風のケアル1
暁を告げる鐘
著者 三浦真奈美/イラスト きがわ琳
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)帆柱《ほばしら》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)総務会の頑固|爺《じじ》い
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き]三浦 真奈美
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目次
序章
第一章 来航
第二章 水の都
第三章 果たすべき責務
第四章 洋上の異郷
あとがき
[#改丁]
序章
力強い鐘の音が、船内いっぱいに響き渡った。
ヴェラ・スキピオは椅子にかけた上着をひっつかみ艦長室を走り出ると、広々とした甲板《かんぱん》にあがった。
「島です! 島が見えました!」
頭上から、水夫の声が届く。見あげれば帆柱《ほばしら》の上、見張り台から身を乗り出して、水夫が右舷《うげん》前方を指さしている。
甲板にいた十人ばかりの水夫たち、それに鐘の音を聞きつけて下の船室から出てきた水夫たちが、次々に右舷側に走り寄って行った。スキピオはかれらをかきわけ、甲板の右側へと走る。
甲板の端にある手すりにつかまり、じっと目をこらした。
ここから見える範囲内、どこもかしこも青い青い海と、絵に描いたような雲ひとつない空ばかりだった。白っぽい水平線が右へ左へと、はてしなく続いている。
陸はもちろんのこと、島影などどこにも見えはしない。だがスキピオも水夫たちも、そこを動かず、息をひそめるようにしてじっと前方の水平線を見つめ続けた。
「――島だ! 見えたぞ!」
最初に叫んだのは、とびぬけて長身の水夫である。すぐにスキピオにも、水平線に突然ぽつんと生まれた影のような、あるいは幻のような島が見えてきた。
「もうひとつ――いやふたつ、島影が見えます!」
頭上の見張り台から、ふたたび声が聞こえた。
「また見えました! 三つ、四つ――かなりの数です!」
興奮しうわずった見張りの声に、甲板に集まった水夫たちがどっと歓声をあげる。
故郷の港を出て、三ヶ月。あまりに長過ぎる旅だった。それも、海図に記されていない未知なる海を航行しての旅である。
「ほんとうに、あったんだ……」
そばにいた水夫の思わずといったつぶやきに、スキピオも同じ思いでぎゅっと手すりを握りしめた。
水夫たちはやがて甲板の上で浮かれ騒ぎはじめたが、スキピオにはそうはしていられない責務があった。周囲を見回し、半白頭の水夫長の姿をみつけると、呼び寄せて耳うちする。
「後続の船に、合図を。今後の予定を教えるので、船長たちはすぐにこの船に集まるように、と」
水夫長はうなずくと、赤と白の二本の旗を腰のベルトに突っ込み、見張り台のある帆柱の縄梯子《なわばしご》を慣れた仕草で登っていった。
島影の見える前方ではなく、船尾のほうへと目をやると、この船よりやや小ぶりな船が二隻、あとに続いている。船上の様子は見てとれないが、かれらの見張りも同じく島影を発見したに違いない。
水夫長が見張り台に立ち、紅白の旗を大きく振りはじめた。
「返信、ありました!」
しばらくして、水夫長が怒鳴った。
「了解≠ナす!」
わかったと合図すると、スキピオは急いで賑《にぎ》やかな甲板に背を向けた。
船室への階段をおりるとき、ふと頭上を見あげたスキピオは、つきぬけるような青空に白い鳥が一羽、ゆったりと羽根をのばし飛んでいく姿を目にし、足を止めた。
なんという名の鳥だろうか。帆柱のはるか上を飛んでいるだろうに、白い鳥の頭部だけ帽子《ぼうし》を被ったように赤いことがはっきりとわかる。
(ずいぶん大きな鳥だな……)
鳥はまっすぐ、島影が見えた方角へと飛んで行く。
どこから来てどこへ行こうとしているのか。しばし鳥の姿をながめていたスキピオは、高鳴りはじめた胸を上着ごしに押さえて、ひっそりと苦笑した。
[#改ページ]
第一章 来航
呼気さえも奪い取っていく風をゴーグルごしに見据えて、ケアル・ライスはかすかに微笑みを浮かべた。
飛び立つ前の痺《しび》れるような緊張は、足が地上を離れたその瞬間に消えていた。白い翼とともに風に乗り、ぐんぐん地上が遠ざかればもう、大空と一体になった解放感に心も身体も満たされる。
はるか眼下には、ところどころ微妙に青さを変えた海がひろがっている。青い布の上に小さな石をばらまいたように見えるのは、数えきれないほどの島々だ。
背後を振り返れば、峻嶺《しゅんれい》な山脈の長い稜線《りょうせん》と、そのふもとに建ちならぶ白い箱のような家々が見えるはずだった。島々に対し「上」と呼ばれるそこには、このライス領だけで約三千の人々が暮らしている。ケアルが飛び立ってきたのは、その白ばかりの家並みの中でひときわ目立つ青い半球形の屋根をもつ、領主館の前庭であった。
嵐の去ったあとの空は、つきぬけるように青い。けれど海は嵐の名残りか、いつもより白い波の線が長く濃くみえる。
ケアルがいま目指しているのは、島々が最も密集したあたりにある、中程度の規模の島だった。慣れない者には近隣の島と見分けがつきにくいかもしれないが、もう五年も十日に一度の頻度《ひんど》で通い続けているケアルには、すっかりお馴染みの島である。
島が前方に見え、そろそろ降りる体勢をととのえようかと旋回《せんかい》に移ったケアルはしかし、右後方からやってきた鳥の群れに興味をそそられた。
羽根をひろげれば子供の身長ほどの大きさになる、灰色の鳥だ。白い家々を抱いた陸地は海岸線すべてが切り立った丈高い崖《がけ》になっていて、その鳥たちは崖の中腹に巣をつくり、子を育てる。いまはもう空へあがることはないが、ケアルの父親は領主の座を継ぐまで、その灰色の鳥になぞらえるほどの翼使いだったという。
鳥が近づくとケアルは、翼を軽くゆすってかれらを挑発した。すると鳥たちは、驚いたふうに急旋回し、己が身体よりも大きな翼から逃げ出していく。
ケアルは小さな子供のような笑みを浮かべると、すぐさま翼をひるがえして旋回し、鳥たちのあとを追った。
群れの最後尾に追いついたケアルは、風をつかまえて翼の機首をあげ、少しずつより上空へとのぼっていく。やがて鳥の群れが眼下に見えるようになると、翼を傾けて急降下した。
ものの一瞬で、ケアルは群れの真ん中に上空から突っ込み、鳥たちの間をすりぬけた。おそらく羽根と翼との距離は、拳《こぶし》ひとつぶんぐらいしかあいていなかったに違いない。
翼を安定させ、ふたたび上昇しつつ鳥の群れを見あげると、飛び散った灰色の羽毛がふわふわと風に流されているのがみえた。鳥たちは右往左往し、群れの隊列はすっかり混乱してしまっている。
おそらく、何者が自分たちの群れの真ん中を通りすぎたのか、かれらは理解していないだろう。それどころか、突風が吹き過ぎたとしか感じていないかもしれない。
ケアルはくすくすと笑いをもらし、もう一度かれらを驚かせてやろうと、飛行服と同じ黒い革でつくったグローブをはめた手で、操縦《そうじゅう》桿《かん》を握りなおした。そしてふたたび、灰色の鳥たちを見あげ――ケアルは軽く息をのみこんだ。
ようやく混乱がおさまりつつある群れの上方に、陽ざしを遮《さえぎ》る影があった。
ケアルが操る翼とそう変わらない大きさだと思われた。力強い真っ白な羽根に、ゆったりとのばされた首。頭部はそこだけ帽子をかぶったように赤い。
「ゴラン……」
ケアルはうっとりと、鳥の名をつぶやいた。ゴランは決して群れでは行動しない、大きな鳥だ。日中の暑さが一段落つくこの季節になると、決まって水平線のむこうから飛来する。
今季、この鳥を目にするのは今日がはじめてだった。想像を絶するほど長い旅をしてきただろうに、鳥は風雨にやつれた様子もなく、羽根も陽ざしに輝くほど美しい。
見とれてしまったケアルの視線の先で、ゴランはふわっと羽根を傾けた。そしてまたたく間に、上空から急降下し、灰色の鳥たちの群れの真ん中を貫いた。
あっと思ったときにはもう、ゴランはケアルの翼の真横に並んでいた。羽根をひろげたかれは、翼よりひとまわり小さいぐらいの大きさだ。
こんな間近でゴランを見るのは、生まれて初めてだった。それどころかおそらく、このライス領を含めた五つの領の住民たちの中でも、これほど近くからゴランを見た者はいまだかつていないだろう。
胸の高鳴りをおさえきれないケアルの横で真っ白な鳥は、両足の鋭い爪《つめ》に灰色の鳥を一羽ぶらさげていた。群れの真ん中を貫いたそのとき捕まえた獲物だ。
たおやかな首を傾け、ゴランは赤い目をケアルへ向けた。
――どうだ、すごいだろう?
いかにも自慢《じまん》げな、そして幼子のように無邪気《むじゃき》な仕草は、まるでそう言っているようにみえる。決して人には馴れない、人のいる場所には近づかないゴランが、こんな行動をとるのは驚くべきことだ。
夢でもみている気分のケアルの横で、ついて来れるか? とでもいうように、巨大な真っ白い羽根が揺れる。ケアルがその動きに反応する前に、ゴランはたちまち風の上をすべるように上空へとのぼっていった。
ゴランの動きを目で追いかけながら、ケアルの身体は自然に動いた。ついていけるかどうかなど、考えもしなかった。頭ではなく心が、あの巨大な伝説の鳥を追いかけたい、かれとともに飛びたいと望んだのだ。
機首をあげ、風に乗り、操縦桿を必死に握りしめて、ゴランのあとを追う。しかし、ゴランの白い勇姿はみるみるうちに遠ざかっていく。
巨体が羽毛《うもう》のように軽々と飛ぶさまを、そして気持ちよさげに飛び去っていくうしろ姿を、ケアルは最後まで目を離さず、食い入るように見つめていた。
追いつけない。追いつけるはずがない。ましてや肩をならべて飛べるはずもない。わかっていたはずなのに、できないことが悲しかった。
気がつけばケアルの周りにはもう、鳥の影もまばらになった。彼は大きくため息をつき、翼を傾けてゆっくりと旋回した。
飛び立ってきた陸が、はるか遠くに一本の線となって見えた。目指した島からも、ずいぶんと離れてしまった。
(かなり沖に出てしまったな……)
前へ進むことばかりを考えていたせいか、高度もかなりさがっている。このまま島を目指しても、高度がたりず、たどり着く前にどこかへ緊急着陸を余儀なくされるに違いない。それを避けるには、上昇気流を捜すしかない。
風をさがして、ケアルはぐるりと八方に視線をめぐらせた。潮をたっぷり含んだ重い風、陸地にある峰《みね》の山肌をつたって吹きあがっていく乾いた軽い風、海水が暖まって上空へのぼっていく熱い風――ケアルはそれらを本能的に嗅ぎ分けることができる。
しかし、やがてケアルの視線が止まったのは、風を見つけたからではなかった。
「なんだ……あれは?」
思わず、つぶやきがもれた。
ケアルの右手、ちょうど椀《わん》を返したような形の島と島の間に、ぽつんと黒い点が三つ。点はすぐに拳ほどの大きさになった。
翼の半分を海中に沈めたような形のそれは、海の上を進んでいる。
「舟か……?」
まさかという思いが強い。もしあれが舟だとすれば、ケアルの常識では想像もできないほどの大きさである。
領内の住民の七割は、島に暮らす「島人」たちだ。かれらは漁業を生業《なりわい》とし、島の共有財産である舟で海へ出る。ケアルが見慣れているその舟は、大小ふたつの舟体をならべ四本の棒で繋《つな》いだものだ。推進力は、おとなが両手をのばした長さの三角帆《さんかくほ》。たいていの場合、ひとりが舟をあやつり、ふたりが漁をするといった三人組で乗り込む。
ケアルはまだ他領を訪れたことはなかったが、どこの領も同じはずだった。ここライス領をはじめ、他四領どこも木材資源に乏しく、たとえ巨大な舟をつくる技術を得たとしても、つくりあげることは無理なのだと領主である父に聞いたことがある。
だとしたら、とケアルは跳ねあがった己が鼓動《こどう》を感じつつ結論をみちびきだした。
「デルマリナの船≠ネのか……?」
噂《うわさ》や話ばかりで、目にしたことはいちどもなかった。ケアルに限らず、おそらくほとんどの領民は航行に耐えうる完全なデルマリナの船の姿を見た経験がないだろう。
あそこまで確かめに行きたい、とケアルは切実に思った。だが、さっきよりますます高度をさげた翼は、船を間近に見れる場所まで到達することはまず不可能だ。
上昇気流を捜すか――と考え、しかしケアルはすぐに心の中でそれを否定した。海面の波頭さえはっきり見えるここまで高度をさげてしまった翼は、なまじの上昇気流では、必要な高度までふたたび舞いあがるのは無理である。船近くまでたどり着くだけならできるかもしれないが、それだけだ。船を観察するためには何度かの旋回は必要だろうし、旋回にはまた高度が必要となる。
となれば、面倒だが離陸しなおすしかない。と腹を決めて、ケアルは右手奥へ目を向けた。
このあたりでいちばん高い場所に、離陸地がある島。周囲に島が多く、上昇気流をも得やすい馴染《なじ》みのあの島へと――。
海面に爪先が触れそうになりつつ、ケアルの白い翼は波打ち際ぎりぎりのところに着陸した。
飛行服と翼をつなぐ革ベルトをはずす間もなく、翼が海水に濡れないように、急いで波打ち際から遠ざかる。空の上にいる間はケアルの思うがまま動いてくれる翼も、陸では大きな岩を背負ったほど重い。
砂に足をとられながら翼を浜の中ほどまで運んで、ケアルは息をきらして顔をあげた。視線の先には、海に突き出した丈高い崖がある。崖の上は、踝《くるぶし》丈までの草が青々としげる平らな台地になっている。
翼はその台地から海へ向け、離陸するのだ。
これから翼をあの崖上まで運びあげなくてはならない。想像するだけで疲れはててしまう作業だ。
島人に手伝ってもらおうか――と考え、ケアルはあわててかぶりをふる。領主の指示を伝えるため島に飛んでくる「伝令」ならともかく、仕事ではなく楽しみのためだけに飛んでいる自分などが、島人の手をわずらわせるのははばかられた。
ケアルが頼めば、島人たちは手伝ってくれるだろう。けれどそれは、ケアルが「上」の住人で、そして領主の息子だからだ。ふたりの兄たちや上に住む人々のように、やってもらえるのが当然、命じてやらせるのが普通、とはケアルには思えなかった。
独力でやるしかないと腹を決め、翼と飛行服をつなぐ革のベルトをはずしはじめたとき、砂浜のむこうにひょいと人影があらわれた。人影はこちらを向くと、盛大に両手を振って走り寄ってくる。
「ケアルっ! ケアル!」
袖口《そでぐち》も衿《えり》もしっかり留めて風が入らないように工夫されているケアルの飛行服と違い、衿も袖も大きく開いた白っぽい着衣は、島人たちの一般的な服装だ。だが、陽灼けした肌に映える金色の髪をもつ島人は、ケアルが知るかぎり彼ひとりしかいない。
「――エリ」
ケアルは同じ歳の親友が近づいてくるのを見ながら、ゴーグルをはずした。
前もって知らせてあったわけでも約束したわけでもないのに、なぜ来たことがわかったのだろう。
「どうして?」
不思議に感じて首を傾げたケアルに、駆け寄ってきたエリ・タトルは、いきなり飛びつくと彼の赤い髪をくしゃくしゃにかきまわした。
「なーにが『どうして?』だ。ひょっとしておまえ、ここまで来といて、オレにはひとこともなしで帰るつもりだったのか?」
「――すまない」
くしゃくしゃにされた髪をおさえ、ケアルが素直に謝ると、エリはふざける手を止め眉《まゆ》をしかめて、親友の顔をのぞきこむ。
「おいおい、本気かよ。オレは冗談で言ったんだぞ」
信じられないという顔に、罪悪感をおぼえつつ謝るしかない。
「なんでだよ。ひょっとして、親父さんとか兄貴どもとかに何か言われたのか? 領主の息子が島人なんかと付き合うな、って」
「いや、それは……」
かぶりをふって、けれど口ごもった。
父ロト・ライスは何も言わないが、ふたりの兄たちには幼いころから、そしていまだに、顔を合わせるたび嫌味を言われている。曰《いわ》く、島人と付き合うなんて領主である父に恥をかかせるつもりか、やはり母親が島人だから平気でそんなまねをするのだろう、この館に居させてやってるだけでも感謝するのが当然のくせに――などなど。
けれど、兄たちの言葉にしたがってエリとの付き合いをやめようと思ったことは、これまでいちどもない。十九歳のこの年になるまで育ててもらったこと、食べる苦労もなく館に居させてもらっていることに感謝はしているが、島人の母親をもったことも島人のエリと付き合うことも、どちらも恥だとは思っていないからだ。
「やっぱり言われたんだな?」
得心したようにつぶやき、舌打ちしたエリに、ケアルはあわてて否定した。
「言われてない、そんなこと。そうじゃなくて――船が来たんだ」
「……ふねぇ?」
なんだそりゃとエリは目をみひらいた。
「飛んでて、見つけたんだよ。黒くて大きな舟を三隻。近づいてみようと思ったんだけど、高度が落ちてて――だから、いったん着陸して、あそこから離陸し直そうと思って」
不器用に説明しながら、三日月形の浜辺のいちばん端、海へ向かってきりだした高い崖を指さす。
「なんで? 舟なんか別に、めずらしくもなんともねぇじゃんかよ」
「すごく大きな船なんだ」
「大きいって、どれぐらいだ?」
「近くで見たわけじゃないから、はっきりはしないけど。たぶん、小さな島ひとつぐらい軽くありそうな感じの――」
信じてもらえるだろうかと、やや不安になりつつ説明する。エリはわずかに眉根を寄せ、しばらく考えこむふうだった。
「――なぁ、それってさ……」
やがてエリは、彼にはめずらしく遠慮がちに目をあげた。
うなずいてみせると彼は、すがりつくような目をしてケアルを見つめた。その顔はケアルに、この先は言わないでくれと願っているようにも、逆にはっきり告げて判決をくだしてくれと言っているようにもみえる。おそらくはエリの心中、相反する気持ちがせめぎ合い、嵐のようなのだろうと察せられた。
唯一無二の親友として、自分はどうするべきなのか。ケアルが迷ったのはしかし、一瞬だけだった。
巨大な船が来たという事実は、あそこにある。それは隠すことなどできないし、隠せない以上ごまかすのも無駄だ。
「たぶん――デルマリナの船だ。エリの父上の国から来た船だよ」
正面から親友の目を見つめ返し、ケアルが言うと、瞬間エリは凍りついたように顔をこわばらせた。
島々には、ありとあらゆるものが流れ着く。見馴れぬ生活用品や、植物、動物の死骸《しがい》。それに船体や帆柱の一部が流れ着くこともあったが、遭難者《そうなんしゃ》が生きて漂着することはごくまれだった。
エリの父はその、ひどく幸運な遭難者のひとりだったのだ。嵐で船が大破し、木切れにつかまって何日間か漂流したのち、この島に流れ着いた。
しかし彼に、故郷へ帰るすべはなかった。木材資源の少ないこのあたりでは、一隻あたりひとつの森が消えるというような巨大な船をつくることができない。また、その技術もない。漁師が使う小舟では、当然、長い航海ができるはずもなく、おそらく島影も見えなくなる外洋に出ることすらむずかしいだろう。
「な……なんで、舟が来るんだよ」
やがてエリはいまにも泣きだしそうな顔でつぶやいた。そしてそろそろとケアルに手をのばし、親友の二の腕をつかみしめた。
「父ちゃんが生きてる間、一回も来なかったんだぞ。だのになんだって、いまさら来るんだよ。なにしに来たんだよ」
「わからないよ……」
静かにそう応えると、ケアルは腕にしがみつくエリの手に自分の手をそっと乗せた。
「それに、来たってわけじゃなく、昨日の嵐で漂着しただけかもしれない」
言いながらエリの顔をのぞきこむ。ケアルの言葉を理解したのかどうか、エリはぼんやりと親友の顔を見返し、やがてつかみしめていた手を離した。
「…………そうだよな」
気落ちしたようにつぶやく声は、淋《さび》しげであり、また、自分を戒《いさ》めているようでもあった。
「だから――これから飛んで、船を確かめて来る。たとえ漂着しただけにしても、父上に報告したほうがいいと思うんだ」
親友の表情を気にしつつケアルが言うと、エリはぐっと顔をあげ、いきなり自分の両頬《りょうほお》を勢いよくたたいた。ぱしっと乾いた音が響き、ケアルは驚いてエリの顔を見直す。
「エリ……?」
「よっしゃっ!」
かけ声とともに、エリは翼の片側を持ちあげた。
「ほら、行くんだろ。ちゃっちゃとやらねぇと、舟を見失うんじゃねぇのか。ただでさえあそこまでこいつをあげるのは、骨がおれるんだからな」
調子よくしゃべるエリの頬にはくっきりと、指のあとがついている。白い頬に浮かんだそのあとを見やって、だいじょうぶかと訊《たず》ねる言葉をケアルは喉《のど》の奥へのみこんだ。そんなふうに気をつかわれることを、エリはきっと嫌がるだろう。
ケアルは無言でうなずくと、翼の反対側を持ちあげた。
翼を持ち運ぶには、方向によって風にあおられ吹き飛ばされてしまう心配がある。ケアルは風向きを読んで、エリのやや後ろに立ち砂浜を進んだ。
歩きながらケアルは、エリと初めて会ったのもそういえばこの砂浜だったなと思い起こした。五年前、ふたりは十四歳。ケアルは父から自分用に使っていいとこの翼を与えられたばかりで、あの日は初めての遠出だった。意気込んで飛び立ったものの、高度を維持《いじ》できず、この砂浜へと突っ込んだのだ。近くにいたエリがすぐさま駆け寄ってきて、最初に口にした言葉が、
『おい、生きてっか?』
砂まみれで起きあがった自分がなんと応えたか、ケアルはあまり覚えていない。
エリは今と同じく、翼のむこう端を持って崖上へ運びあげるのを手伝ってくれた。運びながら、こんなものがなんで飛ぶんだとか、空の上はどんな気分がするのかとか、やたらうるさく訊ねられた記憶がある。
けれど今日のエリは、砂地におちた翼の影をにらみつけ、無言で足を運んでいた。
五年前のあの日から無二の親友となった男の後ろ姿は、当時よりずいぶんと逞《たくま》しくはなったが、金色の髪は褪《あ》せることなく当時のままだ。とうに亡くなったエリの父親も、やはり金の髪をもっていたという。だが、それ以上の話はエリの口から聞いたことはなかった。まるで禁忌《きんき》であるかのように、エリは父親の話となると口を閉ざすのだ。
けれど、噂だけは嫌でも耳に入ってくる。たとえば――あの日エリが、ひとりで砂浜にいた理由など。島で生まれ育ったエリだが、その出生や容姿から島人たちには仲間として容易に受け入れてもらえなかった。おそらくケアルと出会うまで、エリは同年代の友人というものを持ったためしがなかったに違いない。ちょうどケアルがそうだったように。
砂浜を渡りきり、ふたりは崖上に通じる石段をのぼりはじめた。
大人の背丈の十倍ほどもある崖には、白っぽい岩肌を削《けず》りとるように石段がついている。だがそのもろい岩肌は、長年の雨や風で所々が崩《くず》れ、段がつけられているとはいえ容易に足を運ぶことはできない。ケアルより身長のやや低いエリが先に立ち、石段を一歩一歩確かめて足を進めた。
時間をかけて登りきり、台地の草が足裏に触れると、ふたりはほぼ同時に地面に座りこんだ。互いに顔を見合わせ、やはり同時に苦笑する。
「五年前は、もっと苦労したよな」
吹っ切れたようなエリの声に、ケアルは笑ってうなずく。
「あのときは、エリではなく、おれが先に立って石段を登った」
「だな。おまえはオレよか背が低くて、痩《や》せこけた砂だらけの汚いガキだった。だからまさか、領主さまのとこの三男坊だとは思いもしなかったぜ」
翼を運びあげながら、エリもまた同じことを思い出していたのかと、ケアルは少し嬉しくなった。
尻の下で踏みつぶされた草の青臭い匂いと、海面から吹きあげてくる潮風の匂いが混じり合って、五年前の古い記憶を刺激する。あのときもここまで登って、ふたりして同時に座りこみ、息をきらして苦笑しあった。
懐かしげに目を細め、水平線をながめていたエリが、尻を払って立ちあがった。続いてケアルも立ちあがる。
「ほら。支えててやっから、準備しろよ」
翼の下へ楽に入り込めるようにと、エリが翼を持ちあげてくれた。うなずいてケアルはすばやく愛機の下にもぐりこみ、飛行服の革ベルトを翼からぶらさがる金具に留めつけていく。
革ベルトと金具は、いってみれば命綱だ。白い三角形の翼は四本の太いパイプを外枠《そとわく》にして、ぴんと張られている。そのパイプと操縦者の身体をつなぐのが、パイプにぶらさがる三つの金具だ。パイプからのびた細めのバーが操縦桿の役割をするが、操縦のほとんどは金具にかかる体重を前後左右に移動させることで行なう。
準備を終えるとケアルは操縦桿を握り、エリを振り返った。そして、うなずいて翼から離れていこうとする親友を「エリ!」と呼びとめる。
不審げに、エリが近づいてきた。ケアルは親友の顔を正面から見つめると、
「行って、見て、父上に報告したら――すぐここへ戻ってくる。たぶん、たいして時間はかからない」
エリが軽く目をみひらき、ケアルの顔を見返す。
「どんな船だったか、見て来たままをエリに伝えるよ」
微《かす》かに笑みを浮かべてケアルが言うと、エリは泣き笑いの表情でうなずいた。
「うん、頼む」
顎《あご》の下におろしたゴーグルを引きあげ、目の縁《ふち》にぴったり合うようにつけると、ケアルはふたたび操縦桿を握りなおした。翼の鼻先を、水平線に見える沖へと向ける。
風は、強ければ強いほどいい。上から飛びたつときは、峻嶺な山脈の山肌をつたって吹きあがる風をつかまえて、そして島から飛びたつときは、沖から吹き込む強い海風をつかまえて離陸する。
エリが走って翼から離れると、ケアルは呼吸をととのえ風を待った。
さわさわと風にそよいでいたケアルの赤い髪が、ふいに勢いよく舞いあがった。同時に操縦桿をしっかり握りしめ、彼は風へ向かって走りだす。
緑の草を踏み散らす足が、台地の端まできたところで、ふわりと浮きあがった。翼が風をはらみ、ケアルを空へと放りあげる。
この瞬間、いつも鳥肌立つような感覚が全身を駆け巡《めぐ》るのだ。それは、快感といっていいものかもしれない。
崖下の波の荒い岩場から、より強い風が吹きあがる。その風をとらえてケアルは、いっきに高みへとのぼった。
[#挿絵(img/KazenoKEARU_01_023.jpg)入る]
振り返ったケアルの目に映るのは、はるか後方に遠ざかった緑の台地と、そこにぽつんと立つ小指ほどの大きさになったエリの姿だ。そして前方には、青い青い海と空。
ケアルの身体の横を吹きすぎる風は、皮膚《ひふ》を切り裂《さ》きそうなほど鋭く強い。ごおごおと唸《うな》りをあげ、彼の服を髪を後方へ吹き飛ばしてしまいそうだ。
しかし操縦桿を握りしめるケアルは、かすかな笑みを浮かべていた。
以前エリに、飛んでいるとき何を考えているのか、と訊ねられたことがある。なにも、とケアルは応えた。
「そんなこと、ねぇだろ?」
「ほんとだ。身体だけが自然に動く」
「でも、怖いとか思うだろ?」
「いや、思ったことはないよ」
空の上でおぼえるのは、いつも解放感だった。
重力からの解放、地上にあるすべてのしがらみからの解放――空にいるとき、ケアルは自分が自由だと感じる。そして、このままどこまでも、それこそこの海原の果てにある見知らぬ地デルマリナへさえも、飛んでいけそうな気がするのだ。あの伝説の鳥、ゴランのように。
けれど地上へもどると、空の上でそんなふうに感じた自分が恥ずかしくなる。できもしないことを夢想するのは、現実逃避でしかない。逃げを考える自分の弱さを、ケアルは恥じずにいられなかった。
上空から見おろす海は、白い波頭が重なりあい、幾何学《きかがく》模様《もよう》のようだ。小さなボタンほどの染みにみえるのは、ケアルが操る翼の影だ。そしてその先に、黒い三隻の船が身を寄せあうように浮かんでいた。
今はもうケアルが暮らす屋敷の離れ家ほどの大きさにみえる船に向かって、彼は身体を右へ傾けた。翼がついっと風をきり、右旋回をはじめる。大きく旋回しながら、翼はゆっくりと高度をおとしていった。
旋回を四度ほどすると、船上に人の姿がはっきりと見えた。同時に船が予想をこえた大きさだということもわかる。
物見やぐらのような帆柱が、三本。船の上では二十人近い人々が動きまわっているのに、まだまだ広さに余裕があった。
船上の人々も、ケアルに気づいたのだろう。どんな表情をしているか、どんな動きをしているのか、細かいことはわからないが、人々はほぼ全員が頭上を見あげ、ざわついている雰囲気《ふんいき》が見てとれる。
船にはどこも、壊れた様子はなかった。それどころか、おそらく数ヶ月にわたる航海をしてきただろうに、帆布《はんぷ》はまぶしいほど真っ白だった。
嵐かなにかで否応なく流され着いたのだ、という雰囲気はまったくない。ということはつまり、かれらはこの地を目指してやって来たのだろう。
「父上に知らせなければ……」
つぶやいてケアルは旋回をやめ、翼を傾けて、いちばん近い島へと進路をとった。
旋回でやや高度は落ちたが、この程度なら上昇気流をひとつつかまえれば、最速で上へもどることができるはずだ。海上でも上昇気流が発生することはあるが、それを捜すよりてっとり早いのは、島の砂浜の真上で暖気をつかまえることだった。陽射しで暖められた砂地からたちのぼる暖気は、もっともわかりやすい上昇気流である。
島の上空に近づくと、島人たちが浜辺にあげた舟の陰に身をひそめ、そっと巨大な船をうかがう姿が見えた。こんなものを目にして、かれらが恐慌《きょうこう》状態におちいりかけていることは、容易に想像できる。
狭い浜辺の上空を半周もしないうちに、翼は上昇気流をとらえた。たちまち翼が風をはらみ、巨人の手で身体ごと放りあげられたかのように、いっきに島がはるか下方へと遠ざかった。
空へ吸い込まれるようなこの感覚を、ケアルはなによりも好んでいた。翼との一体感はもちろんのこと、この一瞬、ケアルは自分が空の一部になったような気分になる。どこまでも続く海原を覆《おお》い、島々や「上」にも平等に広がる空の一部に……。
心地よい思いを断ち切って、ケアルは翼の鼻先を白い家々がたちならぶ上へと向けた。あとはつい先ほど飛びたったばかりの屋敷の前庭へ一直線、青い空を滑《すべ》りおりるように飛んでいけばいい。
手際よく目標まで最短の線上に翼を乗せたケアルは、ふと後方に離れていく三隻の船を振り返った。
ちょうど三隻のうち真ん中の一隻の船が、いちばん背の高い帆柱に、白地に赤い線の入った旗を掲げたところだった。
まるで何かの合図のようだ、と感じてケアルはわずかに眉根を寄せた。胸騒ぎに似た不安をおぼえ、あわててそれを打ち消す。
空の上では、ほんの小さな心の揺れが命とりとなることがある。それをよく知るケアルは、一瞬のうちに己が不安を心の奥底へと閉じ込めたのだった。
* * *
屋敷の前庭に着陸したケアルは、右隅の小さな建物から走り出てきた家令に、翼をまかせた。
広々とした前庭を囲むように、コの字形に白い箱状の建物がならんでいる。右側が家令たちの住居と納屋《なや》、左側が領主の家族の住まい、そして中央にあるひときわ大きく、上空からでもすぐ目立つように丸屋根を青く塗った建物が、領主の住まいであり、領主としての執務《しつむ》をおこなう公館でもあった。
短い石段を駆けあがり、屋根と同じ色に塗られた両開きの扉を引くと、裏庭までふきぬけの広いホール。右へ行けば執務室が、左へ行けば領主の住まいがある。ケアルは迷わず、右へ足を向けた。
「おいっ! どこ行くんだっ!」
ホールをぬけたところで呼びとめられ、振り返ると、すぐ上の兄、ミリオ・ライスが中庭とホールの間に立ち、ケアルをにらみつけていた。
「父上のところへ」
軽く頭をさげたケアルは、表情を変えずにそう答えた。
「いま、お忙しいんだ。邪魔《じゃま》をするんじゃない」
「緊急なので」
断ってすぐに立ち去ろうとしたが、兄は追いかけてくると、ケアルの腕をつかんだ。
「聞こえなかったのか、おまえ!」
「聞こえています」
静かに応えたケアルを、兄はうさんくさげな目つきでじろじろとながめまわす。
「なんの用だ? まずおれに言ってみろ」
「父上に直接、申し上げたいので――」
振り切ろうとしたが、兄はケアルの腕をつかむ手にいっそう力をこめた。
「つまり、おれに言えないようなこと、というわけだな?」
「放してください、ほんとうに緊急の用件なんです」
「だったら、急いでおれから父上に申し上げるさ」
それならいいだろう? とうす笑いを浮かべながら言われて、ケアルはかすかに眉をしかめた。
上の兄、セシル・ライスとは六歳はなれているのだが、この兄とケアルはわずか一歳ちがいだ。そのためか、腹違いの弟であるケアルの存在が気にさわって仕方ないのだろう。幼いころからやたらと、おまえと自分は兄弟ではあるが立場はまったく違うのだと、ことさらに主張する。ケアルも立場の違いは幼い頃から自覚しており、なんであろうと兄に必ず一歩譲ることはもう習慣化していた。
「――わかりました」
ケアルが応えると、兄は鼻先で笑って、さっさと言えと促《うなが》した。
「先ほど島へおりたのですが、沖のほうでデルマリナの船を発見しました」
「また難破か? ゆうべの嵐にやられたんだろうな」
「いえ。船体のどこにも破損《はそん》箇所《かしょ》は見あたりませんでした」
「バカ言え、そんなはずはないだろ」
「船は三隻、いずれも航行可能だと思いますが、沖に停泊《ていはく》したまま動きません」
表情を変えずそう報告したケアルを、兄はしばらく不審げににらんでいたが、やがて肩をすくめて嘲笑《ちょうしょう》した。
「父上にご報告するようなことじゃないな。もしおまえが言うように、難破したわけじゃないってなら、放っておけば、そのうち帰っていくさ。どうせ難破だと思うが、それだったら島の連中が、舟の中にいいモノでも残ってないかと、例によって意地汚く漁《あさ》りにいくだろうよ」
「島人たちは、怖がって船に近づこうとしません。それに船の人々は、こちらと接触したいような雰囲気でした」
「おまえにはそう見えた、ってだけだろ。父上はお忙しいんだ、おまえの勝手な推測でわずらわせるんじゃない」
「しかし――」
そうではないと反論しかけたとたん、
「いいかげんにしろっ!」
たっぷりとしたつくりの飛行服の、衿もとをつかみあげられた。
「おまえは、いいかげんな嘘《うそ》をならべてまで、父上の気がひきたいのか」
「嘘など言っていません」
「たかが難破した舟が流れついただけを、さも重大事のように言う。小さな子供が、親の気をひきたいがために乱暴なまねをするのと変わらないやりかただ」
そう決めつけられて、ケアルは軽く目をみひらき、続いて力なく視線をおとした。
ふん、と兄はそんな弟を軽蔑《けいべつ》したような目で見おろすと、飛行服の衿を放す。よろけて数歩あとずさったケアルに、兄は片頬を歪《ゆが》めて言い放った。
「まあ、いいさ。とりあえずおれが、父上にご報告してやる。おまえは部屋にでももどって、おとなしくしてろ」
父の執務室へ向かう兄のうしろ姿を、ケアルはなすすべもなく見送った。
ケアルに与えられている部屋は、離れの海に面した一室だ。
もとはケアルの母の居室であり、母は彼が五歳のとき亡くなる寸前まで、小さな息子とともにこの部屋で過ごした。母の存命中は領主である父がごくたまにこの部屋を訪れたものだが、今はケアルの世話をしてくれる家令が必要なときにやって来るだけで、父はもちろん兄も姉も一度として足を運んでくることはない。
客人や家令、あるいは他領からの伝令などがひっきりなしに出入りする母屋の屋敷とは別世界のような静けさが、ここにはある。ライス領の中心ともいえるべき公館と同じ敷地内にありながら、ここはまるで世間から忘れ去られたような場所だった。ケアルにはそれが、自分の立場とだぶって感じられた。
代々領主をつとめる一族の血をひきながら、ライス家の一員とは認めてもらえない自分。かといって、ライス家から離れることも許されない。島人たちには「領主さまの三男坊」と呼ばれ、上の住人たちには「島人の息子」と囁《ささや》かれ、どちらにも属することができない自分に。
しばらくぼんやりと水平線をながめていたケアルは、ひとつため息をつくと、飛行服の衿もとを寛《くつろ》げた。袖口の紐《ひも》をとき、前に並ぶ鎧《よろい》のような留め具をひとつひとつはずしていく。
最後の留め具をはずし終えたとき、扉をたたく音がした。どうぞと声をかけると、ゆっくり扉が開き、この離れには近づいたこともないだろう公館づきの家令がわざとらしいほど深々と頭をさげた。
「御領主さまがお呼びでございます」
その口調もまた、いささか過ぎるほど慇懃《いんぎん》なものだった。
「すぐにいらっしゃるように、とのことでございます」
わかりましたとケアルが応えると、家令はふたたび深々と頭をさげ、人待ち顔で扉のそばに佇《たたず》んだ。
なるほど、ついて来いということらしいと理解し、ケアルは飛行服の留め具をあわててとめ直し、さりげなく先に立った家令のあとについて部屋を出た。
前庭を横切り公館へ入ると、父の執務室から出てきた次兄、ミリオ・ライスと廊下の中ほどで出くわした。また何か嫌味《いやみ》を言われるかもしれないと身構えたケアルに、兄はただ、ぎらつく不穏《ふおん》な視線を向けただけで歩み去っていく。
不審な思いを抱えつつ、ケアルは家令に促されて執務室の扉をたたいた。
ロト・ライスは、五十歳をやっと越えたばかりの、五人の領主たちの中ではいちばんの若手である。最年少とはいえ、まれにみる切れ者と言われており、近い将来、領主たちからなる「五人会」を牛耳《ぎゅうじ》ることになるだろうと噂される人物だ。
家庭においては厳格《げんかく》な父親である彼の前に出るたび、ケアルはいつもひどく緊張《きんちょう》した。とはいえケアルが父親と対するのは、母が亡くなって以降、客人を招いての公式の席か、家族がそろってのたまの夕食時に限られている。そしてどちらの機会にも、ケアルの席は父とはいちばん離れた末席《まっせき》であった。
「デルマリナの船を見たそうだね?」
大きくひらいた窓を背に執務机の前に座ったロト・ライスは、入室してきた末の息子にそう問いかけた。
「――はい」
ケアルが緊張の面もちでうなずくと父は、おまえが見たままを詳しく話しなさい、と命じた。
目を軽くみひらいたケアルは、すぐには話しだせず、俯《うつむ》いて言葉をさがした。父は早くと促すことはなく、黙って執務机に肘《ひじ》をつき、息子が話しはじめるのを待っている。
ややあってケアルは、できるだけ正確に主観をまじえず、言葉を慎重《しんちょう》に選びながら船を見つけたときのこと、翼で近づいて見た船の様子を語った。
息子の話を聞いたロト・ライスは、しばらく目を閉じ考え込んでいたが、やがてペンをとると、なにか書きはじめた。
「さがらなくていい、そこで少し待っていなさい」
一礼して部屋を出ていこうとしたケアルに、ペンをはしらせながらそう言った。
書き終えると、ざっと読み直したあとライス家の紋章で封印をして、ケアルに手紙をさしだした。
「これを、船の代表者に渡すんだ」
「……おれがですか?」
驚いてケアルは父を見返す。
「そうだ。大きな船といっても、その甲板に翼で着地できる者など、そう多くはない」
「しかし、兄上たちが……」
「あのふたりでは、無理だ。伝令をつかってもいいが、礼儀を考えれば、領主の息子であるおまえが行くのがいちばんいい」
父の言葉を頭が理解できるまで、ケアルは何度も瞬《まばた》いた。そして、さしだされた手紙と父の顔を交互に見つめる。
ほらと促され、おずおずと手紙を受け取った。
「おそらく代表の何人かが、ここへ来ることになる。おまえは彼らを案内しなさい」
はいとうなずきかけ、しかし父の言葉を頭の中で繰り返して、ケアルははっと目をあげた。
「――なんだね?」
驚くケアルの顔を、父は目を細めて見返した。
「いえ、その……なぜ船の代表者が来ると……?」
息子の疑問に、父は苦笑した。
「簡単だよ。難破船でないならば、わざわざこの地へやって来たことになる。目的があるなら、略奪《りゃくだつ》か我々に交渉を求めにきたかのどちらかしかないだろう。しかしまだ略奪行為をおこなっていないとすれば、かれらが交渉を望んでいるとしか考えられない」
交渉するのに代表者を送るのは当然だろう、と言われてケアルは内心、舌を巻いた。自分は船を目にし、こちらと接触したがっていそうな様子を感じとったものの、だからといってかれらがこれから何らかの行動を起こすだろうとは考えもしなかった。なのに父はケアルの報告を聞いただけで、そこまで考え及んだのだ。
「そう――ですね」
うなずき直し、大切に両手に乗せた手紙を見おろしたケアルへ、ロト・ライスは「ああそうだ」とつけたした。
「翼は、私が以前つかっていたものを使いなさい。あれは分解できるから、ここへ来る小舟にも持ち込めるはずだ」
「えっ……?」
目を丸くして、父を見つめる。
「むこうの船に翼を置いてくるわけにはいかないだろう。それにあれば、おまえが二十歳になったら譲《ゆず》ろうと考えていた」
なんでもないことのように言う父に、ケアルは息をひとつ吸いこんだきり、呼吸することも忘れて、まばたきを繰り返した。
家長が息子に自分の翼を譲るという行為は通常、我が子に家督《かとく》を譲ることと同一視される。家督を継ぐべき長子が父親から翼を譲られ、代わって家長となるわけだ。ゆえに三兄弟の末子であるケアルが、上の兄ふたりに何か起こらない限り、まず翼を譲り受けることはないはずだった。
父の意図《いと》がまったく理解できず、呆然《ぼうぜん》と佇むケアルに、ロト・ライスは軽く目を細め扉を指さした。
「なにをしている。早く行きなさい」
「あ……、はい」
あわててうなずくケアルの前で、ロト・ライスはふたたびペンを持ち直し、別の手紙を書きはじめた。おそらくは、他の四人の領主たちへ、デルマリナの船が来航したと知らせる手紙だろう。
手紙を抱えるようにして一礼すると、ケアルは雲の上を歩むような足どりで執務室を出たのだった。
家令たちの手により、前庭に引き出されてきた翼は、十年近くつかっていなかったとは思えないほど、よく手入れされていた。
形は現在ケアルがつかっているものと同じだが、三角形の白い帆布の中央に、太陽と翼を図案化したライス家の紋章が、青い糸で織り込まれている。この翼を操縦するということはつまり、ライス家を背負って飛ぶということだ。
ケアルはその重みを確かめるように、ひとつひとつ慎重に身体と翼をつなぐ金具を留めていった。
金具を留め終え、ロープの強度を確認すると、操縦桿を握った。
操縦桿の中ほどには、わずかなくぼみがある。長年にわたり、同じ箇所を握り続けた指のあとだ。くぼみの上に指をかけると、操縦桿はしっくり手になじんだ。
ライス家の伝統の重みとは関係なく、軽くて丈夫な良い機体だった。
ケアルの口もとが、自然とほころぶ。
家令たちが離れたのを確認し、ケアルは前方を見据えた。崖下がすぐ海面の島とはちがい、ここから飛び立つときは海風を期待できない。そのかわり、山肌をなぞって吹きあげていく風を利用するのだ。
ケアルは操縦桿を握りしめたまま神経を集中して、いい風がくるのを待った。
そよっと、ケアルの頬を風が撫《な》でた。
(――来る!)
