三浦綾子
ひつじが丘
泳いでみたいような青い空であった。じっとみつめていると、空の奥からたぐりよせられるように、細い絹糸にも似た雲が湧いてくる。
昼食後、杉原京子は、教室の二階の窓によって、先ほどから空をながめていた。白い絹糸と見た雲は、みるみるうすいベールとなり、それがいつのまにかポッカリと空に浮かぶ雲となった。
ようやく雲が形をとると、京子は微笑して、視線を下の校庭に移した。人かげのない広い校庭に、バレーボールがひとつ転がっている。校庭の周囲には、六月の陽《ひ》をいっぱいに浴びたリラの花が咲いていた。
札幌の人々は、京子たちの学校を北水《ほくすい》女子高校と、正規の名前では呼ばず、もう長いことリラ高女と呼んでいた。リラの木が多かったからである。紫に白の絵の具をたっぷりとかきまぜたような、リラの花の色と、その香りが京子は好きだった。
透きとおるような色白の、どこかうれいのある京子の横顔は、セーラー服よりは、むしろ十二|単《ひとえ》でも似合いそうな風情があって、昭和二十四年の高校生とは思えない。
食事を終えた生徒の何人かが、机の上に腰をかけて、流行歌をうたいはじめた。
……誰を待つやら
銀座のまちかど……
流行のカンカン娘≠ナある。
すると、他の一団が対抗するように、
……あおい山脈
雪わりざくら……
と、うたいはじめた。
「カンカン娘」と「青い山脈」が教室いっぱいにひびいた。
と、その時、勢いよくこの三年A組のドアが開いた。急に歌声が低くなった。
「ビッグニュース。ビッグニュース」
明るい、よくとおる声で入ってきたのは、となりのB組の山崎タミ子である。ズングリとして色は黒いが、胸のホックが今にも弾《はじ》けそうな豊かな胸をしている。A組の生徒たちは、入ってきたタミ子を見て、思わずニヤニヤした。
タミ子は、ニュース屋を以て任じている。毎日のように、さまざまのニュースを同学年の四クラスに、にぎやかに伝えてあるく。だが、そのニュースなるものは、校長が廊下で紙くずを拾っていたとか、某先生は新しいくつをはいてきたとかいう類の、至って他愛のないニュースばかりで、きき耳をたてるほどのものではない。
しかし、身ぶり手ぶりの多い話し方に愛嬌があって、校長が紙くずひとつ拾ったぐらいの話でも、きく者をけっこう楽しませ、笑わせた。だから今も、A組の生徒たちは、笑う用意をして山崎タミ子を見たのである。
「どうせ、山崎さんのビッグニュースなんて、小使い室の三毛が子猫を三匹生んだなんていうぐらいのもんね」
誰かが茶化した。
「すごいのよウ。ああ、すてきな人!」
誰が何を言おうと、タミ子は気にもとめずに、大仰に自分の胸をだいて、ため息をついた。
「すてきな人? 誰のこと?」
クラス一の美人と自他共にゆるしている川井輝子が、勝ち気そうに、美しい眉をピリリとあげた。形はよいが細い目が冷たい。輝子は、今流行のロングスカートをまねて、規定すれすれまで長くしたスカートと、背丈をこれ以上どうすることもできないまでに短くしたセーラー服をたくみに着こなしている。
「誰がって、今ここにあらわれる人よ。転校してきたらしいの。このクラスの竹山先生と、校長室から出てくるのを見たのよ」
陽気なタミ子は、川井輝子のふきげんな様子に目もくれない。
「そんなにきれいな人?」
誰かが言った。
「もちろんよ。ミス札幌にでも、ミス北海道にでもなれるわよ。うそだったら、首あげる。とにかく、あんな感じの人、あまり見たことがないわ。さあ、忙しくなっちゃった。ほかのクラスにも知らせなきゃ」
山崎タミ子は、かけ足をするように、両のにぎりこぶしを腰にあてて、教室をとび出した。と思うと、すぐに引きかえして顔だけ見せて、
「きた、きた」
と叫ぶや、ウインクをして再び走り去った。
京子は思わず微笑した。うれしかったのである。川井輝子は、どういうわけか、このごろ京子につらく当たった。教師たちに、特に異性の教師たちに、京子が目をかけられるためかもしれない。
何よりつらいのは、小料理屋の娘である京子を、社長の娘の輝子が「パ《*》ンパン」とか「アンパン」とか、聞こえよがしに悪口をいうことであった。
(うちはパンパン屋なんかじゃないわ)
女手ひとつで、兄の良一と自分を育てた母の苦労を京子は知っていた。だから、パンパン屋などと言われる毎に、輝子を刺し殺したいほど憎くなるのだった。しかし京子には、勝ち気な輝子とは口争いすらできなかった。
いま、山崎タミ子が告げたような、美しい生徒が入ってくるならば、輝子は京子への意地悪いまでのライバル意識を、その人に移すにちがいない。そう思って京子はうれしかったのだ。
山崎タミ子が走り去ると、やがて担任の教師竹山|哲哉《てつや》が、教室の入り口に姿を見せた。
竹山哲哉は英語の教師である。ハラリとひたいに垂れた髪をかきあげるのが、生徒たちには魅力だった。竹山の気どらない、しかし熱のこもった英語の授業は人気があった。あるいは竹山が熱心な教師でなくても、人気はあったことだろう。二十六歳の独身の男性というだけで、女子高校の生徒たちには、じゅうぶん魅力的な存在である。しかも竹山は、どこにいても目につくほどの、清潔な感じの青年であった。
竹山の後から、転校生が入ってきた。よく伸びきった、均整のとれた肢体だった。その姿を見ると、ざわめいていた生徒たちは一瞬電流にふれたようにハッと息をのんだ。
「御紹介します。函館のT高校からこられたヒロノナオミさんです」
そう言って、竹山は黒板にていねいな字で、
「広野奈緒実さん」
と書いた。
深く静まりかえっているような、奈緒実《なおみ》の黒い瞳に、生徒たちの視線はたちまち吸いよせられた。
注視を浴びながらも、広野奈緒実は、はにかみもしない。木彫りのようなカッキリとした二重まぶたを、まばたきもさせずに、ゆっくりと一同を見わたして一礼した。それがひどく大人っぽい感じだった。
A組の生徒たちは、新任の教師を迎えるような錯覚を感じた。しかしそれは快い圧迫感であった。
「広野奈緒実さんのおとうさんは……」
竹山が言いかけた時だった。奈緒実はゆるくウエーブしたような長目のおかっぱを激しくふって、竹山の言葉をさえぎった。竹山はちょっと驚いたようすで、奈緒実をながめた。だが、すぐ二、三度うなずいて苦笑した。
「では、みんなで、仲よくして下さい」
そう言ってから、
「杉原さん」
竹山が京子を呼んだ。
「ハイ」
突然自分の名前を呼ばれて、京子はほおをあからめて立ちあがった。京子は、奈緒実を一目見ただけで、ふしぎな情感に胸をゆすぶられて、うっとりとその顔をみつめていたのである。
「あの人が、杉原京子さんです。杉原さんの横の席があいていますから……」
竹山はそう言うと、忙しそうに教室を出て行った。
奈緒実はゆっくりと京子のそばに近よった。京子は自分自身が転校生のように動悸しながら、
「あの……杉原京子です。どうぞよろしく」
とていねいにおじぎをした。奈緒実も京子も、相手が自分の一生に重大なかかわりを持つ存在になろうとは、この時は夢にも思わなかった。
奈緒実の目に親しみぶかい微笑が浮かんだ。京子はそれを見ただけでドキリとした。奈緒実は無言のまま礼を返して席に着いた。
奈緒実の席は窓がわであった。京子は言葉をかけようとして、いくどか奈緒実の方を見た。しかし奈緒実は、ただ黙って晴れた空をながめていた。
奈緒実には、話しかけることをためらわせる何かがあった。とりすましているのともちがう。冷たいというのでもない。自分の部屋にでも、とじこもっているように、奈緒実は見事に独りになっていた。
ほおづえをついて、空を見ている奈緒実には三年A組の誰にもないふしぎな雰囲気があった。それは孤独と呼ぶべきものかもしれなかった。
(川井さんなんか、足もとにも及ばないわ)
京子はそっと輝子の方をふり返った。
午後の始業のベルが鳴った。
その日の放課後、A組の生徒たちは何となく興奮していた。北国の六月の陽ざしは、金の砂のようにさらさらと肌に快い。彼女たちは、校庭のリラの木の下に腰をおろしていた。よく手入れされた芝生の上に、誰も彼も思い思いに足を投げだしている。
「あの広野さんていう人、変わってるわね。とうとう、誰とも口をきかずに、さっさと帰っちゃったわ。口ぐらいきいたって罰が当たらないんじゃない?」
川井輝子の刺すような口調だった。
「でも、わたしにはあれが魅力だな。あの人にペチャペチャ、おしゃべりされるより、ああしてじっと空でもながめていてほしいわ」
「ほんとうね。その方が何となく神秘的ですてきだわ」
「そしてさ。あの人すごく大人みたいでしょ? 頭もいいんじゃない?」
「でも、やっぱり、ちょっと不愛想だわ」
誰かが、輝子の肩を持った。
「あら、ひどいわ。不愛想じゃないわ。口をきいたって、愛想の悪い人は悪いわ」
「そうよ。広野さんって、何となくこうしんとしてさ。湖みたいだもの」
彼女たちは、てんでに奈緒実の印象を語り合っている。
「京子さん。あんたポーッとしていたわよ。お熱あげたんじゃない?」
「あら、京子さんは竹山先生よ。それよりあんただって、奈緒実、奈緒実ってノートに書いていたわよ」
「へえ、そうなの。わたしも負けずに、広野さんに熱あげようっと」
「のぞみなし、のぞみなし」
大半は奈緒実に好意的であった。
京子は、いま誰かに、
「京子さんは竹山先生よ」
と言われたことが心にかかった。竹山哲哉と、京子の兄の良一は大学時代からの友人だった。時折三人で街を歩くこともあって、それを見た生徒が、竹山と京子のことを、面白がって噂《うわさ》にしたことがあった。
(わたしは、広野さんとお友だちになりたいわ)
竹山には無関心なのだと、京子は自分自身に言いたかった。
芝生にリラの影がようやく長くなり、一同が帰りかけようとした時である。B組の山崎タミ子が上ぐつのまま、芝生の上をかけてきた。
「タミ子さん。今度は号外売りにきたの?」
誰かの言葉に一同は、はじけるように笑った。
「そのとおり。号外、号外。ところであのきれいな人さ。何ものか知っている?」
タミ子は人の笑いなど意にも介さない。
「何ものって、何のこと」
「つまりさ。どこのどなたか御存じですかって、言ってるのよ」
A組の生徒たちは、互いに顔を見合わせた。教師の竹山が、
「広野さんのおとうさんは……」
と言いかけた時の、激しく頭をふって、さえぎった奈緒実の印象が、みんなの心に残っていた。
(どんな家の人かしら?)
(もしかしたら、わたしの家と同じかもしれない)
京子は、奈緒実が自分と同じ境遇であることを、ひそかにねがった。
「あんた知ってるの。山崎さん」
一人が言った。
「勿論《もちろん》! 知ってるわよ。キミは地獄耳のおタミさんを知らねえな。竹山先生が、おとうさんの紹介をしようとしたら、あのきれいな人は、ダメ! って言ったんでしょ? それも知ってるのよ。わたしは」
「きれいな人、きれいな人って言わないでよ。広野奈緒実って名前がちゃんとあるのよ」
川井輝子が冷たく言った。
「知ってる、知ってる。広野奈緒実って名前ぐらい」
タミ子は男のような口調で言った。
「一体どこの娘なの」
川井輝子がじれた。
「まあ落ちついておききなさい。あんたのような、金持ちの社長の娘じゃないのよ。安心でしょ? さっきね、職員室へ行ったら、柴田先生が『今日入ってきた子は美人ですねえ。どこの娘ですか』って言ってるのよ。そしたら竹山先生が『牧師の娘なんですがね。そのことを紹介しようとしたら、いやだと言うんですよ。どうしてなんですかね』って言ってたの」
(牧師?)
京子はふいに淋しくなった。奈緒実は自分と同じ境遇の娘ではなかった。
「へえ、牧師さんなの? 何で知られるのがいやなのかしら」
北水女子高校は、ミッションスクールである。牧師は尊敬される存在だった。
「ほんとうにねえ。牧師さんのお嬢さんなんて、ちょっとすてきだわ。何も恥ずかしいことないじゃない?」
話し合っている級友たちを背にして、京子はしずかに立ちあがっていた。
竹山哲哉は、明日の授業の準備をしていた。放課後の職員室には、二、三人の教師しか残っていない。校庭の方から、時々喚声が聞こえてきた。教師たちのチームと、三年のチームのバレーの試合が、始まっているのだ。
「竹山君」
呼ばれて竹山が顔をあげると、向かいの席の幕田が長い顔をつき出すようにして、
「君のクラスの広野奈緒実ってのは、学習態度がいかんですなあ」
と言った。
幕田は五十近い国語の教師である。頭がすっかり白くなって、年よりずっと老けて見える。
「幕田先生の時間でも、悪いのですか」
竹山は思わず言った。幕田は、ミッションスクールの教師としては、型破りの男である。雷というニックネームで、時々落雷する。
「悪いどころじゃないよ、君。俺の方を見て話を聞いていることは一度もない。ノートもとらん」
幕田は呆《あき》れたように言った。
「注意して下さいましたか」
「いや、それがどうもね。あれはまた何となく注意のしにくい子でね。今日こそと思うが、何となく注意しそびれるんだな」
幕田は声をひそめるようにして苦笑した。
「そうですか。いやどうもすみません。ぼくから注意しておきましょう」
雷の幕田でさえ、注意しそびれるというのならば、他の教師たちも同様だろうと、竹山は思った。
竹山は、今も授業の準備をしながら、自分がいつのまにか、広野奈緒実を意識しているのに気づいていた。奈緒実は転校以来、十日を過ぎているのに、授業時間に挙手したことがない。ノートもとらない。
最初のうちは、転校してきたばかりで、この学校の雰囲気に馴染なじめないせいだろうと同情していた。何とかして、明日こそ一度ぐらい手をあげて答えてほしいと思った。クラスの全員が答えられるような質問も用意してみた。しかし、奈緒実は依然として窓の外をながめているだけであった。他の生徒が声をあげて笑う時でも、奈緒実は笑わなかった。
哲哉は、日が経つにつれ、次第にいらいらするようになった。このごろでは、奈緒実を思い出すだけで、教えるということに自信を失いそうになっていた。
翌日、竹山は奈緒実の態度を、決して許すまいと思って教室に出た。テキストは、竹山がガリ版刷りにした、|マ《*》ンスフィールドの「園遊会」である。奈緒実は、相変わらず視線を外に向けていた。
竹山は、むらむらする思いに耐えながら、テキストを読んでいった。彼は授業の流れを中断したくはなかった。一人の生徒のために、他の生徒たちの時間を割さくのは避けたかった。放課後に、奈緒実を呼んでよく注意した方がいいと思った。
授業時間も終わりに近づいていた。
「では、今言ったことは大切なことですから、ノートして下さい」
竹山はそう言って、生徒を見わたした。生徒たちは、一斉に前こごみになってノートをとりはじめた。竹山は奈緒実を見た。奈緒実の机の上には、ノートも筆入れも置いてはいない。
哲哉はついにたまりかねた。
「ミス広野!」
生徒たちが、思わずギクリと顔をあげたほどの、激しい語調だった。奈緒実は、ゆっくりと視線を哲哉に向けた。ふしぎなものでも見るように、奈緒実は竹山のきびしい視線を受けとめた。
「君は、なぜノートをとらない?」
奈緒実は、顔をあげてじっと哲哉をみつめたまま答えなかった。
「君は、今日ばかりじゃない。いつも授業時間中外ばかりながめている。一体何を考えているんです」
奈緒実は答えなかった。
「何を考えているのかと、きいているんだ」
哲哉は、鋭く問いつめた。奈緒実は静かに立ちあがった。生徒たちは、ノートをとるのも忘れて、奈緒実を注視した。
I have been thinking about your wife.What a wonderful woman she will be! How happy she is to be married to a man like you!=i先生の奥さんになる人はどんなにすてきな女性かと思っていました。先生のような方と結婚する女性は何という幸福なお方だろうと思っていたのです)
極めてあざやかな英語だった。美しい発音であった。しかし少し早口のため、生徒たちには意味がよく聞きとれなかった。けれども英語の時間とはいえ、叱責に対してとっさに英語で答えた奈緒実に、生徒たちは驚嘆した。
竹山の顔に血がのぼった。怒りに似て怒りではなかった。奈緒実の言葉を額面通り受けとったわけではない。だが二十六歳の独身の竹山には、強烈な言葉だった。一方ばかにされたような気がしないでもなかった。しかし竹山の怒りを軽くかわした奈緒実を叱《しか》る気にはなれなかった。叱れない自分が歯がゆくもあった。
ベルが鳴った。教室を出るとき竹山は奈緒実をふり返りたかった。しかしそのまま廊下に出てしまった。その日以来、奈緒実は三年A組の偶像となった。
朝からむしむしと暑かった。一学期の終わりの日であった。いよいよ明日からは長い夏休みに入る。京子は何とかして、一度奈緒実と一緒に帰ってみたかった。
奈緒実は竹山に注意されて以来、授業時間に外を見ることはなくなった。しかし依然として、進んで挙手することはなかった。相変わらず無口で、ほとんど人と言葉を交わすこともない。一日の授業が終わると、いつもさっさと一人で帰ってしまった。
「さようなら」
今日も奈緒実は京子にそう言うと、すばやく教室を出てしまった。長い夏休みを前に、別れを惜しむという気配がみじんもなかった。京子は急いで後を追った。玄関を出た奈緒実に追いついた京子は、
「広野さん」
と思いきって声をかけた。奈緒実がふり返った。
「あの……」
「なあに」
「あの、一緒に帰って下さらない?」
奈緒実は困惑したように、くもった空をちょっと見上げた。
「悪いけれど、今日は寄るところがあるの」
奈緒実はかるく頭を下げて立ち去ろうとした。その時、
「牧師のお嬢さんは、パンパン屋の娘なんか相手にしませんってさ」
聞こえよがしに言う声がした。奈緒実は思わず立ちどまった。いつのまにか川井輝子が敵意に満ちた目を光らせて玄関の前に立っていた。奈緒実はゆっくりと歩みを返した。
「今、何ておっしゃったの」
「牧師のお嬢さんは、パンパン屋の娘なんか相手にするわけがないと言ったのよ」
「パンパン屋って、どなたのこと?」
「決まってるじゃない。その人のことよ」
輝子は、あごで京子をさし示した。
「京子さんのおうちは、パンパン屋じゃないわ」
「そんなこと、あんたにはわかりはしないわよ」
輝子はかん高い声で言い返した。
生徒たちが四、五人よってきた。京子は青ざめて、じっと唇をかんだ。
「京子さん。帰りましょう」
奈緒実は京子の背に手をかけた。京子の目から涙が溢れ落ちた。京子の涙を見ると、奈緒実は輝子の方に向きなおった。
「川井さん。あなた失礼よ」
「何が失礼なの。パンパン屋だから、パンパン屋と言ったのよ」
「ひどいわ。そんなひどいこと、おっしゃるもんじゃないわ。川井さん、あなたどうしてそんなに京子さんをばかになさるの」
「わたしには、その人をばかにする権利があるからよ」
輝子は平然として言い放った。奈緒実はあまりのことに、輝子の顔をまじまじと見た。
「川井さん。人をばかにする権利なんか、誰も持ってはいないわ。どんな人だって、ばかにしてはいけないわ」
奈緒実の言葉に、輝子が皮肉に笑った。
「あら、そう。それじゃ広野さんに伺いますけれどね。あんたは転校してきて、一カ月以上も経ってんのよ。それなのに、あなたの態度は一体何よ。まるで人をばかにしてるじゃない? クラスの人とは、ろくろく話もしないし、先生たちの話だって、聞いているんだか、いないんだか、一度だって手をあげたことがあるの? あんたの方が、よっぽど人をばかにしているじゃない?」
勝ちほこったように輝子は言った。奈緒実は、一瞬おどろいたように輝子をみつめた。いつしか、まわりに人垣が築かれていた。
「広野さんは、先生たちやクラスの人たちをばかにしているのよ。学校全体をばかにしているのよ。それなのに『ばかにしてはいけないわ』なんてよくお説教づらをできるわね。いくら牧師の娘だって!」
輝子は追い討ちをかけた。奈緒実は輝子の言葉にちょっと黙っていたが、すぐに深くうなずいた。
「ほんとうね。川井さん、あなたいいことをおっしゃって下さったわ。ありがとう」
意外に素直な奈緒実の言葉に、輝子は戸惑ったような表情を見せた。
「わたし、決してみなさんをばかにしたつもりじゃなかったの。でも言われてみると川井さんのおっしゃる通りだわ。悪かったわ。わたしは、ただ考えごとで頭がいっぱいだったのよ」
「考えごと? 冗談じゃないわよ。先生の話も耳に入らないほど考えていたというの? お友だちと話もできないほど、考えごとをしていたというの? でたらめもいいかげんにしてよ」
「でたらめじゃないのよ。でも、わたしは誰ともお話をしたくなかったのは事実なの。今それが、ほんとうに失礼なことだということがよくわかったわ。悪かったわ。ごめんなさい」
奈緒実はつづけて、
「でもね。川井さん。あなたが京子さんにおっしゃったことも、いけないと思うわ」
「わたしは、ちっとも悪いとなんか思わないわ」
輝子は、ふてぶてしく言った。
「まあ」
たまりかねて京子は言った。
「川井さん。うちは小料理屋よ。でもパンパン屋じゃないわ」
京子の声がふるえた。
「いいえ。パンパン屋よ」
輝子はゆずらなかった。
「おやめなさい。川井さん」
奈緒実が詰めよった。
「広野さんなんか、何も知らないくせに引っこんでてよ!」
「川井さん、あなたって……」
「さっき言ったでしょ? わたしには、この人をばかにする権利があるんだって……」
ふいに輝子の目に涙がきらりと光った。奈緒実には、輝子がなぜ涙を見せたのか、わからなかった。
突然輝子がくるりと背を向けて、校舎の中にかけこんだ。とり巻いていた人の輪がくずれた。
「どうして……。どうしてあんな……」
ひどいことを言うのかと、京子は言いたかった。
「川井さんてひどいわね」
と奈緒実は言ったが、単なる意地悪で、輝子が京子をいじめたとは思えなくなっていた。単なる意地悪にしては、しつこすぎると思った。
二人はだまってアカシヤの並木通りを歩いて行った。アメリカ兵が街にあふれていた。アメリカ兵のまわりだけが、陽気で活気に満ちているように見えた。
二人は、喫茶店「エルム」の前に通りかかった。
「のどがかわいたわ。入らない?」
奈緒実は先に立って、「エルム」の店に入って行った。昼近い喫茶店は少し混んでいた。入り口近い席に二人は座った。
「入り口のそばって、落ちつかないけれど」
奈緒実は、沈んでいる京子の顔をのぞきこむようにした。
「わたし、怒るととってもおなかが空《す》くの。カレーライスの三杯ぐらい平気になっちゃうの」
奈緒実の言葉に、京子はやっと微笑した。その時、奥の席から男たちが二、三人、入り口のレジスターに近づいてきた。その一人がふっと、うつむいている京子に視線をとめた。かすかに笑ったその目が奈緒実に移った。男の視線が釘づけになった。
奈緒実は何げなく、二、三歩はなれたところに立っているその男を見た。幼子のような、きれいな目がおどろいたように、奈緒実をみつめていた。奈緒実と視線が合うと、男はおし返すように奈緒実をみつめたまま、テーブルに近づいた。
奈緒実は思わず体を硬《こわ》ばらせた。
「あら!」
うつむいていた京子が声をあげた。男はズボンのポケットから、百円札を四、五枚、無造作にテーブルの上においた。と思うと、すっと店の外へ出て行った。
奈緒実は呆気《あつけ》にとられた。
「兄なの」
京子があかくなって、百円札を小さく折りたたんだ。
牧師館のコンクリートの壁を一面に這《は》っている、その滴《したた》るような深いみどりのつたが、奈緒実の部屋の窓を半分おおっている。風が過ぎると、つたの葉がゆれた。じりじりと暑い八月、夏休みの午後である。
奈緒実は器用な手つきで、白いブラウスにフランス刺繍《ししゆう》をしていた。明日はこのブラウスを着て小樽《おたる》のオタモイに一人で遊びに行くつもりだった。奈緒実はオタモイを知らない。ただ美しいところだということをきいていた。
「奈緒実、郵便だよ」
父の広野耕介がステテコ姿で部屋に入ってきた。奈緒実の、人をひきこむような黒い瞳はどうやら父親似のようである。耕介の肩幅の広いガッシリとした体格が日本人ばなれをしている。
奈緒実は無言で郵便を受けとった。一年ほど前から、奈緒実は学校でも家でも無口になってしまった。
「あら!」
差出人を見て、奈緒実はおどろいた。
「どうしたんだね」
奈緒実は返事をしない。竹山哲哉と達筆に書かれた名前を奈緒実はながめた。返事をしない娘の顔を耕介は微笑してながめた。耕介の怒った顔を奈緒実は知らない。いつも悠然としている。二、三年前にこんなことがあった。
奈緒実が玄関わきの部屋で勉強していると、ガラリと手荒に戸を開ける音がした。出て行くと、黒めがねをかけた男が肩をいからせて立っている。
「おやじはいないのか」
大きいが陰気ないやな声だと思った。そこへ耕介が顔を出した。
「オイッ、これをどうしてくれるんだ?」
男は耕介の顔を見るなり、汚い手をニュッとさし出した。教会の前を通ったら大きな石につまずいて転んだ。さあどうしてくれるかというのである。別に耕介と何の因果関係もない話で、ただ因縁《いんねん》をつけにきたのだった。耕介はだまってその男の手を見ている。
「どうしてくれるかって、言ってるんだ」
男は更に大声を出した。耕介は相変わらずだまっている。
「畜生、なめやがって!」
男はいきなり、かくし持っていたドスを上がりがまちにつき立てた。
「年はいくつだね」
耕介はおだやかに口を開いた。
「何をッ」
男は怒って短刀に手をかけた。
「おかあさんの名は何というんだね」
耕介は微笑していた。男は不気味そうに耕介を見た。いささかの恐れる色もない耕介の姿が、体が大きいだけに強そうに見えたのかもしれない。
「金がほしいのだろう。しかし金や物なんてどうせすぐなくなってしまうよ」
男はいつのまにか、かたくなってうつむいている。奈緒実は父が落ちついているのが心配だった。万一短刀でグサリとやられたらどうするのかと気が気でない。
「ところで、わたしの家には決してなくならない宝物がある。まあ入り給え」
男はとうとう及び腰になって、
「すんません、だんな」
と逃げだしてしまった。耕介は聖書をやるつもりだったらしい。
「おとうさん、恐ろしくないの」
奈緒実が呆れると、
「愛にはおそれなしと聖書に書いてある」
と耕介は泰然としていた。外出していた母の愛子が帰宅しても、耕介はそのことを語らない。奈緒実は父の胆力におどろいた。
愛子も、やや夫の耕介に似たところがあった。女《*》高師を出て、結婚前数学の教師をしていた。ヒステリックなところの全くない、至ってのんびりした性格で、セーターを裏返しに着て買い物に行くことなど朝飯前である。買い物をするとつり銭を忘れたり、金だけ払って品物をおいてきたりする。そのくせ人の名前や顔はよく憶《おぼ》えており、百名を超える教会員の誕生日や家族構成は残らず知っていた。
乞食がくると、決して金をただめぐむということがなく、必ず草取りをさせたり薪わりをさせた。
「あんた、街を廻るだけの体力があるんだもの、草むしりを手伝ってね。人からただ金をもらったら乞食になるわよ」
と乞食を苦笑させるようなことを言う。そして自分も一緒に草むしりなどをしながら、乞食の身の上話を聞いたりする。乞食が自分はめくらだと言ってもびっこだと言っても、働かせた。街中歩ける者が働けないわけはないと言うのだ。
こんな耕介と愛子の一人娘に育った奈緒実が、なぜか一年前から無口になってしまった。しかし耕介と愛子は、そんな奈緒実を叱りも詰《なじ》りもしなかった。
耕介が部屋を出て行くと、奈緒実は竹山哲哉からの封書をハサミで切った。太い万年筆で書かれた大きな字が、のびのびと書かれている。
「札幌ではじめての夏はいかがですか。海のある函館がなつかしいことでしょう。
実は夏休みの間に一度訪ねようと思っていましたが、教師としてあまり勤勉でないわたしは、夏休みぐらいはゆっくり休ませてもらおうと、訪問をやめにしました。
しかし、だんだん夏休みものこり少なになるにつれて、実のところ幾分ゆううつになっています。というのは広野奈緒実という、君の存在がぼくをゆううつにさせているのです。
率直にたずねます。君はどうして学習態度がわるいのですか。試験の成績は、どの課目もおどろくほどよかった。しかし成績そのものより、学習態度の方が大事だと、わたしは思います」
奈緒実は形のよいなめらかな唇をキュッとへの字に曲げた。
「函館T高校在学中の成績から見ても、君がもう少し積極的になってくれるならば、クラス全体にも好影響を及ぼすことと思います。万事に消極的な今の君は、君本来の姿ではないでしょう。君はむしろ荒々しいほど野性的な、情熱を秘めている人間ではないかと、過日の英語の時間の君の印象から推察しています。推察が当たっていたら、ここでニヤリと笑って下さい」
思わず奈緒実は微笑した。
「とにかく改めることができるならば、今の不愉快きわまる態度を、すみやかに改めてほしいのです。何か深いなやみなり、事情があればそのことを聞かせて下さい。さしつかえなければ受持として知っておきたいと思います。
八月十八日午後、都合がよければ、わたしを訪ねて下さい。
八月十三日
[#地付き]竹山哲哉
広野奈緒実様」
奈緒実は読み終えた手紙を机の上においた。竹山の石鹸の匂いのしそうな、ひきしまった顔を思い出した。
奈緒実は今まで、このような率直な忠告を、どの教師からも受けたことがなかった。特に函館T高校では、父の耕介が週に一度礼拝説教を受け持っていた関係もあって、奈緒実は何となく一目おかれていたようであった。
奈緒実は、ふたたび竹山の手紙を開いて読み返した。読み返すとすぐにペンをとった。
「お便りをいただきました。函館の夏よりも、札幌の夏の方がすてきです。それは先生のお手紙を拝見したからかもしれません」
そこまで書いて奈緒実は便箋をまるめて捨てた。自分でも何を書き出すか見当のつかない、不安定な感情があった。
奈緒実はブラウスを手にとった。あと少しで、むらさきのぶどうの刺繍は終わるはずである。
竹山の手紙がきた翌朝も、朝から暑かった。いま、広野家の食事が始まろうとしていた。耕介が低い声で、食前の祈りをささげている。広い教会の裏手にある牧師館は、しずかだった。庭のエルムの木に、せみがひとつ鳴いている。
耕介と愛子が頭を垂れて敬虔《けいけん》に祈る姿を、奈緒実は見おろすような姿勢でながめていた。食卓の上には、塩うでのじゃがいも、チーズ、そして冷たい牛乳。
「……今日もこの食事によって、神に仕えまつる力をあたえ給え……」
長い祈りが終わった。耕介と愛子がアーメンを唱和した。しかし奈緒実は、だまって牛乳を一口飲んだ。見とがめられたら、
「小樽行きの汽車におくれるわ。あんまり、お祈りが長いんだもの」
というつもりであった。けれども、耕介と愛子は、牛乳を飲んでいる奈緒実を見て、微笑しただけである。奈緒実は言いようもなく淋しかった。
二時間後に奈緒実はオタモイ岬に一人来ていた。四方がガラス張りの大きな食堂である。食堂の中には、数えるほどの人もいない。海岸の小高い崖の上に建っている、このガラス張りの食堂にいると、奈緒実は海の中に浮かぶ小島にいるような感がした。
奈緒実は、少し早いひる飯をすまして立ち上がった。歩みよってガラス戸越しに、遠い水平線をながめた。沖を行く舟の影もない。ぎらぎらと光る真夏の海は意外に淋しかった。
「いい色だなあ」
少し離れた所でつぶやく声に、奈緒実は思わずその人を見た。目を細めて、じっと沖をながめている男の顔に見おぼえがある。男がふっと奈緒実を見た。
「あ!」
奈緒実はかすかに声を上げた。男の、みどり児のように澄んだ目が、大きく見ひらいて人なつっこく微笑した。京子の兄の杉原良一であった。
「とうとう、見つけた」
かくれんぼの時のような口調で言いながら、良一は近づいてきた。白いワイシャツにグレイのズボンがよく似合った。
「京子とならんでいるんですってね。広野奈緒実さんっていう名前も、ぼく、ちゃんとおぼえているんですよ。えらいでしょう? ほめて下さい」
奈緒実は何と答えたらよいかわからない。良一と竹山哲哉は大学で同期だったと聞いていた。だから奈緒実より七つ年上のはずである。しかし良一は、小学生よりもあどけなく、人なつっこかった。
「この間はじめてお会いした時、ぼくほんとうにおどろいちゃった。何ていうのかな。美しいなんていう言葉じゃ形容できないんですよ。あの時、あなたを見た感動を表現する言葉なんて、この世にないんじゃないかな。ぼくほんとうにおどろいちゃった」
他の男が言ったなら、おそらくきざで、いやみに聞こえたかもしれない。しかし良一の澄んだ目には何の邪気もなく、その言葉は自然にひびいた。
(はじめての人に、こんなにあけすけに自分の心の中を言うなんて、きっとこの人は、いつもほんとうのことしか、言えない人なんだわ)
奈緒実は自分が年上であるかのような錯覚さえ感じて、やさしく良一にほほえんだ。少し肌が青く、良一はどこか病的な感じもした。
「京子さんは?」
「ああ、きていますよ。どこか下の方で泳いでいるのかな。君も泳ぎにきたの?」
二人はいつしかテーブルについていた。
「いいえ。オタモイっていいところだと聞いていましたけれど、泳ぐところとは思っていませんでしたもの」
「なあんだ。泳がないの。がっかりだな。君の水着姿を見たいんだがなあ」
奈緒実はおどろいて良一を見た。良一は景色の話でもしているような何の邪心もない表情で、
「ぼく、一度君をかきたいなあ。君の顔もいいけれど、君の持っている雰囲気って、何ていうんだろう。とにかく絵になるよ」
と奈緒実を見た。
「絵をおかきになるの?」
「ぼくはね。自分が絵かきになりたいんだということを、大学を出るころ知ったんですよ。ばかでしょう? 今、新聞社にいるんだけれど、絵をかく時間がてんでないんで弱っているんですよ」
良一はかるく口をとがらせた。今はじめて話をしたばかりなのに、奈緒実は良一の言うことのひとつひとつに、ふしぎに心が素直になった。
この人は、人を素直にさせるふしぎなものを持っていると、奈緒実は思った。
「少し歩きませんか。洞窟をくぐってみましたか」
「まだよ。おなかの方を先にいっぱいにしなければと、ここに入ったんですもの」
快活に奈緒実は立ち上がった。
人がやっと行き交うことのできるほどの道幅である。一歩踏みあやまれば下は数十メートルの絶壁であった。ところどころに柵がある。下のわずかな平地に海水浴の人々が群れていた。
岩をくりぬいた道に入ると、水が岩から浸み出ていた。つきぬけるとふたたび断崖の上である。
「今、ぼくが奈緒実さんをつき落としても、誤って落ちたと人は思うでしょうね」
良一はわざとひくい声で言った。
「いやですわ」
良一は笑って奈緒実の手をとった。自然なしぐさである。拒む方が不自然に思えた。奈緒実は手をひかれたまま、良一のうしろに従った。
「奈緒実さんはあんまりおてつだいをしないんだね」
「なぜ?」
「手がすべすべしているもの。本ばかり読んで理屈っぽいおじょうさんかな」
「あら、これで案外何でもするのよ。お掃除でも、お洗濯でも」
「ふーん。えらいんだね。ぼくのお嫁さんになってもらおうかな」
ふり返って良一は笑った。奈緒実は手をふり切って、良一の横をするりと抜けた。そして良一の先をさっさと歩いた。
「やめたよ。君はかかあ天下の素質があるもの」
良一が大声で言うと、奈緒実が立ちどまって体をよじって笑った。
岬の突端にたどりつくと、狭いその上で良一が歌いだした。
「何と あおい空であろう
何と あおい海であろう
何と あおい君であろう
何と あおい君であろう」
サンタルチアのふしで、出まかせの歌詞で歌い終わると、良一は奈緒実に言った。
「ぼく、うまいでしょう? ほめて下さいよ」
奈緒実は声を上げて笑った。今日は久しぶりに奈緒実は声を出して笑うことができた。事実、良一はよく通ったバリトンで、たしかに上手であった。しかし奈緒実は言った。
「あんまり上手じゃないわ」
「ほんとう? ぼく上手じゃないの」
良一は本気でしょげた。
「いいえ、お上手よ。でも、わたしの次ぐらいね」
「ほう、君上手なの? じゃ歌ってくれないかなあ」
奈緒実は素直に、先ほどの良一の即興の歌詞で歌った。歌い終わると良一はまじめな顔で、
「君、音楽家になるといいよ。ぼく涙が出そうだった」
と奈緒実をみつめた。奈緒実は良一がほとんど泣かんばかりに目をうるませているのを見て、感動した。良一という人間の、ふしぎな美しさに感動したのである。
人が何人か突端まできたが、二人は次々に歌を合唱した。二人は長いことつきあっている友人のように、心が合った。
良一と奈緒実は、ふたたび危険な崖道を歩いて、ゆっくりともどって行った。ようやく平坦な広場へもどると、奈緒実は思わず立ちどまった。食堂のかたわらのベンチに、クリーム色のブラウスを着た京子と竹山哲哉が海に背を向けて座っていた。
京子の言葉に、何かしきりにうなずいている竹山を奈緒実は見た。竹山がきていることを良一は言わなかった。
「竹山先生もいらっしゃってたのね」
「竹山? ああ、あいつは君の先生だものなあ」
奈緒実は昨日もらった手紙を思い出した。竹山が良一と奈緒実に気づいて立ち上がった。奈緒実はなぜか逃げだしたくなった。
「まあ、奈緒実さん」
京子が、かけてきた。奈緒実は仕方なく歩みよった。
「どなたといらっしゃったの?」
「ぼくとさ。ぼくが電話で呼び出したんだ」
良一はまじめな顔をして言った。
「ほう、広野さんと杉原は知り合いだったのか」
竹山がだれにともなく言った。
「知り合いなんてもんじゃない。仲よしなんだ」
良一はうれしそうに言った。竹山は奈緒実にじっと視線を当てた。奈緒実は何となく重くるしい気持ちで竹山に目礼をした。昨日の手紙のことには、竹山も奈緒実もふれなかった。
京子が竹山によりそうようにして、良一と何か話し合っているのを、奈緒実は少し離れてながめていた。竹山の視線が時々奈緒実に注がれた。その度に、奈緒実はさりげなく海を見た。
良一と会って明るくなった奈緒実の心は、竹山に会ってふたたび暗くなった。暗いというより重かった。
「どうしたの? 奈緒実さん」
良一が奈緒実のそばにきて肩に手をかけた。
「何でもないわ」
奈緒実はつとめて明るく答えた。
食堂でひとやすみをして、四人は山を歩いて越えることにした。
学校ではあんなに奈緒実と話したがっていた京子が、今日は竹山のそばを離れなかった。自然、奈緒実と良一が肩をならべた。
午後から陽がかげってきたとはいえ、山道は暑い。乾ききった道は灰のようになっていた。奈緒実と良一はゴーギャンやルオーの話をしながら、足のおそい京子たちより先に歩いた。良一はふっと立ちどまって、
「ぼくね。時々絵をかくのが恐ろしくなるの。なぜだかわかる?」
と、まじめな顔をした。奈緒実がわからないと首をふると、
「ぼくは自分が天才じゃないかと思うことがあるんですよ。しかし描きあげると絶望するんです。わかる?」
良一の語るルオーも、マチスも面白かったが、なぜか奈緒実の心は、さほどはずまなかった。
汽車の中ではさすがに疲れたのか、良一はうとうととねむっている。優しい顔だった。竹山と京子が支笏湖《しこつこ》の話をしていた。支笏湖は奈緒実の知らない湖である。
「支笏湖でキャンプをしたいわ。ね、奈緒実さん」
京子が甘えるように話しかけたが、奈緒実はねむったふりをして、窓に頭をよせていた。
札幌につくと、既に灯がまたたいていた。
「広野さんは、ぼくが送って行こう」
駅を出て、竹山がそう言った時、京子の顔がさっと曇るのを奈緒実は見た。
「そうしていただくといいわ」
京子が言ったが、奈緒実は、
「わたし一人で帰れます。さよなら」
と、さっさと歩きだした。
「さよなら」
良一と京子の声を背にして、奈緒実は無性に淋しかった。電車にも乗らずに、奈緒実は駆けるように歩いて行った。
「広野さん」
竹山の声がした。奈緒実はだまってふりむいた。
「君は足が早いね」
竹山は奈緒実の傍に立った。
「送って行こう」
「ええ、でも……」
「手紙つきましたか」
「拝見しました」
「二学期から、学習態度を改めてくれるだろうね」
奈緒実はだまっていた。二人は陸橋の上に立っていた。陸橋の下を汽車が過ぎた。二人は歩きだした。竹山もだまっていた。竹山には、京子に対するような優しさがなかった。奈緒実がだまっていると、竹山も無言だった。二人はいつの間にか、通りを外《はず》れて北大構内に入っていた。夏休みの大学の構内は静かだった。自転車で構内を通りぬける人が何人かいるだけである。
「広野さん。どうして君はそう、いつもむっつりとしているんですか」
竹山が立ちどまった。大きなエルムの下である。あかね雲がうすれて、黄いろく昏《く》れのこる空にポプラの影がくろく佇立《ちよりつ》している。
うすぐらくなった芝生の上に、二人は向かい合って立っていた。
「二学期からは、気持ちよく勉強してくれるだろうね」
奈緒実は無言だった。
「広野くん。わたしの心配が君にはわからないのか」
奈緒実は、川井輝子の言葉を思い出していた。
「広野さんは、先生たちやクラスの人たちをばかにしているのよ。学校全体をばかにしているのよ」
輝子は、奈緒実の態度を、こう言って激しく非難したのである。
「どうしてだまっているのだ? 君が男だったら殴なぐってやるんだが」
竹山は、そう言って二、三歩あるき出した。奈緒実は竹山の言葉に心が揺すぶられた。思わず竹山のうしろ姿をみつめたが、ふいにくるりと背を向けて足早に立ち去ろうとした。何歩も歩かぬうちに竹山が追いついた。
「広野くん!」
奈緒実はアッとほおをおさえた。竹山の手がほおをうった。
「何がどうだっていうんだ。そんな甘ったれた根性でどうする」
もう一度ほおが鳴った。
奈緒実がだまって竹山を見上げた。その目がぬれているのを竹山は見た。
「悪かった。殴ったりして」
奈緒実はしずかに首を横にふった。
「わたしは、人を殴ったことなんかなかったんだ。……悪かった。女の君を殴ったりして」
「いいえ、ぶたれてよかったと思います」
二人は、大きな木の下に腰をおろした。
「先生、すみませんでした。御心配おかけして」
奈緒実が頭を垂れた。
「どうして君は授業時間手もあげず、友だちと話もしなかったんだろう」
「わからないんです。わたしにも」
「わからない?」
「ええ。ただ急に世の中がつまらなくなって、時々自分の父や母がほんとうの親かしらと思ったりして……」
「どうしてだろう」
「多分、父や母に叱られるってことが、他のお友だちより少ないから、わたしの親はほんとうの親かしらと思ったのかもしれないのね。どのお友だちも、何かというと『おとうさんに叱られる』とか、『おかあさんに叱られる』っていうんですもの。ある時ふっと、どうしてわたしは叱られないんだろうと思っちゃったんです」
「君の両親に顔なんか似ていないの?」
「それが、顔は父に、声なんか母にそっくりなんですけど……」
「じゃ、ほんとうの娘じゃないか」
「ええ。でも、父母が好きなのにきらいになったり、尊敬していたはずなのに、軽蔑してみたり、とにかく、この世って生きるに値するものかしらと思うと、何もかもつまらないんです」
「なるほどね。でも、そういうことが君たちの年頃にはよくあるんだよ。だけど、生きるという問題なら、おとうさんにきけばいいじゃないか。牧師さんだもの」
「その牧師がいやなんです。牧師の娘っていうのがいやなんです」
「なぜ? わからないね、ちょっと」
「わたし、わがままなんです。牧師の娘らしく生きるなんて、とてもむずかしくて……」
「ああ、そうか。そうだろうなあ」
竹山は奈緒実の転校してきた日のことを思い出した。その日奈緒実は父の職業を紹介されるのを激しく拒んだのである。
「わたし、小さい時から教会の皆さんに、ちやほやされてきて、その上父母には叱られることが少なくて……何だかつまらなくなって……」
「じゃ、わたしに殴られて、おどろいたろうね」
「いいえ……うれしかったんです」
奈緒実は、夕闇のなかで顔をあからめた。
「うれしかった?」
竹山は、奈緒実の孤独な感情にふれた思いがした。
「先生、わたし川井さんにも注意されたんです。あんたの態度は人をばかにしているって」
「うん、ちょっと聞いたよ。杉原京子から」
「わたし、改めます。すみませんでした」
「それを聞いて安心したよ。しかし君って、よっぽど激しいところがあるね。あれだけ、窓の外ばかり見て、ノートもとらなかったり、人と口もきかずに平気でいたんだからね。性格が強いんだな」
しかし、この強い性格の奈緒実も、結局は、人格と人格の激しいぶつかり合いを求めていたのだと竹山は思った。結局は本気で愛してくれる人を求めているということではないのかと、竹山はあの日の英語の時間のことを思い出した。
哲哉が英語の時間に、奈緒実の学習態度を叱責した。その時奈緒実は、
「先生の奥さんになる人は幸せだ」
と英語で言った。思いつきのでたらめを言ったようにも受けとれたが、奈緒実は面と向かって叱られたことを、喜んでいたのではないかと、今になって竹山は思った。
「先生、わたし、今日はうれしいことばかりですわ。京子さんのおにいさんとはじめてお話もしましたし……。
あんな子供のような純粋な感じの人って、今まで見たことがないんです。あの人には偽善も、偽悪もないって感じね。あの人のように、子供同士の会話そのままに話のできる人ってそうないと思いましたわ」
「…………」
「わたし、あの人なら信じられるような気がするんです」
竹山はちょっと、だまって何か考えているようだったが、
「杉原はいい男ですよ。しかし……」
言いかけて竹山は口をつぐんだ。今、奈緒実は話し合える良一を見いだして、別人のように快活になっている。それでいいではないかと竹山は思った。
「すっかり暗くなってしまったね」
竹山は立ち上がった。
卒業式も近づくと、雪は深いがさすがに陽ざしが春めいてくる。奈緒実は良一を知り、竹山に殴られて以来、別人のように明るくなった。親ゆずりの包容力もあって、友人が沢山できた。けれども、川井輝子だけは依然として、京子と奈緒実を敵視していた。廊下で会っても、すっと顔をそむけた。
「お早う、川井さん」
奈緒実はひるまず、毎朝快活に声をかける。けれども輝子は表情を固くするだけであった。
クラスの大半は進学しない。学制が改まり高校に切りかわったばかりだったから、旧制の女学校より、一年も二年も長く学校に行っているように思ったのかもしれない。
輝子は東京の大学に行くことになった。奈緒実は札幌の短大に入って、幼稚園の保母の資格をとるつもりだった。子供が好きだということも、この道をえらんだ理由だった。だが奈緒実のほんとうの望みは、この好きな子供たちのために、一作でいいから、楽しい童話を作りたいということだった。
奈緒実は、女性こそほんとうの童話を作れなければならないと思っていた。そのためには、数多くの子供と接して、子供の世界を知りたかったのである。けれども奈緒実は、このほんとうのねがいを京子にも話してはいなかった。
京子は、北海道庁につとめることに決まっていた。
卒業式の前日、奈緒実は思いきって輝子の家を訪ねた。よく話し合えば、輝子の誤解もとけて、京子も自分も、輝子も気持ちよく卒業することができるように、奈緒実は思った。
輝子の家は、藻岩山《もいわやま》に近い住宅地にある。高い石垣のへいをめぐらして、広い庭に木が多かった。午後の陽を受けた屋根の雪がしずくになって、たえまなく流れている。
呼びりんを押すと、体格の悪い女中がおずおずと顔を出した。女中が奥に消えると、敵意をあらわにした輝子が、毛糸で編んだグリーンの和服に、朱の三尺をしめて出てきた。
「何か御用」
とりつく島のない言い方である。無論上がれとも言わない。
「いよいよ、明日はお別れね。わたし、あなたとゆっくり、お話がしたかったの」
「お話? わたしは何も話することはないわ」
「でも、わたしはこのままで、お別れしたくないの。これからだって、またどんな御縁でお目にかかるかわからないでしょう? 気持ちよくお別れしたいのよ」
奈緒実の言葉に、輝子がかすかに笑った。
「おどろいたわ」
輝子は上がりがまちに立ったまま、奈緒実を見おろして冷笑した。
「何が、おどろいたの?」
奈緒実は、輝子が何を言おうとしているのかわからなかった。
「だって、そうじゃない? わたしとあんたたちとは、クラスが同じだったから知っただけよ。卒業したら、あんたたちとは世界がちがうわ」
「ああそうなの。牧師の娘は貧乏だし、京子さんは水商売だから、もう会うことはないって、おっしゃるの?」
「そうよ……このまま、どうせ会うことなんかないんだもの。それに、わたしはこのままで別れるのが全然気持ちがいいのよ」
輝子は細い目で、じっと奈緒実をみつめた。
「ほんとう? 輝子さん」
「ええ、ほんとうよ」
「一生の別れなら、わたし、なおのこと美しく別れたいと思うわ。じゃ、京子さんに何かおっしゃることはない?」
「あんな人!」
吐きすてるように、輝子は言った。
「どうして、あんな人とおっしゃるの。京子さんのような、やさしい人をどうして、きらうのかしら」
「大きらいよ。あんな不潔な人種」
「どこが、あなたより不潔なの。わからないわ」
奈緒実も腹にすえかねた。だが気持ちのよい別れをしたいばかりに、わざわざやってきたはずである。奈緒実は、唇をかんだ。
「わからなくって結構。わたし忙しいのよ」
帰れと言わんばかりである。
「わたし、ひとつだけ伺いたいの。なぜ、わたしをきらっていらっしゃるの?」
「虫が好かないの。理由なんかないわ」
その時、右手の廊下づたいに、オーバーを着た五十年輩の男と、つづいて輝子によく似た中年の女性が、見送りに玄関に出てきた。
「輝子のお友だちかね」
恰幅《かつぷく》のいいその男は、てらてらした赤ら顔である。
「広野と申します」
奈緒実は頭を下げた。
「なかなか、いい体格だね」
輝子の父は、オーバーを抱えて立っている奈緒実の頭から爪先に、ねっとりとした視線をからませた。
「お入りになったら……」
と輝子の母が言いかけるのを、
「いいのよ、この人。もう帰るんだから」
輝子はそう言うと、さっさと奥に入ってしまった。
「まあ、輝子、そんな失礼な……」
困ったように輝子の母親は、奈緒実を見た。
「失礼いたします」
奈緒実は、腹を立てながらも、輝子という人間がかわいそうになった。
「あんたの家はどこだね。送って行ってあげよう。ちょうど出かけるところだから……」
待っていたハイヤーに、奈緒実は素直に、輝子の父と並んで乗った。輝子は失礼だが、輝子の父の知らないことだと奈緒実は思った。
「家はどこだね」
「すみません。三越《みつこし》の前までおねがいします」
陽がかげって、また雪の降りそうな、空の色だった。
「輝子と、けんかでもしたのかね」
「いいえ」
「けんかもしないのに、輝子はあんな口のきき方を、いつでもしているのかね」
奈緒実は返事に困った。といって詳しく話をすることは、告げ口するようでいやだった。
「わたしを、おきらいなんです」
「ほう。あんたはいい娘さんらしいがね。まあ、あの子もわがままでな。三人きょうだいの末っ子で甘ったれているものだからね。かんべんしてやって下さいよ」
話をしてみると、見た感じよりも、人柄は悪くはないようであった。話し方のどこかに、淋しそうなかげりがあった。
「あすの卒業式は、仲よくしたいと思ったんですけれど」
「それはそうだな。だが、あんたのどこが気に入らんのかね、輝子は」
「わたしの仲よしのお友だちを、おきらいなんです。だから……」
輝子が京子の家をパンパン屋とののしったことは言わなかった。
「それで、あんたまできらっているのか。どうも女の子っていうものは、妙なものだね」
輝子の父は笑った。
「その人は、やさしい人なんですけれど……小料理屋の娘さんなものだから……」
「ほう、何という子かね。その友だちは」
「杉原京子さんとおっしゃるんです」
「杉原?」
輝子の父は奈緒実の顔を見た。そしてしばらく考えているようであった。
「杉原さんを、ごぞんじなんでしょうか」
「いや、べつに。……とにかく輝子にも困ったものだと思ってね」
大きな雪が降ってきた。重たい春の雪である。車は三越の前に出た。
「じゃ、ここで降ろしていただきますわ」
学生の溢《あふ》れている街の中に、奈緒実は降りたった。ぼたん雪が、奈緒実のまつげに降りかかった。
三月一日の卒業式が終わると、四月までが長かった。奈緒実は、三日がかりで、戦没学生の手記「きけわだつみのこえ」と、原民喜《はらたみき》の「夏の花」を読み終えた。そこには、なまなまとした戦争の匂いがあった。戦争に押しひしがれた、いたましい命のうめきがあった。
その感動を、奈緒実は誰かに話さずにはいられなかった。誰にでもよい。長い長い手紙を書きたかった。ふっと、京子の兄の良一の、澄んだまなざしが思い出された。しかし、良一に、この本の感動を書き送るのは、刺激が強すぎるように思えた。良一には、美しい童話でも書き送りたいような感じだった。
奈緒実は、三月の午後の陽ざしを背に受けながら、良一を思い出して心がなごんだ。その時、誰かが訪《おとな》う声がした。出てみると、思いがけなく竹山哲哉が玄関に立っている。
「まあ、先生」
奈緒実はうれしさをかくすことができなかった。
「こんにちは。元気?」
竹山の、まっ白い歯が清潔であった。
「ええ、とっても。先生どうぞお入り下さい」
「おとうさんはおいでですか。講演をおねがいに伺ったんですがね」
「父は、あいにく信者さんの病気見舞いにまいりましたの。でも、もう帰りますから」
奈緒実は、台所にいる母の愛子を呼んだ。愛子は卒業式に一度竹山に会っていた。
「まあ、どうぞ、どうぞ。先生のおかげで、奈緒実も以前のように明るくなりましてね。今日はお礼にご馳走いたしますわ」
愛子の、のんびりした人柄は誰にでも好かれる。愛子に会うと初対面の人間でも心がほぐれた。竹山も、遠慮をせずに夕飯を食べて行く気になった。
愛子がすぐ台所にひっこむと、奈緒実は竹山を自分の部屋に誘った。四畳半の小さな部屋には、机と椅子と、本棚と、片すみに小さなストーブがあるだけである。
「なんだ。本ばかりあって、女の子の部屋じゃないな。人形も飾っていない」
竹山は部屋を見まわした。
「人形って、きらいなの。いつ見ても同じ表情をしてるでしょ? こっちが悲しくても笑ってる、うれしくても笑ってるなんて、いやよ」
「だから、慰められるんだがなあ」
竹山はそう言いながら、満足そうな表情で本棚の前にあぐらをかいた。
「ほう牧師さんの家にも、こんなに沢山文学全集があるとは知らなかった。これから時々本棚あらしに来ようかな」
「ほんとうですか。うれしいわ。卒業したら、もう先生とはご縁がなくなると思っていたわ」
「これからは先生と生徒じゃなしに、友だちづきあいをねがいたいものですね」
竹山は冗談めかして言った。
「でも、先生は先生ですもの、友だちというわけにはいかないわ。ほっぺたをいつピシリとやられるかわからない先生でいいんだわ」
「もう、殴った話は時効になってもいいんだがなあ」
竹山はちょっと顔をあからめた。
「わたしね、先生。今日誰かと話をしたくてむずむずしていたの」
良一のことを思い出したとは、奈緒実は言わない。
「じゃ、引きつづき精神状態は良好だね」
「非常に健康よ。そうね、これからは先生に何でもお話ししようかしら」
奈緒実は、竹山になら、読書の感想を聞いてもらえるような気がした。
「ぼくでよければ喜んで話相手になってあげよう。いや、ならせて頂こう」
「ほんとう? うれしいわ。わたし一人っ子でしょう? 神さまがもし、兄か姉か弟か妹のうち、一人だけ下さるとおっしゃったら、わたしおにいさんがほしいわ。わたし、ほんとうにおにいさんがほしいわ」
竹山の目が、かすかにかげった。
「先生に、妹さんはいらっしゃる?」
「末っ子ですよ。兄と姉が二人ずつ、計五人きょうだいでね」
「あら、末っ子ですの? 先生って長男みたいね。京子さんのおにいさんは、末っ子みたいですけれど」
「…………」
「ほんとうに良一さんって、何かあどけなくて、子供みたいですわね」
竹山はだまって、本のページをぱらぱらとめくっていたが、顔を上げて、
「杉原って、君の思っているほど、子供じゃないよ」
と言った。
「そうかしら、でも先生の方がずっと大人に見えますわ」
「さあ、どうかな。彼はいろいろな面で、わたしより大人ですよ。彼から見たら、わたしなんか、まるで小僧ですよ」
竹山の表情が暗くなったことに、奈緒実は気づかなかった。父の耕介が帰って、夕食を共にしながらも、竹山哲哉は時々何か考えるまなざしになっていた。
奈緒実は、短大に通うようになってからは、竹山には勿論、京子にもめったに会う機会がなくなった。日曜日の午前は教会の礼拝に出て、午後は洗濯物などで忙しい。道庁につとめた京子は京子で、週に三度、夜タイプライターをならっているということであった。毎日学校で顔を合わせていた友人も、いったん学窓を出てそれぞれの道に進むと、こんなにも会う機会がないものかと奈緒実はつくづくと思った。なるほど、川井輝子が言ったように、輝子となど一生会うことはないような気もした。
六月十四日は、札幌神社の宵宮祭である。夕食を終えて町へ出た奈緒実は、久しぶりに京子に電話をかけた。
「やあ、奈緒実さんですか。お元気ですか」
なつかしそうな良一の声だった。
「おかげさまで。京子さんはいらっしゃいません?」
「なあんだ。ぼくに電話をくれたんじゃないの? がっかりだなあ。京子はつとめの帰りに映画でも見に行ったんじゃないかな」
「あら、残念ね。今日は京子さん、タイプのない日でしょう? しばらくぶりに京子さんとコーヒーでも飲みたいと思ったんですのに」
「コーヒー飲むんなら、ぼくとだっていいでしょう?」
「ええ、でも……」
「ぼく、ほんとうに会いたいな。今、どこにいるの? 奈緒実さんの家?」
「いいえ、丸善《まるぜん》ですけれど……」
「丸善? じゃ、今すぐ行きます。待ってて」
良一は奈緒実の諾否も聞かずに電話を切った。しかし、奈緒実は不愉快ではなかった。しばらくぶりで良一に会うのが楽しかった。丸善の前で、奈緒実は人の流れを見ていた。六月の日は長い。七時だというのに、まだまだ明るかった。
大きなアメリカ兵に、日本の女がぶら下がるようにして過ぎて行った。それは敗《ま》けた国のひとつの悲しい姿ではあったが、とにかく戦争のないことはうれしいと奈緒実は思った。
「奈緒実さん」
どこかで良一の大きな声がした。人々がふり返った時、良一は人波をかきわけるようにして、にこにこと奈緒実に近づいてきた。白の浴衣《ゆかた》が、よく似合った。
奈緒実は微笑せずにはいられなかった。奈緒実の姿を見かけるや否や、人前もかまわず遠くから大きな声をかける良一が、やんちゃな子供のように愛らしく思える。いつか竹山は良一のことを、
「いろいろな面で、わたしより大人ですよ」
と言った。しかしどう見ても良一は竹山より大人に見えるところはないと、奈緒実は思った。二人は駅前通りへ出た。
「あら、アカシヤの花が咲いているわ」
「ほんとうだ、もう咲いているんだね。今年は早いんじゃないかなあ」
二人は人の波にもまれながら、白いアカシヤの花を見上げていた。二人は何となく顔を見合わせて、ほほえんだ。
「コーヒーはどこがいい? 紫烟荘《しえんそう》がいいかな」
「あら、どうしてもコーヒーを飲みたいわけじゃないわ。京子さんに会いたかったの」
「ぼくとは会いたいと思わなかった?」
疲れた時など、良一の赤児のような目を思い出すことはあった。しかし奈緒実は、
「あんまり、ないわ」
「ひどいなあ、ぼくは街を歩いていても、奈緒実さんに会わないかと、キョロキョロしているのに。この間なんか奈緒実さんのうしろ姿に似ている人に会って追っかけて行ったら、ちがっていてがっかりした」
「じゃ、わたしの家においで下されば、よかったのに」
「あ、君の家? 教会でしょ? ぼくいやなんだ、教会って。お前なんかのくるところじゃないって神さまに叱られそうだもの」
と、良一はまじめな顔をした。
「わたしの家は教会堂のうらにあるのよ」
「だって、君のおとうさん、牧師でしょう? 一目できっとぼくの心を見通して、お前はうちの娘を誘惑にきたなって、わかっちゃう」
奈緒実は笑った。
「ぼく、ほんとうに教会って恐ろしいんだ」
「じゃ、牧師の娘も恐ろしいのね」
「いや、君は恐ろしくはないな」
二人は、明るい店のつづく狸小路を人の波にもまれながら歩いた。
「ぼく、コーヒーよりビールを飲みたいな。ビールは札幌祭りの頃から、うまいんだ」
「では、お飲みになれば?」
「ぼく、飲んべえだって京子に聞いた?」
「いいえ」
二人は、狸小路の人ごみから外れて、紫烟荘に入った。落ちついた小さな店である。若い男女が幾組も、ひっそりと、すわっていた。
「ここ、はじめてよ」
「この店はコーヒーがうまいんですよ」
向かい合うと、良一は奈緒実の目をのぞきこむようにして、じっとみつめた。奈緒実はおどろいた。そこには、あの幼子のような目はなかった。熱っぽいまなざしだった。良一は、いつまでも視線をそらさない。思わず引き入れられるようにみつめ返した奈緒実も、良一の長い凝視に視線をそらした。良一は食いいるように、まっすぐに奈緒実を見た。
「いやよ、そんなにごらんになっては」
奈緒実は低い声で言った。良一は聞こえないように無言で奈緒実をみつめている。
「いやですったら」
ふたたび言うと、
「好きなんだ」
良一は、ポツンとそう言って、はにかんだように笑った。
(好きなんだ?)
