風のケアル3
嵐を呼ぶ烽火
著者 三浦真奈美/イラスト きがわ琳
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《》:ルビ
(例)伴侶《はんりょ》
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(例)貧乏|籤《くじ》
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(例)[#地付き]三浦 真奈美
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目次
第九章 デルマリナ出航
第十章 故郷への帰還
第十一章 内憂外患
第十二章 海流の中の島々
第十三章 動乱の兆し
あとがき
[#改丁]
第五章 デルマリナ出航
1
扉を開く音が響き、じめじめと肌にまとわりつくような風が屋内に吹きこんできた。
なま臭い空気とともに入ってきたのは、黒い外套《がいとう》を身体にしっかり巻きつけた男である。雨が屋内に吹き込まぬよう急いで扉を閉めた男の外套のすそからは、おびただしい水滴がぽたぽたと落ち、たちまち床に黒い染みをつくった。
男の到着を待ちかねたように、ピアズ・ダイクンが椅子から立ちあがった。少し遅れてケアル・ライスもまた立ちあがる。
右目に派手な刺繍《ししゅう》のある眼帯をつけたピアズは、商人とは思えぬ逞《たくま》しい体躯《たいく》をゆっくりと男の前へ運んだ。
「どうだ、市内の様子は?」
外套を剥《は》ぐように脱いだ男に、ピアズが訊ねた。
「議場前の広場は、膝《ひざ》まで水に浸かっています。港はまだ封鎖されていて、埠頭《ふとう》もやはり踝《くるぶし》近くまで水位があがっていました」
男はダイクン家に長く仕える家令のひとりである。詳しく訊ねずとも主《あるじ》の質問の意図をくんで、的確な報告をする。
「市民たちは?」
「この雨と高潮ですから、外出する者はほとんどいません。市街はどこも静まりかえっています」
そうかとうなずいたピアズは、ケアルを振り返った。
「雨がやみ、ある程度潮がひけば、市民たちがどっと街にくりだすでしょう。その前に出発するのが最善だと思いますが?」
「どれぐらいで潮がひくんですか?」
ケアル・ライスは赤毛の頭をわずかに傾げて、訊ねかえした。
「昨年のこの時期は、ほぼ一ヶ月間、議場前広場が腰まで冠水していました」
「そんなに……?」
「けれど一昨年は、三日でひきました。つまり、いつ潮がひくかは誰にも予想がつかないんですよ。毎日海を見ている地元の漁師でさえ、天任せ運任せと言っていますしね」
目を丸くするケアルに、ピアズはそう言って苦笑してみせた。
ケアルがピアズやマリナとともにダイクン家の別邸から戻ったのは、三日前のことだ。その日の夜半から激しい雨が降りはじめ、おりからの高潮も重なって、デルマリナ市内はそこら中が冠水する騒ぎとなった。
窓から眺めている間にもあがる水位にケアルは驚いたが、ピアズらは馴れたものだった。毎年この季節になると、一度や二度はあることらしい。
「恒例行事のようなものですよ」
そう言って笑い飛ばされては、そうですかとうなずくしかない。
「けれどありがたいのは、議場前の広場が冠水している問、大評議会が開かれないことですね。いま評議会があれば、デルマリナの船が襲われ水夫二十名が死亡した件が議題にあがることは確実ですから」
ハイランドを目指して出航した船は、そのほとんどが難所といわれるミセコルディア岬をこえられず戻ってきた。だが、最後に戻ってきた一隻が、ミセコルディア岬のむこうで何者かに襲撃されたのだ。
襲撃者は、三角帆の小さな舟に乗っていたという。その舟がハイランドの漁師たちが使用するものだとは、幸いなことにデルマリナではまだ一部の者にしか知られていない。だがその件が議会で取沙汰《とりざた》されれば、デルマリナ中にひろまるのは時間の問題だろう。
そうなれば、ケアルが非難の矢面に立つことになるのは必至であろう、とピアズは言い切った。ケアルもまた、ピアズの言う通りだろうと考えている。
襲撃者がハイランドにある五領のうち、どの領に属する者なのか、この段階ではあきらかではない。けれどたとえ襲撃者がライス領の人間ではなかったとわかったとしても、ケアルへ向けられる非難が減じられることはまずないだろう。デルマリナの人々には、五人の領主がそれぞれ統治する独立した五領も、ひと括《くく》りの「ハイランド」として目されている。五つある領のうちのひとつ、ライス領の領主代行としてデルマリナへやって来たケアルは当然かれらには、ハイランドの代表として映るに違いない。
「議会で取沙汰されれば、色々と面倒なことになります。そうなる前に出航するのがいいでしょう」
それがピアズの判断だった。
いつ出航すべきかを決めるのは、ケアルではない。いくら帰りたいと望んでも、船がなくては故郷へ戻ることはできない。当然、故郷へ帰らなければ、父であるライス領主に与えられた使命を果たすこともできない。また、今回の襲撃事件の真相を究明することもできないだろう。
そしてこのデルマリナで、議会で取沙汰されるのがわかっている人物を、議会の意向を無視して船に乗せてくれる船主がピアズ以外にいるかどうか……。
「雨は二、三日中にはやむでしょう」
ピアズの言葉に、家令もうなずいた。
「知り合いの水夫頭は、明日の夜にはやむだろうと言っていました」
さもありなんとピアズがうなずき返す。
「では、明後日の早朝に出航――ということでよろしいですね?」
視線を向けられ、ケアルもまた神妙な面もちでうなずいた。
* * *
部屋にもどったケアルは、何日かぶりに赤い革表紙の手帳を開いた。
父ロト・ライスに、毎日あったことをこれに記録しなさいと手ずから渡された手帳は、すでに三分の二まで頁《ページ》が埋まっている。最後の頁は七日前、園遊会のひらかれる別邸へ出発する前夜に書いたものだ。
『エリの行方はまだわからない』
そんな文章で始まる文字を目で追いながらケアルは、書きもの机に肘《ひじ》をついた。
ともに故郷を離れ、遠くこのデルマリナへやって来た親友のエリ・タトルが行方知れずとなってから、やがて四ヶ月になろうとしている。現在わかっているのは、デルマリナの下町が大火となった日に、エリとその仲間らしき者たちが海に落ちた男を助けるために船を無断で動かし、そのまま港を離れたらしいということだけだ。
船主の断りなく船を動かすことは、デルマリナでは理由の如何《いかん》なく重罪となる。おそらくエリは、正式な使者として遣わされた自分が罪にとわれては、個人の責任ではすまなくなると考えたのだろう。それ以降の足どりは、いまだつかめていない。また、エリからの連絡もない。
(エリ、このままではおれはひとりで帰らなければならなくなる……)
窓をたたく風雨に視線を移し、ケアルは唯一無二の親友を思った。
初めて会ったのは、十四のとき。島人を母に、デルマリナ船の遭難者を父にもったエリと、島人の母と領主の父の間にうまれたケアルとは、たぶん顔を見交わした最初の瞬間から通じ合うものがあったのだ。ケアルにとっては、初めてできた友人だった。おそらくエリにとってもそうだったに違いない。
どこにも居場所がなく、あてもなく翼を駆って空を飛ぶしかなかった十四歳のケアルは、エリと会ったその日から、自分を待つ相手のもとへ急ぐことの喜びを知った。島に近づいた上空から、浜辺で待ちかねたといわんばかりに大きく手を振るエリの姿を見るたび、どれほど心弾んだことか。オレたち親友だよなと言われて涙が出そうになった日を、いまなお忘れはしない。
「――ちょっと、よろしいかしら?」
声をかけられて、はっと振り返った。扉のそばに、濃緑のドレス姿のマリナが小さく首をかしげて佇《たたず》んでいる。
「何度も呼んだのに、お返事がないから」
そう言ってマリナは、かすかに眉根を寄せケアルの顔を見つめた。
「……どうかしたの?」
「えっ? どうかって?」
「迷子になったみたいな顔してるわ」
言われて思わず自分の頬《ほお》を撫でる。そんなケアルの仕草にマリナは「莫迦《ばか》ねぇ」と小さく笑った。
ケアルが立ちあがり、椅子と小卓を用意すると、マリナは彼女には珍しくやや遠慮がちに部屋の中へ入ってきた。ドレスの裾が揺れるたびに、菫《すみれ》の花のような香りがする。
どうぞと椅子を引くと、優雅な仕草でドレスをつまみあげて腰をおろした。
「お父さまからお聞きしたのだけど、明後日お帰りになるって、本当なの?」
訊ねられ、やはりそのことかと思いつつ、うなずいてみせる。
「高潮がひく前に出航するのがいい、とのことですから」
「本当にそれでよろしいの?」
瞳《ひとみ》の大きな黒い目で見つめられ、ケアルは軽く首を傾げた。
「親友が行方知れずのまま、ひとり故郷に帰ることができるの?」
そんなことができるあなたではないでしょう? と言いたげな目だ。ケアルはまっすぐ、マリナを見つめ返した。
「――できますよ。おれはひとりでも、故郷へ帰ります」
まあ、という形にマリナの唇が開く。
「おれは確かめたいんです――デルマリナの船を襲った舟が本当にハイランドのものなのか、もしそうならどこの領民が、どんな意図をもって襲撃したのか。それを知るには、故郷へ帰るしかないでしょう?」
ケアルの言葉に、マリナは軽く肩をすぼめてみせた。
「またハイランドの代表者としての責任≠ニいうわけ?」
「いえ、そんなたいそうなものじゃないですよ。おれはこのデルマリナと故郷の人々が互いに誤解したり、いがみあったりするような事態になるのが嫌なんです。これって、個人的な気持ちといえませんか?」
デルマリナへ来て、多くの人々と出会った。もうケアルにとってデルマリナは、ただの遠く離れた異郷の地ではない。このマリナやピアズ、エリを捜す手助けをしてくれた多くの人々が暮らす土地なのだ。
「あなたって……」
大きくみひらいた目をまじまじとケアルに向けたまま、マリナはつぶやいた。そして自分になにかを納得させるかのように小さくかぶりをふり、口もとに笑みを浮かべた。
「――わかったわ。ごめんなさい。わたくし、あなたがお父さまに言いくるめられて帰ることを承知したのだと思ったの。嫌だけど仕方がない、って。だったらわたくしが口添えしてさしあげられるかもしれないなんて、そんな生意気なことを考えていたのよ」
それが生意気だとケアルは思わなかった。女子供が口出しすることではない、とはねつけられるのを覚悟のうえで、ケアルのために本気で口添えするつもりだったのだろう。その気持ちが嬉《うれ》しい。
「心配してくれたんですね」
ありがとう、とケアルが礼を述べるとマリナは一瞬、まぶしいものでも見るかのように目を細めた。
「わたくし……」
言いかけてマリナは軽く瞑目《めいもく》し、唇を引き結んだ。そしてドレスの裾を払って立ちあがり、ケアルを見あげた。
「――部屋へもどるわ」
衣擦《きぬず》れの音も軽やかに自分の部屋へと戻っていったマリナを見送ってから、ケアルはふたたび書きもの机の上にひろげた帳面を見おろした。
エリのことは、引き続きピアズがひとをつかって捜してくれるはずだった。
「だいじょうぶだ」
つぶやいて、帳面を閉じる。
窓をたたく風雨の音はいつの間にか、ずっと小さくなっていた。
2
出航を明朝にひかえ、ピアズ・ダイクンはあまりの多忙さに、この二晩ほどまともに眠っていない状態が続いていた。
当初の予定では、一ヶ月後に船を出すつもりだったのである。それに合わせて準備もしてきた。
ハイランドで産出される特殊な金属を、独占的に輸入する権利を得るための、評議会での裏工作。造船所の買収。手に入れた金属を加工し、船に取り付けるために、買収する造船所に近い工場用地を捜すこと。金属加工の高い職能をもった人材の確保。
――だがどれもまだ中途半端で、船が出せる段階には到っていない。
海水に錆《さ》びず、微生物による腐蝕《ふしょく》も少ない金属の存在は、船主たちにとってなによりの朗報だろう。なにしろ、うすく伸ばしたその金属を船底に貼りつけることで、船の寿命は三倍にものびる。また、これまで船主の最大の負担となってきた莫大《ばくだい》な費用がかかる船の補修も、ずっと軽減できるのだ。けれどその金属の存在はまだ一般にはほとんど知られてはおらず、知っている一部の人々の中にも、まさか船にそれを使おうと思いついた者はいないはずだった。
この金属の存在と使用法を悟られることなく、貿易の独占権を手中におさめるために、ピアズはここまで評議会の裏工作に奔走《ほんそう》してきたのである。それが船が襲撃された事件で、裏工作が完了しないうちに船を出さねばならなくなった。
ケアル・ライスに詳しい説明をすることは避けているが、評議会がひらかれればまず最初に、ハイランドに報復を行なうかどうかの決議がなされることになるだろう。そして、これまでの例からいって「報復すべし」の議決が採択されるのは、まず間違いない。
デルマリナでは商売のやりかたは個々の商人の才覚に任されているが、もし船が襲われた場合、あるいは現地に赴《おもむ》いたデルマリナ市民が傷つけられた場合、デルマリナが一丸となって報復を行なってきたのだ。方法は主に、海上の封鎖と、デルマリナに滞在する相手国の人々の捕縛《ほばく》、処刑である。
報復されるのを恐れて、現在ではどの貿易相手もデルマリナ市民に手出しすることはない。デルマリナの商人たちはそれを背景に、どこでも強気で海上貿易の発展をおしすすめてきたのだ。
今回も議決が採択されればまず最初に、ケアル・ライスが捕縛されるだろう。
「それだけは、避けねばならん……」
なにしろ彼は、並みの使者ではない。三男といえど、領主の息子なのである。息子が捕縛され、あまつさえ処刑されたとなれば、領主も黙ってはいないに違いない。
せっかくここまで金をかけ、労力をつかい下準備を重ねてきたものを、そんなことでぶち壊しにされてはたまらない。
まずは、ケアル・ライスを故郷へ無事に帰すこと。そして、ハイランドと交渉する責任者としての座を手に入れること。
「――あとは、ハイランドの領主に恩を売ることだな」
書きもの机の上に散らばった書類を前にして、ピアズは目頭を揉《も》んだ。片目が不自由なせいか、仕事がたてこむと真っ先に疲れるのは目だ。
家令を呼んで、お茶を一杯もってくるように命じた。だがしばらくして、茶器をならべた銀の盆を掲げて部屋へ入ってきたのは家令ではなく、娘のマリナだった。
「お父さま、また昨夜もちゃんとおやすみにならなかったの?」
愛らしい眉を心配そうにひそめて、マリナが暖かな茶器を差し出す。器を受け取ったピアズは、いい匂いのする湯気を吸い込みながら笑ってみせた。
「ああ。でも、あと少しだからね。船が無事に出航してさえくれれば、とりあえず一休みはできる」
そう、とうなずいたものの、マリナの表情は沈んだままだ。父親の身体を心配しての憂《うれ》いだけではないようだな、とピアズは娘の横顔をうかがいながら考えた。
「マリナ。もし心配ごとがあるなら、言ってごらん?」
ピアズの呼びかけに、マリナは一瞬はっとしたように父親を見つめたが、すぐに「なにもないわ」とかぶりをふった。
「なにもないことはないだろう? 私がもう何年、おまえの父をやっていると思う? おまえが何を考えているかなんて、顔を見ればすぐにわかるよ」
そう言うとピアズは茶器を置き、ひとさし指をついっとあげた。
「察するに、新しい首飾りがほしいんじゃないかね? 園遊会に出席していたご婦人のひとりが、なかなか素晴しいものをつけていたからね」
「――違うわ」
「では、ドレスかな? 最近また、青いドレスが流行しはじめたというし」
「お父さま……」
「流行といえば、靴だね。先の尖《とが》った仔牛革の靴は、注文しても届くまでずいぶん時間がかかるそうじゃないか。靴屋がいつまで経っても届けてくれない、と怒っているんじゃないかい?」
「お父さまったら……!」
とうとうマリナは唇を尖らし、抗議の声をあげた。
「わたくしの心配することなんて、ドレスと首飾りとか靴とか、そんなものぐらいだと思っていらっしゃるのね」
「ごめん、ごめん」
笑いながら謝ったピアズは、ふと真面目な顔になって娘を見なおした。
「マリナ。おまえは私の、ただひとりの肉親だ。もの心ついてから結婚するまで、私には家族というものがなかった。おまえが生まれて私は初めて、無条件で愛せる相手ができた気がしたよ」
「お父さま……」
マリナがそっと歩み寄り、ピアズのごつい手を取った。その仕草が愛しくて、ピアズは娘の華奢《きゃしゃ》な手をくるみこみ、何度もうなずいた。
「おまえには、幸せになってほしいんだ。たとえ些細《ささい》な心配ごとだろうが、おまえが胸を痛めているのを見るのは、私にとってどれほど辛いことかわかるかい?」
「ありがとう、お父さま」
うなずき返したマリナがピアズに寄り添うように跪《ひざまず》き、父親の手にくちづける。
「わたくし、お父さまの娘にうまれたことを感謝しているわ。できるならお嫁などいかずに、ずっとお父さまの側にいたいぐらい」
可愛いことを言ってくれる娘に、苦笑しながらかぶりをふってみせる。
「できるなら私も、おまえをずっと側におきたい。けれど、順当にいって私のほうがおまえより先に寿命を終えるはずだ。そのときおまえがひとり残されるのだと考えると、きっと私は安心して逝くことはできないよ」
後見のない商人の娘や、あるいは子供もなく夫に先立たれた妻が、どんな末路をたどるか、ピアズはよく知っている。マリナには、商才のある入り婿《むこ》を見つけてやるか、あるいはどこか立派な大アルテ商人のもとへ嫁がせるかのどちらかしかない。
「でもわたくし、好きでもない殿方のもとへ嫁ぐのは嫌だわ。それよりもお父さまに商売のことを教えていただいて、自分で色々やってみたいわ」
「マリナ、女に商売は無理だよ。商売というのはおまえが考えているほど簡単ではないし、綺麗事ばかりでもない。女性の幸せはやはり、大切にしてくれる男のもとに嫁いで、子供をつくることだ」
そう言ったピアズを、マリナはじっと確かめるように見つめた。
「お父さまは本当に、そう思っていらっしゃるの?」
ああ、とピアズはうなずく。
「そのお考えが変わることはない?」
「私はおまえのためを思って言っているのだよ。それはわかるだろう?」
マリナの黒い目が、かすかに揺れた。
「おまえはまだ若いから、世の中の厳しさというものがよくわからないでいるんだろう。だが大丈夫、私にまかせておきなさい。なによりもおまえの幸せを願う私が、おまえのためにならないことをするはずがないから」
「そう……そうね……」
視線をついっと横へ流しながら、マリナが立ちあがった。そしていつもするように、ピアズの頬に軽く唇を当て、
「あまり無理をなさらないでね」
そう言って、部屋を出ていった。
少々はねっかえりなところはあるが、心根の優しい可愛い娘だ。嫁ぐころには落ち着いて女らしくなり、きっと夫を陰で支えるいい妻となることだろう。
お茶をすすりながら、どんな男が娘にふさわしいか、ピアズはしばらくあれこれと考えていた。だがふたたび書類に目をおとしたときにはもう、意識は仕事に集中し、マリナのことは頭からすっかり離れてしまった。
ピアズが小アルテから大アルテになってから、まだ二年にも満たない。そのときも、数十年ぶり三人目の人物とデルマリナ中で騒がれたものだ。だが、彼はそれだけで満足はしなかった。野心のおもむくままに突き進み、いまでは大・小アルテで構成される「人民評議会」の最高執行機関である「総務会」の一員に名をつらねるまでとなった。
人々はピアズを、市場で薬草売りをしていた孤児が最高の地位までのぼりつめたと、立志伝中の人物のように語る。しかし、おそらくデルマリナ中のだれも、ピアズの視線がもっと先に向けられていることを知らないだろう。
今はまだ、誰も…………。
3
身体にまとわりつくような霧状の雨が、視界をけぶらせている。帆桁《ほげた》に掲げた幾つもの灯りがゆらゆらと、背後の闇に吸い込まれそうに頼りなく見えた。
港は、静まりかえっている。船にはすでに水夫たちが乗り込んでいるはずだったが、甲板を歩く足音ひとつ、咳ひとつさえ聞こえない。
「これを――」
ピアズが黄色い油紙に包まれた薄っぺらいものを差し出した。
「デルマリナ人民評議会からの、正式な文書です。ご領主にお渡しいただきたい」
その言葉にケアルは、はっとしてピアズを見なおした。
議会がひらかれればケアルは、デルマリナ船襲撃事件について非難の矢面に立たされるだろう、とピアズは言っていた。ケアル自身、当然ながら議会のもとで身柄を拘束されるだろうし、それ以上の事態もおこりうると覚悟はしていた。投獄されて一生、故郷へは帰れないかもしれない、あるいは処刑されるかもしれない――そこまで考えていたのだ。そうでなければ、総務会に名をつらね議会でも大きな発言権をもつピアズが、議会がひらかれる前にと急遽《きゅうきょ》、出航の決断をくだすはずがない。
ゆえにこの出航は当然、議会のあずかり知らぬこと、ピアズの独断専行だとケアルは考えていた。もちろん、ケアルにとってはありがたいことではあるが。
(それが、どうして……?)
議会から正式な文書が発行されるのか。
戸惑いながら受け取ったケアルは、油紙を開いて中を確認した。中には白い封書が一通、入っているだけだった。その表面には、翼のある獣の姿が浮きあがっている。裏を返せば、赤い封蝋《ふうろう》がほどこされ、そこに押された印もまた翼のある獣の姿だった。
「これ……見たことがあります」
ケアルのつぶやきに、ピアズはにっこり笑った。
「議場の前に、三本の柱が立っているでしょう? あの上の台座に乗っているのが、これと同じ像ですよ」
「ああ、だからなんですね」
海からやってくるものを監視するかのように据えられた獣の像は、幾度かケアルも目にしていた。案内してくれたマリナはそれを、デルマリナの象徴だと教えてくれた。
「言ってみればこれは、デルマリナの紋章なのです。正式な文書には必ず、この印章が押されていますよ」
もちろんその文書にもね、とピアズはケアルの疑念を見透かしたように告げた。
「確かに受け取りました。必ず領主に届けます」
うなずいたケアルは封書を丁寧に油紙に包みなおした。
書面を読んでみないと判断はつかないが、ピアズと議会との間でなんらかの約定《やくじょう》が交わされたのかもしれない。かれらが、相応な代価さえあれば不正な裏取り引きにも躊躇《ちゅうちょ》しないだろうことは、ケアルにも推測できる。
封書を懐《ふところ》にしまったケアルは、運河のほうから近づいてくる灯りに気がついた。灯り持ちの男を先導に、雨を避けて外套を身体に巻きつけた三人の人影がやってくる。一瞬、身構えたケアルだったが、すぐに振り返ったピアズが親しげに手をあげたのを見てとって、身体のこわばりをといた。
三人とも、ケアルも知った顔だった。
「なかなか風情のある天候ですね」
短い挨拶《あいさつ》のあと、呑気《のんき》な口調でそう言ったのは、エルバ・リーアである。ピアズと同じ総務会の一員で、デルマリナでも五指に入る豪商だ。
あとのふたりは、ピアズとともに最初にハイランドへ船を派遣した、鍛冶《かじ》職人と造船職人だった。こちらのふたりは笑みをたたえたエルバ・リーアとは違って、ひどくおどおどとした様子である。デルマリナでも有名なふたりの豪商の前に出て気圧《けお》されているのか、あるいはこの出航を大評議会の意向に背《そむ》くものと考えていて、それに加担していることに怯《おび》えているのか。
「この雨も、じきにあがるそうですよ。なにより沖に出れば、航海|日和《びより》といっていい晴天だろう、と水夫長などは言っています」
「ああ、それはいいですね。せっかく出航したのに天候が悪くて難破などしてしまっては、目も当てられない」
ピアズの応えに、エルバ・リーアはそう言ってころころと笑った。
「出航を目前に、そのような言葉を口にするのはどうかと思いますな」
そんなふたりにふいに口をはさんだのは、造船職人だった。
「船乗りたちは出航を目前に控えて、そんな言葉は決して口にしませんぞ」
「これは失礼」
少しも失礼をしたとは思っていなさそうな口調でエルバ・リーアは謝罪した。
「こちらのピアズ・ダイクンどのは、水夫どもの迷信や世迷ごとなど気にせぬ御仁だと思っていましたので」
造船職人は、むっとした顔でおし黙る。
「まあまあ……。航海の無事を祈る気持ちは皆さん同じだと思いますが?」
間に入ったピアズが、さりげなく場をとりもった。
「もちろん。私も、航海の無事を祈っていますよ」
エルバ・リーアがケアルに視線を向けながらうなずいてみせる。
「――そういえば、ピアズどののお嬢さんは見送りにはいらっしゃっていないんですか?」
「同行するはずだったんですが、頭痛がするとかで夕方から伏せっておりまして」
「それは残念ですね?」
ピアズにではなくケアルに向けて、エルバ・リーアは訳知り顔で同意をもとめる。ケアルは小さく「いえ」とつぶやき、俯《うつむ》いた。
だが内心では、そうだったのかとほっとせずにはいられなかった。マリナが見送りにはきっと来てくれるはずだと、どこかで思っていたのである。
なのに、邸を出て港へ向かう小舟に彼女の姿がないとわかって、ひどく気落ちしてしまった。なにか気にさわることでもしただろうかとあれこれ考えたが、わからなかった。思い当たることといえば、彼女が部屋へ訪れてくれたときの会話ぐらいなものだが、あのときのどの言葉がマリナの気にさわるものなのか、全く見当もつかなかった。
でも、伏せっているなら仕方がない。けれどまたすぐに、頭痛がするというのは方便にすぎないのではないかとも思えて、そっとピアズの表情をうかがった。
ピアズは穏やかな笑みを浮かべて、エルバ・リーアと言葉を交わしている。その表情からは、なにも読み取ることはできなかった。もし何か知っていたとしても、ピアズ・ダイクンはそれを表に出す男ではない。
なんにしろ、頭痛が方便であろうが事実だろうが、もうそれを確かめることはできない。彼女の気にさわることを言ってしまっていたとしても、もう謝ることもできない。
そう考えてふいに、翼での飛行中、着地点を視界にとらえたときのような感覚をおぼえた。もっと飛びたいのに、どこまでも飛んで行きたいのに、地上に降りなければならないのだと自分に言い聞かせる瞬間。空に心を残しながら、身体だけ無理やり引きはがすような切ない痛み……。
船上から、出航準備よし、との声がかかって、ケアルは我に返った。
今から始まる航海は、ただ故郷に帰るというだけの旅ではない。身も心もひきしめて、水夫たちがあわただしく行き来する甲板を見あげた。今回は、ピアズとエルバ・リーアが一隻ずつ船を提供しており、それぞれ船長が航行を指揮することになっているはずだ。前回のような船団長という役職は設けられていない。
ピアズに目顔で促《うなが》され、ケアルはうなずいた。エルバ・リーアと握手を交わし、順に鍛冶職人、造船職人とも手を握りあう。最後にピアズが手を差し出し、ケアルはその商人らしくない硬い手を取り握りしめた。
全員に向かって軽く頭をさげると、ケアルは踵《きびす》をかえし、埠頭と船の間に渡された板を鳴らして乗船した。水夫たちの手により、すぐさま板が引き揚げられる。
「――出航!」
髭面《ひげづら》の船長が上甲板に立ち、声をはりあげた。ぎしぎしと軋《きし》む音をあげながら、船がゆっくりと埠頭を離れていく。
半年前ケアルは、長い航海を終えて港に入る船の上から、近づくデルマリナの街を眺《なが》めていた。今はあのときとは逆に、次第に遠ざかりつつあるデルマリナの街を、ひとりで眺めている。半年前の入港が昨日のようにも、反対に何年も昔のようにも思われた。
ケアルはそっと、自分の左側へ視線をやった。そこは親友の定位置だった。この先エリ以外のだれも、ここに立つ者はいないだろう。いや、エリ以外だれもここに立ってほしくはないとケアルは思う。
おまえが戻るまでずっと、おれの左側は空いたままだ。
デルマリナ――海に浮かぶ都よ、おれの親友を奪い、呑み込んだ街よ。だがその姿は大きく、そしてなんと美しいことか。
次第に揺れが大きくなりつつある船上から、明けはじめた空の下に横たわる都市を、ケアルはこの目に焼き付けてしまおうとばかりに、瞬《またた》きもせずじっと見つめていた。
* * *
「坊、いいのかい? 今から追っかけても充分に間に合うぞ」
しわがれた老人の声に、金髪の青年は小さくかぶりをふった。
けぶる雨の中、二隻の船はゆっくりと港を出ていく。帆桁に掲《かか》げられた灯りが、雨に滲《にじ》んで揺れている。
倉庫の冷たい壁にもたれて、金髪の青年は遠ざかる船をじっと見つめていた。青年のそばには水夫のなりをした男がふたり、親鳥が巣立ちをする我が子を見守るような目をして立っている。
「俺たちのことなら、気にするこたぁねぇんだぜ。あの船にゃ、あんたの親友が乗ってんだろ?」
「ああ……」
「わしらの船では、ミセコルディア岬を越えるのは難しい。これを逃せば、いつ故郷に帰れるか、わからんぞ?」
重ねて言われて青年は、なにかを振り切るかのように拳を倉庫の壁にたたきつけた。
「――いいんだよ……っ!」
俯いた青年の頬に、雨に濡れた金色の髪をつたって水滴が流れ落ちる。
(ケアル……!)
オレの親友、オレが生まれてはじめて持った友人。おまえは今もオレを親友だと、そう思ってくれているか?
たとえおまえがオレのことを、信頼に背いたひどい奴だと罵《ののし》ろうと、オレみたいな薄情者のことなんかすっかり忘れ去ってしまっても、オレはきっといつまでもおまえを親友だと思い続けるよ。側にいてささえあうだけが友人じゃない、とオレは思っている。それって、オレの都合のいい思い込みかもしれないけれど……。
「――坊、もういちどだけ訊く。本当にいいのか?」
老人が青年の濡れた肩に手を置き、滴のつたう顔をのぞきこんだ。
「ああ。オレが一緒だと、あいつが困ることになる」
船を強奪したオレは、デルマリナではお尋ね者だから。もしオレが一緒にいて、デルマリナからオレの身柄を引き渡すように要求されたら、ケアルはどれほど苦悩することか。それがわかっているから、オレはあいつと一緒には行けない。
顔をあげ、ふたたび遠ざかりゆく船に視線を移すと、白みはじめた空に海鳥が何羽か飛んでいくのが見えた。瞬間、はるか遠い島の浜辺が脳裏をよぎる。
島の熱い砂浜に立ち、ゆっくりと高度をおとしてくる「翼」に向かって、千切れんばかりに手を振っていた自分。翼に乗ってやって来る親友を、自分に会うためだけに空からおりてくる親友を、毎日どれほど心待ちにしていたことか。青い空に真っ白な翼を見つけるたびに、どんなに嬉しく、同時にまた切なかったことか。
(でももう、翼がオレのとこへ来ることはねぇんだ……)
思いを振り切るように、青年は心配げな仲間たちのほうへと向き直った。
「んじゃ、行くか」
「行くって、どこへ?」
歩きだした青年のあとをあわてて追いかけて、若いほうの水夫が訊く。
「決まってんじゃん。天気がよくなったら、積み荷で足の遅くなった船が戻ってくる。そしたら、オレらの出番だろうがさ」
親指を立ててみせた彼に、若い水夫は顔をくしゃくしゃにしてうなずいた。
「さあ、仕事だ。たんまり稼ごうぜ」
4
デルマリナを出航するときに降っていた雨も、船が港を離れるころにはすっかりあがり、沖に出たときには灰色の雲間から明るい陽光が差し込んできた。
出航から、二日。波はまだいささか高いが、上空は真っ青に晴れわたり、気持ちのいい風を白い帆いっぱいにうけて、船は快調に進んでいた。
今回、ピアズに雇われた船長は、顔の半分が髭に覆われた逞しい男だ。歳は四十に手がとどくかどうか、気安い質《たち》らしく水夫たちとそう変わらぬ格好をして、始終甲板を歩きまわっては水夫らを相手に軽口をたたいている。
当初ピアズは、前回船団長をつとめたヴェラ・スキピオに再びハイランドへ向かう船に乗って指揮をとってほしいと依頼したのだが、もう船に乗るつもりはないと断られたそうだ。それでも引き下がらないピアズに、スキピオは信頼できる男として、コルノ・ベルシコを推薦したのだという。
ふつう船長は、船の航行を指揮するのが務めではあるが、今回のような場合、船長の仕事はそれだけではおさまらない。外交使節としての役割も負うことになるのだ。
スキピオが名指しで推薦した男である。もちろん航海にあたって、己の役目は知悉《ちしつ》しているに違いない。そのうえ彼は、船乗りたちの間では非常に有名であり、且つまた尊敬を集める存在でもあるらしかった。おかげで今回の航海に二隻の船をたばねる船団長はおらずとも、実質彼がその役割を果たしていた。エルバ・リーアが仕立てた船の船長など、初恋の女性の前に出た少年もかくやあらんといった様子で、彼に傾倒する姿は、ケアルには驚くよりもかえっておかしいほどだった。
しかし、水夫たちに気軽に「コルノ船長」と呼ばれるこの男は、責任の重さを感じている様子など微塵《みじん》もなく、じつにおおらか――というより大雑把《おおざっぱ》なのである。
昨日などケアルの船室を訪れ、いきなり甲板へ連れ出したかと思うと、ケアルに操帆作業を手伝わせたのだ。なにがなにやらわからぬままに、ケアルは水夫たちに混じって縄を引き、甲板を駆けずり回り、帆柱にまでのぼらされてしまった。そして疲れはてたケアルに柑橘《かんきつ》果汁入りの酒をすすめ、
「いやぁ、仕事をしたあとの一杯は格別ですな」
ケアルも最後には笑ってしまい、昨夜は当直あけの水夫らとともに、甲板の上で飲み明かしたのだった。
船長にならってか、水夫たちもまた気安くケアルに声をかけてくる。あれを取ってきてくれ、これを持っていてくれ、ちょっと手伝ってくれ――客というより居候と思われているのではないか、とケアルは感じている。
だがその気安さ、明るさは決して嫌なものではなかった。もの心ついてからこれまで、ケアルは親友のエリ以外に、こんなふうに他人から気安く声をかけられた経験がない。だからか、なんだか大勢のエリに囲まれているような気分になる。もちろん、エリ・タトルに代われる者などいはしないが。
「おい、兄さん! ちょっと来てくれ!」
上甲板に出ていたケアルに、今もまた声がかかった。振り返ってみると、下甲板に降りる階段のところから水夫が顔をのぞかせ、ケアルにむかって手を振っている。
「なんですか?」
訊ねながら駆け寄ると、下でコルノ船長が呼んでいるのだと言う。
また何か手伝わされるのだろうかと思いつつ、ケアルが案内されたのは、水夫たちが寝起きする下甲板よりもっと下、船底に近い食料や水の樽《たる》を詰め込んだ船倉のひとつだった。陽射しも風も入らぬ船倉は鼠《ねずみ》たちの棲処《すみか》となっており、水夫たちのものではない、コソコソとした小さな足音があちこちから聞こえた。また空気は黴《かび》っぽく、澱《よど》んだ汚水のような匂いがして胸が悪くなりそうだった。
「こっち。足もと気をつけてな」
灯りを手にする水夫に先導され、船底を進むと、前方にもうひとつ灯りが見えた。同時に、聞き覚えのある声が耳に届いた。
「いいえ。誓ってくださらない限り、わたくしここを動きませんわ」
ケアルは一瞬、ぎょっとして足をとめた。あの声は……いやまさか、きっと空耳に違いない。自分に言い聞かせながら、先導の水夫に続く。
舳先《へさき》に近い船倉で待っていたのは、コルノ船長とふたりの水夫、そして――
「マリナ……!」
横置きにした樽の上に、まるでそれが凝った装飾をほどこした椅子であるかのように、優雅に背筋をのばしてマリナ・ダイクンが座っていたのである。彼女のそばには、ケアルも顔を知っている若い女性の家令が、こちらは髪を乱し涙のあとの残る青い顔をして、樽にしがみついていた。
やってきたケアルに気づいて、マリナはにっこり微笑んだ。
「あら。ごきげんよう」
ここがどこか忘れてしまいそうな優美な笑顔を向けられ、ケアルは一瞬、言葉をうしなった。
「いやはや、胆《きも》の据わった嬢さんだ」
コルノ船長が頭をかきながら、ケアルに向かって肩をすくめてみせた。
「俺の二十五年の船乗り生活で、ここまでみごとに開き直った密航者は初めてだよ」
「密航者なんですか? 彼女が?」
目を丸くしてケアルが訊ねると、
「お父さまの船に娘が乗って、なぜ密航者と呼ばれなきゃならないの?」
いかにも心外だと、マリナが抗議する。
「さっきから、この調子だぜ」
コルノ船長は呆れはてた様子で軽く首を振り、マリナに向き直った。
「嬢ちゃん。船に乗っていいのは、船主に雇われた船乗りと、船主が認めた客だけだ。あんたはその数にゃ入ってないんだよ」
「じゃあ、今から数に入れてちょうだい」
すましてマリナが応えると、コルノ船長はお手上げだと態度であらわしてみせ、ケアルの背中を押した。
「あんた、なんとかしてくれ」
「おれがですか?」
「ああ。嬢さんはどうやら、あんたが目当てで密航なんてことをやらかしたらしい」
は? と目をみひらいて船長を振り返るケアルの前で、マリナが声をはりあげた。
「違うわ! わたくし、そんなこと――」
マリナの抗議の声はしかし、侍女が突然あげた悲鳴にかき消された。
「いやっ! 鼠がっ! 鼠っ!」
髪をふり乱し泣きながら、侍女はそばにいた水夫に飛びついた。
「あたしの足を! 鼠が……っ!」
見ればマリナも、青ざめた顔をして足もとを見回していた。
気丈なふりはしているが、出航して今日までの二日間、大きな鼠が我がもの顔で走り回る船倉にいて、平気だったはずがない。なぜこんなことをしでかしたのか、ケアルにわかるはずもなかったが、よほどの決意があってのことだろう。
「――とりあえず、ここを出ましょう」
ケアルはそう言って、マリナに手をさしのべた。
「お話は、上で。鼠がいない所ででもできるでしょう?」
「わたくし、鼠なんて平気だわ」
そう言いつつもマリナは、ケアルの手をしっかりと取ったのだった。
案内された船長室は、お世辞にも綺麗とは言いがたかったが、少なくとも鼠の棲処とはなってはいなかった。
海図のひろげられた大きな卓を間にはさんで、こちら側にコルノ船長とケアルが座り、むこう側にマリナとその侍女が腰を落ち着けた。船長が果実酒をグラスに注いで渡すと、よほど喉が渇いていたのだろう、ふたりはいっきに中身を飲みほした。
「もっといるかい?」
コルノ船長が訊ねると、侍女はすぐさまうなずいたが、マリナは唇をひき結んで、空になったグラスを卓にもどした。
この二日間、おそらく飲まず食わずだったのだ。たった一杯の果実酒で喉が潤うはずがない。いかにもマリナらしい意地のはりかたに、ケアルは苦笑しながら水夫を呼び、熱いお茶を持ってきてくれるよう頼んだ。
お茶を飲んで落ち着くと、コルノ船長は卓に肘をつき、マリナを眺めた。
「船長としちゃあ、嬢さんがたには次の寄港地で船を降りてもらわにゃならん」
水と食料の補給のために、ミセコルディア岬を越える前に一度、デルマリナと友好関係にある港に寄ることになっている。とはいえその港まで日数にして、三十日はかかる。女性ふたりが辺境の港に降ろされ、無事にデルマリナへ帰りつけるかどうか……。
「わたくし、降りませんわ」
そこまで考えてのことか、マリナはきっぱり首をふった。
「船長にゃ、あんたらを降ろす権限があるんだぜ?」
「絶対に降りませんわ。もし力ずくで降ろすとおっしゃるなら、わたくし海に身を投げます」
その言葉にケアルはぎょっとして、コルノ船長を見た。船長は顎髭《あごひげ》を撫でながら、顔をしかめている。
「わたくし、どうしてもハイランドへ行きたいんです。お金が必要なら、お支払いいたします」
身を乗り出し言い募るマリナに、船長は卓をたたいた。
「そんなこと言ってるわけじゃねぇよ」
太い眉の下から、じろりとマリナを睨《にら》む。
「こっちは、船に何人乗ってるか計算して、水やら食料やらを積み込んでるんだ。そりゃ多少の余裕はみちゃいるが、長い航海だ、なにが起きるかわかったもんじゃねぇ。無風が十日続くことだってあるし、嵐で船が航路からはずれて、どえらく遠くに流されることだってある。そうなったら、増えた人数ぶんだけ水や食料が足りなくなるんだ。つまり、嬢さんらがふたり増えたぶん、全員が飢えることになるかもしれねぇんだよ」
船長の言葉にマリナは顔をこわばらせ、俯いた。膝に置いた手が、ドレスをきつく握りしめる。
「わたくし、失礼なことを言いましたわ」
俯いたまま謝ったマリナは、けれどすぐに顔をあげ、まっすぐ船長を見つめた。
「でもわたくし、どうしてもハイランドへ行きたいのです。お願いです、わたくしを降ろさないでください。わたくし、なんだってします。お料理だってお掃除だって、できることはなんでもしますから」
船長は喉の奥で低く唸《うな》り、腕を組んで椅子の背にもたれかかった。
マリナの真剣さは、ケアルにもわかった。蝶よ花よと育てられた彼女が、二日間とはいえあのひどい船倉に隠れていたこと自体、その覚悟の強さははっきりしている。
ただわからないのは、なぜそうまでしてハイランドへ行きたいのかだ。たとえば父親と喧嘩でもして、家出を決意したとしても、その行き先がなにもハイランドでなければいけない理由があるとは思えない。故郷がどんなところであるか、マリナにせがまれて何度か語ったことはあるが、まさかそれで彼女がハイランドに憧《あこが》れを抱くようになったとでもいうのだろうか?
