風のケアル5
旭光へ翔ける翼
著者 三浦真奈美/イラスト きがわ琳
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目次
第一八章 さまよう風
第一九章 輝く凶星
第二十章 蒼き流星
終章
あとがき
[#改丁]
第一八章 さまよう風
ふつう一般に、夫というものは妻の出産などで浮き腰になったりなどしないものであるらしい。
予定日が近づくにつれ仕事を減らし、陣痛がいつ始まるかと毎晩のように大きくふくれあがった腹部に手を当てるケアルを、
「わたくしじゃなくて、まるであなたが赤ちゃんを産むみたいだわね」
とマリナは笑った。
すでにそんな状態だったからか、いよいよ陣痛が始まったマリナの部屋に医師が入り、産湯《うぶゆ》の準備などであわただしく働く女たちのまわりをケアルが心配そうにうろついても、苦笑されこそすれ咎《とが》めだてする者はだれひとりとしていなかった。それどころか、室内からマリナのうめき声が聞こえるたびに飛びあがって青ざめるケアルを、女たちはわざわざ忙しい足をとめ、声をかけて励ましてくれたのである。
「だいじょうぶですよ、若領主さま」
「奥方さまは頑張っていらっしゃいます」
「初めての出産はだれでも、けっこうな時間がかかるものなんですよ」
その都度ケアルは彼女らに礼を言い、けれどそれですっかり心配が消えるわけでもなく、すぐまた部屋の前をうろうろと歩き続ける若領主の姿に、女たちは好意的な苦笑を浮かべるのだった。
最初の産声が聞こえたのは、陣痛が始まってから半日も経った深夜である。ケアルはすぐさま扉に駆け寄り、医師が赤ん坊を抱いて部屋から出てくるのを待った。しかしいつまで待っても医師どころか手伝いの女たちすら出てくる気配はなく、ケアルはあらゆる最悪の結果を思いめぐらせ覚悟した。
ふたつめの産声は、居ても立ってもいられなくなったケアルがたまらず、扉を開けようとした瞬間に聞こえた。やがて扉が開き、手伝いの女が顔をだした。
「若領主さま、どうぞお入りください」
促されて部屋に入ったケアルは、寝台の上に横たわるマリナと、その両側に白い布にくるまれたちいさなふたりの赤ん坊を目にしたのである。
「若領主さま、その、なんとお知らせしてよろしいのか……」
中年の医師は青ざめた顔で、ケアルの前に立った。医師の周囲では手伝いの女たちが、やはり青ざめ途方にくれた顔で立ちつくしていた。
「先にお産まれになったのは、ご子息のほうでした」
「――ということは、もうひとりは女の子だったのかい?」
訊ねたケアルにうなずいた医師は、申し訳ありませんと深々とあたまをさげる。けれどケアルは口もとをほころばせながら、重ねて医師に訊ねた。
「ふたりとも、元気な赤ちゃんだったんだね?」
「はい。しかし……」
「もちろんマリナも?」
ケアルの視線の先で、マリナはにっこりと微笑んだ。
「ふたりとも可愛い赤ちゃんよ。ほら、ご覧になって」
うなずいたケアルはすぐさま寝台に駆け寄った。
疲れの色はみえるものの、マリナは乱れた巻き毛のかかる顔を輝かせてふたりの我が子を愛しげに見つめている。
「こちらが女の子で、こちらが男の子なの。ほら、この子はきっとケアルのような赤毛になるわ」
「口もとは、きみに似てるね」
赤毛になるだろうと言われた娘は、どちらかといえば自分に似ているような気がする。けれど息子は生まれたての赤ん坊だというのに、すでに真っ黒な髪がふさふさと小さな頭を覆い、あきらかにマリナ似に思われた。
「ほんとに可愛い赤ん坊だ」
ふたりの小さな小さな手にそっと触れてそう言ったケアルは、改めてマリナに目をやると、
「ありがとう。よく頑張ってくれたね」
心から感謝したのだった。
ケアルもマリナもしばらくは生まれたての我が子に夢中で気づかなかったが、いつの間にか部屋に入ってきていた家令《かれい》が若い父親となったケアルに声をかけた。
「ご子息の誕生を、心より祝福させていただきます」
振り返ると四人の老家令が並んで、深々と頭をさげている。かれらはケアルをライス領主にするために、前領主であった父ロト・ライスが亡くなったその日から、表から裏からケアルを支えてきた面々である。当時はケアルの兄、ミリオ・ライスが当然領主の座を継ぐものと領内外のだれもが考えていたことを思えば、いかにかれらがケアルを領主とするために力を尽くしたか、容易に想像できるだろう。
「ああ、ありがとう。でも、息子だけじゃないんだよ。おれはいっきに息子と娘をもつ身になってしまったんだ」
嬉しげに報告したケアルにしかし、老家令たちの反応は鈍《にぶ》かった。かれらは互いに顔を見合わせ、目配せしあい、やがて中のひとりが言いにくそうに口をひらいた。
「――その件ですが、その……やはり我らとしては、ご子息を残していただきたいと考えております」
その言葉にケアルは、かすかに眉根を寄せた。
「どういう意味か、訊いてもいいか?」
ふたたび老家令たちは、互いに顔を見合わせあった。
「その……、お産まれになったのが双子の場合、片方を養子に出すか、あるいは産声をあげぬうちに医師が始末するのが――」
「莫迦《ばか》なことを言うな!」
ケアルはかっと目をみひらき、老家令たちを怒鳴りつけた。その声に驚いたのか、はたまた雰囲気を肌で感じたのか、産声をあげて以来まだひと声も出していなかった赤ん坊たちがいきなり、火がついたかのように泣きはじめた。
「やっと産まれた我が子を、なぜ手放さなければならないんだ!」
寝台では顔を青ざめさせたマリナが上体を起こし、ふたりの赤ん坊を外界から守るようにしっかりと両手で抱えた。
「若領主、どうかお聞き分けください」
「これまで双子が生まれたときは、どのご領主もそうされてきました」
老家令たちはケアルの怒りをやりすごそうとしているのか、ひたすら頭を深くたれ、言い続ける。
「いやよ! わたくしは絶対に、そのようなことさせません!」
表情をこわばらせたマリナが、両手にしっかりと我が子を抱えて叫ぶ。するとふたりの赤ん坊の泣き声が、これまで以上に激しくなった。あわてて手伝いの女たちがマリナと赤ん坊のもとへ駆け寄ろうとするのを見て取って、ケアルは彼女と我が子を守るように立ちはだかった。
「ケアル、ケアル!」
必死に呼びかけるマリナの声にケアルは、頭だけ振り向けて、だいじょうぶだとうなずいてみせる。絶対になにがあろうと、我が子はふたりとも守ってみせる。
老家令たちは手伝いの女たちに、さがりなさいと目で合図した。彼女らは医師とともにそっと部屋を出ていった。
「――若領主、それに奥方さま。ふたりのうちひとりとはいえ、手放したくないお気持ちはお察しします」
心得顔で老家令のひとりが一歩前へと進み出る。
「我々としても、平気なわけではございません。なんといっても我がライス領主の血をひくお子さまたちですから」
「しかし、双子はいけません」
辛そうな表情でかぶりをふってみせる老家令を、ケアルはにらみつけた。
「なぜ双子はいけないんだ? どうせ前例とやらに倣《なら》うだけで、たいした理由などないんだろう?」
ケアルの言葉に老家令たちは、顔を見合わせた。やがてひとりが仲間たちにうなずいてみせると、ひどく言いにくそうに口をひらいた。
「双子は、その……若領主のお立場に、ふさわしくありませんので」
「ふさわしくない、だと?」
そうです、と老人はうなずく。
「いちどに子を、ふたりも三人も産みおとすのは――なんと申しましょうか、まるで犬や猫のような畜生と同じであると……」
ケアルはかっと目をみひらいた。全身が瞬時に熱くなり、毛穴すべてから沸騰《ふっとう》した血がにじみ出てきそうな思いがした。
「――なんだと……?」
だが絞《しぼ》り出した声は、自分でも不思議なほど冷たく、落ち着いて聞こえた。
「いえ。我々がそう考えている、とは申してはおりません」
「ただ、ご領主の家系につながる家令たちや上≠ノ住む領民たちは、たいていそう考えるものでして――」
あわてて言い訳する老家令たちに、ケアルは音がしそうなほど奥歯をかみしめた。
島人たちの中には、双子どころか三つ子や四つ子もいる。かれらは子供たちを労働力とみなし、双子が生まれると母親はたった一度の妊娠期間で働き手を倍つくった、と褒《ほ》められるのが普通なのだ。この場合、母親が妊娠のため働けなくなる期間が一回ですむ、という見方もされるのは言うまでもない。
なるほど、島人たちがそうであるなら、自分たちは島人とは違うと考える上≠ノ住む領民たちがその逆をいくのは、ある意味納得できることではあった。だがもちろん、だからといってケアルは上≠フ常識を受け入れるつもりなど毛頭ない。
「領民たちがどのように考えようと、おれは息子も娘も手放すつもりはない。それをとやかく言いたい者には、勝手に言わせておけばいいんだ」
「しかし、若領主――これ以上上≠フ領民たちを刺激するようなまねは、お控えになったほうがよろしいかと思いますが」
ケアルは、ぴくっと眉をあげた。
デルマリナとの正式な交易がはじまってから、そろそろ二年になろうとしている。最終的にデルマリナは十二隻もの船をつらねてやって来て、わずか半月のうちにこのハイランド五領の代表者との通商条約調印をなしとげたのである。
当時、フェデ領主とウルバ領主はデルマリナとの交易を望んではいなかった。それを知ったデルマリナ側は、十二隻の船をフェデ、ウルバそれぞれの領海に停泊してみせたのだ。ハイランドでも北方に位置するこのふたつの領には、それまでたとえ難破して流れついた欠片《かけら》であろうとデルマリナの船がやってきたことはなかった。伝え聞いたところでは、両領とも十二隻の船を前にたいへんな騒ぎとなったらしい。おそらくは、このライス領に初めて三隻のデルマリナ船がやってきたとき以上に、領民たちは恐慌状態に陥《おちい》った。それは領主も同様で、かれらは十二隻の船を追い払うために調印を承諾したのだ。
デルマリナ側から要求があった港の建設は当時まだ、着工すらされていなかった。それはデルマリナ船が予定より早く来航したからではあったが、建設の費用をどう分担しあうべきか、各領主たちの間で揉《も》めていたことも原因だった。港の建設予定地はハイランドの最も南に位置するマティン領内にあり、北部にあるフェデ並びにウルバ領主が自領から離れすぎていることを理由に、費用の平等分担を渋ったのである。
これについてデルマリナ側から契約|不履行《ふりこう》であると、新たな要求をつきつけられるのは目に見えていた。これ以上、ハイランドが弱い立場におかれることを、ケアルは黙って見ていることなどできなかった。
そこでケアルは、ライス領が建設費用の六割までを負担すると、各領主たちに申し出たのである。ライス領が六割を負担すれば、残り四領はそれぞれ一割ずつの負担ですむ。すぐさま領主たちはケアルのその申し出を了承し、デルマリナの十二隻の船が通商条約調印を求めてフェデ領とウルバ領をまわる間に、港の建設を始めることができたのだった。
費用の六割負担は、ケアルの独断だった。ために後になってそれを知った公館の家令たちからは、激しい反発を食らった。なぜ他領に建設する港に、我が領が六割もの費用負担をしなければならないのか。
家令たちは港がどのように使われるものなのか、全く理解してはいなかった。単に船が停泊する場所、という程度の認識しかなかったのだ。ケアルは家令たちに、港が交易の現場となることを詳しく説明したうえで、
「あの港は、マティン領の港ではない。ハイランド五領の港なんだ。だったらより多く費用を負担した領が、港を使用するときに大きな顔ができると思わないか?」
多くの品物が港へは集められるだろう。六割の費用を負担したことでライス領は、他領よりも多くの品を港に運び込むことができるのではないか。そしてまた、デルマリナから運ばれた品の中でもより良質なものを、手に入れることができるのではないか。
ケアルのそういった説得は、家令たちに正しく理解されたとはいえなかったが、とりあえずはそれで反発はおさまった。
交易がはじまると、ケアルの予言はほぼ的中した。狭い港に着けられる小舟の数は、限られている。ライス領の小舟は、他領よりも優先して荷をおろしデルマリナ船に荷を積み込むことができた。そしてまた、ケアルが港の機能を管理する仕事を我が領に任せていただきたいと申し出たとき、一割ずつの費用しか負担しなかった領主たちは、その申し出を退けることができなかったのである。
どの船を埠頭に着けさせるか、水や食料の補給をいつ誰にさせるか、荷揚げ荷積みの作業を誰に任せ、いつ船を出航させるか――港の機能を管理するとはつまり、そういったことを一手に引き受ける仕事だ。港に出入りするすべての物・人が、かれらによって制御される。デルマリナとの交易はライス領が管理することになったも同然だと、ケアル以外の人々がようやく気がつくのは、ずっと後のことになる。
ライス領の家令たちは、舟の荷を優先的にデルマリナ船に移すことや港の機能を管理する仕事だのは、建設費用を六割負担するにたるだけの利とは考えてはくれなかった。そのうえケアルが、荷を港まで運ぶ島人たちに賃金を支払うと決めたことや、いまや鉱物に次ぐ輸出品となったお茶の栽培・加工に島人たちを雇い、それに見合った賃金を支払っていることに、あきらかな不快感をしめしたのである。
若領主はなぜ島人などに肩入れするのか。島人どもの機嫌をとるようなまねをするとは、若領主はなにを考えているのか。
ケアルが領主となって二年。当初は領内に新風を吹き込む領主の誕生だと、島人にも上≠フ住民たちにも好意をもって受け入れられたが――現在、家令たちや上≠フ住民たちの間で、ケアルへの反感が育ちつつあった。
「領民たちを刺激しない――それだけのために、おれは我が子を手放さなければならないと言うのか?」
老人たちを順に見つめながら、ケアルはそう訊ねた。
「それも領民すべてを、というならまだわかる」
もちろん、わかりたくはないが、とケアルは胸の内で付け加えた。
「賭《か》けてもいいが、ほとんどの領民たちは、双子の誕生を祝ってくれるはずだ」
ライス領の人口は、約一万。うち七千人強が島人で、上≠ノ暮らす領民は三千人にも満たない。
「どんな反論も、聞くつもりはないよ。おれは我が子を手放さない。ふたりともケアル・ライスの子供として、目の届く場所で育てるつもりだ」
老家令たちは互いに顔を見合わせ、ため息混じりにかぶりをふりあった。日頃は家令たちや領民の声を決してないがしろにせず耳を傾け、それによって柔軟に対応するこの若領主が、いざというときは周囲の者たちがどれほど反対しようが己が意志を貫く頑固さをもっていることは、ライス領の家令ならだれもが知っている。
「――それに、思わないか?」
ケアルはここはとどめとばかり、老人たちに笑ってみせた。
「領主が双子をふたりとも手もとにおいて育てるとなれば、これから先、双子はいけないと我が子を捨てる者はいなくなるんじゃないかな?」
「そうですね……まあ、皆無になるとは思いませんが」
渋々ながらうなずいた老家令たちは、おそらくかれらで今後の対策を協議するのだろう、肩をならべて部屋を出ていった。
「ケアル……?」
ずっと息をつめて我が子ふたりを抱きしめていたマリナが、不安そうにケアルを見あげる。ケアルは寝台の端に腰をかけ、マリナと我が子たちを両腕で抱えこんだ。
「大丈夫だよ、心配ない。この子たちをよそへやるようなまねは絶対にしないからね」
ケアルはそう言うと、マリナの髪を優しく撫《な》でながら申し訳なさげに付け加えた。
「ただ、きみはしばらく辛い思いをするかもしれない……」
「辛い思いって、つまり――わたくしが双子を産んだから、皆さんに色々と言われるだろうっていうことかしら?」
にっこり微笑んで問われ、ケアルは一瞬くちごもる。
「そんな顔、しないで。べつにあなたが、双子を産んだわたくしを軽蔑《けいべつ》しているなんて、思っていないわよ」
察しのいいマリナに、ケアルは苦笑するしかなかった。
「あなたがいる限り、わたくしは何を言われたって平気よ。ただこの子たちはきっと、双子だからとか、デルマリナの女が母親だからとか、言われるわね」
マリナはすっかり母親の顔で、いつの間にかおとなしくなった双子を見おろす。
「心配ないよ」
ケアルは目を細めて、我が子たちを見つめた。
「この子たちがもの心つくようになる頃にはきっと、双子だとかデルマリナ生まれの母親だとかで偏見《へんけん》をもつ者などいなくなる」
そんな時代をつくりたい――いや、つくらなければならないとケアルは思う。でなければ、父亡きあと次兄を後継者の座から追って領主となった自分を許すことができない。
もちろん次兄を退けたことも、自らが領主として立ったことも、私欲ではない。けれど私欲であるか否かなど、ケアル自身の事情でしかない。領民たちにとっては、領主として立った者がいかに善政を敷いてくれるかだけが問題なのだ。かれらにとって良い領主であるなら、ケアルでも次兄のミリオでも構いはしないのである。
だからこそ自分は、これまで歴代の領主たち以上の善政を目指さなければならない。そうケアルは決意していた。
老家令たちの予想した通り、双子が誕生したと聞いた家令たちの反応はとても領主の跡継ぎが生まれたと喜ぶ様子ではなかった。
「デルマリナの女などを奥方にするから、双子が生まれたんだ」
中にはそう公言する者もいて、大方の家令たちはケアルが我が子をふたりとも手もとにおいて育てると決めたことに、不快感をしめしてみせた。
「できるだけ早く領内に告知したいのに、困ったことだよ」
双子が産まれた翌朝、執務室にやってきたオジナ・サワはそう言って、深々とため息をついた。
今年二十六になるオジナは、公職を追われた父親をもつゆえに長く不遇をかこってきた男だ。だが不遇にくさることなく、若者たちを集めて勉強会をひらくなどして研鑽《けんさん》を積んできた彼を、ケアルは領主の座につくと同時に家令のひとりに迎え入れたのである。家令たちのほとんどが亡き父の代から勤める者である現在、彼はケアルにとって数少ない理解者だといえるかもしれない。
「家令の八割がまだ、きみの気を変えさせることができると考えてるようだよ」
「おれの気を変えさせる?」
訊ねたケアルに、彼は「そうだよ」とうなずきながら手にした書類を見せた。
「この通り、領内に告知する文案はできているんだ――このたびライス領主のもとに一男一女が誕生した、とね。ところが連中は、これが気に入らないらしいんだ」
ケアルは書類を受け取り、文面に視線をおとした。領内すべてに告知すべき事項の文面は、当然ながら領主の承認がいる。それがまだケアルのもとへ寄越されてもいなかったのは、内容について家令たちの間で揉めていたかららしい。
「若領主はもちろん、この一男一女≠ニいう箇所を長男≠ノ変えたら、承認しないだろう?」
「ああ、当然だよ」
うなずいたケアルに、オジナは肩をすくめてみせる。
「ところが連中は、なんとしてでも長男≠ノ変えたいらしいんだ。僕やご老人たちは、そんなことしたら若領主の承認なんかもらえないって主張してるんだけどね」
「――それで、おれのところへ直接持ち込んできたというわけなのか?」
「まあね。僕としては、若領主に跡継ぎが生まれたと知って、島人たちがすごく喜ぶだろうとわかってるからね。祝いの品を持って来たい者も多いだろうし、そんなかれらのためにできるだけ早く知らせてやりたいんだ」
島人の女性を恋人にもつオジナは、家令たちの中ではかれらの気持ちがわかる唯一の人物といえるだろう。
「けど、ここでおれが、この文書に承認を出してしまったら、あとできみが悪く言われるんじゃないか?」
「確かに。ただでさえ僕は、若領主と私的に懇意《こんい》にしすぎてる、と睨《にら》まれてるからね。ここで、分をわきまえない行為だとたたかれるのは避けたい」
だから、とオジナは身を乗り出した。
「若領主から、告知の文書はどうなったかと訊ねてくれないかな。早く、今すぐ持ってこいと言ってくれたら、こいつを――一男一女のまんま、きみのところへ持ち込める」
オジナの提案に、ケアルは苦笑した。
新参者もいいところのオジナは、家令たちの中ではまだまだ発言力がない。新しい提案をしても、公館のしきたりもわからぬ新人がなにを言うかと、内容も聞かぬうちから退けられることが多いのだ。ケアルの肝《きも》いりで家令のひとりに加えられたことがまた、仲間たちの反感をかっているのかもしれない。けれどオジナは、そんなことにめげてはいなかった。
今日のように露骨な提案は珍しく、たいていはふたりになったときにさりげなく、いま思いついたというふりをして、自分の考えた新しい政策などを口にするのだ。ケアルはそれを良いと判断すると、領主の立場から家令たちに検討するよう命じる。領主が提案し検討を要請されたとあれば、家令たちも真剣に取り組むしかない。
そんなやりかたで実際に施行まで至った制度は、この二年のうちに十件を越えた。
「わかったよ。頑固な領主を演じてみることにしよう」
「演じなくても、このままで充分、頑固な領主だと思うけどね?」
笑いながら商談成立とばかりに、オジナは手をさしのべてくる。苦笑したケアルが握手をすると、
「――で、可愛い双子ちゃんの名前はもう決めているのかな?」
「ギリ老が名付け親になってくださる、と言っておられたんだが……」
ライス領に北接するギリ領の領主は、五領中もっとも在位期間の長い人物である。八十歳をこえる年齢ながらも、ものごとを柔軟に見ることができるギリ老は、ケアルの領主就任の際には力を貸してくれた。おそらくギリ老の力添えなくしては、ケアルは領主になるどころか、いまごろ生きてはいられなかったに違いない。
「そうか……。やっぱりギリ老の容態は、かなり悪いのかい?」
「使いにやった伝令の話によれば、もう寝台の上に起きあがることもできないそうだ。医師は、あと十日ももたないだろうと言っているらしい」
ギリ老が床に伏したのは、一ヶ月ほど前のことだ。凍えるほど寒い日が続き、それで体調をくずしてしまったらしい。一時は回復するかにみえたが、老齢ゆえか身体が病に耐えきれなかった。
「それでは、名付け親になっていただくのも無理だね」
「お見舞いにうかがったときには、曾孫《ひまご》ができるようなものだと、楽しみにしてくださっていたんだが……」
この二年ほどで、すでにふたりの新しい領主が誕生している。ひとりはライス領主となったケアル、もうひとりはマティン領主。前領主の死後、後継者をめぐって長く揉めていたマティン領も、昨年、病弱だった長男が亡くなったことで、いっきに決着がついた。後継者は、まだ十歳たらずの前領主の次男で、領主の座を争っていた家令がその後見役についたのである。
もしギリ老が医師の言ったように、十日ももたぬとしたら――本年中にまた新しい領主が誕生することになる。
「なんていうか……どこの領も、あわただしいね」
しみじみとつぶやくオジナに、ケアルは同感だとうなずいた。
* * *
若領主のもとに一男一女の双子が誕生したとの知らせが領内を駆けめぐったその日、ギリ領から伝令が到着した。
ギリ領主、逝去――。
家令たちはすぐに弔問の使者を送るべきだと言ったが、ケアルはみずからギリ領に赴《おもむ》くつもりだと宣言した。
「ギリ老には、ひとかたならぬ恩義があるからね」
ケアルの言葉に、マリナはうなずいた。
「わたくしも行ければいいのだけれど」
この子たちが、と柔らかな布にくるまれてすやすや眠る双子を見おろす。
「乳母はいるけれど、わたくしがそばにいないと、この子たち、すぐに泣くの。わたくしがいない間ずっと泣き通しよ」
「ああ。産後間もないきみを連れていくつもりはないよ」
うなずきながらケアルは笑った。子供たちが泣くからとマリナは言うが、双子と離れて泣くのはきっと彼女のほうに違いない。産後は安静にしているようにと言う医師の言葉など無視して、マリナは赤ん坊にかかりきりだった。乳母がいるというのに、授乳もおむつの世話もすべて自分でやらなければ気がすまないらしい。寝不足の目をしながらも、赤ん坊を見るマリナの顔は、このうえない幸せを満喫《まんきつ》しているようだ。
それはケアルも同様だった。双子が生まれてからというもの、執務の間に何度も育児室に足を運んでは赤ん坊の顔をながめている。昨日などは、いなくなった若領主をさがして何人もの家令が公館中を走りまわっていたらしい。やっとケアルを見つけた家令が目にしたのは、赤ん坊を抱いてあやす若領主の姿だった。
家令たちには叱られ、マリナや双子づきの乳母にはあきれられながらも、やはりケアルは日に何度も我が子の顔をながめずにはいられなかった。マリナではないが、できるならずっとそばにいたいのだ。少しでも目を離せば、知らぬ間に成長してしまうのではないかと思える。
「ご葬儀はいつになるのかしら?」
飽きずに我が子の寝顔をながめているケアルに、マリナが訊ねた。
「伝令によれば、五日後らしい。だから帰って来るのは、六日後になる」
まあ、とマリナが目をみひらいた。
「まさかと思うけど、翼でいらっしゃるおつもりなの?」
「ああ。翼で行けば、半日もかからない距離だからね」
「翼でいらっしゃるつもりだと、家令たちにおっしゃった?」
「いや、まだだよ」
でしょうね、とマリナは苦笑する。
翼には領主の即位式があった日以来、乗っていない。あの日、マティン領の海域にあらわれた十二隻のデルマリナ船へ自ら翼をあやつって赴いたケアルは、帰ってすぐ家令たちから涙ながらに叱りつけられたのだ。領主たる身で危険をともなう翼に乗るとは、あまりに自覚が足りないと。
「いま若領主がお怪我をなさったり――万一にも事故でお亡くなりになったら、我々はどうすればよろしいのか!」
そう訴える家令たちの心配は、ケアルにも理解できた。思えば亡き父も、若いころは翼の操縦ではだれにも負けぬ巧者だったというが、領主となって以来、二度と翼に乗ることはなかった。領主となったならばもう、その身は本人だけのものではないのだ。
「きっと、ものすごく反対されると思うわ。翼でいらっしゃるなど、領主としての自覚に欠けている、って」
言われてケアルは、小さく唸《うな》った。
「でも、翼で行けば半日もかからないんだ。歩いたり舟なんかで行ったら、帰ってくるのが丸一日は遅れてしまうよ」
言い訳しながら双子に目をやるケアルに、マリナは軽くうなずいた。
「つまり、この子たちに会えるのが一日遅れてしまうとおっしゃりたいのね?」
「うん、まあね……」
「わたくしと一日でも多く離れてるのは嫌だとは、おっしゃってくれないのね?」
「マリナ、それはね――」
あわてて言い訳しようとあせるケアルに、マリナはころころ笑った。
「いいわ、行っていらっしゃい。家令がなんと反対しようと、あなたは翼に乗るべきだと思うわ。なにより、ギリ老の葬儀にいらっしゃるんですもの」
あなたに大切な翼を譲ってくださったギリ老の葬儀なのよ、とマリナは言う。
「あのかたはケアルが飛んでいるのを見て、すごく喜んでいらっしゃったわ」
「そうだね――道具は使われてこそ道具としての価値がある、とおっしゃっていた」
ギリ領の紋章がある翼を、老人は息子にではなくケアルに譲った。紋章付きの翼はふつう、代々長男へと譲られていくものだ。翼を譲るとは、家督《かとく》を譲ると同じぐらいの意味をもつ。
「だったら、領主になったからって翼で飛んでいないあなたを、ギリ老は悲しまれるわ。せっかく譲った翼が、倉庫に入れたままになっているなんてね」
言いながらマリナは、ケアルの手をそっと取った。
「翼で行っていらっしゃいな。わたくしも、あなたが飛んでいるのを見るのが好きだわ。以前は怖かったけれど――でも、飛んでいるあなたはすごく生き生きしているもの」
うなずいてケアルは、マリナの手を握りかえしたのだった。
久しぶりに倉庫から引き出された白い翼は、青々とした芝にまぶしいほどよく映えていた。芝を揺らして吹きゆく風は、日射しの匂いがした。
こうして公館の前庭に立つのもまた、久しぶりだった。この二年、全身に風を感じたことなどなかったような気がする。
「やはり翼でいらっしゃるのですか?」
うるさがたの家令が、念をおすようにケアルに訊ねた。
「ああ。ギリ老は、こうして翼で行くほうが喜ばれると思うんだ」
「もう亡くなったのに、お喜びになるもなにもないと思うのですがね」
「そういうものじゃないよ」
苦笑しながら、飛行服のベルトをとめる。長く身につけていなかったというのに、こうして着込んでみると、毎日ずっと身につけていたかのようにしっくりする。よく手入れされた革の匂いさえ、毎日この匂いを嗅《か》いでいなかったのが不思議なほどだ。
翼はギリ老に譲られたものではなく、ライス領の紋章が入ったものにした。ギリ領の紋章が入った翼で行けば、喪主であるワイズ・ギリやギリ領の家令たちが妙な勘《かん》ぐりをするかもしれないからだ。それにライス領からの正式な弔問《ちょうもん》には、こちらのほうがよりふさわしい。
翼の周囲をゆっくりと回りながら、最後の点検をする。下働きの家令たちが手入れしていたとはいえ、自分の目ではっきり確認するのがケアルのやり方だ。
点検を終えたところで、公館からマリナと乳母が赤ん坊をそれぞれ抱えて出てきた。
「お父さまに、いってらっしゃいをしましょうね」
もちろんマリナの言葉が通じるはずもない赤ん坊は、ケアルがその小さい手を握ると、なにが嬉しいのかにこにこ笑った。
「行ってくるよ」
赤ん坊たちの柔らかな頬《ほお》を軽くつつき語りかけてから、ケアルはマリナの頬に軽くくちづけた。
「早くお帰りになるよう、首を長くして待っていますわ」
飛行服姿のケアルをまぶしそうに見つめながら、マリナがうしろへとさがる。
翼の留め具に、飛行服のベルトを繋《つな》ぐ。二年ぶりの操縦桿《そうじゅうかん》を握ると、身も心もひきしまる気がした。
[#挿絵(img/KazenoKEARU_05_025.jpg)入る]
最初はゆっくりと、次第に速度をあげながら走り出す。足もとの草を蹴《け》る感覚――風がケアルの身体と翼をくるみこみ、ぐいっと持ちあげる。風にさらわれるように、翼は大地を離れ空へと舞いあがった。
みるみる離れていく地上を見おろしながらケアルは、深く風を吸い込んだ。大地と海面に、雲の影が映っている。風に流されて、雲はゆっくり地面と海面を撫でるように動いていく。その影の上を滑っていく小さくて濃い影は、ケアルが操る翼のものだ。
こうして見ると翼はまるで、大海原に乗り出した帆船のようなものだなとケアルは思った。自然の大きさにくらべ、翼も帆船もあまりに小さい。そしてどちらも風の助けを借りて、目指す場所へと進む。
「――おれが目指すのは……」
操縦桿を握りなおし、ケアルは翼を傾けて方向を定めた。向かうべきギリ領は、ライス領の北隣。うまく風に乗れば、昼前にはギリ領の公館に着くだろう。
はるか彼方まで見通せる視界、風が翼を運ぶその浮遊感、耳もとでごぉごぉと唸りをあげる風の音、その匂い――それらにケアルの五感が喜んでいる。まるで故郷に帰ったような、あるいは赤ん坊になって母親の腹の中に戻ったような、幸せな感覚だった。
いつしかケアルは、これが二年ぶりの操縦だということなどすっかり忘れていた。
公館前に降り立ったケアルに、ギリ領の家令たちはひどく驚いた様子だった。すぐさま家令のひとりが公館へ駆け込んでいき、間もなくしてワイズ・ギリが家令をしたがえ前庭へ走り出てきた。
「これはライス領主どの……! まさか自ら足を運んでくださるとは」
両手をひろげたワイズ・ギリに、ケアルはまず悔《く》やみの言葉をのべる。
「いえ、父ももう八十七歳でしたからね。それにあの通りの人間でしたから、ひとの何倍も生きたようなものです。おそらく、思い残すことはなかったでしょう」
ワイズ・ギリの言葉にケアルは、そんなことはないと思った。確かに長生きしたと言えるだろうが、思い残すことは多かったはずだ。最後に見舞ったときも、ハイランドの未来について深く憂慮《ゆうりょ》した言葉を聞かされた。だが遺族に向かって、そんなことはないだろうとはもちろん言えるはずはない。
「なんにしても、早速ライス領主どのが来てくださるとはありがたいことです。すぐにお部屋の準備をさせますので、どうぞ」
公館内へと促《うなが》され、ケアルは軽くうなずいてワイズ・ギリのあとに従った。
ギリ老の遺体はすでに、公館の広間に安置されていた。遺体にはギリ領の紋章が入った白い布がかけられ、周囲には香りの強い白い花が山ほど飾られている。
「最期は、あまり苦しむこともなく――眠るように逝《い》きました」
ワイズ・ギリの言う通り、遺体の顔は穏やかで、ただ眠っているようにしか見えなかった。いまにも起きあがり、いつものように杖《つえ》をふりあげ息子を叱りつけそうだ。
「――ああ、そうだ。亡くなる前日に、父はライス領主どのとの約束だと言って……」
家令に目顔で合図したワイズ・ギリは、一枚の紙を持って来させた。これです、と差し出された紙を手に取り、ケアルは思わず涙をこぼしそうになった。
「覚えていてくださったんですね……」
紙面に書かれていたのは、名前だった。それも男の名と、女の名。おそらくケアルのもとに生まれた子がどちらでもいいように、両方を考えてくれたのだろう。
男の子には、レイズという名を。女の子には、フレアという名を。
「年寄りが考えた名前ですから、どちらも古くさい名ですがね」
「いえ、いい名前です。とても……」
ケアルは口の中で噛《か》みしめるように、ふたつの名をつぶやいてみた。あの子たちにふさわしい名前だ、と思える。おそらくマリナも異存はないだろう。
「ぜひとも、この名をつけさせていただきます」
ケアルの言葉にワイズ・ギリは、軽く目をみひらいた。
「――ひょっとして、もうお産まれになったんですか?」
「ええ。ああ、申し訳ありません。昨日ようやく、領内に告知したばかりですので」
領内に一男一女の≠ニ告知することは、とりあえず家令たちも黙認せざるをえなかったが、他領に向けて同様の発表をすることにはまだ一部の家令たちの強硬な反対がある。かれらを説得し、領外に双子の誕生を知らせるには、おそらくあとしばらくの時間がかかるだろう。
「ほう。それでお生まれになったお子は、どちらだったんです?」
「両方です」
訊《たず》ねられてケアルは、即答した。
「えっ?」
ワイズ・ギリは聞き間違いかとでもいうように小首を傾げ、何度も瞬《しばたた》く。
「双子だったんですよ。男の子がひとり、女の子がひとり」
「まさか、嘘でしょう? 双子だなんて、まるで島人どものような……」
ぎょっとした顔のワイズ・ギリに、ケアルはにっこりと微笑んだ。
「おもしろいですよ、双子というのは。顔も目の色も似ていないのに、同時に同じ表情をするんです。同時に泣かれるとたいした騒ぎになりますが、同時に笑ったときの可愛さは二倍どころか十倍ぐらいに思えますね」
信じられないものを見る目つきで、ワイズ・ギリはケアルを見つめている。
「――すみません。なんだかすっかり、親ばかですね。家令たちにも、あきれられている次第でして」
「いえ……その、なんというか……」
くちごもったワイズ・ギリは、ちょうど一礼して広間に入ってきた家令の姿に、あからさまにほっと息をついた。
「――なんだ?」
「弔問のお客さまが、ご到着になりました。フェデ領からのご使者です」
「おお、そうか。早速お出迎えにいかねばならないな」
うなずいたワイズ・ギリは家令にケアルを部屋へ案内するよう命じると、
「そういうわけですので。申し訳ありませんが、ここで失礼させていただきます」
ケアルに言いおいて、逃げるように広間から出ていったのだった。
* * *
どうぞこちらへと促され広間を出たケアルは、案内の家令にたずねた。
「フェデ領からの使者は、どなたが?」
ライス領主として、それなりの対応をしなければならないだろう。もちろん領主が他領の家令にわざわざ挨拶《あいさつ》に出向いては、かえって礼を失することになる。だが、挨拶に来た相手の名も知らないでは、これまた失礼なことだと言われる。特にフェデ領は、領主の影響もあってか礼儀には敏感な反応をする。
「えっ? あの、その……」
しかしケアルの問いに家令は、あせった様子でくちごもった。
「失礼のないよう、ご挨拶をしたいんだ」
「いえ――その、まだご到着されたばかりですし。ご挨拶はのちほど、夕食の時間でもよろしいかと」
「たとえご挨拶するのは夕食のときでも、前もって相手の名を知っておくのは礼儀だと思うんだけどね」
家令の態度に妙なものを感じ、表面上はにこやかな笑顔をつくりながら視線をしっかりと合わせる。
戸惑いとあせりが交互に家令の表情にあらわれるのが見てとれた。知らないのをごまかしているのではなく、知っていて言うのをためらっている。
「もし、きみが知らないのなら――」
別の者に訊ねるつもりだ、とケアルが言うと家令は、観念したように首をふった。
「いえ、存じております。その……フェデ領からのご使者は、ふたりいらっしゃいまして……」
家令があげたひとりめの名は、フェデ領の外交を担当する家令だった。だがもうひとりの名は――
「ミリオ・ライスさまです」
瞬間ケアルは、ひくっと息を飲みこんだ。家令の態度が変だとは思ったが、まさかここで次兄の名が出るとは考えもしなかった。
二年前ミリオは、次期領主となるべきところを、ケアルに追われてライス領を出奔《しゅっぽん》した。ミリオに同情したフェデ領主のもとに身を寄せたまま、ケアルの予想に反して、領主たちからなる五人会に自分こそが正当なるライス領主であると訴え出ることもなく、今日まで公の場に姿をみせることもなかった。
ケアルの領主就任後に、ミリオは正式にライス家を廃嫡《はいちゃく》となるはずだったのだが、出奔したゆえに本人の署名をとることもできず、いまだ彼はライスの姓を名乗っている。もちろんフェデ領には幾度か、ミリオの署名を得るため使者を送ってはいるが、そのたびに言を左右にして退けられていた。
「――しかし」
ケアルはできるだけ平静を装って、家令を見直した。
「ミリオどのは、フェデ領の家令ではない。フェデ領の使者としていらっしゃる立場ではないはずだが?」
気位の高いミリオが、フェデ領の使者として弔問に来るはずなどない。それはフェデ領の家令と同等の立場であると、他領に喧伝《けんでん》することになる。
「それは……私には、なんとも……」
自分にはわからないと、家令は小さくかぶりをふった。
「あるいはミリオさまは、フェデ領のご使者と一緒にいらっしゃっただけかもしれませんし……」
「――そうか」
これ以上問いつめるのは気の毒だ。だがケアルはふと思いついて、にこやかな笑みを浮かべてみせた。
「そうだね。ワイズ・ギリどのは、以前からミリオどのと親しくされているご様子。父上を亡くしたワイズ・ギリどのをお慰《なぐさ》めしたくて、自ら足を運ばれたんだろう」
一瞬、家令は軽く目をみひらいた。そして霧が晴れたような顔で、何度もうなずいたのである。
「ええ、そうです。ご存知でいらっしゃったのですか」
もちろん知っているはずもないが、ケアルは心得た顔をしてうなずく。
「ミリオどのも、二年前に父を亡くしたばかり。ワイズ・ギリどのの悲しみも、よく理解できることだろうね」
なるほどそういうわけだったのかと、内心では臍《ほぞ》をかみたい気分だった。次兄の動向については、ある程度のさぐりを入れさせてはいた。だが、フェデ領の公館に滞在するミリオの細かな行動までは把握できていない。ミリオの出席した宴会の数や、彼のもとを訪れた客の顔ぶれを知りうるのがせいぜいといったところだ。
(まさか、ワイズ・ギリどのとつながりをもっていたとは……)
考えてみれば、さほど不自然な関係ともいえない。ケアルに味方し領主となる際のうしろ立てともなったギリ老に、ミリオが恨《うら》みを抱いていただろうことは容易に想像できる。またワイズ・ギリは五十を過ぎたこの年齢まで、父であるギリ老に頭をおさえられ、どこからも一人前とは扱ってはもらえないでいたのだ。それがふたりが手を取り合う動機と考えるのは、さほど間違っていないのではなかろうか。
案内された部屋に入るとケアルは、飛行服から喪服《もふく》へと着替えた。そして頃合いをみはからって部屋を出ると、広間近くの廊下で通りがかりの若い家令に声をかけた。
「ああ、きみ。先ほど到着されたフェデ領の使者どのは、どちらの部屋に?」
ギリ領の家令たちは、ケアルの顔をよく見知っている。振り返った彼はケアルの顔を見るなり飛びあがり、
「あ、はいっ。右翼二階の、二間続きの客室にいらっしゃいます!」
背中を硬直させて答えた。
「そうか。ありがとう」
ケアルが礼を言うと、彼は感激した様子で頭をさげた。彼にしてみれば、他領の領主に直接声をかけられ、そのうえ礼まで言われるなど、驚き以外のなにものでもなかったのだろう。ふつう領主が接待役をまかされた他領の家令に親しく口をきくなど、まずありえないことだ。
硬直したままの家令にもういちど礼を言って、ケアルはその場を離れた。
ギリ領の公館は、左翼が公の客人などを泊める施設、右翼が領主の家族が暮らす私的な施設になっている。フェデ領からの使者に右翼の部屋を用意したのは、左翼の部屋に滞在することとなったケアルとの兄弟の確執《かくしつ》をおもんぱかってのことかもしれないが、ワイズ・ギリとミリオとの関係を知ったあとでは、別の意図があると勘ぐりたくなっても仕方ないことかもしれない。
(客でしかないおれが、まさか勝手に入り込むこともできないしな……)
こっそりとミリオに会いにいくのは、あきらめるしかなかった。
夕食の準備ができたと案内され、ケアルが部屋に入ったとたん、それまでにぎやかに喋《しゃべ》っていた人々がぴたりと話をやめた。
長い卓のいちばん奥にワイズ・ギリが座り、その横には弔問客とはとても思えない派手な服装のミリオ・ライスが、にこやかな笑みを浮かべて座っていた。おそらくそのミリオの隣にいるのが、フェデ領の使者だろう。顔に見覚えがあった。
卓には他に、十人ほどの面々がすでに席についていた。かれらは皆、ギリ領主と血縁関係にある家令たちである。
ケアルの席は、ワイズ・ギリの隣に用意されていた。位置としては、次兄と同等の上席にあたる。
「世継ぎが生まれたそうだな」
席についたケアルに、ミリオが杯を掲《かか》げながら話しかけてきた。
「これでライス領も安泰《あんたい》というわけだ。まずは乾杯しようじゃないか」
「不謹慎ですよ、ミリオどの。ギリ領主がお亡くなりになった、その弔問にいらっしゃったのでしょうに」
兄上ではなくミリオどのと名を呼んだ。それが気にさわったのか、あるいはケアルに意見されたことが腹立たしいのか、ミリオは弟を睨みつける。だがすぐ思い直したように、にやりと笑った。
「ふん。不謹慎だとは、なかなかうまい言い逃れかたじゃないか。ほんとは貴様、生まれた赤ん坊のことから話題をそらしたいだけなんだろうが」
なにが言いたいのかと、ケアルはわずかに眉根を寄せてミリオを見やる。
「――双子だったそうだな、生まれた子供は」