奈緒実は顔に血がのぼるのを感じた。万葉時代のような、素朴な愛の告白だと奈緒実は思った。顔を上げると、良一が半分泣きだしそうな顔で奈緒実をみつめていた。
「怒ったの? ぼく、でも、ほんとうのことを言ったんです。生まれてはじめて言った言葉なんです」
奈緒実は良一の言葉を、うたがうことはできなかった。
「ぼくはね、奈緒実さん。学生時代は共産党員だった。戦時中でね。先輩が獄に入れられたんだ。その時、急にぼくは恐ろしくなったんだ。拷問にあうのは、恐ろしくて、さっさと逃げだしてしまった卑怯者なんだ。この間|徳田球一《*とくだきゆういち》たちが、公職追放になったでしょう? あれだけでも、ぼくは戦争中を思い出して、ビクビクしている弱虫なんだ」
何のために良一がそんなことを言いだしたのか、奈緒実にはわからなかった。
「それから、ぼくは飲まずにはいられなくなってしまってね。いつも、俺は裏切り者だ、俺は裏切り者だと思うようになってしまった。こんなぼくでも、もし君が好きになってくれるなら、ぼくは生まれ変わることができるかもしれないと、そう思って、失礼なほど君をみつめていたんですよ」
そこには、みどり児のようなまなざしは、片鱗《へんりん》もない。ただ、すがるような暗く侘しいまなざしだけがあった。
店を出ると、二人はいつのまにか暗い道をえらんで歩いた。家毎に立っている祭りの提灯《ちようちん》のあかりさえ淋しいような道だった。
「京子も恋をしているんです」
ふいに良一が言った。
「京子さんが?」
竹山の顔が胸に浮かんだ。
「今日も竹山と映画に行ったんじゃないのかな」
オタモイで竹山と京子がベンチに並んでいた姿を、奈緒実は思い出した。急に奈緒実は何か落ちつかなくなった。
「好きなんだ」
ふいに良一が立ちどまって、奈緒実を見た。ハッと思うまもなく良一の手が奈緒実の肩におかれた。良一の顔が、奈緒実の目の前にあった。
「いやよ!」
奈緒実がはっきりと言って、身を退《ひ》いた。
「いや? ぼくがいや?」
良一が迫るのを、奈緒実は敏捷《びんしよう》に避けて明るい方へ歩き出した。
「あなたがいやじゃないの。好きだけれどもまだわからないの」
「わからないって? 何が」
「わたしは、まだ高校を出たばかりでしょ。子供のような気持ちで、あなたを好きだと思うの。大人の感情で好きになるまで、誰にもそっとしておいてほしいの」
「そう、わかった。でも、ぼくを軽蔑《けいべつ》しない?」
意外にあっさりと良一は言った。
「しないわ」
「じゃ、さよなら」
奈緒実は呆気にとられた。良一はふり向きもせずに、大またに歩み去った。
良一と別れて帰ってくると、教会の門のところで、奈緒実はぱったりと竹山に会った。門灯の下に彫りの深い竹山の顔が男らしくひきしまって見えた。
「あら、先生は京子さんと映画じゃなかったんですか」
親しみをこめて奈緒実は言った。
「京子さんと?」
竹山がけげんな顔をした。
「だって、良一さんが、京子は今夜先生と映画に行ったんじゃないかとおっしゃってたわ」
「今夜? ……、杉原と一緒だったの?」
竹山は、奈緒実の生き生きとした顔を、電柱の灯の下にながめた。
「ええ、楽しかったわ」
「そう、よかったね」
竹山は片手をあげて、去って行った。ゆっくりとした足どりだった。
「その辺で、竹山先生とお会いしなかった? 先生は今週から教会に通われるそうだよ。なかなか求道《ぐどう》的な先生ね」
帰ると母の愛子が言った。
「京子さんのおにいさんとコーヒーを飲んできたの。あの人は教会はおっかないんですって」
奈緒実は、「好きなんだ」と言った良一に、今すぐ会いたいような気がした。なぜか竹山が教会に通うということが、それほどうれしくも思えなかった。
その後良一から電話もなかった。奈緒実も学校が忙しかった。竹山とは日曜毎に教会で顔を合わすようになった。けれども、ゆっくり話をするひまはない。百人近い会員たちの誰とでも、奈緒実は挨拶を交わさなければならなかった。図書の貸し出し係もしていたから、竹山がきていると思っていても、遠くから目礼するだけの日もある。
奈緒実はある日曜日、図書の整理を終えて、図書室を出た。礼拝堂から聖歌隊の練習する讃美歌が聞こえているだけで、教会の中には既に人影がなかった。
奈緒実は戸締まりをたしかめるために、何気なく祈祷室のドアをあけた。奈緒実は思わずハッとして、ドアをしめた。祈祷室には頭を深く垂れて祈る竹山のうしろ姿があったのである。ドアをあけても、竹山は身じろぎもしなかった。皆が帰ってから少なくとも二十分はたっている。その間、竹山はおそらくあの姿勢で祈りつづけていたにちがいない。その時の竹山の姿を、奈緒実は後々までも忘れることはできなかった。
京子からの電話で、奈緒実が喫茶ニシムラに出かけたのは、八月も末の肌さむいような夕暮であった。ニシムラは戦前から洋生《*ようなま》で名高い店で、喫茶と食事の部も経営している。奈緒実の父は、この店の主人|西《*》村|久蔵《きゆうぞう》と親交があった。西村久蔵は賀川豊彦《*かがわとよひこ》と共に、引き揚げ者のために江別《えべつ》にキリスト村を拓《ひら》いたり、信者や牧師のためにその生涯をささげてきた大樹のようなクリスチャンであった。だから、奈緒実もこの店には時々きていた。
久しぶりに会う京子は、グレイのワンピースを着て見ちがえるほど大人になっていた。髪をすっきりとアップにした白いえり足が、まぶしいほど美しかった。
「いいスタイルの髪だわ。とってもすてき……」
奈緒実にほめられて、京子ははにかみながら髪に手をやって、
「夏は暑かったでしょう? だから思いきって上げたら、涼しくなってもやめられないの」
と微笑した。奈緒実は高校時代と同じように断髪で素顔だった。ただセーラー服から白いブラウスに紺のスカートという姿になっただけである。
「すっかり、わたしのお姉さんみたいよ。とてもきれいだわ」
「ありがとう。でも形ばかりは大人になっても、中身はだめよ。夏休みは何をしていたの」
「夏休みといっても怠けられないの。教会の夏季学校のおてつだいやら、季節保育所の応援やらで、結構使われるのよ。でも子供相手は楽しかったけれど」
京子は、ちょっと目をふせて何か考えているようだったが、
「あの……竹山先生ね、教会にずっと行っていらっしゃるの」
「ええ、ご熱心よ。ほとんど毎週欠かさずいらっしゃるもの」
奈緒実の言葉に、京子はだまって紅茶をスプーンでかきまわしていたが、
「いいわね、奈緒実さんは……」
と、ぽつりと言った。
「あら、何が?」
「……何がって、先生といつも、お会いになれるんでしょう?」
涼しいのに、京子の形のいい鼻に汗がにじんでいる。
「まあ、そんなこと? でも教会って忙しいのよ。わたしは図書の仕事があるし、先生は青年会に入っているし……。ゆっくりお話しするひまなんかないのよ。わたしはまだ、先生がどんな動機で教会にいらっしゃるようになったかも伺っていないくらいよ」
そう言いながら、奈緒実は竹山の真剣な祈りの姿を思い出していた。ほんとうに竹山は何を祈っていたのだろうかと奈緒実は思った。
「そう」
京子はだまって紅茶をみつめていた。
「先生は、おにいさんのところに遊びにいらっしゃるでしょう?」
「ええ、たまには」
京子は、ものうげに答えた。
「京子さん」
「なあに」
「怒っちゃだめよ。あなた……もしかしたら、先生がお好きなんじゃない?」
奈緒実の言葉に、京子はみるみる首すじまで、あからめた。
「いやな奈緒実さん」
「だから、怒っちゃいけませんって、言ったじゃないの」
京子があかくなったのを見ると、奈緒実は美しいと思った。京子なら、竹山と似合いのカップルのように思えた。
「奈緒実さん」
「なあに?」
「あなたは、先生をお好きなの?」
「わたし? どうして?」
「……あの……ではね、わたしが先生を好きになっても、かまわない?」
「かまわないわ」
「そう、ほんとうね」
「ほんとうよ」
奈緒実の言葉に、京子はにっこりした。
「それでは、わたしの兄をどう思って?」
奈緒実は、ふっと宵宮祭の夜のことを思い出した。
「好きかもしれないわ。いい方だと思うわ」
「どのくらい好き?」
「意味の深いものじゃないわ。竹山先生と同じくらい好きよ。よくわからないわ、まだ」
「でも、兄はあなたのことをほんとうに好きよ」
答えずに奈緒実は時計を見た。
「映画でも見ない? 『また逢う日まで』を見たいの」
「あら」
京子は小さく叫んで、ささやいた。
「カウンターのところ、ごらんなさい」
奈緒実がふり向くと、まっ白なスーツを着て、白い帽子をかぶった川井輝子が冷たい横顔を見せて、出て行くところだった。
「休みで、東京から帰ってきてるのね。知らなかったわ、同じ店にいるなんて」
「いやねえ。わたし、あの人の名前を思い出すだけでも、ジンマシンが出るわ」
京子は、脅えたような顔をした。
「でも、わたしたち何も悪いことをしているわけじゃないのよ。平気だわ」
「わたしは、憎まれるって辛いわ。パンパン屋だなんて言われるの、ほんとうにごめんだわ」
「いつか愛さなければならないように憎めという言葉があるけれど、川井さんのは、そんな手加減なんか、ちっともないのね。京子さん、あなた、あの人に憎まれる心当たりは全然ないの?」
奈緒実は、川井輝子の執拗なまでの憎しみに、疑問をいだかずにはいられなかった。輝子と京子の間に何かがあるような気がした。
「それが、心当たりは何もないの。他の人たちは、竹山先生とわたしが親しいから、川井さんは妬《や》いているんだと言ったりしたけれど」
「まあ、輝子さんも竹山先生を好きなのかしら?」
「よくはわからないわ。竹山先生って人気があったでしょう? きっと、だれだって少しは熱を上げたと思うの」
「だけど、そのくらいで、あなたをパンパン屋だなんて失礼なことを言うかしら」
「そうね」
二人は顔を見合わせた。
奈緒実は、川井輝子を訪ねた時のことを思い浮かべた。その時輝子は、京子のことを、
「あんな不潔な人種!」
と吐きだすように言ったのである。
「でも、もういいじゃない。あの人に会うこともないんだし、会ったって輝子さんは、つばもひっかけないわ」
「……でも、少しひどいわ」
「忘れるのよ。だけど輝子さん、すっかり東京風にきれいになったわね」
奈緒実の言葉に、京子が顔をしかめた。
「兄ったら、呆れるわ」
「良一さんが? どうして?」
「だってね。卒業アルバムを見せてあげたら、輝子さんのことを美人だな、凄艶《せいえん》って感じだな。今度いつか紹介しろっていうのよ。わたしがいじめられていたことを、ちっとも知らないものだから」
京子は、疾《と》うに輝子の去ったカウンターのあたりを、ふたたびながめながら言った。
九月も半ばの土曜日の午後である。教会の庭にコスモスの花が風に揺れていた。その傍らに、教会の青年男女が二十人ほどでトウキビの皮をむいている。ピッと皮をむくと、ギッシリとつまった黄色い清潔な実が秋の陽に輝く。竹山も奈緒実も青年たちの中にいた。奈緒実の敏捷に動く白い腕に、時折竹山の視線がうつる。
いつくしみ深き
友なるイエスは
誰かがうたい出した。その時、教会の門にたたずんだ背の高い男があった。
(おや? 杉原じゃないか)
気づいて竹山が立ちあがろうとした時、奈緒実がかけて行った。
(なるほど、杉原がここにきたのは、俺を訪ねてきたわけではない)
竹山は苦笑した。むき終わったトウキビの皮を集めながら、竹山の視線は、ともすれば十メートルほど先の白い柵《さく》の外にいる良一と奈緒実の上に注がれがちになる。
奈緒実が何やら大きくうなずいているのが見えた。と、ふいに良一が庭の中をのぞきこむように、竹山たちの方を向いた。
「竹山先生」
大きな声で奈緒実が呼んだ。竹山もいると良一に告げたのであろう。竹山はトウキビの毛のついた手を払って、ゆっくり立ちあがった。
「やあ、君もきていたの?」
良一は竹山を見て、例の人なつっこい微笑を見せた。
「ああ」
竹山は、自分の気持ちが沈んでいるのを感じながら、ぎこちなく良一を見た。
「竹山。教会なんて面白いかい」
「面白おかしいところじゃないね。遊び場じゃないんだから」
「ふーん。面白くもないところに、何しにくるんだろう?」
良一は悪げのない微笑を浮かべながら、珍しそうに青年たちの働いている様子をながめた。
「いいところだから、くるんだろうな」
竹山は、良一が何の用事で奈緒実を訪ねたかを知りたかった。
「そうか。いいところか」
良一はニヤリとしたが、つづけて言った。
「ところでね、弱っちゃったんだ」
「どうしたんだ」
「先生。良一さんは函館にご栄転ですって」
奈緒実が良一を見あげた。
「ほう、函館とはまた遠いところじゃないか」
「でも、函館っていいところよ。函館山から見る夜景は、美しくてホンコンのようだって言われるわ」
「いくらいいところでもいやだな。ぼくは生活無能力者でね。自分一人じゃお茶もいれられないんだよ。弱ったなあ」
良一は甘えるように奈緒実に言った。
「まあ、お茶もいれられないの」
「うん、ほら、あのガスに火をつけるのが苦手なんだ。栓をひねるとボッと青い火がつくでしょう? あれが、へんに不気味なんだもの」
「まあ、面白い良一さん。あんなものが気味が悪いなんて……。とにかく、それでは一人で暮らせないわ。ねえ先生」
「なあに。函館行きは杉原にはいい訓練ですよ」
竹山は素っ気なく言った。奈緒実は竹山の言葉に、ちょっと眉根をよせた。
「冷たいのね、先生。先生だっておかあさんを離れて、どこかに転任してごらんなさい。きっと淋しいわ」
良一と竹山は顔を見合わせて微笑した。
「なあんだ。知らなかったの、奈緒実さん。竹山とはあまり仲よしじゃないんだね。竹山の家は旭川ですよ」
「あら!」
奈緒実はおどろいて竹山を見た。いわれてみると奈緒実は竹山のことを殆ど何も知らなかった。
「杉原。とにかく今夜でもゆっくりとこないか。いまトウキビむきをやってしまわなければならないから」
竹山はそう言ってもどって行った。
「奈緒実さんも忙しいの?」
良一が用ありげに言った。
「ええ、悪いけれど。これからあのトウキビを煮て養老院に届けるんですもの」
「奈緒実さん一人ぐらい脱けられない?」
「ちょっと脱けられないのよ。でも五時頃には帰ってくるわ。その頃わたしのうちにいらっしゃって下されば?」
「いやだな、牧師のうちなんて」
「また、そんなことおっしゃる。鬼はいませんよ」
良一は思案するように空を見あげた。いわし雲が頭の上にあった。
「ぼくね、あした午後一時に植物園まできてほしいんだけれど……」
奈緒実がうなずくと、良一は安心したように、にっこり笑って帰って行った。
竹山が夕食を終わったところへ、良一が訪ねてきた。竹山の下宿は、札幌でも屈指の自転車屋の離れの八畳間である。ピアノをやっていた自転車屋の長女のために建てた離れであった。その長女が嫁いだあとに竹山が入ったのである。
「相変わらず、きちんとかたづいているね」
良一は部屋の中を見廻した。大きな本棚二つに本がギッシリと並び、入り切れない本がその前にきちんと積まれてある。窓のところにはくつ下が二足ほしてあった。
「あれも君が洗うのか」
「くつ下ぐらいは洗うよ」
竹山は用意していたウイスキーを、良一の前においた。良一がうれしそうにグラスをとった。
「まあ、とにかくおめでとう」
「ありがとう。だが、俺も函館に行ったら、くつ下を洗わなきゃならないんだなあ」
「そうだよ。それから自分の寝床ぐらいは始末できなきゃ、下宿を追い出されるよ」
「おどかすなよ。弱ったなあ」
良一は自分で布団《ふとん》を上げ下げしたことはない。父のない家の男である良一は、必要以上に甘やかされて育った。
「しかし、竹山はよくこんな生活をしていられるものだね。不自由じゃないのか」
「不自由でないともいえないがね」
「じゃ、そろそろもらったらいいだろう」
良一は自分が転任すると決まってはじめて、竹山の生活に同情したようであった。
「うん、まあね。考えているんだ。しかし、今すぐというわけではないよ」
竹山は思いきって、この際良一に自分の気持ちをうち明けておいた方がいいように思った。
奈緒実が学習態度を竹山に叱責された時英語で言った、
「先生のような人の奥さんになる人は幸福だ」
という言葉は、若い竹山には強烈だった。しかも、その意表をついた奈緒実の英語は、耳に快く滑らかだった。それ以来竹山は奈緒実に心ひかれてきた。良一も奈緒実とつきあっているらしい様子だけに、今のうちに自分の気持ちを告げておきたかった。
「ほう、竹山。心あたりの人がいるのか」
「ああ、ない訳《わけ》でもない」
竹山はてれて、まばたきをした。
「で、もう決まったのか」
「いや、自分で考えているだけだがね」
「じゃ、一日も早く言うといいよ。きっと、その人は君のプロポーズを今やおそしと待っているよ」
良一の言葉に、竹山は顔をあからめた。既に良一は自分の心を知っているのかと竹山はおどろいた。
「実はね、ぼくもそろそろ身を固めたいんだけれどね」
「ほう! 杉原ほんとうか」
竹山は一層おどろいて良一の顔を見た。なぜなら良一は、いい絵をかかないうちは絶対に結婚をしないと宣言してきたからである。友人仲間には、良一を真実、ものになると思っている者もいた。
「何といっても、あいつは俺たちとはどこかちがっているよ。絵を見ても、どこかわけのわからない魅力があるからな。朱と黒のつかい方が実にたくみだと思うよ」
しかし、全く否定的な友人も多かった。
「なあに、あいつの絵はめちゃくちゃなんだ。思いつきさ。それを自分でインスピレーションとか何とか言って天才ぶってね。ただの消化不良の絵だよ。それに才能のある奴なら、もっと真剣にかいているはずじゃないか」
竹山にじっと顔をみつめられて、良一はウイスキーをたてつづけに三杯ほど飲んだ。
「そりゃ、ぼくは言ったよ。いい絵をかかないうちは、結婚しませんとね。しかし、この頃は考えが変わった。結婚して、いい絵がかけるってことだってあるんじゃないかとね」
良一には悪びれた様子がなかった。
「まあ、それもそうだ。とにかく杉原は、この際結婚すべきだな。美登利《みどり》さんも、さぞ喜んだろう?」
「美登利? いやだなあ、竹山は。何も疾《と》うに切れた女のことなんか言い出さなくても、いいじゃないか」
美登利は、もと良一の母の店にいた気だてのやさしい女だった。美登利が良一の子を堕《おろ》すと聞いた時、竹山は二人の結婚を真剣にすすめたのであった。
「だって、ついこの間、杉原と美登利さんが天ぷら屋から仲よく出てくるのを見かけたよ。よりをもどしたんじゃなかったのか」
竹山は不快そうに言った。
「それは君、街の中でパッタリ会えば知らん顔もできないからね。ごはんぐらいは一緒に食べることはあるよ。だけど切れてることは、ほんとうに切れているんだ」
竹山は何となく釈然としないままに、良一から視線を外した。
「ところで、君に結婚の相談したいんだがね。君は奈緒実さんの受け持ちだったろう? だから……」
「ちょっと待ってくれ。奈緒実さんって、広野奈緒実さんのことか」
さっと竹山の表情が硬《こわ》ばった。今まで良一の相手は水商売の女が多かった。まさか高校を出たばかりの奈緒実に結婚を申し込むとは思わなかった。しかし、竹山は二人のことを何となく不安に思っていたのも事実だった。今自分が言い出そうとしたことを、良一に先を越されて竹山は何とも言えぬ思いであった。
「ああ、広野奈緒実さんに決まってるじゃないか。なあ竹山。お前から何とか橋わたしをしてくれないか」
良一は少し酔っていた。竹山は奈緒実が短大を卒業するまで、自分の気持ちを表さないつもりだった。
「杉原。奈緒実さんは今年高校を出たばかりだよ。あの人には結婚の話なんかまだ少し早くはないかね」
竹山の顔は、いくぶん青ざめていた。
「だけど竹山。京子だって高校を出たばかりだぜ。君らだって早すぎるじゃないか」
「京子さん? わたしは京子さんをもらうなんて言っていないよ」
「なあんだ。お前の心あたりってのは京子じゃないのか。じゃ誰なんだ」
竹山はだまって自分の茶わんに茶をいれた。
「おい! 京子がかわいそうだよ。京子はお前のことしか考えていないんだ。あいつはやさしいよ。いい子だよ。もらってやってくれよ。結婚してやってくれよ」
良一は酔って駄々をこねるように言った。竹山は答えなかった。
「竹山! お前は京子がきらいなのか」
「きらいも好きもない。ただの教え子だよ」
「じゃ、竹山の好きな女ってのは誰なんだ。俺はてっきり京子だと思っていたよ」
良一は一人でウイスキーを飲んでいる。あまり飲めない竹山はお茶ばかり飲んでいた。
「水くさいぞ! おい竹山! まさか広野奈緒実さんを好きなんじゃないだろうな。あの人だけは、たとえ竹山にだって俺は絶対にやらないよ。俺はね、俺はあの人と結婚して生まれ変わるんだ。あの人しか、俺を生まれ変わらせてくれる人は、この世にはいないんだ」
良一の目が血走ってギラギラと光った。けものめいた光だった。
「杉原、奈緒実さんには何と言った?」
「好きだといってやったよ」
「……それで奈緒実さんも君を好きなのか」
「ああ。あすも植物園で会う約束なんだ」
良一は奈緒実に接吻を拒まれた、あの宵宮祭のことは言わなかった。
「そうか。奈緒実さんもかわいそうにな」
「何がかわいそうだ?」
「だって、そうじゃないか。あの人は異性を見る目なんか全然ないんだからね。杉原のような奴を、子供のようにかわいいと言っているんだからね」
「ほう、あの人が俺をかわいいと言ったって? そいつは乾杯だ」
良一は一人でグラスを乾した。
「しかし杉原。君は女のことで何度も問題を起こしているだろう? 久枝さんや美登利さんや、それから……」
「やめろよ、竹山。お前もいやな奴だなあ。俺はね。俺は何もかも新しく出発しようとしているんだよ。お前だって友だちなら友だちらしく、祝ってくれたっていいだろう」
「じゃ君は、過去のことには一切口をぬぐって、プロポーズすると言うのか」
竹山はつとめて平静に言った。
「ばかな奴だなあ、竹山も。だれが結婚を申し込むのに、過去に何人女があって、何回子供を堕したなんて、いちいち言うものか」
「そんなものかね。ではもうひとつだけ聞くよ。君はあの人を幸福にできると思うのか」
竹山の問いに良一は一瞬だまったが、
「それはわからんな、結婚してみなければ。しかしな竹山。俺にはあの人が絶対に必要なんだ。はじめて一目見た時から、俺は奈緒実さんに心をうばわれていたんだ。なあ、わかってくれよ、竹山」
そう言うと良一はポロリと涙をこぼした。その涙を見ると、竹山は戸惑った。どこまで良一の言うことを信じていいのか、女に関する限り竹山にはわからなかった。
良一がふらふらと立ちあがった。ウイスキーの瓶《びん》は既にからになっている。
「竹山、俺は帰る。竹山! お前も男だ。まさか俺の過去を奈緒実にぶちまけたりはしないだろうな。万一ばらしてみろ。俺は絶対に承知をしないぞ!」
威嚇《いかく》するように良一は竹山をねめつけた。と思うと、良一はふたたびペタリと座りこんで両手をついた。
「なあ、たのむから奈緒実さんには何も言わんでくれ。あの人と結婚させてくれよな。俺は本当に生まれ変わる。酒も女も断つよ。そしていい絵をかくんだ。なあ、竹山たのむよ」
竹山はだまって月かげの落ちている庭に目をやった。良一とは学生時代からの友人である。今になって考えてみると、何でつながっていた友人かわからない。いつも良一に泣きつかれて、女の問題の後始末をしてきただけのような気もする。しかし何とか、かんとか言いながらも、良一という人間のでたらめさも、愛してきたようにも思えた。迷惑に思いながらも、頼られるとつき放すことができなかった。だが今度だけはちがうと竹山は思った。
(杉原がほんとうに立ち直るなら、奈緒実さんとの結婚をおし進めてやるのが友情だ)
(だが、俺は、奈緒実さんをあきらめることができるか。万一あきらめることはできても、奈緒実さんに杉原のすべてを報しらせてあげるべきではないか。もし、奈緒実さんが不幸になったら、どうするというのだ)
(しかし、友情をうらぎることはできない。杉原の信頼をうらぎることはできない)
(だが、奈緒実さんは教え子だった。教師としての自分の責任もある)
奈緒実が英語の時間に、
「先生の奥さんになる人は幸福だ」
と言ったことを、また竹山は思い出していた。とにかく杉原と奈緒実の結婚は、竹山には絶対に喜べることではなかった。
(男の友情などと言っても、同じ一人の女性を愛すると、こうももろいものなのか)
良一は疾うに大きないびきをかいて、座布団の上にねむっていた。竹山は丹前《たんぜん》を良一にそっとかけてやった。
翌日、礼拝が終わると珍しく竹山がつかつかと奈緒実の傍にやってきた。
「仕事が終わったら、ちょっと話があるんだけれど……」
図書棚のかぎをあけに行こうとしていた奈緒実は腕時計を見た。
「今日、一時からお約束がありますのよ」
「いや、ほんの二、三分ですよ」
竹山はそう言うと奈緒実から離れた。
仕事を終えた奈緒実が図書室を出ると、竹山が廊下に立って待っていた。
「すみません、先生。お待たせして」
奈緒実はふたたび時計を見た。十二時を少し過ぎている。二人は教会堂を出て庭に立った。
「お話って何でしょう」
奈緒実は、じっとコスモスの花をみつめている竹山に言った。竹山の気重そうな態度が気になった。
「何と言ったらいいのかなあ」
竹山は深い吐息をついて、
「実は杉原のことだけれどね」
「良一さんがどうかなさったんですか」
奈緒実が「良一さん」と呼ぶことに、竹山はふいにねたましさを感じた。
「奈緒実さんは杉原を子供のようだと言っていたね。しかしね。彼は決して君の考えているような子供ではないということを、もう一度はっきり言っておきたかったんだ」
そう言うと竹山は、じっと奈緒実をみつめた。奈緒実の黒い目がかすかにかげった。竹山は何か言いたそうにしたが、思いきったように足早に立ち去った。
奈緒実は呆気《あつけ》にとられた。竹山がなぜ改まってそんなことを言うのか、奈緒実にはわからない。わからないながらも、何となく奈緒実は不愉快だった。それは中傷とか悪口ではないにしろ、少なくとも良一を警戒させるひびきがあった。良一の過去の一切を知っている竹山が、友情をうらぎることなく、奈緒実に忠告することのむずかしさに一夜悩んだことなど、無論奈緒実は知るはずもなかった。
急いで昼食をすますと、奈緒実は母の愛子に言った。
「これから植物園に行ってもいいかしら」
「ええ、いいわよ」
愛子はいつものようにのんびりと答えた。
「わたしが誰と行くのか心配じゃない?」
「あんたはおかあさんが心配するような人と行くはずがありませんからね。ねえ」
愛子は笑って夫の耕介を見た。
「さてね。奈緒実は成功も多いが、失敗も多いというタイプじゃないかな。まあ、適当に相談にのってやる方がいいね、おかあさん」
耕介はお茶を飲みながら言った。
「わたし、京子さんのおにいさんと植物園に行くのよ」
「ほう」
「ああ、あの新聞社につとめていて、絵をかくとかいうおにいさんね」
愛子は記憶力がいい。
「そうよ。今度函館へご転任ですって」
「じゃ、その前に一度おつれするといいわ」
広野家は、今まで家族ぐるみ交際する習慣があって、奈緒実の友人の顔を耕介や愛子が知らないということは殆どなかった。
「ところが、教会はおっかないんですって」
「ほう、おっかない? それはいいことを言うね。会ってみたいな」
「じゃ、今日お会いしたとき、そうお伝えするわ」
奈緒実は白いブラウスにブルーのカーディガンを羽織って外へ出た。
奈緒実は植物園の入り口で入園券を買った。一歩中に入ると、街の真ん中にいることが嘘のように思われた。広い芝生も、何百年の樹齢を持つドロやエルムも、曇った空の下に、しっとりと沈んだみどり色を見せている。高い竹垣をめぐらしているので、外は見えない。昼なお暗い木立の向こうに、街があるとは思えなかった。ボートを浮かべる池もないが、いつ来ても静かな植物園を、奈緒実は公園よりずっと好きだった。
「やあ、ずいぶん待った?」
駆けてきたらしく良一は、大きく息をつきながら、汗をふいた。
「まあ、走っていらっしゃったのね」
「だって奈緒実さんを待たせたら罰が当たるもの」
二人は芝生に腰をおろした。少し離れて老人が芝生にあぐらをかいている。
「曇った日の植物園もいいでしょう? 温室の方に行ってみた?」
奈緒実が頭を横にふると、良一は目を細めるようにして、しばらくじっと緑をながめていたが、
「奈緒実さん。ぼく函館に行くのはいやだなあ。奈緒実さんのいない街に住むなんて、泣きたくなっちゃう」
と言った。
子供っぽい言い方に、奈緒実は思わず微笑した。
「奈緒実さん、少し歩かない?」
良一がやさしく誘った。二人は肩を並べてゆっくりと歩いた。時折、電車の過ぎる音が聞こえるばかりで静かだった。木の枝のようにいくつもに分かれている道を肩を並べて歩いていると、奈緒実も次第に息苦しくなってきた。小道に入ると道が濡れていた。いつのまにか二人は人目につかないうす暗い木立の中に入っていた。
奈緒実は宵宮祭の夜のことを思い出していた。あの夜、良一は、
「好きなんだ」
と、ふいに激しく奈緒実に迫った。その時奈緒実は、大人の感情で好きになるまで待ってくれと、良一を拒んだ。それから三カ月経った今、奈緒実は思いがけないほど自分が大人になっているのを感じた。宵宮祭の夜には経験しなかった息苦しさを、奈緒実はいま感じていた。
「奈緒実さん」
ドキリとする程まじめな口調で呼ぶと、良一は立ちどまった。奈緒実は思わず動悸した。三カ月前に良一に抱擁されようとしたことが、いつのまにか奈緒実を大人にしていたのかもしれなかった。
「いまも、あなたはぼくがきらいですか」
「きらいなんて、一度も思いませんわ」
「じゃ、好きだと思っていいんですか」
奈緒実は答えられなかった。いつも本当のことしか言えないような、そして眠りからさめた赤子のポッカリとした目のような、そんな良一に感ずるものは、好きということとは別のことに思えた。
「竹山の方が好きなんでしょう?」
良一が淋しそうに微笑した。
「いいえ。竹山先生は先生よ。良一さんの方が好きよ」
それは嘘ではない。竹山には何か頼れるものがあったけれども、異性としては考えていなかった。それは京子が竹山を愛していると知ってから、一層竹山に対して奈緒実は一定の距離をおいてきたからかもしれなかった。
「それを聞いて安心しましたよ。ぼくはゆうべ竹山にも相談したんです。あなたに結婚を申し込むと、彼に言ったんです」
「結婚ですって? わたしはまだ早いわ」
奈緒実は首を振った。結婚は奈緒実にとって、まだまだ遠いことに思っていた。
「早くはありませんよ。あなたはあなたが思っているより、ずっと大人なんですよ」
良一は熱心に言った。言われてみると、高校時代の友人が既に何人か結婚していることに気づいた。
「無論いますぐ、お返事をもらおうとは思いませんがね。しかし考えておいてほしいんです。二年でも三年でも、いや一生でもぼくは待っていますよ。ぼくはあなた以外の人とは結婚なんかしませんからね」
雲間から陽の光が射してきた。奈緒実の顔に木洩れ陽がゆらゆらと揺れている。良一は先に立って歩きだした。何かをふり切るような歩き方だった。何とはなしに、宵宮祭の夜のような良一を、奈緒実は期待していた。広い道にもどると奈緒実はいくぶんがっかりしていた。しかし一方では、抱擁を迫らなかった良一に奈緒実は信頼のできるものを感じていたのである。
良一は奈緒実をふり返ると、大きく深呼吸をして微笑した。あの人なつっこい良一特有の微笑だった。奈緒実はふと竹山の言葉を思い出した。竹山は良一を子供ではないと言った。それはもしかしたら、良一という人間は子供に見えるところはあっても、芯はしっかりした大人だから、結婚を申し込まれたら安心して受けなさいということではないかと、奈緒実は思った。竹山を不快に思っていたことを、奈緒実は恥じた。
ふたたび肩を並べて歩きながら、奈緒実は良一を見あげた。そこにはたしかに考え深げな大人の横顔があった。
(新聞記者なんだもの。子供っぽいところはあっても、大人に決まっているわ)
植物園を出ると、良一は奈緒実を送って教会の前まできた。
「お寄りにならない?」
「奈緒実さんの気持ちがはっきりわかったら、改めてお伺いしますよ」
良一がそう言って立ち去ろうとした時、教会の庭に耕介と愛子が姿を現した。どこかに出かけるらしい様子だった。
「あら、父と母よ」
奈緒実が言うと、良一があわてて、
「ぼく、逃げるよ」
「逃げなくてもいいの。ご紹介するわ」
耕介と愛子がにこにこと近づいてきた。
「良一さん、父と母よ。この方が京子さんのおにいさんよ」
奈緒実が紹介すると、良一はちょっと頭をかいて名刺を出した。
「北海毎日の杉原です。どうぞよろしく」
「やあ、はじめまして。奈緒実の父です」
「母でございます。京子さんにはお世話になりまして」
耕介と愛子もていねいに礼を返した。愛子が寄ってくれと誘ったが、良一は逃げるように早々に立ち去った。
夕食の時、耕介が言った。
「今日会った何とかという男だがね」
「杉原良一さんとおっしゃるのよ、あなた」
愛子は例によって人の名は決して忘れない。
「ああ、その杉原さんだがね。あの人はお前のただの友だちなんだろうね、奈緒実」
「さあ、ただのお友だちよりは仲よしよ」
結婚の申し込みを受けたことは、まだ言いたくなかった。奈緒実自身の気持ちが定まってからでもいいような気がした。
「そうか、仲よしか」
耕介はしずかに奈緒実の顔を見た。
「いけないの」
「まあ、そうだね。あまり仲よくしない方がいいような青年に思ったね」
耕介はめったに人の批判めいたことを、口にしたことがなかった。それだけに耕介の言葉が奈緒実の胸に刺さった。
「まあ、どうして? 子供のような方よ、良一さんって」
奈緒実はむきになった。
「そうか、子供のような人か。だがおとうさんには、そうは見えなかったね」
終始伏し目がちで、肌が青年らしくなく荒れていたと耕介は良一を思い浮かべた。どこと一言では言い表せないが、良一の中に何か暗いものを耕介は感じとった。それは牧師として、長年多くの人と接してきた耕介の第六感のようなものかもしれなかった。
「そうね、どこか意志薄弱なタイプに思われたけれど」
愛子も珍しく、そんなことを言った。
「まあ、失礼よ。チラッと一目見ただけでそんなことを言うなんて」
「ああ、そうだな。人のよしあしを言うのは悪いことだったね。だがおとうさんの第一印象は、今まで案外当たっているんでね」
耕介の言葉に奈緒実は腹を立てた。
(おとうさんより、わたしの方が良一さんをよく知っているわ。そんなに、わたしは無知じゃないわ)
奈緒実は急に良一がかわいそうでたまらなくなった。あんな悪げのない人間を、父も母も不当に評価していると思うと、自分のことのように口惜しくなった。
「今日、良一さんに結婚を申し込まれたのよ」
奈緒実は言わずにはいられなかった。
「結婚?」
耕介と愛子が異口同音に言った。
「それはまた、早すぎるな」
「早くはないわ。お友だちだって何人も結婚しているわ」
良一から結婚のことを切り出された時は、奈緒実も早すぎると思ったことである。
「しかしね、奈緒実。もっとお前にふさわしい人が、教会の中にもいるんじゃないのか」
「教会の外の人だってかまわないわ。あの人が信者でないから、いけないっていうの?」
(良一さんこそ、イエスさまの愛した幼子のような、きれいな気持ちの人だわ)
めったに自分の考えを、父母に否定されたことのない奈緒実は、深くプライドを傷つけられた。
「教会の人なら信用して、教会の外の人なら信用しないのね、おとうさん。神さまは善人にも悪人にも太陽を照らして下さるわ。たとえ良一さんが悪くても、悪い人ほど愛さなければいけないんじゃない? おとうさん」
奈緒実は、父母が良一に好感を抱かなかったことが、ふしぎでもあり、口惜しくもあった。
朝からの雪はまだ止まなかった。
良一が函館へ転任したのは、札幌の街にトウキビ焼きが、トウキビを焼いている頃であった。長いようで短い三カ月だったと、奈緒実は雪の降りつもっている庭を窓越しにながめながら、発《た》つ時の良一のことを考えていた。良一は、送りに来た新聞社の同僚や、絵の仲間たちには気の毒な程目をくれず、ほとんど奈緒実だけを食い入るようにみつめていた。その時のひたぶるな目の色を思い出すと、奈緒実は胸苦しいような甘い感情におそわれた。
良一は時々、函館から電文のような簡単な手紙をよこした。
「いま外は猛烈な風。ただ君にアイタイとのみ」
とか、
「淋しい。さびしい。サビシイ。午前二時」
とか、そんな短い手紙を、良一は便箋一杯に大きな字で書きなぐってよこした。それを見ると奈緒実は、どんな長い手紙よりも真実がこもっているように思われてならなかった。そしていかにも良一が、絵以外では心の表現のできない不器用な人間に思われもしたが、良一自身が言うように、本当の天才かもしれないとも思うのだった。
斜めに降っていた雪が、いつの間にか止んだ。静かな土曜日の午後である。良一に手紙を書こうと便箋を開いた時、奈緒実の窓をコツコツと叩く音がした。目をあげると竹山だった。
「あら!」
奈緒実は、思わずほおを赤らめた。便箋に書こうとした今の良一への思いを、竹山に見られたような恥ずかしさだった。急いで玄関に出ると、愛子も茶の間から出て来た。
「まあ、すみません。お忙しいのにお呼びたてして」
どうやら、竹山は耕介に呼ばれてきた様子である。竹山が茶の間に入ると、耕介は珍しく、せっかちに話を切り出した。
「早速ですがね、竹山先生。杉原良一君と言う青年は、先生の友人だそうですね」
「杉原は、学生時代からの友人ですが……」
ちょっと尋ねたいことがあると言う耕介の電話を受けた時、竹山も良一のことではないかと察していた。竹山は何となく奈緒実の顔を見た。奈緒実は他人《ひと》ごとをきくような表情で林檎《りんご》の皮をむいている。
「どんな人柄か、さしつかえがなければ伺いたいんですがね」
「どんなって……」
竹山は、とっさに何と言ってよいかわからず口ごもった。
「実は一度ちょっと会ったことはあるんですがね。奈緒実がプロポーズされたそうなんですよ」
耕介の言葉を愛子が引きとって、
「ところがね竹山先生、この問題で奈緒実と幾度か話し合っているんですけれど、どうも意見が合わないんですのよ。一昨日でしたかしら、奈緒実が『その人の友人を見れば、その人間がわかるっていうでしょう。おとうさんのほめている竹山先生は杉原さんのお友だちよ』と申しましたの。それで、はじめて先生のお友だちだとわかったものですから、わざわざ今日おいでいただいたのですのよ」
どうして今まで、奈緒実はそのことを親に話さなかったのか、ふしぎだった。が、それよりも、こうして今、耕介たちから直接相談される竹山の心は複雑だった。返事しかねる竹山を促すように耕介が言った。
「どうでしょうな。先生は、杉原君と奈緒実の結婚はうまくいくと思いますかね」
「さあ、馬には乗ってみよ、人には添って見よと言いますからね。予言はできませんよ」
竹山の言葉に奈緒実が微笑した。
「先生、ずるいのね。うまく逃げること。父も母も良一さんと言う人間を知りたがっているんですのに……」
「わたしの友人ですから、どうせ、ろくなのはいませんが。しかし杉原の絵はかっていますよ」
女にはだらしがない。経済観念はゼロ。その上大酒飲みだ。まあ止めておくんですねと正直に言えたなら、どんなにすっきりするだろう。たとえ、杉原を裏切ったことになっても、その方が奈緒実のためには無論、杉原のためにもいいことかもしれない。しかし竹山は口には出せなかった。
「それだけですか」
愛子が言った。
「それから」
竹山は考えこむような顔をした。竹山は、良一が奈緒実と結婚したいと言った時、なぜ、自分も実は奈緒実を愛しているのだと言わなかったのかと、今になって悔いていた。恋愛は、立ちおくれた者がひっこんでいなければならないという理由はないような気がした。スタートがおくれても、良一と堂々と競って悪いとは思えない。たとえ、良一に奈緒実の心が傾いているとしても、まだ決定的なものでないものなら、竹山も競争者として奈緒実の前に立ちたかった。そのためには、競争者の杉原を悪く言うことは控えねばならない。競うなら、フェアプレイでありたかった。
だまりこんだ竹山に愛子が尋ねた。
「杉原さんは、女のお友だちは多い方ですか」
「さあ……」
あいつより女友だちの多い男はめったにいない。杉原をかばっては、みすみす奈緒実を危険にさらすことになるのではないか、いっそこの際杉原の素行を言ってしまおうかと思った時、
「いや、竹山先生。すみませんでしたな。まあ、大体見当はつきました。友人の先生が答えられないということは、仕方のないことでしょうからな」
耕介は一人で大きくうなずいた。
「どうも、何のお役にも立ちませんで……」
竹山はそうより答えようがなかった。話題がクリスマスの準備に移った後、勧められた夕食をことわって牧師館を出た。奈緒実が門の所までついて来た。
「先生、先生って思ったよりずるい方ですのね。なぜ、だまっていらっしゃったの」
夕闇の中に奈緒実の顔が美しかった。
「じゃ、何と言ったらよかったんです」
「少しぐらい、ほめてあげてもいいと思いません? 幼子のように素直だと、一言くらいおっしゃって下さってもよかったんですのに……」
「奈緒実さん。君は本当に杉原をそうしか見ていないの?」
「だって、そうなんですもの、良一さんは」
「君は京子さんから、杉原のことを何も聞いていないの?」
「何もってどんなことかしら?」
「やっぱり君は子供だよ。結婚なんか早いんだ」
竹山は怒ったように言った。
「まあ、失礼ね」
「大人だとでも言うの? 杉原は、とにもかくにもぼくの友人だ。あいつについては何も言わないよ。しかし君が大人なら、もっと杉原という人間をよく見ることだね」
「先生が何もおっしゃらないのは、良一さんを悪く言ってるのと同じですわ。それよりも、どこが悪いか、ちゃんと言って下さった方がいいんですのに」
竹山は奈緒実をじっと見つめた。怒りとも悲しみともつかぬ激しいまなざしだった。
「君は、ぼくの気持ちなんかわからないんだ」
竹山は、くるりと背を向けると、ふり向きもせずに奈緒実の前を立ち去った。奈緒実は、竹山に殴られた時よりもおどろいて、暗い歩道を去って行く竹山の後ろ姿を見送った。
「君は、ぼくの気持ちなんかわからないんだ」
激しく、しかし悲しい響きを持った竹山の言葉が奈緒実の胸を打った。竹山の姿が電車道に曲がって消えた。その時、奈緒実はハッとした。
(もしかしたら、竹山先生はわたしを愛して下さっているのではないだろうか)
今の、竹山の激しい言葉には、そんな思いがこめられているような気がした。しかし、奈緒実はすぐにそれを打ち消した。そんなはずはない。京子が竹山を愛しているではないか。京子のような、やさしく美しい人の愛を、竹山は拒むはずがないと奈緒実は思いこんでいた。
(とにかく、先生は良一さんのことを、もっとほめてくれてもよかったのに……)
奈緒実は、友人の竹山にさえほめてもらえない良一に同情した。良一の邪気のない目を奈緒実は思い出していた。
(あんなに無邪気に自分の心の中を言ってしまう人は、男の世界では尊敬されないのかもしれないわ)
それにしても、竹山は良一の友人ではないかと、奈緒実は竹山の態度が承服できなかった。自分なら、友人のことをきかれた時には、たとえ、ほめる所のない人間でも、何とかほめてあげるのにと、奈緒実はやはり竹山を責めずにはいられなかった。
その日、十二月六日、松《*》川事件に福島地裁の判決があって、良一の新聞社内も何となく興奮していた。良一自身、戦時中は共産党員であったから、死刑五人、無期五人の判決には平静ではいられなかった。転向して以来、良一は党員に関することに一層、敏感になっていた。
良一は、その日一日仕事が手につかなかった。そんな時、良一に室蘭《むろらん》への取材出張の命令が出た。室蘭の工場ストライキの取材だった。良一の気持ちは、二重にたかぶった。できることなら、ことわりたかった。この事件では、自分が転向した当時の仲間の、誰かに会わないとも限らないからである。
オーバーの衿《えり》をたてて、午後の外に出ると、美空ひばりの越後獅子《えちごじし》の歌が、雪まじりの浜風に乗って函館の街の中に流れていた。興奮している良一に、その歌の哀調が妙に胸に沁みた。何かやりきれないような思いだった。
函館駅の長いホームには、ちょうど連絡船から降りた人々が、われ先にと走っていた。汽車の座席をとるためである。その中で、一人だけゆっくり歩いてくる鶯色のオーバーを着た女性に、良一の視線がとまった。背が高く細面の美しい女だった。一瞬、どこかで見たことのある顔だと思った。
良一は、女が二等車に乗るのを見て、ためらわずに女の後について行った。二等車はあまり混んではいなかった。他にも空席はあったが、女の横に良一はすばやく席をとった。女性はチラリと良一を見た。細いが艶のある美しい目であった。良一にはたしかに見おぼえのある顔である。良一は忙しく、過去の女の下宿や、アパートや、バーなどを思い浮かべた。洗練されてはいるが水商売の女ではない。良家の子女にしてはモダン過ぎるような気もする。どこで見た顔だろうとますます女が気になった。