「――ひとつ、訊いてもいいですか?」
遠慮がちに申し出ると、全員の視線がケアルに集まった。船長とマリナが目顔で、どうぞと促す。
「マリナさん、なぜそこまでしてハイランドへ行きたいのですか?」
瞬間マリナは、物陰からいきなり何者かに殴りかかって来られたような顔をして、ケアルを見つめた。続いてその白いなめらかな頬が、朱色に染まっていく。
なにか無礼な物言いをしただろうか、とケアルが考えたとき、ふいに船長がぷっと吹き出した。
「おいおい、兄さん。そりゃちょっと、ないんじゃねぇか?」
「なにがですか?」
なぜ笑われたかわからず、首をひねって訊ねる。
「詳しい事情は知らない俺にだって、この嬢さんがどうしてそこまでハイランドへ行きたいって言うのか、想像はつくぜ。兄さんがわからねぇなんてそりゃ、鈍《にぶ》いにもほどがあるってもんだ」
「鈍くて悪かったですね」
憮然《ぶぜん》としてケアルが言うと船長は、今度は腹を抱えて笑いだした。
「嬢さん、俺はあんたに同情するぜ。こんなんでよくまあ、密航しようなんて気になったもんだ」
「あなたに同情していただく筋合いはありませんわ」
マリナもまたケアル以上に憮然としてそう言い放つと、ふいっとそっぽを向いた。
ひとしきり笑ったコルノ船長は、笑いの余韻《よいん》を唇の端に残したまま、
「兄さん、ひとつ教えてやるよ。この嬢さんは密航が見つかったとき、まずなによりも先に、ケアル・ライスが乗っているのはこの船なのか、って訊いたんだぜ」
「え……っ?」
軽く目をみひらき、ケアルはマリナの顔を見なおした。そっぽを向いた横顔が、ますます赤く染まっていくのを目にして、ケアルの頬もつられたように赤く染まる。
実をいえば、船倉に案内されてマリナの顔を見いだしたとき、ケアルは驚くとともに、ひどく嬉しかったのだ。二度と会えはしないだろうと諦めていた彼女に、ふたたび会うことができて。もちろんそんなことは、誰にも言えはしないが。
しかし赤く染まったマリナの横顔に一瞬、彼女も同じように思っていたのではないかと考えてしまい、あわててそれを心の中で否定した。そんなことはあり得ない。わずか半年ばかり滞在しただけの客人であるケアルに、友人も多い、求愛者も多いという彼女が、ふたたび会いたいと強く願うはずはないではないかと思うのだ。
「あの、それはどういう……? おれに何か用があったんですか?」
戸惑いながら問いかけたケアルに、マリナはふいに視線を向けると、
「悪かったわね」
怒ったような口調でそう言った。
「わたくし、あなたに会いたくてこの船に乗ったのです。あなたが故郷にお帰りになるというから、わたくしどうしてもハイランドに行きたかったのです」
「おれ……に?」
呆然として、ケアルは己を指さす。
「ほんとうに鈍いかたね!」
「す……すみません」
「わたくし、あなたと離れたくなかったの。あなた以外のかたのもとへ嫁ぐなんて、嫌だったの。こうでもしなければ、お父さまが選んだかたのもとへ嫁がねばならなかったわ。そんなの、まっぴら。お父さまはわたくしの幸せのためだとおっしゃるけど、わたくしの幸せはわたくしが決めることだわ」
そこまでいっきに言い切ると、マリナは両手に顔を埋めて、堰《せき》がきれたように泣き出した。
「マ……マリナさん」
おろおろするケアルの肩を、船長がぽんとたたく。
「あとは任せたぜ」
「ま、任せたって、なにを……!」
「泣いてる女を慰めるのは、男の甲斐性《かいしょう》だ。せいぜい甲斐性のあるとこをみせてやれ」
にやりと笑ってそう言うと、船長は侍女を連れて船室を出て行ってしまった。残されたケアルはもうすっかりお手上げで、なんと声をかけていいのかわからず、ただもう黙って泣いているマリナを見つめるしかできなかった。
* * *
マリナとその侍女には、そのまま船長室が与えられることになった。コルノ船長は「俺はいいよ」のひとことで、空いていた狭い客室に移動した。
通常、密航者は船長の判断で処分できることになっており、中には密航が露見したとたん海へ放り込まれる者もいるそうだ。水夫たちにとってみれば自らの命に関わることでもあり、たとえ船長が次の寄港地までの乗船を許したとしても、密航者への風当たりはきつくなるのが当然である。
けれども、マリナが船主の娘だということもあるだろうが、彼女の密航目的が「好いた男を追いかけて」だと知られると、たちまち水夫たちの同情を買い、かれらに受け入れられてしまった。またマリナの密航を手引きした水夫もあきらかになったが、それには船長から厳重な注意がなされたのみで、なんら処分されることはなかった。
自分で言ったように、マリナは厨房《ちゅうぼう》を手伝い、十日にいちどの甲板|磨《みが》きにもドレスの裾をたくしあげて参加した。おかげでますますマリナの評判はあがり、そのぶんケアルは甲板を歩くたび、水夫たちからひかやしの言葉を投げかけられるようになった。
とはいえもちろん、これで事が解決したわけではない。マリナに次の寄港地で降りてもらうかどうかはケアルの判断に任せる、と船長には言われている。
常識的に考えても、マリナをハイランドへ連れていくことはできない。事は、マリナ個人、ケアル個人の問題ではないのだ。当然、ダイクン家とライス家の問題でもない。彼女をハイランドへ連れていくことは、デルマリナとハイランドの問題となるのだ。
マリナがケアルを追ってハイランドへ行くことは、たとえば故郷で、「上」に生まれた女が島人の男のもとへ走るのと似た事態だろう。どれほどの怒りと侮蔑《ぶべつ》と悲しみが、双方の家族にふりかかるか、ケアルにもある程度の想像はできる。
すでにマリナは、ここまで来てしまった。たとえ次の寄航地で船を降り、父親のもとへ帰ったとしても、世間の目は彼女を傷物になった女として見るかもしれない。けれど、ハイランドへ連れていってしまうよりはまだ救いがあるだろう。彼女の父、ピアズ・ダイクンは実力者だ。娘を守る力がある。
ケアルは、マリナを次の寄航地で船から降ろそうと決意している。もちろんそれはケアルにとって心の痛みを伴う選択ではあるが、マリナ自身の幸せやハイランドとデルマリナの関係など、どう考えても彼女を降ろす以外、次善の策も存在しないのだ。
けれど彼女が、素直に船を降りてくれるだろうか。船から降りるように、彼女をうまく説得できるだろうか。考えるほどケアルには、あまりに頭の痛い問題だった。
「明日の昼には、港に入るぜ」
船長に耳打ちされたのは、デルマリナを出て三十日目のことだった。
今日中に結論を出し、彼女を説得すべきならきっちりと済ませておけ、という意味なのだと受け取り、ケアルはうなずいた。
「――わかりました」
「言っておくが、俺は女が泣くのを見るのは嫌だからな。女を泣かせる男にろくなヤツはいねぇ、ってのが俺の持論だ」
ケアルは軽く目をみひらき、船長の髭面を見つめた。
「それはつまり、彼女をハイランドへ連れて行け、という意味ですか?」
今度は船長が目をみひらいて、にやりと笑った。
「そう訊くってことは、連れちゃ行かないって決めたわけだ?」
非難がましい声音にケアルは、いささか憮然としてうなずいた。
「連れて行くことが彼女にとって良いことだとは、とても思えませんから」
「けど嬢ちゃんは、自分の幸せは自分で決めるんだって言い切ってるぜ?」
「彼女は、わかっていないんです。ハイランドへ行くことが、周囲にどんな影響をもたらすか」
ふむ、とコルノ船長は髭に覆われたごつい顎を撫でる。
「さしずめおまえさんは、いたいけない少女をたぶらかし、無理やり連れ去った大悪人だとデルマリナじゃ言われるな。いや、それどころか、最初っからハイランドの連中はそれが目的だったんだ、と言い出すやつも出てくるかもしれねぇ。そうなりゃ、事は嬢ちゃんとおまえさんの問題じゃなくて、デルマリナとハイランドの問題になる」
その通りです、とケアルはうなずく。
「わかっていらっしゃるなら、話が早くていい。おれはできるだけ彼女を説得するつもりですが、できなかった場合は――」
「おいおい、ちょっと待て」
軽く手をあげ船長は、頼みごとをしようとするケアルをおしとどめた。
「言っとくが俺は、わかってねぇぜ。そりゃまあ、おまえさんと嬢ちゃんをとりまく周囲の状況ってやつは、わかる。けど、嬢ちゃんの気持ちや、おまえさんの本心なんてものはてんでわからねぇ」
なにを言い出すやらと、ケアルは船長を見やる。マリナの説得に協力するつもりはないと言いたいのだろうか。
「おれの本心は、もう言いました」
「俺が聞いたのは、おまえさんが決めたことだけだ。本心はこれっぽっちも聞かせてもらっちゃいねぇよ」
「本心……?」
いぶかしげに眉を寄せるケアルに、コルノ船長は自分の逞しい胸をたたいた。
「ここが、ほんとに望んでることだよ。状況だの、周りの連中だのの雑音が混じってねぇ、おまえさんの本心だ」
つられるようにして、ケアルは自分の胸に手を当てた。
「あの嬢ちゃんは確かに、親父さんに甘やかされて、蝶よ花よと育てられたがな。頭も勘いいし、自分の悪いところを認められる潔さも持ってる」
だからな、と船長はケアルが自分の胸に当てた手の甲を指さした。
「おまえさんのそこが、ほんとに望んでることだったら――きっと、それ以上の我儘《わがまま》は言わねぇだろうよ。まあ、ちっとは泣きはするだろうがさ」
「……女を泣かせる男に、ろくなヤツはいないんじゃないんですか?」
上目づかいに見あげて言ったケアルに、船長はにやりと笑った。
「どうせ泣かせるなら、どっちがいいかって話さ。嬢ちゃんも言ってただろ? 自分の幸せは自分で決めるってな」
まあ頑張れ、と背中をたたかれて、ケアルは小さく息をつきながらうなずいた。
自分の本心なんて、これまで考えもしなかった。故郷を出て以来ひたすら頭にあったのは、なにがハイランドにとって良いことか、どうすれば使命を果たせるのか――それだけだ。
なによりも、使命のために親友さえ置き去りにしてきてしまった自分がいまさら、どの面《つら》をさげてマリナに一緒にハイランドへ来てほしいなどと言えるだろうか。そう考えてケアルは、はっと目をみひらいた。
(そうか……おれは彼女に、来てほしいんだ……)
自分の胸をぎゅっとつかみ、ケアルは軽く瞑目した。
「わたくし、絶対に船を降りませんわ」
話があると上甲板に誘ったケアルに、マリナは開口一番そう言った。
夜を迎えた甲板には、月明かりの下、当直の水夫の姿がちらほらと見える。いつもならケアルに声をかけてくるかれらだが、マリナとふたりきりだとわかると、意味深に笑みを送ってくるだけで、こちらへ近づこうともしない。
「――そういうお話なのでしょう?」
挑むような目をして言われ、ケアルは苦笑した。水夫たちは恋人同士の語らいを期待しているのだろうが、これではそんな雰囲気になるはずもない。
「ああ。けれどその前にひとつだけ、いいかな?」
「なんでしょう?」
「きみが連れて来た侍女は、明日、船を降りるべきだと思う」
ケアルの言葉にマリナは、憮然とした表情になった。
「そんなこと、あなたに言われる筋合いじゃないわ。あの子は、わたくしの侍女よ。もうずっと何年も、わたくしについてきた子なのよ」
「でも彼女は、デルマリナに帰りたがっている」
彼女が甲板の隅で故郷を恋しがって泣く姿は、当直の水夫たちばかりでなく、ケアルも見かけたことがある。
「きみが彼女を連れて来たのは間違いだったと思う」
「どうして? わたくし、あの子にちゃんと訊いたのよ。わたくしについて来るかどうかって。あの子は、行くって言ったわ」
「あるじにそう言われて、嫌だと言える家令はいないよ」
[#挿絵(img/KazenoKEARU_03_039.jpg)入る]
はっとした様子で、マリナは目をみひらいた。
「わたくし……、でも……」
「デルマリナには彼女の親や兄弟がいるんじゃないのかい? ハイランドへ行ってしまったら、あるいはもう二度と、彼女は身内に会うこともできなくなってしまうよ」
きゅっと唇を引き結び、マリナは俯いた。甲板磨きや厨房でも手伝いに荒れてしまった手が、ドレスを握りしめる。
「そう……そうね。連れて来たのは、わたくしの我儘だわ」
「コルノ船長にお願いして、彼女が無事にデルマリナへ帰れるよう手配してもらう。それでいいね?」
みるからに華奢な肩をおとして、マリナはうなずいた。その姿を見ているとケアルは、なんだか自分がひどいことを言ったような、ひどくいたたまれない気持ちになる。
「ごめんなさい。わたくし、すごく恥ずかしいわ」
「なにがだい?」
「だって……わたくし自分のことばかり考えて、あの子の気持ちなんて全然、確かめてもみなかったんですもの」
恥ずかしいわと繰り返すその横顔から、心の底から悔いていることがよくわかった。その素直な心根を、清廉な気位の高さを、ケアルは好ましいと感じずにはいられない。
けれど、だからこそ彼女を故郷には連れて行けないとも思うのだ。デルマリナとハイランドが云々ではなく、彼女のためにも。
故郷で、デルマリナからやって来た彼女がどんな目で見られるか。ケアルが連れて来たというだけで、「上」の住人たちはマリナを白い目で見ることだろう。
「――きみも彼女と一緒に船を降りたほうがいい、とおれは思う」
ケアルが言うとマリナは、はっとして顔をあげた。
「どうして……? わたくしのことが、嫌いなの?」
潤んだ目で見つめられ、ケアルはあわてて視線をそらす。
「いや。嫌いとか、そんなんじゃなくて」
「じゃあ、どうして――」
言いかけてマリナは、小さく「ああ」とつぶやいた。
「そうね……そうだわ。あなたはとても優しいから、そんなふうにおっしゃるのね。本当はわたくしのことなど何とも思っていないけれど、そう言ったら、わたくしが可哀相だと思っているのね」
あわててケアルは、マリナを見つめなおした。
「そうじゃない。違う、そんなふうには思っていないよ」
「じゃあ……わたくしのこと、ほんの少しでも好きだと思ってくださっているの?」
「そりゃあ、もちろん――」
力強くうなずいて、次の瞬間にはもう後悔した。
好きだなどと答えるべきではない。たとえ憎まれても恨まれても、きみのことは嫌いだと言うべきだった。
「だったら、どうしてなの?」
マリナは真摯《しんし》な表情でケアルの目をのぞきこみ、たずねる。
「わたくしが船を降りてしまったら、もう二度と会えないかもしれないのよ? あなたはそれでも平気なの?」
わたくしは嫌よ、と身を絞るようにして首をふる。
「歳をとって、ああ、そういう殿方もいたわねなんて、そんなふうには思えないわ。思いたくもないわ。あなたと一緒に生きていきたいの。思い出になんか、したくないの」
「マリナ…………」
彼女の真摯な瞳から目が離せない。黒い目は大きく輝き、まるで航路をしめす星のようだ。ケアルは自分の胸に手を当てた。瞬く星の光が、この奥深くに射し込んでくる。
デルマリナで、親友を見失ったときに励ましてくれたのは誰だったのか。いちばん辛かったとき、そばにいて手をさしのべてくれたのは誰だったのか。故郷に帰っても、彼女に代わる存在など居はしない。
「――マリナ」
ケアルはふたたび彼女の名を呼び、その華奢な手を握りしめた。この手を離したくないという強い思いが、胸を押しつぶしてしまいそうだ。
「ケアル……?」
手を握りしめられて頬を染め、マリナは愛らしく小首を傾げてケアルをのぞきこむ。
「一緒にハイランドへ来てほしい」
ケアルの言葉に、マリナの表情がぱっと明るくなった。
「ほんとうに? 本当にわたくしが、ハイランドへ行ってもいいの?」
「来てほしいんだ、おれが」
来てもいいのではなく、来てほしいと望んでいるのだと、ケアルは繰り返す。
「でも……ハイランドへ行くことは、きみにとっては辛いことになると思う。きみはこの先もう一生、お父上には会えないかもしれないし」
「覚悟の上だわ」
頭をあげ胸をはって、マリナは即座に言い放つ。
「それに――ハイランドでは、おれについて来たというだけで、きみは皆に白い目で見られてしまうかもしれない」
「よそ者の女が白い目で見られるのは、デルマリナでも同じよ」
「そうじゃない。きみじゃなくて、おれの生まれが原因なんだ」
「生まれ……?」
「ああ。おれの母は、島人だったから」
島人たちと「上」に住む人々の違いを、ケアルは簡単に説明した。
島人であった母を、ケアルは恥じてはいない。だが故郷の兄たちや他人がケアルをどう見ているか、マリナに言っておくべきだと思ったのだ。
「あら。それを言ったら、わたくしのお父さまは、市場で薬草売りをしていた孤児だったのよ」
あっけらかんと、笑みさえ浮かべてマリナは言い放った。
「どこの馬の骨ともわからない男の娘だって、よく言われたものだわ。だから、安心してちょうだい。わたくし、そんなことにはすっかり慣れているもの」
慣れていると言い切れるまで、彼女の内でどれほどの葛藤《かっとう》があったか、立場の似ているケアルにとって想像することはたやすい。ひどく切ない気持ちになって、ケアルはマリナの肩を引き寄せた。
マリナは瞬間、身体を強張らせた。だがすぐにケアルを見あげると、
「わたくしのこと、同情しているの?」
そういうことになるのだろうか。ケアルが答えられずにいると、マリナはにっこり微笑んで、ケアルの胸を軽く小突いた。
「言っておくけれど、わたくしはあなたに守ってもらおうなんて、これっぽっちも思ってなんかないわ。わたくしが、殿方に守ってもらえるのを待って、べそべそ泣いている女性だと思わないでいただきたいわ。反対にわたくしがあなたを、守ってさしあげたいの」
ケアルは目を丸くして、マリナの悪戯っ子めいた顔を見おろした。
強がっているだけなのかもしれないが、これもまた彼女の本心なのだろう。彼女を愛しく思う気持ちが、こみあげてくる。
「うん、そうだね。うん……」
もういちど抱き寄せて、彼女のふっくらとした唇にくちづけた。
青い空の美しいハイランドで、彼女と共に生きていこう。いつの日にか、ふたりの間に子供が生まれたら、それはデルマリナとハイランドの子になる。親友と同じ、空と海の間に生まれた子だ。
空と海の間の掛け橋となるような、両者をまたぐ虹となるような…………。
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第十章 故郷への帰還
1
ロト・ライスが領内に近づく船があるとの報告を受けたのは、三番目の息子をデルマリナに送りだしてちょうど一年経った、その日の午後のことだった。
船を発見したのは、四ヶ月ほど前から毎日一度、領内とその周辺を巡視するために飛ばせている三機のうち、西の一帯を担当する一機である。
早速ロト・ライスは執務室で地図をひろげ、報告した伝令に船がどの方向からやって来たかを確認した。
「なるほど。この航路なら、マティン領の領民が船に気づいた可能性はないな」
彼が領主となって以来、何年もかけてこつこつと作らせていた五領の正確な地図は、ライス領内と南接するマティン領、北接するギリ領に限っていえば、どうにか完成されたものとなっていた。実をいえば、デルマリナから三隻の船がやって来た一年前のあの日から、それまで期限をつけずやらせていた地図作りを、人員を三倍に増やし、叱咤《しった》激励《げきれい》して急がせていたのである。
「ライス領内ならば、大丈夫か――いや、油断はできないな」
しばらく考えたロト・ライスは、現在公館に詰めている伝令全員に、執務室へ来るよう申し伝えた。
伝令の仕事は通常、領内の各島および他領との連絡・交渉である。大小さまざまな島を数百、領内に抱えるこの地にあって、伝令は「上」と呼ばれる陸地と島々をつなぐ、唯一の公的職務といえよう。ライス領ばかりでなく、他の四領にも同じような職が存在することはいうまでもない。
かれらは全員、翼の操縦の巧手であり、領主間で交わされる親書を携《たずさ》えることもあることから、自らの仕事になみなみならぬ誇りをもっている。そんなかれらに四ヶ月前、上空からの巡視の仕事をするよう命じたのは、かれらにとってかなり衝撃的な出来事だったに違いない。
四ヶ月前――マティン領のはずれで、デルマリナ船が確認されたという。ロト・ライスはすぐさま領主レグ・マティンに親書を送り、船がどこへ向かっている模様かを訊ねたが、待てど暮らせど返信がない。なにかあったと直感し、信頼できる家令に内偵させたところ、マティン領の領民がデルマリナ船を襲撃したらしい、とわかったのである。
だが、しばらくしてようやく届いたレグ・マティンからの返信は、襲撃の事実にはまったくふれられていなかった。デルマリナ船があらわれた報告は受けたが、確認のために人を差し向けたところ、すでに周辺海域のどこにも船影はなかった――それだけだった。
ロト・ライスが伝令たちに巡視の仕事を命じたのは、その後すぐのことだ。また領民、特に島人たちに、船を発見したら公館へ報告するよう正式な触れを出したのも、この時である。
「――デルマリナ船が視認されたのは、この海域だ」
招集された六人の伝令に、ロト・ライスは地図をしめしてみせた。
「船は、二隻。おまえたちには、その二隻が無事に上≠ヨたどり着くまで、上空より監視してもらう」
「監視するだけでよろしいのですか?」
訊ねたのは、いちばん古株の伝令だ。
「そうだ。監視するだけでいい。ただし、船からはもちろん、周辺の島からも翼がはっきりと見える高度で飛べ」
領主の指示に、伝令たちは互いに顔を見合わせた。翼が長時間飛行するには、高度を保つことが必要だ。地上から翼がはっきり見える高度では、長い距離も時間ものぞめない。操縦者がよほど高い技能をもたなければ、ロト・ライスの命令は実行できないだろう。
このライス領でそれができるのは、おそらく――ロト・ライスがデルマリナに行かせた三番目の息子、ケアルぐらいなものかもしれない。
「二班に分かれよう。片方が高度を保てなくなったら、もう一方の班が代われるように。それしかない」
古株の伝令が、同僚たちに提案した。それでいいですか、と目顔で訊ねる彼に、ロト・ライスはうなずいてみせる。
他の伝令たちも、提案に異論はなかった。古株の彼が指揮をとって、それぞれの技量に応じて伝令たちを二組に分けた。そして、どちらの班がどの方角から船のいる海域に入るかを決めると、伝令たちは揃《そろ》って領主に一礼した。
執務室から駆け出していく伝令たちを見送り、ロト・ライスは露台《バルコニー》に出た。
公館の前庭にはすでに、数機の翼が引き出され、空へ飛び立つ時を待っている。緑の芝に真っ白な翼は、まぶしいほど映える。
彼はふと、三番目の息子を思った。領内の誰よりも高く、鳥のように自由に大空を飛べるケアルがデルマリナへ出立して、一年を過ぎた。
無事にデルマリナへ着いただろうか、それさえもわからない。確かめたくとも、彼の地はあまりに遠い。
ロト・ライスが使者をケアルと決めたとき、ある者は、島人の女が生んだ子をライス領の正式な使者とするのはいかがなものかと言い、またある者は、なるほど航海途中で死んでも惜しくない人物を選んだと言った。だが結局どちらも、ロト・ライスの真意を理解してはいない。
そもそもデルマリナの人々が、島人と上の住人の違いなど知るよしもないだろう。身分だの生まれだのは所詮、この五領内での話だ。島人の母をもつ人物が使者であるからといって、彼の地の人々は侮《あなど》られたと思うまい。また逆に、使者が由緒ある生まれの人物だからといって、ありがたく思うはずもない。
彼がケアルを使者に選んだのは、この三男が思慮深く、誰よりも領主である彼の意図を理解しているからだ。ただしケアルが正式な使者であることを強調するために、わざと島人の若者を同行させた。ケアルの友人でもある彼ならば、島人の母から生まれた子であるとケアルを軽視することはないだろう。
なによりも、ふたりは若い。融通のきかない頭の硬い大人たちよりも、かれらのほうがよほど目をこらし、あらゆるものを吸収して帰ってくるに違いない。
「ただし、帰って来られたらだが……」
もの思うロト・ライスの目に、伝令たちが次々と飛び立っていくのが映る。
青い空にひらひらと舞う、白い翼。風だけを頼りにして大空に挑むその翼は、まるでこのライス領の――いや、五領のいまある姿のように思えてならなかった。
2
短い鐘の音が響きわたった。
コルノ船長と動物の骨から作られる駒を使ってゲームを楽しんでいたケアルは、鐘の音を耳にしたとたん、駒を放り出して甲板に走り出た。
甲板では水夫たちが、ぽかんと口を開け子供のような表情をして、空を見あげていた。下甲板に通じる階段からは、鐘の音を聞きつけた水夫たちが続々とのぼってくる。
「話にゃ聞いてたが、あれが翼≠ゥ?」
いつの間にかコルノ船長が隣に立ち、手をかざして上空を見あげながら、ケアルに訊ねた。
「ええ、そうです――」
真っ青な空に白い翼が三機、悠々と泳ぐように飛んでいる。あの地模様のない白い翼は、伝令が使う機体だ。だが、どこかへ向かう様子はない。餌《えさ》をもとめて漁船に群がる海鳥のように、船の上空をひたすら旋回しているだけである。
「こいつはすげぇや」
つぶやいた船長は目を輝かせ、いきなり帆柱をのぼりはじめた。あとに続けとばかり、周囲にいた水夫たちも帆柱に取りついた。
「おまえらは下にいろっ!」
「ずるいぜ、船長。おれらも近くで見たいですよ!」
「だったら順番にしろっ! みんなでのぼったら、帆柱が折れるだろうがっ!」
気がつけば、たわわに果実をつけた樹木のように、帆桁の端から端まで水夫たちでいっぱいになっていた。夢中になって見あげている者、翼に向かって手をふる者、仲間と肩を組み歌いだす者――みな子供のようにはしゃいでいる。
翼の操縦者はいったいこれを、何と思って見おろしていることか。苦笑しながらケアルは、船の進行方向右手の方角から、あらたな翼が三機、接近してくることに気づいた。
高度の落ちた先の三機の上で、あらたな三機が旋回をはじめた。帆桁にぶらさがった水夫たちが、翼の数が増えたことに喜び歓声をあげる。
やがて帆柱のすぐ上まで高度をおとした先の三機が、あとからきた三機に場所を譲るように、船の上から離れていった。どこへ行くのかと目で追えば、近隣でいちばん大きな島へと向かって、より高度をおとしている。
「あの翼、まるでわたくしたちを監視しているようだわね」
ふいに声をかけられ振り返れば、さっきまで厨房にこもっていたのだろう、白い前掛けをつけたマリナが手をかざして、上空を旋回する三機の翼を見あげていた。
「綺麗だけど、見張られているなんて、なんだか嫌な感じだわ」
「見張っているのは、この船をではないかもしれないよ」
ケアルの言葉にマリナは、軽く目をみひらいて振り返る。
「じゃあ、なにを見張っていると思っていらっしゃるの?」
「船に近づくものを――」
答えてケアルは、きっとそうに違いないと確信した。
数ヶ月前、デルマリナ船が襲撃されたことを、ライス領主である父が知らないはずはない。領内の者が襲撃したのかどうかはケアルにはわからないが、襲撃は父にとって意に反することなのだろう。二度とそのようなことがないように、父は伝令を監視役として寄越《よこ》したのだ。
翼なら、船に近づくものはすぐに察知できる。それどころか、船の上を領主直属の伝令の白い翼が旋回することで、よからぬ計画を企てる者を牽制《けんせい》することもできる。あの父ならばきっと、そこまで考えているはずだ。
「父上らしいな……」
思わずつぶやいたケアルに、マリナはつんと唇をとがらせた。
「ずるいわ、ひとりでわかっていて。わたくしには教えてくれないの?」
「そんなつもりはないよ」
笑ってケアルは手をかざし、船が進む前方に目をやった。ゆっくりと陽がのぼるように、険しい山の稜線《りょうせん》が見えてくる。
「ごらん、あれがおれの生まれた場所だ」
峻嶺《しゅんれい》な山脈のふもとに、建ちならぶ白い箱のような家々が、やがて見えるはずだ。
「あそこなの……? デルマリナと全然ちがうわ」
周囲に島数が多くなり、帆桁に取りついていた水夫たちが次々におりてきた。
水夫頭が長い紐《ひも》の先につけた鉛《なまり》の重りを持って船首へ走っていく。紐には等間隔に印がつけてあり、鉛を海中に投げ入れて印を読み取り、水深を測るのである。浅瀬に迷い込み座礁《ざしょう》してしまっては、船は立ち往生して動かなくなる。
水深を読みあげる水夫頭の声に従って、水夫たちは帆を畳み、縄を引く。かれらの仕事の邪魔にならぬよう、ケアルはマリナと船尾の一段高い場所へ移動した。
ケアルは手すりにもたれかかり、ゆっくりと左右を流れていく島々に目を細める。このあたりはどれも、見慣れた島ばかりだ。潮と緑の匂いを胸いっぱいに吸い込むと、やにわに懐かしさがこみあげてきた。
陽射しも風も匂いも、どれもが幼いころから馴染んできたものだと、頭ではなく身体が知っている。それをこそひとは故郷と呼ぶのだろうと思ったとたん、胸をわし掴みにされた気がした。
(エリ……、おまえだってここに帰ればきっと、そう思うんじゃないか?)
浜辺の砂の熱さを、翼が発着する台地の草の匂いを、おまえはきっと覚えている。何年経とうが忘れられるはずはない。
(だから、エリ。おまえも帰ってこい、絶対に帰ってこい――)
もの思うケアルに何かを察したのか、マリナがそっと手をのばし、ケアルの腕を抱きしめた。
* * *
帆柱ほどの高さのある崖を眼前にして、船は錨《いかり》をおろした。
切り立った崖は右から左まで、見える限りどこも足場を探し当てられぬほど険しい。この上に、白い箱のような家々が建ちならぶ街があるとは、おそらくにわかには信じがたいだろう。
崖下の、いまにも波に飲みこまれそうな舟着き場から小舟が四|艘《そう》、船を目指して近づいてくる。デルマリナの小舟を見慣れた目には、高い波に大きく揺れる舟が木の葉のようにみえる。
船縁《ふなべり》に近づき手すりから身を乗り出したケアルは、舟に見知った顔がいくつも並んでいることに気づいた。どれも公館づきの家令たちだ。いちばん後ろの舟には、なんといちばん上の兄、セシル・ライスの姿があった。
かれらはしかしケアルには気づかぬ様子で、船上に向かって代表者を出すようにと要求した。
「この船の船長は、俺だが?」
コルノ船長が飄々《ひょうひょう》とした態度で、四艘の舟を見おろす。
髭面に水夫と変わらぬなりをした船長を目にして、舟の上の人々は不審げに互いに顔を見あわせた。だがすぐにセシル・ライスが家令たちに合図し、舟をいちばん前へ進ませると、揺れる舟の上に立ちあがった。
「我が領主は、代表の者に会いたいと望んでおられる。我らが御案内するので、ぜひ公館まで御足労いただきたい」
だとよ、とコルノ船長がケアルを振り返った。
「あんたがいるんだから、別に案内してもらわねぇでもいいんだがな」
「おれは案内はできますが、それだけですよ。でも兄はちゃんと父の意をうけて、こうして出向いているようですから」
「へぇ、ありゃ兄貴なのか? あんまり似てねぇな」
興味深そうにセシル・ライスを見やって、船長は顎髭を撫でまわした。
「うん。あんたのほうが、女好きしそうな顔してるぜ」
「船長……」
苦笑するしかないケアルに、にやりと笑ってみせた船長は、舟に向かって声をはりあげた。
「了解した。ただちに下船の準備をする」
かれらがケアルに気づいたのは、彼が船から海上におろされた小舟へと乗り移ったときだった。ケアルの姿を認めて、信じがたいと言いたげなざわめきがひろがる中、ケアルは小舟の上で姿勢をただし、兄に向かって深く頭をさげた。
ケアルがゆっくり頭をあげると、兄は末弟を穴があくほど見つめ、やがて我にかえった様子で、
「よく帰ったな。ご苦労だった」
ただそれだけ言って、ふいっと顔をそむけた。
気がそがれたような白々とした雰囲気となったが、続いてマリナが船縁からたらした縄梯子《なわばしご》をおりてくると、ケアルの存在など忘れたかのように大きくざわめいた。
「女だ……、女がいるぞ」
「デルマリナの女なのか?」
前回やってきた船は、八隻。乗船していた水夫らの数は四百人にものぼるが、女性はひとりもいなかった。また、過去の遭難者の中にも女性はいない。まさにかれらにとって、マリナは初めて目にするデルマリナの女性だったのである。
ケアルに手を借り小舟の端に腰をおろしたマリナは、かれらに愛想よくにっこりと笑顔を向けたが、ケアルと目が合うと、ひそかに顔をしかめてみせた。
最後にコルノ船長が小舟へ乗り移り、船縁からおろされていた縄梯子が引きあげられると、セシル・ライスの率いる舟が動きはじめた。家令たちの拙い手つきで漕ぐ舟を先導にして、こちらは熟練の水夫が悠々と漕ぐ舟が続く。
舟着き場に到着すると、次は帆柱ほども高さのある崖を、風に頼りなく揺れる縄梯子でのぼらなければならない。水夫たちならともかくマリナには無理と見て、ケアルは家令たちに頼んで、上から荷揚げ用の籠をおろしてもらった。
めったにないことだが、女性や子供がここをのぼる場合、籠に入って滑車《かっしゃ》で引き揚げてもらうのが通常だ。マリナは自分でのぼれると言い張ったが、縄梯子をのぼるには想像以上の腕力がいる。コルノ船長とふたりでマリナをなだめすかし、彼女を籠に入らせた。
籠の中では顔をこわばらせ不安そうな表情だったマリナも、公館へ向かう道では、もの珍しげに街並みを眺めていた。ちょうどデルマリナに着いた翌朝、ケアルがそうだったように。それを思い出してあらためてケアルは、マリナが故郷を離れ遠い異郷にやって来たことの重さをひしひしと感じた。
けれど、あのときケアルにはエリがいたが、今のマリナには誰もいない。唯一ケアルこそが、あのときのエリのような存在になれるかもしれないだけだ。
(おれは、なれるだろうか?)
マリナの横顔を見ながら、ケアルはひそかに決意をかためたのだった。
* * *
公館は一年前のあの日のように、館内の灯りをすべて点して遠来の客を歓迎していた。そのうえロト・ライスが自ら足を運び、公館の外で一行を出迎えたのだ。
このようなことは、公式な席で他領の領主を出迎えるとき以外、かつてなかったことである。ケアルはもちろん驚いたが、出迎えた領主を目にしたとき家令たちの間におこったざわめきは、かれらの驚きがいかばかりであったか、充分に推測できるものだった。
まずは礼儀上、客人たちの代表であるコルノ船長と握手を交わし、歓迎の挨拶を述べたロト・ライスは、その後すぐケアルの前へ歩み寄り、両手を大きくひろげて息子の身体を抱きしめた。
「よく……よく帰ってきてくれた」
父がこのように息子へ愛情をしめす姿を、ケアルはこれまで見たことがない。いついかなるときもロト・ライスは、我が子らに対して父親である前に、ライス領を治める領主であったのだ。
目を白黒させ棒立ちになったまま父に抱きしめられていたケアルは、背中にまわった腕が離れるとやっと我にかえって、姿勢をただした。
「ただいま帰りました、父上」
うむ、と領主がうなずくと、家令たちの間からまばらな拍手がおこった。ただしそれはケアルの帰還を祝うというより、領主への追従であることは明白だった。
すでに先触れが、客人の編成を伝えていたのだろう。ロト・ライスはマリナを目にしても、少しも驚いた様子はなかった。
「ピアズ・ダイクンの娘、マリナ・ダイクンと申します」
領主に視線を向けられて、ケアルの隣に立つマリナはドレスの裾をつまみ、優雅な仕草で頭をさげた。
「ピアズどのというと――?」
「我らの船の、船主です」
コルノ船長の説明に、領主は軽く目を細めた。
「デルマリナ滞在中は、ピアズどのの邸にお世話になりました」
ケアルが付け加えると、ロト・ライスは優しげな笑みを浮かべ、あらためてマリナに頭をさげた。
「息子がお世話になりました。お父上に直接お礼を申し上げるべきでしょうが、この通りデルマリナとは遠く離れておりますので」
「いいえ、お気になさらずに。我が家に滞在いただけて、父も喜んでおりましたわ」
如才《じょさい》なく挨拶を返したマリナは、もの言いたげな視線をケアルに送る。マリナの意をくみ、彼女をあらためて紹介しようと口を開きかけたケアルだったが、それが言葉になる前に、さりげなく近づいてきた次兄、ミリオ・ライスに遮《さえぎ》られた。
「父上、宴《うたげ》の準備が整いました」
そうか、とうなずいた領主は、客人たちを見回し声をはりあげた。
「どうぞ、中へ! 心ばかりの歓迎の宴を用意いたしております」
ロト・ライスに腕を差し出され、マリナは一瞬ケアルを振り返った。ケアルがうなずいてみせると、マリナはためらいがちに領主の腕を取り、一行の先頭をきって公館へと入っていった。
「どうやら親父さんは、嬢さんを主賓と看做《みな》してるらしいな?」
コルノ船長に囁《ささや》かれ、ケアルは苦い心持ちでうなずいた。
「船主の御息女ですからね」
「そのうえ、あんたが世話になった大アルテ商人の娘だし?」
まさか彼女が、父親の許しも得ず船に乗り込んだ密航者だとは、状況的にいって誰も想像できないだろう。
「申し訳ありません。本当はコルノ船長が主賓となるべきなのに……」
「そいつはいいさ。俺は堅苦しいのは、大の苦手だ。嬢さんのおかげで、久しぶりに陸の上で飲んだくれるもんな」
船長の言葉はありがたかったが、ケアルは再度、申し訳ありませんと心から謝るしかなかった。
歓迎の宴席は、公館の左翼にあるいちばん大きな部屋に用意されていた。
デルマリナへ赴くまでは、この部屋の広さ、柱の装飾の美しさなど、なんと豪華なことかと思っていたケアルだったが、今こうして見ると、ダイクン邸などに比べていかにも素朴で質素に感じられる。部屋ばかりではない。大皿に積みあげられた料理も品数が少なく、乾杯用に配られたグラスもまた無骨で重いばかりだ。
領主が客たちのデルマリナからの航海が無事であったことを祝福し、歓迎の言葉をのべて乾杯の音頭《おんど》をとった。領主の隣には、所在なげな顔をしたマリナが、乾杯の器を掲げている。
客の人数は、ケアルを含めて十人。それを受け入れるライス領側の出席者は、領主を入れておよそ三十人。乾杯が終わると客たちは自然とコルノ船長のもとに集まり、船上で車座になって酒を酌《く》み交していたように、賑《にぎ》やかにやりはじめた。だが、そこに近づく者は給仕役の家令しかなく、他の者はほとんど全員が領主と、その横にいるマリナのもとに集まってしまっていた。
船長に失礼しますと言いおいて、ケアルはマリナのそばに近づいた。四方から話しかけられ、ひどく戸惑った表情をしていたマリナが、ケアルがやって来るのを目にして安堵《あんど》の表情を浮かべた。
マリナ、と呼びかけようとしたケアルはしかし、逆に別の声に呼びとめられた。
「――得意満面ってツラだな」
振り返れば、酔ってほの赤い顔ににやにや笑いを浮かべた次兄、ミリオ・ライスが若い男と並んで立っていた。
「おまえが出て行ったときは、いい厄介払いができると思ったもんだがな。さすが父上、いい手を考えたな、とさ」
「ミリオ、やめろよ。英雄さまにそんなこと言うもんじゃない」
次兄の言葉を、同じようにうす笑いを浮かべた連れの男がとめた。若いのにこめかみのところに白いものを混じらせた、病的なほど青白い顔の男は――何度か見たことがある。確か、父の従兄弟《いとこ》の何番目かの息子ではなかっただろうか。
「英雄だと?」
ケッ、と笑う次兄の息は、宴が始まるずっと前から飲んでいたのだろうとわかるほど、酒の匂いがぷんぷんした。
「こいつのどこが、英雄だってんだ。厄介払いで船に乗せられて、そのままどっかでくたばってりゃあいいものを、でかい顔してのこのこ帰ってきやがって」
「帰ってきたから、英雄なのさ」
ミリオにそう言って、男はケアルへと向き直った。
「無事帰還、おめでとう。デルマリナのことを色々と聞かせてもらいたいな」
「あ……ありがとう」
差し出された手を、ケアルは戸惑いながら握った。骨ばった手はひんやり冷たく、誤って蛇か蜥蜴《とかげ》を握りしめたような気がした。
「最近ぼくらは、分家の若い連中を集めて勉強会をひらいているんだ」
分家とは、領主の血筋の中でもライス姓を名乗れない者たちをさす。たとえばロト・ライスには三人の弟がいるが、うちひとりはギリ領主の二番目の娘の婿となり、現在ではギリ領主の補佐を務めている。また他のふたりは、祖父の弟のもとへ養子として入り、いまは家令の一員となってロト・ライスの治世をささえている。かれらは全員、別の姓を名乗っていた。
同じようにケアルも将来、長兄が領主の座を継いだときには、ライス姓を捨てなければならない。ライス姓を名乗れるのは、領主とその子供たちだけなのである。
「勉強会、というと?」
「我々はまだ若くて、政務に関わる仕事をさせてもらっていないだろう? だが将来は我々こそが、ライス領の中心とならねばならない。その将来のために、今から色々と学んでいるんだ。領地のことや、産業のこと、他領のことなんかをね」
得々と説明した彼は、いまふと気がついたといった様子で、
「そうだ、きみにも出席する資格があるな。ぜひ参加してもらいたい」
「こいつが出るなら、おれはもう二度と集まりには行かないぞ」
ミリオ・ライスが横から口を出す。
「こいつと同等に扱われるなんて、まっぴらだ。だいたいおれはまだ、分家に行くと決まったわけじゃない。兄貴が父上のあとを正式に継ぐまで、おれはミリオ・ライスだからな。それこそ兄貴がどうかなったり、たとえ兄貴があとを継いで領主になっても、息子ができなきゃ、おれが次の領主だ」
不穏なもの言いに、男は目顔でミリオ・ライスをたしなめた。だが酔っている次兄は、彼にたしなめられてますます腹を立てたようだ。
「オジナ、貴様も貴様だ。天地がひっくりかえったって、貴様は領主にはなれん。勉強会とやらをひらくぐらいしか自分の存在を父上に認めてもらえない貴様と、このおれを同列におくとは、思いあがりもはなはだしいんじゃないのか? だいたい貴様など、将来どう出世したとしても、治世に関わるどころか、家令どもの給金を数える役職程度がせいぜいのくせして――」
「兄上……!」
青白い顔色がますます青く、表情もまた険しくなっていくオジナに、ケアルはあわてて次兄の言葉をさえぎった。
「なんだ? いい気になって、このおれに意見するつもりか?」
「いえ。ただ、ちょっとお酒の量が過ぎているんじゃないかと――」
「うるさいっ!」
怒鳴った瞬間よろめいた次兄を、ケアルは咄嗟《とっさ》にささえる。だがミリオ・ライスは弟の腕を振り払い、料理を乗せた大卓の上へ倒れこんだ。
皿やグラスが卓からすべり落ち、激しい音をたてた。この騒ぎに、ロト・ライスやその周囲にいた家令たちが眉をしかめて振り返る。
「――お騒がせして、申し訳ありません」
ケアルは父に向け頭をさげて謝ると、卓上に半身を乗せて、なにやら意味不明なことを喚《わめ》きはじめた次兄を助け起こそうと手をさしのべた。
「さわるなっ!」
差し出された手を払ったばかりか、次兄は掴んでいたグラスをケアルに投げつけた。グラスは、咄嗟のことに避けられなかったケアルの額に当たり、床に落ちて砕けた。
額から瞼《まぶた》につたって落ちる生温い感触に手をやると、指先が血で濡れていた。痛みはほとんどなかったが、出血量は思った以上で、俯いた拍子にぽたぽたと落ち、床に赤い染みがいくつもできた。
あわてて家令が駆け寄るより先に、いつの間にかマリナがケアルの横に立ち、ドレスの袖を引き裂いて、額の傷口に当ててくれていた。
「ひどいわ、ひどいわ。これって、いったい何なのよ」
いまにも泣きそうな顔をしてケアルをのぞきこみ、額の傷を確かめる。
「大丈夫だよ、そう痛くはないから」
ケアルが言っても、マリナは離れようとはしない。
「――へっ、女に庇われるとは、さすが英雄さまだぜ」
卓にもたれかかったまま、次兄が言い放った。するとマリナは憤然とミリオ・ライスを振り返り、
「無礼でしょう! あなた、さっさとここを出てお行きなさい!」
出口の扉を指さしてみせる。
マリナ、と呼びかけてたしなめたケアルの声はしかし、彼女には届かなかった。むっくり起きあがったミリオ・ライスが、マリナを睨みつけた。
「なんだと……? 女のくせに、生意気なことを――」
「お黙りなさい。わたくしの大切なかたに傷を負わせるなんて、わたくし絶対に、あなたを許しませんわ」
ぴしゃりと言ったマリナに、コルノ船長たちから拍手と指笛があがった。
「嬢ちゃん、よく言った!」
「ケアルも女房の尻に敷かれてるんじゃないぞ!」
やんやとはやし立てる声の中、ふたたび次兄がグラスを手にしたのを見てとって、ケアルはマリナを背中に庇《かば》った。指笛を吹き鳴らしていた水夫たちも、はっとした様子でふたりのもとへ走り寄る。
「そこまでだ。いいかげんにしないか」
一触即発の睨み合いになりかけたところを割って入ったのは、ロト・ライスだった。
「――傷の具合はどうだ?」
「たいしたことはありません」
ケアルの応えにうなずくと領主は、遠巻きにしていた家令を呼んだ。
「別室で、手当てを」
「わたくしも一緒に参りますわ」
家令に連れられ立ち去ろうとするケアルの腕を握り、マリナは領主に訴えた。ロト・ライスは軽く目を細めてマリナを見おろし、うなずいてみせる。
「そうですね。ドレスも汚れてしまったようだ。息子たちがとんだ失礼をして、申し訳ありませんでした」
一緒に行きなさい、と目顔で促す父に一礼して、ケアルはマリナと部屋を出た。
扉が閉められるとき、次兄を叱りつける父の声が聞こえた。歓迎の宴は散々なものとなってしまったが、あとはきっと父やコルノ船長がうまく場をもりあげるだろう。
日頃は控えの間として使われる別室で、家令たちの手により傷口に薬草を塗られ、頭に包帯が巻かれる間ずっと、マリナはケアルの手を握りしめていた。手当てが終わって家令たちが出ていくと、椅子に座るケアルの前にまわり、マリナは床にひざまずいてケアルの顔を見あげた。
「どうしたんだい?」
もの言いたげな表情に、ケアルが問いかけると、
「ごめんなさい。わたくしなんだか、騒ぎを大きくしてしまったような気がするわ」
「いや、きみが気にすることはないよ」
意気消沈した様子のマリナの髪を、そっと撫でてやる。
「きみが来てくれて、嬉しかった」
「ほんとうに?」
「ああ。おれのほうこそ、きみをひとりにして放っておいてしまって、すまなかった」
「そうよ。あなたのお父さま、きっと誤解なさったのね。わたくし別に、お父さまの名代でここへ来たわけじゃないのに」
そうだね、と笑ってみせる。けれども、おそらくこの一件で、父の誤解はとけたに違いない。
それにしても「わたくしの大切なかた」とは。あそこにいる全員が、マリナがそう言ったことを聞いていたのだと思うと、今になって頬が赤らむ。
赤くなった顔をごまかそうと立ちあがったケアルの耳に、扉をたたく音が届いた。振り返ると扉がそろそろと開き、先ほどの青白い顔色の男が顔をのぞかせた。
「あ……っと、お邪魔だったかな?」
「いえ、いいですよ」
確かオジナという名の――そうだ、分家の中でもかなりの傍流になる、サワ家の次男だった。歳は次兄のミリオ・ライスより、三つ上だったはずだ。
やっと思いだしたケアルが、どうぞと促すとオジナ・サワは遠慮がちに入ってきて、
「先ほどは、ありがとう」
ケアルの前に立つと、そう言って手をさしのべた。
「まさかきみに庇ってもらえるとは思わなかったよ」
「いえ、庇ったわけじゃないです」
握手を交わし、ケアルはかぶりをふる。
「兄が失礼なことを言って、こちらこそお詫《わ》びしなければならないと思ってました」
ケアルの言葉に彼は苦く笑い、大仰に肩をすくめてみせた。
「ミリオのあれば、毎度のことだよ。彼には、自分の立場に鬱屈《うっくつ》した思いがあるんだろうね。いっそ僕ぐらいの立場なら、領主をたすけて生きていこうと思えるが、彼の場合、そこまで自分を捨てきれないんだろう」
それに、とオジナは続けた。
「三男のきみが領主の授けた使命をみごとはたし、デルマリナから帰ってきた。ミリオにしてみれば、年下のきみに先を越された気分なんだろうよ」
「先を越されたなんて……」
「ああ、もちろんきみにそんなつもりなどないことは、僕はわかっているよ」
軽く手のひらを立ててそう言うと、マリナのほうへ視線をやり、
「ところで――彼女を紹介してはもらえないかな?」
「ああ、すみません。彼女はデルマリナの大アルテ商人、ピアズ・ダイクンどのの御息女で――」
「マリナ・ダイクンと申します」
自らそう名乗って、マリナはドレスを軽くつまみ、頭をさげた。
「よろしく。僕は、オジナ・サワです。ケアルくんとは確か、又従兄弟になるんじゃなかったかな?」
「ええ、そんなところです」
苦笑しながらうなずくケアルに、マリナがあきれた顔をした。
「まあ、いいかげんねぇ。そんなところ、だなんて」
「親戚が多いんだよ。いとこだけで、確か五十人ぐらいいるからね」
「五十人ですって?」
「ああ。男だけに絞ると、それでも――二十人いるかな」
「すごいわ。素敵だわ、それって。そんなに大勢いとこがいたら、すごく楽しいでしょうね?」
マリナは顎の下で両手を握り、目を輝かせた。
そういえば、ピアズ・ダイクンには親も兄弟もないと聞いたことがある。確かマリナの母親もひとり娘で、彼女には血縁といえる身内はピアズ・ダイクン――父親ただひとりしかいない。その父親とも遠く離れてしまった彼女が、いとこの多さを羨ましがる姿に、ケアルは胸をふさがれる思いがした。
「僕らが勉強会をひらいていることは、さっきも話したよね?」
「ああ、はい」
「よかったら彼女も一緒に、出席してもらえないかな?」
その誘いに、ケアルはマリナと顔を見合わせた。
「わたくし……でも、ハイランドのことは何も知らなくて――」
「ハイランド?」
オジナが首を傾げる。
「デルマリナでは、五領を総称してそう呼んでいるんです。高い崖の上に街があるので、ハイランドと」
ケアルの説明に、オジナはしかしますます首を傾げた。納得できない、といった様子である。
「あの……わたくし何か、失礼なことを言ったかしら?」
「いえ、ああ、すみません。そういうわけではないんですが――ただ、なぜ総称する必要があるのかと」
そう言ってオジナは、同意をもとめる視線をケアルに送ってくる。
「ライス領とギリ領は隣同士だが、まったく別の領国だよ。領主は違うし、租税や賦役《ふえき》の基準も異なる。それを総称するなんて、無理な話じゃないか?」
「そんなこと――わたくしには、わからないわ」
マリナは困惑しきった様子で首をふったが、ケアルには彼の言いたいことが理解できた。ハイランドの人々にとってずっと、自他の区別をつける基準はお互い五つの領しかなかったのだ。そこにデルマリナが新たな領として加わった、という感覚なのである。
しかしデルマリナの人々にしてみれば、その感覚は理解しがたいものだろう。同じような生活様式、同じような政治形態、同じような自然環境、そして翼を交通手段とする五つの領を、なにもかもが違う遠く離れたデルマリナの市民が、それぞれ違う国として認識するのは難しい。ケアル自身、デルマリナを体験したからこそそれがわかるのであって、この地にとどまっていたならばおそらく、オジナと同じ感覚だったに違いない。
ハイランドとデルマリナの相互理解はまずそこから始めなければならないのか、とケアルはその道のりの遠さを思った。
「――勉強会にはぜひ、彼女とふたりで伺わせてもらいます」
ケアルの申し出に、オジナは軽く目をみひらき、うなずいた。
「ああ、うん。その気になってくれて、嬉しいよ」
日程が決まったらすぐに連絡するから、と告げるオジナとふたたび握手を交わした。
オジナが部屋を出て行くと、マリナは身体中の力がぬけてしまったかのように床に座りこんだ。
「お疲れさま」
苦笑しながら声をかけたケアルを恨めしそうに見あげて、マリナは肩をすくめた。
「ええ、ほんとうに。船で甲板磨きしたときよりずっと、疲れちゃったわ」
3
出航時ピアズ・ダイクンから託された文書を、ケアルがロト・ライスに手渡したのは翌日のことだった。
一年ぶりの執務室には、父がいつも使っていた書き物机の他に中央に大机が据えられ、そこには詳細なハイランドの地図がひろげられていた。ケアルにとっては初めて見る地図であり、その詳細さからも、父がただ座していつになるかわからない息子の帰りを待っていたわけではないと知れる。
父のことだ。おそらく地図だけでなく、他にさまざまな準備を重ねていたに違いない。デルマリナとの交渉を、より優位にすすめるために。
ロト・ライスは長い時間をかけて文書を読み終えると、小さく息をついて椅子に沈みこんだ。腕を組み考え込んでいる父の邪魔にならぬよう、ケアルは息をひそめて卓上の地図に目をおとした。
ケアルは文書を読んでいない。また、なにが書かれているか、ピアズからも聞いてはいない。だが、内容を予測することはできた。デルマリナ議会からの正式な文書であるというなら、船への襲撃事件について触れられていないはずはない。
しかし――父はハイランドの何者かがデルマリナ船を襲撃し、乗組員を殺害したことを知っているだろうか?
