三浦哲郎
愛しい女
吊橋《つりばし》
高子の太腿《ふともも》に耳を当てると、ごうごうと川の流れのような音がきこえた。
最初は、耳たぶが浴衣《ゆかた》にすれる音かと思ったが、そうではない。耳をちっとも動かさなくても、依然としてその音がきこえる。
まるで妻の躯《からだ》のなかを川が流れているみたいだ、それも谷川みたいな急な流れだ、と目を閉じたまま清里浩三《きよさとこうぞう》は思った。
「ちょっと、ごめんなさい」
耳の下で高子の太腿が動いた。重そうなので、清里はちょっと頭を持ち上げてやった。
「はい、もういいの。どうぞ」
また耳に、妻の川音が戻ってきた。
「どうしたんだ」
「ちょっと、脚がね」
「しびれたのか」
「近頃、こうして膝《ひざ》を折って坐ることなんか、めったにないから。それに、あなたの頭もなんだか前より重たくなったみたいよ」
「重たかったら、よそうか」
「いいのよ。このまま、じっとしていて」
高子は、両手で軽く頭を抑えつけるようにしている。清里は、思わず笑った。
「逃げやしないよ」
「本当? 動いちゃ駄目よ」
「わかってるよ」
「動いたら、痛い思いをするんだから」
高子は、そういってから、急いで、
「痛いときはそういってね、なるべく痛くないようにするけど」
といい足した。
「いちど痛くしたら、それまでだよ」
「いいわ。ただし、痛くないのに痛いなんていったら厭《いや》よ」
「そんなずるはしない」
「それに、あなたが動いて痛かったときは、ノーカウントね」
おかしな女だな、と清里は、自分の妻のことをそう思った。高子は、家族で旅行に出ると、どういうものか、きまってみんなの耳垢《みみあか》を取りたがる。旅の宿にくつろぐと、さっそく旅行|鞄《かばん》から耳掻《みみか》きを取り出して、さあ、いらっしゃい――まず、子供たち、九つになる長女の夏子、七つになる長男の一也、四つになる次男の武志という順に取ってやって、それからこちらの番になる。高子は、いそいそと取り掛かり、じっくりと取りつづける、まるで家族旅行の醍醐味《だいごみ》はこういうところにあるのだと思い込んでいるかのように。
どうして妻が旅先でそんなに家族の耳垢を取りたがるのか、清里にはわからない。よその妻たちも、こうだろうか。
宿の浴衣を通して伝わってくる妻の躯のぬくもりで、清里の頬が熱くなってきた。妻の躯がこんなに音を立てて騒いでいるのは、ここの温泉に漬かりすぎたせいかもしれない。
目をつむったまま、そんなことをぼんやり考えていると、高子が不意に、
「あ、みつけた」
といった。
その子供じみた嬉しげな声を聞くと、清里は笑い出さずにはいられなくなる。
「大きいのか」
「耳垢じゃないの」
「じゃ、なんだ」
「白髪《しらが》。もみ上げのところに、一本、二本、三本……」
と高子は数えて、くすっと笑った。
「全部で五本あるわ」
「五本? 五本や六本じゃ、きかないだろう」
「あら、知ってたの?」
「毎朝、鏡の前で髭《ひげ》を剃《そ》るからな、厭でも目につくさ。右と左で、二十本近くある」
「そんなに?」
「指で掻き分けて探せばの話だ。まだ短いから、ほとんど目立たない」
「そうよ、私だって気がつかなかったもの」
高子は、耳の方はそっちのけにして、指先でもみ上げを撫《な》ぜている。
「いつから生えてたのかしら」
「さあね。気がついたときには、もう何本も生えてたから」
「それを、私に隠してたのね?」
「べつに隠していたわけじゃないよ。白髪のことまで報告するのか、奥さん、とうとう生えましたって」
高子は、またくすっと笑って、呟《つぶや》くように、
「あなたのことは、なんでも知っておきたいから」
といった。
清里は、黙っていた。朽ちかけた軒端から西日が洩れてくるらしく、目をつむっていても瞼《まぶた》が明るい。
「はい、こっちはもういいわ。今度は反対側」
太腿の上で寝返りを打つと、柔らかな腹に鼻が埋まった。湯の花の匂いがする。妻の肌が匂うのか、浴衣が匂うのか、わからない。
「あら、ほんとだわ。こっちの方が多いくらい」
高子は、ちょっと耳を覗《のぞ》いただけで、すぐ、白髪のことをそういった。
「すこし早いんじゃないかしら」
「そんなことはないよ。もう四十だもの」
「まだ三十八」
と、高子は子供を叱るときの口調でいった。
「三十八も四十も、似たようなもんさ」
「ちがうわ。大ちがいよ。どうしてそんなに早く齢をとりたがるの?」
こちらとしても、べつに早く齢をとりたいわけではないのだが、と清里は思ったが、面倒なので黙っていると、
「でもね、私、正直いうと、ほっとしてるの」
と、笑いを含んだ声で高子がいった。
「僕に白髪が生えたからか」
「そう。私の方が先になったら、どうしようと思ってたから」
「白髪の話はもういいよ。耳の方はどうなってるんだ? 耳掻きがさっぱり働かないじゃないか」
「そうなの。耳垢がないのよ、珍しく」
「なかったら、もう、やめにしてくれよ」
「ちょっと待って」
と、高子は持ち上げようとした清里の頭を抑えて、
「これからどこかへいくの?」
「岩魚《いわな》を釣りにね。ここのおやじさんが案内してくれるんだって。一也は?」
「母屋《おもや》の庭にいるんじゃないかしら、三人で。鯉にやるんだってビスケットを持ってったから」
それから、不意に高子は、
「怪しいぞ」
と清里の肩をゆさぶった。
「怪しい? なにが?」
「耳がこんなに綺麗《きれい》だなんて」
首をねじって見上げると、高子はちょっと頬をふくらませて睨《にら》んでいる。清里は笑い出した。
「おかしなことをいうんだな。耳垢がないと怪しいのか」
「だって、いつもはたくさんあるのに。いつだって、びっくりするようなやつを取ってあげるじゃない。ところが、きょうは全然ないのよ、どっちの耳にも。粉もないの」
「なかったら、ないで、いいじゃないか。そんなこともあるんだよ、人間の躯には」
すると、高子は、
「ま、とぼけてる」
と地団駄を踏むように腿をゆさぶって、
「やい、白状しろ」
「なにを?」
「ここへくる前に、誰かに取って貰ったんでしょう。耳を綺麗にしてくれる人が、どこかにいるんだわ、きっと」
馬鹿な、と清里がいう前に、高子は素早く両手で彼の目と口を覆ってしまった。
「顔をみちゃあ、駄目。なんにもいわなくていいの」
わざわざ顔をみなくても、清里には最初から妻が冗談をいっているのだとわかっていた。もし本気で疑っていたら、こんなふうに口に出したりはしないだろう。
そのまま黙っていると、遠くから子供の叫び声がきこえる。それが、長男の一也の声に似ていた。東京ではなんとなく手足を縮めるようにして暮らしている一也が、谷間に谺《こだま》でも呼ぶつもりなのか、思い切り大きな声でなにか叫んでいる。
軒端から洩れてくる日が、高子の手の甲まで伸びているらしく、目を覆っている指の輪郭が、綺麗な桃色にみえた。
「……おい」
と、清里は塞《ふさ》がれた口でいってみたが、高子は返事をしない。それで、口を覆っている手のひらにちょっと歯を立ててやったとき、突然、部屋の外の廊下の下の方から、
「お父さん……お父さん、早く」
という一也の甲高い声がきこえてきた。
「あァあ、お迎えがきちゃった」
高子は、やっと諦《あきら》めたように手を離した。
「お父さん、早くったら……」
せっかちな一也は、焦《じ》れている。
清里は、はずみをつけて立ち上ると、浴衣の帯をほどきながら前の廊下へ出ていった。すると、一也は階下の庭先にしゃがんで、肩で激しく喘《あえ》ぎながらこっちを見上げていた。その顔が、まるで水を浴びたような汗であった。清里はちょっとびっくりした。
「そんなに汗をかいて。どこから駈けてきたんだ。お姉ちゃんや武志は?」
そういいながら、太い手すりに掛けて置いたタオルを丸め、
「ほら、抛《ほう》るぞ」
けれども、一也はしゃがんだまま、受け取る姿勢もとらずに、
「そんなの、要らない。早く、いってよ」
と喘ぎながらいった。
きてよ、というのならわかるが、いってよ、というのが、おかしかった。
「いくって、どこへ?」
「吊橋へだよ」
そういった口がみるみる平べったくなったかと思うと、一也は声を放って泣き出した。
不吉な影のようなものが、清里の胸をかすめて過ぎた。吊橋というのは、この温泉宿の前を通っている古い街道の庚申塚《こうしんづか》のところから脇道へそれて、だらだら坂を二百メートルほど下ったところにある、高くて長い吊橋のことだ。
去年の春、若いカメラマンを連れて初めてこの村を訪ねたとき、清里はいちどこの吊橋を独りで渡ろうとして、渡れなかった。歩いているうちに、足元が次第に大きく波打ってきて、まんなかあたりで立ち竦《すく》んでしまった。
そのとき、覗くまいとして、つい覗いてしまった谷底に白く泡立《あわだ》っていた急流が、いま清里の目の下を流れて、そこにうずくまっている一也を忽《たちま》ち呑み込んだ。
「吊橋へ? どうして吊橋へいくんだ?」
一也は、しゃくり上げながらなにか言おうとしたが、平べったくなった口がいうことをきかない。いちど飛び過ぎた影のようなものが、また清里の胸に戻ってきた。
夏子や武志が一緒でないのは、どういうわけか。
「おい、高子、吊橋でなにかあったらしいぞ」
清里は、急いで部屋へ戻った。けれども、高子は部屋にはいなかった。こんなときに、どこへいったのだろう。
「おい、高子、どこだ?……」
つい、自分の家だと錯覚して、大きな声で呼びながら手早くジーンズを穿《は》いていると、
「あなた、ここよ、こっち」
と、思いがけなく、一也がいる庭の方から高子の声がきこえてきた。
清里は、まだ脱がずにいた浴衣の裾をひるがえして、また手すりのところへ出ていった。高子は、一也の手を引いて、急いで庭から出ていくところだった。一也は腕を長く伸ばして、前へつんのめりそうになっていた。
「あなた、早く吊橋へ……」
「うん、どうしたんだって?」
「武志が、橋の途中で動けなくなってるらしいの」
「なに、武志が?」
と、清里は驚いて目を瞠《みは》った。
「そうなの。夏子が、落ちないように見張ってるんですって、橋のたもとで」
「落ちないようにって……」
清里は、足元が急に波打ったような気がして、思わず手すりに掴《つか》まった。
大人の自分でさえ、途中で立ち竦んでしまった吊橋である。あの揺れ方では、四つの子供など、簡単に目を廻してしまうだろう。目を廻すどころか、振り落とされてしまうかもしれない。それを九つの子供が橋のたもとで見張っていたって、なんにもならない。
「なんてことを……。武志だけが吊橋を渡ったのか」
「そうらしいの。夏子もこの子も気がついたときには、もう大分むこうまでいってたんですって、独りで」
清里は、部屋へ駈け込むようにして浴衣を脱ぎ捨てると、裸の頭に長袖のTシャツをかぶりながら部屋を出た。そのまま階段を駈け降りていって、玄関の土間で運動靴を履いていると、帳場から宿の主人が出てきて、
「そんな靴じゃいけんね、山は」
といった。
「いや、吊橋なんだ。ごめんなさい」
清里は早口でそういうと、主人の顔もみずに外へ走り出た。
朽木の門を出て、すぐのところで、一也の手を引きながら浴衣の裾を乱して急いでいる高子に追いついた。
「先にいってください。急いで」
「そうする。一也、おいで」
一也はもう泣きやんでいたが、母親に似て色白の顔が、汗と涙と埃《ほこり》でまだらに汚れていた。その顔を走りながら突き放すようにみて、
「どうして吊橋の方までいったんだ。危いから近づいちゃいけないっていったろう?」
いまさら、そんなことをいったところで仕方がないことはわかっていたが、清里は、そういわずにはいられなかった。吊橋のことは、ここに着いた晩に野天風呂でそういい聞かせたはずだったが、子供たちは、もうすっかり上《うわ》の空になっていたのだ。
「だって、お姉ちゃんがね」
と、一也が遅れまいとして息を切らしながらいった。
「夏子が、いこうといったのか」
「ちがう。よそのお姉ちゃんたちがね、一緒に花を摘みましょうって、そういったから」
それで、三人はなんとなくその若い女たちと一緒に歩いているうちに、いつのまにか吊橋のたもとまできてしまったのだろう。
こんなところで路傍の花を摘んだりするのは、都会からきた客にきまっている。はしゃぐのはいいが、余計なことをしてくれては困る。清里は、その女たちに腹を立てた。
「武志は? 吊橋の上でどうしてる?」
「坐ってる」
「坐ってる? お尻を突いて?」
「そう。脚をひらいて」
清里は、いくらかほっとした。そんな坐り方をしているのなら、揺れに振り落とされることは、まずないだろう。武志は、歩けなくなって、自分から坐り込んでしまったのだ。それが、かえってよかった。そう思っていると、
「お姉ちゃんがね、そうしなさいっていったから」
と一也がいった。
「その、よそのお姉ちゃんが?」
「うちのお姉ちゃんが」
そうか、夏子は適切な注意をしてくれたわけだ、と清里は思い、それにしても、一緒だったという若い女たちはどうしたのかと思った。幼い子が途中で立ち往生しているのに、助けてくれようともしなかったのか。
けれども、清里はもうひどい息切れで物がいえなくなっていた。庚申塚から脇道へ入ると、あとは下りで、加速度がついた一也にみるみる引き離された。
「おい……ちょっと待て」
清里は、辛うじてそういうと、のけぞるようにして走るのをやめた。心臓が胸いっぱいに躍っている。こんなところで、こっちが倒れてしまったら、みっともない。彼は拳《こぶし》で胸を叩きながらそう思った。
「どうしたの? もうすぐだよ」
わかっている、と彼は頷《うなず》いてみせながら、口のなかのねばっこい唾を集めて、目をきつくつむって飲み込んだ。
「おまえ、先にいって、武志がまだ吊橋の上にいるかどうか、みてくれ」
合点、と走り出す一也を、おい、待てと呼び止めて、
「武志がいたら、手を振りながら戻っておいで」
それだけいうと、坂の途中にうずくまってしまった。
なんてざまだ、と清里は自分を情けなく思った。たったこれだけの駈け足で、へこたれるなんて。いつのまに、こんなに躯がなまってしまったのか。
清里は、婦人雑誌『月刊女性』の編集部で読物担当のデスクをしている。普段は走ることはおろか、急ぎ足で歩くことも滅多にしない。
坂を駈け降りていった一也が、ゆるい曲り角のところで立ち止まると、そこから吊橋がみえるのだろう、こちらを振り向いて手を振った。武志はまだ吊橋の上にいるのだ。
「……よかった」
と清里は呟いて、立ち上った。つづけて独り言が出た。
「そうだろう。滅多に落ちやしないんだよ」
けれども、ついさっきまでは、ひょっとしたらもう間に合わないのではないかと彼は思っていたのだ。
歩き出すと、下りだからひとりでに小走りになる。足が軽くなっていた。
「前みたいに、坐ってるか?」
「うん、坐ってるよ。でもね、吊橋が揺れてる」
どうしたのだろう。武志が坐っているのなら、橋は揺れないはずなのに。そう思いながら、一也が立っているところまで駈け降りていってみると、なるほど、坂の下から谷間へ伸びている吊橋のたもとに夏子がひょろりと立っていて、そこから十五メートルばかりの橋の上に、武志が両脚をひろげて坐り込んでいるのがちいさくみえ、その橋のどこかが軋《きし》んでいるのが、なにか小鳥の鳴き声のようにきこえていた。
橋がなぜ揺れているのかは、すぐにはわからなかったが、武志をみると、清里は不思議に気持が静まった。
「よし、ゆっくりいこう。走っちゃいけない」
彼は、一也の背中に手のひらを当てて、ゆっくり坂の残りを下りはじめた。
「お父さんがあわてて駈けつけたりすると、お姉ちゃんや武志もあわてるからな。武志は立ち上って駈けてくるかもしれない。足がもつれたり、転んだりしたら、もうそれまでだ。だから、ゆっくりいかなくっちゃ、なんでもなさそうな顔をして……」
半分は自分にいい聞かせるように、そういいながら、ゆっくり坂を下っているうちに、橋の上の武志のむこう、こちら岸から三分の二ほどのところで、女が二人、立ってみたり、しゃがんでみたりしているのに、清里は気づいた。
橋が揺れているのは、その女たちのせいらしい。
「あれは? あの橋のずっとむこうにいる人たちは?」
「ほら、さっきまで一緒だったお姉ちゃんたち。先に渡ってったけど、戻ってこれなくなっちゃったの」
清里は、思わず舌うちした。すると、それがきこえたかのように夏子が振り向いて、
「あ、お父さん」
といった。
清里は、急いで、いけないと手を振ったが、すでに武志も気がついていて、案の定、両手を橋板に突いて立ち上ろうとした。
「武志、立っちゃいけない。そのまま、じっとしてて。もう大丈夫だよ。お父さんがきたから、もう大丈夫だよ」
清里は、大声でそういったが、やはり坂を下ると、つい小走りになった。
武志は、橋のたもとに立った父親をみると、ほっとした拍子に、大べそをかいた。すると、すぐに夏子が、
「泣かないで。泣いたら、知らないわよ」
と母親の口調を真似ていった。
夏子は、父親がくるまで、絶えずそんなことをいって弟を励ましていたのだろう。
「そうだ、泣いたりしちゃいけない。いま、お父さんがそこへいくからね。それまで、そこでじっとしてるんだ。いいね?」
清里は、武志にそう念を押してから、
「おーい、そこの女の人」
と、橋の上の二人連れに声をかけた。
「ちょっと、じっとしててくれませんか。橋を揺らさないで……子供が動けなくなってるんだ」
二人連れは、顔をこちらに向けてしゃがんだまま、動かなくなった。揺れが、だんだんおさまってきた。
「……よし」
清里は、ゆっくり橋を渡っていった。武志は顔を歪《ゆが》めて、小刻みにしゃくり上げている。
「ほうら、もう大丈夫だ。よく我慢したな。偉いぞ」
清里は、武志の前に背中を向けてしゃがむと、両手をうしろへ廻して武志の躯を掴まえた。
「さあ、そっと立って。お父さんにおんぶして」
清里は、武志を背負うと、またゆっくりと橋のたもとへ引き返した。そのときになって、やっと高子が坂を駈け降りてきた。夏子が、迎えにそっちへ駈けていく。
「……ああ、よかった。馬鹿だよ、武志は」
と一也がいったが、清里は黙って武志を地面に下ろした。途端に、武志は泣き出した。それでも清里は、黙って、泣きじゃくる武志を見下ろしていた。
高子が駈け寄ってきた。
「よしよし、もう泣くことないでしょう。よく頑張ったわね。よかった、よかった」
高子は、武志を抱き上げると、踊るように踵《かかと》をかわるがわるうしろへ跳ね上げながら、くるくると廻った。
また吊橋が軋みはじめた。そのちいちいという小鳥の声に似た音で、清里は我に返った。
「どうも有難う」
橋の上に立ち上っている二人連れに、そういって手を振ると、
「すみませーん」
という声が返ってきた。
「あたしたちも、歩けないんですう、目が廻りそうで。助けてくださあい」
清里は、振り向いて高子と顔を見合わせた。
「あの連中に誘われて、こんなところまできちゃったんだよ、この子たちは」
「まあ……でも、困ってるらしいわ。助けてあげたら?」
「助けるったって、僕はヘリコプターじゃない」
それでも、清里は両手で口を囲うと、
「一人ずつ、そろそろと歩いていらっしゃい。二人一緒だと、揺れが大きくなるから。脇見をしないで、ゆっくりゆっくり歩けば大丈夫ですよ」
その声が谷間に谺を呼んだ。
橋の上の二人は、ちょっとの間、顔を寄せ合っていたが、やがて一人がしゃがむと、立っている一人が手を振りながら叫んだ。
「じゃ、そっちへいきますから、よろしくお願いしまあす」
ふと、その声に、聞き憶《おぼ》えがあるような気がしたが、
「よろしく、だって」
清里は、また高子を振り返って笑った。
「あなたを頼りにしてるのよ」
と高子も笑って、泣きやんだ武志を地面に下ろした。
「頼りにされたって、僕にはなんにもしてやれないよ」
「ここでみていてあげるだけでいいのよ。それだけで、なんとなく心強いんだわ」
清里は、舌うちした。
「甘ったれてるよ、こっちの迷惑も考えずに……」
「でも、このまま見捨てて帰るわけにもいかないでしょう? ここにいてあげたら?」
清里は、鼻で強く息をした。
「しようがない。おまえたちは先に帰ってていいよ」
「あたしはお父さんと一緒にいるわ」
と好奇心の強い夏子がいった。
「そうくると思った」
と高子は笑って、