今まで、松川事件と、ストライキ取材でたかぶっていた感情が、ふいにその炎の色を変えたようであった。良一は、戦時中に先輩が獄死すると、いちはやく転向した。拷問の恐怖に脅えたためである。良一は自分が転向した理由が、単に命が惜しいという一事であったことを、いつまでも恥じていた。自分が卑怯者であることを忘れさせてくれるのは、良一にとって女と酒だった。しかも良一は女によって、異常なほど速やかに、すべてを忘れることができた。
いま、良一の関心は、この冷たい感じだが、妙に艶のある女性に向けられていた。汽車はいつか函館を発っていた。良一は外をながめるふりをして、窓側にいる女を見ていた。厚いオーバーの上からでも、良一は女性の肢体の特徴を、かなり正確に見てとる自信があった。
(この女は、一見きゃしゃなようだが、肉づきはいいはずだ。だが胴まわりだけは五十五センチぐらいかな)
そう思いながら、良一は隣の女をながめていた。
スチームで、少し車内が熱くなった。良一がオーバーを脱ぐと、誘われたように女もオーバーをとった。果たして、良一の想像した通りの体である。良一は微笑した。この体つきと、底光りのするようなまなざしを見ただけで、官能的な女だと良一は感じた。この女の手をにぎることぐらい、朝飯前だと良一は楽しくなった。
良一の経験では、映画館で女の手をにぎって、拒まれたり騒がれたりしたことは一度もない。暗い中では、女は案外に大胆である。この二等車のように、座席が全部一方を向いている場合、人目に立つことはない。女は人目さえなければ、暗い映画館の中と、同じように大胆になれるはずだと、良一は隣の女性をながめた。
やがて良一は、かばんから「ライフ」を出して読みはじめた。女には全く関心を持っていないように見えた。半分雲にかくれた駒ケ岳のふもとを通る頃、良一は立ち上がってオーバーを網棚からおろして、自分のひざにかけた。良一のオーバーが女の片足をおおった。良一はそれに気づかぬふりをした。女も気づかぬもののように、斜めに降る雪をながめている。
良一は目をつむった。ねむっているように見えた。やがて良一の体は次第に輝子によりかかっていった。女はそしらぬ顔をして、雪の降る浜辺に視線をなげかけている。いつのまにか、良一の手は女のひざの上にあった。女と良一の手が、オーバーの下でかるくふれ合っていた。いかにも良一がねむっていて、自然にそうなったように見えた。
女の手は冷たかった。良一は冷たい手の女が好きである。危うく良一は女の手をにぎろうとして、やめた。どこかで見たことのある顔だということが気になった。
「あ、どうも失礼」
はっと目がさめたように、良一はふるまった。
「いいえ」
女は微笑した。良一は人なつっこく微笑を返して、
「どちらまでですか」
「札幌までまいります」
(札幌! あぶない、あぶない)
「札幌には遊びにですか」
「いいえ、帰省するところですの」
「ほう、じゃ大学にいるんですね」
大学といって、良一はハッと思い出した。
(そうだ! アルバムで見た女だ。京子がいじめられたとか言っていた女だ)
この人一人だけ東京の大学に行くのだと、その時京子が言っていたことを、良一は憶えていた。
(ちょっとコケティッシュで、案外いい娘じゃないか)
良一は輝子に意地の悪さを感じなかった。東室蘭で良一は降りた。車窓をふり返ると、輝子が良一をじっとみつめていた。
「正月は君の顔を見に札幌に帰ります。早くこいこいお正月。あといくつねたらお正月」
良一の手紙は相変わらず短かった。こんな手紙を書く人との家庭は、きっと楽しい雰囲気に満たされたものにちがいないと、奈緒実は微笑した。
この頃、奈緒実の気持ちは急激に良一に傾いていた。はじめは、どうしても良一と結婚したいとは思っていなかった。しかし耕介や愛子のみならず、竹山までが良一を認めないのを見ると、奈緒実の胸の中に、義憤めいた愛情が急速に育ってしまった。良一はもっと人に愛されていいものを持っていると、奈緒実は思った。
正月の三日であった。良一は奈緒実に誘われて、しぶしぶながら広野家を訪れた。良一は人を訪ねることは、そうおっくうではない方である。それがなぜか奈緒実の家だけは、どうも気が進まなかった。耕介が牧師であるためかもしれなかった。
それでも、もと奈緒実たちがいた函館に、良一が転任したということで、共通の話題にはこと欠かなかった。だが何となく良一は落ちつけなかった。
「話は奈緒実から聞きましたが……」
耕介は、おだやかに話をきり出した。
「どうも、厚かましいおねがいで恐縮です」
良一は、うつむいたまま言った。良一ははじめて耕介に会った時から、何となく耕介が苦手であった。奈緒実の父親であるというためだけではない。耕介には何でも見すかされているような感じがしてならなかった。
「いや、こんな娘を、そのように思っていただいて、こちらこそ恐れ入っておりますよ。しかし、奈緒実はまだほんの子供でしてね」
「はあ」
耕介の前では、自分も子供のようなものだと良一は思った。
「牧師の家庭って、野暮でございましょう? お正月と言っても、お酒もさしあげませんものね」
愛子が、ストーブの上で餅もちを焼きながら言った。良一は禁酒禁煙の牧師の家庭で、酒の饗応を受けるつもりは無論なかった。だが、とにかく正月らしい雰囲気が何もないのに、良一はおどろいた。良一の家は神棚に〆《しめ》なわや供え餅が飾られている。床の間にも大きな鏡餅が三方《さんぽう》の上にある。勿論客が来れば朝からでも酒をくみかわす。大の男に、お茶とあべかわ餅でもてなす奈緒実の家は、異国に来たような感じすらした。
「新聞社におつとめということでしたな」
「はあ」
良一は何となく居心地が悪かった。奈緒実はストーブの灰を落としながら、良一を見上げた。良一の様子は、職員室に呼びつけられた生徒に似ていた。
「良一さんは、将来画家になられるのよ」
奈緒実が言うと、
「そうですってね。おつとめのほかに、お勉強では大変ですわね」
と、愛子が同情した。奈緒実はほっとした。
「はあ、どうも」
良一は何を話してよいか、見当がつかなくなった。新聞記者らしくもないと、良一は自分がなさけなかった。
「奈緒実には信仰だけは持って生きてほしいというのが、わたしどものねがいでしてね」
良一は信仰について考えたことはない。そんなものが必要だと思ったことはない。良一にとって必要なのは絵と女と酒だった。
「はあ」
良一は言葉を失ったもののように、相づちをうつだけになった。
「なるべくなら、奈緒実の信仰を育てて下さる方をと、わたくしどもは考えているわけなものですから……」
「まあ」
奈緒実は顔色を変えた。奈緒実は、耕介が良一を見直してくれると信じていた。しかし耕介は、いま、奈緒実にも相談せずに良一の申し込みをことわろうとしている。そんなつもりで、奈緒実は良一を招いたのではなかった。
「いや、無論これは奈緒実の意志ではありませんがね。まあ、親のわたしどもの気持ちもわかっていただけたらと思いましてね」
良一はだまってうなずいた。耕介には反論できないものを感じた。奈緒実はじっとうつむいている良一が気の毒でならなかった。
「おとうさん、わたしは、良一さんと結婚しますわ」
奈緒実は、はっきりとした語調で言った。言わずにはいられなかった。ハッと耕介も愛子も良一も奈緒実を見た。良一はチラリと上目づかいに耕介を見た。
「奈緒実、何も、いますぐ決めなければならないことじゃないだろう」
「いいえ、いますぐ決めたいんです」
奈緒実は良一がかわいそうでならなかった。
「奈緒実さん」
良一は奈緒実を見て、かすかに頭を横にふった。あまり、親にさからうなと良一は言いたかった。自分を否定する耕介に、良一は憎しみを感じてもよいはずである。しかし、良一はふしぎに耕介に敵意を感ずることはできなかった。苦手ではあっても、嫌悪を感じなかった。耕介の娘をもらいたいと思う自分が、不遜《ふそん》に思われた。奈緒実が、はっきりと結婚すると言ってくれたことだけで良一は満足した。それ以上のことを望む方が無理だと良一は思った。
良一が帰ると、奈緒実はふきげんにストーブのそばに、すわっていた。じっとうつむいているだけの良一を、耕介が不当に虐《いじ》めたような感じであった。今日の良一は、奈緒実のために、じっと言いたいことをこらえているように思われた。いつもの快活な良一を知っているだけに、奈緒実には良一が年下のようにいじらしかった。
「どうしたんだね、奈緒実」
耕介のおだやかな声が、奈緒実には狡猾にひびいた。
「わたし、やっぱり良一さんと結婚します」
奈緒実の声がとがっていた。耕介と愛子が顔を見合わせた。
「結婚という問題は一生のことだからね。十九や二十の年で、せっかちに決めることはないと思うんだがなあ」
ストーブの湯わかしの湯のたぎる音がしずかだった。
(こずるい大人になってから決めたら、純粋さが失われてしまうじゃないの)
奈緒実は答えなかった。
「奈緒実、おとうさんはね、やっぱり信仰のある人と結婚してほしいんだよ」
「安全ですものね!」
奈緒実が弾《はじ》き返すように答えた。
「でも、わたしは教会の人って、いやよ。信仰よりも、自分に忠実に生きている人がいいの。良一さんのような人がいいのよ」
「自分に忠実って、どういうことだね」
「うれしい時はうれしいように、悲しい時は悲しいように生きることよ。自分の感情をおしころさないことよ。良一さんはそうよ。良一さんのように純粋なのが、好きなの」
「奈緒実さん」
あとかたづけをしていた愛子が言った。
「あなたのいう自己に忠実って、感情に忠実ということね」
「そうよ」
「自分というものの中に、感情しかないような考え方ね。自分の意志や、理性や、信仰に忠実ということだって、自分に忠実って言えないの?」
奈緒実は、ちょっとひるんだ。
「でも、その中で自分の感情をいつわらないというのが、一番純粋だと思うの」
奈緒実の言葉に愛子は微笑した。
「泣きたいから泣く、笑いたいから笑うじゃ、まるで子供じゃないの。感情なんて、そんなに忠実にならなければならないほど、大事なものばかりかしら。つまらないことに腹を立てたり、妙なものを好きになったり……」
愛子の言葉に奈緒実はだまった。妙なものを好きになったりと、愛子は良一のことを指して言ったような気がした。
「今夜は凍《しば》れるでしょうか」
愛子が耕介に言った。
「いや、大したことはないだろう。いよいよあすから初週祈〓会だな」
奈緒実が顔をあげた。
「おかあさん。でも、わたしの良一さんに対する気持ちは大事だと思いますわ」
話をひきもどされて、愛子は耕介を見た。
「だがね、奈緒実。その気持ちもいつまでつづくかわからないよ。人間の心なんて頼りないほど変わりやすいものだからね。特に若いうちは、人を買いかぶって、すぐ夢中になるものだ」
(わたしは、買いかぶってはいないわ)
「奈緒実。人を愛するって、どんなことか知っているのかね」
改めて問われれば、奈緒実は明確に答えることはできなかった。
「お前も愛するということが、単に好きということではないくらいは知っているだろう」
「…………」
「愛するとはね、相手を生かすことですよ」
愛子が助け舟を出した。
「そうだよ。お前は果たして、杉原君を生かすことができるかね。おとうさんがにらんだところでは、あの人間を生かすということは、ひどく骨の折れることだと思うがね。とても奈緒実には生かしきれまいな。へたをするところしてしまうことになる」
「まあ、ひどいわ、おとうさん。わたしだって、人一人ぐらい愛することができるわ」
「そうかね。愛するとは、ゆるすことでもあるんだよ。一度や二度ゆるすことではないよ。ゆるしつづけることだ。杉原君をお前はゆるしきれるかね」
耕介は注意ぶかく奈緒実を見守った。
「あの人、そんなにゆるさなければならないことをするとは思えないわ」
奈緒実が憤然とした。
「さあ、人間ですからね。ゆるしたりゆるされたりすることばかりの繰り返しよ。杉原さんはもしかしたら……」
愛子が言いよどんだ。
「もしかしたら、何なの、おかあさん」
「結婚しても女の人のことで苦労させる人じゃないかしらと思ったのよ」
「いやなおかあさん。どうしてそんな当て推量なんかなさるの。いいわ。万一、杉原さんが女性にだらしがなくても、わたし結構よ」
奈緒実は興奮していた。
「奈緒実さん、どうしたの。もう少し冷静におなりなさい」
「冷静よ、わたし。……でも、おとうさんも、おかあさんも杉原さんのいいところを認めて下さらないから、くやしいの」
これ以上、父母と語っても何にもならないような気がした。自分の部屋にもどろうとした時、耕介が改まった口調でたずねた。
「奈緒実は竹山先生をどう思っているのかね」
「どうって? どうも思いませんわ。先生は京子さんと仲よしよ」
「ほんとう? 奈緒実さん」
愛子がおどろいて言った。
「ほんとうよ。京子さんは、わたしが札幌に来る前から、先生を好きだったのよ」
「それは少し、話がおかしいな」
耕介は考えるような顔になった。
「何がおかしいの?」
「いや、実はね。つい先日、竹山先生が奈緒実をもらいたいと、言ってこられたのだよ」
「まあ、先生が?」
いままで、奈緒実は竹山をきらいではなかった。しかし今、急に竹山がいやになった。不潔な男に思えた。
(京子さんとつきあいながら、わたしに結婚を申しこむなんて、どういうつもりかしら)
良一が奈緒実を愛していることを、竹山はとうに知っている。しかも杉原に不満を持っている父や母を通して申しこんできたという竹山が、にわかに油断のならない男に思われた。
「いやよ、竹山先生なんか」
(おとうさんなんて、まるで人を見る目がないじゃないの)
信仰なんかなくても、良一の方が、ずっと正直で率直でいい人間だと奈緒実は思わずにはいられなかった。
「どうして、いやなんだね? 竹山先生はいい人だよ。よく杉原君とくらべてみてごらん。そのうちに考えが変わると思うがね」
「そうよ。竹山先生はごりっぱよ。先生は、わたしなんか、いてもいなくても生きていける方よ。でも良一さんはわたしがいなければ生きられない人なの」
言い終わるか終わらぬうちに、耕介が体をふるわせて叫んだ。
「ばか者! 思いあがって! これだけ言っても、わからないのか!」
奈緒実は生まれてはじめて、父の罵声を聞いた。恐ろしいよりも腹が立った。耕介が杉原に感じているものを、奈緒実は知ることができない。何で大声にどなられねばならぬかが、奈緒実にはわからなかった。今まで、一度でいいから父の怒った姿を見たいと思ったことは、しばしばあった。だが、今現実に大声でどなる父を見ると、奈緒実は深い幻滅を感じた。
(なあんだ、おとうさんも一介の野蛮な封建的な、わからずやの男にすぎなかったのだわ)
はかり知れぬ大きな人間と思ってきた父に、裏切られたような感じだった。奈緒実は、耕介をつきさすようにみつめながら部屋を出た。
「奈緒実! ここに来なさい!」
耕介の声が鋭く追ってきた。
「いやです!」
奈緒実は、次の間にかけてあったオーバーをひっかけて外へ飛び出した。
「奈緒実! どこへ行く」
耕介が茶の間の戸をあけようとするのを、愛子がとめた。
「その辺を廻ったら帰ってきますよ。あの子だって、ばかじゃありませんもの」
「うむ」
耕介は、ふっと淋しい顔をして笑った。
出航を告げる汽笛の音が風にのって聞こえてきた。冬の夜半に聞く船の汽笛は淋しかった。昨夜も奈緒実は良一の帰りを待って、この時間に連絡船の汽笛を聞いた。
机の上のめざまし時計はすでに午前一時をすぎている。奈緒実は溜め息をついて窓辺に立った。そっと、みどり色のカーテンをあけると、函館の街の灯が、丘の下にまばらにまたたいている。じっとみつめている奈緒実の目がかすかにうるんだ。
人間の運命のふしぎさというものを奈緒実は思った。一年経っても、奈緒実は自分が杉原良一の妻であるという事実が、実感されなかった。長い旅のつづきのような、たよりなさがある。そして、その旅が、もう取り返しのつかないものであることを、この一年のうちに、奈緒実はいやというほど思いしらされていた。
(良一があの夜交通事故にさえ遭わなければ……)
奈緒実は良一のことで父と争って前後の見境もなく外へ飛び出した一年前の正月の夜のことを、今も思い出していた。
その夜、奈緒実は父の声を振りきるように外に出た。生まれてはじめて父の怒声を聞いたたかぶりが、奈緒実を良一の家に急がせた。良一の家の近くまで来た時、救急車が奈緒実を追い越して二十間ほど先のところで止まった。
そこに奈緒実は、意識を失って倒れている良一を見た。どうやって自分が救急車に乗りこんだのか、今思い出しても、悪夢のようなひとときで、奈緒実自身にもよくわからない。良一の顔が蒼白だったことを憶えている。
その夜一晩、奈緒実は良一に付きそった。京子や、良一の母が病院にかけつけたのも、奈緒実が連絡したためかどうかさえ、記憶にはない。
ただ、奈緒実は、自分の家からの帰りに良一が、乗用車にぶつかったことに責任を感じていた。父の耕介が、良一と奈緒実の結婚に反対したことに、事故の原因があるように思えてならなかった。
昏々と眠っている良一の顔をさしのぞきながら、父への激しい怒りと、良一への愛《いと》しさで心がかき乱されていた。
奈緒実はその夜、家に何の連絡もしないで、病院で一夜を明かしてしまった。良一はさいわい、脳震蕩だけで怪我はなかった。しかしこの事件で、奈緒実は、もし良一が死んだなら、自分も共に死のうとさえ思うほどに、良一から離れがたい思いになってしまった。
意識がもどると、当の良一は案外元気な顔で、函館に帰ると言った。意識不明の顔を見ていた奈緒実には、良一一人で函館に帰すことが不安であった。
店を持っている良一の母親も、つとめのある京子も、奈緒実が函館まで送ると聞いて喜んだ。
「悪いわねえ。でも助かるわ」
良一に似たまなざしを持つ母親は、息子の女友だちの奈緒実に何の警戒の色も示さない。京子と二人並べてみると、京子よりもたよりがなく、すぐに相手によりかかってくるようなところがあった。こんな人が一軒の店を持って、何人かの女を使ってやっているということがふしぎな感じでもあった。
奈緒実が帰宅して、良一を函館に送ると告げた時、耕介も愛子も呆れて娘の顔を見た。
「何も、あなたがお送りしなくても、おかあさんや、妹さんがいらっしゃるでしょう?」
なだめるように愛子が言った。
昨夜父の言葉を振りきって家を出たまま、何の連絡もなかった一夜を、どれほど耕介と愛子が心配して過ごしたかということを、奈緒実は思いやる余裕がなかった。それよりも、耕介のために良一が交通事故に遭ったのだと、奈緒実は父を責めたかった。
「良一さんは脳震蕩で意識不明だったのよ。連絡するどころじゃなかったわ」
無断で空《あ》けた一夜を、詫びる思いのさらさらない奈緒実の言葉に、さすがの耕介と愛子も呆れた。その上、当然のように函館まで送って行くという奈緒実を、二人はひきとめる言葉さえ浮かばなかった。
良一の辞退もあって、とにかく一応函館まで送ることはとりやめた奈緒実が、駅に良一を送りに出た。良一の母も、京子も、駅に姿を見せなかった。つい二、三日前の昏々と眠っていた良一の蒼白な顔を思い出すと、やっぱり良一を一人で函館にやることが、ひどくむごいことのように思われてならない。くるむような視線で自分を見ている良一が、弱々しく微笑するのを見ると、奈緒実はふっとこのまま函館まで送ってやりたいような気がした。
ベルが鳴った。汽車がしずかに動きはじめると、奈緒実はさっと身をひるがえして汽車に飛び乗った。
(あの時のわたしはどうかしていたんだわ)
「奈緒実さん!」
おどろいている良一の横に腰をおろして、
「函館までお送りするわ」
と奈緒実は一途だった。
折り返し函館から帰るつもりであった。函館の街に育った奈緒実には、札幌から函館まで八時間も汽車に揺られて行くことに、どれほどの勇気も決心もいらなかった。
「悪いなあ、ぼく」
そう言いながらも良一はうれしそうだった。
函館の駅から、すぐに折り返すつもりが、なつかしい街の姿についふらふらと奈緒実は駅を出てしまった。雪の少ない函館の街を見ると、奈緒実はああやっぱり来てよかったと声をあげた。
良一の下宿は、函館山のふもとの蓬莱町《ほうらいちよう》にあった。蓬莱町は石川啄木の住んでいた青柳町《あおやぎちよう》のすぐ隣で、料理屋の多い街である。豪商、高田屋|嘉兵衛《かへえ》の像が立っているだらだら坂を登った左手に、良一の下宿はあった。
風化したような古い格子戸をあけると、ぬぎ散らした下駄が二、三足玄関にあった。障子をあけて出てきた五十すぎの色白の女は、せんさくするような視線で奈緒実を見た。
玄関からすぐの、うす暗い急な階段を登ると、良一の部屋である。下宿といっても、二階に良一がただ一人、部屋を借りているだけのしろうと下宿である。
一歩足をふみ入れると、油絵の具の匂いがして、乱雑に置かれた何枚かのキャンバスには、どれも強烈な黒と朱の色彩が白を浮きたたせていた。
(あの時、良一さえ熱を出さなければ、こんなことにならなかった)
オーバーを着たまま、べたっと座りこんだ良一の熱を帯びたあかい顔が、昨日のことのように目に浮かぶ。
八時間も汽車に揺られた疲れが出たのか、良一は高い熱を出した。奈緒実は押入れから夜具を出して良一を寝かせた。ストーブの火を入れに来た女あるじは見た目よりも親切で、すぐに医者を呼んだり、氷枕を貸してくれたりした。
熱は三日ほどでおさまったが、その間に耕介から帰宅を促す電報がいく度か来た。三度目には、
ハハビョウキスグカエレ
という電報も来た。その電報に見えすいた嘘を感じた奈緒実は依怙地《えこじ》になった。
(看病で帰れないって電報をやったのに、おとうさんったら、どうして信じて下さらないのかしら)
こんな病人をおいて帰れるかと、奈緒実は良一の枕もとで耕介の電報を破りすてた。
三日目に嘘のように熱の下がった良一を見て、やっと奈緒実が帰り支度をはじめると、
「もう一晩だけ。ね、もう一晩だけ」
良一が手を合わせた。
(あの時、帰ってしまっていたら……)
自分は今ごろ、札幌でまだ短大に通っているはずだと思った。
その夜、三晩の看病に疲れた奈緒実は、下から借りた木綿の布団に、早くから寝入ってしまった。人の気配にふっと目をさますと、良一の顔が電気スタンドの灯にてらされて近々と奈緒実の前にある。ハッと起き上がると、
「ね、いい?」
良一が奈緒実の顔をもろ手にはさんだ。
「待って」
といったつもりが、いち早く良一の唇にふさがれてしまった。全身を戦慄《せんりつ》がはしり、生まれてはじめてのくちづけに、奈緒実はうっとりと目をつむった。だが良一の片手が奈緒実の胸にふれ、片手が腰をすべろうとした時、奈緒実は身をよじって避けた。
「待って、良一さん」
「どうして」
「だって、いけないわ」
「どうして」
良一は繰り返して言った。
「だって、結婚式もあげないうちに……」
奈緒実はうつむいた。
「なあんだ。そんなこと? 結婚式なんて、奈緒実さんって案外形式主義なんだなあ」
良一が無邪気に笑った。
「だって……」
「奈緒実さんはぼくをきらいなの?」
「きらいなら、ここまで来ませんわ」
「じゃ、いいじゃないの。愛情さえあれば、結婚式なんか、どうだっていいと思うがねえ」
「でも、ほんとうに愛情があるのなら、人々に祝福される結婚の日まで、待って下さってもいいと思うのよ、良一さん」
奈緒実はやさしく良一の手をとった。
「人の祝福なんか、どうだっていい!」
良一は吐きすてるように言ってから、奈緒実の手をかたくにぎりしめて、
「ぼくが君と結婚式をあげたからって、一体誰が祝福してくれると思うの? 君のおとうさんだって、おかあさんだって……そして、あの竹山だって、祝福よりも呪うんじゃないのか、奈緒実さん」
そうかもしれないと、奈緒実は良一が哀れになった。
「でも……」
「呪われるより先に、奈緒実さんをぼくのものにしてしまいたい」
良一の手が奈緒実の肩にかかった。
「待って、良一さん。わたしは、やっぱり神さまの前に誓い合いたいの」
「神さまか」
良一はにやりと笑った。
「神さまってのに、ぼくはお目にかかったことがないから、どんなお方か知らないが、愛し合っている者同士が、愛し合うことに反対するほど野暮なお方とも思えないな」
「だから、神さまの前に誓ってからにしましょうよ」
「誓うよ。ここで誓ったっていいでしょ? 神さまってのは教会にしかいないという訳ではないんだろうからね」
「……でも……」
奈緒実は今更のように、結婚について何の具体的な考えも信念も持っていない自分に気づいた。奈緒実は結婚とは、純白のウエッディングドレスに身を飾って、教会で結婚式をあげるものだと、漠然と考えていた。男と女が、誰もいないところで、ひそかに結ばれるということなど考えてもみたことがなかった。愛情さえあれば、それでいいとは思ったことがなかった。愛情があれば、祝福された結婚式をあげるために、すべての面で努力すべきことと思っていた。どこか、良一の言葉には、全面的に肯定することのできないものがあった。ひそかに結ばれるということに、何か無責任な、そして罪に似た匂いを感じた。
「それとも君は、心から大した祝福もしてくれない有象無象《うぞうむぞう》の前で、きれいな花嫁姿をして、結婚式をあげたいの? ぼくなら、誰もいなくたっていい。二人さえ愛し合っていたら、それで立派な結婚式だと思うがなあ」
貯炭ストーブの火が残っていて、部屋の中はほんのりと暖かかった。
「ね、いいだろう?」
否応も言わせずに良一は奈緒実の胸をまさぐった。
「……でも、せめて……」
「せめて、何なの。世話のやけるお嬢さんだ」
いらだたしげに言って、良一は奈緒実の唇に自分の唇を重ねた。せめて、真新しい布団の上でと願う奈緒実を、圧しつぶすように良一は倒した。熱を出した体とも思えなかった。
「ああっ」
痛みに耐えかねて声を上げた奈緒実は、その時思いがけなく竹山の顔が目に浮かんだ。奈緒実のほおを思いっきり殴った時の、竹山のきびしい表情であった。
良一が奈緒実の体から離れると、奈緒実は顔をおおって激しく泣いた。男と女の営みを知識としては知っていた。しかし、こんなに早く、こんな形で奈緒実自身が体験しようとは思いもかけなかった。何で泣くのか奈緒実にもわからない。悲しいのとはちがう。うれしいのでもない。侘びしいのでも口惜くやしいのでもない。おどろいて泣く赤ん坊の涙にも似た涙であった。
泣きじゃくる奈緒実を、良一は満足そうに横目で見ていた。こんな時に泣くのは、初心《うぶ》な証拠だと、良一はそのことに満足していた。奈緒実の涙がおさまるころに、良一はしずかに奈緒実を抱きよせた。
「これが愛し合うということなの?」
「そうだよ、奈緒実」
良一ははじめて奈緒実を呼びすてにした。
(そう、こんなことが愛し合うということなの)
奈緒実はかすかな失望に似た思いで、そっと顔をそむけた。
その翌日、耕介から速達がきた。
「奈緒実。おかあさんが突然敗血症で北大病院に入院した。原因ははっきりしないが、むしばではないかということだ。
杉原君が病気ということだが、こちらも大変な病気なのですぐ帰ってほしい。杉原君とのことについては、後日改めて相談にのりたいと思っているが、どうか純潔だけは守ってほしい。奈緒実、たのむ。一分一秒も早く帰ってくれ」
汽車賃を同封した耕介の手紙を膝の上において、奈緒実は「純潔、純潔」と心の中でいくたびかつぶやいた。
こんな形で結ばれてしまった自分たちが、不純とも思わなかったが、と、いって、誇ることができるとも思えなかった。眠っていた奈緒実の床に良一が入ってきたということで、強引に犯されたような感じが、心のどこかに残っている。奈緒実の肉体は、いまだかつて、情欲というものを知ったことがない。良一と二人の部屋に眠るということが、即ち良一にすべてを、今すぐゆるしていいということではなかった。つまり奈緒実は、男と女が一つ部屋に寝るということの意味を、明確には知っていなかったのだ。それが即ち、男から見て、どういうことであるかを、奈緒実は知らなかった。男と同じ部屋でも無事に幾夜でも過ごせると思っている、多くの未婚の女性と同じように、奈緒実もそう思っていたのである。
(馬鹿だったわ。男というものを、どれほども知らなかったのだもの)
奈緒実は純潔だけは守るようにという父の手紙にこだわって、もはや札幌に帰る気にはなれなかった。母の病気を心配しないではなかったが、心の底で、母はほんとうに病気なのかという疑惑もあった。結局、奈緒実は家出という形のままで、良一の妻となってしまったのである。
家を出たままの奈緒実に家から荷物が届いたのは、それから二カ月も経った、あたたかく春めいた、ひなまつりの午後であった。
「奈緒実。今日帰るか、今日帰るかと夜も錠をおろさずに待ちわびていたが、とうとうお前は帰ってこなかった。荷物を送るのが遅れて、寒い冬をさぞ不自由であったろうと思うが、きっと一度は帰ってくると待っていて遅れてしまったのだ。
奈緒実。お前が家を出なければならなかった原因は、結局はおとうさんとおかあさんにあることを、今改めて感じている。こんな形で家を出なければならなかった奈緒実も、さぞ辛かったことであろうが、お前に出ていかれたわたしたちは、なお辛い。
牧師という職にありながら、ただ一人のわが子の心をも捉え得なかったということで、わたしは自分の日頃が、いかに思い上がったものであるかということを痛感した。
わたしたちは、親らしくお前を叱るということをしなかった。大声で叱らずとも、わたしたちの娘である奈緒実は、わたしたちの心をわかってくれると思っていた。
わたしと愛子の娘だ。万に一つも曲がることはあるまいと、こう思い上がっていたのだ。いや、お前としては曲がったつもりはないかもしれない。曲がったことのきらいなお前だ。お前はお前なりに自分の道を正しいと信じて歩み出したのだろう。
奈緒実。お前の道が不幸であった時には、どうか、おとうさんとおかあさんをゆるしてくれ。ただ一人の娘をも、幸福な道に進ませることのできなかった親をゆるしてくれ。
おかあさんは、やっと退院した。敗血症は恐ろしい病気だ。いわば血がくさるわけだからね。しかし正直のところ、この大患よりも、奈緒実のことの方がわたしには応《こた》えた。病気は肉体の問題だが、お前のことは心の問題だからね。
しかし、ことここに至っては何も言うまい。愛するとは、相手を生かすことであり、またゆるすということであることを、今改めて言っておく。
いかなることがあっても、わたしたちはお前を捨てない。自分から出て行った家にはもどりにくかろうが、別に勘当されたわけではない。いつでも遊びに帰っておいで。
お前たち二人の上に、神がよい道を与えて下さるように祈っている。くれぐれも心と体を大切に。
おかあさんは手紙は書かないそうだ。しかし、愛子はえらいよ。お前に出て行かれても、朗らかにしている。困った母親というべきかもしれないね」
耕介の手紙に奈緒実は泣いた。しかし、あまりの寛大さに、奈緒実はゆるしを乞う手紙を書くこともできなかった。
良一はやさしかった。ちょっと買い物でおそくなっても、外まで出て良一は待っていた。
「ああ、よかった。もう帰ってこないかと思った」
そんなことを言って良一は、奈緒実の手をにぎりしめたり、押入れにかくれていて「ワッ」と奈緒実をおどろかしたりした。
だが、それも最初の二、三カ月で、次第に帰宅時間がおそくなり、酒に酔って帰るようになった。
四月に入ったある夜のことを、奈緒実は決して忘れることができなかった。奈緒実のえがいていた良一との生活には、楽しい夕食があった。その夜、奈緒実は良一の好物の塩鮭に、馬鈴薯や人参、大根などを入れた三平汁を作って待っていた。九時をすぎ、十時をすぎても良一は帰ってこなかった。よほど先に食事をとろうかと思ったが、三平汁を見て「ほう」と喜ぶ良一を思うと、もう少し待とうと、奈緒実はとうとう十二時すぎまで食事をとらず良一を待ってしまった。やっと帰ってきた良一は、まだ手のついていない食卓を見て、じろりと奈緒実の顔を見た。
「奈緒実。あてつけがましく、いやみなことをするな。十二時すぎまで、わたしはおなかをすかして待っているのに、一体どこで飲んでいたんですかと、言わんばかりじゃないか」
奈緒実は自分の顔から、すっと血の引くのを感じた。その言葉には、奈緒実の信じていた良一の姿は片鱗もなかった。奈緒実は聞きまちがいではないかと思った。良一の言葉にも表情にもつゆほどのやさしさもない。
その夜、奈緒実は一睡もできなかった。よく考えると、良一の気持ちもわからなくはない。食事もとらずに待たれるということは、良一にとって責められる思いであるかもしれない。しかし、
「おそくなって済まなかったね。先にごはんを食べていてもよかったのに」
と言ってくれる良一であってほしかった。腹だたしいというより、思いがけない良一の冷酷な一面に、奈緒実は大きな衝撃を受けた。外で何か面白くないことがあったのだろうと、奈緒実は思いたかった。自分のめがねちがいであるとは思いたくなかった。自分の見た通りの良一であってほしかった。
そのあと、また良一は、食事の支度をしている奈緒実を、うしろからふいに抱きすくめたり、奈緒実が読んでいる新聞をとり上げて、
「淋しいから、新聞を読まないで」
と、まつわるように奈緒実に甘えた。
だが、時々奈緒実は、
「奈緒実。あてつけがましく、いやみなことをするな」
と言った時の良一の冷酷な顔が、甘えている良一の背後にじっと目をすえているようで、今までのように単に無邪気な良一と思うことができなくなった。
そして、秋のある朝のことであった。奈緒実は朝の食事の前、いつものように黙〓をささげていた。娘の頃には、耕介の長い食前の祈りを、奈緒実は大きな目をキッパリとあけて、じっと皮肉な表情でみつめていた。祈ることに反発を感じていた。だが、良一との結婚生活の中で、奈緒実は誰に強いられるでもなく、祈りたくなっていた。
(神さま。今日も新しい朝を与えて下さいましてありがとうございます。この朝の食事を感謝いたします。この食事によって、良一さんにも私にも、今日一日の力を与えて下さいますように)
目をあけると良一が唇をゆがめて笑った。
「おれは抹香《まつこう》くさいことがきらいなんだ」
とげのある語調である。
「何を怒っていらっしゃるの」
奈緒実は良一が冗談を言っていると思いたかった。
「とにかく、おれは祈りなんかきらいなんだ」
いらいらしたように、良一は箸で茶碗をたたいた。
「良一さん。もっとやさしくおっしゃってよ」
なだめるように言う奈緒実の言葉の終わらぬうちに、
「うるさいっ!」
良一の手が飯台をひっくり返していた。
あまりのことに奈緒実は呆然として良一を見た。
「ごめんね。ぼく悪かったよ」
と奈緒実の肩をひきよせて良一は出て行った。力なく玄関を出て行く良一を送って、部屋にもどると奈緒実は唇をかんだ。泣くにも泣けない思いだった。
「笑いたい時に笑い、泣きたい時に泣くのが正直で純粋だ。良一さんは純粋だ」
などと、父に言った自分の言葉が思い出された。飯粒の飛び散った畳の上を拭きながら、奈緒実は涙が溢れた。
ひるすぎて新聞を開いた奈緒実は、良一の怒りの原因がやっとわかった。それは、良一の絵の友人が日展に入選して、大きく写真が載っていたのである。絵も描かずに毎日夜おそくなって帰ってくる良一が、地道に描きつづけている友人の入選に、嫉妬することはないと奈緒実は思った。
「おれは天才かもしれない」
と言いながら、良一はほとんど絵を描くということがなかった。
「天才はインスピレーションによって描くんだ。毎日描くことはない」
と、良一はいつも自分の弁護をしていたが、奈緒実は良一の嫉妬はみにくいと思った。罪もない妻に当たり散らした良一を、奈緒実は弱い男だと思った。感情をむき出しにすることのみにくさを、奈緒実はつくづくと思った。良一の淋しさと、妻に甘える男の心を思いやるには、奈緒実はまだ若すぎた。
「愛するとは何回も何回もゆるすことだよ。お前に杉原君をゆるしつづけることができるかな」
何もかも見通していたように、そんなことを言った父の耕介が、今更のように偉い人間に思われた。
(一年前の今日、わたしは函館に来たのだわ)
そう思った時、下で玄関の戸をあける音がした。机の上のめざまし時計は二時である。奈緒実はとっさに時計をうしろ向きにおいた。午前二時に帰っては良一もきまりが悪いだろうと、奈緒実は思った。
「お帰りなさい」
迎えた奈緒実を見ると、酔った良一は、
「よう! かわいい奥さん」
と片手を上げて機嫌がよかった。
むしあつい八月のひる下がりである。
「奈緒実さんは、まだかい?」
良一の母は、鏡台に向かって眉を引いている。五十歳という年齢を誰もほんとうにはしない。三十七か八といっても通る若々しい母を、良一はビールを飲みながらながめていた。
「まだって何がさ」
母と息子というより、姉と弟のような二人のものの言い方だった。良一は出張で、昨夜札幌に来たが、夜のおそい母の伸子とは今顔を合わせたばかりである。
「決まってるじゃないの。赤ちゃんよ」
伸子は鏡の中にうつる良一に片目をつぶってみせた。良一は気のなさそうに首を振って、
「まだまだだよ。それより店の方はどうなの」
「おかげさんでね。店の方はいいことばかりつづくけれど……」
化粧を終えた肌に伸子はうちわで風を入れた。
「あの……かあさんにお客さまです」
女中のタキが浮かない顔で入ってきた。
「あら、どなた?」
伸子の声につやがあった。
「あの、川井さんとおっしゃる方です」
十八歳のタキは、すぐに感情が顔に出る。ふくれたように口をとがらせて、タキは伸子を見た。
「あら、川井さんが? まあどうしましょう。男の方でしょ?」
伸子は浴衣の衿をかき合わせて立ち上がった。
「いいえ、女の人です。何だか、いばって、へんな人です」
「まあ、女の人?」
伸子は、声をひくめて不安そうに玄関の方を見た。
「いないって、言ってちょうだい」
「だって、いるって言ってしまったんです」
「まあ、どうしましょう。ね、良ちゃん。おかあさんの会いたくない人なのよ。あなた、ちょっと出て、いませんって言ってくれないかしら」
良一はビールをコップに注ぎながら、
「何だい。面白そうじゃないの。タキちゃん。客間に通しておきなさい。おれが会ってみよう」
とにやにや笑った。
「いいのよ。客間になんか通さなくても、玄関から追い返してよ」
伸子はそう言って、そそくさとハンドバッグをかかえて立ち上がった。
「何だ。もう出て行くの」
良一が笑うと、伸子が少し青い顔をして、
「逃げるわよ。裏口から」
と、足音も立てずに部屋を出た。タキも後を追って出て行った。良一は客を待たせたまま、ゆっくりとビールを乾した。
青いすだれをかき上げて、良一が客間に入って行くと、思いがけなく若い女が、白い和服姿でこちらに背を向けている。
「やあ、どうもお待たせして」
良一が愛想よく声をかけた。女はかすかに身じろぎをして、しずかに顔を良一に向けた。
「ああ、あなたでしたか」
「まあ」
客は川井輝子だった。輝子も汽車の中で同席した良一を忘れてはいないようであった。しかし、かすかに微笑した輝子の表情が、ふたたび硬ばった。
「あなたは、ここの家のどなたです?」
咎《とが》めるように輝子は言った。
「ここのドラ息子ですよ。ぼくは」
良一は人なつっこい微笑を浮かべて、扇風機のスイッチを入れた。
「まあ。息子さんですって」
輝子は良一に対しては敵意を示すことはできなかった。
「わたくし、お宅のおかあさんにお目にかかりたいんですの」
「おふくろは、逃げましたよ。川井さんという女の方が見えましたとタキが言ったら、青い顔をして、裏からスタコラ逃げっちまいましたよ」
あけすけに良一は言った。
「まあ、それじゃ、困りますわ、わたくし」
輝子が唇をかるくかんだ。
「どういうことなんですか。おふくろは、お宅に大分借金でもしているんですか」
良一の目はまだ笑っていた。
「いいえ」
きっぱりと首を横に振ってから、輝子は良一を見た。
「あの……あなたは何もごぞんじないんでしょうか」
「どういうことなんです? ぼくでよかったら、伺わせて下さい。もしかしたら、おふくろが、大変な迷惑でもおかけしているんじゃないでしょうか」
良一はまじめな口調で言った。いかにも輝子の側についた、そのものの言い方が輝子を素直にさせた。
「母が、もう何年も前から、悩んでいますの」
「おかあさんが?」
「ええ。父が、妾《めかけ》と手を切らないからですわ」
「え? 妾? では、うちのおふくろが……」
さすがに良一はおどろいた。
人の妾になるほどの気概もない母親だと良一は思っていた。それが輝子の父の妾と知って、良一は今、二重におどろかされた。
「ええ、そのために、どんなに家の中が暗くなってしまったか……。わたくし、いつも、いつも、あなたの家を呪っていましたわ。いっそのこと、お宅のおかあさんを殺したいと思ったことだって、一度や、二度ではありませんでしたわ」
輝子の細い目が、激しい光を見せた。
(おふくろが妾だなんて……)
輝子が、あの母を殺したいとまで思っていたと聞くと、良一は気の毒だと思うより、笑いだしたい気持ちになった。母の伸子は臆病で、今でも一人でトイレに行くことができず、時々女中のタキを夜半に起こして、ついて行かせることがある。もし、伸子を殺そうと思っていたという輝子の言葉を聞いたなら、どんなに驚くだろうと、良一は思わずかすかに笑った。
「何を笑っていらっしゃるんです?」
輝子が見咎めた。ふまじめだと思った。
「いや、何も……。しかし、知らなかった。母が人の世話になっていたとはねえ」
良一は、母が妾と知った驚きが消えると、いく分ほっとした気持ちになっていた。長い間独り暮らしの母に、そんな相手がいてくれた方が、良一としては気が楽だった。良一の唇に、かすかに残る笑いが輝子をいらいらさせた。
「ご存じないというのは、嘘ですね」
京子も、良一と共に、とうにすべてを知っていて、平気な顔をしていたのではないかと輝子は腹だたしくなった。
「嘘? 嘘じゃありませんよ」
良一はまじめな顔になった。それが輝子には、いかにも白々しく思われた。
「嘘でなければ、あなたの目はふしあなですのね。子供じゃあるまいし、自分の母親が何をしているかぐらい、気がつきそうなものだと思いますわ」
輝子は嘲笑するように良一を見た。目がふしあなだといわれて良一はだまった。そうかもしれないと思った。五つの子が遊びに来てもビールを出して、それが何よりのご馳走だと思っているような母の伸子である。その母が自分たちにかくれて、人の妾になるだけの才覚があるとは、良一も知らなかった。
「ふしあなだといわれれば、仕方はありませんがね。しかし、ほんとうにぼくは知らなかったんですよ」
良一は微笑した。何もさわぐほどのことではないではないかと、良一は言いたかった。
(また笑った。この男は一体何がおかしいというのだろう)
輝子は、母が何年も前からこの問題で、いくど家を出たり、病気になったりしたかわからないと思うと、良一がえへらえへらと笑っている様子に怒りを感じた。知らなかったと言えばそれで済むつもりなのかと、気性の激しい輝子は怒りをおさえかねた。
「そうですか。なるほど飲み屋なんかしていると、一人や二人の男といつも出かけたりするぐらい、当たり前かもしれませんものね」
輝子のさげすんだ表情に良一はニヤニヤして言った。
「まあ、そんなところでしょうね」
「そうですか。やっぱりパンパン屋だったんですね」
パンパン屋という言葉に、さすがに良一は腹をたてた。
「パンパン屋? 冗談じゃない。少し言葉が過ぎやしませんか」
「そうかしら。でも、パンパンも妾も似たものじゃありませんか」
「なるほどね。じゃ、妾を持っている男も似たものでしょう」
良一は小生意気なこの娘の、きらきらと光る細い目が、妙に妖しく美しいのに心をそそられた。いきなり、無理矢理手ごめにしたいような、残忍な誘惑をすら感じた。
「そうよ。妾を持っている男も、妾と同じ下等動物ですわ」
輝子は眉ひとつ動かさずに冷たく言い放った。
「ところで、その下等動物のオスは、うちのおふくろに、毎月どのくらいの金を出していたんです?」
良一も中《*ちゆう》っ腹《ぱら》になった。ふっと輝子が戸惑ったような表情になった。
「一銭の金ももらってるわけじゃないって、その人は、わたしの母に言ってたそうですけれど……。でも、そんな女の言葉なんか、どこまで信用できるかわかりませんものね」
「なあんだ、そうですか」
良一はニヤリと笑った。良一は肩から力をぬいた姿勢になって、タバコに火をつけながら、
「金をもらってなきゃ、妾じゃありませんよ。ぼくはまた、よその男の金で、自分が大学を出たのかとがっかりしていた」
と安心したように言った。
「そんな、お金のことなんか……」
「とにかく、経済的な借りはないんですね」
良一は念を押した。経済的に迷惑をかけていなければ、何も文句はないだろうという良一の態度が、輝子を刺激した。
「お金の話じゃありません。うちじゃ、十万や二十万、出ようと入ろうと、そんなこと問題じゃありません。問題は父の心が他の女に移ったということですわ」