大地を蹴って、ケアルは走りだした。
翼が風を受け入れたのがわかった。同時にケアルの足は地面を離れ、たちまち空へと舞いあがる。
ケアルの本日三度目となるこの飛行は、のちにハイランドと呼ばれることになる、ライス・ギリ・マティン・フェデ・ウルバの五領にとって、大きな歴史の転換期をむかえる最初の飛行だった――。
舟がやってきたことをエリが報告したとたん、それまで賑やかにぽんぽんと冗談口をたたきながら網の補修をしていた漁師たちは一瞬、しんと静まりかえった。
互いに顔を見合わせる彼らの表情は、泥でつくった面のように硬い。だがすぐ、中のひとりが破顔し、
「またおまえは、大法螺《おおぼら》ふくんじゃねぇ」
沈黙を圧倒するだみ声でそう言うと、他の男たちも次々にしゃべり始めた。
「仕事さぼった言い訳にしちゃ、あんまりうまかねぇな」
「さぼって寝こけて、夢でもみたんじゃねぇのかぁ?」
どっと笑い声がおこる。
「嘘じゃねぇよ! ケアルが見たんだ! あいつがオレにそう言ったんだ!」
あっちの方角にとエリは沖を指さし言い募《つの》ったが、砂浜からやや奥まった場所にあるここからは、遠く島影のてっぺんが見えるだけだ。おそらく目で見てもなかなか信じられないしろものを、ただの伝聞でかれらが信じるはずもない。
「あの坊もなぁ、気の毒に」
「だなぁ。島で生まれたもんは、一生、島で暮らしたほうがいいってぇ見本みたいなもんだ」
「気だてのいい美人だったのに、あんな死に方して。残された坊もかわいそうにな」
「かわいそうなこと、あるかい。うまいもん腹いっぱい食わせてもらって、いい暮らししてるんだろ」
「そうだよなぁ。オレもいっぺんそういう暮らし、してみたいもんだ」
また、笑い声があちこちでおこった。
「おまえらな、そうやってバカにしてっけど、ケアルは父ちゃんに報告するって言ってたんだぞ!」
むきになって怒鳴《どな》ったエリに、漁師たちはふたたび互いに顔を見合わせあった。
やがて先ほど真っ先にだみ声をあげた男が、そばにいるひょろりとした男に目配せした。するとうなずいたその男はふいに立ちあがり、ひろげた網の隙間を器用にぬけ、砂浜へと走っていった。
突然のことに思わず男を見送ってしまったエリは、すぐに我にかえり、男のうしろ姿を指さして怒鳴った。
「なんだよ、ありゃ。オレの言うことが、信用できねぇってのかよ!」
あの男はたぶん、舟が本当に来ているのか確かめに行ったのだ。
「わめくんじゃねぇ。さっさと仕事しろ」
だみ声の男が、顎をしゃくって空いた場所をしめす。
「こんなときに仕事なんか、してられるかよ!」
そう言い返すとエリは、砂浜に引きあげてある三人乗りの漁舟のほうを指さした。
「なあ、舟を出そうぜ」
「網の修理が終わったらな」
すぐさまそう返され、エリは憮然《ぶぜん》として仲間たちを見回した。
「なんでだよ。舟が来たんだぞ、気になんねぇのかよ?」
「だからって、舟を出してどうする」
まったく興味なさげにそう言って、漁師たちは網を繕《つくろ》う手もとに視線をおとした。
舟はどんな小さなものでも、すべてその島の漁師たちの共有物だ。個人所有のものは一隻もなく、使用するには皆の同意が必要となる。ひるがえしていえば、舟はそれほどの貴重品であり、また漁師たちにとって、なくてはならないものでもあった。
男たちはなにごともなかったかのように、黙々と網の補修作業を再開している。彼らひとりひとりに目を向け、誰も取り合ってはくれないとわかると、エリは思いっきり地面を蹴りあげた。
「――もういいよっ!」
癇癪《かんしゃく》をおこした子供のように怒鳴り、駆け出した。
エリは仲間たちが、自分と同じようにデルマリナから来たらしい舟に興味をしめしてくれる、と思っていた。うまくすればケアルを待つことなく、仲間たちと舟に乗ってデルマリナの舟に近づけるかもしれない、という目論見もあった。
(でも、ありゃなんだよ……)
あてがはずれたというよりも、思ってもみなかった仲間たちの反応だ。少なくともまったく興味をしめさないというわけではなかった、とエリは思う。ただその興味の方向が、エリが抱いたものとは微妙に違っていたような気がする。
(こんなことなら、さっさと母ちゃんに舟のこと、教えてやりゃよかった)
彼女ならきっとエリと同じように、思ってくれるはずだ。
(だって、デルマリナだもんな)
エリにとっては、父の故郷。そして彼女にとっては、愛した夫の故郷なのだから。
島の家々は、斜面に穿《うが》たれた縦穴を利用してつくられている。家と家をむすぶのは、細い階段状の路だ。そのため集落は遠目には、蟻《あり》の巣穴のようにみえる。
また、斜面の中ほどには風車が三基、据えつけられていた。島人たちが飲料用の水を確保するには、雨水をためるか、こうした風車で地下深くから水を汲みあげるしかない。風車は舟以上に、島人にとって重要な共有物だといえよう。
岩だらけの丘陵地《きゅうりょうち》をぬけ、エリが集落に近づくと、風車のまわる重い音が聞こえてきた。子供たちの、遊ぶ声もする。
間近まで行くと、集落の女たちが斜面の下で編んだ草をひろげ、まわりに子供たちを遊ばせながら、日干しした魚を選り分けているのが見えた。時おりにぎやかな笑い声があがり、陽気な雰囲気がつたわってくる。
エリの母親もその中にいたが、あまり日に灼《や》けていない肌や、ひっそりと声をたてずに微笑む様子は、逞しい女たちの間でひどく浮いてみえた。
身体が辛いなら、家で休んでいればいいのに――そう思いながらエリは軽く眉をしかめると、ひとつ息を吸い込み、
「母ちゃん!」
できるだけ明るい顔で、呼びかけた。
一斉に女たちが振り返り、エリを認めると一瞬、座は静まりかえった。意味ありげな視線がすばやく交わされ、中のひとりが皆を代表するように、エリに言葉を返す。
「なんだい? 浜のほうの仕事は、もう終わったのかい?」
「終わってねぇよ」
「だったら――」
「オレは、あんたに用があるわけじゃねぇんだよ。母ちゃんに用があんだよ」
黙ってろとばかりににらみつけ、女たちの間にずかずかと入りこむとエリは、申し訳なさそうに俯く母親の手を取った。
「家ん中で休んでろって、今朝、言っただろ。なんで外出て、仕事なんかしてんだよ」
「だって、エリ……」
遠慮する母の手を引っぱり、女たちの中から連れ出す。
「ケアルが来てさ、すげぇこと教えてくれたんだよ」
自慢げに胸をはって言うと、母親はますます小さくなって首をすくめた。
「エリ。領主さまの坊を、そんな呼び捨てにして……」
「いいんだよ。ケアルとオレは、大親友なんだからさ」
「でも……」
ためらう母の声にかぶさって、女たちの間からさざめくような笑いが起こった。
「聞いたかい、親友だってさ」
「ああ。いい気なもんだよ」
とたんに顔を青ざめさせた母親を引き寄せ、エリは女たちに鋭い視線を投げかける。
「領主さまの坊に目をかけられてるから、自分までお偉くなったつもりでいるんだろうよ」
「まだ一人前の仕事もできやしないくせに、さぼることばっかり考えてさ」
「親が甘いんだよ。これがあたしの息子だったら、尻を思いっきりたたいて、家から放り出してるね」
そりゃいいと笑う女たちに、母親は肩をすぼめてうなだれた。そんな母を目にして、エリは頭に血をのぼらせた。
「……てめぇら……っ!」
いまにも女たちに怒鳴りかかっていきそうなエリを、母親がすがりつくようにして押しとどめる。
エリは母を見おろし大きく息をつくと、足もとに向かって「くそばばぁども」とつぶやき、女たちに背を向けた。
「母ちゃん、帰るぞ」
息子に手を引っぱられて立ち去りながら、彼女は女たちに向かって幾度も幾度も頭をさげ続けた。
エリの話を聞き終えると、母親はゆっくり立ちあがった。
母子が暮らす家は、斜面のいちばん高い場所にある。大人が背をかがめてやっと通れる狭い出入口に立つと、空も海も遠くまでよく見渡せた。
屋内は狭く、入ってすぐに粗末《そまつ》な石のテーブルが置かれ、そこから三歩で横幅いっぱいに並べられたふたつのベッドにぶつかる。
開口部の少ないつくりは、どこの家も同じだ。そのため島の家はどこも、明かりにつかう生ぐさい魚油の匂いが染みついている。
「ケアルは、あいつの父ちゃんに報告したらすぐ、うちに来てくれるはずなんだ」
だからさ、と目を輝かせるエリの前に飲み水の入った器を置くと、彼女は疲れはてたような顔でふたたび座りこんだ。
「領主さまの坊に来ていただいて、どうするつもりなんだい?」
思いがけぬ問いにエリは、きょとんとして母を見返した。ケアルが上からエリと会うため島へやってくるのはもう、習慣化している。この家にさえ、もう何度となく訪れたこともあるのだ。いまさら「来ていただく」と表現するほど、たいそうなことではない。
「これからお忙しくなるだろうに、わざわざ来ていただくなんて……」
「だって母ちゃん、デルマリナの舟が来たんだぜ。気になんないのかよ」
返ってきたのは、深いため息がひとつ。
「それとも母ちゃんは、オレが嘘言ってると思ってんのかよ? 舟が来たなんて、夢でもみたんだろう、って」
「おまえは嘘がつける子じゃないよ」
「だったら――!」
思わず立ちあがったエリの前で、母親はテーブルの上に皺《しわ》だらけの手を乗せ、こすり合せるようにして握りしめた。
「舟が来たからって――あたしらには関係ないことなんだよ」
硬い表情でそう言った母親の顔を、エリは信じられないものを見る目つきで見なおした。
「母ちゃん……だって、デルマリナから来たんだぜ? 父ちゃんの生まれた、デルマリナから舟が来たんだぜ?」
「父ちゃんは、もういないよ」
「いなくたって……死んじまったって、でもオレは、父ちゃんの息子だ!」
「ああ、この島で生まれた子だね」
はじけるようにして、エリはテーブルに拳をたたきつけた。母親を見おろし、怒鳴ろうと口を開く。だが、言葉は出てこなかった。
ぎゅっと唇をひき結んだエリは、母親から顔をそむけると踵《きびす》をかえし、椅子を蹴り倒す勢いで家を飛び出した。
そんな息子を、母は悲しげに見つめていただけで、呼びとめようとはしなかった。
帆柱に何枚もの旗がひるがえる黒い船の上空で、ケアルはゆっくりと旋回を繰り返した。旋回しながら注意深く、徐々に高度をおとしていく。
船におりる許可をとるには、どうしたらいいのか、ケアルにはわからなかった。だが、そうすることで相手は察してくれたようだった。
甲板に集まってケアルの翼を見あげていた船員たちが、司令官らしき男に命じられ、そこらに出したままになっているロープや樽《たる》を抱えて、次々と船室へおりていく。ケアルはかれらの秩序だった行動に、デルマリナという国の本質の一部を垣間見た気がした。
波がひくように甲板から人間がいなくなると、ケアルはいったん船の上空を離れた。狭い甲板におりるためには、目標をしっかりと定める必要がある。
帆柱さえなければ、いつも使っている島の台地と、さほど広さに差はない。だが、甲板には三本の帆柱が突き立っており、翼を広げた状態で船を縦いっぱいに使って着地するのは無理だと思えた。
(船の横から近づいて、横幅いっぱいに使っておりるしかないな……)
着地に使えるのは、甲板全体の三分の一がいいところだ。すでに高度をかなりおとしてはいるが、その広さは見た目、大人の手のひらぐらいしかない。
そのうえ地面とは違い、船は波をうけて揺れている。
ケアルは自分が、初めて翼を操った日以上に緊張していると感じた。だがその緊張は不快なものではなく、心が踊るような昂揚感《こうようかん》をともなっていた。
「目標、確認。距離、よし」
自分に言いきかせるようにつぶやくと、ケアルは操縦桿を握りなおす。
全身の感覚が研《と》ぎ澄まされていくのがわかった。両翼は我が手のように感じられ、皮膚ははっきりと風の微妙な変化さえも感知する。
おりるべき船の甲板のみを見つめた。空も海も、それどころか船の帆柱さえケアルの目には入っていない。おりることだけに意識を集中させているケアルは、耳もとで轟音《ごうおん》をあげ吹きすぎていく風の音も聞こえない。
ケアルの操る翼は、風の上を滑降《かっこう》していくように船に近づいていった。ケアルの視界におさまった船は、殻《から》を脱ぎ捨てるようにずんずん大きくなる。
地上に近づけば近づくほど、飛行速度は実際の何倍にも速く感じるものだ。目標が小さい場合は、特に。
速度をおとそうと、身体が勝手に動きそうになるのを、ケアルはぐっとこらえ続けた。ここで速度をおとせば、翼は船にたどりつく前に海へ落下する。
(――今だ!)
確信をもって、ケアルは操縦桿を前へと押し出した。ただし、思いっきり押してはならない。少しずつ、加減しながら押してはもどし、押してはもどしを繰り返す。
翼が風をきるのをやめ、空気にくるみこまれていくのが、ケアルにはわかった。
とんっ、と甲板に足先が着いた。そのとたん今度は思いっきり、操縦桿を手前に引き寄せる。
周囲から、拍手と歓声がおこった。ふと気づけば、ケアルは甲板に両足で立っており、船の奥へひっこんでいた船員たちが彼と翼に駆け寄ってくるところだった。
「あんた、すごいな。鳥みたいだった」
「それ、誰がつくったんだ?」
「ここの連中はみんな、飛べるのか?」
彼らの言語は、五領のうちもっとも南にあるマティン領の方言に近く、ケアルにも容易に理解できた。だが、次々に質問をあびせかけられては、いちいち答えられるものではない。
戸惑《とまど》っていると、船員のひとりがもの珍しげに翼に触れた。外枠のパイプをこんこんと叩き、帆布を撫で、やがて調子に乗ったのか翼と身体をつなぐロープを引っぱるに到って、ケアルは思わず叫んでいた。
「触らないでくれ!」
怒鳴られた船員は、びくっと手を引っ込めて目を大きくみひらき、ケアルを見返した。驚きの表情がゆっくりと、別のものへと変わっていく。
「――なんだよ。ちょっと、触っただけじゃねぇか」
ざわついていた周囲が静まりかえり、やがて「そうだそうだ」と同調する声があがりはじめた。
「オレは別に、こいつを壊そうとか、傷つけようとかしてたわけじゃねぇぜ」
そうだよな、と船員は同意をもとめて仲間たちを振り返る。するとほぼ全員が、腕をふりあげ、足を踏み鳴らし、指笛をふいて、ケアルへの抗議をはじめたのだ。
耳が痛くなるほどの騒音と、足もとから伝わってくる細かな振動を感じながら、しかしケアルは落ち着いて注意深く、船員たちの様子をうかがった。
かれらは、大きな音をたてて脅《おど》すばかりで、決して手を出してこようとはしていない。誰かに止められているようだ、と思えた。
「おまえたち、静かにしないかっ!」
騒ぎたてる船員たちのむこうから、張りのある声が飛んできた。とたんに人垣が割れ、船の後部のほうに姿を現わしたのは、エリ・タトルと同じ金髪の中年の男だった。
白いシャツ姿の他の船員たちとは違い、男は金のボタンがいくつもついた濃紺《のうこん》の上着をつけている。また、髪には櫛目《くしめ》が入っており、ていねいに剃刀《かみそり》があてられた顎は不精髭《ぶしょうひげ》の一本もない。
男はまっすぐケアルの前にやってくると、腕をさしのべ握手をもとめてきた。
「私は、船団長をつとめるヴェラ・スキピオです」
「船団長……?」
思わず首を傾げたケアルに、男はにこやかに微笑みながら、
「ああ、つまり複数隻の船をたばねて指揮をとる、代表者みたいなものですよ」
ケアルはゴーグルを引きさげると、うなずいてスキピオの手を握った。
「はじめまして。私は、このライス領の領主をつとめるロト・ライスの息子、ケアル・ライスです」
「ほう、御領主のご子息か」
目を細めた男に、ケアルはかすかに眉根を寄せた。ケアルは船団長≠フ意味を知らなかったが、この男は領主≠フ意味がわかるらしい。
「領主の命をうけ、やって参りました」
言いながら翼と身体をつなぐ金具をはずし、飛行服の内ポケットから父に渡された手紙を取り出す。
「これを、こちらの代表者にお渡しするように、言付かっています」
スキピオは手紙を受け取ると、まわりをとり囲む船員たちを見回した。
「おまえたち、さっさと持ち場にもどれ」
命じると船員たちは互いに顔を見合わせ、ぞろぞろと散っていった。スキピオはそんな船員たちの中から、年若い十代なかばにも達していないだろう少年を呼び寄せると、彼の耳もとになにごとか囁いた。うなずいた少年が走り去るとケアルに向き直り、
「なにぶん長い航海のあとなので、たいしたおもてなしはできませんが、私がこの手紙を読み終えるまで、船室でお茶でも飲んでいてください」
その言葉にいったんうなずきかけたものの、ケアルは翼があるのを思い出し、返事をためらった。するとスキピオはにこやかに微笑んで、
「それが心配でしたら、誰にも触らせないよう、信頼がおける者に見張らせましょう」
「いえ、そういった心配ではないんですが……。ここで待たせていただくのは、だめでしょうか?」
「ここで、ですか――?」
不審げなスキピオにケアルは、翼が風で飛ばされやすいこと、またこの翼が組み立て式であることを伝えた。
「組み立て式? というと、解体できるわけですか?」
スキピオはそのことに、非常な興味をしめした。
「はい。折り畳《たた》めば、持ち運びできます」
「その――折り畳むところを、見学させてもらえますか?」
「いいですよ、どうぞ」
結局ケアルは、スキピオばかりか他の船員たちまでが遠巻きにして食い入るように見つめる中、翼を折り畳むことになった。
パイプを一本とりはずすごと、感心したようなざわめきがおこった。またスキピオからは時おり、その棒はなんと呼ぶのか、どんな役割があるのか、どんな材質でできているのか、といった質問を受けた。そのたびケアルは手を休め、丁寧《ていねい》に答えなければならなかった。
最後に帆布を細長く折り畳みおえると、船員たちの中のひとりが拍手した。それにつられるように、他の船員たちの間からもぱらぱらと拍手が送られた。
「いや、なかなか興味深いものを見せてもらった」
スキピオがひときわ大きな拍手をしながらケアルに近づき、親しげに背中に腕をまわしてくる。
「こういったモノは、この国にはたくさんあるんですか?」
「翼ですか? たくさんあるわけではありません。特にこういった組み立て式の翼は、他の領のぶんも含めて二機か三機、あるかどうかといったところです」
「それはやはり、技術的にむずかしいから?」
「技術のことは、私にはわかりません。翼は、翼職人にしか作れないものなんです。そのうえ職人が一人前になるには、三十年もかかると言われています」
ケアルが言うと、スキピオは得心したようにうなずいた。
「ああ、職人ですか。我々の国にも、職人が大勢いますよ。造船職人などは、あなたがたの翼職人ですか、それと同じように、一人前になるのに二十年だか三十年だかかかると言われていますよ」
なるほど、とケアルも得心してうなずいた。こうして甲板に立ち船をながめると、どこもかしこも島の漁師たちが所有している舟とは段違いの緻密《ちみつ》さだ。
「で、こういった翼を操る人々は、たくさんいるんですか?」
「たくさん、と言えるかどうか……。翼の数が限られていますから」
「領主の家系にだけ伝わる技術、とか?」
「いえ、それは違います。このライス領では私が知る限り、百人近い人々が翼を操る技術をもっています」
「つまり、翼さえあれば誰でも飛ぶことができるわけですね?」
そのスキピオの言い方にひっかかりを感じたが、とりあえずケアルはうなずいてみせた。
実際のところ、翼を所有してはいても飛べない人間はいる。たとえば老いて飛べなくなった者、あるいは若すぎて体力のない者、それに適性の問題もある。ケアルには理解するのが難しいが、恐怖で身体がこわばり、どうしても飛ぶことができない者がいるのだ。
所有者が操縦者であるとは、必ずしもいえない。そのかわり、伝令のように翼の所有者に仕え、飛ぶことを仕事とする者もいる。
だが何にせよ、翼さえあれば誰でも、飛ぼうと試すことはできるのだ。だからスキピオの言うことは、あながち間違いとはいえないだろう。
おまえはいつも難しく考えすぎる、とエリに言われたことを思い出し、ケアルはひそかに苦笑した。
スキピオが手紙を読む間、ケアルは暖かなお茶でもてなされた。
かすかな甘みのある茶は、ケアルには初めての味だった。ライス領にも茶はあるが、飲むと舌先に苦みが残る。
もの珍しげに飲んでいたためか、給仕していた年若い船員から苦笑とともに、もう一杯いかがですかと訊ねられた。思わずうなずいたケアルだったが、二杯めに口をつけたとき、ひょっとしたら断るのがデルマリナの礼儀ではなかろうか、と思いついた。
(色々なことが、むずかしいな――)
先ほどの、翼にさわった船員たちへの対応といい、このことといい、ごく普通だと思って行動したことが相手にはどう受けとめられるのか。いちいち気にしはじめると、何もできなくなってしまいそうだ。
扉がノックされ、ふと気づくと手にしたカップの中、お茶はすっかり冷めていた。
現われたのはスキピオで、ライス領主の招待を受けることにしたので案内してほしい、と言われた。すでにスキピオのほうの用意は整っていた。
父の言った通りになったと思いつつ、ケアルはスキピオと他、三人ほどの船員たちとともに、甲板からおろされた二隻の小舟に分かれて乗り込んだ。もちろん父に言われた通り、折り畳んだ翼を携《たずさ》えて。
舟は小さいとはいえ、漁師たちの使う舟とは比べものにならないほど精巧《せいこう》なつくりをしていた。舳先《へさき》が大きくはねあがった舟は、高い波をものともせず進んでいく。以前、漁師たちの舟に乗ったときは、いつ舟が壊れるか、波にあおられて転覆《てんぷく》するかと不安に思ったものだが、そんな心配はかけらほども感じなかった。
たどりついた領主の館にいちばん近い舟着き場を見て、船員たちは不安げな表情で互いに顔をみあわせた。
「おいおい、だいじょうぶかよ」
「ちょっと大きめの波がきたら、あっという間じゃないか?」
「そっちもスゴいけど、あの崖、見ろよ」
声をひそめてはいるものの、狭い小舟の中のこと、ケアルにも船員たちの会話はしっかりと聞こえる。
舟を寄せて、全員が舟着き場へあがったところで、ケアルはスキピオにたずねた。
「この縄梯子をのぼらなければなりませんが、皆さん大丈夫ですか?」
「他に方法はないんでしょう?」
「私がひとを呼んできて、皆さんを背負って縄梯子をのぼらせることはできます」
ケアルが言うと、スキピオは笑った。
「私たちは、船乗りですよ。帆柱のてっぺんにのぼれなくては、一人前どころか半人前とも言えません」
そして他の船員たちを振り返り同意をもとめると、彼らはスキピオと同じように笑ってうなずいた。
「では私が先にのぼりますから、皆さんはあとに続いてください」
ケアルが先にのぼるのは、縄梯子が安全かどうか確認するためでもあった。縄梯子は風や雨、それに鳥などによってすぐに痛む。定期的にかけ替えてはいるが、大切な客人たちにのぼってもらうのだ、気をつかってつかいすぎることはない。それにケアルが先にのぼれば、彼らも安心してのぼっていけるはずだろう。
しかし、スキピオが言った通り、こういったことには慣れているのか、彼らはケアルよりも素早く縄梯子をよじのぼった。
最後に船員がひとり残り、たらしたロープで持ってきた荷物を引き揚げる。ケアルの翼もこのとき、彼らの荷と一緒に引き揚げられた。
荷のあと最後のひとりが縄梯子をのぼってきて全員がそろうと、ケアルは自分の翼を担ぎ、彼らの先に立った。
縄梯子をのぼった崖上は、舟によって島から運ばれた海産物や、他領から持ち込まれた農産物・鉱物などの荷がならべられるように、石畳《いしだたみ》が敷き詰められ平らになっている。それらの荷は、主計官によって検察をうけたあと、荷揚げ人夫たちが背負って、あるいは驢馬《ろば》の背に乗せ、急な坂と階段が続く道を通ってそれぞれ公館や商入館へと運ばれるのだ。
領内でも領主の公館に近いここでは、日中いつもなら人夫たちや物売りが行き交い、子供たちが走り回り、騒がしいことこのうえない。特に舟が着いたとなれば、階段も坂道も人の姿があふれかえるものである。
ところが今日は、いったいどうしたことなのか。通りには人影はなく、家々も扉や窓を閉めきり、街中はひっそり静まりかえっている。
ここからはまだ、黒い巨大な三隻の船は見えないはずだ。あわただしい公館の様子になにごとかあると察したのか、それとも公館で働くだれかが人々に異国の客人の到来を知らせたのか。おそらく両方だろうと思われた。何にしても、噂の伝播《でんぱ》はこれほどに早いものかと、ため息をつきたい気分になる。
家々の扉のすき間から、あるいは小さな窓から、じっとこちらを見つめる視線をひしひしと感じた。
好奇心はあるが、積極的に歓迎する気にはなれないということか。
ケアルは、スキピオたちがこのことに気を悪くしなければいいがと、あとに続く彼らを振り返ってみた。だが彼らは、家のつくりや町並みの様子に気持ちを奪われている様子で、視線には気づいた様子もなく、もの珍しげな目できょろきょろとあたりを見回しながら歩いている。
館まで歩いていく間、スキピオはケアルに幾つかの質問を向けた。
「このライス領――ですか、こちらには住民はどれぐらいいるんですか?」
「――そうですね。一万人たらず、といったところです」
ケアルの応えに、スキピオはうっすらと目を細めた。それが少ないと思っての表情なのか、それとも思ったより多いと考えての表情なのか、ケアルにはわからなかった。
「それにしても、ここの家はどれも壁から屋根まで真っ白なんですね?」
「ああ。それは、このへんで採れる石が白いものばかりですから――」
「へぇ。私はまた、空を飛んでいて目印になりやすいのかな、と思いましたが?」
「いえ、それはないですよ。ただ公館の屋根だけは、他領から伝令が来たとき目印になるように青い染料で塗ってあるんです」
「なるほど。そういえば沖からも見えましたね、青い屋根が。こうして街中にいると、わかりませんけれど」
言いながらスキピオは仰《あお》のくように顎をあげ、急な坂道を見あげた。そしてふと坂の途中に目をとめ、
「あそこは、何ですか?」
建物のない、崖にむかってせり出した岩棚を指さした。
「翼の発着棚です。あそこから翼で飛び立ったり、着陸したりするんです」
「あんなところから?」
大きく目をみひらき驚いた様子のスキピオに、ケアルは少しだけ誇らしい気分になった。
「ええ。翼の幅三つぶんの長さがあれば、子供だって飛び立てますよ」
「それはすごい。ちょっと寄ってみてもいいですか?」
感激した面もちで言われては、断ることなどできるはずもなく、ケアルは沈みつつある陽を気にしながらも彼らを案内することになってしまった。
館の前庭よりかなり狭い岩棚に着くと、スキピオは船員たちに両手をひろげて横幅いっぱいに並ばせた。また縦方向にも船員たちを順繰りに並ばせた。
おそらく岩棚の広さを測っているのだろうと思ったが、なぜスキピオがこんなものを測る必要があるのか、ケアルには想像さえつかなかった。
寄り道したこともあり、一行が館に着いたのは、夕陽がゆらゆらと揺れながら沖合いの海へ沈みかける寸前だった。まだ空は明るさを残していたが、遠来の客人を歓迎するように、館じゅうの明かりが点されていた。
明かりを背に領主ロト・ライスが現われたのを目にして、ケアルは身体の力がぬけるほど安心した。そうして初めて、自分がひどく緊張していたことに気づいたのだった。
いちばん早く使いを寄越したのは、ライス領と南接するマティン領の領主だった。
危険な夜の飛行を強行したのだ。月の明るい夜だからできたことであり、また館じゅうに夜中ずっと明かりを点していたからこそ、もっとも難しいといわれる着地に成功したのだろう。
翌日の昼すぎには、北接するギリ領から領主の長男がやってきた。
ウルバ領とフェデ領からの使いが到着したのは、翌々日の夕刻になってからだった。
ケアルは、スキピオたちを案内した時点で任を果たしたことになり、かれらを歓迎する宴《うたげ》の末席にやっと加えてもらえた以外、各領から使いが到着するたび開かれた話し合いにも同席を許されることはなかった。
それでも、いつ父から用をいいつかってもいいようにと、ケアルは館を出ることなく待機し続けた。
スキピオたちがいったん船にもどったのは、三日目の朝のことだった。そして各領からの使いも、その昼にはそれぞれの知らせをたずさえて領主たちのもとへ帰っていった。
館に客人がいなくなると、ケアルは三日ぶりに翼を前庭へと引き出した。父から譲られた翼を私用に使うのは気がひけ、古い翼のほうを使うことにした。
行き先は、エリの島だった。
「このっ、バカやろうっ!」
ケアルの顔を見るなり、エリは泣きだしそうな表情でそう怒鳴った。
「オレはずっと待ってたんだぞ! ずっとずっと、朝から晩までおまえが来るのを待ってたんだぞ!」
責められてケアルはやっと、すぐもどってくると約束したことを思い出した。
「――すまない」
「そこで素直に謝んなよ! おまえに謝られたら、まるっきりオレが、駄々《だだ》こねるガキみたいじゃねぇかよ!」
そう言われてはもう謝ることもできず、ケアルは途方にくれて、顔を真っ赤にして怒ってみせるエリを見つめる。
ひとしきり悪態をついて、それなりに気が晴れたのか、やがてエリは翼をロープで固定する作業を手伝いはじめた。
しばらくふたりは黙々とロープを扱っていたが、やがてエリがふいに、
「なんかさ……昨日から、だれも漁に出ないんだ」
つぶやくような口調でそう言った。
「そういえば、ここまで来るのに、一隻も漁に出た舟を見なかったな」
不思議に思ってはいたのだ。ここ三日ほど天候は好く、この季節にしては風もさほど強くない状態が続いている。漁に出るには最適の状況のはずだ。
「ケアル……」
唐突にエリが作業の手を止め、どこか痛いところがあるような顔をしてケアルを見つめた。
「どうした?」
ケアルもまた手を止め、親友を見返す。
「あのさ……、あの……」
口の中でぼそぼそとつぶやきかけたエリだったが、すぐに小さくかぶりをふって傭き、ケアルの腕を掴みしめた。
「なんだ? なにかあったのか?」
見おろせば、痛いほどに腕をつかむエリの手が細かく震えている。
ケアルはかすかに眉をしかめると、親友の震える手に手を重ね、もう片方の手でぽんぽんとエリの肩をたたいた。
「なんか……みんなが、ヘンなことばっか言うんだ……」
俯いたまま、エリはつぶやく。
「なにか言われたのか?」
「オレ、なんにも言い返せなくてさ。どうしたらいいのか、わかんなくてさ」
熱に浮かされたようにつぶやくエリに、ケアルはそれ以上問いかけず、辛抱強く、母親が我が子をなだめるように親友の肩をたたき続けた。
やがてエリはゆっくりと顔をあげると、泣きそうな目をしてケアルを見つめた。
「みんなが漁に出ねぇのは、あの舟のせいなんだ。それどころか連中、浜にさえも出ようとしねぇ」
「どうして――?」
「なんかさ……昔、すげぇ昔なんだけど、どっかの島に舟が来たことがあってさ。そんとき、舟のやつらが水を分けてくれって言ってきたんだって。当然だけど水ったって、椀に一杯や二杯ってわけじゃねえ。でっかい樽に幾つも欲しいってんだ」
「それは――」
無理な要求だな、とケアルはエリの言いたいことを察してうなずいてみせる。
水は島人たちにとって、共有の財産、貴重品だ。水源のない島では、風車を使って地中深くから水を汲みあげなくてはならない。雨の少ない年など、その井戸さえ涸《か》れる。
「だからその島の連中、水を分けてやることはできないって断ったらしいんだ。そしたらさ、その夜のうちに集落が襲われて……」
「――水を奪われた?」
エリは低い声で「ああ」と応えた。
「そんで……抵抗した島人はみんな、殺されたって……」
ひくっと息を飲みこみ、ケアルはエリの顔を見直した。耳は確かにエリの声を聞いてはいるのに、声を言葉として認識するまでに時間がかかった。そしてまた、その内容を頭が理解するには、この三倍ほど時間が必要だった。
「そんな話、信用できねぇって、オレ言ったんだけどさ。じじいどもはホントの話だって言い張るし、おとなたちも昔に聞いたことあるって言うし――。オレがなに言っても、だれも信じてくんないんだ。オレが言うことなんか、聞いてくれねぇんだ。そしたらもう、オレ、なんも言えなくなってさ」
ずっとずっと苦しかったのだと、エリは胸をおさえて訴える。
「なあ、あんなの嘘だよな? デルマリナのひとたちがそんなこと、するはずねぇよな?」
すがりつくように問われて、ケアルはスキピオたちを公館へ案内したときの街の様子を思い出した。
上の人々は、まだ船を見ていない。だのに異国の客人に対し家の扉を閉ざし、窓の隙間からスキピオたちを窺《うかが》っていた。あの巨大な船を目にした島人たちなら、遠来の客人たちを恐れても仕方ないかもしれない、と思える。けれど、そんな噂は論外だった。
「ああ。そんなこと、あるはずない」
ケアルはうなずいてみせたが、うなずくまでにわずか間があった。するとエリは不安そうな目で「ほんとに?」と繰り返し問う。
「絶対に」
すぐさまうなずき、さっき以上にきっぱりと否定してみせると、エリはじっとケアルの顔を見つめ、やがて力がぬけたようにその場にしゃがみこんだ。
「おい、どうした?」
「――よかったぁ……」
膝《ひざ》を抱えてエリは、深く息をつく。
「オレ最初は、そんなこと絶対ねぇって確信してたのにさ、だんだん自信なくなっちゃって。そしたらもう、なんか自分が情けなくなってきてさ」
気持ちはわかると、ケアルはうなずいてみせる。
「おまえに違うって言ってもらって、なんかすげぇほっとした。ほんとは母ちゃんにそう言ってほしかったんだけどさ、母ちゃん、黙って首ふるばっかで……」
「エリの母上も本当はきっと、そんなことは信じていないさ」
「そうかな?」
「ああ。ただ怖がっているんだろう、みんなと違う意見をのべて、異端視されることを――」
「イタンシ……? 仲間はずれにされるってことか?」
「まあ、そういう意味だ」
そうかとうなずいたエリは腕を組み、地面をにらみつけた。
島は大小の差があっても、それぞれ島ごとが運命共同体だといえる。集落はまるでひとつの家族で、水や食料、そして舟を共有している。集落を離れた者はおそらく、生きてはいけないだろう。苛酷《かこく》な自然の中で暮らす島人たちにとって、仲間たちからつまはじきにされることは、最も恐ろしい罰にちがいない。
「なんかさ、みんな集落にこもってビクビクしてるもんで、ヘンなことばっか考えちまうみたいなんだよな」
「変なこと?」
「舟の連中が、もうじき島に上陸するとか。島の男たちを皆殺しにして、女だけ連れて帰るつもりだとか」
くだらねぇよなと吐き捨てるとともに、エリは自信のない己をもそこに放り捨てたように、勢いをつけて立ちあがった。
「それから。おまえの親父があの舟を欲しがって、島十個と舟を交換することに決まったらしい――ってな噂もあったぜ」
「父はそんなことはしない」
硬い声でケアルが言うと、エリは片眉をあげて、
「怒るなよ。オレが言ったんじゃねぇぜ。噂なんだってば、噂」
「そんな噂は、困るよ」
「まぁな。でも、そういう噂がいくらでもわいて出てくるぐらい、みんなビビってんだ。舟にいちばん近い島なんか、みんな逃げ出して、もう誰もいねぇって話だぜ」
その言葉にケアルは、眉をひそめた。
「あそこには、五十人以上の島人がいるはずだぞ……?」
もちろんその五十人の中には、老人や幼児も含まれる。だが、その島に舟は三隻しかない。全員が島を出るには、少なくとも十隻の舟が必要だろう。
「それがさ、最初の夜に五人ぐらいの男が舟でこっそり逃げ出したらしいんだ。そしたらもう、あとはバタバタって感じで。舟に乗れなかったやつは、夜中に泳いで逃げたって噂だぜ」
「なんだ、それも噂なのか」
「ああ。だけどこれって、すげぇありそうな話だと思わねぇか?」
エリ、とケアルは咎《とが》める目を向けた。
「噂などあてにならないと、わかってるのだろう? なら、噂に振り回されるな」
「べつに振り回されちゃいねぇよ。たださ、今んとこはまだ噂だけみたいだけど、そのうち現実になりそうだって思うんだよ」
この島だって、とエリは眼下の海原を指さした。
「もしそこにあの舟が三隻も浮かんでたら、みんな絶対に島を逃げ出すぜ」
「家を、島を捨ててか?」
「死んじまったら、家も島もねぇだろ。でも生きてりゃいつかは、帰れるかもしれねぇんだもんな」
苦い笑みを浮かべてそう言ったエリを、ケアルは返す言葉もなく見つめた。親友がなにを思ってそう言ったのか、長い付き合いなだけに察することができる。ふたりは他の誰にも言えないようなことを、お互いに告白しあってきた。
暗くなった空気を変えたいと思ったのか、エリはふいにぽんと手をたたき、
「ああ、そういや母ちゃんが、こないだくれた山羊《やぎ》の乳の礼がしたいって言ってた」
「礼なんて、いい」
「気にすんな。どうせ、たいしたことはできねぇんだからさ。それよか、今日はゆっくりできるんだろ?」
ことさら明るい声でたずねるエリに、ケアルは「たぶん」とうなずく。
「なんだぁ、はっきりしねぇな?」
「館の中がまだ、落ち着いていない。いつ父から用をいいつかるか、わからない」
「そうか。でもおまえは、来てくれたんだな……。さっきはガキみたいに拗《す》ねて、おまえを責めて――悪かったな」
「いや――」
約束をたがえたのは自分だからと、ケアルはかぶりをふってみせた。
「母ちゃんが待ってる。早く行こうぜ」
翼をロープで固定し終えて、ふたりは島の集落へ向かった。
いつもは人の声が絶えない集落が、今は不気味なほど静まりかえっていた。
「ずっと、こんなんだぜ」
先に立つエリが、あきれたように肩をすくめてみせる。
「用があって外に出るときも、足音たてないようにコソコソしてさ」
「子供の声も聞こえないな」
「だろ。ガキが泣くと、寝床に押しこむんだ。ガキの泣き声なんか、あの舟まで聞こえるはずねぇのにさ」
「風車も、止めたのか?」
地下水をくみあげる風車が、風はあるのに回っていないのを見て、ケアルはたずねた。よく見れば、風車の羽根がロープで固定されている。
「そうだよ。臆病《おくびょう》なやつほど、こういうことにはうるさいんだ」
「だが、これでは水が……」
「ああ。そろそろ、やばいな。うちも、たぶんあと一日ぶんしか水の蓄《たくわ》えはねぇよ」
思った以上の状況に、ケアルは眉をひそめた。
水がなくては、ひとは生きていけない。小さな子供でも、それは知っている。つまり彼らにとってデルマリナからの船は、水がなくなることよりも恐ろしいのだ。
(なんとかしなければ……)
自分にできることはないかと、ケアルは死んだような集落をながめやった。
久しぶりに会ったエリの母親は、ひどく面やつれして見えた。
「こんなむさ苦しいところに……すみませんねぇ」
「いえ。それより、お加減がまだ悪いのではないですか?」
ケアルがたずねると、彼女は「とんでもない」とばかりにかぶりをふってみせる。すると横からエリが、
「そりゃ一日中、外にも出ず家ん中にとじこもってたら、顔色も悪くなるさ」
「だって、おまえ……」
「近所のやつらが、うるさいんだよな。物音をたてるな、出歩くな、煮炊きに火をつかうな――ってな」
すみません、と彼女はふたたびケアルに頭をさげた。
「火を使えないので、なにも作れなくて」
「そんな、気をつかわないでください」
あわててケアルは、胸の前で軽く手をふってみせる。
「そうそう、気にするなって」
言ってエリは、石づくりのテーブルの下から壺《つぼ》を取り出した。
素焼きの壺は小ぶりで、上部には布をぴんと張って蓋《ふた》としている。エリがその布をはずすと、甘い芳香があたりに漂った。
「これがありゃ、他になにもいらねぇよ」
やるだろ、と壺をしめされて、ケアルは苦笑し、かぶりをふった。
壺の中身は、穀物《こくもつ》を醗酵《はっこう》させてつくった酒だ。どこの家庭も、自家製の酒を保存している。用途は主に、怪我《けが》の消毒と病気のときの薬がわりなのだが、祝い事があれば人々は自分の家の酒を持ち寄って杯をくみかわす。
「なんだよ、飲まないのか?」
「飲んだら、飛べなくなる」
「ひと晩ありゃ充分、醒《さ》めるさ」
ほらほらと勧められ、ケアルは仕方なく一杯だけならと、杯を受け取った。
母親が奥へ引っ込むと、エリはテーブルの上に身を乗り出してきた。
「――で、さ。あの舟はやっぱ、デルマリナから来たのか?」
「ああ、そうだ」
「なにしに来たんだ?」
「わからない。父に命じられて、船の代表だという男を館まで案内しただけだから」
「そいつと話ぐらいしただろ?」
ケアルがうなずくと、エリは目を輝かせ、ますます身を乗り出した。
「どんな話したんだ? どんなやつだったんだ?」
「父から預かった手紙を渡した。礼儀正しい、もの腰のやわらかな男だったよ。話は――翼のこととか、職人のこととか……」
「それから?」
「領内には住民がどれぐらいいるのか、などということも訊かれたな」
ぽつぽつとケアルが不器用に語ると、もっとすごい話をしなかったのかよ、とでも言いたげにエリは唇《くちびる》をとがらせた。エリの期待する気持ちは理解できるケアルだったが、話をおもしろおかしく語ったり、嬉しがらせを言ったりすることは苦手だった。
けれどケアルはふと、スキピオたちを案内した日の夜、ロト・ライスにも同じように彼らどどんな会話を交わしたか訊ねられたことを思い出した。父は息子の報告を聞いて、ひどく興味をそそられた様子だった。そのときスキピオがどんな表情をし、どんな反応をしめしたのかなどとと、どうしてそこまでと思うほどこと細かに訊ねられたのである。
「――他には? たとえばさ、何しにここまで来たのかとか、ちょっとぐらい喋《しゃべ》ったんじゃねぇの?」
ケアルにただ喋らせておいたのでは埒《らち》があかないと思ったのか、エリはおそらくいちばん訊ねたかっただろうことをきいてきた。
「いや、それは――話題にもならなかった。父や各領からの使いの者とは、そんな話もしたのだろうけど……」
自分のせいでもないのに、ケアルは心底申し訳ない気持ちになってかぶりをふる。だがその応えにエリは軽く目をみひらき、
「へぇ。よその領から、使いが来たのか?」
「父が、各領に伝令を飛ばしたらしい。すべての領から、使いが来たよ」
「――ってことは、やっぱ何かあるな」
ふむ、とエリはもっともらしく顎を撫でながら上目づかいにケアルを見やった。
「とは思うが、話し合いには同席させてもらえなかったので、内容まではわからないよ。けれど父は、デルマリナから船が来たと知ったとたん、ある程度のことは予想がついていたみたいだ」
「だな。でなけりゃ、ぜんぶの領に伝令を飛ばしたりはしねぇだろうからさ」
うなずきながらエリは、ぐいっと杯をあおった。
「で、さ。舟はあとどれぐらい、あそこにいるんだ?」
「わからないが、しばらくは滞在するはずだと思う。たぶん、いったん各領にもどった使いが、もういちど館にやって来るまでは」