「――ケアル」
呼びかけられて、顔をあげた。
「おまえも知っておくべきだろう」
ここへ来て読みなさい、と父が文書をしめしてみせる。
「おれが……いいんですか?」
目の前で手渡した文書なのだ。ロト・ライス以外、まだ誰も読んではいない。もしケアルが先に目を通したと知れば、兄たちや外交を担当する家令は腹を立てるだろう。
「無関係ではいられないだろう――あのお嬢さんは、デルマリナの人間だ。もし彼女が船が去ったあともここにとどまるなら、おまえはすべてを知っておく必要がある」
ケアルは父を見つめて、ぐっと息を飲みこんだ。
船が帰るとき、マリナにはもういちど、その気持ちを確認するつもりだった。決意は変わらないか、この地でこれからの一生を送る覚悟はあるのか。父に、彼女と結婚したいと告げるのは、それからでいいと思っていた。もしマリナがここでは暮らせないと結論した場合、彼女は船主の娘として父親の名代でハイランドを視察に来たのだと、そうごまかせるように。男を追いかけて船に乗ったのだと公になれば、彼女の一生に傷を残すことになる。
「申し訳ありません、おれが……」
マリナの気持ちばかり思い遣って、領主である父に対して謝罪のひとことさえまだ口にしていなかったと、ケアルは深く頭をさげた。そんな息子に父親は、うすく笑って文書を差し出した。
「見るのか、見たくないのか、どっちだ?」
責める言葉はなかった。かといって許されたとも思えなかったが、ケアルは黙って文書を受け取った。
文書はライス領主ひとりに宛てたものではなく、ハイランド五領の領主たちに宛てたものであった。のっけからデルマリナ船襲撃事件に対して、厳しい語調で非難している。そしてデルマリナ議会からの要求が、箇条書きで並んでいた。
まずは、即刻襲撃犯人を捜しだし、デルマリナ議会へ引き渡すこと。殺された水夫の遺族への賠償《ばいしょう》、襲撃された船主への慰謝料として、銀貨で支払いをすること。また同時に、ハイランドの領主全員が署名した謝罪文書をデルマリナ議会へ提出すること。
以上のことが容れられない場合は、報復措置を執行する用意がある――文書はそう締め括られていた。想像していた以上に、厳しい内容である。
「父上、これは……」
視線をあげたケアルに、ロト・ライスは険しい顔でうなずいた。
「各領に伝令を送り、領主たちを招集せねばならん」
ケアルもうなずき返す。
「父上は、デルマリナ船を襲撃した者が誰なのか、御存知なのですか?」
「誰がやったかは、まだ不明だ。だが、裏で誰が糸をひいていたのかについては、おおよその見当はついている」
やはり父は、襲撃事件を知っていた。それどころか、それについての調査まで行なっていたのだ。
「でしたら、その者を――」
「その者をデルマリナに引き渡せば、他の要求ものまねばならなくなるぞ。銀貨を十八万五千枚だと? 冗談ではない」
言い放ってロト・ライスは、机に拳をたたきつけた。
「十八万五千枚の銀貨といったら、マティン領で年間に産出される銀とほぼ同額だ」
ちなみにマティン領は五領中、とびぬけて銀の産出量が高い。
「どの領主も決して、首を縦にはふらんだろう。そういう要求だ」
「そうですね。殺された水夫たちの遺族への賠償金としては、法外に高いです。船主のほうも――船は無事ですし、補修のための金額と考えても、そこまで必要ありません」
デルマリナでは、庶民ならば銀貨二枚もあれば一ヶ月、一家の暮らしは賄《まかな》える。
「不当に高い賠償金額だと抗議することもできますが、あるいは……」
わずかに眉をひそめたケアルに、領主は言ってみなさいと促した。
「目的は賠償金ではなく、別のところにあるのかもしれません。はなから支払えないような金額を提示し、それができないならと次の要求を、我々がみずからすすんでという形で受け入れるように――」
みずからすすんで、と頭の中で繰り返したケアルは、はっとして目をあげた。
「父上、これはおれの個人的な考えなんですが――」
なんでも言ってみなさい、と領主はふたたび促す。
「このライス領で、いや全五領の中でおまえ以上のデルマリナ通はいない。おまえの意見は領主として、耳を傾ける必要がある」
一人前の男として見られている、信頼されているのだと、ケアルは誇らしさが身体中に満ちてくるのを感じた。
「前回、デルマリナ船が来たとき、かれらはハイランドとの交易を望みました。しかし領主間で意見が分かれ、デルマリナとの交易を了承するには至りませんでした」
そうですね? と確認したケアルに、領主はその通りだとうなずいてみせた。
「今また交易を望むと申し入れられたとして、領主間の意見を調整し、すぐに了承の返事ができるでしょうか?」
「いや、それは無理だな」
領主間の話はおそらく永遠にまとまらないだろう、とロト・ライスは答えた。
「でしたら、デルマリナの目的はそれです。かれらは――特にピアズ・ダイクンどのは、ハイランドとの交易をいち早く開始したいと考えているはずです」
他の誰にも先を越されないために。他の商人たちが、ハイランドとの交易は莫大な利益を産むだろうと気づかないうちに。
「交易は、片方が強く望んだからといって成り立つものではありません。ハイランド側がみずからすすんで受け入れないことには」
そのための、支払い不可能としか思えない賠償金の要求なのだろう。ケアルはそう結論した。
「なるほど、そうだな」
うなずきはしたものの、どこかひっかかるところがあるような苦い表情だ。
「――すみません、僭越《せんえつ》なことを言ってしまって」
あわててケアルが謝ると、ロト・ライスは軽く目をみひらき、苦笑した。
「そうじゃない。おまえが自然にハイランドと言ったので、驚いただけだ」
あっ、とケアルは口を閉じる。
「確かにこれからは、そういった総称が必要になるだろうな」
「はい。でも、便宜《べんぎ》上、暫定《ざんてい》的にそう呼ぶだけで、こちらが希望する総称があればそちらを使ってくれるそうです」
「それも、ピアズ・ダイクンが言ったのか?」
ケアルがうなずくと、父はふたたび腕を組んだ。
「ピアズ・ダイクンか……。おまえの舅《しゅうと》どのは、なかなか手強い相手らしいな」
「父上……!」
思わず声をはりあげたケアルに、父はにやりと笑った。
「なんだ? そのつもりで彼女を連れて帰ったのだろう? 昨夜の件で、領主の三男坊はデルマリナから嫁を連れて帰ってきた、と家令たちは噂しているぞ」
「申し訳ありません……」
またも頭をさげるしかないケアルである。
もうそんな噂になっているのでは、まさかマリナが密航してまでついて来たのだとは言えない。押しかけ女房だのと噂されては、マリナも居心地が悪いだろう。
「謝る必要はない。まあ、厄介なことではあるが――私も若いころは、好きこのんで厄介ごとを背負いこんだと言われたものだ」
懐かしいものを見るような目をして、父は息子の顔をながめた。おそらく、ケアルの母を思い起こしているのだろう。ロト・ライスが島人の女を後添いに迎えたときの、周囲の人々の反発と嫌悪はどれほどのものであったか、ケアルにも容易に想像できる。いまだ人々がケアルを見るたび、それを思い出すことも知っている。
「しかし――彼女の存在はしばらく、隠しておいたほうがいいな。特に、他領の領主どのたちには」
言われてケアルは、はっと真顔になって領主を見つめた。
「……そうですね」
マリナがデルマリナの大アルテ商人、ピアズ・ダイクンの娘だと知られれば、領主たちは彼女を人質にしようと考えるかもしれない。賠償金の要求をとりさげなければ、娘の安全は保証できないぞ、と。
「御面倒をおかけします」
ケアルは姿勢をただし、ライス領主に向かって深々と頭をさげたのだった。
* * *
午後になると、家令たちの手により、翼が前庭へと引き出された。一年前までケアルが毎日のように操縦していた、古い機体だ。
デルマリナから持ち帰った折り畳み式の翼は、船からおろすとすぐに、翼職人のもとへ持ち込んだ。この一年のうち半年は、船底の倉庫で波に揺られていたのだ。専門家による手入れが必要だった。
久しぶりに飛行服を身につけたケアルは、古い機体が自分の留守中もきちんと手入れされていたことを知った。
家令に公館内を案内してもらっていたはずのマリナと水夫たちが、ケアルを見つけて、ぞろぞろと前庭へ繰り出してきた。
「すげぇな。近くで見ると、結構でかいもんなんだな」
「こんなものが宙に浮くなんて、なんか信じられねぇな」
口々に言いながら、水夫たちは機体の周囲をぐるぐると回る。
「兄さんが飛ぶのかい?」
「うん。ちょっと行かなければならない所があるんだ」
うなずいて、ひとり離れた場所に立つマリナに目をやる。彼女は不安そうな面もちで、翼を睨みつけていた。
初めてマリナの前で飛んだとき、彼女は怖かったと言って泣いた。ケアルが落ちてしまうのではないかと不安で、飛んでいるケアルが別人に見えたのだと、堰をきったように泣いた。今もまた、彼女はあのときと同じような不安の中にいるのかもしれない。
「――悪いけど、おれが戻ってくるまで、彼女のそばにいてやってくれないか?」
ケアルは水夫のひとりに耳打ちした。
「そりゃ、お安い御用だが――喧嘩かなんかしたのか?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど」
かぶりをふってケアルは、かれらを案内していた家令がひとりで公館の入口に立っていることに気づいた。
「あれ? コルノ船長は?」
家令は客人全員を案内していたはずだ。
「船長なら、兄さんの親父さんに呼ばれて行ったぜ」
「父上に……?」
「もうちょい放っておいてくれると思ってたんだがなぁ、とかなんとか言ってたぜ」
「あのひともまぁ、船長だって自覚のねぇおひとだからな」
「そりゃ言えてる」
どっと水夫たちが笑った。
水夫たちにここまで慕われる船長も、それほどいないだろう。だが、コルノ船長の詳しい来歴を知る水夫はいない。水夫からたたきあげで船長に出世したらしいと言う者もあれば、代々船乗りの由緒ある家系の生まれらしいと噂する者もいる。
ケアルは彼を得体の知れない一筋縄ではいかない男だと思っているが、出会ったときに抱いた好感は少しも目減りしてはいない。どころか、ますます好感をもち、信頼するにたる男だと感じていた。
父がコルノ船長を呼んだのは、ピアズ・ダイクンの真意を探るためだろう。ピアズが船長に、船長としての仕事以上のことを依頼していないはずがない。
「なあ、飛ぶとこ見てていいか?」
問われてケアルは、笑ってうなずいた。
「いいよ。でも危ないから、もう少しさがっててくれないか?」
神妙な顔をして水夫たちが、公館のほうへとあとずさった。ケアルは機体の細部を点検しながら、飛行服のベルトと翼の留め具をつないでいく。
準備を終えると振り返り、マリナと水夫たちに向けて軽く手をふった。水夫たちはどっとわいて手をふり返し、マリナは胸もとで両手を握りしめた。
操縦桿を握り、刈り込まれた草地を踏みしめる。青臭い草の匂いと、潮風の匂いが胸の中に吹き込んできた。
前方には青い空と、多くの島々が散らばる海。目に馴染んだ光景がひろがっている。
よしっ、と口の中で掛け声して、ケアルは走りだした。前庭の端は、切り立った崖だ。何人もの伝令が飛び立つときにつけた踏み切りの足跡が、そこだけ草がすり切れて残っている。その跡よりもずっと手前で、ケアルは草地を蹴り、空へと舞いあがった。背後で水夫たちが、手をたたき指笛を鳴らすのが聞こえる。
青空へ身を投げたケアルは、すぐに風をとらえてより高くへと駆けのぼった。
だいじょうぶ、風が見える。押し寄せてくる風と、身体の周囲をすり抜けていく風が。暖かな風は白っぽく、冷たい風は氷の刃にも似た透明だ。風の上で光が踊り、はじけて飛び散る。
こんなふうに風が見える日は、信じられないほど調子が良い。夕暮れどきまで飛び続けていられるのも、こんな日だ。
だが今日は、そんなふうに飛ぶつもりはない。目指すは何年もの間、毎日のように通い続けたあの島だ。親友のいた、今は親友の母がいる、あの島――。
突然の訪問に、エリの母親はひどく驚いたようだった。あわててもてなしの用意をする彼女に、ケアルはなかなか来訪の目的を告げることができなかった。
エリがいた頃と同じように、芋《いも》と干し魚を煮込んだ料理をごちそうになり、美味《おい》しいですと何度も褒めてやっと、ケアルはエリが同じ船で帰って来れなかったことを告白したのだった。
「坊っちゃんがひとりでいらしたのを見て、そうだろうなって思ってました」
疲れた顔で椅子に座り、彼女はそう言って力なく微笑んだ。
「あの子は父親の生まれた国へ、行きたがってましたから……。いつの日にかきっと行ってしまうんだろうって、あたしの前からいなくなるんだろうって、ずっと覚悟していましたよ」
覚悟していたと言いながらも、目尻ににじんだ涙を、彼女はそっと袖口で拭った。
「あたしは、夫の母親から息子を奪った女です。夫は生涯、母親のもとに帰ることができなかった――元気でいると、知らせることもできなかった」
「それは……だって、無理だったんですから。仕方ないことでしょう」
いいえ、と彼女は首をふる。
「もしあたしがいなかったら、夫はきっとどんなことをしてもデルマリナに帰ろうとしたと思います。あたしがいたから、あたしがここにいてくれと頼んだから、あのひとは帰らなかったんです。そんなあたしが、息子には帰ってこいなんて言えませんよ」
「そんなふうにご自分を責めるのは、やめてください」
ケアルは彼女の荒れて節ばった手を取り、握りしめた。
「デルマリナでは知人が、エリの行方を捜してくれています。だいじょうぶ、きっと見つかりますよ。そして絶対に帰ってきます」
彼女にというよりも、自分に言い聞かせるように、ケアルは「だいじょうぶ」を繰り返した。
「ありがとうございます。坊っちゃんに、こんなによくしていただいて、あの子は幸せ者ですよ」
「そんな……エリは親友ですから」
「もったいないことです」
恐縮して彼女は何度も首をふる。
「ご領主さまにも、気にかけていただいて。あの子が行ってしまってから、羊の乳やらなにやら、お使いのかたが何度も届けてくださって――」
「父がですか?」
ケアルは軽く目をみひらいた。
「ええ、ええ。そりゃあもう。こんな島人の女ひとりをそこまで気遣ってくださる領主さまは、うちの領主さまだけですよ、きっと。島の者たちも、そう言ってます」
まるでケアル・ライス領主のそのひとであるかのように、彼女は膝に額をこすりつけるほど頭をさげる。
「ありがたいことです、ほんとに」
「どうぞ、頭をあげてください」
ケアルがそう言っても、彼女は頭をさげたまま「ありがたい」と繰り返した。
彼女のもとを辞して、浜の崖上にある翼の発着所からふたたび空へあがったケアルは、そういえば一度も彼女の顔を正面から見なかったなと思い出した。ぶこつな肩や、荒れて節ばった手、白髪のまじったつやのない頭ばかりが思い出されて、彼女がどんな表情をしていたのかわからない。
ケアルが、エリを残しひとり帰ってきたことが申し訳なくて、まともに彼女の顔を見る勇気がなかったこともあるが、それ以上に彼女が頭をさげ通しだったことのほうが大きいだろう。
逃げるように出て来てしまったな、とケアルは思った。エリが一緒だったときは、土の匂いと煮炊きにつかう火の匂いがするあの家の中は、居心地のいい隠れ家のようだったのに……。
またひとつ、なにかを失った気分で、ケアルは操縦桿を握りなおした。ゴーグル越しの陽光が、ひどく目にしみた。
* * *
コルノ船長と水夫たちが公館を離れたのは、ケアルがエリの母親に会った日の午後遅くのことだった。ライス領主より、デルマリナ船が長く一ヶ所に停泊することは領民感情を刺激する、との申し入れがあったからだ。
「勝手を言って、すみません」
船へと引きあげていく船長らを舟着き場まで見送りながら、ケアルは謝った。
「まあ、気持ちはわかるぜ」
コルノ船長は気分を害した様子もなく、そう言って笑った。
「もしデルマリナ市街の上空を、翼が何機も飛び交ってたら、女子供なんぞ怖がって外にも出ねぇだろうからさ」
「あら。わたくしだったら、面白そうだわって追いかけるわ、きっと」
ケアルの横からマリナが、瞳をくりんとさせて口をはさむ。
「嬢ちゃんはまあ、そうかもな。なんせ、密航までやってのけたような、とんでもねぇ御転婆だからな」
「まあ、ひどいわ!」
唇をとがらせたマリナに、水夫たちがどっと笑った。
舟着き場へ降りる崖上の荷置き場まで来ると、船長は水夫たちを先におろして、隅のほうからケアルを手招いた。なんですか? と首を傾げてケアルが歩み寄ると、
[#挿絵(img/KazenoKEARU_03_077.jpg)入る]
「嬢ちゃんのことだ」
コルノ船長は低い声でそう言って、崖下をおそるおそる見おろしているマリナにちらりと視線をやった。
「彼女がなにか?」
「デルマリナを出航する前に、俺は嬢ちゃんの親父さんから、御領主への伝言をことづかってきた」
「やはりそうでしたか」
ケアルがうなずくと、船長は渋い顔で顎髭を撫でた。
「その伝言ってのがな、まあ要は、裏取り引きをしねぇかって誘いみたいなものなんだが……。ピアズ・ダイクンはまさか、自分の娘が密航をやらかしてハイランドくんだりまで行くとは思ってなかったんだろう」
「ふつう誰だって思いませんよ」
「だな。だから、かなりいやらしい伝言だったわけだ。聞いたら、こいつ絞め殺してやろうかって思うような」
「想像はつきます」
「今んところ、あんたの親父さんしかこの伝言は聞いてねぇが。もし他のやつらが聞いたら、んでもって伝言を寄越した相手が嬢ちゃんの親父さんだって知れたら――こりゃあ結構、嬢ちゃんは辛い立場になる」
ええ、とケアルはうなずいた。
「彼女を人質にして交渉しようと考える者があらわれるかもしれない、と思います」
ケアルの言葉に、船長は軽く目をみひらき苦笑した。
「そうか、わかってんだな。やっぱりおまえさん、苦労知らずの坊やってわけじゃねぇんだな」
「苦労知らずですよ、おれは」
応えたケアルの鼻先に、船長はぐいっと指先をつきつけた。
「それが謙遜《けんそん》で言ってんじゃねぇなら、だいじょうぶだよ」
いいか、と言いながらコルノ船長はケアルの肩に腕をまわす。
「嬢ちゃんにゃ、おまえさんしかいない。おまえさんが命をはって、嬢ちゃんを守るんだ。後で悔いるようなまねはするな」
わかったか? と問われてうなずくと、船長はケアルの腹に拳を突き入れた。ケアルが腹をおさえて呻《うめ》く間に、マリナに近づいた船長が彼女になにかひとことふたこと声をかけた。応えたマリナの、明るい笑い声が響く。
「じゃあな!」
ケアルとマリナに手を振って、船長はするすると縄梯子をおりていった。
船はこの日の夕暮れを前にして、停泊場所をライス領内の南の海域へと移したのだった。
4
ライス領主の招聘《しょうへい》を受けて、最初に到着したのは、フェデ領主、リー・フェデだった。伝統と格式を重んじる彼は、今回もまた一年前と同じように、揃いの衣装を着けた二十人をこえる従者を引き連れ、ものものしい行列をつくって公館入りした。
その夕方、五領中もっとも北にあるウルバ領の領主、オリノ・ウルバが海からライス領に入った。デルマリナに対抗しようとでもいうのか、舟を三十艘あまり仕立てての、意気揚々とした到着である。
公館はふたたび騒がしくなった。館内では家令たちはせわしなく、客人の滞在準備と今夜ある宴の準備に走りまわる。前庭では伝令たちがひっきりなしに飛び立ち、戻ってきては着陸し、緑の芝の上に白い翼が絶えることがない。
そんな中、ケアルは父に連れられ、長兄とともに、客となったふたりの領主のもとへ、挨拶にまわることとなった。
次期領主たる長兄、セシル・ライスは、ケアルより六歳年上の二十六。父よりも母親に似た、やや線の細い端正な顔だちの青年である。どちらかといえばおとなしい、おっとりとした性格で、末弟のケアルに対しても次兄のように目の敵にするようなことはない。幼いころは何度か、この長兄に遊んでもらった記憶もあった。
しかし、領主たちへの挨拶をしてまわるのに、次男のミリオではなくケアルが一緒だと知って、少し驚いた様子だった。
「――父上、ミリオも呼んで参りましょうか?」
遠慮がちに訊ねたセシルに、ロト・ライスは「必要ない」とかぶりをふった。
「あれは頭に血がのぼりやすい。フェデ領主を相手に、礼をわきまえた挨拶をするのは難しいだろう」
父にそう言われれば、そうですかと頭をさげるしかない。
案の定というべきか、フェデ領主は挨拶に訪れたロト・ライスを見るなり、早速皮肉を口にした。
「こうも頻繁《ひんぱん》に各領主を招聘するとは、ライス領主どのも偉くなられたものですな。これまで全領主が集まるといえば、領主の就任祝いの席だけですぞ。それも何ヶ月も前に招待状を出し、返事があって、迎えの使者を寄越してのこと。いきなり呼びつけるなど、過去に例のないことですな」
「失礼は承知しております。なにぶん緊急のことで、ご理解いただきたい」
恭《うやうや》しく頭をさげたライス領主に、リー・フェデは口髭を撫でながら、もったいぶってうなずいてみせた。
「――ところで。実は、私どもの三男がデルマリナより帰還いたしました」
ロト・ライスはそう言うと、背後に控えるケアルを手招きした。遠慮がちに進み出るケアルに、フェデ領主が顔をしかめる。
「半年ほどデルマリナに滞在し、見聞を深めましたので、あちらの事情にも詳しくなりました。因って、領主の皆様が全員揃ったおりには、この三男を同席させるつもりでおります」
ライス領主の言葉に驚いたのは、リー・フェデばかりではない。ケアル自身はもちろんのこと、そばにいたセシルもまた、ぎょっと目をみひらき父の顔をうかがった。
「なんですと……?」
フェデ領主は信じがたいと言わんばかりにケアルを見やり、首をふる。
「冗談は、おやめいただきたいですな。我ら領主の会合は五人会≠ニいう名の通り、領主以外の者の同席など例のないこと。それはロト・ライスどのも御承知のはず」
そうですか、とロト・ライスはひどくあっさりとうなずいた。
「おひとりでも反対があるのでしたら、仕方ありませんね。この三男はデルマリナの大アルテ商人、ピアズ・ダイクンどのとも誼《よし》みを結んでおりますが――」
ライス領主の言葉に、リー・フェデはかすかに眉をあげた。
「ピアズ・ダイクンとは、このたび文書を寄越した商人でしたな?」
「いいえ。文書を寄越したのは、デルマリナ議会です。ピアズどのは議会を代表し、文書をしたためた御仁ですよ」
さりげなく訂正し、ロト・ライスは末の息子を振り返った。
「そうだったな?」
問われてケアルは、父の真意をおしはかりながらうなずいた。
「ピアズ氏は、デルマリナ議会の最高執行機関である総務会の一員に名をつらねています。今回の件に関しては、議会から対応を一任されたのでしょう」
「つまりは、一任されるに足る人物というわけだな?」
それでいいと視線でうなずきながら、ロト・ライスは重ねて訊ねる。
「ええ。総務会に名をつらねる大アルテ商人は、わずか五人ですが、中でもピアズ氏はいちばんの切れ者と評判です。それに――」
「わかった。もういい!」
フェデ領主は虫を追い払うように手を振って、ケアルの言葉を遮った。
「この者を同席させて、いくらでも喋らせるがいい。猫よりは役に立つだろう」
「ありがとうございます」
微笑んで、ライス領主は頭をさげた。
フェデ領主のもとを辞すると、ロト・ライスは息子たちを振り返った。
「さて次は、オリノ・ウルバだ。部屋におとなしくしていてくれればいいがな」
一年前、デルマリナ船を襲撃したのは、ウルバ領主だった。彼の軽挙は他の領主たちの非難を浴び、ロト・ライスとギリ領主は後始末に苦慮したものだ。
「あの猪《いのしし》は、懲《こ》りることを知らない男だからな。反省という言葉があることすら忘れているのではないかと、ときどき思う」
肩をすくめてみせる父にケアルは、デルマリナからの航海中、あるいはと考えていた疑問をぶつけてみることにした。
「――父上。今回の事件は、やはりウルバ領主が……?」
ケアルが訊ねると、ロト・ライスはすっと目を細めた。
「それはわからん。だが、私はあの男ではないと考えている」
「どうしてですか?」
ケアルが口を開くより先に、兄が一歩前に出て訊ねた。
「オリノどのには、前科があります。懲りない男だと、さっき父上もおっしゃったじゃないですか」
「――ケアル、おまえはどう思う?」
父はすぐには答えず、ケアルに視線を向けた。兄もわずかに眉根を寄せ、末の弟を振り返る。
「おれは……父上が違うとおっしゃるなら、なるほど違うんだろうと思うだけです」
ふたりに注目され、少し戸惑いながら応えた。
「考えてみたら、ウルバ領はデルマリナから最も遠い北にあります。よほどしっかりとした情報網がない限り、他領に先駆けてデルマリナ船と接触することは難しいでしょう。けれど父上のお話しぶりだと、ウルバ領主は情報網を整備するより、偶然に期待してたいした準備もなく大海に乗り出すようなかただと思われます」
ケアルの分析に、ロト・ライスは目を細めて笑った。
「なるほど。つまり、よほどの偶然でもない限り、あの猪がデルマリナ船を襲撃したはずはない、ということか?」
「はい。全くないとは言い切れませんが」
うなずいたケアルに、ロト・ライスもうなずき返す。そして上の息子に視線を向け、
「――そういうわけだ」
なにか言いたげに、セシルの肩がゆっくり上下した。しかし彼は黙って、ただうなずいただけだった。
ライス領主に猪呼ばわりされたウルバ領主は、扉を開け放った部屋で五、六人の従者と車座になり、にぎやかに酒を飲んでいた。廊下にいてもかれらのダミ声や笑い声はもちろんのこと、酒の匂いまで漂ってくる。鼻をツンと刺激するこの匂いは、ウルバ領特産の蒸留酒に違いない。喉が焼けるほど強いこの酒は、慣れた者でないと、ひとくち飲んだだけでひっくり返るだろうというしろものだ。
ロト・ライスの姿を見るなり、オリノ・ウルバは杯を高く掲げて、一緒に飲まないかと誘った。ライス領主が「まだ仕事がありますので」と断ると、オリノ・ウルバはおどけた様子で目をむいてみせ、それを見た従者たちがげらげらと声をあげて笑った。
「親父が無理だってなら、そっちの息子はどうだ?」
誘いかけられたセシル・ライスは、あわてて首をふる。
「いえ。私も――仕事がありますので」
しどろもどろな断りの言葉に、従者たちはまた笑ったが、ウルバ領主は鼻を鳴らして顔をしかめた。
「ライス領の男どもは、客にすすめられた酒は飲めないらしいな」
「いえ、決してそういうわけでは――」
かぶりをふりながら、セシルは助けをもとめて父を見やる。父には確かにまだ仕事があり、酒など飲んでいられない立場だったが、ふたりの息子にはこのあとの予定はない。しかしセシルは酒に弱く、食事の際に出される甘酸っぱい果実酒でさえ、めったに口にしないでいた。
「――兄をさしおいて僭越ですが、おれがいただいてもいいでしょうか?」
ケアルが進み出ると、ウルバ領主は「こいつは誰だ?」という顔をした。
「三男です。デルマリナへ赴いておりましたが、先日ようやく帰還いたしました」
ライス領主の紹介に、オリノ・ウルバは遠慮のない視線でケアルの頭のてっぺんから足の先まで、じろじろと眺めた。
「ああ、おまえが島人の女の腹から出てきた息子か」
「ケアル・ライスです」
名乗ってケアルが頭をさげると、ウルバ領主はにんまり笑い、手近にある酒の壺《つぼ》を取りあげた。
「おい、そっちの器を寄越せ」
従者に命じて、木の実の入った大ぶりの器を取らせる。そして器を下に向け、木の実をざらざらと床にあけると、空いた器になみなみと酒を注いだ。
「飲むと言うなら、親父と兄貴のぶんまで飲んでもらおうか」
ケアルに向けて器を差し出す。
うなずいたケアルは、かれらと同じように床に直接腰をおろし、ウルバ領主から器を受け取った。器を手にしただけで目が痛くなるほど強い酒だ。全員が見守る中、器の端に口をつけ、いっきに酒を飲み干す。
評判通り酒のきつさは尋常ではなく、喉どころか胸も腹も、たちどころに火を噴いたように熱くなった。だがケアルは動じた様子をあらわさず、空になった器を下に向けて軽く振ってみせた。
「ほお、なかなかやるじゃないか」
ウルバ領主が言って、武骨い大きな手を打ち鳴らした。従者たちも主にならい、一斉に手をたたく。
「噂とは大違いだな、ロト・ライスどの。島人の女が生んだ、ろくでもない息子らしいと聞いていたが。そっちの坊やよりよほど、頼もしい男ではないか」
顎先でセシル・ライスをしめし、ウルバ領主は喉を鳴らして笑った。セシルの頬がみるみる赤らむのを目にし、ケアルは空になった器を猪のような男に差し出す。
「ウルバ領主どの、ご返杯を」
一瞬、ウルバ領主は困惑したように、差し出された器に目を落とした。だがすぐ、うむとうなずき、器を受け取る。
「――酒を。そちらにありますか?」
従者たちに訊ねた。あわてた様子で従者のひとりが、そばにある壺を取って寄越す。
手に持った壺は、ずいぶん軽かった。注いでみると、器に半分ほどしか入っていない。それを見てウルバ領主は、あきらかにほっと息をついた。
「ケアル、ご返杯はあきらめなさい」
成り行きを眺めていたライス領主が、横から口を出した。
「我が領地の酒を持ってこさせてもよろしいが、オリノ・ウルバどのにはお口に合わないでしょう?」
「お……おお、その通りだ」
ウルバ領主は何度もうなずいた。
「このオリノ・ウルバ、果実酒のような子供だましな酒は口になどせん」
胸をはり、顎をそらして言い放つ。
「そうですか。では、残念ですが――」
うなずいてケアルは立ちあがった。瞬間、頭の芯がぶれたように目眩《めまい》がしたが、なんでもないふりを装って頭をさげる。
「この息子には、明日の五人会にも同席させるつもりでおります」
ケアルの肩に手を置き、ロト・ライスはそう告げた。
「よろしければ、五人会が終わった宴席ででも、形ばかりでよろしいので、息子の返杯を受けてやっていただけますか?」
「あ……ああ、心得た」
ハイランドの北の地方では、返杯に応じないのは「男らしくない」ことと言われている。オリノ・ウルバのような男は、そう言われることを最も恥と思うものだ。
「オリノ・ウルバは、それしか取柄のない男だからな」
部屋を辞したあと、ライス領主は笑いながらそう言った。
「確かに。しかし、男らしいことなど、取柄と言えるものでしょうか」
長兄が憮然と、感想をのべる。
「価値観は、ひとそれぞれなものだ。いかにもあの猪らしい価値観ではないか」
上の息子にそう語り、ロト・ライスはもうひとりの息子に目をやった。
「ケアル。おまえは、部屋に帰って休みなさい」
「いえ、おれは……」
かぶりを振ると、上半身がぐらつく。
「その様子では、歩いて部屋に戻るだけで精一杯だろう。家令に迷惑をかけたくないのなら、いますぐ部屋に帰りなさい」
はい、とうなずき、父と兄に頭をさげたことは覚えている。だがそのあとのことは、ケアルの頭からすっぽりと抜けていた。
焼けるような喉の渇きに目が醒めたのは、翌日の陽も高くなった頃だったのである。
* * *
果実と水だけの食事をすませて前庭に出ると、待ちかねたようにマリナが駆け寄ってきた。
「ずいぶん遅いお目ざめね。ゆうべは夕食の席にもいらっしゃらなかったし」
そう言ってマリナは、ケアルの前であからさまに顔をしかめた。
「まあ、すごいお酒の匂い。いったいどれだけ飲んだら、ここまで匂うのかしら」
「ごめん。昨日は、ウルバ領主どのに酒をすすめられて――」
「ウルバ領主って、あの、猫をつぶしたようなお顔のかた?」
思わずケアルは吹き出した。父は猪だと評したが、猫をつぶしたようなとはいかにも彼女らしい評だ。
「彼と会ったのかい?」
「いいえ、見かけただけよ。お供のひとを引き連れて、街へ出るんだって大きな声で話してたわ。ご自分のことを『このオリノ・ウルバは』なんて言うのよ」
「ああ、そういう喋りかたをするね」
「きっとああいうひとは、自分は偉いんだって宣伝して歩かなきゃ、誰にも気づいてもらえないのね」
よほど印象が悪かったとみえ、マリナはあからさまに眉をしかめている。
「ああ、そうだわ。そんなことより、お手紙をいただいたの」
言いながらドレスの腰のところから、薄い封筒を取り出した。
「どなたからだと思う?」
「さあ……コルノ船長かな?」
違うわ、とマリナはかぶりをふる。
「船長だったら、お手紙なんか書く暇があれば、ここまで会いにくるわよ」
「それはそうだね。だったら……」
しばらく考えるが、思い当たらない。ハイランドでマリナを知る者はごくわずかだし、そのうえ手紙を寄越すような人物となると、はたして存在するのかどうか。
「だめねぇ。ほら、ご覧になって」
差し出された手紙に目をおとす。
「オジナ・サワ……ああ、あのひとか」
得心して、うなずいた。
「勉強会をひらいているって、おっしゃってたわよね。その勉強会が、今夜あるんですってよ」
言いながらマリナは封筒から紙片を抜き出し、ケアルに文面を見せる。
「わたくしに、来てほしいんですって」
確かに手紙には、デルマリナについて色々とお話しいただきたいので、来てはもらえないだろうか、とある。また文末には、夕刻、案内の者を寄越すと付け加えてあった。
「もちろん、行くわよね?」
じっと手紙を読むケアルをのぞきこみ、マリナが訊ねた。
「――いや、やめたほうがいいと思う」
渋面をつくったケアルの応えに、マリナは目をみひらいた。
「どうして? オジナさんには、わたくしとふたりで伺わせてもらいます、ってこの前おっしゃったじゃない?」
「この手紙は、きみに届いたものだよ。おれのところには届いていない。つまり、招待をうけたのはきみだけだ、この手紙にも、おれも一緒にどうぞとは書いていないしね」
「まあ。招待してもらえなくて、拗《す》ねていらっしゃるの?」
そうじゃないよ、と苦笑した。
「たぶん、勉強会に参加するひとたちの中で、おれの出席を快く思わないひとがいるんだろうな。だから、手紙はきみにしか寄越さなかったんだ」
勉強会に参加する者たちは全員が、分家といえどもライス家の血をひく若者だ。由緒ある領主の家系につらなると自負しているだろうかれらが、島人の母をもつケアルを仲間にしたいとは思わないだろう。もちろんケアルを誘ったオジナ・サワのような男もいるだろうが、それはごく少数派にちがいない。
「――それはいいんだが、夕刻迎えを寄越すということは、会は夜にひらかれる。誰が参加するのかはっきりしていない以上、きみをひとりで行かせるわけにはいかないよ。それも、夜なんかに」
「けれど、あなたが一緒に行くなら、それでもいいんでしょう?」
「おれが行くと、きっと会はめちゃくちゃになると思うよ」
あの次兄ほど激しい拒否反応はないかもしれないだろうが、それに近いことは起こるだろう。
「それって――あなたのお母さまが、島人だからなの?」
「ああ、うん。そうだね」
「あなたは、お母さまを恥じていらっしゃるの? その……島人だからって」
「いや、恥ずかしいと思ったことも、悪いと思ったこともないよ」
ケアルはかぶりをふりながら笑った。
「母にはもう少し、長生きしてほしかったとは思うけどね」
亡くなったのは、ケアルが五歳のときだった。記憶にある母は、笑っているか怒っているかのどちらかだ。悪戯をして頬をひっぱたかれた思い出は、ひとつやふたつどころではない。
泣いている姿が記憶にないのは、息子には涙を隠していたからか、それとも本当に泣かなかったからなのか。いずれにせよ、そういう気丈な女性だったのだろう。
「――わたくし、お返事を書くわ」
手紙をしまいながら、マリナは言った。
「案内のかたがいらっしゃったら、そのお返事を渡して、届けてもらうわ」
「なんて返事するんだい?」
「ケアル・ライスと一緒にご招待いただかない限り、お伺いするつもりはありません、って書くのよ」
当然でしょう、とマリナは胸をはる。
「そもそもちゃんとした勉強会なら、あなたが行かなきゃ意味がないわ。だってハイランドとデルマリナの両方を知っているのは、あなたしかいないんですもの」
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第十一章 内憂外患
1
夕刻のそろそろ日が暮れる頃となっても、今日には到着するだろうと思われていたギリ領主とマティン領主はあらわれなかった。
ライス領からみて、ギリ領は北の隣、マティン領は南隣である。その両方よりも遠いフェデとウルバの領主がすでに到着しているのに、それより到着が二日以上も遅れるなど、ギリ領主が高齢であること、マティン領主が病弱であることを考えにいれても、まずはありえない。
そもそも各領主の招聘を請う伝令は、ほぼ同時に出発したのだ。ライス領から近いこのふたつの領には、最も遠いウルバ領よりも少なくとも半日は早く、伝令が到着したはずである。
「遅れるとの知らせは、まだありません」
家令の報告に、ロト・ライスは低く唸《うな》って腕を組んだ。
ロト・ライスが差し向けた伝令には、ギリ、マティン双方とも「了解した」「出席します」との返事
を託している。たとえ急遽、領主に不都合が起こったとしても、代理を立てることもできるし、なんの知らせも寄越さないはずはないだろう。
(それでも――ギリ老はまあ、もったいぶってわざと遅れてくることもあるが……)
五領主の中で、ギリ領主はとびぬけての最年長だ。家柄や血筋にこだわるフェデ領主とはまた違った意味で自尊心が高く、一年前にロト・ライスが各領主を招聘したときも、領主となってまだ三十年に満たないライス領主などに呼びつけられるのは不快だと、やはりわざと遅れてやって来た。
(しかし、レグ・マティンは――)
病弱なマティン領主は、領内を治める体力も精神力も欠けている。隣の領ということで何度か援助の手をさしのべたロト・ライスには、ほとんど頭があがらないような状況だ。そのうえかの地は、地理的にもっともデルマリナに近く、レグ・マティンは何度もロト・ライスに不安を訴えては慰められていた。
そんな彼が、連絡を寄越すこともなく遅れたり、ましてや来ないはずがない。
(こうなると、不測の事態が起きたとしか考えられないな)
マティン領主が病に倒れたか、または急逝したか。あるいは、もっと別の――。
「伝令を。できるだけ腕の立つ、速い伝令を呼べ」
ロト・ライスの命令に、家令はあわてて一礼すると、執務室を走り出ていった。
* * *
年若い伝令とともに入ってきた息子を見て、ロト・ライスは軽く目をみひらいた。
「ケアル、おまえを呼んだ覚えはないが」
咎《とが》める父に臆した様子もなく、末の息子は前へと進み出た。
「できるだけ速い伝令が必要と聞きました。かれらには申し訳ないですが、たぶんおれがいちばん速く飛べます」
「私は伝令を呼んだのだ。速く飛べるだけでは、伝令はつとまらないぞ」
「ええ、わかっています」
うなずいたケアルは、父の顔を正面から見つめる。
「マティンとギリの両領主が、まだ到着されていません。伝令はそのために必要なのではありませんか?」
ロト・ライスはぐっと息を吸いこんだ。
「おれが行きます。おれに行かせてください、父上」
勢い込んで請願《せいがん》するケアルを見やって、しばらく考えていたロト・ライスは、やがて年若い伝令に、さがって待機しているように命じた。伝令が一礼して執務室を出ていくと、ケアルのそばに近づき、書きもの机の上に尻を乗せた。
「酒はぬけたか?」
「はい。マリナに言われて沐浴《もくよく》をしたら、さっぱりしました」
「なんだ、もう尻に敷かれているのか」
くすくす笑った父親に、息子は渋い顔をする。
ふいにロト・ライスは表情を変え、じっとケアルの顔を見つめた。
「急に伝令となって行きたいと申し出たのは、なぜだ? 自分がいちばん速いから、というだけではあるまい?」
問われてケアルは、しかし無言のままだった。家令たちはもとより、上の息子も二番目の息子も、ロト・ライスがこんな表情をして問いかければ、たいていたじろぐものだ。少なくとも目に見えて表情が変わる。だがこの息子は、毛ひとすじほどの変化さえあらわさない。
「二領の領主がやって来ないことに、なにか心当たるものがあるのではないか?」
重ねての問いかけに、ほんのわずかだけ、ケアルの視線が泳いだ。
「言いなさい。おまえが言わなければ、あのコルノとかいう船長か、あるいはマリナ・ダイクンに訊ねなければならない」
「マリナはなにも知りません」
思わずといった様子で否定した息子に、父はうっすらと笑みを浮かべた。
「そうか。では、彼女に訊ねよう」
「父上……!」
やっと表情を変えたケアルは、わかりましたとうなずいた。
「おれが知っているのは、ギリ領主どのがデルマリナへ派遣した使者たちのことです」
「ああ、そういえばそんな者たちがいたな、確か」
ケアルとともにデルマリナへ向かった、エリ・タトルという島人のことは、すでに報告をうけている。ふたりを乗船させると決めた時点で、ロト・ライスはかれらが帰還する確率は五割をきっているだろう、と考えていた。一年前のあの日まで、デルマリナ船が完全な姿でハイランドにあらわれたことはない。
つまり、あの巨大なデルマリナ船にして、ハイランドまでたどり着くことは、あまりに困難なことなのだ。それを思えば五割の確率は高過ぎるぐらいだった。
「ギリ領の使者五人、かれらはもう故郷に帰ることはありません」
苦しそうに眉根を寄せて、ケアルはそう言い切った。
「断定したな。ということは、確定するに足る根拠があると考えるが、いいか?」
「――はい」
うなずいたケアルが語ったのは、ギリ領の使者が乗っていた船の水夫から聞いたという話だった。天災や事故で死んだのならともかく、水夫らに殺されたと聞けば、ギリ領主も黙ってはいないだろう。
「その話は、口外していないな?」
「はい。デルマリナでも知る者は、ごくわずかです。マリナは知っていますが――コルノ船長や水夫たちは知らないでしょう。使者たちの乗った船の船主たちも、できるだけ隠し通そうとしています」
マリナ・ダイクンが知っているということは、当然ながらその父親、ピアズ・ダイクンも知っているのだろう。それを持ち駒にして、船主である大アルテ商人たちとなんらかの交渉をしたかもしれない。
(それは大いにありうるな……)
考え考えうなずいて、俯く息子に目をやった。
「おまえは――この話をギリ領に伝えるつもりだったのか?」
「いいえ。ただ、使者となった方たちの遺族には、待っても帰っては来ないと、せめて伝えられないかとは思いましたが」
生真面目な性分は変わっていないな、と父は思った。
「わかった。ギリ領主には、時期をみて私が伝えよう」
息子にはそう言ったが、ロト・ライスはギリ老に知らせるつもりはなかった。デルマリナとの交渉にあたって、これはかなり強い持ち駒にできるはずだ。ギリ老に知られれば、この駒はギリ領のためにのみ使われてしまうだろう。
「父上――ギリ領主がこれを知っている可能性は、ありませんか?」
「まず、ないな。この一年、ギリ領はデルマリナと接触していない」
「デルマリナ船への襲撃事件は? ギリ領内で起こったことではありませんが、これをデルマリナとの接触とみることはできないでしょうか?」
ケアルの疑問に、ライス領主は軽く目をみひらいた。内心、息子の目のつけどころに舌を巻く。
「可能性は低いが、全くありえないわけではないな……」
「おれに調べさせてください!」
ロト・ライスはわずかに目を細めた。
なるほど、ケアルが伝令の代わりをすると申し出たのは、このためだったのか。ギリ領主が事実を知って、デルマリナへの報復を考えれば、マリナや現在沖に停泊中の船の乗組員たちに危害が及ぶやもしれぬ。彼はそう考えたのだろう。
「わかった、いいだろう。伝令として、ギリ領へ行ってもらおう」
うなずいてそう告げるとロト・ライスは、外で待機中のもうひとりの伝令を呼んだ。そして彼には、マティン領へ向かうようにと命じる。
「時間は限られている。夜の飛行もありうる。心して、向かえ」
領主に宛てた手紙を携えた若者がふたり、執務室を走り出ていくのを見ながら、ロト・ライスは椅子の中に沈みこんだ。
2
ギリ領はライス領とは北接する関係に位置し、五領中もっとも島数の多い領地だ。
暮れていく空を背にして、ケアルは美しい島々を見おろした。デルマリナ船が停泊しているライス領とは違い、海上には何艘かの舟が出ている。そういえばギリ領には、夜間、舟の上に灯りを点して漁をする島人がいると聞いたことがあった。空からその灯りは、いったいどんなふうに見えることだろう。デルマリナで見た、大運河に映える数多くの灯りに似ているだろうか?