「しかし、金がほしくて、なった仲じゃなければ、はたでわいわい言ったって仕方ありませんよ。家庭の経済を破壊するほど金をつかったり、全く家に帰ってこないというわけでもなければ、そうさわぐほどのことではないじゃありませんか」
「何ですって? あなたは父が浮気をしたために、わたしの家がどんなに暗くなったか、ご存じないから、そんなことをおっしゃるんです。わたしは学校に行っても、家に帰っても、一日として楽しい日はありませんでしたわ。母は父を責め、父はずるく逃げ廻って、わたしたち、とうとう父を尊敬できなくなって、口もききませんでしたわ。あなたって、やっぱり、あの女の息子ですわね。下劣な人種ですわ」
輝子の声が怒りでふるえた。良一は、輝子の怒った顔が、張りつめて美しいと思った。こんな美しい娘を、全く怒らせてしまうのは、少々惜しいような気がした。母のことで、この娘と喧嘩することもないと良一は思った。
「ぼくも下劣ですか」
良一はしょげたように、うなだれた。良一は自分のそういう様子が、どんな女にも愛されることを、過去の経験で知っていたのである。
「下劣ですわ」
しょんぼりとうなだれている良一に戸惑いながらも、輝子はくり返した。
「困ったなあ、ぼく。すっかりあなたを怒らせてしまった」
良一は深く頭を垂れた。教師に叱られた時の小学生のような良一の様子に、輝子はやっと自分の言いすぎに気づいた。
「あなたのご存じない話なら、あなたに責任があるわけではありませんけれど……」
輝子の言葉が少しやわらいだ。良一はほっとしたように顔を上げると、
「ほんとうの美人って、怒っても美しいものなんですね。ぼく、驚いちゃった」
と人なつっこい笑顔を見せた。その邪気のない目が心から讃嘆しているのを、輝子は見た。
「まあ、へんなことをおっしゃらないで」
「しかし、気の強いお嬢さんだなあ、あなたは。ぼく、女の人がこんなに怒るのを、はじめて見たんです」
敵意のない素直な言い方であった。輝子は返事のしようがなかった。
「でも、きかない女の人って、ぼく好きになっちゃったな」
聞こえるか聞こえないかの独りごとを、輝子は聞いた。
「怒っちゃ、いけませんよ、お嬢さん。だけど、どうして女の人って男というものをよく知らないのかなあ。世の女性たちは、男性に甘い期待を持ちすぎていますよ。一生浮気をしない男なんて、いるわけはないんですがね。あなたの未来のおむこさんだって、今ごろ、かわいい女の子を膝の上にのっけてニヤニヤしている最中かもしれませんよ」
「まあ」
「どうせ、ぼくは下劣人種ですからね。言うことも考えることも下劣ですがね。下劣な人間って上品そうな人間より、ほんとうのことを言うかもしれませんよ」
輝子は、汽車の中で会った時の良一に好感を持っていた。しかし、それが母の憎んでいる伸子の息子とわかって、良一まで憎いような感じがした。だが、どこか憎めないものを良一は持っている。自分のことを美人だと言われて、輝子のほこ先は俄かに鈍った。このまま、ここにいると、一層軟化しそうな自分を感じて、輝子は、ざぶとんからすべりおりた。
「わたし、帰らせていただきます。とにかく、あの人に、もう絶対父と会わないで下さいとお伝え下さい」
輝子は切り口上《こうじよう》で言った。良一は木立の影をくっきりと地におとしている五坪ほどの狭い庭に目をやっていたが、改まった口調で輝子に訊ねた。
「なぜ、あなたのおとうさんに、うちのおふくろと別れろと頼まないんです?」
「頼みました。数えきれないほど、いくども。でも、いい返事をしておきながら、別れないんです。わたし、父に絶望しました」
「そうですか」
良一は同情したように、うなずいて、
「しかし、母もぼくが小さい時から、ずっと独りで生きてきた人間ですからね。母にぼくから、別れろとは言えないですよ」
「じゃ、母やわたしたちは、いつまでも今の不幸な状態でいて、いいとおっしゃるんですか」
輝子の語調がふたたび激しくなった。
「うちのおふくろと別れて、あなたのおとうさんは幸福になりますかね。おとうさんが面白くなければ、おかあさんだって、やっぱり不幸ですよ」
「でも、わたしの母は父のものですわ。夫婦の仲に他の女が割り込むことは、絶対にゆるせませんわ」
「そうですかね。男と女のことって、あなたの理屈通りに行くもんですかね。俗に恋は思案のほかって言うじゃありませんか」
「とにかく、わたしの言葉をお伝えいただきます」
輝子の眉がピリリと上がった。
「あなたって、ふしぎな人だな」
「何がですの」
「怒るとますます美しくなる」
「からかうのはやめていただきます」
輝子は膝の上の扇子を、いらいらと開けたり閉じたりした。
「からかうって、ぼくが?」
良一は驚いたように輝子を見た。やさしい円い目が輝子をみつめた。
「ぼくに京子って、ちょっとめんこい妹がいましてね。あなたと同じくらいの年ですがね」
良一は、輝子と京子が同じクラスだったことを知らないふりをした。輝子が京子をいじめたということも、無論知らないふりをしておこうと思った。京子の名を聞くと、輝子は生理的な嫌悪を感じて眉根をよせた。
「そのめんこい京子より、もっと美人のワイフをもらいましたがね。今の、あなたの怒った顔を見ると、その奈緒実より美しいと思いましたよ。あなたにこんなに叱られてばかりで、ちっとも楽しい訳はないはずなのに、こうしていると何だか楽しいんだから、どうもふしぎですねえ」
良一の言葉はお世辞には聞こえなかった。これほど激しい言葉のやりとりをしながら、良一は別段腹をたてている様子もない。邪気のない、さらりとした言い方に、輝子の心もいく分やわらいだ。輝子は自分の美しさに自信があった。美しいと言われることは、聡明だと言われるより、ずっとうれしかった。良一は輝子の反応を冷静にみつめていた。
「ぼくはワイフ以上の美人はないと思っていたんです。しかし、あなたは奈緒実とはまたタイプのちがった艶のある美人だ」
奈緒実と二度まで聞いても、輝子はそれが広野奈緒実であることに気づかなかった。奈緒実はまだ短大にいるはずだったからである。独身だと思っていた良一が妻帯者と知って、なぜか輝子は淡い失望に似たものを感じた。
「ワイフは、牧師の娘のせいか、ちょっと色気がないんですよ」
牧師の娘と聞いて、輝子はハッとした。やっと、良一の妻が、あの広野奈緒実であることに気づいたのだ。輝子ははじめての人を見るように、改めて良一を見た。そうか、この人が奈緒実の夫なのかと、輝子はどこかくずれたような魅力のある良一をながめた。
(あの人は竹山先生のような人と結婚すると思っていたのに)
途中入学の奈緒実の出現以来、その深々とした黒い目の美しさに、輝子は妬《ねた》ましく、いらだたしい日を送った高校時代を思い出した。
「全くあなたって、ふしぎな美しさを持っていますよ。ぼくは少しばかり絵をかくものだから、美に対して点が辛い方なんですがねえ。あなたを見ていると、ワイフのことなど忘れてしまいそうになる」
良一の言葉に輝子はだまって頭を下げると、部屋を出た。奈緒実よりも自分を美しいとは思えなかったが、奈緒実にない魅力が自分にはあると輝子は思った。妻のある男が、他の女に心|魅《ひ》かれることを、輝子は先ほどまで単純に怒っていたはずである。しかし、今この良一の言葉は輝子の自尊心を巧みについた。
玄関におり立った輝子は、つい良一を見上げずにはいられなかった。ハッとするほどの激しい目の色を見せて、良一は食い入るように輝子をみつめていた。輝子は帰りかねて目をふせた。
「あなたのおかあさんにはお気の毒ですが……。しかし愛してはならない人ほど、熱烈に愛してしまうこともあるということを、ぼくは仕方がないと思っているんですよ」
輝子はだまってかるくおじぎをすると、陽ざかりの暑い外へ出た。
(……愛してはならない人ほど、熱烈に愛してしまう……)
という今の言葉が、輝子に向けられたもののように、輝子は思った。異性から面と向かって、美しいと言われたことがなかったからかもしれない。とにかく輝子は良一の自分に対する讃美を、奈緒実に聞かせてやりたいような気がした。
(もし、あの奈緒実から良一をうばったら……)
一瞬そんな思いさえ、かすめた。輝子はミイラ取りがミイラになるという言葉を思い出した。伸子に抗議するつもりで訪ねたのに、どこかで良一にまるめられたような心地がして、いまいましかった。しかし一方で、冬休みに、函館からの車中で自分によりかかるようにしていた良一を輝子は思い出していた。
まっかな夏の夕陽が、西の山に沈もうとするところであった。竹山哲哉は学校の屋上に立って、さっきから夕陽をながめていた。太陽は山の端《は》に触れそうで、なかなか触れない。一瞬ふるえるように夕陽が左右にゆれて見え、やがて山の稜線にかるく触れたかと思うと、ぐっぐっと沈みはじめた。
夕陽の上の雲が、あかくはなやかに燃え、やがてすっかり陽が沈もうとした時、竹山はふいに名前を呼ばれて、ふり返った。そこにはピンクのスーツのピッタリと身についた京子が微笑していた。
「ほう、珍しい。学校に遊びに来たの?」
「学校の近くに、お役所のお友だちがいらっしゃるの。そこに伺った帰りよ。すばらしい夕焼けね、先生」
学生時代の言葉になって、京子は竹山の傍らにより添うように佇《たたず》んだ。すでに陽は没して、山の上にたなびく雲が金色に輝いている。
「このごろ、どうしている?」
竹山は京子を見ると、いやでも奈緒実と良一を思わずにはいられなかった。
「毎日お役所にかよってタイプをうっているだけよ。つまらないわ」
竹山は「どうしている」と奈緒実たちのことをきいたつもりだった。京子の言葉に竹山は、自分がまずきくべきことは京子自身のことであったと苦笑した。
「つまらないって、仕事がつまらないの」
「仕事は面白いんですけれど……」
夕風にかるくなびく京子のびんのほつれ毛が可憐《かれん》だった。
「仕事が面白ければ結構だね」
「そうでしょうか」
京子は竹山の横顔をみつめた。竹山のこの、どこにも甘さのないきびしい風貌に、なぜこんなにも心を捉えられるのかと、京子は思った。竹山の生き方には、何かはるか上の方をみつめているものがある。それに心ひかれるのだと京子は思う。
「そうだよ。この時代に仕事が面白いってことは、あまりないことだからね。みんな面白かろうが、面白くなかろうが、食べることができればいいと思っているんだからね」
「……でも……」
京子が言いよどんだ。
「でも何だね」
「仕事が面白いだけでは、わたしはつまりませんわ」
「ぜいたくな話だな」
京子が何を言いたいのか、竹山にもわかっている。だが竹山は気づかぬふりをして、そう言った。
「働かざる者は食うべからずって、京子さん知ってるか」
「知ってますわ。共産党の人がよく言うわ」
「ところが、あれの本家はキリスト教だよ。働こうとしない者は食うこともしてならないと、聖書に書いてある」
竹山は灯りはじめた遠くの赤いネオンを見ながら、そう言って笑った。
「先生」
「なんだい」
「この間、函館から兄が来ていました」
京子は竹山の様子を見て、話題を変えた。
「ほう、元気だった?」
奈緒実も一緒に帰ってきたのではないかと、竹山の胸はとどろいた。
「ええ。元気でしたわ。出張だと言っていましたけれど、でも夏休みみたい。五日ほど遊んで帰りましたわ」
「二人で?」
やはりきかずにはいられない。
「いいえ、兄だけ」
竹山が奈緒実のことを心にかけているのが、京子に敏感に伝わった。
「どうして二人で来なかったんだろう」
「さあ」
京子があいまいに微笑した。まさか妊娠じゃないだろうと竹山は思いたかった。
「さあって、どうなの。うまくやってはいるんだろうね」
「あんな兄ですから……奈緒実さんも苦労なさるでしょうねえ」
京子はやさしい笑顔を竹山に向けた。竹山は何となく腹がたった。
「あんな兄って、君も杉原の女の問題は知っていたんだろう?」
「ええ」
「それなら、どうして奈緒実さんに杉原のことを、はっきり知らせてあげなかったんだ」
やさしい顔をしているだけに、京子がひどく酷薄な人間に竹山には思われた。
「だって、兄は奈緒実さんと結婚したがっておりましたもの」
「しかし、あの人は君の友人じゃないか。君の一言で、あの人はもっといい結婚ができたんじゃないのか」
思わず責める口調になっていた。
「……。でも、わたしだって兄の幸福をねがっていましたもの。兄はほんとうに奈緒実さんによって立ち直ると信じていたんですもの」
京子が友人の奈緒実よりも、兄の良一の身になって考えることは当然かもしれないと竹山は思った。
「先生、そんなことをおっしゃるんなら、先生こそなぜ奈緒実さんに、兄のことを知らせなかったんですか」
「わたしと杉原は友人だ。友人のことは言えないよ」
竹山は少しどぎまぎした口調になった。
「でも、奈緒実さんは先生の教え子じゃありませんか」
竹山はだまって、もう暗くなりかけた街を見おろしていた。
「先生ったら、奈緒実さんは兄と結婚して必ず不幸になると決めていらっしゃるみたい。それは、兄って女にだらしがないけれど、ただそれだけの人間だとも思いませんわ。それに、奈緒実さんだって兄を愛しているんですもの」
もう、暗くなりかけていることは、竹山にはさいわいであった。
「奈緒実さんだって兄を愛しているんですもの」
と言った京子の言葉が、竹山の胸につきささった。
「京子さん」
竹山が京子を見た。京子の顔がたそがれの中に、白い花のようであった。竹山はふっと京子を抱きよせたいような淋しさを感じた。
「なあに、先生」
「うん、札幌も大きくなったねえ。今、人口は何十万ぐらいだったかな」
竹山は別のことを言った。言ってから、何十万人かの人の住むこの街に、奈緒実の代わりは、ただの一人もいないように思えた。
「降りようか。八月でも夕風が寒いね」
竹山は大またで京子をはなれた。
苫小牧《とまこまい》を過ぎると太平洋が見えた。九月の深いあい色の海の彼方に竹山は目をこらした。晴れた空の下に、渡島おしま半島がかすかに見える。ああ、あの半島の端に奈緒実の住んでいる函館があるのだと竹山は心がうずいた。
今、竹山は私立高校の英語の研究会に出席のため、函館に向かう車中にいた。気がついてみると、竹山は汽車に乗って以来、奈緒実のことしか念頭になかった。ほかのことは何も考えなかった。
奈緒実が良一と共に家を出たと聞いた時、竹山はいきなり大地に叩きつけられたようなショックを受けた。竹山が奈緒実に結婚の申しこみをするや否や、良一のもとに逃げ去ったような印象を受けたからである。その時の深い傷は、一年九カ月経った今も癒えてはいない。しかし、心の底で竹山は全く敗北したとは思っていなかった。
いつの日か、奈緒実は結婚に破れて、やがては竹山のもとに帰ることがあるような気がしてならなかった。それは奈緒実と良一の結婚生活が不幸であれとねがっていることとは、少しちがっている。竹山には、良一という人間が、どうしても妻を幸福にできる人間だとは思えない。良一には、女を幸福にする能力が欠けているような気がしてならなかった。
いつか汽車は内浦湾《うちうらわん》のあたりを走っていた。湾の向こうに駒ケ岳がはっきりと見える。あの山の向こうに奈緒実がいると思うと、竹山は胸苦しいほど奈緒実がなつかしかった。
(奈緒実は人妻だ。たとえ心の中ででも、人妻を恋うることを、神はゆるさない)
竹山は、右手に煙を吐いている昭和新山に目をやった。車内の他の客たちも、窓にひたいをつけるようにして、昭和新山を珍しそうにながめている。地球の中から噴き出ている熱い煙だと思うと、竹山は無心にながめることはできなかった。どこにも噴き出すことのできないこの思いを、自分は一体、いつ、どんな形でしずめることができるのだろうかと、竹山は思わずにはいられなかった。
九月の函館は札幌よりずっとあたたかい。駅を出ると竹山は良一に電話をかけようと、駅前のボックスに入った。良一の新聞社は話し中であった。電話をかけるのは、研究会が終わった二日あとでもいいと、竹山はボックスを出た。空が青く澄んでいる。この空の下に奈緒実がいると思うと、竹山は不安に似た心さわぎを感じた。いざとなると、奈緒実に会うのが恐ろしい。しかし、会って、自分の目で、良一の妻である奈緒実を見とどけたならば、奈緒実に対する気持ちも変わるのではないかと竹山は思った。
駅前に立って、竹山は奈緒実の住んでいる蓬莱町はどのあたりかと思案した。ハイヤーに乗ってから運転手にきくと、運転手はあごで右手を指し示しながら、
「あの函館山の下の方ですがね。蓬莱町に行くんですか」
と事もなげに言った。
「いや、わたしは湯の川に行くんだがね。蓬莱町に知った人がいるものだから……」
竹山の車は、奈緒実の住む町とは全く違う方向に走りだしていた。
研究会が終わるまでの二晩を、竹山は寝ぐるしく過ごした。同じ函館にいると思うと、良一と奈緒実の夜の姿態が、なまなまと想像されて、ねむることができなかった。自分が指一本さわることのできない奈緒実を、良一は自由にしているのだと思うと、竹山は怒りに似た嫉妬を感じた。
研究会が終わった午後、竹山は良一にも奈緒実にも会わずに帰ろうと駅に向かった。駅について、ふと水色の電話ボックスを見ると、誰も入っていない。竹山は気が変わった。良一の社にダイヤルを廻しながら、留守だったら、このまま帰ってしまおうと思った。
電話はコールサインが一度鳴り終わる間もなく、あっけなくつながった。女の声に代わって、すぐに良一が出た。
「もしもし、杉原ですが」
いい声だと竹山は思った。
「杉原か、俺だ。竹山だ」
「ああ、何だ、出てきてるの。今どこにいる?」
なつかしそうな良一の口調に、竹山の気持ちが和《なご》んだ。
「うん。駅前のボックスだ。今帰るところだ」
「なあんだ。もう帰るの? あすは日曜じゃないか。泊まって行けよ。奈緒実も喜ぶよ、きっと」
邪気のない言い方に、竹山は忽ち帰る意志を失った。
「いいのかい。じゃまじゃないのか」
「じゃまなわけがあるもんか。今、俺は一時間ほどちょっと仕事をしたら、すぐ帰る。すまんが先に行っててくれないか」
留守宅に訪ねて行ってよいのかと念を押す必要もないような良一の言葉に、竹山はすぐにハイヤーに乗った。
このごろ、良一が奈緒実に渡す金が少なくなった。酒を飲むためばかりではない。どこからか、古い重箱や、小さな仏像などを買ってくるようになったためである。
そんな古物を買ってくる日の良一は、酒も飲まず口数も少なかった。早く帰ってきて、いつまでも、じっと自分の買い物をながめている。だが、そういう日に限って良一の神経は磁針のように敏感に微妙に反応した。
つい二、三日前も、どこかの鰊《にしん》の網元が使っていたという、大きな自在かぎを買ってきて、いつものようにじっとながめていたが、ふいに奈緒実をふり返って、
「奈緒実、すまないが裸になってくれないか」
と言った。
「ええ、お夕食の支度がすんでからね」
奈緒実が、いかの皮をむきながら答えると、忽ち良一の目が狂暴になった。
「飯なんか、いつでもいい。すぐ裸になるんだ」
つかみかかるような、言い方だった。いかに夫ではあっても、そんな狂暴な男の目の前に裸身をさらすのは、いやであった。じっと立ちすくんでいる奈緒実を良一はどなりつけた。
「だめだ。早くしなきゃ、俺のイメージがこわれてしまうじゃないか」
言うや否や、良一の手は奈緒実のスカートにかかっていた。今、奈緒実はそのことを思い出していた。下半身から、あらわにされて行った時の、自分自身のみじめさを奈緒実は思った。良一のいらだちが、奈緒実にも全くわからないわけではない。才能があるということは、一つの大きな不幸を負っているようにも思えて、奈緒実は同情することもあった。しかし、
「芸術家はわがままなんだ。芸術は命がけの激しい自己主張でもあるんだからな」
という良一の言い分や生活態度には、どうしてもついて行くことはできなかった。
(今日も遅いのかしら)
そう思った時、階下の玄関の戸が開く音がした。良一かと思わず浮き腰になった時、
「ごめん下さい」
と訪う男の声がした。聞いたような声だと奈緒実は心がさわいだ。階下には誰もいないらしい。応対する声がなかった。
「ごめん下さい」
ふたたび訪う声を聞いた途端、奈緒実は思わず立ち上がった。
(竹山先生だ!)
奈緒実はとっさに部屋をぐるりと見まわした。乱れはない。
「ごめん下さい。どなたもいらっしゃいませんか」
会いたいような、会いたくないような気持ちで、奈緒実は返事をためらったが、格子戸をあけて出て行く様子に、
「少々、お待ち下さいませ」
と、明るい声を階下に向けた。竹山の前に、みじんの暗さも見せてはならなかった。自分が愚かな道を選んだことを、竹山には知られたくなかった。奈緒実は階段をかるくかけおりると、竹山がスーツケースを持ったまま、じっと奈緒実を見上げていた。
「奈緒実さん!」
「まあ、先生。よくいらっしゃいましたこと」
意外に明るい奈緒実の表情を、竹山は喜ぶべきか、悲しむべきか、わからなかった。
「さあ、どうぞ、おあがりになって。杉原はまだ帰っておりませんけれど」
「杉原は……」と奈緒実が言った言葉に竹山は、良一の妻である奈緒実をはっきりと感じないではいられなかった。竹山は靴を脱いで、階段に足をかけた。
「うすぐらくて、急な階段ですけれど……」
やはり奈緒実の声はあかるかった。その声には、親の家を飛び出した、うしろめたさのようなものや、良一との生活の疲れのようなものは何ひとつ感じられない。竹山はだまって、一段、一段、階段を上がって行った。
竹山は入り口に立ったまま、部屋の中をながめた。
(何と、何もない部屋だろう)
急ごしらえらしい流し台が部屋の片隅につけられ、その隣に小さな食器戸棚があるっきりだった。タンスもなければ、鏡台もない。どこで化粧をするのかと、竹山は畳にすわって自分を見上げている奈緒実がいじらしかった。しかし何もないと思ったのはまちがいで、流し台と反対側の一隅には、キャンバスや、古道具らしい鉄びんや、塗り物が雑然と置かれている。
「まあ、そんなところにお立ちになって……どうぞお入り下さい、先生」
奈緒実の声が場ちがいのように明るくひびいた。
(幸福そうな声だ)
竹山はスーツケースを持って部屋に入った。
「元気ですね。すっかり奥さんらしくなった」
竹山は強いて陽気にそう言って、奈緒実を真正面から見た。どこかがちがっている。肌の色か、まなざしか、竹山にはよくわからないながら、とにかく以前の奈緒実とはちがった美しさがあった。奥さんらしくなったという竹山の言葉に、奈緒実はほおをあからめて、
「まあ、先生ったら……」
とうつむいた。その奈緒実のなまめかしさに竹山はハッとした。以前の奈緒実にはなかったものである。奈緒実はもっと強く、明るい美しさだった。
「少し、やせたようだね」
「そうでしょうか」
奈緒実はちょっと、ほおに手をあてて首をかたむけた。やせはしたが、やつれてはいないと、竹山は奈緒実のすべすべと若い肌を見た。次に言うべき言葉をさがしながら、竹山は結婚指輪もはめていない奈緒実を見た。良一の母は、自分の息子の新世帯《じよたい》に何の協力もしていないのかと、竹山は改めて部屋の中を見まわした。
「何もないでしょう」
奈緒実がおかしそうに笑った。竹山も仕方なしに笑って、
「杉原のおふくろは、顔を出しましたか」
と聞いた。
「ええ、一度いらっしゃったことがありますわ」
「杉原のおふくろさん、タンスぐらい贈ってくれてもよさそうなものですね」
竹山の言葉に奈緒実が不審そうに言った。
「杉原のおかあさんに?」
「そうですよ」
「なぜですの? 杉原もわたしも親のふところを当てにはしていませんわ」
奈緒実はほんとうにそう思っているようだった。
「それは立派だ」
竹山は、そう言いながら、良一の母は奈緒実を自分の息子の妻とは考えていないのではないかと思った。今まで良一が幾度も情事を繰り返した相手と、同じように奈緒実を考えているのではないかと、竹山は心が重くなった。
「のんきなおふくろでしょう? 杉原に似て」
「いい方ですわ、とても」
奈緒実は茶をいれながら、自分の母の愛子のことを思っていた。竹山は、何か考えている奈緒実の顔をながめながら、仮の住居のように何の道具もないことに、義憤に似た感情が湧き上がるのを感じた。
(杉原に、奈緒実さんを幸福にする意志があるのなら、奈緒実さんの両親に何らかの挨拶があってもいいはずじゃないか)
もしかしたら、良一もまた、奈緒実を一時の遊びの相手としか思っていないのではないかとさえ竹山は思った。良一の給料でタンスや鏡台を買えないわけがない。
(こんなガラクタを買いこむくらいなら、先に世帯道具を買ってやるべきだ)
この部屋を見ると、良一に、奈緒実を幸福にしようという熱意がないように思われて、竹山はいつしかむっつりと腕組みをしたまま、だまりこんだ。
(この様子だと、奈緒実と杉原の生活も、案外早く破綻《はたん》がくるのではないか)
そう思って竹山は、はっとした。心の底で自分は二人の破綻を誰よりもねがっているように思われたからである。
「どうなさったの? 先生」
むっつりとおしだまった竹山を見て、奈緒実が微笑した。
「いや……」
竹山は口ごもった。
一時間ほどしたら帰ると言った良一は、なかなか帰ってこない。竹山は夕食の用意をする奈緒実の後ろ姿をながめながら、良一の帰りが遅いのを気にしていた。早く帰ってほしいような、それでいて少しでも奈緒実と二人でいたいような気がした。
「教会に行っているんですか」
竹山の言葉に、奈緒実はネギをきざんでいる手をとめた。
「教会……」
竹山に背を向けたまま、奈緒実はつぶやくように言った。
(教会、何というなつかしい響きを持った言葉だろう)
牧師の娘ではあっても、奈緒実はまだ確かな信仰を持ってはいない。だが、牧師の娘として生まれた奈緒実にとって、今、教会はあまりにもなつかしいところであった。それは、父や母を直ちに思い起こさせ、奈緒実自身の過去のすべてを思い出させるところである。思わず奈緒実のほおをつうと涙が落ちた。
良一は、奈緒実が旧知の人々と交際することをきらっていたから、奈緒実は教会にはもとより街にも出ていくことはほとんどなかった。
答えない奈緒実の後ろ姿をみつめたまま、竹山は話題を変えようか、どうしようかと思いあぐんだ。このまま、奈緒実の父と母のことにふれていくことが憚《はば》かられるようなものが、奈緒実の背に感じられる。
しかし、そ知らぬふりをして、奈緒実を困惑させたい思いもないではなかった。良一のもとで苦労をしている奈緒実に、竹山はやはり何か責めたい思いが強かった。
「一度、家に手紙を出すか、帰ってみるといいんでしょうがねえ」
竹山はやはり言わずにはいられなくなった。聞こえないような顔をして、奈緒実はふたたびトントンとネギをきざんで答えなかった。父や母の様子を、奈緒実は何よりも先に知りたかった。だが今の奈緒実には、まだ父母のことを竹山に尋ねる資格がないような気がした。
「愛するとはゆるすことだよ」
と言った父の耕介に、奈緒実は顔を上げられない思いだった。だから、今の竹山の言葉は痛かった。
竹山は、何も答えない奈緒実の後ろ姿に、今の奈緒実の淋しさが滲み出ているような気がして口をつぐんだ。二人の間に重たい空気が流れた。どちらもだまっていた。すき焼きの用意ができたが、良一は帰らない。真赤におこった七輪の火をながめながら、奈緒実は良一が今夜も遅くなるような気がしていた。せめて竹山の来ている時ぐらい、自分たちはよそ目にも幸福そうな夫婦でありたかった。
「変だな。一時間ほど遅くなると言っていたんだが……」
竹山はすっかり暗くなった外を見た。竹山が来てから、奈緒実がすき焼きの材料や酒を買いに行ったりして、かなりの時間がたっている。
「ごめんなさい。せっかく先生がいらっしゃって下さったのに、どうしたんでしょう」
奈緒実は頭を下げた。
「電話をかけて来ましょう」
竹山は、そう言って外へ出た。良一のいない部屋に奈緒実と二人で向かい合っていると、妙に息づまるような思いがした。
外に出ると、函館山がくろぐろとのしかかるように、思いがけない近さにあった。竹山はじっと佇んで函館山を仰いだ。と、山の中腹に車のヘッドライトが光った。
(あ、ずり落ちる!)
一瞬、竹山がそう錯覚したほどに、自動車はかなりの急勾配を降りてきた。一台、また一台と、連なって同じ角度で降りてくる自動車に、竹山はやっと安心して、思わず苦笑した。
今、奈緒実と二人っきりで部屋の中にいた時の竹山自身の感情は、まさにこのずり落ちそうな自動車に似ていると思ったからである。
一町ほど行った薬屋の店先で、竹山は電話をかけた。良一はとうに社を出ているという。竹山は何となく不安になった。
(俺が来ていると知っていながら、どうして帰りが遅いんだ?)
竹山は何かヒヤリとするような、良一の心の動きを感じた。先刻の良一の電話には、何のわだかまりも感じなかっただけに、一層その感じが強かった。
(会わずに帰ろうか)
しかし竹山は、良一に会わずにこのまま帰ることもためらわれた。このまま帰ったのでは、二人の友情にとり返しのつかないひびが入ってしまうような気がした。
(それでもいいではないか)
考えてみると、良一はどうしても竹山にとって失うことのできない友人というわけでもないような気がする。それどころか、今までの良一の女性問題で、面倒な後始末ばかりさせられてきて、竹山は一方的に迷惑だけをこうむっていたようなものであった。
だが、そうかといって、このままぶっつりと、気まずい別れになってしまうのもいやだった。長いつきあいというものは、理屈だけで割り切ることのできない、ふしぎなものだと竹山は思った。竹山自身、いろいろと良一のために奔走してきても、良一の幸福を心からねがってしてきたわけでもない。一見、温かく寛容な友情のように、人にも見られ、自分自身でもそう思ってきたが、考えてみればその実体はむなしいものだと竹山は思った。
(それどころか、俺は心ひそかに、今も奈緒実を得たいと思っている)
帰宅しない良一を責めることのできない自分を竹山はかえりみた。
肌寒い九月の夜風に吹かれながら、細い格子戸のつづく家並みの通りを竹山はぶらぶら歩いて行った。と、カラリと軽い音を立てて戸が開いた。芸者だった。うす暗い門灯の下で芸者は、竹山をチラリと見て笑った。その顔が京子に似ていた。つまをとって、芸者は下駄の音をさせて去って行った。すっと背筋を伸ばして坂を下って行くその姿を、竹山は立ちどまって見送った。
芸者の下りて行くはるか下の方に、函館の街の灯が美しかった。
奈緒実の家の前に来て、そっと玄関をのぞいたが、良一の靴らしいものは見当たらない。
「あら!」
足音を聞きつけてふすまをあけた奈緒実は、竹山を見て、かるい失望を見せた。竹山は奈緒実の表情に、急に激しい妬みを感じた。今、奈緒実の待っているのが良一だということは当然であった。その当然であることに竹山は妬みを感じた。
「すみません、外は寒かったでしょう」
奈緒実のねぎらいさえも、竹山には淋しかった。
「社はとうに出ているんだそうですよ。どこにひっかかっているのかな。杉原はいつもこんなに遅いんですか」
思わずとがめる口調になって、竹山はすぐに悔いた。奈緒実は淋しそうに笑って言った。
「待たないで、先生と二人で食事にしましょうよ」
「しかし、悪いな、もう少し待ちましょう」
「無駄ですわ」
奈緒実がきっぱり言って、
「先生は、おビールがいいのかしら?」
と明るくつづけた。
「いや、酒類はいりません。御飯をいただきましょう」
竹山も、さばさばと言った。奈緒実に気をつかわせることが、あわれになった。
「今そこで京子さんに似た人に会いましたよ」
「まあ、京子さんに?」
奈緒実は肉鍋を七輪にかける手をとめた。
「芸者でしたがね。きれいな人だった」
「京子さんに時々お会いになります?」
「すっかり大人になってしまったな。あの人も」
「京子さんは……」
言いかけて奈緒実は竹山を見た。
「京子さんがどうしました?」
京子は竹山を好きなのだと言おうとして、奈緒実は黙った。竹山が奈緒実に、結婚を申しこんだことを思い出したからである。
「言いかけて、何を言うのか忘れましたわ」
鍋に材料を入れ終わるのを見て、竹山は、
「祈りましょうか」
と、ひざを正した。
「ええ」
パッと奈緒実の目が輝いた。父母と共にいた頃は、毎食前の祈りがひどくつまらなく思われていた奈緒実だった。それが、良一と結婚して、全く祈りのない生活に入ると、次第にそれが耐えられないほど淋しくなった。いつのまにか奈緒実がふたたび祈るようになった時、
「俺は抹香くさいことがきらいなのだ」
と良一にとがめられ、あげくの果てに飯台をひっくり返されたことさえあった。
それだけに、今、竹山に祈ろうと言われた奈緒実の喜びは大きかった。
祈り終わると、奈緒実は思わず竹山と顔を見合わせて微笑した。良一との間にはかもし出すことのできない雰囲気があった。
「おいしい! なかなかいい味じゃありませんか」
竹山は肉をつつきながら言った。
「お口に合ってうれしいわ」
「奈緒実さんは料理なんかしないで、むずかしい本を読んでいる奥さんになると思ったがね」
「ご期待に添えないですみません」
奈緒実は危うく涙が出そうだった。
(これが良一なら……)
奈緒実は、良一に料理をほめられるという経験はほとんどなかった。夜おそくなり勝ちな良一は、この頃では朝食しか家でとらない。その朝食も、飲んだ翌日ではあまり味がないようであった。
(二人でゆっくり夕食をとるだけでも、何と平和な楽しいものであろう)
しかも竹山は祈ってくれた。「この家庭の上に大きな祝福があるように」という先ほどの竹山の祈りを、奈緒実はかみしめるように胸の中で味わった。果たして良一との結婚生活に、神の祝福を受けるに足るものがあるだろうかと、奈緒実は思わずにはいられなかった。
良一は、竹山の来ていることを知りながら今日も遅い。良一との結婚生活は、いつまでたっても、もはや和なごやかな夕食など望めそうもないような気がした。
(もし、竹山先生と結婚していたら、きっと毎日祈って食事の箸《はし》をとり、どんなに楽しい生活だったかわからない。わたしは、先生のような人と結婚すべきだったんだわ)
そう思った途端、奈緒実は自分でも思いがけない心の動きに、顔に血がのぼった。
「いやにだまりこんでしまいましたね」
竹山に言われて奈緒実は一層顔がほてった。竹山はあかくなった奈緒実に気づかずに、不器用な手つきで皿の材料を鍋にうつした。
「まあ、ごめんなさい、うっかりしていて」
良一は、そんなことすらしてくれたことがないと、奈緒実はまた反射的に二人をくらべていた。
「奈緒実さん、ひるは何かしているんですか。洗濯だって掃除だって、二人っきりじゃ大したこともないだろうしね」
竹山は部屋の中を見廻した。
「それが、何もしていませんの。どこかに勤めたいと思っても、良一さんはわたしが街に買い物に行くことさえ、きらいますし……。家の中で何かすればいいんですけれど、何となく怠けてしまって」
自分でも時間が惜しいと思いながら、何をする意欲もない自分を、奈緒実ははがゆかった。
「幸福でほわっとしている時期もあっていいんですよ」
「幸福?」
奈緒実はそう問い返してから、
(そうだ、わたしは先生の前では、あくまで幸福な女でなければならないのだ)
と、とっさに思い返した。
「そうかもしれませんわねえ」
奈緒実はそう言って、鍋の中から玉ねぎをはさんで小どんぶりに入れた。もう少しで奈緒実は、自分の結婚生活が期待したようなものではないことを、竹山に話してしまうところだった。
竹山は一瞬奈緒実をみつめたが、だまって箸を動かした。
食事が終わると既に九時を廻っていた。
「じゃ、とにかく今日は帰りますよ」
竹山はそう言って立ち上がった。
「すみません。杉原はどこかできっと飲んでいるんですわ」
奈緒実は窓辺に立って、カーテンをそっとあけた。また今夜も、二時頃にならなければ帰らないのだと思うと、奈緒実はつらかった。ふだんはともかく、竹山の来た日ぐらい、早く帰ってほしかった。いくら奈緒実が幸福そうに見せかけても、良一が帰らないということで、自分たちの生活の何もかもが竹山に見透かされたように思った。
「じゃ、杉原によろしく。まあ元気でやって下さい」
部屋を出ようとした竹山が、そう言ってくるりとふり返って奈緒実を見た。竹山につづいて部屋を出ようとした奈緒実は、竹山と間近に向き合った。竹山はじっと奈緒実をみつめた。竹山の視線がかなしそうに自分に注がれているのを奈緒実は見た。奈緒実は目をふせた。竹山の引きしまった体が目の前にある。良一とはちがった清潔な竹山の姿であった。今、はじめて奈緒実は竹山を異性として強く意識した。体が熱くなった。奈緒実が目を上げると、竹山はつと視線を外して、
「さよなら」
と、ふすまをあけた。何か肩すかしをくったように奈緒実が思った時、下の玄関の戸がガラリと開いた。竹山と奈緒実が階段を降りると、良一が酒に酔ってふらふらしながら立っていた。
「何も俺が帰ってきたからって、あわてて帰ることはないじゃないか」
良一はスーツケースを下げた竹山を見て、いきなりからんだ。
「そんな……失礼よ、良一さん」
奈緒実が良一の靴を脱がせた。
「失礼? 何が失礼だ」
良一は、わめくように言いながらあぶない足どりで階段を登りだした。うしろから良一を支える奈緒実の姿を見て、竹山はつづいて一緒に部屋にもどった。
「ごめんなさい。こんなに酔って……」
「いや、酔っぱらった杉原には馴れていますよ」
「なに? 酔っぱらった杉原には馴れている? だから、どうだって言うんだ」
と、ふたたびからんだ。
「良一さん、竹山先生を今までお待たせして、そんな失礼なことおっしゃっては……」
奈緒実は、良一がふだんより荒れているのに、はらはらした。
「お待たせした? 何を言ってるんだ、奈緒実。この先生さまは俺なんぞに会いたくてやってきたわけじゃない」
酒くさい息を吐いて、良一はじろじろと竹山を見た。良一の言葉に、竹山は一瞬顔をこわばらせたが、図星だと思うと怒ることもできなかった。
「遅く帰って下さってありがとうと、御礼を言われたいくらいのもんだ」
奈緒実は、竹山の方にそっと頭を下げた。良一はだまっている竹山にいらいらしたように言った。
「なあ、竹山。そうだろう。俺が帰ってきたんで、あわてて帰るなんて水臭いぞ。うん、臭い、たしかに臭い」
竹山は答えなかった。
「おい、何とか言ったらどうだ。何も言えないだろう、お前たち」
そう言って良一は、いきなり傍にいた奈緒実の肩をぐいと突いた。
「乱暴はよせよ!」
竹山がしずかに言った。
「杉原、一言だけ聞くがね。お前は奈緒実さんを愛しているのか」
良一はだまって竹山を見た。
今日の午後、竹山からの電話を受けた時、良一は素直になつかしかった。しかし先に行っていてくれと言った自分の言葉を、良一は直ちに悔いた。
(世帯道具の一つもないあの部屋を見て、竹山は一体どう思うだろう?)
そう思っただけで、良一は竹山の待っている自分の部屋に帰るのがおっくうになった。良一としても、奈緒実にタンスの一つぐらい買ってやろうと思わないわけではなかった。だが、良一は、まとまった金を手にすることがほとんどなかった。給料日にはまず飲み屋への借金を払わねばならなかったからである。
「タンスがあっても、入れる着物がないわね」
と笑っていて、奈緒実自身も、タンスを買いたいとか着物を買いたいとかと言うことはなかった。
酒をもう少しつつしめばいいと良一自身よくわかっていながら、街の灯がちらちらする時刻になると、つい足は飲み屋に向かっていた。今日も、竹山が来ているということで、かえって気が重く家に真《ま》っ直《すぐ》に帰る気がしなかった。そして、いつものように行きつけの飲み屋ののれんをくぐった。
(俺は、結婚していい絵を描くと高言した。しかし、一年半以上も過ぎて、まだ絵らしい絵も描いていない)
才を認めてくれているだけに、竹山は良一にきびしく辛辣《しんらつ》である。盃を重ねるにつれて、良一は一層竹山に会うのがつらくなった。飲みながら良一は、自分の部屋で待っている竹山を想像した。竹山が奈緒実に何を話しているかわかるような気がした。
「君は幸福なのですか」
そんなことを言っているように思えた。その言葉に奈緒実は何と答えるだろう。幸福だと答える確信は、良一にはなかった。この頃の奈緒実は、時々ぼんやりと何か考えていることがある。いらだった神経をそのままぶつけることができるのは、奈緒実にだけだと思っても、奈緒実の脅えた目に良一は内心ギクリとすることがある。
「俺は甘えているんだ。奈緒実、甘えさせてくれ」
良一は自分のその叫びが伝わっていないことに気づいている。最愛の者に恐れられていると思うことは侘びしかった。
(多分、奈緒実は竹山に「あまり幸福じゃありませんの」と答えているにちがいない)
そう思うと、良一はふいに不安になった。
竹山が自分を訪ねたのは、奈緒実に会いたいからにちがいない。竹山が奈緒実に結婚を申しこんだ話を良一はあとで知った。勝利者の優越感で、良一は竹山に奈緒実一人のところで待っているようにと言ったのである。
久しぶりで会った竹山と奈緒実が、なつかしさのあまり、親しげに手をとり合っている姿が目に浮かんだ。
「杉原は相変わらず飲んでいるんですか。困りましたねえ」
分別顔に言う竹山が目に見えるような気がする。ついでに結婚前の良一の女たちのことを竹山は言っているかもしれない。奈緒実がおどろいて泣き出し、竹山が慰めているのではないか。
そんなことを考えながら飲む酒が、うまいはずはなかった。それでもなお良一は、すぐに家に帰る気にはなれなかった。いらいらしながら良一は時間が過ぎるのを待っていた。次第に日が暮れて、すっかり夜となった頃、いつの間にか店は客で溢れていた。
(もしかしたら、奈緒実は竹山と札幌に帰ってしまったのではないか)
ふっとそう思うと、思ったことが、にわかに現実のような気がしてきた。あの二階の部屋は真っ暗で、奈緒実は疾うにいないような気がした。良一は叫び出したいような淋しさで、ハイヤーを走らせた。
(奈緒実がいなくなったら、もう何もかも終わりだ)
良一は今、自分がどんなに奈緒実を切実に愛しているかを思い知らされたような気がした。車が電車通りを曲がって、ダラダラ坂を登る時、良一は車の窓から顔を出して、自分の住んでいる部屋を見上げた。
(あ、灯がついている)
がくがく足がふるえるような喜びで、車から降り立った時、窓にうつる大きな二つの影を良一は見た。じっとして動かない奈緒実と竹山の影であった。
「お前は奈緒実さんを愛しているのか」
そう言った竹山の顔を、良一はただだまってみつめたまま、今、自分がどんな思いで車を走らせて奈緒実のところに帰ってきたかを思っていた。
(それなのに、俺はもう奈緒実の肩を乱暴に突いてしまった)
しかし、自分は奈緒実を愛していると、良一は切実に思った。
「奈緒実さんを大事にしてやってくれよ」
竹山が、しみじみとした口調になった。
「どうしようと、俺の勝手だ」
良一は大声でどなるとゴロリと横になった。
奈緒実は竹山に顔が上げられなかった。竹山が気の毒であったが、それ以上に奈緒実自身が惨めであった。せめて竹山の前では幸福な自分たちでありたいという奈緒実のねがいは、無残にもうちくだかれてしまった。
「じゃ、どうも」
部屋を出る竹山に、良一は一顧だにしなかった。
竹山を送って奈緒実は外へ出た。
「寒いですよ」
竹山のいたわりをこめた視線に奈緒実はすがるように見上げて言った。
「ええ、でも……」
このまま、しばらく外を歩きたかった。
「ぼくのことなら心配しないで下さい。杉原は長い友人ですからね。あいつの気持ちはよくわかるような気がしますよ」
良一は良一なりに奈緒実を愛していることが、竹山にはよくわかった。良一の竹山に対する態度を怒る気にはなれなかった。人妻になった奈緒実を諦めきれずにいる自分は、いくら責められても仕方のないような気さえした。
「どこかで宿をとりますから……。心配しないで奈緒実さんはお帰りなさい」
どこまでもついて行きたそうにしている奈緒実に、竹山はややきびしい口調でそう言うと、さっさと歩み去った。ふり返るかと思って見送っていたが、竹山は大股に坂を下って行った。あの角を曲がる時にはふり返るだろうと思ったが、しかし竹山はとうとう一度もふり返らずに、電車通りの角を曲がって姿を消した。
(いつまで、外でぐずぐずしてるんだ)
良一は奈緒実がいつまで経っても部屋にもどらないことに、じりじりしていた。
長年の友人である竹山を、本来なら泊めるべきだと良一は思った。しかし、今日は帰ってほしかった。竹山と喧嘩別れになったとしても、仕方がなかった。自分が竹山と親しくしていると、奈緒実まで親しくなってしまいそうで不安だった。
竹山と奈緒実がつついた鍋を良一は見た。そしてまた、二つの飯茶わんと、二つの小丼をそこに見た。自分勝手に遅く帰ってきたくせに、良一は自分が仲間外れにされたような心持ちがした。
(何をしてるんだ。いつまでも!)
そう思った時、階段を上がる奈緒実の足音がした。良一は起き上がった。
「あっ!」
ふすまをあけた奈緒実は、いきなり飛んできた灰皿をひたいに受けてのけぞった。指のぬるりとした感触が血だとわかった時、奈緒実は良一に対して深い絶望を感じた。
(もう、この人とはこれ以上やっていくことはできない!)