ひょっとすると、次に来るのは使いの者ではなく、各領の領主たちかもしれないと、ケアルは推測している。
「んじゃ、あと三日から五日はいるな」
考えこむように腕を組み、エリがつぶやいた。と、そのときだった。
静まりかえっていた外が、ふいにざわつきはじめたのだ。
「なんだぁ……?」
エリも気づいて、不審げに顔をあげる。
複数の人間が会話する声だった。それも世間話をしているという様子ではなく、あわただしく言葉が飛び交っている。
奥にいたエリの母親も気づいたのだろう、遠慮がちに出てきた。
「いいよ、オレが行く」
エリは母親にそう言いおいて立ちあがり、腰をかがめて外に出て行った。
外から聞こえる声は、どんどん人数が増えていくようだ。
島でなにか問題が起こったとき、原則的にその島の者たちの間で解決することになっている。ケアルはここでは、完全なよそ者だ。領主の指示がない限り、手出しも口出しもできない。
そう考えておとなしく座っていたケアルだったが、ざわめきに怒鳴り声がまじるに到って、そろそろと腰をあげた。
「争いごとなんて、いやだよ……」
エリの母親は不安をかくしきれない様子で、ケアルの隣で両手をもみしぼっている。
完全に立ちあがったケアルが出口に近づくと、ひょいとエリが顔をのぞかせた。
「ケアル、ちょっと来てくんねぇか?」
そう言われてケアルは、軽く目をみひらいた。
「出て行ってもいいのか?」
「みんなが、おまえに来てほしいと言ってんだ」
「――わかった」
腰をかがめて外に出ると、集落の下のほうに、どこからこんなにと思うほど人々が集まっていた。
「なにがあったんだ?」
先に立ち、坂道をおりていくエリにたずねると、
「例の噂――島を逃げ出した連中が、この島へ来たんだよ」
「なんだって……?」
噂にすぎないのではなかったのか、とケアルは目をみひらく。
「あの噂に限っちゃ、ホントだったみたいだな」
くいっとエリがしめした先に、それらしい人々がいた。服装は汚れ、疲れはてた様子で、背中に家財道具を担いでいる者もいる。
「最初は隣の島へ逃げ込んだんだけどさ、そこを追い出されて、そのまた隣の島へ移って――けどまたそこも追い出されて。なんか島から島へ、渡ってきたらしいぜ」
「なぜ追い出されたんだ?」
「そんなもん、決まってんだろ。どこの島だって、よそ者をあんなにたくさん、受け入れる余裕なんかあるはずねぇよ」
吐き捨てるようなエリのことばにケアルは、水の蓄えも尽きかけていると言っていたことを思い出した。
近づくと、怒鳴り声が聞こえた。人々はふたつの集団に分かれ、対峙《たいじ》しあっている。
怒鳴っているのはほとんどが、この島の住人たちだ。逃げてきた人々のほうは、言葉を返すことさえままならない様子で、かろうじて代表者らしき男が必死になにか訴えかけていた。
「ケアルを連れて来たぜ」
エリの声に、人々が振り返った。
皆に背中を押されて、ケアルは集団のほぼ真ん中へ引き出された。
この島の人々は、エリに会うため頻繁に島を訪れるケアルの顔をよく知っている。だが、逃げてきた人々のほうは、そうではなかった。いきなり引き出された若造に、不審げな目を向けてくる。
「こいつは、ケアル・ライスだ」
戸惑うケアルにかわって、人混みを押し分けて出てきたエリが、彼らに宣言した。
「――というと、領主さまのとこの?」
うなずくケアルの隣で、エリが胸をはって前に進み出た。
「そうだ。ライス家の、三男坊だ。こいつが間に入るんなら、問題ねぇだろ」
「そりゃ……まぁな」
うなずきながらも彼らはまだ、ケアルが本物かどうか判断がつきかねる様子で、じろじろと不遠慮な視線をおくってくる。
「おまえらには信じられないだろうけどな。こいつはあの、デルマリナから来た舟に行ったんだぜ。領主さまのお使いでな」
エリが言うと、ケアルを中心にしてあたりにどよめきがおこった。それを満足そうに見回して、エリはケアルの肩をたたく。
「ほら、言ってやれよ」
「言うって、なにをだ?」
「決まってんじゃねぇかよ。あの舟は怖くなんかねぇんだから、さっさと自分らの島へ帰れって、そう言ってやれ」
エリの言葉にいったんはうなずきかけたものの、ケアルはしばらく逡巡《しゅんじゅん》した。
簡単にそう言ってしまって、いいのだろうかと思ったのだ。もちろん、エリの言うことは正しい。船員たちは荒っぽいが、スキピオのもと、統制がとれている。理由もなく島人に危害をくわえるようなまねは、決してしないだろう。
だが――ここでケアルが何を言ったとしても、彼らの恐怖心はなくなりはしない。家を捨て島を捨てて逃げだしたほど、彼らの恐怖心は強いのだ。
たとえ無理やり彼らを島へ帰したとしても、船があそこにとどまっている限り、すぐまた彼らは逃げ出すことだろう。
(ただ帰すだけでは、根本的な解決にはならない――)
いっこうに口を開こうとしないケアルに、焦《じ》れたらしいエリがさりげなく足を蹴飛してきた。
わかった、とエリに目線で合図し、ケアルは人々を見渡した。ざわめきがおさまり、人々は口をつぐんでケアルの言葉を待つ。
「みんな――しばらく待ってもらえないだろうか?」
どういうことだ? という顔、顔、顔。
「いまから父に、あなたがたのことを報告してくる。父から指示をあおぐつもりだ。指示があるまで、避難してきた皆さんはここにしばらくとどまって――」
「バカなこと言うなっ!」
ケアルが言い終えないうちに、この島の人々から抗議の声があがった。
「うちの島にゃ、よそ者を入れてやる余裕なんかねぇ」
「そうだ、そうだ。よそ者にわけてやる水も食いもんもねぇよ」
「待ってください!」
ケアルは声をはりあげる。
「なにも、ずっとこの島にいてもらう、というわけじゃないんだ。父から指示をもらってもどるのに、半日かかる。その半日だけ、彼らを受け入れてほしいと言っている」
「ほんとに半日ですむのか?」
不審そうな声が、この島の人々の間から飛んできた。
「半日が一日になり、一日が十日になるってのは――よくある話だ」
「必ず、半日でもどる」
「もどってきて『あと十日、待ってくれ』って言ったりしてな」
乾いた皮肉な笑いが、そこここからもれた。
「十日ならまだいいけどな。ずっと、だったりしちゃ目も当てられねぇぜ」
「いや、十日でも無理だ。十日たつより先に、わしらが飢えてしまうさ」
あくまでも頑迷に、よそ者は受け入れられないと言い張る人々にケアルは、たかがこれだけの説得さえできない自分を情けなく感じた。
なにも言えなくなったケアルの横で、ふいにエリが声をあげた。
「いいじゃねぇかよっ!」
怒っているような、声音だった。
ケアルがうかがい見ると、エリは顔を紅潮させ、ぎらぎらとした目で島の仲間たちをにらみつけている。
「たかが半日だ、待ってやろうじゃねぇかよ!」
「エリ、おまえは黙ってろ!」
「そうだ。まだ半人前のくせに、口をだすんじゃねぇっ!」
たちまち仲間たちから怒声をあびせかけられたが、エリは黙ってはいなかった。
「もしかしたら、逃げなきゃならねぇのは、オレたちだったかもしれねぇんだぞ! 舟にいちばん近い島は、この島だったかもしれねぇんだぞ!」
いまにも泣きだしそうなエリに気圧《けお》されてか、次第に怒声もおさまりはじめた。
「半日だけ待って、そんで――ダメだったら、そんときにまた考えりゃいいだろ! 出て行ってもらうのは、半日後も今も、たいして変わりはねぇじゃんかよ!」
エリの言葉に、この島の人々が互いに顔を見合わせている。
「そりゃ……まあ、そうだな」
「ここは坊の顔をたてて、半日だけ待つことにして……」
視線を向けられ、ケアルは感謝をこめてうなずいた。
「半日だったら、水とか食いもんとか、わけてやらなきゃならねぇってこともないだろうしな」
「それに――おい、あの舟の詳しい話も聞けるかもしれねぇぜ」
皆の雰囲気は、避難してきた人々を半日という限定つきではあるが、受け入れるほうへと傾きつつあった。
ほっと息をつき隣を見ると、エリは肩をふるわせ唇を一文字にひきむすんで、潤《うる》んだ目で地面をにらみつけていた。ケアルは助けてくれた親友の背中を、ぽんぽんとたたく。
「エリ、ありがとう」
「そんなんじゃねぇよっ」
感謝を伝えたとたん、背中にまわした腕を振り払われた。
「エリ……?」
「なんでおまえ、言ってくれねぇんだよ。舟は怖くない、って。デルマリナのひとたちはオレらに、悪いことなんかしねぇ、って」
「それは…………」
ケアルは口ごもった。味方をしてくれたはずのエリがなぜ、こんなに怒っているのかわからない。
だが、その理由はやがて、この島の人々の間から聞こえてきた、小さなけれど吐き捨てるような声で、はっと気づくこととなった。誰が言ったのかもわからない声だ。
「――よそ者の血が半分まじってるようなやつは、結局よそ者の味方をしやがる」
思わず振り返って見なおしたエリに、その声が聞こえたのかどうか、ケアルは親友のきつい目をした横顔からうかがい知ることはできなかった。
客人は去ったはずなのに、館のあわただしい雰囲気はおさまってはいなかった。
さっき廊下で行き違った男は、確かギリ領でもっとも速いと言われる伝令だ。前庭に引き出されていた見知らぬ二機の翼のうち、一機はその伝令の翼だろう。
もう一機は誰の翼なのか、扉を開け放たれた執務室の前に立って、ケアルは知った。
部屋の中では、父とふたりの兄が頭をつきあわせており、やや離れた椅子にはマティン領の紋章を衿のところにつけた伝令が、身じろぎひとつせず待機していた。
伝令がいるうちは父に報告することもできないと考え、いったん執務室を離れようとしたケアルを、最初に気づいて見つけ、声をかけてきたのは父そのひとだった。
「どうした? なにか用があるのか?」
返事をする前に兄たちが振り返り、露骨《ろこつ》に苦々しい顔をした。ふたりは視線で合図しあうと、下の兄が父に「失礼」と言い置いてから、肩をそびやかすようにケアルの前にやってきた。
「おい、なにしに来た?」
「父上に至急、指示をあおぎたいことがあるので――」
「ふん。また、点数|稼《かせ》ぎか? おまえ、ライス家の紋章が入った翼をもらったんだろ。それでも足りないってのか?」
「そんなつもりはありません」
はっきりと否定し、ケアルは部屋の中へちらりと視線をやった。
マティン領の伝令は、兄の声が聞こえていないのか、それとも聞こえないふりをしているだけなのか、こちらに興味をしめした様子はない。父は兄にまかせてそれでよしと思っているのか、書類に目をおとしている。
「お客さまの用が済むころに、もういちど参ります」
「そうそう、そうしろ。さっさと行け」
にやにや笑った兄に、家畜《かちく》でも追い払うように手を振られた。
だがケアルが一礼し、その場を去ろうとしたとき、ふたたび部屋の中から父が呼びかけてきた。
「待ちなさい。何か用件があるんだろう」
「ですが、お客さまがいらっしゃっているようなので――」
遠慮するケアルの前でロト・ライスは、手にした書類を上の兄に渡した。
「こっちの用件は、これで終わりだ。構わないから、入ってきなさい」
長兄は書類に封をし、待機していた伝令に手渡す。伝令はそれを大事そうにおし戴《いただ》くと、革のベルトがたくさんついた飛行服の内ポケットに入れ、立ちあがった。
「レグ・マティンどのによろしくお伝えしてくれ」
父が声をかけると、伝令はうなずいて一礼し、ケアルと次兄にも軽く黙礼しながら部屋を出ていった。
次兄が苦々しい顔で、顎先をまわして中へ入れと促す。
「――失礼します」
ケアルはどんなふうに報告すべきか考えながら、父の前にすすみでた。
島であったことをかいつまんで、だができるだけ正確に報告した。
「そんなもの、放っておきゃいいんだ」
すぐさまそうもらしたのは、次兄だった。
「こっちは、それどころじゃないんだ。島人みたいな無知な連中を、いちいち構ってなんかいられるか」
「ですが、このままではそのうち、大きな争いに発展してしまいます」
「争いたきゃ争わせておけばいいんだよ」
「兄上……!」
思わず声をはりあげたケアルを、次兄は忌々《いまいま》しげににらみつける。
「待ちなさい、ふたりとも」
軽く手をあげて父がふたりを止めた。
「確かにそれは、放ってはおけないな。それに領民の漁場を守ることは、領主としての責務だからね」
父が言うと次兄は、ふてくされたように顔をケアルからそむけた。
「で、おまえはどうすればいいと思う?」
視線を向けてたずねられ、ケアルは軽く目をみひらいた。
兄たちより先に意見をもとめられたことなど、これまで一度もない。これにはケアルばかりでなく、兄たちも驚いた様子で、執務机の前に深く腰かけた父を見返している。
「実際に見てきたのは、おまえだ。実情を把握しているおまえの意見が聞きたい」
父はそう言って兄たちを牽制《けんせい》し、ケアルの顔をのぞきこんだ。
「おれは――かれらを、もといた島へ帰してやるのがいちばんだと思います」
「なるほど。しかし、帰してもまたすぐ逃げ出すぞ?」
「はい。だから、逃げ出さないですむような環境にすればいいのです」
「というと――?」
顎の下で手を組み、ケアルを見つめる父の目は、どこか楽しそうだ。
「デルマリナの船を、動かせばいいと考えます」
「ばかなことを言うなっ!」
いきなり横から口をだしてきたのは、次兄だった。
「そんなこと、できるはずないだろう!」
「どうしてですか?」
兄を見つめ、ケアルは首を傾ける。
「相手は、デルマリナだぞ! そんな簡単にいくか!」
「島を動かすわけじゃありません。船を動かすなんて、簡単なんじゃないですか?」
「おまえ……っ!」
怒鳴りかけた兄をさえぎったのは、父のくすくすと笑う声だった。
「確かに、簡単なことだな。彼らにとって船を動かすのは、我々が翼をあやつる以上にたやすいことだろう」
「父上、しかし……」
上の兄があわてた様子で口をはさんだが、父は軽く手をあげてそれを制した。
「これから毎日、船を停泊する場所を移動するようにと、あの船団長に伝えよう」
「理由はどうするのですか? まさか、島人が怖がるので船をどけてほしい、と正直におっしゃるつもりなんですか?」
だが次兄は黙っていられないのか、身をのりだして父を問い詰めた。
「そうだな。では、島人たちの漁のじゃまになるからと言うか」
「そんな理由では、むこうが納得するはずないでしょう!」
「してもらわねばなるまい。さっきも言ったように、領民の漁場を守ることは領主のつとめだからね」
そのためなら私はいくらだって頭をさげるよ、と笑って言いながらロト・ライスはペンをとりあげた。
「これはケアル、おまえが船団長のもとへ届けなさい。島人たちにはおまえから、安心して帰れと伝えるように」
ペンを走らせながら、父が言う。
「――はい」
したため終えた書状を手渡され、ケアルは先ほどの伝令のように丁寧に、飛行服の内ポケットにおさめた。
一礼して執務室を出ると、すぐあとから下の兄がケアルを追いかけるように廊下へ出てきた。
「おい、待て」
低い声で呼びとめられ、振り返る。
「おまえは自分のしたことを、わかっていないようだから、教えてやる」
近づいてきた次兄は、ケアルの肩をつかみ壁へ押しつけた。
「いま父上たちは、デルマリナと交渉の真っ最中なんだ」
「交渉って……?」
軽く目をみひらいて、ケアルは兄の顔を見直した。
「おまえのおかげで、デルマリナのやつらに頼みごとなんかするはめになった。もし対等な交渉ができなくなったら、おまえのせいだぞ」
「どういう意味です……?」
「おまえが足をひっぱったんだ。忘れるな、おまえのせいなんだぞ」
言いたいことだけ言ってしまうと、次兄はケアルを突き放し、ふたたび執務室へもどっていった。
ケアルはしばらく、執務室のほうをながめていたが、やがて壁から離れ、乱れた飛行服の衿もとを直した。
いますぐにでも執務室へとって返し、交渉とは何のことなのか、自分のした提案が父にとって不利をまねくことなのか、たずねたいと思った。だが、それをしている時間はない。どうしても日暮れ前には、デルマリナの船に着かなくてはならなかった。でなければ、約束の半日以内に島までもどれない。
(いまは、こちらのほうが先だ――)
そう決めて、ケアルは前庭へと急いだ。
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第二章 水の都
幾艘《いくそう》もの小舟が、運河を進んでいた。
どの舟にも、黒い喪服をつけた老若男女が乗っている。誰もが悲痛そうな顔をし、そばにいる者と時おり交わす声も小さい。
先頭をゆく舟には、黒い棺《ひつぎ》が据えられている。棺の横に立つのは、黒いヴェールで顔を隠した女だ。白く細い手にはレースのハンカチを握りしめ、時々思いだしたかのようにその手をヴェールの内側に差し入れ、涙をぬぐっている。
街中を縦横にめぐらせた運河が交差しあう場所にさしかかるたび、小舟の数は増えていった。これら舟の目的地は、川の中州を埋め立ててつくられた「死者の島」だった。
「おい、あれはピアズ・ダイクンじゃないか?」
最後の合流点で一隻の舟が近づいてくると、それまで神妙にしていた人々の間でざわめきがおこった。
人々の視線の先には、四十をすこし過ぎた男の姿があった。皆と同じく黒い喪服を着てはいるものの、顔には黒い革に金糸銀糸の刺繍《ししゅう》をほどこした眼帯をつけている。筋肉がもりあがった肩の線といい、その眼帯といい、人々の中にあってあきらかに異体だった。
「ああ、そうだ。あんな派手な眼帯をしてるやつは、他にはいないだろうさ」
「しかし、よくまぁ出てきたもんだな」
「ゴッツィのやつ、棺の中から起きあがって怒鳴りだすんじゃないか?」
「かもな。最後までピアズへの恨みごとをまくしたててたって話だからな」
「やつに葬儀に出席されては、死んでも死にきれないだろうよ」
人々がひそひそと言葉を交わしあう中、当の舟は静かに列へ加わった。
乗っているのは、ピアズ・ダイクンとその愛娘、マリナである。商人には見えない逞しいピアズのかげで、十七歳になったばかりのマリナは白く細いうなじを見せ、ひっそりとたたずんでいる。
「おい、未亡人を見ろよ。やつに気づいたみたいだ」
「これは、ひと揉《も》めありそうだな」
これからおこるだろう醜聞《しゅうぶん》に、人々は興味津々で目くばせしあった。
死者の島は、正式にはブラーノ島という名をもつ。だが市民の誰も、島を正式な名で呼ぶことはない。
島には、墓地と墓守が住む小屋があるのみだ。裕福な市民は、死亡するとこの島へ埋葬される。しかし市民の過半数をかぞえる貧しい人々は、舟で沖へと運んだ遺体に重石をつけ海中へ投げこまれた。
ピアズの舟が死者の島へ着いたのは、参列者たちのほぼ最後に近かった。
娘のマリナに手を貸して舟をおりたピアズに、軽く黒い帽子のふちに手をやって挨拶《あいさつ》してきた男がいた。ピアズは心の中で舌うちしながらも、目立たないように目線で挨拶を返した。
「お父さま、いまのかたは?」
だが目ざとい娘は、すぐに気づいてしまったようだ。
「――造船職人の組合長だよ」
声をひそめてピアズが答えてやると、彼女は細い眉を軽くひそめた。
「まあ。この葬儀《そうぎ》に、小アルテの者が来てるなんて……」
ゴッツィは生前、香辛料の貿易を商いとした「大アルテ」のひとつに属していた。
職人や商人たちはたいてい、アルテと呼ばれる同信組合に加入している。そのうち金融や貿易にたずさわる商人たちのアルテは「大アルテ」と呼ばれ、職人や商店主たちで構成されるアルテは「小アルテ」と呼び、区別されるのである。両者に交流といえるものなどなく、マリナが不審に思うのも仕方のないことだといえよう。
「ゴッツィは死ぬ前に、船を一隻、注文したらしいからね。確か、その支払いがまだのはずだ」
ピアズが応えてやると、マリナは小さく首をかしげた。
「では、お金の取り立てに来たのかしら」
「かもしれないが、ゴッツィの未亡人にはもう、代金を支払える財産など残されてはいないだろうな」
「じゃあ、どうするのかしら?」
「船のことかい? たぶん、新しい買い手をさがすしかないだろうね。かなり大きな船だというから、買い手はなかなかつかないと思うがね」
「それなら、お父さまがお買いになればいいわ」
無邪気な娘の言葉に微笑んで、ピアズは人々が集まる島の中央へ向かった。
墓地には等間隔に、白い墓石が並べられている。大人の膝丈ほどの墓石は、故人が裕福であればあるほど凝《こ》った装飾がほどこされていた。
ピアズは長い喪服のすそを気にする娘とともにゆっくりと、墓石の間をぬけていく。葬儀に参列する人々はすでに、ゴッツィの棺を取り囲んでいるようだ。
棺を取り囲む輪を見れば、参列者の社会的地位がよくわかる。それと決められているわけでもないのに、社会的地位が高い者ほど輪の内側に位置するのだ。
輪のいちばん外側で立ちどまったピアズに、マリナが父親の袖を引き、もっと前へ行きましょうと促した。だめだよとかぶりをふってみせたが、気の強い彼女は納得せず、前にいるひとの間に身体をすべり込ませた。
[#挿絵(img/KazenoKEARU_01_075.jpg)入る]
苦笑してピアズが娘を引きもどそうとしたとき、輪の内側から声が飛んだ。
「なぜあなたがそこにいるんですっ?」
ピアズにはすぐ、この女性の声がゴッツィの未亡人のものであるとわかった。
一瞬ピアズは、自分に向かって投げかけられた声だと思った。ピアズの周囲にいた人々もそうだと思ったらしく、まわりの視線が彼へと注がれた。
しかしすぐに、前のほうからざわめきがおこり、未亡人に非難の言葉を投げつけられたのは別の人間だとわかった。
輪をつくっていた人垣がくずれ、やがてその中心にぽつんと、ひとり残された男の姿が目に入った。棺のそばに立つ未亡人の視線はまっすぐ、その男へと注がれている。
男は先ほどピアズに挨拶をよこした、造船職人の組合長だった。
「わ……私は――」
顔を真っ赤にして立ちつくす彼に、未亡人は指をつきつけ、
「小アルテの者などに、そんな前にいていただきたくはありません!」
そうきっぱりと言い放った。
ピアズのまわりでは、この成り行きにひそひそと囁きがかわされる。
「未亡人は見栄っ張りだからな」
「たとえ落ちぶれても大アルテの一員だ、ということか」
「しかしあの男もなぜ、あんな前にいたんだ?」
「身分をわきまえない者は、はっきりいって迷惑だな」
いきなりの非難にたじろいだ様子の彼も、ひそひそと交わされる周囲の声が耳に入ったのだろう。ぐるりとまわりをにらみつけ、最後に未亡人へ視線を向けると、
「私は、ゴッツィとはごく親しい友人だった。故人と親しい者は、前にいてもおかしくないはずだ」
気丈に自分の権利を主張した。
「あなたなどに夫を呼び捨てにされるおぼえはございません!」
「あ……あんただって、私と彼が親しくつきあってたのは知ってるはずだ」
「わたくしが知るかぎり夫の友人は、大アルテの方々だけでしたわ」
そうでしょう? と未亡人はまわりにいる大アルテに属する人々に同意をもとめた。
「そもそも大アルテの者が、小アルテの者と友人づきあいなどできるはずはありません。少し個人的な話をしたからといって、友人になったと思い込むなんて――」
黒いヴェールの奥で未亡人は、侮蔑《ぶべつ》するような笑いを浮かべた。
参列者の間にもくすくすと笑いの波がひろがっていくにおよび、彼の真っ赤だった顔が次第に青ざめていった。
ぎらつく目で彼はまわりを見回し、しぼり出すような声で、
「お……おまえたち全員、いい気になっていられるのも今のうちだぞ」
低い声だったが、離れた場所にいるピアズの耳にもはっきりと聞こえた。
(あのバカ……なにを言い出すつもりだ)
忌々しい思いで男をにらみつけたが、怒りにふるえる彼がピアズの視線に気づくはずもない。
「あと少し……船さえもどって来たら、おまえたちは今日、私を侮蔑したことを後悔することになるんだ」
男の言葉に、ピアズは心の中で舌打ちした。思わず「あの間抜けが」とつぶやいてしまいそうになるのはなんとかこらえたが、表情がつい険《けわ》しくなってしまうのはどうしようもなかった。
「なにを言ってるの、この男は」
未亡人はヴェールの下の口もとに手を当て、穢《けが》らわしいものでも見てしまったように顔をそむけた。
成り行きを黙って見守っていた人々も、もう面白い見物は終わったと思ったのだろう。興味をなくし、次第にざわつきはじめた。
「頭でもおかしくなったのだろう」
「そもそも小アルテのくせに、大アルテのゴッツィと友人だと思い込むなんて」
「じゃあ、最初から頭がおかしいんだな」
どっと笑う声が響き、いたたまれなくなったのか彼は、最後にふたたび周囲の人々をにらみつけると、踵をかえして参列者たちの輪から離れていった。
ピアズのすぐ横を通ったのだが、もうなにも目には入っていないのだろう、彼は見向きもせず通りすぎていった。また合図でもされるかと予想していたピアズは、彼が舟に乗り込む姿を目にしてやっと、安堵《あんど》の息をつくことができたのだった。
そのあと、葬儀はなにごともなかったかのように進み、最後に土中におろした棺に参列者の全員が白い花を投げ入れて無事に終わった。
娘とともに舟に乗り込もうとしたピアズに声をかけてきたのは、葬儀ではもっとも故人の親族たちに近い位置にいた男だった。
「やあ、久しぶりだね?」
「これは――エルバ・リーアどの……」
歳はピアズと変わりないが、エルバは大アルテの中でも重鎮《じゅうちん》だとみなされていた。
財力は大アルテ中、五指に入るだろう。また彼は、大・小アルテで構成される市民の代表機関「人民評議会」の、最高執行機関である「総務会」の一員に名をつらねている。
「きみは最近なかなか、ご活躍のようじゃないか?」
黒い巻毛の下、感情を見せない目を細め、エルバはうすく笑った。
「とんでもありません。どうにかギリギリ、商売ができているような状況ですよ」
「そうかね? 噂では、ゴッツィの持っていた独占権益を買い受けた、と聞いたが?」
「おかげで、借金もふくれあがりました」
「それも次の船が港に入れば、あっという間に返済できたうえ、かなりの儲《もう》けになるんじゃないのかい?」
どうでしょうか、とはぐらかしてピアズもうすく笑った。
ピアズが挑発にはのらないとわかったのか、彼は笑みをひっこめて、
「ところで――きみは先ほどの、小アルテの男とは知り合いかね?」
おそらくそれが用件なのだろう、核心へときりこんできた。
「以前は私も小アルテの一員でしたから、知り合いは大勢いますよ」
ピアズが大アルテの組員となったのは、昨年であった。小アルテの組員だった者が大アルテの構成員になるのは、じつにピアズが数十年ぶり、三人目のことである。
「あの男は確か、造船職人の組合長だったね?」
「少なくとも私が小アルテの一員だったころは、そうでした」
「あの男が言っていたことを聞いたかね?」
「なにか言っていましたか?」
エルバの感情をみせない目が、じっとピアズを見つめた。ピアズも、眼帯をしていないほうの目で、エルバを見返す。
しばらくの沈黙のあと、エルバは心底おかしそうに、くすくすと笑った。
「これまで私は、なぜきみのような出自の者が大アルテに加入できたのか、わからなかったが――。なるほど、今ならよくわかるよ。きみほどのやり手はおそらく、大アルテの中でもごく少数だろう」
「ありがとうございます」
「いや、誉《ほ》めたつもりではないからね。礼にはおよばないよ」
胸の前で軽く手をふると、エルバはピアズのやや後方に立つマリナに視線を移した。
「お嬢さんかね?」
マリナは喪服の裾《すそ》を軽くつまみ、優雅に頭をさげてみせる。
「はい。マリナ・ダイクンと申します」
「綺麗《きれい》な娘さんだ。将来が楽しみだね」
そう言うとエルバは帽子のふちに手をやって挨拶すると、静かに踵をかえした。
舟へ乗り込んで行くエルバの後ろ姿をながめながら、マリナが大きくため息をつく。
「どうした?」
「なんだか、とっても疲れちゃったわ。お父さまとあのひとのお話、聞いてたら」
ピアズは苦笑して、愛娘を見おろした。
「お父さまは疲れなかった?」
「いや、私は楽しかったよ」
「お父さまのお友達なの?」
「私が大アルテに加入したとき、いちど話をしたことがあるだけだ」
「じゃあ、お友達とは言えないわね」
そうだねとうなずきながら、ピアズは娘を促して舟へ乗り移った。
(噂通りの御仁だな……)
先に島を離れていくエルバの舟へ目をやって、ピアズは心の中でつぶやく。
(あの男がいるとわかっていれば、もっと早目に手を打っていたんだがな)
たとえば最初に挨拶を交わしたた時点で、うまいこと言いくるめ、造船職人を葬儀に出席させないようにさせることができたかもしれない。
だが、もう遅い。エルバ・リーアは、あの男の言葉を聞いてしまった。
動き始めた舟の上で、ピアズはひそかに覚悟を決めたのだった。
運河が縦横にはしるデルマリナは、水路に囲まれた小さな島がお互いに橋でつなぎあいながら、今のような巨大な都市を形成してきたといえよう。
島々には運河に沿って櫛の歯状の狭い小道がのび、道が交差するところには必ず「広場」が存在した。広場にはたいてい、深く掘った貯水槽《ちょすいそう》がもうけられていた。雨水が溜められたこの貯水槽から、市民は裕福な者も貧しい者も平等に水をくむことができる。
デルマリナの朝は、人々が水をくみにやってくる広場から始まるのだ。
その朝、水をくみにやってきた女たちのいちばんの話題は、急遽《きゅうきょ》港に集められた五隻の船だった。
「それがさ、全部が全部、船の持ち主が違うんだってんだよ。なのに、一緒に出航の準備をしてるらしいんだ」
「ああ。そういや水売りが、いっぺんに五隻ぶんもの水を集めろって言われて、えらく苦労したってこぼしてたよ」
市民が自由につかえる貯水槽の水は、飲料には適していない。そのため、水売りが船で川をさかのぼり運びもどってきた清水を、飲料として買うことになる。
だが貧しい市民には水を買える余裕はなく、貯水槽の水を飲料としている者も多い。
「でもどんなに苦労したって、それだけ儲かったんなら万々歳ってもんじゃないかね」
「いえるよ。いっぺんでいいから、儲かって儲かって仕方ないって悲鳴をあげてみたいよ」
「ところでその船って、いったいどこへ行くんだろうね?」
「水売りが言うには、かなり長い航海だそうだよ。水樽の数が、いつもの倍いったって話だからね」
女たちは一瞬だけ口を閉じ、それぞれが想像できうる「遠いところ」を思い描いた。
「けど五隻いっぺんとなると、水夫の数も相当なものだろうね。いつ出航するのか、あんた知ってるかい?」
「そんなこと、あたしが知ってるはずないだろ。どうせあんた、水夫が集まってきてるなら、商売ができそうだと思ってるんだろ」
言われた女は「そりゃあね」と笑って、周囲の女たちに同意をもとめる。
「長い航海に出るってなら、陸にいる今のうちにやっておきたいこととか、欲しいものとか、いっぱいあるだろうしね」
意味ありげな言い方に、まわりの女たちはどっと声をあげて笑った。
「そりゃあるだろうけどね。たぶん、あたしたちじゃあ商売できないと思うよ」
「なんでだい?」
「船主が毎晩、水夫たちのために店を借り切ってるんだよ。好きなだけ飲ませて、食べさせて、そのうえ女の世話までしてるって話だよ。タダでいい目みさせてもらえるのに、わざわざ金をつかいに街へ出ようなんて水夫はいないさ」
「なんだって船主は、そんなことしてるんだろうね」
「おおかた、水夫たちにばらまかれちゃ困るような秘密があるんじゃないのかい」
「秘密って、どういう秘密かね?」
「あたしらが知ってたら、そりゃあ秘密にはならないじゃないか」
その朝、五隻の船の話は、デルマリナじゅうの広場で噂されたに違いない。
女たちは家に帰ると夫にその噂をつたえ、男たちは職場で五隻の船の噂をしあった。そうしてその昼には、デルマリナ市民のほとんどが港に集められた五隻の船の話を知ることとなったのである。
「お父さま、いま港で五隻の船がいっぺんに出航準備をしているのを、知っていらっしゃる?」
マリナが得意げに噂をもちだしたのは、遅い朝食の席でだった。
「ああ、そうらしいね」
「なんだお父さま、もう知っていらっしゃったのね」
いかにもがっかりしたふうの娘に苦笑して、ピアズは冷たい水の入ったグラスを取りあげた。昨夜ほとんど睡眠をとっていないこともあって、今朝はあまり食欲がない。
「わたし、さっき聞いて――早くお父さまに教えてさしあげなきゃ、って思ったのよ」
「だれに聞いたんだね?」
ピアズの問いにマリナは、厨房《ちゅうぼう》で働く使用人の名をあげた。
「今朝、水をくみに行ったら、広場で噂になっていたんですって」
それではもうデルマリナじゅうにひろまっているな、とピアズは思った。
「それよりお父さま、もう召しあがらないの? ほとんど食べていらっしゃらないわ」
「食欲がないんだよ」
「だめよ。食事はきちんと、摂《と》らなくては。身体に悪いわ」
愛らしい眉をつりあげて言われ、ピアズは苦笑しながら娘の顔をながめた。
「おまえは顔ばかりか、言うことまで母親そっくりになってきたね」
「そうかしら……? わたし、お母さまのことは、ちっとも覚えていなくて」
「当然だよ。彼女が死んだのは、おまえが三歳になったばかりの時だったからね」
娘の顔に妻の面影を重ね、思い出にひたりかけたときだった。
「だんなさま。お客さまがいらっしゃいましたが?」
食堂の入口に家令があらわれ、深々と頭をさげたのち、そう伝えた。
「ああ、やっと来たか。そうだな、書斎へお通ししなさい」
「お茶をお持ちしましょうか?」
「いや、その必要はない。そのかわりお客さまがいる間は、決して誰も書斎に入れないようにしてくれ」
かしこまりましたと家令が去っていくと、ピアズはグラスの冷たい水を飲みほして立ちあがった。
「お父さま、もうお行きになるの?」
咎めるような口調の娘を見おろし、ピアズは苦笑する。
「ああ、お客さまを待たせるわけにはいかないからね」
父親の言葉に、おとなしくそうねとうなずいたマリナだったが、その眼差しはまだ何か言いたげだった。
「マリナ。いい子にしていたら、欲しがっていたドレスをつくってあげるよ」
なだめるようにピアズが言うと、とたんに彼女は細い眉をつりあげた。
「お父さま、わたくしもう、ものにつられるような子供ではないわ」
言いながら立ちあがり、マリナは軽くのびあがって父親の頬にキスをする。
「だから――辛いこととか悩みごとがあるのなら、ちゃんとおっしゃってね?」
「ああ、頼りにしているよ」
キスを返し、ピアズは愛娘の身体をそっと抱きしめた。
ピアズ・ダイクンの館は、大アルテの裕福な商人たちの館がほとんどそうであるように、大運河に面して建てられている。
もとは銀行家の館だったものを、十年ほど前にピアズが買いあげたのだ。当時は柱の一部に金箔《きんぱく》をほどこした派手な装飾の建物だったのだが、買い取ったと同時に改装し、いまは落ち着いた雰囲気の重厚な館に変わっている。
一階には倉庫と、人々を招いて盛大なレセプションを開ける大広間があり、倉庫の上の中二階は事務所と書斎になっていた。
ピアズは食堂のある三階から、裏手の階段をつかって中二階へおりた。
書斎の扉をあけると、ふたりの男が椅子を鳴らして立ちあがった。強張《こわば》った男たちの顔を見てピアズは心の中で舌うちしたが、表情は笑顔をつくり、かれらを歓迎するかのように両手をひろげてみせる。
「ようこそ、いらっしゃいました。わざわざおいでになるなんて、今日はどういったご用件ですか?」
しかし彼らに、歓迎をうける余裕はなかったらしい。
「呑気に挨拶などしている場合ではない」
「そうだ。ピアズどの、あなたも五隻の船の噂は聞いたはずだ」
詰問するような口調で言われ、ピアズは苦笑した。
「どうぞ、まずはお座りください」
ふたりは互いに顔を見合わせ、やがて頭の禿《は》げあがった貿易商が腰をおろした。しかし赤ら顔の鍛冶《かじ》職人のほうは立ったまま、むっつりと腕を組んでいる。
もうひとつ苦笑して、ピアズは部屋の奥に置かれた机のむこうへまわり、肘掛椅子に座った。
「五隻の船は、大アルテの連中が用意させたものだというじゃないか」
鍛冶職人が机ごしに、ピアズの顔を見すえる。
「ええ、そうです。総務会の皆さんが一隻ずつ、船を提供したそうですよ。音頭をとったのは、エルバ・リーアです」
なんと……、とつぶやいたのは貿易商人だった。
「さすが、と言うべきでしょうね。やるとなったら、行動が早い」
「感心している場合かっ!」
「いまさら慌てても仕方ありませんよ。私たちが約一ヶ月かかった準備を、彼らはわずか三日で終わらせた。出航は、明日の昼ごろの予定だそうです」
ピアズが言うと、鍛冶職人は軽く目をみひらいた。
「いつの間に、そんな情報を……」
「話を聞こうにも、水夫たちは隔離されていて、接触さえできなかったはずなのに」
貿易商もうなずいて、つぶやく。
「蛇《じゃ》の道はへび、と言いましてね。労せず儲けたい人間は、どこにでもいるんですよ」
簡単でしたよ、とピアズは言った。
「ゴッツィの葬儀の日から、遠からずこういう事態になるだろうと予想していましたので。さりげなく港付近に、金をばらまいておいたのです。おかげで彼らが準備をはじめたとたん、褒美《ほうび》欲しさに多くの者が情報をもちこんできましたよ」
「金をばらまいたのはわかったが、しかし予想していたって、どういう……?」
「ゴッツィの葬儀のとき、造船職人の組合長が啖呵《たんか》をきったんですよ。未亡人に侮辱《ぶじょく》されて、黙っていられなかったのでしょう」
ピアズの言葉に、ふたたびふたりが顔を見合わせた。
「あれは…………」
「いや、しかし……」
互いに目くばせしあう様子で、葬儀でのことはすでにふたりとも、噂で聞きつけてはいるのだとわかった。
知っていながら、今日を予想できなかった――だからこそ、このふたりは自分の才覚だけでは一生、小アルテどまりなのだ。いや、このふたりだけではない。十日前の夜、ヴェラ・スキピオを船団長とする三隻の船の出航をひそかに見送った男たち――造船職人に鍛冶職人、毛織物を扱う貿易商、それから魚市場の支配人といった職をもつ、小アルテの組合長たち四人全員がそうだ。
四人ともそれなりに小金はためているものの、財力は大アルテに所属する商人たちには遠くおよばない。船さえあれば……とは、かれらの口癖《くちぐせ》だった。他人の船を暴利ともいえる運送料を支払って借りるのではなく、自分たちの船さえあれば、と。
ピアズはそんなかれらに、船を提供したのである。計画に加担することを条件に。
彼は内心の思いなど少しもおくびには出さず、
「葬儀には、エルバ・リーアも来ていたのです。あの男が、組合長の啖呵にひっかかりを感じないはずがないですよ」
「なるほど」
「ああ、エルバ・リーアはかなりの切れ者だと聞くからな」
ふたりは感心したように、うなずきあっている。
「今のところ私にも、エルバ・リーアがどこまで知っているか、わかりません。しかし船を用意したところを見る限り、我々の計画はすでに知られてしまった、と思っていいでしょう」
「では……我々は、どうすれば?」
「彼らの船の出航はもう止められませんからね、船がもどってきてからのことを考えましょう」
「もどってきてからでは、遅いのではないかと思うが……?」
言われてピアズの眼帯をしていないほうの眉が、ぴくりと動いた。
「別に遅くはありませんよ。船がもどる前に準備をととのえておけば」
「準備とは……?」
「争いの種をつくるんです」
意味がわからない、といった様子でふたりは首をかしげた。
「エルバ・リーアの失敗は、仲間を募ったことですよ。よりによって船主は全員が、大アルテの有力商人です。自分の権益を守ることと増やすことしか考えていない連中です」
小アルテの組合員たちは、大アルテをこきおろすのが好きだ。それは、大アルテへの劣等感の裏返しといえる。
ピアズの言い方は、かれらのそんな気持ちをうまくくすぐったらしい。
「つまり――うまくすれば、彼らの内部分裂をはかれるということですな?」
「ええ、そうです。おそらく簡単に、彼らは内部分裂しますよ」
それに、とピアズは付け加える。
「我々は船団長のスキピオに全権委任しましたが、彼らはそうではない。船主の意向を確かめたくても、遠い異国ではそれができるはずもなく、ひたすらおろおろするのがオチでしょう」
なにしろ順調な航海でも、往復に最低三ヶ月はかかる距離だ。事あるごとに使者を送りあっていては、話にならない。
それを考えてピアズたちは前もってスキピオに、基本方針をしっかりと伝えてある。それ以外の細かい交渉ごとはスキピオに任せる、と決めたのだ。
大アルテの彼らには、船乗りごときに全権委任するなど、考えもつかないだろう。
「なるほど――いや、おかげで気病《きや》みが晴れましたよ」
ふたりは本当に晴れ晴れとした表情で、ピアズに握手をもとめてきた。本心はともかく、ピアズは笑顔で握手を返す。
「具体的にどういったことをするかは、色々と考えています。あるいは皆さんに、お手伝いをお願いするかもしれませんが」
「それはもう、お任せください。我々にできることでしたら、なんでもやりますよ」
ふたりは胸をはってうなずいた。
頼もしいと言ってうなずきながら、しかしピアズは彼らに頼みごとをする機会などほとんどないだろうと考えていた。
(彼らが必要になるのは、評議会での採決のときだ――)
市民の代表機関である人民評議会は、過半数を大アルテの組合員が占めるように定められている。ともに手を組み船を出した彼らは、ピアズをのぞく全員が小アルテに属しており、議会では少数派だ。だが、小アルテに影響力をもつこの四人がそろえば、小アルテに属する議員全員の票を得ることができる。過半数を占める大アルテの議員たちの一角をつき崩すのは、ピアズの役目だ。
「ところで……その、彼の処分はどうしますか?」
ふいに言いにくそうに切り出したのは、貿易商だった。
「彼?」
「つまり、その……参列者の中にエルバ・リーアがいると知らなかったとはいえ、彼の軽率な行動でこういった事態になってしまったわけですし――」
「ああ、そのことですか」
ピアズは笑って肩をすくめてみせた。
「済んでしまったことは、仕方ありませんよ。それになにより、私は仲間を裁く気にはなれませんしね」
「そうですか……そうですね」
あきらかにほっとした様子で、ふたりは何度もうなずいた。
五隻の船が出航したのは、ピアズが手に入れた情報の通り、翌日の昼すぎだった。
そして、その日の午後――。
書斎の扉が開き、マリナがひょっこりと顔をだした。
「お父さま、まだお仕事終わらないの?」
「ああ、もう少しで終わるよ」
なにか用でもあるのかい、とペンを走らせる手を止め、ピアズは娘に視線を向けた。
「そろそろ用意なさらないと、レセプションに間に合わないと思うの」
「レセプション?」
ピアズが首をかしげると、マリナは大きな実用本意の机に歩み寄り、積み重ねた書類の山から、赤い蝋《ろう》で封印された封筒を引き出した。