ミリオはうすら笑いを浮かべながら、周囲にもはっきりと聞こえる声で言った。その言葉に人々が驚いた様子で互いの顔を見合わし、そっとケアルのほうをうかがった。
「よりにもよって、双子とはな。だがまあ、ある意味では貴様にふさわしい子供だともいえるな」
そうは思わないか? とミリオに視線を向けられて、ワイズ・ギリがあわてたそぶりで顔を伏せる。この場で双子のことを知っているのは、ワイズ・ギリだけだ。ミリオは彼から聞き出したに違いない。
「いちどきにふたりの子の父となれて、おれはありがたいと思っていますよ」
静かにケアルが応えると、ミリオはわざとらしく吹き出してみせた。
「なるほどな。どうやら貴様は、骨の髄《ずい》まで島人どもと同じなんだな。双子などを産んだデルマリナの女は、いかにも貴様にふさわしい女房というわけだ」
だがな、とミリオはケアルを見据《みす》えた。
「貴様とデルマリナの女はそれでいいかもしれんが、気の毒なのはライス領の領民どもだな。やつらは双子を産んだくせにでかい顔をしているデルマリナの女を奥方と呼び、双子などをありがたがる島人と変わらん貴様を領主として頭上にいただかねばならん。他領からどれほど莫迦にされることか。さぞ惨《みじ》めで口惜しいだろうよ」
ミリオの挑発にのるつもりはない。ケアルはただ静かに次兄を見返した。
「だがまあ、そもそも島人の女が産んだ貴様を喜んで領主に迎え入れるような連中だ。他領から莫迦にされようが惨めな思いをしようが、それもまた本望というやつかもしれないがな」
そう言って笑ったミリオをよそに、ケアルは近くに立つ給仕を呼び寄せた。駆け寄ってきた給仕に耳打ちし、彼がうなずいて部屋を出ていくと、こんどはワイズ・ギリに向き直った。
「みなさんはまだ食事を始められていないようですが、ひょっとして私をお待ちくださっていたのでしょうか?」
「え? あ、ああ……」
息をつめてケアルとミリオのやりとり――というか、ミリオの挑発を間近で見ていたワイズ・ギリは我にかえった様子でうなずき、給仕に料理を持ってくるよう合図した。
止まっていた時間がふたたび動きだしたかのように、給仕たちが部屋へ出入りしだした。フェデ領の使者も、卓についた他の者たちも、座り直したり隣の者と囁《ささや》きかわしたりしはじめる。だがそうしながらも皆の意識は、ミリオとケアルに向けられていた。
食事のあいだ、ミリオはふたりの親交を見せびらかすように、ワイズ・ギリを相手に声高《こわだか》に喋り笑った。ミリオはケアルに見せびらかしているつもりなのだろうが、ふたりが親密に話をすればするほど、かれらに口をはさむこともできないでいるフェデ領の使者が、次第に不機嫌になっていくのが見て取れた。見れば卓についているギリ領の家令たちもそれに気づいた様子で、ワイズ・ギリにたしなめる視線を送っている。
弔問の正式な客は、フェデ領からの使者とケアルなのだ。客にとって上席は、当主の両隣である。だのにフェデ領の使者に、ミリオより下の席を用意した。そこからして礼儀に反することだといえるだろう。ましてやフェデ領の人々は礼儀にはうるさい。
状況を読みとったケアルは、フェデ領の使者に話しかけた。
「――ご領主は、ご健勝でいらっしゃいますか?」
一瞬、使者は驚いた顔をした。だがすぐ笑みをつくると、
「ああ、はい。ありがとうございます」
「リー・フェデどのは最近、デルマリナ産の茶に興味をおもちだと聞きましたが?」
「ええ。幾箱か手に入れまして、毎晩のようにお飲みになっておられます」
「でしたら、我がライス領で栽培した茶をぜひ試していただきたいものです。デルマリナ産の茶葉には及ばないかもしれませんが、なかなかの味と自負しております」
デルマリナ産に及ばないとは、実は少しも思っていない。ライス領で栽培した茶葉はデルマリナ側にも評判が高く、今年は昨年の倍近い値で取り引きされたのだ。来季には島人たちをもっと多く雇い入れ、生産量を増やす予定でいる。このことは他領でも話題になり、どんな茶葉を栽培しているのかと問い合わせも多い。
「ライス領の茶を、ですか? 確かそちらの茶は、すべてデルマリナの商人たちが買い上げてしまったとお聞きしましたが……」
「ええ。他領に輸出できるほどは残ってはおりませんが、他でもないリー・フェデどのが試してくださるというなら、私どもが飲むためにとってあったぶんをお分けします」
ケアルが申し出ると、使者は目を輝かせた。
「それは――」
「リー・フェデどのが、そんな茶など飲みたいと思うはずがないだろう」
口をはさんだのはミリオである。
「聞くところによると、その茶は島人どもにつくらせているらしいじゃないか。そんな汚らわしい茶をリー・フェデどのに贈るとは、礼儀知らずにもほどがあると思うがな」
余計なことを、と使者は忌々《いまいま》しげにミリオの横顔をにらんだ。だがケアルは次兄を完全に無視し、使者に微笑みかけた。
「帰ったらすぐに、一箱お送りするよう手配します」
「ほんとですか?」
使者に向かってうなずいたケアルは、卓についた人々に視線を回した。
「その前に実は、少しばかりですが茶葉を持参しました。よろしければ皆さん、試してみませんか?」
おおっ、と人々はどよめいた。評判は耳にするものの、ほとんどの者が口にしたことのない茶である。
よろしいですか、とケアルはワイズ・ギリに目を向けた。ワイズ・ギリもやはり興味津々《きょうみしんしん》といった様子で、うなずいた。もうだれもミリオのことなど気にする者はいない。
ケアルが合図すると、先ほど耳打ちした給仕が銀の盆を抱えて入ってきた。立ち上がったケアルは盆を受け取り、人々の前で茶葉に熱い湯を注いだ。
「茶をいれるときは、できるなら丸い形をした壺《つぼ》を使ってください。湯を注いだとき壺の中で対流し、均一に葉がひらきます」
茶のいれかたを説明しながらやってみせるケアルの手もとを、人々が身を乗り出して見つめる。頃合いをみて茶器に注ぎ分け、給仕に合図して全員に配った。
「茶葉の品質は、この香りと色でわかります。より香り高く、澄んだ色の茶葉が最高と言われています」
デルマリナではお茶は嗜好品《しこうひん》だが、ハイランドでは薬とみなされていた。ゆえに味や色・香りなど後回しで、薬効の高いものが最高だと言われている。交易がはじまりデルマリナ産の茶葉も手に入るようにはなったが、ハイランドの人々は薬効をより引き出そうと考えるのか、必要以上に長く茶葉を蒸らす傾向があった。
配られたお茶は、かれらを驚かせた様子だった。全員が茶器をのぞきこみ、香りを嗅ぐばかりで、なかなか口に含もうとしない。
どうぞとケアルがすすめて、フェデ領の使者がやっと茶器に口をつけた。全員が固唾《かたず》をのんで見守る中、使者はごくっとお茶を飲み込むと、
「これは……」
信じられないと言いたげにつぶやいた。
「いかがですか?」
微笑みながらケアルが訊ねる。
「お茶が、これほど美味《おい》しいものだとは……信じられません」
使者の言葉に、他の人々も次々と口をつけはじめた。すぐにあちこちから驚きの声があがった。
「お茶とは、こんな味がするものだったのか……」
「考えを改めねばなりませんな」
「ええ。なるほどこれなら、デルマリナの商人どもが競って手に入れようとするわけですな」
人々がうなずきあう中、ひとりミリオだけがお茶に口をつけることもせず、憮然《ぶぜん》と腕を組んでケアルをにらみつけている。
「ライス領主どの、貴重なお茶を賞味させていただき、ありがとうございました」
使者が感激した様子で礼を言う。
「いえ。リー・フェデどのより先にお試しになったと、あとで叱責《しっせき》をうけられると申し訳ありませんが」
「そのときは、毒味をいたしましたと申し上げますよ」
使者の言葉に人々が笑った。気がつけば、座の雰囲気は和《なご》やかなものに変わっている。その中心に、ケアルがいた。
ふいにミリオが席を立った。全員がはっと振り返る中、ミリオは唇をゆがめて人々をにらみつける。
「どうやらここには、阿呆ばかりしかいないとみえる。領主とは名ばかりのこんな男などに、いいように手玉にとられて――」
「ミリオどの、それは聞き捨てならぬ暴言ですぞ」
真っ先に咎めだてしたのは、フェデ領の使者だった。だがミリオは忌々しげに鼻を鳴らすと踵《きびす》をかえし、足音も荒々しく部屋を出ていった。
ふたたび嫌な雰囲気になりかけたところへ、ケアルが茶器を手にして皆にたずねた。
「よろしければもう一杯、いかがです?」
全員が引き揚げるまで、結局お茶はひとりにつき三杯ずつふるまわれたのだった。
* * *
ケアルに遅れること二日後、ライス領の家令たちが到着した。全部で八人。いずれもギリ領主の家系とは縁のある者たちである。
旅装をとくやいなや、かれらは他領の使者たちを相手に積極的な弔問外交を開始した。五領の主だった者たちが集まる機会はめったにない。ライス領ばかりでなく、他領もこの機を逃すはずがなかった。
ケアルのもとにも頻繁《ひんぱん》に、他領の使者たちが訪れた。かれらの関心はライス領で栽培している茶葉にあるらしく、茶葉を自領に輸入できないかという者や、自分たちも栽培に出資するからデルマリナとの交易での儲《もう》けの分け前がほしいと言い出す者もいた。基本的にケアルは、茶葉の栽培やデルマリナへの輸出を独占するつもりはなく、かれらには茶葉の栽培方法を教えるので自領で栽培してみてはどうかと提案したのだが、それを言葉通りに受け取る者はいなかったようだ。
一方、ライス領の家令たちが取り組んだのは、情報収集である。ギリ老が亡くなり、ケアルは強力なうしろだてを失った。フェデ領に身を寄せていたミリオがこの機にどんな行動をおこすか、そしてまた他領はその場合どんな立場をとるつもりなのか、把握《はあく》しておく必要があった。
こうして人々があわただしく葬儀までの日々を過ごす中、領主たち全員が顔をそろえたのは、葬儀の前日になってからだった。いつものことながら、ものものしく従者を二十人引き連れて、最後に到着したのはフェデ領主である。
その夜、リー・フェデはケアルのもとに家令を寄越し、自分の部屋へ来るようにと伝えた。
「用があるなら、ご自分が来ればいいではないですか!」
そう言って怒る家令たちを、ケアルは苦笑しながらたしなめた。
「リー・フェデどのは、領主としては先輩にあたるんだよ。歳も三十は違う。おれのようなひよっ子のところへ自ら足を運ばれるのは、気位が許さないんだろうね」
あえて口には出さなかったが、ケアルの母親が島人の女だということがおそらくいちばんの理由であるに違いない。リー・フェデがミリオを自領にかくまう理由もまた、それだったのだから。
気をつけてくださいと心配する家令たちに見送られて、ケアルはリー・フェデが滞在する部屋へと向かったのだった。
あるいはと思ったが、リー・フェデの部屋にミリオの姿はなかった。
実は最初の日の夕食以来、ケアルは次兄を見かけていない。公館内に滞在してはいるようだったが、弔問客たちが揃《そろ》っての夕食の席にミリオが姿をみせることはなかったのである。よほどあの夕食の席でのことが気まずかったのか、それともケアルの顔を見ることすら厭《いと》うているのか。いずれにせよ、ミリオが姿を見せないままで終わるとは、ケアルも家令たちも考えてはいなかった。
リー・フェデは従者のひとりに足を揉ませながら、やって来たケアルをじろりと見あげた。
「突っ立ってないで、そのへんにでも座ったらどうかね?」
ケアルにはここ一年ほど、リー・フェデとは顔を合わせる機会がなかった。一年ぶりに見るフェデ領主は、その特徴である口髭《くちひげ》に白いものが多く混じり、ずいぶんと老けてしまったように感じられた。
部屋にはリー・フェデが足を投げ出して座る寝椅子の他に、小さな卓を囲んで三脚の椅子があった。ケアルはその椅子のひとつに腰をおろした。
「ミリオどのとは、もう会ったらしいな。どうだったね、久々の兄弟の対面は?」
意味ありげな視線を向けられ、ケアルは小さくため息をついた。夕食の席で何があったのか、ミリオがケアルにどんなことを言ったのか。報告をうけ、リー・フェデがすでに知っているのはあきらかだ。
「話したいことがある、とおっしゃったのはそのことですか?」
「そうだ。なにしろ我がフェデ領は、ミリオどのをお預かりしている責任がある。領主の私がミリオどのの将来を案じたとしても、不思議はあるまい」
言いながらリー・フェデは、足を揉んでいる従者に「もういい」と手を振る。従者がさがると、代わって銀の盆を掲げた家令が部屋に入ってきた。
茶器が小卓に乗せられ、お茶の良い香りが室内に漂う。おそらく、デルマリナから輸入した茶葉だろう。家令から茶器を受け取ったフェデ領主は、目を細めてその香りを楽しんだ。その表情から、単に興味があるどころではないこだわりが感じられる。
「良い香りだ。この茶葉を手に入れるのに、私は銀貨を三十枚も出したんだ」
自慢げにそう言って、フェデ領主は茶器に口をつけた。しばらくお茶の味を楽しんでから、ケアルに視線を向ける。
「ところでライス領では、茶葉の栽培をおこなっているそうだな?」
「ええ。栽培をはじめてから、ほぼ二年になります」
「その茶葉を、私に試してもらいたいと言ったそうだが?」
「言いましたよ。フェデ領主どのがお茶に興味をもっておられる、と聞いたので」
ケアルがうなずくとリー・フェデは、満足そうに口髭をひねった。
「おそらくこの五領で、私ほど多くの種類のお茶を飲んだことがある者は、他にはおらぬだろう」
だが、と続けてケアルの顔を見据える。
「まさかとは思うが、ライス領の島人どもが栽培した茶葉などで私の機嫌がとれると考えてはおらんだろうな?」
「つまり、賄賂《わいろ》ではなかろうかと疑っておられるのですか?」
ケアルは小さく苦笑し、リー・フェデの顔を見返した。
「茶葉の一箱や二箱などデルマリナでは、季節の節目ごとの挨拶代わりでしかありませんよ。もちろん、大アルテ商人たちに限った話ではありますが」
デルマリナとの交易が始まって以来、ハイランドでもようやく大アルテ商人たちがどれほどの富を独占しているのか、知られるようになった。とはいえ「大アルテ」が金融や貿易にたずさわる商人たちの同信組合であって、権力そのものを意味する組織ではないと認知する者は少ない。ゆえにたとえばこのリー・フェデなどは、面会を許したデルマリナ船の船長に、自分はハイランドの大アルテであるなどと名乗っている。この話はデルマリナで噂《うわさ》になり、多くの失笑を買ったというが、リー・フェデ本人やフェデ領の家令たちはもちろん知るはずもない。
「いや、うむ……。そうだな……」
大アルテの例を引き合いに出されて、リー・フェデは言葉を濁した。デルマリナとの交易がはじまって、ほぼ二年。だがいまだケアルはデルマリナ通と思われており、ことデルマリナに関してのみは他領の領主たちもケアルに一目置いているふしがある。
ふたたび茶器に口をつけたリー・フェデは気を取り直し、寝椅子から立ちあがった。そして小卓をはさんでケアルの向かいに腰をおろし、
「ところで、ミリオどのだが――そろそろ里心がついてきたらしい」
ようやく話題を、核心らしきものへ移した。
「ミリオどのは、ライス領に帰りたがっておられるのだ。故郷を出て二年、いつまでも他領で居候《いそうろう》暮らしをするわけにもいかんとお考えなのだろうな」
「私どものほうからは何度も、ライス領へ帰られるよう、使いの者を出しましたが?」
ケアルが口をはさむと、リー・フェデは眉根を寄せて髭をひねりあげた。
「使いの者と言うが、亡きロト・ライスどののご次男であるミリオどのが、たかが家令ひとりに帰ってほしいと言われて、素直に帰れるはずもなかろう。帰っていただきたいと思うなら、家令を二十人は引き連れて、ご自分が兄上を迎えに行くべきと考えるが」
「私がミリオどのを迎えに、ですか?」
「そうだ。デルマリナとの交易も軌道にのり、ライス領内も安定していると聞く。いまこそミリオどのを迎え入れ、領主として立っていただくべきだろう」
思わず失笑したケアルは、とたんに目をつりあげたフェデ領主に「失礼」と謝った。
「お忘れとは思いませんでしたが――ミリオどのは二年前に、廃嫡が決定しております。たとえお帰りになったとしても、ミリオどのがライス領主となる可能性はありません」
「可能性を申すなら、ケアルどのが領主となったこと自体、おかしな話ではないか。それを思えば、ミリオどのに帰っていただき、ご自身は退かれるのが筋であろう」
口角《こうかく》から泡を飛ばして力説するフェデ領主を見やって、ケアルは肩をすくめた。まったく話にならない。ギリ老が亡くなって、いまこそミリオを領主として立たせる機会と考えたのだろうが、それを直接ケアルにかけあってうまくいくと思っているあたり、あまりに状況を見極める目がない。それとも、ケアルをみくびっていると考えるべきか。
「私はフェデ領主として、ミリオどのをライス領主に推《お》すつもりだ。父上を亡くされ、間もなく新しいギリ領主となられるワイズ・ギリどのも、おそらく同じお考えだろう。となればギリ領主どのとつながりの深いマティン領も、それにならうに違いない」
どうだ、とばかりにリー・フェデは胸をはってケアルを見た。
「ケアルどのが自ら退くと申されるなら、この私がミリオどのに取りなしてやることもできるぞ。そうだ、我がフェデ領に家令のひとりとして迎え入れてさしあげてもいい。ケアルどのが指揮した茶葉の栽培は、デルマリナでも高い評価を得ていると聞くからな。その技術を我がフェデ領に伝える仕事を、ぜひお任せしよう」
なるほどな、とケアルは内心でうなずいた。もしミリオがライス領主となったなら、ケアルはただでは済まされないだろう。良くても蟄居《ちっきょ》か領内からの追放、おそらくこちらの可能性のほうが高いだろうが、悪くすれば反逆罪あたりで処刑されるだろう。同時に現在の家令たちも、処分されることは目に見えている。あの次兄が、自分を追いやったケアルに荷担した家令たちを許すはずがない。
もちろん政策のほうも、大きく変わるに違いない。茶葉の栽培に携《たずさ》わる島人に賃金を支払うなどとんでもなく、港でも島人に人足仕事をさせて、利益だけを搾取《さくしゅ》する。
(それに、いま進めている計画も……)
次にデルマリナ船がやって来る季節になったら、ケアルは選りすぐった技術者をデルマリナへ派遣するつもりでいた。造船の技術を学ばせるために。
ハイランドには巨大な船を建造できる木材はないが、木材の代わりにできるものならばある。ただ現段階では、代わりにできるのではないかと想像しているにすぎないが。
ハイランドで船を建造できるようになれば、デルマリナとの関係もまた変わるはずだ、とケアルは考えている。
現在のところハイランドへ船を寄越すことができる商人は、ごくわずかしかいない。交易はその一部の商人が独占し、取り引きされる品々の値もかれらが支配している。ハイランドの品々は安価で買いたたかれ、船に積んできたデルマリナの品々は法外な高値で売りつけられているのが現状だ。つまりは今のところハイランド側のみが一方的に損をしているのだ。しかしハイランドからも船を出せば、取り引き相手を選ぶことができる。そうなれば、品々の値も自然と市場に見合った価格になるだろう。それこそが真実、交易と呼べるのではなかろうか。
自分以外のだれも、こんな気の遠くなりそうな計画をおしすすめようと考える者はいないだろうとケアルは思った。だから絶対に、いま領主を退くことはできない。
「――お話はうかがいました」
ケアルは静かに立ちあがった。
「すばらしいお話ではありますが、残念ながら私はミリオどのに領主の座を譲るつもりも、フェデ領に家令として迎えていただくつもりもありません」
リー・フェデは軽く目をみひらき、ふんと鼻を鳴らした。
「後悔しても、知らんぞ?」
「後悔などしません」
にっこり微笑んで返したケアルを、フェデ領主は忌々しげににらみつける。
「あとで泣きついてきても、力添えしてやるつもりはないぞ」
リー・フェデの声を背中で聞きながら、ケアルは出口に向かった。そして扉の前でふと足をとめ、振り返った。
「――ああ、そうだ。お茶は必ず届けさせますので、ご心配なく」
最後にそう言うとケアルは、怒りに耳まで赤くしたフェデ領主が怒鳴りはじめる前に扉を閉めたのだった。
葬儀は老人にふさわしい、厳かでしめやかなものだった。
日中いっぱいかかっての葬儀が終わると、弔問客は酒席の用意がととのった広間に案内された。故人をしのび、語り合って夜を明かそうというわけだ。
早速、家令たちを引き連れ酒のほうへと向かったのは、ウルバ領主である。単純なオリノ・ウルバは何度か酒の飲み比べをするうちにすっかりケアルが気に入ってしまったらしく、今日もまた早く飲もうと誘ってきた。うなずいてウルバ領主のもとへ向かいながらケアルは、さりげなく周囲の人々に視線をはしらせる。
昨夜はフェデ領主と決裂したあと、ケアルはすぐさまワイズ・ギリと面談をもった。ミリオと手を組み、彼をライス領主に推すつもりなのか、直截《ちょくさい》に訊ねたのである。ミリオと手紙を交わしていたことも知っている、ギリ老にひそかに反感を抱いていたことも知っている、とケアルは言葉を飾らず告げた。
気の弱いワイズ・ギリは、言い訳することも逆にひらきなおることもできず、会見中はただ目を白黒とさせていただけだった。しかし夜更《よふ》けになって、ギリ領の家令が三人、ひそかにケアルのもとを訪れたのだ。ワイズ・ギリの代理として来たと告げたかれらは、おそらくこの時間まで協議して出したのだろう結論を持ってきた。
「ミリオさまは、我があるじを軽んじています。あのかたがライス領主となられても、ギリ領に益はございません」
「それどころか、属国のような扱いをするだろうことは明白かと」
「もしライス領主どのが、茶葉の栽培に我がギリ領が出資することを認めてくださるならば、我があるじはこれ以降ミリオさまに協力することはありません」
「ギリ領主の存命中は、軽はずみな行動もあった我があるじですが――これからは、このギリ領を背負って立たねばなりません」
「その自覚がようやくできたのだと、考えてはいただけませんでしょうか」
明確な返事は保留したケアルだったが、かれらに良い感触を与えることは忘れなかった。おそらくかれらは新しい領主となるワイズ・ギリに、ライス領主から良い返事を得たと伝えたはずだ。
そのワイズ・ギリは、マティン領の摂政《せっしょう》とにこやかに挨拶をかわしていた。ミリオはとその姿をさがすと、フェデ領主を相手に杯を傾けている。
ケアルはウルバ領主に酒を三杯ほど付き合ったあと、マティン領の摂政に近づいた。
「これはライス領主どの……!」
「ウルバ領主どのに酒をすすめられて、逃げてきました」
軽口をたたくケアルに摂政は、あの御仁《ごじん》はと苦笑した。
「港のほうは、いかがですか?」
「ええ。ライス領主どのが我が領の島人たちをうまく使ってくださっているおかげで、妙な行動を起こす者はおりません。領主ともども感謝しています」
「いえいえ、かえって他領の領民を雇い入れることを許していただいたと、私のほうが感謝している次第です」
港の維持管理をしているのはライス領だが、荷の揚げ降ろしをする人足や船に水や食料の補給をするために、ケアルは自領の島人たちよりもマティン領の島人たちを多く雇い入れていた。理由はしごく簡単で、港はマティン領内にあるため、労働者の数を確保しやすいからだ。
自分たちの生活圏内に港ができると知って、周辺の島人たちは一時、デルマリナ船を占拠するという暴挙に出た。そんなかれらを事が大きくなる前に説得し、手を引かせたのがケアルである。人足として働いたり、食料や水の補給をすることで現金収入を得られるようになったかれらは、いまではうまい具合に港やデルマリナ船と共存している。
「――そういえば、マティン領ではこの次に船が着いたときから、水の値段を十倍に引き上げさせるおつもりと聞きましたが?」
なにげないそぶりで訊ねたケアルに、マティン領の摂政は大きく目をみひらいた。
「ど……、どうしてそれを……?」
「私にも耳がありますから」
にっこりとケアルは笑ってみせる。
知っているぞと脅しをかけるのは、もう少し先にするつもりだった。この話はケアルが親しくなったマティン領の島人、ラキ・プラムという男から聞かされたのだ。
当初マティン領では、またデルマリナ船にとんでもないことを仕掛けるのではないかと、かなり島人たちに気をつかっていた。マティン領の島人が問題を起こせば、それはマティン領の責任となる。だがこうして事態が落ち着いた様子をみて、欲がわいてきたのだろう。水を売った島人たちが手に入れる利益を、かれらだけのものにするのは惜しいと思うようになったのである。
とはいえ島人たちから利益のほとんどを取り上げて、また何か問題を起こされてしまってはかなわない。ならば水の値段をあげ、島人たちには今と同じだけの収入を維持させたまま、値上げぶんの利益を懐《ふところ》に入れようと考えたのだ。
「ご……ご不満はおありかもしれないが」
あせった様子で、だが虚勢をはって摂政はケアルを見返した。
「マティン領内のことには、口出しご無用に願いたい」
「――そうですね。私も口出しする気持ちはありません」
ただ、とケアルは付け加えた。
「マティン領の水を十倍の値段にあげても、ライス領の水は現状の価格で売ります。デルマリナの船はどこから水を買うのも自由、そうなればかれらがマティン領の島人から水を買わなくなるのは――子供にだってわかる計算ですよね?」
摂政は、手にした杯を割れそうなほど握りしめた。
「そんなことにはならない、とお考えですか?」
にこやかな笑顔のまま、ケアルは強張った摂政の顔をのぞきこむ。
「ミリオどのがライス領主になれば、そんなことにはならないとお考えですね?」
「な……っ、それは……っ!」
「まだご存知ではないでしょうが、ギリ領は降りました。今はもうあなたの同志は、フェデ領主どのだけです」
「まさか……?」
摂政は絶句し、ますます大きく目をみひらいた。
「よくお考えになってください。目先の利益にまどわされ、水の値段を十倍にした場合、デルマリナがこれまでと同じ値で鉱物を買い取ってくれるとお思いですか? もし鉱物の買い取り値が落ちた場合、その原因がマティン領が水の値段を十倍にあげたからだと知って、他領が黙っているとお思いですか?」
私は思いませんね、とケアルはミリオと話をしているフェデ領主に目を向けた。
「あのフェデ領主でさえ、おそらくマティン領を許さないでしょう。そしてあのミリオどのが、マティン領を庇《かば》うとは思えません。素知らぬ顔で、あなたに全責任を押しつけるでしょうね」
目をみひらいたまま、陸にあげられた魚のように口をぱくぱくとさせて、摂政は周囲を見回した。だがすぐ杯を持ち直し、
「し……失礼。ちょっと気分が……」
ケアルに言い置いて、踵をかえす。
弔問客たちをかきわけ去っていくうしろ姿を見送って、ケアルは軽く杯を掲げた。たぶんこれで、マティン領はミリオに与《くみ》することはないだろう。あとは機を見計らって、マティン領の利益になるようなことを持ちかけてやればいい。
(おれもひとが悪くなったな……)
思わず苦笑がもれる。領主となって二年、うまくなったのは汚い駆け引きばかりだ。こんなふうではたして、自分が理想とする領主になれるのだろうか。領民たちをよりよい方向へ導いて行けるのだろうか。
いつだって、自信があるわけではない。やらなければ、やるしかないと自分を駆り立てているだけだ。その気持ちすら萎《な》えそうになったとき、ふとケアルの頭に浮かぶのは、懐かしい友のうしろ姿だった。
じゃあな、と片手をあげて走り去っていくうしろ姿。自分のやったことをデルマリナとハイランド二国間の問題にしてはいけないと考え、故郷の土を二度と踏むまいと決意したのだろう、あのときの親友の最後に見たうしろ姿を……。
親友と過ごした日々を、日射しのまぶしい過ぎ去った夏のように思い出しながら、ケアルは謀略うずまく広間の客たちへと視線を向けたのだった。
* * *
ライス領の公館にケアルが戻ったのは、葬儀の翌日である。
出迎えてくれたマリナの頬におざなりなくちづけをし、すぐさま執務室へ入った。待ちかまえていたように、家令たちが次々と執務室へやってきた。
飛行服を脱ぐ暇もなく、留守中にたまっていた執務を片づけ、数々の指示を出す。そうしてようやく落ち着いたのは、夜半になってからだった。
やっと双子たちの顔を見れると立ちあがったケアルは、扉をたたく音に気がついた。どうぞと声をかけると、銀の盆を抱えたマリナとオジナがそろって姿をあらわした。
「お疲れさん。一緒にお茶でもどうかなと思ってね」
「あなたのお好きなお菓子も焼いたのよ」
「――それはありがたいな。むこうでは、酒ばかりだったからね」
三人は部屋の中央にある大卓の角に、そろって腰をおろした。
お茶を飲み菓子を食べながら、しばらくは双子たちの話題に花が咲いた。生後まだ一ヶ月足らずだというのに、すでに下働きの女家令たちの間で、双子はすっかり人気者になっているらしい。
「殿方は双子だからって、まだまだ渋い顔をしてるけど、女性は違うわ。いつ自分が双子や三つ子を産むことになるか、だれもわからないんですもの。母親になれば、たとえ生まれたのが双子であっても、我が子を手放したいなんて思うひとはいないものよ」
マリナが言えば、オジナもまたうなずきながら、
「島人たちは、喜んでいるよ。昨日は、蔓《つる》で編んだ揺りかごが届いた。他にも、赤ん坊が好きそうな玩具《おもちゃ》や、よだれかけや……それから何だったっけ?」
「わたくしのためにって、産後の栄養になる海鳥の卵もたくさんいただいたわ」
嬉しそうに語るマリナに、ケアルは心の底から、あのとき老家令たちの進言をはねつけて良かったと思った。
子供たちの様子を見てくると言ってマリナが執務室を出ていくと、ケアルはギリ領公館でミリオに会った話を持ち出した。フェデ領主に言われたことをそのまま伝えると、オジナは軽く目をみひらき、
「なるほど、そうだったのか……」
長く不思議だったことに合点がいったような顔でうなずいた。
「そうだった、というのは?」
「うん――実はね、家令たちの一部に不審な動きがあるんだよ。きみを前にして言うのは心苦しいけど、もとから島人の母親をもつ領主だというので、反感の火種らしきものはあったんだ。島人の血が混じったきみを頭上にいただくのは我慢できない、という頭のかたい連中がね」
領主になると決意した時点で、それはわかっていたことだ。さして不快にも思わず、衝撃もうけなかった。
「――それで、不審な動きとは?」
「上の領民たちに、訴えて回っているんだよ。島人の息子などを領主にしておいては、ライス領の恥になる。そのうえ双子だ、これでハイランド中の笑いものになることは目に見えている。まあ、そんな感じでね」
「で、かれらはミリオどのの名を出してはいないのかい?」
「うん。まあそのへんが、連中の目的がわからなかった理由なんだけどね。でもきみの話を聞いて、なるほどと思ったよ」
それで、どうする? とオジナはケアルの顔をのぞきこんだ。
「訴えて回っているだけでは、罰することはできない」
「ミリオならきっと処刑するだろうよ」
次兄とは友人だったこともあるオジナは、彼をミリオと呼び捨てにする。
「そんな政治は、領民にとっても領主にとっても不幸なだけだ」
じろりとオジナをにらみつけ、ケアルは言い放った。
「――きみならそう言うと思ってたよ」
くすくす笑いながらうなずいたオジナは、どっこいしょと声を出して立ちあがった。
「なんにしても、ミリオが次にどう出るかだね。しばらくは用心を怠《おこた》らず、状況を見極めることにしよう」
葬儀に出席した家令たちが公館に戻ったのは、ケアルが帰った翌日のことだった。
ケアルに労をねぎらわれたかれらが自宅に戻ったあと、公館に一組の訪問者があった。夜の闇《やみ》にまぎれての、人目に立つことを避けた訪問である。
ちょうど執務室を出て、居室へ向かおうとしていたケアルが、公館の前庭を横切ろうとする三人の男たちの姿を見つけたのだ。月明かりの下に見えた男たちは、三人とも身に綴れをまとい、足もとは裸足だった。
「島人か……?」
もしそうなら、家令を呼ばないほうがいいだろう。家令たちの一部はまだ、相手が島人というだけで嵩《かさ》にかかり、容赦なく暴力をふるう者がいる。
とはいえ放っておくわけにもいかず、ケアルは灯りを手に、ひとり前庭へ出た。
月は雲間に隠れ、灯りは手もとにひとつだけ。ものの形も定かでない暗がりでは、風に揺れる草の音がひどく大きく聞こえる。ときおり遠くから、どおぉんと低く響く音は海鳴りだろうか。
領主となる以前のケアルが長く寝起きしていた離れ家の近くで足をとめ、手にした灯りを大きく回した。
「そこにいるのは、誰だ? わかってるんだ、出てきなさい」
家の陰に向かって声をかけると、草を踏みつける音がして、ぬっと大きな影があらわれた。ケアルが向けた灯りに、まぶしげに額の上に腕をかざす。その腕の下にはっきりと、頬から首にかけて火傷のひきつれた痕《あと》が見えた。
「――ラキ・プラム、きみか!」
思わず叫んだケアルの前で、彼は苦笑しながら肩をすくめた。
「出てきたのがあんただと知ってりゃ、隠れたりするこたなかったんだけどな」
彼のうしろから、ケアルも見覚えのある若者がふたり、そろそろと身を縮めて出てきた。三人とも同じ島に住まう、島人である。
「おれに用があるなら、夜盗のようなまねをしないで正面から来ればよかったのに」
「おいおい、俺たちは島人だぜ。ご領主さまのあんたに、正面から来て、取り次いでもらえるはずがねえだろ」
だいじょうぶだよ、とケアルは笑った。
「ライス領の公館には、毎白色々なひとが訪ねてくるけど、たとえ誰であろうと話も聞かずに門前払いをくわせるようなことはないんだよ」
「島人でもか?」
「たとえ誰であろうと、と言っただろ」
ケアルが繰り返すとラキは、ひゅっと口笛をふいた。
「そいつはすげぇな。うちの公館なんざ、俺たちが近づこうものならそれだけで、犬みたいに追っ払われるか殴られるかだぜ。まああんたは、領主さまなんかになる前から、一風変わった坊ちゃんだったけどな」
「坊ちゃんはひどいな」
顔をしかめたケアルに、ラキはにやっと笑った。
「ふん。坊ちゃんと言われるのは我慢できねぇが、変わってるってのは認めてんのか」
「べつに認めては――」
反論しかけたところで、公館からひとの声が聞こえた。振り返ってみれば、灯りを掲げた家令が数人、若領主さまと呼びながら駆け寄ってくる。かれらはすぐにケアルのそばにラキ・プラムら島人たちの姿を見つけ、なんだ貴様らはと怒鳴りつけた。
「だいじょうぶ、心配ない。かれらは私の知り合いだ」
ケアルが言うと、家令たちの足がぴたりと止まる。けれどそれでも不審そうな家令たちに、ケアルは付け加えた。
「私がかれらに来て欲しいと頼んだのだ。迷ってしまったらしいかれらを、私が探しに出たんだ」
言い訳が通じたのか、それともラキ・プラムが言うようにケアルは「変わった領主」と家令たちにも思われているのか、かれらは渋々ではあったが納得してくれた。ただし注意することは忘れなかったが。
[#挿絵(img/KazenoKEARU_05_055.jpg)入る]
「夜中にこんなところを、うろつかないでくださいよ」
「若領主のお姿を見つけて、心臓が止まりそうになりました」
「お話をなさるんでしたら、お部屋でなさってください」
ごめんごめんと家令たちに謝りながら、ケアルはラキ・プラムたち三人を公館の中へ案内した。
「ふつうご領主さまに向かって、あそこまで言うかよ?」
ラキが声をひそめて耳打ちするのへ、笑ってみせる。
「よそは知らないけど、うちは言うんだ」
「そいつぁ、居心地よさそうだな」
本当に居心地いいと思ったらしく、執務室へ招き入れても、他のふたりは呆《ほう》けてぽかんと口を開いているのに、ラキは自分の家にいるような態度でさっさと手近な椅子に腰をおろした。そして、ケアルがなにか飲み物を用意させると言うのを断って、ラキはさっさと話を切りだした。
「前もって聞いときたいんだけど、あんたのとこで茶の栽培とやらをしてるだろ? 島人をいっぱい集めてさ」
「ああ、やってるよ」
「それって、マティン領の島人も集めなきゃなんねえぐらい、人手が足りねぇのか?」
ケアルは眉根を寄せて首を傾げた。
「それは……どういう意味だ?」
「こっちが訊いたことをまず、答えてくれねぇか?」
「いや。働きたいと申し出る者は多いのに、その全員を雇えないでいるというのが現状だが……?」
やっぱりな、とうなずいたラキは、仲間たちと視線を交わし合った。
ラキの話によれば、今朝早く、かれらの島にライス領の者だと名乗る男があらわれ、茶葉の栽培に人手が欲しいので、希望者を集めてくれと告げたという。
「ところがさ、妙な話なんだよ。まず、支払うっていう給金がえらく高い」
聞いてみると、茶葉の栽培で雇い入れた人々にケアルが支払っている金額の、ほぼ五倍の値段だった。
「そのうえ、雇いたいのは若い男に限るってんだ。茶の栽培とやらは、だいたい女か年寄りを雇ってるって、オレは聞いてたからさ。なんか変だなって思ったわけだ」
かれの島にも希望者はいたらしいが、すべてラキが止めたという。マティン領の島には島人たちをたばねる「島長」をおくところが多く、ラキはその孫だった。指導者としての才能があるのか、彼より年上の者たちも、ラキの言葉にはよく従っている。
「うちの島じゃ、ひとが集まらねぇってわかったんだろうな。すぐそいつは、隣の島へ行きやがった。隣の島の長とは、オレも親しいからな。ちょいと若い者をやって、そいつの口車にゃ乗らねぇほうがいいんじゃないかって伝えてやったさ」
結局その男は、マティン領の島々をまわって夜までに十人ほどの若い男たちを集めたらしい。
「あんまり妙なんで、うちの若いやつらに追いかけさせたんだけどな。今夜は雇った連中と、住んでるやつもいねぇちっこい島で、夜が明けるのを待つつもりらしいぜ」
それから、と言ってラキはそばにいる仲間に顎《あご》で合図した。
「ほら。おめぇがその目で見たこと、ぜんぶ言えよ」
こいつにその男のあとを追いかけさせたのだ、とラキは付け加えた。
「――その、あの……おいら、見たんです。あの男、島に油を集めさせてたんです」
おどおどと喋りはじめた若者は、このぐらいの、と身振りで壺の大きさを示した。
「中に油が入った壺が……いっぱい、たくさんありました」
若者はいっぱいと言いながら指を五本立ててみせ、たくさんと言いながら指をもう五本立ててみせる。
「油と聞いて、オレも放っておけねぇなと思ったわけさ。うちのご領主さまに訴え出てみるかとも考えたが、なんせまだガキだしさ。うしろについてる摂政さまときたら、オレら島人の話を聞いてくれるはずもねぇ。で、だったらあんたかなと思ってさ」
にやっと笑ったラキを、ケアルはなんともいえない気持ちで見返した。ラキ・プラムはライス領民ではない、マティン領の島人だ。だのに他領のおれを、領主のおれを信頼してくれ、こうして夜の闇を越え来てくれた。
ケアルはラキの手を取り、ぎゅっと握りしめた。喜びと感謝の気持ちをこめて。
「ほれみろ、オレが言った通りだろ。こいつだったらだいじょうぶなんだよ、ちゃんとわかってくれるんだ」
照れくさそうにラキは、ケアルに手を握られたまま、仲間に言って聞かせる。
「あんたがほんと、うちのご領主さまだったら良かったぜ」
まず考えられるのは、かれらがデルマリナ船を襲うつもりではないか、ということだった。船が火に弱いことは、間近で船に接したことがある者なら知っている。船乗りたちが恐れるのは嵐よりも船火事だった。
もし船に大量の油をふりまき、火をつけたとしたら――ひとたまりもないだろう。船を乗っ取るのではなく、徹底的にたたきつぶすならば、これがいちばん手っ取り早い。あるいは乗っ取るつもりであっても、油と火を水夫たちに見せつけ脅せば、容易にことが運ぶかもしれない。
「しかし、それはまずありえませんよ」
真っ先に首をふってみせたのは、デルマリナとの外交を担当する若い家令だった。
ケアルはラキたちの話を聞き終えるとすぐに、家令たちを集めたのである。外交担当の家令が三人に、島人たちに詳しいオジナ・サワ、それにマティン領に長く赴任していたことがある家令ひとり。夜半過ぎだというのにかれらは呼び出しをうけて、即座に集まってくれた。ケアルが家令たちと話し合う間、ラキたちにはしばらく別室で待機していてくれるよう頼んである。
「デルマリナ船が今の時期、ハイランドへやって来られるはずがありませんから」
「そうです。次にデルマリナ船が到着するのは、どんなに早くとも二ヶ月は後になると思われます」
デルマリナからやって来る船は必ず、ミセコルディア岬と呼ばれる難所を通過しなければならない。そこを比較的安全に通過できるのは、季節風の関係から一年のうち半分の日数しかない。その半年の間だけ、船はデルマリナとハイランドを往復するのだ。
「――それなら、その男の目的は何なんでしょうか? ライス領の者だと名乗っている以上、なにか問題が起これば我々の責任になります」
「ライス領の者などという証拠はないぞ。そもそも騙《かた》っているだけじゃないのか?」
「それを言うなら、ライス領の者ではないという証拠もありません。なにより島人たちは、その男がライス領の者だと名乗るのを聞いているわけですから」
待ってくれ、とケアルは軽く手をあげて口をはさんだ。
「問題は責任の所在じゃない。その男が、若い屈強《くっきょう》な島人たちを集め、油の入った壺をそれだけ集めて、何をするつもりなのかなんだ。どこかを襲撃するつもりならば、我々は事前にそれを阻止しなければならない」
若領主の言葉に、全員が真剣な面もちでうなずいた。
「――これはちょっと、憶測でしかないんですが……」
それまで黙っていたオジナが、初めて口を開いた。
「油が入った壺は、十個あるんですよね。それだけの壺を運べば、かなり目立つはずでしょう? だとすればそんなに遠くまで運ぶつもりはない、と思いませんか?」
オジナの提言を聞いて、全員が一斉に立ちあがり、大卓にひろげられたハイランドの地図をのぞきこむ。
「ラキ・プラムの話では、現在かれらがいるのはこの島だ」
ケアルが地図上の一点を指さした。全員の視線がその周囲に向けられる。
「その付近で、襲撃を受けるとしたら……港ですね」
「いや、それはないだろう」
すぐさまケアルは否定した。男は港のあるラキの島をはじめ、デルマリナ船に水を売っている島々へ人集めに来たのだ。港があるからこそ収入を得ることができるかれらが、たとえ高額の報酬をちらつかされたとしても、港をつぶすような仕事に荷担することはないだろう。
「だとしたら……」
全員の視線が、地図上のライス領内にある茶葉の栽培農場へ向けられた。農場には茶葉を加工する工房も建てられている。
「そういえば男は、茶葉の栽培に人手が欲しいと言っていたそうですね」
「それなら集めた男たちを連れて農場へ向かっても、だれも不思議には思わない……」