血を見た良一がおろおろとして、薬箱から薬を取り出す姿を奈緒実はひややかな目でながめた。その夜、奈緒実はついに一言も口をきかずに床に入ったが、良一への憎しみで眠ることができなかった。
今日ほどはっきりと良一と竹山という人間が、対照的に映ったことはなかった。どうして今まで、それが自分にはわからなかったのだろうと、奈緒実はくやしかった。明日中には、どんなことがあってもこの家を出ようと奈緒実はついに決意した。
出船の汽笛が思いがけなく近くでひびいた。新しい人生への出発を知らせる汽笛のように、奈緒実には思えた。
朝になって雨が降り出した。トタン屋根に当たる雨の音を、奈緒実は布団の中で聞いていた。
「雨か、いやだな」
良一が起き上がって、奈緒実を見たが、奈緒実は寝たまま顔をそむけていた。良一との最後の朝だと思っても、妻らしく送り出そうというほどの心のゆとりはなかった。
良一は少しの間、不安そうに奈緒実を見おろしていたが、何もいわずに歯をみがきはじめた。ひげを剃るための湯のないことに気づいて、良一はふたたび奈緒実の方を見ながら、新聞紙をくしゃくしゃにまるめて七輪に入れた。
(あすから、あの人はずっとああやって、一人で火をおこさなければならないのだわ)
中腰になって、うちわをバタバタつかっている良一のうしろ姿を、奈緒実は寝床の中からながめていた。
火はなかなか炭につかないようであった。良一はあきらめたように、うちわを投げ出して階下に湯をもらいに行った。
「それは困りましたね」
という、階下のあるじの声が聞こえた。ひげを剃って、服を着替えても奈緒実は起きない。
「どうしたの? ゆうべの傷が痛むの」
良一は枕もとに来て、奈緒実の顔をさしのぞいた。初めて会った頃のような、やさしい声である。
「怒ってるの? ゆうべはぼくが本当に悪かったよ。たのむから、もう怒らないで起きてくれないか。ぼく、はらがぺこぺこなんだ」
良一は甘えるように奈緒実の肩に手をかけた。奈緒実はだまって肩をよじらせて、その手をさけた。幼子のような良一の目が、泣き出しそうに奈緒実をみつめている。
(この目だわ。この目にわたしはだまされてしまったのだわ)
子供のように純真で善良な人間だと信じたのは、この目のせいだと奈緒実は腹だたしい思いで、じっと良一を見返した。
「どうしたの? もう、そんなに怒らないで。困ったなあ、ぼく」
奈緒実のきびしい視線に、良一は不安そうな表情にかえった。
(この甘えたような、ものの言い方も、本当に好きだと思ったけれど……)
気に入らなければ、昨夜のように灰皿を投げつけたり、いつかのように食卓をひっくり返す人間なのだと、奈緒実は良一に背を向けた。
「困ったなあ」
しばらく部屋の真ん中に立っていたが、やがてしょんぼりと良一は出て行った。待ちかねたように奈緒実は布団の上に起き上がった。寝床から脱け出た形のままに、良一のかけ布団が、ぽっかりとトンネルを作っている。その枕もとには、折りたたんだ提灯《ちようちん》のようにパジャマのズボンが脱ぎ捨てられてあった。
ふと壁を見ると、良一のレインコートがかかっている。
(まあ、雨降りだというのに……)
電車に乗るまでに、良一はズボンも服も、すっかり濡らしてしまうにちがいないと奈緒実は思った。
(別れるにしても、何とかもっと気持ちのよい別れ方があったはずなのに……)
横なぐりの雨の中を、レインコートを着ることも忘れて、傘だけさして歩いて行った良一の姿を思うと、奈緒実はふっと心が弱くなった。
窓に流れる雨が、滝のようであった。見るともなしに雨をながめながら、奈緒実は二人の過去を思い返していた。
神経質で冷酷な面だけを良一の真実の姿だと思ったのは誤りのような気がしてきた。昨夜のようにいらいらと怒りっぽいのも良一の本当の姿なら、今朝のように幼子のような表情でやさしく甘えてくるのも良一の真実の姿のようにも思えてきた。
ゆるしてくれと言っている良一に、一言の口もきかず、朝の食事もとらせずに出してしまった自分の姿だって、灰皿を投げつけた良一に劣らず冷酷ではないかと、奈緒実は自省した。
朝食もとらずに雨の中を濡れて歩いて行った良一の心の中を思うと、昨夜からの奈緒実の怒りが不当のようにさえ思われた。
(あんなに怒ることはなかったんだわ。良一が昨日灰皿を投げたのも……無理はないのかもしれない)
奈緒実は、ひたいの傷を手鏡にうつした。血が黒くこびりつき、はれ上がって醜かった。奈緒実は自分の傷をじっとみつめながら、竹山への昨夜の心のゆらぎを思い出していた。良一はあのゆらぎを鋭く感じとったのかもしれないと奈緒実は思った。
(このぐらいの傷を受けるのは当然かもしれない)
振り返りもせずに坂道を下って行った竹山の姿を、奈緒実は忘れることができなかった。今、自分が良一のもとを去ろうとしているのは、良一への絶望のためだけであろうかと、奈緒実は自分の心の中を探っていた。昨夜の良一の横暴を、よい口実にしようとしている自分を否めなかった。
「わたしだって、人一人ぐらい愛せます」
父の耕介に高言したことを思い出しながら、一人の人間を愛しぬくということのむずかしさを、奈緒実は思わないわけにはいかなかった。
今の奈緒実には、竹山の存在が俄《にわ》かに大きくなっていた。一度も振り返らずに去ったということで、竹山の奈緒実への真実を思わずにはいられなかった。
自分は本当は、最初から竹山のあのきびしさに心ひかれていたのではないかと奈緒実は思った。英語の時間に竹山から、
「何を考えているのかと、きいているんだ」
と鋭く叱責されたことや、うすぐらくなった北大の構内で、痛いほど、ほおを殴られた時のことを、奈緒実はなつかしく思い浮かべた。
(だけど、良一を愛したのも事実なんだわ)
とにもかくにも、自分が選んだのは、竹山ではなくて良一ではなかったかと、奈緒実は傷に薬を塗ることも忘れていた。
「人生とは選択である」
という言葉が奈緒実は好きだった。日々、刻々、選択を迫られているのが、自分たちの人生ではないかと奈緒実は降りやまぬ窓の雨を見た。
今、良一を捨て去ることは、さしてむずかしいことではないかもしれない。しかし、それは一度自分が選んだ人生に対して、あまりにも無責任ではないかと奈緒実は自分を責めた。自分の選んだ良一との人生に対して、果たしてどれだけの情熱を燃やし、どれだけの真実をつくしたかと、奈緒実は自問した。
(この人がいやなら、あの人というような安易な考えでは、たとえ竹山先生のところへ行っても、結局は同じではないだろうか)
人一人ぐらい愛することができると言った自分の言葉が、きびしい鞭《むち》となって奈緒実自身にはねかえってきた。
「愛するとは、何べんも何べんもゆるすことだ」
父の耕介の言葉が、今ほど重たくのしかかってきたことはなかった。
(ゆるしてもらわなければならないのは、わたしの方かもしれない)
たやすく竹山に心を傾けてしまった自分を奈緒実はきびしくみつめた。雨の中を、朝食もとらさずに、一言の口もきかずに出勤させた自分の冷酷さを思った。
灰皿を投げつけた良一はたしかに悪い。しかし、竹山について、どこまでも一緒に行ってしまいたかったあの感情が、透けるように良一に、はっきりと見えたとしたら、良一がかっとなったのも、至極当然と言わねばならなかった。
奈緒実には、どこまでも相手を責めつづけるということができなかった。父の寛容と、母の生来ののんきな性分が、激しい気性の奈緒実の中にも流れているのかもしれない。昨夜、額の傷から流れる血にふれた時の、良一への絶望と怒りは次第に失われていった。
「もう一度、自分の選んだ良一に対して、本気で愛しぬいてみよう」
良一を本気で愛しようとしなかった自分には、竹山を愛する資格はないような気がした。考えてみると、奈緒実は良一を理解しようとつとめたことは少なかった。なぜ遅くまで帰らないのか。なぜいらいらとなるのか。その時その時の良一の気持ちになって思いやることはなかったと、奈緒実はかえりみた。
(思いやる前に、今夜も遅いとか、もっとやさしくものを言えないのかとか、わたしはいつも咎めていた)
「女は女房になると鬼になる」
と言った人があったと、奈緒実は苦笑した。良一が慰めてほしいと思っている時に、自分の視線はきびしく良一に注がれていたのではないか、いたわりのない難詰する表情は、感じやすい良一の心を傷つけていたのではないか、と、奈緒実はその時々のけわしい自分の表情を想像して、まさしく鬼だとぞっとした。そのことに、今まで一度も気づいたことのないのに、奈緒実は思い及んだ。
「他の人に対しては忍耐深く寛大であれ。あなたも他人が耐え忍ばねばならぬようなものを、事実において多く持っているからである」
とイミタチオ・クリスチに書いてあったような気がする。とにかく、誰も自分の姿には気づかないものだと奈緒実は思った。自分だけが絶対善であり正であるかのように思い勝ちであることを反省した。人を理解するためには自分自身を先ず正しく理解しなければならない、自分を知ることが人を愛するはじめだと奈緒実はうなずいた。
(もう一度、本気でやり直してみよう。人一人愛することが、どれほどむずかしいものであるかを知った今、わたしは又ちがった生活をうちたてることができるかもしれない)
背を向けて去って行った竹山のきびしい姿をふり払うように奈緒実は目をつぶった。
その夕方、良一は明るいうちに帰ってきた。
「お帰りなさい。今朝はごめんなさいね」
と、階段の下まで出迎えた奈緒実を、良一はものも言わずに抱きしめた。
雨はまだ降っていた。
正月休みになっても、竹山は旭川の実家に帰る気はなかった。既に兄の代になっている家に帰っても、憩《いこ》う場所はない。自分の下宿部屋だけが、安住の場所であった。
だが正月は、受け持ちの生徒や、卒業生たちが訪ねてきて、決して静かな正月とはいえなかった。特に受け持ちの女生徒たちは、五人、七人と一団になって遊びに来る。部屋に入るまで、お互いにつつきあいながらぐずぐずとして、座ってからも顔を見合わせてクスクス笑う。そうした女生徒たちは、竹山にとっては、いつまでたっても苦手な客であった。だが一人で訪ねてくる客はもっと扱いかねた。こちらの出す話題には乗ってこないで、長い時間座っていられるのには、竹山もいささか芯がつかれた。そんな生徒に限って、次の日は長い手紙を速達でよこしたりする。
「今日はとても楽しい日でした」
と書いてくるその手紙は、ほとんどラブレターと言ってもよい手紙だった。
だからこの頃は竹山も、正月は札幌にいないということにしてあった。ストーブの燃える傍で好きな本を読んでいるのは、いかにも静かで楽しかった。だが、この正月は何の本を読んでいても、ふと気がつくと奈緒実のことをいつの間にか考えている。
良一と、あの何の家財道具もない二階で迎えた奈緒実の正月は、どんなものかと思いやられずにはいられない気持ちだった。家財道具など何もなくても愛し合っていれば幸福と言えるかもしれない。そうは思っても、去年の秋に訪ねた日の奈緒実と良一の姿は幸福とは言いかねた。
正月の三日も暮れた日のことである。
「お晩でございます」
若い女の声に、奈緒実ではないかと、竹山は、思わずドキッとして立ち上がった。
竹山の住んでいるはなれは、庭の枝折戸《しおりど》を押して入ってくるようになっている。竹山は着物の衿をかき合わせながら、障子をあけた。
「お晩でございます」
声の主は、うすくらがりで顔が定かではない。しかし、その声は奈緒実ではなかった。竹山はいくぶんがっかりした。
「いらっしゃい。どなた?」
「わたくしです、先生。川井輝子」
そう言って輝子は低く笑った。その笑い声がひどくなまめいてひびいた。
「ほう、川井さんか。珍しいね。まあ上がり給え」
竹山は、川井輝子の名さえあまり思い出したことがなかったことを思いながら、輝子を招じ入れた。
紫のベルベットのコートを脱いだ輝子のうすいブルーの和服姿は、年よりも大人びて見えた。
「先生、まだお一人?」
挨拶《あいさつ》がすむと、輝子はみやげの菓子折りを竹山の前において、上目づかいに竹山を見た。
輝子の媚をふくんだ目や、その濃い化粧の仕方が、竹山には何となく不快だった。
「一人です」
竹山はぶっきら棒に答えてから、
「川井さんはたしかまだ学生だったね」
と、続けた。
「そうですわ。あと、二年」
高校の時から、輝子は竹山に心ひかれていた。それは独身の若い教師に抱く女生徒の一般的な感情に過ぎなかった。だが、今日久しぶりに会った竹山は、教室で見馴れた姿とはちがって、もっと陰影のある魅力的な感じだった。独身とは言っても、肩にふけの落ちているような感じではない。足のうらまで清潔な感じだと、輝子は改めて竹山をながめた。
「先生、あの人どうしているかしら」
「あの人?」
竹山は見当がつきかねた。
「ほら、先生のお気に入りだって、みんなが騷いだじゃありませんか」
奈緒実のことだろうかと、竹山は思わず顔に血がのぼった。
「まあ、あかくなって、やっぱりそうだったのね」
輝子は笑って、ちょっと体をよじらせた。学生というより商売女のような感じだと、竹山は思った。
「あの人って誰のことです」
「度忘れしましたけれど、ほらすすきのの、飲み屋の……」
輝子はわざと京子の名前を忘れたような顔をした。
「ああ、なんだ、京子さんのことか」
竹山は苦笑した。京子が自分と噂にのぼったなどとは、竹山自身気づかぬことであった。
「まあ、先生ったら、ああ、なんだはないでしょう? 学校中知らない人はいませんでしたわ」
輝子はタバコをたもとから出して、竹山にすすめた。
「君、タバコを飲むの?」
「タバコも、お酒も」
輝子はそう言うとニヤリと笑って、
「どうせ、つまんない世の中ですもの、太く短く生きるつもりですわ」
と、タバコに火をつけた。
「ほう」
京子もいつか、何かつまらないなどと言っていたような気がした。竹山は高校時代の輝子を思い浮かべた。いつも何かに対抗しているような、険《けん》のある表情だったように思われた。
「太く短くか……」
竹山はそう言って、じっと輝子に目をあてた。
「長生きしたからって、どれほど面白いことが待っているわけではありませんもの」
輝子の家は、札幌で屈指の財産家のはずである。金があるということは、決して幸福だけをもたらすとは限らない。むしろ金が多くの不幸のもとになることもあると竹山は思った。
「面白いってどういうことかね」
竹山は、何が輝子をこのように荒れさせたのか気になった。
「そう言われたら、何が面白いのかわからないけれど……。とにかく面白くないことがなければいいのよ」
「そんなに面白くないことが多い? 大学がいやになった?」
「学校のことじゃありません」
輝子は、竹山がいかにも教師らしい態度をくずさないのが不満だった。竹山のかっきりと一線を引いた態度には甘えて行けるものがなかった。
「家のことか、それとも恋愛問題でも……」
「レンアイ?」
輝子はくすっと笑った。
「それでなければ結婚問題かな」
「いいえ、結婚なんて、わたし絶対いたしませんわ」
「結婚はしないって? まあそれもいいだろうが……」
若いうちは結婚はしないと言い張る娘も多いと、竹山は輝子の言葉を深く気にはとめなかった。
「先生」
改まった声だった。
「なんだい」
竹山は茶を入れながら答えた。
「わたし、家を出ましたの」
「家を出た?」
竹山は奈緒実の家出を思った。
「ええ。もうあんな家はごめんだわ」
「どうして? 立派なおとうさんとおかあさんがおられるじゃないか」
「立派ね」
輝子は笑った。
「大学はどうするの? 続けるの」
「ええ、大学は続けますけれど……。父がいやでたまらないんです。でも母がかわいそうだから、市内にアパートを見つけて、冬休みや夏休みにはそこに帰ることにしましたの」
竹山はけげんな顔をした。
「じゃ、おかあさんとはそこでお会いになるわけですか。おとうさんはそれを知らないの?」
「東京にいると思ってるでしょうね」
輝子は人ごとのように言ってから、
「ここからすぐ近くなの。一度いらっしゃって下さらない」
と甘えるように竹山を見た。
「いるか?」
その時、入り口で声がした。良一だった。
「おう」
竹山は函館で会った時の良一を思い出した。がらりと障子をあけて良一が入ってきた。珍しくネクタイをつけて、手にはウイスキーの瓶をぶら下げていた。
「あ、お客さんか、失敬、失敬」
何ごともなかったような良一の顔に、竹山も明るく答えた。
「いや、遠慮のいる人じゃない」
輝子が顔を上げて良一を見た。
「あら!」
瞬間、輝子は戸惑ったような顔をした。
「おや、あなたでしたか」
良一はやさしい笑顔を輝子に向けた。
「知っていたのか」
「知っていたのかじゃないぜ。札幌に住んでいて、こんな美人を知らない男があるものか。ねえ、輝子さん」
「まあ」
輝子が苦笑した。
「ああそうか、京子さんと同級だったね」
京子と同級とは言いながら、奈緒実と言い、輝子と言い、良一はどんなふうに近づいていくのかと、竹山は半ば呆れたように良一を見た。
「いい着物ですね。一越《ひとこし》ちりめんに手描き染めじゃありませんか。このうすいブルーの地色に、ぼたんの赤が実にいい。あなたのお見立てですか」
ほめられて輝子はにっこりとした。
「実にいいセンスだ。あなたによく似合いますよ。なあ竹山」
竹山は着物のことなど何もわからない。
「杉原は絵を描くだけあって、なかなかくわしいじゃないか」
そう言いながらも、竹山は何となく良一の態度が不快だった。
「いつかお目にかかった時の、うぐいす色のオーバーもとてもよかった」
良一はそう言って、まだ感心したように、輝子の着物をながめていた。輝子の着物を見ている良一に、奈緒実にも着せてやりたいという思いがないのだろうかと、竹山は思った。あの貧しい部屋には、タンスもなかったが、今目の前に着飾っている輝子よりも、奈緒実の方が美しいと竹山は輝子を見た。
「奈緒実さんも、札幌に来ているのか」
竹山は口まで出かかったが、函館で会った良一を思い出すと、うかつに奈緒実のことはきけなかった。
「あ、奈緒実がね、よろしくと言っていた」
はじめて良一は、竹山を注視した。その目に先日の非礼を詫びる思いがこもっていた。
「ああ、どうも」
奈緒実のことをたずねたがっている自分の心を見透かされたように竹山は思った。
「広野奈緒実さんが、あなたの奥さんでしたわね」
輝子は良一に言った。その時、竹山の表情がかすかにかげったのを輝子は見のがさなかった。
「あの方とてもおきれいね。さぞすばらしい奥さんになったでしょうね」
「なあに、あなたとは較べものになりませんよ。奈緒実にはあなたのような艶っぽさがない。陶器のような女ですよ」
良一はそう言って、まじまじと輝子をみつめた。竹山は思わず舌打ちするところであった。
「まあ、正月だ。一つどうだ」
良一がウイスキーの瓶を竹山の前においた。竹山がグラスを二つ出すと、
「あら、わたしも頂きますわ。先生」
と輝子が言った。
「ほう、話せるじゃありませんか」
良一が相好をくずした。
竹山はだまって、つまみを取りに母屋《おもや》に行った。外は雪が降っていた。冬にしてはあたたかい夜である。竹山は奈緒実があわれに思われてならなかった。
母屋から部屋にもどると、もう輝子は目もとをあかくしていた。
「先生、わたしのお酒はからむお酒よ。いいこと?」
と笑った。竹山は苦笑した。家出をしたという輝子の事情がくわしくわからないだけに、今夜はじっと輝子の様子を見ていた方がよいと思った。
「俺は飲んでも、絶対からまない。な、竹山」
良一の言葉に竹山は思わず笑った。
「いやだぜ。笑ったりして」
今夜の良一はきげんがよかった。
「先生。先生も、もういいかげん結婚なさったら?」
「そうだね」
竹山はさりげなく受け流した。
「こんな堅物のどこがいいのかしら。竹山先生は人気があったのよ」
「竹山でも人気があるんなら、ぼくが先生ならもててさぞ困ったろうなあ」
「だめよ。あなたみたいな不良青年は」
輝子が笑った。
「いやだなあ。ぼくは善良ですよ。善良すぎるぐらいだと思うんだがなあ」
良一はあどけない表情をしてみせた。輝子はその良一をちょっとみつめてから、だまってグラスをかたむけた。
「わたしね、あなたの奥さんも、あなたの妹さんも大きらい!」
「なるほど。からむ酒だ」
と、良一は笑って、
「しかし、ぼくはきらいじゃないでしょう? いや、少しは好きになってきたんじゃないのかな」
と、輝子のグラスにウイスキーを注いだ。
「好きなものですか! あなた方はわたしの家の仇《かたき》じゃないの」
つき刺すような輝子の言葉に、竹山は驚いて良一を見た。良一は顔色も変えずに、
「ロメオとジュリエットの家も、仇のように仲が悪かったじゃありませんか。ねえ」
と、にやにやした。
「仇なんておだやかな言葉じゃないね」
竹山がけげんそうに口をはさんだ。
「いや、仇なんてもんじゃないんだ、全くの話が。輝子さんの父君と、うちのおふくろが滅法仲がいいということでね。この人は怒っているんだけれど……。仇というより、ぼくは親戚だと思っているんだがね」
「まあ、呆れましたわ」
「親同士が仲がいいんだ。ぼくらも仲よくやりゃいいんですよ。なあ、竹山」
唖然《あぜん》としている竹山に、良一はすました顔で言った。
(そうか、杉原と輝子の家には、そんな深いつながりがあったのか)
竹山は驚きをかくして、ストーブの灰をかき落とした。
しばらくして帰るという輝子を、良一が送って去ったあと、竹山は何となく二人のことが気になってならなかった。
外へ出ると、輝子の足もとがふらついた。良一は輝子を抱きかかえるように支えると、輝子の目が妖あやしく光った。男が胸に手をふれるときに見せる目のいろだと良一は思った。
(官能的な女だな)
良一はそっと竹山の部屋をふり返った。障子は既に閉ざされている。良一はぐいと輝子の肩を引きよせた。形の良い唇がかすかに開いていた。
「いやよ」
輝子がささやくように言った。良一は無言でその顔を両手ではさんだ。輝子は目をつむった。
輝子はバスに乗って、男の車掌に切符を渡す時でさえ、指がふれると電流を受けたようにピリリと快感が全身を走る。輝子は、自分の心とはちがった感情を体自身も持っていることを知っていた。彼女自身は良一を拒否しているのに、体は良一の唇を拒むことができなかった。
良一の唇が輝子の唇から離れた時、輝子は立っていることができないほど、体がガクガクと力を失っていた。
(この女の体は娼婦そのものだ)
最も扱いやすい女だと、良一は枝折戸を押して竹山の庭を出た。
「君のアパートは、この近くだったね。一人で帰れる?」
送って行くと言った言葉を忘れたように、いくぶん冷たく良一は言った。輝子はかすかにうなずいたが、その視線はすがりつくように良一を見上げていた。高慢さも勝ち気さもかなぐりすてたような弱々しい輝子の表情に、良一はかすかに笑った。輝子には初めての接吻なのだと知って、良一は満足だった。
「送って行きますよ」
輝子はうれしそうに良一により添った。
雪がしずかに降っている。電車のポールがスパークして、夜空に青い火を散らした。
輝子はわれながら自分自身がはがゆかった。あれほど嫌っている良一の母のことを忘れたかのように、こんなに他愛なく良一に唇をゆるしてしまったことが、自分にも信じられなかった。だが、良一の腕に抱かれた瞬間に、輝子は完全に闘志を失っていた。しかも唇をゆるした今は、良一が慕わしくさえなっている。考えてみると、汽車の中ではじめて良一に会った日から、嫌いではなかったようにも思われてきた。
とにかく、良一のむさぼるような激しい接吻は、輝子の体の底に今まで知らなかった火をつけた。今輝子は、もう一度良一の接吻を欲しいと思っていた。
だまって肩を並べて歩いている良一の横顔を、輝子はそっと見上げた。妻がありながら、他の女を愛する自分の父を、輝子は軽蔑し憎んでいた。そして良一の母を呪ってさえいた。
(この人にも、奈緒実という妻がある)
そうは思っても、ふしぎなことに罪悪感はほとんどなかった。奈緒実の、ねたましいまでに美しい深い瞳を思い出すと、いい気味でさえあった。
「ここですの」
アパートは竹山の下宿から二町ほどのところにあった。
「ほう、なかなかいいアパートじゃありませんか」
鉄筋コンクリートの三階建てのアパートは、まだ珍しかった。
「あの二階の隅の部屋ですわ」
電灯の消えている部屋を輝子は指さした。その隣の部屋も暗かった。
「ちょっと、君の部屋をのぞいてみたいなあ、ぼく」
子供っぽいものの言い方が輝子を微笑させた。
「どうぞ」
「何かお酒はある?」
「ぶどう酒なら……」
「ぶどう酒じゃ仕方がない。何かその辺から買ってきますよ。あの隅の部屋ですね」
念を押して良一は歩みを返した。
アパートの部屋の前で、輝子はハンドバッグから鍵を出した。いつもならば、鍵の冷たい感触が輝子を孤独にさせる。しかし今夜はそれも気にはならない。
ドアをあけて、電灯のスイッチを入れる。この瞬間が輝子には一番|侘《わ》びしい。妙に部屋が寒々として見えた。十畳一間ひとまの中に台所もベッドもある。ベッドは紫の花模様のカーテンで区切ってあった。
輝子は急いでガスストーブに火をつけた。そしてかたわらの三面鏡におそるおそる顔を近づけた。ほんのりとあかい唇に輝子の視線が注がれた。生まれてはじめての接吻を受けた直後の、自分の唇を輝子はみつめた。
全身の骨をぬきとられたような、激しい体験であった。骨ばかりか、理性も意志も根こそぎにされたように輝子には思われた。それなのに、顔の形はもとのままであることが、ふしぎだと輝子は鏡の中の自分をながめた。
輝子はそっと自分の唇に指をふれた。この唇にもう一度、良一の唇がほしいと思った。接吻というものが、こんなにも自分を気弱く愛らしくするものかと、輝子はおどろいていた。
輝子は奈緒実を思った。もう奈緒実は良一の唇を何百回も何千回も知っているのかと思うと、輝子は奈緒実に負けてはいられないような気がした。
輝子は立ち上がって、すばやく帯じめに手をかけた。良一にほめられた和服姿でいたかったが、派手な絹のガウンに着替えた。そして、アップに結い上げていた髪を急いでときほぐした。無論、良一がはじめてふれた髪をそのままにしておきたい思いがないわけではなかった。
しかし、いろいろな面を持っているほうがより魅力的だと輝子は思った。長い髪がゆるやかなウエーブを見せて背にたれている。髪をときほぐし、ガウンに着替えて男を待つということが、どんな意味を持っているかを、輝子も知らないわけではなかった。だが、そうさせたのは、先ほどの良一の激しい唇くちづけであり、奈緒実の彫りの深い美貌への嫉妬であった。
酒を買ってくるはずの良一はなかなかあらわれなかった。輝子は窓によって外を見おろしたが、人影はない。電柱の電灯の光が及ぶ範囲内にだけ、降る雪がちらちらと見えて静かな夜である。
(まさか、交通事故にあったわけではないと思うけれど……)
輝子は少し不安になった。
(でも、もうすぐいらっしゃるわ)
輝子はガスストーブの火を細め、テーブルの上にチーズと鮭の燻製《くんせい》をならべ、グラスを二つおいた。今夜の酒は、自分と良一にとって、特別の意味を持つはずだと輝子は思った。
輝子は腕時計を見た。既に十時半である。良一と別れて一時間はすぎていた。
(どうしたのかしら。誰か知った人に会ったのかしら)
酒はその辺で売っているはずである。一時間もかかるわけはない。
(もしかしたら……来ないのではないかしら)
ふっと、輝子の心がかげった。良一が部屋をのぞいてみたいと言ったのは、単なる愛想にすぎなかったのではないかと輝子はふたたび時計を見た。
と、その時である。廊下にしのびやかな足音がして、輝子の部屋の前でとまった。輝子は胸がとどろいて、思わず椅子から立ち上がった。かるくノックする音が聞こえたかと思うと、取っ手をまわして良一が姿をあらわした。
「ごめんね。怒った?」
良一は赤いカーネーションを一輪、輝子にさし出した。
「まあ、これを買いに行って下さったの? うれしいわ」
「うん。花屋って、どこにあるかわからないんで、少しおそくなっちゃった。ウイスキーを買ったら、カーネーションをたった一輪しか買えなくなっちゃった」
良一はウイスキーをオーバーのポケットから出してテーブルの上においた。
「そう、うれしいわ」
輝子はテーブルの上にカーネーションをかざった。花束であるよりもたった一輪の花であることが、輝子にはむしろうれしかった。
「ああ、君もうやすむところだったの? わるいなあ、おそくなって」
良一は長くときほぐした輝子の髪を見た。
「いいのよ。もういらっしゃらないと思ったから、こんな髪にして」
輝子には、良一のおくれたことが、かえってよかったような気がした。
「きれいな髪だ。その髪もよく似合うよ」
オーバーを脱ぐ良一に近づいて、輝子が手をかした。
「実にチャーミングだ、君は」
良一はハンガーにオーバーをかけている輝子の耳にささやいたかと思うと、すばやく輝子をだきすくめた。輝子はまたしても、他愛なく良一の唇を受けていた。長い接吻だった。良一は、目をつむって陶酔している輝子をじっとながめながら、輝子のガウンの胸もとに指をすべりこませた。
(男のためにあるような体じゃないか)
良一は、にやりと笑って輝子の体をだきかかえた。意外にずしりと重い体だった。
翌朝、良一が目をさました時は、既に十二時近かった。
輝子がそっと体をよせてきた。
「やっとおめざめ?」
やさしい声である。
「ああ」
良一は、輝子の体をひきよせながら、何か気が重かった。輝子との間がこうなった以上、いつか輝子に結婚を迫られるような気がした。こんなことは過去の女には感じたことのないことであった。
「いつ函館にお帰りになるの?」
「今日の午後には帰ります。あしたから社に出なきゃならないんでね」
「そう。じゃ、仕方がないわね」
輝子はあっさりと言ってベッドからすべりおりた。他の女なら、
「社のことよりも、奥さんのことが気になるんでしょう」
と言うところである。輝子は昨夜から奈緒実のことには一言もふれていない。それがかえって良一を不安にした。
「わたし、東京に行くとき、函館によるかもしれないわ」
黒地に赤の井げたの着物を着て、赤い半幅帯をしめた輝子が、少女のように可憐に見えた。
「来る時は社に電話してくれるといいよ」
下手な返事はできないと良一は思った。
(まさか、おれの家に来るというのではないだろうな)
内心良一は困惑していた。良一は輝子とひきかえに奈緒実を失いたいとは思わなかった。と言って、函館に来るなということも言えない。利《き》かん気の輝子は何を言い出すかわからないからである。
「さあ、ぼつぼつ起きようか」
長居は無用と良一は起き上がって、着替えをはじめた。
「ちょっと待って下さいね。今、洗面器にお湯をとってあげるわね」
親しみが言葉にあふれていた。
「君、案外いい奥さんになれるんじゃないか」
うっかり言ってから、良一はしまったと思った。
「いい奥さんなんて、いやよ、わたし」
何を言い出すか見当がつきかねて、良一はにやにやしていた。
「わたしね、結婚なんか絶対しないの。だって結婚ってどう考えても男に都合のいい制度に思うもの」
「そうかな」
「そうよ。うちの父と母の姿を見ていて、わたしはほんとうに家庭なんか持つまいと思うようになったの。父はほかに女をつくって遊んでいる。その父を、いつ帰るかいつ帰るかと夜も眠らずに母は待っているのよ。こんなばかな生活ってあるかしら」
輝子は腹だたしそうに言った。奈緒実もまた何も知らずに夫を待っていることなど、輝子は考えていなかった。良一はだまってタバコに火をつけた。
「わたしは一生誰にも束縛されたくないの。だから、あなたのほかの男の人とも、わたしは遊ぶつもりよ。いいこと?」
良一はおどろいて輝子の顔を見た。輝子がほかの男と遊ぶ姿態を想像しただけで、良一は嫉妬を感じた。遊びなれた良一にも、輝子の体は得がたいものであった。
しかし、他の男と遊ぶなという権利は良一にはない。遊ぶなといえば、結婚などしないとは言うものの、すぐにも奈緒実と別れてくれと開きなおられそうな気がした。
「男は外で遊ぶでしょう。万一奥さんに知られたところで、ぬけぬけっとしているわ。ところが奥さんが遊んでごらんなさい。殴るける、出て行けなんてさわぎ立てるにきまってるわ。それは男って勝手だと思うわ。わたしは、とにかく結婚はごめんよ」
「おもしろいお嬢さんだ」
良一は、ほっとした思いをかくしてうなずいた。
「わたしは、まだあなたの恋人っていうわけではないわ。誰と遊んでもいいわね」
(誰と遊んだって、俺より遊ばせ上手な男はいないぜ)
良一はだまってかるくうなずくと、深くタバコを吸いこんだ。
香りたかくはいったコーヒーを飲んで帰ろうとすると、輝子が言った。
「あら、お金を払って下さらないの?」
「お金って?」
「お金ってお金よ。水揚げ料って高いのよ。五十万円って言いたいところだけれど……」
「お金なんて、そんな……」
良一はうろたえ気味に答えた。
「まあ、お金の用意もなしに女と遊ぶなんて。わたしはバージンだったのよ。あなた、ただでわたしと遊ぶつもりだったの?」
「何だ、君は商売女だったのか」
良一は中っ腹だった。その良一を見て、輝子がおかしそうに笑った。
「冗談よ。何を本気にして怒っていらっしゃるの。案外あなたって子供なのね」
そう言って、輝子はくすくす笑っていたが、まじめな顔になった。
「無論、わたしは商売女じゃないわ。でも、ただのお人好しの娘というわけでもないわ。わたしはこれでも、札幌の川井と言えば知らない人のない家の娘よ。バージンとひきかえにいただきたいものがあるわ」
「何がほしいの」
結局は結婚のことではないかと良一は警戒した。
「大したむずかしいものじゃないの。わたしが会いたいと言う時は、どんな時でも会って下さるという約束をいただきたいのよ」
「どんな時でも?」
「まさか仕事の時間に会ってとは言わないわ。東京や札幌まで来て下さいとも言わないわ。あなたのかけつけることのできるところからお呼びするわ。来て下さるわね? いつでも」
輝子は驕慢《きようまん》な女にかえっていた。何人もの男を経てきたような女に見えた。昨日接吻を受けたあとの、あの弱々しい輝子の姿はなかった。良一はほかの女たちのことを思い出した。輝子のように、たった一夜で強くなる女はいなかったような気がした。とにかく当分つきあってみても悪くはないと良一は思った。
「来て下さるわね? 約束して下さる?」
輝子がふたたび言った時、良一はだまって輝子のほおを両手にはさんで唇をかさねた。
年賀状の返事を三十枚ほど書き上げた竹山は、服に着替えて外に出た。昨夜からの雪も晴れて、おだやかな日である。日本髪を結った女がちらほら見えて、外に出るとやはり正月の気分がした。
竹山は雪をかぶったポストに年賀状を落とした。
「先生」
やさしい声にふり返ると、日本髪姿の京子が微笑していた。
「やあ」
見馴れない日本髪姿の京子を、竹山はまぶしそうにながめた。美しいと思った。
「おめでとうございます。御年始に伺ったんですけれど……」
京子ははにかんで、うつむいた。
「ほう、それはどうも……」
「今日は御用はじめで、お役所はおひるまででしたの」
「なるほど、御用はじめか。わたしたちは二十日まで休みだから、ついうっかりしていた」
「学校の先生はうらやましいわ」
京子はそう言ってから、
「あの、兄がゆうべはすみません。泊めていただいたりして」
と頭を下げた。
(泊まった?)
竹山は京子の前髪にゆれるかんざしをながめながら、ゆうべ輝子と帰って行った良一を思い出していた。
「先生、これからどこかにお出かけですの」
「いや、ずっと家に引きこもっていたので、ポストまでぶらぶら出てきてみたんだがね。まあ、その辺でお茶でも飲もうか」
竹山は、良一がどこに外泊したかが気になった。
すぐ近くの横通りにある「野百合」という喫茶店に竹山は入って行った。竹山は今、自分が怒った顔をしているだろうと思いながら、一番奥のボックスにすわった。店の中は案外混んでいて、静かな音楽が流れていた。
「先生」
京子が白いショールをはずしながら呼びかけた。
「何だね」
竹山の眉間に深い縦皺《たてじわ》がきざまれて、ひどく不機嫌に見えた。
「いいえ、いいんです」
「いいって、何がいいの。言いかけてやめるものじゃないよ」
「だって……先生は怒っていらっしゃるんですもの」
言われて竹山は苦笑した。
「いや、わるかったな。何も君に怒ってはいないんだがね。実は杉原のことが気になったものだから……」
「兄が何か言っていました?」
透き通るように白いほおを、京子は竹山に向けた。
「京子さん。杉原は一人で札幌に来ているわけだね」
竹山は奈緒実の名を口に出さなかった。
「ええ」
いつかも同じようなことを竹山が言っていたと、京子はつまらなそうにうなずいた。
(先生は兄のことが気になっているのではなくて、いつも奈緒実さんのことが気になっているんだわ)
運ばれてきたコーヒーを京子はだまってみつめた。何かふっと淋しくなった。
「杉原は今日帰ると言っていたね」
「ええ。今日の午後帰るとかって聞きましたけれど。けさ何時ごろ、先生のお宅をおいとましたのでしょうか」
京子は兄のことなどよりも、もっと竹山と話したいことがあった。
「杉原は……」
言いかけて竹山は口をとじたが、思いきったように言った。
「杉原はゆうべ九時すぎに帰っていったんだけれどね」
「あら……そうですの」
京子はほおをあからめた。竹山の不機嫌だった理由がわかるような気がした。
「わたしのところを出て、どこへ廻ったかは知らないが……」
京子はだまってうなずいた。良一が竹山のところに泊まったとばかり思っていただけに、京子は何と言ってよいかわからなかった。
「考えてみても仕方がないねえ」
そう言ってコーヒーを一口飲んでから、竹山は苦笑した。砂糖を入れるのを忘れたからである。
「先生、わたし失礼します」
「どうして? まだコーヒーも飲んでいないじゃないか」
「わたし、何だか兄のことが恥ずかしくて」
涙ぐんだ目が竹山を見上げていた。
「ばかだな、京子さん。杉原の遊び好きは今はじまったことじゃない。今更恥ずかしいも悲しいもないだろうと思うがね」
「でも……」
京子はうつむいた。
「でも何だね」
竹山は京子がかわいそうになった。
「でも……先生は、兄が兄なら妹も妹だろうと、きっと、わたしのことを信用して下さらないような気がして……」
「そんなこと思うわけがないじゃないか。兄に似合わんいい子だと思っているつもりだよ、わたしは」
「うそですわ。……そんな……慰めて下さらなくてもいいんです」
京子は頭を横にふった。銀のかんざしがゆらゆらとゆれた。
「ほんとうだよ。君はほんとうにいい人だよ。おとなしいし、まじめだし、きりょうはいいし、言うところがないと思っているよ」
竹山はもっと何かほめてやりたいような気がした。
「でも……」
京子はうつむいたまま、テーブルのふちを指でなでている。マニキュアのない白い指が清潔で美しかった。
「また、でもか。でも、まだ何か文句があるの」
竹山は、いつもより親しみをこめて、うつむいている京子の顔をさしのぞいた。
「先生は、口先でそうおっしゃるだけですもの」
京子は顔を上げた。いくぶん顔色が青ざめて見える。
「口先だけじゃないよ、京子さん」
そう言ってから、誤解されそうな言葉だと竹山は内心|狼狽《ろうばい》した。
「いいえ。わたしのことなんか、先生は何とも思ってはいらっしゃらないんです」
京子の顔はますます青ざめた。竹山は京子が何を言いたいのか、はっきりとわかった。
「先生は、……先生は奈緒実さんのことばかり、思っていらっしゃって……。わたしのことなんか、ちっとも……」
京子は長い間思いつづけてきたことを、思いきって口にした。しかし口に出すと、ますます自分がみじめに思われた。
「京子さん」
竹山はしずかに京子の名を呼んだ。
(それほど、この子は自分のことを思っていてくれたのか)
竹山は、奈緒実を思う自分のつらさにひきくらべて、京子があわれになった。
「コーヒーがすっかり冷たくなった。どれ、わたしが砂糖を入れてやろう」
竹山は京子のコーヒー茶碗に砂糖を入れて、スプーンでかきまぜてやった。せめてこんなことでもしてやらずにはいられない気持ちだった。京子はそのコーヒーを一口飲んだ。
「お安くないわねえ」
川井輝子だった。輝子と知って京子は肌に粟あわだつ思いだった。
「何だ、君か」
竹山は苦笑した。
「何だじゃありませんよ。お砂糖をコーヒーに入れてあげて……。いいわねえ」
輝子はそう言ってから、うつむいている京子に、
「しばらく、京子さん。相かわらずおきれいねえ」
かつて輝子は、京子にこんな風に言葉をかけたことは一度もなかった。
「しばらく」
京子は気味が悪かった。
「まあ、川井さんもすわりなさい」
竹山は体をずらせた。
「お邪魔ねえ」
輝子は竹山に体をすりよせるようにしてすわった。
「まあ、邪魔だが仕方がないよ」
竹山としては珍しい、その言い方を京子はうれしく思った。
「ごあいさつですこと」
輝子はそう言って、京子ににっこりと笑ってみせた。
「京子さん、その髪はあなたのためにあるような髪型ね。とても似合ってよ」
輝子の親しみをこめた視線に京子は戸惑って、うつむいた。
(どうしたのかしら、この人。高校時代はあんなにひどいことばかり言っていたのに)
京子には輝子の態度がかえって不安であった。
「先生。いつ京子さんと結婚なさるの」
輝子はきんらんのハンドバッグの口金をパチリとあけて、タバコをとりだした。
「京子さん、おあがりになる」
「ありがとう。わたしはいただかないの」
思わず京子は視線を上げた。輝子の微笑がやわらかく京子をつつんでいる。京子は油断のならない気持ちになった。
「ね、京子さん。早く結婚なさらなきゃ、竹山先生だって男ですからね。ぐずぐずしていると、誰かにとられてしまうわよ」
「勝手なことを言っては困るな」
竹山は困ったように、輝子をちらりと見た。京子は、輝子が竹山を愛しているのではないかと心がさわいだ。
「京子さん。昨日の敵は今日の友っていう歌があるじゃありませんか。もう、そんな他人行儀な顔はやめましょうよ」
輝子はそう言ってから、ふっと真顔になって京子をみつめた。
「京子さん、あなた何もご存じないのね」
「何のことでしょうか」
「ほら、わたしが高校時代、あなたを目の仇にしていた理由よ」
京子は堅い表情になった。パンパン屋の娘とののしられたことを、決して忘れてはいなかった。
「もう、竹山先生もご存じよ」
「先生が?」
京子は竹山を見上げた。
「実は、わたしもゆうべ知ったのだがね。ゆうべ、杉原と川井さんがわたしの部屋で顔を合わしてね。二人は前から知り合いだったんだね」
「まあ」
兄の良一と輝子がどこで知り合ったのかと、京子はおどろいた。
「つまりね。わたしの父と、あなたのおかあさんがずっと以前から……わかるでしょう? どんな仲だったか」
「え? 母が……」
京子はおどろいて口がきけなかった。
「そうなの。あなたは何もご存じなかったのね。ところがわたしときたら、母の涙とぐちと、父母のけんかと、そんな中で少女時代をすごしていたのよ」
店の中は入れ代わり立ち代わり客がたてこんでいて賑やかだった。若い学生たちの笑い声も聞こえた。
「まあ」
京子は今はじめて、輝子の敵意に満ちた態度の原因を知ることができた。
「わたしは、あなたのおかあさんさえいなければ、うちの母も幸福になれるのにと、どんなに恨んだか、わからないわ。だから、あなたまで憎かったのよ。子供だったのねえ」
京子は答えるすべを知らなかった。まだおどろきが去らなかった。
「でも、この頃になって、わたしも少しわかってきたのよ。あなたのおかあさんだけが悪いんじゃないってことがね。人間って、どうしようもないものを持っているわけですものねえ」
竹山は、ゆうべの輝子と全く別人の輝子をそこに見た。一夜にして輝子を変わらせた理由がわかったような気がした。
「ちっとも知らなかったわ。ほんとうに、どうしたらいいんでしょう」
京子はあいさつのしようがなかった。
「いいのよ。わたしたち娘の知ったことではないじゃない? こんなこと、言って悪いような気がしたけれど、でも、かえって、これでさばさばしたわ。もう、仲よしになりましょうね」
輝子は二本目のタバコに火をつけた。
「川井さん」
竹山はやりきれない思いがした。
「なあに、先生」
「それで、君はこの人の兄貴とも仲よしになったという訳か」
「あら」
輝子は低く笑って、
「先生はわたしのことなど、どうぞご心配なく。それより、先生こそ早く京子さんと結婚なさらなきゃ」
と、輝子はすまして、タバコをくゆらした。
やがて竹山がカウンターに立ってゆくと、輝子は京子に言った。
「竹山先生は、奈緒実さんに会いに函館にいらっしゃったんですってね。あなた奈緒実さんなどに負けていてはだめよ。わたし応援するわ」
(先生が奈緒実さんに会いに行った?)
京子はふいに、胸ぐるしい嫉妬をおぼえた。良一から竹山が函館にたずねたことを聞いてはいなかった。
「あのガソリンスタンドの横を入って、半町ほど行くと、わたしのアパートなの。お寄りにならない?」
喫茶店を出ると、輝子が竹山と京子を誘った。
「ほう、近いんだね」
竹山はそう言っただけで、輝子から離れた。京子は輝子に会釈して竹山に従った。
函館山の桜が咲いたと聞いて、奈緒実はことしこそ花を見に行ってみたいと思った。家のすぐ目の前にある函館山にさえ、のぼったことのない、自分の生活を思った。
この頃良一は、また、ほとんど毎晩のように飲んでくるようになった。しかしうちへ入れる金額に変わりはない。それだけに、どこにそんな飲む金があるのかと奈緒実は不安だった。奈緒実がそれを言うと、
「俺にだって、貢《みつ》いでくれる女の一人や二人ぐらいはいるからな」
と良一は笑った。
良一が飲んで楽しいものなら、奈緒実もそれを喜びたかった。だがどこかで金を無理しているのではないか、手をつけてならない金で飲んでいるのではないかと思うこともあった。
今日も階下の玄関に耳を傾けながら、奈緒実はレース編みをしていた。少しでも金になることならと、近所からの編み物を引き受けたが、月にどれほどの金にもならなかった。いくら根こんをつめても、女の手内職はたかが知れていると奈緒実は淋しかった。勤めに出れば、もう少しまとまった金が入るのにと思ったが、良一はどうしても奈緒実を外に出したがらなかった。
玄関の戸があく音がした。奈緒実は足音を忍ばせて、そっと迎えに降りて行った。こう毎夜おそくては、階下の家に気の毒だった。
「お帰りなさい」
どんなことがあっても、奈緒実は笑顔で良一を迎えることに決めていた。良一との別離を思いとどまって以来である。しかし、そんな奈緒実に、良一はどうかすると、
「歯をくいしばってまで、笑顔で迎えることはないぜ」
と、不機嫌になることがあった。しかし今夜の良一は機嫌がよかった。
「よう、これはこれはお出迎え痛みいりましてございます」
大きな声であった。
「下のみなさんはおやすみですから……」
奈緒実がささやくように言った。
「よしよし、わかった」
良一もささやくように声をひくめて、階段をのぼった。
「このごろ、お前もやっと酒飲みの女房になったなあ」
良一は服も脱がずに寝床の上に仰向けになった。奈緒実は微笑して、水の入ったコップを良一の枕もとにおいた。
「お飲みになる?」
「うん」
良一は腹ばいになって、一息に水を飲んだ。
「奈緒実。あしたは休みだから、どこかに行ってみようか」
「え? どこかに?」
奈緒実はおどろいて良一を見た。ことしこそ桜を見に行きたいと思っていたばかりの奈緒実だった。
「うん、函館山の桜も咲いたというし、立待岬《たちまちみさき》でも、五稜郭《ごりようかく》でも、奈緒実の行きたいところに連れていってやるよ」
「ほんとう? うれしいわ。のりまきでも作って行きましょうね」
奈緒実は、良一が急にこんな話を持ち出したことが、やや不安でもあった。函館育ちの奈緒実が知人と会うことをおそれて、良一は今まで一緒に外出するということがなかった。しかし、とにかく久しぶりにどこかに出かけるのはうれしかった。
「ねえ、湯の川の修道院まで行ってみましょうか。あなたはまだ一度もいらっしゃってないでしょう?」
良一はもう、眠っていた。奈緒実は思わず微笑した。いつでもこんな飲みかたなら、少々夜がおそくても、そう苦にはならないと、奈緒実は良一の靴下を脱がせた。やっとの思いで服を脱がせ、布団をかけてやった。
良一がおとなしいと、こちらの気持ちもやさしくなるのが、当然のことながら不思議でもあった。あすの外出のために、せめてズボンにアイロンをかけておこうと思ったのも、そのやさしさのためであったかもしれない。
奈緒実はズボンのポケットから、ちり紙やハンカチをとり出した。もう片方のポケットに手を入れると、二つ折りに折った二重封筒が出てきた。奈緒実は何気なく差出人を見てハッとした。
差出人は東京の川井輝子であった。名宛は新聞社の良一宛である。
(同姓同名の人かしら)
奈緒実は、まだあの川井輝子の手紙とは信じられなかった。封筒の中を見ようか見まいかと一瞬ためらったが、既に開封されているその手紙を見ないではいられなかった。
「良一さん。ゴールデンウイークには、函館に参ります。お宿をとっておいてちょうだい。五月一日から四日まで。今月は二万円同封します。でも、あまり飲みすぎて体をこわしませんようにね。
あとはお目にかかって、大事なお話をいたします。こんな短い手紙も、たまにはいいでしょう? でも、あなたのように、
『ぼく、いま笑っている。安心せよ』
とか、
『好きだ。天気晴朗にして波高し』
なんて、短すぎて判じものみたいな手紙のまねはできないわ。輝 子
良一さん
P・S
お会いしてお話ししようと思いましたけれど、少し心配させてあげたくなったの。わたし、赤ちゃんができたらしいの。あなた、どうなさる?」
あまりにも思いがけない手紙であった。奈緒実は呆然として怒ることも、できなかった。アイロン台がこげて、煙っていることさえ、奈緒実は気づかなかった。
ストーブもいらないような、あたたかい四月も末の夜である。京子は竹山の家に遊びに来ていた。
「連休はどこにも行かないの? 京子さん」
竹山は函館の奈緒実のことを思っていた。
「どこにも行きたくないんですもの」
竹山のいる札幌の地を離れるのは、たとえ一日でも京子には淋しかった。この頃、竹山の下宿を京子は度々訪れるようになっていた。いつか輝子が京子に言ったことがある。
「男なんて、遠くからじっとながめて溜め息をついていたってだめなのよ。好きなら好きなように訪ねて行ったり、手紙を出したり、いろいろするのよ」
「いろいろ」というところに、輝子は力をこめて京子を励ました。
「でも、先生は奈緒実さんをお好きなんですもの。わたしのことなんか……」
京子が自信なげに言うと、輝子は笑った。
「男なんて、絵にかいた餅で満腹するほど、ロマンチックじゃないのよ。どうしても、あなたがほしくなる時が、きっとあるものよ」
輝子の言葉を京子はよく理解したわけではなかったが、とにかく竹山を訪ねることは多くなった。
土曜日の夜には、必ず竹山を訪ねるようにした。竹山がるすの時には、手紙だけでもおくようにした。そんなことが二、三カ月つづくと、竹山もいつしか土曜日の夜は京子が訪ねてくるものと、決めて待つようになった。それは毎朝、新聞や牛乳を待つのと同じ心理的必然であったが、しかし相手は京子であって、新聞や牛乳ではない。土曜日に不意の用事ができると、竹山も京子に電話で断るようになった。
今日も、その土曜日の夜であった。
「先生はどこかにお出かけになります?」
竹山と二人で旅をするのなら楽しいと京子は思った。
「そうだね」
竹山は函館山のふもとにある奈緒実の家を目に浮かべた。あの夜、ふりきるように、うしろもふり向かずに去ってきたはずなのに、自分のうしろ姿を見送っていたであろう奈緒実の姿を思わずにはいられなかった。
「函館? 先生」
心を見通したような京子の問いに、はっとして竹山は咄嗟《とつさ》に答えることができなかった。答えることができなかったと気づくと、顔に血がのぼった。
「まあ、やっぱり……」
じっと竹山の顔を見まもっていた京子の目に、みるみるうちに涙があふれた。
「ばかだね。何を泣いているの」
京子の心がわかっていても、竹山はなるべく知らぬふりをして通したかった。その心がはっきりとした形にならぬままに、やがて京子も竹山への思いを捨てて、他に嫁ぐ日がくるかもしれないと思っていたからだった。
「どうせ、わたしはばかなんです」
京子はすねたように言った。
「どうしたんだ? 京子さん。何を怒っているの」
竹山は、顔をおおってうつむいている京子を見おろした。ほっそりとした白いうなじが、クリーム色のセーターから可憐にのぞいている。
「怒ってなんかいません」
京子には珍しいきつい語調だった。京子は竹山に顔をそむけたまま立ち上がった。
「京子さん!」
竹山は思わず京子の手をとった。京子はビクッとしたように肩をふるわせて膝をつくと、そのまま竹山の胸の中に倒れこんできた。竹山は自分が京子を胸にひきよせたような形になったことにあわてた。
京子は竹山の胸に顔をうずめたまま、じっと動かない。竹山は京子をどう扱ってよいかわからなかった。
「京子さん」
竹山は京子の肩に手をかけて、京子の顔を自分の胸からそっと離した。京子は竹山を見て、はにかんだ微笑を見せた。
この二人の姿を、ガラス戸越しに見てしまった奈緒実には、無論竹山も京子も気づくはずはなかった。
奈緒実は夜の札幌の街を、ぼんやりと歩いていた。時計台の鐘が九時をしらせたことも気づかなかった。奈緒実の胸には、今見てきた竹山と京子の抱擁の姿が焼きついていた。
京子が竹山を慕っていることは、奈緒実も早くから知っていた。いつか札幌駅前の喫茶店ニシムラで、
「わたしが先生を好きになっても、かまわない?」
と、京子は奈緒実に言ったことがある。その時いとも簡単に、
「かまわないわ」
と答えたことを奈緒実は忘れてはいなかった。その頃の奈緒実は、まだ竹山にも、良一にも、はっきりとした感情を持ってはいなかった。
だから、今、竹山と京子が愛し合っているとしたら、それはむしろ祝福してやるべきかもしれなかった。京子の友人として、京子の義理の姉として、大いに喜んでやっていいことであった。
だが、今の奈緒実の胸は、大きな穴がぽっかりとあいたように淋しかった。胸の中を冷たい風が吹きぬけて行くようであった。