夕暮れどきの飛行は、すべてのものがぼんやりと、紗がかかったように見える。遠近感が鈍くなり、時に地上からの高度を見誤ることもあるのだ。
目を細めて、ギリ領公館までの距離をはかる。この高度、この風の強さならば、上昇気流を捜すことなく、目的地にたどり着けるだろう。
陽が出ている空は朱色に染まり、反対側の空はすでに暗く沈んでいる。風は夜の空の方角から、吹きつけてきていた。闇色の雲がそびえ立ち、まるで夜があぎとを開いて、白い翼を飲みこもうとしているように思える。
風は耳が千切れそうに冷たい。革の飛行服の縫い目から、針が忍びこむように風が入ってくる。痛みにすら感じる風の中、ケアルは身体をしっかりと伸ばし、これから向かう先を見据えていた。
ケアルが機体を離れると、数人の家令が灯りを手に公館から走り出てきた。
「どこの領の伝令だ?」
「ライス領から来ました」
応えたケアルの顔がわかるよう、灯りが掲げられる。伝令として降り立った若者が、まさかライス領主の息子だと気づく者などいなかった。
「ギリ領主さまに、手紙を――」
「寄越せ、我々が領主に手渡してやる」
差し出された手を見おろし、ケアルはかぶりをふった。
「ライス領主より、こちらの領主さまに直接手渡せ、と命じられています」
「なんだと、この若造が……!」
手を差し出した家令が、ケアルの言葉に眦《まなじり》をつりあげて一歩前に出る。
「よせ、伝令だぞ」
別の家令が、止めに入った。
伝令はどこの領でも特別に扱われる。他領のどこに着陸しても答められず、領民は仕事中の伝令に要求されれば、たとえそれが他領の伝令であっても必ず手を貸さなければならない。また仕事中の伝令を傷つけた者は、最低でも十日の禁固刑に処せられる。
ある意味で伝令は、他領を探らせるにもっとも適した人間だといえるだろう。しかしこれまでどの領主も、伝令には旧来からある伝令の仕事しか与えてこなかった。他の仕事をさせようなどとは、おそらく思いつきもしなかったのだろう。だからこその、特別扱いなのだ。
(やはり父上は、すごいな……)
渋い顔をしながらも家令は、公館の中に案内してくれた。
公館のつくりはどこの領も大差はない。翼が発着する前庭を抱くような、コの字型の建物。左翼の館に領主一家が住み、右翼の館は住み込みの家令たちが使う。領主の執務室や他領の客を招いて宴をひらく広間があるのは、中央の館だ。
陽が落ちた後のためか、広い廊下に人影はまったくなかった。住み込みの家令もいるはずだが、足音さえ聞こえない。静まりかえった館内を、ケアルは四人の家令にしっかりと囲まれ、まるで囚人のように歩いた。
家令が足を止めたのは、大きな両開きの扉の前だった。先頭に立つ家令が扉をたたき、声をはりあげる。
「ライス領からの伝令です!」
中から応えがあり、扉が開く。
領主の執務室のようだ。だが、書きもの机の前に座っていたのは、ギリ老と呼ばれる領主ではなく、壮年の男だった。
「おお、ライス領か。ロト・ライスどのは、お元気か? 舅どのにはしばらくお会いしていないが――」
男の言葉で、彼が何者かわかった。ギリ領でライス領主を「舅」と呼べるのは、ケアルの歳の離れた姉と結婚した、ワイズ・ギリひとりしかいない。ギリ老の長男だ。
「はい。忙しくしてはおりますが、すこぶる壮健であられます」
頭をさげてそう応え、ケアルはワイズ・ギリに目をやった。
「ところで――ご領主は、どちらに?」
「う……うむ、父か。父は……その……」
「領主さまは、お休みになっています」
ワイズ・ギリに代わって、ケアルを案内した家令のひとりが答えた。
「そう、そうだ。父は部屋で休んでいる」
「こんな早くからですか? おかげんを悪くされていらっしゃるのでしょうか?」
「いや、その……大したことはないが、なにぶん年齢が年齢なのでな。大事をとって休んでいるだけなのだ」
嘘のつけない男だ、とケアルは内心あきれかえってしまった。伝令に問われて、すらすらと嘘がつけないようでは、ギリ老も呑気に隠居などできないだろう。
「父に代わって私が、ライス領主どのからの手紙を受け取ろう。父には私が間違えなく、手渡しさせていただく」
「しかし……」
それでも手紙を差し出そうとしないケアルに、先ほどの家令がまた後ろから口を出した。
「このかたは、ワイズ・ギリどのだ。領主さまのご長男でいらっしゃる。いわば、次期ギリ領主となられる御方だ」
「ええ、存じ上げています」
「だったら、手紙を渡せぬ理由などないだろう?」
ケアルが飛行服の内側から手紙を取り出すと、ワイズ・ギリはあからさまにほっとした顔をした。
「しかし――ライス領主からは、必ずお返事をいただくように、と申しつかっています。失礼ですがワイズ・ギリさまは、ご領主の印章をお使いになれるのでしょうか?」
領主間の公的な文書には、必ず領主の印章を押さねばならない。印章を使えるのは、どこの領も領主のみである。
「そ……それは……」
ワイズ・ギリはおろおろと、家令に視線を向けた。
「私もこれが職務ですので、申し訳ありません。ご不調のところを恐縮ですが、ギリ領主さま御本人からお返事をいただきたく、お願いいたします」
深々とケアルは頭をさげてみせた。
黙ってしまったワイズ・ギリに家令が駆け寄り、なにごとか耳打ちした。ワイズ・ギリは何度かうなずき、やがて家令が離れると、引きつった顔でケアルに向き直った。
「わかった。父を起こして、手紙をお渡ししよう。時間がかかると思われるので、しばらく別室で待機しているように」
「ありがとうございます」
ケアルは手紙をワイズ・ギリに渡し、家令の案内で執務室を出た。
狭い控えの間にひとり残されたケアルは、しばらく扉に耳をつけて、廊下の様子をうかがっていた。
足音も声も聞こえない。人の気配もない。確かめて、飛行服を脱いだ。下は、木綿のシャツ一枚。これならば、下働きの家令と変わらない格好だ。
息をひそめて、そっと扉を開ける。周囲に誰もいないことを再度しっかり確かめて、ケアルは足音をしのばせ、先ほどの執務室へと向かった。
「――そんなことを言っても、もし私が勝手に印章を使ったことが父上に知られたら、いったいどうするんだ!」
扉ごしに聞こえてきたのは、ワイズ・ギリのうわずった声だ。
「父上も父上だ。すぐに戻ると言って、もう二日も音沙汰なしだぞ。やはり私が先に、ライス領へ入れば良かったんだ」
「しかし、ワイズさま。ライス領主に、ご領主がなぜいらっしゃらないのかと訊ねられたら、どう言い訳なさるのですか?」
「それは……父は遅れると、それだけで充分ではないか」
「ライス領主は、切れ者です。うかつなことを言えば、なにか勘づかれるに違いありませんぞ。おそらくマティン領主がいまだ到着していないことで、不審に思っているはずですからな」
「不審に……思っているだろうか?」
「当然です。ライス領主はマティン領主と交誼《こうぎ》も深い。そのマティン領主が、なんの連絡もなく遅れているとなれば――」
「そうだな。何もないとは、お思いにはならんだろうな……」
深々としたため息が聞こえた。
「仕方がないな。もし父上が戻られて、私をお怒りになったら、おまえたち――」
「領主さまには、我々からよくご説明さしあげます。ご安心ください」
「そうか、絶対だぞ。……で、返事にはなんと書けばいいと思う?」
かれらが文案を練りはじめたところで、ケアルはその場を離れた。
やはりというべきか、ギリ老の不在はマティン領に関係するようだ。すぐ戻ると言って急遽出かけたとは、どんな事態が起こったのだろうか。それはデルマリナ船襲撃事件となにか関わりがあるのだろうか。
控えの間に戻ったケアルは、飛行服を着込みながら、自分が行くべきはギリ領ではなくマティン領だったのだと悔やんだ。
* * *
ずいぶん長く待ってから、ふたたび執務室に案内された。
ワイズ・ギリは落ち着きなく視線をあちこちにやりながら、返書をケアルに差し出した。頭をさげてそれを受け取ったケアルは、顔をあげると、
「せっかくですから、ギリ領主さまにお見舞いさせていただきたいのですが?」
えっ? と目をみひらいたワイズ・ギリに代わって、家令が怒鳴った。
「なにを言う! 伝令がご領主を見舞いたいなどと言い出すとは、分をわきまえたらどうだ!」
「失礼しました。お気づきいただけるかと思っていましたが――」
ケアルは家令を振り返り、ふたたびゆっくりとワイズ・ギリに視線を戻す。
「義兄上、お久しぶりです」
ワイズ・ギリはますます目をみひらき、喘《あえ》ぐように口をぱくぱくとさせた。
「ケアル・ライスです。義兄上には、姉上との婚礼の席以来、お目にかかってはおりませんが」
「ラ……ライス領主どのの、ご子息……」
「三男です」
笑みを浮かべて、ケアルはうなずいた。
「赤毛の……そうだ、確か島人の母親から生まれた……」
「思い出していただけましたか?」
どうにかうなずいたワイズ・ギリは、胸のあたりを押さえて呼吸を整えている。
「ご子息がなぜ、伝令のまねを……?」
訊ねたのは、家令だった。
「できるだけ速く飛べる者が必要だ、と父上が申しましたので。ご存知かと思いますが、しばらくデルマリナに赴いておりまして、長く翼で飛んでいませんでした。で、久しぶりに遠出をしたいと、父上に我儘を言わせていただいたのです」
「しかし、伝令のまねごとなどされずとも、飛ぶことなどいくらでもできるのでは」
「残念ながら、デルマリナの客人が滞在しておりますので、好きに飛び回るというわけにはいきません」
「だからといって、こんな……」
なおも言い募《つの》る家令を制して、ケアルはワイズ・ギリに視線を向ける。
「ギリ領主どのは、姉上の舅です。ここまで来てお見舞いもせず帰っては、父上に叱られてしまいます」
「いや……その、お気遣いは嬉しいが、わざわざお見舞いいただくような……」
「私がお見舞いするのは、ご不快でしょうか?」
無邪気を装って、首を傾げる。
「いや、そんなことはない。そんなことはないが……しかし……」
「でしたら、ご寝所に案内していただけますか?」
家令たちが顔を見合わせる。
「――ワイズさま、ここはもう正直にお話しになったほうが……」
言われてワイズ・ギリは、とんでもないとばかりに首をふった。
「そんなことをして、父上になんと言えばいいんだ!」
ああ、とつぶやいて頭を抱える。
役には立たない領主の後継ぎを見捨てて、ケアルは家令たちのほうへ向き直った。
「ギリ領主どのは、ご不在なんですね?」
観念した様子で家令たちがうなずく。
「そうですか。では、マティン領に出発されたのは、いつなのでしょう?」
「――ライス領主どのからお手紙をいただいた日の夕方です」
家令の言葉に、ケアルはにっこり笑った。かれらにはケアルが、なにもかも知っているぞと言っているように見えるだろう。
「父上はマティン領にも使いを出しました」
「使い……?」
「ええ、そうです。伝令ではなく」
念をおして、言い添える。もちろん嘘八百のはったりだ。
「では……すでにマティン領の反乱をご存知だったのか――?」
反乱? と聞き返したいところを抑えて、ケアルは平然とうなずいた。
「父上は、マティン領主どのとは深い交誼を結んでおりますので」
意味ありげにそう言って、ふたたびワイズ・ギリに目をやる。
「そのことは義兄上もご存知でしょう?」
ぎょっと目をみひらいたワイズ・ギリは、何度もかぶりをふった。
「ち……父上は、叔母を心配して行ったのだ。決して、義弟に手を貸そうなどという考えではない」
ギリ老の妹は、マティン領でも指折りの名家に嫁いでいたはずだ。その夫は、マティン領主の懐刀とも言われる男だ。
(ということはつまり、反乱を起こしたのはその男か……?)
軽く目を細めるとケアルは、ゆっくりとうなずいた。
「――わかりました。父上には、そのように伝えます」
ケアルの言葉に、ワイズ・ギリと家令たちは深々と息をついた。
3
ケアルの報告を聞いて、さすがのロト・ライスも大きく目をみひらいた。
「反乱……そうか。そうだったのか」
つぶやいて、マティン領主からの返信に目をおとす。
「マティン領主どのからは、何と?」
「所労のため、来られないそうだ。レグ・マティンはもとから病弱だからな、そう言われればなるほどとうなずくしかない」
「マティン領へ行った伝令は、なにか気づいたようでしたか?」
いや、とライス領主は首をふった。
「病で床についていると言われれば、領主にお目通りしたいとは言えぬだろう」
「では、その返信は誰がしたためたのでしょうか?」
「マティン領主だ。ただし、それがレグ・マティンとは限らないがな」
言いながらロト・ライスは、書状を差し出した。
受け取って目をおとしたケアルは、すぐにマティン領主の印章に気づいた。
「印章が……」
「ああ、本物の印章が押してあるだろう。すでに別の誰かが領主の座についたか、あるいはレグ・マティンに押させたか――」
どちらにしても、レグ・マティンにはもう領主としての権限はないということだ。
「まったく、こんな時期に……」
額を押さえてロト・ライスは息をつく。
「ギリ老もきっと、こんな時期にと激怒しただろうな」
「ギリ領主どのは、どんなふうに情報を得たのでしょう?」
「おそらく、マティン領の義弟から連絡があったのだろう。たとえ簒奪者であっても、他領の領主が認めたならば、新しい領主を名乗ることができるからな。まずはギリ領主の承認が欲しかったのだろう」
「承認するでしょうか?」
訊ねたケアルに、父は逆に問い返した。
「ケアル、おまえはどう思う?」
「おれは――承認するつもりがなければ、ギリ領主どのがマティン領に自ら赴くことはないと思います」
海千山千のギリ老ならば、承認することを餌にして、新しい領主を傀儡《かいらい》にしてしまうぐらいのことはするだろう。ケアルがそう考えを述べると、父はうなずいて腕を組んだ。
「そうだ。問題はそこだな……」
報告を終えたケアルが執務室を出る頃にはもう、下働きの家令たちが慌ただしく朝の支度を始めていた。
朝食の時間まで、部屋に戻って少し眠ろうと考え、回廊を通りすぎようすると、中庭からマリナの声が聞こえた。
(ずいぶん早起きだな……)
そういえばデルマリナに着いた当初は、ケアルもやたら早く目がさめたものだ。慣れない土地で緊張していたし、なにより見たいものが多すぎて、寝床の中にいることがもったいなくて仕方がなかった。
当時を思い出しながらケアルは、休む前にマリナにひと声だけでもかけようと、中庭へと足を向けた。
「――わたくしが、そんな誘いにのるとお思いなの?」
果実の低木のむこうから聞こえてきたマリナの声に、ケアルは足を止めた。
ひとりではないと思っていたが、誰と一緒なのだろう。不快をあらわにした声は、誰かと揉《も》めているようだ。
「冗談にしては、出来が悪すぎるわ。それに悪趣味よ。あなた、ケアルのお兄さまなのでしょう?」
相手がなんと答えたのか、聞こえない。マリナが話している相手は、長兄なのか次兄なのか。
「損とか待とか、そんなことでわたくし、ケアルを生涯の伴侶《はんりょ》に決めたのではないわ」
「デルマリナの父上も、娘が将来の見込みもない男と一緒になるより、いずれ領主となる私と一緒になったほうが、よほどお喜びになるのではないか?」
長兄のセシルだとわかって、ケアルは心底驚いた。どちらかといえば気の弱い長兄が、こんなことを言うなんて――。
「お父さまは関係ないわ。それにわたくし、ケアルが将来どんなふうになろうと、構いませんの。夫の地位が高くなると自分まで偉くなったおつもりになる奥方は、デルマリナにもたくさんいましたわ。そんなご婦人がたと、このわたくしも同じだなんて、思わないでいただきたいわ」
「――デルマリナではきっと、女のくせに生意気な口をきくと、もらってくれる男がいなかったんだろうな」
吐き捨てるように言う長兄は、いつもの温厚なセシル・ライスではなかった。
「ケアルも災難だ。はるばるデルマリナまで行って、貧乏|籤《くじ》を引かせられたわけだ」
「まあ。お義兄さまこそ、そんなに器が小さくては、領主となっても家令が誰もついてきてくれないんじゃありません?」
「な……なんだと?」
「ケアルが素晴しいのは、あのひとが決して誰にも、何々のくせにって言わないところなのよ。女のくせにとか、子供のくせにとか、島人のくせにとか――これがどんなにすごいことなのか、おわかりになる?」
返事など待たずに、マリナは続ける。
「器が大きいのよ。空のように、海のようにすべてをあるがままに受け入れられるのよ、あのひとは。そんなこと、お義兄さまはおできになるかしら?」
身にあまる賛辞には恐縮するしかないが、その後のひとことは余計だ。すばらしく回るマリナの口を止めるべく、ケアルはあわてて中庭を横切った。
「そうね。家令たちがちょっと、ご領主はセシルさまではなくケアルを後継ぎにするつもりじゃないか、なんて噂をしていたぐらいで頭に血がのぼって。弟を見返そうと、わたくしに結婚を申し込むような――」
「マリナ……!」
腕をつかんで、引き寄せる。だがもう、遅かった。長兄は蒼白になってマリナを睨みつけ、そしてまた、突如あらわれたケアルを睨んだ。
「兄上……」
なにか言いたげに顔を歪めて、けれどなにも言わず、長兄は踵《きびす》をかえした。
中庭を出ていく兄のうしろ姿を見ながら、ケアルはため息をつく。
「いったいどうして、あんな話になったんだい?」
「あら。立ち聞きしていたのでしょう?」
すましてマリナが応える。立ち聞きと言われればその通りなので、返す言葉はない。
「今朝、お帰りになったの?」
「ああ、うん。きみの声が聞こえたので、つい……」
「お忙しくて約束は忘れても、わたくしの声は覚えていたのね」
皮肉たっぷりに言われ、しまったと肩をすくめた。勉強会に誘ってきたオジナ・サワへの返信の文案を、ふたりで考える約束だったのだ。
「あれ、どうなったのかな?」
「ご心配なく。わたくしがひとりで、お返事を書きましたわ。そして迎えのかたにちゃんと、お渡ししました」
「ごめん……つい忘れて――」
謝るケアルの唇に、マリナは細い指先を押し当てた。
「お謝りになる必要はないわ。そのかわり、今朝はわたくしと朝食をご一緒してちょうだい」
「えっと、おれ……ゆうべ一睡もしてないんだけど……?」
申し訳なさげにケアルが言うと、マリナはにっこり微笑んだ。
「だいじょうぶよ。あなたが食事の席で居眠りをしたら、わたくしがたたき起こしてさしあげるわ」
その日の昼すぎ、オジナ・サワがケアルを訪ねて公館へやって来た。
オジナは昨日の非礼を詫び、今夜の勉強会にはぜひ、ケアルとマリナふたり揃って出席してくれないか、と申し出た。
「出席者の顔ぶれは、どんな方々が?」
訊ねたケアルに、オジナは指を折りながらひとりひとり律義に数えあげた。知っている名もあれば、聞いたことのない名もある。オジナが言ったように、ほぼ全員が分家に生まれた若者らしい。
断る理由もなく、ケアルはマリナとぜひ伺いますと返事をした。
* * *
勉強会のひらかれる会場は、出席者が順繰りに自邸を提供することとなっている。
その日の夕刻、オジナが置いていった地図を手に、ケアルはマリナとふたり、街はずれの民家の前に立った。腰の高さに石を積みあげた垣が、四角い白い家の外まわりをぐるりと取り囲むこの光景は、ハイランドではごく一般的なものだ。庭にはたいてい農機具や翼を収納する納屋があり、石垣の内側に家畜を放している家も多い。
「ご領主の親戚にしては、ずいぶん小さなお家なのね」
思わずといった様子でつぶやいたマリナに、ケアルは苦笑した。
「いや、ハイランドでは大きなほうだと思うよ」
「まあ、そうなの? じゃあ、小さくて可愛いお家ですね、なんて言わないようにしなきゃいけないわね」
軽く目をみひらいたマリナは、大真面目で自分を戒《いまし》める。デルマリナの運河沿いに建ちならぶ邸を見なれた目には、公館ですら質素で小さく見えることだろう。
扉を開いてふたりを招き入れてくれたのは、本日の勉強会に自邸を提供したオジナ・サワだった。
「もうみんな、集まってるんだ。すごく期待してるから、よろしく頼むよ」
「ご期待にそえるかどうか……」
苦笑してみせるケアルの背中を、オジナは任せたよとばかりにぽんとたたいた。
暖炉のある居間にオジナに促されたケアルが入ると、それぞれ好きな場所で寛《くつろ》いでいた若者たちが一斉に視線を向けた。
「あれがケアル・ライスか……?」
「へえ、思ったより若いな」
「二十歳だって話だから、あんなものじゃないのか?」
ひそひそと交わされる声が、はっきりと聞こえてくる。自分に向けられるあからさまな好奇心を感じてケアルは、なるほどこれも一種の期待だなと思った。
続いてマリナが居間に入ると、若者たちがざわめき立った。
「おいおい、ほんとにあれがデルマリナの女なのか?」
「結構、上品そうじゃないか」
「見た目じゃわからんぞ」
「だれだよ、すごい醜女《しこめ》だって言ってたやつは……」
「おまえだよ。それにおまえ、デルマリナの女はみんな、裸同然の格好をしてるとか言ってたじゃないか」
「かもしれないな、って言っただけだ」
「つまらん。領内の女と変わらないじゃないか」
声をひそめようともせず、若者たちは好き勝手に言いあっている。みるみるマリナの顔色が変わり、あわてたのはオジナだった。
「おいっ、きみたち失礼だぞ!」
仲間をたしなめ、マリナに頭をさげる。
「申し訳ない。かれらも悪気はないんだ」
「――ええ、そうでしょうね」
マリナはうなずいて、静かになった若者たちをぐるりと見回した。
「悪気はないのは、わかりますわ。ただ、揃いも揃って頭が悪いだけなのね」
ざわっと、部屋の中の空気がさざ波立った。一瞬なにを言われたかわからぬ者、ばかにされたと目をみひらく者、隣の仲間と顔を見合わせる者。
「想像力がない人間って、頭が悪いものよ。何も知らないなら仕方がないけれど、ここにいる皆さんは、デルマリナの船をご覧になったことがあるのでしょう?」
それなのに、とマリナは苦笑する。
「デルマリナの女性について、とんでもない噂を流すかたも信じるかたも、みなさん頭が悪いとしか思えませんわ」
きっぱり言い切ったマリナに、ケアルはあきれるやら感心するやら、複雑な心境だった。だが言われたかれらのほうは、そろって頭に血をのぼらせた。
「なんだと……っ! 女っ、我らを愚弄《ぐろう》するのか!」
立ちあがってマリナを糾弾する男に、彼女はケアルを振り返る。
「女とは、わたくしのことかしら? きっとそうね、ここには他に女性はいらっしゃらないもの」
「マリナ……」
目顔でたしなめるケアルに、マリナはにっこり微笑んでから、ふたたび若者たちを見回した。
「とりあえず、ばかにされたとわかる程度の頭はお持ちのようね。よかったわ」
「それ以上言うのは許さんぞ!」
「あら。わたくし、許していただく必要などありませんわ。許しが必要なのは、みなさんのほうじゃありません?」
「なっ、生意気な……っ!」
「小娘のくせに、我らに向かって――」
マリナの眉がぴくりと動いた。ドレスの裾を持ちあげ部屋の中央へ進んだ彼女は、卓の上に手のひらをたたきつけた。
「お黙りなさいっ!」
彼女の迫力に気圧されたのか、声がぴたりと止んだ。
「わたくしはデルマリナから三ヶ月かけて、女ひとりでこの地へやって来たのよ。あなたがたのうちひとりでも、単身デルマリナへ赴く勇気のある殿方がいるの? あると言うなら、今すぐ名乗り出なさい。わたくしから船長に口添えして、何人でも船に乗せていただくようにしてさしあげるわ」
もちろんと言うべきか、名乗り出る者はいなかった。人々にとってデルマリナは、あまりに遠い、あまりに未知な地なのだ。おそらく船に乗ることすら、ためらう者も多いに違いない。
「――いないようね。ということは、あなたがたは小娘にも劣る臆病者の集団ね」
マリナが言い放ったとたん、とうとう言ってしまったかと額を押さえたケアルの横で、ぱんぱんと手を打ち鳴らす音が響いた。見ればオジナ・サワが笑顔で、手をたたいている。
「いや、お見事。すばらしい啖呵《たんか》だ」
茶化しているのかとも思ったが、オジナは生真面目な顔で拍手を終えると、不満をあらわにした仲間に向かって言った。
「彼女は、我々がお願いして来てもらったお客さまだよ。お客さまに対して、最低限の礼儀は守るべきだ。そうでないと我々はデルマリナの人々に、礼儀知らずの野蛮人だと言われてしまう」
「しかしオジナ、彼女は我々を侮辱《ぶじょく》した。侮辱されて黙っているわけにはいかん」
若者のひとりが、仲間の気持ちを代弁して反論する。そうだそうだとうなずきあうかれらを見て、ケアルも黙ってはいられなくなった。
「横から口を出すようだが、最初に彼女を侮辱したのは、きみたちじゃないか? 自らの非を認めずに彼女を責めるのは、間違っていると思う」
言ったとたん、かれらの何人かが立ちあがってケアルに指をつきつけた。
「なんだと……っ!」
「きさまっ、デルマリナ女の肩をもつというのか!」
「ケアル・ライスは、とことんデルマリナにかぶれて帰還したらしいな」
「どうせそのデルマリナ女にたぶらかされたんだろう」
理性的な反論もできないかれらに、ケアルは心底あきれかえってしまった。だがマリナはあきれるどころか、かっと頭に血をのぼらせてしまったらしい。
[#挿絵(img/KazenoKEARU_03_113.jpg)入る]
「なんですってっ? あなたいま、なんておっしゃったのっ!」
挑むように上体を乗り出し、かれらの中のひとりを睨みつける。
「マリナ、やめなさい!」
あわててケアルは駆け寄り、マリナの腕を引いた。
「どうして、止めるの? あなたが侮辱されたのよ!」
「頭を冷やしなさい」
「嫌よ。わたくしが侮辱されるのはいいけど、あなたが侮辱されるのは嫌! わたくしが原因であなたが侮辱されるのは、もっともっと嫌なの!」
半泣きになってケアルの胸にしがみついたマリナに、糾弾《きゅうだん》の声をあげていたかれらも拍子抜けしたように、ぽかんとふたりを眺めている。ケアルもまた、どんな言葉をかければいいかわからず、しゃくりあげて泣くマリナを胸に抱いたまま、途方にくれて立ちつくした。
やがてオジナが部屋を出てどこかへ行ったかと思うと、盆に白い湯気のあがる器を乗せて戻ってきた。
「ほらマリナさん、果実酒のお湯割りだ。飲むと落ち着くよ」
差し出されて、マリナがくんっと匂いを嗅《か》ぐ。
「そっちの椅子、持ってきてくれないか」
オジナが仲間に声をかけると、誰かが布張りの椅子を引っぱって来た。マリナのためにクッションが用意され、小さな卓が椅子のそばに引き寄せられる。
涙を拭い、整えられた椅子に腰をおろして、マリナは器を抱えるように果実酒のお湯割りに口をつけた。
「美味しいわ……」
マリナがつぶやくと、ケアルやオジナばかりでなく、若者たちの間からもほっと息がもれた。
時間をかけてゆっくりと器の中身をすべて飲みほしたマリナが、ケアルを見あげる。
「落ち着いたかい?」
ケアルが訊ねると彼女は、恥ずかしそうにうなずいた。
「えっと……いいかな?」
先ほどから何ごとか仲間うちでひそひそと言葉を交わしていた若者たちが、ケアルとマリナに声をかけた。まだ何か言うことがあるのかと、ケアルは彼女を庇うように横に立ち、かれらを見やる。
「なにか?」
「――その、謝りたいんだが」
ひどく照れた様子で、中のひとりがそう申し出た。
「言い過ぎた。申し訳ない」
「女の子を泣かせるなんてなぁ……」
「うん。なんか、すごく悪いことをしたような気がして」
「うちの妹が、そんなふうに泣くんだよ」
「ああ、うちも同じだ。気が強くて、口が達者でさ」
「小憎たらしいことを言うんで、腹が立って怒鳴ると――」
「そうそう。泣かれると、弱いんだよな」
全員が顔を見合わせ、うなずきあう。
そんな謝られかたをしても、マリナにとっては不本意なことだろうとケアルは思った。見ればあんのじょう、マリナはつんと唇を尖らせ、ふくれている。
けれど、これでいいのではないかとケアルは思えた。少なくともかれらは、デルマリナから来たマリナを、自分たちの妹と変わらない少女として見ることができたのだ。
おそらくは、ひとつデルマリナの女を鑑賞してやろうじゃないか、などという動機からかれらはマリナを招いたのだろう。それが妹と変わらないとわかって、鑑賞の対象ではなくなった。侮蔑の対象でもなくなった。
まずはそれでいいんだ、とケアルはマリナの肩に手を置き、うなずいてみせる。それが通じたのかどうか、マリナは顔をあげ、謝る全員を見回した。
「謝ってくださるのは嬉しいけど――みなさまの妹さんって、歳はおいくつなの?」
なぜそんなことを訊ねるのかといった様子で、かれらは互いに顔を見合わせた。
「うちのは、十五だったかな……」
「俺の妹は十三と、十二歳だけど――」
「うちは、十三歳がひとりと、もうひとりは九歳だな」
かれらの応えに、マリナはふたたび唇を尖らせた。
「まあ、みなさんまだまだ子供ですのね。わたくし、じき十八歳になりますのよ。もう立派なおとなですわ」
そんな子供たちと一緒にしないでほしい、と言いたげなマリナに、ケアルもオジナも、その場にいる全員が互いに顔を見合わせた。最初にぷっと吹き出したのは、オジナ・サワだった。つられるようにケアルが、そして他の者たちが笑いだす。
「なにがおかしいんですの?」
きょとんとして、マリナが問いかける。
「いや。うん――確かに、九歳の女の子にくらべればおとなだよ」
くすくす笑いながらオジナが言う。
「当然ですわ」
ようやく自分が笑われているのだと気づいたのだろう、マリナは憤慨に頬を染めてオジナを睨みつけた。
「うちの妹、十歳になったときに言ったんだよ。もう私はおとなになったんだから、おとなの女の人みたいに扱ってちょうだい、ってさ」
「俺んとこの妹は、自分で服が着れるようになったときに言ったぞ」
笑いを懸命にこらえながら、ひそひそと交わす声は当然、マリナにも聞こえた。
「まあ、ひどいわ! もうどんなにお謝りになったって、決して許さないから!」
マリナはそう言い放つと、ケアルを振り返った。あわててケアルは真顔に戻ろうとしたが、もう遅かった。
「ケアル! あなたまで……!」
クッションが投げつけられる。
「ごめん、マリナ。悪かったよ……!」
頭を抱えて謝るケアルに、ふたたび笑いが起こったのは、仕方のないことだった。
完全に拗ねてしまったマリナが、全員ぶんの軽食の用意をするオジナの姉を手伝いに行ってしまうと、なごやかな雰囲気の中、それぞれ好きな場所に座りなおした。
ケアルもオジナにすすめられ、ひとりがけの布張り椅子に腰をおろす。
「実際のところ――デルマリナって、どんなとこなんだ?」
最初の質問は、ごく自然に発せられた。
「そうですね――なにもかもが桁外れに大きい、としか言いようがありません」
例えば、と言いながらケアルは自分を注視する若者たちを見回す。
「デルマリナの人口は、七万人。ライス領のおよそ七倍です。けれどデルマリナ市街は、ライス領の街が十や二十は楽に入るほどの規模をもっています」
「七万人……? 五領あわせても、そんなにいないぞ」
目を丸くして、全員が顔を見合わせる。
「建物は? やはり大きいのか?」
「ええ。有力な商人の邸は、公館よりも大きく、また細かな装飾がほどこされて華麗で美しい建物です」
「確かあのマリナさんは、有力な商人の娘さんじゃなかったっけ?」
そう訊ねたのは、オジナだ。次兄の友人として公館にも出入りする彼は、他の仲間たちより情報通であるらしい。
「えっ、そうなのか?」
「ああ。彼女の父上は、いま来ている船の所有者らしい、って噂もあるよ」
そうなのかい、と訊ねられてケアルは、ややためらいながらうなずいた。
大勢の前でコルノ船長がマリナを船主の娘だと紹介した以上、いずれ皆が知るのは当然のことだ。だがマリナはきっと、船主の娘だと言われたくはないに違いない。
しかしケアルの応えに、かれらは目を丸くするどころではなかった。
「おいおい……じゃあ俺たちは、そんなお嬢さんを泣かせたのか?」
「俺が泣かせたわけじゃないぞ」
「莫迦《ばか》野郎、逃げるな。こういうものは連帯責任だって」
「やばいぞ。娘をよくも泣かせたなと、親父が怒鳴込んでくるかも……」
どうしようと顔を見合わせるかれらに、ケアルは苦笑した。
「だいじょうぶです。彼女はそんなことはしません。きっと、父は父、自分は自分であって関係ない、と言いますよ」
ケアルの言葉にほっと息をついたかれらは、今度はオジナを責めた。
「おまえ、知ってたくせに知らん顔してたんだな」
「意地が悪いぞ。自分だけ点数を稼ごうと思ってたんじゃないか?」
やめてくれ、とオジナは軽く両手をあげてみせる。
「僕が聞いたのは、噂だけなんだから」
「でもオジナ、おまえ彼女が有力な商人の娘だと言ったじゃないか。知ってたんだろうが、やっぱり」
「知ってたわけじゃないよ」
仕方ないなあ、とオジナは苦笑する。
「ただほら、彼女は公館でもてなされているだろう? 船長や船員たちは船にもどっているのに、ひとりで公館に滞在してる。ということはつまり、本人が今回来た船でいちばん偉いか、父親がデルマリナの有力者かのどちらかじゃないかい? ふつうに考えて、女性が代表をつとめるのは荷が重過ぎるだろう。だったらやはり、彼女の父上がと思い至るものじゃないか」
残念ながらそう思い至った者は、オジナの他にいなかったらしい。
あらためてケアルは、オジナの顔を見なおした。
物腰の柔らかい飄々とした男だという認識しかなかったが、思った以上の切れ者なのかもしれない。
「でもなぁ、そう思ったならそう言ってくれればいいのにさ」
不満そうに誰かがつぶやく。
「だって俺たち、そんな噂があるのも知らなかったし……」
「うん。デルマリナの女が――いや、彼女が公館に滞在してるってことすら噂だけで、今日まで本当かどうかなんて確かめようがなかったんだし」
口々に愚痴《ぐち》るかれらは、二十歳から二十五歳ぐらいまでの若者だ。オジナがおそらくいちばん年嵩《としかさ》になる。二十歳そこそこで公務につける若者は、分家といえどもよほど血が近いか、あるいはよほど優秀かだ。年功序列が基本であるから、年老いて引退する者が出て始めて、公職に就ける。かれらが公務にたずさわる家令として公館に出入りするようになるのは、はたして五年先か、十年先か。
そんなかれらが、公館での噂話に疎《うと》いのは当然といえるだろう。けれど同時に、そんなかれらがデルマリナには有力な商人がいることだの、デルマリナの船は島人たちが漁に使う舟のように共同所有するものではなく、商人による個人所有だと知っているのは、驚くべきことだと思えた。この勉強会には、次兄も何回か参加しているというから、おそらくそこが情報の出どころなのだろうが。
「――そうは言うけど、僕は噂話ほど怖いものはないと思っているから」
仲間に責められてもたいして堪《こた》えた様子もなく、オジナはそう言った。
「どういう意味だよ?」
「僕の父は、家令の給金を横領してると噂されて、まだ四十そこそこなのに引退させられたんだ。みんなも知ってるだろ」
ケアルはぎょっとして、オジナに目をやった。他の者は知っている様子だが、ケアルはまったく知らなかった。そんなケアルに向かって苦笑してみせたオジナは、
「もちろん父は、そんなことなどしていないよ。領主さまは噂を聞いて、調べさせたんだけど、証拠となるものは何も見つからなかったんだから。でも同時に、噂を否定する材料も見つからなかった」
それでこれさ、とオジナは首をはねる仕草をする。
「オジナほど頭のいいやつはいないのに、そのせいでいまだ公務につけないんだ」
だれかが心底悔しそうに言った。全員が、そうだとうなずく。