「じゃ、お先にね。しっかり誘導してあげて」
誘導といっても、橋は一本道である。その一本道を、最初の一人が、まるで丸木橋でも渡るように両手をひろげて躯の平衡を保ちながら、そろりそろりとこちらへ歩きはじめていた。両手に一つずつ持っているのは、どうやら脱いだ自分の靴らしい。デニムの長目のスカートが、頼りなさそうに揺れている。
橋がすこしずつ揺れてくると、女も揺れて、白いブラウスの胸元でネックレスが光る。女は、ちいさな悲鳴を上げて立ち竦む。
「大丈夫、大丈夫」
と清里は声をかけてやる。
揺れが静まるのを待って、女はまた歩き出す。
「その調子、その調子……」
女は、さっきまで武志が坐り込んでいたあたりまでくると、不意に、あら、とこちらへ目を瞠るようにして立ち止まり、それから、
「厭だあ」
と白い歯をみせて、いきなりそこにしゃがんでしまった。
清里には、女がなにが厭なのかわからなかった。思わず夏子と顔を見合わせると、夏子はちょっと首をすくめて、
「武ちゃんの真似してる」
といった。
武志の真似をしてそこへしゃがめば、迎えがくると思っているのだとしたら、大間違いだ。それで、
「どうしたんです?」
と無愛想に声をかけると、女は頭を低くして、くすっと笑った。
「清里さんじゃありません? 編集部の」
清里は驚いて、目をまるくした。そういわれて、よくみると、女は社の電話交換手をしている芹沢妙子《せりざわたえこ》で、
「なんだ、妙ちゃんじゃないの。どうしてこんなところに……びっくりさせるなあ」
と清里はいった。
道理で最初から、どこかで聞き憶えのある声だと思ったのだ。どこかどころか、芹沢妙子の声なら社で毎日のように聞いている。
けれども、声を聞くばかりで、本人と顔を合わせることは滅多になかった。妙ちゃんなどと気易く呼んでいるが、ただ声と親しんでいるだけで、面と向かって話したことは、もしかしたらこれまでいちどもなかったかもしれない。それで、清里には、相手の顔をよくみるまでは、それが芹沢妙子だとはわからなかった。
「厭だわ、あたし……」
と、妙子は恥ずかしそうに首をすくめて、立とうとしない。笑っているから、もう恐怖心はなくなっているのだろう。
「なにをいまさら……」
と、清里も笑っていった。
「もうすこしじゃないの。早くおいでよ」
「じゃ、ちょっとむこうを向いててください。もう独りで大丈夫ですから」
清里は、なにか一言いってやりたかったが、そのまま黙って橋に背を向けた。
「……知ってる人?」
と夏子がいった。
「うん。お父さんの会社のね、電話の交換手さん」
「厭だわって、どうしてなの?」
「恥ずかしいんだろう、吊橋でふらふらしてるところなんかを、知ってる人にみられるのが」
いい齢をして、と、もうすこしで彼は口に出すところだった。妙子の正確な齢はわからなかったが、そろそろ三十、ひょっとしたら三十を越しているのかもしれない。
「ああ、よかった。どうも、すみませんでした」
そういう声で向き直ると、
「こんにちは。びっくりしちゃいましたわ、まさかこんなところにいらっしゃるとは思わなかったから」
と、妙子が靴を履きながらいった。
それは、清里にしてもおなじことで、まさかこんな山の温泉場の吊橋で立ち往生しているのが、自分の社の電話交換手だとは思わなかった。
「こっちだって驚いてるよ。ここへは、よくくるの?」
「いいえ、今度が初めてです。ほら、うちの雑誌に、ここの紹介記事が出たでしょう。あれは、何月号だったかしら」
「三月号だよ」
と清里は即座にいって、目をしばたたいた。その記事は、彼が自分で書いたものだったが、それはいわずに、
「あれは?」
と、まだ橋の上にうずくまっている一人を指さして訊《き》いた。
「あれもうちの社の人?」
「いいえ」
妙子はそう答えただけで、
「神永さーん、もういいわよ。いらっしゃいな。思ってたほどこわくなかったわ」
と、大声で橋の上の仲間に呼びかけた。
けれども、その女は立ち上ろうともしない。ふと、はるか下を流れている谷川の音が、急に高まったような気が清里にはした。
「……どうしたんだろう」
「……どうしたのかしら」
と妙子もいって、
「神永さーん、どうしたの? 早くいらっしゃいよ」
と手招きをした。それでも、橋の上に残された仲間は、低くうずくまったまま動かない。
「ほんとに、どうしちゃったのかしら」
「うっかり下をみて、足が竦んじゃったみたいだね。友達なの?」
「ええ、アパートで隣り同士なんです。スタイリストで、神永留美《かみながるみ》っていうんですけど、御存知じゃありません?」
スタイリストなら、清里の雑誌でもフリーの人たちを十人ばかり使っているが、神永留美という名は聞いたことがなかった。
「さあ、憶えがないな。僕はファッション班じゃないからね」
と清里はいった。
「もっとも、あの人もまだ駈け出しらしいんですけど……。でも、どうするつもりなのかしら、いつまでもああしていて」
妙子は、また橋の上の仲間に向って、ともかく思い切って立ち上ってごらん、といった。
「一と足歩けば、もう大丈夫よ。さあ、勇気を出して」
揺れは、もうとっくにおさまっている。けれども、やはり神永留美は立ち上ろうとしない。
「……なんだか変だわ」
と、妙子は真顔になって首をかしげた。清里も眉をひそめた。
「いやに顔が白くみえるね。普段からあんな顔?」
「ええ、色白ですけど……でも、そういわれると、いつもよりも白いみたい」
「まさか、貧血を起こしてるんじゃないだろうね」
妙子は、びくっとして、清里をみた。
「困るわ、あたし。普段から貧血気味の人なんですよ。どうしたらいいかしら」
「誰かが迎えにいってやった方がいいだろうな。誰かといっても、あんたに頼むわけにはいかないけどね」
清里はもう、観念していた。
「いってくださいます?」
「いってみるだけはね。でも、多分さっきみたいにはいかないだろうな、相手が子供じゃないんだから」
仕方なく、笑ってそういいながら夏子を振り返ると、夏子は上目《うわめ》で心配そうにみて、
「お父さん、大丈夫?」
といった。
「ああ、大丈夫。お姉さんと二人でそこにいてね」
それから、清里は橋の渡り口に立って、神永留美に、
「これから、僕がそこへいきますからね。揺れてもふらふらしないように、腰を下ろして坐ってください」
と大声でいった。
留美は、すぐには動かなかったが、彼の声の谺が消えると、ようやく橋板に手を突いて、そろそろと膝を崩して坐り込んだ。
「ようし。そのままじっとしてなさいよ」
清里は、運動靴を脱いで裸足《はだし》になると、ゆっくりと吊橋を渡っていった。
最初から、橋板の上に足を滑らせるようにして歩いたせいか、橋は思ったより揺れなかった。清里は、去年カメラマンと二人で立ち往生したあたりを、難なく通り過ぎた。
目の端に、下を流れる谷川が白く映ってきた。その谷川の真上のあたりにはひんやりとした風が流れていて、清里は、急に着ているものがすっかり汗になっているのに気がついた。
神永留美は、黒いパンタロンの両脚を躯の脇へ折り畳むようにして横坐りになり、両手を、まるで爪を立ててしがみつくような形に指を折り曲げて、ささくれ立った橋板の上に突いていた。
「……どうしたんですか。どこか具合でも悪いんですか?」
清里は、そういいながら近づいていったが、風で顔の方へ吹き流されている長い巻毛の隙間から、思いがけなく強い視線が自分をなにか挑むようにみつめているのに気がついて、思わず足を止めてしまった。
そのとき、清里には、そんな神永留美がいまにも自分に飛びかかろうとしている手負いの野獣のようにみえたのである。
「僕は、芹沢さんとおなじ社の者ですがね」
と、清里はつい、言訳をするような口調になった。
「あの人が心配してるから、代わりに様子をみにきたんですよ。顔色が悪いけど、貧血ですか?」
すると、留美は血の気の失せた顔にかすかな笑いを浮かべて、頭をちいさく左右に振った。
「駄目なんです、私。立とうとすると、めまいがして……」
さっき、その目が異様に光っていたのは、自分に対する敵意ではなくて怯《おび》えのせいだったのだと、清里にはわかった。
「そんなことだろうと思った。下を覗いたりするから目が廻るんですよ」
清里は、留美の緊張を解きほぐすように笑いながらそばまで歩いていった。
「さあ、一緒に帰りましょう。僕に掴まって、立ちなさい」
彼は、手を差し伸べてやったが、留美はその手を取らなかった。
「結構です。自分で立ちます」
留美は、坐ったまま、風で頬に乱れている髪を両手でうしろへ束ねるようにした。広い額と高い鼻筋が、汗で油を引いたように光っていた。無造作に着ている黒い長袖のTシャツの胸に、小振りで固そうなふくらみの形があらわになっている。くびれた胴が、痛々しいほどに細い。
清里は、そんな留美を見下ろしながら、立ち上るのを待っていた。けれども、結局、留美は立てなかった。橋板に両手を突いて、ちょっと腰を浮かしただけで、もう目をきつくつむってしまった。
「……無理をしない方がいい」
清里がそういうと、留美はきらきらと光る目で、くやしそうに彼を見上げた。勝気な女だな、と清里は思った。
「素直に僕に掴まりなさい。僕に掴まったまま一緒に歩けばいい。さあ、両手で肩に掴まりなさい」
清里は、留美に背中を向けた。
すこし間を置いてから、最初の手が、膝の裏にきた。それから、おずおずとジーンズのベルトにすがって、肩にきた。留美は、両手でしっかりと肩に掴まった。
「よし、それでいい」
と清里はいった。
「このまま、僕と一緒に歩いて。なるべく歩調を合わせるようにして。いいですね?」
返事はなかったが、彼は小刻みに歩きはじめた。腋《わき》の下から、留美の白革のサンダルがぎごちない足取りでついてくるのがみえる。肩が、まるで登山のリュックでも背負っているように重かった。そのために、彼は橋のたもとで心配そうに見守っている芹沢妙子と夏子の方へ、なんの合図もしてやれなかった。
随分ゆっくり歩いているつもりだったが、それでも、橋は次第に揺れてきた。それにつれて、肩に掴まっている留美の手の指にも力が籠《こ》もってきた。指先が肩の肉に食い込んできた。
清里は、華奢《きやしや》な留美の力をあなどっていたが、肩に食い込んでくる指先が思いのほかに痛かった。そうか、爪を伸ばしてるんだな、と顔をしかめながら彼は思った。
ふと、背中に触れてくるものがあった。それが、忽ち背中に押し潰《つぶ》された。
「ごめんなさい、止まって……」
そういう声と一緒に、ひんやりとしたものが項《うなじ》の下のところに押し当てられた。
「こわい……もう駄目」
留美は、背中に躯を寄せて、額を押しつけているらしい。清里は、留美が肩から手を離してまたうずくまってしまうかもしれないと思い、両手で素早く肩の上の手をとらえて、ゆさぶった。
「元気を出しなさい。もうすこしだ。もう二十メートル、いや、十五メートルだ」
肩の指に、また力が戻ってきた。清里は、その力が指先にまで籠もるのを待ちながら、
「僕が力持ちなら、あなたをおんぶしてあげるんだけどね。あなたは軽そうだけど、残念ながら僕には自信がない」
と笑ってみせた。
やがて指先に力が籠もって、肩が痛くなってきた。橋の揺れもおさまってきた。
「じゃ、また歩きますよ。今度は一気に渡ろうね。あなたはそうして目をつむっていてもいい」
留美は、もうほとんど背中にもたれかかっていた。清里は、いっそ留美の背中に手を廻して引きつけて、駈け出したいと思ったが、そんなことをすれば留美は気を失ってしまうだろう。清里は、辛抱して小刻みに歩きつづけて、やっと橋のたもとまで辿《たど》り着いた。
「どうもすみませんでした、お手数をかけて」
と妙子がいって、清里の背中から留美の肩を抱き取った。
「どうしたの? 貧血起こしたんでしょう」
留美は小声で、ごめんなさい、とだけいって、いかにも疲れ切ったというふうに、吊橋のワイヤーロープを繋《つな》ぎ留めている杭《くい》に腰を下ろした。
夏子は、なぜだか不機嫌になっていて、無言で清里の手首を引っ張った。それで、彼は坂の登り口の方へ歩き出しながら、
「じゃ、僕はこれで」
と二人の方を振り返った。妙子がまた手間を取らせた詫《わ》びをいった。
「どこに泊ってるの?」
「民宿です。昔の農家をそのまま使ってる宿なんです。清里さんは?」
「湯元館といって、一番古い宿だよ。明日、帰っちゃうんだけどね」
留美は、なにもいわずに、ただ目を瞠るようにして立ち上ったきりだった。その、なにかに驚いたような目が、清里の記憶に長く残った。
――その晩、遅くなってから、清里が階下の浴室に独りいて、庭の池で鯉が跳ねる水音に耳を澄ましていると、
「いい? 背中を流してあげる」
高子がそういって入ってきた。
「子供たちは?」
「やっと静かになったわ。旅行に出るといっては大はしゃぎ、明日は帰るといっては大はしゃぎ、私たちも子供のころはあんなだったかしら」
清里は、黙って妻に湯舟のなかの場所をあけた。彼は、田舎で貧しく育ったから、子供のころは家族で旅行なんかしたことがないのだ。
「夏子は、ちっとも眠くならないって、まだ布団のなかで本を読んでるわ。ねえ、夏子となにかあったの? 吊橋からの帰りに」
「……いや、べつに。なんにもなかった」
「そんならいいんだけど。変に、つんつんしてるから、あなたに」
それには彼も気がついていて、
「多分、僕が吊橋で、若い女の子に手を貸してやったりしたからだろう。それが面白くなかったんだよ、あの子には」
「やきもち焼くことをおぼえたのね。でも、あの子を腐らせるほど親切にしたの?」
「そんな余裕があるもんか。なにしろ、相手は失神寸前だったんだから」
と、彼は笑って湯舟から出た。
「背中を流すわ」
「もう自分で流したよ」
「でも、ちょっとだけ、ね? 東京へ帰れば、もう当分こんなことはさせて貰えないんだから」
仕方なく、彼は妻に背中を向けてあぐらをかいた。すると、高子が湯舟のなかで、「あらっ?」と声を上げた。
「その肩は、どうしたの?」
「肩?」
「ちいさな痣《あざ》がいっぱいできてるわ、両方の肩に」
そういわれて、清里は、あの神永留美の爪跡が、いつのまにか赤紫の痣になって点々と両肩に散っているのに、初めて気づいた。彼は、ちいさく舌うちした。
「しょうがないなあ、こんなになってたのか。これは、ほら、吊橋で掴まらせてやった女の子の、爪の跡だよ」
「まあ。その電話交換手の友達とかの?」
昼間、彼は変にくたびれていたので、吊橋でのことはごく簡単に話して聞かせただけだった。
「その子、こんなにきつく掴まったの?」
「よっぽど、こわかったんだな」
「いくらこわかったからって……ひどいわ」
高子が湯舟から出てきて、その痣を指先でそっと撫ぜている間、清里は、前のタイルに、驚いたように目を大きく見開いている留美の顔を、ぼんやり思い浮かべていた。
やがて、高子は肩にぷっと息を吹きかけ、塵《ちり》でも払うように指先でそこをざっと撫ぜてから、
「私、こわいわ」
「……なにが?」
「きょうの吊橋のこと。もし武志が落っこってたらと思うと、ぞっとするわ。随分気をつけているつもりなのに……なにが起こるか、わからないもんね」
「そうだな。どんなときに、なにが起こるか……」
それから、二人はしばらく口を噤《つぐ》んでいた。今夜は、なぜだか池の鯉がしきりに跳ねる……。
空色の卵
休暇は、あっけなく過ぎてしまった、いつものように。
二十人からの編集部員が交代で取る夏の休暇を、賑《にぎ》やかな七月八月は若い部員たちに譲って、九月も末の校了明けにやっと取ることができたのだが、休暇といってもたったの四日間では、なにほどのこともできはしない。
山の温泉場から東京へ戻ると、清里は、忽ちまた元のあわただしい生活に巻き込まれた。四、五日もすると、あの鄙《ひな》びた温泉宿でせいぜい眠りをむさぼったり、白く乾いた街道を吊橋に向って一目散に駈けたりしたことなどが、ずっと以前の出来事だったように彼の記憶から遠退いた。
もしも、ある朝、パジャマのズボンだけになって遅い食事をしていた清里の肩を、高子が人差指の腹でさりげなく撫でて通らなかったら、彼はあの吊橋の一件など、すっかり忘れてしまったかもわからない。
高子はなにもいわなかったが、清里は思い出した。すると、芹沢妙子よりも吊橋よりも先に、神永留美の目を瞠った顔がはっきりと目に浮かんできて、彼はちょっと驚いた。
留美が作ってくれた小粒な痣の群れは、もう、あらかた消えかけていた。
「やれやれ、やっと消えてくれたか」
清里は、半分は妻に聞かせるつもりでそんな独り言をいったが、高子は流しに立って知らぬ顔をしていた。
彼は、ぬるくなった紅茶の残りをすすりながら、そうだ、きょう社に出たら、ファッション班の誰かに、神永留美というスタイリストを知っているかどうか訊いてみなければ、と思ったが、社に着いたときは、そんなことなどもう忘れてしまっていた。
それから、また何日かして、金曜日の夕方、清里の前の電話が鳴るので、
「はい、編集部」
と出てみると、
「そういうお声は、清里さんですね?」
清里にも、声ですぐに相手がわかったから、
「そういうお声は、妙ちゃんか」
「いまお忙しいですか?」
「いや、そんなでもない」
外から言付けでもあったのかと思ったら、そうではなかった。
「ちょっとお茶にお誘いして、いいかしら」
清里は、まさか電話の交換手に誘われるとは思わなかったから、面くらっていると、
「こないだのお礼をしなきゃと思ってたんですけど、そちらがお忙しそうでしたから……」
「お礼って?」
「ほら、山の吊橋の」
「ああ、あのことか。なにをいってますか、お礼だなんて。そんなものは要らないよ」
「お礼といっても、お茶とケーキぐらいですから、お気軽にどうぞ。それに、留美さんからも預かってきてますし」
そのとき、清里は、自分でもなぜだかわからなかったが、
「留美さん?……」
と忘れてしまったふりをした。
「ほら、あのとき一緒だったお友達です」
「……ああ、あの痩《や》せっぽっちのスタイリストね」
清里は、顔にわけもなく血が昇ってくるのがわかった。
その顔のほてりは、受話器を置いて、煙草に火を点《つ》けても、まだ消えなかった。清里は、顔に煙幕でも張るように、もうもうと煙草をふかしながらあたりを見廻したが、編集部には他人の顔色を気にしている者など、一人もいない。
俺はどうかしているな、と清里は思い、それを芹沢妙子のせいにして、あの年頃の女の図々しさ、なれなれしさには、かなわんな、と思った。調子が狂っちゃうよ、全く。
彼は、煙草を一本、ゆっくりふかしてから、隣りで原稿依頼の手紙を書いているおなじ読物班の北岡に、
「ちょっと、むかいのブーケまで。六時には帰るから」
といって席を立った。
編集室を出て、エレベーターの乗り場へいく途中、ふくらんだ紙袋を両手に提げたファッション班の古顔の佐野弓子に会った。髪が乾いて艶《つや》を失い、目尻の小皺《こじわ》が目立っている。
「その顔は、ロケ帰りか」
「図星」
「どこまで?」
「秋川くんだり」
「お疲れさん」
とすれちがって、
「そうだ、佐野ちゃん」
なんとなく、人差指でこめかみを掻《か》いた。
「スタイリストで、神永留美っての、知ってる?」
「神永留美?」
そんなときの癖で、弓子は片頬に舌で瘤《こぶ》をこしらえていたが、
「聞いたことないねえ。一本立ちの人じゃないね?」
「それはわからない。自分じゃ、まだ駈け出しだとかいってるらしいけど」
「幾つぐらいの人?」
「二十……四、五かな」
「……やっぱり憶《おぼ》えがないわ。いま新しい人が増えてるからねえ。一本立ちの人のアシスタントをしている人もいるし。で、その人がどうかしたの?」
「いや、ちょっとね。……ごめん、くたびれてるところを」
清里は、エレベーターで一階まで降りると、社の建物を出て、通りのむかいのビルの地下にあるブーケという喫茶店へいった。妙子の方が先にきていた。
「お待たせ」
「いいえ。御迷惑じゃなかったかしら」
強引に誘っておいて、そんなことをいう。念入りに化粧をした顔が、かえって老けてみえた。
清里は、ケーキよりも紅茶にウイスキーをたらしたのがいいといった。妙子はそのように注文してから、先日の小旅行の思い出話を独りで喋《しやべ》った。
「そうそう、あれから私たち、みなさんが泊られたお部屋に、一と晩泊ったんですよ」