家令たちは互いに顔を見合わせ、続いてケアルへ視線を向けた。
「――人を集めてくれ。ラキ・プラムに案内させて、一刻も早くその島へ向かうんだ」
うなずいたケアルは、迷うことなくすぐさま指示を出した。
「だったら島人の男たちに頼みましょう。かれらならうまく舟をあやつれるし、農園を大切に思ってる」
オジナが自分に任せてくれとうなずき、執務室の扉へ向かって駆けていく。
「それから、伝令を。農園へ向かわせ、あそこにいる女たちを避難させるんだ」
ふたつめのケアルの指示に、他の家令たちもまた、一斉に執務室を走り出ていった。
自分も島人たちと舟に乗って島へ向かう、と言い出したケアルを、家令たちが必死の形相《ぎょうそう》でおしとどめた。
「領民のことを思うなら、その半分でも我々のことを思ってください」
若い家令の言ったそのひとことで、ケアルは引き退った。なにもかも自分でやろうとするのは、良い領主ではない。家令たちを信用していないだけなのだ、と悟ったからだ。
それでも、島人たちが集まった明け方の舟着き場に自ら足を運ぶことだけは、決して譲らなかった。
危険な役目を頼んで申し訳ないと言うケアルに、二十人ほどの男たちは笑ってかぶりをふった。
「こんなオレでも若領主のお役に立つことができるってなら、こんな嬉しいこたあありませんぜ」
「うちの女房なんざ、男の格好をして自分も行きたいって言ってたぐらいでさ」
「農園じゃ、うちのおっかあが世話になってますからね。女を守るのは、男の仕事ってやつですよ」
「これでやっと、ちょっとでも若領主にご恩返しができますぜ」
口々に言う島人たちに、ケアルは目頭が熱くなるのを感じながら頭をさげた。
「――ありがとう」
男たちが幾艘《いくそう》もの舟に分乗し出発していくのを、水平線のむこうに見えなくなるまで見送った。
伝令はすでに、三機が農園に向けて飛び立っている。そろそろ到着し、農園に滞在している女や老人たちを安全な場所へ避難するよう、指揮しているだろう。
男に集められたマティン領の島人たちが、いつ農園へ向かって出発するかはわからなかった。ひょっとすると夜のうちにもう、行動を開始してしまったかもしれない。もしそうならば、せめてかれらがやって来るまでに農園の避難が終わっているようにと、祈らずにはいられなかった。
公館に戻っても、ケアルはとても休む気にはなれなかった。心配したマリナが軽い食事を執務室まで運んでくれたが、食欲もまったくなかった。マリナに申し訳ないと思い、手をつけはしたが、ひとくちかふたくちで匙《さじ》を置いた。
悶々《もんもん》としたまま午前中を過ごし、執務室に閉じこもってもいられず、何度も外に出ては空を見あげた。島へ向かった男たちがどうなったか、農園の女たちは無事か、伝令が知らせてくれることになっている。白い翼がいつあらわれるかと、青い空の隅々まで影ひとつ見落とすまいと幾度もさがしたのだ。
当然のことながら、その日は仕事にはならなかった。この件はまだ、一部の家令にしか知らせてはいない。男がライス領の者と名乗ったことから、あるいはこの企てに荷担している者が家令の中にいるかもしれない、とオジナが言い出したからだ。家令を疑うのは気が進まなかったが、結局はその可能性がまったくないわけでもないと、オジナの提言をいれたのである。おかげで何も知らない家令たちからは、落ち着いて仕事をしてほしいと小言をくらうはめになった。
ようやく伝令が戻ったのは、その日の夕方遅くだった。
何度も空を見あげていたケアルがいちばん最初に、伝令の白い翼を見つけた。すぐさま前庭に走り出て、翼が降りてくるのをじれったい思いで待ち受けた。
操縦者の足が大地に着くか着かないかのうちに、ケアルは翼に駆け寄った。
「どうだ? みんな無事か?」
訊ねた若領主に伝令は、ゴーグルをあげながら白い歯を見せ、うなずいた。
「農園は無事です。怪我人もありません」
「島へ向かった男たちは?」
「かれらも無事です。案内の島人が、集められた男たちを説得したそうです」
ラキ・プラムが、とケアルは軽く目をみひらいた。ラキたちには島への案内を頼んだだけで、そのあとは危険を要するからと、安全な場所へ避難するよう言ってあったはずだった。
「首謀者は、ふたりだったそうです。島で捕らえて、身柄を拘束《こうそく》しています。こちらへ移送する許可を求めていますが」
「いや。それはまだ、やめたほうがいい」
背後から声がして振り返ると、オジナが尖《とが》った顎を撫でながら立っていた。
「首謀者と言うけど、そのふたりが本当の首謀者なのか、あやしいもんだと思うね。農園を襲撃するのに、大金を出そうというんだ。ぽんと大金を出せるような輩《やから》が、島人たちと同じ島で平気で寝起きできるかな?」
「だったら、いったい誰が……」
ケアルのつぶやきに、オジナはにやっと笑った。
「そいつを今から、燻《いぶ》し出そう」
「どうやって?」
「農園が火事で全焼したという噂をながすんだよ。そのうち尻尾を出してくる莫迦がいたら、そいつが本当の首謀者だね。その間、僕はちょっと島まで行って、捕まえられたふたりを尋問してくるよ」
「尋問って、まさか拷問《ごうもん》にかけたりはしないだろうな?」
だいじょうぶ、とオジナはうなずく。
「優しく、上品に訊いてみるよ。まあ、金で雇われたような輩だったら、処罰は与えないから吐け、とでも言えばすぐに、いくらでも喋ってくれるだろうよ」
なるほどその通りだろうと考えたケアルは、そちらはオジナに一任すると決めた。伝令には到着したばかりで申し訳ないがと断ってから、島の方へオジナが着くまで首謀者の身柄を拘束しておくこと、との命令を伝えるよう頼んだ。別の伝令をやるよりも、事態を把握している彼のほうが適役だろう。
あわただしく公館を出発するオジナを見送り、飛び立っていく伝令には皆が身柄を拘束した男たちに危害を加えさせないようにと念をおして、ケアルは執務室に戻った。
ぐずぐずしてはいられない。すぐさま昨夜集まった四人の家令を呼び、計画を打ち明けた。かれらが了解して執務室を出ていくと、ケアルは別の家令を呼び、険しい表情で命じた。
「いま公館にいる家令を全員、広間に集めるように」
わかりました、と一礼したその家令は、いつにない若領主の表情にたちまち緊張し、執務室を走り出ていった。
全員が集まったと知らせをうけたのは、それから間もなくのことだ。よほど急いで召集をかけたのだろう。
落ち着けと自分に言い聞かせ、ケアルは執務室を出た。うまくいくだろうか。いや、その前に、領主となって初めておれは家令たちに嘘をつくことになる。真実を知って、かれらはおれを許してくれるだろうか。もし許してもらえなかったら、おれはどうすればいいのだろう。おれを許さない家令たちに、罰をあたえるのか? それとも、解雇してしまうのか? たぶんどちらもできないだろう。
いや、違う。おれがやるべきは、許してもらうことではない。かれらにおれを信じてもらうことなんだ。ケアルは自分にそう言い聞かせながら、家令たちの待つ広間に足を踏み入れた。緊張をはらんだ視線が、一斉にケアルの上へ注がれる。
家令たちの前へ歩み出て、ケアルはゆっくりと全員を見回した。
「――諸君。先ほど、非常に残念な知らせが届いた。茶葉を栽培している農園から出火、工房や倉庫などの施設が全焼した」
うねる波のようなざわめきが起こった。そのざわめきがおさまらないうちに、ケアルは言葉を継いだ。
「報告によれば、焼けた建物の周辺に油をまかれた跡があるらしい。つまり、何者かによる放火だ」
ますます大きくなるざわめきの中、ケアルは険しい顔でふたたび家令たちを見回す。
「この火事によるライス領の損失は、見過ごしにできない金額だ。放火の犯人|糾明《きゅうめい》に、ぜひとも全員で協力してほしい。また財務担当者は、被害金額を算出し、各担当者と協議の上で予算の修正案を出すように」
以上、と言い放ち踵をかえそうとしたケアルに、うしろのほうから声がかかった。
「ひとつ質問してよろしいでしょうか?」
振り返ってみると、中年の家令が軽く手をあげている。確か、財務を担当している家令だった。どうぞとケアルが促すと、彼は同僚たちを見回してから、
「その放火の犯人とは、ライス領の領民だとお考えなのでしょうか?」
「他領の領民が、わざわざ我が領まで放火しにやってきたと考えるのは難しい」
「そうでしょうか。あの農園は、マティン領との境近くにあります。わざわざやって来るというほど遠い距離ではありません」
得意げに彼はそう言って、ふたたび同僚たちを見回す。
「私は、マティン領の島人が犯人ではないかと考えます」
ケアルは目を細めて、その家令を見た。
「――その考えの根拠は?」
「近年、ライス領の島人は他領の島人どもからねたまれています。他領では、島人どもに賃金を支払うようなまねはしませんから」
「ねたみから、襲われたと?」
「そうです。島人どもに金をくれてやっている限り、また今回のようなことが起こるのは確実でしょうね」
彼の周囲にいる家令たち数人が、そうだそうだと声をあげた。声をあげぬ人々の中にも、その通りだとうなずく者がいる。
「――なるほど」
ケアルはゆっくりとうなずいた。
「そういった考えもあるだろう。だが、まずは犯人を捜し出してからの話だ」
「つまり、犯人が見つかれば、島人どもへの処遇について考え直すこともありえる、と受け取ってよろしいのですね?」
もういちどうなずいたケアルは、今度こそ踵をかえしたのだった。
* * *
最初の動きがあったのは、翌日の夕方になってからである。
久しぶりにマリナと夕食をとっているケアルのもとへ、伝令が到着したとの知らせがもたらされた。
「マティン領からの伝令です」
家令はそう告げると、あたりをはばかるように声をおとし、
「その……農園の火災の件で、ぜひともお耳に入れたいことがあるとの話でした」
ケアルは軽く目を細め、わかったとうなずいた。食事の席を中座することを謝って、マリナの頬にくちづけ、ケアルは執務室に向かった。
農園襲撃の件でマティン領から話があっても、おかしくはない。ただしそれは、ほんとうに農園が火災にあった場合だ。倉庫や工房が全焼するほどの火事なら、マティン領からも見えるだろう。マティン領の家令が目撃せずとも、目にした領民が噂しあわないはずがない。そうなれば時間はかかっても、やがてはマティン領主の知るところとなる。
しかし実際には、襲撃は未然に防がれた。火災は起こらず、雇われたマティン領の島人たちは自分たちの島へ帰った。だのにマティン領の伝令は「農園の火災の件で」やって来たのだ。起きてもいない火災の件で。
鉛《なまり》のかたまりを飲み込んだ気分でケアルは執務室の扉を開けた。
ゆっくりと立ちあがり、深々と頭をさげたのは、厳めしい顔をした中年の男だった。飛行服を身に着けていなければ、彼が伝令だとは思わなかったに違いない。
「このたびの災難、深くお見舞いいたしますと、我が領主から言付かっております」
芝居のせりふでも読みあげるような、滑《なめ》らかな口調だった。ケアルは伝令の前を通りすぎ、執務机の前に腰をおろすと、あらためて男の顔を見つめた。
「――マティン領から来たのかい?」
ケアルの問いに、男はひどく意外そうな顔をした。
「はい。こちらに到着しましたとき、そのように申し上げたはずですが」
「マティン領の伝令だとは聞いているよ。だが私が訊ねたのは、きみが今日、マティン領の公館から来たのかどうかだ」
「もちろんです。マティン領主の使いとして参りましたので」
「そうか。じゃあ当然、燃えた農園は目にしてるね?」
男は一瞬「えっ?」とつぶやいて目をみひらいた。だがすぐに胸もとに手を当て、沈痛な面もちでうなずいてみせた。
「農園がどんな状態だったか、訊いてもいいかな?」
「それは……その、上空からでしたので、視認することは……」
「見えなかった――はずはないね?」
にっこりと微笑んで、ケアルは言った。
「私も何度かあの上空を飛んでいるけれど、周囲にはなにもない見晴らしのいい場所だ。見えないなんてことはありえないよ」
それに、と付け加える。
「マティン領の公館から飛び立ったなら、よほど何か理由がない限り、ここまで来るのに農園の上空を通る飛行航路を選ぶ伝令はいないだろうね」
「それは……農園の状況を視察するようにとの、領主さまの命令で――」
「ほんのさっききみは、見えなかったと言ったばかりだよ。ということはつまり、きみはご領主の命令に従わなかったのかい?」
「いえ、それは……」
男の厳《いか》めしい顔が、みるみる赤く染まっていく。
「それから、もうひとつ。きみはまだ知らないようだけど――」
ふたたび笑って、男を見やった。
「農園は無事だよ。きみの仲間は農園を襲撃する前に捕らえられ、もちろん火事もおこらなかった。つまりマティン領主どのが、農園の火災の件で私に伝令を送ってくるはずはないんだ」
「き……きさま……っ」
男は吐き出すようにつぶやくと、床を蹴っていきなりケアルに飛びかかってきた。とっさにケアルは身を引き、すんでのところで男の手から逃れた。
チッと舌打ちした男は執務机に飛び乗り、ケアルに向かって足を振り回した。ふたたび身を引いて逃げたケアルは、男が飛行服の胸もとからナイフを出すのを目にした。ナイフをふりかざす男に、ケアルは椅子を持ちあげて防戦する。
ナイフ使いのうまい男だった。閃光《せんこう》のようにナイフを繰り出し、切りつけてくる。椅子の脚に幾つもナイフの傷跡ができたが、男はナイフの刃を脚に食い込ませることはしなかった。
窓|硝子《がらす》に、ナイフを振りのけた椅子が当たって砕け散った。その音に気づいたのだろう、ようやく廊下を走ってくる家令たちの足音が聞こえた。
「若領主! どうなさいましたか!」
男が一瞬、声と足音に気をとられた。その瞬間ケアルは、男の頭上から椅子をたたきつけた。
額を押さえて男がうずくまったのと、扉が勢いよく開いたのは、ほぼ同時だった。駆けつけた家令たちは、部屋の中の光景を目にして呆然と立ちつくす。
「なにをしてる!」
ケアルは家令たちに怒鳴った。
「この男を捕らえろ! こいつは伝令でもマティン領の使者でもない! 暗殺者だ!」
しかし男は額からだらだらと血を流しながらも往生際悪くナイフを振り回し、ケアルと家令たちで力を合わせどうにか取り押さえられたのは、しばらく経ってからだった。
男への尋問は、ケアルが自らおこなった。家令たちの多くはただちに処刑すべきだと主張し、かれらに任せては男から何も聞き出せないうちに殺してしまう可能性があると思ったからだ。
しかし、どんなに脅しても、逆にすべて喋れば罪にはとわないと言ってきかせても、男は決して口を割らなかった。
明け方、ケアルは家令に水と食事を持ってくるよう頼んだ。ケアルが男に食事を与えるつもりなのだとわかって家令は驚いてみせたが、ケアルが本気であることを知ると、渋々ながらといった様子で部屋を出ていった。
これには家令ばかりでなく、男も驚いたようだった。
「あんた、本気か?」
「ああ、長くかかりそうだからね。腹がへっていては、喋る気にもなれないだろ?」
そう応えたケアルに男は目を丸くして、
「あんた……変な領主さまだな」
「うん。よく言われるよ」
ケアルがうなずくと、男はふいにくすくすと笑いはじめた。付き添いの家令が「なにがおかしい!」と怒鳴りつけるのを、ケアルは小さくかぶりをふって止めた。
ずっと黙りこくったまま表情すら変えなかった男が、笑ったのだ。理由はどうであれ、ケアルには良い傾向だと思われた。
やがて笑いをひっこめた男は、まじめな表情でケアルを見あげた。
「――ってことは、あんた本気で言ってたんだな。喋れば罪にはとわない、って」
「ああ。私はいつだって本気だ」
男の真剣な視線を感じながら、ケアルはうなずく。そこへ家令が、水と食事を持って戻ってきた。男を縛《しば》っていた縄がほどかれ、水と食事を乗せた盆が腕をさすっている男の前に差し出される。
「――ちょっとお待ちになって」
唐突に背後で声がして、その場にいる全員が振り返った。扉のところに立っていたのは、肩で息をするマリナだった。
どうしてここへ? とケアルが訊ねる間もなく、マリナはつかつかと部屋の中へ入ってきた。そして男の前に立ち、水と食事を乗せた盆を取りあげた。
「マリナ、いったい――」
あっけにとられたケアルの眼前に、マリナは盆を差し出す。
「奥方さま、こんなところへいらっしゃっては……!」
我にかえった様子の家令が、盆を取りあげようとした。するとマリナはその家令に向かって、
「お黙りなさい!」
一喝《いっかつ》された家令は、ケアルに視線を向けて訴えた。
「若領主、奥方さまにおっしゃってください。女性がこのような場所に入り込むとは、はしたないにもほどがあります」
いや、とケアルは首をふった。
「彼女の話を聞いてみよう。ここまで入ってきたものを、あわてて追い出すこともないだろう」
話しなさいと合図したケアルに、マリナはにっこりと微笑んだ。
「この食事には、毒が盛られていますわ。デルマリナでは血液の薬として使われてますけれど、健康なかたが服用すれば心臓が止まって死んでしまうという薬草です。わたくしが厨房で確認しましたから、確かですわ」
「奥方さまが厨房に入られるなど、下働きの者どもにしめしがつきませんぞ」
マリナに一喝されたばかりの家令が、眉根を寄せて嘆いてみせた。
「あら。料理番はわたくしが行くと、とっても喜ぶわ。わたくしがデルマリナ料理を教えてあげるから。おかげで今日のように、厨房で妙な動きがあるとすぐに知らせてくれるようになったわ」
「では、料理番が?」
ケアルが訊ねると、マリナは「もちろん」とうなずいた。
「ほんとうは別の件で、料理番に注意しててちょうだいって頼んでたのだけど……。でも間に合ったみたいで良かったわ」
「それで、料理番はなんと?」
「家令が三人ほど厨房にやって来て、なにかやっているようです、って。だからわたくし、急いで厨房に向かいましたの。わたくしが行ったときには、ちょうどその方が――」
言いながらマリナは、目の前に立つ家令をしめしてみせる。
「厨房を出て行くところでしたわ」
「そのあときみは厨房に入って、薬草を見つけたんだね?」
「ええ、そうよ。もしかしたらあなたが、と思って――あわてて走って来たのよ」
そうだったのか、とケアルはうなずいた。マリナはケアルが毒殺されるのを恐れて、料理番に注意をあたえていたのだ。なぜケアルが毒殺される可能性があると、彼女が考えたのかは不明ではあるが。
「きみには別室で、詳しい話を聞かせてもらう必要がありそうだな」
ケアルの言葉に、家令は大きく目をみひらいた。
「な……っ、なにを根拠に……! 若領主はわたしよりも、デルマリナの女の言葉をお信じになるのですか! わたしはもう、二十年も家令としてライス領主にお仕えしているのですぞ! そもそもこの女に、薬草の知識などあるはずがないではありませんか!」
わめき散らす家令を、ケアルは静かな目で見つめた。マリナの父ピアズ・ダイクンは、薬草の商いで事業を拡大させた。好奇心旺盛で家業に興味をしめす娘に、父親は薬草の知識を語って聞かせたという。ゆえにマリナはおそらく、ハイランドでは医師たちに負けぬほど薬草には詳しいのだ。
「――残念だ。きみにそう言わせてしまうのはきっと、おれの領主としての資質に問題があるんだろう。きみがデルマリナの女≠ニ呼んだ彼女は、おれの妻だからね」
家令ははっとした表情で、あるじの顔を見返した。ケアルはその視線に気づかぬふりをして、マリナへ目を向けた。
「マリナ。料理番は、厨房に集まった家令たちの顔を覚えているだろうか?」
「ええ、だいじょうぶよ。名前もわかると言っていたわ」
「では、料理番に訊ねよう。おそらくかれらは、この男が口を割ることを恐れて、その前に毒殺してしまおうと考えたんだろう」
ぎょっと目をむいたのは、捕らえられた男だった。男は家令とケアルの顔を交互に見あげ、口の端に皮肉な笑みを浮かべた。
「ってことは、あんたは俺の命の恩人なわけだ。わかったよ、あんたにならなんだって喋る。なんでも訊いてくれ」
「きさま……っ!」
家令が男につかみかかろうとするのを、ケアルがうしろから羽交《はが》い締めにして止める。この行動で彼は、自分を信じてくれるかもしれなかった仲間の家令たちの信用を、完全に失ったといえるだろう。
外から別の家令が呼ばれ、男に毒を盛った家令は仲間に引き立てられて部屋を出ていった。身内から裏切り者が出たことで、部屋に残った人々はなんとも陰鬱《いんうつ》な空気に包まれている。
「――さて。では、聞かせてもらおうか」
ケアルは暗い雰囲気を吹き飛ばすように明るい声でそう告げると、男の前に腰をおろしたのだった。
* * *
料理番の証言により、他にふたりの家令が拘束され、尋問をうけることとなった。そしてその直後、五人の家令がライス領内から出奔したのである。仲間の口から自分の名が明らかになり、罪にとわれることを恐れての出奔であった。
ケアルにはそのつもりはなかったが、領主に謀反《むほん》を企てた者、あるいは領主の暗殺に荷担した者は絞首刑、そしてその妻子は生涯の幽閉――というのが前例だった。事件を知った者たちは、かれらには当然、極刑が科せられるものと考えていた。
出奔した五人の家令たちは妻子を連れて行った者もいたが、あまりに急だったためにそれがかなわず、妻も子も残しひとり逃げてしまった者もいた。また、先に捕らえられた三人の家令たちの妻子は全員、夫あるいは父親が罪を犯したことも捕らえられたことすら知らされずにいたのだ。
ケアルは、決してかれらの妻子には手出ししないようにと言い渡した。だが、いくら領主といえども人々の口に戸を立てることまではできない。ケアルの命令通り、妻子に手出しする者はいなかったが、彼女らは親戚《しんせき》からも邪険にされ、自宅の周囲は事件を知った人々に荒らされて、家の奥深くに閉じこもっていなければならなかった。
そんな中で、彼女らに救いの手をさしのべた人物が、ひとりだけいた。マリナである。マリナは心づくしの菓子や果実酒などを携えて彼女らの家をまわり、なにか不自由なことはないか、手助けできることはないかと訊ねたのだ。
最初のうちは、自分たちも罪にとわれるに違いないとおびえ、マリナを恨んでさえいた彼女らだったが、繰り返し家を訪れ、優しくそして真摯《しんし》に援助を申し出るマリナを、間もなく信用し頼りにするようになった。中でもふたりの女性はマリナに心酔し、自宅を引き払って公館でマリナづきの侍女として勤めるようになったのである。
これにはケアルも驚き、双子のゆりかごを揺らしながら子守歌をうたって聴かせているマリナに訊ねた。
「いったいきみは、どうして彼女らを手助けしたいなんて思ったんだい? そもそも彼女らこそ、きみが双子を産んだというだけで、非難していた人々の筆頭だろうに」
「あら。そんなに不思議かしら」
すやすや眠る赤ん坊の薔薇《ばら》色の頬にくちづけて、マリナはケアルを振り返った。
「あの方たちはべつに、悪いことなんてしていないのよ。だのに旦那さまが捕まったからって、皆さん手のひらをかえしたみたいに態度を変えて。それって、あなたがライス家の三番目の息子だったときは、島人の母親から産まれた子だって見下してたくせに、領主になったとたん、あなたのご機嫌をとろうと高価な贈り物を持ってきた方々と全然変わらないじゃないの」
そんなの我慢できないのよ、と力をこめて言い切るマリナに、ケアルは苦笑した。
マリナの価値観は、世間の評判や相手の社会的地位・血筋などに揺るがされることはない。だからこそ故郷を遠く離れたこのハイランドへ、ケアルを追いかけやって来ることができたのだろう。
「――それでも、あなたには味方がいたわよね。亡くなったお義父《とう》さま、ギリ領主さま、オジナもそうだし、わたくしだっていたわ。それから、あなたの大事なお友達も」
「ああ、そうだね……」
心をこめて、ケアルはうなずいた。
「わたくしだって、ここへ来たときは色々あったけれど、ちゃんと味方してくださるひとがたくさんいたわ」
「うん」
「けれど彼女たちには、誰もいないのよ。だったらせめてわたくしぐらい、味方してさしあげてもいいじゃない? 幸いわたくしだったら、あの方たちに味方したからって、仲間じゃないかと疑われることはないもの。白い目で見られのも、慣れているし」
最後のひとことには、ケアルも胸が痛んだ。ハイランドでただひとりのデルマリナ女性という立場は、ケアルが領主となってからは少しは良くなったものの、いまだ誤解や偏見は多い。
「それにね。最近ではわたくしと一緒に、彼女たちのお家をまわってくださるご婦人が何人かできたのよ」
「へえ、それは知らなかったな」
軽く目をみひらき、マリナを見る。
「そのご婦人がたと話し合ったのだけど、わたくしたち他にも色々なことができるのではないかしら? たとえば、貧しくてお医者さまにかかれないかたに、せめて栄養のある食事を届けるとか……。あと、親のない子供たちに、たとえば新年の贈り物をするとか」
目を輝かせてあれこれ挙げてみせるマリナに、ケアルは驚きを隠せなかった。領民のために島人のためにと、領主になって以来考えてきたつもりだったが、そこまで配慮することなど思いもしなかった。
「それは……すごいな……」
思わずつぶやくと、マリナはぴょんと飛びあがってケアルの手を握りしめた。
「じゃあ、賛成してくださるの?」
「ああ。本来なら領主がやらなければならないことだとは思うが――」
「あら。そんなこと、できるひとができることをすればいいのよ」
ころころと笑いながら背伸びして、マリナがケアルの頬にくちづける。苦笑しながらくちづけ返したケアルは、ふいにまじめな表情をつくって、
「その、彼女たちの夫の居所がわかったんだが――伝えたほうがいいのかな?」
出奔した家令たちは、やはりというべきかフェデ領に滞在するミリオのもとへ身を寄せていた。
今回、捕らえられた男たちは尋問にかけられ、ほぼ全員がミリオ・ライスこそこの計画の首謀者であると供述したのである。かれらの供述こそ証拠であるとして、ケアルはすぐさまミリオの廃嫡を決定した。領主への謀反・反逆の罪があきらかな場合、本人の署名なく廃嫡の手続きをとることができる。これまで兄を自らの手で追い落とすことにためらいを持っていたが、事実があきらかになった以上、いつまでも廃嫡の手続きを引き延ばしていては、内実はどうであれ領民たちはケアルを「身内に甘い領主」と思うことだろう。
現在、ミリオの立場は「反逆者」である。ライスの姓を失った彼には、たとえいまケアルが死亡したとしても、もうライス領主となれる可能性はまったくない。そしてまた、反逆者となってしまった以上、摂政の地位につくこともできないのだ。
「やっぱり、フェデ領のミリオさまのところに……?」
「ああ。着いたのは、ほんの二日ほど前らしい」
ライス領からフェデ領まで、ふつうに歩けば三日の距離だ。だがかれらが出奔してからフェデ領に着くまで、十日近くかかっている。おそらくは、追っ手がいるかもしれない、すでに手配されているかもしれないと、人の目から身を隠しての旅程だったのだろう。
「お気の毒だわ……」
心の底から同情している目をして、マリナがつぶやく。
「ミリオさまのところへ行ったとしても、居心地が良いとはとても思えないもの」
それどころか、おまえたちのせいだとミリオに責められているに違いない。
「フェデ領主さまは、なんとおっしゃっているの?」
「ミリオどのの身柄を引き渡すように要求しているんだが、返事はまだないんだ。伝令の話によると、フェデ領の家令たちの間では、さっさと厄介者を放り出せという声も多くあがりはじめたらしいよ」
「ますますお気の毒だわ。――ねぇ、ケアルはかれらを絞首刑にするつもりなどないんでしょう?」
「ああ。罪をとわないわけにはいかないが、処罰は公職からの追放程度にとどめるつもりではいるよ」
これには家令たちから、手ぬるいとの批判もある。本来ならば極刑とすべきを、公職からの追放だけとは、領民に対してしめしがつかない、と言うのだ。
だがケアルは、いちばん重い罰は首謀者がうけるべきであり、現在ミリオの処罰を「生涯の幽閉」と考えている以上、かれらにのみ死をもって贖《あがな》わせるのは公平ではないと家令たちを押し切った。
「そのこと、ミリオさまのところへ身を寄せている家令には伝えたの?」
「うん。だが、信じてはもらえないようだ。帰れば死罪だと思っているよ、かれらは」
「じゃあ、かれらの奥さまたちに手紙を書いてもらうのはどうかしら? だいじょうぶだから、帰ってきてください、って」
「かれらが信じるかな?」
ケアルの問いにマリナは顎に指を当て、小さく首をかしげた。
「そうね。でも少なくとも、里心はつくでしょうね。どちらにしても、いつまでもフェデ領にご厄介になるわけにはいかないんだし。フェデ領から犯罪者として突き出されるより、自分で出頭したほうがましと考えてくれるかもしれないわ」
そう言うとマリナは、わたくしが奥さまたちに伝えるわ、と胸をはって請けあった。
「奥さまたちが自由に手紙を書ける状態なんだって、それが伝わるだけでもずいぶんと違うと思うのよ」
農園で働く島人たちが自衛団を結成した、という報告が届いたのは、襲撃未遂事件から三日後のことだった。
「あたしら、恥ずかしいんです」
視察に訪れたケアルに、島人の女性が陽に灼《や》けた顔をくしゃくしゃにして告白した。
「襲われるかもしれないと教えてくれたのは、ライス領の領民じゃなくて、マティン領の島人だっていうじゃないですか」
「あたしらの農園だっていうのに……」
それに襲撃を計画したのが、よりにもよってライス領先代領主の次男、ミリオだったということが、かれらには大きな衝撃だったらしい。
「こんなことを言うと、あれですけど。あたしら、襲ってくるとしたら絶対によその領の島人だと思ってました」
「この農園は、よその領の島人には羨《うらや》まれてますから。むかついて、ちょっと火をつけてやれ――って、それぐらい思われてるんじゃないかと」
「それが、違ったんですね。かえって、よその領の島人が、あたしらを救ってくれた。だからもう、そんなふうに思ってたなんて、恥ずかしくって」
女たちは互いにうなずきあい、ケアルを見あげた。
彼女らにしてみれば、農園で働くことで収入を得ている自分たちは、他領の島人とは違うのだと、ある種の優越感を抱いていたのだろう。ちょうど上≠フ人々が、島人たちを見下しているのと同じように。しかし今回の事件で、優越感を抱く自分たちを恥ずかしいと思うようになった。これはもう、著しい進歩といえるのではないだろうか。
ケアルはどこか誇らしい思いで、彼女たちを見回した。
「あたしら、自分たちで農園を守りたいんです。火をかけられるかもしれなかったってわかって、この農園がどんだけ大切か、よくわかったんです」
「だから、日に三回と夜に四回、みんなで手分けして見回りしようって決めたんです」
「若領主さまの農園なのに、勝手なことをはじめて悪いとは思うんですけど……」
いや、とケアルはかぶりをふった。
「この農園は、私の農園ではない。きみたちの農園だと、私は思っているよ」
女たちは目を丸くして、互いに顔を見合わせた。
「あたしらの……農園……?」
「そんなこと、考えたこともなかった」
呆然とつぶやく彼女らに、ケアルはにっこり笑ってみせる。
「考えてもみてごらん。私がやったのは、工房をつくる資金を出し、きみたちを雇い入れただけだ。お茶を栽培するのも焙煎《ばいせん》するのも、輸出用に箱詰めしてるのも、すべてきみたちじゃないか。きみたちがいなければ、この農園は機能しない。だから、きみたちの農園なんだ」
「あ……あたしらの農園だって」
「すごいよ、みんなの農園なんだよ」
女たちの陽灼けした顔が輝き、白い歯がこぼれる。ひとりがぽろりと涙を落とすと、感染したように彼女たち全員が泣きはじめた。互いに手を取り合い、泣きながら笑う。
「あたしら、頑張ります」
「頑張って、この農園を守ります」
視察を終えて帰っていくケアルに、彼女らは胸を張ってそう宣言したのだった。
そして、さらに三日後。
こんどは港で働く島人たちが自衛団をつくった、という話をケアルはラキ・プラムから聞いた。
「今回は農園が狙われたけど、次は港じゃねぇって保証はないもんな」
というのが、自衛団をつくるに至った理由らしい。だがそれは、ケアルも心配しないでもなかったことだ。
最近になって家令のひとりから、どうして港を自領につくらなかったのか、いまになって悔やまれる、という話題がよく仲間内で出ると聞いたことがある。建設計画当初は、どの領も自領内に港をつくることだけは避けたい、と動いていた。だからちょうど領主が不在だったマティン領に、白羽の矢が立ったのだ。当時は、だれもがデルマリナの巨大な船を間近にすることを恐れていた。ところがいざ交易がはじまると、たちまち人々は船に慣れ、港におちる大きな利益に気がついたのである。
いまある港をつぶして、次は自領にもっと大きな港を、と考える者があらわれてもおかしくはないだろう。
「まあ最初は、そんなもんはおまえらがやりゃいいじゃねぇか、って言われたんだ。港はうちの島にあるから、うちの島の連中だけで守ればいいってさ」
「じゃあ、きみたちの島以外の人々も一緒になのか?」
ケアルは目を丸くして、ラキを見た。
「ああ、当然だろうが」
にやっと笑ってラキは、ケアルに親指を立ててみせる。
「まあ――確かに港はうちの島にあるけど、俺らだけの港ってわけじゃねぇ。荷積みしたり水を運んだりで、よその島の連中だって充分世話になってる。他にも、あんたのとこの農園だって、港がなきゃ茶をデルマリナに売ることもできねぇだろ。そのへんのとこが、やっと連中にもわかったのさ」
ラキの話によれば、マティン領もライス領も関係なく、当番を決めて港の周囲を見回ることになったという。
「そんで思ったんだけどさ。せっかく日頃は行き来もねぇ島同士で、知り合いになれたんだ。当番だけじゃもったいねぇよな?」
「うん。それはそうだね」
「うちの島にはないもんが、よその島にはあったりするんだ。そいつをさ、なんぼか金を払って譲ってもらえねぇかな、なんて話も出てんだよ」
「つまり、島同士で交易を?」
ふたたびケアルは目を丸くせずにはいられなかった。
「ああ。いままで、その島でとれたもんは全部、上の連中が買い上げてたけどな。考えてみりゃあ、わざわざそんなことする必要はねぇんじゃないかって思ってさ」
ラキが言うように、島々の特産品や手工芸品などは上≠フ人々が買い取っていた。たとえば泥炭《でいたん》などは、売値のほぼ一割が買い取り価格であり、よその島人が泥炭を欲しいと思った場合、上≠フ商店で買い取り価格の十倍の金額を支払って購入しなければならなかったのだ。もし、かれらが上≠通さず島人たちだけで商品の売買をおこなうことができれば、売る側にとってはこれまでより高い値で、買う側にとってもこれまでよりずっと安い値で購入販売ができることになる。
いままでそれができなかったのは、島同士の行き来する範囲がごく狭かったこと、また島人たちがまとまった現金を持っていなかったからだ。ラキたちの島には特産品といえる品はないが、もしかれらにそれがあったとしても、周辺の二、三島同士での交易だけではとても商売としてやってはいけないだろう。しかし、いまラキたちの島は、デルマリナ船に水を売ることで現金収入がある。
「それは……すごいな」
ケアルはすっかり感心して、何度も何度もうなずいた。
農園にしろ港での労働にしろ、ケアルはこれまで島人たちに現金収入をと考えてやってきた。だが、島人同士が交易をおこうなうとまでは、考えもおよばなかったのだ。そんな可能性があるとさえ、思いつきもしなかったといっていい。
「なあ、俺は法とか詳しくねぇんだけどさ。俺らが上の連中を通さねぇでモノを買ったとして――それって、ご領主さまからお咎めをうけたりしねぇもんなのかな?」
不安そうに訊ねるラキに、ケアルは笑ってみせた。
「だいじょうぶだ。島人同士が交易をしてはならない、なんて法律はどこの領にもない。それにもちろん、これまでより安い値で買ってはならないという法律もないよ」
「へえ、そうか。んじゃ、安心だな」
いかにもほっとした様子で、ラキは胸をなでおろした。
ラキにとってみれば、なんてことのない発想なのだろう。だがケアルには、農園の女たちにしろラキにしろ、ひたすら驚くばかりだった。ケアルが島人たちのためにと考えている間に、かれらはすでにその先へと目を向け、歩みはじめているのだ。
思えばそれこそが、おれの目指すものだったのではないだろうか? ケアルはそう考えて、胸が熱くなるのを感じた。
* * *
ミリオの身柄引き渡しについてフェデ領主から正式な返事が来たのは、ライス領が要求を出してからほぼ一ヶ月近く経ってからだった。
「どういうことですか、これは!」
返信の概要を知り、家令たちは一様に憤《いきどお》りの声をあげた。
「こんな話は前代未聞ですぞ。お聞き入れになる必要はありません!」
「無礼にもほどがあります」
でもねぇ、とケアルは憤る家令たちを眺めながら言った。
「フェデ領にはミリオどのの他に、うちの家令が五人もご厄介になってるからね」
「あの者たちはもう、ライス領の家令ではありませんぞ」
「そうは言っても、私はまだ、かれらの任を解いていないよ」
「だったら今すぐ解いてください!」
言い放った家令を見やり、ケアルは思わず苦笑した。おそらくケアルほど家令に好き勝手なことを言わせておく領主もいないだろう。だがケアルは、内部から謀反人が出たあとも変わらぬこの雰囲気に安堵《あんど》していた。
それにケアルがついた嘘――農園が焼失してしまったと発表したことについては、三人の家令が捕らえられた後、ケアルは皆の前で謝罪をした。領主への不信感を訴える声が出るのは覚悟していたのだが、驚く者はいてもケアルを責める声はあがらなかった。ただし何人かの家令はそっとケアルのもとを訪れ、若領主に真実を打ち明けてもらえなかった己のいたらなさを涙ながらに詫び、ケアルをあわてさせた。
「なんにしても、若領主が自ら足をお運びになる必要はありませんぞ」
いちばん年かさの家令が言うのへ、全員がその通りだとうなずいてみせる。
フェデ領主からの手紙には、ミリオの身柄引き渡しに応じる条件として、ライス領主にご足労いただきたいと記してあった。ケアルにはこれが、気位の高いフェデ領主にとっては最大の譲歩なのだろうと思えた。ミリオがライス姓を名乗っているうちは、フェデ領もに彼を匿《かくま》うだけの価値があった。だがミリオがライス姓を失い、そのうえ謀反人として公に認められてしまった現在、フェデ領がこれ以上ミリオを匿えば、領内外からの非難をうけるのは確実である。そのうえミリオのもとには、ライス領を出奔した五人の家令までいるのだ。フェデ領としては、早急にかれらを追い出してしまいたいというのが本心なのだろう。
「けれど、フェデ領主どののお立場を考えると、私が足を運ぶことぐらいなんでもないと思うんだが」
「フェデ領主さまの立場など、お考えになる必要はありません!」
「うん。でも、これでフェデ領主どのに恩を売ることはできるだろう?」
にっこり笑った若領主の言葉に、家令たちは互いに顔を見合わせた。
「恩を売る、ですか……。なるほど。しかしフェデ領主どのは、それを恩と思ってくれるでしょうか?」
「思ってくれるかどうかじゃなくて、思わせるんだよ。恩にきせられたと悔しがるようにね」
そうして準備を終え、いよいよ明日はフェデ領に向けて旅立つという日、白い翼が公館の前庭に降り立った。
「フェデ領からの伝令です」
家令に案内され執務室へ入ってきた伝令は、まだ肩で息をしていた。聞けば、せめて呼吸が落ち着くまで休憩するようにとの申し出を、この伝令は「緊急ですから」と断ったのだという。
「用件を聞こうか」
ケアルが促すと伝令は、いきなりその場で深々と頭をさげた。
「――申し訳ありません!」
床に髪先がつくほど頭をさげる伝令に、ケアルは思わず家令たちと顔を見合わせた。
「できるなら、きみ……頭をさげる前に、なぜ謝罪するのか教えてくれないか? でないと私も家令も、どんな反応をすればいいのかわからなくて困るよ」
苦笑まじりにケアルが言うと、伝令ははっと顔をあげ、またすぐ「申し訳ありません」と頭をさげた。
「おいおい……」
「あるじより、とにかくまずは謝罪するようにと、命じられましたので」
ということは、よほどのことがあったのだろう。いまライス領とフェデ領との関係で「よほどのこと」といえば、ミリオに関するなにか以外にない。
「ひょっとして、ミリオどのの身柄を引き渡せなくなった――と言い出すんじゃないだろうね?」
「えっ、どうしてそれを……!」
驚く伝令に「あてずっぽうだよ」と笑ってみせる。だがそんなケアルの横で、家令たちが目をつりあげた。
「若領主、笑いごとではありませんぞ!」
「伝令! それはどういうことだ!」
早く説明せんかと家令たちに怒鳴られ、伝令はふたたび頭をさげた。
「我があるじがミリオさまに、ライス領より迎えが来られると申し上げましたところ、たいへんお怒りになられまして……一昨日の夜半、フェデ領の公館をお出になりました」
「逃がしたと申すか!」
「いえ、それは……。ただ、出ていかれたまま、お戻りになっていないというだけで」
「同じことではないか!」
いきりたつ家令たちを、ケアルはまあまあとなだめた。
「伝令の彼に怒りをぶつけても、どうしようもないだろう。詳しい経緯をちゃんと聞こうじゃないか」
ほっとした様子の伝令に笑いかけて、ケアルは話を促した。
「そもそもミリオどのは、ライス領から身柄引き渡しの要求があったことを、ご存じだったのか?」
「それは……私にはなんとも……」
「では、身柄引き渡しの要求があってから一昨日まで、ミリオどのの待遇はどのようなものだった?」
「我が領主のお客人として、もてなしておりました」
「一昨日まで?」
はい、と伝令がうなずく。
ということはミリオは、一昨日までフェデ領主がまさか身柄引き渡しの要求にこたえるとは考えてもいなかったのだろう。それがいきなりライス領より迎えが来ると聞き、初めて危機感を抱いたに違いない。ミリオの考えの甘さ、フェデ領の対応のいいかげんさには言いたいこともあるが、いまさらそれを口にしても仕方がない。
「――で、ミリオどのの行方は?」
「フェデ領の家令一同で、手分けしてお探ししておりますが……まだ」
「どちら方面へ向かったのかも?」
「申し訳ありません」
小さく唸ってケアルは腕を組んだ。フェデ領主以外に、ミリオを匿ってくれそうな人物がはたしているだろうか。ギリ領のワイズ・ギリのもとならば、うまくすれば二、三日程度の滞在はできるかもしれない。だが家令たちが、それを許すとも思えなかった。優柔不断で気弱なワイズ・ギリに、家令たちの反対を押し切るだけの気概があるはずもない。オリノ・ウルバの粗野さを嫌っているミリオが、ウルバ領をたよることはないだろう。唯一残ったマティン領までたどり着くには、どうしてもライス領内を通過せねばならないのだ。はたしてそんな危険を、わざわざミリオが冒すだろうか。