もういいよ、と仲間たちに向かってオジナは笑った。そしてケアルに向き直り、
「――ごめん、なんだか変な話になったな。せっかくきみに来てもらってるんだから、話をデルマリナに戻そう」
現ライス領主の息子という立場ながら、ケアルにはなんの力もない。ケアルは少しほっとしながら、うなずいてみせた。
* * *
「オジナさんのお宅では、毛織物をつくっていらっしゃるんですって」
すっかり話し込んで遅くなった帰り道、マリナははしゃいでケアルに報告した。
「どうやってつくるのか、お姉さまに見せていただいたのよ。作業所には殿方は入れなくて、女性ばかりでお喋りしながら仕事をするんですってよ」
「きみにもできそうだった?」
「たぶん無理ね。でも、女同士のお喋りって楽しいわ」
マリナはそう言うと少し声をひそめて、
「オジナさんには今、付き合っている女性がいるんですって。ご存知だった?」
「いや、そんな話はしなかったからね」
「お姉さまは、困っていらっしゃったわ。オジナさんは隠しているけど、長く姉弟をやっているんだからわかるんですよ、って」
「へぇ、そんなものなのかなぁ」
兄たちのことを思い浮かべながら、ケアルは相槌をうつ。
「オジナさんが付き合っているのは、島の女性らしいのよ」
えっ? とケアルは目をみひらいた。
「わたくし、島の女性と付き合うのはそんなに悪いことなんですか、って訊いたわ。とっても困った顔をされたけど、応えてはいただけなかったわ」
「そうか……」
色々なことが腑に落ちたような気がした。オジナが最初からマリナを好奇の目で見なかった理由、公務につけない自分をさほど気にしているようにも見えない理由――。
「みんながみんな幸せになるって、とっても難しいことなのね」
夜空を見あげてしみじみと言ったマリナに、ケアルはゆっくりうなずいた。
4
ケアルが伝令としてギリ領へ赴いた夜から三日後、ハイランド全域に向けてマティン領主の死亡が伝えられた。
マティン領には現在、ギリ領とライス領それぞれの家令団が現地入りしており、誰を新領主の座につけるかの折衝《せっしょう》が続いている。
本来ならば、亡くなったレグ・マティンの長男が領主を継ぐべきところであるが、父親ゆずりの病弱さゆえに、マティン領内の家令たちが難色をしめした。そこにギリ領主が、家令たちの筆頭代表である妹婿を支持すると表明したのである。ライス領主がそれに反対し、レグ・マティンの長男の擁立《ようりつ》を支持したことは言うまでもない。
どちらの家令団も、相手陣営がどさくさに紛れて即位式を行なわぬよう、互いを監視している――というのが現在の状況である。
互いに一歩も退けぬ現状ではあるが、領主たちはそればかりにかかりきりになってはいられなかった。デルマリナ船から、いっこうに始まらぬ領主たちの話し合いにしびれを切らし、返答の期限を提示してきたのだ。
かくして、ようやくギリ領主がライス領の公館へ到着したのは、他の二領主がライス領入りをしてから七日後のことだった。
すぐに四領主による会合がひらかれた。
しかし、マティン領問題が四人の領主たちの上に大きく影をおとしている中での会合である。ライスとギリはあきらかな敵対関係にあったし、ウルバとフェデの両領主は、ロト・ライスとギリ老が企んで、マティン領主の死亡とその後の混乱を隠したに違いないと憤っていた。会合が始まる前からすでに、話し合いがまとまるはずなどないことは、だれの目にもあきらかだったのだ。
父に命じられ、ケアルもこの会合に同席していたが、のっけからの空気の重苦しさは息苦しいほどだった。しかし、四人の領主が賠償金の支払いとデルマリナとの交易について自分の考えを述べたあと、ロト・ライスがケアルに訊ねたひとこと以降、沈黙が会議室を支配することは二度となかった。
「我々が賠償金の支払いを拒否した場合、デルマリナはどのような手段に出ると考えるか?」
それがそのときの、父の質問だった。
「これまで、デルマリナ船やその船員が他国の者に傷つけられた場合、その報復措置は、海上封鎖とデルマリナに滞在する同国人の捕縛・処刑だったと聞いています」
ケアルの答えは、領主たちに充分な衝撃を与えたらしい。
デルマリナに滞在する者の捕縛・処刑に関しては、どの領主も言及することはなかったが、問題は海上封鎖のほうだった。
デルマリナ船が大挙して、自領内に押し寄せて来たら――? 一隻のデルマリナ船には、およそ三十人から五十人の水夫が乗船している。何十隻ものデルマリナ船など想像できない者も、何百何千人にのぼる水夫が押し寄せるさまならば、充分に想像できた。
ふるえあがった領主たちが次に考えたのは、一年前にライス領主が行なったように、デルマリナ船を襲撃した犯人をさしだすことである。ここにきて初めて、どこの誰がデルマリナ船を襲撃したのかが俎上《そじょう》にあげられることとなった。
領主たちは互いに、これと思う相手を犯人呼ばわりし、遠回しに、あるいは直接的に、その相手を罵《ののし》った。けれどどの疑いにも証拠となるものはなく、誰がデルマリナ船を襲撃したのかどころか、それがどこの領民であったのかすら確定することはできなかった。
犯人捜しがひと段落つくと、かれらはようやく前向きな対応策を検討しはじめた。
どうにか結論らしきものが出たのは、空が白みはじめた頃である。家令が呼ばれ、一晩かかって考えぬいた文案を清書させると、領主たちは順に署名捺印する。あとはもう、代表の者がデルマリナ船へ届ければいいだけとなって、やっと会合は終わった。
部屋を出ていく領主たちを見送るため席を立ったケアルに、ギリ老が徹夜の疲れもみせず、話しかけてきた。
「おまえさんか、うちの莫迦息子をだまくらかしたのは」
値踏みするような視線を向けられ、ケアルは否定も肯定もできなかった。
「歳は、いくつになる?」
「二十歳になりました」
ふむとうなずいたギリ領主は、手にした杖でケアルの足や腹を軽くたたく。
「身体は丈夫そうだの。赤毛は強情者が多いらしいが、おまえさんもそうかい?」
髪を引っぱられて、どう反応すればいいのか困惑していたところに、フェデ領主とウルバ領主を部屋から送りだしたロト・ライスがやって来た。
「ギリ老、息子がなにか?」
「ああ、ロト・ライスどの。うちには、じき八歳になる孫娘がおるのだが、この男をその婿にくれんかね?」
えっ? とケアルは父と一緒になって目をみひらいた。
「ギリ老、お戯《たわむ》れになっては……」
「わしは冗談なぞ言わぬ」
苦笑するロト・ライスに、ギリ領主はぴしゃりと言い切った。
「八歳と二十歳なら、そう歳が離れすぎているというわけでもあるまい。うむ、なかなか似合いのふたりになると思うがの?」
ギリ老がその八歳になる孫娘を、目に入れても痛くないほどかわいがっていることは、あまりに知られた話である。
「失礼ですが、そのお孫さんにはすでに、婚約者がいらっしゃるはずでは?」
困った老人だと呆れた様子で、しかし態度は丁重に、ロト・ライスが訊ねる。
「ああ。だがまだ、結婚したわけでないぞ。息子があの通りだからな、孫にはいい相手を見つけてやらねば、不憫《ふびん》でならん」
老人はそう言うと、ケアルの腕をしっかと掴んだ。
「どうじゃ? 孫と一緒になれば、ギリ領主の片腕となれるぞ。ライス領で兄どもに邪魔者扱いされて一生を食いつぶされるより、よほどやりがいはあると思うがの?」
目を細めたギリ領主の言葉に、ケアルは視界の隅で父の顔をうかがった。苦笑する父の表情からは、いまの言葉をどう受け取ったのか、見て取ることはできない。
「しかし、おれは――すでに心に決めた女性がおりますので」
言葉を選んで、ケアルは応えた。
「どこの娘だ?」
「それは……まだ言えません。ご勘弁いただけませんか」
深々と頭をさげたケアルに、老人は腕を掴む手を放してくれた。しかしだからといって諦《あきら》めたわけではないのだろう。ロト・ライスと挨拶を交わし、矍鑠《かくしゃく》とした足どりで出口へ向かったギリ老は、扉を開けてふと思い出したかのように振り返り、
「近々、ギリの公館へおいでなさい」
「――ありがとうございます」
ふたたび頭をさげ、ぜひうかがわせていただきますと答えると、ギリ領主は皺《しわ》だらけの顔をますますくしゃくしゃにして笑った。
「わしが若いころ使っていた翼がある。職人が精を込めた一品だが、うちの息子にはもったいなくて譲れなんだ。おまえさんにそれを呉れてやろう」
破格の申し出に驚いたのは、ケアルやロト・ライスばかりではない。領主を会議室まで迎えに来たギリ領の家令たちが、廊下でぎょっと目を剥《む》き、主とケアルの顔を交互に見つめた。
「――ギリ領主どの……!」
あわてて断わりの言葉を捜しながら呼びかけたが、ギリ老は振り返りもせず、家令たちに囲まれて部屋へ引きあげていった。
「これは参ったな」
つぶやいて肩をすくめる父と顔を見合わせて、ケアルは小さくうなずいた。
ギリ老は、本気なのだろうか。自分が使っていた翼を譲ることは、重い意味をもつ。たとえ身内であっても、気軽に譲れるものではないのだ。
一年前ケアルが父から、ライス家の紋章が入った翼を譲られたときも、その行為が周囲に与えた驚きはあまりに大きかった。特に兄たちは、父上はケアルに家督を譲るつもりがあるのではと疑ったものだ。あのときはケアルがデルマリナへ赴くことで、次兄の言葉を借りるなら「餞別《せんべつ》として譲ったにすぎない」と決着がついた。しかしさすがに今回は、なまじのことでは済まないだろう。
「まあ、しばらくはギリ老と顔を合わさないほうがいいだろうな。家令たちもあの老人を説得してくれるだろうし――とはいえ、説得されて考えを翻《ひるがえ》すような老人ではないが」
ロト・ライスはそう言いながらケアルを見やり、軽く目を細めた。
「あとで、執務室に来なさい」
何か話があるのだろうかと思いつつケアルがうなずくと、父は息子の肩にぽんと手を乗せた。
「おまえには、先ほどの文書を持ってデルマリナ船へ行ってもらわねばならん」
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第十二章 海流の中の島々
1
風が島々の間を吹き抜けていく。
まるで風の回廊のような島々の間を、ケアルはのびやかに飛んでいた。
白い鳥の群れがすっと近づいて、ケアルと翼を並べる。羽毛が風に震えるのが見えるほど近くで飛ぶ鳥に、ケアルは思わず微笑んだ。おれのことを仲間だと思っているのかな、と想像するとつい口もとがゆるむのだ。
前方に帆船が二隻、海面に黒々とした影をおとして停泊しているのが見えると、短い旅をともに楽しんだ鳥たちは、名残り惜しげにケアルから離れた。
あれは渡り鳥だ。季節の風を追いかけて、遠くまで旅をする鳥たちだ。
(どこへ行くんだろう……?)
この空のはるかむこうには、デルマリナがある。鳥たちはデルマリナまで旅をするのだろうか? 水の上に立つ、あの美しい都市まで行くのだろうか?
遠ざかる群れのうしろ姿を眺めながら、ケアルはきゅっと唇をかみしめた。
「エリ……」
おまえも想っているのかもしれない。渡りをする鳥たちを見あげて、どこから来たのだろうかと。どこへ行くのだろうかと。はるか故郷を、鳥たちと青い空に映し見ているのかもしれない。
飛行服の留め具をはずすケアルに、コルノ船長が笑いながら歩み寄ってきた。
「話には聞いてたが、みごとなもんだな」
ケアルが首をかしげると船長は、ライス家の紋章が入った翼を指さした。
「あんたの飛び方だよ。こっちに来て、もう数えきれねぇほど翼が飛ぶとこを見たけどな。他のやつらのは、ああ翼が飛んでんだなって思うんだよ。ところがあんたの飛び方は、鳥とおんなじだ。近づいて船の上でぐるぐる回ってくれるまで、見張り番のやつらでさえ鳥だと思ってたんだからな」
「ありがとうございます。そう言ってもらえるのが、いちばん嬉しいです」
鳥のように飛ぶと言われることが、翼乗りたちにとって最高の賛辞だ。
「ところで、嬢ちゃんはどうしてる? 元気か?」
「元気すぎるほど元気ですよ」
「だろうな。また、あっちこっちでキツいこと言っちゃあ問題起こしてんだろう?」
マリナの名誉のために、ケアルはその言葉を肯定も否定もしなかった。
船長室に入ると、ケアルは姿勢をただして託された文書を船長に手渡した。コルノ船長も服装は相変わらずだが、しごく真面目な表情をして文書を受け取った。
「ピアズさんに言われてるんで、ここで開封させてもらうぜ」
ひとこと断ってからコルノ船長は、封を開けて中の文書を読んだ。顎髭を撫でながら何度も読みかえし、やがて目をあげると、
「まあ、だいたいは予想した通りだな」
そう言って、どっかりと椅子に腰をおろした。
「ハイランドにはこれだけの賠償金を支払う力はない、ってか。銀の産出量は、年間およそどんなものなんだ?」
「他領のことは知りませんが、ライス領ではこの提示された量の十分の一程度です」
「なるほどな。で、賠償金を支払う代わりに港をつくってやる――と、こいつは誰からの提案なんだ?」
「ギリ領主と、父です」
「どこに港をつくるか、書いてねぇが?」
「フェデ領とウルバ領は、交易を望んではいません。ですから、残り三領のうちのどこかになると思います」
ふたたび船長は顎髭を撫でながら、書面に目をおとす。
「ここには、四人の領主の署名しかねぇが、確かハイランドには五つ領があったんじゃなかったか?」
「マティン領主はほんの先日、亡くなりました。現在まだ、新領主は立っていません」
うなずいてコルノ船長は腕を組み、椅子の背に深々と身体をもたせかけた。
「親父さんは、なんて言ってるんだ?」
上目づかいにケアルをながめ、そう言った船長に、彼は懐の中からもう一通の文書を取り出してみせた。
「こちらは、ライス領主からピアズさんに宛てた信書です」
「信書ってことは、俺が開けたらまずいってことか?」
「そうなりますね」
ケアルがにっこり微笑んで答えると、船長は鼻の頭に皺を寄せた。
「それじゃあ俺は、こいつに関してはなんにもできねぇじゃないか。なあ、あんたはこれに書いてある内容、知ってるんだろ?」
「多少は」
「だったら、ちょっとだけ教えてくれねぇか?」
同じ船に乗って三ヶ月も航海した仲間じゃねぇか、と言うコルノ船長にケアルは、ただ笑ってみせた。船長はちぇっと舌打ちすると、ふたたび真顔になって、
「まさかと思うが、嬢ちゃんを人質にしようとか書いてはいねぇだろうな?」
「それはないです。そんなことをすれば、ピアズさんとの交渉はできなくなります」
信書にふれられているのは、殺されたギリ領の使者たちのことだ。この事実はまだ、コルノ船長を含め、ほとんどのデルマリナの人々が知らない。またハイランドでも、知っているのはケアルとロト・ライスのふたりだけのはずだ。
現在、デルマリナとの交易を望んでいるのは、ギリとライスの二領のみである。だがロト・ライスは、近い将来には否応なくハイランド全土がデルマリナとの交易に踏み切らざるを得なくなると考えている。ならば、他領より有利な条件で交易をしたい。そのためにライス領主は、デルマリナ議会ではなくピアズ・ダイクンとその仲間を、交渉相手として選んだのだ。
ギリ領の使者を殺したことは、不問にする。ギリ領主にもデルマリナ議会にも、口外はしない。その代わり交易の際に、ライス領が輸出する鉱石の関税を、他領より低く設定していただきたい。また、港をつくる費用を一部負担していただきたい。――それが信書のおおまかな内容である。
これが受け入れられなかった場合、ロト・ライスはマリナを楯《たて》に再度、同じ要求をするかもしれない。
(それだけは避けたい、なんとしても)
ケアルは拳をきつく握りしめた。
「――まあ、いいか」
しばらく腕を組み、信書を睨んでいた船長は、そうつぶやくと立ちあがった。
「俺に任されたのは、賠償金が払えねぇなら他のモノで払ってもらいましょうか、ってなことを言う仕事だったんだからな」
やはりそうだったか、とケアルは胸の内でうなずいた。
二通の手紙を書きもの机の引き出しに突っ込んだ船長は、さあ行くか、とケアルに声をかけた。
「あんまし気はすすまねぇが、四人のご領主に会わなきゃならない。兄さん、当然あんたが公館まで案内してくれるんだろ?」
* * *
四人の領主たちを前に、コルノ船長は用意してきた地図をひろげ、港を建設するに適した場所をしめしてみせた。
一年前ハイランドに来たスキピオ船団長が水夫たちを使って、つくりあげた地図だという。地図というより海図に近いものだったが、マティン領とライス領が有する大きな島のほとんどが記入されていた。
候補地は、三ヶ所。マティン領に二ヶ所とライス領に一ヶ所。どこも三百人以上の島人が居住する、大きな島である。
本来ならば、島ではなく「上」に港をつくりたいところだが、と船長は言った。
「地形を考えると技術的に困難である、と結論しました」
海流を考慮に入れると、この三ヶ所以上に適した島はない。そう説明したあと、船長は港に必要な水深や埠頭の長さなどを記した設計書をひろげ、最後にこう結んだ。
「竣成《しゅんせい》の期限は一年。一年後に、正式な通商条約をとり交わしましょう」
会談を終えたコルノ船長を、ケアルは離れの部屋へと案内した。
前庭の隅にある離れば、父が母のために用意した家だ。島人であった母は、父と同じ公館で寝起きすることを許されなかった。ケアルが五歳のとき母が亡くなると、父は息子を公館へ移そうとしたのだが、当時まだ存命中であった祖母が強固に反対したのである。島人の血をひく子供と同じ屋根の下に暮らすなど、とんでもないと。以来ケアルは、ここにひとりで寝起きしている。幼いころは夜ひとりで眠ることが怖くて仕方なかったが、慣れてしまえば、これはこれで気楽なものだと思えるようになった。
離れの部屋には、マリナが待っていた。久しぶりに会ったコルノ船長をマリナは、子供のようにはしゃいで迎えた。
「お仕事は終わったの? だったら今夜は、夕食をご一緒できるのね?」
「いや。嬢ちゃんには申し訳ないが、暗くなる前に船に戻るつもりだ」
とたんにしゅんと肩をおとしたマリナに、船長は気まずい顔で顎髭を撫でる。
「明朝、出航するんだ」
ケアルとマリナは目をみひらいて顔を見合わせた。
「デルマリナへ帰るんですか?」
「ああ。潮時ってわけでもねぇが、潮の具合がいいんだ。今ならたぶん、一気に外洋に出られるからな」
それで、と船長は正面からマリナの顔を見つめた。
「デルマリナへ帰るつもりがあるんなら、今日が最後の機会だ。今日を逃したら、次に船が来るのは一年後になる」
船長の言葉に、マリナの黒い大きな瞳がかすかに揺れる。
「コルノ船長、せめてあと二、三日待っていただくわけにはいきませんか?」
マリナの動揺を見てとって、ケアルは訴えた。今日、それも今すぐ心を決めろというのは、あまりに酷な話だ。
「うーん、二、三日か……」
小さく唸って、船長は渋い顔をする。
「待っていただく必要はありませんわ」
しかしマリナは、ぐっと顎をあげてそう言い切った。
「わたくし、帰りません。この決意は変わりませんわ」
「嬢ちゃんの親父さんに雇われてる俺としちゃあ、無理にでも連れて帰るのがいいんだろうがなぁ……」
「本気でそんなことをおやりになったら、わたくし海へ身を投げますわよ」
これだもんなと肩をすくめて、船長はケアルを振り返った。
「ってことは、俺は雇い主にする言い訳を考えなきゃならんな」
「おれがピアズさんに手紙を書きます」
ケアルが申し出ると、マリナもうなずいて、
「わたくしも、お父さまにお手紙を書くわ。船長さんは悪くありません、わたくしが悪いんですって。
そうしたらきっと、お父さまだって納得してくださるわ」
それはどうかな、と思ったがケアルは何も言わずにうなずいた。大切なひとり娘が、許しもなく家を飛び出して、こんな辺境の地にとどまり帰らないと言う。父親として納得できるはずがない。
デルマリナからの往路、寄航地でマリナづきの家令を船から降ろしたとき、ケアルとコルノ船長はマリナには内緒で、その侍女に手紙を託した。ピアズ・ダイクンに宛てて、マリナが乗船していることを知らせたのだ。
娘がいなくなったのを知って、どれほど動転し、どんなに悲しみ苦しんでいるか。親友を捜しまわったケアルには、他人《ひと》ごとではなく理解できる。
「ちょっと待っていてね、コルノ船長」
ケアルが筆記用具を整えてやると、マリナは書きもの机に覆いかぶさるようにして、ペンを走らせはじめた。
マリナが手紙を書き終えたのは、ケアルが自分の書いたぶんに封をしてからずいぶん経ったあとだった。待つ間、コルノ船長と世間話をするわけにもいかず、ふたりして黙々とお茶を三杯も飲んでしまった。
長い手紙を船長に手渡すとき、マリナの目はいまにも泣きそうに潤んでいた。けれど彼女は気丈にも笑みをつくり、お願いねと手紙を託す。その姿にケアルは、いじらしさを感じずにはいられなかった。
マリナとふたり、舟着き場まで船長を送った。夕暮れに沈む島々の間をぬけて、小舟が離れていくのを見つめながら、ケアルもマリナも口を開くことはなかった。
もう引き返すことはできないな、とケアルは思った。いったん地上を離れた翼が、あとはもう風に乗るしかないように。風に乗って空へ舞いあがらなければ、着陸姿勢をとることもできないのだから。
2
デルマリナ船がハイランドを去った翌日から、港を建造する場所の選定が始まった。
四人の領主たちはそれぞれ家令を大勢引き連れて、候補地を順番にまわった。
当初はケアルも同道するよう言われたのだが、行くことはできなかった。直前になってマリナが発熱し、彼女をひとり残しては行けないと思ったのだ。
オジナ・サワが、マリナのために姉を公館に寄越してあげようかと言ってくれたが、ありがたいと感謝しつつも、結局は断わった。
マリナにはまだ、心許せる相手がいない。特に公館の家令たちはマリナを、腫物《はれもの》にさわるように扱う。領主さまに言われたから世話だけはするけれど、といった態度なのだ。そんな中に、床に伏すマリナをひとり置いて行けるはずなどない。
行けないと申し出たケアルを、父は渋面をつくりながらも許した。代わりに長兄のセシル・ライスが、父に付き従ったのである。
医者は、ただの疲れだろうと言ったが、マリナの熱はなかなかさがらなかった。
滋養のあるものを食べさせるのがいいと聞けば、山羊《やぎ》の乳をわけてもらったり、海鳥の卵を自ら崖にのぼってとってきたりした。また、いい薬草があると聞いて、領内の端まで出向いたりもした。
数日で、昼間は起きて食事やお茶を共にできるようになったが、日が暮れるととたんに熱があがるのだ。日に日に頬がこけ、手首や肩などが目にみえて細くなっていくマリナに、ケアルは自分の無力さを感じずにはいられなかった。
いちばん心配してくれたのは、オジナ・サワをはじめとする勉強会の面々である。毎日入れ替わり立ち代わり訪ねてくれ、マリナの気分がいいときは彼女の話し相手になり、励ましてくれた。オジナなどは、毎日必ず小さなかわいらしい花を届けてくれたし、他の皆も、祖母からもらった熱冷ましのまじないに使う石だとか、柔らかで暖かい掛けはぎの布団だとか、気分がさっぱりする匂い袋だとか、あれこれ考えて届けてくれた。
オジナ・サワが「気を使いすぎているんじゃないのかな?」と言い出したのは、そんなときだ。
「公館にいたんじゃ、家令は多いし、落ち着かないんじゃないのかな?」
前庭の芝をゆっくりと歩きながら、オジナは切り出した。
「でも、デルマリナのダイクン邸にも家令は大勢いたよ」
大アルテ商人の邸だけあって、住み込みの家令は二十人、通いの者を含めて三十人からの家令が毎日出入りしていた。
「赤ん坊のときから育った家とじゃ、全然違うよ」
わかってないなあと苦笑して、オジナは手をふってみせる。
「家令だって、デルマリナの家令は彼女の小さな頃から知っている者が多かったんじゃないのかい?」
「ああ、たぶん――」
「僕も他人のことは言えないけど、ここの家令はみんな彼女を、デルマリナの女だって目で見てるだろう? よそから来た女なのに、なんで大切に扱わなきゃならないんだろう、って感じで」
反感をもってる家令も多いよ、と申し訳なさげに言われて、ケアルはため息をつくしかなかった。
もとからケアル自身、家令たちにはあまりいい顔はされていない。島人の女が生んだ子だと、いまだケアルを軽んじる家令も多いのだ。
「これは提案なんだけど、ふたりでしばらくどこかの島へ行って、休養するっていうのはどうだろう?」
「休養……ですか?」
「うん。きみだってデルマリナから戻って、ずっと忙しくしてただろ。彼女とふたりでのんびりする機会なんて、なかったんじゃないのかい?」
のんびりするどころか、マリナを放って飛び回っていた。いまさら後悔しても遅いが、ひとり公館に残されていた彼女がどれほど心細かったか、なぜ考えもしなかったのだろう。ケアルがデルマリナに赴いたときは、エリがいた。邸をぬけだして街へ出るのも、レセプションで見知らぬ人々に囲まれたときも、エリと一緒だった。心細いと感じたことがなかったのは、エリがいたからだ。
マリナには今、そんな存在がいない。唯一そうあれるべき人間は、ケアルただひとりなのだ。だのにおれは……と、ケアルは拳を握りしめた。
「僕の知合いがいる、なかなかいい島があるんだよ。島人たちも世話好きの、いい人ばかりでね」
オジナはにこやかにそう言うと、ふと悪戯を思いついた子供のような顔をして、声をひそめた。
「きみはご領主の三男だってことを隠して、彼女もデルマリナから来たってことを隠すんだよ。そうすれば、好奇の目で見られることもない。のんびり過ごせるよ、きっと」
いい考えだろう? そんな顔でのぞきこまれ、ケアルは苦笑した。
「そうですね……そんなことができるなら、いいなぁ」
「だいじょうぶ。僕が知合いに連絡をとって、うまくやるようお願いしてあげるよ。まあその知合いには、本当のことを教えなきゃいけないけど、でも彼女なら心配ない」
彼女という言葉に、ケアルは内心「ああそうか」とうなずいた。オジナがいま付き合っているという、島人の女性――おそらくその女性のことなのだろう。
「ありがとうございます、どうかお願いします」
心の底から礼を言ってケアルは、オジナの手を握りしめた。
* * *
島はマティン領にほど近い、島人が五十人足らずの小ぢんまりとした規模だった。海岸線の半分が砂浜で、島人たちは浜辺に沿うようにして集落をつくっている。
島人たちの家は、どれも石を積みあげてつくった簡素なものだ。屋根は大きな植物の葉で葺《ふ》かれ、床には植物を編んでつくった敷物が重ねられている。
オジナの知合いだという娘は、集落の長老の孫だった。ふたりが知り合ったのは、島でつくられている泥炭《でいたん》を、オジナ・サワの家が一手に引き受けているためだ。
砂浜にずらりと並べられ、天日干しされている泥炭を最初に見たときマリナは、それがなにかわからず、
「ねぇ。島人のかたたちって、あんな泥のようなものを食料にしているの?」
そう訊ねて、オジナと長老の孫娘の失笑をかった。
「ちがうよ。あれは、燃料になるんだ」
「燃料?」
「うん。デルマリナでは市民たちは石炭を使っていたけど、ハイランドでは石炭は産出量も少ない高級品だからね」
まあそうなの、と目を丸くしてマリナがうなずく。
「けれど、泥炭が出るおかげで、この島はまだ豊かなんですよ」
そう説明したのは、長老の孫娘だ。ティ・マイトと名乗った彼女は、くせのある黒髪に理知的な褐色《かっしょく》の眼をした、すらりと背の高い娘だった。
「漁だけではやはり、現金収入を得るのは難しいですから」
ちらりとオジナを見あげて、ティ・マイトはにっこり微笑む。
「オジナさんがもう少し高く泥炭を買い取ってくだされば、いいんですけど」
「いや……それはちょっと」
口ごもるオジナに、彼女は「冗談です」と笑った。けれど、この島にとってそれが冗談などでないことは、ケアルにもわかる。
「家は、こちらをお使いください」
集落のいちばんはずれに案内し、ティ・マイトは小さな家に続く石段をあがった。
子供の背の高さほどの石段をあがった先には、白っぽい石を敷き詰めた広い露台があり、そこから家の中へ入るようになっている。家はやはり白い石を積みあげたつくりで、大きくひらいた窓には、島では珍しい硝子《ガラス》が入っていた。
「わたしの父が母と一緒になったときに建てた家なんです。わたしが生まれて手狭になったので、別の場所に建て直したんですが」
あちらが建て直した家だと、低木の繁みをはさんだ隣にたつ家をしめしてみせた。
「水と食料は毎朝、わたしが運んできます。ただ、その……お口に合う食べ物ではないかもしれません」
申し訳なさげに言う彼女に、ケアルとマリナはふたり同時に「とんでもない」と首をふった。
「でも……こちらのオジナさんも、最初のうちは島の料理が全然だめで、おもてなししてもひと口も食べてくれなかったんですよ」
「おいおい、僕を引き合いに出すことはないだろう?」
「だって、そうだったじゃない?」
痴話喧嘩としか思えないふたりのやりとりに苦笑して、ケアルは再度かぶりをふる。
「おれはだいじょうぶです。親友が島にいたので、彼の母上の手料理はよく食べさせてもらってましたんで」
「わたくしだって、だいじょうぶよ」
マリナも負けずに言う。
「船ではいつも、虫食いだらけの死にそうに固いビスケットと、ものすごい匂いのする塩漬の肉か魚だったわ。水だって、腐ってどろどろになってるのよ。わたくし、水が腐るものだなんて、初めて知ったのよ」
一瞬、ティ・マイトは目を丸くしてマリナを見つめ、次の瞬間、ぷっと吹き出した。
「それならだいじょうぶですね。少なくとも水も食料も、新鮮なものですから」
そう言って彼女は、にこにこしながら「よかったわ」とつぶやいた。
「デルマリナからいらっしゃった女性だと聞いて、実は心配してたんです。それも、とてもいい家のお嬢さんだというから――」
「高慢ちきな我儘娘が来ると思った?」
「ええ。ごめんなさい」
正直に謝る彼女に、マリナはにっこりと笑った。
「そうおっしゃったっていうことは、わたくしと会って、違うって思ってくださったんでしょう? だったらすごく嬉しいわ」
このあとケアルはオジナと、あのふたりはなかなか気が合いそうではないかと喋りあったが――予想の通り、ティ・マイトはマリナのハイランドへ来て初めての友人となったのだった。
3
島の暮らしは、思っていた以上に快適だった。
朝は夜明けとともに起きだして、家の周囲をふたりで散歩する。散歩から戻るころにティ・マイトが水と食料を運び入れてくれると、ときには三人で朝食の卓を囲むこともあった。日中は、浜辺で貝を拾ったり、魚を釣ったり。島人の女たちの陽気な会話に参加し、泥炭を天日干しする作業を手伝う日もあった。三日に一度はオジナが遊びにやって来て、そんな日はティ・マイトも呼んで少し早めの夕食をとった。
気がつけば、マリナは血色も良く頬もふっくらとし、熱をだすこともなくなった。ティ・マイトに草を編んで帽子や敷物をつくるやりかたや、魚のさばきかたなど習って、島の暮らしにもすっかり慣れたころ――伝令の白い翼が、島の発着所に降り立った。
伝令がケアルに手紙を渡し、一礼して去っていくと、マリナが心配そうな顔で駆け寄ってきた。封を開き文面を読むケアルを、両手を握りあわせ、じっと見つめる。
「マリナ、ごめん」
手紙から目をあげたケアルがまず最初に謝ると、彼女は苦笑した。
「なぜわたくしに謝るの? お父さまからなんでしょう、そのお手紙」
「ああ。公館へ帰らなきゃならなくなったんだ」
父が長兄や家令たちとともに帰ってきたのは、もう半月ほど前のことだ。オジナから戻ったと聞いて、父に渡してくれるよう手紙を託した。許しも得ずに公館を出たことを謝罪し、マリナの状況と島での暮らしがどんなものであるかを伝えた。オジナは次にやって来たとき、父からの返信を携えていた。
[#挿絵(img/KazenoKEARU_03_141.jpg)入る]
勝手なことをしてとの怒りを覚悟していたが、父はあっけないほど簡単に、ケアルの行動を許してくれたのだ。しばらくふたりで休暇を楽しみなさい、とまで言ってくれた。
公館の様子は、オジナから聞いていた。マティン領にいまだ新しい領主が立っていないことも、デルマリナから要求された港はそのマティン領につくると決まったことも、オジナから伝え聞いていたのである。
「やっぱり、お仕事なの?」
「いや、詳しいことは書いていないよ。ただ、急ぎ戻るように、とだけ」
そろそろ戻って来いと言うなら、三日に一度は島へ通うオジナに手紙を託すだろう。父には、島では領主の三男だということも、マリナがデルマリナから来たことも隠していると伝えてある。伝令がこの家を訪れれば、島人たちは不審に思うだろうとは、父もわかっているはずだ。
「じゃあ、よほどお急ぎなのね」
うなずいたマリナが、くるりと踵をかえした。
「わたくし、ティにお願いして来るわ。舟を出していただけませんか、って」
島との別れはあわただしいものではあったが、見送ってくれる人々の数は驚くほどに多かった。
マリナは仲良くなったティ・マイトと抱き合い、涙ながらに、必ず手紙を書くわ、きっとまた会いましょうと約束した。
島の女たちも別れに涙しながら、マリナに、体力がつくという薬草酒だの、草を編むのに使う大きな針だのを手渡し、最後にケアルへ向き直ると、貝殻でつくった小箱を差し出した。
「これには、ゴランの羽根が入っとります。どうぞ、持っていってください」
伝説の鳥と呼ばれるゴランは、決して人には慣れず、人のいる里には近づかない。赤い頭部と巨大な身体をもち、すべての鳥たちの上に君臨する王だとも言われる。そのゴランの羽根は、翼乗りたちにとって飛行の安全を守る御守り≠セった。
「これを、おれに……?」
ケアルは首をかしげて、女を見た。島には翼を持ち込んでいない。彼が翼に乗ると知る者は、この島ではティ・マイトひとりだけのはずだ。
「そうです。坊ちゃんは、あたしらの希望です」
「お館の坊ちゃんなのに、あたしらのことを気遣ってくださった」
「島人のくせになんて、ひとことも言わなかった」
「あたしらの作った料理を、美味しいと言って食べてくださった」
女たちは口々にそう言うと、ケアルの手に貝殻の小箱を握らせた。
「あなたたちは――」
知っていたのか、とケアルは目をみひらいて彼女らを見まわす。
「風の神様がいつも、坊ちゃんと共にありますように」
祈りをこめた彼女らの言葉に、ケアルは深く瞑目した。
「ありがとう。大切にします」
小箱を胸に引き寄せ、しっかりと握りしめる。
舟の上から、出しますの声がかかった。島の男がふたり、ケアルとマリナのために舟を操ってくれることになっていた。
見送りの人々にふたりそろって頭をさげ、舟へと乗り込む。男たちが声をそろえて、舟を砂浜から海上へと押し出した。
波に乗った舟の上で、ケアルは島を振り返った。
島人たちが手を振っている。目の奥が熱くなるのを感じながら、ケアルはかれらに手を振り返した。
「休暇は終わったのね……」
つぶやいたマリナに、ケアルは言葉もなくうなずいてみせた。
* * *
執務室に入ると、すでに家令が三人とふたりの兄が、地図をひろげた大卓のまわりを囲んでいた。三人の家令はいずれも、外交にたずさわる領主の側近である。
地図を見おろし腕を組んでいたロト・ライスは、目をあげて「帰ったな」とつぶやくと、次兄のミリオ・ライスの横に座れと視線で促した。言われるまま席に腰をおろしたケアルを、ふたりの兄がじろりと睨む。ケアルは兄たちに軽く目礼し、父へ視線を向けた。
