唇に、唇を重ねた。ふじ子は必死になって信夫の胸を両手で押しのけようとした。
やがて信夫が顔を離した。ふじ子は青ざめて、かすかにふるえていた。胸が大きくあえいでいた。
「ふじ子さん」
信夫はそっとふじ子を呼んだ。ふじ子は両手で顔をおおいながら言った。
「永野さん。わたしは……肺病なのよ。もしあなたにうつったら……」
ふじ子は唇《くち》づけを受けた喜びよりも、信夫の体のことを気づかった。
「心配しないでください。あなたの病気は、胸の方はほとんどよくなっているはずですよ。もしうつるものなら、吉川だって、ぼくだって、とうにうつっていますよ。ふじ子さん」
信夫は笑った。
いつの間にか、部屋はうす暗くなっている。信夫は枕元のランプに灯をつけた。ランプはじーっと音を立てて少し炎がゆらいだ。二人は黙って顔を見合わせた。窓ガラスが風にガタガタと鳴った。
「一年ね」
ぽつりとふじ子が言った。
「ああ、ぼくが札幌に来てから?」
「ええ、一年と二カ月ね」
ふじ子は、何かを考えているようであった。
「それで?」
「いいえね、たった一年二カ月でも、何だかわたしの過ごしてきた十何年の楽しかったことを全部集めても、この楽しさにはくらべられないと思ったの」
ふじ子はニッコリした。
隣人
信夫が旭川に来て十日ほど過ぎた。札幌を小さくしたような街だと聞いてきたが、たしかに碁盤の目のようなまっすぐな道路は、広々としていて気持ちがよかった。札幌より小さいと言っても師《※》団があるせいか街には活気があった。
なによりも信夫を喜ばせたのは、九月の空にくっきりとそびえ立つ大雪山と十勝岳の連峰であった。すでに山には雪が来ていた。その白い山の姿は、信夫の旭川での生活を暗示しているような気がした。清《すが》々《すが》しく雄々しいと、信夫は思った。
信夫の借りた家は札幌と同じように、駅の近くにあった。三部屋ばかりの平屋で、何の変哲もなかった。だが、家の前の広い道の真ん中に、大きなニレの木がすっくと立っているのが気に入った。
夕方、台所で食事の仕度をしていると、その木の下で遊ぶ子供たちの声が、暗くなるまで聞こえた。信夫は旭川に来て、自炊生活をすることに決めた。いつの日か、ふじ子と結婚しても、炊事は信夫自身がしてやらなければならないという気持ちからだった。
ある夜、夕食の後片づけをしていると、三堀峰吉が酒に酔ってやってきた。
「やあ、よく来てくれたねえ」
信夫は喜んで三堀を迎えた。しかし三堀は、かなり酔いが回っていて、目がすわっていた。
「上がってもいいのかね」
「無論いいとも。ぼく一人だ。遠慮はいらないよ」
三堀は、茶の間に上がる時敷居につまずいてよろけた。
「大分酔ってるね、三堀君」
三堀は、どっかと囲炉裡のそばにあぐらをかいた。
「酔おうと酔うまいと、勝手なおせわだ。おれの金でおれが飲んだんだぞ。盗んだ金じゃないぞ永野さん」
思わず信夫は三堀を見た。
「永野さんよ。おれのきょうの酒が、何の酒だか、あんたにはわかっているのかい」
「さあ、ぼくにはわからないなあ」
「なに、わからない? わからんはずはないだろう」
三堀峰吉は囲炉裡の灰に立っていた火箸をぐいと抜きとった。
「三堀君、君、きょうはどうしたのかねえ」
信夫は囲炉裡を隔ててすわっていた。
「どうもしやしないよ。ただ聞いているだけだ。おれがなんで酒を飲んでいるかとね」
「困ったなあ、ぼくにはサッパリわからないよ」
旭川の駅に降り立った時、出迎えた三堀の顔を信夫は思った。
「いやにうれしそうだな」
同時に出迎えに来ていた和倉礼之助が、三堀の肩を叩いてひやかしたほど、三堀はその時うれしそうな顔をしていた。いま目の前にいる三堀峰吉は、あぐらのひざに両手を置いて肩を怒らせている。
「おれはねえ、おもしろくないんだ」
「おもしろくない? 何か起きたの」
「ああ、起きたともさ。あんたねえ永野さん。何であんた、何で旭川にやって来たんだい」
「何だ三堀君、君のおもしろくないというのは、ぼくが旭川に来たことかい」
「あたり前じゃないか。おれの旧悪を知っている奴は、旭川にはだれもいなかった。和倉の親分だけだ。そこにあんたがやって来たんだ」
信夫は、三堀の気持ちがわかったような気がした。
「永野さんよ。おめえさん、旭川くんだりまでやって来たのは、おれの生活を監視するつもりなんだろう」
「監視だなんてそんな……」
「いやそうだ。そうにちがいない。おれがまた他人様の月給袋をくすねやしないかと、見張るつもりなんだろう。バカにしてやがる。何もおめえさんに見張ってもらわなくても、もう人様の月給になんぞ手は出さんよ」
バカにしていると言った三堀の言葉が、信夫にはこたえた。
「あまりつまらんことを言わないことだね、三堀君」
「つまらん? ああ、どうせつまらんよ。おれの言うこともすることも、どうせあんたにはつまらんのだろう。永野さん、あんた、あんたの本心はおれにはわかってるよ。ああわかってるとも。あんたはね、あの親分の前でこう言ったよ。この憐れなる三堀峰吉が、もう一度悪いことをした暁には、わたしもいっしょに鉄道をやめることにいたします。なにとぞなにとぞお許しくださいとね。ごりっぱですよ、永野君さんは。だがねえ、あんたの本心は、この三堀という野郎が悪いことでもしたら、自分様の首が危ないとおん身たいせつでこのおれを旭川まで見張りにやって来たんだろう」
三堀峰吉の呂《ろ》律《れつ》は、ますますあやしくなっていた。
「どうしたんだ三堀君、ぼくが旭川に来たのは辞令が出たからだよ。辞令が出れば仕方がないじゃないか」
「ふん、辞令か。辞令なんて永野さん、和倉の親分に頼めばいくらでも出るじゃないか。おれを旭川に飛ばしたのも、永野さんのさしがねだっていうじゃないか」
三堀は、首になりかけた自分を復職させてくれたことなど、とっくに忘れたかのような言い方をした。
「三堀君、君の言いたいことはそれだけかい」
三堀の隣人になろうとして、三堀の真の友人になろうとして、ふじ子のいる札幌を離れ、この旭川までやって来た自分を信夫は思った。三堀の真の友人になり、とことんまで三堀のためになろうとしたことは、思い上がったことであったかと、信夫は心が重くなった。聖書の言葉のとおり、信夫は真実に三堀の友人になろうとした。いく度信夫は、ふじ子のそばにいたいと思ったかしれなかった。三堀よりもふじ子の方が、自分を必要としているのではないかと心が迷った。しかし信夫は、聖書にあるとおりに実行してみたいと思った。いまの自分の生活の中で、最もたいせつなものはふじ子であった。その最もたいせつなふじ子を置いて、旭川まで来たことは、すなわち三堀への真実であると思った。だがその真実も、三堀には何も通じていなかった。
「ああ、言いたいことはたくさんあるよ。永野さん、あんた旭川に来て、おれの悪口を言いふらすつもりかね」
「君ねえ、三堀君、君はさっきから、ぼくのさしがねで旭川に飛ばされたとか、何とか言ってるけれど、ぼくはねえ、君のほんとうの友だちのつもりなんだよ。君の悪口など言うわけがないよ」
「友だちだって? 笑わせるよ。あんたは、あいつは札幌で同僚の月給を盗んだ手癖の悪い野郎だなんて、いつ言い出さんとも限らない危ない人だよ。友だちなんかじゃ、ありゃしない」
三堀は、信夫の言葉になど耳もかさなかった。
「三堀君!」
信夫はたまりかねて、きっとなった。
「三堀君、くだらない勘ぐりはやめたまえ。そして酒などやめてしまうんだね。酒を飲んで人にからんでみても、つまらないじゃないか。酒さえ飲まなきゃあ、君はいい人間なんだ」
「ホーラ、本音を吐いたろ。おれが酒を飲んで、また大失敗でもしたら、それこそ一大事だとビクビクしているんだろう。だがね、永野さん、おれは飲むよ。ああ飲むともさ。この寒い旭川に飛ばされてきて、飲まずに過ごせるとでも思っているのかね」
ヒョロヒョロと峰吉は立ち上がった。
「永野さん、もうひとこと言っておくがね。あんたおれに恩を着せるつもりだろうが、しかしおれは、恩など売られたくはないんだ」
あがりがまちに腰をおろして、履《はき》物《もの》をさがしている三堀に、信夫はランプをさし出した。三堀はちびたげたをつっかけて、ドシンと戸に突きあたり、ガタピシいわせて開けて出た。
「おっと、いまひとつ忘れるところだった。永野さん、あんたもしかしたら、あの和倉の親分の娘に気があるんじゃないのかね。いや、これはどうも失敬」
峰吉は大声で笑い、去って行った。戸を五寸ほど閉め残したままであった。
十月の、よく晴れた日曜の朝であった。信夫は近くに教会があると聞いて、思い切って訪ねてみた。札幌にいた時も、教会には一、二度訪ねたことがある。しかし札幌の教会では、信者同士は仲が良かったが、外から来る者にどこか冷淡であるような気がした。だがそれは、信夫自身教会になじめなかったせいかもしれなかった。
教えられて行った教会は、教会と言っても、寺のあとを借り受けてこれを修理した牧師館兼講義所となっていた。細かい格《こう》子《し》の窓が、信夫には意外だった。信夫が教会の中にはいってみると、子供たちが二、三十人ほど讃美歌をうたっている。信夫を見て、子供たちは珍しそうな顔をした。信夫もまた、讃美歌をうたっている子供たちが珍しかった。羽織袴で讃美歌を教えている坊主頭の青年が、終わってから信夫に近づいて来た。生徒たちも信夫のそばにやって来た。
「先生、こんどぼくたちの先生になるのかい」
元気のよさそうな男の子が信夫に聞いた。
「いや、ぼくはまだ……初めてこの教会に来たんだから」
「初めてだっていいよ。ぼくたちの先生になってよ。先生の名前なんていうの?」
信夫は、自分と同年輩ぐらいの日曜学校の教師にあいさつをした。
「ぼくは永野信夫と申します。二丁ほど離れた所に住んでいる鉄道員です」
「永野先生、永野先生」
子供たちはなぜか、信夫を自分たちの先生に決めてしまった。後に、その教会史に、
「その立ちて道を説くや、猛烈熱誠、面色蒼白なるに朱をそそぎ、五尺の痩《そう》〓《く》より天来の響きを伝えぬ。然《しか》るに壇をくだれば、靄《あい》然《ぜん》たる温容うたた敬慕に耐えざらしむ」
と、書かれているが、その温容がひと目で純真な子供の心をひきつけたのでもあろうか。一歩教会堂へはいっただけで、たちまち日曜学校の教師に扱われたのは、後にも先にも永野信夫一人であったろう。
こうして信夫は、生徒たちの願いどおり、すぐに教会の日曜学校の教師となった。すでに受洗の決意はできていたから、教会側もまた、信夫を信者同様に扱ってくれたのである。
この教会生活があって、信夫の旭川における毎日は充実した。職場において、三堀峰吉が卑屈なくらい信夫の顔をうかがっていることが、信夫の心を気重にはした。しかし信夫は、決して三堀を責める気にはなれなかった。酔ってからんだ三堀の言葉は、信夫を謙《けん》遜《そん》にさせた。初めは腹立たしくもあり、憎くもあったが、自分が決して聖書の言葉を全く実行できる人間ではないと知った時、むしろ三堀の言葉をありがたいとさえ思った。
三堀を救おうという気持ちの中に、自分の思い上がりがあったことを、信夫は認めずにはいられなかった。そしてただできる限り、三堀の真実な友人であろうとした。
信夫の受洗及び信仰告白は、その年のクリスマスに行われることになった。クリスマス礼拝の前夜、信夫はランプのそばで、一心に信仰告白文を書き上げた。そこへまた三堀峰吉がやって来た。相変わらずその夜も三堀は酒がはいっていた。
「何だい。恋文でも書いているのかい、永野さん」
硯《すずり》箱《ばこ》と紙を見て、三堀はせせら笑った。
「恋文? なるほどな。そうかもしれない」
信夫も笑った。ランプの光に、信夫の笑った影が大きく障子に映った。
「そうだろうと思った。相手はだれだい? あの和倉の娘だろう」
三堀は、よほど和倉の娘が気になっているようである。
「いや、あの人ではない」
「じゃ、だれだ」
「神様だよ」
「カミサン? どこのカミサンだい。人のかみさんに手を出したら、あんた警察にしょっぴかれるよ。人の月給に手を出すより罪は重いぜ」
信夫は黙って、いま書き上げた信仰告白文を三堀の前に置いた。
「読んでもいいのか」
ちょっと三堀はたじろいだ。
「いいよ。読んでくれるのなら」
「じゃ、拝見するとするか。人のかみさんにどんな恋文を書くものか、話の種だからなあ」
峰吉は、巻き紙をひらいた。
「何々、謹んで、神と人との前に、信仰告白をいたします。……何だいこりゃ、妙な恋文だなあ」
放り出すかと思ったら、三堀はそのまま巻き紙をひろげて行った。
「謹んで神と人との前に、信仰告白をいたします。わたくしの母は、キリスト信者である故に、わたくしの祖母に家を出されました。祖母は大のキリスト教嫌いで、わたしはその影響を多分に受けて育ちました。祖母の死後、母は再び父と共になりましたが、わたくしはキリスト信者の母にどうしてもなじむことはできませんでした。わたくしにとって、この実の子である自分を捨ててまで、信仰を全うしようとした母を許すことができなかったのです。しかしわたくし自身、祖母も急死、父も急死という体験から、死について考えるようになり、次第に罪ということも考えるようになりました。特に少年時代から青年時代に覚えた肉体的な悩みに、自分自身が罪深いものに思われてならないこともありました。
一方わたくしは、自分が人よりもまじめな人間であるという自負を捨てきることができませんでした。たまたま、東京から札幌に来た年の冬、寒い街頭で路傍伝道をしている伊木という先生の話をわたくしは聞きました。その時、大きな感動を受けたわたくしは、自分はキリスト信者になってもよいと思いました。仏教との問題もすでにわたくしなりに解決がついていましたし、キリスト信者になることに抵抗を感じませんでした。しかしその時伊木先生は、あなたの罪がイエス・キリストを十字架につけたことを認めますかといわれました。しかしわたくしは、イエス・キリストを十字架につけるほどの罪はないと思いました。わたくしは至極まじめな人間であると自負していたからです。ところがその直後、先生はわたくしに、聖書の言葉を、ただのひとつでも徹底的に実行してごらんなさいといわれました。わたくしは、よきサマリヤ人のところを読み、自分ならこのような不人情なことはするまい、自分ならよきサマリヤ人になれるのではないかと、うぬぼれました。そして、ある友人のために、ひとつ徹底的に真実な隣人になろうと思いました。
わたくしは彼の隣人になるために、さまざまな損失を承知の上で、その友人のいる旭川に参りました。そして、わたくしが彼を心から愛し、真実な友になるのだから、当然相手も喜ぶと思いました。しかし彼はわたくしを受け入れてくれませんでした。わたくしは彼を非常に憎みました。あのサマリヤ人のように、山道に倒れている、生きるか死ぬかの病人を一所懸命介抱しているのに、なぜどなられるのか、わたくしにはわかりませんでした。わたくしは彼を救おうとしました。だが彼はわたくしの手を手荒く払いのけるのです。彼が払いのけるたびに、わたくしは彼を憎み、心の中で罵《ののし》りました。そしてついには、わたくしの心は彼への憎しみで一ぱいに満たされてしまいました。そしてわたくしはやっと気づいたのです。
わたくしは最初から彼を見下していたということに、気づいたのです。毎日毎日が不愉快で、わたくしは神に祈りました。その時にわたくしは神の声を聞いたのです。お前こそ、山道に倒れている重傷の旅人なのだ。その証拠に、お前はわたしの助けを求めて叫びつづけているではないか、と。わたくしこそ、ほんとうに助けてもらわなければならない罪人だったのです。そして、あのよきサマリヤ人は、実に神の独り子、イエス・キリストであったと気がついたのです。
それなのに、わたくしは傲《ごう》慢《まん》にも、神の子の地位に自分を置き、友人を見下していたのでした。いかに神を認めないということが、大いなる罪であるかをわたくしは体験いたしました。そして、自分のこの傲慢の罪が、イエスを十字架につけたことを知りました。いまこそわたくしは、十字架の贖《あがな》いを信じます。その御復活を信じます。また約束された永遠の命を信じます。わたくしたちのために犠牲となられたイエス・キリストを思う時、わたくしもまた、この身を神に捧げて、真実の意味で神の僕《しもべ》になりたいと思っております。
これをもって、わたくしの信仰告白を終わらせていただきます。
イエス・キリストの御《み》名《な》によって、アーメン」
何も言わずに、熱心に最後まで読み通した三堀峰吉は、黙ってくるくると巻き紙をまいていたが、
「アーメンか」
そう言って、ポンと信夫の前にその信仰告白文を置いた。
「つまらんものを読んだよ。酔いがさめたじゃないか」
しかしそう言ったまま、峰吉はストーブのそばを離れようとはしなかった。信夫は、心の中で、どうかこの友が、神の真実の愛を知るようにと祈った。
「三堀君、全くぼくは生意気だったね。身のほども知らずに、何とか君の心の生活を向上させたいなんて考えていたんだ。君は、初めてこの家に来た時、ばかにするなと怒っていた。ぼくは、その時、ばかにしているつもりじゃないと思っていた。だが、やっぱり上から見下していたんだ。どうか許してくれないか」
信夫は深く頭を垂れた。ストーブの燃える音だけが聞こえ、三堀も黙ってすわっていた。
信夫が洗礼を受けて、ふた月ほどたった夜だった。三月も近い、暖かい晩である。軒の雫《しずく》が、夜になっても音を立てていた。信夫はストーブにあたりながら、鉄道の規則集を読んでいた。玄関の戸が、ガタピシと鳴った。また三堀峰吉でも来たのかと出てみると、思いがけなく和倉礼之助の大きな体が、狭い玄関をふさいでいた。
「小ぢんまりとしたいい家じゃないか」
和倉は、机以外何の道具もない部屋を、ぐるりと見まわした。
「どうも弱ったなあ、永野君」
和倉は出された茶を、がぶりとひと口飲んでから言った。
「ハア」
信夫は、和倉が突然訪ねて来たことで、何かまためんどうな話ではないかと予感がした。
「明るいランプだね。君は几帳面だから、手入れがいいのかな」
ランプを見上げて、和倉は別のことを言った。
「実はねえ、美沙のことなんだが……」
和倉はうかがうように、信夫の顔を見た。美沙のことなら、とうの昔に断ってあると思いながら、信夫はかすかに眉根をよせた。
「いや、もう君にもらってもらおうとは言わんよ」
信夫の表情を見て、和倉は笑った。
「実は、美沙のむこが決まったんだ」
「それは、それはおめでとうございます」
信夫は、美沙の肉づきのよい体をちらりと思い浮かべた。心の底で、ふっと落とし物をしたような感じがした。
「いや、めでたいっていうのか……。実は相手は三堀なんだ」
信夫は、とっさに返事ができなかった。
「驚いたろう」
「驚きました」
信夫は正直に答えた。
「遠くて近きは何とやら、永野君、おれも不覚だったよ。実はね、札幌から旭川に来た時、三堀をひと月ほどうちに置いてやったんだ」
その話は信夫も聞いていた。三堀の母が神経痛とかで、三堀が単身赴任をしたということも聞いていた。だが、和倉の家にいたのはほんの当初だけのことかと、信夫は思っていた。
「一カ月もでしたか」
「親ばかという奴だね。美沙は、世間の娘よりしっかりした娘だと、おれは思っていた。まさか三堀のような奴にほれるとは思わなかったよ」
三堀の、札幌での詳しいことは、和倉は妻にも美沙にも語ったことはなかった。三堀が朝早く信夫と共に謝罪に来たことは妻も美沙も知ってはいる。しかしそれがどんなことかを知るわけはなかった。ただ和倉の機嫌を損じたくらいに考えていた。
「美沙という娘はねえ、あれの母親のように、男のかげでひっそりと生きていくというのとは、ちがうんだ。三堀が何となくかしこまって、しょぼんとおれのうちに同居しているのが、かわいそうに見えたらしいんだ。必要以上に三堀に親切にしたらしいよ。三堀がそれを勘ちがいして受けとったのか、美沙もまた、その勘ちがいがうれしかったのか、そのへんのことはおれにはわからんがね」
「なるほどそうでしたか」
「考えてみりゃあ、若いもん同士が同じ屋根の下にひと月もいりゃあ、何となく妙な気持ちになるのも無理はない。それに気づかなかったおれのほうが、やっぱりうかつということになるんだろうな。その後もちょくちょく人目をしのんで、会っていたらしい。どうやら赤ん坊が生まれるらしいんだ」
ふだんは豪放磊落な和倉も、さすがにまいっているようである。信夫は黙って聞いているより仕方がなかった。とんだことになったとも言えず、さりとて、あらためてめでたいとも言えなかった。いまになってみると、三堀が酔っては自分にからんだ気持ちがわかるような気がした。自分の転勤は、三堀にとっては決して愉快なことではなかったにちがいない。和倉に目をかけてもらっているということだけで、三堀は美沙を奪われるのではないかと思ったことだろう。
「和倉さん、三堀君も結婚したら、落ちつくんじゃありませんか。根が悪い人じゃないのですから……」
信夫は心からそう思った。もう人にからむこともあるまいと思われた。子供が生まれれば、子煩悩なやさしい父親になるような気もした。
「まあ、そうかもしれない。あいつは気の小さい奴だからなあ。あまりでっかい悪いこともできないだろう」
和倉は自分のひざを、手で軽く叩きながら言った。
「しかしなあ、永野君、君のような男に美沙をもらってほしかったなあ。君と三堀じゃ少し差があり過ぎるよ」
和倉は未練らしく笑った。信夫は顔を上げていった。
「和倉さん、そんなことはありません。わたしは、人間はみな同じ者だと、教会で聞かされています。どうかわたしのような者を、何か優れてでもいるように思わないでください。神さまの目から見れば、三堀君のほうが祝福されているかもしれないんです」
信夫は熱心に言った。全くの話、三堀は自分自身が信夫より劣っていると思いこんで、あんなにからんだりしたにちがいない。そして知らず知らずのうちに、そんな三堀に対して、自分は優越を感じていたのではないかと、信夫は恥ずかしかった。和倉はちょっと驚いたように信夫を見たが、
「いや、いや、あんたと三堀じゃ、月とスッポンだよ」
と、大きな手をふった。信夫はあわてた。
「いや、そうじゃないんです。聖書にはそう書いてありません。〈義人なし、一人だになし〉と、ちゃんと書いてありますから」
「いや、聖書なんかに何を書いていようと、おれの見た目にまちがいはない。いや、おればかりじゃない。だれが見たって、偉い奴は偉いし、ばかな奴はばかだ」
和倉は、塩せんべいを大きく音を立てて割った。
「どうも弱りました」
「じゃ聞くがね、おれと三堀もおんなじだっていうのかね。冗談じゃない。おれは三堀よりは少しはりこうなつもりだぜ」
和倉は塩せんべいをボリボリとかじった。
「和倉さん、和倉さんもひとつ聖書を読んでみてくれませんか。人間の目から人間を見ると、あっちが偉く、こっちがばかに見えましょうが、さて神の前に自分が立たされたとなると、これはまた別のものです。自分は偉いんだと、神の前ではたして人間は胸を張ることができるものでしょうか」
信夫はあくまで真剣であった。
「さあてなあ、おれは浮気にしても、せいぜい五回ぐらいのもんだ。この明治の御代に、大の男が女遊びをしたからって、別段悪いことじゃなかろうし、人の物を盗んだことがあるわけじゃなし、むろん人殺しをしたこともない。おれならエンマさんの前でも、神さんの前でも、そう恥ずかしいことはないがなあ」
和倉はそう言って大声で笑った。そして、しばらく仕事の話などをし、やがて帰って行った。帰りぎわに、長靴を履はきながら和倉は言った。
「永野君、ばかな奴だが、三堀のめんどうをみてやってくれないか。そうだ、あいつにならさっきあんたが言ったヤソの話も聞かせてやってくれよ。おれにはそう必要のない話だがな」
和倉は大きな手をさし出し、信夫の手を堅く握った。
三堀と美沙は結婚し、先月七月にかわいい女の子が生まれた。三堀は大酒を飲むこともなくなり、勤勉になった。夫婦仲もいいようで、心配することはほとんどなかった。
信夫は日曜学校の教師になったため、札幌のふじ子を見舞うことはなかなかできなかった。初めは週に一度は見舞うつもりでいたが、その予定がすっかり崩されてしまった。むしろ、吉川のほうでときどき旭川にやってくるようになった。
きょうも日曜学校で、信夫は生徒たちにイエスの話をして聞かせていた。すると思いがけなく吉川がのっそりとはいってきた。信夫は目でうなずいて、そのまま話をつづけようとした。ところが、吉川の後からもう一人男がはいってきた。
「あ! 隆士にいさん」
信夫は思わず、大きな声を出した。三、四十人の生徒たちがいっせいにうしろを見た。信夫はあわてて話をつづけた。生徒たちはすぐにまた信夫の話にひき入れられた。
「イエス様は、波の上を歩いていらっしゃいました。静かにお弟子たちのほうに手をさしのべて歩いていらっしゃいました」
子供たちはみなコックリとうなずいた。何気ないようでも、信夫の話は生徒をひき入れる情熱があった。子供たちの目は、暗い波間を歩くイエスを見つめているように真剣であった。
日曜学校が終わると、生徒たちはワッと信夫を取り囲んだ。そして信夫の手にふれ、肩にさわり、満足したように帰っていく。
「ボンボン、けっこう一人前になったもんやなあ」
隆士は相変わらずの大声だった。
「隆士にいさん、よくこんな所までいらっしゃいましたね。吉川、どうして隆士にいさんと……」
「東京のおかあさんが、札幌におりたら、ぼくの所によるようにと、おみやげなどことづけてくださったんだ」
「なるほど、それでわざわざここまで案内してくれたのか。すまなかったねえ」
信夫は、せっかく教会に来たのだからと、つづいてのおとなの礼拝にも、二人に出席してもらった。
「えらいこっちゃ。わけのわからん話を聞かされて」
帰る道すがら、それでも隆士は愉快そうに言った。
「お前のお袋はんに、いいみやげ話がでけたわ。わざわざ旭川くんだりまで、ヤソの説教聞きに行ってきた言うたら、涙流して感激しやはるで。おまけにボンボンが、まじめったらしい顔で、ヤソの話をしていた言うたら、どんなに喜ぶやろな」
信夫と吉川は、声を合わせて笑った。旭川の八月の日ざしが暑かった。三人は二町ほど歩いて信夫の家に来た。
帰りがけに頼んだ出前のソバを三人で食べながら、信夫は隆士の話を聞いた。待子の子供が大きくなって、あの家の庭をかけ回っていること、待子の夫の岸本が、母の菊をたいせつにしてくれること、菊が信夫に会いたがっていることなど、隆士はにぎやかに話して聞かせた。信夫は急に、隆士と共に東京に帰ってみたいような気がした。
「隆士にいさん、ぼくも一度帰ってみたくなりましたよ」
信夫の言葉に、隆士はニヤリとした。
「そうきてもらわんことにゃ、来たかいがないんやで。ボンボンも、二年も北海道にいたら、ケッコウじゃないか。ソロソロ引きあげいな」
このごろ、東京に出張の多いという隆士は、時々大阪弁と東京弁とをチャンポンに使った。
「今度もな、まあ、仕事いうたら仕事かもしれへんが、お前はんを東京につれて帰ろうと思ったから、札幌が商売になるかどうか見てくるなんて、口実をつけてきたんやで」
信夫は、吉川の顔を見た。吉川は口をはさまず、ニコニコと二人の話を聞いていた。
「隆士にいさん、せっかくですけど、ぼくはもう少し北海道にいるつもりです」
信夫はキッパリと言った。ふじ子のことは受洗の報告と共に、詳しく書き送ってあった。母の菊も二人のことを祈るといく度か便りをよこしている。その話がなぜ隆士には通じていないのかと、信夫は少し不安になった。
「そんなこというたかて、信夫、あんたは長男やで。一家の長男ともあろう者が、二十四にも五にもなって、嫁はんももらわん、親もみんでは、世間が通りますかいな」
「まあ、四、五年待ってくださいよ」
信夫はおだやかに言った。
「へえ、あんたこの田舎のどこがよくて、この上四、五年もいるつもりなんや。ま、ここがええなら、それもええ。じゃ東京からいい嫁はんを連れてきてやるわ」
再び信夫は吉川を見た。吉川は聞かないような顔をして、丸い指で白いまんじゅうを食べていた。
「隆士にいさん、ぼくには結婚する人が決まっています」
信夫はひざを正した。
「暑い、暑い。旭川って妙な所やな。ほら、今年の正月は零下四十一度だなんて、びっくりたまげる寒さやと聞いたのに……。夏でもどんなに寒いんやろと、びくびくして来たんやで。きょうなら、東京とそう変わらんやないか」
隆士は太い首に流れる汗を、ハンカチで拭いた。
「隆士兄さん、ぼくには決まった人がいるんです」
はぐらかされまいと、信夫はくり返した。
「ふん、知ってる知ってる。この吉川はんの妹さんやろ。しかしなあ、わしも札幌で会《お》うて来たが、肺病やもねえ、それにカリエスや。まあ、気の毒やがなおることはないわな。吉川はんかて、話のわからん人やない。まさか一生なおらんおなごを待ってくれなんて、言うはずあらへん」
「そんな無茶な……」
「無茶はあんたや、あんな寝たっきりのおなごを、嫁はんに決めるなんて、それこそ無茶というもんや。見ただけでも細うて、いまにもこわれそうやないか」
「隆士にいさん。ふじ子さんはきっとなおります。必ず丈夫になります」
「ふん、ヤソの神さまは、そんなにご利《り》益《やく》があるんやろか」
「キリスト教はご利益宗教じゃありません。しかし必ずあの人はなおります。いや、なおらなくてもいい。なおらなきゃあ、ぼくも結婚しないまでです」
「あほや、話にならん」
隆士は遠慮がなかった。
「あほうです。隆士にいさん、わたしはほんとうにキリストのあほうになりたいんです」
「そやかて、お前、永野家の長男やで。子孫を残す義務はあるんやで」
「家って、そんなに大事なものですか」
「あたりまえや。家柄や、血統を、世間は何より大事にいうんやで。そんなこともわからへんのか。北海道に来て、少し頭が変になったんとちがうか。零下四十一度じゃ、頭のしんまで凍ったんやろ」
黙って聞いていた吉川が、おもむろに口をひらいた。
「永野、ちょうどいい機会だから、おれも言っておきたいんだ。ふじ子の兄として、君の気持ちはたしかにありがたいよ。しかしなあ、君の友人として、そうありがたがってばかりもいられないんだ。おれとしては、ふじ子もかわいい。しかし君にも幸福になってほしいんだ」
「つまらないことを言っちゃ困るよ」
信夫はキッとした。
「いや、決してつまらなくはないよ。人間の一生は二度とくり返すことができないんだからね。若い時代を、あんなふじ子のような者を待って、むだに過ごすことはないと思うんだ。ここのところはよく考えなおしてもらいたいと思うんだよ」
「吉川君、ぼくの一生は、だれよりもぼくにとって一番大事なんだよ。そのぼくが一番良い道だと思って選んでいることなんだ。ご忠告はありがたいが、ぼくはふじ子さんのなおるのを待っているよ」
「しかしね……」
吉川が言いかけた時、隆士が大きく手をふった。
「吉川はん、言うてもむだや。こいつのお袋はヤソのために、子供を捨てて家まで出たアホやからな。強情なところはお袋ゆずりや。言うだけむだや」
隆士はそう言ってから、つくづく信夫の顔をのぞきこむように眺めた。
「ま、偉い男ということにしておこうか。な、吉川はん」
大きな扇子で隆士はパタパタとあおいだが、その目がかすかにうるんでいた。
それから五年の月日は流れた。
その間、信夫は旭川六条教会の初代日曜学校長として、ほとんど教会を休まなかった。信夫の顔は、だれが見ても、いつも何かの光に照らされているような輝きがあった。職場の上司にも部下にも、信夫は絶大な信頼をよせられていた。すでに旭川運輸事務所庶務主任の地位にあった信夫だが、その地位にあることとは別に、信夫に聖書の講義をしてくれという声が、旭川をはじめ、札幌、士《し》別《べつ》、和《わつ》寒《さむ》などの鉄道員の中に起きた。信夫はできる限りの時間をさいて、休日や出張のたびに、希望者と共に聖書を読む機会を作るようにつとめた。
明治三十七、八年の日《※》露戦争を経た青年たちの中には、戦勝にわく世人とは別に、真剣に生死を考える者も出てきた。その中には戦争から帰った者もあり、兄弟や知人を戦いに失った者もいた。三堀も、その戦争に行った一人だった。旭川での聖書の研究会には、三堀も必ず出席するようになっていた。しかしなぜか三堀は、鼻の先で冷笑するような表情を見せていた。
札幌に出張する時、信夫は必ずふじ子の病床を見舞った。この五年の間に、ふじ子は驚くほど元気になった。かつて臥《ね》てばかりいた病人とは思えないほど、血色もよく、家の中の立ち居も不自由のない状態になった。後一年もしたら、ふじ子を旭川にともない、結婚することもできるのではないかと、信夫はその日を楽しみにするようになった。
聖書の研究会を通じて、各地で信夫を慕う声がさらに高くなり、中には、聖書はむずかしいが、信夫の顔を見るだけでもと、集会に出る者がいるほどになった。上司たちは、少し手に余る部下がいると、信夫の所属に配置し、それが後には慣例とさえなった。永野信夫は、鉄道当局にとっても、旭川六条教会にとっても、もはやなくてはならぬ存在になっていたのである。
師団 軍隊(陸軍)の部隊単位の一つ。旭川は旧陸軍、陸上自衛隊ともに師団司令部の所在地。
日露戦争 明治三十七〜三十八年(一九〇四〜五)、日本と帝政ロシアが満州、朝鮮の権益を争い、戦った戦争。
かんざし
その日も、毎月定例の旭川鉄道キリスト教青年会聖書研究会が鉄道の寮で開かれた。講師はいつものように永野信夫だった。
三堀は、その十五、六人の片隅にいたが、やはりきょうも絶えず冷笑するような表情をしていた。聖書講義の後、みんなが真剣に話し合っている間、三堀はひざ小僧をかかえたまま傍観していた。信夫は、その三堀の態度が何に原因するのか見当がつかなかった。
やがて閉会となり、人々は帰って行った。しかし三堀は、その場にじっとすわったままである。
「いつも熱心に出て来てくれるねえ」
信夫は三堀に笑顔を向けた。
「なあに、おもしろ半分ですよ」
はぐらかすように三堀は言った。
「おもしろ半分でも、欠かさず聞いていれば、いまにほんとうにおもしろくなりますよ」
「さあ、どんなものかね。たしかに永野さんは話はうまいよ。しかしあんたは本気になって神がいると信じているんですかね」
茶色に毛ばだった畳に、三堀は素足を伸ばして言った。七月も半ばのむし暑い夜である。
「神をぼくが信じないで、みんなに話していると思っていますか」
「言っちゃ悪いけど、どうも眉つばだと思って、わたしはいつも聞いていますよ」
「まあ、あるかなきかの信仰ですから、三堀君にそう言われても、返す言葉はありませんがねえ」
信夫は柔和な微笑を浮かべていた。三堀は、神がいるかいないか、自分で迷っているのだろうと信夫は思っていた。いずれにせよ集会に出るからには、神を信じたいとは思っているにちがいない。戦争に行く前に一人、帰って来てから一人、三堀は一男一女の父親になっていた。
「話は変わりますがね、永野さん。あんた、わたしが戦争に行っている間、ちょくちょく美沙のところに顔を出してくれたそうですね」
美沙は三堀の出征当時、三堀の母と子供と三人で暮らしていた。三堀が発《た》ってから半年ほど後に、三堀の母は脳溢血で倒れ、美沙の手厚い看護を受けたが、四日ほどして死んでしまった。その後美沙は里の和倉礼之助の家に、子供と共に身をよせていた。むろん三堀は永野信夫の部下であったから、時おり信夫が訪ねたことはあった。しかしそれは、職場の上司として、他の出征家族を見舞うのと同様、決して一人で見舞ったのではない。常に職場の部下を同伴した。それとは別に、和倉個人からの招きで訪ねたことはいく度かあった。
「お礼を言われるほど、いく度もうかがいませんでしたがね」
だが三堀はせせら笑った。
「いや、たびたび来ていただいたそうですよ。美沙は、わたしが戦争から帰ったというのに、何となくわたしをばかにするようになりましてね。ふたことめには永野さんは立派な方だ。永野さんは立派な方だと、よくほめていますよ」
「そうですか。どうもそれはいたみいりますね」
信夫はさり気なく頭を下げた。三堀が集会に出るようになったのは、そんな美沙の言葉が強く心にひっかかっているせいなのかと、信夫は三堀の気持ちがわかったような気がした。
「いや、お邪魔しました」
三堀は妙に気にかかる言葉を残して、しかしおとなしく帰って行った。昔は酒を飲んではよく、自分にからみに来たものだと信夫は思い出していた。いまでは三堀も、酒を飲まずにそうとうからむことができるようになったのだと、信夫はそれを喜ぶべきかどうかと苦笑した。結婚してからの三堀は結構しあわせな夫であり、職場でもそう暗くはなかった。それが妙に陰気な人間になってしまったのは、戦争から帰ってからだった。激戦の中で、三堀が多くの死を見、そんなふうに変わったのかと信夫は思っていた。聖書研究会を欠かさないのも、深く求めるところがあるのだと思っていた。
だが三堀はそうではなかった。第一に、出征中に母が死んだことが何か美沙のせいのように腹立たしかった。自分がいたなら、決して母を死なせないですんだと三堀は思う。次に不満なのは、美沙が自分の留守中に実家に帰っていたことだった。自分は和倉のむこ養子になったわけではないという反撥が常にむらむらと胸の中で燃えていた。第三に、美沙も、和倉も永野信夫のうわさをし過ぎることであった。三堀も内心信夫を尊敬しないわけではない。だが、信夫のことになると口をきわめてほめる和倉が腹立たしく、あいづちを打つ美沙も妙に小憎らしくなってくる。二人は決して三堀をくさしているのではないが、三堀には永野をほめて、暗に自分をくさしているような気がするのである。
そのうちに三堀は、ふと、美沙が信夫に心をよせているのではないかと、勘ぐるようになった。三堀が聖書研究会に出るのも、キリストの話を聞きたいからではなかった。信夫の語ることぐらい、自分も語れるようになりたいという気がひとつ、信夫の信仰はどれほど真実なものか突きつめたい気持ちのふたつであった。
信夫は雄弁だった。聞いていると、三堀も思わず話の中に引き入れられることがある。集会の帰りに、ほんとうに神はいるのだろうかと、つい考えこむこともある。それがまた三堀にはいまいましかった。
ある時こんなことがあった。
その日、信夫は出張で職場にはいなかった。ひる休みにだれかがこう言った。
「おい、永野さんはどうして嫁をもらわないんだろう」
「あの人は、われわれ凡人とはちがって、女なんかいらないんだよ」
「まさか、かたわ者じゃあるまいし、女がいらないっていうことがあるもんか」
三堀は、和倉と美沙からちらっと聞いたふじ子のことを思い浮かべた。いま時カリエスの女を何年も待っているなどとは、三堀にも信じられなかった。それは美沙を断るための口実であって、案外信夫はかたわ者なのかもしれないと三堀は思った。
「いやあ、健全なる精神は、健全なる身体に宿るというからね。主任さんがかたわ者のわけはないよ」
たちまち反論したのは、つい二カ月ほど前、札幌から赴任して来た原健一であった。原は激しい気性で、すぐに上司や同僚と口論した。いたって心のやさしいまじめな人間なのだが、カッと興奮しやすいために、札幌の職場ではみんな扱いかねていた。旭川の永野信夫なら、どんな人間でも使いこなすという定評だったから、原は信夫のもとに回されて来たのである。純情な原は、ただちに信夫の人柄に魅了された。信夫は、どんなにいそがしい仕事があっても、五時にはキチンと部下を帰した。そして残りの仕事は、自分一人で何時まででもやるのである。その一事だけでも原は感激した。だれが悪いことをしても、その非は全部信夫がかぶった。信夫は人を責めない。しかもうまく統率していく。優しいようだが、どこか犯しがたいきびしさがある。原にとって、永野信夫のなすことは、すべて全く正しく思われた。
「主任さんが、かたわ者だなんて、あんまりですよ」
この職場に移ってからおとなしかった原も、この時だけはその激しい気性をむき出しにした。
「じゃねえ、原君。どうして永野さんは結婚しないんだい。もう永野さんはおっつけ三十になるはずだよ。いま時若い者が、三十近くまで一人でいれば、おかしいと思うほうがほんとうじゃないのか」
三堀は原をからかった。原の顔は首をしめられたように充血した。
「何だって、主任さんの悪口を言ってみろ。おれはただでおかないからな」
原は椅子から立って三堀に詰めよった。
「三堀さん、あんた証拠があるのか。主任さんがかたわ者だという証拠がどこにある」
「あの年になって、嫁をもらわないのが何よりの証拠だよ」
「そんなものが証拠になるか。主任さんの奥さんになるような人は、そんじょそこらにころがっていてたまるかい。いまに見ろ、拝みたいような天女と結婚するに決まってるんだ」
妙にその言葉には説得力があった。だれかが同感して言った。
「なるほどなあ。永野さんはいまに、とてつもない立派な女と結婚するかもしれないなあ」
その言葉に原は、少し気が静まったようである。
三堀はその日以来信夫を不具者ではないかと思うようになった。一人前の健康な男が、女も買わずにただ教会と仕事だけで生きていけるとは信じられなかった。男には男の欲求というものがある。それは食欲と同じものだと三堀は考えていた。
信夫が食事をする以上、性的な欲求もあるのが当然だと思った。それを聖僧のように行いすましているというのは、いかにも偽善者めいて見えた。信夫はかつて猥談をしたことがない。口を開けば信仰の話である。どこかにうそがあると三堀は思った。
(いつか化けの皮をひんむいてみせる)
三堀は意地悪くそんな目で信夫を見てもいた。
信夫が教会から帰ると、母の手紙が待っていた。この間、毎月の小遣いを送った手紙への返事である。信夫は服を脱ぎ浴衣に着替えた。信夫の外出着は鉄道の服ただ一着である。職場にも教会にも、色あせたこの一着の服で事は足りた。服の色を見ただけで信夫だとわかるほど、色あせていた。
信夫は浴衣のひざを正座して、鋏でていねいに封を切った。相変わらず菊の字は美しい。巻き紙に墨の濃淡も鮮やかに、流れるように書いている。
「毎日暑い日がつづいておりますが、御地も時には東京のように暑くなるとのこと、くれぐれも暑さあたり、水あたりのないようお体にお気をつけください。毎月貴重なお給料の中から、わたくしにお小づかいをたくさんくださり、ありがたくお礼申しあげます。
岸本さんも待子も、上の子も下の子も、暑さにまけず元気で過ごしておりますからご安心ください。お手紙によりますと、ふじ子さまがたいそうお元気になられ、来年春にはご結婚なされたき由、一同心から喜んでおります。よくいままで、重い病気の方をお待ちになられました。わが子ながらあっぱれのことと、うれしく存じます。
こんなこと申しあげては、あるいはお気を悪くなさるかもしれませんが、ご結婚の暁は、神許し給《たま》わば、お二人そろって、東京にお帰りくださいますよう、心からお待ち申しあげております。何と申しましても、ふじ子さまは東京生まれの方であり、寒さのきびしい旭川よりは、東京のほうがしのぎやすいことと存じます。炊事、洗濯にしても、あなたがしてあげたいとのこと、お心持ちはよくわかりますが、男には男の仕事がございます。こちらにお住まいになれば、わたくしが少しでもお助けできると思います。
なお、岸本さんは近いうちに大阪で開業なさることになり、この家もわたくし一人となります……」
信夫は、二、三年なら北海道に行ってみるのも悪くないと言ってくれた岸本の言葉を思い出した。岸本は去年博士号を取っていた。二、三年もすれば帰ってくると思ったこの自分が、なかなか帰らないので、岸本は本郷の家を出るにも出られず、困っていたのかもしれないと、信夫はすまない気持ちだった。母の菊が言うとおり、ふじ子の体のためにも、東京に帰ったほうがいいと信夫は思った。ただ、いま盛んになった日曜学校を去るのはつらかったが、といって、母を北海道に呼びよせるのもかわいそうな気がした。旭川から東京に転任するのはむずかしいかもしれないが、場合によっては職を退いてもよいと思った。
信夫は、できたら神学校にはいり牧師になりたい気持ちがあった。母とふじ子をかかえて牧師になることはたいへんだったが、しかしこの二人なら、その苦労に耐え、立派に協力してくれると思った。生活のことは、どうにでもなると、信夫は日ごろから考えている。
〈何を食《くら》い、何を飲み、何を着んとて思い煩うな。是《これ》みな異邦人の切に求むる所なり。汝《なんじ》らの天の父は凡《すべ》てこれらの物の汝らに必要なるを知り給うなり。まず神の国と神の義とを求めよ、然《さ》らば凡てこれらの物は汝らに加えらるべし。この故に明《あ》日《す》のことを思い煩うな。明日は明日みずから思い煩わん。一日の苦労は一日にて足れり〉
このキリストの言葉を、信夫はいく度か人にも聞かせ、自分でもいく度感じて来たかわからなかった。
この前の出張で札幌に行った時、ふじ子も言ってくれた。
「信夫さんは、いまのお仕事がほんとうに自分のお仕事だと思っていらっしゃる? あなたは、ほんとうはもっとちがう道に生きたいと思っていらっしゃるんじゃない?」
ふじ子はくるりとした明るい目を輝かしながら言った。その時信夫は、さすがにふじ子だと思った。
「わかりますか、ふじ子さん」
「わかるわ。信夫さんって、神さまのために生き、神さまのために死ぬことにしか、生きがいを感じていらっしゃらないと思うの。信夫さんが何よりも欲しいのは、お金でもなく、社会的な地位でもないわ。ただ信仰に生きることだけだと思うの。牧師さんになるばかりが信仰に生きることだとは思わないけど、でもあなたは牧師さんになるために生まれて来たような方だと思うの」
そのことを信夫はずっと思っていたが、いまの母の手紙で信夫の決心はきまった。来年の春、東京に転任できるかどうか、和倉に聞いてみたいと思った。すでに鉄道は全国官営になっていて、旭川も、鉄道会社から国有に変わっていた。
とにかく、来年四月にはふじ子を連れて東京に帰ろうと信夫は思った。いずれにしても結納をふじ子のもとに持って行かなければならない。金で女を売買するような感じがして結納金を持って行くのは好まなかった。しかしあまり豊かでもない吉川の家に、何かと出費がかさんでは気の毒だった。それでなくても、吉川も子供が一人おり、何かとたいへんである。信夫は暮れの賞与を結納金にあてようと考えた。すると、結納をおさめるのは年が明けてからということになる。まだ半年は間があるが、和倉夫妻に仲人《なこうど》を頼もうと信夫は考えた。
十一月の末、信夫は吉川修と共に、和倉の家に行った。もう根雪になった街を、二人は肩を並べて歩いていた。吉川のほうが背も高く、ふとっている。どう見ても吉川は信夫より年上に見えた。
「何だか、ふしぎな気がするなあ」
吉川が言った。
「何が?」
「いや、君とおれとは、どこか血がつながっているような気がしてね。さっきからおれは、あの小学校四年の時の、お化け退治のことを思い出していたんだ」
「ああ、あれはお化け退治だったかなあ。高等科の女子の便所で泣き声が聞こえるとかなんとか、幽霊がいるとかってみんなさわいだっけ。雨の降るまっ暗な晩だったね」
堅く約束した友だちのうち、約束を守ったのは、吉川と自分のただ二人だったと、信夫は思い出した。しかしその自分も、父に叱られて約束を守るために仕方なく雨の夜の校庭に行ったのだった。だが吉川はちがった。吉川は約束を守るために来たが、べつだんそのことを誇ってはいなかった。それ以来吉川と信夫の間に友情が生まれた。もしあの晩、父が叱ってくれなかったなら、自分と吉川は、こんなふうに仲よくならなかったことだろう。
「吉川君、君のおかげで、ぼくは北海道に来ることができたね。そして、信仰と、ふじ子さんを与えられたんだね」
深い感謝のこもった声であった。
「ふじ子はしあわせな奴だなあ……」
長い年月を待ってくれた信夫の真心が、あらためて吉川の心をゆさぶった。
「ぼくのほうこそしあわせだよ。君が兄貴で、ふじ子さんがお嫁さんだ。それ以上のことはないよ」
「ほんとうにそう思ってくれるのか」
吉川の声がうるんだ。
訪ねることは前もって和倉に知らせてあった。信夫は吉川を和倉に紹介した。
「なるほどなあ。この人の妹さんか。永野君の待っていた気持ちもわかったよ」
ひと目で和倉は吉川を気に入ったようであった。
「それで、まことに恐れいりますが、来年の春には結婚式を挙げたいと思いますので、ご媒酌人になっていただきたいと思うのですが」
あらためて吉川と信夫は頭を下げた。
「ほう、もうそんなになおったのかね」
和倉は驚いたように、お茶を運んで来た妻をかえりみた。
「おい、聞いたか。永野君の待っていたあの人が、なおったんだとよ。偉いもんだなあ。いや偉いもんだ」
和倉はしきりに驚いた。
「しかし、待つ身は長かったろう。君の名は永野だが、何にしても長い話だったなあ。六、七年は待ったんじゃないか」
冗談を言いながら、その大きな指を和倉は折って数えた。
「ほんとうにねえ、うちの美沙も聞いたら喜ぶことでしょうねえ」
美沙は一町ほど離れた鉄道官舎にいまは住んでいた。
「美沙か。うん、美沙もなあ……まあ、いいや。とにかくおめでとう」
和倉はすわりなおして、頭を下げた。
明けて正月の三日、信夫は札幌にふじ子の家を訪ねた。雪の降るあたたかい静かな午後であった。茶の間には、吉川夫婦も、吉川の母もいて、いかにも正月らしいなごやかなふんいきだった。しかしかんじんのふじ子の姿が見えない。
「ちょっとそこまで使いに出たんですよ。すぐ戻ってきますよ」
愛想のよい吉川の妻の言葉に、信夫は思わず微笑した。うれしかった。暖かい日と言っても真冬である。あのふじ子が真冬に外出できるようになったかと思うと、何か夢のような気がした。やがてふじ子は、えんじの角《かく》巻《まき》を着て帰ってきた。色白のふじ子の顔が、寒い外気で紅潮している。それがいかにも健康になったしるしのようで、信夫はうれしくてならなかった。
新年のあいさつをすませたふじ子は、ふかふかの角巻を信夫に見せて言った。
「永野さん、いい角巻でしょう。おにいさんとおねえさんが、去年の暮れに買ってくれたのよ。生まれて初めてきょう角巻を着てみたの」
ふじ子の桃割れの前髪に、銀色のかんざしがきらきらと揺れた。
「外に出て、風邪をひきませんか」
「大丈夫よ。この冬になってから、一度も風邪をひかないんですもの。今度永野さんがおいでになる時は、わたし駅までお迎えに行きますわ」
そう言ってから、ふじ子は恥ずかしそうに真っ赤になった。初々しい表情が愛らしかった。
「ほんとうか、ふじ子」
吉川もひやかすように言った。信夫はふじ子がこのえんじの角巻を着て、改札口に立っている姿を想像した。臥たっきりだった何年間かのふじ子の姿を思うと、うそのようなしあわせだった。
話は結納の日取りのことに及んだ。できたら一月中に結納を入れたいと信夫は思った。だが吉川の妻が臨月である。二月にはいってからでは、信夫の日曜学校と仕事の関係で、なかなか休暇は取れない。吉川と信夫は、真新しい日めくりを繰りながら、ついに二月二十八日の夕方ということに決めた。
「少し遅いかなあ。いろいろと仕度もあるんだろうになあ」
信夫は思案顔になった。
「なあに、店屋はどうせ盆と暮れでなければ、払いはないんだから、仕度は金なんかなくてもできるよ」
吉川はのんきに言った。信夫は安心した。
「それもそうだね。じゃそれまで結納は待っていてもらおうか。二月二十七日は名《な》寄《よろ》で、例の鉄道キリスト教青年会の支部が結成されるんでね。ぼくはどうしてもそこに出かけなければならないんだよ」
信夫は翌二十八日の朝、名寄を発ち、旭川で仲人の和倉夫婦と同乗して札幌に来ることに決めた。
「永野さん。ふじ子のような娘をもらってくださるなんて……」
吉川の母は、涙ぐんだ。ふじ子が元気になってから、安心したのか急に老いたような感じがする。その吉川の母を見ると、信夫は母の菊も老いこんだのではないだろうかと思わずにはいられなかった。だが四月には、ふじ子を伴って東京に行くのだ。ふじ子と二人で、母を一所懸命大事にしようと信夫は思った。
「わたしも東京に帰りたくなりましたよ」
吉川の母は珍しく愚痴っぽく言った。
「そのうちにかあさんも、東京に行くさ。来年のいまごろは、ふじ子がお産扱いに来てくれなんて手紙をよこすにきまってるよ」
吉川はまたひやかすように言った。
「いやなおにいさん」
ふじ子は真っ赤になって顔をおおった。かんざしがまた揺れた。吉川の母も、妻も声を合わせて笑った。楽しいひと時であった。信夫が暇《いとま》乞《ご》いのあいさつをすると、ふじ子が駅まで送って行くと言い出した。
「ありがたいけどね、ふじ子さん。今度来る時迎えに来てくれるのを楽しみにしますよ」
「でも、その時はその時よ。わたしお送りしたいわ。ね、おにいさん」
「うん、そうだなあ」
ふじ子にしては珍しく執《しつ》拗《よう》な言葉に、吉川は信夫の顔を見た。
「ありがたいけれど、きょうはもう、一度外へ出たんでしょう。やっぱり寒い間は自重してくださいよ。せっかくここまで元気になったんですからねえ」
言われてふじ子は、やっと素直にうなずいた。いつものふじ子に似合わないことであった。どんなことでもふじ子は、すぐに素直に信夫の言葉を聞いた。
「どうしてこうふじ子さんは素直なんだろう」
いつか信夫がそう言った時、はにかんでふじ子は答えた。
「エペソ書の五章よ」
「なるほどね、これはまいった」
「だって、信夫さんだって、エペソ書の五章ですもの」
聖書のエペソ書五章には、次の言葉があった。
〈妻たる者よ、主に服《したが》うごとく、己《おのれ》の夫に服《したが》え。夫はその妻を己の体のごとく愛すべし〉
そのことをふじ子は言ったのである。そのふじ子が、しきりに送りたいと言い張ったことが、信夫は妙に気にかかった。
旭川に帰ってからも、もしかふじ子が風邪でもひいて病気をぶり返すのではないか。あるいは急性肺炎にでもかかって、ポックリと死ぬのではないかと、不吉なことまで思ったりした。
峠
「永野さん、あした結納だってね」
信夫と三堀は、向かい合って夜の食事をとっていた。もう時計は九時を回っている。名寄の鉄道の寮の一室だった。きょう出張で旭川を出た時から、三堀は妙に不機嫌だった。信夫が何を話しかけても、三堀はろくろく返事をしなかった。それがいま、食事をしながら三堀から話しかけてきたので、信夫はホッとして答えた。
「おかげさんでね」
「おかげさんか。別におれのおかげでもなんでもないでしょう」
三堀は手酌で酒を注ぎながら、意地悪い返事をした。このごろの三堀は、特に和倉の娘むこを鼻にかけるかのように、何かにつけて信夫に突っかかってくる態度を見せた。
「いやあ、どんなことでも、神と人々とのおかげですよ」
信夫は、三堀にかまわずしんみりと言った。信夫としては、特にふじ子との結婚は、だれにでも感謝したいような気持ちだった。
三堀はこの一週間ほど、美沙の機嫌が悪いのを気にしていた。その原因が、どうも信夫の婚約にあるような気がしてならない。特に昨夜はひどかった。和倉が三堀のところに来てこう言ったのだ。
「おれとかあさんはね、二十八日の晩は札幌泊まりだ。永野の結納を持っていかなきゃあならないんだ。家が留守になるから、美沙でも泊まりによこしてくれないか」
「いやですよ、わたし」
三堀が返事するより先に美沙はにべもなく断った。
「美沙がいやなら、三堀君でも来てくれないか」
和倉は美沙の態度など意にも介していないようだった。大方夫婦げんかでもしているところに、折り悪しく自分が飛びこんでしまったとでも思ったのだろう。
「なんせ、永野は偉いよ。明治の御代になって、世は軽佻浮薄だというが、あいつはどうしてどうして……」
言いかけた和倉の言葉を、美沙は遮《さえぎ》るように言った。
「そんなにいい人なら、わたしのむこさんにしてくれたらよかったじゃないの」
「ばかを言え」
和倉は笑った。
「ええ、ばかですよ。どうせわたしは、ばかなんだから……」
そう言うやいなや、父と夫の前もはばからず、美沙は声を上げて泣いた。美沙はもともと勝気ではあっても、話のわからない女ではない。結構三堀には妻として仕え、やりくりも上手だった。めったに愚痴もこぼさない明るい気性の女である。それが、この一週間ほど妙にふさいでいたと思うと、この態度である。三堀は美沙の心の底がわかったような気がした。不快だった。いままでの美沙は、ともかく信夫が独身でいることに慰められていたのだろう。それが信夫の結納を前に、感情が思いがけなくたかぶってしまったのだ。三堀は打ちのめされたような気がした。
そのことを昨夜からずっと根に持っていた三堀は、信夫が不愉快でならなかった。
「永野さん、あんたの嫁さんになる人って、肺病で、カリエスで、その上ビッコだってねえ」
三堀は、酒がはいっていっそう大胆になった。
「そうですよ」
信夫は三堀の非礼になれていた。しかし、ふじ子をさげすまれたのには、さすがに腹立たしかった。
「永野さんほどの人が、よりによって、何もそんな女と結婚しなくてもいいんじゃないですか。うちの美沙のような女のどこが気にいらなかったんですかね」
信夫は黙って箸を動かした。
「え? 永野さんよ。うちの女房より、その足の悪い女のほうがいいなんて、いったいどういうことなんです。糞おもしろくもない」
「…………」
「え、うちの美沙の何が気にくわねえかって、聞いているんですよ。美沙は体もきりょうも申し分がない。その美沙より、かたわもんの女のほうがいいなんて、ばかにしてらあ。美沙の怒るのも無理がねえや」
しゃべりながら、三堀は少し気分がすっきりしてきた。美沙の不機嫌は、信夫に執着があったからではなく、足の悪い、病気の女に見返られた女の口惜しさではないかと、にわかにそう思われて来たからである。そうでもなければ、いくら何でも夫の自分の前で、あんなに泣いたりするわけはないと、三堀は思った。
「何でもその人は、キリスト信者だってねえ」
三堀は急に機嫌がよくなった。
「ああ、りっぱな信者ですよ」
信夫は三堀が憐れになった。いつも心の中に鬱屈した思いを抱いている三堀の生活を思いやった。あの同僚の月給を盗んで以来、三堀は変にひねくれてしまったような気がしてならない。それだけこの男は善人と言えるのかもしれないと、信夫は三堀を励ましてやりたいような気がした。
「りっぱな信者か。どうもいただけないなあ。りっぱな信者がりっぱな永野さんといっしょになって、朝から晩までアーメンアーメンじゃ、およそおもしろいことはないですねえ」
信夫は笑った。
「そうかもしれないね」
「しかし、キリスト信者だって、子供は作るんでしょう。永野さんが子供を作るのか、ハハハ……」
大声で笑った三堀は、酒にむせた。信夫はちょっと赤くなった。
「うぶだね、永野さん。おれはひとつ、永野さんに前から聞きたい聞きたいと思っていたことがあるんだがね。聞いても怒らないかな」
「何でも聞いてくださいよ」
信夫は、食べ終わった茶碗に番茶をゴボゴボと注いだ。
「永野さんは、どうして女遊びをしないんです?」
三堀は酔った目を信夫にすえた。信夫は言われて考えてみた。信者だからという言葉は、信夫の場合成りたたなかった。信夫は信者になる前から、女を買ったことはない。
「永野さん、ね、あんた女をいままで買ったことがないんですか」
「ないですね、一度も」
「へえー、一度もね」
あきれたように三堀は信夫を見た。
「じゃ、女を見て、ムラムラッと感ずることもないんですか」
「それは感じますよ、始終」
信夫はまじめに答えた。
「ホウ、始終感ずるんですか。その顔で……」
じっと信夫の端正な顔を眺めてから、三堀は言葉をつづけた。
「女なんか、糞食らえという顔をして、チーンとすましていて、感ずることは感ずるんですねえ。人が悪いよ、永野さんは」
信夫は苦笑した。
「それで、どうして一度も女を買わないですむんですかねえ。おれにはわからない。うす気味の悪い話だね。そんなの偽善者っていうのかな」
三堀は何本目かの空《から》になった銚子を逆さにして口に当てた。
「チェッ、一滴も出やがらない」
銚子をゴロリと倒すと、三堀もそのまま横になった。
「あんた、その娘さんのつまりは犠牲になるっていうことかい」
三堀は再び、話をふじ子のことに戻した。
「犠牲なんかじゃないよ。好きでいっしょになるんだからね」
「そうかな、おれはまだ永野さんていう人、信用しきれないんだ。どこか、いかさま臭いんだ。あんたがりっぱに見えれば見えるほど、ますます信用がおけないような気がするんだよ。その娘さんは、財産でもドッサリあるんじゃないのかな」
ふじ子のことを詳しく知らない三堀は、そう言って鼻の先で笑った。
間もなく三堀はいびきを立てて眠った。信夫は三堀のためにふとんを敷いてやり、ふとんの中に引きずるようにして寝せてやった。口では何とか言っていても、寝顔を見ているとしみじみと三堀がかわいいような気がする。信夫は、低い声で聖書を読んだ。
「《※》兄弟よ、世は汝《なんじ》らを憎むとも怪しむな。われら兄弟を愛するによりて、死より生命《いのち》に移りしを知る、愛せぬ者は死のうちに居《お》る。おおよそ兄弟を憎む者は即《すなわ》ち人を殺す者なり、凡《おおよ》そ人を殺す者の、その内に永《とこ》遠《しえ》の生命なきを汝らは知る。主《しゆ》は我らの為に生命を捨てたまえり、之《これ》によりて愛ということを知りたり、我等《ら》もまた兄弟のために生命を捨つべきなり……」
信夫はくり返して二度読んだ。自分ははたして他の人のために命を捨てるほどの愛を持つことができるだろうか。口をあけて大いびきをかいている三堀の顔を信夫は見た。
やがて寝床にはいった信夫は、明日の結納のことを思った。えんじの角巻を着て、桃割れに結ったふじ子が、駅に迎えに来る姿を思い浮かべた。もう桃割れを結うこともなくなるのだ。艶《つや》々《つや》とした丸まげが似合う新妻となることだろう。たとえ足が悪かろうが、病弱であろうが、自分にとってはふじ子はかけがえのない妻になるのだと、信夫はいとしさで一ぱいになった。白い頬が目に浮かぶ。はにかんだ愛らしい表情が忘れられない。信仰の話をする時の、生き生きと輝く目が美しい。賢く愛らしく素直な、申し分のない女性だと思う。やがてだれにはばかることなく、自分の腕の中にあのふじ子を抱ける日がくるのかと思うと、信夫はしみじみとしあわせだった。長い間待っていただけに、喜びは深かった。やはり結納の前日のせいで、こんなにもふじ子のことが思われるのかと、信夫は苦笑した。
明日は三月だというのに、翌朝は思った以上に気温が下がった。信夫は名寄の駅で、名物のまんじゅうを二箱買った。一箱は吉川の家に、一箱は旭川から乗る和倉夫婦のためにであった。
三堀は、昨夜自分が言ったことを忘れてはいなかった。酔いが覚《さ》めると、信夫に言い過ぎたような気がして、気がとがめ、またムッツリと無口になった。名寄の、鉄道キリスト教青年会の会員たちが、早朝にもかかわらず、七、八人見送りに来ていた。
「やあ、永野さん、昨日はありがとうございました。大盛会でしたね」
支部長の村野が、若者らしい感激をこめて言った。昨日午後五時から七時まで行われた結成会には、和《わつ》寒《さむ》、士別などからも集まり、町の青年も加えて、五十人という多数の人々が一堂に会したのである。田舎の小さな駅としては、こんなにたくさんのキリスト教青年会員を勧誘できるとは、考えられないことだった。
「昨日の永野さんのお話は、すごい力がこもっていましたね。いつものお話もいいですけど、昨日のお話は特に感銘しました」
他の会員が言うと、人々は口々に、ほんとうによかったと口をそろえて讃《ほ》めた。
昨日信夫は、「世の光たらん」という題で、熱弁をふるった。
「お互いにこのくり返しのきかない一生を、自分の生命を燃やして生きて行こう。そしてイエス・キリストのみ言葉を掲げて、その光を反射する者となろう。安逸を貪《むさぼ》るな。己《おの》れに勝て。必要とあらば、いつでも神のために死ねる人間であれ」
そんな話を、一時間ほど信夫は語ったのである。ふだんはおだやかな信夫だが、一度壇上に上がると、全身これ炎のようになる。聞く者の胸に、信夫の言葉は強く迫って止まなかった。
「ありがとう。支部がいよいよ発展するように祈るよ。町の青年たちも、どんどん君たちの支部に誘ってくれたまえ」
「わかりました。がんばります。来月もまた来てくださるんでしょうね」
支部長が言った。信夫はふっと、四月に北海道を去る自分を思った。その前に一度は来てみたいと思った。
「待ってます。ぜひ、おねがいします」
発車の汽笛が鳴った。動き出した汽車を追って、青年たちは手をふりながら駆けて来た。
「世の光たらんか」
だれにも言葉をかけられなかった三堀は、皮肉な笑いを口に浮かべた。
朝早い汽車だが、満席だった。みんないかにも朝らしい生き生きとした車内の空気だった。まさか、この一時間余り後に、恐ろしい事件が待ち受けていようとは、乗客のだれ一人想像することもできなかった。
雪原に影を落として汽車は走っていた。汽車の煙の影も流れるように映っている。信夫は白く凍いてついた窓に息を吹きかけた。窓が滲《にじ》んだ。二度三度息を吹きかけると、窓は小さく丸く解けた。トドマツやエゾマツの樹氷が朝の陽に輝いている。清潔な朝だと、信夫は今夜の結納のことを思ってなにかうれしかった。三堀は椅子の背に頭をもたせて、うつらうつらしていた。
やがて汽車は士別に着いた。タコ帽子をかぶった男や、大きな荷物を背負った角巻姿の女などが、七、八人乗りこんで来た。松葉杖をつき、よれよれの軍服を着た男がその中にいた。
「あ、廃《※》兵だ」
客車のまん中あたりで、五つ六つの男の子が叫んだ。男はじろりとその声のするほうに目をやり、コツコツと松葉杖の音をさせながら、信夫の二つほど前の椅子に腰をおろした。
汽車が動き出そうとしたころ、五十近い男が、背中にから草模様のふろしき包みを背負って駆けこんで来た。
「やれやれ、もう少しで遅れるところでしたよ」
三堀の隣にすわった男は、前にいる信夫に笑いかけた。信夫は、その人のよさそうな男の顔にハッとした。
「失礼ですが、あなたは東京の方じゃありませんか」
「おや、どうしてわかります?」
言ってから男は信夫の顔をまじまじと見た。
「どこかでお見かけしたような……」
男は呟《つぶや》くように言って首をかしげた。
「もしかしたら、あなたは六さんじゃありませんか」
信夫は、なつかしさに声を弾《はず》ませた。
「へえ、わたしは六造ですが……あなたさまは」
「わたしは、ホラ、本郷の永野の……」
言いかけた信夫のひざを、男はポンとたたいた。
「ああそうそう、永野さまの坊っちゃまでしたな。そうだ。たしかに坊っちゃまですよ。お小さい時の面影が、残っております。しかしりっぱに大きくなられましたなあ」
六さんは思いがけない邂《かい》逅《こう》に、顔を紅潮させた。
「坊っちゃま、お久しぶりでございます」
六さんは立ち上がってあらためて頭をていねいに下げた。そのとたん、汽車の動揺に足がよろけて三堀の肩に手をついた。
「や、これはどうもとんだご無礼をいたしました」
三堀はニヤッと笑って、頭をふった。坊っちゃまと呼ばれている信夫の育ちに、三堀はかすかな反発を覚えた。
「ところで坊っちゃま。どうしてこんなエゾなんぞにいらっしゃいました」
「友だちが札幌にいましてね」
「ほう、で、鉄道にお勤めで」
服装でそれはひと目でわかる。
「旭川に勤めています」
「へえー、旭川にねえ。本郷のお屋敷は、それでは……」
「母と妹夫婦が住んでおりますよ」
「おかあさまが? ああ、そうそう、ごいんきょ様が突然亡《な》くなられてから、どうもわたしは足が遠のいてしまいまして。そうでしたな。きれいな奥さまという評判でしたなあ。しかし、なんですな。お宅のごいんきょ様は、わたしみたいな者にも、ずいぶんとご親切でしたな」
信夫は本郷の家の勝手口で、六さんといつまでも話していた祖母の姿をなつかしく思い出した。
「坊っちゃま。あれから何年になりますかなあ」
「わたしが十の時に祖母が亡くなったのですから、もうかれこれ二十年になりますね」
「ほう、二十年! 二昔も前のことになりましたかねえ。それじゃわたしの頭がはげるのも無理はありませんわ」
六さんは額をたたいた。
「いいえ。ちっとも変わっておりませんよ。ひと目見て六さんだとわかりましたから」
信夫は内心、虎雄のその後を聞きたかった。だが、あの裁判所の廊下で会った捕《ほ》縄《じよう》を取られた姿が思い出されて、聞くことがはばかられた。
「うちの虎雄も、坊っちゃまに仲よく遊んでいただいたものでしたなあ」
問うより先に六さんが言った。
「お元気ですか、虎ちゃんは」
「ありがとうございます。あいつも一時は、ぐれましてねえ。家内がだらしのない奴で、そっちに似たんでしょうかねえ。坊っちゃま、虎雄には泣かされましたよ。しかしおかげさんでね、いま札幌の小間物屋に勤めましてね。子供も二人おります。まあ何とかまじめにやっておりますよ」
「それはよかった。札幌にいるとはちっとも知らなかったですね」
ホッとして信夫はうなずいた。しかし、あの裁判所の廊下で顔をそむけた虎雄が、自分に素直に会いたがるだろうかと思いもした。
「ところで坊っちゃまは、お子さんは何人で?」
「いや、まだ独《ひと》り身《み》ですよ」
「ほう、まだ奥さまをおもらいにならない?」
キセルにたばこをつめる手をとめて、六さんはあらためて信夫の顔を見た。信夫は、きょう結納をいれることを思い微笑した。
「しかし坊っちゃま。坊っちゃまは亡くなった旦那様によく似てまいりましたなあ。いや、ごりっぱにおなりになりました」
「おやじにですか」
母親似と思っていただけに、信夫は意外であった。
「さようでございますよ。旦那様はよくできたお方でいらっしゃいました。わたしどもにも頭が低くて、いつぞやはホラ両手をついて、わたしなんぞにあやまってくださったことがございましたな」
「そう言えば、そんなことがありましたね」
信夫は頭をかいた。そのことは、信夫もけっして忘れてはいない。物置の屋根から、なにかのことで虎雄に突き落とされた時のことだった。信夫は、虎雄に落とされたのではない、町人の子になんか突き落とされたりはしないと言って、父親に頬を力一ぱい打たれたことを覚えている。どうしてもあやまらない自分に代わって、父が、虎雄と六さんにあやまった姿を、信夫はなつかしく思い出した。
「坊っちゃま、お気を悪くなさらないでくださいよ。坊っちゃまは、きかん気のどこか鋭い子供さんでしたが、いまはすっかり円満なお顔になられましたなあ」
三堀は、またニヤリと笑って信夫を見た。車内には、ひとつしかダルマストーブが燃えていないが、凍《い》てついていた窓の氷もいつのまにかとけ、乗客たちはそれぞれなごやかに話し合っていた。
「おや? もう和寒をとうに過ぎたんでしょうかね」
六さんは、妻が五年前に死んだこと、虎雄の短気な性格に手こずったことなどをしばらく話した後、ひょいと窓に顔を向けて言った。
汽車はいま、塩狩峠の頂上に近づいていた。この塩狩峠は、天《て》塩《しお》の国と石狩の国の国境にある大きな峠である。旭川から北へ約三十キロの地点にあった。深い山林の中をいく曲がりして越える、かなりけわしい峠で、列車はふもとの駅から後端にも機関車をつけ、あえぎあえぎ上るのである。
「ええ、もう頂上近いはずですよ」
「おや、この汽車はうしろに機関車がついていませんよ」
六さんは後部の方を見たまま言った。
「ああ、車両が少ないからでしょうね。しかしうしろに機関車がつかないで上るのは、珍しいですね」
信夫は六さんにあいづちを打った。汽車はいまにもとまるかと思うほど、のろのろと峠をのぼっていく。客車が下から突き上げられるようで、すわっていてもきつい勾配をのぼっていくのが体にじかに伝わってくる。雑木林やエゾマツ・トドマツの原始林がゆっくりとうしろに流れていく。
「いつ通っても、けわしい峠ですな」
六さんがキセルの灰をぽんと掌《てのひら》に落とした。
「そうですね。かなりの急勾配ですよ」
窓の外にカラスが一羽、低く飛び去った。
「このあたりは、なかなかひらけませんな。虎雄なんかは、札幌から出たことがないんで、一度このあたりも見せてやらなくちゃあ」
「虎ちゃんには、ぜひ会ってみたいですねえ」
汽車は大きくカーブを曲がった。ほとんど直角とも思えるカーブである。そんなカーブがここまでにすでにいくつかあった。
「ありがとうございます。坊っちゃま、虎雄がどんなに……」
六さんがこう言いかけた時だった。一瞬客車がガクンと止まったような気がした。が、次の瞬間、客車は妙に頼りなくゆっくりとあとずさりを始めた。体に伝わっていた機関車の振動がぷっつりととだえた。と見る間に、客車は加速度的に速さを増した。いままで後方に流れていた窓の景色がぐんぐん逆に流れていく。
無気味な沈黙が車内をおおった。だがそれは、ほんの数秒だった。
「あっ、汽車が離れた!」
だれかが叫んだ。さっと車内を恐怖が走った。
「たいへんだ! 転覆するぞ――!」
その声が、谷底へでも落ちていくような恐怖を誘った。だれもが総立ちになって椅子にしがみついた。声もなく恐怖にゆがんだ顔があるだけだった。
「ナムマイダ、ナムマイダ……」
六さんが目をしっかりとつむって、念仏をとなえた。信夫は事態の重大さを知って、ただちに祈った。どんなことがあっても乗客を救い出さなければならない。いかにすべきか。信夫は息づまる思いで祈った。その時、デッキにハンドブレーキのあることがひらめいた。信夫はさっと立ち上がった。
「皆さん、落ちついてください。汽車はすぐに止まります」
壇上で鍛えた声が、車内に凜《りん》とひびいた。
「三堀君、お客さんを頼む」
興奮で目だけが異様に光っている乗客たちは、食いつくように信夫のほうを見た。だがすでに信夫の姿はドアの外であった。
信夫は飛びつくようにデッキのハンドブレーキに手をかけた。信夫は氷のように冷たいハンドブレーキのハンドルを、力いっぱい回し始めた。
ハンドブレーキは、当時の客車のデッキごとについていた。デッキの床に垂直に立った自動車のハンドルのようなものだった。
信夫は一刻も早く客車を止めようと必死だった。両側に迫る樹々が飛ぶように過ぎ去るのも、信夫の目にははいらなかった。
次第に速度がゆるんだ。信夫はさらに全身の力をこめてハンドルを回した。わずか一分とたたぬその作業が、信夫にはひどく長い時間に思われた。額から汗がしたたった。かなり速度がゆるんだ。
信夫はホッと大きく息をついた。もう一息だと思った。だが、どうしたことか、ブレーキはそれ以上はなかなかきかなかった。信夫は焦燥を感じた。信夫は事務系であった。ハンドブレーキの操作を詳しくは知らない。操作の誤りか、ブレーキの故障か、信夫には判断がつかなかった。とにかく車は完全に停止させなければならない。いま見た女子供たちのおびえた表情が、信夫の胸をよぎった。このままでは再び暴走するにちがいない。と思った時、信夫は前方約五十メートルに急勾配のカーブを見た。
信夫はこん身の力をふるってハンドルを回した。だが、なんとしてもそれ以上客車の速度は落ちなかった。みるみるカーブが信夫に迫ってくる。再び暴走すれば、転覆は必至だ。次々に急勾配カーブがいくつも待っている。たったいまのこの速度なら、自分の体でこの車両をとめることができると、信夫はとっさに判断した。一瞬、ふじ子、菊、待子の顔が大きく目に浮かんだ。それをふり払うように、信夫は目をつむった。と、次の瞬間、信夫の手はハンドブレーキから離れ、その体は線路を目がけて飛びおりていた。
客車は無気味にきしんで、信夫の上に乗り上げ、遂ついに完全に停止した。
吉川は、午後から仕事を休もうと思っていた。きょうは、長い間待っていたふじ子の結納の日である。吉川はつい頬のゆるむのをこらえることができなかった。
「おい、吉川。思い出し笑いは高いぞ」
同僚にからかわれるほど、吉川はいく度か信夫とふじ子のことを思って微笑した。夕方には、信夫と仲人の和倉夫妻が札幌に着くはずである。吉川はふじ子と共に駅まで迎えに出る約束になっている。
吉川のいまの仕事は小荷物係だ。吉川が客の荷物を受け付けている所に、運輸事務所の山口という友人が駆けこんで来た。山口は、鉄道キリスト教青年会の会員である。
「吉川さん! たいへんだ」
「なんだい、弁当でも忘れて来たのか」
吉川は冗談を言った。
「吉川さん。驚くなよ。いいか、驚くなよ」
「何だい」
客から受け取った小荷物をぶら下げたまま、吉川は眉をひそめた。山口の顔が真っ青だった。
「あのね、永野さんが……永野さんが……」
山口の声が涙で消えた。
「何! 永野がどうしたって?」
「死んだ」
「死んだ!?」
吉川がどなるように聞き返した。山口は吉川の肩にしがみついて泣いた。山口は、他の青年会の会員たちと同様に、心から信夫を慕っていた。
「そんな馬鹿な!」
きょうは信夫とふじ子の結納の日ではないか、死んでたまるかと吉川は思った。
「何かのまちがいじゃないのか」
山口は力なく頭を横にふった。
「まちがいじゃありません。旭川から電話が来たんです。事務所に行って聞いてください」
吉川は、持っていた小荷物を床にほうり投げると、運輸事務所の方に走り出した。途中でだれかに突き当たった。しかし、吉川はそれにも気づかなかった。
事務所に一歩はいると、吉川はひと目で信夫の死を知った。机に向かっている者は一人もいない。あっちに一かたまり、こっちに一かたまり、だれもが興奮していた。号泣している者もある。吉川の顔を見て、三、四人走って来た。
「永野さんが……」
「どうしたんだ!?」
「犠牲の死です」
若い青年が叫んだ。そこで吉川は、人々から事件のあらましを聞かされた。吉川は呆然とした。線路の上に飛びおりた信夫の姿が鮮やかに目に浮かんだ。純白の雪に飛び散った信夫の鮮血を、吉川は見たような気がした。信夫にふさわしい死に方のような気がした。とうの昔に、こんな死を、吉川は知っていたような気がした。激しい衝撃と共に、心のどこかに、揺らがないひとところがあった。全身をゆさぶられるような衝撃のはずなのに、心のひとところだけは、きわめて静かだった。それは、信夫を知っている吉川の友情であったかもしれない。
「旭川に行かせてください」
「ぼくも行きます」
「いや、ぼくが行きます」
運輸主任を囲んで、興奮した青年たちが哀願していた。その中をかきわけるように、吉川は運輸主任の前に立った。
「主任さん、永野は、ふだんいつも内ポケットに遺言を持っていたはずです。すぐ調べるように連絡してください」
「ああ、そうだってね。遺言のことも聞いたよ。永野君の血が、ベッタリと滲んでいたそうだ」
吉川は黙って頭を下げ、ボンヤリと運輸事務所を出た。ふじ子のことを思うと、吉川は文字どおり腹わたを断たれる思いだった。上司に事情を告げ、信夫の葬式まで休暇をもらって、吉川は家に向かった。どこをどう歩いて帰ったか、自分にもわからなかった。
「あら、お帰んなさい、おにいさん。どうしたの? とても顔色が悪いわ」
ふじ子は、心配そうに吉川を見た。
「うん、頭が少し痛いんだ」
「あら、おねえさん。おにいさんが頭が痛いんだって」
ふじ子は、台所の方に向かって嫂《あによめ》を呼んだ。
「いやねえ、せっかくお祝いの日だっていうのに」
障子の向こうで、明るい声だけが返って来た。
「修が頭が痛いって。へその緒を切って以来の話だね。風邪でもひいたんじゃないの」
今夜の祝いの仕度にいそがしい吉川の母も、吉川の妻も、台所から声をかけただけであった。
「おふとん敷いてあげましょうか」
ストーブのそばに、どっかとあぐらをかいた吉川の顔を、ふじ子がのぞきこんだ。
「いいよ」
吉川は、せめて昼食が終わるまで、信夫の死を知らせるまいと心に決めた。信夫の死を聞いたならば、あといく日も食事をとらなくなることだろう。せめてこの昼だけでも、しあわせな食事をさせてやりたいと、吉川は思った。
「あのね、おにいさん。きょうね、とっても変なことがあったのよ。屋根の上に、大きな石でも落ちたみたいに、ドカーンって、それはたいへんな音がしたの」
「それは何時ごろだ?」
吉川は、うつむいたままつぶやくように低い声で聞いた。ここで驚いてはならないと、自分の首の根を、自分自身でおさえつけるように、吉川は自分のあぐらの中に目を落としていた。
「おかあさん、さっきの変な音、何時ごろだったかしら?」
「さあ、十時ごろだったかしらね、文明開化の世になると、いつどこに大砲が落ちるかわかりゃしない」
くったくのない声だった。
昼食が始まった。
「永野さんたちは、旭川を出たころかねえ、修」
吉川は黙って、飯を口に運んだ。何の味もなかった。
「お前、ほんとうに工合が悪そうだねえ」
吉川の母は、初めて心配そうに言った。
「うん」
「今夜はおめでたいんですからね。元気を出してくださいよ」
吉川は、耐えかねてガラリと箸を落とした。
ハッとして、ふじ子も母も、吉川の妻も彼を見た。
「どうしたの、あなた? 工合が悪いの」
吉川の妻は、手を伸ばして吉川の額に手をあてた。
「少し疲れたんじゃないのかい、修」
「おにいさん、おやすみになったら?」
母とふじ子が、口々に言って心配そうに吉川の顔をのぞきこんだ。うつむいている吉川の肩がふるえた。これ以上黙っていることはできなかった。
「ふじ子! おかあさん!」
思い切ったように吉川は顔を上げた。
「実は二時の汽車で、旭川に行って来ようと思うんだ」
どう切り出してよいか吉川にはわからなかった。
「旭川に? いったい、どうしたの」
母は不安そうに吉川を見、ふじ子を見た。
「おにいさん、あの……もしかしたら永野さんが……結納のことで……」
ふじ子は言いよどんだ。
「まさか、永野さんがいまになって、ふじ子をいやだなんて言い出すわけはありませんよ」
吉川の母は、ふじ子を慰めるように言った。下唇をかんだ吉川の顔が歪《ゆが》んだ。
「実はね……実は……」
何としても次の言葉が出なかった。
「どうしたというの、修」
「うん、実はきょう、塩狩峠でね、鉄道事故があったんだよ。一番うしろの汽車が離れて、あの峠を暴走したんだ」
「まあ、じゃ転覆でもしたの。永野さんがそれに乗っていたの」
母親はたたみかけた。
「客はね、全員助かったんだよ。永野が助けたんだ」
「助けるって、どうやって? おにいさん」
「うん、永野はね……永野はね……。ふじ子、永野は自分が汽車の下敷きになって、汽車をとめたんだ。そして乗客全部の命を助けたんだ」
吉川は、ふじ子の顔を見ることができなかった。
「じゃ、修! 永野さんは亡くなったの!?」
叫んだのは母親だった。
「うん、死んだ。ふじ子、永野は立派に死んだんだよ。立派になあ」
ふじ子は、唇まで蒼白だった。驚《きよう》愕《がく》が極《きわ》まって、能面のように無表情だった。
「ふじ子!」
「ふじ子さん!」
母親と吉川の妻が、ワッと泣き伏した。吉川は恐る恐るふじ子を見た。呆然と、うつろに目を見ひらいているふじ子に、吉川は叫んだ。
「ふじ子! しっかりするんだ」
ふじ子はまばたきもしなかった。
夕刻まで、ふじ子は同じ場所に凝然とすわっていた。ふじ子の一切の機能が全く停止したようであった。驚くことも悲しむことも、ふじ子にはできなかった。吉川は、きょう旭川に行くことを取りやめた。文字どおり魂のぬけがらのようになっているふじ子のそばに、吉川は付き添っていた。
話しかけても、肩をゆすぶっても、ふじ子は何の反応も示さない。吉川は内心、ふじ子が信仰を持っていることにいくらか安心していた。一時は悲しんでも、信仰はふじ子を支えるだろうと思っていた。
だが、吉川は不安になって来た。ふじ子は悲しみもせず、泣きもしない。
(気が狂ったのか!)