「――確かミリオどののもとには、我がライス領の家令が五人ほど、身を寄せていたはずだが、かれらはどうしている?」
「それが……皆さん、ミリオさまとご一緒に公館をお出になりまして――」
「やはり行方がわからない、と?」
その通りです、と伝令がうなずいた。
「わかった」
これ以上訊ねても無駄だろう。ほんとうにわからないのか、それとも隠しているだけなのかの判断はつきにくいが。
「緊急の伝令、ご苦労だった。必要なだけ休んでから、フェデ領へ戻ればいい」
立ちあがったケアルに、伝令が驚いた目をして声をかけた。
「あの……返事はどのように……?」
「さっき言っただろう。わかった、と」
たったそれだけ? と伝令が呆然とケアルを見つめる。伝令には気の毒だが、なまじ丁寧な返事をしては、相手の失敗を許したととられてしまうだろう。
伝令を退出させると、ケアルは家令たちに向き直った。ミリオが行方不明では、フェデ領へ向かっても無駄足となる。どうしたらいいと思う? とのケアルの問いかけに、家令たちはそろって、こちらから伝令を出し、ミリオ捜索の責任はフェデ領にあることを強く訴え、このような経緯に至らしめたフェデ領主を非難する意思をあきらかにすべきだ、と主張した。
「――そうだね」
うなずいたケアルは家令たちを見回す。
「だが、だからといってミリオどのの捜索をフェデ領任せにするわけにもいかない」
「しかし、捜索するといっても……」
まさかライス領内の全領民に向けて、ミリオを捜索するよう命じるわけにもいかないだろう。家令たちは互いに顔を見合わせた。
「それにミリオさまが、ライス領にお戻りになるとは思えませんし」
「そうですよ。そもそもミリオさまは、ライス領にお戻りになることを避けて、逃げられたのでしょうからな」
そうだね、とケアルはまたうなずく。
「確かにミリオどのは、もうライス領に戻りたくはないだろう。けれど、彼と一緒にいなくなった家令たちは――ミリオどのが頼りにならないとなればもう、ライス領に残った家族をあてにするしかない」
「まさか……!」
そんなことはあり得ないだろう、と言いたげな家令たちに、ケアルは笑ってみせた。
マリナの進言で、失踪《しっそう》した家令の家族たちは何度かかれらに手紙を出している。手紙の中でかれらの妻や子は繰り返し、死罪になることは決してないから帰ってきてくれ、と言っているはずだ。これまでそれを信じて帰ってきた者はいないが、頼るものが皆無となってしまえば、かれらはきっと妻子からきた手紙を思い出すことだろう。
「かれらの妻子のもとへ、使いを出そう。ただし男ではなく、女性がいいな」
ケアルの言葉に家令たちは、あきらかに意外だという顔をした。
「女を……使いに?」
「こういった政治的なことに、女を関わらせるのはどうかと思いますが」
「ろくな結果にはなりませんぞ」
ケアルは家令たちに、マリナをはじめとする婦人たちの活動がいかに彼女らの信頼を得たか、説明した。この場合、役目に忠実な家令をやるよりも、彼女らが信頼する女性をそばにつけて連絡係をつとめてもらったほうがいい。
残念ながら家令たちは婦人らの活動をただの道楽と見なしていて、信頼だの成果だのを期待してはくれなかったが、最後の「女性なら油断するだろう」には賛同の意思をしめした。
「なるほど、そういう意図がおありでしたら賛成いたします」
* * *
動きがあったのは、それから四日後のことだった。
朝、失踪した家令の妻のもとに手紙が届いたとの知らせが入ったのである。彼女とは親しくなっていたマリナが、家令には任せておけないとばかりに自ら志願し、手紙の内容や届けた者について詳細を調べるべく、その家に向かった。
マリナが出かけたのと入れ替わるようにして、島人だという老人が公館を訪れた。これまで家令たちは、オジナなど一部の者はのぞき、島人が領主に直接面会をもとめるなど分をわきまえろと追い返していたが、農園の襲撃をラキ・プラムらが知らせてくれた一件から、認識をあらためたらしい。老人は追い返されることもなく、すぐさま執務室へ通された。
公館の内部へ入ったことなど生まれて初めてらしい老人は、見るからに緊張しきっていた。視線は落ち着かなげにさまよい、肩や膝《ひざ》に力が入って、身体の動きもぎこちない。ケアルは老人の緊張をほぐしてやるために、書きもの机から立ちあがると窓を開け、外に出ないかと誘った。
家令たちがついて外に出ようとするのを制止し、老人とふたりで前庭に出る。八十歳近い老人かと思っていたが、日射しの下であらためて男の顔を見ると、実はまだ六十にも手が届いていないのではと思われた。老けて見えてしまったのは、長年の重労働に肉体を痛めつけられたせいなのかもしれない。
屋外に出て日射しに目を細めた男は、どうにか喋れるほどには緊張がほぐれた様子だった。
「わしは……わしの娘は、農園で働かせてもらってます」
ケアルのほうは見ようともせず、まっすぐ前を向いて、男はしわがれた声で喋りはじめた。
「娘は、今度の領主さまは前の領主さまよりいいひとだ、と言っとります。領主さまのお力になりたい、と言っとります」
そこで男は言葉を切り、そっと顔をあげてうかがうようにケアルを見た。
「わしは……どうやったら領主さまのお力になれるか、よくわかりません。でも娘が――領主さまだったら、わしら島人の気持ちはようわかってくれると言っとりました」
ケアルがうなずいてみせると男は、なにかを決意したかのように拳《こぶし》を握りしめた。
「島の者たちには内緒で、来たんです」
「内緒で?」
そうです、と男がうなずく。
「実は――ゆうべ、わしらの島にミリオさまが、舟で流れ着いたんです」
えっ? とケアルは軽く目をみひらく。
「最初はどこの誰か、わからんかったんですけど。一緒におった男が、ミリオさまと呼んだんで、みんなにもわかりました」
ミリオが農園を襲撃させようとしたことも、またケアルを暗殺しようとしたことも、すでに多くの領民たちが知っている。男の島の者たちもやはり知っていて、さあどうしようかと頭を突き合わせ悩んだらしい。
若い者たちは、いますぐミリオを捕まえて縛りあげ、公館に突き出すべきだと主張した。歳のいった者たちは、いくら罪人といえども領主の兄を縛りあげたり捕まえたりしては、あとでどんな咎《とが》をうけるかわからない、とそれに反対した。
島人たちが意見をまとめ終わらないうちに、流れ着いた男たちの間でもめ事が起こったのだという。
「ミリオさまと呼ばれたお方が、他の者たちを怒鳴りつけまして――だれのせいでこんなことになった、どうしてくれるんだ、と」
すると家令だと思われる男たちのひとりが、ミリオを呼び捨てにして「あんたのせいだろう」と言い返し、怒ったミリオがその男に殴りかかった。あわてて他の者たちがミリオを止めたが、ミリオはおさまらず、制止に入った家令たちに向かって、暴言を吐いた男を殺せと言い放った。
仲間をまさか殺すことなどできず、立ちすくむ家令たちに、ミリオは「おまえたちができないなら俺がやる」と、懐から出したナイフをふりかざした。殺されてなるものかと男はミリオの手からナイフを取り上げようとし、揉み合ううちに、ミリオが倒れた。
「浜に血が流れ出していくのが、月明かりにもはっきりと見えました」
仰天《ぎょうてん》した島人たちが駆けつけたときにはもう、ミリオは虫の息だったという。
「すぐに公館へお知らせしようと言う者もおったですけど、誰かが、わしらの島でこんなことになって、わしらも見てただけで止めに入らんかったと咎をうけるに違いない、と言い出したんです」
明け方、ミリオは息を引き取った。島人たちはミリオを島の奥に埋め、なにもなかったことにしようと口裏を合わせて、家令たちを島から追い出した。
「でも、わしは考えました。もしあのひとたちが捕まったら、うちの島で起きたことがぜんぶばれてしまう。それどころか、あのひとたちはわしら島人がミリオさまを殺したと言うかもしれん」
悩んだすえ男は、領主さまならばすぐに公館へ知らせなかった島人の気持ちもわかってくれ、自分の言うことも信じてくれるに違いないと、こうして島の者たちには内緒でやって来たのだ。
ケアルは男の手をとり、握りしめた。
「――ありがとう」
いきなり感謝の言葉を向けられて、男が大きく目をみひらく。
「真実を話してくれて、ありがとう」
これがもし、まだケアルが領主となって間もないころに起こった出来事だったとしたら――おそらく事実は永遠にあきらかにされはしなかっただろう。ところが今、顔も知らない領民がケアルを領主として信頼してくれたのだ。ケアルならばわかってくれる、と信じてくれたのだ。
やっとここまで来たのだと、ケアルは思った。次兄の死を悼《いた》む気持ちよりも、ケアルはそれを喜ぶ気持ちのほうが強かった。
「わ……、わしは……」
領主に手を握りしめられ、そのうえ何度も礼を言われて、男はなにがなにやらわからず目を白黒させている。
「あの……わしらは咎をうけなくて済むんでしょうか?」
ようやくケアルが手を離すと、男はおそるおそるといった様子で訊ねた。
「ああ、もちろんだ」
しっかりうなずいたケアルに緊張の糸が切れたのか、男はその場にへなへなと座り込んでしまった。
執務室の窓からケアルと男の様子をうかがっていた家令たちに手招きすると、かれらはあわてて走り寄ってきた。
「ミリオどのが、亡くなった」
いきなりのケアルの言葉に、家令たちは仰天し声もない。
「この者を休憩させ、しかるのち、この者の案内で島へ向かえ。ミリオどのの遺体を、引き取ってくるんだ」
ただし、と言い添える。
「決して島の者たちには、手を出さないように。かれらに乱暴な言葉を投げかけることも禁じる」
反射的にうなずいた家令たちは、ケアルが立ち去りかけたところでやっと我にかえり、若領主を呼びとめた。
「あの……それで、ミリオさまの死因は何だったのでしょう?」
「ナイフによる刺殺だ。言っておくが、手をくだしたのは島人たちではない」
「では……」
原因が仲間割れと悟った家令たちは、互いに顔を見合わせた。
こうなると、今朝になって島を出たという家令たちの動向が気にかかる。ミリオを刺殺してしまったことは、さすがに咎めなしとするわけにはいかない。だが先にナイフをふりかざしたのはミリオのほうだという証言もあることから、自分の身を守るためにやむなく刃向かったのであり、ミリオが傷つき命を落としてしまったのは事故だったのだ、と結論することもできる。
少なくとも自暴自棄にはなってくれるなよ、と願わずにはいられなかった。
家令たちがミリオの遺体を引き取りに島へ向かったすぐあと、手紙を受け取った妻子のもとへ行っているマリナから、五人の家令たちがケアルに面会をもとめているとの知らせが届いた。
詳細は不明だったが、五人という数に、まだひとりも欠けていないとケアルはとりあえず安堵した。
マリナの先導により五人の家令が公館へ入ったのは、通常の執務時間を過ぎた夕刻のことだった。人目にさらされるのを避けたいとのかれらの希望で、この時間となった。話を聞いた家令たちは、かれらがまたケアルの暗殺をはかる可能性ありとして、希望を聞き入れる必要はないと進言した。しかしミリオ亡き今となっては、かれらがケアルを暗殺したところで得るものはなにもない。そんなケアルの説明に家令たちは、せめて数人の家令を隣室に待機させることで譲歩してくれた。
執務室へ入ってきた五人は、みるからに疲労の色濃く、衣服をあらためてきたのだろうが、痩《や》せてしまったのか上着もシャツの首周りもだぶついてみえた。
「よく無事で戻ってきてくれた」
ケアルの第一声に、男たちはほっとした様子で顔を見合わせる。おそらく咎めの言葉を覚悟していたのだろう。
「その……妻から、若領主は我らを死罪とすることはないだろう、と聞きましたが。それは――信じてよろしいのでしょうか?」
しかしかれらが口を開いて真っ先に言ったのはこれで、ケアルはいささか落胆《らくたん》した。確かにかれらにとってはそれが最も気になることだろう。だが、謝罪のひとこともなく、死罪ではないとは本当か、信じていいのかと訊ねるとは……。
「ああ、確かにそう言ったし、そのつもりでいる。だがその前になにか言うことはないのか?」
ケアルが問いかけると、なにを誤解したのか男たちは「やっぱり」という顔をした。
「我らは――ミリオさまに、命じられただけなのです」
ひとりが言い出すと、他の者たちも競うように口を開いた。
「ミリオさまがまさか、若領主の暗殺を考えていたなど、我らは知りませんでした」
「我らはただ、若領主があまりに島人どもに肩入れされ、我々家令の進言をないがしろにされるので、なんとかお諫《いさ》めしようと考えたのです」
「そうです。少し頭を冷やしていただきたいと考え、農園を襲撃するというミリオさまの計画に乗っただけなのです」
「決して若領主を退けようなど、思ってもみませんでした」
みるみるうちにケアルの顔つきが変わるのに気づいたのは、しかし、かれらのうしろで扉を背にして立つマリナだけだったに違いない。不快さを隠そうともせず、ケアルは男たちを見回した。
「なるほど。きみたちは、すべてはミリオどのの計画だと言うんだね?」
ようやくケアルの不機嫌さに気づいて、男たちは互いに顔を見合わせた。
「あの……我らは――」
「すべてとは申しませんが、だだ、我らの気持ちをくんでいただきたく……」
わかったと軽く手を振り、ケアルは不機嫌なまま訊ねる。
「では、ミリオどのはどこにいる? きみたちと共にフェデ領公館を出たことは、すでに伝令から聞いているが」
「――ミリオさまとは、途中で別れました。ライス領に戻りたいと希望する我らとは行動を共にできない、とおっしゃるので」
「それは、いつ?」
「フェデ領の公館を出てすぐです」
互いに口裏をあわせ、答えを用意してあったのだろう。顔色ひとつ変えず、すらすらと答えが出てくる。
「それは変だな。島人が、きみたちがミリオどのとともに舟に乗っている姿を目撃しているが?」
「島人どもの言うことなど、あてにはなりません。そもそも島人どもがミリオさまのお顔を知るはずがありませんでしょう?」
「その者は、きみたちがミリオどのの名を呼んだのを耳にしたと言っている」
若領主! といちばん年かさの男が、いかにも嘆かわしげな顔をして、一歩前に進み出た。
「島人どもの言葉と、長年ライス領の家令としてロト・ライスさまにお仕えしてきた我らと、どちらをお信じになるのですか」
「どちらも信じたいよ」
思わず口から出たその言葉こそ、ケアルの本心だった。島人も目の前にいるかれらも、どちらも同じライス領民だ。領主として、できるものならどちらも同じだけ信じたい。そしてかれらにも自分を信じてもらいたい。
「頼むから、私にもきみたちを信じさせてくれないか?」
望みをたくしてそう言ったケアルに、しかしかれらは動揺するそぶりすら見せてはくれなかった。
「若領主が連中を甘やかすから、島人どもはつけあがるのです。おそらくそのような話をした島人は、若領主の歓心をかいたいだけなのでしょう」
「ご存じでしたか? 連中は、若領主に目をかけていただければ公館の家令にもなれる、と言っておるのですぞ。島人の分際で」
「島人どもには我らのような、ライス領の前途を憂《うれ》う気持ちなど、一生を費やしても理解できぬでしょう」
軽く目を閉じ息を吸い込むと、ケアルはゆっくり立ちあがった。かれらひとりひとりの上に視線を投げかけながら、書きもの机の前に出る。
「――残念だ」
ひとことつぶやくと、マリナに向かって扉を開けるように頼んだ。うなずいたマリナが扉を開けると、隣室に待機していた家令たちが七人、困惑の面もちで入ってきた。
驚く男たちの前で、ケアルは家令たちにもっと中まで入ってくるよう目顔で促した。
「今日の昼間に、島人の老人が私のもとを訪れた。彼はゆうべ目撃したことを――きみたちがミリオどのともみ合い、その命を奪ってしまったことを、正直に告白してくれた」
「し……島人などの言葉を、まだお信じになるのですか!」
「彼は私を信じてくれたよ。私ならばきっとかれら島人に咎をかぶせることはない、とね。だから真実を語ってくれたんだ」
それがどんなに嬉しかったか、おそらく目の前にいる男たちには理解できないだろう。悲しい思いでケアルは、男たちを見た。
「ミリオどのの遺体はすでに、島からこの公館に運び込まれている。きみたちの処分については、家令たちと相談のうえ、あらためて決定することにした」
「まっ、待ってください!」
「申し開きしたいことがあるならば、かれらにするように」
七人の家令たちをしめして言い放つと、ケアルは執務室を出ていく。
振り返りもせず、ひとけのない廊下を足音も荒く歩き、中庭に出た。柑橘《かんきつ》系の果実のいい匂いが、夜風にふんわりと漂う中、ケアルは石造りの椅子に腰をおろした。
深いため息をついて、夜空を見あげる。星も見えない夜空は、なにやら自分の心をそのまま映しているように思えた。
兄上は亡くなったのだ、という事実が今やっと実感として受けとめることができる。それはライス領に害をなすミリオという男の死ではなく、ロト・ライスの息子、自分の肉親が死んだのだという実感だった。
「もう、誰もいないな……」
ふとつぶやいて、その言葉にケアルは自嘲《じちょう》した。誰もいない――つまり、ライス領主という地位から逃げ出したくなったとしても、代わりをつとめてくれる者は誰もいないのだ。おれはここまできてもなお、そんなことを考えるのかという自嘲だった。
こんなおれだから、かれらは信じてくれなかったのかもしれない。逃げ出すことをつい考えてしまうような領主を、いったい誰が信じることなどできようか。
「ケアル――ここに座ってもいいかしら」
声をかけられ顔をあげると、マリナが軽く首を傾げて立っていた。
どうぞ、と視線で隣をしめす。マリナは大きく息を吸い込みながら、ドレスの裾《すそ》をはらってケアルの隣に腰をおろした。
「ここに来ると、デルマリナの夏の別邸を思い出すわ。ほらケアルも行ったことがあったでしょう? あなたがお客さまたちの前で、飛んでみせたあの別邸よ」
ああ、とケアルがうなずくと、マリナはもういちど息を吸い込んだ。
「あそこも果実のいい匂いがしたわね。なんだかすごく遠い昔のような気がするけれど、三年って長いのかしら?」
「さあ……」
「あのころはわたくし、まさか自分が三年後にはハイランドにいて、双子の母親になっているなんて、想像もしていなかったわ。ケアルもそうじゃない? 三年後には自分がライス領主になっているなんて、ちらとも思わなかったでしょう?」
「ああ、そうだね」
「わたくしね、あなたが領主になったとき、自分がハイランドとデルマリナを結ぶ架け橋になろうって心に決めたの。あなたが島人と上の人々を結ぶ架け橋になろうって、たぶん心に誓ったように」
ケアルは軽く目をみひらき、マリナの遠くを見つめる横顔を見た。
「でも、架け橋ってすごく難しいのね。あっちに片足をこっちに片足をかけて、どちらに行くこともできないんですもの。ところが、どちらに行っているつもりもないのに、他人からはそうは見えないのよ」
ケアルを見返して、マリナはにっこりと微笑んだ。
「最近になって、わたくし思ったの。架け橋なんて、ないほうがいいのよ。そんなものは誰も必要としていないのよ。わたくしはハイランドが好きだわ。それと同じくらい、デルマリナも好きなの。どっちにも片足だけしかかけてないなんて、もったいないわ」
「マリナ……」
隣に座る愛しい女性をケアルは思わず抱き寄せた。泣きたいような、同時に声をあげて笑いだしたいような気分だった。
そうだ。マリナは最初から、言っていたではないか。あなたに守ってもらうだけではなく、あなたを守ってさしあげたいと。彼女は最愛の女性というだけではなく、同じ道を歩む同志なのだ。
だいじょうぶだ。彼女がいる限り、おれは逃げ出したりなどしない。マリナの隣を歩くにふさわしい男に、おれはならずにはいられないだろう。この同志を失わないためにも。
ケアルは良い匂いのする夜風を胸いっぱいに吸い込み、マリナにくちづけた。
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第十九章 輝く凶星
おーいと呼ぶ声に、エリ・タトルは煤《すす》だらけの顔をあげた。
機関室の重い扉を開けてあらわれたのは、今ではいっぱしの操舵手《そうだしゅ》となったボッズである。
「風が来たぜ、やっと!」
待ちかねていた知らせにエリは拳を握りしめ「やった!」と叫んで、死にそうに暑い機関室を走り出た。
甲板に立ったエリは煤だらけの顔を海水で洗い、もう一杯海水を汲みあげると、頭からかぶった。それだけでもう、生き返った心地がする。
「それにしても、何日ぶりの風だ?」
「確か三日……いや、四日かな。なんか今年は、やたら凪《な》いだ日ばっかり続くよな」
「ああ。それに、すげえ暑いし」
「なんでもデルマリナ市街じゃ、あんまり暑いんで、体力がねえガキやじじぃどもがバタバタ倒れてるそうだぜ」
「うひゃあ。うちの爺さんも、たまには倒れてみせるぐらいの可愛げがありゃあな」
デルマリナの船乗りたちに「ゴランの息子たち」と呼ばれ恐れられている男たちが一斉に、船縁《ふなべり》で煙管《きせる》をふかす老人を振り返った。日頃は超然とした老人もさすがにこの暑さには耐えかねるのか、海水をはった桶《おけ》に足をつけ、両肌脱いで、久しぶりの風に目を細めている。
「おまえたちだけで船を動かせると言うなら、いくらでも倒れてやるぞ?」
どこから聞き耳を立てていたのか、ふいに老人が若者たちを振り返ってそう言った。
「いえいえ、とんでもないです!」
「爺さんに倒れてほしいなんて、これっぽっちも思っちゃいませんぜ」
若者たちは揃《そろ》って首をふり、頬をひきつらせて愛想笑いを浮かべた。
「誰だよ、爺さんに倒れてほしいなんて言ったやつは」
「おまえだろ、言ったのは」
「いや、俺はデルマリナ市街でじじいどもが暑さのあまりに倒れてるって言っただけだ。うちの爺さんの話なんかしてねぇよ」
頭を寄せ合い、若者たちはひそひそ声で互いに責任をなすりつけあう。
「ここしばらく爺さんのお小言きいてねぇんで、忘れるとこだったぜ。うちの爺さんはじじぃに見えるけど、中身は全然じじぃなんかじゃねぇんだ。外見にだまくらかされちゃいけねぇや」
「だよな。うちの爺さんは、バケモノだよ。そこらのじじぃと一緒にしたら、じじぃが気の毒ってもんだよな」
仲間たちのひそひそ話を聞きながらエリは、この老人ほど愛されている年寄りはデルマリナ広しといえども他にはいないだろう、と思った。この老人は、海賊「ゴランの息子たち」の仲間というより、いたずら坊主どもを監視し教育する指南役なのである。
時に煙たくもあり、時に頼りになる存在だ。
「おお、そうじゃ。坊!」
こっちに来いと老人に呼ばれ、エリはあわてて駆け寄った。
「なんだい、爺さん?」
「ひとつ使いを頼まれてくれんかの」
下履きの隠しから、老人は一枚の紙片を取り出す。
「島を出るとき、ダーリオから買ってきてほしいと頼まれたんじゃがな。デルマリナ市街は今、わしのような年寄りがバタバタ倒れるような暑さだというからな」
「暑いってことじゃ、海の上もデルマリナ市街も変わらねぇんじゃないか?」
受け取った紙片には、金槌《かなづち》や鋸《のこぎり》といった大工道具だの、高価な油だのの名称がずらりと書き付けてあった。仲間たちの中で、文字の読み書きができるのはエリの他に、老人やダーリオなど数人しかいない。おかげで白羽の矢が立ったというわけだろう。
「なにを言うか。海の上は風がなくても空気が流れとるじゃろう。しかしデルマリナ市街は、空気があっちこっちに溜まっとる。特に悪い空気ほど溜まりやすいんじゃ」
そう言うと老人は、ぽんと手すりに煙管を打ちつけ、ぎらつく太陽を見あげた。
「これが悪い兆しでなければいいがのぅ」
海賊「ゴランの息子たち」が一躍名をあげたのは、かれらの船がどこよりも早く蒸気の推進装置を採用したためだった。
二年前、世の中に船といえば帆船しか存在していなかった頃、両舷《りょうげん》に大きな外輪をつけたかれらの船は、見た目の異様さもさることながら、風がなくても航行できるその機動力で、船乗りや船主たちに恐れられていた。しかし昨年あたりから、新しく建造される船の三隻に一隻はかれらの船と同じ、大きな外輪の推進装置がつけられるようになった。特にピアズ・ダイクンが経営する造船所でつくられる船は、ほぼすべてが外輪船だ。ピアズ・ダイクンはこの外輪船をつくる技術と、ハイランドから輸入した錆《さび》と腐食《ふしょく》の少ない金属を船底に張りつける着想で、わずか一年のうちに資産を二倍に増やしたと言われている。
こうして外輪船が一般的になりつつある現在、「ゴランの息子たち」の優位性は失われたかに見える。
「ところがどっこい、そうじゃねぇんだよなぁ」
デルマリナの港に降り立ったエリは、運河沿いの舟着き場を目指して歩きながらひとりごちた。
この暑さを避けてか、ふだんは荷積み荷おろしの人夫たちでうるさいほどの港もひっそりと静まりかえり、人影も少ない。そのぶん日射しが凶悪なほどふりそそぎ、べっとりとした熱気が皮膚にまとわりつく。
舟着き場にも、客待ちの舟はたったの一艘だけだ。おまけに船頭は、はだしの両足を運河の水にひたし、顔の上に日よけの木綿をかけて居眠りの最中だった。
「おい、おっさん!」
ひと声かけて、エリは小舟に飛び移った。舟が揺れ、驚いてはね起きた船頭に、銅貨を手渡して行き先を告げる。
「ピアズ・ダイクンの造船所までやってくれ」
へい、とうなずいた船頭が立ちあがって櫂《かい》を手にした。
エリを首魁《しゅかい》とする「ゴランの息子たち」は現在、新しい船を建造中だった。船を一隻つくるにはおそろしい金額が必要だったが、そこは一年ほどピアズ・ダイクンの指令にしたがって内密に働いていたことと、外輪船の詳しい設計書を譲ることを条件に、値切り倒したのである。
新しい船は、船体の大部分をハイランドから輸入した金属でつくるという、これまでにない発想のしろものだった。推進装置も外輪ではなく、船尾につけたねじれた羽根のようなものである。ダーリオという鍛冶《かじ》屋の息子が考案し、実験を重ねてようやく実用にこぎつけた。初めて目にしたときは、こんなものがどうして船の推進装置になるのかと思ったものだが、実をいえば外輪船の設計ももとはといえばダーリオの考案である。不思議に思いはしても、不安はなかった。
「なんかえらく静かだな」
舟が大運河に出ると、エリはあたりを見回しながらつぶやいた。いつもは小舟がところ狭しと行き交う運河に、今はほとんど舟の影がない。もの売りの声も聞こえない。
「この暑さだからねぇ。みんな昼間は、家ん中の涼しいとこで昼寝してんだよ」
櫂を操りながら、船頭が言う。
「それに、ちっと懐に余裕がある連中はみんな、デルマリナ市街を出て行っちまったからな。おかげでこちとら、商売あがったりってやつでさ」
「へぇ。そういや大アルテの連中はみんな、別邸ってやつを持ってたっけ」
「いやいや、じきに大評議会があるからね。大アルテのお歴々は、そろそろデルマリナに戻ってるはずさ。なんたってこんどの大評議会は、何十年ぶりかに正義の旗手≠ェ復活するかどうかってぇやつだからね。のんきに避暑なんかしてらんねぇだろうよ」
「なんだよ、その正義の旗手≠チて」
首を傾げたエリに、船頭は「最近の若い者はものを知らないねぇ」と嘆いてみせる。しかし、いかにも噂好きのデルマリナっ子らしく、すぐ得意げに説明しはじめた。
「五十年以上も前に廃止された、国家元首ってやつさ。ほら、総務会に名をつらねてるお歴々が五人いるだろ? 今度のはどうするか知らねぇが、昔はその中から選ばれてたらしいよ。言ってみりゃあ、総務会の首魁みたいなもんさね」
「ふぅん。正義の旗手≠ノなったら、なんか得することでもあんの?」
デルマリナの人々の価値基準は、とにかく「なにが得になるのか」「どうすればもっと儲《もう》かるのか」だ。いちばん儲けた者こそ、いちばん偉い。十九歳までハイランドで育ったエリには、いまだ馴染めない感覚である。
「まあ、他の総務会のお歴々とそうは変わらねぇんじゃないかな。そもそも総務会の中から選ばれるんだから、総務会の五人の中でいちばん金もってて発言力もある御仁が正義の旗手≠ノなるのは当たり前ってもんだ。言ってみりゃあ、肩書きだけの名誉職なんじゃねぇのか」
「肩書きだけの名誉職ねぇ。そんなもん、なりたがるやつがいるのかなぁ」
「噂じゃあ、ピアズさんが最有力候補だってさ。まああの御仁なら、今でも充分正義の旗手≠ンたいなもんだからね。いまさらそんなもんにはなりたがらねぇんじゃないかと、俺なんかは予想してるがね」
ふぅんとつぶやきながらうなずいて、エリは腕を組んだ。
ピアズ・ダイクンはもう伝説的な成功者として、歴史に残りつつある。裸足で薬草売りをしていた孤児が、今ではデルマリナ大評議会の最高峰、総務会に名をつらねるまでとなった。確かにピアズは切れ者で、野心家だ。同時にその野心家ぶりを、深く付き合った者以外には悟らせない用心深さをもっている。げんにデルマリナ市民はピアズを立志伝中の人物として尊敬し目標とし憧《あこが》れるばかりで、彼を悪く言う者などまずいない。夢物語のような出世の裏には必ず、汚いやり口や彼によって潰された商人たちがいるのは当然だろうに。
今ではもうデルマリナ評議会を掌握《しょうあく》しているといってもいい、ピアズ・ダイクン。「正義の旗手」復活劇の背後には、きっとピアズがいるはずだ。そして、なにも得るものがない復活劇を、あのピアズが企むはずもないだろうとエリには思えた。
「ほら、兄さん。着いたよ」
船頭に言われて、エリは我にかえった。銅貨をもう一枚、おもしろい話を聞かせてくれた礼だと言って船頭に渡し、舟を降りる。
目の前には、今ではデルマリナ最大といわれる規模の、巨大な造船所があった。造船職人だけで千人を雇い入れ、他に鍛冶職人、縫帆夫《ほうはんぷ》など合計すると二千人を超える人々が働く場所だ。三年前の大火で焼失した下町の、ほぼすべての敷地を買い取って建築された。船渠の数は、十二。うち常に八割の船渠《せんきょ》は建造中の船が入り、街も静まり返る猛暑の最中である今も、木槌の音や職人たちの威勢のいいかけ声が賑々《にぎにぎ》しく聞こえてくる。
船体に塗《ぬ》る黒いタールがぷんぷん匂う中を通って、エリは事務所へ直行した。もとは綿花を保存する倉庫だったという建物は、一階が造船所の事務所、二階が船の設計士たちが図面をひく仕事場、三階が船主たちと打ち合わせをする応接室になっている。
エリが事務所に足を踏み入れると、顔なじみの事務員が「こんにちは」と挨拶しながら立ちあがった。
「進み具合を見に来たんだけどさ。どう、予定通りに終わりそう?」
街ではお尋ね者の海賊でしかないエリも、ここでは立派な船主である。たとえ水夫にしか見えないような格好をしていても、事務員は他の船主に対すると同様に応対するよう躾《しつ》けられているらしい。
「お客さまの船はですね――」
進行状況を記した台帳をひらき、事務員はうなずいた。
「だいじょうぶです。予定通り、一ヶ月後には無事、進水式を迎えられます」
「ほんとに? すげぇじゃん」
エリは目を丸くして驚いた。
なにしろ建材も設計も、なにからなにまで珍しい船の建造である。おかげで、こうして進行状況を確認するたびに、担当の造船職人の親方がやってきて「申し訳ありません」と頭をさげ、完成予定日がどんどん先へと延びていったのだ。当初の計画からすれば、もう半年も前に完成しているはずだったのに。
「んじゃ、ちょっと見てきていいかな?」
やっと完成が見えてきた嬉しさにわくわくして、船渠のほうを指さす。
「ええ、どうぞ。だれか、案内の者をつけますので」
「いいよ、そんなの。いらねぇって」
そういうわけにはいきません、とあわてる事務員の声を背中に踵をかえしたエリは、ちょうど事務所に入ろうとしていた男とはち合わせした。
「おや?」
「げっ……!」
商人のなりをしてはいるが、その体格の良さはとても商人には見えない。金糸銀糸をつかった派手な刺繍《ししゅう》のある眼帯のおかげで、デルマリナ市民ならば歩きはじめたばかりの幼児でさえ、男が何者かわかるだろう。
「これはこれは、久しぶりだね」
ピアズ・ダイクンは眼帯をしていないほうの目を軽く細め、にっこりと笑った。
「お仲間はみんな、元気かい?」
「ああ。おっさんに心配してもらう義理もねぇけどな」
デルマリナ広しといえど、ピアズ・ダイクンに向かってこんな口をたたけるのは、エリ・タトルぐらいのものだろう。事務所の中では事務員たちが、突然あらわれた雇い主に驚き、あわてふためいて駆け寄ってくる。
「ああ、悪いね。所用でちょっと近くを通りかかったので、立ち寄っただけだよ」
事務員たちに愛想よくそう言ったピアズは、親しげにエリの肩に手を乗せた。
「こちらのお客さまと、上で少し打ち合わせしたいんだ。できたらお茶を――いや、酒のほうがいいかな?」
視線を向けられ、エリは眉をしかめながら肩に乗せられた手を振り払った。
「おっさんと打ち合わせすることなんか、なんもねぇよ」
「まあ、そう言わずに」
強引に腕をつかまれ、事務所の中に引きずり込まれた。
「連日のこの暑さだ。できたら、よく冷やした発泡酒がいいな」
「はい。ただちにお持ちいたします」
揃って頭をさげる事務員たちの前を、エリは嫌々ながらピアズと肩をならべて三階の応接室へ向かうはめになった。
「おまえたちの船も、どうやら無事に進水式を迎えられるらしいな」
広い応接室でふたりになったとたん、ピアズの口調と態度が変わった。思いきり裏表のある性格してやがる、と苦々しく感じながらエリは、
「まあな。おっさんが雇った職人も、なんだかんだいってけっこう優秀なんだな」
実際のところ、費用面で値切り倒せたこともあるが、ピアズが経営するこの造船所以外ではエリたちの新しい船の建造はまず無理だったに違いない。それだけ優秀な職人がそろっているのだ。
「当たり前だ。うちでは職人たちに、よその四割り増しの給金を払っている」
「そんでもって、よその倍は儲けてるんだろうがさ」
「それも当然だ。なにしろうちで建造した船は、よそでつくった船の倍は保つ。そのうえ補修も、しごく簡単でいい。賢い船主ならばどちらが得か、すぐにわかるさ」
まさにその通りなので、言い返すことばもない。
「どうだ? まだ、新しい船の推進装置の設計図をうちに売る気にはならんか?」
運ばれてきた発泡酒を、エリの前に置かれたグラスに注ぎながら、ピアズはいかにも切れ者の大アルテ商人らしい目をして訊ねてきた。
「なんねぇよ」
即座に言い返す。
新しい船は、船体のほうは設計図もすべて渡し、ここの造船所に任せてある。だが肝心の推進装置のほうは、ダーリオが昔取った杵柄《きねづか》で、鍛冶職人の経験を生かし、自分の手でつくりあげていた。
ピアズはもうずっと、ダーリオが考案した新しい推進装置に興味を抱き、ことあるごとに設計図を売るつもりはないかと持ちかけてきているのだ。
「もし推進装置の設計図を譲ってくれるならば、新しい船の建造賃はただにしてやってもいいんだがな」
「ただより高いものはねぇって、確かデルマリナの格言だろ。それに、代金のほうはもうとっくに払ってんだぜ」
「前金として、まだ半分だけだ」
「残り半分は、できたときに払うさ」
建造資金を稼ぐために、死ぬほど働き節約してきたのである。とはいえ残り半分を支払えばもう、蓄えは全くなくなるが。
「海賊のくせに、律儀なことだ」
「そうさ。オレたちほど健全で堅実な海賊は他にはねぇだろうよ」
そもそも「ゴランの息子たち」が海賊|稼業《かぎょう》をはじめたのも、ごく運の悪い成り行きからだった。エリたちは海賊になりたくてなったのではなく、海賊にならざるを得なかったのである。おかげで「ゴランの息子たち」の仲間同士の結束は、海賊とは思えないほどに固い。
「そういやおっさん、こんど正義の旗手≠ニやらになるそうじゃねぇか?」
口当たりのいい発泡酒を飲みほすと、エリは話題を変えた。
「まだ投票も行っていない。私がなれるとは限らんさ」
グラスを手にしたピアズが、にやりと笑って言う。
「自信満々ってわけか。ほんと、おっさんってつくづく嫌味な性格してるよな」
でもさ、とエリは身を乗り出した。
「なんだってそんなものになりたいんだよ。聞いた話じゃ正義の旗手≠ネんてもんは、単なる名誉職だっていうじゃねぇか」
訊ねたとたん、ピアズの目が不穏《ふおん》な光を放った。
「海賊などで満足しているおまえには、一生わからんだろうさ」
なんだと? と言いかけたエリはだが、はっとして口をつぐんだ。グラスを置いたピアズが無意識なのか、派手な刺繍をほどこした眼帯に指をやり、その形をなぞるように撫でている。
ピアズがまだ小アルテ商人でさえなかった若い頃、眼病を患《わずら》い片目を失明してしまった話は、デルマリナ市民にも知られている。医者にかかる金もなく、失明するとわかっていてもどうすることもできなかったのだ。それがピアズが野心を抱くようになる出発点だっただろうことは、想像に難くない。
親もない、頼る親戚も大人もいない、生きるためにはどんな仕事もやらねばならなかった、若き頃のピアズ。どんなに身を粉にして働いても、医者にかかることすらできない。そんな男が、どんな思いをしてここまでのし上がってきたのか。なまじ頭が良く商才もあっただけに、己の境遇がどれほど腹立たしかったことだろう。
「あんたさ……可哀相《かわいそう》なひとだな」
ぽつりとつぶやいたエリに、ピアズは軽く目をみひらいた。
「――なんだと?」
「賭けてもいいけど、あんた正義の旗手≠ノなったって、絶対に満足なんかできやしねぇぜ」
真顔で言ったエリを、しかしピアズは鼻先で笑った。
「おまえは正義の旗手≠ェどんなものか、わかっていない。まあ海賊などに、わかるとも思えんがな」
「わかるさ」
言い切ったエリに、ピアズの眉がぴくりと動く。
「ただし、あんたにとっての価値がわかるってだけだぜ。大アルテ商人だってふんぞり返ってる連中にとっての価値は、まあ、わかんねぇし――一生わかりたくもねぇけど」
[#挿絵(img/KazenoKEARU_05_111.jpg)入る]
「わかるというなら、言ってみろ。聞いてやるぞ」
ほんとに言っていいのか? とエリはピアズの表情をうかがった。言ってみろ、とピアズが目顔で促す。
エリはひとつ息をついて、軽く肩をすくめた。あんたが言えというから言うんだ、悪く思うなよ。
「――復讐《ふくしゅう》だろ」
「なにを、ばかなことを――」
「あんたはさ、他でもない自分の人生に復讐したいんだよ――っていうか、みじめでみじめでどうしようもなかった若い頃の自分に、復讐してんのさ」
暗闇から躍り出てきた暴漢に、いきなり殴りつけられたような顔をして、ピアズは黙りこんだ。
「自分の人生に復讐したって、結局は自分にはねかえってくるだけなのにさ。だからあんたは、小アルテから大アルテになっても、総務会に名をつらねるようになっても、てんで満足できねぇんだよ。たとえ正義の旗手≠ニやらになったって、あんたは満たされねぇまんまだろうよ」
可哀相なひとだよ、あんたは。おし黙ったままのピアズにそう言って、エリは立ちあがった。
「酒、うまかったぜ。ごちそうさん」
エリが応接室を出ていくまで、ピアズはぴくりとも動かなかった。
(まずかったかなぁ、やっぱ……)
強張りついたピアズの表情からみて、エリの言ったことは的を射ていたに違いない。とはいえ、いったん口から出てしまった言葉をいまさらなかったことになどできはしないだろう。
三階から一階まで降りたエリは、猛暑の屋外に出て、大きくのびをした。
「まあ、仕方ねぇやな。それよか船だよ、船。オレたちの新しい船」
応接室に残してきたピアズのことなどすっかり忘れ、船渠へ向かって走りだした。
デルマリナ大評議会は、満場一致でピアズ・ダイクンを「正義の旗手」とすることを可決した。
「おめでとうございます、ピアズさん」
「なんと、五十六年ぶりの復活だそうですよ正義の旗手≠ヘ」
「いやいや、これでデルマリナがますます栄えることが約束されたも同然ですな」
議会が終わるやいなや、ピアズの周囲は黒山のひとだかりとなった。議員たちは口々に祝辞をのべ、ピアズをもちあげる。
周囲の人々に愛想よく笑ってみせながら、ピアズは内心で苦々しい思いをかみ殺していた。エリ・タトルの言った通り、こうして「正義の旗手」の座を手に入れてもなお、どこか満たされない思いが胸にある。だれもが欲しがる権力と、だれもが憧れる名誉と、すでに比べる者さえいない財力を手に入れた今も、これまで生きてきた五十何年という人生が素晴らしいものだったとは思えない。
「祝いの宴《うたげ》をせねばなりませんな」
大アルテ議員のひとりにそう言われて、ピアズは軽く目をみひらいた。
「いや、宴ではなく市民をあげての祭りをするべきでしょう」
「おお、なるほど!」
両手をあげて賛成する人々を、ピアズは「待ってください」と抑えた。
「大袈裟《おおげさ》ですよ、祭りなどとは」
「そんなことはありませんぞ。なにしろ、五十何年かぶりの正義の旗手£a生です。これはもう、デルマリナにとって歴史に残る出来事でしょう」
その通りだと、ピアズをのぞく全員がうなずく。
「でしたら、大評議会が祭りを主催するのがよろしいのでは?」
「全く、その通りですな。よろしい、議会に動議を提出しましょう」
「やめてください!」
ピアズのきつい口調に、全員が一斉に口を閉じた。なにがピアズの気にさわったのだろうかと、互いに顔を見合わせる。
「祭りなど、必要ありません。宴も、内々だけでひらきます。それも祝いの宴ではなく、就任お披露目《ひろめ》の宴としてです」
言い放つとピアズは踵をかえした。足音も荒く議場を出ていくピアズのあとを追いかけてくる者は、ひとりもいなかった。
邸に戻るとすでに、気の早い知人たちからいくつかの祝いの品が届いていた。豪華な白磁の壺や、遠い南国産の植物の鉢植え、女たちが何年もかかって織りあげた絨毯《じゅうたん》、それに有名な画家の手による肖像画だった。
肖像画に描かれているのはもちろん、ピアズ・ダイクンの姿である。壁にたてかけた肖像画をながめていたピアズはふと、この邸にはいまは亡き妻の絵も、目に入れても痛くないほど可愛がった娘の絵もないことに気づいた。
妻が生きていた頃は、画家に肖像画を描かせる金銭的余裕などなかった。マリナが成長してからは金銭的な余裕はできたものの、娘や自分の肖像画を描かせようなどとは思いつきもしなかった。
唐突に、ピアズは娘の姿を写した絵がほしいと思った。マリナが赤毛の若者のあとを追い海を渡って、もう三年になる。今ではもうマリナが、遠い異郷の暮らしに耐えられず戻ってくるとは思っていない。この先一生、娘の顔を見ることはないだろう。ならばせめて、あの子の肖像画をそばに置きたい。この身は遠く離れてはいても、せめて気持ちはいつもそばにいるように。