昨夜、思いがけない川井輝子から良一宛の手紙を読んでしまった奈緒実は、しばらくは何を考えてよいのかわからなかった。良一の枕もとにすわったまま、奈緒実は幾度繰り返して輝子の手紙を読んだことだろう。
「わたし、赤ちゃんができたらしいの。あなた、どうなさる?」
手紙の中のその言葉が、輝子の声になって、
「あなた、どうなさる?」
「あなた、どうなさる?」
と、奈緒実の耳もとで、幾度も幾度も執拗にささやいているように思えた。
それは輝子が良一に問うた言葉であるはずなのに、奈緒実には自分自身に問いかけられているかのような錯覚を感じた。そして、その問いに何と答えてよいかわからなかった。
ただ、いつか色刷りの図で見た、頭が大きく手足の細い胎児の姿が、奈緒実を脅かすように、妙にはっきりと目にこびりついて離れなかった。
時々|咳《せ》き入りながらも、酔ってぐっすり寝こんでいる良一を、奈緒実は揺さぶり起こしたい思いであった。輝子からのこんな手紙を読んだあと、一体良一は何と思って、こうもぐっすり眠っていられるのかと、奈緒実は腹だたしいより呆れていた。
しかも、川井輝子から送られた金で、良一は酒を飲んでいるのだと思うと、奈緒実は良一という人間に嫌悪よりも侮蔑を感じた。
今まで良一は、どんなに金銭に窮しても、母親の金をあてにしたり、無心したりすることは一度もなかった。そこに奈緒実は独立した人間としての良一を感じていたのだった。
それは曲がりなりにも、かつてマルキストとして運動したことのある良一の、唯一のプライドのように奈緒実は思っていた。それが、女から送られた金で酒を飲む人間になり下がったかと思うと、奈緒実は良一の顔を見るのもいやになった。そして、このことは、良一が輝子に子供をつくったという事実よりも、更に深く奈緒実を傷つけた。
(妻以外の女に子供を生ます男は、他にもいるだろう。しかし、女に金をもらって……そんな男が……)
「男めかけ」といういやな言葉が胸に浮かんだ。奈緒実は顔をおおいたいような気持ちだった。
反射的に、奈緒実は竹山哲哉に会いたいと思った。会ってどうなるのか、それは奈緒実にもわからない。ただ竹山に会いさえすれば、自分のとるべき道がわかるような気がした。一晩中、良一はしきりに咳き入って苦しそうだった。しかし奈緒実は、良一のまだめざめないうちに、そっと家を脱けだした。今はただ、竹山に会いたかった。
車中の札幌までの八時間、奈緒実には春の海のうねりも、遠くにかすむ山の姿も目に入らなかった。奈緒実は竹山に会った瞬間の自分の姿を幾度か思いえがいた。奈緒実の中に、天下晴れて竹山の胸にかえってゆくという思いがないではなかった。そして、その自分を竹山はどう迎えてくれるだろうかと奈緒実は思った。
良一にうらぎられた口惜しさや、輝子に良一を奪われた無念さが、強ければ強いほど奈緒実の心は竹山に急速に傾いていった。札幌の駅に降りたった奈緒実が、まっすぐに美容院に行ったのも、竹山のために粧《よそお》うためだった。土曜日の美容院は混んでいた。だが、竹山に会うということが、奈緒実の疲れた体を支えていた。美容院を出ると外は夜であった。暗い庭に立って、奈緒実が見た竹山と京子の姿は奈緒実をうちのめした。奈緒実は、良一にも竹山にも捨てられた自分のみじめな姿をみとめないわけにはいかなかった。
(これでいいんだわ)
歩きながら奈緒実は自嘲するように、いくたびかつぶやいた。良一と輝子、竹山と京子、そして自分は一体だれのもとに行ったらよいのかと奈緒実は時折立ちどまった。奈緒実は自分がどこを歩いているのか、わからなかった。
電灯の明るい店の前で女子高校生が五、六人、足早に奈緒実を追い越して行った。奈緒実は自分がひどく年よりじみた人間のような気がした。奈緒実は立ちどまって、高校生たちのうしろ姿をじっとみつめていた。ふたたび帰ることのない、かつての自分の姿を見送る思いであった。
奈緒実は、ふたたび札幌駅に帰って行った。どこか遠いところに旅立ちたいような侘びしさであった。駅の待合室のベンチに腰をかけて、奈緒実はぼんやりと今着いた夜汽車を窓越しにながめていた。沢山の人々を呑んでは吐いている駅が、今の奈緒実には非情なところに思えてならなかった。
(みんな、何の目的で、どこへ行こうとしているのかしら)
こんなに沢山の人々が、何らかの目的や用事を持って旅をしているのがふしぎだった。
自分もまた、この札幌の駅を発った時は、良一を函館まで送るという目的で発ったはずであった。まさか、そのまま今日の日まで二年四カ月もの間、ずるずると良一のもとに暮らすことになろうとは、奈緒実自身も思わぬことであった。
(人生も旅だというけれど……)
自分の人生を、一体何の目的で生きているのかと、奈緒実は自分の足もとに目を落とした。歩きまわった靴のよごれが目についた。その靴は、今の自分自身を象徴しているように、奈緒実には思われた。
(わたしは良一を愛したいとねがった)
だが、それが果たして、本当の自分の生きる目的であったかどうかと、奈緒実は自信なく良一との二年あまりの生活を思った。それは愛ひとすじとは遠いものであった。一人の人を愛して、その人のために命を燃焼する一生も尊く美しいと奈緒実は思う。しかし、自分には良一を愛しきることができなかったことを、認めずにはいられなかった。
駅には、幾度か列車が入り、そして出て行った。待合室の人々も幾代わりかして、人数も少なくなり、みんな疲れた顔をしていた。気がつくと、駅の時計は十一時を少し過ぎていた。
(とにかく……これからのわたしは、何を目的にして生きて行ったらよいのだろう)
奈緒実はぼんやりと立ち上がった。どこにも行くべきところがなかった。宿に泊まるほどの金もない。駅前通りは明るかったが、二、三町横に入ると、既に街は眠りに入っていて、人通りもまばらだった。
ふと、奈緒実はオルガンの音を聞いたように思って立ちどまった。
いつくしみふかき
友なるイエスは……
なつかしい讃美歌の曲である。暗い街角に立って、奈緒実はあたりを見まわした。よく見るとすぐそばに、白い教会の建物があった。奈緒実はそっと、オルガンの聞こえてくる教会の窓の下にたたずんだ。誰かオルガンの練習をしているらしい。しのびやかな音が流れている。
世の友 われらを
捨てさる時も……
オルガンを聞きながら奈緒実は讃美歌の歌詞を思い出していた。ほんとうに、奈緒実自身、世のすべての人々に捨てさられたような淋しさで、こらえきれずに涙があふれた。一旦あふれ出た涙は、あとからあとからほおを伝わってとどまることがなかった。いつかオルガンの音はやみ、窓のあかりは消えていた。だが、奈緒実はじっと暗闇に立ちつくしていた。
いつしか奈緒実は父と母のことを思っていた。父母に無断で家を出た以上、奈緒実は父母のところに帰ることはできないと決めてきた。たとえ野たれ死にすることはあっても、家に帰ることだけはできるとは思えなかった。どの面《つら》下げて帰ることができるだろうと思っていたはずなのに、今、奈緒実は素直に父と母がなつかしかった。
行きずりの教会の窓下にたたずんでいるうちに、今までおさえていた父母へのなつかしさが一度にどっと胸にあふれた。
(父や母を捨てた不孝者のわたしだけれど……)
どんなに叱られても、嘲られてもいいと奈緒実は思った。奈緒実は父母の前に両手をついて詫びたかった。
「おとうさん、おかあさん。おゆるし下さい。わたしが悪うございました。わたしは良一一人愛することのできない愚か者でした」
そう言って詫びたかった。
「人一人ぐらい、わたしにだって愛せるわ」
そう高言した自分が奈緒実は恥ずかしかった。
一旦帰りたいとなると、やみくもに帰りたかった。教会堂のかべを這うつたや、庭の白い柵などが目に浮かんだ。茶の間のカーテンの模様や、ストーブの火の燃えるさままで、今目の前に見るようにありありと思い浮かべることができた。
そして、父の愛に満ちたまなざしや、母の屈託のない言葉の調子などが、あたたかく胸に甦《よみがえ》った。この世で最もなつかしいはずの父と母のもとに、なぜ今日まで便りひとつしなかったのか、決してふたたび帰るまいとなど、どうして思っていたのか、奈緒実はわれながら自分の気持ちがわからなかった。
自動車のヘッドライトに奈緒実の影が大きく揺れた。奈緒実は手を上げて車をとめた。
車を降りると、なつかしい教会堂が、夜空にくろぐろと建っていた。奈緒実は息をつめるように教会堂を見上げた。もう耕介も愛子も眠っているかもしれないと思いながら、足音をしのばせて牧師館の前まで行った。
(あ、おとうさんが起きている)
書斎には灯がともっていた。カーテンにさえぎられて中の様子はわからない。しかし、自分の立っているところから一メートルと離れていないところに父がいるのだと思うと、奈緒実は胸が熱くなった。
(おとうさん、奈緒実です)
奈緒実は玄関の戸にそっと手をかけてみた。錠をおろしているとばかり思った戸は、思いがけなくからりと軽く開いた。ハッと身をすくめた時、書斎のドアがすばやく開いて、耕介が大きな体をあらわした。
「おお、奈緒実じゃないか」
なつかしさにあふれた声と共に、耕介はたびはだしのまま走りよった。
戸を半開きのまま、玄関の外にうつむいている奈緒実の肩を抱くようにして、耕介が大声で叫んだ。
「おかあさん、奈緒実だ。奈緒実が帰ってきた」
耕介にかかえられるようにして、奈緒実は靴をぬいだ。
「まあ、奈緒実さん」
風呂に入っていたらしい愛子の、濡れた体に浴衣ゆかたがぴったりとはりついていた。
「よく帰ってきたわねえ」
愛子は奈緒実のほおをちょっとつついた。耕介も愛子も痩《や》せたようであった。
「すみません」
奈緒実は二人の前に両手をついた。顔を上げることができなかった。
「まあいい、まあいい」
耕介はちょっと目がしらを、指でおさえた。
「やっぱり夜中でしたね、あなた」
愛子のほうが、耕介よりもさばさばとしていた。
「うん」
耕介はまだ瞼《まぶた》をおさえていた。
「奈緒実さん。おとうさんはね、奈緒実がいつ帰るかわからない。万一夜中にでも帰ってきて、玄関の戸があかなかったからと、そのまま入りそびれてもどって行ったら、かわいそうだとおっしゃってね。あれ以来ずっと、昼も夜も玄関の錠をおろしたことは一度もなかったのよ。まさか夜中に帰ることもないでしょうって、わたしは言っていたんですけれどね。でも、やっぱり夜中でしたねえ」
「まあ」
牧師館は、よく、こそ泥にねらわれるところである。奈緒実は思わずわっと泣き出してしまった。二年余りの間、毎日毎夜、父母がそのようにして、いつ帰るかわからない自分の帰りを待っていてくれたのかと思うと、奈緒実は詫びる言葉もなかった。
「そりゃ、まっぴるま、堂々と二人で帰ってきてくれたら、一層うれしいことだがね」
こうして一人で帰ってくる奈緒実を、耕介は予測していたようであった。
奈緒実の疲れきった様子に、耕介も愛子も、事情を察したようであった。しかし、
「今夜はゆっくり眠るんだね。話はあしたゆっくり聞こう」
耕介と愛子は何もたずねようとしなかった。
布団の中に入っても、奈緒実は目が冴えて寝つかれなかった。たびはだしのまま、|た《*》たきに飛び降りて迎えてくれた耕介の姿、濡れた体を拭きもあえずに、風呂から飛び出して迎えてくれた愛子の姿が、奈緒実の心を鋭くさしつらぬいた。
そこには、ただ大きな愛の姿があった。親にさからって何の音信もなかった娘に対して責める言葉も表情もない。責められないということは責められるよりも辛かった。
(わたしは良一に対して、こんな風にはできないわ)
この二年、よるひる錠をおろさずに、いつでも娘を迎え入れようとして待っていてくれた父の愛のひとかけらも、自分にはないと奈緒実は思った。それどころか、奈緒実は幾度良一を締め出そうとしたかわかりはしない。
良一を思うと、奈緒実は体中の細胞に毒液がしみこんでくるような感じだった。わけても良一が電文のような短い手紙を輝子にも書いていたことが、奈緒実には悪寒《おかん》の走るような思いだった。奈緒実は結婚前に良一から、そのような短い手紙を幾度かもらった。そしてそのたびに、そのあまりにも短い手紙に、むしろ良一の真実を感じとっていた。
だから、同じような手紙を良一が輝子に出していたことを知ると、奈緒実は深い屈辱を感じた。それは子供ができたことよりも、輝子から金をもらっていることよりも、更に奈緒実の心を傷つけることであった。良一が奈緒実と輝子を全く同じように扱ったということが、奈緒実にはゆるせなかった。
「ぼくは奈緒実さんによって生まれ変わるんだ」
良一はかつて奈緒実に、そう言ったものである。しかし、同じような言葉を、良一は輝子にも言っているように奈緒実には思われた。
(もし、おとうさんがわたしなら、良一をどうなさるだろうか)
奈緒実はしばらくの間、眠ることを忘れていた。
翌朝奈緒実は十一時の時計の音を布団の中で聞いた。家の中がしんとしずまりかえっていた。奈緒実はそのまま、じっと目をつむっていた。やがて教会堂の方から讃美歌が聞こえてきた。
(ああ、今日は日曜日だった)
牧師の娘でありながら、日曜日も忘れていたと奈緒実は苦笑した。その時、布団の裾《すそ》の方で、男の咳き入る声がした。おどろいて上半身を起こすと、良一が弱々しく微笑した。
「起きたの? よく眠っていたね」
やさしい声だった。奈緒実は表情をかたくして、寝巻きの衿をかき合わせた。
「どこへ行ったのかと心配したよ」
良一はそう言ってから、また少し咳きこんだ。奈緒実は良一に背を向けたまま、だまって着替えをはじめた。
「あの手紙を読んだのだね」
良一の言葉を背中に聞いて、奈緒実は夜具をかたづけた。良一が何を言っても、奈緒実には聞く気がなかった。何もかも空々しく思えた。
「子供が生まれるかもしれないなんて、あれはでたらめなんだ」
「でたらめ」という言葉に、奈緒実は冷たく笑った。
「だから、そんなに怒らないで……」
言いかけて良一はふたたび咳きこんだ。奈緒実も思わずふり返ったほどの激しい咳きこみかただった。しかし背をなでてやる気にはなれなかった。咳がおさまった良一は、何か言おうとしたが、奈緒実の冷たい表情に口をつぐんだ。
やがて玄関の戸ががらりとあいて、耕介と愛子が入ってきた。二人は良一を見ると、嬉しそうに異口同音に言った。
「よくいらっしゃいましたね」
娘の夫を迎える口調であった。良一はかたくなって、頭を下げた。
「ほんとうによくおいで下さいましたこと。まあ、奈緒実さんったら、お茶もさし上げないで」
来づらいところへやってきた良一をいたわる思いが、愛子のことばにはこめられていた。
「どうしました? 夫婦げんかというところですかな」
耕介も、良一たちがいつも来ているような態度で、冗談めかして言った。
「いや、どうも」
良一がくびをなでた。
「まあ、食事の用意でもしてもらおうか」
耕介が愛子をかえりみた。パンと牛乳とチーズだけの簡素な食事だった。
「一体どうしたというんだね」
耕介の言葉に、奈緒実は冷たい視線で良一を見た。
「そんな顔をするものじゃないよ、奈緒実」
「……でも……あんまりですもの」
はじめて奈緒実が口をひらいた。
「何があんまりなの、奈緒実さん」
愛子が良一のパンにジャムをつけてやりながら言った。
奈緒実はだまって、あたたかい牛乳を一口飲んだ。自分の口から良一の行状を言いたてることは、奈緒実の誇りがゆるさなかった。
「いや、実はわたしが悪いので……。これが怒るのも無理はないんですが……」
良一は言いにくそうに輝子のことを切り出した。
「その女は奈緒実のクラスメートだったんですが……」
言い終わった良一の額に汗が浮かんでいた。
「そうでしたか」
愛子はちょっと溜め息をもらした。耕介はただだまって二、三度うなずいている。
「でも、それだけじゃありませんわ」
それまでじっとうつむいていた奈緒実が顔を上げた。
「まだ何か悪いことをした? ぼく」
良一がおずおずと奈緒実を見た。
「お金をもらっていたでしょう?」
自分に書いた手紙と同じような手紙を輝子に書いたことも奈緒実は言いたかった。
「ああ、そのこと?」
良一は安心したようにうなずいた。その言い方が奈緒実をおどろかせた。良一は女から金をもらうということに何の抵抗も感じていないようであった。
「ゆるしてあげるんだな」
ぽつりと耕介は言った。
「まあ」
ゆるすことなんかできないと奈緒実は思った。
「奈緒実。人間同士というものはね、憎み合うように生まれついているんだ。お互いをうらぎるようにできているんだな。どんな誠実な人間だって、心の底では幾度人をうらぎっているかわからない」
奈緒実は竹山のことを思った。
「人一人ぐらい愛し通せるって、奈緒実は言ったね。愛するとはゆるすことだって、おとうさんは言ったはずだ。忘れたのかね」
忘れてはいない。しかし物事にはゆるせることと、ゆるせないことがあると奈緒実は思った。
「奈緒実。人間は過《あやま》ちを犯さずに生きていけない存在なんだよ。神ではないのだからね。同じ屋根の下に暮らすということは、ゆるし合って生きてゆくということなんだ」
(でも、わたしは良一と一つ屋根の下に、生きていくのは、もうごめんだわ)
「奈緒実、お前自身、幾度も幾度も人にゆるしてもらわなければならない存在なんだよ」
奈緒実はハッと耕介を見た。自分自身、全くゆるされて、ゆうべこの家に迎えられたのだと奈緒実は思った。自分は父母にゆるされたのに、なぜ同じように良一をゆるせないのかと、奈緒実はやっと良一に視線をうつした。
もし、ゆうべ竹山の家に京子がいなければ、自分も竹山のところに泊まったかもしれない。そして、その結果がどうなったか、わかりはしない。あるいは良一と京子を同時にうらぎることになったかもしれないと奈緒実は思った。
(男と女のふれ合いの微妙さ。それは、いいとか悪いとかいうよりも、むしろ弱いというべきかもしれない。男と女の魅《ひ》き合う強烈な力の前には、ふだん持ち合わせている倫理も道徳も、ほとんど無力に近くなる。わたしが竹山先生に惹《ひ》かれたことだって……。人妻が他の異性に心をよせることは悪いと知っている。しかし、この惹きよせられるという、どうしようもない心の動きは一体何であろう)
と奈緒実は思った。理性では律し得ない心の動きを恐ろしいと思った。人間というものが、言いようもなく弱いものに思えてならなかった。と、いって、その弱さのままに行動した良一に同情することはできなかった。
「おとうさん、わたしはとても……」
奈緒実がそう言いかけたとき、良一が、
「うっ」
と異様な声を上げたかと思うと、あわててハンカチを口に当てた。みるみるハンカチは真っ赤にそまった。
「どうなさったの」
さすがに奈緒実も良一のそばにかけよった。愛子の持ってきた洗面器に、良一は血を吐いた。鮮血だった。ただちに布団を敷いて安静にさせたが、
「大丈夫です。家に帰ります」
と良一はしきりに言った。奈緒実が一応、良一の母に電話をかけた。
「いやねえ。血を吐いたの?」
いかにも眉根を八の字によせているような声音《こわね》だった。それは心配というより、むしろ迷惑げなひびきがあった。
「申しわけありません」
良一の妻として、奈緒実はそう答えるより仕方がなかった。
「ねえ、奈緒実さん。それ、肺病でしょ? わたし、肺病って大きらいなの。肺病って言っただけでも病気がうつりそうで、おっかないのよ。あなた、おねがいだから家に連れてこないでね。お金は何とかするから、どこか病院に入れてちょうだいよ」
伸子の言葉に奈緒実はふっと良一があわれになった。
「しばらく体を動かさない方がいいでしょうっておっしゃってたわ」
奈緒実は伸子の電話をそのまま伝えることはできなかった。
「おふくろは肺病がきらいなんだよ」
良一はちょっと淋しそうに笑った。
「ここだって、良一さんの家じゃありませんか」
愛子がそう言うと、奈緒実もうなずいて、
「何も遠慮なさることはないわ」
と慰めずにはいられなかった。
近所の内科医に診《み》せると、療養所に入れるといいが、今しばらくは動かさない方がよいと言った。
その午後から、良一の熱が高くなった。良一は広い砂漠を誰かに追われて歩いているような夢をみた。熱い太陽がじりじりと照りつけているのに、太陽はどこにも見えなかった。砂漠のはずなのに、追いかけてくる者の足音が恐ろしく大きくひびいた。良一は思わず声を上げた。
「苦しいのかね」
目をさますと、耕介のやさしい微笑が良一を見守っていた。奈緒実の姿が見えない。
「ああ、奈緒実は今寝たところだよ」
時計が二時を打つのを良一は聞いた。
(ああ真夜中なんだな)
耕介が夜中に起きて看病していてくれるのだなと思ったまま、良一はふたたび眠りに落ちこんでいた。
良一の喀血《かつけつ》した翌朝は、朝から雨が降っていた。もう五月になるというのに、北国の雨は肌寒い。奈緒実が寝不足で疲れた体にむちうつように、起き上がった時、電話のベルが鳴った。奈緒実は枕もとの目ざましを見た。六時半である。
こんなに朝早く電話のくる時は、信者の誰かが危篤とか、死んだ場合に多い。寝巻きのまま、奈緒実は受話器をとった。
「ハイ、広野でございます」
「もしもし、良一さんをおねがいします」
女の声だった。奈緒実は聞いた声だと思った。
「はあ、杉原は病気で寝ておりますが、どちらさまでしょうか」
相手はちょっとだまった。その時はじめて、奈緒実は、電話の声が何者であるかを知った。
「もしもし、ほんとうに病気ですの? 病気だってちょっとぐらい電話に出して下さってもいいでしょう、奈緒実さん。わたし川井輝子よ」
案の定、輝子であった。今度は奈緒実が沈黙する番だった。輝子の低く笑う声が聞こえた。
「どうなさったの、奈緒実さん。良一を出して下さらない?」
輝子は挑戦するように良一の名を呼びすてにした。奈緒実は体がふるえた。
「良一にわたしのことを聞いていらっしゃらなかった? 良一はわたしが呼んだら、いついかなる時でも会ってくれる約束なのよ」
「…………」
二万円送ると書いた輝子の字が目に浮かんだ。
「その約束を守らないんですもの、ひどいわよ。わたし、わざわざ東京から出てきたのよ」
輝子は奈緒実の感情を無視していた。否、むしろそれは、傷つけたいとでも思っているかのような態度であった。
「良一は卑怯よ。良一はわたしに子供ができたと聞いて、逃げ出したのよ」
手紙で知ってはいても、輝子の口からはっきりと言われると、奈緒実は身をつきさされるような思いがした。
「杉原は喀血しましたの」
「あら、喀血? じゃ、わたし今日お見舞いに伺うわ」
信じられないというような輝子の声だった。
「……でも、今しばらくは、どなたにもお目にかからない方がいいと思いますけれど」
「だって奈緒実さんは会っているんでしょう? わたし、子供のことで相談があるのよ。良一は父親として、相談にのる義務があるわ」
奈緒実は答えようがなかった。
「おろすのならおろすで時期があるわ。遅くなれば、おろすにもおろせなくなってよ。それでもいいの、奈緒実さん」
とどめをさすように輝子は言って、電話を切った。
奈緒実はしばらく電話機の前に立ちつくしていた。輝子の気持ちが奈緒実には理解できなかった。それは少なくとも、人の夫をとった者の言うべき言葉には思えなかった。腹が立つよりも、奈緒実の心は妙に冷え冷えとしていた。
着替えて病室に行くと、愛子が良一の枕もとにすわっていた。
「お電話どこから?」
「ええ、ちょっと……」
奈緒実は良一を見た。良一は長いまつ毛をとじて眠っていた。
ひるすぎだった。
「ごめんなさいね。お世話になって」
玄関に誰か来たようだと、奈緒実が立って行くと、ブルーのツーピースを着た京子が立っていた。
「まあ、京子さん、しばらく」
奈緒実は、竹山に抱かれていた京子の姿をちらりと思い浮かべた。しかし久しぶりに会う京子は率直になつかしかった。だが京子は少しこだわりのある表情で、
「ごぶさたをしていて」
と頭を下げた。兄の良一の病気を心配しているのだろうと、奈緒実は京子の表情をそれほど気にはとめなかった。
「どうぞ、お上がり下さい」
「ええ」
京子は何となく、もじもじとして上がろうとはしない。
「どうなさったの。遠慮なさることはないわ」
京子はだまってうつむいている。その京子を、娘々して美しくなったと奈緒実はながめながら、
「あら、京子さんも肺病がおそろしいの」
と笑った。
「いいえ」
相変わらず、もじもじしながら、京子はうしろをふり返った。
「どなたかご一緒なの」
奈緒実が言った時、
「そうよ、わたしがご一緒なのよ」
と、輝子が玄関に入ってきた。
「まあ」
どうして京子と輝子が連れだってきたのかと思いながらも、純白のツーピースを着た輝子の腹部に、真っ先に奈緒実の視線が走った。
京子は相変わらずじっとうつむいていた。良一の妹である京子に、輝子が強引にこの家に案内させたのだろうと、奈緒実は思った。それでなければ、あれほど仲の悪かった二人が、そろって訪ねてくるなんて考えられないことだった。
奈緒実は致し方なく二人を中に招じ入れた。
「面会できないほど、悪いわけじゃないでしょう?」
輝子はレースの手袋を脱ぎながら、声高《こわだか》に言った。輝子の声を聞きつけて良一が出てくるだろうとでも思っているようだった。耕介も愛子もそれぞれの用事で外出していた。
病室に入ると、輝子は臥《ね》ている良一を見おろして言った。
「あんなにゴールデンウイークにわたしと会うのを楽しみにしていらしたのに、日頃の精進《しようじん》が悪いからよ」
奈緒実に聞かせたい言葉のようであった。
「あ、君」
良一の青い顔がさらに青ざめた。良一はおろおろと奈緒実を見た。奈緒実は他人を見るような目で、良一と輝子を等分に見た。
「ほんとうの病人らしいから、今回のところはまあまあかんにんしてあげるわね。でも、わたしが会いたいという時はいつでも会うという約束を忘れちゃだめよ」
輝子は良一の枕もとににじりよって、良一の手をとった。京子は輝子のそばにより添うようにすわっていた。
「君、何もここまで……」
良一が憎々しそうに輝子を見た。
「あら、だって仕方がないわ。あなたの家を訪ねないって約束はしたわよ。でも、おなかの子の相談をしなければならないでしょ?」
良一はちらりと奈緒実を見た。奈緒実は立ち上がった。
「奈緒実さんもここにいてよ」
輝子が命令するように言った。
「でも、わたしに関係のない話ですもの。京子さん、あなたもあちらにいらっしゃらない?」
奈緒実は、自分の心が言いようもなく冷たくなってゆくのを感じた。
「まあ、あなたに関係がないかしら?」
「多分、ないでしょうね」
すがりつくような良一の視線を感じながらも、奈緒実はじっと外をながめていた。
「でも、もし、わたしが子供を生んで、その子を良一が引きとると言ったら、どうなさるの」
「お二人で育てるといいわ」
京子が脅えたように顔を上げた。
「あら、じゃ、別れるとおっしゃるの」
輝子は少しあわてたように言った。だまっている奈緒実の顔を三人三様の表情で見守った。良一の顔は苦痛に歪んだ。輝子はいささか呆れたようであり、京子はひどく脅えていた。京子にとって、奈緒実の離婚はひとごとではなかった。一人になった奈緒実と竹山が結びつくのが、京子には目に見えるような気がした。
「別れて竹山先生と結婚なさりたいのね」
輝子が冷笑した。奈緒実は静かに輝子を見、そして京子を見た。
(竹山先生には京子さんがいらっしゃるじゃありませんか)
そう言おうとして、奈緒実はハッとした。輝子のスーツの胸にある青いブローチと同じブローチを京子の胸に見たからである。それは偶然とは思えなかった。明らかにおそろいのブローチであった。京子から、冷たい刃《やいば》をつきつけられているのを奈緒実は、はっきりと感じた。
奈緒実は無言のまま、襖に手をかけた。
「奈緒実!」
良一は大声を上げた。その途端に良一はふたたび枕もとの洗面器に血を吐いた。
礼拝を終わった竹山が、みんなに遅れて玄関を出た時である。竹山は思わず、はっとその場に立ちどまった。教会堂の前の黒い自家用車のそばに立っている女のうしろ姿が、奈緒実にそっくりであったからである。自動車が走り出すと、女がていねいに頭を下げて見送った。
(やっぱり奈緒実さんだ)
竹山は自分の足がふるえるのを感じた。
「奈緒実さん」
竹山は奈緒実の前に立っていた。奈緒実は竹山をちょっと見て頭を下げた。おどろいたふうも懐かしい表情もない。
「いつ、札幌においでになりました」
竹山は声が弾んだ。ふたたび、ここに奈緒実が帰ってくる日があろうとは、予想もしないことだった。
「四月の末でしたわ」
奈緒実は遠いところをながめるような表情だった。竹山と京子の抱擁の姿が目に浮かんだ。
「じゃ、一週間以上も前じゃありませんか」
なぜ、知らせてくれなかったのかと、竹山は言いたかった。
「ええ」
「杉原も一緒ですか」
「京子さんは何もおっしゃいませんでしたの」
奈緒実は、はじめて真直《まつすぐ》に竹山を見た。きりりとした竹山の気性が顔に出て、すがすがしい表情をしている。
「京子さんが?」
竹山はふっと顔をあからめた。
「京子さんは、一週間ほど前に、杉原の見舞いにいらっしゃいましたわ」
「そうですか」
竹山は、昨日、いつものように夜訪ねてきた京子を思い出した。
京子は黒いベルベットのドレスを着てきた。色白の京子に黒が似合った。
「杉原はゴールデンウイークに遊びに来ないのか」
竹山がたずねると、
「おにいさんのことなんか、どうでもいいわ」
と、すねたように言って、竹山の手に自分の手を重ねた。今まで京子はそんなことをしたことがなかった。竹山はさりげなく手を退《ひ》いて、京子にこんな態度をとらせた原因を思った。自分にその意志がなかったにせよ、京子を抱いてしまった形になった先夜のことに竹山は責任を感じた。
竹山は決して京子をきらいではなかった。どちらかといえば、古風なほどおとなしい、日本的な娘で、髪の毛を染めるような今の時代には、それもまたひとつの魅力ある個性と言えば言える。結婚しても、京子とならおだやかな毎日を過ごしてゆけるような気がした。
しかし、それは積極的に愛しているのとはちがっていた。竹山の心の底には、奈緒実が住みついていた。奈緒実は人妻であり、諦《あきら》めなければならない存在だということは知っていた。だが、いつのまにか、ふっと奈緒実のことを思っている自分を、竹山は偽ることができなかった。
こんな気持ちのままでも、京子と結婚すれば、いつとはなしに奈緒実のことは忘れ去ることができるかもしれない。しかし、それでは京子にすまないと思う。
と、いって、京子の気持ちを知りながら、こうして土曜ごとに会っているというのは、いかにもずるい人間に思われた。その意志はなかったと自分は思っても、一度京子を腕の中に抱いてしまったことは事実である。竹山は、京子に詫びたかった。
「京子さん」
竹山はすわりなおした。
「何ですの」
改まった竹山の様子に、京子は期待に満ちた表情を向けた。その顔を見ると、竹山は言いにくくなった。
「何ですの? 先生」
言いにくそうな竹山の表情を、京子は自分に都合よく解釈して微笑した。
「いや、何でもない」
「いやですわ、言いかけて……。男らしくありませんわ」
冗談めかして、京子はつんとした。
(男らしくない、か。なるほどな)
いかにもそのとおりだと、竹山はやっと心が決まった。
「京子さん。縁談は降るほどあるのだろうね」
「どうして、そんなことをおっしゃるの」
「いや、君はわたしの教え子だからね。わたしも君のおむこさんを探してあげようかと思っているんだ」
「まあ、ひどい」
京子は半分怒ったように竹山を見た。
「こうして土曜日ごとに会っていると、人は、京子さんをわたしの恋人だと思ってしまうだろう? それでは、君の結婚にさしつかえるんじゃないのかな」
「かまいませんわ、そんなこと」
京子の顔がパッとかがやいた。京子は竹山の言葉を愛の言葉に受けとった。
「かまいませんって、そんな……」
竹山は自分がまずいことを言ってしまったのに気づいた。
「じゃ、先生はわたしと恋人同士に思われて、ご迷惑なんですの」
京子はうれしそうに言った。迷惑だと竹山が言うはずはないと思っている様子であった。
「迷惑というわけではないが……」
竹山は返事に窮した。
「じゃ、二人共いいんですもの、問題はありませんわ」
京子は微笑した。
「しかしね、京子さん、わたしは当分結婚はしないつもりなんだ。だから、君はいいところがあったら、なるべく早く結婚した方がいいと思ってね」
「先生が結婚なさらなければ、わたしも独身でいます」
京子は竹山が自分の心を試しているような気がした。
「しかし、わたしは……」
この間抱いてしまったものの、実はその意志がなかったのだとは言えなかった。
「いいのよ、先生。わたしもいつまでも結婚しませんから」
京子は竹山の言葉を愛の言葉に受けていた。
「だがね。結婚するか、どうかもわからないのに、こうして二人だけの交際を続けるのは、わたしは何だか気重なんだ」
「では、先生はわたしをおきらいなの」
京子の表情がかげった。
「いや、きらいではないんだ……」
しかし、結婚したいほどの気にはなれないんだと、続けて言う勇気を竹山は持たなかった。京子は十時すぎても帰るとは言わなかった。十一時近くなった。
「もうバスがなくなったじゃないか」
しかし、京子はだまってすわっていた。
「早く帰らないと、家で心配するよ」
竹山が促すと、京子は答えた。
「誰も待っている人はいませんわ。母はいつも三時近くに帰ってきますもの」
「しかし、わたしも眠くなったからね」
「どうぞ、おやすみになって下さい。わたしはここで一晩中先生の寝顔を見ていますわ」
竹山はおどろいて京子の顔を見た。京子はだまって自分の指先をながめていた。
「そんな、ばかな。そんなことを言う京子さんだとは思わなかった」
竹山は不快そうに顔をそむけた。しかし京子をタクシーに乗せて帰した夜半、竹山は京子を抱いている夢を見た。
「京子さん。かまうことないから、竹山先生の家に泊まるのよ、もう一押しよ」
輝子が、竹山と京子の抱擁を聞いたあと、そう入れ知恵をしたことは、無論竹山の知らない話であった。
今、奈緒実に、京子が何も言わなかったかとたずねられて、竹山が顔をあかくしたのは、その夢を思い出したからである。
「杉原は何の病気ですか」
旅先で風邪でも引いたのだろうと竹山は考えていた。
「喀血しましたの」
「喀血!?」
おどろいた竹山の顔に、かすかに喜びの色が走った。竹山はあわてて顔をふせた。
(何ということだ。喀血したと聞いた瞬間、杉原は死ぬのではないかと、俺は喜んでしまった)
「だいぶ悪いんですか」
「今のところ、よくわからないんですけれど、ストマイとパスとヒドラジッドを併用して当分様子を見ましょうって、今も先生がおっしゃっていました」
なるほど、今去って行った自家用車は医者の車だったのかと、竹山はうなずいた。
「どこかに入院でもするんですか」
「喀血がおさまるまで、ここにいた方がいいとおっしゃるの」
「それは大変ですね」
とにかく、同じ札幌の地に奈緒実が住むということが、竹山にはやはりうれしかった。こうして、ただ立ち話をしているだけなのに、竹山は自分の身も心も、生き生きと甦るような喜びを感じた。それは、たしかに恋と呼ぶべきもののようであった。京子と対《むか》い合っている時の、あのおだやかな感情ではない。ちょっと触れても鳴りひびく弦のように、今、竹山の心はピンと張りつめていた。
「この頃京子さんにはお会いになりませんの」
奈緒実はさりげなくたずねた。竹山がまだ良一の病気を知らなかったのがふしぎだった。
「いや、ゆうべ家へ来ましたがね」
「ゆうべ?」
ふたたび、奈緒実は、竹山と京子の抱擁を胸に浮かべた。
「どうして、京子さんは杉原のことを言わなかったのだろうな」
そう言ってから、奈緒実が札幌にいることを知らせたくなかった京子の心に竹山は気づいた。
「京子さんは川井輝子さんとご一緒にお見舞いにいらっしゃいましたわ」
「え、川井と一緒に?」
竹山の顔色が変わった。
「先生もご存じだったのね」
奈緒実は、庭の白い柵によりかかった。竹山は唇をかんだ。
「先生も、京子さんも、とうにご存じでしたのね。なぜ、先生はわたしに知らせて下さいませんでしたの」
奈緒実の黒い目がきらりと光った。
「先生は、杉原のことを何もかもご存じで、わたしにはひとつも知らせて下さいませんでしたのね」
その言葉には、詰《なじ》るというより、ひとりごとのような淋しいひびきがあった。
ゆっくりと流れている五月の雲を奈緒実は見上げた。白いのどからほおにかけての線が言いようもなく美しかった。奈緒実に何も知らせてくれなかったと言われて、竹山は言葉につまった。
「輝子さんと京子さんは仲よしなのね。おそろいの青いブローチをしていらっしゃいましたわ。でも、わたし、先生だけは、わたしに少しは好意を持っていて下さるとうぬぼれておりました。何も知らないのが、わたしだけだなんて、思ってもみませんでしたわ」
奈緒実の声はしずかだった。
「何といわれても弁解のしようもないが……。しかし、杉原とは友だちだから……」
「先生には友人の杉原の方が、教え子のわたしより大事だったとおっしゃるのでしょう」
柵の傍の水仙に奈緒実は身を屈かがめた。
「そんな……」
竹山には言いたい言葉があった。しかし、それは決して言ってはならない言葉だった。
「奈緒実さん!」
竹山は、水仙に手をふれている奈緒実のやさしいうなじを見た。
「何ですの?」
ふりあおいだ奈緒実の前に、迫るような激しい竹山の顔があった。口には出さなくても、この今の自分の目の色は何を語っているかわかるはずだと竹山はうったえたかった。奈緒実にかすかな狼狽と羞恥が走った。しかしすぐに冷静な表情にもどっていた。
「奈緒実さん!」
「杉原を看《み》なければなりませんので、失礼いたします。上がってもいただかないで、こんなところでごめんなさい」
奈緒実は、京子と竹山の姿を決して忘れることはできなかった。竹山はしばらく奈緒実の去った後に立ちつくしていたが、奈緒実の手がふれていた水仙の花を一輪|手折《たお》った。
「どうだね、大分元気そうになったようだが」
耕介は良一の部屋に入ってきた。
「はあ、おかげさまで」
机の前にすわっていた良一は、ふり返って頭を下げた。
「手術をしないでもいいのじゃないかと、医者は言っていたようだね」
「ええ、喀血で始まる結核は案外治りやすいんだそうです」
「喀血におどろいて大事をとるからね。パス、マイシン、ヒドラジッドの化学療法も、あんたにはよく効いたらしい。医者はびっくりしていたね」
「悪運が強いらしいんです」
良一は頭をかいた。
「あれから、まる四カ月か。しかし大事にするんだね」
「はあ、でもそろそろ、社の方が心配になって……」
良一は指の骨をポキポキと鳴らした。
「仕事よりも、体だよ」
「そうでしょうか」
良一は耕介の前に出ると、何となく素直になった。
「仕事の方が大事だと思うのは、どこかまちがっているような気がするね。人間にとって生きているということは、それだけでも大仕事だよ」
「しかし、ぶらぶらして食べているなんて、無意味だと思うんです」
「いや、病気の時は、呼吸しているだけで、精一杯の大仕事だ。まあ気をらくにするんだね」
耕介はそう言って部屋を出て行った。
耕介が言おうとしていることが、良一にはわかるような気がした。たとえ、生きていることが無意味に見える時があっても、人間は生命を大事にして生きねばならないと言っているように思えた。自分にも人にも、生きている意味がわからなくても、生きていること自体さらに大きな意味があるのかもしれないと、良一は思った。
「やあ、元気か」
開いている窓から、竹山の顔がのぞいた。
「ああ」
良一はうなずいた。
「この前より顔色が大分いいな」
竹山は玄関から部屋に入ってきた。
「そうかね」
良一は竹山がたびたび見舞ってくれることを、必ずしも喜んでいなかった。竹山が顔にも口にも出さなくても、良一には竹山の奈緒実に対する感情が敏感に伝わった。
「来たか?」
竹山は低い声で言った。
「誰が」
良一は気づかないふりをした。
「川井輝子だよ」
「来るわけがないよ」
輝子は、見舞うというより、良一と奈緒実を脅かすように、一度訪ねて以来手紙もよこさず、無論訪ねてもこなかった。
「奈緒実さんは、勤めに出ているってね」
たしかめるように竹山がたずねた。
「うん、苦労ばかりかけているさ」
良一は自嘲した。
「そうか、奈緒実さんがるすなら言うがね。実は今そこで川井輝子に会ってね。痩せたようだな」
「あいつの話はやめてくれないか」
良一はいやな顔をした。
「そうもいかないよ。いつも奈緒実さんがいるから話ができなかったが……。川井はお前が治ったらまた訪ねてくると言っていたよ」
良一は顔をしかめた。輝子に枕もとで情け容赦もなく責めたてられ、喀血をしてしまったことを良一は思い出した。
「かなわないな」
「自分のまいた種だよ。今度は少しは考えてもらわないと困るね」
「奈緒実のためにか」
良一は苦笑した。
「まあ、川井輝子のためにもだね。輝子には、わたしもよく言ってみたんだがね。わたしは良一さんを本気で好きになったらしい。訪ねたいのをがまんしているのも、好きだからだなんて言っていた」
「困るな、そんなこと。ところで子供のことは何て言っていた」
「子供のことは一言半句も言わなかったが、生まれるような体には見えなかったよ」
「そうか」
良一はふっと淋しい顔になった。先ほど、耕介の言った言葉が思い出された。生命が大事だと、自分自身こうして大事にされながら、ひとつの命を闇に葬ってしまったのではないかと、良一はそれが侘びしかった。
「今日あたり訪ねてくるんじゃないのかな。今、ちょっと買い物をして行くなんて言っていた」
「ところで、京子は一体どうなるんだ。あいつもかわいそうなやつだなあ」
机の上の花瓶にさしたコスモスを見ながら、良一はコンテを走らせていた。竹山はだまって良一の手もとをみつめた。繊細なコスモスの花が、魔術のように、良一のコンテの先から咲きこぼれた。たしかなデッサンだと竹山は心の中で賛嘆した。
「このコスモスのようなやつだよ、京子っていうやつは」
良一は、コンテを投げ出して竹山の方を見た。
「竹山」
「何だい、改まって」
「お前、まさか、俺と川井が結婚するように策動しているわけじゃないだろうな」
「ばかも休み休み言えよ。俺がそんなことをするわけがあるかどうか、わかりそうなものじゃないか」
竹山は呆れたように畳の上にゴロリと横になった。
「しかし、俺と川井が結婚すれば、奈緒実をさらって行こうとお前は思っているんじゃないのか」
「ばかなことを言うな!」
竹山は起き上がった。
「ばかなことかな。しかし、竹山が京子に煮えきらない態度をとっているのは、奈緒実がいるからじゃないのか」
「よせよ。奈緒実さんはお前のワイフじゃないか。そんな言い方をするものじゃないぞ」
「そうかね。じゃ、そろそろ京子にも、はっきりした態度をとってほしいものだな。あれじゃ京子もなま殺しみたいなものだ」
その時、
「なま殺しはこちらのことじゃない? ほんとうにわたしは半殺しの目にあってしまったわ」
パッと明るい水色の傘が窓にのぞいて、黒い紗《しや》の着物を着た輝子がにっこりと笑って立っていた。
「ウイスキーが切れてるんじゃない? いくら病人でも、あなたにアルコール気《け》のない生活なんて残酷よ」
良一の病室に入ってくるなり、輝子はそう言ってウイスキーの瓶をさし出した。
「もう酒はやめたよ」
良一は輝子の顔も見ずに、ぼそりと言った。
「あなたにお酒がやめられるものですか」
輝子はとりあわなかった。
「酒ばかりじゃない。何もかもやめたよ」
良一はウイスキーを輝子の方におしもどしながら言った。
「何もかも?」
輝子の目がちかりと光った。竹山は自分のつかっていたうちわを輝子の前に置いて、良一と輝子を等分に見た。
「ああ、何もかもね」
良一は、さっき置いたコンテを手に持って、ふたたび机の上のコスモスをかきはじめた。
「ねえ、何もかもやめたって、一体どういうこと? 聞きずてならなくってよ」
輝子は良一の膝に手をかけた。
「酒もタバコも何もかもさ」
良一はニヤニヤした。
「酒もタバコも、それから?」
輝子はまじめな顔だった。
「それから……女も……」
みなまで言わせずに輝子の白い指が良一のももをつねった。良一はその手を上から握るようにして笑った。
「ばかだな」
「どうせ、ばかよ」
その二人を竹山は見すえるようにみつめて言った。
「杉原。この先一体どうするつもりなんだ。川井さんだって嫁入り前じゃないか。川井さんも、いい加減こんな奴から離れた方が身のためじゃないのかね」
「まあ、先生ったら……。先生のような朴念仁《*ぼくねんじん》に男と女のことなんかわかりますの?」
「わからないかもしれないが……」
「わからなきゃ、だまっていらっしてよ」
黒い紗《しや》の着物を通して白い下着が透いて見える。その肉づきのよい足を斜めにくずして、輝子は竹山を横目でかるくにらんだ。
「しかし、川井さん。あんたも少しは奈緒実さんの身になってみたらどうだろう。ここは奈緒実さんの実家だよ。何もここまで押しかけなくっても……」
良一に代わって勤めに出ている奈緒実を思うと、竹山はこの二人に対して胸の焼けるような怒りを感じた。
「先生は、奈緒実さんの身になって考えることだけはできますのね。そんな、人の奥さんの身になってあげなくても、少しは京子さんの身になっておあげになったら?」
奈緒実の名を聞いた、輝子の口に毒があった。良一はだまって、コスモスの絵をかきつづけている。
「問題をはぐらかしてはいけないね」
竹山はちょっとあかくなったが、
「杉原、ほんとうに、この先一体どうするつもりなんだ?」
と、良一を問いつめた。
「どうするって……」
良一はコスモスをかく手をとめなかった。
「いいわよ。わたしと別れても」
輝子はからかうように言って、タバコに火をつけた。
「一体、人間って何しに生きてるんだろうな」
良一は輝子の言葉を無視して竹山を見た。
「何だい、やぶから棒に」
「竹山は、洗礼を受けたのか」
良一はまじめだった。竹山は良一の口から洗礼という言葉を聞いて驚いた。
「いや、まだだよ」
「じゃ、神を信じたわけじゃないんだね」
「信じきれないんだろうな。祈っていて、ああ信じていると思うことがあっても、それが長く続かない」
竹山は自分のこの頃の祈りを思った。竹山の今の一番大きな祈りは、
「どうか奈緒実に心をひかれないように。奈緒実のことを忘れられるように」
という祈りだった。ほんとうに神を恐れているならば、
「姦淫するなかれ」
という言葉を守らなければならないと思った。竹山は、奈緒実に接吻はおろか握手すらしていない。自分の慕情を口にすら出してはいない。だから低い倫理観からいうと、それは、
「姦淫するなかれ」
の言葉に反していないと、言えば言えた。しかし、高いレベルの倫理観を持つ時に、竹山は明らかに自分は姦淫していると認めずにはいられなかった。竹山の心を占めているのは奈緒実であった。竹山の心はいつも、奈緒実に向かって愛を告白し、愛を求めていた。幻の奈緒実を竹山はかきいだき、愛撫していた。それは既に心の中に姦淫することであった。
しかも奈緒実は良一の妻である。竹山は心の中で人妻の奈緒実を愛し、良一を裏切っていた。人間は行動にさえ出さなければどんな思いをいだいてもいいのだろうか。少なくとも、それは人間である限り致し方のないことだと竹山は思った。しかし、致し方がないとしても、それを肯定することと、否定することでは全く生き方がちがうことだと思った。しかも、竹山は自分の奈緒実への想いを肯定したがっていた。
「信じきれないか、竹山も」
少しがっかりしたように良一が言った。
「いやねえ、神だの仏だのって辛気《しんき》くさい」
輝子がうちわをぱたぱたとあおいだ。
「信じたいが信じきれないんだ」
竹山は淋しそうに言った。
「俺はこの頃、自分がどうも真当《まつとう》な生き方をしていないなと思うようになったよ」
良一がまじめな顔で言うと、竹山と輝子が思わず笑った。
「おどろいた奴だよ。お前の生き方は疾《と》うから、真当な生き方じゃないよ」
「いや、俺はそうとも思っていなかったよ。竹山は俺が酒を飲んだり女遊びをしていたのがおかしいと思っているんだろう?」
「当たり前じゃないか」
「だが俺はそうは思っていなかった。絵さえかければ、絵をかくためには女遊びをしても何をしてもかまわないと思っていたんだよ。だから奈緒実に対しても、俺は怒りたければ怒るし、殴《なぐ》りたきゃ殴った」
良一の言葉に竹山は眉をひそめ、輝子はにやりと笑った。
「俺にとって一番恐ろしいのは、絵をかく自分自身を失うということだった。自我の主張が芸術である限り、自我の強い生活をしなければならないと思っていたんだ」
良一は遠くを見るようなまなざしになった。竹山は、良一のその表情を孤独だと思った。
「だめねえ、そんな弱気になっては。芸術家なんてみんなわがままよ。良一さんはもっともっと自由奔放になってもいいんじゃない?」
輝子は退屈そうに言った。
「そんなことを、俺も思っていた。だから芸術を枯らさないためにも、奈緒実の思惑など考えられないと思って自分第一に生きてきたんだ。だが、この頃はそんなことが妙に、むなしいことに思えてきたんだよ」
良一はやりきれないというような顔をしていた。
「こんな牧師館などにいらっしゃるから、門前の小僧みたいに抹香くさくなってしまったのよ」
輝子は腹立たしげに言った。
「いい傾向だよ。しかし、杉原からそんな言葉を聞こうとは思わなかったな」
竹山はふっと胸ぐるしいような気持ちになった。良一と奈緒実の間が以前よりも親密になった証拠を見せられたような気がした。奈緒実の愛が、良一に微妙な変化を与えているように思われた。
「うん、この間ルオーのキリストの絵を見ていたらね、ふいにそんなことを考えちゃったんだ。俺は聖書なんか読まないけれど、ルオーのキリストを見ていたら、何かこう迫ってくるものがあるんだ。悲哀っていうのかなあ。このキリストと俺は無縁の人じゃないっていう実感があるんだよ。今までルオーは幾度も見ていて、こんなことはなかったのに……」
良一自身もふしぎそうであった。
「やっぱり、こんなところにいるからよ。何か雰囲気に弱いんじゃない? あなたって方は」
良一はだまって輝子を見た。そして何か考えていたが、
「痛みっていうのかなあ、あわれみっていうのかなあ。あのルオーのキリストは……。あれを見ていて、何だか深い慰めを感じるんだ。ふいに真善美という言葉を思い出してね。真理イコール善イコール美であるなら、これこそ美だという気がしたんだ。そしたら、俺のかく絵は一体何だろう。いらいらしながら、鋭く尖った神経で捉えたつもりの美が、一体人の心に何を訴えることができるだろうとそう思っちゃってね」
「なるほどね、ルオーのキリストか」
良一がルオーのキリストに感じたものが竹山にもわかるような気がした。
「なあ、竹山。キリストの流した血と俺とは何の関係もないのかね。俺はルオーを見ていて、深い慰めを感じるだろう? この深い慰めを与えるキリストと俺とは無縁ではない、無縁ではないとしきりに感じられてならないんだが……」
「キリスト様より、あなた、わたしとは無縁じゃないのよ」
輝子の切れ長の目が妖しく笑った。
「そうだ。俺と君とは無縁じゃないよ。共犯者だからな。ところで、……子供はどうしたの?」
良一は、さっきから聞きそびれていたことを思いきって言った。
「おろしたわ」
輝子が冷たく言った。良一は二、三度まばたきをして、うつむいた。ふいに輝子がけたたましく笑った。
「どうしたの?」
良一はやさしく輝子を見た。
「ばかねえ。あんなに用心していたんだもの、妊娠なんかしやしないわよ。ちょっと日にちが十日ほど狂っただけなのよ」
良一も竹山も思わずはっと顔を見合わせた。ふたたび輝子は声をたてて笑った。
「わたしも最初は心配したわ。でも自分一人心配したなんて損でしょう? ちょっと、あなたをおどしてあげたのよ」
輝子はすまして言った。
「呆れた人だ」
良一はコンテをとって、紙に、
「呆れた人だ」
と大きく書いた。
九月に入ると、宵早く窓を閉ざすようになる。浴衣ではいかにも寒々しい。竹山は行李《こうり》から袷《あわせ》を出して着替え、湯気をたてているトウキビを手にとった。たった今、母屋から届けられたばかりのトウキビのあたたかさが、手に心地よかった。竹山はトウキビをほつりほつりと食べながら、時計を見た。既に八時を過ぎている。
(今夜も来ないのかな)
土曜日には必ず顔を見せる京子が、先々週から姿を現さなくなった。電話もかけてこない。自分から去って行ってほしいとねがっていた竹山なのに、こうぷっつりと姿を見せなくなると、妙に落ちつかなかった。
(病気なのだろうか)
病気なら見舞ってやってもいいような気がした。
毎週土曜日に訪ねてくるはずの京子が訪ねてこないというのは、病気だと考えた方がいいように思った。
トウキビを食べ終わった竹山は、思いきって京子を訪ねようと思った。あんなに慕ってくれた京子に対して、自分がひどく薄情に扱ったような気がした。奈緒実への思いも、何とか打ちきらねばならないと、竹山は思いはじめていた。
それは良一が病気になったことへの同情もあったが、良一のものの考え方がかなり変わったからでもあった。良一のような、ずいぶんでたらめに見えた人間にも、キリストが慕わしくなってきたということは、奇跡的な大変化であると竹山は思った。そしてそのように良一を変わらせたのは、やはり奈緒実の愛であろうと、竹山は思わずにはいられないような気がした。もう、奈緒実たちの間に割りこむ余地のないものを、竹山は感じていた。
この際自分が京子の愛を受け入れて、結婚すれば何もかもまるく納まるように竹山は思った。もし京子が病気で臥ているのなら、その枕もとで結婚を申し込んでもいいと竹山は思った。今、竹山はひどく淋しかった。誰かに慰められたい思いだった。
(京子とおだやかな家庭をつくり、子供を三人ほど育て上げて、高校の教師で一生を送るのだ。いいではないか)
そう自分自身に言い聞かせながら、竹山は強しいて元気になろうとつとめていた。
しかし、このままほんとうに奈緒実を忘れられるであろうか。今まではじっと心の中で思いつづけていたから、忘れられないのではないか。思いきって、自分の心をうちあけたなら、むしろさっぱりと諦めることができるのではないか。そんなことを竹山は思った。靴下をはきかえていると、うしろの入り口の障子がすっと開いた。
ふり返ると京子が青ざめた顔でうつむいている。
「今、君のところへ行こうかと思っていたところだった」
竹山は靴下をはく手をとめて、やさしく言った。いくらでもやさしくしてやりたいような心地だった。