ロト・ライスは全員を見まわすと、腕をとき口をひらいた。
「すでに聞き及んでいる者もいるだろうが、マティン領にデルマリナ船が来た」
思わずケアルは目をみひらいたが、他の者たちはすでに知っているのか、平然として領主を見つめている。
「デルマリナ船の数は、二隻。おそらく一昨日の朝方、マティン領内に侵入したものと思われる」
そう言ってライス領主は、大卓にひろげられた地図の一点を指さした。
「伝令の報告では、現在デルマリナ船はここにいる」
そこはマティンとライスの領境に近い、小さな島が密集したあたりだった。ケアルがマリナと滞在していた島からは、かなり沖合いになり離れている。
「父上。使者を出すのでしたら、この私が参ります」
長兄のセシル・ライスが、勢いこんで名乗り出た。だが父は、黙っていろとばかりに、上の息子を睨みつける。セシルはびくっと肩を揺するとあわてて顔を伏せ、そばに座る兄弟ふたりをひそかに窺い見た。次兄は顎をそらして兄を見返したが、ケアルは見てはならぬものを見てしまったような気がして、肩をすぼめて俯いた。
そんなやりとりがあるのを知っているのか気づいていないのか、ロト・ライスは険しい顔で地図の一点を見つめながら、
「現在、このデルマリナ船は二隻とも、ハイランドの者たちに占拠されているのだ」
ぎょっとして全員が領主の顔を見つめた。すぐには言葉が出てこない。
「ど……どうして、そんな……?」
「いったい、どこの領民が……?」
喘ぐように訊ねたのは、家令たちだ。
「目的はまだ不明だが――伝令の見たところでは、マティンの領民であるらしい」
領主の応えに、家令も兄たちもほっとした様子で顔を見合わせる。
「まったく、マティンの領民どもは」
「ええ。ご領主に近い者たちが反乱など起こすから、領民どもが真似るんですよ」
「領民どもに外交のなんたるかが、わかるはずもない」
「早く領主を立てねば、また妙なことをしでかす領民が出ないとも限りませんぞ」
「そうですな。急がせましょう」
すっかり他人ごとのような家令たちに、ケアルは眉をしかめた。いま問題なのは、新領主を立てることではなく、早急にデルマリナ船の乗組員たちの安全を確かめ、保護することではないのか。
せめて兄たちはと、期待をこめてケアルは長兄に目を向けた。だが……。
「父上、やはり先日マティン領を訪れたときに、新領主を立たせるべきでしたね」
「そうですよ。四領主全員が揃った、ちょうどいい機会だったのですから」
「――そうではないでしょう!」
思わずケアルは立ちあがり、大卓に拳をたたきつけていた。
「早急にやるべきは、デルマリナ船乗組員の安全確認、ならびにその保護でしょう。領主など関係ない!」
「なんだと、おまえは……!」
次兄が席を立ち、ケアルの頬を張り飛ばした。
「領主など、とは何だ! 無礼だろう!」
張られて赤く染まった頬を構いもせず、ケアルは次兄を見る。
「繰り返しますが、いまは考えている余裕などありません。すぐにデルマリナ船の乗組員たちの安否を確認するべきです」
言い放ったケアルは、ぐるりと卓を囲む全員を見回した。
「皆さんは、マティン領民がやったことだとおっしゃるでしょうが、そんな話が通じるのはこの五領、ハイランドの中でだけです。デルマリナから見れば、マティン領もライス領も同じひとつのハイランドです。おれたちはデルマリナ船を占拠した人々の仲間と見られるんですよ!」
「なにを、御託《ごたく》をならべて――父上の関心をひこうとでもいうつもりか」
唇を歪《ゆが》ませて吐き捨てた次兄を、ケアルは睨みつけた。
「御託ではありません。兄上はなぜ、わからないんですか。先のデルマリナ船襲撃で、かれらは我々に――ハイランド全体に、賠償金を要求したでしょう!」
「あれは、犯人がわからなかったからだ」
そんなこともわからないのか? と長兄が口をはさむ。
「わかっていないのは、兄上です!」
「きさまっ! いいかげんにしろっ!」
いきり立った次兄がふたたび拳をふりあげたとき、ロト・ライスが大卓に手のひらをたたきつけた。はっとしてケアルも次兄も、その場にいた全員が領主を注目する。
「もういい。ふたりとも座れ」
命じられ、ケアルは素直に座ったが、次兄は憤懣《ふんまん》やるかたないといった様子で肩で息をし、末弟を睨みつけている。しかし領主は同じ命令を繰り返すことはせず、険しい表情のままケアルに視線を向けた。
「どうやら事態をもっとも把握《はあく》しているのは、おまえだけのようだ」
ケアル、と父が息子の名を呼ぶ。
「これよりマティン領に停泊中のデルマリナ船へ赴き、乗組員の安否の確認、場合によってはその保護をしろ」
「父上っ! その役目は私が!」
叫ぶように申し出た長兄に、父は「おまえには無理だ」と言い放った。
「いいえ、できます! きっと、父上のお役に立てると思います!」
なおも言い募る長男を完全に視界の外において、父はケアルに訊ねた。
「できるな?」
「――はい」
一瞬のためらいのあと、ケアルはしっかりとうなずく。
「家令は、好きなだけ連れて行け。むろん伝令を連れて行っても構わん」
領主のこの言葉に、三人の家令は大きく目をみひらいた。家令たちの人事権は、領主にのみある。それをこの件に限るとはいえ、他者に譲るとは――それも、後継ぎのセシルではなく、島人の女に生ませたケアルなどに。かれらの驚きと憤慨《ふんがい》はいかほどのものか、ケアルにもわかった。
「いいえ、父上。この場合、人数を引き連れて行くより、ひとりで行ったほうが、デルマリナ船を占拠する者たちも油断すると思われます」
そうか、とライス領主はうなずいた。同時に三人の家令たちも、ほっとした顔をみせる。
「ただしライス領内の近い島に、伝令を待機させておこう。もしもの場合は、泳いででもその島へ避難できるように」
父は地図を睨みつけながら、伝令を呼んだ。伝令たちも交じえて、船にできるだけ近く、翼の発着所が整備されている島を捜す。
「――やはり、ここだな」
決まったそこは、デルマリナ側から港をつくるにふさわしいと候補にあがった島だった。伝令たちとともに、あわただしく執務室を出たケアルは、最後に険しい視線を感じて振り返った。だが、それが兄たちから向けられたものなのか、家令たちからのものなのか、ケアルにはわからなかった。
4
伝令たちと一緒の飛行は、ケアルにとって七年ぶりのことだった。
翼に乗りはじめた当初、ケアルに技術を仕込んでくれたのが、当時の伝令だったのだ。そろそろ五十に手が届くかというその伝令は気難しく、どんなにうまくやっても決して褒めてくれることはなかった。
まだ成長期前だったケアルは、陸上で翼を背負って走る訓練を何ヶ月も課せられ、自分は決して飛ばせてはもらえないに違いない、と思ったものだ。その一年前に訓練をはじめた次兄などは、わずかな距離ではあったが、初日から飛ばせてもらえていたのに、と。
あれが必要な訓練であり、そのおかげで今の自分は鳥と空を駆けることもできるのだとわかったのは、その伝令が歳を理由に職を退いたあとだった。彼は退職を前に、自分の翼をケアルに譲ってくれた。
「おまえさんならこの翼を、おれ以上に飛ばせてくれるだろうからな」
そう言って……。思えばこれが、彼がケアルを褒めた最初で最後の言葉だったのかもしれない。
真っ先にケアルが空へあがり、上空で二機の翼が飛び立つのを旋回しながら待った。ともに飛ぶ伝令は、どちらも三十を少し過ぎた中堅どころだ。若すぎては先走る傾向があるだろうし、歳がいっていては身軽に動けないだろう、というライス領主の人選である。
二機がそろうと、ケアルは翼を傾けて高度をおとし、かれらの先頭に出た。ケアルより年上のかれらのうちどちらかに、飛行の先頭にたってもらうよう言ったのだが、ふたりは声を合わせて「とんでもない」と首をふり、辞退したのだ。
「我々の仲間で、あなたの実力を知らない者はいませんよ」
それは本心なのか、それとも危険な船に近づくのに先頭にたつのは嫌なだけなのか。そう考えてケアルは、胸の内で自嘲《じちょう》した。以前ならば、こんなふうに勘繰《かんぐ》ることなどなかったのに。いつの間に、妙に用心深く懐疑的な思考をするようになったのか。
渡りをする鳥の群れのように、ケアルは二機の翼を左右後方に従えて、目的の島へと向かった。ときどき後方を振り返って、かれらがついて来れているか、無理をしていないか確認する。ひとりで飛ぶときのようにはいかない、ひどく気疲れする飛行だ。
島が見えてくると、ケアルは振り返って合図をし、かれらを先に行かせた。この先は島影に隠れて船からは見えないよう、低空で近づかなければならない。
充分に高度をおとした二機のやや上を、ケアルは慎重に飛んだ。二機が砂浜へ突っ込むように着陸すると、ケアルは陽射しで暖められた砂浜に発生する小さな上昇気流をとらえた。翼が左右に揺れて、身体ごと空へ飛び込んでいくように高度があがる。みるみる砂浜が、二機の翼が小さくなっていく。
機体が島の上に出ると、二隻の船が見えた。どちらも帆を畳み、錨をおろして静かに停泊している。
船からはっきり見えるよう、ケアルはわざと翼を左右に大きく揺らしながら、近づいていった。おそらくこれを見た者は、へたな翼乗りが風をうまくとらえることもできず、おたついているように思うだろう。
近づいてみると、甲板に十五、六人の人影が見えた。すでに翼に気づいて、その動きに警戒しているようだ。ケアルはここでもうひとつと、翼にわざと急制動をかけ、あおられてひっくり返りそうになる芝居をうった。
「どいてくれっ!」
船の横腹に突っ込んでいくふりをしながらケアルが叫ぶと、甲板から「よけろっ!」「なにをしてるんだっ!」と怒鳴る声が聞こえてきた。
ぎりぎりのところで船をよけ、そのまま海面へと突っ込んだ。機体は海水に浮かぶが、革のベルトで翼と身体を繋《つな》がれた操縦者は、留め具をはずさないことには海上へ浮かびあがることはできない。
留め具をはずそうと動けば動くほど、革のベルトは水を含んできつく締めつける。落ち着けと自分に言い聞かせ、どうにか留め具を三つまではずしたところで、だれかが一番手が届きにくい脇にある留め具をはずしてくれた。もうひとりが、腕にからまるベルトをナイフですっぱりと切った。
もう息が続きそうにないぎりぎりの瞬間、ケアルは誰かに引っぱられ、海上に顔を出すことができた。ささえてくれる腕にしがみつき、あわただしく息を吸いこむ。
「だいじょうぶか? 泳げるのか?」
どうにか呼吸をととのえたケアルに、男の声が訊ねた。
「た……っ、たぶん……」
なんとかうなずいたケアルを、若い男がじろりとながめ、苦笑した。
「その格好じゃあ、無理だろうな。ほら、俺につかまれ」
革製のぶ厚い飛行服は、空の上では風を防ぎ寒さから身を守ってくれるが、水中では身体の自由を奪う凶器となる。ケアルは言われるまま、男の片腕につかまり、もうひとりの男に補助されて、船へと泳いだ。
「だいじょうぶかっ?」
船上から声がかかり、縄梯子が投げおろされる。押しあげられてケアルは縄梯子をつかみ、よろよろと梯子をのぼった。飛行服はまるで、石を衣装としたかのように重い。がっちりとした長靴にも海水が入り、小さな樽を両足にくくりつけているようだ。
押しあげられ、引きあげられて、ケアルは縄梯子をのぼりきり、甲板に仰向けに倒れこんだ。ぜいぜい息をするケアルを、五、六人の男たちが囲んで見おろす。
その服装と日|灼《や》けした顔からして、かれらはおそらく島人だ。歳は二十歳そこそこから三十を少し過ぎたあたりまで。島では働き手として重宝されているだろう男たちだ。
「どうだ? 水は飲んでねぇと思うが」
縄梯子をのぼってきた男が、ケアルを囲む仲間たちに訊ねる。
「ああ。疲れちゃいるが、無事だ」
応えにうなずいて、彼はところどころに白いものが混じる髪から滴を落としながら、ケアルの顔をのぞきこんだ。顔を見たところ歳はケアルとそう変わらないのに半白の髪をもつ彼は、頬から首にかけて、ひきつれた火傷のあとがある。
「あんた、どっから来たんだ?」
訊ねられて、ケアルはゆるゆると身を起こした。
当初の予定では、デルマリナ船の噂を聞きつけ、ぜひひとめ見たいとフェデ領からやって来た道楽息子を演じるつもりだった。へたな翼乗りのふりをして、機体が壊れて帰るに帰れないと、船に乗り込み、船内を調べられればいいと考えていたのだ。
だが、そんな演技が通じるだろうか。火傷の男の視線に鋭いものを感じつつ、ケアルは濡れた髪をかきあげた。
「――ライス領から来た」
「見たとこ、伝令じゃなさそうだな。なにしに来た?」
男の目を見返し、ケアルは深く息をついてから、
「きみたちに会いに来た」
彼は驚いた色も見せなかったが、周囲にいる男たちはいっせいにどよめいた。
「どういうことだ?」
「こいつっ、俺たちを捕まえに来たんだ」
「公館の間者だ、絶対」
黙っていろと火傷の男が合図すると、かれらは素直に口を閉じた。
「俺たちに会いに来たとは、どういうことか聞かせてくれねぇか?」
「デルマリナ船が、何者かに占拠されたと聞いた。けれど、なぜ占拠したのか理由がわからない。だからそれをたしかめに来た」
「そりゃあ、あんたの考えかい?」
「そうだ。同時に、父の考えでもある」
ケアルの応えに彼は、軽く目を細めた。
「ああ、そういや聞いたことがある。ライス領主の息子の中に、赤毛の鬼っ子がいるってな。確か、おふくろさんが島人だとかいう噂だったが――」
「それがおれだ」
「名前は?」
「ケアル。ケアル・ライス」
ふむ、と彼は腕組みした。
「名乗ったら殺される、とは思わなかったのかい?」
「殺すつもりがあるなら、助けてはくれないだろうと思った」
「そりゃ、あんたが何者かわからなかったからだ」
「けれど船に近づく不審者だった。翼で来たんだから、ある程度の予測はついていたはずだ」
どこの領でも、翼に乗る島人はいない。高価な翼は、貧しい島人たちには手に入れられない贅沢《ぜいたく》品だ。
ケアルが言うと、男は「買い被るんじゃねぇよ」と鼻を鳴らした。
「その気になりゃ助けられるものを、目の前で見殺しにしたんじゃ、寝覚めが悪いと思っただけだ」
男の言葉にケアルは初めて、口もとをほころばせた。
「だろうと思った。だから名乗ったんだ」
「ケッ。とぼけた男だな、あんた」
彼は顔をしかめてそう言うと、仲間たちを振り返った。
「ってなことだ。俺たちを捕まえに来たわけでも、公館の間者でもないとさ」
「わ……、わかるもんかよ。そいつ、領主の息子なんだろ」
中のひとりが言い返すと、他の者たちもそうだとうなずいた。
「ライス領主といや、俺らの島がいいって決めた張本人じゃねぇか」
「そうさ。だから俺らのこと嗅ぎつけて、始末しようとしてるんだ」
なんのことだ? とケアルがわずかに眉をしかめる横で、火傷の男が大袈裟《おおげさ》に肩をすくめてみせた。
「こんな坊ちゃんひとりで、俺らを始末しに来たってのか?」
それに、と彼は爪先でケアルの足を軽く蹴飛ばした。
「こいつは、俺らが助けてやらなきゃ、溺《おぼ》れ死んでたぜ。そんな間抜けに、俺らを始末させようなんて、命令したやつもよっぽどの抜け作だ。あのライス領主が、そこまで抜けてる阿呆だと思うのか?」
男たちは互いに顔を見合わせ、渋々とうなずいた。
「まあ、まずは服を乾かそうぜ。話はあとから、たっぷり聞ける」
* * *
連れて行かれたのは、船長室だった。ただし船長らしい者の姿はなく、火傷の男は慣れた様子で、衣装箱からシャツを二枚取り出した。
「ほら、服が乾くまでこれを着てろ」
一枚をケアルに放って、自分はもう服を脱ぎもう一枚を身に着ける。
監禁されるか拘束されるかだろうと思ったが、火傷の男を残して他の者たちは船長室から出て行った。どうやら彼が、仲間たちの指揮をとっているようだ。
ケアルは船長室へ連れて来られる間に、船のあちこちを確認した。目立った破損箇所はなかったが唯一、本来なら甲板中央部に三艘、後部甲板の船腹に二艘の小舟が固定してあるはずなのだが、舟は甲板中央部に一艘を残すのみであったことが気にかかった。他の四艘は、はたしてどこへいったのか。
飛行服を脱ぎ、絞ったシャツで濡れた身体を拭いて、新しいシャツを着る。見れば火傷の男は、つくりつけの棚をのぞきこみ、並んだ酒瓶を物色していた。
「ああ、こいつがうまそうだ」
一本を取りあげ、栓を開けて喇叭《らっぱ》飲みすると、ぷあっと息を吐き出し、ケアルに瓶を差し出した。
「ほら、おまえも飲めよ」
黙って受け取ったケアルも、彼にならって嘲臥飲みする。
「へえ。結構、いけるクチだな」
笑いながらそう言って彼は、濡れたシャツをひっかけた椅子に腰をおろした。
「あんた、親父さんになんて言われて来たんだ? こんな何されるかわからんとこに寄越すなんてな、やっぱあれか、おふくろさんが島人だからってので、邪魔者扱いされてるのか?」
「ちがう。おれが自分から申し出たんだ」
苦笑しながら、ケアルは首をふる。
「この船が占拠されたと聞いて、乗組員たちの安否が気にかかった。おれの他にそれを気にかける者がいなかったから、おれが来たんだ。ただそれだけだ」
「ふん。ってことは、あんたが知りたいのは乗組員の安否か?」
「いや、それについてはもう心配はしていない」
なんでだ? と彼が眉根を寄せる。
「どうやらきみが、この船を占拠した人々の指揮をとったようだ。だったら、乗組員を殺すようなことはしていないだろう」
「ケッ。買い被りやがって」
忌々しげに彼は、卓の上に足を乗せた。肯定はしなかったが、否定もしていない。この場合、乗組員たちは無事だと考えるべきだろう。
ケアルは向かいにある椅子に腰をおろし、正面から彼を見つめた。
「訊いてもいいか? きみたちはなぜ、船を占拠したんだ?」
じろりと彼はケアルを睨んだ。
「――あんたのクソ親父のせいだ」
言い放って、ガツッと卓を蹴り飛ばす。
「今度、俺たちの島に妙なモノをつくるんだとさ。だから出て行け、と言われた」
「妙なモノ……? 港のことか?」
「知らねぇよ。けど、そいつができたら、デルマリナの船がひっきりなしに来るっていうじゃねぇかよ。冗談じゃねぇっ!」
吐き捨てた彼は、立ちあがった。
「俺らの島には、三百人からの住民がいる。出てけと言われて、簡単に出ていけるもんじゃねぇ。領主の坊ちゃんにゃわからんだろうが、島人は生まれた島で暮らして死んでくもんだ。よその島なんかに行ったって、よそ者を養う余裕なんかねぇって追い出されるか、良くって邪魔者扱いされながら一生小さくなって暮らしてくかだ。子供ができりゃあ、その子供も、孫も、そのまた子供も、ずっと邪魔者のよそ者なんだよっ」
一息に言い切ってこちらを睨む彼を、ケアルは静かに見返した。
「船を占拠すれば、島を出て行かなくてもいいと思ったのか?」
「悪い評判が立ちゃ、デルマリナのやつらもここへ来ようなんて思わなくなるだろ。船が来なくなりゃ、俺らの島に妙なモノつくる必要もなくなるだろうがさ」
「――なるほど、そういうことか」
もちろん、そんなことにはならない。なにがあっても船は来るだろうし、デルマリナは船を占拠した補償として、また賠償金の支払いやあらたな港の建設を求めてくるだろう。だがそれを、どう伝えればかれらに理解してもらえるのか。
「こいつは、俺らの島だけの問題じゃねぇんだ。船が来たら、まわりの島だって困る。漁に出れなくなるし、女子供はなにされるかわかんねぇから、外に出ることもできねぇ」
「デルマリナの人々は、きみたちには何もしない」
ケアルが言うと、彼は眦をあげた。
「なんだと? 領主の坊ちゃんが、知った口をきくんじゃねぇよ」
「おれは半年間、デルマリナにいた。おれの妻は、デルマリナの女性だ」
最後のほうは幾分照れながら言ったケアルに、彼はしばらくきょとんとして目をみひらいていたが、やがて大きく吹き出した。
「おいおい。冗談言うつもりなら、もっと頭使えよな。どこで笑えばいいか、困っちまったじゃねぇか」
「冗談を言ったつもりはない」
真面目な顔で、ケアルは言い返す。
「おれは冗談が通じない男なんだそうだ。だから、冗談も言わない」
笑いを引っ込めて彼はケアルを見返し、参ったなと半白の髪をかきまぜた。
「――この船に乗ってたやつが、デルマリナにハイランドの若い男が来ている、と言ってた。ハイランドってのは、五領のことらしいな。若い男ってのは、あんたなのか?」
「おれと、もうひとりいる」
「もうひとり?」
「一年前、同じ船に乗り込んだんだ。デルマリナではぐれて、おれは帰って来れたけど、彼は……」
きゅっと唇をかみしめる。
「そいつは何者だ? 家令かなんかか?」
「――親友だった」
短いケアルの応えに、彼は軽く目をみひらいた。
「そいつぁ、可哀相《かわいそう》にな……」
ふたたび彼は参ったなと、半白の髪をかきまぜる。
「つまりあんたは、そんな目にあってもデルマリナのやつらを信用する、って言いたいわけか」
そんなつもりでエリの話をしたわけではなかったが、そんなふうに受け取ってくれるならと、ケアルはうなずいた。
「けどな、だからって俺たちはそれを鵜呑《うの》みにするわけにゃ、いかないんだ。俺はまあ、あんたは信用できそうなやつだって思うが、仲間はそうは思ってない。上の連中にはいつも、ひどいめにあわされてるからな。さっきだって俺が止めなきゃ、みんなあんたを殴り殺してただろうしな」
そう言って彼は身を乗り出した。
「俺がみんなを止めたのは、あんたが信用できそうだと思ったからってだけじゃない。実はさ、あんただったらなんとかしてくれるんじゃねぇかって思ったからだ」
「なんとか、って?」
「俺らは最初っから、この船を占拠しようなんて思ってたわけじゃねぇんだ。島のみんなは、上に行って公館のやつらをぶち殺してやろうって、そういうつもりだった。けどさ、それってマズイだろ。島人が上のやつらに手ぇ出したら、ライス領じゃどうか知らねぇけど、マティン領じゃ、その子供から孫、親戚にいたるまで全員死罪だ」
「きみが、みんなを止めたのか?」
そうだと彼はうなずいた。
「んで、まあ都合よくデルマリナの船が来てさ。だったら船をぶん奪《ど》ったほうが、俺らの目的にも合うんじゃねぇかと、俺がみんなに提案したんだ」
「――よく占拠できたな」
二隻の船には、屈強な水夫が最低でも六十人はいたはずだ。感心してケアルが言うと、彼は自分の頭を指さした。
「そこはまあ、俺のここが良いからさ――って、そりゃいいんだが、問題はこのあとだ。船を占拠したことで、まあ俺らの目的は達成できた。けど、俺らがやったことをライス領主まで知ってるだろ。ってことは、うちの公館の連中だって当然知ってるはずだ」
「ああ、そうだろうな」
「デルマリナの連中にこの船を返して、んで俺らが公館のやつらに罪を問われて死罪なんかになった日にゃ、目もあてられねぇ」
ケアルは軽く目をみひらいて、火傷あとの残る彼の顔を見つめた。
「最初から船は返すつもりだったのか?」
「ああ。俺はそのつもりだった。だって、そうだろ? 連中がデルマリナに帰って、すげぇ怖い目にあったぜって言いふらさないことには、どうしようもねぇだろうがさ」
「――そうだな」
ひそかに苦笑して、うなずく。そこまで考えておいて、なぜ船を返したあとのことに考えが至らなかったのか。
「あんたを見込んで、頼みたい。俺たちが罪に問われないように口利きしてくれ」
このとおりだ、と彼は鼻の先で手を合わせてみせる。
安請け合いはできない。だがもし、ここでケアルが断れば、死罪になると絶望したかれらが、いまどこかで監禁されているだろうデルマリナ船の乗組員たちを殺してしまわないとも限らない。そうなれば、事はもっと大きく、取り返しのできない事態になる。
考えたすえ、ケアルはうなずいた。
「わかった。微力ながら、力を尽させてもらう」
彼の目が、ぱっと輝いた。遠慮もなにもなしに彼はいきなりケアルの手を両手で握りしめ、上下にぶんぶんと揺すぶった。
「ありがとう。俺が今、あんたにどんだけ感謝してるか、わかるか?」
こんなに喜ばれてはとても、力を尽くしはするがかれらの安全を保証できるわけではない、とは言えなかった。
「俺は、ラキ・プラムってんだ。爺さんは、島長をやってる」
ライス領にはないが、マティン領では島々にそれぞれ島長をおいて島人たちをたばねていると聞いたことがある。かれらの結束力は、ひょっとするとこの島長の制度が根本にあるのかもしれないとケアルは思った。
デルマリナの船を占拠したかれらを罪に問わない、と約束できるのは領主だけだ。だが現在、マティン領に領主はいない。
「ライス領主が約束してくれればいい」
火傷のあとを陽射しにさらして、ラキ・プラムはそう言った。
「今度の領主もきっと、ライス領主にゃ逆らえないだろうからな」
「ギリ領主どのの推す方が、新領主となるかもしれないぞ?」
ケアルが言うと、ラキは仲間たちを振り返って肩をすくめ、笑ってみせた。
「たとえそうなっても、マティンにいちばん近い領はライス領だ。どんな阿呆が領主になっても、ライス領主の機嫌をそこねちゃまずいってことぐらい、わかってるさ」
ライス領主が了承すれば、すぐさま伝令を送り、それを待ってかれらはデルマリナ船の乗組員たちを全員解放し、船を返す――と決めた。
残っている一艘の小舟が海上におろされ、ケアルが乗ってきた翼が舟の後尾に綱を渡し結びつけられた。高価な機体が海に捨てられているのはしのびない、というかれらからの提案である。
彼と固く握手をし、ケアルが小舟に乗り移ると、船上で鐘が打ち鳴らされた。なにごとかと見回すと、やがて伝令たちが降りた島からかすかに鐘の音が聞こえてきた。
ぎょっとしたケアルの顔を見て、舟を漕ぐ男がくすくすと笑った。
「あの島も、俺らの仲間なんだ」
「仲間……? あの島はマティン領ではなく、ライス領のはずだが?」
「デルマリナ船に来てもらっちゃ困る、ってやつらはいっぱいいるのさ」
鐘の音は、今から仲間が島へ向かうぞという合図だという。
(このぶんでは、もっと他にも仲間はいそうだな……)
想像以上のかれらの組織力に、舌を巻かずにはいられなかった。
5
「父上、ちょっとよろしいですか?」
深夜まで執務室にこもっていたロト・ライスは、長男の声に顔をあげた。
「なんだ?」
「お話があるのですが……」
扉のそばに立ったセシルが、母親そっくりの細面の顔を伏せ、上目づかいにロト・ライスを見あげている。気弱そうなその態度に、ロト・ライスはかすかに眉をしかめた。
この長男は、父親の前に出るといつも小動物のような怯《おび》えた目をする。家令たちの前ではそうでもないようだが、こんな目を向けられるたびにロト・ライスは、ため息をつきたい気分になった。
覇気《はき》がない。どうしてもっと、堂々と胸を張っていられないのか。こんなことで将来、ライス領主として他の領主たちや、海千山千のデルマリナの商人たちと渡り合っていけるのか。
入りなさいと目顔で促してやると、セシルはうしろ手に扉を閉めて、そろそろと執務室の中央に進んだ。
「話とは、なんだ?」
「あの……お忙しいなら、別に――」
「いいから話しなさい」
指先で軽く書きもの机の天板をたたく。すると長男は、物音に怯えるねずみのように飛びあがった。
「すっ、すみません……!」
はっきり顔をしかめた父に、息子はますます怯えて身を縮ませる。ロト・ライスは深いため息をつき、机の前から立ちあがった。
「――おっと」
瞬間、目眩《めまい》がした。考えてみれば、このところまともに眠っていない。
「ちっ、父上! だいじょうぶですか?」
あわててセシルが駆け寄り、ロト・ライスの身体をささえた。
「お顔の色も悪いですよ。休まれたほうがいいです。すぐ家令を呼びますから」
「いや、いい。ただの立ち眩《くら》みだ」
促されるままに、ふたたび椅子に座りこんだ。セシルは壁際から別の椅子を引っぱってくると、
「これに足を乗せてください。立ち眩みならば、足を高くするのがいいそうです」
「必要ない。急に立ったのが悪かっただけだ。その椅子には、おまえが座りなさい」
言われてセシルは、しばらくためらったあと、おずおずと腰をおろした。
覇気はないが、気の優しい子ではある。粗雑なふるまいが領主の息子としての自覚のあらわれであると誤解している次男にくらべれば、まだましというものだ。
「話というのは、なんだ?」
椅子の背にもたれかかり、居心地悪そうに座るセシルに目を向ける。
「あの……父上は、その……ケアルをどうされるおつもりですか?」
長い逡巡のあと、長男はやっと口を開いた。
「どうするとは、どういう意味だ?」
「その……将来のことです。例えば――家令になさるつもりだとか、先日ギリ領主が申し出されたのを受けて、ギリ老の孫娘の婿とされるおつもりなのかとか……」
俯いたまま喋る長男の横顔を見ながら、この子は何が言いたいのか、と苛《いら》立った。そもそも次男や三男が家令となり、長男が領主として立ったときには、その政務をたすけるのは当然のことではないか。婿の件にしても、ケアルにはすでにあのデルマリナから来た娘がいる。他の娘であれば、ギリ老の申し出は悪くない、おそらく受けさせるだろうが、あの娘はピアズ・ダイクンの息女なのだ。
「ギリ老の申し出については、すでに話したはずだ。忘れたのか?」
「いえ……そうじゃなくて。父上が気を変えられたのではないかと……」
膝頭を見つめて、セシルはますます肩を小さくすぼめた。
「私は気など変えていない。なぜ、そう思った?」
「その……デルマリナ船に、ケアルを遣ったので――家令たちが……」
「はっきりしないな? 家令がどうしたと言うんだ?」
訊ねるとセシルは、膝頭をぎゅっと掴み、決意したように顔をあげた。
「家令たちが――父上は、長男や次男ではなく、ケアルに期待しているのだと、そう言って噂しているんです」
「なにを、莫迦なことを。おまえはそんないいかげんな噂を鵜呑みにして、心配しているのか?」
苦笑して長男の顔を見やる。
「いいかげんな噂じゃありません」
セシルは何度も首をふる。
「実際、父上はケアルにばかり重要な役目を与えるではありませんか? 領主だけの会合にケアルを同席させたし、昨日も私がデルマリナ船へ出向くと申し出たのに、ケアルを行かせたではないですか」
「くだらないな。その時々に理由は説明したはずだ」
「理由なんて――その気になれば、いくらでもこじつけられます」
ロト・ライスは、バシッと手のひらを机の天板にたたきつけた。
「おまえは――私が述べた理由は、こじつけだと言うのか?」
「いえ。いえ、私は……。ただ、家令たちがそう言って……」
「さっきからおまえは、そればかりだ! 家令がああ言った、こんな噂をしている。少しは自分の言葉で喋れないのかっ!」
怒鳴りつけられたセシルは、たちまち顔を青ざめさせた。
「わっ……私は……」
「おまえがそのような態度だから、家令たちも好き勝手な噂をするのだ。ケアルを見ろ、何を言われても動じない。自分の行ないこそが己の考えを雄弁にあらわすのだと、あれは知っているのだ」
そして、状況を冷静に見ることができる判断力。他人の意見に耳を傾けられる寛容さ。これと決めたら押し通す意志と決断力。いささか情に流されやすい傾向はあるが、あれにあとギリ老のようなずる賢さが加われば、三人の息子たちの中で最もケアルが領主にふさわしい。
だがロト・ライスは、ケアルを次期領主にと考えているわけではなかった。ものごとには順序、法則がある。長男をさしおき三男を次期領主に据えるには、人々の常識を根底から覆《くつがえ》さねばならないだろう。世の習いからわずかに離れる程度なら、人々もそれを受け入れることができる。けれどそれは人々が受け入れられる範囲ではない。世人は、安定を望むものだ。安定を得られるからこそ、かれらはロト・ライスを領主として認めているのだ。決して彼が良い為政者《いせいしゃ》だから領主として認められているわけではない。
ケアルには、このセシルが領主となったとき、良い片腕であってほしいと考えている。兄に足りないところを補い、常に兄の影となって働くようにと。
しかしセシルがこんな考えでは、弟を使うのは難しいかもしれない。優秀な片腕に嫉妬《しっと》する領主のもとには、同類の家令しか集まらないだろう。
「そんなだから、おまえにはまだ、重い責任がともなう仕事は任せられないんだ」
吐き捨てるように言った父を、セシルは青ざめた顔のまま大きく目をみひらき、見つめた。薄い唇が、ぶるぶると震えている。
「ち……父上は……私を……」
「話がそれだけなら、さっさと退がれ」
ロト・ライスはそう言い放つと、扉を指さした。
セシルは唇を震わせながら、父の険しい顔を、扉をさした指先を、そしてまた父の顔を見て、ふらふらと立ちあがった。
まったくもって、くだらないことに時間をとられてしまった。やらねばならぬことは、山積しているというのに。次期マティン領主を、どの時点で強引にまつりあげてしまうべきか。場所の選定が終わった港を、各領どのような経費配分で建設するか。占拠されたデルマリナ船について、他領に知らせるべきか。知らせるなら、どんな方法をもってすればライス領の利となるのか。
すでに政務に考えを集中し書きもの机に向かったロト・ライスは、いつまで経っても立ち去る気配のない長男に気づいて、ふと顔をあげた。
「なにをしている?」
幽鬼のような青ざめた顔をして、セシルは紗《しゃ》のかかった目で父を見つめている。
「父上……父上は……」
はっと気づいたときには、セシルの手には鈍く光るナイフが握られていた。手紙や公文書の封を開けるために、いつも書きもの机の上に置かれているナイフだ。
ロト・ライスは眉根を寄せて、長男の顔を見返した。この息子に、ナイフで父をどうにかしようなどという度胸はない。
「それを置いて、さっさと退がりなさい」
ちらりとナイフに目をやって、ふたたび書きもの机に視線をおとす。
衝撃があったのは、次の瞬間だった。
脇腹になにかがぶつかり、そこが火傷をしたように熱くなった。見おろせば、ナイフの柄が左の脇腹から突き出ていた。
「セシル……?」
ゆるゆると視線をあげたロト・ライスの目に映ったのは、長男のひきつった笑い顔だった。我が子ながら、ロト・ライスはその表情に背中に悪寒がはしるのを感じた。
笑いながらセシルは、自分の手を見おろした。ひとさし指の先と親指のつけ根に赤黒い血がついているのを見て、汚いものにでも触れてしまったかのように、あわててシャツにその手をこすりつける。だがすぐ、ロト・ライスの脇腹から椅子をつたって床の上に血が滴り落ちるのを目にし、彼は目玉がひっくりかえりそうなほど大きく目をみひらいた。
よろよろと後ずさり、先ほどまで自分が座っていた椅子に膝裏が当たると、全身で飛びあがった。そして肩をおよがせて踵をかえした彼は、そのまま後も見ずに執務室から走り出ていった。
ひとり残されたロト・ライスは、絶望的な気分で執務室の扉を見つめた。助けを呼ぶためには、あそこまで歩いて行かねばならない。だが身体は砂袋のように重く、姿勢を変えることすらできそうになかった。
しかし、幸運は足音をたてて訪れた。廊下から足音が聞こえ、家令が開け放ったままの執務室の扉の前で立ちどまったのである。
律義に一礼した家令は、ケアルが伝令とともに戻ったことを伝え、顔をあげた。そして、領主の異変を知ったのだ。
家令が声をはりあげて人を呼ぶのを聞きながら、ロト・ライスは椅子から床へとくずれ落ちた。
* * *
翼を倉庫に仕舞ってから公館へ入ったケアルは、その騒がしさに驚いた。
深夜の時間帯である。今夜は客人もなく、通常ならば家令たちも床につき、公館はひっそりと静まりかえっているはずなのに、廊下を幾人もの家令たちが走りまわっていた。
(なにがあったんだ……?)