そんなことをいうので、清里はちょっと驚いた。
「……みなさんって、僕の家族のこと?」
「ええ。湯元館の二階の八畳のお部屋」
「へえ、宿替えしたのか」
「そうなんです、民宿はお風呂がつまらないから」
それから妙子は、
「あのお部屋に、耳掻きをお忘れになりませんでした?」
といった。
「耳掻き?」
「竹の耳掻きです。端っこに柔らかい毛のついた」
清里は、思い当ることがあってちょっとどぎまぎした。
「竹の耳掻きねえ。それが?」
「床の間の、違い棚の上にあったんです」
高子が置き忘れてきたのだ、と清里は思った。高子は、あの吊橋《つりばし》騒ぎで動顛《どうてん》して、畳の上に放り出してあったのを、あとで拾って違い棚の上に置いたまま、忘れてきたのだ。
けれども、うちの女房は旅先で家族の耳掃除をするのが趣味で、などとはいいたくないから、
「さあ、知らないねえ、そんな耳掻きは」
と清里はいった。
「あら、厭《いや》だ。そんなら使うんじゃなかったわ」
妙子はそういって、小指でちょっと耳の穴を掻いた。
「そいつで耳垢《みみあか》を取ったの?」
「そうなんですよ。お互いに取りっこしたんです、留美さんと。てっきり清里さんのだと思ったもんですから、安心して」
すると、あの耳掻きがあの娘《こ》の耳垢も取ったのか。そう思うと、清里は妙な気持になった。耳の奥がむず痒《がゆ》くなってきた。
「大丈夫だよ。そんなことぐらいで耳が腐りゃしないさ」
と清里は笑って、あの日の吊橋のことに話を戻した。
「あのあとで、ちょっと不思議に思ったことがあるんだけどね」
「なんでしょう」
「あの神永っていうスタイリストは、随分こわがってたよねえ。僕の肩を、まるで太いロープかなんかみたいに握り締めてたから。あんなにこわがる人が、どうしてあんなところまで歩けたのかと思ってね」
「最初はね、割と平気だったんですよ、二人とも。偶然リズムが合ってたのか、橋もあんまり揺れなかったし。ところが、橋って、みた目より、渡ると案外長いでしょう。半分を過ぎて、ふっと立ち止まったら、もう駄目なんです」
「前へ進むことも、引き返すこともできない……」
「そうなの。一歩も動けないの、足が竦《すく》んじゃって」
「まあ、男と女の仲みたいなもんだな」
ふと、そんなことを口にして、清里は、これは紅茶にたらして貰ったウイスキーが利いたかな、と思った。
「あら、男と女の仲って、吊橋を渡るようなもんなんですか?」
「初めのうちはお互いに夢中だけど、ふっと我に返ったときは、もう、にっちもさっちもいかなくなっている……」
「でも、あたしだったら、這《は》ってでも渡り切っちゃうわ、相手の男性を引きずって」
「むこう岸がみえる人ならね……いや、これは冗談」
と、清里はその話を打ち切って、腕時計を覗《のぞ》いた。
まだ帰らなければならない時間ではなかったが、妙子を相手に、いつまでもこんな無駄話をしていても仕方がない。
「じゃ、僕はそろそろ……」
と腰を浮かしかけると、
「あの、ちょっとお渡しするものがあるんです、留美さんの……」
妙子はそういいながら、ハンドバッグの口金を開けた。
留美の、なんだろう。清里は、浮かしかけていた腰をまた椅子に落ち着けた。
「これを預かってきたんです、留美さんから」
妙子がハンドバッグから取り出したのは、ちょうどゴルフボールぐらいの大きさの、白い球であった。妙子はそれをテーブルの上に置いた。
平たくて滑らかなテーブルなのに、球は転がらずに、置かれたままになっている。よくみると、それは紙の球であった。ティッシュペーパーを何枚も重ねて、ただ手のひらで握り潰《つぶ》しただけの球のようにみえた。
「……なんだい、これは」
「名刺代わりですって」
「名刺代わり?」
「あたしがね、清里さんに吊橋のお礼をしておくからって、そういったら、自分にはなにも差し上げるものがないから、名刺代わりにこれをお渡ししてって、ゆうべ部屋へ持ってきてくれたんです。せっかくだから、貰ってあげてください」
「……それは中身によるね」
清里は、あんなことでお礼を貰おうなどとは毛頭思っていないのだ。
「じゃ、開けてごらんになったら?」
妙子は、とっくに中身を知っているらしい。なにやらおかしさを堪えているような顔からすれば、中身もどうせおかしなものなのだろう。
清里は、その紙の球を手に取ってみた。ひどく軽い。紙の球なら軽いのは当り前だが、なかになにも入っていないかのような軽さである。
「まさか、猿に玉葱《たまねぎ》じゃないだろうな」
と清里は笑って、外側から静かに紙の球を剥《む》いてみた。
すると、なかから綺麗《きれい》な空色の玉石が出てきた。鶉《うずら》の卵よりひとまわりちいさいくらいの、卵型をした玉石である。清里は、その空色の鮮やかさに、思わず、ほう、と声を洩らした。
「綺麗な色でしょう」
「綺麗だね。目が醒《さ》めるようなというのは、こういう色のことだ」
けれども、それを手のひらに転がしてみると、石にしては随分軽い。清里は、指で摘《つま》んでみた。やはり、それは石ではなかった。
そうかといって、なかが空洞のようでもない。なかにはなにかが詰まっていて、ほんのわずかばかりだが、しっとりとした重みがある。
「……なんだろう。小鳥の卵かい?」
「そうですよ。どんな鳥の卵か、わかります?」
清里にはわからなかった。
「椋鳥《むくどり》の卵ですって」
「ほう、椋鳥の」
彼は田舎育ちだが、椋鳥の卵をみるのは初めてであった。
「留美さんがね、どこかへロケにいったとき、大きな樹の下に落ちていたのをみつけたんですって」
「その樹に巣があったんだな。じゃ、これは本物の卵だ」
「勿論《もちろん》、本物ですよ。でも、この空色、ちょっと本物にはみえないでしょう?」
「本当だね。実にいい色をしている」
二人は、しばらくそのちいさな卵に見惚《みと》れていた。
「……その人は、いつごろこれを拾ってきたんだろうね」
やがて清里はそういって、その椋鳥の卵を剥いた紙の上に置いた。
「もう大分前ですねえ、なんかの用であの人の部屋へいったら、綺麗でしょうって、みせてくれたのは。五月ごろだったかしら」
「そうだろうな。野鳥がいまごろ卵を産むはずがないからね。そうすると、その神永留美さんは、五月ごろからこの卵をずっと大事に持ってたわけか」
「机の上のペン皿に置いといたんですって」
「ペン皿にねえ」
「どっかへ仕舞って、それっきり忘れてしまうといけないから。それに、ペン皿に置けば、いつでもこのいい色がみられるでしょう」
「なるほど」
と、清里はまた卵を指で摘んで眺めた。
「どうやらお気に召したみたいですね」
と、妙子が笑っていった。
「うん、なんだか不思議な気がしてね。要するに物好きなんだな、こっちが」
と清里も笑って、
「この色は、拾ったときからずっとこうなの?」
「ええ、艶《つや》はすこしなくなったけど、色はちっとも変らないんですって」
「ペン皿に出しっ放しにして置いても?」
「陽に当てたりなんかしても。なんだか綿にでも包んで、暗いところに仕舞い込んで置いたみたいでしょう?」
「それを、たったいま出してきたという感じだね。自然って、凄《すご》いことをするなあ」
清里は、卵をまた元のように紙に包んだ。
「貰ってくださいますね?」
「うん、これなら有難く頂戴しよう」
「よかった」
と、妙子はほっとしたように肩を落とした。
「あたし、清里さんに笑われて、こんなもの要らないなんていわれたら、どうしようかと思ってたんです。あの人、しょげ屋だから」
「まあ、僕にこの卵を要らないといわれたって、そう、しょげやしないだろうけどね」
清里がそういって、卵を包んだ紙の玉を、手のひらでやんわり握ってみていると、
「あの人に、興味をお持ちになりました?」
と妙子がいった。
清里は、黙って妙子に目を上げたが、心の隅で、かすかにうろたえるものがあった。
「……興味?」
と、すこし間を置いてから清里はいった。
「名刺代わりに椋鳥の卵をくれるような女には、誰だって多少は興味を持つでしょう」
「もし、それ以上の興味をお持ちでしたら、あたしがいろいろ話してあげてもいいですよ。大抵のことは知ってますから」
妙子は、編集者としての清里に一種の素材を提供するつもりで、そんなことをいったのかもしれなかったが、清里はなにか厭なものを感じた。
「いや、それは結構」
と彼はいって、卵の包みを持った手をちょっと上げてみせた。
「じゃ、これは貰っとくよ。あの人に、よろしくいっといてください。御馳走さま」
すると、妙子も伝票を取って立ち上りながら、こういった。
「その卵、せいぜい大事になさって。もしかしたら、あの人の形見になるかもしれませんから」
清里は、思わず妙子の顔に目を上げた。それから、ゆっくりと立ち上った。
「それは、どういう意味?」
妙子は、ちらと彼をみて、ちょっと首をすくめた。
「もしかしたらの話ですよ」
「だから……病気なの?」
「いいえ。でも、ひどいショックを受けてますから、もしかしたら……」
なんのショックか知らないが、すると自殺のおそれがあるということか、と清里は思った。先日、山の吊橋に爪を立てて、いまにも自分に飛びかかろうとしている手負いの野獣のようにみえた神永留美の妖《あや》しい姿態が、不意に目に浮かんできた。清里は、それきりなにもいわずに、なんとなく卵の包みを握り直すようにしながら先に店を出た。
歩道には、勤め帰りの人の流れができていた。二日つづきの休日を控えた週末の夕方で、どの顔にも解き放たれたような安らぎの色がみえていた。妙子があとを追うように地下の階段を駈け昇ってきた。
「河岸《かし》を変えましょうか? もしお聞きになりたければ」
「いや、よしておこう」
こっちはそれほど物好きではない、と清里は、自分にいい聞かせるようにそう思った。それに、もうそろそろ席に戻らなければならない時間でもある。
「じゃ、僕はこれで。あの女史にいっといてよ、貰った卵は大事にしますが、まあ、お互いに長生きしましょうやって」
清里は、まだなにか物足りなさそうな妙子をそこに残して、横断歩道を渡りながら、卵の包みをいちど上着のポケットに入れたが、すぐまた出した。ポケットなんかに入れておけば、いつ人に押し潰されるかしれない。やはり、手に持っているのが一番安心だ。
案の定、社のエレベーターは込んでいた。清里は、卵を持った手を前に廻して、その手をもう一方の手で包み込むようにしていた。
俺がいま手に持っているものが、なんだかわかるか? 椋鳥の卵だ。目も醒めるような、鮮やかな空色の卵だ――彼は誰かにそういいたいような気持で、エレベーターのなかの顔を見渡した。
編集室の席に戻ると、ファッション班の佐野弓子が待っていたように席を立ってきた。
「神永留美のことがわかったわ」
「ああ、そう」
と、清里は無意味に机の引出しを開けながらいった。そんなつもりではなかったのだが、我ながら気のなさそうな挨拶になった。
「園田百合子のアシスタントをしてるんだって。北海道|余市《よいち》町生まれ、Q大仏文科卒、二十五歳」
清里は、思わず笑い出した。
「蛇《じや》の道はヘビか。御苦労さん」
「これだけでいいの? もっと要るんだったら、調べるよ」
「いや、それで結構。ところで、こんなのはどう?」
清里は、卵の包みを剥いてみせた。弓子は、男のように腕組みしたまま目をまるくした。
「へっ……本物?」
「勿論、本物だよ」
すると、弓子は急に不安そうな目になった。
「どうしたのよ、こんな大きなトルコ石を、裸で……」
なるほど、そういえば、トルコ石によく似た色だと清里は思い、
「なに、ちょっとね、うちの子供が玩具《おもちや》にしてたのを捲き上げてきたんだ」
と冗談をいった。
「へえ、清《きよ》さんちでは、子供がトルコ石をビー玉かなんかの代わりにして遊んでんの」
「まあね。どう? ブローチにでも。安くしておくよ」
弓子は、躯《からだ》を揺すって豪快に笑った。
「いくらくたびれてたって、そうは担がれないわよ。だけど、贋物《にせもの》にしちゃ、よくできてるわね」
「いや、贋物じゃなくて、本物なんだよ、これは。本物の……」
椋鳥の卵なんだと、本当のことを言おうとしたとき、弓子は電話に呼ばれて、小走りにファッション班の席へ戻っていった。
隣りの北岡は、入れ替わりに手紙を出しにいったきり、戻ってこない。仕事が比較的暇な時期の週末だから、若手がほとんど退社して編集室は閑散としている。
清里は、留美の卵を手のひらにのせて、眺めた。こんなものを名刺代わりにくれるなんて、変った女だな、と彼は思った。しかも、机の上のペン皿に置いて、毎日眺めて楽しんでいたものをくれるなんて。それにしても、これが名刺の代わりなら、留美は一体、この空色の卵に自分のどんなことを託したのだろう。
私がスタイリストだということは、もう芹沢さんからお聞きでしょうが、まだほんの卵なんです。よろしくお願いします――そういいたかったのだろうか。
この卵、可愛らしくて、それに色が素敵でしょう? これを拾ってきてからもうそろそろ半年になりますが、色がちっとも褪《あ》せないのです。この卵みたいな女になれたら、と思っています。よろしく――そんなつもりだったのだろうか。
それとも、留美は自分のことを美しくて毀《こわ》れやすい女だといっているのだろうか。
清里は、念のために机の上の辞書で椋鳥のところを引いてみた。すると、姿かたちの説明のあとに、
〈都に出て来た田舎者をあざけっていう語〉
と出ていた。
なるほど、と清里は、さっき弓子が留美のことを北海道の余市の出身だといっていたのを思い出して、留美はこの椋鳥の卵にそういう自嘲《じちよう》も含めたつもりかもしれないと思った。
「道産子《どさんこ》か。北海道は余市の生まれか」
清里はそんな独り言をいった。けれども、彼は、北海道は何年か前にいちど取材で旭川へいったことがあるきりで、余市のことはなにも知らない。
そのとき、不意にうしろから肩を叩く者がいた。
「なにをぶつぶついってるんだ」
その声は、おなじデスク仲間の兵藤で、
「こいつと話してたんだよ」
清里は手のひらの卵を摘んでみせた。兵藤は呆《あき》れたような顔をした。
「……なんだい、そいつは」
「椋鳥の卵だよ」
「椋鳥の卵? 食えるのか?」
「クッキング班は、すぐそれだ」
清里がそういって笑うと、
「読物班は卵とお喋《しやべ》りか。童話の特集でもするつもりか?」
と兵藤がいった。
兵藤は、帰りにちょっとお京の店に寄っていかないかと、誘いにきたのであった。清里は、誘われなくてもそうするつもりだったので、よかろうと答えて、すぐに帰り支度をした。お京の店というのは、そういう名の若い女将《おかみ》がいる行きつけのちいさな酒場である。
この空色の卵は、どうしようか。子供たちにみせたら喜ぶだろうが、なんとなく家の者にはみせたくないような気もする。第一、電車のなかで押し潰されやしないかと、はらはらしながら家まで持って帰るのが、億劫《おつくう》だ。
そうかといって、留美のように机の上のペン皿に入れておく気にもなれない。おなじペン皿でも、女のアパートと婦人雑誌の編集部とでは、空気がちがう。ペン皿などに入れておいたら、一と晩のうちに煙のように消えてしまわないとも限らない。
清里は、帰り支度をしながらそんなことを考えて、結局、机の袖の鍵《かぎ》のかかる引出しに入れておくことにした。
元のように、紙の球にしてそこへ入れようとすると、
(せいぜい大事になさって。もしかしたら、あの人の形見になるかもしれませんから)
そういう芹沢妙子の言葉が思い出された。けれども、清里には、妙子が自分の気を引こうとしてそんな大袈裟《おおげさ》なことをいったのだとしか思えなかった。全く人騒がせな女だよ、と彼は妙子のことをそう思った。
引出しに鍵をかけているところへ、兵藤がきた。清里は、それきり留美の卵のことを忘れてしまった。
十一月に入ると、社の仕事が急に忙しくなる。十二月は年末年始の休暇のために、二月号の校了がいつもの月より一週間も早くなるからである。新しい企画などで盛り沢山の新年号をやっと校了にしたかと思うと、すぐ二月号にかからなければならない。二月号の編集をしながら、三月号の手配もしなければならない。
清里は、一と月の間、留美の卵のことをたったいちどしか思い出さなかった。社を訪ねてきた童話作家と話していたとき、唐突に、そうだ、あの空色の卵を――と思い出したのである。あの卵をこの人にみせたら、なにかいい童話を書くかもしれない。そう思ったのだが、それをいい出すきっかけを待っているうちに、相手は用件を話し終えると早々に帰っていった。
清里は、それきりまた卵のことを忘れてしまった。
十二月に入って、二月号を校了にした翌日の朝、清里は、枕元で妻の高子がなにかいっているのを夢うつつに聞きながら、なかなか目を醒ますことができなかった。朝といっても、もう昼に近い時刻だったが、ゆうべは兵藤や北岡と、お京の店を振り出しにあちこち飲み歩いて、大酔して帰ったのが明け方近くだったから、躯にはまだ酔いがたっぷり残っていた。
さっきから高子の声はきこえているのだが、目が開かない。
「お父さん、まだ目が醒めないの?……ねえ」
高子がそういいながら、遠慮がちに肩を揺さぶるのを、うるさいな、と思っているうちに、ふとスタイリストという言葉が耳に入って、彼はようやく片目を開けた。
「……スタイリストが、どうしたって?」
「自殺したのよ。新聞に大きく出てるわ」
途端に、ぱっちりと目が醒めた。
「なんだって?」
そういいざま、むくりと起き上ったが、むしろそんな彼の勢いに驚いている高子の顔をみると、ファッション班でもない自分がこんなにあわてるのは、不自然なことだと気がついた。
スタイリストといっても、なにもあの神永留美のことだとは限らない。清里は、手の甲で目をこすった。
「びっくりさせるなあ、朝っぱらから自殺だなんて。なんていうスタイリストだ?」
「えーとねえ……あの山の吊橋の人は、なんて人でしたっけ?」
あのとき、留美のことは、ただ社の電話交換手の友達のスタイリストとだけいっておいたのだが、高子はそれを憶えていたらしい。
清里は、思い出そうとでもするように目をつむって、頭をくらくらとさせたが、正直いうと、留美の名を口にするのを躊躇《ためら》ったのだ。
「あれは、神永留美だ」
「じゃ、ちがうわ。よかった。私ね、もしかしてあなたの肩に痣《あざ》をつけた人だったら、厭だなと思ったの」
彼は、目をつむったまま、ゆっくりと躯をうしろへ倒した。
「ごめんなさい、無理に起こしちゃって」
「スタイリストはね、東京にだけでも三百人はいるんだよ」
「でもね、見出しをみたら、なんだか胸騒ぎがしたのよ。急いで読んでみたら、あなたの雑誌のことも出てるでしょう。それで、もしやと思ったの」
彼は、ちょっと驚いて目を開けた。
「うちの雑誌のことも出てるって?」
「ええ。お弓さんの談話も出てるわ。新聞、持ってきますね」
「それに、水」
と高子の背中にいって、すると自殺をしたというのは、うちの雑誌で使っているスタイリストの一人だったのか、と彼は思った。
佐野弓子の当惑した顔が、まっさきに目に浮かんだ。それから、社内で時々みかけるスタイリストたちの顔がつぎつぎと浮かんだ。けれども、清里は、彼女たちの名前はほとんど知らなかった。
高子が持ってきた朝刊を、起き上ってひろげてみると、まず、
〈育児と仕事の板ばさみ 女性スタイリスト飛び降り自殺〉
という大きな見出しが目に入った。
死んだのは、桜木はるえという三十歳のスタイリストで、顔写真も出ていたが、清里には見憶えがなかった。記事によると、このスタイリストにはイラストレーターの夫と三つになる女の子がいて、子供は毎日近くに住む姉夫婦のところに預けて仕事に出かけていたが、スタイリストとしての仕事が増えるにつれて帰宅の時間が遅くなり、時には徹夜になることもあって、一昨夜、姉夫婦に、仕事か育児か、どちらかを選ぶべきだと忠告されて、悩んだ末に、結局仕事を捨て兼ねてマンションの十一階から飛び降り自殺を遂げたものらしいという。
記事の末尾に、『月刊女性』編集部ファッション担当デスク談として、
〈あんなに明るくて仕事熱心な方がと、とても信じられない気持です。スタイリストは表面華やかな職業で、若い人たちのあこがれの的になっていますが、裏の苦労が多くてなかなか大変な仕事なのです……〉
