三浦綾子小説選集6
ちいろば先生物語
序章
「ちいろば先生」の名を、その時、私はまだ知らなかった。その時というのは、昭和四十四年(一九六九年)の正月の頃を指す。その頃私は、体調を崩していた。どうやら子宮癌らしいというので、札幌の病院に受診に出かけて行った。三浦も心配して同行してくれた。
婦人科の待合室には、女性たちがあふれていた。見るからに疲れ切った中年の婦人や、病人とも見えない若い女性たちが、一様に不安な表情を見せて黙りこくっていた。そんな女性ばかりのいる待合室に、長時間一人で待っているのは、気恥ずかしくはないかと、診察室に入る前に、私は三浦に尋ねた。
「いや、大丈夫。昨日送って来た本を読んでいるから……」
三浦はポケットから小さな本を出して見せた。が、やはりその顔は不安そうであった。
診察室には幾人かの患者が待っていた。かなり重症の患者もいて、私の診察が終わるまでに、思ったより時間がかかった。結果は、精密検査を要するので、もう少し待つようにとの、あまりうれしくない診断であった。時間も取ったことで、三浦がさぞ心配していることだろうと、私は診察室を出た。本を読んで待っているなどと言ってはいたが、妻が癌か否かの瀬戸際である。おそらく、落ちついて本など読んではいられまいと、私は内心そう思っていた。が、私の予測は見事に外れた。三浦は、私がそばに近づいても気づかぬほどに、一心に読み耽っている。私が声をかけると、三浦は顔を上げて言った。その第一声は、当然、
「どうだった?」
で、あるべき筈であった。が、三浦の言葉は思いもかけない言葉であった。
「綾子、これはいい本だ。早速綾子も読んだらいいね」
私はいささかむっとした。三浦には、私が癌であるか否かは全く問題ではないのかと思った。が、待てよ、と思った。三浦は、私が肺結核とカリエスで、ギプスベッドに血を喀《は》いている頃、私の目の前に現れ、それ以来私を見舞いつづけた。そして、私が癒《い》えるまで幾年も待ってくれた人である。しかも、結婚以来毎日のように指圧をし、痛い所には一晩中でも手を当ててくれる優しい夫である。常々私の健康については、当の私より以上に心配してくれる人である。その三浦が、受診結果を問うよりも先に、この本を読めと言った。三浦の心の中に、僅かな時間のうちに何かが起こったとより、考えようがない。私はしぶしぶと、
「それ、何という本?」
と尋ねた。
「『ちいろば』という本だよ」
私はここで初めて、「ちいろば」という言葉に出会ったのである。
(『ちいろば』? 妙な題!)
そんなものは絶対に読まない、と中っ腹の私はそう思った。が、その本が妙に気になった。私は、精密検査を受けなければならないと三浦に告げた。が、三浦は実に晴れ晴れと明るい顔で言った。
「大丈夫だよ、綾子、万一癌だとしても、祈って神様に治していただこう。神様にとってはね、風邪を癒《いや》すことも、癌を癒すことも、同じなのだよ」
三浦の言葉も表情も確信に満ちていた。
(やっぱり、この『ちいろば』とやらの仕業にちがいない)
私は三浦の持つ小さな本に、呆れたような一瞥を浴びせた。著者名は榎本保郎《えのもとやすろう》とあった。
幸い、精密検査の結果は、子宮筋腫はあるが、今すぐ手術を要するものではない、ということであった。癌ではなかったのだ。
帰宅して二、三日が過ぎた。私はようやく『ちいろば』を手に取った。そしてぱらぱらとひらいた箇所を先ず読んでみた。何という本かと呆れた。読み始めた箇所が悪かった。『ちいろば』の著者榎本牧師が、ある牧師に呼ばれての一問一答がそれであった。
〈「榎本君。君はまだ洗礼を受けていないそうだが、ほんとうかね」
「はい、私は洗礼を受けておりません」
「洗礼を受けていない者が、教会で伝道するのはおかしいね。早く洗礼を受けなさい」
「なぜ洗礼を受けていない者が伝道したらおかしいのですか」〉
私は話にならないと思った。洗礼も受けずに伝道を始めるなどとは、あまりにも逸脱している。私はそこで断然『ちいろば』を読むことをやめた。だが、何日かしてまた考えた。三浦が、実に生き生きと楽しそうにしている。『ちいろば』を読んでから、三浦の顔に力が漲《みなぎ》ってきた。前後の脈絡もなく、一部分を読んだだけで、捨ててしまっていいのだろうか。そう思った私は再び『ちいろば』を読み出した。『ちいろば』は榎本保郎牧師の半生の記録であった。
これが私の、『ちいろば』の著者、今は亡き榎本保郎先生との出会いであった。
「ちいろば」、この聞き馴れぬ言葉は、「小さいろば」の意である。新約聖書の「マルコによる福音書」の第一一章、一節から三節の、次の言葉が『ちいろば』の扉の裏に記されている。
〈イエスはふたりの弟子をつかわして言われた、「むこうの村へ行きなさい。そこにはいるとすぐ、まだだれも乗ったことのないろばの子が、つないであるのを見るであろう。それを解いて引いてきなさい。もし、だれかがあなたがたに、なぜそんな事をするのかと言ったなら、主《しゆ》がお入り用なのです……と言いなさい」〉
「ちいろば」とは、この子ろばのことなのだ。榎本保郎牧師は、自分もこの「ちいろば」でありたいと思ったのだ。自分自身は、イエスさまに乗っていただく力も資格もない小さな子ろばである。だが、イエスのご用とあれば、いつでもどこへでもイエスをお乗せして役立たせていただきたい。そうしたキリストへの謙遜と信頼を、榎本牧師は「ちいろば」なる題名にこめたのだ。
この著『ちいろば』は、今は亡き仲綽彦《なかのぶひこ》氏の聖燈社から出版され、実に多くの読者が『ちいろば』のとりこになった。中学生も読んだ。老人も読んだ。男も女も読んだ。「ちいろば」という喫茶店もできた。「ちいろば」というボランティアのグループが生まれた。「ちいろば」という老人ホームの機関誌が発刊された。私自身も、『ちいろば』への敵意はどこへやら、直ちに『ちいろば』二十冊を買い求め、知人の誰彼に見る間に配ってしまうほどのファンになってしまった。それだけではない。私は三浦に言ったのである。
「わたし、この先生を小説に書こうかしら」
たいていのことは、三浦は先ず反対する。慎重派なのだ。その三浦が意外にも、
「うん、そうだね。『ちいろば』はもっと詳しく書かれてよい本だからね」
と言った。二人の気持ちは定まった。近いうちに、四国の今治《いまばり》に榎本牧師を訪ねてみよう、そう話し合っているところへ、電話のベルが鳴った。
「もしもし、わたしは今治教会の榎本と申しますが……」
私は耳を疑った。こんなことがあるものだろうか。
「あ! 『ちいろば』の榎本先生ですか。よい本をお書きいただきまして……」
私はちらりと、札幌の病院での『ちいろば』への憎しみを思い出した。榎本牧師の電話は講演依頼であった。今治教会の創立九十周年の記念会に来て欲しいというのである。たった今、榎本牧師を訪ねたいと話し合っていた矢先への電話である。私は神の導きを感ぜずにはいられなかった。むろん、喜んで講演依頼に応じた。
その年の九月、私は旭川を発った。途中、大阪空港で、私は急に体の具合が悪くなった。めまいと吐き気がしたのである。二、三日でも家をあけるとなれば、原稿の書きだめをしなければならない。その時は、今治の教会をはじめ、松山、西条、鴨島、高松での講演会が予定されていた。したがって書きだめの枚数も多かった。その疲労が、湿度の高い大阪に来て、不意に噴き出たようであった。私は体を二つに折るようにして、ようやく松山行きの飛行機に乗りこんだ。大阪を飛び立った飛行機は、どれほどの水平飛行もなく松山空港に着いた。体は疲れていたが、『ちいろば』の榎本牧師に会えるということで、私は大いに期待を抱いていた。その著『ちいろば』から推察すると、天真爛漫な明るい牧師であるらしい。霊的に燃えていて、会う人ごとに信仰の迫力を感じさせる人のようだ。ぜひとも小説化の許可を得たいものと、私の心は初対面の榎本牧師に賭ける夢にふくらんでいた。
松山空港には、榎本牧師と、宇高昇という役員が迎えに来ていた。この二人が実によく似ていて、双生児のようであった。それで調子が狂ったというわけではないだろうが、榎本牧師の第一印象は、決して期待したようなものではなかった。
(なんでえ、お前が三浦綾子か)
そんな目で頭から爪先までじろりと見られたような印象であった。私もまた、
(へえー、これが『ちいろば』の……)
と、榎本牧師を見上げたのである。背が高く、恰幅《かつぷく》のよい榎本牧師は、にこりともしなかった。いや、笑ったのかも知れないが、そうは見えなかった。多分、先方でも、私を無愛想な女だと見たのではないか。迎えの車は瀬戸内海を左に見て海岸を走った。が、車の中でもあまり話は弾まなかった。宇高氏も、温厚そうだが口数の多い人ではなかった。途中、景色のよい所で時々車をとめてくれた。車から降りると、たちまちどちらが牧師か宇高氏かわからなくなった。顔ばかりでなく、体形まで似ている。
牧師かと思って話しかけると宇高氏である。宇高氏と思って話しかけると牧師である。
(なぜこんなに似た人と一緒に迎えに来てくれたのかしら)
そんな思いも湧いて、うっかり話しかけることもできない。車に戻ると、坐る場所で見分けるのだが、ようやくどちらが誰かわかる頃に今治に着いた。だが、依然として、私が心に描いていた『ちいろば』の先生はそこにはいなかった。
その夜は、見晴らしのいい大きな料亭に招かれて、海賊料理なるものをいただいた。海賊は海族に通ずるのか、料理はすべて魚ばかりであった。大勢の信者たちにねんごろに迎えられていながら、しかしなお私の気持ちは、懊々《おうおう》として楽しまなかった。やはり「ちいろば先生」が気になるのだ。榎本牧師の表情も、心なしか憮然として見える。
(本だけを読んでいればよかった)
私はそう思った。私は悔いていた。多分、榎本牧師のほうでも、本だけ読んでいればよかったと、思っているような気がする。
次の日であったろうか、地元の高校でも講演して欲しいということで、三浦と私と榎本牧師とで出かけて行った。疲れているとは言え、十余年前のことだから、現在よりかなり元気であった。私は榎本牧師の前で講演をするのは気が進まなかった。何せこのちいろば先生は、文章もうまいが、その説教も有名であった。のちに日本全国はもちろん、台湾、アメリカ、カナダ、ブラジルに講演に招かれた人である。
「武士の情けということがあるでしょう。わたしの話は聞かないでください」
そう頼んだが、榎本牧師は、
「いや、聞かせてもらいます」
と、肯《がえ》んじない。私は仕方なく話をした。ずいぶんと大きな声で、力一杯話をしたように記憶している。だが、私としては決して満足のいく出来栄えではなかった。榎本牧師は、
「いやあ、話がうまいですねえ、驚きました」
と言われた。私は非常に恥ずかしい気がした。その言葉の中に、「うまいだけの話ですね」というような響きを感じたからだった。いや、本当にうまいと思ってほめてくださったのかも知れない。だが、私自身が自分の話に不満を感じていた。第一、話というものは、うまいとほめられてはならないのだ。よい話だと言われるべきなのだ。そのよいものが欠けているのを、私は誰よりも感じていたのである。図らずもうまいと評した榎本牧師の言葉は、的を射ていたような気がする。
教会では、創立九十周年のために、市の公会堂を借りていた。千二、三百人も入る会堂という。私はそこで、イエス・キリストの救いについて語らねばならないのだ。そこで語るべき話は、断じて「うまい話」であってはならない。人の魂に届く話でなければならないのだ。ホテルに帰った私は、榎本牧師に話がうまいと言われたことを、このように反省したのだった。
と、私は、ちいろば先生と私の距離がかなり近いものになったのを感じた。私の心の中で、先生との対話が始まっていたのである。私は、ははん、これがちいろば先生だと思った。きびしい人だと思った。文章ではひょうきんな、明るい性格を感じさせるが、それだけの先生ではないことを、私はいつの間にか肌身で感じ取ったのだ。私は自分の講演が、祈りの中になされるべきであることを改めて思い、その夜は特に祈って眠った。
講演会も終わり、今治最後の夜が来た。ホテルのロビーに、三浦と私と、そして榎本牧師がソファに坐っていた。その時も彼はほとんど口をきかなかった。何か黙って考えているふうであった。遂に私たちと打ちとけて話をするということなく、別れることになった。そう思った時だった。私が榎本牧師を見た。先生が私を見た。と、先生がにかっと笑った。その笑顔が、実に人なつっこい笑顔であった。それまでの三日間、ほとんど先生は私に笑顔を見せなかったような気がする。だからその時の、ちょっと照れたような、しかし言いようもなくあたたかい笑顔は心に沁みた。まるで、いたずらを見つけられた子供の笑顔にも似ていた。「ちいろば先生」はかくれんぼをしていて、三日間どこかに隠れてい、今、突然私に見つかったような、そんな感じだった。
「あんな、三浦先生」
「なあに?」
私と先生は、いつの間にか十年の知己のように親しい口をきいた。気がついた時には二人の間に電流が通じていた。
今考えても、あの三日間の榎本牧師は一体何であったのかと思う。彼に会ったほどの人々は、直ちにそのあたたかい人柄にとらわれてしまうというのに、私の場合はそれがなかった。そのことが、私には何としても不思議なのだ。あるいはこれは、榎本牧師の側の問題ではなく、私の側の問題であったのかも知れない。
以来、私たち夫婦は、肉親のような親しさをもって、榎本牧師とつき合うことになった。この二年後に再び招かれて、今治に講演に行っている。榎本牧師も幾度か講演に来道し、私宅にも泊まってくれた。二度目に今治に行った時は、先生夫妻と私たち四人で、昼食に魚料理を食べに「魚善」に行ったが、食後、私は提案した。
「先生も疲れているから、寝ころんで話をしましょうよ」
立派な和室で四人が寝ころび、テーブルの下から顔と顔を見合わせ、いつまでも楽しく話し合った。が、その時先生は言った。
「三浦先生」
改まった声だった。
「ぼくが死んだら、記念に伝道集会をひらいてくれんやろか」
私はその言葉に胸を衝かれた。先生はもう長いこと肝硬変を病んでいた。死期を知っているのだと思った。私は突っぱねるように言った。
「いやよ。わたしより年下なのに、先生が先に死ぬことはないわ」
今、私が「ちいろば先生」を書こうとするのは、この時の先生の言葉への、返事のつもりかも知れない。人々に愛され、慕われ、病弱でありながら、一日一日を火の玉のように生きた先生の、一番大切だったもの、そのものを私も今、病む者の一人として、しっかと見つめなおしたいのである。榎本先生の壮絶とも言える最期は、後々に述べるとして、先ず彼をこの世に送った両親から話を展げていきたいと思う。
鯉のぼり
昭和五年(一九三〇年)、晩秋の午後――。
十一月にしては珍しく暖かい。淡路島の南部、三原郡|神代《じんだい》村の延命寺に、今、住職が外から帰ってきたところだった。
「あら、おじゅっさん(住職)、これ、この間の卒園式の写真やないの」
住職から手渡された写真を見て、声を弾ませたのは、若い保母であった。
「ほう、写真もうでけたのん?」
胡麻を煎《い》っていた住職の妻も、茶の間に入って来て二人のそばに坐った。延命寺では、ここ数年来、農繁期には季節保育所をひらいていた。保母は住職の妻と、この若い保母の二人っきりである。写真をのぞいた妻が、たちまち眉をひそめて、
「ま! この写真、どないしたん?」
境内のうばめがしの木の傍らに、住職、保母、そして二十五、六名の園児たちが写っている。男児も女児も真剣に、口もしっかと結んでいる。中には、あまりの緊張に耐えかねてか、
「な、かんにんな、かんにんな」
とでもいうような表情で、合掌している男の子もいる。
ところが、前列中央の椅子に坐っている男の子だけは、様子がまるでちがう。ほとんどの園児が紺がすりの着物に、白い前かけをつけているというのに、背広に半ズボンのモダンな姿である。それだけならいい。みんなが生真面目に写っている中に、この子だけは両側の子供の肩に手をかけ、股をひろげて気持ちよさそうに眠っている。しかも靴を無造作に脱ぎちらした足は、宙ぶらりんだ。
「まあ、いややわ、保郎《やすろう》君ったら。自分一人のんきそうに眠っていて。なあ、奥さん」
「ほんまになあ、天下泰平いう顔つきやなあ」
保母と、住職の妻は思わず顔を見合わせた。
「な、どうや、おもろい写真やろ。やっぱり榎本|通《とおる》さんの子ォや。人とちごうとるわ」
住職はにやにやした。
「けどお……」
若い保母が色白の頬を傾けて、
「おじゅっさん、そんなんおもしろがってばかりおられへんわ。これ、卒園記念の写真ですやろ。記念写真に、こんな、眠ったりして、ふざけとるいうて、父兄がカッカするんとちがいますか?」
「そうやなあ、カッカとなる人もあるやろな」
住職はのんきな声で言った。
「おじゅっさんたら、そんなのんきな……な、奥さんどないしましょ。こんな写真、卒園記念いうて、よう渡せんわ」
「ほんまになあ。というて、今更写真の撮り直しやいうて、子らを集めるわけにもいかんしなあ」
住職の妻も眉根を寄せた。
「けど、奥さん、あの写真屋、阿呆とちがいます? 一番前の真ん中の子ォが、こんなん眠っているのを、なんで目に入らなかったんやろ」
「全くやなあ。そやけど、でけたもの、しょうもないわなあ」
住職の妻は仕方なさそうに呟いた。その二人の困る様子を見て、住職はまたもにやにやと笑っていたが、
「心配いらん、この写真はペケのほうや」
「ペケのほう?」
「そうや、ペケや。ほら、あん時写真屋が一枚目ぇ写して、もう一枚写しますぅ言うたやろ。そん時にな、保郎いうたら、ぱっと眠った真似したんやって。おもろい子やと、写真屋が言うとったわ」
「まあ! おじゅっさんったら、うちらにさんざん心配させて」
「ほんまになあ、あきれたお人や」
恨む二人に、住職は風呂敷包みから、他の写真を出して言った。
「ほら、こっちが本番じょ。けどな、ペケのほうがおもろいやろ。それで二、三枚もろうてきたんや。いかにも通さんの子ォらしいやろ」
この自由|闊達《かつたつ》な童児こそ、この小説の主人公「ちいろば先生」の幼き日の姿であった。
このひょうきんな幼子保郎の父親は、榎本通と言った。通は、「とうやん」という愛称で呼ばれる、この界隈の名物男であった。通は明治三十一年(一八九八年)七月二十三日、淡路島三原郡神代の、代々庄屋を務めた榎本家の次男として生まれた。長男茂とは一歳ちがいであった。
この「とうやん」こと通には幾つものエピソードが残っている。小学三年生の春のことであった。通は屋敷の納屋に上がって、うらうらと陽炎《かげろう》の燃える畠を眺めていた。この島の盆地を囲む山々の一つに、淡路富士と呼ばれる先山《せんざん》がある。
「先山にはな、淡路の島をお守り下さる尊い神さまが宿っているんじょ」
幼い時から、父母にそう聞かされて育った。その先山に、通は目を移したが、不意にまじめな顔になって柏手《かしわで》を打ち、うやうやしく拝礼した。通はいたずらっ子ながら、神社仏閣の前を通る時には、忘れずに手を合わす。
先山に向かって合掌し、その目をひらくと、すぐ前の菜の花畠の小道を、一年生の男の子たちが三人、縦に並んでやって来るのが見えた。つい半月前入学したばかりの一年生だ。
「おーい、一年坊主」
三人が声のするほうを見た。
「ちょっと来ォ。いいもんやるじょ」
通は屋根の上に突っ立ったまま、手まねきをした。喜んで一年生たちは駆けて来た。
「とうやん、なにくれるう?」
納屋のそばまで来て、三人は通を見上げた。
「いいもんじょ。もっとこっちへ来ォ」
と、通は軒下を指さし、
「ええか、おれが、ええ言うまで、しっかり目ぇつぶっているんやで。目ぇあけたもんには、なんもやらんじょ。ええな、目ぇつぶって両手を出すんや」
子供たちは言われたとおり、神妙に目をつぶり、両手を差し出した。通は屋根の端に立って、いきなり着物の前をめくった。時ならぬ時雨に子供たちの悲鳴が上がった。
また、こんなこともあった。土塀で囲まれた広い庄屋屋敷の三方は藪である。通は庭の築山を駆け上がったり、屋敷の傍らを流れる川でよく遊んだ。きれいな流れには雑魚がたくさんいた。ある夏休みの一日、通は友だちとその流れをせきとめて遊んだ。水底が現れると、なまずやふながぱちゃぱちゃと跳び上がる。その魚の姿に、通たちは興奮して、竹の棒で魚を突つく。突ついては水の入った手桶に入れる。と、その時、通はあやまって、持っていた竹の棒で自分の手を思い切り突いた。鋭い切っ先で突ついたのだからたまらない。血がたらたらと流れた。通は顔をしかめたが、悠然と血をすすり、やにわに傍らの子の浴衣をぴりりと破り、それで傷をくるくる巻いた。その浴衣は、つい二、三日前仕立ておろしたばかりものだった。その子は泣いて帰って行った。その日、親にねじこまれて、通は自分の父親にきびしく叱責された。
「新しい着物を破る奴があるか」
「新しいから破ったんや。古い着物ならほうたい代わりにならん」
通はけろりとして言った。こんなやんちゃな通だが、不思議に人気があり、人々に好かれた。
長じて通は、体躯堂々たる偉丈夫となった。が、女中の十人も使う庄屋の次男坊に生まれた誇りが高過ぎた。同時に次男であることが、通の生来の闊達な気性を、幾分すね者に変えた。
(兄貴とわしは、只一つしか年がちがわんのや)
長兄も頭はよかったが、通の才も秀でていた。格別に兄に劣るところのない通が、兄とは悉《ことごと》くちがった待遇を受けるのだ。それが、どうにも納得いかない。長兄は広い屋敷と広い土地を相続する。が、一年後に生まれて来たばかりに、通は僅かに三反の土地と、小さな家しか約束されてはいない。兄は本家として君臨するが、自分は一介の分家に過ぎない。幼い時から兄の坐る場所は厳然として決まっていた。食事も一品、通たち弟妹より多い。着せられるものもちがう。使用人や村人たちの兄に対する態度と、通たちに対する態度も異なる。それが当時の封建的日本の社会の慣習であった。が、通はこれを不服とした。
その通に、長じて養子の話がまとまった。通二十四歳の時であった。養家先は同じ淡路の福良《ふくら》の素麺屋であった。福良は淡路素麺の中心地で、文化年間(一八〇一〜一八年)に伊勢から技法が伝わってきた。大正三年(一九一四年)にはサンフランシスコで開催された万国博覧会において、既に金牌《きんぱい》を受賞していた。通の養家は、島内の製麺業八十軒の中でも老舗であった。通はゆくゆくこの老舗の主人になれる筈であった。が、どれほども経たぬうちに不縁となった。通に婿が務まるわけはなかった。養父が素麺の箱に打つ釘の打ち方を教えて、
「とんとんと、静かに打つんじょ」
と、手本を示して見せても、通はがつがつと大きな音を立てる。
「そこを閉めてや」
と言われれば開ける。
「早くしてな」
と促されれば遅くする。万事がこのとおりではうまくいく筈がない。通は元々婿になる気がなかったのかも知れない。養父母と協議離縁、妻と協議離婚となったのは、戸籍では大正十二年(一九二三年)十月となっている。
だがその前に、通は養家を飛び出して東京に出ている。その頃淡路には、次のような笑い話に似た話が伝えられていた。
ある少年が父親に連れられて、淡路島で一番高い諭鶴羽《ゆづるは》山に登った。右手に四国、左手に紀伊半島がのぞまれ、眼下には沼島《ぬしま》、そしてその背には渺々《びようびよう》たる太平洋が限りなく広がっていた。少年は初めて見るわが島の雄大な展望に、思わず歓声を上げた。
「おとっつぁん、これが世界やなあ。世界は広いなあ!」
父親は首を横にふって言った。
「馬鹿言うな。世界はな、この十倍もあるんじょ」
通はこの小さな島から脱け出そうと東京に飛び出したのである。その東京で、通は材木問屋に勤めた。だがここで、どれほども経たぬうちに、大正十二年九月一日の、あの関東大震災に遭遇したのである。人々の無惨な死を通はいやというほど見せつけられた。金持ちも貧乏人もなかった。男も女もなかった。老人も子供もなかった。無惨に焼けただれた死骸を見た時、通は初めて人生というものについて考えた。
わけても、自分が世話になっていた商家の悲惨さに通は胸を衝かれた。江戸時代から二百年もつづいたというその主家が、瞬時にして一家全滅した姿を通は見た。何代もかかってあくせくと働き、広い土地と豪壮な家屋敷を持ったところで、一朝にして無に帰するのだ。
(金や地位なんて、もろいもんや。庄屋、本家やいうても同じことやなあ)
肝に銘じて通はそう思った。二度と帰るまいと思った淡路に、通は再び帰って来た。
(地震で死んだつもりで、生まれ変わるんや)
通はその証《あか》しの一つとして、以来死ぬまで肉食を断った。焼けただれた人間の肉体を見たゆえに、好物の肉を断ったというだけではない。食物を変えたように、生き方を変えようと思ったのである。
そんな通に、父親は再婚の相手を探してくれた。近隣の農家鳥井三右衛門の長女ためゑであった。
「もう金持ちはこりごりや」
という通の言葉を特に容れたわけではない。が、ためゑの実家は貧しかった。父がためゑを見込んだのは、通の妹貞子と、ためゑが小学校の同級で、その評判を聞いていたからであった。
ためゑは家計を助けるために、毎朝牛乳配達をしていた。家事や農作業にも甲斐甲斐しくいそしんでいた。勉強をする暇もなかったのに、ためゑは首席で小学校六年を卒業した。貧しくはあっても、級友に敬愛される賢い娘であった。このためゑに、通の父が先ず惚れこんだのである。
ためゑもまた短い結婚生活の経験者であった。最初の夫は女遊びが激しかったらしい。このためゑと通が結婚したのは大正十三年(一九二四年)の春である。通満二十五歳、ためゑ二十三歳であった。
本家とは目と鼻の所に、通は土地三反を与えられ、新居を建てた。当時としては珍しい二階建てであった。家の傍らを二本の小川が流れていた。ためゑはその水量の少ないほうで洗い物をした。水量の豊かな川は、本家のほうに流れている。分家の身で、洗濯水を本家のほうに流しては申し訳ないと、ためゑは心くばりをしたのである。こんなためゑであったから、さすがの通も仲よく新婚生活を営むことができた。
嫁いで間もなくためゑは妊娠した。出産予定日が翌年四月末と知って、通は妙なことを言い出した。
「そんな月末に産むのはやめとけ」
「あんたはん、やめとけ言うても、それは無理やなあ。こればっかりは」
「けどな、月末なんて、借金取りの声におどろいて産気づいたみたいやないか。わしはいやや」
賢いためゑは通の気性に気づいて、
「さようか。じゃ、いつにしまひょ」
と、にっこりした。鼻っ柱は強くても、しかし通は優しい心根の男であることを、ためゑは見抜いていた。優しくはあっても、一旦気に障ると、かっとなるところもあった。不意に箪笥《たんす》の引き出しから日本刀を引き出してふりまわす。焼鏝《やきごて》を投げる。大声で怒鳴る。頑丈な体格なだけに、暴れると猪《いのしし》のようであった。若いためゑは、最初は仰天したが、すぐにその気性をのみこんだ。
後のことだが、次のようなことがあった。三原郡は酪農地帯である。通も小さな店で商いをしながら、玉ねぎを作り、牛を二、三頭飼っていた。昭和八年、N社が島の集乳を一手に占めようと乗りこんで来た。洞察力のある通は、
「N社の独占に委ねるな。明治や森永や、雪印も導入して競争させねば、農家が馬鹿を見る」
と、同志に呼びかけて奔走した。ところが通がその集会から帰る夜道で、暴漢数名に囲まれた。通はいきなり路上に大あぐらをかいて坐りこみ、
「やいっ! 殺せるものなら殺してみい!」
と一喝した。暴漢たちはその気魄にふるえ上がって遁走した。こうして通は大手メーカーの独占を斥《しりぞ》け、淡路酪農の発展に貢献した人物でもあった。こんな夫を、いかに扱うべきか、ためゑは僅かの間に心得ていた。月末に産むなという通に、
「じゃ、いつにしまひょ」
と笑顔を向けるためゑだった。通はちょっと言葉に詰まったが、
「そうやな、ええとなあ、いっそのこと、五月五日はどうや」
「五月五日なあ。それはええなあ」
「ええやろ、端午《たんご》の節句に、玉のような男児出産いうのはええで。うん、五月五日に決めた。必ず五日に産むんじょ」
確信ありげに通は言った。
「なるほど、五月五日に男児をなあ。それはほんまにええなあ」
ためゑは逆らわなかった。
働き者のためゑは、産み月になっても暗くなるまで畠で働いた。
「無理はあかん」
そうは言ったが、五月五日の男児出産への通の希望は揺るがなかった。男児か女児かもわからぬうちに、通は鯉のぼりを買ってきた。四月三十日の予定日は過ぎた。一日二日三日は経った。
「あと一日や。がんばれや」
通はためゑの大きな腹にそっと手をやった。
五日になった。
「さあ、今日や、今日赤児が生まれるんや」
またもや通は確信ありげに言った。ためゑは午後産気づいた。産婆が来て、日が暮れたが赤児は生まれなかった。
「もうええ、何なりと産め」
ためゑの苦しむ声に、通がそう言った時、元気のよい赤ん坊の泣き声が家中に響き渡った。午後十時男児出生であった。これが「ちいろば先生」こと榎本保郎の誕生であった。保郎は後に述懐している。
「神はこんな八方破れの男を選んで、わたしの父として下さったのです」
通の願いどおり、五月五日、端午の節句に男児が生まれたことは、通をひとかたならず喜ばせた。
「なあ、この子は大した賢い子ォや。わしがためゑに、五月五日に産め産め言うとったのを、腹ん中でじーっと聞いていたんやなあ」
祝いに来た親戚や村人たちに、通はこんな冗談を言って笑わせた。
「とうやん、しかし端午の節句に男の子とは、珍しなあ。ほんまにええ偶然やったなあ」
客たちは誰もが言った。が、ためゑには単なる偶然とは思えなかった。通に嫁いで、まだ一年余りしか経たなかったが、ためゑは夫通の中に、他の人間にはない能力といおうか、霊力といおうか、何か異なるもののあるのを感じていた。
「今日あたり、菊村さんが来るのとちがうか」
通が言うと、その人がひょっこり顔を出す。そんなことが一再ならずあったし、ためゑが頭痛や腹痛の時など、
「なあに、すぐに治る」
と、その大きなあたたかい手を患部に当てると、十分と経たぬうちに治ることが度々あった。
去年、結婚に際して、畠の真ん中にぽつんと新居を建て、その一画を店構えにした。
「こんな畠の真ん中で、店が成り立つかいな」
人々は反対した。だが、通は、
「大丈夫や。今にな、人が集まるようになる」
と、こともなげに言った。ちょうどその頃、この辺りに鉄道を通すという話が持ち上がった。通は早速父親に相談し、鉄道敷設の土地を提供するかわり、店の前に駅のプラットホームを建設して欲しい旨願い出た。父親の力もあって、神代《じんだい》駅が通の店先に設けられ、店は駅の売店をも兼ね、乗車券なども扱うことになった。と言っても、一日の乗降客は知れている。
その後何年か経って、通は重い脚気《かつけ》を患い、心臓に支障を来し、死ぬばかりとなった。が、御嶽《おんたけ》教を信じて健康を取り戻した。御嶽教信者となった通のもとに、次第に人々が集まるようになった。御嶽教信仰をもとにしての闘病体験を聞きに来る者、通に手を置いてもらい、病気を治してもらいに来る者、身の上相談に来る者、農作業や商店経営の相談に来る者等々、数を増していった。これでは本業がおろそかになる。遂には月の朔日《ついたち》、十五日を面会日とするようになったが、面会日には朝の五時から夜の十一時十二時まで、実に五百名から千名の人が入れ代わり立ち代わり通のもとにやって来るようになった。それほどに通の助言は確かだったし、病気を治す力も大きかった。通もためゑも、これらの人から礼金をもらおうとしなかったから、来る人々はぐんぐん増えていったのである。この集まる人にとって、神代駅が通の店先であることに、どんなに便利を感じたか計り知れない。
これら、のちのことはともかく、ためゑには、夫の通がいたずらに五月五日の誕生を願ったのではなく、そのような予感が与えられていたのではないかと、思わずにはいられなかった。
生まれた赤児は四キロを超える元気な男児であった。命名は、隣の、と言っても三十メートルほど離れた長月庵《ちようげつあん》の庵主、麻生真浄尼《あそうしんじように》に依頼した。まだ四十歳前の真浄尼は、小柄ながら凜として、かつあたたかい人柄であった。通夫婦は日頃からこの真浄尼を畏敬していた。お七夜に真浄尼が訪ねて来て、重い赤児を膝に抱いて言った。
「なあ、通はん、保郎いう名はどうやろ」
と、通夫婦の顔を交互に見て、
「ヤスロウのヤスは保つの保や。この字はなあ通はん、あんたもご存じのとおり、『やすんずる』ということや。保つということや。それになあ、『引き受ける』とか、『請けあう』という意味もあるわなあ」
通は膝を打って、
「ほほう、いろいろと意味が深いんやなあ。男らしうて、ええ名前や。さようか、『引き受ける』とか『請けあう』意味もあるんか。保郎とはこりゃええ名前や」
「そうか、そないに喜んでもらうとうれしなあ。なあ、通はん、ためゑはん、この子ォは榎本家をやすきにおく子ォになるんや。男らしう、何もかも引き受ける人間になるんや。ほんまに長男らしい、ええ名前ですやろ、通はん」
「おじゅっさんから、こんなええ名前つけてもろうてなあ、この子は幸せ者や。こりゃ、保郎、お前はなあ、榎本保郎と言うんじょ。ええか! わかったか!」
通の大声に、保郎はわっと泣き出した。真浄尼もためゑも通も笑った。
保郎は長男として生まれたものの、ひと月もしないうちに、一日中放りっぱなしにされるようになった。通もためゑも野良に出て休まずに働かねばならなかったからだ。汽車の来る時間には、どちらかが乗車券を売りに家に戻る。品物を買いに来る客が、野良の二人に大声で呼ばわれば、あわてて店に走る。その序《ついで》にためゑは保郎に乳房をふくませるが、すぐにまた野良に駆けて行く。
一人でいることに馴れたとはいえ、知恵がつくにつれ、保郎は大声で泣くようになった。が、ためゑはなかなか帰れない。時には、火のついたように激しく泣く。その声は三十メートル離れた長月庵にも聞こえていく。真浄尼は駒下駄を鳴らしてやって来る。
「保郎はん、何ぞご用かいな」
真浄尼はにこにこと保郎をのぞきこむ。声を聞いただけで、保郎の泣き声が弱まる。
「さよか、おじゅっさんのお経聞きたいんか」
真浄尼は保郎を抱き上げて、いそいそと長月庵に連れて行く。名づけ親の真浄尼にとっては、保郎が他人の子とは思えなかった。保郎を膝に般若心経を上げる。木魚を叩く。こうして、保郎は毎日お経を聞いて育つこととなった。実の母のためゑよりも、真浄尼と過ごす時間のほうが長い。こんな生活が小学校に入るまでつづいた。
よちよち歩きができるようになると、朝食もそこそこに、保郎は長月庵に出向いて行くようになった。真浄尼も、保郎が門から入って来る姿を見るまでは、何となく落ちつかない。柔和な優しい真浄尼だが、戒律をきびしく守り、肉、魚は口にせず、暑かろうと寒かろうと、朝夕の勤行を怠ったことはない。
よちよち歩きの保郎にお経がわかる筈もない。が、生後間もない頃から聞き馴れているせいか、真浄尼がお経を上げている間は、保郎は傍らにちんまりと坐って、手を合わせている。そしていつしか、小さな口を動かして、真浄尼のお経を真似るようになった。
「まあ! わかるんやろか、むずかしいお経をなあ」
「こないに小さい子ォが、不思議やなあ」
二人の若い尼僧が驚くほどに、保郎がお経に退屈するふうは、ついぞなかった。
「保郎はんはな、長月庵の子やさかい、お経が好きなのやなあ」
真浄尼はそう言って目を細めた。三歳の頃にはもう般若心経を諳《そらん》じ、真浄尼と声を合わせて、
「……舎利子《しやりし》 色不異空《しきふいくう》 空不異色《くうふいしき》……」
と幼い声を上げる。庵の庭で小石など並べて遊んでいても、不意に、
「……行深般若波羅蜜多時《ぎようじんはんにやはらみつたじ》……」
と、一人で呟いていることもある。また、真浄尼や若い尼たちと一緒になって、板の間の雑巾がけをする。本堂の畳を拭く。庭掃除をする。真浄尼のすることは何でも真似た。その姿が愛らしくて、真浄尼や尼たちはむろんのこと、参詣人たちからも保郎は愛された。
五つ六つになると、保郎はけっこう小坊主のように役立つようになった。
七つになった保郎に、待ちに待っていた花祭りが今年も近づいてきた。去年も一昨年もしたように、真浄尼は保郎を連れて、田んぼの畦道《あぜみち》を行く。白い雲がぽっかりと浮かんでいる春の空の下を、真浄尼と保郎は手籠に畦道の花を摘んで行く。すみれ、たんぽぽ、菜の花、二人は次々と摘んで行く。この花々は、釈迦の像を入れる小さな堂の屋根に飾るのだ。屋根の上に、赤土をこねて厚く塗り、屋根一面を花で飾る。小さな仏像は、今生まれたばかりの赤児の釈迦の像なのだろう。片手で天を指し、他の片手で地を指している。その像が産湯のたらいの中に立っていると見立てるのか、像はたらいの中に入っている。そこに甘茶が入れられ、花と甘茶の香りが漂うのだ。参詣人たちはその甘茶を、小さな柄杓《ひしやく》で釈迦の頭にかける。そして持参の小壜に、甘茶をもらって帰って行く。甘茶は厨《くりや》のかまどにかけた鉄釜の中で、朝から煎じ、それを手桶に入れておく。この甘茶を壜に入れて渡すのが保郎の役目である。大人も子供もわいわい騒ぎながら、列になって甘茶を待っている。保郎は何か自分が偉くなったような気がした。胸を張って台所や、本堂を歩きまわる。
(わしは、とくべつの子ォや、おじゅっさんの子ォや)
何となく、そう言って威張りたくなる。うれしくなる。得意になる。それが保郎の花祭りの日だった。だから保郎は、花を摘むのも楽しかった。優しいおじゅっさんに従《つ》いて歩くのもうれしかった。
「 昔も昔 三千年…… 」
真浄尼と保郎は花を摘みながらうたう。真浄尼に口移しで教わったこの歌を、なぜか保郎は、「ハトポッポ」や「ヒノマル」の唱歌より好んだ。特に、声のきれいな真浄尼と一緒にうたうのがうれしい。
「 花咲き匂う 春八日
ひびきわたった 一声《ひとこえ》は
天にも地にも われひとり 」
この歌で、保郎はいつの頃からか、
(お釈迦さんの誕生日は四月八日なんやな)
と、知るようになった。
「 立派な城に 生まれ出で
富も位も ありながら
ひとりお城を ぬけ出でて
山にこもれる 十余年 」
幾度もうたっているうちに、何となく歌の意味がわかってくる。だが保郎には、「とみもくらいもありながら」が、どうもわからない。近所にトミという女の子がいる。だから、「とみもくらいもありながら」とうたうと、どうしてもその女の子の姿が浮かんでくる。「くらい」というのは、夜のあの「くらいこと」だろうかと思う。しかし、「トミ」も「暗い」もありながらと思ってうたうと、何が何だかわからなくなる。
「おじゅっさん」
保郎は摘みかけたすみれに手を置いたまま、真浄尼の顔を見た。
「何や、保郎はん」
真浄尼は白い顔を保郎に向けた。
「とみもくらいもありながらって、うたうわなあ」
「ああ、うたうわなあ」
「とみって、女の子の名前やなあ」
真浄尼のまなじりにやさしい皺ができた。
「そうやなあ。女の子の名前と思うわなあ。そやけどなあ、保郎はん、この歌ではな、お金のことや。お金や、畠や、田んぼや家のことなどを、富ともいうんや」
「ふうん、なんや、とみって、ぜにのことか」
保郎は賢くうなずいて、
「ほなら、おじゅっさん、くらいって何や。まっくらいうことやろか」
真浄尼は再びまなじりに皺を刻んで、
「保郎はん、まっくらもくらいにはちがいあらへん。そやけどなあ、この歌のくらいは、まっくらのくらいとはちがうんじゃ」
「ふーん、まっくらとはちがうんか」
「ちがうなあ。あのなあ、保郎はん、偉い人を知っとるか」
「知っとる知っとる、おじゅっさんがえらい」
父や母がいつも「おじゅっさんは偉いお人や、立派なお人や」と言うのを、保郎は聞いている。真浄尼は笑って、
「そうではあらへん。ほら、大臣とか大将とかのことや」
「ああ、聞いたことがあるわ」
「な、その大臣とか大将は、位があるお人や」
保郎はよくわからぬ顔をした。
「学校の先生の中でなあ、一番位のあるのは校長先生やな」
保郎は少しわかった顔になった。
「王さまや王子さまは、位のあるお方や」
これは保郎にもよくわかった。
(けらいのある人が、くらいがあるんやな)
とわかった。
「保郎はん、お釈迦さまはなあ、王子さまやったんや。富も位もということは、お金も位もということじょ」
「ふーん」
「なあ、わかるやろ。お釈迦さまはな、お金も位もあるお方なのに、ある夜、こっそりとお城を出てな、山に入っておしまいになったんじょ」
「どうしてや、おじゅっさん」
「それはなあ、保郎はん。お釈迦さんの欲しいものはな、お金でも位でもなかったんやな。この世には、それよりもなあ、もっと大事なものがある筈やと、それを探しに山に入られたんや」
「へえー、山の中に、何をさがしにいったんやろ」
保郎は何となく、保育所でした宝探しを思い出した。
「探すいうてもな、キョロキョロ探すとはちごうてな、じーっと坐って、目ぇつむって、人間の一番大事なものは何やと、考えなすったんや」
「ふーん、にんげんのいちばんだいじなもんは、目ぇつむらんと、さがせんのか」
保郎には、よくわからなかったが、真浄尼の話は、何となく保郎の心を惹いた。保郎はこの際、いつも不思議に思っていることを尋ねてみようと思った。
「なあ、おじゅっさん、おじゅっさんのところでは、なんで神さまおまつりせんのや。ぼくんちには、神さまをようけまつっているんじょ」
保郎の家には神棚が十八もあった。天照皇大神宮、御嶽神社、出雲大社のお札がそれぞれの神棚に祀られ、西の宮の恵比須さん、台所の荒神さん、その他、保郎には覚え切れぬ神々が祀られていた。近頃、この神棚にご飯を供えるのが保郎の勤めとなった。へぎ板で作った「おへぎ」という器に、炊きたてのご飯を盛りつける。そのご飯を、各神棚に供えて歩く。背が低いから、保郎用に造った踏み台を持って行っては、その上に爪先立ちをして神棚に供え、その度に柏手を打たねばならない。毎朝、幾度も柏手を打って歩く。これは中学校を卒業するまで、保郎の仕事となったわけだが、たとえ学校に遅れそうになろうが、通学列車がそこまで迫っていようが、神事をおろそかにさせぬ通であった。
近頃、毎朝この仕事をしている保郎には、長月庵に神棚のないことが、次第に大きな不思議となってきたのである。
「それはなあ、保郎はん。おじゅっさんはなあ、お釈迦さんがお城を出なはったように、おじゅっさんも家を出てきたんや。家を出るのはな、出家と言うてな、只の家出とはちがうんじょ。一生おじゅっさんは、お嫁にも行かん、子供も産まん、ただ仏さんにだけお仕えしようと、決心して家を出たんや」
真浄尼の声が、いつもとちがうような気がして、保郎は花を摘む手をとめ、じっと真浄尼の顔を見つめた。
「つまりな、大好きなお父はんやお母はんや、きょうだいや、友だちやな、親戚やみんなとお別れしてきたんや。その時な、八百万《やおよろず》の神さんたちとも、すっぱりお別れしてきたんや。おじゅっさんはな、仏さんにだけ仕えよう思ってな」
「ふーん、それで、おじゅっさんのところに神さんはいないんか。そんなら、おじゅっさん、神さんにたすけてもらえへんやないか。こまらんのか」
「保郎はん、おじゅっさんはな、仏さんに守られているでな。それにな、仏さんにも神さんにも助けてもらおういうのは、欲張りというもんじょ」
保郎は何となく身の引きしまるのを感じた。子供心にも、真浄尼のきびしさを感じた。それ以来、保郎は、仏は男か女か、幽霊のように足がないのか、仏と神とはどうちがうのか、どうして仏も神も目に見えないのかなどと、毎日のように真浄尼に質問を発するようになった。
怖《お》じみそ
「なんでおまえ、そんなもん着てんのや」
「それ、子供が着るもんか、おとなの着るもんやで」
「ようふくちゅうもんやろ、それ」
「ハイカラやなあ。けど、おまえのほか、誰も着てへんで、そんなもん」
「おまえんち、金持ちなんやな」
保郎が小学校に入学して、二、三日後であった。放課後の校庭で、保郎は級友たちにぐるりと取り囲まれた。誰もが絣《かすり》や棒縞の着物を着ている。誰も保郎のように紺サージの服やズボンなど、身につけていない。保郎は保育所に通っている頃からこの姿だった。だが、保育所に通っていない子には、珍しい姿なのだ。父の通は、
「わしは、着物より洋服が好きやからのう」
と、いち早く先端を行く姿をさせた。実を言えば、通の妹が福良《ふくら》の「西洋店」という高級洋品店に嫁いでいた。布地が安く手に入って、絣の着物を新調するのと、値段に格段の差があったわけではない。が、通の胸にはいつも、
(わしは本家には負けん)
という思いがあった。長兄に一年遅れて生まれたばかりに、本家の主となることが出来ず、分家した口惜しさが、いっそう通にこうした意識を抱かせたのだった。
保郎は、自分を取り囲んで、肩にさわったり、襟にさわったり、ボタンをいじったりしている級友たちを眺めながら、黙りこんでいた。ふだんは明るくてやんちゃな保郎だが、今日は困った顔をしている。
(ほんとやなあ、おれ一人やもなあ、洋服着とんの)
何だか悪いことをしているような気がした。
「ハイカラや、ハイカラ、ハイカラ」
子供たちが囃はやし始めた。保郎は淋しくなった。
「ハイカラ、ハイカラ」
子供たちの声が大きくなった。と、保郎は誰よりも大きな声で叫んだ。
「ハイカラ! ハイカラ! ハイカラ! ハイカラ!」
みんなは保郎の大声に気をのまれた。保郎は「ハイカラ」「ハイカラ」と繰り返し、ひょうきんな身ぶりで踊り出した。盆踊りの手つきである。子供たちはたちまち保郎のあとに従《つ》いて踊り出した。
「ハイカラ、ハイカラ」
「ハイカラ、ハイカラ」
「ハイカラ、ハイカラ」
「ハイカラ、ハイカラ」
みんな、いつの間にか笑いふざけて、校庭で踊っていた。このように、保郎には、どこか優れたリーダーの素質があったと、級友たちは今も語っている。
その夜、保郎は寝る前に父母に言った。
「ぼく、明日から着物着ていく」
「着物? なんでかいな」
母のためゑが、優しく尋ねた。ためゑの声はいつも優しい。ためゑが大きな声を出しているのを聞いた者は、一人もいない。タバコをのんでいた通が、じろりと保郎を見た。保郎はその目に怯《おび》えたが、
「だってえ、みんな着物着とるもん。ぼく一人服着とんの恥ずかしいんや」
通がタバコを灰皿に強く押しつけて言った。
「何やとう。みんな着物やとう。保郎、なんでお前だけ洋服なら恥ずかしいんや」
「だって、みんな見るもん」
「保郎、男いうもんはな、いつも人と同じことをしていれば安心いうのでは、あかんのや」
「…………」
「いいと思うことは、たった一人でもするもんじょ。服のほうが、着物より便利やろ。今に見ていてみい、二、三年もしたら、着物など着るもん、一人もいなくなるで」
保郎は大きな頭で、こっくりとうなずいた。
「服のことはともかくなあ、保郎、何でも人と同じことしてたら安心という根性は、俺は大嫌いや。みんなが悪いことしてたら、お前も悪いことするのんか。何でもみんなと一緒やと思っとったらな、悪いことまで一緒にするようになるんじょ」
「…………」
「みんながしとるもん、みんなが着とるもん、みんなが使っとるもん、みんながみんなが言いよったら、悪いことまでせんならんようになるわ。みんながしとっても、ええことはええ、あかんことはあかん。わかったな、保郎。明日も服着て行け」
保郎は二階に上がって、自分で敷いた布団にくるまって思った。
(お父はんの言うこと、ほんとかも知れへんな。そう言えば、みんなは、みんなしてることやと、人んちの柿ぬすむでな。そやけど、ぼくはまだ人んちの柿、ぬすんだことあらへん)
事実、近所の者たちは、保郎が柿を盗んでいるのを見たことがない。柿泥棒は子供の遊びのひとつだが、保郎がそれに加わっているのを見たことがない。それに感心した近くの老人が、みんなの前で、
「保郎、ここの柿は、保郎にだけはいつでも食わしたるでなあ、いつでももいでいきな」
と言ったが、保郎は一度も取りに行かなかった。それをまた老人は讃歎した。
保郎は去年、小さな畠を父母からもらった。一坪か二坪の畠に、保郎が一番先に植えたのは柿の木であった。
父の言うことは本当だと思ったが、この頃時々引っかかることは、
「お前はな、特別の子ォやからな」
とか、
「お前はおじゅっさんに名前つけてもらったんやから、神仏のお加護があるんや」
とか、
「ねがいどおり五月五日に生まれた子ォや。ほかの者とはちがうんじょ」
などという言葉だった。保郎にはどうちがうかわからない。長月庵の真浄尼は、
「人間はなあ、みんな同じや、同じみ仏の子でなあ」
と言う。よくわからないが、父の言葉はどこかまちがっているような気がする。五月五日に生まれたら、なぜちがうのか、それがわからない。お釈迦さまは王子として生まれた。が、そんな王子の位など偉いとも何とも思わず、捨ててしまった。いつもいつも真浄尼にそう聞かされてきたから、どうも父の言葉はわからない。
傍らで、二つ歳下の妹のかつみが電灯の下に白い片頬を見せて安らかに寝息を立てていた。愛らしい寝顔だ。
(かつみも、ぼくも、おんなじや)
かつみは、「お兄ちゃん、お兄ちゃん」とよく保郎になつく。保郎より大人なところがあって、今もその手の中に、三歳の松代を抱いている。松代のまんまるい寝顔が、笑っているように見えた。この間生まれたばかりの弟一夫と合わせて、保郎には三人の弟妹がいた。保郎には、自分が特別な子供と言われるより、みんなおんなじやと言われるほうがうれしい。
(けど、ぼくはあしたも、服着ていくわ)
みんなにまた何か言われたら、「ハイカラ、ハイカラ」と踊ってやろうと保郎は思った。いや、何も言われなくても、「ハイカラ、ハイカラ」と楽しく騒いでやろうと思いながら、保郎はいつしか眠りについた。
二年生の秋のことだった。
保郎は、友だちと山へ遊びに行って、少し帰りが遅くなった。癇癪《かんしやく》持ちの父の通に、殴られることを覚悟して、保郎は家の戸をそろりとあけた。秋の日は短い。もう家には電灯が点《つ》いている。が、いつもの夕食時とは様子が違う。弟の一夫の泣き声も、松代の声も聞こえない。朗らかなかつみの話し声もしない。玄関には見なれぬ男の靴が二足あった。床の間のある六畳の部屋に、ぼそぼそと誰か男が喋っている。保郎は足音をしのばせて二階に上がって行った。七歳のかつみと、四歳の松代が、眠っている二歳の一夫の傍らで、ひっそりと着せ替え人形をして遊んでいた。かつみは保郎を見ると、
「お兄ちゃん」
と、半べそをかいた。しっかり者のかつみには珍しいことだった。
「何や、なんで泣くんや?」
かつみはすぐに涙を拭いて、
「だって、お父はんとお客はんと、さっき大声でけんかしはったん。なあ、まっちょ」
松代は、
「こわかったあ、なあ、ねえちゃん」
と、あどけない顔をしかめて見せた。
「何のけんかやろ」
保郎は不安になって、
「ちいと見てくるわ」
と、部屋を出た。が、下まで降りるまでもなく、階段の途中で、下の話がはっきりと聞こえて来る。保郎は階段の半ばに腰をかけて耳を傾けた。階段は梯子《はしご》を大きくしたような、手摺りもない階段だ。
「それでなあ」
客が言いかけた時、不意に、
「わかった!」
通の凜とした声がして、
「要するに、わしは騙《だま》されたんやな。親方がこれだけの値でこれだけ買えと言うた。言われたとおり、わしは玉ねぎを買《こ》うた。それを今になって、そうは言わんかったの、払う金ないのと言い出したわけや。要するに騙されたんやなわしは。借金を負わされたんやな。これ以上話を聞いても無駄や」
客はまた、何かごもごもと言おうとした。
「ええやかましい! とっとと去《い》なはれ!」
父が仁王立ちになったように保郎には思われた。出て行く男たちに、母が何か言っている。が、母の声は低くて聞きとれない。客たちはあたふたと帰って行った。
「ためゑ!」
通が大声で呼んだ。母が何か答えた。
「明日から貧乏暮らしや。覚悟はええか」
相変わらず母は低く何か言っている。
(あしたからびんぼうぐらし!?)
保郎は足がふるえた。今までも別段金持ちというわけではなかった。店では鎌、鋤、鍬、脱穀機、藁切機等、農機具を扱うかたわら、醤油、味噌、砂糖、ちり紙、石鹸、文房具等の日用品、そして汽車の切符を扱っていた。そんな中で、通は勧められて玉ねぎの仲買をやっていた。保郎が小学二年生までは、榎本家の財政は豊かと言えないまでも、貧しくはなかった。それが玉ねぎの仲買で大きな負債を負うことになったのである。
一度失敗すると、次々と仕事に齟齬《そご》を来した。先ず貨車一車分仕入れた農機具が、同業者の進出によって、思うように売れなかった。先に仕入れた農機具も農村の不況とぶつかって、売れ行きが鈍った。負債はますます大きくなった。子供四人を抱えて、食うにも事欠くようになった。
その日もみんなで貧しい朝の食事をしていた。食事を終えた通が立ち上がった。その途端、大きな体が不意にゆらいだ。と思うと、たちまちその場に屈《かが》みこんだ。もしもその時、母のためゑがいち早く支えなければ、通はどっと倒れていたかも知れない。ためゑは急いで布団をのべ、保郎やかつみに手伝わせて、通を床に寝かせた。これが通の心臓脚気の始まりであった。翌年、通の病気は一層重くなった。常に目まいがして、肩凝りが激しくなった。足がむくみ、保郎が押すと指跡がくっきりと残った。通はものを言うにもすぐに息が切れた。二階への階段も上がれぬようになった。床に就く時間が長くなった。
「お父はん、今日はどうや?」
保郎は、学校から帰るとすぐに父に声をかける。
「心配せんでもええ。人間は病の器いうてな、病気はするもんや。けどな、症状いう字は、病を正すと書くやろ。今に治る」
通はそう言い言いした。保郎はもう四年生になっていた。が、保郎はまだ、大人の自転車のペダルを踏むには、足が届かなかった。それでも自転車に横乗りをして、五キロ離れた問屋まで仕入れに行くことになった。朝ぐっすり眠っていると、五時半にはためゑが起こしに来る。その日もためゑに起こされた。
「眠いなあ」
保郎はくるりと横を向いて眠ってしまった。と、ためゑは、
「すまんなあ、そやけどなあ、仕入れせんと、売るもんがのうなるんや」
ためゑは優しい声で言う。保郎はしぶしぶ目をさまして、母が紙きれに書いた品々の名に目を通した。白砂糖十斤、ちり紙十帖、マッチ箱五箱、醤油五本、ソース三本などと書いてある。学校の教師より巧みな字であった。
「なあ、お母はん、毎朝五キロも問屋まで往復するの、かなわんわ。一日おきに行ってはあかんのか」
保郎はズボンを穿《は》きながら、あくびまじりの声で言った。するとためゑは、
「保郎」
と言ったまま、保郎の顔を見た。ためゑの目からぽろりと涙がこぼれた。はっとした保郎にためゑが言った。
「保郎、うちにはなあ、二日ぶん仕入れるだけの金がないのや。お父はんが元気なうちは、問屋も言うだけ運んでくれたがな、今は現金持っていかにゃ、よう売ってくれん。こらえてくれや。遊びたいさかりやけどなあ」
ためゑの目から、またぽろりと涙が落ちた。保郎は胸を衝かれた。そんなにも家には金がなくなっていたのか、悪いことを言ったと、母への申し訳なさで保郎もまた泣いた。保郎は、ふだんは朗らかな子だが、何かのことですぐ泣いた。「泣きみそ」と、きょうだいたちからよく言われた。また「怖《お》じみそ」とも言われた。「怖じみそ」とは恐ろしがり屋のことである。この「怖じみそ」で「泣きみそ」の保郎は、仕入れで幾度も泣いた。雨に降られて坂道で滑り、大事な油や醤油の壜を割って泣いたこともあった。ある時は、隣村の五、六年生の子供たちに道をふさがれ、何としても通してくれない。土下座したら通してやると言われ、土下座しながら、おいおい泣いたこともあった。商品の配達や集金で、辺りが薄暗くなった日も泣いた。得意先の小母さんが集金に行った保郎をからかって言ったこともある。
「この山道には強盗が出るんじょ。うちから集金してっても、みんな取られるかも知れへん。そうや、この自転車も取られるかも知れへんじょ」
聞いているうちに、保郎は必ず強盗に出会うような気がしてきた。体が小刻みに震え、「怖じみそ」で「泣きみそ」の保郎は、しくしくと泣き出した。
「冗談や、冗談や。お前さんがあんまりかわいい小僧さんやさかい、それでなあ、からかったんや」
あわててなだめたが、保郎は、
「いや、強盗が出る。きっと出る。自転車もお金も取られる。ああどないしよう。お金取られたら、お母はん困るんや」
と、しゃくり上げる。
「大丈夫やったら大丈夫や」
「ほんまに大丈夫か。ほなら、小母さん送って来て」
保郎は小母さんにしがみついた。しがみつかれて、小母さんはとうとう保郎を家まで送り届ける破目になったのだった。
小学校六年の夏休みが始まろうとしていた。学校の帰り道、級友の弘一が言った。
「俺なあ、夏休みに、箱根に行くんじょ。叔母さんが来い来い言うんや」
「ふーん、箱根なあ。ええとこやってなあ。遊びに行くんか」
「うん、宿屋なんや。叔母さんに子ォがないから、遊びに来い言うんや」
「それはええなあ。箱根は涼しい言うで、蝉取りでもして、遊んで来るとええわ」
弘一の家は村ではゆとりのある家だった。
「保郎ちゃんは、夏休みにどこぞ遊びに行かんのか」
「遊びには行かん。うちは金がないでな」
保郎は悪びれずに言い、にこっと人なつっこい笑顔を見せて、
「そのかわりな、親戚の店の丁稚《でつち》奉公や」
と、内緒話でもするように声をひそめた。
「ふーん、丁稚奉公なあ」
弘一は気の毒そうに口をつぐんだ。が、保郎は平気だった。父がこの頃よく言う言葉を思い出したのだ。
「貧乏がなんや、父さんには電力株がたんとあるつもりや。その株の配当がたんとたんとあるつもりや。何でもあるつもりでいればええんや。ええ気分や」
蛸釣り
二十日正月の朝――。
「早いもんやなあ、保郎も春には卒業や」
母のためゑが、朝食をかきこんでいる保郎を見ながら、誰に言うともなく呟いた。と、次女の松代が、
「そうやなあ、早いもんやなあ。まっちょ(松代)ももう三年生になるんやも、早いもんや」
と、すました顔で母の口真似をした。思わず、保郎もかつみも笑った。すると三女の悦子が、
「悦ちゃんだって、はやいもん、走るのはやいもん」
と言ったので、みんなは腹を抱えて笑った。長女のかつみはしっかり者だが、九歳の松代と五歳の悦子は、底ぬけに明るいところがあった。ひょうきんと言ったほうが当たっていた。ひょうきんと言えば保郎もひょうきんだ。が、保郎はその時ふっと、死んだ二人の弟の顔を思い出した。みんなが笑っている時に、どうして死んだ弟の顔が浮かぶのか、保郎にもわからない。保郎には時々そんなことがある。一夫が生きていたら、今年一年生なのだ。それが三歳の時に、急に腹をこわし、幾日も患わずに正月の八日に死んだ。下の弟雄吉も去年の六月一日に死んだ。生まれて一年と経っていなかった。風邪で高熱がつづき、雄吉もまた、あっという間に死んだ。その二人が、みんなの笑い声を聞いた途端、不意に保郎の目に浮かんだのだ。
保郎はさりげなく店に立って行って時計を見た。あと五分もしたら、六時五十分の通学列車が入る。一般の客も乗り降りするから、切符を売らなければならない。
間もなく福良《ふくら》からの汽車が、轟音を立てて入って来た。保郎が生まれた時から聞きなれている音だ。列車がとまると、車掌がぽんとプラットホームに飛び降りた。中年の男が二人つづいて降りた。男たちは車掌に切符を渡して去って行った。女学校の生徒が二、三人、中学校の男子生徒が四人ほど列車に乗った。列車がまた動き出した。列車は四輛ある。この通学列車は学校別になっていた。一番前の車輛に洲本《すもと》中学校の生徒が乗る。二輛目が洲本商業学校で、これも男子ばかりだ。三輛目は県立淡路高等女学校の女学生で、最後部に柳《やなぎ》実科高女の生徒たちが乗っていた。
店先に立って、見送るともなく見送っている保郎の肩に、あたたかい手が置かれた。いつのまにか父の通がうしろに立っていた。
「保郎、お前もあの通学列車に乗って、洲本中学に行きたいんやろ」
「洲本中学に!? ぼく、そんなとこに行きたいと思ったこと、あらへん」
保郎は父の顔を見上げた。青白くむくんだ顔だった。保郎の言葉に嘘はなかった。保郎は今までずっと、毎年優等賞をもらっている。だが、自分の家の経済状態を、四年生の時から家業を助けてきた保郎にはよくわかっている。自転車のペダルに足の届かなかった四年生の時からみると、今は丈も伸びて、砂利道に車輪を取られて引っくり返ることもなくなった。身丈が伸びた分、保郎の心も大人になっていた。保郎は一度だって、中学校に行きたいと思ったことはない。もし許されるなら、高等科二年を卒業してから、学費の要らない神戸の師《*》範学校に行きたいと思っていた。洲本中学に行けるのは、経済的に余裕のある家の子ばかりだったし、成績も相当優秀でなければならなかった。第一、保郎のクラスに進学する者はいなかった。教師も、通の病気や家の経済状態をよく知っているので、
「中学校に行かないか」
などと、殺生な誘いはかけなかった。
「保郎、わしはな、病気はしていても、中学校へやったる。必ずやったる。貧乏だからと、一生、人に見下げられてなんぞ、おられるもんか!」
通は激したように言った。ためゑが出て来て、
「まあ、こんな店先で。お父はん、今日は気分がよろしいのか」
と、傍らの椅子を勧めた。通は椅子に腰をおろして、
「気分は同じや。それよりもな、ためゑ、わしはな、保郎を中学にやるで」
「えっ? 中学へ?」
ためゑの顔に、さっと不安の影が走った。
「そんな、どこにそんなお金があると言うのかいな」
「金なんか、何とかなるもんじょ。電力株があるつもり、株の配当があるつもり、つもりつもりでええや」
通はいつものように笑った。が、その笑い声は息苦しそうであった。ためゑはほうっと吐息をついた。
「お父さん、ぼく、なんも中学に行かんでもええんやで」
ためゑの吐息を聞くと、保郎はそう言わずにはいられなかった。
「保郎! 中学には行け。何が何でも行け」
「けど……」
「けど、何や」
「もう三学期やでなあ。全く受験勉強しとらんのや」
「かまわん、小学校で習わんことが試験に出るわけでなし、お前なら今から勉強しても間に合う。ええか、今日学校に行ったらな、先生にしっかり頼むんやで」
通は頭を静かに左右にめぐらして、
「今日は目まいはせえへん。ぬくうなれば、体もようなるやろ」
と言い、
「けど、金はあるつもりと思えても、病気はないつもりとは、なかなか思えへんなあ」
笑う声に張りがなかった。
三学期に入ってから受験勉強を始めた保郎だったが、あっけないほど、苦もなく洲本中学に入学した。
「へえー、受験勉強もろくにせんと、合格したんやって」
「そりゃあ保郎ちゃんは、一年生の時から、ずーっと優等生やったからな」
「とにかく朝早くから、夜遅くまで家の手伝いや。勉強する暇などあらへんのや。偉い子やのう」
村の人たちも親戚の者たちも、保郎の突然の入学に驚いた。受験勉強が始まろうが、始まるまいが、毎朝六時前に起きて、五キロの道を自転車で仕入れに走る。帰って食事をし、それから学校に行く。学校から帰ると、ご用聞きにまわったり、品物を配達して父母を助ける。家の中に保郎のほかに店を手伝える者がいなかったから、それが四年生の時から保郎の仕事となっていた。寝たり起きたりしている心臓脚気の父親には、自転車は無理だ。背も高く、骨組みもがっしりしている父親の通は、よそ目にはそれほどの病人とは見えない。が、そんな体格でも徴《*》兵検査の時には甲種合格にはなれなかった。当時から心臓に異常を来していたらしい。
「お前は兵隊にはなれないが、ほかの道で国家にご奉公せい。それにしてもええ体格やなあ。近衛兵《*このえへい》もんや」
軍医がほれぼれと通の体を見上げたという。若い元気な盛りでさえ、乙種になったほどだから、寝たり起きたりの通が、仕入れに走るわけにはいかない。専ら保郎の仕事だった。そんな中で、人々のいうとおり、保郎は放課後一時間程度、受け持ちの先生を煩わせただけだった。つまり、人々の気づかぬうちに、保郎の受験勉強はなされたのである。人々は驚くと同時に、憂いもした。病気で寝たり起きたりの父を抱え、ほそぼそと日常雑貨を商っている。保郎を頭に子供は四人もいる。果たして経済が許すかどうか、保郎は合格はしても、中途退学するのではないかと、危ぶむ者もいた。
保郎の進学は昭和十三年(一九三八年)であった。前年の七月七日、蘆溝橋《*ろこうきよう》事件が勃発し、忽ち日中戦争に発展した。と、同時に動員令が下り、この神代《じんだい》駅からも召集兵が人々に見送られて発って行った。八月には第二次上海事変が起こり、十二月十三日には、南京占領、つづいて南《*》京大虐殺事件が起きていた。その翌々日、山川均を始め、四百人の学者たちが思想犯として早くも検挙されていた。だが、まだまだこの淡路島にも、日本のどの地にも、戦争は遠い国でのことであった。敵の機影一つない空、敵艦一隻見えぬ海、そこに戦争を思わせるものは何もなかった。
そんな時代の中に、まだ時代を意識することのない学生たちの通学列車は、いつも賑やかであった。保郎の乗る車輛は、洲本中学生ばかりが乗る一番前の客車である。保郎は、初めて乗りこむ通学列車に、やや緊張の面持ちで入って行った。受け持ち教師に教えられたとおり、客車の扉をひらき、大声で、
「お早うございます」
と、深々と礼をした。
「元気がいいぞ!」
誰かの声がし、車内に笑いが起きた。好意のある笑いであった。
「ええ声や、もう一回挨拶してみい」
と、言った者がいる。大人のような声であった。
「ハイ。お早うございます。お早うございます」
保郎は大声で二度言った。
「よし!」
再び笑いが起こり、汽車が動き出した。
始発駅の福良を六時半に出た汽車は、七時半には洲本に着く。汽車は各駅停車で、次第に車内の生徒の数が増えてきた。時々新入りの一年生が入って来る。挨拶なしに入ってくる一年生もいる。途端に大きな声が飛ぶ。
「何や、朝の挨拶もせんと! 上級生をなめとんな」
挨拶の声が小さいと、
「朝飯を食うとらんのか。何やお前、女か」
と、笑いものにする。
そのうちに汽車は上り勾配にさしかかる。この線随一の難所だ。汽笛が鳴った。長く高いその音は、いかにも苦しげに聞こえた。急に列車の速度が落ちた。上級生が総立ちになった。
(何や、どうしたんや!?)
保郎が胸を轟かせた時、車掌が入って来た。
「毎度すまんがのう。また後押しを頼むでえ」
上級生たちが喚声を上げて、乗降口に走って行った。
(一年生も行かんならんのやろか)
保郎は椅子から半分腰を浮かした。と、客車の中央に、一人傲然と腕を組んでいた上級生が言った。
「一年生は坐っとれ。お前らみたいなもん、屁《へ》の突っ張りにもならん」
大きな声だった。先ほどの大声はこの男だったのだ。どうやらこの沿線の兄貴株らしい。あわてて保郎は腰をおろした。窓から外を見ると、上級生たちは何やら楽しそうに騒いでいる。のろのろ動く汽車を追い抜く二、三人がいる。長田《ながた》駅に近いこの坂道では、時折汽車がとまり、レールに砂を撒いたり、生徒たちが降りて、汽車を後押しすると聞いていたが、保郎はまだ見たことがなかった。やがて、「よいしょ」「よいしょ」と、元気な掛け声が聞こえた。二輛目の商業学校の生徒も押しているらしい。ほとんどとまりかけた汽車が、少しのろのろと動き出した。生徒たちががやがやと車内に戻って来た。が、列車に沿って駆け足をして行く者が五、六人いた。中には小道に手枕をして、眠った真似をするふざけた生徒もいる。保郎は思わず声を立てて笑った。人の足よりのろい汽車に乗ったのは初めてだ。人に馬鹿にされている汽車は、自分の仲間のような気がした。そのうちに、汽車と駆けっこをしていた生徒も、眠る真似をしていた生徒も戻って来た。
(おもろいなあ)
小学校時代には味わえぬ雰囲気に、保郎はすっかり楽しい気分になっていた。
が、五日と経たないうちに、保郎の胆を震え上がらせる事件が起きた。
毎回、保郎は列車の片隅に坐っていた。この朝、汽車が神代駅を出て、どれほども経たぬうちに、上級生が三、四人保郎のそばにやって来た。
「ちょっと来い!」
中の一人がデッキのほうへあごをしゃくった。そのあごに、ひげがぽちぽちと黒く生えている。
(何やろう?)
誰もがきびしい顔をしている。
「ハ、ハイ」
思わず体が震えた。
デッキに出ると、保郎を取り囲むようにして、一人が言った。
「おい、お前は俺たちを何と心得とる!」
(何と心得とる? むつかしい質問やな)
ついこの間まで小学生だった保郎には、何と答えてよいか、わからない。
「ハイ、上級生や思っております」
答えるや否や、一人が怒鳴った。
「なめるんじゃねえや! お前、俺たちをなめとんのちがうか。俺たちが上級生いうのは決まっとる。下級生と思われてたまるか」
他の一人が言った。
「お前、ほんまにわしらを上級生と思っとんのか」
「ハイ、思っとります」
言った途端、頬が鳴った。目の眩《くら》むような痛さだった。保郎の体がふらついた。
「貴様あ、上級生と心得とんなら、なんでこの間、上級生に汽車の後押しをさせたんや」
「そやそや、一年生が乗ってて、上級生が後押しや。そんなに一年生って偉いんかいな」
「けど、あん時……」
保郎が言いかけると、再び平手が飛んだ。
「けど? けど何や!」
「一年生は降りんでもええと、宮辺さんが言うたんや」
宮辺の名を保郎は二日目に覚えていた。
「嘘ぬかせ! 宮辺がそんなこと言うわけあらへん」
また一発頬に来た。途端に、保郎の胸に怒りが湧いた。
(これが蛸釣《たこつ》りか)
中学に行くと、蛸釣りと言って、上級生が下級生をいじめる風習があると、話には聞いていた。が、それは下級生が悪くて、上級生が説教をするのかと思っていた。しかし、これでは全くの言いがかりである。善いも悪いもない、ただいじめるのが目的なのだ。
「殴るんなら殴れ! それが上級生のすることかどうか、先生に聞いたる!」
自分でも、そんな声がどこから出たか、驚くほどの声だった。
「何いっ! 生意気な。上級生に向かって」
二人が共に殴ろうとした時だった。車内から宮辺が出て来た。
「何だお前ら、また弱い者いじめをしとんのか。俺が相手になったるか」
宮辺は指の関節をぽきぽき折りながら、抑えるように低く言った。
「いや、その……」
三人はおろおろとした。保郎が言った。
「この間、ぼく、汽車の後押しをしなかったいうて、殴られたんです」
「そんなに殴りたきゃ、戦争に行け。この子はわしの弟分や。今後手出ししたら、只ではおかんぞ」
あとで知ったことだが、宮辺は柔道二段、剣道二段の、この辺きっての猛者であった。
その夜、保郎は長月庵の真浄尼を訪ねて告げた。
「ほうかあ、そりゃ大変な目に遭うたなあ、保郎はん」
真浄尼は幾度かうなずきながら聞いていたが、聞き終わるとしみじみと言った。
「おじゅっさん、中学いうたらな、一所懸命勉強するおもしろいところやと僕思っていたん。そやけど、蛸釣りいうてな、上級生が下級生をいじめるところなんや」
「保郎はん、それが人間の世や。人間いうものはなあ、弱肉強食いうてな、弱い者を食うて、強い者が生き残るようになっとるんじょ」
「どうしてやろ、おじゅっさん」
「それはなあ、人間は愚かいうことや」
「愚か? 学校へ行ったら、勉強するのになあ」
「そうや。中学に行って勉強し、大学に行って勉強するわなあ。そやけどなあ、それは知識が広くなるだけのことや。愚かさはますます増えるんじょ」
「ふーん、何やようわからんけど、勉強したら賢くなるとちがうんかいな」
「ちがう、ちがう。保郎はんはもう中学生になったから、教えてめげよう。保郎はん、あんた小さい時から、般若心経|諳《そらん》じとるわな。この般若とは知恵いうことや。知恵と知識とはちがうんやで。知恵とはなあ、永遠の命に気づく知恵や。学校ではそれは教えん。弱い者いじめは、知恵のない者のすることや」
その夜保郎は、とてつもない決意をした。卒業するまでには、洲本中学から必ず蛸釣りの悪習を絶やそうと決意したのだった。
店の柱時計を見い見い、保郎はゲートルを巻いていた。一、二年生の頃は、カーキ色のゲートルをそのまま使っていた。だが、四年生になった今は、保郎も他の級友たちと同様、カーキ色を抜き、白っぽいゲートルを巻くようになっていた。ゲートルの色が白ければ白いほど、
「あいつは不良や」
ということになっている。保郎は真面目と見られるより、不良と見られるほうが気が楽だった。
「ああ、もう汽車が入ってくる」
保郎は舌打ちをした。毎朝こうなのだ。ゲートルをきちんと巻き終わってから、汽車に乗ったことはほとんどない。いつもゲートルを巻き巻き、プラットホームを小走りに走る。朝寝坊だからではないのだ。小学校の四年の時から、朝六時までには、問屋に商品を仕入れに行く。仕入れから帰るや否や、榎本家の長男としての仕事が待っている。神棚にご飯を供える仕事だ。十八もの神棚に、保郎は自分で盛りつけたご飯を供える。供える度に、柏手《かしわで》を二つ打たねばならない。今朝はまとめて、最後に二回柏手を打った。途端に父の通に頬を殴られた。
「だって、学校におくれるで」
「学校と神様と、どっちが大事や」
保郎はもう一度殴られた。もう三十分早く問屋に駆けつければよさそうなものだが、問屋は六時を過ぎなければ、店を開けてはくれない。大急ぎで朝食をかきこみ、ゲートルを巻こうとするのだが、何としてもその時間が足りない。保郎がプラットホームに出た時は、既に発車寸前の時間になっていて、学生たちが窓から保郎のゲートルを巻き巻き走る姿を、またかというように眺めている。
保郎は、後部の二輛の横を過ぎる時が一番苦痛だ。なぜなら、この二輛には女学生たちが乗っていて、明らかに保郎を笑っている声がする。
「あらまた、あの人……」
「ゲートルを巻き巻き……」
などという声が、開け放った窓から聞こえてくる。思わず保郎の顔が赤らむ。男子学生たちの中には、この女子の車輛に隊を組んで入って行く者もいる。保郎には真似のできないことだ。が、ちょっと羨ましくもある。保郎には女学生の車輛をちらりと一瞥することさえ、恥ずかしくてできない。見ようにも、首が硬直したようになって、つい真っすぐ先を見て走る。
うしろから二輛目の窓に、白い顔がのぞいて、保郎の姿を見送っていた。福良から通っている野村和子であった。汽車が動いた。和子の前に坐っていた伊吹花枝が、その和子の顔をじっと見つめていたが、
「和子さん、あんた、ヤッチンのこと、好きなんとちがう?」
と、尋ねた。花枝の大きな目が、ちょっと笑っていた。
「ヤッチン? ヤッチンって?」
「今の人よ。あの人、保郎いう名前なんよ。うちの従兄と席が隣なの」
「今の人やったら、うち大っ嫌い! あんな白ゲートル、不良やもん、大っ嫌いや!」
和子の頬に赤みがさした。どこから見ても、和子は生真面目な女学生だった。着ているセーラー服も、他の女学生より、いかにも清潔だ。
「あら、ほんま? ほんまに嫌い?」
「ほんまに嫌いや!」
「けどなあ、和子さんったら、あの人がプラットホームを走る間、いつもじーっと見てるやないの」
「いやな人やなあ思うて見てるんよ。あの人、きっと寝坊やわ。だから毎朝巻きかけのゲートルをおさえおさえ走るんよ」
「ふーん、そんなに嫌いな人を、なんで見るんやろ。ほんまは好きとちがう?」
「まあ! ひどい! 花枝さんったらひどい人。うちはなあ、あの人のニキビ見ただけで、胸悪うなるわ。花枝さんは、胸悪うならん?」
「ならんわ。ヤッチンは中学四年よ。ニキビは青春のシンボルよ。ニキビの一つもあらへんような男のほうが、いけ好かんわ」
花枝は大人っぽく笑った。花枝はクラスの中でも、体格のいいほうだ。和子のように色白ではないが、花枝が胸を突き出すようにして歩く姿に、憧れる下級生も何人かいる。真面目一点張りの和子とは、どこかちがっていた。
「へえー、うちは、ニキビ面の、ほんまに好かん人やなあ思っていたわ。ほなら、花枝さんこそ、あの人好きとちがう?」
「好きや!」
花枝はあっさりとうなずいて、いたずらっぽく笑った。
「へえー、ほんま?」
「ほんまや。ヤッチンなあ、こないだ洲本の店で、妹はんの裁縫箱買《こ》うとったわ」
「ふーん」
「中学生が裁縫箱買うのなあ、きっと恥ずかしいと思うわ。けど、お母はんに頼まれたんやろな。口もごもごさせて裁縫箱買うていたヤッチン、うち好きや」
「へえー、花枝さん、うちらとちょっとちがうなあ。うちはなあ、とにかく、もっと真面目な人が好きや」
和子は、祖父の代からのキリスト教の家に育っていた。こうして男子中学生の噂話をしていることさえ、うしろめたく思われるほど、和子は人一倍真面目であった。
「和子さん、今の、へえーで思い出したわ」
「何を?」
「あんなあ、中学校になあ、スカンクという綽名《あだな》の先生がいるんやって」
「スカンク?」
「そうや。なんでスカンクいうか言うとな、へえー、へえーと連発するからやって」
「へえー」
思わず和子と花枝が顔を見合わせて笑った。
「なんや、いややわ、花枝さんったら」
「そのスカンクの授業時間に、ヤッチンがこの間立たされたんやって」
「まあ、やっぱりあの人不良なんやなあ」
「不良かどうか、終わりまで聞かなあかんわ。従兄の話ではなあ、こんなわけや。洲本中学では、授業のベルが鳴ると、先生が見えるまで、みんな静かに冥想《めいそう》するんやって。ま、うちらの学校でも、先生によっては一分間の冥想させるわな」
「ふん、それで?」
「ところがな、一人の生徒がな、スカンクの時間に、先生が教壇に立つか立たんうちに、スカンク! って叫んだんやって」
「まあ! 悪い生徒やなあ」
和子は眉をひそめた。
「悪い? 悪いことあらへんわ。そんなの、只のいたずらや。そしたら先生が怒ってな。誰や、今の大声はって、怒鳴らはったんやって」
「それは怒鳴るわな。それからどうしたん?」
「ところがな、その生徒な、頓智のいい生徒でな、先生、ぼくはちゃんと黙想してたんです。けど、ぼくのうしろの榎本君が、背中こちょこちょこそばしたんです。だからぼく、好かん! と、思わず怒鳴ってしもうたんです。そう言うたんやって。みんななあ腹抱えて笑うたいうのや」
「どうして笑うたん?」
和子は、笑っている花枝を、不審そうに見た。その顔に花枝は再び笑って、
「いややわ、和子さんったら。好かんいう言葉は女言葉やないの。それこそニキビ面の男の子の使う言葉やないわ」
「あ、そう言えばそうや」
やっと和子も笑った。
「な、そうやろ。むろん、ヤッチンも笑ったんよ」
「まあ! 自分でこそばしておいて?」
「何を言うとんの。ヤッチンは何もせえへんのよ。ヤッチンはその生徒のすぐうしろに席があっただけや。何もせえへんのに、ヤッチンのせいにされたんや。うちの従兄がヤッチンと並んでいるから、ちゃんと知っとるんよ」
汽車は桜の花のちらほらと見える山里を行く。
「ほな、何もせえへんのに立たされたんか」
「そうや、その子と二人で立たされたん」
「何もせえへんのなら、せえへんと言えばよかったんやないか」
「そこがな、ヤッチンのいいところや。その子が嘘言うたとわかったら、先生にきつう叱られるやろ。『のう、お前ぼくの背中こそばしたのう、そやさかい、好かん言うたんや。のう、ほやろ』とな、その子はすまして、ヤッチンのせいにしたんよ。ヤッチンは友情知っとるんよ。何もせえへんのに、罪かぶって立たされたヤッチンが、うち好きや」
花枝は熱心に言った。
「…………」
和子は納得しない。和子には、脱色したゲートルを巻いている者は、皆不良生徒であるという先入観念がある。
「その二人、きっと仲間なんやわ」
和子は花枝のようには感じなかった。花枝は、
「その子なあ、ヤッチンと三羽ガラスの仲間なんやって」
「やっぱりなあ」
そんな悪い仲間に、なぜ花枝が好意を持っているのか、和子にはわからない。
「その子なあ、ヤッチンと立たされていて、泣き真似したんやって。目につばつけて、鼻をすすってな。そしたらな、先生な、改悛の情顕著である言うてな、その子を席に戻したんや。けどな、ヤッチンはそばで見ていて嘘泣きしてるのを知っとるやろ。おかしうて笑ってばかりいたん。先生が怒ってな、とうとう職員室に引っ張って行ったんやって。立たされながら笑うとは不真面目な奴や言うてな。けどヤッチンは、泣き真似のことも先生に告げへんかったんよ。うち、そんなヤッチン、男らしい思うわ」
花枝はきっぱりと言った。
「ほうかなあ」
和子には、保郎という少年が、何としても不貞不貞《ふてぶて》しくさえ思われるのだった。
「和子さん、あんた人を見る目あらへんな」
花枝はがっかりしたように言った。
「だってえ、うち、あの人嫌いやも」
「それはなあ、和子さん、あんたニキビや、ゲートルやと、外のものばっかり見とるからやないのん? そりゃあ、あんたは教会へ行っとるやろ。教会に行っとる人、真面目やろ。酒も飲まん、タバコも吸わん言うて、ツーンとすましてる人ばかりやろ。そんなん見とるから、それがいいと思うとるんやろ。うち、従兄に聞いたんやけどな、今年の二月の話や」
花枝はまた話し出した。
(またあの人の話するつもりやな。どうでもええわ、あんな人)
和子はもう聞きたくないと思った。が、洲本までまだ三十分はある。人と争うことの嫌いな和子は、黙って花枝の言葉に耳を傾けた。花枝の話では、今年の二月、つまり保郎が三年生の二月の話である。上級生の一人が、保郎を呼びつけて怒鳴った。
「お前、この洲本中学生として、愛校の精神に欠けとるぞ!」
「ほんなことあらへん。ぼく、愛校の精神持っとります」
保郎は下手に出た。
「なにい? 愛校の精神を持っとる? ほなら聞くが、何でお前やお前の仲間は蛸釣りをせえへんのや」
上級生は居丈高になった。蛸釣りがどうして愛校の精神なのか、保郎にはわからない。答える保郎に上級生が言った。
「貴様、ほんなこともわかっとらんのか。蛸釣りはな、わが校の伝統や。その伝統をないがしろにするのは、これ即ち愛校の精神の欠如じょ」
上級生はそう言って保郎の横面を殴りつけた。一年生の時は、柔道二段、剣道二段の宮辺という上級生が、保郎を暴力から守ってくれた。その時の名残で、二年生になっても保郎は蛸釣りと称するいじめに見舞われずにすんだ。が、宮辺が卒業し、三年生になってからは、時々上級生の呼び出しを食うことがあった。
いきなり殴られて、保郎は一旦はよろけた。が、直ちに反撃に出ようとして腰を沈めた。宮辺のすすめで剣道部に入った保郎だった。油断のない身構えだった。しかし次の瞬間、保郎は言った。
「殴るんなら殴れ! 但し殴り殺すまで殴れ! おれは命を賭けてでも、こんな野蛮《やばん》な蛸釣りをやめさせたる!」
上級生は、今見せた保郎の腰を落とした姿勢に、一瞬ひるんだ。が、それ以上に、保郎の言葉は無気味な力をもって迫った。
「殺すまで殴れ」と言った言葉に、彼は脅威を感じた。
「よろしい。今日のところは許したる。帰れ」
ようやく上級生らしい余裕を見せた。が、保郎は首を激しくふって、
「いやや! おれは死ぬ覚悟や! 殺せ! 殺せったら殺せ!」
と、詰め寄った。保郎の目がすわっていた。保郎は心底から怒ったのだ。上級生はたじろいだ。この時の保郎は、父の通が暴漢に襲われた時、大地にあぐらをかいて啖呵を切った様にも似ていた。
「おれは、洲本中学生として、蛸釣りの悪風を恥ずかしう思うとる。おれが卒業するまでに、この悪風を絶対に打ち壊したると、おれは自分自身に誓うとんのや。あんたは下級生がどれほど蛸釣りに怯《おび》えて、毎日びくびくしとんの知ってるか。あんたやって覚えがあるやろ。学校は楽しところであるべきや。あんたらがやっつける下級生の中には、父親や兄貴を戦場に送っとる者もたくさんいる筈や。お国のために戦う兵士の家族を殴ってもええんか。おれの親戚にも、軍隊に行っとる者があるんやで。さあ、殴れ。殺すまで殴れ!」
憑かれたように保郎はまくし立てた。今、自分を呼びつけたこの上級生が、硬派中の最右翼であることを知っていた。事実保郎は、この時死んでもいいと思ったのである。
腕組みをして保郎の言葉を聞いていた上級生が言った。
「お前、意外と骨のある男やな。それだけの骨があれば、殴る必要はないやろ」
「おれは、今、自分が殴られるか、どうかを言うとるんやない。こんな悪風は、今日限りやめて欲しい言うとるんや」
「ま、その話もわかった。しかしな、俺たちはな、下級生を拳骨で鍛え直すのも、愛校の精神やと思っとんのや」
「ほなら、おれのどこを鍛え直す言うんや」
「お前、女学生にもてるやろ」
「女学生?」
「みんなが言うとるぞ。県立や柳の女学生が、ヤッチン、ヤッチン言うて、お前に熱上げとるそうやないか」
「ヤッチン? このおれがヤッチン?」
「何や、知らんのか。ほんまに知らんのか」
「知らん。女学生なんぞと、口もきいたことあらへん」
話が何となくうやむやに終わった。
「和子さん、この話、どう思う?」
「そうなあ、思ったより見所のある人やなあ」
今度は和子も花枝に同意しないわけにはいかなかった。
「な、そう思うやろ。ヤッチンは、ほんとうに命がけだったんよ。うち、蛸釣り粉砕のために、命を賭して上級生に食ってかかったなんて、聞いたことあらへんわ。みんな、男やって意気地なしなんよ。けど、ヤッチンはちがう。あの蛸釣りをやめさせるためには、命を賭けなあかんと、ヤッチンは思ったんよ」
「ほんまに勇気のある人やなあ」
和子は、花枝が保郎に並々ならぬ好意を持っていることのほうに、興味を覚えた。
「ヤッチンみたいに、ほんとうに暴力のために戦う人ばっかりやったらなあ……ところでヤッチンな、今度、神洲会《じんすかい》いう会をつくるんやって」
「神洲会?」
「神代《じんだい》から洲本中学に通っている学生だけでつくる会や聞いたわ」
「その会、何をするのん?」
「何や知らんけど、先ず蛸釣り反対やないの。うちの従兄も、何やわからんけど、ヤッチンのやることやから、みんな喜んで集まるやろって、言うとった。ヤッチンも四年生やから、下級生たちのために、何ぞいいこと、楽しいこと、考えとんのとちがう? 何しろヤッチンは……」
(またまたヤッチンや)
和子は、この時初めて花枝を羨ましいと思った。
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師範学校 一八七二(明治五)年に設立された小学校、国民学校の教員を養成した学校。第二次大戦後廃止され、学芸学部、教育学部の母体となった。
徴兵検査 第二次大戦前、徴兵制度のあった時代に旧兵役法により、毎年、徴兵年齢(満二十歳)に達した男子を対象に、兵役に服する資格の有無を身体、身上について検査したこと。後出の「甲種合格」は、その検査に第一級で合格すること。
近衛兵 第二次大戦前、皇居の警護や天皇(皇族も含む)の護衛にあたった陸軍の兵士。
蘆溝橋事件 一九三七(昭和十二)年七月七日夜、北京南郊の蘆溝橋で起こった日中両軍の衝突事件。この事件をきっかけに中国の反日意識は高まり、日中戦争へと拡大した。
南京大虐殺事件 一九三七(昭和十二)年十二月、南京占領にあたり、中国軍がすでに撤退していたにもかかわらず、市内に入った日本軍は翌年二月まで略奪暴行を行い、二〇万〜三〇万人(正確な数は不明)を殺害した事件。この事件は戦後の極東国際軍事裁判でも厳しく追及され、総司令官だった松井石根大将は、他の被告と異なり、この事件のみで訴追され、絞首刑となった。
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ヤッチン
朝から蝉の声がかしましい。あと二、三日で夏休みも終わろうとしていた。母のためゑが、味噌汁に入れる葱をとんとんと刻んでいる。末っ子の栄次が小さな手を飯台にぺたぺたと打ちつけながら、機嫌のよい声で、何やら独りごとを言っている。その傍らに、栄次のすぐ上の寿郎がおとなしく坐って、朝食を待っている。八歳の悦子と十二歳の松代が、戸棚から茶碗や皿を甲斐甲斐しく飯台に運ぶ。寿郎のほかは、誰もが大きな声で楽しそうに話し合っている。と、そこに、店番をしていた長女のかつみが、
「大変や、大変や」
と、新聞を片手に駆けこんで来た。
「姉ちゃん、大変やって、いったい何や」
松代が、箸を並べていた手をとめて言う。
「何やって落ちついていられる時であらへん。兄ちゃんが新聞に出てるんじょ」
「何いっ!? 保郎が新聞に出とる? 保郎の奴、何悪いことしたんか」
ちょうど部屋に入って来た父の通が、かつみの手から新聞を奪い取った。台所から落ちついたためゑの声がした。
「あんたはん、何も悪いことをしたとは限らへんやないの」
が、既に食いつくように新聞に目をやっていた通には、ためゑの声は聞こえない。
「ほう……ふーん……なるほど……」
読んでいる通の顔がたちまち明るくなっていく。松代がその通の肩をゆすって、
「お父ちゃん、何書いてあるん? 大きな声で、みんなに読んでえや」
「よしよし。こう書いてあるんや」
通がみんなの顔を見渡すと、何もわからぬ末っ子の栄次が、
「ああ、ああ」
と、小さな手をぱちぱち叩いた。思わずみんなが笑った。
〈 非常時局の下、青少年の模範
神洲会《じんすかい》の活動
三原郡神代村に住む洲本中学生の全員十一名をもって、神洲会がこの春結成された。本会は四年生の榎本保郎君を会長とする、自主的精神修養会である。会員は毎日曜日、朝五時に尼寺長月庵に集合、庵主真浄尼を導師として、般若心経を称える。正座して冥想する。この勤行《ごんぎよう》が終わると、寺の掃除、庭や墓の手入れなどをして、一汁一菜の食事を共にする。食後は村の小学生を集めて、勉強を指導したり、農繁期には、出征軍人の家庭の農作業に汗を流す。近頃稀に見る、感心な中学生の集まりである。否、世の少年たちの模範とすべき会と言えよう。会長榎本保郎君は、
「ぼくたちは只、学生として、今、自分たちが何をすべきか、考えるために作った会なのです。すべてはおじゅっさんのおかげです」
と、謙遜に語った。時節柄感銘すべき快挙である 〉
心臓の弱い通が大きな声で、しかし息を切らしながら読むのを、かつみも松代も悦子も、そして四歳の寿郎までもが、うなずきうなずき聞いていた。実は松代だって、よくはわからぬ言葉が多い。だが、とにかく兄の保郎のことが書いてあるというのだ。みんな耳を澄まして、神妙に聞いた。ためゑも飯台のそばに来て、栄次を膝に置きながら聞いた。通が子供たちの前で新聞を読んで聞かすことなど、めったにない。誰もが改まった顔になった。肝腎の保郎は朝の仕入れに行っていて、いつもならもう帰る筈だ。
読み終わって通が言った。
「ふーん、新聞でほめられよったか」
通は満足げにみんなの顔を見渡した。
「兄ちゃん、何したん、お母ちゃん?」
一年生の悦子が尋ねた。ためゑが言った。
「あんなあ、兄ちゃんがお友だちとなあ、人さんのために役に立つ会をつくってな、その会長になったんやって」
ためゑが優しく言った時、店の前に自転車のスタンドを立てる音がした。
「あ、兄ちゃんや!」
寿郎が叫び、かつみと松代が飛び出して行った。
「新聞……」「お父ちゃん……」「兄ちゃんえらいなあ」
保郎に何か言うかつみと松代の声がする。
「只今」
照れ臭そうな顔をして、保郎が入って来た。
「ああ、ご苦労さま」
ためゑが優しくねぎらった。保郎は急いで手を洗い、いつもと同じように、神棚に供える飯を盛りつけ始めた。この飯が十八の神棚に供えられない限り、家族は朝飯にありつけないのだ。言ってみれば、この保郎の役目は神聖な役目なので、盛りつけから供え終わるまで、本人も口をきかず、他の者も言葉をかけない。みんなは、ひと時も早く保郎に声をかけたくて、じっとその手もとを見ている。かつみと松代が、ちろっと目を合わせて、小さくうなずき合う。その松代の目が寿郎に行く。寿郎は保郎を見つめたままだ。通が天井の一画を眺めている。その目に微笑がある。終始変わらぬのが、母のためゑだけだ。栄次ひとりが、「うま、うま」と、小さな手をこすったり、叩いたりしている。保郎がそれぞれの神棚に飯を供えて、柏手《かしわで》を打って廻った。最後に、台所のへっついの荒神さんに柏手を打ち終わった途端、かつみが言った。
「兄ちゃん、えらいなあ、なあお父ちゃん」
それには答えず、通が口をひらいた。
「保郎、新聞見たか?」
「ああ」
保郎は頭を掻き、
「問屋さんで見せられてな、えろうほめられて、それで帰りが遅うなったんや」
「兄ちゃん、なんてほめられた?」
松代が尋ねた。
「何やいろいろ言われたわ。さすが榎本はんの息子さんやとか、こんな中学生ばかりやったら日本も大丈夫やとか、何やえろうほめられて顔が赤うなったわ」
「ほうか、お前、日曜の朝、いつも早よから、こそこそ出て行きよるんで、何しとるか思うとったが……」
と、通はほめもせず、咎《とが》めもせず、しかし機嫌のよい顔で、
「それにしても、神洲会《じんすかい》とは、けったいな名をつけよったなあ」
「ほうかなあ、けったいかなあ」
保郎はためゑの差し出した飯茶碗を手に取って、ぱくついた。
「神洲会《じんすかい》とは、第一読みにくい。神洲会《しんしゆうかい》とも読めるし、神洲会《じんしゆうかい》とも読めるでな。明治の時代に神風連《*じんぷうれん》いう会のあったのを知っちょろうが。何やあの連中のように、血気にはやって、刀ふりまわすような、そんな会に思うわな」
「刀ふりまわす? ほなら困るわ、ほなら」
保郎が大きく眉をしかめたので、みんなが笑った。
神風連は熊本県の士族、大野鉄平らの敬神党で、熊本鎮台を襲撃し、司令長官種田少将らを斬殺した事件で有名であった。
「ぼくたちは、蛸釣りをなくすために、神洲会をつくったんじょ。おじゅっさんに相談してな」
保郎は口一杯に飯を頬張って、ちらっと母のためゑを見、何となく笑いそうになった。一学期の終わりに、某社の新聞記者が来た時のことを思い出したのだ。
記者は会長の保郎を学校に訪ねて来た。訪ねて来たというより、下校する保郎を待ち 伏せていたような感じだった。
「神洲会という修養会をつくったんだって?」
記者は保郎に言った。
「はあ、まあ……」
保郎はちょっとあわてて口ごもった。修養会などというつもりは、保郎の心の中にはなかったからである。保郎は、蛸釣りをする上級生に、命を張ってでも抵抗しようとしたその日の夜、眠られぬままに考えたのだ。そして、翌朝早く、真浄尼のところに相談に行った。真浄尼のお勤めが終わるや否や、保郎は、上級生が下級生を呼び出しては、怒鳴ったり、殴ったり、蹴ったりするこの悪習を、少しでもとめる工夫はあるまいかと、真剣に訴えたのである。真浄尼は、
「大変やなあ。むつかしい話や」
と、大きく吐息をついた。
「なあ、おじゅっさん。ぼく、昨日、上級生に殴られてなあ、殴るんなら殺すまで殴れ言うたんや。上級生が驚いてな、殴るのやめてしもうた。命がけになれば、何とかなると思うたんやけど……」
「保郎はん、あんた、やっぱしお父さんの子ォやなあ。あんたのお父さんも、乳業事件で暴漢に襲われなはった時、道の真ん中にあぐらをかいて、さあ殴るんなら殴れと、怒鳴ったんやって。その剣幕に驚いて、男たちは何にもせえへんで逃げたんやってな。村の人はみんな知っとることじょ」
「けどなあ、おじゅっさん。ぼく、殴るんなら死ぬまで殴れ言うたこと、ほんまにええことやったかどうか、疑うとるんや」
「うん、保郎はんの気持ち、ようわかるわ」
「ぼくがおじゅっさんに相談に来たのはな、人間、おじゅっさんのようになったら、決して蛸釣りはせえへんようになると思うからや、ぼくも、ほんまにおじゅっさんのようになりたいんや」
真剣な保郎のまなざしに、真浄尼の目にきらりと涙が光った。名づけ親の自分を慕って、口もまわらぬうちから、朝から晩まで長月庵にいて、経を共に上げた幼き日の保郎の姿を、真浄尼は思ったのかも知れない。
「そうやなあ、保郎はん。わたしが思うにはなあ、同じ考えの仲間をぽちぽち増やすより、仕方あらせんのやないかと思うがなあ。一人でもええ、本気で、蛸釣りはあかんと叫ぶ人間を増やすことや」
「なるほど、そうかも知れんな。一人でも同じ考えの者を増やすことやな。わかった。おじゅっさん。そしたらな、毎日曜ここに集まって、般若心経を称えたり、おじゅっさんのお話聞いたり、掃除したりする仲間を、つくってもええかあ?」
「ああ、ええとも。若い時に、仏の道を聞くのは、その人の宝になることじょ。ほなら、わたしが朝飯を振るもうて進ぜよう」
「えーっ!? 朝飯を? おじゅっさんの食べるお米、のうなるんとちがうか」
既に、砂糖、マッチは昨十五年から切符制になっている。食堂では、やはり昨年から米食禁止となっている。今年五月、家庭用木炭は通帳制となり、米も配給通帳がなければ買えなくなっていた。
「わたしはなあ、檀家の人たちからお米をたんと頂くでな、自分の食べる分くらいは、心配あらへん」
真浄尼はそう言ってくれたのだった。保郎は、神代から洲本中学に通う生徒を集めて、この話をした。
「無理矢理ではないで、心から賛成した者が集まる会や」
保郎は恐る恐る言った。
「おれ、賛成や」
誰かが言うと、
「おれも賛成や」
「おれもや」
と、あっけないほど、みんなが簡単に賛成した。
「何や、誰も反対せんのか」
保郎が言うと、誰かが笑って、
「だって、保郎といると、こっけいで楽しいでな」
「そうや、喜劇見てるようや」
「ほんなにおれ、おもろいかな」
「おもろい、おもろい」
「どこがおもろい?」
「顔がおもろいわ」
みんながどっと笑った。
「それ、ほめたんか、くさしたんか」
保郎も目を細めて笑った。
「で、日曜日の何時に集まるんや?」
年嵩《としかさ》の者が言った。
「みんなは何時がええと思う?」
「そうやなあ、九時がええわ」
「日曜日やから十時はどうやろ」
「いや、八時がええ」
「保郎はどう思う?」
「うん、おれは五時がええ思うんや」
ちょっとためらってから保郎が言った。
「へーっ!? 日曜日じょ。日曜に五時に起きるんか。そらかなわんわ」
「ほうかあ」
保郎はみんなの顔を見渡して、にこっと笑い、
「ま、そうやろな、けどなあ、おれはなあ、五時がええと思うんや」
「なんで五時がええんや」
「それはなあ、この会は、蛸釣りなぞ絶対許さぬ者の集まりや。それにはな、それ相当の覚悟が要るんじょ。それをな、朝起きで示すんや。九時や十時に集まって、だらだらしとっては、何の会かわからんことになる」
みんなはうなずいた。保郎の顔を見、保郎の声を聞いていると、何となくうなずきたくなるから不思議なものだ。
こうして神洲会は始まった。自分より歳下の者を可愛がる訓練として、小学生の勉強も見てやることにした。一家の柱を軍隊に取られた家のために、農作業も手伝った。そんなことをくり返しているうちに、新聞記者が学校に訪ねて来たのだ。新聞記者は保郎に聞いた。
「それじゃあ、朝五時に集まって、本堂でお経を上げて、庵の内外を掃除して、子供や、兵隊の留守宅に奉仕する。大変な真面目な会なんだねえ。偉いんだねえ」
記者は驚いたようであった。
「いや、そんな、真面目なことばかりしてるわけではありません」
保郎はあわてて手をふった。
「と言うと?」
「みんなで相撲もとります」
「うん、なるほど」
「マラソンもやります」
「それから」
「放屁大会もやります」
「ほうひ大会?」
記者が怪訝《けげん》な顔をした。
「はい、おならの競争です」
「おならの!?」
「はい、音の大きさ、その数、匂いのよし悪し、これを時々競うのです。ぼく、いつも優勝します。それでみんなが、ぼくを榎本と呼ばずに、ヘノモトと呼びます」
記者は腹を抱えて笑い、それもメモして帰って行った。
問屋で新聞を見せられた時、保郎は第一にこの放屁大会のことが書かれているのではないかと、動悸が高まった。が、幸いにして放屁大会の一件には触れていなかった。それを思い出して、母の顔を見た時、笑ったのであった。
二学期が始まった。校門に入る前に、
「会長、新聞見たで」
と、友達が言った。保郎は頭を掻きながら、神洲会の本当の目的を級友たちに語りたいと思った。が、その真の目的は、記者にも語ってはいなかった。「一人一人が変わって行くこと」と真浄尼が言った言葉を、保郎は真剣に受けとめようと思っていた。保郎が哲学や、日本神道について勉強し始めたのも、この頃からであった。
保郎が級友たちに、「会長」「会長」とひやかされていた頃、県立高女の校庭で、野村和子は伊吹花枝に「ヤッチン」の話を聞かされていた。伊吹花枝は、この日洲本の親戚から学校に来ていたので、和子とは汽車で一緒になることはできなかった。校門から和子が入って来る姿を見て、花枝は駆け寄った。
「ねえ、あんたヤッチンのこと、新聞で読んだ?」
いきなり花枝は保郎のことを言った。
「うん、読んだわ」
「あれでもやっぱり不良やと思う?」
花枝の目がつややかに光っている。
「ううん。もう不良とは思わんわ」
「やっぱり嫌い?」
「そうなあ、うち、とにかくあの人嫌いなんよ。ニキビ顔やし……」
「何よ、ニキビの十や二十。そんなもん、人間の値打ちと関係ないわ。うちはなあ、和子さん、いよいよヤッチンが好きになったんよ。お嫁に行くんなら、あんな人のところに行きたいわ。その時になって、あんたヤッチンと結婚したいなんて、言わんといてね」
和子は呆れて言った。
「どうしてえ? どうしてうちがあんな人と結婚したい言うと思って?」
呆れたように、和子は花枝を見た。
…………
お国のために 戦った
兵隊さんよ  ありがとう
階下から歌声が聞こえてきた。一年生の悦子の声だ。保郎は腹這いになりながら、夏目漱石の「坊つちやん」を読んでいた。読みながら、学校の先生になるのもいいなあと思う。もう中学四年の二学期に入っている。そろそろ、自分の進む方向を見いださなければならないと思いながら、実のところ、何になるべきか定まっていなかった。中学に進ませてもらっただけで充分だと思う。進学は望まずに役場にでも勤めようかと思う。だが、「坊つちやん」を読んでいると、教師もいいなあと思うのだ。いや、単に「坊つちやん」からの刺激によるのではない。神洲会において、会員たちと一緒に、小学生たちの勉強を見てやっているためもある。子供たちは、保郎が教えると、わかりやすいと言う。
「榎本の兄やんは、なんやおもろい」
勉強が終わっても、子供たちは保郎のまわりに集まって、
「お話おしえてよ」
と、口々にねだる。保郎が口から出まかせに、
「蛇がカラスをお嫁さんにもらって、カラス蛇が生まれた」
などという話を、目を輝かして聞く。それは、保郎にとっても、かつて経験したことのない楽しいひと時だった。
(けど、先生になるには、師範に行かにゃならん)
思案しながら「坊つちやん」を読んでいく。
今年の六月二十二日には独ソ戦が勃発した。ドイツ軍が突如ソ連に進撃を開始したのだ。日本では、ソ連への開戦論と、日米交渉継続論が対立した。七月二十五日には、日本在外資産の凍結令が米英から布告された。そして、米、英、中、蘭の包囲陣が固められた。のんきな中学四年生の保郎には、まだひしひしと危機を感ずることはなかったが、少年は少年なりに、日本のために尽くしたいという思いは充分にあった。特に榎本家が駅の構内に建っているようなものだったから、出征兵が神代駅から発つ時、また通過する時、保郎の心は奮い立った。
「保郎!」
階下で母のためゑの呼ぶ声がした。
「はーい」
元気のよい声で返事をしながら、保郎の目はまだ未練げに「坊つちやん」の二、三行を追っていた。
「保郎、降りてきなさい」
「はーい」
今度こそ保郎は立ち上がった。
「何や、母さん」
ためゑは店にいた。店先に白いあご鬚を生やした品のいい老人が、柔和なまなざしでためゑと何やら話をしていた。
「高崎先生のお宅に、お醤油をお届けしなさい」
「はい」
保郎は高崎先生にぺこりと頭を下げ、醤油の瓶を手に持った。
「これはすまんことですな。わしかて持っていけますのにのう」
保郎は、高崎老人の一歩後に従った。老人は高崎|倫常《りんじよう》といって、村一番の知者と言われていた。その門には紳士道講義所と書かれた看板が下がっていて、いつその家の前を通っても、滅多に人影はなかった。保郎は、いままで、高崎倫常の名は聞いてはいたが、親しく話したことはなかった。
日が西に傾きかかってはいたが、九月初めのこととて、暑さは少しも衰えない。
「すまんですなあ。何か勉強をなさっていたのではありませんか」
訛りの少ない、ていねいな言葉を使う。大人からこんなていねいな言葉を使われたことはなかったから、保郎は固くなって答えた。
「いや、勉強ではありません。読書ですわ」
「ほほう、読書? 読書は立派な勉強ですぞ。して、何を読んでおられたな」
「はい、夏目漱石の『坊つちやん』です」
「坊つちやん」も勉強のうちかと思いながら、保郎は答えた。
「ああ、漱石のものはよろしいですな」
ちょっと言葉を途切らせてから、
「して、君は将来何になられるおつもりかな」
まだ考えていない、と答えるには、相手の言葉づかいが、あまりにていねいだった。保郎は自分一人走って行って、さっさと醤油を届けてきたい気がした。が、一方、この地方一番の物知りという老人の話を聞きたいような気もした。
「はい、教育者になりたいと思います」
恐る恐る保郎は答えた。
「なるほど、教育者ですか、それはありがたいことです。しかし、教育者になるには、なかなかの覚悟が要りますぞ」
(覚悟? 何の覚悟やろ?)
「君も内村鑑三《うちむらかんぞう》先生をご存じですな」
「はあ、ちょっと名前だけ……」
「わたしは、内村先生こそ、真の教育家だと思っております。先生は一高の教師であられた時、教壇を追われました。それはなぜか。それはですな、天皇陛下のご真影に最敬礼をしなかったからです。人間は人間を拝んではなりません。また人間に拝まれてもなりません。わかりますな」
よくはわからない。保郎はちょっと首をひねって、
「天皇陛下を拝んではなりませんか。ぼくたちは小学校の時から、ご真影には最敬礼をしてきました」
「内村先生はですな、天皇を神格化して天皇制を打ち建てようとする政府に、敢然と立ち向かったのです。人間には思想信教の自由がある。このことを、本当に教えることのできる人こそ、真の教育家です。しかし、世間というものは、何千年の昔から、本当のことを叫ぶと、殺されるようになっているものです。キリストが殺された。それは、その最も代表的な死だったのです。わかりますかな」
わかったような顔をしようと、保郎は思った。だが、たった今、「坊つちやん」を読んでいて、
(教師になるのもいいな)
と、考えたばかりの保郎には、高崎先生の言葉はわからないと言ったほうがよかった。しかし、わかりはしなかったが、一中学生にしか過ぎない自分に、ていねいな言葉で、熱心に語りかける高崎先生に、保郎は畏敬の念を持った。この時以来、保郎は時折高崎先生の家に顔を出すようになった。
先生は一人暮らしであった。保郎が訪ねると、喜んで話をしてくれた。
「保郎君、学ぶということと、覚えるということは別ですぞ」
突如、そんなことを言って黙ってしまうことがある。黙る時には、保郎に考える時間を与えたいと思っているらしかった。
「帝国大学というのは、国の制度内の存在ですぞ。真理を学ぶ者は、常に自由でなければならないと、わたしは思います」
こう言って黙ることもある。
「保郎君、人間生まれて来て大事なことは、出世することではありませんぞ。只真理に忠実に生きることであります。然らば真理とは……」
そう問いかけて黙りこむこともある。保郎は時々、話しこんで空腹を覚えることがあった。高崎先生は時間を忘れて話しこむのだが、保郎の健康な胃腸は、時間になれば正直に空く。
(真理が大事か、食事が大事か)
保郎の心中に甚だ貧弱な論戦が展開され、話半ばに席を立つこともあった。
その夜、保郎は夕食を終えてから、暗い道を自転車で先生の家に走った。いつものとおり先生は喜んで、丁重に保郎を迎え入れた。
「保郎君、わたしは七十年生きてきました。若い時に、わたしは人を殺そうと思ったことがあります」
保郎は驚いて、温和な高崎先生の顔を見た。髪が白く、品のいい顔立ちをしている。
「えっ!? 誰をですか」
「新島襄《*にいじまじよう》をです。ご存じのように、同志社の創立者です」
ご存じのようにと言われても、新島襄が同志社の創立者ということを、保郎は知らなかった。
「わたしは、彼もまた偉い人物だと思います」
「はあ」
「実はですな、新島襄が京都にヤソ教の学校を創立したと聞いて、われわれ仲間は大いに憤慨し、血判状を認したためましてな、刺しちがえんばかりの勢いで、新島襄の家に押しかけました。ヤソ教は、わが日本帝国を滅亡させ、西洋の属国としてしまうことを知らないのか。東洋の諸国を見れば、直ちにわかることだ。われわれはヤソ教の学校の存在を、決して許しはしない。直ちに閉校せよ。さもなくば、貴殿の命をいただこう。お笑いください。わたし共は必死でした。ところが、血気にはやったわれわれ数人の若者を、先生はじっと見つめられる、その顔にはいささかの憤りもなければ、恐れもない。むろん、奢りもない。実に優しい、只優しい表情であられた」
「はあ……」
「そして言われた。あなたがたにはご両親もおありであろう。心配をかけてはならぬ。早くお郷里《くに》に帰って、いっそうの孝養を尽くされよ、と、こう言われましてな。結局、わたし共は血判状は差し出したが、おとなしく帰って参りました。あれが真の愛ですな。信仰者の愛ですな。できるなら君も、この新島先生の創立された同志社に学ぶべきですな」
一語一語に、いつものように熱がこもっていた。
「しかし先生、わたしの家は経済的に、師範学校以外の進学は無理なのです」
先生は目をつむって、じっと腕を組んだ。と、その時玄関に、誰か訪う声がした。
保郎は一目散にペダルを踏んだ。が、足に力が入らない。刑事が今にも追いかけて来そうな気がする。
(もうこりごりや)
ペダルを踏みながら思う。ようやく家に辿り着いた保郎は、ほっとして玄関に飛びこんだ。
「保郎か」
障子の向こうで、母のためゑの声がした。
「只今」
少し足に力が戻ったような気がした。
「高崎先生はお元気やったか?」
茶の間に入った保郎に、ためゑは言って、
「何やその顔色は? どこぞ悪いのとちがうか」
と声を上げた。保郎は今、高崎先生の家で出合った事件を言おうか、言うまいかと、一瞬ためらったが、
「ああ、ちょっと頭が痛いだけや」
と、雑巾を刺しているためゑのそばにあぐらをかいた。通はいつも、誰よりも早く寝る。かつみも松代も寝たらしい。茶箪笥の上の置き時計は九時半を過ぎていた。
「ほんまか。その顔色は頭が痛いのと、ちとちがうわ」
さすがにためゑは母親だった。保郎の上に何かがあったのを、いち早く見てとった。
「ほんまや。頭の痛いの、ほんまや」
とは言ったものの、保郎は思いなおして、
「実は……」
「実は何や?」
ためゑは針刺しに針を刺した。ためゑは滅多に手を休めない。そのためゑが針から糸を抜いて針刺しに戻した。
(見通しやな、おふくろは)
「あのな、おとろし目に遭ったんや」
「おとろし目? まさか幽霊なんぞに遭ったわけではあるまい」
「幽霊よりおとろしわ」
「泥棒か」
「泥棒よりおとろし」
保郎の顔に少し生気が戻った。
「いったい、何を見たんや」
ためゑが微笑した。
「あんな、警察や」
「警察?」
ためゑが眉をひそめた。
「うん警察や。けど、これ、お父はんには言わんといて。かつみや松代にも内緒にな」
「言わんけど、何でお前警察に……」
「あのな、先生と話をしてたらな。突然、客が来たんや。おれな、玄関に出てみたら、背広の男が立ってたんや」
「背広なあ。ほなら私服やな」
「背広やから、只のお客はんか思うたら、警察やった。高崎先生にな、ちょっと本署までご同行願いますと言うたんや」
本署までと聞いた途端、全身から血が引き、足がわなわなとふるえたことは言わなかった。
「それで?」
「先生な、いつもとおんなじ顔で、おんなじ声でな、どんな理由ででしょうか、と言わはった。さすがは高崎先生や。偉いもんや。おれな、もうガタガタやった」
思わず保郎はその時の恐怖を白状した。
「それはそうやろ。警察に引っ張られるちゅうのは、大ごとやでな。で、保郎、お前も何ぞ聞かれたんやろ」
「お母はん、ようわかるな」
「そんなん当たり前や。警察に引っ張られる人と一緒にいたら、疑われるの当然やろ」
「なるほどな、泥棒のそばにいたら、泥棒の仲間とまちがわれるわな。刑事がな、君、高崎氏とはどんな関係やって、じろっと見たんや。あんな声を、ドスのきいた声いうのかな。声ばかりやない。目つきがおとろしかった。洲本中学の中に、あんなおとろし目ぇする先生、一人もおらへんわ。おとろし目や。怖い目や。何で警察って、あんなにおとろしいんやろ」
保郎は次第にいつもの保郎に戻っていった。
「それでお前、何と答えたん?」
保郎は、実のところ声が出なかったのだ。声を出そうにも声にならなかったのだ。刑事の威圧は、とても上級生の蛸釣りの比ではなかった。保郎は警察の持つ権力の恐ろしさを肌身に感じたのだった。
「あんな、おれ、声が出えへんかった。口がふるえてな。するとな、刑事が怒鳴った。どんな関係か聞いとるんじゃ、とな。えらい居丈高でな、ほんまに肝がつぶれたわ」
「ほうか、可哀相にな。それで?」
「そこで高崎先生な、あ、この若者はご用聞きです、と言ってくれたんや。それでな、ほうほうの体《てい》で外に出たらな、そこにまた刑事がいてな。こら待て! とおれの腕を捕まえたんじょ。もう、ほんまにへなへなやった。おれ根っからの度胸なしや」
「お前は小さい時から怖《お》じみそや。そこでまたご用聞きや言うたんやな」
「ううん、それがな、もう一人つれがいてな。懐中電灯でおれを照らしたんや。腕をつかんだり、電灯で照らされたり、まるで犯人扱いや」
「ほんまやなあ。して、どうしたん?」
「ところがな、その刑事がな、おやお前、通はんとこの息子やな。あの神洲会の会長やろ、と言ってくれてな。それで、おれ助かったんじょ」
「へえー、どなたはんやろ、その人? あの新聞見てくれはったんやな」
「そうらしいわ。おれの腕つかんだ刑事もな、何やあの感心な中学生がお前か、言うてな、二人はおれが五円軍事献金したことも知っていてな、それで助かったんや」
その夜保郎は、床に入ってもなかなか寝つかれなかった。
(なんであんな立派な人格者を、警察がつかまえたんやろ)
保郎の見る限りでは、高崎先生は立派な愛国者に見えた。警察に拘引される理由は何もないように思われた。但し、戦争についての主張には肯けないことがしばしばあった。
「戦争に聖戦などはありません」
とか、
「米英と戦えば、日本は必ず負けます」
と、高崎倫常は繰り返し言っていたのである。
[#ここから1字下げ、折り返して3字下げ]
神風連 熊本に起こった、神道を崇拝し、外国人を忌み嫌った復古的排外的政治団体。一八七六(明治九)年十月、熊本鎮台、県庁などを襲うなど、武力蜂起したがまたたく間に鎮圧された。
新島襄 一八四三〜九〇(天保四〜明治二十三)。江戸の生まれ。教育家。渡米してアマースト大学に学び、卒業。明治五年岩倉具視の欧米視察に随行し、帰国後の明治八年にキリスト教主義の教育をかかげ、京都に同志社英学校を創設した。
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旅順の風
「何だ、その指の置き方は!」
怒声と共に、保郎の体は突き飛ばされた。昭和十八年(一九四三年)四月、中学五年を卒業した保郎は、旅順《りよじゆん》の師範学校に入った。今日はその幾度目かのピアノのレッスンの時間だった。椅子からころげ落ちた保郎は、あわてて椅子に戻った。途端に再び罵声を浴びた。
「そのかけ方は何だ! 椅子のかけ方は、ピアノの重要な基本の一つだと言ったのがわからんか」
またもや保郎は床にころげた。したたか腰を打って、声も出ない。痛みをこらえながらも、
(何や、これが音楽教育か。いくら非常時やいうても、ちときびし過ぎるのと、ちがうか)
はるばる満洲になど来るんじゃなかった、との思いがこみ上げてきた。突き飛ばされたのは今日が初めてではない。レッスンの度ごとなのだ。気の毒そうに見ているクラスメートも、みんな突き飛ばされた経験を持つ。保郎は惨めな思いで、腰をさすりさすり、椅子についた。
怒鳴られないのは、小学校時代からピアノを習っていたという中学の音楽教師の息子一人だけだ。その級友が昨夜、保郎たちに言った。
「ぼくの父は、しがない音楽教師だけどね、音楽で一番大事なのは、音楽が好きだということだ、といつも言うよ。文字どおり音を楽しむことだってさ。下手でもいいんだって。楽しんでピアノを弾いていれば、そのうちに自然と椅子にかける姿勢も、指の角度もととのうんだって。だから、ぼくがピアノを弾いている時に、親父は一度も怒鳴ったことなどないよ。ここの先生は、ありゃあ音楽を知らないんだよ。恐怖から音楽好きは生まれやしないものな」
みんなが、そうだ、そうだとうなずいた。保郎もそうだと思う。が、いくら生徒たちがそう思ったところで、恐怖のピアノ・レッスンは、卒業までつづくのだ。
(帰りたい!)