不審に思いつつ、執務室へ足を向ける。
執務室には煌々《こうこう》と灯りがついていたが、まだ父の姿はない。ケアルの到着は、家令がすでに知らせているはずだ。床について休んでいたとしても、すぐに父は来るだろう。そう考えてケアルは、執務室に入った。
しばらく大卓にひろげられた地図をながめていたケアルは、執務室の前でとまった足音に、父が来たのかと扉を振り返った。しかしそこに立っていたのは、青ざめた顔をした家令である。
「――父上は、お休みなんですか?」
訊ねたケアルに、家令はその場を動かず首をふった。
「ご領主さまは……怪我をなされて、現在手当て中です」
「怪我だって? ひどいのかっ?」
驚いたケアルは、家令に駆け寄り、訊ねる。
「重傷であると……。医師は、今夜から明朝にかけてが峠だと言っています」
「なんだって……?」
呆然と目をみひらいて、中年の家令の顔を見つめた。
「いったい、どんな怪我を?」
「――刃物の傷です」
ここに、と家令は自分の脇腹に手を当ててみせた。
「ナイフが……。出血量も多くて――」
「なぜ、そんな……?」
わかりません、と家令は首をふる。
「父上は、どちらに? お会いできるんですか?」
「どうぞ、こちらへ」
促されて執務室を出たケアルは、廊下に点々と血のあとがあることに気づいた。あとをたどって振り返れば、執務室の書きもの机のところから続いている。室内には赤い絨毯が敷き詰められていて、これまで気づかなかったのだ。
ぞっと背筋に寒気がはしった。全身が鳥肌立つ。
(父上にもしものことがあったら……)
そう考えてしまったことに、あわてて何度も首をふる。最悪の事態になど、なるはずがない。父はだれよりも強い。そしてだれよりもこのライス領に、いやハイランドにとって必要な人間だ。
(だいじょうぶだ。きっと、たいした怪我ではない)
たぶん医師は、ちょっと大袈裟に言っているだけに違いない。そうしなければ父は、たいしたことはないと言い張って、無理をしてしまうだろうから。
医師はきっと、そんな領主の性格をよく理解しているのだ。
家令が「こちらです」と足をとめたのは、執務室にほど近い一室だった。政務が忙しいとき、父はいつも公館の左翼にある自分の寝室には戻らず、この部屋で仮眠をとる。
静かに扉が開けられ、ケアルは拳を握りしめながら部屋に入った。
奥に置かれた寝台のまわりには、いくつもの灯りが並べられ、そこだけ昼間のように明るかった。大勢の人間が寝台をとり囲んでいるようにみえたが、よく見ればその半分は壁にうつった影だ。
最初に振り返ったのは、寝間着姿の次兄だった。青ざめた次兄の左右には、古くからの家令が三人。
「――兄上、父上は……?」
医師たちのじゃまにならぬよう、寝台から離れて立ち、次兄に訊ねる。日頃の威勢のよさはどこへいったのか、次兄は唇を震わせ言葉もなく、ただ小さく首をふった。
代わりに答えてくれたのは、三人の家令たちだった。
「傷は内臓まで達しているそうです」
「医師たちが駆けつけるまでは、意識もはっきりされていたのですが――」
最後のひとりは、他の者たちよりいっそう声をひそめて、ケアルに耳打ちした。
「実は――セシルさまが、どちらにもいらっしゃらないのです」
「上の兄上が?」
「はい。すぐにお知らせしようとしたのですが、ご寝所にもどこにも……」
「ご友人の家に行かれたのでは?」
「いえ。今夜は、公館にいらっしゃるはずです。お休み前に必ず飲まれるお茶を、家令のひとりが届けたとき、ちゃんといらっしゃったそうなので――」
公館を出たとしたら、その後のことになると家令は言う。
「心あたりはありませんか?」
訊ねられ、ないと首をふるしかなかった。ケアルは長兄の交遊関係すら知らない。それは次兄も同じらしく、彼も黙ってかぶりをふってみせた。
長い長い、永遠にすら思えるほど長い夜だった。
白々と夜があけ、しかしまだ医師たちの必死の手当てが続く中、若い家令が病室に駆け込んできた。
セシルさまが、と声をはりあげ、全員から非難の眼差しを向けられて、若い家令はあわてて声量を落とした。
「――セシルさまが、見つかりました」
「すぐに、お呼びしろ」
「それが……」
若い家令はそこでぐっと息を呑みこみ、胸に手を当てた。
「崖下の舟着き場に転落され……お亡くなりになって……」
瞬間ケアルは、世界がぐらりと揺れたように感じた。
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第十三章 動乱の兆し
1
デルマリナの港近い酒場や宿屋では、いま二つの話題に噂が集中している。
「ピアズさんとこの嬢さんが、かどわかしにあったんだってさ。かわいそうにねぇ、いったいどこの誰に連れ去られたんだか」
「なんだ、あんたまだ、例の話を知らないのかい?」
「例の話って、なんだよ?」
「身の代金を渡せって、ピアズさんとこに手紙が届いたんだよ。それも三通。三通とも違う相手からだってんだから驚きだよ」
「じゃあ、偽物が混ざってたってのか?」
「ああ。二通までは、街の破落戸《ごろつき》どもが噂を聞いて、いっぱつ儲《もう》けてやろうってんで偽の手紙を出したのさ」
「なんでわかったんだ?」
「見れば一発だったそうだよ。なんせ破落戸どもだ、学がない連中だからね」
「おまえだって、学があるとは言えねぇくせに」
「うるせぇ、黙ってろ。それより、残り一通の話だ。そいつが誰から届いたか、わかるかい?」
「誰からって……そりゃ、娘をかどわかした犯人なんだろ」
「その犯人が誰か、って俺は言ってんだ」
「さあ……? もったいつけてねぇで、さっさと言えよ」
「実はさ――なんと、あの『ゴランの息子たち』なんだとよ」
「なんだ? その『ゴランの息子たち』ってのは?」
「おまえ……ほんっとに、なんにも知らねぇやつだな。『ゴランの息子たち』っていやぁ、いま売り出し中の海賊だぜ」
「知ってる、俺も聞いたことあるぜ。なんでも他の海賊どもみたいに、刃向かうやつは全員殺して、積み荷はありったけ全部奪って、最後に船に火をつけて逃げる――なんてことはしねぇ連中なんだろ?」
「そうさ。頭やってるのが知恵のはたらくやつらしくてさ、中には海賊にあったって気がつかねぇ船もあるってさ」
「なんだよ、そりゃ?」
「俺の知り合いの話だよ。港に入る直前、臨検だとか言って、やつらが乗り込んできたんだと。それらしい格好してるし、難しいこと書いた書類なんか見せられて、もうすっかり本物だと思ったんだってさ。それに港の真ん前だぜ、船は他にもいっぱい通ってるし、港ん中じゃ検査官が荷降ろしの点検してるし、まさか海賊とは思わねぇよな」
「それで、どうなったんだ?」
「気がついてみたら、積み荷のうちで高そうな品だけ抜き取られてたんだと。宝石と、最高級の茶葉が二箱だけ。なんだこりゃと思って、渡された書類を持ってったら、そいつに『ゴランの息子たち』って署名があったんだとさ」
「すげぇじゃねぇか、それって」
「だろ? 他にも、無茶苦茶やってる海賊の上前をはねたって話とか、かどわかされた娘っ子たちを解放してやったとか、色々とすげぇ噂には事欠かないんだよ」
「ちょっと待てよ。だったらなんで、そんな連中がピアズさんの嬢さんをかどわかしたりしたんだ?」
「知るかよ、そんなこと。きっと、上品なことばっかやってたんで、金に困ったんじゃねぇのか?」
「だな。金に困りゃあ多少汚いことに手を染めたって、仕方ねぇって――」
「ふざけたこと、ぬかすんじゃねぇよ!」
噂話に花をさかせていた男たちは、いきなり怒鳴りつけてきた若い男を、ぽかんとして見あげた。
「金に困っただと? だから女をかどわかしただと? いいかげんなこと言うんじゃねぇよ、てめぇらはっ!」
「おい、エリ。やめろよ」
あわてて若い男の仲間らしい男たちが、ふたつむこうの卓から駆け寄ってくる。
「止めるんじゃねぇっ!」
若い男は金髪を乱して、仲間たちを振り返る。
「おまえら、あんな言い方されて、悔しくねぇのかよ?」
「坊、やめんか。みっともない」
男たちの間から、ひとりの老人が進み出る。右脚に義足をつけたその老人は、手にした長い煙管《きせる》で金髪の若い男の手を打った。
「いっ、痛てぇだろうがっ」
「当然だ。言ってもきかんガキをしつけるには、身体に教えてやらんとなぁ」
「このクソ爺いっ」
「なんだって?」
老人は耳の穴をほじって、聞こえないふりをする。そして仲間たちに合図し、金髪の若い男の腕を両側からしっかりおさえさせると、噂をしあっていた男たちににっこりと笑いかけた。
「うちの若い者が失礼なことをして、すまんでしたな」
「あ……いえ……」
男たちは互いに顔を見合わせ、老人に愛想笑いを返した。
「お詫びに、ここの勘定はわしらが持ちますんで、どうぞ許してやってくだされ」
そう言うと老人は店主を呼び、自分たちのぶんとかれらのぶんの勘定をその場で支払った。
「なんで、そんなことするんだよっ」
両側から腕をつかまれても、金髪の若い男はまだ腹がおさまらない様子で、ぶつぶつとこぼしている。
[#挿絵(img/KazenoKEARU_03_173.jpg)入る]
「謝るのはあいつらのほうだろうがっ」
「やめろったら、エリ」
「うるせえっ!」
「爺さんにまた、たたかれるぞ」
「オレはガキじゃねぇ。オレはな、こう見えても天下に名高い――」
声をはりあげようとした彼の口を、両側の男たちがあわてておさえつけた。そしてそのままずるずると若い金髪の男を引きずり、店から出ていく。
「お騒がせして、すまんでしたな」
最後に残った老人がそう言って頭をさげ、騒がしい一団はいなくなった。
「――ありゃ、なんだ……?」
「さあな。もしかして『ゴランの息子たち』だったりして……」
「まさか。売り出し中の海賊が、こんなとこにいるもんか」
「だよなあ。まあ、おかげでタダ酒が飲めるってもんだ」
ありがたいと言い合って乾杯したかれらは、今度は女の噂話に花をさかせはじめた。この夜はもうだれも、あの『ゴランの息子たち』の話題は出さなかった。
* * *
「ほんっとにもう、信じられないよ……」
繰り返し言われて、エリ・タトルは唇をへの字にへし曲げた。
「なんだよ。さっきからおまえ、すげぇしつこいんだよな」
「それは坊が、反省せんからだ」
うしろから煙管でぽかっと頭を殴られ、エリは振り返って老人に文句をつける。
「ぽかぽか殴りやがって。オレの頭を、煙草盆《たばこぼん》と間違えてんじゃねぇのか? 耄碌《もうろく》してんなら、さっさと船をおりろよな」
「どっかの坊が一人前になってくれたら、わしも安心して引退できるんだがなぁ。まったく年寄りをこき使いおって」
「こき使ってなんか、ねぇだろうがさ。爺さんけっこう顔が広いから、ちょっと頼みごとしただけだろ」
言いながらエリは、老人の顔をのぞきこみ「どうだった?」と訊ねた。
ピアズ・ダイクンの娘、マリナが行方不明になったらしいとの噂が立ちはじめたのは、ごく最近のことだ。レセプションには欠席ばかり、定期的に邸を訪れていた宝石商や仕立て屋も御無沙汰となり、出歩く姿を見た者がいない。最初の頃は、病気のため別邸に長期滞在しているらしいとの噂もあったが、それにしてはあれほど娘を可愛がっているピアズが、一度も別邸に出向こうとしない。
ピアズが使っている家令たちはよく教育されており、マリナがどうしたのか、決して口を開こうとはしなかった。だがそのことが、好奇心旺盛な人々の憶測に火をつけた形となったのである。
今ではだれも、彼女が病気療養中だなどと思う者はいない。酒場などの噂でもわかるように、誘拐され身の代金を請求されているらしい、との憶測が最も有力だ。
「たいしたことは、わからんかったよ」
訊ねられて老人は、かぶりをふった。年の功というべきか、この老人は街の破落戸たちの間に顔がきく。
「だが少なくとも、ここのところ大きな仕事をした連中はおらんかった」
「ってことは、かどわかされたわけじゃねぇってことか?」
「たぶんな。ただひとつ、ひっかかることがある。どうやら嬢さんがいなくなったのは、もう半年も前のことらしいんじゃ」
なんだって? とエリは軽く目をみひらいた。
「嬢ちゃんがいなくなったって、オレらが聞いたのは……ほんの一ヶ月前だぜ」
ピアズ・ダイクンの動向には、だれよりも気を配ってきたという自負がある。
「あのおっさん、今まで隠し通してきたってのかよ」
「だろうな。やはり、すごい御仁じゃ。この状況の中、よほどの精神力だろうて」
老人の言う「この状況」とは、大アルテたちの「ピアズたたき」である。
デルマリナ船襲撃事件に関して、ハイランドへ正式な謝罪と賠償金を要求する使者が送られたことは、すでに広く知られている。これは過去に何度も同様な例があり、その前例を踏襲して総務会の了承のもと行なわれたものであった。しかし問題は、その使者とともにケアル・ライスを船に乗せ、ハイランドへ帰してしまったことだ。本来ならばケアル・ライスは、ハイランドからの誠意ある返答があるまで拘束・監禁されてしかるべき人物なのである。
大アルテの商人たちは、ピアズが長く客人として遇してきたケアル・ライスを情にかられて逃がしたに違いないと決めつけた。ただしその決めつけは、デルマリナの一般市民たちには好意をもって受け入れられた。つまりピアズ・ダイクンは他の大アルテ商人などと違って、厚情あるすばらしい人物だと。
とはいえ一般市民の評判など意に介さないのが大アルテ商人たちである。かれらがもうひとつ取沙汰にしたのは、要求した賠償金のあまりに高額なことだった。
ハイランド通と言われているピアズがこれだけの賠償金を要求したことで、ハイランドにそれだけの支払い能力があるのだとかれらは考えたのである。ならばピアズひとりに、ハイランドの権益を独占させるわけにはいかない。
かくして。ピアズにこれ以上、儲けさせてなるものか――を合言葉に、大アルテたちのピアズたたきが始まったのである。
「しかし、半年前からいなくなったってのは……うーん……」
エリは腕を組み、頭をひねる。
「坊、やはり気になるか?」
「そりゃあ、当り前だろうがさ」
うなずいたエリに、横にいたボッズが目を丸くした。
「えっ。あんたあの嬢ちゃんに、ひょっとして惚れてたのか?」
「なにすっ頓狂《とんきょう》なことぬかしてんだよっ」
ぱこんっ、とボッズのうしろ頭を軽くはり飛ばす。
「気になるのは、半年前ってやつだ。半年前といったら、あいつが出航した頃じゃねぇかよ」
はり飛ばされたうしろ頭を撫でながらボッズも、そういえばと思い出したようだ。
(まさかケアルに、あの嬢ちゃんをかっ攫う度胸があるとは思えねぇがな……)
エリが知る親友は、生真面目で色恋沙汰にはまったく縁がない。故郷ではエリのいる島にたびたび訪れる領主の三男坊に、ひそかに憧れる島の若い女もいたが、肝心のケアルはそれに全く気づきもしなかった。またデルマリナへ来てからも、何度かあったレセプションの席でケアルに興味をしめし近づく女もいたが、こちらも彼は紳士的に受け答えするのみで、彼女らのさりげない誘いに気づく様子もなかったのだ。
「ひょっとしたらあの嬢ちゃん、そんなあいつに焦れて、押し掛け女房したのかもなぁ……」
遠いハイランドに続く空へと視線をやって、エリは苦笑まじりにつぶやいた。
2
苦い薬草茶を飲みほして、ピアズ・ダイクンは腹をさすった。
「もう一杯、お持ちしましょうか?」
家令に問われて、首をふる。
「いや。もう充分だ」
「しかし、お顔の色が……」
「いっぺんに何杯も飲んだからといって、すぐ効くものではないよ」
そうですかとうなずいて、家令は空になった器をさげ書斎から出ていった。
愛娘が家を出てからというもの、ピアズは自分がすっかり老けこんでしまった気がした。体力がおち、体調を崩し、頭の回転まで鈍ってしまったのではないかと思う。
マリナがいないとわかった、あの日。あのときの衝撃はきっと、生涯忘れられないに違いない。
あの日、午後になって起きだしたピアズは、娘と遅い昼食をとろうと考え、家令にマリナを呼ぶように命じた。だがマリナは外出しているようだ、と言う。長く続いていた雨があがり、浸水していた街のあちこちから水が退きはじめていた。なるほど若い娘なら、やっと外出できると喜び勇んで出かけたのだろうとピアズは思った。
ところが、夜になってもマリナは帰ってこなかったのだ。あわてて家令たちを捜しに行かせ、心当たりの場所をすべて回らせた。だがマリナは、そのどこをも訪れてはいなかったのである。まんじりともできずに夜があけ、翌朝になってマリナの部屋から書き置きが見つかった。
好きなひとのもとへ行きます、と書き置きにはあった。しかしこの父親は愛娘の好いた男が誰なのか、さっぱり見当もつかなかったのである。娘にそんな男がいたことすら、これが初耳だった。
男のもとへ走ったと世間に知られては、ふしだらな娘と噂される。それが怖くて、表立って捜しまわることもできない。なぜマリナはこんなことをする前に、父に打ち明けてはくれなかったのか。私になにか、いたらないところがあったのだろうか。落ち着いたら手紙の一通も寄越してくれればいいのに、それがないのは、ひょっとしたら何か事件に巻き込まれたのではなかろうか。
悪いほう悪いほうへとしか考えられず、仕事も手につかない日々が続いた。マリナが幼いころに使った愛らしい小さなドレスや、玩具などを取り出しては、ぼんやりと眺めているピアズに、家令たちも心配した。
これ以上はもう耐えられない。世間の噂などどうでもいいから、娘が行方不明になったと公表し、広く情報を集めよう。そう決意したとき、マリナと一緒に行方がわからなくなった侍女がひょっこり姿をあらわしたのである。彼女はマリナとともに船に乗ったと証言し、託された手紙を携えていた。手紙はコルノ船長からと、あのハイランドの青年からだった。
マリナは、ハイランドへ行く船に密航したのだという。それも、ケアル・ライスを追いかけて。考えてみれば、船が出航した日とマリナがいなくなった日は重なっている。だがピアズは、まさか娘が密航して男のあとを追いかけているとは思いもしなかった。我の強い娘ではあるが、そこまで度胸があるとは想像もしていなかったのだ。それに、あのハイランドの青年はピアズの目から見ても朴念仁《ぼくねんじん》で、若い娘の気をひく男とは思えない。
実はケアル・ライスが娘を攫っていったのではないか、とさえ考えた。だが侍女によれば、マリナの考えによる密航だという。またコルノ船長からの手紙にもそうあった。
なぜコルノ船長は、侍女と一緒に娘を寄航地で降ろしてくれなかったのか。なぜケアル・ライスは、娘の言うままにハイランドなどという辺境の地へ連れていこうとしているのか。そんな辺境で、娘を幸せにすることができるとでも思っているのか。いったいどんなことを言って、娘をたぶらかしたのか。
私ほど娘の幸せを願う者はいないのに。どうしてマリナには、それが通じなかったのだろう。いや、あんな田舎者の男などにたぶらかされてしまうほど、純粋な娘なのだ。甘言に乗せられてハイランドへ行ったものの、今頃きっと後悔しているに違いない。
すぐにピアズは、船を出させた。だがマリナが出て行ってからすでに、三ヶ月が経過している。季節を考えれば、その船はミセコルディア岬を越えられずに戻ってくるかもしれない。そうとわかっていながらも、船を出させずにはいられなかった。
「たとえ一年かかったとしても、絶対に迎えをやるからな……」
辺境の地でデルマリナに帰りたいと泣いているだろう娘を思って、ピアズはもう何度めかの決意に拳を握りしめた。
* * *
ハイランドへ派遣した船が戻ってきたとの知らせがあったのは、夜明け間もないころだった。ピアズはすぐさま家令に命じ、自ら港まで出向いた。
待ちかねた船の入港は、朝靄《あさもや》の中だった。昔はよく、船が戻る予定日近くになると、無事に入港してくれるだろうかと不安で、港に通い詰めたものだった。当時のピアズには今ほどの資金力はなく、船が沈んだり、あるいは航海中に積み荷が損なわれたりすれば、もう破産するしかなかったのだ。年中、一か八かの勝負をしているようなものだった。予定日からずいぶん遅れて入港してきた船影に、涙を流して喜んだこともある。いま入港してくる船を眺めながらピアズは、あの当時のことを思い出した。
船はもどかしいほどゆっくりと埠頭に横づけされ、水夫たちの手により板が渡された。最初に降りてきたのは、髭面のコルノ船長である。
「ただいま戻りました。いや、わざわざお出迎えいただけるとは、思ってもいませんでしたよ」
空っとぼけて言う船長を、絞め殺してやらんばかりの目つきで睨みつける。すると船長は軽く肩をすぼめて、
「まあ、お叱りは覚悟してますよ。お嬢さんからの手紙を預かっています。いま、ご覧になりますか?」
取り出した手紙を、ピアズはひったくるように船長の指先から奪い取った。そしてすぐさま封を開けて読みはじめる。
長い手紙だった。まず書き置きひとつで家を出たことを謝罪し、父に心配をかけただろうことに繰り返し「ごめんなさい」と記してあった。どれほどあの男を愛しているか書いてある箇所は、すべて飛ばした。そんなものなど読みたくはない。手紙の最後は、いまどれほど幸せか、未来への希望と夢が記されていた。
何度も何度も読み返した。けれどどこにも後悔を匂わす文章はない。後悔していないはずなどないのに。きっとあの男が、厳しく文面を確かめ、泣き言など書かせぬようにしたに違いない。
「なぜ無理やりにでも、連れて帰らなかったんだ?」
手紙を握りしめて責めたピアズに、コルノ船長は軽く眉をあげ、両手をひろげてみせた。
「そんなことをしたら、海に身を投げるだの舌を噛み切るだのと言われましてね」
「口だけだ、そんなもの。あの年頃の娘は、大袈裟な言い方をするのが好きなんだ」
「いやいや。あのお嬢さんは、さすがあんたの娘さんだけありますよ。本気でやります、少なくとも私はそう思いましたね」
「おまえに何がわかる」
吐き捨てるように言い放ち、ピアズはくるりと踵をかえした。
「もう一通、手紙があります。ケアル・ライスからの手紙ですよ」
呼びとめられ、ピアズは腕をふり回して振り返った。
「そんなもの、捨ててしまえっ!」
腹が立って立って仕方がなかった。私の気持ちをわかってくれる者など、どこにもいない。だれもかれもが、愛しい娘を父親からひき離そうとしているように思える。
(あの子にとって何が幸せなのかは、この私がいちばんよくわかっているんだ)
コルノ船長にしても、あの男にしても、所詮《しょせん》は他人ごとではないか。他人だから、なんとでも言える。
「これ、ほんとに捨てちまって、いいんですか?」
ひらひらと船長が手紙を振る。
「捨てろっ!」
もういちど言い放って、ピアズは足早に港をあとにしたのだった。
「切れ者と評判のあんたも、娘のこととなると、そのへんの親父と変わりませんね」
場所をあらため、事務所兼書斎に招き入れられたコルノ船長は、どっかりと椅子に腰をおろして笑った。
「あんたが嫌がるのは承知で言いますが、あの赤毛の小僧っ子は、なかなか骨のある男ですよ。そのへんの大アルテ商人の息子なんぞより、よっぽど肝魂《きもったま》が据わっている」
椅子の背に深く身体をもたせかけたピアズは、じろりと髭面の船長を見やり、
「骨も肝も関係ない。あんな男が娘を幸せにできるはずがないんだ」
「あんな男、ねぇ。あんたいったい、あのケアル・ライスって青年をどんな男だと思ってるんですか?」
「地位も発言力もない、領主の三男坊だ。好い青年ではあるが、それだけだ」
それだけってねぇ、と船長は顎髭を撫でながら笑った。
「あんただって、彼と同じ年ぐらいのときには、地位も発言力もない男だったでしょうが。まああんたの場合、野心だけは化け物のようにあったでしょうがね」
「おまえに、なにがわかる」
「ええ、わかりませんね。俺はこれでも、あんたを買ってたんですよ。だから世捨て人も同然だったこの俺が、スキピオに頼まれたとき、あんたの仕事ならってので受けた」
この男は、前回の航海で船団長だったスキピオに紹介されて、仕事を依頼したのだ。スキピオの話によれば、わけあって大アルテ商人たちに嫌われている男だが、デルマリナで最も水夫たちに慕われている船乗りで、そのうえすこぶる有能な男だという。特に渡航先の原住民と一触即発状態であったところを、彼の働きで回避した事件の話を聞き、雇うことを決意したのである。
「あんたがいま言っていることは、他の大アルテ商人どもがほざいていることと変わりありませんよ。やつらの曰《いわ》く、たいした家の出でもないくせに、後継ぎでない男は厄介者だ、大アルテ商人の息子がなぜ船乗りなどになりたがるのだ、水夫どもなどと口をきくのも穢《けが》らわしい、格式ある家柄の息子が原住民の女を妻にしたいなど気が狂ったのか――」
ひとつひとつ指を折りながら並べたてていく船長の顔を、ピアズは軽く目をみひらいて見つめた。
「きみは、もしかして……」
ずいぶん前に、噂を耳にしたことがある。さる大アルテ商人の次男が、家を出て船乗りになってしまったことを。そしてその男は、茶葉の産地である現地の首長の娘を妻にしたのだと。
「さっきまでおまえ≠セったものが、急にきみ≠ナすか?」
口もとを歪めて、船長は皮肉な笑みを浮かべた。
「どうやら俺は、あんたをずいぶんと買いかぶっていたらしい。デルマリナ市民の間では、あんたの評判は上々だし、議会では総務会の一員のくせに小アルテ商人たちを全面的に味方につけて――そんな男はこれまで、いませんでしたからね」
船長はそう言ったが、逆にピアズは自分をそんなふうに評価する者をみるのは初めてだと思った。他人がピアズを評価するのはいつも、一介の孤児が大アルテにまでのしあがった強運と商売のうまさだけだ。市民たちの評判だの、小アルテ商人を味方につけているだのは、かえって侮られるばかりで評価されたことはない。特に大アルテ商人たちには、そんなことで点数を稼ぐしかないくせに、と陰口をたたくねたにされている。
おもしろい男だ、とピアズは自分が非難されていることも忘れて、コルノ船長を見なおした。
「きみはそうは言うが、私に言わせれば、デルマリナの大方の人間は私のことを買いかぶっているね」
なにを言い出すのかという顔で、コルノ船長はピアズを見やった。
「私が市民に人気があるのは、市場で薬草売りをしていた孤児が大アルテ商人にまでのしあがった、その成功物語がかれらの興味をひいているだけにすぎない。それに小アルテ商人たちを味方につけているときみは言うが、かれらもデルマリナの商人だ、己の利にならぬ者に媚《こび》を売るようなことはしないよ」
議会で小アルテ議員たちがピアズに票を入れたのも、ひとつはピアズが他の者たちよりも高く票を買ったからであり、またピアズが総務会に入ることで、それまで総務会の一員であったヴィタ・ファリエルの利権を一部、小アルテ商人たちに譲渡すると約束したからである。もしピアズが己の利にならぬとわかれば、あるいは別にピアズ以上の利を見つければ、かれらはもうピアズを支持しないに違いない。
「私を買っていたとは、きみもなかなか夢想家というか、まだまだ青いというか――」
失笑してみせたピアズにコルノ船長は、胸糞悪いぜ、と吐き捨てて顔をそむけた。
「きみが私をどう思おうと、それはきみの勝手だ。たとえきみが私に失望しようとも、私にはなんの関係もないよ。それより今は、仕事の話をしよう」
言いながらピアズは、コルノ船長が届けたハイランドからの公文書を開いた。
3
船が戻った三日後、大評議会にてハイランドからの公文書が公表され、ハイランドが正式な謝罪を行なったと認定された。
賠償金の支払いは不可能だとのハイランドからの訴えには、当然のことながら議員たちから非難の声があがった。
デルマリナがつきつけた要求を、このように拒否した相手はこれまでなかったからだ。要求をつきつけられた相手にとって、デルマリナは最大の得意先であり、決して刃向かってはならない脅威なのである。デルマリナに対抗できる相手はいない。その気になれば相手を完膚なきまでたたきのめすこともできる。そんな力関係の上に立ち、デルマリナの人々は交易を行なってきた。
すぐさま、こちらの要求を拒否したハイランドに報復しようとの声があがった。しかしその方法を考える段なって、誰もが互いに顔を見合わせた。
これまでのように海上封鎖をするには、デルマリナ船が大挙してハイランドに赴かねばならない。けれど昨年ハイランドへ向かった船は、襲撃された一隻をのぞいてすべてミセコルディア岬を越えられず戻ってきた。無理に岬を越えようとして、甚大な損傷をうけた船も多い。通常、海上封鎖へ向かう船には慰労金が国庫より支払われるが、修理が必要となるほど船が壊れてしまっては、その費用分は船主の持ち出しとなる。計算高いデルマリナ商人たちが、そんな危険をあえて冒すはずはなかった。
そうなるとハイランドへの非難の声は、いっきに盛りさがってしまった。
ハイランドの謝罪を受け入れなければ、報復措置をとらねばならない。だが、報復するためには大きな損害を被るかもしれないという危険がともなう。だったら、謝罪を受け入れてしまえ――そんな経緯で、ハイランドが正式な謝罪をしたと認定されたのである。
* * *
「なあ、ピアズ・ダイクンが出資して作らせてる新しい造船所を知ってるか?」
巷《ちまた》にそんな噂が流れるようになったのは、議会がハイランドの正式な謝罪を受け入れた数ヶ月後のことである。
「知ってる、知ってる。外からちょいと見ただけだけどさ、ありゃずいぶん立派なもんじゃないか」
「造船所なんて他にもいっぱいあるのに、いまさらなんで作らせてるんだろうな」
現在デルマリナには、大小合わせて二十近い造船所が存在する。ただし、そのうち十五までは、漁師や運河の行き来に使う小舟を作る、ごく小規模な工房である。残る五つの造船所が、大海を航行する帆船をつくっているのだが、帆船を新造する船主がそんなに多くいるものではない。それら造船所は、いまある帆船の補修・改造を主な仕事としていた。市民らの言う通り、いまさら大きな造船所をつくったとしても、さほどの利益をうむとは思えなかった。
「まあなんにしても、わしらにゃ関係のない話だな」
「ああ。わしらが帆船を注文することなど、まずはないからな」
「でも、造船職人たちは喜んでるってさ。腕の立つ職人には、これまでの倍の給金を払うぞって、雇い入れてるらしいから」
「倍の給金か。そりゃすげぇな。俺もひとつ造船職人のとこに弟子入りしようかな」
「今からじゃ無理だっての」
そんな噂が飛び交う中、造船所の建設は多くの労務者を集めて、急ぎ進められた。
そうして造船所がそろそろ竣成するころ、あらたな噂がデルマリナを駆け巡った。
「かどわかされたって話だったピアズさんとこの娘さん、実は結婚したんだと」
「なに言ってやがる、嘘つけ。ピアズさんの娘の婚礼ともなりゃあ、いくら噂に疎い俺でも自然と、どんなだったかってぇ話ぐらい耳に入ってくるだろうさ。ところがそんな話、聞いたこともねぇぞ」
「莫迦だね。だから、婚礼はやらなかったんだよ。っていうか、できなかったんだね」
「なんでだよ?」
「お相手が、ハイランドの男だったからさ。ほら、あんたも聞いたことあるだろ。しばらくピアズさんの邸にいた、ハイランドからのお客さん」
「ああ、空を飛んでみせたって男だな」
「そうさ。あたしの弟は水夫なんだけどね、水夫仲間から聞いたって言うんだよ。ハイランドへ帰る男にくっついて、ピアズさんとこの娘さんも一緒に船に乗ってたってさ」
「えっ。じゃあ、ピアズさんの娘はハイランドへ嫁にいったってのか?」
「さっきからそう言ってるだろ。ちょうどハイランドのやつらに船が襲われて、謝罪だの賠償金だのって、ごたごたしてたときだったからね。婚礼なんてできやしなかったんだろうさ」
「へぇ。しかしよく、ピアズさんが許したもんだな。ハイランドって、すげぇ辺境なんだろ。ハイランドのやつらはみんな穴の中で暮らしてて、デルマリナの船が行くまでは、船が水に浮かぶってことさえ知らなかったって聞いたことあるぜ」
「そうじゃなくて、船はどうやって作るのかを知らなかったんだよ。これも弟に聞いたんだけど、ハイランドには一隻の船もないらしいからねぇ」
「同じようなものじゃねぇか」
「なんでもさ、そのお相手の男ってのは、ハイランドの王さまの息子らしいよ。だからピアズさんも許したんじゃないかねぇ」
「へっ。俺だったら、王さまの息子だろうが絶対に許さねぇけどな。あんた、大事な娘をそんな辺境で、おまけに穴ぐら暮らしなんかさせられるかい?」
「そりゃまあ、あたしだって許せないとは思うよ」
「だろ? ピアズさんのことだ、なんか理由があるに違いねぇよ。あのお人が娘さんを、目に入れても痛くねぇほど可愛がってたってのは知ってるだろ。絶対に、なんかあるんだよ。なんにもなくて娘をそんなとこにやるはずがねぇんだ」
「そうだねぇ。言われてみたら、なんかそんな気がしてきたよ」
* * *
海上で、星の瞬きではない明かりが、ぴかりと光った。
「やっと合図があったぜ」
見張り台の上で遠眼鏡をのぞいていたエリが言うと、老爺が下の甲板にいる仲間たちに展帆の指示をだした。エリも眼鏡を放り出し、仲間たちに混じって帆桁に乗り移り、帆をひらく。
船は静かに、夜の海を進みはじめた。
ここのところデルマリナ近海で、海賊行為をする不逞《ふてい》なやからが増えている。腹立たしいのは、そのうち少なからずが「ゴランの息子たち」を名乗っていることだ。
「冗談じゃねぇよな。オレらがいつ、羊毛ぐらいしか積んでねぇようなシケた船を襲ったってんだ」
金や銀、あるいは宝石、または最高級の茶葉や葡萄酒ならば、どこの港でも売り払うことができる。
しかし大量の羊毛だの陶器だのは、ろくでもない連中に買いたたかれるのがおちだ。そのうえ、足がつく。エリたちは決してそんな危ない橋を渡ることはしなかった。もちろん、海賊行為そのものが危ない橋と言えないでもないが。
「そうだよな。俺たちは、節度ある海賊だもんな」
「ばーか。節度あろうがなかろうが、盗人だってことにゃ変わりねぇだろ」
「じゃあ、連中と同じだってのか?」
「違うさ。ここの出来がね」
指先でエリは頭をたたいてみせた。
船は老人の舵取りで、海上に浮かぶ一隻の船に横付けされた。すぐさま板が渡され、エリは仲間たちとともに、むこうの船へと乗り移った。
「首尾はどうだ?」
「酒に入れた薬がきいてる。この船のやつらは全員、いい夢をみてるさ」
灯りを手にしてエリを迎えた男が、笑いながら答えた。
「んじゃあみんな手分けして、こいつら全員をふん縛ろうぜ」
エリの言葉にうなずいた仲間たちが、甲板の上を散っていく。
後ろ甲板の帆柱の下で、大いびきをかいて眠りこけている男たちを縛りあげたエリは、そのまま船長室へと踏み入った。どこかの船からのぶん奪り品だろう、ごてごてと飾りのついた趣味の悪い椅子の上で、シャツの前をはだけた逞しい男が、だらしなく口を開けて眠りこんでいる。
「こいつが海賊の頭か」
手際よく男を椅子に縛りつけたエリは、大卓にならぶ酒瓶を払い落として、その上にひょいと飛び乗った。あぐらをかいて正面から、男の顔をのぞきこみ、強い髭がびっしりはえたその頬を、思いっきり張りとばした。
「おいっ、起きろっ!」
男の瞼が、ぴくぴくと動く。そこをすかさずもう一発張りとばし、手近にあった桶《おけ》の水を頭からかけてやった。
ようやく目を開けた男は、正面にいるエリをぼんやりと眺めた。
「おらっ、寝ぼけてんじゃねぇよっ!」
また一発、頬を張りとばす。今度こそ男ははっきりと目を開けた。
「な……っ、なんだ! おまえはっ!」
立ちあがろうとしてやっと、縛られていることに気づいたようだ。
「だれかっ! だれかいないのかっ!」
大声で仲間を呼ぶ男を、エリは卓の上で立ちあがり、もじゃもじゃしたその頭のてっぺんを片足で踏みつけた。
「あんたの仲間はみんな、寝こけてるぜ」
「な……何者だ……?」
踏みつけられて頭を動かせないまま、男は上目づかいに訊ねる。
「何者ってのは、オレのことか? それともオレたちのことか?」
「たち……?」
「オレたちのことだってなら、知らないとは言わせないぜ」
足首をひねって、男の頭に乗せた足に体重をかけてやる。男は痛みに呻《うめ》くと、あわれな声で訴えた。
「知らない……知らないんだ、ほんとに」
「おいおい、オレたちの名を騙《かた》っておいて、知らねえはないだろうが」
男はぎょっとして、目をみひらいた。
「ま、まさか……『ゴランの息子たち』なのか……?」
「あたりっ」
にっこり笑ったエリは、男の頭から足をどけると、卓の上であぐらをかいた。
「実はさ、あんたに訊きたいことがあるんだけど、教えてくれっかな?」
顔をのぞきこむエリに、男はこわばった表情で何度もうなずいてみせる。
「――あんた、なんでオレたちの名を騙ったんだ?」
「それで、なんて答えたんだ?」
仲間たちに訊ねられて、エリはぽりぽりと額を掻《か》いた。
「ごちゃごちゃぬかしてたけど、要するに仕事がしやすいんだってさ。それから――やつの話じゃ、オレたちはただの海賊じゃねぇって、デルマリナでひそかに噂になってんだとよ」
「ただの海賊じゃねぇってのは、さっきエリが言ってたみたいに、ここの出来のいい海賊ってことか?」
自分の頭を指さしてみせる仲間に、エリは「違うっての」と苦笑した。
「噂ってのはまあ、なんか――オレたちの背後にはどえらい大物がついてるって、そういうやつらしい」
「なんだ、そりゃ……?」
仲間たちは、わけがわからないといった様子で互いに顔を見合わせる。
「要は、商人ご用達の海賊ってやつさな」
みんなから離れて、ひとり手すりにもたれかかり、煙管をふかしていた老人が、皺だらけの顔をしかめて言った。
「わしが若いころにゃあ、結構いたもんさ。海賊を雇って、競争相手の船を襲わせて大損させるような商人がな」
「爺さんの若いころって、いったい何年前の話だよ」
「海賊は捕まったその場でしばり首、なんて法律ができる前の話さな。かれこれ四、五十年も昔さ」
ここにいる仲間たちは、老人をのぞいて全員が十代、二十代の若者ばかりだ。そんな時代があったことさえ知らない。
「かのピアズ・ダイクン以前に、小アルテから大アルテに出世した商人がふたりほどおったが、そのふたりとも実は陰じゃあ『海賊商人』と呼ばれておった。大アルテになったのも、そのおかげであって、商才があったわけではないと陰口をたたかれていたな」
おもしろそうな話で、エリは思わず身を乗り出した。
「実際は、どうだったんだ?」
「さあな。ほんとのことなんぞ、誰も知らんかった」
ただ、と老人は目を細めて、手すりに煙管をぽんと打ちつけた。
「ご用達海賊は、仁義を知らんやつらだ、破落戸どもと変わりないと、同業者から毛嫌いされておった」
「海賊に仁義かよ」
「そうさ。わしの子供のころは、海賊の間にもしきたりみたいなもんがあってな。女子供には手を出しちゃいかんとか、積み荷は奪っても船に火をつけちゃいかんとか。ところがご用達海賊どもは、そんなしきたりなど守りはせんかった。律義にしきたりを守る海賊はそのうち、デルマリナ近海から消え失せてしまった――」
老人はそう言いながら、煙りとともにため息を吐き出した。
「わしらの名を騙れば仕事がしやすいのは、わしらが昔のしきたりを守る海賊だからじゃろう。抵抗しなけりゃ高価そうな積み荷だけをいただいて、それ以上はなにもせんと、さっさと逃げていくからな。捕まった船の連中は、海賊が『ゴランの息子たち』だと聞いただけで、まず抵抗する気を失う。名を騙るやつらにとっちゃ、あとはやりたい放題。そりゃあ仕事はやりやすかろうて」
殺されるだろうと思えば必死に抵抗しても、命までとられることはないとわかっていれば、とりあえずおとなしくしているものだ。それに船に火をつけられることもないから、とりあえずは無事に故郷へ帰り着くこともできる。
そんな心理を利用した汚いやりくちに、エリはぎりぎりと奥歯をかみしめた。
「許せねぇ……っ!」
吐き捨てて、水樽を思いきり蹴飛ばす。
「そのうえ、オレたちがご用達海賊だって言われるのも、めちゃくちゃむかつくぜ」
その通りだと若い仲間たちはうなずいたが、老人は達観したような顔で首をふった。
「わしらが『ゴランの息子たち』を名乗って仕事してる限り、わしらの名を騙る連中は続々とあらわれるさ」
「んじゃあ爺さんは、連中と同じようなまねしろって言うのかよ! 襲った相手は皆殺しにして、積み荷はありったけ奪って、船に火をつけるようなまねを!」
「そうは言っておらん」
老人を睨みつけたエリは、やがて肩に入った力をぬき、大きく息を吐いた。
なんとなく老人が言いたいことがわかるような気がする。おまえたちはまだ若い、いつまでも海賊のまねごとなどしていないで、新たな人生を考えるべきだ――。
(そういうことだろ、爺さん……?)
エリの頭の中を見透かしたように、老人は皺だらけの顔をますますくしゃくしゃにして笑った。
老人に促されて、仲間たちは甲板で酒盛りをはじめた。鬱憤《うっぷん》をはらすには、飲んで騒ぐのがいいさ、と。
エリは仲間たちから離れ、ひとり前甲板へ移動すると、身軽な動作で帆柱をのぼり、帆桁の上に座った。
頭上には満天の星空。暗い海は、子守歌をうたう母親の声のように低く高く繰り返し鳴っている。
海賊など始めたのは、他にできることがなかったからだ。捕まれば、船を奪ったとして死罪となるのは確実だった。デルマリナに帰ることもできない仲間たちに、勝手にしろと自分だけ逃げだすこともできない。
気の合った仲間たちとのこの暮らしは楽しくて、いつまでもこうしていられればと思わないでもない。けれど夜中、ひとりになったときなどには、このままでいいのかと自問する。
オレは爺さんぐらいの年齢になったとき、いったい何をしているのだろう? とうの昔に、しばり首になって死んでいるかもしれない。気のいい女と所帯をもって、海賊稼業から足を洗い、孫やひ孫に囲まれているのかもしれない。あるいは身寄りもない年寄りになって、デルマリナのどこかで不自由な手足を引きずり、物乞いをしているかもしれない。どれもありそうで、けれどどれも想像できなかった。
今も昔も、そして未来も、エリは自分がいつも宙ぶらりんなところにいるような気がしてならない。こうして帆桁の上に座っているような、足もとには広い海だけがひろがっているような感覚――。
島にいたときエリは、デルマリナ生まれの父をもつよそ者だった。デルマリナに来たらこんどは、ハイランドからやってきたよそ者だった。
オレには故郷と思える場所がない。帰るべき場所がない。
エリは頭上にひろがる星空を見あげた。空の西ほどに、ひときわ赤く輝く星がある。親友だった男の髪によく似た、その色。
「なあ、オレは故郷をつくることができると思うか?」
4
もとから船は、そう新しいものではなかった。船主は陶磁器を主にあつかう大アルテ商人だったのだが、壊れものの陶磁器を大事に運ぶほど、船は大事に使ってはいなかったらしい。
「補修が必要じゃな」
ガタつきだした帆柱の根元と、海中の微生物のために腐蝕がすすんだ喫水《きっすい》線のあたりを見回って、老人は結論をだした。
「補修って……それ、いくらぐらいかかるもんなんだ?」
おそるおそるエリが訊ねると、老爺は難しい顔をして片手を突き出してみせた。
「五……?」
「銀貨五千枚。まあ、わしの知り合いに頼めば少しはまけてくれるじゃろうがな」
その金額に、エリは自分が卒倒してしまうのではないかと思った。
「ごっ、五千枚だって? 嘘だろっ?」
「わしがそんなもので嘘をついて、どうするんじゃ。帆柱はたぶん、三本ともとっかえなきゃならんだろうし、船底はすべて張り替えねばなるまいて」
「そんな……」
がっくり肩を落としたエリの横から、若い仲間たちが口をだした。
「んなもの、また新しそうな船をぶん奪ればいいんじゃねぇの?」
「そうそう。銀貨五千枚なんて、もったいねぇじゃん」
「次の船はさ、やっぱ最新流行の、ちょいと細身のやつがいいなあ」
「畳帆《じょうはん》とか展帆《てんぽ》とかが楽な船なら、なおいいよな」
楽しそうに喋りまくる若者たちを、老人はぎろりと睨み、
「このっ、阿呆どもがっ!」
怒鳴りつけて端から順に、かれらの頭を手にした煙管で殴っていった。
「これだから、最近の若い水夫はと言われるんじゃ。若いうちから楽をおぼえてどうする。それにおまえさんたちの技術では、最新流行の船なんぞ、百年経っても操れんわ」
なんて情けない、と嘆いてみせる。
「えー、だってさぁ……」
「銀貨五千枚を稼ぐよりかは――」
「うん。船をぶん奪るなら、一回で済むけどさ。五千枚稼ぐには……」
ひぃふぅみぃ、と指をおる。
文句は口にするが、かれらはこの老人の経験と知識を尊敬していた。「ゴランの息子たち」に、老人はなくてはならない存在なのである。時には、自分たちは海賊ではなく、実は立派な水夫になるための修行をしているのではないかと思うこともあったが……。
「それに何より、贅沢はいかん」
教師よろしく若い生徒たちを順に睨みつけながら、老人は言い切る。
「船というものは、補修を繰り返しながら大事に大事につかうのがいい。大切にされてると船もわかって、わしら水夫のちいと無理な頼みごとでもきいてくれるようになる。水夫が船に慣れ、船が水夫に慣れれば、どんな嵐も怖くなくなるんじゃ」
老人のありがたい教えに従って「ゴランの息子たち」は、地道に銀貨五千枚ぶんの仕事を終え、かれらの船は船渠《せんきょ》入りすることとなったのである。
* * *
老人の知り合いだという造船職人は、いずれ劣らずの老齢だった。若い職人たちを怒鳴りつけながら、手にした木槌でかれらの頭をたたく光景に、「ゴランの息子たち」は鏡をみている気分になった。
船渠はデルマリナからかなり離れた北方の港近くにあり、これならばもとの船主にも、海賊退治の追っ手にも見つかることはないだろうと、エリは安心した。
用意した銀貨五千枚だが、造船職人は船を見るなり、その半分の代金で補修してやると言ってくれた。おかげでエリたちは、修理にかかる二ヶ月間を、港での荷降ろしや、農繁期の下働きなどの仕事を捜さずとも済みそうで、これにもまたひと安心だった。
河口にあるこの港は、石炭を運び出す船に利用されていた。河の上流に良質な石炭がとれる炭鉱があり、平底船に乗せられて河をくだった石炭は、デルマリナ市街に向かう船に積み込まれるのである。
エリと仲間たちはすることもなく、自然と港近くの酒場に入り浸る日々が続いた。市街にある港のそばの酒場といえば、水夫の姿ばかりが目についたものだが、ここの酒場には水夫より炭鉱夫の姿が多かった。
同じ坑道に入る炭鉱夫たちは、ひとりの失敗が仲間の命を危うくするという意味で、同じ船に乗る水夫たちと同じように仲間意識が強い。また、それを助長するように鉱山の持ち主が各坑道に産出量を競わせるので、他の坑道への対抗意識から仲間の結束はますます強くなる。そんな炭鉱夫たちが、街に何軒もない酒場ではち合わせするのだから、喧嘩やもめ事は日常茶飯事だった。
この街に滞在して何日目だったか、エリたちの目の前でいきなり始まった騒ぎも、やはりそんな炭鉱夫たち同士のささいな喧嘩が発端だった。
「なんだとっ、この野郎っ! もういっぺん言ってみろ!」
怒鳴って立ちあがった男に、言いがかりをつけられた男は座ったまま言い返す。
「へっ、何度だって言ってやるさ。おまえらは盗人だ。うちの班のつるはしを盗みやがったじゃねぇか」
こちらの集団から、そうだそうだと声があがる。
すると盗人呼ばわりされた男の仲間たちが、一斉に立ちあがった。
「おまえらの小汚い道具を盗むやつなんて、いやしねぇよ」
「へたな言い訳しやがって。今月おまえらがうちの班の半分っきゃ石炭がとれなかったのは、そっちの間抜けが落盤事故おこしちまったからだろうが」
「坑柱をケチるってんで、だれもおまえらの班にゃ入りたがらないって、知ってるか」
「なんだとっ、この野郎っ!」
双方の集団が立ちあがり、睨みあう。目配せしあったエリたちが、そろそろと避難をはじめると、すぐに乱闘が始まった。