いく度かそう思いながら、吉川は大きな拳《こぶし》で涙をぐいと拭《ぬぐ》った。
夕方になって、ふじ子がふらふらと立ち上がった。
「どこへ行くんだ、ふじ子」
ふじ子は黙って、角巻を着た。
「どこへ行くんだ?」
「駅まで」
かすかな声だった。吉川と母たちは顔を見合わせた。完全に気が狂ったと思った。
「ふじ子! 駅まで何しに行くの」
涙で真っ赤にはれあがった瞼《まぶた》を、吉川の母はふじ子に向けた。
「永野さんをお迎えに」
ふじ子は障子をあけて、影のように玄関に出た。
「ふじ子、おれも行く」
吉川は外套をひっかけてふじ子につづいた。もう暮れ始めている街を、吉川はふじ子を抱えるようにして歩いて行った。僅《わず》か四、五丁程の駅までの道が、吉川にはひどく遠い道に思われた。
ふじ子は駅につくと、改札口によりかかって、ぼんやりと立った。やがて汽車が、定刻どおりにプラットホームに入って来た。定時に汽車が着いた事実にも、吉川の胸は張り裂ける思いだった。
両手に荷物を持った男、丸《まる》髷《まげ》の女、どじょうひげの官員、紫の袴をはいた女学生、ぞろぞろと汽車をおりてくる一人一人に目をやりながら、吉川の顔がくしゃくしゃに歪んだ。当然、永野信夫もこの人たちにまじって、改札口に近づいてくるはずだった。あのいつもの、にこやかな笑顔を見せて、「よう、ごくろうさん」と声をかけて近よってくるはずだった。そして、初めて信夫を駅に迎えるふじ子に、やさしい言葉をかけてくれるはずだった。しかも一時間後には、めでたく結納の祝宴が張られるはずではなかったか。吉川は涙を流すまいとして、目を大きくひらきながらふじ子を見た。
ふじ子は、熱心に伸び上がるように、改札口に近づいてくる一人一人を見つめている。
ふじ子は、信夫の死を信ずることができなかった。約束どおりこの汽車で、信夫が来るにきまっている。えんじの角巻を着て、迎えに出ると約束した以上、自分は改札口で信夫を待っていなければならないと、ふじ子は思った。だがどの顔も、信夫の顔ではなかった。最後の一人も改札口を出て行った。
と、その時だった。ふじ子は、汽車から信夫がおりてくるのを見た。ハッキリと見た。いつものやさしい笑顔をふじ子はハッキリと見た。
「あっ、信夫さん」
ふじ子はニッコリと笑って手を上げた。だが、信夫の姿はたちまちかき消すように見えなくなった。次の瞬間、ふじ子は崩れるように吉川の腕の中に気を失った。
ふじ子と吉川は、塩狩峠の信号所で、汽車からおろしてもらった。
「ポーッ」
汽車は二人に別れを告げるように、大きく汽笛を鳴らして信号所を離れた。汽車の黒い煙が、落ち葉の匂う雑木林に消えるまで、二人はおり立った所に立ちつくしていた。
五月二十八日、信夫が逝《い》った二月二十八日から、ちょうど三カ月たったきょうである。
信夫の死は、鉄道員たちは勿論、一般の人たちにも激しい衝撃を与えた。ふろ屋に床屋に、信夫のうわさは賑わい、感動は感動を呼んだ。
「ヤソは邪教だと思っていたが、あんな立派な死に方をする人もあるんだなあ。ヤソも悪い宗教とは言えんなあ」
そう人々は語り合った。キリスト信者になれば、勘当もされかねない時代である。だが信夫の死は、その蒙《もう》を切りひらいた。そればかりではなく、旭川・札幌を中心とする鉄道員たちは、一挙に何十名もキリスト教に入信した。その中にあの三堀峰吉もあった。
三堀は、信夫の死を目のあたり見たのだった。客車が暴走し、誰もが色を失い、三堀もまた夢中で椅子の背にしがみついた。しがみつきながら、ひょいと見た三堀の目に、静かに祈る信夫の姿があった。それはほんの二、三秒に過ぎなかったかも知れない。しかしその姿は、実に鮮やかに三堀の脳《のう》裡《り》に焼きつけられた。つづいて凜然と、いささかの乱れもなく乗客を慰《い》撫《ぶ》した声。必死にハンドブレーキを廻していた姿。つとふり返って、三堀にうなずいたかと思うと、アッという間もなく線路めがけて飛びおりて行った姿。そのひとつひとつを、客車のドア口にいた三堀は、ハッキリと目撃したのだった。
人々は、汽車が完全にとまったことが信じられなかった。恐怖から覚めやらぬ面持ちのまま、誰もが呆然としていた。
「とまったぞ、助かったぞ」
誰かが叫んだ時、不意に泣き出す女がいた。つづいて誰かが信夫のことを告げた時、乗客たちは一瞬沈黙し、やがてざわめいた。ざわめきはたちまち大きくなった。バラバラと、男たちは高いデッキから深い雪の上に飛びおりた。真っ白な雪の上に、鮮血が飛び散り、信夫の体は血にまみれていた。客たちは信夫の姿にとりすがって泣いた。笑っているような死に顔だった。
三堀は、死の直前まで信夫を嘲《ちよう》笑《しよう》し、信夫に反発していた自分が責められてならなかった。この信夫の死が、三堀を全く一変させた。
葬儀は三月二日、旭川の教会においてとり行われた。会衆は会堂の外にまで溢れ、その中には信夫を慕って泣く日曜学校の生徒の可憐な姿もあった。司会者が信夫の遺言状を読みあげた。その遺書は、入信以来新年毎《ごと》に書きあらため、信夫が肌身離さず持っていた遺言状であった。血糊がべっとりとついていたありさまを司会者は語った後、その遺言状は読みあげられた。
遺言
一、余は感謝して凡《すべ》てを神に捧ささぐ。
一、余が大罪は、イエス君に贖《あがな》はれたり。諸兄姉よ、余の罪の大小となく凡てを免《ゆる》されんことを。余は、諸兄姉が余の永眠によりて天父に近づき、感謝の真義を味ははれんことを祈る。
一、母や親族を待たずして、二十四時間を経ば葬られたし。
一、吾《わが》家の歴史(日記帳)その他余が筆記せしもの及信書(葉書共)は之《これ》を焼棄のこと。
一、火葬となし可及的虚礼の儀を廃し、之《これ》に対する時間と費用とは最も経済的たるを要す。湯《ゆ》灌《かん》の如《ごと》き無益なり、廃すべし。履歴の朗読、儀式的所感の如き之を廃すること。
一、苦楽生死、均《ひと》しく感謝。
余が永眠せし時は、恐縮ながらここに認《したた》めある通り宜《よろ》しく願上候、頓《とん》首《しゆ》
永 野 信 夫
愛兄姉各位
遺言状が読みあげられると、全会衆のすすり泣く声が会堂に満ちた。
柩《ひつぎ》が会堂を出た時、人々はそれを担《にな》おうとして吾先にと駆けよった。郊外の墓地まで担って行こうというのである。その中に父を助けられた虎雄の姿があった。三堀も、吉川もその一部をかついでいた。大勢が担っているので、柩は軽かったが、その死は心にめりこむように重かった。
一カ月後に、信夫の遺言状と写真が、鉄道キリスト教青年会から絵葉書となって関係知人に配られ、更に多大の感銘を与えた。
吉川は三堀が言った言葉を思い出した。
「ぼくの見た永野さんの犠牲の死は、遺言状よりも何よりも、ぼくにとってずっと大きな遺言ですよ」
その後の三堀の人格の一変が、それを如実に物語っている。
和倉礼之助は、それまで聖書を手にとったこともなかったが、信夫を愛することにおいて人後に落ちなかった。彼は信夫の死後一カ月というもの、毎朝一里余の道を信夫の墓地まで日参した。和倉は、息子にでも死なれたかのように、ゲッソリと痩《や》せた。だが近頃は、聖書を読み始めたということを、吉川は聞いた。
「これからは、ふじ子さんに時々聖書の勉強を習いに行きますよ」
この間、四十九日の席で会った時、和倉は痩せた自分の頬をなでてそう言った。
塩狩峠はいま、若葉の清《すが》々《すが》しい季節だった。両側の原始林が、線路に迫るように盛り上がっている。タンポポがあたり一面に咲きむれている。汗ばむほどの日ざしの下に、吉川とふじ子は、遠くつづく線路の上に立って彼方をじっと眺めた。かなりの急勾配だ。ここを離脱した客車が暴走したのかと、いく度も聞いた当時の状況を思いながら吉川は言った。
「ふじ子、大丈夫か。事故現場までは相当あるよ」
ふじ子はかすかに笑って、しっかりとうなずいた。その胸に、真っ白な雪柳の花束を抱きかかえている。ふじ子の病室の窓から眺めて、信夫がいく度か言ったことがある。
「雪柳って、ふじ子さんみたいだ。清らかで、明るくて」
そのふじ子の庭の雪柳だった。
ふじ子はひと足ひと足線路を歩き始めた。どこかで藪《やぶ》うぐいすがとぎれて啼《な》いた。最初信夫の死を聞いた時、ふじ子は驚きのあまり、自失した者のようになった。ふじ子は改札口で、たしかに信夫を見たと思った。信夫はふじ子にとって、単なる死んだ存在ではなかった。失神から覚めた時、ふじ子は自分でもふしぎなくらい、いつもの自分に戻っていた。大きな石が落ちたようなあの屋根の音は、まさしく信夫の死んだ時刻に起きたふしぎな音だった。改札口で見た信夫と言い、あの大きな音と言い、やはりふじ子は、信夫が自分のもとに戻って来たとしか思えなかった。そして、そう思うことで、ふじ子は深く慰められた。
ふじ子は、ふだん信夫が語っていた言葉を思った。
「ふじ子さん、薪《まき》は一本より二本のほうがよく燃えるでしょう。ぼくたちも、信仰の火を燃やすために一緒になるんですよ」
「ぼくは毎日を神と人のために生きたいと思う。いつまでも生きたいのは無論だが、いついかなる瞬間に命を召されても、喜んで死んでいけるようになりたいと思いますね」
「神のなさることは、常にその人に最もよいことなのですよ」
いまふじ子は、思い出す言葉のひとつひとつが、大きな重みを持って胸に迫るのを、あらためて感じた。それは信夫の命そのままの重さであった。
ふじ子は立ちどまった。このレールの上をずるずると客車が逆に走り始めた時、この地点に彼はまだ生きていたのだと思った。そう思うと言いようのない気持ちだった。だが彼は、自分の命と引き代えに多くの命を救ったのだ。単に肉体のみならず、多くの魂をも救ったのだ。いま、旭川・札幌において、信仰ののろしが赤々とあがり、教会に緊張の気がみなぎっている。自分もまた信仰を強められ、新たにされたとふじ子は思った。ふじ子の佇《たたず》んでいる線路の傍に、澄んだ水が五月の陽に光り、うす紫のかたくりの花が、少し向こうの木陰に咲きむれている。
ふじ子はそっと、帯の間に大切に持って来た菊の手紙に手をふれた。信夫の母菊は、本郷の家をたたんで、大阪の待子の家に去った。大阪は菊のふるさとでもある。
「ふじ子さん。
お手紙を拝見いたしまして、たいそう安心をいたしました。あなたが、信夫の生きたかったように、信夫の命を受けついで生きるとおっしゃったお言葉を、ありがたくありがたく感謝いたします。信夫は幼い時からキリスト教が嫌いでございました。東京を出る時も、まだキリストのことを知りませんでした。これはすべて、わたくしの不徳のいたすところでございます。ふじ子さんの純真な信仰と真実が、信夫を願いにまさる立派な信者に育ててくださったのです。
ふじ子さん、信夫の死は母親として悲しゅうございます。けれどもまた、こんなにうれしいことはございません。この世の人は、やがて、誰も彼も死んで参ります。しかしその多くの死の中で、信夫の死ほど祝福された死は、少ないのではないでしょうか。ふじ子さん、このように信夫を導いてくださった神さまに、心から感謝いたしましょうね……」
暗記するほど読んだこの手紙を、ふじ子は信夫の逝った地点で読みたいと思って、持って来たのだった。
郭《かつ》公《こう》の啼く声が近くでした。郭公が低く飛んで枝を移った。再びふじ子は歩き出した。いたどりのまだ柔らかい葉が、風にかすかに揺れている。
(信夫さん、わたしは一生、信夫さんの妻です)
ふじ子は、自分が信夫の妻であることが誇らしかった。
吉川は、五十メートルほど先を行くふじ子の後から、ゆっくりとついて行った。
(かわいそうな奴)
不具に生まれ、その上長い間闘病し、奇跡的にその病気に打ち克かち、結婚が決まった喜びも束の間、結納が入る当日に信夫を失ってしまったのだ。
(何というむごい運命だろう)
だが、そうは思いながらも、吉川はふじ子が、自分よりずっとほんとうのしあわせをつかんだ人間のようにも思われた。
「一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯《ただ》一つにて在《あ》らん」
その聖書の言葉が、吉川の胸に浮かんだ。
ふじ子が立ちどまると、吉川も立ちどまった。立ちどまって何を考えているのだろう。吉川はそう思う。ふじ子がまた歩き始めた。歩く度《たび》に足を引き、肩が上がり下がりする。その肩の陰から、雪柳の白が輝くように見えかくれした。
やがて向こうに、大きなカーブが見えた。その手前に、白《しら》木《き》の柱が立っている。大方受難現場の標《しるべ》であろう。ふじ子が立ちどまり、雪柳の白い束を線路の上におくのが見えた。が、次の瞬間、ふじ子がガバと線路に打ち伏した。吉川は思わず立ちどまった。吉川の目に、ふじ子の姿と雪柳の白が、涙でうるんでひとつになった。と、胸を突き刺すようなふじ子の泣き声が吉川の耳を打った。
塩狩峠は、雲ひとつない明るいまひるだった。
「兄弟よ、世は汝らを……」 新約聖書の「ヨハネの第一の書」第3章13〜16節。
廃兵 戦争で負傷し、身体障害者となった兵士のこと。
あとがき
昭和十四年、わたしたちの旭川六条教会月報に、当時の小川牧師はこう書いている。
「いまを去ること満三十年前、明治四十二年二月二十八日は、私共の忘れることのできぬ日であります。即ちキリストの忠僕長野政雄兄が、鉄道職員として、信仰を職務実行の上に現し、人命救助のため殉職の死を遂げられた日であります」
死後三十年と言えば、普通近親の者にも忘れ去られる年月ではないだろうか。長野政雄氏の死は、いかに後々まで多くの人に大きな感銘を与えたことであろう。
他教会から六条教会に転じたわたしが長野政雄氏のことを知ったのは、昭和三十九年七月初めのことであった。同じ旭川六条教会の、現在八十九歳になられる藤原栄吉氏宅を訪問した際、氏はわたしに信仰の手記を見せてくださった。その中に、若き日の藤原氏を信仰に導いた長野政雄氏の生涯が書かれてあった。わたしは長野政雄氏の信仰のすばらしさに、叩きのめされたような気がした。深く激しい感動であった。
「そうか、こんな信仰の先輩が、わたしたちの教会に、現実に生きておられたのか」
わたしは、それ以来毎日長野政雄氏のことを思いつづけた。そして、小説の構想を考え、氏に関する資料を調べてみた。残念ながら資料は少なかった。氏の遺言により、その手紙や日記帳は一切焼却されたということだったし、血縁の人の行方もわからなかった。ただ僅かに、氏の死後発行された「故長野政雄君の略伝」という小冊子、氏の写真と、遺言の載っている記念の絵葉書が二枚、そして旭川六条教会史の氏に関する短い記録、及び追悼の言葉に過ぎなかった。
わたしの書いた「塩狩峠」の主人公永野信夫は、いうまでもなく小説の中の永野信夫であって、実在した長野政雄氏その人そのままではない。実在の長野政雄氏のほうが、はるかに信仰厚く、且つ立派な人であった。わたしはさらに、長野氏の人柄やエピソードを、先に述べた資料の中から少しく紹介して後記に代えようと思う。なぜなら長野政雄氏は、永野信夫の原型であるからである。
長野政雄氏は実に質素な人であった。
「庶務主任と言えば、相当の地位であったが、いつもみすぼらしい風態をしておられた」
と、同じ下宿だったある信者が述懐しているとおり、洋服などもほとんど新調しなかったらしい。また非常に粗食で、弁当のお菜なども、大豆の煮たものを壺の中に入れておき、一週間でも十日でもその大豆ばかり食べていたという。というと、甚だ吝《りん》嗇《しよく》に思われるかも知れないが、決してそうではなかった。氏は国元の母に生活費を送り、その外に教会には常に多額の献金をしていた。その献金額は、裕福な実業家信者よりも多かったと聞く。日露戦争の功により、金六十円を下《か》賜《し》された時、氏はこれをそっくりそのまま旭川キリスト教青年会の基本金に献じた。当時の六十円と言えば、いまのどれほどにあたるか、氏は決して金を惜しんで質素だったのではない。
長野政雄氏の信仰に熱心だったことは、その教会の各集会のすべてに出席したという一事でもわかる。しかもその集会の往復には、計画的にその道を考え、必ず人々を教会に誘ったとのことである。また、しばしば自費で各地に伝道し、鉄道キリスト教青年会を組織した。その話は火のように激しかったと伝えられる。
しかし氏は、教会にだけ熱心であったのではない。職場においても、氏はまことに優秀な職員であった。氏の在職中、運輸事務所長は幾度か代わったが、何れの所長にも、得難い人物として深く信頼された。
「ある所長の如きは、後任の所長に『旭川には長野といふクリスチャンの庶務主任あり。これに一任せば、余事顧慮するを要せず』とさへ言ひぬと伝へられたり」
と、略伝の中に記されているのを見ても、その一端がうかがえる。
但し、単に上司にうけがよいというだけの人ではなかった。どんなに多忙でも、午後五時になれば部下を全部帰し、その残した仕事を深夜に至るまでも処理して怠らなかったという。何しろ現代とちがい、超勤手当など一銭も出なかった時代である。しかもそれが、ほとんど毎晩のことだったというから、これだけでも部下を心服させずにはおかなかったのであろう。
氏はまた極めて温容の人であった。小説の中にも引用したが、略伝の言葉を再び引用しておこう。
「其の立ちて道を説くや猛烈熱誠、面色蒼白なるに朱を注ぎ、五尺の痩〓より天来の響きを伝へぬ。然るに壇をくだれば、靄《あい》然《ぜん》たる温容うたた敬慕に耐へざらしむ」
この長野政雄氏は、いかなる部下をもよく使いこなした。どこの職場にも、いわゆる余され者といわれる怠惰な、あるいは粗暴な者がいるものだが、長野政雄氏の所には、これら問題のある職員がいつも回されて来た。氏の所に送れば、すべて解決できるという定評になっていたためであった。氏の配下になると、その余され者たちはたちまちよく働くようになったというから、氏は確かに稀に見る人柄の持ち主であったにちがいない。
特に次のエピソードは、わたしの心を強く打った。これは氏が札幌に勤務中の時の話である。
職場にAという酒乱の同僚があった。彼は、同僚や上司からは無論のこと、親兄弟さえからも、甚だしく忌み嫌われていた。Aは益々酒を飲み、遂には発狂するに至った。当然職を退かざるを得ない。Aの親兄弟は病気の彼を見捨てた。ところが一人長野政雄氏は、親兄弟も顧みない狂人のAを、勤務の傍ら真心こめて看護し、彼に尽くしてやまなかった。飲めばからみ、乱暴を働くだけのAを、氏は決して見捨てなかった。しかも遂に全治するまで看護しつづけたのである。
全治するやいなや、長野氏は上司に対してAの復職を懇願した。これは小説の中の三堀の場合よりも(この三堀の一件も、長野氏の体験をもとにして書いた)はるかに困難なことであったろう。しかし長野氏のふだんがふだんである。上司も氏の人格と熱誠に打たれ、遂にこれを聞きいれ、その復職を認めた。氏は直ちに苗穂村に一軒の家を借り受け、Aと共に自炊生活を営み、その指導援助をつづけ、遂に全くAを立ち直らせたのである。略伝にはこれについて次のように書いてある。
「ともかく、子供よりも導くに困難なる友を、一身に引受けて教導訓育せるの美挙に至っては、天父の愛を実行せる者にして、はじめて可能なるところにして、情に激して一時を救済する者などの到底なし得ざるところなり。ああ君は、かくの如くにして実行的信仰の階段を歩一歩昇り得て、遂に純金の生涯に達せられたるなり」
また、六条教会員の山内氏は語っている。
「君は愛の権化と言ひて可なり」と。
純金の生涯、愛の権化とまで、当時の友人たちが書き記さずにはいられなかった長野氏の日常生活は、実に想像に余りある。
氏はまた甚だ勇気の人でもあった。北海道の伝道に尽くされた宣教師ピアソン先生が、スパイの嫌疑を受けたことがあった。日露戦争前後の頃のことである。たちまち人々の反感と憎悪を買い、小学生までがピアソン先生の家に投石するという事態におちいった。
長野氏はこれを深く憂い、直ちに新聞に投書してピアソン先生の人格と使命を訴え、また警察に自ら出頭して誤解を解くために努め、奔走した。それが当時、いかに勇気のいることであったかは想像に難くない。
この長野政雄氏が、塩狩峠において犠牲の死を遂げたのである。鉄道、教会等の関係者はもちろんのこと、一般町民も氏の最期に心打たれ、感動してやまなかった。氏の殉職直後、旭川・札幌に信仰の一大のろしが上がり、何十人もの人々が洗礼を受けた。藤原栄吉氏なども、感動のあまり、七十円の貯金を全部日曜学校のために捧げたという。
きょうもまた、塩狩峠を汽車は上り下りしていることであろう。氏の犠牲の死を遂げた場所を、人々は何も知らずに、旅を楽しんでいることだろう。だが、この「塩狩峠」の読者は、どうかあの峠を越える時、キリストの僕《しもべ》として忠実に生き、忠実に死んだ長野政雄氏を偲んでいただきたい。そして、氏が新年毎に書き改めては、肌身離さず持っていた遺言の、
「余は諸兄姉が、余の永眠によりて、天父(神)に近づき、感謝の真義を味わわれんことを祈る」
という一条を心をひそめて思い出していただきたい。
最後に、この小説を書くために何かと御配慮くださった藤原栄吉氏、草地カツ姉、祈りをもって励ましてくださった教会内外の諸兄姉、二年半にわたる小説連載中、数々のご協力をいただいた「信徒の友」編集部の方々、挿絵を描いてくださった中西清治兄、単行本発刊のために、ひとかたならぬお心くばりをいただいた新潮社の桜井信夫氏にあらためて厚く御礼を申しあげたい。
補遺
「塩狩峠」を出版した後、ある人から疑問が寄せられた。それは、長野政雄氏の死は、ハンドブレーキの操作の誤りによる過失死であって、自らその命を投げ出したのとは違うのではないか、作者は殊更に事実を美化したのではないか、という疑問であった。
長野政雄氏の死には、幾通りかの説があったようだ。一つは自殺説。これは彼が遺言をその内ポケットに秘めてあったということによる憶測から出たものらしい。つまり長野氏が、クリスチャンとして、いつでも神と人とのために死ぬ心構えを持っていたということが、一般の人には理解され難かったために出た説であろう。
二つにはハンドブレーキ操作ミスの過失死説である。この説を取った背景には、少々複雑なものが考えられる。調べたところによれば、当時官権力の強い時代にあって、連結器の不備を他から衝《つ》かれることを避けようと謀らったふしがある。これは私が、直接長野氏の部下藤原栄吉氏から聞かされたことでもあった。
第三の説は、私が小説に書いたとおり覚悟の上の犠牲説である。私はいたずらに事実を美化しようとしたのではなく、当時をよく知っていた藤原氏に、幾度も念を入れて尋ねた結果を描いたまでである。藤原氏は、長野氏が線路に飛びこむ寸前、うしろをふり向きうなずいて別れの合図をしたのを目撃した者があったと語った。これは正に覚悟の死を意味していると私は受けとったのである。
さて、次に藤原栄吉氏が書かれた「旭川六条教会六十五年史」(一九六六年発行)の文章の一部と、事故当時の旭川六条教会の牧師杉浦義一氏の三男杉浦仁氏の手紙の一部を引用してみたい。杉浦仁氏の手紙は「塩狩峠」を見て著者に寄せられたものである。
藤原氏は次のように書いている。
〈……塩狩峠の上り急勾配を進行中、突然分離し、兄《けい》の乗っていた最後部の客車が急速度で元の峠の方に逆に逸走するので、脱線転覆は免れまいと乗客は総立ちとなって、救いを求め叫ぶ有様に車内は騒然たる大混乱であった。斯かる時神を信ずる者と然らざる者との相違が現われるのであろう。その時長野兄の覚悟は既に決まっていたと見え、聊かの動揺する態度はなく、思いは只乗客を救助することにのみに馳せていた時、神が示し給いしか、その客車のデッキにハンドブレーキの装備あるが目に止まるや、兄は直ちにデッキ上に出でブレーキを力一杯締め付けたため、客車の逸走速度は緩み、徐行程度になった一瞬、ハンドブレーキの反動により体の重心を失い、デッキの床上の氷に足を滑らしたのであろう、兄はもんどり打って線路上に真逆様に転落し、そこへ乗りかかった客車の下敷となり、そのため客車は完全に停止して、乗客全員無事を得たるも、兄は哀れ犠牲の死を遂げられた。この兄の犠牲の死こそは鉄道の過失の罪を負って尚余りあり、乗客は兄の死に感泣せざりしものなかりしとのことである〉
長野氏が線路に身を投ずる寸前、合図を送ったのを目撃した者があったと私に語ったとおり、この文章の前半においても、その覚悟の死を認める表現を取っている。にもかかわらず、藤原氏は後半において、結局は事故説に傾いている。それは一体何故なのか。氏の亡き今、その真意を尋ねる術もないが、これはやはり長野氏と同信のクリスチャンである藤原氏は、長野氏の死を単なる自殺と見られることを極度に恐れたからではあるまいか。遺品の中に妹への土産の饅頭があったことを書き添えてあるのも、自殺説への配慮であろう。
さて、次に杉浦仁氏の手紙を抄出する。
〈……無情な世評は「遺言」の表示に捉われて、単なる投身自殺とも伝えましたが、同乗の鉄道職員の言明によってようやく実情と真意が判明し、発生を避けられなかった多数の死の悲惨事を、一身を捨てて救い得た人間業とは覚えぬ尊さに皆々只胸を打たれ、感動を強くしたのであります〉
以上、私が取った覚悟の死説が決して根拠のないものではないことを改めて思うものである。尚、長野氏の人柄や、その夜のことについての杉浦仁氏の手紙を、今少しく引用して終わりたい。
〈……長野政雄先生は、父杉浦義一の最も信頼していた愛弟子であり、片腕でもあった関係で、ひとしお感銘深いものがあります。一個の人間像において、長野氏のようにあらゆる美徳を兼ね備えた人物は、絶無と言っても過言ではありません。どんな悪意をもってしても、長野氏の一つの欠点を指摘することはむずかしいと思います。上司、同僚、下僚、友人……彼を知る限りの人から敬され、愛され、親しまれた事実は、そのことを雄弁に物語っています。自己に対しては非常に厳格でしたが、他に対しては寛大でした。長野氏がかつて人を非難し批評したことを私は知りません〉
〈……塩狩峠の変が伝えられた夜、札幌駅の改札口に信夫の姿を見た記述が小説にありますが、同様の事実が当時教会内に起こりました。ちょうどその日二月二十八日、集会の終りに近い午後九時前後(註・事件が実際起きたのは夜であった)かと思いますが、駅からの使いで急変が知らされました。しかし、最初一同は、いっこうに驚きませんでした。なぜなら先程長野氏が遅れて来て、前方のいつもの座席で、お祈りしていたからです。改めてその席を見ると影も形もなく、初めてびっくりしたという事件がありました。私の父母がそのまま寒い雪の夜、駅に向かった記憶は今尚私の脳裏に刻まれています。
(後略)〉
(一九八三年三月十六日記す)
道ありき
(一九六七年)
われは道なり、真理《まこと》なり、生命《いのち》なり
(新約聖書 ヨハネ伝 第一四章 六節)
はじめに
わたしはこの中で、自分の心の歴史を書いてみたいと思う。
ある人は言った。
「女には精神的な生活がない」
と。果たしてそうであろうか。この言葉を聞いたのは、わたしが女学校の低学年の頃であった。その時わたしは、妙にこの言葉が胸にこたえた。なぜなら、たしかに女の話題は服装や髪形、そして人のうわさ話が多いように少女のわたしにも思われたからだ。
(女にだって魂はある。思想はある。いや、あるべきはずである)
その時わたしは、そう自分に言い聞かせた。
これは、わたしの心の歴史であって、必ずしも、事実そのままではない。というより、書けない事実もあったと言ったほうがいい。なぜなら四十代の私の自伝には、他の人にさしさわりのある場合が多いからである。人を傷つけるようなことは、極力避けるつもりである。そんなわけで何人かは仮名にした。
しかし、心の歴史である以上、わたしの精神的な生活を豊かにし、成長させ、もしくは傷つけた事柄は、なるべく事実に即して書いていきたい。話は昭和二十一年、二十四歳の時から現在に至るまでである。
一
昭和二十一年四月、たしかその日は十三日ではなかっただろうか。啄《たく》木《ぼく》忌《き》であったと記憶している。わたしの所に西中一郎から結納が届く日であった。
ところが、どうしたわけかわたしは急に貧血を起こして倒れてしまった。生まれて二十四年、かつて一度も貧血など起こしたことのないわたしであった。だから、よりによって、婚約の日に貧血を起こして倒れたということは、わたしに不吉な予感を与えた。
床の中で意識をとりもどしたわたしは、自分がどんな気持ちで婚約しようとしていたかを、反省せずにはいられなかった。実はあきれた話だが、わたしは、もう一人のTという青年とも、結婚の約束をしていたのである。つまり二重婚約ということになる。そのような荒れた生活に至ったのには理由があった。
昭和二十一年という年は、敗戦の翌年であった。その敗戦という事実と、わたし自身の問題とを語らなければ、このわたしの婚約もわかってもらえないのではないかと思う。
わたしは、小学校教員生活七年目に敗戦にあった。
わずかこの一行で語ることのできるこの事実が、どんなに日本人全体にとっては勿論、わたしの生涯にとっても、大きな出来事であったことだろう。
七年間の教員生活は、わたしの過去の中で、最も純粋な、そして最も熱心な生活であった。わたしには異性よりも、生徒の方がより魅力的であった。
授業が終わって、生徒たちを玄関まで見送る。すると生徒たちは、
「先生さようなら」「先生さようなら」
と、わたしの前にピョコピョコと頭を下げて、一目散に散って行く。ランドセルをカタカタさせながら、走って帰って行く生徒たちの後ろ姿をながめながら、わたしは幾度涙ぐんだことだろう。
(どんなに熱心に、どんなにかわいがって教えても、あの子たちにはどこよりも母親のそばがいいのだ)
わたしは、内心子供たちの親が羨ましくてならなかった。わたしは、ずいぶんきびしい教師であったけれども、子供たちは無《む》性《しよう》にかわいかった。
あるいは、こんな受け持ち教師の愛情を、母親たちは、知らないのではないだろうか。よく勉強のできる子をかわいがるとか、美しい子をひいきにするとか言って、受け持ちの教師の悪口を言う母親たちが今もいる。
しかし、一度でも生徒を受け持ってみたらわかることと思う。たしかに、最初の一週間ほどは、眉《み》目《め》かたちの美しい子や、積極的に質問する生徒は目につく。それは、目につくということであって特に目をかけるということとはちがう。
だが、一週間も過ぎると、できる子もできない子も、美しい子も目立たない子も、一様にかわいくなってくるのだから不思議である。それはちょうど、結婚したら顔のことなど、それほど気にならないような、夫と妻との関係に似ている。
わたしは生徒一人一人について、毎日日記を書いた。つまり、生徒の数だけ日記帳を持っていたことになる。生徒の帰ったガランとした教室で、山と積み重ねた日記帳の一冊一冊にわたしは日記を書きつづっていった。
「国語の時間に、突然立ち上がって、気をつけ! と号令をかけた人志君。びっくりして人志君を見つめると、頭をかいてすわった。わたしはニヤリとした。きょうは秋晴れのよい天気で、さっきから運動場で古川先生が四年生に号令をかけていられた。その号令に気をとられた人志君、たまらなくなって、自分も号令をかけてみたくなったのだろう。将来どんな青年になるか楽しみである」とか、
「図画の時間、飛行機を上手に書いていたM君。机《き》間《かん》巡視をしながら、うまいねと声をかける。鼻をすすり上げながら得意そうにほめられた飛行機を隣や後ろの友だちに見せている。やがて図画の時間も終わる頃、M君の絵は真っ黒にぬりつぶされていた。いったいどうしたのと尋ねると、M君ニコニコして、あのね先生、飛んでいるうちにすごい嵐にあったんだよ。わたしは心打たれて、黙ってM君の頭をなでた」
というような、日記が夕ぐれ近くまでわたしの仕事となる。
ひとクラス五十五、六名の生徒のうち、毎日三人か四人はどうしても印象に残らない子供が出てくる。そんなときには、翌日第一時間目にわたしはその記憶になかった子供たちに、質問をしたり本を読ませたりする。これがわたしの、受け持ち教師としての心ひそかなお詫《わ》びであったのだ。
わたし自身はかなり熱心な教師のつもりであったし、生徒をふかく愛しているつもりでもあった。だが、一課終わるまでに必ず、国語なら、クラス全員に朗読させるとか、算数なら、問題のわからない子を必ず残して、放課後教えこむとかした。これは、生徒たちにとって甚《はなは》だ迷惑な教師ではなかったかと思う。
彼らにはただ無闇にきびしいだけの先生に思われたかもしれない。そんなことのひとつに、こういうことがあった。
クラスに土井芳子という生徒がいた。その時芳子は四年生であったが、各課目とも、成績がよく、特に綴り方が上手であった。かなり大人《おとな》の感情を持っているのを、受け持ち教師として、わたしはたのもしく思っていた。
ある日の遊び時間のことであった。その子を中心に、四、五人の子供が石けりをして遊んでいた。すると、ひとりの生徒がやってきて、
「わたしも加てて」
と頼んだ。加ててとは、仲間に加えてちょうだいということである。その子は家も貧しく、成績もよくはなかった。
「知らないもん」
と、土井芳子はそっけなく答えた。
そばでわたしは他の生徒たちと、縄とびをしていたが、二人のようすに注意を払って見ていた。
「加てて芳子ちゃん」
ことわられたその子は、なおも嘆願した。しかし今度は、芳子は何も答えずにその子の顔を見ているだけであった。
「加てて、ねえ、加てて」
その子は余程石けり遊びをしたかったのであろう。三度四度と嘆願するが、芳子は、
「知らんもん」
と言ったまま、もうその子の方を見ようとはしなかった。他の子供たちは、いわば女王に仕える侍女のような態度で、何の口出しもしない。
「芳子ちゃん、一緒に遊んであげなさい」
わたしが言うと、芳子はだまってうつむいたまま答えない。その時、第三時間目の始業のベルが鳴った。
教室に入ったわたしは、教科書を開かずに、先ず芳子ちゃんの名を呼んだ。
「芳子ちゃん、一緒に遊ぶことができないのなら、一緒に勉強《し》なくてもいいんですよ」
わたしのきびしい言葉に、芳子はハッとしたようにうなだれた。
「お立ちなさい。芳子ちゃんは勉強《し》なくてもよろしい」
芳子は泣きだした。
「芳子ちゃんと一緒に遊んでいた人たちは、なぜ加ててと人が言った時、加ててあげなかったのですか」
そうは叱ったが、その子供たちはそのまま机にすわらせておいた。芳子は泣いて謝ったが、わたしは決して許そうとしなかった。この賢い子が、今身に沁みて覚えなければならないことを、わたしは叩きこんでおきたかった。とうとうその日は、芳子を教室の隅にすわらせたまま自分の席には戻さなかった。
翌日、翌々日と三日間遂に芳子は自分の席に戻ることができなかった。
わたしは心ひそかに芳子に期待していたのである。貧しいとか、成績が悪いとかいうことで、人間を差別してはいけないということを、少女のうちにしっかりと胸に刻みこんで欲しかったのである。
考えてみると、芳子には三日間もそんな罰を加える必要はなかったのだ。利口なだけにすぐに芳子はわたしの気持ちをわかってくれたはずであった。だが、わたしも若かった。芳子に期待する余り、三日間もその席にすわらせなかったのは、行き過ぎであった。
けれども、わたしは真剣であったのである。そして恐らく、遊びに加えてもらえなかった子供が、余りにもかわいそうで、わたしは心から憤っていたのかもしれない。
自分は真剣なつもりで教育をしていたが、しかし、本当のところ、まだ教育とは何かということを、よくわかってはいなかったのではないかと思う。もし、教育ということが、どんなものであるかを知っていたならば、わたしは決して教師にはならなかったにちがいない。
二
満十七歳にならないで、小学校の教師になったわたしの最初の赴任校は、ある炭鉱街にあって、四十人ほどの職員がいた。その学校は、甚だ変わった学校であった。
第一に、その出勤時間の早いこと、午前五時には校長はじめ何人かの先生が既に出勤している。本当は六時半までに行けばよいのだが、校長が五時には出勤しているからである。
ある先生が、うす暗がりの校庭に箒《ほうき》を持つ校長の姿に、
「すみません、おそくなりまして」
と言ったところ、
「あんたはいつもすまんと言うが、わしより早く来れないのかね」
と言われたことを、去年も思い出話の中で聞いた。
何しろ、戦時中のことである。国中がどこか狂っていたような時代であったから、このような学校もあったわけだろう。午前五時から六時頃まで奉《※》安殿の回りや、校庭はきれいにそれこそ箒の目が立てられる。その箒の目を踏んで登校する時の気のひけたことを今も忘れない。
午前六時半から、七時までは修養の時間とか言って、全職員は自分のための修養の本を読むのである。七時には職員朝礼である。それは教員に賜った勅《※ちよく》諭《ゆ》を奉読し、教育歌をうたう。
「真《ま》清《し》水《みず》の、よし濁《にご》ることがあろうとも
そこに咲く花を清く育てるのがわが使命である」
こんな意味の歌詞ではなかったかと思う。
うたい終わると、当番の教師が感話をする。たとえば次のような話が印象に残っている。
「雪の降る日、校庭を横切るのに、真っ直ぐに歩こうと、目標を定めて歩いて行く。目標の所に来て振り返ると、真っ直ぐに歩いたはずなのに自分の足跡はひどくあちこちに曲がりくねって歩いている」
この話をした森谷武という先生は、特に国語の力のあった先生で、わたしも尊敬していた。この言葉は、女学校を出たばかりの十七歳のわたしには、非常に含蓄のある、教えられる言葉であった。
こんな感話の後、校長が感想を述べる。朝が早いということは辛かったが、この職員朝礼はわたしにはおもしろい三十分であった。
七時から七時半まで生徒の自習時間、七時半から朝礼で二千名以上の生徒が整列して、運動場に集まり、そしてまた教室に戻るだけで優に三十分はかかる。授業の始まる午前八時には、コックリコックリ居眠りをする先生がいるという伝説が生まれたほど、何しろ出勤時間の早い学校であった。
出勤時間ひとつをとってみても、まことに恐るべき学校であり、また時代であったと言えるように思う。他はおして知るべしで、何かとおもしろい(今になってはおもしろいと言えるが……)話がたくさんある。
とにかく、女学校を卒業して、いきなり飛びこんだ社会が、出勤時間からかなり異常であったにしろ、教師というものはこのように朝早くから修養につとめ、勉強するものであるということを、疑いもなくわたしは受け入れていた。
そして、そのことは若いわたしにとって、薬にこそなれ、大した毒にはならないようにその時は思っていた。
「如何《いか》なる英雄も、その時代を超越することはできない」
という言葉がある。まして、英雄どころか、西も東もわからぬ小娘には、その時代の流れを的確につかむことはできようはずはなかった。
「人間である前に国民であれ」
とは、あの昭和十五、六年から、二十年にかけての最も大きなわたしたちの課題であった。今、この言葉を持ち出したならば、人々はげらげらと笑い出すことだろう。
そうした時代の教育は、天皇陛下の国民をつくることにあったわけである。だから、この教育に熱心であるということは、わたしの人間観が根本から間違っていたということになる。
敗戦がわたしにとって、どんな大きなものであったかと前に記した理由がわかってもらえるだろうか。
敗戦と同時に、アメリカ軍が進駐してきた。つまり日本は占領されたのである。そのアメリカの指令により、わたしたちが教えていた国《※》定教科書の至る所を、削除しなければならなかった。
「さあ、墨を磨《す》るんですよ」
わたしの言葉に、生徒たちは無心に墨を磨る。その生徒たちの無邪気な顔に、わたしは涙ぐまずにはいられなかった。先ず、修《※》身の本を出させ、指令に従いわたしは指示する。
「第一頁の二行目から五行目まで墨で消してください」
そう言った時、わたしはこらえきれずに涙をこぼした。かつて日本の教師たちの誰が、外国の指令によって、国定教科書に墨をぬらさなければならないと思った者があろうか。このような屈辱的なことを、かわいい教え子たちに指示しなければならなかった教師が、日本にかつて一人でもいたであろうか。
生徒たちは、黙々とわたしの言葉に従って、墨をぬっている。誰も、何も言わない。修身の本が終わると、国語の本を出させる。墨をぬる子供たちの姿をながめながら、わたしの心は定まっていた。
(わたしはもう教壇に立つ資格はない。近い将来に一日も早く、教師をやめよう)
わたしは、生徒より一段高い教壇の上にいることが苦痛であった。こうして、墨をぬらさなければならないというのは、一体どんなことなのかとわたしは思った。
(今までの日本が間違っていたのだろうか。それとも、日本が決して間違っていないとすれば、アメリカが間違っているのだろうか)
わたしは、どちらかが正しければ、どちらかが間違っていると思った。
(一体、どちらが正しいのだろう)
敗戦になったばかりで、日本の国は文字通り、上を下への大さわぎであった。わたしの勤めている学校にも、駐屯していた陸軍中隊があったが、敗戦と同時に、絶対服従の軍律はまるで嘘のように破れ、上官を罵《ののし》る者や、なぐる者さえ出た。
昨日までは、上官の前では、直立不動でものを言っていた兵隊が、歩き方まで、いかにも横柄であった。
(昨日までの軍隊の姿が正しいのか。それとも今の乱れたように見える姿が正しいのか。一体どちらが正しいのであろうか)
わたしにとって、切実に大切なことは、
「一体どちらが正しいのか」
ということであった。
なぜなら、わたしは教師である。墨でぬりつぶした教科書が正しいのか、それとも、もとのままの教科書が正しいのかを知る責任があった。
誰に聞いても、確たる返事は返ってこない。みんな、あいまいな答えか、つまらぬことを聞くなというような、大人ぶった表情だけである。
「これが時代というものだよ」
誰かがそう言った。時代とは一体何なのか。今まで正しいとされて来たことが、間違ったことになるのが時代というものなのか。
(わたしは七年間、一体何に真剣に打ち込んできたのだろう。あんなに一所懸命に教えてきたことが過ちなら、わたしは七年をただ無駄にしただけなのだろうか。いや、過ちを犯したということは無駄とは全くちがう。過ちとは手をついて謝らなければならないものなのだ。いや、場合によっては、敗戦後割腹した軍人たちのように、わたしたち教師も、生徒の前に死んで詫びなければならないのではないだろうか)
そんなことを考えているうちに、わたしは、わたしの七年の年月よりも、わたしに教えられた生徒たちの年月を思った。その当時、受け持っていた生徒は四年間教えてきた生徒たちであった。人の一生のうちの四年間というのは、決して短い年月ではない。彼らにとって、それは、もはや取り返すことのできない貴重な四年間なのだ。その年月を、わたしは教壇の上から、大きな顔をして、間違ったことを教えて来たのではないか。
(もし、正しかったとすれば、これから教えることが間違いになる)
どちらかわからぬことを教えるより、潔く退職して、誰かのお嫁さんにでもなってしまおうか。そんなことを考えていた矢先に、わたしの前に現れたのが、先に記した西中一郎だった。
(誰かのお嫁さんにでもなろうか)
という安易な態度で彼と婚約しようとしたわたしに、何者かが警告しようとしたのでもあろうか。結納の日に、わたしは脳貧血を起こして倒れたのである。
そして、間もなく肺結核でわたしはほんとうに倒れてしまったのである。
三
昭和二十一年三月、すなわち敗戦の翌年、わたしはついに満七年の教員生活に別れを告げた。自分自身の教えることに確信を持てずに、教壇に立つことはできなかったからである。そしてまた、あるいは間違ったことを教えたかもしれないという思いは、絶えずわたしを苦しめたからであった。
全校生徒に別れを告げる時、わたしはただ淋しかった。七年間一所懸命に、全力を注いで働いたというのに、何の充実感も、無論誇りもなかった。自分はただ、間違ったことを、偉そうに教えてきたという恥ずかしさと、口惜しさで一杯であった。
教室に入ると、受け持ちの生徒たちは泣いていた。男の子も、女の子も、おいおい声をあげて泣いている。その生徒たちの顔を見ていると、わたしは再び決して教師にはなるまいと思った。
無論、わたしも泣いた。一年生から四年生まで教えた子供たちに、限りない愛着を覚えずにはいられない。もう、ここに立って一人一人の顔を見、名前を呼ぶこともできなくなるのだと思うと、実に感無量であった。
わたしは決してやさしくはなかった。きびしいだけの教師であったかもしれなかった。けれども、弁当の時間、漬物しか持って来ない子供たちには、自分のお菜ひと切れずつでも分けてやった。分けてやらずにはいられないようなつながりが、教師と生徒というもののつながりではないだろうか。
そのうちに、わたしは校長の許可を得て、給食を始めた。あの頃は一般に給食などのない時代である。生徒に、朝の味噌汁の実を、ひとつまみずつ学校に持たせてよこすようにした。それと、味噌をほんの少々。
豆腐あり、キャベツあり、大根あり、油揚げあり、実にいろいろの実が、ひとつ鍋にぶちこまれる。それをズン胴のストーブにかけて授業をする。弁当の時間には、味噌を入れて味をととのえ、各自持参のお椀に分ける。
この味噌汁は大好評で、家では決して味噌汁を食べなかった生徒も、味噌汁好きになった。食糧のない頃の、特に寒い旭《あさひ》川《かわ》の冬のお菜として、この味噌汁は成功であった。
別れに際して、そんなこともかえって、悲しみの種となった。
(もうこの子たちに、味噌汁を作ってやることもなくなる)
何だかやめて行くことが悪いような気もした。子供たちは、どこまでも、どこまでもわたしを送って来て帰ろうとしない。とうとう、二十二、三町離れているわたしの家まで、子供たちは送ってきてくれた。
たしかその日わたしは、子供たち一人一人に、別れの手紙を手渡して来たはずである。几帳面な子なら、今もその手紙を持っていてくれることだろう。
こうして、とうとう学校を辞めてしまったわたしは、失恋したもののように、しばらく学校の回りをうろうろした。再び教壇に帰ろうとは思わなかったにしても、生徒たちの顔はひと目でも見たかった。けれども、新しい後任の教師に対して失礼だから、子供たちの顔を見に学校の中まで入ることはできなかった。授業の始まっている学校の回りを、ただうろうろしていただけであった。
そして、そんな中でわたしは西中一郎やTと婚約したのである。
二人のうちの西中一郎から結納の入る日に、わたしが脳貧血を起こしたことは前にも書いた。貧血がおさまって、気がついた時には、既に結納が入っていたのも、後で考えると、何か象徴的な気がする。とにかく何ものかに罰せられているような感じがつきまとって離れなかった。
それから一カ月半たった六月一日であった。わたしは突如、四十度近い熱を出してしまった。翌朝、目が覚めると、体じゅうの節々が痛い。わたしはてっきり、リウマチだと思った。昭和二十一年のその頃、まだあった人力車に乗ってわたしは病院に行った。医者もリウマチだと言い、ザルブロを打ってくれた。その頃は、ザルブロでもなかなか貴重な薬であった。
一週間ほどして熱も落ち着き、足の痛みもなくなったが、体は七キロ近くもやせ、微熱がなかなか去らなかった。五、六町離れている病院に通うのにも息切れがして、日に日に体は弱るばかりであった。
(もしかしたら、肺病かもしれない)
わたしは、ひそかに覚悟していた。
この頃では、肺結核と言って肺病とは言わない。肺病という言葉には、何ともたとえようのない陰気な、不吉なひびきがあった。肺結核と診断されるのは、死刑と宣告されるのと同じひびきがあったからである。
だから、その頃の医師は肺結核を肋《ろく》膜《まく》と言ったり、肺浸潤と言ったりした。その方が、幾分でも病状を軽く感じさせたからであろう。果たしてわたしも、
「軽い肺浸潤です。三カ月入院すればなおります。ただし、すぐに入院しなければ死にますよ」
と、言われた。その療養所に三カ月と言われて入院した者は、その後何年も療養しなければならなかったし、六カ月入院と言われて入った人たちのほとんどは死んだ。でも、自分たちは肺病ではなく、肺浸潤だと思っていたのだから、あわれな話である。
医師の診断を聞いた父も母も、一言として愚痴を言わなかった。給料取りの父にとって、中学生、小学生の子供たちのいる生活の中から、わたしを入院させなければならないということは、どんなに困難なことであったろう。母としても、婚約がととのったばかりの娘の発病は、どんなに大きなショックであったことかわからない。当時の両親の心の中を思うと、今でも泣きたくなってくる。
それなのに、親不孝なわたしは、親の胸中を思いやるよりも、自分本位な考え方で、この発病を心ひそかに喜びさえしたのである。それは、生徒たちに誤ったことを教えたという自責の念が肺結核発病によって、やっと薄らぐような思いがしたからである。
実の話、わたしは本気になって、乞食でもしようかと思っていた。乞食の言葉は、決して人々にそれほど大きな影響を与えることはない。誰も乞食の言葉を信用することはないからだ。けれども、一段高い所に上った教師の言葉を、純真な子供たちは、疑いもなく信じこんでしまう。信じられるということの責任を、敗戦によってわたしは文字どおり痛感したのである。乞食になって、誰にも何をも語らず、ひっそりと生きて行くならば、少なくともこの世に害毒を流す恐れはないと思っていた。そして、それが生徒たちへの、教師としての自分の詫びであるとも思っていた。
箱庭の夢は微《み》塵《じん》に砕けたり
安易な考えによる婚約であるとはいえ、それはそれなりに、小さな夢がないではなかった。たとえ、箱庭ほどのささやかな設計であるにせよ。だが、肺結核発病は、わたしの心をさわがせはしなかった。むしろ、来るべきものが来たような、そんな気持ちであった。
四
婚約者の西中一郎は、ひとことで言うならば、真面目で誠実な男性であった。わたしが発病するや否や、彼は遠くの地から、直ちに見舞いにやって来た。そして、その見舞いは、彼のその後の何年間かの仕事となってしまった。ある月は、その月給の全額を、わたしの見舞いに送ってくれたこともある。旭川に来ると、
「駄目だよ、そんなものを食べていては」
と筋《すじ》子《こ》や肉などを沢山買いこんで来てくれたこともある。何とか病気をなおしたいと言って、生長の家の本を何冊も持って来て、枕元で読んでくれたこともあった。
わたしが、痰《たん》を出そうとすると、いち早く手を伸ばして痰壺を取り、わたしの口元まで持って来てくれる。実によく気のつく親切な人でもあった。俳句を作ったりして、よく手紙もくれた。生活力もあり、ミスター北海道にかつぎ出されようとしたほど、美しい容貌と、優れた体格をしていた。
わたしの弟たちにも親切で、弟たちは「一郎さん」「一郎さん」と言って、よくなついた。いわば、一点の非の打ち所のない男性に思われた。
しかし、わたしの心は、彼を離れて暗く荒れて行った。もはや、その時のわたしには、「信ずる」ということが、一切できなくなっていたのである。
二十三歳の年まで信じ切ってきたものが、何もかも崩れ去った敗戦の日以来、わたしは、信ずることが恐ろしくなってしまった。そうしたわたしの心の動きを、西中一郎はわかってくれそうもなかった。
ある日、わたしは尋ねた。
「一郎さん、あなたは、どんな悩みを持っていて?」
「ぼくには悩みなんて、何にもないな。悩みなんてぜいたくだよ」
彼は明るい顔で、何の屈託もないように答えた。あるいは、病床のわたしに、悩みなど話すことは、タブーだと思っていたのかもしれない。だが、わたしは若かった。その言葉を聞いたとたん、
(悩みのない人など、わたしには無縁だ)
と、思ってしまったのである。わたしは、人間とは、悩み多いものであるべきだと思っていた。
少なくとも人間である以上、理想というものを持っているべきではないか。理想を持てば、必然的に現実の自分の姿と照らし合わせて、悩むのが当然だとわたしは思っていた。わたしの悩みは、何とかして、信ずべきものを持ちたいということの反語ではなかったろうか。
あれほどの親切な、誠実な西中一郎に、悩みがない訳はなかったであろう。現に、婚約者のわたしの病気こそ、最大の悩みではなかったか。彼が、
「ぼくには悩みなどない」
と、言ったのは、わたしへのいたわりの言葉であったのだと気づいたのは、大分後のことであった。とにかく、その時から、わたしは西中一郎と共に語る言葉を失ってしまった。わたしは、暗い目をして、果たして何のために生きようとしているのかと、自分の心の中を探りつづけていた。
わたしの姉百《ゆ》合《り》子《こ》は、やはり体が弱かった。けれども、十町ほど離れている療養所に、朝早く来ては食事をととのえてくれた。
その頃の療養所は、看護婦もたった二人で、給食はなかった。掃除さえ患者がし、みんな七輪をパタパタあおいで、煙にむせながら、自炊をしていたのである。わたしは、生きることに喜びを持たない自分のために、朝早く炊事に来てくれる姉が、ひどくいたいたしく思われてならなかった。姉が実にやさしく、親切であればあるほど、わたしは何か心が重かった。
(こんなにしてもらっても、わたしは、何のお返しもできずに、死んでしまうのよ)
わたしは、姉の後ろ姿に時々そんなことを呟いていた。
わたしが、自分を死ぬと思ったのは、誇張でも何でもない。敗戦直後の、あの食糧もなく、餓死する人さえあった時代である。無論、ストレプトマイシンもパスも、ヒドラジッドもなかった。療友は、文字どおり軒並みに死んで行った。昨日まで、咳《せき》に苦しみながら、米を磨いでいた患者が、今日は大喀血をして死んでしまう。そんなことが幾度もあった。
わたしはここで死んだとしても、それほど残念だとは思わなかった。生徒たちに対して、すまないと思いつづけて来たからばかりではなかった。わたしには、生きる目標というものが見つからなかったのである。何のためにこの自分が生きなければならないか、何を目当てに生きて行かなければならないか、それがわからなければどうしても生きて行けない人間と、そんなこととは一切関《かか》わりなく生きて行ける人間があるように思う。わたしはその前者であった。
何を目標に生きてよいかわからないのに、生きているということは、ひどく苦痛であった。わたしは、何者をも信ずることができず、この世のものすべてがむなしく思われた。虚無的な生活というものは、人間を駄目にする。第一に、すべてがむなしいのであるから、生きることに情熱はさらさら感じない。それどころか、何もかも馬鹿らしくなってしまうのだ。すべての存在が、否定的に思われてくる。自分の存在すら、肯定できないのだ。
そのようなわたしが、西中一郎に対しても、情熱を失ったのは、いたし方のないことであった。だが、たったひとつ、わたしには否定できないものがあった。それは教え子たちに対する愛情である。
四カ月ほど経った十一月、炊事も、掃除もできなくなったわたしは家に帰った。そのわたしの所に、教え子たちは幾度も見舞いに来た。そして、新しく習った歌を唄ってくれたり、学校の話を聞かせてくれた。それが、どんなにわたしの心を慰めてくれたことだろう。また、炭鉱の学校時代に受け持ちの生徒だった中井忠男は、その頃、アルバイトをしたお金で、卵をどっさり買って来た。あまり沢山なので、畳の上に並べてもらうと、畳一畳にびっちり並ぶほどの数であった。もらったわたしよりも、うれしそうな中井の顔を見て、わたしはただ教師であったという理由だけで、こんなに沢山のものを受けていいのだろうかと、恐れさえした。中井は、その後、コークスを何叺《かます》も送ってくれて、きびしい冬の旭川で療養するわたしを助けてくれた。今、中井は慶応大学に勤めている。
そしてまた、わたしの後任の、二宮生男先生は教え子たちを連れて幾度も見舞いに来てくださった。この先生は、わたしが辞めてから赴任して来られたので、一日も机を並べて勤めたわけではない。けれども、わたしを前任者として、あくまでも礼を尽くしてくださった。子供たちが六年を卒業する頃であった。二宮先生は、展覧会に出した子供たちの図画や習字を届けてくださった。男の生徒たちが、それを六畳の病室の壁いっぱいに展示してくれた。わたしはそれを、長いこと外さずに置いた。その一枚一枚を、幾度も幾度もながめながら、その生徒たちを思い浮かべていた。夜中にふっと目が覚めて、周囲の壁にある図画や、習字が目に入ると、わたしは泣きたいほど生徒たちが懐かしかった。
もし、生徒たちへの愛情がなかったとしたら、わたしはあの虚無的な生活で、生きて行くことは到底できなかったに違いない。そのわたしの心を、見通していたかのように、二宮先生は実によくわたしを慰めてくださった。その中で最も忘れられないのは、卒業式の日のことである。
朝から、わたしは教え子たちの卒業式を思って心が落ち着かなかった。卒業式というのは、教師にとって最もうれしい日のはずであるのに、実は最も辛い日である。自分が一度も教えたことのない生徒たちの卒業式でさえ、思わず涙ぐんでしまうのが、小学校の教師というものである。まして、受け持ちの生徒ともなれば、どんなにしっかりした、およそ涙とは縁のないような男の先生であっても、つい泣いてしまうのが常である。
退職して二年も経ったわたしでも、教え子たちの卒業式を、ひと目でも見たいというのは人情の自然というものではなかったろうか。何もかもがつまらなく思われていたはずなのに、教え子に対する感情だけは以前のままであった。
「ごめんください」
正午近い時であった。玄関の戸がガラリと勢いよく開けられて、男の声がした。取り次ぎに出た母が廊下を小走りにわたしの部屋にやってきた。
「綾ちゃん、生徒さんたちが、先生に連れられて来ていますよ」
わたしはハッと驚いて、布団の上に起き上がった。狭い病室の中に入ってもらうわけにはいかない。その頃は、まだ、脊《せき》椎《つい》カリエス発病以前であったから、家の中を歩くことはできた。わたしは急いで着替えをすると、玄関に出て行った。
家の前には、生徒たちが全員整列して、わたしの方を見つめていた。
「先生、おかげさまで、全員無事卒業することができましたので、ごあいさつに参りました」
若い二宮生男先生が、きびきびとした口調でそう言うと一礼した。わたしはその時、自分が何を言ったか、全く覚えていない。ただ、生徒たちが声をそろえて唄う、
「仰げば尊しわが師の恩……」
の歌が、今もはっきりと耳に残っているだけである。
二宮先生と共に、雪どけ道をふり返り、ふり返り、去って行く生徒たちの後ろ姿をながめながら、よい先生に受け持たれた生徒たちの、五年生六年生の二年間を思って、わたしもまたしあわせであった。今も、この時のことを思うと、感動的な名画の一場面のようにわたしの胸に迫ってくる。
五
しかし、虚無というものは、恐ろしいものである。こんなにわたしを支えてくれた生徒たちのことも、結局はわたしを救ってはくれなかった。何もかも、つまらなくなり、すべてのものが信じられなくなるという、その生活の中で、わたしは次第に心が荒れて行った。
自炊できる体力ができた昭和二十三年八月、わたしは再び療養所に入院した。その療養所は、男女合わせて、三十人ばかりの小さな療養所であった。患者の中には、三木清に傾倒するヒューマニストもいた。懐疑的なわたしに向かって、
「ヒューマニズムって最高だと思わない」
と、目を輝かすその学生に、わたしはついて行けなかった。
人間が中心の思想に、わたしは何の感動もなかった。あの、忘れられない敗戦の、苦い体験が、わたしに人間というものの愚かさ、頼りなさをいやというほど教えてくれた。
「君は、懐疑のための懐疑主義者じゃないか」
そうも言われた。
また、非常に心のきれいなマルキストも、療養者の中にいた。彼は熱心にわたしをマルキシズムへ誘おうとした。だが、わたしは、唯物論を理解することができなかった。ベッドに寝ていて、白い壁をながめる。朝の壁の色と、昼の壁の色と、そして夕べの壁の色とは全くちがう。壁はたしかに客観的にそこに存在する。しかし、いつの壁の色が、その壁本来の色であろうか。わたしは、そんなことからでも、何か、人間の客観性というものを疑わずにはいられなかった。まして、人間の目は、ほんとうに生きるために大事なものを全部見ているとは思えなかった。否、生きるために一番大事なものを、人間の目は見ることができないような気さえした。唯物論は何かと学ぶ前に、わたしは受けつけることができなかったのである。
「貧乏がなくなり、みんなが平均した富の社会になることは、たしかにうれしいことね。でも、それだけで人間はほんとうに幸福にならないような気がするの。お釈迦さまは、王子さまで、金があり、健康で、その上美貌の妻と、かわいい子供がいたのに、その城を捨てて山に入ったということが、何かすごく象徴的な気がするの」
そんなことを言うわたしから、マルキストの彼は離れて行った。塚越さんという人だった。
その外、学問だけが最高だと信ずる人や、文学だけが命だという人もいた。恋愛至上主義者もいた。誰もが、何かを至上としているような、若々しい空気の療養所の中で、わたしの心はひとり滅《め》入《い》っていくばかりであった。
皮肉なことに、投げやりな生き方になればなるほど、わたしの周囲に、男や女が沢山集まるようになった。わたしは二十七歳になっていたから、適当に人をあしらうことも知っていた。いや、それは二十七歳になっていたからではなく、自分を大事にしないと同様に、人を大事にすることを知らなかったから、いい加減に人あしらいができたのだろう。
そんなふうになって行ったある日のこと、わたしを訪ねて来たのは、思いがけなく幼なじみの前川正であった。
六
幼なじみの前川正のことにふれる前に、ここで、わたし自身の生まれ育った背景である家族のことを述べておきたいと思う。
わたしの父の生まれた苫《とま》前《まえ》は、日本海に面した北海道の一漁村である。わたしは小学校四年の時、初めてこの村に行った。案内してくれた土地の親戚の者が、
「ここもあんたの家の土地だった。あそこもあんたの家の土地だった」
と、教えてくれた。そして、沖の彼方に眉のように見える二つの島、天《て》売《うり》・焼《やぎ》尻《しり》を指さして、
「あんたのおじいさんが、この苫前村に手柄があったというので、あの島をあげると言われたそうだが、おじいさんは欲がなくて、もらわなかったそうだよ」
と語った。わたしが寺に行くと、
「旭川の堀田さんのお嬢さんがいらっしゃった」
と歓迎された。
父方の祖父も祖母も、わたしの生まれる前に死んでいて、少女のわたしにとっては、二人とも何の関心もない存在であった。だが、この時初めてわたしは、祖父や祖母を身近に感じ、二人のことを知りたいと思うようになった。多勢の家族を抱えて、父の生活は決して楽ではなかったから、もうすでに失われたものではあっても、苫前における祖父や祖母の華やかな生活は、少女のわたしにひとつの夢に似たものを感じさせたのだろう。
父方の祖父は十六歳で単身佐渡から渡道した。明治六年のその頃、今は大きな町である羽《は》幌《ぼろ》町(苫前村の隣町)も渡し守の家が一軒あるだけであったという。祖父は十六歳で呉服の行商をして、日本海岸の漁村を売り歩いていた。後に苫前に、米・味噌・醤油などから小間物、呉服に至るまで扱う大きな店を持った。蔵が三つ、番頭が五人、女中が二人で、その頃の小さな村の店としては、かなり手広くやっていたようである。
祖父は村総代をしていた。その頃は戸長役場時代と言って、村議会制のなかった頃だった。夜、学校の先生たちが給料のことで、祖父の所によく来ていたという。この祖父はおだやかな性格で、怒った顔を見せたことのない人であったそうだ。この祖父を誰もがほめるばかりなので、欠点の多いわたしとは何の血のつながりもないような気さえする。
祖母は、祖父とは対照的な激しい性格の人であったようだ。いつか父が、山田五十鈴の写真を見て、
「ほう、これはおかあさんにそっくりだ」
と、懐かしげに見入っていたことがある。寺のお坊さんでも、祖母の前にすわると動きたくなくなって、なかなか帰って行かなかったという話を幾度か聞かされた。気前がよく、食事時に訪ねてくる人には、ご用聞きでも見知らぬ人でも招じ入れて食事をもてなした。もてなしたと言っても、多分味噌汁と漬物ぐらいであったろう。とにかく、二斗樽の漬物が一日で空になったことも、珍しくなかったと聞いたが、誇張ではないようだ。佐渡から祖父を頼って来た人を、家に二、三カ月居候させて、一軒の店を持たせたことも一度や二度ではなかったらしい。今の時代では想像もできない気っぷのいい話である。しかし、気の毒な貧しい人には、手づかみで銀貨銅貨を与えたというこの祖母も、何か気に入らないことをされると、前にやった布団を返せとか、着物を返せとか言ったというから、かなり稚《ち》気《き》のある、きかない人であったらしい。
この祖母は四十一で夫に先立たれた。花札が好きで、花札で勝った金は、仲間をつれて料理屋で散じてしまったそうである。着物から下着までいっさい絹ばかりだったということも、その頃としては大変な贅沢であったろう。この、贅沢で、カケ事の好きな、そして、気性の激しい美人の祖母には、まだまだ人間臭い話があるのだが、これはまたの機会に書いてみたい。この祖母の性格の激しさは、父を通じてわたしたちきょうだい十人全部に流れている。
祖父は父が十五歳の時に、祖母は父が二十二歳の時に死んだ。祖父死後十二年の間に、七万五千坪からの土地も、海産干場かんばと言って、いわば海岸の地主のような権利数カ所も、店も蔵もいっさい失われていた。明治末期で、その海産干場のあがりゝゝゝは一カ所、年百円内外だったというからそれだけでも相当な収入であった筈である。
長男の父が十五歳では、店の切り盛りもむずかしく、その上祖父の死後も、祖母の生来の気の大きさで、出費は依然として変わらなかった。更に、これは北海道の漁場の一種の運命でもあったろうか、網元が鰊《にしん》網《あみ》をおろしても、毎年大漁とは限らない。盆暮れ二度の勘定払いで貸した米、味噌、醤油、莚《むしろ》その他いっさいの貸しが一銭も入らない年がある。内地から多数のヤ《※》ン衆がやって来て-、飲み食いしたり、着たりしたものが、金で支払われず、そのカタに網や船を押しつけられた。この高価な網や船をそのまま遊ばせて置くのはもったいないと、つい漁に手を出した。当たれば大きいが、外れれば損害は更に大きい。そんなことの失敗も幾度か重なり、遂には売り食い十二年で素《す》寒《かん》貧《ぴん》になったわけである。
父も勝ち気で、何かしようと思ったらしいが、漁村では漁師以外にすることはなかったようである。今も、わたしたちは天売・焼尻の島を、一種の感慨を持たずに眺めることはできない。しかし、あの島を祖父がもらっていたとしても、わたしたち孫にとって、それが必ずしも幸福であったとは思わない。
母方の祖父は同じ苫前の造材師であったという。この祖父は余りわたしたちの心に影を落としてはいない。だが、祖母は九十三歳で健在であり、小さい時からわたしたちきょうだいにとって、大きな安らぎを与えてくれる人であった。この祖母はいつも人の身になってものを考える人である。三十九歳で夫を失い、子供五人を抱えて苦労した筈だが、とげとげした所の全くない、実にやさしい人である。いろいろと貧乏も経験した末に、息子が社長と呼ばれる地位に着いた。だが、この祖母は、抱えの運転手にもきわめて丁重で、自分は何の取り柄もない人間であると頭を低くしている。だから、丹羽文雄の「厭《いや》がらせの年齢」を読んだ時、わたしは実に驚いた。わたしにとって老人とは、祖母のように万事控え目で、いつも人のことを思いやることのできる豊かな感情を持ち、人々に敬愛される存在だと思っていたのである。残念ながらこの祖母の性格は、母には受け継がれていても、わたしにはひとかけらも伝わってはいない。
父は苫前の小学校を尋常科も高等科も一番で出たというが、頭は確かにいい。だが、祖母に似て性格は激しく、一徹な人で好き嫌いもハッキリしている。旭川に来て行商をしたこともあるが、後に新聞社に勤めるようになり、無《※》尽会社にも勤めた。おもしろいのは、定刻の一時間前に出社しなければ気のすまぬことである。これは出勤時間だけではなく、汽車に乗る時も同様で、ある時、岩見沢駅前の親戚の家から旭川に帰る時、駅前の家なのに、発車時刻の一時間前にその家を出て、駅で汽車を待っていたことがある。これは今も家人の語り草になっている。
祖父と祖母の性格から推して考えると、誰に似て父はこんな小心な一面があるのか不思議に思う。それだけに勤め先に対して忠勤なことも人一倍であった。父は晩年無尽会社に勤めたが、その会社が後に相互銀行になった。満六十でその銀行を停年退職したが、望まれて嘱託として二年間勤め、その後社長の親戚の土地の管理を委《まか》された。これは日頃の勤務ぶりを買われたからであろう。この管理していた土地が一部売りに出されたことがある。父も、借金してでも買えば買えないことはなかった。買った人の中には、程なく倍にして売った人もいて、父にも早く買った方がいいと勧める人が多かった。しかし父は、
「馬鹿を言え。自分の管理している土地で、もうけることができるか」
と、頑強にその言葉を退けた。今になっても、あの時買って置けば大したもうけになったのにという話は出るが、父は一度も、買えばよかったとは言わない。わたしたち子供は、父を忠勤家老と呼んでいるが、この父の態度はやはり今の世に大事なことのように思っている。