今日こそ保郎は、切実にそう思った。
その夜の寮の夕食はカレーライスであった。保郎は、不意に「タイヘイ」を思い出した。タイヘイとは、中学四年の時に習った、臨時の英語教師、隈田泰平先生であった。タイヘイは強い近視であった。他の教師とどこかちがって、いつも明朗だった。ということで、生徒たちはこのタイヘイの英語の時間に早飯を食べた。生徒たちは昼の弁当の時間を待ちかねるほどに、腹を空かせていた。タイヘイが背を向けて板書している間に、みんなは素早く弁当を食べる。あまりに急いでのどがつまり、胸を叩く者も出る。そのスリルがまた楽しい。その日、保郎も、タイヘイが黒板のほうを向くのを待って、急いで飯をかきこんだ。板書の時間がやや長かったこともあって、一挙に弁当の半分を食べた。保郎は得意気に、隣の級友の脇腹を突つき、
「どや、一度に半分平らげたんやで」
と、ささやいた。その途端、弁当の蓋が、大きな音を立てて床に落ちた。みんながどっと笑った。が、タイヘイはいつもの明るい顔で授業を進めた。
英語の時間が終わると、級友たちが保郎のそばにやって来た。
「えらい派手な音を立てよって、愉快やったなあ」
「びっくりしたわ。おれもちょうどひと口食べたところやったでなあ」
「けどタイヘイ、あのでっかい音、気ぃつかんかったんやろか」
「気ぃつかん筈ないわ。あんなでっかい音やも」
「けど、気ぃついたら怒る筈や」
「タイヘイの奴、目が近いかわり、耳が遠いのとちがうか」
みんなは勝手なことを口々に言った。が、保郎は何となく不安だった。早飯は禁止されている。それを承知の上で、禁を破ったのだ。咎めがなくて終わるわけはない。
数日後、保郎が帰宅すると、
「保郎、手紙が来とるわ」
「誰からや、母さん」
「わからへん」
「誰からやろな」
「さあ、何や達筆な封書や」
母のためゑはそう言った。二階に上がって保郎は机上を見た。タイヘイからであった。保郎の肌が粟立った。来るものが来たと思った。
(まさか停学ではないやろな)
怯《おび》えながら封を切った。
「榎本君、
いつも元気で何よりです。腹も空くでしょうが、やはり弁当は昼休みにゆっくり味わって食べたほうが健康によいと思います」
文面はそれだけだった。が、その後に、英文が書かれてあった。四年生の保郎に読めない英語ではない。読むには読めるが、要するに何を言っているのか、わからなかった。
「Therefore I say unto you, be not anxious for your life, what ye shall eat or what ye shall drink; nor yet for your body, what ye shall put on. Is not the life more than the food, and the body than the raiment?」
いくら読み返してみても、ちんぷんかんぷんなのだ。保郎はあの哲学の師である高崎倫常先生のもとに自転車を走らせた。倫常先生にその英文を見せる時、
「日本語のほうはお読みにならんでも、けっこうです」
と言って、便箋を折り、後半だけを見せた。倫常先生は、一度目は黙読し、二度目は低い声で読み、
「ほほう、これは耶蘇《ヤソ》の有名な言葉ですな」
と言い、
「確か日本語では『この故に我なんぢらに告ぐ。何を食《くら》ひ、何を飲まんと生命《いのち》のことを思ひ煩ひ、何を著《き》んと體のことを思ひ煩ふな。生命は糧にまさり、體は衣に勝るならずや』と言ったと思いますぞ」
と教えてくれた。なるほど、大変な博学だと、保郎は感銘した。
「先生、手紙の日本語のほうも読んでみてください」
保郎は恥をさらす気になった。一読した高崎倫常は、
「ハハン」
正に破顔一笑という趣の笑顔を向けて、
「この先生は、なかなかユーモリストでありますぞ。うん、立派な教育者ですな」
この早弁事件と次のエピソードも、保郎が後に書いたり幾度となく語った話だが――。
その後間もなく、隈田泰平先生は須磨《すま》に移って行った。一年経った中学五年の時、保郎は剣道の試合で、学友たちと神戸に行った。帰りの船まで、かなり時間があった。
「新開地で遊んでいこ」
「そやな。波止場に行っても、退屈やでな」
みんなが言った時、保郎は、
「タイヘイの家に行ってみいへんか」
と言った。
「けど、タイヘイのうち知っとんのか」
誰かが言い、誰もが知らぬと言った。
「かまへん、かまへん。須磨へ行って、誰かに聞いたら、すぐわかるわ」
一同は神戸から須磨へ行った。淡路島育ちの保郎たちはのんきだった。が、須磨と言っても広い。たやすくタイヘイの家が見つかるわけはない。保郎は言った。
「タイヘイはヤソやったろ。ヤソの神さんに祈ってみようか」
「そやそや、それもええな」
そこで保郎が大声で祈った。
「アーメンの神さん、タイヘイの家を教えてください」
みんな神妙に目をつむって祈った。倫常先生から、あの英文はヤソの言葉だと聞かされた時、実のところ保郎はぞっとしたのだ。この戦争のさなか、敵性の宗教と言われているキリスト教の言葉を書いてくるタイヘイなどに手紙をもらっては、またぞろ刑事に不審尋問されるようなことになりかねない。保郎はそう思ったのだ。にもかかわらず、タイヘイの家を訪ねたいと思ったのは、やはりタイヘイのあたたかい人柄に心魅かれていたからだった。
さて祈り終えた保郎たちが目をひらいた途端、一人が驚きの声をあげた。
「おい、ここや、ここや! 標札を見てみい」
目の前に、何とタイヘイの家があった。
保郎の胸に、言い難い畏敬の念が起きた。別段信じて祈ったわけではないが、祈って目をあけた所に、訪ねる家があった。それを神の摂理と呼ぶべきか、保郎には単なる偶然とは思えなかった。この時、保郎の胸に、神への敬虔な思いが宿ったのであった。
一同の思いがけない訪問を喜んだタイヘイは、この日カレーライスを馳走してくれた。食糧事情の悪い中で、数人もの、食べ盛りの保郎たちに馳走することは、決して容易なことではなかった筈だ。誰もが満腹して家を辞したが、その時のカレーライスを保郎は、今、思い出したのだ。
保郎は、人のあたたかさが欲しくなった。師範学校など出なくてもいいと思った。父母や、きょうだいや、友人知人の大勢いるあの淡路島が、言いようもなく尊い所に思われた。
(帰りたい!)
カレーライスを寮の食堂の片隅で食べながら、保郎はぽとぽとと大粒の涙をこぼしていた。
がたんと揺れて、汽車は旅順駅を発った。長い汽笛が、保郎の胸に複雑な思いを抱かせた。一カ月前、この駅に着いた時の感激は跡形もない。旅順の師範の校舎が目に浮かんだ。がっちりとした石造りの校舎に並んで、附属国民学校があった。その生徒たちの遊ぶ姿だけが、ふるさとの弟や妹を思い出させ、保郎を慰めてくれたのだった。初めて師範学校の校舎を見上げた時、
(よし、この学校で、思いっきり勉強したろ!)
と、四肢に力のみなぎる思いがしたのだった。が、一カ月経つか経たぬうちに、保郎は只淡路島に帰りたい一心で、旅順を脱け出したのだ。しかし、保郎に恥ずる思いはなかった。
(あんな音楽の教師のもとで、勉強ができるか)
保郎は自分の行為を正当だと思った。保郎は、音楽教師が自分にだけきびしいのではなく、他の生徒にもきびしいのを忘れているようであった。他の生徒にもきびしいのに、自分だけが逃げ出したことへの反省がなかった。
(あんな学校に我慢しているほうが阿呆や)
保郎にはそう思われる。人間というものは、腰のかけ方や、鍵盤におく指の角度くらいのことで、突き飛ばされてはならぬのだと思う。いち早く見切りをつけた自分のほうが、級友たちより一段賢かったような気がする。
保郎は、窓外に目をやった。が、何も見てはいなかった。東洋一と言われる旅順博物館に目を瞠《みは》ったのも、蓮の葉の浮かぶ大正公園の池の畔《ほとり》に遊んだのも、旅順工科大学の三階建ての校舎に心を躍らせたのも、白玉山の表忠塔に感動して頭を垂れたことも、水師営会見の地に、感無量の思いでなつめの木を見上げたのも、今は全く、保郎にとって何の価値もないものに思われた。
保郎は、自分が音楽教師の態度に耐えかねた者として、むしろ昂然としていたが、本音は只のホームシックに過ぎないことを知らなかった。旅順師範学校に入学することを、父母は反対した。その反対をふり切って、保郎は生まれて初めてふるさとを離れた。汽車が朝鮮半島を縦断している時はまだ意気|軒昂《けんこう》であった。が、鴨緑江《おうりよくこう》を渡り、満洲に入ると、保郎は次第に異国の淋しさに襲われたのだった。旅順に着くや否や、その日からひたすら母の手紙を待った。その手紙が来た時には、保郎は涙がこぼれて、便所に駆けこんだほどだった。保郎には、愛する肉親との別離はまだ無理だったのだ。あこがれの旅順師範が、つまらぬ者の集まりに思われた。帰るための送金依頼を、保郎は早くもめんめんと書き送った。が、金は送られてはこなかった。やむなく友人たちから借り集め、保郎は学校を逃げ出して来たのである。
保郎は、しっかりと胸に納めてあった母の便りをひらいた。学校をやめて帰りたいという手紙への返事であった。達筆の母の手紙はきびしかった。
「……お手紙拝見しました。生まれて初めて親元を離れれば、誰でもしばらくは家が恋しいものです。しかし、お前も男ではありませんか。あれほど反対した父母の言葉をふり切って、日本の国を離れた以上、それなりの覚悟はあった筈です。男子たる者、一旦自分で道を選んだ以上、簡単に捨ててはなりません。こうと決めた以上、死んでもよいから、やりとげなさい。とにかく、そんな意気地なしに、帰りの旅費など、一銭も送ることはできません。万一帰ってきたとしても、母さんは決してお前を一歩も家に入れません。お前も、修《*》身で中《*》江藤樹の話を習ったことがあるでしょう。あの藤樹は、今のお前より、ずっとずっと幼い子供でした。それなのに、寒い雪の中を帰って来たその子を、藤樹のお母さんは家にも入れずに、そのまま師のもとに帰してしまったのです。わたしもお前を、決して家には入れません……」
読み返しながら、自分が淡路島に帰ったら、母はどんな顔をするだろうと思った。この手紙に対して、保郎は返事を出していた。
「……お母さんのお手紙を読みながら、ぼくは本当に申し訳ないと思いました。確かにぼくは、親の反対を押し切って、神戸の師範ではなく、旅順の師範を選びました。でもそれは、旅順師範がやがて高等師範に昇格するという話を聞いたからです。ぼくの家の経済状態を考えると、教育年数の長い高等師範に進むことは、到底不可能だと思ったのです。ぼくにしてみれば、旅順師範に入れば、高等師範卒の資格を得、お父さんお母さんに喜んでいただくことになると思ったのです。
でも、こちらに来てみると、それは単なる希望的風評に過ぎなかったことを知りました。その上、ここでは本当の教育者は育たないことを痛感したのです。お母さん、お母さんは中江藤樹にならうように勧めてくれました。お母さんは確かに、中江藤樹の母のような立派な人だと、ぼくは尊敬しています。しかし、ぼくはぼくであって、中江藤樹ではありません。中江藤樹は後世に名を残す大学者になれた人物ですが、ぼくは旅順師範で頑張ってみても、最も出来の悪い小学校の教師になるだろうと思うのです。ぼくに見所があるならば、当時のように、家に一歩も入れぬということも必要かも知れませんが、ぼくはそんな男ではありません。第一、中江藤樹の先生は偉大でしたが、旅順師範の先生は、残念ながら偉大とは言えないのです。
お母さんは、男子たる者、一旦自分で選んだ道は、簡単に捨ててはなりませんと言われますが、しかしまた、『過ちを改むるに憚かるなかれ』という言葉もあります。どうか、家に帰ることをおゆるしください。お願いします」
保郎が下関に着いた時、電報で神戸着の時間を知らせてあった。が、迎えてくれる筈の父の姿は見当たらなかった。
保郎は、一カ月ぶりに見る神戸の駅を、まるで一年ぶりにでも見るように、懐かしく見渡した。待合室に行ってみたが、待合室にも父の姿はなかった。
(電報つかんかったんやろか)
財布の中には、僅かに五銭玉が残っているだけだ。昨日から、まる一日、ほとんど物を口に入れてはいない。この五銭で、何か買って食べようかと思うが、食べ物らしい食べ物を売っているところなど、どこにもない。何しろ、この二月には、ガダルカナル島で日本軍が敗退した。保郎が旅順にいる間の四月十八日には、連合艦隊司令長官の山本五十六《やまもといそろく》元帥が、西南太平洋上空で、その乗っていた飛行機が撃墜されて戦死した。敗色が俄《にわ》かに濃くなった日本は、僅か一カ月しか見ない間に、危機感におおわれていた。少なくとも旅順では、食物に不自由はなかった。保郎は、
(家に帰るまでの辛抱や)
とにもかくにも、半商半農のわが家では、食うものが全くないということはあるまい、と思いながら、
(それにしてもどうしたんやろ。お父はんの体、また悪うなったんとちがうかな)
と、ため息をついて、しょんぼり肩を落とした。と、その保郎の肩を誰かがぽんと叩いた。はっとふり返ると、父の通だった。
「今すぐ旅順へ帰れ! 切符はわしが買《こ》うたる」
通は言い捨てて、切符売り場のほうに足早に歩いて行った。
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修身 旧学校制の教育科目の一。道徳教育を目的としたもの。第二次対戦後廃止。
中江藤樹 一六〇八〜四八(慶長十三〜慶安一)年。江戸時代初期の儒学者。近江(滋賀県)の人。明の王陽明が唱えた儒学を説き、日本陽明学派の祖といわれ、近江聖人と呼ばれた。
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グライダー
保郎は下宿の二階の窓から、七月の陽にきらめく海を見ていた。小さな漁船が幾つも浮かんでいる。その海をほんのひとまたぎで淡路島がある。
保郎は、七月一日付で沼島《ぬしま》の青年学校教師として、この島に赴任した。沼島は淡路島の南岸沖にある小さな島だ。周囲約八キロ、勾玉《まがたま》のような形をしていて、その凹んだ所に、淡路有数の漁港があった。が、人口千余、自動車一台ない島だ。
旅順から、食うや食わずで帰って来て、はや二カ月以上になる。あの夜の、神戸駅での父との出会いを、保郎は思い出していた。
この島に来た時、校長が言った。
「あんたのお父さんは、榎本の通はんやってなあ、あんたのお父さんはおもろい人やって、この沼島までひびいとるで」
校長は、国民学校(小学校)の校長で、青年学校の校長も兼務している。青年学校の教師は、女子に裁縫を教える女教師と、数えで十九の保郎だけだった。それでも国民学校には教師が八人いて、青年学校の教師を合わせると、沼島の教師は全部で十一人になる。青年学校とはいっても、国民学校校舎の中に教室があった。職員室も同じである。青年学校は国民学校の高等科二年を卒業した者が通っていたが、昼間には女子、夜間には男子が学んでいた。
(おもろいやろか、うちのおやじさん)
おもしろいより、恐ろしいと保郎は思う。話術がうまくて、よく話を聞かせてくれたが、一旦怒ると恐ろしい。火箸が折れるほど殴られたことがある。
保郎が小学校の時、通はよく授業参観に来た。他の父兄はスリッパを履いているのに、通は長靴を履いたまま教室にやって来る。そして参観中突如として、
「先生、今教えたこと、まちごうとる!」
と怒鳴るのだ。それが保郎にはいやでいやでたまらなかった。どうせそんな話が、教師から教師に伝わっているのだろうと思いながら、
(けど、神戸では、おやじさん、ちとちごうていたな)
保郎は胸の中で呟《つぶや》いた。旅順から辿り着いた保郎の財布には、僅か五銭しかなかった。空腹に目のまわりそうなその保郎の前に、父の通が姿を現した時は、もう八時を過ぎていた。が、その保郎を見るなり通は言った。
「今すぐ旅順に帰れ! 切符はわしが買《こ》うたる」
言い捨てて通は、まっすぐに切符売り場に向かった。保郎はあわててあとを追った。
「お父はん、ぼく、もう旅順になど、帰らしまへん。どんなことがあっても、帰らしまへん。あそこでは、教育者になどなれへんのや」
拳骨の二、三発は覚悟していた。今にも雷が落ちるとしても、保郎の肚は決まっていた。と、通はくるりとふり返って、じっと保郎の顔を見たが、
「そうか」
とひとこと言い、
「今夜はもう島に帰る船はない。宿に行こ」
と、静かな声で言った。当然怒鳴られると思っていた保郎に、父のその言葉は意外だった。駅前の小さな宿で、とにかくも保郎は飯にありついた。大豆入りの飯だったが、まる一日、食事らしい食事をしなかった保郎には、こんなにうまいものがあったのかと思うほどうまかった。ものも言わずに飯をかきこんでいる保郎を見ていた通が言った。
「日本は大変なことになっとる」
「ああ」
保郎は上の空で返事をした。
「山本五十六元帥が死んだのは、知っとるな」
「ああ」
「偉い人やからって、戦死せんわけではない。ところで保郎、六大学の野球連盟が解散したの、知っとるか」
「さあ……」
保郎は茶碗についている飯粒を、一粒一粒口に運びながら答えた。
「お父っつぁんはな、四月に大学の野球連盟を解散した時な、大学という所は、もう学生生活をする所ではなくなったと、睨んだのじゃ。今に見てみい、きっと学生の徴兵猶予の恩典はなくなるで。師範かて、一体どんなふうになるか、憂慮しとったんじゃ」
そこで保郎は、初めて父が、旅順から帰った自分を怒鳴りつけなかった理由が、わかったような気がした。
「ぼくは来年こそ、できれば広島の高等師範を受けようと思っとったんやけどなあ。来年までびっちり受験勉強してな」
「保郎、日本はもう、受験勉強などと悠長にしとる暇はあらへん。男がぶらぶらしとったら、たちまち徴用されて、軍需工場に行かにゃならん。お前、軍需工場に行くつもりか。まさか行くつもりはないやろ」
珍しく深刻な顔だった。保郎は、来年は別な学校に入ろうと、のんきな気持ちで帰って来たのだ。僅か一カ月と経たぬうちに、時局が大きく動いていることを、保郎はようやく知ったのだった。
「実はな、お前が帰るいうこと、お母はんは絶対許さん言うとる。だがわしは、本家に頼んでな、どこかの代用教員にでも採ってもらうつもりで、口かけておいた」
ここで初めて、通はにやりと笑った。それは保郎の知らぬ父の姿だった。頑固一方と思った父は、保郎の性格、時局の動きを睨み合わせて、既に受け入れ態勢を定めておいてくれたのだ。
「お父はん、すんまへん」
保郎は思わず両手をついて頭を垂れた。涙が日焼けした畳の上に二粒三粒、ぽとぽとと落ちた。
あの時から、三カ月が過ぎようとしている。保郎は、海の向こうの淡路島に目をやった。父の時局への見通しは鋭かったと、この三カ月を思い返す。五月二十九日には、アッツ島で、山崎部隊二千五百人が全員玉砕した。六月には、工場の就業時間の制限が廃止され、十二時間から十五時間の労働を強いられることになった。更に同じ六月、学生は教室から軍需工場、農村へと駆り出された。七月には同盟国イタリアのムッソリーニが失脚、逮捕された。ぐんぐんと戦局が熾烈《しれつ》になって行くのが、ようやく保郎も肌でわかるようになった。
(けど、神国日本や、負けるわけはあらへん)
誰もが思っているように、保郎も心からそう思った。特に旅順に行って、あの大ロシヤと戦って勝った跡を、保郎は見ている。しかし、アッツ島玉砕の報には、保郎も強烈な衝撃を受けていた。剣道三段の保郎は、体が疼《うず》くような思いに駆られ、沼島に来てからは、青年たちに火のように激しく剣道の稽古をつけた。
「二千五百人。アッツ島ではな、一人残らず死んだんや! そんな阿呆面をしとる時か!」
保郎は青年学校の生徒たちに剣道の稽古をつけながら、厳しい言葉を浴びせかけた。将来どこの学校に行こうか、何になろうかなどということは、もはやどうでもよかった。自分の将来を考えるなど、国賊だと思った。保郎は日本精神に徹するため、六月から古事記の精読を始めていた。日本書紀にも目を向けた。日本書紀の中に、「淡路島島海人」とあるのを見て、
「これは沼島の人たちのことや!」
と、頬を紅潮させて職員室に飛び込んで行ったこともある。しかしこの情熱あふれる若い教師は、青年学校から国民学校四年の教師に受け持ちが変わった。青年学校には、保郎より年上の生徒が幾人もいたためもある。保郎は相手が青年であろうと、国民学校生徒であろうとかまわなかった。一日の授業の初めには、なんと国民学校四年の子供たちに、古事記の素読を始めさせたのである。子供たちには何のことかわからぬ文章であった。
「ええか、日本はな、東洋平和のために戦っとんのや。この戦争は聖戦や、大元帥陛下であられる天皇陛下が、先頭に立っておられるんや。お前たちは少国民といえども、天皇の赤子《せきし》や。日本一の四年生にならなあかん。ええか。日本中で古事記を習っとる四年生は、お前たちだけや」
保郎は昂然としていた。保郎は更に「皇道の哲学」「皇民錬成の哲理」を貪るように読み始めた。島の者たちが、保郎を熱心な教師だと言った。真面目な教師だと言った。朝四時というと、保郎はもう浜に出て、褌《ふんどし》一つになり、海に入ってみそぎを始める。みそぎが終わると、剣道着を着け、何十回となく竹刀の素振りを繰り返す。朝の早い漁師たちが驚くほどの早起きで、少々の雨が降っても、みそぎや素振りを怠ったことはない。下宿に帰って朝食をすますと、剣道着をつけたまま、木刀を持ち、肩怒らせて学校に行く。生徒や教師たちが来る前に、保郎は仁王立ちになって校門の傍らに彼らを待つ。
「あ、またいるぞ、いるぞ」
生徒たちはささやき合いながら、緊張して保郎の前に来る。
「お早うございます」
生徒たちは元気のよい声で挨拶をし、立ちどまって一礼する。
「お早う」
保郎はにこっと笑う。保郎の笑顔は、人を魅きつける独特な笑顔だ。が、生徒たちは更に緊張し、奉安殿に向かって最敬礼をする。保郎がここに立っているのは、その最敬礼をおろそかにしはしないかと、検閲するためなのだ。
「こらっ! 手は膝まで下げるんや。畏れ多くも天皇陛下のご真影に向かって、無礼やぞ。やりなおし!」
保郎は大声で注意する。それが生徒だけにではない。校長であろうが、教頭であろうが、遠慮会釈もなく注意する。一人でも天皇の写真に向かって無礼なふるまいをする者がいないかと、気が気ではないのだ。
「榎本君は熱血漢やなあ」
「何せ、若いからなあ」
「一人でこの学校背負って立っとるつもりや」
「ま、ええやないですか。わしらが楽をできて」
島の教師たちは、やや狂気じみた保郎の姿に呆れながらも、寛容であった。
夏休みに入った保郎は、わが家の二階で、引きつづき日本書紀を読み、古事記に目を通し、「皇民錬成の哲理」を読み返した。ばかりか、「皇民錬成の哲理」の著者に感想文を書いて出した。著者は文部省直轄の教学錬成所の教師であった。一徹な保郎は、その著に共感した以上、じっとしていられなかったのである。
〈先生、私は淡路島の南にある沼島という小島の小学校の代用教員であります。身分は代用教員でありますが、私自身は決して代用だとは思っておりません。教師となって、まだ二カ月と経ちませんが、私は先生のご高著「皇民錬成の哲理」に深い共感を覚えるものであります。私は常日頃、教育というものは、永遠性を持った哲理の上に立たねばならぬと考えておりました。その哲理とは何か、私はその哲理こそ、実に日本古来の神ながらの道であると信じております。失礼ながら、先生のご高著に流れる精神は、私の胸に流れる思いでもあります。
教師の目的は皇民の錬成にあります。皇民を錬成する以上、教師たる者、皇民とは何かを弁《わきま》えておらねばなりません。更に、皇国とは何か、皇とは何かを、深く探らねばなりません。皇の御心を知らねばなりません。天皇《すめらみこと》とは、吾々の仰ぐべき唯一、一人のお方であります。仰ぐということは、従うということであります。従うとは……全き服従とは、命を投げ出すことであります。「葉隠」に「武士道とは死ぬことと見つけたり」とあります。皇民を錬成する教師たる者の道は、実にこの「死ぬこと」なのであります……〉
憑《つ》かれたように、保郎は便箋十枚に手紙を書いて出した。すると驚いたことに、二学期早々著者から返事が来た。
〈お便り感銘いたしました。一度是非東京に出ていらっしゃい。ゆっくり話し合いたいと思います〉
と書いてあった。この葉書を受け取った保郎は、校長をはじめ教師たちに見せてまわった。が、教師たちはさほど驚いたふうも見せず、
「よかったね、返事をもらって」
と、にやにやするだけだった。しかし保郎は、そんなことには頓着しない。早速にも、東京に飛んで行きたかったが、受け持ちの生徒がいる。
「二、三日ぐらいなら、わしが見てやってもええで」
職員室の中で、一番頭の低い校長がそう言ってくれた。保郎は得意だった。早速、近いうちに上京する予定を立てた。
翌朝、いつものように保郎は剣道着を着こみ、校門に立って、生徒たちの奉安殿への敬礼を見守っていた。いよいよ意気|軒昂《けんこう》の保郎の目は、カッと見ひらかれ、底光りがしている。そこに教頭がやって来た。教頭は、保郎から見れば自由主義者であった。飄々としているところがある。その教頭の奉安殿への敬礼が浅かった。
「教頭先生! 頭《ず》が高いです!」
何しろ皇民錬成の塊である。誰憚《はばか》るところもない。著者の葉書をもらって、気持ちが高揚しているから、ふだんでも大きい声が一層大きい。しかし教頭は、最敬礼のし直しをして、何事もない顔で校舎に入って行った。
その日の放課後、職員室はいつものとおり和やかだった。周囲八キロの小島である。教師たちにとって、職員室は一番楽しい所なのだ。どこかで酒を飲もうにも、戦時下で酒は配給である。めったに口には入らない。みんなで生徒のことでも話しているほうが退屈しない。
保郎が教室から職員室へ戻った時、教師たちは何か楽しそうに話をしていた。が、その中の一人が、
「おお、榎本君。あんた、今日宿直やなあ」
と言った。他の一人が、
「え? 榎本君の宿直やって? そりゃ大ごとや」
と、同情した。
「大ごと? 大ごとって何ですか?」
みんなはちょっと顔を見合わせた。
「何が大ごとですか」
保郎がまた聞くと、保郎より二、三歳年上の教師が言った。
「今日は九月六日やろ?」
「それがどうしたんや」
「言ってもええかなあ」
「いや、いっそ知らんほうがええんやないか」
みんながうなずき合う。
「あのなあ、九月六日は、一人では宿直できん日なんや」
次席の、ふだんは冗談好きの教師が声を低めた。
「どうして、九月六日が……」
保郎が言いかけると、次席がまた言った。
「これは、毎年のことや。毎年誰か彼か、出くわすことや。出るんや。出るんやよ」
言いながら次席は、両手を胸の前に垂れ下げ、幽霊の真似をした。保郎は、妹のかつみから、「怖《お》じみそ」と綽名《あだな》をつけられたほどの臆病でもある。
「ほ、ほんとうですか!?」
と、顔が青ざめた。本当かと聞くまでもなく、嘘とは思えない。女教師が言った。
「校長先生、話してやってください」
「いやや。わしはあの幽霊の話をするとな、熱が出るんや。そうや、君が話してやってえな。命令や」
校長は三席を指さした。
「しようあらへんな。校長先生の命令とあらば……」
三席が両手を組んだ。保郎は、
(もしかしたら、みんなでわしをからかう気かもしれへん)
と、一人一人の顔を見た。が、誰一人、のんきな顔をしている者はない。
「実はな、この島に、二百年も家の建たん空き地があった。そこに、この小学校が建ったんや。ここは徳川時代に、村の漁師が十何人も打ち首になった所でな」
三席は、自分のうしろをそっと見まわして言った。
「先生、どうしたん? 今晩はちいとも食が進まへんなあ」
おとら婆さんが怪訝《けげん》な顔をした。膳には保郎の好きな目刺し、茄子なすの味噌焼き、わかめ汁が並んでいる。いつもなら二口か三口でぺろりと茶碗の飯を平らげる保郎が、一箸口に運んでは何か考え、二箸口に運んでは手を休める。
「いや、別に……これうまい茄子焼きやなあ。おばはんは、ほんまに何を作っても、うまいなあ」
あわてて保郎は、茄子を口に入れた。
(ほんまやろか、毎年今夜、当直室に幽霊出るいうのは)
保郎は、先ほどの教師たちの話を思って、気が滅入っていた。沼島は、江戸時代、蜂須賀|至鎮《よししげ》が参勤交代の往き帰りに立ち寄った島だ。その時の立派な屋敷と庭が、いまだに沼島には残っている。屋敷には、当時至鎮の側室が住んでいた。この側室を、ある夜漁師たちが党を組んで襲った。が、薙刀《なぎなた》の名手である側室にたちまち追い散らされてしまった。事件を聞いた至鎮は烈火の如くに怒って、漁師十人を打ち首にしてしまった。その打ち首の場所に、学校の当直室があるというのである。そして、打ち首のあった九月六日には、毎年漁師たちの幽霊が出るという。そんな馬鹿なとは思ったが、保郎は否定し去ることもできなかった。長月庵の真浄尼から、
「お寺にいるとなあ、時々妙なことがあるんじょ。檀家で誰か亡くなるとな、本堂で鉦《かね》がひとりでチーンと鳴ったりしてな」
などとよく聞かされ、背筋がぞくぞくしたものだった。剣道着姿の保郎や、肩を怒らせて歩く時の保郎には、恐ろしいものなどこの世に何ひとつないように見えたが、生来ひどく臆病な一面があった。
「なあ、おばはん」
「何や、先生」
おとら婆さんは目を細める。十九歳の保郎が孫のように思えるのだ。保郎もおとら婆さんが好きだ。いや、保郎は子供の時から老人が好きなのだ。だから、重い荷を持って歩いている年寄りに出会ったりすると、
「どれ、ぼくが運んだる」
と、少々の回り道を厭わない。もし若者が老人を小馬鹿にでもしようものなら、持ち前の大声で、
「こらっ! 年寄りは国の宝ぞ!」
と、一喝する。そんな保郎がおとら婆さんの自慢だ。
「あんなあ……」
ちょっとためらってから、保郎は言った。
「学校に幽霊が出るいう話、聞いたことあるかいな」
「ああ、学校に幽霊な。そんな話時々聞くわな。便所に出たとやら、当直室に立っていたとやらな」
保郎ははっと胸をとどろかせたが、おとら婆さんはけろりとしている。
「何や、幽霊がおとろしくないんか、おばはんは」
保郎は声をひそめた。
「おとろしかどうか、七十のこの年まで、まだ幽霊に出会ったことあらへんでな」
おとら婆さんはにんまりと笑い、
「いくらおとろしいうても、幽霊は一時《いつとき》やろ。ちょいと出て、すぐ消えてしまうのが幽霊やろ。そんな幽霊より、生きとる人間のほうが、ずっとおとろしもんじょ、先生」
と、屈託がなかった。何とも、今夜の幽霊の話はしづらかった。
食事を終えた保郎は、腕時計を見た。宿直につく六時までに、まだ三十分はある。
(そや、ええことがある!)
保郎は生徒を二、三人集めて、今夜当直室に泊めようと思った。
(勉強見てやるいうて、集めたろ)
情けない教師だと思いながら、しかし名案だと思った。もともと保郎は、幽霊が出ようが出まいが、宿直が何より嫌いだった。僅か八学級の学校とはいえ、生徒も教師たちも帰った無人の校舎は、夜になるとがらんとして、まことに無気味なのだ。定められた夜中の十二時、校内巡視に出る。片手に懐中電灯を、片手に竹刀を持って巡視するのだが、廊下の大きな鏡の前に来ると、肌が粟立つ。真っ暗な中の鏡というものは、思いもよらぬ妖気がある。懐中電灯の反射で、自分自身の顔が他人のように見える。そしてそのうしろに、白い衣を着た幽霊が、今にもすうーっと現れそうな気がするのだ。数多いガラス窓に映る自分の姿も恐ろしかった。夜の校舎は、何かしらよく音がした。どこかで誰かが、足音をしのばせているように、みしっみしっと音がしたり、ひそひそ声が確かに聞こえたような気がしたり、保郎はいつもびくびくしながら、宿直の巡視をしていたのである。とにかく、只でさえ嫌いな宿直なのに、今夜は幽霊が出るとおどされては、肝がちぢんだ。
「じゃ、行ってくるわ、おばはん」
保郎は下宿を出た。茜を帯びた夕空が、向かいの淡路島の上にあった。裏山の森の上に舞うカラスが、なぜかいつもより騒がしい。それが妙に不安をかきたてた。
途中、保郎は受け持ちの君夫の家に足を向けた。潮風に色褪せた漁師の家の並ぶその一画に、君夫の家があった。父親が漁師で、弟妹が何人かいる筈だが、赴任して二カ月しか経たない保郎には、詳しくはわからない。開けっ放しの戸口に立った保郎は、
「今晩は」
と言いかけて、声をのんだ。中仕切りの障子も、裏戸も開けっ放しで、二部屋しかない家の中がまる見えだった。奥の間に、誰かが布団に横たわっている。五歳ぐらいの女の子と三歳ぐらいの男の子が、突つき合って泣き声を立てている。片隅の台所では、赤ん坊を背負った君夫が、七輪の火を熾《おこ》そうと、渋《しぶ》団扇《うちわ》をばたつかせている。
「君夫! 誰ぞ病気か?」
突然現れた保郎に、君夫は目をみはって、
「うん、母ちゃんや。時々寝るんや」
と、再び七輪を煽《あお》いだ。母親は眠っているのか、身動きもしない。
「どれ、先生が火を熾したる」
保郎は台所に上がりこんだ。台所には、戸棚も何もない。新聞紙を貼ったリンゴ箱を重ねた中に、乏しい食器があった。
「父さんは?」
「海や。もう帰る」
「母さん、大丈夫かな」
君夫は少し頭をかしげた。ようやく火の熾った七輪に炭をついだ保郎は、
「先生なあ、もっと手伝ってやれるとええんやが、今晩宿直でな、もう行かんならん。母さん大事にな」
と、君夫をいたわって外に出た。
(勉強を見てやるどころではないわ)
保郎は今見た光景に、胸が痛んだ。君夫の母親の顔の青さが気になった。おそらく長男の君夫は、いつも赤ん坊を背中にくくりつけられ、家事の手伝いをさせられているのだろう。父親一人の働きでは、食うだけで精一杯なのだろう。学校にいる時の君夫は、活発に手を挙げ、成績もいいほうで、一見何の苦労もない生徒に見えた。
(大変なんやな、君夫は)
保郎は、何も知らなかった自分が、ひどく怠慢な教師に思われた。
(ほかの子も、どんな暮らしをしとんのやろ)
七月に赴任したばかりの保郎は、まだ家庭訪問をしていない。生徒たちの気性をのみこみ、気候も涼しくなってから、ゆっくり訪問しようと思っていたのだった。
宿直の時間までに、あと十分とはなかった。寄せては返す白い波を渚に見て、保郎はあと二、三丁の道を学校に向かった。と、
「榎本先生ーっ」
と呼ぶ声がした。ふり返ると、受け持ちの七郎の笑顔が近づいて来た。一瞬保郎は、この七郎を誘おうかと思った。
「どうした、七郎、何やうれしそうやな」
「うん、今夜な、お寺で肝だめしがあるんや。八時からや。先生も行かんか。おもろいで」
「え? 肝だめし? ほうかあ、実はな、先生も今夜は肝だめしなんや」
「みんな、先生の留守の間、元気やったか」
教壇の上から、保郎は生徒たちを見まわした。四年生の男女三十人余りの目が輝いて、
「はーい」
と、一斉に答える。その中に、君夫の元気な顔もある。保郎が「皇民錬成の哲理」の著者に会いに出かけたのは、十一月に入ってからだった。校長が保郎の留守の授業を担当してくれた。
「ほうか。校長先生に教えてもろうて、よかったなあ」
「はーい」
今度の返事はばらばらだった。中に、「榎本先生のほうがええ」という声もする。
「そやそや。榎本先生のほうがおもろいわ」
「そうや。幽霊の話はおもろかったわ」
七郎の声だった。上京の前に、あの宿直の夜の顛末を話して聞かせたのだった。結局、保郎は職員たちにかつがれたのである。何でもいい、僅か一週間留守をした自分を待っていてくれたのかと思うと、保郎の顔はほころんだ。
「あんな、先生はな、東京の文部省まで行って来たんやで」
保郎は胸を張った。文部省の教学錬成所に、満員の船と汽車に乗り継いで行って来たのだ。錬成所は、まだ自然の残っている広々とした武蔵野にあった。
「先生、もんぶしょうって、何や」
女生徒の一人が聞いた。
「教科書の表紙を見てみい。修身にも国語にも、文部省と書いてあるやろが」
保郎は黒板に「文部省」と書いた。
「文部省はな、学校関係のお役所や。言ってみれば、日本中の学校の親分のようなお役所や」
生徒たちがうなずいた。
「先生がな、受付で、沼島の榎本や言うたらな、受付の娘さん、先生の顔じろじろ見るんや。何やこの田舎者と思うたんかな。そしてなかなか取り次いでくれへんのや。先生腹立ってな、怪しいもんではあらへん、と大声出したらな、ほかの役人が出て来て、あ、沼島の榎本さんですか。遠路ご苦労さんです言うてな、ていねいに頭下げてくれたんや。受付の娘さん、びっくりした顔してな、あわてて応接間に通してくれたんや。先生な、胸がすーっとしたわ。それからな、ええか、みんな驚くなよ」
面会を求めた草場弘氏は講義中で、保郎は応接室に待たされたのである。
「おどろく、おどろく」
ひょうきんな声が上がり、みんながどっと笑った。
「そうやろう。驚くやろな。先生が応接室の立派な椅子に坐っていたら、誰が入って来たと思う?」
「わからへん」
「お化けや」
「幽霊や」
生徒たちがふざけた。幽霊の話を聞かせた身としては、苦笑するより仕方がない。
「いや、先生な、幽霊よりもっと驚いたわ」
生徒たちはじっと保郎の顔を見つめた。
「あんな、真っ白な髪の毛のな、上品な顔をした人が入って来たんや。それがそこの所長の、橋田邦彦先生や」
橋田邦彦と聞いても、生徒たちはぽかんとしていた。保郎は「橋田邦彦先生」と、黒板に大きく書いた。
「ええかな。橋田先生は、ついこの間まで文部大臣をしていた方やで。大臣やで大臣、どや、驚いたか」
「おどろいたあ」
みんな声を上げた。
「先生も驚いたわ。だってなあ、先生はこんな小さな沼島の先生や。しかも、七月に先生になったばかりのほやほやや。日本一月給の安い先生やで、きっと。その先生がな、大臣やった人に、わたしはここの所長の橋田邦彦です、とていねいに挨拶されたんや。そしてな、いろいろな話を長い時間してもろうたんや」
この時橋田邦彦は、代用教員だと言った保郎に、代用教員などという言葉は口にしてはならない、君の担任している子供たちにとっては、君が誰よりも偉い先生なのだ、その信頼に応えるのが教育だ、月給の多少、地位の有無など、人格には関係がない等々、いかにも陽明学の研究者らしい深みのある話をしてくれた。
「そしてな、みんな。先生の話も聞いてくれてな、ふーん、なかなか見どころのある若者やな、来年は一週間ほど、全国農村青年の指導者として来てくれまいかと、頼まれたんや。つまりな、全国の農業の若者たちの先生になれって言われたんやで。どや」
保郎は得意であった。
「へえー、先生偉いんやなあ」
「ほんま、ほんま、偉いんやなあ」
生徒たちは感歎の声を上げた。この農村指導者の件を、今朝職員室で、全職員の前で報告した時は、誰一人として本気にする者はなかった。
「橋田邦彦? あの文部大臣をやった人と、同姓同名の人やな」
と、小馬鹿にする者もいた。東京帝大教授、一高校長、文部大臣を歴任した医学博士橋田邦彦を知らぬ教師は一人もいない。それだけに、今年中学を出たばかりの保郎と言葉を交わしたなどというのは、大ぼらとしか思えなかったのだ。橋田邦彦は、沼島の代用教員である熱血漢の保郎を愛して、この時一時間余りも尺八を聴かせさえしている。
「わたしの号は、無適と言いましてな。すなわち、わたしには何一つ適するものはない。それで、何がわたしに真に適するのか、それに出合うために、わたしは求めつづけているのです」
どうやらその言葉には、ソクラテスの思想が流れているらしかった。
「みんな、尺八って知っとるか」
「知らん」という声と、「知っている」という声が幾つか上がった。保郎は西洋紙をまるめて、尺八を吹く真似をした。
「橋田先生な、尺八吹いてくださったんや。一時間もな。それで先生、どうしたと思う?」
「よろこんだと思う」
「うん、先生はよろこんだんや。けどな、長いこと汽車に乗って行ったやろ。くたびれていてな、ええ尺八の音を聴いているうちに、すーっ、すーっ、と眠ってしまったんや」
「眠ったあ!? 橋田先生怒ったやろ」
級長が言った。
「あのな、先生な、とうとうぐっすり眠ってな。椅子からころげ落ちてしまったんや。そして、頭を床にぶつけてな、痛いっ! と叫んで、自分の声で目ぇさめたんや」
生徒はげらげらと笑った。
「ほならしかられたやろ」
「と思うやろ。ところがな、橋田先生な、こう目ぇつむってな、頭をふってな、一心に尺八を吹いていて、気ぃつかんのや。偉い人いうもんはなあ、一つのことに熱中するもんなんや、わかったか」
生徒たちは大きくうなずいた。が、先刻から一列目の一番うしろにいる勇太の存在が、保郎には気になっていた。みんなが笑う時でも、勇太は膝の上で何かごそごそやっていて、下を向いたままだ。勇太が話を聞かずに勝手に教室を出て行ったりすることは、今に始まったことではない。
「先生、勇太はな、一年の時からああなんや。勇太のこと気にした先生、一人もあらへんで」
級長に言われて、保郎も勇太の行動には馴れていた。それが今、不意に、勇太がふてぶてしく思われた。
「勇太! 何しちょる」
勇太は黙って保郎を見、にやりとしたが、やがて教室を出て行った。
次の休み時間、保郎は職員室で、「おい、文部省」と一人の教師に言われて立腹し、少し口論した。始業ベルが鳴って、教室へ行こうとした時、便所のそばに坐って、グライダーを作っている勇太の姿を見た。十一月三十日、校内グライダー飛翔大会がある。
「勇太! 算数の時間やで」
保郎は大声で怒鳴った。が、勇太はちらりと保郎を見ただけだ。怒った保郎は、グライダーを取り上げ引きずるようにして教室につれて行った。そしてその日の放課後、勇太は遅くまで職員室に立たされた。哀れにも勇太は、「文部省」のあおりをくらったのだ。
十一月三十日が近づいてきた。模型グライダーの校内飛翔大会が予定されている四年生以上の男子は、手工の時間にグライダーの作り方を習っている。放課後、幾人かが校庭で模型グライダーの飛ばしくらべをしているのが目についた。いかにも戦時下らしい光景であった。
父の通が予言していたように、十月十二日、法文系学生の徴兵猶予停止が布告され、十月の二十一日には、初めての学徒出陣壮行大会が、明治神宮外苑で盛大に行われた。更に十一月二十五日には、タラワ島、マキン島の守備隊と軍属合わせて五千四百人の全員が壮烈な玉砕を遂げた。十一月二十七日には、米国、英国、中国の三巨頭が、日本反撃戦線の統一と、中国への援助とを世界に向かって宣言した。即ちカイロ宣言である。
いよいよ飛翔大会を明日に控えた十一月二十九日の放課後であった。屋外運動場には、グライダーを持った生徒たちが、あっちにひとかたまり、こっちにひとかたまり、いかに飛ばしたら、より長い滞空時間を得られるか、工夫し合っていた。保郎の受け持ちの四年生たちは、五年生、六年生、高等科の生徒たちに場所を取られて、片隅で飛ばし合っている。
「何や、その飛ばし方、どら、先生に貸してみい」
どの子もどの子も、飛ばすとたちまち地に落ちる。見ていた保郎は、歯がゆくなって近づいて行った。生徒たちは喜んで、
「先生、おれのを飛ばしてや」
「いや、おれのが先や」
と、争ってグライダーを差し出した。ローソクの火にひごを近づけ、注意に注意を重ねて曲線を出す。そして和紙を苦心して糊付けしたのだ。保郎は一人の生徒のグライダーを持って、機首を上に上げ、勢いをつけて飛ばした。が、その生徒が先ほど飛ばしたよりも、もっと早くグライダーはグラウンドに落ちた。
「何や先生、おれより下手や」
言われて保郎は頭を掻いたが、
「お前の作り方が下手なのとちがうか。どら、今度はお前のを貸してみい」
と、他の生徒のグライダーを飛ばした。またまたグライダーは五メートルと飛ばずに墜落した。生徒たちから失望の声が上がった。
「変やなあ。先生は凧揚げはうまいんやけどなあ」
保郎の言葉に生徒たちが言った。
「グライダーと凧とはちがうで。先生、あまりうまくあらへんな。力を入れ過ぎるのとちがうか」
「ほなら、お前たちが飛ばしてみい」
保郎が言うと、生徒たちが一人一人飛ばし始めた。なるほど保郎が飛ばすより、少しではあるが滑空距離が長い。
「むつかしいもんやな」
保郎は降参した。ふと見ると、校庭の片隅の松の根方に、勇太がみんなの飛ばすのを見ていた。保郎は近づいて行った。
「勇太、お前、飛ばさんのか」
勇太は、にこっと笑ってうなずいた。手にグライダーは持っていなかった。
「グライダーはどうした。でき上がったんか」
勇太はまたうなずいた。保郎は便所の傍らで、勇太がグライダーを作っていたことを思った。そのグライダーを取り上げた時の、泣き出しそうな勇太の顔も浮かんだ。あれ以来勇太は、グライダーを学校に持って来なくなったのだ。
「お前のグライダーも、すぐに落ちるか」
勇太は、またにこっと笑ったが、今度は首を横にも縦にもふらなかった。校庭の真ん中で飛ばしている高等科の生徒のグライダーは、さすがに四年生のそれとはちがって、長く飛んでいた。十一月の青い空に、白いグライダーは、優美に、ゆっくりと浮いていた。それをひとしきり見てから、
「勇太、まだできていなくても、明日は持って来いよ。ほかのもんに負けたらあかんで」
前に叱ったこともあって、ここに一人しょんぼり、只見物している勇太が、保郎はたまらなく愛しく思われたのだ。勇太は何をやらせても長つづきはしなかった。読本を読ませても、読める字が少なかった。四年生だというのに、九九さえ充分に覚えてはいなかった。一年生の時から、勇太が教室にいなくても、どの教師も気にかけなかったというが、自分もまたうかうかと勇太をお客さん扱いにしていた。それを保郎は悔やんで、あのグライダー作りを咎《とが》めたあと、時折、勇太に九九を教えたりしてきたのだ。おとら婆さんに、
「あんなあ、勇太いう子はなあ、何をやっても長つづきせえへんのや。どうしたらええやろ」
と、ぼやいたことがあった。
「何をやっても長つづきせえへん? 何一つとしてか」
「そうや。けど、グライダー作ることだけはふしぎと熱心なんや」
「へえー、グライダーなあ。ほなそれでええやんか」
おとら婆さんはあっさり言った。
「ええやんか? どうしてや。算数も国語もせんでええのか」
「あんなあ、先生。人間ちゅうもんは、何か一つできたらええんや。それで結構というもんや。漁師は魚を獲る、大工は家を建てる、畳屋は畳を作る、それを一つ、いくら繰り返しても飽きなけりゃ、食っていけるがな。な、そうやろ」
言われればそんな気もした。おとら婆さんの言葉には、どこか保郎を安心させるものがある。が、そのグライダー作りを、勇太はぱたりとやめてしまったのだ。
あれだけ好きだったのだ。授業中にも、教室を脱け出してグライダー作りに熱中していた勇太なのだ。家では相変わらず作っているかも知れないが、とにかくあれ以来、学校には持って来なくなった。工作の時間でも、他の子のするのを眺めている。工作の道具は忘れたと言うのである。いつも、どの授業にも、まともに参加したことのない勇太なので、何とはなしに見過ごしてきたが、今、一人松の根方に腰をおろして、級友たちの飛ばすグライダーをぼんやり見ている姿を見ると、保郎は重大なことに気づいた。
あの時保郎は、渡すまいとする勇太を大声で叱りつけて、グライダーを取り上げたのだ。むろん、帰る時は持たせて帰しはしたが、もしかして、勇太にとってグライダーは、命から二番目の大事な宝物であったかも知れないのだ。勇太は再び取り上げられるのを恐れて、保郎の前に持ってくる気になれないのかも知れない。保郎はそれに気づいた。
(可哀そうなことをしたな)
保郎がそう思った時、勇太が立ち上がった。
「先生、さよなら」
勇太は、にこっと笑って一礼するや否や、駆けて行った。細い背を見せて走る勇太の走り方は、決して速くはなかった。
「おーい、明日はグライダーを忘れんと持ってくるんやで」
保郎は大声で叫んだが、勇太に聞こえたかどうか、ふり返りもせずに走って行った。
下宿に帰っても、保郎は勇太のことが気にかかって、
(もし、あいつ、明日グライダーを持ってこなかったら、どないしよう)
落ちつきなく外に出てみた。幸い星空で、明日の飛翔大会は晴天らしい。しかしその大会に、あれほど好きなグライダーを、勇太が持たずに来たら……と思うだけで、いても立ってもいられない気がする。十一月も末にしては暖かい風だ。保郎は勇太の家まで行ってみようかと思った。勇太は二年前に母を失って、父と姉との三人暮らしだ。尋常科を卒業したばかりの姉が、炊事や洗濯をしているのだ。一度訪ねたことのある勇太の淋しい様子を保郎は思い浮かべた。
(けど……もう寝たかも知れん)
漁師は朝が早いのだ。そう思い返して、保郎は部屋に戻った。
(勇太、ごめんな。明日は絶対に出て来いよ。休んだらあかん)
保郎は繰り返し同じことを思って、なかなか寝つかれなかった。
翌朝、保郎はいつものように校門に立っていた。四年生以上の男子たちは、どの子も白いグライダーを大事そうに持って登校して来る。保郎の目は勇太を探していた。風もおだやか、空も晴れていて絶好の日和である。が、なかなか勇太の姿は現れない。
(どうしたんや、休むつもりか)
次第に始業時間が迫って来る。
(何をやっとるんや、もう学校が始まるで)
保郎はいらいらした。勇太は滅多に遅れたことはない。休むこともない。それがどうしてか今朝は来ないのだ。
(もう、先生は怒ってはおらん。たのむ、はよ来てくれ)
保郎は腕時計を見た。始業時間三分前だ。校舎に入って、剣道着を服に着替えねばならない。爪先立って浜のほうを見た保郎は、思わず叫んだ。
「来た! 勇太や!」
勇太の手に白いグライダーがあった。近づいて来た勇太に、
「お早う、よう来たな、勇太。ありがとう」
言ってから、「ありがとう」はおかしいと、不意に保郎はおかしくなった。
「先生、お早う」
勇太はいつもの笑顔を見せた。
「遅かったな、今日は」
「うん、お父さんと魚をとりに行って来た」
保郎は思わず胸が熱くなった。
(そうか、この子は、今朝父親の漁の手助けをしていたのか)
何と自分で何もわからぬ教師だと、保郎は思った。始業の鐘が鳴った。
その日のグライダー飛翔大会に、全校一となったのは、何とこの勇太であった。二階の窓から飛ばした勇太のグライダーは、まるで見えない手が下から支えているかのように、ゆったりと飛びまわった。もう落ちるか、もう落ちるかと、誰もがはらはらして見つめていたが、いっこうに落ちる気配がない。生徒たちの吐息ともつかぬ歎声が上がった。そして生徒たちは、口々に叫んだ。
「がんばれ!」
「落ちるな!」
「すげえぞおっ!」
やがてゆるやかに着陸した。みんなが一斉に手を叩いた。保郎にとって、全く思いがけないことだった。何もできないと思っていた勇太に、こんな才覚があった。これだけのことができるということは、勇太にはもっと隠れた力があるということかも知れない。自分は教育者として、何という暗愚な、怠惰な人間であったことか。そればかりか、もう少しのところで、勇太のグライダー作りさえ、取り上げるところであった。
(これで皇国民の錬成と言えるか。おれはどこかまちごうとる)
保郎は、その日直ただちに、当直室に勇太を呼んだ。
「すまん、すまなんだのう。先生は阿呆やった。ほんまに阿呆やった」
しきりに謝る保郎を、勇太は不思議そうに見つめていた。
勇太が、自分で釣ったヒラメをぶら下げて、保郎の下宿を訪れたのは、その翌日の早朝だった。
一年後の昭和十九年(一九四四年)十二月、保郎は千葉県佐倉の連隊に入隊することになった。全校生徒や教師たちをはじめ、島民が日の丸の小旗を手に手に、浜まで見送りに来た。その一番前に、おとら婆さんの姿があった。おとら婆さんは昨夜、風呂に入っている保郎の背を流させてくれと言った。
「反対やがな。おれが流さにゃならんのに」
保郎は固辞したが、
「最後の頼みや」
と、背中を流してくれた。そのおとら婆さんの手が不意にとまった。
「どうしたんや?」
保郎が首をうしろに曲げると、おとら婆さんは、襟にかかった手拭いで目を拭きながら言った。
「……なあ、先生、こんなにええ体をしていて、どこも病気がないのに、……弾丸に当たって死んじゃあかんでな。まだ二十やろ。五十年経っても、このお婆より若いんや。死ぬなよ、敵の手につかまっても、決して死んではあかん」
そう言って泣いていたおとら婆さんは、校長の横に立って日の丸の旗をふっている。僅か一年半足らずの沼島の生活だった。にもかかわらず、ほとんど島総出の見送りである。保郎は感動した。船の上から、受け持ちの生徒一人一人の顔をしかと目におさめた。と、勇太がいない。
(勇太はどうした?)
一年前のグライダー飛翔大会で一等をとってから、勇太は明るくなった。九九も全部覚えた。漢字の書き取りもよくするようになった。もう一度勇太の顔が見たかった。
船の汽笛が三度短く鳴った。保郎の船が動き出した。
「バンザーイ」
「バンザーイ」
みんなが小旗をふる。
「先生っ! また来てやあ」
子供の一人が叫ぶ。
「必ず帰っておくれや。決して死んではあかーん。這ってもずっても帰ってなあ」
おとら婆さんの声がひびく。
朝の海にみそぎをした先生。
仁王立ちになって奉安殿敬礼を検閲した先生。
俄《にわ》かづくりの剣道部を優勝させた先生。
幽霊に怯《おび》えて、笑いものにされた先生。
元文部大臣に、全国農村青年の指導員を命ぜられた先生。
生徒を殴ったり、笑わせたりした先生。
珠算の教え方を忘れて、同僚にあわてて聞きに行った先生。
見送る一同の胸の中に、そんな保郎の姿が懐かしく浮かんでは消えた。保郎の船のまわりに、漁船が三隻、大漁旗を立てて従《つ》いて来る。再び生きてこの地を踏めるかどうか、保証はない。
この年三月、新聞の夕刊が廃止となった。同じく三月、歌舞伎座、帝劇、日劇などが閉鎖された。四月には不要不急の旅行が禁止され、一等車、寝台車、食堂車が共に全廃された。五月に学校工場化が通達された。六月、マリアナ沖海戦において、日本海軍が惨敗。西太平洋における制海権は米軍に奪われた。七月にはサイパン島において守備隊が玉砕。東条内閣は戦局の責任を取って総辞職、小磯内閣が成立した。そして十月には、遂に十七歳以上の男子は兵役に編入することが決定され、レイテ沖海戦において、神風特攻隊が出撃、飛行機もろとも敵艦に体当たりする作戦をとった。更に十一月二十四日には、東京に米軍爆撃機B29が大挙襲来したのだった。
こんな戦局にあっては、生きて帰れるとは思えなかった。しかし敗色の濃い日々を迎えながら、庶民はまだ日本の勝利を固く信じていた。神国日本が亡ぶわけはない。明治二十七、八年の日清戦争には、あの大国清国を降した。十年後にはロシヤに勝った。日本には神がついている。万一敵が襲来しても、最後の最後には必ず神の助けがある。天佑神助という言葉を、小学生さえ知っていた。
二度と帰れぬとは思っても、保郎は意気|軒昂《けんこう》たるものがあった。
従いて来た三隻の漁船も、保郎の船を離れた。そして船が突堤を出て外海に差しかかった時、保郎ははっとした。誰かが呼んだような気がしたのだ。再び声がした。
「榎本先生ーっ!」
「勇太だ! 勇太の声だ!」
思わず保郎が叫んだ。突堤の傍らに小舟があった。勇太が一人乗って、日の丸を激しくふっている。
「勇太ぁーっ!」
保郎の目から涙が噴き出た。
「先生ーっ! また来てなあーっ!」
「また来るでえ! 元気でなあーっ!」
保郎は勇太に向かって手をふった。欠点だらけの教師だった。洲本中学では、下級生を殴ったことは一度もなかった。蛸釣りの悪習を、神洲会《じんすかい》をつくって阻止した自分が、幼い児童を殴るようになった。どの生徒にも、「すまん」「すまん」と詫びたい思いだった。特に勇太には、両手をついて謝らねばならぬ教師だった。が、小舟に手をふる勇太を見た時、沼島の教師になってよかったと、保郎はしみじみ思ったのだった。
黄塵
保郎たちの軍用列車が千葉県佐倉駅を出発したのは、その日の未明だった。どこに向かって出発したのか、知っている者はいない。が、名古屋の辺りにさしかかった頃は、誰もが、「北支に行くらしい」と、ささやき合っていた。命を賭して戦う場所がどこかわからないとは、不思議だと保郎は思った。が、これが戦争だとも思った。国に命を捧げるということは、このようなものかも知れないと思いなおしもした。
入隊したのが十二月一日で、それから十日と経ってはいない。銃の持ち方もろくに知らずに戦場に行って、実戦に耐えられるのだろうか、という不安がないわけでもない。まさか新兵だけで編成されている筈もない。とは思っても、現実にどのように戦うのか、見当もつかない。
(生きて帰ることはないやろな)
あちこちで玉砕した話が胸に浮かぶ。懐かしい淡路島の島影が見えなくなったところで、保郎は雑嚢《ざつのう》の中から、人々が寄せ書きをしてくれた日の丸の旗を出して膝の上に広げた。
「忠君愛国」
父の通が書いてくれたその字の上を、保郎は大きな手でなぞってみた。どんな思いで父がこの言葉を書いたのか、わかる気がした。鼻っ柱は強いが、気の弱いところもある父のその弱さが、指先から伝わってくる。その字の隣に、父より達筆に、
「銃後の守りあり」
と、母のためゑが書いている。家を出る時、母は保郎に背を向けていた。
「お母さん、征《い》きます」
二度声をかけたが、ためゑはうしろを向いたまま、何やら口の中で返事をした。戦地に赴く者は、誰しも「征ってきます」とは言わず、「征きます」と言った。二度声をかけても、自分の顔を見てはくれない母に、よほど、
「征って来るでな」
と、保郎は耳もとにささやきたかった。母の肩が小きざみにふるえている。その姿に、保郎は母の涙を見たような気がした。
「兄ちゃん頑張って」
とあるのは、聡明な妹かつみの字である。
「元気でね」は愛らしい松代。
悦子と寿郎は名前だけで、栄次と昨年八月に生まれたセイ子はまだ筆が持てない。それらの筆の跡を一つ一つ指でなぞっていると、字がかすんでくる。保郎は思いをふり払うように、片隅の字に目をやった。
(はてな? これは誰やろ)
「ご無事でお帰り下さい 伊吹花枝」とあり、その横に「武運長久 野村和子」が並んでいる。
(伊吹っちゅうのは……ああ、そうか。あいつの従妹やな)
中学時代の友人伊吹健一に、従妹の花枝がいて、保郎に好意を持っているらしいと、聞かされたことがあった。保郎は母から、出発の前夜、店先に来て、日の丸に寄せ書きをさせて欲しいと言った娘が二人いたと聞いた。
(けど、野村和子って誰やろ?)
全く聞いたことのない名前である。神代《じんだい》駅を出発の時、食い入るように保郎を見つめていた娘がいた。
(あれが花枝やろか、和子やろか)
保郎は少し甘い思いに浸った。保郎だけでなく、まだ二十になるやならずの新兵たちは、女の手もろくに握ったことはない。手を握るどころか、言葉さえ滅多に交わしたことがない。女は遠い世界の異人種のようなものだ。女のことを何も知らずに、戦場に赴くのだ。
保郎はふっと目を転じた。横にいた新兵が訝《いぶか》しそうに言った。
「そこに書かれてある橋田邦彦という方は、一高の校長をなさって、文部大臣になられた、あの橋田先生ですか」
言葉遣いがていねいであった。が、この新兵が保郎は虫が好かなかった。佐倉からここに来るまで、保郎が幾度か言葉をかけたが、返ってくる言葉は、ほとんど「はあ」か「いいえ」であった。無口な男なのかも知れないが、ほとんど目を閉じて、端然と腰をかけている姿は、他の兵隊たちとどこかちがっていて、好きになれなかった。
「はあ」
保郎もその新兵の真似をして、短く答えた。が、内心得意であった。橋田邦彦について話したい思いでうずうずした。今回の入隊は、予《あらかじ》めわかっていた。今年の春休み、保郎は全国農村青年の指導者として、文部省の教学錬成所に行った。橋田邦彦の声がかりであった。その時保郎は、日の丸を持参し、橋田邦彦に書いてもらったのである。
「皇恩無窮 盡忠報国 脱落生死 不惜身命」
と、橋田邦彦は書いてくれた。
「橋田先生と親しいのですか」
新兵が言った。
「はあ」
と答えたが、保郎はこの新兵の真似をつづけることはできなかった。すぐに口をひらいて、橋田邦彦と知り合った次第を話した。話しているうちに、虫の好かなかったその新兵が、さほど嫌いではなくなった。ついでに保郎は、自分の家族が書いてくれた寄せ書きを示した。
「きょうだいがたくさんで、けっこうですね」
「あんたのきょうだいは?」
「姉二人、兄が一人います」
ぱっと顔が輝いた。保郎はその表情に、きょうだいの仲のよさを感じた。
「お姉さん何をしとるんや」
「上の姉は修道院に入る準備をしています」
「修道院? ほなら、あんたの姉さんアーメンやな」
「はい。ぼくも神学生で、戦争から帰ったら、神父になるつもりです。奥村|光林《こうりん》と言います」
保郎は思わずあたりを見まわした。うしろの席の者も、向かいの者も、いびきをかいて眠っている。
「あんたもヤソか」
保郎は声をひそめた。
「はい。ぼくの父は牧師です。母もむろん信者です。兄も二番目の姉も信者です」
「ふーん、一家そろってアーメンやな。妙な家やな」
「妙ですか」
「だってそうやろ。ヤソは米英の者が信じとる宗教やろ?」
奥村光林はちょっと微笑して、
「日本にもたくさん信者はいます。どこの国にもたくさんいます」
静かな声だった。これが二十歳前後の若者とは思えない。
(こいつ非国民やな。敵国の宗教を信じて、何の反省もしとらん。いやな奴と口をきいてしもうたもんや)
保郎は、ふっと中学四年の時の英語の臨時教師タイヘイを思い出した。タイヘイは授業中に弁当箱の蓋を音も高くころがした保郎に、
「弁当は昼休みに食べたほうがいいと思います」
と、さりげなく手紙を書いてくれた教師だった。そして、英語で聖書の言葉を贈ってくれた隈田泰平だった。
(そういえば、タイヘイもヤソやったなあ。けど、あれはスパイとはちがうわなあ)
何となくこの神父の卵も、スパイではなさそうな気がした。
(しかし、気ぃつけにゃあかんな)
保郎は口を一文字に結び、膝の上の日の丸をしまい始めた。
「上の姉は、これを贈ってくれました」
奥村光林は雑嚢の中から羅紗のお守り袋を取り出して見せた。黒地に赤の十字が刺繍《ししゆう》してあった。中にロザリオがあるとは保郎は知らない。
「優しい姉です。いい姉です」
奥村光林は繰り返して言った。
「ふーん」
保郎には姉がいない。が、いたとしても、こんなに手放しで誇ることができるだろうか。
「父も母もいい人です」
光林はまた言った。
「ぼくの父や母かて、ええ人や。父や母いうもんは、ええもんに決まっとるわな」
保郎は負け惜しみにそう言ったが、口に出してみると、自分の父も母も本当に誇り得る人間だと思った。
(ま、おやじやおふくろをほめとるんやから、スパイではないやろ。第一、もしスパイなら、みんなに嫌われるヤソを、自分から言うわけはないやろ)
それほど悪い人間ではないような気もした。しかし、太平洋戦争が始まって満三年、日本は甚だしい国粋主義に染まっていた。女性がパーマネントをかけることも、ハイヒールを履くことも、敵国英米人の風俗を真似るものとして強く斥けられた。淡路島では、
「パーマネントをかけた人の通行をお断りします」
という立て札を立てている町もあった。英語も敵性語として使用が禁止された。レコードを音盤、パーマネントを電髪、ハイヒールを高靴と言うように呼びかけられていた。キリスト教も敵性宗教であった。英米人はみなスパイとみなされた。牧師やキリスト信者も色眼鏡で見られた。洋楽は禁じられた。そんな中に育った保郎が、奥村光林を警戒したのは、極めて自然であった。
「奥村、なんで日本の宗教を信じないんや。日本には日本の宗教があるやないか」
「太陽は日本だけを照らしていますか」
「太陽? 太陽は世界中を照らしているがな」
「神も同じです。神は一つの国だけを愛するのではない。すべての国を愛するのです。神は依怙贔屓《えこひいき》はいたしません」
保郎は内心なるほどと思った。が、
「そんなに立派な宗教なら、なんで東洋に侵略して来るんや。欧米人の歴史は、東洋植民地化の圧制の歴史やないか」
「どこの国にも不信仰な人がいます。しかし、ほんとうに神を信じている人は、そんなことはしない筈です」
少しも動ずるふうがない。保郎はいらいらした。
「何や、そんなよそゆきの言葉使わんと、友だちの言葉使ったらええがな」
思わず友だちという言葉を使ってしまった。奥村は、にこっと笑って、
「友だちの言葉? そうどすか。では、そうさせてもらいまひょ」
と、不意に京都弁に変わった。保郎は何か忌々しい思いで、
「眠とうなったわ」
と、目をつむった。俄《にわ》かに汽車の響きが耳についた。
下関で汽車を降りた保郎たちは、船で対馬海峡を渡り、釜山からまた汽車に乗った。次いで朝鮮を北上し、鴨緑江を越え、北支那鉄道に乗り継ぎ、目的地|鄭州《ていしゆう》に着いたのは、幾日も後のことであった。既に二人は、「おい、榎本」「何や、奥村」と、遠慮なく話し合う仲になっていた。
鄭州の駅に降り立った保郎は呆然とした。日支両軍が三度にわたって戦闘を交えたという鄭州は、町の大半が瓦礫の原であった。日本軍の爆撃を幾度となく受けたのであろう、その無惨な光景の中に、白い鳥が乱舞していた。
「何や、あれ鴎か」
「カモメともちがうわな」
鳥の啼き声はカラスの声であった。
「白いカラスだ!」
兵隊たちが騒いでいる。
(これが戦地というものか)
保郎はひどく淋しい気がした。と、そばにいた奥村が不意に叫んだ。
「教会だ!」
大きな声だった。保郎はどきりとした。大声で教会などと叫んでは、たちまち上官に咎められる。が、幸い誰もががやがやと話し合っていて、奥村の叫びにふり向く者はなかった。
「奥村、あまり大きな声を出さんといて」
保郎は奥村の脇腹を突ついた。その言葉が耳に入ってか入らないでか、
「榎本、ここにも教会があるんや」
奥村は駅の左手を指さした。そこには白い壁が建っていた。壁だけが残っているのだ。その白い壁の真ん中に嵌《は》めこまれたステンドグラスが、言いようもなく美しかった。赤、青、黄、緑の、そのステンドグラスは、奇跡のように完全に保たれていた。
「きれいやな」
嫌いなキリスト教会の窓であろうと、きれいなものはきれいだと、保郎は思った。
「…………」
「けど、ようあのステンドグラス、飛び散らなんだものやなあ」
「…………」
「不思議と思わんか」
何を言っても黙っている奥村の顔を、保郎は見た。保郎は、はっとした。奥村の目に光るものがあった。保郎も黙った。二人は肩を並べて、瓦礫の中のステンドグラスを見た。白いカラスがそのあたりの空にも乱舞していた。ようやく奥村が口をひらいた。
「外出が許されたら、第一に教会に行く」
保郎は返事をしなかった。が、心の中では、
(困った奴っちゃ、奥村という奴は)
と、優しく呟いていた。
鄭州に着いて幾日かが過ぎた。兵舎は土塀に囲まれた富農の家だった。大家族主義の中国の富農の家屋敷は、五百名の兵を収容出来るほどに広かった。来る日も来る日も、鄭州の町には黄色い風が吹いた。ゴビ砂漠から吹いて来る砂埃だという話だった。兵隊には防塵鏡が支給された。風の激しい日には、空も町も黄色く見えた。黄色といえば、鄭州の北十数キロの地点を流れる大河、黄河もまた黄色だった。悠々と流れるこの川の南に、鄭州はあった。河南省の中北部に位するこの町の西部には、有名な洛陽の町があった。
ある夜、隣のベッドで、奥村が言った。
「榎本、黄河を『中国の憂患』と呼ぶそうやな」
「なんで『中国の憂患』と呼ばんならんのや」
「それはなあ、榎本、お前も中学で習ったやろ。三千年の間、この河はな、一年おきに氾濫を繰り返してきたんや。その度に多くの人や、財産が流されたんや」
「そんなん、習ったかいな。忘れてしもうた。お前、よう知っとるな。けど、三千年もの間、よう一年おきに洪水に遭って来たもんや。千五百回やで、千五百回」
「ほんまに驚きやな」
「なんでそないにあばれるのや、この河は?」
「黄河の水はな、『河水一石、その泥数斗』というやろ。下流へ行くほど、河床が高くなっとるいうことや。流域一帯よりもな」
「ふん、奥村は若いくせに、偉い奴っちゃな。ほめたるで」
保郎は笑った。
この黄河の警備に派遣されると、北岸から夜毎に日本語放送が聞こえてきた。
「こちらは八《*》路軍です。日本軍の皆さん、あなたがたのお父さん、お母さん、きょうだい、妻子は、今頃何をしているのでしょう。あなたがたの無事な帰還を、一日も早くと祈っているにちがいありません。銃を捨ててください。誰のためにあなたは戦争をしているのですか。戦争はむなしいことです」
師走の風に乗って聞こえて来る日本語放送に、歩哨に立っていた保郎は、ふっと聞き入ることがあった。が、小さく声に出して、保郎はいちいち反駁《はんばく》した。
「お父さん、お母さんは、ぼくの帰りなど待っとらん。お国のために死ぬのを、名誉と思っとんのや。日本とお前らとはちがうんや。わしらはな、おそれ多くも畏《かしこ》くも、天皇陛下のために戦っとるんや。死んで靖国の神として祀られるのを、無上の栄誉としとるんや」
保郎は、日本語放送に挑むように言い返しながら、黄河の堤防を行きつ戻りつした。北岸一帯は八路軍が制圧していた。だが、北岸より南岸は小麦が豊かに収穫されていた。いっぽう北岸は、南岸に比べて多く塩がとれる。この塩と小麦、その他商売用の船だけが、黄河の渡航を許されていた。
昭和二十年(一九四五年)の正月も過ぎ、二月の末、保郎は奥村光林と共に、警備隊から原隊に戻った。将校になるための、幹部候補生の受験日が迫っていた。保郎たちは、昼間の軍務に戦闘に疲れ切った体で、消灯後まで受験勉強をつづける。受験しない同年兵たちは、とうに眠りについているが、受験生たちは一室に何人か集まって自主的に学習している。「各科操典」「内務典範」「作戦要務令」などの丸暗記が、学習内容のほとんどだった。
ある者はうなるように、ある者は経を上げるように、ある者は吟ずるように諳誦する。声に声が重なって異様な雰囲気だ。が、誰もがその雰囲気に馴れた。決められた学習時間はないから、早い者は、始めて十分もすると部屋を出て行く。二十分も経つと何人かの者が、頭を机につけたまま、寝息をたて始める。一時間後には大半の姿が消える。昼間の疲れに、若い肉体も耐えられなくなるのだ。最後まで残るのは、いつも奥村光林と保郎だった。二人っきりになると、保郎はたまらなく眠くなる。
(奥村の奴、いつまでやるつもりや)
向かい合っている奥村を見ると、奥村は姿勢も正しくノートを取っている。
(奥村の奴、どうして声に出さずに、書いてばかりいるんやろう。けったいな奴っちゃ)
保郎の集中力はますます散漫になってくる。不意に睡魔に襲われる。母の顔が大写しになる。途端に額が机を打つ。
「榎本、無理せんと眠ったらええ」
奥村は目を上げずに、鉛筆を持ったまま言う。
「ほなら、先に寝《やす》むわ」
奥村一人を残して、保郎は内務班に戻る。毎晩大体こんなことの繰り返しだった。一度でも奥村より遅くまで頑張ろうと思っても、奥村の頑張りには勝てなかった。
そんなある夜の学習のひと時だった。その日も、最後まで残ったのは保郎と奥村だった。と、がらりと戸を開けて入って来た者がいた。増井という古《*》兵だった。
「古兵殿!」
思わず保郎が起立した。
「おお、二人共頑張ってるな」
増井は満足げにうなずきながら、
「榎本、頑張れよ。何しろ競争者は千人を超えるんだからな」
と、保郎の肩を叩いた。
「はいっ! 榎本、頑張るであります」
保郎は頬を紅潮させて答えた。
「奥村に負けるなよ」
増井は出て行った。増井は時々学習室に入って来て、さりげなく保郎の肩を叩いたり、声をかけたりして励まして行く。
「榎本、古兵殿はいやに貴様に目をかけているな」
奥村が言った。
「ふん、お前の目にもそう見えるか」
「誰の目にも見える」
「そうかな。いや、そうやろな」
保郎はにやにやした。
「どうしてやろな」
「そりゃあ、わしを気に入っとるからや」
「榎本をなあ」
今度は奥村が笑った。学習室でこんな私語を交わすことは、めったにない。が、今夜は、二人共勉強を終えるつもりでいた。
「奥村、なんで笑う?」
「だってな榎本、お前は新兵の中で、一番生意気な奴やと言われとる。知っとるか」
「うん、知らんこともない」
保郎は体が大きい。肩を怒らせて歩く。その歩き方が悪いと、保郎を殴った古兵が幾人もいた。この保郎の歩き方が傲慢に見えるのだ。奥村が気にして、幾度も忠告したが、保郎は直そうともしなかった。
「直す必要なし」
保郎は、にこっと笑って答える。そんな要領の悪いところも奥村には気に入った。奥村も保郎を初めて知った頃、傲慢な男だと思った。が、つき合ってみると、意外に誠実で真面目だった。兵隊たちは、井戸に水を汲みに行く時を楽しみに待っていた。井戸の近くにバラ線が張ってあって、その向こうは道路だ。人目の少ないそのバラ線越しに、中国人と物々交換をするのだ。兵隊たちはタバコを、飴や饅頭や煎餅などと換える。が、保郎だけは絶対にそれをしなかった。理由は只一つ、禁じられていたからだった。だが、保郎はひたすら規律を守るのに忠実だったというだけでもない。ある日、中国人の一人が捕虜になった。捕虜といっても、豚や鶏を献上させるための人質だった。捕虜を引き取りたければ、こちらの注文の食糧を持ってくればよかったのである。捕虜には食事が与えられなかった。保郎はその捕虜に、こっそりカレーライスを持って行った。それが見つかって、口が開かなくなるほど、上官に殴られた。
「すべては天皇陛下のものなるぞ。それをみだりに捕虜などに持って行くとは何事か?」
というのである。一週間、満足に食事も取れなかった。顔が紫に腫れ上がってしまった。そんな保郎を、いつしか愛する者も出てきていたのである。増井古兵もその一人かと奥村は思っていた。
と、保郎が声をひそめた。
「な、奥村、お前秘密を守るか」
「秘密? 何や秘密って?」
「古兵殿と自分の秘密や」
「何ぞあったんか」
「誰にも言わんと約束すれば教えたる」
保郎は腕時計を見た。まだいつもの時間より早い。
「何があった?」
「ほら、黄河の警備をしてたときや。その夜な、古兵殿や下士官に連れられて、四人ほどで行ったんや」
「それでどないした?」
「その時な、北の岸から舟がしのび来よってな」
「なるほど」
「商人は、塩と小麦を交換するのに、ちゃんと鑑札をもらって、昼間にやって来るやろ。けど、それだけでは商売にならん。それで夜やってくる闇商人がいるんや。貴様も知ってのとおりな」
「うん。闇商人のふりをして、ゲリラも時々来たけどな」
「そうや。それでな、その夜古兵殿が、舟でやって来た奴らのうち三人をつかまえたんや。そして古兵殿はな、その三人を見張っとれとおれにあずけてな、逃げた四人を追って行ったんや。ゲリラか商人かわからんもんを三人もあずけられて、わしもがたがたふるえたわ」
その時保郎は、剣付きの銃をかまえていた。が、たちまち一人が逃げ、その一人を追いかけると、他の二人も逃げた。結局三人共逃がしてしまった。戻って来た古兵に、保郎は大声で怒鳴られた。が、古兵も四人を逃がしたらしい。
「心配するな。上官にはおれからいいように言っておく。但し、このことをべらべら喋るんではないぞ」
古兵はそう言い、声を低めてつづけた。
「あれはまちがいなく一般商人じゃ。一般人を捕らえてみても、哀れなもんじゃ。兵隊の相手は兵隊だけでいい。な、そう思わんか」
古兵の言葉に保郎は感動した。
「ふーん、そんなことがあったんか」
奥村は深くうなずいた。
「おれなあ、奥村、ほんまの話、将校になる試験など、受けるつもりはなかったんや」
「どうしてや」
「うん……あの黄河の堤防でな、銃剣持って警備しとるとな、なんで人を殺さんならんのかなと思われてきよってな」
「ああ、それはおれもおんなじや。おれも人は殺しとうない。殺人は罪やからな」
「おれは奥村とちごうてな、国のために敵を殺すのは罪とは思わん。けどなあ、殺し合いより話し合いのほうがええのにと、この頃は思うんや」
「そうやな、明治天皇かて、
よもの海みなはらからと思ふ世に
など波風のたちさわぐらむ
と、お詠みになっておられる」
「なるほど、明治天皇かて戦争は好まんのやな。ま、それはともかく、おれは将校になって号令かけるのが向かんような気ぃしてな。おれが『進めーっ!』と号令かけたら、部下が進むやろ。もし間違った指揮をしたら、部下がみんな死ぬやろ。それぞれ家族がいるのに、死なすのはかなわんわ。そう思って、将校になりとうなかったんや」
「それもそうやな、榎本。人間を号令で動かすっちゅうのは、まちごうとるとおれも思う」
「そうや。けどな、おれ真面目に将校になる気になった。三人も中国人を逃がしたおれを、殴りもせんと『兵隊の戦う相手は兵隊だ』と、古兵殿は言われた。捕虜にカレーライスやったからって、口もあかんほど、息も吸えんほど殴る上官がいる。よおし、ほならおれ、ええ上官になったるでいう気持ちになったんや」
「なるほど、殴らん上官になるつもりか、榎本は」
「うん、おれは話して聞かす上官になる。みんな、誰も彼も、人の大事な息子や。大事なおやじや。大事な夫や。家族が見て情けないような、そんな扱いはおれはせん」
「榎本、お前、ええ奴やな。おれの見込んだとおりや。お前のような奴がキリスト信じたら、立派な信者になるんやがな」
奥村はつくづくと保郎を見た。その保郎の瞼《まぶた》が重くなっていた。
第一次試験の発表があった。保郎は千人余の受験者中、三十番であった。よい成績であった。奥村光林は何と一番であった。保郎は改めて奥村を見なおした。他の兵隊たちより幼顔の残っている、清潔な感じの奥村は、一見静かで目立たなかった。その奥村が一位となった。上官たちの奥村を見る目も変わった。以前から、二人に目をかけてくれていた新兵教育主任菅原班長は、奥村に言った。
「お前の内申書には、宗教欄は空欄にしておいた。口頭試問の時、宗教は必ず聞かれる。まちがってもキリスト教などと答えるなよ」
班長が去ったあと、奥村が保郎に言った。
「榎本、宗教は何かと聞かれたら、おれはやはりキリスト教だと答える」
「何でや。折角一番になっといて、落ちたらどうするんや」
「嘘を言ってまで将校になろうとは思わん」
「別に信仰を捨てるわけではなし、そんなこと正直に言う阿呆があるか」
「阿呆かなあ」
「阿呆や」
「ほうかなあ」
「お前、阿呆とは思わんか」
「阿呆かも知れん」
奥村は優しい目で保郎を見た。
第二次の口頭試問において、保郎も宗教について聞かれた。
「はいっ。自分の家は八百万《やおよろず》の神を信じております。伊勢皇大神宮、熱田神宮、御嶽教、……荒神様、出雲大社……」
大きな声で、保郎は次々と社寺の名を挙げていった。
「わかったわかった、もういい。では、次に尋ねるが、赤誠《せきせい》とは何か」
試験官が倪《ね》めつけるようなまなざしで尋ねた。
「はいっ! 赤誠とは、赤き心、直き心であります」
間髪を入れず保郎は答えた。
奥村も宗教を問われた。
「自分は、カトリックの神学生であります」
落ち着いた、明晰な声であった。試験官席がざわめいた。
「カトリック信者か」
苦々しげに試験官の一人が言い、
「では聞くが、もしローマ法皇が日本軍を攻撃して来た時には、貴様はどうするつもりか!」
「はいっ。ローマ法皇は軍人ではありません。平和の使徒であります。絶対攻めては参りません」
試験官がたじろぐほどに、奥村は冷静であった。
「しかし、万一ということがある。万一攻めて来た時はどうする?」
「ローマ法皇は神の御言葉を伝える使命に生きておられます。万が一にも攻めて来ることはありません」
「よーし、わかった。帰れ」
試験官は鼻白んだ。
「どうやった? 奥村、キリスト教や言うたんか」
「うん、言うた」
奥村は明るい笑顔だった。すがすがしいといってもよかった。
「阿呆やなあ、お前は、よほどの阿呆や」
保郎は呆れて言った。
「阿呆かてかまへん」
晴れ晴れとした顔を空に向けて奥村は言った。
「もし落ちたら、どうするんや」
「落ちたら神の御心や。神が、お前は将校にならんでよろしい、ということや」
「ふーん。お前、将校になりとうないのか」
「いや、なろうと思うたから受けたんや。第一次で一番になったおれが、信仰問題で落ちるとしたら、それはそれでええ、事を決め給うのは神やからな」
「へえー、そんなもんか、キリスト教の信仰いうもんは。おやじさんやおふくろさん、お姉さんはそれを聞いて何と思うやろ」
「ようやってくれたと、ほめてくれるやろな」
奥村が実にうれしそうに笑った。保郎は何かを見たような気がした。それが何であるかはわからなかった。が、それは未だかつて、自分の見たことのない光のような気がした。保郎は、八百万の神を信じていると答えた自分を思った。信じているといっても、八百万の神々の名を知っているわけではない。せいぜい十か二十の神社の名を挙げるくらいのものだ。それがどんな教義を持っているのか、どれだけ自分の心を導いてくれているか、曖昧であった。鳥居があれば、ただ頭を下げ、手を合わせるだけの信仰であった。奥村のように、昇進への道を棒にふっても、自分の信仰を明確にしていく、そんな確かなものは自分にはないと思った。
(キリスト教って、大変なものやな)
普段奥村がキリスト教の話を始めると、保郎は、
「耳の汚れや」
「毛唐の信ずる神さんの話はやめとくれ」
「おれは天照大神だけで、足りとるんや」
などと、ずけずけ断ってきた。しかし奥村は、性懲りもなく、
「キリストさまはな、すばらしいお方や」
と、話しかけてくるのだった。キリスト教の話を嫌いながら、しかし保郎は奥村が好きだった。奥村もまた、キリスト教を嫌う保郎を、なぜか憎めなかった。夕食のあとなど、二人でいつも戸口にある石の階段に腰をかけて話し合う。そしてその度に、どれほどキリストの話を聞かされてきたことか。そしてそのことを、今更のように保郎は思い起こしていた。
「榎本がキリストさまを信じられるように、朝晩祈っとる」
そう言った言葉も思い出された。
(もし、キリストの神がほんとうにいるのやったら、こいつの祈りなら聞かれるかも知れん。すると、もしかしたら、おれはキリストの神を信ずるようになるかも知れん)
保郎はそうも思った。
第二次試験の発表があった。第一次で三十番だった保郎は三十番目のあたりから自分の名を探した。が、保郎の名はなかった。三十五番目に、奥村の名が出ていた。
「よかった! 三十五番なら甲幹(甲種幹部候補)まちがいなしや」
保郎はにこりとした。しかし、第一次で一番の奥村が三十五番なのだ。とすると、自分は六十番台かと思いながら探していった。四十番台にはなかったし、五十番台にも見当たらなかった。六十番台にもなかった。
(口頭試問の何が悪かったんやろ。折角ええ上官になったろ思うたにな)
百三十番、百五十番、二百番まで探した。が、やはり保郎の名はなかった。
「お前、目の色変えて、誰の名を探している?」
同年兵の一人が言った。
「おれの名や。おれ、すべったらしいわ」
彼はいきなり保郎の手を引いて連れて行った。
「あれは誰の名や! 榎本」
保郎の名は一番に書かれてあった。
幸い風が弱い。名物の黄塵も影をひそめて、三月の空が青かった。その青空の下に、鄭州の街が広がっている。大半は瓦礫の街の上に、今日も白いカラスが乱舞していた。人々は、崩れた壁、屋根の吹き飛んだ家を守って日常生活をつづけている。その街を、上機嫌の奥村と並んで、保郎はむっつりと歩いていた。新兵たちに、今日初めての外出許可が出た。待ちに待っていた外出の許可だ。が、保郎はにこりともしない。天の一画を睨むように見、肩を怒らせてずんずんと歩く。そんな保郎の顔をちらちらと見ながら、奥村の頬は、ともすればゆるみ勝ちになった。
昨年十二月、鄭州の駅に降り立った時、奥村は瓦礫の中に、教会堂の壁をいち早く見つけた。
(教会がある!)
その時奥村は、クリスマス礼拝に出たいという願いを持った。が、ここは戦地である。外出する自由はなかった。比較的平穏といっても、いつ、何が起きるかわからない。現に、昨夜半も、黄河北岸から銃声がひびいた。兵隊たちは、今日の外出がフイになることを恐れた。そんな中での外出許可であった。
(シナ料理を食いそこなってしもた)
保郎は先ほどから、この一つ言葉を幾度も胸の中で繰り返していた。保郎も人一倍今日の外出を楽しみに待っていた。保郎に目をかけてくれる増井古兵が、初の外出には、シナ料理を奢ってやると言ってくれていたからだ。道筋に、食べ物屋が何軒か並んでいる。その何《いず》れにも銃弾の痕がなまなましい。毎日軍隊の食事しか口にしたことのない保郎には、中国の町鄭州のシナ料理は、正に垂涎の馳走であった。しかも伴ってくれるのは増井古兵である。保郎たちの給料は月三十円だった。しかし鄭州では、アイスクリーム一杯が二十円であったから、それはなきに等しい給料であった。シナ料理を自分で食べ得る日など、当分来る筈はない。喜んで待っていた保郎に、昨日になって奥村が、共に外出してくれるようにと頼んだのである。
危険な戦地にあって、単独外出は許されていなかった。誰もが、いち早く同伴者を決めた。が、カトリックの教会に行きたいなどという奥村と、同伴を望む者はいなかった。奥村は浮かぬ顔をしていた。保郎が増井古兵と外出することを前々から知っていた奥村は、保郎に頼むこともできない。これでは、いくら教会に行きたくても、行きようがない。おそらく、次の外出日にも同伴してくれる者はないだろう。奥村はそう思って、悄然と石段に腰をおろしていたのだった。そこに、うれしそうな顔で保郎がやって来た。
「何や、えろうしょぼんとしとるな、奥村」
「ああ」
「一体どうしたんや」
「あんなあ、おれと一緒に外出してくれる相手がおらへんのや」
奥村は顔を上げずに言った。
「ほうか、そりゃ気の毒やな。けど、しようがないわな。ヤソの教会になど、誰やって行きとうないでな」
奥村は両手で頭を抱えた。が、思い切ったように顔を上げて言った。
「なあ、榎本。悪いけど、明日の外出はおれと一緒に行ってくれんか」
「ええっ!? お前と一緒に? 冗談やあらへん。古兵殿かて、おれと外出するのを楽しみにしとるんや。今になって、奥村とヤソの教会に行くなんて、言えるか」
保郎は憤然として言った。
「いや、悪かった。悪いことを言うた」
奥村はうなだれた。保郎はむっつりとその場を離れた。が、何歩も行かぬうちに保郎はふり返った。奥村は石段に腰をおろしたまま、両手で顔を覆っていた。泣いているように見えた。
(一緒に行ったろか)
保郎の心が疼いた。が、
「シナ料理、シナ料理」
と、呟いた。外出日を明日に控えて、今更約束を反古《ほご》にするわけにはいかない。保郎は背を向けて歩き出した。しかし、毎日のようにキリストを語らずにはいられない奥村を思った。幹部候補生の試験に、不利を承知で、はっきりと自分の信仰を告げた奥村を思った。奥村にとって、教会に行くということは、自分がシナ料理を待っていたより、強く深い願いではなかったか。
(あいつは命がけや!)
保郎はくるりとふり返った。まだ同じ姿勢で、奥村は石段にうずくまっている。保郎はたまらなくなって駆け出した。
「奥村、行ったる! 一緒に行ったる!」
奥村は飛び上がった。
「ほんまか、榎本!」
喜色満面の奥村を見て、保郎はしまったと思った。
(古兵殿に何と言うたらええんや。シナ料理が消えてしもうた)
「ほんまや」
手を強く握りしめる奥村に、保郎は力なく握り返した。その足で保郎は、増井古兵の営舎に向かった。言い訳の言葉をいろいろ考えながら歩いて行った。が、適当な言葉が浮かばない。
(腹具合悪うなった言うのが、一番ええやろな)
しかし腹具合が悪いと言いながら、奥村と外出するのは、いかにも不自然だ。と、ちょうど営舎から増井古兵が出て来た。
「おお! いよいよ明日だな。腹一杯食わしてやるぞ」
増井古兵が笑顔を向けた。
「あのお……それが……」
「どうした、榎本、青い顔をして。どこか体でも悪いか」
体が悪いかと聞かれて、保郎は口ごもった。保郎は却って正直に言うべきだと思った。それが目をかけてくれている古兵への、せめてもの誠意だと思った。保郎は包まずに奥村のことを語った。うなずきながら聞いていた増井古兵が、
「よし、わかった。シナ料理は次の時までお預けにしておく。お前は実にいい奴だな」
と、大きな手で保郎の肩を叩いた。
「古兵殿!」
保郎は言葉がつづかなかった。只、不動の姿勢で敬礼をした。
一夜は明けた。保郎はやはりシナ料理に未練を持っていた。ついそれが顔に出る。
(これから休みの度に、奥村につき合わされるわけではないやろな)
あまりうれしそうな顔を見せてはならないとも思う。たとえ行き先が教会にしろ、大陸に渡って初めての自由外出なのだ。保郎といえども、うれしくないわけはなかった。
二人で、鄭州の駅に降り立った時に見た、あのステンドグラスの壁のそばに来た。そこには、壊れかけた会堂が残っていた。門とおぼしき二つの石があり、その一つに貼り紙がしてあった。
「日本人入るべからず」
日本軍の布告であった。
「見てみい、これは軍の布告や。奥村、入ったらあかん。入ったら大変なことになるで」
「うん」
奥村はちょっと腕組みをした。二十歩も歩けば会堂がある。
「ここまで来て、帰るのも業腹や。榎本、おれは中に入るわ」
「やめとけったら、やめとけ。見つかったら重営倉や」
「重営倉でもかまへん。ちょっと入らせてくれ」
「あかん言うたら、あかん。おれまでとばっちり食うがな」
押し問答をしている時、礼拝堂のドアが開き、白いベールをかぶった女が出て来た。が、門のそばで押し問答をしている二人を見ると、あわてて礼拝堂の中に引っこんだ。その姿に、保郎はまざまざと女の恐怖を見た。
「ほら、女の人が怖がっとるわ。日本軍は怖いんや」
「大丈夫。話せばわかる。ちょっと行って来る」
奥村が五、六歩門の中に入った時、中からドアが開いた。保郎は、はっと体を硬直させた。出て来たのは一等兵であった。
「おい! そこにいる兵隊、門の布告が目に入らなかったのか!」
奥村がわざと声を荒らげた。保郎は門の外から事の成り行きを見守った。
「はいっ! 見ました」
「何!? 承知の上で入って来たのか」
上等兵奥村の声がびんびんひびく。
(あれが一等兵やったからよかったものの、下士官やったら大事《おおごと》や)
保郎はそう思った。
「はい、自分は神父であります」
一等兵は姿勢を正して答えた。とたんに上等兵奥村が不動の姿勢をとった。
「はっ!?……神父さまでありますか。自分は一信者であります。一神学生であります。まことに失礼いたしました」
一変した奥村の態度に、保郎は驚いた。一等兵が言った。
「いやいや、こちらこそ……。さあ、どうぞお入りください。ごミサが始まります」
一等兵は神父の言葉になって、奥村を会堂に招き入れた。会堂のドアが閉まった。保郎はほっとして、
(へえー、神父いうもんは偉いもんやなあ。あいつもその偉い神父になるんか)
と、二人の入った会堂を見つめた。
(まあええ、奥村のやつ、これからはあの神父と二人で外出するやろ)
保郎は、門の傍らの壊れた石に腰をおろした。奥村がいつ出て来るかはわからない。が、こうなれば坐って待つより仕方がない。保郎は再び貼り紙に目をやった。
「日本人入るべからず」
は、もしかしたら、神父のあの一等兵が書いたのではないかと思った。善良な神父や信者を、日本兵が脅かさぬために、貼ったような気がした。
土埃の立つ道路を、天秤の前後に籠を下げ、野菜を運ぶ男が行く。裸足の子供が来る。うつろな目で、何やらぶつぶつ言いながら立ちどまっている老婆がいる。その何れもが、軍服姿の保郎を見て、ぎくりとしたように身をすくめたり、急ぎ足になったりするのだった。
(無理もないわ。日本軍に荒らされたんや、この町も)
その上日本軍が、民家や学校などを接収して居坐っている。豚や鶏や野菜などの食糧を提供させる。
(町を守ってやっとんのや、食糧ぐらい出すの当たり前や)
保郎は、何の痛みもなく、そう思ってきたことだった。が、その食糧を献上させるための人質に、こっそりカレーライスを差し入れて、口があかぬほど殴られて以来、保郎が日本軍に抱いていたイメージが破れてきた。保郎の思っていた日本軍は、正義の味方だった。弱い者の味方だった。温情あふるる軍隊の筈であった。天皇陛下の大御心を深く体して行動する筈であった。それが、武器を持たぬ民衆を威嚇して食糧を取り上げる。そんな軍隊ではなかった筈だ。だから、嫌悪されるのも無理はないと、保郎は思った。
と、十歳くらいの少年が、向こうのほうから歩いて来た。沼島《ぬしま》で教えた生徒たちの年頃だ。
「小孩《シヨーハイ》!」
思わず叫んだ。少年は立ちどまった。
「小孩《シヨーハイ》」
保郎は再び呼んだ。少年は、にこっと笑った。笑顔が愛くるしい。
「来来」
保郎は手まねきした。少年は恐れる様子もなく、笑顔を見せて近づいて来た。服は破れ、泥で汚れている。保郎は大きな手を伸ばして、少年の頭をなでた。
「名前、何ていうんや」
少年に日本語がわかる筈はない。少年はちょっと頭をかしげた。日本語がわかる筈はないと知っていても、沼島の生徒たちのようなその顔を見ると、保郎は再び日本語で尋ねた。
「お前は、日本の兵隊が恐ろしくないんか」
「…………」
「あのな、おれたちは東洋平和のために戦っとるのや。お前たち子供や、女、年寄りをいじめるために来たんやないのや」
少年は不思議そうな顔をして、保郎の口もとを見つめている。
「な、おれの言うことわかるな。言葉はわからんでも、おれの気持ちわかるな」
少年はにこっと笑った。保郎は喜んで、
「お、わかった、わかった。お前はなんと賢い子や。お前の名前、何というんや」
再び尋ねたが、少年はにこっと笑顔を向けるだけだった。ふっと保郎は、勇太を思い浮かべた。沼島の小学校の校庭の、松の根方で、勇太はひとり、グライダーを飛ばしている級友たちを眺めていた。その勇太に、保郎が何を問いかけても、勇太は笑顔を見せるだけだった。保郎の胸の中で、勇太とこの中国の少年が一つになった。何かやりたいと思った。ポケットに手を入れ、やるものはないかとまさぐってみたが、あいにくと何もない。ちびた鉛筆でもあればと思ったが、それもない。ふれるのは、二、三日前支給されたばかりの、十円札三枚である。これが保郎の一カ月分の俸給全部である。保郎はその一枚を取り出して、少年に差し出した。少年は、ひったくるようにそれを受け取り、
「謝謝《シエシエ》」
と言うや否やいきなり駆け出した。
(何や、もっと話をしよう思ったのに)
そうは思ったが、うれしそうに駆けて行く姿を見ると、保郎もうれしかった。沼島の生徒たち、そして父母きょうだいのことが思い出された。
教会堂に入った奥村光林は、まだしばらく出て来そうにもない。保郎は腰をおろしていた石から立ち上がって、門の前を行きつ戻りつした。と、向こうから、今駆けて行ったばかりの少年と共に、数人の男の子ががやがや言いながら走って来る。子供たちは見る間に保郎を囲んだ。そして口々に何か言いながら手を出した。先ほどの少年が、十円札をひらひらさせて、何か叫んでいる。子供たちはその十円札が欲しくてやってきたのだ。保郎は、
「何や! おれの月給は三十円やで! 十円やったら、あと二十円しかあらへんのや。もうお前たちにやる金はないわ!」
と、半ば本気で怒鳴ってしまった。子供たちは、ぱっと飛び散るように逃げて行った。その子供たちのうしろ姿を見ながら、保郎は不意に淋しくなった。少年にやった十円が何の値もなくなったような気がした。
そこへ奥村光林がやって来た。外人神父も出て来た。青い目の神父を見ると、保郎は後ずさりした。
「おい榎本。神父さまが昼食を一緒にしようと言っておられる」
つづいて、神父が英語で何か言った。
「奥村、何と言うとるんや、この神父さん」
「よくおいでくださいました。どうぞお入りくださいと言いなさったんや」
「大きに、と言うてくれ。けどなあ、ヤソの寺になど入ったら、身の汚れやからな。おれは入らんと、言うとくれ」
光林は笑って、
「わかった、そう言っておく。じゃあ、おれ一人でごちそうになる。待っててくれ」
と、あっさり言い、
「けどなあ、あとで恨まんやろな。何せ、うまいスープや、豚肉や、パンなど、どっさりとあるんやからな」
奥村はにやにやした。奥村は保郎の性格をよくのみこんでいた。まともに誘えば、拒む男なのだ。案の定、保郎が言った。
「おい、奥村。貴様はそのパンやらスープやら豚肉やらを独り占めする気か」
「貴様と二人で食うつもりやったけど、貴様がいややというから、仕方あらへんわな。おれ一人じゃ淋しいが、ちょっとごちそうになって来るわ」
「一人で淋しいんなら、しようない。いややけど、おれもつきおうたる」
保郎はそう言って、神父のほうにぺこりと頭を下げた。
これが、保郎がキリスト教会に足を踏み入れた最初であった。殺伐とした軍隊生活の中にあって接した教会の空気は、心に沁みるような安らぎがあった。一等兵神父、外人神父とラテン語を交じえて語り合う奥村の傍らで、保郎は、その聖なる気配をよしとしながら、しかし日本兵として、教会に入ったことを潔しとしなかった。
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八路軍 抗日戦争期、北部で活動した中国共産党軍のこと。のち一九四七年に人民解放軍と改称。
古兵 旧軍隊で古参の現役兵のこと。軍隊内部では、士官、下士官よりも新兵に恐れられることが少なくなかった。
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敗退
保郎たち幹部候補生の学ぶ予備士官学校(教育隊)は保定《ほてい》にあった。保定は鄭州の北方約五百キロの地点である。
(蒋介石《*しようかいせき》が建てた学校や。日本の予備士官学校に使われとんのは、ちょいと気の毒やな)
堂々たる校舎を見上げて、保郎はそう思ったものだ。この保定で、保郎も奥村も連日厳しい教育を受けていた。が、六月の末、保郎は突如|関《*》東軍下に編入されることになり、満洲の予備士官学校に転ずることになった。
明日出発と聞いて、保郎は何とか一言奥村に別れを告げたいと思った。保定に来てからは、編成上奥村とは滅多に顔を合わせることがなかった。何しろ数千人の幹部候補生たちがいるのだ。
(別れたら、もう会えへんやろな)
鄭州では、毎日キリスト教の話を聞かされてうんざりしたが、めったに会えなくなると思うと奥村は懐かしい男であった。
夕食後、保郎は奥村を訪ねた。が、留守であった。幹部候補生たちが夕べの営庭にあふれていた。
保郎は空を見上げた。六月の日は長い。七時を過ぎているというのに、夕空はまだ明るかった。草原に腰をおろしている者、寝ころんでいる者、何か考えながら歩いている者、候補生たちの姿は様々だった。
(奥村、元気でいろよ)
何となく奥村の姿を探していた保郎は、胸の中で呟いた。と、その時、
「よう、榎本じゃないか」
と、肩を叩かれた。奥村だった。連日の白兵戦の訓練に日焼けした奥村の顔を見て、保郎は声を上げた。
「おう、貴様か」
会いたかったとは言わずに、保郎は久しぶりに見る奥村をまじまじと見、
「元気やな」
と、言葉みじかに言った。
「うん、元気や。貴様も元気やな」
二人は草原に並んで腰をおろした。
「実はな奥村、おれな、明日の朝出発なんや」
「明日?」
奥村はちょっと驚いたが、
「どこへ行くんや、榎本」
「そんなことわからへん」
「それはそうやな」
「わからへんけど、関東軍の所属下になるらしいわ。精鋭を誇る関東軍のな」
「ほうか。おれたちも満洲に動くらしいわ。ちらっと噂を聞いた」
「貴様と同じところやろかなあ、奥村」
「さあな、別やろな。満洲には予備士官学校は、十箇所もあると聞いとるでな」
「ふーん、十箇所か。ま、どこにいても頑張らにゃな、奥村」
「貴様も元気でな」
「ありがと。奥村、貴様も弾丸になんぞ当たらんと、無事に帰還せえよ」
「おおきに」
奥村は、鄭州で風邪をこじらせ、危篤におちいったことがあった。二日間、高熱で全く意識を失っていた。その間保郎が、暇さえあればつきそって、
「奥村! 死んだらあかん! 死んだら焼かれるんや」
と、幾度も手を握って力づけていたという。そのことを、奥村はあとで他の者から聞いた。
「死んだら焼かれるんや、なんて励ます奴は見たことがない」
兵たちは笑ったが、奥村はその言葉の中に、保郎の真実を感じた。今、「弾丸に当たらんと、無事に帰還せえよ」と言った言葉にも、その時の真実を思い出させる響きがあった。奥村はわざと淡々として、
「榎本。貴様も生きて帰れよ。まあおれはどこにあっても、貴様が救われることを祈っとるでな」
「何や、また始まった」
保郎は口を尖らせて、
「奥村、貴様な、その救い救い言うのが、玉に瑕《きず》やがな。ほかの者なら気ぃ悪うするわ。おれかて気色悪うてかなわん。おれはなあ、まだ神様に許してもろうたり、救うてもらわんならんような悪いことは、何ひとつしとらへん。これからもまちごうたことは、せえへんわ」
保郎はごろりと草の上に仰向けになった。急に夕空が高く広がって見えた。
「ま、そう思うのも無理はない。貴様は確かに正しい奴や。鄭州のあの整頓基準板が割れた時もな、立派やったなあ」
奥村の声が優しかった。鄭州にいた時、兵士たちは自分のタバコを、中国人の干し柿や饅頭と、上官の目を盗んでは交換した。隊内から一歩も外には出られなかったが、井戸への途中に、一箇所バラ線が境になっている所があり、そこで兵士たちは中国人と物々交換をした。コレラや疫痢の感染の恐れがあるので、物々交換は固く禁じられていた。しかし奥村の見る限り、当時その物々交換をしなかったのは、保郎だけであった。真面目な奥村でさえ、二、三度この禁を破ったことがある。
あの時、一人の兵隊が現行犯で捕まった。直ちに班全員が連帯責任を問われて、制裁を受けた。上官は整頓基準板を片手に、ぎらぎらと目を光らせて現れた。基準板は縦三十センチ、横七センチ、厚さは蒲鉾《かまぼこ》の板より少し厚かった。
「足を開け! 眼鏡を外せ! 歯を食いしばれ!」
命ずるや否や、その基準板が次々に兵士たちの両頬に鳴った。保郎の両頬にも基準板が躍った。が、その時、無気味な音がして、基準板が二つに割れた。兵士たちも驚いたが、殴った上官も驚いた。保郎が只の一度も物々交換をしなかったことは兵士たちの誰もが知っていた。その保郎が、板の割れるほど殴られたのだ。が、保郎は、違反をしなかったことについては、その時一言も口に出さなかった。
「榎本の顔は、よほどごつくできてるのだな」
と、その後幾度も兵隊たちの口に上ったことだった。そのことが奥村の胸に深く刻みつけられていた。肩を怒らせ、外股で歩く榎本保郎は、一見|傲岸不遜《ごうがんふそん》な男に見えたが、規律には忠実な、しかしどこか無器用な男に思われた。確かに保郎の言うとおり、保郎はこの世の規律を守って生きていくかも知れぬと思う。
「な……おれは正しい男やろ。おれは救ってもらうことなど、必要ない男や。悪いことのできん男やさかいな」
保郎は愉快そうに笑った。
「けどなあ……」
奥村もごろりと横になって、
「あのな榎本、親鸞《しんらん》上人がな、『己れがよくて人殺しをせぬにあらず』とか言わはっとるんや。わかるか」
「己れがよくて人殺しをせぬにあらず? 何やそれ?」
「これはな、つまり、今まで自分が人殺しもしないで生きて来られたんは、自分がよい人間だからというわけではない、そういう立場に立たんかっただけや、ということやないかな」
「ふーん、つまり、一旦そんな状況に遭遇すれば、人殺しをしたかも知れへんいうことか」
「そうや。そのとおりや。みんな人殺しの可能性があるいうことや。『己れがよくて強姦せずにあらず』『己れがよくて盗まぬにあらず』ちゅうことも言えるわな」
「人間みな同じやいうことやな。しかしな奥村、おれは断じて泥棒はせん。女を犯しもせん。おれはあやまちを犯さん男や」
保郎は断乎として答えた。
「へえー、貴様は人間ちゅうもんを知らへんのやな。それだけ純粋いうことなんやろうけどなあ。いつか再び生きて会うことがあったら、貴様は同じことを言うやろか」
「言うとも! おれは大日本帝国軍人として、恥ずかしくなく生き、恥ずかしくなく死ぬんや。それがおれの生き甲斐や」
「まあ貴様はそういう男や。けどなあ榎本、おれも金を拾って猫ばばはせえへんかも知れへん。贈賄も収賄もせえへんと思う。けど、女にいささかも惑わん自信はないんや」
「へえー!? 貴様がか」
保郎はむっくりと起き上がった。一生を神に捧げるという神学生の奥村には、女など眼中にないのかと思っていた。
「人間はすべて罪の器やからな」
奥村も起き上がった。
「罪の器? まあ、そんなしんき臭いことはどうでもええわ。とにかくおれは罪は犯さん。キリストの神さんの世話にはならん。おれの救いのことなど心配せんと、無事に生きて帰れや」
「わかった。しかしな、榎本、貴様にもおれの言葉が必ず思い当たる日が来る。神よ、赦してくれと、叫ぶ日が必ず来る。人間である限りはな」
「まだそんなことを言いよる。貴様もひつこい男やなあ」
「ああ、これが今生の別れかも知れへんでな。最後の餞《はなむけ》と思うてな。ま、悪く思うな。貴様も達者でな」
奥村は腕時計を見た。少し痩せた腕に、腕時計の皮がずれて、その跡が妙に白く保郎の目に残った。
「じゃ、元気でな」
「うん、元気でな」
辺りにようやく暮色が漂い始めていた。営庭にはまだ涼を求める兵士たちの影が多かった。
先発の保郎たちは、東満洲の図們《ともん》に近い常東という地に着いた。幾日も経ずして、奥村たちが同じ東満洲の石頭《せきとう》の予備士官学校に落ち着いたことを、保郎は知らなかった。
保郎たち北支派遣軍のほかに、朝鮮や満洲の各地から、若い幹部候補生が集まった。
(えらいボロ服やなあ。保定から来たおれたちは)
保郎が驚くほどに、他の候補生たちは一装用の軍装に身を包んでいる。保郎たち北支組は、八路軍と幾度か交戦し、軍服はよれよれに汚れていた。しかしそれは、保郎たちの誇りでもあった。
入校式の当日、コーリャンの赤飯、芋幹《いもがら》の味噌汁と貧しかったが、それでも尾頭付きの鯛が全員に出された。保郎は、ふっと淡路島や沼島《ぬしま》の生活が思い出された。何か祝いごとがあると、鯛の活きづくりが食膳を賑わしたものだった。父母の顔が目に浮かぶ。かつみ、松代、悦子、寿郎、栄次、そして末っ子のセイ子の顔が、今、目の前に見るように、まざまざと浮かんだ。
保郎は保定から、奉天(現在の瀋陽《しんよう》)、吉林、図們を経て、この常東の地に至るまでの間、輸送指揮官見習として、同期生を指揮してやって来たのだ。その姿を、父や母に見せたかったと思いながら、保郎は祝いの膳の鯛を突ついた。
東満洲のこの地では、味噌汁の実は野草が多かった。よくて甘藷《*かんしよ》の茎か、南瓜《かぼちや》の茎だった。飯はコーリャンで、極端に食事が悪くなったが、それに反比例して、臨戦態勢の厳しい一日一日が過ぎていた。兵舎内では歩くことは許されなかった。便所に行くにも、他の部屋に行くにも、常に駆け足だった。来る日も来る日も斬りこみ隊の激しい訓練であった。蛸壺を掘り、大八車《だいはちぐるま》を戦車に見立てての体当たり訓練、時には実物の手榴弾を使っての訓練だった。すべてソ連軍を仮想敵としての訓練だった。訓練は昼間だけではなかった。突如、夜半に非常呼集のラッパが鳴り響くことがあった。
(昼夜わかたずの訓練やな。ちと訓練のやり過ぎとはちがうか)
保郎はよほど上官に進言しようかと思うことがあった。
(こんな訓練はお国のためにならん)
というのが、その理由であった。連日胸膜炎患者が続出した。これでは万一実戦になったとしても、元気で戦える兵士は、極めて少なくなるのではないかと、保郎は憂慮した。
(食い物は悪い。訓練は厳しい。指揮が下手や)
保郎は元気だったが、度々そう思った。
(おれなら訓練は半日やな。あとの半日は演芸会でもやらせて、おもろい話を聞かせて、精神的にも肉体的にも余力をつけさせたるがなあ。これでは病人づくりや。いくら特攻隊となって、手榴弾諸共ぶつかって行こうにも、数が足らんようじゃ、仕方あらへんわ)
真っ赤な夕日が沈む頃、保郎たちは草原に輪になって軍歌をうたった。一日の激しい訓練のしめくくりだった。
八月一日、保郎は同級生たちと共に軍曹に昇進した。が、その喜びも束の間、保郎は突如高熱を発して倒れた。胸膜炎であった。翌日、保郎は陸軍病院に入院した。幸い熱はすぐに嘘のように下がった。
だが、保郎が入院して幾日も経たぬ八月九日未明、ソ連戦車隊が、ソ満国境の全域から怒濤のごとく侵入したとのニュースが入った。その日の午後には、完全武装した同期生たちが、緊張した横顔を見せて、病院の前をあわただしく出動して行った。
保郎たち傷病兵に撤退の命令が出たのは、翌日だった。水筒の水と、乾パン三袋、缶詰二つの携行が許された。病院内は俄《にわ》かに騒然となった。三百名からの傷病兵である。重症者も少なからずいた。
「軽症者は重症者の担架を運べ!」
衛生兵が廊下を叫んで走る。保郎は白衣を軍服に着替え、急いで正門前に横たわる重症者の担架の一つを、衛生兵と共に持ち上げた。駅までの数キロの道を、傷病兵たちが次々に歩いて行く。白衣の者、軍服の者、服装もまちまちだった。のろい歩みだった。担架を運ぶ保郎の腕が次第に重くなった。額に汗が滲み、息が荒くなる。肋間を鋭い痛みが走る。
(やっぱりおれも病人や)
保郎は歯を食いしばった。
「もっと速く歩いてください」
担架の前を持った衛生上等兵の気合がかかる。
ようやくの思いで、保郎は駅まで担架を運んだ。駅には貨物列車が、傷病兵たちを待っていた。重症者が有蓋貨車に、軽症者は無蓋車に分乗させられた。
全員が乗車するや否や、汽車は待ちかねたように動き出した。保郎が乗りこんだ無蓋車には、偶然衛生伍長以下、十数名の衛生兵ばかりが乗っていた。保郎は担架を運んだ疲れで息づかいが荒かった。肩でしきりに呼吸をする保郎を見て、年長の伍長が笑った。
「いくら体格がよくても、病人は病人だな、貴様」
伍長の言葉に、他の衛生兵たちも笑った。保郎は思わずむっとした。患者の自分に重症者の担架の片棒を持たせて、笑うとは何事か。
「貴様? 貴様とは何だ、貴様とは。上官に向かって、言葉を慎め!」
途端に伍長の顔色が変わった。
「上官? 上官が聞いて笑わせる。昇進して十日と経っていないだろ。おれたち関東軍の古参をなめると、どんなことになるか教えてやる!」
言うが早いか、伍長は腰の軍刀を抜き放った。保郎は一瞬ぎくりとしたが、開き直って言った。
「衛生兵が傷病兵を斬る!? 立派なもんだ。斬れるもんなら斬ってみい!」
初めから脅すだけのつもりだったのか、
「ふん、なかなかいい度胸だ。ま、今のところは勘弁してやる」
と、伍長は刀を納めた。
列車は時折、悲鳴のように汽笛を鳴らしながら、コーリャン畠を左右に見て走る。
やがて衛生兵たちは、酒や缶詰を真ん中に、酒宴を始めた。驚くほどの量だ。傷病兵には僅かに乾パン三袋と、缶詰二個しか渡さぬのに、この貨車には更に箱詰めの食糧が積みこまれている。後で補給するための食糧かと眺めているうちに、衛生兵たちは次第に酔いを増していった。軍歌がいつしか猥雑な唄に変わった。先ほどの伍長が保郎にすり寄って来て、
「よう、軍曹殿、進級祝いにまあ一杯」
と、酒を勧めた。保郎は再びむっとしたが、病気を理由に断った。途端に伍長が喚《わめ》いた。
「何いっ? おれの杯が受けられない? 野郎、みんなでやっちまえっ!」
たちまち衛生兵が保郎に殴りかかった。袋叩きにされて、保郎は気を失った。
どこかで猫の鳴き声がうるさい。保郎は、はっと目を覚ました。頭がずきずきと痛む。猫の声と思ったのは赤児の声だった。赤児を背負った女が、五、六歳の男の子の手を引いて、近くに立っていた。女の傍らに大きな荷物を持った男や女が立っている。何れも子供連れだ。
(ここはどこや?)
背にコンクリートが痛かった。
(大変や、プラットホームや!)