という佐野弓子の談話が出ていた。
清里は、酔いざめの水を一と息に飲むと、重い頭をまた枕に戻して、目をつむった。すると、瞼《まぶた》の暗がりに、あの空色の卵が浮かんだ。それは、なぜだか実物よりも艶やかな光沢を帯びていた。佐野弓子が間違えたように、実際よく磨かれたトルコ石のようにみえた。
どうやらあの卵も、と清里は思った。これでひとまず形見になることを免れたわけだ。
「社へ顔を出さなくって、いいかしら」
そばで新聞を畳む音をさせながら、高子がいった。
「いいさ。こっちには関係のない人だから」
「でも、主にあなたの雑誌で仕事してたみたいじゃない?」
「そこにお弓の談話が出てるところをみればね。だけど、憶えがないな、その顔には。まあ、ファッション班に任せておくさ」
そうはいったものの、考えてみると、正式の社員ではないにしても雑誌の編集に携わっているスタッフの一人が、突然こういう死に方をしたというのは初めてのことで、こんなとき、たとえ分担がちがっていてもデスクの一人としてどうすればいいのか、正直いって清里には見当がつかなかった。
校了明けの日は休みになるが、校了日は班によってまちまちで、いつも他の班より一と足遅れるファッション班はその日も出社しているはずであった。校了に、思わぬことが重なって、さぞかしみんな苛立《いらだ》っているだろうと、彼は同情した。
「それじゃ、電話だけでもしてみるか」
「そうした方がいいと思うわ」
「お弓を慰めてやらないとな」
佐野弓子は、女にしてはなかなか度胸のいい方で、どんなに忙しいときでも滅多にヒステリーなど起こすことはないのだが、それでも年にいちどか二度は、堪り兼ねたように受話器を叩きつけたりすることがある。
彼は、宿酔《ふつかよい》で、起きると頭の芯《しん》が痛んだ。隣りの茶の間の炬燵《こたつ》の上に、ブランデーの黒い瓶《びん》が出ていて、それをみると、途端に胸がむかついてきた。おい、と彼は高子を呼んだ。
「なんであれが、あんなところに出てるんだ。早く仕舞えよ」
「あら、あれは今朝、あなたが自分で出したのよ。もうおよしなさいっていうのに、一杯だけって飲んだでしょう。憶えてないの?」
彼は、黙って受話器を取ると、ダイヤルを廻した。
「朝は酒の顔もみたくないのに、日が暮れるころにはまた飲みたくなるんだから、おかしな躯ね、全く」
高子がそんなことをぶつぶついっている。
もし社の交換手が芹沢妙子だったら、
「スタイリストが自殺したね」
そういってみようかと彼は思っていた。おなじ道の先輩に先を越されて、留美がどんな衝撃を受けているかを知りたいような気がしたからである。けれども、出たのは妙子ではなかった。
ひょっとしたら、弓子は死んだスタイリストの自宅へでも出かけて、留守かもしれないと思っていたが、まもなく、いつもより張りのある声が耳に飛び込んできた。
「新聞でみたよ。大変だろう」
「ああ、清さんか。その声は宿酔だな?」
と弓子はいった。
弓子の口から、歯切れのいい男言葉が、矢継ぎ早に飛び出してくるときは気が高ぶっている証拠で、そんな弓子の早口と一緒に、校了直前の殺気立った空気が清里にも伝わってきた。
こんなときは、長電話は禁物だから、死んだスタイリストのことは抜きにして、
「新聞の談話を拝見してね、しょげてんじゃないかと思ったけど、案外元気なんで安心したよ」
そういうと、弓子は急に声を低くして、
「いまは、しょげちゃいないけどさ、一時は自己嫌悪ってやつで、しばらく、しゅんとしてたのよ」
といった。
「へえ、あんたにも自分が厭になるときがあるのか」
「あら、私はもともと自己嫌悪のかたまりよ。だけど、今度は参っちゃった。あの人ね、ゆうべ亡くなった桜木さん、一と月ほど前に自分の悩みをちょっと洩らしたことがあるのよ、私に。でも、仕事と育児の板挟《いたばさ》みなんて、働いてる女性には付きものの悩みだしさ、あの人もにこにこしながら話すから、あんまり身を入れて聞いてあげなかったのよ。私、わりかし本音が読める方なんだけど、まさかあの人が死ぬほど悩んでいるなんてちっとも気がつかなかった。だから、知らせを受けたときは、大ショックよ。がっくりしちゃってね」
「だけど、それは仕方のないことだよ。人って、もともとそうわかり易い生きものじゃないんだから。どだい、自分のことだって……」
弓子が、そばにいる誰かに、小声で指示を与えている。彼は、もう話すのはよそうと思った。
「まあ、そう気にしないことだ。なにか、手伝おうか?」
すると、弓子はくすっと笑って、
「迎え酒でもして出てくるか。でも、宿酔の男なんて、邪魔になるばかりよ。まあ、きょうのところは、味噌汁でもちびちび飲みながら寝てるんですな」
といった。
清里は、苦笑しながら受話器を置くと、また隣室の寝床へ引き返した。
「お弓さんの声、私にまできこえたわ」
と呆れたように高子がいった。
「ああやって、みんなの気を引き立ててるんだよ。校了だから、誰かが死んだからって、そうしんみりともしていられないんだ」
「……仕事って、大変ね」
「だから、一と区切りつくと、こんなふうになる」
彼は、校了明けの日は一日中パジャマを脱ぐことがない。
「スタイリストって人たちの仕事も、そんなに大変なの?」
「まあ、大変といえば大変だろうな。編集者から出されたテーマによって、洋服は勿論、帽子や靴やアクセサリーまで、すべて自分で借り集めてきて、それを組み合わせてモデルに着せて、撮影にまで立ち会うんだから。センスも要るし、いろんな店の信用も要る。それ以上に、相当な体力が要るんじゃないかな」
彼は、ふと神永留美の痛々しいほどに細くくびれた胴を思い出して、あんな痩《や》せっぽっちにスタイリストが勤まるのだろうか、と思った。すると、なんとなく吐息が出た。瞼の闇には、いつのまにか、空色の卵の代わりに赤い色の渦ができていて、それがくるりくるりと廻っている。なんだか目が廻りそうだな、と彼は思った。
再会
翌朝、出社してみると、ファッション班は校了明けで誰も出ていなかった。仕事は明け方までかかったらしく、編集室の三分の一を占めているファッション班の机の上は、まるで嵐が吹き抜けたあとのように乱雑をきわめたままになっていた。
佐野弓子をはじめ、大部分が女性部員なのに、灰皿に盛り上っている細身の煙草の吸い殻には、いつもとちがって口紅の色がほんのりともみえない。そんな灰皿のどれかが、ついさっきまで燻《くすぶ》っていたかのように、部屋の空気は薄く濁って、やに臭かった。
二月号が校了になると、もう年内の仕事はあらかた終ったようなもので、編集部はのんびりとした雰囲気《ふんいき》になる。クッキング班でも読物班でも、きのうの新聞に出ていたスタイリストの死が雑談の話題になったが、そのうちに、三月号の打ち合わせに出かける者や、急に忘れていた用事を思い出したりした者が、一人去り、二人去りして、昼近くには、読物班では清里独りになってしまった。
ゆうべ、死んだスタイリストの通夜で遅くなったという編集長はまだ現われなくて、兵藤は今朝から京都へ出張している。
清里は、昼食に立つ前に、べつに用もないのに鍵のかかる引出しを開けてみた。留美から貰った椋鳥の卵は、白い紙の球になってまだそこにある。彼は、それを確かめただけですぐ引出しを閉めたが、きのう新聞をみてから、留美のことがまた妙に気になり出していることは、自分でも認めないわけにはいかなかった。
きのうの電話で、佐野弓子が、死んだスタイリストの悩みを親身に聞いてやらなかったことを悔んでいたが、留美は、一体なにを悩んでいるのだろうか。たとえ冗談半分にしても、芹沢妙子が留美に自殺のおそれがあることをほのめかしていたし、椋鳥の卵などを名刺代わりにするような留美自身、本当に卵のように脆《もろ》い女かもしれないのである。このまま知らぬ顔をして放っておいて、いいものだろうか。あとで弓子のように悔むことになりはしないか。
「食堂は、なんだい?」
清里は、廊下で会った営業部の事務員に、そういって社員食堂の献立を訊《き》いた。
「カレーライスと、魚のフライみたいです」
社員食堂の献立は、毎食二種類だけで、どちらも自分向きじゃないなと彼は思った。
これは清里だけに限ったことではないが、校了直後は、寝不足やらストレスやら煙草の吸いすぎやらが重なって、胃が荒れている。カレーもフライも嫌いではないのだが、ここ当分は御免|蒙《こうむ》りたい。
彼は、外で軽い食事を済ませてくると、エレベーターに乗る前にちょっと電話室を覗いてみた。けれども、芹沢妙子はいなかった。
「妙ちゃんは?」
「きょうは風邪でお休みです」
同僚の一人が、交換台の前から振り向いて答えた。滅多に顔をみせない編集部員が突然現われたので、怪訝《けげん》そうな顔つきで、
「なにか、急用でしょうか」
「いや、べつに……風邪はひどいの?」
「そう大したことはないみたいですけど、喉《のど》がすこし……」
「そうか、喉が大事だからな、あんたたちは」
彼は、エレベーターで六階の編集室に戻った。席につくと、それをどこかでみていたように、机の上の電話が鳴った。
「はい、編集部」
「清里さんに、外からですけど」
さっきの交換手だったが、そういう取り次ぎ方がいつもとはちがっていて、清里は、おや、と思った。
いつもなら、まず電話をかけてきた相手の名を告げるのだが、新米でもないのにそれを忘れて、ただ外からだといっている。それに、交換手の声が意味のない笑いを含んでいるのも解《げ》せなくて、
「どうしたの? 外の誰から?」
と清里は訊いたが、交換手は彼の返事も待たずに繋《つな》いだらしく、もしもし、という別な女の声がきこえてきた。
「はい、清里ですが」
「おひさしぶりです。いつぞやはどうも……お元気でらっしゃいます?」
甘えるような、いかにも親しげな口の利き方だが、声は聞き憶えのない濁った鼻声で、はて、と清里は眉をひそめた。相手が誰だか、まるで見当がつかなかった。
「……どなたでしたっけね」
彼は、ちょっと唸《うな》ってみせてから、そういった。すると相手が、
「あら、お忘れですか? 私、神永留美ですけど」
彼は驚いて、思わず机に突いていた肘《ひじ》を持ち上げた。
「ああ……これはどうも失礼。勿論、憶えてますよ」
「先日差し上げた椋鳥の卵、大事にしてくだすってます?」
「ええ、それはもう……紙に包んだまま、机の引出しに入れてありますよ。鍵のかかる引出しにね」
彼はそういって笑ったが、心のなかでは軽い失望を感じていた。留美がこんな耳ざわりな鼻声で、こんな甘えた物のいい方をする女だとは思ってもいなかったからである。
あの吊橋のときとは、大分感じがちがうな。彼は、頭の隅で、ちらとそう思った。もっとも、あのときは、お互いに気が気ではなくて、とても相手の声を味わっている余裕などなかったのだが。
不意に、相手が電話口で咳《せ》き込んだので、彼は耳からちょっと受話器を離した。無作法な女だ、と失望が募った。
「……で、きょうは、なにか?」
と彼はいったが、声に情けなさが出たのが、自分でもわかった。すると、相手はがらりと口調を変えて、
「ごめんなさい、あたしですよ」
といった。
声はちがうが、そういう口調は芹沢妙子で、
「なんだ、妙ちゃん?」
「そうです。風邪で、こんな声になっちゃったんですよ。まるで別人でしょう?」
けろりとして笑っている。
彼は、むっとしたが、妙子に担がれた不快さよりも、こんな相手が留美ではなくてよかったという安堵《あんど》の方が強かった。
「……よくない趣味だな」
彼は、憮然《ぶぜん》とした気持でそういった。
「でも、さっきは、留美さんのことでみえたんでしょう? 電話室に」
そのことを、仲間がさっそく連絡したのだ。ちょっと返事に窮していると、
「お急ぎでしたら、あたしのアパートへいらっしゃいません?」
と妙子がいった。
「いや、べつに急ぎやしない」
清里は、あわて気味に、ついそういってしまってから、これでは留美のことで電話室を訪ねたことを自分で認めたことになる、と気がついたが、もう遅かった。
「やっぱり、留美さんのことだったんですね」
案の定、妙子はそういった。
「てっきりそうにちがいないと思ったから、ちょっと留美さんに化けてみたんですよ」
「最初から、なんだか変だと思ってたんだ。女はときどき化けるからこわいよ」
清里は、仕方なく笑ってそういってから、きのう、新聞でスタイリストが飛び降り自殺をしたという記事を読んだので、留美のことがなんとなく気になっていたのだと打ち明けた。
「あんたが、あの椋鳥の卵が形見になるかもしれないなんていうからだよ」
「だって、本当にそんな気がしたんですもの、あの人をみてたら」
「……自殺をするかもしれない、そんな気がしたわけか」
「ええ。もしかしたらね」
「というと? 今度の桜木というスタイリストは、仕事と育児の板挟みになって悩んでいたそうだけど、あの人にはどんな悩みがあるのかね」
「それは、とても電話なんかじゃ話せませんわ。ですから、お寄りになりません? 帰りにでも」
「あんたのところに?」
「ええ。なにもお構いできませんけど、コーヒーだけは美味《おい》しいのがありますよ」
冗談じゃない、と彼は思った。まさか、ゆきずりにも等しい女のことで、おなじ社の女子社員のアパートをのこのこ訪ねたりするわけにはいかないのだ。
「まあ、よしておこう。喉が悪い人に、余計な話をさせるのは気の毒だ」
婉曲《えんきよく》にそういうと、
「平気ですよ。声はこんなだけど、話すのは苦痛じゃないんです」
「いや、やっぱり風邪が直って、出てきてからにするよ。こっちだって、風邪を移されたりしたら困るからね」
「大丈夫。移すようなことはしませんから」
妙子は、くすくす笑っている。どういうつもりでそういったのかわからなかったが、彼は顔が赤くなるような気がした。
「じゃ、出てきたら、ちょっと知らせてよね。お大事に」
そういって電話を切ろうとすると、
「念のために、アパートの住所と電話番号をお知らせしておきますから、どこかに控えておいてくださいます?」
なにが、念のためにだ、と彼は相手のしつこさに呆れたが、妙子の住所はすなわち留美の住所なのだからと思い直して、メモ用のザラ紙に、妙子のいう所番地と電話番号を書き留めた。
「西武新宿線の鷺宮《さぎのみや》の駅から、すぐですから。歩いて、ほんの二、三分です」
それは、どうでもいいことだったが、
「駅前から電話をしてくだされば、道順を教えて差し上げます」
妙子は、いずれ訪ねてくるものだと、独りで決め込んでいるらしい。
「わかったよ。どうも御親切に」
と彼は顔をしかめて、電話を切った。
清里は、妙子から聞いてザラ紙に書き取ったものを、あとで手帳の住所欄に書き写しておいた。ところが、それがまもなく、思わぬところで役立った。
妙子と電話で話した翌々日、佐野弓子がぶらりと彼の席へやってきて、
「きのう、あなたの幻の人に会ったわよ」
と囁《ささや》いた。
「幻の人?」
誰のことかと思うと、
「ほら、北海道は余市の生まれ」
それで、神永留美のことだとわかった。
きのう、桜木はるえの葬儀に、留美がスタイリストでは古株の園田百合子のお供できていたという。
「幻か。なるほどね。なにしろ、地上何十メートルかのところで、一遍しか会ってないんだからな、あの人には」
「お安くないじゃないの。マンションの一室だって、地上何十メートルかよ」
「ところが、残念ながら山の吊橋でね」
「じゃ、揺れる恋路か」
と弓子は笑って、
「なかなか綺麗な娘《こ》じゃない? 色白で、目が野性的で。ちょっとハーフ臭い顔立ちだけど」
「ハーフなら、あんなに痩せて骨っぽくはないだろうけどね」
「へえ、あなた、彼女のヌードをみたことあるの」
彼はびっくりした。
「吊橋の上でヌードになる娘《こ》なんて、いるわけないだろう?」
「だって、躯を知ってるみたいなこというんだもの。私には、衣裳《いしよう》を通してみえるんだけどさ、あれは痩せてるけど、なかなかいい躯よ。均整がとれてるし、鞭《むち》みたいな弾力があるし……」
それに思わぬ力もあるし、と彼は、吊橋の上で留美に掴《つか》まれた肩の痛さを思い出した。ついでに、ふと背中に触れてきて、忽《たちま》ちそこに押し潰されたものの、腰の強い柔かさも思い出した。
「初めは、新顔のモデルさんかと思ってたんだけど、帰りに園田女史にアシスタントだって紹介されて、へえ、と思ったの。なかなか仕事ができるんだってね、あの齢で」
「そうかい。なにしろ、こっちにとっては幻でね、姿かたちももう朧《おぼろ》げなんだ」
彼が笑ってそういうと、
「……それじゃ無理だな」
と弓子はいった。
「無理って、なにが?」
「彼女の住所。ひょっとしたら、もう掴んでるんじゃないかと思ったけど、姿かたちも朧げじゃ、無理よねえ」
「と思うだろう。ところが……」
そういいながら、上着の内ポケットから手帳を取り出すと、
「……わかるの? 凄《すげ》え」
と弓子がいった。
「但し、アパートの所在地だけだよ」
「それで結構よ。電話はあとで局に問い合わせるから」
弓子は、彼のいう所番地を自分の手帳に書き留めた。
「だけど、彼女の住所がなんで要るの?」
「しっかりした娘《こ》らしいから、目をつけておこうと思ってさ」
「お弓さんがしごいて、一人前にしてやろうってわけか」
「あちらにその気があるならね」
弓子は、片目を軽くつむってみせた。
それから二、三日して、弓子と顔を合わせたとき、清里は、留美と連絡がとれたかどうか訊いてみた。
「それが、まだなのよ。いくら電話しても、誰も出ないの」
電話は直通で、番号には間違いがないはずだという。
「どうしたんだろう」
「彼女は独り暮らしなの?」
「多分ね」
「じゃ、留守なのよ。まあ、べつに珍しいことじゃないけどね、相手は仕事を持ってる若い娘《こ》なんだから。朝から晩まで、あちこち飛び廻ってるんだわ、きっと」
多分そんなことだろう。清里もそう思い、それきり留美のことはなるべく思い出さないようにしていたが、それでも、なにかの拍子に、留美の部屋にむなしく鳴り響いている電話のベルが、ふと耳にきこえるような気がして、立ち止まりそうになることがあった。
その部屋に、誰もいないのであればいい。けれども、まさかとは思うが、そこに留美が横たわっているのだとしたら、などと彼は考えたりした。
そのたびに、余計なことだと自分を嗤《わら》うが、ふと気がつくと、いつのまにかまた似たような不吉な想像に捕われている。
妙子からは、なかなか出社したという知らせがなかった。交換室に様子を尋ねてみると、風邪が思いのほか長引いて、今週いっぱいは休むことになるらしいという返事であった。
その週の金曜日の昼、清里は、地下の社員食堂で、偶然、弓子と隣り合った。すると、弓子の方から、
「どうやら彼女、こっちにとっても幻の人になりそうよ」
といった。
「まだ、捕まらないのか」
「そうなのよ。ずっと留守つづきなの。園田女史って人使いが荒いので有名だけど、こんなに手下をこき使うかなあ。それとも、はやばやと休みを取って、正月をしに余市へ帰っちゃったのかしら」
さあ、と首をかしげたきり、黙っていると、
「ところで、そちらは、なんで彼女を追っかけてんの?」
と弓子がいった。
「こっちは、追いかけてなんかいないよ」
「隠したって駄目よ。顔にそう書いてあるんだから」
弓子は自分が読物担当の編集者として留美に関心を寄せているのだと思っているらしい。清里はそう気がついたが、顔のことをいわれたときは、ひやりとした。
「顔にはどう書いてあるか知らないけどね」
と、彼はわざと陽気に笑っていった。
「正直いって、ただなんとなく気になる娘《こ》だという程度の関心しかないんだよ、いまのところは。仕事とはなんの関係もないんだ」
「そうか。まだ個人的な関心の域を出ないってわけね」
「だから、そちらになにか彼女を含めたプランでもあったら、どうぞ御随意に」
「了解」
と弓子は頷《うなず》いたが、ふと真顔になって、
「気になるっていえば、私にも一つ、気になることがあったな、彼女をみていて」
思い出すようにそういった。
清里は、フォークを使う手をとめて弓子をみた。
「彼女の顔に、なんかこう、暗い翳《かげ》があるのよね。愁いがあるっていうより、沈痛って感じ。それがちょっと気になったんだけど。あれは、どうなの? 性格からきてるの? それとも……」