その思いつきに心が軽くなったような気がして立ちあがったところへ、扉をたたく音がした。
「――失礼します、だんなさま」
「ちょうどよかった、いま呼ぼうとしていたところだ」
機嫌よく言ったピアズに、家令は「さようですか」とうなずきながら、
「お客さまがいらっしゃいました」
「だれだ?」
「それが……その、コルノ・ベルシコと名乗る船乗りでございます」
首を傾げて名前を繰り返したピアズは、すぐに「ああ」とうなずいた。娘のマリナが赤毛の若者のあとを追って乗った船の、船長だった男だ。当時は、どうして娘を船から降ろしてくれなかったのか、どうして連れ帰ってくれなかったのかと、ずいぶん恨んだものだった。
「コルノ船長が、いったい用件はなんだと言っている?」
「至急、お耳に入れたいことがあると」
あの男が自分に話があるとしたら、マリナのこと以外は考えられない。
「わかった。事務所のほうへ通せ」
コルノ・ベルシコは、四十を少し過ぎたぐらいの髭面の男だ。船乗りらしく顔は陽に灼け、腕も背中も筋肉がついて逞《たくま》しい体格をしている。裕福な商家の出身なのだが、船乗りになりたくて家を捨て、遠い異国の娘を妻にしたという、珍しい経歴の持ち主でもある。デルマリナで最も水夫たちに慕われている船長だ、とも言われていた。
「お久しぶりですね」
にっこり笑って手を差し出してきたその顔は、最後に会ったときから少しも老けてはいないように見える。
「ほんのさっき航海から戻ったばかりですが、港のほうじゃもう、あんたが正義の旗手≠ノなったって、えらい評判でしたよ」
「祝いの言葉でも言いに来たのか?」
まさか、と船長は肩をすくめた。
「言うとしたら、祝いではなく悔やみの言葉ですよ」
「相変わらず、おもしろい男だな」
「ありがとうございます」
「べつに褒《ほ》めたわけじゃない」
書きもの机の前に腰をおろしたピアズは、コルノ船長と向かい合った。
「――で、私の耳に入れたいこととは、いったいなんだ?」
船長の顔から笑みが消え、瞳が険《けわ》しくなった。
「今回の俺の航海先は、南方の諸島でした。珊瑚《さんご》を運ぶ仕事でしてね――まあそれはどうでもいいんですが。途中、補給のためにタジアって港に寄ったんですよ」
タジア港は、デルマリナから船でほぼ十日の距離にある。南へ向かう船は必ずここに寄港するという、賑やかな港町だ。
「そろそろデルマリナでも噂にのぼりはじめると思うんですが、タジアはいまや壊滅寸前ですよ」
「なんだと……?」
ピアズは身を乗り出した。
「海賊どもに襲撃されたのか? それとも、原住民どもが――」
「いえ、そういった意味の壊滅じゃありませんよ」
「だったら――」
「病気です。おそらく伝染病でしょう。最初は体力のない子供や年寄りがばたばたと倒れて、三日もしないうちに死んでいったそうです。俺たちが寄港したときには、若い者たちまでが倒れはじめていました」
タジア港の関係者は、寄港した船にそれを必死で隠そうとしていたらしい。それはある意味、当然の行動といえるかもしれない。港町の繁栄は、寄港する船があってこそなのだから。
「こいつはやばいと思ったんで、俺はすぐに船を出航させました。タジアで補給した水も食料も、すべて廃棄《はいき》させました」
「いい判断だな」
「ええ。港内に停泊中の他の船にも水夫をやって、同じようにするよう伝えましたが――まあはっきり言って、船長すべてが俺みたいに優秀じゃありませんからね」
「つまり、忠告に従わなかった船が存在する可能性があると?」
「そうです。それに、病気が水や食料で伝染するとは限りませんし」
ピアズの背中を、冷たいものが走った。水や食料が感染源ならば、デルマリナに病気が持ち込まれる前にくい止めることができる。だが他のものが原因だとしたら――たとえば野鳥や魚だったとしたら、人間の手でどうにかできるものではない。
「俺があんたにこの話を持ち込んだのは、あんたが名実共にデルマリナの指導者となったからです。もし噂が変にひろがったりしたら、市民たちも平静ではいられないでしょう。それをくい止められるのは、あんたしかいませんからね」
「そうか……だから祝いの言葉ではなく、悔やみの言葉だと言ったのか」
「ご名答です」
ふたたびコルノ船長の顔に笑みが戻った。肩の荷が降りた、というところか。
「とりあえず俺は港に戻って、タジア港には寄らないほうがいいって噂をさりげなく流してきますよ。たちの悪い海賊どもが占拠してるとでも言えば、俺ほど優秀じゃない船長もしばらくは、タジアに寄港しようとはしないでしょうからね」
「わかった。頼んだぞ」
「言っておきますが、あんたのためにするんじゃないですから」
余計なひとことを言い置いて、コルノ船長は港へ帰っていった。
なんにしても、詳しいことがまださっぱりわからないのは辛い。だが伝染病では、現地にひとを遣って調査させることもできない。調査した者がデルマリナへ、病気を持ち込むかもしれないからだ。
マリナが生まれた頃、デルマリナの南地区で熱病が流行《はや》ったことがあった。ある医者は、民家で飼われている鼠《ねずみ》よけの猫が感染源だと言い、また別の医者は、水くみ場で大量発生した蚊が原因に違いないと言った。人々は南地区はもちろんのこと、デルマリナ市街で飼われていた猫をすべて殺し、死骸に火をつけて焼いた。同時に、デルマリナ市街にあるすべての水くみ場を封鎖し、薬草を燃やして蚊を駆逐《ちく》した。デルマリナ市街で熱病を発症する者はなく、秋風が吹く頃には南地区での流行も終結したのだが、後になって感染源は猫や蚊などではなく、住民たちが飲料としていた「水」であったと判明したのだ。蚊の発生を抑えるために、水くみ場を閉鎖したことが、デルマリナ市街での流行を防いだ結果となった。たまたま運良く、としか言えない偶然だった。
そんな過去の例を振り返って考えると、少しでも感染源の可能性がありそうなものはすべて、排除するか封鎖するかしたほうがいいだろう。それも効果を期待などせず、もし当たればめっけ物、ぐらいの気持ちで。
それに、デルマリナ市民にはできるだけ知らせないほうがいい。噂話で、事実が正確に伝わった例はない。だが伝染病が発生したと知られれば、人の口に戸は立てられないのことわざ通り、噂になることを防ぐことは、たとえ正義の旗手≠ニなったピアズにもできない話だ。暴動、虐殺《ぎゃくさつ》、そんな騒ぎにまで発展する可能性もある。
まずは臨検《りんけん》だな、とピアズは考えた。デルマリナ中の港に入る船を臨検し、タジアから持ち込んだものはないか調べる。タジアから運ばれたものは、水や食料の類でなくてもすべて処分させよう。臨検強化の口実など、いくらでもつくれる。それこそコルノ船長が言っていたように、たちの悪い海賊のせいにしてしまってもいい。
(よし、できそうだな……)
考えをまとめると、ピアズはただちに動き始めた。コルノ船長がやって来るまで考えていた肖像画のことなど、すっかり忘れて。
* * *
ピアズは、タジアで発生した伝染病について知らせる相手を厳選した。議会での発言力のあるなしにかかわらず、また相手の財力や家柄などに左右されることなく、どうしても協力が必要な相手にだけ真実を伝えたのだ。秘密を知る者は少なければ少ないほど、秘密を維持しやすい。
人々は、「正義の旗手」となったとたん、いきなり臨検の強化に精力を傾けはじめたピアズに驚いた。
そもそも臨検は、海賊を港からしめだすために行われるようになった制度だ。検査官が入港してくる船を無作為に選び、船内に乗り込んで積み荷や水夫らに不審な点はないか調査するのである。入港する船すべてに臨検が行われるわけでなく、どんなに厳しい港でも四割の船に対して実施されるのがせいぜいといったところだ。臨検を受ける船は、やましいことさえしていなければ、お茶を一杯飲む程度の時間、検査官に好きに船内を歩き回らせれば、それで済む。検査官に金を支払う必要はないし、あとから検査料を請求されることもない。
はっきり言ってしまえば、海賊と癒着《ゆちゃく》して賄賂《わいろ》でももらっていない限り、臨検をどれほど強化しても、ピアズ・ダイクンが得をすることはないのである。
「それがなんだって、臨検の強化なんかはじめたんだ? おかげで俺たちゃ、損しちまったじゃねぇか」
臨検の強化でいちばん被害をうけたのは、水夫たちだった。船主が決めた期限より前に入港すれば、金一封がもらえるところを、港を目の前にして臨検の順番待ちで船を動かすこともできない――などという事態が、あちこちで起こったのだ。
「だからほれ、海賊どものせいなんだろ」
「海賊どもがおとなしく、臨検の順番待ちなんかするかよ!」
まさにその通りなことを叫んだ男に、酒場の客たちはどっと笑った。
「けどさ、たちの悪い海賊どもが景気づいてるらしいってのは、ほんとなんだろ?」
「ああ。南航路にタジアって港があるだろ、あそこはもう海賊どもの巣窟《そうくつ》になってるって話だぜ」
「俺もそれ、聞いたぜ。タジアには寄港しねぇほうがいいって」
「せっかくの積み荷をぶん捕られちゃ、かなわねぇもんなぁ。それどころか殺されでもしちゃ、たまったもんじゃねぇ」
「タジアはいい港だったんだがなぁ」
「そうそう、いい女がいたんだ。タジアの娼館は、べっぴんぞろいでさ」
「おまえはいつも、いい女がいるかどうかってのが港の善し悪しを決める基準だな」
「悪いかよ。だってさぁ、あのいい女たちが今頃は、海賊どものもんになってるかと思うと、こんちくしょうって気になるぜ」
男たちはそれぞれ馴染みの娼婦の顔を思い出したのか、しみじみとうなずきあった。
「臨検なんかやるよりか、タジア港の海賊どもを蹴散らすほうがよっぽどいいんじゃねぇのかな?」
「あ、俺もそう思うぜ。三十隻ぐらいの船団組んで押しかけていきゃ、いくらたちの悪い海賊どもといったって、腰ぬかして逃げ出すんじゃねぇか」
「うーん……でもまあ、そういうことは正義の旗手≠ノなったピアズさんが決めるんだろ。まだ決まってないってことは、あんまりいい手じゃねぇんだろうさ」
「だよなぁ。あのひとに任せときゃあ、まあ心配はねぇだろうな。俺らじゃ考えもつかねぇ計画があるのかもしんねぇしな」
街の噂はだいたい、こんなものだった。
臨検を強化して十日のうちに、およそ船七隻ぶんの積み荷が燃やされ、三隻の船の水夫たちが「海賊と通じている可能性あり」として、尋問を理由に沖合いの無人島に隔離された。次の十日で、燃やされた積み荷も隔離された水夫の数もほぼ倍に増えたが、現在のところまだ、デルマリナに発症者が出たという情報はピアズのもとへ届いていない。
だが、まだまだ予断は許されなかった。
工房から出てきた縦にひょろ長い男に、エリ・タトルは駆け寄った。
「どうだ、できたのか?」
訊ねる声に、男は汗まみれの顔をほころばせる。
「ええ、できました。鉄よりも融解点が低いことになかなか気づかなくて、苦労しましたけど」
「ふたつとも、できたのか?」
もちろんですとうなずいた男は、でも……と小さく首を傾げた。
「新しい船は、一隻だけですよね。なんで羽根がふたつも要るんです?」
「おまえさぁ……今になってそれを言うのかよ? ふつう、頼まれたときに訊くんじゃねぇのか?」
エリは苦笑しながら、背の高い男のぼんやりとした顔を見あげた。こんなところが未だに「間抜けのダーリオ」と仲間たちからも呼ばれてしまう理由だろう。
仲間になってそろそろ三年になろうというのに、ダーリオは全く海賊らしくない。海賊行為に直接参加はしていないから、というだけではないだろう。そもそも初めて会ったときから、彼はこんな男だった。鍛冶屋の次男坊で、職人としての腕はいいくせに、仕事にはほとんど興味をしめさない。妙な発明品ばかりこしらえているので、親兄弟や近所の人々からは「間抜け野郎」と莫迦にされていたのだ。エリはダーリオの発想の先進性に気づいて、仲間にならないかと誘った。初めて他人に認められたダーリオは、迷うこともな「ゴランの息子たち」に加わったのだ。
「ええ、まあ、何か変だなとは思いましたけど――でも僕は、考えごとをしていると他のことには頭がまわらないんです」
「そういうのを天才って言うんだとさ。爺さんが言ってたぜ」
エリの言葉に、大の男が恥ずかしそうにほんのり頬を染めた。おいおいと言いながら、ダーリオの細い肩をたたく。
「まあ、いいや。羽根をふたつ頼んだわけ、教えてやるよ。ただし、他の連中には絶対に言うんじゃねぇぞ」
「はい、他言しません」
生真面目にうなずいてみせるダーリオから岩場のむこうに見える水平線に、エリはゆっくりと視線を移した。視界の右隅には、海賊になって以来労苦をともにした船が、碇《いかり》をおろし静かに停泊している。
ダーリオのために工房を建てたこの島は、デルマリナから東へ三日の距離にある小さな無人島である。ダーリオは自分のために工房をつくってもらうなど、もったいないと言ったのだが、実験や試作ではなく実際につかうものを作るのならば、これまでのようによその工房を借りたり船内の研究室で事足りるものではない、とエリが押し切ったのだ。
「――おまえに頼んだ羽根を、ぜひ譲ってやりたいやつがいるんだよ」
水平線に目を向けたまま語りだしたエリに、ダーリオはまた首を傾げた。
「ピアズ・ダイクンに譲るんですか?」
「まさか! 莫迦いうなよな。あのおっさんだけには絶対に、渡してやるもんか」
「……ですよねぇ」
「オレが譲ってやりたいと思ってんのは、デルマリナのやつじゃねぇんだ。ガキの頃からの親友で、今じゃ領主さまなんてもんになっちまった男だ」
ああ、とダーリオがうなずく。
「オレはあいつには、すげぇ世話になった。あいつがいなけりゃオレは、今ここになんていなかっただろうさ」
ケアルがいなければきっと、オレはまだハイランドの小さな島で、この海のむこうにはなにがあるんだろと思うばかりの暮らしをしていただろう。信頼できる仲間もなく、笑いあえる友もない――そう想像して、エリは身体をぞっと震わせた。
「ガキの頃はさ、友達なんてあいつしかいなかったんだ。空からあいつがやって来るのだけが楽しみだった。いつもオレは、あいつが来ないかと思って空ばっか見てたな」
ケアルの乗った白い翼が、まるで奇跡のように思えていた。
「世話になったし、迷惑もかけたあいつに、せめて恩返しがしたいんだよ、オレは。つっても、こんな恩返ししかできねぇけどさ」
おそらくケアルならば、ハイランド産の金属でつくった推進装置をうまくつかってくれるに違いない。そしてそれを見て、親友だったエリが遠い異郷で元気に、多くの仲間たちと過ごしているのだと、きっとわかってくれるだろう。
「いい話ですね、きっと喜んでくれますよ。僕にもそんな親友がほしかったです」
ダーリオに言われ、エリは「へへっ」と鼻の頭をこすって笑った。
「だったら、設計図もつけてしまいましょうよ。詳しい図面さえあれば、あの金属の加工に長《た》けた職人たちが簡単に同じものをつくることができますから」
「へぇ、そうなのか……」
ハイランドではあの金属を、色々なものに加工していた。扱いにもっとも長けた職人というなら、おそらく翼職人たちだろう。翼の枠組みから留め具などの細かな部品まで、すべてその金属でできている。
「んじゃ、設計図もつけてくれ。季節からいって、そろそろハイランドへの最後の船団が出航しちまうからな。できたらその船に乗せて送りたいんだ」
これを逃せば、ハイランドへ送るためにはまた半年ほど待たなければならない。
「だいじょうぶです」
任せてくださいと、ダーリオは薄い胸をたたいた。
「……ということは、そろそろ季節の初めに出航していった船が戻ってきますね」
「ああ、そうだな」
ふたりは揃って、水平線へ目を向ける。岩場を飛び立った白い鳥が、エリにはまるで赤毛の旧友があやつる翼のように思えた。
* * *
港に入るすべての船に臨検がおこなわれているとわかったのは、デルマリナ市街が一望できる海域に着いてからだった。
なにしろ港の入り口に向かって、何隻もの船が臨検の順番待ちのためにずらりと並んで停泊しているのだ。
「なんで急に、全部の船が臨検されることになったんだ?」
たまたま隣り合った船の水夫たちに、甲板《かんぱん》の上から声を張りあげ訊ねると、
「知らねぇよ! なんでも海賊封じのためらしいけどな」
返ってきた答えがそれだった。なんでも二十日ほど前から、デルマリナ中の港ですべての船が臨検をうけなければならなくなったらしい。
「――だってよ。どう思う、爺さん?」
船縁で杖にもたれかかりながら立ち、ずらりと並ぶ船を眺めている老人に、エリは声をかけた。
「うむ。なにやら妙な話ではあるな」
「だよなぁ。オレもそう思う」
港へ入る船の臨検などで、海賊が捕まるはずがない。たとえ捕まったとしても、それはよほど間抜けな連中だろう。
「臨検されるとわかってて、ふつうわざわざ盗品だってばれそうな荷を乗せとくはずはねぇもんな」
「あるとすれば、お尋ね者の人相書きが出回っておる連中じゃろう」
「ちょい前のオレたちみたいにか」
エリたちは一年ほど前まで、お尋ね者として手配されていた。人相書きが出回り、たまたまそれを見つけたときには、仲間たちと盛りあがったものだ。ちなみに「あんまり似てねぇな」というのが全員の一致した意見ではあったが。
お尋ね者としての手配が解かれたのは、かれら「ゴランの息子たち」がピアズ・ダイクンに依頼された仕事をうまくやり遂げてみせたからだ。反吐《へど》が出そうなほど汚い仕事だったが、交換条件が「お尋ね者の手配を解く」だったのである。ハイランドの使者としてデルマリナへやって来たエリがお尋ね者では、いまはライス領主となったケアルが困ることになるだろう、とピアズに脅された。仲間たちはそれを知って、エリのために海賊の仁義にもとるような汚い仕事に手をそめてくれたのだ。エリにとっては仲間たちに、返そうとしても返すことができない恩ができた。
「まあ……この船にゃ今んとこ盗品は積んでねぇし、オレたちの人相書きが出回ってるわけでもない。オレたちが海賊だなんてばれることはねぇよな」
「油断は禁物じゃぞ」
「わかってるよ、んなこと」
老人が何を言いたいのか、わかっている。すべての船を臨検するなど、あまりにも妙な話だ。きっと裏があるに違いない。危ない橋は渡らないほうがいいし、近づかないでいるほうがもっといい。
だがエリには、どうしても今、港に入りたい理由があった。この季節最後の船団が、ハイランドへ向けて出航してしまうその前に、新しい推進装置の現物と設計図を親友のもとへ届けてもらうよう託したかったのだ。それに造船所では、今日明日にも新しい船が完成するはずだ。仲間たちは進水式をおこなうことを、死ぬほど楽しみにしている。
「行くっきゃねぇさ」
固唾をのんでエリの決定を待つ仲間たちに、宣言した。
「臨検なんざ恐くはねぇよ。いざとなったらこのオレが、なんとかしてやるさ」
力強いエリの言葉に、仲間たちから歓声があがる。
嬉しそうな仲間たちの中でただひとり、老人だけが厳しい顔を崩さなかった。
始まるまでずいぶんと待たされはしたが、あっけないほど簡単に臨検は終わった。
船倉がほとんど空なのを見た検査官が、この船はどこから来たのか、ここ一ヶ月の間どこの港に入ったのか、その二点を訊ねてきただけだったのである。乗組員の身元を詳しく調べられるだの、船主に問い合わせられるだのを覚悟していたエリは、この簡単さにほっとしたと同時に、ますます妙なものを感じずにはいられなかった。
しかし、なにはともあれとりあえずは入港できたのだ。酒場や娼館へ向かう仲間たちと別れて、エリはケアルに荷物を届けてくれそうな船をさがした。
ハイランドへ向けて出航する船団は、すぐに見つかった。全部で三隻。そのうち二隻までがピアズ・ダイクンが船主で、荷物を託せるのは残った一隻しかないと思えた。
その船もまた、いまや主流になりつつある外輪船だった。今季ハイランドへ向かった船のほとんどが、船足の速さと難所を乗り切る馬力の期待できる外輪船だったという。
こんな船が来たらまた、みんな驚くだろうなと思いながら、エリは甲板を行き来する水夫に声をかけた。
「仕事中にすまねぇけど、この船の船長に会いたいんだ。ちょいと言付けてくれねぇか?」
甲板からエリを見おろした水夫は、じろじろと彼の身なりを検分し、
「言っとくけど、水夫の募集はしてねぇよ。仕事が欲しいんだったら他をあたりな」
「そんなんじゃねぇよ」
首をふってエリは隠しから銅貨を取り出し、水夫に向かって放ってやった。銅貨を受け取った水夫はにやりと笑い、そこで待ってろと言って、船室のほうへ引っ込んだ。
しばらくして甲板にあらわれたのは、髭面の四十過ぎぐらいの男だった。
「俺に用があるってのは、おまえさんかい?」
「ああ。ちょいと、頼まれごとをしてもらいたいんだ」
ふぅんと唸って顎髭を撫でた男は、軽く手をあげると船から降りてきた。
「俺は、コルノ・ベルシコってんだ。仲間はみんな、コルノ船長って呼んでる」
「オレは、エリ・タトル」
がっちりした手が差し出され、その気易さに内心で驚きながらもエリは男の手を握り返した。
「――で、頼まれごとってのは何だい?」
「この船、ハイランドへ行くんだろ? 実は荷物をひとつ、届けてほしいんだ」
「どんな荷物だ?」
「木箱をひとつ。あれだよ」
埠頭《ふとう》まで運んできた木箱を指さした。水樽ふたつぶんの大きさがある。
「へぇ、けっこうでかいな。中に、なにが入ってるんだ?」
「悪いが、ちょっと言えねぇんだ」
船長は顎髭を撫でながら、エリの頭のてっぺんから足先まで、じろじろと検分した。
「そいつはちょっと、ムシが良すぎるんじゃねぇか? 見も知らぬ相手から、中身もわからねぇもんを届けてくれと頼まれて、ふつう承知するはずねぇだろうが。それに――見たところ、金を出して頼めるほど裕福そうじゃねぇしな」
「金を出せば、届けてくれるのか?」
意気込んで訊ねたエリに、男はにやりと笑った。
「まあ、事情にもよるな。木箱の中身は言えねぇとして、まさかどこに届けるかも言えねぇってわけじゃないだろ?」
「当然だろうが」
「じゃあ言ってみな」
莫迦にしたような言い方に、エリは拳を握りしめる。
「――ハイランドの、ライス領だ。ライス領の公館に届けてほしい」
「ライス領の公館だって……?」
男は軽く目をみひらいた。
「ああ。できたら領主に届けてもらいてぇんだけど――ダメだったら、公館の家令に言付けてもらってもいい」
「公館の家令が、見も知らぬ男からの荷物をご領主さまに渡してくれるとも思えねぇがな?」
「だいじょうぶだ、たぶん。あいつに……領主に『エリ・タトルから届いた荷物だ』と言ってもらえりゃ、受け取ってくれる」
船長は目を細めて、エリを見た。なにかを思い出そうとでもするかのように、首をひねって眉間《みけん》を押さえる。
「ちょっと待て――おまえさん、あの赤毛の兄さんの知り合いか?」
こんどはエリが目をみひらいた。
「あんた、ケアルを知ってんのか?」
「ばか野郎、そりゃ俺のせりふだ」
ふたりは同時におし黙り、互いに相手の顔を見つめた。
「ふむ……こいつはお互い腹をわって話し合ったほうがよさそうだな」
行くぞと促して、船長は歩きはじめた。
「あんた、どこへ行くんだよ!」
「阿呆。こんなとこじゃ、詳しい話はできねぇだろうが!」
木箱は船長が水夫に命じて、だれにも手を触れさせないように見張りを立たせた。そうしてエリが連れて行かれたのは、港にほど近い宿屋だった。
船長は宿の亭主に声をかけ、酒壺と器をふたつもらって、二階へとあがっていく。エリはなにがなにやらわからないまま、男のあとについて客室のある二階へあがった。
部屋に入ると男は、椅子があるにもかかわらず直接床へ座り込んだ。水夫たちが甲板で酒盛りをするときと同じ体勢だ。
「おまえさん、いけるクチかい?」
「そこそこには」
うなずくと杯が差し出され、エリはなかばやけくそで杯の酒をいっきに飲みほした。
「いけるクチじゃねぇか。そこそこって飲み方じゃねぇだろ、それは」
男は笑って自分も杯の酒を飲みほした。
「まあ、あの赤毛の兄さんは、かなりいけるクチだったがな」
「あいつの場合は、いけるクチじゃねぇ。底なしっていうんだよ」
「だよなあ。安酒だろうがいい酒だろうが、水みたいに飲みやがった。水夫たちが三人かかったって、酔いつぶれもしねぇ」
「かえって水夫たちのほうが、酔いつぶされたんじゃねぇのか?」
あたり、と言って男はまた笑った。
「――なぁ、そろそろ話してくれや。おまえさんはあの赤毛の兄さんと、いったいどういう知り合いなんだ? 今じゃ領主さまになっちまった相手を『あいつ』と呼ぶんだ、ただの水夫ってわけじゃねぇな?」
「あんたこそ……、なんであいつを知ってるんだ?」
「なるほど。訊きたいなら先に言え、ってわけか」
男は両手をひろげておどけてみせると、ここに座れと床をしめした。うなずいたエリは、男の正面に腰をおろす。
「俺はデルマリナからハイランドまで、赤毛の兄さんを乗せていった船の船長だった。赤毛の兄さんだけのつもりが、嬢ちゃんまでくっついて来たのには驚いたけどな」
ああ、とエリは軽く目をみひらいてつぶやいた。もう三年も前の、明け方。ひそかに出航していく船を、エリは倉庫の陰から見送った。あれが親友との最後の別れだった。
「そうか、あのときの船の……」
「気持ちのいい、骨のある若者だったな。生真面目じゃあるが、肝っ玉がすわってて、いざというときにゃ頼りになる。彼が領主になったと風の便りに聞いて、嬉しかったよ」
「苦労してんだろうな」
「たぶんな」
しばらくふたりは、しんみりと杯を傾け合った。
「――オレは、あいつの親友なんだ。いや、今じゃオレだけがそう思ってるかもしれねぇけどさ。十五の頃に会って、友達になって……一緒にデルマリナへ来たんだ」
エリが語りはじめると、船長は得心したようにうなずいた。
「おまえさんが、嬢ちゃんが言ってた『金髪のお友達』だったのか……!」
「嬢ちゃんが?」
「そうさ。あの赤毛の兄さんは、デルマリナにとても大切なひとを残して来たんだと言っていた」
とても大切なひと、と心の内で反芻《はんすう》する。胸をぎゅっと掴まれたような、かすかな痛みがあった。
「おまえさん、ハイランドへ帰る気はねぇのかい? なんだったら、うちの船に水夫として雇ってやってもいいぜ。水夫の数はたりてるが、ひとりぐらいだったら俺の一存でどうにでもなる」
帰りたい、と思った。ずっと長い間、自分が帰ればケアルに迷惑がかかるとしか思っていなかったが――いま初めて、心の底から帰りたいと思った。
お尋ね者の手配が解かれた現在、帰ったとしてももうケアルに迷惑がかかることはないだろう。
十九の歳まで過ごした、小さな島。青い空と海、高い波と吹き抜ける風、浜を駆けたときの砂の熱さまで思い出せる。心配そうな母の顔、そして赤毛の親友の懐かしい顔。
鼻の奥がつんと熱くなった。不覚にも涙が出そうになって、唇をかみしめる。
「オレは……でも……」
次に脳裏に浮かんだのは、仲間たちの顔だった。オレを信頼してくれる、オレが信頼している「ゴランの息子たち」の仲間。
海賊稼業をはじめてすぐ「ゴランの息子たち」という名は、エリがつけたのだ。遠いハイランドの空を飛ぶ、伝説の鳥の名前からとった。人里には近づかない、群れもしない孤高の巨鳥だ。あんなふうに生きることができたらいいな、と言ったのはケアルだった。なにものにも縛られることなく、自分の力だけで海を渡り空を飛ぶ。そう話して聞かせると仲間たちは、ぜひその鳥の名をつけようと賛成してくれた。
仲間たちはエリの、ハイランドへの思いを知っていたのだろう。帰りたくとも帰れない、あまりに遠い――故郷。自分たちがエリの故郷になるのだと、だから「ゴランの息子たち」と自分たちを呼んだ。確かにこの三年、仲間たちの居るところこそがエリの故郷だった。
「だめだ……オレは、帰れねぇよ」
声を絞り出すように言うと、船長は目をみひらいた。
「おい……いいのか? 親友が待ってるんだぞ。あの赤毛の兄さんだったら絶対に、今だっておまえさんを親友だと思ってるに違いないんだぞ」
「わかってるさ。ケアルは――そうだ、あいつならきっと今だって、この先ずっといつまでも、オレのことを親友だと思い続けてくれるさ。そういうやつなんだ」
「だったら――」
「でもオレには、仲間がいるんだ。すげぇ大切な仲間なんだよ」
行けねぇよ、とエリはつぶやく。
「仲間を捨てて、ひとりでなんて、行けねぇんだよ……」
膝頭を握りしめ、俯《うつむ》いてエリは何度もかぶりをふった。そんなエリを船長は、ただ静かに見つめていた。
* * *
華々しさのかけらもない、進水式だった。エリと仲間たちは、はしゃぎ回って酒をかけあい、酒がなくなると海水をくんで互いの身体に浴びせかけあった。
[#挿絵(img/KazenoKEARU_05_133.jpg)入る]
ダーリオが新しい推進装置をとりつけ終わると、あとはもう全員が船に乗り込んで、出航である。
「そういえば今日、この季節最後の船団が出航するんでしたよね?」
甲板の手すりにもたれて立つエリにそう話しかけてきたのは、ダーリオだった。
「例の荷物は、乗せてもらえました?」
「ああ。船長がいいひとでさ、絶対に届けてやるって保証してくれた」
「良かったですね」
そうだなとエリは笑ってうなずく。
「これから、どうするんですか?」
「まずは石炭を仕入れねぇことには、船は帆走っきゃできないまんまだろ」
とはいえ船の代金を残り半分支払ってきたあとでは、石炭をたっぷり買えるほどの余裕はない。行きがけに一、二隻の船を襲って、稼がねばならないだろう。あるいは、石炭を積んでいる船を襲ってもいい。
さて、どの海域へ向かうかな、と考えながらエリは、まだ甲板ではしゃいでいる仲間たちを振り返った。
「なあ、爺さん――」
老人に向かって声をかけ、だが次の瞬間、エリは大きく目をみひらいた。
「爺さんっ! おいっ!」
ただならぬエリの様子に気づいた仲間たちが、静まりかえる。そして、顔色を変えたエリが駆け寄る先を目にし、かれらもまた大きく目をみひらいた。
甲板全体を見渡せる定位置で、老人が倒れていた。煙管と杖が、べったりと前のめりになって倒れる老人のそばに落ちている。
「爺さん! どうしたんだよ!」
駆け寄ったエリが老人を抱き起こそうとして、その身体のあまりの熱さに驚いた。まだくすぶっている石炭に触れたように熱い。
「おいっ! 水だ水! 水を持って来い、爺さんを冷やすんだ!」
駆け寄ってきた仲間たちに叫んで、エリは老人を抱え、日の当たらない船室に飛び込んだ。なにしろ連日のこの暑さだ、老人の体力では限界にきてしまったのかもしれない。
「じじいのくせに、若い連中と一緒になってはしゃぐからだぜ……」
老人を寝台に寝かせ、まずは仲間が運んできた水を飲ませる。ほんのひとくち、ごくんと飲んだだけで老人は、もういらないと顔を背けた。
「暑さにやられたんなら、シャツを脱がして水で冷やしてやったほうがいいぜ」
仲間のひとりに言われて、うなずいたエリは老人のシャツの前をあけた。
「なんだ、こりゃ……?」
老人のはだけた胸もとを見おろし、その場にいた全員が大きく目をみひらく。うすくあばら骨の浮いた胸に、紫色の斑点《はんてん》がいくつも散っていたのだ。
「こいつは、ただ暑さにやられたってだけじゃないな――」
どうする? と仲間たちから視線を向けられたエリは、すぐさま決断をくだした。
「医者だ。医者に連れていく」
「んなこと言って……医者が俺たちみたいな海賊を、診てくれるかよ」
「金を出しゃ、診てくれるさ。爺さんはオレたちの大事な仲間だ、いくら金がかかったって構わねぇよ」
言い放つと、エリは船室を飛び出した。
「港だ! 港へ向かえ! 爺さんを医者に連れて行く!」
熱病らしい患者が町医者のところへ運び込まれた、との報告がピアズのもとへ届いたのは、臨検の強化をはじめてから二十二日目のことだった。
「最初の患者は、老人だそうです。高い熱を出し、身体中に紫色の斑点が浮いている、と。かなり弱っていて、おそらくあと三日ともたないだろうと医者は言っています」
別の町医者のところには、三歳になる子供が運び込まれたらしい。やはり身体中に紫色の斑点が散らばり、高熱を出していた。
この段階ではまだ、それがタジア港を壊滅状態にさせた伝染性の疫病と同じものかどうかの判断はつかなかった。だがピアズは用心深く、デルマリナ中の医者に同じような症例の患者が運びこまれたらすぐ届け出るよう、「正義の旗手」として通達を出した。
その翌日には、デルマリナにいるほぼすべての医者たちから、同じ症例の患者を診たとの報告が寄せられた。患者はほとんどが老人や乳幼児で、最初の死者は一歳三ヶ月の子供だった。
報告された患者の数はまだ五十人に満たなかったが、同じような症例の患者は他にも――おそらくこの二倍から三倍はいるに違いないと思われた。デルマリナには、医者にかかることができない貧しい市民が大勢いる。栄養状態も悪いかれらのほうが、より多く罹患《りかん》した可能性が高い。
伝染性の高い疫病《えきびょう》であることは、医師たちの意見が一致した。だがまだ、感染経路は不明だった。早急に解明せよと命じたが、一朝一夕で結果が出るものでないことはピアズにも予想できた。とはいえ、ただ手をこまねいて様子見しているわけにはいかない。
すぐさまピアズは、デルマリナでいちばんの名医といわれる男を相談役にした。そして――連日のこの暑さで、市民たちは頻繁《ひんぱん》に水を飲む。その水こそが感染源かもしれない、との医師の進言を受け入れ、どれほどの効果があるかわからなかったが、デルマリナ市街に点在するすべての水くみ場を封鎖した。
しかしそのことが逆に、デルマリナ市民たちを恐慌状態におちいらせる原因となったのである。
「おい、聞いたか? 水くみ場がすべて閉鎖されたらしいぞ」
「それって、あれと関係あるのか? ほら、老人や子供が高熱だして倒れてるだろ」
「ああ。ゆうべはうちの隣の爺さんが、身体中、紫色の斑点だらけになって死んじまったらしい」
「こっちは、従兄弟《いとこ》のうちのばあさんと子供だ。医者に連れて行ったら、銀貨で前払いするなら診てやってもいいと言われたそうだぜ。なんでも患者が多くて、貧乏人をいちいち診てたんじゃきりがねぇんだとさ」
「そりゃ、ひでぇな。で、ばあさんと子供はどうなったんだ?」
「家で寝てるさ。でも、ガキのほうが危ないらしい――」
「力をおとすなよ。きっとそのうち、よくなるさ」
「ああ、そうだといいがな……。従兄弟んちのそばには、水くみ場があってさ」
「やっぱりそれが原因か?」
「そうじゃねぇかな。じゃなきゃ、全部の水くみ場を閉鎖するなんてまね、ふつうしねぇだろうよ」
「それってつまり、水ん中に毒が入ってるってわけなのか?」
「なんで、毒……?」
「だってさ、身体中に紫色の斑点なんて、ふつうじゃねぇだろうがさ。こいつは薬草売りに聞いた話だけど、森ん中にはえてる草の中にはすげぇ強い毒をもってるやつもあるんだと。食べたら息ができなくなって、そのへん転げまわって死ぬような毒とか、手や足が三倍ぐらいにふくれあがって死んじまうような毒とか――」
「それだったら俺も聞いたことあるぜ。笑いころげて、笑いすぎて死ぬ毒もあるって」
「だろ? やっぱさ、ふつうの病気とは思えねぇだろ。毒だよ、絶対に」
「だったらさ、なんで水に毒なんかが入ってるんだ?」
「そりゃ、誰かが入れたんだろうさ」
「誰かって……誰だよ?」
水くみ場の水に毒が入っているらしい、との噂はまたたく間にひろまった。
いったいどこの誰が、水に毒を入れたのか。それについては、街角のあちこちであらゆる推理がなされた。
最初に疑われたのは、薬草売りたちだった。特に店ももたず、市場や港、広場などで籠《かご》に入れた薬草を売る者たちが、かれらこそ水くみ場の瓶《びん》に毒草を入れたに違いないと噂された。噂を信じた一部市民が薬草売りたちを捕まえ尋問し、素直に従わなかったとして、一晩のうちに三十名を越える薬草売りを殺したのである。
続いて疑われたのは、家もない木賃宿《きちんやど》に泊まる余裕もない浮浪者たちだった。誰かが、汚いなりをした男が水くみ場の瓶をのぞき込んでいた、と証言したのである。発端はそんなものだったが、噂に踊らされた若者たちは、かれらをデルマリナ市街から追い払おうと決起し、街のあちこちで私刑がおこなわれた。ある者はよってたかって殴り殺され、ある者は首に縄を巻かれて吊《つ》るしあげられた。死亡者は百人をこえ、負傷者の数は見当さえつかなかった。
この時点でもう、市民たちは完全に冷静な判断力を失っていた。だれかがだれかを怪しいと言い出せば、怪しいと言われた者はその場で私刑された。特に狙われたのは、地方からデルマリナ市街に移住してきた者たちだった。南から来たよそ者は怪しい、いや東から来た者たちのほうが怪しい――そんな流言に人々は惑わされ、自らの手を隣人や知人の血で汚した。
そうする間にも、患者の発生は止まらなかった。それどころか当初は老人や子供ばかりが犠牲者だったのが、体力のある若者や働き盛りの男たちまでが倒れはじめたのである。高熱をだし、全身に紫色の斑点が浮き、ほぼ全員が発症から三日以内に死亡した。
最初の、薬草売りたちの虐殺がはじまった時点で、ピアズは自らの失敗を悟った。
まずは市民の暴走を抑えることだと、水くみ場の封鎖は毒物混入の疑いがあるからではないと記した高札を、街のあちこちの角に立てさせた。だが市民たちは、この高札こそ水くみ場に毒物が投げ入れられた証拠に違いないと噂しあったのだ。本当に毒が入れられていないならば、高札など立てず、水くみ場の封鎖を解くはずである、と。
しかしピアズは、水くみ場の封鎖を解くことはできなかった。もし予想通り水くみ場の水が感染源だった場合、封鎖を解けば発症者の数はどこまで増えるかわからない。被害にあったタジア港のように、デルマリナが壊滅してしまうかもしれないのだ。
こうなるともう、市民たちに伝染病の発生を公表するしかない。けれど、水くみ場に毒物が混入したかもしれないという噂だけで、ここまでの騒ぎとなったのである。もし伝染病と知ったなら――それもいまだ感染経路は解明されず、予防する手だても不明なうえ、罹患した者を治療する有効な薬もないのだ。それを市民たちが知ったなら、かれらはいったいどのような行動に出るのか。ピアズにはもう、予想すらできなかった。
自分ひとりの手には余ると考え、ピアズは大評議会をひらくべく、議員たちを緊急召集した。ところがその時にはもう、議員たちの何人かが家族を連れてデルマリナ市街を脱出していた。調べてみると、議員たちのほぼ半数が――特に大アルテ議員たちのほとんどがデルマリナ市街脱出の準備をととのえつつあったのだ。おそらくはここ三日のうちに、郊外に別邸をもつ議員のほとんどが、デルマリナ市街を出て行くだろうと予想された。残った議員、残らざるをえなかった議員たちも、市民たちの暴動が激しい最中に邸を出て議場へ向かうことを拒否した。召集を拒否してピアズから怒りをかうのは恐かったが、命あってこそだとかれらは考えたのである。
ピアズにはもう、打つべき手はなかった。少なくとも現時点では、ないように思えたのだった……。
* * *
一方、仲間の老人を医者に運んだ「ゴランの息子たち」である。
町医者のもとにはすでに、老人と同じ症状を訴える患者たちが多く運び込まれていた。医者は老人を診るなり、首をふった。
「残念だが、私にはなにもできない」
「あんた、医者だろうがっ!」
エリは目をつりあげ、医者に詰め寄る。
「それとも、金かよ? オレたちじゃ、金なんか持ってなさそうだって言いたいのか」
金だったらいくらでも出す、と言うエリに医者はただただ首をふるばかりだった。
「いや……金の問題じゃないんだ」
「だったらなんだよっ?」
「治療方法がわからない。薬も、どの薬草が効くのかわからない」
色々と試してみたんだが……と肩をおとす医者に、エリはなにも言えなくなった。
診療室内には所狭しと、患者たちが横たわっている。そばには患者たちの親や子が付き添い、顔をのぞきこみ、その手を握って「頑張って」「すぐによくなるから」と励ましの声をかけていた。
「どうする、エリ……?」
老人は呼吸も浅く、すでに目も開けられぬようなありさまだ。
「――仕方ねぇ、他の医者のところへ運ぶんだ」
うなずいた仲間たちが老人を抱えあげようとした。だが老人は、背中にまわした仲間の腕を、力のない手でそっと押しのけた。高熱のため、かさかさに乾いた唇が、かすかに動く。エリははっとして、老人の口もとに耳を寄せた。
「爺さん、なんだ? なにが言いたい?」
「も……う、無駄……じゃ……」
「なに言いやがるっ!」
エリは老人を怒鳴りつけ、その身体を揺すぶった。そんなエリの肩を、医師がそっとたたいた。
「もう、おやめなさい。このまま静かに、逝かせてあげたほうが――」
肩に置かれた手を振り払い、エリは今度は医者に向かって怒鳴る。
「あんた、それでも医者かよっ! あんたがダメだってぬかすから、爺さんをよその医者に運ぶんじゃねぇかよっ!」
「他の医者に運んでも、無駄だよ。いまデルマリナ中の医者が、己の無力さに歯噛《はが》みしているだろうさ」
「どこへ連れていっても同じだ、って言いたいのか?」
そうだ、と医者がうなずく。
「私もただ手をこまねいていたわけじゃないよ。医者同士で情報を交換しあい、あれこれ昔の資料を調べてもみた。だが、それでもわからないんだ――」
「じゃあ……爺さんはどうなる?」
「うちの診療所では、すでに五人の死者がでている。子供や老人ばかりだが――発症して三日、というところだ」
「三日以内に死ぬ、ってのかよ?」
「声が大きいよ」
気がつけば、患者に付き添う人々がじっとエリと医者のやりとりを見つめていた。あわてて口をつぐんだエリは、仲間たちを振り返る。
「――仕方ねぇよ」
「オレたちで爺さんを看取《みと》ってやろう」
仲間の顔を見つめて、ちくしょうっ! とエリは拳を床にたたきつけた。
それでもエリはあきらめきれず、ひとりであちこちの医者を訪ねてまわったが、どこの診療所も同じ症状の患者であふれかえり、どの医者も治療方法はないと首をふった。
老人が息をひきとったのは、その日の夜のことだった。最後に老人はエリの手を握りしめ、うっすらと笑みを浮かべて、
「いい……人生じゃった……。坊、みんなを……頼む」
仲間たち全員が泣いた。ある者は声をころして、ある者は小さな子供のように声をはりあげて。涙を隠す者はいなかった――エリ以外は。
いい人生だったなんて、絶対に嘘だとエリは思った。熟練の水夫だった老人は、足を悪くして船を降り、静かな余生を送るはずだった。それを海賊の仲間などに引っぱりこんだのがエリだ。
老いた身には、船に乗りっぱなしの生活は堪《こた》えたに違いない。お尋ね者として追われ、神経の休まる時もなかっただろう。
(オレは爺さんに頼ってばかりいた……)
心配をかけるだけで、なんの恩返しもできなかった。
坊、といつもエリを呼んだ。老人にとってはエリはいつまでも子供だったのだろう。危なっかしくて見ていられなかったのかもしれない。
(爺さん……!)