母は静かな人である。十人の子供を育てながら、親戚の者や知人たちにもよく気を配り、子供たちの誕生日はもちろん、親戚知人の命日や四十九日などを正確に記憶していて、足まめに人を訪問する。それだけではなく、わたしがギプスベッドに寝たっきりになってからは、わたしの療友の見舞いまで、自分から進んで行ってくれた。わたしは、この静かでいつも端然としている母には、余り似ない娘で、あぐらをかいたり、逆立ちをして母を嘆かせた方である。
きょうだいは兄三人、弟四人、姉一人、妹一人、その外に大きくなるまで姉だと思っていた父の妹が一人、甥が一人共に育っている。このきょうだいに共通しているのは、性格が激しいということである。だが家の中では、きょうだいげんかをすることは割合少なかったようだ。これは、母が父に叱られたりしないようにという気持ちが、かなり子供なりに働いていたからであろう。
父は現代では失われているという父権を強力に持っていた。十五、六年前のある雪の夜半、父は屋根がみしみしいうようだと言って、眠っている息子たちを起こした。屋根の雪をおろせというのである。弟たち四人はすぐさま飛び起き、屋根に上がって雪をおろした。この時、誰一人眠いとか寒いとか文句を言った者はなかった。この時のことを、父は時々思い出すらしく、
「うちの子供たちは、えらい所がある」
と、すまなそうに言うことがある。親戚の者も、
「堀田の子供たちが、親に口返しをしているのを見たことがない。素直な子供ばかりだ」
と、再々ほめてくれる。子供たちが素直だったのか、父権が強かったのか、とにかく、確かにそういう所はあった。しかしそのことが、ほめられるべきことであったかどうかと、疑問に思うこともある。
職場では、どのきょうだいもみなかなりきかないようである。家中で一番やさしいおとなしい五男坊の弟の職場に、わたしはある時電話をかけた。
「タロやん電話だよ」
取り次ぎに出た人が、弟を呼んだ。弟の名は太郎ではない。後に不思議に思ってこの弟に尋ねると、
「二、三年前にね、ケンカタローの映画が来たんだ。その主人公がおれのようにきかないものだから、その主人公の名がついたのさ」
弟はそう言って笑った。
この一番おとなしい弟にして然り、他は推して知るべしという所であろう。それぞれにかなりの激しい性格でありながら、家庭では自制する知恵もあったのだろう。
七
きょうだいが多いのは、かなりの煩わしさもないではないが、豊かな人生経験を与えられる機会は、一人っ子よりは確かに多い。たとえば、弟や妹の誕生である。まだ人間の顔をしていない赤ん坊ではあっても、それはわたしに姉らしい気持ちを呼び起こしてくれた。タライの中で産湯をつかわれている赤ん坊を毎日飽かずに眺めたり、すぐに背中が苦しくなるのに、自分から頼んで背負わせてもらったり、ヨチヨチ歩き始めたのを喜んだりする中で、わたしはわたしなりに何かを経験して行ったと思う。また、数が多いと、一年に一度は誰かしら入院するほどの重い病気になる。
わたしの只一人の妹が、六つの時病気で死んだ。この妹陽子は数え年三つで字を読み始め、死ぬ年には小学校四年生程度の読み書きができた。この妹の手がわたしの手の中で次第に冷たくなっていくのを、どうしてやることもできなかった時、十三歳のわたしは、死というものを観念ではなく事実として知った。死の冷酷無情さは、その後のわたしの生き方に大きな変化をもたらしている。この時の枕お経、
「《※》あしたの紅《こう》顔《がん》夕べは白骨となる……」
という言葉が、妹の死によって実感させられた。また、
「人が死ぬ時には一族が集まって泣き悲しんでも、何の益にもならない」
といった意味のお経の言葉も身にしみた。学校から帰るとすぐに妹のお骨のある部屋に行き、そこで片仮名をふったお経の本を開いて読んだものである。
「女人ハ罪深ク、疑ヒノ心深イ」
とか、
「栄華栄《えい》耀《よう》ニフケリテオモフサマノコトナリト云フトモ、ソレハ五十年乃至《ないし》百年ノウチノコトナリ」
とか、
「死ヌ時ニハ妻子モ財宝モ、ワガ身ニハヒトツモ相添フコトアルベカラズ」
とかのお経の言葉にも深く共感したりした。
夜おそく、家のすぐ近くの刑務所と学校の間の真っ暗な道を歩きながら、
「陽ちゃん出ておいで、陽ちゃん出ておいで」
と、死んだ妹に叫んだりしたのも忘れられない。妹に会えるのなら、幽霊でもかまわないと思ったものだった。この妹への愛惜が、小説「氷点」の主人公の名前になったわけである。
妹の死後三年目に、わたしのすぐ下の弟が大腸カタルで危篤になり、夜半起こされて病院に走った。この時も、妹のように弟も帰らぬ人になってしまうのではないかと、どんなに恐れたことだろう。病室の前の廊下に、父は額をすりつけて祈っていた。それは何とも言いようのない悲痛な姿であった。わたしも父と同じように、病院の廊下にべたりと両手をついて、一心に祈った。
「神さま、仏さま。どうか弟の命を助けて下さい」
何者に祈ってよいかわからぬわたしは、神と仏に二《ふた》股《また》かけて祈った。涙がぼとぼとと廊下の板をぬらした。なぜこんなに悲しいことがあるのかと、ふっと生きて行くことが恐ろしくなるほど、わたしは悲しかった。弟が全快してからケンカをすると、わたしは、
「流した涙を返してちょうだい」
と、言ったりしたが、それほど真剣に祈ったということは、わたしの生まれて初めての経験であった。
やがて戦争がたけなわになり、弟も兄たちも兵隊に行った。長兄は、宣《せん》撫《ぶ》班員として北支に渡り、現地で結婚することになった。写真見合いできまった人は、マツ毛の長い背の高い美しい人であった。昭和十七年七月のある暑い日、その結婚式を旭川のわが家で挙げた。無論、北支から兄が帰ってくることはできない。花嫁姿のその横の席には、兄の羽織袴が置いてあった。只一人三三九度の盃に唇をふれる花嫁を見て、わたしは、何とも言えない哀しみのようなものを感じないではいられなかった。それは戦争がもたらしたひとつの運命に対してであったろうか、写真だけの見合いで、まだ見ぬ遠い北支へ嫁入りするということに、深い感動もあった。この嫂《あによめ》をつれて四十九歳の母は、北京の長兄の所まで行った。帰りは満州を通り朝鮮を通って、一人、旭川まで帰って来た。その母の姿に、わたしは初めて母というものの強さを感じたものである。母になるということは何と大変なことであろうと、心ひそかに舌を巻いたものだった。
次兄は陸軍大尉であったが、昭和二十三年三月戦病死した。この敗戦後の軍人の惨めさを、わたしは次兄を通していやというほど見せつけられた。それは全く、時代の移り変わりを鮮やかに染めわけたような感じですらあった。
このように、きょうだいの多いということは、いろいろの悲しみにもあう。その他、きょうだいの恋愛や、結婚や就職など、ひとつひとつ何かを考えさせられることにぶつかって、わたしたちは暮らして来た。
わたしが前川正に会った昭和二十三年は、まだ長兄がシベリヤに抑留されており、次兄の死んだ年でもあった。わが家は総勢九人の大家族で、末の弟はまだ小学生、次兄の遺児も、更に小さかった。そんな中で、療養するわたしがいたのは、どんなに経済的に辛かったことだろう。小さな弟たちが羨ましそうに見ている前で、わたしだけが白米を食べ、肉を食べることは、わたし自身も辛かった。だが弟たちも、それを見ている母たちも、どんなにか大変なことであったろう。そう思いながらも、生きる目標の定まらないわたしは、決して意欲的な療養者ではなかった。
前述したように、まだその頃は療養所の患者の受け入れ態勢が整っていなかったから、入所するためには少なくとも、自炊するだけの体力が必要であった。その療養所生活も金がかかるので、再入所したわたしは上川支庁管内の結核療養者の会の書記をした。その報酬は僅か月千円であったが、それでもその時のわたしにとって、千円はありがたい大金であった。
書記の仕事は、会員名簿にもとづいて、三百人からの結核患者に、会誌を編集したり、その郵送をしたり、またバターや栄養品の獲得に配慮することなどであった。自然、わたしの病室は、会の幹事たちや、会員のたまり場になった。
窮極の生きる目的は依然として見いだせなかったが、さし当たっての毎日は仕事が沢山待っていて、結構忙しかった。忙しければ気も紛れて、わたしは時々自分でギョッとすることがあった。
(わたしは何のために生きているかわからないのに、どうしてこんなふうに多くの人と話し合い、会の仕事をして行くことができるのだろう)
忙しさに紛れて、自分の生活が何かごまかされているような、押し流されているような、そんな感じがわたしにはひどく恐ろしかった。こんなふうに、いい加減に生きることに馴れてしまっては、わたしは今に本当に駄目になってしまうと思うことがあった。
(わたしは今に、気の紛れることさえあれば、その日その日を暮らして行ける、精神的日雇いになってしまうのではないだろうか。今にその気の紛れることが、単なる遊びであっても、遊びによって自分を忘れた生き方をしてしまうのではないだろうか)
そんなふうに思い始めた頃、わたしの部屋を訪れたのは、結核患者の会の会員である幼なじみの前川正であった。
毎日わたしを訪れる男性の会員は何人かいて、時には訪問客が煩わしいと思うこともあった。だが、
「前川です。しばらくでした」
と、大きなマスクを外した前川正を見た時、わたしは喜んだ。
前川正がわたしの家の隣に移って来たのは、わたしが小学校二年生の時である。彼はその時四年生であった。その一年後に彼は五、六町離れた所へ移って行ったが、小学校は同じであった。彼が卒業する時、優等生であったし、旭川の名門である旭川中学校に一番で入学し、五年間級長を続けて、北大医学部に入学したことをわたしは知っていた。
少なくとも秀才である彼との会話は、響きのある面白いものであるだろうと、わたしは期待して喜んだのである。そして、わたしは先ず初めに、長年聞きたいと思っていた、彼の妹の美喜子さんについて尋ねた。彼女はわたしより二つ年下だったが、女学校に入学した時、肺結核で死んでいた。だが、伝え聞いたその死は、十三歳の少女とも思えぬ感動的な最後であったのである。
八
前川正の妹の美喜子さんは、わたしの家の隣に移って来た時、まだ小学校に入っていなかった。しかし、字もよく覚えていて、なかなかしっかりした子供だった。この子の口からよく「イエス様」とか「キリスト」とかいう言葉を聞いたが、小学校二年生のわたしには何のことかわからなかった。
その年のクリスマスに、教会に行こうと彼女に誘われて、わたしは初めてキリスト教の教会堂に入った。広い会堂の中に、子供たちがびっちりとすわっていて、舞台の右手の方にクリスマスツリーが飾られていた。そこで小学生たちが歌や劇や踊りをした。幼稚科の美喜子さんも羊飼いになって、何かせりふを言った。その日わたしが一番驚いたのは、まだ小学校に入らない子供が、長い聖書の言葉をすらすら暗《あん》誦《しよう》したことである。そしてもうひとつ記憶に残っていることは、美喜子さんの父親がお祈りをしたことであった。わたしは子供心に、
(隣の小父さんて、えらい人なんだなあ)
と思ったものである。あれだけ沢山の人の中で、ひとりお祈りをするというのは、学校の校長先生くらい偉い人に違いないと思ったわけである。この日から、わたしの前川家に対する認識が新たにされた。それは、大人の言葉でいえば、前川家は「ただの家ではない、ただ人《びと》ではない」ということだったろう。
とにかく、生まれて初めてわたしを教会に誘ったのは、この美喜子さんが初めてだということで、今も忘れることはできない。
前川家はわずか一年ほどで、五、六町離れた九条十七丁目に移って行った。だが、正さんはわたしと同じ学校の二級上、美喜子さんは二級下であった。兄妹そろって成績がよかったので、話をすることがなくても、わたしの記憶に残っていた。
美喜子さんが死んだと聞いたのは、わたしが女学校三年生の時である。小学校の受け持ちの先生の所に遊びに行くと、その先生が言った。
「堀田さん、二級下に前川美喜子さんていう人がいたのを知っている?」
「知ってるわ。元うちの隣に住んでいたから」
わたしは何気なく答えた。
「かわいそうに、あの人この間亡くなったのよ」
背が高く、体格のよい体や、そして級長をしていた賢そうな彼女の顔などを一瞬に思い浮かべてわたしは驚いた。
「せっかく女学校に入ったばかりなのに、胸が悪くて死んでしまったのよ。でもねえ、自分が死ぬということをちゃんとわかっていて、それでもとても落ちついていたんですって。いよいよ死ぬ時になって、親や兄弟や先生やお友だちに、ていねいにお礼を言って、それからお祈りをして死んだんですって」
この話はわたしを打った。
いかにクリスチャンの家に育ち、幼い時から日曜学校に通っていたとはいえ、わずか十三歳になるかならぬかの年である。そんなにも従《しよう》容《よう》として死につくことができるものだろうかと、わたしは激しく心を打たれた。
だから、前川正に会って、わたしが一番先に聞きたかったのは、その妹の美喜子さんの臨終のことであった。だが、わたしがそのことを話すと、彼は、
「子供でしたからね。信仰が純だったんですよ」
と、おだやかに微笑しただけであった。
「じゃ、大人になったら、どんなに信仰があっても、美喜子さんのように死ねないというんですか」
わたしはいく分がっかりして尋ねた。
「まあ、そうでしょうね」
彼の答えはあまりにも正直であった。
その日、たしかわたしたちはパスカルの「パンセ」について少し話をした。だが、秀才の誉れ高い彼の言葉にしては、その返ってくる言葉は、どれもあまりにもおだやか過ぎた。わたしは率直に言った。
「正さんて、有名な秀才だから、もっとおもしろい人かと思っていましたのに」
「十で神童、十五で才子、二十《はたち》過ぎればただの人って言いますからね。ぼくはただの人ですよ」
彼はそう言って、やはりおだやかに微笑しているだけであった。
その頃、療養所の中には、才気溢れる学生たちが入院していたから、前川正との会話は、わたしをかなり失望させた。
(療養所の学生たちの方が、ずっとおもしろいわ)
生意気にも、わたしはそう思ってしまった。
その再会から二、三日たって、前川正から葉書が来た。これが、その後の千通余りにおよぶ手紙の第一信となったわけである。
静《せい》臥《が》中お邪魔致し、申し訳ありませんでした。原稿を書く方はなかなか出来ませんが、同生会の雑用等ありましたら、お手伝い致したく思っています。御健康を祈ります。また
この葉書を読んで、わたしの彼に対する印象はますますたいくつな人だということになってしまった。その後、二、三度葉書が来たが、どれもさしさわりのない便りばかりであった。しかし、幼なじみのありがたさで、二人は一、二度会っただけですぐに打ちとけた友だちになることができた。お互いに親のスネをかじり、貧しい療養者であったから、文通もほとんど葉書であった。小さい字で裏表にびっちり書くと、葉書でも千二百字は書けるのである。昭和二十四年二月二十三日、療養所のわたしから、自宅療養中の前川正宛の葉書は次のようなものであった。わたしが彼に書いた三度目の葉書である。
昨夜はどうしても眠る事が出来ないものですから、とうとうベッドの上に起き上がって、しばらくじっと坐っておりました。
月が回《めぐ》って、西窓から光が射していました。その月光に照らされて、私の細い手が一層蒼く細く、何か自分の手でないような、妖気の漂う凄味を帯びているのでした。私は突然、何ともいえない冷気が背筋を走るのを感じて、夢中で手を振りました。そして枕元の電気スタンドをつけました。赤いスタンドの笠の反射で、病室の空気の厚い層を感ずるような錯覚を覚えました。私はスタンドの傍《そば》近々と手を寄せて眺めました。それは細い青い静脈の浮いた手ではありますけれど、まさしく私の手でありました。あの月光に照らされていた時の、チロチロ燃える妙な妖気は消えて、二十幾年の間私の手であったように、まちがいもなく私の手であったのです。
二十六年の間に、私はこの手で何をつかみ、何をなして来たのでしょう。
善悪正邪交《こも》々《ごも》の無数の業をなして来たに違いないこの手は、未《いま》だ何一つ善い事も悪い事もした事がないように、ほっそりとして静かに電気スタンドの灯に照らされているのです。
過去において、多くの人々と握手をした時の感情も忘れたかのように、ひっそりと照らされているのです。ある時は情熱的に、ある時は性急に、またある時はものうい握手をして来たに違いない私の手は、余りに多くの人と握手をしたために、どの人がどんな肌ざわりを持っていたかをすっかり忘れているようです。無邪気と言えば無邪気、横着と言えば横着な話です。でも私は、そうした過去をさらりと忘れ去ったような無表情な手をみつめていると、何ともいえないいとしさを感じました。そしてトロイメライを無意識に弾くような気持ちで、床頭台の上を手が動き出した時、私はまたしてもこの手が自分では制御しがたい罪を犯して行くのではないかとゾッと致しました。
この白雲荘で、私はまた幾人かの人々と握手をして行くのでしょう。果たしてどんな握手をして行く事かと、電気スタンドの灯を消してベッドの中に入ってから、私は明け方まで色々と考えつづけました。
この葉書の内容は、日記の中に書いておいてもいいものだった。わざわざ彼にどうしても読んでもらわなければならないというものではなかった。それは彼でなくとも、あるいは他の友人に書いてもよかったのかも知れない。それなのに、この葉書を前川正にあてて書いたということに、わたしは自分の甘えを感ぜずにはいられない。そして多分前川正も、わたしのこの甘えを感じとったに違いない。彼はそれから、わたしの心の動きに注目するようになった。
彼は度々療養所に訪ねてくるようになった。彼が何度目かの見舞いに来てくれていたある日の午後、外は雪が降っていた。ノックもせずに入って来た療養者の学生が、酒ビンを丹前の下からそっと出した。
「今夜のお楽しみだよ、預かっておいてね」
わたしはその酒ビンを、病室の押し入れにしまいながら言った。
「何人で飲むの」
「それっぽっちの酒だもの、君と、Kと三人でやろうよ」
男の患者はそう言って部屋を出て行った。
「綾ちゃん、あなたはお酒を飲むの」
いつにないきびしい声であった。
「ええ、時々ね」
平然としてわたしは答えた。
「なぜお酒なんか飲むんですか」
「おもしろくないからよ」
「じゃ、飲めばおもしろいんですか」
「そうね。別段飲んだからって、おもしろくもないわ。だけど、あなたってずいぶんうるさい人ね。少しぐらいお酒飲んだって、そんなに悪いことじゃないでしょ」
わたしはいらいらしていた。
「療養所に入っていてお酒を飲むなんて、そんな不まじめな療養態度ではいけませんよ。僕は医学生としても、断じて許せないことだと思いますね」
普段のおだやかな彼にも似合わない、断固とした言い方が、わたしのかんにさわった。
(あなたは、わたしの恋人でも何でもないわ。何の関係もないのに、少しうるさいわね)
そう思いながら、わたしは言った。
「正さん。だからわたし、クリスチャンって大きらいなのよ。何よ君子ぶって……。正さんにお説教される筋合いはないわ」
何不自由なくクリスチャンの家庭に育って、聖書を読み、教会に通っているだけのお坊っちゃんに、わたしの生き方がわかってたまるものかと、わたしは心の中で毒づいていた。
「でも、綾ちゃんと僕は友人でしょう。友人なら忠告したっていいじゃありませんか」
彼は雪の降る窓に向かってそう言った。
「わたし、あなたをそんなにお友だちだとは思っていないわ」
「そうですか。じゃ、どうしてあんな葉書を、友人でもない者にくれたんですか」
「あんな葉書って?」
「手のことを書いた葉書ですよ。あれはあなたの悲しみが、滲《にじ》み出ていると、僕は思いました。あの葉書をもらった時から、二人は友だちになったのだと思っていたんですけれど……」
答えられずにいるわたしに、彼の言葉が鋭く迫った。
「それとも、綾ちゃんは誰にでもあんな葉書を書くのですか。僕だから書いてくれたと思っていました」
彼はそう言って帰って行った。
九
その言葉はわたしには痛かった。わたしには、同生会の書記をしている関係もあって、異性の友人も何人かいた。そして、その中には簡単に愛を打ち明けてくる青年もいた。わたしは、人の心を大事にするということがどんなことか、まだわからなかった。愛するという男には、愛しているとわたしも答えた。それがどんなに悪いことかということなど、考えてもいなかった。なぜなら自分自身、生きるということが、どういうことかわからず、目的もなくただ生きていたから、他の人々もまた無目的に生きているに過ぎないものに思えた。
安静時間にじっと目をあけて寝ていると、光の中に漂う塵《じん》埃《あい》が目につく。ホコリは金色に光ったり、赤かったり、砂粒よりもなお細かい白いものもあった。ふっとひと息、息を吹くと、静かに漂っていた微《み》塵《じん》が、あわてたように四散する。光を当てなければ見ることのできない細かな微塵の漂いを見つめながら、このチリホコリと、わたしたち人間と、どれほどの違いがあろうかとわたしは思っていた。だから、人が好きだと言ってくれれば、自分もまた、好きだと言ってやればいいように思っていた。それでもたまに、
「愛するってどんなことなの」
そう反問することもある。するとある人はわたしに、アクセサリーをプレゼントしたり、ある人はまた、わたしの肉体を欲しいと言ったりした。その度に、わたしは心の中でゲラゲラと笑い出した。
(男が女を愛するって、そんなことだろうか)
わたしには、もっと違うものに思えてならなかった。
酒を飲むと言っても、実はわたしは、盃にふたつも飲めはしなかった。ただ、飲みながら話をする男たちの言葉に、何か生きていくために必要な真実のひとかけらでもありはしないかと、耳を澄ましていたのだった。だが、わたしが漠然とではあるけれど、期待しているような確かな手応えのある話はなかなか出て来なかった。
「砂枕をするとよく眠れるよ」
「なぜ」
「サウンドリーに眠れるもの」
せいぜいそんな駄じゃれが飛び出すくらいのものである。中学一年生でニイチェを読んだという早熟な学生も、道内で有数の詩人だという青年も、単に会話がおもしろかっただけであった。誰もが結局は誰かの言葉を真似ていた。ちょうどその頃サルトルの小説が読まれていて、誰もが実存主義者であった。そして、とうにわたしが読んでしまったその小説の中の言葉を、得々として自分の言葉として語っているだけだった。三木清を読む者は、自分が三木清であるかのように語り、トルストイを読む者は、自分がトルストイのように悩んでみせるだけだった。少なくとも当時のわたしにはそのように思われたのである。それでも女の友だちと話をするよりは、男の友だちと話す方が楽しかったから、わたしのまわりには、いつも何人かの異性がいた。
前川正は、自分がそんな取り巻きの一人に思われてはたまらないと言いながらも、それでも時々わたしを訪ねて来た。会うや否や、わたしはきまって、世のキリスト信者というものを罵った。
「クリスチャンなんて、偽善者でしょ。そしてお上品ぶって、自分もバーに行きたいくせに、バーになんか行く奴は、救い難き罪人だというような目をするんじゃない?」
とか、
「クリスチャンは精神的貴族ね。わたしたちを何と憐れな人間だろうと、高い所から見下しているんじゃないの」
などと、ケンカ腰で言うのだった。
わたしには妙な癖があって、人と仲よくなりたいと思う時には、子供のように喧嘩を売るのである。子供たちは、よく初めての子に会うと、
「やい、喧嘩をするか」
などと言って、ひと渡り喧嘩をしてから仲よくなるものである。
前川正は、そうしたわたしの気持ちを知ってか知らずか、いかにも困ったような顔で、悪口を聞いているが、しかし弁解がましいことは何も言わなかった。あれだけ言われたのだから、多分もう訪ねてはくるまいと思っていると、カロッサの小説などを持って来て、
「これをお読みなさい」
などとニコニコ笑っているのである。彼は彼なりに、何を求めていいのかわからない不安な魂を、わたしの中に見いだして、見過ごすことができなくなっていたのであろう。後にその頃のわたしのことを、彼はこう言った。
「たいていの人は、人とつき合う時に、なるべく長所を見せようとするものだけれど、綾ちゃんはその反対ですね。こんな自分でもよかったら、つき合ってみたらどう? という態度ですからね。損なタチですよ」
ふしぎに喧嘩で始まった友人は、たたいても、割ってもこわれないような、厚い友情に育っている。
その年の四月にわたしは退院した。だが微熱は下がらない。依然として生きる喜びも見いだせなかった。三年前に婚約した西中一郎とは、まだそのまま婚約者の間柄であった(もう一人の結婚の約束をしたTは、肺結核で既に死んでいた)。西中一郎の母は、すでに七十を過ぎていたし、わたしとしても婚約を破棄しなければならないと思っていた。それは六月の初めであった。旭川の街にはライラックの花が匂っていた。わたしは一人汽車に乗って、西中一郎の住むS町へ旅立った。
発つ前に、わたしは前川正に会った。その時わたしは、
「自殺って罪かしら」
とさり気なく尋ねた。
「嫌なことを聞きますね。まさか、綾ちゃん死ぬんではないでしょうね」
彼は、じっとわたしの目をのぞきこむようにして言った。
「わたし若いのよ。死ぬなんて、そんなもったいないことをしないわ。ただ、自殺って罪かなって思ったの」
「そうですか。それなら安心ですけど……。自殺は他殺より罪だって言いますよ」
彼はそう答えた。S町に、西中一郎に会いに行くと告げると、
「西中さんとの婚約を破ってはいけませんよ。あんないい人はいないのですから」
彼は熱心に、くり返して言った。この頃すでに、彼は自分の病状を的確につかんでいたのである。自分の命が、その頃の医学では、三年と持つまいと思っていたようである。
オホーツク海に面したS町に着いたのは、ちょうど昼頃であった。駅前を出たわたしの影が、地に黒くクッキリと短かったことを覚えている。
(もうじき死ぬ筈のわたしの影が、こんなに黒いなんて)
わたしはそう思ったものである。
西中一郎の家に着くと、彼はびっくりしてわたしを迎えた。
「長いこと心配をかけてごめんなさいね。結納金を返しに来たの」
二人っきりで、砂山にのぼった時にわたしが言った。彼は彫りのふかい美しい横顔を、潮風にさらしながら黙っていた。だが、しばらくしてから、静かに言った。
「僕はね、綾ちゃんと結婚するつもりで、その費用にと思って、十万円貯めたんだ。綾ちゃんと結婚できなければ、もうそのお金に用はない。結納金も、その十万円も綾ちゃんに上げるから、持って帰ってくれないか」
彼はそう言って、じっと海の方を眺めていた。西中一郎の誠実さが、あらためて胸に迫り、偉い人だとわたしは思った。
「向こうに見えるのが知《しれ》床《とこ》だよ。ゴメが飛んでいるだろう」
そう言った時、彼の頬を涙がひとすじ、つつーっと流れた。
十
西中一郎は、わたしにもっと恨みごとや、愚痴を言ってもいいはずであった。
「わたしは三年も待っていたんだ」
「月給をそっくりそのまま、一銭残らず送った月もあるじゃないか」
「旭川まで、何べん見舞いに行ったかわかりゃしない」
「綾ちゃんは男の友だちがたくさんいるようだが、わたしは一人の女友だちもつくらなかった」
こう言って、わたしを責めてもよかったはずである。だが彼は、すべてを知っていて何も言わなかった。言ったのはただ、結婚の資金にと貯めた十万円をあげようという、そのひとことだけであった。昭和二十四年のその頃、十万円といえば、かなりの金額であった。
二人は、美しい六月のオホーツクの海を眺めながら、それぞれの思いにふけっていた。
(もっと早く、婚約をご破算にすればよかった。発病した時にすぐにそうするのがほんとうであった)
わたしは自分の、彼に対する思いやりのなさが恥じられてならなかった。早くにきっぱりと別れていたならば、彼は今ごろ健康な人と、楽しい家庭を築いていたに違いないのだ。何という心ないことをして来たのかと、わたしは自分を責めていた。西中一郎が、わたしをひとことも責めなかったから、いっそう吾とわが身が責められたのである。
この別れを、彼の母も姉もその日知ったが、何も言わなかった。
「川湯温泉に遊びに行って来たらいいよ」
七十過ぎの、彼の母親は静かにそう言って、わたしと西中一郎と、その姉の三人を、にこやかに送り出してくれた。三年の年月、さんざん迷惑をかけたわたしに、何も温泉をおごることはないのだ。いまさら彼がそのために金を使うことはないのだ。だが、彼も彼の姉も、わたしをやさしくいたわって、川湯温泉まで連れて行ってくれた。
今、これを書きながら、わたしは西中一郎親子の美しい心根を思って、胸が熱くなるのをどうすることもできない。
川湯温泉から再び彼の家へ帰った夜も、わたしはひとつのことを考えつづけていた。それは旭川を出る時から考えていたことである。
(どうせ病気はいつなおるかわかりはしない。あと何年療養をつづけたところで、なおるという保証もない。わたしがこの世に生きていて、人に迷惑をかけるよりは、死んだ方がいいのではないか?)
そんなことを、わたしはしきりに考えつづけていた。無論、それは自分自身の行為を正当化しようとするための、死の口実であって、その実わたしは、生きることに疲れていたのだ。何の目的で生きているのかわからない生活に、わたしは次第に無気力になり、怠惰になり、うみ疲れていたのだ。
西中一郎を訪ねる汽車の中でも、わたしはこう考えていた。
(今、この汽車に乗っている人たちも、五十年後には、その大半が死んでしまうのだ。今、あの網棚から荷物をおろそうとしている四十年輩の、脂ぎった男も、五十年後まで生きられるかどうか。目の前で、リンゴの皮をむいている若い娘さんだって、結局は死んでいくのだ。この人たちが、今から死ぬまでの間に、いったいどれほどの意味を人生に見いだすことができようか。結局は大した進歩もなく、ただ年を重ねるだけで、死んでしまうわけではないか)
そして自分もまた、その誰よりもこの世に何の役にも立たずに死んでいく人間ではないかと、わたしは思った。今死ぬのも、五年十年後に死ぬのも、つまりは同じことではないかと思いつづけていたのだった。
その夜、一郎の母が心づくしに作ってくれたチラシズシはおいしかった。そのおいしいことが、わたしには不思議だった。
(これが最後の食事になるというのに、どうしてこんなにおいしいのだろう。人は生きるために食べるとか、食べるために生きるとかいうけれど、今夜のこの食事は、生きることとは何の縁もない食事なのだ)
明日の今頃、自分はこの世にないと思い定めた時、案外人間というものは冷静になるものである。どこかゆとりのある、やさしい心持ちにさえなっていた。
やがて、みんな床につき、家の中が静かになった。わたしは前川正の言った、
「自殺は他殺よりも罪ですよ」
という言葉を思い出していた。自分のような人間には、最も罪ある死に方がふさわしいような気がしていた。父のこと、母のこと、兄弟ひとりびとりのことが思い出された。だが、一たん死のうと思い定めたわたしにとっては、それはもう遠い人でしかない。同じ療養所の友だちのことが、むしろ身近に思い出された。
(わたしが死んだら、羨ましく思う人も、あの療養所にはいるかも知れない)
そんなことを思ったりもした。死にたくても死ねない、そんな思いを持っている何人かの友もいたはずだったから。
時計が十二時を打った。わたしはその音を、ひとつふたつと数えていた。数え終わると静かに起きあがり、そっとレインコートを羽織った。田舎のことで、玄関に錠をおろしてはいない。わたしは靴を履いて、そろそろと玄関の戸をあけた。その戸を閉めて空を仰ぐと、真っ暗な夜であった。風がわたしの髪を乱し、潮《しお》騒(さい)の音が聞こえた。
家を出てすぐ横の坂を、一歩一歩踏みしめるように歩いて行った。道の傍らで突然「ニャゴー」という猫の鳴き声がした。野鳥のような、鋭い不気味な声にハッと立ちどまると、燐光を放った猫の目が、わたしをうかがって、すぐ闇の中に消えた。坂道を大《おお》股《また》にぐんぐんおりて行くと、靴の中が砂で一ぱいになった。わたしは立ちどまり、砂を払った。片足になった体が、ぐらりと傾いた。
(今すぐ死ぬんだもの、砂なんか入っていたって、かまわないはずじゃないか)
わたしは、靴の砂を払っている自分がおかしかった。
やがて、ごろごろと歩きにくい浜に出た。軽石であった。大きな軽石に足をとられながら、歩きなずんでいる目の前に、真っ暗な海が音を立てていた。何も見えない。しかし、真っ暗な海の匂いと、音だけはあった。わたしは、すぐそこの目の前の海にたどりつくのに、時間がかかりすぎた。一歩行ってはハイヒールが石に取られ、二歩行っては体がつんのめる。
波がわたしの足を冷たく洗った時、一閃《せん》の光が海を照らした。白い飛沫《しぶき》が目の前に躍ったかと思うと、わたしはしっかりと男の手に肩をつかまえられていた。西中一郎だった。
彼は黙ってわたしに背を向け、わたしを背負った。不意に、わたしの体から死に神が離れたように、わたしは素直に彼の肩に手をかけていた。
「海を見たかったの」
わたしはそう言ったが、西中一郎は黙ってわたしを背負ったまま、懐中電灯で足もとを照らしながら、砂原を歩いて行った。
しばらくして、砂山に登ると、
「ここからでも海は見えるよ」
彼はそう言って、わたしを砂の上におろした。
二人は砂山に腰をおろしたまま、真っ暗な見えない海を眺めていた。
「駅の方に行ったのかと思って、先に駅の方に走って行ったんだよ」
ぽつりと彼はそう言った。何事もなかったかのように、あとは語らなかった。暗い海が、何もかも呑みこんでくれたようである。風だけが激しく吹いていた。
翌日、わたしはひとりで汽車に乗って、旭川に帰って来た。その朝彼は、涙に頬をぬらしていたが、何も言わなかった。だが、駅まで送ってくれた時の彼の顔は、むしろ明るくさえあった。またいつか会う人のように、わたしたちは手を振って別れた。
十一
旭川に帰ると、前川正が待っていた。西中一郎との仲が終わりになったと聞いて、彼はいかにも残念そうに言った。
「困りましたねえ。それでは綾ちゃんを大事にしてくれる人を、急いで探さなければならないですね」
彼は本気で、わたしのために立派な青年を探し出そうとしているようであった。それはわたしから見ると、こっけいでさえあった。
(何のためにこの人はこんなに躍起になるのだろう。人のことなのに……)
わたしにはまだ、彼の心がわからなかった。
「綾ちゃん、西中さんの所に出かける時、自殺って罪なのかと聞いたでしょう。あれがどうも気になって、だいぶお祈りをしていましたよ。もちろん、無事に帰るとは思っていましたけれどね」
何日かたってから、彼がそう言った時、わたしはあの夜の海のことを告げてしまった。彼はひとことも言わずに、激しい目でわたしを見つめていたが、やがて淋しそうに視線を外《そ》らした。ずっとあとになってわかったことだが、彼は自分の命が、あと何年ももたないことを知っていて、その命をわたしに注ごうと思っていたのである。だからわたしに、死を語られることは、その場で彼自身が抹殺されたような淋しさを感じたわけなのだろう。しかし、その時のわたしは、相手のことなど考える人間ではなかった。
「安彦さんがもう少し年を取っていたらいいのになあ」
前川正は、不意にそんなことを言った。
「どうして?」
「だって、あの人なら頭もいいし、綾ちゃんの好みに合う人だから、綾ちゃんを頼むことができるんだけれど……。少し年が若過ぎますものね」
間藤安彦は、わたしより七つ年下の医学部の学生だった。「天の夕顔」を読んだ彼が、
「ぼくとあなたぐらい年が違いますね」
と、言ったことがある。彼が療養所に入って来た時、六十を過ぎた掃除婦の小母さんが、
「昨日入った学生さんは、とてもきれいな人ですよ」
と言ったほど、彼はハッとするような美しさを持っていた。丹前を着てベッドの上に起きあがり、青い電気スタンドの灯に照らされている横顔は「光源氏」の名を思い出させるほど、あざやかに美しい人であった。話をしても、かなりよく勉強《し》ていたから、話し相手には楽しい人間であった。わたしと間藤安彦は、人のうわさに上るほど親しくもあったから、前川正がその名を言ったのは、偶然ではなかった。
「でもね綾ちゃん。十九か二十の学生の頃は、人を愛してもいいけれど、人に愛されてはいけない頃なのですよ」
そんなことも言った。
「川口先生なら一番綾ちゃんを頼むのにいい人ですけれどね」
川口勉は、わたしの元の同僚である。彼とわたしは、格別に親しい仲ではなかった。年に一度、賀状を取りかわすだけの人だったが、わたしはこの人の夢を、発病する頃からひと月に一度は見たものである。しかも、それが何年にもわたって、夢の中で次第に親しくなっていった。最初、川口勉は夢の中で行きずりに挨拶をする程度だったが、次の夢では少し話をかわし、また次の夢では肩を並べて散歩するというふうに、次第に夢の中で親しくなっていった。初めはその夢に気づかなかったが、あまりに度々彼の夢を見、しかも前の夢のつづきのように次の夢を見るので、わたしも奇異に思うようになった。
川口勉は、わたしが結核に倒れた時、誰よりも一番先に見舞ってくれた。だが、その後は彼の母が来るばかりで彼自身は手紙さえもよこさなかった。だから、夢を見るほどのことは二人の間にあるはずもないのに、不思議な夢は何年もつづいたのである。このことを知っていて、前川正は川口勉のことを言い出したのだった。
「いやね。川口先生なんか、あたしのことを何とも思ってはいはしませんよ」
「だけど、この間のあの人の葉書は、確かに綾ちゃんを愛している人でなければ書けないものがありましたよ」
前川正は、そんなことを言って、一度川口勉に会って話をしたいなどと言ったりもした。わたしにはつまらないようなことだったが、自分の命の年を知っている前川正にとっては、冗談ごとではなかったのであろう。彼は、
「真剣に生きようとしない人を見るのは、とても淋しいのです。それがたとえ綾ちゃんでなくても、淋しいことには変わりありません」
などと、葉書に書いてくれたこともある。
そんな前川正の思いとはかかわりなく、わたしは相も変わらず、怠惰に生きていた。死のうとして死ぬこともできなかった自分を、わたしは自嘲していたのかも知れない。彼が訪ねて来ても、ぼんやりと対座するだけで、口をきくのもおっくうなことさえあった。
(やはり、あの時死んでいた方がよかったのではないか)
そんなことを思っていたわたしが、前川正の目に異常にうつらなかったわけはない。
ある日彼は、わたしを春《しゆん》光《こう》台《だい》の丘に誘った。萩の花の多いその丘は、萩ケ丘とも呼ばれていた。六月も終わりに近い緑は、したたるように美しく、二人の行くてに小リスがちょろりと太いしっぽを見せていた。郭《かつ》公《こう》が遠く近くで啼《な》いているその丘は、元陸軍の演習場でもあった。一軒の家もなく、見渡す限りただ緑の野に、所々楢の木が丈高く立っている。この丘は、徳富蘆花の小説、「寄生木《やどりぎ》」の主人公篠原良平が、恋の傷手に泣きながら彷《ほう》徨《こう》した丘でもある。この丘には滅多に来る人もなく、その日も丘の上には人影はなかった。旭川の街が、六月の日の下に、眠っているように静かだった。だが、そんな美しい眺めも、わたしには無意味に思われた。いつまでもこの街が、このようにここにあるとは思えなかった。旭川ばかりではなく、世界のどの街も、やがては人の死に絶える終わりの日があるような気がした。何かの小説で読んだ人ひとりいなくなった地球の上に、月の光がこうこうとさし、時の流れだけが音を立てて流れていくようなそんな荒涼とした地球の姿を、わたしは目の前に見るように幻想していた。
(結局は虚《むな》しいことじゃないか。何もかも死に絶える日が来るのだから)
そんなことを思いながら、丘に立って旭川の街を見おろしていた時、
「ここに来たら少しは楽しいでしょう」
と前川正が言った。
「どこにいても、わたしはわたしだわ」
ソッ気なくわたしは答えた。
「綾ちゃん、いったいあなたは生きていたいのですか、いたくないのですか」
彼の声が少しふるえていた。
「そんなこと、どっちだっていいじゃないの」
実際の話、わたしにとって、もう生きるということはどうでもよかった。むしろいつ死ぬかが問題であった。小学校の教師をしていた頃の、あの命もいらないような懸命な生き方とは全く違った、「命のいらない」生き方であった。
「どっちだってよくはありません。綾ちゃんおねがいだから、もっとまじめに生きてください」
前川正は哀願した。
「正さん、またお説教なの。まじめっていったいどんなことなの? 何のためにまじめに生きなければならないの。戦争中、わたしは馬鹿みたいに大まじめに生きて来たわ。まじめに生きたその結果はどうだったの。もしまじめに生きなければ、わたしはもっと気楽に敗戦を迎えることができたはずだわ。生徒たちにすまないと思わずにすんだはずだわ。正さん、まじめに生きてわたしはただ傷ついただけじゃないの」
わたしの言葉に、彼はしばらく何も言わなかった。郭公が朗らかに啼き、空は澄んでいた。黙って向き合っている二人の前を、蟻《あり》が無心に動き回っていた。
(この蟻たちには目的がある)
わたしはふっと、淋しくなった。
「綾ちゃんの言うことは、よくわかるつもりです。しかし、だからと言って、綾ちゃんの今の生き方がいいとはぼくには思えませんね。今の綾ちゃんの生き方は、あまりに惨め過ぎますよ。自分をもっと大切にする生き方を見いださなくては……」
彼はそこまで言って声が途切れた。彼は泣いていたのだ。大粒の涙がハラハラと彼の目からこぼれた。わたしはそれを皮肉な目で眺めながら、煙草に火をつけた。
「綾ちゃん! だめだ。あなたはそのままではまた死んでしまう!」
彼は叫ぶようにそう言った。深いため息が彼の口を洩れた。そして、何を思ったのか、彼は傍らにあった小石を拾いあげると、突然自分の足をゴツンゴツンとつづけざまに打った。
さすがに驚いたわたしは、それをとめようとすると、彼はわたしのその手をしっかりと握りしめて言った。
「綾ちゃん、ぼくは今まで、綾ちゃんが元気で生きつづけてくれるようにと、どんなに激しく祈って来たかわかりませんよ。綾ちゃんが生きるためになら、自分の命もいらないと思ったほどでした。けれども信仰のうすいぼくには、あなたを救う力のないことを思い知らされたのです。だから、不甲斐ない自分を罰するために、こうして自分を打ちつけてやるのです」
わたしは言葉もなく、呆然と彼を見つめた。
いつの間にかわたしは泣いていた。久しぶりに流す、人間らしい涙であった。
(だまされたと思って、わたしはこの人の生きる方向について行ってみようか)
わたしはその時、彼のわたしへの愛が、全身を刺しつらぬくのを感じた。そしてその愛が、単なる男と女の愛ではないのを感じた。彼が求めているのは、わたしが強く生きることであって、わたしが彼のものとなることではなかった。
自分を責めて、自分の身に石打つ姿の背後に、わたしはかつて知らなかった光を見たような気がした。彼の背後にある不思議な光は何だろうと、わたしは思った。それは、あるいはキリスト教ではないかと思いながら、わたしを女としてではなく、人間として、人格として愛してくれたこの人の信ずるキリストを、わたしはわたしなりに尋ね求めたいと思った。
(戦時中に、お前はまちがって信じたはずではないか。それなのに再びまた何かを信じようとしているのか)結局は、人間は死んでいく虚しい存在なのに、またしても何かを信じようとするのは、愚かだと思った。しかし、わたしはあえて愚かになってもいいと思った。
丘の上で、吾とわが身を打ちつけた前川正の、わたしへの愛だけは、信じなければならないと思った。もし信ずることができなければ、それは、わたしという人間の、ほんとうの終わりのような気がしたのである。
十二
前川正のわたしに対する真実を見たあの丘の日以来、わたしは酒もたばこもやめた。数多くの異性の友だちとのむなしい交際もやめた。ただひとり、あの光源氏のような美少年の間藤安彦とだけは、そのまま交際をつづけていた。前川正が、間藤安彦のデリケートな性格を知っていて、彼を傷つけてはならないと言ったからである。
前川正はあくまでわたしを一人の人間として、まじめに生きていく仲間として、遇してくれた。彼と二人っきりで映画を見ても、石狩川の堤防を散歩しても、決して甘いひそやかなふんいきはなかった。
「このごろどんな本を読んでいますか」
とか、
「いま見た映画の批評を聞かせてください」
とかいう、いわば教師が生徒に質問するような、そんなふんいきであった。彼自身、二人の関係を「先生と生徒」と呼んでいた。
その頃彼は、わたしに英語と短歌の勉強をすすめ、また聖書を読むこともすすめてくれた。わたしたちの交際のあり方は、次の葉書からわかっていただけることと思う。
来週から火、金曜の午前中、ご一緒に英語を勉強するお約束をいたしましたが、(注・教授ではありませんから無料奉仕ですよ)その前に一応ご両親のご承諾を得ておいていただきたいと思います。私から直接お許しを得ようかと思いましたが、一応綾ちゃんからご諒解おきください。とにかくお若いのですから、綾ちゃんの結婚問題が生じた時に、面倒の起きたりせぬよう。お邪魔になったりしては、かえって本意ではありませんので、慎重居士の特色を発揮し、以上のごとく。
(昭和二十四年八月三十日)
この葉書でもわかるように、彼は決して親にかくれてこそこそとつきあうというような、交際の仕方をとらなかった。映画を見る時も、わたしの家まで迎えに来、帰りも必ず送ってくれた。ずいぶん親しくなってからも、握手すらかわさず、彼はきちんと頭を下げて、
「おとなしくしていらっしゃいよ」
「あまりわがままをしてはいけませんよ」
などと、ひとこと先生らしいことを言いそえて別れるのが常であった。それでも五、六歩行ってから、片手を伸べていかにも握手をしているように手を振ることはあったが、それをわたしたちは空中握手と名づけていた。今の世の若い人たちが見たならば、吹き出しそうな姿だったことだろう。
わたしもまた、前川正と交際をつづけながら、決して彼自身を求めてはいなかった。ただわたしの心は、創世記の第一日目のように混《こん》沌《とん》として、何ひとつ定かなものがなかった。あったのは、とにかく何かを求めようとする、しかし何を求めてよいかわからぬ不安な魂であった。その頃のわたしの姿を次の前川正宛の手紙に見ていただきたい。
何が私を憂鬱にさせるのか。いったい私とは何ものなのだろう。何ものかであろうと努力し、何ものであるかを見いだそうとすることは、あまりにも愚かしいことというものか。
正さん、私はこうした奇妙なメランコリイに捉《とら》われると、何か書かずにいられなくなるのです。
頭痛の時にペンを執ることと同じく失礼なことと、あなたはおっしゃるかもしれない。
精神的にも肉体的にも疲れきった時、わめきたくなるというとんでもない生まれつきなのかもしれない。正さんにはこうした私がわかっていただけないのだろうか。
ぎゃんぐぽうえっと
ぎゃんぐぽうえっと
読み捨ててしまいたい小説です。
私の胸の中にひそむある神経が、時折きりきりと痛みを感じている。読みながらそれを感ずるのです。「嫌いではない小説」と言いましたのは、「好きとも言えない小説」でしたから。以下思いついたままに無秩序にならべたててみます。
無秩序、それはそのまま「私」であるようなものに思えてなりません。
酔っている! 作者も小説の中の人物も、抱きあったまま酔っている、みんな酔っぱらっている。酔っている小説……ところで酔っていない小説というものがあるだろうか……とにかくも。酔わすもの、それはいったい何なのか。サントリイを飲んだか、メチールを飲んだか、否飲む以前に酔っている人間。
理性の過信も一つの酔態なら、意地を振り回して啖《たん》呵《か》を切ったようすも立派な酔いどれ状態。牧師も、強盗も、学生も闇屋も、官僚も、何かに酔っているこの世の中。
もしも素面《しらふ》だったら、きっと恥ずかしくて(他に対してでなく)、辛くて、誰も彼も生きていることができない筈だ。それが本当ではないか。
これも酔っぱらいのたわごとに過ぎないのかもしれない。
事実は小説よりも奇なりと、偶然という言葉の持つ恐ろしさ、必然とは何だろう。いずれにしても、偶然とは? 必然とは、? ? ? 逢ったこと、別れたこと、殺したこと、殺されたこと、恋したこと、恋されたこと、憎んだこと、憎まれたこと、小説の因果めいたストーリイ。しかしそれには人間の手心が加わった因果めいたもの。現実のそれは、因果はふるえるほど残酷だ。変転、推移、何か糸を引く者がいるような不気味な気配。私達は強《し》いられているのか? 自然の成り行きとは何だろう? 偶然? 必然? 私が堀田綾子であったということ、何と薄気味の悪いことだろう。人間が生まれるそのこと自体偶然というものかどうか。いずれにしても無性に恐ろしい。
恐怖をもたらすもの、不安。その不安は何の故に。永久を希《ねが》う有限の身である故にか。時間、時の流れ、それは私達の頭の中にのみあり、時そのものは実在してはいないのだろうに。不安はしかし、「時」のみがもたらすものではなさそうだ。
「真の姿」を捉えられないということ。「自分」がわからない「他のなにもの」もわからない。逆立ちしたまま歩き回っているのにも気づかないらしい自分。結局何もわからない私、その不安。
人間の弱さ貧しさだけが、ひしひしと感ぜられる。
人間の弱さ――そのみにくささえも美しく果《は》敢《か》なく感ずるほどの弱さ。
人間の貧しさ――英雄、学者、聖者、富者、それらまでが哀れに滑稽に思われるほどの貧しさ。
人の世の淋しさとはこの小説に流れているようなものなのか? しかし私の持つ淋しさとは異なっている。オクターブ高いか低いか、そうした違いを感ずる。淋しさとは何から来るのか、どれほどの種類があるのか、とにかくも淋しいことだけはたしかなようだ。
生きている素晴らしさを発見したなんて、嘘っぱちだ。生きたいという強烈な願いを人間が持てるというのか。
何《な》故《ぜ》そんな嘘をいうのか、嘘ではなくてそうした姿を肯定したいというのか、とにかく私にはわからない。
センチメンタルなヒーロー気取りと誰が嘲《わら》えよう。社会の罪? そんな甘いものじゃない、社会の罪以前のものがこんなに人間を悲しくしているのだ。ぎりぎりに生きてみたらきっと死にたくなるか、何にも努力するものを見いだせないように運命づけられているのが人間なのだ。
ものの中も外も、私のこの目で何がとらえられるだろう。寝言だ。酔っぱらっている人間の暴言だ。酔眼だ。何ひとつ確かなものなんてありゃしない。何もかも、? ? の連続。だがほしいのだ。何かが。安心の出来る何かが。火花の散るような一瞬一瞬でありながら、永遠であるものが。多くの人間はあまりにも燃えたがらない。恐れている。ぶすぶすといぶっているだけだ。それでその煙が目に入って痛かったり、鼻や口から入ってむせたりしている私達。完全燃焼の中にこそ、永遠なるものがあるのではないか。これもまた酔っぱらいのたわ言。
私はいったい何を書いたのでしょう。この小説の中で胸に沁みたのは、浮浪児と狂女のふしぎな清潔感です。この中にも何かの鍵(かぎ)がかくされている。暗闇の中にあってほの白く浮き出ている浮浪児と狂女、願わくば私もまた狂いたい、と思うのでした。私のような人間にはこんな読み方しかできないのです。多分真の叡智というもののある人(いるかどうかを疑いますが)には悩むことなく悟られるのでしょうが。結局は悩みに価しないものを悩んでいる愚を何時までくり返すというのでしょうか。
正さん、私はなぜこんな生まれつきなのでしょうか? そのくせ求めているのです。何をともわからず、不安のない世界に憧れているのです。いいかげんな所で妥協はしたくないという稚《おさ》なさが、私には生涯つきまとうような気がします。
私は小さい時から人一倍夢をみつづけて来ました。そして今も。夢に逃避したのではなく、それもまた生まれつきだったのでしょうか。しかも、その夢はみんなこわされてしまったのです。一つ夢がこわされればまた一つ、と夢をみて。
今の私にはたった一つ、永遠に安らう世界を求めつづけるしかなくなりました。しかしあまりにも「?」が多すぎる。「常に酔え」と詩人は言いました。しかし何に酔えとは言いませんでした。私は求めることに酔い、自虐に酔っているのでしょうか。
ぎゃんぐぽうえっと、よい小説でした。だから読み捨てたかったのです。小説自身の持つ酔いに、作者のかなしさが滲み出ていると私は思いました。
ふっと身の落ちて行くような虚無感に襲われながら、時々何かをつまみ上げられ、最後には何かの岐路に立たされて。
本を読む度に、私は私の愚かさを読むような気がします。作者の意図を読み得ずに、ただ自分の中に沈潜してしまう。愚かしいの一語に尽きるのです。いつも帰って来るのは此《こ》処《こ》であってみれば、ああいったい私は何をしているのでしょう。
「生きる」とは何でしょう。「何を」「生きる」のでしょうか。
金曜日は明日ですのね、只今教会の御案内いただきました。
正さん、人間は淋しくないようになれるものでしょうかしら。風が吹いています。
混沌とした状態ではあっても、その心の中に、ともかくも何かを求めはじめていたということは、わたしにとって大きな事実といえることだろう。敗戦以来、信ずるものを失ったわたしが、そして何もかもすべてのものに虚しさを感じていたわたしが、今ここで何かを求めはじめたのだ。それはあの暗い夜、海べで己が命を絶とうとしたことが、ひとつの大きな終点であり、且つ起点になったに違いない。
わたしは自分が死にたかったにもかかわらず、その死ぬことにも真剣になり得なかった自分の姿を思ってみた。死とは自分にとって最も重大なことであるはずだった。その重大な死を前に、わたしはその夜のチラシズシがおいしかったことを記憶している。
(人間は死ぬ覚悟ができると、案外冷静なものだ)
その時わたしはそう思ったものだ。だが、後になって思ったのは、自分の死に対してさえ、真剣でもなく熱心でもなかったということである。
(自分の死に対してさえ真剣になり得ぬ者が、どうして毎日の生活に真剣であり得よう)
わたしはあの夜まで、自分自身が虚無的であったにせよ、それはそれなりにやはり人生に対してまじめだと思っていた。まじめだからこそ、絶望的になることができたのだと思っていた。だが、それは自分の間違いであることに気づいたのだ。気づかせてくれたのは、あの丘の上の前川正の姿であった。
「綾ちゃん、だめだ! あなたはそのままではまた死んでしまう!」
と叫び、
「綾ちゃん、ぼくは今まで、綾ちゃんが元気で生きつづけてくれるようにと、どんなに激しく祈って来たかわかりませんよ。綾ちゃんが生きるためになら、自分の命もいらないと思ったほどでした。けれども信仰のうすいぼくには、あなたを救う力のないことを思い知らされたのです」
と、自らの足を石で打ちつけた彼の姿を思った時、真剣とはあのような姿をいうのだとわたしは気づいたのである。いや、真剣とは、人のために生きる時にのみ使われる言葉でなければならないと、思ったのである。
そう考えると、わたしは自分の生き方がどこか中心を外れた生き方のように思うようになった。しかし、その中心が何であるかがわからない。それでわたしは、それが何かと求めはじめるようになっていたのである。
十三
けれども、前川正との交際に、周囲は必ずしも暖かくはなかった。
「西中一郎さんのようなよい人はいないのに、あの人と別れては、二度といいことはないわね」
と、身近な人たちにあからさまに言われた。健康で、気前のよい西中一郎から見ると、前川正は療養中の学生に過ぎなかった。経済力から見ると、この二人は子供と大人ほどの相違があった。
さらに、わたしの側よりも、前川正の周囲には、わたしを疫病のように忌《い》み嫌う人たちが多かった。わたしとは直接話し合ったこともない人たちが、ずいぶんとわたしの悪口を言ったものである。彼のある先輩は、
「あの人を連れて遊びに来るのなら、二度と家に来ないでほしい。子供たちの教育に悪いから」
とさえ言った。その先輩の妻は、前川正が少年の頃から、
「正さんの奥さんは、わたしが探してあげるわよ」
と言っていたそうだから、いっそう勘気にふれたのかもしれない。だが、わたしを悪く言ったのは、単にその人だけではなく、悲しいことだが彼の所属する教会の人たちもまた、同様であった。彼の母は教会で人々に言われたことを彼に告げ、彼もまた正直にその言葉をわたしに告げた。
それは、彼らに言わせれば当然のことであったかもしれない。わたしに男の友だちが多かったことは事実だったから、世にもうとましき女に見えたのかもしれない。
「困りましたねえ。ぼくは綾ちゃんを教会のグループの中で、一緒につきあっていきたいと思っていたんだけれど……」
先輩には訪問を拒まれ、教会のある人からは道楽息子とまで言われては、彼も立つ瀬がなかったことであろう。
「ほんとうは、こうした二人だけの交際にしたくなかったんですよ。みんなの中で見守られながら、正々堂々とつきあいたかったんですけれどね」
自分の意図に反した状態になったことを、彼は嘆いたこともある。しかし、彼は断固としてわたしとの交際を続けて行った。わたしもまた、周囲の目を恐れることなく、健康の許す限り教会に行くように努めた。
「ぼくは綾ちゃんの前に、大手を広げてかばっている、青年剣士のような気がします」
と、その頃の彼の手紙には書いてある。
とにかく、わたしにとってそのようなことはそれほど痛《いた》手《で》ではなかった。わたしは人間というものを、決して高く買ってはいなかったからである。厳密にいえば、この世に全く信頼し得る人間はいないと考えていた。だからこそわたしは、この世のすべてに虚しさを感じ、何の意味も見いだせずに死のうとさえしたのだった。
特別にキリスト教を信ずる人だけが、立派だとは思っていなかった。仏教信者にしろ、天理教信者にしろ、必ずしも、信仰を持っているからといってその人間が立派とは限らない。単に立派といえる人なら、それはむしろ信者でない人に多くいるかもしれない。
わたしの同僚だった佐藤利明という先生は、何の信者でもなかったが実に立派だった。今でも札幌真《ま》駒《こま》内《ない》の養護学校に勤めていられるが、この先生はわたしの学年主任だった。一年半の間机を並べたが、一度として人の悪口を言ったり、感情に激して怒ったことはない。いつも頭が低く親切だった。同僚の一人に意地の悪いのがいて、時々先生を小馬鹿にした。面と向かって馬鹿にするのだが、先生はいつも実にいい笑顔で、静かにそれを聞いている。
(何とか言い返してやればいいのに)
と、普通なら思う所だが、若いわたしたちでさえ一度もそう思わなかったほど、それはかえって見事であった。弱い者が、相手を天下の豪傑と知らずに言いがかりをつけている感じで、その二人の差があまりにも判然としていた。その時先生は三十そこそこの青年だった。
だが、この立派な先生と共にいたとしても、わたしは自分の不安の根本を解決されることにはならなかったと思う。わたしが求めていたものは、漠然とではあったけれど、やはり神と呼ぶべきものであった。だから、教会の中の一部の人がわたしを拒み、悪く言ったとしても、わたしの求道に別段何の支障もなかった。いや、むしろ、わたし自身とそれほど違わぬ弱い愚かな人々も、教会にいるということで、わたしは心ひそかに安心もしていたのだ。
(あの人たちを信者として受け入れてくれる神なら、わたしだって或いは受け入れてくれるのではないか)
そんな傲《ごう》慢《まん》なことを思って、わたしはわたしなりに、聖書を熱心に読みはじめていた。
よく、教会という所はこの世の最も清らかな人たちが集まっている所だと錯覚して、教会に来る人もあるが、教会は決して美しい人の集まりではない。教会は神の前にも、人の前にも頭を上げ得ない罪人だと、自分を思った人たちが集まっている所のはずなのだ。だから、人に何かを求めるのではなく、神に求めていかなければ、人々は絶望するかもしれない。その点、わたしはまず誰よりも自分に絶望していたから、その後今に至るまで、他の人のことで、教会を離れたいと思わずにすんで来た。これは最初に、わたしの悪口を言った何人かが、教会にいてくれたおかげでもある。
十四
教会に通いはじめたとは言っても、クリスチャンそのものに抱いていた、いくぶん侮蔑的な感情をわたしは捨てきれなかった。なぜなら、信ずるということが、その頃のわたしにはお人好しの行為に思われたからである。
(あの戦争中に、わたしたち日本人は天皇を神と信じ、神の治めるこの国は不敗だと信じて戦ったはずではないか。信ずることの恐ろしさは、身に徹していたはずではないか)
その戦争が終わって、キリスト教が盛んになった。戦争中は教会に集まる信者も疎《まば》らだったのに、敗戦になってキリスト教会に人が溢れたことに、わたしは軽薄なものを感じていた。
(戦争が終わってどれほどもたたないのに、そんなに簡単に再び何かを信ずることができるものだろうか)
どうにも無節操に思われてならなかった。
そう思って教会に行くと、クリスチャンの祈る祈りにも、わたしは疑いを持った。祈り会で次々に祈る信者の祈りを、わたしは聞いた。みんなが両手を組み、敬《けい》虔《けん》に頭を垂れているのに、わたしはカッキリと目を見ひらいて、一人一人の顔をじっとみつめた。
「天にまします父なる御神、この静かなる今宵、共に祈り得ることを感謝いたします。どうぞ主の御導きによって歩み得ますように、切に祈ります……」
などと祈る顔を眺めながらわたしは思った。
(ほんとうにこの人たちは、神の前に祈っているのだろうか。もしわたしが神を信じているのなら、神の前にあるというだけで、祈りの言葉など出てこないような気がする。ほんとうに神が、この世をつくり、この世を支配しているほどの偉大なる存在であれば、どうしてその畏《おそ》るべき神の前に出て、べらべらと口が動くだろう。こちんこちんに固くなって、ぶるぶるふるえるのがほんとうではないだろうか。この人たちは神の前に祈っているのではなく、人に聞かせるために祈りの言葉を並べているだけではないのか)
そんな思いがしきりにした。どうもウソッパチな姿に思えてならなかったのである。わたしが信者になったなら、真実な祈りのできる、ほんとうの信者になろう、などとわたしは、傲慢な思いを持っていたのである。そしてその思いをわたしは、前川正にかくさず告げた。彼は、
「綾ちゃんは手きびしいなあ」
そう言うだけで、それ以上には何も言わなかった。
「クリスチャンって、なんてお人好しなんでしょう。信じていない者同士が、神はある神はあると言いあって、お互いに安心しているんだもの」
ある時はそんなことも言った。前川正は、そんなわたしに聖書を開いて、伝道の書を読めとすすめた。
何の気なしに読み始めたこの伝道の書に、わたしはすっかり度胆を抜かれた。
「伝道者言《いわ》く。
空《くう》の空《くう》、空の空なる哉《かな》。都《すべ》て空《くう》なり。日の下に人の労して為《な》すところの諸《もろもろ》の動《はた》作《らき》は、その身に何の益かあらん。世は去り世は来《きた》る。地は永《とこ》久《しえ》に存《たも》つなり」
そこまでの僅か一行半を読んだだけで、わたしの心はこの伝道の書にたちまちひきつけられてしまった。
「河はみな海に流れ入る。海は盈《み》つること無し。……目は見るに飽くことなく、耳は聞くに充《み》つること無し……。
先に成りし事は、また後に成るべし。日の下には新しき者あらざるなり。見よ是《これ》は新しき者なりと指して言うべき物あるや。其《それ》は我等の前《さき》にありし世々に、既に久しくありたる者なり。
己《ま》前《え》のものの事は、これを記《お》憶《ぼ》ゆることなし。以《の》後《ち》のものの事もまた後に出ずる者これをおぼゆることあらじ」
わたしはここまで読んで、思わず吐息が出た。
わたしはかなり、自分が虚無的な人間だと思っていた。何もかも死んでしまえば終わりだと考えていた。だが、この伝道の書のように、
「日の下には新しき者あらざるなり」
とまでは、思ったことはなかった。毎日が結局は繰り返しだと思いながらも、しかしわたしは、やはりこの世に新しいものがあると思っていた。こうまですべてを色あせたものとして見るほどの鋭い目を、わたしは持っていなかった。
「我わが心に言いけらく、……汝逸《たの》楽《しみ》をきわめよと、嗚《あ》呼《あ》是《これ》もまた空《くう》なりき……。
我は大《おおい》なる事業をなせり。我はわが為に家を建て、葡《ぶ》萄《どう》畑を設け、園を作り、囿《にわ》をつくり、又菓《み》のなる諸《もろもろ》の樹を其《そ》処《こ》に植え、また水の塘《ため》池《いけ》をつくりて樹木の生《おい》茂《しげ》れる林に其《それ》より水を灌《そそ》がしめたり。我は僕《しもべ》婢《しもめ》を買得たり。我は金銀を積み……妻妾を多く得たり。
斯《かく》我《われ》は……諸《すべて》の人よりも大《おおい》になりぬ……。みな空にして風を捕うるが如くなりき。日の下には益となる者あらざるなり」
つづいて、自分は知恵があると思っているけれど、愚かな人間の遇《あ》うことに自分もまた遇うのなら、知恵などあるとは言えない。利巧者も馬鹿者も、共に世におぼえられることはない。次の世にはみな忘れられている。みんな同じように死んでしまうのだ。知恵などあっても、結局は空の空ではないか、と書いてある。
十二章に及ぶこの伝道の書は、この調子で何もかも空なり空なりと書いてある。わたしは少なからずキリスト教というものを見なおした。そしてまた、お人好しに見えるクリスチャンを見なおしたのである。
この地上にあるいっさいを、すべてむなしいと、徹底的に書いてあるのは、たしかにキリスト教らしからぬことに思えた。いったい何のためにこんなことを聖書に書いてあるのかと、わたしはふしぎに思った。聖書というものは、それまでの二、三カ月に読んだ限りでは、
「互いに相《あい》愛《あい》せよ」
とか、
「人もし汝《なんじ》の右の頬をうたば、左をも向けよ」
などという教訓に貫かれているもののように思っていた。だから伝道の書のこの虚無的なものの見方は、わたしにキリスト教全体を見なおさせた。ここを読んでわたしは釈迦の話を思った。釈迦は二千五百年前、インドの王子に生まれた。健康で高い地位と富とに恵まれ、美しいヤシュダラ妃と、かわいい赤子を与えられていた。言ってみれば、この世で望める限りの幸福を一身に集めていたわけだ。しかし彼は老人を見て、人間の衰えゆく姿を思い、葬式を見て人の命の有限なることを思った。そしてある夜ひそかに、王宮も王子の地位も、美しい妻も子も捨てて、一人山の中に入ってしまった。
つまり釈迦は、今まで自分が幸福だと思っていたものに、むなしさだけを感じとってしまったのであろう。伝道の書と言い、釈迦と言い、そのそもそもの初めには虚無があったということに、わたしは宗教というものに共通するひとつの姿を見た。
わたし自身、敗戦以来すっかり虚無的になっていたから、この発見はわたしにひとつの転機をもたらした。
虚無は、この世のすべてのものを否定するむなしい考え方であり、ついには自分自身をも否定することになるわけだが、そこまで追いつめられた時に、何かが開けるということを、伝道の書にわたしは感じた。
この伝道の書の終わりにあった、
「汝の若き日に、汝の造り主をおぼえよ」
の一言は、それ故にひどくわたしの心を打った。それ以来わたしの求道生活は、次第にまじめになって行った。
十五
と言っても、外から見て格別変わったわけではない。
夜半に帰りて着物も更《か》へず寝る吾を
この頃父母は咎《とが》めずなりぬ
これは、ア《※》ララギに初投稿のわたしの歌で、土屋文明選に初入選の歌でもある。
湯たんぽのぬるきを抱きて目覚めゐる
このひと時も生きてゐるといふのか
妖婦《ヴアンプ》てふ吾が風評をニヤニヤと
聞きて居りたり肯定もせず
こんな歌が幾つかできた。とにかく虚無的な人間が歌を作るというのは、大きな変わりようであるはずだった。なぜならそれは、無から有を作り出すことなのだから。一見喜びのない歌のようでありながら、わたしの心の底に、生み出す力が湧いてきたのだ。それはやはり聖書を読み始めたことと、無関係ではなかった。
前川正とわたしは、相変わらずよく会い、会っては本や映画の話などをした。教会にも共に行った。前にも書いたが、彼は教会の人の、わたしに対する陰口をそのままかくさずに伝えた。普通なら、教会の人たちを善人であるかのように言い、教会をさも楽しい所のように言うものである。たとえわたしの陰口を言う人がいても、それを伝えないのが求道者に対する思いやりというものであったろう。
だが彼は、ありのままの教会の姿をわたしに伝えた。それはわたしという人間の気性を、よく飲みこんだ上でのことだったろう。いや、それ以上に、わたしを最初から厳しく訓練しようと身構えていたに違いない。ちょうど獅子が、わが子を千《せん》仞《じん》の谷底に突き落として訓練するように、彼はわたしを甘やかさなかった。
しかし、その彼の心の底にあるものを、わたしは知らなかった。彼は、常に自分の残る命の短さを思っていたのである。ある時、二人で夜の道を歩きながら、こんな話をした。秋も深まった九月の末であったろうか。
「ねえ、五年たったら、二人は何をしているかしら。わたしはだんだん病気が悪くなって、死んでしまうかしら」