「だけど、葬式の式場で会ったんだろう?」
と、清里はまたフォークを動かしながら、なんとなく早口でいった。
「そうか。そのせいもあるか。同業者の葬式のとき、晴れ晴れした顔でうきうきしてたら、かえっておかしいものね」
弓子は、ナプキンで口をぬぐうと、それをまるめて皿に落とした。それが、清里に、留美の卵を包んだ紙の球を思い出させた。
「それから、ついでにいえば、あの目ね」
と弓子がいった。
「目?」
「あの黒い、きらきらした目よ」
清里は、吊橋《つりばし》の上で浴びた強い視線を思い出した。
「……それが、どうかしたの?」
「べつに、どうしたってわけじゃないけどさ。あの目、まるで顫《ふる》えてるみたいにきらきらしてるじゃない?」
「なにしろ、まだひよっこらしいからね。名にし負う月刊女性の佐野女史の前に引き出されて、怯《おび》えてたんだろう」
「なにいってんの。私あ鬼婆じゃないよ」
と弓子は笑って、
「だけど、あの目は、曲者《くせもの》だね」
「……曲者か」
「清さんが彼女に個人的な関心を持つようになったのも、あの目のせいじゃない?」
清里は、口のなかのものを無理に呑み込んで、急いでコップの水を飲んでみせた。
「つまりさ、あれは同年輩の男にはわからない目なのよ。黒曜石みたいな、綺麗《きれい》な目だってことはわかるんだけど、その綺麗さにただはらはらするばかりで、手の施しようがないのよね。ところが、清さんぐらいの年頃になると、よくわかるんだな、あの目のなんともいえないよさが。だから、気になるのよ。とても放っておけないっていう気持になる……」
「よしてくれよ。食欲がなくなっちまうじゃないか」
清里は苦笑して、まだ食いかけの皿にフォークを置いた。
翌週の月曜日になっても、電話交換室からはなんの音沙汰もなかった。夕方、新年号から連載小説を書いて貰っている女流作家の若月蘭子から電話がきたとき、取り次いでくれた交換手にあとでちょっと妙子の様子を尋ねてみると、
「それが、もう二、三日お休みになるみたいなんです」
自分たちも困っているというふうにその同僚はいった。
「随分ひどい風邪だったんだね」
「なにしろ喉《のど》の風邪ですから。あたしたち、声をやられたら仕事になりませんから」
清里は、それからまもなく帰り支度をして社を出ると、その練馬の女流作家の自宅へ印刷所から出来てきたばかりの二月号の刷出しを届けにいった。
連載といってもまだ二回目だから、清里はそのあたりの地理には不案内で、
「新宿へ出るには、乗物はなにが便利でしょう」
帰り際にそう尋ねると、
「そうねえ、中村橋からバスで鷺宮へ出て、西武新宿線に乗るのが一番早いんじゃないかしら」
と若月蘭子がいった。
おや、妙子のアパートのある街だ――鷺宮と聞いたとき、清里はすぐそう気がついた。訊《き》くと、鷺宮までは、中村橋からバスで七、八分、歩いても男の足なら二十分足らずだという。意外に近いところまできているわけである。
清里は、若月家を出てから、ふと、ちょっと寄ってみるかと思い、すぐに、馬鹿なと、そんな自分を嗤《わら》った。彼はこれまで、自分の社の女子社員に限らず、若い女の住まいを独りで訪ねたことなど、いちどもなかった。
けれども、おそわった道を中村橋へ向って歩いているうちに、清里は、妙子のアパートを外からちょっと見るだけでも見ていきたいという誘惑に、耐えられなくなった。中村橋の駅に着くころには、ここまできていて、見舞いにも寄らずに素通りする方が、かえっておかしいのだと思うようになっていた。
彼は、新宿へ出るつもりだったが、べつに急ぐ用事があるわけではなかった。前に、お京の店で働いていたことのある女性が新宿にスナックの店を持つことになり、きょうがその開店披露の日で、彼は仕事の用を済ませてから、一緒に招待されている兵藤たちとその店で落ち合うことになっている。用事といってもそれだけで、すこしぐらい遅れても構わなかった。
彼は、中村橋まで出ると、なんて馬鹿なことをと自分を嗤いながら、駅前通りの果物屋であまり安くないネーブルを一と籠買った。それから、バスを待つのも歩くのももどかしくて、タクシーを拾うと、鷺宮の駅前までいって、全く俺はどうかしているぞ、と思いながら、公衆電話のダイヤルを廻した。
すると、まるで待っていたかのように、妙子がすぐ出た。
「ごめんなさい、こんなに長引いちゃって。実は、明日から出ようと思ってたんですよ」
彼は内心、舌うちした。やはり余計なことをするのではなかったと、ネーブルの籠の包みに目をやったが、このお荷物をほかへ流用するにしても、スナックの開店祝いにネーブルというのは、どんなものだろう。
「でも、休んでる間に、きっといらっしゃると思ってましたわ。そこまでお迎えにいけませんけど、ほんの二、三分ですから。じゃ、道順を……」
彼は、薄気味が悪かった。まだ自分がどこにいるとも告げていないのに、妙子の方はもうとっくに、鷺宮の駅前まできていることを知っている。アパートの窓から、双眼鏡ででも見張っていたのだろうか。
彼は、妙子のいう道順を頭に入れてから、
「だけど、驚いたねえ。僕が一体どこにいると思ってるの?」
「あら、鷺宮の駅前でしょう?」
「僕がそういったかね」
「いいえ。でも、そこは鷺宮の駅前でしょう?」
「そうだよ。どうしてわかる?」
「だって、チンドン屋の音がきこえますもの」
と妙子は笑っていった。
商店街は、そろそろ歳末大売り出しの時期で、なるほどすぐ近くのストアの前で山高帽子にどた靴のチャップリンがクラリネットを吹き鳴らしていた。
「さっき駅前までちょっと出たんですよ。きょうあたり、きっといらっしゃると思ったから、挽《ひ》き立てのコーヒーを買いに」
まだすこし、かすれている喉でころころと笑う声がきこえて、電話が切れた。
「……参ったな」
彼は思わずそんな独り言をいった。それから、受話器を置いて、教えられた道を歩き出した。
商店街の裏手の路地の奥にある駒鳥荘という妙子のアパートは、すぐわかった。独身貴族と呼ばれたりする女子社員や、スタイリストが住んでいるというから、洋菓子のような洒落《しやれ》たアパートかと思えば、そうではなくて、吹き抜きの廊下にドアが五つ六つ並んでいるだけの、地味で、こざっぱりした、モルタル塗りの二階家であった。その二階の、奥から二番目のドアの把手《とつて》に、目印の白いハンカチが結びつけてあるのが、葉を落とした植え込み越しにみえていた。清里は、ともすればハンマーで叩いたような音を立てる鉄の外階段を、足音を殺しながらゆっくり昇っていった。
妙子の一つ手前のドアの脇には、知らない女の名札が出ていた。すると神永留美は、一番奥の部屋に住んでいるのだ。
清里は、妙子の部屋の前を素通りして、奥の部屋のドアのところまでいってみた。もしかしたら、留美はもうそこにはいないのではないかという気がしていたからである。
そのドアの脇の名札入れには、肩書のない留美の黄ばんだ名刺が、無造作に挟《はさ》み込んであった。
そのとき、不意に、
「どうぞ御心配なく。黙って引っ越しゃしませんよ」
そういう妙子の声がきこえて、彼は名刺へ伸ばしかけていた首をあわてて引っ込めた。
隣りのドアが、いつのまにか細目に開いていて、そこから妙子の顔が覗《のぞ》いていた。やあ、と彼は、そのドアの方へ戻った。
「うちの編集部でいくら電話をしても留守だというもんだからね、もしやと思ったんだ」
「仕事でずっと旅行中なんです、先生と一緒に」
「なるほど……」
彼は頷《うなず》きながら、自分でドアの把手のハンカチをほどいて、妙子に渡した。
「どうぞ、狭苦しいところですけど」
「じゃ、ちょっとだけ……」
妙子は、そんな趣味でもあるのか、オランダ縞に似た地味な和服を着ていた。狭い玄関で、ドアに内鍵《うちかぎ》をかける妙子と肩が触れそうになったとき、ぷんと樟脳《しようのう》の匂いがした。
彼は、そんな妙子をちょっと意外に思うと同時に、妙子がほかのものではなく和服をきちんと着ていることに、なぜともなしにほっとした。
玄関のすぐ右手が台所で、
「これ、果物だけど」
と彼は、ネーブルの籠の包みを冷蔵庫の上に置いた。
「どうもすみません。若月さんのお宅へいらっしゃったんですって?」
「そうなんだ。それで途中、中村橋で……」
彼はそういいかけて、なるほどそうかと気がついた。若月というのは、ついさっき刷出しを届けてきた女流作家だが、出かける前に電話でそんなことを話したから、それが同僚の交換手から妙子へ筒抜けになっているのだ。
「どうやら、なにもかもお見通しらしいね。油断できないな」
「すみません。でも、べつに、いちいち情報を仕入れているわけじゃないんですよ。さっき、別なことで社へお電話してわかったんです」
暖簾《のれん》をくぐると、絨緞《じゆうたん》を敷き詰めた八畳ほどの洋間で、真四角な座卓のまわりに、さまざまな形をしたクッションがいくつか散らばっていた。壁際には、洋服ダンスと小型のステレオと三面鏡が並んでいて、反対側は和風の襖《ふすま》になっている。
清里は、見廻しながら、頭の隅で、隣りの留美の部屋もこことおなじ造りになっているわけだと、そう思っていた。
「こっちは六畳の和室になってますの」
妙子が襖の方へ手を伸ばしていった。
「寝室にしてるんですけど、ごらんになります?」
「いや、結構。声、大分よくなったね」
清里は、急いで話題を変えた。
「おかげさまで。一時はどうなることかと思いましたけど。ほら、いつかお電話しましたね、あの日あたりが最悪だったんです」
「そういえば、まるで別人みたいな声だったな。おかげで、こっちはまんまと担がれてしまった」
妙子は、柔かそうな喉をこっちへみせるようにして、ころころと笑った。さっきも電話口でそんな笑い方をしたが、それは、これまで清里にはまるで憶《おぼ》えのない笑い方であった。女には、自分の家にいるときだけの笑い方、いわば取って置きの笑い方というものがあるのかと彼は思った。
部屋は、ガスストーブで暖まっていた。清里は、赤やピンクのクッションは敬遠して、絨緞にじかに腰を下ろした。
「コーヒーになさいます? それとも、おビール? 冷えたのがありますけど」
そういう妙子の声がうわずっていた。清里は、正直いえばビールが飲みたかった。喉がからからに渇いていた。いけないな、と思いながら、
「コーヒーは、社でもう何杯も飲んだしな」
「じゃ、おビールになさいませ」
「そうねえ。だけど、いいのかな?」
「どうぞ。構いませんわ。いけないなんていう人、誰もいませんもの」
妙子は、全身をくまなく小刻みに揺さぶるような歩き方で、台所の方へ出ていった。部屋が暖かすぎて、汗っかきの彼はすぐに顔が汗ばんできた。
「さっき、社へ電話をしたといったね」
彼は、絨緞にうしろ手を突いて、瓶《びん》の触れ合う音がしている台所へ話しかけた。
「ええ。社をお出になったすぐあとだったんです」
「別なことって、なんだった?」
「勿論《もちろん》、お隣りのことですよ」
妙子は、ビールとコップを盆にのせて戻ってきた。
「お隣りの電話が、あんまりたびたび鳴るもんですからね、郷里《くに》の方でなにかあったのかしらと思って、お姉さんに問い合わせてみたんです」
「お姉さん、というと?」
「留美さんのお姉さん。今年の春まで、お隣りで一緒に暮らしてたんですけど、いまは結婚して名古屋にいるんです。でも、お姉さんも電話なんかしないと仰言《おつしや》るから、もしかしたらと思って社に訊いてみたんです」
妙子はそういいながら、馴れた手つきで栓を抜いた。
「ファッション班のお弓さんだよ、その電話の主は」
「そうですってね。それで、留美さんは旅行中で留守だってことを清里さんから伝えて頂こうと思ったんですけど、一と足ちがいでお出かけになったあとでした」
どうぞ、とすすめられて、清里はコップに注いで貰った。
「あんたは?」
「頂こうかしら」
妙子は、ちょっと首をかしげたが、盆には最初からコップがもう一つ伏せてあった。
「風邪に悪くないんだったら」
「風邪はもう、いいんです。じゃ、頂くわ」
清里は、瓶を受け取って、注いでやった。
「じゃ、乾杯……なんのために乾杯しましょうか」
と妙子がいったが、どこかの国の人々のように、乾杯のたびにいちいち理由を述べる習慣など、清里にはない。
「そんなことは、いいじゃないか」
「じゃ、再会のために」
「さいかい?」
「ええ、再び会うという再会」
自分と妙子がなぜ再会なのか、それが清里にはわからなかった。
「どういう意味だろう」
「……とにかく、再会なんです、あたしにとっては。訳を話しましょうか?」
けれども、それを聞けば余計厄介なことになりそうな気がして、
「じゃ、なんだか知らないけど、再会とやらのために」
「乾杯」
コップを合わせて、一と息に飲んで、みると妙子のコップも底の泡《あわ》だけになっていた。
「いい飲みっぷりだね」
「好きなんです、ビールが」
「そうらしいな。さっき栓を抜くときの手つきをみて、わかった」
「よく独りで飲みますから」
「独りかどうか、それはわからない」
「いいえ、独りですよ、いつも。だって、この部屋、男の匂いがします?」
「さあね……」
「しないでしょう。するのは、清里さんの匂いだけだわ」
「僕が、匂うか?」
「匂いますよ、御自分じゃ気がつかないでしょうけど。……あら、汗」
そういわれて、彼はまた顔が汗ばんでいるのに気がついた。
「暖かすぎます? ストーブを消しましょうか」
「いや、それじゃ風邪を引いてる人に悪いから」
「じゃ、上着をお脱ぎになったら? どうぞ遠慮なさらずに」
いいのか? こんなところで、こんなことをしていて――彼はそう思いながら、のろのろと上着を脱いだ。留美のことを聞き出しにきたのだから、それを聞かずに帰るわけにはいかないのだ。
妙子が立ってきて、清里が脱いだ上着をハンガーで隣室との境の長押《なげし》に吊《つる》した。その後姿が妻の高子に似ていた。妙子は白っぽい半幅帯を、男の角帯のように貝の口に結んでいたが、高子も家で和服のときは大概おなじような結び方をしている。
清里は、妙子の後姿に、なにか急《せ》き立てられるような気持になった。
「ところで、お隣りのスタイリストは大丈夫かい?」
「ええ、いまのところはね。仕事で気が紛れてるみたいです」
「こないだの事件で、ショックを受けた様子がなかった?」
「そりゃあね、おなじスタイリストですから。他人事《ひとごと》だとは思えないって、暗い顔をしてましたわ」
「そうだろうな」
「やっぱり私たち、結婚しちゃいけないのねえって、ちょっと淋しそうでしたけど」
「結婚しちゃいけないってことはないだろうけど、子供が生まれてからも仕事をつづけるということになると、いろいろ難しい問題が出てくるだろうな。でも、それはスタイリストに限らず、どんな共稼《ともかせ》ぎの女性にも共通の悩みだからね」
「自分も無理して結婚すれば、結局はあんなふうになるかもしれない、別れて、かえってよかったかもしれないって、留美さん、しんみりそういってましたわ」
清里は、ちょっと口を噤《つぐ》んで妙子をみていた。
「……いけなかったかしら」
「いや、そんなことはない。あの人にそんな相手がいたとしても、ちっともおかしくはないからね」
清里はそういったが、正直いえば、空腹に流し込んだビールの酔いがみるみる醒《さ》めていくような気がしていた。
「……なるほど」
と彼は改めて頷いた。
「あの人に、結婚の約束をした相手がいたわけか」
「ええ。学生時代からの仲だったらしいんですけど、この夏、その人と別れたんです」
「どうして?」
「くわしいことはわかりませんけど、どっちもわがままだからっていってましたから、あの人がスタイリストという仕事にこだわったことが、なにか障碍《しようがい》になったんじゃないでしょうか」
彼は、妙子が注ぎ足したビールを、黙って飲んだ。
「それ以来、あの人、すっかり塞《ふさ》ぎ込んじゃって、一時は半病人みたいだったんです。あの山の温泉場へ連れ出したのも、あたしなんですよ、なんとか気晴らしをさせてあげようと思って。ですから、吊橋の途中で動かなくなったときは、とても気が気じゃなかったんですよ、本当は」
「飛び降りるんじゃないかと思って?」
「ええ。なにしろ、あの人には前科があるもんですから、もしかしたらと思って」
「前科、というと?」
「前にいちど、睡眠薬をたくさん嚥《の》んで、救急車で運ばれたことがあるんですよ。そのときは、あやういところで助かったんですけどね」
彼は、ふと気がついて、指を焼きそうに短くなった煙草を、灰皿に捨てた。
「それは、いつのこと?」
「今年のお正月です」
「じゃ、まだお姉さんと一緒のころじゃないか」
「そうなんです。だから早くみつかって、助かったんですよ」
と妙子はいって、その晩、留美の姉は婚約者と二人でスキーに出かけるはずだったのが、急に相手の都合がつかなくなり、夜遅く引き返してきて、留美が異様な鼾《いびき》をかいて昏睡《こんすい》しているのをみつけたのだと話した。
「やはり、自殺を図ったのかね」
「あたしたちはそう思いました、直感で。あたしたちというのは、お姉さんとあたしですけど」
「普段、睡眠薬とは縁のない人だったの?」
「いいえ。毎晩すこしずつ嚥んでたみたいですけど」
「うっかり多く嚥みすぎたということは、考えられないの?」
「うっかりといっても、致死量ですからねえ」
「僕も睡眠薬のことはよく知らないけど、習慣になればだんだん嚥む量が増えるということはあるだろう」
「でも、たまたまお姉さんが留守になるという晩に、突然、量が増えるってことは、やっぱり不自然じゃないかしら。とにかく、お姉さんも、あたしも、これは自殺を図ったんだと思ったんです」
「原因は?」
「やっぱり相手の人とのことじゃないでしょうか。そのころはもう、すっかり仲がこじれてたみたいですから」
「本人は、なにもいわなかったの?」
「なんにも。病院から戻ってきたとき、ばつが悪そうに笑って、ごめんなさい、御迷惑をかけちゃって……そういったきり。それからは、あたしたち、あの晩のことはいちども口にしたことがないんです、お互いに。あの人も忘れたような顔をしてるし、あたしだって自分から他人の古傷に触るようなことはしたくありませんからね」
「でも、こないだの事件で、思い出したろう」
「あたしはね。あの人だって思い出したでしょう、きっと。でも、あたしと話したときは、あの晩のことなんかおくびにも出さなかったわ」
「意外に、意地っ張りなところがあるんだね」
「意地っ張りも意地っ張りですけど、彼女、あたしには滅多なことはいえないって警戒してるんですよ、監視人だから」
「監視人?」
「あの人のお姉さんがね、結婚して名古屋へいくとき、あたしにあの人の監視役を頼んでいったんです。なにか変ったことがあったら、すぐ連絡してくれるようにって」
「それを彼女は知ってるわけか」
「うすうすね」
清里は笑って、ビールを飲んだ。
「お姉さんの気持はわからないでもないけど、それじゃ彼女も暮らしにくいだろう。さっさとどこかへ引っ越せばいいのにね」
「そうはいきませんよ」
と妙子も笑って、二本目のビールを抜いた。
「だけど、このアパートの人たちは、みんな今年の正月の晩のことを知ってるんだろう? だったら、住みにくいじゃないか」
「ところが、誰も知らないんですよ。あたしとお姉さんとで、急性の虫垂炎だってことにしちゃいましたから」
そういってから、妙子は不意に、しっ、と唇に人差指を立てた。
清里は、なにかわからなかったが、ビールのコップを手にしたまま耳を澄ました。すると、どこからか、軽く鉄板を叩くような音がつづけざまにきこえてきた。
そうか、あれは誰かが外階段を昇ってくる足音だ。彼は、すぐにそう気がついたが、妙子は唇に人差指を立てたまま、黙ってこっちをみつめている。その目が、不思議な微笑を湛《たた》えていた。
「誰?」
「……あれを聞いただけでね、誰だかわかるんです」
「だから、誰?」
妙子は、なにもいわなかった。ただ、目の微笑が濃くなった。それが、ふと、女がなにか酷《むご》いことをするときにみせる笑いに似ているような気がして、彼はおかしなことを考えた。
(妙子の男がやってきたのではないか?)