ごめん、と。エリは老人の遺体に向かって、深く深く頭をさげた。
老人の遺体を弔《とむら》おうと診療所から運び出したエリと仲間だったが、街はいつの間にかきな臭い雰囲気につつまれていた。
とりあえず遺体を舟の乗せ、運河を通って港に停泊中の船へ運ぼうとしたのだが、布でくるんだ遺体に目をとめた男たちがエリを怒鳴りつけた。
「きさまらっ! なにをしてる!」
見れば男たちは手に火かき棒やら櫂やらを持ち、いまにも殴りかかってきそうなそぶりでこちらを睨んでいる。
「それはなんだ!」
「遺体だよ。船乗り仲間の爺さんが死んだんだ」
「見せてみろ!」
おまえなぁ、とエリは男たちを睨みかえした。
「なんで、てめぇらに見せなきゃなんねぇんだよ! てめぇら死体を見せ物にして楽しむ趣味でもあるのかよ!」
エリたちは男たちのほぼ倍、人数がいる。そのうえ、どうやら一般市民らしいかれらとエリたちでは、睨みあったときの迫力がちがう。こちらはなにしろ海賊として、場数を踏んできているのだ。
男たちはたちまちひるんで、最初の勢いを失った。
「わ……我々は、市民の安全を守るために警らしているんだ」
「市民の安全だって?」
「薬草売りたちが、市街の水くみ場に毒を投げ入れたという情報がある。その毒のために大勢の市民が死んだのだ」
「毒って……なんだよ、そりゃ」
エリが首を傾げ仲間と顔を見合わせあうと、それまでびくついていた男たちは、少しだけ勢いをとりもどした。
「高熱をだし、身体中に紫色の斑点を浮かせて死んでいった市民が大勢いるんだ」
亡くなったばかりの老人と同じ症状だと、エリは目をみひらいた。
「ほんとに……それって、毒のせいなのかよ?」
そうだ、と男たちはそろってうなずく。
「ふつうでは考えられない死に方だ」
「我々は、水くみ場に毒を投げ入れた者を許してはおけん」
でも、とエリは問いかける。
「なんで毒なんか、投げ入れたんだ? 理由もなしにそんなこと、ふつうしねぇだろ」
「だから我々はこうして街を警らし、薬草売りどもやあやしい者を尋問している。なぜ毒を入れたのか、とな」
つまりは私刑じゃねぇか、とエリは肩をすくめた。そんな棒だのを手に、集団で、あやしいと決めつけた者に「なぜ毒を入れた」と怒鳴りつける。尋問などという、なまやさしいことではすまないだろう。
「――で、ちょっとでも理由はわかったのかよ? 毒を入れた理由、とやらをさ」
「それは……まだだが……」
「じきに理由も犯人もわかるに決まっている。なにしろ街を警らしているのは、我々だけではないからな」
ということは他にもたくさん、こんなふうな莫迦どもの集団が街を闊歩《かっぽ》しているのだろう。そもそもの、薬草売りが水くみ場に毒を投げ入れたという情報からして、あやしいものだ。
「まあ、あんたらの言いたいことはわかったよ」
エリは肩をすくめながらうなずいた。
「うちのこの爺さんは、あんたらが言ってるのと同じ症状で――身体中に紫色の斑点を浮かべて死んだんだ。恩ある爺さんだから、丁重に弔ってやりたい」
それでもどうしても見たいか? とエリが訊ねると、男たちは互いに顔を見合わせた。ぼそぼそと話し合い、中でもいちばん威張《いば》っている男が、
「おまえたちを信じよう。我々に死体を見せる必要はない」
「そうかい。信じてくれてありがとよ」
男たちが行ってしまうと、エリはばかばかしくなって遺体のそばに座り込んだ。
「なあ……あれってさ」
仲間のひとりが、男たちのうしろ姿を見送りながら訊ねてくる。
「なんだよ?」
「ほんとなのかな? 毒って……」
「なんか、確かに変な死に方だもんな」
見れば仲間たちは一様に、不安そうな表情をしていた。
「ばっかじゃねぇの、おまえら?」
エリはそんな仲間たちの不安を笑い飛ばしてみせる。
「考えてみろよ。爺さんとオレたちは、同じもの食って同じもの飲んでんだぜ。そん中に毒入りのものがあったとしたら、オレらもとっくに症状が出てるはずだろうが」
「そういや……そうか」
「噂なんてもんは、とりあえず疑ってかかったほうがいいんだよ。診療所でも、死んじまったのはみんな、老人とガキどもだけだって言ってただろ。毒だったら、相手選ばずだろうがさ」
なるほど、と仲間たちはうなずいた。かれらの顔にはもう、不安の色はない。
「だよな、考えてみりゃさ。前に、下町の大火はピアズさんが俺たちに火ぃつけさせたんだ、なんて噂があったもんな」
「そうそう。あんときも、全然ちがうのに、けっこうみんな信じてたもんなぁ」
「――思えばさ、その下町の大火のときに俺たち、爺さんと知り合ったんだよな」
話はだんだん、老人の思い出語りになっていく。
「エリが爺さん背負って、逃げたんだったっけ? 爺さん、すげぇ下町の細かいとこに詳しくてさ」
「うん。爺さんは俺たちに助けてもらったって言ってたけど、ほんとは俺らのほうが助けてもらったんだぜ。爺さんの道案内がなきゃ、危なかったもんな」
「――口うるさかったけど、いい爺さんだったよな。俺たちの師匠みたいなもんでさ」
「俺、爺さんのおかげで、どの縄ひっぱりゃ帆がどう動くか、もう完璧に覚えたぜ」
「んなの、俺だって。ふつう水夫頭にしかやらせねぇことでも、俺たちにどんどんさせてくれたよな」
しんみりとなって、海賊たちは口を閉じた。ぐすぐすと鼻を鳴らす者、真っ赤になった目をこする者、みんな今になってやっと老人はもう亡くなったのだと、もう二度と声を聞くことも話をすることもできないのだと、心で悟ったのだ。
「あの……えっと、いいですか?」
老人を悼む気持ちにひたっていた海賊たちは、ふいにかけられた声に飛びあがった。
またあの連中が戻ってきたのか、と振り返ったエリは、そこに十歳ぐらいの少女が立っているのを見て、軽く目をみひらく。一斉に男たちに注目されて、少女はしかし、いまにも泣き出しそうに顔をゆがめた。
「おい、おまえら。女子供は泣かせるんじゃねぇぞ」
仲間たちにそう言うとエリは、立ちあがって少女のそばに近づいた。そして膝をつき、少女の顔をのぞきこむ。
「嬢ちゃん、なんだい?」
「あ……あたし……」
震えながらも必死になにかを言おうとしている少女は、デルマリナでは珍しい赤毛だった。なりは貧しく、ひょろりと出た素足は泥と垢《あか》で汚れて、地肌の色もわからない。
「ちゃんと聞いてやるから、ゆっくり喋っていいよ」
少女の髪に親友を思い出しながら、エリは優しく笑ってみせた。
「おじいちゃんが……死んで……それで、お弔いしてあげたいけど、でも――」
「親父さんか、おふくろさんは、いねぇのかい?」
こっくりと少女はうなずく。
「姉ちゃんとか、兄ちゃんとか――大人はいねぇのか?」
また少女はうなずいた。
「だったら近所のひとは? 言ったら、お弔いぐらい出してくれるだろ」
少女は悲しそうに、首をふってみせた。
「だれもいなくて……おじいちゃん、重くて動かせなくて……」
「なんでオレたちに言うんだい?」
「おじいちゃんの話、してたから……」
そりゃ嬢ちゃんの爺さんの話じゃねぇよ――と肩をすくめた仲間に、エリは目顔で「黙ってろ」とたしなめた。
なんだか放ってはおけない気がする。親友と同じ赤毛だというのもあるし、こんな小さな子供が勇気を出して、優しそうにはとても見えないだろう海賊たちに声をかけてきたのだ。
「嬢ちゃんの家は近いのか?」
そこ、と少女は水路のむこうを指さす。
「わかった。うちの爺さんと一緒でよけりゃ、弔ってやるよ」
少女の幼い顔が、ぱっと輝いた。
「オレひとりじゃたぶん無理だ。だれか一緒に来てくれ」
エリは仲間ふたりを連れ、案内する少女のあとに従った。
その一帯に足を踏み入れたとたん、エリと仲間は思わず顔をしかめた。
ものすごい臭いだった。目にツンとくる、鼻が根元からもげてしまいそうな、腐臭。だが案内する少女は平気な様子で、どうやらずっとこの臭いを嗅ぎ続け、慣れてしまったようだ。
「こいつは、死体が腐った臭いだよ」
仲間のひとりが、エリにこっそり耳打ちした。
「前に俺が乗ってた船で、船長が死んじまったことがあったんだ。船乗りは死んだら死体を海に沈めるってのが決まりなのに、水夫頭が絶対に持って帰るって言い張ってさ。おそろしい目にあったぜ、あんときは」
嘆いてみせた仲間は、いきなりぎょっと目をむき足をとめた。エリもまた、同じものを目にして強張りついたように足を止める。
両側に建物が迫る小路が複雑に交差するこの一帯は、昼間でもうす暗い。建物の下の階には最も貧しい人々が、少しは日の光が入る上の階には、それよりもう少しはましな人々が住んでいる。
そんな小路の片隅、じっとり湿った石壁に寄り添うように、子供が仰向けに横たわっていた。眠っているのではないことは、すぐにわかった。幾匹もの蠅《はえ》がたかるその顔は、目をかっとみひらいたままだ。死体はすでに腐敗が始まっているのか、腹のまわりが異常に膨《ふく》れあがっている。
「――腕に、紫色の斑点が……」
つぶやいた仲間が、喉の奥で嘔吐《おうと》しそうな音をもらした。
少女はしかしその死体に気をとめる様子もなく、すぐそばの、下のほうが腐食して真っ黒になった木製の扉を開けた。とたんに、そろそろ臭いに慣れたエリも顔をしかめるほどきつい腐臭が、固まりとなってむっと扉の外に流れ出た。
「こっち……」
少女が建物の中を指さす。ぽっかり開いた闇のような中からは、なんの音も聞こえてはこない。
「静かすぎるぜ……」
黙っていると気が変になりそうだと、仲間がつぶやく。
確かにそうだ。腐臭に気をとられていたが、いつもはこのあたり一帯、うるさいほど子供の声や女たちの声が始終聞こえているはずだ。どの部屋も窓を開け放ち、生活の音がまるまる聞こえてくるはずなのだ。
だのに今のこの静かさは――いったい、どういうことだろう? 貧しくても人情にはあついはずの住人たちが、たとえ親もない家もない子供だとしても、死体を小路に転がしたまま放っておくとは、どういうことか? そもそもあの少女の助けをもとめる声に、誰も応じなかったというのか。
少女のあとについてエリは、足もともよく見えない建物の中に入った。ぼんやりと扉が右に三つ、左に四つならんでいるのがわかる。少女はいちばん奥の扉の前に立った。
まっすぐそこへ進もうとしたエリの目の前で、なかば開きかけていたのだろう扉が、なんの拍子にか大きく開いた。足を止めたエリは、その部屋の中を見てしまった。
狭い狭い部屋だ。小さな卓と、寝台が壁際にふたつ。その寝台の上に、腐臭を放つモノが横たわっていた。大きな死体と、小さな死体がふたつ。おそらく母親とその子供たちだろう。
「こっちの部屋も……死んでる」
「あっちもだ」
そして廊下にも、助けをもとめるかのように手を前へのばしたままこときれた死体があった。
この建物の住人で生き残ったただひとりであるらしい少女は、立ちつくしたまま動けないエリの手を取り、来て、と引っ張った。ふらふらと少女に導かれて進んだエリは、やっと目的の場所にたどり着いた。
少女の祖父も他の住人たちと同じく、寝台の上ですでに腐臭を放っていた。身体中に紫色の斑点を浮かせて。
そのあとエリは、自分がどうやって仲間たちと老人の遺体を運び出したのか、記憶がない。憶えているのは少女が泣きもせず、悲しそうな表情をみせることもなく、ぼんやりとした顔つきで、遺体を運ぶエリのシャツを握りしめていたことだけだった。
エリと仲間たちは、ふたりの老人の遺体を舟でデルマリナの沖合いまで運び、重石をつけて海に沈めた。同じように身内を弔う人々の舟が、デルマリナ市街から海の沖まで延々と続いていた。
弔いを終えてエリは仲間たちと、目にしてきたばかりの多くの死体を、あのまま放っておいていいものか話し合った。だがエリも、一緒にあの惨状を目にしたふたりの仲間も、二度とあそこへ戻りたくはなかった。
「――オレたちだけじゃ、どうしようもねぇよ……たぶん」
船に戻ろう。オレたちの船に戻って、海へ出よう。この死臭の漂うおそろしい街から、一刻も早く遠く離れよう。
それに反対する者はだれもいなかった。かれら「ゴランの息子たち」はこうして、新しい船で初めての航海へ出ることになったのである。
デルマリナはもう完全に、疫病禍《えきびょうか》に飲み込まれていた。公的な発表がなくても市民たちは、これが疫病であり、治す薬も予防する手段もないことを、やがて悟った。
貧しい人々が多く住む区画で、住人のほぼ八割にのぼる死亡者が確認されたのは、最初の発症者が報告されてから十日後のことだった。かれらは横になって休んでいればそのうち治ると思ったのか、それとも貧しさゆえなのか、自分たちの居住区から外に出ることもなく、看護も世話も受けられないままに死んでいった。死臭のものすごさに、ようやく他地区の住人たちが気づいたのである。
他の地区でも、商家の老夫婦が介護をうけることなく人知れず死んでいたり、幼い子供がいる家で先に両親が死亡し、世話をする者がいなくなった子供もやがて餓《う》え乾《かわ》き、死んでいった。
葬られることもない遺体が、街のあちこちに放置されていた。その中には疫病のため倒れた者たちの死体ばかりでなく、暴徒によって殺された死体もあった。
市民たちはこれまでの習慣を捨て、仕事を放棄した。特に地方に別邸をもつ大アルテ商人たちは、早い時期からデルマリナ市街を脱出し、少しでも清浄な空気の田舎へと避難したのである。
しかし大アルテ商人たちの別邸での暮らしぶりは、市街に残った市民たちが怒りを通り越し、あきれかえってしまうようなものだった。互いに友人知人を招きあい、連日のように園遊会や宴を催し、乱痴気《らんちき》騒ぎを繰り返していたのだ。
まるでデルマリナの社交界がそのまま郊外へ移っただけともいうべき状況を、ピアズは愚かしいと思うと同時に、かれらに憐《あわ》れみを感じずにはいられなかった。かれらはデルマリナ市街から逃れることはできたが、疫病の恐怖からは逃れられないのだろう。貧しい者であっても裕福な者であっても、いったん疫病にかかってしまえば死は確実に、そして平等に訪れる。かれらは今やっと、世の中には金や権力をもってしてもどうにもならないことがあると気づいたに違いない。
(とはいえまだ、完全に平等というわけではないな……)
現時点でピアズが把握しているだけで、デルマリナ市街では五人にひとりの市民が疫病あるいは暴徒により命をおとしている。だが市街の外では、その数はまだまだ少ない。疫病患者の出ていない村も、数多く存在する。郊外に避難できた大アルテ商人たちが罹患する確率は、ずっと少ないのだ。
そんなこともあって、ピアズにデルマリナ市街からの避難をすすめる者は多かった。邸の家令たちはもちろんのこと、先に避難した大アルテ商人たちは避難先からピアズに手紙を寄越し、何度も市街を離れるように説得してきた。また懇意にしている小アルテ商人たちは、ぜひ避難すべきだと助言しつつ、その折りにはぜひ自分も別邸へ招いてもらいたいとさりげなく付け加えるのだった。
ピアズ自身、避難を全く考えないわけではない。ただ他の大アルテ商人たちのように、疫病と疫病の恐怖から逃れたいと考えたのではなく、もし自分が疫病で死んでしまったら、この疫病禍の去ったあとのデルマリナを復興するために、いったい誰が指揮をとり力をつくしてくれるのかと思ったからだ。
たとえ疫病の恐怖が去ったとしても、デルマリナが以前の繁栄をとりもどすことは難しいだろう。しかしピアズは、デルマリナを荒廃《こうはい》したまま捨ておくことは絶対にできなかった。もちろん「正義の旗手」としての責任もあったが、なによりデルマリナは――
(そうだ。あの子の名は、このデルマリナからとったんだ)
遠く離れても、愛しい娘。生まれたばかりの彼女に「マリナ」と名付けたのは、海上に突如あらわれた真珠と呼ばれ、その美しさで旅人たちを魅了するこのデルマリナのように、あでやかで美しい娘に育ってほしいと願ったからだった。
デルマリナの荒廃はピアズにとって、故郷を愛する市民たち以上に心痛むものだった。まるで愛しい娘が疫病におかされ死んでいくのをただ見ているしかないような、そんな気にさせられた。私の手で、たとえ私財をなげうってでも、デルマリナは復興させてみせるのだと、ピアズの決意はかたい。
そのためにも、一時デルマリナ市街を離れるのは仕方がないことかもしれない。そうピアズが思いはじめたとき、彼のもとにある知らせがもたらされた。
「なんだって……? なぜ、エルバ・リーアどのが……?」
長くデルマリナ大評議会でピアズとは好敵手であった大アルテ商人、エルバ・リーアが避難先の別邸で死亡したというのである。
「死因は? 事故か?」
「いいえ、疫病にかかったそうです」
ピアズは「まさか」と笑った。
「エルバ・リーアどのは確か、避暑用の北の別邸に避難していたはずだ」
疫病が北上してきたことを考えれば、最も安全な場所に避難したといえる。
「お倒れになったのは、五日ほど前のことだそうです。疫病にかかったとわかり、エルバ・リーアさまの別邸にいた者はすぐさま、邸から逃げ出したと聞きました」
「別邸にいた者……? 家令たちが、あるじを見捨てて逃げたのか?」
「はい。エルバ・リーアさまがお連れになった家令もですが、園遊会を予定されていたそうで、お客さまたちも――それから、ご子息とご息女も邸を離れたそうです」
「なんと……」
ピアズは軽く息をはき、瞑目《めいもく》した。
エルバ・リーアは五年前に妻を亡くして以来、独身を通している。残された息子はまだ十二、三歳。娘はすでに他家に嫁いでいた。その子供たちさえも、父が疫病にかかったと知って逃げ出したというのか。
「近隣の村の者が気づいたときにはもう、亡くなっていたそうで――」
「まさか、看護や世話をする者さえいなかったというのか?」
「はい。別邸の中には、ご遺体だけが残されていたと……」
それにと言いかけて家令は、ことばを続けることをためらった。
「なんだ? それに――その続きは?」
ピアズが促すと、まことに言いにくいのですがと前置きしてから、
「村人の話によれば、邸内は荒らされて、金目のものは何ひとつ残っていなかったとのことです。つまり、その……ご子息やご息女、お客さまたちや家令たちが邸から逃げ出すときに、持ち出した様子でして」
絶句したきり椅子の中に沈みこんだピアズに、家令はしばらく戸惑った様子で立ちつくしていたが、やがてピアズがどうにか手を振ってみせると、頭をさげて退出した。
一時はデルマリナで最も栄華をほこったあの男が、なんという最期だったのか。これでは貧民街の住人たちが、やはり看護されることも世話を受けることもなく、ただ空《むな》しく死んでいったのと変わらないではないか。いや過去の栄華があったぶん、かれらよりよほど惨めで哀れに思われた。
後にわかったところによると、エルバ・リーアの別邸から逃げ出した人々は、そのうち半数までが彼と同じ命運をたどった。すなわち疫病にかかって、家族や家令、友人たちにうち捨てられ、孤独のまま惨めな死をむかえたのである。
エルバ・リーアの他にも、市街の外に避難した人々が疫病に倒れたという報告は次々に寄せられた。
避難しても疫病にかかる者はいる。逆に避難せずとも、疫病の魔手からまぬがれる者はいる。ならばデルマリナ市街のこの邸に残ろうと、ピアズは結論したのだった。
* * *
どんな恐怖であっても、人間は次第に少しずつ慣れていくものらしい。もちろん、疫病の恐怖が消えたわけではない。ただ、慣れたのだ。慣れざるをえなかったのだ。生きていくために。
市民たちが少しずつ落ち着きをとりもどしつつあるのを知って、ピアズは腰をあげた。まずは、路傍《ろぼう》や屋内に放置されたままになっている死体の処理である。
これには、先の下町の大火でも消火や避難民の誘導に活躍した造船職人たちが一役かってくれた。ピアズは、これまで大アルテ商人たちなど富裕な者しか埋葬できなかったブラーノ島、通称「死者の島」を開放した。市民たちの慣例にしたがって、多くの死体を沖合いの海に沈めていては、潮に流された死体が市街の運河に逆流し、衛生面からいっても悪いとの進言をうけいれたからだ。死者の島には所狭しと大穴が掘られ、運ばれた死体は船荷のように何段にも積み重ねられ、一段ごとにわずかばかりの土をかぶせられて埋葬されていった。
続いてピアズは、腐臭の残る街を小さく区画分けした。街の清掃・消毒が疫病を最小限にくいとめるだろう、と医師に助言されたのである。小さく分けた区画ごとに消毒用の酢を配り、そこの住人たちに区画内の清掃を一任した。自分たちの命にかかわることでもあり、人々は不平も言わず街を清掃し、下水や疫病の患者が出た家屋に酢をまいた。
これらのことがどれだけ効果があるのか、ピアズにもわからなかった。あるいは全く効果などないのかもしれない。けれど、なにもしないわけにはいかなかった。
市民たちもピアズと同じく、なにもしないままではいられなかった。特に身内を疫病で失った人々は、それぞれ大なり小なり自分を責める気持ちがあった。もしもっと早くに医者に診せていれば、もっと手あつい看護をしてやれば、あるいは、たとえ金銭的な余裕がなくとも郊外に避難していれば――など、身内の死を悲しむと同時に、深い悔恨《かいこん》をおぼえずにはいられなかったのである。そんな市民たちは、ピアズの号令に喜んで従う者も多かった。
こうしてここまではピアズの疫病対策もうまく運んだが、次にうちだした策――疫病患者の隔離は、公布を出したとたんに頓挫《とんざ》してしまった。
身内に疫病患者が出た人々は、それを外に知られたくないのだ。あの家に疫病患者がいるとわかると、人々はその家族との交わりを徹底的に避ける。そうなると患者の家族は、自分たちが必要な食料や水さえ手に入れられなくなるのである。やがて患者が死亡すると家族は深い後悔に苛《さいな》まれながら、こっそりと死体を運び出して始末する。あるいはその家族も疫病にかかり、近所の者たちが気づいたときにはもう、その一家は全員が死んでいた……などということも多い。
これを打破するには、市民たちの意識を変えていくしかなかった。だがそれは一朝一夕ではできない、あまりにも時間のかかることだった。
最初の疫病患者が報告されてから、ほぼ二ヶ月が経とうとするころ。疫病禍のため長く船影もなかった港に、わずか二隻ではあったが船が入ってきた。
いずれもピアズが所有する船で、遠くハイランドから戻ってきたのだ。ピアズはこれを吉兆と受けとめ、帰ってきた水夫らを出迎えるためにわざわざ自ら港へ足を運んだ。
最初ピアズは、デルマリナの疫病は終息しつつあるとの噂が流れ、それゆえに船がもどってきたのかと考えていた。だがすぐに、疫病禍の情報はまだ正確に外へは伝わっていないことを悟ったのである。
なにしろ、帰還の挨拶を交わしたあとの船長の第一声が、これだったのだ。
「水くみ場に毒が投げ入れられ、大勢の市民が亡くなったと聞きましたが――」
だからこんなに港が閑散《かんさん》としているのだろう、と船長は思っている様子だった。
「きみは……どこでその話を?」
「最後の補給港で聞きました。デルマリナから来た船と、埠頭で隣り合わせになりましてね。水夫たちは話半分で聞くべきだと、ほとんど信じませんでしたが――本当だったんですか?」
不安そうに眉をしかめる船長に、それは違うとピアズはかぶりをふった。
長い航海をやっと終えたかれらに、デルマリナを襲った疫病禍の話をするのはあまりにも酷だろう。だが港を出ればすぐに、いやでも知らざるをえなくなる事実なのだ。それに、かれらにも家族が、あるいは待っていてくれる恋人や友人がいるはずだ。ここはやはり、少しでも早く正確な情報を伝えてやるべきだろう。
「――確かに、大勢の市民が亡くなった。だがそれは毒のせいじゃない」
船長は小さく首を傾げた。
「疫病だよ。南航路の――タジア港から北上してきたらしい」
「な……んですって?」
信じられないと、船長は大きく目をみひらく。
「市街地では、ほぼ五人にひとりの割合で市民が疫病にかかり、亡くなった。ほんの……ここ二ヶ月ほどの出来事なのだ」
「う……嘘でしょう? そんな、莫迦な」
「嘘なら良かったんだがね。二ヶ月経った今でもまだ、嘘であってほしいと思っているんだよ、私は」
「み、南地区には、私の妻と息子が……。東地区には母がいるんです――どうなったか、無事なのか、わかりませんか?」
すがりつくようにして訊ねられ、痛ましい思いで首をふる。
「申し訳ないが、私にはなんとも……」
船長は大きく目をみひらいたまま、港の中をきょろきょろと見回した。疫病など嘘だと証明できるものを捜すかのように。
以前は、陽がのぼってからあたりが暗くなるまで、水夫や荷揚げ人夫たちの声が飛び交い、埠頭にところせましと停泊した船と倉庫をひっきりなしに行き交う人々の姿が見られたこの港も、今ではすっかり静まりかえっている。人夫たちはいまだ仕事を放棄したまま港には戻らず、入ってくる船もない。静かというよりも、寂れてしまったといったほうがいい、港の状況だった。
「そんな……、まさか……」
身体中の力がぬけたかのように、船長はピアズの前でがっくりと膝を落とした。船上の甲板では水夫たちが、いったい何が起こったのかと不思議そうにこちらを眺めている。
水夫たちには船長から、デルマリナが疫病禍に襲われた話をしてもらおうと思ったが、この様子ではとても無理だろう。
(仕方がない。私が話すしかないか)
決意したピアズは、甲板の手すりに鈴なりになった水夫たちを見あげた。
「――私は、ピアズ・ダイクンだ。おまえたちがこの船をおりる前に、話しておきたいことがある」
ピアズの名前はこの船の船主だからというだけでなく、デルマリナ市民ならば小さな子供にいたるまで知っている。そんな偉いひとが俺たちに話があるなんて、いったいどういうことだろう? 船長はなんで、あんな青い顔をして膝を落とし、動かなくなってしまったんだろう? 水夫たちは不安げに、互いに顔を見合わせた。
結局ピアズは、表面上だけでもどうにか落ち着きをとりもどした船長をともなって甲板へあがり、二隻の船の水夫たちを前に自らデルマリナを襲った未曾有《みぞう》の疫病について話をした。水夫たちのうけた衝撃は、船長以上に大きく強いものだったようだ。いいかげんなことを言うなとピアズに向かって怒鳴る者、がたがた震える者、泣きだす者――中には、身内の安否を一刻でも早く確かめたいと思ってか、話の途中で船から飛び出していった者もいた。
船主の権限でピアズは、荷の確認や船の保守点検など帰港時の作業をすべてをきりあげさせ、水夫たちに給金を渡して、かれらを家族のもとへ帰らせることにした。急いで船を降りていく水夫たちを見送りながら、かれらの身内や恋人が少しでも多く無事であるようにと願わずにはいられなかった。
「ピアズさん、これを――」
声をかけられ振り返ると、顔を青ざめさせたままの船長が、強張った表情で立っていた。船長の責任として、水夫たち全員が船を降りきるのを待っていたのだろうか。
「なんだ? きみも早く、家族のもとへ帰ったほうがいい。水夫も船長も、こんな時には関係ないだろう」
ピアズの言葉に船長は、ありがとうございますと頭をさげる。
「ただ、これだけはピアズさんに、どうしてもお渡ししておきたくて」
差し出されたのは、一通の手紙。
「ご領主の奥方の使いだという者から、ピアズさんに届けるように頼まれました」
ピアズは目をみひらき、じっと手紙を見おろした。領主の奥方――マリナだ。マリナからの手紙なのか……?
マリナはあの男についてハイランドへ渡ってから、これまでに二度だけ手紙を寄越してきた。一通目は、ハイランドへ着いたときのもの。親不孝を詫びる手紙だった。二通目は、ケアル・ライスの奥方となったときのもの。ごく短い、婚礼をあげたという報告でしかなかった。
その代わりというのも変だが、ケアル・ライスからは船がハイランドから戻るたびに、ピアズに宛てた手紙が届いている。しかしピアズはただの一度も、彼からの手紙を開封したことはない。意地でも読むまいと、書きもの机の引き出しに投げ込み、しっかりと鍵をかけているのだ。
今この時期に、マリナから久しぶりの手紙が届くのは――ひどく嫌な予感がした。デルマリナが、娘がその名をもらったこの都市が疫病によって痛めつけられ荒廃した今、めったに便りなど寄越さぬ彼女から手紙が届くなんて……。
手紙をなかなか受け取らぬピアズを不審に思ってか、船長が小さく首を傾げる。
「どうぞ。お嬢さまからの手紙です」
あらためて差し出され、ピアズは軽く息を吸い込んでから、震えそうになる指で手紙を受け取った。
「確かに、お渡ししました。では――」
失礼しますと頭をさげる船長に、ピアズはうわのそらで「ありがとう」と告げた。
閑散とした埠頭にひとりになると、ピアズは瞑目して手紙をそっと撫でた。質の悪い紙はざらりとした感触で、けれどピアズはそれが愛娘のふっくらとした白い頬のように思われ、何度も何度も手紙を撫でる。
「マリナ……」
だれよりも愛しい、大切な娘。あの子が側にいてくれたなら、私はここまでがむしゃらに政敵をたたき、より高い地位を手に入れようとは思わなかったかもしれない。いや、今さらそんなことを考えても詮無いだけだ。あの子は父を捨て、遠いハイランドへ行ってしまった。私は娘に捨てられた父親でしかないのだ。
心の準備をしてピアズは、震える手でそっと封を開けた。瞬間ふわりと、娘の甘い香りがしたような気がする。
いかにもマリナらしい、気の強そうな右上がりの文字。たった便せん一枚だけのその手紙を、むさぼるように何度も何度も読み返した。
「マリナ……マリナ、マリナ……」
眼帯をしていないほうの目から、涙がこぼれ落ちる。娘からの久しぶりの手紙は、子供が生まれたことを報告するものだった。
ああ、とピアズは天を仰いだ。新しい命の誕生を伝えるそれは、ピアズにとってまるでデルマリナがこの災禍の中からふたたび蘇《よみがえ》ると予言したもののように思えた。
だいじょうぶだ。きっとデルマリナは、復興する。マリナはきっと、幸せになる。そして娘の子供たちは、やがて成長し、船に乗って海を渡り、美しいデルマリナの都市を目にすることになるだろう。
ピアズは昂然《こうぜん》と頭をあげ、暑気と腐臭が見えない重さとなってのしかかっているような街を見つめた。しかしピアズの目には昔のままの、以前よりももっと美しく栄えた、デルマリナの市街が見えるようだった。
邸にもどったピアズは、少し迷ったすえ、引き出しの鍵をあけた。
いまはライス領主となったあの男の手紙など、もちろんまだ読みたくもない。けれど、短い娘の手紙に記されてなかったことが、あの男の手紙には書かれているかもしれない。たとえば娘の日々の生活のこと、生まれくる子供たちへの期待、出産の準備など――ピアズはいま、少しでも娘とその子供たちのことが知りたかった。
中から取りだした封も開けていない手紙は、全部で六通あった。初めのころに届いたものは表面が黄ばみ、インクも退色している。
ピアズは手紙を順番にならべると、一通ずつ開封していった。
意外なことに、彼からのどの手紙にも、ひとことも過去を謝罪することばはなかった。父親から娘を奪った男がどの手紙にも記していたのは常に、未来についてだったのだ。ハイランドの未来、デルマリナの未来、人々の未来、そして自分たちの未来について。
領主となったからといって、彼には前途洋々たる未来がひらけているわけではない。実際、たとえばライス領が経営する農園で働く島人たちに、労働の対価を支払うことには、まだ領内でも根強い反対の声があるらしい。だが彼は、反対者たちを責めるのではなく、ここまでのことができるようになったと喜んでいるのだ。島人たちへの差別を嘆くのではなく、違う領の島人たちが互いに力を合わせ港で働くことができるようになったのだと喜ぶ。そして、次の段階へすすむために、いまから自分はこんなことをするつもりです、と真面目な語り口で力強く決意してみせるのである。
手紙をすべて読み終えてピアズは、心の底から悔しいと思った。自分はこんなふうに、力強く未来を語ったことなどない。私の目の前にあったのは常に、とりのぞくべき障害か、手に入れて当然の栄光だけだ。
ふと、海賊となった金髪の若者が言ったことを思い出す。
『あんたはさ、他でもない自分の人生に復讐したいんだよ』
みじめでみじめでどうしようもなかった、若い頃の自分に復讐しているのだ――そう若者は言った。あのときは、何もわからぬ海賊ふぜいが何を言うかと腹立たしいと同時に、なにかいきなり足もとをすくわれたような不快感をおぼえたものだったが……。そうか、とピアズは今になって思う。あの不快感は、いちばん隠しておきたかった場所をさぐり当てられてしまった、という自覚だったのだ。
ピアズは書きもの机の上に散らばった手紙を見おろし、かすかに震える指先で、片目の眼帯をなぞった。
(そうだ……私に未来を語れるはずがない。自分の過去に復讐することだけが生き甲斐だった、こんな男には……)
とても彼のように、力強く未来を見据えることなどできはしない。
強い敗北感が、ピアズを襲った。しかし不思議なことにその敗北感は、決してピアズを打ちのめしも押しつぶしもしなかった。それどころか、自分にこんな敗北感を味わせた若者に腹立たしさのかけらさえわいてこない。
「く……くくっ……」
ピアズの唇から、笑いがもれる。最初は吐息のような笑いだったが、やがてそれは高々と放つ気持ちのよい哄笑《こうしょう》へと変わった。
事務所から聞こえる笑い声を不審に思った家令が、あわてて飛んできて扉をたたく。
「だんなさま、どうかなさいましたか?」
「なんでもない。放っておいてくれ」
あるじを心配する家令にそう言い放ち、ピアズは椅子の背に身体をあずけた。
私から娘を奪った男を、なまじなことで許せはしない。だがマリナは、いい男を伴侶に選んだ。今になって初めて、ピアズはそう思えた。
愛しい娘は、あの男と共に、力強く未来へ歩んでいくことだろう。私ができなかったことをかれらは、やってのけるに違いない。そして、あの男や娘ができなかったことは、その子供たちがきっと受け継いでくれる。
静かに瞑目したピアズの瞼《まぶた》に、デルマリナとハイランドをつなぐ虹が見えたような気がした。波高い海と、つきぬけるような青空に、長く遠くかかる虹が……。
デルマリナ最後の「正義の旗手」ピアズ・ダイクンが、高熱をだして倒れたのは、この夜のことであった。
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第二十章 蒼き流星
その季節いちばん最後にやってきた二隻の船は、マティン領にある港から見える沖合いに停泊したまま、三日目の朝を迎えても動こうとしなかった。
三日目の昼になって、マティン領からライス領公館へ、伝令が飛んだ。
「島人どもが舟をしたてて、何度か船に近づきましたが、いずれも船上から、あっちへ行けと追い払われるばかりで……」
「その船に近づいたのは、島人たちだけなのかい?」
ケアルの問いに中年の伝令は、きっぱりとかぶりをふった。
「我がマティン領公館からも、使者を出しました。摂政どのが、あの船はおそらく交易のためにやって来たのではなく、デルマリナの使者としてやって来たに違いない、とおっしゃられましたので」
なるほど、とケアルはうなずく。
「ところが――連中は、我がマティン領の使者たちをも追い払ったのです」
許しがたいと言わんばかりに、伝令は拳を握りしめた。
「あの連中は、我らを愚弄《ぐろう》しております」
確かにデルマリナからやって来る船乗りたちの中には、ハイランドの人々を野蛮人だとさげすむ者も多い。交易をはじめた当初などは、水夫たちが港で働く人々を甲板から指さし、かれらに言葉など通じないと思いこんで「あの猿ども」と雑言し、あわや乱闘騒ぎになりそうなこともあった。
このときケアルはデルマリナへ向けて、正式な抗議をおこなった。またデルマリナ側も水夫たちの軽はずみな言動ひとつで交易に支障が出ると考え、船乗りたちに厳重注意をあたえたのだ。