「綾ちゃん、綾ちゃんはまだ若いんですよ。死ぬという言葉を、そう簡単に言ってもらっては困りますね」
「そう、では五年後も、やっぱりこうして、正さんと二人でこの道を行ったり来たりして、五年後は二人は何をしているかしらと、話しているかしら」
わたしはそう言って笑った。すると彼は、黙ってわたしの顔を見ていたが、
「綾ちゃんはいつまでも僕に甘えていては、いけませんよ。僕の願いは、綾ちゃんが誰にも頼らずに、ひとりで生きて行くことなのですから」
彼は、一語一語に深い思いをこめて、そう言った。
「あら、それではいつまでもわたしの話し相手にはなってくださらないの」
わたしは彼の言う意味を受け取りかねて尋ねた。その頃彼には、女の友だちがいた。それは特定の恋人という人ではないが、少なくともわたしと親しくなる前までは、歌を共にやり、信仰も同じ人であった。その女性は頭もよく、美人でもあったし、彼の結婚相手としてもふさわしい人であった。
「わたしがあんまりわからずやで、もう面倒になってしまったの?」
それならそれでもいいと、わたしは思った。彼は彼の世界に戻ればよい。わたしとつきあっているばかりに、彼自身何かと、教会の人に煩わしいことを言われるのだからと思った。すると彼は、何ともいえない淋しそうな微笑をした。
「綾ちゃん、とにかくね、綾ちゃんはひとりで生きるということを、しっかり学ばなければいけませんよ。僕は綾ちゃんが一人立ちするまでの、突っかえ棒なのです。わかりますか」
彼は再び熱心にそう言った。だが、わたしには彼の言う言葉はわかっても、その心はわからなかった。
その翌日、彼からの手紙があった。
……悲しい時、苦しい時は、何かひとつに苦行的に、精神を集注することがよい……というのが私の生活法です。マルテの手記の主人公マルテは、淋しくてならぬ、悲しくてならぬ時は、博物館に行き憩ったようです。旭川には博物館がないので、私は図書館に行くことにしています。そして今月はなるべく図書館に行くことに決めています。
この手紙にも、わたしは彼の心がなぜ淋しいのか、悲しいのか、わからなかった。いま、その時の彼の心を思うと、何と思いやりのなかったわたしだろうと、ただ悔いるばかりである。彼の肺に巣食った空洞が、彼を次第に死に追いつめて行ったことを、わたしは知らなかった。一見彼は健康そうに見えた。肺結核という病気は、一人の患者に十人の医師を要すると言われたほど、各人各様の病状をあらわす。
わたしの場合は、微熱と盗《ね》汗《あせ》があり、体も痩《や》せていた。すぐに肩がこり疲れやすかった。
「この世にはずいぶん細い人もいるものだなあと思って、近づいてみたら綾ちゃんなんですものね。がっかりしましたよ」
彼にそう嘆かせたほど、わたしは細々としていた。だが彼は、微熱もなく体重も六十キログラム前後で、疲労感も少なかった。一里や二里の道を歩いても、ほとんど疲れないほどの体力だったし、肩こりもなかった。ただわたしは咳をしなかったが、彼は道を歩いていても、立ちどまって体を屈《かが》めなければならないほどひどい咳をしていた。
とにかく、一見健康そうであり、体力があったために、彼の病気はわたしよりも軽いように思われた。だから彼の悲しみが、わたしには単なるセンチメンタリズムにしか感じられなかった。
彼はよく手紙を書いた。わたしは九条十二丁目に住み、彼は六町離れた所に住んでいた。毎日のように会いながら、彼は毎日のように手紙をくれた。二人がわたしの家で話し合っている時に、彼の手紙が着いたことが幾度かある。
「手紙マニヤなんですよ」
彼はそんな時、顔を赤らめて笑っていたが、彼としては、一通一通に別れの言葉を書いていたのではなかったろうか。
十六
前にも書いたように、わたしは多くの男の友だちとの交際は断ったが、光源氏のような間藤安彦とは、依然としてつきあっていた。
彼は時々わたしの家を訪ねた。彼もまた虚無的な点においてはわたしに劣らなかった。間藤安彦は、秀才というより、どこか天才的なひらめきを持った学生だった。と同時に、独特のふんいきを持った人間で、彼の周囲には、いつも蒼い空気が張りつめているような感じがした。ある時は花の精に、ある時は水の精に見える人だった。
彼がお茶を飲む時に、両手に茶碗をくるむようにして持ち、長いマツ毛を伏せて、茶の香りをかぐ姿など、たしかに「光源氏」を思わせる風《ふ》情《ぜい》があった。そのようないくぶん女性的とも言える肌《き》目《め》の細かい感じは、女の友だちにもなかったから、彼と二人でいると、わたしの心も何か和んだ。
彼はニヒリストだけあって、
「ぼくって、恋愛のできない人間なんです」
と、よく言っていた。多分過去に激しく人を愛したことがあって、その傷が癒《い》えていないのではないかと、わたしは想像した。前川正のように、いつも相手をいたわろうとするようなところが、彼にはなかった。
ある日安彦に誘われて散歩に出た。ちょうど菊が咲いている頃で、晴れた気持ちのよい日だった。彼は何か淋しくてたまらないらしく、いつもより口数多く話していたが、十町も歩かないうちに、次第に無口になった。彼の美貌は目に立ったから、電線の工事をしている工夫たちが二人を見てからかった。そんなことが彼を無口にしたとは思えなかったが、突然立ちどまって、
「悪いけど、ここから一人で帰ってくれない」
彼はそんなことを言った。前川正のように、必ずわたしの家に迎えに来て、また送ってくるというのとは、全く違っていた。
だがわたしには、むしろ間藤安彦のように、淋しいから散歩に連れ出す、しかし途中で言いようのない自己嫌悪におちいって、帰ってくれと言う、そんなわがままがおもしろかった。つまり、前川正は二つ年上であり、間藤安彦は七つ年下であるということが、この二人への差になったのだろうか。
前川正とだけつきあっていたとしたら、得られない母性的な感情を、わたしは持つことができたような気がする。そんなわたしに、彼はある時、いつもの柔らかい口調で言った。
「ぼくねえ、大学を出たら、どこかの町で高校の教師になろうと思うの。どこの町がいいかしら」
「そうね、海の見える町がいいんじゃない。虻《あぶ》田《た》あたりが気候がいいって言うけれど」
「そう、じゃぼく虻田に住むことにするよ。あなたも一緒に来てくれる?」
安彦の言葉に、わたしは驚いた。
「わたしも行くの?」
「うん、だからあなたの好きな町に行くって言ったの」
「だって……」
わたしには、この気まぐれな安彦の言葉が飲みこめなかった。
「ぼくは一生、結婚なんかしたくない。あなたも病気だから、結婚はしないでしょう。夫婦でも恋人でもない者同士が、一生同じ屋根の下に暮らすって、案外おもしろいんじゃないかなあ」
「そうね、それはいいわ。でも、もしかしたら、わたしはごはんを炊けるかどうか、わからないわよ。何だかこの頃微熱が取れなくて」
「かまわないよ。一緒の屋根の下に住んでくれればいいんだもの」
彼はその生活を空想するだけでも、楽しそうであった。母にそのことを言うと、
「そんなこと、だめですよ。いくら二人がそのつもりでも、世間では夫婦と見ますからね」
と、たしなめられてしまった。
前川正に告げると、
「あの人だけはいけない、安彦さんと綾ちゃんは、どちらかと言うと同質の人間だから、二人が一緒になっては、二人ともだめになってしまう」
彼は、なぜか強く反対した。以前は年齢さえ下でなければいいと言っていたはずなのに、安彦がわたしと暮らしたいという話を聞くと、彼は反対した。
「綾ちゃんも、安彦さんも余り生きたがり屋ではないでしょう。二人で自殺の話などしていると、お互いに意気投合して心中でもされては、ことが面倒ですからね」
前川正はそう言って、できたらなるべく間藤安彦からも離れる方がいいと言った。わたしはそれを、前川正のゼラシーだと思った。
そんなことがあってから、幾日かたったある日、前川正が会うなりわたしに言った。
「綾ちゃん、綾ちゃんって、凄いんですってね、昨日教会で、女子青年の人に、綾ちゃんの話を聞きましたよ」
「あたしが妖婦《ヴアンプ》だっていう話でしょう。それならとうに、正さんだって知っていることじゃないの。何もいまさら凄いなんて驚かなくてもいいじゃないの」
だが、彼の受けたショックが大きかったのは、その話を告げた人が、彼の最も親しい女の友だちだったからであるということを知って、わたしは口をつぐんだ。そしてわたしは、心の中で、間藤安彦と誰も知らない町に行って、静かに暮らしたいと、しみじみ思っていた。
十七
雪がすっかり土をおおい、白一色の冬が来ていた。そしてわたしの心も、冬のように荒涼としていた。
前川正が、その親しい教会の女友だちに、わたしのうわさ話を聞いてきたと知ってから、わたしは淋しかった。誰もわたしのことを知らない町に行って住みたいと、一時は思った。
しかしある夜、床の中でぼんやりと天井を眺めていたら、クモの糸が一本ゆらゆらとゆらめいてみえる。部屋にはストーブが燃えているので、空気が流れるのだろう。そのクモの糸はふわふわと右に左にただよっている。けれども、糸の一方は、天井にへばりついているので、結局はまた同じ所に垂れさがる。
その糸をみつめていると、わたしは、
(どんなにこの町がいやで、世界の果てまで逃げたところで、つまりはこの地球の上から、一センチも離れることはできないのだ)
そう思うと、逃げ出すことが何となくこっけいに思われてきた。どこまで逃げ出しても、自分は自分のみにくさを忘れることはできない。このみにくさから逃げ出すことは到底できないのだと思うと、誰も知らない所に行くということも、無意味な気がしてならなかった。
ここで、断っておくが、わたしは男の友だちが何人もいたけれど、相手に夢中になって自分のすべてを投げ出すことはしなかった。わたしが異性の友だちに求めていたものは、肉体ではなく、いわば人生について、共に語り合うことであったような気がする。その頃のわたしの手紙を読んでいただいた方がよくわかると思うので、次に引用する。
昭和二十四年十二月二十七日、綾子より前川正宛。
……(前文十四行略)
正さん。わたしは今日、こんなのんびりとした思い出を書くために、ペンを持ったのではないのです。この間の夜、正さんが教会の女子青年の方に、
「綾子さんて凄《すご》腕《うで》だから……」と忠告を受けたとおっしゃって、「綾ちゃんなかなか凄いんですってね」とおっしゃったことに対して、ちょっと書きたくなったんです。
妖婦《ヴアンプ》てふ吾が風評をニヤニヤと
聞きて居りたり肯定もせず
という歌、おみせしたでしょう。歌は「肯定もせず」ですが、わたしは自分の娼婦性は肯定します。天性の娼婦だと自認します。
でもね、意識的に男性を誘惑しようとか、だまくらかして金をまきあげてやれということは、しませんでした。だってわたしの欲しいものは、そんなものではないのですもの。
わたしは、男性の、わたしへの愛の言葉を、幼子がおとぎ話を聞くような、熱心さと、まじめさと、興味とあこがれをもって聞いたのです。なぜなら、男が女を愛すること、女が男を愛することは、わたしにとって大切な問題であったからです。
わたしのあこがれと熱心さが、何に向かっていたかご存じでしょうか。それは生きるについての最も大切な「何か」を示されるであろうことへの期待だったのです。わたしの期待する「何か」と愛とは、つながっていなければならぬと、わたしは思っていたのです。
「ぼくはあなたを愛している。命をかける」
という、どんな女にもあてはまり、またどんな女にもあてはまらぬこの言葉。
「愛するってどんなこと?」
と尋ねたら、もうだめなんです。なぜって、愛するということは、ある人にとっては「好き」ということであり、ある人にとっては「肉体を求めること」であり、ある人は「結婚すること」なんです。しかもその結婚の内容はあいまいなのです。ねえ、愛するとは何かわからないのに、なぜ愛すると言えるんでしょう。
わたしの生に対する不安が、結婚によって、男の胸に抱かれることによって、解決できるように考えている人は、それはわたしという人間を愛していることにはならないのです。
「女」を愛することと、「綾子」を愛すること、または「〇〇子」を愛することとは違います。わたしの生への不安、何ものへともわからぬあこがれを少しでもわかってくれる人があったなら、その人は、「私」をみつめて「私」を愛していたといえるかも知れません。でも、そんな人は現れませんでした。一緒の世界で、力強くわたしを励ましながら、共に歩みつづける人を求めていたのですのに。
女に「魂」の生活があるってことを知らない男性たちが、何と多いことでしょう。きれいなブローチの贈り物、映画や喫茶への誘い、そしてたいくつな会話。わたしは一人一人の胸をのぞきこみ、そして逃げ出した女です。
わたしは、ヴァンプというわたしへのレッテルを別に否定はいたしません。かくべつ美しくもなく、賢くもない、何の取り柄もない女が、いつも何人かの男性と交際していれば、そう言われても仕方がないんです。
でも、わたしの血の中に、ただ一滴の男の血も流れていないことを、ふしぎな哀しさで思います。誰かに、肉体のすべてを捧げていたとしたら、
「わたしは聖女よ。ヴァンプではないわ」
と、言ったかも知れません。わかって? 正さん。
読み返して何だかいやな手紙。わたしは自分の娼婦性を、男性のつまらなさに起因するもののように、思っているんでしょうか。いいえ、わたしは悪い悪い女なんです。
うわさなんて、悪意と興味で語られるから、わたしのうわさもきっとひどいことでしょう。でも、わたしの本質的に持っている醜さは、語られていることよりも、もっと醜いんです。誰もそれは知らないんです。お気をつけあそばせ、正さん。
「君子危うきに近寄らず」
とやら、後をみずに一目散にお逃げなさい。それが正さんに忠告してくださった女の方への、ご好意に報いることになるのです。
ここでわたしは、ほんのぽっちり涙をこぼしました。でも、ほんのぽっちりよ。しかもヴァンプの涙なんてどれほどの価値があって?
ごきげんよう、よいお年をお迎えください。わたしはこれから、この手紙を出しにポストへ行きます。そして、牛《う》朱《しゆ》別《べつ》川のゴミ捨て場に、カラスが群れている様を見に行きます。わたしは雪景色の中で、このゴミ捨て場を漁《あさ》る黒いカラスの群れが好きなのです。
恐るべきヴァンプの綾子さんより
善良なるクリスチャンのお坊っちゃんへ
十八
年が明けた。
前川正とわたしは、以前よりもかえって親しくなっていた。彼の女友だちから聞いたうわさ話も、結局は二人を親密にさせただけであった。
わたしはその頃、旭川保健所に通って、週一回気胸療法をつづけていた。ストマイがあり、成形手術の発達している今日では、この気胸療法はなくなったかも知れない。
しかしその頃の結核患者は、肋膜が癒着していない限り、誰もがこの療法を受けていた。太い針を胸にズブリと刺される。この針にはゴムの管がついていて、気胸器から空気が送られてくる。空気は肋膜腔《こう》の中に入って、肺を圧迫する。空気に圧迫されて、肺の病巣はつぶされるらしいのである。
はじめてこの太い針を、麻酔もなく、ズブリと刺される時は、誰もが観念する。だがこの針は、太い割にそう痛くはないものだ。痛いのは、はじめて空気を入れられた胸の中である。ちょっと息をしても、ものも言えないほど痛かったり、苦しかったりする。
二回目からは、空気を入れられる苦しさは次第に減ってくる。やがては空気を入れてもらうことが、待ちどおしくなるほど、体の調子がよくなってくるものだ。
だが、この気胸療法も、決して安全とは言えない。ある療養所の患者は、もう退院近くなっていた。気胸日に看護婦に呼ばれて、鼻唄まじりにスタスタと気胸室に行ったが、そのまま帰らぬ人となってしまった。それは、医師の不注意で、うっかり針を血管の中に刺してしまったのだ。気胸器には圧を計る器械がついているが、その時医師は、つい油断をしたのだろう。空気が血管の中に入り、空気栓《せん》塞《そく》を起こして死んでしまったらしい。血管の中に空気を入れるというのは、実に恐ろしいことである。
また、肋膜腔内に入れるべき針が、肺に達することがある。すると、呼吸する度に、空気がその腔内に洩れて、急激に肺を縮め、人事不省におちいり、やがては死んでしまうという事故もいく度か聞いた。「自然気胸」と呼ぶこの事故も、空気栓塞と同様に、わたしたち気胸を受ける患者は恐れたものだ。馴れた医者ほど、患者や看護婦と冗談を言ったりして、この事故を起こすと聞いていた。
いかに稀な事故でも、あり得ないことではなかったから、気胸を受ける度に、ちらりと不安を抱くのが普通だった。
ある雪の日、わたしはいつものように気胸を受けに保健所に行った。気胸が終わって、部屋を出ようとすると、急に目の前がまっ暗になった。看護婦が、
「あ、まっ青だわ」
と、わたしの体を支えて、静かにそばの長椅子に横たえてくれた。医師があわただしくわたしのプルスを取った。その間三十秒とたったであろうか。
(ああ、何か事故だな)
わたしはとっさに、自分が不運な事故にあったことを感じた。そしてすぐに、
(ああわたしは、死ぬのか。仕方がない)
と思い、更につづけて思ったことは、父や母のことではなく、
(同生会の仕事の引きつぎをしなくてはならない)
ということだった。
二、三時間たって、わたしの体は幸いにも元通りになった。わたしの身に起こったのは、あの自然気胸でも、空気栓塞でもなかったのだ。「ショック」と呼ばれていた状態らしかったのだが、しかしこの事件は、わたしにとってよい経験であった。
それは、わたしにとって、待てしばしのない突如襲った臨終の経験であった。目の前がまっ暗になった時、わたしはあの恐ろしい事故が自分の上に起き、そして自分は死ぬのだと思った。
それまで、自分で死のうと思ったことはある。しかし、自分の意志とかかわりなく、突如死に襲われるという経験はなかった。わたしは決して、積極的な生き方をしていなかったが、もともとは非常に意気地なしである。九歳の時に、死について一晩考えぬいたことがあった。どうして人は死ぬのかと考えると、眠ろうにも眠られなかったのだ。そして九歳のわたしが得た結論は、
「ほかの人は死んでも、綾子だけは決して死なない」
ということであった。
小さい時から、死についてつきつめて考えるほどであったから、わたしは命《いのち》根《こん》性《じよう》の汚い人間であると思う。
だから、突如死に襲われたりしたら、さぞみっともない死に様をするだろうと思ってきた。ところがその時のわたしは、意外にもまことに諦めがよかった。
(仕方がない。いま死ぬのか。それもよかろう)
という、平静さがあった。無論医師を恨む気持ちなどみじんもなかった。そして、最もふしぎに思うことは、父母兄弟、友人のことを思うよりも先に、毎月千円の報酬を受けていた結核患者の会同生会の書記の仕事の引きつぎを、第一に考えたということである。これは言ってみれば、療養片手間のアルバイトで職業ではなかった。日頃それほど重要に考えていなかったことが、どうして意識に上ったのだろう。
ふだん親しくつきあっている前川正にさえ、ひと目会いたいとも思わなかったのである。
この経験でわたしが得たものは、第一に、人間は死を恐怖しているが、いざとなると案外簡単に死を肯定するものだ、ということである。そして第二には、案外自分という人間を知らないで生きているものだということであった。自分が死ぬ時には、多分こうだろうなどと想定してみても、全く思いがけない一面を見せるものだと、つくづく思った。つまり、どれほどもわたしはわたし自身を知ってはいないということである。
無論、今後死に面した時のわたしは、この時のわたしとは全く違った面を、またみせることだろう。よく人々は、その人の死に際の姿をもって、その人間を計ることをするけれど、長い病人ならいざ知らず、突如訪れる死に際して見せる姿を、それほど重要に考えることはどのようなものであろう。
あの時、あのままわたしが死んだとしたら、わたしは実に往《おう》生《じよう》際《ぎわ》のいい人間として、語り伝えられたことだろう。だが、わたしはやはり、自分がほんとうに死ぬ時は、じたばたすることだろうと思っている。
この事件が、わたしの生活に様々な影響を与えたのは無論である。死は何の相談もなく突如襲ってくるものだということを、しみじみと感じた。わたしが死にたいと願ったあの夜の海べでは、わたしは死ぬことができなかった。しかし、いままた生きようと思いはじめた時に、死はいつわたしの上に訪れるか、わからないのだ。
死にたいということは、わたしの強烈な願いであり、意志であったはずなのに、しかも死ぬことはできなかった。いま生きたいと思っていることも、確かにそれはわたしの願いであり意志であるはずなのに、何とわたしたち人間の意志は、簡単にふみにじられることだろう。
そう考えてくると、わたしはこの世に、自分の意志よりも更に強固な、大きな意志のあることを感ぜずにはいられなかった。その大いなる意志に気づいてみると、平凡な日常生活の一日にも、確かに自分の意志以外の、何かが加わっていることを認めないわけにはいかなかった。
たとえば、きょうは洗濯をし、本を読み、街に買い物に出て行こうと、大ざっぱな計画を立てる。ところが洗濯の途中で雨が降り出し、読書の最中に腹痛が起こり、さて街へ出かけようと思うと客が来る。決して自分の意志通りに事が運んではいない。
わたしは、自分が二十八歳のその時までの生活の中においても、それに似たことを見いだした。その最も顕著な例は、西中一郎の結納が入った日、わたしが倒れ、やがて発病し、結婚の予定が狂ってしまったことである。
人間の考えが、余りにあさはかだから、何者かがわたしたち人間の立てた計画を修正してくれるのだろうか。そんなことをわたしは考えるようになって行った。無論この何者かとは、絶対者・神のことを指しているのである。
十九
雪どけの雫が、絶え間なく軒から落ちていた三月のある日だった。
間藤安彦から葉書が来た。小さな、余りうまくない字がポツポツと並べられている。
「綾さん、お元気ですか。いまぼくの手もとに、たった一枚の葉書しかありません。ぼくはあした、胸郭成形の手術を受けることになりました。誰にも知らせないで手術を受けようと思いましたが、この一枚の葉書をみて、あなたにだけは知らせておきたいと思い、ペンを執りました」
簡単な文面であったが、内容は重大である。胸郭成形は胸を切り開いて肋骨を何本か切る手術だ。それほど危険ではないにせよ、大きな手術である。ちょうどわたしを訪ねてきた前川正に、わたしはその葉書を見せた。
一読するなり、前川正は、
「すぐ行きましょう。いろいろと人の手も欲しいことでしょうし、そばにいてあげるだけでも力になりますよ」
と、もう立ち上がっていた。
「でもわたし、少し微熱があるの」
そう言うと、彼は呆れたように、
「間藤さんが死ぬか生きるかの、大手術をするんですよ」
と、わたしを叱るように言った。
間藤安彦には母親がいない。手術の時に、一番いて欲しい人がいないのは、確かに憐れであった。しかしわたしは、たった一枚の葉書をわたしに書いてくれたことに、いく分こだわっていた。彼には何人も友人がいたし、女の友だちもいた。その中で、わたしだけに葉書を書いてくれたということは、正直に言って、うれしくないことはなかった。
前川正は、以前に、わたしと間藤安彦の交際を断つべきだと言ってはいたが、彼自身は短歌雑誌や、葉書などを間藤にやっていたのである。だが間藤はどういう気持ちか、前川正のそうした好意に、一度も報いようとはしなかった。はた目には冷然と読み捨てていたような印象を受けた。
その間藤安彦の手術に、何も前川正までが行ってやることはないではないかとも、わたしは思って行きしぶっていたのである。
病院に行ったが、まだ必要な用意は整えられていなかった。たとえば横飲みや、体の下に敷く油紙など、手術患者には必需品であるものさえ、整えられていなかった。前川正は、医学生らしい細かい配慮で、それら必要なものを紙に書いて、彼の姉に渡した。
そしてまた、八人もの大部屋ではつらいだろうと、医者に交渉して、二人部屋に移してもらうようにした。
翌日は、間藤安彦の手術の日である。わたしと前川正は連れだって、ふたたび病院に行った。間藤は、基礎麻酔を打たれ、担送車で手術室に入った。手術の終わるのを待つ間に、わたしは売店から、キャラメルを買ってきて、疲れた顔をしている前川正に、
「ひとついかが」
と、すすめた。すると彼は、ちょっと気色ばんで、
「いま、間藤さんは手術室で、手術を受けている最中なんですよ。そのことを思ったら、キャラメルなんか、のどを通るわけがないでしょう」
と首をふった。わたしは、その前川正の言葉に打たれた。間藤は必ずしも前川正に親切ではない。否むしろ前述したように、冷淡でさえあった。その間藤の手術に、こんなにも本気で心配しているのかと思うと、前川正という人間が、実に偉く思われた。しかしわたしは、ひとりでキャラメルを一箱あけてしまった。
二十
間藤安彦の手術は成功し、彼は徐々に体力を回復していった。その間藤を、わたしよりも前川正の方が数多く見舞っていたようである。時には二人そろって間藤を見舞いに行った。すると間藤は、
「あなた方を兄妹かと、部屋の人や、看護婦さんたちが思っているようですよ」
と言った。わたしと前川正の間にかもし出されるふんいきは、よそ目にも恋人のそれとは見えなかったのであろう。
わたしは、二《ふた》重《え》瞼《まぶた》の大きな目であり、前川正は一《ひと》重《え》瞼の細い目であった。容貌が似ていないのに、どこか相似て見えたということは、わたしを喜ばせた。虚無的であった自分が、少しずつでも彼に似ていくことを、わたしは、自分自身の進歩のように喜んだのである。
ある日前川は、わたしに大学ノートを一冊買ってきた。
「このノートにお互いの読書の感想を書き合いましょう」
彼は、わたしを少しでも成長させることに、喜びを感じているようだった。ゲオルギューの「二十五時」、リルケの「マルテの手記」、宮本百合子・顕治の「十二年の手紙」など、次々に買ってきては、わたしに感想文を書かせるのだった。
世の男女の交際は、こんな「宿題」を出すようなことはしないだろうと思いながらも、わたし自身も楽しかった。リルケの言葉に、
「学びたいと思っている少女と、教えたいと願っている青年の一対《つい》ほど美しい組み合わせはない」
とかいうのがあったような気がする。わたしたちは、ほんとうにそんな一対になりたいと思っていたのだ。だから一層熱心に共に聖書を読み、英語を学び、短歌を詠よんだのであった。
彼は、昭和二十年頃から短歌をはじめていて、アララギの会員だった。歌をはじめたばかりのわたしには、彼の歌のうまさはまだよくわからなかったが、次のような、人間性のあふれた歌には心ひかれた。
公園の木立の中を並びゆくに
何か恋人の如き錯覚
このまま抱擁せば如何《いか》ならむなどと想ひつつ
暗き道を処女《をとめ》と並びゆく
彼がうたったこの女性は、わたしではない。以前にわたしを凄腕だと彼に告げた女性である。この歌は、教会の修養会で、神楽《かぐら》岡《おか》公園に行く途中作ったものだと言って、彼はわたしに見せてくれた。
「へえ、正さんのような、そんなまじめそうな顔をしていても、心の中は何を考えているのかわからないのね」
わたしは呆れたように言った。
「綾ちゃんは、小説は読んでいるけれど、まだまだ男というものを、ちっともわかっていませんよ。ぼくが誘えば、人けのない春光台でも平気でついて来ますねえ。しかしぼくだって男ですからね。ほんとうはもっと警戒すべきだと思うんですよ」
「だってわたし、男なんてちっともこわくないわ。男の人だって、恥ずかしいということを知っているでしょう。そうむやみに変なことはしないと思うの」
「ダメダメ。それだから困るんだ。全く綾ちゃんときたら子供と同じで、危なっかしくて見ていられない。菊池寛は、男をほんとうによく知っているのは、芸者だけだと書いていたことがあるけれど、もっと男というものを知らなくちゃ困るんですねえ」
彼はむきになって、男を信用してはいけないと、わたしに忠告した。
それはわたしにとって、初めてのことであった。男の人たちは、みんな自分だけは紳士であるというような顔をしていた。男は油断のならないものだなどと、言ってくれた人は一人もなかった。前川正は、
「ぼくはねえ、形だけは品行方正ですよ。だけど、心の中はそれだけに妄想で渦まいているのです」
とも言った。わたしは内心、こう言う人こそ信用していい人なのだと、あらためて思うのだった。
唇を得しと思ひしたまゆらに
息荒々と目覚めけるはや
彼はこんな歌も作っていた。そして、彼を信じているわたしに、彼は何とかして自分を信じさせまいとするように、いく度も言うのだった。
「ぼくはね。人に言えないような夢を見るんですよ。この歌なんか、まだてのいい方ですよ」
そしてまた、
「綾ちゃんは女でしょう。女である以上、生活の相手である男性というものを、ほんとうの意味で知らなくてはいけませんよ。男性をきれいなものに思い描いていて、その思い描いた幻と結婚したりするから、世には不幸な結婚も多いのですよ」
などと説き聞かせてくれるのだった。今考えると、彼は自分自身を美化されるのを嫌っていたのかもしれない。いや、それ以上にわたしの将来を考えていたのではないだろうか。自分の命の短いことを知っていて、この何もわからないわたしが、つまらぬ結婚などしないようにと、心を配っていたのではなかったろうか。
こんな歌を作る彼には、そのくせ次のような歌もあった。
意気地なく距離を保ちて交はれば
処女《をとめ》は次々と吾を離れゆく
彼はまた、平和問題にも非常に関心を持っていた。旭川の共産党員五十嵐久弥の誠実な人柄を敬愛して、共産党員との平和懇親会にも出ていた。かなり熱心であり、共産党に心ひかれていた一時期のことは、次の歌にも現れている。
地下に潜《くぐ》る覚悟つかねば入党を
すすむる君に吾は無言なり
入党をすすめられたぐらいだから、かなりのシンパであったはずである。だが自分は、五十嵐久弥のように、非合法の時代にも節を曲げなかったような強さはないと、彼は言っていた。しかし平和だけは、絶対に守らなければならないと思っていたらしく、よくわたしにもそんな話をしてくれた。ある時堤防で二人が平和問題を語り合っていた時、二、三人の男がひやかしの言葉をかけながら通り過ぎた。
「よそ目には、甘い会話をとり交わしている恋人同士と見えるのかもしれませんね。若い男女がこうして、美しい堤防で平和のことなど話し合っているなんて、ほんとうは世界の悲劇のようなものなんですけれどね」
彼はそう言って笑った。わたしはその時はじめて、切実に平和という問題を考えた。ほんとうに世界中には、何百万組の若い恋人たちがいることだろう。彼らはただ二人の恋を語っていればそれでいいのだ。それが、
「いつまた戦争が起きるのかしら、戦争が起きたら、あなたは戦場に行ってしまうのね」
そういう会話をしなければならないとしたら、それは何という悲しいことであろうと、わたしは思った。
「ほんとうにねえ、わたしたちが欲しいのは、自家用車でもなければ、大きな邸宅でもないわ。たったひと間でもいいから、家族が戦争のことなど一度も心配せずに生きていくことなんだわ」
わたしは彼にそう言った。平和を願う彼は、次のような歌をいくつか作った。
平和をば唯祈るより術《すべ》なきか
組織なく気力なきクリスチャン我等
若きらが萌《きざ》す不安におびえつつ
教授等の入党を伝へ来りぬ
今度こそは迎合クリスチャンでゐたくなし
外電は原子戦争の悲惨を伝ふ
平和とは永《えい》劫《ごう》の希望かと思ふ時
風見矢が方向を転じたり
戦争を鼓吹せざりし消極を
今となり孤高者と自誇するグループ
そしてある時、わたしに新聞の読み方を教えてくれたことがあった。
「綾ちゃん。見出しの大きい記事が重要とは限りませんよ。新聞の片隅に小さく書かれている二、三行が、ほんとうは重要だということがあるのですからね。しっかりと目をあけて、これは今の世にとってどんなことなのかということを、聡明に読みとらなければいけませんよ」
それを裏書きするような事実に、わたしもその後いくつかぶつかった。彼自身の歌にも、
外電の短き記事に怖れつつ
或る結論を抽《ひ》き出さむとす
というのがある。彼はその時三十一歳だったが、北大にまだ籍のある療養学生だった。だから次のような歌ができたのも当然だったろう。
中国に拡りてゆく革命か
心沁む大学生の加はることも
徴兵反対の掲示囲める学生等
サフランの鉢をかばひ持つ一人あり
わたしは特にこの二首目の歌が好きだった。フランス映画の一こまのような歌ではないだろうか。徴兵に反対する若い学生たちの、清純な真剣な青春が、サフランの花を傷つけまいとかばっている学生の姿に象徴されているような気がしてならない。今でもわたしは、この歌を、青春の日の秀れた歌としてあげることをためらわない。
二十一
わたしの歌も拙《つたな》いなりに、かなり変わってきた。歌をはじめた頃は、虚無的な歌が多かった。
極量の二倍を飲めば死ねると言ふ言葉を
幾度か思ひて今日も暮れたり
自己嫌悪激しくなりて行きし時
黒く濁りし雲割れにけり
惰性にて生き居る吾と思ひたり
体温計をふりおろす時
乞食なども羨ましくなるこの夜よ
郵便局のベンチに臥《ふ》してをりしに
このような歌が、いつしか次のように変わっていった。
「主婦の友」の内職欄を読みて居つ
胸病む吾に生くる術《すべ》がありや
フォルマリン匂ふ寝巻に着《き》更《か》へつつ
心素直になりて行きたり
そのうちに前川正が、札幌の北大病院に診断を受けに行くことになった。わたしはその時何となく不安になった。というのは、彼の健康のことではない。札幌には彼の初恋の人がいたからである。相手は下宿先の娘さんで、彼の四つ年上の人だった。初恋の人と言っても、彼が想っていただけで、相手の人は何も知らずに結婚してしまった。それで彼は、「春と秋」という短編小説を北大の校友会誌に発表し、その小説の中で彼女を書いた。小説の中の彼女は、長いまつ毛の、ギターの上手な人である。それは事実らしかったが、結末は彼女を自殺させている。彼に言わせると、
「結婚されたので、しゃくにさわったから、自殺させたのですよ」
ということなのだ。もっとも、その女性は非常に聡明だったから、彼の想いに気づいていても、そしらぬ顔をして、適当に彼をあしらったそうである。
彼はそのことをわたしに語る時、
「あれはありがたかったですねえ。若い時は愛してもいいが、愛されてはいけないことがあるんですよ」
と、感謝していた。この話をわたしに聞かせたのは、七つ年下の間藤安彦と、わたしの間に危険なものを感じていたからであったらしい。
とにかく彼が、久しぶりに出札すると聞いて、わたしは直感的に、彼と初恋の人がどこかでばったり会うのではないかと感じた。わたしは時々予言者のように、きょう起きる出来事を当てることがある。特に入院中は、何か鋭《と》ぎすまされたような神経であったのか、寝ていて、一町も離れた炊事場で、いま作っているものが何かを当てることが、しばしばあった。
札幌に出た彼は、僅か一週間の間に、わたしに葉書を二十八通も書き送ってくれた。
「いま札幌の駅におり立ちました。旭川よりずっと暖かです。これから北大病院に行くのですが、その前にとりあえず一筆しました。風邪をひかずに待っていてください」
そんな簡単な文面だったが、ある時は病院の控え室で、ある時は食堂で、またある時は本屋の店先で、というように実に手まめに便りをくれた。
そして、何を食べたか、道で誰に会ったか、札幌の街のようすはどうか、あたかもわたしが同行しているような錯覚をおぼえるほど、一から十まで報告してくれた。
やがてわたしは、わたしの直感が当たったことを彼の葉書で知った。
「きょうは札幌は暖かで、ザラメ雪が足にこたえます。きょう思いがけない人に会いました。『秋』です。(小説『春と秋』はその妹を春、その姉を秋に象徴して彼は書いていた)えんじのベレー帽も、口紅の色も、七年前と同じでした。五歳ぐらいの男の子を連れて、少し斜めに首をかたむけながら歩く姿も、七年前と同じでした。向こうは気づかなかったようですので、言葉をかけずに過ぎました」
わたしは、自分の直感が当たったことを思いながら、その葉書をいく度も読み返した。その行間に、「秋」に対する彼の想いがひそんではいないかと思ったのだ。そして、
(やっぱり彼は、まだ彼女を愛している)
と感じた。もし、愛していないならば、ひとつ屋根の下に何年も住んでいた「秋」に、言葉をかけることをためらうわけがない。思わず口から、その人の名が出るのが自然ではないかとわたしは思った。
ベレー帽のかぶり方も、口紅の色さえも、七年前のそれと同じだと記憶しているのは、並々の感情ではない。
しかも、仔細しさいにその人を眺めながら、そのまま通り過ぎたのは、何と言ってもまだ彼女を愛しているのだろうと、わたしは思った。
やがて彼は一週間の予定を終えて旭川に帰って来た。会うなりわたしは言った。
「あの『秋』に会ったのね」
二十八通もの便りをもらったことを喜ぶ前に、わたしはただそれだけを言った。その時わたしは、ハッキリと自分が前川正を愛していることに気づいた。いままで、師として、友としてつきあっていたはずなのに、わたしの心は急激に彼に傾いていった。
「会いましたよ」
彼はそう言って笑い、
「どうかしましたか」
と、尋ねた。わたしは、何も言わなかった。七年ぶりに「秋」に会った彼の心は、その「秋」の上におき忘れてきただろうと思ったからである。
「綾ちゃん」
呼ばれて顔を上げると、彼の激しい目の色がわたしの前にあった。その目は、雄弁に彼の心を語っていた。
「なぜ『秋』に言葉をかけなかったの」
わたしは彼の目の色に、激しく波立ちながらも言った。
「ぼくはね綾ちゃん。秋だけではなく、どの女性にも言葉はかけないんだ」
彼はそう言って、初めてわたしの手を取った。その日から、わたしたちは、友だちであることをやめた。
導かれつつ叱られつつ来し二年
何時しか深く愛して居りぬ
吾が髪をくすべし匂ひ満てる部屋に
ああ耐へ難く君想ひ居り
わたしは生まれて初めて、恋愛の歌を作った。
やがて雪がとけ、北海道にも春がきた。桜も、こぶしも、一時に咲く五月がきた。旭川の五月は美しい。わたしたちは連れだって、時々春光台と呼ばれる丘に行った。この丘は彼がわたしのために、自分の足を自ら石を持って傷つけた丘である。
その日彼は、
「綾ちゃんに、きょうはお誕生日のお祝いをあげようと思っているのですよ」
と言った。わたしの誕生日は四月二十五日だった。その時たしかお祝いに本をもらっていたはずである。彼はお菓子屋で、ギューヒ二個と桃山二個を買った。甘いものの好きなわたしのために、それをお祝いに買ってくれたのかと思いながら丘に行った。
二人は、自分たちの住む街が、紫色に美しくけぶるのを眺めながら、いつものように短歌や、小説の話などをした。
近くに牧場があり、牛が牧童に守られて、ゆっくりと草を食《は》みながら、幾頭も歩いて行った。小学校五年生ぐらいの牧童は、草笛を吹きながら、わたしたち二人には目もくれず過ぎて行った。その後はまた、二人っきりの静かな丘である。家一軒ない丘、気の遠くなるような静かさだった。
その日二人は、初めて口づけを交わした。
「お誕生日のお祝いですよ」
彼に言われて、わたしは驚いた。
「これがお祝いだったの。すばらしいお祝いね」
彼は静かに、若草の上にひざまずいて、二人のために祈ってくれた。
「父なる御神。わたしたちはご存じのとおり、共に病身の身でございます。しかし、この短い生涯を、真実に、真剣に生き通すことができますようにお守りください。どうか最後の日に至るまで、神とお互いとに真実であり得ますように、お導きください」
二人はいつしか涙ぐんでいた。わたしは彼の真実な愛に心打たれて涙ぐんだのだが、彼は自分の命短いことを思って、いつの日か残されるであろうわたしの身を思って涙ぐんだのであったろうか。
「一所懸命生きましょうね」
そう言った彼の言葉が、いまも聞こえてくるような気がする。
相病めば何時迄続く幸ならむ
唇《くち》合はせつつ涙滾《こぼ》れき
綾子
笛のごとく鳴りゐる胸に汝《な》を抱けば
わが淋しさの極まりにけり
正
二十二
前川正との楽しい日々が続くと、わたしは再び言いようのない不安に襲われた。それは自分の今の安らぎが、前川正が存在することによってのみ、成り立っているということへの不安だった。
たしかに彼は親切であり、話題が豊富であり、恋人として楽しい存在ではあった。会う度に口づけするということはせず、極めてストイックな姿勢であることも好きだった。いつもわたしたちの間には、さわやかな風が吹いているような、乾燥した清潔さがあった。そうした彼の態度に、信頼を感ずれば感ずるほど、わたしは自分が安住している今の世界は、ほんとうの安住すべき世界だろうかと、不安になってきたのである。
わたしのしあわせは、前川正という人間が存在するということにあった。それならば、やがて彼が去り、あるいは死別するかもしれない時がきた時、今立っている幸福の基盤は、あっけなく失われてしまうことになるではないかと、わたしは思った。わたしがこの人生において、ほんとうにつかみたいと願っている幸福とは、そのような失われやすいものであってはならなかった。その点わたしは、極めてエゴイストであった。束の間のしあわせでは不安なのだ。ほんとうの、永遠につながる幸福が欲しいのだ。それにもかかわらず、彼との毎日が楽しいことに、わたしは不安を感じたのである。こうした不安は、その後もしばしば経験した。
彼の影響もあって、わたしは本をつとめて多く読むようにした。「きけわだつみのこえ」もそのひとつである。これはその頃のベストセラーで、今でも学生たちに読まれている本である。学徒出陣で戦死した学生たちの手記であった。わたしはこの本を読み終えた時、この世には読み終えたということのできない本のあることを感じた。いかに感動して読んだからと言っても、それだけでは読んだことにはならないのだ。読んだ者の責任として、その後の生き方において、この本に応えなければならないという本もあるはずである。
この「きけわだつみのこえ」には、若い学徒たちの遺書や日記やノートが載っていた。大方の若い魂は、戦争を一応は批判し、一応は否定していた。しかし彼ら学生は、その否定する戦争に赴いてしまった。徹底的に戦争を批判させるもの、そして否定させるものは、ここにはなかった。体を張ってでも戦争を拒否するという、一筋通った強いものではなかったのだ。わたしはその時、窮極においては学問さえも甚《はなは》だ力弱いものであることを感じて、心もとない淋しさを覚えた。
無論、それ故にこの本はいっそう悲痛であり、読む者の胸を打った。いかにもそれは、押し流されて没した若い魂の無念さを思わせたからだ。
わたしはこの本を読んで、単なる平和論では、ほんとうの平和が来ないのを感じた。ほんとうに人間の命を尊いものと知るなら、一人一人の胸の中に、残虐な人間性を否定させる決定的な何かが必要だと、わたしは思った。それをわたしは、やはり神と呼ぶより仕方がなかった。しかし、その時のわたしには、キリスト教を肯定することができなかった。アメリカにもイギリスにも、フランスにもドイツにもキリスト教があったはずではないか。だがそのキリストの神は、戦争を押しとどめる力にはならなかったではないか。それならば、宗教もまた学問と同様に、何の力もなかったことになるではないかと、わたしは絶望を感じた。
日本だけが神のない国ではなかった。世界が真の神を失っているとわたしは思い、そのことに気づいていないような教会に対して、不満を感じた。
いかに涙して、この「きけわだつみのこえ」を読んだとしても、戦争はまたくり返されることだろう。この本を読むまでもなく、日本人の多くが、戦争のために肉親や友人を失い、家も焼け、自分自身の運命も大きく変わってしまったはずである。国民の多くが、多かれ少なかれ戦争の犠牲者であった。わたしたち結核患者も、戦争中の食糧不足が祟《たた》って、発病しなくてもいい者までが発病し、長く臥《ね》ているではないか。
しかしわたしたちは、つきつめて、戦争を起こした者は誰か、再び戦争はすまいなどと考えてはいないのだ。なんと人間はお人好しで、鈍感なものだろう。これがもし、個人に殺されたり、個人に家を焼かれたなら、決して相手を許そうとしないことだろう。だが、わたしたちは、
「戦争はごめんだ。ひどい目にあった」
などと、口では言っていても、心の底からの激しい憤りを持ってはいない。
わたしは、この自分の中にある鈍感さと、いい加減さに気づいて恐ろしくなった。平和という問題は、まず一人一人の胸の中に、平和への真の願いが燃えなければ、どうにもしようのない問題であることを感じた。「きけわだつみのこえ」の学生たちが、若く清潔であればあるほど、わたしは戦争否定のために、どうしても必要な、神のことを考えずにはいられなかった。ともあれ、この本を読んだことは、わたしの信仰への生活に、大きな刺激となったことは確かである。
二十三
求道生活がまじめになるにつれ、わたしは自分の体を大事にすることにも本気になった。前川正がある日、
「綾ちゃん、お互いのために、ひとつ北大病院に行って、二人の体を徹底的に診断してもらいましょう」
と誘ってくれた。彼の家は、札幌に受診に行くことぐらい、経済的に苦痛はないであろう。しかしわたしの家は、まだ中学生、高校生の弟たちがいて、決して楽ではなかった。わたしは早速、衣料問屋に行って、男ものの靴下や、女もののソックスなどを仕入れ、療養所や街の一軒一軒に売り歩いた。六月の中旬に入ったばかりで、ライラックの匂う美しい季節だったが、十軒歩いて一軒買ってくれればいいほうである。これではとても体が持たない。それで、友人の勤めている北海道拓殖銀行に売りに行った。笹井郁という友人は、いとも気軽に、
「ちょっと待っててね。わたし、みんなに売ってくるから。あんたはここに休んでいるといいわ」
と言って、同僚の間を売り歩き、またたく間に全部売り切ってくれた。この時のありがたかったことを、わたしは今も忘れられない。今、わたしの行きつけの銀行が、ここである所以《ゆえん》である。
いよいよ旅費もでき、二人で札幌に行く朝が来た。駅に行ってみると、彼は登山用のリュックサックを背負っている。もうその頃では、背広を着てリュックサックを背負っている人などいなかったから、わたしは驚いた。
「あら、スーツケースをどうして持っていらっしゃらなかったの」
尋ねるわたしに、前川正は言った。
「綾ちゃんの荷物を持つためには、両手があいていなければなりませんからね」
彼はニコニコ笑って、わたしの荷物に手をかけた。わたしは参ったと思った。彼も若い青年である。背広を着てリュックサックを背負うのは、あまりうれしくはなかっただろう。しかし、彼はまず自分のことよりも、真っ先にわたしのことを考えてくれたのである。
(共に旅するということは、こういうことなのだ。もし、わたしと結婚したら、彼は人生の長い旅を共にするために、やはりこうしたリュックサック姿になるだろう。反対にわたしは、相手の大きな荷物になるばかりではないか)
しみじみとそう思ったものである。
彼の宿は、彼の知人の家であり、わたしの宿は母の叔母の家だった。荷物をわたしの宿の前まで持ってきて、彼はそのまま帰って行った。
気がつくと、わたしの手に彼のグリーンの風呂敷包みがあった。それは彼の日記帳で、軽いこの包みだけをわたしが持っていたのだ。返そうにも、彼の宿の住所がわからない。明日の朝、北大病院で会う時返せばよいかもしれないが、筆マメな彼は、今夜きっと日記を書くにちがいない。そう思って、わたしはひどく気にかかった。夜、その風呂敷包みを枕元においてわたしは寝た。
その時わたしは、ふっと心の中で、
(正さんの日記を読んでみたい)
と思った。わたしはどちらかというと、人のノートを盗み見したり、葉書を読んだりすることはきらいである。無論わたしにも「のぞき」の興味は多分にある。まして日記帳が恋人のものとあれば、読んでみたいのが当然である。だがわたしは、療養所にいて散歩に出る際、葉書の投函を頼まれても、一度も読んだことのない人間である。そういうことを卑しいと、堅く信じて疑わない方だったから、今ここで、いかに彼の日記とは言え、読むことはためらわれた。
(正さんは、この日記を読みなさいと、わたしに手渡したわけではない。どんな人間の心の中にも、人に知られたくない一面があるはずだ。許可も得ないで読むとしたら、わたしは彼を裏切ったことになる)
わたしは、読むことで自分を卑しめたくなかった。そして遂に、枕元の風呂敷包みには手もふれずに眠った。
翌朝病院で会った時、
「読みたかったけど、読まなかったわよ」
と手渡すと、
「読んでもよかったんですよ」
と、彼はやさしい微笑を向けた。
その頃の北大病院は、たしかコンクリートの二階建てであったように記憶する。ひとつの科から、他の科に行くのには、病人のわたしたちには三町もあるかと思われるほどの長い廊下を通らなければならなかった。窓から見る病棟の壁は、どれも深々とした蔦つたの緑に覆われていた。その病院の廊下を彼と歩きながら、わたしは涙がこぼれそうになっていた。それは、内科に行っても外科に行っても、彼のかつての同期生が、白衣を着てテキパキと患者を診断しているからだった。
「やあ、しばらくだね。その後少しはいいの」
などと、彼を一応親切にねぎらってはくれる。しかし三十を過ぎた彼が、まだ大学に籍があると言いながらも、いつ復学できるかわからないのだ、彼の心中はどんなであろうかと、思わず涙がこぼれたのである。特に悲しかったのは、胸部の断層撮影のためレントゲン室に入った時だった。教授か講師かわからないが、たくさんの学生たちに何かを説明していた。前川正を見ると、いい材料があるとばかりに、彼らの前で裸にし、講義をつづけた。柔和な彼は、ニコニコ笑って学生たちの前に上半身を裸にされたまま、おとなしく教材になっていた。無論学生たちは、彼を自分たちの先輩と知るはずもない。
「わたし、あの時正さんの代わりに、あそこに立ってやればよかったわ」
怒りに似た気持ちでわたしがそう言った時、彼はいつものおだやかな口調で言った。
「綾ちゃん、人間はね、一人一人に与えられた道があるんですよ。綾ちゃんは、ぼくの友人たちが一人前の医者になっているのを見て、少し感情的になっているのではないですか」
彼はわたしの気持ちを言いあてた。
「ぼくもね、北大に入学した頃は、後何年たったら医者になる。そして収入はこのくらいになる。死ぬまで食べはぐれはないと思っていたし、医師という職業に誇りを持っていましたよ。しかしね、ぼくは神を信じていますからね。自分に与えられた道が、最善の道だと思って感謝しているんです。そう淋しがらなくてもいいんですよ、綾ちゃん」
そう言って、彼はわたしを慰めた。わたしは彼の言葉の中に、殉教者のような強さと美しさを感じて、黙ってうなずいた。
第一日目の受診を終えたわたしたちは、医学部の中をくまなく歩いた。解剖用の死体置き場や、解剖室などまで彼は案内してくれた。この古びた医学部のすべての場所に、彼の思い出がたくさんあるにちがいないと思いながら、わたしはやはり療養者の彼がかわいそうでならなかった。
構内に出ると、芝生のみどりが目に冴《さ》え冴《ざ》えとうつった。樹齢何百年もの大きなエルムの木が、公園の木立のように美しい。その下を白衣の看護婦や、医者や、学生たちが、何か話しながら楽しげに歩いている。
「あの人たちは、しあわせね」
わたしは思わず言った。前川正は少しきっとして答えた。
「その言葉は、訂正を要しますね」
「なぜ?」
「人間は、見たところしあわせそうに見えたとしても、必ずしもしあわせとは言えませんからね。ホラ、ライラックの横を歩いて行くあの看護婦さんは、昨日縁談がこわれたかもわからないし、そのうしろを行くあの学生は、故郷に病気の父親がいて、中途退学を恐れているかもしれないんですよ」
「なるほどね。正さんは想像力がたくましいわ」
「だからね、断定的にあの人たちは幸福だなどと、羨ましがってはいけませんよ。言えることは、いまぼくは、綾ちゃんと二人でこの芝生を歩いているだけで、じゅうぶんしあわせだということですよ」
たしかに彼の顔には何のかげりもなかった。
その翌日も病院に行った。受診が終わると食堂で食事をし、二人は札幌神社の宵宮祭の街を歩いた。この夕べ、彼はわたしに、堀辰雄の「菜穂子」を古本屋で買ってくれた。
この本の扉には、彼の字が、今も残っている。
綾ちゃんへ
札幌の街の中を歩いて、札幌神社の宵祭、南六条西二丁目の綾ちゃんの宿まで。それからまた夜の札幌を眺めようと、再び連れ立って、とある古本屋。和服姿の主人公に訊《たず》ねると、客と雑談中の途中、煙草くゆらせながら探索《たず》ねだしてくれた一冊。著者も、主人公菜穂子もTB、そして綾ちゃんも、わたしも、大学病院に診察を受けにきた立派なTB。
モカコーヒーを飲みつつ
札幌紫烟荘にて
正 しるす
翌日札幌神社祭の街を逃れるようにして、わたしたちは旭川行きの汽車に乗った。帰途彼はわたしの横で、葉書を何枚も書いていた。札幌で世話になった宿や、友人たちに早速礼状を書いているのである。彼はいつも旅する都度、車中で礼状を書くようであった。
「几帳面ね」
と、感心するわたしに、
「ほんとうは、家に帰ってから書くべきなのかもしれませんね。おかげさまで無事帰宅しましたなんて書いては、嘘になりますからね」
と、彼は笑った。
北大病院における診断は、二人ともとりたてて変わったことはなかった。ということは、彼にとって決して喜ぶべき診断ではなかったということである。手術もできない、マイシンも大した効果がない。時が来れば死ぬだろうということなのだ。
わたしの場合は、気胸をすれば治癒するめどがたっていた。ただレントゲン写真の良好な割には、微熱も続き過ぎるし、痩《や》せも目立っていた。
帰宅した翌日、彼から早速葉書が来た。それを見てわたしは思わずふきだした。彼は車中わたしの横にいて、わたし宛に葉書を書いていたのである。こうしたユーモラスな一面も彼にはあった。それは、三日間の旅を共にした者への、深いいたわりのこめられたユーモアでもあったのだろう。この時の葉書は、たしか即興の詩で、
「ゴットン、ゴットン」
という汽車の擬音が、幾個所にも使ってあったはずである。何せ彼の手紙は、連日と言ってよいほど来ていたから、この葉書一枚を探し出すのには、かなりの時間がかかるのだ。残念ながら、ここに引用することは今はできない。今、この時の二人の旅を思い出して、わたしは心ひそかに自慢に思うことがひとつある。それは、今はやりの婚前旅行のようなものではなかったということである。それどころか、わたしたちは口づけひとつ交わすことをしなかった。これは多分、彼自身が、旅先であるが故に、いっそう己をつつしんだことによるのであろう。彼の意志の強さ、男性としての判断のたしかさを思わせられる思い出である。
これに似た彼の気持ちは、次の手紙にも現れている。
「綾ちゃんの葉書、午後に一枚。多分、昨日の夜書かれたものでしょう。その中に、先日の私の葉書に、抹《まつ》消《しよう》の多いことを『正さんこそ、思ったことを全部話してくださらないのではないか』と書いてありましたが、ひとつは甘い言葉を書いたところだったから、思い返して消したのです。今の綾ちゃんには、空虚にしか聞こえぬでしょうし、かつそれを必要とする状態でもありませんから。(後略)」
彼はつとめて、いわゆる甘い言葉を使わなかったし、べっとりしたふんいきも好まなかった。そしてたしかに、わたしたちはお互いの甘い言葉を必要とするよりも、お互いのきびしさを必要としていたように思う。男女の交際というのは、下手をするとお互いの生活をルーズにし、不勉強にしてしまう。その頃の彼の便りには、合言葉のように、「勉強勉強」と書いてあった。お互いがお互いをよい意味で刺激しあうことを、わたしたちは望んでいたように思う。
九月になって、間藤安彦がいよいよ札幌に行くことになった。彼は、大学に戻ることができるほどに健康が恢《かい》復《ふく》したのである。彼の手術は、全く成功したのだった。
いよいよ明日発つという日になって、彼はわたしの家に挨拶に来た。当然いつものようにゆっくり話していくと思っていたのに、間藤安彦は、玄関で失礼すると言った。明日発つのでは忙しいだろうと思いながらも、わたしは内心不満であった。何年間かの友人としては、少し別れ方が冷淡すぎると思った。
一町ほど送っていくと、彼はその間しきりに、
「いいよ。ここで帰ってよ」
と、言った。すぐにその彼の言葉が、何の理由によるものか、ハッキリとわかった。一町ほど行った角に、かくれるようにして立っていたのは大里夫人であった。大里夫人は五十を過ぎたやや肥り気味の女であった。夫はある商事会社の社長ということであった。
大里夫人の息子が、間藤安彦と同じ病室であったが、この夫人はたちまち間藤安彦に夢中になってしまったのである。間藤が散歩に行く時は、必ず夫人が一緒だった。そしてその帰り、必ず間藤はコーヒーを奢《おご》られていたようである。
五十歳の社長夫人にいつもいつも
コーヒーを奢られてゐるあなたは嫌ひ
わたしはこの歌にあるとおり、そんな間藤の一面が何となく嫌いだった。しかもその夫人は、わたしが彼を見舞いに行くと、実にふしぎな態度を取った。見舞いを終わったわたしを、間藤が玄関まで送ってくる。そこで立ち話をしていると、その夫人は彼を迎えに来るのだった。話が切れない時は、夫人は彼の手をひっぱって病室に連れていくのだ。話をしている相手のわたしには一べつもくれず、いきなり彼の手をひっぱっていく姿も憐れなら、ひっぱられていく間藤もこっけいであった。
そんなことがあったものだから、大里夫人がかくれるように、街角の家かげに立っているのを見た時、わたしは間藤に対して激しい侮蔑の感情を持った。
その日、前川正が、明日間藤を送りに行こうと言いに来た時、わたしはそのことを言って断った。彼は部屋の前の庭に咲いている白いポンポンダリヤを眺めながら、
「送ってやるものですよ」
と、同じ言葉を二度くり返した。
翌日は霧の深い朝だったが、前川正は間藤を駅まで送りに行った。彼の家には挨拶にも行かない間藤を、彼は送りに行ったのだった。
二十四
札幌に去った間藤安彦から手紙が来たが、わたしは返事も出さなかった。しかしいま考えると、わたしは彼を責める資格はひとつもなかったのだ。
前川正は、わたしとの愛を重んじて、最も親しかった従妹《いとこ》との文通すら、ほとんど控えるようにしていたし、初恋の人と街ですれちがっても、言葉をかけないほどであった。だがわたしは、間藤とかなり親しくつきあっていた。間藤への感情を、きびしく追及されたなら、やはり返答に困るものを持っていたにちがいない。その点、わたしは決して貞潔とは言えない女である。
両親のない若い間藤が、母性的なものを求めて、大里夫人と親しくつきあったからといって、わたしが怒る理由はないはずであった。それがいかにも不潔に見えたのは、わたし自身の心の問題であったかもしれない。しかしわたしは、この後しばらくの間、彼には手紙を出さなかった。
その秋から、わたしの体はいっそう痩せていき、目がいつも熱でうるみ、頬が紅潮しているようになった。医師は胸部のレントゲン写真を見て、熱の出る原因がわからないと言い、多分神経質で出るのだろうと、言うのだった。
その頃から次第にわたしは、医師に対して不信の念を抱くようになった。人間の体は複雑微妙なものである。三十七度四分もの熱がつづき、体が次第に痩せていくというのに、なぜ医師は、胸部レントゲン写真だけを見て、わたしを神経質だときめつけるのか、わたしにはわからなかった。
(医者は科学者ではないか。科学者とは「?」を追究する者でなければならないはずだ)
しかし医師は、他のどこをも調べようとはせず、運動不足だとか、どこかに勤めなさいとか言うのだった。胸部写真の所見がそれだけいいということだったのだろうが、時に血《けつ》痰《たん》が出ても、
「鼻血じゃありませんか。少し強い咳をすれば、のどからだって血が出ますよ」
などと、はじめから相手にしてくれないのだった。
こんな時の病人はみじめである。発熱の原因がわかり、痩せていく原因がわかって療養するのなら、少しぐらいの苦痛は耐えられる。しかし医者が、全く何でもないと言い切るのに、体の方が衰えていくというのは、まことに不安なものだ。
せっかくまじめに生きようとしはじめているわたしを嘲笑するかのように、体の底深い所で、命がむしばまれている感じなのだ。
(いくら科学が進歩したといっても、この僅か五尺の体の中が、どんなになっているかわからない。そんな程度の科学じゃないか)
わたしは自分がはなはだ非文明的な時代に生きているのを、つくづくと感じた。
(人間は何も知ってはいない)
わたしはしきりにそう思うようになった。全くの話、いま自分の生きている時代は、長い歴史の中で、大昔の時代にあるような気がした。世はあげて、科学を謳《おう》歌《か》しているようなようすが、わたしにはおかしかった。そんな時、聖書の中に、
「もし人が、自分は何か知っていると思うなら、その人は、知らなければならないほどの事すら、まだ知っていない」
という言葉を見て、わたしは深い共感を覚えた。そして、知るべきことというのは、つまり神のことではないだろうかと思った。その頃のわたしは、かなり聖書を読み進んではいたが、まだ信ずるには至らなかった。神について、友人たちと話をすると、
「神なんて、いるわけがないよ。この科学の発達した世の中で、証明できないものは、ないのと同じだよ」
よくそんなことを聞くのだった。するとわたしは、急に笑いたくなった。そんなにこの世は、科学が発達しているだろうか。人間はそれほど賢いだろうか。人間なんて、自分自身の体の中さえわからないのに、何もかもわかったようなつもりでいる。科学なんか人間の考えだしたものに過ぎないじゃないか。たとえ飛行機が飛び、原子爆弾が発明され、やがて月世界までロケットを飛ばしたとしても、この無限の宇宙が、どれほどわかるというのだろうか。
「じゃね、神があるという証明ができないから、神がないというのなら、神がないという証明をして欲しいものだわ」
わたしはそう反論した。するとたいていの友人は、
「あっそうか」
と、頭をかくのだった。科学的に神のいないことを証明できない限り、神がいないということもまた非科学的なことであるわけだ。
「神がいるなんて、非科学的だわ。神なんかいやしないよ」
などと神を否定することは、神を肯定することと同じだけ、非科学的なことであることに気がつかないのだ。
その頃わたしはまた、こんなことも友人たちと話し合った。
「人間て、大きいものなのだろうか。小さいものなのだろうか」
ある時は人間が途方もなく小さいものに思われた。わたしたち人間は、ある途方もない巨人の一細胞に住むビールスのようなものに、想像することもできた。その細胞と細胞の空間は、星と星の間ほど離れている。その巨人の一細胞がこの地球であって、その地球の上にビルを建てたり、汽車を走らせたりしていると考えることは、愉快だった。巨人から見ると、そんな何十億の人間の存在など、痛くもかゆくもないのかもしれない。しかしこれはあくまで想像の世界では楽しいが、現実に苦しみながら生きているわたしには、何の腹の足しにもならぬことであった。問題はやはり、自分自身という人間の心の中にあった。
わたしはパスカルの「パンセ」を読んで、パスカルのいう賭かけに興味を持った。
(なるほど、神があるという方に賭けたなら、わたしは神を信じて、希望ある充実した一生を送ることができるだろう。もし、神がある方に賭けて、神がなかったとしても、わたしは何ものをも失わない。むしろ実りある一生を送れるのだ。もし神がない方に賭けて生きたとしたら、わたしのような人間は、おそらく自堕落になり、いい加減に生き、つまらぬ快楽にふけって、一生を浪費することだろう。そして最後に神がおられるということになったとしたら、一度も神を信じなかった自分は、どうやって神の前に出ることができるだろう)
そんなことをわたしは絶えず考えた。神はいるかいないか、その二つのうちのどちらかなのだ。といって、安易にいると言っても嘘になる、いないと言っても嘘になる。いるかいないかわからないというのが、ほんとうのところだ。それなら、いるかいないかわからない神のことなど考えないで生きればいいと、人は言うかもしれない。
しかしそれでは困るのだ。なぜなら人間にとって、神の存在はわからなくても、とにかく神はいるかいないかのどちらかなのだ。いったん神という問題に頭を突っこんだ以上、何の解決もなしに、そこから引き返すことはわたしにはできなかった。
だがわたしは、神がいる方に賭けようと思いながら、しかし思い切って賭けるまでには至らなかった。そんな状態の時に、体はますます痩せていき、前川正のすすめにより、旭川のN病院に入院した。昭和二十六年、初雪が降った十月の二十日も過ぎた頃である。
前川正は毎日のように見舞いに来てくれた。彼の家から病院までは約二・五キロメートルほど離れている。療養中の彼にとって、自転車に乗っても決して近い道のりではなかった。
十一月二日の夜だった。彼はわたしを見舞っての帰りぎわにこう言った。
「あのね、あしたの夜、お赤飯を持ってくるかもしれませんよ。けれどね、約束はしませんよ。当てにしないで待っていてください」
翌日の夜、雨にぬれた彼が重箱を下げて病室に入ってきた。お赤飯を置くと、まだ夕食をとっていないからと言って、彼はすぐに帰って行った。
後に、彼と親しいKが言った。
「正さんはね、この間ぼくが遊びに行っていたら、どうももじもじしてるんですよ。おかあさんに、アレちょうだいと言って、重箱を持って出て行ったんです。ちょっとそこまでと言ってね。おかあさんに聞くと、あなたの所まで赤飯を持って行ったというじゃありませんか。友人のぼくを置いてね。彼は全く偉い人ですよ」
Kは、前川正に常々心服している青年であった。その話を聞いて、わたしは約束ということについて、あらためて考えさせられた。前川正は、まず約束ということを決してしない、と言ってもよいほど、簡単に約束をしない人間である。聖書にも、
「いっさい、誓ってはならない」
と書いてある。彼は、人間の心の移ろいやすさを知っていた。そしてまた人間というものは、明日のわからないものであることを知っていた。だから普通の人なら、
「あしたお赤飯を持ってきてあげますからね」
と言うはずのところを、彼は、
「約束はしませんよ」
と、念を押して帰って行ったのだ。にもかかわらず彼は来た。吹き降りの激しい中を、友を待たせて、彼は往復五キロメートルの道をやってきてくれたのだ。何という深く、真実な愛であろう。真に真実な人間は、約束を軽々しくしないことを、わたしはハッキリと知らされたのである。
二十五
入院したわたしの部屋は、八人の大部屋である。元気な者もいたし、臥《ね》てばかりいる人もいた。肺結核、糖尿病、膿《のう》胸《きよう》、腹膜炎、カリエスなど、さまざまな女の患者たちがいた。その中に一人の高校生がいた。まだオカッパの、どこか暗い感じの少女である。
ある日、その少女の学校の先生が、彼女を見舞いに来た。先生も口数の多い人ではなかったが、彼女は恐ろしく無口だった。聞かれたことには、ハイとかイイエとか返事をするが、自分からはいっさい何も話しかけなかった。すぐ隣のベッドにいて、わたしはその先生が気の毒になったほどである。
それから何日かたって、何のことからか、わたしは部屋の人たちに、療友の悲惨な自殺のことを話した。みんなは一瞬押し黙り、何となくばつが悪そうに顔を見合わせた。わたしは知らなかったが、その高校生は自殺未遂で入院していたのである。
睡眠薬を飲んで、彼女は三日三晩昏《こん》々《こん》と眠りつづけた。幸い、心臓が丈夫だったので助かったのだが、その薬で胃を悪くし、ひきつづき入院していたのであった。
単なる胃腸病患者だと思っていたわたしは、同室の人にこっそりそのことを知らされて、あらためて彼女に親近感を持った。なぜなら、わたし自身もまた、死を決意して死ねなかった過去を持っていたからである。余談だが、この少女の三日三晩昏睡した状態を人に聞いて、後に小説「氷点」の陽子に三日の間眠らせたのである。
この少女と仲よくなったのは、いったいどんなきっかけからであったろうか。多分この少女もまた、わたしの中に、何か自分と似たものを感じたにちがいない。といっても、彼女の自殺未遂については、わたしは何も問わなかった。余りにもその傷が新しかったからである。
だが、注意をして見ていると、彼女の挙動は落ちつかなかった。一日に何回も着るものを取り替えたり、そうかと思うと顔も洗わず、髪もとかずにボンヤリと半日ベッドの上にすわったまま、うつろな目で宙を見ていた。このまま放っておくと、必ず再び彼女は死を選ぶであろうとわたしは直感した。
(死なせてはいけない)
わたしは、いく度かそう心の中で思い、そして、そう思っている自分に驚いた。もし、死にたい人がいたならば、黙って死なせてやろうなどと、以前のわたしなら思っていたものである。わたし自身、何の生きる目的もなかったから、死にたい人は死なせてやった方がいいと考えていたのだ。それがいまでは、知り合ったばかりの一人の少女の生き方に、不安を感じ、心を痛める人間になっていたのだった。
ある日わたしは、思い切って真正面から彼女に言った。彼女がわたしのベッドのそばの椅子に、ボンヤリとすわっていた時である。うすら寒い日がつづき、雪が降ったり解けたりをくり返している十一月も末の頃であった。