「わたし……」
うつむいていた京子が、顔を上げた。目に一ぱい涙がたたえられている。
「どうしたの。泣いたりして」
竹山はおどろいて、京子の傍によった。
「わたし、お別れにまいりましたの」
「どうして? お嫁に行くの?」
竹山の言葉に京子は激しく頭を振った。
「それなら、どうして別れだなんて言うんだろう」
「だって、先生は……先生は、わたしをおきらいなんですもの」
京子はそれだけ言うと、声を上げて泣いた。
「ばかな!」
竹山は京子の白い頬を両手にはさんで、顔を上に向けた。小さな唇がぬれてかすかに開いている。
「京子さん!」
竹山の唇が京子の唇をおおった。素直に竹山の唇を受けている京子のつむった目に涙が溢れた。竹山は貴重なものにふれるように、京子の涙に唇を当てた。
「わたしは今、京子さんのところに結婚を申し込みに行こうと思っていたのだよ」
竹山は京子の手をとった。これでいいんだと竹山は思った。
「まあ、ほんとうですか、先生」
「ほんとうだよ」
それは奈緒実から離れるためにではあっても、嘘ではなかった。竹山は京子の手を強く握りしめた。
良一はさっきから奈緒実の寝息をうかがっていた。今夜こそ、良一はこの家を出ようと思っていた。幾日も幾夜も考えたことであった。自分が奈緒実の傍にいたのでは、奈緒実に幸福な日がくるとは思えなかった。
(俺が出て行けば、やがて竹山と一緒になることだろう。京子の奴はかわいそうだが、兄貴の俺の罪亡ぼしになることだ。仕方がないさ)
良一は今まで、一度だって奈緒実から離れようとは思わなかった。奈緒実は良一にとって、すばらしい美術品のようなものだった。円《まろ》やかなすべすべとした腿、背から腰にかけてのいいようもなく、美しい線、白いのどから胸もとに流れる豊かな線、奈緒実は耳たぶひとつにしても、他の女性とは比較にならない美しさを持っていると良一は飽くことがなかった。
しかし、良一は奈緒実の美しさに心を捉えられ、愛しているつもりではあったけれど、奈緒実を幸福にしようという積極的な思いやりは殆どなかった。そんなことは、良一には問題ではなかった。ただ奈緒実が傍にいてさえくれれば、それでよかった。
だが、この頃の奈緒実を見ていると、良一は心が痛んだ。この頃、奈緒実は口数も少なく、笑うことも少ない。そんなことに気がつき、奈緒実の幸、不幸を思うというのは、かつての良一にはないことであった。
(俺には、輝子が丁度よい相手だろう)
もうじき十二月になれば、輝子は又東京から帰ってくることだろう。そして、遠慮会釈もなく、ここにやってくるだろう。
(輝子と別れることはできる。しかし、奈緒実とは別れられるだろうか)
良一はそっと床の上に起き上がった。電気スタンドの灯を受けて寝入っている奈緒実の顔を、良一はしみじみとながめた。
長いまつ毛がくろぐろと影をおとしている。あどけない少女のような寝顔だった。
(苦労をかけたな)
良一は胸が熱くなった。こんなに愛している気持ちには偽りがないのに、輝子とどうして深くなってしまったのか自分自身にもわからない。体が治ったとしても、恐らく自分は酒を飲み、又どこかの女と遊ぶようになるだろうと良一は思った。
(こんな俺と一生暮らせる訳がない)
函館のあの二階から、奈緒実が逃げ出したと知った時の、うちひしがれた思いを、良一は思い出した。
(俺の体が治ったら、どうせ奈緒実は別れると言い出すに決まっているんだ)
良一は惨めだった。こうして奈緒実の傍にいることができたのは、喀血のおかげであった。もし、あの時喀血をしていなければ、奈緒実は決して、この家に自分を置かなかったことだろうと良一は思った。
この頃の奈緒実は、どうやって良一と別れようかと心をつかっているのではないかと、かんぐりたいような淋しい表情をしていた。
(かわいそうに。俺のような男につかまってしまって)
良一は心からそう思った。今別れて、竹山哲哉と一緒にさせてやるのが、ほんとうの奈緒実への愛だと思った。竹山に抱かれて、幸福そうに微笑している奈緒実を良一は想像した。焼けるような苦しみが胸をつらぬいた。
(それでいいんだ。俺が苦しみを受けるのは当然だからな)
良一は思いきって立ち上がった。奈緒実はすやすやと眠っている。廊下に出ると、時計が一時を打った。良一は玄関に降りたった。錠を外し、しずかに戸を開けようとした時だった。
「こんな真夜中に散歩かね」
うしろに耕介が立っていた。
「あ!」
良一はあわてた。
「入りなさい」
やさしいが、抗しがたい響きがあった。良一はうなだれた。
「入りなさい。体にさわるといけない」
耕介は良一の肩に手をかけた。耕介に促されて部屋にもどると、奈緒実が目をさました。
「あら、どうなさって。おとうさん」
うなだれた良一と耕介を見て奈緒実がおどろいて起き上がった。
「長いことお世話になりました」
良一の決心は定まっていた。良一は耕介の前にていねいに両手をついた。奈緒実ははっと顔色を変えた。
「ここに居辛いかね」
耕介はちらりと奈緒実を見た。
「そんなことはありません。何だか、この頃しきりに奈緒実がかわいそうになって……」
奈緒実はだまって良一を見た。
「じゃ、君が出て行けば奈緒実が幸福になるとでもいうのかね」
「幸福になるはずです」
竹山のことは口には出せなかった。
「奈緒実もそう思っているのか」
耕介の言葉に奈緒実はうつむいた。良一と暮らして、奈緒実はつくづくと自分の心の冷たさを知った。良一が純粋な人間に思われた頃の、あの愛情はあとかたもなく消えている。病気になった良一に対してさえかわいそうだと思うことがなかった。恐らく、良一が喀血しなければ、自分は良一を振りきって逃げ出しただろうと奈緒実は思う。
口を閉ざして何も語らない奈緒実が良一は淋しかった。
(仕方がない。俺が悪かったのだ。奈緒実が悪いから、輝子と遊んだ訳じゃないのだし)
受けるべき報いは、この際全部受けるべきだと良一は思った。
「呆れた奴だ。奈緒実がこんなに冷たい女だとは思わなかったね」
耕介は溜め息をもらした。
「いや、奈緒実が悪い訳じゃありません。わたしは自分が酒を飲むばかりで、これに着物ひとつ買ってやったこともありません。飲んだり乱暴したり、揚げ句の果てに、奈緒実の友だちとつまらないことになってしまって……」
良一は奈緒実が冷たいのは当然だと思った。
「じゃ、君はこの家を出てその女の人のところに行くつもりかね」
「とんでもない」
良一はおどろいて手を振った。
「じゃ、どこへ行くつもりだ」
「家に帰ります。おふくろだって無下《むげ》に追い出しもしないでしょうし、出されれば入院でもするつもりです」
「ほんとうに女の人のところへ行く気はないのかね」
「全然ありません」
「じゃ、今後一切手を切るということだろうね」
「いずれ、はっきり話はつけるつもりでいます」
良一は小学生のようにまじめに答えた。
「どうだ、奈緒実。お前は良一君ともう一度生活をやり直すつもりなんだろう?」
うつむいていた奈緒実が顔を上げた。
「わたし、自信はありませんわ」
「どうして? ゆるしてあげることができないのかね」
奈緒実はおしだまった。
「わたしも女に弱いし、酒に弱いし、いつどういうことになるか、川井輝子と手を切っても、自信がないんです」
良一は正直に言った。
「男というものは、弱いものだからね」
耕介は良一の言葉にうなずいた。
「もう、二十何年も前のことだ。ある一人の男がいた。その男は結婚するまで童貞だったんだが、結婚して妻が出産する時になって、過失を犯してしまった。しかも、それは妻の姉だった。その姉は結婚していて人妻だった。出産してから、その事実を知った男の妻は、何と言ったと思う? わたくしは神と結婚したのではありません。人間と結婚したのです。人間というものは、完全ではありません。いつも何かしら過失を犯しています。過失を犯さなければ生きて行けないのが人間です。そう言って、その妻は、自分を裏切った夫と、妹を裏切った姉をゆるしたのだよ。その妻はキリスト信者だった。この時、その男はゆるすということが、どんなに大きく人を動かすかを知った。それからその男は信者になり、勤めていた会社をやめて、神学校に行き牧師になった。その赤ん坊は病気で死んでしまって、あとに生まれたのが、この奈緒実だったのだよ」
はっとして奈緒実は顔をあげた。人事《ひとごと》のように聞いていたその話が、事もあろうに信じきっている父の話だと知って奈緒実は青ざめた。
「もし、おかあさんがゆるしてくれなければ、おとうさんはどうなったかわかりはしないよ。八重さんとどこかへ逃げて行ったかもしれないな」
八重というのは母の姉で室蘭にいる。小柄で母よりも若く見えた。三男三女の母親であるその伯母を、奈緒実は貞潔なおとなしい人だと思っていた。この父とあの伯母に、そんな過去があったのかと思うと、奈緒実は人間というものの、弱さ、もろさを見せつけられたような気がした。
(わたしだって、いつ、どうなるかわからないのだわ)
審《さば》きを待つようにじっとうなだれている良一を、奈緒実はいつしか優しい目でみつめていた。
勤務先の小松会計事務所を出た奈緒実は、空を仰いだ。二、三日前に初雪が降ったが、そのあと急に日が短くなったような感じである。暗くなった空を行く飛行機の赤と青の光がビーズ玉のようであった。
飛行機の光を目で追っていた奈緒実は、バーバリー・コートの衿を立てて歩き出した。今日は給料日である。小さな会計事務所だが給料は悪くない。所長の小松は、若い頃からの教会の信者で、奈緒実が負担に思うほどの額を支給してくれていた。
奈緒実は事務所のすぐ近くの狸《たぬき》小路《こうじ》を歩いていた。狸にばかされて、つい買い物をしてしまうといわれる、札幌随一のこぎれいな商店街である。仲通《なかどおり》をはさんだ両側に、食堂、菓子屋、果物屋、時計屋、呉服屋、洋品店、そして映画館、パチンコ屋などが、数町ぎっしりと並んでいる。
奈緒実はゆっくり歩いていた。いや、人が見たら、歩くというより漂うような、はかなげな姿に見えたことだろう。本屋の前で、奈緒実は立ちどまった。長いこと、本を読むことを忘れて過ごしてきた。ゆっくりと本を読みたいと思った。高校生の頃から、書きたいと思いながら書けずにいる童話のことを思った。自分の書いた童話が本屋にずらりと並び、幼い子が母親に買ってもらって行くことを想像した。幼い子どもたちが、一心に本に読みふけっている姿を奈緒実は想像した。
奈緒実は本屋の入り口に立って、客の一人一人の顔をみつめていた。小さな本屋だが、学生たちが十数人ほど入っている。ただの一人も笑っている者はいない。誰も、自分のすぐ隣にいる者に注意を払ってはいない。みんな少しむずかしい顔をして、本を開いたり、もとの棚に本を返したりしている。ただ電灯だけが、むやみに明るかった。
(本を読むって、淋しいことだわ)
奈緒実は本屋の前をはなれた。
そのすぐ向かいのパチンコ屋には、にぎやかな軍艦マーチが流れて、客が混んでいた。玉の出る音が絶え間がなかった。だが、その喧噪なパチンコ屋の中も、笑顔のない、どこか孤独な一群が、ただ一心に器用な手つきで玉をはじいているだけだった。軍艦マーチのレコードとこの人々と、一体どんなつながりがあるのだろうと奈緒実は思った。しずかな音楽を流したら、みんな泣き出してしまう人々かもしれないと奈緒実は苦笑した。
奈緒実は何となく深い溜め息が出た。街角にトウキビを焼いている中年の女のそばによっていった。
「今ごろ、トウキビなんて珍しいわね」
奈緒実は声をかけた。
「はあ、もうトウキビも終わりです」
女は明るい顔をしていた。トウキビは少し黒くこげていたが、奈緒実はそれを四本買った。
「お二人っきりですか」
女は、奈緒実たち夫婦が仲よく二本ずつ食べるのだろうと思っているようであった。
「ええ」
そう思わせておいてもかまわないことであったが、奈緒実の胸の中にかすかにこだわるものがあった。胸にかかえたトウキビが、風呂敷を通してあたたかかった。
「あら!」
目の前で声をあげて立ちどまったのは、京子だった。黒いバーバリー・コートの上に、白い顔が夕顔のようにやさしかった。
「まあ、しばらくねえ、京子さん」
なつかしく声をあげた奈緒実をこばむように、京子はかたい表情を見せた。京子は良一を見舞うにも、奈緒実のるすをねらって、来ているようであった。
「すみません。ごぶさたして」
京子はうつむいたまま、つぶやくように言った。
「こちらこそ、ごぶさたしていて。おかあさんはその後お元気かしら」
良一が奈緒実の家で療養しているのを知りながら、伸子は顔を出さなかった。
「すみません。母もすっかり失礼して」
京子はうなだれた。
(そんなつもりで言ったのではなくってよ)
奈緒実は、自分と京子の中をへだてているものは、一体何であろうかと淋しくなった。
「そこで、久しぶりにお茶でも飲みましょうか」
奈緒実は近くのポプラという喫茶店を指さした。
「ええ」
京子はためらいがちな表情で、それでも奈緒実のあとについてきた。
うす暗い喫茶店の中に客が何組か、ひっそりとすわっていた。
「暗いのねえ」
アベック専門の喫茶店のようだと、奈緒実は店の中を見まわした。
「ええ」
京子は奈緒実の顔を見ようとはしなかった。
「京子さん、何をおあがりになる?」
メニューを京子の前においたが、京子は手にとらなかった。
「何でも」
「紅茶?」
「ええ」
「コーヒー?」
「ええ、どちらでも」
京子は落ちつきなく、たえず入り口の方をながめている。久しぶりに向かい合ってすわってみても、何も言うことはなかった。いや、実は言いたいことが、お互いの胸にあるということかもしれなかった。
「お元気?」
「ええ、このとおりよ」
「おつとめはずっとタイプライター?」
「相変わらずね」
京子は気のりのしないように、答えた。奈緒実が口をつぐむと会話はすぐに途切れた。こんな会話をするために、京子を誘ったのではなかった。奈緒実は誘ったことを悔いた。
「京子さん」
「はい」
京子は訊問を受けている人のような、おどおどとした顔を上げた。
「どうなさったの? あなた、すっかり変わったのねえ」
京子はかすかに身じろぎした。
「京子さんは、すっかりわたしをきらっていらっしゃるようね」
奈緒実はたまりかねた。京子はピクッと肩をふるわせて奈緒実を見た。
「きらい……かもしれません」
思いきったように京子は言った。
「まあ、どうして? わたしはあなたに何かいじわるをしたかしら」
(輝子さんと良一のことを知らせてくれなかったあなたほどに、わたしはいじわるではないわ)
奈緒実は言いたい言葉をのみこんだ。
「それは、奈緒実さんはいじわるはなさらないわ……。でも……」
京子はふっとかなしげに目をうるませた。
「でも、なんでしょう?」
「でもね、美しすぎるわ」
「まあ、そんなこと」
「いいえ。美しすぎてよ。あなたの罪ではないかもしれないけれど……。でも、そのために、苦しまなければならない人間もいるということ、お考えになったことがあって? 奈緒実さん」
「でも、わたしがあなたの幸福の邪魔をしたかしら」
京子が竹山の腕にだかれていた姿を、奈緒実は思い出していた。
「あなたは何もご存じないのよ。あなたが悪いのではないわ。でも、美しい花のそばに咲いた花がどんなに淋しい思いをしたかということは知っていただきたいわ」
京子は弱々しく微笑した。
「だって京子さん、あなたはこんなに美しいじゃないの」
京子はだまって腕時計を見た。
「お急ぎになるの?」
奈緒実がたずねた。
「いいえ、実はね、竹山先生と六時にお会いするの」
「あら、もう六時よ。悪かったわ、おひきとめして。早くいらっしゃいよ」
ふっと奈緒実は、京子に嫉妬を感じた。京子が竹山に会うことに嫉妬しているというより、京子が、まだ誰の妻にもなっていないということに嫉妬したのかもしれなかった。
「いいのよ。竹山先生とこの店でお会いすることになっているんですもの」
「あら、それなら、わたしが失礼しなければいけないわね」
奈緒実はあわてて立ち上がった。二人のコーヒー代を払って、奈緒実はすっかり暗くなった外へ出た。向かいのお菓子屋のショーケースが、まばゆいばかりに明るかった。人通りがふえていた。奈緒実は足早に人の間をすりぬけながら、何ともいえないやりきれない思いがした。
「奈緒実さん、奈緒実さんじゃありませんか」
電車通りへ曲がろうとした時、奈緒実の前に立ちふさがるように竹山が立っていた。思いがけなく会えた喜びを竹山はかくしてはいなかった。
「お晩でございます」
奈緒実はおどろかなかった。
「いまお帰りですか。今日は少しあたたかですね」
「ええ」
竹山は食い入るようなまなざしで奈緒実をみつめた。
「ちょっと、そこでお茶でも飲みませんか」
竹山は電車通りの小さな喫茶店を指さした。奈緒実は竹山を見て、はなやかに微笑した。
「ポプラで、京子さんがお待ちになっていらっしゃってよ。六時のお約束でしょ?」
奈緒実はそう言い捨てると、もう人波の中に入って行った。竹山はいきなりほおをなぐられたような気がして呆然と奈緒実を見送っていた。
日曜日だった。耕介も愛子も奈緒実も礼拝堂に行ったあと、良一は画集を開いて今日もキリストをながめていた。礼拝堂の方からオルガンの音が聞こえてくる。
(キリストっていうのは、何をしてハリツケになったのかは知らないが、かなしみということだけは知っている人だな)
良一はそう思った。そして、自分は果たして本当の意味の深いかなしみを知っているだろうかと思った。
うすく汚れた窓越しに、ナナカマドの赤い実が初冬の陽に輝いている。良一はふいに心が暗くなった。ナナカマドの赤い実を好きな女がいた。サトミという女だった。良一は半年ほどサトミのアパートに出入りしていたが、そのアパートの窓から、ナナカマドの木が見えた。
「あの木には赤い実がなるのよ。木いっぱいに赤い実がなるの」
サトミはそう言って、実がなるのを楽しみにしていた。しかし、その赤い実のなる頃には、サトミは死んでいた。妊娠中絶で失敗したのである。
長いこと、良一はサトミのことを忘れていた。
「目の前から去る者は心から去る」
ということわざどおり、良一は過去の女を次々と忘れて行った。その過去の女の中で死んだのはサトミ一人だった。しかも妊娠中絶で死んだというのに、良一は前世のできごとのようにすっかり忘れていた。輝子が妊娠したと聞いた時でさえ、良一はサトミのことも、サトミと共に葬られた小さな命のことも、思い出さなかった。
サトミのやや胴長の体や、小麦色の肌が思い出された。あの健康な若い命をうばったのは、結局は自分だったのだという、当然の事実に良一は今更のように気づいた。
「おろしてこいよ」
そう言って、無造作に渡した何枚かの千円札をちらっと見て、何かを訴えるように良一を見ていたサトミの目が、今目の前に見るように、あざやかに思い出された。
「いやよ、生みたいのよ」
あの目はそう言っていたのではないかと良一は思った。
サトミが死んだと聞いた時、良一は医者が悪いのだと思っただけで、何の良心の呵責《かしやく》も覚えなかった。今の良一には、その時の自分を理解することができなかった。
(こう仏心がつくようでは、俺の命も長くはないな)
良一は苦笑しようとした。しかし笑えなかった。その時は、なにげなく聞き流し、見過ごして長いこと忘れてきたはずのことが、こうもなまなましく思い出されるということに、良一は不気味さを覚えた。過去にしてきたすべてのことが、そっくりそのまま、どこにも消えずに生きているという感じであった。
考えてみると、自分と知り合って幸福になった女は一人もいないような気がした。奈緒実も輝子もサトミも、そして結婚したがっていた気だてのいい美登利《みどり》も、その他の女たちもみんな自分とさえ知り合わなければ幸福になっているような気がした。
そう思うと、良一はひどく侘びしかった。自分の存在が人の喜びにならないということは淋しかった。
ふと気がつくと、茶の間で電話が鳴っていた。ストマイを打ってから、良一の耳の中は、始終虫が鳴いているような、ベルが鳴っているような音がしている。今も電話のベルを耳鳴りだと良一は思っていた。
茶の間に入って行くと、ベルはピタリとやんだ。引き返そうとすると、ふたたびベルが鳴った。受話器をとると、
「まあ、良ちゃん。ひどいわ。いるのなら、すぐ出てくれればいいのに」
母親の伸子の声である。伸子らしい勝手な言い草だった。伸子は良一の病気見舞いに一度も来たことがないのを忘れているようであった。
「どうしたの、電話なんて珍しい」
今の良一は、手前勝手な伸子の言い分に、ふしぎに腹が立たなかった。
「大変なの。すぐ来てよ、死んだのよ。どうしたらいいの。ね、良ちゃん、一体どうしたらいいの」
明らかに伸子は取り乱していた。
「死んだ? 京子か」
良一はあわてた。
(自殺じゃないか)
ちらりと良一は、水に流されて行く京子の姿を目に浮かべた。どうしてその時、服毒や、縊死《いし》ではなく、水死だと思ったのか、あとになっても良一はふしぎに思った。二、三年前に見た映画ハムレットの水死したオフェリアと京子の可憐さとを無意識の内に結びつけていたのかもしれなかった。
「いやねえ、京子じゃないわ。あの人よ。川井さんよ」
伸子は半泣きになっている。
「なーんだ」
良一は安心したように思わず笑った。
「まあ、なーんだじゃないわ。今よ、たった今死んだのよ。早く来てちょうだい」
「おかあさん。今死んだって、相手には奥さんがいるんだ。何もすぐにかけつけなくたっていいんじゃないの」
「ちがうのよ。そうじゃないの。わたしと一緒にいて、アパートでよ」
「アパート?」
「うちのすぐ近くに『はまなす』っていうアパートがあるでしょう。その六号室よ。ぐずぐずしないで、早く来てよ」
伸子は言うだけ言うと、ガチャリと受話器をおいた。良一の体については半言も問わない。毎月金だけ届けていれば、母としての責任は果たしているとでも思っているのかもしれなかった。
(腹上死というやつだな)
良一は、自分の腕の中にいる川井輝子を思い浮かべた。
「腹上死か」
言葉に出してそう言うと、良一は言いようもなく、母の伸子と自分が浅ましい人間に思われてならなかった。
礼拝堂から奈緒実と愛子が先に帰って来た。良一の外出姿を見て、奈緒実は眉をひそめた。
「あら、どうなさったの」
また、良一が皆のるすにこっそり家を出るのかと思ったようであった。
「今日はあたたかいから、少しぐらい外を歩いてもいいでしょう」
愛子はさりげなく言った。
「ええ、あの……」
良一は口ごもった。
「わたしもお伴をしましょうか」
奈緒実はやさしく言った。
「いや、あの……」
ふたたび良一は口ごもった。母のこととなると、自分の不始末よりも言いづらかった。
「実は、ちょっと家にとりこみがあるとかで、電話がきたものですから……」
「まあ、とりこみって……」
京子の結納でも入るのかと、奈緒実は思った。
「いや、おふくろの近しい人が、家で死んだというものですから……」
「あら、それは大変ですこと。よろしかったら、わたしたちもお手つだいにまいりますよ。ねえ、奈緒実さん」
愛子の言葉に奈緒実もうなずいた。
「それが……」
「いいのよ、遠慮なさらなくっても。あなたはご病人ですから、無理をなさらないで。ではとにかく一応、奈緒実さんがお伴をなさい」
良一は当惑した。奈緒実を連れて川井輝子の父の死にかけつけることはできなかった。良一の母と、輝子の父のことは、できるならば奈緒実には知られたくなかった。と、いってかくし通せるものでもなかった。
愛子の呼んでくれたタクシーに乗った良一は、ちらりと奈緒実を見た。
「大丈夫? 寒くありません?」
「寒くはない」
「ことしはあたたかいのね。初雪がとけてからなかなか雪が降りませんわ」
「うん」
良一は何とか途中から、奈緒実を返す工夫はないものかと思った。
「どなたが亡くなったの。ご親戚の方?」
奈緒実は良一の方に、そっと体をよせた。
「うん」
良一は観念した。
「実はね、奈緒実」
「何ですの」
「死んだのは……実は、川井輝子の……」
「え? 川井輝子さん?」
みなまで聞かずに、奈緒実はおどろいて声をあげた。
「いや、輝子の父親なんだ」
「まあ、どうして輝子さんのおとうさまが……」
いつか、輝子の家を訪れた時、車で送ってくれた輝子の父を思い出した。精力的な脂ぎった印象だったが、話をすると思ったより好感の持てる人間であった。輝子と良一の問題で、母親に何か話を持ちこんだのではないかと奈緒実は想像した。
「それが……」
言いよどんで良一は溜め息をもらした。
「実はね、おふくろのところに始終遊びに来ているんだが……」
「遊びに? ……」
そんなに良一の家と輝子の家とは親しくしているのかと、奈緒実はおどろいた。奈緒実の父母が伸子を訪ねたことはあるが、伸子は一度も奈緒実の家を訪ねたことはない。奈緒実には輝子の父と伸子の関係など、無論想像することもできなかった。
「うん、まあ、てっとり早く言えば、愛人関係だったんだな」
「まあ……」
奈緒実の顔はみるみる青ざめた。奈緒実はあまりのことに言葉がなかった。
良一の母と輝子の父、そして良一と輝子、そう思っただけで、奈緒実は嘔吐しそうな嫌悪をおぼえた。その良一の自分は妻なのかと思うと耐えられなかった。
(それにしても、良一は今まで一言も、輝子の父のことには触れなかった)
そのことも奈緒実にはゆるせなかった。学校時代、輝子は京子を「パンパン屋の娘」とののしり、事毎に辛く当たっていた。今やっと奈緒実には、それが納得できた。しかし、その輝子が、どうして良一と結ばれたか、そしてまた、そんな輝子を、京子がどうして友人とすることができたかは、奈緒実は理解することができなかった。
奈緒実はよほど途中で車を降りようかと思った。自分が降りたら、良一は恥じてふたたび奈緒実のところにもどってこないかもしれない。しかしそれでもかまわないとさえ、奈緒実の気持ちはたかぶっていた。
「おどろいただろう?」
良一は弱々しく微笑したが、奈緒実は返事をしなかった。良一が健康でさえあれば、今すぐにでも別れたいと嫌悪しながら、しかし奈緒実はとうとう途中で車を降りることもできなかった。
耕介は書斎に入り、良一も寝室に入った。愛子は白い毛糸を出して編み物をはじめたが、奈緒実はぼんやりとストーブの火をながめていた。
「良一さんは思ったよりお元気そうね。この間、お家に帰っていろいろ気をつかったのでしょうに、熱も出さなかったわね」
愛子は器用に編み針を動かしながら言った。
「ええ」
伸子の友人が、遊びに来ていて死んだとしか、愛子には告げていなかった。
「どうしたの。あなたの方が元気がないわ」
「大丈夫よ。元気だわ」
奈緒実は良一と二人で見た輝子の父の姿を思い浮かべた。布団から半裸の体をはみ出したまま、輝子の父は死んでいた。それは、子供がふざけて死んだまねをしているような、ひどく無邪気な印象を受けた。
伸子は良一の来るのを、部屋の前で待っていたが、良一たちが来ても、部屋に入ろうとはしなかった。
「いやよ、恐ろしいわ。死んだ人の顔なんて見たくはないわ」
伸子はそう言って、輝子の父の肌をおおってやろうともしなかった。
「こんな姿では、医者も呼べやしない」
良一は輝子の父の重い体に寝巻を着せて、布団の中にきちんと寝かせた。良一は医者も呼ばなければならず、輝子の母に電話もしなければならなかった。その間、奈緒実は部屋の隅にすわったまま、身動きもしなかった。
輝子の母は電話を受けると、すぐに一人でかけつけたが、伸子には一べつも与えなかった。
「とんだお世話さまになりまして……。あとは、わたくしが何とか致しますので、ご心配なくお引きとりいただきます」
輝子によく似た人は、ひどく冷静だった。
その言葉に従って、奈緒実たちは引き下がった。誰もいないあの部屋で、輝子の母は死体をだきしめて泣きくずれただろうか、それとも力の限り死人のほおをなぐりつけただろうかと、奈緒実は思っていた。
「でも、ほんとうに元気がないわ。何か考えごとでもあるんじゃないの? 奈緒実さん」
愛子が言った。
「そうね、考えていないこともないわ」
「何を考えているの」
「おかあさん。あのね、わたしやっぱり良一と別れたいの」
愛子の編み針を持つ手がとまった。
「どうして? 良一さんは、この頃ずいぶん気持ちが変わっていると思うけれど……」
「そうかしら」
「そうですよ。あなたのるすには、熱心に絵をかいているようだし……」
「絵を?」
「そうよ。あなたのクリスマスプレゼントにするから、ないしょだなんておっしゃって、どんな絵か見せてはくれませんけれどね」
良一が絵をかいているらしいことは奈緒実にもわかっていた。しかし、布でおおわれたキャンバスを奈緒実は見ることはしなかった。以前から良一は完成しない絵は見せようとはしなかったからである。
「でも、わたしはもう耐えられないわ」
「何が耐えられないの。良一さんはお酒もぷっつりやめたようだし、今の良一さんなら、おかあさんはきらいじゃないわ」
「おかあさん」
「何ですか、改まって」
ふたたび愛子は編み針を動かしはじめた。
「おかあさんは、八重おばさんとおとうさんのこと、どうしてゆるすことができたの」
愛子は編み針を白い毛糸の玉につきさした。
「それは、おかあさんだって、はじめはとても苦しんだわ。おとうさんが堅い人間だったから、なおのことうらぎられたという感じが強くて、それは口惜しかったし……。でもね、人間というのは不完全なものだ、わたしは神さまと結婚したのではないとそう思った時、おとうさんをゆるす気になったらしいの」
「人間っていやねえ」
「そうですよ。人間っていやなものですよ。でも、自分もその人間の一人なのよ。おとうさんのようなまじめな人でさえ、過失を犯したということで、人間って弱いものだとつくづく思いましたよ」
「でもね、おかあさん。わたしは良一がいやなの。ゆるすもゆるさないもないのよ」
尊敬する父でさえ女の過失を犯したのだ。何も良一だけが過失を犯したわけではない。そう思って、奈緒実は良一に寛大な気持ちになっていたはずだった。しかし、輝子の父と伸子のことを知って以来、奈緒実には良一がべとべととうすぎたない人間に思われて、うとましくてならなかった。そして、京子と会う約束がありながら、奈緒実を喫茶店に誘った竹山にもゆるしがたいものを感じた。良一の妻でありながら、竹山に心ひかれたことも、会いに行ったことも奈緒実は忘れていた。
「あなたは誰に似てそんなに激しいのかしら。そんなにきつければ良一さんも気の毒ね」
「良一より、わたしの方がかわいそうよ。とにかく全快したら、すぐに別れたいの」
「そしてどうするの? 誰かと結婚するの?」
「もう結婚なんてこりごりよ。どうせ男の人なんて信ずることなんかできないもの」
「結婚っていえば、竹山先生も京子さんと婚約なさるっていう話ですよ」
愛子はさりげなく言った。
「そう、それはよかったわ」
この間、狸小路で会った時の竹山の顔を奈緒実は思い出した。良一とも別れ、誰と結婚する気もないと、今言ったばかりなのに、竹山と京子の婚約を聞くと、思いがけなく奈緒実の心は揺らいだ。
京子と竹山の抱擁の姿を、奈緒実ははっきりと自分の目で見ていて、二人の婚約は当然の成り行きだと思っていた。何も今更、心がさわぐことはないはずである。しかし奈緒実は、体の中を風が吹きぬけていったような淋しさを感じた。
「それはよかったわ」
奈緒実がうつろに同じ言葉をくり返した時、電話のベルが鳴った。
牧師館は夜の十二時ごろまで電話のくるのは珍しくない。なにげなく受話器をとりあげると、電話は東京からであった。
「もしもし、良一さんをおねがいします」
輝子の声である。
「輝子さん、わたし奈緒実ですけれど」
「奈緒実なんていう人に用事はないの。あの人を出してよ」
「もう休んでおりますもの」
別れてもいいはずの良一なのに、なぜか輝子の電話に出すことはいやだった。
「まだ十時すぎよ。寝ていたら起こしてよ」
輝子は酒にでも酔っているようであった。奈緒実は受話器を耳に当てたまま、だまっていた。
「もしもし、もしもし、何とか返事をしたらいかが? 良一を出してと言ってるのよ」
「輝子さん、わたし、あなたのおとうさんのなくなったお顔を見たわ」
愛子の前を忘れているわけではないが、奈緒実はなぜかそう言わずにはいられなかった。
「ふん、あんなおやじ、いいざまじゃないの。どこでくたばったって、わたしの知ったことじゃないわよ」
輝子は口汚く答えて大声で笑った。葬式にも帰らなかった輝子の気持ちが、奈緒実にも痛いほどよくわかった。しかし父の不品行を憤りながら、自分もまた良一とあんな仲になったことを、輝子は何と考えているのかふしぎだった。
「とにかく早く良一を出してよ。ああ、奈緒実さん、さては妬《や》いているのね」
「いいえ、ちっとも。ただ、良一はあなたのお電話をよろこばないと思いますの」
「まさか、そんなことはないわ。この間、クリスマス前に必ず電話をくれと手紙をよこしたのよ」
「まあ。では呼んできますけれど」
部屋に入って行くと良一が目をあけた。
「お電話よ」
「誰から?」
良一は上半身を起こした。
「東京からよ」
奈緒実は輝子の名を言わなかった。
「何だろう」
良一ははっきりといやな顔をした。
「眠ったと言ってくれないか」
「でも、あなたがお電話を下さるようにと、お手紙を書いたのでしょう?」
「まさか。ことわってくれ」
良一は苦りきって、横になった。
「でも、わざわざ東京からのお電話よ。出ておあげになったら?」
「いいよ。用はないんだから」
良一は布団をかぶってしまった。
「寝こんでいて起きませんの。またあしたにでもお電話下さいません?」
奈緒実がていねいに言うと、意外なほど素直に、
「あら、そう。じゃあしたの朝、またお電話するわ」
と輝子は電話を切った。
「寒いわね。今夜は少し凍《しば》れそうね」
奈緒実の言葉に、
「もう一カ月もしないうちにクリスマスですもの」
愛子はそう答えて、電話のことには触れなかった。
あしたの朝、また電話をすると言った輝子からは、翌日もその次の日も電話はこなかった。奈緒実は何となく落ちつかない気持ちだった。あるいは奈緒実のるすに、良一が電話を受けたのではないかとも思った。
「お電話はきましたの?」
日曜日の午後、ぼんやりと雪空をながめている良一に奈緒実はきいた。
「電話? どこから?」
以前より少し肥った顔をいぶかしげに良一は奈緒実に向けた。
「東京からよ」
奈緒実は、良一がわざと知らぬふりをしているような気がした。東京と聞いて良一はかすかに眉をくもらせた。
「こないよ」
「でも、あしたお電話するとおっしゃったのよ」
「気まぐれな人だから……」
良一は苦笑して奈緒実を見た。その目を、奈緒実はうつくしいと思った。以前の子供のようなあどけない目とはまたちがった、澄んだ光があるような気がした。
「輝子さん、怒っていらっしゃるんじゃない? せっかく電話をしたのに出てくれないと思って……」
良一はふっと考えるような顔になって、そのまま、だまってしまった。
「奈緒実、函館に帰りたいなあ」
しばらくして良一がしみじみと言った。
「え? 函館に?」
奈緒実は、良一が輝子のことを思ってだまりこんだのかと思っていた。
「うん。蓬莱町やとなりの青柳町のあたりを、この頃夢に見るんだ」
良一は、奈緒実と暮らした函館の町をなつかしんでいるようだった。
「わたしは函館より札幌の方がいいわ」
あの函館での良一との生活に、ふたたびもどりたいと奈緒実は思わなかった。毎日のように良一は酒を飲んで遅く帰り、いらいらとしては奈緒実に辛く当たった。つきさすような冷たい言葉を、いく度良一は奈緒実に投げつけたことだろう。あの頃の生活の何が面白くて、良一は函館をなつかしんでいるのかと奈緒実は腹立たしかった。
「奈緒実は札幌の方がいいのか?」
良一は淋しそうに笑った。
「函館がなつかしければ、あなた一人でお帰りになるといいわ」
奈緒実が函館に帰りたくないということは、良一との生活を続ける意志がないということだった。あの川井輝子の父の死が、どんな死であるかを知って以来、自分と良一とは全く相容れない人間だと思うようになっていた。
「一人で函館に帰る気はないよ」
良一は、奈緒実の冷たい表情におどろきながら、さりげなく言った。
「そんなことより、あなたは輝子さんに責任をおとりにならなくてはいけないわ」
奈緒実はきっぱりと言った。
「責任って……」
「男が女にとる責任よ。結婚なさるのなら、なさるといいわ。お別れになるのなら、一日も早く、話をつけておあげになるといいわ」
「結婚なんてする気はないよ。向こうだって、そんな気は初めから持っていないんだ」
「まあ」
一体どんな気で輝子は妻のある良一と、そんな仲になったのか、奈緒実には見当がつかなかった。
「別れるよ。いや、もうすっかり別れたつもりでいるんだ」
「そんな……自分勝手な言い分ですわ。輝子さんは別れるつもりではないでしょうに」
「そうでもないだろう。勝ち気だから、こっちで別れると言えば、それ以上おっかけてくる女じゃないはずだ」
良一の言葉に、奈緒実はかすかに眉根をよせた。いかにも、輝子という人間を知りつくしたようなその言い方に、奈緒実は改めて良一と輝子の仲を思い知らされたような気がした。
「……でも……」
「あの女のことは、今年中に必ず話をつけるよ。頼むから、だまっていてくれないか」
「わたし、別にあなた方が別れてほしいとは思っていませんわ」
奈緒実は降ってきた窓の雪をながめた。雪は吹き上げられたように舞い上がり、そして舞い降りている。良一は奈緒実の冷たい横顔を哀願するようなまなざしでみつめていた。澄んだ、かなしい目であった。
この頃竹山は口数が少なくなったと京子は思う。結婚式の日取りが来年の三月と決まってから、竹山は無口になったように思う。
竹山の部屋で、竹山と話しながら、何となく京子の胸は晴れなかった。
「杉原はこの頃元気なようだね」
竹山が、良一のことより奈緒実のことを考えて、言っているように京子は思った。
「ええ。一冬大事をとって、四月からつとめるんですって」
「そうだってね。思ったより早く快《よ》くなったようだね」
竹山はそう言って小さなあくびをした。そのあくびを見ると、いかにも竹山が退屈しきっているように京子には思われた。京子の手はガーゼのハンカチを四つにたたんだり、ほぐしたり、さきほどから同じことを繰り返している。
(もし、先生がわたしを愛しているのなら、あくびなどなさるだろうか)
「輝子さんが札幌へ帰っていらっしゃいましたわ」
「そう」
竹山は、京子を見た。
「それはすてきなアストラカンのオーバーを着ていらっしゃいましたわ」
竹山はタバコに火をつけた。
「帽子も、靴もオーバーに合わせて新調なさってましたわ」
竹山は、無言でタバコをふかしていた。
「先生」
京子はハンカチをくるくるとまるめて、手の中ににぎった。
「何だい」
「どうして、さっきから先生は、だまっていらっしゃるんですか」
竹山は答えずに京子を見た。
「先生は退屈なさっていらっしゃるのね。わたしと二人でいると……」
「退屈だね」
竹山ははっきりと言った。
「まあ、ひどいわ」
京子の顔色が変わった。
「ひどいといったって、それは事実だから仕方がないよ」
「まあ」
「君はさっきから、嫁入り道具の話や、川井君のオーバーのことなど話しているじゃないか。わたしは、嫁入り道具なんかに興味はないし、人の服装のことにも興味はない。退屈するのは当然だよ」
竹山の言葉は、京子には無情に聞こえた。
「しかし、これはぼくが戦争や平和の話をした時に、君が退屈してしまうのと同じだね」
竹山の言葉は優しくなった。京子は竹山を見上げた。竹山が退屈なのは話題そのものよりも、竹山の愛がまだ自分に注がれていないからだと京子は思った。時々、竹山の心にぽかっと穴のあいたような、そんな手ごたえのないむなしさがある。そんな時、竹山は何を考えているのだろうかと、京子はまたしても奈緒実のことを思い浮かべた。
「先生は、後悔していらっしゃるんじゃないのでしょうか」
そう言ってから京子はかるく唇をかんだ。
「後悔? 何を後悔しているというの」
竹山は京子の気持ちに気づかないような顔をした。
「わたしと結婚することを……」
「まさか! もう少し早く結婚すればよかったと後悔はしているけれどね」
竹山はそっと京子の肩を抱きよせた。少女のような京子の清純な唇を、竹山はじっとみつめていたが、かるく目をつむって竹山を待っている京子の顔を見ると、竹山はたまらなくなって唇をかさねた。
(まさか、今更この京子をつき放すほど薄情なことは俺にはできない)
多分、自分は来年の三月には京子を妻にするにちがいない。それにしても、胸の奥底にある言いようもないこの淋しさは何だろうと竹山は思った。
この頃、教会で見かける奈緒実のあの青いような悲しい目は何だろうと竹山は思う。何が原因であんな淋しい目をしているのだろうと、つい奈緒実のことが気にかかる。
良一を見舞うと、良一は人が変わったように、静かな澄んだものを感じさせる人間になっている。あの良一のおだやかな顔を見ると、やはり奈緒実との間がうまく行っていないとは竹山には思われない。
「何だか、杉原も変わったようだな」
この間、見舞った時に竹山が言うと、良一は押入れの下から、ウイスキーの瓶を出してにやにや笑った。
「何だ! 相変わらず飲んでいるのか」
竹山はうらぎられたような気がした。
「いや、これは八月に輝子が持ってきたウイスキーだ。封も切っていないよ」
「ほう! あの時のウイスキーか」
竹山はおどろいた。ふいに胸が熱くなるような感動をおぼえた。ウイスキーの瓶を手に持って、一分と封を切らずにいるような良一ではなかった。
「うん」
良一はちょっとてれたように笑った。
「変われば変わるものだなあ」
「俺も吾ながらおどろいている。あいつがこれを持ってきた時、俺はもう一生酒を飲むまいと思ったんだ。そんなことができるとは、無論自分でも思えなかった。しかし、俺があいつと切れることができなかったのは、あいつからもらう金で酒が飲めるということが、第一の理由だったからね。酒を断たなければあいつともまたずるずるになると、つくづくそう思ったんだよ」
良一は淋しそうに笑った。今度こそ本気で奈緒実との生活をやり直そうとしている良一を疑うことはできなかった。
だが、奈緒実は何と淋しい顔をしていることだろう。竹山は心ひそかに希望のようなものを持たずにはいられなかった。
と、いってこの可憐な京子を、今となっては捨てることはできない。竹山は、この頃時々ふきげんになる自分を責めていた。竹山は京子の唇に長い接吻をいくども繰り返しながら、いつしか涙ぐんでいた。
十二月に入って良一は、少しぐらいの雪なら雪かきもできるようになり、煙突掃除なども一人でするようになった。
盗汗《ねあせ》も熱も全くなかったし、食欲もすすんだ。三度の食事では足りずに夜食をするようになり、発病前より一まわりも大きくなったような感じである。
「だんだんわたしに似てきたようだな」
ある夜、奈緒実の父の耕介が言った。背の高い良一はひょろりとした感じだったが、耕介と二人で並んでいると、たしかに本当の親子のように体型が似てきた。
「光栄です」
耕介に似てきたと言われて、良一は心からうれしそうであった。
「治ったらまた、函館に行くわけだね」
「はあ」
良一は耕介の前に出ると、自分でもふしぎなほど、初々しく素直になる。父を知らずに育ったせいばかりではないような気がした。
「そう考えるとちょっと淋しくなるね」
耕介はほんとうに淋しそうな顔をした。良一はうれしかった。
「良一さんて、こんなにかわいい人とは思いませんでしたよ」
夕食後のリンゴの皮をむいている愛子が言う。奈緒実は台所で茶碗を洗いながら、茶の間から聞こえてくる会話に耳を傾けていた。
「いや、どうも。おかあさんにはかなわないな」
良一のうれしそうな声が聞こえる。奈緒実はかすかに眉根をよせた。耕介や愛子が良一に好意を持っている様子が、奈緒実にはうれしくないはずはない。それにもかかわらず、奈緒実は耕介や愛子のように良一をほめる側に立つことはできなかった。
良一と輝子、良一の母と輝子の父、そう思っただけで、奈緒実は嘔吐しそうになる。浅ましいと思う。そんな渦中には巻きこまれたくはないと奈緒実は激しく思った。
「京子さんは三月に結婚なさるんですって? おかあさんがお忙しいでしょう」
母の愛子のたずねる声がした。奈緒実は茶碗を拭く手をとめた。
「うちのお袋はのんびりやで、自分の娘や息子を生んだ覚えのないような顔をしていますよ」
良一は、自分を一度も見舞わないばかりか耕介たちに挨拶にも来ない母を恥じているようだった。
「お店があるんですもの。それだけでも大変ですよ。女手ひとつで良一さんを大学までやって下さったんだもの、そんなことを言ったら罰があたりますよ」
愛子がとりなしている。
(もし輝子の父のことを知ったら、父も母もどう思うことだろう)
奈緒実は手に力をこめて、茶碗をキュッキュッと拭いた。何となく自分一人が仲間外《なかまはず》れのような感じであった。
「奈緒実さん、まだ終わらないの」
愛子の声がした。
「はい、いま水を落としたら参ります」
奈緒実は水道の水をボールに勢いよく流して、元栓を開いた。水はクウッと音を立てて落ちて行った。
「ほんとうに、今夜は寒いから水を落とし忘れたら、水道管破裂ですよ」
愛子が答えた。
奈緒実が茶の間に入って行った時、そばの電話がけたたましく鳴った。なにげなく電話をとると、
「もしもし、わたし輝子。良一さんはいらっしゃる」
奈緒実は、輝子と知ってすぐに受話器を耳から離すようにして輝子の声を聞いた。そして一言も口をきかずに目顔で良一を招いた。良一はちょっと眉根をよせて、受話器をとった。
「ああ、もしもし杉原です」
良一は輝子と知っていながら、他人行儀の声になった。耕介が奈緒実と良一を見くらべるようにした。
「いいえ。ごぶさたしました。何かご用でしょうか」
あくまで他人行儀である。奈緒実は無関心な顔をしてストーブに手をかざした。
「そんなわけでもありませんが……」
それからしばらくは何か輝子が話している様子で、良一はただ「はあ」「はあ」と受け答えをしているだけである。
奈緒実は輝子の父と、良一の母を思い浮かべた。輝子の父が布団からはみ出して死んでいた姿がいやでも思い出される。奈緒実はますます無関心を装っていた。
「しかし、それは困るな。無論、一度はお会いしますよ。しかし、クリスマス・イブに君のところに行くことだけはどうも困ります」
良一は当惑しきった声を出した。その良一の肩を耕介がたたいた。良一は、
「ちょっとお待ち下さい」
と言って、ふりむいた。
「あの輝子さんという娘さんからかね」
「はあ」
良一は頭をかいた。
「会いたいというなら会ってやりなさい。君も早く話をつけた方がいい」
「はあ、しかし、クリスマス・イブに会いたいと言うんです」
「いいじゃないか。君としても責任はとらなければならないんだ。あちらさんの言った日に会って、よく話し合うことだね」
耕介は熱心にすすめた。良一はうなずいて電話に向かった。
「わかりました。二十四日午後六時にお伺いすればいいんですね」
よそよそしい言葉づかいのままで良一は電話を切った。奈緒実はそれをにがにがしく聞いていた。
(クリスマス・イブだからって、何も良一に関係のないことなのに)
奈緒実はあたたかくなった手に、ハンドクリームをすりこみながら、良一をちらりと見た。良一はゆううつな顔でストーブのそばにすわっている。
「クリスマス・イブでは何かさしつかえがあったのかね」
耕介はリンゴを食べながらたずねた。
「はあ……ここで初めて迎えるクリスマス・イブですから……」
良一はいかにも残念そうであった。
「ことしはずいぶん雪がおそかったけれど、この二、三日毎日降ってくれますね。クリスマスに雪がないなんて、いやですからね。安心しましたわ」
愛子は話題を変えた。
「ほんとうね」
奈緒実はうなずいた。しかし、いくら純白の雪が降ったところで、人間のみにくさには変わりがないのだと、奈緒実は皮肉な思いで良一を見た。
小松会計事務所をいつもより早目に出た奈緒実は、思いがけなく街灯の下に竹山の姿を見ておどろいた。
雪の中にしばらく立ちつくしていたのであろう。竹山は全身雪で白くおおわれていた。思いつめたような目で、竹山は奈緒実を迎えた。
「すみません、待ち伏せしたりして」
奈緒実はだまって頭を横にふった。
「電話をして、あなたの都合を聞いてからと思ったのですが、ことわられるのではないかと心配で」
竹山はいくぶん改まって詫びた。電話をかけてきたら自分はことわったことだろうと奈緒実は思った。この頃の奈緒実は誰にも会いたくなかった。深い山の中のひっそりとした湖のように、誰にも目のふれないところで生きたいような気がしていた。すっかり人ぎらいになっていたと思っていたのに、降る雪の中でじっと立ちつくしていた竹山の姿を見た時、胸が熱くなり、竹山にかけよりたいような思いにさえなったのは、一体どうしたことであろうと奈緒実は思った。
「何か急にご用でしたの」
奈緒実は時計を見た。五時半である。
「ああ、杉原が待っていますね」
竹山は立ちどまった。
「かまいませんわ」
「ほんとうですか」
竹山は奈緒実の目をのぞきこむようにした。
「かまいませんわ。電話をしておきます」
奈緒実はかすかにほほえんだ。
「じゃ、食事を一緒にしてくれますね」
「わたしはよろしいですけれど、先生は京子さんに叱られますでしょう」
先日会った時の京子の言葉が思い出された。
「きらい……かもしれません」
京子は奈緒実のことをそう言った。京子が自分をきらいだと言った気持ちが、いま、奈緒実にはよくわかった。
(あの時、わたしは京子さんに言った。あなたに何かいじわるをしたであろうかと)
いま、自分は竹山と食事をしようとしている。ほんとうは、京子のためにことわるべきではないかと思った。しかし奈緒実は竹山の思いつめたような顔を見て、無下《むげ》にことわることはできなかった。
だが実は、奈緒実の心の底に思いがけない気持ちが動いていた。
「きらい……かもしれません」
と言った京子に対して、それならほんとうにきらわれることをいたしますという、開きなおった気持ちがないではなかった。
「あなただって、輝子さんと良一のことを知りながら、輝子さんと仲よくして、わたしには何も知らせなかったじゃありませんか」
と言いたい気持ちもあった。
京子に叱られはしないかと言われて、竹山は一瞬目を伏せたが、
「あの人のこともお話ししたいんです」
と歩き出した。
二人はこぎれいな天ぷら屋の二階に上がった。部屋には薪《まき》ストーブが燃えていた。小さな置き床に造花の菊が一輪挿されている。置き床の掛け軸はだるまの墨絵であった。
「まあ、きれいなお嬢さんですこと」
茶をはこんできた五十近い女中が、奈緒実を見ておどろいたように声をあげた。
「おどろいたようだね」
竹山はうれしそうに奈緒実を見た。
「おどろきますとも。お若い方はお肌もきれいでいらっしゃるけれど、ちょっとこれほどの方は札幌でも珍しいんじゃありませんか」
女中はしげしげと、おしろい気《け》のない奈緒実に見とれて部屋を出て行った。
(うつくしい。たしかにこの人はうつくしい)
竹山は、熱い茶碗に冷たい手を押しつけるようにして持った。
(お嬢さんだなんて、わたしはまだ娘に見えるのかしら)
奈緒実はきれいだと言われたことより、そのことがうれしかった。
(だけど、わたしはもうとうに娘じゃない)
京子がうらやましいと、奈緒実はつくづく思った。
「お話って何ですの」
奈緒実は、だまって自分をみつめている竹山の視線がまぶしかった。
「そう言われるとどうも……」
暗い外では話せるように思っていたのに、明るい電灯の下では竹山は切り出しにくかった。
「京子さんのお話とかおっしゃっていましたわね。三月には結婚なさるんですって?」
「実は、そのことなんですが、わたしはほんとうに京子と結婚すべきかどうかと思って」
竹山の言葉は、教え子の奈緒実に対する言い方ではなかった。
「どうしてですの」
竹山はすぐには答えなかった。薪の燃える音だけが聞こえた。
「こんなこと、一生言うべきことではないことは知ってはいるのですが、しかし思い切って言わせて下さい。やはり、わたしには奈緒実さんを思い切ることはできない」
竹山はそれだけ言うと、がっくりとしたように頭をたれた。
「まあ」
奈緒実はそう言ったまま、竹山をみつめた。全く予期しないことではなかった。しかし、こうもはっきりと竹山が心をさらけ出すとは想像もしなかった。
「そんなこと……おそすぎますわ。京子さんに悪いわ」
奈緒実はうしろの壁に身をもたせた。体が揺れ動くような感じであった。
「奈緒実さん! わたしは君に結婚を申しこんだ。あの時君は独身だった」
竹山はそう言って奈緒実を見た。激しい目の色だった。
「奈緒実さん、あなたは杉原を愛しているんですか」
竹山はたしかめずにはいられなかった。
「わかりませんわ」
「わからない? じゃ、愛していないんですか」
竹山はせっかちにたずねた。その時、ふすまが開いた。さきほどの女中だった。からりと揚げたえびや鮭の天ぷらが、皿の上に山盛りになっている。
「おじゃましました」
女中は部屋の空気に何かを察したらしく、そう言ってすぐに部屋を出て行った。
「愛していても、いなくても、わたしは杉原の妻ですもの」
しばらくして奈緒実は言った。
「しかし、愛していなければ、名ばかりの妻じゃありませんか」
「そうかもしれません。でも、名ばかりでも夫がいるということは、現実の問題ですもの。わたしは京子さんがうらやましいわ」
京子が独身であることを、うらやましいと言ったつもりだった。だが竹山には、竹山と結婚する京子がうらやましいというように聞こえた。
「奈緒実さん!」
竹山は思わず奈緒実の肩に手をかけようとした。
「だめよ、先生」
奈緒実は身をよじらせて竹山の手をのがれた。
「そんなことなさるのなら、わたし帰ります」
部屋の前を過ぎ去る五、六人の足音がつづいた。
「悪かった」
竹山は頭をたれてから、
「実は、こんな態度をとるつもりはなかったんです。京子と結婚することに決まっても、わたしは奈緒実さんのことはあきらめきれない。あの子はそれを敏感に感じて、ふさいでしまう。するとわたしもつい不愛想になってしまって、どうもしっくりしないんです」
竹山は落ちついて話しはじめた。
「といって、何の罪もない京子さんを不幸にすることは無論できない。それで、わたしは思い切って、奈緒実さんに自分の気持ちを打ちあけたいと思ったのです。長いこと、心の底にしまっているから、苦しいのだ。言ってしまえば諦めもつくかもしれない。そう思って、今日とうとう言ってしまったのです」