「これよ。お父さまは教えてくださらなかったけど、ちゃんと知ってるんだから」
「いや、教えなかったわけじゃないよ。忘れていたんだ」
苦笑して応えながら、娘の手から封筒を受け取った。
「で、私が忘れていたことをおまえに教えてくれたのは、いったい誰だい?」
「お友達よ」
マリナは父親から視線をそらし、すました顔でこたえる。
「お客さまも大勢いらっしゃって、とても華やかなレセプションになるんですって」
「そうだろうね。エルバ・リーアが主催するレセプションだ、華やかにならないはずがないよ」
封蝋の印を見ながら、ピアズはもういちど苦笑した。
この招待状が届いたのは、二日前だ。つまりエルバ・リーアは、ピアズたちの計画を知ったうえで招待状を送りつけてきたことになる。
「マリナ、支度しなさい」
「じゃあお父さま、わたくしも連れて行ってくださるの?」
「エルバ・リーアのレセプションに、男ひとりでは行けないだろう」
「ありがとう、お父さま」
目を輝かせてそう言うと、マリナはくるりと身をひるがえし、部屋を出ていった。頭の中はすでに、どんなドレスを着ようか、どんな宝石をつけようか、髪はどう結おうか――そんなことでいっぱいなのだろう。
ピアズは立ちあがると家令を呼び、館の正面に舟を用意するように命じたのだった。
運河に灯火が映るころ、ピアズと娘の乗る小舟はエルバ・リーアの館に着いた。
大運河に面した個人所有の館の前には、必ず鮮やかな彩色をほどこしたパリーナと呼ばれる小舟をつなぐ杭《くい》が立てられている。エルバ・リーアの館の前に立つパリーナは、リーア家の家紋と同じ赤と金を大胆につかった縞《しま》模様だ。
館には内にも外にも盛大に明かりがともされ、周囲は昼間のような明るさだった。
舟の漕《こ》ぎ手に、すぐもどるつもりなので待機しているようにと命じてから、ピアズはマリナに手を貸して小舟をおりた。
館の広い正面には他にも小舟が何艘もとまり、着飾った招待客たちが続々と開け放たれた扉の中へ入っていっている。
「お父さま、ほんとうにすぐにお帰りになるつもりなの?」
ピアズの腕に細い手をかけたマリナが、小さな声で囁いてきた。海に沈む夕陽のような赤いドレスで娘らしい身体を包む彼女は、おとなの女性を気取りたいのか、今夜はいつもより高く髪を結いあげている。
「ああ、あまり居心地がいいだろうとは思えないしね」
言われて、拗ねた顔で父親を見あげるマリナは、格好だけはおとなぶってみせているものの、やはりまだまだ子供だ。だが、あと二、三年のうちにはふさわしい男を見つけてやって、結婚させなければならないだろう。
(相手を誰にするかが、むずかしいところだな)
小アルテの男ではだめだ。絶対に大アルテの組合員でなければならない、とピアズは思っている。しかし大アルテに入ったばかりの新参者の娘を、はたして大アルテの中で欲しがる者がいるだろうか。
大広間に入ると、入口のところで黒いお仕着せの上下を着た給仕が、銀の盆を差し出した。盆の上には、数種類のよく磨かれたグラスが並んでいる。ピアズは発泡酒の入った細長いグラスを取り上げ、娘に渡した。自分も同じものを取って、広間の奥へと進む。
招待客たちは、現在ざっとかぞえて七十人ほどだろうか。数人ずつかたまり、談笑しあっていた。やはりというべきか、小アルテに所属する者はひとりもいない。
ざっと会場を見回したピアズは、娘を連れて人々からやや離れた、帆船の巨大な絵がかけられた壁際に居場所をさだめた。
当然のことながら、ピアズに話しかけてくる者はだれもいない。またピアズも、自分から誰かに話しかけようとはしなかった。
婦人たちの豪華なドレスに目を奪われているらしい娘の横で、ピアズはグラスを傾けながら、さりげなくあたりに視線をはしらせる。こうして見ていると、誰と誰が親しく言葉をかわしているか、誰が誰を避けているのか、はっきりと見分けがつくものだ。
ピアズはふと、広間のむこう端にある階段の奥まった場所に目をとめ、片頬をあげて苦笑した。
(ご同類というわけか――)
まわりには気づかれないように、軽くグラスを掲げようとしたとき、思いがけず間近から声がかかった。
「やあ、最近ご活躍のようですな?」
はっと振り返ると、樽のように太った男が身体を左右に揺らしながら近づいてきた。眼帯をしているほうから近づかれ、気づかなかったのだ。
男は、医薬品を商うペトラ家の次男だと名乗った。
「いえ。どうにか商売をさせていただいている、という状況ですよ」
「いやいや、どこがどうにか≠ナすか。二十年前には街の薬売りだったあなたが、いまでは船を何隻も持つ大アルテの一員だ。ピアズ・ダイクンといえば、立志伝中の人物としてこのデルマリナで知らぬ者などない。商人であるなら誰もが、あなたのようになりたいと思うでしょう」
額《ひたい》からふき出す汗を拭いつつ喋る男に、マリナが不快そうに眉をしかめて、父親の背中に半分身体をかくした。
「たまたま運が良かっただけですよ」
娘の露骨な態度に苦笑しながら、ピアズは無難なこたえかたをした。
そろそろ客たちも、こちらに気づいたようだ。ピアズと、彼に話しかける男とを、ちらちらうかがっている。しかし男は注目されているとわかっているのか、芝居じみたしぐさでひらひらと手を振り、
「なにをおっしゃいますか。運の良さだけで、我々ペトラ家が持っていた利権をいくつも横取りできるとは思えませんがね」
「横取りとは、穏当ではありませんね。私は正当な代価を払って、手に入れたのです」
「わかってますよ。うちの父や兄は色々と言ってますがね、私はあなたを尊敬してるんですよ」
「尊敬――?」
「ええ。その柔軟なものの考えかた、大アルテを敵にまわして一歩もひかない豪胆《ごうたん》さ、じゅうぶん尊敬に値しますね。連中は――」
と言ってペトラ家の次男は、広間にいる客たちを視線でしめす。
「アタマが固い馬鹿ばかりですよ。あなたが大アルテどころか小アルテにも入っていない貧しい家の生まれだったというだけで、いまだにあなたを認めようとしない。もう何度もあなたに出し抜かれているというのにね」
くつくつと笑う男に、ピアズはかすかに眉をあげ、肩をすくめてみせた。
「私は、彼らのほうが賢いと思いますよ。あなたは彼らを馬鹿にしているようですが、少なくとも彼らは、私に不用意に話しかけてくるような軽率なまねはしない」
ごらんなさい、とピアズは広間の反対側にある階段の横をしめした。
「エルバ・リーアどのが、じっとこちらを見ている」
太った身体が鞠《まり》のように跳ね、男はピアズがしめしたほうを振り返った。
「あのかたも、お人が悪いですね。私がここへ入ってくる前から、あそこで身をひそめて招待客の動きを観察していましたよ」
ピアズと男の視線の先で、壁にもたれていたエルバ・リーアはゆっくりと身をおこし、手にしたグラスを軽くかかげてみせた。同じようにピアズも、グラスをかかげ返す。
ペトラ家の次男は、ひくっと息を飲み込むと、視線をあらぬほうへうろつかせ、
「あの……その、私はちょっと……いや、そういえば用があったのを思い出した」
もごもごとそう言い訳して、ピアズから離れていった。
他の客たちも、エルバ・リーアにやっと気づいたようだ。にこやかに笑顔をみせ、ゆっくりと広間を進むエルバ・リーアに、四方八方から人が集まっていく。
長い上着の胸もとを飾る家紋と同じ赤と金の豪華な刺繍が、人々の間に見え隠れするのをながめながらピアズはふと思い出した。
エルバ・リーアには現在、エスコートすべき女性がいない。彼の妻は去年、長い患《わずら》いのすえ亡くなったのだ。
(やつの息子は――確かまだ十歳そこそこだったな)
娘もいるが、彼女は確か十五歳にもならぬうちに、大アルテの中でも有数の財産家の長男のもとへ嫁いだはずだった。
「――マリナ?」
ピアズが呼ぶと、彼女は小首を愛らしくかしげて父親の顔を見あげてきた。
「おまえは、あの男をどう思う?」
さりげなく視線で、エルバ・リーアをしめしてみせる。
「どう思うって……」
父親の視線を追いかけ、マリナの目もエルバ・リーアの上に止まった。
「評議会の総務会に名を連ねていらっしゃる、偉いひとなのでしょう?」
「ああ。大アルテの中でも、重鎮だと言われているよ」
「お金持ちで、気前がいいわね」
「どうしてそう思う?」
ピアズがたずねるとマリナはにっこり笑って、グラスをかかげてみせた。
「このグラス、とっても古くて良いものだわ。これひとつで、わたくしのドレスが買えるんじゃないかしら。ふつうのお宅なら棚に飾って、使用人に毎日磨かせると思うの。絶対に使ったりしないわね、特にこんな誰が手にするかわからないような席では」
「なるほど」
「グラスだけじゃないわ。ほら、あそこの絵皿。あれも、すごくいいものよ」
「私にはよくわからないがね」
「お父さまは、こういう贅沢品《ぜいたくひん》って、あまりお好きじゃないでしょう。だから、おわかりにならないのよ」
そう言うとマリナは父親の手を取って、にっこり微笑んだ。
「お父さまが知らないことを、わたくしが知ってるし。わたくしが知らないことを、お父さまはよくご存知だわ。これってつまり、お互いに補いあえるっていうことでしょう」
「そういうことになるね」
「素敵だわ。そう思わない?」
娘の嬉しげな顔に、ピアズの口もとがついほころんだとき、客たちから挨拶責めになっていたエルバ・リーアが、やっと解放されてふたりの前に立った。
「よくいらっしゃいました。楽しんでいらっしゃいますか?」
「ええ。いま娘に、このグラスや絵皿について講義をうけていたところですよ」
ピアズがこたえると、エルバ・リーアは感情の読みとれない目を隣に立つマリナへと向けた。
「お嬢さんは、こういったものに詳しいのですか?」
「詳しい、というほどではありませんわ。単に好きなだけなんです」
軽く会釈しながら、マリナがこたえる。
「ああ、だったら今からお見せする絵にも興味をお持ちかもしれないな」
「――絵、ですか?」
「今夜のレセプションの、言ってみれば主役ですよ。数年がかりで描かせていた絵が、やっと出来上りましてね。その御披露目《おひろめ》をしたいと思いまして、みなさまをお招きしたわけです」
最後のほうはマリナだけではなく、周囲の人々に向けてエルバ・リーアは宣言した。
客たちの間から歓声があがり、それに重なってエルバ・リーアの合図で、待機していた楽団がにぎやかな曲を奏ではじめた。楽の音に誘われるように、客たちの何組かが広間の中央に出て踊りだす。
それを見て、年若いマリナはじっとしていられなくなったようだ。目を輝かせて父親の腕を取り、
「お父さま、踊ってくださらない?」
「いや、私には無理だ。それよりも――」
ピアズはそばにいるエルバ・リーアに目をやり、にっこりと微笑んだ。
「エルバ・リーアどの、よろしければ娘と踊っていただけませんか?」
「お父さま!」
なにをおっしゃるの、と視線で訴えかける娘の手を取り、エルバ・リーアへと差し出す。
「私は不調法でして、娘の相手もしてやれません。噂ではエルバ・リーアどのは、踊りのほうもなかなか達者だと聞きましたが」
口もとでは笑みをつくってはいるが、その申し出にエルバ・リーアの眉がかすかに歪んだ。心中は舌うちのひとつもしたい気分なのだろうと察せられる。
だがエルバ・リーアは、そんな気持ちなど少しも表にはあらわさず、差し出されたマリナの手をおしいただくように取った。
「踊っていただけますか?」
父親の顔を見あげたマリナにピアズがうなずいてみせると、彼女は軽く膝をかがめてドレスの裾をつまみ御辞儀《おじぎ》した。
ふたりが広間の中央に進み出ていくのを壁際でながめながら、ピアズはひそかに微笑んだ。
周囲の客たちが、思わぬ組み合わせのふたりに驚いている。彼らが驚くのも仕方のないことだろう。招待主が最初に踊る相手は、ふつう奥方か娘や姉妹といった身内、あるいは婚約者なのである。
親子ほどに歳のはなれたふたりだが、少しも不自然に感じられないのは、エルバ・リーアが年齢よりも若くみえるためだろう。ピアズとは変わらない歳ではあるが、若いころの苦労がないぶん、エルバ・リーアのほうがずっと年下にみえる。
(それに、親子ほど歳のはなれた夫婦など、いくらでもいるしな……)
明るい軽やかな曲が終わると、自然と客たちの間から拍手がおこった。ふたりは客たちに向け、役者のように深々と頭をさげる。
やがて父親のもとへもどってきたマリナは頬を上気させ、つんと唇をとがらせて、ピアズの腕を軽くつねった。
「お父さま、どういうおつもりか聞かせていただけるわね?」
「どんなつもりもないよ」
「うそ。お父さまが意味もなく、わたくしを男のかたと踊らせるわけがないわ。それもよりによって、あのかたと」
マリナがちらりと視線をはしらせた先では、エルバ・リーアが客たちに囲まれて談笑している。そのうちの何人かは、さりげなさを装ってこちらを見ているようだ。
「それより、どうだった? なにか話などしたかい?」
ピアズが話をそらすと、マリナは呆れたように肩をすくめ、
「わかったわ。わたくしにはまだ、なにもおっしゃらないつもりね。もちろん――お話はしたわよ。黙ったまま踊るなんて、失礼にあたるもの」
「どんな話をしたんだい?」
飲み物の入った新しいグラスを渡しながら、ピアズは重ねてたずねる。
「どんなって、ふつうの世間話よ」
グラスを受け取ったマリナは喉が渇《かわ》いていたのか、中味をいっきに飲みほした。
「お父さまが強引でごめんなさい、ってわたくしが言ったら、あのかた笑って、先手をとられましたとおっしゃったわ」
「それから?」
「わたくしのドレスと髪を、誉めてくださったわ。あとは、このグラスをどこで手に入れたかってお話をして――」
[#挿絵(img/KazenoKEARU_01_099.jpg)入る]
「――で?」
「最後に、お父さまには必ず今夜御披露目をする絵をご覧になってから帰ってほしい、ですって。まるでさっき、お父さまがすぐにお帰りになるつもりだっておっしゃってたことを、聞いてたみたいな言い方だったわ」
聞いていたのだろうよ、と口の中でつぶやいて、ピアズは人々の中心にいるエルバ・リーアを見つめた。
絵の御披露目があったのは、招待客たちがそろそろ踊り疲れたころだった。
マリナにはあのあと何度も踊りの誘いがかかり、ピアズにも短い挨拶程度ではあったが招待客のほぼ全員が話しかけてきた。エルバ・リーアがピアズに話しかけ、マリナと踊ったことが、人々には手本と映ったのだろう。まるで果たさなければならない義務のようにピアズのもとへやってくる彼らに、改めてエルバ・リーアの権力の大きさ、影響力の強さを思い知ることとなった。
六人編成の楽団が奥へと引っ込むと、招待客全員に新しいグラスが配られた。
「これは、ごくふつうのグラスだわ」
しげしげとグラスをながめたマリナが、父親に耳うちする。
「ほんとうに良いものが、そんなにたくさんあるはずはないと思うよ」
「それはそうだけど……」
不満げに唇をとがらせたマリナは、だがすぐにグラスのことなど忘れて目を輝かせた。先ほどまで楽団がいた場所に、濃紺の天鵞絨《ビロード》で覆われた絵が引き出されたのだ。
広間の壁にかけられた何枚かの絵も、ピアズの身長ほどもある大きなものだったが、新しい絵はそのまた二倍もありそうな大作だった。
客たちのざわめきが徐々にしずまり、やがて咳《せき》ばらいひとつ聞こえなくなると、エルバ・リーアが絵の前に姿をあらわした。
なんという絵描きが、どれほどの時間をかけて描きあげたか、簡単に説明した彼は、もったいぶった仕草で天鵞絨に手をかけた。
「さあどうぞ、ご覧ください」
しゅるるっと天鵞絨が取り払われ、絵があらわれたとたん、招待客たちの間から歓声があがった。
金箔をほどこした豪華な額縁にかこまれたその絵は、荒波をこえて進む何十隻もの帆船を描いたものだった。どの船も帆をはり、いっぱいに風を受けている。そして、そこに描かれたすべての船の帆柱には、赤と金の意匠の旗がはためいていた。
素晴らしい、という声があちこちから聞こえる。もっと間近で見ようと、幾人かが絵のそばへ近づいていく。
「確かに大作だけど、それほど優れた絵ではないと思うわ」
絵を見つめていたマリナが、まわりの人々には聞こえないよう声をひそめ、ピアズに囁きかけてきた。
「それに何より、こういう絵ってエルバ・リーアさんのご趣味じゃないと思うの。グラスとか絵皿とかを見る限りでは、もっと繊細《せんさい》で優美なものがお好きじゃないかしら」
そうだねとマリナに相槌《あいづち》をうちながら、ピアズは苦笑せずにはいられなかった。
「お父さま、なにをひとりで笑っていらっしゃるの?」
「いや。なかなか、おとなげないことをする御仁《ごじん》だなと思ってね」
意味がわからないと、マリナは小首をかしげる。
「よく見てごらん。すべての船に、リーア家の印がはためいているだろう」
赤と金の豪華な旗をさしてピアズが言うと、マリナは目をこらして絵を見つめ、
「あら、ほんとだわ。あんな小さく描かれた船にまで、旗だけははっきりとわかるわ」
そうつぶやいて、彼女は男のように腕を組むと、やがてしかつめらしい顔で何度もうなずいてみせた。
「つまりこれって、小さな子供が玩具《がんぐ》をならべて自慢しているのと同じことなのね。私はこんなに船を所有するだけの力があります、すごいでしょう、って言ってる絵なのね」
「そこまで言っては、失礼だよ」
「あら。お父さまもさっき、おとなげないっておっしゃったじゃない?」
「子供に子供だと言われるのと、大人におとなげないと言われるのとでは、ずいぶん感覚的に違うと思うがね」
ピアズが言ったとたん、マリナは唇をとがらせて父親の腕をつねった。
「おいおい、そんなところが子供だと言うんだよ」
笑いながら返したピアズは、ふいに眼帯をしていないほうの目を細め、口もとに浮かべた笑みを引っ込めた。
「お父さま……?」
不審げに呼びかけるマリナに、手のひらをみせてここで待つよう合図すると、あたりをうかがいながら、目当ての人物に近づく。
レセプションが始まった当初から、実は目をつけていた人物だ。これまでずっと、ひとりになることなどなく、常にだれかに話しかけられていた。そしてまた彼は、エルバ・リーアを見習ってピアズに挨拶しに来ることもなかった。
この場にあって、おそらくエルバ・リーアの顔色を気にする必要のない、唯一の人物であろう。
「ヴィタ・ファリエルどの?」
ピアズの密やかな呼びかけに、老齢の男はゆっくりと振り返った。どうもと頭をさげたピアズを目にして、男は皺だらけの顔により深い皺を刻んで、不快を表明してみせる。
「あなたがいらっしゃっているとは、存じあげませんでしたよ」
愛想よくピアズは微笑みかけたが、大アルテではエルバ・リーアと並ぶ財産を有するファリエル家の当主は、嘘をつけとでもいうように軽く鼻を鳴らした。
「ご挨拶が遅れまして、申し訳ありません。私は――」
「ピアズ・ダイクン。いまさら自己紹介の必要などないぞ」
「これは失礼いたしました」
ヴィタ・ファリエルはあの五隻の船の、持ち主のひとりだ。エルバ・リーアと同じく、総務会に名をつらねている。
相手が嫌がっているのは承知のうえで、ピアズは彼の横に立った。
「すばらしい絵ですね?」
「心にもないことを言うな」
ひとことのもとに言い下し、ヴィタ・ファリエルは立ち去ろうとする。
「己が権力を喧伝《けんでん》するにはいい絵だと、私は言っているんですよ」
続くピアズの言葉に彼は足を止め、ゆっくりと振り返った。総務会では最高齢の彼は、誰よりも頑固《がんこ》で自尊心が高い。
「ご覧なさい。どの船にも、リーア家の印がはためいています」
「いちいち言われんでも、見えておる」
「人々はこれを、どう受け取るでしょうね?」
「決まっとる。どこかの阿呆《あほう》への脅しだ」
「――と受け取るのは、あなたと私ぐらいのものだと思いますよ」
ぎろりと老人の目が動いた。
「私が阿呆≠セなんて、誰も知りませんからね。人々はあの絵を、エルバ・リーアどのの野心の表明だと受け取ったでしょう」
「――野心、だと……?」
「デルマリナにあるすべての船に、リーア家の印をつける。つまり、五十年以上前に廃止された『正義の旗手』の座を手に入れようとしている、と」
ピアズの言葉に抗議するように、老人は鼻を鳴らした。
「国家元首にあたる『正義の旗手』に選ばれれば、デルマリナじゅうの船にリーア家の旗が掲げられますからね。あの絵は、まるでその日が来ることを予言しているようではありませんか?」
「くだらん世迷言《よまいごと》を――」
「あなたにとっては『正義の旗手』の座は、エルバ・リーアどのと比べものにならないほど思い入れが深いのではありませんか? 確かあなたの父上は『正義の旗手』を復活させようと、力を注《そそ》がれた。けれど、それはかなわなかった。当時あなたは、お父上のそんな姿をそばでご覧になっていたはずだ」
老人は目をみひらいてピアズの顔を見つめたが、それはほんの一瞬のことだった。すぐに興味などないとばかりに顔をそむけ、ふたたび立ち去ろうとする。
「エルバ・リーアどのは、本気ですよ」
こんどは止めようとはせず、その背中に向かって、ピアズは語りかけた。
「彼は、小アルテの票を集めるために、私の娘との再婚をさえ考えるでしょう」
老人は振り返らなかったが、痩せた肩がピアズの言葉にぴくりと動いた。
(種まきは成功したな……)
ピアズは眼帯をしていないほうの目をかすかに細め、グラスを老人のうしろ姿に向かって軽く掲げた。
「お父さま、お話は終わったの?」
ピアズがひとりになったのを見はからって、マリナが近づいてくる。
「ああ、ひとりにして悪かったね」
「さっきのかた、どなたですの?」
「ヴィタ・ファリエルどのだよ」
「まあ、あのかたが……」
「知っているのかい?」
「総務会の頑固|爺《じじ》い≠ナしょう?」
マリナのこたえに、ピアズは思わず小さく吹き出した。
「まったくおまえは、どこでそんなことを覚えてくるんだい?」
「だって、みんながそう言っているんですもの。もちろんわたくし、ご本人の前ではそんなこと言いませんわ。だからお父さま、安心なさってね」
苦笑しながらピアズは娘を引き寄せた。
「そうしてくれると助かるよ」
レセプションはまだまだ続いていたが、ピアズは頃合をみはからい、マリナとともに会場をあとにした。
マリナと踊るはめになったことに懲《こ》りたのか、エルバ・リーアはあれ以降、話しかけてはこなかった。ただし、幾度も視線を投げかけてはきたが……。
エルバ・リーアが『正義の旗手』に野心を抱いている、という噂はまたたく間にデルマリナじゅうに広まった。おそらく放っておいてもいつかは噂されていただろうが、噂を早く広くばらまくためにピアズ・ダイクンが一役買ったことは言うまでもない。
そして噂は広まるうちに、さまざまな尾鰭《おひれ》が付け加えられた。
「お父さま、聞いていただける?」
マリナが怒りもあらわに頬を紅潮させ、ピアズに訴えてきたのは、あのレセプションからわずか二日後のことだ。
「マリナ、ここへ来てはいけないと何度も言っているだろう」
彼女があらわれたとき、一階の倉庫では運河側の裏口から荷物が運び入れられている最中だった。ピアズは荷をひとつずつ確認し、使用人たちに指示を与えていた。
「ああ、それはむこうの部屋へ運んでくれ。明日またすぐに運び出さなければならないからな」
「お父さま!」
「そっちのふたつは、帳簿《ちょうぼ》にはまとめてひとつと数えておいてくれ。壊れやすいものだから、気をつけてな」
「お父さまっ!」
マリナが苛々と足を踏みならし、とうとう帳簿をつけていた使用人が、
「だんなさま、あとは私たちで片付けますので――」
どうぞお嬢さまのほうへ、と促した。
話を聞いてもらうまでは絶対に動かないと言わんばかりの娘の表情を一瞥《いちべつ》し、ピアズは使用人たちにあとひとつふたつ指示を与えてから、倉庫を出た。足早に歩く父親のあとをマリナが、ドレスのすそをつまみあげて追いかけてくる。
中二階に続く階段をのぼり、書斎の扉の前でピアズは娘を待った。やっと追いついてきたマリナに扉を開けてやり、入りなさいと促す。彼女は黙ったままの父親に不安をおぼえたのか、急にしおらしくなり、俯いてピアズの前を通り部屋の中に入った。
うしろ手に扉を閉めたピアズは、書き物机の前に腰をおろし、娘と向き合った。
「それで、話というのは何だね?」
マリナは一瞬、たじろいだように目を伏せたが、すぐに昂然《こうぜん》と顔をあげ、正面から父親を見つめた。
「いま変な噂が流れているのを、お父さまはご存知かしら?」
さあねとピアズがかぶりをふると、彼女の眉がほんの少しつりあがる。
「結婚の噂よ。わたくしとエルバ・リーアさまが近々結婚することになった、という噂なのよ」
「ほぉ、それはまたとんでもない噂だね」
「お父さま、驚かないの?」
「驚いているよ、そう見えないかね?」
マリナは父親の表情をうかがいながら、きっぱりと首をふる。
「見えないわ。それにお父さま、大事な娘にありもしない結婚の噂なんかたてられたら、ふつう驚くより先にお怒りになると思うのだけど?」
「怒ってもいいがね。しかしこの場合、何に対して怒ればいいんだい? 怒るべき相手はわからないし、噂に怒ってもしかたがないだろう」
ピアズが言うと、マリナは唇を歪めてかすかに笑った。
「冷静なのね、お父さまは。わたくしなんて先ほど、ドレスの仮《かり》縫《ぬ》いに来た仕立て屋に『ご結婚が決まったそうで、おめでとうございます』と言われて、心臓が止まりそうになったわ。しばらく怒りで、声も出なかったぐらいよ」
「でもおまえは、そのあとでちゃんと、どういう噂なのか問いただしたわけだね」
「当然よ。わたくしの知らないところで、わたくしの知らない噂が広まっているなんて、考えただけでゾッとするわ」
両腕を抱きしめ、マリナは心底いやそうにぶるっと身を震わせた。
「仕立て屋にはもちろん、そんなものは根も葉もない噂だと言ったのよ。そしたらお父さま、仕立て屋はなんて言ったと思う?」
「さあね」
「ではきっと、お父さまがお嬢さまにはまだ正式にお話になっていないだけですよ、ですって」
そこで言葉をきると、マリナは反応をうかがうようにピアズの顔を見つめた。
「もちろんちゃんとした家≠フ娘なら、お父さまが相手を選んでくださって、そのかたと結婚するのがふつうよ。お友達の中には、結婚式まで相手のかたのお顔さえ見たことがなかった、っていう子もいるわ。だからわたくしにもお父さまが、そのうち相手のかたを選んでくださるんだわと思ってたわ。でも、お父さまならきっと、選んで決める前に、わたくしにひとこと相談してくださると信じていたの」
「もちろん、そうするよ」
すぐさまうなずいてみせたピアズに、マリナはかすかに眉をしかめる。
「ほんとう? ほんとうに?」
「当然だよ。おまえが嫌がる相手と無理やり結婚させるようなことはしない」
「じゃあやっぱり、あの噂はただの噂だと思ってていいのね?」
勢いこんでたずねる娘の顔を、ピアズは正面から見直した。
「ひとつ聞きたいんだが。おまえは、噂されることが嫌なのかい? それとも、噂の相手になっているエルバ・リーアどのが嫌だと思っているのかい?」
気の強そうな瞳が一転して、不安げにくもった。
「――お父さま、どうしてそんなことをお訊きになるの?」
「おまえに訊いておきたいと思ったんだよ。特に、エルバ・リーアどののことをね」
「どうして……?」
「確かに彼は、私と変わらない年齢だ。だが二年前に奥方を亡くしてからは、浮いた話のひとつもなく独身を通しておられる。それに私などと違って、まだまだご婦人たちに騒がれる外見だし――」
しゃべりながらピアズは、潰れた眼を隠した眼帯をしめしてみせる。
これはまだピアズが子供だったころ、貧しくて医者にかかることができず、単なる眼病だったものを失明するまで悪化させてしまったのだ。
「エルバ・リーアさまがどんなかただろうと、わたくしには関係ないわ」
マリナはきっぱりそう言い切ると、それに、と微笑んでつけくわえた。
「お父さまは、ご自分で思っていらっしゃる以上に、女性の関心を集めているのよ。先日のレセプションでも、お父さまに流し目を送ってるご婦人が何人もいたの、ご存知ないでしょう?」
「残念ながら気づかなかったな」
「ほんとうよ、嘘やお世辞じゃないんだから。お父さまと結婚したいと思ってる女性は多いと思うわ」
「それは身内の欲目というものだよ」
ピアズは苦笑し、顎の下で指を組んだ。
「――で、つまりおまえは、エルバ・リーアどのを結婚相手としてはとても考えられないと言いたいのだね?」
「…………ええ、そうよ」
あきらめのため息に似たこたえが、マリナから返ってきた。
「お願いだからお父さま、わたくしに疑いを持たせないで。お父さまがわたくしに内緒でエルバ・リーアさまとの結婚話をすすめているなんて、疑いたくないの。それ以上に、ひょっとしたらあの噂を流したのも、実はお父さまなんじゃないかって……絶対に考えたくないのよ」
言って、すがりつくような目でマリナは父親を見つめる。
「――おまえの勘の良さには、時々おどろかされるよ」
「お父さま……!」
つぶやいたマリナの声は、ほとんど悲鳴に近かった。
「私はまだ、結婚話をすすめているわけではないし、噂を流した張本人でもない。だが、エルバ・リーアどのがおまえの結婚相手にふさわしいのではないかと考えているのは事実だ」
「そんなこと……」
「噂の出所はおそらく、先日のレセプションに招待された客たちの誰かだろう。エルバ・リーアどのと最初に踊ったおまえを見て、そう勘繰《かんぐ》ったのだろうよ。ピアズ・ダイクンのひとり娘と、総務会の切れ者エルバ・リーアの結婚話となれば、へたな醜聞などよりよほど話題性があるしね」
「本気でお父さまは、わたくしとエルバ・リーアさまを結婚させようとお考えなの?」
「ああ、本気だよ。ただし、エルバ・リーアどのはどうお考えかはわからないがね」
ピアズがこたえると、マリナはつかつかと歩み寄り、書き物机の天板に手のひらをたたきつけた。
「わたくしは絶対にいやよ!」
「マリナ……」
「だってお父さまは、最初からそのおつもりだったのでしょう? だからわたくしを、エルバ・リーアさまと踊らせたんだわ。それって、お父さまがこの噂を流したも同然よ」
そう言い放ってマリナはくるりと踵をかえし、足音も高く部屋を出ていった。
「ほんとうにおまえは勘がいいよ……」
ピアズはぴしゃりと閉まった扉をながめながら、椅子に深く背中をもたせかけ、そうつぶやいた。
翌日、ピアズは宝石商と仕立て屋を館に呼んだ。マリナのために、高価な宝飾品とドレスを揃えるよう命じたのだ。
その午後には、エルバ・リーアとマリナの婚礼が間近にせまっている、との噂がデルマリナじゅうを暴風の勢いで駆け巡ることになる……。
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第三章 果たすべき責務
夕刻の飛行は夜間の飛行より難しい、とケアル・ライスは思っている。
いっそ闇の中を月と星だけをたよりに飛ぶほうが、黄昏《たそがれ》て視界の悪い中を飛ぶよりよほど易しいのだ。他になにも見えないなら、目指す星だけを見つめて、まっしぐらに飛べばいいだけだ。見えないものを見ようとは思わないし、見えないから他に気をとられることもない。
ケアルが船に近づいたのは、あたりがうす闇に沈みつつある夕刻だった。
船には中央の帆柱にひとつ明かりがぶらさげてあり、ケアルが目標を見失ってしまうようなことはなかったが、反対に船側がなかなか翼に気づいてくれず、上空を何度も旋回するはめになった。たまたま甲板に出てきた船員が、ふと空を見あげ、ケアルの翼をみつけてくれたのだ。
あわただしく甲板の上が片付けられ、着艦許可の明かりが大きく振られるころには、夕陽は沈み、あたりは暗くなっていた。
夜間の着陸は何度か経験のあるケアルも、それが狭くて揺れる船の甲板となると、いちかばちかの賭《かけ》だ。船に明かりは掲げられてはいるものの、視界などないに等しい。
高度を誤って、船体に激突する自分。距離感をつかめず、帆柱へ突っ込んでいく翼。そんな悪い想像が脳裏をかけめぐり、身体が自然とすくんでしまう。
旋回しながら何度か、やはりあきらめてもどるべきか、と自分に問いかけた。
(けれど、このままもどったら……)
想像して、ケアルはぞっとした。
このままもどれば、伝令のまねごとひとつできない役立たずだと思われる。父に、兄たちに、館の皆に、領民たちに。そして何より自分自身がそう思うであろう。
島人の母から産まれた子でありながら、この歳になるまで食べる苦労もなく、仕事をすることもなく、過ごしてきた。ケアルはそんな生活ができることを感謝していたが、同時にうしろめたくも思っていた。なにもできない、なにもすることがない、それを苦痛に思うのだ。けれど、他人の目からみればそれは贅沢な苦痛だということもわかっている。
そんなケアルにとって、これは初めて与えられた「仕事」だった。この先、父から兄に譲られるだろう治世に口を出さず、足をひっぱることもなく、ライス家に産まれたことを感謝しつつひっそりと一生を終えなければならない、そう望まれているケアルにとっての。
やはりもどることはできない、とケアルは唇をかみしめた。
みずから望んで与えてもらった仕事。それをたかが恐怖心のために、放棄《ほうき》することなどできようか。
ケアルは迷いをふりきった。
(帆柱は、あそことあそこ)
帆柱に掲げられた明かりを目測し、ひとりうなずいた。
(高度は――このままの角度で降りていけばちょうどいいはずだ)
自分に言い聞かせ、よしこのままと思いきったとたん、身体じゅうの神経が研ぎ澄まされていくのがわかった。
翼の先端で切り裂かれた風が、ケアルの身体のまわりで渦巻き、後方へと流れ去っていく。その少し湿った風の肌触りが、飛行服ごしにもはっきりと感じ取れる。
黒い影がせまってきた。
激しい風の音のむこうから、船体に波が当たる音が聞こえてくる。同時に、風に潮の匂いが混じる。
ここだと感じた瞬間、ケアルは操縦桿を前方に押し出した。この急激な制動操作に、翼の枠組が軋《きし》んだ音をあげ、失速した翼は落下するように高度をさげた。
ぐいっと足をのばすと、爪先《つまさき》が甲板にぶつかり、はね返った。軋みをあげ暴れる翼を力でおさえつけ、ふたたび制動操作をかけると、両足が甲板に着いた。
すぐに浮かびあがりたがる翼を、勢いをつけて何度も腰をおとし、力ずくで地上に引き留める。
爪先が甲板の端に当たったのと、翼がおとなしくなったのは、ほぼ同時だった。
操縦桿を握りしめたまま、ケアルは甲板にへたへたと尻をつけ座りこんだ。ややあって、甲板を走る足音がいくつか、ケアルと翼のもとに近づいてくる。
「お疲れさまです」
声をかけられ見あげると、スキピオが腰を屈《かが》め手をさしだしていた。
「いらっしゃったことを、なかなか気づかずに申し訳ありませんでした」
スキピオの手を借り、立ちあがる。
「かなり長い間、上空をまわっていらっしゃったんですか?」
「ええ……まぁ……」
「どうも我々は、空から誰かがやってくるという感覚に、なかなか慣れませんでね。これまで空から船に近づくものといえば、鳥ぐらいなものでしたから、つい空への注意がおろそかになってしまうんですよ」
注意と口の中でつぶやいて、ケアルはあたりを見回した。すると頭上で、
「異常なぁーし!」
よく通る声が響き渡った。
ややあって、並んで停泊する二隻の船からも順番に、異常なしの声が響く。
頭上を見あげれば、いちばん太くて高い帆柱の上部に大人の肩幅ほどの円盤がついており、そこに人の気配があった。
「あれは――?」
「見張り番です。夜間は三交替で水夫があそこにのぼって、見張りをします」
「あんな高いところでですか?」
ケアルが感心すると、スキピオは思わずといった様子で苦笑した。
「あなたが飛んでいる空よりも、ずっと地上に近いですよ」
「それはそうですが……」
「あなたが飛ぶことに慣れているように、水夫たちもあの高さには慣れているんですよ。いっきに帆柱の頂上まで登れて、やっと半人前ですからね」
にっこり笑ってそう言うとスキピオは、上着の肩についた房飾りを誇らしげにしめしてみせた。
「これは我がスキピオ家の男たちが代々うけついできたものです。スキピオ家は、父も祖父《そふ》も曽《そう》祖父も船団長をつとめていた、船乗りの家系なんですよ。伝統があるぶん我が家は厳しくて、私は幼いころから船乗りの技術をたたきこまれました。おそらく私ぐらいなものですよ、デルマリナの船団長の中で、帆柱にのぼれると胸をはって言えるのはね」
「ということは――船乗りだからといって、皆がみな帆柱にのぼれるとは限らないのですか?」
「ええ。そもそも船団長や船長は帆柱にのぼる必要など、ありませんからね。私も父について船に乗っていたころはともかく、船団長として乗船した二十歳の頃から現在まで、まだいちども帆柱にのぼったことはありませんよ」
スキピオの言葉にケアルはふと、父のことを思い出した。ロト・ライスは若いころ、きわめて優秀な翼使いだったらしいが、領主の地位を継いで以来、現在まで翼を操縦することはなかったはずだ。
翼で空を飛ぶことは、数多くの危険をともなう。ロト・ライスに限らず、重責を負《お》う領主が自らの命を危険にさらすような真似は慎むべきなのは当然なのだ。おそらく帆柱にのぼるという行為も大いに危険をともなうもので、船団長の責務をはたすべき者がその危険から自らを遠ざけるのも、同じく当然なのだろうとケアルは想像した。
周囲では水夫たちが、それぞれの決められた役目をはたすために慌ただしく動きはじめている。
「夜の飛行で身体が冷えたでしょう? 温かいお茶をごちそうしますよ」
言われてみれば、飛行服もグローブも革の表面が硬くなるほど冷えている。うなずいたケアルは、にこやかに微笑み先に立つスキピオのあとに続いた。
ロト・ライスからの書状を読み終え、スキピオが顔をあげたとき、ケアルは座っていた椅子から腰を浮かした。
スキピオの反応を期待したのだが、彼は丁寧に書状を折り畳むと、黙ったまま目を伏せて眉間《みけん》を指先で何度も揉んだ。
ケアルはふたたび椅子に腰をおろし、スキピオを見つめていたが、いつまでも黙ったままの彼に待ちきれず声をかけた。
「あの――それで……?」
「困りましたね」
「……というと?」
ようやく目をあげたスキピオと、視線が合う。
「私たちは、いいかげんにここへ停泊しているわけではないんですよ。検討を重ねた結果、ここがいちばんいいと決めて、停泊場所に選んだんです」
「決めた基準はなにか、お訊きしていいですか?」
ケアルがたずねるとスキピオは、ややためらったふうではあったが、うなずいてみせた。
「ひとつは、水深。ある程度の水深がないと、船が座礁《ざしょう》しますからね。ふたつめは、潮の流れ。流れの速い場所では、錨《びょう》をおろしても船はながされてしまいます」
「そのふたつの条件を満たす場所なら、他にもあると思いますが」
「いえ。三つ目は言い難いことなんですが、あなたがたが『上』と呼ぶ陸地から隠れることができて、なおかつ接近する船や人を発見しやすい場所を選びました」
そう言われてケアルは、息をひとつ飲みこんだ。
「あなたにはわからないと思いますが、航海先でたまに、船が原住民に襲われることがあるんですよ。積み荷を奪われたり、水夫が何人も殺されたりね」
「我々はそんなことは――」
「ええ、あなたはしないでしょう。でも、このライス領の領民全員が絶対にしない、とは言い切れないんじゃないですか?」
思わずケアルは立ちあがり、スキピオを見おろした。
「ありえません。島人たちはこの船を恐れているんです。できるだけ船から離れた島へ移りたがっているんです!」
勢いこんで訴えたケアルだったが、次の瞬間には我に返り、あわてて口をつぐみ座りなおした。
スキピオはケアルが口をすべらしたことに気づいているのか、それとも気にもとめていないのか、考えこむその表情からは読み取ることはできなかった。
「わかりました――」
長い沈黙のあと、スキピオはゆっくりと立ちあがってケアルに背を向け、小さな丸い窓をのぞきこんだ。
「あなたがたの言う通り、船を移動させましょう」
「――ありがとうございます」
ケアルも立ちあがり、礼を言って頭をさげた。だがスキピオは背を向けたまま、
「ただし、条件があります」
言われてケアルは、先ほど口を滑らしてしまったことを死ぬほど後悔した。訴えを聞いてくれた父に対し、すまないと思う気持ちで両肩がずっしり重くなる。
「なんでしょう?」
おそるおそるたずねると、スキピオはゆっくり振り返った。
「我々が出航するまであなたに、この船に滞在していただきたい」
「私が、ですか?」
「別に領主ご本人でも、あなたのお兄さまでも構いません。けれどおそらく、この要求をだせばご領主は、あなたを寄越すでしょう?」
「いえ。父に言われる前に、私自身が申し出ると思います」
ケアルの応えに、スキピオは笑った。
「それは父親思いというか、領民思いなことですね」
その言葉に多分の皮肉が混じっているように聞こえて、ケアルは顔をしかめる。
「何にしろ、あなた自身が承諾《しょうだく》してくれたのは嬉しいことです。まずはいったん館にもどって、ご領主にそうお伝えください。あなたがこの船にもどった時点で、要求通り船を移動させましょう」
ありがとうございます、とケアルはふたたび頭をさげた。
翌日の早朝。夜が明けるなり家令たちの手を借りず、ケアルは自らの手で翼を前庭に引き出した。
まずは島へ向かい、船が移動することを知らせてから、スキピオのもとへ行くつもりだった。
前庭のいちばん端に立つとケアルは、陽がのぼるにつれ色を変える海を見つめた。
昨夜はスキピオに小舟を出してもらい、前回と同じく折り畳んだ翼を積み込んで、水夫たちの持つ明かりをたよりに、舟着き場までたどり着いたのだ。荒い波にただでさえ小舟では心もとないというのに、そのうえ闇に包まれた夜間の海を、水夫たちはみごとに小舟を操った。
あの技術と、そしてあれほど大きな船が我が地にもあったなら、とケアルは思う。
「その翼で行くのか?」
ふいに背後から声をかけられ、ケアルは驚いて振り返った。
「父上……」
「私が譲ったあの翼があるだろう。あれで行きなさい」
「しかし!」
ためらうケアルの横に歩み寄ると、父はさりげなく息子の肩に手を置いた。
「おまえが言いたいことはわかる。いってみれば、体《てい》のいい人質となるわけだからな。由緒ある翼まで運命をともにするにはしのびない、ということだろう?」
「そうです。もし何かあったとき、翼を守りきれるかどうか、自信がありません」
「もし何かあったときのために、あの翼を使えと言っているんだ。あれはおまえに譲ったのだ。あの翼にふさわしいライス家の息子は、おまえ以外にないと考えたのだ。それに――おまえ以上にあの翼を扱える者は、このライス領どこを捜してもいないだろう」
その言葉に、ケアルは目をみひらいて父の顔を見なおした。