「理恵ちゃん。あんたどうして死ぬ気になんかなったの」
一瞬、彼女の目がキラリと光り、そしてまたボンヤリとした顔に戻った。
「堀田さん。知っていたの?」
「知っていたわよ。あんたを黙って見ていると、何だかもう一度薬を飲みそうで不安なのよ」
彼女は黙ってうつむいた。
「理恵ちゃん、あんたって生意気ね。十六や十七で、この世が生きるに値するか、値しないか、わかるわけがないじゃないの。どうして死のうなんてつまらないことを考えたの」
わたしはズケズケと言った。それは自分自身に言っているような気持ちでもあった。生意気と言われて、彼女はニヤリと笑った。恐ろしく虚無的な表情をすることもあるが、時には目がギラギラと光って、妙に動物的な感じのする少女でもあった。しなやかな体と、人に体をこすりつけるようにして歩く歩き方に、雌猫のような愛らしさもあった。この少女の心は、次第にわたしに向かって開いて来た。
ある時彼女は、自殺を思い立った理由をわたしに語った。
「わたしが田舎の中学にいた時ね、そこに国語の先生がいたの。すごく生徒に理解があって、何でもわかってくれるような気がしたの」
彼女の家は、ある町の大きな商家だった。
「その先生はね、わたしの悩みも聞いてくれると思ったの」
「あんたの悩みって、何だったの」
こういう時、わたしはいつもそっけなく聞く。いまでもそうだ。相手が深刻な悩みを打ち明ける時、親身になってうなずいてやるというより、いく分突っぱなしたものの言い方をするのが、わたしの欠点である。だが、わたしを知ってくれる人間は、わたしがそんな時に限って、心を深く動かされていることに、気づいているのだ。あんまり深く心を動かされているので、感情に流されまいとして、わたしは極めて冷淡な言い方をする。
この少女は、まだ年が若いのに、そんなわたしの心の動きを、いち早く察知できる鋭い感受性を持っていた。
「わたしの悩みはねえ、堀田さん。人間とは、大きな海に漂う芥あくたのように、何の値もないものではないかということだったの。わたしはそのことを、手紙に書いて国語の先生に出したのよ。そしたらね、その先生は、わたしの手紙をラブレターのように思ったらしいの。そして、何の回答もくれないばかりか、そのことを先生たちに言いふらしちゃったの」
わたしも、かつて教壇に立ったことのある人間である。この少女の受けた傷がどんなに深いものか、この話を聞いただけで、じゅうぶんに察することができた。
その教師は、教壇の上ではいかにも生徒たちの理解者であるかのように語ることはできた。しかし、このいくぶん早熟な少女の悩みが、どんなものであるかを受けとめるだけの人間ではなかった。人生に対して、初めて疑いを持った者のあの初々しい不安を、その先生は知ることができなかったのだ。しかも、この少女の、教師としての彼に対する信頼を、あまりにも軽々しく受けとってしまったのだ。信頼されているということが、どんなに恐ろしいことかを、この教師は知らなかったのだ。
わたしは激しい憤りを感じながら、彼女の話を聞いた。その後の彼女が、旭川の高校に入っても、一度植えつけられた教師への不信感は、ぬぐい去ることができなかった。そればかりか、おとな全体に対して、彼女は根ぶかい不信を持ち、次第に厭《えん》世《せい》的になっていったのである。
「堀田さん、わたしはね、わたしの誕生日の八月二十日に薬を飲んだのよ。それまでのいっさいのノートも、写真も、みんな焼き捨てたの。わたしが生きていたという証拠は、何ひとつとどめたくなかったの」
「遺言は?」
「何も書かなかった」
彼女は誰にも話さなかった自殺の原因を、こうしてわたしに打ち明けた。つまり彼女は、厭世自殺をはかったのだが、その真の原因は、かの中学の教師にあったのである。
おとなにとっては他愛のない話に思われるかもしれない。しかし、一人の人間が自分の誕生日を選んで、その日に死のうと決意することはただならぬことである。わたしはその深い悲しみを思いやらずにはいられなかった。そして、わたし自身も、かつて教壇に立った者として、この少女に対して責任を負わなければならないような、そんな感じさえ抱くようになった。
前川正は、雪が降ってからも相変わらずわたしを見舞いに来てくれていた。彼はスキー帽をかぶり、大きなマスクをかけて、いつもニコニコとして入って来た。わたしが入院した頃のその部屋は、決して柔らかい空気ではなかった。何か捨てばちなふんいきで、女の患者たちだというのに、わたしが生まれて初めて聞くような卑猥な歌を、声を合わせて歌うのだった。恋人が見舞いに来ると、ひるでも同じベッドの中にもぐりこみ、看護婦もそれに対して注意をしなかった。
だが次第に、部屋の空気が変わってきた。クリスマスが近づいて、どこの病室でも部屋の飾りつけに忙しかった。どこからか大きな松の木を切ってきて、どの部屋も一所懸命飾りをつけた。しかし、わたしたちの部屋だけは、なぜか気勢が上がらなかった。みんなが、
「堀田さん、わたしたちの部屋も飾らない?」
と、言いだした時、わたしは日頃考えていたことを言ってみた。
「ほかの部屋では、クリスマスツリーを飾るけれど、ツリーを飾るだけがクリスマスじゃないと思うの。わたしたちの部屋は、ほかの部屋とちがったクリスマスの迎え方をしてみない? 牧師さんをお迎えして、キリストのお話を聞くの」
キリスト教の話など、堅苦しくていやだとみんなは言うだろうと、わたしは思った。わたし自身まだ信者でもないのに、牧師を招くというのは、おかしな話かもしれなかった。だが、わたしは理恵という少女に、本気になって生きてもらうには、牧師を招くしか方法がないように思われた。そしてまた、部屋のどの一人を見ても、これといってほんとうの希望を持っている人間は、一人もいないように思われた。無論わたし自身を含めてである。
わたしの言葉を聞くと、意外にも部屋の人たちの顔がパッと輝いた。そして、直ちにその話は実行に移すことに決まった。そればかりか、病棟全部の部屋にも、案内を出そうと提案する人さえいた。わたしは唖《あ》然《ぜん》とした。だがその理由はほどなくわかった。原因は前川正にあったのである。
二十六
いままで信仰のことなど語り合ったこともない同室の患者たちが、クリスマスに牧師を招くというわたしの提案を、あまりにもこころよく受け入れたので、わたしはめんくらった。堅い話など、人はあまり聞きたがらないものだと、頭から決めていたわたしは恥じた。だが同室の療友たちは、わたしが入院してから僅か二カ月の間に、漠然とではあるが、キリスト教に対して好意を抱くようになっていたのである。それには理由があったのだ。
前川正は、わたしを毎日のように見舞いに来た。見舞いに来ることのできない時は、手紙をよこした。それだけでじゅうぶんに、療友たちは彼の真実に打たれていたのだ。主婦が病気になって一年もたつと、たいていは離婚話が起き、そのことで女たちはどんなに泣いてきたかわからない。たとえ離婚までの話にならなくても、夫が妻を見舞うことなど、ほとんどなくなる。
恋人たちにしても同じである。その部屋には、病気になったばかりに、恋人に捨てられた女性が二人いた。だから、この真実な前川正の姿は、彼女たちにとって希望を抱かせてくれる大きな存在でもあったのである。
(世には不実な男ばかりではない。自分にもいつかあんな人が現れるかもしれない)
そんな夢を、彼女たちに前川正は与えていたのかもしれない。
もうひとつ、前川正が敬愛の情を持って見られた理由があった。それは、ある患者の所に来る恋人が、いく度病室に来ても誰にも挨拶をせず、二人だけで話をし、前述したように、まひるから同《どう》衾《きん》する。それにひきかえ、前川正は訪ねてくると、
「皆さんいかがですか。きょうは寒いですね」
と、挨拶をした。帰る時には、
「皆さんお大事に。何か街から買ってくる用事があれば、おっしゃってください」
と言葉をかける。塩ニシンを買ってきてくれとか、筋《すじ》子《こ》を買ってきてくれとかいう注文を、彼はノートにメモして、頼まれたことは決して忘れなかった。
ある日、わたしに彼から電話があった。看護婦詰め所に行って、受話器をとると、
「いま、街に出てきているんですけどね。何か買っていくものがあったら、買っていきますから、お部屋の皆さんに聞いてください」
そういう電話だった。その日は、雪の降っている日だったから、いっそう同室の人たちは感動したのだろう。
「何という親切な人だろうね。わたしたちも見習わなきゃ」
そんなことを彼女たちは言ったことがある。
その病院には、暗い廊下があって、恋人たちはその暗い所で会うことを好んだ。だが前川正は、わたしのベッドのそばで、文学や聖書の話をするくらいで、アッサリと帰っていく。そんなことにも、清《すが》々《すが》しさを感じていたようである。こうした前川正の見舞いのしかたが、いつか同室の療友たちの胸を打っていたのだ。前川正の属している教会の竹内厚牧師を招くことに、ためらう人も反対する人もなかったわけである。
いよいよ牧師を招く日になった。熱のあるわたしに、同室の人たちは負担をかけまいとして働いてくれた。看護婦詰め所からテーブルを運んできて、そこに取っておきのレースをかける人。各室に牧師が見えるからと、ふれまわる人。花を買ってきて活ける人。みんな一所懸命だった。
わたしたちの病棟には、六つほど大部屋があって、六十人近く入院していた。そのうちのある男の病室は、全員そろって出席するという返事があった。一同は喜んだ。
小児科の子供たちが、わたしの所にやってきた。小児科の大部屋には、就学以前の幼児から、中学生ぐらいまでが入院していた。
「牧師さんが来るなら、ぼくたちの部屋にも来て、お話してほしいんです」
子供たちは真剣にわたしに頼んだ。わたしは思わず胸が熱くなった。小児科の子供といえば、少し元気な子は廊下を走りまわって、さわいでばかりいた。しかしその子供たちが、牧師さんの話を聞きたいと願っているのだ。そのことにわたしは心打たれて、どうか一人でもキリスト教の話がわかって、信者になってほしいと、信者でもないわたしが思うのだった。
同室の五十歳近いある患者は、
「牧師さんを拝めるなんて、何ともったいない話だろう。目がつぶれたら困るから……」
そう言って彼女は、シーツを新しく敷き、寝巻をよそ行きの着物に着替えて、ベッドの上に正座し、一時間も前から緊張した面持ちで牧師を待っているのだった。信仰のことをよく知らない他の療友たちも、みんなキチンと身の回りを整え、彼女と同じようにベッドの上に正座して牧師を待った。
牧師は神ではない。普通の人間である。その牧師を、神でも迎えるようにうやうやしくあらたまっている療友たちを見ると、わたしは何ともいえない深い感動を覚えた。その迎え方が少しこっけいであるにせよ、誰の心の中にも、神に対する畏《おそ》れというものがあるのだと思うと、わたしはそれを笑うことができなかった。
牧師の見えた時、他の部屋からも三十人余り話を聞きに患者たちがやってきた。たしか十二月二十八日の夜だと覚えている。だが残念ながら牧師の話は、初めて話を聞く人にはむずかしく、あまり興味のない話であった。
牧師が帰った後、同室の患者たちは口々に言った。
「キリスト教って、おそろしくむずかしい話だね」
「そりゃあ何でも初めはむずかしいよ」
「いや、よほど学問のある人でないと、わかる宗教ではないよ」
その話を聞きながら、あの、
「目がつぶれると困るから……」
と言った五十近い患者が、
「何にしても、竹内牧師さまの神《こう》々《ごう》しい顔を拝んだのだから、胸がスーッとして、こっちまで気持ちが清らかになったよ」
と、おごそかな顔をした。結論として、話はむずかしいにはちがいないが、週に一度はつづけて話を聞かして頂こうではないかということになった。誰も聖書を持った者はいない。教会から聖書を買うことになった。たいていの人が、あらそって聖書を求めた。ある男の患者の部屋では、十人全部が聖書を買い求めた。
こうして、新しい年から、牧師に定期的に話を聞くことになった。ギターのうまいある青年は、一所懸命讃美歌を練習し始めた。そして次の集会までに、みんなで歌えるようになろうと、夕食後のわたしたちの病室で讃美歌の練習を始めた。
無為に暮らしていた患者たちにとって、この定期集会は、よい刺激となった。男の患者たちが部屋に遊びに来ても、人生について語り合うようになった。
ある夜、牧師の都合が悪くて来れなくなった。集まった患者たちは、そこで聖書を読み讃美歌を歌った。そのあと、わたしが司会をして、なぜこの集会に出るようになったか、という座談会をした。
みんなはまじめになって、いろいろな意見を述べた。その中に、
「暇つぶしに来ています」
と答えた五十を過ぎた男の患者がいた。その言葉があまりに正直なので、わたしは心にとめた。その人と並んですわっていた青年がいた。廊下を歩く時、寝巻の上にいつもオーバーを着ていた。どこか前川正の顔に似て、上品な感じのする人だった。俳句をしているらしく、時々俳句のことでわたしたちの部屋にも来ていた青年である。その人は黒江勉と言った。
「ぼくは修養のために出ています」
彼はこの会に来るようになった理由を言った。
(信仰と修養はちがうんだけれど……)
わたしはそう思った。初めのうちは誰でも、信仰と修養、信仰と道徳を同じもののように考えてしまう。現にこの病棟にいる患者の一人が、聖書を書きかえるべきだと言った。
「聖書の中から、奇蹟の記事は全部抜いてしまうんですよ。そうして、汝の敵を愛せよとか、色情を持って女を見るなとかいう個所ばかり集めると、これなら現代人は読むと思いますね」
こんなことを聞いていた頃だから、黒江勉という青年の、
「修養のために出席しています」
という言葉は、特にわたしの心に残ったのであろう。この夜の座談会は、みんな楽しかったと言ってくれた。そしてこの集会は、ほどなくわたしが転院した後もつづけられた。
会が始められてから二カ月ほどたって、わたしがひどく驚いたことがあった。それはあの、
「暇つぶしに出席している」
と言った患者が、僅か二カ月の間に、新約聖書を二回通読し、洗礼を受けると言ったことである。彼と黒江勉とは道警に勤めていたが、彼の勤務場所は留《る》萌《もい》であった。彼は退院する前にぜひ洗礼を受けたいと牧師に申し出た。そしてわざわざ教会まで出向いたのである。
彼が二カ月の間に、二度聖書を通読したというだけでも、一驚したのに、更に、彼は聖書に出てくるたくさんの人物の名を、よく覚えていた。
「福音書よりも、使徒行伝の方がわたしの心を打ちましたよ。ステパノが打ち殺される所や、使徒たちが伝道に苦労する所を読むと、これはやっぱりキリストは神だと思いましたね」
彼はそう言って、しきりに感心していた。わたしはその読書力に驚くと共に、聖書という本のふしぎな力に驚かされた。
彼は座談会の時に、多くの患者の中でただ一人、
「暇つぶしに集会に出席した」
と言った人間である。動機はどうであれ、聖書を読んだ時、人はその聖書の言葉に打たれるものなのかもしれないと、わたしはつくづく感じたものである。そして、たとえ聖書を読んでわからない人がいても、また反発を感ずる人がいても、一応聖書を人にすすめるということは、大切なことだと確信したのである。
結果からいうと、この集会で、キリスト教に入り、何年か後に受洗したのは、黒江勉と、理恵であった。受洗をしたいと願った留萌の人は、まだ少し早過ぎるという理由で、旭川では洗礼を受けられなかったが、その後どうなさっただろうか。天野さんという方で、わたしたちは「文部大臣」と呼んでいた。当時の文部大臣が天野貞祐であったからである。
高校生だった理恵は、その後五、六年たってから受洗し、黒江勉は、教会役員を務めるほどの熱心な信者となった。今もまたよき伝道の業をなしつづけている。
二十七
N病院に入院して四カ月たったが、依然としてわたしの熱はつづき、体は痩せていた。しかし、その熱の原因を知ることはできなかった。排尿の回数が多くなり、時には夜七、八回起きることがあった。医師に言うと、驚いたことに、尿の出ない薬をくれるというのである。
わたしは、医学にはしろうとである。しかし、尿の回数が多いと言えば、少なくとも検尿ぐらいはするだろうと思った。それがいきなり尿の出なくなる薬と聞いて、この病院にいてもラチがあかないと考えた。
熱が出ると解熱剤、下痢をすると下痢止め、咳が出れば咳止め、というのは一番信頼できない医師のすることではないだろうか。何よりもその原因を調べた上で、適当な処置がなされなければならないはずだった。わたしが退院を考えたのは、このことだけではなかった。
その頃、わたしの背中が、ちょっとでも動かすと変に痛むのだ。院内の外科医に見てもらうと、
「神経だ。若い娘のころは、よく背中が痛むことがある。いちいち気にとめる必要はない」
と言った。しかし、動かすと痛いのだから、もしかしたらカリエスではないかと尋ねてみた。医師は怒った。
「レントゲン写真にも変化がない。神経だ」
再び叱られて、いたし方なくわたしは病室に帰ってきた。
わたしは、療養生活七年目であった。もう、客観的に自分の病状をとらえることができるはずである。誰でも最初のうちは、病気のことがよくわからないから、いらぬ神経を使うが、少なくとも六年の経験というものは、それほど神経質にはさせないはずである。
医師が何と言おうと、わたしは病状から察してカリエスだろうと見当をつけた。カリエスの患者の話を聞くと、そのほとんどが、いく度か医師の誤診にあっているのだ。そしてカリエスと診断される時は、たいてい、
「どうして早く病院に来なかったのか」
と、言われるらしいのだ。この話から判断すると、レントゲン写真に影が出る時は、自覚症状も相当進んでいるように思われた。それなのに、レントゲン写真に影が出ないうちは、医師はカリエスと診断しない。
とにかくこれでは、レントゲン写真を妄信しているようなものだと、わたしは考えた。病人の言う症状は一顧もされず、ただレントゲン写真だけが決め手なのでは、どうにもならない。
いよいよわたしはN病院を退院して、札幌のI病院に転院することにした。そこには、前川正の親しい友人が勤めていたからである。札幌に転院と決めるには勇気がいった。第一に、わが家はそれほど裕福ではない。まだ高校に行っている弟もあり、大変な負担《にな》るからだった。しかし運よく、父の勤めている銀行の健康保険の制度が変わって、家族も全額支給されることになった。これは非常にタイミングがよく、わたしはいくぶん安心した。いくぶんというのは、全く安心したからではない。入院というものは、入院費さえあれば心配ないというものではないのだ。目に見えない雑費がかなりかかるのだ。
(こんなにまで、父母に迷惑をかけて、生きていってよいものだろうか)
わたしは心弱くそうも思った。だがそのわたしを、叱りつけるように励ましてくれたのは、前川正だった。
「綾ちゃん、生きるということは、ぼくたち人間の権利ではなくて、義務なのですよ。義務というのは、読んで字のとおり、ただしいつとめなのですよ」
この言葉は、わたしをふるい起こした。
(そうか。生きるということは、義務だったのか。義務ならば、どんな苦しいことがあっても、まず生きなければならない)
こんなにまで経済的な負担をかけながら、生きるということは、何かずうずうしいことのように、わたしは思っていた。それが、人間としての義務だと言われると、何かしんとした謙遜な心持ちにさえなった。
もうひとつ、転院をためらったのは、前川正のいる旭川を離れなければならないということだった。入院生活をしていて、毎日見舞ってくれる彼がいることは、どんなに大きな慰めであったろう。それが、知人の全くいない札幌に行くのだから、やはり何としても淋しかった。病状がよいのならともかく、いつ帰ってこれるかわからない不安もあった。
前川正は、そんなわたしを見て笑った。
「綾ちゃんは、もうぼくなどを頼りにして生きてはいけないという時にきているのですよ。人間は、人間を頼りにして生きている限り、ほんとうの生き方はできませんからね。神に頼ることに決心するのですね」
彼はそう言いながらも、誰一人知る人がいないというのは、かわいそうだと言って、札幌北一条教会の長老西《※》村久《きゆう》蔵《ぞう》先生に葉書を書いてくれた。この西村先生がどんな人物であるかをわたしは知らなかった。
「こんど、旭川教会の求道者堀田綾子さんが、貴市のI病院に入院いたしますので、よろしくお願いいたします」
そう書いてくれた彼の葉書を見ながら、こんな葉書一枚で、見も知らぬ病人を見舞ってくれるだろうかと、わたしはあまりあてにはしなかった。
転院の前夜、弟の昭夫が来て荷造りをしてくれた。この弟はその後のわたしの病床を最も数多く見舞ってくれた、心やさしい弟である。姉の百合子と、前川正が別れを告げに来てくれたし、同室の友人たちはわたしの好きな鶏のスープを、部屋の隅の七輪に火をおこして作ってくれた。
高校生の理恵は、淋しがって朝から食事もしない。また他の友人は、わたしのたった一枚の襟《えり》布《ぬの》の破れに、新しい手拭いでつぎをあててくれた。僅か四カ月を共にしただけなのに、これほどまでにみんなが別れを惜しんでくれるのかと思うと、わたしはただ胸が熱くなるばかりであった。
男の患者たちも、荷造りに必要だろうと古新聞を持ってきてくれたり、売店まで何かと使い走りしてくれたり、誰もが親切だった。わたしは、自分の去った後も、キリスト教の集会がつづけられることを、心から願っていた。集会の責任者として、誰にバトンを渡そうかと考えた末、わたしは黒江勉にその大役をゆだねた。彼はこころよくひき受けて、
「何とかやれるだけやってみます」
と、返事をしてくれた。
退院の前日同室でただ一人のカリエス患者Sさんは、泣いてばかりいた。Sさんは医療保護と生活保護を受けている、二人の子持ちの未亡人であった。それが突然生活保護を打ち切られるという通達を受けたのだ。
慰めようにも方法がなかった。問題は、その生活保護が打ちきられないようにしてあげることである。わたしは、教員時代、女子青年団の修養会で講師だった筒井英樹氏を思い出した。話を聞いたのは一度だが、侠《おとこ》気《ぎ》のある人だと思っていた。わたしは明日転院しなければならない。何の考えもなくわたしはすぐに、筒井英樹氏の家に電話をかけた。筒井氏はわたしを覚えているわけがない。わたしはただ講演を聞いた一人に過ぎないのだから。折よく筒井氏は在宅していた。Sさんの事情を話すと、氏は、
「わかりました。役所の方を調査して、すぐに病院の方へ伺いましょう」
ふたつ返事で快諾してくださった。氏は魚菜市場の社長だが、市会議員でも道会議員でもない。氏が動いてくださったのは、その持ち前の侠気からである。
氏は早速病院に訪ねてくださった。杖をつき、片足をひいていた。たしか引き揚げ者を駅まで迎えに行った時、どこかの子が線路に落ちた。汽車はもう近づいている。氏はその子を助けるために線路にとびおりて、足を痛めたと聞いた。長いこと氏は足を痛めていたらしい。にもかかわらずその痛む足でかけつけてくださったのである。
氏の奔走で、Sさんは助かった。筒井氏にはこの何年か後にも、たいそうおせわになったことがある。これはまた別の機会に書いてみたいと思う。
とにかく、自分のことばかり考えていたわたしが、いつの間にか、人のことを本気になって心配できるようになっていたとは、何という大きな変化であったろう。
翌朝早く、前川正は駅まで見送りに来ていた。彼はわたしに一冊のノートを渡して言った。
「淋しかったら、この中に何でもお書きなさい。二人は離れていても、決してバラバラではないのですからね」
旭川の二月の朝である。寒さはきびしい。その朝は零下二十度の寒さであった。
こうしてわたしは、遂に前川正とは別の街に移り住むことになったのである。あるいは札幌の地で病み果てるかもしれない自分のゆくてを思いながら、わたしは凍りついた汽車の窓ガラスに息をふきかけて、凍りをとかした。小さくとけたその窓の向こうに、前川正が小腰をかがめて、動き出したわたしの列車を見送っていた。
二十八
札幌のI病院には、前川正の同期である黒田助教授がいた。彼は色の青白い、どこか冷たい感じの医師であった。しかし、その清潔な、少し冷たい感じは、わたしにはいやではなかった。否、それはむしろひとつの魅力と言ってもよかったかもしれない。
病院に着くや否や、黒田助教授は血液検査、尿検査、そしてレントゲン撮影と、わたしに休む間を与えなかった。しかも翌日は水検査があるという。水検査とは、朝早く一・八リットルほど患者に水を飲ませ、尿がどのぐらいの間隔で、どのぐらいの量が排《はい》泄《せつ》されるかを検査するのだ。第一日目から、このように次々と検査をしなければならないということは、わたしにとっては幸いであった。
なぜなら、旭川を離れ、前川正を離れた淋しさをかこつ暇さえなかったからである。それでもわたしは、入院の夜、窓によって札幌の空を眺めた。さすがに札幌は暖かい。スチームが熱く通っているとはいえ、窓をあけて外を眺めるなどということは、旭川の冬では思いもよらない。遠くの街の空が明るかった。この広い札幌に、誰も知った人がいないのだと思うと、わたしは何か気が軽くもあった。
たしかに前川正がいないということは、淋しいことではあった。しかし、知った人がいないということは、ひどく身軽な感じのするものである。この札幌で、また幾人かの人と、わたしは知り合っていくのだろうかと、夜の札幌を眺めながら考えた。二十幾年間、旭川において交わった人々の、どの人に対しても、わたしは不真実であった。しかしこの札幌においては、精いっぱい真実をこめて、人と交わっていく新しい自分でありたいと、わたしは願った。
ふとその時、わたしは間藤安彦のことを思い出した。誰一人知った人がいないと思っていたのに、間藤は札幌にいるはずだった。絶えて手紙も出さなかったが、彼との交際が全く絶たれたというわけではない。わたしは、人間はそう簡単に過去の自分と縁を切ることのできない存在だと、つくづく思った。たとえ自分では一切の過去を断ち切ったと思うことはできても、自分が生きて為してきたすべての行動は、決して消すことのできないもののように、あらためてわたしは感じた。
(たとえ、わたしが死んでも、わたしがしたことだけは、わたしのでたらめな生き方だけは、この世にとどまっているのではないだろうか)
旭川を離れたということだけで、何かしら身軽になったかのように錯覚した自分がおかしかった。またしてもわたしは、わたしの過去のいろいろな人々との不誠実な思い出が、わたしにしっかりとからみついているのを感じて窓を離れた。
そしてわたしは、ベッドの上にすわり聖書を開いた。病室は三人部屋で、わたしのベッドは一番廊下側にあった。他の二人は、もう静かに眠っていた。聖書を開くと、次の言葉が目に入った。
「天地は過ぎゆかん。されどわが言葉は過ぎゆくことなし」
偶然の一致であろうか、わたしはいま自分が考えていたことと、余りにも共通している言葉に驚いた。この世のすべてが過ぎゆき、そして亡び去ったとしても、イエス・キリストの言葉は永遠に亡びないと、ここに聖書は言っている。
(イエスの言葉が亡びないということは、いったいどういうことだろう)
わたしの細い指は、その聖句の上にとどまってじっと離れなかった。わたしは思った。つまり、イエスの言葉が亡びないということは、その言葉が世にある限り、わたしのみにくさもまた、そこにとどまっていることのように思われた。イエスが許すと言えば、わたしの罪は許されるであろう。しかし、もし、許さないと言われるならば、わたしの罪も永遠にそこに消えることはないであろう。
「天地は過ぎゆかん。されどわが言葉は過ぎゆくことなし」
わたしはくり返し呟いた。そしてその夜、前川正に、入院の報告と共にこのことを書き加えた。
前川正からは、相変わらず手紙が来た。旭川にいる時よりも詳しく長い手紙である。たとえば、朝何時に起き、どんな本を読み、誰と会い、何を話したかという、実に詳しい彼の生活報告であった。その手紙を見ると、彼が友人と平和問題について語っている時も、本屋をまわって新刊書を手にとっている時も、わたしが旭川にいないということの淋しさを痛いほど感じているようすが、ありありと目に浮かぶのだった。彼もまた三月に、受診のため来《らい》札《さつ》すると書いてあった。彼が三月に来るというだけで、わたしの毎日は楽しかった。楽しいという言葉がいかに期待に満ちた、希望のこめられた言葉であるかと、わたしはしみじみ感じたことである。
ところで、ここでちょっとした事件が起きた。旭川から電話だというので、わたしは看護婦詰め所に行った。家族に何か悪いことでも起きたのか、前川正に何かのまちがいが起きたのかと、不安なままに受話器を取った。だがそれは、わたしが旭川のN病院にいた時、毎夜のようにわたしの所に遊びに来ていた男の患者からの電話だった。
「もしもし、理恵ちゃんが、そちらに行っていませんか」
彼はひどく咳きこんで尋ねた。
「理恵ちゃんが? どうかしたの」
「ええ、理恵ちゃんがねえ、家に帰ると言って、外泊の許可を取って病院を出たんですが、家から電話がありましてね、理恵ちゃんが家に帰ってないことがわかったんですよ。もしかしたら、あなたの所へ行ったんじゃないかと、おかあさんとおねえさんが札幌に発ったはずですから、理恵ちゃんが行ったら、どこにも出さないでください」
という電話だった。
それから何分もたたないうちに、理恵は、キラキラとした目をして、思いつめたような表情でわたしの病室に入ってきた。
「何しに来たの?」
わたしは無愛想に言った。理恵は、わたしが転院すると決まってから、食事も取らずにぼんやりとしていた。そんな慕いようが、かわいくはあったけれど、わたしは決してうれしそうな顔は見せなかった。彼女はかつて自殺を図った過去がある。そして、その傷もまだじゅうぶんに癒《い》えてはいない。二度と死なないという約束をしてはいたが、考えてみると、やっと話し合えるようになったわたしと離れた理恵は、かわいそうでもあった。
しかし彼女は、札幌まで来てわたしの顔を見たら、安心したのだろう、母親の来る前に再び一人で帰ってしまった。病院に偽って札幌まで来たのだから、もしかしたら強制退院をさせられるかもしれないと、わたしはそのことを心配した。旭川の病院に電話をかけ、彼女の心の傷が全く癒えるまで、今度のことも余りさわぎ立てないようにと、わたしは願っておいた。病院側も、その点はじゅうぶんに心得ていたらしく、彼女は何のとがめも受けずに入院生活をつづけることができた。
この事件でわたしは、またあらためて、人と知り合うことの重さを感じた。ほんとうに人を愛するということは、その人が一人でいても、生きていけるようにしてあげることだと思った。そしてそれは、前川正がわたしに対して言った言葉でもあった。彼は旭川を出る前に、わたしに言ったのだった。
「綾ちゃんは、もうぼくなどを頼りにして生きてはいけないという時にきているのですよ。人間は、人間を頼りにして生きている限り、ほんとうの生き方はできませんからね。神に頼ることに決心するのですね」
彼はそう言ったのである。
親が子を愛することも、男が女を愛することも、相手を精神的に自立せしめるということが、ほんとうの愛なのかもしれない。「あなたなしでは生きることができない」などと言ううちは、まだ真の愛のきびしさを知らないということになるのだろうか。とにかく、わたしは理恵のこのことで、愛することのきびしさと、人とつきあうことの責任というものを教えられたような気がした。
二十九
入院早々こんなことがあって、一週間ほどはバタバタと過ぎた。
ある日、わたしの病室に、実に清潔な、聡明そうな看護婦が入ってきた。彼女は、その年の看護学校を首席で卒業した越智一江おちかずえという看護婦だった。
「わたくしは、耳鼻科勤務の越智一江と申しますが……。西村久蔵先生からお電話がございまして、旭川の前川正さんから、お見舞いくださるようにとのお葉書を頂戴いたしました、次の金曜日にお伺いいたしますから、お大事にとのお伝言でございます」
明《めい》晰《せき》な口調であった。わたしは、実のことを言うと、少々驚いた。前川正は、旭川二条教会に通っていて、札幌の西村久蔵先生とは、決して親しい間柄ではない。この西村先生の通っている札幌北一条教会は、四、五百人も礼拝に出る信者がいて、その一人一人の顔さえ知ることのできない大きな教会である。この大教会の代表的信者である西村先生は、教会の仕事だけでも、ずいぶんと忙しいことだろう。その上、氏は何百人もの使用人がいる製パン会社の社長でもある。駅前に、大きな菓子店を開き、喫茶も食堂も経営している。その仕事だけでも、どんなに忙しいか想像できる。その人が、あまり知らない前川正から頼まれて、全く見たことも聞いたこともないわたしの所になど、どうして見舞いに来ることがあるだろうと、わたしは思っていた。わたしたちは、知人や友人の見舞いさえなかなかできかねるのが普通なのである。
だが、西村久蔵先生はわたしの思いに反して、次の金曜日にわたしの病室に現れた。体の大きな、五十五、六のいかにも親しみやすい人柄であった。大きな目だが、目尻が下がって笑顔がやさしかった。
「旭川の前川さんから、お葉書をいただいて、すぐにお見舞いに来たかったのですが、おそくなりました」
先生はそうおっしゃって病室を見まわした。
「三人部屋ですね。このお菓子を、みなさんで分けてあがってください。シュークリームは悪くなりやすいから、先におあがりなさい」
そう言いながらさし出した菓子箱を、わたしは受け取ろうともせずに答えた。
「先生、わたしは長い療養の身です。いつも人からお見舞いをもらうので、人から物をもらうのを、何とも思わなくなりました。人から物をもらうことに馴れると、人間がいやしくなります。どうかお見舞物などはくださらないようにお願いします」
何という、かわいらしくないものの言い方であろう。だがわたしは、本気でそう思っていたのだ。人から物をもらうことに馴れて乞食根性になるのはたまらないと、そう自分にいましめていたきかん気の人間なのであった。しかも西村先生はいままでに全く面識のない、言ってみればわたしを見舞う義理など全くない人ではないか。その人から見舞物までいただくという気には、わたしはなれなかった。わたしのこの言葉に、先生は驚いたようであった。後で知ったことだが、この忙しい先生は、金曜日と日曜日を神の御用のために使うように日程が組まれてあった。道庁や病院の職員たちに、聖書講義をしたり、病人を見舞ったりする仕事で、先生の日程表の金曜日と日曜日は、朝から晩までギッシリと予定が詰まっていたのだった。だから先生は、病人をそれまでにどれだけ見舞ったかわかりはしない。けれども、会うなりわたしのように、
「見舞物を持ってくるな」
と、開きなおった病人は、恐らくいなかったであろう。
先生は大きな声で笑った。
「ハイハイわかりました。しかしね堀田さん。あなたは毎日太陽の光を受けるのに、こちらの角度から受けようか、あちらの角度から受けようかと、しゃちほこばって受けますか」
言われてわたしは黙ってしまった。なるほど太陽の光なら、ありがとうとお礼も言わずに、平気で全身にその光を浴びている。人の見舞物も、この太陽の光と同じように、わたしに降りそそぐ人間の愛ではないだろうかと思った。人の愛を受けるのに必要なのは、素直に感謝して受けるということではないだろうか。現にこうして、何年もの間療養しているということは、親兄弟をはじめ、多くの人の愛のおかげではないだろうか。それを今更、何を偉そうに、見舞物はいらないなどと、小憎らしい口をきくのだろう。わたしは恥ずかしくなった。
西村先生という人は牧師ではない。しかしみんなに先生と言われるだけあって、たしかに偉い人であった。こんな小生意気なわたしなどが何を言っても、先生はその豊かな愛情で、ゆったりと受けとめてくれた。
ここで少し西村先生の略歴を紹介してみたい。先生は小《お》樽《たる》の高商(いまの小樽商大)を出て、札幌商業学校の教師をしておられた。実は牧師になりたかったのだが、小野村林蔵牧師がそれを思いとどまらせた。西村先生の家庭の経済状態から察して、長男である先生が牧師になるということは、小野村牧師にとっては、余りに痛々しいことと思われたにちがいない。日本における牧師という仕事は、労が多く、しかも物質的にはまことに恵まれない仕事なのである。昭和四十年代のいまでさえ、食うや食わずの牧師が何人もいる世の中だ。まして昭和十年頃の牧師の生活は、即ち貧窮を意味していた。
しかし西村先生は、牧師になりたいと願ったその初《しよ》一念を、信者としての生活の中でつらぬき通した稀に見る信者である。先生が札商の教師時代、その教え子が危篤になった。見舞いに行った先生は、病室を出て、廊下で泣いた。
(おれは毎日、あの生徒に英語を教えてきた。しかし、その子にとって最も大事な、生きる力を何ひとつ教えていなかった。いまあの子が、一番必要なものをおれは与えることはできないのだ)
そう思って先生は泣いた。その生徒は死んだ。それ以来先生は、毎朝始業前一時間、生徒の有志に聖書の講義を始めたのである。その講義を受け、幾人もの生徒が洗礼を受けクリスチャンになった。この中には後に出てくる菅原豊という立派なクリスチャンも生まれている。札幌商業学校は、西村先生のおかげで、その校風が一新されたとさえ言われている。
先生は、召集されて戦争に行ったが、その後を追って、岡藤という親友が中国に渡った。それは同じクリスチャンの友人だった。
「西村、お前は心ならずも軍刀を腰に下げて戦争に行かなければならない。おれはその罪ほろぼしに、中国人を愛するために行くのだ」
彼はそう言って、北京で学校の先生をしたという。これほどの友人を持っていることだけでも、西村先生という人の人柄がわかることだろう。
先生は家庭の事情で教師を辞めて菓子屋を開店したが、その利潤の三分の一は人のために、その三分の一は運転資金に、そして残りの三分の一は生活に使われたということを聞いた。少し長くなったが、この西村先生の影響は、毛穴から滲透するように、わたしの心に大きく作用しているので、述べてみた。
新しい病院の生活にも馴れ始めると、わたしは再び、あの虚無的な思いがわたしを覆ってくるのを感じた。何をしても結局はむなしいのだという思いがしきりにし、わたしのような人間が果たしてクリスチャンになれるだろうか、わたしのような者を許してくださるほど神は寛大であろうかなどと、勝手なことを考えるようになった。
と、ある日のことだった。思いがけなく西中一郎が訪ねてきた。彼は結婚をして江別に住んでいたのである。彼は毎日、江別から札幌のある商事会社に通勤していた。
「あらしばらく。よくわたしがここに入院していることがわかったわね」
わたしは毎日会っている人のように、何のこだわりもなく、さらりと言った。だが、あの暗い海辺で死のうと思った時以来の再会である。あの時はそれでも十時間近くも汽車に揺られて旅するだけの体力があった。しかしいまでは、トイレに行くだけでも息切れのするほど、わたしは弱っていた。
「一郎さん、結婚なさったんだってね。おめでとう」
幾年もわたしを待っていた彼が、健康な女性と結婚したということは、わたしにとってうれしいことであった。彼は、人をしあわせにしてやる能力もあるし、また幸福になってほしい人間でもあった。彼は黙ってわたしの顔を見ていたが、
「あなたっていい人だなあ」
と、しみじみ言った。かつての婚約者が結婚したことを、まだ病床にいる女が祝福するということは、彼にとっては大きな驚きででもあったのだろうか。
「一郎さん、わたしにもね、紹介したい人がいるの」
わたしはそう言って、傍らにかけてあった前川正の短冊を見あげた。すると西中一郎は、
「綾ちゃん。ぼくは何も聞きたくないんだ。ぼくが知っている綾ちゃんだけで、ぼくはじゅうぶんなんです」
と、前川正のことはひとことも言わせまいとした。わたしと西中一郎が婚約したということは、わたしにとって過去のことであった。だが、西中一郎の心の中では、必ずしもわたしは過去の人ではなかったようである。わたしもあえてそれ以上前川正のことにはふれなかった。
「痩せたねえ」
西中一郎は、つくづくわたしの顔を見た。
「あなたの奥さんはおいくつ? 健康なひとでしょうね」
そんなことを尋ねながらも、わたしの胸は痛まなかった。わたしが結核にならなければ、たぶんわたしは西中一郎と結婚していたであろう。そしていま頃、二人目ぐらいの赤ん坊を抱いて、それなりに幸福そうな母親になっていたかもしれない。そんなことを思いながら、西中一郎をみつめていると、人間と人間のかかわりというものが、実にふしぎに思えてくる。
「それにしても、よくわたしがここにいることがわかったわね」
再びわたしがそう言うと、彼は、病院のそばを通った時、わたしを見かけたのだと言った。彼の見舞いの品は、缶詰や果物や、そしてひと〆《しめ》のちり紙であった。
「たぶん綾ちゃんは、以前のようにたくさん痰を吐いてるだろうと思ってね」
彼はそう言った。彼は以前に、わたしを見舞っていた頃、痰が出そうになると、さっと痰壺をわたしの前にさし出してくれる、やさしい人であった。その、以前のままのやさしい彼が再びわたしの目の前に現れたのである。
三十
I病院に転院したが、わたしの胸部にも、脊《せき》椎《つい》にも異状を認められないということであった。いろいろ熱心に調べていただいたが、痩せていく原因も、熱の下がらない原因もわからないということでは、旭川のN病院と同じことであった。しかし、同じわからないにせよ、N病院では漫然と患者を眺めているような態度であったのに対し、I病院では、少なくとも真《しん》摯《し》な態度であった。その態度の中に、病人を安心させ信頼させるものがあった。
転院して一カ月近くたった三月のある日であった。それは正午近くであったと思う。わたしはボンヤリと空を見ていた。その時のわたしのベッドは窓際になっていた。春らしい柔らかい空になってきたと思いながら眺めていた時、ふいにぐらぐらとベッドが揺れた。ハッとわたしはベッドの上に起きた。
「地震だわ!」
同室の他の二人も叫んで身を起こした。建物が不気味に揺れ始め、目の前の白い壁が見る見るひび割れていく。廊下で看護婦や、患者たちの立ちさわぐ声がした。
間もなく地震はおさまったが、わたしの受けた衝撃は大きかった。
わたしの生まれ育った旭川は、極めて地震の少ない土地である。体に感ずるほどの地震はめったになかった。だから大地というものは、わたしにとって何の不安もないものであった。大地だけはわたしを脅やかすことのないものだった。それだけに、この時の長い震動は、わたしを文字どおり仰天させた。
(この世には、絶対に安心できる場所など、ありはしないのだ)
わたしはつくづくそう思った。そして、その安心のできない大地の上で、安心して暮らしていることの呑《のん》気《き》さにわたしは初めて気づいたのである。
考えてみると、わたしたちは大地に安心して生きているのと同様に、何ものかに安心して生きているのではないだろうか。それは、ある人には金であり、ある人には健康であり、ある人には地位であるかもしれない。しかしこれらのものは、大地よりももっと度々揺らぐものなのだ。決して絶対的に頼れる存在ではないはずなのだ。
わたしはあらためて、自分はいったい何に安心して生きているのかと反省してみた。わたし自身、何にも安心を持っていたわけではない。むしろ何ものをも信じ得ない不安な魂を持っていたはずである。だがそのわたしの心の中にも、大地の上に乗っかっているような安易さがあったのではないかと、反省させられた。ほんとうにわたしの魂が不安であるのなら、安住の地を求めて、もっときびしい求道の生活をしなければならないはずであった。その求道の姿勢がいい加減であったということは、やはりわたしもまた、安住してならない所に安住していたのではないかと、考えさせられたのである。
わたしは、それまで漫然と読んでいた聖書を、真剣に学ぶようになった。時々訪ねてくださる西村先生には、常に質問を用意して待つようにした。一分の時間でも、多忙な先生の時間を無駄にすまいと、むさぼるように話も聞いた。
先生の話は、わたしが一人占めにするのはもったいない話だった。西村先生は、路傍伝道をしても何百人もの人が足をとめ、立ち去る人がなかったと言われるほどの優れた雄弁家であった。この先生の話は、常に多大の感銘を人に与え、どれだけ多くの人をキリスト教に導いたかわからない。
先生は、病人のわたしただ一人を相手にしても、まことに熱情をこめた話をしてくださった。わたしの如何《いか》なる質問も、聖書の言葉を引いて、懇切に答えてくださった。おかげでわたしは、基本的な聖書の言葉を、実に明確に学ぶことができた。これはわたしにとって、非常に大きな幸いであった。その上先生は、こうも言ってくださった。
「札幌に、誰か甘えることのできる親戚か友人がおりますか」
いないと答えると先生は更に言われた。
「では、わたしに甘えてください。何でもわがままを言ってくださいよ」
先生は、この言葉のとおり、わたしの肉親のようにしてくださった。血痰の入った汚い痰壺を洗ってくださったり、鍋に熱いお菜を入れたまま、九町ほど離れている家から運んでくださったりしたことなど、そのご親切は数え切れなかった。何百人もの従業員の上に立つ社長とは、こんなに偉いものかと、わたしはいく度先生の真実に心打たれたことであったろう。
こうして話を通し、先生の人格を通して、わたしは次第にキリスト教がわかりつつあった。そして、洗礼を受けたいとさえ思うようになった。
だが、人間の心というものは尋常一様にはいかないものである。前川正の愛と言い、西村先生の真実と言い、共にクリスチャンの中でも特に優れた人たちである。この人たちに愛され、導かれれば、すぐにもクリスチャンになってふしぎはないはずである。それがそうは簡単にいかないわたしだった。その理由のひとつに、西中一郎への姿勢があった。
三十一
西中一郎は、その頃毎日のようにわたしを訪ねてくるようになっていた。毎日きまった時間に訪ねてこられると、わたしはつい、その時間に彼のあらわれるのを心待ちにするようになった。彼の会社が病院のすぐ近くにあって、ひる休みの時間に、彼はわたしを訪ねるのだった。訪ねてくれる人と言えば、西村先生と西中一郎だけである。
彼の訪問が、わたしにとって楽しかったのは、いたしかたのないことであった。毎日訪ねてくるのが西中一郎ではなく、同性であったとしても、わたしはやはりその時間に、その人を待ったであろう。
家から送ってくる金は、入院費がぎりぎりで、わたしにはみかんひとつ買う余裕もなかった。前川正は、わたしに書く葉書代を捻《ねん》出《しゆつ》するために、謄写孔版を習ってアルバイトをしていた。そんな彼に、無論わたしへの送金など依頼できるはずもない。彼の手紙にはよく、
「ぼくは綾ちゃんのためにも、一日も早く大学に戻り、医者になりたいと思います。愛する人に、経済的な不自由をかけているというのは、男として何と残念なことでしょう」
などと書いてあった。
I病院は、教授が回診の時は、病棟の付添婦が朝から特に念入りに掃除をする。そして、患者たちに寝巻の着更えを促すのだ。
「堀田さん、総回診ですよ。寝巻をとりかえてくださいね」
わたしはいく度そう言われたことだろう。いく度言われても、わたしにはたった一枚の寝巻しかなかったのだ。生まれつき着物に無頓着なほうだったから、それほど辛くはなかったにしても、丹前下に着かえたりして、寝巻を洗ってもらったりしたことは、いまだに忘れることができない。
そんなわたしにとって、西中一郎の訪問は、いろんな点で慰められた。ちり紙がなくて困っていると、彼は会社の物置にあった廃紙をどっさり持ってきてくれたりした。痰を取るには、ちり紙よりもその厚手の廃紙のほうが役に立った。彼はまた、何年間か前のわたしの好き嫌いをよく覚えていて、夏みかんひとつポケットにしのばせてきたり、缶詰を持ってきてくれたりした。
しかし、彼はこのように毎日訪ねてはくれたが、二人の間に恋愛的なふんいきは全くなかった。その点、西中一郎は節度のあるまじめな男性であった。
最初見舞ってくれた日に、前川正の話を聞こうとしなかったのはたしかだが、と言って、わたしに何かを期待していたのでもない。彼の持ち前の親切心は、もとの婚約者が知らない土地で、貧しく病んでいるのを見過ごしにできなかったまでであろう。その証拠にこんなことがあった。
その頃わたしは、前年以来の背の痛みに、体を曲げることができなくなっていた。床に落としたものを拾う時も、そっとひざをつき、背はまっすぐにしたままで拾わなければならない。こんなありさまだから、足など全く洗うことがなかった。無論、入浴も許されてはいない。手不足だっただろうか、病棟の付添婦は、掃除や配膳に忙しく、清《せい》拭《しき》などしてくれなかった。清拭は看護婦の仕事だと思うが、手術の多い泌《ひ》尿《によう》器科では、歩ける人間にまで手が回らなかったようだ。
そんなわたしを見かねてか、ある時西中一郎は、ボイラー室からバケツに一ぱいお湯をもらってきた。わたしの足を洗ってくれるというのだ。
「一郎さん。あなたはイエス様ほど偉くはないでしょう。だからまだ人の足を洗う資格はないわ」
わたしは笑って、彼の好意を辞退した。イエスが十字架にかかる前夜、十二人の弟子の足を洗ったという記事が聖書に記されている。
せっかくの彼の親切をことわっても、彼は少しもこだわりのない顔をして、いつものように話をして帰った。もし西中一郎に、何らかの下心があれば、どうしてわたしの足などを洗うことができるだろう。しかも他の患者の見ている前で。このことは、彼が何の野心もなく純粋に親切であったことを物語ってはいないだろうか。わたしは心から彼の親切に感動させられたことを覚えている。
このようなわけで、二人の間には人に聞かれて困るようなことはなかった。だがある日わたしは、ひとつの重大な事実にぶつかってしまった。ある夜のこと、隣ベッドの患者が憂鬱な顔でわたしに打ち明けた。
「うちの人が、会社の女の子とコーヒーを飲みに行っているらしいの。うちの人は、コーヒーぐらい女の子と飲みに行ったって、何が悪いんだって、シラッとしているのよ。でもわたしはいやだわ。ね、いやだと思わない?」
「そりゃあいやだわね。いくら何でもないって言ったって、よその女の人と喫茶店なんかで仲よく話しているなんて、いやだわ。想像しただけでも腹が立つわよ。しかも、あなたが入院中だというのにね」
同情して、わたしもあいづちを打った。もしわたしが札幌に入院している間に、前川正が他の若い女性とコーヒーを飲みに行ったとしたらどうだろう。たとえただの一度でも、そんなことをされるのは、どんなに不愉快かわからないとわたしは思った。
と、思った時、わたしはハッとした。たとえ前川正が、他の女性と毎日喫茶店に行ったとしても、不愉快だと言える資格がわたしにあるだろうか。わたしは、毎日、西中一郎の見舞いを受けているではないか。いくら二人は潔白だと言っても、西中一郎とわたしとは、もと婚約者の間柄である。しかも彼には妻があり、わたしには前川正がいる。
西中一郎の訪問を、わたしは前川正に手紙で知らせてあった。何ひとつかくしてはいなかったが、だからと言って、前川正が不快に思っていないとは断言できないのだ。そしてまた西中一郎の妻も、このことを知ったなら、どんなに心を傷つけられるかもしれない。わたしには、人の心を傷つけているという自覚がそれまで全くなかった。
だが、隣ベッドの療友が、
「いやだわ、ああいやだいやだ」
と言いながら、夜も眠られずにいるのを眺めると、その姿が西中一郎の妻に思われてきた。わたしは自分のしていることが、どんなに悪いことかと初めて気づかされた。気づいたなら、直ちに西中一郎の見舞いをことわるべきであった。だが、翌日訪ねて来た彼の顔を見ると、わたしは、別段何の悪いこともしていないのだと思ってしまうのであった。彼は彼で妻を愛し、わたしはわたしで前川正を愛している。その二人が、こうしてつきあっているからと言って、なぜ悪いのかと開きなおる気持ちがわたしの中にあった。もし、彼の妻なり前川正なりが、このことのために悩んでいるとしたら、
「バカねえ、もっと悩むに値することで悩みなさいよ」
と、笑いさえしそうな気もする。
客観的に見ると、わたしの立場は明らかに人を傷つける裏切り行為かもしれなかった。しかしどうしても、当のわたしとしては、それほど悪いことをしているという切実な思いが湧いてこない。それどころか、西中一郎とはこのままこうして友情を温めていたいような気さえするのだ。やはり西中一郎ほどの親切な友情を失いたくないという気持ちが強かった。そんな自分が、ふとわたしは恐ろしくなった。
(もしかしたら、わたしには罪の意識というものが、欠けているのではないだろうか)
罪の意識がないということほど、人間にとって恐ろしいことがあるだろうか。殺人をしても平気でいる。泥棒をしても何ら良心の呵《か》責《しやく》がない。それと同様に、わたしもまた、人の心を傷つける行為をして胸が痛まないのだ。
こう思った時わたしは、
(罪の意識のないのが、最大の罪ではないだろうか)
と、思った。そしてその時、イエス・キリストの十字架の意義が、わたしなりにわかったような気がした。
三十二
札幌の春は旭川より半月ほど早いようであった。春の札幌名物の馬《ば》糞《ふん》風が吹く四月、わたしの体はいっそう痩せていった。内科の外来に行くと、鈴木という老医師が、わたしの胸に聴診器をあてたまま言った。
「ありますね。空洞がありますよ」
あらためてわたしの顔を眺めながら、鈴木先生はおっしゃった。
「聴診器でハッキリわかるのですから、レントゲン写真に出ていないはずはないと思いますがね」
わたしは、ここの病院でも、前の病院でも、また療養所でも、写真に空洞が出たことはなかったと言った。しかし微熱はあるし、肩はこるし、血痰も出たし、痰はちり紙がいくらあっても足りないぐらいたくさん出たとも言った。鈴木先生はすぐに、
「早速断層写真を撮ってみましょう」
と手配をしてくださった。断層写真の結果、六センチほど奥に空洞のあることがわかった。この鈴木先生の聴診器を、ある女医は、神様の耳だと言ったことがある。この先生のおかげで、わたしの胸部に空洞のあることがハッキリした。そしてわたしは泌尿器科から内科に移された。鈴木先生は、もっとふとってから手術をしましょうとおっしゃった。
だが、一方わたしの背中は、ますます痛みがひどくなった。足の先にスリッパをひっかけることも困難になった。二、三歩も歩くと爪先がヒョロヒョロする。内心カリエスでないかと案じてきただけに、わたしはカリエスの症状についていささか知識があった。これはまさしくカリエスの症状なのである。これ以上ほうっておくと、下半身に麻《ま》痺《ひ》が来て、失禁という忌まわしい症状をともなうことになる。
すぐにレントゲン写真を撮ってもらったが、若い医師は、
「大丈夫ですよ。写真には出ていませんから」
と言った。わたしは腹を立てた。胸部のレントゲン写真でも、空洞がないと言われながら、わたしはどれほど血痰や微熱に悩まされたことだろう。病院をいくつも転々として、やっと鈴木先生の聴診器がわたしの空洞を発見したのだ。恐らくこんな失敗はいく度もくり返してきたことだろうに、なぜ医師はこうも頑迷に、患者の訴える症状に耳を傾けようとしないのだろうか。否そればかりか、神経衰弱ででもあるかのようにその訴えを笑うのだろうか。わたしはもはやレントゲン写真というものを信用していなかった。患者の自覚症状のほうがずっと早くて、レントゲン写真にあらわれるのがこうも遅いのでは、何の役にも立たないどころか、かえって危険でさえあると思った。
翌五月の末、再び脊椎の写真を撮ったところ、この時の医師は言った。
「どうしてもっと早く診《み》てもらわなかったのです? あなたはカリエスですよ。ギプスベッドに、絶対安静で臥《ね》ていなければなりませんよ」
曜日によって、外来患者診察の医師は変わるのだ。医師の言葉に、わたしは思わず笑った。
「どうしたんです?」
カリエスと診断されて泣き出す患者がいると聞いていた。それなのにわたしは笑ったのだ。医師が不審がるのは無理もなかった。しかしわたしは、今度こそ、
「あなたは神経質だ。もう少し起きて運動したらどうです」
などと、ノイローゼ扱いにされないで、ゆっくり寝ることができると思って笑ったのだ。原因さえわかれば、治療の方法はあるわけである。
病室に帰ってからわたしは思った。
(自分の背骨が結核菌に蝕《むしば》まれているというのに、レントゲンにハッキリ写し出されなかったばかりに、こんなに足がフラフラになるまでわからなかった。このままもしわからずにいたとしたら、わたしの骨は全く腐ってしまって、死ぬよりほかになかったのではないだろうか)
そしてまた思った。魂の問題にしても、同じことが言えるのではないだろうかと。罪の意識がないばかりに、わたしは自分の心が蝕まれていることにも気がつかないのではないだろうか。腐れきっていることに気がつかないのではないだろうか。つくづく恐ろしいとわたしは思った。
わたしの心は定まった。一刻も早く洗礼を受けなければならないと、今度こそ切《せつ》羽《ぱ》つまった思いになった。
西村先生はこの決心を聞いて、心から喜んでくださった。
「全く堀田さんの言うとおりですよ。吾々人間という者は、罪の恐ろしさがわからないのです。もし癩《らい》菌が血液の中に発見されたら、わたしたちはどんなに驚いて医者にかけつけることでしょう。しかし、罪があることを知っても、そんなにあわてふためいて神の所に行かないものです。よく受洗の決心がつきましたね」
こうしてわたしの受洗は七月五日と決定した。
わたしの病室は、内科病棟から更に重症室に移された。排菌していることがわかったからである。内科病棟はきれいだったが、重症室はうす汚かった。虫の食った汚い柱や、汚《し》点《み》のついた壁が、部屋全体を暗くしていた。その部屋には、わたしより更に重症の、五十歳ぐらいの農家の婦人が、痩せて横たわっていた。
わたしのベッドは、クレゾールの匂いが異常に強かった。それに気づいて、わたしは付添婦に尋ねてみた。
「このベッドは、誰かが亡くなったばかりでしょう」
わたしの思ったとおりであった。そのベッドは、わたしの移される数時間前、六十何歳かの婦人が、その生涯を終えたばかりのベッドなのであった。
「いやでしょう。亡くなった方の後なんて」
色は黒いが、やさしそうな付添婦さんは気の毒がった。しかしわたしは頭を横にふった。生きている人間で、死なない者が一人でもあろうか。恐らくこの病院の重症室で、人の死ななかったベッドはひとつもないにちがいない。そしてまた、わたしもいまこそ古い自分がここで死ぬのである。
「人もしキリストに在《あ》らば新たに造られたる者なり、古きは既に過ぎ去り、視《み》よ新しくなりたり。(コリント後書五章一七節)」
この聖書の言葉のように、古いわたしは死に、そして新しくイエス・キリストに生きる者として生まれ変わらなければならないのだ。人の死んだベッドの上こそ、わたしの今後の療養生活にふさわしいと、心からわたしは思ったのである。
三十三
遂に、わたしの洗礼を受ける七月五日が来た。洗礼を受けると言っても、わたしは、父や母に何の報告もしていなかった。わたしの両親は、信仰なら何の信仰を持っていようと、干渉はしなかった。確固たる信仰への確信があって干渉しないのではなく、むしろ無関心だったのだろう。
わたしは受洗の予告を、旭川の前川正にだけしてあった。
その日は、からりとしたよいお天気だった。昼食が終わると、山田さんという背のスラリとした看護婦さんが入ってきた。
「洗礼を受けるんですって、おめでとう。少し病室を片づけましょうね」
彼女は、札幌北一条教会の会員であった。手早くあたりを片づけ、詰め所から牧師のすわる椅子を運んできた。そしてそこへ越智一江看護婦さんもやってきた。越智さんもやはり北一条教会の会員である。
約束の午後一時に、西村先生と一緒に入ってきたのは、やや痩せぎすの小野村林蔵牧師だった。小野村牧師は、戦時中非戦論をとなえて、投獄された気骨のある牧師だと聞いていた。そしてまた、非常にきびしい牧師だとも聞いていた。だがその時会った牧師は、実にやさしい静かな感じの人だった。この気骨のある牧師から洗礼を受けるということは、わたしにとって誇らしくうれしいことだった。
いよいよ洗礼式が始まった。洗礼を授けるための水を入れた洗礼盤を、西村先生が持ってくださった。立ち会う人は僅かに越智、山田の両看護婦さんだけの病床受洗である。わたしはギプスに仰《ぎよう》臥《が》したままだった。牧師は聖書のロマ書六章を読んでくださった。
「汝ら知らぬか、凡《おおよ》そキリスト・イエスに合うバプテスマを受けたる我らは、その死に合うバプテスマを受けしを。我らはバプテスマによりて彼と共に葬られ、その死に合せられたり。これキリスト父の栄光によりて死人の中《うち》より甦《よみが》えらせられ給いしごとく、我らも新しき生命《いのち》に歩まんためなり。我らキリストに接《つ》がれて、その死の状《さま》にひとしくば、その復活《よみがえり》にも等しかるべし。我らは知る、われらの旧《ふる》き人、キリストと共に十字架につけられたるは、罪の体ほろびて、此ののち罪に事《つか》えざらん為《な》るを。そは死にし者は罪より脱《のが》るるなり。我等もしキリストと共に死にしならば、また彼と共に活きんことを信ず」
読み終わった小野村先生は、その骨張った手を、銀の洗礼盤に浸し、臥《ね》ているわたしの頭に手を置かれた。
「堀田綾子。父と子と聖霊の御名によって、バプテスマを授く。アーメン」
その時まで、わたしの気持ちは極めて冷静であった。洗礼を受けるというのに、これほど何の感動も感激もなくてよいものかと不安になるほど、平静であった。ところがこの言葉を聞くや否や、わたしは思わず泣いてしまった。それは自分自身にも思いがけないことであった。だが、涙が心の奥深い所からほとばしり出てくるのだ。わたしのような不誠実な者が、わたしのように罪深い者が、キリストの者となることができるのかと思うと、どうにも泣けてしかたがなかった。
小野村先生が祈ってくださった。
「父なる御神、この病める姉妹を、御国に名を連ねる者としてお許しくださったことを感謝いたします。何とぞその終わりの日まで、信仰を全うすることができますように」
わたしは、しゃくりあげながらアーメンととなえた。つづいて西村先生が祈ってくださった。先生の目にも涙が溢れ、その祈りも途絶えがちであった。しかしその祈りも、実に感謝すべき祈りであった。
「……どうぞこの堀田綾子姉妹を、この場において証《あか》しのためにお用いください。また御《み》旨《むね》にかなわば、一日も早く病床から解き放たれて、神の御用に仕える器としてお用いください……」
祈り終わって西村先生は涙をぬぐわれた。わたしのような、何の役にもたたない病人を、神の御用のために使ってくださいと祈っていただいたことが、わたしをいっそう感動させた。
つづいて讃美歌一九九番がうたわれた。
わが君イエスよ 罪の身は
暗き旅路に 迷いしを
くまなく照らす みめぐみの
光を受くる うれしさよ
ふっと、西中一郎に助けられた、あの暗い海岸での夜を思い出した。生きることに何の希望もなかったあの夜の自分の姿が、まことに、この讃美歌にあるように、「暗き旅路に迷いしを」そのものの姿に思われた。
罪のこの身は いま死にて
君の功に よみがえり
神のしもべの 数に入る
清きしるしの バプテスマ
越智看護婦さんも、山田看護婦さんも、みんな泣いていた。
あれから十五年たったいまもなお、この讃美歌をうたう時、わたしは目頭が熱くなってしまう。それほど、この洗礼を受けた時の涙は、感動に満ちた涙であった。
洗礼式が終わって、小野村牧師はすぐに次の集会に出なければならなかった。先生は静かにおっしゃった。
「必ずなおります。いましばらくの試練ですからね」
わたしは素直にうなずいた。到底なおるとは思われなかったが、しかしその先生の言葉が、おざなりだとも思わなかった。人の言葉というものは大事なものである。舌先三寸で人も殺すが、また活かすこともあるのだ。
「必ずなおります」
その確信に満ちた静かな言葉は、その後の長い病床生活の中で、いく度もわたしを慰め励ました。後にも先にも、小野村牧師にお会いしたのはその時一度限りであったが、しかし一度聞いた言葉は、その後いく度となくわたしを慰め力づけたのである。
ふしぎなことが起こった。洗礼を受けたその日から、わたしはうれしくてうれしくてならなくなった。心の中に灯《ひ》がともったのだ。その灯がわたしを揺り動かすのだ。わたしは早速神に祈った。
「神様、間藤安彦さんと、晴子さんと、理恵さんの三人を、どうかクリスチャンにさせてください。この三人がクリスチャンになりましたなら、いつ天に召されてもよろしいです」
そしてわたしは、この三人に葉書を書いた。わたしがこんなに喜んでいる喜びを、分けたくて仕方がなかった。それは、おいしい物を食べた時、人にも食べてもらいたいあの気持ちに似ていた。ギプスベッドに寝たままの、仰臥の姿勢で葉書を書くことはつらかった。すぐに肩がこった。一枚の葉書を書くのに三日もかかった。しかしわたしは書かずにはいられなかった。西村先生の日常を見ていると、キリスト者とは伝道するものである、と思わずにはいられなかった。だから、どんなにつらくても、友人たちへの言葉は書きつづけようと思った。
前川正から手紙が来た。それには、わたしの受洗のことを聞いて、一人でロマ書六章を読み、讃美歌一九九番をうたい、そして心から感謝の祈りを捧げたと書いてあった。
あの春光台の丘で、わたしのために自分の足を小石で傷つけた前川正である。毎日手紙を書いては、わたしをキリストに導いてくれた彼である。教会の帰りには、遠回りをしてわたしの部屋の窓下に立ち、ひそかにわたしのために祈ってくれた彼である。その彼にとって、わたしの受洗の知らせは、到底言葉に言いあらわせないほどの喜びであったことだろう。彼が一人で祈ったと書いてある個所を読み返しながら、わたしはまたしても涙が頬をぬらすのを、とどめることはできなかった。
三十四
十一月になって、突然前川正が札幌にやってきた。彼は大きなトランクを手に下げていた。
「綾ちゃん、一週間ほどこの病室に泊めてくださいよ」
彼はトランクを床において、少し咳きこんだ。
「あら、どうなさったの。受診ですか」
受診にしては、一週間の滞在は長過ぎると思った。彼は答えずに、
「大変ですね。ギプスベッドはつらいでしょう」
と、同情してくれた。わたしは、ギプスベッドなど少しもつらいと思わなかった。頭から腰まで、スッポリとギプスに入り、首も動かしてはいけないことになっていた。首を動かすと、悪い脊《せき》椎《つい》にひびくからである。首も動かせない、寝返りも打てないというのは、たしかに大変なことではあった。しかし、背中が痛くても、熱が出ていても、
「どこも病気じゃありません。少し運動をしなさい」
と無理矢理歩かせられていた時よりは、ずっと楽であった。
「いいえ、ちっともつらくありませんわ」
わたしが答えると、前川正は、
「綾ちゃん、偉くなりましたね。信者らしくなりましたね」
と、微笑した。
「ねえ、それより、どうして一週間も札幌に滞在なさるのですか」
前川正が札幌にいてくれることはうれしかった。しかも、わたしの病室に泊まってくれるというのである。こんなうれしいことは、わたしにとってないはずだった。だがわたしは、なぜか不安でならなかった。わたしの病室は、前にも述べたように五十歳近い農家の主婦が、肺を患って療養していた。
前川正とわたしは、隣のベッドに邪魔にならないように話を始めた。
「実はね、綾ちゃん、ぼくもとうとう手術することに決めたんです」
驚いてわたしは彼を見た。
「正さん、どうしても手術をしなくちゃいけないの。もうしばらく見合わせたほうがいいんじゃない?」
当時、胸郭成形の手術は珍しくはなかった。しかしそれでも、手術直後死んでいく人も何パーセントかはいた。
「綾ちゃんも、ぼくが十七貫もあるので、手術なんかしなくても、そのうちになおるだろうと思っているんでしょう。ところがね綾ちゃん、ぼくの肺はこのままほうっておくと、どうにもならなくなるような状態なんですよ」
わたしはただ黙って彼を見た。医学生の彼が手術を決心するのは、それなりの判断をくだしてのことだろうと思った。
「それはね、ぼくの手術が成功するかどうか、それはわかりませんよ。でもね、一か八《ばち》かのような手術だけれども、やってみようと思うんです。いつまでも病巣のある肺を抱えて生きていけるわけでもありませんからね。手術が成功すれば復学できるし、そしたら半年そこそこで卒業しますよ。第一、綾ちゃんもこうしてギプスに入ってしまったし、当分何年か臥《ね》なければならないわけでしょう。綾ちゃんのためにも、ぼくは早く医者になって、経済的にも支えてあげたいのですよ」
一か八かの手術をしなければならないほどの、大変な病状なのかと、そう思っただけでわたしの心は重かった。そして、彼がかつて言った言葉を思い出した。
「恋人に何もしてあげられない生活能力のない男という者は、淋しいものです」
彼はそう言ったことがあったのである。
彼は手術の決意を、家人にも告げずに出てきたのである。その彼の悲痛な決意を思うと、わたしはただ黙ってうなずくより仕方がなかった。その日から彼は、ベッドが空《あ》くまで、わたしの病室に泊まることになった。