保郎は思わず起き上がった。頭がふらふらした。無蓋車の中で袋叩きにされたことを思い出した。
(しまった。汽車は行ってしもうたか)
置きざりにされたかと、保郎の胸ははげしく動悸した。が、思いがけなく、保郎の乗っていた貨物列車はまだ停車していた。ほっとした保郎の目に図們という駅名が目に入った。先ほどの無蓋車に近づくと、どうしたわけか衛生兵たちの姿がない。缶詰の空き缶が散乱しているだけだった。保郎は急いで近くの有蓋車に乗りこんだ。と、重症者の世話をしていた衛生軍曹の宮田が、
「どうした榎本、その顔は?」
と、驚いて言った。宮田軍曹は、入院以来の保郎の面倒をよく見てくれ、急に親しくなっていた。保郎は無蓋車での一件をかいつまんで語った。
「ひどい奴らだ。何であろうと傷病兵を袋叩きにするなんて、もってのほかだ」
宮田は憤慨して、
「どこだ? どこにいる? おれが行ってくる」
「いや、それが、今見たら誰もおらん」
「おらん? おかしいな。ま、ちょっと来い、榎本」
宮田は貨車から降りた。保郎はあとにつづいた。まだ体の節々が痛い。先ほどの無蓋車には、依然として誰の姿もなかった。食い散らした跡を見て、宮田が憮然として言った。
「ずらかったな、奴ら」
「ずらかった!?」
「うん、この図們からは朝鮮が近い。さっきの朝鮮行きに乗り換えたにちがいない」
「そんな! 逃亡やないか! 逃亡の罪は重いぞ」
保郎が抗《あらが》って言った。と、宮田は声を低めて、
「実はな榎本、他の傷病兵には動揺するから言えんが、各人、各部隊、自由に撤退せよとの命令が、ひそかに流されているんだ」
「各人、各部隊、自由に撤退せよ!? じゃ、勝手に逃げろということか!」
保郎には想像もできない事態だった。
「そうだ。だからこの列車には、輸送指揮官がおらん」
「輸送指揮官もおらん!?」
保郎は唖然とした。三百人からの傷病兵に、輸送指揮官もなくて、いったいどこに運んで行くというのか。
その時点において、ソ連参戦が満洲における日本軍に、いかなる混乱を巻き起こしていたかを悉《つぶ》さに知る者は少なかった。昨八月八日、満洲里《マンチユーリ》その他前線に近い各駅にいた日本人電信員たちは、満鉄チチハル鉄道電信所宛てに次々に発信していた。
「ソレングン シンコウノタメ ワレ サイシユウレツシヤニテチチハルニムケシユツパツス コレガサイゴノツウシンナリ」
という電信で、これを最後に通信を絶っていた。この通信途絶は、ひとり満洲里方面のみならず、北方前線にも東方前線にも惹起されていた。情報は寸断され、指揮系統は失われ、流言が飛び交った。その日、新京(現在の長春)における関東軍司令部では、軍の首脳部、政府首脳部、満洲国皇帝らが、軍人、軍属、満鉄職員及びその家族と共に、朝鮮に近い通化《つうか》に向かって逃避すべく協議中であった。おおよそ、そのような状況の中に保郎たちは置かれていたのである。
汽車はまた動き出した。その日九日の早朝、新站《しんたん》方面に空襲があった。保郎たちの汽車はその新站方向に向けて、のろのろと走っていた。が、どれほども走らぬうちに、汽車は小さな駅で止まった。保郎はしかし、まだ日本の勝利を確信していた。
「満洲に関東軍の精鋭百万健在なり」
と、関東軍の首脳たちは常々豪語していたのだ。しかも、小学校時代から保郎は、神国日本は不敗であると叩きこまれてきた。幾人かの衛生兵が狼藉を働こうと逃亡しようと、天皇の日本軍がそう易々と負けるとは思えなかった。
吉林まで、汽車はかなりの時間を費やして走り、止まり、また動いた。有蓋貨車の戸の間から、リュックサックを背負い、防空頭巾を肩にかけ、子供の手を引く女たちや老人の列が、道に次第に多くなるのが見えた。歩き疲れて坐りこむ老人もいる。泣き叫ぶ嬰児もいる。じりじりと暑い真夏の太陽が、容赦なく難民を照りつける。が、保郎たちは、そんな難民を眺めることにも疲れていた。保郎たちは出発以来、水も食糧も補給されてはいなかった。
十三日、汽車は辛うじて吉林に着いた。吉林の駅には難民が駅舎にもプラットホームにもあふれていた。難民列車は引き込み線に幾本もいて動かない。そんな民間人を尻目に、時折轟音を立てて、特別仕立列車が過ぎていく。それらは関東軍の軍人であり、軍属であり、高官たちであり、その家族たちの列車であった。図們方面に向かって過ぎる列車を、前線に赴くものと信じて、疲れた手を打ちふる者もいた。
吉林には前後三日、保郎たちの汽車は止まっていた。だが、ここでも僅かの水も与えられなかった。ソ連の参戦によって電気も水道も止まっているらしい。機関車の水を確保するさえ、駅員には精一杯だった。水を飲まぬ日がつづくと、誰もが口内炎になった。保郎の口も赤く腫れただれて、僅かに残している乾パンを口に入れるのも苦痛になった。重症者たちは呻くことさえ稀になった。
八月十四日午前、保郎たちの汽車は、ようやく奉天に着いた。疲れ切った三百人の傷病兵たちが見たものは、大きな奉天駅や駅前広場にあふれる婦女子や一般民間人たちであった。ソ連軍侵入に備えて、疎開の命が出されていたのである。それでも国境近い町々とはちがって、奉天の街はまだ落ち着いていた。保郎は駅前から放射線状にのびている幾本かの街路をぼんやりと眺めていた。疲れ切って、悪夢を見ているような気持ちだった。どこでどう算段したのか、久しぶりに保郎たちは水を与えられた。炊き出しの握り飯も配られた。黙りこくっていた傷病兵たちの顔に、僅かながら生気が甦った。衛生兵たちの中で、宮田軍曹の動きが目立って活発だった。指揮系統は乱れて、判断力と決断力のある宮田に、いつしか兵たちは従っているようだった。非常のこととて、階級の上下は問うところではなかった。
日陰にしばらく体を休めた保郎たちは、陸軍病院に向かって出発した。駅前広場から放射線状に幾本もの街路が走っている。その一つを保郎たちはゆっくりと歩き出した。重症者たちは大八車や馬車《マーチヨ》に乗せられた。編んだ髪を長く垂らした中国人の少女たちが、愛らしい笑顔を向けてくれた。長い旅の疲れで、保郎はしばしば目まいがした。一キロ半ほど行くと千代田公園があった。高さ二十五、六メートルはあろうか、日露戦争時の奉天会戦を記念する忠霊塔が、夏空に白く高く聳えていた。保郎たちはこの公園の木陰で、再び休憩した。
宮田軍曹以下幾人かの衛生兵たちが、陸軍病院に赴いた。陸軍病院はまだ二キロ近く行かねばならない。だが、そこまで歩くまでもなかった。受け入れを拒絶されたからである。三百名の傷病兵を入れる余裕はなかったのだ。
木陰に憩う保郎は、只疲れていた。いつしか保郎は草原に仰向けになって眠っていた。病人の体臭のこもる貨車の中で、幾日も膝小僧を抱えて寝てきた保郎には、手足を伸ばして寝ることのできる緑の芝生は、言いようもなく快かった。奉天の街の騒音が、いつしか沼島の浜の潮騒に聞こえてきた。おとら婆さんが何か言っている。保郎は「眠い」と答えた。おとら婆さんの姿はすっと見えなくなった。白い模型グライダーが飛びかっている。と、誰かが保郎の脇腹を突ついた。
「眠いんや」
またおとら婆さんが来たと思った。もう一度脇腹を突つかれた。保郎が片目をあけた。宮田軍曹がそばにあぐらをかいていた。
「何や、折角眠っていたんやで」
宮田はあたりを見まわして、
「榎本、ひょっとすると戦争は負けたかも知れんぞ」
と耳もとにささやいた。
「何? 戦争に負けた?」
保郎は起き上がった。
「うん、日本は全面降伏するらしい」
だが、疲れ切った保郎には、事の重大さが真っすぐには入ってこなかった。
「全面降伏って、どういうことや」
神国日本の不敗を信じてきた保郎には、宮田の言葉が俄《にわ》かに理解できなかった。
「明日、陛下の玉音放送があるそうだ。重大な放送があるから、全国民は必ず聞くようにと、今日ラジオで、何度も言っているそうだ」
「…………」
「重大放送と言えば、無条件降伏でないか」
「無条件降伏!? そんなわけはない。一億玉砕せえの詔勅や。それに決まっとる!」
保郎は断乎として言った。
「しかしな、榎本。ドイツもイタリアも負けたんだぞ。関東軍は百万の精鋭を誇っているが、かなり南方に兵は動いている。その南方も至るところ玉砕だ。おれは無条件降伏だと思うな」
保郎は答えなかった。気がつくと、あちこちで傷病兵たちがひそひそと何か話し合っていた。大声を上げている者がいる。しょんぼりと肩を落としている者もある。草原に風が渡るように、噂が広がっていく感じだった。
午後も三時を過ぎて、ようやく保郎たちは行き先が決まった。近くの国民学校が、臨時野戦病院として与えられたのである。煉瓦の塀をまわし、同じく煉瓦造りのがっしりした校舎だった。疲れ切った傷病兵たちは、上敷き一枚の教室の床に、与えられた毛布二枚にくるまって、身を横たえた。敗戦の噂は衝撃的だったが、しかし疲労のほうが上まわっていた。誰もがたちまち欲も得もなく寝入ってしまった。教室の壁に貼られた「皇國萬歳」の習字が十数枚、何れも元気一杯に書かれてあった。
翌八月十五日正午、予告どおり天皇の終戦詔勅が放送された。が、その放送を学校の宿直室に集まって聞いたのは、衛生兵たちと傷病兵では僅かな将校たちであった。
放送の要旨は、聞いた者の口から、直ちに傷病兵たちに伝えられた。保郎は毛布の上に正座して、黙然とうなだれていた。寝ている者もいる。ついと部屋を出て行く者もある。昨日、宮田軍曹の口から、負けたらしいと聞いた時の衝撃とは、全くちがった強い衝撃に、保郎は打ちのめされていた。
(負けたんか、ほんまに日本は負けたんか)
故国日本が、どこもかしこも、全く廃墟と化したような気がした。淡路島の父母も弟妹たちも、家も、一挙に失われた心もとなさを感じた。「皇國萬歳」の習字の一枚が、窓からの風にはたはたと鳴った。
「明日からも飯は当たるんかな」
誰かの不安げな声がした。奉天までの五日間を、ほとんど飲まず食わずで辿り着いた者の、それは正直な声であった。が、その声を聞いた途端に、保郎の目から涙が噴き出た。
「戦争は終わったんじゃ。飯ぐらい当たるじゃろうが」
かすれた声がした。
「いや、それどころじゃない。負けたら男という男は、皆殺しだと聞いたぞ」
と、今までぼんやりと天井を眺めていた一人が大声で言った。
「皆殺し? 脅すのもいい加減にしろ」
「いや、脅しじゃない。皇軍が支那でやったことを思い出してみろ。女は強姦、男は皆殺しに決まっとる」
「おれたち傷病兵も殺されるのか」
「傷病兵も糞もない。兵隊という兵隊は銃殺まちがいなしだ。こんなところにいたら、どんな目に遭わされるか、わからんぞ」
たちまち、あれを言いこれを言い、騒然となった。と、突如、
「黙れーっ!」
と、一人が怒鳴った。病人とも思えぬ声だった。
「お前らそれでも日本人か! 世界に誇る皇軍か! 黙って聞いていれば、誰一人陛下のご安泰を案じ奉る者がおらん。おれたちは、畏れ多くも大元帥陛下《だいげんすいへいか》に一身を捧げた者ではないか。殺されるのが何だ! 殺される前に、潔く割腹する者がおらんのか! 死んで陛下にお詫びする者がおらんのか!」
一瞬一同は押し黙った。が、次の瞬間、誰かが言った。
「おれは割腹なんぞせんぞ。女房や子供たちが待っているからな。這ってもずっても、日本へ帰るぞ」
せせら笑う語調だった。
「この野郎!」
「死にたきゃあ、貴様一人で死にゃいい。なあ、みんな」
一同はまたがやがやと勝手に喋り出した。
保郎は部屋を脱け出して、校庭の片隅にある石炭小屋の陰に行った。じりじりと日が照りつけ、校庭の土が日を反射し目に眩《まばゆ》かった。小屋の陰の僅かな草の上に、保郎はぼんやりと坐った。
(奥村はどこにいるやろな)
保定で別れた奥村がなぜかしきりに目に浮かんだ。
(まさか、死にはせんやろな)
石頭予備士官学校に配属された奥村光林は、八月十一日未明、同期生たちと共に石頭を出発、牡丹江に向かった。牡丹江一帯はソ連参戦と同時に、最も激戦地区となっていた。出動した半数がたちまち戦死した。この激戦の後、奥村たちは四日四晩、飲まず、食わず、眠らずの逃避行を余儀なくされた。渇きの余り、奥村たちは田んぼの水を飲んだ。その田んぼには、兵士や軍馬の死骸が横たわっていた。そんな苦しみのさなかにあることを、むろん保郎は知る由もない。
(神州不滅と思っていたが……)
保郎は空を見上げた。澄んだ高い空だった。
(神州なんて嘘やったんや。もし日本が神州なら、中国人にもっと親切な筈やった。皇軍いうても、ひどい奴がたくさんいた)
保郎は高崎倫常の言葉を、今更のように思い出した。
「米英と戦えば、日本は必ず負けますぞ」
倫常は繰り返し繰り返し言っていた。その度に保郎は抗議した。
「先生、神国日本が負ける筈はありません。いざとなれば神風が吹きます。元寇の時、神風が吹いたように、いざという時には、神は必ず日本に勝利を与えてくれるのです」
保郎は小学校の時から、そう教えられてきたのだ。いや、保郎だけではない。日本国民全部が、神洲不敗の信念を、固く固く植えつけられてきたのだ。万一日本が負けるなどと言おうものなら、たちまち「国賊」のレッテルが貼られ、高崎倫常のように警察に拘引される。
「いや、米英と戦えば、必ず負けますぞ。文化の程度、その広い国土から産出される物量だけでも比較してごらんなさい。日本の負けは、火を見るよりも明らかですぞ」
「いえ、彼に物量あれど、日本には精神力があります。大和魂があります。日本は神国です。畏《かしこ》くも天皇陛下は神であらせられます」
保郎は日本の不敗を、他の日本人たちと同様に信じて疑わなかった。日本の戦争は、聖戦だから負ける筈はないとも、保郎は言った。が、高崎倫常は、
「聖戦? 保郎君、戦争に聖戦なぞはありませんぞ。戦争は人を殺し、物を掠《かす》め、女を凌辱し、子供の命まで奪うものですぞ」
そうも言った。今にして思えば、聖戦といえる戦いが、この世にあろうとは保郎にも思えなかった。保郎は只むなしかった。自分が今生きていることさえむなしかった。
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蒋介石 一八八七〜一九七五。中国の政治家。反共独裁の国民党指導者(総統)として、米英の援助を得て抗日戦争を指導。第二次大戦戦後、毛沢東らの共産勢力との内戦に敗れ、台湾に退いた。
関東軍 中国遼東半島の西南にあった日本の租借地関東州と満洲にあった旧日本陸軍諸部隊の総称。一九〇五(明治三十八)年日露戦争後に設置された。一九四五(昭和二十)年八月、ソ連軍の満洲侵攻により壊滅した。
甘藷 さつまいものこと。
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破片
「何の音だ!」
保郎は、はっと目を覚ました。荷馬車ががらがらと大きな音を立てて、幾台も通りを行く。八月十八日、武装解除の日であった。
保郎は病室の窓に駆けよった。武器を積んだ荷馬車が長々とつづく。馭者《ぎよしや》に手綱をとられた馬が、地面を掘るように蹄に力をこめて歩いて行く。
「日本の武器だ」
隣に並んで見つめていた傷病兵が、憮然として言った。
(そうや、昨日までは日本の武器だったんや。けど、もうわれわれには武器はないんや)
いつ尽きるともわからぬ荷馬車の列を、保郎は放心したように眺めながら思った。
「これで、ほんとうに戦争は終わりだ」
誰かが、さほど感ずるふうでもなく、乾いた声で言った。長い長い荷馬車の音がようやく絶えたのは、どのくらい経ってからであろう。荷馬車の絶えた後に、丸腰の日本の兵隊たちが、足を引きずるように歩いて行く。誰もが疲れきった顔だ。魂のぬけたような顔だ。武器引き渡しのために、武器についている菊の紋章を、一心に磨《す》り消すという噂を保郎たちは聞いていた。
「武器は軍人の魂だ」
下駄箱の上に、うっかり鉄砲を置いたために、顔がフットボールのように腫れ上がるまで殴られた兵隊がいた。
「畏れ多くも、菊のご紋章を何と心得る!」
そう怒鳴られて、その兵隊は殴られたのだ。「菊の紋章」で殴られた者は少なくなかった。その紋章の削られた武器の行列を、保郎は身じろぎもせずに見送った。日本の敗戦を、最後まで見届ける思いであった。
午後から、次第に雲が出て雨になった。
「涙雨だぁ」
毛布の上に寝ころんで、誰にともなく言う声がする。
(なるほど、涙雨という奴か)
しかし、保郎は涙も出ない思いだった。敗戦の噂を聞いたのが十四日で、それから今日で五日目になる。日一日と傷病兵たちの規律も乱れてきた。健康は失われている。食糧は乏しく、いつ尽きるかわからない。二、三百メートルと歩けぬ体力の者が、過半数だ。日本には新型爆弾が落ちて、生き残る者がないとの噂が飛んでいる。どこにも、希望のおけない状態の中で、誰もが自暴自棄に陥《お》ちていくのは、無理もないことであった。
雨が時折、窓を叩く。つい、ついと、雨がガラスを走る。
(雨のほうが、人間より元気や)
保郎は苦笑した。と、その時、宮田が戸口に立って、保郎を目で招いた。保郎はゆっくりと起き上がって、廊下に出ていった。掃除の行き届かぬ廊下は白っぽく汚れている。宮田は先に立って当直室に入っていった。ラジオがついていて、胡弓《こきゆう》が哀切な音をひびかせていた。いかにも戦争が終わった雰囲気だった。
「体はどうだ?」
日本人国民学校の当直室には、八畳の畳が敷いてあった。日焼けして赤くなった畳だが、畳を見ただけで、保郎は胸が熱くなった。淡路島の家が思い出された。
「ええなあ、畳は」
保郎は畳の上にあぐらをかいた。宮田はそれには答えず、
「体はどうだ?」
と、再び言った。
「ああ、微熱もないし、格別疲労感もあらへん」
「盗汗《ねあせ》は?」
「時にある」
「ま、暑いからな」
奉天の夏は暑い。つい敗戦の日までは、夜半の十二時頃まで、家の前のベンチで涼んでいる市民が多かった。十二時過ぎから早朝までが北国らしい涼しさとなり、日が昇ると、またじりじりと暑さが戻ってくる。
「じゃ、体はまずまずというわけだな。ところで貴様、ずっとここにいるつもりか」
「ずっといるつもりか言われても、どこにも行くところあらへんわ。親戚はなし、友だちはなし」
「それはそうだが、貴様も見ていただろう。武器はすべて、引き渡された。これで日本軍の実体はなくなった。何日もしないうちに、ソ連軍が入って来る。それからが事だぞ、榎本」
宮田は憂鬱そうに言った。保郎はその宮田の顔をじっと見た。ソ連から、どのようなあしらいを受けるかわからぬ中で、傷病兵の世話をしなければならぬ宮田の苦悩を思った。一日も早く日本に帰ろうと、既に幾人かの衛生兵が病院を脱出している。
(一人でも傷病兵がいなくなったほうが、いいんやろな)
そう思った時、宮田が別のことを言った。
「榎本、百万の精鋭を誇る関東軍が、一瞬にして消えたな。ソ連軍が越境したというニュースだけで、関東軍のお偉方は、尻をからげて逃げ出した。軍が一般人より先に逃げるということが、あってもいいのか」
それは保郎たちもこの数日来、幾度か思ったことだった。
「な、榎本、うそかほんとか知らないけどよ。軍の列車が通ったあとの鉄橋は、軍が爆破して来たっていう噂も飛んでいる。一般人の逃げる汽車は、鉄橋がなくて、どうやって川を渡ってくるというんだい」
「何ややりきれんな。軍は民を守ってくれるものとばかり思っていたやろになあ」
「うん、民間人はだまされた気がするだろうな」
「するする。おれかてだまされた気ぃするでえ。もう阿呆らしうて、何もする気ないわ」
「おれもだ。何もする気がせん。しかしな、これでも衛生兵の端くれだ。傷病兵を前にして、何もする気がないとは言えんのだ」
「宮田は逃げへんのか」
「逃げられたらどんなにいいかと思う。しかし、お前は勝手にしたらいい」
「…………」
保郎は、自分が自暴自棄になっているのを、昨日も感じていた。
(強盗でも何でもやったる)
そんな思いが、幾度も湧くのだ。
(強盗したかて、戦争よりはましや。戦争より罪は少ないんや)
そうも思う。真面目に生きてきただけに、幾度となく火の噴くような怒りを覚えた。そして、そのあとが一層むなしくなるのだ。実は保郎もこの病院を脱け出したいと思う。傷病兵たちの中にいると、まだ軍隊の中にいるような気がする。自分たちを戦争に駆りたてた者の下に、惨めに生きているような気がしてならない。どこかで死んでもいい、これ以上ここにいると、自分が全く駄目になってしまうような気がする。そうは思うのだが、一方、
(駄目になるんなら、駄目になったれ)
という気持ちにもなる。保郎はどうしてよいか、迷うばかりだった。
「あのな榎本、八月十五日のな、あの天皇の玉音放送のすぐあとにな、この奉天師団司令部に、注文の醤油を山と積んで商人が届けたそうだ。ところがな、師団司令部はその時既にもぬけの殻だったとよ。放送直後だぞ。大笑いだな」
宮田は笑った。保郎も笑ったが、顔が歪んだ。
八月十八日の武装解除のあった日の夜から、俄《にわ》かに奉天の街は物騒になった。あちこちで爆竹が鳴り、声高に日本人を罵《ののし》る中国人や朝鮮人の声が病室の中まで聞こえてきた。日本軍が武器を引き渡したと知った中国人や朝鮮人が、今までの日本人の暴虐に対して報復を始めたのだ。その夜保郎たちは、二階の窓から、遠く上がる火の手を幾つも見た。郊外の日本人住宅街に火が放たれたらしいと、誰彼が言うのを保郎は聞いた。
が、翌八月十九日の真昼の市内は静かだった。少なくとも保郎たちの周囲は無気味なほどに静かだった。その静けさが、夜になるとまたしても爆竹、喚声《かんせい》、悲鳴の交錯と化した。
八月二十日早朝、保郎たち傷病兵は、地を揺るがす轟音に叩き起こされた。窓を見ると、巨大なソ連軍戦車隊が堂々と行進して来た。ソ連先遣第一戦車隊本隊の奉天進駐であった。ソ連軍の進駐は、たちまち奉天市民を恐怖のどん底に叩き落とした。昼も夜もなかった。日本人、中国人、朝鮮人の区別もなかった。女を見れば凌辱、暴行、男を見れば、「ダワイ」「ダワイ」と叫んで、万年筆、腕時計、カメラ等を強奪した。各戸の戸締まりなど何の役にも立たなかった。マンドリンと呼ばれる自動小銃を背にソ連兵が入ってくる。抵抗する者はたちまち射殺された。工場地帯の女工たちは輪姦され、子供の手を引く母親が、白昼子供の目の前で凌辱された。逃げ残った陸軍官舎の妻女たちが、青酸|加里《カリ》で集団自決したとの噂が飛んだ。どの家も、夜は戦時中よりも用心深く暗幕をめぐらし、細いローソクのもとに息をひそめて、外をうかがっていた。女たちは髪を切って丸坊主にした。
奉天市内には、北から東から、難民や復員兵、逃亡兵が流れこんで来た。誰もが、幾日も幾日もかかって、徒歩で奉天に辿り着く。その難民たちのほとんどは子供を連れてはいなかった。子供を背にする者や、子供の手を引く者も、意外に少なかった。多くの子供たちは、長い逃避行の中で息絶え、あるいは中国人に売られ、あるいは預けられたようであった。栄養失調にうすぐろくむくんだ難民の姿が、奉天に入って来ない日はなかった。そんな中での、ソ連軍による掠奪や暴行であった。衛生兵の宮田は、時折それらの様子を保郎に話して聞かせた。
「けど……この病院には、なんでソ連兵も中国人も、掠奪に来ぃへんのやろ」
保郎が不審げに言うと、
「傷病兵ばかりのところに、掠奪する何がある」
宮田は笑って、
「やっぱり傷病兵というのは、全世界どこにあっても、一応は守られているのかなあ」
と、やや感じ入ったように言った。
「じゃあ、ここが一番安全ということやろかな」
そうは言ったが保郎は、いつ、どんな理由でソ連軍が元日本兵の保郎たち軽症者を使役に駆り出さぬものでもないと、不安だった。
「困ったもんだよ。昨日な、榎本、復員兵の集団が、竹槍かついで奉天に入りこんだらしい。竹槍とはいえ武器だからな。奴らを刺激しては傍《はた》迷惑なんだ」
「ふーん、竹槍をなあ」
ソ連軍の目に、それはどんなに異様に映ったことか、保郎は憂鬱だった。必ず、元軍人に対する追及の手がきびしくなるような気がした。果たして、それから間もなく、宮田が一つの情報を得てきた。
「榎本、市内の北陸大学に、八月十五日まで日本軍が駐屯していたことは知っているな。その駐屯軍が即日解散したことも知ってるな」
「うん、知っとる知っとる。司令部がまず逃げて、そのあと兵隊が逃げたいうことやな」
「まあ、そういうことだ。ところがソ連さん、これを解散と認めないで、逃亡だ、全員奉天市内に潜伏している、と言い張るんだそうだ」
「それで?」
「その逃亡兵を、敗戦時の員数だけ揃えて引き渡せ、という難題さ」
「員数が揃わなけりゃ、どうなるんや?」
「関係ある者もない者も、引っ張られるだろうな」
「この病院の中まで踏みこんで来るやろか」
「まさか、ここまで手は伸ばすまいとは思うがな。ここに逃亡兵は一人もいないからな」
保郎が脱走を決意したのは、この話を聞いた夜のことだった。もうこれ以上、軍とは関わりたくなかった。「陸軍軍人」の過去を抹殺したかった。病院内では、やはり軍隊が生きていた。全く階級を失われた筈の自分が、軍曹と呼ばれていることに、保郎は耐えられなかった。
こうして保郎は二人の傷兵と病院を飛び出すことにしたが、異国の土地である、惨澹《さんたん》たる生活は目に見えている。保郎たち三人にとって、毛布二枚、軍服、白衣が衣類のすべてであった。いくばくかの金はあったが、食糧もない。何より軍服姿や白衣姿では、たちまち元日本兵の身分が知れる。宮田に事を打ち明けて、私服の調達を頼んだ。どこでどう工面したのか、三日と経たぬうちに、宮田は三人に、中古の作業服や国民服を持って来てくれた。
「恩に着るよ。これこそ恩に着るということや」
久しぶりに保郎は冗談を言って、その服を押しいただいた。九月十九日夕食後、三人は病院を脱け出した。
敗戦と同時に奉天を脱出した邦人の住宅が、あちこちにあった。その大方は家具が盗まれ、あるいは壊されて、廃屋同然の家であった。住むにふさわしい家は、すぐには見つからなかった。が、ひとまず雨露をしのげればよいと、三人は五部屋ほどの荒れた家を当座の宿とした。
翌九月二十日、奉天市内に住む二十歳から四十歳までの日本人男子が、ソ連軍から強制出頭を命じられた。職業を斡旋するということであった。ソ連軍の斡旋する職につけば、緑色の腕章を与えられ、生命が保証されるということもあって、人々は疑わずに出頭した。必要人員が満たされたところで打ち切られたが、門内に入った者は、逃亡兵狩りの犠牲となった。が、保郎たちは、この危険から危うく逃れ得たのである。
昨夜、ガラスの散乱した空き家に、保郎たちは驚いたが、夕闇の中にガラスを拾い、その床板の上に毛布にくるまって早々と寝についた。
「寒いぜ。学校とはちがう」
この家も学校と同じく煉瓦造りだったが、戸は壊れ、窓は外れ、吹きさらし同然だった。
「これからどうして食っていくんだ?」
一番年長の津田が早くも弱音を吐いた。
「なあに、掻っぱらいをしたって、食っていける」
保郎と同年齢の林が言った。
「そやそや、泥棒やって、引ったくりやって、何だってやったる」
言ってから保郎は、言葉に出した自分に驚いた。かつて少年時代、柿の実一つ盗んだことのない保郎だった。が、驚く自分自身を、保郎は踏みつけるように言った。
「人殺しさえしなんだら、立派なもんや。戦争するよりははるかにええことや」
三日目、三人はもう少しましな空き家がないかと、捜して歩いた。が、空き家は似たりよったりだった。ソ連兵が自動小銃を肩に、威嚇するように歩いて行く。かなり軍規がきびしくなってきたとはいえ、彼らは女に飢えた獣だった。昼もひっそりと戸を閉めて住んでいるらしい住宅を見ながら、そのどこかの一軒に入りこむ工夫はないかと思った。
「そや! ええことがある。お前、大声でな、イタタ……と腹をおさえるんや。ええか」
保郎は林に一策を授けた。小ぎれいな一軒の家の前で、林は言われたとおり、「イタタタ……」と叫んだ。
「どうした!? 腹が痛いんか!」
保郎は持ち前の大声で聞いた。
「イタタタ……」
林がのた打って苦しいふりをする。
「どうしたらええ。そや、薬をもらってきたる」
津田はしゃがみこんで、おかしそうに笑いをこらえていた。と、窓が細目にあいて、
「どうしました?」
と言う女の声がした。
「すんません。腹が痛うて、こいつ苦しんどるんです。何か薬を……」
女は日本手拭いをかぶった色白の女だった。女はじっと三人を見つめていたが、玄関の心張り棒を外し、戸をあけ、
「さ、急いで、急いでお入りください」
と三人を招き入れた。
女の家には、病人が一人|臥《ね》ていた。中年の男だった。夜に昼に、ソ連軍や中国人の襲撃を恐れていた女が、三人が怪しい者ではないことを見定めて、一部屋提供することに同意してくれた。嘘のように住む場所が決まったのである。
保郎たち三人は、女と病人の住む家に、幾日か同居させてもらった。夜は固く戸を閉ざしたが、油断ができなかった。方々の家を掠奪するソ連兵の、ピストルの音の聞こえぬ日はなかった。そんな状況の時に、男が三人いるということは、病人にとっても女にとっても心強いことであった。近所の家からも、用心棒に頼まれもした。一夜の当直で何がしかの金や食糧を得ることは、貧しい三人にとってありがたいことだった。
水道も電気もガスも止められた不自由な生活の中で、保郎たちは裏庭にある防火用の井戸ポンプから水を汲み、近所の家に運ぶ仕事もした。
それから幾日も経たぬうちに、三人は満洲炭鉱の寮に移った。女の家の食糧が乏しくなったからである。寮には十数人の兵隊たちが共同生活をしていた。この生活の中で、保郎は花札遊びも知ったし、男と女の世界のことも知った。誰もが自暴自棄になっていた。保郎もその一人だった。
やがて、近所の日本人経営の銭湯が再開されるほどに治安が回復した。保郎もその銭湯に行っては、様々な情報を仕込んで来た。どこに行けば大福餅を仕入れることができるか、どこに行けば甘酒を卸してもらえるか等々、またたく間に保郎は知った。
その頃奉天の日本人街の一画、春日町通りから青葉町通りまでのおよそ三キロの道の両側に、二千軒の露店が出ていた。その露店の裏手には、八月十五日までは開かれていた大きな店舗が、まだ固く扉をおろして並んでいた。が、露店には種々雑多な品物が売られていた。どこから持ち出してきたのか、鍋、釜、重箱、ヤカン、鉄瓶、石鹸、木炭、麦、米、薬品、南京豆、ローソク、マッチ、タバコ等々が並んでいた。その中にコート、背広、着物などを立ち売りする者もいる。が、衣類は一枚一枚包みの中から取り出さなければ、中国人がたちまち引ったくって行く。包みに片足をのせ、あるいは包みの上に腰をおろして衣類を売る日本人たちが並んでいた。売られて行く華やかな日本の着物を見ると、保郎は日本の女が売られて行くような痛みを感じた。
保郎は手はじめに大福餅を売ることにした。保郎は大福餅の箱に、「大福吉餅」と大きく書いた紙をぶら下げた。大福餅では平凡だ。吉の字一つを大福に加えれば、負けた日本人の気を惹《ひ》くだろうと思ったのだ。一日立っていれば、たいていの品物は必ず売れることを、保郎は幾日も経たぬうちに知った。ガス会社の裏のぼた山からコークスを拾い、南京袋に一杯詰めて売ることも覚えた。これは元手なしに儲けることができた。
そのうち保郎は、一人の中国人陳を知った。保郎はその中国人に言った。
「空き家になった日本人住宅を壊したら、咎められるか」
「空き家だから、誰のものでもない」
「ほなら、家を壊して薪にしてもええな」
陳はまじまじと保郎の顔を見、
「お前、頭いい。よし、おれが仲間と家を壊す。お前、売るがいい」
陳はすぐに話に乗った。保郎は、日本人の家が壊されるのを見に行った。郊外の空き家になった日本人家屋は、大方が天井や床が剥がされていた。奉天界隈には、ほとんど樹木などはない。この空き家の床や天井のみならず、柱や鴨居まで薪にして、一束幾らで売るのである。この頃保郎は小さな家を見つけて、一人寮を出た。自由がほしかったのだ。
くもった肌寒い午後だった。その日も薪はたちまち売れて、午後から花札でもしようかと思って、寮に立ち寄った保郎に津田が言った。
「ちょっと見せたいところがある」
「見せたいところ? 何や一体?」
保郎は気の乗らぬ顔をした。黒い中国服を着た保郎は、誰の目にも中国人に見えた。中国服を着ているほうが安全なのだ。ズボンのポケットの、今日の売上金を手でまさぐりながら答える保郎に、津田はぶっきら棒に言った。
「そこの小学校だ」
「小学校? 何ぞおもろいもんがあるんか」
「来てみりゃあ、わかる」
「商売やな」
津田はちょっと複雑な表情をしたが、先に立ってずんずんと歩き出した。保郎も何となく心惹かれて後を追った。
小学校は加茂小学校といった。日本人の国民学校である。各地から避難して来た女、子供たちがいる。ぼろぼろの衣服、泥まみれの衣服、中には南京袋に身を覆う女たちさえいて、保郎は思わず目をそむけた。
「ここが宿だというだけだ。食い物もろくに与えられていないらしい」
津田が怒ったように言った。栄養失調で、母親たちも子供たちも、顔がどすぐろくむくんでいる。一様に光のない目が、ぼんやりと宙を見ていた。
「大変やなあ。食うものは何も出んのか」
心の荒れていた保郎も、さすがに久しぶりに人間らしい思いが甦った。
「しかし、この人たちはまだ子づれなだけ、ましなんだ。たいていの避難民は、ここに来るまでに、子供に死なれたり、手放したりで……」
津田はそう言い、
「みんな国策だ国のためだと、満洲の開拓のために駆り出されて来た人たちだ。だまされて来た人たちだ」
保郎は、広い屋内運動場に、敷物一枚なく坐りこんでいる人たちを見ながら、ふと、その中を忙しげに歩きまわる中国人たちに気づいた。
「おい、津田。あの雑嚢を肩に吊っとる中国人たちは、何しとるんや」
「ああ、あの人たちを見せたかったんだ。救いの神さ」
保郎は、近くの母親と何か話をしている中国人のそばに寄って行った。
「だいぶ弱っている」
中国人は三歳ぐらいの男の子の肩に手をやって言った。
「もう五日も、食べ物らしい食べ物は食べていないもんだから」
母親は低い声で言った。それでも精一杯の声で話をしているらしかった。
「五日も? かわいそうに」
中国人は大きくうなずいて、五百円を差し出した。母親はその金を押しいただいて、
「ありがとうございます。そのうち、世の中が落ちついたら、必ず迎えに来ます。それまで預かって……」
と、あとは涙声になった。
「わかってる、わかってる。大事に育てる」
中国人は自分の名を言い、母親と子供の名を尋ねた。中国人はその子をひょいと抱き上げた。子供が泣き声を上げた。が、弱々しいその声は、ほとんど聞こえなかった。母親は、あふれる涙の目を大きく見張って、連れ去られる子供を見送っていた。
「津田、あの子、売られたんか?」
津田のところに戻って、保郎が言った。
「うん、まあそういうわけだな。あの子は今日から飯にありつける。多分命は助かるだろう」
「どうしても子供を手放さんならんのかな」
「まあ、あのままじゃ、親子もろとも飢え死にだ。戦争が悪いんだ」
保郎は黙った。向こうでは女の子が、こっちでは赤児がと、金と引き換えに連れ去られる姿が目に入った。
保郎たちは重い心で学校を出た。
「地獄やな、津田」
「うん、地獄だ」
「あの子たちの将来は、いったいどうなるんや。親子が会える日は、もう来んやろな」
言ったかと思うと、不意に保郎は、道の真ん中に屈みこんで号泣した。
保郎は、加茂国民学校に行って、子供が売買されるきびしい現実を見て以来、二、三日ぼんやりとしていた。子供たちの連れ去られる姿が、目にちらついてならなかった。その子供たちの姿が、弟の栄次や、妹のセイ子にダブって浮かぶ。母親の姿は即ち、保郎の母ためゑの姿と重なる。
布団もオーバーも持たぬ保郎にとって、恐ろしい冬が日一日と近づいてきた。薪売りでかなり儲けたつもりだが、それらはみるみる食糧に変わった。二十歳の保郎の食欲は、何にもまして優先した。時折、盗汗をかく夜があった。保郎は、中国人の友、陳に、布団が欲しいと言った。
「布団か。うんと安いのがある」
陳は即座に言った。
「いくらや?」
「三百円」
「三百円!? そら安い」
加茂国民学校で、三歳の男の子が五百円で売られた。同じ歳の女の子は三百円か二百円だった。身代金は、奉天での一日の食費に相当した。三百円で手に入るのなら、その布団をぜひ欲しいと思った。しかし、よく聞くと、その布団は発疹チフスで死んだ人の布団であった。
「きつい冗談や」
保郎は笑ったが、結局他を探すことにした。発疹チフスは流行し、多くの人が死んでいた。仲間の林も罹《かか》ったが、幸いその若さで乗り越えることができた。
そんなある日、保郎は青葉町の露店街で、近頃知った李という老人と薪を売っていた。青葉町通りはいつものように売る人買う人で賑わっていた。三、四人の愚連隊が、横隊になって歩きながら、売上金を巻き上げたり、買い物客の女に抱きついたりして、あちこちに騒ぎを起こしていた。保郎も今までに、二、三度売上金を奪われたことがあった。
李は老いた苦力《クーリー》だった。苦力はほとんど人間扱いをされなかった。妻を娶《めと》ることもできぬほど、生涯貧しかった。靴を履いていない者もおり、ほとんどがボロ服をまとっていた。苦力が乗る汽車は四等車と聞いた。四等車とは貨物や動物を載せる無蓋車で、すべてに人間扱いをされていない事実を保郎は知った。李は、そんな生活を何十年もしてきたわけだが、保郎はこの六十を過ぎた李が好きだった。李は陽気だった。ボロ服は仮の姿で、実は身分ある王家の人ではないかと思われるような気品すら、その面ざしにはあった。日本人は苦力をニンニク臭いと言って嫌ったが、保郎は自分もニンニクを毎日かじっていたので、それは少しも気にならなかった。しばしば李の顔に口を寄せてささやく保郎を、李は喜んでいるようだった。
保郎は、その日、
「一度、遊びに来てください」
と李に誘われた。が、さすがに保郎は辟易した。李の布団には虱《しらみ》が列をなしていると、李自身の口から聞いたことがある。李の服装から推しても、おおよその生活が想像された。だが保郎は、いつ、どこで死んでもいいような、むなしい気持ちもあったので、
「そのうち、行くわ」
と、約束した。李は、満面に笑みを浮かべて、
「ほんとか、ほんとに来るか」
と念を押して喜んだ。
その時、トラックのけたたましい警笛が鳴った。と、同時に、雑沓から声が上がった。
「何や!? 何が起きたんや」
驚く保郎の前を、トラックが過ぎた。次々と周囲から声が上がった。トラックは数台つづいている。そのトラックには、日本の男たちがびっしりと乗せられていた。男たちが手を振る。何か喚く。路上の日本人たちが叫ぶ。
「どこへ行くーっ!?」
「シベリアだあーっ!」
あっという間に車が過ぎ去る。
「はかられたあーっ!」
車の上から叫ぶ。名を呼んで追いかける女がいる。トラックの上の男たちの顔は、皆歪んでいた。一瞬の出来事だった。人々は呆然と立ちすくんだ。が、次の瞬間、あれを言い、これを言い、青葉町通りは騒然となった。彼らは九月二十日に出頭した人たちだったのである。
「ソ連の奴!」
保郎は売り物の薪を思わず舗道に投げつけた。と、李がそれを拾いながら言った。
「日本はもっとむごいことをした」
保郎はぎょっとした。先ほどまでの李の声ではなかった。いつもの表情ではなかった。
「日本のほうがむごい!?」
「むごい!」
李はきびしい顔で言い、言葉をつづけた。道を歩いている男たちが、いきなり日本軍に連れて行かれた。その中には結婚したばかりの男もいた。十七の少年も十四の少年もいた。すがりつく母親や姉たちを突きころばして、日本軍は男たちを連れて行った。その数は誰にもわからぬほど多かった。
保郎は舗道にへたりこんで李の言葉を聞いた。
「日本人は、誰を責めることもできない」
ソ連軍も国府軍も女を凌辱する。しかし日本人ほど凌辱し、その上殺すことさえする民族はいない。八路軍は全くと言ってよいほど女を犯さない。李はそう言い、
「日本人は何も文句言えない」
と、激しい語調で言った。
その夜、保郎は珍しく熱を出した。熱は幾日も下がらなかった。
(死んだれ! 死んでもええ!)
加茂国民学校で売られた子供と言い、売った母親と言い、ソ連軍のトラックに乗せられた捕虜たちと言い、中国での日本軍の残虐の数々と言い、余りにも戦争は非道なものであった。その戦争に駆り出されて、今、自分は何をしているか、朝起きて歯も磨かず、顔も洗わず、髭《ひげ》は伸び放題、頭は蓬髪、体も思いも不潔極まる。これが朝々沼島の海にみそぎをして出勤した榎本保郎であろうか。天皇のために死ぬことを第一義の道とし、
「武士道とは死ぬことと見つけたり」
と言っていた自分が、邦人の空き家を解体して、薪売りをしている。暇があれば花札に耽り、何をなすことも知らない。むやみに腹を立て、喧嘩をし、したい放題のことをすればするほど、むなしさは湧く。生きている必要はないような気がする。
(死んでもかまへん!)
熱を出して五日目、保郎はふらつく足を踏みしめながら、青葉町通りに出て行った。大地が斜めに上がったり、下がったりする感じだった。その保郎の肩を、うしろからぽんと叩いた者がいた。
「まあ、榎本さんじゃないの。どうしたの、ふらふらして」
ふり返ると満洲炭鉱の寮にいた時の近所の女が、怪訝《けげん》そうな顔で立っていた。色白の、優しい眉のその顔が、本気で保郎を心配していた。
「ああ……」
名前を呼ぼうとしたが、保郎はその名を忘れていた。と同時に、激しい目まいがした。保郎は、石鹸屋の屋台の前に、くずおれるように屈みこんだ。
気がついた時、その女の家に寝かされていた。津田と林が心配そうな顔で、枕もとに坐っていた。
幸い熱は、その後二日で退いた。熱が退いてから三日ほど、薪売りを保郎は休んだ。
その日も様子を見に来てくれた津田に、保郎は言った。
「人の空き家を壊して、薪にして売った罰や」
「罰? もし罰というものがあるんなら、おれたちはもっと早くに罰が当たっている。お前がどんな軍隊生活をしてきたかわからんが、おれは家に帰っても、妻子に話せんようなことをしてきたからな」
津田は言ったことのないことを言った。答えかねている保郎に、
「どうせ空き家だ。満洲の冬は、燃えるものは何でも燃やさねばならん。空き家で建っているより、薪にして売られたほうが、どんなに人の役に立つことか」
津田は慰めてくれた。
保郎は中国人の世話で布団を譲ってもらい、何とか冬を迎えることができた。何よりも、燃やすものが欲しかった。街を歩いていても、保郎の目はいつも路面に注がれていた。どんな小さな木片でも、石炭のかけらでも何でも、燃えるものは拾って腰の袋に入れた。幸い十月には、八路軍が進出してソ連軍が後退した。秩序も戻り、ソ連軍の自動小銃におびえることもなくなっていた。
保郎が正月の露店で売ったものは、おみくじであった。
彼岸花
昭和二十一年(一九四六年)九月二日――。保郎たちを乗せた引き揚げ船高砂丸は、今、佐世保に近づきつつあった。
「佐世保だ! 佐世保だ!」
はしゃぐ声がする。引き揚げ者のほとんどが、帰国の喜びに湧いているのに、保郎は一人船室の隅にうずくまって、吐息をついていた。沼島《ぬしま》を出る時、大漁旗を掲げて、幾隻もの漁船が、万歳万歳と叫びながら保郎の船を送ってくれた。岸壁に並んで、生徒たちやおとら婆さんの打ちふる日の丸の小旗が、鮮やかに目に残っている。一人小舟で旗をふっていた勇太のかぼそい体が目に浮かぶ。父、母、きょうだいたちの顔が大きく迫る。
(けど、あん時のおれとは、ちがうんや)
保郎は胸の中で呟いた。敗戦後一年間の奉天での生活を、引き揚げ船高砂丸での数日の間、保郎は苦い思いで思い出していた。それは誰にも語りたくない荒《すさ》んだ生活だった。
(あれが、このおれやったんやろか)
引き揚げ船に乗って初めて、保郎は奉天での自分を客観的に見ることができた。のちに、この当時の自分を、保郎はその自著の中で、あるいは説教の中で、次のように述べている。
〈きびしかった軍隊の秩序は乱れ、あからさまに人間のみにくさが目につき、敗戦の憂き目が外地なるがゆえにきびしく感じられてくるたびに、一途に生きてきた自分がひどくあわれに思われた。「だまされた」といういきどおりが内に燃えるのを覚えた。
でも、どうすることもできない。もうだれのいうことも信じない。自分の将来などについても真面目に考えまい。やりたいことをやって死んでいけばそれで満足だ。どうせ、真面目にやったって、誰かにまただまされるのがおちだ。これがニヒルというものなのだろうか。(中略)私はなんとしても祖国のために一生懸命になった生活から抜け出したい一念で、病院を飛び出たのであった。私の生活はずいぶん無軌道であった〉(自伝「道に生きる」より)
〈私はキリスト者になる前、自分の生命を捧げるべきものを持っていた。それは、「日本の国」というものであった。私にとって日本の国は真理であり、道であり、生命であった。
「海ゆかば水漬《みづ》くかばね 山ゆかば草むすかばね 大君の辺《へ》にこそ死なめ かえりみはせじ」
という歌こそ私の心そのものであった。だから私にとって日本のために死んでいくことは決してかなしいことでもいやなことでもなく、名誉な事、喜びであった。
しかしこの自らを捧げた日本は終戦と共にくずれ落ち、それは真理でも道でも命でもなく、只の現実となった。
この時の私の魂のもだえ、これはよく言い表すことが出来ない。只私はこの苦しみを忘れ、この苦しみから救われるために酒を飲み、あらゆる官能的な遊びに熱中した。しかしそこからは平安も解決も与えられなかった。遺るものは唯悲哀のみであった。歓楽つきて悲哀多しである〉(「ガリラヤ誌」一巻一号より)
保郎は正に、この歓楽つきて悲哀多しの真っ只中にあった。「官能的な遊び」の中には、女もあった。日本を出る時、保郎は多くの初年兵と同様に、女の手を握ることさえ知らなかった。いや、自由に言葉を交わすことさえ知らぬ純情な若者だった。
(結婚もせんのに、無責任な男や。汚らしい男や)
今、保郎を最も苦しめているのは、そのことだった。堕落したと思いこんでいる保郎には、しかし、まだ自分を責める生真面目さが残っていた。そのことに保郎は気づかない。
保郎は軽い咳をした。極寒の満洲の冬のさなかに、保郎の胸膜炎はぶり返した。一カ月は微熱は下がらなかった。保郎の体はいまだに疲れやすかった。
奉天を出て、乗船地コロ島に着くまで、二十数日を要した。途中、収容所に待機したからであった。高砂丸がようやくコロ島を出帆した時、引き揚げ者たちは一様にほっとしたように見えた。が、中には満洲のほうを見つめて、声を上げて泣いている女もいた。人々のささやきで、途中子供を置いてきた母親だと知れた。その母親が、佐世保が近いと聞いてまた泣き出した。保郎は不意に、ふてぶてしく開き直りたい思いになった。
(戦争が悪いのや。戦争を起こした者が悪いんや。どこに子供を手放したい親がいるか)
平和でさえあれば、母と子はいつまでも寄りそって生きていけたのだ。奉天の加茂国民学校で見た母と子の別れの光景が思い出された。
(おれを駄目にしてしもうたのも、戦争や)
日本軍が残酷だったのも、ソ連軍が獰猛《どうもう》だったのも、みんな戦争のせいだと、保郎は誰かに向かって叫びたい思いだった。妊娠中の女の腹を、情け容赦もなく斬り割いたという日本軍人も、故国に帰ればふつうの夫であり、息子であり、父親なのだ。あのソ連兵が、白昼路上で女を犯したのを保郎も見た。あの男も平和な時には陽気な、気のいいだけの男なのかも知れない。
(戦争って、恐ろしいもんや。人間を駄目にする。人間を壊してしまう)
そして自分もその壊れた人間のその一人だと、思いはまたそこに帰る。
(けど、八路軍や国府軍は、日本軍とは比較にならんほど、立派やった)
コロ島を出る時の、国府軍の将校の言った日本人引き揚げ者への挨拶の言葉を、保郎は思い出した。
「日本の皆さん……」
台の上に上がった若い将校は、そこで声を詰まらせた。
「今、皆さんが日本に帰られることを、心からお喜び申し上げます。しかし、皆さんが満洲に来て営々と築かれました地位も財産も失われましたことは……。たった一個の包みを持っておられる皆さんを見ることは、まことにしのびないことであります。しかし蒋介石総統は、『仇をもって仇に報いてはならぬ、日本人の財産も生命も損なってはならぬ』と、厳命を発したのであります。とにかく、日本の一部の指導者のあやまちから、かかる次第になったことは、まことにお気の毒に思います。皆さんには罪はありません。今、裸一貫で帰国される皆さんは、さぞ無念でありましょうが、どうか帰国された暁は、日本の再建のために力を尽くして下さい」
保郎はこの言葉に驚いた。十有余年、満洲は日本のほしいままの下にあった。中国全土は日本の軍靴に踏みにじられた。田畑は荒らされ、家は焼かれ、肉親は殺された。その恨みを述べることなく、只引き揚げ者をいたわり、励ましたのだ。
(あの将校は、戦争のさなかにも、駄目な人間にならんかったんやな)
それはいったい何の故であろうかと、保郎は改めて思った。幾度かラジオに流された蒋介石の言葉が、今更のように真実味をもって迫ってきた。
「恨みに報ゆるに恨みをもってなさず、恩をもってなすべし。日本人の生命財産に危害を加える者は、厳罰に処す」
確かそのような言葉だったと思う。誰かが、蒋介石はキリスト教徒だと言っていた。保郎はそのことを思い出した。
(ヤソいうたら、奥村の奴、生きて日本に帰ったやろか)
千名を超える幹部候補生の学科試験に、首席となった奥村光林は、口頭試問で宗教を問われ、あろうことか自分は神学生であると明言した。そのために二次試験の結果は三十五番に下がったのだ。あの奥村は、どんな敗戦を迎えたかと思う。端正な顔はしていたが、その顔に似合わず、奥村は剣道三段の腕前であった。同期の者たちに剣道の稽古をつける奥村は、どこから見ても清潔で、固い信念の男だった。生きていてほしいと切実に思いながらも、一方、既に奥村が戦死したような不安な思いに駆られた。
(蒋介石もヤソ、奥村もヤソ、タイヘイもヤソ、そして、もしかしたら高崎先生もヤソや)
心の中に呟いた時、下船のための携帯品点検が行われるとの伝令があった。いつの間にか、船は佐世保港に横づけになっていたのである。千五百名を超える引き揚げ者たちの表情は不安と期待が交錯していた。米兵と日本警官により、携帯品の検査を受け、頭からのDDT消毒を終えて、保郎たちは上陸した。保郎はリュックサック一つを肩に、のろのろと船を降りた。一年九カ月ぶりに踏む祖国の土を、保郎は暗い思いで踏んだ。その保郎の耳に、聞き馴れぬ歌が聞こえてきた。明るい女性の声だった。それが敗戦の日本中に歌われている「リンゴの唄」であることは、あとで知った。
洲本の駅から汽車に乗った時は、保郎の虚無的な胸にも、さすがにかすかな灯が点《とも》った。九月三日のその日、淡路島は既に夕闇に包まれていた。
(あと一時間で、わが家に帰れるんや)
一年何カ月かの間、保郎は家族からの便りを手にしていなかった。
(何ぞ変わったこと、あらへんやろな)
自分の帰りを、保郎は知らせていなかった。戦後の日本はどんな状態になっているのか、汽車はどこまで動いているか、見当もつかなかったからである。佐世保からの車中で見た日本は、一見、保郎が出発した時と、さほど変わってはいなかった。モンペを穿いていた女たちはスカートに変わっていて、むしろ戦時中より落ちついて見えた。話に聞いた広島は予想どおりだったが、とにかく日本は、保郎が思っていたほどには惨めではなかった。保郎は日本を見るまで、全国至るところ廃墟と化したと思いこんでいたのである。夜汽車の窓に目をやりながら、保郎はふっと幾日間か一緒だった高砂丸の引き揚げ者たちを思った。ほとんどがボロを着ていた。
「これじゃ、乞食とまちがわれるな」
そう言っていた男もいた。甲板の手摺りには、航海中洗濯物が一杯に干されていた。その洗濯物さえ、盗ったの盗られたのと、騒ぎが絶えなかった。
(もうあんな生活とはお別れや)
次第に神代《じんだい》駅が近づいてくる。神代駅に降りれば、一歩でわが家に帰れる。今まで幾度となく浮かんできた母の顔、父の顔に、現実に会えるのだ。
(セイ子も大きくなったやろなあ)
満三歳を過ぎたセイ子はもう近所を走りまわっているにちがいない。そう思う保郎の目に、脈絡もなく、耳たぶに耳輪のゆらぐクーニャンが浮かんで消えた。と、突如、長月庵の真浄尼の、自分を呼ぶ声が聞こえてきたような気がした。みんな優しく迎えてくれるだろう。だが……と保郎は、満洲での自分を思って、後ずさりしたい重い気持ちになった。
(もうじき神代駅や)
車内には、幸い知った顔がなかった。
「あれ、どうしたんや」
降りようとして、リュックサックを背にした保郎は、思わず独り言を言った。汽車は神代駅に止まらなかった。うしろの客が、次の駅に止まると教えてくれた。近頃、神代駅の乗降客が少なくなったため汽車によっては神代駅に止まらぬことになったと知らされて納得した。淋しい気がした。
(いろいろと、変わったことがあるんやろな)
保郎は次の駅で降り、暗い夜道を一人、神代駅のほうに、とぼとぼと戻って行った。月夜の静かな夜だった。保郎は、故郷で先ず自分を迎えてくれたのが、この清らかな月であることに、何か意味深いものを感じた。月の光に照らされて、何キロかの田舎道を歩かねば、家に帰る資格はないのかも知れない。保郎はそんなことを思った。
保郎は、遂に懐かしいわが家の前に来た。誰か起きているらしく、二階に電灯は点いているが、店の雨戸は閉められている。保郎は万感の思いで、玄関の雨戸を叩いた。中で何か言う声がする。懐かしい母の声だ。幾度も夢に見た母の声だ。
「おれや、保郎や」
中でまた母の何か言う声がした。
「おかあちゃん、おれや、保郎や」
おかあちゃんという言葉が、久しぶりに自分の口から出た途端、何かが胸に甦ったような気がした。
「え!? 何やって? 誰やって?」
母のうろうろする声が、雨戸の向こうに聞こえる。と、父の声がした。
「何をしちゃる! 保郎が帰って来たんじょ! 早う開けんか、ためゑ」
「え?! 保郎やって? ほんまか、保郎か」
ためゑが戸を開けずに尋ねる。二階を駆け降りる足音がして、
「おかあはん、兄ちゃんや! 何しちゃる」
かつみの声がした。かつみががらりと戸を開けた。
「お兄ちゃん! よう帰って来たわなあ」
かつみが取りすがった。ためゑは呆然と保郎を見、
「ほんまに保郎なんやな、ほんまやな」
と、ふらふらと保郎に倒れかかった。相変わらず小さく細い母のためゑを、保郎はしっかりと抱いて、
「保郎やで、帰って来たんやで、おかあちゃん」
と、声をうるませた。寝巻姿の通が上がりがまちに突っ立ったまま、大きく目を見開いて、幾度も幾度もうなずいている。思いがけない夜の十時過ぎ、ボロ切れのような汚れた身なりで辿り着いた保郎に、通の声は詰まって出ないのだ。
「寿郎! 栄次! 悦子! 兄ちゃんが帰って来たんやで」
かつみが階段の半ばまで駆け上がって、大声で叫んだ。
茶の間に入った保郎は、
「只今。みんな変わりあらへんな。元気やな」
と、父、母、かつみと、順々に目を細めながら、言い難い懐かしさで胸が一杯になった。が、そこに松代の姿がなかった。
「どうしたんや!? まっちょがおらんやないか。まさか死んだんや……」
その保郎の言葉を遮るように、
「兄ちゃん、まっちょはぴんぴんや。沼島《ぬしま》の郵便局に勤めとるわ」
と、かつみが笑った。みんなも笑った。保郎も初めて笑う気持ちになった。と、保郎は、片隅の茶箪笥の上を見た。
「おかあちゃん、あれは?」
小さな膳に白い布巾がかかっている。
「ああ、あれな、あれはもう明日から用のないもんや……」
言葉が途切れて、ためゑの肩がふるえた。
「陰膳《かげぜん》やな、陰膳を毎日……」
保郎の声も途切れた。
自分が満洲で、人には言えないことをしていた時も、母は毎朝小さな膳を作って、自分の無事を祈っていてくれた。保郎はたまらない気がした。
その夜、保郎は通とためゑとかつみと、明け方まで話し合った。子供たちは、保郎の背負って来たリュックサックの中に、味噌の塊と、乾パンの幾袋かを見、そんな貧しい土産でも喜んで寝についた。
保郎が帰って幾日かが過ぎた。保郎は次第に無口になっていった。父母とも弟妹とも、言葉をかわすことさえ物憂げであった。かつては、ほとんど手を上げたこともなかった保郎が、幼い弟妹たちを殴り、怒鳴ることがあった。保郎は絶えずいらいらしていた。そんな自分に嫌悪しながら、しかし保郎は、その自分から逃れることができなかった。
「な、お父はん、保郎はなんぞ憑きものでもしたとちがうか」
ある日、階下で父と語る母の声が聞こえてきた。子供たちが学校に行って、数え四歳のセイ子だけが店の中で遊んでいた。
「ふん、そんなこともないやろが、戦争の疲れや。戦争で心が荒れたんや」
「そうやろか。行く前と人が変わったように見えますわなあ。気がちごうたのとちがいますか」
「そうやなあ。ちょっとおかしいことはおかしいわなあ」
保郎は、かっとして階段を駆け降り、茶の間に突っ立ち、
「気はちごうとらん! おれは正気や」
言い捨てて二階に駆け上がり、再び畳に寝ころんだ。ささくれだった畳の感触が侘しかった。と、再び母の声がした。
「あれが気のちごうとる証拠やな」
ためゑの声は沈んでいた。
保郎は二階の窓に寄って、ぼんやりと外を見ていた。田の畦《あぜ》に彼岸花《ひがんばな》が赤くつづいている。帰って来て以来、訪ねたのは本家と真浄尼のところだけであった。本家の人々は喜んで迎えてくれた。わけても祖父は、
「よかった、よかった。これで通もさぞ安心したじゃろう」
と、保郎の手を取って喜んでくれた。父の通は持病の心臓脚気で、何の仕事もせず、ぶらぶらと過ごしていた。僅かの田畑を、ためゑが小さな体で懸命に耕していた。かつみが教師として働き、その給料もあって父母、寿郎、悦子、栄次、セイ子の六人が、辛うじて養われていた。今年女学校を出た松代は、沼島の郵便局に勤めて自立していた。
四、五日前の雨の日だった。悦子と寿郎が、一向に学校に行く気配がない。保郎が、
「はよ行かんか、学校に遅れるで」
と促した。が、二人は黙って外を見ている。それが保郎には、自分の言葉を無視したように見えた。
「なんで返事せん! 行け言うたら、はよ行け!」
寿郎はうなずいて立ち上がったが、悦子が泣き出した。母親のためゑに似て、悦子は明るく賢い子であった。悦子は六年生、寿郎は二年生なのだ。悦子が泣くのを見て、寿郎もたまりかねて泣き出した。泣く二人に、保郎はいらいらして平手打ちを食わせた。
「泣いとる時か! はよ行け言うたら行け! 寿郎! お前それでも日本男児か!」
口に出してから保郎はしまったと思った。
「それでも日本男児か」という言葉は戦時の言葉だった。台所からためゑが出て来て、
「保郎、どうか殴らんといて」
そう言うためゑの声も湿っていた。
「けど、学校に遅れるで。学校へ行けと言うのが、何が悪いんや」
「保郎、この子たちはな、雨ん中を履く靴もなければ、さす傘もないんや。学校は好きやけど、雨の日は休まんならんのや」
「…………」
「お前も帰って来て十日余り、家がどんな状態かわかるやろ。買《こ》うてやりとうてもな、父ちゃんの薬代が先や。雨傘も靴も買うてやれんのや」
ためゑが前掛けの端で目を拭った。
「あのなあ保郎、寿郎も悦子も賢い子やからな、戦争から帰ったばかりのお前に、靴がのうて学校へ行けんの、傘がのうて行けんのとは、よう言わんのや。お前が元気になって働いてくれるのをな、みんなじっと待っているんじょ」
ためゑの言葉に、悦子の泣き声がひときわ高くなった。保郎はたまらなくなった。家の貧窮ぶりは保郎にもわからぬわけではなかった。が、雨の日には学校も休まねばならぬほどとは思わなかった。
(おれが働きさえすれば……)
まだ胸膜炎が全快してはいないといっても、奉天での生活を思えば何でもできる筈であった。本家でも、他の親戚でも案じてくれて、
「大工にならんか」とか、
「役場に勤めんか」
などと言ってくれたが、保郎ははかばかしい返事をしていなかった。自分に心配をかけまいとして、小学生の悦子や寿郎が、今叱られ殴られても、傘や靴のことを口に出さなかった健気さを思えば、雨の中を飛び出して行ってでも働かねばならぬ思いにもなる。と言って、それでは働こうという気にもならなかった。生きる意欲が、日本に帰って一度に体から脱けてしまったような、そんな脱力感だけがあった。これでいいとは思わない。が、縦のものを横にする気力さえ、保郎からは失われていた。
(何のために働くのか、いや、何を目的で生きるのか)
保郎は繰り返し一つのことを考えていた。
真浄尼を訪ねたのは、帰って三日目だった。真浄尼は全く変わってはいなかった。平安な、清らかな、そして優しい顔をしていた。その変わっていないことに、保郎はこだわりを感じた。それはつきつめれば、自分自身のうしろめたさを覚えさせる顔だったからかも知れない。その保郎を見て真浄尼は言った。
「よう生きて帰りなはったなあ。さぞ大変やったろなあ」
保郎は本堂の中を見まわして、その本堂が何も変わっていないのにも、何か不思議なものを感じた。
「おじゅっさん、おじゅっさんも本堂も、ちいとも変わっておらへんな」
「さよか」
真浄尼はちょっと小首をかしげて、保郎の目をのぞきこむようにしたが、
「保郎はん、あんたは変わらはったなあ」
と、やんわりと言った。保郎はぎくりとした。誰一人、保郎を変わったと言う者はいなかった。無事でよかったと人々は皆言った。答えかねている保郎に、真浄尼は静かに笑った。
「保郎はん、戦争は地獄ですやろ。何しろ人の殺し合いやからなあ、人間、地獄を見れば、そりゃあ、変わりますわなあ。地獄いうところはなあ、人の心が荒《すさ》むところや」
何もかも見通すような言葉だった。静かに語れば語るほど、その言葉は権威を持って保郎に迫った。
「保郎はんの顔、険しうなりましたな。荒々しうなりましたな。以前の保郎はんには、ほっこりとしたところがありましたわな。ぬくといところがありましたわな。元気一杯の保郎はんでしたわな」
言われるとおりだと保郎は思った。以前の保郎は行動力の塊だった。中学生の仲間を集めて、日曜の朝五時から、この長月庵で神洲会《じんすかい》を開いたものだ。家の手伝いもきびきびとした。それどころか、出征兵士の留守宅に手助けにも行ったものだ。高崎倫常に教えを乞い、毎日が生き生きとしていた。その活力は生来のものでもあった。日本のために生きる、天皇のために命を投げ出す、という目的があっての生気でもあった。
今日一日、窓から眺めるともなく彼岸花の咲き競う畦道を眺めていて、保郎はふっと、高崎倫常を訪ねてみる気になった。食事をすませ、夕暗むのを待って保郎は外に出た。下駄をつっかける保郎を見て、
「どこぞ行くんか」
と、ためゑが不安そうな顔をした。
「うん、高崎先生のところに行ってみるわ」
「高崎先生のところに? ほんまか」
ためゑはえも言われぬうれしそうな顔をした。その笑顔に保郎の心は痛んだ。
「これはこれは保郎さん。ご無事で何よりです」
保郎を迎えた高崎倫常も、真浄尼と同様、何の変わりもなかった。表に掛けてある「紳士道講義所」の看板の墨の色も、倫常の坐っている位置も、机の上の様子も、薄茶色に日焼けした障子も、よく訪ねた頃そのままであった。この変わらぬ部屋で、変わらぬ倫常に対した時、ここで聞いた話が、不思議なほど生き生きと胸に甦るのを保郎は覚えた。
「時代を導くのが教育であるのに、時代に導かれているのが今日の教育であります。これは教育家に哲学がない証拠ではありませんか。こんな教育では必ず国が滅んでしまいますぞ」
確かに高崎倫常は、師範学校に進みたいと言う保郎に、こう言ったのである。ますます輝きを帯びてきた白いあご鬚を見ながら、かつての倫常の言わんとしたことが、今、初めてわかったような気がした。
「保郎さん、あなたはこの戦争を聖戦だとおっしゃる。しかしわたしは、戦争に聖戦などというものはないと思っておりますぞ。ま、この戦争が終わった時に、保郎さんはこのわたしの言うことがおわかりになりましょう」
そうも言った。
「保郎さん、人間は人間を拝んではなりませんぞ」
「米英と戦えば、日本は必ず負けます。まちがいなく負けます」
それらの言葉が、昨日聞いたかのように、鮮やかに思い出されるのだ。そんな保郎の心の中を知ってか、知らずか、倫常は言った。
「いかがですな、日本の戦争は聖戦でありましたかな」
保郎は手を大きくふって、
「先生、何もかも、先生の言わはったとおりですわ。戦争に聖戦などあらへんと、先生は言わはりました。戦争は殺人と、掠奪と、凌辱と……しかし、先生、純粋に戦った兵もおるのです。真に東洋平和のための戦争と信じて、死んでいった兵もおるのです。彼らの心情としては聖戦やったと、ぼくは思うのです」
保郎はまだ、全く否定し去り得ないものが、自分の中にあることを知った。
「保郎さん、一人一人が純情であることと、軍のあり方が間違っていたこととは、むろん一つに考えてはなりませんがな」
倫常はそう言い、ふと思い出したように、ぽんと膝を叩き、
「そうだ、保郎さん、あなたはあの文部大臣をしていた橋田邦彦氏をご存じでしたな」
「はい! 橋田邦彦先生がどうかなされましたか」
橋田邦彦は、保郎にとって忘れ得ぬ懐かしい名前であった。
「まだご存じないとみえるがの、保郎さん、橋田先生は昨年九月、自宅において服毒自殺をなされましたぞ」
「えっ!? 自殺?」
「そうです、自殺です」
「どうしてまた……」
「敗戦後、一カ月も経たぬうちに、橋田先生は戦争裁判の被告として、占領軍から出頭を命じられたのです」
「戦争裁判!?」
「さよう。つまり、戦争犯罪人と見なされたわけです」
「そんな! あんなええ先生が……戦争犯罪人などと……」
一時間余にわたって、首をふりふり尺八を聴かせてくれたあの橋田邦彦の姿が、まざまざと目に浮かんだ。
「保郎さん、人間単にいい人というだけではならぬのです。彼は確かに陽明学の研究をし、独自の教育観を持つに至った人物であります。しかしですな、保郎さん、彼は近衛文麿《*このえふみまろ》の新体制運動に参与し、昭和十五年から十八年に至る三年間、文部大臣を務めた人物であります。つまり彼は、戦時教育行政の最も重要な責任者であったわけですぞ」
保郎は、頭を一撃された思いだった。保郎が会った橋田邦彦には、軍国主義者という露骨な、猛々しい姿はどこにもなかった。が、確かに、紛れもなく、橋田邦彦は日本の教育の頂点に立っていた人物であった。
「教育の目的は皇国民の錬成にあり」
と、全国の教師にその徹底が推し進められたのは、橋田邦彦が文部大臣の座にあった時であった。「皇国民の錬成」とは、とりもなおさず天皇の国民の錬成ということである。その教育がいかに誤ったものであったかは、軍隊において保郎はよくよく身に沁みて知ったのだった。
保郎は、橋田邦彦に傾倒した教員時代の自分を思った。朝の海にみそぎをし、剣道着を身につけ、竹刀を持ち、生徒や教師たちの奉安殿敬礼を躍起になって点検していた自分の姿を思い浮かべた。
(おれも、戦争犯罪人や)
無名の保郎の及ぼす影響は少なかったが、していたことは軍国主義の化身にも似ていた。
保郎は黙りこんだ。黙っている保郎を、高崎倫常は黙るがままにさせておいた。質問も発しなければ、何の語りかけもしなかった。やがて、保郎がぽつりと言った。
「人間、只いいだけではあかんと、先生は言わはりましたが、ぼくは、人間というものは、よい性格であれば、それで充分やと思っていました。いや、まだ思っとるのです」
「なるほど、然らばお尋ねするが、ここに一人の大工がいるとします。この大工が、人には親切、何の相談にものってやる、貧しい者には自分の食いぶちも分けてやる。しかし、彼の使命の大工の仕事はまことに不出来、家を建てれば、雨洩りがする、僅かの風で傾く、となれば、本来の使命を果たせることになりますかな」
「はあ」
「床屋も同じ、正直で世話好きで、近所の手足になって駆けずりまわる人でも、本来の使命である床屋の仕事は全く稚拙、剃刀《かみそり》を持てば傷つけ、頭は虎刈り、これでは、少々人物は悪くても、腕のいいほうに客は行く」
「なるほど」
「本来の使命というものは、これはまことに大切なものですぞ。と言っても、むろん人間が悪くてもいいと言っているのではない。只、いい人間だから委せておけば安心、という考えがあるとすれば、それは、ことによっては、大きな過ちのもととなると、わたしは思っているわけです」
保郎は深くうなずくところがあった。次いで保郎は、自分の家の貧窮と、その貧窮にもかかわらず、何の働く意欲も湧かぬことを倫常に告げた。
「あなたの只今求めているものは、金銭ではありませんな。これは、あなた自身が探し求めるべきことですな。どんな船でも、行く先を定めずに出帆するわけにはいきません。行く先さえ定めれば、本来の保郎さんに立ち戻って、縦横無尽の活躍を必ずなさるにちがいありませんぞ。ま、焦らぬことですな」
保郎の目を真正面から見つめて、倫常は珍しく声を上げて笑い、
「ま、当たるも八卦《はつけ》、当たらぬも八卦」
と、再び笑った。高崎倫常の生業は、易者であった。
帰り際に、保郎はふと倫常の書棚に目をやった。切支丹の語のついた幾冊かが目に入った。それは確か、以前からそこに並んでいたものだった。しかしあの時は「基督」とか「切支丹」という本には、触れることさえ保郎は恐れていた。だが今、この数冊を見た途端、保郎は奥村を思い出した。あの戦場のさなかにあっても、奥村光林は堂々と自分がキリスト教徒であることを、試験官である将校たちの前で明らかにした。以前は、キリスト教信者は将校になれぬとされていた。そのことを知っての奥村のあの行動は、保郎をひどく驚かせたものだった。
(あいつを、あんな男にさせたヤソ教いうもんは、いったいどんなもんなんや)
保郎は不意に、その本を読んでみたくなった。
「先生、この二冊を貸してください」
保郎は少し恥ずかしく思いながら、思い切って言った。
「ほほう」
高崎倫常はちょっと驚いたふうだったが、
「どうぞお持ちください。ごゆっくりお読みください」
と、喜んで貸してくれた。
本を借りた保郎は外に出た。澄んだ九月の夜空に、星がきらめいていた。保郎は、この本を借りたいと言った時に、倫常が心からうれしそうに笑ったその笑顔を思った。その笑顔を思った途端、なぜか内心いまいましくなった。
(おれは、ヤソになぞなるつもりはあらへん)
只何となく奥村を思って読む気になったのだ。そう保郎は言いたかった。何かを信ずるということは、もう懲り懲りだった。懲り懲りではあっても、自分の生きる目的は探し当てたかった。もし、生きるに値する目標がなければ、死んだほうがましだと思った。日本の若い青年男女の多くが、どれほど保郎と同様の挫折感を抱いていたかを、保郎は知らなかった。
「どんな船でも、行く先を決めずに出帆するわけにはいきません」
高崎倫常はそう言った。行く先は決めずとも、先ず出帆せよというのが大人であった。もし出帆の方向が誤っていれば、その船はまた強い渦潮にまきこまれて、難破しないとも限らないのだ。保郎は星空を仰ぎながら、そんなことを思ってわが家に帰った。
そっと玄関を開くと、妹のかつみの声が聞こえてきた。
「お母ちゃん、兄ちゃん戦地でずいぶん苦労してきたんやな。前の兄ちゃんとは全然ちがう。よほどの苦労やったんやな。可哀相になあ」
自分より年下のかつみの言葉だった。一人で大勢の家族の家計を支えている若いかつみの言葉だった。保郎は再び外へ飛び出した。
高崎倫常から切支丹の本を二冊借りては来たが、すぐに頁を開いてみる気はなかった。倫常を訪ねたことで、保郎は自分の愚かさを改めて見つめることになったからである。倫常には何年も先に見えていた敗戦が、保郎には見えていなかった。日本が神国であり、従って不敗であると信じていた大勢の日本人と共に、自分もまたそう固く信じて疑わなかった愚かさを、目の前に突きつけられた思いがした。また神国が戦う故に聖戦であると信じていた純粋さも、愚か以外の何ものでもなかったと、思わせられたのだ。この愚かな自分が、今、その愚かさに気づいたからといって、直ちに賢くなったわけではない。そう思うと、下手に行動することが、ますます恐ろしくもなるのである。
(何を目的として生きるべきか)
思いはいつも一つところに戻った。
(ほんまに鳴門海峡の渦潮に、巻きこまれたようなもんやな)
一つ思いから逃れられない自分に、保郎はそう思った。
(奥村の奴、どこでどうしているやろ)
奥村のその後を、保郎は絶えて聞いてはいない。あの突然のソ連の侵攻に、もしかしたら戦死したかも知れないとも思う。
(そうや! あいつの家に訪ねて行ったら、何ぞ消息が聞けるかも知れん)
意外と奥村は、無事に帰っているかも知れないと思った。もし帰っていないとしても、あの奥村を生み育てた両親に、会うことはできる。ひたすらに神を信じ、キリストのキの字も禁句である軍隊において、堂々と神学生であることを、試験官たちの前に答えた奥村なのである。
(あいつに会いたい。あいつの家族になら会ってもいい)
保郎は、奥村と初めて口をきいた時の、奥村の言葉を思い出した。
「ぼくの両親はいい人です」
奥村の言葉には敬愛の思いが滲み出ていた。
(どんなおやじやおふくろなんやろ)
秋日和の朝、保郎は通とためゑに言った。
「ちょっと京都の病院に行ってくるわ」
二、三日前、本家の祖父が、保郎の胸膜炎は治ったのかどうか、大阪の病院にでも行って調べてもらったらいいと、見舞金をくれたのだった。
保郎はその日の午後、京都の桃山御陵前駅で電車を降りた。住所は駅から二、三分の所なのだが、街並みが上品すぎる。貧乏牧師と聞いていたのに、それらしい粗末な家は見当たらない。貧しいため神学校の学資は、姉が教師をして貢いでくれていたとも聞いた。
「おれが神父になったら、この姉が身のまわりの世話をしてくれるんや」
奥村は幸せそうに言っていた。
「ふーん。嫁にも行かんとか」
「そうや、姉はキリストのために、おれと共に一生を捧げるつもりなんや」
「ふーん。一生なあ……嫁にも行かんとなあ……」
保郎は感じ入りながらも、何か納得し難いものを感じたものだった。とにかく、妙齢の姉が結婚もせずに、学資を貢いでいたというのだから、住んでいる家もたかが知れていると思う。保郎は木犀《もくせい》の匂う街角に立って、胸のポケットから、控えてきた住所を取り出して確かめたが、やはりそれとおぼしき家はない。保郎は通りがかりの中年の女性に尋ねてみた。
「ああ奥村さんのお宅どすか。ほら、四、五軒お向こうに、数寄屋門の立派なお宅が見えますやろ、高い石垣があって……。あれが奥村さんのお宅どす」
「え? あの立派な家が?」
保郎は驚いた。多分同姓の家で、奥村ちがいだと思った。
「あのう……奥村要平いう……」
みなまで言わせず女は言った。
「ええ、キリストさんの先生でっしゃろ。あのお家どす。あんたさん、あのお家は総檜造りの立派なご普請どす」
女はそう言って、下駄の音も軽く去って行った。
(総檜造り!? そんな阿呆な)
奥村の話から察して、総檜造りの家など想像もできない。しかし、今の女は確かに牧師の家だと言った。
(牧師が総檜造りの家に……とすると、とんだ食わせ者とちがうか)
保郎はいささか憤然として門をくぐった。門から玄関まではおよそ十五、六歩もあろうか、ゆるやかな勾配に石畳が敷いてあった。玄関の傍らには蹲《つくばい》があった。杉苔のびっしりと敷きつめられた庭があった。飛び石が配置よく置かれて、枯れ山水の庭は三十坪ほどもあろうか。棕梠《しゆろ》の木が石畳に沿って幾本か並んでいる。玄関先には大きな沓《くつ》脱ぎの石があって、すぐに一間を四枚で仕切った細身の障子で閉ざされていた。
(これが貧乏牧師の家か。奥村の奴、でたらめ言いおって……)
心の中で呟きながら、大声で案内を乞うた。と、保郎に負けぬ大きな声が聞こえて、出て来たのは和服姿の意外に華奢《きやしや》な、五十代の男だった。金縁の眼鏡の奥に、細い目がきらりと光った。これが光林の父奥村要平牧師であった。
「どちらさまですかいな」
障子を開けた向こうは直ちに二畳の取次の間になっていた。要平はていねいに両手をつき、
「わたくしが奥村ですが、どちらさまです……」
と尋ねた。笑うと、今しがたちかりと光った細い目が、たちまちえも言われぬ柔和な目となった。
「は、あのう、ぼくは、奥村軍曹と、北支で仲ようしてもろうた榎本保郎いうもんですが……」
保郎はややぶっきら棒に言った。貧乏牧師がなぜ総檜造りの家に住まねばならぬか、納得するまでは許せぬ思いであった。
「えっ!? 光林の戦友ですか、あなたは!」
驚きの声を上げる奥村要平に、保郎はうなずいて言った。
「いろいろお世話になりました。彼は帰っておりますか?」
「いや、まだです。とにかくよう来られた。よう来られた」
要平は手をとらんばかりに招じ入れた。保郎は二畳間の畳に坐った。枯れ山水の庭に、とんぼが翅《はね》を光らせていた。保郎は、光林との出会いをかいつまんで語り、最後の別れは保定《ほてい》であったことを告げた。
「確か六月の末やったと思います。ぼくは東満洲の予備士官学校に移りましたが、彼がどこの予備士官学校に行ったか、わからんのです。多分満洲や思いますが、何しろ満洲には十も予備士官学校があったわけですから……」
保郎は、訪ねて来るのではなかったと後悔した。奥村が帰っているかも知れないと思ったのだ。だが、もしかして奥村は戦死しているかも知れないのだ。自分だけが生きて帰って、すまぬような気がした。
「そうですかあ。保定が最後でしたか。いや、まことにありがとうございました。息子の消息が聞けただけでも感謝です」
要平は微笑を湛《たた》えてうなずき、
「ご無事でお帰り、まことに何よりでした。ところで、息子はどんな兵隊でありましたかな」
「実は、ぼくは、ヤソ嫌いですが、あいつは……」
思わず、あいつと言って、
「いや、息子さんは毎日のように、ぼくにキリストの話をしまして、閉口しました」
「ほほう、光林はキリストの話をあなたにしましたか」
要平は愉快そうに笑った。
「はい、あいつは……」
また、「あいつ」と言って、保郎は首をすくめた。
「いや、かまいません。あいつでけっこうです。あいつがどうかしましたか」
「すんまへん。では、あいつということにさせていただきます。あいつとぼくは、おれと貴様の間柄でしたから……」
「ありがたいことです」
要平は再び大きくうなずいた。
「軍隊いうところは、キリスト教は禁句です。クリスチャンいうのは、つい少し前までは先ず将校になれへんところでした。ところがあいつは、幹部候補生の試験で、はっきりカトリックの神学生や言うたんです。あいつに目をかけていた上官が、宗教を聞かれたら何も信じとらんと答えろ言うたのに、奥村は馬鹿正直に、自分は神学生やと言うたんです」
要平の答えはなかった。只じっと、天井の一画を見つめていた。
「それで奥村は、第一次では千人以上の受験生をおさえて一番でしたが、第二次では三十五番でした」
「なるほど」
「ぼくは、馬鹿な男やと思いました。そしてとてつもなく偉い男やとも思いました」
「…………」
「何しろ奥村は、剣道は三段でした。中隊で、彼の右に出る者はいませんでした。あいつは兵隊たちに稽古をつけていたんです。中隊長がねぎらって、彼に時々部屋に遊びに来い言うておりました。中隊長は奥村にも、従《つ》いていったぼくにも、ビスケットをくれたもんです」
再び要平の顔に微笑が浮かんだ。
「つまり、彼は文武に秀でた男でしたが、キリスト信者だと言うたために、一番から三十五番に下がった。そのことが次第に、ぼくには重大なことに思われてきたわけです。それで奴が帰って来ているかどうか、知りたいと思いまして、お邪魔に上がりました」
「ありがとう。実にうれしい消息を知らせてくださった。もし、光林が死んでいるとしても、信仰を全うして死んだにちがいないと思えば……これに過ぎる喜びはありません」
要平は淡々と言った。保郎は、光林に頼まれて教会に従いて行った話もした。両親やきょうだいの話をよくしていたことも語り、最後に保定で別れた時の光林の言葉を告げた。
「奴が最後に言ったことは、どこにいてもおれは貴様が救われることを祈っとる、いう言葉でした」
「なるほど。それで?」
「ぼくは気ぃ悪うしましてねえ、おれは神さまに救うてもらわんならんような悪者やあらへん。おれは正しい男や、おれは悪いことのできん男や言いました」
言いながら保郎は、保定での奥村との最後をありありと思い浮かべた。あの時奥村光林は、「またいつか会った時、貴様は同じことを言うやろか」と言った。保郎はためらいもなく、「言うとも。おれは大日本帝国軍人として恥ずかしくなく生き、恥ずかしくなく死ぬ」と、断言した。奥村は、「貴様にも、おれの言葉が必ず思い当たる日が来る。神よ許し給えと叫ぶ日が来る」と、はっきりと言ったのだった。今、自分が奥村に会ったなら、「恥ずかしくなく生きた」とは、到底言えないと思った。
「どうしたらいいんや。どっちに進んだらいいんや。おれは満洲で、つまらんことをして生きていた。恥ずかしいことをして生きていた。胸を張って威張れることは何一つせんかった」
と言うにちがいないと思った。とは言っても、奥村の信ずる神に向かって、「救ってください」と言うまでには至っていない。
保郎から光林の話を聞いていた要平が、しみじみと言った。
「光林が戦死したか、あるいはシベリアに連行されたか、それはわかりませんが、もし生きているならば、必ずや榎本さん、あなたのために朝ごとに、夕ごとに祈っておることでしょう」
(朝ごとに、夕ごとに?)
要平の言葉が、保郎の胸に沁みた。いたたまれない思いで保郎が暇《いとま》を告げると、要平が、
「では、お祈りしましょう」
と言い、いきなり畳の上に平蜘蛛のように這いつくばった。保郎は動顛した。大声で要平は祈った。祈りは五分ほどもつづいた。祈りが進むにつれて、畳に突いたその手がわなわなとふるえた。何を祈られたか、保郎は只驚いて、しっかり受けとめることはできなかったが、「愛し奉る御父、この榎本青年のために、奇すしき道を開き給え。喜びの人生を与え給え。なすべきことを知らしめ給え。もし心に罪あらば、心からなるざんげを御前になさせ給え。息子光林の祈りに合わせて、この祈りをイエス・キリストの御名《みな》によりて御前に捧げ奉る」という末尾の言葉だけが、保郎の胸に刻みこまれた。その全身全霊を注ぎ出すような祈りに、保郎は、伝道者奥村要平の深い愛の迫りを覚えた。
どのようにして暇を告げたかわからぬままに門を出ると、乞食がちょうど門を入って来るところだった。
「あ、先生がいやはる」
乞食は馴れた様子で、玄関のほうに駆けて行った。ふり返って保郎は、その乞食に優しい微笑を向けている要平の姿を見た。乞食は沓脱ぎに草履を脱いで、今まで保郎の坐っていた場所に、悪びれずに坐った。
(偉い牧師さんや)
そう思った時に、忘れていた檜造りの疑問が湧いた。隣の尼寺の前に来ると、先ほど奥村家を教えてくれた女がやって来た。女は保郎を見て立ちどまり、
「奥村先生、お元気どしたやろ」
と、小首をかしげた。その言葉に、奥村要平への敬愛を感じ取った。
「はあ。大きな声で祈られるお方やなあ」
「そうどす。先生の声は、いつも大きうて……わたくし共も、時々お説教を聞きに行くのどす。ここの尼さんかて時々見えてますえ」
女はにこやかに言った。
「ところで、つかぬことを伺いますが、奥村先生はお金持ちですか」
保郎は女の明るい性格を感じて、檜建築のことを聞いてみる気になった。
「奥村先生がお金持ち?」
女は口に手を当てて、おかしそうに肩で笑った。その笑いが少し長かった。
「金持ちではあらへんのですか」
「先生はねぇ、教会からいただくお給料は、お米代だけ奥様にお上げして、あとは、全部献金なさるのどす。お金持ちどころやおへん」
と、ひそやかに言い、
「先生はねぇ、お煎餅一枚もろうたら、お饅頭三つお返しになるお人どす。それに、困った人が来やはったら、大事な銀時計を質に入れて、早速お金をつくらはるお人どす。その大切な銀時計を質屋から出すのに、いつもいつもやりくり算段なさるお人どす。なんでお金持ちが大事な銀時計を質草になさります?」
「へえー、ほんまに貧乏なんやなあ。けど……、あのお家は、総檜造りとか……さっき……」
「そうどす。総檜どす。それにはな、あんたさん、わけがありますのや」
女は抱えていた紫の風呂敷包みを持ちかえて、ちらりと保郎を見た。
「わけ? どんなわけや」
「あのねぇ、今日は奥さんはお出かけでお留守やったと思いますけど、先生方ご夫妻は、よう人のお世話をなさるお方でねぇ、ある時知恵の遅いお子さんをある材木屋さんから頼まれましてな、預かっておられましたんやけど、それはそれはわが子同様に可愛がられましてな、わたしら隣近所で見ておりましたから、ようわかっとります。実の親でも、ああはいきまへん。それでねぇ、親御さんが大変感謝されまして、総檜造りの家を贈られたのどす。そのお子が亡くなって、一度は先生ご一家もあのお家を出られましたが、材木屋さんのねがいを入れて、戻らはりました。何でも月賦で買わはったんやて聞いてます」
保郎は初めて合点した。
「その檜造りのお家に、おこもさんもよう来ましてな。先生は誰が来やはっても、お茶をお出しやしてな、それぞれにお説教なさって、帰り際には大きな声でお祈りしてくれはりますのや。先生はそんなお方どす」
保郎はその翌日家に帰って、早速高崎倫常から借りた切支丹の本を読み始めた。食事を取ることも忘れた。眠ることも忘れた。只切支丹の本の中に、保郎は浸り切った。そんな保郎を、ためゑはまた不安そうに見守った。ためゑの目には、保郎の魂が何処へともなく彷徨《さまよ》い出ているように見えて仕方がなかった。
[#ここから1字下げ、折り返して3字下げ]
近衛文麿 一八九一〜一九四五(明治二十四〜昭和二十)年。貴族中でも最高の名門近衛家に生まれ、政治家として衆望を集めた。一九三三年貴族院議長、三七年、四〇年と内閣を組織した。四五年、敗戦後に戦犯として拘引直前に自殺。
[#ここで字下げ終わり]
宗門
奥村光林の父要平との出会いは、保郎にとって実に強烈であった。一介の若者に過ぎぬ保郎の話を、深くうなずきうなずき聞いてくれた態度もさることながら、帰ろうとした保郎のために、平蜘蛛のように這いつくばって祈りを捧げたその姿に、保郎は心打たれた。それは正に神の前にひれ伏している者の敬虔《けいけん》な姿であった。神の臨在を信じて生きている者の姿であった。何の言葉もいらなかった。
(神の存在をあやふやにしか信じていない者には、あんな祈りはできへんな)
しかも要平は、金持ちが訪ねようと乞食が訪ねようと、必ずあのようにして神の前に祈りを捧げてくれるという。その要平の姿が、保郎に「浦上切支丹史《うらがみきりしたんし》」を夢中で読ませ、「長崎二十六聖人の殉教」を読ませた。二十六聖人の中に、十二歳、十三歳、十四歳の少年たちがいたことも、保郎の心を燃え立たせた。しかも十二歳の少年は、役人の名簿には載っていなかったのに、自分から頼みこんで殉教の徒となった。一同は京都のある辻で、見せしめのために左耳たぶを切り取られた。秀吉の命令は、
「鼻をそぎ、両耳を切り取れ」
ということだったが、石田三成が耳たぶを少し切り取るだけにとどめたのだった。その時、十四歳の、洗礼名トマスという少年は、
「お役人さま、どうぞ飽きるほど、わたしたちの血もお流しください。お望みなら耳を切り取ってください」
と、述べたという。保郎は息をつめながら読んだ。その少年の顔が、ありありと目に浮かぶような気がした。またこの十四歳の少年は、その母に手紙を書いている。少年には、共に十字架にかかる父親と、母のもとにいる二人の弟がいた。
〈父様のことも、わたくしのことも心配なさいますな。わたくし共は天国《ハライソ》で母様をお待ちしております。この世のものはみな夢のように消え失せるもの故、たとえいかに貧しくなろうとも、只天国を失わぬように心がけなされませ。また、人からどのように言われようとも、忍耐と愛とをもって耐え忍びなされませ。云々〉
保郎は読みながら、自分の十四歳の頃を思った。この少年が持っていたものを、自分は何一つ持っていなかった。いや、いまだに持っていないのだ。国のために戦う、それを第一義として生きた生活が崩れると、残ったのは只むなしさだった。それは一体なぜだろう。そう思いながら保郎はまた読み進む。十三歳のアントニオ少年もまた、
「キリシタンを捨ててくれ、すべての財産をお前に譲るから」
と、悲痛な声を上げる父に、
「お父様、財産はこの世限りのものでございます。キリスト様がわたくしたちに準備してくださってありますものは、永遠の宝であります」
と答え、神父と共に、
「天主たる汝を讃え、主なる御身を讃え奉る……」
と、うたいながら、槍に突かれて十字架上に死んでいった。最年少の十二歳ルドビコは、二十六人中最も生き生きとした少年だった。処刑執行責任者長崎奉行は寺澤廣高てらさわひろたかであったが、その執行の全責任は弟半三郎に委せられていた。半三郎は、この十二歳の少年を処刑するにしのびなかった。
「わしに仕えることを望むなら、必ず助けてつかわすぞ」
神父はこれを聞き、「キリシタンとしての生活が許されるなら……」と少年の助命をねがう。が、半三郎は、キリシタンを捨てることを条件とした。少年は、
「お役人様、わたくしはそれほどまでにして命を助かろうなどとは思いませぬ。たちまちにして亡びる肉体の生命と、永遠に生き得る霊魂の生命と、どうして取り換えることができましょうか」
と答えて処刑された。その少年は息が絶えるまで、
「天国《ハライソ》……天国《ハライソ》……」
と叫び、その死に顔は微笑をたたえていたという。
二十六聖人の中の、この三人の少年の死が、とりわけ保郎の心を捉えた。むろん他の二十三人も、それに劣らぬ見事な最期であった。わけても半三郎が殺すにしのびないと思っていた者に三木パウロがいた。彼は人々の敬愛を一身に集めていた。三木パウロは三好長慶《みよしちようけい》の将三木半太夫の息子で、信《*》長の建てた安土《*あづち》の神学校第一回生であった。三十三歳で処刑される三木パウロは、京都から九州への長い囚われの旅の間に、幾度か説教をした。歩きながら、あるいは牢の中で、彼は大声で説教をした。牢の中では、信仰を持たぬ他の凶悪犯や牢番たちも、その説教に感動して泣いた。繰り返し彼が述べたのは、殉教の徳、殉教に与《あずか》る恩恵への感謝、誇りであった。ある二人の牢役人はキリシタンになることを誓った。三木パウロは、
「御子イエス・キリストが十字架にかかられたのは三十三歳の時である。わたしも、今、同じ三十三歳で命を捧げ得ることを感謝する」
と述べ、最後の説教は、処刑場のその十字架の上からであった。
「今、最期の時にあたって、わたくしが真実を語ろうとすることを、皆さんは信じてくださると思います。キリシタンの道のほかに、救いの道がないことをわたくしはここに断言し、証《あか》しします。わたくしは今、キリシタン宗門の教えるところに従って、太閤様をはじめ、わたくしの処刑に関係した人々を許します。わたくしはこの人々に対して、いささかも恨みを抱いてはおりません。只々切実にねがうのは、太閤様をはじめ日本人全部が、一日も早くキリシタンになられることであります」
保郎は声も出なかった。何の罪もない者が、今、殺されるにあたって、人を許し、少しの恨みも抱いていないと言った。そして只ねがうのは、日本人のすべてがキリシタンになることだと言った。そしてまた、このキリシタンの道よりほかに、人間の救いはないと言った。保郎は、自分が二十六聖人の処刑を目のあたりにして、可憐な三人の少年たちの言葉を聞き、信者にも信者でない者にも敬愛された三木パウロの最後の説教を、じかに聞いたような気がした。この二十六聖人の生き方を、保郎は確かなものと思った。そして日本人全部がキリシタンになることをねがって死んだ三木パウロの、聖なるねがいのままに、自分もキリシタンになりたいと思った。
(これこそが、おれの探し求めていたものや)
キリスト教なるものが、何であるかを保郎は知らない。だが、この人々の生き様死に様こそが、奉天以来探し求めていたものであるような気がした。
(あの光林が、秀吉の時代に生きていたら、きっと殉教したやろな)
厳しい軍隊の中にあって、はっきりと神学生であることを言い得た奥村光林は、決して十字架のもとから逃げ出すことのない男だと思った。
光林の父親の要平にしても、決して殉教を恐れることはないであろうと思った。
(けど……このおれに、そんな生き方ができるやろうか)
自分は弱い人間だと保郎は思う。
(いや、弱いからこそ、しがみつくんや。救ってくれるものにしがみつくんや)
保郎は、虚無的な生活に明け暮れた満洲での自分を思って、叫び出したい気持ちだった。もし、そのすべての罪、汚れを、本当に許し、潔《きよ》め、虚無の世界から救い出してくれる者があるなら、心底救ってほしいものと思った。
「救ってほしい!」
本をひらいたまま、そう叫んだ時、保郎ははっと思い出した。保定《ほてい》で、奥村光林と別れた時のことを思い出したのだ。保郎は言ったのだ。
「おれは正しい男や。おれは救ってもらうことなんか、必要のない男なんや。悪いことはできん男やさかいな」
保郎は顔に血の上るのを覚えた。
(おれは一体、何ちゅうことを言うたんや)
あれこれ言う保郎に、呆れたように奥村は言った。
「貴様は人間ちゅうもんを知らんのやな。ま、それだけ純粋いうことなんやろ。けどな、再び生きて会うことがあったら、貴様は同じことを言うやろか」
あの時の奥村の顔が目に浮かぶ。保郎は、
「言うとも! おれはな、大日本帝国軍人として、恥ずかしくなく生き、恥ずかしくなく死ぬんや」
ぬけぬけとそう答えたのだ。更に保郎は、
「キリストの神さんの世話にはならん。とにかくおれは罪を犯さん」
と言い、奥村に、
「いつか、おれの言葉が必ず思い当たる日が来る、必ず、神よ許してくれと叫ぶ日が来る」
と言われたのだ。
(あいつの言うたとおりや。おれの負けや)
まるでこの日を奥村は明らかに見通していたかのように、何もかも奥村の言ったとおりになったと思った。
(ところで三木パウロの言葉は、どこかで聞いたことがあるな)
そうだ、と保郎は思った。それは、奉天に敗戦を迎えての日のことだった。蒋介石の言葉が幾度か放送された。あの、
「恨みに報ゆるに恨みをもってせず、恩をもって報いよ」
という言葉と、三木パウロの最期の言葉と、何とよく似ていることであろうか。
(でっかい宗教や。敵を許す宗教なんや)
保郎は矢も楯もたまらず、三木パウロの世界、奥村要平、光林の世界に、自分もまた生きたいと思った。
〈いっさいを神(天主)にささげきって死んでいく切支丹の姿は、その時の私にとって大きな光明のように思えた。これだ、これだ、ここにこそ自分のいのちをささげるものがある。何度もなんども泣きながらそれを読むうちに、私の心は久しぶりに平静をとり戻し、はじめて心のなかが明るくなるのをおぼえた。喜びは爆発した。
「おれは切支丹になる!」
この突飛な宣言に、父も母もおどろきあわてた〉
保郎はのちに、自著「ちいろば」にこのように書いた。
「何を求めて生きるのか」
朝に夜に、只そのことを思っていた保郎にとって、迫害されたキリシタンたちの姿は、真に尊ぶべき姿であった。
「保郎はん、どないしたん?」
真浄尼は、廊下にあぐらをかいたままもう一時間近くも黙りこんでいる保郎に、声をかけた。保郎には、長月庵は自分の家と同じようなものだ。幼い頃は、自分の家にいるより、長月庵にいた時間のほうが、長いくらいであった。長じてからも長月庵は保郎にとって、わが家同様のやすらぎの場所であった。ふと思い立って坐禅を組みに来る、本を読みに来る、昼寝をしに来る、そしてその場所は、いつも庭に面した縁側であった。だから真浄尼は、保郎がそこにいることを気にしたことはない。だが、今日はちがった。黙っていても、保郎の表情や姿勢でわかる。真浄尼は保郎の第二の母のようなものであった。その真浄尼に声をかけられて、
「ああ、どうもこうもあらへんわ」
と、保郎はやや投げやりに言った。
「そやかて保郎はん、四、五日前キリシタンになる言うて、えろう喜んでいたやないか。それから何ぞ起きたんか」
真浄尼は茶をいれ、保郎の好きなゴマ煎餅を勧めた。
「おおきに」
保郎は大きな湯呑み茶碗を持って、一口がぶりと飲んだ。今にも降り出しそうな暗い空だ。
「あんなあ、おじゅっさん、ぼく、キリシタンになる言うたらな、うちのお母はん悲しんでな、泣いてばかりいるんや」
「なるほどなあ」
「お父はんは怒るし、親戚の者がみな反対するんや」
「まあそうやろな」
「しかもなあ、ぼくのことを可愛がってくれる本家のおじいさんは、そりゃ嘆いてな、わしの孫に、こんな不心得者が出るとは、思いもよらなんだ。ご先祖さまに何とお詫びしてええやら、情けない言うてな、男泣きに泣かはるんや」
「ふーん、そら保郎はんも参るわなあ。で、お母はんもどうしても許してくれへんのか」
「誰より一番泣いてな。どうでもキリシタンになる言うんならしようもない、戦争で死んだ思うてあきらめると、言いなはる」
「なるほどなあ、そりゃあ無理もないわなあ」
「無理もない? どうしてや、おじゅっさん、キリシタンはそんなん悪い宗教なんか」
保郎はむっとして言った。
「いいや、キリシタンは立派な宗教じょ」
真浄尼はそう言って、茶碗を口にあて、
「けどな、日本は豊臣秀吉の頃からキリシタン禁制やった。江戸時代三百年も、ずーっと禁制やったろ。お寺に籍のない者は、引っ立てられたもんや。明治になっても、そのキリシタンを嫌う気風が、日本に残っていてな、戦争中は尚のこと、敵性宗教や言うて、警察に引っぱられたり、それでキリシタン言うと、いまだに毛嫌いする人が多いんや」
保郎がうなずいて、
「なるほどな。わしもほんとの話は、ヤソは汚らわしい、アメリカや敵の宗教や、などとな、言い言いして来よったもんや」
保郎は、奥村光林に一々楯ついていた自分を思い出した。真からキリスト教を嫌っていた自分を思い出した。その自分が、奥村光林の父を訪ね、目のあたりに敬虔な信仰の姿を見、更にキリシタン殉教に関わる本を読んで、たちまちその生きざまにとらわれてしまった。一旦とらわれると、自分があたかも以前からキリスト教を愛していたかのような、錯覚におちいった。キリスト教を嫌っていた思いも言葉も全く忘れて、心《しん》からキリスト信者のような心地になっているのだ。それに気づかず、自分の入信に反対する父も母も、祖父も親戚も、まことに頑冥な人間に見えるのだった。
今、真浄尼の言葉を聞きながら、保郎は自分の誤りに気がつきはしたが、頑強に反対されているその事実には耐え難かった。そんな保郎に真浄尼はやさしい目を向けて、
「なんや保郎はん、あんたはん、反対する人を頑固者やと怒っているんやろ」
「そら怒るわ。ぼくは命がけでキリシタンへの道を探したんや。そして、本気で、キリシタンとして、一生を神に捧げて生きよう思っとるんや。折角見つけた道をふさぐ奴は……」
顔に血を上らせて憤慨する保郎に、
「保郎はん、あんたはんな、その反対する人々に、感謝せにゃならんわな」
「感謝?」
保郎は驚いて、
「おじゅっさんには、ぼくの気持ちなどわからへんのや!」
と、叩きつけるように言った。その保郎を、真浄尼はいとおしそうに見つめて、
「保郎はん、あんたなあ、今、自分のことしか目に入っとらんのやなあ。このわたしが、うら若い身で、一生を仏に捧げると決心した時のこと、考えたことあるんやろか。親、きょうだい、親戚が双手を上げて賛成したとでも思うとるのやろか」
保郎は、はっとして真浄尼を見た。
「ええか、若いおなごがな、一生をみ仏に捧げる言うた時、親たちの深い嘆きいうたら、それは思い出しても胸が痛みます。どんなに叱られたか、笑われたか、怒鳴られたか」
「…………」
「けどな保郎はん、わたしは一旦み仏に誓うた道は、変えることはせえへんかった。あとになって、父や母もきょうだいも、みんな、わたしが尼になったことを誇りにし、喜んでくれはりましたけどな」
「…………」
「保郎はん、仏に仕える道はそう簡単なものやあらしまへん。けどな、反対してくれる人があったればこそや、みんながあれほどこの身を思ってくれたんやと感謝したればこそや、こうして、曲がりなりにも、初志をつらぬくことができたんじょ。本当にキリシタンの道を行こうと思うなら、反対してくれる人のいるのはありがたいことじょ。あんたの気持ちが試されているんや。感謝するんやな、保郎はん」
保郎はいつしか真浄尼の前に頭を深く垂れていた。
「お父はん、保郎も、何とか落ちついたようですわな」
ためゑは洗濯物を庭に干しながら、座敷で何か書いている通に、声をかけた。
「そうやな。あいつには何や忙し目にばかり遭わされちょるが」
老眼鏡を外した通は、早春の光を一杯に浴びながら、洗濯物を干していくためゑを見た。几帳面なためゑの干す布は、伸子《*しんし》張りにでもしたようにぴんと張って、皺ひとつない。
戦後一年余り、保郎の音信はなかった。心を痛めつづけている二人の前に保郎が現れたのは、敗戦の翌年の、九月三日の夜だった。とにかく無事に戻った保郎の姿に、家族が喜んだのも束の間、保郎はいまだかつて見せたことのない荒々しい態度を取るようになった。投げやりな言葉を吐くかと思えば、魂を奪われた人間のように、呆然と一日部屋に坐りこんでいることもあった。その保郎が突如、キリシタンの本に感動して、キリスト信者になると宣言した。本家の祖父をはじめ、父母、親戚の嘆きをよそに、保郎は同志社大学神学部の教授宛てに、自分の心情を述べた部厚い手紙を出した。思いもかけず、面接の上神学部の聴講が許されることになり、これまた一騒動となった。だが、この時はもう、通もためゑも、保郎の生き方を静かに見守る気持ちになっていた。
「保郎は大馬鹿もんや」とか、
「貧しい家計を助けようともせず、金にもならぬ神学部に行くなどとは、とんでもない奴や」
と非難する者もいた。だが通は、
「確かに保郎は大馬鹿もんや。だが、大馬鹿いうもんは、意外と大利口いうこともある。ま、どこまで馬鹿になれるか、見守ってやろうやないか」
と、ためゑに言うようになった。保郎が帰国するまでは、体力も気力も衰えていた通だったが、保郎が帰ってからは、目に見えて元気を回復してきた。
「そうやなあ、お父はん、保郎が戦死した思うたら、何でも許してやれるわなあ」
ためゑも明るい笑顔を見せるようになった。こうして、保郎が昭和二十二年一月に京都の同志社大学神学部の聴講生となって一カ月が過ぎた。
干し物をかけ終わったためゑが、
「悪いことばかりも、あらしまへん。かつみかてなりふりかまわず、まっくろになって教えているのに、父兄の中にはな、うちの嫁さんに欲しいなんて言わはる方もいますんやって」
「ほほう」
通はちょっと複雑な微笑を浮かべて、
「かつみはそらいい娘や。けど、まだ数えて二十一や、早過ぎるわ」
「それにしても、父兄さんに、嫁に来てえ言われるのは、うれしうおますわな」
久しぶりにのどかな通とためゑの会話だった。
と、そこに自転車を立てる音がして、郵便配達夫が入って来た。
「ええお天気ですな」
顔見知りの配達夫は、ためゑの手に部厚い封書を渡して去った。
「おお、保郎からや、お父はん」
ためゑは、ふっと不安げな表情になって、封書を通に手渡した。
「便りのないのが無事の便りやいうでな。また、金送れの手紙とちがうか」
通は鋏《はさみ》で封を切りながら、眉をひそめ、取り出した便箋に目を走らせた。その通の顔を、ためゑが細い肩をすくめるようにして見守った。
「何々? ……」
そう言ってから、通は声を上げて読み始めた。
〈お父さん、お母さん、
申し訳ありません。私は今、死のうと決心しております。もうそれよりほかに道がなくなってしまったのです。
お父さん、お母さん、戦後私は、打ちのめされたようにボロボロになって生きてきました。生きる目的を失った私は、真面目にものを考えること自体、むなしく思われたのです。が……〉
通はちらりとためゑの顔を見て読みついだ。
〈……切支丹殉教史を読んで、私は曙光を見たように思ったのです。この道こそは、私の命をかけて生きるに価する道だと思ったのです。それで私は、同志社大学の神学部の聴講生として、胸をふくらませて京都にやって来たのです。その私がなぜ死ぬる気になったかと申しますと、私が心に描いていた聖なる信仰の群れをこの神学部に見出すことができなかったからです。
お父さん、お母さん、ここはキリスト教を学問的に研究する場所でした。燃え立つような熱烈な信仰を持っている人などは、先生にも学生の中にもおらんのです。少なくとも私は見出すことができませんでした。つまり、私が求めていた聖教徒的生き方はここにはありませんでした。私は期待していただけに、大いに落胆しました。この世には、真実など何一つないような気がしました。
そこで私は、教授たちを相手に喧嘩をしてしまったのです。私は狂ったように言いました。
「先生方、あなたがたは律法学者や祭司たちのような形式主義者だ。信仰の炎を持たない冷たい奴だ。この大学は人間をだめにする所や、殺す所や」
教授たちはこの私の言葉を聞いても、誰一人怒りませんでした。それだけに私は惨めでした。
お父さん、お母さん、私は今度こそ真剣に生きたかったのです。しかし私には生きる道がなくなりました。妥協して生きていくことなど、私にはできません。私が自殺したならば、お父さんお母さんはじめ、きょうだいたちが、きっと人々からうしろ指を指されることでしょう。それを思うと、私は……何とお詫びを言ってよいかわかりません。
お父さん、お母さん、本当にありがとうございました。真実に生きて行く道を失った愚かな私をおゆるしください。お体を大事にしてください。
[#地付き]保郎
お父さん
お母さん へ〉
読み終わると、通はためゑの膝に手紙を投げつけるようにして言った。
「どこまで阿呆な奴なんや! 保郎いう奴は!」
ためゑは青ざめた顔を上げて通を見つめたが、
「すみません、申し訳もありません」
と、畳の上に両手をついた。
「ためゑ! 何をあやまる! あいつはお前だけの子ォか。おれとお前の子ォや」
通はためゑを叱った。が、大きな吐息を洩らし、
「なあ、ためゑ、ほんまに保郎は死ぬんやろか」
と、力のない声になった。ためゑは封筒を手に取って見、
「これを投函したのは二日前です」
と言った。
「出してすぐ死んだかどうか、とにかくわしは京都の下宿まで行ってみる。手紙は出したが、誰ぞに助けられて、生きているいうこともあるやろ」
「何より先に警察に届けるほうが、いいとちがいますか」
しっかり者のためゑも、足から力がぬけて、立ち上がることができない。
「警察? 警察はちょっと待て。あの親不孝もんが!」
言い捨てて、通は着替えをするべく次の部屋に入った。
本家の富治と京都の下宿を訪ねた通は、二日目に帰って来た。行く時は食事ものどに通らなかった通が、意外に元気な顔をしていた。真っ先に玄関に迎えに出たかつみが、その通を見るなり言った。
「お兄ちゃん、無事やった?」
通は頭を横にふって居間に上がると、下宿の様子をためゑやかつみに語って聞かせた。まだ十四歳の悦子や、十歳の寿郎や、八歳の栄次も、心配そうに、通の話に耳を傾けた。
「いや、下宿には保郎はおらんかった」
誰もががっかりした。
「下宿の小母はんの話によるとな、今までたくさんの学生を下宿させたが、保郎ほど真剣に勉強した学生はおらんかったそうや」
「お父さん、なんぼ勉強したかて、死んだら何にもならへんわ」
かつみが涙ぐんだ。それには答えず、通は言葉をつぎ、
「保郎はな、ほら、夜に時々停電があるやろ。その停電の時だけ眠ってな、電気が点くとすぐさま勉強していたそうや。どこで借りて来るんか、本を山ほど積んでな」
「そんなことはどうでもよろしいわ。とにかく保郎はいなかったんやな、あんたはん」
ためゑがうつろな声で言う。
「まあ聞け。初めのうちはな、保郎は朝晩ニコニコしてな、誰に会うても『平安』『平安』言うてたそうや。いっぱしキリシタンになったつもりやったんやな。平安神宮の申し子かいなと、下宿の小母はん思うたそうや。それがな、だんだんと暗い顔になって、しまいには朝から晩まで、怒った顔をしてたいうのや」
「やっぱりお兄ちゃん疲れとったんや」
かつみの声が更にうるんだ。ためゑもうなずいた。
「けどな、みんな、わしは保郎は生きとると思う」
断乎たる語調で通は言った。みんなの顔に不審の色が走った。人一倍霊感の働く通は、よく失せ物や家出人の方角を感知して、村人たちの信頼を得ていた。が、この度だけは、先ず通自らが悄然として、保郎の自殺を信じているふうだった。あまりに身近な肉親の場合、霊感は失われるのだろうか。その通が俄《にわ》かに保郎は生きていると断言したのである。
「ほんまか、あんたはん! ほんまに保郎は生きとるのか!」
ためゑは初めて大きな声を上げた。
「この度だけは、考えれば考えるほどわしも心が迷うてな、確たることは言えへんかった。よほど高崎倫常先生に占ってもらおう思ったが、下宿の部屋を見てな、ハハン、これは生きとる思うたんや」
「なぜや」
「なんでえね」
かつみとためゑが同時に言った。
「それはな、保郎は先ずリュックサックを持って出ておる。わしが買うてやったゆきひらがあらへん。お前が徹夜で作ってやった寝巻もあらへん。死ぬもんが、そんなもん持ち出すかいな」
「なるほどなあ」
固唾《かたず》をのんで聞いていた寿郎が言った。
「ほうかなあ」
かつみは思案げに言い、
「お父はん、お兄ちゃんにはな、ほんまに優しところがあるやろ。お父はんお母はんが大好きでたまらん人間やろ。もしかしたら、お父はんお母はんからもろうた品をそばにして、死にたい思うたのとちがうか」
「お父はん、そう言われれば、かつみの言うとおりかも知れへんなあ。なあお父はん、あの子は一途な子ォや、思い立ったらすぐに実行する子ォや。やっぱり警察に届けまひょ」
言われて通は、保郎が生きているという確信が少しぐらついた。
「ほうかなあ。とにかく、わしは倒れるまであいつを探してまわる。見つけるまではわしは家に帰らん」
通は金の工面をして、翌日また洲本から船に乗り、京都に出た。
通は朝早くから夜遅くまで、弱い体を忘れて、保郎を探しまわった。
「体格のいい、怒り肩で、外股に歩く若者です。齢は二十二、三歳、目が細く、眼鏡をかけてましてな、笑うと人なつこう顔に見えます。そんな男がリュックサックを背負うて、しょんぼり歩いているのを見かけませんでしたやろか」
交番で、街角のタバコ屋で、食堂で、通は根気よく聞いてまわった。
(あの大馬鹿もん、死んでしもうたのとちがうか)
「大馬鹿もん」「大馬鹿もん」と呟きながら、通は人目もかまわず、幾度も涙をこぼした。
(生きとるもんなら、葉書の一枚ぐらいよこしてもええやろが……)
何の音沙汰もないところを見ると、やはり早まったことをしたのではないかと、不意に不安に襲われる。だが、京都に下宿する保郎のために、自分が買ってやったゆきひらをリュックサックに入れて、どこかをうろついているかも知れぬと思う。大樹の枝に縊死した姿を想像してみても、どこかに生きている姿を思っても、何《いず》れにしても不憫だった。
「純粋なんや、お兄ちゃんは。阿呆のように純粋なんや」
かつみが幾度か言ったように、心根は通にもわかる。だが、
「何が保郎や! お前は保郎《やすろう》やなくて、保郎《ぼろう》や、ボロボロのボロウや」
そうも毒づいてみる。が、思いは只一つだった。
(保郎、死ぬなよ。何でもええ、生きていてくれ。足一本、腕一本になっても、絶対に生きていなあかん)
心のうちに叫びつつ、通は朝から晩まで探しつづけた。
こうして幾日目かに、通は突如、
(そうや! 保郎は奈良や!)
と思った。思った途端、今まで萎《な》えていた気持ちが不思議にしゃんとした。体に力が漲《みなぎ》った。それは、通がよく経験してきた何者かの示しであった。
京都から電車で、通は奈良に向かった。奈良の駅に降りて、早速近くの店で聞いた。
「……こんな若者を見かけんかったやろか」
すぐには消息は得られなかった。が、通は根気強く、向こうの店、こっちの家と聞いてまわった。と、ある一軒の小ぎれいな家の前に、孫を遊ばせていた六十あまりの女がいた。
「……ほう、肩を怒らせてなあ、外股に歩く、体格のいい……もしかして、あの若い坊さんとちがいますやろか」
「若い坊さん?」
キリシタン志望の保郎が仏門に入るとは思えなかった。
「残念ながら、その坊さんとはちがう思います」
立ち去ろうとして、
(いや、もしかしたら……)
と、通は立ちどまった。幼い時から長月庵で育ったような保郎は、般若心経を諳《そらん》じている。真浄尼を敬愛している。とすれば、仏門は保郎にとって故郷のようなものだ。洲本中学卒業の折、級友と交換するための写真を撮った。その時、保郎は尼に仮装して撮り、通にこっぴどく叱られたものだった。
「すんません。その若い坊さんいうのは……もう少し詳しうお話しねがえませんやろか」
問い返すと、
「へえ、一風変わったお坊さんでな。この間お住職さんと一緒に托鉢《*たくはつ》に来ましたわ。うちわ太鼓を破れるほど叩きましてな。お米を差し上げましたらな、ふつうはそこで短いお経を上げるもんですけど、そのお坊さん、大きな声で、『平安!』と叫びはりました」
「えっ!? 平安と叫んだ! そらまちがいあらへん! まちがいなく保郎です。ありがとうございました」
通は思わず地面に両手をついて、土に額をすりつけた。
教えられた寺に行くまでの道、通は文字どおり宙を飛ぶ心地だった。寺の名は伝香寺《でんこうじ》といった。荒れて貧しい寺だった。心せくまま、通は玄関に駆けこみ、大声で案内を乞うた。
「ごめんください!」
「はい!」
大きな返事が奥から聞こえた。
(や、あれは保郎の声や! まちがいなく保郎の声や!)