こちらは上着を脱ぎ、ネクタイを弛《ゆる》め、絨緞にあぐらをかいて、樟脳臭い和服の妙子に酌をさせながらビールなど飲んでいるのだ。
「……いいのか?」
けれども、妙子は眉を上げて、斜めに、ちょっと頷くようにしたきりであった。それが、「どうぞお好きなように」とも、「いまさら、どう仕様もないでしょう?」というふうにも取れて、彼は、ままよと、手にしたビールを飲み干した。
足音は、外階段を昇り切って、廊下をゆっくり近づいてくる。まるでステッキみたいに固い靴音だ、そう思ったとき、不意にその靴音が止《や》んで、ドアにノックの音がきこえた。
「はい」
と妙子は、思いのほか明るい返事をして立ち上ると、乱れてもいない和服のあちこちを両手で繕いながら、小走りに玄関へ出ていった。
ドアが開くと、
「ただいま」
と、別な女の声がした。
「お帰んなさい。随分長かったわね」
「うん、ばてちゃった。これ、九州のお土産」
「どうも有難う。いつも、悪いわね」
「風邪、どう?」
「大分いいの。明日から出るつもり」
「声はもうすっかり……」
そこで、ちょっと言葉がとぎれて、
「あら、お客様だったの?」
「ええ、珍しい方。ちょっと上らない?」
「でも……」
それから、なにか小声のやりとりになったが、彼にはもうわかっていた。留美が仕事の旅から帰ってきたのだ。
こんなところで、こんなふうにして留美に会うのは不本意だったが、もはやどうすることもできない。彼は、せめてものことに、弛めていたネクタイだけをきちんと締めて、自分から暖簾を分けて出ていった。
「やあ、しばらく……」
妙子が振り向いて、顔をしかめて肩を揺すった。
「厭《いや》だわ、出てきちゃ。せっかく留美さんをびっくりさせようと思ってたのに」
けれども、留美はもう充分に驚いていた。あの吊橋のたもとでもそうだったように、黒くきらきらする目を大きく瞠《みは》って、瞬《まばた》きもせずに彼をみつめていた。
まるで、信じられないものをみているような目だ。清里はそう思った。あの吊橋の男が、突然、目の前に現われたばかりではない、その男が、くつろいだ恰好をして、酒で目のまわりを赤くして、妙子の部屋にいたということに留美は驚いているのだ。
そんな留美をみて、妙子がおかしそうに、くすっと笑った。
「どうしたのよ。ほら……忘れたの?」
すると、留美はちいさく首を横に振って、
「……清里さん」
ほとんど囁《ささや》くように、そういった。清里は笑って、頷いてみせた。
「いつぞやは、椋鳥《むくどり》の卵を有難う」
「いいえ、あれは……」
留美は、急にどぎまぎと目を迷わせると、そのまま唇を噛《か》むようにして、うつむいてしまった。あの吊橋のときよりも、幾分ふくよかになったかにみえる頬が、半分、黒いコートの襟《えり》に埋まった。
これが、男のことで、いちどは死のうとしたことのある女なのか――清里はそう思いながら、そんな留美を黙ってみていた。
「……変なの、二人とも」
妙子がそう呟《つぶや》いて、清里を流し目に、ちらとみた。それから、
「ね、清里さんなら構わないでしょう? ちょっと上ってって。美味《おい》しいコーヒーがあるの」
そういって留美を誘ったが、
「でも、私……またにするわ」
留美は、少女のように頭をぶるぶると振って、後じさりした。
「どうして? なにも遠慮することないのに」
「遠慮じゃないの。私、くたびれちゃったから……」
留美は、戸口に置いた自分の旅行|鞄《かばん》に足を取られて、よろけそうになった。
「危いわ」
「大丈夫」
と素早く旅行鞄を手に提げて、
「じゃ、私はこれで。お邪魔しました」
黒い目が、まっすぐ清里に注がれた。それが、佐野弓子のいうようにまるで顫《ふる》えているように光るのが、すこし離れていてもはっきりとみえた。
「ごめんください……」
「さよなら」
と清里はいった。ひるがえったコートの裾からブーツが光って、ドアが閉まった。
玄関の二人は、そのままじっとして、ドアの前を去っていくブーツの固い靴音を聞いていたが、やがて、妙子が肩をぴくりとさせた。
「変な娘《こ》。あわてて、帰っちゃった」
清里は、黙って部屋に戻ると、自分で上着をハンガーから外して、袖を通した。
「あら、もうお帰りになるの?」
「うん、新宿で人と会う約束があるんだ」
彼は、立ったまま妙子に頭を下げた。
「いろいろ有難う。見舞いにきたのに、長居をしてしまった」
「いいえ……清里さんまであわててお帰りになるの?」
妙子は、恨めしそうにそういったが、彼は黙ってコートを着た。すると、不意に背後から、両肩にしっとりとした力が加わった。押すでもなく、抑えるでもなく、引き寄せるでもない、不思議な指の力であった。
「また、きてくださいます?」
「……いつか、機会があったらね」
彼は、自分から妙子の手を離れて、玄関に出た。
さざ波
――一体、なにが起こったのだろう? あのとき、妙子の指先から、着ているものを通して、一体なにが自分の躯《からだ》のなかに忍び込んだのか。
清里は、妙子のアパートを訪ねた翌日あたりから、時々、心にそう呟いては、自分の躯のなかにじっと耳を澄ましてみるようになった。すると、そのたびに、実にかすかにだが、躯のどこか薄暗いところに淀《よど》んでいた古い血でも波立ち騒ぐような、ざわめきがきこえた。
そのざわめきに、彼が初めて気がついたのは、あの日、肩に置かれた妙子の手から逃れるようにしてアパートを出た直後であった。
「ああ、驚いた。全く人騒がせな女だよ、あれは」
彼は、駅の方へ急ぎながら、おどけたようにそんな独り言を呟いたが、躯のなかのざわめきは電車に乗ってからもまだ静まらなかった。新宿の新規開店のスナックで、兵藤たちと合流してからは、変に気持がうわずって、忽《たちま》ち酔ったが、翌朝、ふと気がついてみると、ゆうべのざわめきがまだ地鳴りのように尾を引いていた。
一体、自分の躯のなかに、なにが起こったのか。
彼は、妙子との別れ際の記憶を、何度も洗い直してみた。何度洗い直してみても、妙子はただ、うしろから自分の肩にそっと両手を置いたにすぎなかった。けれども、その妙子の手には、実に不思議な重みがあった。押すでもなく、抑えるでもなく、また引き寄せるでもない、ある種の力――あるいは、それらが互いに融け合って一つになった力が、しっとりとした重みになって、肩先から躯に滲《し》みてくるかのようであった。
躯のなかにざわめきが起こったのは、それからなのだ、まるでその肩先から滲みてきたものが躯の底で眠っていたなにものかを呼び醒ましでもしたかのように。
けれども、彼は、そんな女の手の不思議な重みを自分の肩に感じたのは、正直いってそれが初めてではなかった。以前――ずっと以前、確かに何度か憶えがあった。そのときの、相手は誰と誰だったか、もういちいちは思い出せないが、そのうちの一人が妻の高子だったことには間違いがなかった。
彼と高子とは学生結婚で、一年、同棲《どうせい》生活をしてから結婚したが、高子の手の重みで躯の血が騒ぐような思いをしたことがあったとすれば、それはおそらく同棲生活をはじめたばかりのころだったろう。すると、もう十五、六年も昔のことになる。それ以後、そんな憶えはとんとないから、彼は、そんな女の手の不思議な重みや、躯のなかのざわめきのことを、十五、六年もの間すっかり忘れていたのであった。
ある朝、彼は出勤の身支度をしていて、ふと思い出して、
「おい、上着」
と高子にいった。
「上着なら、そこに出てますよ」
と台所から高子がいった。
「……じゃ、出かけるぞ」
と玄関へ出ると、高子はやっとエプロンで手を拭きながら出てきたが、まだ上着も着ていない彼をみて、あら、と目を大きくした。
「あなた、上着は?」
「だから、いったろう? 上着って」
清里は、あわてて部屋へ駈け込んでいく高子を見送って、われながら子供じみたことをしているなと、気がひけた。それで、帽子掛けに掛けてあるコートのポケットを意味もなく探ったりしていると、高子が上着を抱えて戻ってきて、
「そうならそうと、いってくれればいいのに。ただ、上着っていうから……」
といった。
彼は、黙って背中を向けた。
「……どうしたの? 腕がどうかしたの?」
と、高子が上着を着せかけながらいった。
「近頃、肩が凝って仕様がない」
「じゃ、揉《も》みましょうか?」
「いや、あとでいい」
「上着を着る前に、そういってくれればよかったのに」
けれども、もう着てしまったのだ。彼は、ボタンをはめてから一と息入れたが、肩にはなにもこなかった。靴を履いた。
「コートは?」
「着ていく」
高子は、コートも着せかけながら、
「まだ、こんなものでいいのかしら。そろそろオーバーを出しましょうか?」
彼はまだ、秋のギャバジンのコートを着ていた。
「いや、まだこれでいいよ、今年は暖かいから」
「そうね、着るものが重たくなると、ますます肩が凝るものね」
コートを着てしまっても、やはり肩にはなにもこなかった。
「……おい」
と、彼は高子に背を向けたままでいった。
「ちょっと肩を抑えてみてくれないか」
「肩を? どっちの肩?」
「両方」
「抑えるって……こうするの?」
おずおずと両肩に手がきて、そこを抑えた。ただ手のひらが貼《は》りついたという感触であった。
「もうすこし……指先に力が入らないか」
「指先に? こう?」
と、高子は指圧をするように、親指だけに力を入れた。
「それじゃ強すぎるな」
「じゃあ……これでいい?」
彼は両肩に、十本の指先をばらばらに感じた。高子は両手の指をひろげて、肩を軽く鷲掴《わしづか》みにしているらしい。彼は吐息をした。
「……そんなところか」
「だって、わからないもの、どうしていいか。肩を、どうして欲しいの?」
「いや、どうして欲しいってことはないんだが……。もういいよ」
高子は、両手で、ぱんと肩を叩いた。
「変な人。どうしたのよ、一体」
「べつに、どうもしないさ」
「でも、今朝のあなたは、なんだか変よ」
彼は、どういっていいのかわからなかった。
「……変か」
「変よ。どうかしてるみたい」
彼は苦笑して、
「そう気にすることはないさ」
と、半分は自分にいい聞かせるように呟いた。
「でも、気をつけてね、車なんかに……」
「わかってる」
彼は家を出た。
――全く、どうかしてるな、俺は。
清里は、私鉄の駅へ向って歩きながらそう思った。どうかしているのは、今朝ばかりではない。あれからずっと、どうかしている。あの妙子の手のせいで、自分のなにかが、微妙に狂ってしまったのだ。
けれども、だからといって清里は、もういちど妙子の部屋を訪ねて、あの手の不思議な重みを味わってみたいとは思わなかった。第一、彼にはもう、妙子の部屋を訪ねる理由がなにもないのである。理由がなく訪ねていっても、妙子はおそらく喜んで迎えてくれるだろう。それは、彼にもわかっていた。わかっているからこそ、二度と、そこへは足を向けたくなかった。彼は、正直いえば、妙子のようなタイプの女は好きではなかった。好きではなくても、もういちどあの部屋を訪ねていけば、妙子とのっぴきならない仲になることはわかっている。それが彼には、煩わしいのだ。
結局、妙子の手は、彼の躯にただ一つのきっかけを与えたにすぎなかった。そのために生じた躯のなかのざわめきは、もはや妙子とはなんの関《かか》わりもなかった。妙子のことをすっかり忘れていても、躯のなかは絶えずざわめき立っている。それは、なにか大きな爆発の前触れの、不気味な地鳴りのようにつづいていた。
妙子は、彼が部屋を訪ねた翌日から出社していた。その日、席にいる彼に電話で、
「おかげさまで、きょうから出ています。いろいろ御心配をおかけしました」
そばにいる同僚の耳を気にしているらしく、そんな他人行儀の挨拶があった。
「よかったね。でも、当分無理をしない方がいいよ」
彼もただそういったきりだったが、その後、外からの電話を取り次ぐ妙子の声を何度も聞いているうちに、その取り次ぎ方や声の様子が、前とは大分変っていることに気がつくようになった。
前には、ぞんざいとも思えるほど事務的な取り次ぎ方をしていたのが、言葉使いも丁寧になり、声もめっきりうるおいを帯びて、囁きかけるような話し方になっている。
彼は、気づかぬふりをしていたが、二、三日すると、
「留美さんのことですけど、いま構いません?」
そんな電話がかかってきた。
「ああ、いいですよ」
と彼は素っ気なく答えたが、留美の名を聞くと、躯のなかのざわめきが急に高まってくるのがわかった。
「留美さんがね、旅行から帰ったことを佐野さんにお伝えして欲しいんですって」
「僕から?」
「ええ。留守中に、佐野さんから何度も電話があったことを話したら、気にしてるんですよ。でも、彼女は、留守中の電話のことは直接知らないわけですから、自分で連絡するわけにはいかないっていうんです」
「……それは伝えてあげてもいいけどね。しかし、僕はあの人が旅行から帰ったことをどうして知ってるんだろう」
彼が、他人事のようにそういうと、妙子は甘えるように、くすんと笑った。
「なんなら、あたしの名前を出してくだすって結構ですわ」
おなじ編集部にいても、班がちがうと、互いに掛けちがってばかりいて何日も顔を合わせないことがある。また、顔を合わせることがあっても、ろくに言葉を交わす暇がないこともある。
その日の午後、清里は出先から社へ戻ってきて、受付の左手のロビーの隅で佐野弓子がぽつんと独り、窓越しに冬枯れの芝生を眺めているのをみつけた。客を待っているにしては、パンタロンの脚を組み、椅子の肘掛《ひじか》けに頬杖《ほおづえ》を突いている姿勢が緊張を欠いている。受付に訊いてみると、案の定、弓子の客はとっくに帰ったということであった。
「編集部に、帰ったけどロビーに寄るからって、電話しといてね」
清里は、受付にそう頼んでロビーへ入っていった。
「……お邪魔かい?」
すぐそばまでいって、そう声をかけると、弓子はようやく気づいて、あら、と組んでいた脚を下ろした。
「お出かけ?」
「いや、帰ってきたところだ。ちょっとここへ掛けてもいいかな」
「どうぞ。いまね、女子大で一緒だった友達が訪ねてきてさ……」
「それで優雅に、青春時代の思い出に耽《ふけ》ってたんだね」
彼がそういって笑いながら、隣りの椅子に腰を下ろすと、
「とんでもない。優雅なのはむこうさんでね、さんざん旦那のことを聞かされて、呆然としてたとこなのよ」
と弓子はいった。
「呆然としていても優雅にみえるところは、さすがにファッション班というわけか」
彼はそんなことをいってから、さりげなく、
「そういえば、あの幻とはもう連絡がついたの?」
と訊いてみた。
「ああ、神永留美さんね。あれっきりよ。ここんとこ忙しかったから、電話もしてないの」
「ちょっと耳に入れたんだけど、彼女、旅行してたんだってね、九州の方へ」
「やっぱり。ロケでしょう」
「多分ね、先生と一緒だったっていうから」
「そんなことだろうと思ってたんだ。で、もう帰ってるの?」
「月曜日の晩に帰ったらしい」
弓子は、頷きながら彼の顔を探るようにみていたが、やがて、ふっと肩で吐息をすると、
「どうも有難う。あとで折をみて連絡してみるわ」
といって、目を伏せた。
そんなしおらしさが、いつもの弓子らしくもなかった。彼は、留美のことで、皮肉の一つもいわれると覚悟していたのだ。
「どうしたんだい。なんだか元気がないじゃないか」
「そうみえる? でも、仕様がないのよ。くやしいけど、元気が出ないの」
弓子は、そういって仕方なさそうに笑ったが、その顔が、気のせいかすこし窶《やつ》れて、齢より五つ六つも老けてみえた。
「変だねえ。躯具合でも悪いの?」
「躯は至って頑健なんだけどさ、ここらへんが、ちょいとね」
と弓子はいって、みたところそう豊かでもない胸を、指先で軽く叩いてみせた。
「胸に応えることがあったというわけか」
「そうなの。笑う?」
「……笑わないことにしよう」
「なにとね、気まずいことがあったのよ」
弓子はそういって、自分からふっと笑った。
誰が最初にいい出したのか知らないが、編集部の女性たちの間には、自分と愛情関係にある男性のことを、人前ではなにと呼ぶならわしがある。自分から、「ゆうべ、なにと銀座を歩いてたらさ……」と話したり、相手のことを、「あら、いい指輪じゃない? なにから買って貰ったんでしょう」などといって、冷やかしたりしている。彼とか、あの人とかいうよりも、聞いていて厭味がなくて、悪くない。
けれども、清里は、女性部員の私事には無関心な方だから、弓子のなにについても、ほとんどなにも知らないといってよかった。知っているのは、弓子が自分より一つ年下の三十七だが、まだ独りだということと、どうやらなにと呼ばれる人物がいるらしいということだけで、そのなにが、弓子より年上なのか年下なのか、妻子のある男なのか独身男なのかもわからなかったが、
「そうか。なんだか知らないが、愚痴をこぼすんなら聞いてやってもいいよ」
というと、弓子は煙草を取り出しながら、
「こぼしたいのは山々だけどさ、結婚してる人に私らのいざこざがわかるもんですか」
といった。
「……そんなものか」
「清さんは、結婚して何年だっけ?」
「俺か。かれこれ十五、六年になるな」
「十五、六年か。それで、お子さんは三人だっけ?」
「そう。娘が一人に息子が二人」
「……仕合わせね」
無事平穏が仕合わせなら、その通りで、彼はなにもいわずにライターを点《つ》けてやった。
「有難う。でも、いいの。ごめんね」
弓子は、いちどくわえた煙草を、また袋へ戻してしまった。
「煙草も不味《まず》くて吸えないのよ」
「相当重症らしいな」
「おかしいでしょう」
「気の毒だね」
「なにと悶着《もんちやく》があると、一番応えるのよ。なにもかも面倒臭くなって、ふっと死にたくなったりする」
「おどかしちゃいけないよ」
と彼は笑って、
「あんたの部屋は、まさか十一階じゃないだろうな」
「残念ながら、二階よ」
「二階じゃ、せいぜい足を挫《くじ》くぐらいだ」
彼はそんなことをいいながら、妙子から聞いた留美の自殺未遂のことを思い出していた。そうか、女が男のことで死を図るのは、かならずしもその男に死ぬほど惚《ほ》れていたからとは限らないわけか、と彼は思った。
弓子は、しばらく黙って窓の外の枯芝に目を細めていたが、やがて、
「いまさら、じたばたしたって、仕様がないか。さて、お立ち合い」
両手でぱんと膝《ひざ》を叩いて、立ち上った。
清里は、弓子と一緒にロビーを出た。
「……実はね、ほかにも仕事のことで、あんたに相談したいことがあったんだが、コンディションが悪そうだから、またにするよ」
エレベーターの方へ歩きながら彼がそういうと、
「わかってるわよ。スタイリストのことでしょう?」
まさしくその通りで、なにとの悶着で意気|銷沈《しようちん》していても、勘だけは相変らず冴《さ》えていた。
「さすがだね」
「だって、女性週刊誌が軒なみ賑《にぎ》やかにやってたじゃない、桜木さんのことで。わが清さんが黙ってる手はないもんね」
「だけど、こっちは、週刊誌みたいにはやらないよ」
「そりゃあ、そうでしょう。興味本位じゃなくて、じっくり腰を据えようってわけね」
エレベーターが降りてきて、空の箱に二人は乗った。
「腰の据え方にもいろいろあるだろうけどね、僕はこの際、桜木さんの事件から思い切って離れてみようと思ってるんだよ」
「……離れる、というと? 個人を離れて、働く女性全体の問題として扱うっていう意味?」
「それもいいけど、これまで何度も繰り返してきたことだしね、新鮮味に欠けるところがある。だから、いっそスタイリストということに焦点を絞って、この機会に、いわばスタイリストのすべてを読者に知って貰えるようなものをやってみたいんだよ」
「ほう」
と弓子は腕を組んだ。
「たとえば、今度の桜木さんの場合だって、スタイリストの仕事というものがよくわからなければ、あの事件を完全に理解したとはいえないだろう? あんたも、新聞の談話のなかで、若い人はスタイリストの華やかな一面だけをみて憧《あこが》れるけれども、実際はなかなか大変な仕事なんだって、そういってたじゃないか。だから……」
話の途中で六階に着いて、扉が開くと、そこに出版部次長の桂が立っていた。
「ああ、ちょうどよかった」
と、彼は清里に笑いかけていった。
「ちょっと話があって上ってきたら、ロビーにいるっていうからね、降りていくところだった」
「じゃ、部屋まで戻ってくれるか?」
「いいよ」
二人は大学の同級生で、遠慮の要らない仲である。清里は、廊下を歩きながら弓子に話のつづきをした。
「だから、そういう若い読者のためにも、いまうちの雑誌でスタイリストの仕事をできるだけ具体的に紹介するというのは、悪くない企画だと思うんだけどね」
「なるほど。それは悪くないよ」
と弓子はいった。
「で、その方法は?」
「あんたに、うちで仕事をしているスタイリストのなかから適当な人を一人選んで貰って、その人に密着取材をする」
「担当は誰?」
「多分、僕が自分ですることになるな」
弓子は、にやりとして、
「気合いが入っとるね。わかったよ。任しといて」
といった。
桂の話というのは、清里の雑誌に新年号から連載されている若月蘭子の小説のことで、それが完結したら自分のところで本にしたいから、編集部の方からも口添えをしてくれないかというのであった。
「まだ先のことだが、こちらの意向だけはなるべく早く伝えておきたいんだ。年内にあの人と会う用事がないか?」
「三月号の原稿を貰えることになってるがね、年内に。だけど、それが何日になるかわからない」
「こちらは何日でも構わないよ。会うことになったら、ちょっと声をかけてくれないか。一緒にいって挨拶したいんだ」
清里は承知した。
若月蘭子からは、二十四日の朝に電話があった。午後の四時にきてくれということであった。清里はすぐ桂に連絡して、二人は午後三時に社を出て練馬へ向った。
若月蘭子は、予定通り三月号の原稿をくれて、桂の申し出の方も気持よく承諾してくれた。三十分ほどで辞去して外へ出ると、歩きながら桂が黙って右手を出すので、うん、と清里は笑ってその手を軽く握った。
「これでいい。いいクリスマスの贈物を貰ったよ。どうだい、これからひさしぶりで一杯やらないか」
桂が上機嫌でそういったが、
「せっかくだけど、大事な原稿を持ってるしな。まあ、きょうはおとなしく帰ることにしよう」
と清里はいった。
「そんなら、いちど社へ戻って、それからお京へでもいこうよ」
「いや、そうもいかないんだ」
「……そうか。俺にはいえないようなところへ寄ろうってわけか」
桂がそんなことをいうので、仕方なく、
「こんなことはいいたくないんだけどね、俺は今夜、家で妙なことをしなきゃならない」
と清里はいった。
「妙なことを?」
「鶏のもも焼きを食って、サンタクロースの真似をする」
桂は、呆《あき》れたような顔をして清里をみた。
「きみはまだそんなことをしてるのか。きみんとこの子供たちも、純朴なんだなあ」
「純朴というよりも、習慣だよ。こっちにしても、朝、ベッドに吊《つる》しておいたストッキング代わりの袋がぺちゃんこなのをみて、子供たちががっかりする顔をみたくないだけの話でね。ま、今夜ぐらいは一年の罪ほろぼしのつもりで、素面《しらふ》で帰るよ」
清里は、桂に笑われながら途中で別れて、家に帰った。