前川正は楽しそうであった。彼は朝起きると、湯を汲む《く》んできて、わたしの顔を洗ってくれた。わたしは彼が来るまで、誰にも顔を洗ってもらったことがない。病棟の付添婦が、胸の上に洗面器をおいていくと、そのお湯をこぼさないように気をつけながら、天井を見たまま手を洗い、タオルをしぼり、そのタオルで顔を拭くだけだった。
前川正は、石鹸をつけたタオルでわたしの顔をていねいに洗い、きれいにゆすいだタオルでぬぐってくれた。
「乳液かクリームをつけるんでしょう。どこにおいてあるの」
彼はやさしく尋ねた。
「クリームも乳液も、わたしにはないの」
そう答えると、彼はその日のうちに三越まで行って、クラブクリームを買ってきてくれた。
「化粧品の名前なんかわかりませんからねえ。母が使っているクラブクリームを買ってきましたよ」
彼はそう言って、早速わたしの顔にクリームをつけてくれた。鼻、額、頬、あごに、ポツポツとクリームをおき、指でのばしながら彼は言った。
「美人ニナアレ、美人ニナアレ」
彼のおどけたその言い方に、わたしはふっと胸が熱くなった。どうか彼の手術が成功するようにと祈らずにはいられなかった。
彼は食事の世話をし、手紙の代筆をし、そして湯タンポの入れ換えまで、まめまめしく世話をしてくれた。朝食が終わった後は、彼はわたしの枕元で聖書を読んでくれた。つづいて安静時間である。彼はベッドの下のゴザの上で、好きな読書をしたり、短歌を作ったりした。あまり静かなので、何をしているのかとわたしは手鏡で彼を映す。すると彼は熱心に、ノートに書いた短歌を推《すい》敲《こう》しているのだった。手鏡に映して見ているわたしに気がつくと、彼は照れたように微笑する。それは淡々とした二人だったが、それでも、わたしたちはじゅうぶんしあわせだった。
病院の夜は長い。五時には既に夕食が終わり、付添さんたちも帰ってしまう。わたしたちは聖書の話をしたり、小説のことを語り合ったりして、九時の消灯までを楽しく過ごす。消灯時間が近くなると、朝と同じように再び聖書を読む。そして彼は、床板にふとんを敷いて寝る。
消灯の後、下からそっと手をのばして、わたしの髪におずおずとふれることもあった。これが、クリスチャンである彼の、わたしに対する精一ぱいの愛《あい》撫《ぶ》でもあった。
三、四日して、彼の父から彼に手紙があった。彼は黙ってそれを読んでいたが、
「読んでみてください」
と、わたしに手渡した。
「でも、正さん宛に来たものを、読んではおとうさんに悪いわよ」
わたしは遠慮した。
「いいんです。ぼくと父はよく似ているんですよ。ぼくを理解するためにも、読んでみてください」
言われてわたしは、手紙に目を通した。それは、親に相談もなく手術を決心したことに対しての意見であった。詳しいことは忘れたが、実に愛情のこまやかな手紙であった。
「いろいろ申しあげましたが、どうか気を悪くしないでください。老婆心までに書いたのですから」
というような言葉が、わたしを驚かせた。親のすねかじりの前川正が、自分だけの決意で手術を受けるということは、親をないがしろにしたと言われても仕方のないことであった。たとえそういう形をとらなければ親の同意を得られないとしても、非難されるのは仕方のないことであった。しかしそのことに対して、親は親としての意見を述べながら、あくまでも息子の意志を尊重していることにわたしは驚いた。立派な人たちだと思った。
やがて、彼は、九日目にベッドが空いて、正規に入院することになった。この僅か九日間だけが、後にも先にも、わたしと彼が同じ部屋で昼夜を共にした唯一の生活であった。
三十五
いよいよ前川正の手術の日が決まった。たしか十二月十七日であった。旭川から彼の母が看病に来た。彼の母は、わたしを見舞って、細くなったわたしの手を静かになでた。そこに彼が入ってきた。彼は、わたしの手をなでている自分の母を見て、思わずニッコリ笑った。よほどその情景がうれしかったのだろう。彼はその日、非常に楽しそうであった。
彼はこの手術で、肋骨を八本取ることになった。彼の病室は、幸いにしてわたしと同じ病棟であった。歩いて二分とかからない所に、彼は入院していた。だがわたしは、彼を看護することはおろか、見舞いにさえ行けなかった。この時ほどわたしは自分の病気を情けなく思ったことはない。前川正の生涯に、恐らくただ一度の危険な大手術だというのに、祈る以外何もできないのだ。
明日は第一回目の手術という夜、彼は入浴をすませてわたしの部屋に来た。
「片足だけ洗いませんでしたよ。先輩たちが、全部洗うとあの世に行ってしまうとおどかすんです。人間て弱いもんですね。神を信じているとか、なんとか言ってるけれど、片足だけぼくも洗い残しましたよ」
またこうも言った。
「ぼくは手術はいいんだけど、麻酔がいやですねえ。麻酔がさめる時に、暴れたり、うわごとを言ったりするそうです。綾ちゃん! 綾ちゃん! なんて、名前を呼んだら醜態ですからね」
隣ベッドのわたしの療友は、その言葉に、
「男の人は無邪気じゃね。前川さんなら、とにかく手術は成功しますよ」
と言った。彼女は農家の主婦で、特に封建的な家庭に嫁ぎ、新聞すら読んだことがなかった。しかし前川正は、その彼女の語る言葉を、いつでも親身になって聞いてやった。「ほほう」とか、「それはそれは大変ですね」とか、あいづちを打って聞く態度は、誰に対するのと同じであった。決して彼女を笑ったり、いい加減にあしらうということはなかった。特に感心したのは、彼女があやまって指輪をなくした時である。彼はベッドの下から部屋の隅々まで這《は》うようにして探し、遂には彼女の枕元にある紙屑籠の中を、素《す》手《で》でさがした。
彼女はわたしよりずっと重症の肺結核患者で、その紙屑籠の中には、血痰をぬぐい取った紙がいっぱいだった。その汚い紙をひとつひとつはらうようにして探す彼の姿は、まるで自分の大事なものをさがすように、熱心であった。
指輪は遂に出なかったが、彼のその親切には彼女も後々まで心から敬服していた。
「前川さんのようないい人が、手術で死ぬわけはない」
彼女はくり返し、そう言った。
手術の当日、彼の弟や、彼の友人も旭川からかけつけた。彼が手術室に入ったという報《しら》せが来た。わたしは一心に祈りつづけた。彼の背にメスの入る様子が目に浮かぶ。皮下脂肪のつぶつぶと白い状態から、肋骨の下に息づく肺の動きまで目に見える。
かつて、わたしは前川正と共に、友人の手術に立ち会い、その記録を結核患者の会の会誌に載せたことがあった。その時のことをわたしは思い出し、前川正の肋骨のポキリと切除される音まで聞こえるような気がしてならなかった。刻々と手術の時間は過ぎて行った。
三十六
前川正の手術の間、わたしはただギプスの上で祈っているより仕方がなかった。
やがて看護婦が手術の終わったことを知らせてくれた。
「お元気かしら」
「さあ、まだ麻酔がかかっていますから。青い顔で眠っているだけですよ」
若い看護婦は正直だった。うそでも元気だと答えてほしい気持ちに、全く気づかないかのようにそう答えた。
もう麻酔がさめたと思う頃、わたしは病棟の付添さんに、麻酔がさめたか、ようすはどうかを見てくれるように頼んだ。一分もあれば行ってこれるほどの近い所に、彼の病室はあった。
「変ですねえ、まださめていませんよ。もうそろそろ、暴れる頃ですのにねえ」
ただでさえ不安なわたしに、その知らせは恐怖すら与えた。
その幾日か前に、麻酔がさめないままに死んだ人のことを聞いたばかりであった。わたしは、高鳴る動《どう》悸《き》を静めようとしても、静めることができなかった。
二時間ほどたって、やっと彼が麻酔からさめたことを聞かされた時のうれしさ、感謝の祈りを捧げようと手を組んでも、指に力が入らないのである。
「前川さんて、やっぱり紳士ですね。麻酔がさめるのでも、ほかの人のように暴れないんですから」
後で誰かがそう言ったことをいまも覚えている。しかし実の話は、彼の手術のあたりから、麻酔薬か麻酔の方法がそれまでとは変わったということらしかった。麻酔は、その頃から急速に進歩していたように聞いている。
ともかく、とんだ心配をさせられたが、その後、彼は次第に元気を恢復しているという話だった。
あれは手術して何日目の夜であったろう。十日もたっていた頃だろうか。ドアを押して、影のように入ってきた人を見て、わたしは一瞬ドキリとした。幽霊かと思った。それが前川正だとわかった瞬間、わたしは声をかけるより先に、涙ぐんだ。こんなにも痩せるほど苦しい目にあったのか。その苦しい何日間を、わたしはただ臥たっきりで、一度も見舞うことができなかったのだ。いかにギプスベッドに絶対安静を強いられているとはいえ、それはいかにも薄情に思われてならなかった。
「もう歩いてもいいの」
しかし、当の本人はわたしほど深刻ではなかった。どこかひょうひょうとした笑顔で彼は答えた。
「実はね、いま初めてトイレまで来たんですよ。その序《ついで》にここまで足をのばしたんですから、お袋には内緒ですよ」
病気をしたことのない方はご存じないだろうが、排便というのは、衰弱した病人にとって一大労働なのである。目の前が暗くなり、しばらく立ち上がれないことだってある。
手術後初めてトイレまで来て、それだけでじゅうぶんに疲れたはずなのに、彼はわたしの部屋まで足をのばしてくれたのだ。彼は、わたしの顔を見ただけで安心したかのように、ややしばらく何も言わずに椅子にすわっていた。ものも言えないほど疲れてもいたのだろう。
やがて、看護婦さんに見つかっては叱られると、ふらふらと帰って行った。
遂にその年も暮れた。前川正が手術し、わたしが洗礼を受けた、お互いの一生に忘れられない昭和二十七年であった。そして新しい年が来た。
彼の母が、ハムエッグを作って持ってきてくださった。彼もこのハムエッグを食べて正月を迎えているのかと、彼と同じ病院で新しい年を迎えたという思いが、しみじみと湧いた。
しかしホッとする間《ま》もなく、彼の二回目の手術が二週間後に待っていた。肋骨八本を切除するのに、四本ずつ二回にわけて手術するのである。再び同じ苦しみをさせるのかと思うと、かわいそうでならなかった。だが心のどこかで、一度目が無事だったのだから、二度目も無事だというような気がして、一回目ほど不安ではなかった。やっと少しは体力がついてきたと思った時に、また痛い目にあわせるのかと思うと、何ともやりきれなかった。
わたしは、かつて自分が、自殺を計ったことを思い出した。一人の人間が健康を取り戻すのに、これほどの苦しみを経なければならない。何ともったいないことを考えたのかと、その頃になってやっと自分の愚かさが悔やまれたりするのだった。
彼の二回目の手術が終わった翌朝だった。うつらうつらしているわたしの病室に、彼の母と、弟さんが入ってきた。わたしの所から借りたゴザを返しに来たという。そのゴザは、彼の母が病室に敷いて使うのに、わたしがお貸ししたのだった。驚いたわたしが、
「どうして、もういらないのですか」
と聞くと、
「正が先ほど亡くなりましたから、もういらなくなったのです」
と、おっしゃって、弟さんと二人で、わたしのベッドにつかまって泣かれるのだった。
「そんなはずがありません」
そう叫ぼうと思うのだが、なかなか声にならない。やっと声になったかと思った時、わたしは目をさました。いまのが夢だったとは思えないほど、あまりにありありとしていて、わたしは言いようのない不吉な予感がした。いやな夢を見たというより、いやな幻を見せられたという感じだった。
だが、わたしの夢とは反対に、彼は再び日に日に元気になり、やがて三月の末に退院することになった。彼の父が迎えに来られ、わたしを見舞ってくださった時、わたしは目を真っ赤に泣きはらしていた。大きな手術も無事に終わって、元気に帰って行くのだから、わたしは誰よりも喜んでいいはずだった。それなのに、なぜかわたしは泣けて泣けて仕方がなかった。
旭川を離れて、札幌の地に一人病むことが淋しかったのか。彼との五カ月の病院生活が名残り惜しかったのか。自分でもわからないが、涙はこっけいなほど溢れてやまないのだった。それとも、これもまた不吉なものを予感しての涙であったのだろうか。
遂に彼は旭川に帰ってしまった。
聖書をば読み合ひて寝に就かむとす
明日吾は汝《なれ》をベッドに置きて去る
前川 正
三十七
前川正が旭川に帰って一月近くたった四月の末、西村久蔵先生がお見えになった。その日はうすぐもりの、少し寒い日だったような気がする。入ってこられた先生の、いつもの元気なお顔が妙に寒々と見えた。
いつものように聖書を読み、お話をしてくださったあと、
「来月、東京に行ってきますよ」
と、先生はおっしゃった。先生は御殿場で開かれる修養会の委員だったので、どうしても上京しなければならなかったのだった。後で聞いたことだが、この時先生は既に過労のため、肺臓内に鬱血をきたし、絶対安静を命ぜられていた体だったのである。そんなことも知らず、わたしはのん気に言った。
「先生は、二等車(いまの一等車)でいらっしゃるんでしょうね」
「いやあ、わたしはあの二等のすましたふんいきが大嫌いでね。三等だと、誰とでも気軽に話ができるし、キリストの話もすぐにできますからね。第一、二等に乗るお金があれば、そのお金をもっと有効に使いますよ」
先生は笑った。そして帰られる時、いつものように、ベッドからずり下がったわたしの掛け布団をキチンとかけてくださった。
それから、半月ほどして、西村先生がお病気で、東京から寝台車に乗って帰ってこられたという話を聞いた。二等にも乗らない先生が、寝台車で帰られたというのは、よほどのことであろうとわたしは心配した。
五月も過ぎ、六月になっても、先生はわたしの所にお見えにならない。わたしはお見舞状を出したが、心配しないようにという先生のご筆蹟でお返事をいただいた。
七月五日、第一回の受洗記念日がめぐってきた。わたしは、その日のことを思い出しながら、祈っていた。あの時洗礼を授けてくださった小野村牧師は、蜘《く》蛛《も》膜《まく》下《か》出血で既に倒れられていた。
「必ずなおりますよ」
と、おっしゃった小野村牧師のことを思い、涙で祈ってくださった西村先生を思った。牧師は重態であり、西村先生もまた病状がはかばかしくなかった。一年という僅かな月日の間に、まことに人の身はさだかでないとわたしは思った。
二、三日して、西村先生からお葉書があった。先生は、教会の週報をごらんになって、わたしが受洗記念に感謝献金をしたことを知られたらしい。病床にあって、献金するということが、どんなに大変なことかを先生はご存じだったのであろう。ご自分が導き、いく度となく見舞ってくださっていただけに、なおのこと喜ばれたのであろう。たいそううれしそうなお便りであった。
わたしはすぐ返事を書こうと思いながら、病棟が変わったりして疲れが出ていた。七月十一日のことだった。先生のお宅に下宿しておられる北大生の金田隆一さんが見えて、
「先生が危篤です」
と、おっしゃった。わたしは、
「うそよ」
と言い、腹を立てた。かつがれたのかと思った。金田さんは、旭川の二条教会員で、前川正の友人でもあった。その春、彼が北大に入った時、アルバイトをしながら下宿させてくれる家はないかとわたしに言った。そのことを西村先生の奥さんに申しあげると、奥さんはいとも気軽に、
「うちでよければ、どうぞ」
と、おっしゃってくださった。金田さんとはそんな仲だったから、かつがれるということはじゅうぶんあり得ることだったのである。
彼が帰った後も、わたしはぷりぷり怒っていた。ところが、越智看護婦さんにそのことをたしかめると、
「お聞かせしたくないんですけど、看護婦も泊まりこんでいるんですよ」
と、言われた。越智看護婦さんは親切な明るい方で、教会礼拝の翌日は必ず、週報を持って牧師の説教を聞かせに来てくださっていた。
翌日、七月十二日は日曜日だった。非常によいお天気の日で、臥ていても汗ばむほど暑かった。わたしはその病院に入院して、一年半近くもたっていたから、看護婦さんや医学生にも友だちができた。看護婦学校の生徒にも友人がいた。その中には、毎日遊びに来る医学生や看護婦さんもいて、わたしはみんなに何かと親切にしてもらってもいた。だから、誰も来ないという日はなかった。
だが、その日曜日にはなぜか誰も来なかった。次の日、月曜日の昼休みには必ず見えるはずの越智さんもなぜか見えない。急患でもあったのかと、わたしは思っていた。
すると、試験室に勤務している三国福子さんが、妙にひっそりと入ってきた。フランス美人とわたしが呼んでいたこの福子さんは、美しい上に、実にやさしい人だった。
「堀田さん」
彼女は悲しそうに椅子にすわった。
「どうしたの? 失恋をしたみたい」
わたしはわざと朗らかに言った。
「あら、堀田さんは、西村先生のことをまだ知らないの」
先生の死を知るには、それだけの言葉でじゅうぶんだった。
あまりのことに、わたしはそこが病室であることをも忘れて、子供のように大声で泣いた。そこは四人部屋で、みんな重症の人ばかりだった。福ちゃんはおろおろした。わたしはただ悲しかった。西村先生を、どのように説明したら、人はわかってくださるだろう。わたしの小説「ひつじが丘」をもし読んでくださった方なら、小説の主人公奈《な》緒《お》実《み》の両親を思い出していただきたい。あの牧師夫妻が、西村先生ご夫妻の一端を語っていることと思う。
わたしは、書見器にかかっている西村先生の写真を見た。これは、その前の年の十月、写真をくださいと願ったわたしのために、わざわざ写真屋に行って写してきてくださったものである。この写真をわたしに手渡す時、先生はおっしゃった。
「家内がねえ、死んだ人の写真みたいで、いやだって言うんです。そう言われれば何だか元気がないでしょう。あなたもいやなら、撮りなおしてきてあげましょうか」
ご多忙な先生が、わたしのためにわざわざ写真屋に行ってくださったというだけで、恐縮であった。たしかに、どこか力のない写真には思われたが、わたしは喜んでそれをいただいた。しかしその写真が、九カ月後に、遺影として葬儀場に飾られようとは、思うべくもなかった。
写真をいただいてから二カ月後の年の暮れだった。クリスマスにプレゼントをくださった先生は、帰りがけにおっしゃった。
「何かほしいものがあったら、遠慮なく甘えてくださいよ」
「では、おねがいします。わたし鮭の焼いたのをいただきたいんです」
初めてお目にかかった時、見舞物などいらないと言って拒んだ、かたくななわたしだったが、こんなことも言えるように素直になっていた。
「それはまたお安いご用ですね」
そう先生はおっしゃった。そして大晦日の夕方、奥さまの心づくしの年越しの膳を、わざわざ運んでくださったのである。それには厚い焼き鮭をはじめ、うま煮、煮しめ、黒豆、数の子などなどが並べられてあった。それは、同室の患者とわたしに、別々に盛りつけて持ってきてくださったのである。
生まれて初めて他郷に病む貧しいわたしにとって、こんな心暖まる年越しをさせてくださるご夫妻に、わたしは感謝の言葉もなかった。自分の家族にさえ、病気が長くなると手が回りかねるものである。それなのに、見ず知らずだったわたしに、こんなにまでしてくださる豊かな愛には、文字どおりお礼の言葉がなかったのだった。
しかしそれも、いまはただ悲しみの種となった。わたしは最後の別れとなった日の先生を思い浮かべ、紙に短歌を書きつけた。
ベッドよりずり落ちさうな吾が蒲団を
直して帰り給ひしが最後となりぬ
この短歌ほか数首を、わたしは三国福子さんに頼んで、お棺に入れてもらった。
通夜が終わり、葬式が終わった。会する者八百余人、誰一人泣かぬ者はなかったと聞き、先生がいかに人に慕われた真のクリスチャンであるかを、あらためて思わずにはいられなかった。
植村環《たまき》先生も後にこう書いておられる。
「西村久蔵氏の愛――それは永久に、彼にふれた人々の心に生きて、彼らを慰め力づけるであろう。こう書いていながら私の目は涙にぬれてきた」
越智看護婦さんが、わたしに言った。
「あのね、西村先生の奥さまが、堀田さんにだけは知らせないでくださいって、おっしゃったんですよ。だからお知らせできなかったんです」
悲しみの真っただ中にありながら、病気のわたしの身を思って、そんなにまで心を使ってくださった西村先生の奥さんに、わたしは心を打たれた。
やがて秋も深くなった頃、奥さんが松茸飯を炊き、松茸のみそ汁を作って持って来てくださった。奥さんの顔を見ただけで、わたしはふとんをかぶって泣いてしまった。その松茸は、京都のある方が、西村先生の人徳を伝え聞いて送ってくださったものだという。しかし残念ながら、その香りも味もわたしにはわからなかった。涙で鼻がすっかりきかなくなってしまったからである。
三十八
西村先生の亡くなった札幌は、わたしにとってにわかに空虚な所になった。ちょうどその頃、前川正が旭川から受診に来札した。術後初めて、彼は札幌にやって来たのである。
彼は以前のように肥り、元気に見えた。受診の結果も異状はないらしく、とにかく手術してよかったということになった。わたしは健康保険が切れるので、家に帰ろうか、それとも、札幌市内の療養所に転じようかと相談した。彼はちょっと考えていたが言った。
「帰れるものなら、旭川に帰っていらっしゃいよ。札幌はやはり少し遠いですからね。綾ちゃんの家までなら十分もかかりませんけれど、ここまでは四時間や五時間はかかりますからね」
わたしも、西村先生の亡くなった札幌にとどまる気はなくなった。前川正と、いつでも会える旭川のほうがずっと楽しいはずである。ギプスベッドに臥たっきりの身では、帰ることはむずかしいが、兄や弟たちがいるので何とかなるだろうと、直ちに旭川へ帰ることを決した。彼はホッとしたように、
「待ってますからね」
と言って、帰って行った。
帰ると決めると、一刻も早く帰りたくなった。家に手紙を出すと、帰宅してもよいとのこと、迎えには都志夫兄と、鉄夫、昭夫の二人の弟が来ることになった。
十月二十六日、わたしは遂に退院した。一年八カ月ぶりでわたしは旭川に帰るのだ。ギプスベッドに臥たまま、自動車に移され、弟たちは中《ちゆう》腰《ごし》になって、わたしに覆いかぶさるように乗った。わたしは、看護婦さんや、付添さんや、療友たちに見送られて病院を後にした。
車は、もう大方葉の散った札幌の並木の下を走った。駅に着くと、わたしは兄に背負われ、桟橋を渡った。ぜいたくだが二等の席を二つとり、板を渡した上にギプスを置いて、わたしは臥せられた。
そこへすぐの弟の鉄夫が荷物を持って笑いながら入って来た。
「やややや、参ったぜ。ホームでガランガランと、手からころげ落ちたものがあるんだ。見たら便器のふたなんだ。みんなが笑っていたよ」
鉄夫はさもおかしそうに笑った。包んでいたビニールのふろしきがほどけて、そんなことになったらしいが、どんなに恥ずかしかったろうと、わたしはすまなかった。
発車しようとした時、オルゴールがホームに高らかに響いた。わたしは、札幌で世話になった人々のことを思い、西村先生の既に亡いことをあらためて思い、黙〓をしつつ札幌を離れた。
弟の昭夫が、臥たっきりで外を見られないわたしのために、いまはどこを走っていると時々教えてくれた。わたしはその都度手鏡で窓の外を映しながら、人生にはこんな旅もあるのだと、自分に言い聞かせていた。
しかし、わたしは惨めではなかった。札幌へ出る時は、ちゃんと腰かけて乗って行った自分が、いまはこんなふうになって帰るということに、悲しみはなかった。
(わたしは、クリスチャンになって帰るんだもの。これは何とすばらしいことだろう。いまのわたしは生まれ変わったわたしなのだ)
そして、
(正さん、わたしはあなたの所に帰って行くのよ。今度こそわたしは、あなたと同じ神を信ずる綾子として、あなたの所へ帰って行くのよ)
しきりにそう呼びかけずにはいられない思いだった。
旭川に帰って、彼とたびたび会い、彼は来年の春大学に戻るだろう。そしてわたしも、五年もたてば丈夫になるかもしれない。そうなれば、二人はやがて結婚し、楽しいクリスチャンホームを作るだろう。
わたしは、自分の行くてに、そんなことを夢みながら汽車に揺られていたのだった。何と人間は、自分の行くてを知ることのできないものなのであろうか。
三十九
六男の弟治夫が、徹夜で貼ってくれたというクリーム色の壁紙で、見ちがえるように明るくなった自分の部屋に、一年八カ月ぶりでわたしは帰った。真新しい藁《わら》ぶとんの上にふとんが敷かれ、真っ白なシーツがわたしを待っていた。
発病して既に八年、経済的に精神的に苦労のかけどおしのわたしであった。そのわたしに、こんなにまで心を配って父母兄弟は待っていてくれたのである。八年と言えば、中学生だった治夫が既に高校を出て銀行員になっており、小学生だった末弟も高校を卒業しようとしているのだ。
しかも、この八年間に五回もわたしに入院されたのだ。家人にとって、どんなに重荷であったことだろう。そしていまも、退院したとは言え、この先何年ギプスベッドに絶対安静の生活がつづくかわからないのだ。食事の世話から、排便の始末にいたるまで、六十を過ぎた母が一手に引き受けてくれるのだ。不具廃疾同様のこんなわたしに、父母は以前にも増してやさしかった。
わたしの退院した翌日、前川正が早速訪ねてくれた。
「昨日駅まで迎えに行こうと、家を出たんですがね。途中でやめることにしました」
兄に背負われた不《ぶ》様《ざま》なわたしの姿を、前川正は見るにしのびなかったのだろう。見られるわたしの身になってくれたのだ。丹前姿のまま、兄に背負われて汽車から下りた時、迎えに出ていた父は目をうるませて、
「おう、よく帰って来た、よく帰って来た」
と、かろうじて言った。わたしは三十一歳にもなっていた。健康なら、子供の二人もいる主婦のはずだった。それが、八年も病んでいて、兄に背負われて汽車を下りたのだから、父はどんなに悲しかったことだろう。しかも、いつなおるという見込みがあるわけではなかったのだ。そんな身内の感情も、前川正は知っていてくれたのだろう。迎えに来てくれなかった気持ちが、わたしにはうれしかった。だが、
「汽車の旅は疲れたでしょう」
そういたわってくれる彼の顔色は冴えなかった。つい一カ月前札幌に訪ねてくれた時とはちがって、どこか元気がなかった。
「正さん、あなたどこかお悪いんじゃないの」
わたしは不安になった。彼は淋しい微笑を見せた。
「やっぱり綾ちゃんにはわかるんですね。心配させるといけないと思って、父にも母にも言わないんですけどねえ……実はこの頃時々血痰が出るんですよ」
わたしは自分の顔から血の気《け》がすーっと引いて行くのを感じた。
血痰が出る! それは明らかに手術の失敗を物語っていた。八本もの肋骨を切除してもなお、彼の空洞は潰《つぶ》れなかったのだ。わたしは思わず涙ぐんだ。彼が一人、その事実に耐えている気持ちが、手にとるようにわかった。
「綾ちゃん。そんなに心配しなくても大丈夫ですよ。血痰と言っても、唾に血がまじる程度ですからね。それにいまはストレプトマイシンもありますし、パスもヒドラジッドもあるんですからね」
彼は快活に言った。
以前の彼なら、六町しか離れていないわたしの家に、毎日のように訪ねて来た。手紙も毎日必ずくれた。それなのに、その後彼の手紙も足も遠ざかった。それでも二十日ほどの間に、彼は三度訪ねてくれた。だが依然として顔色は冴えない。
「大丈夫? 正さん」
心配するわたしに、彼は、
「大丈夫、大丈夫。来年の春には大学に戻ることができますよ」
と、元気そうに答えるのだった。
四十
それは忘れもしない十一月十六日のことであった。彼は、その日売り出されたお年玉つき年賀葉書を買って来てくれた。そしてわたしの痰を持って、菌培養のためにわざわざ寒い中を保健所まで出かけて行き、その足でまたわたしの家に立ち寄ってくれたのである。
その日わたしたちは何を話したことだろうか。残念なことだが、人間は自分たちの最後の別れの日の会話も、事細かに記憶してはいないものだ。ただ、手術後の歌を何首か見せてくれたのを覚えている。
切除せし己が肋骨を貰ひ来つ
透きとほるやうに見ゆるもあはれ
その時に見せてもらった歌の中で、これが一番わたしには忘れられなかった。なぜなら、その時彼はその肋骨を持って来てわたしに見せてくれたからである。血が黒くこびりつき、ガーゼに包まれているのをわたしは黙って眺めた。彼があの大手術を受けた動機のひとつには、前述のようにわたしのためということがあった。二度も苦しい手術をし、せっかくなおる希望に燃えていたのに、彼はいま血痰を出しているのだ。そう思っただけで、わたしはその肋骨を見ることさえ耐えがたかった。
「これをくださる?」
やがてわたしはそう言った。
「無論あげるつもりで持って来たのですよ。だけど綾ちゃんが、つまらなそうに眺めているから、あげるのをやめようかと思っていたんです」
日本人の表情は、ずいぶん無表情なものだと二人は笑った。わたしの表情があまりにもこわばっていたため、実は感慨をこめて眺めているのが、彼にはかえってつまらなそうに見えたのであろう。
やがて彼は畳に手をついて、ていねいにお辞儀をした。
「綾ちゃん、そろそろ寒くなりますからね。ぼくも少し安静にしますよ。今度はクリスマスに来ますからね。綾ちゃんも風邪をひかないように気をつけてくださいよ」
と言った。そして立ち上がり、帰りかけてまた二《ふた》言《こと》三《み》言《こと》何か話をした。そして立ったままお辞儀をして、また何か話し、いく度もそんなことをくり返し、彼はとうとう笑い出した。
「ぼく、きょうは何べんお辞儀をするのでしょうね。実はさっきから握手をして欲しかったんですけれど、それがなかなか言い出せなくって……」
そう言いながら彼は、そっとわたしの手を取った。満五年もつき合っていて、まだ握手することさえ遠慮勝ちな彼であった。彼はわたしの手を握ると、安心したように、もう一度「さようなら」と言って小腰を屈《かが》めた。そして部屋の障子をあけ、
「ああ、たくさん雪が降っていますよ。見せてあげましょうか」
彼は障子を開け放って、中庭に降りしきる雪を見せてくれた。
「寒いからもうしめましょうね」
手鏡に庭を映して、飽かずに眺めているわたしに、彼はやさしくそう言い、静かに障子をしめて帰って行った。
その後、たまに葉書は来たが、どれも何か元気のない便りだった。わたしは心待ちに、彼が訪ねてくれると言ったクリスマスを待っていた。だが遂にそのクリスマスにも、彼は訪ねて来なかった。
クリスマスから三、四日ほどして、アララギ一月号が着いた。その選歌後記を見て、わたしは驚いた。あるアララギ会員が、二十八年十一月号のわたしの歌について投書してあった。
ベッドよりずり落ちさうな吾が蒲団を
直して帰り給ひしが最後となりぬ(堀田綾子)
ベッドよりずれたる吾れの掛け布団を
直し給ひき酔のまぎれか(坂本兎美)
右は寸分の違いもありません。何か同一の先例があるのではないでしょうか。(下略)
選者の土屋文明先生も、この投書に同意され、慨嘆されていた。激しい性格のわたしは、文字どおり烈火のように怒った。夜も眠られなかった。翌日前川正から葉書が届いた。
「心配しています。あまりにも作者を知らな過ぎる言葉ですね。しかし、こんなことで歌をやめたりはしないようにお願いします。早速発行所のほうに、ぼくからも抗議文を出しておきます」
急いで書いたのであろう。いつもの彼の葉書より、大きな乱れた字であった。わたしは短歌を作ってはいたが、作るというより一気に歌ができ上がるほうである。推《すい》敲《こう》などもめったにしたことがない。その上歌集というものをほとんど読んだことがなかった。歌集を読むよりも、モーリャックやドストエフスキーの小説を読んで、文学的感動を与えられるほうが、歌の勉強になると思っていた。わたしが読む歌の本と言ったら、アララギ誌だけであった。そのわたしを、前川正は誰よりもよく知っていた。しかも、歌ができても、ノートに大事に書きとめるという几帳面さがなく、薬包紙や広告の裏などに、手当たり次第にできた歌をその場で書きしるすのだ。
「もっと、自分の歌を大事になさい」
よくわたしは彼に叱られたものだ。しかしわたしは歌を作ればそれで気がすむのであって、彼に催促されなければ、アララギへの投稿さえ怠るほうだった。こんなわたしだから、自分の歌さえすぐ忘れてしまう。まして、人の歌など覚えているわけはない。
第一、この歌は、あの西村先生の死を悼《いた》んで、泣きながら詠《よ》んだ歌ではないか。わたしは口《く》惜《や》しくて仕方がなかった。直ちにわたしは療友の理恵を呼び、わたしの家にある限りのアララギ誌を全部調べてもらった。
「これに似た歌があるかどうか、一首一首見落とさないで調べてよ」
理恵は忠実に、何日もかかって全巻調べてくれた。京都の坂本さんからも手紙が来た。何せ、同じ号にこの二首が載ったのだから、無論お互いに盗み合うことができるわけはない。
年が明けて、前川正から原稿用紙に十六枚もの発行所宛の抗議文が届いた。
「綾ちゃんが目を通して、よければこれを発行所に送ってください」
いま考えても、この時のことを思うとわたしは胸が痛む。彼はその頃、一枚の葉書を書いてさえ疲れるほどに体が弱っていたのだ。そしてこれを書き終えて彼は喀血をしたのだった。しかしわたしには、その病状は誰からも知らされていなかった。彼が既に絶対安静の床にあり、便器を使って臥《ね》ていることなど知るはずもない。クリスマスには来れないと言っても、そして、母上代筆の年賀状であったと言っても、まさか彼がそんなにも重い病状であるとは思わなかった。寒いので大事をとっているのだろう。安静にしていれば、やがては血痰もとまるだろうと思っていた。もし彼が、死の床においてこの抗議文を書いたと知ったなら、わたしは必ずやそれを発行所に送ったであろう。だがわたしは、自分のことについて人に弁明してもらうのを嫌った。
わたしは仰《ぎよう》臥《が》のまま、土屋先生に手紙を書いた。坂本さんとわたしの手紙は、アララギ三月号に載った。わたしの手紙の一部を書いてみよう。
……お棺の中に入れて頂いたあの歌を、わたしは人真似で作る余裕もございませんでした。ただ、涙の中で西村先生をしのび思いつつ作った歌を、詐欺漢云《うん》々《ぬん》とまで言われては、まことに口惜しく存じました。恐らく京都の坂本様も御自分の体験に即してお作りになったものと信じます。
わたしはカリエスで絶対安静をしておりまして、胸部にも空洞があり、重い冬蒲団が垂れ下がると引きあげる力がございません。看護婦さん、見舞人がいつも直してくださっていまして、特に特別なことではなく、西村先生もいらっしゃる度に直してくださったのでした。そしてその日も、いつものように直してお帰りになったのですが、最後となってしまったのです。(中略)
先生、わたしたちが「先生」と申しあげる以上、信頼して選を頂いております。何《なに》卒《とぞ》先生を信頼している会員たちを、もう少し御信用くださっていただきたいと存じます。
一月六日
土屋先生は、わたしたちの手紙に対して、前言を取り消してくださり、類歌の問題について種々教えを述べられ、最後に、
「とにかく、今両君の直接の申し出によって、会員諸君が作歌に際し、真剣であり純潔であることを知り得たのは私としてむしろ愉快であった」
と、書いてくださった。
正直の話、愚かなわたしは、一月号の投書を読んだ時、立腹の余り短歌をやめようと思った。選者の苦労などということを、想像することもできない初心者であったから、無理もない。だがこの事件は、わたしにとって大いに薬になった。自分の安易な作歌態度を反省する機会となり、たとえ一首の歌でも、真剣に取り組まなければならぬことを教えられたような気がした。これには無論、前川正が、
「こんなことぐらいで歌をやめたりはしないように」
と、手紙に書いてくれたことも力となっていた。たしかにこんなことぐらいで歌をやめるぐらいなら、初めから歌を作らぬほうがよかったのだ。もしあの時、腹立ちまぎれにアララギをやめていたら、わたしは実に多くのものを失ったにちがいない。
後に、わたしは次のような歌をアララギに出している。
平凡なことを平凡に詠ひつつ
学びしは真実に生きるといふこと
実にアララギの歌風は、人間の真実を引き出してくれるものであった。アララギでは写生ということを重視する。それは、「生命を写し取る」ことだと聞き、わたしはわたしなりにその作歌態度に学んで来た。
信仰と共に、アララギの歌を勧めてくれた前川正の深い配慮を、わたしはいままでいく度思って来たことだろう。彼が投書を見て、歌をやめるなと言ってくれた心が、いまもなおわたしの胸にひびく。
「綾ちゃん、もし歌をやめることがあるとしても、それに代わる文学発表を必ず持ってくださいよ」
そんなことも彼は時折言ってくれたものであった。いまわたしは小説を書くようになったが、アララギに学んだことが実に大きな益となっている。無論、もっと忠実にアララギに学んだならば、わたしの文章はこんな拙《つたな》いものではなかったろう。その点、アララギの先輩や友人たちに、申し訳のないことではある。
四十一
どうしたことか、抗議文を書いてくれた後、彼の便りはパッタリと途絶えた。あるいはひょっこり訪ねてくれるのではないかと待っていたが、それもない。一月の半ばも過ぎると、わたしの不安は更につのった。
ようやく一月の終わりに、母上の代筆で封書が届いた。彼は一月六日以後喀血がつづき、親しい友人の見舞いさえ謝絶していると書いてあった。一月六日と言えば、あの抗議文十六枚を書いた直後ではないか。わたしはすぐにも立ち上がって見舞いに行きたかった。
その後も時々、母上から病状を知らせるお便りをいただいたが、わたしの不安は、ますますつのるばかりだった。少しいいと知らせが来た後は、必ず、また喀血したという知らせである。わたしは、彼の手術の時と同様、ただ祈るよりない自分の腑《ふ》甲《が》斐《い》なさが口惜しかった。
ある日わたしは、部屋に飛んでいる一匹の蠅を見た。旭川のきびしい寒さに耐えて生き残ったこの蠅に、わたしは春を感じた。わたしも前川正も、この蠅のように、かろうじて冬を越したのだと思うと、何か涙ぐみたいような気持ちだった。
やがて、ストーブも焚《た》かない日が時々あるようになり、いつしか四月になった。
四月二十五日はわたしの誕生日である。毎年彼は、わたしの誕生日には必ず本を贈ってくれた。今年も元気なら、忘れずに本を贈ってくれるはずであった。わたしは、喀血をくり返す彼を想像しながら、一人書見器の聖書を読んでいた。そこへ思いがけなく彼からの封書が届いた。わたしは驚き、喜びながら封を切った。それは障子紙のような白い和紙に、鉛筆で書かれてあった。
祝御誕生
イツモ祈ッテマス 正
綾チャンエ
一九五四・四・二五
十一、十二月トツバノ中ニ血ガ交ッテタ。一月六日初メテ本当ニヘモリ(喀血のこと)以来血痰。週一回ハヘモル。一〇〇CC〜一〇CC。父、母、進ガ夜モネズニ、看テクレル。吸入デ痰ガ出ヤスイノデ、夜中三〜四回モオコシ、母ニカケテモラウ。
手術側ノ血管ニ一ツ弱イノガアルラシイ。マタイトコノ医者ニ夜、ヘモッタトキ来テモラウ。今迄ニナカッタノデ、ヤハリアワテル。大分ナレタ。スベテ筆談。
ソチラノオ母サンノ見舞アリガトウ。シカシ、玄関ニ母ガユクト心細イカラ、余リ心配シナイデクダサイ。手ガミモヨマズ母ニ要点ヲキクノミ。
又半年ハゴブサタスル。神サマニ祈ッテ下サイ。今日ハ、コチラ、マイシン、パス、往診デ出費多端。本モアゲラレズ。コレダケ書クノハ相当デアッタ。母ニオサエサセテ。
元気ニ。
読み終わったわたしは暗《あん》澹《たん》とした。鉛筆の文字は、几帳面な日頃の彼に似合わず、かなり乱れている。臥たままで、母上に紙をおさえてもらいながら、全心全力を注ぎ出して書いた手紙なのだ。
わたしは未《いま》だかつて、こんな真実な命がけの誕生祝いをもらったことはなかった。悲しみの中にも、深い感動があった。わたしは、三度四度彼の手紙を読み返した。彼が身を削るようにして書いた手紙を、わたしもまた、全身全霊をこめて読みとろうとした。最後の「元気ニ」の一《ひと》言《こと》に、わたしは多くの言葉を聞いたような気がした。
「又半年ハゴブサタスル」
彼はそう書いているが、果たして半年後に、再びペンをとることができるのだろうかと、わたしは危ぶんだ。
「元気ニ」
の一言に、彼は万感の思いを託したのではないだろうか。
「元気に生きて行くんですよ。たとえどんなことがあっても」
そう彼は言いたかったのではないかと、わたしは思った。果たしてこの手紙は、単なる誕生祝いの手紙であろうか、それとも暗に別れを告げる手紙なのだろうかと、いくたびも読み返さずにはいられなかった。
四十二
木の芽の吹く頃は、結核患者にとって憂鬱な季節である。病気もまた芽吹くかのように、体の調子が狂ってくる。
五月一日、その日もわたしの全身は石のように凝り、熱もあった。体は疲れているのに夜になってもなぜか眠ることができない。いつものように、書見器にかかった聖書を読み、祈りを終えても、妙に目が冴えてくる。
自分がこんなに気分の悪い日は、前川正もまた体工合が悪いのではないかと案じているうちに、時計は十二時を打った。すると、それが合図かのように、前川正の姿が次々に目に浮かんできた。療養所で初めて会った時の、大きなマスクを外した顔。酒を飲むなと戒めたきびしい顔。歌会を司会している時の楽しそうな顔。春光台の丘で、自分の足に石を打ちつけた悲壮な顔。それらがまるで映画のひとこまひとこまのように、実に鮮やかに、しかもす早く、次々とわたしの目に浮かぶのだ。それは、わたしが思い浮かべるのではなく、いやおうなく目の前に見せられているような、ふしぎな感じだった。
「変だわ。どうしたのかしら」
わたしは、自分の意志を超えて、何者かに見せられているような彼の様々の姿を、ふり払うように時計を見た。時計は既に一時を過ぎている。わたしは深い疲れを覚えた。そして、引きずりこまれるような眠りに落ちてしまった。
翌五月二日も、朝から熱があって気分が悪かった。わたしは昨夜次々と浮かんできた前川正の面《おも》影《かげ》を思いながら、ふしぎなこともあるものだと思った。自分から思い出そうと努めたわけではないのに、なぜあんなにいろいろな彼の姿を、一時間以上も見たのだろうか。そんなことを思っているわが家の上を、しきりに自衛隊の飛行機が飛んでいた。それは、疲れたわたしには甚だしい騒音であった。この騒音に、彼もまた悩まされているのではないかと、わたしは彼の病状を思いやっていた。
夕方近くになって、姉がわたしを訪ねて来た。姉は黒いドレスを着て、静かにわたしの部屋に入って来た。
「綾ちゃん、工合どう?」
いつもの姉より、妙に静かである。
「どうしたの百合さん。どこかお通夜にでも行くの?」
わたしは不機嫌に言った。
「いいえ」
姉はそのまま出て行った。わたしが不機嫌なので、姉はすぐ出て行ったのだとわたしは思った。夕食《は》姉が運んで来た。何の食欲もない。わたしはちょっとお菜をつついただけで、すぐに下げてもらった。
夕食が終わって間もなく、父と姉が部屋に入って来た。
「綾子、お前は気性が激しいから……」
父はまずそんなことを言い、語尾を濁した。わたしが一日中不機嫌だったので、父が心配してそんなことを言いに来たのかと、わたしはのんきに構えていた。何という勘の鈍さであろう。
「綾子、実は前川さんのことを、お知らせするのだが……」
ふだんの父なら、お知らせするなどとは言わない。やっとわたしは変だと気づき、言いかけた父の言葉をひったくるようにして叫んだ。
「死んじゃったの?」
自分でも思いがけない大きな声であった。姉が、顔を覆った。
「いつ?」
「今《け》朝《さ》、午前一時、十四分だったそうだ」
わたしはふっと、昨夜の次々に浮かんだ彼の顔を思い出した。とめようとしても、とまらぬほど次々に目の前に浮かんだあの姿は、わたしへの最後の別れだったのかもしれない。わたしは初めてそう気づいた。
「死んだの!?」
突如として、激しい怒りが噴き上げてきた。そうだ、それは正《まさ》しく悲しみというより怒りであった。前川正ほどに、誠実に生き通した青年がまたとあろうか。この誠実な彼の若い生命を奪い去った者への、とめどない怒りがわたしを襲った。
「鋏《はさみ》を持って来てちょうだい、百合さん」
「ハサミ?」
不安そうに姉はわたしを見た。
「そうよ、鋏を持って来て」
姉から手渡された鋏で、わたしは前髪をぷっつりと切った。そのわたしを、姉はじっと見つめていた。わたしはこの髪を半紙に包み、わたしの写真を添えて、姉に手渡した。
「百合さん、お通夜に行ってくれるんでしょう。これをお棺の中に入れてもらってね」
憤《いきどお》っているはずなのに、なぜかわたしは落ち着いていた。
「綾ちゃん、立派だわ」
姉が言った。姉はわたしのようすに安心したらしく、前川正の最期を話してくれた。
「正さんはね、昨夜の七時半頃、食事中に意識不明になったんですって。そしてそのまま意識が戻らずに、今朝の一時十四分に亡くなったんですって」
姉は、既に前川家を訪れていたのだった。彼の母上は、悲しみのあまり床についていられたと、姉は言った。そしてまた言った。
「綾ちゃんが心臓マヒでも起こしたら大変だと思って、知らせないつもりだったのよ。だけどわたしが反対したの。どうせ、誰かの手紙でわかることだし、その時知らせて欲しかったって、きっと言われるにちがいないからって」
そして姉は、どこかの通夜に行くのかとわたしに問われた時、何とも答えようがなかったと、わたしに告げた。誰が見ても、わたしにとって前川正は、無くてはならぬ人であった。だから心臓マヒを起こしはしないかと案じたのも、当然だった。気の弱い弟は、わたしが彼の死を知ることに耐えられずに、一日中外に出ていたほどである。
しかしどういうわけか、わたしは心臓マヒも起こさなければ、気絶もしなかった。ただ、自分のような者が死なないで、彼のような誠実な人が死んだことに、言いようのない怒りを感じていた。
夜も更けて、やっとわたしは、彼の死を現実として肌に感じとった。毎夜九時には、わたしは祈ることにしていた。そして必ず、前川正の病気が一日も早くなおるようにと、熱い祈りを捧げていた。しかし今夜から、彼の病気の快《かい》癒《ゆ》をもう祈ることはないのだと思うと、わたしは声をあげて泣かずにはいられなかった。
堰《せき》を切った涙は、容易にとまらなかった。仰《ぎよう》臥《が》したままの姿勢で泣いているので、涙は耳に流れ、耳のうしろの髪をぬらした。ギプスベッドに縛られているわたしには、身もだえして泣くということすら許されなかった。悲しみのあまり、歩き回ることもできなかった。ただ顔を天井に向けたまま泣くだけであった。
わたしはその夜、遂に一睡もしなかった。彼が死んだ午前一時十四分になった時、わたしは文字通り号《ごう》泣《きゆう》した。彼の死も知らずに、次々と浮かぶ彼の姿を思っていた昨夜の自分が、憐れに思われてならなかった。誕生祝いの手紙をくれて、まさか一週間後に死ぬとは夢にも思わなかった。だから、彼の姿がどれほど次々に浮かんでも、姉が喪服で現れても、わたしは彼の死に思いを致すことができなかったのだ。
翌日、晴れた日であった。父、姉、甥たちが彼の葬式に出かけて行った。わたしの家と、彼の家は、僅か六町しか離れていない。何とかハイヤーにでも乗せて連れて行って欲しいと、わたしは切実に思った。ただ一目でいい。わたしは彼の死に顔に別れを告げたかった。しかし、それは所《しよ》詮《せん》わがままというべきものであったろう。ギプスベッドに絶対安静を強いられているわたしには、到底それは言い出せることではなかった。
四十三
それから何日かの間、夜になるとわたしの耳元に、人の寝息が聞こえた。わたしは離れに一人寝ていたのである。人の寝息が聞こえるはずがない。だがその寝息は、実にハッキリと耳元で聞こえた。
(正さんの寝息だわ)
聞こえるはずのない寝息が、傍らに聞こえるのは初めはうす気味悪かった。しかし彼の寝息だと思いこんでから、わたしは非常に慰められた。彼がそばに眠っていてくれる。わたしはそう思った。彼の肉体は死んでも、彼の霊は滅んではいない。わたしはその寝息を聞きながら泣き、泣きながらも慰められた。その寝息は、十日ほどつづいてぴたりとやんだ。わたしは一心に耳を傾けたが、もはや彼の寝息は聞こえなかった。
再び、たとえようのない寂《せき》寥《りよう》がわたしの身を包んだ。全く一人ぼっちになったと思った。この世で結ばれることのなかった彼が、死んで十日ほどわたしに添い寝をしてくれたのでもあろうか。あのふしぎな寝息を、いまでも時折思い出すことがある。
わたしはその時になって、初めて天国を思った。昨年の七月、敬愛する西村先生を失い、それから一年もたたぬうちに、最愛の前川正も天に召された。当時のわたしは、この世よりも、天国のほうが慕わしく思われてならなかった。
何日も呆然とした日を送った。呆然としながらも、涙は渇《か》れることはなかった。彼の死を聞いて、札幌から間藤安彦が訪ねて来た。わたしは、会わないと母に言った。しかし母は、わざわざ札幌からおいでになったのだからと言って、彼をわたしの部屋に通した。わたしは彼に言った。
「会いたくなかったのよ」
彼はハッとしたようにわたしを見た。
「ごめんね。ぼくは自分の気持ちばっかり考えて、あなたが人に会いたくないということを、忘れていました」
それから二人は何を話したろうか。とにかく前川正のことにふれそうになると、わたしは、
「やめて!」
と言ったことだけを覚えている。
その後、何人かの友人がわたしを慰めようとして、わたしを見舞ってくれた。しかしわたしは誰の口からも「前川正」という名を聞きたくはなかった。誰がわたしと一緒に涙を流すことができるだろう。彼らにとっての前川正と、わたしにとっての前川正とは、全く違った存在なのだ。誰が彼を讃《ほ》めようと、また惜しもうと、それはわたしにとって甚だ空虚な言葉にしか過ぎなかった。遂にわたしは、しばらくは誰にも会わずに、ただ一人彼の喪に服することに決めた。
彼が召天して一カ月目だった。待ちに待っていた彼の母上が、わたしを訪ねてくださった。顔を見合わせるなり、二人は泣いた。この世に共に泣ける人は、この人だけであった。この母上だけは例外であった。その時母上は、彼の形見の丹前、遺書、ノートにメモした遺言、彼の日記と歌稿、そしてわたしから彼に送った六百余通の手紙などを持って来てくださった。このわたしの手紙は、日付順に番号がつけられて、幾つもの菓子箱にキチンと整理してあった。それは彼にとって、この手紙がいかに貴重なものであったかを物語っているようであった。
ノートにメモした遺言は、ご両親への遺言で、その中にはわたしにふれた言葉もあった。
「綾チャンノコト、ワカッテイタデショウガ、何モ疚《ヤマ》シイコトハナイカラ安心シテクダサイ」
これは、彼とわたしの間に、肉体関係がないことをご両親に告げたものであった。
わたしへの遺言は、まだ比較的病状の軽かった頃に書かれたもので、封筒にはていねいに彼の印鑑が押されてあった。
「綾ちゃん
お互いに、精一杯の誠実な友情で交わって来《こ》れたことを、心から感謝します。
綾ちゃんは真の意味で私の最初の人であり、最後の人でした。
綾ちゃん、綾ちゃんは私が死んでも、生きることをやめることも、消極的になることもないと確かに約束してくださいましたよ。
万一、この約束に対し不誠実であれば、私の綾ちゃんは私の見込み違いだったわけです。そんな綾ちゃんではありませんね!
一度申したこと、繰り返すことは控えてましたが、決して私は綾ちゃんの最後の人であることを願わなかったこと、このことが今改めて申し述べたいことです。生きるということは苦しく、又、謎に満ちています。妙な約束に縛られて不自然な綾ちゃんになっては一番悲しいことです。
綾ちゃんのこと、私の口からは誰にも詳しく語ったことはありません。
頂いたお手紙の束、そして私の日記(綾ちゃんに関して書き触れてあるもの)、歌稿を差し上げます。これで私がどう思っていたか、又お互いの形に残る具体的な品は他人には全くないことになります。つまり、噂以外は他人に全く束縛される証拠がありません。つまり、完全に『白紙』になり、私から『自由』であるわけです。焼却された暁は、綾ちゃんが私へ申した言葉は、地上に痕《あと》をとどめぬわけ。何ものにも束縛されず自由です。
これが私の最後の贈り物
念のため早くから
一九五四、二、一二夕
正
綾子様」
何という深い配慮の遺書であろう。彼にとって、一番心配だったことは、彼の死後のわたしの生活だったのだ。彼は、わたしが自殺しはしないか、と第一に案じてくれている。そして次に、誰か別の男性がわたしの前に現れた時、わたしが前川正との過去に縛られて、自由にふるまえないのではないかと、心配してくれている。そして、日記も手紙も歌稿も、わたしが自由に処分できるようにと、わたしの手《て》許《もと》に届けてくれたのだ。
だが、どうしてこの貴重な二人の生活の記録を焼き捨てることができるだろう。否、焼き捨てるどころか、わたしは次々と彼への想いを歌に詠《よ》んで、アララギその他に発表して行った。
雲ひとつ流るる五月の空を見れば
君逝《ゆ》きしとは信じがたし
君死にて淋しいだけの毎日なのに
生きねばならぬかギプスに臥《ふ》して
君逝きて日を経るにつれ淋しけれ
今朝は初めて郭《くわく》公《こう》が啼《な》きたり
君が形見の丹前に刺しありし爪《つま》楊《やう》子《じ》を
見れば泪《なみだ》のとまらざりけり
耳の中に流れし泪を拭ひつつ
又新たなる泪溢れ来つ
闇《やみ》中《なか》に眼《まなこ》ひらきて吾の居り
ひょっとして亡き君が現はれてくるかも知れず
吾《わ》が髪と君の遺骨を入れてある
桐の小箱を抱きて眠りぬ
マーガレットに覆はれて清《すが》しかりし御《み》柩《ひつぎ》と
伝へ聞きしを夢に見たりき
君の亡きあとを嘆きて生きてゐる
吾《われ》の命も短かかるべし
さまざまの苦しみの果てに知りし君
その君も僅か五年にて逝きぬ
君の写真に供へしみかんを下げて食ぶる
かかる淋しさは想ひみざりき
クリスチャンの倫理に生きて
童貞のままに逝きたり三十五歳なりき
女よりも優しき君と言はるれど
主張曲げしことは君になかりき
煙草喫ふ吾に気づきて悲しげに
面《おも》伏《ふ》せし君に惹《ひ》かれ行きにき
最後迄《まで》会ひ初めし頃と変らざりき
その言葉正しく優しきことも
死体解剖依頼の電文も記しありき
医学生君《きみ》の遺言の中に
夢にさへ君は死にゐき君の亡《なき》骸《がら》を
抱きしめてああ吾も死にゐき
祈ること歌詠むことを教へ給ひ
吾を残して逝き給ひたり
原罪の思想に導き下されし
君の激しき瞳《め》を想ひゐつ
山鳩の鳴《な》きゐる夕の丘なりき
跪《ひざまづ》きイエスに共に祈りき
妻の如く想ふと吾を抱きくれし
君よ君よ還り来よ天の国より
挽《ばん》歌《か》は次々と生まれた。しかし彼の先輩、学芸大学の教授坂本富貴雄氏は、
吾が師匠茂吉文明さにあらず
十年病みゐる前川正
と、アララギに詠まれたのを最後に、ぷつりと歌をやめられた。また、良い歌をアララギに発表しておられた松枝彬《あきら》あきら氏も彼の死後歌から遠ざかってしまった。
「正さんが死んだら、歌を作る気がしなくなってしまいましてね」
これは、奇《く》しくもこの二人の言葉であった。わたしは、次々と挽歌の生まれるわたしよりも、歌の作れなくなってしまったこの二人のほうが、ずっと彼を愛しているのではないかと考えこんだことがある。
しかしわたしは、三十五歳で死ななければならなかった前川正が、もしこの後も生きていたならば、いったい何をしようと思うであろうか。死んだ彼の分まで、わたしは生き通さなければならないのだと、ともすればくずおれそうな自分の心を鞭《むち》打《う》っていた。
(正さんは病気がなおりたかったのだ。わたしはなおらなければならない。あの人は歌を作りたかったのだ。わたしは作らなければならない。あの人は教会に行きたかったのだ。わたしは教会に行かなければならない)
彼が生きたかったであろうように、わたしは彼の意志を受けついで、生きられるだけ生きようと決意した。
だがわたしは、相変わらず泣いてばかりいた。毎夜午前一時十四分、彼が死んだその時刻を過ぎなければ眠ることができなかった。その時間まで起きていてあげなければ、何だか彼が淋しいのではないかと、思われてならなかった。できるなら、わたしもまたその一時十四分に死んでしまいたいような、そんな誘惑に引きこまれることもあった。生きようと決意しながら、わたしはやはり死にたかった。
そんなある日、わたしのもとに、見知らぬ人々から何通かの手紙が来たのである。
四十四
手紙は鹿児島、広島、岡山、新潟などに住む、胸を病む人たちからのものであった。何事であろうかと封を切ってみて、私は初めて気がついた。
前川正が亡くなる少し前に、わたしは療養雑誌「保健同人」に投書した。それは葉山教会の宮崎牧師が主宰する月刊誌「さけび」を療養者に無料で送るという投書だった。この「さけび」は、前川正が毎月わたしに贈ってくれていたものだった。僅か二十頁にも満たない、うすいキリスト教誌だが、その説教は、わたしの胸にぐいぐいと食いこみ、実に感動をもたらして止《や》まなかった。
療養中のわたしは、教会に行くことができない。日曜ごとに教会に行き、このような説教を聞ける健康人が、わたしは羨ましかった。じっと一人臥ていると、矢もたてもたまらないほど、聖書の話を聞きたいと思うことがあった。仮に家の軒に赤い小旗でも掲げておくとする。それを見て、どこの牧師でも通りがかりに訪ねてくれるとしたら、どんなにいいであろうと考えたほど、わたしは説教を聞きたかった。そしてそのたびに、宮崎牧師の説教を読み返した。
だがある日、わたしはふと思った。わたしのように、牧師の説教を聞きたいと渇望している療養者が、全国にはたくさんいるのではないか。その人たちに、この「さけび」を送ってあげたなら、どんなに喜ぶことだろう。無料でもらったものだから、無料で送ってあげようと思いたち、その旨を「保健同人」に投書したのだった。
すると、その投書が、やがて「保健同人」誌に載り、それを見た療養者たちが各地から手紙をくれたのである。
前川正の死に、泣いてばかりいたわたしに、神はあらかじめ仕事を用意しておいてくださったのだ。わたしは一人一人に葉書を書き、「さけび」を送った。ところが、たちまち何十部かの手持ちの「さけび」はなくなってしまうほど、たくさんの手紙が寄せられた。
当時のわたしは、手紙や葉書を、ギプスに臥たままの姿勢で書いていた。前川正の死後、わたしの体力はいっそう衰え、一枚の葉書を書き上げると、三日ぐらいは何もできないほど疲れ切ってしまうのだった。しかしわたしは、寄せられた手紙に、一枚一枚祈りをこめて返事を書いた。宮崎牧師には、バックナンバーを注文した。
療養者たちからは、更に様々な手紙が来た。そこにはわたしよりもずっと悲惨な人たちが数多くいた。関節結核で、立つか寝るかしかできず、すわることも腰かけることもできない人。長い療養中に、夫には捨てられ、幼い吾が子にさえ愛想をつかされて、「子供は、毎日臥てるわたしに枕を投げつけるのです」という母親。自分の療養中に夫が女を家にひき入れ、その女に食事の仕度をしてもらっている人妻。結核性関節炎で片足を切断、その上カリエスになり、いまは腎臟結核で摘出手術のために入院中の学生。どの人たちも、実に大変な人生を送っていながら、みんな神を信じて強く生きている人たちであった。
この人たちにくらべると、わたしはしあわせ過ぎるほどであった。両親がおり、兄弟があり、離れの部屋をひとつ病室にもらっているではないか。前川正の死は悲しかったが、夫の愛人に食事を用意してもらう屈辱的な生活よりは、ずっと単純な悲しみであった。
自然、わたしの手紙は、その人たちを慰める形になって行った。
再び、その人たちから感謝の手紙がぞくぞくともたらされた。わたしは驚いた。旭川の片隅でひっそりと療養しているだけの、わたしのような者の書いた手紙が、一枚の葉書が、これほどまで人々に喜んでもらえようとは、思いもよらないことだった。こうしてわたしは、全国各地に多くの友人を得た。中には求道中の人もいた。何も知らないわたしに、真剣にキリスト教について尋ねる手紙も来た。
(わたしのような者でも、人を喜ばせ、慰め、何かの役には立つことができるのだ)
この思いが、わたしの生きて行く支えとなった。前川正の死に、泣き悲しんでいるわたしを支えてくれたのは、実にこの人たちであった。わたしはここで、人を慰めることは自分を慰めることであり、人を励ますことは、自分を励ますことであるという平凡な事実を、身をもって知ったのである。
病む友の一人一人の名を呼びて
祈る聖画のもとに臥す日々
こんな歌もできるほどに、わたしはいつしか悲しみから立ちなおりつつあった。そのころ、午後の三時には、必ず祈り合うという祈りの友の会があって、全国各地で祈りが捧げられていた。わたしはその会員ではなかったが、三時になると、知る限りの友人のために、わたしもまた次々と祈っていた。みんながいま、こうして祈り合っていると思うと、わたし自身大きな慰めを与えられた。
わたしはこの頃になって、やっと自分の信仰がいかに従順な信仰でなかったかを、思うようになった。わたしは神を信じていた。いや、信じているつもりだった。しかし信ずるとは、わたしにとっていったいどういうことであったろう。前川正が死んだ時、わたしは激しい怒りを感じた。そして、その後もしばしばこう呟いていた。
「神さま、どうしてわたしの命を取らずに、あの正さんを召されたのですか」
「神さま、正さんのような立派な人は、この世でまだまだお役に立ったはずではありませんか。わたしのような愚かな者が生きているよりも、正さんが生きているほうが、よかったはずではありませんか」
わたしは神に対して、不満をぶちまけていた。絶えず神に文句をつけていた。どうして前川正が死んで自分が生きているのか、何とも納得がいかなかった。
わたしはしかし、神に不平を言ってはいても、決して神を信じていないのではなかった。神はこの世にいないと思っているのではなかった。その証拠に、わたしは神に向かって抗議をつづけていたのだから。
だが、その態度がまちがっていることに気づいた。
「神は愛なり」
聖書にはそう書いてある。神の御計画が、人間のわたしにわかるわけがなかった。しかし神が愛の方である以上、前川正の死は、それなりに神の定めた時であり、最もよしとした終わりであったにちがいない。わたしはそう思うようになって行った。神は正しい方だから、正しいことをなさるにちがいない。神はよい方だから、よいことをなさるにちがいない。人間のわたしには、たとえ納得のいかないことであっても、いまにきっと、神のなさったことがわかるようになるであろう。
「神さま、あなたのなさったことは、みなよいことでした」
わたしはそう祈り、自分にも言い聞かせて、神に不平不満を言うことをやめた。神のなし給うことに従順になろうと努めた。
そんな思いを持って、全国各地の療養者たちと文通しているうちに、やがて死刑囚の友人などもできた。
当時、わたしが文通している一人に、菅原豊という札幌在住の療養者の方があった。元銀行員で、十年近く療養している方であった。菅原豊氏は、西村先生の商業学校教師時代の教え子だった。結核で痩せておられたが、「いちじく」というキリスト誌を自分で編集し、療養所のベッドの上でガリ切りまで自分でしておられた。このガリ切りも通信講座で独学し、後に大臣賞を得られ、謄写印刷の講師にしばしば招かれるほどになられた意志の強い人である。
この「いちじく」には、全国の療養者や、死刑囚、そしてまた牧師、伝道師の方が感想文や便りを寄せていた。そこには、人それぞれの生活の状態や、悲しみや喜びが現れていて、どの人の信仰も生き生きと肌にふれるように感じられた。
誌友の中にはその書簡集がベストセラーとなった、獄中結婚の故山口清人氏や、殺人魔西口を捕らえた九州の僧侶古川泰竜氏などもおられる。無論前川正もその誌友であった。
昭和三十年の二月頃、わたしと同じ旭川に住む三浦光《みつ》世《よ》という人の手紙が「いちじく」に初めて載った。その手紙には、ほとんど死刑囚の消息ばかりが書いてあったので、わたしはてっきり、この人も死刑囚の一人にちがいないと思ってしまった。その名前を見れば、光世という実によい名前である。聖書には、「汝らは世の光であれ」と書いてある。恐らくこの人の父母は、その聖書の言葉から字を取って光世と名づけたにちがいない。それなのに、どうして死刑囚になってしまったのかと、わたしはひそかに心を痛めた。
当時旭川には、「いちじく」の誌友はわたしだけであった。だから、この三浦光世なる人の出現は、わたしの注目を引いた。わたしの家は刑務所から一町半の所にあった。その高い塀の中に、その人は住んでいるのだとわたしは独りぎめにしていた。そして、この人に手紙を書こうと思っているうちに、また「いちじく」の次号が来た。
「同じ旭川に住んでいながら、どこにいらっしゃるかもわかりません堀田綾子様、何《なに》卒《とぞ》お体を大事にご活躍ください」
という言葉が、彼の手紙の中に書かれてあった。その手紙もまた、わたしは死刑囚の手紙だと思いこんで読んでいた。
四十五
再び、前川正の逝《い》った五月が近づいて来た。去年のいまごろは、まだ正さんは生きていたのだ。こんなに早く死ぬと知ったなら、どんなに苦しくても毎日手紙を書くのだった。わたしはそんなことをくり返しくり返し思いながら、毎日を過ごしていた。そして四月二十五日のわたしの誕生日が来た。毎年祝ってくれた前川正の便りは、今年はもう来なかった。彼が死の床で書いた誕生祝いの手紙をもらった去年の今日を思い出して、わたしはほとんど一日泣いて過ごした。もう今後、いく度誕生日がわたしにめぐって来たとしても、決して再び彼からの手紙は来ることはない。そう思うとわたしは生きて行くことが、ふっと虚《むな》しくさえなった。
癒《い》えぬまま果つるか癒えて孤独なる
老《お》いに耐へるか吾の未来は
わたしは既に三十三歳であった。病気のわたしの未来はおおよそは見当がつく。このまま悪化して死んで行くか、たとえなおったところで、ただ一人老いて行くだけに過ぎないのだ。
前川正の喪に服して、ほとんど人に会わないということが、わたしをいっそう孤独にさせていたのだろうか。このまま死んでしまっても、惜しくはない人生のように思われてならなかった。療友たちの様々な悲惨な生活を知っていながら、ともすればわたしは自分一人の悲しみの中にのめって行くような思いであった。彼の一周忌に、わたしも死んでいけたなら、何としあわせなことだろう。いつしかそんなことさえ思っている自分に気づいて、わたしはがく然とした。
わたしは、前川正の生きたかったように生きるべきではなかったか。彼の命を受けついで、逞《たくま》しく生きるはずではなかったか。神の与えてくださった療友と共に、元気に生きて行くはずではなかったか。わたしは自分を叱《しつ》咤《た》した。自分一人だけの悲しみの中に沈潜してしまっては、何も生まれては来ない。否、わたしの命は涸《か》れてしまう。五月二日の喪が明けたなら、訪ねてくる誰にでも会おうとわたしは心に決めた。この一年のわたしは、彼の死んだ午前一時十四分が来る前に眠ったことは一度もなかった。これではいけない。やっとわたしはそう気づいたのである。
君が逝きし午前一時を廻らねば
眠られぬ慣《なら》ひに一年過ぎつ
人生とはまことにふしぎなものである。たしかに、自分が予定していたようには、人生は展開しない。突如として思いがけないことが起こるものなのだ。
前川正の一年の喪が明けたら、誰にでも会おうと思っていたわたしに、まず五月二日、待ちかねたように彼の友人鶴間良一氏が訪ねて来た。彼はアララギの会員であった。氏を皮切りに、大げさに言えば潮の押し寄せるように、見知らぬ人たちが、次々と訪ねて来た。北大医学生の村山靖紀氏、療養中の詩人小松雅美氏などもその一人であった。村山氏は後に医師となり、熱心なクリスチャンとなった。「氷点」に村井靖夫という青年医師が出てくるが、名前が彼に似ているので、彼がモデルではないかと疑われる向きもある。これは友人の誼《よし》みで名前の一部を借りはしたが、決して彼がモデルではない。
さて、問題はこの詩人小松雅美氏であった。彼ははなはだ美貌で、感受性の豊かな人である。非常に親切で、ときおり、その目は幼子のようにあどけなく清らかに見えた。この人について少し書かなければならないことがあるが、当分は書かないことにしておく。
それはさておき、前川正の忌《き》明《あ》けを待っていたかのように、次々に人が現れたことをわたしはいまもふしぎに思っている。わたしは無名の一療養者に過ぎない。しかし彼らは、わたしの歌を読み、わたしの名前を知っていた。そして訪ねて来て、この身動きもできないわたしの大切な友人となってくれた。
それ以後、わたしの病室は訪問客が絶えなくなり、ある時は一時に三人も四人もの友人がかち合った。多い日は七、八人も客があり、母は毎日、訪問客の応接に忙しくなった。稀に一人も訪ねて来ない日があったが、そんな日は、母も、
「きょうはどうしたのかしら」
と、拍子ぬけしたように言うほどだった。
友人たちは、訪ねて来ると二時間も三時間も話をしていく。その人が帰って、十分ほどするとまた他の友人が来る。そんなふうにして一日中客の絶えない日もあった。
その日は忘れもしない六月十八日、晴れた土曜日の午後であった。母が一枚の葉書を手にして入って来た。
「三浦さんという方がお見えになっていますよ」
瞬間わたしはハッとした。
(死刑囚の三浦さんが? どうして?)