父がそんなふうに考えていたとは、思いもよらなかった。ケアルの意識の中で父が父であったのは、母の存命中だけだった。母親が亡くなって以降、父はだれよりも遠い存在となった。領主という名の。ケアルにとって父がそうであったように、父にとっての自分も遠い存在であると思っていた。
けれど――そうではなかったのだ。
嬉しいような、気恥ずかしいような、そしてまたかけられた期待の重さに魂《たましい》まで縮《ちぢ》こまってしまいそうな思いで、戸惑いの視線をなげかけたケアルに父は、知っているか? と彼には珍しい笑みを浮かべた。
「あの翼には、風の神の加護《かご》がある。私は若いころ何度、あの翼に救われたことか」
父が『風の神』と口にするのを聞くのは、初めてだった。島人の漁師たちの中には、そんなことを言う者もいるが、彼らでさえ『風の神』の存在を信じてはいない。
「そんなことを父上がおっしゃるとは、思いませんでした」
素直にケアルが言うと、父はふたたび笑って、
「今はたとえ信じがたいことでも、信じたい気分なのだ」
「交渉がうまくいかないのですか?」
そうだなと父はわずかにうなずき、海に浮かぶ無数の島に視線を移した。
「デルマリナの代表はひとりだが、こちらには五人の代表がいる。それぞれ自尊心も高く、自分の意見を押し通すのに慣れた御仁ばかりだからな。中には、デルマリナの船が自領ではなく、ライス領に着いたことが気に食わないとヘソを曲げているご老人もいる」
ご老人とは、ギリ領主のことだとすぐにわかった。頑固と偏屈《へんくつ》さでは右にでる者はいない、と言われる老人だ。
苦笑した父につられ、ケアルもつい笑ってしまった。だが、それが笑いごとではないとケアルにも理解できる。
「せめてあと三ヶ月、いや一ヶ月でもいい、時間があればと思うのだが……」
「デルマリナ側は急いでいるんですか?」
「七日以内に返答がほしい、と言ってきている。むこうにも色々と事情がありそうなのだが、調べている時間もない」
その言葉に、ケアルははっと父親を見あげた。険しい父の横顔を見つめ、何度かためらったのち、
「父上――おれにやらせてください」
軽く目をみひらき、父はケアルを見おろした。ふたりの視線が合ったのは、ほんの一瞬だった。ケアルはすぐ爪先へ目をおとし、
「むこうにどんな事情があるのか、おれに調べさせてください」
緊張した硬い口調でそう申し出た。
ケアルには父が、なにを望んでいるのかがわかったのだ。目下の者にむかって愚痴《ぐち》などこぼすはずのない父が、交渉が難航していることをケアルに告げたその理由が。
スキピオに船を動かすことを条件にライス家のだれかを乗船させろと言われた、と報告したときから父はそれを念頭においていたのだろう。いや、ひょっとするとケアルが船を移動させてもらいたいと直訴《じきそ》したときから、父はスキピオに人質を要求されることを予想しており、それならば人質に探りを入れさせることができる、と考えていたのかもしれない。
命じるのではなく、ケアルのほうから申し出るようにさせたのは、おそらくそれが生命にかかわる仕事だからだろう。ケアルはそんな父を怖いと思い、同時に、尊敬の念をあらたにした。
ケアルはなにがあっても、父の意向を無視できなかった。自分がこれまでなにひとつ不自由せず生きてこれたのは、ロト・ライスの息子として産まれたからだ。日ごろ仕事でもなく、ただ楽しみのためだけに飛んでいられるのも、ライス家の一員だから。領民の保護を領主へ直訴できたのも、それをきいてもらえたのも、自分がケアル・ライスという名をもっているから――。
そんなことはわかっているさ、とケアルは思う。もらうばかりで、何も返していないことも。そして、己の分も、果たすべき役割というものも。
「おれはこれから何日か彼らと船上で生活をともにするんです、事情の一端ぐらいはつかめるんじゃないかと思います」
視線を爪先に当てたまま、ケアルは硬い表情で言った。
「――そうだな……」
「もちろんおれは素人《しろうと》ですから、自信があるわけじゃないです。でも――」
「確かに、外から調べるよりは早いし、おそらく確実性も高いだろうな」
たったいま気づいたような口調で言う父。ケアルの口もとに、苦笑とも悲しみともつかぬ笑みが浮かぶ。
「――頼めるか?」
訊ねられ、ケアルは顔をあげた。
父上、あなたはおれを息子として愛してくれていますか? ふいにそう訊ねたくなった思いを、いまにも消えそうな微笑みの下に押し隠して、ケアルはうなずいた。
島の集落に着いたとたんケアルは、島の住民であろう男が避難民の母子を叱りとばす場面に遭遇《そうぐう》した。
子供は三歳たらずの男の子で、甲高《かんだか》い声をあげて泣いている。母親らしき女は我が子を抱え、何度も頭をさげていた。
「うるさいっ! 早く泣きやませろ!」
見知らぬおとなの男に怒鳴られ、子供はますます声をはりあげ泣いている。そのまわりで女の仲間である避難民たちは、ひたすら身を縮こめ、母子から目をそらし、関わりあいにはなるまいとでもいうように無言で地面に座りこんでいた。
叱りつけている男は、なかなか泣きやまない子供に業《ごう》を煮やしたのか、いきなり男の子の腕をつかむと、子供の痩せた身体をぐいぐい揺すぶった。
「黙れっ! このガキがっ!」
あわてて母親が我が子を離させようと、男の腰にすがりつく。
男は怒りのためか赤黒く染まった顔を女に振り向け、かっと目をみひらいて片足をふりあげた。ケアルは駆け寄りながら、男に向かって叫んだ。
「やめろっ! やめてくださいっ!」
だが、間に合わなかった。
腹を爪先で蹴られた女は、げほっと呻《うめ》いてうずくまる。母親が倒れ伏したのを目にし、子供はよりいっそう激しく泣きはじめた。
ケアルは女のそばに膝をつくと、蹴られた腹をおさえる彼女の容態を確認し、男を非難の目でにらみあげた。
「女性に暴力をふるうなど、最低の男がすることだ」
しかしケアルの抗議に男が言い返す前に、うずくまる女が彼の腕をつかみ、やめてほしいと何度もかぶりをふった。
女がなぜ止めるのかわからず、戸惑うケアルに、男は苦いものを飲みこんだような顔を向けた。
「――おれだって、好きこのんで女子供に手をあげようとは思わねぇよ」
そう言い捨てて男は、子供をつかむ手を放した。子供は泣きながら、母親の胸に飛び込んでいく。
「絶対に泣かせるな!」
男が言うと、女は我が子を抱きしめ、ガクガクと幾度もうなずいた。
子供は母親にしがみつき、しゃくりあげている。男は母子をちらりと横目で見ると、苦い顔のまま踵をかえし、集落の坂をのぼっていった。
気がつけば坂の上には、五人ほどの男たちが避難民らを見おろして立っている。彼らの目つきは厳しく、まるで囚人《しゅうじん》を監視する看守のようだ。
眉をひそめて男たちを見あげていたケアルの飛行服の裾を、だれかがくいくいっと引っぱった。なんだろうと振り返れば、先ほどの子供が飛行服の裾をつかんでケアルを見あげている。
ケアルは屈みこむと、埃《ほこり》と涙で汚れた子供の顔を、袖で拭いてやった。
「なんだい?」
頬をゆるめてたずねると、子供はおずおずと少し離れたところに立つ母親のほうを指さした。そちらに視線をやったケアルに、女が深々と頭をさげる。
頭をさげ返そうか、それとも微笑みかけようか、迷っているうちに子供がはじけるようにケアルの手を離れ、母親のもとへと走り帰っていった。子供を抱きとめた母親は、もういちど深く頭をさげ、仲間たちの中へもどっていった。
ケアルはしばらくぼんやりと、母子のうしろ姿をながめていたが、やがて膝の砂を払って立ちあがった。
「ケアル! ケアル!」
折りよく、集落の上からエリの声が聞こえた。見あげればエリが、勢いよく手を振りながら坂道を駆けおりてくる。
日ざしを反射する明るいエリの髪を目にして、ケアルはほっと息をついた。
「――よかった」
エリが目の前に来るなりそうつぶやいたケアルに、親友はきょとんとして首をかしげる。
「なにがよかったんだ?」
「怒ってもう、口をきいてもくれないんじゃないかと思ってたんだ」
「だれが? オレがか?」
自分を指さしてそう問うと、エリは顔じゅうくしゃくしゃにして笑った。
「おまえさ、ほんっとに気にしいだよな。オレがおまえのこと、怒ってると思ってんの? んで、口もきかないって?」
本気で思ってるのかよ、と笑いながら言われて、ケアルは戸惑った。
だって、おまえの気持ちをわかってながら無視したんだぞ。親友だと言いながら、親友のおまえより、その他大勢のほうをとったんだ。怒って当然じゃないのか。
「おいおい……」
考え込んで言葉もない親友に、エリは肩をすくめてつぶやくと、軽く手を握って拳をつくり、なめらかな動作でケアルの腹部に拳を突き入れた。
力はさほど入っていなかったが、身構えるひまもなかったケアルは、げほっと息を吐き出し身体を丸めて腹部をおさえた。
「ほい、これでチャラだ」
清々したとばかりにそう言って、エリは拳をひらき、手をひらひらとさせる。
「これでもう、おまえはオレに悪いことしたんじゃねぇかって気にすることはねぇよ」
「エリ……」
身体を丸めたまま、ケアルは涙のにじむ目で親友を上目づかいに見あげる。
「おまえ、あっちもこっちも考えるからすぐ、身動きとれなくなるんだよ。そんときいちばんいいと思ったことしたくせに、今になってオレのこと考えてさ。そんなの、オレに失礼だとか思わねぇ?」
はっとしてケアルは、エリを見つめた。エリは笑って、立てた親指で集落のほうをしめしてみせる。
「ほら、胸はって自信ありそうな顔しろよ。連中が雁首《がんくび》そろえて来たぜ」
そちらへ視線をやると、ちょうど集落から五人ほどの男たちがぞろぞろと降りてくるところだった。
「全員、うちの島じゃデカい顔してるやつらだ。まあ顔はデカいが、頭は硬いし、胆《きも》となるとそのへんのガキよか小せぇからな」
ひそひそと耳打ちされて、ケアルは思わず小さく笑いをもらした。
「その調子、その調子。うまくやれよ」
軽く背中をたたかれ、あわてて背筋をのばす。
やってくる五人のうち三人は、筋骨逞しい壮年の男たちだ。残るふたりは、思慮《しりょ》深そうな目つきをした白髪の老人だった。
坂道をおりた男たちは、威圧するような視線を避難民たちに投げかけながら、ケアルの前に立った。
「遅かったな。そろそろ連中を追い出そうかと言ってたんだ」
いちばん若い男が、嫌味な笑みを浮かべてそう言った。
「遅れたのは――悪かった」
「それで、どうなんだ? まさか、もうちょい連中を居残らせろとか言いに来たんじゃねぇだろうな?」
その言いようにケアルは軽く眉をしかめて、男を見返した。
「とりあえず、船を移動してもらう約束はとりつけてきた」
「そうか。じゃあ、とっとと連中をこの島から追い出してくれ」
男は追い払うように、避難民たちに向けて手をふる。だがケアルは、はっきりとかぶりをふってみせた。
「いや。それはまだ、できない」
なんだ? と男は口もとに浮かべていた笑いを消し去って、ケアルを見おろした。うしろにいた男たちも互いに顔を見合わせる。
「どういう意味だ、そりゃ」
「彼らがどうしたいと思っているか、まだ聞いていない」
軽く首をひねり、避難民たちをしめす。
「なんで聞く必要がある」
一歩前へ踏み出し、男はケアルの顔を睨《ね》め付けた。
「やつらにゃ、出てくしかねぇだろうが」
出て行きたくねぇと言っても、たたき出してやるがな、と付け加える。
「だが、さっき上空から見たところ、彼らの人数にくらべて舟の数が少な過ぎる。浜に引きあげてあった彼らの舟は、たったの三艘だった」
広場に集まっている人々の数は、ざっと見たところ三十人近い。だが、島人たちの舟に乗れるのは一隻あたり、せいぜい五人がいいところだろう。
「あれでは、島へ帰るにしても、あるいはよその島へ移るにしても、無理だ」
「それがどうしたってんだ?」
うしろにいた男のひとりが、肩をすくめた。次いで白髪の老人が、知ったふうにうなずく。
「そうだな。連中は、その三艘に乗ってやって来たんだろう。来たものを、帰れないはずはないな」
ケアルは唇をひき結んで男たちを見つめると、なにも言わずに彼らにくるりと背中を向けた。そして、こちらで何が話されているのかわかっているのだろう、固唾《かたず》をのんでやりとりを見つめる避難民たちのほうへ、ゆっくりと歩み寄った。
「――ここの、代表者は?」
ケアルが人々を見回すと、彼らは互いに顔を見合わせ、ややあって中から壮年の男がおずおずと立ちあがった。緊張しているのか、あるいは怯《おび》えているのか、男は顔面をひきつらせている。ケアルは彼の気持ちをほぐそうと微笑みかけたが、おそらく男はケアルが笑ったことにさえ気づいていないだろう。
「話は聞こえたと思うけど――」
ケアルが言うと、男はぎくしゃくとうなずいた。
「デルマリナの船は、きみたちの島から離れてくれることになった」
「はい……」
返ってきた声は、かすれて弱々しい。
「きみたちは、島へ帰りたいかい?」
代表の男は仲間たちをぐるりと見回し、遠慮がちにうなずいた。
「帰れるもんなら、帰りたいです」
「きみたちの舟は、あの三艘だけかい?」
ケアルの問いかけに男は、目をそらして口ごもった。代わって人々の間から、女の声が聞こえた。
「島を出たときは、五艘だったよ」
見れば腰まわりのでっぷりとした女が、緊張した様子も怯えた様子もなく、まっすぐケアルに視線を向けている。彼女のまわりには若い女たちが、まるで庇護《ひご》をもとめるように集まっていた。
「あたしの亭主が乗った舟は、あたしの目の前で沈んだよ。でも、こっちの舟もいっぱいでね、誰も助けることはできなかった」
やはりそうか、とケアルは唇を噛む。
「あのデカい舟は、ほんとによそへ行ってくれるのかい?」
「ああ、約束してくれた」
「ほんのちょっと動いただけじゃ、どうしようもないんだよ?」
「だいじょうぶ。船はきみたちの島から、じゅうぶん離れた場所に移動する」
ケアルが保証すると、そこで初めて避難民たちの間に、さざ波のようなどよめきが起こった。
声をはりあげる者も、喜びをあらわにする者もいなかった。人々は静かに、互いに手を握りあい、短い言葉を交わしあっているだけだ。ただ、彼らの中から重苦しい緊張がとけだしていくのが、ケアルにもわかった。
だが、ほっとしたケアルのうしろから、男の声が響いた。
「そうとなったら、とっとと出ていってもらおうじゃねぇか」
振り返れば五人の男たちが、肩をそびやかせて立っている。
「こっちとしちゃ、一刻も早く、出ていってもらいたいんだ。こんな小さい島にうようよと人がいたんじゃ、連中に目ぇつけられねぇはずはないからな」
言って男は、デルマリナの船が停泊する方向をしめした。威圧的な態度をとってはいるものの、その目には緊張と怯えの色が浮かんでいるのを、ケアルは見て取った。
「言われなくたって、出てくよ。そもそもあたしらは、島を離れたくて出てきたわけじゃないんだからね」
先ほどの女が立ちあがり、胸をはって男たちに言い返した。そして仲間たちをぐるりと見回し、
「さあみんな、帰るよ」
女の呼びかけに促され、人々が座りこんでいた地面から立ちあがる。
ほぼ全員が立ちあがったのを確認し、五人の男たちはこれでもう用は終わったと、集落へ引きあげていこうとした。
「――待ってください!」
ケアルは男たちに呼びかけた。
「頼みたいことがあるんだ」
なんだ? と男たちが振り返る。
「さっき言ったように、かれらには三艘の舟しかない。いちどにこの人数を運ぶのは無理だ。だから、何度かにわけて舟をだしたい。五人ずつのるとして、最低でも三往復しなければならないと思う」
ケアルの言葉に、いちばん若い男が眉をつりあげ、怒鳴った。
「そんなことしてたら、夜になっちまうだろうが!」
そうだとうなずいて、ケアルは男たちに頭をさげた。
「だからあと一晩、かれらのうち何人かをここに滞在させてはもらえないだろうか?」
返ってきたのは、露骨《ろこつ》な反発だった。
「冗談じゃねぇ!」
「だいたい昼日中、何往復もされてみろ。デルマリナのやつらに、この島が目ぇつけられるじゃねぇか!」
仲間の言葉に、全員が同意する。
「いっぺんに出ていってもらう。こればっかりは、譲れねぇよ」
言われてケアルは軽く目を細め、あらたな案を申し出た。
「――では、この島の舟を二、三艘、貸してはもらえないだろうか?」
しかしこの提案も、すぐさま拒まれた。
「なんでオレたちが連中に、舟を貸してやらなきゃなんねぇんだ」
「だから、それは――」
「連中は勝手に島を出てきたんだろ。オレたちがそんな連中の尻拭いをしてやる義理はねぇよ」
「しかし――」
反論しようとしたケアルに、いちばん年嵩《としかさ》の老人が、
「あんたは、上に住んでて、そのうえご領主さまの坊だ。だからわからんと思うがね、舟は島の財産なんだ」
「それは、わかっている」
「いや、わかってねぇな。オレたちにとっちゃ舟は、親兄弟よりも大切なんだよ」
「壊したりしない。必ず返す、と言ってもダメだろうか?」
ケアルがくいさがると、中のひとりが下卑《げび》た笑いを浮かべて、
「あんた、姉ちゃんをちょっと貸してくれって頼まれたら、オレらに貸してくれるのか? くれねぇだろ?」
そのたとえに、男たちはどっと笑った。
これまで黙ってうしろにさがっていたエリが、ふいにケアルの横をすりぬけ、一歩前へ出た。その肩が震えているのを見てとって、ケアルは親友の胸の前に腕を突き出した。
「なんだよっ!」
振り返ったエリに黙ってかぶりをふってみせると、ケアルは男たちへ視線をやった。彼らはエリの剣幕に反応し、いつ殴りかかって来られても受けてたてる体勢でこちらをにらんでいた。
ケアルが半歩前に出ると、来るかとばかりに男たちは身構えた。だがケアルはいきなり、地面に膝をつき頭をさげたのだ。
「――頼む。おれはこれ以上、ひとを死なせたくない」
うしろでエリの、息を飲む声が聞こえた。男たちもまた、大勢の見ている前で膝をつき頭をさげたケアルに驚いたようだった。
やがて集落のほうから、そして避難民たちの間からも、やはりこの光景に驚いたのだろう、ひそかなざわめきが伝わってくると、男たちはあせりはじめた。たとえ島人の母をもつ、なんの権限もない三男坊だとはいっても、領主の息子であるケアルに地面に膝をつき頭をさげさせてしまってはマズいのではないか、と考えが到ったのかもしれない。
しばらくボソボソと話し合う声がして、
「――わかったよ、連中を舟にのせてやりゃいいんだろ」
ケアルはぱっと顔をあげた。
「ただし、貸すのは一艘だけだ。それも、すぐに返してもらうぞ」
彼らにとっては、それが最大の譲歩なのだろう。察してケアルはうなずいた。
「――ありがとう」
「オレが連中をのせていく。んで、皆をおろしたらすぐもどってくる」
それならいいだろ、と名乗りをあげたのはエリだった。
男たちは顔を見合わせ、やがて口々に「勝手にしろ」と言い捨てると、集落へ引きあげていった。
しかし避難民たちは、デルマリナの船が移動したのを見届けてからでないと、島へもどりたくはないと言い出した。
なるほどそれはもっともなことだと、ケアルは彼らに、自分が船へ乗り込めばすぐにでも船は動くはずだと説明した。人々はそれで納得してくれたが、おさまりがつかなかったのはエリだった。
「おい、それってつまり、おまえが人質になるってことじゃねぇのかよ!」
憤然と声をあげた友に、ケアルは避難民たちを気にして小さくかぶりをふり、
「そんな、たいそうなものじゃないよ」
「親父さんが行けって言ったのか?」
「いや。べつに強制されたわけじゃない。おれがいちばん適当な人材だっただけだ」
そう言ってケアルはエリの肩に腕をまわし、そっと耳打ちした。
「申し訳ないけど、あとを頼む。船が動きだしたらすぐに出発できるように、浜で彼らと待機しててほしい」
「そりゃお安いご用だけど、おまえほんとに大丈夫なのか?」
「心配ない。おれなどより、エリのほうが心配だ。あんな申し出をして、あとでなにか言われたりするんじゃないか?」
ケアルが言うとエリは一瞬きょとんと目をみひらき、すぐに破顔した。
「それこそ、無駄な心配だっての。連中もオレが一緒に行くってんで、舟がちゃんと戻って来る保証になるって、かえって安心してんじゃねぇのか」
だといいが、とケアルは口ごもる。
「おまえ、変なとこで心配性だよな。連中のバカさかげんとか、考えそうなことだったら、おまえよかオレのほうがよっぽど詳しいんだからさ。任せとけって」
どんなときにも、エリは楽天的だ。ケアルはそんなエリを、時に羨《うらや》ましいと思い、時にまた危なっかしいとも思う。
「なんだかエリには、いつも助けられているな」
しみじみとつぶやいたケアルに、エリは顔じゅうくしゃくしゃにして笑い、勢いをつけてケアルの背中をたたいた。
「当然だろ、親友だもんな」
親友だと言ってもらえるのは嬉しい。だが親友として、自分がエリに何をできるのか、返せるものがあるのか。考えはじめれば、迷路にまよいこんだ気分になる。
「ほら、行けよ。とろとろしてっと、またあの連中がしゃしゃり出てくるぜ」
集落のほうをしめしてみせたエリに、ケアルは黙ってうなずいた。
エリに見送られ、いったん浜のほうへ向かいかけたケアルだったが、ふいにあることに思いあたり、立ちどまって親友を振り返った。
どうした? と心配げに首をかしげるエリのもとへ、すぐにでもとって返したい衝動にかられる。だが、それはできない、してはいけないと、理性で自分をおしとどめた。
(――すまない……)
親友なのに、おまえのことを一番に考えてやれなくて。おまえがデルマリナの船に乗りたいと密かに望んでいたことを知りながら、それを叶えてやれなくて。
この状況の中、人目のあるところでエリの望みを口に出すことはできなかった。島人たちにわずかでも漏れれば、たちまちエリの立場は微妙なものとなるだろう。
「エリ、頼んだぞ!」
様々な思いをおしこめて、ケアルは手を振りながら叫んだ。すぐさま、まかせろと明るい声が返ってくる。その声にうなずいて、翼を繋留《けいりゅう》してある浜の崖上の台地へ向かって走りだした。
島人がつかう舟はほとんどが、三角帆と腕木のついた五人のりの小舟である。一部の島に二、三艘、腕木のない昔の舟が残ってはいるが、波の高い海で腕木のない舟は安定性が悪く、現在では使われることはまずない。
漁に出るときは、たいてい三人一組で舟にのりこむ。ひとりが帆と櫂《かい》をあやつり、あとのふたりが網を投じるのだ。
島人の子供たちはたいてい幼いころから父親について、見よう見まねで舟をあやつる技術をおぼえていく。早くに父を亡くしたエリには、年老いた身よりのない漁師が、海での親代わりだった。老人は無口で厳しく、幼いエリにも容赦《ようしゃ》なく己が技術をたたきこんでくれた。おかげでエリは、技術だけは他の同年輩の仲間たちに羨まれるほどのものを身につけることができたわけだ。
老人が亡くなったのは、エリが十五になった年だった。ある朝、いつも夜明け前から起きだしてくるはずの老人が、日が高くなってもなかなか浜に現われず、不審に思ったエリが住居を訪れると、老人は寝台の中でこと切れていた。眠るような最期だったのだろう、いつもいかめしい顔には、安らぎの表情が浮かんでいた。
身よりのない老人の葬儀は、島人たちの手によって執り行なわれた。エリはこの葬儀のとき初めて、老人が昔、エリの父親に漁の手ほどきをしたのだと知ったのだった。
エリが出した舟に乗ったのは、赤ん坊を抱いた女がふたりと、十五歳にもまだ手が届いていないだろう少年がふたりだった。
他の舟はぎゅうぎゅう詰めで、もうひとりぐらいこっちに乗れるぞと声をかけたが、移ってくる者はいなかった。
(オレのこと信用できねぇってのか)
そう考えて腹を立てたエリだったが、すぐに、他の舟の皆に何度も何度も頭をさげるふたりの女を見て、その逆だと気づいた。
借りた舟は、必ず返さなくてはならない。いつ沈むかわからないような人数を、のせるわけにはいかないのだ。だから人々は、いちばん安全だろうこの舟に、未来ある赤ん坊と子供をのせた。
浜からゆっくり離れていく三艘の舟をながめやりながらエリは、どの舟も無事に着いてほしいと、初めて切実に願った。
浜を離れたとたん、女子供ばかりとはいえ本来の倍の人間を乗せた舟は、荒い波に翻弄《ほんろう》された。空へ向かって放りなげられるように波頭に乗って高くあがり、大人の背丈はある高さからいきなり海面へと落下する――その繰り返しだ。
他の舟より条件はいいはずなのだが、ふたりの女も少年たちも舟には慣れておらず、波に身をまかせることができない。満足に操舟できるのは、エリひとりだけなのだ。エリは何度も「波の力に逆らうな」と叫んだが、舟にしがみつくので精一杯のかれらに、エリの声は耳にさえ入らないようだった。
舟が一方へ傾《かし》がないように、何度も振り落とされそうになりながら、エリは立つ位置を変えた。すぐ風に流される小さな三角帆は、己が体重をかけてささえる。
舟体に打ちつける波の音、帆をはためかす風の音、それらにときおり混じる赤ん坊の泣き声や母親の悲鳴。耳にしながらエリは、幾度か他の三艘の舟を振り返った。のりこんだ人数が多いぶん、三艘は船足が遅いのだ。
どんどん離れて小さくなっていく舟影に、エリはひどく不安をおぼえた。波間に見えかくれする舟は頼りなく、いまにも海中深くへ沈んでしまいそうに思える。
このまま待つか戻るかして三艘の舟に伴走したほうがいいのか、それともいったん島で少年や赤ん坊をおろしてから、急いでかれらのもとへ行ったほうがいいのか。
迷いに迷って、何度めかに振り返ったとき。波間にふたつの舟影が、ふわふわと上下しているのが見えた。
(なんだ……? もう一艘は?)
それがなにかに隠れて見えないのではなく、ほんとうに消えてしまったのだとわかった瞬間、エリは三角帆をひるがえし、力ずくで舟の進む方向を変えた。
「くそっ! 間に合えっ!」
どうして出発する前に、無理やりにでもあと数人、この舟にのせなかったのか。ひとりぶんでも軽ければ、舟は沈むことはなかったかもしれないのに。そう考えると、涙が出るほど悔やまれる。
離れるときは、あんなにどんどん舟影が小さくなっていったというのに、近づくときはなぜこんなに遅いのだろう。腹立たしい思いで、エリは三角帆をあやつった。
やっと人々の顔がわかるほど近づくと、波間にいくつもひとの頭がぷかぷか浮かぶのが見えた。
二艘の舟の上では、海中から舟体にしがみついて来ようとする人々を、男たちが片端から突き放している。そのうしろでは女たちが泣き叫ぶこともなく、ただ互いにきつく抱きしめあっていた。
舟端につかまる指を何度も引きはがされ、力つきた者たちがひとり、またひとり、海中へと沈んでいく。
「こっちに来いっ!」
エリが叫ぶと、舟にのる人々が振り返った。だが、波間に浮かぶ人々は、エリの声を聞き取れる余裕などないのだろう。だれひとりとして、こちらへやって来る者はいない。
「こっちなら、まだ乗れるぞ!」
ふたたび声をはりあげても、やはり反応がない。そうするうちに、またひとりが舟のほうへ片手をのばしたまま、海中へ沈んでいった。
「くそ……っ!」
吐き捨てるようにつぶやくと、エリは舟縁《ふなべり》に足をかけ、海へ飛び込んだ。そして襲いくる波を突き破って二、三度水をかき、大きく息を吸いこんでから、身をおどらせて海中へ潜っていく。
波の力は、うす暗い海中にもおよんだ。身体が持ち主の意志にさからい、どこかへ持っていかれそうになるのだ。だがエリは、沈みゆく人影を見つけると、力をふりしぼってそちらへ向かった。
やっとつかんだ腕は、若い女のものだった。すでに意識を失い、両手両足はぐったりと弛緩《しかん》している。エリは女の脇に腕を入れ、必死に水を蹴った。
海面近くまでたどりつくと、また人影がひとつ沈んでいくのが見えた。だが、いまのエリにはもうひとりを助ける余裕はない。
ごめん、と心の中でつぶやいて海上に顔を出すと、舟が遠くに見えた。
(かなり流されたな――)
意識を失った人間を泳いで運ぶのは、大きな砂袋を背負って泳ぐより何倍も難しい。そのうえ波が絶え間なく、頭上から襲いかかってくるのだ。
息をするごとに口から鼻から海水が侵入し、そのたびに身体が海中へ沈みそうになる。手足は砂をかいているように重く、懸命に泳いでいるつもりなのに、まったく舟は近づかないように思えた。
「こっちへ――!」
叫ぶ声にふと気づけば、舟の上から少年ふたりが手をさしのべていた。
いつの間にここまでたどり着いたのだろうとぼんやり考えながら、運んできた若い女を少年たちの手を借り、舟上に押しあげる。そこには全身びしょ濡れになった中年の男と、肩で息をする若い男があらたに加わっていた。
「これで、三人めです」
少年たちの言葉にうなずいて、エリは舟縁につかまりながら背後を振り返る。この舟に気づいた者たちが、必死に水をかき、こちらへ向かっているのが見えた。
「これ以上は、無理です。早く、あがってください」
あせって叫ぶ少年たちを見あげ、だがふたたび背後を振り返ってエリは、
「ばかやろうっ! そんなことできるかよっ!」
怒鳴り返すと、舟縁から手を放した。
「もどってください!」
「これ以上のると、こんどはこっちが沈みます!」
少年たちの言葉は正しい、と頭ではわかっている。しかしエリには、かれらを見捨てることができなかった。
(ここで見捨てることができるなら、最初からもどってなんか来るもんかよ……!)
いっぱいに人々をのせた二艘の舟はすでに現場を離れ、島へと向かっている。かれらが生き残るには、この舟にのるか、どこかの島へ泳ぎ着くしかない。
エリは水をかき、かれらの先頭を泳ぐ男の横についた。ともに舟まで泳ぎ、男が舟上によじのぼるのに手を貸す。
こんどこそ無理だと叫ぶ声を無視し、振り返れば、残るはあと三人。舟上はすでに、立錐《りっすい》の余地もないほどいっぱいだ。
一瞬だけ迷い、しかしふたたびエリは舟を離れた、そのとき。頭上からこれまでにない大きな波が、エリを襲った。
なにが起こったのか、その瞬間はわからなかった。
強い力がエリの身体を揉みくちゃにし、海中を引きずりまわした。どちらが上でどこが海底なのかさえわからなくなるほど、揺さぶられ振り回された。
激しい水流がおさまると、エリは必死に手足を動かし、海上に出ようともがいた。けれど確かに進んでいるはずなのに、なかなか海面にはたどり着けない。
肺の中にはもう、小指の先ほどの空気も残っていないように思われた。
(こんなとこで――オレは死ぬのか?)
死という言葉が初めて、エリの脳裏をよぎる。
(まだ、デルマリナのでっかい舟、そばで見てないのに……)
(そうだ、デルマリナの舟、乗ってみたかった)
(親父が生まれたデルマリナにも、行ってみたかった……)
こんなところで、まだ死ねないと思う。けれど次第に意識は朦朧《もうろう》とし、手足はどんなに力をこめているつもりでも、ただふわふわと水に漂うだけだ。
(もう……だめ、だ……)
あきらめがエリの全身を侵食していく。
母親の腹の中にいる赤ん坊のように身体を丸め、膝を抱えた。肺に残った最後の息が、小さな泡となってエリの唇からもれ出ていった。
(――――!)
その瞬間、エリはいったん閉じかけた目をみひらいた。
(上は……海上は、あっちだ……!)
気泡がゆらゆらとのぼっていく方を見据えて、エリは気力だけで水をかいた。
ごぼっと厭《いや》な音をたて、肺の中に海水が侵入する。胸はかきむしりたいほど痛く、手足は自分のものではないように重い。だが、海水ごしに透ける陽の光が、一縷《いちる》の希望となってエリを励ます。
何度、水をかいたことだろう。とうとう膜《まく》を破るように海上に頭を突き出したエリは、急激に入り込んできた空気に、激しく何度も咳き込んだ。
咳がどうにかおさまると、ようやくあたりを見回す余裕ができた。しかしどんなに目をこらしてもエリの視界には、舟どころか島影のひとつも映りはしなかった。
白い波頭と、どこまでもひろがる海原。そして頭上には、やはり広々とした青空――見えるのは、ただそれだけだ。
舟はどこへいったのか、どちらへ向かえばいちばん近い島があるのか、エリには知るべき手段がない。
[#挿絵(img/KazenoKEARU_01_139.jpg)入る]
エリはふたたび、絶望がひたひたと押し寄せてくるのを感じた。
「くそ……っ、死にたくねぇよ……」
悔しげにつぶやく声は、波と空に吸い込まれていく。心の内に響く、もうあきらめたほうがいいという声に押しつぶされそうだ。
そんな絶望感に抵抗するように、エリは重い腕をのばし、水をかいた。ひとかきすると、あとひとかきだけ、あと少しだけ頑張ってみようと、欲がでてくる。
水をかくたびに、こんどこそ最後だと思った。だのに、次がほんとうの最後だからと腕をのばす。その繰り返しだった。
* * *
海鳴りの音は、ひとの怒鳴りあう声によく似ている。海鳥の鳴く声は、赤ん坊の泣き声にそっくりだ。わかってはいたもののエリは、海鳴りを幾度もひとの声だと思い込み、そのたびに期待して周囲を見回した。
けれど冷静に考えれば、島へ向かった舟があれだけの人間をのせながらエリを捜しているとはまず思えない。また、デルマリナの舟があらわれてから、どこの島も漁には出ていない。この近くを舟が通りかかるなど、現在ありえないことだ。
助かるためには、自分で泳ぐしかない。
(――にしても、島のひとつも見えやしねぇんだもんな……)
胸の内でつぶやいて、エリは重い手足をぎくしゃくと動かす。
もうどれほど泳いできたのか、わからない。大きな波がくるたび、波に抵抗せず身体をまかせているので、海中に引きこまれることはないが、ずいぶんと流されているような気がする。ひょっとすると、同じ場所をぐるぐる回っているだけかもしれない。身体はぼろぼろに疲れ、長く海水に浸かったためか、感覚がないほど冷えきっている。
またひとつ大きな波をやり過ごし、やはりまたもや海鳴りの音をひとの声と錯覚《さっかく》して反射的にあたりを見回したエリは、白い波頭のむこうに小さな黒い点が見えることに気づいた。
(やった、島だ……!)
見えさえすれば、たとえ遠くてもそれだけで気持ちが違う。もう今度こそ動かないと思えた腕が、足が、ぐいっと水をかく。
黒い点は次第に大きくなり、やがてエリはそれが島影などではないとわかった。
(うそだろ……?)
それは、舟だった。それも一艘ではない。二艘か、それ以上。
ややあって、おーいと呼ぶ声も耳に届いてきた。それは海鳴りの音に似ていたが、そらみみでも錯覚でもない、あきらかにひとの声だった。
舟上に人影が動くのが見え、エリは大きく手を振った。
「こっち! こっちだ!」
舟は全部で、四艘だった。それも、どの島のものでもない、デルマリナの舟。
そして、エリを引きあげた舟には、ケアルが乗っていた。
「船の見張りが、見つけたんだ」
ケアルはエリの頭から柔らかな布を被《かぶ》せ、ごしごし濡れた身体を拭ってくれながら、そう告げた。
「見つけたって? オレが流されてるの、見えたってのか?」
「いや。舟が一艘、沈むのが見えたらしい」
「そっか。オレが流されたのわかってからじゃ、こんな早くにゃ来れねぇもんな」
エリがうなずくと、ケアルはかすかに眉をしかめ、
「だが、間に合わなかったようだ。今のところ助けられたのは、エリだけだ」
他の三艘の舟は、生存者を捜すために散開しつつある。
「オレの舟には四人、助けあげたぞ」
「――助けてくれたのか?」
「当然だろ。つってもそのオレが、こんななってんじゃカッコつかねぇけどさ」
苦笑しながらエリが言うと、ケアルはどこか痛いところでもあるような顔をして、親友の手を握りしめた。
それがなんだか照れくさく、エリはあさってのほうへ目をやってつぶやいた。
「みんな、ちゃんと島に着いたかな」
「それは大丈夫だ」
エリのつぶやきを聞き逃さず、すぐさまケアルがうなずく。
「舟が一艘、かれらから少し離れて着いて行っている。全員が無事に島へ上陸するまで見届けてほしい、と頼んである」
「少し離れてってのが、微妙なとこだな」
ああ、とうなずいたケアルと視線が合い、思わずふたりはそろって苦笑した。
「――で、いまデルマリナの舟はどこにいるんだ?」
エリの問いかけにケアルが指さしたのは、これまで船が停泊していた場所から、目算で左へ島を三つぶんほどずらした位置だった。首をめぐらせば、なるほど三つの船影がはっきり見えた。だが海中にいたとき見えたとしても、船の大きさが飲み込めていないエリには、島にしか見えなかったに違いない。
「島があっちだとすると――あんまし遠くへ移動しちゃいないんじゃねぇか?」
「航行中に見張りが、舟が沈むのを確認したと報告したからね。船団長があわてて船をとめさせて、こうして救助の舟を出してくれたんだ。我々がもどれば、もう少し移動するはずだよ」
そうか、とうなずいてエリは膝を抱え寄せた。ほっとしたとたん、身体の芯《しん》から疲れと寒さが染み出してきたようだ。
「寒いのか? だいじょうぶか?」
ケアルがあわてて、エリの身体に持参してきた毛布をかける。
「濡れた服を脱がして、身体をあっためてやったほうがいいぜ」
舟をあやつる水夫の声が、ひどく遠く聞こえた。
「あったかいものを飲ませて、身体を乾かしてから、しっかり毛布でくるんでやるんだ」
「早く船に帰るか、陸へあがったほうがいいだろうな」
水夫たちの忠告に応えてケアルが、では船へもどってくれ、と言う声が聞こえる。
エリはあわてて、砂袋を詰めたような腕をあげ、ケアルの身体をつかんだ。
「――だめだ……」
「どうした? 辛いのか?」
そうじゃない、と首を振ろうとしたが、身体が他人のものになってしまったかのように、思う通りに動かない。
「だめだ……まだ、助けてない……」
それでも必死に唇を動かして、エリは訴えた。
「海に落ちたやつ……舟が沈んで……みんな助けて……」
ひとりでも多くのひとを助けてほしい。みんな、島へ帰りたかったはずだ。エリにはその帰りたいという気持ちが、痛いほどにわかる。そしてまたケアルも、エリの気持ちをわかってくれるはずだと思えた。
「頼む…………」
エリの訴えにケアルがなんと応えたのか、彼はそのとき確かめることはできなかった。
遭難者の捜索に出た小舟がすべてもどると、約束通り船団長のスキピオは、三隻の船の錨をあげさせた。
「勝手ばかり言って、申し訳ありません」
「いやいや。我々船乗りは、海上で救助をもとめる者がいれば、たとえ航海の先を急いでいようと必ず手助けすることになっていますから」
謝《あやま》るケアルにスキピオは、にこやかに微笑みながらそうこたえた。
「いつ自分が救助をもとめる側になるか、わかりませんからね。なんといっても『板子《いたご》一枚、下は地獄』ですよ」
「板子一枚……?」
「船乗りの常套句《じょうとうく》です。どんな立派な船に見えても、しょせん我々は船板一枚の上に乗って、広い海原に浮かんでいるんです。危険はだれの上にも公平に訪れますからね」
わかります、とケアルはうなずいた。
錨をあげた船はゆっくりと、動きだした。甲板のほうからは、水夫たちがあわただしく動きまわる音が聞こえる。
ややあって扉が開き、水夫のひとりが報告した。
「救助者が目をさましました」
思わず腰を浮かしたケアルに、スキピオが「行きましょう」と促す。
エリは艦長室のちょうど下にある、水夫長の部屋に運びこまれていた。船内で寝台が使えるのは、ほんの一部の人間だけだ。ほとんどの水夫たちは、第二甲板の柱にひっかけた布製の吊《つり》り床《どこ》で眠る。エリが運ばれた水夫長室には、寝台があった。
「彼は、ご友人ですか?」
水夫長室までの道々、揺れる船に足もとのおぼつかないケアルを気づかってゆっくり歩きながら、スキピオはそう訊ねてきた。
「親友です――」
壁板に手をついて身体をささえつつ、ケアルはこたえる。
「ああ、それはご心配でしょう」
「昔まだ翼の操縦に慣れていなかったころ、あやうく墜落《ついらく》しかけて、彼に助けてもらったんです」
「命の恩人というわけですね」
うなずいてみせたスキピオには、なんの意図もなかったのかもしれない。だがケアルには、命の恩人だから島人である彼と友達として付き合っているんですね、と言われたように感じた。
「それだけじゃなく、すごくいい奴なんです。今日だって、彼が力を貸してくれたから舟を借りられたんだし、たぶん彼のことだから自分の身の安全をかえりみず他人を助けようとして、こんなことになったんだと思うんです」
思わず拳を握りしめ、むきになって、エリがどんなに素晴らしい人間であるかを語る。スキピオはそんなケアルをどう思ったのか、なるほどと合槌をうちながら聞いていたが、やがてゆっくりと足をとめ、正面をケアルに向けた。
ケアルも足をとめ、スキピオを見返した。一部|格子《こうし》になった天井から差し込む陽光だけが頼りのここでは、スキピオの細かい表情まではわからない。
「こんなことをお訊きするのは、無礼になるのかもしれませんが――彼は少し、島の皆さんたちとは違うようですね?」
問われてケアルは、かすかに眉尻《まなじり》をあげた。
「違うというのは、どういう意味ですか」
問い返したケアルの声は、抑えていたものの険しさを隠しきれなかったに違いない。
「いえ、すみません。ちょっと気になったものですので――」
スキピオはあわてて謝りながら、しかしはっきりと問いを繰り返した。
「髪の色や肌の色が、私がこちらに来てお会いした皆さんとは違うな、と思ったのです。もちろん違うとはっきり言い切れるほど、多くのかたに会ったわけではないとはわかっていますが――」
慎重に言葉を選ぶ様子のスキピオに、ケアルはその深意を読み取ろうと、うす暗がりの中、彼の顔をじっと見つめた。スキピオもまた反応を待って、ケアルを見返している。
口を開きかけては閉じ、唇をひき結んではまた開く、といった仕草を何度か繰り返したあと、ケアルは低い声でこたえた。
「――彼の母親は島で生まれ育った島人ですが、父親はデルマリナの遭難者でした。もう亡くなったので、おれは会ったことはないですけど……。もし彼が皆と違うとしたら、たぶんそのせいではないかと思います」
「やはり、そうでしたか……!」
すぐさま明るい声で返され、ケアルは軽く目をみひらいてスキピオを見直した。やはりとは、どういうことなのか。訊ねようとしたがスキピオは興奮ぎみの口調で、
「以前から船乗りたちの間には、難破した船がこちらに流れ着いているらしい、との噂がありました。あくまで噂の域を出ない話ですし、眉唾《まゆつば》ものだろうと言う者も多かったのですが――やはり本当だったんですね」
それだけ喋ると、こうしてはいられないといった様子で踵をかえした。あわててケアルも、あとを追う。
揺れる船内をあっちにぶつかり、こっちに突き当たりしてスキピオのあとをついて行きながらケアルは、たったいま聞いたばかりの話を頭の中で繰り返していた。
(船乗りたちの噂……。たとえ噂にしても、出所があるはずだ)
それははたして、どこなのだろう?