以来、表立った騒ぎは起こっていないが、互いにそのことを忘れてはいないだろうことは、今の伝令の言葉からもよくわかる。
「――それで、ライス領からも使者を出してほしいというわけかい?」
ケアルが訊ねると、伝令は厳しい顔で首をふってみせる。
「まさか……! そのようなつもりはございません」
「だったら、どういったつもりで?」
「今回の二隻の船に関しては、ライス領に責任があると我々は考えております」
「責任ねぇ。でも船が停泊しているのは、マティン領の海域なんだろう?」
「そうですが、港の管理はライス領の責任です。船は港に入るもの。あのようなところにいつまでも停泊されていては、マティン領の領民感情もありますので、船が一刻も早く入港するように、ライス領に早急な対応をお願いする次第です」
ケアルは思わず、吹き出しそうになった。あまりに強引で幼稚な理屈に、怒るよりも苦笑がもれる。
しかし側にいたライス領の家令たちにとっては、笑いごとではなかったようだ。
「なにを、屁理屈《へりくつ》をこねられるか!」
「マティン領はほんの先日、港の外で起こったことは自分たちが処理するのだと、言い放ったばかりではないか!」
家令たちの怒りもわかる。なにしろほんの十日ほど前、ケアルはマティン領の家令と激しくやりあったばかりなのだ。
それというのも、港から出ていった舟が、たまたまマティン領公館の家令が乗る舟と行き会わせ、どこへ向かうのかと問いつめられた。舟にはマティン領のある島でとれた農作物が乗っており、その舟を操っていたのがライス領の島人だったのである。港ではその日、島人たちだけの市場がひらかれていた。港でそんなことが行われていると、マティン領側はこのとき初めて知ったらしい。マティン領のその家令は、島人から積み荷をとりあげ、自領内から追い出した。それを耳にしたケアルが、積み荷を島人に返せと抗議し、マティン領とやりあう結果となったのである。
マティン領側の言いぶんによれば、港で島人たちに市場をたてさせるのは、確かに港の管理責任を負うライス領の勝手ではあるが、港の外の管理責任は当方にある、とのことだった。それについては反論する隙間はなく、ケアルは仕方なく、島人たちにライス領内で市場をひらくよう進言したのだ。
「まあまあ、その話は別件だよ」
ケアルは軽く手をふって、家令たちをなだめる。
「マティン領主どのや摂政どのは、たいへんお困りなんだ。そこを察してさしあげようじゃないか」
甘い領主に家令たちは不平顔だったが、そうですねと引きさがってくれた。ただし、当てこすりを言うことだけは忘れない。
「苦しい屁理屈をこねなければならぬほど、お困りらしいですな」
「最近では、困ったことがあるとすぐ、我がライス領の若領主を頼ってくる者が多いですからね」
「よほど、自領のご領主があてにならないんでしょう」
「いやいや、うちの若領主がそれほどにやり手だということですよ。なにしろ若領主が立ってからというもの、我がライス領の収益は倍増につぐ倍増」
「ところが領民たちにとってみれば、税も賦役《ふえき》も減ったんですからな」
「どこかの領とは大違いですな」
「まったくその通りです」
みるみる伝令の顔つきが変わるのを見てケアルは、そのぐらいにしておきなさいと家令たちを目顔でたしなめる。そして伝令のほうへ向き直り、
「――船は港に入るもの、とは確かにその通りだ。うん。舟もまた港に入るしね」
「そ……、それは……」
「いいことをおっしゃると、私が感銘《かんめい》をうけていたと、ご領主や摂政どのにはお伝えいただきたい」
肩を落として、伝令がうなずく。
「で、二隻のデルマリナ船だが……できるならもう少し、情報がほしいな」
ケアルはそう言うと、思う存分あてこすりを言って気がすんだらしい家令たちに視線を向けた。すぐに家令のひとりがケアルの意向を察し、うなずいてみせる。
「伝令を出すのですね。でしたら、若い者にやらせましょう。若領主を目指して努力し、なかなか腕があがったんですよ」
「それは頼もしいな」
ケアルはにっこり微笑んだ。
「じゃあ、ふたり……いや三人、飛んできてもらおう。上空を旋回して二隻の船をよく観察するだけでいいと、必ず念をおすのを忘れないように」
かしこまりました、と一礼した家令が早速、執務室から走り出ていく。一方、役目を終えたマティン領の伝令は、ケアルのねぎらいの言葉に複雑な表情を浮かべ、退出していった。
「顔から火がでるほど恥ずかしかったぞ」
一息つくとケアルは、残った家令たちに顔をしかめてみせた。
「他領の伝令の前で、自領の領主を褒めちぎるなんて」
家令たちは互いに顔を見合わせた。
「こんな時でもないことには、若領主を持ち上げられませんからな」
「それにほら、やり手の若領主のおかげで我々は仕事が増えて増えて――」
「そうです。たまにはこうして、発散しませんとね」
若い伝令たちが帰ってきたのは、あたりが暮れはじめた頃だった。
ケアルはちょうどマリナや離乳食を口にできるようになった子供たちと、早めの夕食の席をかこんでいた。伝令が戻ったとの知らせに席を中座しようとしたところ、
「あら。皆さん、お腹が空いていらっしゃると思うわ。若い方たちなのでしょう?」
というマリナのひとことで、三人の若い伝令たちも共に席につくことになった。
いきなり領主の夕食に招かれた伝令たちは緊張した様子で、飲み物を口に運ぶだけの動作さえもぎこちなかった。しかしマリナが子供たちの世話を乳母にまかせ、愛想よくかれらに飲み物などをすすめるうちに、若者たちの緊張もほぐれてきた。
若者らしい旺盛な食欲を発揮し、腹がある程度満たされると、マリナが手ずからお茶をいれてくれた。
「――で、船の様子は?」
ケアルが訊ねると、自分にも幼い妹がいると言った伝令が、双子のかたわれ――赤毛の娘を抱きあげ、あやしながら、
「甲板の上には、見張り役とおぼしき水夫が五人ほどいました」
船には必ず、昼も夜も見張り当番がいる。おかしな話ではないだろう。
「我々の翼を見ても、さほど驚いた様子はありませんでした。なんだか、前にも来たことがある水夫たちのようにみえました」
「俺たちに向かって、手を振ってたよな」
うなずいたのは、お茶を珍しげにしげしげとのぞきこんでいた伝令だ。
「ああ、そういえば――髭面の男が、手を振ってました」
「なんだろうと思ったけど、観察するだけでいいと言われたので、降りませんでした」
それだけでは全くわからない。
「他には? 水夫たちに不審な点はないのなら、船それ自体には?」
伝令たちは互いに顔を見合わせ、しばらく考え込んだ。やがて「ああそうだ!」と声をあげたのは、赤毛の娘を膝に抱いている若者である。
「帆柱に、黄色い旗がたっていました。あんな旗は初めて見るので――」
伝令が話し終える前に、若者たちにお茶を配っていたマリナが、
「それ、本当なの? ほんとうに黄色い旗だったの?」
血相を変え身を乗り出して訊ねるマリナに、伝令は目を丸くしながらうなずく。
「赤が褪《あ》せた色とか、白が黄ばんだとか、そんなのじゃないのね?」
「はい。ちょうど、こんな感じの――」
伝令が指さしたのは、中庭でとれたみずみずしい黄色の果実だった。
「なんて……なんてことなの……」
小さくかぶりをふって、マリナがつぶやく。
「マリナ、どうしたんだ? なにか知っているのか?」
ケアルが訊ねると、マリナは手にした茶器を卓に置き、すっと姿勢をただして若い領主に向き直った。
「ライス領主どの、悪い知らせですわ」
「悪い知らせ……?」
「ええ。船が掲げた黄色い旗は、船内で病人が出たしるし。それも、感染の可能性がとても高い病人が出たしるしです」
いまひとつ事情がのみこめないケアルに、マリナは悲しげに首をふってみせた。
「黄色い旗をたてた船は、港に入ることはできません。禁じられていますの。早急に医師を派遣するか、船を追い返すかのどちらかですわ」
「――追い返すことはできない」
「でしたら、医師を派遣なさってください。放っておけばこのハイランドに、最悪の場合、疫病が持ち込まれる可能性があります」
ケアルはものも言わず立ちあがった。つられるようにして、伝令たちも立ちあがる。
なごやかだった室内の空気が一変した。不穏な空気を感じ取ってか、双子たちがそろって泣きはじめた。
「どうか、お気をつけて」
頭をさげたマリナの声に送られて、ケアルは食堂を出ていった。
* * *
その夜のうちに、近隣から五人の医師が公館に呼び集められた。
疫病の可能性がある船へ、乗り込まなければならないのだ。領主だからといって、かれらに「おまえが行け」と命じることはケアルにはできなかった。
ケアルは五人の医師たちに、いまわかっている事実だけを話した。そして、行ってくれる者はいないか、と訊ねたのである。
すぐに、ふたりの医師が手をあげて「行きます」と言ってくれた。しばらく時間をおいてから、三人目の医師が手をあげ、
「もし我らの手にはおえない疫病だった場合、その船を追い返すべきだと、私は主張するでしょう。それでもよろしいですか?」
あなたにそれができますか? と三人目の医師はケアルに訊ねたのだ。彼はこの若い領主が、たとえ異郷のデルマリナの水夫であろうと、ひとを見捨てることができないと見抜いているようだった。
今度はケアルが考える番だった。おれは果たして、水夫たちを見捨てることができるのか。ハイランドの人々の安全だけを考えることができるのか。
しばらく瞑目して、ケアルはうなずく。
「ああ。他に打つ手がなにもないとわかったら、私は決断をくだすだろう」
「船を見捨てる、と?」
そうだとうなずいたケアルに、三人目の医師は深い笑みを浮かべた。
「では、私も行きましょう」
こうして船に派遣する医師が三人、決定した。
翌日、夕映えで赤く染まった空の下を、三艘の小舟が二隻のデルマリナ船に近づいていった。
三艘のうち一艘には、ケアルが乗っていた。残る二艘に、医師たちが分乗している。
帆柱の上に黄色い旗がはっきり見える位置で、ケアルの乗った一艘は止まった。二艘の舟はためらうことなく、まっすぐデルマリナ船へと向かう。
やがて小舟がデルマリナ船に横付けされ、医師たちが甲板の水夫らと言葉を交わすのが見えた。甲板の上であわただしい動きがあり、小舟に向かって縄梯子《なわばしご》がおろされた。医師たちが梯子をゆっくりとのぼっていくのを、ケアルは瞬きもせず見つめていた。
彼の髪のような空が、やがて西からゆっくりと闇の色に塗りつぶされていく。小舟を出してくれた島人が、角灯に火をいれてケアルの横にそっと置いた。デルマリナ船でも帆桁《ほげた》に灯りが掲げられ、暗い海に映って、いくつもの光が浮かんで揺れる。
「ずいぶん時間がかかるようですね」
島人に話しかけられ、ケアルは視線をデルマリナ船に据えたまま、うわのそらでうなずいた。
「ああ……そうだな」
「いったん、お戻りになったほうがいいんじゃないですか。暗くなると、こうしてただ浮かんでるだけでも危ないですから」
「いや、それはできない。危険とわかっている船に医師たちを乗り込ませて、私ひとり安全な場所にいることはできない」
かぶりをふったケアルは、ふと我にかえって島人の男を振り返った。
「――申し訳ない。きみのことを、考えに入れてなかった。私が危ないなら、一緒に舟に乗っているきみも危ないんだな」
「いえ。俺はいいんです、海にゃ慣れてますから。ただこう暗くなっちゃ、もし若領主が波にあおられた拍子に海におっこちでもしたら、捜して引き揚げるのは難しいんで」
申し訳なさげに言う島人の若者に、ケアルは笑ってみせる。
「だいじょうぶだ。これでもおれは、デルマリナとハイランドの間を船で往復したことがあるんだからな」
「すげぇですよね、それって。俺、前からずっとその話を聞いてみたくて……」
たちまち若者は目を輝かせた。
「ほんとは俺、あんなでっかい船に乗ってみたいんです。でも無理だから、せめてどんな感じなのか聞きたくて――」
「無理な話じゃないよ」
ケアルは笑ってかぶりをふる。
「もちろん今すぐは無理だろうけど、近いうちにきっと、ハイランドの人々があんな大きな船に乗るようになる」
「ほ……ほんとですか? 俺でも……あの、上のひとたちじゃない島人の俺でも、乗ることができるようになるんですか?」
「ああ。考えてもごらん、上の領民たちより島人たちのほうが、よほど海に慣れてるし、舟をよく知っている。きみたち島人こそ船に乗るべきだと、おれは思うよ」
「す、すげぇ……! なんか、すげぇです。夢みたいだ」
握った拳を胸の前で何度も振りながら、若者は「夢みたいだ」と繰り返す。ケアルはそんな彼の姿が、懐かしい友の姿とだぶって見えるような気がした。
エリ、今頃どうしてる? やはり船に乗っているのだろうか。気の合う仲間たちと船の上で、こんなふうに暗い海を眺めているのだろうか。おれは……領主になって、双子の父親にもなっちゃったよ、エリ……。
デルマリナ船の甲板でふたたび動きがあったのは、夜もずいぶんと更けてからだった。いくつもの灯りが海上におろした縄梯子のまわりに集められ、やがて医師たちが注意深く降りてくるのが見えた。
医師たちが小舟に乗り移ると、縄梯子がくるくるとたくしあげられていく。小舟が向きを変え、ケアルが待つほうへゆっくりと動きはじめた。
島人の若者が角灯を手にして、こっちだぞと大きく回して合図する。やがて三艘の小舟が合流すると、ケアルは近くの島へ行くように指示をだした。
「疫病のようです」
小さな島へ上陸すると、医師たちはまずケアルにそう告げた。
「高熱をだし、身体中に紫色の斑点が浮かぶ――そういった症状らしいです」
「らしい、というと?」
疫病と聞いて最悪の事態になったと覚悟したケアルは、小さく首を傾げて医師たちを見なおした。
「船長が、いい判断をくだしてくれました。患者が出たのは、もう一ヶ月ほど前のことだったんです。すぐに患者を隔離し、全員で船内を徹底的に清掃したそうです」
「患者は三日ほど苦しんだあと、死亡しました。遺体はその日のうちに、海へ流して弔ったと言っていました」
「その後一ヶ月、今のところまだ、あらたな患者は出ていません。けれど船長は、万が一を考えて黄色い旗をたてたそうです」
「我々は水夫たちを全員、診察しましたが――疫病にかかったらしい兆《きざ》しは、ひとりとしてありませんでした」
「ただ念には念を入れて、もうしばらく港には入らないように指示しました。水と食料のほうは、やりくりすればあと一ヶ月はもつそうです」
大きく息を吐き「よかった」とつぶやいたケアルに、
「しかしまだまだ予断は許されませんぞ。もちろん、おわかりでしょうが」
医師たちはそう付け加えることを忘れなかった。その通りなのはわかっているが、最悪の結果を想像していたぶん、安堵も大きくなるというものだ。
「――ところで」
いちばん年かさの医師がふと思い出した様子で、懐から一通の封書を取り出した。
「船長から、預かってきました。ライス領主どのにお渡ししてほしい、と」
「私に……?」
不審に思いながら封書を受け取る。
「若領主は、船長とお知り合いだったんですか? 我々がライス領から来たと申し上げたところ、ご領主はお元気か、と訊ねられました」
首をかしげながら封を開け、ケアルは軽く目をみひらいた。
「船長……コルノ船長だったのか!」
コルノ・ベルシコは、ケアルがデルマリナから帰るときの船の代表をつとめた男だった。水夫たちから慕われ、面倒見もよく、ケアル自身あれこれと相談にのってもらった。最終的にマリナをハイランドへ連れて行くと決意したのも、彼の助言がきっかけだった。
手紙の内容は、いかにもコルノ船長らしい親しみのこもった気易く明るいものだ。
『黄色い旗の意味がわかって来てくれるとしたら、兄さんだろうと思ってたよ』
『デルマリナを出航する前に、ちょいと面白いやつと会った。そいつに、兄さんに渡してくれと荷物を預かってるんだ』
『兄さんにその荷物を渡せるまでは、なにがあろうと帰らないつもりだ。海の男同士の約束ってやつでね』
そんな調子で文面は続き、最後にケアルとマリナにも会いたいと結ばれていた。
何度か読み返したケアルは、丁寧《ていねい》に手紙を畳み、医師たちに訊ねた。
「この船長に直接会いたいんだが、会えるだろうか?」
医師たちは互いに顔を見合わせる。
「先ほども申し上げましたように、いまだ予断は許されない状況なんです。万が一を考えれば、たとえ我々がもう安全と判断しても、若領主には船の者たちと直接会っていただきたくはありません」
「彼には以前、とても世話になったんだ」
それに、とケアルは付け加える。
「きみたちの判断は、信用している。きみたちが安全だと判断したなら、私はそれこそ泥の団子だって食うだろうよ」
大きく息を吐いた医師が、半分あきれ、半分うれしそうな表情をしながら「仕方ありませんね」とうなずいた。
コルノ船長に会えるようになるより先に、彼が手紙の中でふれていた荷物が、デルマリナ船からライス領公館に届いた。
最初、家令たちは執務室の中へ運び込もうとしたのだが、あまりにすごい匂いがするため、屋内へ入れるのはあきらめ、前庭で木箱を開くこととなった。この匂いは、消毒用に使われた「酢」だ。医師のすすめでケアルはデルマリナ船に消毒用の「酢」を何樽も運ばせ、受け取った水夫たちが手分けして船内のいたるところにまいたのである。もちろん運ばれた木箱も酢をたっぷりふりかけられ、このありさまとなってしまった。
木箱は、水樽ふたつぶんほどの大きさだ。酢の匂いがぷんぷんする以外、不審なところはない。前庭にはケアルや数名の家令の他に、好奇心に抗《あらが》えなかったマリナまでが姿をみせ、木箱が開く瞬間を待った。
下働きの男が、金てこを使って器用な手つきで木箱の蓋を開けると、中に詰まっていた籾《もみ》がらを取り出した。そしてふと手を止め、ケアルを振り返る。
「――若領主さま、こんなものが入ってましたが」
男が掲げたのは、書類らしい紙の束と封筒が一通。受け取ったケアルはまず、紙の束をひろげてみた。
「なんだろう、これは……?」
紙は七枚ほどあり、すべて絵が描かれていた。けれど、そのうち五枚は、いったい何の絵なのかもわからない。残り二枚は、船を横から見た絵と後ろから見た絵だった。
首をかしげながらケアルは、残る封筒を開いた。中には、インクの染みがいっぱい散った紙が一枚。
目にしたとたん、ケアルは大きく息を吸い込み、そのまま奥歯をかみしめ瞑目した。全身に痺《しび》れたような痛みが走る。
「若領主、どうしましたか?」
封書を手にしたまま動かないケアルを不審に思った家令たちが、駆け寄ってきた。
ケアルはゆるゆると目を開け、心配する家令たちに「なんでもない」と首をふると、子供が書いたような字の並ぶ手紙に視線をおとした。
エリからの、手紙だった。デルマリナで別れたきり、消息もわからなかった親友の。
[#挿絵(img/KazenoKEARU_05_177.jpg)入る]
「――ばか野郎……っ!」
短い手紙を何度も読み返しながら、声がもれる。ほんとに、ばか野郎だ。なんで今になって、手紙をくれたんだ。どうして今まで、なんの連絡も寄越してくれなかったんだ。どんなにおれが心配したか、わかってるのか。せめて生きてるかどうかぐらい、教えてくれたってよかったじゃないか……。
心の内で思いつく限りの恨みごとを並べたてて、ケアルはふたたび軽く瞑目した。
わかった。おまえの気持ちは、ちゃんと受けとめてやる。これはきっと、おれが役立ててみせる。約束する。絶対に。
目を開けたケアルは、ツカツカと木箱に近づいた。自らの手で籾がらをかき出し、白銅色の羽根があらわれると、下働きの男に手伝わせてそれを箱から取り出す。
絵にあった通りの、三枚の羽根を捻《ひね》って組み合わせたそれ。エリとその仲間が、二年をかけて考え、つくりだしたという……。
ケアルは息を詰めてこちらを見つめいている家令たちを振り返った。
「――翼職人を、呼んでくれ」
エリ・タトルが寄越したのは、新しい船の推進装置だった。
今季、初めて外輪船を目にしたときには、ケアルもさすがに驚いたものだ。船長に頼んで船内に入れてもらって、機関室の見学もした。その船が、ピアズ・ダイクンの経営する造船所でつくられたことも聞いた。
「最初にこいつを使ったのは、海賊どもなんですよ」
話を聞かせてくれたそのときの船長は、どこか得意げに語ったものだ。
「エルバ・リーアって大アルテ商人が雇った海賊どもでしてね。いやぁ、最初にあらわれたときにゃ、びっくりしましたよ」
「でしょうね。私も驚きました」
「なんせね、風もない全くの凪《なぎ》のときでも動くんですから。こっちが潮の流れに乗ってるしかないときに、いきなり水平線のむこうからあらわれて、襲いかかってくるんですよ。こっちは逃げたくとも逃げようがない。おろおろしてるうちに、積み荷を奪われ、あっという間に行っちまうんです。追いかけようにも、追いかけられないしね」
「なすすべがない、というわけですか」
「ええ、その通りです。けどまあ、あの連中は積み荷は奪うが、水夫どもに手は出しませんでした。こっちが抵抗しなけりゃ、殴られることもない。だからみんな、連中の船が見えたら、あきらめて、生まれたばかりの子猫みたいにおとなしくしてました」
「海賊としては良心的だったんですね」
「いやいや。積み荷を奪われたら、こっちも船主に給金を払ってもらえませんからね。水夫にとっても困りものではありました」
けれどね、と船長は苦笑した。
「見ていて痛快ではありましたよ。なんせ、大アルテ商人に雇われているとはいえ、ただの海賊どもですよ。それがまあ、外輪船なんてとんでもないものを、自由に操って。船主に期限を守らされて、ぎちぎちにやってた私たちには、羨《うらや》ましくもありましたね」
「――しかし、エルバ・リーアどのがなぜ海賊を雇っていたんです?」
ケアルには馴染《なじ》みの名前だった。何度か会ったこともある、デルマリナでも一、二を争う豪商だったはずだ。
「それはまあ……色々あるんですよ。たぶんね」
船長は言いにくそうに、言葉を濁す。
「大アルテの偉いさんたちがやることに、私たちがどうこう口出しできませんからね。それに偉いさんたちがどうなろうと、私たちには関係ありませんし。ただまあ、噂はしあいます。エルバ・リーアさんが海賊を雇ってたことがばれて、総務会から除名されたらしいぞ、とかね。言ってみりゃ、私たちにとっちゃ娯楽のタネみたいなもんで」
デルマリナでもずいぶんと複雑な政変劇があったのだろう、と想像させる話だった。エルバ・リーアが失脚したならば、その競争相手であったピアズは逆に勢力範囲をひろげたに違いない。
「なんにしろ、こいつは凄《すご》いもんですよ」
外輪を指さし船長は、まるで自分の手柄を自慢するように胸をはった。それは船を自慢しているようでもあり、こんな船をつくりだしたデルマリナを自慢しているようにもみえた。
そしてこのときケアルは、自分の生まれ育った国を誇《ほこ》りにできる船長に、深い感慨を抱かずにはいられなかったのである。はたしてハイランドの人々は、自国を誇りに思うことができるだろうか。デルマリナの人々に、ハイランドはこんなに素晴らしいと自慢することができるだろうか。
今回、エリが送ってくれた推進装置は、あるいはハイランドの人々にとって、自国を誇りにできるきっかけとなるものかもしれない。エリはこの技術を、ハイランドのために使ってくれと、ケアルに頼んできたのだ。
デルマリナではまだ、エリとその仲間以外には誰も手に入れていない技術だという。どんな経緯があって、エリと仲間がこんなものを開発できたのか。詳しいことはなにも、手紙には書いていなかった。
* * *
「それで翼職人に、なんていうの――推進装置をつくるよう、指示なさったのね」
黒髪の長男をあやしながら、マリナはケアルを見あげた。ケアルの腕の中では、赤毛の娘がぽっちゃりとした手で、父親のシャツを握りしめている。
「ああ。ハイランドで船そのものをつくることは、まだ無理だけど。でも、あの羽根だけならばつくることはできる」
「売り込むとしたら、造船所よね」
「商品になるかどうかは、まだわからないよ。買ってもらえるかどうかも」
「お父さまならきっと、買うわ。そして、どうやってつくるのか教えろ、と言ってくるに違いないわよ」
ケアルは娘をゆすりあげて笑った。娘でありながら、マリナはピアズ・ダイクンという男を冷静かつ客観的に見定めている。この子もそんな娘になるのだろうか、とケアルは赤毛の娘の顔をのぞきこんだ。
「――でも、あなたのお友達って、よほどあなたを信頼してるのね。っていうより、あなたたちってすごくお互いに信頼しあってるんだわ。どんなに離れてても」
急になにを言い出すのかと、ケアルはマリナを見た。
「いいわよね。大切なものを託せる相手がいるって」
「きみにだっているじゃないか」
誰のこと? とマリナが首をかしげる。
「――おれと、それから、この子供たち。まさかきみは、おれのことを信頼していない、なんて言わないだろう?」
「どうかしら」
首をかしげたまま、マリナは笑った。
「わたくしね、子供が生まれたらきっと、あなたはその子に『エリ』という名をつけると思ってたのよ」
ぎょっと目をむいて、ケアルは妻の顔を見なおした。
「まさか……」
笑ってみせようとして、なぜかケアルの顔は強張りついた。そんな夫に、マリナはあわててかぶりをふる。
「ちがうわ、そんな意味じゃないの」
「そんな意味って……?」
ケアルが訊ねると、マリナは申し訳なさげに俯いた。
「だって、ほら。そんなふうに名前をつけるって……その、なんていうのか……亡くなったかたの名前をつけるものでしょう? わたくし、そんなつもりで言ったわけじゃないの」
「当たり前だよ」
肩をおとしたマリナに、優しい言葉をかけてあげなければと思いつつ、出た声は固く冷たく響いて聞こえた。
情けない。三年間ずっと行方がわからず、なんの情報も入ってこなかった先日までとは違うのだ。エリから荷物が届き、親友が自分のこともハイランドのことも決して忘れていない、ずっと気にかけてくれていたのだと、わかったばかりではないか。
ケアルは赤毛の娘を見おろし、笑顔をつくった。そうだ、エリにこの子たちのことを知らせてやらなければ。きっと喜んでくれる。おまえももう親父かよ、と笑うに違いない。
「おまえの母さまは、どうやらエリおじさんに嫉妬《しっと》しているらしいぞ」
きょとんと父親の顔を見あげる娘に、ケアルは言って聞かせた。
「まあ……!」
肩をおとし俯いていたマリナが、頬をふくらませてケアルを睨む。
「そんなこと、ありませんわ。絶対に」
「ほんとうに?」
「それこそ、当たり前ですわ!」
ぷいっとそっぽを向くマリナに、ケアルはくすくすと笑った。父親が笑う顔を見て、娘も一緒になって笑いだす。
「ひどいわ。フレアったら、いつもあなたの味方なんですもの」
「おいおい……」
そういうわけじゃないだろうとケアルが苦笑したところで、育児室の扉が開き、家令が客の来訪を告げた。ケアルがマリナとふたり、待ちかねていた客が、やっと着いたのだ。
扉が開き、執務室の中にいる男がこちらを振り返ったとたん、マリナは彼に走り寄って抱きついた。
「船長! コルノ船長!」
「久しぶりだな、嬢ちゃん。いや、もう奥方と呼ばなきゃいかんのかな?」
コルノ船長はいまにも溶けて流れだしそうな顔で、マリナを抱きしめかえした。
「嬢ちゃんでよろしいわ。コルノ船長にそう呼んでいただくの、わたくし好きなのよ」
そうかそうか、と船長はうなずく。そしてゆっくりと部屋に入ってくるケアルに視線を向けて、
「よお、兄さん。元気そうだな」
まるでほんの昨日、別れたばかりのような調子でそう言った。
「コルノ船長こそ、お元気そうで」
「ああ。航海の途中で水夫がひとり、疫病にかかってぶっ倒れたときには、俺もこれで終わりなのかと思ったがね。まあこの通り、まだまだぴんぴんしてるよ」
医師たちが安全宣言をだしたのは、昨日のことだった。船は昨日のうちに港に入り、すぐさまケアルはコルノ船長に会うため港へ向かおうとしたのだが、マリナが「ずるいわ」と言い出したのだ。自分もコルノ船長に会いたい、と。
できるなら双子にも会ってもらいたい、というマリナの希望もあって、ケアルは使いを出し、船長に足を運んでもらうよう頼んだのだった。
「――ところで、荷物はちゃんと届いたのかい?」
三人で卓を囲んで座り、農園でとれたお茶を飲みながら、コルノ船長がきりだした。
「はい。それについては、あらためてお礼を申し上げたいと思っていました」
「礼なんか、いらんよ。それより兄さんは、荷物の贈り主について話を聞きたいんじゃないかい?」
そうです、とケアルは素直にうなずく。
「エリとは……どこでお会いになったんですか?」
「デルマリナの港さ。いきなり船に訪ねてきて、荷物を運んでほしいと頼まれた。話を聞いてみりゃ、兄さんの友達だって?」
「ええ。親友です」
ケアルがそう答えたとたん、船長は顔をくしゃくしゃにして笑った。
「やっぱりな。兄さんだったら、そう言うと思ってたよ。親友、だってな」
「それは……どういう意味でしょう?」
「いや。あの坊やがさ、自分は今でもケアルのことを親友だと思ってるけど、ケアルのほうは自分をそう思ってくれるかはわからない、とぬかすんだ。だもんで俺は、兄さんなら絶対に今だって親友だと言ってくれるさと、胸をはって保証しちまったんだ」
「エリが、そんなことを……」
胸が痛む。エリにそんなことを言わせてしまった自分が、なんだか腹立たしい。
「俺はあの坊やに、荷物を他人に頼むぐらいなら、一緒の船でハイランドへ帰ったらどうだと誘ったんだがね。なにやら、大切な仲間がいるらしい。帰れない、と言ってたよ」
「そうですか……」
「大丈夫さ、どえらく元気そうだった。仲間ってのも、いい連中なんじゃないか。そんな感じがしたぜ」
しんみりした雰囲気になったところで、マリナが話題を変えた。
「実はわたくしたち、コルノ船長にご報告したいことがありますのよ」
「ほぅ、そりゃ何だい?」
「子供が生まれましたの。双子の、男の子と女の子ですわ」
船長は目を丸くして、ひゅっと口笛をふいた。
「そいつはすごい。ちょっと待てよ――ってことは、ピアズのとっつぁんはいきなり、ふたりの孫をもつ爺さんってことか。で、お父上はもうそれを知ってるのかい?」
「ええ、たぶん。お父さまには、今季いちばん最初に来た船に、ご報告の手紙を届けてくれるようにお願いしましたの」
「うん、それがいい」
「それで――コルノ船長、子供たちと会っていただけますわよね」
いま呼びますわ、と立ちあがったマリナに、しかしコルノ船長は、
「いや、やめよう。会わないほうがいい」
「どうしてですの?」
「俺はぜひにも会いたいんだがね。ちょっと心配なことがあるんだ」
船長は渋い顔で、顎髭をなでる。
「ひょっとして、疫病を心配されているんですか?」
訊ねたのは、ケアルだった。船長は軽く目をみひらき、うなずいた。
「ああ。医者は、もう心配はいらないだろうと言ってたがね。だが子供は――まだ小さな子供は、体力もないしなぁ」
立ちあがったままのマリナは、困惑の表情でケアルを振り返る。ケアルはマリナにうなずいてみせると、船長に向き直った。
「お気遣いいただき、ありがとうございます。子供たちと会っていただくのは、次の機会にということで――」
「ああ、そうしてもらうとありがたい。それに次回にしてもらえりゃ、玩具かなにか、おじちゃん大好きとか言ってもらえそうな物を用意しとけるからな」
そうですね、とケアルは苦笑した。
「――ところでその疫病ですが、いったいどこから?」
ケアルの問いに、コルノ船長は小さく唸って顎髭を撫でる。
「同じ疫病かどうかはわからないがね、たぶん最初は、南航路にあるタジアって港なんだと思う。四ヶ月ぐらい前かな……タジア港が壊滅状態になったんだ、疫病でね」
「壊滅状態……?」
「老人や子供からはじまって、大人連中までがバタバタ倒れたらしい。デルマリナじゃすぐに、疫病を持ち込まないようにってんで、臨検の強化とか色々はじめたんだ。それでなんとかくい止めてくれりゃいい、と思ってたけどな。うちの船で患者が出たんじゃ、はたしてどうなってることか……」
ちょうど臨検強化がはじまった頃に出航したからな、と船長は付け加えた。
「つまり――デルマリナの現状はわからないということですか?」
「ああ。指揮をとってるのは、あのピアズさんだからな。まあふつうなら心配はいらねぇと思うが」
でもな、と言いながら船長は首のうしろを指さした。
「ここんとこが、チクチクするんだよ。俺は昔っから、やばそうな時はここがチクチクするんだ」
その船を発見したのは、ギリ領の伝令だった。今季、港へ着いた船のほとんどは外輪船だったが、その船は違った。そのうえ船体はハイランド産の金属で加工もしていない、ごくごく古い型の船だったのである。
船はギリ領の海域をのろのろと進み、比較的大きな島の側に停泊した。伝令は水夫たちが小舟をおろすのを目にして、あわてて公館へ戻り、領主に報告したのだった。
すぐにギリ領主は、デルマリナ船の乗員たちが上陸した島へ、使者を送った。使者は丸一日経って公館へもどり、おそろしい知らせを領主にもたらしたのである。
船が発見されてから二日後。ライス領公館に、まずギリ領の伝令がやって来た。
「ライス領主どのは、このハイランドを疫病禍に陥れるおつもりか!」
優柔不断なギリ領主とは思えぬ強い調子で、ケアルを責めたのである。
「聞けば、デルマリナは疫病が蔓延《まんえん》し、すでに市民の半分以上が死亡したとか。それを知りながら、疫病患者の出た船を港に入れるとは、どのような所存あってのことか!」
続いてギリ領と入れ替わるように、マティン領の伝令がやって来た。
「現在、港に停泊中の船を二隻とも、即刻出航させるよう手配願いたい。そののちに、疫病患者が出たとわかった船をなにゆえ追い返すこともせず入港させたのか、詳細な説明をいただきたい!」
最後に一日おいて、フェデ領の伝令がもったいぶった態度で告げた。
「全領主による『五人会』の開催を、要求いたします。すでにギリ、マティン、ウルバの三領主には賛同を得ております」
五人会の開催地は、五つの領がそれぞれ順番に持ち回っている。次に開催されるときはライス領で、と決まっていた。
「三日後を予定しておりますので、そのご準備を願います」
ケアルに否と言える資格は、どうやらなさそうだった。
三人の伝令たちが帰ると、今度は港の管理を任せている家令のひとりから、緊急の知らせが入った。
「埠頭で、島人たちが騒いでいます! デルマリナの水夫たちと、睨みあっている様子で……中には、船に向かって石礫《いしつぶて》を投げつけている者もいるようです」
このままでは収拾がつかない。もし島人たちと水夫らの睨み合いが暴力沙汰に発展した場合、わずかな人数の家令では止めようがない。ゆえにぜひ応援を寄越してほしい、とのことだった。
「まさか、ご自分でいらっしゃるなどと考えてはおられませんよね?」
わかったとうなずいたケアルが、すぐ執務室から出て行こうとするのへ、家令たちがあわてて引き留めた。
「おやめください! 危険です!」
「もし乱闘にでも巻き込まれたら、どうされるおつもりか!」
ケアルは家令たちを振り払い、怒鳴りつけた。
「では、誰が止めるんだ! この中で誰かひとりでも、かれらを止める自信がある者がいるというのか!」
己の失敗を、ケアルは自覚していた。デルマリナ船がたてた黄色い旗の意味を、もっと早くに公表するべきだった。医師たちがもう安全だと保証したからといって、島人たちにも港のあるマティン領にも告げず、そのまま入港させるべきではなかった。何も知らされなかったことが、どれほどの不信感を呼び起こすか、わかっていたはずなのに……!