わたしは葉書にさっと目を通した。葉書は、菅原豊氏から三浦光世に宛てたものである。菅原氏はわたしの住所を記し、暇があったら一度見舞ってあげてくださいと書いてあった。どうやら、彼は死刑囚ではないらしい。それでは、彼は刑務所に勤務している人なのかとわたしは思った。それでなければ、あんなにも囚人たちの消息をたくさん知っているわけはない。わたしは、死刑囚だとばかり思いこんでいた自分がおかしかった。実は彼は死刑囚の人たちと文通をし、慰め力づけていたのであった。
これは後で知ったことだが、実は菅原氏もひとつの思いちがいをしていたのである。
「同じ街に住みながら、どこに住んでいるかもわからぬ堀田綾子様」
三浦が「いちじく」に書いた手紙に、菅原氏は早速わたしの住所を彼に伝えた。氏は三浦光世なる人間を、てっきり女性だと早合点していたのである。女性同士だからと、氏は気軽に見舞いを頼んだらしい。ところが、女性ならぬ男性の三浦光世は、その葉書を見ていささか困惑したという。そして、しばらく考えた後、いく日かたってわたしを見舞うことに決心したそうである。無論これらは後日知ったことだが、光世という、女性と紛らわしい名前をつけてくれた彼の親に、わたしは心から感謝している。彼がもし光夫だったら、菅原氏はそんな葉書を書かずに終わったかもしれない。そしてわたしの運命はいまと全くちがっていたことであろう。
母は、彼をわたしの病室に案内した。廊下を渡る静かな足音がして、白に近いグレーの背広姿の青年が、わたしの部屋に入って来た。一目見てわたしはドキリとした。何と亡き前川正によく似た人であろう。
初対面の挨拶をかわしているうちに、その静かな話しぶりまでが、実によく彼に似ているとわたしは思った。わたしはその表情のひとつひとつに驚きを持ちながら、
(似ている、似ている)
と、彼を見つめていた。人に会うようになってから次第に体力を恢復し、その時はベッドに起き上がることもできるようになっていた。そのことを言うと、彼はわがことのように喜んでくれた。
彼もまた十四年前に腎臓結核の手術をしたこと、残る一方も悪くなったが、マイシンのおかげで全治したことを話してくれた。
「膀胱が痛んで来ますとね、横になって眠ることができず、すわったまま、ふとんに寄りかかって夜を明かしたものでした。その私が、いまでは役所勤めができるようになったのですよ。元気を出してください」
清潔な表情だった。そして落ちついた静かな人だった。そのどれもが、あまりにも前川正に似ていると、わたしは何か夢をみているような気持ちだった。
「あの、お勤めはどちらですか」
刑務所だろうと思いながら尋ねると、案に相違して、彼は旭川営林署に勤めていると言った。
(営林署!)
わたしの心は躍った。営林署はわたしの家から僅か三町ほどの所にある。この人は、それではいつもわたしの家の前を通って、営林署に通っているのだろうか。
「まだお一人ですか」
わたしは不《ぶ》躾《しつけ》に尋ねた。独身だった。一見二十七、八に見える。
(わたしより、五つ六つ年下らしい)
もうこの人には、恋人もいるだろうと、わたしは自分に言い聞かせた。
「あなたの好きな聖書の個所をお読みになってください」
わたしの願いに、彼はためらわずに、ヨハネによる福音書第十四章の、キリストの言葉を読んでくれた。
「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである」
この聖句で、彼が天国に大きな望みを抱いているのをわたしは知った。つづいて讃美歌もうたって欲しいと頼むと、彼はただちにうたってくれた。
主よみもとに 近づかん
のぼる道は 十字架に
ありともなど 悲しむべき
主よみもとに 近づかん
彼の声は、讃美歌をうたうための声のように美しかった。
その夜わたしは、すぐに彼に礼状を書いた。そして、また訪ねてくれるようにと書き添えた。しかし彼からは何の返事もなく、訪ねても来なかった。菅原氏の依頼に、一応義理で仕方なく見舞ってくれたのかと、わたしは淋しかった。だがそのうちに、わたしはふと妙なことを思った。もしかしたらあの人は、人間ではなかったのかもしれない。わたしがあまりにも前川正を慕っているので、神がひそかに憐れみ、前川正によく似た人を見舞いによこしてくれたのかもしれない。
そう思ってもふしぎではないほど、彼は、あまりにも前川正によく似ており、且つ非常に清らかな印象をわたしに与えたのである。
四十六
随分長いこと、三浦光世からは便りもなく、訪ねても来なかったと記憶しているが、彼の日記を見ると、七月三日の夕べ、彼は二度目の訪問をしてくれている。わたしの記憶では、それは八月の初めのような気がしていた。そう思ったほどに、わたしには彼の訪問が待ち遠しかったのである。
ある日父は、わたしの部屋に小走りに入って来て、
「綾子、前川さんの弟さんがお見えになったよ」
と言った。通されたのは、前川正の弟ではなく三浦光世だった。これに似た話はいくつかある。三浦光世が後にアララギの旭川歌会に初めて出席した時、小林利弘さんという人が、
「前川さん、しばらくでした」
と、挨拶をし、人々を驚かせた。一瞬みんなは、前川正の死を知らぬはずはないのにと思ったらしい。小林さんは多分、三浦光世を前川正の弟さんとまちがったのであろう。
またこんなこともあった。わたしの教え子の中西亮一君がある日訪ねて来た。そして、病床に飾ってある前川正の写真を見て、驚いたように言った。
「堀田先生は、三浦さんをごぞんじなんですか」
亮一君と、三浦光世は同じ教会であった。全くの別人だとわたしに言われても、亮一君は納得のいかない顔をして、
「そっくりだ、三浦さんとそっくりだ」
と、幾度か言った。
それほどに前川正によく似ている三浦光世は、趣味や思想まで実に彼によく似ていた。短歌をしているという三浦光世に、わたしはアララギ誌を貸し、入会をすすめた。彼はわたしのすすめを受け入れ、旭川の歌会にも出てみたいと言った。
その日は二、三十分で帰って行ったが、何か心の底をゆさぶられるような思いにわたしは浸っていた。彼が前川正に似ているということに、わたしは自分自身を警戒しなければならないと思いはじめていた。
八月二十四日、三浦光世は三度訪ねて来た。開け放った縁側に、夏の陽が眩《まぶ》しく照り返していた。
帰る時、彼はわたしのために祈ってくれた。
「神様、わたしの命を堀田さんにあげてもよろしいですから、どうかなおしてあげてください」
わたしはこの祈りに、激しく感動した。この時まで、わたしのためにこのような祈りをしてくれた人は一人もいなかった。そしてまた、わたし自身も、人のために命をあげてもよいなどという祈りなど、未《いま》だかつてしたことがなかった。
思うことと、祈ることとは別である。
(かわいそうに、あの人の苦しみを代わってあげたい)
人に同情して、そう思うことはわたしにもできた。しかし、神の前に、
「神よ、あの人の苦しみをわたしが負いますから、あの苦しみから解き放ってあげてください」
とは祈れない。誰しも人間は自分がかわいい。神を信ずる者には、祈りは大きな仕事である。祈って、もしその祈り通りになったら……一大事な祈りなどそうなかなかできるものではない。信者にとって、「思うこと」と「祈ること」とは、似ているようだが全くちがう。自分の命をあげてもよいと祈り得るほどの愛と真実など、容易に持つことはできないものである。しかし、そのできがたい祈りを三浦は真実こめて祈ってくれたのである。しかも、たった三度しか会わないわたしのために、このような祈りを捧げてくれたのだ。わたしは感動し、感動のあまり思わず彼に手を伸べた。そのわたしの手を、彼はしっかりと握ってくれた。思ったより肉の厚い温かい手であった。彼にとって、これが異性との初めての握手であったことを、後になってわたしは聞かされた。
この時以来、彼は月に二、三度訪ねてくれるようになった。そして二人は手紙も交わし合うようになった。
だが秋も終わりになる頃、わたしはまた熱を出し、盗《ね》汗《あせ》に悩まされた。声を出すと血痰も多くなり、再び面会謝絶の生活に入った。
父《ちち》母《はは》に秘めて血を吐くこの夜《よる》の
部屋の空気は蒼《あを》く見ゆるも
面会謝絶をつづけているわたしに、ある日母が果物と彼の手紙を病室に持って来た。
「三浦さんがよろしくって」
「もうお帰りになったの」
「よろしくと言って、玄関でお帰りになりましたよ」
わたしは淋しかった。玄関まで来ているのに、会えなかったということが、ひどくわたしを淋しがらせた。手紙には、
「祈っています。くれぐれもお大事になさってください」
と、美しいペン字で書かれてあり、五千円同封されてあった。五千円はわたしにとって大金である。わたしは、彼の手紙をいく度も読み返した。いく度読み返しても、そこには祈っているということと、大事にするようにということ以外、何も書いていない。わたしはその手紙を枕元において彼を思った。
わたしには、いまたくさんの男の友だちがいる。それは、前川正と知り合う前の頃のように、たくさんいた。ただちがうことは、わたしがクリスチャンであり、訪ねてくる人たちもまた、心やさしいまじめな人ばかりだということであった。その中には、わたしを愛しはじめている人もいた。恋人がいながら、わたしに心ひかれて苦しんでいる青年もいた。そしてその人たちは、ある人は毎日のように、ある人は三日おきに、ある人は週に一度訪ねて来た。わたしの部屋は賑《にぎ》やかだった。後にわたしは、小説「氷点」の中で、踊りの師匠辰《たつ》子《こ》の茶の間を書いた。この茶の間のふんいきは、あの時のわたしの病室のふんいきでもあった。
ただその中で、三浦光世だけはちがっていた。彼は、玄関で母に必ず、
「体の工合が悪ければ、ここで失礼します」
そう言ってわたしの病状を尋ね、部屋に通っても、短い時間で帰って行った。もっと長くいて欲しいと思うのに、彼は聖書を読み、讃美歌をうたい、短歌の話を少しして、祈って帰って行くのだった。その見舞い方は、いかにもわたしの病状を気づかう思いやりに満ちていた。
面会謝絶になったいま、彼の手紙を読みながら、そのことを改めてわたしは思った。彼はなんと真実に満ちた人だろう。それはひどく遠い人に思われた。いや、遠くに置いておかなければならないと、わたしは自分を戒めていたにちがいない。
わたしは、三浦光世が前川正に似ていることにこだわっていた。自分が三浦光世にひかれていることを、偽ることはできなかった。しかしそれが、亡き彼によく似ているということでひかれているのなら、それは三浦光世という人間を全く無視したことになりはしないか。彼ら二人は、別人である。いかに顔が似ており、同じ信仰を持ち、趣味が共通していたとしても、別の人格を持った人間である。わたしは、前川正の代用品として三浦光世を見ているつもりはなかった。だがそうは言っても、亡き人に似ているということは、やはりわたしの心を慰めてくれた。そしてそのことがわたしを慎重にさせた。
やがて、面会謝絶のままに、クリスマスを迎えた。わたしは、去年のクリスマスのことを思った。去年わたしは、たった一人で、この部屋にこうして臥たまま、クリスマスを迎えたのだった。文通の友の写真を幾枚も書見器に飾り、ベッドの傍らに椅子を置いてもらった。その椅子はイエス様がおかけになる椅子である。何度か前川正と共に過ごしたクリスマスが思い出された。健康を奪われ、西村先生も前川正も天に召され、ただ淋しいだけのクリスマスのはずだった。だがそれなのに、聖書を読み、心の中で讃美歌をうたい、たった一人で迎えた去年のクリスマスは、なんと深い慰めに満ちていたことであろう。健康も、恋人も、師も失ったわたしに、思いがけなく深い満ちたりた喜びがあった。
誰もすわっていないその椅子に、まさしくイエス・キリストがすわっておられた。いま考えても、あの年ほど豊かに満ちたりたクリスマスはなかったような気がする。それはまことに、神が共にいますすばらしいクリスマスだった。
わたしは、コリント後書十二章の聖書の言葉を思ったものだった。
「わが恩恵《めぐみ》、汝《なんじ》に足れり。わが能力《ちから》は弱きうちに全《まつと》うせらるればなり」
その去年のクリスマスを思いながら、わたしは今年もまた、たった一人のクリスマスを迎えようとしていた。去年のように、椅子をベッドのそばに置き、友人たちの写真を書見器に飾った。それは全く去年と同じクリスマスのつもりだった。
だが、どうしたことかわたしの心は慰まなかった。わたしは、心の底でしきりに三浦光世を待っていた。去年のように、誰をも待たない、ただ神のみを待つクリスマスではなかった。
夕刻になって、三浦光世が訪ねてくれた。母が強いて病室に通したのでもあったろうか。思いがけなく彼の姿を見て、わたしは涙の出るほどうれしかった。彼は営林署の会計係で、クリスマスも教会に行けないほど忙しいと言い、
「使いかけの万年筆で失礼ですが」
と、わたしに万年筆をプレゼントしてくれた。買い物に街に出る暇さえなかったのだろう。彼はひとこと祈って、すぐにまた職場に戻って行った。
わたしは彼の使いかけた万年筆であることがうれしかった。真新しい万年筆であるよりも、何倍もうれしかった。彼がこの万年筆をにぎり、日記や手紙を書いたと思うだけでも、その心の秘密を知っている万年筆がひどく親しいものに思われた。
その夜の一人のクリスマスはもはや一人のクリスマスとは言い難かった。わたしは幾度も万年筆のキャップを外し、眺め、すかし、そして日記に字を書いた。
これは完全に、恋する者の想いであった。それに気づくと、わたしはいささか憂鬱になった。わたしは決して、前川正を忘れてはいない。いや、忘れるどころか、いつも死んだ彼と対話をしていた。それなのに、わたしはもう他の男性に心ひかれているではないか。わたしは自分がひどく軽薄な人間に思われた。いやな女だと思った。
四十七
正月を迎え、やがて雪《ゆき》解《どけ》風《かぜ》の吹く三月が来た。わたしの病状は、次第によくなり、熱も血痰もおさまった。再びわたしの部屋には友人たちが訪れるようになった。わたしはつくづくと、自分に恋人がいないということが恐ろしかった。誰からも自由であるということ、それはわたしをかえっておびやかした。誰からも、前川正の恋人であると見られていた時のほうがわたしは安定していた。
しかし、わたしはいま、誰を愛してもいい立場にあった。たとえ病人ではあっても、わたしを愛する何人かの人が、わたしの回りにはいた。その誰を愛そうが、わたしは決して咎《とが》められはしない。
時々わたしは、自由ということについて考えた。ほんとうに自分は自由なのだろうか。考えてみると、それはどうやら怪しかった。なぜなら、わたしの願いは前川正を想って一生を終わることであった。だがわたしは、自分があまりにも人間的な弱さに満ちていることを感じた。亡き彼を愛したことは事実であり、愛されたことも事実であった。いまもなお、愛しつづけていると自分では思っていた。しかし、わたしの心は大きく三浦光世に傾いて行った。心というものは、自分自身でさえ自由にならないものである。
その三月の夕べ、三浦光世が訪ねて来た。挨拶をかわすや否や彼は言った。
「堀田さん、今度ぼくは転任になりました」
彼はうれしそうだった。わたしはそのひとことに、自分でもわかるほど、さっと顔から血の去っていくのを感じた。このわたしを見て、彼はあわてて言いそえた。
「転任と言っても、神楽《かぐら》町《ちよう》ですよ」
わたしはホッとした。神楽なら、彼の自宅から通うことのできる距離である。
彼が帰った後、わたしは考えた。彼の転任に、わたしはなぜ目の前がまっくらになるような思いがしたのだろうか。やはりわたしはほんとうに彼を愛しているのだろうか。
(でも、わたしは正さんを、こんなにも愛しているのに)
そう思った時、わたしは前川正の遺言を思い出した。
「一度申したこと、繰り返すことは控えてましたが、決して私は綾ちゃんの最後の人であることを願わなかったこと、このことが今改めて申し述べたいことです。生きるということは苦しく、又、謎に満ちています。妙な約束に縛られて不自然な綾ちゃんになっては一番悲しいことです。……」
前川正は、人間というものをよく理解した上で、この遺言をわたしに書いてくれたのだ。彼に死なれた当時は、わたしはこの遺言がよくはわからなかった。特に、
「生きるということは苦しく、又、謎に満ちています」
という言葉の持つ内容の重たさを、わたしはまだ知らなかった。わたしは単純だった。自分にはそんな配慮は不要だとさえ、心の底で思っていた。つまり、わたしは一生前川正を想って生きて行けるという自負心があった。
だが、人間の心はなんと移ろいやすいものであろう。弱いものであろう。この遺言を読んだ時、彼の深い配慮に驚きながらも、わたしはまだまだ自分という人間を知らなかった。
いまこうして、三浦光世を知り、彼に心が傾いて行く自分をどうしようもないことに気づいた時、前川正の遺言は、わたしにとって実に大きな支えとなった。
(正さんは、知っていてくれたのだ。そしてこの心の変わりやすいわたしのすべてを許してくれているのだ)
全く彼の言うように、生きるということは苦しく、また謎に満ちている。果たして誰が、彼の死後一年しかたたぬうちに、彼によく似たクリスチャンの青年が、わたしの目の前に現れることを予期し得たであろう。わたしは、自分が三浦光世に心ひかれている現実に、素直であっていいのだと思うことができた。これは、前川正の大きな理解と愛による遺言のおかげであった。
三浦光世は、その時既に前川正とわたしのことを知っていた。なぜなら、わたしの枕元には、前川正の肋骨の入った桐の小箱が、白布に包まれて置かれてあり、その横には彼の写真が飾ってあった。そしてわたしの口から、二人のことは事細かに聞かされていたのである。わたしたちの間に秘密はなかった。西中一郎のことも、いま交際している友人のことも、三浦光世はすべて知っていた。ただ知らないのは、わたしが彼自身に心ひかれているということであった。
しかし、いかに前川正が、わたしの移ろいやすい心を許してくれていようと、とにかくわたしは病人である。ようやく便器を使わなくなりはしたが、終日ギプスベッドの中に臥ている体である。しかも年齢は三十四歳、彼より二つ年上である。無論美しくもない。こんなわたしに、異性を愛する資格も、愛される資格もないと、わたしは思った。だからわたしは、彼に自分の気持ちを打ち明けることは容易にできなかった。
微熱、盗汗、肩こりの苦痛は変わらなかった。わたしはそんな中にあって、相変わらず全国各地にペンフレンドを持ち、またわたしの病室にも、多くの友人を迎え入れていた。
当時、わたしの家族は、父母と末弟、そして高校生の甥がいた。父は七十に手の届く齢《よわい》であり、母も六十をとうに過ぎていた。ただでさえ金のかかる病人のわたしが、毎日手紙を書くということは、それだけ父母に経済的な負担をかけることでもあった。また、訪問客が多ければ、それだけ茶菓などの接待に費用がかかる。しかし母は喜んで見舞客をもてなしてくれた。家事と看病に追われながら、昼近く来た人には昼食を出し、夕方に訪ねて来た人には夕食を出してくれた。そういうことをいとわないだけではなく、わたしの療友をわたしに代わって見舞いに行ってくれる母でもあった。わたしがすまながると、
「綾ちゃんだって、お見舞いの人が来たらうれしいでしょう。かあさんが元気なうちは、どこへでも見舞いに行ってあげるよ」
母はよくそう言ってくれた。そしてわたしの療友の母親と、看病する者同士として仲のよい友人になったりもした。わが母ながら偉いと思ったものである。看病に疲れているはずなのに、顔に出したり、口に出したりする人ではなかった。だから訪問客たちは、母の迎える態度がにこやかなので訪ねやすいと言っていた。特に三浦光世などは、いつも変わらぬ笑顔で迎える母に驚嘆していたという。もし母が、看病に疲れて、不機嫌な顔を一度でも見せたなら、気の弱い三浦など、つづけて訪ねてくれることはできなかったであろう。するとわたしの運命も、かなり変わったものになったにちがいない。
それはさておき、わたしは父母に経済的に苦労をかけていること、いくら病人でも親に自分の汚れ物の洗濯をしてもらうことなどが、気の毒でならなかった。何とかして、自分で金を得ることができないものか。
そんなことを考えていた時、わたしのもとに、次兄の嫂《あによめ》からすばらしいのれんが送られて来た。ひと目見てわたしは、これは商品になると思った。長いこと臥ていて、世の中のことは知らない。しかしアップリケしたそののれんにわたしは非常な新鮮さを感じた。
早速、量産できるか、卸してもらえるかを問い合わせてみると、できるという。わたしはすぐ弟の一人に相談した。弟は直ちに相談に乗ってくれ、勤めが休みの日には、セールスに行ってみようと請け合ってくれた。
作戦は図に当たり、ほとんど北海道中の有名デパートから注文を受けるようになった。
そして、もっと北海道的な商品を作ってくれとの注文が来た。
そこでわたしは、いつも見舞ってくれる友人の一人に、わたしの構想を図案化してもらい、他に何種類かのデザインを考え、自分で作ることに決めた。と言っても、資金はない。臥ているわたしが、直接作ることはできない。必要なのは資金と人である。大胆にもわたしは、弟の知人から三十五万円借金し、製作のほうは友人の一人であるT氏の奥さんに頼むことにした。幸いこの奥さんは、非常に仕事のきれいな人であった。そのほかに、わたしは四、五人の療友や主婦たちに製作を手伝ってもらった。
わたしは臥たままで、頭に浮かぶ布地を次々に弟に注文する。そして型紙を作って、製作する人たちに、布地と共に渡す。わたしの仕事は思ったより順調に運び、母に洗濯機や炊飯器を買ってやることができ、月々僅かながら小遣いをあげることができるようになった。
だがわたしは、そんな中にあって、必死に三浦光世のことを忘れようと努力していたのである。
四十八
ここでわたしは、当時の日記を開いてみたい。幼稚な日記ではあるが、わたしにとっては、大切な記念碑なのだ。
三月二日 熱七度。盗《ね》汗《あせ》。
節子姉、美和子さん、菅原さんより便り。菅原・田口さんへ葉書。
百合さんの赤ちゃんの葬式。(百合はわたしの実姉)生まれてたった十四時間。葬られるために生まれて来た赤ちゃん。いまはもう土の下に埋められて。弟は羨ましい赤ん坊だと言った。安彦さんもそう言うにちがいない。生の喜びを感じない人々が愛《かな》しい。
「明日がきょうより幸せでしょうか」
と言って自殺した女。
「昨日は、きょうよりしあわせであったか」
という問いも出てくる。わたしも人間としての喜びの時は、正さんとの五年間を頂点として崩れたのを感ずる。あとは何が待っているか。暗い思いだけ。しかしわたしは、あの輝かしい愛の時を与えられて感謝したように、今後のいかなる悲しみ苦しみにも喜ぶのでなければならない。
いまわたしには、三浦さんの存在が一つの救いであり、光である。しかし恋愛はしないだろう。恋愛! そこに待っているものは、不幸しかないように思う。(中略)
わたしは官能的なくせに、精神的な深い愛なしには生きていけない。もし深い愛なら肉体なしでもいい。しかし肉体だけのような愛はごめんだ。これはわたしの官能が、いまだ醒《さ》めずに眠りつづけているからだろうか。とにかくわたしは、知と情と意の、深く豊かなるものを求める。
ところで、いったいわたしとはどんな人間なのだろう。とらえどころのない夢のようなことを考えている、甘い、そして不良がかった、そのくせ清さへのあこがれを捨てられない、でたらめな女だ。人生への善意と積極性を持つ大正生まれのロマンチスト。いつも泥沼にバタバタしてるような汚れた女。この世に「いてもいなくてもいい」ではなく、いないほうがうるさくないと言いたいような女だ。
「あなたの行く所、必ず風が立つ」
と誰かが言った。そしてそれが、ちょっとご自慢でもあった愚かな女。全くの話、お前さんは、三浦さんなどに恋をする柄ではない。
神様、わたくしのすべてをどうぞお許しください。神様、わたくしはきょうも、みめぐみに溢れつつも、心狭く、人を愛し得ない女でした。どうぞすべての人を、母のようなやさしく広い心で愛する者とならせてください。きょう葬りました幼子の霊を、何《なに》卒《とぞ》愛してくださいませ。わたしに愛を、本当の愛を与えてくださいませ。
インマヌエル・アーメン
三月三日 風邪。熱七度二分。汗。
三浦・平原・斎藤タネ子さんより便り。三浦さんご出張か。出張先からの葉書には、何かしら情緒がある。わたしも旅先の人を思う心になる。「旅」の持つロマンチシズムか。心がやさしくなる思いなり。稚《わつか》内《ない》までとは大変。無事のお帰りを待つ。中《なか》頓《とん》別《べつ》は九年ぶりとか。幼い頃のあの方のお話を聞きたいような気がする。
神様、きょうのわたくしも、死に値する一日でした。みめぐみにより、かく祈り得ることを感謝します。冷酷、嫉妬、忘恩の一日です。どうぞイエス様の故に、わたくしを御憐れみください。
インマヌエル・アーメン
三月七日
菅原・西村・宮越さんより便り。北海道アララギ来る。三浦さんもわたしも出《しゆつ》詠《えい》していない。なぜかわたしには、いまは歌ができない。どれも下手だ。
これ以上三浦さんに近づいてはならない。わたしは自分が、相手をしあわせにできない人間であることを銘記すべきだ。いわば廃人とも言えるのだから、廃人らしくこの世のすべてに、もっと諦《あきら》めを持つこと。わたしの体は、癒《いや》されるまでまだ程遠いのだ。綾子よ、お前は人を愛する資格がないのだということを、決して忘れてはならない。お前には、人に愛されるものは何一つない。三浦さんのあの暖かい友情に甘えてはいけない。
三浦さんは、決して共犯者にはならない人だ。いつも正しい。あの、一筋も乱さぬ髪のように(うつむいた瞬間、パラリと垂れることもない髪なのだ)、あの人はいつも、端然としているのだ。崩れることのない人だ。
神様、御手をもって、一歩一歩歩ませてください。
四月二十八日
便りなし。
竹内先生・田口母上・安彦・西村姉へ便り。アララギに投稿。左足神経痛。体の一部が、ズキズキと痛むのは、たまにはいいことだ。
三浦さんの夢。三浦さんが足を痛め(わたし自身が神経痛のために見た夢か)体を悪くして、誰か女の人に負われて、汽車で郷里へ帰るという。女の人は、中年のやさしい顔をした人だった。その人をわたしは、お母さんだろうと思って眺めていた。汽車がゆっくりと去って行った。プラットホームに突っ立ったまま、わたしは心がギュッとなるほどの愛情で、去って行く三浦さんを見つめた。
きょう見えるかと待っていたが見えず、明日は? しかしもうわたしには恋はできない。恋をしてはならない。
五月一日
宮越さんより便り。
正さんが意識を失い、天に召されて二年経つ。正さん宅へ、白玉粉三本と手紙を届ける。あの人のいない二年間、わたしは正さんを一日だって忘れはしなかった。しかし正さんの恋人としての二年ではなかった。わたしの弱い魂は、他の人の前でゆらいだ。でも正さん。わたしは決して正さんを忘れてはいなかった。
夜、正さんの歌稿を読む。
わたしたちは愛しあった。散歩もした。丘にも遊んだ。教会にも行った。喫茶店でも会った。同じ病院にも入院した。札幌まで一緒に汽車にも乗った。映画も見た。結核患者の同生会の仕事もした。歌会にも行った。二人で歌集の仕事もした。共に学んだ。二人で人を見舞いに行った。いつも二人は一緒だった。しあわせに満ち満ちていた二人。あの人故にわたしは生き、わたし故にあの人は生きた。一緒に死ねばしあわせだった。しかしいい。もうわたしは、正さん以外の人は考えない。誰も正さんのように豊かには愛してくれないもの。
神様ありがとう。正さんありがとう。
五月二日 熱七度。一日頭痛、昏《こん》睡《すい》くり返す。
正さんの命日。正さんの日記読む。
五月十一日
わたしの魂は飢えている。知的なもの、高度の情的なものに飢えている。
自殺したKさんの日記を読む。Kさんて、素敵な、独創的な魂を持った心憎いような人だった。生まれながらの詩人。
少し遺言ノートを書く。死ぬ準備は、いつでもOKにしておきたい。人間は、死をいつも静かに待っていて、その不意討ちに驚いてはならない。わたしはダメだ。
自分が考えているよりも、もっと命が尊いものだということ。わたしたちは気がついていないのではないか。このわたしの命は、イエス様の命と引き替えに与えられたものなのだ。いまやっと、それがわかった。頭ではなく、胸でスカッとわかった。わたしの命が尊いということの、本当の意味がわかった。すみません。イエス様。
わたしの日記は、わたし自身の心を写してゆらぎ、乱れている。のれんの仕事は、わたしの心の生活とは何の関《かか》わりもないように、次第に販路を伸ばしていく。とは言っても、その売り上げのほとんどは人件費にかかり、借金の返済にあてられた。それでも、自分の手もとにいくらかの金は入ってくるようになった。一生自分の病気がなおらないとしても、働く意志さえ持てば、あるいは小遣いぐらいには困らないのではないか、わたしはそんなことを思ったりした。そんなことを思うのは、やはり将来の生活への不安よりも、結婚しないで生きて行こうと願うわたしの心の底の姿勢であったかもしれない。
間藤安彦は、前川正を失ったわたしに、以前よりも心づかいが細やかになった。彼は札幌の北大にいたが、時折旭川に帰って来た。そして必ずわたしを見舞ってくれた。
「何だか、綾さんは変わったような気がするよ」
ある時、ふっと彼が呟いた。わたしはドキリとした。彼は、わたしの周囲にたくさん友人がいることを知ってはいた。しかし前川正の死後は、自分が最も親しい友人だと彼は思っていたようである。
「せめてあなたが、自分のことだけでもできるようになったら、ぼくは本当に一緒に住みたいと思っているんだけど」
それは、以前にも彼が言っていたことだった。この世に男と女が友人として、一つ屋根の下に全《まつと》うできるケースもあっていいのではないかと、彼は彼なりに夢をみていた。しかしわたしの気持ちは、死んだ前川正と、新たに目の前に現れた三浦光世に絶えず心がゆらいでいた。
「やっぱり変わったなあ、どこが変わったんだろう」
間藤安彦は、美しい目で探るようにわたしを見た。
「あなたも変わったわ。おとなになったもの」
水の精のような、妖《あや》しい美しさから、ようやく脱皮して、彼は一人前の青年の感じに変わっていた。彼は二十七歳になっていた。
「正さんて、いい人だったなあ。あの人はぼくよりずっと生命力のある人だった。何か不自然に、奪われるように死んだ感じだね」
間藤安彦のあごに、うっすらとひげがあった。言葉づかいもいつしかおとなっぽく変わっていた。しかし彼の鋭敏な感受性は変わらなかった。彼はわたしの気持ちが、前川正にだけ注がれていないのを、いち早く感じ取ったようである。わたしは彼の気持ちをはぐらかすように言った。
「安彦さん、人間を男と女に分けるって、どう思う? 人間は女でも男でもないっていうこと、一つの命題として考えられないかしら。男女に二分してしまうから、同性愛なんて、いやらしく浮かび上がるけど、ねえ、人間をただそのまま突き放して、いや、もっと突っこんで見つめてみたら、おもしろいと思わない?」
間藤安彦は、黙ってわたしを見、たばこに火をつけた。何か逃げていると彼は思ったようだった。何でも話し合えるはずの彼に、わたしはなぜか三浦光世のことは話ができなかった。わたしは自分が三十四歳にもなっており、しかもギプスベッドに臥ていながら、またもや人を愛しているということに、何かしらうしろめたいものを感じていたのかもしれない。
「何だか淋しくなっちゃった」
彼は帰りがけにそう言い、手をさしのべてわたしの手を握り、帰って行った。わたしはその時、彼の手の甲にある二センチ程の細い傷跡を見た。幼い頃からあった傷跡なのだろう。いままでそのことに気づかなかったことが、ひどくふしぎに思われた。
わたしはなぜかその夜、しきりに三浦光世のことが思われてならなかった。思ったからとていいではないかと、居すわるような気持ちもあった。いつか見たフランス映画「泣きぬれた天使」のことを思い出した。その映画は、たしか盲人の恋が描かれてあった。盲人の彼は、目の見える男と、一人の女をめぐって恋を争うのである。彼は決して、自分は盲人だから、不具者だからと言って、卑屈にはならなかった。わたしはその映画を見た時、その盲人の態度に感動したものである。
ギプスベッドに臥ていようと、三浦光世より二つ年上であろうと、過去に愛した人がいようと、現在のわたしは、やっぱり彼を愛しているのだ。それでいいではないか。わたしはその夜久しぶりに何かゆったりとした思いで眠りについた。
四十九
神は、わたしから前川正を取り去った代わりに、三浦光世を見舞わせ、西村先生を天に召した代わりに、一人の信仰の導き手を与えてくださった。
当時わたしは、前にも述べたように、多くの療養者や囚人たちと文通をしていた。その中に、Sという死刑囚がいた。彼は神奈川県の元やくざで兄貴株だった。そして遂に厚木で二人の人間の命を奪ってしまった。そのSが死刑囚になってからキリストを信ずるようになった。俗に、悪に強い者は善にも強いという。彼は実に真実なキリスト者となり、同囚の人を幾人もキリスト教に導くようになった。
彼はわたしを、死んだ姉のようだと言い、時折十円切手を十枚か二十枚送ってくることがあった。それは、療養中のわたしが、切手代や葉書代に困るのではないかとの、思いやりからであった。
ある時、このSから葉書があった。
「今度五十嵐《※いがらし》健《けん》治《じ》先生が、北海道に行かれることになりました。札幌までということですが、私は旭川のあなたの所を見舞って欲しいと頼んでおきました。そのうちにお訪ねすることと思います」
わたしは五十嵐健治先生なる人が、いかなる人かわからなかった。多分牧師であろうと見当をつけた。
それから幾日もたたぬうちに、五十嵐健治氏から便りがあった。封筒も便箋も札幌のグランドホテルのもので、昨日千《ち》歳《とせ》に飛行機で来たと書いてあり、旭川に訪ねてもよいかとの文面であった。何しろいまから十四、五年も前のことである。飛行機はごく一部の人しか利用していない時代だった。
わたしはいささかガッカリした。わたしの知っている牧師さんたちは、誰もみんな決して金持ちではない。牧師という仕事は、以前にも書いたとおり、余りにも薄給である。それなのに、この五十嵐先生なる人は、何と金持ちの牧師なのだろう。西村先生はおっしゃっていた。
「二等(いまの一等車)に乗るくらいなら、そのお金をもっと有効に使いますよ。ただし病人や老人が二等に乗るのは、決してぜいたくではありませんがね」
北海道まで来ることのできる牧師なら、老人でもあるまいと思った。生意気にもわたしは「只今病状が思わしくないので、どなたにも面会できません」と断った。折り返し返事が来て、「ではお寄りしませんが、くれぐれもお大事に」と書いてあった。
それ以来、毎月五十嵐健治氏から「恩《おん》寵《ちよう》と真理」というキリスト誌を送って来た。わたしは一年もの間、一言も御礼の手紙を書かなかった。わたしはさすが気が咎めて、御礼の葉書を出した。それは甚だ簡単なものであった。すると封書で返事が来た。
「あんなものでも読みつづけてくださって、ありがとうございます」
逆にわたしに、丁重な御礼の言葉を述べてある。それは非常に謙遜な手紙であった。わたしはオヤと思った。これは只者ではないぞと、その人格の滲み出る文面をわたしは読み返した。わたしは非常に思い上がっていたのではないかと恐縮しながら、再び手紙を書いた。すると一枚のカレンダーが送り届けられた。世界のいろいろな国の風俗が載っているカレンダーだった。カレンダーにはクリーニング白洋舎と書いてある。
「わたしの会社のカレンダーをお送りします。ご病床のお慰めになれば幸いです」
恥ずかしい話だが、わたしは白洋舎がいかなる会社か知らなかった。クリーニングと言えば、旭川のクリーニング店を連想するだけである。後で知ったことだが、この会社は東洋一を誇るクリーニング会社で、株式も上場されている大きな会社だった。
わたしは、氏が八十歳の老人であり、自分のお金で飛行機に乗って来たことを、その時初めて知った。老人なら飛行機に乗ろうと、ホテルに泊まろうと、いいではないか。牧師だと思ったものだから、アメリカあたりから援助を受けている牧師かと、いささか気になったのだったが、わたしの心は解けた。無論、牧師たちがみな高給を受け、飛行機にでも、一等車にでも乗れるようになることをわたしは願っている。ただ、余りにも恵まれない牧師が多い中で、一人だけ飛行機に乗って来たのかといささか憤慨していたのだった。
とにかく五十嵐健治氏は、金には困らない人のように思われた。先に只者ではないと思ったにもかかわらず、幼稚な人間のわたしは、次のような手紙を書いた。
「あなたはお金持ちですか。お金持ちなんか、わたしは恐ろしくありません」
全く奇妙な手紙を書き送ったものだが、五十嵐健治氏はその手紙に、恐らく微笑されたのであろう。わたしを次第に可愛がってくださり、新しく自分に娘ができたようだとさえ言ってくださった。
氏は、西村先生に勝るとも劣らないすばらしいクリスチャンだった。二十九歳まで三越に勤めた後、独立を志した。その独立の第一の理由が、日曜日に教会に行って礼拝したいことにあったとか。独立する仕事を探すにあたって、五十嵐先生は次のような基準を定められた。
一、日曜日の礼拝の妨げにならないもの
二、永年世話になった三越の営業と抵触しないもの
三、三越をお得意として、いつまでも出入りできるもの
四、資本の多くかからないもの
五、虚言や、かけひきのいらないもの
六、人の利益になって、害にならないもの
このことを白洋舎五十年史で読んだわたしは、驚嘆した。世の常識から言えば、自分の経験を生かして独立するのが当然ではないか。呉服店に勤めていたならば、呉服物を扱い、食堂に勤めていたならば、食堂を開く。これはのれんわけという慣習にも現れていることである。
しかし先生はちがった。十年の経験を惜しげなく捨てた。少しでも三越の営業にさし障りのある仕事は、選ばれなかった。以上の基準であれこれ独立の職種を考えた結果、クリーニング業を始めることになったのである。
“洗濯屋、近所の垢《あか》でめしを食い”
という川柳があったほど、洗濯業は人の好まない仕事であったという。しかし先生は、
「自分のような学問も才能もない者が、人のやりたいと思う営業では、とても群を抜くことはできない。人の好む仕事よりも、好まない仕事をやることだと思いついた」
と、五十年史に記されている。
最初、先生は日本一の呉服店に勤めておられたので、洗濯屋になることは、何となく恥ずかしいような気がしたそうである。だが先生は、
「人の垢どころではない、人類の汚れた罪を一身に引き受けて、十字架の苦しみと恥辱を受け給うたキリストを思った時、自分の如き人間が、人様の垢を洗うことが、何で恥ずかしいことがあろう。洗濯業は神から与えられた聖業である。この仕事に生涯を打ちこもう」
と決意されたという。
先生は、僅か創業一年にして、日本におけるドライクリーニングの創始者となられた。
この先生が、昭和三十一年六月、わたしを見舞いに旭川まで来てくださることになった。わたしは待った。先生にお目にかかることによって、三浦光世に対して、いかにすべきかを教えられるような気がしてならなかったからである。
五十
白洋舎の五十嵐健治先生が、わたしを旭川の家に訪ねてくださったのは、小《こ》糠《ぬか》雨《あめ》の降るある六月の日であった。先生は秘書の金子さんと、札幌の支店長を同伴された。
ベッドに臥《ね》ているわたしのそばに立った先生は、心からの同情を示されて、憂わしげにわたしをごらんになった。とても八十歳代とは思えない、つやつやとした顔色である。
「六十代に見えます」
わたしは言った。先生は、緑と白の花模様の毛布を、わたしの上にかけてくださった。先生のお見舞いの品であった。わたしは直ちに祈っていただき、讃美歌をうたっていただいた。讃美歌は、わたしの好きな二七三番であった。
わが魂を 愛するイエスよ
波はさかまき 風吹きあれて
沈むばかりの この身を守り
………
秘書も、支店長さんもクリスチャンだった。みんな大きな声でわたしのためにうたってくださった。つづいて先生は、聖書を読んで話を聞かせてくださった。それは旧約聖書のヨナ書だった。
ヨナは預言者である。神に、ニネベの町に行けといわれたのに、ヨナは逃げて船に乗った。船は暴風雨と大波にあった。同船の人は、誰の罪のためにこの暴風雨にあったのか、くじを引いてみようということになった。くじを引いたところヨナにあたった。人々は、ヨナが神の命令を聞かずに逃げて来たことを知って、ヨナを海に投げ入れた。するとたちまち海はないだ。ヨナは大きな魚に飲まれて、三日三夜その腹の中にいたが魚はヨナを陸に吐き出した。ヨナはニネベに行った。そしてこの悪い町ニネベは、四十日後に亡びると預言した。ニネベの人々は神を恐れ、断食して心をあらためた。ヨナは神の命令通りに、滅びの預言をしたのだったが、神がニネベを許し、ニネベの町は助かった。ヨナは非常に怒った。預言通りにならなかったことが、恥ずかしかったからである。
「ヨナは町から出て、町の東の方に座し、そこに自分のために一つの小屋を造り、町のなりゆきを見きわめようと、日陰にすわっていた。時に主なる神は、ヨナを暑さの苦痛から救うために、とうごま(植物名)を備えて、それを育て、ヨナの頭の上に日陰を設けた。ヨナはこのとうごまを非常に喜んだ。ところが神は翌日の夜明けに虫を備えて、そのとうごまをかませられたので、それは枯れた。やがて太陽が出たとき、神が暑い東風を備え、また太陽がヨナの頭を照らしたので、ヨナは弱りはて、死ぬことを願って言った。……しかし神はヨナに言われた、『……あなたの怒るのはよくない。……あなたは労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びたこのとうごまをさえ、惜しんでいる。ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか』」
先生は、この最後の章をお読みになって、わたしに言われた。
「ありがたいことですね。私たちの神さまは、備えてくださる神さまなのです。いいことも悪いことも、神さまが私たちのために、ちゃんと準備してくださっているのです。私たちの目には、悪いように見えることでも、結局は、良かれと思って備えてくださっているのです。すべては神さまがお備えくださっているのですから、こんな感謝なことはございません」
先生は、旭川に宿をとられ、網走方面、稚内方面と講演に出向かれた。そしてその暇を縫って、わたしの所に三度訪ねてくださった。いよいよお別れの時、先生はわたしの手を握って、目をうるまされた。後にわたしが全快してから、先生はこの時のことをおっしゃった。
(かわいそうに、もう余命いくばくもないことだろう)
そう思って、思わず涙ぐまれたというのである。
先生の、ヨナのお話は、わたしの心にこたえた。すべては神が備えてくださっているのだ。この病気も、わたしにとって必要な病気なのにちがいない。
(三浦さんのことだって、きっと備えてくださっているのだ)
不必要なものを神は与えないはずである。わたしはもっと神を信頼して、神の与え給うままに受けていけばよいのだと、思うことができた。五十嵐先生にお会いしたら、きっと三浦光世のことも何らかのことを示されるに違いないと期待していたわたしは、ヨナの話で、自分なりに解決が与えられたような気がした。
どんなにわたしが彼を愛していたところで、神がわたしに彼を与えてくださらないのなら、それもまた仕方のないことだと思った。この頃からわたしは「必要なものは必ず神が与え給う。与えられないのは、不必要だという証拠である」と信ずるようになって行った。わたしは以前ほどあくせくしなくなった。
五十一
わたしの病状は、相変わらず微熱がつづき、盗《ね》汗《あせ》がとれなかった。扁《へん》桃《とう》腺《せん》が週に一度は腫《は》れた。しかし、少しずつ体力がついて来ているようにわたしは感じていた。
その日は、晴れた七月の初めで、わたしの靴や、着物が廊下に虫干しされていた。小さな姪《めい》が廊下をかけて来て、ふしぎそうに言った。
「ネンネのおばちゃん」
幼い姪たちは、わたしをそう呼んでいた。
「この靴、誰の靴?」
「おばちゃんのよ」
「うそ、おばちゃんに足なんかないでしょ」
そう言うのも無理はなかった。姪が生まれる以前からわたしは病気であり、彼女たちはわたしの立った姿を見たことがないのだ。
「おばちゃんにも、足はあるのよ」
「えっ? ホント? 足があるなら見せて。早く見せて」
「おばちゃんのかけぶとんをとって見てごらん」
姪は、まだ半信半疑でかけぶとんのすそをめくった。
「あら、ホントだ! 足があった」
姪は驚いて叫んだ。
「おばちゃん、足があるのに、どうして歩かないの」
「おばちゃんは病気だから」
「ふーん」
姪はいつものように、わたしの部屋で童話を作ったり、歌をうたったりして帰って行った。わたしはこの時、自分が全く不具廃疾の人間のように思われて淋しかった。そしてこっけいでもあった。こんな自分が、人を愛するなどと言っては、こっけいとしか言いようがないと思った。満足に自分の足で立つこともできないくせに、何と心だけは激しく人を恋うものだろう。
わたしは、その頃万一のために遺言を書き、自分の歌を整理しておいた。遺言の中心は、自分の死体を解剖して欲しいということであった。この世に生まれて、何の役にも立たない病人だった。解剖用死体の不足なことは、医学生の前川正からしばしば聞いていた。わたしのように、あちこち結核に蝕《むしば》まれている体は、何かの研究に役立つだろう。せめて死んでからでも役に立ちたいというのが、わたしの願いだった。
短歌は決してうまくはなかった。しかしわたしなりに精一ぱいに生きた姿を、やはり書き残しておきたかった。自分の一つの姿を誰かに見て欲しいというのは、誰もが抱く平凡な願いではないだろうか。わたしはその歌のノートを手に取っていたが、ふと思い立って表紙にこう書いた。
「わたしが死んだら、このノートを三浦光世さんにあげてください」
彼は同信で、歌もいまは同じアララギに属している。彼なら、わたしの歌をまちがいなく読みとってくれるだろうと思った。それに何より、わたしがいまこの世で最も愛しているのは三浦光世だった。
その時はたしかに、わたしの死後にそのノートを見てもらうつもりだった。それがなぜか、ある日わたしはそのノートを三浦光世に手渡してしまった。彼はかすかに眉根を寄せてノートの表紙を見つめていたが、「わたしが死んだら」という文字を、ナイフできれいに削りとってしまった。
「必ずなおりますよ」
彼は叱るような口調でそう言い、そして静かに微笑した。彼は持ち帰って、すぐにわたしのノートを読んでくれた。そしてわたしの前川正を悼《いた》む歌に非常に感動してくれた。
妻の如く想ふと吾を抱きくれし
君よ君よ還り来よ天の国より
中でも彼はこの歌を、愛の絶唱だとさえ言ってくれた。彼はこの歌を見るまで、女性の真実を信ずることができなかったとも言った。そしてまた、この歌が自分の女性観を変えてくれたとも言ってくれた。
ノートの中には、わたしの姿が赤裸々に現れていた。わたしと前川正との愛が、数多く歌われてあった。その愛し合った姿に三浦光世は感動したのだった。そして、一人の男性を真実に愛したわたしの愛の故に、彼もまたわたしへの心を深めてくれたのである。
その日は、彼と初めて会った日のように、美しく晴れ渡っていた。わたしは、開け放たれた庭を、ベッドの上に起き上がって眺めた。大輪のバラがほころび、わたしは何かいいことがあるような予感がした。忘れもしない七月十九日だった。三浦光世から部厚い封書が届いた。手紙には、あなたの死んだ夢を見て、涙のうちに一時間あまり神に祈った。役所に出勤しても、しばらく瞼《まぶた》が腫れていたとあり、わたしの名の上に「最愛なる」という字が冠してあった。
わたしはくり返しその手紙を読んだ。遂に来たのだ。待っていたものが。わたしは「最愛」という文字の上に手をおいたまま、ふるえる心を押し静めようとした。うれしかった。何ともいえないうれしさだった。だが一方で、これでいいのかという思いもあった。第一にわたしは、いつなおるかわからない病人である。そのわたしを愛する彼に、どんなしあわせが来るというのだろう。既に三十歳を超えた彼が、今後何年もわたしを待つということは可能であろうか。わたしの喜びは次第に重苦しい感情に変わって行った。
たとえなおったところで、わたしは彼の子を生めるだろうか。わたしは彼の歌を思い出した。
独りにて果てむ願ひのたまゆらに
父となりたき思ひかすめつ
彼は以前から、独身で一生を通すつもりらしかった。それは腎臓結核で片腎を摘出していたということもあったろう。信仰一筋に生きたいという願いもあったであろう。できれば、この汚《けが》れ多い世の中には深入りしたくないという思いもあったろう。また、女性というものに、彼なりに不信を抱いていたということもあったろう。だが彼の心の底では、やはり父になりたいという願いは、生《なま》々《なま》と生きているのではないか。
そんなことを思うと、わたしはやはり病身の自分が省みられてならなかった。
(本当に愛するということは、どういうことなのだろう)
わたしはペンをとって手紙を書いた。
「三浦さん、全く思いがけないお便りをいただいて、何と申し上げてよいのかわからぬほどです。最愛なるというお言葉を読み終わった時は、うれしいとかもったいないとかいう単純な感動ではありませんでした。貧血を起こしかけたほどでした。立っていたとしたら、きっと倒れてしまったことでしょう。(中略)
私は女性としてあなたに愛してもらいたいとは願いませんでした。それはあなたの不幸を意味するからです。三浦さん、私は病人です。あなたをおしあわせにするものは何一つ持ちません。私はあなたが、健康な若い女性と相愛して御結婚なさることを望んでいます。三浦さん、私は心ひそかにあなたを愛していくだけで、しあわせでした。あなたが生きていらっしゃるというのがうれしいのでした。
お便りを涙に溢れつつ拝見、そして涙のままに祈りました。神さまがもし私の愛を許してくださるのなら、健康にしてくださることでしょう。しかしいまの私には、半人前の生活に帰ることさえ、見当のつかないことなのです。三浦さん、あなたを心から愛する故に、あなたに病人の女など、とても押しつける気にはなれないのです。私が病人の女であるということが、将来どれほどあなたの重荷になることか、わかりません。(中略)
過去において、愛する女性にお会いにならなかったのは、あなたがすべての女性にお心を閉ざしていらっしゃったからではないでしょうか。いまの自然なお心持ちで、教会内の女性や職場の女性とおつきあいなさってごらんなさいませ。きっとあなたの愛を受けるにふさわしい、気立てのよい美しい健すこやかな人にお会いになることでしょう。(中略)
神さま、どうぞ二人が、主にあってますます堅く立ち、神を愛し得ますように。御心ならば、一生主にある清き愛を持って交わり得ますように。二人の進むべき道を、どうぞ明らかに主が示し給い、いまのこの私の乱れをお許しくださいますように。神さまが最高最善の道を備え給うことを信じ得ますように。主の御名によって、アーメン
ヨハネ第一の書 四の十二『神を見た者は、まだひとりもいない。もしわたしたちが互いに愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである』の聖句をお贈りいたします。
綾子
三浦光世様」
十一枚に及ぶ手紙であった。
しかしわたしは、やはり弱い女であった。三浦光世の愛を、全く拒否するほどに理性的ではあり得なかった。いつの間にかわたしは、彼を決して誰にも手渡したくはなくなっていた。
五十二
ある日わたしの教え子が見舞いに来た。彼女は三浦光世と同じ営林局に勤めていた。彼女はわたしのアルバムを見ていたが、ふとアルバムに視線を注いだまま言った。
「先生、三浦さんをごぞんじですか」
「ええ、同じクリスチャンだから」
わたしは、三浦さんは職場でどんなふうかと彼女に尋ねてみた。
「とても静かな人です、おひる休みの時間なんか、一人本を読んでいたりして、何となくステキなんです。わたしたちのお友達で、あんな人と結婚したいって、あこがれている人がいます」
彼女はわたしが三浦の恋人だとは気づかなかったようである。教え子の彼女にとって、自分の友人のあこがれている人が、まさか昔の教師の恋人だなどとは、思いもよらなかったにちがいない。
「みんなあこがれているんです」
三浦光世のことをそうも言って彼女は帰った。その言葉を思い出しながら、彼のふさわしい相手はわたしの教え子の年齢なのだと、あらためて思い知らされた。二つ年上のわたしを愛する彼が、気の毒でならなかった。しかもその上病身である。
その後訪ねて来た彼に、わたしはこう言った。
「三浦さんは一時的な同情で、わたしを愛していらっしゃるのではないのですか。もしかしたらヒロイックな気持ちじゃないのですか」
彼はハッキリと首を横にふった。
「ぼくの気持ちは、単なるヒロイズムや、一時的な同情ではないつもりです。美しい人なら職場にも教会にも近所にもいます。でもぼくは、それよりもあなたの涙に洗われた美しい心を愛しているのです」
静かな声だった。
「でも、わたしはこのとおりの病人なのですよ。愛してくださっても、結婚はできませんわ」
彼はすぐに言った。
「なおったら結婚しましょう。あなたがなおらなければ、ぼくも独身で通します」
何というありがたい言葉であろう。わたしは激しく感動した。しかしただひとこと、やはり正直に言っておかなければならないことがあった。
「三浦さん、わたし、正さんのことを忘れられそうもありませんわ」
わたしは相変わらず前川正のお骨《こつ》を入れた桐の小箱を枕もとに置き、その横に写真を飾っておいた。わたしは、依然として彼のことは忘れられなかった。彼はわたしに背を向けて去って行った人ではなかった。死という船の甲板に立ったまま、わたしの方を見つめて手をふりながら、次第に遠ざかって行った人である。わたしもまた埠《ふ》頭《とう》に立って、もう見えなくなった彼に向かって手をふりつづけている女である。いくら手をふっても、もはや帰る人ではない。それを知ってはいても、わたしは相変わらず手をふりつづけずにはいられなかった。そのわたしのそばに、いつの間にか寄り添って立っていたのが三浦光世だった。その顔も、信仰も思想も、前川正とあまりにもよく似た三浦光世だった。似ているということが、またしてもわたしをためらわせる。わたしは三浦光世を通して前川正を愛しつづけているのではないか。決してそうではないと思いながら、やはり割り切れぬ思いもあった。
三浦光世はそのわたしに言った。
「あなたが正さんのことを忘れないということが大事なのです。あの人のことを忘れてはいけません。あなたはあの人に導かれてクリスチャンになったのです。わたしたちは前川さんによって結ばれたのです。綾子さん、前川さんに喜んでもらえるような二人になりましょうね」
三浦光世の目は涙で光った。わたしは彼の手を取った。
「神さま、御心のままになさってください。どうぞわたしたちの愛を清め、高めてください」
二人はしっかりと握手したまま祈ったのだった。
五十三
三浦光世は、それ以後も土曜日毎にわたしを見舞ってくれるだけで、特に見舞いの回数を多くするということはなかった。見舞う時間も、たいてい一時間くらいで、決して長くはならなかった。わたしを見舞ってくれる友人たちの中には、三時間や四時間話しこんで行く人は珍しくなかった。
「三浦さん、あなたが一番早くお帰りになるのよ」
わたしは三浦に、そんな恨みごとを言うこともあった。
「療養の邪魔になってはいけませんからね」
彼はそう言い、決して情《じよう》にほだされるということはなかった。彼は訪ねてくると、わたしの容態を聞き、聖書を読み、讃美歌をうたい、信仰の話や、短歌などについて語る。そして時間が来ると、共に祈り合って帰って行くという、相も変わらぬ淡々とした態度であった。
彼自身、長く病んだことがあるせいか、面会客による疲労を、常に配慮していたのだろう。握手をしている時でも、わたしの手が握手のために力を入れることすら彼は恐れた。体力のすべてを、闘病に向けて欲しいと常に願っていたようである。
「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」
という聖書の言葉を、ある日彼は色《しき》紙《し》に書いて持って来てくれた。そして自分で額に入れ、わたしを励ましてくれた。しかも会う度に、
「必ずなおりますよ」
そう元気づけてくれるのだった。そのせいか、長いこと外へ出ることのできなかったわたしも、次第に体力が増し、彼を玄関まで送って行けるほどに回復して行った。無論トイレにも自分で立って行けるようになった。このトイレに初めて行った時の喜びを、なんと表現したらよいだろう。少しくらい歩くことのできたわたしも、ギプスに長い間臥ていたためか、初めのうちは屈《かが》まることがなかなかできなかった。それを、ふらつきながら幾度も練習し、遂に屈めるようになった時のうれしさ、何年ぶりにトイレのドアを開けることだろうと、わたしは涙ぐみながらトイレに入った。そして部屋に戻った時、わたしはもう誰にも便器を取ってもらわなくてもよいのだと思うと、うれしくてならなかった。
健康であった時、なんと無意識に生きていたことだろうと、その時わたしはつくづくと思ったものだった。トイレに行くことだって、決して当たり前のことではないような気がした。歩くことも、立つことも、決して只事ではなかったのだと、わたしは思った。全国には、どれほど多くの体の不自由な人たちがいることだろう。きょうも明日も、ただ自分の足で立ちたいと願い、自分の願う所に行ってみたいと、ただそれだけを願いつづけて臥ている人たちが、今もなおどんなに多いことだろう。
わたしは徐々に、すわって食事することもできるようになった。今までは、仰ぎよう臥がの胸にお膳を置き、そのお膳を手鏡に映して食べなければならなかった。それが、自分の目の下に、直接お膳を見ることができるのだ。なんとすばらしいことであったろう。本当にそれは、胸のふるえる喜びであった。わたしは今でも時折、
(あ、わたしはいま、自分の目で食膳を見ながら食べているのだわ)
と、ふいに思うことがある。しかし、馴れるということは恐ろしい。歩くこと、すわること、トイレに行くこと、その一つ一つに感激した当初のことを、わたしはいつの間にか忘れ去っているような気がする。
ここで思い出したが、わたしが臥たっきりでいた頃、友人が訪ねて来て、
「今夜の月は、きれいだよ。見せてあげようか」
と言ってくれた。そして手鏡を二つ使って、その月を捉《とら》えてわたしに見せてくれようとするのだが、どうしてもわたしの手鏡に月を映すことができなかった。
「いいわよ。どうもありがとう」
一所懸命、月を見せようとしてくれる友人に、わたしはそう言い、ふっと淋しくなったものだった。
だが、あの初めてギプスベッドから立ち、縁側から眺めた月と星の美しかったこと、この世にこんな美しいものがあったのかと、わたしは叫び出したい思いだった。そして人々は、この月や星の美しさに気づいていないのではないかと、何かたまらないような気がしたものだった。
長い療養生活によって、与えられた一つ一つの喜びは、ともすれば日常生活の中で忘れ去られてはいる。しかし、時折思いがけない時に(あ、わたしは自分の足で歩いている)とか、(ああ、わたしは、わたしの目で星を眺めている)と思うことができるのは、やはりありがたいことだと思う。そして、それは決して忘れてはならないことだと思う。今もまだ、世界中にどれほど多くの人が、絶対安静の生活を強いられているのかわからないのだから。
五十四
わたしと三浦光世の、何の波風もない交際は、こうした中で静かにつづけられて行った。そんなある日、それはたしか、雪が降り始めた頃ではなかったかと思う。彼が十日ほど地方に出張した。
彼は出張から帰ると、栞《しおり》や、果物などのみやげを持って来てくれたが、同時にポケットから一通の手紙を出した。何気なくその手紙を受けとって、わたしはハッとした。それは美しい女文字の手紙だった。彼は言った。
「二人の間にはね、どんな小さなことでも、かくしごとはしないほうがいいと思ったから、持って来たのですよ」
やはり差出人は女性だった。わたしは促されて手紙を読んだ。それは、長い間彼を慕っている女性の、美しい真情が巧みな文章で告白されていた。わたしは心が乱れた。この若く健康な女性こそ、彼の伴《はん》侶《りよ》にふさわしい人ではないだろうか。手紙の文面を見ても、女らしさと聡明さが豊かに溢れていた。しかも、彼女は三浦光世という人格を、誤りなく捉えて尊敬している。
「お返事を出したのですか」
わたしは淋しい気持ちで尋ねた。
「いいえ、昨夜出張から帰ったら手紙が来ていたものですから」
とすると、一週間以上もこの女性は、彼の返事を待っていることになる。可にせよ、不可にせよ、返事を欲しいことだろうと、わたしは思った。三浦光世はまた言った。
「わたしはいつも、風の吹く前に戸を閉める主義でしてね。この人とも、二人っきりでお話をしたことはなかったのですよ」
そして彼は、わたしのことをこの女性に知らせると言い、帰って行った。
わたしは、彼が本当にハッキリわたしの存在を知らせることができるだろうかと思った。女性にせよ、男性にせよ、人に愛されるということは楽しいことである。しかもその女性は、どう見てもわたしより優《すぐ》れた人に思われてならなかった。それだけに彼の態度が危ぶまれた。だが、そんなことを少しでも考える自分が、自分でもいやだった。三浦という人は、そんないい加減な人間ではない。わたしは誰よりもよくそれを承知しているはずである。その三浦を、少しでも疑ったことをわたしは恥じた。
数日後、彼は再びこの女性の手紙を持って来た。それは実に美しい真心のこもった手紙だった。
「病気の人をお待ちになっておられる由、本当に失礼申し上げました。一日も早く回復なさって、お二人がご幸福になりますように、心からお祈り申し上げます」
わたしは感動した。わたしは、わたしのことをいささかもかくさずにこの人に告げた三浦光世の態度も、その三浦に、このような手紙を書くことのできた女性の心にも、深く心打たれたのである。
深く心打たれると共に、わたしはその女性にすまないと思った。そして、人間はなんと知らず知らずのうちに、人を傷つけ、悲しませるものであろうかと思わずにはいられなかった。もしわたしという人間がいなければ、あるいは三浦はこの女性と結婚したかもしれないのだ。とすると、わたしはこの女性を押しのけて生きているということには、ならないだろうか。この世に、一人の人間が存在するということは、このように有形無形の押しのけ方をして生きているということなのだ。あまり大きな顔をしてはいけないものだと、しみじみとわたしは思わせられた。
それはともかく、当時三十を過ぎた三浦には、無論縁談は幾つもあった。恩義ある職場の上司からも結婚の勧めはあった。だがその度に、三浦はハッキリと、
「決まった人がいます」
と言って、断ってくれた。いつ全快するかわからぬわたしのことを、いつも堂々とそう言い切ってくれた彼を思うと、わたしは、ありがたいとか、うれしいとか、そんな言葉を超えた深い感動を、今も覚えるのである。
五十五
わたしの病室は、相変わらず、男や女の友達で賑《にぎ》わっていた。その人たちと、わたしは主に聖書の話をした。そして時には集会を持った。中には、聖書を手にして、僅か二カ月でキリストを信じた医学生もいた。彼は現在もなお、熱心な信者である。
三浦光世の愛と励ましに、そして数多くの友情に応えるかのように、わたしの体は更に元気になって行った。外出することも可能になった。
だが、どうしたことか、昭和三十二年の秋頃から、わたしは幻覚を見るようになった。わたしのその幻覚は、眠りの覚めぎわに、目は既にパッチリと開いているのに、中国の飾り物のような、赤や緑の物体が空中に見えるのである。それがある時には、牛の頭であったり、またある時は仏壇であったりもした。そう長い時間の幻覚ではなかったが、気持ちのよいものではなかった。
医師の友人は、しきりにわたしに、北大の精神科の受診を勧めてくれた。わたしはしかしためらった。これで八度目の入院となるわけだが、そうそう家人に迷惑もかけられなかった。一方、入院したい気持ちもあった。元気になったとは言え、当時わたしの熱は、七度四分を割ることがなかった。三浦と結婚するにしても、ここで一応精密検査を受けることは必要である。寒い冬に入院するのはいやなので、来年暖かくなってからということに決まった。そのくらいの期間があれば、わたしはのれん製作の内職で、少しぐらいの貯金もできると思った。三浦も、友人の医師も、医療費を出してくれると言ったが、なるべくなら迷惑はかけたくなかった。
こうして翌昭和三十三年の七月、北大病院に入院した。結核で長い間臥《ね》ている人間といえば、人々は青白い女を想像するかもしれない。しかしわたしは、臥ている当時から、どちらかというと茶褐色の顔をしていた。医師の中には、よく、こんなに顔色がいいのだから、臥ていることはないなどと、無茶なことを言う人もいた。何年も陽にあたらないのに、陽焼けしたような顔は、異常だと友人たちは言った。友人の医師も、副腎に異状があるのではないかと言い、それも調べることになった。
入院はたしか七月だったと思う。八回の入院生活のうち、この入院が一番楽しかった。なぜなら、わたしはもはや絶対安静ではなく、二百メートルくらいなら、歩くこともできた。付添婦に何を頼むことも要《い》らなかった。洗面所にも行けたし、トイレにも行けた。これは実に楽しいことであった。
だが、毎朝洗面所に行っていて、わたしはふしぎに思った。誰も、他の部屋の人とは話をかわさないのである。いや、話どころか、朝の挨拶もしない。みんな、朝から憂鬱そうに、歯を磨いたり、顔を洗ったりしている。自分で洗面できるというのに、こんな顔で始まる一日では、さぞつまらないだろうとわたしは思った。わたしは、洗面所に行くと、必ず大きな声で挨拶をした。
「お早うございます」
誰も挨拶を返す人はいない。しかしわたしは翌日もつづけた。依然として同じである。だがわたしはひるまずに、毎朝挨拶した。一週間もたった頃、やっと挨拶を返す人が出て来た。しめたと思った。わたしはすかさず、その人に、
「お加減はいかがですか」
と尋ねた。そしてこんな日がつづいて、気がついた時には、朝の洗面所の空気は一変していた。一等室の患者も、大部屋の患者も仲よくなり、気分のいい患者は、夕食後お互いの部屋を訪問するようになった。
ここにもまた、いろいろな病人はいたが、わたしほどに長い年月病んでいる病人は一人もいなかった。たしか一番長くて六年であった。満十二年のわたしの二分の一である。わたしが長い病気であったというだけで、人々は次第に、自分自身の病気をさほど重く感じなくなったのであろう。わたしは、自分が長い間臥ていたことが、人の慰めになったことを喜んだ。
わたしの病室は六人部屋だった。脈なし病の婦人がある日言った。
「あんたが入院して来てから、毎日楽しくて仕方がない。わたしは一年入院しているけれど、こんなに楽しかったことはない」
と言ってくれた。わたしは、ない頭をしぼって、毎日病室の人を楽しませることを考えた。遊びに来た男の患者の背に、女優の写真をそっと貼り、その横に、「これはぼくの彼女です」などと書いておいた。いたずらされた患者こそいい迷惑である。何も知らずに自分の部屋に帰って、爆笑を買った。しかしそんなことで、かえってわたしたちと親しくなり、向こうもまた仕返しの遊びを考えた。こんなふうにして、わたしは少しでも病から目を外らさせたいと考えた。病んでいることを忘れていれば、少なくともその間は病人ではない。
そのうちに、夜になると、「神様のお話をして」と言う療友も出て来た。話をしていると、わたしのベッドの回りには必ず何人かが集まり、熱心に話を聞いてくれた。わたしは、その真剣な顔に、何か胸の痛む思いがした。どんな人も、みんな何かを求めているのだと、つくづく思わずにはいられなかった。
こんなある夜、わたしは、眠られなくて詰め所に薬をもらいに行った。もう人々が寝静まった頃である。するとそこで、同じように眠られない若い男の患者が来ていた。眠られない者同士で、そこの長椅子にすわって話を始めた。体格のガッチリしたその若い男は、盛んに、いかに自分がヤクザな者であるかを力み返って話した。
「おれのことなんか、誰だって手余しだと思ってんだぞ。みんな恐ろしがってるんだぞ」
「そう、でもかわいい顔をしてるじゃないの」
「おれはな、東京の渋谷で、けんかをしたことがあるんだ。凄い乱闘だった。白洋舎の横でよ」
「あら、わたし白洋舎って知ってるわよ。あそこを創立した人は、とても偉い人なのよ」
何を聞いても、わたしは少しもこわがらない。
やがて彼が詰め所を去った。看護婦が言った。
「あんた、よくこわがらないわね。あの人凄いのよ。気に入らないと、運んで行ったお膳を引っくり返すんだから」
手のつけられない乱暴者だという。しかも一度は強制退院もさせられたとか。だがあの若者も、結局は人に愛されたい、淋しい人なのではないかと思った。そして、一時間ほど彼と話をしている間に、彼が言った言葉を思った。
「おれ、あんたの考えてること、大体見当がつくな。あんたは神様を信じてるだろう。おれも小さい時、カトリックの日曜学校に行ってたから、大体見当つくさ」
その言葉には、どこか優しいひびきがあった。
それから何日かたって、洗面所で大声でどなる声が聞こえた。看護婦に頭を洗ってもらいながら、何が気に入らないのか、一人の男が喚いている。わたしは廊下を通りかかりながら、大声で叱った。
「誰よ。人に頭を洗ってもらって、威張ってるのは?」
「何をっ!」
椅子にすわっていた男が、くるりとこちらを向いた。あの夜の、ヤクザと自称する男だった。わたしと知ると、照れたように笑って、また向こうを向いた。そして彼は、そのままおとなしく頭を洗ってもらっていた。
わたしの友人である医師が、以前彼の受け持ちであったことを、後で知った。
「あいつ、弟のようにかわいいな」
友人はそう言っていた。わたしは、ヤクザという人間を叱ったのは、この時が初めてである。
わたしは幸い、脳波には異状はなかった。ただ腹膜が癒《ゆ》着《ちやく》しているため、婦人科が少し悪いということで、医師は超短波をかけてくれた。この療法が意外に効を奏し、わたしの熱は下がり、顔色も白くなった。そして後は、旭川に帰って超短波をつづければよいということになった。この間三浦は、絶えず励ましの手紙と入院費用の一端を送ってくれた。おかげでわたしは、予定よりもゆっくりと入院して、元気になることができたのである。
以前、札幌に入院した時は、一人の知人もなかったわたしだったが、この度の入院では、百人以上の人が見舞いに来てくれた。それは、以前入院していた頃に得た信仰の先輩たちがほとんどであった。
だが、わたしの心の底に、なお一《いち》抹《まつ》の淋しさがあったのは無論のことである。かつて前川正が学んだ北大、そして、彼と共に受診したことのある北大病院、そこに入院しているわたしに、淋しさがなかったはずはない。そしてまた、最もわたしを見舞ってくれた、かの西村先生は、この多くの人たちの中には、もういないのである。しかし、わたしは、先生が病人を慰めたように、前川正が人々を愛したように、わたしもそうありたいと願わずにはいられなかったのである。
約二カ月の入院生活を終えて、わたしはわたしを待っている三浦や、父母のもとに帰って行った。
五十六
北大病院を退院して旭川に帰ったわたしは、精密検査の結果を、家人や三浦光世にあらためて報告した。血痰や喀血で、しばしば死の恐怖をわたしに与えた空洞が、いまや完全になおっていること、カリエスも、七年にわたってギプスベッドに忍耐したおかげで、見事になおっていることを、お互いに奇跡と喜び合った。
ただ、結核性腹膜炎から婦人科の方が少し冒されているため、引きつづいて超短波の療法を、旭川の病院で受けることになった。毎日の通院が、わたしの体を次第に鍛えていった。十貫足らずだった体重が、いつしか十四貫にまでなっていった。
明けて昭和三十四年の正月である。三浦が一番先に年賀に来てくれた。わたしたちは新年初めての礼拝を、二人で持った。聖書を共に読み、讃美歌をうたい、共に祈った。わたしは彼に尋ねた。
「来年のお正月も来てくださるでしょうね」
あべかわ餅を食べていた彼は、箸をとめ黙って首を横にふった。
「まあ! 来てくださらないの?」
わたしは驚いて彼を見た。彼はおだやかに笑って言った。
「来年の正月は、二人でこの家に年賀に来ましょう」
「え? 二人で?」
彼の言葉にわたしはハッとした。何とも言えない喜びが胸にこみあげた。
三浦光世が帰った後、わたしは母に彼の言葉を告げた。
夕食の時、母が父に言った。
「とうさん、今年はタンスを買わなくてはなりませんよ」
「タンスを? どうしてだ」
「だって、綾ちゃんがね、お嫁に行くんですって」
「綾子がお嫁に? 相手は誰だ、人間か」