卓から酒瓶や皿が落ち、派手な音をたてて割れた。床にたたきつけられた椅子が壊れ、破片があたりに飛び散る。卓の上に飛び乗った男が、奇声をあげてだれかにとびかかっていく。
他の客たちも店の主人も慣れたもので、まだ乱闘の被害にあっていない卓や椅子を、酒や料理ごと店の外に持ち出し、店内の騒ぎを見物しながら酒宴の続きをはじめた。ときおり誰かが店内に踏み入っては、まだ無事そうな酒瓶や料理が乗った皿などをさりげなく持ち出してくる。乱闘を止めようとする者などだれひとりとしていない。そのうち飽きるか体力が尽きるかすれば終わるさ、という姿勢なのである。
「あっ、危ねぇっ……」
ふいに声をあげたのは、エリの仲間だった。指さすほうを見ると、手持ちの酒瓶が空になったのか、酒をもとめて店内に入った若い男が、飛んできた皿に額を直撃され、ひっくりかえったところだった。
「おいおい、すげぇ間抜けじゃねぇ?」
見物の客たちが、どっと笑った。
男は皿の当たった額を押さえ、床に這《は》いつくばって逃げ出そうとしたが、その背中に殴られてふっ飛んできた炭鉱夫が落ちた。潰されたその男は、背中で昏倒してしまった炭鉱夫の下から抜け出そうと、手足をばたつかせてあがいている。その姿がおもしろいと、客たちはまた男を指さして笑った。
「さすがにちょっと、かわいそうじゃねぇかよ」
皆と一緒に笑う気にはなれず、エリは立ちあがって男に近づくと、その腕をつかんで引っぱった。
店の外まで引きずり出してやると、男は額の傷から流れた血で顔を真っ赤に染め、礼を言いながら立ちあがろうとした。ところが運悪く、そこへまた今度は酒瓶が飛んできて、男の後頭部に当たったのである。
あっけにとられたエリの前で、男は左右にぐらぐら揺れると、白目をむいて倒れ伏してしまった。客たちはもう、このあまりにも不運な間抜け男に、卓をたたき酒瓶をうち鳴らして大笑いした。先ほどは笑うのはかわいそうだと思ったエリも、ここまでくるともう吹きださずにはいられなかった。
大爆笑の客たちに気がそがれたのか、炭鉱夫たちの喧嘩もすぐに落ち着いた。教師に叱られた生徒のようにかれらは、店主に申し訳ないと頭をさげながら、ぐちゃぐちゃになった店内を手分けして片付けはじめた。エリは昏倒《こんとう》した間抜け男を、かれらの片付けのじゃまにならぬよう、店の外に出した粗末な長椅子に横たわらせる。
店主がエリたちの卓に、注文もしていない酒瓶をひとつ運んできた。
「連中からのおごりだよ。受け取ってやってくれ」
連中とはむろん、乱闘騒ぎをおこした炭鉱夫らのことである。他の客たちのところにも、かれらからの謝罪だと、酒や料理が運ばれている。
「それからこっちは、その間抜けのぶん」
昏倒したままの男をしめし、店主は料理の皿をどんっと置く。
「こいつ、起きそうにねぇから、いいよ」
エリが言うと、店主は首をふった。
「だったら、あんたたちが食べちまいな。きっとダーリオも、文句は言わんだろうさ」
「こいつ、ダーリオっての?」
いつの間にかいびきをかいて眠っている間抜け男を指さし、エリはたずねる。
「ああ。街はずれにある鍛冶屋の、次男坊だよ。なんか、こんど偉い大アルテ商人に雇われることになったそうだがね。こんなんでやっていけるのかって、街中の評判だ」
「だろうな。いつもこんななのかい?」
「長男坊は、出来のいい親孝行な息子だって評判なんだがね。ダーリオは仕事もほったらかしで、妙なもんばかり作ってるんだ。おかげで親父さんはダーリオの顔を見るたび、頭から湯気だして、怒鳴りまくってる」
こんなふうにな、と客たちのひとりが顔真似をしてみせる。この街では有名な父子なのかもしれない。
ダーリオは店が終わっても、目をさまそうとはしなかった。店主は店の前の道端にでも放りだしておけばいいと言ったが、これもなにかの縁だろうと、エリはダーリオの家を教えてもらい、街はずれまで引ずるように連れ帰ったのだった。
エリたちが滞在する宿に、ダーリオが訊ねてきたのは、翌日の午後だった。
額の傷から流れた血で、とんでもないご面相だった彼しか覚えていなかったエリは、最初かれを見て、それが昨夜の間抜け男だとはわからなかった。額に貼った膏薬《こうやく》と、後頭部の大きな瘤《こぶ》を見せられて、あの間抜け男かとわかったのである。
お世話になったと丁寧に礼をのべられ、夕食に招待された。もちろんエリたちは断ったのだが、ダーリオに「来てくれなかったら父に叱られる」とくいさがられて、招待をうけることとなった。
ダーリオ・ランは、痩せこけた二十代なかばの男だ。ぼさぼさの枯れ草のような髪の間から、金壺眼《かなつぼまなこ》が不安そうにのぞいている。エリよりも頭ひとつぶん背が高いが、目方はおそらくずっと軽いに違いない。
父親のほうは、息子とはおよそ逆の体格をしていた。客の前だというのに、どら声で息子を「でくのぼう」と呼び、びくびくするダーリオを怒鳴りっ放しだった。
芋と鳥肉の塩っ辛い夕食のあと、仲間たちは父親のほうと酒をくみ交わしはじめたが、エリは工房を見学させてほしいとダーリオに案内を頼んだ。
ハイランドにも鍛冶屋はいたが、島には鍛冶屋もその工房もなかった。ただしハイランドの場合、鍛冶屋が扱うものは鉄よりも、翼の枠などにも利用される鉱物のほうが多かった。鉄よりも産出量が多く、なによりも加工しやすく軽い。そのため鉄製品よりも安価で、島人の手にも入り易かったのだ。
工房は、裏手の細い用水路に面した建物の中にあった。住居よりも大きく立派な建物で、鍛冶職人である主の姿勢がよくわかる。
「見習いの職人がふたり、通ってきてるんですよ」
ダーリオは年下のエリに、敬語をつかって説明した。
「炭鉱が近いから、つるはしとか大槌とかの注文が多いんです。僕はまだ、簡単なものしか作らせてもらえなくて――」
「そんなこと、ねぇだろ。あんた、大アルテの商人に雇われて、こんどデルマリナ市街に行くんだって聞いたぜ」
腕がよくなければ、わざわざ大アルテの商人が雇い入れることはないだろう。
「えっ、だれがそんなこと……」
「街で評判だってさ。よそ者のオレでも耳にしたんだから、よっぽどなんじゃねぇの」
そんな、とつぶやいた彼は耳まで赤くして俯いた。
「父が、男ならやってみろって言うんで、行くことになったんです。ちょうど父の昔馴染みが、若い職人を捜してたので……。父の口利さで行くんであって、僕が腕がいいからとかじゃ全然ないんです」
かわいい子には旅をさせろ、というやつなのか。
それとも、厄介者は追い出せ、なのか。どちらだろうと思いながら、エリは真っ赤になって俯いているダーリオの横顔を見やった。その視線がふと、彼の背後に見えるものに止まる。
「あれは、なんだ?」
エリの指先をたどって振り返ったダーリオは、それを目にしたとたん、ふたたび耳まで赤くなった。
「たいしたものじゃないです。全然」
首をふり、扉を閉めようとする。しかし、隠されれば見たくなるのが人間の気持ちというものだ。
「いいじゃん。ちょっと見せろよ」
痩せこけたダーリオの肩をおしのけて、作業部屋を出た。そこは、加工する前の鉄材や燃料にする石炭などを保管する倉庫らしい。木箱や麻袋が積みあげられている中に、奇妙なものが立っていた。
「これって、風車だよな……?」
ハイランドでは、深い井戸から水を汲みあげるために風車が使われている。エリのいた島にも、三基の風車が斜面に据えられていた。風をうけてゆっくりと、がたんがたんと音をたててまわる風車は、エリにも馴染みのものだ。しかし――風車がなんで、部屋ん中にあるんだ? とエリは首を傾げた。
こいつは外に出して風を受けなければ、役に立たない。これから外に出すのかとも思ったが、扉を壊さなければ運び出せない大きさだ。
おおかた、大きさを考えず作って、外へ運び出せなくなってしまったに違いない。そんな間の抜けたことをするのはやはり、とエリはダーリオを振り返った。
「これ、あんたが作ったのか?」
あんのじょう、ダーリオはうなずいた。
「ほんとは、もう少し小さくする予定だったんですけど」
「けど、小さくしたら役に立たないんじゃねぇか?」
島の風車を思い出しながら、エリは腕を組んだ。
羽根の長さは、子供の腕ぐらいしかない。これでは風を受けるのに、足りないのではないかと思える。
「そうなんですよね。大きさは僕も、色々と考えたんです」
嬉しそうにうなずいて、ダーリオは説明をはじめた。とたんに金壺眼だった目が輝き、おどおどとした雰囲気も消え失せた。
「直線運動を円運動に変換させるわけですから、強度の問題と大きさの問題が最大の思案どころだったんです」
「は……?」
「最初は弁が、なかなか交互にうまく開いてくれなくて、困ったんです。密閉された箱の中のことですから、動くのを見て作り直せるってものじゃないでしょう? だから僕は、まずここの――」
「おい、ちょっと待て」
わけのわからない話をはじめたダーリオを、あわてて止めた。なんでしょう? と小首をかしげてダーリオが振り返る。
「ひとつ訊きてぇんだけど、あんた何の話をしてるんだ? オレは風車の話をしてるつもりだったんだけどさ」
「ええ。この風車の話ですよ」
うなずいたダーリオは、にっこりと微笑んだ。
「これを見てすぐに、風車だって言ってくれたのは、あなたが初めてなんです。僕、すごく嬉しくて」
「じゃあ、もひとつ訊くが――この風車は、なんに使うものなんだ?」
ダーリオは、きょとんとして目をみひらいた。
「え? 風車ですよ。風を起こすものに決まってるじゃないですか」
「風を起こすだって……? 風車ってのはふつう、風を受けてまわるもんだろ?」
「いやだなぁ。屋内に置いてある風車が、風を受けられるはずがないですよ」
だからおそらく、これを見た者はだれも、これが風車だろうとは言わなかったのだ。ダーリオの勘違いはわかったが、エリにはもちろん、風を受けずに羽根がまわる風車が存在するとは思えなかった。
「鍛冶屋の工房は、火を使うからすごく熱いんですよ。僕なんか、熱さでしょっちゅう倒れてしまって……。だから、扇いで風を送ってくれるひとがいたらなぁと思ったんです。けど、まさかそんなこと、だれにも頼めないでしょう?」
だから風を起こす機械をつくったのだ、とダーリオは恥ずかしそうに言う。
嘘は言っていない。たぶんこの男には、はったりを吐ける度胸もないだろう。だとしたら、とエリは身を乗り出した。
「こいつはもう、動くのか?」
「ええ。石炭をくべて、蒸気を発生させれば動きますよ」
「ちょっとやってみてくれねぇか?」
* * *
「またあの間抜け男のとこへ行くのか?」
仲間に問われて、エリはうなずいた。
あの奇妙な風車が動くのを見てからというもの、毎日のように通いつめている。ダーリオも理解者を得て嬉しいのか、エリの訪れを大歓迎してくれていた。
また、エリの訪問目的を知って「帰れ」と怒鳴りつけてきた彼の父親も、風車を買う前金だと言って銀貨を数枚渡したところ、黙認してくれるようになった。ただし、頭のおかしい客だ、とは思っているようだが。
「あんな間抜けと、いったい何をやってるんだよ? いいかげん教えてくれてもいいだろうがさ」
「すげぇことだよ」
不審そうな仲間たちに、にやりと笑ってみせる。
「あいつは間抜けだけど、頭は悪くねぇ。かえって頭が良すぎて、あんな間抜けなのかもしんねぇな」
「なんだよ、そりゃ……」
「まあ、そのうち教えてやるよ」
エリはあの風車を、船に取り付けることはできないかと、真剣に考えていた。帆船は風がないと動くことはできない。けれどもし、風がないときも動く船があったなら……。
「がっぽがっぽ儲けられるもんなぁ」
動けない船に近づき、積み荷をいただいて去っていくことができる。帆走する船に近づくより、ずっと簡単だ。相手の船にしても、まさか無風時に帆走してくる船があるとは思いもしないだろう。
蒸気をつかった風車の仕組みは、エリにもだいたいは理解できた。要するに島にあった風車を、逆に動かすようなものだ。
あれをどうやって、船に取り付けられるものに改良するか。風を多く起こすには、羽根を大きくしなければならない。大きくした羽根を回すには、蒸気を取り入れる箱を大きくしなければならない。けれどそうすると、船に積むにはあまりに重すぎる。
エリは毎日のようにダーリオと頭をつきあわせ、あれこれと意見を出しあっていた。
工房にいないダーリオを捜して外に出たエリは、用水路のふちに立つ痩せた男の姿を見つけて駆け寄った。
「なにしてんだよ? 昨日のやつ、もう試したのか?」
「いえ、それはまだなんですが……」
尖った顎を撫でまわしながら、ダーリオは心ここにあらずといった様子で応える。
「だったら早く、やってみようぜ。オレも手伝ってやるからさ」
踵をかえしたエリは、五、六歩あるいて振り返った。ダーリオは用水路のふちに立ったまま、一歩も動いていない。
「なにしてんだよ、早く来いよ」
「――あれを、どう思いますか?」
ふたたび隣に立ったエリに、ダーリオは用水路の奥にある水車を指さした。
「どうって……水車だろ?」
ハイランドの島にはなかったものだが、デルマリナではよく見かける。水車小屋の中では、石臼《いしうす》で粉が挽《ひ》かれているはずだ。
「原理は同じなんですよ。水車は水力で動いていますが、もし蒸気で水車を動かせば、あの水車はどうなると思いますか?」
「そりゃ、壊れるだろ。小屋から水車だけが離れて、こう、すいすいっと――」
泳ぐまねをしてみせたエリは、次の瞬間はっとしてダーリオの横顔を見つめた。
「もし、あの水車を船につけたら……」
そうです、とうなずいたダーリオは今度こそ踵《きびす》をかえした。
「早速やってみましょう」
図面を描きあげるのに、まるまる三日間、ダーリオはほとんど眠らなかった。エリも二日間は付き合ったが、たいして手伝うこともないうえ眠気には耐えられず、少しだけと断って宿屋にもどり、睡眠をとった。
四日目の午後、街はずれの鍛冶屋を訪れたエリは、描きあがった図面を見ることができた。帆船の両側舷に、水車のような大きな外輪のついた図面だった。
図面はできたが、はたしてこれがちゃんと動くかどうかは、試してみないことにはわからない。試すにしても、いきなり帆船に外輪をつけてしまうのは無茶だろう。まずは、子供が池に浮かべて遊ぶ玩具の舟あたりに、その大きさに見合った外輪をつけることから始めるべきか。
「それだったら、オレも手伝えるしな」
完成した船の姿を想像するだけで、全身がぞくぞくと鳥肌立った。
ところが――三日分の睡眠をとって起きてきたダーリオは、申し訳なさげに首をふったのである。
「明日の朝には、出発しなければならないんです」
「出発って、どこへだよ?」
「デルマリナ市街へ。昨日、工房が完成したので来るように、と手紙が来ました」
すっかり忘れていた。大アルテの商人に雇われることになっている、とは出会ったその日に聞いていたことだ。
「それって、延ばせられねぇのか?」
「契約ですから。すでに支度金も受けとって、父に渡してあります」
「だったらその金、親父に言って、つき返してやりゃいいだろうが」
「そんなことをしたら、父の顔をつぶすことになります」
「親父なんか、関係ねぇだろうがさ。あんたはこの水車、完成させたくねぇのかよ」
「それは……そうですが……」
申し訳なさげに肩をすぼめるばかりのダーリオが、地団太を踏みたくなるほど、もどかしくて仕方がない。
「あとちょっとじゃねぇかよ。完成すりゃあ、風車なんか作って間抜けだのでくのぼうだの言われてたあんたが、親父や街の連中を見返せるんだぜ。こんなすげぇもん、あんた以外のだれが考えつくんだよ。あんた以外のやつが完成させられるはずねぇだろうが」
「でも……父に逆らうのは……」
「いいじゃんかよ、逆らえよ」
「父に逆らって、この家には居れません」
だったら、とエリはダーリオの鼻先に拳をつき出した。
「オレと一緒に来いよ。オレの仲間になるんだよ」
「仲間……?」
ゆるゆると顔をあげたダーリオは、ぼんやりした目つきでエリを見つめる。
「そうさ。あんた、船には乗れるか?」
「小舟なら、乗ったことはあります……。でも、漕げません」
「べつにあんたに、帆を張らせたり漕がせたりするつもりはねぇよ」
その体格で水夫は無理だな、と笑う。
「何日も何ヶ月も、それこそ一年のほとんどを船の上で生活できるか、って訊いてんだよ。船酔いしてげろげろ吐かれたり、泳げねぇから海には出たくねぇって駄々こねられたんじゃあ、どうしようもねぇからな」
「それなら、たぶんだいじょうぶです」
いささか心もとない返事だったが、ダーリオが次第に乗り気になってきているのはわかった。
「だったら、オレの仲間になれ」
「でも、僕は何もできないし……。厄介者だと言われます、きっと」
エリは金色の髪をくしゃくしゃにかきまぜて、小さく息をつく。
「あのなぁ、その『でも』っての、禁止。この先オレと喋ってるときに、でもなんて言いやがったら、殴るぞ」
ダーリオは「でも」の「で」まで言いかけて、あわてて口を閉じた。
「――僕でいいんですか?」
「ああ。あんたが欲しい」
エリがきっぱり言い切ると、ダーリオは金壺眼を大きくみひらいた。痩せこけた頬に、すうっと血の色がのぼる。
「仲間に……僕を仲間にしてください」
小さな声ではあったが、確かな口調でダーリオは言った。とたんにエリはダーリオに抱きつき、骨ばった彼の背中をばしばしとたたいた。
「やったぜ。あんたがいりゃあ、もう怖いものなしだ」
いきなり抱きつかれて身体を硬直させてしまったダーリオは、目を白黒させてエリを見おろしている。
「ああ。そういや、ちゃんとした自己紹介はまだだったよな?」
痩せこけた身体を放し、一歩うしろにさがったエリは、ダーリオに手をさしだした。
「オレは、エリ・タトル――って、こいつはもう言ったか。名目だけだけど『ゴランの息子たち』のアタマをやってる」
[#挿絵(img/KazenoKEARU_03_209.jpg)入る]
「ゴ……ゴランの息子たちって、確か、海賊じゃあ……?」
「へえ、知ってんだ? んじゃあ、話は早いや。あんたは『ゴランの息子たち』の、三十四番目の仲間だ」
それから数日後、石炭を積んだ運搬船に混じって、一隻の船が港を出ていった。
雇われて荷の積み入れを手伝った人夫は、後日、仲間たちにこう語った。
「それがさあ、妙なものを積んだんだよ。でかい角材とか板とかをやまほどと、金属の妙な箱、それに結構な量の石炭だぜ。石炭を運ぶ船ってわけじゃねぇのにさ。なんか変じゃねぇか? いったい何に使うんだろうな」
また、その何日か後。昔馴染みの同業者から問い合わせの手紙を受け取った鍛冶職人は、むこう三軒に届くほどの声をはりあげて、言葉の限りに次男を罵った。
「やっぱり間抜けなダーリオが、そんな立派な工房で働けるはずはなかったんだよ」
「自信がないって、逃げ出したのさ」
「そのうち戻ってくるさ」
街の人々はそう噂したが、その後ダーリオの姿を見た者はいなかった。
5
眉間に皺を寄せて帳簿をめくっていたピアズ・ダイクンは、苛々として立ちあがると、扉を開いて家令を呼んだ。
あるじの機嫌の悪さを察して、あわてて駆けてきた家令が書斎に入るなり、ピアズは帳簿をつきつけてみせた。
「たかが荷おろし作業に、なぜ十日もかかっているんだ?」
港に着いた船は、すぐさま人夫たちの手により積み荷がおろされる。荷はそのあと倉庫や店舗または別の船に移され、空になった船はまた別のどこかへと出航していく。荷が早く処理されるほど、船の回転率は高くなり、儲けも増える。また、荷がなにかの原材料だった場合などは、荷おろしが遅くなるほど加工作業の予定が遅れ、工房で待機する職人たちに、仕事もないのに日当を支払わねばならなくなるのだ。
「いつもなら、二日で終わっているものだぞ。それがどうして、十日もかかる?」
考えられるのは、荷おろし人夫の人数がいつもより少なかったのではないか、だ。質の悪い仲介入などは、雇った人夫より多い賃金を船主に請求し、差額を己の懐に入れる者もいる。
「仲介業者を変えたのか?」
「いえ、いつもの業者です。信頼できる男ですから、決してご懸念のようなことはないと思います」
畏《かしこ》まって首をふる家令に、ピアズは帳簿の別の頁をみせた。
「こっちの一昨日ついた船も、そろそろ荷おろし作業が終わってもいいはずだ。まさかこれも十日かかる、なんてことはないだろうな。作業の進捗《しんちょく》状況は、把握してるのか?」
「申し訳ありません、それは……」
家令はまた首をふった。
とはいえこれは、家令を責めるのは筋違いであると、ピアズもわかっている。ピアズほどの大商いをする商人は、いちいち荷おろし作業の進捗状況を報告させはしないものだ。作業が終わった時点で、とりあえず書面でだけでも報告させているピアズは、おそらく大アルテ商人たちの中でも稀《まれ》だろう。
「わかった。今から、港へ行く」
自分の目で、仲介業者が不正をしていないか、人夫たちがどのように作業しているのか、確認するのがいちばんてっとり早い。
「かしこまりました」
一礼した家令が、あるじの急な外出を知らせに、書斎から走り出ていった。
ピアズが乗った小舟が運河をいくと、市民たちはよく彼に声をかける。ピアズも気軽に挨拶を返すので、彼の乗った舟のまわりはいつも賑やかだった。
だが今日はどうしたことか、挨拶の声をかけてくる市民がいない。かといって、日頃よりひとでが少ないわけでもない。ピアズが視線を向けると、市民たちのおおかたは目をそらすのだ。よく見れば、離れたところで額を寄せ合い、ピアズを横目で見ながらひそひそと囁き交わしている。
不審に思ったものの、今すぐ調べさせようと考えるほどには気にならなかった。なにより今は、港に急ぎたい。
「どちらに舟を着けましょうか?」
そろそろ港が近くなったころ、船頭がいつもの調子で訊ねてきた。広い港湾内のこと、へたな場所に舟を着けてしまうと、船の横付けされた埠頭まで、かなりの距離を歩かねばならなくなる。
「そうだな――『嘆きの塔』があるほうへ着けてくれ」
少し考えてから、ピアズは指示した。
港とは運河をはさんだ区画に、ひときわ高くそびえる建物がある。その昔デルマリナ市街がまだただの集落でしかなかったころ、船ばかりでなく村をも襲うこともある海賊たちの襲来を村人たちに知らせるための、それは見張り台だった。集落はやがて港街へと発展し、現在のような規模となって見張り台の必要性は失せてしまったが、建物はいまだに残り、いつの間にかそれは「嘆きの塔」と呼ばれるようになった。
出航していく船を、市街でもっとも長く見ていられる場所がこの塔なのだ。女たちはこの塔の最上階に立ち、男たちの乗った船を見送る。無事に戻ってきてほしい、待っている私を忘れないでほしい、そう願って涙しながら見送る女たちの姿から
「嘆きの塔」の名がついたのである。
石づくりの古い塔を横目で見ながら、ピアズは舟をおりた。今日も出航していく船がある。あの塔では今も、涙にくれた女たちが船影が消えてしまうまで見送っていることだろう。
船が着いた埠頭までは、それでも少し歩かねばならなかった。荷おろしや荷積み作業をする人夫たちの掛け声で賑やかな埠頭を、ピアズは急ぎ足で進んだ。
片目に派手な眼帯をしたピアズは、どこにいても「あれがピアズ・ダイクンだ」と知られてしまう。
今もやはり、人夫たちはすぐにピアズだとわかったようだ。だが先ほどと同じように、挨拶の声をかけてくる人夫はいない。しかしピアズは、視線の先にある、自分が船主をしている船だけをまっすぐ見つめていて、それに気づかなかった。
いったいどういうことだろうか? 人夫たちが二十人ばかり船の横に座りこみ、喋りながら煙草をふかしている。まるで居酒屋か食堂にでもいるような光景だ。船上にも人夫の姿はあるが、だれも作業をしている様子はまったくない。
近づいたピアズを人夫たちは、もちろんその眼帯や姿ですぐに船主だとわかっただろうに、あわてて仕事を再開するそぶりさえもみせず、ただのんびりと視線を寄越しただけだった。
「おまえたち、何をやっている! まだ休憩時間ではないだろう!」
ピアズが怒鳴るとやっと、人夫たちはのそのそと立ちあがり、だるそうな態度で仕事にもどっていった。
だがもちろんと言うべきか、かれらが仕事に気を入れているようにはとてもみえない。船主が見ているのに、せめて周囲の船のような威勢の良い掛け声さえあげようともしないのだ。
「人夫頭は、だれだ? どこにいる?」
かっとなったピアズが訊くと、人夫のひとりは返事もせず、ただ船上の甲板に向けて人夫頭の名を呼んだ。
なんだ? と顔を出したのは、ごく普通の人夫らしい日に灼けて赤銅色《しゃくどういろ》の肌をした、ごつい男だった。ピアズの姿を目にして、がりがりと頭をかきながら、それでも船主がなにを言いたいかわかった様子で、
「文句があるんなら、口入れ屋の親父に言ってくれ」
手すりにもたれかかった怠惰《たいだ》な態度で、港の仲介業者が集まる、倉庫のほうを指さしたのである。そして大きなあくびをすると、人夫頭はくるりと踵をかえし、埠頭に立つピアズからは見えない位置へと肩を揺らして移動してしまった。
頭の芯がぐらぐらと揺れそうなほど、腹が立った。人夫ら全員に、おまえたちはクビだ、と怒鳴りつけてやろうとも思った。だが、船主がこうして見ている前でも態度を変えないかれらに、たとえ解雇をちらつかせたとして、態度を変えるとは思えない。
ここで、解雇だクビだと騒ぎ立てれば、たぶん周囲からはピアズは道化のように見えるだろう。そう思うとますます腹が立ったが、まずは原因を探るべきだと考え直し、怒りを抑えて踵をかえした。
なにがいったい、不満なのか。賃金は、よその船主らと変わらないはずだ。そのうえピアズの船では、荷おろしが予定より半日以上早く終わった場合には、特別手当てまで出している。支払いも、毎日その場で確実に手渡しているはずだ。滞らせたことなど、これまで一回たりとない。
いったい何がと考えつつ、ピアズは倉庫街の隅にある、何人かの仲介業者が共同で借りている事務所の扉を開けた。
ピアズがいつも仕事を頼む仲介業者は、自分も若いころは人夫をやっていたという、五十がらみの逞しい男だ。顔も広く頭のいい男で、ピアズがそれ以前に使っていた仲介業者が年齢のために引退するとき、彼ならばと紹介されて使うようになった。彼を使いはじめて八年になるが、いまだ一度も問題をおこしたことはない。
同業者たちとお茶を飲んでいた彼は、ピアズの顔を見ると、仲間たちに断って立ちあがった。
「ピアズさん、外に出ましょう」
奥には客と商談などをする小部屋もあるのだが、彼はそう言ってピアズを外へと連れ出した。
「そのうちいらっしゃるのではないかと、思ってましたよ」
ピアズが口を開く前に、彼は言う。
「知らせるべきかどうか、あたしも悩んだんですがね。荷おろし人夫らのことで、いらっしゃったんでしょう? やつらの仕事が、あまりにも遅い、と?」
「わかっているなら、どうして連中をクビにしないんだ?」
憮然として言ったピアズに、彼は大きく肩をすくめてみせた。
「あいつらは、今日、雇い直したばかりの連中なんですよ。昨日雇った人夫どもは全員、クビにしました。もっと言うなら、その前に着いた船の荷おろしも、最後のほうは毎日、人夫どもを総入れ替えしてました」
人夫の賃金は日払いだが、ピアズが使うほとんどの人夫たちは、その船の荷がすべておろされるまで仕事を続ける。そうでなければ、予定より早く終わったと特別手当てをもらえるのが、最後の日に仕事をした人夫たちだけになってしまうからだ。
「どういうことだ?」
「たぶん、あたし以外の口入れ屋を使っても同じでしょう。いや、かえってひどくなるかもしれませんね。少なくともあたしは、ピアズさんには恩がありますから」
恩だと? とピアズは眉根を寄せる。すると彼は、いささか驚いた様子で軽く目をみひらき、ピアズを見た。
「まさか、いまデルマリナを騒がせている噂を、ご存知ないんですか?」
「噂……?」
いちばん最近に聞いた噂は、「ゴランの息子たち」とかいう海賊たちの話だ。ずいぶん頭のいい海賊らしく、大アルテの商人たちも多く被害にあっていた。海賊の討伐隊を出すべきだと言う者もいたが、デルマリナの商人たちの間では、海賊に襲われるほうが莫迦なのだ、不用心すぎるのだ、と考える傾向が強い。また、なにより海賊の討伐隊などに自分の船を出すことになりでもすれば、どんな損害を被るか、わかったものではない。この先おそらく、よほどのことでもない限り、海賊の討伐隊など出されることはないだろう。
「ピアズさんの噂ですよ。おおよそ噂とは本人のところへ伝わるのは最後だ、というのは本当なんですね」
「まさか噂ごときで、人夫どもが仕事をしなくなった、と言うのか?」
「その通りです」
うなずく仲介業者に、ピアズは「ばからしい」と吐き捨てた。
「そんなことを言って、実は私に隠れて、人夫どもに支払う賃金の上前を撥《は》ねているんじゃないのか?」
あきらかに仲介業者の顔色が変わった。
「冗談じゃない!」
目をむいて、ピアズを睨みつける。
「こっちはいま、あんたの仕事をしてるってだけで、仲間たちから白い目で見られてるんだ。でも、あんたには恩があるから、こうしてあんたの依頼を受けてるんだぞ。おれが断ったらもう、あんたの船の荷おろしをやろうなんて人夫は、デルマリナ中を捜したっていないだろうさ」
「なんだって……?」
「知らないなら、教えてやる」
彼はごつい指を、ピアズにつきつけた。
「去年あった下町の大火、あれはあんたが火をつけさせたんだろう? おれの家族は無事だったが、あの大火で家族や友達を死なせたやつらはみんな、あんたを恨んでる。住む場所を失ったやつらも、あんたを憎んでる」
「な……なにを、ばかなことを!」
思いもよらなかったことを言われて、ピアズは目を白黒させた。
「あんたは、大火で焼けたあそこを、デルマリナ市から買い取っただろう。なんでも、でかい鍛冶工房をつくるんだってな。それを知って皆は、なるほどそういうことだったんだと思ったのさ。ピアズ・ダイクンは、あの土地を手っとり早く自分のものにするために、火をつけたんだってな」
「言いがかりもはなはだしい」
「なにが、言いがかりなもんか。あんた、自分の娘をハイランドの王さまのとこへ嫁がせたんだろ。あんだけ目に入れても痛くないってふりしながら、ほんとは自分の金儲けのためなら、娘なんか犠牲にしても構わねぇって人間だったんだ」
マリナのことを言われて、ピアズも顔色を変えた。
「わかった口をたたくな! なにも知らないくせに!」
「そうさ、知らねぇよ。おれらが知らないと思って、あんたはずっと好き勝手してたんだろうよ。けど、おれたちはそんな莫迦じゃない。今じゃもう、あんたを尊敬してるやつも憧れてるやつも、デルマリナ中さがしたっていやしねぇさ。あんたを憎んで恨んでる連中なら、やまほどいるがね」
人夫たちの態度も、市民らの様子がおかしかったのも、これで納得がいった。噂をうのみにする市民たちの愚かさには、はらわたが煮えくりかえりそうだったが、頭の芯は次第に冷えてきた。
そもそもピアズはこれまで、市民たちの噂をうまく煽《あお》りたてて、競争相手の足をすくったり、欲しいものを手に入れたりしてきた。ピアズこそ、噂の効果をもっともよく知っている大アルテ商人だった。
そんな自分がいま、その噂に足もとをすくわれようとしている。はたしてこの噂は、自然に発生したものなのだろうか。それとも、誰かが故意に流させた噂なのか。
「とにかく。おれはもう、あんたの仕事からは手を引かせてもらうぜ」
仲介業者はそう言い放ち、仲間のいる事務所へ戻っていった。
とにかくまずは、頭を冷やそう。そう考えてピアズは、あるじを待つ小舟へと足を運んだ。いまでははっきりとわかる、人々の負の視線を感じながら。
調べてみると、噂はすでに尾鰭《おひれ》をつけてというよりも、尾鰭のほうが大きくなってデルマリナ中にひろまっていた。
そもそもの発端は、大火で焼失した下町の跡地を、ピアズが市から安く譲り受けたことに始まるらしい。これについてはピアズも、後ろ暗いことはまったくない、とは言い切れない。跡地の入札では、あちこちに金を渡したり、あるいは交換条件を出して、安く手に入るよう裏工作をおこなっている。
跡地をまるごと安く手に入れたことで、市民たちの疑惑を誘ったところへ、マリナの駆け落ちが変に歪められて噂となった。つまり、ピアズはハイランドと懇意になるため娘を人身御供《ひとみごくう》にしたのだ、と。
噂ではマリナは、ピアズに無理やりハイランドの王のもとへ嫁がされたことになっている。娘をやったことでピアズは、ハイランドがデルマリナに支払う予定だった賠償金を着服したのだ、と。
また、この一年ほどで何人かの船主がハイランドに船を出したが、どれもミセコルディア岬を越えられず戻ってきたか、あるいは全く戻って来ないかのどちらかだった。戻ってきた船はともかくとして、戻ってこなかった船は、ピアズ・ダイクンが依頼した海賊に襲われたのだ、という噂も流れている。
ここまで大きくなった噂を、へたに操作することはできない、とピアズは考えた。放っておけば、市民たちはやがてこの噂に飽き、別のまったく新しい噂がひろまるだろう。だがもし、へたに手出しをしてしまえばそれだけで、やはり噂は本当だったのだと、市民たちは考えるに違いない。
とはいえ噂のために、すでに船の荷おろしばかりではなく、他の仕事にも支障が出はじめていた。所有する炭鉱では、鉱夫たちが坑道に入らないと知らせがあった。輸入した絹糸を織りあげる職工も、工房には来るものの仕事をする様子はないという。工事を急がせている鍛冶工房の建設も、完全に止まってしまった。また、造船所や鍛冶工房の建設にあわせて雇った職人たちもやはり、契約の取り消しを求める者が続出しているようだ。
たかが噂と侮れない。惚れた腫れたの噂ならともかく、この噂は市民たちの恨みや憎しみを煽り立てるものだ。そういった負の感情は、標的があることでますます強くなる。
どうするべきか、と考えこんだところへ家令が、客人の到来を告げた。
「とにかく、この話はなかったことにしていただきたい」
「申し訳ないですが、私もやはり、この仕事はちょっと荷が重いのではと」
「せっかくの取り引きですが、残念ながら私どもは、大口の契約がありまして……」
客人は全部で五人。全員、小アルテに属する人々だった。そして五人が五人とも、契約の破棄や、契約の更新を断念するむねを伝えに来たのである。
かれらは言葉を濁し、はっきりとしたことは言わなかったが、市民たちの間にひろまっている噂が原因であることはあきらかだった。大アルテの商人たちよりも小アルテのかれらのほうが、市民たちと密接なつながりがある。一般市民らに顔をそむけられては、商売にも仕事にもならない。
ピアズには、わかりました、と了承するしかなかった。
このあとにも何組か、ひとりで、あるいはふたり三人と連れだち、小アルテの商人や職人たちがやって来て、やはりピアズとの取り引きをやめたいと申し出た。かれらにも同じように、了承せざるをえなかった。
わずか一ヶ月で、ピアズが被った損害は一隻の船を完全補修できるほどの額となった。本来ならあらたな契約があったという場合も数に入れてしまえば、その二倍三倍の被害と言えるかもしれない。
ピアズ・ダイクンはもうだめだ、との噂が大アルテたちの間にひろまりつつあった。
* * *
エリ・タトルがその噂を耳にしたのは、船の補修を終え、ひと稼ぎして、デルマリナ市街に舞い戻ったときだった。
「なんでオレたちが、ピアズのおっさんの手先だってんだ?」
水夫たちが集まる酒場では、「ゴランの息子たち」はピアズ・ダイクンに依頼されて船を襲っていたのだ、という噂がまことしやかにひろまっていたのである。
そもそも「ゴランの息子たち」が商人ご用達の海賊ではないか、という話は以前から存在していた。それがここへきて、その商人とはピアズ・ダイクンである、と一気に発展してしまったらしい。
腹立たしいのは、それに加えて「ゴランの息子たち」こそ昨年の下町の大火で、家々に火をつけてまわった実行犯に違いない、と訳知り顔で言う者までいたことだった。
「なんでオレらが、そんなことするんだよ。オレらだって被害者だろうがさ」
いきりたつエリに、仲間たちはなだめるどころか、一緒になって憤慨した。
「まあ、人の噂も七十五日というぞ」
ひとり冷静な老人が、煙草盆に煙管を打ちつけて言う。
「なんだよ、それ。それって、七十五日も黙って言われるまんまでいなきゃなんねぇって意味なのかよ?」
「阿呆が。人の噂など、そのうち消えるから放っておけ、気にするなという意味じゃ」
苦虫を噛みつぶしたような顔をして、エリは老人の顔をのぞきこんだ。
「じゃあ爺さんは、放っておけって言うのかよ? 気にするなって言われて、気にしねぇでいられるのか?」
老人は皺だらけの顔をつるりと撫で、目を細めてエリを見返した。
「なるほど、坊には無理か?」
おもしろそうに、高笑いをする。
「無理とか、そんなんじゃねぇだろ。要するに許せねぇんだよ、オレは」
「ほぉ。許せないのは、噂を信じる者どもか、それとも噂そのものか、どっちだね?」
決まってるだろ、と言いかけて、けれどふいに自信がなくなり、エリは口を閉じた。
「そんなもん、どっちもないだろ」
代わって若い仲間たちが、口を出す。
「噂をうのみにする阿呆どもも、そのクソ腹立つ噂も許せねぇよ。そうだろ、エリ?」
同意をもとめられて、エリは鼻の頭に皺をよせる。
「オレらだって、噂をまんま信じることあるじゃねえか」
後から仲間になった者の中にはまだ、ハイランドには言葉も通じないような野蛮人が住むのだと、信じている者がいる。エリはハイランドの生まれだと聞かされて、嘘だろうと目を丸くするのだ。
なにが正しくてなにが間違っているのか、判断の基準となるものを持たない場合、噂に耳を傾けるしかない。そして市民たちの多くは、噂こそが唯一といっていい情報源なのだ。噂をうのみにするからと、かれらを阿呆呼ばわりはできない。
「おまえらがクソ腹立ててる噂は、オレらがピアズのおっさんの手先だって言われてることだろ? でも、ピアズのおっさんが下町の大火を引き起こさせた張本人だって噂は、ほんとかなって思ってんじゃねぇか?」
仲間たちはエリの言葉に、互いに顔を見合わせた。
「だってなあ……」
「なんか、ほんとっぽい話だもんな」
「ピアズ・ダイクンなら、やりそうだなっていうか――」
「大火でなくなった跡地を手に入れたこととかも、なるほどって感じだし」
そらみろ、とエリは仲間たちを見渡す。
「ゴランの息子たち≠ェピアズのおっさんの手先じゃねぇのは、オレたちがゴランの息子たち≠セから知ってるんだ。知らねぇ連中は、なるほどって感じだしとか言って、今のおまえらみたいに信じるんだよ」
そう言ったエリに老人が、目を細めてその金髪の頭を撫でた。
「いいぞ。坊も賢くなったな」
「――爺さん、ガキ扱いはやめてくれ」
頭を撫でる手を振り払ったエリに、老人はさもおかしそうに笑う。
「ガキ扱いでなく、正真正銘のガキだろうて。わしの半分も、まだ生きてないんじゃからな」
その通りだった。若い仲間たち三人合わせても、まだ老人の年齢には達しない。
「オレ、ピアズのおっさんに確かめてみる。ほんとにおっさんが、下町の大火を起こさせたのかどうか」
そうか、と老人がうなずく。仲間たちにも異論はなかった。
* * *
深夜のダイクン邸にしのび込むのは、これが初めてではない。前にしのび込んだのは、別邸を襲撃されて舞い戻ったときだった。
あのときは襲撃のすぐあとだったせいか邸内の警備も厳重で、すぐ家令に見つけられてしまった。だが今回は、邸内は家令の姿を見かけることもなく、静まりかえっていた。
眠っているだろうと思われたピアズは、まだ起きて事務所兼書斎に居た。
「――驚いたな」
いきなりあらわれたエリに、さほど驚いた顔もせず、ピアズはそうつぶやいた。だがエリのほうは、ピアズのげっそりと痩せて頬のこけた顔に大きく目をみひらく。
「どうしたんだよ、その顔は」
「そんなに変かね?」
「っつーか、おっさんらしくねぇよ」
エリの言いように、ピアズは苦笑した。
「私らしいとは、どんなものなのかな?」
「自信過剰こいてて、世界はオレのもんだって態度の、小ずるいおっさん」
心底おかしそうに、ピアズは喉を鳴らして笑った。
「ひょっとして、最初からきみにはそう思われてたのかな?」
「そうだって言ったら、怒るのかよ?」
「いや、怒らないよ。逆に、なかなかの洞察力だと褒めてあげたいね」
「なんか、おっさん……すげぇ自虐的になってねぇか?」
「そうかい? いや、そうなのかもしれないな……」
深く息をついて、ピアズは目頭を揉んだ。疲れの影が濃い。
「やっぱ、あの噂のせいなのか?」
エリの問いに、ピアズは軽く目をみひらいた。そして、ああ、とまた苦笑する。
「さすがに聞きおよんでいたか。まあ、デルマリナ中が私の噂でもちきりらしいが」
「オレらの噂もされてるぜ」
「きみたちの……?」
「オレらが、おっさんの手先だってさ。去年、下町に火ぃつけたのも、オレらだって噂されてるぜ」
はっとした様子で、ピアズはエリを見つめた。
「きみたちは……『ゴランの息子たち』なのか……?」
「おっさん、情報遅いんじゃねぇの?」
噂話も重要な情報源だと言ったのは、ピアズだった。
「んで、手先だって言われてるよしみで聞きたいんだけどさ。下町の大火って、噂通りおっさんが誰かにやらせたのか?」
「まさか!」
苛立たしげに、書きもの机をたたく。
「そんなことをしても、私にはなんの得にもならない」
得にねぇ、とエリはわずかに眉をひそめる。デルマリナの商人たちは、いつもこれだ。得になるかならないか、儲るか儲らないか。かれらの判断基準は、エリにはどうも馴染まない。
「焼けた跡地を、安い値で買い取っただろ。あれって、得になったんじゃねぇの?」
「土地を手に入れるために、方々で渡した金を考えれば、さほど安かったわけではない。大火を起こさせる危険性に釣り合うものではないと、多少の知恵があればすぐにわかりそうなものだがね」
「ふーん、知恵ねぇ」
苦々しく顔をしかめるエリを、ピアズは腕を組み目を細めて見つめる。
「きみたちは確か、船を強奪したことで手配されている身だったね?」
「なんだよ。オレを突き出すつもりかよ」
警戒するエリに、ピアズは首をふった。
「そのつもりはないよ。私にはそんなことをしても、得にはならないからね」
エリたちには、報償金がかかっている。だがピアズにとっては、その程度の金は小遣いにもならないだろう。
「私には、きみたちの手配を解いてやることができる。手配が解ければ、デルマリナ市街も大手をふって歩けるぞ」
「そんなことして、おっさんになんの得があるんだ?」
警戒心もあらわに、ピアズを見返す。
「手配を解いてやる代わりに、やってもらいたいことがあるのだよ」
「つまりオレらに、おっさんの手先になれってのかよ?」
冗談じゃないと踵をかえしかけたエリを、ピアズが呼びとめる。
「きみがいつまでもお尋ね者では、きみの親友が困るのではないかね?」
足をとめ、はっとして振り返った。
「なんだよ。なにが言いてぇんだ?」
「私はきみが、デルマリナとハイランドの友好の足を引っぱるのではないかと、心配しているんだよ。きみのあの赤毛の友人も、同じく心配しているのではないかね?」
ぎりっと奥歯を噛みしめて、エリはピアズを睨みつけた。
「汚ねぇぞ、おっさん……」
「ありがとう。褒め言葉だと思って受け取らせてもらうよ」
そこに座りなさいと、ピアズが椅子を指さす。エリは安易にピアズのもとを訪れた己の軽率さを呪いながら、言われるままに椅子に腰をおろした。
「やってもらいたいのは、しごく簡単なことだ。海賊ごときにも、容易にできるね」
ピアズは、ひとの悪い笑みを浮かべる。
「この先、船を襲ったときには必ず、エルバ・リーアの名を出してもらいたい」
「なんだって……?」
エリは大きく目をみひらいた。
「彼にはそろそろ、おとなしくしててもらいたいんだよ」
「どういう意味だよ?」
さあね、と目を細めて笑うピアズに、エリは鳥肌立つほどの嫌悪感をおぼえずにはいられなかった。
[#改丁]
あとがき
これから読む方も、もうお読みになった方も、ありがとうございます。三浦です。
今頃なにをぬかすかという声も聞こえそうですが、この巻でやっと登場人物が出揃いました。やっとですから、もちろん次巻では終わりません。当初、三巻完結などとほざいていた同じ口で、四巻完結に延びちゃってごめんなさいなどと言っていた同じ口で、今さらなんじゃいという感はありますが……たぶん、全五巻になります。どうぞ怒ったりめげたりなさらず、最後までお付き合いいただければ幸いです(低姿勢)。
帆船や翼を描写していると、とても青い空や海が恋しくなります。ところがこの夏は、私の住む関東圏はずっと雨やくもりの日々が続き、仕事部屋の窓から見える空が晴れわたった日はごくわずかでした。
実際には、太平洋を帆走する船の背景が晴れわたった空であることは、ほとんどないそうです。なんでも、寒冷前線と温暖前線の間に吹く安定した風をつかまえて、帆船は航行するのだとか。晴れわたった青空の下、白い帆をいっぱいにひろげて走る船を想像していた身には、なんだかちょっと騙されたような気分でもあります。
また、とても地球にやさしい乗り物に思える帆船が、実は一隻を建造するごとに森ひとつぶんの木材を伐探するのだとわかると、勝手な話ではありますが、これもちょっと騙された気分になります。大航海時代、ヨーロッパではどれだけの森が消えたのか。おそらく本作中のデルマリナでも、数多くの森が消え、切り株だらけの荒れ地となっているはずですね。デルマリナは私の想像上の国にすぎませんが、そうであっても森が消えた光景を思い浮かべると、なんだか胸が痛みます。
帆船に限らず、船は一般に女性に例えられることは、皆さんもよくご存知でしょう。ではなぜ、船は女性なのか――。いつも彼女の周囲では大騒ぎが演じられている。いつも彼女の周りに男たちの集団がつきまとっている。お化粧(ペイント)が必要である。男性(船主)を破滅に導くのは、彼女の維持費である。おしゃれをして着飾ることがある(満艦飾)。などなどの説が、米国の海軍では昔から伝わっているそうです。どれも一理あるようで、同時にマリナちゃんなどならこの話を聞いて、怒り心頭してしまいそうな気もしますね。私も特にフェミニストというわけではないですが、これらの説にはなんだかなあって感はあります。けれどまあ、説といっても与太話の類いですから、めくじらをたてるようなことではありませんね。
次巻では、デルマリナとハイランドの双方で大きな政変劇があります。それにケアルがエリが、どう関わっていくのか、という話になるでしょう。――って、こう書くと、なんだかとても硬い話のように見えますね。決して硬いお話じゃないですから。このあとがきを読んで、一巻から手に取ろうかどうか悩んでいらっしゃる方がいましたら、ご安心くださいませ。
知人や友人などからよく訊かれるのは、ケアルとエリは再会できるのか、昔と同じ関係にもどれるのか、だったりします。そのたびに作者としては「さあ、どうでしょう?」なんてごまかしながら、こういう質問をされるのは作家冥利につきるわねと、つい、にやにや笑ってしまいます。この先どうなるかは、私だけが知っている。それって、すごい快感でもあるんですよ。こんなエピソードがあって、こんな展開になるんだと思うと、作者のくせになんだかドキドキしてしまいます。このドキドキに、筆の進み具合も追いついてくれれば最高なんですが。世の中、そうはうまくいかないようです。
けれど五巻まで延びてしまったおかげ(?)で、今年いっぱいは確実にこの『風のケアル』を書き続けることができます。それがなんだか嬉しいと感じるあたり、我ながら救いがたいなあと思わないでもないですね。
[#地付き]三浦 真奈美
[#改ページ]
底本:「風のケアル3 嵐を呼ぶ烽火」C★NOVELS、中央公論社
1998(平成10)年9月15日初版印刷
1998(平成10)年9月25日初版発行
入力:
校正:
2008年4月3日作成