通は激しく動悸した。すぐに保郎が玄関に現れるものと思った。が、いっこうに誰も出て来る様子がない。夕餉の仕度をしていた保郎が、今の声が父通の声と気づいて、その場に坐りこんだまま立ち上がれずにいるとは、通も知らなかった。
やがて出て来たのは、和尚であった。
[#ここから1字下げ、折り返して3字下げ]
信長 織田信長。一五三四〜一五八二(天文三〜天正十)年。戦国時代の武将、政治家。一五六〇(永禄三)年、桶狭間で今川義元を破って以降、諸方を次々に攻略、天下統一を目ざしたが、その直前部下明智光秀の謀反にあい、自刃した。
安土 現在の滋賀県蒲生郡内の地。一五七六(天正四)年、信長が岐阜より移り築城。城下町をととのえ、近世城下町の原型となった。神学校(セミナリオ)は、信長が宣教師の要請で安土城下に設けたが、本能寺の変で城とともに焼失。
伸子張 伸子は着物の洗い張りや染色のときに、布が縮まないように両端に差し留めて弓形に張る道具。伸子張は伸子を使って洗った布に糊をつけたり、染めた布のしわを伸ばすこと。
托鉢 仏教の修行僧が、町へ出て、各家で布施する金銭や食物を鉄鉢で受けて回ること。
[#ここで字下げ終わり]
ミズスマシ
保郎が死を決意して、京都の下宿を出てから一カ月が過ぎた。キリシタン殉教の書に感動して、一生をこの道に捧げようとした保郎だった。保郎は同志社の神学部に学ぼうと思った。
むろん、わが家の経済状態は保郎にもわかっていた。雨天の日には、履く靴もさす傘もなく、弟妹たちは学校を休まねばならぬ状態であることを、保郎は百も承知だった。そんな中で、大学に学ばせて欲しいということは、ほとんど不可能だった。が、保郎は、何としても同志社の神学部に進みたかった。進むことによって、結局は両親や弟妹たちをも、真の意味で幸せにできると、固く信じたのである。
幸い家には五万円の金があった。母が実家の弟から商売の資本に借りてきたばかりの金であった。体調の調《ととの》った父の通が、「もみがらかまど」というストーブの特約店を始めるための資本であった。このストーブは一台五百円だった。五万円は即ち百台分の金であった。
保郎の希望を知った通とためゑは、相談に相談を重ねた末、その借りてきた五万円のうち、一万五千円を保郎の手に渡した。ためゑは、
「保郎、ストーブは百台一度に買うと安いんやけど、ま、三十台五十台と小さく買うてもええとお父はんも言わはる。この金でお前が立ち直ってくれるなら、惜しいことあらへんでな」
と言いながら、涙を一杯ためた目で、じっと保郎の顔を見つめて渡してくれたのだった。
「すんまへん、お父さんお母はん。今度こそぼくは、必ず生まれ変わった人間になって、お父さんお母はんに喜んでもらいます」
保郎も泣きながらその金を押しいただいた。ところが、一カ月も経たぬうちに、保郎は早くも神学部に絶望したのだ。聖書を読み、神学書をひもとき、夜も昼もなく、無我夢中で勉強した。しかし、教授たちの講義はあまりにも無味乾燥に思われた。誰もが冷たく取りすましているように見えた。一人として、キリストの愛に感動している人間がいるとは思えなかった。それどころか、保郎は自分の燃えるようなキリスト教への憧れに、毎日水をかけられているようなむなしさを覚えた。祈ることさえ蔑視されているような感じがした。遂に保郎は、
「この大学は人間をだめにする所や!」
という激しい言葉を教授に投げつけて、神学部を飛び出してしまった。
(おれという人間は、ほんまに生きて行かれへん人間なんや)
保郎は自分自身が情けなくなった。親の反対を押して、旅順の師範学校に行った時のことが思い出された。あの時も、一カ月経つか経たぬうちに、保郎は師範学校に絶望した。帰る旅費を送ってくれと手紙を出した保郎に、ためゑは怒って厳しい手紙を書いてきた。
「……男子たる者、一旦自分で道を選んだ以上、簡単に捨ててはなりません。こうと決めた以上、死んでもよいから、やりとげなさい。とにかく、そんな意気地なしに、帰りの旅費など、一銭も送ることなど出来ません。万一帰ってきたとしても、母さんは決してお前を一歩も家に入れません……」
旅順から日本に帰る途中、保郎は汽車の中でこの手紙を幾度も読んだ。諳誦するほど幾度も読んだ。その手紙が、同志社を飛び出した保郎に、鮮やかに思い出された。一万五千円もの大金をもらって、一カ月そこそこでおめおめと帰るわけにはいかない。何をやっても、自分はどこか、はみ出している人間のような気がした。人と波長が合わない人間のような気がした。何かが多過ぎるか、少な過ぎるような気がした。あれほどに心を燃え立たせてくれたキリシタン殉教史も、夢物語であったのか。保郎の心は萎《な》えた。今後何をしても、何を求めても、またひと月と経たぬうちに絶望するのではないかと恐れた。生きている自信が、若い保郎の体から脱け出してしまったようだった。何の意欲もなかった。只死にたかった。憑かれたように死にたかった。そんな中で、保郎は父母に遺書を書いた。自分のような者は、死んだほうがむしろ親孝行なのだと、思いながら書いた。
(その自分が、何でお寺になんぞ行ったんやろ)
そこのところが、自分でもよくわからない。夢の中の出来事のように、今は不確かなのだ。父の買ってくれたゆきひらや、母が作ってくれた下着や寝巻をリュックサックの中に入れて、下宿を出た気持ちはよくわかる。父や母を身近に感じて死にたかったのだ。それがいつの間にか、寺の門に足を踏みこんでいた。死のうと決意した心の底に、絶ち切れない生への執着があったとしか考えられない。和尚に自殺を戒められ、小僧になることに決め、頭を剃刀でじゃりじゃりと剃られた。寺では、和尚一人、保郎一人の二人暮らしだった。寒い冬のさなか、足袋を履くことは許されず、朝夕真っ赤な素足で、冷たい廊下の雑巾がけをさせられた。
が、それは保郎にとって少しも辛くはなかった。みそぎに似たものがそこにはあった。しかし満洲でのでたらめな生活が、そんな行《ぎよう》くらいで帳消しになるとは思えなかった。一人の女性の顔が、行の合間に浮かぶことがあった。
朝夕の勤行《ごんぎよう》、食事の仕度、托鉢等々にようやく馴れようとした頃、思いもかけなく、通が訪ねて来た。
「ごめんください!」
という声が、父の声と知った時の驚愕はたとえようがなかった。正に雷に撃たれたとでも言おうか、保郎は足が立たなかった。和尚に招じ入れられ、通が寺の厨《くりや》に入って来ても、保郎はまだ立ち上がることができなかった。かまどの前に這いつくばっている保郎を見るなり、
「このド阿呆が!」
と、通は怒鳴った。が、次の瞬間通は、うずくまっている保郎を、その胸の中に、幼子を抱くように抱きしめた。
「保郎! ほんまに保郎やな! 生きとったんやな。よう生きて……いてくれた。おおきに、おおきに」
と、声を上げて泣き出した。保郎も父の胸に坊主頭をすりつけて泣いた。保郎は、父の「おおきに、おおきに」という言葉に驚いた。「おおきに」とは感謝を表す言葉である。親不孝の自分に、生きていてくれてありがとうと、通は礼を言ったのである。保郎は父の深い愛が、ひたひたと自分を包むのを、生まれて初めて感じた。悪かったという思いが、保郎の心に噴き上げた。
(今度こそ、本気で生きる。おれが悪かったんや。愚かやったんや)
保郎は幼子のように、素直な心になっていた。
(あの時が、ほんとうのおれの出発点やったんや)
今、保郎は、読みかけの内村鑑三著「余は如何にして基督信徒となりし乎」を机の上に開いたまま、寺で再会した時の父の涙を思っていた。
(もっと叱られると思ったがなあ)
中学卒業の時、級友と交換する写真を撮った。その時保郎は、真浄尼の衣を借り、尼僧の姿に仮装したのだった。その写真が通の目にふれた時の、通の怒りは尋常ではなかった。火鉢に差しこんであった熱い火のし鏝《ごて》を、保郎めがけて投げつけたのだ。鏝は保郎の腰に当たり、鏝の首が折れた。ものも言えぬほどの衝撃だった。仮装してさえ、あれほどに怒った父であった。それが、剃髪し、白い綿入れを短く着た本物の小坊主姿になっていたのだ。が、激怒すると思った父は怒らずに、「おおきに、おおきに」と言って泣いた。
(自分の父親の心さえ、ちょっとやそっとのことではわからんもんや)
ましてや信仰の世界が、一カ月足らずでわかるわけはない。そう思う謙遜さも、保郎の胸に生ずるようになった。
(教会いうところに行ってみようか)
保郎は窓に目を向けた。三月の白い雲が浮かんで、うららかな日和であった。
保郎は自転車を走らせて福良《ふくら》に来た。福良は保郎の住む神代《じんだい》から、南へ四キロの地点にある町だ。素麺屋の多いこの町は、かつて父の通が婿養子に来た町でもあった。その福良にキリスト教会があると聞き、不意に保郎はやって来たのだ。教会は裏通りに面していた。通りに沿って、三メートル幅ほどの川がゆったりと流れていた。海のほうから吹いてくる潮風を思いきり吸いこむと、保郎は通りから少し引っこんだ教会堂を見上げた。教会の敷地に桜の花がほころび始めていた。
と、向こうから白いワンピースの若い女性と、黄色いセーターを着た同じ年頃の女性が、声高に話しながら歩いて来た。声の大きいのは、少し背の高い、目の大きな女性だった。教会を見上げて立っているのが、何か悪いことのように思われて、保郎は会堂のほうに向かって自転車を押した。今まで賑やかに話し合っていた若い娘たちの声が、ぴたりとやんだ。二人が自分を注視しているようで、保郎の歩みがぎごちなくなった。
「和子さん、あれヤッチンとちがう?」
(ヤッチン?)
保郎は思わずうしろをふり返った。久しぶりに聞く自分の愛称であった。ヤッチンと言ったのは背の高いほうの娘らしかった。和子と呼ばれた娘が何か答えたが、保郎には聞こえなかった。二人は道の真ん中に立ったまま、保郎を見つめていた。が、何がおかしいのか、二人は不意に笑い声を上げて駆け出して行った。
(ああ、あの二人やな)
保郎は、日の丸に書かれた女文字の寄せ書きを思い出した。北支で、満洲で、幾度も眺めた寄せ書きだから、二人の名前は覚えている。級友伊吹の従妹花枝と野村和子だった。日の丸の旗に書かれた寄せ書きは、母と妹のほかは、ほとんど男の名が記されていて、女の名前は花枝と和子の只二人だけだったから、いつしか保郎もその名に馴れ親しんでいた。が、兵隊友だちに、
「おい、この女のどっちがお前の友だちだ」
とか、
「これがお前の恋人か」
とからかわれても、実は思い出しようのない、顔を知らない二人だった。想像していた以上に、花枝も和子も美しい娘たちだった。
初めて教会を訪ねるというのに、保郎の気持ちは、花枝と和子の出現で少し乱された。と同時に、教会を訪ねる緊張もゆるめられたような気がした。会堂の戸は閉められていて、保郎は裏にまわった。持ち前の大声で案内を乞うと、階段をゆっくりと降りる音がして、四十過ぎの女性が現れた。
「牧師さんはいらっしゃいますか。神代の榎本ちゅう者です」
やや固くなって、ぺこりと頭を下げた。
「わたしが牧師の中村つねです」
にこっと笑って、牧師が静かに答えた。
「え!? あなたが牧師さんですか」
牧師は男だと思いこんでいた保郎は、驚いて尋ねた。その様子がおかしかったのか、中村牧師は少し声を上げて笑い、
「まあお上がりなさい」
と、スリッパを出してくれた。何とはなしに保郎は、長月庵の真浄尼を思い浮かべた。その優しさと、どこか凜としたところが、よく似ていると思った。言われるままにスリッパを突っかけた時、階下の襖が開いて、七十近い老婦人が顔を出した。
「いらっしゃいませ」
と、保郎に頭を下げ、牧師に向かって言った。
「さっきな、野村さんの和子さんがな、草餅を持って見えたんよ」
保郎はどきりとした。たった今見かけたばかりの野村和子であろう女性の名が、知らぬ人の口から不意に出たのである。が、牧師は、
「野村さんから? いつもいつもありがたいことやなあ。あとでお客さんに出してちょうだいね、お母さん」
と言って、先に立った。
二階には四室ほどあるらしかった。通された部屋は八畳の和室だった。開け放たれた窓から桜の花が見おろされた。保郎は、教会を訪れるまでの心の軌跡を包まずに述べた。沼島《ぬしま》の軍国主義教師であった時から、死を決意して、寺の小坊主になるまでの経緯を、つとめて正確に伝えようと注意しながら、真浄尼に似た凜然としたこの婦人牧師に打ち明けた。牧師はほとんど口を挟まずに、只うなずいて聞いていた。が、そのまなざしは微妙に保郎の言葉に応えていた。幾度か涙さえ浮かべて、真剣に聞き入ってくれる中村牧師の姿に、保郎はあたたかい心を感じた。
(たった今会うたばかりやいうのに……)
赤の他人の言葉に、こんなにも真剣に耳を傾ける人がいたのかと、保郎の心は深く感動していた。
語り終わると、中村牧師は、言った。
「一途なお方なんやなあ、榎本はんいう人は」
深い声であった。保郎は思わず涙がこぼれそうになった。たいていの者は、保郎を自分勝手な人間だと言った。保郎自身も、そのとおりだと思って心が責められていた。が、中村牧師は一途だと言ってくれた。一挙に保郎は心が解き放たれたような気がした。この牧師の教会に通ってみたいと思った。
「一生は長いさかいな、焦らんとよろしい。けどな、人間いつ死ぬかわからん存在やさかい、求道は真面目にせんとあかんわな」
「なるほど、焦らず、たゆまずですか」
保郎の言葉に、中村牧師は微笑して、
「そうや、焦らず、たゆまずや」
「先生、ぼくは自分勝手な奴とちがいますか」
「人間は皆、自分勝手な奴ばかりや。けどな、あんたはんは自分勝手に生きたいとねがっているわけではあらへんやろ。人間として、どう生きるのが本当かと、一途に求めてきただけや。神様はな、そんなあんたはんを、きっとその個性に従って用いてくれはります。用のない人間をお造りになるほど、神様は愚かではあらしまへん」
中村牧師は静かに言った。その言葉が保郎の胸に沁みわたった。先ほど母親が運んできた草餅を、中村牧師は保郎に勧めた。
「このお餅を届けてくれはった野村和子さんいう娘はんはな、真っ正直なクリスチャンでな」
保郎はうなずかなかった。先刻会ったばかりの二人の若い娘の姿が目に浮かんだ。野村和子という名前が先ほどから気になっていた保郎は、自分の心を見透かされたようで、相槌を打ちかねたのだ。が、そんな保郎の心を知ってか知らでか、牧師は言葉をつづけた。
「この野村さん一家はな、和子はんのおじいさんも、お父はんもお母はんも、みんな信者なんや。どうせ必ずこの教会で顔を合わせる人やから、知っておいてもらったほうがええと思うでな」
今度は保郎も素直にうなずいた。
「野村はんの家はなあ、『伴代門《ばんよも》』はんと、土地の人に呼ばれている名家や。おじいさんの永太郎さんの代から農家をしながら醤油醸造をしてな。ここの教会の長老さんや」
「ははあ」
ようやく保郎は声を出した。あの娘は、そんな名家の娘なのか。貧しい自分には何の縁もないと思った。
「お父さんの国一《くにいち》はんはな、大阪の区役所の吏員さんやったけどな、ところがそれを辞めなはった。どうしてや思われます?」
「さあ」
「それはなあ、袖の下を使おうとする人間がいるんで、真っ正直な国一はんはな、ふるふるいやになって、この福良に帰って来たんや。そしてそれ以来家業に精出していなさるんや」
この話は保郎の気に入った。
「お母はんのたかはんは産婆さんや。アメリカ帰りの叔母はんが産婆さんでな、この人に仕こまれたんや。それは柔和で優しい人やで。大はやりの産婆さんや。遠くからでも頼みに来るほど、信用されてるお方や」
保郎はうなずきながら、甘い漉《こ》し餡の入った草餅を頬張った。
野村和子と伊吹花枝は、小川の畔《ほとり》の若草の上に腰をおろした。毎週、土曜日の午後は、活け花の稽古の帰りに、この川でおしゃべりを楽しむのだ。ミズスマシが幾つかすいすいと水面をすべるように泳いでいる。黒青色のそのミズスマシを見つめながら、花枝が言った。
「和子さん、うち明日教会へ行ってみようかしらん」
「まあ! ほんまに?」
和子は驚いて花枝の膝をゆすった。女学校時代から今まで、和子は幾度花枝を教会に誘ったかわからない。が、一度として花枝は来なかった。
「うち、ヤソ嫌いやも」
花枝はそっけなくそう言った。その花枝が、不意に自分から教会に行くと言い出したのだ。花枝を教会に誘うことを諦めていただけに、和子は喜ぶよりも先に驚いた。
和子と花枝は、小学校も女学校も同級で、家も一丁と離れていなかった。花枝の家は雑貨屋で、酒やタバコなども商っている。目の黒ぐろとしたおきゃんな花枝は、町の若者たちから、「花枝ちゃん」「花枝ちゃん」と呼ばれて、人気があった。
が、「伴代門《ばんよも》さん家《ち》のお嬢さん」である和子には、たやすく近づく青年はいない。この二人が奇妙に仲がよかった。
「ほんまや、明日きっと教会に行くわ」
「うれしいわ。うちの祈りが聞かれたんやろか、うれしいわあ」
和子は無邪気に喜んだ。そんな和子に、花枝はにやにやして、
「和子さん、うちね、神さまに用があって行くのやないの」
「え? 神さまに用があって行くのやない? ほんならなんで行くの」
花枝の言葉が、生真面目な和子にはとっさにはのみこめない。
「つまりね、用があるのは神さまやのうて、人間やいうこと」
花枝は、盛り上がった黄色いブラウスの胸を、突き出すようにして笑った。
「人に用事がある? もしかして花枝さん……」
和子は言い澱んだ。
「そう。うち、ヤッチンに会いとうて行くんよ」
「まあ! 花枝さんったら……まだあの人のこと、思っとったの」
確か花枝は、小学校の教師と親しくつき合っていたはずだと思いながら、和子は言った。
「うち、そんなに純情やないわ。中学校時代のヤッチン、すごく好きやったけど、いくら好きでも戦争に行ってしもうたら、仕方がないやないの」
「…………」
和子は川の向こうに目をやった。青い空の下に、鯉のぼりが風を孕《はら》んで泳いでいた。
「和子さん、ほら、よく言うやない? 目の前から去る者は心から去るって。でも、その反対に、目の前に戻ってくれば、また心の中に入ってくることだってあるんやないの」
「呆れた。花枝さんって、いい人やけど、こと男の人のこととなると、いつも心がころころ変わるのね。いまつき合っている先生と、結婚するつもりやったんやないの」
「そうやったのよ。だから困ってるの。ヤッチン、中学時代よりずっと逞しくなって帰って来たやろ。お前たち女の顔なんて見んぞいうような顔して、肩怒らして、あんなヤッチンみたいな人見るとね、うち必ずこっち向かせたるいう気持ちになるんよ」
「…………」
和子は変に胸が騒いだ。
保郎が初めて中村つね牧師を訪ねたのは、ひと月近く前のことだった。その時、偶然和子と花枝は教会の前で保郎を見かけた。それから二、三日後の日曜日、保郎は教会の礼拝に出席した。保郎はその日、礼拝が終わるや否や、会堂を飛び出して行った。ちょうど玄関にいた和子には目もくれず、口をきりっと結んで、ひどく不機嫌な顔をしていた。
(変な人やわ)
和子はそう呟《つぶや》き、保郎が二度と教会に訪ねては来ないような気がした。ところが、その週の水曜日の夜の祈祷会に、思いがけなく保郎の姿があった。例の如く信者たちは和室のテーブルを囲み、牧師の短い説教を聞いたあと、順々に声を出して祈り始めた。正座していた保郎が、落ちつかぬ様子になった。
(初めての人は、お祈りせんでもええと、誰か言うてあげたらええのに……)
一人の祈りが終わるごとに、和子の視線はつい保郎に注がれた。が、引っこみ思案の和子は、それを口にすることもできなかった。牧師を入れて僅か五、六人の祈祷会である。間もなく、保郎の隣の信者の祈りが始まった。次は、最後の保郎の番である。和子は自分のことのように動悸した。保郎は祈れないと言って、断るのではないかと思った。そう思った時、信者の祈りが終わった。と、保郎は誰よりも真摯に手を合わせて祈り始めた。
「神さま、今夜はこの会に来ることが許されてありがとうございました。ぼくは……」
ちょっと言葉がつかえた。和子は、すぐ言葉が出るように、ひそかに祈りながら、保郎の次の言葉を待った。少しの沈黙のあと、突如保郎は、
「もといっ!」
と大声で言い、
「何せ初めてでありますから、何もわかりません。神さま、万事よろしくおねがいいたします。アーメン」
と、真面目な顔で、祈り終えた。途端にみんなが笑った。
「もといっ!」とは、軍隊用語で、前言の誤りを訂正する時に使う言葉である。和子も声を上げて笑った。保郎は真っ赤になってうつむいた。その保郎を見て、和子ははっとした。傷つけたと思った。悪意はなかったが、みんなの大きな笑い声が、保郎の胸にどんな痛みをもたらしたことか、和子はわかるような気がした。だが、笑いがおさまらぬうちに、父の国一が深く頭を垂れて祈り始めた。国一は二番目に祈り終わっていたのだが、その国一が再び祈り始めたのだ。
「愛なる御神、ここに一人の若き魂をお導き給いましたことを、厚く御礼申し上げまする。どうか、この新しききょうだいを、キリストの御血潮によって清め、救い給わらんことを、そして、御神の尊き器として生涯お用いくださいますよう、御子《みこ》キリストの御名によって祈り奉る、アーメン」
敬虔なる祈りであった。心に沁みるあたたかい祈りであった。笑っていた人々も、しんとして共に「アーメン」と唱和した。和子はほっとした。わが父ながら、よい祈りをしてくれたと、感謝だった。
みんなに笑われて、真っ赤になっていた保郎が、祈り終わった国一をまじまじと見つめていた。その目は感歎と感謝に満ちていた。畠からそのまま教会に来た国一は、野良着を着ていたが、その顔は、いつも人々に「伴代門さんのおとうさんの顔は光り輝いている」と言われるとおりの顔であった。
次の日曜日も、その次の日曜日も、保郎は教会に姿を現した。その度に保郎は黙々としてよく働いた。重い椅子を一人で並べたり、特別集会のために必要な食料を、わざわざ四国の徳島まで買い出しに行ったり、骨身を惜しまず奉仕した。そればかりか、包丁をふるって、集会の料理さえ一手に引き受けたりした。
そんな時、教会附属保育園の保母である和子と、もう一人の保母が、保郎の手助けをした。こうして保郎は、ひと月と経たぬ間に教会の重要なメンバーの一人となっていた。若者が少ない教会であったせいもある。そんな保郎に、和子は自分でも気づかぬうちに、あのヤッチンへの嫌悪をすっかり拭い去っていた。
そして昨夜、保郎は和子の家の客となった。父の国一が保郎を気に入って、自分の話し相手に招いたのである。
国一は夕食の時刻になっても、保郎と話しこんで保郎を放さなかった。二人は熱心に、内村鑑三の話や、キリストの救いについて話し合っていた。食事の時間になって、席を移してからも、信仰の話は延々とつづいた。
「のう、榎本君、内村鑑三は慈善についてこうも言っておりますな。『慈善は他人のためのみにあらざるなり、全《まつた》からんとする者、清からんことを願う者は、自己を慈善事業に投ずべきなり。われらは物を与えて霊のたまものを受くべきなり。しかり、宗教とは慈善を言うなり。貧しき者に尽くすは神に尽くすなり』と申しての」
保郎は、馳走に箸をつけるのも忘れて、
「へえー、よう覚えておられますなあ。まるで博士です」
と感歎し、その先をまだ聞きたいふうであった。同じ食卓を囲んでいる和子には気づいていないかのように、只国一の話に聞き惚れている。父の言葉に、これほど耳を傾ける青年を、和子は今まで知らなかった。和子の母も、姉の益子《えきこ》も満足げに二人の話に聞き入っている。やがて保郎が言った。
「いやあ、今夜は実に愉快でした。ぼくも、ほんの僅かですが、内村鑑三を読んどります。内村鑑三の『余は如何にして基督信徒となりし乎』に、『クリスマス、愉快限りなかりし。』とあるのを読んだ時、ぼくは教会って、ほんまにそんな愉快なところなんやろかと、疑いました。それが、ほんまであることを今夜知りました。ありがとうございました」
と、感動を隠さず、深く頭を下げた。その頭を上げた途端、保郎の視線が、今、お茶を運んで来た和子に行った。二人の視線が合った時、なぜか保郎の顔が見る見るうちに赤くなった。そして、保郎はあわてて言った。
「は、どうも。長い時間お邪魔しました」
両親たちへの挨拶もそこそこに、保郎はあたふたと帰って行った。
(どうしてあの人、あんなに赤くなったんやろ)
和子は眠りにつくまでの間、幾度も幾度もその時の保郎を思い出していた。保郎はもはや、あのニキビ面の中学生ではなかった。ヤッチンではなかった。和子の嫌いな白茶けたゲートルを巻いていた保郎ではなかった。
「ねえ、和子さん、ヤッチンをうちのほうに向かせても、かまわんやろ」
「…………」
「いつか、うちが言ったこと、覚えとる? うちがヤッチンと結婚しても、和子さん絶対文句言わん言うたの、覚えとる?」
和子はうなずいて、
「でもね、花枝さん、あの人、もう昔のヤッチンやないのよ。同志社の神学部に行って、牧師になる人やわ」
「え? 牧師に?」
花枝は驚いて声を上げた。
「あんた、牧師の奥さんになれる? 牧師はたいてい貧乏よ。中村先生のように、質素な生活が花枝さんにできる?」
「そうやなあ……」
花枝はちょっと考えてから、
「好きな人となら、貧乏してもかめへんけど、牧師の奥さんという以上、神さま信じなあかんのやろ?」
「そうや。信仰がないと務まらんのよ」
「そらしんどいわ。うちはな、どう考えても、神さまなんてこの世のどこにも、おらんとしか思えんわ。おらん神さまに手を合わせること、できへんもな」
「…………」
和子は何と答えてよいかわからなかったが、心のどこかで安心している自分を感じた。
「そうか、ヤッチン、アーメンの坊さんになるんか。でも和子さん、あんたもヤッチンの嫁さんにはなれへんな」
「そんなん、そんなこと考えたこともあらへん」
それは嘘ではなかった。保郎が教会へ来るようになって、まだ一カ月とは経っていないのだ。
「和子さんは、生まれてこのかた、只の一度も貧乏を味わったことあらへんやろ。『伴代門さんのお嬢さん』で、お母さんはこの辺きっての産婆さんやし……」
立ち上がった花枝と、腰をおろした和子の姿が、ゆったりと流れる水に、逆さに映っていた。
保郎は再び同志社大学の神学部に戻ることになった。
「この学校は人間をだめにする所や!」
そんな激越な言葉を投げつけて飛び出した同志社大学に、二度と戻ることはできぬと保郎は覚悟していた。が、そんな保郎に、同志社大学神学部は復学を認めたのみならず、奨学金の心配までしてくれた。
「同志社に帰って、もう一度勉強しなさい」
断乎としてそう言ったのは、中村牧師の教会の伝道集会に来た講師であった。
「わたしは信仰を持って五十年になります。しかし、まだまだキリスト教のすべてをわかったなどとは思えません。聖書は読む度に新しく、常にちがった角度からわたしに呼びかけてきます。一つの聖句が、ある時はわたしを叱咤《しつた》勉励し、ある時は慰めてくれます。この奥深い聖書を全く理解するためには、幾度生まれ変わっても足りないでしょう」
伝道集会の講師は、そう言ってじっと保郎を見つめた。保郎は率直に詫び、
「先生、ぼくは一カ月と学ばぬうちに、同志社を飛び出しました。何も学ぶところのない大学やと思いました。いや、人間を殺す場所とさえ思いました。ぼくは生意気でした」
野村和子の父国一の、野良着姿でありながら、常に輝いている姿が、保郎の心を変えつつあった。そこに講師の謙虚な述懐を聞いた。同志社に戻れと言われた保郎は、戻る気になった。が、さすがに、それを父母に再び言い出す勇気はなかった。中村つね牧師が保郎の気持ちを察して、講師と共に、わざわざ神代の保郎の家まで訪ねて来た。そしてためゑと通を説得してくれた。そんなこんなの末、保郎は遂に、中村牧師の紹介で、京都|円町《えんまち》の小さな教会に下宿することになった。
中村牧師の教会は、小さくても常時三、四十人の信者が礼拝を守っていた。祈祷会にも四、五人は来た。だが、ここ京都円町の教会には、数えるほどしか人が来ない。日曜日の礼拝は多くてもせいぜい十名、水曜日の祈祷会は牧師夫妻と下宿人の保郎の三人だけで守ることがふつうであった。昭和二十二年のこの頃、日本のキリスト教会は信者が増えつつあった。次々と教会に若者が集まった。取り残されたような教会にあって、しかしこの教会の中山昌一牧師は、何の焦りも見せなかった。保郎と同じ淡路出身で、洲本中学の先輩でもあるこの中山牧師には、みじんの軽薄さもなかった。妻と保郎のたった二人を相手の時も、牧師は烈々たる思いを秘めて説教をした。五十名の幼稚園の保母でもある牧師夫人は、その夫の説教を子守唄に、いつも眠っていた。園児を扱う疲れが出て、眠りこんでしまうその妻を、牧師は一度として叱りも咎《とが》めもしなかった。
「なぜ眠らせておくんですか」
たった一人の自分のために、よく準備した説教をする牧師に加担するつもりで、保郎は尋ねたことがあった。牧師は静かに微笑して、
「榎本君、イエス・キリストが追っ手に追われていたあのゲッセマネの園で、目を覚ましていたのは、イエス一人ではなかったんか。ペテロもヨハネも、ぐっすりと眠っていたやろう。イエスは言わはった。『げに心は熱すれど、肉体弱きなり』とな」
保郎は心を打たれた。ともすれば、保郎は人を咎めたくなる。すぐに焦々と心が騒ぐ。じっと静かに、神の前にひれ伏すということは、保郎にはできなかった。それだけに、この牧師のあり方は、保郎の心を打った。
(将来、ぼくが牧師になって、こんなに誰も来ん日がつづいたとしたら、どうなるやろ。誰も来んのに、ここの先生のように、ちゃんと説教の準備をし、一つも手抜きせず話すことができるやろか)
保郎は、自分がとてつもなく偉い牧師のところに預けられたことを感じた。
そんな中で、保郎はふと、奥村光林の父要平牧師の話を思い出した。要平が奈良に開拓伝道を始めた時、日曜の朝ごとにクラリネットを吹いて日曜学校の子供を集めたという話であった。保郎は教会の物置から大太鼓を探し出し、ある日曜日の朝、太鼓を叩いて近所の子供を集めてまわった。たちまち子供は六十人も集まった。
円町《えんまち》教会
「やあ、来た来た。よう来たな」
太鼓とタンバリンの音に誘われて、日曜学校に集まった子供たちを見まわし、保郎は満足げにうなずいた。
神学部に通ってはいても、保郎はまだ洗礼を受けていない。キリストに一生を捧げると言っても、中山昌一牧師の目から見る保郎は、只行動が先走りするだけの血気にはやる若者としか映らない。保郎は朝誰よりも早く起きて、教会堂の外を掃き、内を拭き、道路に水を撒く。しかし、そんなことは、必ずしも信仰とは関わらない。商店の店員でもすることだと、牧師は思う。
「先生、まことに僅かですが、これ献金です」
と、保郎はその言葉のとおり、僅かな額だが献金することがある。保郎は中山牧師の教会の三畳間を無料で借りて自炊している。保郎は毎朝、二合何がしかの、一日分の米を飯盒《はんごう》で一度に炊き、それに塩などをかけて食べている貧しい学生だ。だから、献金額の多少は牧師は問わない。が、ある時保郎が、
「先生、ぼくタバコやめましたんや。この献金は配給のタバコを闇屋に売って、儲けた金です」
と、得意げに言うのを聞いた。
「ふーん、タバコやめたんか。さぞ辛い思いをしたやろうな」
そうは言ったが、
「けどなあ、榎本君、この献金は神さまは喜ばへんな」
と、渋い顔をした。
「え!? 神さまが喜ばへん? 何でやね先生。ぼくは貧乏やから、禁煙でもせな献金できへんのです。えらい苦労して、辛い目ぇしてタバコをやめましたんや。そのタバコ売って献金するのん、何が悪いんですか」
保郎は食ってかかった。タバコは誰もが自由に買えない品だ。だから闇屋で少々高値でも、喜んで買ってくれる者がいる。保郎は自分の行為がほめられこそすれ、叱られるとは思いもよらなかった。むっとした保郎の顔を見て、中山牧師は言った。
「あんなあ、榎本君、配給のタバコを買う金があったらな、それをそのまま献金したほうがええのとちがうか。闇行為は違法やしなあ」
言われて保郎は、
「先生、けどなあ、闇は誰でもしとることやないですか。そりゃあ、先生の言わはるとおり、タバコ買う金をそのまま献金したほうがええかも知れへんけど、儲けた金を捧げて悪いんやろかなあ」
保郎は釈然としない顔で言った。答えずにいる牧師に、保郎は、
「配給米だけ食うとったら、死なんならんではないですか」
国からの米の配給は通常大人一人当たり二合五勺であった。その配給米も、約束どおりには配給されず、しばしば遅配、欠配となった。人々は伝手《つて》を通じて闇米を買い、飢えを凌いでいた。事実、その年の十月、山口という判事が、法律を遵守して遂に餓死したという事件が起き、日本中の話題となった。とにかく、嗜好品であるタバコの場合と、主食である米とは、おのずから事情がちがってくることに、保郎は気づかない。
確かに父の通も闇米の取引をひどく嫌っていた。神代《じんだい》駅にまた全部の汽車が止まるようになって、闇米を担いだ闇屋が、始終乗り降りしていた。その闇商人たちが、駅の売店を営む通にも、米の闇取引をするように、時折勧めてくる。
「榎本はん、ここは駅やから、便利がええ。ようけ儲かるで」
通が闇米を引き受けてくれれば、いつ警官につかまるかと、びくびくしながら米を担いで歩きまわる苦労がなくなる。が、通は、
「わしは闇が嫌いや!」
と、にべもない。その闇屋たちが、警官の検問を避けて、榎本家の便所や押し入れに無断で逃げこむことがあった。弟の栄次や寿郎たちがそれと知らずに、便所にひそんでいる闇屋と、幾度鉢合わせをしたかわからない。そんな時、通は何の咎《とが》めもせず、却って、調べに来た警官に、
「巡査はん、怪しい奴が来たら、こっちから突き出したりますわ!」
と、大声で答えて闇屋をかばった。そんな父の姿を見ているだけに、保郎には闇取引が果たしてよいのか悪いのか、わからなかった。わかっているのは、配給米だけでは餓死するということであった。敗戦後二年、日本はまだ混沌の中にあった。
いずれにせよ、中山牧師から見た保郎は、本当にキリストを信じているのか、確たる罪意識があるのか、どうも心もとない。そんな保郎が、
「日曜学校のお手伝いをさせていただきます」
と言い出し、物置に埃まみれになっていた太鼓をきれいに拭き、その太鼓を叩いて子供たちを集めてきた。そればかりか、その子供たちに、
「よう来たな」
と、馴れた調子で語りかけた。あれよあれよと言う暇もない。保郎はすぐに話を始めた。
「みんな、今日からみんなはここの日曜学校の生徒やで」
教会堂の床に坐りこんだ子供たちは、見馴れぬ保郎の顔を興味ありげに見つめた。四、五歳の子供もいる。かと思えば、五、六年生の子供もいる。太鼓につられてやって来たが、これから何が始まるのか、見当がつかないのだ。
「日曜学校って、何や」
四年生ぐらいの、賢そうな男の子が尋ねた。
「日曜日にひらく学校や」
傍らで聞いていた中山牧師とその夫人が顔を見合わせた。大阪から来て、同じく間借りしていた美しい熊谷ヨシ子も保郎に目を向けていた。
「ふーん、日曜日も勉強するの、いややなあ」
がっかりした声だ。
「学校の勉強とはちがう。ここは神さまのことを勉強する学校や」
中山牧師は少し安心したようにうなずいた。
「なあんや、神さまか。うちにも神さまならおるわ」
「うちにはおらんわ。うちには、ほとけさんしかおらん」
「うちには、神さまも、ほとけさまもおるわ」
「神さまなんか、どこにもおらへんで」
子供たちは活発に思い思いのことを言う。保郎は沼島《ぬしま》の生徒たちを思い出しながら、にこにこしていた。古びた軍服姿は、外地から復員して来た者たちと同じだが、子供たちには先生と見えるのか、女の子が大きな声で言った。
「先生! うちなあ、神さまってきらいなんや」
「何でや!? 何できらいなんや」
保郎は目をまるくして見せた。
「何できらいなんや」
小さな子が保郎の口真似をした。みんながどっと笑った。女の子は笑いもせずに、
「そうかて先生、神さまってばちを当てはるやろ。うちのお父さんもお母ちゃんも、何かいうたら、神さまのばちが当たる、神さまのばちで目ぇ見えんようになるって、言わはるもん。うち、神さまきらいや」
「ほうか、なるほどなあ。けどなあ、ここで教える神さまは、決してばちを当てなさらん神さまや。どんな悪いことをしても、ばちを当てなさらん神さまや」
「へえー、びっくりしたあ」
前のほうに坐っていた二、三人が、ひっくり返る真似をした。またみんなが笑った。先ほどの女の子が、真面目な声で聞いた。
「ほなら先生、人殺しをしてもばちを当てはらへんのどすか」
「そうや、人殺しは悪い悪いことやけどな、神さま、ごめんなさい、もう悪いことしまへん言うたら、よろし、ゆるしたると言わはる神さまや」
みんながまた、へえーと声を上げ、件《くだん》の女の子が言った。
「ほんまどすか? ほんまにそんな神さまいやはるんなら、うち、その神さまの話聞きたいわ」
子供たちが「聞きたいわ」「聞きたいわ」と声を合わせ、保郎の顔を見つめた。
「あんなあ、神さまいう方はなあ、そらあ不思議なお方やでな」
保郎は大事な秘密でも打ち明ける語調になって声をひそめた。子供たちがこっくりとうなずいた。
「神さまいう方はな、この子は可愛らしい顔してるとか、みとうない顔をしてるとか、そんなことは決して思わへんお方や。目が愛らしうても、鼻が低うても、口が大きうても、眉が薄うても、そんなことは神さまには全然問題にはならへんのや」
「ならへん」というところで、保郎は大きく手をふって見せる。
「神さまはそんな人間の顔や姿を見ている方ではないんや。また、勉強ができるとか、できないとか、相撲が強いとか、野球がうまいとか、そんなところを見ているお方でもない」
子供たちがわかったような、わからないような顔になった。一人が言った。
「ほなら、神さま何見てるん?」
「心や。みんなの心や。神さまにはな、みんなの心がよう見える目がついていなさるんや。神さまから見るとな、人間が悪いことを思うと、黒い玉がな、人の心の袋に、ころりと入っていくのが、ようく見えるんや。誰かがな、学校から家に帰ってな、家に誰もおらへん時、何ぞうまいものあらへんかなあと、こっそり、ぬき足、さし足、しのび足で、お勝手に行って、そおっと戸棚をあける……」
保郎はゼスチュア入りで、ぬき足さし足の姿をして見せ、戸棚をあける真似をして見せた。
「びくびくしながらあたりを見まわし、誰ぞ来んかなあと、戸棚の中を探したら、おっ! あった、あった、おいしそうなお団子が五つもあった。しめしめとばかり、一つ食べ、何食わぬ顔をして、たーっと外へ遊びに出る。だあれも見てへんかった、ああよかった。もしお母さんが一つ足りんと騒ぎ立てても、ぼくは知らんと言うてやろ。お母はんの数えちがいやと言うてもよし、弟が食べたんとちがうか言うて、弟のせいにしてもええ、とにかく、誰も見ておらんかったのや……と思ってもな、しかしな、それをじーっと見ている神さまがいなさるんや」
保郎はぐいっと天を指さした。子供たちはつられて一斉に会堂の天井を見上げた。みんな固唾《かたず》をのんでいる。
「この時な、人の心の袋にな、黒い玉がころりと入るんや。それが神さまには見えるんや。あいつ、弱虫やからいじめたれと、こっそり二、三人で相談する。誰にも内緒と思っていた。けどな、やっぱり神さまが見てはった。あんな奴と遊んでやらんとか、足の悪い子の真似をするとか、そんなことが神さまはお嫌いでな、そんな子供の心には黒い玉がたまるんや。お前たちの心の中には、幾つぐらいたまっとるやろか」
保郎は、にやっと笑った。子供たちは自分の胸のあたりを眺めながら、頭をかしげて見る。
「五つ!」
男の子の元気な声がした。
「二つ」
女の子の声がつづく。
「数えられへん!」
五、六年生の男の子が言う。
「そうや、今の数えられへんというのは、賢いことや。先生かて、数えられへん。毎日毎日な、黒い玉が袋の中にふえてるんやからな。みんなより年を取っているさかいな。どれだけたまったか、わからんくらいや。千も二千もたまっとるんや。どうしたらええ」
保郎はみんなの顔を見わたした。
「ほかしたらええわ」
一人が言った。
「そやそや、ほかしたらええわ」
幾人かが和した。
「ところがなあ、この黒い玉はなあ、どんなに遠くにほかしても駄目や。じきに捨てた人の心に戻ってくるんや」
「ふーん」
子供たちは困ったように頭をひねった。保郎の表情やその声音、その話にすっかり魅せられている。
「ある日な、神さまがな、世界中の人の心の袋を調べてみた。神さまはびっくりしなさった。なぜやと思う? それはな、黒い玉のない人は、一人もおらへんかったからや。王さまもな、大臣もな、日曜学校の先生もな、牧師先生もな、学校の先生もな、子供もな、みんな黒い玉を持っているんや。それもな、数え切れんほど持っとるんや」
「ふーん、安心したあ」
四年生ぐらいの男の子が言った。
「いやいや、それが安心ならんのや。神さまのおきてではな、黒い玉を持っていれば、みんな死刑になることになっておる。みんなは死刑って知っとるか」
「知らん」
「知っとる」
声が飛びかった。
「あのな、十字架いうてな」
保郎は柱のそばに立って、十字架につけられたような格好をしながら言った。
「両手に釘を打たれてな、足に釘を打たれてな、そんな死刑もある。首を吊られて絞められる死刑もある。電気の椅子に坐らせられるのもある」
中山牧師が咳払いをした。子供には残酷すぎるというサインである。それに気づいてか、気づかないでか、保郎は話をつづけた。
「昔々、神さまはこの人間たちをお造りになられた。山も川も造られた。自分の造ったものは、惜しいわな。君たちだって、手工の時間で粘土で人形を造るやろ、誰かがその首でももいでみい、大げんかになるわな」
子供たちがうなずく。
「まして神さまが造られたのは、粘土細工やのうて、人間や。かわゆうて、かわゆうてたまらんのや。ばちなど当てとうないのや。けど、おきてでは、黒い玉のあるもんは死刑なんや。これは難儀な問題や。そこで神さま考えはった。何とかこの黒い玉を引き受けてくれる者はいないかな。そやそや、神さまは手を叩かはった。名案が浮かんだのや。どんな名案やと思う?」
誰も答えない。
「この神さまに、一人息子がおられた。大事な大事な一人息子がおられた。この一人息子を呼びよせてな、神さまは言わはった。あんな、お前はこれから地球の上にな、人間として生まれるんや。そしてな、みんなの心の中にある黒い玉を集めて歩くんや。お前を信じた者の黒い玉はなくなるようにしてある。お前に黒い玉を預けたら、もうその人間には、いつまでも黒い玉はないことに認めてやろう。一人息子はな、かしこまりましたと、ていねいに頭下げてな、地上に誕生された。これがイエス・キリストや」
子供たちは只うなずく。小さな子が言った。
「それからどうなる?」
「それからな、人々はイエス・キリストのところに行ってな、あなたを信じます、この黒い玉をどうかよろしうおねがいします。わたしが悪うございましたと、あやまる。するとな、黒い玉がひょいひょいと、イエス・キリストに移ってしもうた。その人はな、もう死刑の心配がない」
「よかったなあー」
思わず吐息のような声が、一人の子供の口から出た。
「けどなあ、みんなの黒い玉を引き受けたイエス・キリストはどうなったと思う。みんなの身代わりになって十字架にかけられたんや。十字架になあ」
保郎の声がちょっと詰まった。
「何でやね、悪いことせえへんのに、何でえ」
三年生ぐらいの男の子が、怒ったように言った。
「神さまのお子さんやから、みんなのために死んでくださったんや。な、わかったやろ。ここの神さまは、ばちなど当てん神さまや。悪いことしても、心からあやまれば、イエスさまに免じておゆるしくださる神さまや」
話が終わると、子供たちは、
「ええ神さまやな。えらい神さまやな」
と帰って行った。
海底電線
「花枝さん」
和子は花枝の家の店先で、いつものように声をかけた。小学校も保育園も、夏休みが終わって幾日か過ぎた日曜日の夕方だった。教会から帰って、夕食の仕度を手伝っていた和子は、唐ガラシの切れているのに気づいて、花枝の店に駆けて来た。
「いらっしゃい」
声が先にして、物陰から花枝が顔を出した。
「唐ガラシ欲しいんやけど」
「おおきに」
そばの棚から唐ガラシの小壜を取って花枝は和子に手渡し、
「和子さん、あんたこの頃きれいになったんとちがう?」
と、まじまじと見つめるまなざしとなった。
「いややわ。きれいになったのは花枝さんやわ」
和子は白い歯を見せて、はにかんだ。
「ふーん、うちはそりゃあ、もうじき嫁さんになるさかいな、少しはきれいにならんとな」
と、花枝は笑った。花枝は去年からつきあっていた小学校の教員と婚約が調《ととの》って、十一月には結婚することになっていた。もう近所で知らぬ者はいない。若者たちが落胆している噂を、和子も聞いていた。花枝がつづけた。
「あんたのほうは進展しとるの、ヤッチンと」
「そう気やすうヤッチンヤッチン言わんといて」
和子はちょっとすねたように答えた。
「ほう、もうそう言える仲になったんか」
「知らんわ」
「ほら、顔が赤うなって……大学ってどれだけ夏休みあるんか知らんけど、あのヤッチン、この夏はここの教会によう通ったわな。あの人の靴、軍隊のごっつい靴やろう。歩き方がまた外股で、がつがつ歩くやろ。あ、またヤッチン思って外を見ると、風呂敷包みを抱えて、こう天の一画を睨みつけて歩いて行くんや。けど、人に会うたらえらい愛想ようなったな」
和子は帰りそびれて、傍らに積まれた茶色のちり紙に指をふれた。
「牧師さんがえろうほめとったわ。あんなに教会に熱心な人は初めてやって。会堂の掃除から庭の草むしりまで、こまめにするんやってな」
「中村先生のお母はんにも可愛がられとるんよ、あの人」
食糧不足の時だが、保郎が手伝いに来るのを待って、中村つね牧師の母が、保郎の好きな煮豆などを出してもてなすのだった。福良《ふくら》教会附属の保育園の保母である和子は、その保郎と顔を合わせる機会が少なくなかった。話をしなくてもよい、保郎の姿が保母室の横の庭をよぎるだけで、和子は満ち足りた気持ちになった。
七月、八月と、大学の休みの間、保郎は神代《じんだい》の家から週に三日は教会に通って来た。日曜日の礼拝はむろんのこと、水曜日の祈祷会にも和子は顔を合わすことができた。そのほか青年会もある。週報作りの仕事もある。
和子は、自分が以前より、教会生活に熱心になっていくのがわかった。時には父に誘われて、保郎は和子の家の夕食の席に連なることもあった。将来牧師を志す保郎に対して、信仰篤い野村家の人々は、はなはだ好意的であった。しかしグループの中で、聖書について語ったり、讃美歌を一緒に練習したりして、次第に打ち解けた言葉を交わすようになっても、まだ保郎と二人っきりで和子が語り合ったことはない。その保郎が、先週の日曜日の礼拝後、
「野村さん、ちょっと屋上に涼みに行こうか」
と誘った。二階建ての教会堂の屋上からは、海が見えた。和子は保郎に従《つ》いて屋上に上がり、少し離れて海を見た。眩《まばゆ》くきらめく夏の海が、和子にはこの世のものならぬ美しいものに見えた。保郎もその海に向かって横顔を見せていた。何も語らない。さわやかな風が二人の間を通りぬける。和子の胸は、甘い期待に高鳴っていた。保郎が何か言うような気がした。と、黙っていた保郎が口をひらいた。
「野村さん」
保郎の声が少し不自然だった。和子も緊張して、
「はい」
と、小さく答え、次の言葉を待った。
「なあ、野村さん、あんたのお祈りは……」
「わたしのお祈り?」
「ああ、あんたのお祈りは、海底電線みたいやな」
「海底電線? どうして?」
神戸と淡路の間に、海底電線が敷かれていた。怪訝《けげん》な顔をする和子に保郎が言った。
「だってな、あんたのお祈り、ぷつんぷつんよう途切れるやろ。海底電線の電話も、ぷつんぷつん切れるやろ」
「まあ! 失礼な」
和子は怒って、くるりと背を向けると、階段を駆け降りた。真面目な和子は本当に腹を立てた。わざわざ屋上に呼び出して、「あんたのお祈りは海底電線のようだ」と言ったのだ。和子はてっきり笑われたと思ったのだ。
二、三日は、保郎のその言葉に和子は怒ってはいたが、しかし、なぜか次第にその怒りが解けてきた。
(あの人、悪気があって言うたのと、ちがうかも知れへん)
何となくそう思われてきたのだ。が、和子は、次の水曜日の祈祷会には行かなかった。必ず保郎が来るに決まっている。和子が祈る時、保郎がまた、
(海底電線のようやな)
と思うにちがいないのだ。祈りはすらすらと口から出ればいいというものではない。真実に神の前にひれ伏すという敬虔《けいけん》さがなければ、どんなによどみなく、巧みな言葉で祈ったとしても、それは神の前に嘉よみせられるものではないと、和子は心の中で自己弁護したくなる。
(あの人やって、初めてのお祈りの時、「もといっ!」と大声で言うたやないの)
そう思って、和子ははっとした。あの時、居合わせた者が思わず笑った。父の国一を除いては、中村つね先生だって笑ったのだ。この自分だって笑ったのだ。しかしその笑いに嘲りはなかった。好意的な笑いの筈だった。
(あの人やって、海底電線言うたのは、悪気のつもりやなかったのやわ)
それにしても、あの「もといっ」の保郎が、あれから五カ月過ぎた今では、実に敬虔な祈りを捧げるようになった。自殺を思い立った人間とは思えぬほどに、神への奉仕にひたすらだった。しかも、只熱心なだけではない。いつの間にか、保郎のいる集まりには、笑いが多くなった。誰にでも気やすく話しかける保郎になった。その保郎が、和子にだけはむっつりとした顔を見せることがあった。そんな保郎を、この一週間繰り返し思っては、「海底電線」にこだわるまいと和子は努めていた。
が、今、花枝に、「あんたのほうは進展しとるの、ヤッチンと」と言われたこともあって、「海底電線」の一件を話してみる気になった。
聞いた花枝は、声を立てて笑った。
「和子さんらしいわ。そんなことで、怒って逃げ出すなんて」
「だって、失礼やないの」
「阿呆やなあ和子さん。ま、あんたはもともと固真面目な人やからな。若いもんいうのはな、好きな娘と二人っきりになると、えらく緊張するんよ。そしてな、あらぬことを口走ることがあるのよ。うちの婿はんになるあの人やって、うちと初めて二人っきりになった時、何と言うたと思う?」
「何と言うたの?」
「ぼくは、あんたのようなタイプの人より、野のすみれのような人が好きなんですと言うたんや」
「へえー、失礼な人やなあ。あんた怒らはった?」
「うち、それほど子供やあらへん。言葉だけ聞いて、かっかとなるほど阿呆やあらへん。和子さんとちがうわ」
と、また声を立てて笑い、
「なあ和子さん、相手が自分にどんな気持ち持っとるかぐらい、わからにゃあかんわ。その態度や表情や、その時の状況や、そしてな、それまで示した、その人のすべてから推し測ってな。そうすれば、そう簡単には、かっかとならんわ」
「なるほどなあ。花枝さんは大人やなあ」
和子は家に帰った。と、母が言った。
「和子、たった今、榎本はんが、これあんたに言うて置いて行かはった。今日、礼拝のあと、話しそびれたんやって」
と、ハトロン紙の封筒に入った手紙を手渡した。
和子は夕食の後始末を終えると、自分の部屋に入り、封を切るのももどかしく、保郎の手紙を読み始めた。母の手から渡された時、和子は恥ずかしさに全身が赤くなる思いだった。が、母は一言、
「榎本はんは、こそこそせんと、ええ人柄やなあ、お母はん好きやな、あんな人」
と言った。和子はすぐにも封を切りたかったが、食事の終わるまで、その思いと闘った。母が、保郎をいい人だとほめてくれたことが、和子の心を少し落ちつかせた。
〈主にあって敬愛する和子姉妹。
初めてお便りする失礼をお許しください。先週の日曜日は、まことに失礼をいたしました。ぼくは女性と二人っきりで話をしたという経験を、あまり持っておりませんので、変に固くなってしまっていたのだと思います。あなたを笑わせるつもりで、ぼくは妙なことを言ってしまいました〉
(まあ、ほんまに花枝さんの言うたとおりやわ。あの人、私と二人きりになって、固うなってしまったんやわ)
花枝の言葉を思い合わせて、和子は素直に保郎の手紙を読んだ。
〈ぼくは祈祷会の日、あなたにお会いしたら、すぐ謝るつもりでおりました。けれどもあなたは祈祷会にはお見えになりませんでした。ぼくの言葉があなたを傷つけたことを、はっきりと知りました。ぼくはあなたの信仰生活を邪魔したのです。神の前で謝ります。お許しください。
野村姉妹、信じてください。ぼくはあのあと、こう言いたかったのです。
「あなたのお祈りは海底電線の電話みたいやけど、だけどなぜかぼくの胸に沁みるんや。あなたは本気で神さまを信じとる人やなあ」
そう言いたかったのです。しかしその前に、ぼくはあなたを傷つけてしまいました。どうか、主にあってお許しください。もし許してくださるならば、今度の水曜日には祈祷会に顔を見せてください。ぼくは、学校が始まりますので、また京都に戻ります。冬休みまでは、そう度々淡路に帰るわけにはいきません。
ご両親様方によろしくお伝えください。いつもご馳走になり、お世話になっております。またお手紙上げてよいですか。念のため、京都の住所を書いておきます〉
この時から、保郎と和子の文通が始まった。和子はそれらの保郎の手紙を、親の目にふれてもかまわぬところに置いておいた。和子は隠しごとのできる性格ではなかった。
その年、昭和二十二年(一九四七年)の初秋――。
和子は、京都で勉学中の保郎からの部厚い手紙を受け取った。週に一、二度は文通している二人だったが、その冒頭の言葉が和子の目を捉えた。それは内心、既に心待ちにしていた言葉であった。
〈和子さん、
これは結婚の申しこみの手紙です。男は女に、どんな結婚の申しこみ方をするのか、ぼくは知りません。が、ぼくはぼくなりの誠実をもって、今、神の前に祈ってペンをとりました。
戦時中、幾人もの若者が、親も恋人も捨てて、祖国のために命を捨てたのであります。弾丸雨飛の中を突き進むところに、軍人の本分があったのです。
和子さん、ぼくは信仰も同様だと思っています。ぼくは将来牧師になる身であります。軍人と同様、唯一絶対の神の命令のもとには、文字どおり絶対に従わねばなりません。妻も恋人もないのです。身命を捨てて、神に敵する者と戦うのが、信ずる者の、わけても牧師たる者の常道であらねばなりません。
男子が十字架に上がらんとする時、女子は愛する者を十字架に押し上げる、そこにこそ崇高なる恋愛があるとぼくは思います。決して十字架から引きずりおろしてはなりません。和子さん、あなたの信仰ならば、それができると思います。
和子さん、夜明けの鐘を打ち鳴らす者は必ず殺されるのです。それははっきりと歴史が示しているところであります。預言者にして大いなる宮殿に住まいした者のあることを、ぼくは聞いたことがありません。安楽に世を送りし者のあることを、耳にしたことはありません。彼らは悉《ことごと》く、あるいは焼き殺され、あるいは十字架につけられ、あるいは猛獣の檻に投げこまれ、悲惨な最期を遂げております。聖書には、そうはっきりと書かれてあります。しかし、彼らはかかる苦痛の境地に立たされながら、その心はパラダイスであります。平安であります。ここにおいて、初めて神の偉大なる愛が現れるのであります。恐るべき死も、神に依《よ》り頼む者にとっては、喜悦の死であり、栄光の死であります。……〉
結婚の申しこみであるという冒頭の言葉に、胸を躍らせていた和子は、そこで思わず吐息をついた。そこには、若い男が若い女にささやく甘い言葉は、一言もなかった。戸惑いを感じながら、和子は再び保郎の手紙に目を走らせた。
〈……神より「汝はわがものなり」の聖言《みことば》をいただいたぼくには、もはやその指導者であられる神は、絶対にして誤りなきお方であります。そこにぼくの幸福があり、神より祝福を受けた喜びがあるのであります。
われら人間を、無事に、都合よく守ってくだされたから「愛の神」なのではありません。われらを苦痛のどん底に叩き落とし、その死において神を讃美するパラダイスを与えてくださるところに、愛なる神の啓示があるのであります〉
手紙はなおも切々としてつづいた。
〈……ぼくの理想は、生涯の目的は、神のために受ける辱めであり、死であります〉
〈もはやぼくの命は、唯一の父なる神の手中にあるのであります。左するも右するも、神のご意志のままであります。決して、不遜にもとやかく祈ったり願ったりすべきものでは、ないのであります〉
長い手紙を読み終えた和子は、またもや大きな吐息をついた。
(こんな申しこみの手紙ってあるやろか)
およそ常識を超えた結婚の申しこみであった。が、和子は、保郎のそのひたすらな信仰に、深い感動を覚えた。幼い時から、神を第一にして生きるべきことを、祖父の永太郎をはじめ両親から教えられて育った和子には、保郎の言葉がよくわかったのだ。
一生を共にするということがどういうことか、結婚生活に、最も必要なこととはどんなことかを、保郎は烈々と訴えているのだ。
(ほんまやわ。結婚に必要なものは、お金でも物でもないんやわ。神を中心にして生きていくことが必要なんやわ)
和子はしみじみとそう思った。
(けど……)
保郎が和子たちの教会に現れてから、まだ半年そこそこしか経ってはいなかった。初めて祈祷会で祈った時の、保郎の祈りを思った。あの時保郎は、まだ祈り方さえ知らなかった。祈りの中で「もといっ!」と大声で言い、みんなに笑われた保郎だった。その保郎の信仰の、何と急速な成長ぶりであろう。いかに神学生とはいえ、牧師の家に間借りをしているとはいえ、一年経たぬうちに、かくも大きな成長を遂げるものであろうか。和子は、保郎の手紙の最後の言葉に目をやった。
〈このような信仰生活に生きようとするぼくでもよかったら、どうかぼくのよき伴侶になってください。十字架に押し上げてくれる役目を引き受けてください〉
和子は静かに目を閉じ、手を組んだ。
保郎からの結婚の申しこみの手紙を受けた日、和子は直ちに母のたかに見せた。和子としては、保郎に従《つ》いて行くつもりではあったが、しかし一人で決めるには、事はあまりにも大きかった。母のたかは、その長い手紙を黙って読んでいたが、読み終わると手紙を和子に返し、
「結婚は和子自身が決めることじょ。和子はどうするつもり?」
と静かに尋ねた。和子は不意に、その言葉に、日頃の母とはちがった母を感じた。いつもは柔和で、笑顔を絶やさぬ母だった。が、その時の母の顔には微笑がなかった。身の引きしまる思いで和子は答えた。
「うち、榎本さんのところにいきます」
「そう。……祈ってその答えを出したんか」
「うん、祈ったの」
「和子、牧師の嫁はんになるいうことはな、一生に一度も着物を買ってもらえんいうことかも知れへんで」
「え!? 一生に一度も?」
「そうや。そればかりか、嫁入りの時に持っていく着物は、みんな売らにゃならんようになるかも知れん。和子にそれがこらえられるか」
「それはわからへん。けど、こらえる力が与えられるように、お母さんも祈って欲しいわ」
和子の表情は緊張していた。
「それからな。財布に一銭もない日が十日もつづくことやってあるんや。それにもこらえられるか、和子に」
金が全くないという状況を、和子は実感できなかった。それは想像外のことだった。生活の惨めさを想像できないだけに、若い和子には耐えられるような気がした。
「何とか頑張ってみる」
自信はなかったが、和子はそう答えた。その和子の顔をじっと見つめていたたかは言った。
「しかもな、榎本はんの手紙によれば、和子は榎本はんを十字架に押し上げるために行くんじょ。映画に行ったり、楽しく旅行したり、そんなことはみな諦めんならんのよ」
「…………」
「もう一度よう祈ってみい。ええな。わたしは賛成も反対もせえへんで。事を決めるのは、あくまでも本人のあんたやで」
一晩まんじりともせず、和子は祈り、かつ自問自答した。
(そうや、夫を十字架に押し上げるということは、共に十字架につくことやな)
ようやくそう納得した時、夜も白んでいた。翌日、和子は母に言った。
「お母さん、うちは覚悟決めたわ」
たかは黙って和子の顔を見た。やや経って、たかは言った。
「ほうか、覚悟を決めたか。和子、お母はんはな、本当はな、産婆さんをするより伝道師になりたいと思っていたんじょ。だからあんたが牧師と結婚する日の来るのを、ずーっと祈っていた。牧師の妻になるいうことは、つまりは、献身することやもな」
と、初めてにっこりとした。
和子は心をこめて保郎に手紙を書いた。率直な喜びを述べた保郎からの返事も来た。そして半月と経たぬうちに、またしても保郎から部厚い手紙が来た。保育園の仕事を終えて疲れていた和子も、自分の机にある保郎の手紙を見ると、ぱっと明るい表情になった。保郎は筆まめだった。和子が一通書くうちに、保郎は二通書いた。
(なんや特別の手紙みたいやわ)
和子は口もとに微笑を浮かべて、いつもより厚い手紙の封を切った。
〈和子さん、
きょうはぼくのために祈ってください。祈ってからこの手紙をお読みください。ぼくはこの手紙を書くのに、ほんまに迷いました。なぜなら、この手紙を読み終わった時のあなたは、ぼくから心が離れてしまうのではないか、ぼくを軽蔑するのではないか、怒るのではないか、そう思ったからです。
和子さん、これはぼくの罪の告白です。ぼくはあなたに結婚を申しこみましたが、ぼく自身の罪を告白していませんでした。ぼくは、罪というものは、人間に告白したからといって、どうなるものでもない、そう思っていたのです。罪は神の前に告白すべきものであると思っていました。ぼくの心の奥底を知り給う神は、ぼくが告白した罪も、ぼくが忘れ去っている罪も、悉《ことごと》く十字架の贖《あがな》いによって赦《ゆる》してくださると、信じていました。だからこそぼくは、キリストを信じて、喜んで、自分の一生を、父なる神に委ねようと決意したわけです。自分の罪が赦される、悉く赦される、これはどんなに大きな喜びであることか、それはあなたにもわかると思います。ぼくの罪を悉く担ってくださったキリストに、感謝したればこそ、ぼくは献身して牧師になる決意をしたのです。
ところが、ぼくは間借りをしているこの円町《えんまち》教会の中山牧師から、
「君には罪がわかっていない」
と、叱責されたのです。ぼくはその時、体がぶるぶると震えました。神を恐れて震えたのではないのです。
(何をこの牧師が!)
という怒りに、体が震えたのです。罪がわからずに、罪の赦しの喜びがわからずに、一生を神に捧げようなどと、誰が思うものか、ぼくの教会への熱心、キリストへの燃えるような愛を、この牧師は一つ屋根の下に住みながら、どうして知ることができないのか、ぼくは傲慢にも、そう思って怒ったのです。ぼくはぼく自身を、われながらよく祈る人間だと思っていました。それはあなたも認めてくださると思います。ぼくと同じこの教会の間借り人に熊谷ヨシ子さんという、愛らしく美しい女性がいます。彼女は素直な、よい信仰を持っている女性ですが、ぼくにこう言ったことがあります。
「榎本お兄ちゃん、お兄ちゃんの部屋の障子、いつ開けてもお兄ちゃんは祈っとるわね。机の上に手を組んで」
そんなぼくなのに、牧師はぼくに罪がわからないと言ったのです。ご存じのとおり短腹なぼくですから、その夜は眠られぬほど怒りました。生意気だとか、傲慢だとか言われるのならまだしも、罪がわからないということは、あのキリストの十字架がわからないということです。それはキリストに対して申し訳ないことです。だからぼくは怒ったのです。許せなかったのです。
では、なぜぼくが、中山牧師からそう言われたか、和子さん、先ずそのことをお話しします〉
和子は、事が罪の問題と知って、いったいどういうことなのかと、不安を感じながら読み進めた。
〈……二、三日前、ぼくは知人を訪ねて山陰地方に旅をしました。宮津の駅で、魚を背負い、手に持てるだけ魚を提げた闇商人が十数人乗りこみ、ぼくの前の席にも、その一人である女性が坐りました。
ところが、園部《そのべ》に着いた時、不意に二、三人の警官が入って来て、
「全員列車から降りろ。荷物の点検をする。点検を受けたら向こうの列車に乗り継ぐこと」
と命じました。さあ大変、闇屋たちはあわてふためきました。ぼくの前に坐った中年の女性が言いました。
「お兄ちゃん、頼む、これ持ってて。これは鯖《さば》五、六匹や。このくらいのことで挙げられへん」
否も応もありません。彼女はぼくの膝の上に包みを押しつけて降りて行きました。ぼくはあわててそのあとを追いました。ぼくは意気地のない男ですから、警察に引っ張られるだけで怖いのです。
乗客たちはプラットホームに一列に並ばされ、臨検が始まりました。たちまち幾人かが捕まり、何とその中に、件《くだん》の女性もいました。
和子さん、この時あなたならどうしますか。ぼくは思わず、二、三歩その女性に向かって走りかけたのです。
(魚を返さなあかん)
そう思ったのです。しかし次の瞬間、
(けど、ぼくも仲間と思われたら大変や)
と思う気持ちが素早く働きました。そしてそれを弁護するように、
(これを返したら、あの人の罪が重うなる)
と思ったのです。あとで考えると、ぼくはその魚を、プラットホームにそっと置いて帰ってもよかった。しかしぼくは、
(腐らしたらもったいない)
と、その魚を持って帰りました。その時検挙されたのは、どうやらブラックリストに載っていた常習犯の人たちだけであったようです。
ところでぼくは、もらったわけではない、只預けられたその魚をやり場のないまま、中山昌一牧師の家に持って帰りました。
「保郎さん、こんな活《い》きのええ鯖、どないしました」
と、奥さんに尋ねられた時、ぼくは只一言、
「持たされたんや」
と、答えてしまったのです。奥さんも先生も、同居しているかの熊谷ヨシ子嬢も、私の知人からの土産と思って、喜んで食べてくれました。
さて、几帳面な中山牧師は、早速礼状を書くと言いました。万事休すです。ぼくは「持たされた」状況を、事細かに述べたわけです。その時です。牧師は憤然として、
「榎本君、君は罪が何たるものか、わかっていない。罪のわからぬ者に福音がわかる筈はない」
と、叱責したのです。ここで、俄然ぼくが怒ったというわけです。全身を震わせて憤激したわけです。
ほとんど一睡もせずにその夜を過ごしたぼくは、夜が明けるや否や、まだ眠っている先生を起こして抗議しました。
「罪がわかっていればこそ、ぼくは献身したんや。そのぼくに罪がわからんとは……」
怒りのあまり絶句するぼくに、先生は静かに言いました。
「そうか、君は罪がわかっとるのか。けど、それは観念としてわかっとるということや。神の前においての罪の悶《もだ》えはあらへんのや。罪が観念的にわかることと、罪に悶えるいうことはちょっとちがうのや」
何を言われようと、一晩体を震わせて怒っていたぼくです。そう簡単に納得できるわけはありません。一旦は床に戻りましたが、「罪の悶えがない」と言われたことは、つまりは「罪がわからない」と言われたのと同じであると気づきました。またもやぼくは、憤然として床を蹴り、先生の部屋の戸をがらりと開けて、詰問したのです。すると先生は、
「榎本君、君なあ、自分の犯した罪を、人に告白したことがあるかね」
と、読んでいた聖書から目を上げて、いつもの声で言いました。
「罪の告白?」
ぼくは戸惑いました。
「そうや。むろん罪には大小あって、全く忘れている罪もあるが、これだけはしまっておきたいと思う罪が、君にも幾つかある筈や」
言われた途端、ぼくは満洲での生活を思い出しました。
「その隠しておきたい自分の罪を、自分の親しい幾人かに、心から告白したことがあるか」
「ありません」
ぼくはそう答えざるを得なかったのです。しかしぼくは、罪とは神の前にさえ告白すればよいと思っていました。第一、人間が負っている罪とは、人を殺したとか、裏切ったとか、盗んだとか、いじめたとか、いうような身に覚えある罪だけをいうのではないと、ぼくは思っています。それは和子さんも同様と思います。人間が本来負っている罪とは、神に背を向けている、神のほうを見つめない姿を指しています。神を見つめていないこと自体、神に背を向けていること自体、神への反逆なのです。これが原罪であることは、あなたもよくよくご存じだと思います。われわれの犯す様々な罪は、神に背を向けているところから生まれます。「わたしは何々の罪を犯しました、これこれの罪を犯しました」と告白したところで、罪の解決にはならんと思いました。そこでぼくは、そのように抗弁したのです。すると中山牧師は、じっとぼくの目を見つめました。心の中を見抜くような、鋭い、しかしながら、慈《いつく》しみのこもったまなざしでした。そしてこう言われたのです。
「罪を赦し得る方は神おひとりであられる。だから、罪の告白は神にのみ向かってなされるべきやと、わたしも思う。しかしなあ榎本君、君は、罪は神にだけ告白すればええと思う陰に、何かひそんではおらんかね。つまり、神と自分以外の者には、自分の罪は内緒や、絶対誰にも知られたくないいう思いが、ひそんではおらんかね。自分の罪が知られることだけは、何とか逃れたいという思いが隠れてはおらんかね。信仰は新生や。古い君が死ぬことや。死とは葬ることや。神を知る前に犯した君の罪を、神と人の前に、具体的に紙に書き、告白することができるかね。その時にこそ、君は自分の罪の深さ、罪の本質、罪の恥ずかしさを、自分のこととして真剣に悶えることができるのや」
和子さん、ぼくはそこで、はっと目覚めたのです。たとえば、魚の事件一つにしても、ぼくはできることなら、真相を誰にも知られたくなかったのです。厳密に言えば、ぼくはぼくの魚でないものを、ぼくの物であるかのように差し出したのです。それはインチキです。このインチキ性、ごまかしは、日常あらゆるぼくの行為に、ついてまわっているのではないでしょうか。神の目から見たら、ぼくのなすこと言うこと、自分をさも全《まつと》うな人間のようにふるまっている、まやかしものということになるのではないでしょうか。それに気づいたぼくは、心から神による新生を願いました。古いぼくが死ぬために必要であれば、ぼくは何としても告白しなければなりません。はなはだ苦痛なことでありますが、ぼくは本気で救われたいのです。福音にあずかる者になりたいのです。だから、ぼくはぼくの覚えている最も隠しておきたい、知られたくない罪の幾つかを、一通は父母に、一通は神学部の有賀教授に、一通はぼくの伴侶となるあなたに、認《したた》めようと思っています。
今朝、神学部の礼拝の時に、ぼくは次の聖句を聞きました。
「なんぢ神の審判《さばき》を遁《のが》れんと思ふか。神の仁慈《なさけ》なんぢを悔改《くいあらため》に導くを知らずして、その仁慈《なさけ》と忍耐と寛容との豊なるを軽んずるか。なんぢ頑固《かたくな》と悔改めぬ心とにより、己のために神の怒を積みて、その正しき審判《さばき》の顕《あらは》るる怒の日に及ぶなり」(ロマ書二章)
この聖書の言葉に押し出されて、今、神の前に罪の告白をいたします。
和子さん、ぼくは先ず第一に、あなたに、決して告白したくない罪から告白いたします。もしかして、この告白を聞いて、あなたはぼくから去るかも知れません。決して許してくれないかも知れません。そう思うとペンが進みませんが、しかしぼくは、あなたに見下げられても、あなたに捨てられても、この告白をしなければなりません。ぼくは神に赦していただきたいからです。
和子さん、ぼくは新兵として大陸に渡った時は、女の手一つ握ったことのない純情な若者でした。しかし、敗戦後奉天において、全く虚無的になり、心の荒れ果ててしまったぼくは、重い病気に罹ってしまったのです。闇市街で、高熱のため気を失ってしまいました。その時ぼくを助け、看病してくれた女の人がいました。その人は孤独でした。荒《すさ》み切っていたぼくの心に、人間らしい感情が徐々に立ち返り、ぼくの命の恩人であるその人に、どんなことをしてでも恩返しをしたいと、殊勝な思いを抱くに至ったのです。いつ日本に帰れるかわからぬ絶望的な状態の中で、ぼくとその人は結ばれました。しかしそれは、結婚式を挙げなければ許されない行為だったのです。男と女が結ばれるのは、結婚以外に許されない筈です。たとえ、ぼくが二十そこそこの若者だったとはいえ……ぼくは肉欲の罪に陥ってしまったのです。むろんその意志の弱さを、ぼくは責めつづけてきました。とにかくこの事実を隠していたことも、大きな罪です。
和子さん、どうぞ許してください。ぼくはあなたの伴侶として、値しない者かも知れません。先ず第一にこの罪を告白します……〉
手紙を持つ和子の手が震えていた。
「榎本のお兄ちゃん、そこで何してはるの?」
熊谷ヨシ子に不意に声をかけられて、保郎はぎくりとした。円町《えんまち》教会のすぐそばを小川が流れている。その両側に柳がたなびいている。橋の欄干に寄りかかって、保郎は川面を眺めるふりをしながら、郵便が配達されるのを待っていたのだ。
「いや、な、何もしとらん」
「何もしてないって……お兄ちゃん、昨日も長いこと、教会の前をうろついたり、ぼんやり川を眺めていたやない?」
「何でヨシ子ちゃん、ぼくのすることを、そんなに見てたんや」
「見るつもりはのうても、うちの窓からよう見えるんよ。お兄ちゃん、何か心配ごとがあるんとちがう?」
熊谷ヨシ子は美しい眉根を寄せて、保郎を見た。大阪から来て、病院の事務員をしている同宿のヨシ子は、数え二十三歳の同じ年だが、保郎を兄のように慕っていた。
「ヨシ子ちゃんは、優しい娘《こ》やな、ぼくのことそんなに心配してくれて。実はな、ぼくはこの二、三日、頭が痛いんや。外に出て風に吹かれとるとな、ええ気持ちなんや」
「ほんと? お兄ちゃん。頭が痛ければお薬のんだら?」
ヨシ子は、そう言って教会の玄関に入って行った。中で「お姉ちゃん、お帰り」とはしゃぐ牧師の子供の知樹と国樹の声がした。
保郎は、中山牧師に勧められて、罪の告白を両親と、神学部の有賀教授と、淡路島の野村和子に宛てて送った。教授の返事は、保郎が直接その家を訪ねて行って聞いた。教授は、手紙については何も言わなかった。只保郎のために真実な祈りを捧げてくれた。その祈りの言葉が、保郎の手紙への返事であった。愛に満ちた祈りを聞いて、保郎は深い平安を与えられた。
父母からの手紙も来た。ためゑの達筆な手紙には、
〈お便り読ませていただきました。小さい時からの、友だちと喧嘩をしたこと、人さまの家の池に石を投げこんだことなどから始まった保郎の手紙に、最初は驚きました。そして思いました。これら一つ一つを書くのは、どんなに辛いことかと。お父さんやお母さんには、とても真似ができません。自分の恥ずかしいことは生涯隠していたいものです。信仰の道のきびしさを、お父さんと二人で話し合いました。お父さんは、
「これは心のみそぎやな」
と大きくうなずいていました。体に気をつけて、勉強してください。何も心配しないで、勉強してください〉
と書かれてあった。教授と両親の返事は得たが、野村和子からの手紙はなかなか来なかった。
(無理もあらへん。あんな手紙をもろうて……きっと傷ついたんや)
保郎は澄んだ小川の流れを見ながら不安だった。人一倍清純な和子が、あの手紙によって、どれほど大きなショックを受けたか、目に見えるようだった。
(ぼくに愛想がつきたかも知れへん)
もしかしたら絶交されるかも知れないと、覚悟を決めた上での告白だった。むろん、すらすらと書けた手紙ではなかった。
(書かんほうがええのとちがうか)
幾度も保郎はペンを置きかけたのだった。
(結婚して、十年も経った頃でも、ええやないのか)
そうも思ったのだ。
(真実を告げるのは、むご過ぎるのとちがうか)
ためらいもした。だが、それらの思いをふり払って、保郎は和子に向かって罪の告白を書いた。書き上げたものの、投函にも勇気を要した。
保郎は次第に淋しくなった。どこからか魚を焼く匂いが流れてくる。保郎はふっと奥村光林の父要平の姿を思い浮かべた。畳にひれ伏して祈った敬虔な姿だった。
(あの先生なら……どうするやろ? やっぱり罪の告白するやろな)
そう思った。やや心が落ちついた。
(和子さんなら、わかってくれると思ったんやけど……)
しかし、打ち明ける時期が悪かったと思う。結婚の申しこみをする前に、打ち明けるべきであったと思う。結婚の約束ができた直後に、あんな話を知っては、答えたくても答えようがないかも知れない。
(ぼくは甘えていたのか、ぼくは独りよがりになっていたのか)
保郎は口を歪めた。とその時、川の畔を郵便配達が保郎のほうにやってきた。保郎の胸は高鳴った。
郵便配達の手から渡された封書は、正《まさ》しく野村和子からのものであった。保郎は手紙を鷲づかみにして自分の部屋に駆けこんだ。封を切る手が震えた。
〈イエス・キリストの御名《みな》を讃美いたします。
榎本さん、お便り拝見いたしました。正直の話、わたくしは全身から血が流れ出るような衝撃を受けました。わたくしには何も語らずにいて欲しかったと、お恨みいたしました。けれども、二度三度と読み返すうちに、榎本さんの本当のお姿が浮かんで参りました。その本当のお姿とは、イエス・キリストの十字架のあとを、真剣に従《つ》きしたがって行こうとするお姿です。人間は皆、罪深い者です。わたくしの毎日の生活も、神の前に赦《ゆる》しを乞わねばならぬ生活です。けれども、榎本さんのように何もかも告白する勇気は、わたくしにはありません。従順な素直な信仰がありません。いつの日か、わたくしも榎本さんのような信仰になれるかも知れません。
榎本さん、わたくしのような者に、心のすべてをよくぞ打ち明けてくださいました。あだやおろそかには思いません。正直に申し上げます。わたくしは、男と女というものは、結婚までは手も握らない清い交わりが好ましいと思います。でも人間は、時と場合によって、自分でも願わなかった生き方に巻きこまれることもあると思います。榎本さんに、あの申しこみのお便りをいただいたあと、お会いしましたわね。お互いに心を許した存在として。土曜日の夜と日曜日の夜、二人で福良から神代、神代から福良への山道を歩きましたわね。あの時榎本さんは、真っ暗な山道を歩きながら、讃美歌をうたったり、聖句の諳誦ごっこをしようとおっしゃったりして、とてもさわやかでした。もしあなたが、女性にだらしのない人なら、わたくしも女性の本能でわかります。
満洲でのこと、榎本さんは榎本さんなりの、その持ち前の真正直さと熱心さで、なさったことだと思います。わたくしはそう思い、そのことも榎本さんの大切な人生の出来事として、受けとめたく存じます。
本当は、わたくしもかなり悩みました。悩まないと言えば嘘になります。人間には嫉妬心があります。でも、ロマ書には「神に召されたる者にはすべてのこと相働きて益となる」と書かれてあります。
主の御祝福を心からお祈りいたします。敬愛をこめて。
[#地付き]野村和子
榎本保郎様
追伸 大切なお手紙ですけれど、母にだけは見せました。母は「真面目なお方や。信用できるお方や。ほんまにキリストの赦しを喜んでいるお方や」と言って、わたくしを励ましてくれました〉
保郎は思わず、奥村要平牧師のように畳にひれ伏して、神の名を呼んだ。その時保郎は、
「子よ、汝の罪赦されたり、安らかに行け」
という聖書の言葉を聞いたように思った。
ちいろば
「ギャーン」
と、近くで獣の鳴く声がした。
「何や、あれ?」
誰かが言った。
「狐の鳴き声や」
誰かが答えた。
「へえー、狐? この辺は狐も出るんか」
「狐だって、狸だって出るがな」
みんなが顔を見合わせた。
今日から保郎たち四人の神学生は、あばら家同然のこの寮に移って来た。京都の伏見桃山の丘の上に寮はあった。戦後のキリスト教会は、ようやく農村伝道を唱導しつつあった。同志社大学の神学部が、伏見桃山のこの地にあった農学校を買い取り、農村伝道のセンターをつくる企画を立てた。この農村伝道を志して、四人の神学生が応募した。食糧入手の困難な時代である。この寮に五反の土地がついていることも大きな魅力だったかも知れない。この日から保郎と起居を共にした三人について、保郎はのちに次のように書いている。
〈一人はH君、かれは土佐の山奥の出身で、見るからに田舎臭い男であった。次はG君という中国人、この男はまことにロマンティシズムの権化《ごんげ》のような男で、草を一本ずつむしったり、野花をこよなく愛するといったふうで、一向に仕事はしなかった。次はT君、この男も百姓はしたことがなく、……〉
多分、個性の強い、純粋な若者たちの集まりであったのだろう。保郎は一つ釜の飯を食べた気やすさで遠慮のない言葉をつらねているが、この寮友たちを生涯愛しつづけた。保郎はこの中で生涯の友を得た。それは保郎が田舎臭いと評した林恵《はやしさとし》である。林恵は純粋な信仰を持った青年で、内村鑑三に傾倒していた。その作品集を求めるために、持ち物のすべてを売ったほどの男だった。彼は何年か後、大学に失望して土佐に帰って行った。しかし保郎との交友は、保郎が死ぬまでつづいた。林恵の長男が生まれた時、林はその名を保郎と名づけた。保郎は、
「林、お前、保郎保郎と呼び捨てにして、ええ気分になるつもりとちがうか」
と冗談を言った。保郎はその男児が生まれた時、恵《めぐみ》と名づけた。保郎の葬式に、保郎の遺言によって説教したのが、実にこの「田舎臭い男」小学校校長の林恵であった。保郎は田舎臭いという言葉に、軽佻浮薄な都会への批判をこめていたのかも知れない。親愛の情をこめて、「田舎臭い男」と言ったのかも知れない。
T即ち高正義生《たかまさよしお》は理論家だが、のちに教会創立の募金活動に保郎と行動を共にし、献身的に働いた真実な男だった。
中山昌一牧師の円町教会を離れて、保郎は時折、無性に中山牧師夫妻が懐かしくてならなかった。中山牧師は厳しかった。「榎本君には罪がわかっていない」と、率直に指摘してくれた。大樹の陰にいるような安らぎが中山牧師のもとにはあった。が、同じ年頃の、血気盛んな寮生のいるこの寮には、舎監すらいなかった。雨戸は僅かに二、三枚、その二、三枚の雨戸も容易に動かず、広い家の幾つかの部屋には、障子も襖もほとんどなかった。名もないこのあばら家同然の寮に、みんなで名前をつけることにした。
「しののめ寮はどうや」
「しののめ寮?」
「そうや。聖書に〈しののめを呼び起こせ〉いう言葉があるやろ。この世のしののめを呼び起こすんや」
「それもええが新生寮はどうや」
「悪うないけど、刑務所から出てきた者の寮みたいやな」
「囚人もおれたちも似たもんや。キリストによって罪赦されたもんやからな」
保郎が言うと、林恵が言った。
「けど世光《せいこう》寮はどうや」
「セイコウ? 失敗成功の成功か」
つまらなそうに一人が言った。
「ちがう、そんなんやない。世の光の世光や」
「このあばら家が世の光か」
笑った者がいた。
「建物はぼろでもな、名前は立派なのをつけたほうがええ。世の光はキリストのことや。こんなぼろの家でも、キリストが共にいてくださったら、どんな大きな仕事ができるかわからへん」
「そうやなあ、世光は成功に通ずるかも知れんな」
「そやそや、ええ若もんが志を同じうして、キリストと共に歩んでいけば、少しはましなことができるやろ」
寮の名は「世光寮」と決まった。寮長は林恵であった。保郎が満洲から帰国して一年余が過ぎていた。
世光寮は、京都市伏見区桃山町伊賀にあった。寮には保郎たち神学生のほかに、桃山農学校の生徒五人も共に住んだ。その農学校の生徒たちこそ迷惑だった。保郎たち神学部の学生(保郎だけは聴講生)は朝早く起き、大声で讃美歌をうたい、祈り、聖書を読む。そして、学校に行く前に、寮生に委された農地五反を耕したり、種を蒔いたりし、学校から帰って来ると、また畠に出る。
畠仕事を終えると、保郎たち神学生は持っていた鍬を畠に突っ立てて、その柄に手を置き、夕闇の迫る中で、一人一人真剣に祈るのだった。時折、神学生たちは、
「どうや、ぼくたちが汗にまみれた手拭いを首に、鍬の上に手を置いて祈る姿は、ミレーの『晩鐘』の絵みたいなものやないか」
「そうやそうや」
神学生たちは満足した。
「しかし、ミレーの『晩鐘』には、男と女がいたわな。野郎ばかりでは、ミレーやなくて、ヤローやな」
保郎たちのそんな生活の中に、桃山農学校の生徒たち五人も、いつしか親しんでいった。保郎は林恵と、しばしば夜の夜中まで信仰について語り合った。
「な、林、ぼくは学校は出ても出えへんでも、ええんや、只信仰があれば、伝道者になれると思っとんのや」
「ぼくもおんなじや、榎本。神が共にいましてくださるなら、この世の牧師だの、伝道師などの資格などのうても、教会は成り立っていくと思う」
「そうやな。問題は神が共にいますかいまさんかや。大学を出るか、出ないかではない。そこんとこをよう踏まえておかんと、信仰の純粋さが保たれへんと思うんや」
二人はまだ洗礼を受けていなかった。が、キリストに生涯を捧げんとする思いは、烈々として燃えていた。夜明けまで語り合い、祈り合うこともしばしばだった。
ある時保郎は林恵と畠の草取りをしていた。保郎の家は半商半農であったから、農に親しんでいる。林恵も土佐で既に農学校の教師をしていた身だから、土に親しむことは好きだ。
「なあ、林。ぼく、この頃、ろばのことを思うんや」
「ろば? ああイエスの乗られたろばか」
「そうや」
保郎は何日か前、聖書のルカ伝を読んでいた。そこにはこうあった。
〈オリブといふ山の麓《ふもと》なるベテパゲ及びベタニヤに近づきし時、イエス二人の弟子を遣《つかは》さんとして言ひ給ふ、『向《むかひ》の村にゆけ。其處《そこ》に入らば、一度《ひとたび》も人の乗りたる事なき驢馬《ろば》の子の繋ぎあるを見ん、それを解きて牽《ひ》ききたれ。誰かもし汝らに「なにゆゑ解くか」と問はば、斯《か》く言ふべし「主の用なり」と』〉
「林、ぼくはここを読んで、胸がとどろいたわ」
「胸がとどろいた? 何でや?」
「向かいの村に行けと、イエスさまは言わはったな。ぼくの生まれ育ったところは淡路島や。本州から言えば向かいの村や」
「それもそうやが……それで?」
「ぼくはなあ、イエスさまが、なんで子ろばなんぞに乗ろうと思ったんか、考えたんや」
「なるほど」
「ええか、林。しかもイエスさまはな、一度も人の乗ったことのない子ろばに乗ろうとなさったんや」
林は深くうなずいた。
「ぼくがな、もし何かに乗ろうと思ったら、ろばなんぞには乗らん。馬に乗るやろな。嘘かほんとか知らんが、ろばはな愚図な、魯鈍な動物やと聞いとる。ぼくなら、ろばには乗らん」
「ぼくもそうやな」
「ところがイエスさまは、一度も人を乗せたことのない子ろばに乗ろうとされた。ぼくなら、せめて何度も何度も人を乗せたことのある親ろばを使うわ。一度も人を乗せたことのないいう以上、ほんとの子ろばや、ろばの赤ん坊や。乗り物として下の下や。そう思った時、林な、あ、ぼくも人間の中の下の下やと思ったんや。人を乗せたら、何歩で参るかわからへん、そんな力なしや思ったんや。けどな、イエスさまはな、小さな子ろばに乗って、エルサレムに入城なさった。ぼくもな、主の用なりと言われたら、愚図やけど、イエスさまを乗せてどこへでも行こ、そう思って眠れへんかったんや」
保郎の目は燃えていた。
昭和二十三年(一九四八年)夏休み――。
この夏休みには、ゆっくり淡路島に帰り、父母を手伝い、福良の教会を助け、野村和子との交わりも深めたいと、保郎は心躍らせて待っていた。が、夏休みには寮生それぞれに予定があって、誰一人寮に残るという者がない。
「こうなると、日頃はありがたい畠も邪魔やなあ」
寮生たちは呟《つぶや》いた。畠には甘藷《かんしよ》もよくできた。ろくな肥料もやらないのに、麦も野菜もよくできたし、貧弱ながら玉ねぎもできた。この畠を一カ月以上も投げ捨てて、寮を空にするわけにはいかない。誰が残るかということになった。誰一人、自分が残るという者はいない。
「聖書では、こんな時くじを引くわな」
誰かが言った。
「そやそや、くじが一番や。信仰的や。くじに当たった者が残ることに決めようやないか」
保郎はいやな予感がした。そして予感どおり、くじは保郎に当たったのである。
「まあええわ。わしはちいろばや、ちいろばや」
保郎はそう言って、自分自身を励ました。子ろばが、何の力がなくても、自分の都合はとやかく言わずに、素直にイエスを乗せた。そのように、自分も素直に、夏休み一杯留守番をしようと決意した。
(留守番いうても一日や二日は都合して、淡路に帰れるやろうしな)
野村和子の明るい笑顔が目に浮かんだ。
臆病《おくびよう》な保郎は、俄《にわ》かに山の中に一人残されて、落ち着かなかった。大きな声で聖書を読んだり、讃美歌をうたったり、祈ったりした。畠の草を引きながらも、絶えず讃美歌をうたった。しかし只一人ということは、言いようもなく淋しいことだった。保郎はせっせと野村和子に手紙を書いた。
〈ぼくはちいろばです。小さなろばです。自分は小さなろばであっても、主のご用とあらば、世界の涯までも、イエスさまをお乗せして、素直に歩む者でありたいと思います〉
父母にも、円町の中山牧師にも、福良の中村つね牧師にも、葉書を書いた。小鳥の声だけがするこの山の中で葉書を書くと、いつもよりしみじみとした思いになって、保郎はその一人一人のために祈った。
今日も心待ちに郵便配達を待っていると、珍しく妹のかつみから封書が届いた。保郎はちょっと眉をひそめた。
〈かつみの奴……何や、もめごととちがうか)
かつみは昨年十二月、神代《じんだい》のすぐ近くの仲岡家に望まれて、嫁いで行った。夫となった人の弟が、かつみの受け持ちの生徒であった。家庭訪問に仲岡家を訪ねたかつみに目を注めたのは、姑であった。軍隊から帰った保郎は、なかなか戦後の日本の生活に馴染めず、妹のかつみや松代に、白粉《おしろい》や口紅をつけることを、口やかましく禁じていた。パーマネントをかけることにも反対していた。だから、白粉け一つないかつみだったのだが、子供を通してかつみの人柄を聞いていた仲岡家では、訪ねて来たかつみと話し合って、その聡明さ、優しさ、明るさに好感を抱いた。
この縁談の交渉に終始当たったのは、まだ二十三歳の保郎だった。父の通が出向くと言うのを保郎が抑えた。表向きは病弱ということであったが、「お父さんが行ったら、ほらを吹いて大変なことになる」というのが本音だった。保郎は、ためゑを自転車に乗せて仲岡家に行き、集まった近所の人々の前にこう言った。
「かつみは不束《ふつつか》な者ですが、役立つ人間になると思います。きっと仲岡家のためにも、近所の皆さんのためにもなる娘だと思います。迷惑をかけるような娘ではありません。榎本の家では、子供を自由に育てました。貧しくて、立派な箪笥や嫁入り道具など、充分に持たせることはできませんが、どうぞよろしうおねがいいたします」
結婚の日には、人手を頼んで、荷を積んだ荷車を曳くのがふつうだったが、復員服の保郎が、箪笥や鏡台を載せた大八車を、一人で曳いて行った。仲岡家は豪農で、結納金が一万円であった。庄屋の息子である通は気位が高く、万事に派手であった。保郎はその通に、かつみの婚礼のことを委せかねた。満洲から帰って、自殺騒ぎや、キリスト教入信の件で、父母きょうだいに迷惑をかけたという思いが強かった保郎は、かつみの結婚について、両親以上に心を配った。今、かつみの手紙を手にして、保郎は自分が深く関わっただけに、俄かに不安を覚えたのである。
〈お兄ちゃん、ごぶさたいたしました。一度ゆっくりお手紙書きたいと思いながら、ごぶさたしてすみません。お兄ちゃん、仲岡家は本当に天国のように平和な家庭です。この世に、こんな家庭があったんやろうかと、わたしは毎日毎日驚いております。大きな声を出す人は一人もおりません。口から出る言葉は、あたたかい言葉ばかりで、わたしはいつもいつも、いたわられています。毎日毎日感謝で一杯です。
お兄ちゃん、至らないかつみですが、近く母親になります。お兄ちゃんは、このお腹の子の伯父ちゃまになるのです。夏休みには帰らないとお母ちゃんに聞いて、これでも暑中見舞いのつもりで書きました。蚊や蚋《ぶよ》に刺されないように頑張ってください。
[#地付き]かつみ
お兄ちゃんへ〉
保郎はほっとした。赤ん坊が生まれるという知らせもうれしかった。が、それにもまして、「本当に天国のように平和な家庭です」という言葉にも胸を刺された。自分のすぐ下の妹かつみは、この自分の家出や、荒々しくふるまった一時期に、どんなに悩まされたことだろうと思った。給料の何分の一かを、結婚の日まで送りつづけてくれた兄思いの優しさが、俄かに身に沁みた。保郎はかつみの手紙を読み返し、畠に出た。大好きな讃美歌三三八番をうたいながら、保郎は草を引いた。
…………
しずかにきよき みこえをもて
名利《めいり》のあらし しずめたまえ
こころにさわぐ 波はなぎて
わが主のみむね さやに写さん
…………
大声でうたっていると、うしろで声がした。
「ゴクロウサン」
「コンニチハ」
男と女の声だった。不意に声をかけられて、保郎はぎくりとした。先日同志社大学の神学部教授として赴任してきた、マックナイト宣教師夫妻であった。
「こんにちは」
突っ立ったまま保郎は、二人を睨みつけるようにして言った。挨拶というより、咎《とが》めるような声であった。よもや、このような草深いところに、教授が夫人同伴で現れようとは、夢にも思わなかったからだ。五十代とはいえ、夫人は花のように美しかった。その美しさにも、保郎はどぎまぎしたのだ。
「今ノ讃美歌、ワタクシ気ニイッテイマス」
マックナイト教授は、温和な微笑を浮かべて言った。
「はあ」
まだ保郎は固くなっていた。
「ワタクシ、マックナイトデス、妻ハメェリーデス」
「はあ」
「妻ガ怒ルト、ワタクシ、今ノ三三八バンヲウタイマス。スルト妻ハ、ドンナニ怒ッテイテモ、笑イマス」
「はあ?」
保郎は頭をかしげた。マックナイトが何を言おうとしているかわからない。
「ナゼ笑ウカ、ワカリマスカ」
「わかりません」
保郎はぶっきらぼうに答えた。
「妻ハメェリーデス、メイリノアラシシズメタマエデショウ、妻ハ笑イダシマス」
「ああ、名利とメェリーか、
メェリーの嵐 静め給えか」
保郎は大声を上げて笑った。笑うと、保郎の顔は格別人なつっこくなる。笑う保郎を見て、マックナイト夫妻もうれしそうに笑った。
「ぼく、榎本保郎です」
保郎はこの新任の教授について、あまり知識はなかった。戦前は長い間仙台の地にあったこと、農村伝道に最も大きな意欲を抱いていること、その妻が有名な美人であることぐらいであった。
「オオ、エノモトヤスロウサン、オ名前キイテイマシタ」
保郎は寮の縁側に夫妻を伴った。たった一人で留守番をしてはいたが、保郎は生活を崩してはいなかった。毎朝五時には起床して洗顔し、祈りを捧げる。そのあと必ず板の間の拭き掃除をする。幼い時から長月庵に出入りし、短期間ではあっても奈良の伝香寺で、朝早くから働くことを学んだ保郎は、こまめに働いてはいた。決して怠けてはいなかった。よく拭きこまれた廊下に腰をおろしたマックナイトは、ひと目で保郎のあり方を見て取ったのかも知れない。柔和な目が更に、慈愛に輝いて言った。
「ヤスロウサン、聖書ニハ『小事ニ忠ナル者ハ大事ニモ忠ナリ』ト書イテアリマス。神サマハ今ノアナタノハタラキヲ、ジットミツメテオラレマス」
照れている保郎に、マックナイト夫人は小さなスーツケースを開いて、水筒や、サンドイッチや、果物を次々と取り出した。配給米に味噌汁があれば上等と言える食事しかしていなかった保郎は、思わず生唾を飲んだ。
「コレ、イモンデス。サア、イッショニイタダキマショウ」
夫人は保郎に笑顔を向けて、サンドイッチを取り分けてくれた。保郎は夢心地で食前の祈りを捧げた。貧乏くじを引いたと思っていたが、とてつもなくすばらしいくじを当てたような気がした。
「いただきます」
言うが早いか、保郎はがつがつと食べ始めた。
「うまい! うまい! 何とうまいもんや」
ハム、チーズ、トマト、胡瓜、レタス、卵と、サンドイッチの種類は多かった。出すまいとしても手が出てしまう。幾日も欠食していた人間のように、ものも言わずに食べた。魔法瓶には冷たい水が入れてあった。寮の浅い井戸水とは味がちがっていた。
食後、更に保郎は、二人から作業ズボンをもらった。満洲から帰って以来、よれよれの軍服で通していた保郎には、思いがけない贈り物であった。
幾日か過ぎて、淡路島の野村和子のもとに保郎の手紙が届いた。折角の長い夏休みにも、めったに会えない二人は、毎日聖書の同じ箇所を読むことに決めていた。そしてその聖書の感想を交換し合っていた。
〈和子さん、
今日はマタイ伝第一六章です。ぼくは二六節に深く心を打たれました。「人、全世界を贏《まう》くとも、己が生命を損せば、何の益あらん」。この聖句への感想を述べる前に、一つの報告をいたします〉
保郎の手紙には、マックナイト夫妻の来訪について事細かに書かれてあった。
〈……作業用のズボンをもらったぼくは、うれしさのあまり、早速その場で穿いてみました。ほら、アメリカ物の中古品で、胸からつづいたズボンがあるでしょう。「ヨクニアイマス」、夫人のメェリーさんは、うれしそうににっこり笑って言いました。その時、何げなしにポケットに手を入れると、何やら手に触れるものがありました。何と一ドル紙幣でした。ぼくはすぐに夫人に返しました。すると夫人は、
「ワタクシタチノシラナイオカネデス。コノズボンノ中ニハイッテイタノデスカラ、神サマガヤスロウサンニクダサッタノデショウ」
と、受け取りませんでした。マックナイト先生は、そのドル紙幣を日本円に替えて、三百六十円くださいました。
(パンなら七十買える。劇場へ行っても、お釣りがくる。鮨ならば十人前は十分食える)
ぼくはあさましくもそんなことばかり考えました。が、神さまが与えてくださったお金ということを思い返して、ぼくはこれを何に使うべきか、神に祈り求めました。そして祈り終わった時です。畠のほうに、子供たちの声が聞こえたのです。蝶を追って来たのでしょう。子供たちは捕虫網をふりまわしていました。ぼくはその時、はっとしました。京都の円町教会で、中山先生と共に日曜学校をしたことを思い出したのです。今は夏休みです。いわば毎日が日曜日です。
(そうや! 林間学校はどうやろ)
ぼくは、はたと膝を打ちました。梢を渡る風は涼しい。環境のいいところです。ぼくは、神が早速祈りを聞いてくださったと思いました。
それまでの幾日か、ぼくはいささか不満でした。寮生たちはそれぞれの夏休みを、故郷で、旅行先で、楽しんでいる間、ぼくはここで只一人畠の番をしていなければならない、そう思っていたのです。けれども、子供たちを集めて林間学校を開き、そこで聖書の言葉を語り、讃美歌をうたい、学校の勉強を見てやるということは、実に有意義で楽しいことだと思ったのです。思い立ったら、すぐに行動するのがぼくの長所であり、欠点です。早速何枚かビラを書いて、丘の下の街筋に貼りに行きました。信用を得るために、「元小学校教師、同志社大学学生」と記し、会費は一カ月百円であることを付記しました。
(十人来るやろか、二十人来るやろか)
ぼくは心を躍らせて申しこみを待ちました。和子さん、何人申しこんだと思います。只の一人も来なかったのです。
(なんで誰も来ぃへんのや)
八月一日から一カ月百円で林間学校を開いてやるというのに、なぜ来ないのか、ぼくは不思議でなりませんでした。次の日も来ませんでした。ぼくはふとあることに気づき、丘の下の街に、様子を探りに行ってみました。下手糞な字で書いたビラが、あちこちに貼られていました。
(これが見えん筈があるか)
林間学校という言葉を知らんのではないかとも思いました。
(まさか、林間《はやしま》学校なんぞと読んではおらんやろか)
ぼくはいささか苛立ちながら、街の中を見てまわりました。と、二、三人の子供が、ビラの前で何か話し合っているのに出会いました。
「林間学校か、ぼくかていきたいんよ」
五年生ぐらいの男の子が言っていました。
「うちもよ。でも、お母さんがゆるしてくれはらへんの」
「百円の会費は高いもんな。ただやったらええけどな」
「ほんまほんま、ただやったらええんやけどな」
子供たちは残念そうに話していたのです。和子さん、ぼくは恥ずかしく思いました。百円といえば、庶民の生活の中では、はした金ではありません。ラムネ八本ぐらい買えるんですから、大きな出費です。ぼくは、あわよくば林間学校で儲けようとしていたのではないかと思いました。ズボンに入っていたあの一ドルだけで開くべきだったのです。
ぼくは直ちに「会費無料」と訂正してまわりました。翌日、十人ほど子供が来、その次の日は五十人、更に三日目には百人と、うなぎ登りに増えたのです。
さて和子さんは、先に書いたマタイ伝の聖句と、このぼくの失敗談とをどのように結びつけて、お考えになりますか。とにかくどうかこの林間学校が、一粒の麦となるように、お祈りしてください。毎日、神の言葉をしっかり語れるよう、お祈りしてください……〉
この林間学校は大成功のうちに終わった。夏休みの途中で、林恵《さとし》が旅行を切り上げ、帰寮したこともあって、子供たちは毎日喜んで、この丘まで登って来た。学校とは言いながら、机一つないあばら家で、楽しそうな子供の声が絶えなかった。ユーモアたっぷりの保郎の話が、子供たちを惹《ひ》きつけたのである。夏休みが終わっても、子供たちは別れるのがいやだと言った。父兄の一人、上田富という老婦人が、「日曜学校を開いてほしい」と歎願しに来た。保郎たちは迷った。
昭和二十四年(一九四九年)、二十日正月も過ぎた。明けて数え年七歳になった末っ子のセイ子が、午《ひる》さがりの庭先で歌をうたいながら、一人手まりをついていた。そのセイ子が、茶の間に駆けこんで、
「お母ちゃん、向こうからお兄ちゃんみたいな人が来るわ」
と言った。縫い物をしていたためゑが手をとめて、
「お兄ちゃん? おかしいなあ。当分帰れへんいうて、七日に行ったばかりやがなあ」
一人、炬燵に入って本を読んでいた通は、
「そうや、保郎が来る筈あらへん」
と、顔も上げない。
暮れに帰省した保郎が、京都に帰って行ったのは七日の夕方であった。あの日の午後、保郎に電報が来た。はっと表情を変えた保郎に、
「何の電報や、保郎」
と、ためゑが尋ねたが、保郎は、
「いや、何でもあらへん、何でもあらへん」
と、後ずさりしながら電報をポケットにねじこみ、
「お母ちゃん、ちょっと急用ができたんや、ぼく京都に帰る。当分家には戻れへん思うわ」
と、あたふたと発って行ったのだ。何の電報かと、ためゑは訝《いぶか》しく思ったが、無理矢理見せよというわけにもいかない。多分友だちからの呼び出しかも知れないと、その後忘れるともなく忘れていた。
が、今、セイ子の言葉に、ためゑは不意に七日の日の電報を思い出した。
「な、お父さん、もしかしたらほんまに保郎かも知れへんな」
「どうしてや」
話し合っているところに、玄関に保郎の大きな声がした。
「お父さん、お母さん、また来たわ」
「やっぱり、お兄ちゃんや」
おとなしいセイ子が、はにかんだように、保郎と、そのうしろに立っている保郎の友人高正義生を見上げた。
「お父さん、お母さん、友だちをつれて来たわ」
友だちと聞いて、通もためゑも愛想よく二人を部屋に迎え入れた。が、高正はほとんど目を伏せたまま、顔を上げようともしない。
「こいつ、高正義生いうてな、えらい世話になっとるんや。ええ男でな。高正、どうや、うちの両親、ひと目でええ親とわかるやろ」
高正はうなずいたが、やはり目を伏せたままだ。なぜ顔を上げ得ないのか、保郎にはわかっているが、通とためゑにはわかる筈がない。極端に人見知りする若者に見えた。
お茶と塩煎餅が出された。保郎は陽気に言った。
「あんな、お父さん」
いつもお父ちゃんと呼ぶが、人前だから「お父さん」と呼んだ。
「ぼくたち世光《せいこう》寮には、神学生が四人、農学生が五人いるけどな。それはそれは仲がええんや」
「それは何よりのこっちゃ」
保郎が上機嫌なので、通も機嫌よく相槌を打つ。が、ためゑは、
(この間来た時の保郎とは、えらいちがいや)
と思う。あの時の保郎は、何かそわそわと落ちつかなかった。絶えずぶつぶつと口の中で呟《つぶや》いていた。
「何を独り言いっとるのか」
と尋ねると、
「祈りや。祈りは信者の呼吸いうてな、絶えず祈るんや」
保郎はそう言っていた。が、何か屈託がありそうで、ためゑは聞いてよいものか、悪いものか、ためらっていた。野村和子とのことは、通もためゑも聞かされていた。
「結婚するんなら、あの人がええと思うんや。一生を共にしてくれる立派な信仰を持った娘や」
保郎は繰り返しそう言っていた。通は、
「当人のお前がええと思うんなら、それでええ。しかし、責任を持って事に当たらなならんで」
と、意外に何の文句も異議もなかった。もしかして、その野村和子との間がこじれたのではないか、ためゑは正月の間中案じていた。そんなところに電報が来、保郎は緊張した面持ちで京都に帰って行った。あれからまだ半月足らず、不意に帰って来た保郎の機嫌は、奇妙によすぎるように思われた。
「何ぞええことがあったのか、保郎?」
ためゑがおずおずと聞いた。
「ええこと? ええことどころではないわ、ほんまにええことがあったんや。なあ高正」
相変わらず俯いたまま、高正がうなずく。
「どんなええことや、保郎」
通が言った。
「ほら、お父さん、ぼくら夏休みに、子供集めて林間学校をしたこと、手紙にも書いたわな」
「うん、百人集めたとか言うてたな」
「そうや。そしてな、夏休みが終わって、これで解散や言うたらな、父兄から反対が起きたんや」
「反対?」
「そうや、上田圭子ちゃんいう三年生の子のお婆ちゃんがな、寮に訪ねて来たんや。そのことも手紙に書いたと思うけどな」
「ああ、日曜学校してくれって来たんやろ」
「そうなんや。このお婆さんは、うちのお母さんみたいに小そうてな、七十一とか言ってたわ。武士の娘やいうてな……今頃武士の娘もないと思うけど、早く未亡人になった人でな、その人の息子も戦死しとるんや」
「ふーん、気の毒になあ。じゃあ、その圭子ちゃんいう子のお父さんが戦死したんやな」
「そうや。四つ五つの孫もいてな。嫁さんと二人で、内職して食べとるんや」
「それは大変なこっちゃ。それで?」
「そのお婆ちゃんが、日曜学校して欲しい言うたんやけど、みんな学生やから、勉強をせんならんの、畠仕事だけでもしんどいのと、反対してな。けど、ぼくはそのお婆ちゃんの願いを、何としても斥けることはでけへんかった」
「ほうか。それはええことをした」
ほっとしたように通が言い、ためゑもうなずいた。
「ほうか、お父さんもええことをしたと思うてくれるか」
「そりゃ、思うわ。第一、林間学校でお前がつまらんことを教えとったら、誰も頼みになんぞ来んわ。頼みに来たいうのは、ええことした証拠や」
「うれしいなあ、お父さんにそう言われると。なあ、高正。高正たちも、結局はみんな手伝って日曜学校やってくれたんや。これがなあ、また父兄たちに喜ばれてな、クリスマスには父兄も大勢集まってな、それは楽しいクリスマスをしたわ。けどなあ、残念ながら、それ以上日曜学校つづけるわけにいかんようになった」
「どうしてや」
ためゑがお茶を入れ替えながら言った。
「寮が閉鎖されることになったんや」
「ふーん、ほなら仕方あらへんわな」
「ところがな、そのお婆ちゃんがな、また父兄たちと一緒になって、絶対に日曜学校やめんといてください言うんや。なぜか言うとな、子供たちが目に見えてようなってきた言うのや」
「ようなってきた?」
「うん、みんな明るうなってな。小さい子を可愛がったり、年寄りをいたわるようになったり、学校の勉強もようするようになったんやって」
「ほう、そりゃあ、大したもんや」
「だから、絶対やめんといて言うのや」
「そりゃ、無理もあらへん。何とかつづけてやれへんのか」
「しかしな、お父さん。場所がなければどうにも仕方ないんや。何せ、百人も来るんやから」
「百人!? そりゃ、大したもんや」
「お婆ちゃんがな、場所を見つけたらやってくれるか言うんで、場所があればそらやれると答えたんや。そしてな、その家が見つかったんや。この間電報きたやろ。あれが、家見つかったいう知らせやったわけや」
「ああ、あれがその電報やったのか」
ためゑがうなずいた。
「うん、そうや。けどなあ、それからが事や。その家はな、二階建てのえらい広い家で、日曜学校だけでのうて、保育園でも教会でもできるほどや」
「よかったやないか、保郎。それでその家大学が買うてくださるんか」
ためゑがちょっと不安そうに尋ねた。
「それなんや、お父さんお母さん。父兄たちも、大学が買うてくれると思っているらしいんや。大学の寮で始まった林間学校やから、大学が責任持ってくれると思うとるのや。けど、林間学校も日曜学校もぼくらがやったことで、大学とは関係ないんや」
「ほなら、誰がその家を買うんじょ」
通の声が少し大きくなった。
保郎は通とためゑの顔を交互に見ながら言った。
「ぼくや」
「何!? 何と吐《ぬ》かした?」
「ぼくや」
「ぼくや? なんぼの家じゃ。二万三万で買える家やないやろ」
「二十万や、二十万」
「二十万!?」
通とためゑが同時に叫んだ。
「保郎! お前、数えで二十五とは言え、まだ高校生の分際じょ!」
保郎は昨二十三年春、学制改革で高校三年に編入し、高校生の身分のまま神学部の聴講をしていた。これから正規の大学に進学しなければならない身である。
「…………」
「保郎! ようく聞け。お前はなんでそういつもいつも、とてつもないことを考えるんや。二十万いう金がどれほどの金か、お前は知っとるのか。小学校の教師の初任給は、三千円そこそこやと、昨日聞いたばかりや。ということはだな、およそ六年分の給料やいうことじょ。高校生の分際で、どうして算段するつもりや」
一旦大きくなった通の声が、呆れ果てて低くなった。
「けどお……」
「何がけどや。保郎、お前、気がちごうとるとちがうか。お前はどうして人と同じことが考えられへんのや。旅順の師範に入るの、突然キリシタンになるだの、自殺するの、そして今度は神学部を卒業せんうちに日曜学校をひらくの、そのために二十万要るの……呆れてものも言えへん、なあ、ためゑ」
「いや、それが、明後日までにとりあえず十万円渡せば、こっちのものになるんや。そうなれば保育園かてやっていけるんや」
「明後日までに十万円? あとの十万円はどうするんや」
「今年の暮れの二十五日までに揃えればええことになっとるんや。なあ、高正」
通とためゑは顔を見合わせて吐息をついた。
「ええか、保郎、ようく落ちついて聞くんや。誰が高校生のお前に、たとえ一万かて出すと思うか。今は誰も彼も食うだけであくせくしとるんじょ。明後日までに十万円? いったいお前、ほんまに正気か」
「ま、ぼくの言うことも、ちょっと聞いてください。お父さんは神がいると思いますか、いないと思いますか」
「そら、神はおられるに決まっとるがな」
十八もの神棚を祀っている通としては、当然の答えだった。
「人の目から見れば、ぼくのすることは馬鹿げておるかも知れません。しかしお父さんお母さん、神のお心に叶うものなら、ぼくの祈りは必ず聞かれると信じているんや。ぼくは身分は高校生かも知れへん。けど、ぼくは神を信じているつもりや。洗礼も受けてへんけど、命がけで信じとるつもりや。年は数えで二十五、体も丈夫や。ぼくに日曜日ごとに、キリストの言葉を聞きたいと思うとる子供がいるいうのに、神さまが祈りを聞き給わん筈はないと思う」
「お前、大学はどうするつもりや」
「つづけていきます」
「大学に通いながら保育園をする、日曜学校をする、そんな話は聞いたことないがな」
「聞いたことのないことは、してはならんのですか、お父さん。ぼくは七日に電報もろうてから、十万円の募金に駆けまわりました」
「一銭も集まらんかったじゃろう。それで泣きつきに来たかて、この貧乏暮らしに、十万円の大金などある筈はない!」
「いいえ、お父さん。マックナイトという宣教師の先生が、先ず五万円くれはりました。この高正のお父さんも一万円、野村和子さんのお父さんも一万円くれはりました。そのほか、百円二百円と、多くの人が出してくれたのです。締め切りまでの三日間で、もう九万五百円の献金がありました。あと一万円お父さんが出してくれはったら、あの桃山の土地と家は、買えるんです。お父さん、ぼくは本当に不信仰で、宝くじを買うたりして、神をないがしろにしました。それでも神さまは、高校生のぼくに九万五百円与えてくださったのです。ぼくは神さまに、保育園と日曜学校を通して伝道することを約束しました。もしできなければ、ぼくを殺してくださいと祈りました。お父さん、ぼくが死んだ思うて、葬式代として、一万円出してください。おねがいします」
保郎は両手を畳について頭を下げた。通は、
「この馬鹿もん! 生きとるもんに葬式代が出せるか!」
と、大声で怒鳴った。いつの間にか学校から帰った中学二年の悦子や小学四年生の寿郎や、二年生の栄次が、そっと隣の部屋から顔をのぞかせて、心配そうに肩を寄せ合っていた。
長い沈黙のあと、通は舌打ちをして、
「ためゑ、一万円出したれ」
と、力なく炬燵から立ち上がった。保郎は、
「お父さんお母さん、あ、り、が、と、う……」
と、言葉を途切らせた。
一月二十五日――。
いよいよ売買契約の日が来た。立会人は高正義生と上田富と洛陽教会の遠藤牧師の三人であった。遠藤牧師は保郎たちの強力な支援者であった。保郎は朝から緊張していた。何しろ十万の大金を人手に渡すという、臍《へそ》の緒《お》切って以来初めての経験なのだ。幾人かの者から、
「だまされるなよ」
「不動産の売買では、素人はよくころりとやられるいうで」
「学生相手に家を売ろうというような者は、先ずおらんと思うがな。ほんま信用できるんか」
そんな言葉ばかりが、浮かんでくるのだ。
(もし、だまされたらどうしよう)
不動産売買の契約書なるものの、いかなるものが正しいのか、どこにおとし穴があるのか、保郎にわかるわけがない。立ち会ってくれる高正義生にしても、老女の上田富にしても、遠藤牧師にしても、不動産売買については、ほとんど無知同然の素人ばかりだった。金が集まるかどうかと、必死になっていた時の不安よりも、大きな不安が保郎の胸に押しよせてくる。
(マックナイト先生の五万円やって、先生としては大変な大金なんや)
保郎はそう思う。アメリカ人は誰も彼も皆金持ちだと思っている日本人たちの中には、
「たった五万円しか出さんなんて……」
と言う者もいた。が、保郎には、マックナイト宣教師の生活がよくわかっている。マックナイト宣教師は六十近かった。長女は既に死んでおり、次女は軍人に嫁し、息子も結婚していて、夫妻は老境に移りつつあった。つとめて生活を質素にしながら、多くの日本人牧師や教会を支援していた。マックナイト夫妻が礼拝に出ると、その日の席上献金の額は、他の週より大幅に大きくなるという評判であった。その祈りのこめられた五万円を、だまされて失ったなどとは、絶対に言えない。
高正の家も金持ちとは言えなかった。野村和子の家は豊かだが、一万円は信仰なくしては捧げ得ぬ額であった。保郎の父母の捧げてくれた一万円は、それこそ血の滲むような金である。保郎は今更のように、この大金を自分に与えてくれた神を恐れずにはいられなかった。
(そうや、神がゆるしてくれたんや。だまされる筈はない)
そう確信はしたが、それでも契約書に判を押す保郎の手は震えていた。
大八車
「お父さん! お母さん! 大変やわ」
自分の部屋で何かしていた和子が、手紙を手に入って来た。
「何や、そんな大きな声を出しよって」
今、産婦の家から戻ったばかりの母のたかが、和子をたしなめた。飯台の上に夕食の食器を並べていた姉の益子《えきこ》も、驚いたように和子の顔を見た。ふだんの和子にはない表情だったからだ。父の国一《くにいち》だけが、静かにその和子を見た。
「お母さん、これ見て、榎本さんがな、すぐ結婚しよう言わはるんや」
和子は手紙を母に手渡した。
保郎と和子は、中村つね牧師によって、昨年既に婚約式を挙げてはいた。
「結婚できる日まで、明るく清くつきあっていこう」
保郎と和子はそう約束した。京都と淡路島に、離れて暮らしてはいても、毎日聖書の同じ箇所を読む、朝起きた時と夜の九時には、時を同じくして神に祈りを捧げる。それが二人の、お互いへの愛の証《あか》しであった。和子はそれで充分満足していた。むろん毎日会うことができれば、どんなに楽しいことかと思わぬわけではなかったが、互いに聖書を読み、同じ時刻に祈ることで、和子は深い喜びを与えられていた。この春新制高校を卒《お》え、新制大学入学予定の保郎との結婚は、数年後になると、和子は一人心に決めていた。毎日保育園の主任保母として働きながら充実した日々を送っていた。その和子に来た手紙は、正に不意打ちであった。
〈和子さま、
主《しゆ》にあって平安を祈ります。皆さまのお祈りやご協力によって、二百四十坪の土地、百二十坪の家を、ようやく入手できました。ぼくは早速桃山御陵の丘に行きました。桃山御陵は何十段も石段を登る、高い高いところにあります。今夜は寒い夜でした。月が皎々《こうこう》と、眼下の山城平野を照らしていました。この桃山から奈良のほうまで見はるかしたぼくは、
「この土地を汝の伝道の地として与える」
という神の言葉を聞いたような気がしました。物音一つ聞こえぬ静寂な山の上で、ぼくは思わず大声で、
「これが、神が与えてくださった伝道の地や。神さま、弱い僕《しもべ》に力をお与えください!」
と叫びました。
しかし、和子さん、伝道の仕事は、ぼく一人ではできません。あなたに助けていただかなくてはなりません。和子さん、すぐに来てください。そして、神の与えたこの家で、すぐ保育園を開いてください。ぼくは今、桃山から大急ぎで走って帰って来て、すぐさまあなたに手紙を書いています。ぼくが示された開拓伝道が、もし主の御旨と信ずることができたら、一日も早く結婚してください。ぼくたちが結婚する目的は、すなわち伝道にあります。伝道が決して平坦な道でないことは、これまで幾度も申し上げました。
祈りつつ、お返事をひたすらお待ちします。お父さまお母さまにもお祈りしていただいてください。今日は一月二十六日です。できれば二月中に結婚したいと願っております。
[#地付き]保郎
和子さま
P《*》S ぼくは早速、この染物工場だった家に床を張り、壁を塗ることに狂奔しなければなりません。そして、できるならば四月一日から保育園をひらきたいのです。そのためには、三月の末には献堂式を執り行わねばなりません。ぼくの心は燃えています。ぼろ家を抱えて文《もん》なしですが……いえ、募金の五百円が残っています。しかし神の御旨に叶わば、すべて事は成ると信じます。ご加祷ください〉
母のたかの持つ手紙を、国一も益子も、左右から顔を寄せて読んだ。読み終わるのを待っていた和子が言った。
「どないしよう、来月中に結婚したいなんて。うち、結婚は大学を出てからと思っていたのに」
和子の白い顔が青ざめていた。国一が言った。
「和子、お前は婚約した身やな。婚約した以上、榎本君は夫も同然や。その申し出を受けるべきやないのか」
初めて保郎から結婚の申しこみがあった時、国一は反対した。国一は保郎を深く信頼していた。にもかかわらず、反対したのは、「和子には牧師の妻になる資格がない」という考えからであった。だが、一旦婚約を許した国一は、和子のためらいに同意はしなかった。
「けどなお父さん、あの人まだ高校三年の身よ。伝道は大学を出てからでええのとちがう?」
和子は言った。
「身分は確かに高校三年や。けどな和子、伝道いうもんは、キリストさえ共にいてくださるなら、できるもんや」
「そんな無茶な。保郎さんは牧師の資格もないんよ」
「和子、伝道の資格はな、神がくださるもんじょ。大学を出て、試験を受けて、それで信仰は太鼓判やと、和子は思っとるのか。まちごうてはいかん。学校は要らんいうわけやない。けどな、神が共にいて働いてくださる信仰、その信仰がなければ、伝道者にはなれへん。伝道者の資格は、神から与えられるもんや。ここんとこをまちごうてはならん」
「そらうちもそう思うけど……」
「ほんまにそう思うなら、行くがええ」
「…………」
「のう、お母さん、伝道者いうもんは辛いもんやな」
黙って二人のやりとりを聞いていたたかが、大きくうなずいて、
「ほんまに難儀なお仕事や思います。しかも、榎本はんみたいなお人は、とりわけ難儀するのとちがいますか」
「そうや。あんなにいつも火の玉のように燃えていては、本人もまわりも難儀やな」
国一は苦笑して、
「どうや和子、お前、もう一度考えなおしてみるか」
と、腕組みをした。和子は頭を強く横にふって、
「いいえ、うち行きます。只、あんまり急なことやで、何や混乱してしもうて……」
と、国一を見た。
「ほうか。覚悟を決めたか。それなら行くがええ。ええか和子、結婚いうもんはな、伝道者の家庭でのうても、思わぬ辛いことがあるもんじょ。ましてや伝道者の妻いうもんは、夫にも信者にも仕えていかねばならん。しかし、どんなに辛うても、一旦嫁いだら決して逃げて来てはあかん。この家はもうお前の家やないのや。それを今からよう心に納めておくことや」
和子はうなずいて言った。
「うち、決して逃げて帰っては来ません」
「あんな、和子、こっちが辛い時は、向こうは倍も辛いもんじょ。そこんとこをよう考えておかにゃならん」
姉の益子は軽々しく口を挟まず、時々目をつむっては祈っているようであった。
和子はその夜、保郎に返事を書いた。
待ちかねていた和子の手紙が来て、保郎は上田富やその嫁富枝に打ち明けた。保郎は、三十過ぎたばかりの富枝に、和子を助けて保育園を手伝ってもらうつもりだった。上田家は、保郎の買った家の隣にあった。
保郎の結婚の話は、たちまち日曜学校の父兄や生徒たちにひろまった。保郎が方々から集めてきた古板の釘を抜き、その曲がった釘を、金槌で叩いて伸ばしていると、子供たちが保郎の顔を見たくてやって来た。
「お前たちも、そこの古釘集めてや」
すかさず保郎は子供たちに仕事を言い渡す。少し大きい子供は、器用に釘を抜いて保郎に渡した。
「な、先生、先生んとこに嫁はん来るいうの、ほんまか」
女の子が聞く。
「ほんまや」
「どんな嫁はん? きれいなひと?」
「きれいやとも、きれいやとも、日本一や」
保郎はわざと真面目な顔をする。
「へえ、日本一!」
子供たちは正直に驚く。
「見たいなあ、日本一の嫁はん」
「ほんまにはよ見たいなあ、そんなきれいな嫁はん」
「けど、日本一きれいやいうの、うち嘘やと思う」
年上の女の子が言う。
「何でや」
「そんなきれいな人、先生んとこに来るはずないわ」
ずけずけと言う言葉に、みんなが笑う。保郎は真顔で、
「阿呆やな。顔いうもんはな、日本一や思うたら、日本一に見えるもんや」
「ふーん、その日本一の嫁はん、オルガン弾けるの?」
「そりゃ弾けるわ。神戸県立高女の、保母養成所というところで勉強したんやからな」
それは事実だった。県立淡路高等女学校を卒業した和子は、更に神戸で一年学んだのだった。
「ほなら、歌うまいわな」
「うまい、うまい、天使のような声やで」
よく二人で山道を歩きながらうたった和子の声を、保郎は言いようもなくいとおしく思い浮かべた。
「声も日本一か、先生」
「ううん、歌は日本で百番ぐらいやな」
保郎は口から出まかせに言ったが、内心、
(けっこううまいもんや)
と、思った。
「その嫁はん、やさしい嫁はんやろか」
「やさしいやさしい。やさしいいうのが服着とるようなもんや」
「ふーん、そんなにやさしい?」
「やさしくのうて、こんな貧乏な先生のところに、嫁はんに来てくれるはず、ないやろ」
「そうやな、うちのお母ちゃん言ってたわ。あんな貧乏なところに来る嫁はん、よほどやさしい人やなって」
無邪気な子供の言葉に、保郎は声を上げて笑った。が、笑ったあとに、厳粛な思いがした。
またたく間に二月二十七日の結婚式の日が目前に迫った。ふり返ると、実に目まぐるしい二カ月であった。クリスマスに日曜学校閉鎖を宣言した。明けて一月七日、「家が見つかった」との電報が上田富から来た。一月二十五日が期限の十万円募金に、無我夢中の半月が過ぎた。直ちに和子に結婚を急ぐ旨の手紙を書いた。建物の改装に毎日が費やされた。学校にも行かねばならなかった。保育園開設のための書類も、役所に提出しなければならなかった。園児募集のビラも書かねばならず、結婚式の打ち合わせもしなければならなかった。献堂式の準備も急がねばならなかった。毎日が只目まぐるしかった。そんな中で迎える二月二十七日の結婚式であった。
前日の二月二十六日、淡路島から、保郎の父通と、和子の母たかが、和子と共に京都に来た。家を発つ時、和子の父は、十万円を和子に渡して言った。
「和子、山内一豊《やまのうちかずとよ》の妻の話を知っとるな」