父は決してふざけて言ったのではなかった。長い間臥ていた娘である。いまもまだ一日の大半をベッドの中に暮らしているのである。年齢は数え三十八歳になっている。こんなわたしに、結婚の相手があろうとは、実の父でさえ、思いもかけぬことであったのであろう。世の一般の男が、こんな娘をもらってくれるなんて、父には想像ができなかったのである。わたしは、今更のように真実な愛に打たれた。
「三浦さんが、綾子をもらってくださるんですって」
母が言うと、父はポカンとして言った。
「だってお前、三浦さんには奥さんがあるんだろ」
わたしの所には、若い青年や、既婚の男性などが、幾人も出入りしていた。三浦光世は、その正月で、数え三十六歳になっていた。年輩からいっても、その落ちついた物腰から言っても、既婚と思われたのであろう。
話が真実だと知った時、父は目をしばたたいた。三人はそれぞれの思いの中で、箸をとることも忘れていた。
一月九日、彼の兄が正式に話を持って来てくださった。わたしは、わたしのようなものを、弟の嫁として許してくれた三浦の兄に心から感謝した。三浦は初婚で、公務員である。いままで幾度か縁談もあったのに、その都度それを退けて、わたしを待っていてくれたのである。
もし自分の弟が、なおるかなおらぬかわからぬ年上の病人を待っているとしたら、わたしはいったいどう言うだろう。
「そんな夢のようなこと、実現するわけないじゃないの。あなたも年を取らないうちに、ほかの人と結婚したらどう?」
きっとそんなことを言うにちがいない。現に、わたしの友人である医師も、二人の結婚に反対した。友人は、
「あなたの身が持たないから」
と危ぶむのである。また、ある牧師は言われた。
「結婚は現実ですよ。夢のようなことを言っていても、いけません」
赤の他人でさえ、わたしの体を思い、彼のためを思って忠告したのである。全く、見ていてハラハラするようなことであったにちがいない。しかし、彼の兄はこう言ったのだそうだ。
「好きな者同士なら、連れ添って三日で死なれても、お互い本望だろう」
と。
幼くして父親を失った三浦は、兄が親代わりでもあった。この暖かい言葉は、わたしたちをどれほど励ましたことだろう。
婚約式は、一月二十五日と決まった。当時わたしたちの教会では、婚約式を教会員一同の前で行った。二人の婚約を会員が祝福し、二人が結婚に至るまで、清く真実に生き得るよう、傍《そば》から見守ってくれる。婚約者同士も、清らかな交際の中に、夫となり、妻となる日のために、より信仰に励むのである。
婚約式の一月二十五日は日曜日だった。神の前に婚約を誓い、牧師が祈ってくれた。そして、エンゲージリングではなく、二人は厚い旧新約聖書を交換した。聖書の扉には、
「婚約記念
一九五九年一月二十五日
綾子
光世様」
彼からは、同じようにわたし宛の名が書いてある。婚約式に聖書を交換するというのは、意味ぶかいことである。二人の一生が、神の言《ことば》によって導かれることを意味しているのである。
拍手されてゐるわたしたちの婚約の
しるしの聖書を取り交しつつ
彼の家からは兄夫婦、わたしの家からは父母と三番目の兄が列席してくれた。婚約式を終えたわたしたちは、仲人になってくださる旭川二条教会の竹内厚牧師夫妻のお家に報告に急いだ。
降る雪が雨に霰《あられ》に変る街を
歩みぬ今日より君は婚約者
全くふしぎな天候の日であった。旭川には珍しいひどい風で、雪が横なぐりに吹きつけた。と、見る間に、その雪は雨になり、また霰に変わった。何か、二人の前途の多難さを思わせるような、悪天候だった。
しかし、わたしはふと空を見上げて驚いた。なんとふしぎなことであろう。下界は風と雪と、雨と霰という複雑な天気なのに、太陽が広い雲間に、さんと輝いているのだ。わたしは西村先生にうかがった言葉を思い出した。
「雲の上には、いつも太陽が輝いているのです」
そうだとわたしは思った。二人の一生には、いかなる悪天候があるか予測できない。しかしどんな悪天候の日であっても、その黒雲の上には必ず太陽が輝いているのだ。雲はやがて去るだろう。だが太陽は去ることはない。わたしたちは、わたしたちの太陽であるところの、神を決して見失ってはならないと、深く胆に銘じた。わたしは、神が二人を祝福し、二人に、天候を通して教えてくださっているような気がして、うれしかった。
五十七
結婚式は五月二十四日の日曜日と決まった。ところが、半月前になって、突然わたしは三十九度の熱を出した。三浦は、
「何も新調しなくてもいいですよ。布団も、いままで臥ていたのでかまいませんからね」
と、言ってくれていたのであったが、それでも、何かと結婚の支度にわたしはつとめた。その疲れでもあったろうか、熱はなかなか下がらなかった。医師はペニシリンを打ち、クロマイを与えてくれた。だが依然として熱は下がらない。三日たち、四日たつと、わたしは不安になった。結婚式までに後十日しかない。もし熱が下がらなかったら……そう思って、いくら安静にし、注射を打ちつづけても、依然として高熱である。
文通していた各地の療友からは、連日のように結婚祝いや、記念品が届けられる。親戚の者は、三面鏡やタンスを送り届けてくれる。それらの品々に囲まれて臥ていると、いっそう気が焦《あせ》った。既に結婚式の案内状は出し終わっている。準備はすべて整っているのに、原因不明の熱が幾日もつづく。父も母も、おろおろして来た。
「必要なものは、必ず与えられる」
わたしは、タンスや三面鏡を眺めながら、そう思った。もし、三浦光世との結婚を神が許してくださらぬのなら、この品々も与えられなかったであろう。そう思いながらも、熱が十日もつづくと、わたしは、確信がなくなって来た。後、四日で熱が下がったとしても、とても式を挙げる体力はないだろう。やっぱりこの結婚は、神が許し給わないのかもしれない。わたしは次第に悲観的になった。
だがそうした中で、ただ一人、三浦だけは平然としていた。
「必ず予定どおり結婚式を挙げられますよ。わたしたちを結び合わせてくださった神を信じましょう」
彼の言葉は確信に満ちていた。役所の帰りに、毎日わたしを見舞いながら、彼は一度も不安そうな顔を見せなかった。
本当に熱は下がるだろうか、式は挙げられるだろうか。わたしは信ずることができなかった。二日前になった。父は遂に、遠い地の親戚に、挙式延期の電報を打とうと言い出した。最後の最後まで、わたしは親に心配をかけたわけである。わたしも父の言葉に同意した。しかし三浦は、大丈夫だと言った。わたしは依然として不安だった。当日になって、わたしが起きられなかったら、結婚式はいったいどうなるのだろう。遠くから集まってくれる人たちはどうなるのだろう。考えるほど心配だった。
だが、三浦の確信に満ちた態度は、遂に変わらなかった。そして、事は彼の確信どおりになった。式の前日になって、わたしの熱はうそのように下がった。ペニシリンでも、クロマイでも下がらなかった熱が、けろりと下がってしまったのである。それは奇跡的でさえあった。しかも、十何日も熱がつづいたというのに、体のしんまでほぐされたように、疲れはすっかり消えていた。父母は喜んだ。わたしは今更のように自分の不信仰を恥じた。
「確信を放棄してはならない。確信には大いなる報いがともなっている」
と聖書にあるのを、わたしは忘れていたのである。神は、わたしが結婚するために最も必要な「神への全き信頼」を期待されていたのかもしれない。しかしわたしは、その信頼を失って、ただ思いわずらってばかりいた。
「すべては、神様の御心のとおりになりますように。人間の目には悪いと見える出来事にも、感謝をもって従うことができますように」
これは、当時のわたしの最も大きな祈りであったはずである。神のなさることに対する従順な信仰、わたしはそれを持っているとうぬぼれていた。それが、この連日連夜の熱によって、もろくも崩れ去っていたのである。わたしはあらためて、神のなさったことに感謝した。そして、結婚を前に、ただ物質的な支度にのみ心を奪われていたことを恥じた。最も大切な神への信頼を忘れて、あわただしく日々を過ごしているわたしに、神は二週間の原因不明の熱を与えてくださったのである。わたしは、三浦の信仰によりかかって結婚式を迎えるような気がして、心から恥じずにはいられなかった。
五十八
遂に五月二十四日の朝は明けた。
前日は、旭川には珍しい激しい風が吹いていた。旭川の五月の風は寒い。この寒さでは、ウエディングドレスはさぞ寒いことだろう。わたしは心配していた。ところが当日は、朝から汗ばむほどの、風ひとつないよい天気だった。まるで、病気上がりのわたしを、暖かく包んでくれるようなすばらしい晴天の日であった。後にも先にもこんなすばらしい五月の日は一度もなかったと言っても、過言ではない。
ウエディングマーチの鳴りひびく教会堂を、わたしは彼と共に、静かに壇上に進んだ。
わが行く道 いついかに
なるべきかは つゆ知らねど
主はみ心 なし給わん
わたしたち二人で選んだ讃美歌が、会衆一同によってうたわれた。新郎の彼は三十五歳、新婦のわたしは三十七歳、共に初婚である。それだけでも、世の常の若い人の結婚とは異なったものを、人々は感じたにちがいない。しかも、会衆のすべての人々は、わたしの長い療養生活を知っているのである。お互いの親、兄弟、親戚のほかに、会衆の中にはわたしのたくさんの友がいた。かつて自殺未遂をした理恵、わたしの結婚に反対した友人の医師、病床のわたしに匿名で送金してくれていた教え子の橋本成男、いつもわたしの病床に来ていた人々、のれん製作の仕事を手伝ってくれている人々、そして、わたしをキリストに導いてくれた亡き前川正の母上前川夫人。
人々はさまざまな思いで、二人の晴れの姿を祝福してくれたにちがいない。
時々、強いライトが閃《ひらめ》いた。かつての療友で、今はクリスチャンとなった黒江勉兄が、長い病床から解き放たれたわたしへのお祝いに、八ミリで撮影してくれていたのである。
「病める時も、健かなる時も、汝《なんじ》を愛するか、また夫を愛するか」
司式の、中嶋正昭牧師の言葉に、わたしたちは深くうなずいた。わたしはうなずきながら思った。それは健康人がなすべき誓いではなかろうか。三浦光世は、かつて一度もわたしの健康な姿を見たことがなかった。彼が愛したのは、ベッドの傍らに便器を置き、ギプスベッドの中に、来る日も来る日も仰《ぎよう》臥《が》するわたしではなかったか。彼は病める時のわたしを深く愛して、足かけ五年わたしを待っていてくれたのである。深い感動が、わたしの心を謙虚にさせた。わたしは本当に彼のよき妻になろうと、幼子のような、きまじめな気持ちで、神の前に誓ったのである。
式後、礼拝堂の下の幼稚園のホールで祝い会が開かれた。小さなホールでは、百二十余名の人々が溢れるばかりだった。会費は百円である。ケーキを入れた箱と、紅茶だけのささやかな祝い会だった。しかし集《つど》ってくれた人々は、本当に心のこもった祝辞を述べてくれた。
まず第一に、仲人の竹内厚牧師がご挨拶してくださった。竹内先生は、なるべくこの会を早く終えて、弱い二人を解放して欲しいとおっしゃった。この先生は、それまでわたしの所属していた教会の牧師で、わたしたちの健康を今に至るまで、常に心配してくださるありがたい方である。
つづいてテーブル・スピーチが始まり、やがて前川夫人が、わたしの所属する教会側を代表してお立ちになった。
「綾子さん、おめでとうございます。こんなにお丈夫になられる日が来ようとは、夢にも思いませんでした。何と申し上げてよろしいやら、ただただ奇跡のようで……」
涙にふるえていた夫人の声は、そこで途切れた。わたしはハッとして顔を上げた。夫人は目にいっぱい涙をためて、唇をかみしめ、激しい感動にじっと耐えていられた。わたしは手にしていた花束にそっと顔を埋めた。幾度もお辞儀をして去って行った前川正の最後の姿が目に浮かんだ。
わたしと前川正の仲を知る人々は、夫人の涙が、どんな涙かきっとわかったことだろう。わたしは心の中で前川正に話しかけた。
(正さん、ありがとう。わたしは三浦さんと結婚しました)
理恵の言った言葉が思い出された。
「綾さん、綾さんの結婚を、一番喜んでいるのは、正さんかもしれないわよ」
そしてわたしは、昨夜母から渡された西中一郎の祝いの包みを思った。死んで別れた人も、生きて別れた人も、みんな心の美しい真実な人たちだった。そして、三浦光世もまた、彼らに劣らずやさしい人だった。何の取り柄もないわたしを、神は多くの人々を通して、愛し導きくださっていると、あらためてまた思わないわけにはいかなかった。
夜は鉄道会館において、内輪の立《たち》振《ぶる》舞《まい》の宴がささやかに設けられた。朝から夜まで付き添ってくれたバラ美容室の美容師が言った。
「いままでに、何度も何度もお嫁さんの支度をしましたが、今日ほど感激したことはありません。きっと一生忘れられないと思いますよ」
その夜八時過ぎ、わたしたち二人は、三浦の兄と、三浦の義弟に送られて、新居に帰って来た。
新居と言っても物置を改造した、九畳ひと間に、四畳ほどの台所がついた小さな家である。
手を伸ばせば天井に届きたりきひと間《ま》なりき
吾らが初めて住みし家なりき
後に三浦が歌に詠《よ》んだ家である。この家の天井裏は棟つづきの隣家の物置になっており、壁ひとつ隔てた向こう隣の部屋もまた物置だった。
吾が部屋の屋根裏は隣家の物置にて
下駄響かせて歩く音する
壁の向うの隣家の納屋に夜更けて
薪《まき》を崩してゐる音聞ゆ
三浦は後にこうもうたっている。
物置であろうと、ひと間であろうと、天井がいかに低かろうと、わたしたちにとって問題ではなかった。
送って来た三浦の兄と義弟が帰った。そのあとわたしは三浦の前にきちんと両手をついて挨拶をした。
「ふつつかな者ですけれど、どうぞよろしくおねがい致します」
「こちらこそ、よろしく」
三浦もていねいに礼を返してくれた。そして二人は心からなる感謝の祈りを神に捧げた。
今日うたった讃美歌のように、わたしたち人間の行く末は、いつ、いかになるか計り知ることができない。しかし、どのような時にも、二人は信仰に立って、真実に生きて行きたいとねがったのである。あたたかい、風一つない春の夜であった。
奉安殿 第二次大戦前、教育勅語と天皇、皇后の御真影(写真)を安置するため、学校に設置された神殿型式の建物。明治二十三年(一八九〇)に始まった。
勅諭 天皇が訓示的な意味で親しく下した言葉。
国定教科書 明治三十六年(一九〇三)に小学校の国定教科書制度が定められ、第二次大戦前は師範学校、中学校でも文部省の作った教科書が全国の学校で使われた。
修身の本 旧制の学校で国民道徳の実践を目的として設けられた科目の教科書。
ヤン衆 北海道で、にしん漁などで臨時に雇われた男たち。「やんしゅ」ともいう。
無尽会社 庶民金融の一種。無尽とは金銭の融通を目的とし、鎌倉時代に発生した頼《たの》母《も》子《し》講《こう》と同じシステムだが、昭和二十六年(一九五一)以降、相互銀行に改組した会社が多い。
「あしたの紅顔……」 紅顔は十代の男の子の若々しい顔の意味。古くは、美しい女性の容貌についての表現でもあった。大意は、若いときの美しい容貌も年老いて衰え、死んでのちは白骨となってしまう。人間の肉体、または一生のはかなさをあらわしたもの。
アララギ 短歌雑誌。明治四十一年(一九〇八)十月創刊。伊藤左千夫、斎藤茂吉、島木赤彦、土屋文明らが中心となり編集。「万葉集」の歌風を重んじ、技巧よりも事物の写生を第一義とした。大正、昭和を通じて歌壇の主流となった。
西村久蔵 評伝「愛の鬼才」(一九八三年、新潮社刊)の主人公。
五十嵐健治 評伝「夕あり朝あり」(一九八七年、新潮社刊)の主人公。
特別収録
太陽は再び没せず
(一九六二年)
この作品は、三浦綾子氏が、林田律子のペンネームで雑誌「主婦の友」(一九六二年一月号)に発表した手記である。掲載された経緯については本巻の「創作秘話(三)」にくわしいが、「三浦綾子小説選集」刊行にあたり、「道ありき」の原型となった作品として特に収録した。
一
新郎は三十五歳、新婦の私は三十七歳、ともに初婚。それだけでも世の常の若人の結婚とは異なったものを人々は感じたにちがいない。
「病めるときも健やかなるときも汝妻を愛するか」
牧師の言葉に、彼は深くうなずいた。純白のウェディングドレスに身を包んだ私は思った。これは、健康人がなすべき誓いではなかろうか。かつて一度も健康な私の姿を見たことのない彼は、どんな想いでこの誓いにうなずいたのであろうかと。
ベッドのかたわらに便器をおき、ギプスの中に仰《ぎよう》臥《が》する私をはじめて見舞ってくれた日の彼の、すがすがしい瞳の色を私は思った。
ときどき強いライトがひらめいた。満十三年の長い病床から解き放たれた私へのお祝いに、友人が八ミリで撮影していてくれたのである。
式後、教会のホールで、祝会がひらかれた。百二十余の人々が会場にあふれるばかりであった。テーブルスピーチがはじまり、松宮夫人が私の所属する教会側を代表してお立ちになった。
「律子さん、おめでとうございます。こんなにお丈夫になられる日がこようとは、夢にも思わぬことでございました。なんと申し上げてよろしいやら、ただただ奇跡のようで……」
夫人の声は涙にふるえ、言葉がとぎれた。はっとして私は顔を上げた。夫人は目に涙をいっぱいためて、はげしい感動にじっと耐えておられた。
私は、手にしていた花束にそっと顔をうずめた。松宮夫人の長男の達夫さんは私の恋人であり、心のみちびき手であった。そして彼は、六年前に結核で亡くなっているのである。
思えば昭和二十一年の春、高熱で倒れた私は、右肺上葉に空洞ができていた。すぐに入院しなければ死ぬぞとおどかされて、その日から私の療養生活がはじまった。
敗戦のとき、私は、小学校の女教師だった。日本の不敗を信じて、それを幼い子どもたちに教えていたことが、私をひどく自信のない虚無的な人間にしてしまった。耐えられなくなって退職したが、結核はその二カ月後に発病した。
敗戦直後、米もなく、バターもなく、ストマイやパスの特効薬もなかったあのころの結核療養所は、死刑囚の収容所のように絶望的で暗かった。その中でも私は、もっとも暗い人間であった。
幼なじみの達夫さんも、北大医学部をあと一年で卒業というときに発病し、自宅で療養していたが、彼は明るいクリスチャンであった。
昭和二十三年、彼がはじめて私を療養所に訪ねてくれたとき、私は気胸療法で小康を得ていた。だが依然として虚無的で、生きる意欲は失われていた。
ある日、彼が何度目かの見舞いにきてくれた日の午後、男子の療養者の一人が、酒びんを持ってやってきた。
「今夜のおたのしみだよ。あずかっておいてね」
私は、そのびんを押《おし》入《いれ》にしまいながら、
「何人で飲むの?」と、たずねた。
「それっぽちの酒だもの、きみとKと三人でやろう」
彼はそう言って、出て行ってしまった。
「律《りつ》ちゃん、お酒を飲んでいるの?」
「ええ、ときどき……」
達夫さんの、いつにないきびしい声に、私はそうこたえた。
「なぜ、お酒を飲むのですか」
「おもしろくないからよ」
「飲めばおもしろいですか」
「そうね、飲んだからって、別におもしろくもないわ。だけど、うるさい人ね、すこしぐらいお酒を飲むのが、そんなにわるいことなの?」
「療養所に入っていてお酒を飲むなんて、そんな不まじめな態度はいけませんよ。ぼくは医学生としても、断じて許せないな」
「だから私、クリスチャンってきらいなのよ。なにさ、君《くん》子《し》ぶって……達夫さんにお説教される筋《すじ》合《あい》はないわ」
酒の味も知らず、ただ聖書を読み、教会に通かよっているだけの彼に、私のこの大きな悲しみがわかってたまるものかと思った。
二
私はそのころ、何人かの異性と交際していた。だれかが私を愛するといえば、私もその人を愛するとこたえた。それはただ単に、「こんにちは」と言われて、「こんにちは」と応ずる日常のあいさつのように。そのくせ私はだれ一人として愛してなぞいなかった。自分を与えることなど、もちろんできなかった。彼らとの会話に死ぬほど退屈していただけであった。
酒を飲んだあとはいっそうさびしく、私たちは一体なんのために生きているのかしらと、しみじみ自問せずにはいられなかった。達夫さんは、そのような男友達の一人と思われるのはたまらないなとこぼしながら、それでも、ちょくちょく私を訪ねてくれた。
会えばきまって私はクリスチャンをののしった。偽善者で、お上品ぶっていて、不正直だときめつけてやった。すると彼は、いかにもこまったような顔をするが、弁解がましいことはなにも言わなかった。
それで、もうこないだろうと思っていると、またのこのこ訪ねてきて、パスカル(フランスの哲学者、神学者)の『パンセ』などを私に贈ったりした。
やがて私は退院したが、微熱は下がらなかった。生きることによろこびを見いだせない私は、その年の六月、睡眠薬自殺を企てた。しかし未遂に終わった。死ぬことさえできぬ自分を、私は思いきり自嘲して、生活はますます乱れた。
そうした私を、じっと見つめていた達夫さんは、ある日、私を郊外の丘に誘った。北海道の初夏の緑は、燃えるように美しかった。
「律ちゃん、あなたは生きていたいのですか、生きていたくないのですか」
彼の声は、かすかにふるえていた。
「そんなこと、どっちだっていいじゃないの?」
「よくはありません。おねがいだから、もっとまじめに生きてください」
「またお説教? 達夫さん、まじめって一体どんなことなの? なんのために、まじめに生きなくちゃならないの? 戦争中、私は、バカみたいに大まじめに生きてきたわ。お説教なら、もうたくさんだわ」
彼はしばらく、なにもこたえなかった。長い沈黙がつづいた。やがて……、
「きみの言うことは、よくわかるよ。しかし、だからといって、律ちゃんの今日の生き方がいいとは、ぼくには思えないな。いまの律ちゃんの生き方は、あまりにみじめすぎるよ。自分をもっと大切にする生き方を見いださなくちゃ……」
彼はそう言いさして、大粒の涙をぽろりとこぼした。私は、はじめて見る異性の涙にも動ぜず、タバコに火をつけた。
「律ちゃんダメだ、あなたはそのままではまた自殺してしまう」
彼は叫ぶようにそう言うと、「ああ」と大きなためいきをついた。そしてなにを思ったのか、彼は、かたわらにあった小石を拾い上げると、突然、自分の足をゴツンゴツンとつづけさまにうちつけた。おどろいて制止しようとする私の手を、彼はしっかりとにぎりしめていった。
「律ちゃん、ぼくはいままで、律ちゃんが元気で生き通してくれるように、どんなにはげしく祈ったかわからないんだよ。そのためになら、自分の生命をかけてもいいと思ったほどだった。しかし、信仰のうすいぼくには、あなたを救う力がないことをさとった。ふがいない自分を罰するために、こうして足をうちつけてやるのです」
私は呆《ぼう》然《ぜん》として彼を見つめた。冷たい目で見つめていたつもりの私だったが、気がついてみたら、私はいつのまにか泣いていた。それは、久しぶりに流す涙であった。
三
そのとき以来ふっつりと、私は酒もタバコもやめた。異性の友達との、むなしい交際もやめた。そして彼のすすめのままに、聖書を毎日読んだ。短歌と英語の勉強もはじめた。
彼は毎日の手紙で、聖書を説いてくれたり、短歌を批評してくれた。おたがいに親のすねかじりの身分だから、よけいなお金を使わないようにしようという彼の提案にしたがって、私たちは十円の電車賃で行ける「あの日の丘」によく行った。
私たちの住む街の屋根が、むらさき色に美しく煙って見える丘の上で、私たちははじめての唇《くち》づけをかわした。
相病めばいつまでつづく倖さちならむ
唇《くち》合わせつつ泪《なみだ》こぼれき(律子)
笛のごとく鳴りいる胸に汝《な》を抱けば
わが淋しさの極まりにけり(達夫)
二人はひざまずいて、青草の丘に祈った。病身の二人が、これから先の短い生涯を、真剣に生き通せるように、神さま、どうぞお力を授けてください――と。
それから二年。昭和二十五年の春のころから、私の体はひどく痩せてきた。結核性外痔瘻とわかり手術した。しかし結果は、はかばかしくなかった。
父母も心配して、私を札《さつ》幌《ぽろ》医大の病院に入院させた。肺の空洞はすぐに手術しなければならぬ状態だったが、あまりに痩せているので、しばらく体力をつけることに専念させられた。
ところがその翌月、レントゲン診察の結果、脊《せき》椎《つい》カリエスとわかった。
そのために私は、頭から腰まですっぽりと、ギプスベッドに入れられて、寝返りはおろか、首をまわすこともできない生活がはじまった。まさか、こんな不自由な生活が、それからあと七年間もつづけられようとは、思いもかけなかった。
こんな体になった私は、もはやこの世の幸福を求めてはいられなかった。ただひたすらに、たしかな信仰を得たいとのみねがって、むさぼるように聖書を読んだ。
そうした私のために、達夫さんは一人のりっぱなクリスチャンを紹介してくれた。札幌の西村久蔵先生といえば、北海道のキリスト教徒だったら、だれでも知っているにちがいない、偉大なクリスチャンであった。その西村先生が、達夫さんのハガキを見るとすぐ、私を見舞ってくださった。
たいへん熱心な方で、その後、たびたびお訪ねくださって、聖書のお話をきかせたり、奥さま手作りのご馳走を持ってきてくださったこともあった。二百名近くの従業員を使っている会社の社長さんだというのに、私の痰つぼを気軽に始末してくださるような方だった。
私はこの西村先生と達夫さんの、絶えることのない愛情にみちびかれて、病床に横臥したまま、洗礼を受けた。昭和二十七年七月五日のことであった。
四
旭川の達夫さんからは、毎日、ほんとに一日も欠かさず、お手紙をいただいた。子どもが母親になにごともかくさず訴えるように、一日の彼の生活がこまごまと記してあった。離れていても、きょうは彼がどんな本を読み、だれとなにごとを語り、そしてどこに出かけたか、手にとるようによくわかった。
ときには読みかけのリルケ(チェコの詩人)を訳して、書き送ってくれたこともあった。その間にも彼はたびたび札幌まで出てきて、私を見舞ってくれた。あるとき彼は大きなトランクをさげてやってきた。
「律ちゃん、ぼくもとうとう手術することにしましたよ」
私はびっくりした。不安の思いが胸をかすめた。手術はもうしばらく見合わせたほうがよくはないかと、彼に言った。すると彼は、沈んだ声でこう言った。
「律ちゃんは、ぼくが十七貫もあるので、手術なんかしなくても、そのうちに治るだろうと思っているのでしょう。ところが律ちゃん、ぼくの肺はこのままほうっておくと、どうにもならなくなる状態なのだよ。手術が成功するかどうか、それはわからないが、とにかくぼくは、律ちゃんのために生きなければならぬと決心したんだよ」
悲痛な告白だった。私はただだまって、うなずくよりほかはなかった。その日から彼は、入院の部屋があくまで、私の病室に泊まることになった。この病室には、もう一人、五十年配の重症結核患者がいた。
達夫さんは朝起きると、私のために洗面の湯をくんで顔を洗ってくれた。食事の世話から代筆、湯タンポの入れかえまで、まめまめしく働いてくれた。
朝食が終わると聖書を読んでくれる。私は安静に入る。それから彼は私のまくら元で読書をしたり、短歌を作ったりする。ノートに書いた短歌をあれこれと推《すい》敲《こう》している彼の姿を、私が手鏡にとらえて見つめていると、それに気づいた彼は、照れたように微笑する。私はうろたえて視線をはずす。ただそれだけのことで、私たちは幸《しあわ》せであった。
夜は再び聖書を読み、彼は私のベッドの下にふとんをしいて寝た。消灯後、ベッドの下からそっと手をのばして、私の髪を、さもいとしげにやさしくまさぐることもあった。これが、まじめなクリスチャンである彼の、せいいっぱいの愛撫であった。
九日目に、彼はあいた病室に移された。あとにも先にも、私と彼が、同じ部屋で昼夜をともにしたのは、この九日間だけであった。
彼はこの手術で肋《ろつ》骨《こつ》を八本とった。私はこのときほど、病気の自分を情けなく思ったことはなかった。同じ病院にいながら、看病はおろか見舞うこともできないのだ。彼の生涯におそらくただ一度の、危険な大手術だというのに、私はギプスの中で祈るよりほかに、なにもできなかった。
しかし、案じていた手術は無事に終わり、彼は三月に退院した。このまま自宅療養をつづければ、一年後には再び学生として復帰できる見通しがついた。彼の退院後まもなく西村先生が病気に倒れられて、三カ月後の七月十二日に脳溢血と心臓マヒを併発して亡くなられた。
お葬式の日は、八百余名の参列者が、肉親の死を悼《いた》むように、声をあげて泣きくずれたというニュースを、私はベッドの中で看護婦さんからきかされた。
私は、達夫さんが退院して去り、いままた西村先生を失った札幌に、これ以上とどまっている気になれず、絶対安静の身をふりきって退院することにした。兄と弟たち三人が迎えにきてくれた。自動車の中でも汽車の中でも、私はギプスの中に寝たままであった。達夫さんが退院して七カ月後の十月二十六日のことであった。
五
弟が徹夜で貼ってくれたというクリーム色の壁紙で、すっかり明るくなった私の部屋に、二年ぶりで帰った。わらぶとんも真新しいものが用意されていて、家人のいたわりが身にしみた。
達夫さんが、さっそく訪ねてきてくれたが、なんとなく元気がなく、顔色もわるかった。
「達夫さん、あなた、どこかわるいんじゃないの」
不安がってたずねる私に、彼はさびしげにほほえんで見せた。
「やっぱり律ちゃんにはわかるんだな。心配するといけないから、父にも母にも言わなかったけれど、実はね、このごろときどき血痰が出るんですよ」
私は、自分の頬から血の気《け》がスーッとひいてゆくのを感じた。血痰が出る、それは明らかに手術の失敗ではないか。私が涙ぐむのを見て、彼は快活そうに言った。
「そんなに心配しなくても大丈夫。パスもあり、マイシンもあるんだからね」
その後、彼は、三度くらい訪ねてきてくれたが、あまり元気はなかった。十一月十六日は朝から雪が降っていた。彼は、私のために年賀ハガキを買ってきてくれた。そして、「律ちゃんの痰も培養してもらったらいい」と言って、わざわざ保健所まで出かけて行き、その足でまた立ち寄ってくれた。
そして帰りしなに、ていねいにおじぎをして、「そろそろ寒くなりますから、ぼくもすこし安静にしますよ。こんどはクリスマスにきますからね。律ちゃんもカゼをひかないようにしてください」と言った。
彼は帰りかけて、またおじぎをして、なにか二言三言しゃべり、またおじぎをした。そしておしまいに彼は笑い出して、「きょうは、なんべんおじぎをするのでしょうね。実は握手をしてほしいんだが、それがなかなか言い出せなくて……」と言いながら、そっと私の手をとった。六年もつきあっていて、まだ握手をすることさえ遠慮がちな達夫さんだった。
彼は、私の手をにぎると、安心したように、もう一度「さよなら」を言って、しずかに障子をしめて出て行った。
クリスマスがきたが、彼はこなかった。正月にもお母さま代筆の年賀状がきただけで、彼の訪問はなかった。私の不安はつのりにつのった。
一月の終わりに、お母さまの代筆で、彼が喀血で臥《ね》ているという知らせがあった。あいにく、私もそのころ血痰がつづいて、不快な毎日を送っていたが、彼の病状はいっそう心配だった。
その後もときどき、お母さまから様子を知らせていただいたが、不安はますますつのるばかりだった。
五月二日、朝から熱があって、胸苦しかった。こんな気分のわるい朝は、達夫さんもきっと苦しんでいるにちがいないと思った。このときすでに、彼は地上の人でなくなっていることを、私は知らなかったのである。
夕食が終わると、父と姉がそろって私の病室に入ってきた。
「達夫さんのことをお知らせするのだが……」と、父が言いかけるのを、引ったくるようにして私は叫んだ。
「死んじゃったの?」
自分でもびっくりするほどの甲《かん》高《だか》い声であった。私の胸の中に、はげしい怒りが噴き上げてくる思いだった。そうだ、それはたしかに怒りの感情であった。達夫さんのように、誠実に生き通した青年が、またとあろうか。この誠意の人の若い生命を奪い去ったものへの、とめどのない怒りが、私の身をふるわせた。
私は、姉にたのんでハサミを持ってきてもらい、ふるえる手で前髪をプッツリと切り、半紙に包んで姉に託した。この髪に私の写真を添えて、彼の棺の中に入れてもらった。
六
姉の語るところによれば、達夫さんは昨夜七時半ごろ、意識が不明となり、今暁一時十四分に息《いき》を引きとったそうである。家人は、私がおどろいて心臓マヒでも起こしはせぬかと心配して、いままで知らせずにおいたとのことであった。しかしどういうわけか、私は心臓マヒも起こさなければ、気絶もしなかった。
彼の家と私の家は、わずか六町しか離れていないのだ。ハイヤーにのせて、つれて行ってほしかった。せめて一目、彼の死顔を見たかった。しかしギプスベッドで絶対安静をしいられている病人では、どうにもならなかった。
達夫さんが亡くなって一カ月目に、彼のお母さんが訪ねてくださった。顔を合わせるなり、二人はホロホロと涙をこぼして泣いた。
そのとき私は、彼の形《かた》見《み》の丹前と遺書、ノートにメモした遺言、彼の日記と歌稿、私から彼に送った六百余通の手紙(それは日づけ順に番号がつけられて、いくつもの菓子箱にキチンと整理してあった)などを受けとった。
私への遺言は、まだ病状の軽かったころに書かれたもので、封筒には印鑑が捺《お》してあった。
「律ちゃん、長い間、せいいっぱいの愛情で交際してくださってありがとう。おたがいに誠実に交わることができたことを感謝いたします。私が死んでも、律ちゃんは生きることをやめないでください。私の律ちゃんは、そんな弱虫ではありませんでしたよ。私にとって、律ちゃんは最初の人であり、また最後の人でした。しかし、律ちゃん、私は律ちゃんの最後の人であることを必ずしもねがってはいませんよ。(下略)」
わが髪と君の遺骨をいれてある
桐の小箱を抱きてねむりぬ
私は彼の日記を丹念に読んでは泣き、泣いてはまた読んだ。私はときどき、死の誘惑に引きこまれそうになった。
しかし、私はここで自殺を考えるどころか、死んだ達夫さんの分まで、生き通さなくてはならないのではないかと、自分を叱った。三十五歳の若さで死んだ彼が、もしまだ生きていたら、なにをしようかと思ったか。とにかく私は、彼の遺志を受けついで生き長らえなくてはならない。
七
達夫さんが亡くなるすこし前に、私は葉山教会の宮崎牧師が自ら編集していられる月刊誌「さけび」を、教会にも行けない療養者のために送ろうと思い立ち、その旨を「保健同人」に投書した。その投書を見て全国各地の療養クリスチャンから、たくさんの便りが寄せられた。
私は、一枚のハガキを書いてもくたびれて、三日ぐらいはなにもできないほどだった。しかし私は仰臥のままで、一枚一枚に心をこめて返事を書き、「さけび」を添えて送った。
世には私よりも、もっと悲惨な人がたくさんいた。膝関節結核で立つか寝るかしかできず、坐ることも腰かけることもできない人。長いことわずらっていて実の子どもにさえ愛想をつかされて、まくらを投げつけられた母親。療養中に夫が家に引き入れた女に、めんどうを見てもらっている人妻。そんな人たちにくらべると、私は幸せすぎるほどだった。
病む人々からは、私のハガキに対する感謝の返事が、ぞくぞくともたらされた。私のようなものの書いた一枚のハガキに、これほどまでよろこんでくれる人がいるということを知ったのは、これからの私の生きてゆく支えとなった。人を慰めることは、自分を慰めることであるという平凡な事実を、私は改めて教えられた。
病む友の一人一人の名を呼びて
祈る聖画のもとに臥す日々
私が文通している一人に、菅原豊さんという方があった。西村先生の教え子で、「いちじく」というキリスト誌を自分で編集し、自分でガリキリまでしていられた。私はその誌友だった。
この「いちじく」には、全国の療養者や死刑囚の方々が多くの便りを寄せていたが、昭和三十年のはじめに、私と同じ市の林田満さんという人の手紙が、「いちじく」にのっていた。その手紙に囚友のことばかり書いてあったので、私は、この人も死刑囚の一人にちがいないと思ってしまった。
達夫さんの一年忌もすぎた六月十八日、美しい土曜日の午後のことだった。母が一枚のハガキを手にして入ってきた。
「林田さんという方がお見えになっていますよ」
私は、あっとおどろいた。そのハガキは、菅原さんから林田さんに宛てたもので、私のアドレスを記し、折があったら一度見舞ってあげてくださいと、書いてあった。
死刑囚だとばかり思っていた林田さんの訪問に、私は自分の早のみこみをおかしがりながら、病室に通っていただいた。
廊下をわたるしずかな足音がして、白っぽい背広の青年が、ひっそりと部屋に入ってきた。一瞬、私はドキンとした。亡き達夫さんにそっくりの人だったからである。初対面のあいさつを交わしてみると、その話しぶりまでが、亡き人によく似ているではないか。
そのころ私は、ベッドの上に坐ることもできるし、部屋の中を二、三分ぐらい歩くこともできる状態だった。そのことを申し上げると、林田さんはたいへんよろこんでくださった。林田さんご自身も、十四年前に腎臓結核の手術をしたが、いまは全治して市内のあるお役所に勤務しているとのことであった。
「膀胱が痛んで横になることもできず、坐ったままで、ふとんに寄りかかって眠ったほどでした。その私が、いまでは役所勤めができるようになったのですからね」
難病を克服し得た人の、自信に満ちた清潔な表情だった。そのおちついた語り口までが、かなしいまでに、達夫さんに似ていた。彼は私のために、聖書の一節を読み、讃美歌をうたってくれた。彼の声は讃美歌をうたうための声のように美しかった。
その夜、私はすぐに彼へお礼のハガキを書いた。そしてまた訪ねてきてほしいと書き添えた。しかし彼からの返事はなく、また訪ねてもくれなかった。菅原さんの依頼で、一度だけ仕方なく見舞ってくれたのかもしれない。いや、もしかしたら、林田さんは人間ではなかったかもしれない、私があまりに亡き人を慕っているので、神さまが、ひそかに憐れんで、あの人をよこしてくれたのかもしれない。
あれこれ思いめぐらして一カ月半ほどたった八月のある日、こんどは父が、
「律子、達夫さんの弟さんがお見えになったよ」
と、知らせてくれた。案内されたのは、達夫さんの弟さんではなくて、林田さんであった。父までが、見まちがえたのである。神さまは一体、どんなおつもりで、達夫さんによく似た人を、私にお引き合わせくださったのであろうか。
八
八月二十四日、三たび訪ねてきた林田さんは、帰るとき、私のために祈った。
「神さま、自分の生命を律子さんにあげてもよいから、どうか、治してあげてください」
私は、この祈りにはげしく感動した。このときまで、私のためにこのような祈りをしてくれた人はなかったからである。私も数多くの療友のために、毎日午後三時には特別の祈りをささげていた。しかし、自分の生命をあげてもよいからと祈ったことはなかった。
私は感動のあまり、思わず彼に手をのべた。その私の手を、林田さんはしっかりとにぎってくれた。彼にとって、これが異性とのはじめての握手であったと、後になって私は聞かされた。
そのことがあってから、彼は月に二回か三回ぐらい、教会の帰りに訪ねてくれた。
秋も終わりになるころ、私は、また熱を出し、盗《ね》汗《あせ》に悩まされて、面会謝絶の生活に入った。
父《ちち》母《はは》に秘めて血を喀《は》くこの夜の
部屋の空気は蒼く見ゆるも
面会謝絶をつづける私に、林田さんは、果物や手紙をとどけてくださった。玄関まできている人に、一目も会えないもどかしさが、私をわびしがらせた。
私は一体、林田さんをどう思っているのだろうか。これほどまでに林田さんをなつかしがる心は、単なる友情にすぎないのだろうか。それとも林田さんが達夫さんによく似ているので、こんなにも会いたくなるのであろうか。ただそれだけであろうか。
林田さんと達夫さんは別人である。似てはいるが、ちがった人格をもっている。私は林田さんを、達夫さんの代用品として見ているのではない。
面会謝絶が解かれた日の夕方、林田さんが訪ねてきてくれた。そしていきなり、
「こんど、ぼく転任になりましてね」
と言った。私はその一言で、自分でもわかるほど、さっと蒼ざめてしまった。その私を見て、彼はあわてて言い添えた。
「すぐ近くのK村ですよ」
私はほっとした。K村なら、彼の自宅から通うことのできる距離だったのだ。彼が帰ったあとで、私は考えた。彼の転任の話に、私はなぜ目先が真っ暗になるような思いをしたか。私は彼を愛しているのだろうか。否、否、私は一日として達夫さんのことを思い浮かべぬ日はない。達夫さんのおもかげを忘れ得ずにいて、どうして他の人を愛することができようか。
私は病人である。いまは便器こそは使わないが、終日、ギプスの中に臥ている身ではないか、年齢は三十四歳。もちろん美人ではない。異性を愛する資格もなければ、愛される資格もない。
九
微熱、盗汗、肩こりの苦痛が毎日つづいた。発病以来十一年、結核もこじれると、なかなかガンコである。恋愛どころではない。
癒《い》えぬまま果つるか癒えて孤独なる
老に耐えるか吾《われ》の未来は
いつ治るともわからぬ自分の病気を思って、私はいままでの歌を一冊のノートに整理した。そしてノートの表紙に「私が死んだら、このノートを林田さんにあげてください」と書いておいた。歌は拙《つたな》くとも、私なりにせいいっぱい生きた姿を、だれかに見てほしかった。
私が死んでから見てもらうつもりのノートを、ある日、林田さんに渡した。彼はノートを手にとったが、表紙に書いた「私が死んだら」という文字を、ナイフできれいにけずりとった。
「必ず治りますよ」
林田さんは、叱るような口《く》調《ちよう》でそう言った。彼は、そのノートに記した私の歌、
クリスチャンの倫理に生きて童貞の
ままに逝きたり三十五歳なりき
という、達夫さんを思う歌に、ひどく感動してくれた。七月十九日、中庭に大輪のバラが美しくひらいたその日、林田さんから手紙がきた。
手紙には、あなたの死んだ夢を見て、涙のうちに一時間あまり神に祈った。役所に出勤して後も、しばらく瞼《まぶた》がはれていたとあり、最愛の律子さんへと結んであった。私は、「最愛」という文字を、くり返して読んだ。
林田さんはまだ三十二歳、かつて腎臓結核を病んだとはいえ、公務員としての激務にも耐え得る人である。私のような病人でなく、もっと健康な、もっと若い女性を愛すべきではなかろうか。私は彼の、一時的かもしれない同情に、甘えてはならないと思った。
そう反省しながらも、私はやはり弱い女だった。林田さんの愛情を拒否するほどに理性的ではあり得なかった。いつのまにか私は、林田さんを深く愛するようになってしまっていた。林田さんは、ある日、私にこうささやいた。
「ぼくの気持ちは、単なるヒロイズムや、一時的な同情ではないつもりです。私は律子さんの、涙に洗われた美しい心を愛しているのです」
私はこたえた。
「私はこのとおりの病人なのですよ。愛してくださっても、結婚はできませんわ」
彼はささやいた。
「治ったら結婚しましょう。治らなかったら、ぼくも独身で通します」
私は、彼の言葉に心動かされた。しかしただ一言、正直に言っておかなくてはならぬことがある。
「私はそれでも、達夫さんのことを、忘れられそうにありませんわ」
「もちろんですよ。あの人のことを忘れてはいけません。あなたは、あの人にみちびかれて、クリスチャンになったのです。私たちは、あの人によって結ばれたのです。律子さん、私たちは、達夫さんによろこんでもらえるような二人になろうではありませんか」
林田さんの目は涙で光った。私はそっと林田さんの手をとった。
「神さま、聖旨《みこころ》のままに。どうぞ私たちの愛を清め、高めてください!」
手と手がにぎり合わされて、ひそかな祈りの言葉が二人の唇から流れた。
十
それ以来、彼は土曜日ごとに私を見舞ってくれた。そして療養のじゃまにならないように気をつかって、一時間くらいでさっさと帰って行った。彼はひどく意志的であった。「信仰とは望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を確認することである」という聖書の言葉を色《しき》紙《し》に書いてきては、病室の壁に張りつけて私を激励した。
そのせいか、私もようやく元気をとりもどして、彼を玄関まで送って行けるほどになった。
あるとき、十日ほどの出張旅行から帰ってきた彼は、美しい女文字の手紙を私に示して、こう言った。
「二人の間には、どんな小さなことでも、かくしごとはないほうがよいと思ったから持ってきたのです」
それは、彼の出張の留守にとどいた手紙であった。長いこと彼をひそかに慕っているその女性の、ゆかしいまでに美しい心情が、たくみな文章で告白されていた。
「私はいつも、風の吹くまえに戸を閉める主義で、この女性とも、二人きりでお話をしたことはなかったのです」
私はしかし、この手紙を見て、心が乱れた。この若い健康な女性こそ、彼の伴侶にふさわしい人ではなかろうか。手紙の文面には、その人のやさしさと聡明さが、ゆたかにあふれていた。
林田さんは、私のことをこの女性に手紙で書いて知らせたものとみえて、数日後に再びその女性から手紙がきて、お二人のご幸福を祈りますと、つつましやかに書いてあった。
そのころ私は、小《こ》菅《すげ》の死刑囚の方の紹介で、五十嵐健治さんというクリスチャンの方と文通していた。この人はすでに一年以上も、私にキリスト誌を毎月送りつづけてくださった。なんの不自由もない、お金持ちの方らしかったので、私はつい礼状ひとつも差し上げずにいたが、いくらか気分がよくなったので、お礼のハガキを出したら、折り返して封書で、「あんなものでも読みつづけてくださってありがとう」と、あべこべにお礼を言われておどろいた。
あとで知ったことだが、この五十嵐さんという方は、東洋一のクリーニング会社として有名な白洋舎を創業した方で、八十歳を超える老紳士であった。この五十嵐氏のご好意で、私は三十本のストマイを贈っていただいた。
これまで十二年間、安静療法だけで通してきた私は、はじめて最新の化学療法を受けることができた。このような見知らぬ方のご好意と、林田さんの絶えざる激励に刺激されて、私は、積極的に生きようとする意欲をかきたてられた。
十一
私は病床に横たわりながら、室内装飾のデザインを考えた。そして、そのデザインを商品化して売ることになった。弟がその販売ルートを見つけてくれた。こうしてギプスの中に臥《ね》ていながら、月に二千円から三千円の収入を得るようになった。
生きることのたのしさが、私を勇気づけた。十カ月払いで電気洗濯機を買った。母の労をすこしでも軽くしたかったからである。その次には、また月賦で電気炊飯器を買った。
自分のデザインしたものが商品となり、それが売れてゆくということは、お金に代えられぬたのしさだった。療養所から出て仕事をしたがっている友人たちにも、この仕事を手伝ってもらった。
こんな生活の中で、私は次第に元気になり、コルセットをつけて散歩できるまでになった。昭和三十三年の夏、私は自分でかせいだ二万円のお金をたずさえて、札幌の北大病院に行った。
精密検査を受けてみたら、おどろいたことに、血痰や喀血でしばしば私に死の恐怖を与えた空洞が、いまや、完全に治っていた。カリエスも、足かけ七年のギプス生活のおかげで、見事に治っていた。ただすこし、結核性腹膜から婦人科のほうがわるくなっていたが、これも二カ月の入院治療で全治した。十貫足らずの体重が、十四貫にふえていた。
十二
明けて昭和三十四年の正月、林田さんが真先に年賀にきてくれた。彼は終始にこにこと、私の顔を見て笑っていた。
彼が帰ったあと、夕食のとき、母が笑いながら父に言った。
「とうさん、ことしはタンスを買わなくちゃなりませんよ」
「タンスを? どうして?」
父は不思議そうに母を見た。
「だって、律ちゃんがお嫁に行くんですもの……」
「律子がお嫁に? 相手はだれだ? 人間か?」
父は、ふざけて言ったのではなかった。病気あがりの三十七歳の娘に、お嫁のもらい手があろうとは、実の父でさえ、思いがけぬことであったにちがいないのだ。私はいまさらのように、林田さんの誠実さに打たれた。
「林田さんが、結婚してくださるんですって……」
母が、声をふるわせて、そう言った。部屋の中が急にシーンとしずまりかえった。
一月九日、彼の兄さんが正式に、結婚の話をまとめにきてくださった。ご家族のみなさまが、私との結婚をよくぞ許してくださったと、私は心から感謝した。
それからまもなく、教会で婚約式が行われた。その場で二人は聖書を交換した。式を終えて外に出ると風がひどく、雪が横なぐりに吹きつけた。その雪は、やがて雨になり、あられにかわった。
二人の前途の多難さを思わせるような悪天候だったが、ふと見上げると、雲のきれまから明るい日が射しこんでいた。雲の上には、いつも太陽が輝いている。そうだ、どんな悪天候の日でも、その黒雲の上にはきらきらと太陽が輝いているのだ。その太陽を見失ってはならない。
結婚式があと半月という五月の十日に、私は三十九度の発熱で倒れた。医師はペニシリンを打ち、クロマイを与えてくれたが、熱はすこしも下がらなかった。
各地の療友からは、毎日のように結婚祝いの手紙や品物がとどけられるし、祖母や叔父は、三面鏡やタンスを買ってくれた。それらの品々にかこまれて臥《ね》ている私の熱は、一週間たっても下がらないので、父も母もおろおろしていた。
私もつい気が弱くなって、林田さんとの結婚は神さまが許したまわぬのではないかと、勘ぐりたくなった。そうした中で、ただ一人、林田さんだけは平然としていた。
「必ず予定どおり結婚式をあげることができますよ。私たちを結び合わせてくださった神さまを信じましょう」
彼の信念に狂いはなかった。式の前日になって、私の熱はウソのように下がった。当日は汗ばむほどにあたたかく、北国の五月にしては珍しいほどの好天気であった。
ウェディングマーチの高鳴る中を、私は彼とともにしずかに壇上に進んだ。私たち二人で選んだ讃美歌が、百二十余の参列者の方々によって、高らかに合唱された。
わが行く道 いついかに
なるべきかは つゆ知らねど
主は みこころ なしたまわん
後記。あれから二年半あまり、私たちは朝夕を祈りと聖書の中に送っている。夫はいつも達夫さんの写真をパス入れに入れて通勤している。達夫さんのご両親とも、その後ずっと、親しくおつきあいしている。最近、達夫さんの従弟と、私の従妹が婚約したのも、つきせぬ縁であろう。
創作秘話(三)
「塩狩峠」執筆の動機等
「道ありき」出版に至るまで
三浦光世
「塩狩峠」執筆の動機等
小説「塩狩峠」は、綾子にとって初めての月刊連載小説であった。「氷点」が一九六四年十二月九日から、一九六五年十一月十四日まで、朝日新聞に毎日連載されたことは、本選集「創作秘話(二)」で書いたとおりである。したがって、「塩狩峠」の連載を求められたのは、多分「氷点」の日刊連載が終わる頃であったと思われる。
日本キリスト教団出版部から、文芸評論家であり、「信徒の友」誌の編集長(のちに牧師)佐《さ》古《こ》純《じゆん》一《いち》郎《ろう》氏が来宅され、同誌に月刊小説を書いて欲しいと言われて、妻綾子はお引き受けし、一九六六年四月から連載を始めたのが、この「塩狩峠」である。連載は二年半に及んだ。
内容は、私たちの属する旭川六条教会の大先輩、長野政雄氏をモデルにしているが、小説の主人公の名は永野信夫となっている。これは長野政雄氏に関する資料がほとんど残っていなかったため、おおよそ綾子の創作となっている。実在の長野政雄氏は、綾子があとがきでも書いているとおり、作中の永野信夫より、はるかに優れた人物であった。
この人物を書くきっかけについては、綾子のエッセイ集「遺された言葉」(二〇〇〇年刊)の中に、「愛と謙遜」という表題で載っているが、ここに少しく引用し、私の記憶も交えて書いておきたい。
<藤原栄吉氏、年はその時八十一歳であったか、八十二歳であったかは忘れた。
私が初めて会ったこの藤原栄吉氏は、私に長野政雄という人物を知らせてくれた忘れ得ぬ人である。
長野政雄――その名を知る人はいまや少ない。この名は私の小説『塩狩峠』の主人公永野信夫のモデルである。長野政雄氏は旭川から約三十キロ北にある塩狩峠で、暴走し始めた客車を、線路に身を投じて止め、自らは命を捨て、乗客を助けた人である。
私は藤原氏が長野政雄氏の直属の部下であったことなど全く知らずに初対面をしたのは、ある年の六月、旭川六条教会の研修会のあった日のことだった。研修会では最初に自由懇談があった。皆、心の中を自由に話し、さまざまな意見を出した。それぞれ活発な意見だった。私には愉快な会だと思った。
やがて司会者によってプログラムは進行した。その時、見知らぬ老人がどしどしと意見を吐かれた。おもしろい人だと思ったが、少し発言時間を一人で長く取り過ぎるように思われた。
研修会後の二週目の日曜日の礼拝後、牧師が私に分厚い封書を手渡した。藤原栄吉氏から牧師宛の手紙である。読んでみて私は驚いた。一言で言えば、
「この間の研修会はまことに不愉快でした。あの婦人は、いったい何者ですか。わたしの述べる意見にいちいち批判を加え、もしくは反対意見を述べました。もはやあの婦人と同席することはご免蒙りたいと思います」
というような内容であった。
私は動転した>(以下略)
塩狩峠にある長野政雄氏の遺徳顕彰碑。
教会では時々、信徒研修会を持つ。一日とか半日とか、その時によって時間は異なる。二日か三日、共に旅行先で催されることもある。この時は、確か日曜日の午後、市内の常盤公園でなされたと覚えている。常盤公園は広い池や、築山、石狩川の土手、その他木立ちも芝生も美しく、全国的にもかなり魅力ある公園の一つと、常々私は思っている。
この公園で、六月のあたたかい日射しのもと、いくつかの分団に分かれて、自分たちの信仰や聖書について語り合ったはずである。私と綾子は別の分団であった。終わった時、彼女は言った。
「よかったけど、自分だけ長々と発言する人がいて……」
と言った。それが藤原氏であったが、よもや、もう同席ご免とまで言われるとは、夢にも思わなかったのであろう。率直な綾子のこと、遠慮せずに感想も述べたと思われる。それが藤原氏の怒りを招いたわけである。ここでふつうなら、
「なに言ってんのよ。あんな程度で同席ご免なんて、冗談じゃないわよ。こちらこそご免蒙りたいわ」
ということになるかもしれない。が、綾子にはそうした発想はない。直ちに牧師に同行してもらって、藤原さん宅にすっとんで行った。すぐには部屋にも上げてもらえなかったそうだが、幾度も平謝りに謝った結果、藤原さんはようやく心を和めてくれたという。
そして、藤原さんの机の上の原稿に目を注《と》めた綾子が、長野政雄氏のことについて、詳しく知らされることになり、小説に書かせて欲しいという話にまで至ったという。
もし、綾子が詫びに行かなかったとしたら、永久に「塩狩峠」は書かなかったであろう。この後、藤原さんはことのほか綾子を可愛がってくださり、教会の帰途、よく食事の店に一緒に入ったりした。六条教会にはこの藤原さんと、もう一人渋谷鉄雄という高齢者がおられた。渋谷さんは数え百歳で召され、藤原さんは九十何歳かで天に召された。お二人共実にお元気で、食欲も旺盛だった。姿勢もよかった。ある時私は藤原さんに尋ねた。
「長野政雄さんは、どんなお顔の方でしたか」
これに対して藤原さんは、私の顔を見、
「あなたのような顔でした」
と言われた。六条教会に一枚残っている長野政雄氏の写真とは、全く似ていない私だが、あるいはどこか似た感じもあったのであろうか。
渋谷さんの言葉で、忘れ得ない言葉がある。
「三浦さん、飴玉は体にいいですよ。唾液が出るので、いいんですよ」
以来、かれこれ二十年、私は毎食後バターボール一つを、欠かさず舐《な》めることにしている。
綾子が口述筆記を始めたのがいつ頃であったか、正確には覚えてはいないが、「塩狩峠」連載中であったことは確かである。取材で一緒に小樽へ行った時なので、私が職場の営林局を辞めたあとだったと思う。おそらく一九六七年の夏ごろかも知れない。
「わたし、きょうは肩こりがひどいので、わたしのいうとおりに、原稿を書いてみてくれないかしら」
小樽のホテルで、何回目かの「塩狩峠」を書こうとした時、綾子が言った。私は二つ返事で万年筆を握り、原稿用紙に向かった。所定の枚数を書き上げると、
「すごく楽だわ。これから、この方式でいきたいわ」
と言う。以来、そのほとんどを綾子は口述することになった。始めた頃は句読点も、「点」とか「マル」とか言っていたが、間もなくその必要はなくなった。ともあれ、「塩狩峠」の途中から口述が始まったということだけでも、「塩狩峠」は記念すべき作品なのである。
口述筆記という三浦文学を支えた作業は、「塩狩峠」執筆から始まった。
「塩狩峠」はテレビドラマにはならなかったが、映画にはなった。この映画が正に名画と言えた。中村登監督のもと、中野誠也、長谷川哲夫、新《あたらし》克《かつ》利《とし》の諸氏が名演技を見せた。特にふじ子役の佐藤オリエさんが実に光っていた。
このロケは旭川でもなされたが、列車暴走の場面は夕《ゆう》張《ばり》でなされた。国鉄は絶えず列車が走っているので、炭鉱の私鉄を借りたようであった。中村登監督が、中野誠也氏に、
「誠也さん、顔をもう少し左に……」
と、車中での撮影に、実にやさしい声で指示していたのを覚えている。映画監督はきびしいというより、荒っぽい言葉を使って俳優を叱りつけると聞いていたが、中村監督のそれは全くちがっていて、綾子と共におどろいたことであった。
この映画には全く違和感がなかった。映画でも、テレビドラマでも、どうしても原作と比較したくなるのだが、それぞれ独立した分野である。いちいちとやかくいう必要はない。只、この映画のラストが明るい終わり方になっていた。原作では、ふじ子が線路に突っ伏して、胸を突き刺すような声で泣いたと書いてある。そして、
<塩狩峠は、雲ひとつない明るいまひるだった>
で終わっている。一方映画の終わり方は、ふじ子自身が明るい感じで終わっている。この終わり方もまたよかったと、私は幾人かの人に聞いた。映画という時間的に制約された構成から言って、全くそのとおりだと私も思ったことであった。
この小説「塩狩峠」は、一時期「氷点」以上の出版部数にも達したが、今も尚多くの方に読みつがれている。そして、これを読んで自殺を思いとどまったという人も少なくない。中には十五年も一流企業に勤めながら、「塩狩峠」に感動のあまり、キリスト教の伝道者の道を志し、牧師になった方もいる。綾子の作品中、最も感動的な作と言えるかも知れない。何と言っても、長野政雄氏の死に方が多くの人に感動を与えてやまないのであろう。
この長野氏の墓が、旭川の墓地にある。が、なぜか教会全員にもしばらく忘れられていたようでもある。一度綾子と二人で渋谷鉄雄氏に案内されたことがあった。その時、かなり探して歩いてくださったが、見つからなかった。
その後、一九八五年に教会員の西岡信《のぶ》愛《なる》氏が再発見されたとか。このほど旭川六条教会創立百周年を迎えるに当たって、墓誌も設けたり、整備をすることになった。これによって、長野氏の信仰と働きは更に長く人々に記念されることになるであろう。
映画「塩狩峠」(一九七三年、ワールド・ワイド映画・松竹)のスチール写真。
「道ありき」出版に至るまで
一九五九年五月二十四日、堀田綾子と私は旭川六条教会において結婚式を挙げた。司式は中嶋正昭牧師であった。
このことは「道ありき」の終わりのほうにも書いてある。中嶋牧師は私より五、六歳年下であったが、実に優秀な頭脳の持ち主であった。フィリッピン生まれということもあって、英語はペラペラ、頭の回転の早いこと無類であった。
綾子が「氷点」を書いたあと、私は急性肺炎になった。一九六四年の一月だった。中嶋牧師はその頃、アメリカ留学を終えて札幌におられた。たまたま私を見舞に来た時、綾子は「氷点」の粗筋を中嶋牧師に告げた。布団に横臥しながら綾子の言葉を聞いていた私は、綾子に言った。
「そんなもたもたした説明では、何を言っているのか、先生もわからんだろう、綾子」
ところが中嶋先生は、
「うーむ。それはおもしろい。入選してほしいね」
と即座に言われた。私はおどろいた。いくら多くの信徒の悩みや訴えにいつも耳を傾けているとはいえ、こうまで瞬時に事のポイントを捉え得るものかと、私は心底感歎したのである。
中嶋牧師は残念ながら、数年前に癌のために天に召された。そして綾子も昨年一九九九年十月十二日、七十七歳の生涯を閉じたが、私たち夫婦は、中嶋先生にたくさんの指導を受けた。
「人間は、結婚したからと言って、それで夫婦になれるわけではない。一生かかって夫婦になるのである」
という言葉も、感銘させられた一つである。
結婚前の三浦さん夫妻。
話は前後するが、
「小説を書ける人は、この六条教会の中で、あなた以外にはない。教会の月報に小説を書いてくれませんか」
と、中嶋先生が綾子に言ったのは、一九六〇年秋頃だったと思う。間もなくアメリカ留学のため、ご一家で旭川を去る時が近づいていた頃のはずである。
<この教会の中で、小説を書ける人はあなた以外にはない>とは大変な言葉である。綾子が「氷点」に手を着ける三年前である。何を根拠にそんな言葉が出てきたか。綾子の短歌ぐらいは目にふれたことがあったかどうか。せいぜい何かのことで、綾子が先生に手紙を書いた程度のはずである。おそらくその手紙に、これは並みの文章ではないと、先生は見たのであろう。それにしてもおどろくべき、判断力である。
その言葉を真に受けたわけでもなかったろうが、綾子は六条教会の「声」というガリ版刷りの月報に、自伝的小説「暗き旅路に迷いしを」を何枚か書いた。先生はこれをたいそう喜ばれて、毎号書くよう勧められた。ところが綾子は二回でストップした。先生が留学のため、アメリカへ去ったからである。
「声」に掲載したその原稿は、他に発表することもなく、単なる一つの資料として、わが家に埋もれていた。ところが今年「遺された言葉」という綾子のエッセイ集が講談社から出版され、これに収録された。この本の三分の一は、綾子が本の出る度に私に贈った献辞を集めたもので、多分に私的なものである。綾子が見たら、
「こんなものまで、収録してくださったの……」
というにちがいない。「声」に載せた「暗き旅路に迷いしを」が、前記の単行本に収められたことも、綾子がいたらびっくりするかも知れない。が、「道ありき」の原点ということで、収録していただいた。この「暗き旅路に迷いしを」は、中嶋先生に「小説を」と言われたこともあって、その後に書いた手記「太陽は再び没せず」、更に自伝「道ありき」とは、かなり異なる内容となっている。登場人物の名前もほとんど仮名である。タイトルも「小説 暗き旅路に迷いしを」と、あえて「小説」の二字を冠している。ところどころ抄出してみよう。
<S駅を出ると、私は歩きにくい砂道をだらだらと登って行った。靴の中には忽ち砂が沢山入って、それが如何にも違う町に来たという直接的な感じであった。六月には珍しく暑い陽ざしで、自分の影が濃く短く、地に映っているのを、私は息をひそめるようにじっとみつめた。死ぬ為に、はるばるとこの海辺の町に辿りついた自分の影がこんなにも、くろぐろと濃いということが、ひどく不思議な感じだった。このS町には不相応に大きいS館は、客が少なくひっそりしていた。私は部屋に案内されると、静かに身を横たえて目をつむった>
こんな書き出しで始まり、幼馴染との回想、聖書についての語り合い、自殺についての見解などが書かれていく。自殺については、
「自分の命を賭けてまで、自分の主張を通すというのが自殺ですからね。罪の最たるものです」
という幼馴染に言われた言葉を書いているが、これは確かに自殺に対する的確な見方であろう。
お二人が知り合うきっかけとなった「いちじく」。
小説は更につづく。
<女中が夕食を運んで来た。私は自分の前に置かれた膳に向かった。とにかく夜になるまでは人に怪しまれてはならなかったからである。
小さな飯びつから自分で茶わんに飯を盛りつけながら、私は思った。人間は生きる為に食べるとか、食べる為に生きるとか云うけれど、今私が食事するのは生きるということに何のかかわりもないことなのだ。こんな全く命にかかわりのない食事をする時が来る事を曽て一度でも思いみた事があったであろうか。
夜になった。急に激しい風が窓にぶつかるように吹き出した。星あかりもない夜である。私の様な女が死ぬには相応《ふさわ》しい真暗な夜であった>
以下、海べに行き、水に入って行く場面があり、思いがけず助けられる次第が書かれてある。四百字原稿用紙にして十枚もない程度の長さで、これを二回に書いている。前述したとおり、綾子は二回でストップした。中嶋牧師がアメリカに行って、責任を逃れたとでも思ったか、もはや確かめる術《すべ》もないが、何か思うところがあったのかも知れない。原稿は月報「声」の一月号と二月号に載った。
その年、一九六一年春か夏、綾子は「主婦の友」誌に手記を応募することになる。これが「太陽は再び没せず」で、綾子は五十枚を書き送った。が、発表の時には綾子の名が全くなく、
「あら、没になったのね」
と、あっさりした態度であった。ところが編集部では「愛の記録」という企画を別に設けて、一九六二年(昭和三十七)一月号の「主婦の友」に綾子の作品が第一回の入選となった。一旦は落選と思っていただけに、綾子本人も私も大いに感謝した。その「主婦の友」一月号は、前年十二月に送られて来て、うれしい年末となった。賞金は二十万円であった。
「主婦の友」一九六二年新年号に掲載された「太陽は再び没せず」。
この「太陽は再び没せず」は、「声」に書いたものを踏まえてはいるものの、手記であって小説ではない。自分の体験を五十枚にまとめたものである。但し著者を林田律子というペンネームにしている。登場人物もほとんど仮名となっている。今にして思うと、別に筆名や仮名にする必要はなかったはずであるが、どんなつもりであったろう。
先ず私たちの結婚式、そして六条教会のホールでの粗末な披露宴から筆を起こして、著者自身の戦後、結核発病、幼馴染の登場、彼への反撥、やがてその真実な人間性に、遂には心をひらいて、聖書に示すキリストを信ずるに至るが、受洗後二年にして幼馴染の彼が彼女を置いて召天する。そしてその一年後、私が彼女を見舞に行き、足かけ五年目、彼女が奇跡的に癒されて結婚するという過程がまとめられている。結婚式当日から始めて、その日に終わる構成で、なかなか巧みに書いていると言える。
この手記は、一九七二年、主婦の友社から、
「太陽は再び没せず
夫婦愛に生きた記録11篇」
として、一冊の中に収録された。この一冊が送られて来た時も、綾子は早速私に献辞を書いてくれた。
「九条十四丁目のあの一室だけの家で、はじめて書いた手記。これも又神のみめぐみと光世さんの愛によって生まれたのです。 綾子
光世様」
という献辞であった。(「遺された言葉」に収録)
この手記の入選は、後々綾子に少なからぬ影響をもたらした。もし入選がなかったなら、一九六三年一月一日、綾子の父母の家に年始に行った時の会話は出てこなかったはずである。創作秘話(一)の冒頭に書いたとおり、綾子の母はその時言ったのだ。
「これを秀夫が綾ちゃんに見せるようにと言って、出て行ったよ」
おそらく弟秀夫は、「太陽は再び没せず」の入選が頭に浮かび、朝日新聞の社告を見せたいと思ったのであろう。一九六四年六月、来宅くださった朝日新聞社のデスク門馬義久氏も、「氷点」を評価するに当たって、かなりの比重をもってこれを参考にされたかと思われる。まことにありがたいことであったと言わねばならない。
しかも、これを土台に「道ありき」を「主婦の友」誌に連載することになったのである。連載は一九六七年一月号から一九六八年十二月号に及んだ。連載が終わった翌年一月三十一日、「道ありき」は早くも単行本として、主婦の友社から刊行された。「道ありき」の題字の下に「青春篇」という字句が加えられた。続いて結婚篇を書くことが求められていたからであろう。
この一連の出版では、今は亡き高《たか》塩《しお》幸《さち》雄《お》氏(当時主婦の友社出版局長)に、ひとかたならず世話になった。にもかかわらず、失礼も多かったような気がする。一度こんなことがあった。「道ありき」の増刷の電話が氏からかかってきた時、間抜けた返事をしたのである。高塩氏は少なからず興奮した声でいわれた。
「今度『道ありき』を五万部増刷することになりました」
ここで私が、
「ええっ!? 五万部! そんな…… 大丈夫ですか」
と答えたら合格だったが、生来愚鈍な私は、
「ああ、そうですか」
と答えただけであった。何とも恥ずかしい限りであった。氏はさぞ拍子抜けしたことであろう。五万部の増刷は、当時といえども只事ではない。増刷という字を見る度に、私はこの時のことを思って、慚愧に耐えない。
ところで、「太陽は再び没せず」は、「道ありき」の新装版が一九八九年に刊行された時、その中にそのまま収録された。その新装版もかなりの版を重ねている。綾子がその巻末に書いている言葉を、あえて引用しておきたい。
前川正氏。
<新装版発刊に際して
本書「道ありき」の新装版に「太陽は再び没せず」を組み入れた。実はこの「太陽は再び没せず」こそ、「道ありき」の原型なのである。
これは一九六二年一月号の主婦の友誌に、『愛の記録』の入選第一号として掲載されたものである。つまり私の書いたものが、初めて活字化され、公《おおやけ》となった記念すべき手記なのである。枚数は僅か五十枚であったが、私はこの中に前川正との愛、そして求道、受洗、更に三浦との出会いから結婚に至るまでを述べた。小さな手記だが、これを読んで、無名の私に手紙をくれた人が幾人もいた。この時初めて私は、キリスト教界以外に呼びかけることの大切さを知った。これが発表されたことで、私は初めての小説「氷点」を書く勇気が与えられたと言ってもよいだろう。その意味で、私を引き出してくれた重要な一篇であると言える。この手記には、私は「林田律子」という筆名で応募した。入選の頃、三浦は旭川営林局に勤めてい、私は街外れで小さな雑貨屋を営んでいた。賞金二十万円の大きかったことも今は懐かしい。
一九八九年十一月>
綾子にとって「太陽は再び没せず」は、そのままにしておきたくなかったのであろう。「道ありき」の原型を、どうしても「道ありき」の中に収録しておきたかったのであろう。しかし文庫本には入っていないので、「太陽は再び没せず」を知らない方も多いと思う。
ところでこの五十枚の手記にも、「道ありき」本文の中にも、幼馴染の前川正氏(「太陽は再び没せず」では松宮達夫)と私が、酷似していたと書かれてある。
人間の顔は様々に変化する。これが自分の顔かと思う写真も時にはある。が、私が堀田綾子を初めて見舞った時の、彼女の抱いた私への印象は特別誇張ではなかったようである。私の写真の中には、確かに彼に似ている写真もある。二回目に彼女を見舞った時、綾子の父が「前川さんの弟さんが来た」と取次いでいることは「道ありき」の中にも書かれてある。結婚後幾年か経って、二人で上川町へ行った時、訪問先の婦人が、
「前川正さんの弟さんがお出でになられたと思いました」
と言った。また、こんなこともあった。当時旭川医大病院長の黒田一秀教授夫妻と私たち夫婦が共に食事をした時のことである。確か綾子が小説「青い棘」を書いていた頃で、その取材のために、度々おせわになっていた。黒田先生は前川正氏とは医大生当時、同窓生か同級生であった。その食事の席で先生は言われたのだ。
「いやあ、実に前川さんに似ているんだよなあ」
感情をこめた語調であった。残念ながら、私は一度も前川氏に会っていないが、かなり似ていたことは確からしい。なお、黒田先生はその後旭川医大の学長となり、退職された。綾子が札幌で療養中、
「自分の内側だけを見ないで、もっと他の人の苦しみにも目を向けるように」
とアドバイス下さった方で、信仰上でも綾子はいろいろとよい示唆を受けたようである。
前川正氏の死後、綾子はその遺言を受け取っている。「道ありき」に引用しているとおりである。遺言は三カ月も前に書いたもので、印鑑も押してあったとか。その中で、私には何としても忘れ難い言葉がある。
<……綾ちゃんは真の意味で私の最初の人であり、最後の人でした。
……一度申したこと、繰返すことは控えてましたが、決して私は綾ちゃんの最後の人であることを願わなかったこと、このことが今改めて申述べたいことです。生きるということは苦しく、又、謎に満ちています。妙な約束に縛られて不自然な綾ちゃんになっては一番悲しいことです。(以下略)>
綾子も書いているとおり、行き届いた配慮である。あるいは夢か幻で、綾子の未来が示されることもあったのか。「謎に満ちている」という言葉に、私は幾度もそんなことを思ってきた。綾子との四十年を思うにつけ、その言葉が必ず脳裡をかすめるのである。
三浦綾子小説選集3
塩《しお》狩《かり》峠《とうげ》 道《みち》ありき
三《み》浦《うら》綾《あや》子《こ》
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平成13年3月9日 発行
発行者 村松邦彦
発行所 株式会社 主婦の友社
〒101-8911 東京都千代田区神田駿河台2-9
MITSUYO MIURA 2000
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
主婦の友社『三浦綾子小説選集3 塩狩峠 道ありき』平成13年1月20日 第1刷刊行