その翌日のクリスマスの午後、編集部でちょっとしたトラブルがあった。読物班の真柴瞭子《ましばりようこ》という若い部員に届いたクリスマスカードのことで、クッキング班の主任をしている三十半ばの瀧口千代子が、心ないことを口走ったからである。
そのクリスマスカードというのは、この春、真柴瞭子が熱心に取材した二十一になる自閉症の女性からのもので、それには、片仮名で、
〈ハジメテ、プリン、ツクレタ。オネエサン、アソビニキテ〉
と書き添えてあった。
ところが、それを瀧口千代子がそばから覗《のぞ》いて、
「あら、下手な字ねえ。うちの子は四つだけど、それよりずっと上手に書くわよ」
そういったものだから、瞭子が、きっと千代子に向き直った。
「ひどいわ……」
瞭子の目には、みるみる涙が盛り上ったが、瀧口千代子の方は、そんな瞭子をみて、眉を高く上げてみせただけだった。
「どうしたのよ。私、なにかいけないことをいったかしら」
千代子にはなにもわかっていないが、清里には瞭子のくやしさがわかった。瞭子は、短大を出て入社してからまだ丸二年にもならないが、そんな若さのせいか、人柄のせいか、自分が取材した相手に編集者としての職分を越えた親しみを抱く癖がある。その北陸に住む自閉症の女性の場合も例外ではなくて、その後も時々母親に電話をして様子を尋ねているらしかった。
「北陸の民子ちゃん、あたしにプリンを御馳走するんだって、いま一生懸命作り方を習ってるんですって。躯《からだ》ばかり大きくても、赤ん坊みたいになにをする気も起こさなかったあの子がって、お母さんが電話口で泣いてらっしたわ」
瞭子が涙ぐんでそんなことを話していたのは、梅雨明けのころだったろうか。そのプリンが、とうとう作れるようになったというのだから、クリスマスカードをみて瞭子が喜んだのは、いうまでもない。
瞭子は、清里をはじめ読物班のみんなに、そのクリスマスカードをみせて廻った。
「この片仮名も、民子ちゃんが自分で書いたんです。ちょっと電文みたいだけど、上手に書けてるでしょう?」
そういって、ついでにクッキング班の若い男の部員にもみせたが、そばに、新入りの女性部員を泣かすのを趣味のようにしている、通称ニヒリチヨという皮肉屋の千代子がいたのがまずかった。
結局、瞭子は、それきり一と言も口を利けずに廊下へ走り出ていった。
「……若いうちから、ヒステリーは困るわね」
千代子が誰にともなくそういって、外国女のように肩をすくめながら席へ戻るのをみて、隣りの北岡が堪り兼ねたように立ち上ろうとするのを、清里は、無言で腕を伸ばして抑えた。
瞭子は、なかなか戻ってこなかった。
「探してきましょうか」
北岡が心配そうに小声でいったが、清里には行先の見当がついていた。
「トイレですかね」
「いや、めそめそするならトイレだがね。どれ、ちょっといってみてくるか」
話しているうちに、清里もすこし心配になってきて、さりげなく席を立って編集室を出ると、階段を一階下の五階へ降りた。
その階には、写真部の部室と、スタジオと、社員がキッチンと呼んでいる台所と衣裳《いしよう》部屋を兼ねたような広間があるが、清里は、迷わずにキッチンへいって、いきなりドアを開けてみた。すると、案の定、水道の水が流しを強く打つ音がして、瞭子がそばに立ったまま、水音で声を消しながら両手で顔を覆って泣いていた。
この娘《こ》も、とうとうここへきて泣くことを憶《おぼ》えたか。清里は、ドアを閉めると、そう思いながら流し台まで歩いていって、水道を止めた。
「きみのくやしさもわかるがね、あんまり感情的になっちゃいけないな」
清里はそういって、泣きじゃくっている瞭子のまるい背中を、軽く叩いた。
「きみが親身になって取材した記事でも、あんなふうにしか読んでくれない読者もいる。それは仕方のないことでね。そんなことで、編集者がいちいち動揺しちゃいけないんだよ」
すこし間を置いてから、瞭子はこっくり頷《うなず》くように頭を下げた。
「すみませんでした、みっともないことをしちゃって」
「まあ、いいさ。あの人は特別だからな。あんな人とも一緒になって一つの雑誌を作らなければならない、そこがこういう仕事のむつかしいところでね」
瞭子は、頷きながらハンカチを出して、頬を拭いた。
「水を使ってもいいでしょうか」
「勿論《もちろん》、いいよ」
瞭子は、清里が止めた水道の蛇口をひねって、ハンカチを濡らすと、しゃくり上げながらそれで目を抑えた。
「そうだ、冷やすといい。こんなことで目を腫《は》らしたりすると、今度はファッション班になにをいわれるかわからないからね」
と清里は笑って、
「こっそりいって、顔を直しておいでよ。一緒に外へお茶でも飲みにいってこよう」
そういったとき、思いがけなくドアにノックの音がした。二人は、ちらと目を見交わしたが、居留守を使うわけにはいかない。こちらからドアを開けて、すこしの間、遠慮して貰えばいい。もしかしたら北岡かもしれない。清里がそう思って歩きかけたとき、先にドアの方が開いてしまった。
清里は、立ち止まった。戸口に立っている佐野弓子の肩越しに、まさかと思っていた留美の大きな目がみえたからである。
「……あら、いたの? どうも失礼」
弓子はそういったが、清里の背中に隠れるようにしている瞭子を素早くみて取ると、ちょっと笑って、顎《あご》を引いてみせた。
「また、ニヒリチヨの仕業ね?」
「そうなんだ」
「じゃ、あとにしようか?」
すると、瞭子が、
「いいえ、どうぞ。構わないんです」
といって、自分は窓の方へ歩いていった。
清里は、弓子にどうぞという身振りをした。
「それじゃ、入ってみましょう」
と弓子が留美を促して、二人は部屋へ入ってきた。
清里は、留美の固い顔をみて、またしてもまずい会い方をしたなと思った。
「もう紹介するまでもないわね、お互いに」
弓子が笑ってそういうので、清里は留美に頷いて、
「いらっしゃい」
といった。
案の定、留美は口元にかすかな笑いを浮かべて、黙って頭を下げただけだった。
「ここが、キッチンと呼ばれている部屋ですけどね、スタイリストの人たちにも、ロケに出かける支度なんかはこの部屋でして貰うことになります……」
弓子は、そんなふうに説明しながら、留美を連れて部屋のなかを歩き廻った。清里は、なぜ留美が不意に自分の社に現われたのかわからなくて、ぼんやり二人を眺めていたが、ふと気がつくと、いつのまにか瞭子が部屋からいなくなっていた。
瞭子が気を取り直してくれさえすれば、清里も、もうキッチンには用がなかった。
「じゃ、僕はこれで……」
二人の方へ手を上げて、そのまま戸口へ歩きかけると、
「あら、ちょっと待ってよ」
と弓子がいった。
二人は、清里の前に戻ってきた。
「まだすこし早いけど、御存知の仲だからお知らせしておくわ。今度ね、神永さんに、うちの仕事をして頂くことになったの。まあ、五月号あたりからと思ってるんだけど、取り敢《あ》えず年が明けたら、ちょいちょい社へ顔を出して貰うつもり。よろしくね」
弓子がそういうと、
「駈け出しですけど、よろしくお願いします」
と、留美が丁寧に頭を下げた。
「こちらこそ、よろしく」
清里は、驚きを隠して会釈を返した。
「さっき編集長に紹介したんだけど、しばらく話しているうちに、急にそんなことになっちゃったのよ」
弓子がいった。留美に会ってみて、編集長も弓子もすっかり気に入ってしまったのだ。清里はそう思いながら、
「それは、よかった。でも、いきなりだったから、びっくりしたよ」
と笑って留美へ目をやったが、留美は唇を噛《か》むようにして目を伏せたままだった。
「上へ戻るんでしょう?」
「うん……ただ、ちょっとね」
「まだなにか、揉《も》めてんの?」
「いや、べつに揉めたわけじゃないんだけどね、真柴君がすぐには部屋へ戻りにくいだろうから、ちょっと外へ連れ出そうかと思ってたんだ」
それは、これから社に出入りしようという人の前では口にするべきことではなかったのだが、清里は、相手が留美だから、むしろ聞かせたい気持もあって、そういうと、
「古い、古い」
と弓子が笑った。
「いまの若い人たちに、そんな心遣いは御無用よ。泣きたいだけ泣けば、あとはもう、けろりとしてるわ。ねえ、神永さん」
留美は、あわてたように微笑を浮かべて、ちらと清里へ目を上げた。
「そういうものか。そんなら、こっちも席へ戻るだけだけどね」
と清里はいった。
弓子は、壁の時計を振り返った。
「じゃ、十五分、席にいてくれない?」
「ああ、いいよ」
清里は、キッチンを出て階段を昇りながら、そうか、そういうことかと、独りで頷いて、それにしても、おかしなことになってきたなと思った。あの山の吊橋《つりばし》で、まるで手負いの野獣のような目で自分を睨《にら》んだ見知らぬ女が、まさかこうしておなじ雑誌を作る仲間の一人になるとは思わなかった――彼は、底の方から揺れてきそうな胸を抑えつけるように、歩きながら固く腕組みをした。
編集室を覗いてみると、なるほど弓子のいう通り、瞭子はとっくに自分の席に戻っていて、なにごともなかったような笑顔で受話器を耳に当てていた。室内の空気も平静で、そんな瞭子を好奇の目でみている者など、一人もいない。
清里は、拍子抜けして、ドアを閉めながら独りで苦笑いを洩らした。瞭子の背後を通り抜けようとすると、瞭子がちょうど電話を切って、振り向いた。
「風戸先生から、頂けることになりました」
それは五月号の随筆のことで、
「そうか。よく引き受けてくれたね」
「腕によりをかけたんです。清里さんのこと、元気かいって、お訊《き》きになってましたよ」
清里は、手のひらで自分の額を叩いた。風戸龍之は、妙な縁で清里が学生時代から面識のある小説家だが、このところ、取り紛れて、もう半年ほど会っていなかった。
「すっかり、御無沙汰してるからな。今度会ったら、そのうちに顔を出しますからって、そういっといてね」
「わかりました」
十分ほどすると、弓子が独りで部屋へ帰ってきた。まっすぐ彼のところへやってくると、
「どお?」
と得意そうな顔つきでいった。
「恐れ入りましたね、あんたの手の早さには」
「そりゃあ、早い者勝ちよ。なにごとも先手必勝さ」
「彼女の先生とは、きちんと話をつけたんだろうね」
「勿論。あの人を困った立場に追い込むようなことはしないから、御心配なく」
「心配なのは、そんなことよりも腕の方だよ。彼女で桜木さんの穴が埋まればいいけどね」
「それは大丈夫よ、素質があるから。あと一年もしたら、ちょいとしたスタイリストになるわ」
「一年、佐野流でしごかれるわけか。可哀相に」
「お手柔かにって、そういいたいんでしょう」
「いわないね。いっても、無駄だからな」
すると、弓子は笑って、
「じゃ、いまのうちに、どうぞ。当分、貸してあげるわよ」
「……貸す?」
「あなたの取材の相手としてよ」
それは、予想もしなかったことで、すぐには返事ができずにいると、
「あんまりベテランだと面白味がないし、それかといって、ほんのひよっこでも困るでしょう? これから一本立ちになろうというあたりが、今度の取材の相手としては一番ぴったりじゃないかと思うけど」
「それはそうだけどねえ……」
「スタイリストたちも競争意識が強くってね。うちで仕事をしている人たちから一人を選ぶって、案外むつかしいことなのよ。神永さんなら、うちじゃ新人だし、問題がないんだけどねえ」
なにも考えることはない。彼はそう思いながらも、考えていた。すると、
「じゃ、そういうことで。打ち合わせをするんだったら、どうぞ。彼女、ロビーで待ってるからね」
弓子はそういうと、さっさと自分の席へ引き揚げていった。
清里は、呆気《あつけ》にとられて見送っていたが、隣りで北岡が笑い出すので、仕方なく立ち上った。
「押し売りですか」
「お聞きの通りだよ」
随分勝手な話だが、もう待たせてあるというのだから降りていって会うほかはない。
「あのおばさん、時々気が利きすぎるところが玉に瑕《きず》でね」
清里は、そんなことをいって編集室を出たが、べつに弓子の選択を不満に思っているわけではなかった。考えてみれば、なるほど今度の取材の相手として留美ほど適当なスタイリストはいない。年齢といい、経歴といい、生活環境といい、彼が考えていた取材の対象とぴったりである。
ロビーに降りてみると、留美は客のいる席から離れた椅子で、手帳になにか書き込んでいた。清里は、
「やあ、先程はどうも」
と、そばの椅子に腰を下ろしながら、こうして留美と二人きりで会うのはこれが初めてのことだと気がついた。なぜか、やっと、という思いが、彼にはあった。
留美は、手帳をハンドバッグに仕舞うと、それを膝《ひざ》にのせたまま頭を下げた。
「いろいろ有難うございました。すっかりお礼をいいそびれてしまって……」
「ああ、吊橋のことですか」
「それに、今度のことも……。おかげさまで、仕事をさせて貰えることになりました」
「今度のことだって、僕はただ佐野にちょっと耳打ちしてあげただけでね。僕がなにもしなくても、いずれこういうことになったでしょう。だけど、佐野は強引だからな。迷惑じゃなかったですか」
「いいえ、迷惑だなんて。早く自分で仕事をしてみたいと思ってましたから……。でも、急なお話でしたから、いまでもまだ信じられないような気持です」
訊いてみると、留美はもう彼の仕事の話は弓子から聞いて知っていた。彼は、念のために改めて自分の狙いを説明して、
「どうですか。あなたに付き纏《まと》うような恰好になるわけだから、うるさいだろうけど、引き受けてくれますか」
「本当に、私でよろしいんでしょうか」
「勿論、あなたで結構です。というよりも、あなたが実にぴったりなんだ。あなたは、なにも特別なことをしなくていいんですよ。極く普通に、スタイリストの仕事をあなたの流儀でやっていてくれればいい」
「取材は、仕事のことだけでしょうか」
「できれば、あなたの暮らしぶりもみせて貰いたいんですが、でも、これは是非にというわけにはいきませんからね」
「私は、一向に構いませんけど」
留美はそういって、むしろ強すぎるほどの目でまっすぐに彼をみた。彼は、ふと、その目がいつものように顫《ふる》えていないのに気がついた。
「それは有難いな。うるさくなったら、いつでもそういってください」
留美は、それにはちょっと笑っただけで、
「それじゃ、お手伝いさせて頂きます」
といった。
「よかった。有難う」
仕事のくわしい打ち合わせは、いずれ年が明けてからということにして、留美を送り出したあと、清里は、すぐ編集室へ戻る気にはなれなくて、自分の躯のなかの地鳴りに耳を澄ましながら、しばらくロビーの椅子から枯芝の庭を眺めていた。
雪おんな
年末年始の休暇に入ると、清里は、例年のように自分で凧《たこ》を一つこしらえた。
唐竹を細く裂いて骨を作り、その骨を八本、端と端を木綿糸で結び合わせて四角な骨組みを作り、それに和紙を貼《は》って、朱筆で龍という字をいっぱいに書いただけの古風な凧である。
清里は、岡山県の和気《わけ》郡にあるちいさな村の生まれだが、そこで過ごした子供のころから、毎年、暮れになると自分で字凧を一つこしらえるのがならわしで、それがいまでもつづいているのである。
凧が出来上ると、それを子供に揚げてみせるが、子供のためにこしらえてやるというよりも、彼自身、凧をこしらえないことには新しい年を迎えるような気がしないのだ。
手馴れたもので、凧は例年のように半日で出来上った。ただ、いつもとちがっていたのは、凧に朱筆で龍の字を書くとき、小説家の風戸龍之のことをちらと頭に思い浮かべたことである。おそらく何日か前に、真柴瞭子と龍之のことを話したせいだろうが、そうだ、正月には風戸家へ年賀にいこうかと、そのとき彼はそう思った。
いつもとおなじ、なんの変哲もない正月であった。彼は雑煮を食い、お屠蘇《とそ》代わりの酒を飲み、みんなと近くの八幡様へいって、かしわ手を打った。高子は、今年も破魔矢を買った。
三日は、午後から風戸家へ出かけた。
「なんだか、急に若くなったね」
新年の挨拶を交わしたあと、風戸はすぐにそういった。
「頬っぺたなんか、つやつやしてるじゃないか。羨《うらや》ましいな」
風戸の方は、暮れまで仕事がつづいたらしく、すこし浮腫《むく》んだような艶《つや》のない顔をしていた。
「あんた、いくつになった?」
「厭《いや》だな。若くなった、なんていわれる齢ですよ、どうせ」
清里が笑ってそういうと、
「俺より六つ下だったね。すると三十八歳か。とてもそんな齢にはみえないよ。さては、女ができたな」
「またそんな冗談を……」
清里は、首を振ってネクタイを弛《ゆる》めた。
彼は、大学のころ、郷里の家に不幸がつづいて、二年間休学した。それで、復学したとき二つ年下の高子と同級になったのだが、休学して郷里へ帰った当座は、到底復学の望みなどなくて、いっそこのまま備前《びぜん》焼の陶工にでもなろうかと思い、遠縁に当る伊部の窯元のところに、一年ばかり転がり込んでいたことがある。
そのとき、東京から、その窯元が昵懇《じつこん》にしている陶器好きの老作家が若い男を一人連れて遊びにきて、四、五日滞在していったが、その若い男というのは、当時はまだほとんど無名だった風戸龍之であった。
清里は、その後、事情が好転して復学し、高子と結婚して、大学を卒業すると、いまの出版社に入ったが、それから何年かして、ある雑誌のグラビアで小説家の風戸龍之の顔をみて、びっくりした。彼は、勿論、風戸龍之のことは知っていたし、その作品もいくつか読んでいたが、それが、まさかあのとき老作家に付き添ってきた若い男だとは思わなかったのである。
彼は、すぐに風戸へ手紙を書いて、その驚きを率直に打ち明けてやった。それ以来、風戸とは、普通の寄稿家と編集者の間柄を越えた交際がつづいている。
酒が出て、つい長居をすることになって、清里が家に帰ってきたときは、もう夜の九時を過ぎていた。
「タクシーが、なかなかこなくってね。酒がすっかり醒《さ》めてしまった」
玄関でそういいながら高子をみると、珍しく牡丹雪《ぼたんゆき》の紬《つむぎ》を着て、薄化粧している。
牡丹雪の、といっても、そんな名前の紬があるわけではなく、明るい紺地に繭玉《まゆだま》ほどの白い絣《かすり》模様が夜の牡丹雪のようだから、夫婦でそう呼んでいるだけだが、高子は、その紬を取って置きにしていて、正月でも、家では滅多に着たことがなかった。
それを着て、薄化粧などしているから、
「どこかへ出かけてきたのか?」
と靴を脱ぎながら彼は訊いた。
高子は、いいえ、と答えただけで、
「あなた、やっとわかったわ」
「なにが?」
「ほら、いつかの朝のこと」
意味ありげに笑って、そのまま背後へ廻るので、コートを脱がせてくれるのかと思っていると、そうではなかった。なにもいわずに両方の肩をきつく掴《つか》んだ。
それで、すぐにあの朝のことを思い出したが、黙っていると、
「山の吊橋で、こうした人がいたじゃない?」
と高子はいった。それから、掴んだ肩をちょっと揺さぶるようにして、
「あの人のことを思い出してたんでしょう、こないだの朝は」
彼は笑い出した。
「なにをいってるんだ。あんな吊橋のことなんか、とっくに忘れてしまったよ」
「嘘、仰言《おつしや》い。あの人、今度あなたの雑誌で仕事をすることになったんでしょう?」
彼は、思わず高子を振り返った。留美のことは、高子にはまだなにも話していないのだ。高子は彼を睨《にら》んでいたが、その目は笑いを含んでいた。彼は自分でコートを脱いだ。
「変なことを知ってるんだねえ」
「どうして黙ってたの?」
「どうしてって、まだ正式にきまったわけじゃないからだよ」
「……変ねえ、もうすっかりきまったような口振りだったけど」
「口振りって……電話でもあったのか?」
「きょう、うちにみえたのよ、あの人」
彼は、びっくりした。留美がこの家を訪ねてきたって? まだ住所も知らせていないのに、と彼は思った。高子が、留美とは別人のことを、取りちがえて話しているのではないかという気がした。
「おまえのいうあの人って、神永さんのことか?」
「勿論、そうよ。神永留美さんのことよ」
「神永さんが、うちを訪ねてきたのか?」
「そうよ。あなたが出かけて、一時間ほどしてから」
「……なにしにきたんだろう」
彼は、洋服ダンスの前で着ているものを脱ぎながら、つい、そんな独り言を呟《つぶや》いた。
「なにしにって、お正月だからでしょう。それに、これからなにかとお世話になりますから、よろしくって。干菓子を頂いたわ」
余計なことをする人だな、と彼は思った。
「……それで?」
「それだけ。玄関でちょっと立ち話をしただけ。綺麗《きれい》な人ね」
高子はそういって、どういうつもりか自分の帯をぽんと叩くと、あとは黙って、彼が脱ぎ捨てたものを一つ一つハンガーに掛けていた。
――それにしても、高子はいちども外出しなかったのに、どうしてよそゆきの着物を着て薄化粧などしていたのだろう。その晩、清里は、寝床のなかでそう思ったが、そのときはもう高子は隣りで寝息を立てはじめていた。さっき、玄関で高子をみたとき、いちどは、おやと思ったのだが、留美が訪ねてきたという話に驚かされて、訊くのをすっかり忘れていたのだ。
高子は、午後、彼が出かけるときまでは普段着のままでいた。そのあと、客を迎える予定などなかったのだから、留美が不意に玄関に現われたときも、高子は素顔で普段着のままだったろう。すると、牡丹雪の紬を着たのも薄化粧したのも、留美が帰ったあとでということになる。もうそろそろ日が暮れかけるところだったはずだが、そんな時間になってから、どうして高子は取って置きの紬を出して着る気になったりしたのだろう。
翌朝、彼が起きたとき、高子は普段着のセーターとスカートで、ゆうべ着た牡丹雪の紬を丁寧に畳んでいた。それをみて、
「もう仕舞うのか」
と彼はいった。
「だって、一番気に入ってる着物だから、大事にしないと」
「その大事な着物を、ゆうべはどうして着てたんだ?」
「それは、お正月ですもの。いちどくらいは、いい着物を着て、気持をきりっとさせなくっちゃ」
高子は、畳む手を休めずにそういった。
彼は、ふと、夫の留守に、夫の知り合いの若くて美しい女が訪ねてきたりすると、妻は自分もせいぜい美しく装って夫を迎えようという気持になるものなのかと、そんなことを考えたりしたが、それ以上なにもいわずに妻のそばを離れた。
五日が仕事始めで、八日にファッション班の部員とスタッフたちの初会合があり、清里は、その日、年が明けてから初めて留美と顔を合わせた。留美は、ビールをすこし飲まされたといって、頬骨のあたりを赤くしていた。二人は、編集室の窓際で立ち話をした。
「三日は留守にしていて、ごめんなさい。まさか、あなたがきてくれるとは思わなかったから、帰ってから聞いて、びっくりした。でも、よく家がわかりましたね」
「御住所を、念のために佐野さんから伺っておいたものですから。交番やお店で訊きながら伺ったんです。私鉄の駅から、一時間もかかりましたわ。私、方向オンチなんです」
留美は笑ってそういった。
「歩いて十分のところを、一時間もですか」
「でも、おかげで、清里さんがお作りになった凧を拝見してきました」
「凧を?」
「道端の空地で凧遊びをしていた子供に、清里さんというお家って尋ねたら、それは僕んちだっていうんです」
彼は笑い出した。
「びっくりして、それから前に吊橋でお会いしたことを思い出して、嬉しくなって、握手しちゃいました」
「一也かな?」