小学校の時、一豊の妻の話は教科書で習っていた。和子はうなずいた。
「この十万円はな、どんなふうに使うてもええと、一応は言うとこ。しかしな、この金の使い方で、お前の生き方が問われるかも知れへん」
紺のスーツに白いブラウスを着た清楚な和子を、目の中に収めるようにして国一は言った。
「お前も知ってのとおり、お前のお母さんは、たくさん収入《みいり》のある女や。この辺切っての名産婆とうたわれとる人や。けどな、自分自身を飾るためとか、うまいものを食べるためには、よう使わんお母さんや。伝道者は思わぬ時に金が要る。まして開拓伝道とあらば、金はいくらあっても足らんかも知れん。神のご用のためには、決して惜しんではならん。神に捧げる金やと思うて、持って行け」
和子は、思わず声を上げ、
「お父さん! 十万円も……」
と、ぽたぽたと涙をこぼし、
「お父さん、お母さん、益子姉さん、長いことお世話になりました。どうぞお体を……」
和子は言葉が詰まった。たかが言った。
「お父さん、では、お祈りをして上げてください」
国一は咳払いをした。が、声が出ない。再び呟払いをした。そして深々と頭を垂れ、その農作業に節くれだった手を組んで祈った。
「愛する御神よ。今日の日をお与えくださいましたことを、感謝し奉ります。御神が二十五年間、この和子をわが家の娘として、われら夫婦にお与えくださいましたことを、感謝いたします。明日和子は、榎本保郎君と結婚いたしまするが、どうかその生活を、主が共にいまして、一歩一歩お導きくださいますように。今日までお恵みくださいましたように、御祝福のほどをお祈り申し上げます。いかなる困難が待っているや計り得ませぬが、その困難を常に乗り越える力をお与えくださいますよう、切に切に願い上げ奉ります。保郎君の上にも、等しき力を賜わりますように。そのご家族お一人お一人の上にも、主の豊かな御愛が注がれますように。司式を賜わるマックナイト先生の上にも……」
人々に聖者とさえ言われる国一も、声が詰まった。
吹く風は冷たいが、よく晴れわたった二月二十六日の午後であった。
その日の夜、京都の駅に迎えに出た保郎は、よれよれの作業服を着、大八車を曳《ひ》いて来た。が、顔は喜びに輝いていた。それは、かつて和子の見たことのないほどに、清い輝きを帯びた顔だった。
(あ、これがこの人なんや)
和子はそう思った。この保郎を見た時、和子の心から不安が消えた。彼が高校三年であることも、牧師の資格がないことも、和子にとっては、さほど大きなことにも思われなくなった。一生を托して誤りのない人だと思った。
「な、和子、保郎はん、ええ顔してはるな」
同じ思いか、母のたかが小声でささやいた。
「お母さん、妹のまっちょも楽しみにしています」
大八車を曳きながら保郎が言った。三人の持ってきた大きな荷物が、大八車に積まれていた。
女学校を出るとすぐ、郵便局に勤めた保郎の妹の松代が、去年からマックナイト宣教師の家に住みこんでいた。昨年夏、保郎に会った時からマックナイト夫妻は、保郎を息子のように愛してくれた。淡路の家にも泊まった。その時、笑顔の豊かな松代を、マックナイト夫妻はいたく気に入った。生まれて初めて見る西欧人に、松代は好奇心を隠さなかった。
「ちょっとさわらせてください」
松代はそう言って、夫人の指輪やネックレスや、帽子や洋服にさわった。松代は朗らかで機知にも富んでいた。利発だった。人怖じしなかった。その松代を、夫妻は、その助け手として自分の家に迎え入れてくれたのである。
マックナイト夫妻、わけてもマックナイト宣教師の人格は、会う人会う人に深い平安を与えずにはおかなかった。言葉数は少ないが、慈愛に満ちたまなざしをしていた。明日の結婚式も、宣教師館において、十人ほどの人と共になされるはずであった。式にかかる費用の大半は、夫妻が引き受け、パーティーに出すケーキを、夫人自ら焼いてくれていた。
結婚式の夜は、夫妻の勧めで夫妻の家に泊まる手筈になっていた。
「保郎、お前、えらい汚い格好しとるがなあ」
大八車を、押すというより、寄りかかるようにして歩いていた通が言った。
「ああ、この服な。この服が、マックナイト先生からもろうたアメリカの中古品や。このズボンの中に、一ドル入っていたんや。その一ドルでな、お父さん、そのお金を何に使おうか思ったのが、運のつきか、運の始まりか、林間学校、日曜学校、保育園となって、明日嫁さんもらうことになったんや」
と、笑った。澄んだ冬の月が皎々と四人を照らしていた。
PS P.S.。手紙で追伸。「postscript」の略。
荒壁
二階建てのがっしりとした大きな家ではあった。が、それは、あばら家と言ってよかった。昨日マックナイト夫妻の家で結婚式を挙げ、今日午後、和子は保郎と共に、新居となるべき伏見区桃山の家に来た。床だけは辛うじて張られてはいるが、元染物工場だったその階下には、むき出しの柱が幾本も部屋の中に立っていた。壁は落ちたままである。和子が来る前に塗り替えられるはずだったが、金の算段がつかぬままに、まだそのままになっていた。しかし、新郎の保郎は、
「どうや、ここが保育室、日曜日は礼拝堂になるんや。ちょっと狭くて暗いけど、五十人は入るやろ」
と、笑みを満面に浮かべて、いかにもうれしそうである。
「なるほどねえ」
生来朗らかな和子は、その保郎の笑顔に誘われて微笑しながらも、
(けど、この人には、現実が見えていないのとちがうやろか)
と、少し不安になった。多分今の保郎には、壁が美しく塗り上げられ、ここに五十人の子供たちが元気のよい顔を並べ、保育を受けている姿だけが見えているのではないかと和子は思った。
(こんな狭い、汚らしいところに、子供を預ける人、いるやろか)
福良《ふくら》の中村牧師の教会附属保育園は、もっと広く、清潔で明るかった。しかし和子は、心のかげりを打ち払うように言った。
「今朝の雪はきれいやったわねえ」
結婚翌日の今朝、京都には珍しく真っ白に雪が積もった。保郎がその雪を見て言った。
「これはぼくたちの結婚に対する、イエス・キリストの祝福のしるしや。そう思わんですか和子さん」
「わたしもそう思っていたところです。この雪のように清く純な心で生きなさいと、神さまが天からメッセージをくださったような気がしました」
二人は顔を見合わせてうなずき合ったのだ。その時和子は深い幸せを感じた。そして和子は讃美歌五二一番をうたった。
…………
けがれにそみし この身を
雪よりしろく したまえ
わがつみを あらいて
雪よりしろく したまえ
保郎も声を合わせてうたってくれた。雪を見ながらうたう二人の目に涙があった。この初々しい喜びを、生涯忘れるまいと保郎は言った。深くうなずいた和子だったが、今、現実に荒れた壁、むき出しの柱を見ると、その喜びが萎《な》えてしまいそうであった。その和子に気づいてか気づかないでか、
「さあ、お祈りしよう。この家の主人がキリストの神や。ぼくが関白になるのでも、君が天下さまになるのでもない。ご主人さまである神にお祈りしよう」
二人は玄関脇の部屋で、跪《ひざまず》いて祈った。静寂な祈りの中に、和子は安らぎを覚えた。
祈り終わると、保郎は、
「これ、和子さんに見せたわな」
と、一枚の紙を渡した。
「榎本さん、『和子さん』はやめて。和子と呼んでください」
そのはにかんだ顔を見て、保郎は言った。
「カ、ズ、コか。和子……何やもったいないな、呼び捨てにするのは」
と笑い、
「ほなら、君も『榎本さん』はやめにしてもらわんと困るわ」
「でも……何と呼んだらええの」
「『あんた』はどうや?」
「あんた? 何や恥ずかしいなあ、なあ、あんた」
二人は笑った。和子は渡された紙に目をやった。この家を買う時に、保郎に協力するための後援会が生まれた。その時の趣意書であった。保郎はこれを多くの知人に送り、あるいは持ってまわって、友人の高正と共に募金に走りまわったのだった。が、淡路島の和子の家と自分の親の家には、なぜか持っていかなかった。和子はその募金趣意書に目を通した。
「     記
昭和二十四年一月十三日
農村伝道
世光教会 日曜学校   設立趣意書
託児所授産所
主任 マックナイト
主幹 榎本 保郎
高正 義生
世光教会設立後援会
同志社大学神学部教授 マックナイト
洛陽教会 牧師 遠藤 作衛
父兄代表    上田  富
山添常次郎
饗庭《あいば》  正
福永やす子
堂国《どうくに》 その
林  静枝」
とあり、つづいて募金の趣意が記されていた。書かれた名を見ると、宣教師のマックナイト、洛陽教会牧師遠藤作衛だけが牧会の有資格者で、主幹といっても、保郎は高校三年の身であり、まだ洗礼も受けてはいなかった。父兄代表に名を連ねた人々も、まだ教会に通ったことのない人が多かった。上田富は最も熱烈に日曜学校を要望した父兄の一人で、この家の隣に住み、その向こうに林静枝が住んでいた。保郎たち二人は、その林静枝の家の二階に、会堂の壁が塗られるまで、一時、間借りさせてもらうことになっていた。
結婚して一カ月が過ぎた。三月二十八日献堂式の日である。保郎の瞼が腫《は》れていた。保郎は今日の献堂式に間に合わせるため、この一カ月間、来る日も来る日も父兄たちと一緒に、家屋改造の大工事を手伝った。何しろ集まった金は十万五百円である。そのうち十万円は家を買うために支払った。残りの五百円では何もできない。幸い、日曜学校の生徒の父兄に大工がいた。
「なあ、この家修理して、保育園を開くようにしたいんや」
買ったばかりの家をのぞきに来たその大工をつかまえて、保郎が言った。大工は腕組みをして、コンクリートの床や、落ちたままになっている壁を眺めながら、
「予算はいかほどや、先生」
と聞いた。
「それがなあ、予算も何も、五百円しかあらへんのや」
「五百円!? 五百円では何もできまへんがな」
大工は驚いて言った。
「そらわかっとるんや。なあ、ものは相談やが、この家についとる別棟の家なあ、家いうても、小屋みたいなもんやけど、あれを上げるでな、床を張ったり、棚をつったり、下駄箱こさえたり、いろいろしてもらえへんやろか」
保郎は真剣な顔で言った。その保郎を見て大工は言った。
「うちの子がお世話になるんや。大工仕事だけなら、喜んでさせてもらいます。けど材料はどないします?」
「それはぼくが集めてくるわ」
保郎の目に、マックナイト宣教師の庭にある古材が浮かんだ。
こうして大工との話がつき、保郎も手伝い、父兄も手伝って、献堂式当日の今朝四時、大工工事は何とか終えることができた。説教壇は特に保郎一人の手によって成った。保郎の目が腫れていたのは寝不足のためであった。
献堂式の始まる午前十時が近づき、集まってきた人々は、先ず教会堂の前に盛り上げられた壁土に驚いた。壁を塗り上げる作業だけは間に合わず、壁土に鏝《こて》がさされたままになっていた。会堂の中に一歩入ると、ひと目で古材とわかる腰板や床板が目についた。しかも壁はまだ仕上がっていない。四日後には保育が始まるというのに、庭には滑り台もなければ、ブランコもなかった。会堂のあちこちに、むき出しの柱が立っている。思わず眉をひそめたくなるような会堂であった。
教会堂のうしろを、時折家を揺るがせて、京阪電車が過ぎた。観月橋に近く、交通の便はよかったが、裏手を流れる宇治川は、毎年裏の土手を越えて氾濫するという話であった。そんな条件の悪い場所に、日本一粗末な教会堂が今捧げられようとしていた。集まって来た客は、ほんの数えるだけだった。数は少なかったが、しかし、暴挙ともいえるこの保郎の働きを心から祝福してくれる心のあたたかい人たちばかりであった。物心共に支えてくれるマックナイト宣教師夫妻、この世光教会の親教会として支援してくれることになった、京都洛陽教会の遠藤作衛牧師、その子息の同志社大学神学部教授の遠藤彰、募金に協力してくれた寮友の高正義生、上田富、饗庭《あいば》正等父兄数人、そして淡路島から父の通と和子の姉|益子《えきこ》が参列してくれた。そして、思いがけぬことが起きた。保郎のただならぬキリストへの熱心を聞いた四条教会の青年たちのブラスバンドが、演奏に駆けつけたのである。彼らは、保郎がまだ学生の身でありながら、早くも教会堂を捧げようとする話を聞き、深い感動を与えられたのである。教会堂というものは、信者が二十人か三十人になって、初めてその力を結集して建てるものなのだ。保郎のこの度の働きは、誰から見ても、ドン・キホーテのように思われた。しかし、その欲得を忘れた姿に、青年たちは何かをもって協力せずにはいられなかったのである。
にもかかわらず、この塗りかけた壁の、未完成の会堂を見た誰彼は、何カ月つづくことだろうと、危ぶまずにはいられなかった。
「大変やなあ」
と、思わず呟いた者も幾人かいた。本当に神がこの教会を祝福して用いてくれるのか否か、戸惑いを感じた。おそらく園児も集まらないだろうし、求道者も来はしまい。そう思ったのだ。が、保郎は只一人、希望に輝く顔で献堂の司式を始めた。ブラスバンドが、讃美歌一九一番を奏でた。未完成の会堂に、一九一番の曲がひびきわたり、厳粛の気が満ち満ちた。
いともとうとき 主はくだりて
血のあたいもて 民をすくい
きよき住居《すまい》を つくりたてて
そのいしずえと なりたまえり
不意に保郎の目に涙が盛り上がった。二年前の早春、保郎は奈良の伝香寺に頭を丸め、この世を捨てたつもりであった。自殺を思い立ったあの時の、暗く無気力な毎日が思い出された。生きて行こうにも、生きる気力を失っていた自分を思った。あれから間もなく、福良の中村つね牧師を訪ねた。そしてそこで和子の父野村国一を知った。今、思い返して、どのようにして自分がキリストにとらわれてしまったのか、自分自身でもわからない。わかっているのは、自分のすべての罪をイエス・キリストが肩代わりして、十字架にかかってくださったという一事であった。あれから僅か二年の間に、あの自分が献堂するに至るまで導かれたのである。
(ここまで導いてくださった神は、この貧しい会堂と、自分たち夫婦をお用いくださるにちがいない)
保郎はそう思わずにはいられなかった。一旦噴き上げた涙は、とどめようもなかった。人の前だと思いながら、大事な司式の最中と思いながら、保郎は肩をふるわせて泣いた。人々はあたたかいまなざしで、保郎のその涙のおさまるのを待った。ブラスバンドの若者たちも目をうるませ、心をこめて曲を奏でた。
あの破れ寺のような世光《せいこう》寮の名を取って、教会は世光教会と命名された。これが、京都に世光教会ありと名をひびかせた世光教会の始まりであり、稀に見る伝道者ちいろば先生こと榎本保郎牧師の誕生の次第であった。試みに「世光教会二十年史」によると、
〈昭和二十四年三月二十八日、日本キリスト教団洛陽教会支教会世光教会として発足、京都市伏見区桃山町泰長老一二三番地、WQマックナイト宣教師主任担任教師就任、教会・保育園主事榎本保郎・保育園付設〉
となっている。保郎が神学校を出て正式に補教師となったのは、実にこの七年後であった。それまでの間、月に一度ほど、マックナイト宣教師、遠藤作衛牧師、藤代泰三同志社大学助教授が交互に日曜の説教を受け持ち、他の日曜日は保郎が説教を受け持った。つまり、事実上保郎は牧師の仕事と、保育園園長の仕事をかけ持ったのである。その上、この年早くも近郊の田辺、大住《おおすみ》、八幡《やわた》、淀に伝道を開始したのであった。
「奥さん、何をつくらはりますの」
七輪の前に屈《かが》みこんで、火を熾《おこ》している和子に、林静枝が言った。静枝の家の台所である。
「おからです」
和子が低い声で答えた。
「まあ! またおからどすか。まだ新婚二カ月にもなりませんのに、もうちいとおいしいもの、つくらはったら?」
静枝がやさしく言う。
「静枝さん、うちもそう思いますのや。けどなあ、榎本はあのとおりの人ですやろ。伝道者はぜいたくしてはあかん。お菜などおからで充分やと、口うるさく言うのですわ」
「そんなん……そらおかしいわ。伝道者は貧しい生活でええなどと、聖書に書いてありますの?」
「……さあ、そんなこと、うちも知らしまへんけど、少しでも生活を切り詰めて、教会に捧げよういうのが、あの人の気持ちやから……」
「でもなあ、奥さん、そんなことしてはったら、今に栄養失調にならはりますがな」
静枝は卵をボールの中に割りながら、
「こんなこと聞いて何どすけど、確か募金は、十万五百円しか集まらんかった言うてましたわな」
「はあ」
「ほなら、あの保育園の五十人分の机や椅子、どこから出た金で買わはったんどす?」
林静枝は、この四月一日から主任保母の和子の下で、保母として働いてくれている。
「さあなあ」
和子は素知らぬ顔をした。が、金の出所を言われただけで、涙が出そうであった。
この林静枝の家に間借りして二十日余り経った夜だった。保郎と和子は、目まぐるしい一日を終えて、床に就こうとしていた。
「あんなあ、和子」
改まった保郎の語調だった。
「なあに」
和子は保郎を見た。保郎は視線を外らし、「あんなあ……」と言いよどみ、思い切ったように言った。
「和子な、お金持っているやろ。お父はんお母はんから、いくらもらってきたんや」
「ああ、お金? 十万円もろうてきたんやけど、いろいろ使うて、八万円残っとるわ」
素直な声だった。
「ふーん、八万円な。大変な金やけど、それすまんが全部出して欲しいんや」
「出して欲しい? 何に使うのん?」
「そりゃいろいろあるわな。先ず机や椅子が要るやろ。五十人分は買わなあかん。左官屋にも一万円払わなならんやろうし」
「それ、うちらが払うの? ここ、洛陽教会の支教会ですやろ。親教会がしてくれるのとちがうの?」
「あんな和子……この教会はな、洛陽教会に頼まれてつくったのでもない、大学から頼まれたのともちがう。ぼくが勝手に始めたんや、神さまの御心と思うてな」
「…………」
和子は目を瞠《みは》った。父親から十万円持たされた時、確かに神のために使えと言って渡されはした。しかし和子は、婚約中の保郎の言葉を忘れてはいない。婚約中、母のたかが保郎宛てに、「結婚しても当分伝道者としての保郎さんに、毎月いくらかのお金を捧げさせていただきたい」と、手紙を出したことがあった。すると保郎は、「榎本保郎は男でございます」と書いて、丁重な断りの返事をよこしたのだった。和子としてはうれしい手紙であった。そして頼母《たのも》しい手紙でもあった。その保郎から、結婚後二十日そこそこで、持ち金を残らず出せと言われようとは、夢にも思わぬことであった。金は神に捧げるつもりで持ってはきた。だから惜しいとは思わなかった。が、しかし、その金を捧げるか捧げないかは、自発的な自分の意思によるものと思っていた。和子は何か裏切られたような気がした。戸惑う和子に、保郎の怒声が飛んだ。
「はよ出さんか! 神さまのためや!」
「はよ出さんか! 神さまのためや!」
思わぬ保郎の怒声だった。嫁いでひと月も経たぬうちに、こんな怒声にあうとは思ってもみないことだった。和子は箪笥の二番目の引き出しを開けた。母の作ってくれた羽織の下に、残金の八万円があった。羽織の感触が母を身近に感じさせた。
和子は八万円を保郎の前に持って行った。
「すまん、すまんな」
保郎は顔を赤らめて金を受け取った。途端に和子は声を上げて泣いた。保郎は金を持ったまま、
「どないした? 泣くな。すまん、こんな大金取り上げてほんまにすまんなあ」
と、当惑したように言った。確かに八万円は大金である。二百四十坪の土地付きの、百二十坪二階建てのこの家が、二十万円で買えたのだ。和子の持ってきた十万円は、この家屋半分を買える金額なのだ。取り上げた保郎にしても、うしろめたい気持ちに襲われるのは、和子に泣かれずとも当然だった。
「すまん、すまんなあ」
保郎は繰り返した。だが、和子はまだ泣いている。
(神さまに捧げることが、そんなに惜しいのか)
不意に保郎は、そう問いたくなった。と、和子の泣き声が低くなった。低くなればなったで保郎は、何かたまらない気がした。
「すまんな和子、ほんまにすまん。こんなにたくさんの金、出すの惜しいわなあ」
和子は静かに顔を上げて言った。
「うちな、そりゃあこのお金あれば、明日のお米の心配せんと暮らせるわ。一銭残らず出してしもうたら、明日からどうやって食べていこうか、不安にもなるわ」
「…………」
「けどな、うちが泣いたんは、金が惜しくて泣いたんとはちがう。このお金は神に捧げるお金やいうて、父母がわたしに預けたお金や。こっちもそのつもりでいるのに、何や頭ごなしにもの言うて、大声で怒鳴らはって……それが悲しかったんや」
「すまんすまん、怒鳴ったのは悪かった」
潔く保郎は謝って、
「けど、ほんまに捧げるつもりなら、ぐずぐずせんと出してくれたらよかったのに」
「けどな、うちとしては、納得いくように話して欲しかったんや。あんた、うちの母があんたに、しばらく援助させていただきますと書いてきた時、何と言わはった? 『榎本保郎は男でございます』言うて、返事書き送ったのとちがう?」
「だから、どうした言うんや」
保郎は憤然と顔を上げて、
「ぼくは君のお母はんから、毎月援助を受けることなど、到底できへん。けど、この金は和子のもんやろ。ぼくと君とは夫婦やろ、夫婦は一体や。一体の君の金を使うのと、君のお母はんの金を使うのでは、えらいちがいや。ぼくの心持ちとしては全然別のことや」
「…………」
「ぼくは、夫婦っちゅうもんは、そんな特別な関係や思うとった」
保郎の声が少し淋しげだった。和子はちらりと保郎を見た。
「なあ和子、そうやないやろか。神の前に、夫になります、妻になりますと、誓って式を挙げるのは夫婦だけや。親になります、子になりますと、式を挙げたりするやろか。神の前に夫婦となることは、ぼくらが考えてるより、もっと重いことやと思う。君のお金を使うのと、君のお母はんに貢がれるのと、これは全く別のことや。わかってくれるな」
和子はうなずいた。
その時のことを和子は、今、静枝の前で思い出していた。静枝は「あの保育園の机やら椅子、どこから出た金で買わはったんどす?」と聞いたのだ。和子は「さあなあ」と素知らぬ顔をしたが、それは傷にさわられるような、やはり辛いことであった。
「奥さん、これ召し上がっとくれやす」
考えごとをしている和子に、大きなオムレツを二つ、静枝が皿にのせてくれた。
とにもかくにも、四月一日から保育園は始められた。十八名の園児がいた。予定の五十名にはほど遠かったが、しかし主任保母の和子も、二人の保母も喜んで子供たちを迎えた。保母の一人は隣家の上田家の嫁富枝、もう一人は林静枝だった。林静枝も上田富枝も子供好きで優しい女性たちであった。庭には古い階段を改造した粗末な滑り台が一台あるきりの、貧しい保育園だった。が、八万円のおかげで壁も仕上がった。日曜の午後の礼拝には、上田富、富枝、林静枝、そして饗庭《あいば》正などがひっそりと集まって、保郎の説教を聞いた。保郎の説教には熱気があった。和子は内心、
(この人は、今年神学部一年に入ったばかりやいうのに、何といい説教をしやはるんやろ)
と讃歎していた。保郎は、神学部に聴講生として学び、新制高校に編入しただけの経歴しかなかった。礼拝が午後であったのは、親教会の遠藤作衛牧師やマックナイト宣教師が、午前の礼拝を終えてから、月に一度だが交代で来てくれるためであった。
ある日曜日の午後だった。保郎と和子は、礼拝に集まる人々を待っていた。二人でも三人でも集まれば、この世光教会としては満足であった。が、この日は時間になっても誰も来ない。
「和子、お前の時計何時や」
「柱時計とおんなしよ。一時三分過ぎよ」
「時計、進んどるのとちがうか」
「合っとる筈よ。うちの腕時計も柱時計も、同時に進むわけあらへんもの」
言いながらも和子は、心細げに柱時計を見上げ、自分の腕時計を見た。
「誰も来んのとちがうか」
保郎がささやくように言った。
「まさか。上田のおばあちゃんが必ず来やはるし……」
上田家は教会のすぐ隣である。休むのなら休むと、言いに来てよい筈だと思う。その隣の静枝にしても保母であり、間借りをさせてくれた間柄である。黙って休むとは思えなかった。
「しようもない、礼拝を始めよう」
保郎は少し厳しい顔になった。
「オルガン前奏」
保郎の声が司式の声音になった。和子はオルガニストとしてオルガンの前に坐り、弾き始めた。席には誰一人いない。保郎は手を組み合わせて心の中に祈った。
(天の神さま、どうして今日は誰一人集まらんのですか。この教会は神さまがゆるしてお建てくださった教会です。私に聖言《みことば》を語ることをおゆるしくださった神さま、一人でもここに人をお送りください)
保郎は奏楽を聞きながら、必死になって祈った。
(一人でもええ)
保郎は繰り返し祈った。でき得れば、あの奥村要平のように、講壇にひれ伏してでも祈りたい思いだった。が、祈っているうちに保郎は、はっとした。今ほど保郎は、一人の人間の存在が大きく思われたことはなかった。今まで、少なくとも二人三人の礼拝はつづいてきた。その時には感じなかった一人の尊さを、しみじみと思わせられたのだ。
(そうや、円町の中山先生は、信者の来ん時でも、力一杯説教しておられた)
保郎は、世話になっていた中山牧師の教会を思い出した。中山牧師は、人が一人も来ない時でも、決して悄然とすることはなかった。心を騒がすふうもなかった。
(そうや、神の前に礼拝するんや。先ず己が礼拝するんや)
保郎はそう思った。
(そうや、和子と二人でもええ。心から神を讃美し、心から神を礼拝するんや)
保郎の心は定まった。
「聖書を拝読いたします」
司式の保郎の声に力がこもった。オルガンの前を離れた和子が只一人、椅子に坐って聖書の頁を繰った。
〈人は二人の主に兼ね事《つか》ふること能《あた》はず、或はこれを憎み彼を愛し、或はこれに親しみ彼を軽しむべければなり。汝ら神と富とに兼ね事ふること能はず〉(マタイ伝第六章二四節)
聖書朗読のあと、保郎は「讃美歌一三八番」と言って和子を見た。和子は立ち上がって再びオルガンに向かった。会堂には不似合いなオルガンである。一月に保郎が募金活動をした時、洛陽教会の遠藤牧師に紹介されて、神戸女学院にデフォーレスト院長を訪ねた。その際、院長は、
「わたしにはお金がありません。貧しいのです。でも、アメリカのお友だちからプレゼントされたこれを、あなたのお働きのために捧げます」
と言って、毛皮のオーバーを差し出したのである。神戸は暖かいと言っても一月だった。七十歳を過ぎた老婦人にとって、毛皮のオーバーは必要な筈であった。しかし院長は、
「神戸は暖かいので、必要ありません」
と捧げてくれたのだった。それが今、この立派なオルガンとなってここにある。
ああ主《しゆ》は誰《た》がため 世にくだりて
かくまでなやみを うけたまえる
…………
保郎と和子の、只二人だけの声が会堂に大きくひびいた。保郎はふっと、百人二百人の信者と共に礼拝を守る牧師たちのことを思った。が、心の中に満ちあふれる喜びがあった。
説教が始まった。保郎は、あたかも大勢の人々に話をするように、大声で話をした。
「只今拝読いたしました聖書の中に、≪汝ら神と富とに兼ね事ふること能はず≫の聖言《みことば》がありました。幾度となく読んだ箇所でありますが、私は今初めて拝読したかのように、新しい感動を与えられたのであります。先日読みましたある本に、もし≪天国にいく方法≫という講演会と、≪金持ちになる方法≫という講演会があるとしたら、人はどちらに多く集まるか、ということが書いてありました。多分人々は、金持ちになる方法の講演会に多く集まることでしょう。それはなぜか。金という目に見えるもの、形あるものを、人々は信ずるからであります。≪神≫は形あるものではありません。目に見えるものではありません。故に、あるかないかわからぬものを求めるよりも、人々は金を求めることに情熱を傾けるのであります。
実は、神を宣《の》べ伝えることを生涯の使命として、ここに立っている私も、目に見えるものには実に眩惑されるのであります。今日私は、はっきりとそのことを知らされました。一人の求道者も信者も出席しないというこの事実に、私は少なからず打ちのめされたのであります。しかし、そこに神の大いなるご計画があるかも知れないということを、私は聖言《みことば》を拝読しつつ思ったのであります。私共は、神の恵みを目に見ゆる形でいただきたいと願うものであります。もし今日、五人の人が出席したとしたら、私はこれを大きな恵みとして、小躍りしたにちがいありません。
しかし目に見えぬ神は、往々にして、目に見えぬ恵みを与えてくださるのであります」
前列の席でうつむいて聞いていた和子が、顔を上げた。
「誰一人出席する人がなかったということも、伝道者の私にとって、これはまことに得難き恵みとは言えないでしょうか。私は、かつてお世話になりました中山先生の謙遜な、固い信仰を、今ありありと思い浮かべているのであります。思い返して、あの出席者のない会堂で説教されていた中山先生のあの集いには、正《まさ》しくキリストが臨在されていたという確信を持つものであります。今ここに人が集まらなくても、イエス・キリストは共におられる、その大いなる恵みを私はひしひしと感じないではおられません。目に見えるものしか見えないとするならば、私たちは実に大いなる損失をこうむっているのであります。
さて……」
保郎は微笑を浮かべて会堂を見渡した。あたかも満堂の会衆を見渡すかのようなまなざしであった。和子は、
(この人は本気で神を信じている)
と、しみじみと思った。暖かい五月の午《ひる》下がりであった。
それから二、三日経った夜だった。玄関で女の訪《おとな》う声がした。聞き覚えのある声だと思いながら保郎が出てみると、顔見知りの後宮寿子《うしろくひさこ》が立っていた。
「やあ、後宮さんの奥さん、いつもお世話になりまして」
保郎は愛想よく頭を下げた。後宮寿子は、この教会堂から二丁ほど離れたところに、元陸軍軍人の夫と、高校生の二人の娘|周子《かねこ》と昭子《あきこ》の四人で暮らしていた。借家だが、立派な門構えの家に住んでいて、寿子は地区の民生委員として、人々から頼りにされている五十近い女性だった。保郎も保育園を開くに当たって、園児の紹介など、少なからず世話になっていた。改まった顔をしている後宮寿子を見て、保郎は、
「ちょっとお上がりください」
と、会堂に寿子を通した。
「あいにく家内は銭湯に行っておりまして……」
保郎は頭を掻きながら、寿子が何の用事で来たのだろうと思った。園児の紹介にしてはいつもの表情とちがう。
「実はな、先生、こないだの日曜日の午後、この前を通りましたらな、先生のお説教が聞こえてきましたんや」
「はあ……」
保郎は顔に血が上るのを感じた。只の一人も出席者のいないこの会堂で、保郎は声を張り上げて説教をしたのだ。保郎の赤らむ顔を見ながら、寿子は言った。
「先生、わたしは近頃、あの時ほど感動したことは、あらしまへんどした。なんでて先生、ちょっと玄関からのぞいたら、一人の信者さんも来てはらしまへなんだ。ところが先生は、通りまでひびく大きな声で、厳粛なお声でお話ししてはった。あの時ほど神さまの呼びかけを感じたこと、あらしまへん。先生、わたしもこれから教会へ戻ります。先生、ほんまにありがとうございました。それを申し上げとうて伺ったのです」
思いがけない言葉だった。誰も聞いていないと思ったあの説教を、聞いていた女性がいたのだ。保郎は泣き出したいような気がした。
「あのう……後宮さんは今、教会へ戻りたい言わはりましたが、クリスチャンでしたか」
「はい、そうです。わたしは広島女学院に学んでおりました時、洗礼を受けましてね、かなり熱心な信者のつもりどした。けど、後宮に嫁ぎまして……まあ軍人の妻として、終戦の日まで参ったわけです」
「はあ、後宮大将のお名前、お聞きしていましたが……」
「いいえ、満洲で軍司令官をしておりました後宮淳は大将でしたが、あれは親戚の者どす。うちの主人と兄弟同様にして育った仲です。うちの後宮は陸軍中佐で、朝鮮から引き揚げて参りまして、今、山科《やましな》の工場に工員として働いております」
「ほう、中佐殿が工員に……」
「へえ、そして長男の俊夫は、海軍大尉でしたが、今は真珠の養殖会社の社長をしとります」
「ほう、お父さんが工員、息子さんは社長ですか」
「先生、二人共、生き甲斐を失っとります。長男の俊夫は高給を取っておりますけど、これは男子一生の仕事やないと申しております。主人は尚更のこと、生きる気力を失っております。娘たちも戦時中は軍人の娘やいうことで、ちやほやされて育ちました。今、うちらの家に最も必要なのは、イエスさまの聖言《みことば》です。命の聖言なのです。先生、どうぞわたくし共一家のために、お祈りしてください。わたくしは、一人も信者のおいやさへんとこで説教なさった先生を信頼します」
寿子の目から涙がこぼれた。保郎の目からも大きな涙がこぼれ落ちた。
梅雨のあとさき
和子が福良《ふくら》の駅に降りたのは、もう暗くなってからであった。人に見咎められるのを恐れて、和子はわざとこの時間を選んだのだ。生まれ育ったふるさとの道は、歩いているだけでも涙がこぼれるほど懐かしかった。が、和子の心は重かった。結婚してまだ四カ月と経たぬうちに、和子は置き手紙をして、保郎のもとを飛び出して来たのである。
「もうこれ以上耐えることはできません。福良に帰らせていただきます」
和子は短い書き置きをして、家を出て来たのだ。
保郎は今日、同志社大学から呼び出しを受けていた。出席日数が足りないというのである。教会のこと、保育園のことに忙殺されていた保郎は、神学部第一年の一学期半ばの今、まだ十日と出席してはいなかった。呼び出しを受けるのは当然だった。その呼び出し状を見て、保郎は吐き出すように言った。
「イエスさまの十二弟子のうちで、一人でも神学校を出た者があるか。牧師の資格を与え得る権利など、人間にはあらへんのや」
しかし、和子はうなずけなかった。イエスの時代と、現代とはちがう。確かに信仰は神から与えられるものではあるが、もっと謙遜に大学に通って、正教師になって欲しいと思う。が、そうも言いかねて、黙っている和子に保郎は苛立って、
「何や、和子はそうは思わんのか!」
と、荒い声になった。保郎は近頃、すぐに声を荒らげるようになった。その原因は和子にもわかっていた。保郎が必死になって教会を創立し、熱誠こめて説教をしても、集まる者は当初より少なくなった。保育園の十八名の園児たちも、四人も減った。見るからに貧しい、何の設備もない保育園に、親たちが子供を預けるのをためらうのは当然だった。保育に自信のある和子にも、それは辛いことだった。只でさえ辛い和子に、保郎は何かあるとすぐ怒鳴った。しかし、他の二人の保母、上田富枝と林静枝には保郎は優しかった。自分を叱ったあとで、二人の保母には優しい言葉をかける保郎に、和子はひどく淋しい思いをしていた。そして今日保郎は、自分の意見に同意しない和子を怒鳴って、ぷいと外に出て行ったのだ。と、和子は急に福良に帰りたくなった。福良の父や母、姉の益子《えきこ》の優しい声が思い出された。
(あの人には、うちが邪魔なんやわ。でなければ、なんであんなに怒鳴るんやろ)
和子は当座の着替えをまとめて、前後の見境もなく家を飛び出した。和子にとって、新婚生活はもっと甘いものであって欲しかった。いや、甘くなくてもよい、もう少し優しいものであって欲しかった。怒声を聞かずに育った和子には、すぐに苛立つ保郎のそばにいることは、耐え難い苦痛だった。
船から淡路の島影を見た時、和子は嫁ぐ日の父の言葉を初めて思い出した。
「どんなに辛うても、一旦嫁いだら決して逃げて来てはあかん。この家はもうお前の家やないのや」
父の国一はそう言って、慈愛に満ちた目で和子を見たのだった。
(帰って来るなんて、そんなことある筈がない)
そう思って和子は、
「うち、決して逃げて帰っては来ません」
と言った。その自分の言葉を、和子ははっきりと思い出した。
しかし、だからと言って、途中から引き返す気にはなれなかった。
こうして遂に福良に来た和子だが、父母の家の前に来ると、さすがに戸を開けることがためらわれた。戸の隙からこぼれる電灯の光が、いかにも平和に思われた。が、この家の戸を自分が開けたとしたら、その平和がたちまち失われるのだ。和子はほっと吐息を洩らした。と、その時、うしろに下駄の音がした。
「あら、あんた和子やないの!? どうしたん今頃?」
姉の益子の声だった。明るくて思いやりのある姉の益子を、和子は慕っていた。温かいその手を肩にかけられて、和子は思わず「わっ」と、声を上げて泣いた。
どうやって家の茶の間に連れこまれたかわからなかったが、和子は父母の前にうなだれて坐っていた。その和子に父が優しく言った。
「家が恋しうなったんか」
和子は、はっとして国一を見た。和子は当然、
「和子、逃げて帰って来てはあかんと言ったのを忘れたか!」
と、咎められると思っていた。が、国一は自分の言葉を忘れたかのように、「家が恋しうなったのか」と尋ねたのだ。つまり、和子が帰って来たのは、単なる実家訪問であって、他意はないと見ているかのような言葉だった。初めから家出して来た者に対して、咎めぬところに、父の深い計らいがあるような気がした。和子はよほど、
「そうや。ちょっと二、三日遊んで行くわ」
と、言おうかと思った。だが、和子は正直だった。父の戒めに反して、自分は確かに家出をして来たのだ。その行為は叱責されるべきだと思った。
「恋しうなったとちがう。お父さん、うち、もうあの人がいやになったんや」
うるんでいた目から涙がこぼれた。国一はちらりと、たかの顔を見、誰にともなくうなずいて、
「そうか、榎本君はそんなにいやな奴か」
と、腕を組んだ。たかは黙って和子の顔を見ている。先ほどから一言も発しない。いつもの優しい母とちがっているのが、和子には何か恐ろしかった。国一が言った。
「榎本君は、女でもつくらはったかな」
和子は驚いて、
「そんな、女なんて……」
「ほなら、牧師がいやになって、毎日寝ころんで暮らしとるのか」
「ちがう、熱心に聖書を読んで、朝早うから祈って、お説教の準備もしてます」
それだけではない、会堂の床磨きからガラス拭き、庭の草むしり、道路の掃除まで、保郎はよく働いている。いつも作業服の腰に金槌をぶら下げて歩き、古い会堂の釘を打ったり抜いたり、無我夢中という感じだった。マックナイト宣教師からもらった中古の背広を着るのは、説教する時だけだった。その保郎の姿が目に浮かぶと、和子は少し落ちつかなくなった。
「ほなら、酒を飲んで乱暴するんやな」
「いえ、酒もタバコものまんのです」
「ほなら、榎本君は酒もタバコものまん、女もつくらん、乱暴もせん、仕事熱心な牧師やいうことや」
確かにそういうことになる筈だと、和子はうなずいたが、
「けど……」
と、口ごもった。
「けどなんや、盗癖でもあるんか」
姉の益子が思わず笑った。
「そんなもん、あるわけあらへん」
「ほなら、何が不足なんや」
少し国一の声がきびしくなった。
「あの人な、お父さん、言葉が荒いんや。うちは、言葉づかいの優しいお父さんお母さんに育てられたんで、怒鳴られるの一番辛いんや」
「何や、そんなことか」
「そんなことか言うけど、うち、朝から晩まで怒鳴られるんや。もうたまらんわ。うちのこと、あの人嫌いなんとちがうやろか?」
「…………」
「うちな、あの人、ほかの人には優しうて、うちだけ怒鳴るのや。それが耐えられへんのや」
「ほうかあ」
国一はじっと和子を見ていたが、
「あんな、和子。お前もよう知っとる安井原さんの一番娘な、この間逃げて帰って来よったわ。酒を飲んでは暴れる、女遊びは絶えない、殴る蹴るの乱暴はする、その亭主に七年も我慢して、とうとう殴られて怪我をしてな、帰って来よった。けどな、また戻って行きよったわ」
和子は黙ってうなずいた。
「そりゃな、夫婦のことは、はたからはうかがえんことや。どうせこうせとは、お父さんもよう言えへん。よくよく神さまに祈ることや。神さまが榎本君を捨ててもよろしいと言わはったら、そのようにするがええ。神さまが帰れ言わはったら、死ぬほど辛うても帰るがええ。神さまの前に誓うた二人やいうことを、忘れてはあかん。なあ、お母はん」
たかも黙ってうなずいた。益子が言った。
「保郎はん、きっとあわてて、明日あたり迎えに来なはるわ。そしたら一緒に帰るのがええ思うわ」
その時まで黙っていたたかが、口を開いた。
「和子、お前、やや子ができたのとちがう?」
優しい声だった。和子がうなずいた。
「そうやろ。何で早う知らせてくれへんかった?」
「でも……何や恥ずかしうて……」
和子は頬を赤らめた。
「顔が少しやつれた思うた。お母はんは産婆やから、すぐにぴんときたわ」
「…………」
「あんたなあ、出て来たくなったんは、保郎さんのせいとはちがう。やや子がお腹にできて、気がたかぶっとるんやと思う。女は誰でもな、体が変わるとこらえ性がなくなるものなんや」
「……そうやろか」
「あんた、榎本はんに、やや子のことを言うたんか」
「ううん、まだや」
「阿呆やな。そしたらまだ榎本はん、自分がお父はんにならはったこと、知らんのや」
たかは優しく微笑した。
その頃、京都では保郎が、和子の置き手紙を見て、
「和子の阿呆が! 帰って来るな! 金輪際帰って来るな!」
と、怒鳴っていたのだった。
一夜が明けた。まだ梅雨の前の暖かい淡路島の気候が、和子の心をなごませた。
「あの人、ほんまに迎えに来るやろか」
朝から、保郎の好きなちらしずしの用意をしている姉の益子に、和子は言った。
「来やはるに決まっとるやない? 新妻が逃げ出したんやもん」
益子は明るく笑って、かんぴょうをアルミ鍋に浸している。
「ならいいけど……」
和子は外の様子ばかり気にして午後を迎えた。が、保郎の来る気配はない。夕餉の卓に並んだ益子の心尽くしのちらしずしを眺めながら、和子は吐息をついた。
「何ぞ急な用事ができたんとちがうか」
父の国一も母のたかもそう言ってくれたが、和子はちらしずしの味がわからなかった。
翌朝……。
「今日こそ来やはるわ」
益子は持ち前の明るさでそう言い、
「保郎はん、お赤飯も好きやったわな」
と、早くも赤飯の用意をするふうだった。
「来るか来んかわからへん、ほっといてお姉ちゃん」
その日の赤飯も無駄だった。
三日目、益子はめげるふうもなく、
「小豆を煮ておいた。今日はお汁粉にしよう。保郎はん、甘いもの好きやから」
と言った。和子は身を縮めて、
「来ぃへんわ、きっと、無駄になるわ」
「無駄になる?」
益子は白い顔をほころばせて、じっと和子の顔を見た。そのまなざしの中に、和子は姉の愛を感じた。結婚して以来、来る日も来る日も、
「伝道者いうもんは、お菜などおからか梅干しでええ」
と保郎に言われて、質素な食事しか取らなかった和子のために、益子は保郎の好きなものというより、和子の好きなものを、ここぞと馳走するつもりなのだ。その気持ちがひしひしと和子の胸に沁みた。
四日、五日、六日と、保郎からは何の便りもない。和子としては、帰るにも帰れぬ思いだった。
(あの人、きっと怒っとんのやわ)
二度と自分を迎えてくれないような気がした。主任保母としての仕事も放り出して来た和子としては、今更弁解のしようもない思いだった。
「うち、どないしよう」
その夜、和子は心細げにたかに言った。
「出て来たんはあんたや。帰るか帰らんか、それもあんた次第や」
たかの言葉は当然過ぎて、和子には冷たくひびいた。
(なんで帰れ言うてくれへんの)
恨めしい気がした。が、たかにはたかの考えがあるような気がした。たかのみならず、国一も益子も、只じっと和子の去就を見守っているらしかった。
七日目の午《ひる》だった。
「ごめんください」
玄関に男の声がした。ちょうど畠から上がって来た国一と、仕事先から帰ってきたたかと、益子、和子の四人が、昼食を始めようとした時だった。
「あ、うちの人やわ」
和子の顔が、ぱっと輝いた。三人は何となく顔を見合わせたが、たかがすぐ立って玄関に出た。
たかのうしろに、身を縮めるようにして、保郎が入って来た。
「この度は、どうも……」
坐るなり保郎は、畳に額をすりつけ、
「ぼくの言葉が荒ろて……とにかく、ぼくが悪かったんです。申し訳もありません」
国一が言った。
「榎本君、君も短腹で苛立ちやすいのは悪いが、飛び出した和子も悪い。こらえ性があらへんのや。ま、教会と保育園と、結婚と、三つが一緒に始まったんや。いろいろ大変やろ」
と、ごく穏やかな声音で言った。
「いや……ぼくが悪いんです。和子はようやってくれるんです……怒ったぼくが無理やったんです」
保郎はしどろもどろに言って、額の汗を拭いた。たかが言った。
「和子、榎本はんにばかり謝らせて、お前は何も言わんのか」
和子は両手をついて、
「ほんまに、すんません……」
と半ば口の中で言い、
「けど、どうして一週間もほかっておいたん?」
と、声をうるませた。
「何や、ほかっておかれたのは、ぼくのほうやないか。なんですぐ帰って来んかった」
「だって……うち一人では帰られへん。あんたが来やはるのを待っとったんやもん」
「ぼくは……よう迎えに来んかった。もし和子が、もう帰らん言うたらどうしよう思うと、怖うて怖うて、ふるえる思いやった。今日かて、もし和子が帰らん言うたら、どないしよう、そう思うとな、ようこっちに足が進まんかったんや。教会の前で、心静めてお祈りしてな、そこから韋駄天走《いだてんばし》りで駅に行ってな」
「何や、うちもあんた迎えに来んかったら、どうしよう思って、心配で心配で、昨夜もよう眠れへんかったんよ」
国一とたかと益子が、声を上げて笑った。
「うち、帰るわ。すぐ帰る」
和子が立ち上がった。再びみんなが笑った。
食事のあと、国一が改まった声で言った。
「榎本君、和子、お前たちの信仰は、紙こよりのようなもんやな。ぴんとしているようで、すぐにへにゃりと曲がってしまう。信仰いうもんは、自分たちのために持つもんやない。ひたすら神を讃えるために持つもんや。辛苦も艱難《かんなん》も、下さるのは神や。神の下さるものに悪いものはあらへん、みんな恵みや。京都に帰ったら、先ず二人でヨブ記を読みなさい」
神妙に頭を垂れて聞いていた保郎が、不意に声を上げた。
「ヨブ記ですか、お父さん。ぼく昨夜読んだんは、ヨブ記です。不思議な一致やなあ」
その声が頓狂に聞こえて、誰もが笑った。
「なあ、和子。早速やけど、ちょっと相談があるんや」
保郎は部屋に入って電灯を点けるなり、どっかとあぐらをかいて言った。淡路からの帰途、保郎は船の中でも汽車の中でも、眠ってばかりいた。家を出た和子に、何を尋ねるでもなく只眠りこけている保郎に、和子は安心したような、しかし淋しいような心地だった。少しは叱られもし、こっちの気持ちも聞いて欲しかった。
「相談? 相談って、なあに?」
和子は、また金の話ではないかと思った。淡路の家を出る時、母のたかはそっと五千円を手渡してくれたのだった。
「実はな、神代《じんだい》の父母から頼まれたんやけどな、刑務所から出た男を一人、預かってくれと言われたんや」
「刑務所から出た男の人?」
和子の眉がくもった。
「何や、いやなんか」
保郎が和子の表情に気づいて言った。
「いややないけど……うち、何だか怖いわ」
「怖い?」
「ええ、怖いわ。だって、刑務所から出た男の人なんて……やっぱり恐ろしいわ」
和子は自分の心に問うように、一語一語自分の言葉を確かめながら言った。
「和子、お前まだ、一人でいるつもりとちがうか。お前な、もう伝道者の妻なんや。伝道者の家は、あの人が怖い、この人は好きやなどと、分けへだてをしてはあかんのや。ヤコブ書にも書いてあるやろ、『人を偏り視るな』とな。和子はまだ読んどらんのか」
「……読んでるけど……」
和子は保郎が留守の時、その男と二人っきりで一つ屋根の下にいなければならぬかと思うと、それだけで恐ろしかった。が、口には出さずに、戸惑いの表情を見せた。
「ええか和子、『愛には恐れなし』と、ヨハネの書簡にも書いてあるやろ。愛があれば怖がる必要ないんや。これが自分の兄なら、怖いと思わんやろ」
「ほんまやなあ」
和子は昨年死んだ兄の顔を思い浮かべながら、素直にうなずいた。
「和子、伝道者いうもんはな、どんな人でも受け入れんならんのや。この人は受け入れんでもええ、と神が言いなはる人は一人もおらへんのや。可哀相にな、その人刑務所から出ても、家族は誰も引き取ってくれへん。なあ、和子、ぼくたち夫婦は、生涯どんな人でも受け入れていくことにしようやないか」
保郎は熱心に言った。
「そうやなあ」
和子はまだためらっていた。保郎はその和子をじっと見つめていたが、ついと手を伸ばして机の上から聖書を取った。
「ええか、和子、ようく聞くんやで」
保郎は、マタイ伝第二五章三五節と三六節を読み始めた。
「〈なんぢら我が飢ゑしときに食《くら》はせ、渇きしときに飲ませ、旅人なりし時に宿らせ、裸なりしときに衣《き》せ、病みしときに訪《とぶら》ひ、獄《ひとや》に在りしときに来《きた》りたればなり〉……ええか、キリストはな、この小さき者になしたるは我になしたるなりと言うていなさるんや。行き所のないその男を断るいうことは、つまりキリストを拒むことや。それでもええのやろか」
言われて和子は、
「わかったわ、あんたの言うとおりにします」
と、うなずいた。うなずきながら和子は思った。
(この人、ほんまにキリストの聖言《みことば》に真っ正直に従う人なんやわ。〈主《しゆ》の用なり〉と言われたら、あのちいろばのように、すぐにキリストをお乗せして歩く人なんやわ)
その翌日、男は保郎たちの家庭の一員となった。男はK夫といった。一見実直そうな、二十三、四の無口な男だった。いつも伏し目になっていて、何か「影」を見るような感じの男だった。男はある工場に勤めていた。遠慮勝ちな様子を見て、和子は気の毒に思いながらも、やはり心のうちに恐ろしさを捨てきれなかった。保郎は至極ざっくばらんに、
「君な、人間いうもんはな、神の前にはみな同じや。ぼくも君も、おんなじ人間や。いや、もしかしたら、神の目からは、ぼくのほうが罪深い男かも知れへん」
とか、
「けどお前も損得のわからん阿呆やなあ。なんぼ欲しいものあったかて、刑務所に何年も繋がれるのと引き換えにするほどのものではあらへんやろ。そうやろ」
「ま、ここは教会や。イエス・キリストの教会や。キリストの神は罰は当てへん。安心していつまでもいるがええわ」
などと言うのだった。
それから三日も経たぬ夕刻だった。保育園の園児を帰して、保母たちと一緒に掃除をし、和子が夕餉の仕度にかかろうと思っていた時、何やら玄関で人の声がした。見ると保郎が若い女を連れて戻って来たところだった。
「かめへん、遠慮なく入りや」
保郎の声音が優しかった。女は無表情に玄関に突っ立っている。
「いらっしゃいませ」
和子が声をかけても、ちょっとうなずいただけだった。
「あんた、この人は?」
和子が言うと、
「うん、ちょっと人に頼まれたんや。この人、M子さんといってな、可哀相に中書島《ちゆうしよじま》から逃げて来たんやって」
「中書島?」
不審げに問う和子に、保郎が声を低めて、
「ユウカクや、遊郭。しばらくうちに預かることにした。ええやろ」
と、のんきな顔で言った。
「ええっ!?」
自分に何の相談もなくと、一瞬憤りを覚えたが、K夫を同居させる時の保郎の言葉を思い出して、和子は言葉をのんだ。
(この人が神さまと相談して決めたことなんや。反対したかて、結局はこの人の決めたようになってしまう)
和子は改めて伝道者の妻の道のきびしさを思った。和子は覚悟を決めて、
「賑やかになってええわ。仲ようやりましょう」
と、明るく言った。新婚四カ月も経たぬうちに、同居人が二人となった。
事は次々と起きた。二、三日雨が降りつづいたある朝だった。玄関の戸が激しく打ち叩かれた。まだ五時である。階下に寝ているK夫は起き出す様子もない。寝巻姿で保郎が飛び出して行った。戸を開けると、隣家の上田富が立っていた。
「先生、大変どっせ! あと何時間もせんうちに、裏の宇治川が氾濫しまっせ」
そこへ和子が降りて来た。保郎が言った。
「氾濫? つまり洪水やな」
「そうや、はよ大事なもんは二階に上げんとあかん。それからな、先生、奥さん、水が床の上に上がると汚のうなりまっせ。うんこがぷかぷか流れて来るのどっせ」
「え!? うんこが?」
和子が悲鳴に似た声を上げた。
「そうや。うちら毎年洪水に遭うとりますがな、要領を教えてあげますわな。水の退け際が肝腎どっせ。水道にホースをつけて、水が退く時めがけて、じゃあじゃあ水を出しますのや。すると大体はきれいになりますさかい、落ちついてな。それとな、水の来んうちに長靴やら雨合羽の用意をしとくと、ええと思いまっせ」
言うだけ言うと、富はあわただしく帰って行った。
K夫とM子が二階に物を運ぶ手伝いを始めた。
「和子、神さまは配慮の行き届いたお方やな。洪水に先立って、ちゃんとK夫君とM子ちゃんを、わが家の手伝いに遣わしてくださった。和子は只の体じゃあらへんし、もしもこれが二人きりやったら、お腹の子にも障ったかも知れへん。感謝やなあ、和子」
二階の窓から眺める宇治川の濁流は、恐ろしい勢いであった。いつも見る河川敷はどこにも見えない。濁流は刻一刻と水嵩《みずかさ》を増していたが、遂に堤防を越え、あっという間に家の中に流れこんで来た。
この大水で、この春塗った壁も落ち、デフォーレスト先生の献金で買ったオルガンも水につかって壊れてしまった。水は翌日まで退かなかった。床上一メートルの浸水であった。上田富の予言どおり、糞尿が会堂一杯に流れこんで、悪臭を放った。その水の退いた会堂に立って、保郎は呆然としていた。
(そうや、ここは土手裏やった。こんな洪水が年に必ず一度や二度はあるそうや)
大変な所に来てしまったという思いが、保郎の胸を噛んだ。昨日水が出る前までは、「感謝だ」「感謝だ」と言っていた自分が、虚脱状態に陥っている。保郎は、そんな自分が情けなかった。
(駄目な男やなあ、ぼくは)
この近所の人々は毎年、ある時は屋根まで水につかりながら、それでも頑張って生きている。一方伝道者の自分は、只一度の試みで、虚脱状態に陥っている。
(これでええのか!)
そう思った時、元気のいい和子の声が飛んだ。
「あんた、どうしたの! 早く手伝ってよ、早く早く」
水道のホースの水を、勢いよく壁に、床に打ちつけながら、和子の頬には微笑さえ浮かんでいた。
「あんた、この会堂はご近所のどこより早うきれいにせんと……。そして、こんな非常の際こそ子供さんを預かってあげなければ……」
和子はまるで楽しくてならぬという語調だった。不意に、保郎の体に突き上げる感動があった。妊娠している妻の健気な言葉に、保郎は答える言葉もなかった。
「よし!」
K夫、M子、和子の倍の敏捷さで、保郎は床を洗い始めた。
大水から二カ月が過ぎた。
一日の保育が終わったあと、母親たちが七、八人集まって賑やかに話し合っている。別に何という会でもない。園児の親たちは、あの大水のあと、俄《にわ》かにこの世光教会に親しみを持ち始めたのだ。その原因は幾つかあったが、第一には、大水直後、和子が願ったとおり、園児であろうとなかろうと、近所の子供は誰でも臨時に無料で預かったことだった。非常の際、どの家でも幼い子供は足手まといであった。その足手まといの子供たちを、進んでこの保育園が引き受けてくれた。それらの子供たちでごった返す教会堂の中を見て、感動しない親たちはなかった。
しかも折よく、マックナイト宣教師のもとにアメリカからララ物資が送られてきた。粉ミルク、ビスケット、バター、チーズなどのほかに、中古の衣類があった。ララとは、アジア救済連盟の略称で、アメリカ国内の社会事業、宗教、労働団体など、十三団体で構成されていた。マックナイト宣教師は、この保育園の園長でもあった。子供を預かってくれたことと言い、ララ物資を惜しみなく分配してくれたことと言い、それは近所の住民たちを驚かせるに充分であった。ろくな遊び道具もない、日本一粗末な保育園だと誰しも思いこんでいたこの保育園を、人々は讃歎の思いで見つめなおすようになった。こうして俄かに園児が増えた。教会への出席者も増しつつあった。
「なあ先生、この保育園、もちいと金があったほうがええのとちがいますか」
ある母親が保郎に言った。
保郎は、神は不思議なことをしてくださったと、あの洪水の時の自分を思い出しながら、改めて神を畏れる思いだった。
(あん時、ぼくはほんまに体中から力ぬけた思いやった。壁は崩れる、オルガンは壊れる、座敷に入れたばかりの畳が使えなくなる、もうここも終わりや思った)
今、こんなにたくさんの人が集まって、暇さえあれば保育園の役に立とうとしてくれる。
「そら金があったほうがええわなあ」
保郎は涙がこぼれそうな思いで言った。
「で、先生なあ、うちら古新聞集めたり、古釘拾うたりして、ちょっとでもお金つくりたいと思うんどす」
「ほうかあ」
保郎は胸が詰まり、
「……ほなら、今のうちに金庫を買《こ》うておかんと、金《かね》の入れ場所に困るわな」
と冗談を言った。
「ほんまや先生、大きい金庫買うといてや」
みんなが笑ったが、誰かが言った。
「そんな奇跡起こらんやろな」
すると、それまで黙ってにこにこ話を聞いていた一人が、
「奇跡ていうもんは、うち、やっぱり起こるもんやと思うわ」
と、みんなの顔を見、
「な、先生」
と言った。
「そうやな、ぼくも奇跡はあると思う。ほんまの話、ぼくはな、あの大水でこの保育園は終わりや思うたんや。一万円も出して塗った壁は落ちてしもうたし、三万五千円のあの立派なオルガンも壊れてしもうた、一銭ものうてこれからどうしてやっていけるか思うたんや。ところが、今ここにこれだけの人がいる、それだけで奇跡やと思うな」
先ほどの青いブラウスの女が言った。
「なんやねん先生。たったこれだけの人数でびっくりしやはって。先生、この間の朝日新聞読まはった?」
「新聞? 新聞なんか取る金があるかいな」
「何や、新聞も取ってはらへんの!?」
「うん、人の家に行った時見せてもらうくらいや。で、その新聞いうの、何のことや」
「皆さんもご存じやと思うけど、ほら、京都府の佐賀村っちゅうところでな、全村がカトリックに改宗したんやって」
「ええっ!? 全村が改宗した? 五人か七人の村とちがうか」
保郎は信じられないという顔をした。
「五人か七人? 先生、びっくりせんといてや。千人やで、千人」
「千人!?」
保郎の声が一オクターブ高くなった。
「その新聞どこにあるかいな」
「そんなん、一週間も前の話や、とうに七輪の焚き付けに使《つこ》てしもたわ」
「何や惜しいことしたなあ……」
口惜しがる保郎に、
「けどな先生、うち、よう知ってるのや、そのこと。うちの親戚の一人がな、その改宗組の一人やのどす。その村はな、報恩寺と書いて『ほうじ』と読むところなんやけど、そこの村長さんがな、代々酒造業営んでおらはったんやそうや。とてもええ村長でな、美しいお嬢さんがいらはってな、その村長さん、終戦近くに応召してな、酒造りはやめはったんやって」
「なるほど」
母親たちも真剣な顔になった。
「その村長さん、工兵少尉で無事に帰って来やはったけど、パージにかかって村長をやめたんどす。そしてな大地主やったけど、田畑も全部、土地解放でのうなってしもたそうや」
「なるほど、わかった! それでその村長さん、ほんとうの生き甲斐を求めたわけやろ。そしてカトリックを信ずるようになったんやろ」
保郎には、村長の心の軌跡がわかるような気がした。
「先生、ようわかりますな。さすがは先生どす。その村長さんはな、ご自分の家の離室《はなれ》に神父さんを住まわせはってな、ご自分の家に祭壇をもうけはったそうや」
「へえー、それで全村改宗はいつや」
「全村改宗はついこないだの終戦記念日やさかい、八月十五日どす」
「八月十五日?」
「そうや。その全村改宗の前にすばらしい神学生が、神父さまのお手伝いに来やはったんやって。讃美歌の上手な、オルガンの上手な立派な方やて。神父さんも、立派なお方やけど、その神学生も大した人気やって。お二人のと村長さんの協力があって、全村改宗になったんとちがいますか」
「ふーん、千人なあ、全村改宗なあ、正に奇跡やなあ」
千人という数字と、全村改宗という言葉に深く感動していた保郎に、次の言葉は耳には入らなかった。
「その若い神学生さんな、去年シベリアから帰らはったんやて」
二通の書留
同居人のK夫は銭湯に出かけ、食後の後始末をしていたM子も、自分の部屋に引き揚げた。
「あっという間に、十二月も半ばになってしもうた。全く早いもんやなあ」
夕食後のひと時、保郎は珍しくのんびりした語調で和子に話しかけた。
「ほんまになあ」
和子が遠くを見るまなざしでうなずいた。
「生涯、忘れられへん年やな。君と結婚した、教会が始まった、保育園も始めた。大水もあった、小川さんが受洗した」
そう言って、保郎はにやりとした。和子も微笑を浮かべた。小川テルは、伏見教会で、求道していたが、この世光教会の礼拝に出席するようになり、八月に洗礼を受けたのである。小川テルは夫を病気で失い、二人の子供を抱えた未亡人だった。胸にいつも祈りを秘めているような、三十半ばの静かな女性だった。このテルの受洗の申し出を受けた夜、保郎は、
「感謝やなあ、和子。小川さんはこの世光教会第一号の受洗者や。教会が始まって、まだ半年と経たんのに、受洗者がはや与えられたんや」
そう言ってぽろぽろと涙をこぼした。司式は世光教会主任のマックナイト宣教師であり、保郎はその補佐役を務めた。受洗式後、感激に満ちた愛餐会が持たれた。
その日和子は、保郎に言った。
「うち、あんたに詫びんならんわ」
「詫びんならん? 何や一体?」
「あんな、うちはな、自分の受洗日は覚えとるんやけど、あんたの大事な受洗日を覚えとらんのや。ほんまにすまんかったわ」
「そら和子、無理もないわ。ぼくはまだ洗礼を受けておらんのやから」
「まさか! 冗談言わんといて」
「冗談やあらへん。ぼくはまだ洗礼受けとらんのや。知らんかったんか?」
「そんな……てっきり京都で受けたとばかり思っていたわ。伝道者が洗礼を受けてないなんて……」
和子は、呆れて言葉がつづかなかった。
「和子、内村鑑三先生は伝道者やで。けど、洗礼は受けとらへん筈や」
「ほなこと言うても……教会員の小川さんが洗礼受けて、あんたが受けていないなんて、……うち、どないしよう」
「和子、ぼくはな、生涯洗礼は受けんつもりや。聖書のどこに、洗礼受けん奴は救われんなどと書いてある?」
「けど……」
「何がけどや。ロマ書第一〇章の言葉知っとらんのか。ええか、よう聞けや。〈なんぢ口にてイエスを主と言ひあらはし、心にて神の之を死人の中より甦へらせ給ひしことを信ぜば、救はるべし。それ人は心に信じて義とせられ、口に言ひあらはして救はるるなり〉とあるやろ。このどこに洗礼を受けんと救われんなどと書いてある?」
保郎は教会を創立しながら、まだ無教会主義に強く心を惹かれていた。
「ほならあんた」
と、和子はあらたまり、
「なんで小川さんの受洗を認めたんや? なんで今日あんなに喜んだんや?」
「ぼくはな、小川さんが信仰を言いあらわしたことがうれしかったんや」
「そんなん詭弁や。呆れた人や」
と言い争ったが、その翌月、洛陽教会の遠藤牧師と、保郎を息子のように愛するマックナイト宣教師夫妻の懇《ねんごろ》な勧めによって、保郎は遂に受洗したのであった。伝道者が教会員のあとに洗礼を受けた世にも稀なる出来事であった。
そのことを思い出して、二人は今、笑い合ったのである。
「小川さんにつづいて、今度クリスマスには、奥野金一郎君が受洗するしな」
「そうやな。あんた洗礼受けといて、ほんまによろしうおましたな」
保郎は苦笑してから、真顔になって言った。
「ぼくも、もっともっと勉強せにゃあかんな。あん時は、遠藤先生に突っかかったんやけど、あん時受洗しなかったら、ほんまに生涯受けられんかったかも知れへん。感謝や」
和子は、保郎が近頃感謝という言葉を多く使うようになったと思いながら言った。
「それになあ、あんた、教会が発足したばかりやいうのに、田辺、大住《おおすみ》や、淀、八幡《やわた》やら、農村伝道も始めてな」
「そうや、教会が小さいから小廻りが利くんや。これが大きうなってみい、信者が二百人も三百人も超えるようになってみい、会員の顔と名前を一致させるだけでも大変や。小さいからこそ、あちこちに伝道に行けるのや。小さい教会には小さい教会の、恵みと使命があると、ぼくはつくづく思うんや」
「そうやなあ。使命と恵みなあ」
素直にうなずきながら、和子はほっと吐息をついた。保郎は敬愛するマックナイト宣教師と農村に出かける時も、一人で出かける時も、顔を輝かせて出て行った。どの農村も電車に乗って幾つもの駅を過ぎて行かねばならない。夜遅くまで集会を持ち、電車がなくなった時は、保郎は何時間もかかって徒歩で帰って来るのだった。まだ二十五歳とはいえ、その疲労は甚だしかった。
「痔が悪いんやなあ」
と言って、辛そうにしゃがみこんでいることもある。だが、一夜明けると、保郎はまた聖書研究に、信者や求道者の家庭訪問に、保育園児の運動会や遠足に、そして時折神学部にと、元気に動きまわるのだった。
「とにかく、赤ん坊もそのうち生まれることやし、感謝やなあ。和子、体は大丈夫か」
保郎はそっと和子の大きな腹部に目をやった。
「ありがとう、大丈夫やわ」
にっこり笑った和子だが、なぜか妙なことをふっと思い出した。大水のあとの、六月の俸給日のことだった。保育園の保母の上田富枝と林静枝は、月々俸給をもらってはいたが、主任保母の和子は、それまで一度ももらってはいなかった。それが、初めて保郎の手から俸給袋が渡されたのだ。
「うわあ、うれしいわあ」
和子は俸給袋を胸に抱いてから、中身を数え、もう一度胸に抱いて二階に上がり、箪笥の取っ手を引いた。と、その和子の肩にそっと手が置かれた。ふり返ると保郎だった。肩にかけたその手を保郎は差し出して、
「すまんなあ、和子。それなあ、上田さんたちの手前出したんやけど、返して欲しいんや」
「返す!?」
「そうや、うちの保育園はな、まだまだ金が要るんや」
和子は黙って、もらったばかりの俸給袋を保郎に手渡した。自分は一生、こんなことの繰り返しをしなければならないのではないかと、和子は思ったのだった。今、そのことを思い返して、保郎もさぞ辛かったのだろうと思った。
翌十二月十六日――。
きよしこの夜 星は光り
救いのみ子は……
和子が園児たちに讃美歌を教えている。保郎は玄関先で、子供の下駄箱を整頓しながら、自分も「きよしこの夜……」と口ずさんでいた。と、郵便配達が、
「書留です」
と、玄関に入って来た。
「書留? どっからか、金送って来たんやろか」
独り言を言いながら、ポケットから認めを出し、領収印を押した。書留と言えば、小為替か何かに決まっている。保郎は楽しい気分で差出人の名を見たが、はっとして二階に駆け上がって行った。
差出人はこの家の売り主であった。急いで封を切り、一読した保郎は声も出なかった。この家は二十万円の売り値だったが、半金の十万円は一月二十五日に手渡してあった。あとの十万円は、暮れの二十五日に渡すという約束だった。もしその約束に反したならば、この家は返さねばならぬことになっていた。あの時、半金の十万円ができるまで、大変な苦労をした筈なのに、保郎はあとの半金の返済日をすっかり忘れていたのである。古い家が教会堂に改築され、毎日園児たちの愛らしい歌声が聞こえるようになり、日々が目まぐるしく過ぎていった。そんな中で、あろうことか返済日を保郎は忘れていたのである。
(なんちゅう人間やおれは! 借金のあることをすっかり忘れてしもうていた)
保郎は自分の頭を自分で殴った。
(もし、自分が人に十万円を貸していたとする。貸している以上、本当に返してくれるかどうか、きっと不安に思うにちがいない。貸してくれるということは、信じてくれるいうことや。返してくれるにちがいないと信じなければ、どうして十万円も貸すことができるか)
だが、自分はその信頼を見事に裏切ってしまったのだ。その金を返すために東奔西走したのならともかく、今の今まで、すっぱりと忘れていたのだ。何という不誠実な人間だろう。保郎は言いようもない自己嫌悪に駆られた。
「主よ、不真実なこのわたしをお許しください」
保郎は幾度も同じ言葉を繰り返して、神に詫びた。先ず詫びなければ、必要な金をお与えくださいなどと、祈れるものではない。保郎は祈る時、太股《ふともも》の上を両手でなでる癖があり、ズボンのその部分が薄くなっている。事あるごとに祈るからだ。が、今、保郎の祈るその手は、ともすれば止まり勝ちだった。神は、今年の正月には短時日のうちに、見事に十万円を与えてくださった。そのことへの感謝が真になされていたのであれば、十二月までに募金活動を怠ることはなかったにちがいない。募金というものはいやなものだ。今年の正月、そのことが保郎の身に沁みていた。親切に話を聞いてくれる者もいる。マックナイト宣教師のように、即座に五万円もの金をくれる人もいる。高価な毛皮のオーバーを、惜しげもなくロッカーから出してくれたデフォーレスト院長のような婦人もいる。だが、そんな人ばかりではない。話を半分まで聞いて、
「君、人生はそんなに甘いもんじゃないよ」
とひとくさり説教をし、一銭も出してくれない者もいれば、
「募金? 駄目駄目! わたしはね、出すべきところには、ちゃんと出しとるんや」
と、乞食でも追い返すように侮蔑した表情を見せる者もいる。それらが無意識のうちに募金を忌避させていたのかも知れない。
(おれもおやじに似とるんかなあ)
保郎は思った。御嶽教を信奉する父通のもとには、多くの村人たちが身の上相談や、農事の相談に集まってくる。特に朔日《ついたち》、十五日には朝から晩まで客が絶えない。が、貧しくはあっても、通は一銭の謝礼も受け取ったことがない。無料で人の役に立つことを喜びとしているのだ。だから牧師が謝儀(給料)を受けることさえ納得し難い。その影響が保郎にも及んでいる。
とにかく、再び金のことで人を煩わすのは気が重かった。
(けど、事は神さまのためやしなあ)
吐息をつく保郎の目にマックナイト宣教師の温顔が浮かんだ。
(いや、あかん、先生には前にも五万円も出してもろうた。これ以上はなあ……さりとて和子の実家にも頼めんし……)
和子の家からは、月々何千円か届けられていることを保郎は知らない。が、折々、米や砂糖や煮干し、海草などを送ってくるのは知っていた。
この教会は、保郎や和子の私物ではない。いつの日保郎たちはここを出て行かなければならないか、それはわからないのだ。言ってみれば、教会員や園児たちのための建物なのだ。と言って、僅かな教会員や、園児の父兄に、募金を頼むのも気の毒だった。
(あかんな、おれは。気が弱うて)
保郎は思わず和子を呼ぼうかと思った。階段を一歩降りかけて、はっとした。階下から、
「さあ、神さまにお祈りをしましょう」
と言う和子の声がしたからだ。
「天にまします我らの父よ」
子供たちの称える「主の祈り」が二階に上ってきた。保郎は部屋に戻って窓際に坐り、自分も主の祈りを称えてみた。が、十万円の数字が大きく小さく胸の中に去来して、祈ることもできない。
(どないしよう、どないしよう)
保郎はぐるぐると、部屋の中を歩き廻った。
翌朝起き上がった時、やはり思い切って募金に出て行くべきだと思った。保郎はめぼしい人の名を思い浮かべてみた。が、どの人にも断られそうな気がする。行っても無駄なような気がする。その日、保郎は遂に一歩も外に出なかった。
翌日も今日こそはと思ったが、この年の暮れの金の要る時に、たとえ百円の金でも喜んで出してくれる人はいないような気がした。
「あんた、どうするの」
和子が心配そうに尋ねるが、それさえもうるさい。
「お祈りしようやないの」
和子が促しても、
「言われんでも祈っとるがな」
と苛々する。
「祈っとるんなら、なんでそんなにふさぎこんどるの。神さまは祈りを聞いてくださる神さまでしょう? いつもあんたはそう言うやないの」
「神さまだって、都合いうもんがあるわ。応えてくださらん時やってあるんや。祈りが全部聞かれるとは限らん」
保郎の声が次第に大きくなった。
教会員が訪ねて来ても、保郎は時々とんちんかんな答えをした。
(この教会は神さまのものやと思うて始めたんやが……)
保郎は繰り返し思う。黙って坐っていて、金が舞いこむわけはないと思いながらも、やはり募金に行く気力がない。
「神さま! 神さま!」
保郎は祈るともなく只神を呼んでいた。
十二月二十四日、クリスマス・イブが来た。婦人たちが午後から集まって、愛餐会の準備をしていた。賑やかに話し合いながら楽しそうに準備をしている婦人たちを見ても、いつものように気軽な言葉をかけられない。とにかく明日は二十五日なのだ。やはり保郎の行くところは、マックナイト宣教師の家しかなかった。
いつもは優しいマックナイト宣教師だったが、切羽詰まってやって来た保郎への言葉はきびしかった。
「ワタシハ、ギンコウデハアリマセン」
保郎は愕然とした。
「オイノリシマショウ」
幾らかは援助してくれると期待したマックナイト宣教師の言葉に、
(お祈りなんか……)
と、内心失望した。祈りよりも、金が欲しい。保郎はそのまま、淡路島の父母のもとに行った。父母も全く相手にしなかった。
「年がら年中、金に追っかけられるくらいなら、牧師をやめて帰って来るがええ」
通の言葉はきつかった。
翌二十五日の夜、保郎は悄然としてわが夜に戻った。
「和子、何と言うて断った?」
保郎は力なく和子に尋ねた。
「それがなあ、取りに来ぃへんのや。よかったわあ」
二十五日はクリスマスである。教会は忙しいと思ったのか、取り立てには来ていなかった。しかし、明日は取りに来るだろう。
(ほんまに、祈るよりしようがあらへんな。けど、今更祈ったかて……)
何の役にも立たぬ気がした。と、和子が、
「ああそうそう、後宮《うしろく》さんの俊夫さんから書留が来てたわ」
「書留?」
差し出された封書に、保郎は急いで鋏《はさみ》を入れた。便箋と共に一枚の紙片が入っていた。小切手であった。クリスマス献金かと思った。が、額面を見て、保郎は仰天した。何とそこには十万円の文字が浮き出て見えたのである。俊夫は求道者後宮寿子の長男で、元海軍大尉、真珠養殖を営んでいたが、保郎の事情は何も知らなかった。
この後宮俊夫こそ、のちの世光教会牧師、現日本キリスト教団議長(一九八八年まで在任)その人であった。
真珠
昭和二十五年(一九五〇年)――。
静かに正月を過ごす暇もなく、明日は和子が淡路島に帰る日となった。出産の予定日が近づいてきたからである。
階下ではK夫も眠りに入り、一つおいて隣の部屋のM子も、ひっそりとしている。
「大変やなあ、和子」
畳に横になって、保郎は和子に言った。
「大変? 何が?」
明日の荷物を点検している和子の声が優しい。
「赤ん坊を産むんや。そら大変なことや。痛いんやろな、赤ん坊産むのって」
「うち、まだ産んだことないから知らんけど、痛うて痛うて、障子の桟がよう見えんと言うわな」
「怖いなあ」
保郎は自分が産むかのように顔をしかめて、痛そうな表情をした。和子が笑って、
「けど、うちは産婆の家に生まれたやろ。いろんなこと聞いているから、却って安心や。母はな、神さまが与えた自然のことやによって、たいていの人は安全なんや、神さまに委せていたらええ、感謝してたらええ、といつも言うんよ」
「ほうかあ。ま、お前のお母はんは名産婆やから、それは安心やけど……」
保郎は体を起こして、お産で妻を死なせた知人の顔を、妙にありありと思い出す。
(神さま、死なさんといて……)
と、祈る思いになる。妻に子供を産ませるということが、何か深い罪を犯すような気がする。女性だけが苦しむことが、申し訳ない気がする。が、それは口には出さず、ひたすら祈るだけなのだ。
「なあ、和子。ぼく、赤ん坊の名前考えたんやけどな、男なら林恵の名を取って恵とつける。あいつは恵《さとし》やけど、恵《めぐみ》と呼ばせたほうがええ。どうや」
「どうや言うたって、もう決めたことやろ。うちが反対したかて、あんたは親友の林さんの名をつけるに決まっとるもん」
林恵の長男の名は保郎なのだ。保郎はにやりとして、
「そうやな。女なら、何とつける?」
「うち、しのぶなんて好きやけど……愛子も愛らしいわなあ」
「ぼくは和子、るつ子や」
「るつ子? ああ、旧約聖書のルツ記のルツなあ」
ルツ記のルツは、夫の死後、姑のナオミの故国イスラエルまで、姑のあとに従《つ》いて行き、夫に代わって孝養を尽くす。そして、のちには、人格者で裕福なボアズの妻となって、幸せに一生を過ごすのだ。聖書の中でも、最もうるわしい物語の女主人公なのだ。
「けど……るつ子……うち、いややなあ。女は夫に先立たれるの、かなわんのよ。たとえあとで、また幸せな結婚できるとしても、夫は一人っきりのほうが幸せなんやわ」
和子は眉根を寄せた。
「和子、けどな、内村鑑三先生のお嬢さんはルツ子なんや」
内村鑑三に傾倒している保郎は、鑑三の娘と同じ名を、自分の娘につけたかった。和子はいよいよ眉をよせて、
「いややわ。内村先生のルツ子さんは、確か若くて死んだやないの」
「阿呆やなあ、和子。ぼくはな、信仰の先輩に習いたいだけや。るつ子という名前の者が、みな短命とは限らんやろ。ぼくはるつ子とつける。ええな、和子」
保郎はうれしそうに宣言した。和子は吐息をついた。時計はまだ九時前だ。いつも十二時頃まで立ち働いている二人にも、時にこんな夜がある。
「ところでな、話は変わるんやけどな」
「なあに?」
和子は内心、まだ赤児の名前にこだわっている。が、一旦言い出したら容易に後には引かない保郎であることも知っている。
「神代《じんだい》の家もなあ、大変や思うんや」
「そうやなあ」
二人の目に、ためゑのか細い肩や、通のむくんで大きな体が浮かんでくる。
「心配かけるばかりで、何もしてやれんやろ。三月にでもなったら、栄次でも預かってやろうか思うんやが、どんなもんやろな」
栄次は今年、数えて十一歳になる。早生まれの栄次は四月から五年生なのだ。
「そうやなあ。まだ十一やから、親もと離れるのは淋しくないやろか」
「なあに栄次も男の子や。他人の家に来るわけやない、兄貴の家に来るのや」
「けどお、まだまだ甘えたい盛りやしなあ」
和子は、自分が二十六にもなって、明日親もとに帰るのが、胸がわくわくするほどうれしいのだ。末っ子に生まれたためもあって、和子は親が懐かしくてならなかった。
「ほうかあ、あかんかあ。お前も赤ん坊を産む、保育園の仕事もある、その上栄次の世話じゃ、かなわんやろな。けど、栄次かて子守くらいできるかも知れへんでえ。賢い子やし、優し子やしなあ」
「遊びたい盛りに子守なんて、可哀相やわ。それに……」
「それになんや?」
「栄ちゃんはまだ子供やろ。刑務所出た人と一緒に住んでもいいんやろか」
「刑務所出た? ああK夫君のことか。和子まだそんなこと思うとるんか?」
「そんなことって?」
「つまり、前科者やと思うとるんか」
保郎の声が不意にきびしくなった。ものをたたんでいた手を止めて、
「そんなんとちがうわ。K夫さんはおとなしいし、よく働くし、無口やし……」
「ほらみい。一緒にいたかて、何も悪いことあらへんやろ」
「それはそうやけどなあ……」
和子は自分の言いたいことがうまく伝わらないのを、もどかしく思いながら言葉を濁した。
「和子、K夫君もM子ちゃんも、神が与えてくれた隣人やで。大切に思わなあかん、尊ばなあかん。ぼくらとK夫君は何のちがいもあらへんのや。ぼくらもキリストを十字架につけた罪人やでな、そのことをようくわからんと、キリストさまに申し訳が立たんで」
保郎は真剣に、一語一語力をこめて語った。和子がうなだれているのを見て、保郎が言った。
「和子、ぼくはなあ、今の言葉、お前にも聞かしたかったが、お腹の赤ん坊にも聞かしたかったんや」
一月二十八日、長女るつ子が無事に生まれ、三月末には淡路島から栄次がやって来た。保郎の家には、K夫、M子、栄次のほかに、六月から更に三人の同居人が加わった。昨年のクリスマスに十万円を送ってくれた後宮俊夫の母寿子《ひさこ》と、その娘高校生の昭子《あきこ》、周子《かねこ》だった。昭子と周子は愛らしい双生児で、共に勉強好きな少女だった。
先日、後宮俊夫の父が首をつって死んだ。陸軍中佐だった俊夫の父は、戦後黙々と工場に通い、一工員の生活をしていたが、ついに元軍人としての自責の念に耐えられなかったのだ。保郎も、満洲から帰ってしばらく、生きる気力を失った一時期があったから、その覚悟の死は、ひとごとに思えなかった。戦時中敬愛していた元文部大臣橋田邦彦の自殺を、保郎は改めて身近に感じた。日本中に、どれほど多くの似た死があったことかと、胸が詰まる思いだった。
そんなことがあったあと、俊夫の母たちは借りていたその家を出た。自殺者を出して、居辛くなり、新たに住む家を建てることにしたのだ。そしてその家ができ上がるまで、保郎の家の二階に同居することとなったのである。
「栄ちゃん、風呂に行こ」
日曜日の夕方、K夫が栄次の肩に手を置いて言った。人なつっこい栄次は、後宮夫人にもK夫にも可愛がられた。
「うん……けどお」
「けど、何や?」
「風呂賃持っとらん」
「和子おねえさんに言えばええやないか」
K夫がにやにやする。
「あんな、おねえさんの財布ん中、ぼく見て、知ってんのや」
栄次は悲しそうな目をした。
「ほなら、このぼくに頼めばええやないか」
最初から風呂賃を出してやるつもりのK夫が、いとしそうに栄次の坊主頭をぐりぐりとなでた。淡路島から出て来て、人ずれのしていない純朴な栄次が、K夫は可愛くてならないのだ。栄次が来てから、暗かったK夫の顔が次第に明るくなっていた。
「行ってきまーす」
栄次が大きな声で言い、K夫と並んで出て行った。外にいた保郎が叫んだ。
「よう洗ってくるんやで」
その保郎の声も笑っていた。と、見馴れぬ青年が玄関前に立った。
「牧師さんですか。ぼくは後宮寿子の息子の……」
言いかけた言葉を奪うように、保郎が叫んだ。
「あなたが、後宮俊夫さんですか!」
飛びすさって平伏せんばかりの語調であった。その保郎を、後宮俊夫は戸惑ったように眺め、
「母がお世話になっているそうで」
と、静かな声で言った。俊夫の父の葬儀には、保郎はのっぴきならぬ用事で出席できなかったのだ。
「いや、お世話やなんて……只二階に住んでもろうてるだけです。今、ちょっと出かけはってますが、とにかくお入りください」
保郎はていねいに言い、先に立って階段を上り、後宮寿子たちが住んでいる部屋に二人は相対して坐った。
「昨年のクリスマスには、ほんまに助けていただきましたのに、お父さまのことでは、なんのお力にもなれませんで……」
その保郎に、俊夫は手を横にふり、
「いや、もうあのことは忘れてください」
と、やはり静かな声で言う。
(これが社長やろか。海軍兵学校出の、元海軍大尉やろか)
保郎の目に、後宮俊夫は魂の抜けた人間に見えた。後宮寿子の話によれば、俊夫の養殖真珠は需要が多く、繁昌しているということだった。社長である俊夫の給料は、他の給料取りの十倍近い高額であるとも聞いた。だが、初めて会った俊夫からは、事業に華々しく生きている活力も喜びも感じられない。
(お父さんが自殺され、事業がうまくいっていないのとちがうか)
保郎は何を話しかけてよいかわからぬままに言った。
「お仕事はどうですか?」
「はあ、おかげさんで順調にやっとります」
そう答えた俊夫は、一礼してあぐらをかいた。折り目が正しい。
「それはよろしうおますな」
見も知らぬ自分に、土地付きの家一戸は買えるほどの十万円を、ぽんと送ってくれた人間である。が、今まで想像していた人物とは、あまりにちがい過ぎた。
「あのう、なんで会ったこともないわたしに、あんな大金をお送りくださったんですか」
思い切って保郎は尋ねた。
「それは……母の手紙に榎本さんのことが書いてあったからです。自分のことは忘れて、人のことばかり考えて働いていなはるお人や。夕食のお菜も煮干しやおからで、大変な生活なのに、なんであんなに人のために苦労していなはるのやろ、と書いてあったのです」
「ほなら、たったそれだけのことで、ぽんと十万円も……」
「榎本さん、いくらか金を持っている者が金を出したとしても、それは大したことではありません。自分の生活を詰めてまでお送りした金ではないのです。榎本さん夫婦のように、自分の身を削るようにして、金も労力も時間も全部提供しとるのとはちがいます」
相変わらず低い声だが、その言葉に保郎は、俊夫の誠実さを感じ、
「……そんな、私は伝道者ですから。しかし、事業は事業でやり甲斐がありますやろ」
「やり甲斐?」
俊夫は怪訝《けげん》そうに保郎を見た。
「そうです。やり甲斐いうか、生き甲斐いうか、そんなものがあるのとちがいますか」
「榎本さん、わたしは自分の事業を、男子一生の仕事とは、思っとらんのです。どうしても思えんのです。人間たるもの、その究極の目的が金儲けでしかないなどとは、あってはならんことと思っとります」
保郎は、はっとした。牧師の自分が言うべき言葉を、この男は言っている。自分が生きる目的を失っていたあの頃の心情に、よく似た状態なのだと保郎は気づいた。俄《にわ》かに保郎は、俊夫に親近感を覚えた。
(この男は、もしかしたら神が自分に会わせてくれた人間かも知れへん。生涯で幾人もない重要な友になるかも知れへん)
そんな思いが保郎の胸をかすめた。
「では、後宮さん、何があなたにとって男子たるものの生き方なんですか」
保郎は真剣に尋ねた。
「それがわかれば、真珠の養殖などしとりません。とにかく今の仕事は、一生の仕事とは思っておらんのです。二、三年のうちにやめるかも知れません」
「そうですか」
うなずきながら、保郎は、
(折角繁昌しとるのに、やめるのは惜しいなあ。事業をしながらでも、生き方は変えられると思うが)
と、心の中で思い、そして言った。
「後宮さんのお母さんは、なかなか教会に熱心やけど、あなたは神を信じたいと思わんですか」
「神ですか。別段ぼくは、神も仏も信じたいとは思いません。死んだ父も、おそらくそんな気持ちだったと思います」
俊夫はそう言って、畳に目を落とした。その言葉には、神への無関心がありありと感じられた。
(この男が信仰を持つのは、むずかしいかも知れへんな)
内心保郎は吐息をついた。いい加減に生きている人間が、いい加減な気持ちで神を否定するのとは、この男の場合はちがっている。おそらく戦時中、純粋に国のために命を賭して戦ったにちがいない。その身内に大将と中佐がい、自分もまた大尉であったということは、計り知れない重い現実であったにちがいない。戦後、事業に対しても、彼なりの誠実さをもって、思慮深く生きてきたにちがいない。その事業が、いかに繁昌してもむなしさを覚えるという。にもかかわらず、神を信じないというのだ。その一語には、大変なものが秘められているのではあるまいか、と保郎は思った。
と、その時、階段の下で、
「お兄ちゃんいるう?」
と、明るい女の声がした。マックナイト宣教師の家に働いている松代の声だった。
「おお、まっちょかあ」
答える間もなく、階段を駆け上がる軽い足音がして、
「あら、そっち?」
という声と共に、敷居の外に、若草色のワンピースを着た、松代の白い顔が笑っていた。松代は後宮俊夫を見て、
「あら、ごめんなさい」
と、敷居の向こうに両手をつき、
「いらっしゃいませ」
と、にっこりした。松代はいつも明るい。人の心を素早く惹きつけるものが松代にはあった。
「あ、この方な、後宮俊夫さんや。こいつ妹の松代です。信仰だけは人一倍篤い妹です」
「はあ」
俊夫は松代をちらりと見て、軽く頭を下げた。
「こいつは、給料のほとんどを献金してくる奴なんです」
「そんなん、お兄ちゃん……ちがうわ」
松代は、もらった給料のほとんどを、毎月保郎に持ってきた。マックナイト邸に住みこんでいるので、ほんの僅かな小遣いを自分のものとして、満足していた。松代としては、保郎の生活のために差し出していたのだが、どうやら保郎は、それを教会への献金として、全額教会に差し出していたらしい。そんな二人のやりとりに、俊夫は耳を傾けていた。
一月二十八日、るつ子が誕生、五月に上田富が受洗、そして六月二十三日には、洛陽教会の支教会だった世光教会が、日本キリスト教団から第二種教会(日本キリスト教団の教会で、会員数約二十名以上五十名未満の教会)としての承認を受けたこの年、昭和二十五年も暮れようとしていた。
ところが、十二月三十一日、後宮俊夫の養殖真珠の作業場が全焼したのである。作業場は、三重県志摩郡|的矢《まとや》村|渡鹿野島《わたかのじま》にあった。どこかの若者たちが、正月をこの島で迎えようとしたのだろうか。無人の作業場に入り、火を焚き、酒でも飲んだらしい。が、不審火ということで犯人は挙がらずに終わった。後宮俊夫はその年、父を失った上、真珠の作業場を失ったのである。
年が明けた。松の内が過ぎてから、保郎は後宮家を訪れた。昨年保郎たちと同居していた寿子たちは、十月に落成した新宅に転居していた。手のこんだ立派な建築だった。後宮家には、二、三日前火事の後始末から帰ったばかりだという俊夫も居合わせていた。保郎とは二度目の対面である。
「大変な正月でしたなあ、お父さまのことと言い、火事のことと言い……」
一応の挨拶が終わってから、保郎は声を詰まらせた。俊夫は腕組みをしたまま、目を伏せていた。寿子が思いのほか元気な声で言った。
「先生、神は愛なりと、先生はよう言わはりますなあ」
「はあ……」
保郎は次に来る寿子の言葉がわからないので、曖昧に答えた。
「ほなら、神が愛なら、どんな目に遭うても、先々を案ずることはありませんわなあ」
保郎はほっとして、
「ほんまや、神のご計画の確かさ、深さは、計り知れまへん。何かあると人間はばたばたしますがな……」
言いながら保郎は、俊夫を励まそうとしている寿子の心を思った。が、俊夫は、憔悴してはいるものの、去年初めて会った時と同様、静かな表情だった。
「俊夫さん、これからどないします?」
保郎は単刀直入に聞いてみた。
「はあ」
俊夫は物憂げに保郎を見てから、
「どうせそのうちやめたい思うてた仕事です。ゆっくり時間をかけて、本気で打ちこめる仕事を探そうと思ってます」
「ほうですか。真珠とはすっぱりお別れですか」
「はあ、真珠のバラ玉のブローカーをやると、えろう儲かるのですが、それもやめようと思うとります。まあ一年ぐらいは食える蓄えもありますし……」
「本気で打ちこめる仕事なあ……」
保郎はじっと俊夫の顔を見ていたが、
「牧師はどうですか」
と、真面目な顔で言った。
「牧師?」
奇妙な笑いが俊夫の口に浮かんで消え、
「牧師なんて……なんてと言うのは失礼ですが、牧師は先ず信仰を持たねばできぬ仕事でしょう?」
「そらまあそうですが」
「今のところ、ぼくは、神を信ずる気持ちなど、これっぽっちも持っとらんのです」
保郎はうなずいて、
「そりゃそうやろなあ。いきなり牧師にならんか言われて、はいやりましょ、言うわけにはいかんですわな」
保郎は大声で笑った。その顔を俊夫は不思議なものでも見るように眺めた。母親の寿子が言った。
「先生、俊夫に牧師はとても無理や思います。けど、せめて信仰は持って欲しいのです」
まだ畳の香りのある、壁も襖も真新しい部屋に、冬の日が明るく差しこんでいた。
それから幾日か経って、俊夫がふらりと教会をのぞきに来た。保育園の園児が四十人ほど、和子、上田富枝、林静枝の三人を囲んで、手を上げたり叩いたりしながら、
むすんで ひらいて
…………
と歌っていた。と、一人の子が泣き出した。
「おなかいたいよう」
子供が叫んだ。和子が俊夫を見て、
「ああ、ええところにおいでくださいました。えろうすんませんけど、うち、ちょっとこの子を見ますよって、子供たちを見ていただけますか」
幼い子供は、少しの時間も目を離せない。
「見てるって、どないするんですか」
俊夫は当惑した。
「そこに立って、只見ててくださったら、それでええのです」
言うなり和子は、泣いている子供を部屋に連れて行った。子供たちは、
「男せんせや、男せんせもおどろ」
と、人なつっこく言う。初めは突っ立っていた俊夫も、他の保母たちの真似をして、子供たちと共に手を叩いたり、歌ったりした。
することのない俊夫は、以来時折教会を訪ねるようになった。保郎も和子も保母たちも、遠慮なく俊夫にものを頼むようになった。俊夫は事務もよくした。子供の扱いは器用ではなかったが、真実味のある扱いをした。保郎は次々に俊夫に頼みごとをした。というより、保郎の忙しい働きぶりを見ていると、俊夫のみならず、強力な渦に巻きこまれるように、人々はその中に引き入れられていくのだ。
三月も半ばのある日のことだった。栄次が学校から帰って来た。俊夫は、這いまわるるつ子を見ながら、農民福音学校の案内状の封筒に宛て名を書いていた。保郎は、教会が発足して、まだ二年と経たぬうちに、近郊の農村に働きかけ、短期の農民福音学校を開く計画を立てていた。講師は毎日変わるということで、数人を予定していた。礼拝出席数は、既に二十名を超えることもあるとは言え、教会外に手を伸ばすのは、誰の目にも時期尚早と見えた。
「只今」
襖をあけて、栄次が二階の部屋に顔を出した。
「ああ栄ちゃんか、お帰り」
俊夫がちょっと顔を向けた。るつ子が喜んで、栄次の体にまつわった。
「るっちゃん、只今」
栄次はるつ子の頭をなで、しばらくるつ子の相手をしていたが、間もなくるつ子が寝入ると、
「なあ後宮先生」
と、俊夫に話しかけた。栄次にとって教会で働いている人は皆、先生なのだ。
「なんや?」
俊夫も一段落したところだったので、体ごと栄次のほうに向いた。
「先生、牧師になるの」
説教したことのない俊夫を、栄次も牧師だとは思ってはいない。
「牧師になんぞならん」
「ふーん」
「栄ちゃんは牧師になるつもりか」
「いやや、ぼくは」
「どうしてや」
「だってなあ、後宮先生、牧師は貧乏やろ。信者さんのほうが金持ちやろ。ぼく、貧乏嫌いや」
「貧乏嫌いか」
「先生は貧乏好きなんか」
「そら好きなことあらへんがな」
「ぼく、いつでもパン買って食べれるようになりたいんや」
「え? いつでもパン買って食べられるようになりたい? 栄ちゃんはパンが嫌いなんとちがうか」
「あっ!」
思わず栄次が口をおさえた。俊夫は栄次がパン嫌いだと聞いていた。後宮寿子、周子、昭子がここに同居している時のことだった。寿子はよく火鉢の上に金網をのせ食パンを焼き、マーガリンをつけて食べていた。その初めの頃、偶然パンを焼いているところに、栄次が顔を出した。
「栄ちゃん、ここへ来て、パンを食べえ」
寿子がやさしく声をかけたが、栄次は激しく首を横にふり、
「ぼく、パン嫌いや」
と、あと退《ず》さりするようにして答えた。
「なんや、栄ちゃんパン嫌いか。悪かったなあ」
寿子は謝るように言った。その後も時折、栄次は寿子がパンを焼いているところに顔を出すことがあった。が、その度に、
「栄ちゃん、パン嫌いやもなあ。ちょっと食べてみたらええのになあ」
とは言っても、無理に勧めはしなかった。初めて勧めた時、あと退さりして、「パンは嫌いや」と言った表情が、あまりにも印象的であったからである。が、栄次は、あまりにうまそうな匂いに生唾を飲みこみながらも、パンを欲しいとは言えなかったのだ。人から食べ物をもらいたがる人間になってはならぬと、子供ながらも栄次は思っていた。それは、父の通やためゑの影響でもあった。
今、口をおさえた栄次を見て、俊夫はすべてを察した。思わず胸にこみ上げてくるものを感じた。それは、軍隊や真珠養殖の中では、味わったことのない、慈しみの感情だった。
「そうか、栄ちゃんは貧乏が嫌いか。しかしな栄ちゃん、人間金を持ったかて幸せとは限らんぞ。金だけでは幸せになれへんのが人間や」
と、しみじみと言った。栄次はうなずかなかった。
翌日俊夫は、栄次に食パンとマーガリンを買って来た。
三月末、栄次は淡路島に戻り、再び父母のもとから小学校に通うことになった。現札幌北部教会榎本栄次牧師の幼き日の一齣《ひとこま》である。
保郎の企画した春期農民福音学校がいよいよ始まった。昼と夜、講座は持たれることになっていた。初めは三十名ほどの農村青年が集まった。だが、三日目、出席する青年は皆無となった。保郎が青い顔をして俊夫のところに飛んで来た。
「俊夫君、大変や! 講師が来ても生徒が一人もおらへんのや。君、二、三日農村青年になってくれへんやろか」
「生徒がいない? そら困るわな」
宛て名書きの手伝いをしたということで、俊夫も何となく責任を感じた。
「けどな、ぼく一人じゃ、いややな。せめてK夫君でもおればよかったんやがな」
K夫とM子は、そのころ前後して他に移ってしまっていた。結局、熊田祐弘という真面目な青年が駆り出された。何しろ、昼と夜の二回の講義がある。日に二回、何日もつづけてキリスト教の講義を聞くほど、熱心な人間はいなかった。
こうして一週間に亘る最後の講義の日となった。保郎が講師の紹介に立った。
「いよいよ今日が、今期最後の講座となりました。今日語ってくださるのは、ここにおられる舛崎《ますざき》外彦先生であります。先生は、紀州の南部《みなべ》において、尊い伝道のお働きをなさっておられる有名な牧師であります。私は以前より先生を尊敬している者でありまして、農村青年諸君に、ぜひ先生のお話をお聞かせしたく思っておりました。しかし、事志とちがい、只二人の出席者しかなかったことは、まことに残念であります。先生に対しても、主催者としてお詫び申し上げねばなりません。先生、よろしくおねがいいたします」
顔を赤らめながら保郎が壇上を去ると、静かな足取りで、講師の舛崎外彦が壇に立った。後宮俊夫は、じっと舛崎外彦を注視した。柔和なまなざし、ひょうひょうとした身のこなしが、俊夫の心を捉えた。マックナイト宣教師も、天使を思わせる柔和さがあったが、舛崎外彦には何の構えもない軽妙さがあった。
「只今ご紹介いただきました舛崎です。榎本先生は、数が少ないことを気にしておられる。しかし聞く耳のある一人の魂を尊く思います。今、ここにおられるお二人は、一騎当千の働きをなさるにちがいないと、私は信じます。
私は今、少しは名前の知られた伝道者のように紹介いただきましたが、私の人生は、神の前に失敗だらけでありました。しかし、神という方は不思議な方でありまして、人間の失敗を用いて、思わぬ成功に導く方でもあります」
何となく俊夫は引き入れられるように舛崎外彦の一言一句に耳を傾けた。かつての伝道地でのエピソードを、舛崎外彦は次々と語った。夜の辻に立って路傍伝道を始めたが、キリスト教を嫌うあまり、村人は舛崎を借家から追い出し、年に十八回転居したこと、遂に行くところがなく、発狂し、変死した娘の家に住みついたこと、食器や夜具を肥溜めに投げこまれたこと、そうした伝道生活を、舛崎外彦は淡々と語った。大正初期のキリスト教伝道は、正《まさ》しく不毛とも思える日々の連続であった。
その日、舛崎外彦の話を二度聞いた俊夫は、夜道を歩きながら、かつてない感動に浸っていた。舛崎の受けた迫害は耐え難いものだった。その迫害の中での生活は、筆舌に尽くせぬ忍耐を要した。それだけの忍耐と努力を重ねたなら、他の社会であれば実に大いなる報いがある筈だった。その報いの少ない生活を語りながら、何と舛崎外彦の顔の輝いていたことだろう。喜びに満ちていたことだろう。
改めて俊夫は、保郎の毎日をも思った。保郎は、一杯の茶を飲む時間も惜しんで、教会のために、信者のために、保育園児のために、全時間を捧げている。いや、時間だけではない、僅かな収入の中から、信じられぬほどの額を捧げている。
(あの二人を、あのように喜ばせ、生き生きと奮い立たせ、動かしているものは何や。それこそがキリストではないやろか)
(信じてみよう)
俊夫の顔に光がさした。今まで見えなかったものが、不意に目から鱗が落ちたように、見え始めてきたのだ。
(神はいるか、いないか、その何《いず》れかや)
いないと信じて生きるのも、いると信じて生きるのも人生なら、どちらの人生に賭けるべきか。いないと信じて生きる人生に平安と希望があるかどうか、榎本保郎に見る活力に満ちた人生、舛崎外彦に見る喜びにあふれた人生、それが欲しければ、いるほうに賭けるべきだ。俊夫はそう思った。
その年の八月五日、後宮俊夫は洗礼を受けた。
「信じてさえいれば、洗礼など受けんでもええとちがうか」
言い放つ俊夫を、保郎は一喝した。その俊夫の姿は、かつての保郎自身の姿だった。松下正一という青年も共に受洗した。翌年この松下は、牧師になるべく神学校に進んだ。
農村伝道を充実させるべく、大住《おおすみ》に伝道所と保育園が設立されることとなった。が、その主事になる適任者がなかった。保郎は、俊夫に、
「ぼくの妹のまっちょと結婚してくれへんか。何も持っていくものはあらへんが、あいつは信仰だけは持っとる。二人で大住の伝道師をしてほしいんや」
「松代さんの信仰に支えられるのはありがたい。結婚のほうはOKやけど、受洗して何カ月かで伝道所主事は無理やろな」
俊夫は松代との結婚だけを受諾し、翌年三月挙式の約束をした。二十七年(一九五二年)の一月に入って、警察予備隊から俊夫に誘いがかかった。元海軍大尉と同等の待遇をもって迎えたいという。つづいて、元の真珠養殖の仲間から、鉱山所長になって欲しいという切実な懇願を受けた。月俸八万円という破格の額である。仕事の内容は役人の接待が主であるという。
そこに再び、保郎から大住伝道所の主事をして欲しい旨の要望があった。月給三千円だという。後宮俊夫は祈った。一時にこの三つの話が起きたことに、俊夫は深い意義を感じた。祈った結果、俊夫が選んだのは、海軍大尉待遇の警察予備隊でもなく、月俸八万円の鉱山所長でもなく、実に八万円の約二十七分の一の月給しか出ない、一農村の伝道所主事であった。この鉱山所長と警察予備隊の話を断ったと聞いた保郎は、体の打ち震えるほどに感動したのだった。
白い雲
昭和二十八年(一九五三年)、ある秋の日の午後、保郎は、一期下の芳賀康祐《しがやすすけ》、三木茂生と共に、同志社大学の門を出た。三人は何となく立ちどまって空を見上げた。秋晴れの澄んだ空に、白い雲が二つ三つ流れていた。
「きれいな雲やなあ」
芳賀が言った。
「ほんまやなあ」
保郎は答えた。たったそれだけの会話だが、保郎には貴重なものに思われた。教会、保育園、農村伝道所と、仕事が山積していて、学校を休む日が多かった。そんな保郎に、親しい友人のできる暇はなかったから、芳賀康祐のやさしい語調は身に沁みた。
「京都にもこんな空があったんかいなあ」
三木も見上げて言った。
(そうや、こんなゆとりが人間には必要なんや)
思いながら保郎は、ほっと吐息をついた。
このところ保郎は特に忙しかった。つい先日、教会堂の裏の宇治川が氾濫し、会堂の天井にまで水がついた。昭和二十四年、世光教会を創立して以来、年に一度か二度は宇治川の水は裏の土手を越え、電車線路を越えて教会堂に流れこんできた。それでも今までは、床上一メートルか一メートル二、三十センチくらいのものであった。出水に馴れた保郎たちは、二階に物を運ぶことも、食料を確保することも、過たずにできるようになっていた。が、その時は水量が多過ぎた。
午後、丘の上に住む園児の父親が保郎たちを迎えに来た。
「先生、こらあ大変な水になります。はよ逃げんとあぶない。水が刻々と増えてますよって」
「おおきに、おおきに。子供と家内を頼んます。そや、隣の上田のおばあちゃんも頼むわな。ぼくは責任があるさかい、ここを離れるわけにはいかんのや」
保郎はるつ子を男の背に括《くく》りつけた。既に水は胸のあたりまできていた。汚物の浮き沈みする会堂の中を、和子は水を掻き分けるように出て行った。
会堂を守ると言っても、水は増えるばかりで如何《いかん》ともし難い。遂に水は一階の天井に達した。水は一昼夜で引いたが、二台のオルガンは使いものにならなくなり、椅子や机も流れ去ってしまった。より保郎を驚かせたのは、会堂がひどく傾いてしまったことだった。
一年ほど前から、会堂を別の土地に移そうとの計画はあった。が、会堂の大きく傾いたのを見た保郎は、
「計画やない、実行あるのみや!」
と叫んだ。
そんな大変な中での、今日は大学への出席だった。空を眺める三人の前に、
「もしかしたら、あんたは……」
と、保郎の前に立ちどまり、まじまじと保郎の顔を見つめた男がいた。
「じゃ、失礼」
と、芳賀と三木が去った。保郎は男を見返した。
「なんや! 佐藤吉夫やないか!」
「やっぱり榎本か」
「生きとったか、佐藤!」
中国の鄭州《ていしゆう》で、同じ部隊にいた男だった。一緒に幹部候補生の試験を受け、保定《ほてい》では他の部隊に組みこまれた筈だった。保郎より少し背は低いが、元気のいい男だった。りゅうとした背広を着こんだ佐藤が、保郎のよれよれのワイシャツ姿を見て言った。
「榎本、貴様、今、何をしてんのや」
「うん、今、ここの大学院の一年や」
「大学院? 貴様学生か、ええ身分やな」
「何がええ身分なもんか。貴様こそええ身なりして、景気がよさそうやな」
「おれはな、今、小さな繊維問屋をやっとるんや」
二人はどちらからともなく歩き出した。と、佐藤は立ちどまって、
「そうや、こないだも、おれ奥村に会うてな」
「何!? 奥村に会うた? ほんまか、佐藤!」
思わず保郎は、佐藤の肩をゆすった。
「ほんまや。あのな……」
言いかける佐藤の言葉を遮るように、
「ほうかあ、奥村は生きていたんかあ、生きて帰ったんかあ」
言ったかと思うと、不意に保郎は大粒の涙をこぼした。
「貴様、同じ京都に住んでいて、知らんかったんか」
「知らんかった!」
毎日が急《せ》き立てられる忙しい日々だった。教会の創立、結婚、出産、保育、伝道、体が幾つあっても足りない毎日だった。が、保郎が奥村要平を訪ねなかったのは、単に時間がなかったからだけではない。保定で別れたあの奥村が、満洲のどこかで、あるいはシベリアで、とうに死んでいるような気がしてならなかったからだ。息子を死なせた人のところに、元気な顔を出すことが辛かったのだ。
ぽろぽろと涙をこぼす保郎に、佐藤はちょっと驚いたようだったが、
「そういえば、貴様らは仲がよかったわなあ」
うなずく保郎の目に、鄭州の町が浮かんだ。白いカラスの飛び交う廃墟の中に、奇跡のように立っていたステンドグラスの教会の壁が、ありありと目に浮かんだ。と同時に、幹部候補生の第一次試験に一番で合格した奥村が、第二次試験では三十五番となったことが思い出された。自分の信ずる宗教をキリスト教であると、試験官の前で明言したためであった。その奥村の態度に心打たれたことが胸にあって、保郎は牧師への道を辿ったのだ。
近くの喫茶店に、佐藤吉夫は保郎を誘った。午後三時を過ぎたばかりの喫茶店には、人影が少なかった。どこか近くの家から、
…………
リル リル どこにいるのかリル
誰かリルを知らないか……
という哀切な歌謡曲が流れてきた。去年あたりからはやっている「上海帰りのリル」であった。
「で、奴は元気やろか。怪我などしておらへんか」
「元気や。あいつは精神力がおれたちとはちがう」
佐藤はポケットからタバコを出し、
「喫《の》むか」
と、保郎の前に差し出した。
「おおきに。おれは今は喫まん。それより、奥村はいつ帰ってきたんや」
「奥村はな、おれたちと一緒に、二十三年の九月にシベリアから帰ったんや」
「二十三年!? 何や、五年も前に帰っとったんか。そうとわかっとったら、訪ねるんやったなあ」
保郎の顔にようやく笑いが浮かんだ。その顔を見ながら、佐藤はタバコをくゆらしていたが、
「あんなあ榎本、奥村とおれはな、保定でおんなじ隊にいたやろ」
「ほうか、おんなじ隊やったか。それでどこへ行ったんや、保定から」
「せきとうや。石の頭と書くんや」
「石頭?」
保郎はコーヒーを一口飲んだ。
「そうや、東満洲や」
「東満洲!? 何や、おれも東満洲にいたんやでえ」
「貴様らの部隊も大変やったやろうけど、石頭の部隊はもっと大変やった。激戦でなあ。どれだけ死んだんか、数もわからんほどや。第一大隊なんぞ、七百五十名のうち、生還が百五名というてたからなあ。六百四十五名死んだわけや。おれたちが行った時は司令部はからっぽ、飲むもんも食うもんもあらへんかった。飲まず食わずで、四日四晩歩いた時は……ありゃあしんどかった。掖河《えきか》のあたりも暑うてなあ、あまりの渇きに耐えられんようなって、田んぼの水も飲んだわ、馬や兵隊の死骸が横たわってる田んぼの水をなあ。みんな血便を垂らして歩いたもんや。人間、あんなにしても生きていけるもんやなあ」
語る佐藤の顔も、聞いている保郎の顔も歪んだ。
「それでシベリアではどうやった、大変やったろう」
「そりゃあ大変なんぞいうもんやない。大体な、シベリアなんぞいうところは、人間の住むところやあらへん。ちいとでも油断したら、耳も鼻も指も、凍傷でもげてしまうんや」
「そうやろな。あの寒い満洲より寒いんやからなあ」
保郎は奉天の冬を思い出してうなずいた。
「その寒い中で強制労働やろ。おまけに、一日分の食料いうても、ほんの二食分や」
「ほうかあ、大変やったなあ」
「しかしなあ、榎本。おれたちは奥村炊事長のおかげでな、生きて帰れたと思うで」
「ふーん、何でや」
「ほかの隊ではな、配給のメリケン粉やら、エンドウ豆やら、ほんの少しばかりの牛肉やらをなんでもぶちこんでスープにする。このスープと一塊の黒パンが、来る日も来る日も、判で押したように出るんや」
「なるほど」
「けどな、奥村いう奴は偉い奴や。日本にいた時、板前をしてただの、コックをしてただのという奴に炊事を委せてな、三食三食ちごた献立にするんや。塩鰊や塩鮭を使って、配給の燕麦やら、粟やら高梁《コーリヤン》を鮨に仕立てるんや」
「ふーん、鮨をなあ」
「砂糖かてちいとは配給になるわな。それとエンドウ豆で汁粉を作ったり……忘れられへんのは、初めて饅頭を作ってくれた時や。ずらっと並んだ饅頭を見た時な、兵隊たちはみな、おいおい声を上げて泣いたもんや。そして、誰一人そこで食うた者はおらへん。みんなうす汚い手拭いに包んで、持ち帰って何日にも分けて食うたんや」
保郎は黙ってうなずいた。泣き出した兵隊を見つめながら、自分も泣いたであろう奥村の姿を思った。
「それだけやない。食堂の内装もな、少しでも故郷を偲ぶよすがにと奥村は思ったんやろな。食堂に配膳の窓があるやろ。それを格子戸にしたりな、食堂の入り口に、太鼓橋を思わせる橋を造ったりしてな」
佐藤の声が次第にしんみりとしてきた。奥村光林の人間愛が、保郎の心にも沁みてくる思いであった。
「それからな。奥村は栄養失調の者ばかり集めた保育隊でも、よう働いたもんや。そうやなあ、千人もいたやろか。おれもその手伝いをしたんやけど、奥村いうのは、ありゃあ人間かと幾度思ったかわからへん」
「ありゃあ人間か?」
保郎が聞き返した。
「そうや。ありゃあ只の人間やあらへん。何ていうたらええか、天使いうのかな、貴様も栄養失調の人間を見たことあるやろ。今、食事の箸を動かしながら、ぽろりと箸が落ちる、どうした!? と声をかけた時はもう死んどる、そんな栄養失調の人間を限りなく見た」
「…………」
「それでなあ、奴ら動くのがしんどいんや。便所に行くのもしんどいから、垂れ流しになるんや。そいつらをな、奥村はこまめに声をかけて、背負って便所まで連れてってやるんや。一日に何十人いたかわからん。シベリアは寒いやろ。じっと立ってると、見るまに凍えてしまうんや。便所の前で、ばたばた足踏みしながらな、奥村の奴待っといてやったんや」
保郎は相槌を打つことを忘れて聞き入った。
「それでも垂れ流しにする奴はようけいる。その下着を取り替えて、奥村は洗濯場からお湯をもろうてきては、よう洗うてやっとったわ。その盥《たらい》の底に、病人のうんちが五センチほどもたまっとってな」
うなずく保郎に、佐藤は言った。
「こないだ、その当時の栄養失調の患者に会ったらな、そいつ奥村の思い出話をして、奥村に会わなんだら、おれは日本に帰れへんかった、と声を上げて泣き出したんや。そう思っとる人間が、どれほどいるかわからへん。奥村にそのこと言うたてな、すべきことをしただけや、いや、すべきことも充分にはできひんかった、と言うとった。あいつは銀行界に入っても、偉い男になるやろな」
「佐藤! 今、何ちゅうた! 銀行界に入っても、言うたな」
保郎は思わず大声を出した。
「何や、大きい声を出して。奥村は銀行マンやで」
「銀行マン!? そんな馬鹿な!」
「そんな馬鹿な、言うたかて、銀行マンや」
「そんな筈はない! あいつは神父になる筈やった」
「なる筈や言うたって、銀行マンや」
佐藤には保郎がなぜ興奮するのか、その心情がわからなかった。
「畜生! あいつぶんなぐってやる!」
保郎が顔を赤くして叫んだ。銀盆を持ってカウンターの前に立っていたウエイトレスが驚いて保郎を見、片隅にいた男女が顔を上げた。
「榎本、何をそないに怒っとるんや?」
テーブルの上で、保郎の拳がぶるぶるとふるえていた。保郎にとって奥村は稀に見る節操の堅い男であった。自分の一生に影響を与えた大切な存在であった。その男が、一旦志した道を捨ててくれては困るのだ。奥村は一生を神に捧げて生きて行くべき男なのだ。その男が銀行マンになったり、結婚をしたりされては困るのだ。
「榎本、貴様、奥村が神父にならへんかったのが、腹立たしいんか」
半ば呆れながら、佐藤が尋ねた。
「腹立たしいのとはちがう。残念なんや。神父の道を捨てたのが残念なんや」
「ほうかなあ。おれはそうは思わん。キリスト教のことはよくわからんけど、神父になろうとなるまいと、要するに信じてたらええんやろ。信じてさえいたら、神を裏切ったことにはならへんのとちがうか?」
「そらそうやけど……」
「結婚したかてええんやろ?」
「奥村の奴、結婚したんか?」
「したとも。牡丹のように美しい人とな。華やかで、しとやかで、やさしくて、明朗で、背の高い人や」
「…………」
「その人の家がな、離室《はなれ》を神父に提供してな、伝道に協力してたんや。その神父に奥村が手伝いに行ってな」
「……そこで奥村の奴、その麗人に陥落《かんらく》したいうわけか」
苦々しげに保郎が言った。
「いや、そんな単純なこととはちがうようや。奥村はそこで手伝いながら、平信徒の協力いうもんが、どんなに大きいことかを、目のあたりに見たんやな。何せ一千人からの村人が、いわば全村カトリックに改宗したということやからな」
「何!? 全村改宗?」
どこかで聞いた話だった。
(そうや! 三、四年前、確か園児の母親に聞いた話や)
保郎は思い出した。
「ま、詳しいことは、訪ねて行って聞いたらええ。奥村はますます立派になっとるで」
佐藤は奥村への傾倒を隠そうとはしなかった。
佐藤と別れた保郎は、その足で直ちに奥村を訪ねたいと思った。が、教会では新会堂建築の相談が今夕持たれることになっていた。それまでに整えねばならぬ書類があった。
(そうか、奥村は生きていたか)
飛んで行きたい思いを抑えて保郎は思った。
神父志望をやめたことに一旦憤りを感じはしたものの、生きていてくれたことは限りなくうれしかった。
(万人祭司いうでな)
平信徒であろうと教職者であろうと、神が用いてくだされば、必ずやよい伝道の業がなされるのだ。内村鑑三に心服している保郎から言えば、むしろ信徒の一人一人が、その生きている場で、神を宣べ伝えて行く生き方が好ましい筈なのだ。そう思っている筈なのに、なぜあれほど怒りを覚えたのか、保郎は自分でも不思議だった。ふっと保郎はあの時言った園児の母親の言葉を思い出した。
「神父さまも立派なお方やけど、その神学生も大した人気やて」
という言葉だった。全村改宗の陰に、神父とともに奥村の力も大きかったことを、保郎は改めて思った。
(近いうちに会いに行こ)
保郎は胸の中で一人呟いた。が、教会、保育園、大学と、保郎の体はいくつあっても足りぬほどに忙しかった。奥村もまた銀行マンとして毎日夜遅くまで働き、日曜は終日教会の仕事に時間を取られた。保郎と奥村は心にかかりながらも、ようやく会えたのは、後に保郎が京都を去る年、即ち昭和三十八年の春だった。同じ地にありながら、実に十五年間二人は再会の機を得なかったのである。
「榎本、なかなか立派な教会堂やないか」
教会堂を見上げて、林恵《はやしさとし》がうなるように言った。秋晴れの空が美しい。高知で小学校校長をしている林恵は、世光寮時代からの無二の親友である。保郎はうれしそうに笑って、
「どうや、小学校の古材でできた建物とは見えんやろ」
「ほう! これが古材でできた建物か。全くそうは見えんぞ」
「けどなあ、林、中に入れば古材でできた建物いうことは、一目瞭然や」
「古材にしろ何にしろ、榎本、お前は大した男やなあ。学生の身で、教会を二つも建てよった。お前、二十四年に、信者の一人もおらんところから始めて、たった五年でこの教会堂を建てたんや。やはり榎本は、神の選びの器やなあ」
今度の教会堂は、洪水の恐れのない高台に建てられていた。もとの教会のすぐ近くである。戦時中、工兵隊の演習用地だった。その敷地の一画に、三百三十坪の払い下げを受けて、百六十坪の教会が建てられたのだ。辺りには家が数十軒ほど建ち、丘の上の紅葉が鮮やかだった。教会堂の裏は更に上り勾配となっていて、二百メートルほど行くと、草原が広がっていた。保郎はその辺りを指さして、
「あんな、林。あの草原の辺りを、教会員たちは、ゲッセマネの園と呼んでいるんや」
「ゲッセマネの園?」
「そうや」
イエスが十字架にかかられる前夜、血の汗を流して祈られたのがゲッセマネの園である。
「バザーをするいうてはあそこで祈り、伝道集会があるいうてはあそこで祈るんや」
「笑いがとまらんという顔やな、榎本」
林は温かい目で保郎を見た。世光寮で、夏休みの留守番を引き受けた保郎が、一人林間学校を始めた。それが六年後の今、この教会堂が建つまでに成長している。しかもそれは、大学に通いながらの牧会であり、保育園経営であったのだ。保郎はまだ大学院に通っていて、修了するのは来年の筈である。この教会堂を建てるまでの六年間、どれほど血みどろの祈りと、努力があったことかと、林恵は胸に熱いものを覚えながら、保郎を見た。
「ほうかあ、林、笑いがとまらん顔に見えるか。実はな、ようやく笑えるようになったんや。つい一週間前からな。それまでは、笑ういう言葉をぼくは忘れていたんや」
澄んだ空気は秋であったが、午後の日差しは暖かかった。
「ふーん、笑えんかったか」
「聞いて欲しいんや、おれのざんげをな。ま、牧師館で茶でも飲みながら……いや、その前に会堂の中を見ながら、聞いてくれんやろか」
二人は教会堂に入った。四間に四間の、あまり広くない礼拝堂の中に、幼児用の長椅子が三列に、三面ずつ並べてある。一つの長椅子には大人三人しかかけられなかったから、僅か二十七人分の席しかなかった。しかし隣の保育園から子供たちの賑やかな声が聞こえて、会堂の中に満ち満ちている何かを林は感じた。
「榎本、立派なもんや。神は必ずこの教会を、願い以上に用いてくださるにちがいない。ぼくはそう確信するよ」
林の声に力があった。
「ほうかあ。おおきに、林」
保郎は大きな励ましを覚えて感謝した。
「榎本、先ず祈ろう。とにかく感謝なことや」
林は以前から感謝という言葉を絶やさぬ男だった。二人は聖卓の前に跪《ひざまず》いて、代わる代わる祈った。保郎の胸に、世光寮にあった頃の生活が目に浮かんだ。一日の農作業を終えた畠で、鍬に手を置き、共に祈った日の感激が新たに甦った。
「ところで、ざんげ話って、いったい何や?」
二人は目すき板を並べた幼児用の長椅子に、並んで腰をおろした。
「なあ、林。教会堂建築いうものは、金の用意ができてから決意するもんやろか。ぼくは信仰が第一で、金は二の次や思うんやけどな」
保郎の言葉に、林はちょっと目を瞠《みは》ってから、
「基本的には金があるかないかではないと、ぼくも思うよ。それより、信仰があるかどうかやと思う」
「そうやろ。なあ、おれもそうやと思っていたんや。必要なものは必ず与えられるいう信仰がなければ、幾ら金があったかて、真の教会は建たん思うたんや」
保郎はわが意を得たりというように、声を高め、
「前の教会は何せ毎年水のつくとこやったろ。そのうち建てなならん思うて、移築の話がぼちぼち出てはいたんや」
「なるほど」
「けどな、教会員は僅か二十人余りや。しかも婦人と若い者がほとんどや。つまり財力のない者ばかりや。誰も積極的にはならんわな」
「そら、そうやろな」
「ところが、そこに去年のあの大洪水や。礼拝堂の天井まで水がついてしもうてな、建物自体がかしがったんや」
「うん、それは手紙にも書いてあったわな」
「ああ、書いてあったやろ。保育するには危険や。おれはな、林、かしがった会堂を見て、ははあ、これは新たに教会堂を建てよいう神の命令やと思ったんや。ほれでな、必ず成ると信じてしもうた」
林は大きくうなずいた。
「ほら、思い立ったらすぐに走り出すのが、おれの欠点やろ」
「長所でもあるけどな」
「おおきに。林、お前慰めるのうまくなったな。変愛でもしとるのとちがうか」
林は曖昧に笑った。
「それでな、林、おれは早速役員たちにな、近江八幡のヴォーリス建築事務所に、行って来る言うたんや。ところが役員たちは、先生、そりゃ、無理やと言うた。おれは、なんで無理や、ヴォーリス建築事務所かてキリスト信者の事業やで。金は一文もないが、神が必ず建築資金を調《ととの》えてくださると言えば、賛成してくれるにちがいあらへん、ぼくはそう信ずる言うてな、建築事務所に出かけて行った」
アメリカ人ヴォーリスが創立した近江兄弟社は、メンソレータムの製造や、病院、そして、幼稚園、小中学、高校、建築事務所などを、キリスト教伝道の一環として経営していた。
「いかにも、榎本らしいな」
声を上げて林は笑った。
「笑うんか、林」
「笑うわ。神さまかて笑うやろ。但し馬鹿にしてではないんや、愛《う》い奴じゃと笑い給うやろ。それでどうやった?」
「先ず、ご予算は? ときたわ。予算はないと言うと、お手持ちの資金はいかほどでときた。ぼくは何やがっかりしてな、金も何もあらへんが、『人にはできないことも神にはできる』という、その信仰だけはありますと言うたんや」
「相手は目をぱちくりしたやろ」
「馬鹿も休み休み言えいう顔をしていた」
再び、林は笑って、
「そして、榎本、お前怒って帰って来たんやろう」
「図星や。今、考えたら、相手の気持ちもわかるんやけど、そん時は怒った。何や、神が全能やという信仰さえ持っとったら、事は成る筈やないか。なぜ、わかりました、その信仰に共感しましたと引き受けんのか、それでよくキリスト教の事業やと言うとるわいと腹が立ってな」
「榎本のその時の顔が目に見えるようやな」
「まだ、つづきがあるんや。役員たちに報告したらな、そりゃ、向こうさんの言うことが当然や言うんや。ぼくは情けのうて情けのうてな。予算がないなどと言うのは役人の言葉やろ。とにかく一人も『先生の言わはるとおりや』言う者がおらんかった。それが情けのうてな。それで腹が立ったんや」
林はうなずきうなずき聞いていた。
確かに最初は無一文であった。が、この教会堂は建った。思いもかけず国有地三百三十坪が、四十九万六千円で手に入った。建築費は、小学校の古材及び備品費を入れて、二百十五万八千円、合わせて二百六十五万四千円を要したが、借入金は僅か十八万円ですんだ。
第一にマックナイト宣教師の献金と同宣教師の募金が七十八万円、五年前に二十万円で購入した古い教会の土地建物の売価が三十五万円と、かなりの額になった。無から有を生み出さなければならなかった一度目とはちがって、この度は日本キリスト教団からの援助金が三十五万円、市の保育園への勧奨金も三十五万円交付されることとなった。二十人余りの会員の献金も、真剣な祈りの中から二十五万六千円捧げられ、かつ会員の募金活動によって五万八千円がこれに加えられた。保育園在園児の父兄からの七万五千円も少なくなかったし、その上、共同募金から四万五千六百円が配付された。十八万円の借り入れはあったとは言え、他の収入を入れ、二百六十五万円を超える募金が集まったのである。
この運動のためには、市会議員の中村長三郎、細川政之輔の尽力も、会員の熱い祈りによる募金と共に大きな力となって、正《まさ》しく保郎の「人にはできないことも神にはできる」奇跡が起きたのだった。
だが保郎は、国有地の払い下げ、小学校古材の払い下げと、次々と驚くべき恵みがある度に、喜ぶよりも、
(そら見たことか)
(だから言わんことやない)
(誰一人こうなることを信じておらんかったやないか)
と、憤りの思いがふつふつと湧き、その憤懣や怒りが説教に出、更には顔に出た。となると、礼拝を休む教会員が増えてきた。新しい会堂が建って信者が減ってくるのでは、何にもならない。これがまた憤りの原因となった。そんな保郎に、マックナイト夫人が忠告をした。
「ヤスロウサンノカオ、オコッタノカオネ。ソレダメナカオ。ボクシサンノカオ、ワラッタノカオイイネ」
保郎はこの言葉にも憤然とした。
(怒ったの顔になるには、それなりの原因があるんや!)