エリは寝台の中で半身を起こし、不安げに掛け布を握りしめていた。ケアルが入っていくと、すがりつくような目を向け、
「なあ、なんか……揺れてねぇか?」
「心配ない。船が動いているからだ」
ケアルのこたえに、彼はぎょっと目をむいた。
「船って……ここ、船なのか?」
「ああ、船の中だ」
苦笑してうなずいてみせると、エリはきょろきょろあたりを見回した。
「なんか……すげぇ……」
スキピオがエリに付き添っていた水夫に、視線と手ぶりで部屋を出るように合図する。水夫が出ていくと、スキピオは寝台の横に立ち、エリを見おろした。
じろじろと見られて、エリが「こいつ誰だ?」とケアルに視線を送ってくる。
「こちらは、船団長のスキピオさんだ」
「せんだ……んちょう……?」
言葉の意味がのみこめないらしいエリに、スキピオ自身が、
「この三隻の船の、総指揮をとっている。言ってみればまあ、船長たちの親玉みたいなものだね」
「ああ、要するにいちばん偉いひとってことなんだな」
うなずいてエリは、さしだされた手を握り返した。そしてふたたびケアルに視線を向けて、
「ところでさ。なんでオレ、船ん中にいるわけ?」
「あそこからだと、船にもどったほうが早かったから――」
「ああ、そっか。だから船が動いてんだな……」
ぼんやりつぶやいたエリは、ややあって、はっとしたように顔をあげた。
「――みんなは?」
真摯《しんし》な視線を向けられ、ケアルは思わず目をそらした。
「だれか、他に助かったやつは……」
すぐに応えられないケアルに代わり、スキピオが沈痛そうな面もちで、ゆっくりと首をふってみせた。
「残念だが、助けられたのはきみだけだ。きみが助かったのも、奇跡に――」
しかしエリは、スキピオの言葉を最後まで聞いてはいなかった。
「ケアル、こっち向けよ」
低い声で言われ、そろそろと視線をエリへと向ける。
「なんで、顔|背《そむ》けるんだよ。オレはおまえに訊いてんだぞ。なんで、おまえが応えてくれねぇんだよ?」
「……ごめん」
真っ直なまなざしにまた、目をそらしたくなるのをこらえた。
エリを助けたかったから。できるだけ早く手当てしなければ、エリの命まで危なかったから。だから、他の皆を助けてほしいと言ったエリの望みをあえて無視した。けれどエリに面と向かって、そう言えるはずがない。言えばエリは、己を責めるだろう。
「彼を責めてはいけないよ。きみは本当に、危なかったんだよ」
ふたりの会話が途切れたのをみはからって、スキピオがさりげなくケアルの肩をもった。
「生きているかどうかわからない遭難者を捜すより、きみの生命を優先するのは、ごく当然のことだ。きみは友人に感謝しなければいけないよ」
訳知り顔で忠告するスキピオに、ケアルは思わず彼の腕をつかみ、かぶりをふってみせた。
スキピオはケアルの顔をまじまじと見つめたのち、軽く肩をすぼめて口をつぐんだ。ケアルの訴えを理解してくれたのか、あるいは処置なしとあきれたのか、どちらともとれる顔つきだった。
やがてため息をひとつついてスキピオは、扉の外で控える水夫に、暖かい飲み物と食事を持ってくるように伝え、寝台の端に腰を落ちつけた。
「ところで先ほど、彼から聞いたんだが。きみの父親は、デルマリナの出身だそうだね?」
「……そうだけど、それが何か?」
いぶかしそうに眉をひそめて、エリが身構えるのがわかった。
「父親の名は?」
「――なんでそんなこと、訊くんだよ」
詰問口調のスキピオにエリは、不快げな表情を隠さず問い返した。
「こちらで亡くなったというのでね、もしデルマリナに家族が残っているとしたら、それを伝えてやりたい」
「家族だって……?」
「彼の両親や兄弟、それに妻や子供がいるかもしれない」
「オレの親父だぞ。なんでよそに、妻だの子供だのがいるってんだよ」
不服そうなエリに、スキピオは小さな子供をたしなめるように苦笑する。
「私はかもしれない≠ニ言っただけだよ。それにもし妻と子供がいたとしても、仕方のないことだと私は思うね。彼はデルマリナに帰る手段がなかった。この地で生きていくしかなかった。私が同じ立場になったら、妻を迎えるだろうし、子供ができても不思議はないだろう」
「でも……っ、オレの親父だ」
エリはつぶやくようにそう言うと、掛け布を握りしめた拳に目をおとす。
「まあ、妻や子は別としても――きみは、お父上の両親に息子の死を伝えてやりたいとは思わないか? きみからみれば、祖父母にあたる。かれらはまだ息子が生きていると信じて、彼の帰りを待ちわびているかもしれないんだぞ?」
「それは――そうだけど……」
「きみの祖父母は、ひょっとすると孫に会いたいと言い出すかもしれない」
その言葉にエリは、はっとした目をして顔をあげた。
「きみも会いたいと思うだろ?」
問われて、エリはしばらくためらったのちに、おずおずとうなずいた。それを見て、スキピオは口端に笑みを浮かべ、
「じゃあ、名前を教えてくれるね?」
「――親父は、みんなに『アル』と呼ばれてた。ほんとはアルモロだかアルロモだかって名前なんだけど、だれもそうは呼ばなくてさ。親父も自分で、アルだって名乗ってた。アル・タトル、っての」
「タトル? それが家族名?」
「いや、タトルは母ちゃんのほうの姓。親父は母ちゃんと一緒になったとき、母ちゃんの父ちゃん――つまりオレの祖父《じい》ちゃんに、姓を捨てさせられたんだって聞いた」
その祖父ちゃんも、もうずっと前に死んだけど、とエリは小さく付け加えた。
「では、彼の姓はわからないのか?」
「オレは知らねぇし、たぶん島のみんなももう、そんなもん忘れてると思う」
エリの言葉にスキピオは眉根を寄せ、大きくため息をついた。
「あわれだな……」
「なんだよ、あわれって」
「きみの父親だ。遭難して故郷へ帰るすべもなく、そのうえ名さえ捨てなければならなかった――」
嘆息《たんそく》混じりに言われて、エリがキッとまなじりをつりあげる。まずいと感じたケアルがあわてて親友の肩に手を置くと同時に、扉をたたく音がした。
「なんだ?」
スキピオの問いかけに、扉が開く。
あらわれたのは、先ほどとは違う水夫だった。
「舟が来ました。どうしましょう?」
「どこの舟だ?」
「領主の使いだそうで――」
わかったとスキピオはうなずき、ケアルを振り返る。
「あなたはこの部屋を出ないでください。部屋の外に水夫をひとり残しておきますから、用があれば彼に言ってください」
ケアルがうなずくと、スキピオはあわただしく部屋を出ていった。
スキピオの足音が遠ざかると、ケアルとエリは思わずといったふうに互いに顔を見合わせた。
「やっぱおまえ、人質扱いじゃん?」
先に口を開いたのは、エリのほうだ。昔から、どんな喧嘩《けんか》をしても、たとえケアルのほうが悪かったとしても、次に会ったときには必ずエリのほうから話しかけてくる。まるで何もなかったかのように、明るい屈託《くったく》のない口調で。
そんな意味でも、いつもエリには救われているなと、不器用なケアルは思う。
「仕方ないさ」
「そっかなぁ。でもさ、なんか、あのひと……親切そうなふりしてヤな奴だな」
子供のように思いきり顔をしかめるエリに、ケアルは我知らず苦笑した。
「ふりじゃなく、親切だよ。舟が沈んだと見張りの水夫が報告したとたん、迷うこともなくすぐに救助の舟を出してくれた」
「そんなもん――」
言いかけてエリはふいに口をつぐみ、気まずげな顔でケアルを見返した。
「まあ……言われてみりゃ、さ。もしこの船が沈んでも、島の連中はだれも助けの舟を出そうなんて言い出さねぇだろうな」
「たぶんね」
ケアルがうなずくと彼は、まだ湿り気の残る髪に指を突っ込み、ぐしゃぐしゃにかき回した。
エリのこの明るい金髪は、スキピオが先ほど言っていたように、このあたりでは見られないものだ。島人も上の住民も、たいていは黒か赤茶けた栗色である。島人たちの中にあって、エリは常に他の仲間たちとの違いを感じてきたに違いない。また島人たちもエリ以上に彼と自分たちとの違いを思っただろうことは、想像に難くない。
「エリの父上の件だが――母上なら、夫の姓を覚えているんじゃないか?」
ふいにケアルが切り出すと、エリは軽く目をみひらき、続いて肩をすくめた。
「……たぶんな」
「母上に訊いてみたらどうだろう?」
「なんて訊くんだよ。デルマリナに親父の妻だの子供だのがいて、帰りを待ってるかもしんねぇから、って説明すんのか?」
ケアルははっとエリを見返し、俯いて「そうか」とつぶやいた。
「オレ母ちゃんに、そんなこと言えねぇよ。それはおまえだって、わかるだろ」
ああ、とうなずき返す。エリが母親をひどく大切にしていることは、彼を知るだれもが認めていた。そしてケアルは、エリが母親にとって息子としてばかりでなく、彼女の保護者でさえあろうと自身に課していることを知っている。
「母ちゃん、デルマリナの船が来たってわかってから、なんか変なんだ」
「変って……?」
「怖がってるっていうか……ああでも、みんなみたいな怖がりかたじゃなくてさ。たぶんオレがなんかするんじゃないかって、思ってるみたいな感じで――」
なるほど、とケアルはうなずいた。
「たぶん母上は、エリがいつかデルマリナへ行ってしまうんじゃないかと、恐れているんじゃないかな」
ケアルが言うと、エリはむきになって反論した。
「オレ、そんなこと母ちゃんに言ったおぼえはねぇぞ。んな話できんのは、ケアルにだけだ――」
「うん、それはわかってるよ。けれど母親の勘はあなどれないって、よくいうだろ。おれも幼いころ、母上には絶対に隠しごとなんかできなかった。どうしても隠したいと思ってることほど、すぐに見破られたよ」
「そりゃ、ガキのころの話だろ。ガキは隠しごとなんかできるはずねぇよ、すぐ顔に出るもんな」
でも、とケアルは苦笑した。
「エリがデルマリナのことを考えるようになったのは、幼いころだろ?」
あっと小さくつぶやいて、エリは頭を抱える。
「父ちゃんが死んだの、オレが五つのときだもんな……」
「つまり五つのときからエリは、デルマリナのことを考えてるわけだ。五歳といえば、まだまだ充分に子供だよ」
「だよなぁ……」
参ったといったふうにエリはつぶやいたが、そんな子供が母親にひとことも漏らさずいられること自体、驚異的だとケアルには思える。エリにその自覚はないようだが。
「でもさぁ、母ちゃんが勘づいてるだろうからっていっても、やっぱ訊けねぇよなぁ」
「――そうだね」
スキピオがもどってきたのは、ふたりが頭を抱えこんでしばらくしてからのことだ。
紳士的な彼にはめずらしく、ことわりもせず扉を開けると、まっすぐエリのもとへ歩み寄った。
「身体は? もう起きられるか?」
矢継ぎ早に訊ねられ、エリは一瞬、不機嫌そうに眉をはねあげたが、
「もう、なんともねぇよ」
「では早速で悪いが、船をおりてもらう」
スキピオの言葉に驚いたのは、ケアルだった。あわててふたりの間に割って入り、
「ちょっと待ってください。彼はほんのさっきまで、危ない状態だったんですよ。それはあなたも、よくご存知でしょう」
「事情が変わったんですよ」
応えてスキピオは、扉のむこうを視線でしめしてみせた。
「御領主からの使いの舟が、きみを島まで送っていってくれるそうだ」
エリにそう言ってから、スキピオはふたたびケアルに向き直り、
「彼をどうやって島へ送り届けるか、困っていたんですよ。我々の舟で送っては、色々と問題があるでしょう?」
「それはそうですが――」
「まさか彼に、泳いで帰れとは言えませんしね。かといってあなたに送らせるわけにもいかない」
しかし、とケアルが言い募ろうとするのを、エリが止めた。
「オレは別にいいぜ。ってより、だいたいデルマリナの舟なんか島につけてみろ、連中また騒ぎだすに決まってるもんな」
言いながらエリは掛け布をめくりあげ、寝台をおりた。用意された着替えに袖を通し、スキピオにせかされるように慌ただしく、扉のほうへと向かう。
ケアルもエリのあとについて扉へ向かったが、すぐさまスキピオに止められた。
「あなたはここに残ってください。私がいいと言うまで、決してここを出ないように」
疑っているわけではありませんが、とスキピオは付け加えた。
「御領主はこれから毎日、使いの舟を寄越してくれるそうです。いわゆる定期連絡です。申し訳ありませんが、あなたには定期連絡の舟が来るたびに今回と同じく、船室から出ないようにしていただくつもりです」
そう言われて、わかりました、とうなずくしかなかった。
エリはあきらかにむっとした顔でちらりとスキピオを見やり、続いてケアルに小さく舌をだしてみせた。ケアルは苦笑し、
「エリ、気をつけて」
「ああ。おまえもな」
目の前で扉が閉まると、ケアルは寝台のそばにある小さな円窓に歩み寄った。
外は夕暮れ時にはまだ早く、白い波頭がはっきりと見える。だが、それだけだった。
寝台の端に腰をおろし、ケアルは耳をそばだてる。甲板を歩きまわる足音と、船がきしむ音、それに船体にうちつける波の音。それらに混じって、水夫たちのせわしない声が途切れ途切れに聞こえた。
いつエリが小舟に移ったのか、ケアルにはわからない。ようやくスキピオがもどってきたのは、船の動きが止まり、錨がおろされてからのことだった。
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第四章 洋上の異郷
ケアルに与えられたのは、厨房にほど近い船室だった。
エリが運ばれた水夫長室より、こころもち広いが、甲板へ出るためには狭い階段を三つものぼらねばならない。
寝相の悪い者なら夜中に幾度となく落ちてしまいそうな、細い箱型の寝台。小さな円窓の前には、おままごと遊びにぴったりのこぢんまりとした書き物机。寝台の下にある子供ひとりは入れそうな箱は、着替えなど私物を入れるものらしい。扉のそばには、白い水差しと洗面器。――余分なものはなにひとつない、機能的な部屋だ。
ここへ案内されたそのときに、勝手に船室を出て歩きまわるのは控えてほしいと言われた。
「ご用があれば、この蓋を開けて、水夫を呼んでください」
そう示されたのは、寝台の枕もとにある喇叭《ラッパ》に似た筒だった。筒は船室の壁を這い、天井を貫いて上へと抜けている。
「これは何なんですか?」
「通信管です。筒は船長室と第二甲板につながっていて、互いに話をすることができます。ただし、かなり大きな声をだしていただかないと通じませんが」
便利なものがあるなと、ケアルは感心してうなずいた。
とはいえ、だれかを呼びつけて頼むほどの用がそうそうあるものではない。食事は決まった時間に運ばれてくるし、希望すれば、水夫やスキピオを伴って甲板へ出ることもできた。
人質というよりも賓客《ひんきゃく》扱いで、その点はありがたかったが、ケアルにとって最初の試練は乗船した翌日に訪れたのだった。
その朝、若い水夫が食事を運んできてくれたのだが、すでにケアルは目ざめてはいたものの、ひどく気分が悪く、起きあがることすらできずにいた。
扉を開けた水夫は一瞬、驚いた顔でケアルに駆け寄り、手早く容態を確かめると、たちまち陽に灼《や》けた頬に苦笑を浮かべたのだ。
「どうしたのかな? 身体は丈夫なほうだと思ってたんだけど……」
ケアルが訊ねると、水夫は食事を乗せた盆をベッドの脇に置き、
「心配ないっすよ」
と言いながら丸窓を開け放った。
たちまち潮風が部屋に入りこんできて、気分の悪さが少しだけ軽くなったような気がする。
「オレも初めて船に乗ったとき、今のあんたと同じで、すげぇ船酔いになったんです」
「船酔い……?」
「ゆうべから波がかなりうねってきたんで――ほら、昨日よか船が揺れてるでしょ」
「揺れてるのかなぁ、なんだか目がまわってるように思えるんだけど」
応えながらも、胃のあたりから気持ち悪さがこみあげてきて、吐きそうになる。
「それが船酔いってんですよ。オレのときなんか、最初っから海が荒れてたもんで、もう乗ったとたんにゲロ吐いちまって。水夫頭に甲板に放り出されて、一晩中雨のなか、手すりにつかまってゲロゲロしてたっすよ」
「それは……かなり……」
「でもオレなんか、まだマシみたいっすよ。水夫頭が初めて船に乗ったときなんか、ゲロってんのがうるさいってんで、帆柱のてっぺんへ登らされたんだっていうから。怖くてしょんべんチビりそうだわ、気持ち悪くてゲロしそうだわで、わけわかんなくなったって話っすよ」
勢いよくべらべらと喋り続けた水夫は、そこで「あっ」とつぶやき、あわてたふうに口をおさえた。
「――すんません。オレ、下品で。ほんのさっき水夫頭に、大事なお客さんなんだから、上品に丁寧にやれって言われたのに」
「いや、全然かまわないよ」
しゅんと肩をおとした水夫に、今度はケアルが苦笑する番だった。
「おもしろかった。それに水夫頭だって最初は船酔いしたんだったら、おれがこんなふうになっても恥ずかしくないよね?」
「そりゃ、もう! あ……でも」
若い水夫は口をつぐみ、あたりをきょろきょろと見回すと、声をひそめて、
「オレがそんな話したなんて、水夫頭にゃ言わないでくださいよ」
ケアルは笑いながら胸に手を当て、決して水夫頭には言わないと誓ってみせた。だがまたすぐに吐き気がこみあがり、あわてて口もとを押さえて寝台に突っ伏した。
「我慢《がまん》してるよか、ゲロっちゃったほうがいいっすよ。どんどん食って、片っ端からゲロってくうちに、身体が慣れてくんです」
若い水夫は背中をさすりながら、ありがたい助言をしてくれたが、ケアルには返事をする余裕もなかった。
「あとはまあ、あんましアタマとか使わないで、楽しいことだけ考えてんのがいいっす。仲間とバカ話なんかしてると気がまぎれて、そのうち船酔いなんか忘れるってやつもいるんっすよ」
あとで思い出せば、若い水夫はそんなことを言っていたような気がする。
彼はケアルの食事を運ぶ役目を命じられていただけらしいが、船酔いで参ってしまった客人を心配してか、それ以外に何度も船室に顔をだしてくれた。額に当てると気持ちがいいからと、冷たい水で絞った手ぬぐいを持ってきてくれたり。吐いて空っぽになった腹にいいのだと、暖かな薬草茶を運んでくれたり。仲間の水夫に聞いたと、船酔いを治すまじないの言葉を教えてくれたりもした。
だがケアルが思うに、いちばんの船酔いの薬となったのは、彼が話し相手になってくれたことだろう。
年も同じうえ、彼もケアルと同じ三男坊だとわかったことで、互いに親近感をおぼえ、よりいっそう話しやすくなった。
「兄ちゃんたちは、親父の仕事を継いだんっすけどね。三番目のオレまで同じ仕事できるほど、親父の店は余裕ないっすから。んで、いつまでもムダ飯食ってるなんて言われんのもイヤで、水夫になったんっすよ」
「いくつのときに、水夫になったの?」
「ありゃ、八つだったかな」
「そんなに早く?」
「早かないっすよ。兄ちゃんたちだって、商売をならうためによその店に働きに出たのは、確か七つのときだったっすからね」
「すごいなぁ。おれなんかこの年でまだ、仕事らしい仕事なんかしてないよ」
感心してケアルが言うと、彼は笑って、
「そりゃ、あんたはいいとこの坊だから。うちだってもし、親父が大アルテの商人だったらやっぱ、兄ちゃんもオレも二十歳すぎまで親父について商売のやりかた習ってたと思うっすよ」
「大アルテ……?」
初めて耳にする言葉に、ケアルは首をかしげた。
「なんだ。あんた知らないんだ? こっちにはそういうの、ないんっすか?」
「ないと思うけど、それ何なんだい?」
「大アルテってのは要するに、手広く商売してる連中のことっすよ。カネ持ってるし、使用人なんかもいっぱいいるし、すげぇのになると自分とこで船を何隻も持ってるやつもいる。うちの親父なんか、汗水ながして働いてやっとこ家族がカツカツ食ってけるかどうかってのに、やつらは仕事はみんな使用人に任せて、いい暮らししてんだ」
最後のほうは忌々しげに、吐き捨てるような言い方だった。だがケアルは別のことに気をとられ、彼の憤《いきどお》りには気づかなかった。
「そのひとたちは、こんな大きな船を個人で持ってるのか……?」
なかば呆然として、船内を見回す。
「大アルテの連中全員ってわけじゃないっすけどね。赤帽子のやつらなんか、商売に船がいるってわけじゃないから、ふたりで一隻とか共同で持ってたりするし」
ふたりで一隻でも、三人で一隻でも、つまりは個人所有だということに変わりない。ケアルはこれまで、船はデルマリナという都市の共有財産だと思っていたのだ。ちょうど島人たちが漁に使う舟が、島の財産であるのと同じように。
ケアルがそう言うと、彼はきょとんとして目を軽くみひらいた。
「それって、変っすよ。船は買ったやつのものだし、カネは稼いだやつのもんでしょ。船がみんなのものだったりしたら、みんなが皆、自分が使いたいって言い出して、めちゃくちゃになるんじゃないっすか?」
「だから、みんなで使うんだよ」
ケアルが言うと彼はしばらく首をひねっていたが、やがてぽんと膝をたたき、
「ああ、船をつかうたびに使用料ってやつを払うんっすね」
「使用料……?」
「この船も、ほんとはもともとピアズって大アルテの商人のものなんっすよ。でも今度の航海のために、小アルテの商人が何人かでカネを出しあったっていうから――要するに、使用料ってやつ払ってんですね」
えっ、とケアルは軽く目をみひらいた。
「この船は……デルマリナ市民の総意でここまで来たわけじゃないのか?」
「なんですか、そりゃ?」
反対に問い返され、言葉につまる。
「船を出すかどうか決めんのは、船の持ち主っすよ。なんてことない航海でも、船出すには船長|雇《やと》って、水夫雇って、水とか食料とか用意して、けっこうカネかかるもんなんっすよ。そのうえ海じゃなにが起こるかわかんないからね、絶対無事に船がもどってくるって保証はできないっしょ。船主はそういう損と得を考えて、船を出すかどうか決めてんですよ。まわりのやつらがうまいこと言ったって、簡単にそれにのせられてたんじゃ、船主は損するばっかですからね」
得々と説明する彼になるほどとうなずいてみせながら、しかしケアルは別のことを考えていた。
(――だとしたら、船主はなにを得だと判断して船を出したのだろう?)
それに、この船はひとりの船主から、複数の商人が借り受けたものだという。
(確か、小アルテの商人が、と言ってたな……)
小アルテとは、どういったものなのだろうか。大アルテに対するもの、なのか?
考え込むうちに、甲板のほうから鐘の音がふたつ聞こえた。
「あっ、交替の時間だ」
若い水夫が、あわてて食事を乗せた盆を手に立ちあがった。
船では鐘の音が合図だ。鐘の音ふたつは時刻を知らせ、複数回鳴らされると船が動きはじめる。そしてたぶん、長く響く鐘の音ひとつは、船になにかが近づく合図だろう。鐘がひとつ鳴ったあと、いつもケアルは船室から出ることを禁じられる。
「オレ次は、見張り番なんっすよ。やべぇ、いつまで油売ってんだって怒鳴られる」
「ああ、引き留めてごめん」
ケアルが謝ると、彼は笑いながらかぶりをふった。
「あんたのせいじゃないっすから。オレ、ここに来んの、けっこう楽しみにしてるんですよ」
「ほんとに?」
「こんなことで嘘ついて、どうすんっすか。こっちの船には、オレと同じ年ぐらいの仲間っていなくてさ――と、いけねぇ、早く行かなきゃ」
あわてて船室を出ていく彼の背に、ありがとうと声をかけると、彼は盆《ぼん》を片手に器用に扉を閉めながら、
「なんか船酔い治ったみたいで、よかったっすね」
言われてみれば、あれほど辛かった船酔いの気持ち悪さは、すっかりどこかに消え失せていた。
乗船して三日目の朝だった。
これまで「上」を訪れたことは数度あったが、こんな奥まで、それも領主の館まで赴くのは、エリにとって生まれて初めてのことだった。
伝令が、いつもケアルが着陸する台地に降り立ち、エリを名指しで「館まで出向くように」との領主の命令を伝えたのは、本日の早朝だった。領主さまからのお呼びだと色めきたつ島の大人たちに追い立てられるように、エリはとるものもとりあえず舟に乗り、ここまでやって来た。
なぜ自分が名指しで呼ばれるのか、思い当たることはひとつしかない。
「でも、ありゃオレが自分で乗り込んだってわけじゃねぇぞ。どっちかいえば、無理やり乗せられたってやつだもんな……」
中庭まで素通しになった広い部屋のまん中に佇み、エリは半分口を開けて天井を見あげながらつぶやいた。
島でいちばん大きい家の、全部の部屋を合せたよりもっと広い部屋である。天井の高さときたら、島の風車がすっぽり中に入るのではと思われた。
(ケアルのやつ、こんなとこで暮らしてんのかよ……)
ぼんやりとそう思ったとき、カツカツと響く足音が聞こえてきた。振り返れば、逞しい体躯《たいく》を黒い上着で包んだ壮年の男が、ゆったりとした足どりで近づいてくる。
微笑みの形に細められた目を見て、エリはこの男がケアルの父親、つまり領主であるとわかった。髪は白いものの混じった黒だが、その目はケアルと同じ、草地の緑なのだ。
「きみが、エリ・タトルだね?」
喋り方は優しかったが、男が発する他を圧倒するような空気に気おされ、エリは息を飲みこんでうなずいた。
「私の三番目の息子とは、ずいぶん親しくしてもらっているようだね」
「す……すみません」
思わず頭をさげたエリに、ロト・ライスは小さく声をもらして笑った。
「なにも謝ることはない。あれは無口で、自分のことなどほとんど話さなくてね。親としては、友人がいるというだけで安心だ」
言いながら領主は、さりげなくエリを中庭へと誘った。
島の広場ほどの大きさがある中庭には、白いタイルを底に敷いた池と、そのまわりに甘酸っぱい匂いのする樹木が数えきれないほど植えられている。豊かな緑の樹木の何本かには白い花が咲き、また何本かは黄色い果実をつけていた。
ロト・ライスは池のほとりで立ちどまると、石造りの細長い椅子に腰をおろした。きみも座りなさいとしめされたが、エリはとんでもないとかぶりを振って領主から数歩離れた場所に立った。
爽《さわ》やかな優しい風に豊かな緑、かすかに漂う甘酸っぱい匂い、といったものに囲まれてエリは、別世界に来たような気がした。島のどこにも、こんな場所はない。また、これほど背の高い樹木が群生しているのを見るのは初めてだった。
「きみが先日あの船に乗った、と聞いたんだが?」
領主が話をきりだし、エリはやはりと思いつつうなずいた。
「でもオレは、乗りたくて乗ったんじゃないです」
「ああ、それは知っているよ。なにもきみを責めているわけじゃない」
「その……助けてもらって。だからすぐ、船を降りました」
「どんな経緯があったかは、きみを送っていった部下たちから報告をうけているし、船団長からも手紙をいただいた」
ほっと息をついたエリを、領主はどこか値踏みするような眼差しで見つめた。そして薄く目を細めると、
「きみは、父親似だな。顔など忘れていたはずなのに――その目を見て思い出した」
言われてエリは、大きく目をみひらいた。
「親父に会ったこと、あるんですかっ?」
勢い込んでエリが訊ねると、領主は静かにゆっくりとうなずいた。
「ずいぶん昔にだがね。当時、私は領主の座を譲りうけてまだ間もない頃でね。領主の仕事などつまらないし、翼で飛ぶことも止められて、退屈《たいくつ》しきっていた。そんなとき、デルマリナの男が島に流れ着いたと聞いて、面白そうだと呼びつけたんだよ」
「オレ、そんなこと聞いたことない……」
目をみひらいたままつぶやくエリに領主は、そうだろうねと微笑んだ。
「あれから二十何年か……。彼が亡くなったのは、きみが幾つのときだ?」
「五つのときです」
「そうか、もうそんなに経つか」
うなずいた領主はしばらく、もの思いに沈んだかのように顎に手を当て、緑の影が映る池をながめていた。
当時のことを懐かしんでいるのだろうか、とエリは領主の横顔をながめながら思った。だがすぐに、そうではないだろうと思い直した。池の水面を見つめるその目は、過去を懐かしむ類《たぐい》のものではない。見えないなにかを見定めようとするような、意志力に満ちた鋭い目つきである。
「親父とは――友達だったんですか?」
さぐるようにエリが訊ねると、ロト・ライスは目をあげうすく笑った。
「友達? 私がか?」
「いえ、違うならいいんです。すみません、変なこと訊いて」
あわててかぶりをふったエリに、領主は軽く手をあげ「いいよ」と言うと、ほんの少しだけ身を前へ乗り出した。
「船団長はずいぶん、きみの父親のことを気にしているようだね?」
「ああ、それは親父がデルマリナの人間だってわかったからで――」
「なにを訊かれた?」
真剣な顔で問われ、エリは自分が何か疑われているのだろうかと考えた。
「たいしたことじゃないです。親父の名前を訊かれただけです」
「名前?」
「タトルってのは、母ちゃんのほうの苗字《みょうじ》だから。デルマリナでは、なんて苗字だったのかって――」
エリの言葉に、ロト・ライスは片方の眉をぴんっとあげた。そして「なるほど」とつぶやいて顎先を撫でると、
「きみは私の息子が――ケアルが、あの船に乗っていることを知っているね?」
そのことをエリが知らないと思っているわけではなく、あくまで確認のための問いかけだろうと考え、エリは黙ってうなずいてみせた。
「では、きみは船でケアルには会ったかい?」
ふたたびうなずきながら、領主さまでもやはり息子を心配するふつうの父親なんだな、とエリは思った。
同時に顔もはっきりとは覚えていない、幼いころ死んだ父親へと思いを馳せる。覚えているのは頭を撫でてくれた手のひらの大きさと、陽に灼けた背中、そして死の床でもらした短い言葉だけだ。
「――実は、ケアルと連絡がとれない」
唐突な言葉に、エリは目をみひらいた。
「はぁ? 連絡とれねぇって……?」
「毎日、使者を送っているんだがね。持って帰ってくるのは、船団長からの手紙と、明朝に船が移動する場所の伝言だけだ。船内のどこかにいるのは確からしいが、会うどころか手紙すら渡してもらえないでいる」
「そういや……オレが船にいた時、領主さまから使者が来たって言われたとたん、あの船団長ってやつがケアルに、絶対に船室から出るなって――」
「やはり、そうか」
「でも、あいつが乗ってから、もう三日も経ってるじゃないですか」
心底|憤慨《ふんがい》するエリの前で、ふいにロト・ライスが立ちあがった。そしてゆっくり歩み寄ると、エリの肩に手を置き、
「きみに頼みがある」
「た……頼み?」
肩に置かれた手と領主の顔を交互に見つめて、幾度も瞬く。
「私が出している使者とは別に、船へ行ってくれないか?」
「オレがですか?」
「きみしか適任者はいないんだよ。きみはケアルの親友だし、なにより船に行くべき理由がある」
理由、と繰り返しつぶやいて、エリははっと領主を見つめなおした。
「オレの親父の名前、ですか?」
「きみは頭がいいな」
そう言ってにっこり微笑んだロト・ライスは、父親ではなく領主の顔をしていた。
「私はきみの父親がデルマリナで使っていた名を、知っているよ」
島の舟を操ってデルマリナの船へ向かったのは、そろそろ日も暮れようとする夕刻のことだった。
日陰はすでに夜のような暗さだが、夕陽のおちる海はくっきりと物の陰影が浮かび、波が魚の鱗《うろこ》模様のようにみえる。
エリは領主に教えられた船が停泊する場所に向かって、一心に舟を操った。色々と考え始めると、とまらなくなりそうだ。それどころか、悪い予想ばかり頭に浮かぶ。
あたりが闇に沈む前に船影をとらえることができたのは、幸運だった。船の帆柱には明かりが吊されていて、あとはもうその明かりに向かって舟を操ればよかった。
船体が波に軋む音が聞こえるほど近づいたとき、カーンと鐘の音がひとつ響いた。すぐに甲板の上でざわめく声が聞こえ、やがていくつもの明かりが船上にともった。
「なに者だっ?」
誰何《すいか》する鋭い声が飛び、明かりが洋上にかざされた。
「そこで止まれ!」
船まであとわずかな距離だ。エリのいる場所からは、甲板の手すりに並ぶ水夫たちの顔がひとりひとり見分けられる。おそらく水夫たちも、エリの顔がわかったに違いない。
水夫たちのうしろから、船団長だというスキピオが姿をあらわした。彼は明かりを掲げると、しばらくじっとエリを見おろし、
「きみは、エリ・タトル――だったね?」
「そうだ!」
「他の舟は? ひとりで来たのか?」
「見りゃわかるだろ! 船団長に用があって、島をそっと抜けてきたんだ!」
スキピオが水夫たちに軽く手をあげ合図すると、甲板から縄梯子がおろされた。エリは舟を器用に操って縄梯子に近づけ、ふたたび船上を見あげた。
「乗船を許可する」
スキピオがうなずくのを確認してから、縄梯子に手をかけ、ゆっくりとのぼりはじめた。
* * *
長い鐘の音がひとつ鳴り響き、ケアルは眉をしかめ、寝台から起きあがった。
変だなと感じたのだ。定期連絡の使者は昼過ぎに到着し、すぐに帰っていった。それ以外の何者が、この海域に近づいてくるというのだろう。
円窓をのぞくと、海面に船上の明かりがいくつも照り映えてみえた。帆柱に吊した明かりではない。数が多いし、明かりは右へ左へと動きまわっている。
いつもならそろそろ、水夫の誰かが「船室から出ないように」と告げに来るのだが、甲板のほうでせわしない足音がいくつも聞こえるばかりで、船室に近づく足音はない。
円窓をいっぱいまで開け、身を乗り出すようにして、ケアルは外を見ようとした。窓の下まで椅子を引っぱってきて、体勢を色々と変えてみると、船に近い海上に小舟が浮かんでいるのが見えた。船上からの明かりに、舟に乗る人物の輪郭《りんかく》が浮かびあがる。
「――エリ……?」
見覚えある金の髪に、思わず親友の名をつぶやき、だがすぐに「まさか」とそれを打ち消した。エリがこんなところにいるはずがない。
「きみは、エリ・タトル――だったね?」
スキピオの声が響き、そうだと応えた声はもう間違えようもない親友のものだ。
縄梯子がおろされ、乗船を許可されたエリがのぼっていく。
ケアルは円窓を閉めると椅子を書き物机の前にもどし、ペンを手に座った。机の引き出しに紙の束が納められているのは、ここへ来たときすでに確認済みである。手ざわりのいい滑《なめ》らかな紙は生まれて初めて目にするもので、好きに使っていいと言われたが、あまりにもったいない気がして、ただながめるしかできなかった。
ケアルは紙を取り出し、急いでペンを走らせた。
書き終えると小さく折り畳み、ちょうど手のひらに入る大きさにした。
それから少し考えて、数枚の紙に円窓や通信管を簡単にスケッチし、ペンを置いた。
甲板からはもう、足音も声も聞こえない。円窓へ目をやったが、船上の明かりも数がずいぶん減ったようだ。
やがてケアルの居る船室へ近づく足音が聞こえてきた。ひとりのものではない、おそらくふたりか、三人か。
扉がたたかれ、ケアルが応えると、明かりを片手に掲げたスキピオが姿をあらわした。続いて彼のうしろから、少しこわばった顔のエリが入室し、ケアルを認めて「よお」と軽く手をあげる。
「いったいどうして……?」
ケアルが船室の中央に突っ立ったままつぶやくと、スキピオがにっこり微笑んだ。
「彼は私に用があって、来てくれたんですよ」
我が意を得たりといった満足げな表情で、スキピオは手にした明かりを書き物机の上に乗せ、エリに視線を向けた。
促された形となったエリは決まり悪げに俯いて、
「父ちゃんの名前がわかってさ――色々考えたけど、やっぱさ……」
ぼそぼそと喋る声は、次第に小さくなっていく。
そうか、とうなずきながらケアルは、小さな違和感をおぼえた。
「やはり母上から――?」
「あ……うん、母ちゃんが教えてくれた」
エリの目線がせわしなく動く。
「他になにかおっしゃっていたのか?」
「べつに……。オレもなにげに訊いたしさ、母ちゃんもあんまし深い意味とか考えずに教えてくれたんじゃねぇかな」
そんなはずはない、という言葉をケアルはぐっと飲みこんだ。
スキピオがゆっくり歩み寄ってくるとエリの隣に立ち、親しげに彼の肩を抱いた。
「デルマリナに帰ったらすぐ、彼の父親のことを調べさせるつもりです。行方不明となって戻らない父親や息子を待つ船乗りの家族は、大勢いるんですよ。もちろんわかったことがあれば必ず、彼に知らせるよう手配します」
それまで定まらなかったエリの目線が、まっすぐケアルへと向けられ、彼は親友を見つめたままうなずいた。その動作はスキピオの言葉にうなずいたようであり、同時にケアルへ合図を送ったようにもみえた。
「――ってことになってさ、このことじゃケアルも心配してくれてたみたいだから、報告だけしとこうと思ったんだ」
「ああ、うん。教えてくれて、嬉しいよ」
あわててケアルがうなずくと、エリはにっと笑って、
「なんか元気そうじゃん?」
「でもないよ、今朝まで船酔いでぼろぼろだったんだ」
「へぇ。ああそうか、おまえ空は飛ぶけど舟には乗らねぇからな。そうだ、舟酔い避けのまじない、教えてやるよ」
そう言ってエリは、船室を見回した。
「なに?」
「なんか書くもん、ねぇかな? まじないの言葉を書きつけたもんを持ってるといいんだけどさ」
ああとうなずき、ケアルは書き物机に歩み寄った。ペンを手にすると、エリが近づいてきてケアルの手もとをのぞきこんだ。
「ええっと、最初はなんだったかな……」
考えこむそぶりで机の上を指先でたたきながら、エリは背後にいるスキピオをさりげなくうかがっている。
「ちょっと待って。さっき絵を描いたもんだから、ペン先がひっかかって……」
ケアルはつぶやきながら、重ねられた紙のいちばん下から腕で隠すように三分の一ほど引き出すと、紙の隅にペンを走らせた。
『父上に届けてほしい』
書いて、エリの顔をちらりと見あげる。
領内には文字の読み書きができない者も多い。領主は領民の子供たちに文字の読み書きを教えるよう指導しているのだが、特に島人の子供は早くから労働力として必要とされるためか、領主の指導は行き届いていない。しかしケアルは、エリが独学で読み書きを習得したことを知っていた。本人はなにも言わないが、彼の母親から、エリがケアルと親しくなったころ急に読み書きの勉強を始めたのだと聞いたのである。
あの頃どうして突然、学習を始める気になったのか、ケアルにはわからないが、いまエリがやろうとしていることはわかる。
「ああ、なんとか大丈夫そうだ」
エリが目線でうなずいたのを確認し、ケアルは紙をずらして文字を書いた紙をいちばん下へ押しこんだ。
「――で、なんて書けばいい?」
「えっと『急《せ》く者、慌てぬ者』――」
ペンを動かしつつ、エリの手の中に先ほど折り畳んだ紙を入れる。
「それから?」
「確か『みな同じ舟』だったかな」
エリが手渡された紙を握りしめたとき、背後からひょいとスキピオがのぞきこんだ。
「へえ、おもしろいものですね。我がデルマリナにも、同じような言葉がありますよ」
「そうなんですか?」
ケアルが手を止め見あげると、スキピオは文字を見おろしたままうなずいた。
「ええ。でもまじないではなく、ことわざなんです。同じ船に乗る者は運命を共にする、といった意味でしてね」
「なんかそう言われると、効き目ねぇって感じがするなぁ」
エリが頭をかきかきつぶやき、ケアルはスキピオと顔を見合わせて苦笑した。
「まあ船酔いというのは、気の持ちようというところがありますからね。これがあれば絶対に船酔いはしないと思い込めば、本当にしなかったりするものです」
結論らしきものを出して、スキピオはエリへ目を向けた。
「そろそろ、島へもどったほうがいいでしょう」
告げられてエリが素直にうなずく。
[#挿絵(img/KazenoKEARU_01_173.jpg)入る]
「本当は夜があけるまで待ったほうが、危険はないんですが。それではきみが困るでしょう?」
「ああ。明るくなりゃ、目立つ。島のみんなに見つかったらヤバいもんな」
「そんな危険をおしてまで来てくれて、嬉しいですよ。必ずきみに悪いようにはしませんから」
意味ありげなことを言って微笑うと、スキピオはエリを促した。
「んじゃオレ、帰るな」
ああ、とケアルが立ちあがろうとすると、スキピオが軽く片手をあげ、かすかにかぶりをふった。見送る必要はない、船室を出るなという意味だと理解し、ケアルは座ったまま親友を見あげた。
「エリ、気をつけて。絶対に無理だけはするなよ」
「オレは無理も無茶もしねぇよ」
うなずいたエリは、悪戯《いたずら》坊主《ぼうず》のような笑みを浮かべた。
エリとスキピオが船室を出ていくと、ケアルは紙の束のいちばん下から『父上に届けてほしい』と書きつけた紙を取り、細《こま》かく細かく千切った。そして円窓に近づき、船上と周囲の様子をうかがった。
エリはすでに小舟に移ったらしく、縄梯子をあげろという声が聞こえた。目をこらすと月明かりにぼんやりと、遠ざかる舟影が見えた。だがすぐ、闇に包みこまれるように舟影は見えなくなった。船上では少しずつ明かりの数が減っていき、水夫の声や足音もやがて波がひくように聞こえなくなった。
船が軋む音と波の音だけが耳に届くすべてとなると、ケアルは風向きを確認し、円窓から細かく千切った紙を少しずつ捨てた。船上で見張りをしている水夫たちに見とがめられないように、二、三片ずつ。耳をすまし、感覚を鋭敏《えいびん》にして、根気よく。
すべて捨て終えると、円窓を閉め大きく息をついて寝台に座りこんだ。
エリは小さく折り畳んだあの手紙を、間違いなく父に届けてくれるだろう。だが彼はなぜ、単独でこの船にやってきたのか。もちろん、父親の名を知らせにきたのだと言ったエリのことばを、ケアルは額面通りに受けとってはいない。
(やはり父上がエリに……?)
膝の上に拳を乗せ、ケアルは船室の壁面をにらみつけた。
最初に着いた客は、ライス領と南接するマティン領の主、レグ・マティンだった。
ロト・ライスに次いで若い領主だが、三日のうち一日は必ず床に伏すほど身体が弱いと言われている。確かに彼に会ったものは、その青白い顔色と、長年にわたって染みついた薬草の匂いをかぎとり、なるほど噂はほんとうだと思うことだろう。
続いて到着したのは、フェデ領主、リー・フェデだった。
たっぷりとした口髭を、もったいぶってひねりあげる癖《くせ》をもつ彼は、よこす手紙の文字や文章のように一分の隙もなく服装を整えている。従えてきた家僕たちも主人と同じく、長旅だったろうにも拘《かかわ》らず、染みひとつ埃ひとつさえない揃《そろ》いの上下を着けていた。
あと残るはギリとウルバの領主たちだが、おそらく彼らは明日以降になるだろうと思われた。両領主とも、己が領地ではなくライス領で会合が開かれることを、こころよく思ってはいないのだ。
五人の領主が一堂に会するのは、ロト・ライスが領主に就任した祝いの宴以来である。互いに書簡を交わすことはあっても、顔を合わせることなどめったにない。探りあい、足をひっぱりあい、あるいは一時的に手を組むといったことを長年にわたって繰り返している。
今回、彼らを招待する側となったロト・ライスの気苦労は、生半可《なまはんか》なものではない。
「ああ、レグ・マティンどのの部屋には絶対に花など飾るな。匂いや花粉がお身体にさわるそうだからな」
急ぎ足で歩きながら、あとをついて回る家令に次々と命じる。
「それからリー・フェデどのには、古株の家令をつけるように。決して若い者を出すんじゃない。軽くみられたと、お怒りになるからな」
かしこまりましたとうなずく家令に、別の家令が走り寄って、耳うちした。
「ご主人さま――エリ・タトルという者が、これをお渡ししてほしいと参ったそうですが……?」
告げられてロト・ライスは、ふいに足を止めた。そして振り返り、家令の差し出す小さく畳んだ紙を受け取る。
中に書かれたものにざっと目を通すと、視線をあげ、
「これを持参した者は、どこに?」
「島へ帰った、とのことです」
「連れ戻せ」
命じて歩きだす領主のうしろで、家令があわててひとを呼び、主人の命令を伝える。
ロト・ライスは執務室へ入ると、書き物机の前に腰をおろし、ふたたび書面に目をおとした。
記してあるのは大きく分けて、わずか二点のみである。ひとつは、デルマリナの社会の仕組み、特に大アルテの存在について。そしてもうひとつは、今回やってきた三隻の船が、大アルテ商人から借り受けた小アルテ商人たちの共同所有であること。
私感をまじえず、ただ事実のみを記した簡潔《かんけつ》な文面に、書いた者の頭の良さを感じて、ロト・ライスは小さく笑みを浮かべた。
(そのうえ私がなにを知りたいのか、よく理解している……)
デルマリナ側が何を申し入れてきたか、知らないはずなのに。
そういえばあれの母親も、勘のするどい聡明《そうめい》な女だったなと思い起こした。
彼女は賦役《ふえき》の代わりにと島からさしだされた女たちの中のひとりだった。その年、彼女の島から賦役に出た男たちが、鉱山の落盤事故で死傷し、島に残ったのは女子供と老人だけとなってしまったのだ。困った島人たちは領主のもとへ、しばらく賦役を免除してほしいと若い女たちを献上した。
ロト・ライスはもちろん最初から賦役の免除を考えていたし、女たちを受け取るつもりなど毛頭なかった。だが女たちと接見したとき、怯えたり領主の寵《ちょう》を得ようと媚《こ》びてみせたりする仲間たちの中、彼女だけが昂然と顔をあげロト・ライスを睨みつけてきた。おもしろいと感じロト・ライスが声をかけると、彼女はやおら立ちあがり、痛烈な言葉で領主を批判したのである。
腹立たしさよりも、彼女への興味のほうが優《まさ》った。そうしてロト・ライスは、なにを言うかと拳をあげる従僕たちを止め、彼女ひとりを館に残し、他の女たちは全員、島へ帰らせたのだった。
残った彼女は、自分の立場を正確に理解していた。実際はどうであれ、表向きは賦役を免除する代わりに領主に買われたこと。そしてそれゆえに、自分にはもう帰る場所はないこと。ロト・ライスが決して、自分を愛しいと思って館に残したのではないこと。
己が立場をわきまえた彼女は、帰る場所のない自分自身だけでなく、やがて産まれた息子の居場所を確保するために、許される範囲内で領主を批判し続けた。我が身を嘆《なげ》き悲しんだり媚びたりすれば、ロト・ライスの関心を失うだろうことを彼女は知っていたのだ。
思えば生涯、彼女はロト・ライスに対し心をひらいてはくれなかった。
(まあ、それも当然か――)
苦笑をもらしたロト・ライスは、扉の外から慌ただしい足音が近づいてくるのに気づいた。やがて扉をたたく音がし、彼が入るよう促すと、古株の家令が低く腰を折り、
「お客さまがご到着になりました」
「誰だ?」
「ワイズ・ギリさまでいらっしゃいます」
その応えに軽く目をみひらき、ロト・ライスは問い返した。
「ギリ老ではないのか?」
「いえ。ワイズ・ギリさま、おひとりでございます」
ライス領と北接するギリ領の主は、ギリ老と呼ばれるサンス・ギリである。ワイズは老人の長男で、ロト・ライスの長女の夫でもあった。ギリ老はすでに家督を譲ってもいい年齢に達していたが、おそらく長男がギリ領主となるのは老人が亡くなったあとだろう、と言われている。
「わかった。いますぐ行く」
ロト・ライスは息子からの手紙を慎重に机の引き出しに仕舞い、立ちあがった。
ワイズ・ギリは、四十代なかばの痩せこけた男だ。ロト・ライスが知るかぎり、二十代のころからすでに髪は真っ白で、まるで八十歳をこえてまだまだ元気な父親に精力のすべてを吸い取られたような感がある。
実際、布張りの椅子に腰をおろし、きょろきょろとあたりを見回す彼の姿を目にしたロト・ライスは、また影がうすくなったなと苦笑せずにいられなかった。
「ようこそ、いらっしゃいました!」
軽く両手をひらき、歓迎の態度をしめし近づくと、ワイズ・ギリは弾《はじ》かれたように立ちあがった。
「あ……どうも――」
ロト・ライスがさしだす手を、おずおずと握り返しながら、口の中で挨拶の言葉をつぶやく。
「ギリ老は、ご一緒ではないのですか?」
「父は……その、少し遅くなるので……私に先に行けと言われまして」
ほお、とロト・ライスは目を細めて微笑んだ。
ギリ老がわざと遅れてやってくることは、ある程度予想していた。そんな形でしか不快の意思を表明できないあたり、八十年も生きてきて幼児なみの知恵しかないのかと、あきれてしまう。そのくせ、自分が居ぬ間にロト・ライスや他の領主たちが何をするか、心配で仕方ないのだろう。父親の言うがままに動く長男を、こうして先に寄越したりする。
「リー・フェデどのと、レグ・マティンどのは今日の昼にお着きになりましたよ。ご挨拶なさいますか?」
ロト・ライスが言うと彼は、あわててかぶりをふってみせた。
「とんでもない! わざわざそんな!」
「でしたら、じき夕食ですので、その席でご挨拶なさるのがよろしいでしょう」
折よく家令がやってきて、部屋の準備ができたことを告げた。
「お泊まりいただく部屋にご案内させます。夕食の時間には家令がお迎えにまいりますので、それまでごゆるりとお寛《くつろ》ぎください」
* * *
エリ・タトルが館へ呼びもどされたのは、舟着き場へおりる寸前だった。
まるで拉致《らち》されるように館まで連行され、すぐ領主に会わせてもらえるかといえばそうではなく、ここで待つようにと、どこかの続き間らしい狭い控え室に押しこめられた。
最初のうちこそ、おとなしく椅子に腰をおろし待っていたエリだったが、次第に苛立《いらだ》ちはじめた。時おり扉のむこうの廊下を早足で歩いてゆくひとの気配はするものの、この部屋の扉を開ける者はおろか、部屋の前で足をとめる者さえいない。やがて立ちあがったエリは、部屋の中をうろつきだした。
なぜ呼び戻されたのだろう、と思う。
頼まれた仕事は、ちゃんと果たしたはずだ。そもそも誰かを騙《だま》すような頼まれごとなど、やりたくはなかった。だが、ケアルのために、ケアルの親友として、渋々ながらも引き受けたのだ。
できるだけのことはした。たぶん、もう一度やれと言われても、これ以上のことはできないだろう。結果に不満があるというなら、別の人間にやらせるべきだ。
(そうだ。それに、わざわざ頼まれごとをしてやったオレがなんで、こんなとこで待たされたりしなきゃなんねぇんだ!)