竹山の言葉にじっと耳を傾けていた奈緒実の表情に、皮肉な微笑が浮かんだ。
「つまり、先生は京子さんと幸福な結婚をなさりたくて、胸の中にたまっていたもやもやを吐き出したというわけですのね」
「いや、それは……」
そうではないと言おうとして、竹山は口ごもった。言われてみると、いかにも自分本位の言い方だった。
「気分のよくなった先生はよろしいでしょうけれど、お気持ちを伺ってしまったわたしの、このあとはどうなるとお思いになるのですか」
「どうなるって……」
竹山は奈緒実のつやのあるうつくしい目が、じっと自分をみつめているのにどぎまぎした。
「先生は、これでさっぱりとなさって結婚なさるわけでしょう?」
言われてみると、竹山は自信がなかった。しかし、たしかに長年の思いをはじめて口に出したという満足感はあった。
「でも、わたしにとって、今は何かの始まりかもしれませんわ」
吹き消したつもりの炎をかきたてるようなことを言って、すまして竹山は京子と結婚するつもりなのかと、奈緒実はいくぶん腹立たしかった。
(恋というものだけは、この世で最も純粋なものだと思っていたけれど、恋もまた、結局は自分中心なものに過ぎないのかもしれない)
奈緒実はふいに淋しくなった。
あしたはクリスマス・イブで、良一が輝子に別れを告げに行くはずである。この世に、どれほど多くの男女が愛を打ちあけ、愛し合い、そして別れるということを、繰り返していることだろうと奈緒実は思った。自分もまた、今しばらくの間竹山に心ひかれて悩みつつ生きて行くことだろう。しかし、その恋にもいつか終わりの日が待っていることだろう。この世に永遠の愛などあるのだろうか。
(むなしい)
と、奈緒実は思った。電灯の下に竹山も奈緒実も無言だった。
ハイヤーを呼ぶダイヤルを廻しながら、奈緒実は複雑な気持ちだった。良一はオーバーを着てマスクをしたまま、ストーブのそばに神妙にすわっている。
輝子に会いに行く良一のためにハイヤーを呼ぶということは、勝ち気な奈緒実には耐えられない。その耐えがたいことを、自分から進んでやっているのが、奈緒実自身にもふしぎであった。
「いま混んでいるんですって。十五分ほどお待ち下さいって言いましたわ」
「十五分か」
良一はかけていたマスクを外し、オーバーを脱いだ。
「クリスマス・イブですもの。混むのは仕方ありませんわ」
少し寒さがきびしくなってきたようだと、奈緒実はカーテンをもたげて外を見た。窓ガラスは、もう白く凍りはじめている。耕介と愛子は教会のクリスマス祝会に出ていて、るすであった。
「帰ってきて、君にプレゼントしたいものがあるんだ」
良一はハイヤーのおそいのを気にしていなかった。
「絵をおかきになったんですって?」
「うん、知っていたのか」
「絵の具の匂いがしますもの、それはわかりますわ」
「でも、まだ見てはいないだろう?」
「まだよ。あなたは途中で見られるのをおきらいになるから」
「とにかく君が何て言ってくれるか、それだけが楽しみなんだ」
良一は勢いこんで言った。
「そうですか」
奈緒実も絵はきらいではない。絵のプレゼントと聞いてうれしくないはずはなかった。しかし、これから良一が輝子を訪ねると思うだけで、奈緒実は素直になれなかった。奈緒実の気のりのしない様子に、良一は少しがっかりしたようだった。
「今日はどこにも出かけたくはなかったんだ。早く帰ってくるからね」
十五分ほどお待ち下さいと言ったハイヤーは、五分もたたずにすぐに来た。
「どうぞ、ごゆっくり。何ならお泊まりになってもよろしいのよ」
奈緒実は冷たく言った。
「奈緒実!」
良一はちょっとかなしい目で奈緒実を見た。何か言おうとして口を開きかけたが、その口をおおうようにマスクをして良一は部屋を出た。良一のぶらさげたふろしき包みを見て、奈緒実は眉をひそめた。何のプレゼントだろうかと気になった。車のそばまで来た時、奈緒実は思い切ってたずねた。
「それは何ですの?」
「ウイスキーだよ」
車に片足をかけたまま、ふり返って良一は答えた。
「まあ!」
奈緒実は自分でも、どんなにけわしい表情を見せているかがよくわかった。
車が動き出し、良一が片手を上げた。しかし奈緒実は手を上げなかった。ウイスキーをぶらさげた良一は、いかにも輝子の所にのこのこと遊びに出かけて行ったという印象であった。
良一は輝子のアパートの前で車を降りた。
もやが出てアパートの下半分はおぼろである。良一は一年ぶりで見る輝子の部屋の灯を複雑な思いで見上げた。青い灯がもやにうるんでいる。
(青い灯か)
輝子の部屋の窓が青い灯になっているのは、在室を知らせる良一と輝子の暗号であった。これは良一の提案である。良一はこの青い灯の窓をいく度訪ねたことであろう。函館の宿で会う時も、輝子は部屋の灯を青くして待っていた。
「この色でなければ、感じが出ないんですもの」
そう言った輝子の言葉を思い出しながら、良一はマスクを外してアパートの玄関に入った。
輝子のドアをノックすると、待ちかねたように中から輝子が顔を出した。
「まあ、すっかりお元気そうじゃない」
握手を求めてさし出した輝子の手に、良一はウイスキーをのせた。
「あら、買って来て下さったの」
良一は答えずに、オーバーのまま椅子に腰かけて、部屋の中を見まわした。
「カーテンの色が変わったね」
グリーンだったカーテンの色が、サーモンピンクに変わっている。
「どう、お気に召した? 今日の再会のために考えたのよ」
輝子ははしゃいでいた。
「あまり好きじゃないな。この部屋の感じがちぐはぐになってしまった」
良一は言った。輝子はきらりと目を光らせた。
「じゃ、もとの色に変えるわね。とにかくオーバーをお脱ぎなさいよ」
輝子は良一の肩に手をかけた。
「いや、このままでいいよ。すぐ帰るから」
良一は輝子の手をかるくふり払った。輝子の顔色が変わった。
「そう。わかったわ。わたしがいやになったというのね」
「ちがうよ。君という人をきらいになるより、俺自身がきらいになったんだ」
良一はやさしく言った。
「あら、あなたってうまいことおっしゃるのねえ」
輝子は真《ま》に受けない。
「うまいんじゃない。俺は全く自分という人間がいやになったんだ。君をきらう資格はないよ」
「とか、何とか言って、とにかくもうお前とは手をきるよと言いたかったんでしょう」
輝子は強く唇をかんだ。
「良一さん。わたしはバージンだったのよ。知っているわね」
輝子の声が改まった。
「知っているよ」
良一はオーバーを脱いで、床に手をついた。
「悪かった。どうやったらゆるしてくれるだろうか」
「まあ呆れたわ。男のくせに両手をついて頭を下げたりして……。わたし、そんな泣き落としになんか、負けやしないわよ」
輝子はタバコに火をつけて、椅子に腰をおろした。
「どうしたら、ゆるしてくれる?」
良一は床にすわったまま、輝子を見た。良一の鼻の先に、輝子の組んだ形のよい素足があった。
「そうね、どうしていただこうかしら」
輝子はまだ、良一をとり返す自信があった。良一は輝子の肉体の前には、必ず負けるはずである。輝子はゆっくりと足を組みかえた。
「わたしの足に接吻したら」
良一はひたいに汗をにじませたまま、かすかに首を横にふった。
「そんなことを言わずにゆるしてほしいんだ」
「まあ、呆れたわ。あなたはそんなに簡単にわたしと別れられると思ってやってきたの」
輝子はタバコを灰皿の中にもみけした。輝子の眉がピリリと上がった。良一はその顔をおずおずと見た。
「あなたは今まで何人の女をもてあそび、そして捨てたかわからないけれど、案外別れ方は野暮なのね」
良一は今まで、自分から女に別れてくれと、わざわざきり出したことはない。自然に足が遠のいて、女もまた、自然にあきらめることが多かった。中に二、三人、良一も手こずった女はいたが、竹山を間に立てて、金で何とか解決してきたのである。
良一は輝子のような高慢な女は、こちらから別れ話を持ち出したならば、別れたくないなどとは口が裂けても言わないだろうと思っていた。無論、いや味の二つや三つは言われることは覚悟してきた。
うかつにも良一は、輝子が今日の再会のために、どれほどの期待をもって、万端をととのえていたかということを知らなかった。輝子は良一のために、肌を美しくしようと思って、野菜を多くとるようにし、体にくまなくオリーブ油を塗ってこの日を待っていた。カーテンの色を変え、ベッドの布団を新調し、香水をまき、電気スタンドさえ新しく買いととのえた。
輝子は、どんなことがあっても奈緒実に負けたくはなかった。良一を見舞ったときに会った、ねたましいような奈緒実の美しさを、輝子は決して忘れてはいない。あの、触れたら指のすべりそうな、なめらかな肌と、細い目の輝子には腹立たしいほどの大きく澄んだ瞳とに、輝子は嫉妬していた。
「一体どうしたらいいのだろう」
良一は哀願するまなざしで輝子を見上げた。
「あなたは、女の貞操というものを、あまりにもかるがるしく考えていたというわけよ。そんな頭の一つや二つ下げたくらいで別れられるとでも思っていたの」
輝子の目は、怒りで異様に美しくなっていた。輝子が怒っているのは、輝子自身の貞操のことではない。輝子は東京に遊び友だちの男が二人いた。その二人の男は、良一とくらべて比較にならないほど幼稚だった。輝子の体にただ溺れるだけで、女を遊ばせ、喜ばせるということは知らなかった。
しかし、良一はちがう。二人の男と遊んでみて、いよいよ輝子は良一が放しがたい男性になってしまっていた。輝子は男と女の愛などあり得ないと思っていた。それは、長い間、父と母の姿を見ていたためかもしれない。とにかく、輝子は男と遊ぶ気はあっても愛しようという気はなかった。
だから、良一が病気になっても、またほかの男と遊べばいいという気がないではなかった。そして遊んでもみた。だが、その都度、輝子は良一がなつかしくなり、慕わしくなっていった。札幌に帰っても、良一と会うことだけが楽しみだった。それは輝子にとって、輝子なりに愛と呼んでもよいほどの激しい想いに変わっていた。
輝子は、良一が電話に出なかったのも、その後のよそよそしい電話口での応対も気にとめてはいない。輝子の父もまた、良一の母の電話に対してそうであったからである。
ただ、良一との久しぶりの夜のために、肌の手入れをして待ちかまえていたのに、良一は自分の鼻の先につき出された輝子の素足にさえ、目もくれないように見えた。怒りながら、内心輝子はあわてていた。こんなはずではない。良一は輝子の足に接吻するのが好きなはずではなかったか。
(本気で、この男は逃げ出そうとしている)
良一が、全く奈緒実だけのものになってしまうということに、輝子は怒っていた。
「帰りたければ、お帰りなさい。いつかわたしが言ったでしょう。わたしの水揚げ料は五十万だって。五十万、ちゃんと耳を揃えて持っていらっしゃい。それに慰藉料《いしやりよう》だって頂きたいわ。そうね、三百万ぐらいにしておいてあげるわ」
自分の口から出る言葉に、輝子自身むなしい気持ちになっていた。
「三百五十万か!」
良一は、部厚いじゅうたんの上にペタリとすわったまま、また輝子を見上げた。母の伸子に言えば何とかしてもらえるかもしれない。しかし、母にとっても、決して少ない金額ではなかった。良一は伸子のふところを知ってはいない。
「三百五十万あればいいんだね」
良一は念を押すように言った。それはいかにも何とか都合をつけようというひびきを含んでいた。
「そうよ、そのお金があなたにあるというの?」
「母に相談してみるよ」
その良一の言葉に、輝子ははっとした。
「ばかにしないでよ。そんなお金ぐらいでカタのつく問題ではないわ」
金を持ってきてほしいのではない。どんなことがあっても良一と別れたくないのだ。それは良一自身に対する愛着と、奈緒実に対する嫉妬のためであった。
「しかし、それなら、一体どうしたらいいんだろう」
良一は時計を見上げた。輝子はいらだった。来てから、まだ三十分と経ってはいない。それなのに良一はもう帰る時間を気にしている。
(せめて、今夜だけはどんなことがあっても帰さない)
輝子はそう心にきめた。今夜自分を抱いてしまえば、別れたいという良一の気持ちもくずれてしまうだろうという自信が輝子にはあった。
「あなたって、今まで女の子を捨てるのを何とも思っていなかったでしょう? でも、女というものはそうそう簡単に捨てられてばかりもいないものよ。今まであなたに捨てられた女の人たちの分まで、わたしが仇をとってあげるわ」
そう言うと輝子は鼻歌をうたいながら、戸棚の方に立って行った。その輝子の言葉は良一に痛かった。何を言われても返す言葉はない。良一は、女の一人一人を頭に浮かべた。良一の下着を洗濯していた女の姿が目に浮かんだ。何でも良一の身についたものを洗いたがった。その女とも、残酷なほどぶつりと別れている。
耳の穴を掃除するのが好きな女もいた。良一の頭を自分のふとももの上にのせて、女は耳を掃除してくれた。良一の足が遠のくと、毎日のように電話をかけてきた。
サトミのように、中絶で死んだ女もいる。一人一人思い浮かべて、後味のいいことは、何もしていなかったと良一は思う。
(女と遊ぶことも、俺の絵のためには大事なことだと思っていた)
良一は長い間の自分の生き方を思い出した。自我の主張だけが、絵を育てると信じていた自分が、今はふしぎですらあった。
(ほんとうは自分というものを知るためには、心のすみずみまで照らし出す強力な光が必要だったのに……)
別れた女たちにも、輝子にもつくづくと申し訳がなかった。女は奈緒実一人だけでよいのだと、良一は奈緒実の顔を思い出した。
「泊まってきてもいいのよ」
奈緒実が冷たい表情で言った言葉が頭にこびりついていた。輝子を訪れる良一に、奈緒実がああ言わずにはいられないのは無理もないと良一は思う。
「ねえ、今夜はじゃんじゃん飲みましょうよ」
輝子は戸棚からウイスキーのグラスを出して、テーブルにおいた。
「酒はやめたよ」
「あら、だって、さっきウイスキーを持ってきてくれたじゃない? お酒をやめた人なら、クリスマスケーキを持ってくるはずよ」
「いや、あれは……ほら、君が以前に持ってきたウイスキーだよ」
良一は言いにくそうであった。
「まあ!」
輝子は、少し古びたその包み紙をビリビリと破った。中をあけると、そこにはたしかに輝子の買ったウイスキーが入っている。自分の持っていった見舞品に手もつけていなかったと知って、輝子の唇がゆがんだ。
「わかったわ。あんた、あんなアーメンソーメンのところにいて、少し頭がおかしくなったんじゃない? 酒も飲まない、女とも遊ばない。そんな人生の何がおもしろいのよ」
輝子は軽蔑しきった口調だった。
「そうだよ。以前の俺の頭がおかしかったのか、今がおかしいのか。それはわからないがね。とにかく俺は君にとって、つまらない男になったはずだよ。別れて惜しい男でもないだろう」
良一は腕組みをしたまま、ふと天井を見上げた。クリスマスの飾りの赤いモールが天井にも縦横に飾ってある。この夜のために、一人でこのモールを飾りつけた輝子の姿を思うと、輝子もまた、あわれであった。その良一のやさしい表情を輝子はすばやく見てとった。
「良一さん」
輝子は良一のそばに横ずわりにすわって、良一の肩に頭をもたせた。
「帰るよ」
良一はあわてて立ち上がった。輝子は重心を失って、じゅうたんの上に倒れそうになった。
輝子は絶望的な目で良一をじっと見守っていたが、思い直したように明るく言った。
「わかったわ。じゃ、このわたしの持って行った、そしてあなたのつき返してきたこのウイスキーで別れの乾杯をしましょうよ」
「酒はやめたと言っているのに」
輝子に背を向けてオーバーを着ながら良一が言った。
「酒を飲み明かそうというんじゃないわ。ただ、別れの乾杯をしましょうと言ってるんじゃないの」
輝子は良一のオーバーに袖を通している後ろ姿をながめながら、すばやくいつも使っている眠りぐすりを、ひとつのグラスに入れてウイスキーをそそいだ。
これを飲んだら、良一は眠ってしまうはずである。眠りこんで一晩ここに泊まってしまえば、さし当たっての今の輝子の気持ちは静まるような気がした。
「この杯を乾したら、もう何も言わずにさっぱり別れてあげるわ」
輝子はグラスを良一の前につき出した。
何と久しぶりに見る酒の色だろう。良一はあめ色のウイスキーをじっとみつめた。
「飲めないと言うの?」
輝子が一歩詰めよった。良一は一歩後ずさった。酒を飲んだあとの自分に良一は自信がない。このグラスひとつで終わらないだろう。そして、そのままずるずると輝子ともとの関係にもどることになるかもしれない。そう思うと、うっかりグラスを手に持つことはできなかった。
「さあ、おひとついかが? これを飲んで、そして未完成交響楽のレコードでも聞いて別れるなんて、ちょっと気が利いてるじゃない?」
輝子はさばさばした口調で言った。
「どうしても飲まなければ、だめなのか」
良一はつばをごくりと飲みこんだ。
「そうよ。別れの杯ひとつぐらい、何もそんなに考えこむことはないわ。それとも、この中にあなた毒でも入れて持ってきたの?」
「まさか毒なんて……」
良一は笑った。
「じゃ、お飲みなさいよ」
ふりきって帰れば帰ることができた。
(この一杯の酒を飲むことによって、この女と別れられるならば……)
良一はグラスをみつめた。酒を一滴も飲まずにきた何カ月かの辛さを良一は思い出した。
輝子がこの酒をおいて帰った夜半、良一は奈緒実の寝息をうかがって、そっと起き上がった。そこに酒があるというだけで、のどがからからに乾いていた。だが、それを思いとどまったのは、今考えてみると自分自身の力であったかどうかわからない。良一は両手をかたく握りしめて、決してこの指を開くまいと思った。指を開けば必ず酒の瓶をつかむだろう。そう思って一分、また一分と耐えて遂《つい》に眠りにつくまでのどんなに長かったことか。
翌日も、そのまた翌日も、良一は酒に手をのばすまいとして枕にしがみつき、布団にしがみついた。
(酒ぐらい飲んだっていいじゃないか)
そう思いながらも、この毎夜の自分とのたたかいが、奈緒実に対する愛の証《あかし》のように思われて、良一はたたかうことをやめなかった。
「レコードをかけるわね」
輝子のかけた未完成交響楽が部屋の空気をおしのけるように鳴りはじめた時、良一は思わずグラスに手をのばした。さっきから、グラスを前にして良一はやっぱり酒の味が忘れられなかった。
良一はグラスに唇をつけ、ひと思いにグッと飲みほした。しばらくぶりに飲む酒は、はらわたにしみとおるようであった。
「ウイスキーだろう? 何だか苦いようだな」
良一は首をかしげた。
「久しぶりにおあがりになったから舌がおかしいのよ。もうひとついかが」
輝子がさりげなく言った。
「いや、別れの杯は一杯でいい」
輝子はだまってグラスに注いだ。
「帰るよ」
良一は自分が結局は、遂に酒の誘惑に勝てなかったことを思わずにはいられなかった。
ドアのしまる音が高かった。
輝子は見送らなかった。
(いつか、きっとまた、とり返してやるわ)
アパートの玄関を出た良一は、全身に快い酔いをおぼえた。さきほどより一層濃くなったもやの中に、輝子の部屋の青い灯がうるんでいる。ふたたびあの部屋を訪れることはないだろうと良一は思った。バス通りに出て車を拾おうと、濃いもやの中を良一は歩いて行った。
(ひどいもやだ)
良一はうしろをふり返った。何歩も歩いていないと思うのに、輝子のアパートはもうかき消したように影も形も見えない。札幌に住んで三十年、こんなひどいもやを良一は知らない。
前にも横にも、人影もものの形もない。ふいに良一は不安になった。今来た道をもどると、やがて、輝子のアパートが幻のようにぼんやり姿をあらわした。やっと安心して良一はふたたび歩き出した。
歩くたびに雪道がキュッキュッと音をたてた。良一はこの音がきらいだった。アパートの前の広場を過ぎると、一軒だけこうこうと明るい薬店のある通りに出た。バス通りに出るのをやめて、良一はそこでタクシーの通るのを待っていた。ふだんでもタクシーの流しの少ない通りではあった。だが、その夜は十分ほど待っても車は通らない。今夜はクリスマス・イブで、車は街の中央に集中されているのだと気づくと、良一はバス通りの方に歩き出した。
スポットを当てたように少しずつ通りの家がもやの中から姿をあらわした。そしてやがてまた、もやの中に姿を消した。良一は立ちどまって、うしろをふり返り、そしてまた歩いた。
もう半町ほどでバス通りだった。そこに建っていた酒屋の倉がとり払われて、一年ほど前から空き地になっている。そこを斜めに横ぎる路があった。良一は空き地の路に足をふみ入れた。
どれほども歩かぬうちに足がもつれた。久しぶりの酒とはいっても、たった一杯のウイスキーで、ひどく酔ったものだと良一は苦笑した。頭もひどくもうろうとしている。頭の中にも、もやがかかってしまったような気がした。
それから五歩も歩いたことだろうか。ふいに重い幕でも頭の中に垂れ下がったような眠気におそわれた。異様な眠さだった。ふり払おうにもふり払えない眠さだった。良一はしゃがみこんで、雪で顔を洗おうとした。だが、手が自由に動かず、良一はただ、雪の中にすわっただけだった。
(眠い。どうしてこんなに眠いんだろう)
こんな寒い冬の夜に眠っては死ぬぞと良一は思った。だがそれが恐怖感にならぬほどに、良一は眠りに引きこまれていた。
(たった一杯の酒で……)
近くで、自動車の警笛が鳴り、ヘッドライトが、うずくまっている良一の上を一瞬さっとかすめて過ぎ去った。良一は眠りに引きこまれていた。奈緒実の顔も、輝子の顔も頭に浮かばない。ただまっくらな眠りの淵にひきずりこまれていった。
奈緒実は時計を見上げた。十一時を過ぎている。
「良一さん、遅いわねえ」
愛子が心配そうに言った。
「話がなかなかつかないのだろう」
耕介は、冷たい横顔を見せている奈緒実を見ていた。さっきから奈緒実は何も言わない。
「奈緒実さん、何時頃帰るとおっしゃってたの」
いつもはのんきな愛子が、めずらしく不安そうに言った。
「早く帰るって言ってましたけれど。でも、こんなに遅いんですもの。もう休みましょうよ」
奈緒実は面倒そうに言った。
「わたしは寝ようかな。クリスマス祝会で少し疲れたようだ」
耕介は首を二、三度ぐるぐるとまわして部屋を出て行った。自分が起きていては、奈緒実も気をつかうだろうと思ったからだった。
「いやねえ」
耕介が出て行くと奈緒実が言った。
「何が?」
愛子は、良一のために自分があんだ白いセーターを見ながら言った。
「ちょっと体がよくなれば、夜遊びですもの。あの人ってほんとうにいやだわ」
奈緒実は良一がウイスキーを下げて、輝子の所に出て行ったことを思っていた。
「でもね、奈緒実さん。良一さんは帰るに帰られないでいらっしゃるかもしれないのよ。それとも途中で、体工合が悪くなったかもわからないじゃありませんか」
愛子はそう言うより仕方がなかった。
「まさか、帰れなくなるほど体が悪くなるわけがないわ」
「とにかく、お電話してごらんなさい。少しおそすぎますよ」
愛子は不安そうだった。
「いいの。帰ってこなくてもいいのよ。このまま別れたっていいんですもの」
輝子に電話をかけることなど、奈緒実にはできなかった。
「もう休みましょうよ。大分寒くなってきたようよ、おかあさん」
奈緒実は立ち上がった。
「奈緒実さん、寝るの?」
「待ってなどいませんわ、わたし」
奈緒実は時計を見上げて、
「お休みなさい」
と部屋を出た。
奈緒実は、良一の布団からできるだけ離して布団をしいた。良一の枕もとにある白布をかけたキャンバスを見るのも腹だたしかった。別れてもいいと思っているはずなのに、今、良一が輝子のもとで何をしているのかと、奈緒実は体を刺し通すような嫉妬をおぼえた。しかも、奈緒実の知らぬ間に、良一と輝子はいく度も今夜のような夜を持っていたのだと思うと、言いようのない苦痛を感じた。
奈緒実は布団の中に身を横たえた。
まさか今、良一が、白いもやに包まれて、一人雪の上に死にかけているとは、想像することもできなかった。
煙が草原の上を這っているのかと、奈緒実はひつじが丘の柵にもたれて視線をこらした。煙が這うと見えたのは、風が草原をなびかせて渡っているのだった。
柵の中には、六月の陽を受けて、二百頭あまりの羊が草を喰《は》んでいる。もくもくと草を喰むことに余念のない群れの中を、一頭だけひょこひょこと走る羊があった。愛嬌のある走り方であった。
「群れをはなれて、のっそりと歩いているのがいますよ」
奈緒実から少しはなれたところに立っていた竹山が近づいてきた。
「ええ」
竹山と京子に誘われて、奈緒実は今日郊外のひつじが丘に来た。奈緒実を誘いながら、急用ができたと言って、京子はとうとう姿を見せなかった。
良一が逝《い》って半年経った。雪の上に眠るように良一は凍え死んでいた。朝になって良一を見つけた通行人が警察に連絡した。良一のポケットに北七条教会の週報があって、警察から教会に心あたりはないかと連絡があった。
電話を受けたのは愛子で、最初「凍死体」という言葉が聞きとれず、
「トオシタイ?」
と聞き返した時、飛び上がっておどろいたのは、そばにいた耕介であった。
良一は輝子のところに泊まったとばかり思っていた奈緒実は、明方まで殆ど一睡もしなかった。だから、とろとろと眠りに入ったばかりで、愛子に、
「良一さんが大変ですよ」
と肩をゆすぶられた時、奈緒実は、
「あの人なんか」
と寝返りをうって、愛子にほおを思いきり殴られた。あとにも先にも愛子が人のほおを殴ったのはその時だけである。
死んだと聞かされて、とっさに奈緒実は輝子と心中したのだと思った。やさしい顔で眠るように死んでいた良一を見て、奈緒実は深い海の底に投げこまれたように、あたりの物音も聞こえず何も見えなかった。ただ死んでいる良一の顔だけが目の前にあった。
「わたしが殺してしまった」
輝子はそう言って半狂乱になった。しかし奈緒実は、自分が良一を殺したような気がしてならなかった。自分の冷えきった心が、良一を凍死させてしまったように思われた。
良一が家を出る時、手を上げて奈緒実にほほえみかけた。けれども奈緒実は、けわしい表情をくずさず、身動きもせずに良一の車を見送った。
(あれが、夫婦の一生の別れだなんて……)
奈緒実は草をもくもくと喰む羊の群れに目をやった。あれから半年、奈緒実は深い悔恨のうちに良一を思いつづけてきた。
(たった一言、早く帰ってきてねと、にっこり笑って言っていたら……。こんなに刺されるような苦しみを、わたしは味わわずにすんだかもしれない)
冷たくなった良一を抱きかかえた時の、あの凍しみるような冷たさと重さを、今も奈緒実は自分の腕に感じていた。
家に運んだ良一のなきがらをかこんで、耕介も愛子も気のぬけたようにすわっていた。かけつけた良一の母は、クリスマス・イブで一晩酒を飲んでいたのか、酒の匂いをさせていたが、まっ青になって京子にかかえられるようにして入ってきた。
京子の泣き声を聞きながら、純粋に良一の死を悼むことのできる京子を、奈緒実はうらやましいと思った。良一が微笑しながら手を上げてハイヤーに乗りこんだ姿が目にちらついて、悲しむよりも自分の身がさいなまれるような思いであった。しかし、やはり奈緒実は全身で号泣していたと言った方が正しかった。
良一の枕もとには、奈緒実に残した良一の絵が白布に包まれていた。奈緒実はふとそれが目に入ると、立ち上がって白布を解いた。それは気丈な振る舞いに似ていた。けれども奈緒実は、良一が自分に何を残したかを知りたかった。今はせめて、絵を通して良一の声を聞きたかった。
耕介も愛子も京子も、そして竹山も、教会の役員たちも、奈緒実の手もとに、痛ましげな視線を注いでいた。ただ伸子だけが、うつぶせになって良一にとりすがっている。
白布がとりはらわれ、その絵が画架にかけられた時、一斉に人々の口から嘆声が上がった。
十字架にかかったキリストから、血がしたたり落ちていた。その十字架の下にキリストの血を浴びてじっとキリストを見上げている男の顔、それはまぎれもなく良一の顔ではなかったか。
泣いているような、悔恨に満ちたその良一の目はまっすぐに十字架のキリストを仰いでいる。それを見おろすキリストの何と深いあわれみに満ちたまなざしであろう。その溢れるような慈愛の目は、見る人の心を慰めずにはおかないほどあたたかかった。
「そうか……そうだったのか」
耕介はそう言ったかと思うと、こらえかねたように、良一の体をかきいだいた。
(そうだったの。あなたは……)
良一は、
「君が何と言ってくれるか、それだけが楽しみなんだ」
そう言って輝子の家に出かけて行った。良一はイエスの方に両手をさしのべて、ゆるしを乞いながら、そして、そのゆるしを信じて死んで行ったのだと、奈緒実は思った。
(でも、わたしはあの人と輝子さんのことを決してゆるしはしなかった)
奈緒実は絵にじっと目をそそぎながら、刺しつらぬかれるような心の痛みに耐えていた。
こんなにも人を激しくゆすぶることのできる絵が、この世にあることを奈緒実は知らなかった。それは良一が死んだためかもしれない。だが決して、それだけではないような気がした。奈緒実もまた、この絵の良一と並んで、十字架のキリストにあわれみを乞いたい思いであった。
「立派な……信仰告白だ」
耕介が感動に満ちた声でつぶやいた時、奈緒実は良一にしがみついて、はじめて声を上げて泣いた。
(ゆるして……)
奈緒実は、一晩中良一に向かってそう叫びつづけた。良一は知らぬ間に自分よりずっと高い境地に生きていたことを、奈緒実はいまやっと知ることができた。
十二月二十六日、良一の葬儀は、教会堂に於て耕介の司式によってとり行われた。
「たしかに彼は飲んだくれでありました。わたしの娘、奈緒実は酒を飲んだ彼に殴られ、けられたこともあったようであります。
しかし彼は病を得て以来、徐々に、否、急激に変化して行きました。わたしは、彼が礼拝に出た姿を見たことはありません。祈っていた姿を見たこともありません。けれども、彼の心の深いところで、彼は神の前にひざまずいていたのであります。わたしどもは、娘と彼との結婚に反対をしたのでありますが、彼は結婚をゆるそうとしなかったわれわれ夫婦に、一度も敵意を見せたことはありません。
また、彼と別れようとして、冷たく彼を拒みつづけたわたしの娘に対しても、彼はゆるしを乞う姿勢をくずしませんでした。彼は浴びるほど飲んだ酒をやめ、ある女性とも手を切ろうと決意していました。しかし、彼女のさし出した、たった一杯の盃に、たった一杯のウイスキーに彼は負けたのであります。
久しく酒を断っていた彼の体に、ウイスキーは強烈な作用をなしたようであります。彼は帰宅の途中で眠くなり、そして遂に永遠の眠りについてしまいました」
耕介は泣いていた。時々言葉は詰まり、式辞は途切れた。
「われわれはともすれば、自分を正しい者のように思い、人を責め、きびしく裁《さば》こうといたします。けれども果たして、神はわれわれ人間に人を裁く権利を与えておりましょうか。あの聖徒パウロでさえ、自分を罪人の頭と申しております。
われわれが神の為にでき得ることは、実は人を責めることではなく、ただゆるしを乞うことだけではないでしょうか。
どうか、ここにかかげてある彼の絵を見てやって下さい。これは彼が十字架の下にゆるしを乞うている姿であります。キリストの流したもうた御血潮をもろ手に受けて、
『キリストよ。あなたを十字架につけたわたしをおゆるし下さい』
と告白している姿であります。
ここに、わたしは神と人との為に告白いたします。わたしたち夫婦と娘奈緒実は、心の中で彼を責めつづけ、裁きつづけた者であります。彼が既に悔い改め、神が彼をゆるしたもうていたにもかかわらず、わたしどもは決して彼をゆるすことをしなかったのであります。
人の目には、彼とくらべると、わたしたち夫婦や娘は、善人であるかのように見えましょう。けれども神はご存じであります。神の最もきらいたもうのは、自分を善人とすることであります。そして、他を責め、自分を正しとすることであります。
人間は一人として完全な者はありません。わたしはこの年まで、毎日いかに不完全な、過失多い毎日を送ったでありましょうか。わたしは年若き日に、妻ある身でありながら、他の女性と通じた恥ずべき人間であります。たとえこのような目に見えた罪は犯さなかったとしても、神の光の前に照らし出される時、顔を上げ得ない人間であります。
人間はまことに過失を犯さなければ生きて行けない存在である故に、われわれは、ただ神と人とにゆるしていただかなければ、生きて行けない者なのであります。
それをよく知りつつも、わたしたち夫婦と娘は、彼をゆるさずに死に至らしめてしまった心冷たい傲慢な人間でありました」
葬儀の時の耕介の式辞を、奈緒実は思い出していた。父も母も良一をゆるし愛していた。それなのに、父は会衆の前に自分自身を責めていた。責められるべきは、この自分ではなかったかと、奈緒実は羊たちのもくもくと草を喰む姿に目をやった。
良一の死後すぐに開かれた個展で、十字架のキリストを仰ぐ自画像はかなりの反響を呼んだ。ある評論家は、
「これほどの天才を見出せなかったということで、わたしは自分が評論家であることをどれだけ恥じているかわからない」
とさえ言い、ある新聞は、
「絵は技術やインスピレーションからだけ生まれるものではなく、深い魂の底から生まれるものであることを改めて知らされた」
と書いた。
「奈緒実さん、何を考えていらっしゃるんです」
竹山に言われて、奈緒実は淋しい顔を竹山に向けた。
「先生。漱石の『三四郎』をお読みになって?」
奈緒実は遠いところをながめるまなざしになった。
「読みましたが……」
竹山は奈緒実が何を言い出すのか見当がつきかねた。
「あの中に、迷える小羊《ストレイシープ》という言葉が出てきますわね」
「ああ、美禰子《みねこ》がいくどか三四郎の前でつぶやいた言葉ですね」
「ええ、そうですわ。今こうしてひつじが丘に来て、沢山の羊を見ていますと、ストレイシープという言葉が思い出されてなりませんの」
竹山はうなずいた。そうだ。人間たちこそこの羊たちより、もっともっと愚かな迷える存在なのだと竹山は思った。
良一が死んで、三月挙式の予定だった京子との結婚がのびていた。正直のところ、良一が死ななければ、竹山は京子との結婚をまだ迷っていたにちがいない。
良一の死の前日、奈緒実の帰りを待ちぶせて食事に誘い、愛を打ち明けた竹山は、京子から自分の心が遠く離れているのを感じた。その途端に良一は死んだ。
良一の死と、その残した絵に竹山の心は激しく揺すぶられた。輝子から聞いた良一のその夜の一部始終も、竹山の心に大きな変化をもたらした。
あの酒好きの良一が、封も切らずにそのままウイスキーを輝子に返したこと、輝子の前に両手をついてあやまり、決してふたたび輝子の魅力のとりこにならなかったことは、竹山には遠く及ばない境地のように思われた。
自分が神を求める者として、良一の友として、とるべき道は京子と結婚することであると竹山は決意した。
しかし、まだ二十三になるやならずの若い奈緒実が一生独り身で通すはずがないと思うと、京子には済まないと思いながらも、竹山の心は揺らいでいた。
(悲しみにある奈緒実を、遠くからじっと見守ってやるのが、ほんとうの清い愛というものではないか)
「迷える小羊か!」
竹山はつぶやいて、背を柵にもたせた。丘を越えて赤い観光バスが土埃《つちほこり》をあげながら、近づいてきた。セーラー服の少女たちが、三台のバスから降りてくるのを竹山はじっと見ていた。
奈緒実も京子も輝子も、かつてはあの少女たちのように、セーラー服姿の高校生だったのだと、竹山はかたわらの奈緒実を見た。白と黒の格子の和服が、奈緒実を大人っぽく見せ、その横顔は、もう少女にはない淋しさをただよわせている。
少女たちが柵の近くに群がって、牧場の羊群をバックに写真を撮り合っている。この少女たちも、五年と経たぬうちにどんな道を歩むことかわからないと、竹山は教師らしい感慨にふけった。
「奈緒実さん、林の方に行ってみませんか」
竹山は奈緒実と肩を並べて歩きだした。
「あら!」
奈緒実が立ちどまった。竹山は奈緒実が足をとめた理由が、すぐにわかった。林の中に画架を立てて、絵をかいている青年に奈緒実の視線が注がれていたからである。
「こちらへ行きましょうか」
竹山は林と反対の方を指さした。
「いいえ、林の方にまいりましょう」
奈緒実は絵筆を動かしている青年の方をみつめたまま言った。何を見ても、自分は良一を思い出して辛いのだと奈緒実は思った。けれども、辛くてもその辛い現実から目を外《そ》らさずに生きる姿勢でありたかった。
「この間、函館に行ってきましたわ」
「函館に?」
竹山は、あの家財道具の何もない、蓬莱町《ほうらいちよう》の奈緒実たちのさむざむとした部屋を訪ねた時のことを思い出した。竹山が待っているのを知りながら、良一はなかなか帰ってこなかった。
竹山と奈緒実は帰りの遅い良一を気にしながら肉鍋をつついた。あの時の奈緒実は明るくふるまえばふるまうほど、全身にあわれな感じがただよって、抱きしめたいほど痛々しかった。
あの夜、外まで竹山を見送って、どこまでもついてきたそうにしていた奈緒実を、一度もふり返らずに坂を下ってきた。けれども、あの夜以来、自分は奈緒実への慕情を一層深めてしまったのだと、竹山は思った。あの函館山へのだらだら坂は、竹山にとっても生涯忘れることのできない思い出の場所となってしまった。
「あの蓬莱町の二階が、無性になつかしくて、わたしどうしても行って見たかったのですわ。何だか、この自分はほんとうの自分ではなくて、ほんとうのわたしは良一と一緒にあの二階で生活しているんじゃないかって、そんな気がしてならなかったものですから」
奈緒実は、電車通りを曲がって、あの二階が坂の中腹に見えた時の、胸苦しいようななつかしさを思い出していた。
「家の前まで行って、じっと二階を見上げていましたら、ガラリと窓が開いて、若いご夫婦が、いい天気だねえと仲よく話し合っていましたわ。そして、ヒョイと窓下を見て、変な女が立っているというような顔をしていましたわ」
自分たちは、あんな幸福そうな夫婦ではなかった。あのとげとげした良一の言葉や、飯台をひっくり返したり、灰皿を投げつけた良一のことなどが思い出されたが、そんな辛い思い出でも、今は奈緒実にはなつかしかった。
階下に一泊した奈緒実の事情を聞いた若夫婦が、部屋を見せてくれた。うす暗い急傾斜な階段は、全く以前のままで、辛いほどなつかしかった。けれども部屋に入った途端、三面鏡やタンスや茶ダンスが、人間を押し出さんばかりに並べられていた。そこはやはり他人の部屋であって、もとの奈緒実たちの部屋ではなかった。あの何の家財道具もない、キャンバスや、古道具の鉄びんや塗り物や自在かぎなどが置かれている部屋ではなかった。
「思い出は二度と訪ねるものではないと言いますね」
函館を訪ねた奈緒実の心を思うと、竹山も胸が痛んだ。
「でも、訪ねないでいられないのが、人情というものかもしれませんわ」
奈緒実はかすかにほほえんだ。丘のなだりの、はるか彼方に夏の雲が白かった。
「そうでしょうね」
「やっぱり、今のわたしには訪ねて行ってよかったと思いますわ」
奈緒実はふっと、輝子は良一の思い出をどこに訪ねることだろうかと思った。
「輝子さん、どうしていらっしゃるのかしら」
ウイスキーに眠りぐすりを入れた輝子は、自分よりもっと心がさいなまれていることだろうと奈緒実は思った。ただの凍死として扱った警察に、この睡眠薬の件は誰も洩らすことはしなかった。
「わたしが殺してしまった」
と半狂乱になっていた輝子に、奈緒実は会ってみたいような気持ちにすらなっていた。
(一人の人の死というものは、何と大きく人の心を変えるものだろう)
奈緒実は、良一が自分にやさしい心を与えるために死んだような気がしてならなかった。
「川井君は、あのアパートを引き払って、おかあさんのところに帰りましたよ」
竹山は、良一の死で、奈緒実も輝子もどれほど悲しみ苦しんだかを、いま思っていた。
(自分はどうだろうか)
竹山は省みて肌ざむいような心地がした。長年の友人であった良一の突然の死は、たしかに驚きであり、その残した絵によって、竹山の心は揺すぶられもした。
しかし、果たして自分は深い悲しみにおそわれただろうかと竹山は思った。竹山には、悲しみより深い敗北感があった。竹山はかつて良一の女性関係にかなり悩まされた。心の片隅では、良一の奔放な女性関係をうらやましく思うことがないではなかったが、しかし、そうした良一を、要するに人格下劣な人間として、竹山は一段上から良一を見ていたことは否めない。
だが、あのキリストを仰ぐ良一の自画像によって、竹山は自分自身の思い上がりを、したたか打ちのめされてしまった。
(あの良一ほどに、神の前に低く頭を垂れ、神との深い対話をしたことがあるだろうか)
良一の死を悲しむよりも、竹山は良一への敗北感の方が強いことに、自分の心の小ささを感じた。もっとおおらかに良一の信仰を喜び、その死をいたんでよいように思った。
「輝子さんは毎日何をしていらっしゃるのでしょうね」
奈緒実の声にはやさしさがこもっていた。それは夫の盃に睡眠薬を入れて、死に至らしめた女に対する言葉には思えなかった。竹山は、死んだ良一がうらやましいような気がした。良一に残された奈緒実も輝子も、決して良一を恨んではいない。恨むどころか、新たに愛しはじめているではないかと、竹山は嫉妬にも似た羨望を感じた。
「人はいつ、どこで、自分の生活を断ちきられても、その断面は美しいものでありたい」
かつて耕介が言った言葉である。良一は突如として命を断ちきられてしまったが、しかし、何とその断面は美しかったことかと、竹山は思った。
「輝子さんのことより、奈緒実さんは今後どうなさるんです」
羊の群れが徐々にその場所を変えて、いつの間にか、かなり柵の近くまで草を喰みに来ている。
「わたし?」
竹山を見上げた奈緒実ののどが、白くなめらかでまぶしかった。
「不幸せな子供たちの保母になりたいと思いますの。良一には父がなかったでしょう? あの人の母はいい人ですけれど、生活に苦労をしたためか、人間は金さえあれば何とかやって行けるという人生哲学を持っていたようで、良一はそれが淋しかったのではないかと思いますの」
良一の母の伸子は、とうとう良一の病床を一度も見舞わずにしまった。伸子は肺病が恐ろしかった。月々二万の金を届けることで、伸子は母親としての責めを充分に果たしていると思っているようであった。それは、耕介と愛子に育てられた奈緒実にとって、信じられないような母と子の関係である。
「愛情なんかより、一万円札の方が空っぽの胃袋にはたしになりますからね」
いつか伸子が言ったことがある。
「良一は愛情より金の方がありがたいという母に育てられ、そして結婚したわたしは冷たくて……きっと淋しい一生だったと思いますわ。人間なんか、いつ一生の別れになるかもわからないのに、わたしは冷たくあの人をつき放して……それが最後でしたわ。帰ってこなくてもいいなんて、そんなひどいことをわたしは言ってしまったんです。良一は、わたしの冷たい目と冷たい言葉を思いながら死んでいったのではないかと思うと……たまらないんです。だから、せめて罪ほろぼしに、不幸な子供たちの保母になりたいと思っていますの」
もうすっかり心を決めているような奈緒実の言葉に、竹山は自分が良一にも奈緒実にもとり残されたような淋しさを感じた。
「そうですか。では行くところも決まったんですね」
「ええ、父の信仰の先輩が園長をしている学園ですの。みんな、いわゆる非行少年少女たちですけれど、広い農園の中で畠を作ったり、牛を飼ったりしているんですって」
奈緒実はそう言って、はじめて明るい微笑を見せた。竹山は、非行少年や少女にかこまれて、畠仕事をしている奈緒実のかいがいしい姿を想像した。その姿が、ほんとうに奈緒実が幸福に生きる姿だろうかと竹山は思った。
「何だか、いたいたしい気がしますね」
「まあ、どうしてでしょうか。わたし、良一に死なれて、毎日くり返し、一言ゆるすと言ってあげていたら、こんなに辛くはなかったろうと悲しんでばかりいました。先生、悲しみって、なんと非生産的な感情でしょうね。このままだと、食欲もないままにわたしの体は亡びてしまうだろうと、そう思いましたもの」
「そうですか」
そんなに悲しんでいたのかと、竹山の声に深い同情がこもっていた。
「ええ、悲しみって命を亡ぼすほどのエネルギーなんですね。それに気づいた時、わたしはハッとしましたの。これだけのエネルギーを他に使えないものだろうかって」
「ほう。悲しみを力に変えようとしたわけですか」
「ええ。それに気づくと、神からいただいたエネルギーを浪費して、自分一人の悲しみに浸っているというのは、やはりわがままだと思いましたの。わたし、学園で一生懸命働きたいと思いますわ。そして、子供たちに生きる希望と勇気を与えるような童話を、一生にただひとつでいいから書きたいと思います」
「そうですか」
竹山はうなずいて、林の横の小路に立った。
「京子さんとのご結婚はいつになりますの」
急用ということで、一緒に来ることのできなかった京子を、奈緒実はさっきから気がかりでならなかった。
あの十二月の末、良一の死ぬ前日に竹山と奈緒実は天ぷら屋で話し合った。その時、奈緒実は竹山の愛の言葉を聞いてしまった。そして奈緒実は言った。
「先生はこれでさっぱりとなさって結婚されるわけでしょう? でも、わたしにとって、今は何かの始まりであるかもしれません」
竹山への慕情は、良一の死によって拭いさられたといえば嘘になるかもしれない。いつか、この悲しみのうすらいだ日に、奈緒実は竹山に心ゆらぐ日がくるかもしれないと思った。奈緒実にとって、竹山はやはり心ひかれる人ではあった。
しかし、良一のためにも、京子を竹山と結婚させてやりたかった。それが良一に対してゆるしを乞うことでもあった。
「そうですね。ことしの秋あたりになるでしょうか」
竹山と奈緒実の目が合った。
「ことしの秋ですか」
もう、竹山と二人っきりで会うこともないだろうと、奈緒実は視線を外《はず》した。
「京子さんの花嫁姿はすばらしいでしょうね」
竹山は、苦渋に満ちた表情を見せまいとして、羊の群れに目を向けた。
(わたしは花嫁姿で良一と結婚したわけではなかった)
奈緒実は、はじめて結ばれた、函館のあの二階の良一の布団の上を思った。竹山をはなれて、奈緒実は林の横の小路を下って行った。しかし、すぐにバラ線が張ってあり、
「この先立入りおことわり」
の札が立っていた。奈緒実はその札の横に立って、なだらかな起伏を持つ牧場をながめた。牧草の上を風が渡ると、やはり煙が這うように見えた。なだらかな丘の彼方の、白く浮かんだ雲をながめながら、奈緒実は良一を思った。良一はあの絵のように、十字架の下で、イエスの方に両手をのべたまま天にいるような気がした。
「何を見ているんです」
竹山が近づいてきた。
「あの遠い雲ですわ」
奈緒実は竹山に背を見せたまま言った。
「雲ですか」
ふと、竹山は奈緒実のかたわらの「この先立入りおことわり」の札を見た。
(そうだ。わたしはもうこれ以上、この人に近づいてはならないのだ。目に見えない立ち入り禁止の札を、人間は常に見なければならないのだ)
竹山は、京子の白いやさしい顔を思った。京子を愛するよりほかに自分の道はないのだと、竹山は、奈緒実を少しはなれて、羊の群れをながめた。羊をながめる竹山の目が、涙にうるんでいるのを奈緒実は知らなかった。
竹山は、奈緒実がみつめている遠くの白い雲に視線を転じた。雲は陽に輝いて、きらりと一点光っていた。
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パンパン 語源は不明だが、第二次大戦後、主にアメリカ兵を相手にした売春婦。
マンスフィールド キャサリン。一八八八〜一九二三。イギリスの作家。「園遊会」は、少女が初めて公式の園遊会に出席するときの心の動きを繊細なタッチで描いた代表作(短編)。
女高師 女子高等師範学校。東京、奈良にあった旧制の国立学校で、高等女学校の女子教員などを養成した。
徳田球一 一八九四〜一九五三年(明治二十七〜昭和二十八)。沖縄出身の政治家。一九二二年(大正十一)、日本共産党の創立に参画した。
洋生 生の素材を使ったケーキのこと。
西村久蔵 評伝「愛の鬼才」(一九八三年、新潮社刊)の主人公。
賀川豊彦 一八八八〜一九六〇年(明治二十一〜昭和三十五)。神戸生まれ。キリスト教社会運動家。
松川事件 一九四九年(昭和二十四)八月十七日、東北本線松川駅付近で起こった列車転覆事件。国鉄職員解雇反対に関連した共産党員らの犯罪として、多くの共産党員、労組員らが逮捕されたが、事実誤認、自白の任意性など多くの疑問が裁判の過程で噴出。結局一九六三年、最高裁判所は被告全員無罪の判決を下した。第二次大戦後、混乱期の日本の暗部を象徴する事件として、真相は今日なお不明である。
中っ腹 心の中で不快に思っていること。むかついているさま。
たたき 三和土。コンクリートの土間のこと。
朴念仁 無口で無愛想な人。わからずや。
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創作秘話(四)より
「氷点」に勝ると言われた
「ひつじが丘」
札幌市豊平区羊ケ丘一番地に「羊ケ丘展望台」がある。「羊ケ丘」の名称は、一九四四年、当時の農林省|月寒《つきさむ》種羊場だったこの地を、豊平町議会の決定によって、「羊ケ丘」と呼んだのが始まりと伝えられる。
展望台は一九五九年につくられ、多くの観光客が訪れるようになったとか。ここには、
「少年よ、大志を抱け」
という、有名な言葉を学生たちに残して、アメリカに帰って行ったクラーク博士の像も建てられている。
「月寒種羊場」と言われた頃には、いったいどのくらいの羊が放牧されていたのだろう。多分何百頭もの羊がいたのであろう。現在は五十頭ほどの羊が、観光用に飼われていると聞く。
小説「ひつじが丘」というタイトルはこの「羊ケ丘」から取ったのだが、なぜ「ひつじが丘」と、あえて平仮名にしたのか、妻綾子が世を去った今は、確かめる術《すべ》もない。
この小説は、一九六五年八月号から、一九六六年十二月号に亘って、「主婦の友」誌に連載された。綾子にとって初めての月刊小説である。一九六四年七月十日、「氷点」が入選し、同年十二月九日から一九六五年十一月十四日まで、「氷点」は朝日新聞に連載された。その「氷点」に注目してくださっていたのか、その連載中に主婦の友編集部の藤田敬治氏が来旭、
「主婦の友誌に月刊小説を書いて欲しいのですが」
ということだった。藤田氏には、一九六二年の同誌に愛の記録「太陽は再び没せず」入選の時に、おせわになっている。綾子はまだ「氷点」連載中ということもあって、即答しかねたのではなかったかと思うのだが、「氷点」の連載が終わった翌年の一九六六年の八月から早くもこの小説を同誌に連載し始めている。意外に早い着手である。
月刊小説は、日刊連載のそれとは、自らリズムがちがう。そんなことをちらりと綾子が言っていたようであるが、すぐに調子をつかんだらしかった。
この登場人物にも「氷点」同様、ほとんどモデルはいない。その点「泥流地帯」とはかなり趣を異にする。したがって、事件のあった場所に再々取材に出かけることはなかった。舞台を札幌に取り、小樽や函館も時々出てくることもあって、二、三度小樽と函館へ行った。羊ケ丘へも行ったが、ここもせいぜい三度と行かなかったように思う。
(写真省略)
羊ケ丘に立つクラーク博士像。
しかし、主人公の奈緒実という若い女性を牧師の娘として描き、「愛」という問題をよく掘り下げて書いたと言える。すなわち「愛」と「好き」とは根本的に異なることを、綾子は小説の中でかなり追究している。こんな会話を交わす場面がある。
「奈緒実。人を愛するって、どんなことか知っているかね」
改めて問われれば、奈緒実は明確に答えることはできなかった。
「お前も愛するということが、単に好きということではないくらいは知っているだろう」
「……」
「愛するとはね、相手を生かすことですよ」
愛子が助け舟を出した。
「そうだよ。お前は果たして、杉原君を生かすことができるかね。おとうさんがにらんだところでは、あの人間を生かすということは、ひどく骨の折れることだと思うね。とても奈緒実には生かしきれまいな。へたをするところしてしまうことになる」
「まあ、ひどいわ、おとうさん。わたしだって、一人ぐらい愛することができるわ」
「そうかね。愛するとは、ゆるすことでもあるんだよ。一度や二度ゆるすことではないよ。ゆるしつづけることだ。杉原君をお前はゆるしきれるかね」
耕介は注意深く奈緒実を見守った。
「あの人、そんなにゆるされなければならないところがあるとは思えないわ」
奈緒実が憤然とした。
このようなやりとりが交わされるほど、杉原良一という人間には問題があった。特に女性関係が放縦だった。この男性にずるずると引きずられて、主人公の奈緒実は悲劇を招く。そのプロセスを綾子はこれまた巧みに展開して、愛の何たるかを深く掘り下げて行く。
「三浦綾子はストーリー・テラーだ」
と、言われ始めたのは、いつからであったろう。この「ひつじが丘」を読んで、改めてなるほどと思わせられる。いい意味にせよ悪い意味にせよ、筋の展開は巧みだと言えそうだ。
「塩狩峠」を「信徒の友」誌に書き出したのが一九六六年四月号で、何カ月後かに綾子は口述筆記で作品を生み出すことになった。とすると、この「ひつじが丘」の後半の何回分かは、これも口述したことになる。今、ざっと「ひつじが丘」を読み返してみて、どこまでが自分で直接書いたか、どこから口述をしたか、全くわからない。それは「塩狩峠」についても言えるのだが、直接書いても口述しても文章にはほとんど変わりはなかったようである。
なお、連載があと三回位の頃であったろうか、
「ぼつぼつ、終盤の構想を練って、書き進めて下さい」
と、編集者の藤田氏が言われたのをわたしは傍で聞いた。あれはどういう意味であったのだろう。
この小説への評価もかなりよかった。特に札幌の西村真吉氏は、
「文学的には『氷点』以上です」
とほめて下さった。西村氏は綾子が闘病中たいそうおせわになった西村久蔵氏の弟さんで、文学をよく研究されていたと聞いた。
(写真省略)
初の月刊小説「ひつじが丘」。