保郎はそう思った。
そこまで話をして、保郎は林恵に言った。
「しかしなあ、林。ああ率直に注意されると、何や気になってな。それから、ぼくは本気になって鏡を見て、笑う練習をしたんや。けどなあ、歯を剥き出して、ニタッと笑うぼくの顔な、ま、言うたら鬼瓦が笑うたみたいでな、阿呆らしうてそんな練習などやっていられへん。それでやめてしもうた」
「鬼瓦が笑うたような顔? そらええ。全くそのとおりや、榎本の顔は」
林は、保郎が鏡をのぞきこみながら、真剣に笑う練習をする様子を思って、笑わずにはいられなかった。
「ま、笑いたければ笑え。本人のぼくもおかしうておかしうてな」
と、保郎は声高に笑ってから、
「林、高倉徳太郎やったろか、あの説教に『朝の十五分があなたを変える』いうのがあったの知っとるか」
「誰の言葉か忘れたけど、朝起きて先ず聞くのは神の言葉であらねばならぬ、先ず口から出るのは神への讃美と祈りであらねばならぬとか、書いてあったあれやな」
「そうや、あれや。ぼくやって、怒ったの顔言われるのは侘しいしな、腹ばかり立てとる状態は、これ以上つづけてはあかん思うてな」
「なるほど、榎本のこっちゃ。早速始めたんやろ。朝起きたら先ず聖書を読む、先ず祈る。朝早う起きて始めたんやろ」
「林、高知の山ん中にいて、ようわかるな」
「わかるわ、そのぐらい。お前はそういう奴や。こうと思うたらすぐに飛びつく。目の色変えてな。そして真剣にやり遂げようとする。そして、くたびれて、ふっといやになったりするんやろ」
「いやな奴やなあ。それこそ掌《たなごころ》を指す如くいうやつやな」
林の言うとおりであった。保郎は折角のよい習慣を、一度寝過ごしたことによって、また元の生活に戻ってしまったのだった。しかし、戻りはしたが、二十日間余りつづいた朝の生活は、決して無駄ではなかった。そんな生活の中で次のようなことがあったのである。
ある日のこと――。一人の青年が朝早く教会堂に入って来た。と、何か異様な声がした。声は事務室のほうから聞こえた。うなるような声だった。事務室の前に立つと、それは保郎の祈る声であった。
「神よ、牧師として至らぬ私を、何卒お許しください。私は御神の大いなる力によって、この新しい会堂を与えられた奇跡にさえ、喜ぶよりも、人を審《さば》く思いになっておりました。信仰さえあればできることとして、自分を義とし、驕《おご》りたかぶる思いになっておりました……」
幾度も声を詰まらせて保郎は祈っている。青年は釘づけにされたように、そこから動くことができなかった。その耳に、やがて聞こえてきたのは、教会員一人一人の名前をあげて祈る声であった。そしてその中に、青年自身の名もあった。青年の今の悩みは、職場における人間関係であった。保郎はそれを具体的に述べて祈った。それは、青年が毎日自分のために祈る祈りよりも深かった。
(先生は、このぼくのために泣いて祈っていなはる)
青年は戦慄をさえ覚えた。牧師とはこんなにも朝早く、教会員一人一人のために、心を注ぎ出して祈ってくれるものなのか。
「知らんかった、知らんかった」
青年はぼたぼたと涙をこぼして帰って行った。そしてそのことを教会員の一人の婦人に告げた。保郎はこの婦人の名もあげて祈っていた。婦人は生活に追われて教会から遠ざかっていた。が、自分のために泣いて祈ってくれる牧師の姿を伝え聞いて、手紙に内職の仕立代を同封して送ってくれたのだった。
「林、恥ずかしい話やが、この手紙のおかげで、やっとぼくは目が醒めたんや」
林はうなずいた。
「ぼくはな、どうしてみんなはぼくと同じ信仰持たんのか思うて、人を審いてばかりいたんや。自分の手柄でこの教会ができたような気がしてな、誇ってばかりいたんや」
「そうや。人間って阿呆なもんや。神の導きや、神の計らいなど、眼中になくなるもんや。どうにもおれさまが偉くてならんのや。榎本は、在学中に二度も教会堂を造った。それだけで人間充分に傲慢になるもんや」
「ほんまやなあ。よくよく考えてみれば、ぼくのしたことは何もあらへん。信者たちは、そらあ頑張った。高校生や中学生かて、親からもらった修学旅行の小遣いをな、みんな揃って、三分の二も捧げてくれたんやで」
「自分の小遣いは三分の一か」
「そうや。教会の借金返すまでは、絶対コーヒー飲まんいう若いもんもいた。一人一人がな、自分なりの信仰で、精一杯頑張っているのが、ぼくには見えんかった。それで、怒ったの顔になってしもうたわけや」
「…………」
「ぼくな、仕立代送ってくれた手紙見てな、桃山御陵の階段駆け登って、おいおい泣いたんや。神と信者に申し訳のうてな。人間たやすく、傲慢な思いに堕ちるもんやなあ、林。ま、おかげで早う起きて祈るようになったわ」
保郎は恥ずかしそうに笑った。少年のような顔だった。
「それはそうと、林。何か頼みたいと手紙に書いてあったわな」
椅子から立ち上がりながら、保郎が言った。
「うん、ちいと言いそびれたけどな、実はな、ぼくの結婚式を、この教会でしてもらえへんか思うてな」
「ほう? 結婚するんか、林!」
「ぼくかて結婚するわな。何や、そんなに驚いて」
林が照れた。
「で、嫁さんになる人は、むろんクリスチャンやな」
「うん、於静《おしず》いうてな、大磯の沢田美喜《*さわだみき》さんの施設に働いとったんや」
「何や、お前こそ笑いがとまらんような顔をしとるぞ」
二人はまた顔を見合わせて笑った。
「せんせ、さいなら」
園児が、迎えに来た親と、手をふりながら帰って行った。保育園は午後四時までだが、共働きの母親の帰りが遅い時は、子供を迎えに来るのが六時になることもある。時には九時十時にもなる。が、今日は、土曜日のせいか、最後に子供が帰ったのは五時だった。
子供の姿を見送っている和子に、
「榎本女先生」
と、声をかけた者がいる。近頃、近所に引っ越して来た園児の母、杉森奈加子だった。三十近い奈加子は、ちょっと思いつめた顔をして、
「あのう……教会は誰が来てもええのどすか」
「どうぞどうぞ」
「信者でのうても、ええのどすか」
「かましまへんとも」
「入会費要るのとちがいます?」
「そんなもの、要らんのです。礼拝の時、献金袋がまわって来ますけどな、献《ささ》げる気持ちになったら献げればええのです。讃美歌も聖書もお貸ししますし」
和子の言葉に、その杉森奈加子は、ほっとしたようにうなずいて、
「あのね先生、うちの子、ここに来る前にも、保育園に通ってましたんや。ここが三度目でな」
「はあ、それで?」
「うち、ここの保育園に初めて来た時、牧師さんが、子供たちに話をしてはりましたやろ?」
「どないな話でしたか?」
「ほら、舟を漕ぎながらの話どした」
「ああ、あの話なあ」
それは一週間ほど前だった。和子もはっきりとそのことは覚えている。子供たちを前に、保郎は、
「みんな湖って知っとるか」
と、いつもの調子で問いかけた。その保郎の笑顔につられて、
「しってる、しってる」
「しらん」
「しってる」
と、子供たちは口々に答えた。
「びわこみたいもんやろ」
と言う子もいれば、
「びわこてなんや」
と言う子もいる。保郎はどこで手に入れたか、湖の写真のついたカレンダーを見せ、湖を説明しながら話し始めた。
「あんなあ、イエスさまの生まれた国に、ガリラヤ湖という、きれいな湖があるんや。この写真よりきれいな湖や」
「へえー、せんせい、いったことあるんか?」
「ないんやろ」
みんなは保郎が好きだ。だから、つい勝手なことを言う。子供たちが静まると、
「ある日な、イエスさまがな、お弟子たちと舟に乗って、この湖を渡らはったんや。イエスさまのお弟子さんの名前知っとるか」
「しってる! ペテロさん!」
「ヤコブさん!」
「ヨハネさん!」
「マタイさん!」
聖書の話はいつも聞いているので、子供たちはイエスの弟子を友だちを呼ぶように、親しげに呼ぶ。誰かが、
「えんちょせんせ」
と言い、保郎は白い歯を見せて笑った。
「お弟子さんたちはな、ぎっちらこ、ぎっちらこ、舟を漕いで行きよった」
保郎は舟を漕ぐ真似をした。子供たちがつられて、その保郎の真似をする。いつもたちまちこうなるのだ。保郎が壇上から降りて、「ぎっちらこ、ぎっちらこ」と漕ぎ進むと、子供たちが席から立って、保郎の前後左右に並び、共に舟を漕ぎ出した。初めは不揃いだった掛け声が次第に一致してきた。誰も漕ぐ手を止めようとしない。保郎も額の汗を拭き拭き、真剣に漕いでいる。
「せんせ、まだむこうにつかへんの?」
「湖は広いんや。そんなに早う着かんのや」
言いながら、保郎は一層力を入れて漕ぐ真似をする。大きな体を二つに折っての漕ぐ真似は大変な運動だ。
「あっ! 風が吹いてきた!」
保郎が立ちどまって空の一画を指さすと、子供たちも、
「あっ! かぜがふいてきた!」
と、口々に叫んだ。
「嵐が来るぞーっ!」
保郎が大声で叫ぶ。
「あらしがくるぞーっ!」
園児たちが口真似をする。予《あらかじ》め打ち合わせてあったかのように、ぴたりと息が合っている。保郎の話を聞くと、なぜかいつの間にか一本の糸に操られているように、子供たちは呼応するのだ。
「嵐だーっ! 嵐が来たーっ!」
保郎は大きな体で、どたどたとうしろへ引き退がる。子供たちがそれにならう。
「波が激しくなったーっ!」
保郎は前後左右に揺られる動作をする。子供たちも真剣だ。
「ややっ! 舟に水が入ったぞーっ! 舟が沈むぞーっ! 助けてくれー!」
保郎の顔が恐怖に歪む。子供たちがしんとなる。と、保郎が、
「おやっ? イエスさまが舟の中で眠っておられるぞ」
と、傍らを見た。子供たちの目が、その辺りに注がれる。
「イエスさま! お助けください。舟が沈みます」
保郎がイエスを揺り動かす仕種をする。もう子供たちは言葉を発しない。保郎はすっくと辺りを見まわして、おごそかにイエスの語調で言った。
「お前たちは、なぜそんなにこわがるのか。湖の水よ、静まれ! 風よ、黙れ!」
次の瞬間、保郎は手を打って弟子の声になった。
「わあっ! 嵐がやんだ!」
「あらしがやんだあ!」
子供たちも、手を打って叫ぶ。
「ああよかった」
誰かが言う。保郎が、
「ほんまやなあ。イエスさまと一緒にいると、嵐やってこわくあらへん。こわいものは何もあらへんのや。ええかあ、辛いことあったら、イエスさまにおねがいするんやでえ」
子供たちがこっくりとうなずいて、
「はーい、わかったあ」
「あんしんやあ」
と大声で答えた。保郎は首の汗を拭き拭き、
「先生の話はこれで終わりや」
と言った。和子も引きこまれるように、保郎の舟を漕ぐさまや、嵐に恐怖する表情に見とれたのだった。
奈加子は、今、その時のことを言い、
「うち、あんな無我夢中で子供にぶつからはる先生、見たことあらしまへん。あの日が初めてのうちの子もなあ、先生と一緒に舟を漕いでいましたんや。内気なあの子がなあ」
涙ぐむ若い母親に、和子が大きくうなずいた時だった。
「やあ、参った、参った」
という、保郎の大きな声がした。ふり返った二人は、あっと声を上げた。
「まあ! 汚らしいっ! どうしたん?」
和子がひと目見て叫んだ。奈加子も呆然と保郎の姿を見た。保郎は、ワイシャツからズボンまで、糞尿にまみれて立っていた。
保郎は今日、ノイローゼに罹っている青年を訪ねて行ったのだ。生来真面目で無口な青年だった。ある園児の母親の弟に当たる青年であった。初めてこの青年に会ったのは、三カ月ほど前だった。
「弟が、今、自殺したんや! 先生、はよ来て助けてください」
よく聞くと、自殺未遂で、今日が八度目だと言う。内心保郎は、八度も自殺を企てる人間は見込みがないと思った。生きる意欲がないと思った。自分が行ったからとて、その青年に変化が起きるとは思えなかった。だが、一人の人間が死を決意するのは、よくよくのことだ。保郎自身、自殺を思い立ったことがある。生きる意欲が全く失われたことがある。そう思って保郎は、重い足をその家に運んだ。大きな農家のうす暗い部屋に、青年は寝たままだった。保郎が行っても見向きもせず、一言も口をきかなかった。
(まあ口などききたくないやろな)
かつての自分の姿を見る思いだった。
(そうや! 本気でこの若者と取り組んだろ。毎日訪ねたろ)
保郎はそう心に決めたのだった。
一旦こうと決めた保郎は、雨の日も風の日も、毎日彼を訪ねた。三日、七日、十日、通っても通っても、青年の態度は変わらなかった。保郎は朝早く起き、事務室で彼のために祈った。
遂に、一カ月が過ぎた。忙しい日々の中で、往復一里の道を、今日こそ一言でも声が聞けるか、一瞥でもしてもらえるかと、祈りつつ通った。が、三十日間一言の応答もない。しかし保郎は、四十日、五十日と一日も欠かさず通った。最初は、保郎の訪問を切実に願った家族たちすら、次第によそよそしくなった。
何十日訪問されても、少しも変わらぬ青年の姿に、先ず家族が見切りをつけたのだ。保郎が顔を出すと、
「すんまへん、もうあんまり無理をなさらんで……」
と、暗に訪問を拒むようになった。今朝も保郎は和子にこう言ったところだった。
「なあ和子、これ以上行っても、無駄やないやろうか。もう今日からやめにしとこうか」
「そやなあ、もうかれこれ三カ月も通ったんやさかいなあ。向こうさんかて、迷惑かも知れんし……」
その言葉が、保郎の心を奮い立たせた。
(折角九十日も通ったんや。これだけ祈って通ったんや。神さまが、ぼくを試みておられるんかも知れへん。そうや! 百日通ったろ!)
そう思った保郎は、
「和子、やっぱり今日も行ってみるわ。こんなにええ天気やしな。F君も気分がようなっとるかも知れへん」
と、出て行ったのだった。ところが、こともあろうに糞尿にまみれて帰って来たのだ。
「あんた、どうしたん? はよ着替えんと、臭うてかなわんわ」
眉をひそめる和子に、保郎は笑顔を向け、
「F君が肥|柄杓《びしやく》でな、下肥をぼくの頭からかけたんや」
と、風呂場のほうに行きながら言った。
「ええっ!?」
「毎日訪ねるぼくが、F君うっとうしくなったんとちがうか。けどなあ、不思議なことに、ぼくはひとつも腹が立たんかった。そして言ったんや、また明日来るでなあとな」
裏口までついて来た奈加子が、
「先生、うちも明日から教会に来ます」
と、保郎に頭を深々と下げて帰って行った。頭も体も洗ったが、鼻についた糞尿の臭いは容易に消えなかった。るつ子と三人で夕食を取ったあと、
「なあ、和子、下肥をかけられた時なあ、ぼくがすぐに思ったんは、舛崎外彦先生のことや。舛崎先生は村人に、ヤソヤソと迫害されて、それでもじいっと耐え忍んでな、村の木橋の穴をふさいでいたの、知っとるやろ」
「知っとる知っとる。橋の下で釘を打っている先生目がけて、穴から肥たごぶちまけた話な」
「そうや。そん時先生は、かけた奴に金槌ふり上げようと思ったが、仮にも伝道者の身でありながら、人を殴ろうとしたのは申し訳ないと、神にお詫びなさった。それを見ていた村の娘さんが信仰を持ってな」
「そうやったなあ」
「けど……舛崎先生の時と同じような、鮮やかな奇跡は、そうそうは起こらんやろな」
和子は手の甲を鼻に近づけて嗅ぎながら、
「もう臭うない筈なのに、臭いわ」
と苦笑し、
「そやけど、短気なあんたが、よう怒らんと帰って来やはったなあ」
と、心から感じ入ったように言った。
「神さまと舛崎先生のお陰や。和子、聖書にはな、〈幸福さいわいなるかな、義のために責められたる者〉と書いてあるわな。伝道して罵られたり、ひどい目に遭うたりするのは、これは伝道者の洗礼かも知れへん。とにかく、やっぱりな、F君はいつか必ず変わると思うわ」
「ほうかなあ」
「もともとF君は真面目な若者や。毎日ひつこく通ったぼくのほうが、悪いんや。下肥でもかけとうなるの、無理もあらへん。けどなあ、かけたF君は、きっと心を痛めとるにちがいないわ。F君かて、ああ悪いことをしたと、悔やんでいるのとちがうか」
「そうやなあ。そうかも知れへんな。あんた、F君のためにお祈りせえへんか」
お祈りと聞いて、縫いぐるみ人形を抱いて遊んでいたるつ子が、
「るっちゃんもおいのりする」
と、小さな手を合わせた。色白で愛らしいるつ子だった。
「あんた、お祈り聞かれたらええけどなあ」
Fのために祈ってから、和子は心細そうに言った。
「和子、ぼくもそうやが、和子も信仰不足やなあ。たった今、神さまにお祈りして、祈り終わった途端に、このお祈りは聞いてもらえへんと決めとる。しかし祈るときは必ず聞かれると、確信を持って祈らなあかん。われわれ人間かて、この人ほんまに頼み聞いてくれるかと、疑い疑い頼むようなやつには、してやる気ぃ起こらへんで」
「ほんまやなあ。そう言われればそうや。考えてみたら、百回祈っても、心から確信して祈る祈りは、何遍あるやろなあ」
和子の声が素直だった。
と、その時、何やら玄関で人声がした。保郎が出て行き、あわてて和子が、食器を片づけた。
「和子! 和子! F君や、F君が来てくれたんや!」
保郎が上ずった声で言った。和子は台所に棒立ちになった。
「よう来たなあ、ほんまによう来た。そんなところにぐずぐずせんと、上がらんか。まあ上がれよ」
和子は、はっと吾に返り、
「Fさん、よういらはりましたなあ」
と、入って来たFに声をかけた。Fはうつむいたまま、ひっそりと畳に坐った。
「よう来てくれたなあ」
夢遊病者のようなFに、保郎はそう言いながら涙ぐんだ。が、Fは非礼を詫びるわけでもなかった。
「和子! はよ、お茶を出さんか」
言われて和子は立ち上がった。立ち上がったかと思うと、また保郎の声が飛んだ。
「何をぐずぐずしとる! 羊羹あったやろ。上田のおばあちゃんにもろうた羊羹な」
羊羹を出すと、
「確か煎餅があった筈や。ほら、瓦煎餅や、明石からもろうた煎餅や」
と、自分で腰を浮かす。思ってもみなかったFの訪問に、キリストでも訪ねて来たかのように興奮していた。
「ぼくが悪かったんやな。気のふさいどるところに、毎日毎日来られては、誰かて腹が立つわなあ」
「…………」
「けどな、悪く思わんといてな。悪い気で行ったんやないでな」
「…………」
「ここに来たの、家の人知っとんのか」
「…………」
「また来て欲しいわ。こんなにうれしこと、どこにもあらへん」
「…………」
何を言っても一言も答えずに、Fは帰って行った。が、保郎は、Fが訪ねて来ただけで、
「夢みたいやなあ。ほんまに夢とちがうか」
と、繰り返した。和子は、
「今日はええ日や。明日から、杉森奈加子さんが教会に来るて言うて来やはったし、Fさんは足を運んでくれたし……」
和子もうれしそうだった。
この後、時々夜半に誰かが来て、野菜を榎本家の勝手口に、そっと置くようになった。のちにFは、実に熱心な信者となり、Fに導かれた人の数は目を瞠《みは》るほどに多かった。
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沢田美喜さんの施設 第二次大戦後、キリスト教徒で社会事業家の沢田美喜(一九〇一〜八〇)が開設した、アメリカ軍兵士と日本人女性との間に生まれた混血児の施設のこと。沢田は個人資産を注ぎ、寝食をともにしながら二〇〇〇人を育てた。
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結婚記念日
昭和三十四年(一九五九年)三月一日、保郎は痔の手術を受けることになった。保郎が手術すると聞いて、教会員たちは様々な言葉で保郎を力づけた。
「先生、教会のことは、みんなでやるさかい、心配せんといて」
と言うのはまじめな見舞いの言葉だが、
「先生、痔は病だれに寺と書くやろ。痔は命取りなんやで。ちょっとようなったさかい言うて、すぐに退院したらあかんで」
と、おどかす者がいる。
「先生のお説教聞けへんの辛いけど、たまには説教休んでみたらええわ。頭使うと痔が悪うなると言うしな」
と、親身な者もいる。女子高校生は、
「うれしいわあ、お花持って先生お見舞いに行くの、うちの夢やったんや。何やロマンチックやろ」
と、うきうきする。誰もが、保郎の痔の手術を大ごととは見ていなかった。保郎も、
「神の与えた休養やさかい、ゆっくり休ませてもらうわ。悪く思わんといて」
と、のんきだった。
いよいよ手術を明後日に控えた二月二十七日、和子はベッドの傍らの椅子に腰をかけて、保郎の顔を見つめていた。留守中の教会のことを、あれこれ言っていた保郎が、
「なんでさっきからぼくの顔をじーっと見つめとるんや」
と、不審げに言った。
「なんでやと思う?」
「手術が心配なんか」
「ううん、痔の手術など、お産より楽や思うわ」
「ほならなんでや」
「あんた、今日の日知っとる?」
「今日の日? ……今日は二月二十七日やろ? 何の日や」
「何の日や? あんた、二月二十七日が何の日か、覚えていなはらんのか、がっかりやなあ」
和子は淋しそうに笑った。
「がっかり? あ、ほうか。二月二十七日は……いずみの命日か」
「何言うとるねん。いずみの命日は三月七日やわ」
和子は、ベッドの上に寝ている保郎の足を叩き、
「今日はうちらの結婚記念日やないの」
と、軽く睨んだ。
「ああほうかあ、今日は結婚記念日かあ」
保郎は驚いたように言って、
「結婚記念日なあ」
と、繰り返した。
「いややわ、結婚記念日も覚えていなはらんのやから。結婚して何年か、知ってなはる?」
保郎はちょっと首をかしげて、
「あ、知っとる知っとる、それは知っとるわ。世光教会が創立された年や。今年は創立十周年やから……ということは、ぼくたちの結婚生活も十年経ったということや」
保郎は再び驚いたように言った。和子は大きくうなずいて、
「そうや、もう十年経ったんや。マックナイト先生のお家で式を挙げていただいたわなあ。次の日の朝、真っ白い雪が降って、きれいやったわなあ」
「ほうやったなあ。あれから十年か、早いもんやなあ。何や新婚も何もない、只教会のことで、この十年毎日駆けずり廻ってきたような気がするなあ」
保郎の言葉のとおりだと、和子は思った。結婚以来今日まで、毎年二月二十七日はめぐってきたが、記念日だと気づいてはいても、祝う暇もなければ、話し合う暇もなかった。るつ子が昭和二十五年一月に生まれた。が、そのるつ子よりも、保育園児のために、和子はくたくたになるほど、働きに働いた。
二十七年九月、男児を七カ月で死産した。死んで生まれた子に、保郎は伊作と名づけた。
二十八年八月、男児が生まれ、規矩《きく》と名づけたが、僅か三日で死んだ。
二十九年、丘の上に新しい教会が建った年の八月二日、女児、優子を七カ月で死産した。
三十一年三月七日、八カ月児のいずみが、規矩と同様三日生きていただけで天に帰った。つまり、十年の間に、五回妊娠して、るつ子以外の四人の子を失ったのである。
毎日の激しい労働が、母体を弱らせ、早産死産を繰り返したのだ。それは和子にとって大きな嘆きであった。ある時は自分の死を願うことさえあった。
「何でぼくら夫婦の子供を、神さまはこう次から次に取り上げてしまわれるんやろ」
保郎はそう言い、神の御心《みこころ》を問いつづけ、祈りつづけたことがあった。そしてある日、保郎は言った。
「和子、ぼくたちに子が授からんのはな、人さまの子を育てよいうことやないか」
「人さまの子を?」
何を言い出すのかと訝《いぶか》る和子に、
「和子、これはな、人さまの乳児も保育せよという御心や思う。どうや、来年から、乳児保育も始めんか」
こうして、世光教会では乳児保育を始めたのだった。乳児保育は、世間にはまだ珍しい時代だった。様々な障害が思いやられた。哺乳やおむつの世話もしなければならなかった。が、保郎は断乎さきがけて乳児保育を始めたのである。働く母親たちが、喜んで乳児を預けに来た。世光教会には、今までの園児のほかに、加わった赤子たちの泣き声で賑わった。やさしい和子は、その乳児たちを、失った子供の身代わりのように世話をした。
(この人も大学院を終わらはったし、正牧師にもならはったし……)
和子はそう思った。昭和二十四年から三十年まで、神学部とその大学院を修了するのに、六年の年月を要した。昨年の三十三年には牧師試験に合格、正規の牧師となった。教会員たちは牧師試験合格を、わがことのように喜んだ。若い学生たちは喜びのあまりに言った。
「今までは先生、先生は牧師のもぐりやったもんな」
「何を言うか、もぐりとは。ぼくは神から直接任命されていたんや。そのほうがほんものや」
保郎は言い返したが、さすがにうれしさを隠すことができなかった。
「和子」
ベッドの上に起き上がって、保郎が言った。
「結婚の年と、教会創立の年と同じなんて、滅多にないことやないか」
「ほんまになあ」
「お前もよう辛抱したなあ。一度逃げ出したことはあったが、ようまあ十年つづいたわなあ」
「皆さんのおかげや。マックナイト先生、淡路の中村先生、円町《えんまち》の中山先生、洛陽教会の遠藤先生、藤代《ふじしろ》先生、教会の人たち、みんなのおかげやなあ」
「そうやなあ。あの十万円の小切手送ってくれた後宮《うしろく》さんも、神が与えてくれた大恩人やなあ。あの十万円は一生忘れへんでえ」
後宮俊夫は、大住《おおすみ》の伝道所に主事として住みこみ、保郎の妹の松代と結婚して、保育園をも経営、今では世光教会と大住の両保育園の園長を兼務していた。その明晰な頭脳と、篤い信仰と、よき性格とは、まことに教職者に向いていた。これが、生きる意欲を失い、「ぼくは神を信じません」と言っていた男と同一人物かと、保郎は時々思うことがある。後宮俊夫の開拓した大住伝道所は、のちに京都の中堅教会、大住教会となった。
この大住伝道所のほかに、八幡《やわた》の公会堂で始めた伝道所、淀の家庭集会、奈良県に近い泉伝道所、田辺の西川四郎宅における家庭集会と、この十年の間に幾つかの伝道の足場が築かれていた。
「あんた、痛む?」
保郎の痔は、菊の花びらがひらいたように、無残に脱け出ていた。
「ま、手術したら治るやろ」
「その痔も開拓伝道の記念やね、あんた」
「そうやなあ。ぼくも若かったからなあ。世光教会を始めて、間もなくあちこちの伝道所の集会に、よう出かけて行ったもんなあ」
「しかも、終電ものうなって、よう歩いて来やはったから、無理やったわ。あの頃から痛み出したんとちがう?」
保郎は滅多に痛みを口に出さなかったが、それでも時に痛いと言っていたことを、和子は改めて思い浮かべた。あの頃によく手当てをしておけばよかったと、今にして思う。
「和子、ぼくはな、結婚十年の感慨はあまりないんや。やっぱり教会創立十年のほうが、感慨深いんや」
「…………」
今年七月五日、創立十周年記念の式典を挙げることになっている。
「この十年に、いろいろあったんやけど、ヨルダン会のことも、神の大きな恵みや思うな」
「ほんまやわ、信一さんの手紙思い出すわ」
二人は船田信一少年の澄んだ目を思った。
二年ほど前のある日、一通の手紙が届いた。差出人は船田信一という、聞いたことのない名前だった。稚いがしっかりとした心のこもった字であった。
〈榎本先生、お元気ですか。ぼくは同志社大学の付属中学の生徒です。先日先生は、ぼくたちの学校に来てくださって、
「偉い人とはどんな人か」
という題で、修養会の説教をしてくれはりましたね。ぼくは、あんまり信仰のことは興味がないので、ふだんは熱心に話を聞くことはありませんでした。「偉い人とはどんな人か」という題ですから、多分歴史上の人物か、有名な人の話だろうと、勝手に決めていました。
ところが先生は、偉い人とはどんな人やと思う? とぼくたちに問いかけ、それは人々に仕える人だと思うと言わはりました。そして、世光教会の保育園のアイバ(どんな字かわかりません)という小母さんの話をしました。そしてその小母さんが、園児の食事の仕度をしたり、便所の掃除をしたりしている人だと、言わはりました。
ぼくはびっくりしました。先生は、この小母さんの作るうどんが、京都一うまい、その訳は、園児の給食を手伝うことになった時、この小母さんは、わざわざ本職の板前《しよくにん》さんのところに行って、ダシの取り方や、料理の仕方をみっちり習ってきたからだと、言わはりました。責任感の強い人やなと、ぼくは思いました。けど先生は、
「ぼくがこの人を偉いと思うのは、それは世光教会の便所を見てくれたらわかる。どんなに世光教会の便所がきれいか、これは見なければわからん。保育園児というのは、皆小さい子で、いくら教えられても、きれいに便所を使えへん。うんこやおしっこをすぐにひっかけてしまう。にもかかわらず、うちの便所は誰も使うてないみたいに、まっさらや。うそやと思うたら、みんなで見に来たらええ。ぼくはこの小母さんのような人が偉い人やと、皆さんに言いたい。園児の便所なんか、適当にしておけばええ、掃除するそばから、どうせ汚すんやなどとは、この小母さんは決して思わんのや。その反対に、汚れるところやからこそ、こまめにきれいにしておこうと、そう考えるのです。一日に一度掃除しても、十回掃除しても給料はおんなじや。小母さんは給料のことなど、考えておらへん。自分の責任をしっかり果たす気構えで、毎日を生きておる。自分のためでなく、人のために生きておられるのや。こんな人が偉い人や思う」
ぼくは、話を聞いてもまだ、「たかが便所の掃除ぐらい、いくらきれいにしたって、そんなに偉いやろか」と思っていました。だから、友だちに、「その便所見に行こう」と誘われた時、
「阿呆臭い」
と、断りました。ところが便所を見に行った何十人もの友だちが、翌日学校で、皆興奮してました。
「ほんまに行ってみたらええわ。行かなわからんで」
みんなは口々に、これからは毎日曜世光教会に行くと話していました。ぼくはなおのこと行くまいと思いました。けれど、次々と世光教会に便所を見に行く友だちが多くなりました。そしてその友だちがまた、教会に通うようになりました。何となくその友だちの何かが変わっていくのを、ぼくは感じたのです。それで遂にぼくは、この間朝早く、そっと教会に行ってみました。便所を見たぼくは、電気に打たれたように思いました。
「真実に生きるとは、こういうことなのや」
ぼくの心の奥底にもやもやしていたものが、一度にふり払われたように思いました。ぼくは有名にならんでもええ、金持ちにならんでもええ、けど、人の心を打つような、本気の生き方をしたい、そう思いました。この次の日曜日から、ぼくも教会に行きます。
先生、どうぞ、ぼくを導いてください〉
この少年たちが、やがて高校生となり、ヨルダン会という会をつくった。キリストが洗礼を受けたヨルダン川の名に因《ちな》んでつけたのだ。この生徒たちは、日曜日ばかりではない。ほとんど毎日のように教会に来た。学校が終わると、五人十人と教会に集まって来る。そして聖書を読み、よく祈り、いかに生きるべきかを真剣に語り合った。教会の内外の掃除もよくし、ガラスもぴかぴかに磨いた。顔が映るほどに床も磨いた。父兄から、勉強がおろそかになると苦情がきた。だが不思議なことに、ヨルダン会の高校生たちは皆、成績が向上した。彼らは熱心に友だちを誘い、遂にヨルダン会は百名を超すに至った。
「彼らは今後どんなふうに育っていくかなあ」
保郎は楽しげに、ベッドの上から和子を見た。
「みんなはほんまにあんたが好きなんやなあ。教会に入りびたりや」
和子が言った。
「ぼくは只、彼らの話を、ほうかほうかと聞いとるだけや。彼らが勝手に喋って、勝手に結論づけて、先生ありがとうと、帰って行くんや」
保郎が笑った。
高校生たちはまだ、保郎一家の経済状態を知らなかった。毎日のように幾人かが食事をして行った。中には泊まる者もいた。その食欲旺盛な少年たちを名づけて、保郎が「蝗《いなご》の大群」と呼んだ。この中から幾人もの牧師が生まれようとは、保郎自身も誰も知らぬことであった。のちの歌手、端田宣彦《はしだのりひこ》もその仲間の一人だった。
三月一日、元気な顔で保郎は手術室に入った。手術の日、教会員たちは、それぞれの場所で保郎のために祈った。ヨルダン会の生徒たちは、学校で共に祈った。
大した手術ではないと思ったが、出血が止まらなかった。急遽、保郎は輸血されることとなった。痔の手術の輸血は、ほとんど聞いたことはない。が、誰の胸にも不安は萌《きざ》さなかった。教会員たちが連日次々と見舞いに来た。
「先生、血が止まらんかったんやてな。ぼくはそんなこと、初めからわかっとったわ」
と言う青年がいた。
「なんでや」
尋ねる保郎に、
「決まっとるやないか。先生は何しろ血の気が多いでな」
と、冗談を言った。一緒に来た者が、
「そやそや、輸血などせえへんほうが、よかったかも知れへんでえ。先生より血の気の多い人の血が入ったら、そらかなわんわ」
と、合いの手を入れた。ヨルダン会の者たちも、隊をなしてやって来た。
「痔の手術って、痛いんやってなあ。先生痛かったあ?」
「あんなあ、手術のあとが痛いんや。一回目のうんこが痛いのなんのって……」
保郎が顔をしかめた。
「その顔見たかったなあ。ぼくらにいつも痛いこと言わはるからや」
そんな冗談の言える牧師と信徒だった。
予定より二、三日遅れて、三月十三日に保郎は退院した。
退院して二十日余り過ぎた四月五日の朝だった。保郎は鏡を見てぎょっとした。目がどうかしたのかと思った。手も顔も白目も、真っ黄色だった。
「和子! 和子!」
台所にいた和子を忙しく呼ぶと、飛んで来た和子が保郎の顔を見るなり、驚いて言った。
「あんた、どうしたん、その顔!?」
輸血が原因の黄疸《おうだん》だった。保郎の宿痾《しゆくあ》の肝硬変は、この黄疸によって惹き起こされたのである。
暑い夜
保郎が痔の手術を受けた翌年の昭和三十五年(一九六〇年)八月三日、マックナイト宣教師がアメリカで召天された。
保郎にその報《し》らせが届いたのは、その月の二十日過ぎであった。保郎は初めて会った日以来の、数々の恩を思った。
世光寮の畠に働く保郎を慰問に来てくれた日のことが先ず思い出された。あの時持って来てくれたサンドイッチと冷たい水のうまさは、その後における夫妻の親切の象徴でもあった。あの日、贈られた作業服のポケットには、一ドルが入っていた。おそらくその一ドルは、夫妻のさりげない心遣いであったにちがいない。その一ドルが保郎に林間学校を開くことを思い立たせ、林間学校が発展して、結局は今日の世光教会を築き上げることになったのだ。
創立時には五万円もの大金を捧げてくれ、二回目の会堂建築の際も、その献金と募金合わせて七十八万円もの高額を捧げてくれた。その他礼拝出席の度に、驚くほどの献金をもって教会を助け、ララ物資の斡旋によって保育園を豊かにうるおしてもくれた。いや、その何にもまして保郎たちを支えたのは、常に善意に満ちた温容であった。そして優しい言葉であった。マックナイト宣教師の前には、誰もが素直になった。
そのマックナイト夫妻が帰国したのは、三年前であった。帰国はマックナイト夫人の目の手術のためであった。まさかその三年後、マックナイト師が脳出血で世を去るとは、思いもかけぬことであった。
折も折、保郎はマックナイト宣教師に手紙を書き終えたところだった。世光教会の朝の礼拝が、常時八十名を超え、時には九十名を超えること、夕礼拝は十名を下らないこと、高校生のヨルダン会が、彼ら自身の熱心な伝道によって百名は超えたこと、その伝道方法は、常に教会の名前と住所を記したパンフレットをつくり、それを電車の中で、街角で、高校生に手渡し、誘うという方法であったこと、しかもそのパンフレット代を捻出するために、彼らは申し合わせて昼食をぬいたこと……。
そんなことを詳しく述べ、十一年前の創立時には思いもよらなかった活気のある教会となったことを、報告する手紙を書いたのだった。そしてその末尾に、
〈ご夫妻そろって、この教会を見にいらしてください。教会員一同お待ち申しております〉
と書いたのだった。その矢先の召天の報らせだった。
盆地である京都は暑い。わけても暑い夜だった。保郎はマックナイト宣教師を思い、一人あとに残された夫人のメェリーを思って、眠れぬままに床の中で祈っていた。傍らの和子もまた、マックナイト師の召天を思って、心を痛めているのか、先ほどから幾度も寝返りを打っている。祈っているうちに、保郎はいつしか眠りに引き入れられたが、どれほども経たぬうちに、
「あんた、起きて、起きて」
と、和子に肩をゆすられた。
「何や、折角寝入ったところを」
和子は声をひそめて、
「誰かその辺にいるみたいやわ」
「誰かその辺に?」
「うん、その辺を歩きまわっている足音がしたもん。泥棒かも知れへんわ」
「泥棒? かまわんかまわん。教会に入ったかて、盗むものなど何もあらへん」
「けど……昨日おろした貯金、事務室の机に置いたんとちがう? ……ほら、何か音がしたやろ」
保郎はがばと身を起こし、
「そうや! 明日保母たちにやる給料が……しもうた!」
とあわてた。
「あんた、ちょっと見て来たら。うちも行くわ」
「けど、和子、何ぞ凶器持っとるかも知れへんで」
怖《お》じみそと言われた保郎は度胸のあるほうではない。
「あんた、ほら、竹刀があったやないの」
「え? 竹刀で殴れ言うのか。いややなあ」
剣道は三段だが、その竹刀を振りまわすのは気が進まなかった。
「ううん、もし凶器を持っとったら、払い落とすだけでええんや」
和子のほうがしっかりしている。結局は、時々素振りに使っている竹刀を持って、保郎は和子を従えてそっと裏口から出た。どこかに月があるらしく、外は真っ暗闇ではなかった。教会の敷地に人影は見えない。と、まさしく教会堂の中で、がたんと大きな音がした。二人は顔を見合わせた。いつも戸締まりはきちんとしてある筈だ。容易に入りこめるわけはない。
「警察に電話したほうがええんとちがうか」
保郎が立ちどまった。
「そやなあ。けど、電話かけとるうちに、逃げられるかも知れへんしな」
「逃げられたら、そのほうがええやないんか」
保郎は遂に教会の玄関の前に出た。
「和子! 戸が開いてるで! 鍵かけるの忘れたんとちがうか」
和子が黙って素早く電灯のスイッチを入れた。と、会堂の椅子に、見慣れぬ男がステテコ姿で団扇《うちわ》を使っていた。泥棒にしては呑気な姿だ。
「あんた、だれや!?」
あわてて竹刀をうしろに隠して保郎は言った。縮みの半袖から刺青がのぞいた。男はじろりと保郎を見たが、
「あ、あんた、ここの先生やな。わしは伏見の七五郎いうケチな渡世人や」
笑うと意外に人がよさそうな笑顔になった。五十余りの、ずんぐりとした男だった。
「何の用や、こんな時間に?」
保郎は会堂の時計を見上げた。一時を過ぎている。
「こんな時間?先生忘れたんか。あんたは何年か前、太鼓を叩いて辻説法していたやろ。その時の言葉覚えとらんのか」
と、大きく足を組み替えた。
「辻説法?ああ路傍伝道やな」
保郎はうしろに隠している竹刀のやり場に困った。
「路傍伝道か炉端伝道か知らんが、おれは一回聞いたことがあるんや。先生は説教がうまいのう」
妙な闖入者《ちんにゆうしや》に説教をほめられて、ますます竹刀が重い。
「わしはあん時の先生の言葉を忘れてはおらへんで。どんな悪い人間でも、たとえ人殺しでも、許してくれるのがヤソの神やと言わはったわなあ」
「ほうかあ」
保郎は、一体いつ、この男が自分の話を聞いていたのかと、心の中で忙しく思いめぐらした。土手のそばの低地に教会があった頃、保郎は夕食後、よく太鼓を叩き、教会員の幾人かと共に路傍伝道に出た。暑い夜など、夕涼みがてら大勢の人が集まった。時には酔っ払いがいて野次られたり、野次に応酬したりして、それがまた楽しい雰囲気をかもし出したものだ。が、この丘に移った六年前からは、忙しさにまぎれてほとんど路傍伝道に出たことがない。とすると、この男は五、六年以上も前に保郎の話を聞いたことになる。しかし、話を聞いたからといって、夜中に教会に入りこんでいいということにはならない。
「なあ、先生。わしはあん時から、これはありがたい神さんや、そのキリストとやらが、一人で罪を引っかぶって、わしらの代わりに自首してくれる、そう聞いて安心してたんや」
うしろに従っていた和子が、保郎の手からそっと竹刀を取り上げた。保郎はほっとした。
「ほれで、夜の夜中に教会に来たいうわけですか」
「そうや。あん時先生は言わはったわなあ。キリストに救われたい思うたら、いつでもええ、教会へ駆けつけるんや。夜の夜中でも待ってるでえと、言わはったなあ」
保郎は和子と顔を見合わせた。そう言えば、確かにそんなことを言った覚えはある。が、まさか言葉どおりに夜中に教会を訪れる人間があろうとは思わなかった。気持ちとしては、事実、夜の夜中でもかまわぬという思いはいつもある。その思いに嘘偽りはないが、自分の言ったことを、保郎はけろりと忘れていた。夜中に物音がすれば、先ず求道者かも知れぬと思うべきだったのだ。七五郎が言った。
「あんまり暑いでな、わしはあれこれ、昔のことを思うてたんや。そしたらなあ、もし地獄いうもんがあれば、まちがいなくわしは地獄行きや。出刃包丁を逆手に持っての喧嘩もした。監獄に入れられたのも、一度や二度ではあらへん。ところがこの間な、医者に心臓が悪いから気ぃつけやあて言われてな、このままひょいと死んでしもたら、自分の行くとこは地獄しかあらへん。そう思うたら妙に淋しいてかなわん。そうや、真夜中でもかまへん言わはったあの先生んとこへ、行ってみようて思うたんや」
男の声がしんみりとなった。聞いていて保郎はたまらなくなった。自分がインチキな牧師に思われた。
「ほうかあ。ぼくはなあ、あんたをてっきり泥棒や思うてな、ほら、このとおり」
と和子がそっと椅子の下に隠した竹刀を取り出し、
「おっとり刀で駆けつけたんや。自分の言うたことを忘れてなあ、えらいすまんことをした。許してや」
と、深々と頭を下げた。その保郎を、男は感動を隠さずにまじまじと見つめていた。
その後一度も、男は教会には来なかった。が、その男が、その時からどれほども経たずにぽっくりと死んだことを保郎は知らされたのだった。
その年の春、三月二十七日、大住《おおすみ》伝道所の主事|後宮《うしろく》俊夫が牧師の補教師検定に合格し、大住伝道所、泉伝道所の担当牧師に昇任していた。猪突猛進の保郎と、質実穏健な後宮俊夫は対照的であった。対照的であることが却って幸いし、二人の協力関係は強まって、お互いの伝道の実が上がった。俊夫の妻松代も、その優れた資質を大住保育園の主任保母として十二分に発揮していた。
この時代は、保郎の牧師生活のうち、最も快適な時代といってよかった。教会員たちは、老いも若きも、保郎の真実な生き方を信頼した。保郎と口をきくことが楽しくてならなかった。お互いにこきおろしたり、こきおろされたりして、それがまた楽しかった。保郎はよく相手の言葉を聞いた。身の上相談でも、教会への意見でも、うなずきうなずき聞いた。ある時は延々三時間も、教会のあり方を批判した者もあった。保郎はその間一切口を挟まず、
「ほうかあ、ほうかあ」
と、聞くばかりだった。三時間喋りつづけた教会員は、その日から熱心に奉仕活動をするようになり、全く不満を訴えることがなくなった。
九月に入ったある日の夕方だった。夕食を取ろうとした時、電話が鳴った。保郎が出ると、
「もしもし先生、ぼくや。先生、元気やろな。もう黄疸治ったんか。あん時は目ん玉まで真っ黄色にならはって、ぼくびっくりしたで。親の病気かて、あんなに祈ったことあらへん。先生はぼくにとって、親より大事な人やでな」
と、一人で喋りまくった。聞いたことのある若者の声だ。
「君、誰や?」
ようやく保郎が口を挟んだ。
「何や先生、ぼくの声忘れたんか。先生には、ぼくや言うだけで、すぐにああ、あいつかと思ってもらえると、一人決めにしとったんやけど、がっかりやなあ。ぼく、ほら小次郎や。佐々木小次郎ならぬ仲根小次郎や」
保郎は心の中で、あっと叫んだ。
「小次郎やない、小狡郎《コズロウ》や」
と、彼を知るほどの者は、皆そう言っていた。小次郎は時々、思い出したように教会に来たが未信者だった。二、三回つづいたと思うと、ふっと来なくなる。牧師館にもやって来る。
今までに、仲根小次郎は保郎から五回ほど金を借りて行った。金の要る理由は、要するに母が病気だというのである。借りる金額は、千二百円とか、三千七百円とかで、決して、千円、三千円と、きっぱりした額ではなかった。
「二、三日や。二、三日だけ貸してえな」
と言うのだが、返しに来たためしはない。今も、
「先生、用件だけ言うわ。ぼく、母が病気で、郷土《くに》に帰らないかんのや。けどな、この電話賃しかあらへんのや。借りに行く金もあらへんのや。今夜八時の汽車に乗らんならんので、先生すまんが三千四百円持って来てえ。頼むわ、先生。母んとこへ帰ったら、すぐに返すさかいな」
と、言うだけ言って電話を切った。勝手な男だと思いながらも、
「和子、和子、小次郎がな、三千四百円貸して欲しいんやそうや」
電話の次第を告げると、
「冗談やないわ、ほんまに。三千円などうちにあらしまへん。第一、小次郎さん、返す返す言うて、返したためしありますのん?」
「返したことはあらへんけど、たまには煎餅や飴を買《こ》うて来たことあるやないか」
保郎は、貸した金の高など忘れて、煎餅でも飴玉でも、たまに持って来ると、
「あいつには、まだ返す気がある」
と和子が呆れるほどに喜ぶ。
「けど、あの人、いつも借金の度に、お母さんの病気を口実にして、うち好かんわ。第一、あの人にお金貸すの、あの人のためにならんのとちがう?」
保郎は、小次郎の求める度に、家中の金を掻き集めて貸してきたのだった。
「ま、そらそうやが、和子、わしも貧乏やさかいな、金のない辛さがようわかるんや。金借りる恥ずかしさ、辛さが、ようわかるんや」
と、保郎はごそごそ茶箪笥の辺りを探し始めた。
「あんた、やめとき。あんた京都駅まで、この暑いのに汗流して駆けつけるつもりか」
「仕方あらへんわな。三千四百円、ほんまにあいつが必要やとしたら、誰かが貸さなならん。誰も貸す者がないと、人さまのものに手ぇつけるかも知れへんでな。罪を犯させてはならん。ああ、あったあった。ぼくの財布と和子の財布合わせて、三千二百円あったわ。けど、まだ二百円足らん」
と、窓からるつ子を呼んだ。
「るっちゃん、るっちゃん、一大事やあ」
一大事と聞いて、るつ子がにこっと笑って飛んで来た。るつ子は満十歳だ。
「すまんなあ、るっちゃん、お父さんに二百円貸してくれんかな」
「オーケー、また天国に貯金するんね。イエスさまに上げるんね」
るつ子はにっこり笑って、机の上の貯金箱を持って来た。人のために使うのは、天国に貯金することだと、いつもるつ子は教えられている。るつ子は喜んで貯金箱をあけ、二百円さし出した。るつ子の貯金箱には三十五円しか残らなかった。
「呆れた人やなあ。あんたも小次郎さんも」
口では言いながら、和子は内心、こんな保郎の姿に感心していた。
「呆れるやろうなあ、和子。けどな、キリストは何と言わはっとる? 〈この小さな一人になしたるは、我になしたるなり〉と聖書にあるやろ」
「…………」
「つまりなあ、和子。キリストさまが貸して欲しいと言わはっとるんや。マタイ伝の五章にも書いてあるわな。〈求める者には与え、借りようとする者を拒むな〉となあ」
「けどな、あんた。ほなこと言うても、こっちはいつもぴいぴいやないの」
和子が反対すればするほど、保郎は真剣だった。
「和子、ぼくはなあ、何としてもよう断らんのや。なぜかいうたらな……わしはな、キリストの言葉を聞き流しとうないんや。どんな聖句にも大真面目に従うて行きたいんや。すまんな和子」
保郎は、まだ暑さの残る夕暮れの街に飛び出して行った。
暗くなって保郎は帰って来た。
「和子、小次郎な、えらい喜んでいたわ。今度こそ、まちがいなく返す言うてたわ」
しかし、その後、仲根小次郎からは何の音沙汰もなかった。
祈りの集い
保郎は京都行きの電車を待って、大阪駅のプラットホームに立っていた。あの小次郎に金を貸してから幾日も経ってはいなかった。
今にも降り出しそうな、垂れこめた秋空を見上げていた保郎は、柱の傍らに寄って心ひそかに祈り始めた。十一月には、世光教会主催で、初めて全国のキリスト教会に呼びかけて、「祈りの集い」が持たれることになっていた。誰に頼まれたわけでもない、この「祈りの集い」を世光教会を会場として持ちたいと言い出したのは、保郎だった。その計画を聞いた信者たちは、最初保郎に反対した。反対の理由は幾つもあった。役員たちと保郎の関係は、固い信頼によって結ばれていたから、歯に衣を着せる者はいなかった。
「先生、こんなちっぽけな教会が、日本全国の教会に呼びかけるんですか。ちと早過ぎるのとちがいますか」
「先生が責任者やろ。あと十年後ならともかく、先生はまだ三十五歳やで」
「そうやそうや。正牧師になったのが僅か二年前や。もちいと雌伏していたほうが、ゆかしいんとちがうか」
発言の度に、みんながうなずく。保郎も、
「そうやなあ」
と、うなずいて聞いていた。
「それにな、先生、人が来たかて、場所が狭過ぎるわ」
「もっとも心配するほどは誰も来ぃひんかも知れんけどな」
これまた保郎はうなずいた。だが保郎は、何としても今のキリスト教界に必要なのは、神との直結、神との交わり、神との対話、すなわち祈りだと信じていた。それは、三年前の北摂山荘及び昨年有馬温泉で開催されたスタンレー・ジョーンズ博士の、アシュラムによって育った願いだった。アシュラムとは、強いて日本語に訳せば、「退修会」とでも言うらしかった。退修会とは、煩わしい世俗の場より退いて、祈るひと時を共に持つ会であった。スタンレー・ジョーンズ博士は、若い時から何十年間、朝の一時間を、神と人と自分の魂のために祈ることをもって一日を始めてきた祈りの人であった。一日の一番先に神を仰ぎ見、神に口を開き、神の声を聞く。そして神の言葉を読む。すなわち聖書を読むのである。博士は、アメリカのメソジスト派の全教会の、監督という重い地位に選ばれたこともあるが、彼はそれを辞し、貧しさの中にあるインドに渡った。七十五歳のスタンレー・ジョーンズは、今や世界に名を馳せる大伝道者であった。そのスタンレー・ジョーンズのアシュラムで参会者が学んだものは、神の前に真剣に祈るということであった。説教を聞くことが主ではなく、一人一人が聖書を通して神の言葉に聞き入り、深い瞑想の時を持ち、かつひたすら祈るのだった。そして、そのアシュラムに出た者たちは皆、ほとんどが深い慰めと、神への熱い想いに満たされて帰った。
(要するに、神がわれわれの心を清め、強め、導き給うのだ。神が講師なんや)
であれば、自分が三十五歳であろうと、二十歳であろうと、かまわぬではないか。そう思って保郎は、反対する教会員たちを説き伏せた。教会員たちは、集会に必然的に生ずる費用についても、不安を抱いた。保郎は会費は無料だと言った。どころか滞在費は教会持ちだとさえ言った。
「ほんな、阿呆な」
教会員たちは顔を見合わせたが、保郎はそれらの費用は自分が負担すると言い出した。
「先生、先生の懐ん中は、うちらかてよう知っとりますわ。こりゃ全く無茶いうもんどす」
「ほうかなあ。ぼくは、必要なものは神が与え給うと信じている。とにかくぼくは、すべてを捧げる」
一同は困った顔をした。と、一人が言った。
「先生は本気や。だてや酔狂で、こんなことを言い出すお人やない。先生は本気で神さまを信じていやはる。ぼくらも先生に倣《なろ》うて、本気にならなあかん。先生、やりまひょ。神がどんなことをしてくださるか、感謝して待ちまひょ」
もはや誰もとやかく言う者はなかった。誰の胸にも、保郎の真実な信仰が沁み通ったのだ。
保郎が今、プラットホームの柱の傍らに立って、ひそかに祈り出したのは、その集いのための祈りだった。誰にも名の知られていない小さな教会の主催が、幾人の人を集めることができるか、必要な金がどれほど与えられるか、いや、何よりもその集会に集まった人々が、どれだけ神との深い交流を与えられるか、保郎が祈り求めねばならぬことは多かった。
と、この柱の陰で祈る保郎に気づいた男がいた。背の高い、痩せ型の男だった。彼は、祈る保郎の姿を、じっと見つめた。深い感動のいろがその目に浮かんだ。京都行きの電車が響きを立てて入って来た。柱を離れた保郎のあとを、男は黙って電車の中まで従《つ》いて来た。保郎が腰をおろした。その隣に男も坐った。男が言った。
「しばらくやなあ、榎本先生」
不意に声をかけられた保郎は、驚いて男の顔を見た。男は昨年のアシュラムで、保郎と同室となった仲綽彦《なかのぶひこ》であった。
「やあ、仲さん!」
保郎は喜びの声を上げた。仲綽彦は、岸和田に住み、聖燈社というキリスト教書の出版社を経営し、広く文書伝道をしていた。文もよくして、自分自身、「世の光」という伝道誌を発行して、佐治良三牧師の優れた説教を載せ、多くの信者、求道者を読者に持っていた。
「先生、その節はどうも」
「いや、こちらこそ、いびきで……」
保郎はいびきが大きかった。保郎は去年のアシュラムでの仲綽彦との一夜をまざまざと思い浮かべた。あの夜、部屋に戻った時、仲綽彦が言った。
「榎本先生、今日はすばらしい話を聞かせてくれはりましたなあ」
保郎はそのアシュラムにおいて、スタンレー・ジョーンズ博士に指名され、「わたしの日々の祈りについて」と題して語った。保郎より年上の信者や牧師がたくさんいた。
(自分ごときが……)
とは思ったが、思い切って体験を語った。「朝の十五分があなたを変える」という言葉を本に見て、朝早く起きて祈ろうとした。三日、十日、二十日と祈りの生活はつづいたが、ある日、思わず寝過ごしてしまった。途端に、翌日から元の木阿弥《もくあみ》になって祈りを中断した話、その後幾度も同じ失敗を重ねながら、それでも毎朝、睡魔との戦いがあったこと、しかし、牧会生活の中で多くの難題にぶつかり、次第に祈らずにいられなくなったこと、神は何らかの形で必ず祈りを聞いてくださることなどを、比較的具体的に語ることができた。
話し終わった保郎に、人々がやって来て、
「いい話だった。もう少し詳しく聞かせて欲しい」
とか、
「自分はあんたほど、神の前に真剣に祈ったことがない」
などと言って、保郎を称讃した。保郎は、まだ高校生の身で教会を創立した話や、その募金のために苦闘したこと、後宮《うしろく》俊夫が十万円を、思いがけず送ってくれたことなどを、一方的な神の恵みとして語った。保郎としては、自分の祈りの生活は失敗の連続だったと、失敗を語ったつもりなのに、その失敗談にかえって人々は大きな共感を示してくれた。会の終わりに、ジョーンズ博士たち幾人かが、参加者の頭に手を置いて祈ることになった。博士の随行者である米人講師や、日本のおもだった牧師たち七、八人が祈りの座に着いた。と、その時、博士は保郎にも出てくるようにと、保郎の名を呼んだ。保郎は仰天した。ジョーンズ博士も、保郎の失敗談に、神への謙虚な姿勢と純真な信仰を見て、深い感動を持ったのだった。保郎は震える足で前に進み出た。博士が柔和な徴笑を湛えて言った。
「君も、会衆の頭に手を置いて祈ってあげなさい」
(このぼくが?)
保郎は答える術を失った。人々がぞろぞろと前に出て来た。最も長い列ができたのは、むろん世界的大伝道者ジョーンズ博士の前である。誰しも博士に手を置いて祈って欲しい、そう思うのが人情だった。他の幾人かの前にも、二人、三人と、ためらい勝ちに人が並んだ。が、たった今、突然名を呼ばれた保郎の前に来る者は誰もいない。話に感動したと言って、寄って来た人は多かったのに、一人として来る者がなかった。保郎はよほど、その場を離れて、祈ってもらう人の列に加わろうかと思った。保郎はさらし者にされているような、辛い思いを味わった。
と、そこにようやく一人の男が、静かに保郎の前に進んで来た。保郎はほっとした。心をこめて祈ろうと、その人を見て保郎はあわてた。何とそれは、京阪神地方での大いなる指導者|三島実郎《みしまじつろう》牧師であった。三島牧師は淡路出身の大先輩でもあった。保郎は思わず三島牧師の前に跪《ひざまず》いて、
「先生! 逆です。どうかぼくのために祈ってください」
と頭を垂れた。三島牧師は微笑して、
「榎本君、今日は君が神に立てられたのだ。人間の思いをはるかに超えた神の御心《みこころ》に従って、どうかこのわたしのために祈ってください」
と、頭を垂れた。このことは保郎の胸を強く打った。幾人もの人に手を置いて祈るよりも、もっと大きな出来事だった。
その夜、保郎と綽彦は、有馬温泉に来ながら、風呂に入るのも忘れて語り合った。仲綽彦は、
「商売根性で言うんやないけど、先生の話、本にしたらおもしろいやろなあ」
と、言った。
「本? ぼくの話など、本になどなるかいな」
保郎は本気にしなかった。世辞だと思った。
「なります、なります。先生はいわゆる失敗談ばかり語らはったやろ。ぼくは、キリスト信者いうものは、自慢話をするもんやないと思っています。ぼくの経験によると、失敗談を語る先生は皆本物ですのや」
仲綽彦は真っすぐに保郎を見て言った。失敗談を語った保郎としては、相槌の打ちようがない。
「先生を前にして何やけど、失敗談を語るような人にしか、神はほんまの姿を現さんのとちがうやろか。一所懸命に祈って、信者に肥《こえ》をかけられたり、何度も詐欺に遭うたりしていたら、何と間抜けな奴やと、神さまは手を藉《か》さずにはいられなくなる、そんなもんやとぼくは思う」
仲綽彦は熱心にそう語った。
(この男も、どこかおれと似とるな。神さまのことでは、ちいともごまかしのない男やな。むきになっている男や)
保郎はそう思った。
「なあ、仲さん。ぼくは自分のことは何や知らんけど、キリストがご用だと言えばな、わが身の非力をも顧みずに、キリストさまをお乗せして、喜んで駆けまわる阿呆や思う。いや、そんな阿呆になりたい思う。それでな、ぼくはひそかに自分を小さなろば、すなわち『ちいろば』と呼んどるんや」
「ちいろば? ちいろばなあ、ちいろばなあ」
膝小僧を抱えて、仲は繰り返していたが、ぱっと顔を輝かせて言った。
「ちいろば! ええ題や! そや、これでいこ!」
「何や、何のことや?」
保郎はぽかんとした。
「本や、本の題や。先生、ぼくはな、ちいろばどころか、小鼠みたいに小さな奴やさかい、キリストを背にお乗せすることもでけへんが、文書伝道には力の限り尽くしとるつもりや。いつか必ず、ぼくのところから本を出して欲しいんや」
冗談の顔ではなかった。保郎はその真剣なまなざしに応えて言った。
「そうやなあ、ぼくは、文章など書く暇も才能もあらへんけど、神さまに頼んどこ。書ける日が来たら書かしてくださいと、今のうちから頼んどこ」
「なるほど、先生はやっぱり、祈りの人やなあ」
「そんなもんではあらへんが、神さまに頼んでおけば、確実やさかいな。こっちが忘れとっても、神は決してお忘れにはならへん」
こうして二人は、お互いの伝道の働きのために、時間をかけて祈り合ったのだった。
それ以来の再会であった。
「では、ぼくはこの次で降りる」
仲綽彦はそう言って、ひょろりと立ち上がった。
「そうそう、先生とこの『祈りの集い』に、ぼくも出してもらうつもりや」
「え!? 仲さんも出てくれはるんか」
保郎の声が大きかった。車内の幾人かが保郎を見た。保郎はキリスト新聞に、「祈りの集い」の広告を出したばかりだった。
「うれしなあ。ぼくの呼びかけになど、一人も応えてくれんかと思ったが、これで一人は確実や」
保郎は思わず、にこっと笑った。
「あの広告見て、先生やりなはるなあと、ぼくは脱帽しましたわ」
仲綽彦はそう言って、大股に立ち去って行った。
昭和三十五年(一九六〇年)十一月二日、三日、四日と、「祈りの集い」が開かれた。世光教会員を入れて、せいぜい五、六十名の出席かと思ったが、思いもかけず百二十名の出席者があった。連絡不充分で、出席者全員の数を確認していなかったから、保郎たちはあわてた。貸布団を急いで借りに走る者、炊き出しの手伝いを駆り集める者、教会員は一丸となって働いた。布団は、その日の会の終わった礼拝堂、保育室などに敷き詰められた。地元の者は自分の家で寝たが、それでも、布団はびっしりと敷きつめねばならなかった。食事は朝飯抜きで、昼食と夕食が用意された。寿司や握り飯に味噌汁だけの簡単な食事を、セルフサービスで食べてもらった。寝る所と言い、食事と言い、粗末ではあったが、しかし、「祈りの集い」は成功だった。散会しても、すぐに立ち去る者はなかった。誰もの顔が輝いていた。
「榎本先生、本当に感謝です。何もかも、すばらしいの一語に尽きます」
西條初枝牧師が感謝をこめて、保郎の手を固く握った。また世光教会員の饗庭《あいば》正が、
「先生、ほんまに、ぼくら不信仰やったなあ。こんなええ会になると知らずに、反対してなあ。先生、今度の集いほどわたしの魂を揺さぶった集いは、生まれて初めてやった」
と、涙をこぼした。誰も彼もが保郎の手を固く握り、
「ありがとう、先生。ぼくの目から鱗が落ちたようや。ぼくは今まで、ろくろく祈りもせんと、神さまは祈りを聞いてくれへん、ほんまに神さまはいるんかいなあ、思ってました」
とか、
「先生、こんなすばらしい集い、まさか一回限りいうことはあらへんやろな」
「必ず来年も開いてや、うち待ってるわ」
などと言うのだった。保郎は、胸に熱いもののこみ上げるのを、幾度も感じた。
(ああ、やっぱり神は生きておられる。人々の心をこんなにも燃え立たせ、励ましてくださるのや)
と、泣きたい思いだった。
祈りの集いが終わって、幾日も経たぬうちに、連日のように参会者から喜びにあふれた礼状が届いた。その何《いず》れの礼状も、保郎の思いをはるかに超えた、感激に満ちた言葉だった。
(そうや、やっぱり祈らなあかんのや)
保郎はこの度の集いによって、自分が今後進むべき方向が示されたように思った。スタンレー・ジョーンズのアシュラムはすばらしかった。が、自分のような名もない牧師の企画によるこの度の集いも、決してスタンレー・ジョーンズのアシュラムに劣らぬ成果があったと、保郎は思う。
保郎は、今後自分は、二度、三度、いや一生、この方法を日本のキリスト教界に広げる運動をつづけるにちがいないと思った。
日曜日の午後である。保郎は事務室の机に向かって、大住《おおすみ》伝道所の二種教会許可に要する書類に目を通していた。
ふと目を上げると、東山の連峰が今日は間近く見える。その上に動かぬ雲が既に夏の気配を感じさせた。庭の藤棚の下に、子供たちが四、五人遊んでいる。
(今年もよう咲いたなあ)
藤の花房に視線をとめて、保郎は何か満ち足りた思いだった。
今日の礼拝は九十名を超えていた。たった一人も集まらず、和子と只二人で礼拝を守った十二年前の日のことが、昨日のことのようにありありと目に浮かぶ。その誰もいない礼拝堂で、大声で語った保郎の説教を、通りかかった後宮《うしろく》寿子が外で聞いていた。それが寿子の教会に来るきっかけとなり、更にはその長男後宮俊夫も受洗し、大住伝道所の主事となった。保郎の妹松代と結婚した後宮俊夫は、着実な足取りで大住伝道所を育てていた。そして、早くも今年、年内には二種教会として許可される筈だった。
日曜日の世光教会は午前も午後も、活気にあふれていた。グループごとの集会があったり、気の合った者同士が語り合ったりしていて、午後になってもなかなか家に帰ろうとしない。今も教会堂から幾人かの笑い声が賑やかに聞こえてきた。どうやら近所に配付する週報を折っている一団らしい。
「今日の先生のお説教、どうやった?」
若い男の声がする。保郎はちょっと聞き耳を立てた。
「よかったなあ。いつもいつも、なんでああ腹に応えるような話を、先生しやはるんやろ」
これは女子高校生の声だ。
「そうやなあ。毎週一度はじいんとくるか、ぐんとくる。だから日曜日が待ち遠しいてたまらんわ」
保郎の顔が思わずゆるんだ。
(ほんまにそう思うか)
出て行って、そう言いたい気持ちだった。と、何やら声が低くなって、わっと笑う声は五、六人の声に聞こえた。
「とにかくほんまに祈る先生やな。先生を見てると、やっぱり祈りは聞かれる思うわな」
「けど、祈るのはええにやけど、祈りながら、ものを蹴っ飛ばす癖があるにやわ」
「あるある」
保郎も思わず笑った。保郎は、柱や壁や、庭の木の傍らに立って祈る時、いつしか片方の足で、壁を、柱を、木を蹴る癖があるのだ。
(全くよう見とるわ)
保郎は、にやにやした。
「なんでおれたち、こう先生が好きなんやろな。いったい、どこが好きなんやろ」
声の様子で高校生の荒木|尊《たかし》に思われた。
「ほんまやなあ。先生はよう叱らはるのにな。口は悪いし……」
「その叱られるのが、またうれしいにや」
「うちな、こないだ先生の靴磨いたんや。先生の靴な、減ってしもうて、裏がないにや。じーんときたわ。あんななりふりかまわんとこ、うち好きやわ」
「そやそや、こないだもな、保育園の子供たちとな、泥団子つくって遊んどるにや。顔に泥つけて、ニコーッとしてな。子供より子供みたいな顔をしてな」
またしても笑い声が上がった。保郎が事務室で只一人仕事をしているとは、誰も気づかない。日曜日にはたいてい、婦人会か何かのグループに入って、話をしていることが多いからだ。
「先生はよう怒らはるけど、すぐに謝らはるわな」
「そやそや。がみがみと叱って、『悪う思わんといて』とか、『ちと言い過ぎたかな、堪忍してや』とかな」
と、保郎の声音を使い、またしても笑い声が上がった。
「うちのおふくろな、なんでそないに毎日教会へ行くのえ、そしていつもいつもご飯までごちそうになるのは、よっぽどうまいもんがあるさかいか、言うんや」
「うちのおふくろも同じことを言うわ。けど考えてみたら、ほんまに牧師館の食事は、ごちそうがないわな」
「ないない。せいぜい味噌汁に野菜サラダぐらいのもんや」
「ぼくもな、考えたことあるんや。食事っちゅうもんは、お菜で食べるんやのうて、雰囲気で食べるもんやてなあ」
「そやそや、うちもそう思うわ」
「いくらごちそうあったかて、楽しいなかったら、うもうないわ」
「そうや、教会の食事は誰が作ってもお菜がなくても楽しくてうまいわ」
夢中で話し合っている感じだった。聞いていた保郎は少し考える顔になった。外に目を向けると、先ほどまで砂場にいた子供たちの姿はなかった。藤の花の下を、黒猫がひっそりと過ぎようとして、ふと立ちどまり、そり返って保郎を見た。と思うと、やや足早に黒猫は去った。
「ええんかなあ」
保郎は独り言を言った。高校生たちの今の話が気になったのだ。保郎に聞こえているとも知らず、話がつづく。
「な、知ってるか。榎本先生な、凄く弱虫なんやて。地震が怖うて、雷も怖いんやて」
「そうやてな。うちも聞いたわ。川の傍《そば》に教会あった時な、お隣が上田のおばあちゃんの家やろ。雷が鳴る時な、和子先生おらんとおばあちゃんの家に駆けこんで、おばあちゃんにしがみつくんやて」
「あんなでかい体してな」
「けど、そこがええとこや」
いかにも楽しそうな笑いが長々とつづいた。
「うちのお母はんな、教会へ初めて来た時、びっくりしたんやて。どてらの中にるっちゃんをおんぶして、髪のもじゃもじゃした男が、玄関のところに立っているんやて。『牧師先生いやはりますか』と言うたらな、それが先生やったんや」
また笑い声だ。
「肉うどんの時な、先生必ず、『ぼくには肉の多いとこをたのむでえ』と、大きな声で言うんや。あんな牧師いるやろか」
みんなは、またひとしきり笑った。
「おい、おれたち、榎本先生のことというと、なんでいつもこない夢中で話すんやろ」
一瞬みんなが黙った。が、すぐに女の子の声がした。
「そりゃ、先生が好きやからに決まってるやないの」
すると、すぐに、男の声がした。
「いや、ぼくは好きなだけやないと思うで。先生の話してるとな、何や心が燃えるんや」
「そのとおりや。ぼくもそうや。先生の話しとるとな、何かこう力湧いてくるんや」
「おれもや。おれなんか、勉強は嫌い、学校は嫌い、まさか教会になど来るとは思わんかった。それが、榎本先生に会うて、『何もする気ないんや』言うたら、先生な、じーっとぼくの顔見ててな、こう言わはったんやで。『ほんまかあ、何もする気ぃないいうんは、そら辛いことやなあ』って。ぽろぽろっと涙こぼさはってな。驚いたなあ。親や先生たちはな、何もする気ない言うたら、ああやこうや言うばっかりやったけど、先生は、辛いことやなあと泣かはったんや」
みんながうなずいて聞いている様子が、保郎の目に見えるようだった。この生徒は、今は真面目に学校に通っている。教会にも毎日のように顔を出し、保郎の家で夕食を馳走になって家に帰る。
しばらく沈黙したあと、誰かが言った。
「榎本先生がもしいやはらへんようになったら、おれは教会に来んぞ」
「ぼくもよう来んわ」
「うちもやめや」
「心配せんでもええわ。ここは榎本先生の教会やさかいな。先生が植えて育てた教会や。この教会から先生がいなくなる筈あらへんわ」
「そやそや、それより、週報みんな折ったな。さあ、配達に行ってこ」
みんながどたどたと玄関を出て行った。
保郎はふっと吐息をついた。今の高校生たちの言葉は、保郎にとってうれしいことではあった。が、恐ろしいことでもあった。
(ここは榎本保郎の教会やない!)
イエス・キリストの教会なのだ。自分がいようといまいと、この教会はキリストを信ずる者が礼拝に集まる場所なのだ。
(自分は、もしかして、キリストの前に立ちはだかって、信徒をキリストに真に仕える者へと育ててはいないのではないのか)
保郎は、ぎょっとする思いだった。確かに世光教会は、保郎が神の御旨《みむね》と信じて、全身全霊を注いで築いてきた教会である。全くの無一文から始めた教会である。新妻の持参金八万円余も取り上げて注ぎこんだ。主任保母としての和子の給料も、しばしば払わずに働かせた。伝道者として自分が謝儀なるものを定期的にもらうようになったのは、何年ものちのことだった。誰の目にも、世光教会は保郎の私物に見えたかも知れない。その証拠に、和子の出産を前に、信者たちがこう言っている。
「坊っちゃんが生まれるとええどすな。世光教会のお世継ぎができますでな」
保郎は、高校生の話と、この言葉を思い合わせて、自分がこの教会を去るべき時が近づいているのではないかと思った。いや、去らせてください、と祈るべきではないかと思った。信者に慕われ、自分も信者の一人一人を愛していればこそ、百名からの信者、求道者を神の手に委ねて、去るべきではないかと思った。思っただけで、保郎の目から涙があふれ落ちた。
昭和三十六年(一九六一年)六月二十日。京都の日本バプテスト病院において、和子は男児を産んだ。保郎は狂喜した。長女のるつ子を二十五年に産んだあと、二十七年伊作、二十八年|規矩《きく》、二十九年優子、三十一年いずみ、と四人の子が生まれた。が、そのうち伊作と優子が死産、規矩といずみは三日の命であった。そして、いずみのあとは、絶えて妊娠することもなかった。るつ子一人で終わるのかと諦めた保郎夫婦は、乳児保育も始めたのだった。それが男児の誕生である。しかも四千グラムもある元気な赤児であった。
保郎が出産を知ったのは夜半だった。けたたましい電話のベルに、跳び上がって受話器を耳に当てると、
「おめでとうございます。坊っちゃんが生まれました。母子共に健全です」
という声。男児と聞いて保郎は、
「もう一度言うてください! ほんまに男ですか」
「はい。四千グラムもある元気な男の赤ちゃんです。泣き声も病院中にひびきました」
保郎は、
(神よ、感謝します)
と祈りながら、
「五体満足ですか」
と、恐る恐る尋ねた。
「ご安心ください」
「本当ですか?」
「本当です」
「ほんまに本当ですか」
「ほんまに本当です」
「どこも何ともありませんか」
四人の子を失った保郎は、くどいほどに念を押した。
「今すぐ、ご自分の目で確かめにおいでください」
看護婦の声が笑っていた。
保郎は受話器をおくや否や、両手を畳について、感謝の祈りを捧げた。男児は、世光寮時代からの親友、林恵《さとし》の名を取って、恵《めぐみ》と名づけた。
「お世継ぎができましたなあ」
果たして信者たちは、自分のことのように喜んでくれた。そこで、保郎は、世光教会の週報に、〈世光教会は私のものではありません。私は神さまの御旨《みむね》であれば、今日でもこの教会を出て参ります〉
と、記さざるを得なかった。が、この言葉に怯えた信者はいなかった。保郎の冗談だと思った。しかし保郎は既に朝ごとに祈っていたのである。
「神よ、世光教会に仕える者として、十二年の長い年月、私をこの教会においてくださったことを、心から感謝いたします。神よ、私はこの教会を熱く熱く愛しております。しかしながら、私がこの教会にあることが、信者たちの成長の妨げとなるならば、私を去らせてください。神が行けと言われますならば、どこへでも行けるように私を強めてください。どうか、この教会を私物化する過ちを犯さぬよう、お導きください」
この祈りは、和子にも知らせぬ祈りであった。恵を産んだばかりの和子を、いたずらに刺激してはならぬと思った。
(どんな形でこの教会を去ることになるのだろう)
との思いが、保郎の心の底に宿って以来、保郎は時々、見るものすべてが、そして毎日が、新たなものに思われてきた。日曜毎の説教にも、
(あと何回この講壇に立つことができるのだろう)
と、思うようになった。それは心ひそかに自分の死期を知った病人が抱く感情にも似ていた。
世光教会が属する日本キリスト教団は、招聘《しようへい》制度を取っていた。つまり、どこかの教会から招きがあれば、それに応じて出て行くという形であった。むろん、自分にその意思がなければ、出て行かずともよいのである。
だが、保郎は、どんな教会からであろうと、招きがあれば直ちに世光教会を去ろうと決意していた。昭和三十六年の今、保郎は月々四万円余りの謝儀を受けていた。和子は保育園から三万何がしかの給料をもらっている。それは必ずしも高い額ではなかった。しかし保郎は、それらをすべて受け取ることを潔しとせず、和子の給料をひそかに教会に捧げていた。もし、和子の実家からの仕送りと、榎本家の米の仕送りがなければ、到底食べていけぬことだったが、それは和子だけが知っていることだった。
金銭に異様なほどに恬淡《てんたん》としていた保郎だが、時として、どんな教会が自分を招聘してくれるか、不安になることもあった。どんな教会から招聘があろうとも、招聘さえあれば、それを神の御旨として応ずるつもりではあった。が、それだけに神の示しが気になった。
(また開拓伝道を神は命じ給うやろか)
ふっとそんなことを思う。
(人家も疎らな寒村やろか)
(もしかして、寒い寒い北海道かも知れん)
(いや、沖縄かも知れん)
そう思うと、招聘に応ずるということが、いかに従順な信仰を持たねばならぬかを、思い知らされるような気がした。
ある日、保郎は旧約聖書の創世記を読んでいた。第一二章にきて、保郎はきびしい顔になった。そこには次のような言葉が書かれてあった。
〈時に主《しゆ》はアブラムに言われた、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい」〉
保郎は読み返した。今まで、幾度となく読んだこの箇所が、今、保郎には、初めて読むかのように新しく感じられた。
〈わたしが示す地に行きなさい〉
と、神は言う。しかも、それは、〈親族に別れ、父の家を離れ〉てである。保郎にとって親族とは、心から愛している信者たちである。「主にある兄弟姉妹」と言っている信者たちである。父の家とは、父なる神の家、即ち世光教会である。それは、保郎の長年心をこめて愛してきた唯一のものであった。
(アブラハムは神の示しに従って、国を出たのだ)
信仰の父と言われるアブラハム(のちにアブラムから改名)の、神への絶対の信頼を、保郎はそこに見た。
(神に従うとは、自我を捨てることや)
そう思って保郎は、三度同じ箇所を読んだ。
神の示しを求めて、祈り始めてから一年が過ぎた。礼拝は百名を超え、病院伝道による受洗者十一名、その他二十三名、計三十四名の受洗者を数えたこの年、昭和三十七年(一九六二年)十二月二十日、保郎に電話がかかってきた。
その電話がかかってきた夜、保郎はクリスマスの説教の準備をしていた。何げなく受話器を取ると、
「ああ、榎本君? ぼく、丸太町の田中やけど」
という明るい声が耳に飛びこんできた。
「あ、田中先生ですか」
保郎は思わずぎくりとした。京都丸太町教会の田中伊佐久牧師は、保郎の七、八年先輩だった。この田中牧師と、先日|琵琶湖《びわこ》畔のある宿でキリスト教の集会があった時、同室だった。田中牧師も保郎も、共に会の講師として招かれて行ったのである。
その夜二人は、いろいろと話し合ったのだが、その時、田中牧師は保郎にこう言った。
「なあ、榎本君。君の場合、全く文字どおりの開拓伝道やな。一人の信者もないところから、先ず子供を集めて、林間学校を始めたんやからな」
田中牧師は、今聞いた保郎の思い出話に感に堪えぬように言った。
「不思議なもんですなあ、田中先生。あの父兄に、上田さんのおばあちゃんがいなければ、あれはあれで終わっていたんですわ」
「そうやなあ。そのおばあちゃんにねだられて、日曜学校を始めた。そしてとうとう教会を創立するに至ったんやなあ」
「はあ、あのおばあちゃん、近頃体が弱らはったけど、よう祈ってくれはるんです。ぼくが訪ねて行きますとな、これ榎本先生のや言うて、ぼくのための大きな座布団出してくれはるんです」
「ふーん、君のことがもう息子のように可愛いんやな」
「はあ、ありがたいことですわ。いつ行っても、ぼくの好きな菓子を覚えていて、用意してくれはるしなあ」
「榎本君、そんなふうに君を大事に思うてくれるの、上田のおばあちゃんていう人ひとりではないんやろ。ぼくの聞いた噂によると、大学生、高校生の中に、君みたいな牧師になる言うて、献身の決意を持っとる学生が何人もいるそうやし、婦人会の人気も、大変なもんやと聞いてるわ」
「小さな教会から共に苦労してきた仲間やさかい、そらあ身内ぼめですわ、先生」
「とにかくそんな状態では、どこからか招聘が来たかて、動く気はさらさら起きひんやろな」
田中牧師は保郎の顔を注意深く見た。その時保郎は、はっとしたのだ。なぜなら、保郎は毎日祈っていたからだ。「神の御旨《みむね》とあらば、この教会を出て、どこへでも参ります」と。そう祈って一年半、どこからも何の話もなかった。
「いや、田中先生、ぼくは神の御声《みこえ》に従います」
保郎の答えに、田中牧師は驚いて言った。
「へえー、ほんまかね、榎本君」
「ほんまです。世光教会はキリストの教会であって、ぼくの教会ではありません」
「そうか。ま、建前はそうやろが、本音は死んでも世光教会を離れるつもりはないのとちがうかね」
「本音も建前もあらしまへん。事を決めてくださるのは神さまです」
「そうか。君のためにも、教会員のためにも、牧師が代わることは悪うないかも知れへんな」
田中牧師と、そんなやりとりがあったのだった。その田中牧師からの電話である。保郎がぎくりとしたのも、無理はなかった。
「あんなあ、榎本君。実は、四国の今治《いまばり》教会な」
「今治教会?」
「そうや。今治いうたら、タオルの産地で有名やろ」
「はあ」
保郎は不得要領な声になった。
「この教会はなあ、八十年以上の古い教会でな、上野牧師が牧会してはったんやけど、上野牧師は先頃南大阪に招聘されて、今は無牧なんや。で、ぼくが君を推薦しておいたから、近日中に今治教会から何らかの連絡がある筈や。よう様子を聞いて、気持ちが動いたら、君から直接今治教会に返事してくれへんかね」
何と答えたか、保郎は覚えていなかった。気がつくと電話は切れていた。いいも悪いもない。第一番目に話のあった教会に行こうと、保郎はとうに心に決めていたのだ。何らかの条件をつけるのではなく、たとえ大きな教会であろうが、小さな教会であろうが、問題のある教会であろうが、招聘されればこの世光教会を去って行くつもりだった。どんなに教会員の一人一人がいとしく、親しく、宝のように思われても、別れて去って行くつもりだった。が、現実に話が来ると、保郎は意気地なく体が震えた。
一年半もの長い間、祈ってきた筈だった。とうに覚悟はできている筈だった。何も今更、がたがた震える必要はない筈だった。が、祈っていた時と、現実にその場に立たされた時とは、ちがっていた。それはあたかも、死を覚悟して、いつ召されても従容として死のうと心に決めてはいても、現実に死に直面した時、動顛するのに似ていた。
保郎の只ならぬ様子に、洗濯物にアイロンをかけていた和子が、不審げに尋ねた。
「あんた、どうしたん? 顔色が悪いわ」
「ほうかあ」
「何ぞ、あったんか」
「ほうかあ」
保郎はうわの空で答えた。
「あんた、確か田中先生言うてはったわな。田中先生いうたら、丸太町の先生ですやろ」
「ほうかあ」
「いややわ、あんた」
和子はアイロンのスイッチを切った。
「何聞いても、『ほうかあ』。そんなのないわ。何ぞあったんか」
保郎は心を静めて、
「なあ、和子、何言うても驚いたらあかんで」
「何言うても?」
「ほうや」
保郎は、この一年半自分が祈ってきた招聘についての祈りを、一度として和子に告げてはいない。和子にしても、文字どおり心血を注いで育ててきた教会であり、保育園であった。もし保郎の祈りを知ったなら、必ずや反対するにちがいない。保郎はそう思って口に出さずにきたのだった。
「あんなあ、和子、田中先生がな、ぼくを今治教会に推薦してくれはったんやって」
言って保郎は大きく吐息をついた。
「何やって!?」
和子の声が高くなった。
「あんなあ、和子、ようく聞き。四国の今治教会が無牧なんやってな。それで、ぼくをそこに推薦してくれはったんやそうや」
「推薦してくれた? うち、ようわからんわ。何で今治が無牧やいうて、あんたを推薦せなならんの? あんた頼みはったの?」
「頼んだのとはちがう」
「ほんま? 頼みもせんのに、何で推薦などしてくれはったん? 世光教会は、ほかの教会とわけがちがうわ。ほかの教会は創立いうても苗から育てたようなもんやないの。けど、世光教会は種から育てたんよ。うちらのもの、みな捧げて……」
和子の声が、不意に涙にくもった。保郎は何と言うべきか言葉がなかった。ろくろく給料ももらわずに、保育園の子供たちを心から愛してきた和子の胸中が、痛いほどよくわかるのだ。
「うちはよう行かんわ。うちは死ぬまで世光教会で働かしてもらいます」
「…………」
「第一、八十四にもなった上田のおばあちゃんを、あんた、おいて行く気? あんたがいのうなったら、おばあちゃん、榎本先生用のお座布団抱いて、気ぃ失うわ」
和子の目から涙がこぼれ落ちた。保郎も、上田富の悲しみを思うと、胸が熱くなった。
「折角毎日のように教会に来る高校生や大学生かて、あんたがいのうなったら……いのうなったら、誰に話聞いてもらうの? 誰とご飯食べるの?」
保郎は今日も夕食を食べて行った幾人かを思った。
「病人の信者さんかて、あんたの見舞いを待ちかねとるんよ。もし、あんたがここを去ったら、誰があの人たちの信仰を育てるの?」
保郎は、今年のクリスマスに病床受洗する幾人もの療養者たちを思った。すべては決意を鈍らせることばかりだった。
(弱い人間やなあ、ぼくは)
保郎はうなだれていた。神の御旨とあれば、無条件に、とにかく示された教会へ行こうと、祈りつづけてきた祈りが、今、大きく揺れているのだ。
「あんた、うち、招聘制度いうの、ほんまに好かんわ」
「何でえな」
ようやく保郎は口をひらいた。
「招聘制度いうのはな、夫と妻が仲よう暮らしているのに、ちょっと別れて、うちと一緒にならへんかと、声かけるのに似てる思うわ」
なるほどそうかも知れないと、保郎は思った。保郎と世光教会員の場合、うるわしい愛の関係が保たれていた。そこに、招きの声がかかったのだから、確かに、長年連れ添った仲のいい夫婦に、水を差すのに似ているかも知れぬと思った。
「けどなあ、和子、よう祈ってや。ぼくも祈る」
「うち祈らんかて、この教会はうちらに与えられた教会やと信じとるわ。口幅ったいようやけど、うちらほど、信者とぴったしいっとるところ、そうそうはあらへんと思うわ」
和子はまたしても胸にこみ上げてくるようだった。
「ぼくはなあ、和子、それがあかん思うのや。もしかして、信者たちはキリストよりも、人間のぼくらを愛し、頼りにしとるのとちがうか思うんや」
「…………」
「それが神の御心に叶うことやろか。神への強い信頼より、ぼくらへの信頼のほうが熱うなってるのとちがうか。ぼくはそれが怖いんや」
「…………」
「そらあなあ、上田のおばあちゃんのことひとつ考えても、ぼくは胸が張り裂けるようや。おばあちゃんが寝つくかも知れん。どの顔ひとつ思い浮かべても、ぼくやって辛いわ。胸が痛うなる。けど、それでほんまにええんやろか」
「…………」
「な、和子、わかるやろ。ぼくの言うの、わかるやろ。和子、辛うてもわからなあかん」
「……理屈ではわからんこともないけど、気持ちが納得できんわ、うち」
和子の白い頬を、涙がこぼれ落ちた。保郎も唇を震わせた。やがて、和子が言った。
「けど、まだ行くとも行かんとも、あんた決めたわけではないわな。今治って、どこにあるんやろ?」
保郎はほっとして、
「そうやなあ、愛媛県とちがうか」
和子が地図を持って来た。二人は、電灯の下のテーブルの上に地図をひらいて、今治を探した。
「ああ、ここやここや」
二人の顔がふれ合った。和子は保郎が指さした今治を見た。
今治は愛媛県北部に位置し、瀬戸内海に面していた。今治という地名が、保郎と和子の胸に、俄《にわ》かに強く迫った。
「景色のよさそうなところやなあ。大島やの、小島やの、津島やの、ようけ島があるわ。あっ、松山も近いんや。松山が近いんなら本を買うにも便利やな。松山には大きな書店がある筈や」
「あんた、あんたもう今治に行くつもり? 本屋なら、京都にいくらでもあるやないの」
「いや、まだ行くとは言うてへん。第一、田中先生が推薦したから言うて、今治教会から招聘状も来んのに、決めようがあらへんやろ」
「あ、ほんまや」
和子は安心したように笑い、
「そうやなあ、向こうかて、一応はあんたを見に来なあかんのとちがう? どんな人か一度も見いへんと、牧師に招くわけにはいかんやろし……」
なるほどと、保郎も苦笑した。
「あんたに会うたら、こらあかんわと言われるように、仏頂面してたらええわ」
和子は少し元気になって言った。
「なるほどな、仏頂面か」
保郎は、今は亡きマックナイト夫人の懐かしい言葉を思い出した。
「ヤスロウサンノカオ、オコッタノカオヨ」
という言葉だった。近頃、保郎の顔には、「オコッタノカオ」はない。信者や保母たちをよく叱りつけるのだが、そのあと保郎はニコッと笑う。今、マックナイト夫人が生きていたら、ほめてくれる顔かも知れなかった。
マックナイト夫人は、マックナイト宣教師が召天した年、一九六〇年十二月二十九日、夫に五カ月遅れてこの世を去っていた。
今治から訪問したい旨の手紙が来たのは、田中牧師の電話があって三日目の十二月二十二日であった。
「なあ、あんた。今、思い出したんやけど、確か大沢さん、今治出身言うてたわなあ」
「大沢君? ほうか、そう言えばタオルの産地言うてたな」
大沢は、保郎が開拓伝道を始めて二年目、保郎たちを応援に来た神学生であった。
「ほうかあ、彼が出たところかあ」
保郎は今治に急に親しみを感じた。大沢神学生は、さわやかなよい青年だった。
十二月二十四日午後、今治教会から二人の役員が訪ねて来た。その夜はクリスマス・イブである。クリスマス礼拝と、祝会を明日に控えて、教会はごたごたと忙しかった。会堂では、青年男女が、キリスト降誕劇の練習に熱心に励んでいた。
「おーい、ヨセフさん、もっと大きい声出してえな」
とか、
「マリアさん、あんたおなかに赤ちゃんが入ってんのよ。そないに速う歩いたらあかん」
謄写版刷りの台本をメガホンにして、叫んでいるのは、いつぞや便所掃除の件で、感動したと手紙をくれた船田信一だった。
保郎は、その彼らの姿を見ながら、不意に胸がしめつけられる気がした。もし、今治教会の役員と会った結果、招聘が本決まりとなれば、自分はここを去って行く。そうと知ったら、この青年たちは床を叩いて号泣するにちがいないのだ。保郎は保育室兼の応接室へ、今治からの客人二人を通した。今治教会代表の役員たちは、なかなかの人物に見えた。
「先生のお噂は、かねがね伺っております。田中先生からご推薦を頂きまして、わたしたち一同大いに喜んでおりました。御教会のご都合もおありかと思いますが、どうか無牧の今治教会にお越しくださいませんでしょうか」
保郎は挨拶をしようとして、声にならなかった。どんな言葉も、口から出せぬほどに、神の迫りを強く感じたのである。肉親のきょうだいにもまして愛してきた教会員たちであるだけに、去らねばならぬと心に決めてから、神に祈りを捧げてきた。その祈りへの神の応答が、今、ここに招聘の言葉となって示されたのである。保郎は、尚深く祈らねばならぬと思った。
教会の最も忙しい時期に、あえて訪ねて来たのは、今治教会としても、新年を控えて急いでいるであろうことが察せられた。
「ご招聘のお言葉、確かに承りました。よく祈って、二日後にお答えさせていただきます」
そう答えた保郎は、激しい疲労を感じた。容易ならぬ岐路に立たされた思いであった。
「ところで、わたしの信仰について、お聞き及びでしょうが、わたしは神に真実に祈るということを、非常に重要に考えております。この世光教会では、毎朝六時に集まって、早天祈祷会が持たれております。また、全国の信徒に呼びかけて、祈りの集いを幾度か持ちました。その運動もわたしはつづけねばなりません。これには賛否両論があろうかと思いますが、このこともお帰りになってご相談いただき、ご異存がある場合は、直ちにお知らせください」
保郎はこう告げながら、自分は祈りの集いに、新たなる決意をもって進むべき時が来たような気がした。
惜別
昭和三十八年(一九六三年)三月二十四日――。遂に惜別礼拝の日が来た。
昨年十二月二十四日、今治教会役員の訪問を受けた保郎は、二日後の十二月二十六日承諾の電報を打った。
〈アブラハムノシンコウニナライ、ユクコトヲケツシンシタ、エノモト〉
和子には電報を打ってから、その旨を告げた。
「あんた、そんな大事なことを……なんで相談してくれなんだのですか」
青くなって和子は詰問した。無理もなかった。保郎の一大事は和子の一大事でもあった。わけても保育園の主任保母として、乳児保育をも手がけて苦労してきた和子としては、そう簡単に京都を去るわけにはいかなかった。信徒への情愛から言っても、今、去ることは生木を割く思いだった。
それはむろん、保郎にも言えることだった。だからこそ保郎は、一年半も前から、この時のために祈りを捧げてきたのである。情としては去るにしのびなかったからこそ、神に祈りつづけ、決断する力を求めつづけてきたのであった。
もしあくまで和子の同意を重んずるなら、今まで祈ってきた祈りが何のための祈りかわからなくなる。神の意思に従うということは、ある時は愛する者の心に反することでもあるのだ。
(和子かて、信者や。必ずわかってくれる日がある)
保郎は、和子の純粋な信仰を知っていた。
翌日、あわただしい年末の中で、臨時役員会が開かれた。この年末に、何の臨時役員会かと、集まって来た役員たち一同は、保郎の口から聞いた今治教会の招聘の話に仰天した。とっさに口を開く者はなかった。それは正に降って湧いた災難に似ていた。貞淑な妻が、いきなり三下り半を突きつけられた様にも似ていた。言葉より先に、泣き出す者もいた。怒る者もいた。
「先生、何ぞ気に入らんことでもあったんどすか。お気に入らんことがあったんなら、謝ります。なおします。一所懸命教会のために尽くしますさかい、この世光教会を見捨てんといておくれやす」
平伏せんばかりに歎願する者もいた。一度の役員会では、事は決まらなかった。年末年始の大変な日々にもかかわらず、役員たちは実に連日集まって相談した。若い青年たちは、
「今治教会は怪しからん。ひとの教会の牧師を奪うやなんて」
と招聘《しようへい》撤回の歎願書を送った。紹介の労を取った丸太町教会の田中牧師を恨む者たちもいた。青年たちの中には、ハンストを始める者もいた。世光教会員にとって、保郎以外に自分たちの牧師を考えることができなかったのである。保郎は、自分の取った道が間違っているような思いがして苦しんだ。保郎の顔を見るなり、目から涙の盛り上がる婦人たちや、日頃の元気を失った青年たちを見ると、冷酷な仕打ちをしたようで、責められてならなかった。しかし、保郎はひたすら祈りつづけた。一月下旬になって、ようやく誰の顔にも諦めの色が浮かんだ。
だが、後任者がなかなか決まらなかった。保郎と教会員の信頼関係が、いかに強かったかを知る他教会の牧師たちは、保郎のあとに赴任して来る気は容易に持てなかったのかも知れない。一応、遅くとも四月には、今治に転ずるつもりだったが、何としても後任の牧師が見つからない。
その朝保郎は、今まで十四年にわたって祈ってきた大住《おおすみ》教会の、後宮牧師と信者たちのことを、いつものように祈っていた。と、
「後宮牧師がいるではないか」
という声が、どこからともなく聞こえたような気がした。
(そうや! 後宮牧師がいた!)