ぐぐっと胸元で拳を握りしめ、エリは閉ざされた扉を振り返った。そして足音も荒く扉に歩み寄ると、思い切って開く。
うす暗い廊下に、人影はなかった。連れて来られた入口は、この廊下を右に進み、突き当たった両開きの扉を開けたところだとわかっている。
だが廊下の左へ目をやったエリは、まばゆい光がもれる部屋に視線を吸いよせられた。笑い声や、金属がふれあう音がかすかに聞こえてくる。
そっと部屋を出ると後ろ手に扉を閉め、エリは光がもれる部屋へ近づいていった。
最初に耳に届いたのは、鼻にかかった甲高い男の声だった。
「ギリ老は、お加減でも悪いのですか?」
「いえ、そういうわけでは……」
ぼそぼそと気弱そうな声が返す。
「ほう。では、どういうわけですかな。我がフェデ領とちがってギリ領は、たとえご老体の身とはいえ、一日あれば充分に到着できるはず。それがまだいらっしゃらない、というのは?」
「父は、その……領内にまだ指示を要する案件がありまして――」
「お忙しい、と?」
「ええ。ええ、そうです」
「では、こうして知らせを受けてすぐ駆けつけた私などは、よほど暇な領主ということですな」
そこへ、まあまあと間に入った声はエリにも聞き覚えがあった。ライス領主、ロト・ライスの声だ。
「遅れていらっしゃるのは、ギリ老の親心でしょう。そろそろご長男のワイズ・ギリどのに、領内のことだけではなく、外での交渉ごとの勉強もさせたいとお思いなのだと私は考えますがね」
「いまさら、後継者の教育ですか」
くすっと軽蔑《けいべつ》したような笑い声。
「我がフェデ一族の男子は、生まれたときから領主となるべく教育されます。そのため我が一族の男子は、たとえ幼くとも領内をたばねる自覚と誇りをもっております」
「リー・フェデどのの御子息は、いくつになられるのですか?」
「十九です。まだ若いですが、私の留守を安心して任せることができます」
誇らしげな声にロト・ライスの「それは素晴らしい」ともちあげる声が重なる。
「そういえば――ロト・ライスどのの御子息のひとりが、同じ歳でしたな?」
「ええ、三男が十九です」
「確かそちらにいらっしゃるご長男やご次男とは、母御がちがうと記憶しておりましたが?」
いかにも含むところありげな、嫌らしい言い方だった。だがロト・ライスは明るい声で、
「そうです。これらを産んだ妻に先立たれましてね、ひとり身で余生を送るには、どうやら私もまだ若かったようで」
そう言うと、からからと笑った。
「いや、ロト・ライスどのはまだまだお若いですよ」
おもねるように口をはさんだのは、か細い弱々しげな声である。
「私など、いつお迎えがくるかと、そればかりで……」
ごほごほと、湿った咳音が聞こえた。
「息子もふたりいるのですが、私に似て病弱でしてね。立派な御子息が三人もいらっしゃるロト・ライスどのが羨ましい限りです」
「これはまた、御謙遜《ごけんそん》を」
先ほどの嫌味な声が、ふくみ笑いをもらした。
「レグ・マティンどのの御子息は、ギリ老の姪《めい》にあたられるかたとの間に生まれた、血筋としても申し分のない、ご立派な御子息ではありませんか」
「彼女は私の従兄弟ですが、身内の目からみても美しい、誇り高い女性でした」
しみじみとつぶやいたのは、先ほどフェデ領主に難癖をつけられていたワイズ・ギリである。
「そうでしょうとも。まさか、丈夫なだけの御子息がほしかったとは、お思いにならないでしょう?」
「それは……そうですが――」
ガタッと椅子の鳴る音がした。
エリが扉の陰からそっと室内をのぞくと、大きな卓を囲み六人の男たちが食事をしている最中だった。壁には数えきれぬほどの明かりが掲げられ、卓の上には見たこともない豪華な料理がならんでいる。
いま椅子を鳴らして立ちあがったのは、末席についた若い男だ。顔を紅潮させ拳を握りしめて、口髭の男を睨んでいた。
「父上を侮辱なさるおつもりか!」
ふるえる声で言い放った若い男に、ロト・ライスが苦笑しつつ軽く手をあげ、座りなさいと促した。
渋々といった様子で若い男が腰をおろすと、ロト・ライスは口髭の男へ視線を向け、
「申し訳ない、リー・フェデどの。若輩者《じゃくはいもの》ゆえの非礼、どうかお許しいただきたい」
「ロト・ライスどのが御子息をどのようにご教育されているか、よくわかりますな」
たっぷりとした口髭をひねりあげながら、男は鼻先で笑った。
「なによりも自主性をと、息子たちには心掛けております」
「なるほど、変わった方針ですな。いや、ロト・ライスどのご自身が血筋や誇りにあまり重きをおかれていないご様子。御子息たちもそれに倣《なら》うのでしょうな」
口髭の男はそう言って、先ほど無礼な口をきいたとは別の若い男に目を向けた。
「ご長男は――セシルどのでしたか?」
「そうです」
硬い口調で相手がうなずくと、彼はやや身を乗り出し、
「やはりセシルどのも父上と同じように、島の女を妻に迎えられるご予定ですか?」
エリにも、そのとたんにセシルが息を飲みこんだのがわかった。同時にエリ自身も、いまにも部屋に飛びこみ、口髭の男を殴りつけたい衝動をぐっとこらえた。
「わ……私はまだ若輩者ですので、妻を迎えるには早いと思っています」
「おいくつになられました?」
「二十五です」
「私が妻を迎えたのは、二十二でしたよ。妻は私の又従兄弟にあたる女性でしてね、十六になったばかりでした。生まれたときに私のもとへ嫁ぐことが決められ、領主の妻としてふさわしいよう躾《しつ》けられたのです」
相槌をうつ者はだれもいなかったが、彼は舌先もなめらかに、妻となった女性の先祖がどれほどの功績を残したか、どれだけ資産を持っていたかを語った。
クソ野郎が、とエリは口の中で声には出さず吐き捨てる。
(だれか、なんとか言い返せよ)
ケアルが「上」に住む人々に何を言われているか、どんなふうに扱われているか、知っているつもりだった。だが、実際に目にし、耳で聞くのは初めてだ。
エリも島にいて色々と言われることはあったが、これはそれより根が深く、より陰険だと思える。フェデ領主は己が家系を盛大に自慢することで、島人の女を妻にしたロト・ライスとその息子ケアルを侮辱したのだ。
ケアルの兄たちは、ただ俯いているばかりで、言い返すどころか腹違いの弟の存在を恥じているようにみえる。ロト・ライスにいたっては、他人ごとのように鷹揚《おうよう》な笑みを浮かべ、隣席に座る客人のグラスに赤い果実酒を注いでいた。
「――なんにしても」
そろそろ自慢話も種がつきたのか、リー・フェデはそこにいる全員をぐるりと見回し、口髭についた果実酒を拭って、
「ロト・ライスどのが三番目の御子息を、この場に同座させなかったのは賢明な判断といえるでしょうな」
「ああ、そのことですか」
言葉を受け、ロト・ライスが微笑みながら果実酒の瓶《びん》を置いた。
「皆さんにご報告が遅れましたが、三男は現在デルマリナの船に滞在しておりまして、本日はどうしても同席がかなわず、お許しいただきたく思います」
そう言ってロト・ライスが全員を見回すと、食事をとる客人たちの手がぴたりと止まった。ひそひそ交わす声も、食器がふれあう音も、出席者たちの衣《きぬ》擦《ず》れの音さえやみ、室内は耳が痛くなるほどの静寂《せいじゃく》に包まれた。
「なんですって……?」
最初に声を出したのは、ワイズ・ギリだった。だがそうつぶやいたきり、あとが続かない。
「それは……どういう意味ですかな?」
しばらくしてやっと、リー・フェデが大きく息を吸い込み、たずねた。
「意味といいますと?」
しらっとロト・ライスがたずね返すと、リー・フェデは憎々しげに相手をにらみ、
「なぜ貴殿の御子息が、デルマリナの船に滞在しているのかを訊いているのです」
「ああ、失礼。お訊ねの意味がわかりませんでしたので」
わざとらしいほど丁重に、ライス領主は謝ってみせた。
「あちらの船団長でいらっしゃるスキピオどのから、招待をうけたのですよ。私はこの通り忙しい身ですし、長男も次男も私の補佐で手いっぱいの状況でしてね。ですから、三男に行かせました」
よくもまあ言いやがる、とエリは苦々しい思いでロト・ライスのにこやかな横顔をにらみつけた。
(よりによって、招待だと。人質のどこが、招待だってんだよ)
確かに状況だけみれば、ライス家の誰かを寄越せと要求されて行かせたわけだから、招待をうけたと言えないこともない。だがそれをこの場で、招待されたのだと言い切ったロト・ライスのふてぶてしさに、エリは嫌悪を抱くどころかそれを通りこし、かえって感心してしまった。
(それにだいたい、わざわざ今になって、ケアルがデルマリナの船にいるって言い出すあたり、いかにもだよな)
それはエリばかりでなく、客人たちも同じ気持ちなのだろう。どの顔も苦々しく、腹立たしさを隠しきれないでいる。
「経緯はわかりましたが、我々になんの断わりもなく招待をうけるというのは、いささか浅慮《せんりょ》ではありませんか?」
「どこがでしょう?」
にこやかな表情を崩すことなく、ロト・ライスは訊き返した。
「招待されて断るのは、無礼でしょう。デルマリナと我々の間に、溝をつくることになります。それに、皆さん全員に意向をうかがっていては、あちらへ返事をするまでに最低でも三日はかかってしまう。これもまた充分に無礼なことと思いますが?」
もうだれも、あげ足をとることすらできなかった。
ふたたび静まりかえった部屋の中、やがて椅子を引く音が響いた。立ちあがったリー・フェデが、口髭をふるわせてロト・ライスをにらみつける。
「――不愉快だ」
言い捨てるとフェデ領主は、くるりと踵をかえし、全員に背を向けた。
(あ、やべぇ……っ!)
リー・フェデが肩を怒らせてこちらへ近づいてくるのを目にし、エリはあわててあたりを見回した。だがどこにも、すぐに身を隠せる適当な場所はない。
開き直ったエリは、壁に背を向け直立不動の姿勢をとった。乱暴に扉が開き、リー・フェデが足音も荒く出てくると、深々と頭をさげる。
ひとがいるとは思ってもなかったのだろうリー・フェデは、エリの姿を目にしたとたん一瞬だけ足を止めた。
「島人か――」
つぶやいてフェデ領主は、ふんと鼻を鳴らした。
「汚らわしい。ロト・ライスどのも、島人などを館に出入りさせるとは、酔狂にもほどがある……っ!」
吐き捨てるように言いながら彼が立ち去るまで、エリは顔をあげなかった。
汚らわしいと言われても、さほど腹は立たない。「上」には島人をもっとひどい言葉で貶《おとし》める人間も、やまほどいる。先ほどのやり取りを聞いたあとでは、この程度ですんで、かえってありがたいとさえ思えた。
部屋の中ではロト・ライスが、少しも動じていない穏やかな声で場をとりなしている。フェデ領主のあとを追いかけ出てくる者はいないようだ。
エリはこの隙にと、そっと踵を返した。
* * *
ロト・ライスが執務室へもどったのは、夜もかなり更けてからだった。
客人たちを招いての夕食のあと彼は、動揺するレグ・マティンを誘って、別室で熱い茶を飲んだ。
ライス領で採れる茶葉は、強壮剤として有名である。ロト・ライスは常日頃から、よりすぐりの茶葉を、病弱なレグ・マティンへ送り届けていた。そんなロト・ライスにお茶をと誘われて、マティン領主もむげには断れなかったのだろう。
(これでレグ・マティンは、私の意見には必ず賛成するだろう……)
別室での会談を思いおこしながら、ほくそえんだ。
もともとレグ・マティンには、茶葉を届けるだけでなく、様々な援助をしてきた。病弱な彼には、領内を治めるだけの体力も精神力も欠けている。そのうえ今回の騒ぎだ。もっとも南に位置するマティン領は、つまりいちばんデルマリナに近い。
そこをほんの少しついただけで、レグ・マティンは落ちた。
(もっとも近いといっても、デルマリナとの距離は五領とも似たようなもの、五十歩百歩というところだがな……)
苦笑しつつ、ロト・ライスは家令を呼び、エリ・タトルをここへ通すようにと言いつけた。
しばらくして入ってきたエリは、眠そうに目をこすっていた。
「待たせてすまなかったね」
「あ。すげぇ待ったもんで、つい寝こけちゃって。すみません――」
応えながら大きく欠伸《あくび》をするあたり、単に図々しいのか、あるいは度胸がすわっているのか。おそらく後者であろうと思えた。
館は見馴れている「上」の住民たちでさえ、領主に呼ばれ館内に入ると、ひどく緊張する。小鳥のように臆病になり、控えの間の片隅で縮こまっているものだ。そこまでいかずとも、彼のように待ち時間に眠ってしまう者など、これまで見たことがない。
それにこのエリ・タトルは、デルマリナの船でみごと与えられた使命をはたしてきた。知力と胆力、双方を兼ね備えていなければできないことだろう。命じたロト・ライスでさえ、彼がここまでやるとは予想すらできなかった。
(島においておくには惜《お》しい人材だ)
ロト・ライスが視線を向けると、エリは領主の前であることをやっと思い出したのか、欠伸をのみこみ姿勢をただした。
「――で、なんの用でしょう? オレ、母ちゃんに遅くなるとは言ってきたけど、やっぱ心配してると思うんです」
「ああ、すまなかったね。でもこんなに夜が更けてから舟で島まで帰るのは、危険だと思うのだが」
床を用意させるので泊まっていきなさいと言うと、エリは目を丸くして幾度もかぶりをふった。
「冗談じゃないっす。朝帰りなんて、母ちゃん絶対に寝ないで起きてると思うし。なんたって、こんな立派なお屋敷でなんか、おそれおおくて眠れないですよ」
「さっきまで眠りこけていたのに?」
笑いながら言ってやると、エリは小さく唸《うな》って頭をかいた。
「――きみに戻ってもらったのは、詳しい話を直接聞きたいと思ったからだ」
ロト・ライスは椅子に深く座りなおし、若い島人を正面から見つめた。
「デルマリナの船と深く関わったのは、ケアルをのぞいて、きみしかいない」
言われてエリは、参ったなとでもいうように眉をしかめた。
「知ってることなら、なんだって言いますよ。けどオレ、たぶん領主さまが知りたいことなんて、なんにも知らねぇと思う」
そうかなと微笑って、ロト・ライスはエリに椅子をしめし、座るように促した。彼が腰をおろすと、こんどは家令を呼び、お茶の用意をさせた。
やってきた家令から盆を受け取り、ロト・ライスは手ずからお茶をいれた。
「あれは――ケアルは、元気そうだったかね?」
湯気のたつ器をさしだしながら訊くと、エリはひとの悪い笑みを浮かべ、
「へえ、気になるんですか?」
「当然だろう。私の息子だよ」
「じゃあ、元気じゃなかったって言ったら、ケアルを呼びもどすんですか?」
「残念ながら、現在の状況では無理だね」
「だったら、んなこと訊いてもムダってもんじゃないんですか?」
憮然《ぶぜん》とした表情で器を受け取り、エリはくんくんと湯気の匂いをかいだ。
「身体にいいんだよ。飲みなさい」
ロト・ライスが飲んでみせると、若い島人は眉根を寄せ、しばらく器の中をのぞきこんでいた。だがやがて、ままよとばかりに目を閉じると、たちまちのうちに器の中身を飲みほした。
「すげぇ、苦い……」
「確かに、若いひとの口には合わないかもしれないね。だが年をとれば、これが美味《うま》く感じるものだ」
「ってもオレはたぶん一生、飲むこたねぇと思うけど」
なぜ? と目を向けると、エリは器を盆の上にもどし、
「島じゃ、こんなもん飲むやつはいねぇですから。オレはよくわかんねぇけど、きっとこれって、すげえ高いんでしょう? 飲みたくったって、オレたちが手に入れられるもんじゃねぇと思うし」
「ということはつまり、きみは島で一生を終えるつもりなのか?」
どういう意味だと、エリは領主の顔をまじまじと見つめた。だが、にこやかに微笑むばかりのロト・ライスから、なにかを読み取るのは無理だったらしい。
ふいっとエリが目をそらすと、ロト・ライスは器を盆に置き、書き物机の引き出しからケアルが書いた手紙を取り出した。
「デルマリナの船は、三隻。きみが乗ったのは一隻だけなのか?」
「そうです。あのスキピオとかいうおっさんが乗ってる船だけ」
顔はむこうへ向けながらも、ロト・ライスの問いにはきちんと応えてくる。
「では、その船には水夫が何人ぐらいいたか、わかるか?」
「全員を見たってわけじゃねぇけど。オレが船に近づいたとき、わらわら集まってきた水夫は、十二、三人ぐらいいたな。一日に三回、見張りを交替するっつってたから、最低でもその三倍はいると思います」
やはり頭のいい青年だ、とロト・ライスは思った。これまで何度も使者を送ってはいるが、水夫の人数を予想できた者はいない。
「水夫たちの様子は?」
「様子って……?」
「きみが見て、気づいたことだ」
エリはしばらく頬に手を当て上目づかいに天井を見あげていたが、やがて、そういえばと切り出した。
「やけに年寄りの水夫が多いな、って思ったな。若いやつなんか、ひとりかふたりぐらいっきゃいねぇの」
「それはなぜだと思う?」
「安あがりだからでしょ」
即座に返ってきた応えに、ロト・ライスは目をみひらいた。
「オレ、なんか変なこと言いました?」
「いや、いい意見だ。なぜそう思った?」
「だって島じゃ、舟ん乗って漁に出れるのは若くて丈夫なやつです。そのほうが、いっぱい魚がとれるから。デルマリナにゃ、島とは比べものになんねぇぐらい船がいっぱいあるんでしょう。そしたら、若いやつらからどんどん乗せてってさ、んで、年寄りが余る。余ったもんは安いなんてのは、どこでだって同じじゃねぇんですか」
エリをまじまじと見つめたロト・ライスは、思わずため息をついた。
「――きみはやはり、頭がいいな」
言われて彼は、くだらない冗談を聞いたとでもいったふうに、鼻先で笑った。
「そんなこと言っておだてたって、オレはもうあの船には行きませんよ」
「なぜ? 親友が心配じゃないのか?」
「オレが行ったら、かえってケアルが心配するんです。あいつは、オレが母ちゃんに父ちゃんの名前なんか訊けないって、ちゃんとわかってるから」
それに、と続けて彼はぎろりとロト・ライスの顔をにらみつけた。
「なんかオレ、あんたに協力すんのは嫌です。領主さまなんだから、命令されたら従わなきゃなんねぇんだろうけど。なんか、嫌なんです」
利《き》かん気な子供のような表情だな、とロト・ライスは思った。無垢な子供は汚れた心根のおとなを見破るという話を思い出し、つい苦笑がもれる。
「これはまた、嫌われてしまったものだ」
「あんた、嫌われて嬉しがってません?」
「嫌われた経験がないのでね」
「うそだろ。フェデの領主さまにゃ、毛虫みたいに嫌われてるじゃないですか」
「あの男は私を嫌っているのではなく、私が島人の女に子を産ませたことを嫌っているのだよ」
言いながらロト・ライスはエリに近づき、彼の細い顎を指先で持ちあげた。
「悪い子だ――あれを、立ち聞きしてたんだね?」
とたんにエリはぎょっと目をみひらき、あとずさった。
「あ……謝れって言われたって、謝らねぇからな! 呼びつけといて、いつまでも待たせるほうが悪りいんだ!」
「そうだね。まあ、許してやってもいい」
笑ってそう言うと、ロト・ライスは家令を呼んで、エリの床を準備するよう命じた。
「明日また、話し合おう。一晩よく眠れば、きみの気も変わるかもしれないからね」
長い鐘の音が鳴り響いたのは、水平線から陽が顔を出すわずか前のことだった。
寝台でうとうとしていたケアル・ライスは、たちまち飛び起き、円窓に走り寄った。
空はすでに明るくなってきていたが、あたりには白っぽい靄《もや》がかかり、見通しがきかなかった。耳をすましてみたが、聞こえるのは甲板を走りまわる水夫たちの足音と、互いにかけあう短い声、それにもう耳慣れた波が船体にぶつかる音と、船が軋む音だけだ。
鐘の音からも、慌ただしい動きをする水夫たちの様子からも、なにかが近づいてくるのは間違いないだろう。
(まさか、またエリが……?)
不安をおぼえつつ、急いで椅子を運んでくると、円窓から身を乗り出すようにして、靄のむこうを見つめる。
早朝の外気は潮の匂いが濃い。靄とともに入りこむ匂いに、息がつまりそうな気がする。胸の動悸《どうき》をおさめるためにも、ケアルは幾度も深く息を吸いこんだ。
何回目かの深呼吸のとき、潮の匂いになにか焦《こ》げたような匂いが混じった。あっと声をあげた瞬間、靄の中にいきなり拳大の火の玉があらわれ、船体に激しくぶつかった。
ガツッと音が響き、あたりに火の粉が飛び散った。そして火の玉は、白い飛沫《しぶき》をあげ海中へと沈んだ。
眠っていた水夫たちも起きだしたのだろう。船内も甲板も、足音と叫びあう声でいっぱいになった。
ややあって今度は別の方向から、火の玉が飛来した。船体にぶつかる前に、また次の火の玉が。靄を貫いて次から次へと、火の粉をまき散らし飛んでくる。
潮の匂いは消え、あたりには焼け焦げたいやな匂いが漂う。靄ではない、白い煙らしきものが、ケアルがのぞく円窓のそばまで流れてきた。
あわてて円窓を閉めたケアルの耳に、錨をあげる滑車《かっしゃ》の音が届いた。やがて船が軋みをあげ動きはじめると、火の玉が船体にぶつかる音にかわって、岩を海中に投げこんだような音が聞こえてきた。そしてその音も間もなく聞こえなくなり、ケアルはふたたび円窓を開いて外へ目を向けた。
見えるのはあいかわらず、靄ばかりだった。しかし黒い船体に視線を移せば、所々へこんだり焼け焦げたあとが目に入った。航海に支障をきたすほどの破損は見当たらず、ケアルはほんの少しだけほっとした。
船内と甲板のざわめきは、まだ続いている。ケアルはやや迷ったのち、円窓を閉めて扉へと近づいた。
耳をそばだて外の様子をうかがいながら、そっと扉を開けてみる。狭い廊下のどこにも、水夫の姿はなかった。
廊下に出たケアルは、壁に寄りかかりながら、甲板のほうへ向かって歩きだした。甲板に近づくにつれ、水夫たちの声がはっきりと聞こえてくる。
なんてことだと嘆く声、こんなところで死んでたまるかよと吐き捨てる声、野蛮人《やばんじん》めらがと怒りにふるえる声。
ふいに甲板に通じる扉が開き、ケアルははっとして立ちどまった。
「そこで、なにをしているんです!」
響いた声は、スキピオのものだった。
日頃は肩に房飾りのついた紺色の上着をきっちり衿もとまでとめ、隙のない装いをしている彼が、上着の前をはだけ袖をまくりあげて、つかつかと歩み寄ってくる。シャツが煤《すす》で黒く汚れているのがわかるほど近づいたとたん、スキピオはいきなり手をのばし、ケアルの衿もとを掴んで壁に押しつけた。
「この隙に、逃げるつもりか!」
首を絞めあげられて、ケアルは陸に打ちあげられた魚のように口を動かした。
「逃げるつもりだったんだな!」
「ち……違います……っ」
相手はケアルより身体つきもひとまわり小さく、おそらく突き飛ばせば簡単に手を放すだろうと思われた。だがケアルはあえて無抵抗のまま、かけられた嫌疑を否定した。
赤く充血した目が、さぐるようにケアルを見つめる。ケアルは目をそらさず、まっすぐスキピオを見つめ返した。
やがてスキピオは肩で息をつくと、気落ちしたように手を放した。
「――乱暴してすまなかった」
喉に手を当て咳をしながら、いいえ、とかぶりをふる。
「さっきのあれ、何だったんですか?」
「石に、油を浸した布が巻き付けてあった。おそらく投石器かなにかで飛ばしたのだろうと思うが――」
「いったい誰が?」
「それは私が訊きたい!」
スキピオは逆にそう叫ぶと、握りしめた拳を壁にたたきつけた。
激しい音とともに、ケアルの耳もとで板壁がびりびりと細かくふるえる。目を丸くしてケアルが見つめると、スキピオは肩で息をしながら、激してしまったことを悔《く》いた様子で、視線が合ったとたん照れくさそうに顔をそむけた。
「被害状況は、どの程度なんですか?」
「――火傷をした者が何名かいますがね、どれも大したことはありませんよ。船体のほうも、水夫たちが飛び込んできた火を片っ端から消しましたからね、多少焼け焦げはしてますが、大した被害ではありません」
それよりも、とスキピオは眉と眉の間に深い皺をつくる。
「問題は、水夫たちの間に動揺がひろがっていることです。デルマリナを出て、すでに三ヶ月。ただでさえそろそろ故郷を恋しく思う時期なのに…………」
つぶやく声には、不安の響きがあった。
積み荷を仕入れればそれでもう帰途につける通常の航海とは違う今回の仕事に、水夫たちが戸惑っていたのは間違いないだろう。そこへ、この襲撃である。
深いため息をついてスキピオは、ケアルに船団長室へ行こうと促した。
「ここでは、水夫たちの目につく」
状況を察してケアルは素直に、スキピオのあとに従った。
「私はこの襲撃が、襲撃者たちだけの判断で行なわれたものだとは思えないんだ――」
戸棚から細長い瓶を出しながら、スキピオは疲れた声で言った。同じ戸棚から切子《きりこ》細工《ざいく》の入ったグラスをふたつ取り出し、赤い液体を注ぐ。
「葡萄酒《ぶどうしゅ》だよ。きみもどうぞ」
差し出され受け取ったものの、ケアルは黙って床板を見つめた。
スキピオの言うことは、同時にケアル自身が先ほどから何度否定しても否定しきれないでいる疑惑でもあった。
父が――ロト・ライスが、襲撃を命じたのではないか。
島人たちが、この船に近づくとは思えなかった。かれらの怖れは深く、息をひそめて島の奥に籠《こも》るばかりで、船を襲撃しようなどと考える者はいないだろう。
けれど、領主に命じられたら? あるいは領主が言葉たくみに、島人たちに「やらなければやられる」と思い込ませたら?
「とにかく――」
赤い液体を喉を鳴らして飲みほし、スキピオはうすく笑ってケアルを見た。
「きみがこの船に滞在していれば我々に危害を加える者はいないだろう、という私の考えは浅はかだったらしい」
「すみません……」
「きみが謝ることではない。私がきみという人間の価値を、過大評価していただけだ」
おまえには人質としての価値すらない、と言い放たれたも同然だった。それもスキピオにではなく、父にそう言われた気がした。
(やっぱり、そうか……)
驚きはない。ただ淡々と、心の中で首肯《しゅこう》するだけだ。
人質としての価値はなかったが、少なくとも今の今までは、スキピオたちに人質と思わせておくだけの価値はあったんだな。そう考えてふいに、胸の奥から笑いがこみあがってくるのを感じた。
価値があるとかないとか、どうして今さら考えるんだろう。そもそも館の中で、おれに何らかの価値があったことなどあるだろうか。ひっそりと息をころし、誰にも迷惑をかけないように、父や兄たちの足をひっぱらないように、少しでも目立ちそうなことはすべて排斥《はいせき》してきたおれに。なにもできなかったのではなく、なにもしなかったおれに。
俯いて、こみあげてくる笑いをかみころすケアルに、スキピオが不審げな眼差しを向けてきた。
「なにか……?」
「いえ、なんでもありません」
ケアルはかぶりをふり、視線を円窓の外へ移した。
「やっと靄がはれてきましたね」
並走する二隻の船の姿が、はっきりと見える。朝陽を浴びた白い帆が目にまぶしいほど美しい。
スキピオは酔いに濁《にご》った目をぼんやりと円窓へ向け、ふいにつぶやいた。
「――白い鳥だ」
船の周囲には、一羽たりと鳥の姿はない。不審に思って、ケアルはスキピオの赤らんだ横顔を見つめた。
「長い航海のすえ、最初の島を目にしたとき――私は船の上空を悠々と飛ぶ白い鳥を見た。頭のところだけ赤い、大きな白い鳥だ」
ああそれは「ゴラン」ですよ、と言おうとしたケアルを、酔って焦点《しょうてん》のさだまらない目が睨みつける。
「あんたがこの船に降りてきたとき、私はあの白い鳥が降りてきたのかと思った。吉兆にちがいないと思ったんだ。だがあれは――凶兆だったんだな」
息をのむケアルの前でスキピオはグラスに果実酒を注ぎ、またひと息に飲みほした。気がつけば、細長い瓶の中身はいつの間にか、半分以上も減っている。
「上≠ヨ行くぞ」
空になったグラスを卓の上へ、たたきつけるように置いて、スキピオは宣言した。
「膝元まで詰め寄り、いかに自分たちが莫迦《ばか》なまねをしたか、思い知らせてやる」
「ちょ……、待ってください」
ぎょっとしてケアルが腰をあげかけると、スキピオは通信筒をひっつかみ、声をはりあげた。
「だれかっ! 腕っぷしの強いやつ! 急いで来い!」
この瞬間からケアルは賓客から捕虜へ、まるで崖をころがり落ちるように、その待遇は一変したのだった。
* * *
青々とした芝の美しい館の前庭が、粗野《そや》な声をはりあげる逞しい身体つきの男たちの足で、踏み荒されていた。
中でもひときわ大きくダミ声をあげ、他の男たちに向かって拳をふりあげてみせているのは、背の低い、けれど腕も肩も網目のような筋肉がびっしりついた、醜《みにく》い男だった。
男の名は、オリノ・ウルバ。五領中もっとも北に位置するウルバ領の領主である。
家令に起こされ、ウルバ領主が到着したと報告をうけたロト・ライスは、その瞬間に嫌な予感におそわれた。
そうして急いで衣《ころも》をあらため、館の前庭に出て、オリノ・ウルバの煤に汚れた醜い顔を目にしたとたん、怒りで目の前が真っ暗になった気がした。
だがウルバ領主は、そんなロト・ライスには少しも気づいていない様子で、
「これは、ロト・ライスどの! 朝早くから騒がしくて申し訳ない」
煤にまみれた顔を紅潮させ、ダミ声をますますはりあげて挨拶してきた。
オリノ・ウルバの従者だろう男たちも、主人と同じく煤で汚れた顔をしている。
「――これは、どういうことだ?」
どうにか怒りをこらえ、ロト・ライスが問うと、ウルバ領主は自慢げに胸をはった。
「やつらに、ひと泡ふかせてやったのさ。オリノ・ウルバここにあり、とな」
オリノ・ウルバがそう言って拳をふりあげると、従者の男たちはどっと喊声《かんせい》をあげた。ウルバ領主はそれを満足そうに、目を細めてぐるりと見回す。
「では、あえて訊くが、やつらとは誰のことだ?」
「決まっている。デルマリナの野蛮人どものことさ!」
主人の応えに、従者たちがまた、ひときわ大きな喊声をあげる。
怒りのためにふるえる手を握りしめ、オリノ・ウルバをにらみつけると、ライス領主は息をひとつ吸いこんで踵をかえした。
立ち去り際、家令にオリノ・ウルバ一行の部屋を用意するように、と言いつける。ついで眉根を寄せ、
「伝令を五名と、船への使者を勤める者たち全員、いますぐ執務室へ来させよ」
「かしこまりました。それで……伝令五名の人選はいかがいたしましょうか?」
「いますぐ出頭できる者、だ」
家令はよほど慌てふためいて命令を伝えたのだろう。ロト・ライスが執務室へ入り、さほど待たぬうちに全員がそろった。
まずは伝令たちに、デルマリナの船を上空から偵察するように命じる。
「おそらく船は、移動しているはずだ。決して長く船の上空にとどまるな。通りすぎるふりを装って近づき、すぐ離れろ。それから、いちどに複数の翼で近づくな。近づくときは単機で行け」
指示の細かさと領主の険しい表情に、伝令たちは緊張の面もちでうなずいてみせる。
「調べるのは、船の被害状況だ。それから、翼が近づいたとき水夫たちがどんな行動をとるか。わかったらすぐ戻って来い」
矢継ぎ早の命令が終わると、伝令たちは一斉に執務室を駆け出していった。
続いてロト・ライスは、畏《かしこ》まって控える使者たちに視線を移す。
「おまえたちにデルマリナの船へ使者として行ってもらうのは、伝令たちが帰ってきてからになる」
あきらかにほっとした様子のかれらだったが、領主の次の言葉で、かれらの間に驚愕《きょうがく》がはしった。
「先ほど判明したのだが――オリノ・ウルバどのが今朝早く、デルマリナの船を襲撃したらしい。伝令たちには、その被害状況を調べに行かせたのだ」
言ってロト・ライスは、かれらひとりひとりと順番に目を合わせた。
「状況によっては、あるいはおまえたちに覚悟してもらわねばならない」
かれらの顔が、青ざめていく。
「すまない。私はいたらない領主だ。そうとわかっていながら、おまえたちを使者としてデルマリナの船へ送り出す」
しかし領主に異をとなえる者も、自分は行きたくないと言い出す者もいなかった。少なくとも、この場では。
「伝令たちがもどるまで、わずかだが時間がある。もし覚悟を決められない者がいたら、申し出てくれ。私はずっと、この執務室にいる」
うなずく代わりに、かれらは互いに顔を見合わせた。かれらのその表情は、密告者のそれにひどく近いようにロト・ライスには感じられた。
かれらが出て行くと、入れ替わりに家令がギリ老が到着したとの報告をもってやって来た。相手がギリ老では、多忙を理由に挨拶に出向かない、というわけにはいかない。
「わかった、すぐ行く」
うなずいて立ちあがり、ギリ老の部屋は息子のワイズ・ギリの隣に用意すること、もし自分が席をはずしている間に執務室を訪れる者がいたら、見て見ぬふりをすること――といった指示を出しながら、執務室を出る。家令は心得たふうに頭をさげ立ち去ったが、すぐまた廊下を大股で歩くロト・ライスを追いかけてくる足音が聞こえた。
まだ何かあるのかと振り返ると、それは家令ではなく、昨夜は館に宿泊したエリ・タトルだった。
「あ……なんか、忙しそうですね?」
振り返ったロト・ライスの表情が険しかったのか、島の若者は一歩うしろにさがりつつ訊ねてきた。
「忙しいのは、いつものことだ」
こっちに来いと手招きすると、眉根を寄せうさん臭げにロト・ライスを見やり、しぶしぶといった様子で近づいてきた。
「島に帰ろうとしたら、寝床の用意してくれたやつが、領主さまに挨拶してから帰れって言うんで――だから、来たんです」
エリが帰る前に顔を出させろと言い置いたのは、ロト・ライス自身である。
「なんだ、もう帰るのか?」
「もう、じゃねぇですよ」
唇を尖らし、言い返してくる。
「だが今は、海に出ないほうがいい。帰るのはもう少しあとにしなさい」
廊下を並んで歩きながらロト・ライスが言うと、エリは「なんだって?」と目をつりあげた。
「今朝早く、オリノ・ウルバがデルマリナの船を襲撃した。いま海に出るのは危険だ」
とたんに目をみひらき、ぽかんと口を開けて、エリは立ちどまった。どうした、とロト・ライスも立ちどまり振り返る。
「――なんだよ、それ……」
「おかげで私は朝早くに起こされ、いまだに朝食をとることもできないでいる」
「のんきに朝飯食ってる場合かよ!」
どんっと足を踏み鳴らし、声をはりあげた。
「そいつ――ウルバの領主か、いったい何考えてんだよ!」
「おそらく何も考えていないのだろう」
苦笑して応え、ふたたび歩きだしたロト・ライスのあとを、エリは追いかけてくる。
「オリノ・ウルバとは、そういう男だ。やつの自慢は体力だけで、脳味噌ときたら生まれたての小鳥程度の持ち合わせしかない」
言ってのけると、彼は軽く目をみひらいてライス領主の顔を見つめ、
「……けっこう言うじゃん……」
「当り前だ。これでもまだ、言い足りないぐらいだぞ」
そうだな、とエリがうなずいた。
「オレ……ケアルが心配だ。襲撃されて、船はだいじょうぶなのかな?」
「いま調べさせている」
「そっか……。でももし船は無事だったとしても、ケアルも無事とは限らねぇよな。怪我してるかもしれねぇし、もしかしたらスキピオのおっさんに裏切り者とか言われて、ひどいめにあってるかもしんねぇ……」
つぶやくとエリはふたたび立ちどまり、ロト・ライスの顔を見つめた。
「船を調べてるやつって、いつ戻ってくるんです?」
「すぐに戻れと命じている」
「んじゃオレ、それまでここにいます。邪魔になんねぇように気ぃつけるから」
好きにしなさいと言ってやると、エリは表情をあらため、ありがとうございますと頭をさげた。
ギリ老は長旅にもかかわらず到着早々、息子のワイズ・ギリを呼びつけ、あれこれと質問攻めにしていた。
「だから、あれは何じゃと訊いておる! あの騒々しい野蛮なやつらだ!」
まだ寝起き間もないらしいワイズ・ギリは、ぼさぼさの頭を傾げるばかりで、父親がなにを訊ねているのかもわかっていない様子だった。
「ギリ老、ようこそいらっしゃいました」
ロト・ライスが部屋の外で両手をひろげ歓迎の言葉をのべると、ギリ老は八十をすぎた身体とは思えぬ動きでくるりと振り返り、
「挨拶などいい、ロト・ライスどの。それより表の連中は、ライス家の使用人か?」
「いえ、違います。オリノ・ウルバどのに同道した従者たちですよ」
にこやかにロト・ライスが答えると、老人は全白の眉の下で、ぎょろりと目を動かした。
「連中、何をやりおった?」
「オリノ・ウルバどのが言うには、デルマリナの船を襲撃し、かれらにひと泡ふかせてやった、と」
老人はそれを聞いても表情ひとつ変わらなかったが、ワイズ・ギリのほうはとたんにぎょっと目をみひらき、続いておろおろと父親の顔をうかがった。
「父上……私はその、決してさぼっていたわけではなく――」
「ウルバ領主が到着したのも、知らんでか。どうせ、うるさいわしがおらんのを幸いと、寝ほうけておったのだろうが」
ぴしゃりと断言し、ギリ老は探るような目つきでロト・ライスを見つめた。
「それで、むこうの船はどうなった?」
「いま調べさせています」
「どうせあのウルバのことだ。口では大きなことを言っておっても、たいしたことはやっておるまい」
ふんと鼻を鳴らした老人の横で、ワイズ・ギリがふいに身を乗り出してきた。
「父上、ロト・ライスどのは御子息を心配なさっているのですよ」
得意げな顔で、報告する。
「いちばん下の御子息が、デルマリナの船に滞在中で――」
「下というと、島人の血が混じった三男坊か?」
息子を無視し、ギリ老はロト・ライスに訊ねた。うなずいてみせると、老人は深々と椅子に背を預け、上目づかいにロト・ライスを見直した。
「ウルバはそれを知っておるのか?」
「ご存知ないと思います」
「知らないからやったんですよ、父上」
横から口を出す息子に、老人は黙っておれと手をふる。
「知っておっても、ウルバには同じだ。あやつの単純な頭の中では、二本足で歩く動物は上に住む人間と島人の二種類しかない。デルマリナの連中は『上』に住んではおらんからな、あやつには島人と同じ種類にしか思えんのだろう」
オリノ・ウルバは、昔ある有力者の婚礼に招かれたとき、酌をしてくれた女が島人だとわかり、
「島人のくせに、わしに向かって口をきくな!」
と怒鳴りつけ、殴り殺してしまった――との逸話《いつわ》をもっている。のちに彼は婚家の主に、酔いがすぎてしまったことのみを謝ったという。
ロト・ライスはその逸話を思い出し、うなずいた。
「――ウルバ領にデルマリナの船が漂着することは、まずありませんからね。オリノ・ウルバどのがそう考えたとしても、不思議はありません」
ウルバ領は五領中もっとも北に位置し、デルマリナからはいちばん離れている。
「あやつが何を考えようと勝手にすればいいが、今度ばかりはそうも言ってはおれん」
ギリ老は目を細め、にやりと笑った。
「どうせロト・ライスどののことだ、何か対策は考えておられるな?」
「船の損傷が軽微なら、生贄《いけにえ》をひとり差し出せば済むことと考えます」
「襲撃の首謀者か」
ロト・ライスがうなずくと、ワイズ・ギリが目を丸くして、
「えっ、まさかオリノ・ウルバどのをデルマリナに引き渡すのですか?」
このたわけがっ、とギリ老は椅子にたてかけてある杖《つえ》を手に取り、息子のむこう脛《ずね》を打った。
「な……っ、なにをするんですかっ!」
よほど痛かったのだろう、ワイズ・ギリはうずくまって脛を押さえ、目に涙を浮かべて父親を見あげる。
「この通りの阿呆な息子で恥ずかしい。だからわしは、まだまだこやつに領主の名を譲れんのだ」
杖を膝の上に乗せ、老人は笑った。
「生贄の人選は、ロト・ライスどのにお任せしよう。この件に関するかぎり、わしは協力を惜しまんぞ」
「ありがとうございます」
「心にもない礼は、いらん」
では、とロト・ライスは老人に目礼し、踵をかえした。
執務室にもどるとすぐ家令を呼び、自分が席をはずしている間に執務室を訪れた者はいないか確認したが、近寄った者さえいないとの返事だった。
軽い朝食を運ばせ、スープと果実だけのそれをどうにか腹におさめたところで、伝令たちがもどってきたと報告をうけた。
ロト・ライスは天井まで届く大きな窓を開け露台《バルコニー》に出ると、上空を見あげた。
青空を背景に、ひらひらと旋回する白い翼が数機。着陸の順番待ちをしているのだろう。まるで光を裂くように、翼の形をした黒い影が前庭の青い芝の上や館の石壁の上を横切っていく。
露台の手すりを握りしめ、順次着陸していく翼を三機まで数えたところで、ロト・ライスはふいに手すりを飛びこえ、地面に降り立った。そしてそのまま、伝令たちが後続の仲間を待つ前庭のむこう端へと向かう。
領主がわざわざ出向いたことに、伝令たちは驚いた様子だった。あわてて頭をさげるかれらに、そのままでいいと合図し、船の様子はどうだったか訊ねた。
「それが…………」
いちばん年嵩の伝令が言いよどんで、仲間と顔を見合わせる。
「三隻とも船体には、目立つ損傷はなかったのですが……」
口ごもり、互いをうかがうばかりの伝令たちに、ロト・ライスは次第に苛立ちをかくしきれなくなった。
「なんだ? はっきり言え」
厳しい目つきで、伝令たちを見回す。
そこへ、最後の翼が着陸し、いちばん年若い伝令が転がるように駆け寄ってきた。
「やっぱり連中は、ここを目指してるぞ……っ!」
最年少の伝令はそう叫んだあとで、仲間たちの中に領主の姿を見つけたようだ。ぎょっとして立ちどまり、続いて仲間たちに救いをもとめる眼差しを向けた。
「いまの話は、本当なのか?」
ロト・ライスが訊ねると、先ほどは言葉を濁《にご》していた最年長の伝令が、観念したようにうなずいた。
「我々は飛び立つ前に、順番に一機ずつ時間をおいて船に近づくことに決め、まず私が最初に船に接近しました」
次が私です、その次が私です、と伝令たちが順番に申し出る。最後に年若い伝令が、おれが最後で、と頭をさげた。
「私が接近したときは、まだ船がどこへ向かおうとしているのか、よくわからなかったのですが……。後続のかれらの話を聞いて、これはひょっとしてと考え、最後の翼が着陸するのを待っていたのです」