「おれが、判断を誤ったんだ。おれの失敗はおれ自身が始末をつける!」
領主となって以来、ケアルがこれほど激した言葉を家令に投げつけたことはない。家令たちは言葉を失い、執務室を出ていく若領主を見送ったのだった。
ケアルが港に着いたのは、夕刻だった。報告の通り、埠頭には五十人からの島人たちが集まり、船上の水夫らと対峙《たいじ》していた。
空気はぴりぴりと緊張し、ひっきりなしに島人たちから「出て行け!」「失せろ!」などの怒声が飛ぶ。一方、水夫らはまだ島人たちより冷静にみえた。おそらくコルノ船長の指導力によるものだろう。
ケアルをいちばん最初に見つけたのは、顔見知りの島人だった。
「ありゃ、誰だ?」
「若領主だよ、ライス領の」
「なんで、領主がひとりで?」
ひそひそ交わす声とともに、埠頭を船に向かってゆっくり進むケアルの前で、人垣が割れるように島人たちは道を開けた。道の突き当たりには、ケアルもよく知る男、頬から首にかけて火傷のあとがあるラキ・プラムが腕を組んで立っていた。
「あんたが来ると思ってたぜ」
歩み寄ったケアルに、ラキは口端に苦い笑いを浮かべて言う。
「そういう意味じゃ、あんたは期待を裏切らねぇ。けど、俺らの信頼を裏切った。それはわかってんだろうな?」
「ああ」
うなずいたケアルは、自分より少し背の高い男を見あげる。
「謝罪に来た。どうして欲しいか、言ってくれ」
「――ぬかしやがる。謝罪だと? 俺らがそんなもん、聞くと思ってるのかよ」
そう言ってラキは、ケアルの足もとに唾《つば》を吐き捨てた。
「あんたも他の上の連中と同じだ。島人なんざ、家畜以下だと思ってやがる。だから、疫病をもった船を入港させたんだろうが! 島人だったら疫病になっても構わねぇと、そう思ってんだろうが!」
「それは違う!」
「どこが違うってんだ? 言ってみろ!」
ケアルはラキの顔を、そして周囲にずらりと並ぶ島人たちの顔を見回した。激しい悔恨に苛まれていた先ほどまでと違って、今はもうケアルの頭には、かれらに真実を話し謝罪することしかない。
「――確かにおれは、船に疫病患者が出たことを知っていた」
ほらみろ、やっぱりな、という顔、顔、顔……。
「船に黄色い旗がたてられたのは、病人が出たというしるしだ。だからおれは、医師を船に派遣した。疫病患者のことを知ったのは、水夫たち全員を診察した医師からの報告によってだった」
「なのになんで、船を入港させた?」
「医師たちが、もう安全だと保証したからだ。それに――船に疫病患者が出たのも、一ヶ月も前のことだった」
「つまり、医者を信じたってのか?」
ラキの問いに、ケアルはうなずいた。
「そうだ。医師たちは乗船して、水夫全員を診察している。医師たちはおれの頼みに応えて、何が起こったのかもわからない船に乗ってくれた。だからおれは、かれらを信じたんだ」
いつの間にか、埠頭は静まりかえっていた。今はもう、ひそひそと交わす声もない。
「おれがきみたちに謝罪したいのは、船がたてた黄色い旗の意味を知らせなかったことだ。疫病患者が出たことも、医師たちがもう安全だと保証したことも、きみたちに知らせるべきだった。おれは港の管理責任者としての義務を、怠《おこた》った」
許してほしい、とケアルは深く頭をさげた。島人たちは瞬間、ぎょっと目をむき、互いに顔を見合わせた。
「おいおい……」
困惑しきった様子で、ラキがつぶやく。
「ご領主さまに頭をさげられちゃ、こっちはどうすりゃいいんだか……。みんなたまげてるぜ、まったく――頭をあげろよ」
言われて、ケアルは頭をあげた。
「あんたの言いたいことは、わかったよ。あんたが別に、やばい船を島人に押しつけようと思ったわけじゃねぇこともな」
だがな、とラキは続ける。
「たとえ医者が安全だと言ったとしても、疫病が出たような船に、港にいてもらいたかねぇんだよ、俺たちは」
「しかし――」
「港のまわりにゃ、生まれたばかりの赤ん坊のいる家も、よぼよぼの爺さんがいる家もあるんだ。俺たちゃ、家族を守りたい」
その気持ちは、ケアルにも理解できる。ケアル自身、コルノ船長に拒絶されたからということもあるが、双子を彼に会わせなかった。ほんとうに心底から安全だと思っていれば、コルノ船長がなんと言おうが、双子を彼に紹介したに違いない。
「――わかった」
ケアルは唇をかみしめ、うなずいた。
「船には二隻とも、港を出てもらうよう伝える。ただ、どちらもまだ次の補給港へたどり着くまでに充分な水と食料が積み込まれていない」
ふたたびケアルは、頭をさげる。
「水と食料の補給だけは――頼みたい。かれらは我々を気づかって、黄色い旗をたててくれたんだ。一ヶ月も前のことなど、黙っていればわからなかったのに――」
その誠意に、せめて応えたい。だから頼むと、ケアルは拳を握りしめながら頭をさげ続けた。
「――わかったよ」
返事があったのは、しばらくしてからだった。
「補給のほうは、俺が責任もってなんとかしてやる。ただし、船は港を出てくれ。水夫たちも船をおりねぇよう、言い聞かせてな」
そう言って差し出されたラキの手を、ケアルは感謝をこめて握ったのだった。
* * *
「そうかい、やっぱりな……」
ケアルの話を聞き終えて、コルノ船長は渋い表情で顎髭をなでた。
「うちの船で、疫病の患者が出たんだ。デルマリナも無事じゃねぇだろうとは思ってたが――市民の半数以上が死んだとはな。話半分としても、どえらい事態だ」
「どうされますか? その……ハイランドを出航したあとは」
「帰るしかねぇだろうよ。水夫たちは、デルマリナに家族がいる者も多いしな」
「そうですね。安否を知りたい、と思うのも当然です」
「帰る頃にゃ、疫病がおさまってる――ってのが理想だがな。そこんとこ、あんまり期待しねぇようにしないとな」
そう言って船長は、ケアルを見た。
「兄さんも、安否が気になるだろ? 親友とか、それから舅《しゅうと》のピアズのおっさんとか」
「ええ。マリナが、特に……」
デルマリナに疫病が蔓延しているという情報に、最も動揺したのは、当然のことながらマリナだった。
「自分は父を捨ててきた身だからと、気丈《きじょう》にはしていますが」
「嬢ちゃんは、気が強いからな。気が強い女ほど寂しがりやなもんだぜ」
ふっと笑った船長は、やがてまじめな顔をして身を乗り出した。
「ピアズのおっさんと、兄さんの親友の安否は、俺が確かめて知らせてやるよ。ピアズさんのほうは、すぐわかるけどな。兄さんの親友のほうは――荷物ん中に、連絡先なんて入ってなかったのか?」
はい、とケアルはうなずいた。エリは連絡先どころか、今なにをしているのかさえ教えてくれなかった。
「んじゃ、ちょっと時間がかかるかもしれねぇな。でも絶対に、調べてやるよ」
「――ありがとうございます」
お願いしますと、頭をさげる。本当は、みずからデルマリナに渡って、エリの安否を確かめたいのだ。だが、そんなことはできないとケアルはわかっていた。ライス領主の自分が、デルマリナへ行って戻るほどの期間、公館を離れることはできない。
「――で。船のほうは、沖に移動させりゃいいんだな?」
「はい。申し訳ありません、おれの力が足りなくて……」
「いや、いいさ。俺が港の管理官だったら、やっぱり同じことさせるだろうよ。船長が水夫たちの身の安全に責任があるように、港の管理官には管理官の、領主には領主の、それぞれでっかい責任があるもんだ」
どこか感慨深げに、コルノ船長は軽く目を細めて顎髭をなでた。
「船乗りになりたての頃は、船長になったら好き放題、なんだってできるんだと思ってたけどな。そうじゃねぇんだ。――人間ってのはさ、いつになったらほんとに自由になれるんだろうな」
同じように軽く目を細め、ケアルは船長室の丸窓の外に視線をやった。
領主たちは意気揚々と、ライス領に乗り込んできた。
今度こそあの生意気な、まだ二十二、三の若造のくせに他のどの領主たちよりも有能で実績もあげ、領民たちに慕われているライス領主を、へこませてやることができる。領主たちがそう考えていることは、誰の目にもあきらかだった。
「そんなに心配しても、仕方ないさ。なるようにしかならないよ」
心配した家令たちが入れ替わり立ち替わり執務室へやって来ては、こうしてはどうか、ああ言ってはどうか、と助言してくる。そのたびにケアルは笑ってそう言い、家令たちに頭を抱えさせた。
「どうにかなりそうなの?」
マリナも心配してやって来た。
「ああ。べつにこちらは、疫病に汚染されている船を入港させたわけではないからね」
「その通りだけど、あのご領主たちが納得するのかしら?」
「納得させる必要はないさ。文句をつけさせなければ、それでいい」
ただ問題は――とケアルは腕を組んだ。
ケアルが最も懸念《けねん》しているのは、これから先のデルマリナとの交易だった。はたして領主たちは、来季にやって来るデルマリナ船を受け入れてくれるだろうか。疫病を理由に、デルマリナとの交易をやめるべきだと主張するかもしれない。
「――デルマリナは、いつ復興するんだろうか?」
思わずつぶやいたケアルに、マリナがにっこり微笑んだ。
「すぐよ。お父さまがいるんですもの」
「うん。それを――ご領主たちに、納得させなきゃならないんだ。これこそ納得させなければね」
マリナが軽く目をみひらき、ケアルを見つめた。
「納得……そうね。デルマリナにもう疫病の心配はないって証明できなきゃ、納得していただくのは難しいわね」
うなずくそのマリナの横顔が、どこか決意をひめたものであったことを――ケアルは後になって思い出したのだった。
四人の領主と、マティン領主代理として出席した一人の摂政による「五人会」は、ライス領主を責める発言から始まった。
「まずはライス領主どのが、デルマリナ船に疫病患者が出たことをなぜ我々に伝えなかったのか、その真意をうかがいましょう」
顎をそらして口髭をひねりあげながら、フェデ領主はうすく笑った。
「いま、疫病患者が出た、とおっしゃいましたが――」
ケアルは円卓を囲む領主たちを、順に眺めやった。
「一ヶ月も前に出た患者について、船にその報告義務はありません。したがって私も、お知らせする義務を感じませんでした」
きっぱりと言い切ったケアルに、フェデ領主は円卓に身を乗り出した。
「しかし、疫病の患者なのだろう! 疫病患者は発見し次第、他領に知らせる――それが当然ではないか! 疫病となれば、一領の問題ではないはずだ!」
「我々は、疫病患者を発見はしておりませんので」
涼しい顔でケアルは答える。
「医師が乗船して、水夫全員を診察しましたが、疫病にかかった者はだれひとりとしていませんでした」
フェデ領主は忌々しげに顔をしかめ、ケアルをにらみつけた。代わってマティン領の摂政が、身を乗り出した。
「けれど、デルマリナでは疫病が蔓延しているというではないですか。それについては、他領にも知らせるべきだったとお思いになりませんか?」
「入港した二隻の船がデルマリナを出航した当時は、デルマリナに疫病の発生はありませんでした。ハイランドでいちばん早く、デルマリナでの疫病の流行を知ったのは、ギリ領主どのではありませんか?」
ケアルに視線を向けられ、円卓をはさんで正面に座るワイズ・ギリは、びくっと飛びあがった。
「発見された船には、医師を派遣されましたか?」
「いや……それは……」
「船内に、疫病の患者は?」
「その……詳しい話は聞いていないので」
だんだん小さくなっていくギリ領主に、ケアルはぐっと身を乗り出し、おどおどとしたその顔を見つめた。
「なぜ、お聞きになっていないのですか? デルマリナで疫病が発生したと報告をお受けになったのならば、なにをおいても先に、それを調べさせるべきでしょう」
「し、しかし……船はもう、領内からは追い払っているし……」
「その船が、ギリ領を出て他領へ向かったとしたら、どう責任をとられるおつもりです?」
ケアルの言葉に、ギリ領主はぎょっと目をむき、あわてた様子で両隣のフェデ領主とマティン領の摂政へ目をやった。
とたんに、ドンッと円卓が鳴った。
「――ライス領主どの、ギリ領内のことを他領の領主が口出しするのは、いかがなものかと思われますぞ!」
円卓に拳をたたきつけたフェデ領主が、ケアルを睨みつけている。なるほど、とケアルはうなずいた。
「そんな理由で、皆さんはギリ領主どのへ助言なさるのを控えていらっしゃったんですね。たった今、疫病となれば一領の問題ではない、とおっしゃったばかりなのに」
「だからギリ領主どのは、我々にも知らせてくださったのだ! あなたのように、他領にも知らせず自領内で勝手に処理してしまったわけではない!」
「そいつは、自領内で処理しようにもできなかったから、他領に泣きついたっていうだけだろうが」
ふいに横から、それまでだらしなく足を組み、話し合いに参加しようという姿勢もなくそっぽを向いていたウルバ領主が、口を出してきた。
「噂にたがわぬ臆病者、優柔不断というわけだな」
ギリ領主を見やってオリノ・ウルバは、鼻先で笑ってみせた。
「聞けばそっちのマティン領主代理も、自分のとこで処理できないからと、自領内に停泊していたデルマリナ船をライス領主に押しつけたんだろうが。そろいもそろって、ろくでもない連中ばかりだな」
言いながらウルバ領主は、見ろとばかりに胸をはる。
「船が来たのが我がウルバ領内ならば、とっととハイランドから船を叩き出してみせただろう。このオリノ・ウルバ、そっちの臆病者ともこっちのろくでなしとも違うからな」
「ウルバ領主どの! お言葉が過ぎるのではないですか!」
「そっ、そうです!」
話し合いの方向は、このウルバ領主の発言により、すっかりずれてしまった。
ウルバ領主は、そもそも領主たちはデルマリナをむやみに恐れすぎていると主張し、他の領主たちは、恐れているのではなく交易相手として尊重しているだけだ、と反論した。そのうち話題は過去にさかのぼり、十二隻のデルマリナ船がやって来たときの互いのあわてふためきようを、臆病者だの礼儀知らずだの無能者だのと罵《ののし》りあった。
収拾つけられそうもない議論の混乱に、ケアルはすっかりあきれかえり、そのうち自然におさまってくれるのを願いながら、ただ聞いているしかなかった。
やがて議論の方向が修正されたのは、最初に道をずらしてしまったウルバ領主の発言からだった。
「我らは、デルマリナとの関係を考え直すべき時期にあるのではないか?」
まともなことを言い出したウルバ領主に、他の領主たちは互いに顔を見合わせた。
「――それは、どういう意味ですか?」
「いまデルマリナは、疫病が蔓延しているのだろう。そのうち、表向きは交易のふりをして、疫病から逃げてきた者どもが、このハイランドへ押し掛けてくるのではないか?」
その言葉に、ケアルをのぞく三人の男が大きく目をみひらく。
「そ……そうですよ。げんに我が領へ来た船も、交易船ではなく避難してきた者たちの船だったんですから」
「放っておけば、デルマリナの疫病を持ち込まれることになる……!」
「そうですな。これはゆゆしき事態だ」
皆の意見がかたまりはじめたところへ、ウルバ領主がまた、全員を黙らせてしまうような発言をした。
「簡単なことだ。デルマリナとの交易を、中止すればいい。そうすりゃ来る船は全部が全部、追い返したって構わないだろう」
ふたたび領主たちは、互いに顔を見合わせた。あれこれ言いながらも、現在のハイランドがデルマリナとの交易で得ているものは大きかった。贅沢《ぜいたく》な品々が輸入され、最もその恩恵にあずかっているのは、領主たちである。交易を中止してしまえば、そんな品々は手に入らなくなる。
しかし、疫病はおそろしい。領主たちは交易と疫病を天秤《てんびん》にかけ、さてどちらへ傾くものかと考尺込んだ。
静かになった円卓を、ケアルはゆっくりと見回した。いつの間にか五人会は話し合いの目的を、ケアルをたたくものからハイランドの未来を考えるものに変えている。ならば議論に参加する価値がある。
「――疫病の発生は、永遠に続くものではありません」
話しはじめたケアルに、全員の視線が集まる。
「医師の話によると、疫病が下火になるのに、うまくすれば三ヶ月とかからないだろう、とのこと。デルマリナからハイランドまでの距離を考えれば、今ごろはもう、デルマリナから疫病禍は去ったあと――という可能性も高い。交易を中止する必要はないと、私は考えますが?」
「可能性が高い、とおっしゃるか?」
口髭をひねって鼻を鳴らしたのは、フェデ領主だった。
「ライス領主どのは、可能性などに頼って政をされているとみえる。私にはとても、まねはできませんね。できそうにないことを、できる可能性もあると、領民に無理を押しつけるなど、とてもとても……」
わざとらしく肩をすくめ、首をふってみせる。
「その通りです。大丈夫かもしれないから、というだけで我がマティン領に船を入れるなど、領民が黙ってはいないでしょう」
「わ、私も……、それでは家令たちを説得できません」
そうでしょう、とフェデ領主は満足げにうなずいた。
「デルマリナで疫病禍が去ったと、誰が証明できるのです? 当人たちは嘘をつくに決まっていますからな、信用できませんぞ」
リー・フェデは目を細めて笑いながら、ケアルを見る。
「まあ、ライス領主どのはデルマリナとの関係も深い。デルマリナを信用したいお気持ちは、わからないでもありませんがね」
ああそうだ、とフェデ領主は軽く両手をうち鳴らした。
「ライス領からデルマリナへ、使者を出されてはいかがかな? 使者がその目でデルマリナを見て、安全だというならば、我々も信用しましょうぞ」
どう思われるか? と問いかけられて、ギリ領主もマティン領の摂政もうなずいた。
「まあ私なら、疫病の蔓延するデルマリナへ家令を遣《や》るなど、とてもできませんがね」
そう言って高笑いするフェデ領主を、ケアルは軽く目を細めて見つめた。
「――デルマリナへ送った者が安全だと言えば、納得いただけるんですね?」
「ほう? ライス領主どのは、家令をデルマリナへ送られるとおっしゃるか? ああ、そうか。島人どもを、使者にされるおつもりなんですな。島人どもならば、疫病で死のうが航海中の事故で命をおとそうが、構いはしませんからな」
しかし、とフェデ領主は続ける。
「島人どもが言うことなど、誰も信用せんでしょうがね」
「いいえ、違います」
きっぱりと、ケアルはかぶりをふった。
「デルマリナへは――私が参ります」
このケアルの発言には、フェデ領主はもちろんのこと、他の面々もぎょっと目をむいて若いライス領主の顔を見つめた。ケアルはそんな領主たちを順繰りに見ながら、にっこりと微笑む。
「私がデルマリナへ赴けば、問題は――」
「大ありですわ」
いきなり背後で声がして、全員が一斉に振り返った。
「あなたのことだから、きっとそう言い出すんじゃないかと思っていました」
茶器を乗せた銀の盆を掲げたマリナが、背後に同じ銀の盆を持つ女たちをしたがえて、扉のところに立っていた。
「お茶をどうぞ。とても議論が白熱されているようで、喉も渇かれたことでしょう?」
マリナが女たちに合図し、円卓の上に茶器が置かれていく。お茶を配り終えると、女たちは軽く一礼して部屋を出ていき、最後にマリナが残った。
ゆっくり領主たちを見回したマリナは、静かに息を吐き、
「デルマリナへは、わたくしが参ります」
ケアルは大きく目をみひらき、いきなりとんでもないことを口にした妻の顔を見つめた。そんなケアルに視線を向け、マリナはにっこり微笑んだ。
「あなたには、領主としてのつとめがありますでしょう? あなたがライス領を離れては、家令も領民たちも困ります。でしたら、あなたのかわりにわたくしが、デルマリナに参りますわ」
「なにを考えておられる!」
声をはりあげたのはフェデ領主だ。
「女が、政治に口をはさむとは!」
「あら。わたくしはべつに、政治に口をはさんでなどいませんわ。夫を支えることは、妻たる者として当然のつとめ。フェデ領主さまも、そうお考えでしょう?」
「マリナ……!」
領主たちの前ではさすがに怒鳴りつけることもできず、ケアルは目顔でたしなめる。だがマリナは、以前ハイランドへ向かう船中で家には帰らぬと宣言したときと同じ目をして、ケアルに首をふってみせた。
「わたくしが、デルマリナの状況を確かめます。安全が確認されたなら、ハイランドへ使者を送ります」
「女がそのようなこと、できるものか!」
ふたたびフェデ領主が声をはりあげる。マリナはフェデ領主に視線を移すと、ぐいっと顎をもちあげた。
「わたくしの父は、ピアズ・ダイクンです。まさか、お忘れではございませんわね?」
ピアズ・ダイクンは、ハイランドの領主たちにとって、デルマリナそのものといってもいい存在だった。返す言葉を失った領主たちを見回し、マリナはドレスの裾をつまんで一礼する。
「ライス領の使者ではなく、ハイランド五領の使者として、デルマリナへ参ります」
頭を抱えて座り込むケアルの前に、マリナはゆっくりと腰をおろした。
「怒っていらっしゃるの?」
いや、とケアルは首をふる。
「困っているんだ。それから、すごく後悔してる」
だれかをデルマリナへ遣らねばならないとしたら、このハイランドで一番の適任者はマリナだ。デルマリナへの渡航経験があるのは他には、ケアルしかいない。だがマリナの言うとおり、ケアルにはライス領主としてのつとめがある。
どんな状況下にあるのか予想もつかぬデルマリナへ、デルマリナを知らぬ者を遣ることはできない。使者として役目をはたせる人物を――そう考えるとやはり、マリナが最もふさわしいだろう。
だから、困るのだ。領主としての自分と、彼女の夫としての自分、ケアルはそのどちらをとることもできずにいた。
「お困りになっているのはわかるけど、どうして後悔していらっしゃるの?」
「五人会が始まる前に、きみにおれが懸念していることを打ち明けてしまった。だから後悔しているんだ」
デルマリナにもう疫病の心配はないと証明しなければならない――そんなことを言ったから、マリナは考えはじめたのだろう。五人会がひらかれたあの場所で、突然思いついたわけでない。ずっと考え続けていたはずだ。だからこそ、あの場で胸をはり、宣言してみせた。
「おれは自分に、腹が立つよ」
それこそ怒鳴ってでも殴ってでも、マリナを黙らせるべきだった。領主たちは「ライス領の使者としてでなく、ハイランドの使者として」と言ったマリナに、そういうことならばと納得してしまったのだ。それならば充分、領主たちの面目も立つ。自分たちの懐を痛めることもない。
「ねぇ、こう考えていただけない?」
マリナがケアルの顔をのぞきこんだ。
「わたくしは、ちょっと里帰りするだけなのよ。ほら、デルマリナを出て三年以上経つんですもの。里帰りしても、ちっともおかしくはないでしょう?」
「疫病が蔓延しているかもしれない所へ、里帰りだって?」
苦く笑って言ったケアルの手を、マリナがぱしんっと音をたてて叩いた。
「莫迦なことを、言わないでちょうだい」
いたずらな子供を叱る母親の顔をして、マリナはケアルを軽く睨む。
「疫病は去っているわ、きっと。あなただって、そう言ったじゃないの。お医者さまが、三ヶ月ほどで下火になるはずだ、とおっしゃったって」
「それは……そうだけど……」
「わたくし、お父さまに会えるのが楽しみだわ。手紙を出してもお返事をくださらないぐらい、勝手に家を出たわたくしをまだ怒っていらっしゃるかもしれないけど。でも、お怒りをとくには良い機会だと思わない?」
マリナがはしゃいでみせればみせるほど、ケアルの悔恨の思いは強くなる。ケアルは唇をかみしめ、マリナを見つめた。
「――そんなことを言って、きみはおれをひとりにするんだ」
言葉がこぼれ出る。自分でも情けないことを言っているとわかっているのに、止まらない。
「きみと離れるなんて、おれは嫌だ」
こらえきれず、両手に顔をうずめて、ケアルはつぶやいた。
「――みんな、おれを残していってしまう。もう誰も、おれの側からいなくならないでほしいのに……」
父上も、兄上たちも、エリも、ギリ老も、みんなもうおれの側にはいない。誰もいないのに、なぜおれはここに残らなくてはならないのか。みんな勝手にいなくなって――残されたおれがどんな気持ちでいるのか、きっと誰もわかってはくれないだろう。
ひとり残されるのは嫌だ。おれだって一緒にいきたい。みんなと、マリナと一緒に。
「――ケアル……」
囁く声がして、両手に顔をうずめたケアルの髪を、マリナが優しく撫でる。
「大好きよ、ケアル。わたくしは絶対に、帰ってくるわ。それに、あなたはひとりになんてならないもの」
ゆるゆるとケアルは顔をあげた。
「レイズとフレア。あの双子はきっと、何十人ぶんもの存在感があるわよ。あなたがどんなにひとりになりたくったって、きっと放っておいてはくれないわ」
マリナはにっこりと微笑んだ。
「頑張ってね、お父さま」
* * *
五人会がひらかれてから、三日後の朝。ライス領公館から見える海の沖合いに、二隻のデルマリナ船が姿をあらわした。
やがて舟着き場に、コルノ船長が寄越した小舟が到着し、公館はにわかに騒がしくなった。仕事中の者も、そうでない者も、若領主の奥方を見送るために公館を出て、舟着き場に向かった。街からも、多くの婦人や子供たち、老人や彼女に世話になった者たちが、続々と舟着き場へ集まりつつあった。
ケアルは息子を腕に抱き、赤毛の娘を抱いた乳母とともに、舟着き場へ降りる縄梯子の前に立った。ケアルのうしろには、家令たちがずらりと並ぶ。
「レイズ、お父さまをよろしくね」
息子の頬にくちづけて、マリナは我が子の黒い髪を撫でた。
「フレア、お父さまの言うことをよく聞くのよ」
娘をぎゅっと抱きしめて、きかん気そうな我が子の目をのぞきこむ。
そして最後にケアルの前に立ち、マリナはいまにも泣きだしそうな夫の顔をしげしげと見つめた。深い緑色の目を、頑固そうな眉を、きゅっと結んだ唇の形を、そのまま目にやきつけておこうとしているように。
乳母が気をつかって、ケアルの腕から黒髪の息子を引き取った。
「――ケアル」
ゆっくりと腕があがり、マリナはケアルの背中に手を回した。
なにか言わなくてはと思うのに、言葉が出てこない。けれどそのぶん、涙が出そうなほどの愛しさがこみあげてきて、ケアルは彼女の身体をぎゅっと抱きしめた。
次に会えるのは、いったいいつになるのかわからない。だが絶対に、もう二度と会えないとは思いたくない。
そっと優しくケアルの胸を押して、マリナが離れた。
「子供たちを、よろしくね」
「――ああ」
うなずいたケアルの頬に、瞬くようなキスをふたつして、マリナは踵をかえす。
迎えの水夫にささえられ縄梯子を降りていく母の姿に、別れを悟ったのか、子供たちが顔をくしゃくしゃにして泣きはじめた。
「奥方さま……!」
「マリナさま、お気をつけて!」
見送りに来た領民たちが、舟着き場に降りて小舟に乗り移るマリナに向かって、声をはりあげ手を振る。
「お帰りになるのを、待ってます!」
「マリナさま!」
泣きながら、千切《ちぎ》れんばかりに手を振る。小舟の上ではマリナが、崖上の人々に向かって手を振っていた。ケアルのうしろに並ぶ家令たちも、それぞれ目頭をおさえ、ゆっくりと陸地から離れていく小舟を見送った。
両の拳を握りしめ、小舟を見つめていたケアルは、やがて舟が豆粒ほどに小さくなると、いきなり踵をかえした。
「若領主!」
やにわに走り出したケアルに、家令たちが驚いて呼びとめる。だがかれらの声は、ケアルの耳には届かなかった。
走って走って、息が続くまで走って公館に戻ったケアルは、無我夢中で翼を前庭に引き出した。飛行服をひっつかみ、着込むと、安全点検もせずに留め具につなぐ。
操縦桿を握りしめ、草を蹴って、ケアルは走り出した。前庭の端で浮きあがった翼を、強引に風に乗せる。たちまち翼は空高く舞いあがり、ケアルの視界はいっきに円をえがいてひろがった。
「……見えた!」
沖に浮かぶ、二隻のデルマリナ船。そこへ向かう、白い波の線に飲み込まれそうなほど小さな舟。舟の上には、黒い巻き毛を海風になぶらせたマリナがいるはずだ。
ケアルが身体をひねると、翼の端がすぱっと風を割った。風の上を滑り落ちていくように、みるみる翼は小舟のほうへと近づいていく。
やがて小舟の上で、漕《こ》ぎ手の水夫がケアルの翼に気づいたようだった。あそこ、とこちらを指さしながら、舟の真ん中に座るマリナに話しかけるのが見えた。白い手が豊かな髪をおさえ、マリナは水夫が指さすほうをゆっくりと振り返った。
表情までは見えない。マリナは翼を目にして、ケアルだと気づいたのだろうか。それもわからない。
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ケアルは少しでも長く彼女の姿を目にとどめておこうと、小舟の上空を何度も何度も旋回した。けれど、ひとつ回るごとにマリナが遠くなっていく気がした。同じ距離を保っているはずなのに。マリナはどんどん、遠ざかっていく。
悲しくなって、ケアルは旋回をやめた。操縦桿を握る手から力をぬき、あとはもう風にまかせる。
翼が風に流され着いたのは、帆船が遠くに見える小さな島の砂浜だった。ケアルは飛行服の留め具をはずし、翼と並んで砂の上に座り込んだ。小さな子供のように膝を抱え、船を見つめる。
二隻の船に近づいた小舟が、やがて甲板の上に引きあげられた。鳥が飛び立つ前に羽根をひらくように、船上に白い帆がひろげられる。
もう行ってしまう、と思わず身を乗り出したケアルの頭上で、ふいに陽がかげった。空を見あげたケアルは、息をのみこんだ。
「ゴラン……!」
巨大な白い鳥が、飛んでいく。
伝説の巨鳥はまっすぐ、帆をあげた二隻の船へ向かっていた。
「守ってくれ、ゴラン!」
鳥に向かってケアルは叫ぶ。マリナを守ってくれ、あの二隻の船を守ってくれ。
ケアルの願いが届いたのか、伝説の鳥はゆっくりと動きはじめた二隻の船を守護するかのように、船の上を旋回した。
船とともに遠ざかる白い巨鳥を、ケアルは身じろぎもせず見つめ続けたのだった。
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終章
「ご領主、こちらにフレアさまはいらっしゃいませんでしたか?」
執務室に駆け込んできた乳母《うば》が、書きもの机に座るケアルに訊ねた。
「あ……うん、いや、見なかったよ」
「そうですか……」
深いため息をつく乳母に、ケアルは苦笑しながら、
「いつも苦労をかけているみたいで、申し訳ない。ところで――フレアは今度はまた、どんなことをしでかしたんだい?」
「いえ、大したことはございません。べつに先日のように、おひとりで舟に乗ってしまわれたわけではありませんから」
公館中の家令までも動員して捜しまわったことを思い出したのか、乳母はおそろしそうにぶるっと身を震わせた。
「ただ、奥方さまのドレスを持ち出されたんです。あれほどお手をふれませんように、と申し上げたのに……」
「母親が五年ぶりで帰ってくると知って、興味をもったんだろうね」
ケアルは書きもの机の下に、ちらりと視線をやりながら笑った。
デルマリナにいるマリナから、帰りますと手紙があったのは、三ヶ月ほど前のことだった。彼女がひとりデルマリナへ、ハイランドの使者として出発してから、そろそろ五年になる。あのとき、ようやく這《は》いはじめたばかりだった双子もつい先日、五歳の誕生日をむかえた。
「私の力がおよびませんで、フレアさまはいたずらばかり……奥方さまになんと、お詫びをしたらいいのかと」
「そんなことないさ。元気ないい子に育ってくれて、私は嬉しいよ」
「そうおっしゃってくださるのは、ご領主だけです。レイズさまはまだ聞き分けもよく、私を気づかってさえくださいますのに、お嬢さまときたら……」
乳母はそう嘆きながら胸をおさえてみせるが、ライス領主の赤毛の娘は、その人なつっこさと明るさで、家令たちはもちろん領民たちからも好かれていた。顔なじみの島人たちは特に彼女には甘く、かれらは公館にやって来るたびに、玩具や菓子を彼女がほしがるだけ与えてしまうのだ。一方の息子レイズのほうは、船や翼に深い興味があるらしく、工房の隅に一日中でも座り込み、職人たちの仕事を見つめている。それをおとなしいととらえる向きもあるが、ケアルは何度か老家令や気むずかしいことで有名な職人たちが、まだ五歳の彼を相手に仕事や政治の話を語って聞かせている光景を目撃した。
どちらもいい子に育ってくれている、というのがケアルの本心だった。
「ああ、とくかくフレアさまをお捜ししなくては……! ご領主、フレアさまを見つけられたら、私にお知らせくださいましね」
そう言って乳母が執務室を走り出ていくと、書きもの机の下から小さな赤毛の頭がぴょんと飛び出した。
「乳母やは、行っちゃった?」
幼い声が訊ねる。ケアルが苦笑をかみころしてうなずくと、小さな娘は父の膝の上によじのぼってきた。
「フレア。母上のドレスを、いたずらしたんだって?」
「いたずらじゃないもん。ちょっと着てみたかっただけだわ」
つんと唇をとがらして、自分はちっとも悪くないと主張する。
「お母さまは、いつ帰ってくるの?」
「もうじきだよ。あと十日もすれば、港に船が着く」
「お母さまは、どこから帰ってくるの?」
「デルマリナだよ」
その地名は、島人や港の水夫たちから耳にしたことがあるのだろう。しかつめらしい顔をして「遠いのね」とつぶやく。
「デルマリナで、お母さまはなにをしていたの?」
「亡くなったお祖父さまに代わって、デルマリナの人々がいい暮らしをできるように、お仕事なさっていたんだよ」
「お祖父さまなら、知ってるわ。お父さまの前の、領主さまでしょ? 絵で見たことがあるもの」
「それは、私の父上だね。デルマリナには、母上のお父さまがいらっしゃったんだ」
ピアズ・ダイクンは、デルマリナが危機から脱しようという時に、疫病にかかって死亡した。マリナは父親の死に際に、間に合わなかったのだ。
マリナが到着したころのデルマリナは、いったんはピアズの指揮下、復興の兆しをみせていたものが、指導者を失ってふたたび混乱と荒廃の嵐に飲み込まれようとしていた。
デルマリナを復興させたい、いつかマリナの子供たちに美しいデルマリナを見せてやりたい――それが父親の望みだったと知って、彼女は決意したのである。父の望みは自分がかなえてみせよう、と。
「お母さまのお父さまも、領主さまだったの?」
「いや、違うよ。正義の旗手といってね……フレアにはちょっと、難しいか」
きょとんと首を傾げる娘に、ケアルは苦笑する。
「お祖父さまはね、大きな船をいっぱい持っていらっしゃったんだ。とても偉い、商人だったんだよ」
ケアルがわかりやすく言い方を変えてやると、娘は大きく目をみひらいた。
「大きな船をいっぱい? だったら、お父さまより偉いのね」
ハイランドとデルマリナの交易は、半年間の休止期間をおいて、復活した。子供たちはそれ以降の、港へ多くの船がやってくる光景を何度も目にしている。
マリナは父親亡きあとの、ダイクン家の事業をほぼ全部、受け継いだのだ。それどころか、デルマリナで初めての、女性大評議会議員となったのである。
交易船は毎回マリナの手紙を届けてくれたと同時に、デルマリナでの彼女の噂話も数多く伝えてくれた。曰《いわ》く、市民たちはマリナを「女ピアズ」と呼んでいるだの、マリナが議会で古株の大アルテ議員を相手に議論し、完膚《かんぷ》無《な》きまでにたたきのめしただの……。
「だったらお母さまは、お父さまよりも偉くていらっしゃるの?」
「さあ、どうだろうね。ひょっとしたら、そうかもしれないよ」
娘の素朴《そぼく》な疑問に、ケアルは苦笑するしかない。
なにしろ、マリナが大アルテ議員となって以降、デルマリナ評議会からハイランドへ向け数度にわたって出された要求は、ハイランドにあかるくない者が案を練ったとは思えないようなものだった。
ハイランドにもっと多くの港をつくること――それも全領に最低ひとつずつあることが望ましい。デルマリナとハイランドの双方に互いの領事館をおくこと。領事は各領から家令を選抜のこと。翼職人をデルマリナに派遣し、造船職人をハイランドに送り、それぞれ技術を交換しあうこと。デルマリナ船に島人を水夫として雇い入れるのを承認すること。
もちろんどれも一朝一夕でできることではない。互いに話し合いを重ね、ゆっくりゆっくりと実現していった。
五年が経ち、マリナがハイランドへ帰ると決めたのは、それらの多くが実現、あるいは実現の見通しが立ったからである。
「船が港に着いたら、お出迎えしに行ってもいい?」
「ああ、いいよ。でも、絶対にひとりでは行かないこと」
「だいじょうぶよ。ラキおじさんが連れていってくれるって、約束してくれたもの」
にっこり笑ってそう言った娘は、父親の膝からすべり降りた。そのまま執務室を走り出て行こうとする娘を、ケアルは父親の威厳を思い出して呼びとめた。
「フレア、いいかい? 乳母やにちゃんと、ごめんなさいを言うんだよ」
「はぁい」
駆けていく娘のうしろ姿に、ケアルはマリナの幼いころもあんなだったのかもしれないと思わずにはいられなかった。
* * *
その船は朝靄《あさもや》の中からふいに姿をあらわし、港にいた人々を仰天させた。
異様な外観の、船だった。船体の多くが金属製で、全体が鈍い白銅色だったのだ。木製の船体にタールを塗り込み、真っ黒な外観をもつ他の船たちとは、あまりにも違う。
白銅色の船の噂は、朝市がひらかれた港に集まった人々から、各島々へと伝わった。そして昼過ぎには、公館を訪れた島人の口からライス領主の耳にも入ることとなったのである。
「白い船……?」
「そうです。たぶんありゃ、ハイランドがデルマリナに売りつけてる金属ですぜ。もとはといや石っころの金属が、なんでまた水に浮くんだろうって評判でして」
「なるほど……」
実をいえばケアルは、木材資源のないこのハイランドで、船をつくるとしたら金属を使うしかないだろうと何年も前から考えていたのだ。デルマリナにも輸出しているあの金属ならば、錆びることも腐食することもなく、船体をつくる素材としてぴったりだ。だが残念ながらハイランドには、大きな船をつくる技術がなかった。
「推進装置は? 外輪なのか? それとも羽根がつかわれているのか?」
「外輪はなかったですぜ」
「……ということは、羽根か。ごく最近つくられた船だろうな」
船体はつくることができなかったが、ハイランドは「羽根」と呼ばれる最新の推進装置を金属でつくり、去年あたりからデルマリナに輸出していた。たちまち羽根は、デルマリナの造船業界を席巻《せっけん》し、今では生産が追いつかず、何人もの船主たちが羽根が手に入るのを待っている。ハイランドへ来る船の中に、まだ羽根をつかったものはない。
昨年輸出した最初の羽根を装着した船が、来たのだろうか。
(いや、それにはまだ早い……)
胸の内でひとりごちたケアルは、ある予感に全身が震えるのを感じた。
ハイランドから輸出した羽根ではない、別の羽根だとしたら――それができるのは、ケアルが知る限りかれらだけだ。親友のエリと、その仲間たちだけ。
心臓が早鐘をうつのを聞きながら、ケアルは立ちあがった。
「よし。行ってみよう」
確かに、変わった船だった。埠頭には多くの人々が集まり、白銅色の船体をもの珍しげに見あげていた。
ケアルが埠頭に姿をあらわすと、船を見学していた者たちが周囲に集まってきた。
「ご領主なら、来ると思ってたですよ」
「珍しい船ですからね」
うちのご領主の好きそうなものならお見通しですよ、と口々に言われて、ケアルは苦笑しながらその船の水夫に声をかけた。
「申し訳ないが、船内を見学させてはもらえないだろうか?」
不審そうな顔をする水夫に、埠頭にいる人々が「このおひとはライス領主だよ」「正真正銘の本物さ」「俺たちが保証するよ」と援護してくれる。そのおかげか、水夫は引っ込んで、やがて甲板に別の人影があらわれた。
瞬間、ケアルの鼓動がはねあがる。しかし人影は懐かしいエリの金髪ではなく、茶色い髪をぼさぼさにのばした、ひょろりと背の高い若者だった。
いささか落胆しながらも、甲板にあがったケアルは若者に「よろしく」と手を差し出した。
「私は、ケアル・ライスです」
ケアルの手を握りかえした若者は、小さく首をかしげ、
「ご領主だと、うかがいましたが?」
「ええ、まあ。しかし、だからといってあまり気をつかわないでください」
照れながらうなずくと、若者はにっこり笑みを浮かべた。
「聞いていた通りです――いや。僕は、ダーリオ・ラン。この船の、まあ船長みたいなことをやっています」
船長みたいなこと? ケアルは一瞬首をかしげたが、自分のように偉そうな肩書きを名乗るのを恥ずかしいと思っているのだろう、と考えた。
実際、船内を案内しはじめた彼は、なかなか好感のもてる若者だった。機関室の説明もわかりやすく丁寧で、船体につかわれている金属に話がおよんだときは、拳を握りしめ目を輝かせて、誇らしげに語ってくれた。
だが申し訳ないことにケアルは、彼の話の半分も聞いてはいなかった。水夫らしき人影がひょっこりあらわれるたびに、エリではないかと目をこらしていたのだ。
船の中をすべて回ったが、エリの姿はどこにもなかった。しかし、冷静に考えてみれば、もしエリがこの船に乗っているなら、ケアルが来ているのを知って無視するはずがない。真っ先に飛び出してくるはずだ。それに、そもそもハイランドに到着して、ケアルにひとことも言って寄越さないはずがないではないか。
この船はやはり、昨年最初に輸出した羽根がつかわれているのだろう。デルマリナの造船技術もずいぶん進歩したというし、こんなに早く新しい船が完成してもおかしくないのかもしれない。
そうなると気になるのは、別のことだ。
「ところでこの船の、船主はどなたなんですか?」
お茶を一杯いかがですかと誘われ、船長室らしき部屋で卓をはさんで腰をおろしたケアルは、いちばん気になることを訊いた。
「船主は、いません」
「は……?」
聞き違いではなかったかと、にこにこ微笑む若者の顔を見なおす。
「言ってみれば、この船の乗組員全員が船主ですね」
「それは……どういう……?」
ケアルが目をみひらいたところで、お茶が運ばれてきた。これもまた驚いたことに、お茶を運んできたのは、十五、六歳の少女である。船には、客として女性を乗せることもあるが、女を乗せると海が荒れるとして、水夫たちはいやがるのだ。ところがこの少女は、どうしても客には見えない。
「こちらが、あのケアルさんだよ。ライス領主さまだ。ご挨拶なさい」
ダーリオに言われて、少女はぺこりと頭をさげた。ケアルはまたも、目をみひらくしかなかった。あのケアルさんだよ、だって?
少女が恥ずかしそうに船室を出ていくと、ダーリオはケアルに向き直った。
「なんだか、よくわからないんですが。ひょっとして私は、あなたとお会いしたことがあったでしょうか?」
「いいえ、お目にかかるのは今日がはじめてです。でも僕は、あなたを知ってますよ」
はあ、とケアルはわけのわからないままにうなずいた。ライス領主の名はデルマリナでも、ある程度は知られている。それというのも女だてらにデルマリナ初の大アルテ議員となった、マリナの夫でもあるからだ。
「――僕と、さっきの少女は、エリに拾われたんですよ」
「エリ……?」
「そうです。エリ・タトルです」
瞬間、耳の奥で海鳴りの音が聞こえたような気がした。ケアルはシャツの胸をつかみ、湯気のたつ茶器に目をおとした。
「エリは……エリは、どこにいるんですか?」
ゆっくりと視線をあげながら、ケアルはすがりつくような思いで訊ねた。
この船の中にはいなかった。では、どこにいるのか? どうしてこの場に、あらわれてはくれないのか。
ダーリオはかすかに笑みを浮かべながら、丸窓の外に目をやった。
「――五年前、デルマリナで疫病がはやったとき、僕たちは市街にいました。この船がちょうどできあがって、進水式のためにデルマリナの造船所へ行っていたんです」
「五年も前に、この船が……?」
「ええ。エリは、はしゃいでいました。僕らの新しい船ができたことと、ハイランドの親友に恩返しができそうだから、と言って」
懐かしそうにダーリオは目を細める。
「進水式が終わって、いざ出航というときになって――仲間のひとりが倒れました。そのときはわからなかったんですが、疫病にかかってしまったんです。仲間思いのエリはもちろん、急いで医者のところへ連れていきました。でも……疫病はどうしようもなくて。三日もしないうちに、仲間は死にました」
軽く瞑目したダーリオは、こんどは正面からケアルを見つめた。
「僕たちは仲間を弔い、この船に乗って海に出ました。エリは……そのときにはもう、感染してしまっていたんでしょうね。海に出て三日目、エリは発病しました」
がたんっと、椅子が鳴った。視界が横に流れて、ケアルは自分が卓にしがみついたまま倒れたことに気がついた。あわてて立ちあがり、駆け寄ってきたダーリオに「だいじょうぶです」と差し出された手を断り、自分の力で起きあがる。
どうにか椅子に座りなおし、どうぞ続きをと促した。ダーリオは心配そうな表情をしながら席にもどり、
「お辛いようならば、話は短くきりあげますが?」
「――いいえ。どうか詳しく、最後までお話しください」
かぶりをふるケアルに、彼は痛ましいものを見る目をしてうなずく。
「エリは……自分が発病したと知って、どこか小さな島へ捨ててくれと言いました。デルマリナの貧民街を見ていたので、疫病にかかってしまったらもう、助からないだろうとわかっていたんですね。でも仲間は、そんなことはしません。僕と、さっきの少女が、エリの看病をしました。あの少女はエリが貧民街から、連れてきたんです。肉親を疫病で亡くして、ひとりになってしまったので」
ダーリオはそこで茶器に口をつけ、喉を潤した。
「高熱が続いて、エリはずっとうわごとを言ってました。ハイランドのこと、生まれた島の砂浜、いつも空を見あげては親友が来るのを待っていた少年時代のこと……。あの少女の赤毛が、どうやらあなたと似ていたらしくて――彼女が枕もとに立つたびに、ケアル、ケアル、と……」
ダーリオの喉が鳴り、こらえきれずといった様子で目頭をおさえた。
しばらくの間、船室は静まりかえった。遠くから、波の音と港のにぎわいが聞こえてくる。卓にぽつりと滴《しずく》が落ちて、ケアルは自分が泣いていることに気づいた。
「――エリは、少女をケアルと呼び続け、彼女の手を握りしめて……亡くなりました。僕らはエリの遺体を、船乗りたちがやるように、白い布でくるんで――海に流しました」
「最後までずいぶん……苦しんだんですか、エリは?」
エリ、と声に出すのにケアルは奥歯を噛みしめなければならなかった。
「ええ、たぶん……。そのあと僕らの仲間は次々に疫病にかかって、多くの若者を亡くしました。生き残ったのは、当時の仲間の半分ほどしかいません。僕はどういうわけか生き残って、今では『ゴランの息子たち』の首魁をやっている次第でして――」
「ゴランの息子たち……?」
ええ、とうなずいたダーリオは恥ずかしそうに頭をかいた。
「僕たちは、海賊なんです。だいじょうぶ、ごく良心的な海賊ですから、この港やハイランドの海域を荒らし回ったりはしません。今回こちらへ来たのは、以前からの仲間が船を降りることになりましてね。堅気《かたぎ》になるんだそうで、最後に、エリの生まれた故郷を見たいというので、こうしてやって来ました」
あとでかれらにも紹介しますよ、とダーリオは微笑む。
「その『ゴランの息子たち』というのは、誰がつけた名ですか?」
「エリですよ、もちろん。なんでもハイランドでいちばん立派な鳥の名だそうで」
そうです、とケアルはうなずいた。
「伝説の鳥の名前です。大きくて、白くて、どんな強い風の中でも、どんなに遠い場所にも、果敢《かかん》に一羽で飛んでいく鳥です」
ああ、とダーリオは得心した顔をしてうなずく。
「だからエリは、そう名付けたんですね。エリにとって親友のあなたは、ゴランそのものだったんですよ」
とたんに、どっと涙があふれた。こらえることなど、もうできない。
瞼の裏に、八年も前に見たエリの後ろ姿が思い浮かぶ。背中を向けたまま片手をあげて、大きく振ってみせたあの姿。月明かりに溶けてしまいそうだった、エリの金髪。思えばあれが、ケアルが見た親友の最後の姿だったのだ。
「――ここへ、ハイランドへ来て良かった」
子供のように泣き続けるケアルに言うともなく、ダーリオがひとりごちた。
「エリに、故郷を見せてあげることができました」
涙に濡れた顔をケアルがゆっくりあげると、若者は顔をくしゃくしゃにして笑った。
「この船は、エリそのものですから。エリが死んで五年も経ちますが、いまだ船内には彼の魂が息づいています」
きっと、とダーリオは続けた。
「エリの魂が、僕たちをこのハイランドへ導いてくれたんですよ」
* * *
空が白さを増したころ、埠頭に板が渡された。最初に姿をあらわしたのは、ドレス姿の女性だった。
彼女が板を渡りはじめると、その背後からゆっくりと太陽が光を放ちはじめた。
出迎えの人々は、まぶしさに目を細めて彼女を見つめる。彼女は板の端で立ち止まり、目指す相手をみつけて、大きく手を振った。
[#挿絵(img/KazenoKEARU_05_221.jpg)入る]
黒い髪の男の子と、赤毛の女の子が、父親に軽く背中を押され、はじかれたように埠頭を駆けだしていく。
「お母さま……っ!」
「まあ! レイズとフレアなの?」
目を丸くした彼女は腰をかがめて、両腕に双子をきゅっと抱きしめた。
「なんて大きくなって……!」
娘と同じ赤毛の男が、ゆっくりと彼女に近づいていく。双子から嵐のようなキスの歓迎をうけた彼女は、ドレスの裾をはらって立ちあがり、男が近づくのを待った。
「ただいま、ケアル」
「おかえり――マリナ」
しっかりと抱きあうかれらを、朝の光が包み込む。
ふたりに向かって喝采《かっさい》を送った出迎えの人々は、やがて埠頭を引きあげていくとき、沖合いに真っ白な巨鳥を見つけた。伝説の鳥は白い羽根を日射しに輝かせ、のぼる朝陽に向かって飛んでいった。
これからさらに、五年後。ケアル・ライスは、ハイランド五領をたばねる主席の地位に就くことになる。
だが彼が主席となっても、ライス領の人々は彼を小さな子供から老人まで「うちのご領主」と、誇らしさと親しみをこめて呼び続けた。
[#地付き]了
[#改丁]
あとがき
五巻までお付き合いいただき、ありがとうございます。『風のケアル』はこれにて完結いたしました。この最終巻は、いかがだったでしょうか?
当然といえば当然ですが、最終巻を迎えて、私としてはかなり感慨深いものがありました。最終章を書きながら、電話で「これを書き終えたら、終わっちゃいます〜」と涙し、スケジュールぎりぎりで青くなってる担当氏を、ますます青ざめさせてしまったほどです。最後に「了」と入れる瞬間など、これでもうケアルにもエリにも会えないのかと思うと、半身をもぎ取られるような気分でありました。
振り返ってみれば、剣も魔法もないどころか、戦争すら出てこないファンタジーを、よくぞ書かせていただけたなぁと思います。私自身、血が熱くなってしまうような合戦シーンもない、ばったばったと敵をなぎ倒す痛快なシーンもないこんな物語など、ひょっとしたら誰も読んでくれないかもしれない、誰もついてきてくれないかもしれないと、とても不安でした。でもその不安以上に、書いてみたかったのです。武力をもたず、戦争もおこさないで世界を変えていく人々の物語を……。
はたして私は、そんなかれらをうまく書き写すことができたでしょうか? 読んでくださった皆さまの目に、ケアルやエリ、ピアズたちはしっかりと生きて映ったでしょうか?――なんて、ここまで突っ走ってきておきながら訊ねることではないですね。
しかし、突っ走りすぎたかなあ。この巻の冒頭部分には、担当氏にも「普通は主人公とヒロインが結婚して、めでたしめでたしのエンディングなのに……」と苦笑されました。でも、だってねぇ、現実では結婚後の人生のほうがずっと長いものじゃありません?
そもそも私は小さい頃から、童話などの「王子さまとお姫さまは幸せに暮らしました」というエンディングには、かなり懐疑的でした。たとえば『シンデレラ』。あれってつまり、街の娘が王家へ嫁いだってことでしょう? 絶対にシンデレラは、嫁いだ先でいびられるに決まってます。王妃さまは我が息子にはぜひ、隣国の育ちのいいお姫さまをもらって欲しかったでしょうし、王様だって国のことを考えれば隣国の姫をもらって自国の安泰をはかりたかったに違いありませんもの。みんな揃ってシンデレラをいびって、さっさと追い出そうとするだろう、と考えるのが自然でしょう。唯一の頼みは王子さまですが、乳母日傘で育った男など、あてにはなりません。やっぱりここは、王家に嫁いだ平民のシンデレラが、貴族や城の家来たちを味方につけて、ばりばりのしあがっていく――そういう話のほうが、ずっとおもしろそうじゃないですか。
……なんてことを考える人間だから、この『風のケアル』はこんな話になってしまったのでしょう、きっと。いや、物語がどうこうっていうよりも、これはなんだか私の人生観がみえてしまうような話でしたね。
作中の舞台となった、デルマリナとハイランド。デルマリナはもちろん、水の都ヴェニスがモデルです。昨今はイタリアがブームなのか、友人たちばかりでなく私の母も訪れています(私は行ったことがないのに……)。しかし、どうだった? と訊ねる私に、みんなそろって「ごはんが美味しかった」というのは……。うん、確かにそれは旅行における重要ポイントではありますけど、なんか他に感想はないのかなぁ。
ハイランドのほうは――読者のかたに「エーゲ海の島々がモデルですか?」と訊ねられましたが、半分だけ合ってます。実は、アイルランドが基本モデルなのです。以前、モーハの断崖からアラン諸島あたりを空撮した映像を見たのですが、それがケアルが翼から見おろす風景のモデルとなっています。ただし、アイルランドは寒い。お天気もあまりよろしくない。だから地形だけいただいて、気候風土はエーゲ海の島々をイメージしました。真っ青な空と海に、モーハの断崖。ケアルでなくとも、飛んでみたいと思うのではないでしょうか。いや、私は高所恐怖症ですから、絶対に飛びたくはないですけど。
書いている間に一度は、アイルランドへ行ってみたかったですね。日本が極東の国ならば、アイルランドは極西の国。太陽が沈みはてる、ケルト神話の国。行けなかったのは、私が遅筆だったせいではありません。旅行会社のパンフレットに載ってた代金が、涙が出るほど高かったからです。ああ、情けない……。
さて。次は、『風のケアル』とは全く違った物語を、ご披露することになると思います。とはいえ書いてる人間が同じですから、どこまで違った話にできるかは、私の腕次第といったところでしょうか。なんにしても『風のケアル』以上に可愛がっていただけるよう、がんばります。
うまくいけば今年の夏、あるいは秋頃にまた、皆さまと再会できるでしょう。別の物語で皆さまにお会いできるのを楽しみに……。
[#地付き]三浦 真奈美
[#改ページ]
底本:「風のケアル5 旭光へ翔ける翼」C★NOVELS、中央公論社
1999(平成11)年3月15日初版印刷
1999(平成11)年3月25日初版発行
入力:
校正:
2008年4月3日作成