保郎は思わず、神の前にひれ伏す思いだった。後宮牧師は、世光教会に育って、保郎に導かれて信者となり、保郎の妹松代と結婚し、今、着実に多くの教会員を育てていた。そして世光教会の保育園の園長をも兼任していた。世光教会のことは、隅から隅まで知悉している優れた人物であった。身内そのものだが、単に身内なるが故ではなく、保郎のあとを委せるのに、後宮俊夫ほどの適任者はいないような気がした。
保郎は早速後宮俊夫を呼んで、後任者になって欲しい、と懇願した。
「このぼくが?」
後宮俊夫は驚いて問い返した。
「そうや、君以外にこの世光を託す者はおれへんのや」
「よう祈ってお答えします」
後宮俊夫は浮かぬ顔で帰って行った。無理もないと保郎は思った。大住教会は世光教会より、はるかに信者も少なく、万事に小規模であった。牧師への謝儀も、世光教会のそれには遠く及ばなかった。この世的に言えば、世光教会への転任は破格の栄転というべき話であった。
しかし、後宮俊夫の気持ちが保郎にはよくわかった。後宮俊夫は、昭和二十七年、八万円の高給をもって迎えようとした鉱山所長への誘いを蹴って、僅か三千円の月給である大住伝道所の主事を引き受けたのだ。信者もほとんどなく、立派な施設も会堂もなく、ないないづくしのところで、現在の教会にまで育て上げたのである。信者二十三名、保育園児七十名、園の職員五名がいる。ここまで築き上げた後宮俊夫の苦労もまた、容易ならぬものがあった筈である。信徒との密接な関係も、決して世光教会に劣るものではなかった。
(引き受けてくれんかも知れへんなあ)
しかし十日ほどのちに、後宮俊夫は決断してくれた。そのお陰で保郎は、安心して世光教会を離れることができることになった。只、昨年生まれたてる子が風邪を引き、紫斑病を誘発、入院中であった。退院次第、保郎一家は四国に向かって発つ筈になっていた。
惜別礼拝に出席する者二百五十余名、一同は保郎の世光教会での最後の説教に、真剣に耳を傾けた。保郎はつとめて感情を抑え、淡々と語った。別れの言葉を説教の中に入れることもなかった。いつもの礼拝のように、只キリストの言葉を説いた。十四年間の汗と涙の日々を、保郎はあえてふり返るまいと思った。もし、説教の中で別れの言葉を口にしたなら、保郎は絶句したかも知れないのだ。保郎はまだ高校生の身で、古い家を買い、教会を献堂したその時、その献堂式の司式のさなか、ほとんど号泣に近い失態を演じた。そんな弱い自分を、保郎は誰よりもよく知っていた。
午後には、集まった二百五十余名のほとんどが、惜別の集いに残った。信者たちのほかに、代議士や、恩師や、僧侶や、地域の人たちもいた。一人一人が、保郎の思い出を語った。
「うち、忘れられへんこと、仰山ありますけど、淡路島の先生のお母さんから、煮干しが送られて来た時な、『熊田さん、これがぼくらのお菜や。尾頭つきの鯛なんや』と言わはって、ニカッと笑わはった。煮干しがお菜やなんて、先生は貧しかった思いますのに、ほんまに幸せそうな笑顔を見せはって、うち、思い出すと今でも涙が出ますねん」
古くからの会員熊田ミキヨが言った。うなずく者が多かった。次に戸川安江が立った。
「うちは昭和三十年に先生とご縁ができましたん。うちはすぐに先生の背中叩く癖がありましたん。叩こうとすると先生は、敷いてある座布団をさっと持って、防衛態勢を取っておどけはった。楽し先生やった思います」
戸川安江は、保育園のために、古新聞を集めたり、ちり紙を売って歩いたりした園児の母親たちの一人だった。保育園の保母の渡辺玲子が立ち上がった。
「先生は、淡路のお母さまのお噂を、よう聞かせはった。親孝行な先生や思います。初めの頃は、先生と和子先生に、ちいとも給料がいかんかった。あの頃の園は貧乏で、電話がちょくちょく止《と》められました。同志社から先生に授業料の督促状も時々来て、さぞお辛かったと……」
絶句して玲子は坐った。三鹿悦子も保母だった。
「先生、太鼓叩いてみんなで路傍伝道したこと、懐かしうおすなあ。すごくきびし先生やった。けど、この頃えろうおとなしうならはったなあ」
みんなが笑った。保郎も笑った。が、路傍伝道に太鼓を叩いて歩いた初期の頃を思うと、太鼓の音が不意に耳に甦って、たまらない気持ちになった。
保郎は、次に立った上田圭子を見た。圭子は上田富の孫で林間学校を始めた時以来の生徒だった。この圭子の祖母の懇願で日曜学校が開かれ、更には世光教会が創立されることとなったのだ。
「うちは、十五年前、林間学校で初めて先生におそわりました。お化けの出るような世光寮で、ほんまに楽しい毎日でした。みんながお弁当食べてても、先生は一人何も召し上がらんと、ただニコニコとみんなを見てはった。うちは、どうして先生お弁当食べへんのと尋ねましたが、先生は、ぼくは二食主義や、昼は腹がへらんのやと言わはった。けど、うちは、何となくうそや思いました。で、急いで家に帰って、おばあちゃんに、先生お弁当持ってはらへんのやと言うたら、どんぶりに山盛りにご飯盛って、カマボコと漬物のお菜をくれました。先生は腹すかんのにと、もぐもぐ言わはりながら、またたくまにどんぶりのご飯をぺろりと平らげはりました」
みんなは笑ったが、保郎は十五年前の林間学校時代を思い出して、涙がこぼれそうになった。圭子の祖母の富は、十五年前以来、変わらぬ心で保郎に協力してくれていた。この一年ほどは健康がすぐれず礼拝には出席できなかったが、保郎が度々見舞っていた。富は度々、
「うちなあ、先生。先生にお葬式してもらえる思うと、死ぬことさえ楽しいんどす」
と言っていた。保郎の今治行きを知ってから、富は床に寝ついてしまった。十五年前のどんぶり飯のうまかったことは、今も忘れてはいない。あれが富との初めての関わりであったかと、保郎はあらためて胸が痛む思いだった。
人々は次々と立って、保郎の思い出を語った。男もいた。女もいた。若い者も年寄りもいた。それぞれの胸の中で、自分がどのように受けとめられ、受け入れられていたかを保郎は改めて知った。下岡一夫が言った。高校生だった。
「ぼくが初めて牧師館を訪ねた時、先生はステテコ一枚で、団扇を持っていやはった。ちいと毛色の変わった先生やなあ、おもろいなあ思うて、ぼくはこの教会に居坐ることにしたんやけど、たった半年で別れてしまうなんて、がっかりや。裏切りや!」
憤懣をぶつけるような語尾に、若者たちが「ほんまや」「全く裏切りや」と相槌を打った。
参会者の中に、端正な顔をうつむき加減にして、終始姿勢正しく聞き入っている青年塩見三雄に、保郎の視線が時折向けられた。京大入学寸前に失明し、荒《すさ》んだ一時期を持ったが、その後伝道者としての献身の決意に燃えて、同志社大学神学部に通っていた。三年前、同志社に通い始めた塩見三雄は結婚した。妻の美恵子は、以来塩見の目となり、杖となって、その学生生活を支えてきた。「裏切りや」という言葉に、塩見三雄は顔を上げた。三雄は今治教会の招聘が全教会員に知らされた時、同じく「裏切り」の言葉をもって保郎に迫ったのだった。その時、三雄は言った。
「先生、伝道は今治まで行かはらんでも、この世光でできることではないのですか。この二年のうちに、世光教会の礼拝出席数は、百名を突破するに至りました。先生は集めておきながら、捨てていくつもりですか。お見捨てになるつもりなのですか。一体それはどんなお気持ちなのですか。先生は、ぼくたちを裏切られるのですか」
明晰な語調で塩見三雄は言い、その見えぬ目から涙をこぼしたのだった。
若者たちの「裏切り」の言葉に、保郎がその時のことを思い出した時、彼は静かに立ち上がった。保郎は思わずどきりとした。
「先生、お世話になりました。ぼくが献身を決意したのは、献身そのものの生活をしておられる榎本先生にお会いしたからです。先生、先生はいつもいつも、教会堂のスリッパを片づけておられました。ぼくの見えぬ目にも、そのお姿がはっきり見えました。ぼくは、どうして牧師がそんなことをなさるのですかとお尋ねしたら、スリッパを片づけるのも牧師の仕事やと、こともなげに笑われました。ぼくはその言葉を忘れられへんのです。ぼくも信者の足を洗う牧師になりたいと思います」
一瞬人々は静まった。が、次の瞬間、期せずして拍手が起きた。それは保郎へとも、塩見三雄へともつかぬ拍手であった。つづいて、自分の家を開放して伝道に協力していた西川四郎も口を開いた。
「ぼくんとこの集会は、農家の人が多いので、夜の九時から九時半頃始まりましたなあ。先生はあの集会が始められた頃から、痔の出血が始まったのとちがいますか。終電ものうなって、何キロもよう歩いて帰らはったしなあ。先生は、まだ洗礼も受けとらんぼくに、それ青年会長をやれだの、それ家庭集会をやれだの言わはって、全く人を育てるのが上手やった。ありがとうございました」
真実こめた挨拶だった。中島秀子がすっと立って、
「うち、先生の顔見るの、楽しうて楽しうて、毎日曜教会に来たん。先生いやはらんようになったら、楽しみあらへんわ」
と、すっと坐った。何となくみんなが笑ったが、「うちかてそうや」「ぼくもそうや」「先生のいない教会なんか、つまらんわ」と、若者たちが言った。そのあとを市村みね子が立ち、
「和子先生はええとこのお嬢さんやいうのに、気の毒なほど着物も洋服も持ってはらへんかったなあ。先生は、冬の早天祈祷会では、綿入れのねんねこを着やはって、すさまじい声でお祈りしやはった。先生は、人に何か上げる時、その人の一番欲しいものを上げる天才やった思いますわ。ほんまにもう行ってしまわはるのかと思うと、体中の力ぬけてしもうて……」
淀の家庭集会で受洗した林栄子もいた。松野重正もいた。息子を神学部に入れた田中春枝は、涙を拭き拭き、辛うじて言った。
「どうしてもお別れせんならんとわかりましてからは、うちは只もう、神さまに、榎本先生のような偉い偉い先生を、次に与えてくださいと、祈るより仕方おへんでした」
その隣にいた中学三年の松野正信が、頭を掻きながら言った。
「みんな榎本先生を大牧師、大牧師言わはるけど、ぼくもそう思うわ。ぼく、先生が、説教台を叩いて、顔真っ赤にして、説教された姿、忘れられへんわ。説教って、あんなに全身で語らないかんほど、大事なもんかと、ぼくは思うたのです」
保郎は松野の言葉が不思議なほどに身に沁みた。神学生の田中恒夫が立った。
「ぼくは飛行機の設計者になりたかった。けど、高二の時友だちに教会へ行こうと誘われて、よし、キリスト教を批判したろ、そう思うて肩怒らして教会に来ました。けど、一年後には洗礼を受け、しかもぼくは献身の決意までしてしもうた。先生にお会いして、人生を変えられた一人です。先生の今治行き、仰山文句はあるけど、神の御旨や思うて、今後の先生のために祈ります」
保郎は微笑した。と、保母の松波|閑子《しずこ》の声がした。松波閑子は信仰も篤く、優秀な女性だった。保郎の世光教会での働きを、今、松波閑子は「桃山の丘に光を」という小冊子に著《あらわ》しつつあった。
「榎本先生いう方は、牧師というより、一見用務員ふうでした。先生はいつも金槌を持って歩いて、釘を抜いたり叩いたりしてはりました。子供たちと、本気になって相撲を取る方で、よう園児をおんぶしてもいやはりました。先生の毎朝の祈りは、ほんまに凄まじく、呻くような祈りでした。今治行きが決まってからの先生、園児たちを見る目も、窓から外を見る目も、心から淋しそうなまなざしで……先生のお気持ち、ようわかります。この間もあの六人が一度に滑れる日本一の大きな滑り台に手をつけて、先生は肩をふるわせていやはりました。多分、あの滑り台をうれしそうに滑っていた園児たち一人一人の、顔を思い出してはったのやと思います……」
絶句して松波閑子が坐った。すすり泣きがあちこちで起きた。保郎の目もぬれていた。惜別の会は、こうして夕暮れまでつづいたのであった。
九代目
保郎たち一家は、四月三日朝八時、京都駅を発ち、宇野から宇高《うこう》連絡船で高松に渡り、更に高松から今治まで汽車に乗った。世光教会から従《つ》いて来た婦人会の熊田ミキヨ、小川テル、そして大学生の江崎為丸の三人と共に、一行八人が今治駅に到着したのは、もう薄暗くなってからだった。
昨年生まれたばかりのてる子が、紫斑病で、一昨日まで入院していたこともあって、三人は今治まで付き添わずにはいられなかったのだ。まさか京都からはるばると伴が従いて来るとは思わなかったのか、出迎えに出た今治の教会員二十名余りの人々は、先ずそのことに驚いたようであった。並々ならぬ牧師と信者のつながりを、この一事で感じ取ったかも知れない。
この外に、宇野に着いた時、二十名もの女子高校生が、保郎たちに知られぬようにこっそりと他の車輛に乗って送って来ていたのだった。
今治での第一夜は、さすがに保郎も眠りが浅かった。十四年にわたって、心血を注いで育ててきた世光教会の信徒たちと別れて来たのだ。それは正《まさ》しく身をちぎられるような別れだった。しかし明日からは、この今治で、新しく第一歩を踏み出さねばならない。
うとうとと、ようやく眠りに入った保郎の夢に、上田富の姿が浮かんだ。保郎の転任を聞いて以来、寝ついてしまった上田富の家に、保郎は京都駅への途中立ち寄った。起き上がれなかった筈の富が、何と杖をつき、戸口にもたれて、駅とおぼしき方向にぼんやりと目を向けていた。その姿が夢の中にも現れた。が、保郎は夢とは思わず、
「おばあちゃん、何しとんのや。ぼく、今治行きはやめたわ」
と、富のかぼそい肩を抱き寄せようとした。と、たちまち富の姿がかき消えて、保郎ははっと目がさめた。
(何や、夢か)
そうは思ったが、紋付きの羽織を着た上田富の、あの戸口にもたれていた姿が目にちらついてならなかった。
いつしか、保郎はまた眠っていた。どうやら汽車に乗っている心地だった。確か和子が、白いベビー服を着たてる子を抱き、自分が長男恵の手を引いて、混み合う列車の通路に立っていた筈なのに、いつの間にやら和子も恵も、そして保郎たちを送って来た熊田ミキヨたち三人もいない。只長女のるつ子だけが傍らでにこにこ笑っていた。るつ子は五、六歳に見える。
「るつ子、お前中学生やったとちがうか」
るつ子は何も言わずに笑っていた。
「みんな、どこへ行ったんや」
保郎が尋ねると、るつ子の姿も見えない。保郎は、またもやはっと目がさめた。
(何や、また夢か)
保郎は苦笑した。京都駅から、一行は坐る席もなく、立ち通しで宇野まで来たのだ。夢ともうつつともつかぬ一夜が明けて、保郎が目をさましたのは、いつものとおり六時少し前だった。毎朝、何年間となくつづけてきた早天祈祷会の時刻六時に、十分前だった。
(よし、今日は先ずぼく一人の早天祈祷会や)
保郎は、かたわらにてる子を抱いて寝ている和子の、疲れ切った寝顔をじっと見つめながら、不意に和子が愛しく思われた。和子はまだまだ京都にいたかったのだ。働きづめに只働いただけの、結婚以来今日までの和子を、保郎は言い難い思いで見つめた。
次の部屋に泊まった世光教会員たちも、まだ起き出す気配はない。保郎は洗面所でそっと洗面をすませると、牧師館を出た。外はすっかり明るくなっていた。教会堂の前に立って、保郎は驚いた。昨夜暗がりの中でもうろうと立っていた教会堂が、今、春の朝日に照らされて立っている姿は、偉容ともいうべき姿だった。十字架が高い尖塔の上に輝き、まことに風格のある、どっしりとしたこの教会堂は、あの古材で建てた世光教会の会堂とは比較にならぬ重みを持っていた。実に荘重と言ってよかった。しかもその教会堂の前には、高さ五メートルもあるかと思われる蘇鉄が、そのつやつやした葉を見事に茂らせていた。この蘇鉄は、明治十四年(一八八一年)、初めての会堂が建てられた時、全会員が讃美歌をうたいながら運んで来て移植したものであると、昨夜役員の一人が話していた。それを、今、保郎は思い出して感動した。
保郎は静かに会堂の扉をあけて中に入った。誰一人いない会堂の中は、霊気がたちこめているかのような厳粛さがあった。保郎は襟をただす思いで、床にひざまずいて祈った。今治初めての朝の祈りであった。世光教会が十四年間守られ導かれたことへの感謝、今後も一層豊かな神の愛が世光教会に注がれることへの願い、そして今日から今治教会を牧する責任を与えられたことへの感謝、いついかなる時も、神が常に自分を導き、牧師の任を全うすることができるようにとの、切実な願い、今治教会員一人一人の魂のためへの祈り等々、祈る課題は少なくなかった。
三十分も祈りつづけただろうか。祈り終わった保郎は、講壇に静かに立った。無人の会堂を見渡しながら、保郎はふと、世光教会を創立した当時、誰一人来ない会堂で説教した日のことが思い出された。と、思いがけない感動が、保郎の全身をつらぬいた。あの日から今日に至るまでの、神の恵みが不意に示されたような気がしたのだ。教会員三百名を超えるこの今治教会においては、おそらく人が一人も来ない礼拝など、決してあり得ないにちがいない。その教会の講壇に、牧師として、今、自分は立たされているのだ。
この席を埋める信者たちは、いったいどんな生活をしているのか、どんな苦しみ悲しみを経て教会の扉を叩いた人たちなのか、責任の重大さを思って、保郎は再び祈らずにはいられなかった。
やがて保郎は、講壇の右手の扉をあけた。応接室であった。机とソファが置かれ、部屋の壁には歴代の牧師の大きな写真が額におさめられ、ぐるりと並べられていた。初代、二代、三代と、実に八人の写真がそこにはあった。保郎は自分が九代目の牧師であることを知った。
(九代目なんやな、ぼくは)
心の中で呟きながら、保郎は思いがけない衝撃を覚えた。世光教会においては、保郎の以前に牧師はいなかった。保郎が教会の創立者であった。教会のことは、建物にしろ、信者の身の上にしろ、保郎が一番詳しく知っていた。世光教会について、誰からも説明を受ける必要はなかった。
が、今、八人の牧師の写真を見上げながら、保郎は、この教会について、昨日から以前のことを何一つ知っていないことを思った。自分は、今、何一つ知らぬ場に、牧師として立とうとしている。俄《にわ》かに、今治教会の八十余年の歴史に圧せられる思いであった。
保郎は吐息をついた。何かは知らぬが、この会堂を見ただけで、並々ならぬ信仰を持った人たちが、八十余年の長い年月、教会を守ってきたことを、保郎は肌に感じた。自分を招聘《しようへい》しに、世光教会に訪ねて来た役員宇高昇を始め、昨夕今治駅まで迎えに出てくれた二十名余りの教会員たちに感じた磨き上げられた人格を思わずにはいられなかった。
(こんな立派な教会で、務まるやろか)
この今治では、ステテコ一枚で庭先をうろうろしたり、赤ん坊を背にねんねこ姿で歩くことはできないような気がした。今日からの生活に、保郎は言い知れぬ緊張を覚えた。
牧師館に戻ると、味噌汁の香りが漂っていた。八日から中学二年生になるるつ子が、恵とてる子を相手に、
ムスンデ ヒライテ
テヲウッテ ムスンデ
…………
と、手を打ちながらうたっていた。恵がるつ子を真似て、手をむちゃくちゃにふり、てる子も寝たまま機嫌のよい声を上げていた。
朝食になった。わかめの味噌汁をすすりながら和子が言った。
「世光の皆さん、どうしているやろなあ」
「そりゃあ、みんな、昨夜は枕をどっぷりぬらしたにちがいあらしまへん」
小川テルが答えた。江崎為丸が飯茶碗を持ったまま、
「熊田の小母さんも、小川の小母さんも、ぼくも、きっとやっかまれてるやろ。今治まで従いて行ったいうてな」
保郎が何とも辛そうな顔で言った。
「もう世光の話はやめや。聞かさんといて」
みんなが顔を見合わせた。
「……ハナシハヤメヤア」
箸をねぶりながら恵が言った。と、そこに、
「お早うございます。ようおやすみにならはりましたか」
と言う明るい声がして、教会員の飯季野《いいすえの》が顔を出した。昨夕、今治駅まで迎えに出ていた一人である。この飯季野の名を、保郎も和子も一番先に覚えた。齢の頃七十近くに見える飯季野を、教会員たちは男も女も、「ママ」「ママ」と呼んでいた。笑顔の豊かな、あたたかい感じのその飯季野に、
「あなたは教会員の母親的存在ですか」
駅から教会までの数丁を歩く道すがら、保郎はそう尋ねた。飯季野は、
「いえいえ、そんなんとちがいます。わたしの名は飯季野と言います。飯はメシいう字やよって、それでママと呼ばれてます」
と笑った。張りのある美しい声であった。
「なるほど、飯やからママか」
保郎も思わず笑った。笑いながら、しかしこの人は母性的な性格にちがいないと思った。他の会員が誇らしげに言った。
「先生、このママは上野の音楽学校を出とりますんよ」
「へえー、そりゃ凄い」
驚く保郎に他の一人が言った。
「先生、ママの息子さんご存じないですか。飯清《きよし》先生ですわ」
「ええっ!? 飯清先生のお母さんですか」
保郎は目を瞠《みは》った。飯清は東京霊南坂教会の牧師として名を馳せており、その弟|峰明《みねはる》は同志社神学部の教授なのだ。
(信仰の人を産んで育てたんやな、この人は)
そう驚いて、一番先に覚えた名が飯季野であった。その季野が、
「朝の果物は金言いますよって……」
と、抱えてきた伊予柑を一袋和子に手渡した。保郎は、ママと呼ばれるこの季野に、上田富の親切を思い浮かべた。何か力強い協力者となってくれる予感がした。
数日後の夜――十時を過ぎてから、保郎は思い立って教会堂の応接室に入った。その手に飯季野が貸してくれた大学ノートがあった。次男の飯峰明教授の書いたものだった。表紙には「今治教会創成の頃」とあった。
保郎はノートを開いた。このノートに、今治教会の創成期に、いかなる苦労をしたか、が書かれてある筈なのだ。その第一行の文字が、先ず保郎の目を射た。
〈最初に今治に福音の種が蒔《ま》かれたのは、明治九年四月八日のことである〉
とあった。四月八日と言えば今日ではないか。保郎は偶然同じ日に、この第一行を読んだことに興奮を覚えた。八十七年前の今日、初めて聖書の言葉がこの地に伝えられたのだ。保郎は急いで次の行へ目を走らせた。伝えたのはアトキンソンというアメリカから来た宣教師であった。
神戸で伝道していたアトキンソン宣教師が今治に来た次第は、次のようなものであった。
神戸のアトキンソン師のもとに、松山の二人の青年から、一度松山に渡って伝道してくれるようにとの手紙が届いた。アトキンソン宣教師は神戸の教会に相談の上、二人の若い信徒を伴って、松山に渡った。明治九年(一八七六年)三月二十四日、夜の十時であった。しかし、連絡してあったにもかかわらず、出迎えの者がいなかった。やむなくアトキンソン師一行は、港のそばの宿に泊まって迎えを待った。が、翌日になっても、誰も来ない。
「何と失敬な!」
思わず保郎は声に出した。招いておいて、迎えにも出ないとは何事か。しかも相手は外国人である。四国は初めての地なのである。その住んでいる神戸とは、同じ日本でも習慣も気質もちがう筈だ。腹を立てながら保郎は、次頁を読んで立腹したことを恥じた。アトキンソン宣教師と共に来た信徒の一人が、手紙の主を訪ねてみると、何と青年の一名は座敷牢に入れられてい、他の一名は周囲の者から命を取ると脅かされていたのである。
(ほうかあ。明治九年という頃の世情は、キリスト教に対してそんなきびしい時代やったのか)
保郎は改めて納得した。
(そういえば、明治新政府がキリシタン禁制の高札《こうさつ》を取り去ったのが明治六年の筈や)
とすれば、明治九年という年は、高札が取り除かれて僅か三年である。三年のうちに、徳川三百年にわたるキリシタン禁制のきびしい圧迫が、世上から消え去る筈もないのだ。そんなことは百も承知でいて、座敷牢に閉じこめられたなどという事情に思い及ばなかったことを、保郎は恥じたのである。
こんな中で、しかしアトキンソン師一行は、三月二十八日から約十日間にわたって、松山で伝道説教をした。意外にも、その都度まことに盛況で、時には三百五十名も集まった。キリスト教は嫌われ、恐れられてはいたが、外国人が珍しかったことと共に、人々はやはり何かを求めていたのである。
今治の増田精平なる者が、たまたま松山でアトキンソン宣教師と同宿だった。この増田精平の願いで、アトキンソン師は今治に来たのである。アトキンソン師は四月八日から、数日間、今治の宿屋や町会所で伝道集会を重ねた。実に巧みな日本語であった。飯峰明の祖父忠太郎はその時十二歳であったが、ある宿の集会をのぞく機会を得た。その夜ローソクは、講師の前に一本立てられたのみで、その一本も聴衆席に灯りが及ばぬよう、前方を紙で遮っていた。聴衆が互いに顔を知られたくなかったからである。
保郎は、その暗い部屋に集まっていた人々の、恐怖と期待の入り交じった顔を、じかに見たような気がした。
こうした中で、次第に信ずる者が増え、明治十四年七月三日、千四百七十円余の献金をもって、今治教会堂が建立されるに至った。このうち実に千五十円余りが当時の教会員によって献《ささ》げられた。しかも教会員たちは総出で基礎石を据え、毎朝祈祷をもって工事を進めたという。
(千四百七十円!)
明治十四年の千四百七十円である。半月ほど前、明治時代の話が出た時、明治二十年頃で小学校教師の初任給が五円程度だったと聞いた。保郎は度胆を抜かれた。
初代の横井牧師は、教会堂建築に先立つこと二年、明治十二年に今治に着任していた。同志社神学部第一回卒業生で、弱冠二十一歳であった。この若い牧師が今治教会の創立者であった。
横井牧師の受洗志望者に対する試験は厳格を極めた。試験は十日間に及んで行われたが、それは単なる教理のみではなかった。
〈日曜日、稼業を休んで礼拝に出で得るか〉
〈ために生活が困窮するもよろしきや〉
〈妻の来手がなくてもかまわぬか〉
〈村八分にされても耐え得るか〉
〈万一、信者が処刑される世となりても、信仰を保ち得るか〉
等々の鋭い問いが発せられた。返答に詰まる者には、信者となることを許さなかった。
(何ときびしい牧師やなあ)
保郎は思わず呟いたが、いや、そのようなきびしい時代であったのだと次の頁に目を移した。果たしてそこには恐るべき事実が書かれてあった。当時の今治の町には、教会員に対する不売不買同盟が結成されており、一千名の群衆が新会堂を取り囲み、投石し、教会員に暴行を加えたというのである。
更には、近隣の小松において、キリスト教徒に対する大迫害が起き、集会への投石、放火事件などが次々と発生したという。試験のきびしさはいわれのないことではなかった。文字どおり命がけの信仰だったのである。
保郎は自分が世光教会の創立者として、いっぱし苦労したつもりでいたことを恥じた。この教会の九代目牧師として出発する保郎に、この記録は新たな決意を促したのであった。
保郎一家が京都から今治に移って来て、あっという間に一カ月になろうとしていた。
和子は夕食の米を磨《と》ごうとして、米櫃《こめびつ》の蓋を開けた。
「あら!」
思わず和子は声を上げた。
「あんた、あんた、大変や! ちょっと来て」
和子は奥の間にいる保郎を呼んだ。
「何や、けたたましい声を出して」
言いながら保郎は、のっそりと台所に顔を出した。和子は米櫃の傍らに坐って、片手を米櫃に突っこんでいる。
「何や、何が大変なんや?」
「これ、このお米見て。二、三日中にお米買わんならん思うてたんや。それがな、いつの間にやら、いっぱいになっとるんや」
「ふーん」
二人は顔を見合わせた。
「知らん間にお米がいっぱいになっとるなんて……」
「ありがたいやないか、和子」
「そやけど、誰にお礼言うたらええのん? うち……」
世光教会では、野菜や魚を届けてくれる信者が幾人かいた。その時も贈り主の名が知られないように、心が配られていた。だが、ここでは米が、米櫃の中にいっぱいにされていたのだ。袋のまま台所に置かれているのではなく、袋から開けられ、米櫃に入っていることで、何か空櫃に米が湧き出たような、そんな驚きを和子は感じたのだった。
「きっと重い米袋をお前に持たさんように、心使うてくれたんとちがうか」
「ああ、そうや。あんたがあんなことを言うたから、そうかも知れへんわ」
和子は、わかったというような顔をした。今治に赴任して来た時、保郎は教会員たちに言ったのだ。
「家内は世光教会でくたくたに疲れています。申し訳ありませんが、この教会では家内をあまり働かせんといてください」
その言葉に和子は驚いて、あとで保郎を詰《なじ》った。
「あんた、いややわ、あんなこと言うて。働かん牧師の妻なんて……そんなのいややわ、うち」
だが保郎は、世光教会創立以来、その持参金まで取り上げ、主任保母として働きづめに働かせてきた和子の大変さを、身に沁みて感じていたのだった。今治教会の信者たちは、稀に見る深い愛に満ちた信者ばかりで、この保郎の気持ちを、あやまりなく受け入れてくれた。こうして、和子は結婚以来初めて、専業主婦の生活に入ることができたのだった。
「ありがたいなあ」
「ありがたいなあ」
異口同音に二人は言った。卵も時々台所のテーブルの上に、十個二十個と置かれていることがあった。豆腐がボールの水に浸したまま置かれていることもあった。世光教会の謝儀は月四万円ほどで、和子の主任保母としての月給は三万円を超えていた。ようやくこの数年、和子も毎月給料をもらうようになっていたのだ。が、今治では謝儀が三万七千円で、和子の給料はなかったから収入は激減した。しかし、毎日のように、集団で飯を食いに来る高校生もいなくなり、泊まりこんで行く会員もいなくなった。それはひどく淋しいことではあったが、経済的にはむしろ楽になった。
淡路島の和子の家から、仕送りもそろそろ辞退しなければならないと、和子は思っていた。去年死んだ和子の母や、やさしい益子夫妻が、「京都の税務署」と冗談を言いながら、十四年にわたって毎月援助してくれていたのだった。この分では、おそらく今治にいる間、いつも米櫃の中は、米で満たされているのではないか。ふっと和子は思った。そんなあたたかい思いが教会全体に満ちているようであった。そしてそれは、実に和子の感じたとおり、その後の十幾年にわたって、つづけられたのであった。
「こんにちは。おや、先生も台所にいはるの」
明るい声は、もう家族の一員のように親しくなった飯のママであった。保郎が言った。
「ああ、ママ、ええところへ来てくれはった。米櫃がな、いつの間にかいっぱいになっていたんや」
飯季野は、
「あ、さよか」
と、何の驚いたふうもない。
「ママ、この教会はいつも米櫃がいっぱいになる教会なんか」
「そうやなあ、信仰の篤い先生には、奇跡がつきものやさかいな。お米が湧いてくるんやろ」
季野は、にこにこ笑いながら、
「これは奇跡であらへんえ、うちの作ったちらし寿司や」
と重ねの重箱を和子に差し出した。
「まあ、すんまへん。いつもいつも、いただいてばかりいて」
和子が差し出された重箱を受け取って頭を下げると、保郎が言った。
「ママ、ママは人に物をあげる天才やな。何やママからもらうのは、そう遠慮せんでもらえるんや。不思議やなあ」
「不思議なんは先生たちや。ほんまに気持ちようもろうてくれはる。ありがた迷惑なものかて、持ってくるのかも知れへんのに、いつも感謝しやはる。もろうてくれるのも愛やなあ」
そう言う飯季野の顔が、年よりもはるかに若く見えた。
奥で寝ていたてる子の泣き声が聞こえた。
「あ、目がさめたんやわ」
和子が小走りに出て行った。
「お茶いれようか、ママ。三時も過ぎたことやし」
保郎が先に立って茶の間に入った。
「先生、うちがいれますわ」
素早く茶の用意を始めた季野に、
「ママ、この間も言うたけど、あの草創の頃のノートな、貸してくれはって、ほんまに助かったわ。ところでな、八十年史を見ると、戦時中も大変やったなあ。今治は焼け野原になるし、教会も丸焼けやし」
「そりゃ、先生、戦争は大変どころではなかったわ。ああ、さよか、先生は戦時中の教会知らんわけやな」
「知らん、知らん。人の話や書かれたもので、見たり聞いたりしてるだけやからな。ぼくは戦後の信者や」
「そやな。ララ物資で、みんな仰山、教会に集まった頃からやな。ま、先生の教会は、そんな人もよう来ぃへんかったそうやけど」
保郎は笑って、
「そうや。人ひとり集まらん日もあったわ。けど、ぼくなどいくら教会創立で苦労した言うても、ここの草創時代や戦時中の苦しみとは、比較にならんわ。そこへいくと、ママは戦時中の苦しみよう知っとるわけや。偉いなあ」
季野は急須を湯呑み茶碗に傾けながら、
「そりゃあ、まあ知っとることは知っとるけど、ちいとも偉いことあらしまへん。思い出しても顔の赤うなることばかりや。な、先生、うちなあ、ご真影だの、神棚だの、日の丸だの、拝めえ言われるとな、手を合わせたり、最敬礼したりしたもん。警察や世間の人の目が恐ろしうてなあ」
「ほうかあ、ママでもなあ」
保郎は吐息をついた。
「先生、笑うやろな。けどなあ、人間てほんまに弱いもんや。うちかてな、戦争が始まらんうちは、死んでもキリストの神以外に手ぇ合わせることなど、あらへん思うていたんや。けどなあ、手ぇ合わせんとな、警察に引っ張られるか、町の人に非国民言われて、お米の配給も打ち切られかねなんだんや」
保郎は大きくうなずいて、茶を一口飲んでから言った。
「ほうかあ。けど、ママは偉いわ。そんな時代でも教会を離れんかったんやからな。教会やめた信者も仰山いたんやろ。ぼくやって、もし戦時中に信者になっとったら、すぐ逃げ出していたかも知れん」
保郎はふっと、カトリック信者の奥村光林を思い出した。あの軍隊の中にあって、キリスト教など外国の宗教だ、邪教だと罵る自分に、毎日のようにキリストの話をし、上官たちの居並ぶ幹部候補生の試験場で、その信ずる宗教を憚らずに答えた奥村を思った。保郎は京都を発つ前に、その勤め先の京都銀行に奥村を訪ねた。十何年ぶりに会う奥村は、少しも変わってはいなかった。いや、その信仰はますます強くなっているかのように保郎には思われた。戦時中、神棚に手は合わせても、キリストから離れなかった人々の苦衷《くちゆう》を、保郎は改めて知ったような気がした。この教会を牧する上において、この戦時中の癒え難い痛みを知ることは、草創期の迫害以上に知っておかねばならぬことと、実感したのだった。
五月雨がしとしとと降っていて、静かな夜だ。九時を過ぎている。恵もてる子も、とうに眠ったらしい。中学二年のるつ子はまだ起きているらしく、和子と話す声が、襖を隔てて聞こえてくる。
保郎は明日の説教の準備をしていた。どうも足が妙にだるい。どこか体が疲れている。四月に赴任してきたばかりの保郎は、一刻も早く教会員の名前と顔を一致させようと、赴任以来、毎日のように家庭訪問に努めていた。午前と午後、何軒かずつ廻るのだが、その度に宇高昇か大沢熊市、その他の役員が、信者の家に案内してくれる。ほとんど自転車で行くのだが、それでもけっこう疲れた。
大きな邸宅に住む医者もいる。粗末なアパートを借りて、つましく住んでいる者もいる。呉服屋、干物屋、下駄屋等の商人もいれば、タオル工場主、造船所経営者、廻漕業、農業、会社員、工員、教師等々、職業も雑多だ。創立以来代々信者の家もあれば、受洗して一年と経たぬ信者もいる。不和に悩む家もあれば、平和な家庭もある。病人を抱えて苦労している信者もいれば、一家そろって健康を誇る信者もいる。
保郎はその様々な家を訪ねて、一軒一軒ていねいに話を聞いたり、祈ったりして廻るのだが、それだけでも容易なことではなかった。その上、出された茶も飲まねばならず、お茶菓子に無理に手を伸ばさねばならぬこともある。最初の一、二軒はよいが、五、六軒目ともなれば、胃がごぼごぼと音を立てる。ある家でお辞儀をした時、お茶が口からこぼれそうになったことがあった。
そんなことで、疲れがたまっているのだろうと思いはしたが、
(いや、昨夜がしんどかったんや)
と、保郎は心の中で呟いた。
昨日は金曜日だった。保郎は、毎週の説教の準備は金曜日には取り掛かることにしていた。土曜日だけでは、いつ、どんな事態が生じて、支障をきたすかわからない。それで説教の準備中は、少々のことがあっても、声をかけぬようにと和子に厳命してある。
ところが、昨夜の今頃だった。和子が襖を開けて入って来た。
「何や?」
思わず保郎は咎める語調になった。十時に近かった。和子は保郎のそばに寄ってささやいた。
「玄関に妙な人が来て、話がある言うて……」
「いる言うたんか」
「あんた、いつも居留守使うたらあかん言うやないの」
和子が言った。教会に訪ねて来る者の中には、自殺せんばかりに切羽詰まった人間もいる。それほどでなくても、かなり重要な問題を抱えてやってくる者もいる。だから、居留守を使ってはならぬと、常々保郎は言っていた。万一話が長くなれば、徹夜で説教の準備をしなければならない。そのことを心得ている信者は、金曜日から土曜日にかけては、つとめて牧師館へ来ることを避けている。電話さえも遠慮する。
「今頃、何の話やろ?」
保郎は立ち上がった。
「お酒の匂いさせとるんよ」
和子は肩をすくめた。保郎が廊下を渡って玄関に出ると、四十近い男が、薄暗い電灯の下に立っていた。
「ぼくが牧師の榎本やけど、何か……」
「はあ、ちょっと折り入って頼みがあるんやけど……」
男は口ごもるように言った。
「ここでは何やから、まあお上がりください」
保郎は先に立って奥の間に招じ入れた。男は牛木録造と名乗った。
「親が録造なんぞとつけてくれたから、ろくでなしになってしもうたんや」
録造は黄色い歯を出して笑った。
録造の語るところによると、二十五歳の時に結婚して、三カ月と経たぬうちに妻に逃げられた。それまでは自動車のセールスをしていたが、働く意欲がなくなった。以来職を変えること、十回を超えた。来年は四十になるので、今度こそ真面目に働こうと思うのだが、幾度も職業を変えた者を雇ってくれるところはない。今は土木工事に日雇いとして働いている、ということだった。
保郎は、結婚三カ月足らずで妻に逃げられた録造に同情した。保郎もまた、結婚後間もなく、和子に逃げられたことがあった。信仰がなければ、一度でやけのやんぱちになって、この録造のようにならなかったとは言えないと思う。保郎も自分の体験を語り、
「それで、君はぼくに、何の頼みがあると言うの」
と、親しみをこめて言った。
「あんな、先生、こんなぼくのようなもんでも、ここの教会で雇ってもらえんやろか」
保郎は、とっさには返事ができなかった。教会は信者の献金によって、すべてが賄われている。三万七千円の保郎の謝儀も、教会の維持費も、光熱費、伝道費も、すべて教会の年間予算によって動いている。しかも、教会が一人雇うということは、単なる金銭の問題ではなかった。教会には、傷ついて神を求めてくる人がたくさんいる。この録造一人のところに、初めて教会を訪れて来た人がいたとする。その時録造は、適切な応対やアドバイスができるだろうか。
そうは思ったが、保郎は、ふっと新婚時代、世光教会で同居させた刑務所出のK夫と、遊郭から逃げて来たM子を思い浮かべた。今、K夫は事業を起こして経済的に成功しており、M子も人妻となって、東京で幸せな生活をしている。もし五千円の給料でもいいと言うのなら、自分の給料を削っても、この牧師館に同居させてやってもいいと、保郎は思った。
「ほんまに本気か」
「ほんまに本気や。掃除でも、大工仕事でも、何でもやるわ」
「ほうかあ。したらな、一つ条件があるんや」
「条件?」
「そうや。どこでも人を雇う時には条件を出すやろ。ぼくの条件はな、日曜日の礼拝には、必ず出て欲しいいうことや」
経済的には成功したが、精神的にはどうなったのかわからぬK夫を保郎は思いながら言った。
「ふーん。つまり、神を信ぜぬ者は、使わんいうことですか」
語調が妙にねっとりとなった。
「いや、ぼくのところに来る以上、そして教会に勤めたい言う以上、神を求める気があると見てもええわけやと思うてな」
保郎はやんわりと言った。が、録造には保郎の言葉は耳に入らぬふうであった。何やら口の中でごもごも言っていたが、録造は不意に大声で喚いた。
「信じさせることが先か、ひもじい者を救うことが先か。もし神を求めん言うたら、どうするんや。求めん者は使わん言うのか。先生、そらおかしいわ。溺れとる者に手も伸ばさんと、信じたら助けてやるいう話がどこにある」
録造は言いたいことを言い、保郎に口を挟ませなかった。そして、いきなり立ち上がると、
「そうか、そうなんか、教会いうところは、信じぬ者は見殺しにするところか」
と、言い捨て、荒々しい足音を立てて出て行った。あっと言う間もなかった。
お陰で昨夜、保郎の眠りは浅かった。妙にあと味が悪かった。話し合えばわかることだと思うのだが、あるいは話し合ってもわからぬ男かも知れなかった。浅い眠りの中で、保郎は幾度も録造のために祈った。祈るより仕方がないと思わずにはいられなかった。
疑惑
保郎は、異様なけだるさに抗《あらが》うようにして、ベッドの上に起き上がった。
つい先日、スタンレー・ジョーンズ師の伝道集会が、無事に終わったばかりだった。その疲れがどっと出たのか、激しい疲労に、保郎はほんの数日の予定で、市内の病院に昨日入院したのである。
(もうじき四月三日やな。早いもんや、今治に来て、もう三年になるわ)
保郎は思った。三年という言葉に、ふっと思い出したことがあった。京都を去る時、挨拶廻りに、ある牧師のところに出向いた。保郎より二十年も年輩のその牧師は言った。
「石の上にも三年いうことがありますやろ、何があっても三年間は辛抱なさることですな」
いたわるように言ってくれたその声音が、今、あたたかく保郎の胸に甦った。
その三年が過ぎた。大変な三年間であったと思う。京都にいた時は、若いということもあって、ほとんど疲れらしい疲れがなかった。たとい疲れても、幾日も尾を引くことがなかった。痔の手術で一度入院したことはあるが、伝道に支障を来すことは、ほとんどなかった。
それが、今治に来て三年と経たぬうちに、つづけざまに入院した。今回を除いて二度も入院している。一度目は鈴木病院への入院で、一昨年の二月、慢性肝炎という診断のもとに、二カ月の入院を余儀なくされた。更に昨年の九月、再び肝臓が悪いということで、第一病院に二カ月近く入院した。そしてこの度、疲労回復までの数日という心づもりで、とにかく三度目の入院をした。鈴木病院も、第一病院も、院長が今治教会員であったから、懇切ていねいに扱われた。にもかかわらず、その異様な疲れは幾度となく頭を擡《もた》げてきた。保郎は「石の上にも三年」という言葉を思いながら、よくぞ三年間耐えてきたと思う。
今治への招聘《しようへい》の話があった時、多くの信者たちが、「先生、先生がこの教会を離れることは、神の御旨《みむね》とはどうしても思えへんのどす」と、不安げに言った言葉が、病気の度に妙に思い出された。
今、保郎は、ベッドの上に起き上がって、「いやいや、感謝なこともたくさんあったのや。病気にばかり目を向けてはあかん」と思いなおした。事実、保郎が今治に来た年の受洗者は、総計三十八名、翌昭和三十九年には三十九名、昨年四十年には、実に五十一名が洗礼を受けたのである。おそらく今年も四十名は下らないであろう。世光教会でも三十五年、三十六年には十六名ずつ、三十七年には三十四名の受洗者が出ているが、いずれにしても大きな数であった。
保郎が転任してきた昭和三十八年(一九六三年)の十二月一日から、早天祈祷会が始められていた。それまで、今治教会では早天祈祷会が中断されていた。明治十八年、村井|知至《ともよし》という伝道師が、早天聖書研究会を始めたのが、今治教会における早天祈祷会の始まりだった。朝の四時から五時まで、三十名内外が出席した。村井伝道師の在任約一年間にわたって、毎朝休むことなくつづけられたという。第三代の露無《つゆなし》牧師は朝夕わかたぬ祈りの人であったし、第四代の菅原牧師の時にも早天祈祷会が持たれ、在任中三カ年にわたってつづけられた記録が残っている。保郎はその先輩たちの遺志を受け継ぐ思いもあって、早天祈祷会を始めたのだった。
今、その早天祈祷会の持たれる時間だと、保郎はベッドの上に起き上がったのだ。
保郎は早天祈祷会を、単なる朝飯前の仕事とは思っていなかった。朝早く起きて、神の前に身を屈《かが》め、一日の生き方を導いて欲しいと祈り、家族や教会員たちの上に、神による守りと祝福があるようにと祈ることは、決しておろそかにはできぬことであった。一日の自分の生き方が、この早天祈祷会にかかっていると、保郎は信じていた。教会員の中には、病気勝ちの保郎が、朝の六時から信者たちと共に祈り、また聖書の言葉を語る必要はないと、案じて言ってくれる者もいた。だが保郎は、本気で神を信ずるならば、本気で祈るべきだと思っていた。むろん保郎も、疲れの激しい朝は、起き上がるのがおっくうであった。片腕で体を支え、半身を起こしたまま、幾秒間かまどろむこともあった。この布団に寝たまま、すーっと祈祷会の部屋まで運ばれて行けるならば、どんなに楽だろうと思うことさえあった。しかし保郎は、それでも早天祈祷会を怠る気にはなれなかった。厳然としてその場に神がいられる以上、祈るのは当然だと思った。
保郎は病室の片隅にある洗面台で顔を洗い、聖書を開いた。
「先生、いかが?」
「しんどそうやね、まだ」
祈りの運動の事務を手伝ってくれている宮崎令子と、幼稚園事務の福岡|璋子《あきこ》が、美しい笑顔を見せて入って来た。
(この二人、どこか似とるなあ)
思いながら保郎は、
「入院したばかりで、そう簡単にようなるかいな」
と、わざと無愛想に言った。令子は璋子と顔を見合わせて笑い、
「まだまだ大丈夫よ。そんなこと言ううちは元気なんよ。ね、先生」
と、傍らに立った。福岡璋子は一歩下がって、宮崎令子の肩越しにうなずいた。
「何ぞ、用事か」
「あら、用がなかったら来たらいかんの」
と令子が言った。
「当たり前やないか。二人共、ふらふら出て歩く暇などない筈やろ」
言ってから保郎は、にかっと笑った。
「牧師先生の顔を見に来るのも、仕事の一つです」
璋子が言う。令子がすまして言った。
「万一死にそうやったら、葬式の準備もせんといかんしね」
令子が笑い、保郎も璋子も笑った。幼稚園の保母も、教会の事務員たちも、その全員が保郎を、熱烈と言ってよいほど敬愛していた。誰もが言いたいことを言った。保郎も勝手なことを言った。
(三年経ったんやなあ)
令子の言葉を聞きながら、保郎はまたしてもそう思った。三年前は、まだお互いの間がぎごちなかった。が、今では、幼稚園の保母たちや事務員たちは、仕事が終わると榎本家の台所に入り込んで、お茶を飲みながら、いつまでも賑やかに話しこんで行くのだった。
保郎が転任して来た翌年の六月十五日、新しい牧師館が建築された。教会の敷地と道路を隔てて、牧師館は建てられた。応接室には立派な応接セットが置かれ、庭と言い、構えと言い、広さと言い、「日本一の牧師館や」と、保郎も和子も大喜びだった。
「先生、食欲ないんやね、やっぱり」
床頭台に置かれた昼食の膳を見ながら、璋子が美しい眉をひそめた。ご飯もお菜も半分以上残っている。
「寝てばかりいては、食欲も出えへんのや。食欲のない時は、食べんのがええんや。食べ過ぎて死ぬ者はいても、今の日本で、食べずに死ぬ者はあらへんそうやからな」
保郎はあくまで明るくふるまった。宮崎令子は、数年前、夫を一夜で失っていた。が、令子は、事情を知る者には考えられぬほど、快闊だった。そんな信仰篤い令子を、保郎は深く信頼していた。
福岡璋子は聖和女子短大で保育を学び、純粋な信仰の持ち主だった。保郎はこの璋子が、保郎のことをこう言っていると、保母の一人から聞かされたことがあった。
「榎本先生いう方は、キリストのためなら、自分の体はどうなってもいいと、真剣に思っておられる方やね。先生のお説教から、その思いが、ひしひしと伝わってくるわ」
保郎は今、自分の食欲不振を案じてくれる璋子を見ながら、弟の栄次を思った。栄次は高校一年の時に、淡路島の福良《ふくら》の教会で、中村つね牧師に洗礼を受けた。一旦は立命館大学を卒業し、中学の理科の教師になったが、急に同志社の神学部に入ると言い出した。栄次は大学時代、姉の松代の嫁ぎ先、後宮《うしろく》俊夫の家に同居したことがあった。そこで見た後宮俊夫と松代の生き方は、栄次を深く感動させた。それは幼い時から見ていた保郎の生き方に重なるあり方だった。
「どうせ生きるのなら、おれも後宮先生や兄貴のように生きたい」
と、牧師への道を決意したのだった。その栄次を思って、保郎は璋子に尋ねた。
「璋子さん。あんた、牧師の妻になる気はないですか」
璋子は静かに答えた。
「わたし、牧師であるとか、牧師でないとか、職業で一生の伴侶を決めません。人物で決めたい思います」
この答えが保郎には気に入った。ふつうの娘なら、「わたし、牧師夫人など務まりません」と、答えるところなのだ。保郎は心に深くうなずくところがあった。
送って来なくてもいいと言う二人に、
「送るんやない。散歩や」
と、階下の玄関まで、令子と璋子を保郎は送って行った。短時間だが、二人の見舞いは楽しく、さわやかだった。心なしか、重い足も軽くなったような気がした。と、顔見知りの近所の男に、
「おや、榎本先生、パジャマ姿で、どこかお悪いんですか」
と、声をかけられた。道で会う度に愛想よく声をかけてくる男である。
「はあ、ちょっと疲れましてな。二、三日病院のベッドの上で寝ることにしました。ま、怠け病のようなもんですな」
保郎はさりげなく答えた。
「そらええですわ。うちの叔父など働く一方の、酒も飲まんのに、肝臓を患いましてな。二、三日前から、今日か明日かいうんで、こうして詰めてますんや。とにかく疲れた思うたら、先生のように休むことが一番ですわ」
肝臓と聞いて、
「そらあかんですな。肝臓ですか。何とか助からんのですか」
と、保郎は心配そうに尋ねた。と、男はちょっと顔を寄せて、
「先生、もう駄目ですわ。肝硬変いうは怖いもんですな」
と言い、
「先生、肝硬変いうたらな、酒飲みにばかり取りつく思うておりましたが、叔父は一滴も飲まんのですわ」
「ほうですか。じゃ、原因は?」
「それがな、先生。もう二十年近くになりますが、交通事故に遭いましてな、輸血しましたんや。けど、そのあとすぐに目ん玉から体のすみずみまで真っ黄色になりましてな、急性肝炎と言われましたんや。先生、輸血いうもんも、恐ろしもんですな」
と、話し始めたが、誰か親戚の者でも来たらしく、
「あ、待ってたでえ」
と、手を上げ、保郎には「先生、お大事に」と挨拶して去って行った。
(輸血!?)
保郎は自分自身、痔の手術で輸血された時のことを思い出して、背筋が寒くなった。退院のあと二十日も経たぬうちに、黄疸《おうだん》になったのだ。その時は急性肝炎ということで、間もなく症状はおさまった。その時の肝炎と、のちの慢性肝炎とは何の関わりもないと思っていた。が、もしかして、自分の病気は肝硬変ではないかと、今、不意に保郎は思った。
(けど、肝硬変って、いったいどないな病気なんやろ?)
恐ろしい病気だということは聞いている。だが、どんな原因で惹き起こされるのか、どんな症状を呈し、どんな経過を辿り、どんな転帰を取るものなのか、保郎は皆目見当がつかなかった。只、近所の男に今聞いた限りでは、肝硬変の患者がかつて輸血をしたということ、そのあと急性肝炎に罹り、黄疸となったという、自分との一致点があることに、不安を覚えた。
保郎は翌々日、予定どおり退院した。
やはり疲労だけだったのかと思うほどに、朝の頭痛や、足のだるさが取れていた。帰宅した保郎は、先ず百科事典を開いてみた。〈肝硬変症〉という項目を、息を詰める思いで読んでいった。
〈肝臓が結合組織の増殖のためかたくなる病気の総称で、この中には原因も症状も異なる多くの病型云々〉
等の文字が、次々に保郎の目に飛びこんで来た。
〈きわめて多種多様の原因があげられているが、そのいずれも決定的でない。中毒、栄養欠陥、感染……などさまざまの因子のいずれかによって起こりうると思われる。……タンパク質が少なく、脂肪が多く、種々のビタミンの不足する食物で長い期間養うと、動物の肝臓に硬変症と似た病気を起こさせることができることからも、栄養の欠乏が本症の中で最も重視される〉
保郎はふっと、世光教会創立当時の粗末な食事を思い起こした。
〈肝硬変症はきわめて徐々に起こるので、病初にはほとんど特有の症状というものがなく、ただ食欲不振、腸内のガスが多く、全身がだるいというような、不定の慢性消化器病症状を見るに過ぎない云々〉
確かに自分の病気の経過に似ていると、保郎は肝臓の辺りに手をやった。症状の項目に、
〈腹水や吐血が起こって初めて診断が下されるのを常とする〉
〈腹腔内に液体がたまって腹水の症状を呈する。そのたまり方の速いときは一日一リットルにも達する……〉
読んでいくのが、次第にいやになった。
〈食道下端部の静脈も拡張し、これが破れると大量の吐血が起こる〉
〈尿量減少……末期には意識の混濁、昏睡がしばしば起こり、このためまたは全身衰弱のため死亡する。ときには大吐血で死亡する……〉
保郎は次を読みかけて目を閉じた。大吐血をして、血の海の中に死ぬかも知れぬ自分の最期を思った。が、再び目を開けて読んだ箇所に、
〈かつては一〜二年でほとんど死亡すると考えられた肝硬変症の予後は、最近はずっと良好となった〉
とあって、治療を徹底的に行えば、あながち絶望とは限らぬらしい言葉も書かれてあった。
保郎は改めて自分の腹部をさすってみた。腹は小さくはなかったが、まだ腹水がたまっているとは思えなかった。
(まあ、あと十年は生かしてもらえるやろな)
保郎は確信もないまま、漠然とそう思った。
その夜保郎は、和子が寝入ったあとも、なかなか寝つかれなかった。肝硬変ではないかも知れないとは思ってみても、肝硬変への疑いが、次第に大きくなっていくのを、いかんともしようがなかった。何も知らずに寝ている和子が、たまらなくいとしかった。保郎は今年五月には満四十一歳となる。和子と保郎は同じ年に生まれた。もし、あと十年しか生きられぬとしたら、十年後には和子は、いったいどのようにして生きていくのであろう。今年るつ子は高校二年生になる。恵もてる子もまだ小学校には間がある。十年経っても親を必要とする齢だ。その子供たちを抱えて、和子は必死に生きていかねばならない。どこかの教会の保育園か幼稚園で、保母をして生きていけるかも知れない。が、それは決して容易な道ではないのだ。
保郎は病院に見舞いに来た宮崎令子を思った。令子の夫は、会社の宿直を終えた朝、布団を押し入れに入れかけて急死した。学生時代ボートの選手であった彼は、心臓肥大だった。労使関係で神経が疲れたのが引き金らしかった。小学一年と小学四年の男児を遺して彼は死んだ。
(和子も、令子さんのように、明るく生きていけるやろか)
保郎は心が沈んだ。が、保郎は床の上に起き上がって、祈ろうとして手を組んだ。手を組んだ途端、かつて味わったことのない平安を覚えた。
(自分が死んでも、神は生きておられるやないか)
そう思った途端に、明るい光を浴びたような気がした。おおよその命数を知り得たことによって、命の最後の一滴まで、生き通す覚悟ができた。保郎の口をついて出たのは、先ず「感謝」の言葉であった。
「あんたあ、去年から今年にかけて、元気そうやなあ」
昼食のあと片づけをしながら、和子が明るく言った。保郎はまだお茶を飲みながら、食卓に肘《ひじ》をついていた。
「ほんまやなあ。去年の春、ほんの数日入院したっきりやなあ」
保郎は相槌を打ちながら、和子にはあの輸血によって黄疸《おうだん》を惹き起こしたことは話していたが、急性肝炎が慢性肝炎に移行している無気味さを、まだ語っていないことを思った。肝硬変の疑いを、保郎自身も持っていたし、医師も持っていることを、和子には知らせなかった。
「今年の夏は、無事アシュラムもできたし、ガリラヤ館も建ったし……」
あくまで明るい和子の語調に、保郎は、もしかして和子は、夫の自分が再び入院することなどはないと、安心しているのではないかと胸が疼《うず》いた。近頃また、保郎は体に疲れを覚えているのだ。
暑い盛りの八月二十八日から三十日まで、第一回の今治アシュラムが持たれた。他教会から人を招くということは、会場の選択や、参加者の往復の交通等、主催者の行き届いた配慮が要る。しかも、この日常の生活から退いて、神の前に祈る会は、朝から晩まで、プログラムが連続していた。保郎はその会で、語るべき使命もあった。アシュラムは、信者が直接神に求め、神に聞く真剣な祈りの場であったが、そのための土台となる話を保郎はしなければならなかった。これら、三日間会衆と共に寝起きする集会アシュラムは、自分の健康には無理かと、保郎自身案じないわけではなかったが、自分の病気がただならぬものであればあるほど、生きている間になさねばならぬ会であった。その保郎の切実な祈りが聞かれたのか、今治における第一回のアシュラムの反響はかつての世光教会における祈りの集会のそれにもまして大きかった。連日、喜びにあふれた参会者からの礼状が、次々と寄せられた。中には、
〈帰って参りましてより、第二回のアシュラムのために、毎日十円ずつ捧げようと、献金箱を置き、感謝しつつ入れております〉とか、
〈来年のアシュラムまで祈りつづけていきます〉とか、
〈今度第二回のアシュラムが開かれますなら、全期間出席の教会員を募って、馳せ参じたく祈っております〉
という、二回目のアシュラム開催を待ち望む声も少なくなかった。保郎は、生きている限り、このアシュラム運動を推し進めていきたいものと、切実に思った。
こうしたアシュラム運動が展開される一方、今治教会では創立九十周年に向けて、教育会館ガリラヤ館が建てられることとなった。教会堂と同じ敷地に、
「幼稚園並びに教会学校のために、視聴覚教室などの設備を持った教育会館を建てたい」
との願いを、今治教会員たちは早くから持っていた。飯季野が、この教育会館建設のために、人々の前にきっぱりと語ったのは、
「神の宮はできるだけ大きく、そして立派に」
という言葉であった。鉄筋コンクリート三階建て、延べ坪二百十坪のこの建築予算は二千二百万円であった。この時既に、九百万円の貯えがあったが、
(あと千三百万円も集められるやろうか)
と、保郎は危ぶんだ。昭和四十一、二年の時点において、千三百万円は巨額であった。
ところが驚いたことに、この募金委員会は、只の二度しか開かれずに終わった。第一回目は主旨説明、第二回目は目標達成の報告で、委員会は解散したのである。日曜日ごとに真剣に語る保郎の説教が、今治教会員の信仰を更にふるい立たせたのかも知れない。とは言え、牧師館のすぐ傍らでの建築である。何かと心を配ることが多く、落成式が終わった今、保郎は深い疲れを覚えていた。何もかも投げ出して、眠りたいことがあった。
茶碗を食器棚に納め終わった和子が、
「けどなあ、あんた、無理をしたらあかんで」
と優しく言って傍らに来た。
「わかっとる、無理はせえへん」
と、さりげなく保郎は家を出た。教会の応接室に行って、一人静かに祈ろうと思ったのだ。文化の日の近い季節にしては、あたたかい日和であった。
「あら、先生、どこかにお出かけですか」
教会堂へ向かおうとして、保郎は声をかけられた。ふり返ると、園児の母親の三宅やす代だった。白い歯ののぞく口もとに愛嬌があった。やす代は近頃時折礼拝に顔を見せるようになっていた。以前保郎が入院した時、幼稚園の役員の一人として、幾人かと見舞ってくれたことがあった。が、個人的には、ほとんど話したことはない。それだけに、声をかけられて保郎はうれしかった。
「何ぞ、用事があったんですか」
「用事いうほどもありませんけど、何か無性にお目にかかりたい思いまして」
教会に来始めの頃は、誰しも時々そういう心境になるらしい。
「ほなら、牧師館で話しますか」
と、保郎は歩みを返した。玄関脇の応接室に、二人は向かい合って腰をおろした。
「ああ、そうそう、この間ご主人のお噂を聞いたところでした」
「あら、三宅の? どうせ悪い噂でしょ?」
やす代は微笑した。やす代の夫三宅篤は、産婦人科医で、大きな病院を経営していた。
「いやいや、三宅先生の陰口を言う人など、おらんですわ。何でも、三宅先生は貧しい人からは金を取らんとか、おまけに退院の時には赤ちゃんのベビーベッドや着るものなど、お祝いに持たせてあげるそうやないですか。なかなかできんことですね。めったに聞けん話ですわ」
先日、教会員のある女性から聞いて、保郎は深く感じ入っていたのだ。
「恥ずかしい。先生にも、そんな話聞こえたんですか」
「どんなご主人ですか、一度お会いしたいですなあ」
「うちの主人なんか……」
と言いかけて、やす代は何を思い出したのか、くっくっと声を殺して笑った。
「何ですか? 思い出し笑いは高い言いますで」
「だって先生……」
と、やす代はまた笑ってから、
「うちら時々喧嘩するんですよ」
「ほう、時々ですか。うちは始終ですわ」
保郎は大きく口を開けて笑った。そこに和子がお茶を運んで来た。保郎たちの話が耳に入ったのか、和子も笑っていた。
「ま、先生、お聞きください。いつかこんな喧嘩しましたんよ。わたしもカッときますけど、三宅もカッとくることがあるんです。何で始まったか忘れましたけど、わたし、家を出て行く言いました」
「ほう、奥さんがなあ。そら旦那さん困りましたやろなあ」
「いいえ、出て行くんなら、お前のものは一切合切みんな持って行け! 一つも残すな言いましてね。わたしも意地になりまして、これもわたしのもの、あれもわたしのものと、せっせと荷造りを始めました。そしたらね、先生、三宅が腕を組んで見つめていましたが、何と言うたと思います?」
やす代は真顔になった。
「そうやなあ……」
保郎は首をかしげた。妻がせっせと荷造りをしている姿を、腕を組んで見つめている男の姿が眼に浮かんだ。
「先生、こう言うたんです。次々と荷造りしてましたらね、先生、それまで見つめていた三宅が、『おれもお前のものや。だからおれも持って行け!』」
思わず保郎と和子が、声を上げて笑った。二人は腹がよじれそうになるほど笑った。笑い過ぎて、和子の目尻に涙がたまった。ようやく笑いをおさめて保郎が言った。
「何とええ人やろな、三宅先生いう人は。そんな味のあるセリフは、めったに言えへんで。愛のある人なんやなあ。なあ、和子」
「ほんまになあ。ほんまにええ人やわ」
和子は涙を拭きながら言った。やす代は、
「先生、それ以来な、わたし、出て行きますなどと言う喧嘩はやめにしました」
と、幸せそうな笑顔を向けた。
そのあとしばらく一段と打ち解けた様子で、夫や子供の潔、晶子の話をしていたが、
「ところで先生、水野源三さんいう人、ご存じですか」
とやす代が聞いた。
「水野源三? 何や聞いたことあるようだけど、どこかの牧師やったかな」
確かに水野源三という名前は、何かで耳にしたことがあるような気がする。
「いいえ、すばらしいクリスチャンやけど、牧師ではないんです。何でも熱病で、小学校四年生の時、脳性小児麻痺になったんやって」
「脳性小児麻痺? それは大変やなあ」
保郎は病名を聞いただけで、同情の色を見せた。保郎は幼い時から涙もろかった。母のためゑが、貧しさの故に別れ別れに暮らさねばならぬ貧しい兄弟の話を、五歳の保郎に話したことがあった。と保郎は、突如大声を上げて泣き、ためゑを驚かせた。そんな保郎である。いまだに病気の話や、辛い話を聞くと、つい体を前に乗り出して、真剣な顔になる。
「そう、同じ脳性麻痺でも、水野さんはとても大変なの。手も足もきかないから、お箸も鉛筆も持てない、立つことも歩くこともできんのですよ」
「ふーん、箸も持てへん……」
「そうよ。先生。だから口もきけんの。只ね、目は見えて、耳は聞こえるの」
「ほうかあ。耳は聞こえるのに、口はきけんのか。そらあ辛いなあ」
「そう、すごく辛い思うわ。そしてね、発病した小学四年生の時から寝たっきりなのよ、先生。けどね、すばらしい詩や短歌をあちこちのキリスト教雑誌に、発表してきたのよ」
保郎は不審な顔をして、
「奥さん、今、確か、その人鉛筆も持てず、口もきけん言わはったやろ。それでどうして、詩や短歌発表できるんや」
「ねえ、そう思うでしょ。ここに源三さんのお母さんの手記があるの。ちょっと読んでみてくださる?」
やす代は手提げから、キリスト教誌「百万人の福音」を取り出した。そこには先ず、水野源三の詩が書かれてあった。「今日一日も」という題であった。
新聞のにおいに 朝を感じ
冷たい水のうまさに 夏を感じ
風鈴の音の涼しさに 夕ぐれを感じ
かえるの声 はっきりして
夜を感じ
今日一日も終りぬ
一つの事一つの事に
神さまの恵みと 愛を感じて
(すばらしい詩や)
保郎は、透きとおるような魂を、この詩に感じた。寝たっきりの、口も手足もきかぬ人間の詩とは思えなかった。あまりにも澄んでいた。平安であった。母親の文章に保郎は目を移した。
〈これは、わたしの次男、源三がつくった詩のひとつです。源三は二十年も寝たっきりですが、五年ほど前から短歌や詩をつくり、神さまとともにある喜びをうたい続けています。詩をつづる≠ニいっても源三は、手も足も自由に動かず、しゃべることもできません。ただ自由にできることといえば、見ることと聞くことだけです。それで、国語の辞典に書いてある「あいうえお」の表を使い、わたしが指さし、源三が目で合図して、一字一字書きあげています〉
思わず保郎はうなった。この水野源三は、何と凄いキリスト信者だろうと思った。これが本当の信者だと思った。水野源三の意思の伝達方法は、僅かまばたきしかないのだ。五十音表を見つめながら、「ろ」という音を字に移す時は、おそらく母親は、五十音表の一番上の「あかさたなはまやらわ」の字を次々に指さしていくのであろう。すると水野源三は、「ら」の行でまばたきし、母親が「らりるれろ」を一字一字指さしていって、「ろ」に行き当たった時、源三は再びまばたくのであろう。
仮に「廊下の足音」という言葉一つ伝えるだけでも、これは忍耐の要る作業であった。またその源三のまばたきに注意しながら、文字に書き移してゆく母親の忍耐と努力には想像を絶するものがあると思った。自分は、書こうと思えば自分ですぐ書ける。保郎は自分の指先を見つめながら思った。しかし、もしこの手がきかず、口もきけないとしたら、このような困難な思いをしてまで、詩を作ったり、歌を作ったりするだろうか。どうせ自分には、伝え得る手も口もないのだと、先ず絶望してかかるのではないだろうか。まばたきで意思を伝えるというそのことに気づいても、実現させようと努力はしないのではないか。それを実現させたのは、いったい何なのか。それはむろん、母親の大きな愛をぬきにしては考えられぬことだ。
が、もし、母親にその愛があったとしても、源三の側に、伝える意思がなければ実現はできない。この全く困難な状況にある源三に、詩の発表をなさしめたのは、噴き上げるような、神への感謝なのだと、保郎は思った。人に伝えずにはいられないキリスト信者としての喜びなのだ。燃えるような、人々への愛なのだ。源三はどれほど体が不自由でも、こんなに自分は喜んで生きているのだと、証《あか》しをしたかったにちがいない。すばらしい信仰だと思った。と同時に、脳天を一撃されたような思いがした。確かに保郎の健康状態はいいとは言えない。しかし、寝たっきりではないのだ。口がきけないわけではないのだ。手にペンを握ることが、できないわけではないのだ。残る命が、あとどれほどかはわからぬが、自分も水野源三のように、キリストの愛を伝えずんばやまず、の思いを持って、日々を真剣に生きねばならぬと思った。
「ありがとう、奥さん。ええもの見せてもろうたわ」
保郎は頭を下げた。
三宅やす代が帰ったあと、保郎は何か不思議な力が体に漲《みなぎ》るのを覚えた。それは体力とはちがっていた。霊力とも呼ぶべきものかも知れなかった。
保郎は今、遺言のつもりで自伝を書きつつあった。自伝と言っても、二十歳以前のことにはあまり触れていない。敗戦の日本に引き揚げたあたりから、キリストに救われ、和子と結婚し、世光教会を創立し、今治に去るあたりまでの、神の恵みを小冊子にして残しておこうと思っていた。以前、世光教会にいた頃、教会員松波|閑子《しずこ》が保郎の語った言葉をもとに、「桃山の丘に光を」という文を綴り、三年前にそれを出版してくれていた。それはそれなりに、まとまったよい記録だったが、保郎はそれとは別に、自伝を書きつつあった。浄書は、アシュラムの仕事を無償で手伝ってくれている宮崎令子である。とにかく、この自伝に改めて力をこめ、心をこめて当たろうと、保郎は水野源三に励まされる思いだった。
(そうや!)
保郎の頭に閃くものがあった。それは、いつの日か水野源三の詩歌集を、この世の人々に送りたいという願いであった。どんな状況のもとにその詩歌が生まれたか、それを知っただけで励まされる人々が、どれほどいるかわからないのだ。健康の者も、病気の者も、体の不自由な者も、誰もが、どれほど大きな励ましを受けるか、わからないのだ。
三宅やす代が帰り際に言ったことを保郎は思った。
「先生。誰かが水野さんを訪ねて行った時、水野さんちへの道を聞いたんやって。そしたら、その人が親切に道を教えてくれて、こう言ったんやって。源三さんは、わたしたちの町の宝です」
寝たっきりの人間、口をきけない人間が、この町の宝と言われたことに保郎は感動した。人間の真の価値は、健康不健康、あるいは体の自由不自由にあるのではない。保郎は体のほてるような、深い喜びを感じた。
この年昭和四十二年(一九六七年)十二月十七日、保郎はまたもや入院を余儀なくされた。そしてこの入院は、実に翌年六月までの、半年間の長きにわたることになったのである。
昭和四十五年(一九七〇年)三月初旬、保郎は北海道ケズイック・コンベンションの講師として、札幌の北光教会に来ていた。この北光教会には一昨年、弟の栄次が妻の璋子と共に赴任し、伝道師として働いていた。飯季野《いいすえの》が、
「先生は病人やからな、うちが毎日野菜ジュースをつくってあげにゃならん」
そう言って、ジューサーと大きな聖書、テープレコーダーを持って、従《つ》いて来ていた。喜寿の飯季野に付き添われて、保郎は苦笑した。過労にさえならなければ、それほどの自覚症状はない。が、飯季野は真剣に保郎の身を案じて、今回ばかりではなく、旅行にはよく従いて歩くのだった。
(ケズイック・コンベンションって、何やろな)
保郎はその講師に招かれた時、ケズイック・コンベンションが何かを知らなかった。従って、いかなる性格の会かわからなかった。祈りつつも保郎は、講師を引き受けるべきかどうかと迷った。が、昨年の講師は千里山教会の河辺満甕《かわべみつかめ》牧師であり、今年有馬に開かれるその講師はキリスト教界で誰一人知らぬ者のない渡辺善太牧師であるという。会の重大さを保郎は感じた。
調べてみると、ケズイックとはこの会の発祥の地、イギリスのある小さな町の名で、コンベンションとは会議もしくは聖会と訳すようであった。この会の特徴は、徹底的に聖書に取り組むところにあるらしい。札幌には、保郎のほかに、世界的大説教家と言われるジョン・ダンカン牧師が招かれている。そうと知った保郎は畏れを持って受諾した。
その第一日目、保郎は第一回の聖書講義を終えて、控室に休んでいた。と、幾人もの信者たちが、手に手に聖書や「ちいろば」を持って、保郎にサインを求めに来た。
「ちいろば」は、保郎の世光教会における信仰の半生を書いた、新書本大の冊子であった。「ちいろば」というこの名は、十余年前、まだ書くか書かぬかわからぬうちに聖燈社の仲綽彦《なかのぶひこ》がつけてくれた題であった。保郎は自分自身を力弱い小さなろば、即ち「ちいろば」に見立てていた。
「主の用なり」と招かれれば、いつどんな時でもお乗せして、力の限り働くのだと言っていた。仲綽彦はその言葉に感動して、いち早く題を決めてくれたのだった。
そんなこともあって、保郎はぼつぼつと「ちいろば」なる自伝を書いたのだった。その保郎の心を特に励ましたのは、長野県の坂城《さかき》に住む、寝たっきりの脳性小児麻痺患者の水野源三だった。手足もきかず、口もきけぬ水野源三が、毎月、詩、短歌、俳句を発表していることに、深く心を動かされたからであった。
「ちいろば」は出版後たちまち幾版かを重ね、読後感を伝える手紙が連日のように寄せられていた。
〈何回も泣いたり笑ったりして……こんな活きのよい読み物は初めてのような気がいたします〉
〈このすばらしい本を、ぜひ点訳させてください〉
〈先生の徹底した伝道者根性に触れて、自らの不徹底な姿を深く反省させられました〉
等々と、信者や牧師たちの手紙が絶えなかった。読書家である同志社神学部同期の種谷《たねたに》俊一牧師からは、激賞の手紙が寄せられた。名牧師と言われる常田《つねた》二郎牧師は、数十冊もの「ちいろば」を購入して、伝道に用いたと長い手紙を書きよこした。ある喫茶店の店主が、店名を「ちいろば」としたという便りもあった。各地に「ちいろば」という名の点訳会や、様々の奉仕の会が生まれた。何れも保郎の、失敗を重ねながらも立ち上がり、神に体当たりして、求め、信じてゆく姿に感動していた。
その出版から、二年目になろうとしている今も尚、保郎の前に列をなす熱心な読者がここ北の町にもあったのである。保郎はその一冊一冊に聖書の言葉を書き、本に手を置いて、一人一人のために静かに祈った。その姿に信者たちが感動した。それはサインをしているというより、祈っている姿であった。
次のプログラムが始まろうとして信者たちが去ると、保郎は疲れを覚えて一人ソファに身を横たえた。と、ノックをして、一人の男が部屋に入って来た。その大きな目に、保郎は見覚えがあった。ぎょろぎょろと言ってもよいほどの、目の動きであった。保郎が、札幌市内の全日空営業所前に、千歳空港からのバスを降りた時、二十名ほどの信者たちの出迎えがあった。そこに、保郎はこのぎょろりとした目の男を見た。講演の最中にも、この男の目にぶつかった。真剣に保郎を見つめたまま、男はうなずき聞いていた。今、保郎は、三度目にこの男と顔を合わせたのである。
男は、保郎より五つ六つ上の、五十くらいに見えた。男も「ちいろば」を差し出した。
「先生」
男はしっかり保郎を見つめたまま言った。
「実はわたしは、何年もの間、本気で教会に放火しようと思っていた男です。しかしこの本を読んで、わたしは教会を建てたくなりました。一生を神に捧げたくなりました」
教会に放火したいと思っていた、という言葉に、度肝をぬかれた保郎は、
「え? ほんまですかあ」
と、男を見た。男の大きな目から、涙がぼたぼたとこぼれた。男は札幌市内の宝石商、立石賢治《たていしけんじ》と名乗った。
その日のプログラムが終わったあと、保郎は控室で立石夫妻の話を聞いた。
「先生、わたしは戦争中、親の忠告も聞かずに、満洲まで飛び出して行った男です」
立石賢治は控室で、向かい合って椅子に腰をおろすや否や、こう切りだした。
「ほう! 満洲にですか。満洲はどこでした?」
「新京(現在の長春)です。新京の郵政管理局に勤めました」
「ほうですか。ぼくも東満洲やら奉天(現在の瀋陽)にいましたなあ」
たちまちに二人の意気が投合した。しばらく二人は満洲の話をしたあと、立石賢治が言った。
「先生、わたしは本気で満洲に骨を埋めたいと思ったんです。昭和十四年の六月です。満で二十でした。だが兵隊検査は不合格でした。せめて満洲の土になりたかったのです。あの時代の若者は、皆国のために死のうと思いました」
保郎はうなずいた。兵として満洲にあった保郎と、それは同じ思いであった。立石は言った。
「先生、わたしは国のために命を捨てに参りますと、天皇にご挨拶する思いで、二重橋の前に土下座したのです。両手をつき、額を大地にすりつけたのです。ぼくらは土下座しながら、涙ながらに誓ったのです。『陛下、どうぞ大御心を安んじてください。臣立石賢治は、只今陛下のために一身をお捧げいたします。これから満蒙の地に、命を捨てに参ります』。こうして、先生、わたしは満洲に渡ったのでした」
保郎は再び大きくうなずいた。戦時中の自分自身を思い出して、たまらない気がした。大方この立石賢治も、敗戦によって、その生きて来た道の誤りだったことを知り、軍国日本の誤りに気づき、虚無におちいったにちがいない。そしてそれは、当時の純情な、忠君愛国に燃えた青年たちが辿った道でもあった。
それはともかく、立石は保郎とはちがって、終戦の年の二月十一日、新京で妻を迎えた。立石が二十六歳、妻の文子は二十四歳であった。二人は見合いもせずに、いきなり結婚をした。この文子が、母親譲りのキリスト教の信仰を持っていた。
「先生、こまかいことを申し上げる時間がありませんから、大づかみに申し上げます。わたしはこのキリスト教ってのが、気に入らなかった。只もう、やみくもにいやでしたねえ。引き揚げてきて、担ぎ屋をやりました。共産党にもなりました。そりゃあ熱心な共産党でした。そして、毎日曜教会へ行く妻を嫌いました」
立石は言葉を途切らせた。言葉には出せない様々な思いが渦巻いているのだろうと、保郎は思った。黙りこんだ立石を見て、保郎も共に黙した。立石の妻も無口だった。只影のように立石に寄り添っている。そこに飯季野が保郎の野菜ジュースを持って入って来た。
「……先生、ぼくはこの妻を、二十五年という長い間、よくもよくもいじめたものです。うちは仏教だ、どうしてもキリスト教の信仰を持つというのなら、立石家の嫁にしておくわけにはいかん、と無理矢理戸口から外に出したことがありました。するとこいつはどうしたと思います?」
「さてなあ……」
保郎は、静かに微笑を浮かべているその妻を見た。
「先生、こいつは、表から追い出されたその足で、裏口からそっと入って来たんです」
「ふーん、そら偉い奥さんやなあ」
「偉いと思いますよね、先生。しかしわたしは、その時はやり切れなかった。いじめても、いじめても、教会に行くことを断念しないんですからねえ。それどころか、子供たちまで教会につれて行く。で、わたしは、妻の行く教会に放火しようと思いついたわけです」
「なるほど。本気だったわけやなあ」
「本気ですとも。わたしは放火するために、教会に下見に行ったんですよ。どこが礼拝堂か、どこがトイレか、図面を描けるほどに頭に入れて、しっかりと下見をしてきましてね。そうそう、教会の西田進牧師の顔もよっく覚えてきました」
「そらまた怖いお人やなあ」
保郎は笑った。
「そして、風の強い日は、今日こそ火をつけてやるぞ、と思うのですが、先生、放火というのは、そう気安くできるものではありませんねえ」
「そりゃそうやろなあ。そう気安う火ぃつけられたら、かなわんわ。それで?」
「それでも、かなりぐずぐずと、長いこと放火を諦めておりませんでした。ところがです。先生。わたしには息子と娘がおりますが、その息子が北大に入った。さ、喜びましてねえ。この時だけは、わたしと妻の気持ちが同じ喜びに満たされたと思います。が、入学後間もなく、この息子がある宗教団体に入りましてね、十人ほどの友だちと一緒に住んで、廃品回収などをしながら、経済的に自立して生きると言い出した。ところが、その生活に入って、間もなく過労と栄養失調から病気になりまして、結局は脳膿瘍という頭の病気で亡くなりました」
「亡くなった!?」
保郎は驚いて声を上げた。
「はい、先生、可哀相に顕夫《あきお》は八回も手術されたんですよ」
「ほうですかあ。大変な試練でしたなあ」
「手術料は一回三十万でしたから、八回も手術されて、家も一軒売りました。しかし、金はいくらかかってもいい。先生、助けてやりたかった。しかも、試練はこれだけじゃないんです。去年の二月七日、真夜中でした。電話に起こされて受話器を取ると、わたしの店が全焼したという知らせです」
「そら次から次と、ヨブの苦難のようですなあ」
「札幌では珍しく十三軒も焼いた大火で、四人の死者が出ましてねえ。まあお陰さまで火元ではなかったですが、実にきれいさっぱりと焼けましたよ。その後も何やかやとありましたが、その火事の時に、何のつき合いもない救世軍の伊藤国義という方が、毛布一枚持って見舞いに来てくださった。その時です、先生、初めてキリストの愛に触れたような気がしたのは。それから、次第にキリストを求めるようになっていったわけですが、そのうちに妻が一冊の本を持ってきてくれたんです。はあ、火事から一カ月半ほど経っていました。その本が、先生、『ちいろば』だったんです」
立石はそう言って、保郎をじっと見つめた。
「ほうですかあ、『ちいろば』なあ」
保郎は大きくうなずいた。
「先生、よくぞあの本を出してくれました。先生も、何度か失敗を繰り返していますね。けれども、捨て身でキリストを求めていますね。そのどれもこれも、わたしの魂をゆさぶりました。けれども、決定的にわたしを感動させたのは、京都の世光教会から、身を引こうと決意したくだりですよ。商売でいえば、これから上げ潮という時に、先生はその教会から出ようとされた。商売人なら、絶対にそんな真似はいたしません。自分が、血と汗と涙でつくり上げた教会を、折角大きくなった教会を、心から慕ってくれる教会員を、捨てるような真似はいたしません。しかし先生は、信者たちがキリスト以上に自分を愛することを恐れて、別れの決意をされたんですねえ。こんなすばらしい話って、あるでしょうか」
今までじっと傍らで聞いていた飯季野が、
「ほんまやなあ。こんな先生、めったにおらんとちゃうか。今もなあ、今治教会では先生を慕う信者がたんといてな……けど、何や心配やなあ。先生、心の中でまたぞろ、こんなに愛されてはかなわん、キリストさまに申し訳ない言うて、どこぞ行くつもりやないかしらん」
と保郎の顔をのぞきこんだ。思わず、保郎と立石が笑った。立石の妻も笑った。が、保郎は笑い切れぬものを、心の隅に感じていた。
立石賢治夫妻は、ケズイックの集会が終わったあと、更に札幌北光教会の三日間の集会にも出席した。そのあと引きつづき保郎は、網走に近い美幌《びほろ》という町の教会に伝道に行ったが、立石賢治はそこにも喜んで従《つ》いて来た。
そして、生まれて初めて人の前でキリストの話をした。自分がいかにして道を誤り、いかに不幸と戦い、その不幸の中から、いかにしてキリスト信者になったかを語り、保郎の伝道集会を助けた。
「もしわたしが『ちいろば』の一冊に巡り合うことがなければ、キリストの弟子になることもなかったかも知れません」
そう結んだ時、堂にあふれた人々は深い感動をこめて拍手を送った。これが現在の西札幌教会牧師立石賢治氏の、かつての姿であった。
保郎と飯季野は、立石賢治の告白を聞き、北光教会からホテルに帰って食事をした。ホテルのレストランには、観光客らしい数人の欧米人がいた。その英会話の聞こえてくる傍らで季野が言った。
「なあ、先生。うち立石さんの前でも言うたけど、このおばばが死ぬまで、今治にいてくれはりますか。それが心配でなあ。うち、先生に葬式して欲しいんや」
季野は縋《すが》るように言った。
「ママ」
保郎は優しい笑顔になって季野を見た。八十歳近いとは言え、この生命力豊かな季野が、自分より先に死ぬとは思えなかった。大きな重い聖書と、ジューサーやテープレコーダーを持って北海道に来たこの季野には、長い長い命が約束されているような気がした。肝臓の悪い自分には、もう十年も先は望めないと思う。が、保郎はうなずいて、
「よし、ママの葬式はぼくが出したる。けど、すべては神の御心次第や。神のなさることに、あまり注文つけんとよろし。神が一番ええ時に生まれさせ、死なせてくれるでな」
保郎はふっと、世光教会を出る時、紋付きの羽織を着て門口に立ち、駅のほうをぼんやりと眺めていたあの上田富の姿を思い浮かべた。富は、四十三年三月、この世を去っていた。上田富の死んだ時には、必ずその葬式に出ると約束した保郎だった。しかし、保郎は入院さなかのことで、その約束を果たすことができなかった。
「うれしいなあ」
葬式の司式は保郎がしてくれるという約束を得て、幼児のように安心した表情を見せる季野に、保郎はさりげなく言った。
「な、ママ、『ちいろば』の出た一昨年は、事の多い年やったなあ。恵が一年生になった。るつ子が大学に入った。栄次が璋子さんと結婚して札幌の北光教会に赴任した。いい助け手の佐藤博副牧師が伊予小松教会に行った。榛名康範伝道師が来ぃはった」
「ほんまになあ。それに先生、あの年の受洗者の多かったこと。去年は二十七人やったけど、一昨年は四十六人も洗礼受けはった」
「ほんまやなあ」
保郎はうなずいた。その中に三宅産婦人科の三宅やす代も名をつらねていることを、保郎は思った。
「先生、えろうお疲れのようですな」
「榎本先生、お顔の色がちと底黄色いように見えますが、お元気なんでしょうなあ」
「先生、無理なさらんとよろし。また入院なさったほうが、ええのとちがいますか」
礼拝後、信者たちに口々に言われて保郎は牧師館に帰るとすぐに鏡をのぞきこんだ。そう言えば顔が底黄色いように見える。白目も何やら濁って見える。保郎は確実に自分の体の中で、病気が一歩一歩進んでいるのを改めて感じた。
北海道に行って来た一昨年の昭和四十五年は、少し調子がよかった。が、その年の十二月十五日から大晦日にかけての半月、第一病院に入院した。昨年は、それでも年の前半はさほど自覚症状もなく、狼火の上がった台湾のアシュラムに、乞われて赴いた。が、十二月十七日から今年の六月まで、またしても入院を余儀なくされた。退院の時、自宅にあっても入院生活同様の日々をつづけねばならぬと、医師に厳命された。そんな中にあっても保郎は、「教会づくり入門」の出版もした。何か書くということは、病み勝ちな保郎にとって、この世に言い遺す思いでもあった。
しかし一応の覚悟はしながらも、幾人もの教会員から、顔色の悪さを心配されると、保郎の心は波立った。体力はまだまだあると思いながらも、自分に許された命が、残り少なになっているような気がした。
第一病院の院長に勧められて、それから間もない十月十七日、保郎は岡山市の岡山大学医学部附属病院第三内科に入院した。保郎の顔も体も、染め上げたように黄色くなっていた。
「脂肪肝かどうか、調べてみましょう」
なかなかよい数値が出ないこともあって、医師はそう言った。脂肪肝がどんなものか、肝硬変とどうちがうのか、よくは知らなかったが、保郎は旧約聖書イザヤ書第四八章の、
〈見よ、わたしはあなたを練った。しかし銀のようにではなくて、苦しみの炉をもってあなたを試みた〉
の言葉を示された思いだった。神が与える試練ならば、どんなに苦しくても感謝して耐えねばならない、与えられた試練を乗り越えるのが、自分の使命なのだと、素直な思いで、毎日をベッドにあった。
検査のための入院ということもあって、面会は断っていたから、ほとんど見舞客はなかった。保郎はゆっくりと聖書を読み、多くの人のために祈ることができた。
と、ある日の午後だった。ベッドに横たわっていると、面会人が来ているという知らせが入った。
(誰やろ?)
男性か女性かもわからず、保郎は面会室に出て行った。明るい秋晴れの空が廊下の窓越しに見えた。面会室に入って行くと、がらんとした面会室に、立派な身なりの紳士が大きな果物籠を提《さ》げて、保郎の来るのを待っていた。
(誰や?)
顔を見ても、とっさには思い出せなかった。が、紳士は、
「先生、お久しぶりです。ここに入院しやはったとお聞きして、びっくりして飛んで来ました」
声に覚えがあった。が、入院を聞いてすぐに飛んで来たというのに、思い出せないのだ。あちこち講演して歩いているので、その講演先での一人かと思いながら、保郎はまじまじとその顔を見つめた。
「あ、先生、ぼく、K夫です」
名乗られて保郎は仰天した。
「何!? K夫君? ほんまか、ほんまに君、K夫君か」
口髭を立てたその男の目が明るく笑って、
「先生、ぼくの顔お忘れにならはったんですか」
保郎とK夫は、テーブルを前に手を取り合った。K夫は、保郎たちの新婚当時、世光教会に同居した、あの刑務所を出たばかりの男だった。あの頃のK夫は、いかにも陰気で無口だった。時折、にやりと笑うだけで、生気のない生き方をしていた。世光教会を出る時、必ず返すからと言って幾何《いくばく》かの金を借りていったまま、今日まで会うことはなかった。人づてに、事業に成功していた話は聞いていたが、とにかく目の前に見るのは、あれ以来初めてである。
「ほうかあ、K夫君かあ。ぼく、今でも毎朝、君のこと祈っとるんやが……」
それは事実だった。目に浮かぶK夫は別れた時のK夫だったから、目の前のK夫が全く別人に思われるのだ。
「ごぶさたしてすんません。あの時から二十三年になります」
「ほうかあ、二十三年になるのかあ。したら、君も四十五、六や、立派になったなあ」
「先生のおかげです。あん時、ぼくのような者を、一つ屋根の下にあたたこう置いてくださったから……」
「……いや、全くの貧乏所帯で、ようお世話もできへんかった」
「いやいや、ご迷惑ばかりおかけしました。寝させていただくだけで、ありがたいことでした。それにしてもあの頃の先生は、肩怒らせて、元気一杯でしたがなあ。またあんなに元気になってください」
「おおきに。K夫君の奥さんも、子供さんも……」
「はあ、妻は一人、息子が二人います」
K夫は冗談を言った。
「ほうかあ。それは何よりや」
「先生、和子先生はお元気ですか」
「ああ、まあ元気や」
「るっちゃんはいいお嬢さんにならはったですやろな」
「ああ、るつ子は今、神戸女学院の音楽学科に通っとるわ。途中で大学を変えてな。再来年卒業の予定や。ぼくの子にしては別嬪や」
「ほなら和子先生に似やはったんですな」
K夫は遠慮なく言った。
「こいつ!」
二人は声を合わせて笑った。
「ところで先生、栄ちゃんはどうしてますか」
「栄次か。栄次はなあ、四年前にええ嫁さんもろうてな、今、札幌で牧師をしとるわ」
「え!? 牧師? 栄ちゃんが? あの痩せっぽちの……」
「うん、今も痩せとる」
「ほうですか。いや、あの栄ちゃんは、ほんまに優しい心の子ォやった。あの栄ちゃんなら、きっとええ牧師にならはりますわ。ぼくは栄ちゃんに、ずいぶんと慰められました」
「ほうかあ」
「栄ちゃんのおかげで、ぼくは立ち直ったようなもんですわ。優しいけど、芯がしっかりしていて、子供ながら意地もあって」
「ああ、栄次は優しそうやが、きかん気のところがあってな。小学六年生の時、福良《ふくら》の町の少年たちに襲われた。けどな、大勢を相手に死に物狂いで撃退したことがあるんや」
「ほうですかあ。そら頼《たの》もしいですな。会いたいですなあ、栄ちゃんに」
一時間近く話し合って、K夫は帰って行った。貸した金のことは、すっかり忘れているのか、K夫は言い出さなかったが、保郎は訪ねてもらっただけで、充分にうれしかった。
(やっぱり、祈りは聞かれるんやなあ)
自分のことなど、もう全く忘れているのかと思っていたK夫の出現は、保郎を喜ばせずにはおかなかった。
(昨日は昨日で、小次郎から毛布を送って来たし……)
ベッドに戻って、保郎は感謝した。いつもいつも金を借りては返したことのなかった仲根小次郎を、保郎もまた「コズロウ」などと呼んでいたが、その小次郎から立派な毛布が送られて来たのだった。それは貸した金の何分の一かも知れなかったが、保郎は心からうれしかった。善意が善意として通じていることに、大きな希望を持たずにはいられなかった。
(もしかしたら、そのうちあのAも現れるかも知れん)
保郎はそう思った。その男Aも、京都の山科の刑務所を出たという男だった。知人の紹介で来たAは、東京に帰る金がないと言った。東京までの汽車賃は、当時の保郎たちには決して小さな金ではなかった。
「必ず返します。先生、ご恩は一生忘れません」
そう言って、彼は顔を輝かせて帰って行った。
二カ月ほど過ぎた夕刻、その男が突然保郎たちの前に現れた。K夫のように、服装もりゅうとして、表情にも声にも、活気があふれていた。
「先生、この間はほんとうにありがとうございました。もしあの時、旅費を貸していただかなければ、刑務所を出たばかりのぼくは、自分は信用されていないのだと思って、きっと再び罪を犯したにちがいありません。ぼくを信じてくださって、ほんとうにありがとうございます」
彼はそう言って、深々と頭を下げた。そして言った。
「先生、ぼくはこの感謝の気持ちを、何とかして形に表したいのです。幸いぼくの家は、洋服布地屋です。どうでしょう、先生。先生方の服や、保育園の子供たちの服を、一着ずつ贈らせてはいただけませんか」
顔に真情があふれていた。保郎はこの男に金を貸す時、ためらいも疑いもあったことを恥じた。しかも自分の善意に、こんなにも喜んで報いたいという。その言葉がうれしかった。保郎と和子は、そのAに夕食を馳走して、夜の更けるまで楽しく語り合った。
「一カ月以内にはお送りできると思います」
きっぱりと言って、Aは帰って行った。
一カ月経った。二カ月経った。そして三カ月過ぎた頃、保郎は苦笑して言った。
「なあ、和子、京都から東京までの汽車賃を貸したぐらいで、何着も服をもらえる思うのは、思うほうが欲が深過ぎるわ」
が、今、保郎は、あの男とも必ずや、どんな形かで、再会できるような気がした。小次郎もK夫も、全く音沙汰がなかったのだ。多分あのAも、立ち直っているにちがいない、いや立ち直って欲しいと、祈らずにはいられなかった。
岡山の病院には、一カ月いて退院した。医師は退院する保郎に言った。
「無理をしたら、命は長くはありませんよ。しかし体に無理をかけなければ、先ず死ぬまで生きていますよ」
「ほうですかあ。死ぬまで生きていますか」
冗談めかして言った医師の言葉の陰に、保郎は重大なものを感じたのだった。
退院には、和子の迎えはなかった。保郎が、来るなと命じたのだった。既に末っ子のてる子が小学四年生、長男|恵《めぐみ》が五年生になったとはいえ、子供を置いての和子の旅行は、かえって保郎の負担になる。保郎は一人今治への船の中で、今後どうすべきか、思い惑っていた。今治教会に赴任して以来、幾度となく入退院を繰り返している。しかもどうやら、完治する見込みのない病気らしいのだ。医師の口からは、まだ明確に肝硬変であることを知らされてはいなかったが、やはり肝硬変であるような気がした。
(せめて、てる子や恵が、高校を卒業してくれていたらなあ)
保郎は、愚痴とは思いながらも、そう思わずにはいられなかった。長女のるつ子が、再来年神戸女学院音楽学科を卒業すると同時に、橋本|裕《ゆう》という青年と結婚することになっていた。橋本裕は見るからに清潔な感じのキリスト信者であり、優秀な青年であった。
(しかし、てる子はまだ四年生や)
てる子は元気のよい子だ。エネルギーが満ちあふれているような子供だ。いつであったか、いきなり保郎の太股を、いやというほどつねり上げたことがあった。あまりの痛さに、思わず保郎は、
「何をするんや?」
と、怒鳴った。するとてる子は、茶目っ気たっぷりの顔をして言った。
「何やお父さん、お父さんは牧師やろ。右の頬打たれたら左の頬を向けるのとちがうんか」
てる子は言い捨てて逃げて行った。保郎は思い出して微笑した。
つい先月、入院の前にこんなことがあった。朝、保郎が書斎で勉強をしていると、てる子が入って来た。
(学校へ行く時間なのに、何をしとるのや)
周りをうろうろしているてる子を、保郎はちらりと見た。そして、ハハンと思った。学校で試験がある時は、朝、てる子は祈ってもらっていた。こんな時刻に入って来たところを見ると、今日も試験があるのかも知れない。そう思ったが、保郎は知らぬふりをしていた。と、てる子が傍らに来て言った。
「こら、この忙しいのに、何でうろうろしとるのか、わからんのか」
男の子のような語調であった。その言葉が可愛くて、保郎はわざと、
「わからん」
と、そっけなく答えた。てる子は、
「試験があるんや。祈れ」
と言い、頭を下げ、不意に神妙に手を組んだ。保郎はそのてる子のおかっぱ頭に手を置いて祈ってやった。てる子は安心したように、にこにこして部屋を出て行った。男の子のような口はきいても、父親の祈りを信じて疑わないてる子を思うと、今、保郎は泣きたいような気がした。
(もしかしたら、てる子は父親がなくても、生きていけるかも知れへん)
だが時々喘息の発作を起こす長男の恵はどうであろうと思った。恵というと、グローブのことを思い出す。保郎は瀬戸内海の青い海に浮かぶ島々に目をやりながら、二、三年前の、そのグローブ事件を思い浮かべた。保郎が外出から帰って来ると、家の傍らで子供たちがキャッチ・ボールをして遊んでいた。ふと見ると、恵が新しいグローブを手にはめている。
(はてな?)
と保郎は思った。もうかなり以前から、恵は、「グローブを買ってえ」「グローブを買ってえ」とねだっていた。保郎にねだられる度に、「お母さんに言え」と言った。恵が和子にねだると、「お父さんに聞いてみなさい」と、似たような返事が返ってくる。買ってやりたくても、保郎たちの経済が許さなかった。しつこくねだられると、
「もう少しの辛抱や」
と、なだめた。しかし恵は、
「グローブがないと誰も遊んでくれへんのや」
と言った。
「グローブがないと遊んでくれへん? お父さんの子供の時はな、そんなもん持ってる子、一人や二人しかいなかった。その一人二人のをな、みんなで借りて野球したもんや」
保郎はこともなげに言った。その恵が真新しいグローブをはめて遊んでいるのだ。
(誰が買《こ》うてくれたんか)
和子が断りなしに買う筈がない。保郎はすぐ近くにいた子供に尋ねてみた。
「あのグローブ、恵のか?」
尋ねられた子供は、恵より年下だった。その子は、
「あれ、ぼくのや。恵ちゃん、返してくれんのよ」
と、べそをかいた。
(返さん? 盗ったんとちがうか)
保郎は直ちに恵を呼んで言った。
「そのグローブ、なんで返さんのや! まさか盗ったんとちがうやろな」
言ってから保郎は、はっとした。「盗った」という言葉は使うべきではなかったと思った。恵の目に、みるみる涙が盛り上がった。
「盗らん! 借りたんや」
一気に言って、恵はわっと声を上げて泣いた。それはグローブを買ってもらえぬ恵の、怺《こら》えに怺《こら》えてきた涙だと、保郎は気づいた。多分今までグローブ以外にも、こんな思いを子供たちにさせてきたのではないかと思った。保郎はあわててグローブを買ってやった。恵はその新しいグローブを手にして言った。
「これ、もう、誰にも返さんでええんやな。ぼくのグローブやな」
この恵のためにも、生きていてやりたかった。
支え
保郎が岡山大学医学部附属病院を退院したのは、十一月十七日だった。一カ月の入院だった。黄疸《おうだん》は治ったが、体の芯に元気がなかった。しかしクリスマスを来月に控えて、入院をつづけることは避けたかった。
退院して間もない土曜日の午後、保郎は三宅病院の一室にあった。その部屋は、院長三宅篤の私室で、十二畳ほどの広々とした部屋だった。ベッドが片隅に置かれ、バス・トイレ付きの一室だった。産婦はいつ何時《なんどき》出産するかわからないので、院長は病院に泊まりこむことがしばしばある。手術があればバスも使う。だがこの一室を、三宅篤は土曜から日曜にかけて、保郎に自由に使わせてくれていた。牧師館というところは、あまりに人の訪問が多過ぎる。土曜日は説教の準備がある。静かなひと時を、三宅篤は保郎に与えたいと思ったのだ。三宅院長宅は、通りを隔てて病院の向かいにあったから、土曜、日曜、保郎にこの部屋を提供しても、格別の支障はなかった。
土曜日の午後の病院は、どことなく静かである。外来患者の姿がないからかも知れない。保郎はベッドに寝ころんで、秋空に流れる雲を眺めていた。何か話し相手が欲しいような淋しさを感じた。やはり岡山で言われた医師の言葉が、つい胸に浮かんでくる。と、ノックをして、院長の三宅篤が入って来た。
「やあ、しばらく。榎本先生、いかがですか、ご気分は」
三宅篤は白衣のまま、傍らの椅子に坐った。岡山から帰った保郎に、今、初めて会ったのだ。
「三宅さん、留守中はどうもありがとう」
身を起こしかける保郎を、三宅は手で制して、
「そのまま、そのまま、肝臓には横になるのが、何よりですわ」
と、にこっと笑った。保郎は三宅篤の誠実な、そして純粋な性格が好きだった。以前に、三宅の妻のやす代から聞かされた夫婦喧嘩の話が、三宅を見るとつい思い出される。喧嘩をしたやす代が荷物をまとめて出て行こうとした時、「おれもお前のもんやから持って行け」と言ったあの夫婦喧嘩の話である。
篤はやす代から三年遅れた昭和四十六年(一九七一年)に受洗した。しかし、やす代が受洗した頃の篤は、キリスト教に関心を持っているようには見えなかった。が、俄《にわ》かに篤をキリスト教に向かわせる機会が到来した。
昭和四十五年、やす代の従姉が癌で倒れた。やす代もその従姉も、神戸女学院の卒業生であったが、二人が世話になった舎監の松山初子が、わざわざ神戸から今治に見舞いに来た。その松山初子のあまりの清らかさに、篤は心を打たれたのだった。この初子がキリスト信者で、別れる時に篤に言った一言が、篤の心を大きくゆさぶったのである。初子はこう言ったのである。
「肉体のお医者さまであると同時に、魂をも癒すお医者さまになってください」
(そや! 自分は体のことしか考えんかった。患者の魂がどんなふうに痛んでいるかいうことなど、思ったこともなかった)
ナイーブな篤は目から鱗が落ちた思いだった。俄然、目ざましい求道の生活が始まった。しかもその求道は、自分だけの求道にとどまらなかった。
「どうや、一緒に聖書の勉強せえへんか」
篤は病院の看護婦たちに、友人知人に、親きょうだいに、共に聖書を学ぶ誘いをかけたのである。
篤の求道は徹底的だった。先ず聖書のローマ人への手紙の研究を始めた。そのためにはバルトの「ロマ書」、ニグレンの「ローマ人への手紙」、内村鑑三の「ロマ書の研究」、高橋三郎の「ロマ書講義」等々、高度の神学書を次々に読破していった。教会の入門講座には、全職員を引き連れて出席もした。年来の親友、歯科医師|馬越脩《うまこしおさむ》をも誘った。馬越は評判の歯科医師で、常に門前に患者が列をなし、三年後の予約であっても、馬越の治療を受けたいという患者さえいた。
篤の熱心さに辟易して、病院を辞めた看護婦もいたが、篤は四人の看護婦と共に受洗した。そして、親友馬越脩をはじめ親族等六人が前後して受洗したのである。
この忙しい産婦人科医という仕事の中で、篤は友人たちを招き、毎土曜、夜の九時半からヨブ記の輪読会を、自宅で始めるようにもなった。一回に二章ずつの輪読であった。保郎は今まで多くの人々に洗礼を授けて来たが、同年度に十人の者を誘って受洗に導いた人物を見たことがなかった。
その篤が、岡山大病院を一カ月ぶりに退院してきた保郎に言った。
「大学の診察はどうでした?」
篤自身、岡山大学医学部の出身だった。
「うん、脂肪肝やないそうや」
保郎は篤の顔を見守るように答えた。が、篤の表情に動きがなかった。篤は既に保郎の状態をよく知っているのかも知れなかった。
「で、無理はあかん言われたでしょう」
「うん、働き過ぎたらすぐ倒れる言われたわ」
「…………」
「けどな、ぼちぼち使えば死ぬまで生きる言うてたわ」
保郎は笑った。篤もちょっと笑ったが、厳しい顔になって、
「先生、ほんまに無理はあかんです。長生きしてもらわんとなあ」
と、窓に目をやった。保郎には、何かを考えているようなまなざしに思われた。
「おおきに。ぼくはいつも心配かけるばかりやなあ。何しろ今治に来て以来、入院ばかり繰り返しとるんやからなあ、ほんまにすまん思うわ」
「先生、すまんなんて、そんな気ぃつかうのがあかんのや」
「しかしなあ、今治の教会は、ぼくが必要で招いてくれたんやろ。それなのに、やれ一カ月入院や、さあ半年入院やと、毎年のように入院しとるでなあ」
「そんなことより、先生、先生の病気は過労が禁物や。ぼくら医者の常識から言うと、先生はほんまに無茶ですわ」
「ほうかあ。ほうかも知れへんなあ」
言われるまでもなく、保郎もそうは思ってもみる。しかし疲労が去ると、手抜きができなくなるのだ。毎朝早天祈祷会で聖書の講義をする。病人や老人の慰問に歩く。聖書を研究する。著作をする。乞われれば遠くまで講演にも行く。「ちいろば」が出版されて以来、講演の申し込みが特に多くなった。北は北海道から南は九州まで、各地に招かれもした。去年は台湾のアシュラムにも招かれた。体に自信がなかったが、招かれれば保郎は、よほどのことがない限り断れないのだ。
(ぼくは「ちいろば」やからな)
そう思うのだ。「ちいろば」は「主《しゆ》の用なり」と言われれば、たとえキリストを背に乗せる力がなくても、遠く歩く力がなくても、素直にその用につかねばならぬと、保郎は信じている。そんな保郎の生き方に、今治教会の信者たちには賛否両論があった。
「体を大事にして、教会の説教だけしてくれればええ。早天祈祷会などで無理して欲しくない。地方への講演など断って欲しい」
そう思っている信者とは別に、自分の命を顧みない保郎の働きに、鬼気迫るものを感じ、心打たれている者もいた。いや、保郎の日曜日の説教には、批判する者もしない者も、共に深く心を打たれていた。保郎は一回一回が真剣だった。その真剣さに信者たちは圧倒されていた。この優れた牧師を、他の教会の要請に応じて講演させることは、今治教会の使命だと思う者もいた。保郎のあり方に賛成しても反対しても、保郎を大事にする思いには変わりがなかったのだ。
「話はちがうんやけどな、榎本先生。いつかぼくが先生に言うたこと、おぼえておられますか」
「どんなことやったかな」
「牧師ほど割の合わん職業はないと、言うたことがあるでしょう」
「ああ、なんでそんな割の合わん仕事についたんや言うてはったなあ」
「それが先生、わかったんですわ。先生が岡山の病院に入院されたあと、ようわかりました」
「どないなふうに?」
「あんな、先生、ぼくはあまり礼拝の出席率はええほうではないですわな。仕事が仕事やで急患もあるし。そのぼくが気がつくと、朝起きて一番先に先生のこと、祈っとるのです」
「ほう。それはおおきに」
保郎は、三宅篤が第一番に、自分の家族のことではなく、牧師の自分のことを祈ってくれている姿を思って、胸が熱くなった。
「むろん、夜寝る前にも祈ってます。病院の廊下を歩きながらも、ふっと立ちどまって祈っとるんです。家内に聞いたらな、先生、家内も先生のこと真剣に祈っとるんですわ。ぼくたちでさえそうなら、教会のどれほど多くの人たちが、先生のために祈っとるか、わからんですわ」
保郎は、のどもとに熱いものがこみ上げてくるのを感じた。
「な、先生。これがもし大会社の社長やったら、どうでしょう。ああまた入院したのかいな。もう先が短いのやないか。次期の社長は誰がなるやろな、などとえげつないことを言われるのと、ちがいますか」
「そうとばかりは言えへん思うけどなあ……けど、ほんまに牧師いう仕事はありがたい仕事や。朝起きて一番に祈ってくれる人がいるなんて、おおきに、おおきに」
保郎は言葉がつづかなかった。
「先生、信者と牧師の関係いうのは、不思議な関係やなあ。ふだんは教会を怠けていても、自分が病気になったり自分に問題が起きたりすると、妙に牧師が恋しうなるもんですな。この間、教会員二、三人と話しとったら、誰もがそんな気持ちやと話してました」
「ほうかあ」
「そうです。先生はよ見舞いに来てくれへんかなあ、先生に相談したいなあって、すぐに先生の顔が目に浮かぶそうです。そやから先生が病気になったら、みんな一心に祈るんやなあ。みんな先生が大事なんですわ」
「ありがたいもんやなあ、三宅さん」
保郎はふと、飯季野《いいすえの》の顔を思い浮かべた。三宅篤が保郎のために休憩の部屋を提供してくれるように、季野もまた、保郎用の部屋を自分の家に増築してくれた。
「この部屋はなあ、先生。先生のお部屋や。お疲れにならはったら、いつでも来てくださるとええのや」
建て増した新しい部屋に保郎を招いて、飯季野は得も言われぬ幸せそうな微笑を浮かべた。それは、京都世光教会の、今は亡き上田富が、「榎本先生の座布団」と称して、大きな紫の座布団を用意してくれた時の微笑と、同じ微笑であった。
保郎は昨年、突然背が痛み、二週間ほど入院した。それを聞いた飯季野が、八十近い自分の体をも顧みず、病院に駆けつけ、一夜保郎の背をさすりつづけたのだった。
その他、保郎が漬物を好きなことを知っていて、入院中毎朝新漬けを病室まで届けてくれた教会員、面会謝絶の札のかかった病室の前で、毎日祈っていたという信者、保郎の留守を細かく配慮して、一切の心配をかけまいとした役員たち、保郎が退院するまで、好きなコーヒーを絶った幾人かの若者たち、数え切れぬほどの心遣いを、保郎は受けていた。
しかも一旦保郎入院の報が伝わるや、北海道は旭川、札幌から、沖縄、台湾に至るまで、多くの信者たちが、りんご、干し柿、馬鈴薯、さより等々、各地の名産を送って力づけてくれるのだった。また、親たちの祈る姿にならって、「榎本先生の病気を治してください」と、幼児も小さな手を合わせて、毎朝祈っている話も聞いた。
退院すれば退院したで、信者たちはそれぞれに心を遣ってくれた。わけてもマッサージ師の白峰猛は、保郎の身を案じて、毎日のように無料でマッサージに来てくれるのだった。白峰猛は、保郎が今治教会に来てから四年目の、昭和四十一年に受洗した。その教会生活の一端を、白峰猛は「アシュラム」誌に次のように書いていた。
〈私共の今治教会は、愛の教会だと言われていますが、私共盲信徒にとりまして、本当に天国のような所であります。聖日の礼拝には私たちの席が設けられ、そこには点字の聖書や讃美歌が備えられてあって、私たちは手ぶらで行きさえすれば、よいようにととのえられています。
何よりうれしいことは、今治教会には点訳グループがありまして、多くの兄弟姉妹が尊い時間を割き、毎週の週報や、いろいろの信仰の本を点訳してくださることです。また点字週報に写しきれないところは、録音週報が出され、細かいところまで知ることができます。全国どこの教会へ参りましても、これほどまでに盲人のためのサービスが行き届いている所は他にないと思います〉
こう書いた白峰猛は、毎朝の早天祈祷会にも出席していて、固い信仰の持ち主だった。盲人の友にも熱心に伝道しているこの信徒は、ある時保郎にこう言ったことがあった。
「先生、わたしは毎月、朔日《ついたち》の日の収入を神さまに捧げることにしています」
それを聞いた保郎は、深く感じ入ったものだった。一カ月の最後の日の収入を献金しても、最初の日の収入を献金しても、金高にはそう変わりはないかも知れない。しかし、月の最初の収入はいわば初物である。そこに、最もよいものを、真っ先に神に捧げようとする信仰の姿勢があった。その白峰猛に折々マッサージをしてもらいながら、保郎は学ぶことが多かった。
それはともかく、こうして一つ一つ考えていくと、信者たちに祈られ、支えられている牧師という職の恵みを、保郎は改めて感謝せずにはいられなかった。元気になれるものなら、早く元気になりたかった。が、月日が経てば治るという保証のない病気である。治りたいと思う半面、倒れぬうちに根限り、文字どおり命がけで働きたいという思いが、頭を擡《もた》げてくる。
三宅篤が椅子から立ち上がった。保郎と三宅の目が合った。三宅が言った。
「先生、ぼくでできることがあったら、いつでも遠慮なく言うてください」
「おおきに」
保郎は三宅の声音に、並々ならぬ真情を感じて、深くうなずいた。
「では、ごゆっくりおやすみください」
片手を上げて三宅が出て行った。廊下を遠ざかるその足音に、保郎は耳を傾けた。
三宅が言った「ぼくでできることがあったら、いつでも遠慮なく言うてください」との言葉は、具体的には何を指しているのかわからない。しかし、三宅という人間は、決して口先だけでものを言う人間ではないと、保郎は思った。あの言葉の中には、自分が、今、想像することのできない深い配慮がこめられているような気がした。
(何しろ、親族、友人、看護婦たち十人をたちまち洗礼に導いた人やからな)
保郎は受洗の日の三宅篤の姿を思いながら、胸の中に呟いた。
それから二、三日して、ためゑから手紙が来た。達筆なその筆跡を見ただけで、保郎はあたたかいものを感じた。
〈岡山に見舞いに行ったかつみから、様子を聞きました。かつみは、
「お兄ちゃんにはふるさとがあってないようなもんやから、可哀相やなあ」
と、涙をこぼしていました。お父さんは、
「何を言うとるか。保郎のふるさとは、生まれ故郷のこの神代《じんだい》や。いつでも遠慮のう帰って来い。あの保郎の畠に、でっかい家をでんと建ててやったら、休みたい時には、いつでも帰って来れるじゃろう」
と言ったので、かつみも寿郎も思わず笑いました。お前の畠は、五十坪そこそこやもなあ。五十坪の土地に、でんとでかい家を、どうしたら建てられるのやら、相変わらずお父さんは、言うことが大きいと、みんなで笑いました。けど、まじめな話、二十坪の家でもよければ、きょうだい力を合わせて、建ててやりたいと話し合いました。……〉
ここにもあたたかい支えがあることに、保郎はしあわせを感じたのだった。
保郎は机に向かって、しばらく目をつむり、心を静めようとしていた。十一月も半ばの肌寒い夜であった。保郎は今しがた教会から戻って来たところであった。今夜も臨時役員会があったのだ。
ややしばし瞑目していた保郎は、心が静まらぬままにペンを取った。親友の林恵《さとし》に手紙を書こうと思ったのだ。保郎と林は、同志社の神学部にいた時、同じ世光寮に住みこんで、夜を徹して祈り合った仲であった。保郎も林も共に、お互いを親友として二十幾年間をつき合って来た。保郎が入院した時、林恵は、小学校校長としての激務の中を、高知から駆けつけ、一晩徹夜で看病してくれた。林は何を言ってもわかってくれる男だった。祈ってくれる男だった。保郎の言葉を、少しの誤りもなく受け取ってくれる男だった。保郎は便箋を開いた。
〈林君、
ごぶさたしてすまん。相変わらず元気のことと思う。……〉
保郎は幾度か訪れたことのある高知の山村の家を思い浮かべた。林恵の妻に初めて会った時、保郎は思わず目を瞠《みは》った。稀に見る美しい女性だったからである。奥村光林の妻の美しさとはまたちがった、しかし信仰において一脈相通ずる美しさであった。
〈昨年はぼくのために徹夜して看病してくれたことを、今改めて思い、つくづくぼくは幸せな男だと思った。
ところで、ぼくの名を取ってつけた保郎君は元気かね。さぞかしぼくに似て、いい子だろうと思っているよ、呵々。君の名を頂戴したわが家の長男坊|恵《めぐみ》も今は六年生、君の保郎君よりはずっと年下だ。
実はね、去年岡山の病院で腹腔《ふくこう》鏡で検査された時、ぼくの病気が肝硬変であることが、はっきりしたらしいんだ。このことは、ぼくもとうに覚悟のことだった。にもかかわらず、恥ずかしい話だが、何とか治りたいという思いに捉われたものだ。祈りによって癒されるのではないかと、切実に祈りつづけもした。だが、そんな祈りの中で、ぼくは幾度自分の不信仰を思い知らされたかわからない。
笑ってくれたまえ。祈りながらもぼくは自分の死を度々思ったのだ。ぼくの死んだあと、子供を抱えて生きていかねばならない妻の姿を幾度も思った。やはり治らねばならぬと思う。思う下から、いや、治らぬと思う。ま、そんなことのくり返しだった。
ところがね、今年の三月十三日早朝、ぼくはいつものとおり一人聖書を読んでいた。列王紀上の第一九章だった。アハブ王とその妃イゼベルに命を狙われた預言者エリヤが、それを恐れて荒野に逃げた、あの箇所だよ。聖書には「エリヤは恐れて、自分の命を救うために立って逃げ」たと書いてある。権力者アハブと毒婦イゼベルの残酷さを知っていれば、恐れて逃げるエリヤの気持ちはよくわかる。確実に自分の命の危機が迫っているわけだからね。病気のぼくには、その恐れが切実にわかった。しかしね林君、つづいて九節に書かれてある神がエリヤに言われた言葉に、ぼくは鉄槌を下された思いだった。敵を恐れて洞穴に隠れているエリヤに、神は、
「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか」
と言われたと、聖書には書いてあるね。ぼくはこの聖言《みことば》に、言いようもない恥ずかしさを感じた。洞穴に隠れて、戦々兢々としているエリヤの姿が、自分の姿に思われたのだ。
林君、ぼくはね、君も知ってのとおり、全く小胆な男なのだ。キリストの力が注がれなければ、何一つできない弱虫なのだ。そんなぼくを弟や妹たちはよくわかっていて、「怖《お》じみそ」とよく呼んだものだよ。
ぼくは自分の肝臓がただならぬ病気であることを知ってから、いつも戦々兢々としていた。エリヤのように、じっと洞穴に隠れていた。「先ず療養だ」と、つい御身大事が先に立った。肝臓には寝ているのが一番いいと言われて、すぐに横になった。そして、ぐずぐずと悩んでいた。
聖書には、「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか」と言われた神に、エリヤが、「彼らはわたしの命を取ろうとしています」と訴えているね。その時、神は言われた。
「出て、山の上で主の前に、立ちなさい」
ぼくはその言葉にも一撃された。林君、エリヤは、「敵が命を取ろうとしている」と神に訴えたのに、神は、「出て、山の上で主の前に、立ちなさい」とだけ言って通り過ぎたのだ。
ぼくは、これを正《まさ》しく神が自分に語られた言葉だと思った。ぼくが聞いたのは、「出て来なさい」なのだ。「じっと寝ていなさい」ではないのだ。「出て来なさい」の言葉を自分への声として聞いた以上、ぼくは神の声を聞き流すわけにはいかないのだ。聞き流してはならんのだ。
ぼくはね、林君。その時出て行く決心をした。徒《いたず》らにベッドにしがみつく生活から、立ち上がることにした。出て行って、死ぬかどうか、それは知らない。只ぼくは、その時こう思った。ぼくは死んでも、神は死に給わないとね。そう思うと、大きな平安が与えられた。これは不思議だったよ。「未来のことは神の領分だ」と言った人がいる。決定なさるのは神なのだ。ぼくが、いつ、どこで、どのような死に方をするか、それは知らない。知っているのは、神は必ず御心《みこころ》をなされるということだ。御心どおり、事は運ばれるということだ。
そう思うとね、自分のようなちっぽけな人間の死も、その死によって御心が成るということなんだ。これは実に光栄なことじゃないだろうか、林君。こうぼくは思った。ぼくはあの三月十三日を決して忘れることはないだろう。
しかしね、「出て、山の上で主の前に、立ちなさい」の聖言《みことば》は、ぼくの場合、一体、何を意味するのか、そう考えた。
ぼくには、今治教会の牧師としての使命がある。この教会は、実に愛に満ちたすばらしい教会だ。ぼくにとっては地上にこれ以上の教会があるとは思えぬほどの、すばらしい教会だ。が、もう一つの使命をぼくは持っている。それは今治アシュラムの責任者としての使命だ。五回六回と回を重ねてきた今治アシュラムは、全国各地からの二百五十名以上もの信者や教職者の参加によって、今や定着しつつある。しかもこのアシュラム運動から派生して、NCCアシュラム、呉アシュラム、そして台湾アシュラムと、次第にアシュラムの火が広がりつつある。
林君、ぼくは祈った。真剣に祈った。愛する教会にとどまるべきか、それともアシュラムの運動を広げていくべきか、神の示しを願って切実に祈った。その両方を全うする体力は、ぼくにはない。とすれば、病人のぼくは体力に応じて、精神的にも物質的にも、今治教会に安んじてとどまるほうがよいのではないか。そうも思った。が、一方アシュラム運動のことを考えると、この運動はどう考えても、神の御心だという確信を揺るがすことができないのだ。アシュラムは、君も知ってのとおり、日常生活から退いて、丸々三日間、神の前に過ごすのだ。参加者は銘々神に導かれて聖書を読み、そして祈る。ぼくはいつも、「講師は神」と言っているのだが、この会に参加した者は実に、不思議なほどに信仰が深められるのだ。喜びに満たされるのだ。牧師たちも信徒たちも、来年また集まろうとの希望を持って、帰っていく。ぼくの知る限り、参加者がこんなに生き生きとされる集会は、珍しいような気がする。それは本人の証言ばかりではなく、周囲の人が証言しているところなのだ。
ぼくは、この一人一人が神の声を聞き、神の声に従う、即ち聴従の喜びを、アシュラム運動を通して、広げていきたいという強い願いを持っている。
今治教会を牧すべきか、アシュラム運動に挺身すべきか、悩み、かつ祈った結果、ぼくはアシュラム運動に専心する道を選んだ。そしてそのことを、先ず妻の和子に告げた〉
それは今年の三月のことだった。一日の仕事を終えて寝につこうとする和子を、保郎は呼んだ。
「話があるんや、和子……」
保郎は自分の気持ちを和子に告げた。たちまち和子の顔がこわばった。
「何やって、あんた、今治教会をやめるんやって!? そんな、いややわ、うち。あんたが何度も何度も入院して、何カ月や半年やと休ませてもろうて、その度に親身も及ばぬ親切を尽くしてくださる教会の人を、それでは裏切ることになるやないの」
「裏切るなんて、そんな」
保郎は言葉を尽くして説得にかかった。じっと聞いていた和子が言った。
「あんたなあ、京都の世光教会にいた時、急に言い出したことがあったわな。来月から、教会からの謝儀だけで食べていく、保育園からもろうとる給料は全額献金するんや言うて。いつもいつも足りないだらけやったけど、ようやく何とか福良《ふくら》のお母はんのところに援助頼まんと、やっていけるかなあ思うた時、あんたそう言うたんよ。あんたは生活がぬくとうなってくると、そこから飛び出したくなる性格なんやけど……」
半ば呆れたような、半ば感歎したような語調で和子は言い、吐息をついた。
「すまんなあ。ほんまにそうや。ぼくはな、ぼくらばかり恵まれていて、ええんかなあ思うてしまうんや。こないだもなあ、こんな短歌見て、ぎくりとしたわ。
神の御子《みこ》けだもの小屋に生れしさま
炉辺《ろべ》にぬくぬくとゐて吾は読む
という歌な。ほんまやなあ思った。神の御子がけだもの小屋に生まれ給うた。神の御子がぼくたちの罪を負うて十字架にかけられた。その聖書をな、ぼくらとは何の関わりもないかのように、ぬくぬくとのんきに読んでいるだけなんや。ぼくたちは、何のええ行いがなくとも救われる。けど、救われたあとは、それでええのやろか。何もせえへんで救われたからというて、救われたあとも何もせえへんでええのやろか。救われた感謝の表れが、何か出てきて当然やないのか」
その時のことを思い出しながら、保郎は手紙をつづけた。
〈林君、こうしてぼくは、遂に三月末、突然教会の役員会に、自分の真意を述べたわけだ。九十余年の歴史と、五百名の教会員を持つ今治教会の、主任牧師としての責任を負えなくなった事情を述べたのだ。アシュラム運動に召命を感じたことを、率直に述べた。そして、新しい牧師を探してくれるようにと、ぼくは希望した。
昭和三十八年(一九六三年)に今治に赴任したぼくは、今年で、ちょうど十年になる。役員会は驚いた。伝え聞いた教会員は、怒った、泣いた、惜しんでくれた。妻も泣いた。ぼくも泣いた。
役員会は神の御心を求めて、幾度も幾度も慎重に審議してくれた。そして、ぼくの命の短いこと、そのぼくがアシュラム運動に召命を感じたことを、大切に思ってくれたにちがいない。遂にぼくの辞任を、受け入れてくれることになったのだ。但し、後任牧師が得られるまで、今治に留まって欲しいということだった。これが春のことだった。
この辺のことは風評で、君の耳にも入っていたかも知れない。この時点でぼくは、妻子を抱えてどこに出て行くか、定まってはいなかった。ぼくの生活の拠点……アシュラム運動の拠点が定まっていなかった。どこかの教会に転じて行くのであれば、会堂と住宅は小さくとも与えられるのがふつうだ。しかしアシュラム運動は会員制度ではない。ぼくたちは、ぼくたちの家を先ず決めねばならない。アブラハムの、「その往く所を知らずして出て往けり」のあの信仰は、神への全き信仰がなければできないことだと、改めて学ばされた。
なあ林君、本当に行くべき場所が皆目見当がつかんということは、これは淋しいことだよ。住所不定という言葉があるが、住所がないという人の淋しさ、辛さが、ぼくにも少しわかったような気がした。
ぼくはふるさと淡路の神代《じんだい》に、五十坪ばかりの土地を持っている。よほどそこに、小さな家でも建てようかと思った。が、それは、神を頼るのではなく、両親や兄弟、親戚の人々のあたたかさに頼ろうとする下心だと思って、やめにした。
こうして、今日まで、後任の主任牧師はなかなか決まらなかった。ぼくは今治教会を無牧にして抜け出すわけにもいかず、さりとてアシュラム運動を捨てるわけにもいかず、遂に辞任を申し出てから、半年が過ぎたのだ。その間、教会員から、今治の地にとどまっているようにと、どれほど哀願されたかわからない。君も知っている飯《いい》のママや、三宅医師夫妻や、白峰マッサージ師、宮崎令子姉、宇高昇夫妻、その名を挙げ得ぬほど多くの人たちが、ぼくの意を翻そうとして、たくさんの言葉を使ってくれた。
そして八カ月経った今、またしても幾度も懇談会や臨時役員会が持たれ、新たな結論を見るに至ったわけだ。林君、どんな結論だと思う? ……〉
保郎は胸に熱いもののこみ上げるのを感じながら、ペンを走らせた。
〈八カ月経っても、なかなか後任牧師が与えられない。ということも一つの神の御旨《みむね》ではないか。また、今治アシュラムは今回で七度目を迎え、多数の参加があった。年々ふくらむ今治アシュラムの現状を見るに、参加者にとって、今治はもはや霊的なふるさとになったとも言える。
かくなる上は、このぼくが今までどおり主任牧師の位置にとどまりながら、アシュラム運動にも力を尽くしていくべきではないか。万一このことによって、牧師の働き、アシュラム運動に何か問題が生ずる時は、役員信徒は、全員一致してこれに当たるべきではないか。ここにこそ今治教会の使命があるのではないか、との結論が出たわけなのだ。
林君、ぼくはしあわせ者だよ。ぼくのように病気ばかりしていて、何の役にも立たんような牧師を、こんなにも一致して、協力してくれる。こんな豊かな愛の教会が、どこにあるだろう。ぼくはみんなに言った。
「ぼくがアシュラム運動に真正面から取り組めば、各地のアシュラム運動から招かれることも一層多くなるんやが、それでもええか」
するとな、
「そのことは覚悟の上や。それも私たちの教会の使命と感謝して、先生を送り出さしてもらいます」
と言ってくれてね。
それでぼくは、しばらく今治教会の牧師として働きながら、その教会員の祈りと働きの支えによって、アシュラム運動を展開することになった。一体こんな虫のいい話って、あるだろうか。ぼくの働きに、こんなに深い理解を示してくれた教会員たちに、どんなに礼を言っても、言い尽くせない気がするのだ。
しかしな、林君。これはぼくにとって大きな重荷だ。五百名の牧会だけでも、大変なのだ。アシュラム運動一つだけでも大変なのだ。ぼくは今、掛け値なしに死と対決しなければならぬ思いでいる。
ここで林君、君と交わした若い日の約束を、改めて確認しておきたいと思う。世光寮にいた時、一晩祈り明かした暁け方、君が死んだら、ぼくがその葬式の説教をする、ぼくが死んだら君が説教すると、固く約束した筈だ。君は神学部を中途で去り、小学校教育に今日まで力を尽くしてきた。君は牧師ではない。しかし、その牧師でない君に、説教してほしいと、ぼくは改めて願う。君の信仰をぼくは尊敬する。その純粋さ、巌のように固い信仰は、ぼくにはないものだ。今、ここにこう頼むぼくの気持ちを、君はよくわかってくれると思う。冗談ではなく、深いところでよく受けとめてくれると思う。
林君、本当の友人というのは、相手の祈りの課題を知っていることだと、君は言ったことがあるね。始終会わなくても、何年に一度しか語り合わなくても、相手の生き方の根本がわかっている。それが友人だよね。
あの中国で、軍隊時代毎日キリストのことを語ってくれた奥村光林を、君を思う時、なぜか一緒に思うのだ。いろいろなよい先輩、助け手のあることを感謝しながら、少し長くなったが書いてみた。
美しい奥さんによろしく。いや、信仰篤き奥さんによろしく。君も体を大切に〉
ゲート
「なあ、裕《ゆう》さん、うちのお父ちゃんて、ほんまに幸せが背広着とるような人やわなあ」
長女のるつ子が、夫の橋本|裕《ゆう》に新妻らしい初々しい視線を送りながら言った。
「ほんまやなあ」
裕はいつものとおり静かな声で答え、その澄んだまなざしを保郎に向けた。裕は口数が少なく、声がいつも低い。大きな声で華やかに語るるつ子とは、対照的だった。
橋本裕とるつ子は、去年(昭和四十八年)結婚したばかりだった。アメリカの伝道旅行から帰った保郎と和子を案じて、二人は今日|吹田《すいた》から今治に訪ねて来ていた。
橋本裕は関西《かんせい》学院大学の文学部を卒業し、ドクター・コースに通っている学生である。初めてるつ子に裕の存在を打ち明けられた時、保郎は不機嫌だった。
(いったい、どんな男やろな?)