年嵩の伝令は、言葉を濁していた理由をそう語った。
「そもそも妙だと思ったのは、船の位置でした。船は指示があった場所には停泊していなくて――襲撃されたなら、移動しても当然かとも考えたのですが……」
「船が『上』へ向かってきているのは、確実なんだな?」
ロト・ライスがもういちど確認すると、全員がうなずき、中でも年若い伝令は腕をあげ水平線を指さした。
「あそこです。もう帆が見えています」
すべての目が吸い寄せられるように、若い伝令がしめす水平線へ向けられた。
靄もはれた青い空を背景に、くっきりと白い帆が見えた。最初は親指の先ほどの大きさしかなかった帆は、次第に握り拳の大きさになり、やがて波間に黒い船体が見えかくれしている様子まではっきりわかりはじめた。
船がかつて最も「上」に接近したのは、初めて姿をあらわした時である。船団長のスキピオはそのとき、上から船体を隠すことができ、なおかつ船に近づくものが見えやすい場所をということで、停泊場所を選んだと聞いている。またそれ以降、スキピオは移動場所をも慎重に選んだらしく、上から見える位置に船体の全容をさらすことはしなかった。
おかげでおそらく「上」の住人たちは誰ひとり、それこそ伝令と使者をのぞいて、そしてロト・ライス自身でさえも、今の今まで船を目にすることはなかったのである。
ふと気がつけば、全身に鳥肌が立っていた。足から力がぬけ、膝がいまにもガクガクと笑いだしそうだ。
冷たい汗が腋《わき》の下を流れ落ちていくのを感じ、ロト・ライスは信じがたい思いで震《ふる》える己が手を見おろした。
(この私が…………)
だれからも豪胆だと言われ、怖れられることはあっても何かを怖れることなど、かつてなかったというのに。いま、まるで産まれたての赤ん坊のように震えている。
船が怖いと怯え、島の奥にひきこもり、息をひそめている島人たちと、これではまったく変わりないではないか。
見知らぬものに怯えるのは、教養がない愚鈍《ぐどん》な人間だという証拠だ。英明な者は、見知らぬものを面白いと感じる。
(私は、後者だ)
自分に言い聞かせ、ぐっと手を握りしめた。
(私以外の何者に、いまの五領を導くことができようか)
不思議なほど自然に、手の震えが止まった。それを確認すると、やがて身体中に力がみなぎってくるような気分になった。
「みんな、ご苦労だった」
ゆっくりと振り返り、ロト・ライスは五人の伝令たちひとりひとりに視線を向けた。
「今のうちに、休んでおいてくれ。すぐまた飛んでもらうことになるかもしれない」
言われて伝令たちはうなずいたが、かれらはすぐには解散しようとしなかった。不安げな顔をし、互いに目くばせしあっている。
ロト・ライスが館内に入ったときも、伝令たちは同じ場所にいた。それどころか伝令たちの翼を片付ける仕事をしていた家令たちまで、作業の手をやすめ集まってきていた。
(このぶんでは、領内全体に不安がひろがるのも時間の問題だ――)
苦々しい思いでもういちど振り返った海上には、不安を体現するような黒い船が、白い波頭を砕《くだ》きながら迫っていた。
「なんか……ごめん」
申し訳なさそうな小さい声が耳に届き、振り返ると若い水夫がうつむいて、ケアルの腕に縄を回した。
いつもケアルの船室に食事を運んできてくれた、あの水夫だ。ケアルの船酔いを心配してくれた、同じ年の水夫。いつも陽気に笑っていた彼は、煤だらけの汚れた顔を、いまにも泣き出しそうにしかめている。
ケアルが気にするなとかぶりをふってみせたとたん、別の水夫が若い水夫の背中を蹴りあげた。
「無駄ぐち、たたくんじゃねぇっ!」
さっさと縛りあげろと怒鳴られ、若い水夫は小さくなってケアルの腕を背中でひとまとめに括《くく》った。
引き出された甲板には、三十人ほどの水夫が動きまわっている。三本の帆柱は白い帆をいっぱいにひろげ、風をうけてギシギシと鳴っている。波飛沫がときおり、霧のような細かい粒子になって甲板の上にまで飛んでくる。
船の舳先のその先には、険しい峰と白い崖が見えた。スキピオの言葉通り、船は「上」を目指して進んでいるらしい。
迫りくる三隻の黒い巨大な船を目にして、上に住む人々はどう感じているだろうか。島人たちがそうだったように、怯えて家に引きこもっているだろうか。そう考え、ケアルは苦笑した。
父が襲撃を指示したならば、このくらいのことは予想しているはずだ。いまのおれが、そんなことをあれこれ考えるなど、笑止千万もいいところだ。
これから自分はどうなるのか、それも考えるのはやめにした。
もとから惜しまれる立場の人間ではないし、自ら惜しむ命でもない。
「やっと陸にあがれそうじゃねぇか」
うしろ手に縛られ座りこむケアルのそばで、水夫のひとりが仲間に話しかけている。
「ああ。途中、補給で陸にあがったのが最後だったからな、一ヶ月ぶりってとこか」
「一ヶ月ぶりの女だぜ」
野卑な笑いが、水夫たちの間にひろがった。
「辺境の女は、情が深くていいっていうからな。デルマリナの女は商売女でも、お高くていけねぇや」
「そりゃおまえの懐が軽いからだろ」
水夫たちの軽口を開きながら、ケアルは身体がカッと熱くなるのを感じた。
思わず身体をひねって水夫たちを見あげ、口を開きかけたとき、上空を白い翼が横切っていった。
(――伝令だ)
地模様のない真っ白な翼は、たいてい伝令が使うものだ。ケアルがつい先日まで使っていた翼も、年老いた伝令が引退し不要になったものをロト・ライスがそのまま息子に与えたものだった。伝令が使う以外の翼は、それぞれ持ち主の好みで染めたり、なんらかの意匠を織りこんだりしている。
「おい、また来たぞ!」
舳先のほうから、水夫の声がした。ケアルの周囲にいた水夫たちがあわてて、上空を指さす仲間のもとへ走り寄っていく。
ふたたび上空を横切っていった翼は、先ほどとは違う伝令のものだった。
「だれかっ! 船団長を呼んでこい!」
水夫頭の怒鳴り声に、だれかが応えて走っていく。
スキピオが甲板に姿をあらわしたのは、四機めの翼がちょうど上空にさしかかったときだった。甲板をひたすら右往左往するばかりの水夫たちに、持ち場にもどれと命じ、スキピオは足音も荒くケアルのところへやって来た。
「あれは何だ?」
ケアルの前に立つとスキピオは上空を指さし、そう訊ねた。
「伝令ですよ」
短くこたえたケアルを睨みつけ、スキピオはもういちど訊ねた。
「それは何だ?」
「連絡係です。領主の指示を島へ伝えたいとき、あるいは他領と通信を交換したいとき、かれらが飛んでいきます」
「それだけなのか?」
不審に満ちた目を向けられ、ケアルは苦笑した。
「おれが知っている伝令は、そういうもんです。それ以外の仕事をしてる伝令が、ひょっとしたらいるかもしれないですけど。あいにく、おれは知りません」
落ち着きはらったようにみえる態度や、言いようが気にさわったのだろう。スキピオは不快げに眉をしかめ、
「きみは――」
言いかけたとき、甲板の前半分にいる水夫たちがどよめいた。
「こんどは低いぞ!」
見れば五機めの翼が、これまでの翼より低空で船に近づいてきていた。スキピオがかっと目をみひらき、水夫たちに怒鳴る。
「騒ぐな! 見苦しいぞ!」
しかしその声は、水夫たちの耳には届かなかった。翼が帆柱の先端をかすめるほど近くを通りすぎ、いっそう大きなどよめきが起こったのだ。
操縦者が左肩ごしに船を見おろす様子まで、はっきりわかった。おそらく操縦者も、甲板でうろたえる水夫たちの様子を目におさめたことだろう。
翼が拳ほどの大きさに遠ざかるまで、水夫たちは目を離さず見つめていた。
「人間が空を飛ぶなんてなぁ、やっぱ何度見たって見慣れねぇぜ……」
放心したような水夫のつぶやきを耳にしてケアルは、島人たちが巨大なこの船を怖れるように、かれらも大空を駆ける翼に怖れを抱いているのだと悟った。
デルマリナではあたりまえの巨大な船が、ここでは異様なものと映るように、ここでは誰もが見慣れた翼はデルマリナの水夫たちにとって、信じられないしろものなのだろう。見知らぬものを目にしたとき、その反応はデルマリナの水夫たちも島人もそう大きく違いはしない。
平静をたもっているかにみえるスキピオも水夫たちと同じように、不安そうな目をして飛び去っていった翼を見つめていた。だがケアルが彼を見ているのに気づくと、
「あれのどこが伝令だ」
忌々しげに吐き捨てた。
「ただの連絡役が、あんな派手なまねをするものか」
応えはしなかったが、ケアルも同じように思った。
確かにあれば、伝令だった。最後に来た翼などは操縦者の姿もはっきり見え、ケアルは彼が半年ほど前に伝令になったばかりの青年だということも知っている。
(でも、あれではまるで威嚇《いかく》行為だ)
かれらが威嚇行為をしなければならなかった理由は、いったい何だろう。いや、そもそもなぜ、船を襲撃したのか。
船を襲って得になることなど、父に――ライス領主にあるのだろうか。
「なにかおかしい……」
思わずつぶやいたケアルの声を聞きとがめて、スキピオが「なにか言ったか?」と訊ねてきた。
いえ、なにも――そう応え、ケアルは前方の峻嶺な山脈を見据えた。
* * *
陸地に接近すると、スキピオは水夫たちを指揮して帆を畳ませた。
垂直にそびえる崖は、帆柱ほどの高さがある。岩壁のあちこちに巣をつくっている海鳥が、珍しい客人を歓迎するかのように、船の周囲に集まってきた。赤ん坊が泣いているような鳴き声を響かせ、海鳥は帆柱や船体をかすめて飛び交う。
嫌な鳴き声だぜ、と水夫のひとりがつぶやいた。船を海底へと引き込む魔物があらわれるとき、どこからともなくあんな泣き声が聞こえるんだ、と年老いた水夫が若い水夫に話してきかせている。
スキピオは船を停泊させたまま、次の指示を出そうとはしない。船の舳先に立ち、じっと崖上を見あげている船団長のうしろ姿を、水夫たちは窺うように見つめている。
「だれか降りてくるぞ!」
ふいに頭上で水夫が叫んだ。帆柱の上で見張りをしていた水夫の声だ。
見張り役の指さすほうへ、水夫たちが走って甲板の上を移動する。ケアルも後ろ手に縛られた不自由な身体を起こし、立ちあがった。よろめきながら、甲板の右側へ進む。
甲板の端へ詰めかけた水夫たちの間から、岩壁にたらされた縄梯子をつたって、ひとが降りてくるのが見えた。船からは距離があり、それが何者なのかは判別がつかない。
もっとよく見ようと伸びあがり、その拍子に足もとがふらついた。倒れそうになったところを、うしろから誰かが支えてくれた。
「だいじょうぶっすか?」
顔馴染みの、あの若い水夫だった。
「ああ、ごめん。ありがとう」
礼を言うと若い水夫は、とんでもないとかぶりをふってみせ、周囲をきょろきょろと見回して、
「なんか……変なことになっちゃって」
声をひそめ、そう言った。
「オレ、こんなヤバい仕事だってわかってたら、絶対うけなかったっすよ」
「ヤバいって?」
「こういうことすんの、キレイな仕事じゃないっすよ」
情けない顔で、ケアルの縛られた両手を見おろす。
「うちの親父は商売ヘタだけど、他人にうしろ指さされるようなことはしてないって、誇りもってんですよね。オレ帰っても、親父に顔みせらんないよ……」
肩をおとしてつぶやく彼に、なにか言ってあげたかった。気にするなとか、仕方ないことだよとか。けれど自分がそれを言うのは茶番でしかないような気がした。
舳先に立つスキピオが、船を寄せるように指示をだした。甲板の端に集まっていた水夫たちは、指示にしたがってそれぞれ持ち場へともどっていく。
若い水夫は他の水夫に早くしろと怒鳴られ、申し訳なさそうな顔をしてケアルのそばを離れると、いちばん背の高い帆柱にとりついた。
水夫たちがいなくなると、ケアルは身を乗り出すようにして岩壁を降りてきた人物を見つめた。すでに降りた三人は、いずれも男だ。遠目では判別しがたいが、うちひとりは館内では若手の家令のようにみえる。
名をなんといっただろうか、とケアルは背に大きな革袋を担いだ彼を見ながら首をひねった。おそらく重要な交渉となるだろうに、経験もない若い家令が出てくるとは、いったいどういうことだろう。
船がまた動きだした。ただし今回は小ぶりな帆を二枚ほどひろげただけで、ゆっくりと進む。
やがて甲板の手すりにまたがるようにして立つ水夫が、重りのついた細い縄をたらし、これ以上は進めないと声をはりあげた。スキピオが合図すると帆は畳まれ、ふたたび錨がおろされた。
岩壁の下につくられた舟着き場に、男が四人ほど立っている。この距離なら声は届くだろうと思われた。
五人めの男が、岩壁を降りてくる。そのうしろ姿を目にしたとたん、ケアルは小さく声をあげた。
「――父上……?」
ただでさえ波がかぶって危険な舟着き場に、領主である父が自ら降りてくるとは思えなかった。だが岩壁を降りきり、こちらに正面を向けた男はやはり、ロト・ライスそのひとだった。
「あれは御領主だな?」
いつの間に移動したのか、スキピオがケアルの背後に立ち訊ねてきた。
そうですとうなずいてみせると彼は、無言でケアルの後ろ手に縛られた縄を解いた。驚いて振り返ったケアルの耳もとに顔を寄せ、スキピオがささやく。
「私のそばから離れるな」
「おれは人質にはなりませんよ?」
ケアルが返すと、スキピオは口の端で笑ってみせた。
なるほど。人質としての価値はなくとも、盾《たて》にはなるだろうというわけか。
「船団長のヴェラ・スキピオどのだな?」
舟着き場から、男たちの先頭に立ったロト・ライスが船を見あげ、呼びかけてきた。
「そうだ!」
スキピオが大きな声で応えた。
甲板の上では、持ち場についたままの水夫たちがそれぞれじっと息をひそめ、スキピオとライス領主を見つめている。
「すでにお見知りおきかと存じるが、私はライス領主、ロト・ライスだ」
胸をぐっとはり堂々たる声をあげるロト・ライスの背後では、四人の男たちが領主とはまったく対照的に、身を縮めるようにして俯いていた。
「御領主みずからお出ましとは、何用あってのことか?」
「謝罪と、それから弁明の機会をあたえていただきたい」
ほぅ、とスキピオは目を細めた。
「なにへの謝罪と弁明か?」
「そちらの船を襲撃したことへの」
「我らの信頼を裏切ったことへの?」
「それは違う!」
ロト・ライスはそう怒鳴りながら、芝居じみた仕草で腕を横に振り払った。そして船上のスキピオを見据えると、若い家令に合図して背中にかついだ革袋をおろさせた。
舟着き場の波で濡れた床に膝をついた若い家令が、うやうやしい手つきで革袋の中から黒っぽいものを取り出した。
なんだろうと身を乗り出したスキピオが、ヒッと息を吸い込み、身体をこわばらせた。たちまちその横顔が青ざめていく。
ケアルもまた、それが何かとわかった瞬間、息を飲み込んだ。
「そちらの船を襲撃したのは、この男だ」
ロト・ライスが、若い家令の掲げもつモノを指さして告げた。
それは人間の男の、首だった。ざんばらにおちた髪が潮風に吹かれて舞いあがると、どす黒い血にまみれた顔がさらけだされた。
首だけになった男の表情はわからないが、おそらく年のころは三十代のなかば。逞しい身体つきだったのだろう、切られた首はどっしりと太い。
甲板にいる水夫たちもそれが首だと気づいたのだろう、あちこちで囁き交わす声が聞こえる。荒い仕事に慣れた水夫たちでさえ、これまで人間の生首を目にした者はほとんどいないようだ。声には恐れ、怯え、そして怒りが混じっている。
スキピオが甲板の手すりを握りしめ、
「野蛮人が……っ!」
吐き捨てるように小さくつぶやいた。
スキピオや水夫たちに与えた衝撃も知らぬげに、ロト・ライスは船上を見あげ、
「今朝この男が、自ら名乗り出たのだ。自分がデルマリナの船を襲撃した、と。潔《いさぎよ》い態度だったゆえに服毒させ、こうして証拠の首を持参した次第だ」
ロト・ライスの堂々たる態度に気圧されたのか、あるいはまだ首を見せられた衝撃から立ち直れないのか、スキピオは青ざめた唇を震わせながら叫んだ。
「しゅ……襲撃は、ひとりではなかった」
「この男が同じ島の仲間を煽動《せんどう》し、船を襲撃させたと告白した。責任はこの男にある」
「領主……領主に責任があるはずだ!」
震えるスキピオの声を聞き、ロト・ライスは悠然《ゆうぜん》と微笑んだ。
「貴殿の故郷では、船上で起こった事件の責任を、デルマリナの人民評議会、あるいは総務会の面々にとらせるのか?」
人民評議会とは総務会とは何だろう、とケアルが眉根を寄せる横で、スキピオは頬をひくつかせた。
「そ……それとこれとでは、話が違う!」
同じことだろう、とライス領主はゆっくりかぶりをふってみせる。
「船上での責任は、まず事件の当事者、それから船長・船団長にあるのではないか?」
言われてことばに詰まったスキピオは、手すりを握りしめしばらく考えた後、
「船の……船の持ち主が責任を問われることもある!」
どうだとばかりに言い放った。
「では、やはりこの男が責任を問われるべきだろう。島の舟は、その島の持ち物。そしてこの男は、島の代表者といえる人物だ」
詭弁《きべん》だ、とスキピオは憎々しげにつぶやいた。
「そちらの希望があれば、この首を引き渡す用意がある」
ロト・ライスが生首の髪をつかみ、ぐいっと差し出したのを目にして、スキピオは悲鳴をあげんばかりにあとずさった。
「そ……そんなものはいらない!」
「ではこちらのほうで、罪を犯した者として葬《ほうむ》るが、よろしいか?」
「勝手にしてくれ!」
叫ぶとスキピオはあと数歩あとずさり、膝を折って嘔吐《おうと》しはじめた。あわてて駆け寄ろうとしたケアルに、舟着き場からロト・ライスが呼びかけてきた。
「――ケアル、無事か?」
足をとめ、振り返る。そして一瞬の逡巡のあと、軽く父親へ向け頭をさげただけで、うずくまるスキピオに駆け寄った。
「だいじょうぶですか?」
甲板に膝をつき、背中に手を当てようとしたところを、いきなり突き飛ばされた。
「さわるなっ!」
金切り声といっていいほど、甲高い神経質な叫び声だった。
呆然と目をみひらきスキピオを見つめるケアルに、彼は穢《けが》らわしいものでも見るような視線を向けた。
「だれか、来てくれ!」
泳ぐように身体を浮かせ、スキピオが呼びかけると、水夫がふたり走り寄ってきた。水夫たちは、一刻でも早くこの場から離れようとでもいうように、および腰でスキピオを引きずりはじめる。
ふと、ケアルは気づいた。
甲板にいる水夫たちのほとんど全員が、ケアルを見て見ぬふりをしている。視線をそらし、顔をそむけ、そのくせケアルが別の方向へ目を向けると、反対側からは水夫たちの視線を感じるのだ。
ゆっくりと立ちあがり、視線をめぐらせると、波をうったように水夫たちが視線をそらしていく。
ざわめきも、囁き交わす声もない。だれもがおし黙り、ただ海鳥だけが不吉な鳴き声をあげている。
ケアルはあの若い水夫をみつけて、そちらへ歩み寄ろうとした。だがそれに気づいた若い水夫は、おびえたようにずるずるとあとずさっていく。
足をとめ、きゅっと唇をひき結ぶとケアルは、甲板の端にもどった。
舟着き場ではロト・ライスが、男たちを背後にしたがえ、悠然と船を見あげている。首はすでに革袋へもどされたのか、どこにも見当たらなかった。
「船団長どのは、どうした?」
笑みさえ浮かべて訊ねてきた父親に、ケアルは先ほどは感じなかった嫌悪感をおぼえて眉をしかめた。
あんなものを持ち出して、そのくせ平然としている父の厚顔さを、恥ずかしいと思った。そんなふうだから、野蛮人と言われてしまうのだ。
「あなたは――――」
喘《あえ》ぐようにケアルが口を開いたとき、頭上から声が響いた。
「船だ! 船がきたぞ!」
おそらく声を聞いた者全員が、またもや襲撃かと思ったにちがいない。しかし続いて帆柱の上から聞こえた声は、こう叫んだ。
「デルマリナ船だ! 三隻……いや、全部で五隻の船団だ!」
ケアルが船をおりたのは、その日の夕刻になってからだった。
突如あらわれた五隻の船に、スキピオは急いで小舟をしたてて使者を出し、話し合いの機会をもった。そこで何が話し合われたのか、ケアルには知らされなかったが、もどってきたスキピオはケアルに、自分たちとともに下船し、公館へ出向くようにと伝えた。
合計八隻の船が、公館から見おろせる海上に停泊している様子は、いっきに海が狭くなったような圧迫感がある。船に滞在し見慣れているケアルでさえそうなのだ。島や上からこの情景を目にした人々が、どれほどの怖れを抱くかは容易に想像できる。
父は――ライス領主はどうするつもりでいるのか。公館へ向かう道すがら、ケアルはそればかりを考えた。
ケアルに同道したのは、スキピオの他、五隻の船の船長たち五人だった。不思議なほど会話がなく、特にスキピオは他の五人の船長たちとは視線を合わせることすら避けているようにみえた。
まだ薄暮《はくぼ》の時間ではあったが、公館はいつかの夜と同じく、客人を歓迎して館中の明かりがともされていた。
ロト・ライスは自ら館の外まで出て、客人たちを迎えた。にこやかに微笑みをつくり、ひとりひとりに挨拶する態度には、余裕さえ感じられる。
ひと通りの挨拶と自己紹介を終え、あちらへどうぞと客人たちを案内しながら、
「おまえは執務室で待っていなさい」
ロト・ライスはさりげなく小声で、息子の耳に囁いた。
一瞬、軽く目をみひらいて父親を見返し、やがてぎこちなくうなずくと、ケアルはスキピオたちからひとり離れ、執務室へ向かったのだった。
執務室には、先客がいた。
「ケアル! ケアル!」
扉を開くなり、金髪の若者が飛びついてきた。ふいをつかれたケアルは、支えきれずに床へ倒れこむ。
「オレすげぇ、心配してたんだぞ。おまえが――殺されてんじゃねぇかって」
胸もとにしがみつき、エリは心底ほっとした様子でケアルの顔をのぞきこんだ。
「ウルバ領主の莫迦野郎が船を襲撃したって聞いたときは、心臓とまると思ったぞ」
「――ウルバ領主?」
「なんだよ。おまえ、知らなかったのか。ウルバ領主がやったんだぜ、あれ」
ちょっと待ってくれとエリの身体を離し、あらためて親友の顔を見なおした。
「ほんとうに、ウルバ領主が?」
「ああ。おかげで朝から、めちゃたいへんでさ。船が来るってんで、オレは島へ帰れなくなったし」
ではやはり父が船を襲撃させたわけではなかったのだと、ケアルはいまだわずかにあった疑念を拭いさることができた。だが、それで心安らかになれたわけではない。
「しかし父上は、襲撃の首謀者だといって男の首をはねて、持参したんだ――」
えっ? とエリは目をみひらいた。
「なんだよ、それ。ウルバ領主だったら、ぴんぴんしてるぜ。謹慎《きんしん》してろとか言われて、部屋ん中に押し込められそうになって、外まで聞こえるぐらいデカい声はりあげて怒鳴ってたもん」
「父上は――島人の男だと言ってた」
目の前でエリの顔からすうっと血の色がひき、続いてみるみるうちに頬が紅潮していった。
「――ちくしょう……っ!」
吐き捨てるようにつぶやき立ちあがったエリは、拳を握りしめケアルを見おろし、なにごとか言いかけた。だが息をひとつ吐きだすと、脱力したかのようにふたたびその場にしゃがみこんだ。
「仕方ねぇよな……。だって、領主さまを罪人ですなんて、引き出せやしねぇもんな」
床に目をおとし、あきらめきった口調でつぶやく。
「だからといって、あんなのは許されることじゃない」
ケアルが低い声で言うと、エリはゆっくり目線をあげた。
「おれは――恥ずかしかった。あんな方法をとった父上が……」
「恥ずかしい、だって?」
訊ねるエリの声には、非難めいた響きがある。ケアルは軽く目をみひらき、共感してくれるに違いないと思っていた親友の顔を見なおした。
「少なくとも、罪もない人間の命を奪って、そのうえ首をはねて差し出すなんて――野蛮人のすることだ」
「おまえ本気でそう思ってんの?」
幾度かまばたいた後、ケアルはうなずいた。
「エリだって――そう思わないか?」
「オレは思わねぇよ。ケアルの親父さんがああいうことしてくれたおかげで、おまえが無事だったんだもん」
どういう意味だ? とケアルはかすかに眉をしかめる。
「親父さんの立場じゃ、絶対にウルバ領主を突き出すなんてできっこねぇだろ。でもヘタなことすりゃ、船に乗ってるおまえがどんなめにあわされるかわかんねぇ。一発びびらせとくって意味じゃ、それってどえらく効果的だったんじゃねぇの」
ケアルには、父が息子の身の安全を思ってしたことだとは思えなかった。父があれをエリが言うように脅《おど》しと考えたとすれば、息子の安全をではなく、後の交渉を念頭においてのことだったに違いない。
「けれどおれには、あれが脅しになったとは思えないんだ」
そうケアルが言うと、こんどはエリが「どういう意味だ?」といわんばかりに眉をしかめた。
「父上のしたことは、デルマリナの人々には理解のおよばない、野蛮な行為としか映らなかった。船の襲撃に関してはあれでカタがついたかもしれないけど、我々とデルマリナの人々の間に深くて大きな溝をつくってしまったんだと思う」
ゆっくりと立ちあがったケアルを視線で追いかけ、エリもまた立ちあがった。
「まさか、そんなこたねぇだろ」
「いや、そうじゃない。これまでデルマリナの人々にとって我々は、単なる辺境の住民でしかなかったんだ」
ただし、巨大な船をつくる技術もあやつる技術もないと、こちらを見下していた感はあったかもしれない、と付け加える。
「けれど今回のことで、変わってしまったんだとおれは思う。ほら、島のみんながデルマリナの船をすごく恐れてるだろ。昔、水を分けるのを断ったために島ひとつ、皆殺しにされてしまった、っていう噂を信じこんで。あれと同じ状況になったんだよ」
書き物机の前に立ち、数歩おくれてついてきたエリを振り返った。
「恐れてる、ってのか?」
「うん。人間って、見たことないものや理解できないものを恐れるよね。デルマリナの人々にとって――少なくともあの船にいた人々にとって、父上のやったことは信じがたい、理解できないことだったんだ」
そう言いながらケアルは、あのときのスキピオの反応や、水夫たちの目を思い出す。もしあれが父ではなかったら、あるいはかれらの反応も違っていたかもしれない。
ロト・ライスはかれらにとって、こちら側の代表者なのだ。それも交渉相手としての代表者というだけでなく、五領に住む人々がどんな考えかたをし行動をとるかの、指標となる人物なのだ。だからロト・ライスが罪人の首をはね、その生首を持参するのが当然のように振舞った以上、かれらは五領の人々すべてもまた同じだと思うことだろう。デルマリナの人々にとって野蛮だと思える行為が、ここでは野蛮でもなんでもない常識なのだ、と考えてしまっても不思議はない。
「――これから、どうなるんだろ」
しばらくの沈黙のあと、エリが長いため息を吐きだしながらつぶやいた。自分に問いかけられたわけではないとわかっているケアルは、かすかにうなずき、父がスキピオたちを案内しただろう大広間のある方向へ視線をやる。
異邦の客人たちの到着にざわついていた館内もいまは静まりかえり、固唾を飲んで会談の終了を待っているかのようだ。一歩館の外に出れば、薄闇の中、合計八隻の巨大な船が帆柱や甲板に明かりを掲げてその威容を見せつけている。
「息苦しいな……」
ケアルは衿もとを寛げると、書き物机のうしろにある窓を開け放った。
* * *
会談が終了し、ロト・ライスが執務室へやってきたのは、夜もかなり更けてからのことだった。
執務室へ入るなり家令を呼んで酒を持ってこさせたライス領主は、喉を鳴らして杯の酒を飲みほし、深く息をついて、息子とその友人の顔を交互にながめた。
目の下にうっすらとくまをつくり、やつれた様子のロト・ライスの顔は、いつもよりずっと老けて見える。よほど会談が難航したのだろう、とケアルは思った。
「あ。オレ、どっか行ってるな」
ライス領主の顔とケアルの顔を見比べて、エリが部屋の外を指さし申し出た。だがロト・ライスは軽く手をあげ、
「いや、きみにも話を聞いてもらうよ」
ここにいなさい、と命じた。
だが実際にロト・ライスが話を始めたのは、杯の酒をもうあと二度ほど干してからだった。
「――船は明後日の朝、デルマリナに向けて出航することになった」
いきなりの話の展開に、ケアルはエリと互いに顔を見合わせた。
「どうして……?」
「おまえが彼を通して、手紙をよこしてくれただろう。デルマリナでは船は共有財産ではなく、船主個人の持ちものだと」
[#挿絵(img/KazenoKEARU_01_225.jpg)入る]
ケアルの問いに、父親は微苦笑を浮かべてこたえた。
「スキピオにしろ、他の五人の船長にしろ、それぞれ船主に雇われ船の運行を指揮しているだけだ。ある程度の権限は委譲されているが、いざというときの決定権はない」
そのうえ、とロト・ライスはあきれたそぶりで肩をすくめてみせる。
「先にやってきた三隻と、あとからきた五隻とでは、船主が異なるのだ。かれらにしてみれば遠い異邦の地で、互いにはちあわせすることになるとは、思ってもみなかったんだろうな」
「牽制しあっているわけですか?」
そうだ、とうなずきが返ってきた。
「自分たちではどう対応していいのかわからず、船主の意向を確かめにもどるそうだ。帰ってまた戻るのに、半年はかかるだろう」
言ってロト・ライスは、勝利者の笑みを浮かべ、手にした杯を掲げてみせた。しかしケアルは父に笑い返す気にはとてもならず、しばらくためらった後、
「父上――かれらは何を望んでいるんですか?」
ケアルの問いに、父の充血した目がぎょろりと動いた。
「――西の鉱山だ」
ライス領の西にある鉱山からは、翼の骨組みの材料となる鉱石がとれる。軽くて丈夫なそれは、職人たちに言わせれば、翼の骨とするには最上のものであるらしい。
またその鉱石は、ライス領ばかりではなく他領の鉱山からも産出する。だがライス領産のものが最も良質であるとは、これもまた職人たちのよく言うことであった。
「あんなもん、なんで……?」
きょとんとしてエリが、ケアルを振り返り訊ねた。
「さあ。たぶん、デルマリナにはないものなんじゃないのかな」
ケアルが応えたのへ、ロト・ライスが同意しうなずいてみせる。
「何年か前に、デルマリナの船が小舟に乗って漂流するひとりの漁師を拾ったそうだ。水も食料もなく、漁師が持っていたのは網を修理したり魚をさばいたりするのに使う小型のナイフひとつだけだった――」
漁師が使うナイフはたいてい、かの鉱山から産出した鉱石で作られる。というのも、その鉱石が海水で錆《さ》びることが少ないからだ。また、海中に落としたナイフが数年経ってから、腐蝕《ふしょく》も錆びもない新品同様のまま網にかかって引き揚げられたこともある。
「ってことは、ナイフを欲しがってるってことなのか?」
首をひねったエリに、ロト・ライスは小さく笑いをもらし、
「ナイフばかりとは限らないだろう」
「えっ。だってさ、デルマリナじゃ翼は作ってねぇんだろ。だったら――」
「ちなみに私は、ペン軸として使っているよ」
からかうような口調のロト・ライスに、エリは唇を尖らせた。
「わざわざデルマリナくんだりから、ペン軸の材料なんか欲しがって来るかよ」
苦笑するロト・ライスに、エリが舌打ちしてみせる。ぽんぽんと会話を交わすふたりに口をはさむこともできず、ケアルはあっけにとられてエリの寛《くつろ》いだ横顔を見つめた。
息子の自分でさえ、父にこんな口のききかたはできない。家令たちなど、主人の前に出ただけで畏まって顔さえあげられない者もいるのだ。だのにエリは、いつの間にここまで父と親しくなったのだろう。
「要するに、あれを使ってなんか作りたいもんがあるわけだな」
エリに同意をもとめる視線を向けられ、あわててうなずいた。
「ああ、うん。たぶんね」
「おいケアル、大丈夫か? おまえ、疲れてんじゃねぇか?」
そんなことないよと笑ってみせようとしたが、父に対すると同じような口調で話しかけてくるエリに向かって、うまく笑うことはできなかった。
「んー、熱はねぇみたいだな……」
心配そうにのぞきこんだエリが、ケアルの額に手を当てる。ケアルが目を合わせられずに視線をそらすと、エリはそれを体調の悪さを隠そうとしての仕草と思ったのか、抱えこむようにしてケアルの腕をつかんだ。そしてロト・ライスを振り返り、
「こいつずっと船に乗ってて、疲れてんだ。話がそんだけなら、こいつ寝かせるから」
相手が領主だとは思っていないような口調でそう言い、踵をかえそうとする。
「いや、話はまだ終わっていないよ」
だがロト・ライスは、軽く手をあげそれをおしとどめた。
だったら早くしろよと睨むエリの前で、ライス領主は表情をひきしめ、背中をのばしてふたりを見おろした。はっとしてケアルは姿勢をただし、エリにおまえもちゃんとしろと合図を送る。
ふたりがぴんと背をのばしたところで、ライス領主はおもむろに口を開いた。
「――おまえたちふたりに、ライス領主として命じる。明後日、出航する船に同乗し、デルマリナへ赴くのだ」
驚いて声も出ないふたりを満足げにながめ、ライス領主は、
「命令の撤回はない。また、辞退は許さない――以上だ」
そう言い放ち、さがってよろしいと手を振って合図した。
執務室を出たケアルは、黙りこくって歩くエリの背中を、数歩離れ追いかけた。途中なんどか呼びかけたが、立ちどまるどころか振り返りさえもしなかった。
やっと足を止めてくれたのは、館に入って正面の、中庭に続く回廊でだった。
中庭のあちこちに掲げられた明かりが風に揺れ、回廊に落ちた植物の影が踊っているようにみえる。明かりに使われる油の匂いに混じって、かすかに果実の甘酸っぱい香りが回廊まで漂ってきていた。
「ケアル――おまえ、行く?」
背中を向けたままエリが訊ねてきた。
どこへとは問わない。もちろん、デルマリナへだ。エリのあとを追いかけながら、ケアルはそればかり考えていた。
だがケアルの中には、行くよと即答できない迷いがある。
「エリ、おまえは?」
ずるいと思いつつ、ケアルは逆に問い返した。エリはそんなケアルの思惑などには気づかず、背を向けたまま、
「オレさ、すげぇ親不孝なこと考えてる」
「親不孝……?」
「デルマリナに行きてぇんだ。でも、母ちゃん残して行くなんて、できねぇよ。できねぇはずなのに――やっぱり行きたくて行きたくて仕方ねぇんだよ」
ゆっくりと振り返ったエリは、いまにも泣き出しそうな顔をしている。
「たとえ母ちゃん泣かしても、行きたいって思ってんだ」
「エリ…………」
「あのさ。父ちゃんが死んだとき、オレまだガキだったけど――これだけは覚えてんだ。オレの手を最後にこう、握ってさ」
胸の高さに手をあげ、エリは包みこむように己が手を握りしめた。
「帰りたい、って言ったんだ――」
そこできゅっと唇をかみ、目を伏せた。
「オレずっと、そのこと誰にも言えなくてさ。ガキだったけど、母ちゃんには絶対に言っちゃだめだって思ってた」
ケアルは俯いたエリにそっと近づくと、島育ちにしては華奢《きゃしゃ》な肩に手を置いた。
「言えなくて、苦しかっただろう?」
金髪の頭が小さな子供のように、こっくりうなずく。
「おれも――行ってみたいと思ってたよ。デルマリナへ、とは考えたことはなかったけど。翼で空へ飛びあがるたびに、どこか遠くへ、このまま飛べる限り飛んで行きたいって、よく思った」
でも、とケアルは苦笑する。
「そう考えることは、いけないことだと自分に言い聞かせてた。おれの心が弱いから、そんなこと考えるんだろう、って」
だから、だれにも言えなかった。
ひとはだれも、生まれた土地で生活し一生を終える。島で生まれた者は、島で。上で生まれた者は上で。ただ女は、よその土地の男に嫁ぐこともあるが、それも領主につながる一族の女だけだった。
母は、島から離され領主の愛妾《あいしょう》として一生を終えたが――彼女の生涯はどこを切り取っても不幸であったとケアルは思う。その思いがますます、生まれ育った地を離れることは「いけないこと」であると、ケアルの心を縛った。
たとえ領主一族の女であろうと、だれも生まれた地を離れたいと言う者はいない。遠くへ行きたいと望む者もいない。ひとが生まれ育った地で一生を終えるのは当然のことなのだから。
だのになぜおれは、飛べる限り飛んでいきたいなどと思うのか。水平線のむこうに何があるのか見てみたいと思うのか。胸に禁忌をくすぶらせながら、それでも――。
「それでも、行きたいと思ってたんだ」
己が身をふりしぼるようにして、ケアルは告白した。聞いた者はただひとり、親友のエリだけだったが、ケアルにとっては領民すべてに声をはりあげ伝えるほどの勇気と覚悟が必要だった。
いつの間にかエリは顔をあげ、まじまじと親友の顔をのぞきこんでいた。
「オレ、おまえがそんなこと考えてたなんて知らなかった」
その声にも表情にも、ケアルを責《せ》めるような色合いはない。あるのは驚きと、そして密《ひそ》やかな共感。
「うん。おれも、エリがずっと言えないでいたなんて知らなかった」
目を合わせ、ふたりして苦笑した。
ふたりは連れだって中庭に出ると、石づくりの椅子に腰をおろした。疲れているはずなのに、目がさえて少しも眠くはない。
隣に座ったエリが、ふいにごろんと仰向けに寝ころがると、
「なぁケアル、デルマリナってどんなとこだと思う?」
夜空を見あげながら、訊ねてきた。
「わからないよ、行ってみなければ」
「そうだよなぁ……。でもさ、あんなデカい船つくれるんだから、すげぇとこなんだろうなぁ」
夢みるようにつぶやくエリを、ケアルはためらいがちに見おろした。確かにデルマリナはすごいところだろう、とは思う。だがケアルにはエリのように屈託なく、デルマリナを「すごい」と口に出すことはできなかった。
おそらくエリの言う「すごい」とはつまり、デルマリナへの憧れや彼の抱く期待の大きさをしめしたものだろう。しかしケアルは、夢だの憧れだのばかりを語るには、親友よりも多くのことを知りすぎていた。
いまさらながらに、父から譲られたライス家の紋章入り翼の価値の重さを、そこに託されたライス領主としての父の期待の大きさを思わずにいられない。明後日、憧れと期待に胸おどらせて乗船するエリの横で、自分は命を賭《と》する覚悟で出航を待つのだろう。
だが今それを口にすることは、親友の思いに水をさすような気がして、ケアルは黙ってエリが見あげる夜空へ視線をやった。
冴々と輝く星を見つめるうちに、ケアルは体をぶるっと震わせた。
「――寒いのか?」
訊ねられ、苦笑してかぶりをふる。
この震えが武者震いなのか、あるいは未知なるものへの怯えなのか、ケアル自身わからなかった。
[#改丁]
あとがき
はじめまして、三浦真奈美と申します。
初めての新書判、初めての出版社、初めてのカタカナ・キャラのストーリーということで、ワタクシ的にはとっても「はじめまして」の気分なんですが、手に取ってくださった方の中には「どこがはじめましてやねん」と、ドツキ倒したい気分の読者さまもいらっしゃるかもしれませんね。その節には、どうか寛大な心でお許しくださいませ。
なにかで読んだことがあるんですが、ひとは誰でも「原風景」を持っているらしいです。リラックスして目を閉じて、ふと浮かぶ風景。見たことも行ったこともないはずなのに、なんだかとても懐かしい風景。それが「原風景」だとか。
三浦の場合それは「鳥になって下界を見おろす」風景だと確信しています。飛行機など乗ったこともない、東京タワーにも登ったことがない幼い頃から、私は五百メートルぐらいの高さから見おろす地上の風景(それも移動している)を何度も頭の中や夢の中で見ていました。特に、陸から海へ海から陸へ移動する上空からの風景は鮮烈で、もしこの映像が前世に見たものだというなら、私はきっと海鳥だったのでしょう。いや単に、想像力旺盛なガキだっただけなのかもしれませんが。
しかしこんな「原風景」を持ちながら、どういうわけか私は母親譲りの高所恐怖症だったりします。知人に、ハンググライダーの経験があるんじゃないかと問われたこともありますが、とんでもない。ハンググライダーどころか、ロープウェイに乗っても足がすくむし、東京タワー展望台の床がガラスになっていて下が見える箇所などには死んでも近づけません。以前友人と名古屋のテレビ塔の外階段に挑戦したときなど、十段ものぼれずに挫折しました。前世はきっと、墜落死した海鳥ですね……合掌。
そんなわけで、このストーリーは私の「原風景」からうまれました。五百メートルの高さから地上を見つめる人間が、どんな世界観をもち、どんなふうに人生を見ることができるのか。簡単に言ってしまえば、そういうお話です。
本文をお読みになった読者さまは、すでお気づきかと思いますが、このお話はまだ終わっていません。三巻完結の予定……でいるんですが、世の中には「予定は未定」なんていう便利な言葉もあるしなっ。
とりあえず次巻は、十九歳コンビがデルマリナに到着します。究極の田舎者ふたり、大都会で右往左往するのは目に見えてますね。ケアルなどは、おれって田舎もんだしーと落ち込みそうですが、エリはきっとどこに行ってもエリなんだろうなぁ。
そういえば、イラストを担当してくださったきがわ琳さんは、キャラクターのラフを編集部にFAX送付したとき、エリの絵の横に「パープルアイズ希望」としたためてくださいました。希望、即決。だから、今回エリのカラー絵はありませんが、彼の目はパープルです。なんて神秘的、すてきっ。でも、豹に変身したりしないでね、エリ。
ちなみにケアルは、赤毛にグリーンアイズのクリスマス・カラー。めでたいよーな、でも時期はずすととってもおマヌケのよーな……。彼らしいなと、作者は思っています。
二巻目はたぶん、五月ごろ出るんでしょうか? 出るといいなー。出るように、どうか祈っててください。私も祈ります……って祈ってないで書けよ、おまえはっ。
それでは。次は、二巻でお会いしましょう。
[#地付き]三浦 真奈美
[#改ページ]
底本:「風のケアル1 暁を告げる鐘」C★NOVELS、中央公論社
1998(平成10)年3月15日初版印刷
1998(平成10)年3月25日初版発行
入力:
校正:
2008年4月3日作成