多くの父親が、娘の恋人に抱く敵意にも似た思いが、保郎の胸をかすめた。その点保郎もまた、子煩悩なふつうの父親だった。
だが、その裕に会って、保郎は一目で裕に惚れこんだ。裕が、橋本家五代目のクリスチャンであることが、先ず保郎を喜ばせた。同時に、中学時代から今に至るまで、教会学校及び教会の礼拝にはオルガニストとして奉仕してきたことも、保郎を満足させた。その時のるつ子の話では、裕は幼い時から音楽に秀でて、こよなく音楽を愛し、ほとんどすべての楽器を弾きこなし、作曲、編曲をし、指揮をもしているということだった。
るつ子も音楽が好きで、一旦|聖和《せいわ》女子短期大に入学しながら翌年中退して、その後神戸女学院音楽学科に入学したほどだった。そのるつ子のためにも、裕の音楽の才能を保郎は喜んだ。
が、それらにもまして保郎が裕に感じたのは、控え目で無口ではあったが、誠実な男らしさにあった。静かだが、生き生きとした情熱が感じられる若者だった。そして、それ以来会う度に、裕の中に新しい長所を保郎は発見するのだった。
今、るつ子が保郎を、「幸せが背広着とるような人」と言ったが、六年生のてる子がいたずらっぽく言った。
「うちのお父ちゃんは、背広など滅多に着いへんわ。ステテコや半纒着とるほうが多いわ」
途端に保郎とるつ子が、声を立てて笑った。ちょっと遅れて和子が笑い、裕は声を立てずに笑った。笑いがおさまったところで、るつ子が言った。
「けどなあ、お父ちゃん、誰が聞いたかて驚くわ。お父ちゃんは今治に来て、十一年やろ。その間何遍入院したと思う? そんな病気ばかりしとる牧師を、何も言わんと置いといてくれる教会が、どこにあるやろ」
「ほんなこと、るつ子に言われんでも、ようわかっとるわ。なあ、和子」
和子がうなずくと、るつ子は言葉をついで、
「その病気牧師がよ、アメリカに招かれて伝道に行く言うたら、ふつうの信者なら腹が立つとちがう? それなのに今治の信者さんたち、今年は銀婚式やからお母ちゃんも一緒に行きなさい言うて、旅費やら滞在費まで、全部出してくれたんやってな。うち聞いて、感激して泣いたわ」
と、語尾をうるませた。るつ子の言うとおりだった。昨年の秋以来、教会は正式に保郎のアシュラム運動を認め、更に積極的に協力することになった。国内の各地から、アシュラムに招かれれば、教会は今まで以上に快く保郎を送り出すことにした。
昨年秋には盛岡アシュラムがあった。盛岡生活学園の理事長は細川|泰子《たいこ》と言ったが、熱心な信者で、アシュラムにも積極的なメンバーであった。その学園のシュレーヤ博士夫妻はアメリカ人だった。この夫妻が保郎に言った。
「私たちは日本の教会とアメリカの教会とのかけ橋になりたいとの念願を、抱きつづけてきました。ぜひアメリカに伝道旅行に行っていただきたいのです。アメリカの教会は大喜びであなたを招待するにちがいありません」
保郎はそれまで、アメリカに伝道に行くなどとは思ってもみなかった。確答を避けて今治に帰った保郎のもとに、シュレーヤ博士から問い合わせの手紙が来た。新年、すぐにもアメリカに行ってもらえないかということであった。役員会は直ちに協議した。保郎の体を案ずる者もいた。が、保養するつもりで、英気を養ってくるのもいいではないか、という意見が多かった。それどころか、銀婚を迎える二人が、ぜひとも、共に旅行して欲しい、一切の費用は教会が持つという驚くべき申し出があった。保郎一人の訪米だけでも苦情が出るかも知れぬと思ったのに、今治教会の信者たちの愛は深かった。
「うちらの教会の牧師がアメリカから招かれるなんて、教会の誇りやわ」
「牧師が見聞を広めたら、ひとまわり大きくなられるやろ。結局は教会のためや」
などと、保郎や和子が負担を感じないように、思いやりのある発言をする者もいた。こうして保郎と和子は、アメリカに一カ月余り伝道旅行をすることとなった。今治の教会員たちは、保郎がちょっと遠く旅行する時は、駅や港にゲートをつくり、「榎本先生、行ってらっしゃい」と、大きな文字で書き、花などで縁取って賑やかに送り出す。帰って来る時も、歓迎のゲートをつくって待っている。そんな情のある教会だった。保郎たちは教会員のつくったゲートをくぐって、アメリカにも飛び立ったのだった。
今、るつ子に言われるまでもなく、それらの一つ一つが保郎には身に沁みていた。
「で、どうやった、アメリカは?」
るつ子が尋ねた。
「そうやな、一番印象に残ったのはサンフランシスコの中華帰主教会いう中国人教会に招かれた時やな」
ここの牧師は呉徳賢という牧師だった。三年前、保郎が台湾のアシュラムに招かれて行った時に、知り合った牧師だった。保郎がアメリカに来ることを伝え聞いた呉牧師は、バークレーの彼の教会で、ぜひアシュラムを開催して欲しいと言って来たのだった。が、保郎はこの牧師から、思いもかけぬことを聞いた。中華帰主教会の役員会は、保郎を招くことに、全員反対したというのである。
「われわれ中国人は、日本人から信仰の導きを受けるつもりはない!」
誰一人、戦争中の日本人の残虐な仕打ちを忘れてはいなかった。呉牧師は、
「戦争は三十年前のことだ。まだその恨みを持ちつづけるのか。君らはクリスチャンではないか」
と説得に努めたが、欠席する者が少なからずあるという話だった。保郎はこの時、三十年前の日本人の罪が、まだ生々《なまなま》しく生きていることを痛感させられた。無理矢理この老牧師になだめられて出席する中国人に、何を語ることができるのか。保郎は思い惑った。よほど辞退すべきかとも思った。が、謝罪するだけでも意味があると思って、保郎はその夜の集会に出て行った。
会員七十名と聞いていたが、三十名ほどの中国人が集まっていた。一人として、あたたかいまなざしを向けてくれる者はいなかった。どの顔も冷たかった。固かった。当然だと保郎は思った。殴られ、罵られないだけ、まだましだと思った。保郎は自分が華北に、そして満洲に、軍人としてあった日を思いながら、謝罪の思いを随所にこめて語った。
「そしてどうしたん?」
六年生のてる子が、保郎の膝をゆさぶって聞いた。
「うん、その日、会が終わった時な、みんなお父ちゃんの手を固く握ってな、『謝謝《シエシエ》』『謝謝《シエシエ》』言うてくれたんや。ありがとうありがとういうことや。そしてな、二日目にはみな来てくれたんや。今度は笑顔でな。あの笑顔見て、お父ちゃん泣きたかった。ああ日本人の罪を、みんな許してくれたんやな。父母や、きょうだいや、わが子を殺された恨みを、消してくれたんやな、そう思うてな……」
二日目の集会では、保郎の言葉に一層の感謝の思いがこめられた。その夜、教会の前に、一同が輪になって「主の祈り」を唱え、讃美歌四〇五番の「かみともにいまして」の、別れの歌をうたってくれた。保郎も共にうたいながら、胸が張り裂けそうであった。それはまさしく一つの輪であった。誰もが喜びに満たされ、感動に涙ぐみ、正にキリストにあるきょうだいの愛に満たされていた。保郎は、謝礼としてもらった百ドルを、その教会に捧げた。保郎は、神の前に聖書を学び、神の前に祈るアシュラムの働きの決して小さくはないことを、しみじみと感じたのだった。
「な、お父ちゃん、アシュラムの話ばかりせんと、ディズニーランドの話、またしてえ。ディズニーランドで見た幽霊の話、またしてや」
「あらまあ、お父ちゃん、ディズニーランド見て来たの」
てる子の言葉に、るつ子が声を上げた。保郎は照れくさそうに笑って、
「うん、お父ちゃんの土産話待っとるの、大人ばかりやないでな。幼稚園の園児たちもいるでな」
と言いかける言葉を、てる子は奪って、
「うそや! お父ちゃんがディズニーランド見たかったんや、ほんまに子供みたいやったって、お母ちゃん言うてたわ」
みんなは再び笑った。和子が言った。
「もうてる子にはかなわんわ。けどなあ、うちのお父ちゃんは、ほんまに子供のような人や。小さい時、お店の手伝いばかりして、ろくに遊んだことがないからやろか。ディズニーランドの出口のないエレベーターに入った時な、『これ、ほんまに出られるやろか』と、大きな声で心配したり、骸骨がぬーっと動き出すと、『ヒャーッ』と悲鳴上げたり、お母ちゃん、ほんまに恥ずかしかった」
和子の言葉にるつ子がうなずいて、
「そりゃ、お父ちゃんらしいわ。お父ちゃんは怖《お》じみそやし、子供のまんまのところが残っとるから、子供と同じくらいに驚いたり、喜んだり、怖がったりするんや」
と言った。
ディズニーランドでは、海賊船が保郎の一番気に入った場所だった。
「あんな、暗ーい、くらーい海なんや」
保郎が声をひそめ、辺りをうかがうように、そっと背を丸めると、てる子のみならず大人までが、たちまちその場にいるかのように、惹きこまれる。
「こらーっ!」
大声を出して襲いかかるような身ぶりをすると、てる子が和子にしがみつく。保郎の話術、表情は正に天賦の才と言えた。幼稚園の子供たちに話をした時、「お母ちゃーん」と泣き出した子供もあって、保郎は、「話や、只の話や」と笑って見せねばならなかった。花や小鳥のうたう真似さえも、保郎が真似ると、鶯《うぐいす》がうたい、バラがうたうように見えるのだ。
話し終わって保郎は言った。
「なあ、裕君。ぼくなあ、ディズニーランドはやっぱり、大人かて行くところや思うたわ。こんなにも一所懸命子供たちを楽しませよう、喜ばせよう、驚かせようと、一所懸命子供のことばかり考えて作った世界がある。そう思って、ぼくは感動したんや。あれは金儲けの発想から作った子供の国やろか、決してそうやない思うわ。そりゃあな、何にでも文句を言う人問は、ディズニーランドにいろいろ批判するやろ。一心になって始めた人たちより、自分が偉いかのように言う人もあるやろ。けど、ぼくは感動したわ」
「感動、感動、感動なあ」
ディズニーランドの話が終わったので、てる子はうたうように言いながら出て行った。みんなは何となく微笑して、てる子のうしろ姿を見送った。
脈絡もなく、保郎はハワイのマキキ教会の聖歌隊を思った。樋口信平牧師が牧する日本人教会であった。
「そうやあ、この話は、ぜひとも裕君とるつ子に聞かせたかったんや。な、和子」
いきなり、言われて和子は、
「何の話や?」
と保郎を見た。
「ほら、マキキ教会の聖歌や」
「ああハワイのあの時なあ」
和子が大きくうなずいた。
アメリカの日系人教会には高齢者が多かった。ハワイのみならず、ロスアンゼルス、シアトルの教会も同様だった。この老人たちは、自分の子供や孫のように、つまり二世、三世のように、達者に英語を操る者が少なかった。家族揃って日本語で話し合えるという家庭は少なかった。英語を話す二世三世が多くなって侘しいという高齢者たちの言葉を幾度か聞いた。
「大変やなあ」
僅かな旅行の間にあっても、保郎たちは言葉が一つでないことに不自由を感じた。まして長年住む人たちの不自由さは、想像を超えるにちがいない。辛さは言葉だけではなかった。移住して来た若い頃から、今に至るまで、幾度「ジャップ」という言葉を投げつけられてきたことだろう。異郷に老いていくさまざまな淋しさを、保郎は思わざるを得なかった。
それはともかく、ハワイに着いたばかりの時、その気候のちがいに驚いた。真冬の日本から六時間余りで飛んで来たハワイが、初夏の気候であることに驚いて、浮き浮きした旅心になったのだ。
ハワイでの第一回目の伝道集会の夜だった。講壇の椅子に坐った保郎の目に、白いガウンをつけた聖歌隊が、静粛に入堂してくるのが映った。保郎は思わず、「おっ!」と声を立てるところだった。聖歌隊といえば、日本では二十代三十代の人たちが、その大半を占めている。が、そこに現れた婦人たちの多くは白髪であった。
「なあ、るつ子、ほんまに驚いたんやで。あとで聞いたらな、平均年齢が……何歳や思う? 何と聖歌隊の平均年齢は七十五歳やったんや」
「へえーっ!? 七十五歳! ほんまか、お父ちゃん、信じられへんわ」
るつ子が目を瞠《みは》った。和子が言った。
「るつ子、ほんまや。しかもな、ハワイのマキキ教会だけではあらへんのや。ロスでも、シアトルでも、聖歌隊の平均年齢は似たりよったりやったわ、なあ、あんた」
保郎はうなずきながら、裕に目をやった。裕は白皙《はくせき》の美青年である。裕はその端正な顔を俯《うつむ》けて、何か考えているようであった。その顔には驚きの表情も微笑もなかった。その裕に和子が気づき、るつ子が気づいた。るつ子が頬を寄せて、
「どうしたん? 気分が悪い?」
と、不審そうに言った。裕ははっとしたように顔を上げて保郎と和子を見、
「すんまへん。ぼく、感動したんです」
と、言葉を切ったが、すぐにつづけて、
「ぼくは中学生の時から、オルガニストとして奉仕してきました。けど、今のお話をお聞きして、頭を殴られたような気がしたんです」
「…………」
「……讃美歌は、お父さんがよう言われるように、神への信仰告白です。どんなに歌がうまくても、信仰がなければ、本当の讃美歌はうたえへんと思います。平均年齢七十五歳と言えば、練習するだけで大変や思います。神への本当の謙遜と真の讃美がなければ、とてもつづけられるものではない思うのです。その人たちは、年を取っても信仰の世界では、隠居しとらんのやと思います。平均年齢七十五歳いうその事実に、ぼくはその人たちの信仰に打たれたのです」
ふだん無口な裕には珍しく、熱した語調だった。
「なるほど、よう言うてくれたね、裕君」
保郎は改めて裕を見直す思いだった。裕が音楽に秀でていればいるほど、今の言葉は保郎には重く聞こえた。裕が聖歌隊に求めているものは、単なる技術ではなくて、真の信仰であることを知らされたような気がしたのだ。
(裕君は、ええ男や。るつ子は恵まれた結婚をしたわ)
保郎は思った。五年と経たぬうちに、確実に自分は死んでいくであろう。しかし、この裕ならば、自分の死後、必ずや和子、るつ子、恵、てる子の大きな支えになってくれるにちがいない。保郎は神の前に跪《ひざまず》いて感謝したい思いであった。
が、この時保郎は知らなかった。裕の体内に恐るべき癌がひそみ、保郎のあとを追うように、裕もまたこの世を去って行くということを。
(やっぱり、この教会にとどまるのは、無理やな)
この数カ月、幾度も思ってきたことを、保郎は今もまた思った。今治教会という所は、二度と巡り合うことのできぬあたたかい集まりだと思う。一昨年の昭和四十八年(一九七三年)春、一旦は辞任の意思表示をした保郎に、思うようにアシュラム運動をしてもよいから、牧会をつづけて欲しいと、教会は言ってくれた。が、一教会の牧師である以上、全国各地で催されるすべてのアシュラムに出席することは不可能だった。
アシュラムは、今、台湾をも含めて、十五カ所で定期的に開催されていた。アシュラムはその性質上二泊三日を要したから、出入りの時間を入れると、かなりの日数を費やすことになる。その上、アメリカ、ブラジルからもアシュラムを開催して欲しいという要請が、幾度も来ていた。
(今治教会の牧師として、これ以上とどまるのは物理的に無理や)
そう思って、保郎は去る五月二十二日、教会の役員会に辞任を文書をもって申し出た。絶ち難い思いが強かっただけに、保郎はつとめて事務的な文面を書いた。
〈先日、役員会において、私の今後のことにつき、役員懇談会を持ってくださることになっておりましたが、その後教会や幼稚園の現状について、私なりに検討いたしましたところ、教会、幼稚園に対する私の務めの終わったこと、否、むしろ、これ以上とどまることは、キリストの体なる教会形成にとって、また教会、幼稚園の運営にとって好ましくないと判断しましたので、ここに辞任申し上げます。
尚、既に使命を終えた者が、年度途中とはいえ、残留することは私にとって不本意なことでありますが、辞任の時期については役員会に一任いたします。
顧みますれば、一昨年三月辞任を申し出て以来、役員会にはひとかたならぬご辛苦をおかけしたにもかかわらず、主にある愛情と寛容をもって遇してくださったことを、深く感謝しております。私なりに、教会のため、神の栄光のために、最善を尽くしたく願ってのことでありましたので、主にあっておゆるしください。以上まことに突然な申し出で、はなはだご迷惑をおかけいたしますが、ご受理頂きたく、後任の対策に速やかに対処して頂きたく存じます。
皆さまの主にある御愛を感謝しつつ。
一九七五・五・二二
[#地付き]榎本 保郎
今治教会役員会御中〉
一見冷静なこの辞任の言葉を、保郎は涙をおさえおさえ、書いたのだった。この辞任申し出が教会に知られるや否や、会員たちは大きく動揺した。幾人かの会員は保郎の家に来て、
「先生、どんなことでも先生の言わはることは素直に聞きます。どんな言葉にも従《つ》いて行きます。どうかどこにも行かんといてください」
と、涙ながらに言った。また他の信者たちは、朝早くから庭の草むしりにやって来て、
「先生、秋にはきれいな花が咲きまっせ」
と、花の種を植えるのに一心だった。また他の者たちは、
「先生、一年に一回説教してくれはるだけでええんや。あとはアシュラムの運動をされてよろし。どうかこの教会の牧師でいてください。どこにも行かんといて」
と、泣きつかれもした。世光教会を去る時と同様に、
「悪いところがあったら改めます」
そう言ってくる高校生たちもあった。ほとんどの教会員が、保郎を引きとめるのに言葉を尽くしてくれた。教会員だけではなかった。幼稚園児の母親たちが、保郎を引きとめる署名を集めて、泣きながら訴えた。その度に保郎も涙をぽろぽろとこぼして、
「おおきに、おおきに、堪忍なあ」
と、謝るのだった。そんな保郎にしがみついて泣く者が幾人もいた。その度に保郎は、
(アシュラム運動を選んだのは、まちがいやったろか。この教会にとどまるのが神の御心に叶ういうことやろか)
と、心が揺らいだ。
今年の四月、五十人の団体旅行で、共に聖地イスラエルに旅をした飯季野《いいすえの》は、保郎の辞任の決意を聞いて急に老けこんだ。八十四歳とは思えぬ元気さで、喜々として聖地巡りをした飯季野だった。保郎の心は疼《うず》いた。が、保郎は、もはや引き返す気はなかった。自分の命は短いのだ。生きているうちにアシュラム運動のレールを敷いておかねばならない。急がねばならない。保郎はそう思っていた。
アシュラムに出た信者たちは、信仰復興の火を点《とも》されて、誰もが燃えていた。神の前に、真剣に聖書を読む。真実を傾けて祈りを捧げる。聖言《みことば》の恵みを語り合う。そのことによって、一人一人が、確かに鮮やかに変わっていくのだった。今日の日本に、本気で神に祈る者、本気で聖書の言葉に耳を傾ける者が必要だと、保郎は思わずにはいられなかった。このアシュラムに使命を感じた以上、今治教会の牧会は他の牧師に委せるより仕方がなかった。保郎の体は一つしかなかった。
今治教会を去る決意はしたが、自分たち一家がどこに住むべきかを、保郎は尚定めてはいなかった。
(すべては神が備えてくださる)
保郎はそう固く信じているだけだった。具体的には、今治に住むものやら、京都に帰ることになるものやら、東京に出て行くものやら、全くわからないのだ。だが、固く決意した保郎のもとに、全国に散在するアシュラム会員(アシュラムの賛同者。会費なるものはなく、各々自由献金でもって、主幹保郎たちの活動を支えていた)たちから、
「今治教会をやめるって、本当ですか。絶対やめてはなりません。今治教会あってこそのアシュラムです」
とか、
「教会をやめて、先生の生活はどうなるのです。住むところさえなくなるではありませんか」
「健康が第一です。今治に落ち着いていてください」
という言葉が、次々に寄せられた。今もその電話が来たばかりだった。
(けど、何としても、この教会にとどまるのは無理や)
保郎は声に出し、自分で自分に言って聞かせた。
それからしばらく経った七月二十日、教会は臨時総会において、保郎の辞任を承認した。会員の中には、保郎を惜しむあまり恨む者もいた。アシュラム運動に反感を持つ者もいた。保郎をわがままと詰《なじ》る者もいた。生木を裂かれる思いで泣く者もいた。が、保郎は愛惜の思いを抱いたまま、八月三十一日、遂に最後の訣別礼拝を持った。
訣別礼拝には、四百十名の出席者が会堂を埋めた。保郎を世光教会に招聘《しようへい》に来た役員の宇高昇の顔もあった。飯季野の涙にぬれた顔もあった。盲人席には白峰猛夫妻の姿もあった。三宅篤夫妻もいた。アシュラムの事務を助けてくれた宮崎令子もいた。今年三月出版した「水野源三詩集」に、労力と財力を捧げた馬越脩《うまこしおさむ》、水澤秀雄も顔を俯けていた。田窪ミヤ子、白石美恵子の姿もうるんで見えた。
今日のこの説教が、今治教会の牧師としての最後の説教だと思うと、今更のように、この十二年間における、病気勝ちな、そして留守勝ちな、何の役にも立たなかった牧師であったとの思いが、保郎の胸を噛んだ。
いつも牧師館の米櫃《こめびつ》が一杯になっていた。誰かがいつも新しい下着を届けてくれていた。卵が台所のテーブルの上によく届けられていた。幼稚園の保母たちが、和子と姉妹のように親しく台所で語り合っていた。そんなことを思いながら、保郎は和子を見た。今日和子は、牧師の妻としての任務を終わる。あの京都の荒壁の世光教会で、保育園の主任保母として、牧師の妻として、汗と涙で働いていた和子の姿が、保郎の胸に大きく迫った。和子は今日、牧師夫人としての任は解放されるが、アシュラム運動のフリー伝道者の妻としての苦労が、明日から始まるのだ。
東京から武蔵野音楽大学の講師藤田みどりが来て、保郎の説教のあと、讃美歌を独唱した。その美しい声が堂に満ちた時、保郎はまたしても十二年間の神の恵みと教会員の親切を思って感謝の祈りを捧げたのだった。
保郎のアシュラム運動の根拠地は、思いもかけず、訣別説教をした八月三十一日の十日余り前に不思議な形で与えられた。
保郎の辞任の決意は固かったが、さて、どこに住むかは決まってはいなかった。保郎は全国から集まりやすい場所をと、切実に祈っていた。和子も必死に祈りを合わせた。できることなら神戸あたりを本拠地にしたいと思った。が、住宅を購入する金など、保郎にある筈はなかった。教会から出る退職金を見込んでも、保郎の手持ちはどれほどにもならなかった。保郎は家族や信者たちに、
「ええか、たかが榎本家四人ばかしを、路頭に迷わせるような神さまやあらへん」
と冗談を飛ばしていた。が、今治を去らねばならぬ日が、一日一日と近づいてくるのに、適当な家は見つからなかった。
そんなある日のことだった。大阪在住のアシュラムの会員から電話があった。
「先生、近江八幡《おうみはちまん》の檜山先生から知らせがありましてな。格好な家があるそうや。明日見に来やはりまへんか」
ということだった。檜山|嘉蔵《かぞう》はアシュラムの熱心な会員で、近江兄弟社の幹部として、工員の教育に当たっていた。いわば、檜山嘉蔵は近江八幡市の名士であった。
朝早く、保郎と和子は近江八幡に向かって出かけた。大阪からは山川綾子が同行した。山川綾子は、保郎が満洲の奉天で虚無におちいっていた頃、近所の満鉄の社宅にいた主婦だった。その夫君共々、虚無的な保郎に物心共に親切にしてくれた。戦後、牧師となった保郎に、偶然巡り合い、あまりにも生き生きと、懸命に生きている保郎を見て、山川綾子は神を信じ、世光教会の会員となったのであった。
近江八幡市に着いた三人が檜山嘉蔵に案内された所は、Tという商人の家だった。Tは広い土地と大きな家を持っていた。が、倒産して疲れ果てていた。Tは一度檜山嘉蔵に連れられて、アシュラムに出席したことのある求道者だった。その広い家の半分を、保郎に貸したいというのである。
保郎はありがたいと思った。が、残念ながら、玄関も台所も共有しなければならない。昼となく夜となく、客が訪ねてくるアシュラム・センターには不向きであった。
今年の四月、イスラエルに旅した時、ガリラヤ湖畔に立って、保郎はふっと琵琶湖を思い浮かべたことだった。その琵琶湖のある地域に導かれたのは、神の御旨かと心を躍らせて来ただけに、少なからず落胆した。その落胆した保郎を力づけるように檜山が言った。
「先生、実はここから十分ほどの所に、格好な家が、もう一軒ありますのや。これは一軒家です」
「ほほう、一軒家か。それはよろしいな」
「けどなあ、先生、土地付きで二千五百万円しますのや」
「二千五百万円!」
保郎の手の届かぬ金額である。保郎は再び落胆した。が、檜山は言った。
「先生、歩いて十分そこそこの所やさかい、見るだけ見て行きまへんか」
無縁の家と思ったが、檜山の折角の誘いなので、保郎たち三人は顔を見合わせながらも、立ち寄ることにした。
案内されたその家は、場所と言い、広さと言い、間取りと言い、アシュラム・センターに打ってつけの家だった。しかし金額が金額である。しかも返事の期限が一週間ということだった。保郎たち三人は黙然として、帰りの電車に乗った。大阪で別れる時、山川綾子が言った。
「先生、必要なものなら、必ず与えられると、よう先生は言わはりますわな。祈りまひょ、なあ先生」
保郎は、自分が二千五百万という金額に、こだわり過ぎたことに気づいた。和子も言った。
「ほんまやなあ。神さまは、わたしたちに一万くださることも、二千五百万くださることも、同じようにたやすいことなんやなあ」
保郎は二人に励まされて、今治に帰った。その夜、保郎はしばらく祈っていたが、ふっと、千里山に住む赤井正二郎を思い出した。今はアシュラムに出席してはいなかったが、信頼に足る信者だった。保郎は直ちに電話をかけた。赤井正二郎は頭の回転の速い男だった。
「赤井さん、一週間以内に返事せなあかんのや」
という保郎に、
「わかりました。唄野《ばいの》さんや大阪のアシュラム常任委員たちに明日にでも集まってもろうて、相談してみます」
という、明快な返事が返ってきた。唄野|政一《まさかず》は、貿易会社の社員で、熱心な信者でもあった。
翌日の午後三時頃だった。赤井正二郎から電話が入った。保郎は受話器を耳に押しつけた。
「先生、今日唄野さんの勤務先に、十一人ほど集まりましてな」
保郎は思わず固唾をのんだ。
「それで、どないな話に……」
「結論から申しますとな、十一人で七百万円の融資が決まりました」
「七百万!」
僅か十一人で、たちまち七百万の工面ができたという。保郎は背筋の寒くなるのを感じた。神への畏れであった。昨日の今日なのだ。赤井の話では、先ず赤井が百万の融資を申し出、集まった人々に幾ら融資できるかを、一人一人に尋ねたという。主婦たちもいたので、全部が一人百万とはいかなかったという話だった。が、とにかく、融資金を二千五百万集め、その返済はアシュラム会員の献金に俟《ま》つがよいと、赤井正二郎は提言した。
「先生、先生も、細川先生などに電話をしてみてください」
赤井の言葉に励まされて、保郎は先ず岡山在住のアシュラム会員に電話をかけた。と、その会員は、
「先生、ちょうどええとこやった。実はな、二、三日中に満期になる預金が百万あるんや。どうぞ使うてください」
と、一も二もない返事だった。保郎は跪《ひざまず》いて神に感謝を捧げた。神戸の会員に、東京の会員にと、保郎は次々に電話をした。金額は二万の者も、十万の者も、五十万の者もいた。が、とにかく誰もが、「お電話頂いて感謝です」と、喜んでくれた。保郎は電話をかけながら、「細川先生などに電話をしてみてください」と言った赤井の言葉を、先ほどから気にかけていた。細川|泰子《たいこ》は盛岡生活学園の理事長で、明朗闊達な気っぷのいい信者であった。出ししぶらない人だけに、電話がかけづらかった。が、祈ってから保郎はダイヤルを廻した。
「あら、榎本先生、お体はいいんですか」
明るい声であった。
「実はな、細川先生、今日は借金の話なんや」
保郎は手短に事情を話した。
「わかりました。で、おいくらお貸ししたらよろしいの」
保郎は百万円と言おうとして、思い直し、
「えろう厚かましい話やけど、五百万円……」
言いかける言葉を遮って、
「なあんだ、それだけですか。先生、遠慮なさらんで。不足の分は全部肩代わりしますよ」
と、さわやかな返事だった。保郎は驚いて声も出なかった。
こうして、二千五百万円の金は、大阪と合わせて僅か数時間のうちにできたのである。保郎も持ち金すべてを捧げたことは言うまでもなかった。この借りた二千五百万円は、全国のアシュラム会員たちの献金によって、六カ月後には完済できた。集まった献金は三千五百万にも達したのである。最初に融資した者たちの中には、そのまま献金に切り替えた者も少なくなかった。細川泰子もまた、全額を献金したのである。
行くべき地を知らなかった保郎が、その地を与えられたのは、このような過程においてであった。世光教会での出発、今治教会での出発、そして近江八幡での出発と、神はそれぞれに祝福を与え給うたと、保郎は大いなる感謝をもって、訣別礼拝を終えることができたのであった。
アシュラム・センター
保郎一家が近江八幡のアシュラム・センターに移り住んで、早くも一年余りが過ぎていた。この家を買うために、二千五百万円の金を、有志の者から借りたが、その負債はわずか六カ月後に完済することができた。そして今は更に、教職者アシュラム道場設立のための募金が始められていた。この募金も、センターの募金の時と同様に、事は速やかに運ばれていた。
和子は今、ちらしずしを九人前、皿に盛りつけて一息ついたところだった。今日はアシュラムの機関誌発送のために、事務員の岡崎澄子、アシュラム運営委員長檜山|嘉蔵《かぞう》夫妻、事務手伝いを希望して住みこんでいる長沢洋子、そして七十をとうに過ぎた黒田加江、四十代の女性白木|恵《けい》、大島昌子等が、賑やかに話をしながら、奥の和室|二間《ふたま》を通した広い部屋で、帯封をかけたり、宛て名を書いたり、大童《おおわらわ》だった。
保郎は二階で講演の準備をしている。
「和子先生、お手伝いしましょうか」
台所に入って来たのは岡崎澄子だった。十二時近くになると、三千通からの機関誌の発送の事務はいつも終わるのだ。この岡崎澄子を和子は心から信頼していた。堺教会の会員であった岡崎澄子は、元小学校教師で停年退職者だった。保郎が近江八幡にアシュラム・センターを開設する際、
「どうや岡崎さん、センターに来て、ぼくを助けてくれへんか」
と誘った。岡崎澄子は、保郎がここに移った翌日、すぐに近江八幡に越して来、以来アシュラムの事務を忠実に遂行してきた。「わたしは年金を頂いておりますから、無給でけっこうです」と言って、給与を望まぬばかりか、センター設立のために百万円を捧げたのである。近くに家を借りて一人住んでいる澄子は、アシュラムの活動にとって、なくてはならぬ存在だった。
三十になったばかりの長沢洋子は、事務手伝いを申し出て、東京から来て保郎たちに協力していた。
無給と言えば、運営委員長の檜山嘉蔵も同様だった。明治三十二年生まれの檜山は、数え年七十八歳だったが、髪も黒く、壮者を凌ぐ元気にあふれていた。檜山は、元近江兄弟社の幹部として、市民の人望も篤かった。彼の仕事は様々あった。保郎は四国の岩松教会に懇願され、月に一週間の約束で、その無牧の教会に奉仕していた。またアシュラムのために出かけることも多かった。その保郎の留守を預かって、早天祈祷会の指導や、連日全国から訪れて来る信者たちの応対、アシュラム・センターの管理等々、檜山嘉蔵の責任は重かった。若い頃伝道者を志して、同志社神学部に学んだ彼にとっては、アシュラム・センターこそ、長年待ち望んでいた活動の場そのものであった。
この檜山嘉蔵と岡崎澄子の協力によって、アシュラム・センターは開設一年余とは思えぬ充実した働きをつづけていた。この間既に、三十数カ所でのアシュラム開催、七十回を超える講演等々を、保郎は遂行し得たのである。しかもその中には、台湾、アメリカ、ブラジルの集会も含まれていた。
充実はしていたが、しかしこれは、保郎にとっては無謀ともいえる活動であった。苛酷に過ぎる労働であった。保郎としては、命の短さを知っているが故の働きであったかも知れない。何れにせよ、小康を保っているのが不思議だった。
台所に入って来た澄子に和子が言った。
「おおきに。じゃ、おすし運んでくださいます?」
和子はすし皿を載せた盆を澄子に渡した。
「おいしそうやわ。和子先生のちらしずしは、いつもおいしうて楽しみやわ」
澄子は微笑して、
「あ、それはそうと、神代《じんだい》のお母さん、その後お元気ですやろか」
と尋ねた。保郎の母のためゑのすしがおいしいと、常々聞かされていての連想だったのかも知れない。そう思いながら和子は、
「お陰さんで、元気のようです。二、三日前に電話しましたけど」
と答えた。
ためゑは一昨年、肺結核で近江八幡のヴォーリス記念病院に入院、半年ほど療養した。
保郎の末の妹セイ子は大門《おおかど》義和牧師の妻だった。この大門牧師が、三年ほど前に近江兄弟社経営の中学校、高校のチャプレン(学校、病院等に付属する礼拝堂の担当牧師)として近江八幡の地に着任していた。こんな関わりがあって、胸を病むためゑをヴォーリス記念病院に入院させることにしたのだった。
当時、保郎はまだ今治にいて、時折見舞いに来たが、和子は一度だけしか見舞えなかった。出窓の多い瀟洒な病舎で、廊下に行き交う看護婦の誰もが、一様に優しく見えたことを覚えている。この時和子にためゑは言った。
「和子さん、この病院に来て、ほんまによかったわ。毎日がな、天国にいるみたいなんや。病院には西八条《にしはちじよう》先生という、ほら世光教会の信者さんやったってな、覚えていなさるやろ、楽しい牧師さんがおられるんや。礼拝堂があってな、信者のお友だちがいてな、昼には芝生で讃美歌うとうてな。セイ子は毎日わたしの好きなトマト持ってきてな。病気になって、ほんまに楽しいいうこと知ったんや」
輝くようなその顔に、和子は涙がこぼれそうであった。働き者のためゑは、畠に、田んぼに、店にと、その細い体を休める間もなく今まで生きてきたのだ。そして病気になって、初めて人とゆっくり語り合うこと、説教を聞くこと、祈ることの中に、本当の幸せを見いだしたのだ。ためゑは病院のチャプレン西八条|敬洪《けいこう》牧師に導かれて、一昨年十月二十日、退院直前、病院の礼拝堂において、近江八幡教会の赤阪英一牧師から洗礼を受けたのだった。この西八条敬洪は、保郎が世光教会時代の高校生だった。和子の作った粗末な食事を連日のように食べに来て、保郎から「蝗《いなご》」と綽名《あだな》された一群の一人であった。
ためゑの受洗に、保郎の父通は、
「おれも洗礼を受けたいんや」
と、しばしば保郎に言い、アシュラムにも出席し、大勢の前で、「今後わたしもキリスト教の信仰を求めていきたい」と、喜びを全身に漲《みなぎ》らせて語ったのだった。
二階から保郎が降りて来て、総勢九人の昼食が始まった。「アシュラム」誌発送準備の作業が終わった安堵感で、一段と楽しい食事のひと時となった。
「恵《めぐみ》ちゃんの話ね、いつ思い出しても、わたしおかしくてしようがないのよ」
一番若い長沢洋子が言った。
「ああ、あの話やろ。嵐の中で眠っているイエスさまを、どないして起こそうかいう話やろ」
保郎がにやにやした。みんなが笑った。誰もが知っているエピソードなのだ。保郎の長男の恵が小学一年生の時だった。教会学校の礼拝で、教師がこんな話をした。ガリラヤ湖を、イエスと弟子たちが舟で渡っている時、突然強い風が吹いて来た。舟が沈みそうになって、恐ろしくなった弟子たちが、眠っているイエスを起こそうとした。
そして、「こんな時、どうやってイエスさまを起こしたらよいか」と教師は生徒たちに尋ねたのだ。途端に、ぱっと立ち上がったのが恵だった。恵は、
「はい、こよりでイエスさまの鼻の穴、こそばしたらええ」
と、大真面目で答えた。教師も生徒も、思わず大爆笑したのだった。保郎から聞いて、誰もが知っているエピソードだったが、みんながひとしきり笑った。笑い終わった時、誰かが言った。
「そう言えば、この話、飯《いい》のママがよう言うてはったわなあ」
みんなは一瞬沈黙した。と、檜山嘉蔵が言った。
「それにしても、ママの死は全く不思議な死やったなあ」
みんながうなずいた。和子は、去年の春、元気一杯でイスラエルの旅から帰って来た飯季野《いいすえの》の顔を思った。保郎の今治教会辞任が決まって、急に老けこみはしたものの、しかし年齢よりもまだまだ元気な季野だった。ところが、突如、季野の末息子忠悟から電話があって、季野の危篤を告げてきたのだった。
「え!? ママが危篤? そんな……」
驚く和子に、忠悟は言った。風邪をこじらせて入院し、ともすれば意識不明におちいり勝ちなのだという。あいにくと保郎は台湾のアシュラムに出席のため、二月一日から三月五日までの予定で、旅立ったばかりだった。その飛行機が台湾に着くか着かぬかの時の電話だった。
「和子先生、ご無理は承知での、一生のお願いです。母は『榎本先生』『榎本先生』と、目を覚ます度に呼んどるのです。何とかひと目、会いに戻って来てはもらえへんでしょうか」
その時の電話を、和子は本当に辛く聞いた。
「ほんまになあ、うちも会わしてやりたいと思います。けどなあ……」
飯季野がどれほど保郎を信頼し、敬愛しているか、誰もが知っている。が、保郎の台湾への旅は、観光旅行ではない。台湾の各地で、保郎を迎えるために、準備に準備が重ねられていた。ひと目会うために帰国する自由は、保郎には到底なかった。
「ママは、榎本が帰って来るまで、待っててくれはらしまへんやろか」
意識不明におちいり勝ちという飯季野に、保郎が来るまでの三十数日間、何とか生きて欲しいと願うほうが無理かも知れない。
ともあれ、和子は旅先の保郎に、電話で急を告げた。
「えっ! ママが危篤!?」
保郎は絶句した。今治在任中の十二年、どれほど季野は終始変わらぬ真実をもって尽くしてくれたことか。野菜ジュースが保郎の病気に効があると信じ切っていた季野は、旅に出る保郎に、ジューサー持参でいつも、どこへでも従《つ》いて来たものだった。度々の入院には、いち早く駆けつけて、親身も及ばぬ看病をしてくれたり、保郎のために休憩の部屋まで増築してくれたり、保郎にとって、季野は正に愛称のとおり、ママと言うべき存在だった。
「帰ってやりたいけど、何としても帰られへん。祈っとる」
そう言った時の保郎の声を、和子は忘れない。
季野の病状は、全国のアシュラムの会員たちに、たちまちに伝わった。誰もが、保郎にひと目会わせてやりたいと、切実に思った。
和子は急遽、今治に季野を見舞った。季野はその日も昏睡状態におちていた。顔がむくんで、腎臓や心臓の機能がいちじるしく低下しているように見えた。
「ママ、生きててや。きっと生きててや」
眠っている季野にそう言って、和子は帰って来た。
七日が経ち、十日が過ぎた。不思議に季野の命は保たれていた。が、ほとんどは眠っているばかりということだった。こうして二月が過ぎ、遂に三月に入った。
(あと五日や!)
三月五日の、保郎の帰国する日が目前に迫った。一日一日が、和子には言いようもなく長かった。
(なんとかして、会わせてやりたい)
そう思っている和子に、明日は保郎が帰るという夜、今治の村上勇から電話があった。声を聞いた瞬間、和子は胸を突き刺される思いだった。季野の死の知らせだと思った。が、電話は、
「和子先生、ママ、大丈夫やね。ママは先生に会うまで、決して死なん思うわ。とにかく先生帰らはったら、すぐに来てあげて」
ということだった。
翌日夜、保郎は疲れ切って、近江八幡に帰って来た。
「ママは生きていてくれたそうやな。間に合うかも知れへん」
既に、季野の容態は保郎に伝わっていた。
翌朝保郎は、疲れた体を布団から引き剥がすようにして起き上がり、和子と共に何時間もかかって今治に行った。季野は、幾日か前に既に自宅に移されていた。保郎と和子は、靴を脱ぐのももどかしく、季野の病室に入った。季野は目を閉じて眠っていた。和子は言った。
「ママ、うちの人が来たんよ。はよ目ぇ覚まして。台湾から帰って来たんよ」
折角帰って来たのだ。気がつかぬままに死なれてはかなわないと思った。が、季野は目を閉じたままだった。黙って、季野の顔を見つめていた保郎が、こらえかねたように、
「ママ!」
と叫んで、ぼとぼと涙をこぼした。と、その時、ぽっかりと季野の目が開いた。そして、保郎をひと目見るや否や、季野の顔に、得も言われぬ喜びのいろが浮かんだ。
「先生……会いたかった……ありがと、ありがと」
季野は保郎のほうに手を伸ばした。保郎の大きな手が、そのか細い手をしっかりと握った。和子は思わぬことを目の当たりにして、体が震える思いだった。三十幾日の間、死線をさまよっていた季野が、保郎の声に目を覚ましたばかりか、口をきき、手を伸べて握手することができたのだ。この一瞬のために、季野は生きつづけてきたように、和子には思われた。
「ママ、しんどかったやろ。けどなあ、また元気になってなあ」
保郎はそう言って、神に感謝の祈りを捧げ、聖書を読み、讃美歌一三八番をうたった。
ああ主は誰《た》がため、世にくだりて
かくまでなやみを、うけたまえる
保郎と和子の声に合わせて、季野の唇もかすかに動いた。そして目をつむり、また開き、保郎を見て幸せそうに微笑んだ。でき得ることなら、ずっと傍らについていてやりたいと和子は思った。が、保郎には約束の集会が待っていた。それでも、三時間近くは季野の傍らにいたであろうか。保郎は辛い表情で時計を見た。帰らねばならぬ時間が迫っている。
保郎は、季野の身も心も平安であるようにと、再び切なる祈りを捧げた。祈り終えた保郎は、
「ほなら、ママ、帰ってまた来るわ。大事にな」
保郎が立ち上がった途端だった。季野の顔から生気がすっと消えた。あっという間もない季野の死であった。季野はかくも不思議な死を遂げた。
その時のことを思い出して、檜山嘉蔵は不思議な死と言ったのである。
「郵便!」
みんなが食事を終えぬうちに、玄関で声がした。岡崎澄子が、すぐに判を持って出て行った。アシュラム・センターには、毎日のように現金書留が何通か届くのである。
間もなく戻って来た澄子の手には、案の定二十通ほどの封書や葉書と共に二、三通の現金封筒があった。澄子は手早く鋏《はさみ》で封を切ってから、保郎に手紙の束を手渡した。保郎はいつもの癖で、先ず差出人の名前に次々と目を通す。
「ほう! 珍しな、端田宣彦《はしだのりひこ》や」
端田宣彦は世光教会時代の高校生で、保郎から洗礼を受けた。「帰ってきたヨッパライ」という歌で喝采を浴びた、フォークソング・グループのメンバーだった。その後、作詞作曲も手がけた彼は、自分の作詞作曲の基調は、小学校唱歌と讃美歌だと言っていた。そのことを和子は思い出した。
「和子、福岡君からも来とるで」
福岡時彦は「ちいろば」のカバー絵を描いた今治教会員だった。
「おや、ブラジルの滝谷《たきや》先生から手紙が来とるわ」
保郎がみんなに言った。
今年八月、保郎と和子は、北米とブラジルのアシュラムに招かれて、一カ月余り行って来た。その帰りに、滝谷牧師や弓場、佐久間、清水牧師たちに、必ず来年も来て欲しいと、頼まれて帰って来たのだ。
「先生、またブラジルへ行かはるつもり?」
大島昌子が言った。
「うん、約束させられてしもうたんや」
「そんなのあらへんわ。先生、自分の体を考えなあかん。アメリカまでならともかく、ブラジルは、ロスから十一時間もかかるいうやないの」
保郎を案ずる声が次々と起きた。
アシュラム・センターに移ってからのこの二年は目まぐるしい毎日であった。
「あ、また電話やわ」
茶碗を洗っていた和子が、うしろをふり返った。夕食後、既に三本目の電話だ。保郎は、今、置いたばかりの受話器を取り、楽しそうな声で、「榎本です」と答え、
「お、田中君か。ぼくが今かけようとしていたところや。そっちからかけてくれれば、電話賃が助かるわ。で、決心できたんか」
聞きながら和子は、
(新潟の田中恒夫さんやわ。田中さんも大変やなあ)
と、心の中で呟いた。田中恒夫は世光教会の会員で昭和三十三年(一九五八年)、江崎為丸や熊田祐弘、上田圭子などと一緒に、保郎から洗礼を受け、新潟の燕教会において、牧師として活躍していた。保郎は日頃、和子に、
「田中君がこのアシュラム・センターを助けてくれへんかなあ。あいつとぼくの意見、よう合う思うんや」
と、度々洩らし、田中恒夫にも何度か手紙であるいは直接電話で気持ちを伝えていた。が、田中恒夫は、現在の教会をせめて十年牧会したいのだと言って、なかなか応ずる気配はなかった。確か十年には、まだ一年はある筈だった。
「……ほうかあ、……ふーん……なるほど」
保郎はしばらく向こうの言葉を聞いているようだったが、不意に声が一オクターブ高くなって、
「あんなあ、この前も言うたやろ。もう足もとに火がついとんのやって。なあ、何とか助けて欲しいんや」
と言った。和子は思わずはっとした。それは悲鳴とも思える声だった。が、間もなく電話は切れた。保郎は受話器を置き、ぼんやりと椅子に坐ったままだった。そして和子の視線に気づくと、
「和子、あんなあ、田中君はな、もうぼくのことはほっといてくれ言うんや。誰か他の人探してくれ言うんや」
と、淋しそうな微笑を浮かべた。和子は一瞬返事に詰まった。が、
「あんた、田中さんには田中さんの使命があるんやわ。そのうちに、きっといい助け手が与えられるのとちがう?」
「ほうかあ。ま、そうやろな。神さまには神さまの考えがおありやろからな」
保郎は椅子から大儀そうに立ち上がって、台所からすぐの階段のほうに歩いて行った。見るともなくそのうしろ姿を見ていた和子は、ぎくりとした。保郎が階段を這うようにして、ゆっくりゆっくりと上がって行くのだ。
「あんた! どうしたん? そんな、四つん這いになって」
首をちょっとすくめて保郎が言った。
「うん。幼児のごとくなれ言う、イエスさまの聖言《みことば》があるやろ。赤ん坊に戻ってみただけや」
声だけは楽しそうに聞こえた。
「あんた辛いんやろ。やっぱり、ブラジルへ行くんは無理やないの?」
保郎は答えずに、階段を上がって行った。
去年からの約束で、四日後にはアメリカ、ブラジルに発つことになっていた。プログラムは、今年(昭和五十二年)の初めに既に決められていた。即ち、四日後の七月十二日、アメリカへ向けて出発、十四日から十七日まで全米ホーリネス教会修養会が持たれることになっていた。そして、二十日にはブラジルへ向かって飛び、二十六日から二十八日まで、ブラジル・アシュラムを持つほかは、八月四日ブラジルを発つまで、各地の教会を訪れる約束になっていた。そして再びアメリカに寄り、八月七日はロスアンゼルス、十日はシアトル、十一日はカナダのヴァンクーバー、十二日はまたシアトル、十三、十四、十五日はサンフランシスコ。ここでは以前に訪れた中国人教会で、アシュラムが開かれる筈だった。
十七日にはロスアンゼルスに戻り、三日間アシュラムが予定され、二十一日から二十三日までがハワイで、二十四日羽田着の予定となっていた。
今年の三月、保郎は医師の勧めでヴォーリス記念病院に、一カ月余り入院した。結果は肝機能検査等の数値が進み、かなり危険であることが知らされた。
「安静にしていなければ、命の保証はありませんよ」
厳しい語調で医師は言った。この医師の妻も信者だった。診断の結果は、直ちに全国のアシュラムの会員たちにも伝わった。葉書で、手紙で、電話で、海外伝道の旅を取りやめるようにとの願いが毎日のように寄せられてきた。保郎も自分の体に自信がなかったので、一度はブラジルへの伝道だけはキャンセルした。が、保郎は、よほど疲れていない限りは一見健康そうであった。自分から不調を訴えることはなかったし、口をついて出る言葉は常にユーモアに富んでいた。保郎に対しているうちに、誰もが保郎に病気のあることを忘れた。保郎の周りにはいつも爆笑があった。胸を打つ熱烈な説教の中でも、必ず笑いがあった。
まして、遠いブラジルでは、保郎の診断結果を伝えられても、当然実感が湧かなかった。今まで幾年もの間、保郎重症説が流れていながらも、各地に出かけているためもあった。そんなこともあって、ブラジルからはキャンセルを承諾せず、再度要請が来た。さすがの保郎も、行くべきか行かざるべきか、幾日も祈った。その祈りの中で保郎は、子ろばに関わる聖書の言葉を思った。
イエスが二人の弟子に、子ろばをひいてくるように命じた場面が、ルカによる福音書に、次のように書かれている。
〈「向こうの村へ行きなさい。そこにはいったら、まだだれも乗ったことのないろばの子がつないであるのを見るであろう。それを解いて、引いてきなさい。もしだれかが『なぜ解くのか』と問うたら、『主がお入り用なのです』と、そう言いなさい」〉(第一九章三〇―三一)
アメリカ、ブラジルからの要請は、〈主がお入り用なのです〉という言葉のように、保郎には思われたのだ。
和子は前垂れで手を拭きながら、今、保郎が四つん這いになって上がって行った階段を、駆け上がった。保郎は、寝床の上に腹這いになって、早くもペンを持ち、原稿用紙をひろげていた。机に向かうことさえ辛いのか、と思いながら和子は言った。
「なあ、あんた。一生のお願いです。ほんまに今度の伝道だけはやめにしてもらえまへんか」
保郎は布団の上に起き上がって、和子をじっと見た。
「あんな和子、ちいろばはな、主がお入り用なのです言われたら、何も言わんと、引かれていくものなんや。聖書には、まだ誰も乗ったことのない子ろばと書いてあるやろ。人を乗せたことのないほど、小さな小さなろばなんや。その子ろばを招かれたんは、キリストなんや。お乗せする力などありませんと、謙遜そうに言うことはないんや。主は何もかも承知の上で、何かにお用いくださるんや」
「…………」
和子は吐息をついた。結婚生活二十八年の間に、和子が身に沁みて覚えていることが一つあった。それは保郎の口から、「聖書にこう書いてあるんや」という言葉が出た時は、もはや和子が何と言っても、動じないということだった。
「なあ、和子。ぼくも無理や思うんや。けどな、人間、走るべき道のりいうもんが、定まっとるんやないやろか。ぼくの命は、大事にしたところで、あとどれほども残ってはおらん。それをぼくはよう知っとんのや。主がお入り用いう言葉を聞き流して、何カ月か命を長らえるより、キリストをこの背にお乗せして、とことこ歩いているうちに死ぬほうが、ぼくにはふさわしい。本望や。ぼくはなあ、何としても神の言葉を聞き流すことがでけへんのや」
和子は、長女のるつ子から送って来た、保郎のるつ子に宛てた手紙を思い浮かべた。それは保郎が二年前、安泰な今治教会での生活にピリオドを打とうと、まだ移り行く所も定まらぬうちに再び辞任を申し出た際、るつ子に書いた手紙だった。
〈るつ子。お父ちゃんはな、「人の子は枕するところだになし」と言われたイエスさまの真似ができるようになって、不安の中にもすがすがしい思いがしています。今の日本の教会の信仰復興のために、命の限り証《あか》しをしたい、これが今のお父ちゃんの願いです。早く死ぬかも知れません。その時はるつ子、お前がお母ちゃんを助けてやってくれよ。お母ちゃんは本当にきれいな心の人や。本当にお父ちゃんは心から尊敬する。(ただしぶつぶつ言わん時はな)
しかしこの尊敬するお母ちゃんは、生活能力や社交能力はゼロや。それだけに心配も残るが、きっと神さまが助けてくれると信じている。るつ子、恵、てる子のお前たち三人が、力を合わせて、お父ちゃんがして上げられなんだことを、お母ちゃんにしてやってくれ。お父ちゃんは神さまのために死んだとしても、神さまのため故、許してくれ。殉教者のことを思えば、お父ちゃんの死など何でもないことや〉
るつ子から、この手紙のコピーがひそかに送られてきた時、あまりに思いがけぬ言葉に和子は泣いた。が、保郎は既に、今治を出ることがより困難な道への出発であることを、充分に覚悟していたのだ。死の覚悟さえできていたのだ。そんな中で、和子への深い思いやりを、るつ子に書き送った心情を思うと、和子はたまらなかった。
自分を子ろばにたとえて、「主がお入り用なのです」という聖言《みことば》に従おうとしている保郎の決意を、ひるがえすことは到底無理だと、和子は今、るつ子への手紙を思い合わせて、新たに思った。和子は言葉もなく、台所に戻った。途端に、またしても電話のベルが鳴った。
「もしもし伊予小松の佐藤です。……ああ和子先生、アメリカ行きはどうなりました? やめられましたか」
佐藤博は保郎が今治教会にいた時の副牧師であった。保郎の勧めによって、今は伊予小松の牧師となっている。佐藤博は、保郎が京都の円町《えんまち》教会の中山牧師のもとに下宿していた時、近所にいた子供だった。保郎が日曜日の朝太鼓を叩いて子供たちを集め、聖書の話をした頃、「アーメン、ソーメン」とはやしながらも、保郎の話を楽しく聞いた一人だった。佐藤牧師もまた、保郎の健康を案じて、先日来、旅行中止を勧めてきていたのだった。
「それがなあ、佐藤先生、ご心配かけてほんまにすまんのやけど、あの人、祈って一旦こうと決めたら、もう誰の言うことも聞かへんのや。ほんまにすまんことです」
詫びながら、和子は伝道者の妻であることの厳しさを、改めて知らされたような気がした。
天の門
昭和五十二年(一九七七年)七月十二日午後四時四十五分、保郎と和子を乗せたアメリカ行きパンナム機は、羽田空港を飛びたった。機内は満席だった。保郎と和子は、その中央部の窓際に並んで腰をかけていた。保郎の顔には、思ったほどの疲労はなかった。
保郎はすぐに低い声で祈り始めた。「感謝です」「感謝です」という言葉が、短い祈りの中に、幾度も和子の耳に聞こえた。和子は、保郎が飛行機に乗りこむ時、タラップの上でゲートのほうに向かって、幾度か大きく手をふった姿を思った。今まで、海外旅行を幾度か共にしたが、そんなことをしたことはないような気がして、和子は気がかりだった。
羽田空港のロビーには、大阪からわざわざ駆けつけた唄野政一《ばいのまさかず》、大島昌子、そして東京地区のアシュラム会員たちが、二十人ほど見送りに来てくれていた。みんなは二人の旅行の無事を願って、次々と祈ってくれた。そして最後に万歳を三唱してくれた。
「まるで出征兵士のようやな。わしは戦争は反対やで」
保郎は冗談を言った。誰かが言った。
「いや、先生は伝道の戦士です。ご無事で凱旋を」
と、冗談の応酬をした。
禁煙のサインが消えた。保郎はバッグから、昨夜、帝国ホテルで書き上げた原稿に朱を入れ始めた。主婦の友社から近く出版予定の「旧約聖書一日一章」の自序の文章であった。和子は保郎のその最後の言葉に目を注《と》めた。
〈忍耐強く待ってくださった主婦の友社出版部のかたがた、テープから文章にまとめる奉仕をしてくださった松波|閑子《しずこ》姉、馬杉一重姉、松本瑞枝姉、松平吉生・千鶴子兄姉に心より感謝いたします。
一九七七年七月十二日
アメリカ、ブラジルに伝道に旅立つ日
[#地付き]榎本 保郎〉
これが、保郎最後の筆跡となるとは思わずに、和子は見つめていた。保郎は原稿にもう一度目を通そうとして、
「あとはまたロスアンゼルスでな」
と、カバンの中に入れた。「旧約聖書一日一章」は十月下旬に出版の予定で、箱入り千頁に及ぶ部厚い一冊になる筈であった。定価は既に四千八百円と決まっていた。
「そんな高い本、売れるんかいな」
保郎はそう言っていたが、これがたちまち一万部を超えるとは保郎自身も知らなかった。
原稿をバッグに納めた保郎は、ちょっと目をつむっていた。和子は、
(案外、無事に帰って来るかも知れへんわ)
と思った。考えてみれば、昨年のブラジル、アメリカの伝道旅行の時も、二人は死を覚悟していたのだ。それで、無事に羽田に着いた時、保郎は出迎えの人々に、
「こんな四角い箱に入って、和子の胸に抱かれて帰るか思うたが、残念でした。無事やった」
と冗談を言って人々を笑わせた。とは言え、今回アシュラム・センターを発つ時、庭に立って保郎はこう祈ったのだ。
「愛しまつる主《しゆ》よ。いよいよ出発いたします。この地に帰ることが御心に叶うことでしたなら、どうぞ再びここに立たしめてください。しかし御心でなければ、あなたのなさることに、素直に従う信仰を最後まで与えてください」
共に祈った檜山嘉蔵夫妻、長沢洋子、北村武夫たちが、「アーメン」と保郎の祈りに唱和したのだった。
そのことを思い出すともなく思いながら、和子が保郎を見ると、保郎は目を開けて、
「桂子さんにおごられた昨夜の鮨、うまかったなあ」
と、ぽつりと言った。保郎たちが上京すると、帝国ホテルに宿を取ってくれたり、おいしい味噌汁を食べさせたいと自宅に泊めてくれたりする東京に住む信徒の井手桂子が、昨夜は鮨をおごってくれたのだ。
「あんた、元気そうやね。食べ物のこと思い出すなんて」
和子は安心したように微笑した。気流が悪いのか、飛行機が時々揺れた。保郎がまた目をつむって、うつらうつらとしていたが、
「おふくろのあの最期の歌、和子覚えとるか」
何を思ってか、保郎が問うた。
ためゑは昨年十一月十四日、淡路の神代《じんだい》の自宅で息を引き取った。七十四歳であった。十月二十六日から二、三日間、ためゑは意識を失った。保郎はじめ、松代、悦子、セイ子も駆けつけて、地元にいるかつみ、寿郎と共に、ためゑの病床を囲んだが、その後小康を得た。優しい寿郎とその妻和美、心配りの細やかなかつみとその夫諄一がすぐ近くにいるということで、安心してきょうだいたちは皆家に帰ったほどだった。それでも、、病床のためゑの話し相手に、当番を決めてきょうだいたちが詰めることにした。
前日の当番悦子も松代も帰ったあと、本家のきのゑが、一日ためゑの傍らにいてくれた。その礼に、かつみが本家に寄り、夫の諄一に遅れて、ためゑの傍らに来た時、ためゑは手に電話番号簿を開いていた。そして、かつみの来たのも気づかずに、
「かつみを呼んでください」
と言った。かと思うと、見る間に意識不明となった。折悪しく、寿郎は商用で本州に渡っており、保郎は埼玉に伝道に出かけていた。そのためゑの手帳に書かれた最後の歌は、
いとし子が来るか来るかと待ち侘びて
今日も暮れゆく秋の空かな
とあった。その歌のことを保郎は言ったのである。
「お母さんの最後の歌ね、〈いとし子が来るか来るかと待ち侘びて 今日も暮れゆく秋の空かな〉でしょ?」
保郎は黙ってうなずいた。飛行機がまた少し揺れた。
「なあ、和子、長い生涯の最後の歌が、こんな歌では長男のぼくとしては、申し訳のうてかなわんな」
「でもな、寿郎さん夫婦や、かつみさん夫婦が、そばにいてくれはったわけやし、一人ぼっちにさせておいたわけやないもの」
和子は慰める語調になった。和子の目に、火葬場で棺の蓋を開け、最期の別れをした時、保郎がためゑの顔に覆いかぶさるようにして、号泣していた姿が浮かんだ。埼玉のほうに伝道に出ていて、死に目に会えなかった保郎だった。
二人はちょっとのあいだ黙っていた。と、保郎が言った。
「残されたおやじが……」
語尾が和子には聞こえなかった。可哀相だと言ったのかも知れない。満席のせいか、機内はざわめいて、妙にむし暑かった。機内食が運ばれて来た。保郎は、食べ物も飲み物も、ほとんど残さなかった。和子はほっとした。
(人間、食べられるうちは大丈夫や)
食事が終わるのを待ちかねていたかのように、飛行機がまたしても揺れ始めた。揺れは二十分、三十分とつづいた。小やみなくつづく揺れに、嘔吐する者もいた。
食後一時間が過ぎた頃だった。保郎が不意に、
「何や、胸のあたり、気分悪いわ」
と、前席の椅子の背のポケットに入っているポリ袋を取り出すや否や、口に当てた。和子は保郎の背をなでながら、
「ほんまに今日の飛行機、揺れ過ぎるわなあ」
と言った。
単なる揺れによる嘔吐かと思った。が、次の瞬間、和子はぎくりとした。見る見るポリ袋が鮮血に染まっていくではないか。血を吐いたら最後だと、常々医師から言われていたのだ。和子は鳥肌立った。遂に食道の静脈瘤が破裂したにちがいない。和子は頭上に手を伸ばして、スチュワーデスを呼ぶボタンを押した。にこやかに近づいて来たスチュワーデスが、血を見て驚き、直ちに同僚を呼んだ。二人は保郎を機内最後部に伴い、床に横臥させた。保郎はポリ袋を口に当てたまま、しきりに「寒い、寒い」と訴えた。保郎の体が、がたがたとふるえた。
スチュワーデスたちは、十枚もの毛布で保郎の身をくるんだが、ふるえはとまらない。相変わらず飛行機は揺れる。和子は思いがけぬ事態に、悪夢を見ているような気がした。スチュワーデスは、応急手当てに、布に包んだ氷を胸部に当てた。いっそうふるえが増した。と、再び保郎は嘔吐した。そのほとんどが鮮血だった。最初の倍もの多量な出血だ。口から血が限りなく流れ出てくる。
(このまま死ぬかもしれへん!)
和子は全身が凍る思いだった。と、その時、日本人医師夫妻が機内放送に応えて急遽そばに来てくれた。
「看病させて頂きましょう」
親切な声音だった。医師は、和子の説明を聞きながら、保郎の手を取ってプルスを測った。ちょっと首をかしげ、すぐに酸素吸入が始まった。和子は息を詰めて、それらを只見守っていた。と、間もなく、保郎は眠りにおちた。吐血もおさまったようだった。が、眠る保郎を見ていると、昏睡ではないかと不安になった。パーサーが和子に聞きに来た。
「もうすぐアンカレッジですが、降りられますか」
保郎が目を開けて言った。
「ロスアンゼルスまで参ります」
和子も見知らぬアンカレッジに降ろされるよりは、辻本清臣牧師や藤田正武牧師の待つロスアンゼルスまで飛びたいと思った。
この二人の牧師のいるロスアンゼルスまでが和子には長かった。またもや吐血を起こさぬかと、一心に保郎を見守りつつ、和子は祈った。吐血がおさまったのを見ると、もうこのまま病状がおちつくかのようにも思われた。が、一方、保郎が僅かでも首を上げると、また吐血かと、ひやりとして体がこわばった。
(主よ、御心ならばお癒《いや》しください。医師を備えていてくださり、ありがとうございます)
和子は同じことを、先ほどから幾度も祈っていた。ロスアンゼルスまでの数時間が、数十時間に思えるほど長かった。その間、和子は保郎の手を握りつづけた。保郎のおちついた様子に、医師は座席に戻ったが、幾度も様子を見に来てくれた。
用意されたアメリカ、ブラジルでのアシュラムや伝道集会がどうなるのか、ようやく気にかかり始めた時、アナウンスがあった。ロスアンゼルス着陸の準備態勢に入ったアナウンスであった。和子は思わず叫んだ。
「あんた! ロスアンゼルスよ。もう大丈夫やわ」
保郎が血を吐いたのは、羽田を発っておよそ三時間後であった。それから更に八時間、保郎はとにもかくにも、生きてロスアンゼルスに着くのだ。和子は安堵のあまり、思わず讃美歌二九一番が口をついて出た。
主にまかせよ 汝《な》が身を
主はよろこび たすけまさん
…………
だが、歌いながらも、和子は保郎が心のうちに何を思っているか、推し測るさえ恐ろしい気がした。おそらく保郎は、死を覚悟しているであろう。残された家族のこと、父親の通のこと、きょうだいたちのこと、アシュラム・センターの今後のこと、今回のアメリカ、ブラジルの集会のこと、それらをどんなに痛切に思っていることか、アシュラム・センターを出る時、緑の美しい庭で、「御心に叶うならば、再びここに帰ってくることができるように」と祈った保郎の姿を、和子は言い難く辛い気持ちで思い浮かべた。
飛行機は遂に着陸した。出発十一時間後、現地時間で七月十二日午前十時であった。既に連絡があったと見え、救急車が待機していた。救急車はすぐに、空港にほど近いマリーナ・マーシー病院に着いた。二階建ての清潔な病院だった。広い敷地の芝生には白い等身大のマリア像が立ち、正面の壁に十字架が大きく掲げられていた。カトリック系の病院であった。
まもなくロスアンゼルス在住のホーリネス教会の辻本清臣牧師が、緊張の面持ちで入って来た。空港に迎えに出ていた辻本牧師は、空港事務所に問い合わせて保郎の変事を知った。保郎は前二回の渡米の度に、辻本牧師からひとかたならぬ親切を受けていた。その家に泊めてももらった。アシュラムの協力も受けていた。
辻本牧師が病院に駆けつけた時、保郎は既に救急室の中にあった。和子が一人不安そうに廊下の椅子に腰をおろしていた。
「奥さん!」
呼ばれて和子は顔を上げた。
「辻本先生!」
見る見る和子の目に涙があふれた。辻本牧師は一人救急室に入った。診察を終えたばかりらしく、保郎は意外にもベッドの上に坐っていた。医師は保郎に、診察の結果を説明しているところだった。その様子を見て、辻本牧師が通訳を始めた。アメリカ人医師は、状態は絶望的でこのままでは明日まで持たないと言った。辻本牧師は言葉に詰まった。どのように伝えるべきか、忙しく言葉を探した。が、医師は厳然と同じ宣言を繰り返した。医師の言葉は保郎にも聞こえている筈だった。辻本牧師は、しかしソフトに伝えようとして、なおも言葉を探しながら、心を落ちつけて保郎を直視した。直視して、はっとした。保郎の目は実に平安だった。いささかのいら立ちも不安もなかった。幼児のように、澄み切った目であった。辻本牧師は胸を衝かれた。
辻本牧師は思い切って、医師の言葉をそのまま伝えた。保郎は静かにうなずいた。やはり表情に何の変化もなかった。再び辻本牧師は激しく胸を衝かれた。
医師の言葉が伝えられると、直ちに検査が始められた。食道と胃に、先ずゴム管が挿入された。途端に凄まじい血が壁に、医師に、看護婦に飛び散った。が、またもやゴム管が挿入された。
検査が終わって、辻本牧師が医師に呼ばれた。その医師の言葉を辻本牧師は和子に伝えた。
「奥さん、とにかく重態です。治療の方法として、二つの手術が考えられるそうです。一つの方法は、一か八か、生きるか死ぬかの手術です。手術中に死ぬかもしれません。もう一つの手術は、今すぐに生命に関わることはないと言っています。が、手術の結果、根治するかどうか、期待はできないようです。奥さん、どうなさいますか」
和子は迷った。何《いず》れを選ぶべきか、即座には決断がつかないのだ。成功の確率が高いのであれば、一か八かの手術を選ぶかも知れなかった。が、さし当たって、生命に危険のないほうが好ましく思えた。和子は祈った。祈るしかなかった。祈り終わって和子は答えた。
「辻本先生、すべてお医者さまにお委《まか》せします」
和子はふるえる手で承諾書にサインをした。医師は後者を選んだ。
その日の辻本牧師の働きは目ざましかった。先ず教会員の斉藤正に保郎の入院を知らせた。斉藤正は直ちにその妻と病院に駆けつけ、和子と交代で保郎に付き添った。一方、辻本牧師も妻の美枝子を病院に呼び寄せ、近江八幡のアシュラム・センターに、保郎の急を知らせる国際電話を入れた。第二報は手術の無事終わった知らせだった。更に五時間後、次第に病状がおさまってきていることを知らせ、翌早朝には出血がとまった喜びの声を送ったのである。それらの知らせは直ちに保郎の実家をはじめ、世光教会、今治教会、そしてアシュラム会員へと全国の関係者に知らされていった。
術後、患部に差しこんだゴム管から、薬水が注入された。出血をとめる治療であった。この注入は二昼夜、夜となく昼となくつづけられ、遂に出血はとまった。が、安堵は束の間だった。期待をもって見守る和子、辻本牧師、斉藤正は思わぬ事態に直面した。激烈な苦痛が保郎に襲いかかったのである。狂死するかと思われるほどに、七転八倒の苦悶を見せた。その苦しむ保郎をおさえつけてレントゲン写真を撮った結果、注入した薬水が肺や気管支に入っていたことが判明した。
七月十五日、もはや保郎は、動く力も失ったのか、精も根も尽き果てたように、いびきをかいて眠りつづけた。もう目を覚ますことはないのかと思うほどの、深い眠りだった。
が、その眠りは、翌十六日午前の激しい嘔吐によって破られた。保郎はまたしても呻き声を立てた。ナースがカテーテルで汚物を吸い取ると、ようやく苦しみがおさまった。もう二度と口をきくこともないかと思われた保郎が、口をきいたのは、その日の午後、るつ子が日本から駆けつけた時だった。るつ子は目をつむっている保郎に、明るく呼びかけた。
「お父ちゃん、るつ子よ。東京ではね、大勢の信者さんが断食しはって、お父ちゃんのために祈ってくださっとるのよ」
そう言った時、保郎が、
「東京やて? 何を言うとるんや」
と、不審そうにるつ子を見た。どうやら自分がどこにいるのか、さだかではないようであった。るつ子が、
「それからね、ロスのホーリネス教会の人たちが、とても熱心に祈ってくださっとるの」
と告げると、保郎は、にこっと笑って、
「ああ、ホーリネスなあ」
と、うなずいた。和子はその言葉を胸に刻みつけるように聞いた。もう二度と言葉を出せぬかと思っていただけに、保郎の言葉を聞いた喜びは大きかった。しかも保郎は、微笑さえ浮かべたのだ。そのあと保郎は、夜の十一時まで眠りつづけた。
十七日の朝、保郎の腹部が大きく腫れていることに、和子は気づいた。管を通して食物が注入されたが、保郎はすぐ吐き出した。栄養注射をするために、左手に小さな手術がなされた。泣き出さんばかりの顔で、保郎は苦しみに耐えていた。
その夜はるつ子が保郎に付き添い、和子は久しぶりにぐっすり眠ることができた。病院の近くに辻本牧師が部屋を借りてくれていた。握り飯やサンドイッチなど三度の食事を教会の信者たちが届けてくれ、洗濯物さえ引き受けてくれていた。この親切と言い、連日の看病と言い、和子は身に沁みてありがたかった。
十八日、十九日と小康を保ってはいたが、意識は次第に混濁していった。血圧も下がり始めた。酸素吸入が始まった。この日の回診で、心臓の状態はいいが、肝臓と腎臓の機能が低下している旨を知らされた。
二十日の朝方、呼吸が微弱となった。依然として保郎は眠りつづけていた。肝臓の働きが、前より鈍くなったことを知らされた。が、この日保郎の顔は輝いて見えた。混濁した意識の中でも、保郎は神に祈っているように和子には思われた。
この日の夕刻、日本から弟の寿郎、妹の後宮《うしろく》松代、そして息子の恵《めぐみ》、娘のてる子の四人が駆けつけた。
「何やお父ちゃん、気持ちよさそうに眠っとるなあ」
てる子が、和子を力づけようとしてか、冗談を言ったが、その目から涙がこぼれた。血圧上昇剤の点滴量が増えた。心臓には負担がかかるのか、静かに眠っていた保郎の呼吸は苦しげになった。恵とてる子が、左右から保郎の手を握って、一心に祈っていた。今夜が山だと、看護婦が告げた。斉藤正が朝八時から夜まで、保郎の傍らを離れなかった。松代と和子は、祈りながら保郎の足をさすりつづけた。てる子や恵の来たのも知らず、保郎はその夜、高いびきをかいていた。
翌二十一日、大部屋から三人部屋に移された。この日片腕が少し動いた。息のような声が出た。幾度か目をうすく開けるようになった。心配そうに見つめていた寿郎が言った。
「意識が戻ってきたんやな」
るつ子がうなずいて、
「お父ちゃん、『ああよう寝たわ』言うて、起きるような気がする」
と言うと、恵がこらえかねたように、ついと部屋を出て行った。
この日、松代の夫後宮牧師が到着した。保郎の跡を継いで、世光教会を大きく育てているあの後宮俊夫牧師だった。
翌日も保郎の意識は混濁していた。連日三十五、六度の暑い日がつづいていた。その暑さにも気づかぬほど、和子は今日まで夢中で日を送ってきた。
午後から保郎はまた、幾度か薄目を開け、またつむり、そしてまた開けた。
「あんた、和子よ、わかったら瞼で合図して」
和子が声をかけると、保郎の薄目がゆっくりと閉じた。再び意識が戻ってきたことを知った和子は狂喜した。そして、控室に走った。控室にいた一同が急いで入って来て、保郎を取り囲み、次々と呼びかけた。
「お父ちゃん! てる子や。わかる?」
瞼が動いた。
「ぼく、恵……お父ちゃん」
瞼が開いた。
「まっちょよ、お兄ちゃん。しんどかったなあ。札幌の栄次が、電話でがんばれ言うとった」
松代が泣き声になった。瞼が二度動いた。
「寿郎や。お父ちゃんも、かつみ姉ちゃんも、和美も心配しとる。本家も大事に言うとった。悦子もセイ子も祈っとる」
保郎はじっと寿郎を見た。
「俊夫です。平安ですか」
静かな声だが、威厳があった。保郎の唇が、かすかに笑った。
「お父ちゃん、よかったなあ」
るつ子が頬を寄せた。一同の顔が明るくなった。恵が言った。
「あんなお父ちゃん、ぼく、一学期の数学、凄くよかったんや」
顔を寄せると、二、三度瞼が答え、口が開いた。てる子が言った。
「『ほうかあ』、言うとるわ」
和子が顔を覆った。恵が言った。
「お父ちゃん、はよようなって、ぼくをアシュラムに連れてって」
瞼がゆっくりと動くと、てる子が、
「お父ちゃん、今度から家庭礼拝喜んでやるからね、今まではごめんよ」
辻本牧師も斉藤正も言葉をかけた。この時、辻本牧師と斉藤正は、入院費用が、既に一万五千ドルに達していたことに、心を痛めていた。日本円で四百万円余りの金額であった。
機内で保郎が吐血し、十日が過ぎた。この間、辻本清臣・美枝子夫妻、斉藤正夫妻を始め、牧師、信者たちの絶えることのない見舞い、そして容態を案ずる日本の国際電話に、和子は励まされていた。
二、三日前、七月二十二日に三宅やす代が今治から見舞いに来る旨の電話が入った。その日、辻本牧師とてる子が空港に迎えた。和子は病室の前の廊下で、やす代とばったりと顔を合わせた。やす代の来訪は知らされていたが、和子は夢かと思った。いかに真実な三宅篤ではあっても、まさかロスアンゼルスまで、妻を見舞いによこすとは思わなかった。保郎は今治を辞して二年が過ぎ、もはや今治教会の牧師ではないのだ。
涙を拭いた和子の手に、やす代は見舞金を渡した。三宅篤が百七十万円、歯科医師|馬越脩《うまこしおさむ》が百万円、合わせて一万ドルの見舞金であった。
三宅夫妻が保郎の急変を聞いたのは、なぜか遅く、十七日の日曜日であった。外国に病むとなれば、費用が莫大になると見た篤は、直ちに馬越脩と諮《はか》り、やす代をアメリカに向かわせることにした。英語の不得手を理由に、一人でアメリカに行くことをためらうやす代を、
「神さまがいっしょに行ってくれるから、心配せずに行け」
と、篤は励ました。そして見舞金の外に、更に一万ドルをやす代に持たせた。
こうしてやす代は二十二日、急遽ロスアンゼルスに着いたのだった。
七月二十三日午前一時、後宮俊夫が保郎の足をさすっていた時、
「水、水を……」
と、保郎はもつれた舌で言った。その日の昼、保郎は再び瞼で応答するようになった。和子と恵が手を握り、恵が必死になって祈った。
「ラザロを復活させられた御神、父の上にも、どうか奇跡を現してください」
祈る恵の頬を涙がころがった。恵は祈り終わって保郎に語りかけた。
「お父さん、ぼくもお父さんのような伝道者になります」
恵は保郎の瞼を注視した。が、保郎は眠りにおちていた。和子は、今の恵の言葉に胸を衝かれた。高校一年の恵は、今の今まで、伝道者を志すと言ったことはなかったのだ。恵の嘆きの深さが和子の胸に伝わった。
保郎の状態にさしたる変化はなかった。和子は夕刻人々の勧めで近くの宿に帰った。アメリカに来て初めての入浴をするためだった。その入浴もそこそこに保郎のもとに戻ると、保郎の容態は悪化していた。血圧が下がっていた。酸素吸入が鼻孔への管からマスクに変えられた。この夜、和子も松代も寿郎もるつ子も、一睡もせずに、手を保郎に当てつつ祈った。
二十四日、夕刻からまたしても血圧が下がり始め、血圧上昇剤が点滴に混入された。
(駄目かも知れない)
の思いが、和子の胸をかすめた。血圧上昇剤の甲斐もなく、血圧は再び下がり出した。保郎の呻く声が、和子の胸を掻きむしった。血中アンモニアが上昇、明らかに尿毒症を併発していた。人工|透析《とうせき》は不可能、腹膜灌流の手術を医師は勧めた。急遽、今治の三宅篤のもとに、相談の電話を入れた。やす代、和子、るつ子、辻本牧師の四人が、それぞれに三宅医師にすがるように質問する。やす代到着以来、コレクトコールの国際電話は、幾度となく三宅篤のもとに届いていた。
腹膜灌流には治療の効果は期待できないが、延命効果はあるとのことだった。午前二時、和子は手術承諾書にサインした。手術は明朝七時と決まった。
病室は三人部屋だったが、その夜同室の患者二人は他の病室に移されていた。電灯の光を弱めたこの部屋に、和子と寿郎と松代の三人が、保郎に手を置いて静かに祈っていた。
十時を過ぎた頃だった。と、突如、壁に面したベッドの裾の辺りに、「シュシュシュシュシュッ」と異様な音がした。
「何や! 何の音!?」
松代が叫んだ時、眩《まばゆ》い光茫がベッドの裾から発し、六十センチほどの幅に広がったかと見る間に、ベッドの上を縦断、点滴の壜に当たって、カチッと鋭い音を立てて棒状に輝いた。
「何なの、この光は?」
和子がおびえた。途端に保郎が、吐息とも唸り声とも安堵の声ともつかぬ声を上げた。それは今までに聞いたことのない不思議な呻きだった。松代はこの時、和子の頭上に光がとどまり、小鳥が羽搏くように明滅するのを見た。すべては一瞬の出来事だった。
三人は顔を見合わせた。
「今の音と光、見た? 聞いた?」
松代が興奮して言った。寿郎も声を上げた。
「何やろう!?」
「治るいうしるしかも知れん!」
「治るか、治らんか、ともかく神が応答してくださったのかも知れへん」
「神は確かにおられるいうしるしにちがいない」
三人は口々に言った。
不思議な光を見た和子は、新たな希望を持った。が、松代は、その保郎の唸り声と共に、保郎の霊が飛び去ったような印象を受けた。この時を境に、松代には保郎の体が魂の脱け殻のように見えてならなかった。
翌朝七時から十時まで、保郎の灌流の手術が行われた。心電図の波型は正常だが、脈搏は速い。尿素窒素一五〇、血圧一〇〇〜八〇、顔面と足部に浮腫顕著、尿一滴も出ず、呼吸数二四。夕刻、尿素窒素一九〇。手術後、保郎の悲痛な呻き声が小やみなくつづいた。その声に胸を刺されて和子は足がふるえた。
この日から、保郎は個室に移された。薄暗い十畳ほどのその部屋の柱に、他の部屋にもあった小さな十字架のキリスト像が飾られていた。保郎の呻きは、尿毒症による脳症であるらしかった。
翌二十六日、依然として腹膜灌流はつづけられていた。血圧八〇〜六〇、脈搏一一三、排尿一滴もなし。
午後十時過ぎ、控室に休息していた和子のもとに、てる子が飛んで来た。
「お母ちゃん! お父ちゃんが……」
てる子の泣き声に、和子は病室に駆け込んだ。もはや、脳症による呻きもかすかだった。取りすがって保郎を呼びつづけていた和子も、遂に別れの時の来たことを知った。あるいは手を取り、あるいは足をさすりつづけていた一同も、身を起こした。誰もがたゆみなく祈ってきた。ひたすら癒されることを祈ってきた。が、保郎は苦しい闘病の果てに、今、この地上の生を終わろうとしていた。
和子の目に神代《じんだい》駅のプラットホームを、巻きかけのゲートルをおさえおさえ走っていた少年の日の姿が不意に浮かんだ。と次々に保郎の姿が現れては消えた。肩で風を切って歩いていた神学生時代の姿、「伝道者の妻は、その夫を十字架に押し上げねばならぬ」と、一途に説いてきた結婚申し込みの手紙の言葉、福良《ふくら》の母から送られた煮干しを、こよなきお菜とした新婚時の姿、保育園の園児たちと相撲を取って尻もちをついた時の幼児《おさなご》のような笑顔、下肥をかけられて帰って来た時のうれしそうな顔、世光教会との別れ、今治教会での入退院の繰り返し……。
〈その往く所を知らずして出で往けり〉
の聖言《みことば》を口ずさみながら、今治教会を辞任した頃の保郎の必死な祈り、アシュラム・センターでの間断ない電話に応対していた高い声、早天祈祷会で講義する真剣な顔、本気で怒ったり笑ったりしたそれらが次々にとめどなく浮かぶ。
るつ子やてる子、松代ややす代のすすり泣く声に、和子ははっと吾に返った。そして、かねて保郎と約束していたとおり、保郎の愛唱の讃美歌三二一番を一同にうたってもらった。
わが主イエスよ ひたすら
いのりもとむ 愛をば……
きたれきたれ くるしみ
うきなやみも いとわじ……
いまわの息 かすかに
のこるときも あいをば
まさせたまえ……
一同は声を低めてうたった。そしてそのあと、一人一人が祈った。保郎の一生が守られたこと、神に愛され、用いられたことへの感謝の祈りであった。
保郎の息は徐々に消えてゆき、遂に完全にとまり、医師が死の宣告をしたのは、二十七日午前零時三十分であった。松代の夫後宮牧師が、臨終の祈りを捧げた。悲しみの中に、しかし深い平安が一同を覆った。
和子は保郎の唇にそっと手をふれた。かつて保郎は、
「ぼくの唇は、祈るためにあるのや」
と、口癖のように言っていた。全くその唇は、早天祈祷会に始まって、よく祈った唇であった。信者たちのために、共に苦しみをわかって、しばしば泣きながら祈った唇でもあった。そしてまた、火のごとき熱情をもって、キリストの愛を説いてやまなかった唇でもあった。和子は、
「あんた、ほんとうにご苦労さまでした」
と、一言言って深々と頭を下げた。一同の嗚咽《おえつ》が部屋の中に満ちた。
かくして、ちいろば先生こと榎本保郎牧師は天に帰った。昭和五十二年(一九七七年)七月二十七日、五十二歳であった。
おわりに
榎本牧師の召天およそ七年後の昭和五十九年(一九八四年)五月、私たち夫婦は、この小説の取材のために、アメリカ、イタリア、イスラエル、ギリシャと、その在りし日の足跡を辿った。アメリカには担当の古田清二氏、ヨーロッパ、イスラエルには中野晴文記者に同行していただいた。
榎本保郎が召天したマリーナ・マーシー病院を訪れたのはその時だった。ロスアンゼルスには広い空があった。高層建築は都心のひと所にあるだけで、ジャカランダの花の紫が実に清らかであった。そのジャカランダの花を見た時、私は正《まさ》しく、榎本牧師が天に召された街に立っている実感を覚えた。
マリーナ・マーシー病院は、空港から六キロはあったのだろうか。辻本牧師は、実に肌理《きめ》細かな配慮のもとに、空港と病院の距離を確認させるために車で走ってくださった。
病院はいかにも榎本牧師召天の場にふさわしい清潔な、静かな建物であった。二階建ての各病室に小さな十字架上のキリスト像が飾られてあるのが、私の目を惹いた。あの不思議な光を発した部屋にも案内された。その光は一体何であったのか。一人の青年が窓側のベッドに横になっていた。私は入り口に立って思った。私にもその光が、神の応答のような気がしてならなかった。人間の知恵では解き難いことがある。特に榎本牧師の上には、それが度々起きたような気がする。
飯《いい》のママの死もその一つだった。住むべき家のない榎本牧師に、たちまち二千五百万円のセンターが与えられたのも、その一つだった。世光教会の家屋を買うための十万円が、当時真珠養殖をしていた後宮《うしろく》俊夫から送られてきたのもその一つだった。
そんなことを思いながら私は、信ずる者にはその信仰に応じて、神もまた何かを示してくださるのではないかと思った。
次にのぞいた召天の部屋は薄暗かった。いや、薄暗いというより、荘重の気に満ちていたというべきかも知れない。おそらく、様々な生涯を生きた人々が、最期の息を引き取ったにちがいない。この部屋で、愛する榎本牧師もまた生涯を閉じたのだ。和子夫人、後宮俊夫・松代夫妻、るつ子、恵《めぐみ》、てる子のきょうだい、寿郎氏、三宅やす代夫人、辻本牧師、藤田牧師、斉藤正夫妻、そしてサンフランシスコの中華帰主教会から車で駆けつけた呉牧師夫妻等の、この部屋で捧げた祈りと、涙を思った。悲痛な呻きを上げたという榎本牧師の声を思った。従順に神に従った榎本牧師が、何故苦しい最期を遂げたのか、それは知るべくもない。が、あの光を神の応答と信じて、私は深く慰められた。
私が榎本牧師の死を知らされたのは七月二十八日であった。暑い日が、かっと照りつける庭の木々に目をやったまま、私は声を上げずに泣いた。この庭を、かつてわが家に一泊された榎本牧師と共に眺めたことがあったのだ。悲しみが、辛さが、全身の細胞に沁みわたっていくようであった。
私は榎本牧師の渡米に反対していた。アシュラム・センターから、渡米のための献金についての書面が来た時も、一円の献金もしなかった。ばかりか、他の会員たちに、一切応じないようにと働きかけさえした。それほどに彼の出発を阻止したかったのだ。
だから私は、榎本牧師の死を悼みながらも腹を立てていた。こんな思いを抱いたのは、おそらく私一人ではなかったにちがいない。だが私は、この小説の取材の作業を進めているうちに、自分がどれほども榎本牧師を知らなかったことに気づいた。
彼は実に数多くの講演、広範囲なアシュラム活動のほかに、幾多の著書を世に送った。また、おびただしいまでの講演や説教テープを残している。それらを読み、かつ聞くに及んで、いかに彼が死を覚悟し、いかに真剣に神に聴き従おうとしていたかを、私は知らされたのである。榎本牧師は「聴従」という言葉をしばしば使った。この「聴従」が、決して口先だけではなく、文字どおり、命を賭けたものであることを、私はいやでも思い知らされたのだ。それは、日々キリストの言葉に命を賭けて従おうとしたことのない私には、到底わからぬ境地だった。
確かに榎本牧師は、旅立って死んだ。が、それは決して軽率でも浅はかでもなかったのである。産婦人科医の三宅篤氏は、その友人の内科医某氏に、榎本牧師の診断を乞うたことがあった。昭和四十七年(一九七二年)のその時点で、某医師は言った。
「のんきに遊んで暮らせば、五年は持つかも知れない」
その五年間を榎本牧師は凄まじい働きの日々の中に生きた。遊んでいても五年で終わるべき命を、彼はまっしぐらに走りつづけて、五年間を生きたのだ。神はそのように彼を用いたのである。彼の働きは無謀でも脱線でもなく、聴従であった。
辻本牧師は、ロスアンゼルスの福井葬儀社なる所に、私たちを案内してくれた。ここで榎本牧師の密葬の儀が行われた。格別に報らせはしなかったが、七十余名の人が参列したという。百名も入るかどうかのその葬儀場に一歩入って、私はぎくりとした。正面の低い壇上に、背広を着た男性の遺骸が横たわっていた。まだ棺に入れられてはいなかったが、顔は死化粧が施されていて、遺体は人形のようであった。この、一人横たえられているアメリカ人男性の遺体の上に、榎本牧師の姿がダブってならなかった。
ロスアンゼルスを発った私たちは、サンフランシスコに飛んだ。サンフランシスコは風の強い所で、私たちの滞在した三日間、絶え間なく風が吹いていた。サンフランシスコ・オークランド・ベイ・ブリッジを渡ってバークレーの街に行った。天下の俊秀が集まる名高いカリフォルニア大学があった。私たちが訪ねて行ったのは、この街にある中国人教会である。榎本牧師が初めてこの教会の講壇に立った時、いっせいに冷たい目を向けられた、かの教会である。しかし榎本牧師の話を聞いたあと、心の打ち解けた中国人たちの目には涙と笑いがあったという。そして、再び榎本牧師を招いてくれたのだった。
その中国人教会は、なかなか探し当てられなかったが、同行の古田記者が達者な英語で尋ね当ててくれた。中華帰主教会は、カリフォルニア大学の南の方角にあった。が、その日は月曜日であったためか、会堂の扉も、傍らの住宅の扉も固く閉ざされていた。外廊を支える白く太い円柱が、同色の白い建物に調和して、清らかであった。だがここに、日本の侵略を決して忘れてはいない傷手を負った人々がいることを、私は思った。そしてその人々に向かって、心からなる謝罪をしつつ、キリストの愛を伝えたであろう榎本牧師の説教を思った。
サンフランシスコからシアトルを経て、ニューヨークでは、幾人かの人からぜひ会うようにと言われた糸井弁子氏に会った。文筆をもって聞こえている人だという。娘さんと共にホテルに訪ねて来られた糸井弁子氏の一言は私を驚かせた。
「わたしは残念ながら、只一度しか先生にお会いしていませんが、その只一度で、何十年かの信仰生活を変えられたのです。死んでいた信仰が甦ったのです」
これに似た言葉は、日本の中でも、アメリカでも、度々聞いた。だが八十歳を超えた糸井氏の言われたこの一言は、私には強烈だった。信仰は覚醒であるということを改めて思い知らされたのだった。
つづいて私たちは、榎本牧師の足跡を追い、激しく雷鳴の轟くニューヨーク空港から、イスラエルに行くべく、ローマに飛んだ。ローマに数日滞在ののち、訪れたイスラエルは、至る所に旧約聖書と新約聖書の世界があった。
榎本牧師は死の二年前の春、即ち今治教会の牧師であった頃、飯清《いいきよし》牧師が団長の聖地旅行団のチャプレンとして、イスラエルに渡った。彼は旅行中毎朝忠実に信者たちに説教をしたわけだが、このイスラエルで最も彼を感動させたのは、カペナウムであった。キリストが、「わが町カペナウム」と言われたそのカペナウムには、「山上の垂訓教会」があった。美しいガリラヤ湖畔を渡ってくる涼風に吹かれて説教をする榎本牧師は、かつてキリストが説教された丘に立って、自分が今説教している畏れに、打ちふるえたという。そこは、言い難く聖なる気配を感じさせる地であった。
やがてヨルダン川に沿って南下し、エリコ、死海を経て、キリスト生誕の地ベツレヘムに着いた。ベツレヘム郊外で、たまたまろばに乗った婦人を見た。暑い日差しの中を、ろばに横乗りに乗った姿は、名画から抜け出たような風情であった。そのうしろから、小さなろばがとことこと従《つ》いて行くのを私は見た。それは確かに、まだ人も乗せることのできないような子ろばであった。
(あっ! ちいろば!)
思った瞬間、涙が噴き出た。
昨年(一九八六年)一月から、一年三カ月にわたって「週刊朝日」に連載された榎本保郎牧師のこの伝記小説は、今号をもって終わった。
「自分より大いなる人格は書き得ない」
と聞いたことがあるが、正《まさ》しくそのとおりであった。榎本保郎なる人物の、ほんの一端を描いたに過ぎなかった。実に多くの人々が、私よりもっと身近に、もっと濃密に、榎本牧師と人格的関わりを持っていたことを思うと、私の書いたものは略画にもなっていないかも知れない。
ずいぶんと多くの方々に、大切な時間を割いて頂いて取材したにもかかわらず、その幾分の一をも書き得なかった。小説というものは、一人一人の読者の胸の中で完結すると言われているから、その読者の胸の中に結ばれる榎本保郎像は、それぞれに異なっているかも知れない。
それはそれとして、病の中にありながら、説教、講演、著作活動と、実に多忙な中に、多くの方々と親密な交わりを持った榎本牧師の人間性に、私は改めて大きな驚きを持つ。そしてまた、榎本牧師に劣らず深い愛をもって同牧師の活動を支えた方々にも、敬意を表さずにはいられない。世光教会員、今治教会員、アシュラム会員、海外の教会につらなる人々、何れも実に深い愛に満ちた関係であったことに、私自身感動を禁じ得ない。特に辻本牧師とその教会員は、連日病院を見舞い、数人の家族の弁当を調《ととの》え、励ますなど、ひとかたならず心と体を用いられた。そしてこの間、日本全国はむろんのこと、アメリカ、ブラジル、台湾に散在する信仰の友の祈りは、実に熱いものがあった。
本葬は一九七七年八月四日、午後二時から近江八幡農協会館において、アシュラム社葬として執り行われた。酷暑のさなか、全国各地から参列した人々六百余名と聞く。司会は東岡山治牧師、説教は、生前から約束のとおり、親友林|恵《さとし》氏によってなされた。
「……先生は入信するやたちまち伝道者として召され、神学校在学中既に世光教会を設立し、洛南の開拓伝道に携わりました。先生の著書名のごとく、その生涯は、主イエスのご用に召された『ちいろば』のそれでありました。そうして、自らのプログラムを持たず、主の引き給う手綱のままに、その馳せ場を忠実に走ったのであります」
「……しかし人間的には先生を崇拝し、祭り上げることをしてはならないと思います。信仰が個人崇拝となり、榎本教となることは、先生の最も警戒されたところであります。先生亡きあとは、先生の教えのごとく、祈りをもって直接|聖言《みことば》に聞き、神ご自身に育てて頂くことを求めつづけたいと思います」
「……先生はいつも神の前に悔い改め、砕けた魂を注ぎ出していたと思います。おのれの胸を打って泣く先生の真実な信仰態度が、どれほど私共の慰めとなったことでしょう。だから、先生におけるキリスト教とは、『罪の赦しの福音』でありました。われらの罪のために十字架上に血を流し給いしキリストの愛! 宇宙広しといえども、この罪の赦しの場に立つほか、われらの救いはないことを、先生は再三告白されました……」
信仰による最も親しい友であった林恵氏の熱い友情が、この告別式の説教の随所に滲み出ている。
榎本牧師が心配していたアシュラム・センターの後継者は、その願いのとおり、世光教会において彼が洗礼を授けた田中恒夫牧師がその任についたのである。そして十年になろうとしている。
一九八六年中に開催されたアシュラムは、国内六十四回、海外七回に及んでいる。尚、現在、田中牧師と共に酒井春雄牧師がアシュラム・センターの中核となり、他に小宮山林也牧師、山下|万里《ばんり》牧師等の推進力を得て、活動は更に活発になっている。
アシュラム・センターの事務を担当する岡崎澄子氏は、発足以来変わらぬ奉仕をつづけており、檜山嘉蔵氏はメキシコにある子息のもとにあって、八十歳を超えてなお、かくしゃくとしてアシュラム運動に挺身している。
榎本牧師の最も心にかかったであろう家庭のうち、父の通氏が榎本牧師の召天後、翌年の八月十九日この世を去った。更にるつ子の夫橋本裕は、妻と二人の子を残して、五年後に死んだ。現在、長男恵は東南アジアの福祉活動にいそしみ、てる子はカナダの神学校に学んでおり、和子夫人はアシュラム・センターの主事としてセンターに住みこみ、まことに目ざましい働きをつづけている。
最後にこの小説取材に協力くださった榎本牧師の遺族親戚の方々、榎本牧師夫妻の精密な年表を作成してくださった菊川|三慶《みよし》・益子(和子夫人の姉)夫妻、淡路島の小中学校時代の恩師級友、沼島《ぬしま》時代の友人知人、京都世光教会並びに同保育園、円町《えんまち》教会、今治教会につらなる方々、大住《おおすみ》伝道所の西川四郎氏外関係の方々、同志社神学部の高正義生氏並びに遠藤彰氏、神学部級友の諸氏、軍隊時代の親友で京都銀行の奥村光林氏並びに暁美夫人、小宮山林也、佐藤博、金田福一各牧師その他アシュラム関係者、在米アシュラムの辻本清臣、藤田正武、吹上信一各牧師をはじめ信徒の方々、重要な資料を提供してくださった石黒恵智氏、山本清子氏、鴨川和世氏、病床にあって数々のご助言を寄せられた今は亡き「ちいろば」刊行者である聖燈社主幹仲綽彦氏、そして、長期にわたる海外取材に同行協力をいただいた朝日新聞の記者、中野晴文氏、古田清二氏、連載中ひとかたならず協力してくださった大河原晶子氏、すばらしい挿絵で支えてくださった朝倉摂氏に、心からなる感謝を捧げたい。
尚、日本には榎本保郎牧師のアシュラムとは別に、アシュラム連盟のよい働きがある。ともに全国キリスト教会の発展を祈っての団体であることを付記しておく。
筆を擱くに当たって、榎本牧師が日本出発直前の七月十日になされた最後の聖日礼拝説教「天国の饗宴」の結びの言葉を掲げたい。
〈私たちの生活にとって必要なものはいろいろあるが、最も必要なものは神の国であることを覚え、神の国の招待に応えることを第一にして行きたいと思う〉
本書出版にあたっては、担当の川口優香里氏に大変お世話になった。ありがたいことであった。
[#改ページ]
文庫版出版にあたって
この小説「ちいろば先生物語」は、一九八六年一月から一年三カ月にわたって「週刊朝日」に連載されたものである。早くも三年の月日が過ぎたわけだが、ちいろば先生こと榎本保郎牧師への感慨は増すばかりである。ユーモアに富んだ、しかし火のような激しい説教を、私は今尚折にふれてはテープに聞く。そして言い知れぬ感動と喜びを与えられるのだ。
この榎本牧師の生き方に、私の書いた一冊が、どれほど迫り得たかそれは知らない。が、連載中、そして単行本に寄せられた多くの声援を私は忘れ得ない。それだけに、この度文庫本として新たに世に出されることは、私にとって実に大きな感謝である。この書によって、更に多くの方が、特に若い人たちが榎本牧師の生きざまにふれ、人生についてより深く考えていただけるなら、原作者として望外の幸せと言わざるを得ない。
尚、単行本のあとがきの中に、榎本保郎牧師の家族について少しく触れているが、その後の変化について一、二付記させていただく。当時東南アジアの福祉活動にいそしんでおられた長男恵氏は、現在沖縄で夫人と共に平和運動に従事しておられる。また、カナダの神学校に在学中であったてる子氏は、今、世光教会の伝道師として働いておられる。
終わりに、文庫本の出版に当たり、細心の注意をもってご協力くださった熊沢正子氏、願いに勝る装幀を賜った朝倉摂氏に、厚くお礼を申し上げたい。
一九九〇年三月一日
[#地付き]三浦綾子
参考文献一覧
榎本保郎の著書
「ちいろば」(聖燈社)
「ちいろば余滴」(同)
「わたしの出会った人」(同)
「ふつかぶんのパン」(同)
「祈りと瞑想への道」(同)
「道に生きる」(講談社)
「旧約聖書一日一章」(主婦の友社)
「新約聖書一日一章」(同)
キリスト教関係資料
「アシュラム」誌(アシュラム・センター)
「世光教会二十年史」(日本基督教団世光教会)
「創立九十年記念誌」(日本基督教団今治教会)
「ウイラメットの流れのほとりで」岩川直子著
「桃山の丘に光を」松波閑子著(ガリラヤ社)
「ある男の遍歴」立石賢治著(いのちのことば社)
「浦上切支丹史」浦川和三郎著(全国書房)
「日本キリシタン殉教史」片岡弥吉著(時事通信社)
「長崎の殉教者」片岡弥吉著(角川書店)
その他
「三原郡史」(三原郡史編纂委員会)
「洲本市史」(洲本市役所)
「般若心経入門」松原泰道著(祥伝社)
「遥かなり掖河」(石頭会)
「満洲さ・よ・な・ら」引揚体験集編集委員会編(国書刊行会)
「曠野の涯に」小野地光輔著・刊
「世界大百科事典」(平凡社)
「北斗星下の流浪」石黒恵智著(謙光社)
「満洲慕情」全満洲写真集満史会編(謙光社)
創作秘話(六)
ちいろば先生物語
(型破りの牧師榎本保郎先生の伝記)
[#地付き]三浦光世
本書の序章にあるとおり、私が榎本牧師の著書「ちいろば」を読んだのは、一九六九年一月ごろである。札幌の天使病院の待合室で、綾子の精密検査の終わるのを待ちながら、読んだのだった。
綾子はその年、新年早々から体調がすぐれず、子宮癌を懸念していた。友人の薬剤師阿部直枝さんに相談すると、札幌の天使病院で一度検査してもらったらいいのではと言われた。というわけで、同病院に行って検診を受けたのである。幸い、結果は癌ではなかった。子宮筋腫だが手術するまでもないとのこと、綾子は大いに安心した。
私は、この綾子に「ちいろば」をぜひ読むように勧めた。綾子はその勧めに応じて読み始めたが、あちこち反撥を感じた。しかし、読み進めるうちに、すっかり「ちいろば」にはまった。何十冊も買って友人知人に送ったりした。自分もこの「ちいろば」をもとに、小説を書きたいとさえ言い出した。そこへ思いがけなく、著者の榎本牧師から電話があった。講演の依頼である。
一九六九年といえば、小説「氷点」が入選して五年経ったころである。講演に招かれることも多くなっていた。むろん榎本牧師の求めを受け、今治に出向いたのがその年九月だった。
着いた翌日、ある高校で綾子は講演をし、三日目には千二、三百人も入る公会堂で、力一杯講演をした。
(写真省略)
一九六九年九月二十一日、今治教会創立九十周年記念講演。左より三浦綾子さん、光世氏、榎本牧師。
この時の講演が好評であったのか、二年後に再び招かれて今治に行った。前回は大阪から松山に飛行機で飛んだが、二回目の時は空路であったか、船であったか覚えがない。二回目なので、出迎えは辞退して二人で榎本先生の牧師館に赴いた。
と、家の前に小学校五、六年生ぐらいの、かわいい女の子がいた。確かてる子嬢ではなかったかと思う。その子が私たち二人を見て言った。
「あんたがた、うちのお父はんに会おう思うて、来たのか」
そのとおりだと答えると、
「あのな、うちのお父はんかて、えらいことあらへんで」
と言う。私たちは笑った。あとで綾子と話し合ったのだが、いつも多くの人が榎本牧師を訪ねて来る。それはきっと、自分の父が偉いからであると、この子は思いこんでいたにちがいない。が、何かの機会に榎本牧師に諭されたのであろう。
「まちごうたらあかん。威張ったらあかんで。お父はんかて、そんなに偉くあらへんのや。人間いうものはな、みんな罪人や。けどな、イエスさまが、みんなに代わって十字架におかかりくださってな、それでみんな助かっとるのや。そこんところを、まちがえんようにな」
全くの推量ではあるが、おそらく当たっていると思う。ともあれ、彼女の言葉は微笑ましかった。榎本牧師のことを思い出すと、必ずあの時の彼女と言葉が浮かんでくる。同時に、榎本牧師の笑顔が瞼に浮かぶ。榎本牧師は綾子が書いているとおり、時にはとっつきにくい表情も見せたが、笑顔が何とも楽しかった。
「あのニカーッと笑う顔が、実に魅力的ね」
綾子もよくそんなことを言っていた。「ニッコリ」ではなく「ニカーッ」という形容がぴったりだった。そして言葉がまた魅力的だった。
「ほうかあ」
という口癖も楽しかった。そんな影響からか、本書の会話も綾子は生き生きと書いている。もっとも「ちいろば」を下敷にしているから、会話も書きやすかったのかも知れない。その「ちいろば」を読んだ時、綾子は自分なりに榎本牧師の伝記小説を書きたいと思ったわけだが、いつその承諾を得たのか、さだかではない。
「週刊朝日」に「ちいろば先生物語」の連載を始めたのは一九八六年一月三日、十日合併号からで、一九八七年三月二十七日号で終わっている。取材開始はおそらく連載を始める三年前にはなされていたと思う。
(写真省略)
今治時代の榎本保郎牧師。
ちいろば先生こと榎本保郎牧師が五十二歳の生涯を閉じたのは、一九七七年七月二十七日、所はロスアンゼルスのマリーナ・マーシー病院の一室であった。ブラジルへの旅の途中、機内で吐血、和子夫人に付き添われて急遽同病院に入院、最後を迎えたのである。
ブラジルへ行くと聞いた時、綾子は絶対反対と電話で中止を求めた。階段を這って上るという健康状態を聞いていたからである。が、榎本牧師は死を覚悟で出発した。
そんなわけで、和子夫人始め親族兄弟の方々、特に関係の深かった奥村光林氏等から、榎本牧師の死の数年後に取材をさせていただいた。このため私たちは、幾度か京都、今治に出向いた。京都では奥村光林氏宅にも参上して、榎本牧師の軍隊当時をいろいろお聞きすることができた。
榎本牧師の信仰はむろん感動的であるが、榎本牧師にキリストへの信仰を勧めて止まなかった奥村光林氏の信仰が、これまた実に感動的であった。氏については、綾子は本書の「黄塵」「敗退」以下、かなりの頁を割いている。
奥村光林氏との出会い、これも私たち夫婦にとって大きな恵みであった。先年氏は天に召されたがご一家とはその後も長くお交わりをいただいて、今日に及んでいる。特にご息女の阿南慈子さんの著作には、大いに力づけられた。慈子さんは、難病多発性硬化症のため、十四年もの長い間病床にあられ、失明の苦難まで負われたが、最後までその信仰はいささかも衰えることなく幾冊も優れた本を出された。惜しくも二〇〇〇年十二月に天に召されたが、その業績は偉大であった。
京都市内、淡路島等には、榎本牧師の末弟栄次牧師が案内してくださった。この栄次牧師は、かつて京都の立命館大学に学ばれ、幾年か一般の仕事に就かれたあと、同志社大学に入り、献身された。この場合の献身とは、キリスト教の伝道者になることで、文字どおり一身を神に献げることである。
栄次牧師について忘れられないことがある。栄次牧師は同志社大学を卒業されたあと、札幌の北光教会にしばらく伝道師として奉仕された。その後開拓伝道に従事された。開拓伝道とは全くのゼロから出発する伝道である。教会のない地域に居を据え、地道にその地域社会に呼びかけていくわけであるが、気の遠くなるような仕事である。
一度私と綾子は、札幌で栄次牧師の教会、いや家を訪ねた。日曜日の礼拝に出席したのである。礼拝は八畳か十畳の居間でなされていた。私たち以外には、その時外来者は誰もいなかった。夫人を含めて総勢僅か四人の礼拝である。
本書の中にも榎本保郎牧師が、夫人と二人だけの礼拝を守りながら、大勢の前で語るように説教している場面があるが、栄次牧師も私たち二人を前に、真剣に聖書の真理を説かれた。綾子も私も、その姿にいたく感動したことであった。
栄次牧師は、地域に毎週何百枚もの週報を配っていると聞いた。こうしてやがて信徒が一人二人と起こされ、一つの教会となっていった。正しく献身以外の何ものでもない。私はこのごろ、献身という一語を聞く時ほど、襟を正されることはない。
栄次先生はその後、新潟の敬和学園に奉職された。現在はその高校部の校長である。この先生に、ある人が尋ねたことがあった。
「あなたは榎本さんですね。榎本さんといえば、あの保郎先生とご関係がありますか」
「はあ、保郎はわたしの兄でした」
「そうですか。お兄さまは立派でしたなあ」
そこで栄次先生は思ったという。
(そうか、兄貴は偉かったか。わたしには誰も偉いと言ってはくれんのか)
そんな冗談を聞いたことがあるが、どうしてどうして、保郎先生に決してヒケを取らぬ優れた教育者である。
この栄次先生に、前述のとおり取材協力をしていただいたのであるが、あれは一九八二年か三年ごろであったと思う。保郎先生が高い階段を登って行き、ひざまずいて心を注ぎ出すように祈ったという桃山御陵の麓に立った。その他世光教会等、保郎牧師ゆかりの地を案内していただいた。奥村光林氏宅も、この栄次先生の案内だった。
「先生、夕食、何が食べたい?」
一日目か二日目の午後、綾子が尋ねると、
「ぼくは一度、懐石料理いうもんを食べてみたいと思っていたんです」
と言われた。喜んでその夕食を共にしたのだが、質素な生活をされていたのだと、今更ながら思われてならない。
何日目かに、淡路島へもおつれいただいた。明石から船に乗り、島へ渡ったのである。昔あったという汽車はもう通ってはいなかった。神代《じんだい》という駅も跡をとどめるばかりであった。保郎先生や和子夫人が通学のために乗った列車は、どんなだったろうと思いめぐらしながら、私たちは栄次先生の説明に耳を傾けていた。
(写真省略)
ちいろば先生伝道のスタートとなった京都伏見世光教会時代。第2回クリスマス集会。
淡路島では、綾子は乞われて二回講演をした。一度目は洲本《すもと》高校、二度目は福良《ふくら》教会だった。
沼島《ぬしま》という小さな島にも渡った。十人乗りほどの小さな船で、十分ほどで着いた。沼島はかつて保郎先生が代用教員をした所で、元小学校教師の綾子も感慨深かったことであろう。
淡路島で説明を聞くうちに、すぐに使ってみたくなる言葉……というより語尾があった。
「……十倍もあるんじょ」
「……欲張りというもんじょ」
等と、語尾に「じょ」がつく言葉が耳についた。これが楽しかった。
(写真省略)
淡路島、三原平野。
京都に話を戻す。
取材中、京都で後宮《うしろく》俊夫牧師に出会ったことも大きな収穫であった。本書を読んで、誰しもこの後宮俊夫という人物に感動せずにはいられないと思うが、戦後氏は、真珠の養殖に成功し、経済的には豊かな生活であったようだ。が、大の男が一生を託す仕事ではないと考えていた。
そこに仕事の口が三つもたらされる。一つは元海軍大尉の経歴に応じた待遇を約束するという警察予備隊の口。次に月俸八万円の鉱山所長の口。そしてもう一つは、榎本保郎牧師の勧めの大住伝道所の主事、これは月給三千円。この三つのうち、氏は最低の三千円の仕事についたのである。これは伝道者の道であった。後に氏は牧師となり、日本キリスト教団議長にもなられた。
この後宮牧師の奥さんが、保郎牧師の妹松代夫人で、幼い時どんなに愛らしい女の子であったかと思われる女性である。家族の誰からも、
「まっちょ」
「まっちょ」
と呼ばれていたことが、本書の随所に書かれてある。
ところで、榎本保郎牧師は、幾度かアメリカにも講演に招かれている。イスラエルにも行っている。この足跡を尋ねることも、求められていた。「ちいろば先生物語」の連載前に、その取材をするよう、「週刊朝日」編集部から要求されていた。
当然のこととして、この海外取材に出たのが一九八四年五月、連載開始の二年余り前であった。海外旅行はこの時が三度だった。一度目は小説「海嶺」の取材で、一九七七年四月に香港、マカオに出かけた。一九七七年は榎本牧師がロスのマリーナ・マーシー病院で命を終えられた年である。
二度目の海外旅行が一九七八年五月、同じ「海嶺」の取材で、フランス、イギリス、カナダ、アメリカへ旅した。この旅行の帰途ハワイにも寄り、綾子は求められて急遽講演をした。講演は通訳つき、初めての体験であった。
その時から六年ぶりの海外取材である。ところが綾子は、旅行を前に風邪をひき、三十七度台の熱がしばらくつづいて、出発が危ぶまれた。ままよと出かけて行ったところ、真夏のようなロスに着いて、風邪はうそのようになおり、翌日から早速取材を始めることができた。
先ず始めに行ったのがマリーナ・マーシー病院だった。高層ビルではなく、広い病院であった。同行者は「週刊朝日」の担当者古田清二氏とロス在住の辻本清臣牧師。榎本牧師終焉の病室も広かった。患者が一人入院中だったが、邪魔にならぬよう、そっと病室に入った。辻本牧師は、榎本保郎牧師の危篤中、実に大きな協力をした方で、医師と和子夫人たちとの間に立って、通訳の労も取られた。
この辻本牧師と榎本牧師のそもそもの出会いが変わっている。ある時、榎本牧師は招かれてロスに飛んだ。出発前にある人から言われていた。
「ロスには辻本清臣先生がおられて、万事承知しているから、安心して辻本先生の所で厄介になってください」
そのつもりで辻本先生宅に着いたのだが、辻本牧師は何日経っても、どこで講演をして欲しいとも、こういうスケジュールになっているとも言い出さない。変だなとは思いつつも榎本牧師は毎日居候をつづけた。
一方、辻本牧師も、榎本牧師が来意も告げず、ずるずると家にいることを不審に思ったという。やがて、日本から知らせがあったらしく、事情がわかって、以来すばらしい仲になったと聞いた。
そんなこともあって、榎本牧師の危篤の間、辻本牧師はひとかたならぬ世話をされたのであった。この辻本牧師のほかに、ガイドが二人同行していたが、病院の中には入らず、外で車の中に待機していた。病院の前は、運動場のように広い敷地であったと思う。
この病院を出た時、私たちは思いがけないものを見た。戸外の一画に、男性の遺体が台に置かれていたのである。遺体は仰向けに寝せられていた。何か着ていたようであるが、別にタオルケットがかけられていることもなかった。どころか、顔覆いもなかった。そばに人はいなかった。家人が何かの都合で、ひと時そばを離れていたのかも知れない。
この時の旅行は、何と四十日に及んだ。ロス滞在中、
「それは長いですね。お気をつけて」
と、どなたかにねぎらわれた。一九八四年は、綾子が直腸癌の手術をして二年後の年である。いくら人工肛門をつけないですんだ手術であったとはいえ、まだ二年、四十日の海外旅行は無理と言えた。が、綾子は意外に元気で取材をつづけた。
ロスからはサンフランシスコに飛んだ。ビルがすべて拭ったようにきれいだった。坂の多い街であった。綾子とその坂道を少しく散歩したことを覚えている。
サンフランシスコの次に行ったのがシアトル。ここでは澤野芳久牧師から榎本牧師について聞くことができた。その何年か後に、澤野牧師はご夫人と共に日本に旅行された。夫妻は東京から足を伸ばして、旭川にも来られた。私たちの家も訪ねてくださったが、あいにく私たちは外出中であった。臨時の留守番の者が応対して、
「三浦たちは、出かけています」
とだけ答えた。「どちらから」とも「今日はどこへお泊まりですか」とも聞かなかったらしい。多分とりつく島もない応対だったのかも知れない。八柳洋子秘書も休暇を取っていたのか、わが家にいなかった。彼女がいれば手落ちなく受け答えができたのだが、ご夫妻はそのまま帰っていかれた。
帰宅して来客があったと聞き、どこの誰かを尋ねると、
「澤野という人で、アメリカからとか言っていました……」
とのこと。今夜の予定も、どこに泊まるのか、それも聞かなかったという。只々ほぞを噛む思いがしたが、調べる術もない。後日お詫びの手紙を差し上げたところ、却って丁重な返事をいただいた。
現在、ご夫妻は横浜に在住され、牧師としての仕事をつづけておられる。時にお会いできるようになったが、あの時ばかりはあわてた。私たちが出かける時、もし来客があったら、お名前、今後の予定、宿泊先をお聞きしておくようにと、指示すべきであった。要するに私たち、いや私のミスであった。
シアトルからはニューヨークで、さすがアメリカ大陸は広いと思った。この広いアメリカに、榎本先生はいったい幾度講演に来たのか。その努力に脱帽するばかりだった。
(写真省略)
マックナイト牧師夫妻の一時帰国の際に見送って(横浜港船上で)。
ニューヨークで、同行の記者が交替した。古田清二記者から中野|晴文《はるふみ》記者に代わったのである。二人共「週刊朝日」の編集者であった。ニューヨークの空港を経つ時、すごい雷雨で、雷に飛行機が接触することはないのだろうかと、綾子はずいぶん心配した。が、幸い予定どおりに飛行機は出発し、無事雷雲の上に出て、いつもと同じ空の旅となった。
時差には、私も綾子もあまり影響されなかった。暇さえあれば機中でもどこででもよく眠ったからであろう。
イタリアに着くと朝であった。ローマではヴァチカン宮殿を眺めたり、汽車でナポリに南下したり、フィレンツェに北上したりした。フィレンツェへの途中、窓外の景色が、少し北海道の山村に似ている所があった。有名なフィレンツェの美術館は、世界三大美術館と言われる。が、何も覚えていない。正に「猫に小判」「豚に真珠」の類である。
イタリアの次がイスラエル。聖書で何十回となく読んで来た地名が至る所にあり、何れも印象が深かった。首都エルサレム、イエス生誕の地ベツレヘム、受難の地ゴルゴダの丘、血の汗を流してキリストが祈られたゲッセマネの園等々、二人共感動は尽きなかった。自分を、キリストをお乗せした小ろば、即ちちいろばに擬した榎本牧師、その感動と感謝はいかばかりであったろうと思いつつ、一つ一つを見て廻った。
預言者ヨナが、神の命を聞かずに、船に乗りこんで逃げようとしたヨッパの街にも案内された。神学校出の榊原ガイドが、聖書を引きながら説明してくれるのも、ありがたかった。
「このヨッパのオレンジは日本にもたくさん輸出されているんですよ。ヤッハァ・オレンジと言って……」
そんな言葉も聞いた。またナザレの丘に向かって登って行く坂道で、粉末のようなからし種を掌に載せられたことも忘れられない。
イスラエルは日本の四国ほどの面積とか。すべて車で廻ることができた。運転手は実に温和なユダヤ人であった。聖書によく出てくるガリラヤ湖も何か懐かしい思いがした。その湖畔に並ぶ食事の店で食べた「ペテロの魚」、これが日本の鯛の味に似てうまかった。
キリストが山上の教えを説いたという丘に立ってガリラヤ湖を見おろした時は、さすがに言い知れぬ畏れを覚えた。
イスラエルにも雀がいることに興味を覚えたのはカペナウムであったろうか。カペナウムの露店の娘が、旅行者の私たちに投げキッスしてくれたのも忘れ得ない。
エルサレムに戻って、翌日は死海のほとりを走った。死海に浮かぶ塩の塊が、さながら小さな流氷のように見えた。途中、死海写本のことも榊原氏は話してくれた。
エルサレム滞在中、三日もつづけて夕食に中華料理を食べた。洋食に飽きていたのだろう。中華料理は、世界中ほとんど味がちがわないと、綾子と話し合ったことだった。
イスラエルを後に、ギリシャにも行った。そこでコリントの遺跡を見ることができた。
こうして一九八四年五月から六月にかけての海外取材旅行を果たしたのだが、翌年一九八五年、直腸癌の手術後三年にして、綾子は再発を告げられた。
「前回の手術で摘《と》ったそばに、またポリープが出ました」
主治医が顔をくもらせた。そのころ、もう一度「ちいろば先生物語」の取材に、今治に行くことになっていた。綾子を励まして予定どおりに今治に行き、帰途大阪の粉ミルク健康センターに寄ることになる。二十数日の粉ミルク断食療法を受けた綾子は、見ちがえるばかりに元気になり帰旭した。その綾子に主治医が言った。
「調べてみたところ、ポリープは消えています。再手術の要は全くありません」
こうしてこの年、「ちいろば先生物語」は執筆が開始され、一九八六年一月から連載が開始されたのであった。
但し、本書には海外の場面が長期の取材にもかかわらず、ロスを別にして、ほとんど書かれていない。榎本牧師には海外旅行中にも少なからずドラマもあったと思うのだが、そうしたエピソードを綾子はつかめなかったということであろうか。
(写真提供 榎本和子)