「六つか七つぐらいのお子さん。お姉さんと弟さんも御一緒でした。それで、お宅まで案内して頂いたんですけど、その途中で、お父さまの凧の自慢話を聞かされたんです」
留美は、ビールのせいなのか、それとも彼に馴れてきたのか、これまでよりもくつろいだ様子で話していた。
その日は、清里の方にも会議があって、留美とは仕事のことまで話している余裕がなかったが、あとで佐野弓子に訊くと、担当の頁がきまるまでは週に二日、火曜日と金曜日とに出社して貰って、資料室でフランスのファッション雑誌の翻訳をして貰うつもりだということであった。
「そうか、彼女は仏文科の出身だったな」
清里が思い出してそういうと、
「フランス人について会話も勉強したっていうから、北岡君の仏文科とはちょっと訳がちがうらしいわよ」
と弓子はいった。
清里と席を隣り合わせている北岡も、大学は仏文科の出身だが、学生時代は山登りばかりしていたそうで、フランス語がほとんど話せない。話せないばかりか、時々一緒にコーヒーを飲みにいく近所の喫茶店のエトワールという店名が、フランス語で星という意味だということに一年余りも気づかずにいて、清里をびっくりさせたこともある。
「で、彼女の勤務時間は?」
「社員じゃないから時間で縛るわけにはいかないけど、一応みんなと一緒にして貰おうと思ってるの」
ということは、朝の九時半から夕方の五時半までで、
「五時半を過ぎたら、そっちのものよ。どうぞ存分に御取材を。但し、見掛けよりはずっと芯《しん》のしたたかな人だからね、甘くみたりしたらひどい目に遭うわよ」
と、余計なことまで弓子はいった。
その最初の金曜日に、一階へ降りたついでに資料室を覗いてみると、留美が学生のようにきちんと机に向って仕事をしていた。
「僕の方も、そろそろはじめたいんですがね」
「どうぞ。私はいつでも構いません」
「きょうからでも?」
「ええ。ここは五時半までですから、それからでしたら」
「じゃ、今夜の晩飯から付き合わせて貰おうかな」
彼が気軽にそういうと、
「晩は、外食するときと、アパートで自分で作って食べるときとがあるんですけど、どちらにしましょうか」
と留美はいった。
これはうっかりした、と彼は思った。
「そうか、女の人は自分で作って食べることもあるわけですね。でも、取り敢えず外食ということにしましょうか」
まさか最初から、のこのこアパートの部屋までついていくわけにはいかない。留美のよくいく店があったら、そこへいって一緒に食事をする。そういうことにして、彼は編集室へ戻ったが、夕方、帰り支度をして降りていってみると、留美はもういつもの黒いコートを着て、社の出版物が飾ってある玄関ホールのショーウィンドウを覗き込んでいた。
彼は、ふと、その廊下の奥の、芹沢妙子がいる電話交換室を留美に教えてやろうかと思ったが、なぜか留美の前で妙子のことは口にしたくなくて、そのまま一緒に外へ出た。
「仕事で出かけたときは、大抵外食になりますけど、店はべつにきめてないんです。でも、いつも私がやっている通りにすればいいんですね?」
「そうです。あなたの、いつもの流儀でね」
最初に留美が足を止めたのは、街角のちいさなスナックの前であった。
「こんなところで、いいかしら」
「どうぞ。あなたがよかったら」
「ここは初めてですけど。こぢんまりして、あまり流行《はや》ってないような、すこし寂れたくらいの店が好きなんです」
留美は小声でそういうと、自分でドアを開けてその店へ入った。
客が十人も並べば肩が触れ合いそうなカウンターのなかに、女主人らしい太った中年女が独りいて、眠そうな目で棚の小型テレビを眺めていた。客はといえば、カウンターのむこう外れに、ジャンパーの襟《えり》を立てた若い男が一人、オレンジ色のソースがこびりついている皿を前にして、楊枝《ようじ》で歯をほじくりながらスポーツ新聞を読んでいるきりである。
「……なるほど。随分鼻がいいんだな」
清里が椅子の一つに腰を下ろしながらそういうと、
「え?」
と太った女主人が、片方の耳のうしろに手のひらを立てて、彼をみた。
留美がくすっと笑って、
「水割りをください」
「水割りね。そちら様は?」
「こっちも」
と清里はいって、隣りの留美の顔をみた。彼は、留美がいきなり酒を注文したのにちょっと驚いていた。
「僕には、なにも気を使うことはないんですよ」
と彼はいった。
「万事、あなたの流儀でやって貰いたいな」
「ええ、そうしてます」
「じゃ、いまの水割りも?」
「ええ。独りで外食するときは、なにか食べる前に、いつも水割りを一杯か二杯飲むんです」
「ほう。あなたが晩酌をするとは思わなかったな」
そこへ水割りができてきて、二人は、じゃ、とグラスを上げた。再会のために――いつか妙子が唐突にそういって、こちらはなにが再会なのかと訝《いぶか》りながらグラスを合わせたのを、彼は思い出した。
二人は、一つの皿に出されたピーナッツをつまみながら飲んだ。留美は、一と口ごとに眉を寄せて飲んでいた。そういう癖なのかとも思ったが、みていると、なにか辛そうな飲み方で、
「……酒はあんまり好きじゃないみたいですね」
「やっぱり、そんなふうにみえます? 嫌いっていうわけじゃないんですけど、そう好きでもないんですよ、正直いうと」
「じゃ、どうして飲むんです?」
「誰かに愚痴をこぼす代わりに……そういえばいいのかしら」
「愚痴って、なんの?」
「仕事とか、そのほかのいろんな愚痴。要するに、独り暮らしの女の愚痴です」
留美がそういって笑うので、彼も、
「独身女性スタイリストの愚痴ですか。それは是非聞かせて貰いたいな。当分の間、僕が聞き手になってあげてもいい」
といって笑った。
その晩は、そこを出てからレストランで食事をして別れたが、そんなことが二、三度つづくと、留美はもう、彼がいちいち都合を訊いたりしなくても、夕方五時半になると帰り支度をして、玄関ホールでさりげなく彼を待っているようになった。
何度目かに、留美は社の玄関を出ると、すぐ、
「今夜は、番外ってことにしません?」
といった。風が強くて寒い日だった。
「番外、というと?」
「縄暖簾《なわのれん》のあるお店へいってみたいんです」
「縄暖簾か。居酒屋のことだね」
「居酒屋っていうのか、小料理屋っていうのか、とにかく魚が食べられて、清酒が飲めるお店です」
清里は、留美が日本酒とはいわずに、清酒といったのが気に入った。
「清酒はいいね。だけど、どうして急に、そんな店へいってみたくなったんだろう」
「私、まだいちども入ったことがないんです、そんなお店には。だって、女一人で、縄暖簾を分けて入って、清酒を手酌でというわけにはいきませんもの。私、ウイスキーはちょっと辛いけど、お燗《かん》をした清酒なら美味《おい》しく飲めるんです。ですから、誰か連れてってくれる人がいたら、いちどあの縄暖簾ってやつをくぐってみたいと思ってたの。でも、これは私の日常生活から外れることになりますから、お互いに番外ってことになるんですけど……」
けれども、たまには番外も悪くない。
そんなことならお安い御用で、前に何度かいったことのある縄暖簾の居酒屋へ案内すると、なるほど留美は、眉を寄せずに燗酒を飲み、焼き魚やヒジキやキンピラゴボウを旨そうに食べた。
絶えずトップモードとファッションモデルに囲まれて華やかな仕事をしているスタイリストが、こんな居酒屋のなんでもないお惣菜《そうざい》に嬉々として、絣のちいさな座布団をくくりつけただけの木の椅子を子供のように軋《きし》ませるのを、清里は面白いと思って眺めた。
眺めているうちに、すると留美の別れた男は、留美にこんな歓びをいちども与えてやらなかったのかと、そんなつまらぬことを、ちらと考えたりして、
「随分、飲んだ。そろそろ帰ろうか」
と彼はいった。
外へ出ると、
「ああ、いい気持」
留美は、赤くなった顔を仰向《あおむ》けて冷たい風に晒《さら》しながら、
「一つ、白状しましょうか」
「伺いましょう」
「私、ついこの間まで、清里さんのことを誤解してたんです」
彼には、すぐに思い当たることがあって、
「わかった。電話室の妙ちゃんのことでしょう」
「それから、会社のキッチンでも若い人を泣かしてらっしたわ」
彼は、思わず声を立てて笑った。
「要するに、相当な女たらしだと思ったわけだ」
「ええ、その通り。だから、佐野さんに今度のお仕事のことをいわれたときは、びっくりしました」
「つづけて、まずい会い方をしたからな。でも、よく引き受けてくれましたね」
「それはね、正直いうと、お断わりすれば仕事をさせて貰えなくなるんじゃないかと思ったからなんです」
「なるほど、これは正直だ」
と、彼は躯を揺すって笑った。
「私、帰ります」
留美は、不意に立ち止まっていった。
「送ってくださいます?」
そんなことをいったのは初めてで、清里は二、三度頷いてから、言葉が出た。
「ああ、いいですよ」
彼は、通りかかったタクシーに手を上げた。
走り出して、しばらくすると、ヒーターの暖かさで清酒の酔いが戻ってきた。
「さっきの話だけど、釈明の必要があるのかな」
「いいえ、もういいんです。佐野さんのお話を聞いたり、お宅へ伺って奥様にお目にかかったりしているうちに、私の思いすごしだったってことがわかりましたから」
それから、留美は呟くように、
「素敵な奥さまですね」
といった。
「なにが素敵なもんですか」
彼は、反射的にそういったが、それ以上、妻を蔑《さげす》むようなことはいいたくなかった。むしろ、素顔で普段着のまま、いきなり留美と向い合うことになった妻をいたわりたいような気持になった。
「飾り気がなくて、優しくて、暖かくて……」
彼は、それを留美の独り言のように聞きながら、窓を細目に開けて風を入れた。
「私も、ずっと北海道で暮らしていたら、あんな奥さんになれたかもしれないわ。憧《あこが》れていましたから、あんな三十代の女の人に」
そういえば、娘の夏子にも、ひところ、独り言をいいながら眠りに落ちる癖があったと彼は思い出した。だんだん言葉尻が消えそうになって、ふっと消えると、もう寝息に変っている。彼は、留美もこのまま眠ってしまうのではないかという気がしたが、
「でも、もう駄目ね。諦《あきら》めちゃおう」
沈んでいく躯を自分で引き揚げるようにして坐り直すと、
「ごめんなさい。調子に乗って、飲みすぎました」
「いいですよ、偶《たま》には。番外だもの」
「番外はいいわ。これからも時々番外をやりましょうね」
「ああ、そうしましょう」
「番外ばかりだったら、もっといいんだけど、そうはいきませんね」
そんなことをいって笑っていたかと思うと、急に声をひそめて、
「私の部屋まで、いらっしゃれます?」
悪戯《いたずら》っぽくそう囁《ささや》いた。
彼は、自分の勇気を訊かれたのか、それとも都合を訊かれたのか判断がつかなかったが、どちらにも通用するように、
「お許しがあればね」
と答えた。すると、
「お隣りで妙子さんが聞き耳を立ててますわよ。それでも?」
と留美はいった。
「それでも」
と彼は頷いていった。
アパートのすこし手前で、タクシーを捨てた。留美のブーツの靴音が、人通りの絶えた道に高く響いた。鉄の外階段の昇り口までくると、留美は急に立ち止まって、くるりと彼に向き直った。
「ごめんなさい」
思いがけなく、苦しそうに顔を歪《ゆが》めて身をよじるようにした。
「今夜、私、どうかしてるんです。自分で自分が、わからないの。ですから、ここで……。有難うございました。おやすみなさい」
そういったかと思うと、身をひるがえすようにして留美は階段を駈け昇っていった。
そのつぎの留美の出勤日に、二人は資料室で、番外の夜のことなど忘れたようにして会った。
「来週、ちょっと郷里へ帰ってこようと思うんです」
留美はそういって、二泊三日の日程を話した。札幌の千歳《ちとせ》空港まで飛行機でいって、札幌から余市までは汽車の旅になるらしい。
「なにか用事で?」
「ええ。用事っていえば用事ですけど……少々野心なるものがありまして」
ちょっと首をすくめてみせた。
「野心なるものがねえ」
「引き出せるものは、引き出してこようと思ってるんです、この機会に」
「ほう、景気のいい話だな」
「引き出せるものがあればの話ですけどね」
「それは、あるでしょう」
留美の実家は、余市で果樹園を経営しているという。
「だけど、そんなにお金を、なにに使うの?」
留美は笑って、首をかしげた。
「そうか、結婚資金か」
清里は冗談のつもりだったが、首をかしげた留美の顔から、陽が翳《かげ》るように笑みだけが消えた。留美は黙って、仕事机に戻った。
「そういえば、二、三日前に、テレビでオホーツク海の流氷をみたな」
彼は、話題を変えようとしてそういったが、留美は机の上のものに目を落としたまま、口を噤《つぐ》んでいた。仕方なく、本棚に寄って必要な本を探していると、背後から留美が、
「雪だって、清里さんは、テレビでしかみたことがないんでしょう……」
と歌うような口調でいった。
なにかに気をとられながら、うわの空で物をいうときの口調に似ていた。
「そうでもないけどね。でも、どっさり降ったところはみたことがないなあ」
と、彼も本棚に目を滑らせながら間延びのした言い方になった。
「いつか、北海道の雪をみにいらっしゃいません?」
「そうだねえ。そのうち暇ができたらねえ」
「来週、御一緒できるといいんですけどねえ。お休みは取れないでしょうねえ……」
彼は、思わず振り向いてみた。留美は相変らず机に向って、何事もなかったように辞書をめくったり、ノートにペンを走らせたりしていた。
彼は、編集室へ戻ると、四月号の進行表を調べてみた。そう暇だというわけではなかったが、やりくりをすれば、三日ぐらいの休暇は取れそうだった。彼は、すぐまた一階の資料室へ降りたが、そのときはもう、すっかり北海道行きの肚《はら》がきまっていた。
「飛行機の時間が知りたいんだけどね」
ただそういっただけで、留美には通じた。留美は、まるで最初から彼も同行することがきまっていたかのように、落ち着いた表情でハンドバッグから手帳を取り出すと、行きと帰りの時間をいった。
「予約は、いまからでも間に合うだろうか」
「多分大丈夫だと思います、ウイークデーですから。なんなら、私が取りましょうか?」
彼は、飛行機の方は留美に任せて、自分は電話で札幌のホテルを二晩予約した。
夕方近く、資料室の留美から社内電話で、飛行機の座席が取れたという連絡があった。彼は、一応おなじ読物班の部員たちに近々休暇を取る予定のないことを確かめてから、編集長に自分の休暇のことを話しにいった。
部員の休暇は、仕事に支障を及ぼさない限り、滅多にそれは困るということにはならないが、
「だけど、珍しいね。家族旅行かい? それとも……」
と編集長の桐山は、気遣わしそうな目で清里をみた。
清里は、冬山は勿論、スキーもスケートもやらない。それで、冬に休暇を取ることはほとんどなかったから、家族旅行でなければ躯具合でも悪いのかと桐山は思ったのだろう。
「ええ、まあ、ちょっと雪でもみてこようと思いましてね」
清里は、曖昧《あいまい》にそういっただけだったが、桐山も旅行のための休暇だとわかると、それ以上のことは訊かなかった。
けれども、北海道行きが本決まりになると、佐野弓子にだけは本当のことを打ち明けておかねばなるまいと清里は思った。どうせ黙っていても、弓子には、彼が留美の帰郷とおなじ日程で休暇を取ったことがわかるのである。あとで偶然だったなどといっても、弓子は信じてくれないにきまっているし、清里としても、留美と蔭《かげ》でこそこそしているとは思われたくなかった。
彼は、その日のうちに、
「余市までお供をすることにしたよ」
弓子の席へいってそういった。
「そう? それは御苦労様」
「彼女が生まれて育った土地を、一応みておこうと思ってね、この機会に」
「なるほど。いよいよ本格的じゃない」
「でも、そこまで取材の範囲に入れていいかどうかわからないからね、休暇を取ったよ」
「あら、出張にしないで?」
出張ということにすれば、社から旅費や宿泊費のほかに取材費も出るのだが、
「いまのところは、ただ書くときの参考になればという気持だからね」
「ちょっと歯痒《はがゆ》いほど良心的ね」
弓子は、からかうような目の色だったが、
「まあ、つぎから……ロケなんかに同行するときは出張にするさ」
と清里はいって、札幌のホテルの名と電話番号を、弓子の机の上のメモ用紙に自分で書いた。弓子は口を噤んで彼の顔をみていた。
「お宅には、出張ということにして出かけるわけね?」
彼がボールペンを置くと、弓子はメモ用紙をちいさく畳みながらそういった。
「事情を話すのが面倒だからね」
と彼はいったが、正直いうと、今度の休暇には妻を納得させるだけの理由がなにもないからであった。
その晩、彼は家に帰ると、いつも出張を告げるときの口調で、
「来週、北海道へいくよ」
と高子にいった。
「そう。寒いのに、御苦労様ね」
高子はそういったきりだった。
「なにかあったら、お弓に電話するといい。わかるようにしてあるから」
「はい、わかりました」
翌週の、出発の朝、彼は夏子に起こされた。
「北海道へはなにしにいくの?」
夏子がそう訊《き》くので、
「雪をみにいくんだよ」
「じゃ、なにも北海道までいくことはないわ。ほら」
と夏子はいって、窓を開けてみせた。彼はびっくりした。外は珍しく、雪降りであった。
彼は、すぐに起きて窓のところまでいってみた。雪降りといっても、東京の雪は高が知れているが、十センチも降ればもう大雪の部類で、交通が麻痺《まひ》してしまうおそれがある。うっかりすると、時間までに空港へ辿《たど》り着けないことにもなったりする。
さいわい、明け方から降りはじめたらしい雪はまだ三センチほどしか積もっていなかったが、こんなときは早目に出かけた方が安全だから、
「さあ、急がなくっちゃ」
窓を閉めながらそういうと、
「それでもやっぱり北海道へいくの?」
と夏子がいった。
「そりゃあ、いくさ。お仕事だもの」
「雪をみるのが、お仕事なの?」
「お仕事のついでに、雪をみてくるんだよ」
と彼は夏子の頭に手をのせて、
「北海道の雪はね、こんなしょぼしょぼした雪とはちがうんだ。前がみえなくなるくらい、どんどん降って、一と晩のうちに夏子なんかすっぽり隠れてしまうほど積もるんだって」
「じゃ、雪おんなが出てくるような雪ね」
「そう……」
と彼は頷《うなず》きかけて、ちょっと夏子の顔をみた。
留美とは、九時四十分に空港内の書籍売場で落ち合うことになっている。
彼は、置時計に目をやりながら、
「雪おんなのことを、知ってるのか」
と、手のひらで夏子の頭を軽く叩いた。
七時五分過ぎだった。
「だって、民話の本に出てくるもの」
「なるほど。ともかく、急がなくっちゃ」
彼の家から羽田の空港までは、普通の日でも一時間半はかかる。急いで洗面と食事を済ませて、高子が用意したものを旅行|鞄《かばん》に詰め込んでいると、学校へ出かける一也が顔を覗《のぞ》かせて、
「お父さん、いってらっしゃい。いって参りまあす」
といった。つづいて夏子も顔を覗かせて、
「お父さん、いってらっしゃい。雪おんなに気をつけてね。それから、また白いチョコレート買ってきてね。いって参りまあす」
高子が、ちいさく噴き出した。
「……雪おんなですって」
「民話を読んで憶《おぼ》えたんだよ。雪がどっさり降るところには、いまでも雪おんなが出ると思ってるんだ」
「今時分の北海道になら、本当に出るかもしれなくってよ。気をつけてね」
彼は、鞄から顔を上げずに、馬鹿な、といって、
「白いチョコレートなんて、よく憶えてるな。あれを土産に買ってきたのは、もう何年前になる?」
「おととし……さきおととしだったかしら、旭川へいったのは。白いチョコレートなんて珍しいから憶えてるのね」
「札幌にもあればいいけどね。暇をみつけて、売っていそうな店を覗いてみるか」
「でも、無理しなくていいのよ。お連れの迷惑にならない程度に探してくれれば……」
彼は、ちらと高子の顔をみた。つい、盗み見るような目になった。
「……どうしたの?」
「いや……なんでもない」
高子が留美の帰郷を知るわけがなかったが、彼は念のために、
「連れは桂だからな、一緒に探すさ」
そんなことをいって、それが、妻への嘘のつきはじめになった。
雪は、羽田へ着く前に止《や》んだ。電車の窓から眺めると、街がほんの薄化粧をした程度の雪だったが、それでも悪天候で出発を見合わせている便もあるらしく、空港のロビーは、不意の雪に着ぶくれた人たちで混雑していた。
約束の時間にはまだすこし早かったが、売店の奥の書籍売場へいってみると、留美が先にきて棚の本を見上げていた。清里は、ちょっとの間その横顔を眺めてから、声をかけた。
「雪、びっくりなさったでしょう?」
「思いがけないお出迎えでね、面くらった」
「この分だと、北海道は相当しばれてますね。覚悟なさって」
「仕方がないでしょう。こうなったら、もう、骨の髄から顫《ふる》え上ってみるまでだ」
二人は、一緒にカウンターへいって搭乗手続きを済ませると、すぐ出発ロビーへ入って熱いコーヒーの立ち飲みをした。
「私、今度東京へ戻ったら、あのアパートを出ようと思ってるんです」
留美が突然、そういった。
「ほう……それで?」
「どこかちいさなマンションをみつけて、引っ越します」
それがいい、と清里は、留美がどこに棲《す》もうが自分にはなんの関係もないことなのに、そう思って頷いた。
「でも、そうするためにはお金が必要ですから、それをなんとか引き出そうと思ってるんです、今回は」
「なるほど。で、そのことはもう芹沢君に話したの?」
「いいえ」
「淋しがるよ、きっと」
「そうかもしれませんね、急に世話を焼く相手がいなくなるんですから。でも、じきに馴れますわ」
「なにか理由があるの? あのアパートを出るというのは」
「いいえ、べつに。ただ、独りになりたいだけです。独りになって、気分をすっかり変えて暮らそうと思って。あのアパートにはいろいろ厭《いや》な思い出がありますから、この際、そんなものともきちんと縁切りをして、新しい気持で暮らしてみたいだけなんです」
留美はそういうと、そっと窺《うかが》うような目で、清里をみた。ところが、清里の方は、最初から留美の顔から目を離さずにいる。互いに目が合うと、なぜか留美はうろたえたように瞬《まばた》きをして、
「妙子さん、きっと清里さんのことが好きなんですね」
といった。
清里は思わず笑ってしまった。
「なんですか、藪《やぶ》から棒に」
「清里さんがね、妙子さんの亡くなった恋人に感じがとてもよく似てるんですって」
それで、いつか乾杯するとき、妙子が、再会のためになどといったのかと、ようやく謎《なぞ》が解けたような思いだったが、他人の空似で勝手に好意を寄せられるのは、迷惑であった。
「……困った人だな。そんなことでは、とても引っ越しの手伝いなんかには行けませんね」
清里はそういったが、留美はなにもいわずに、首をかしげるようにして笑いながら、珍しく柔かな眼差《まなざ》しで、楽しそうに彼の顔を見守っていた。
札幌行きのジェット機は、二十分ほど遅れただけで濡れた滑走路を飛び立った。
ジェット機は、着陸するとき、厚い雲のなかですこしばかり揺れた。雲の下は、まだ昼を過ぎたばかりだというのに日暮れのような暗さで、その薄暗がりの底には、雪野が白い海のようにひろがっていた。
地上の積雪は、七、八十センチもあるだろうか。薄墨を流したような空からは、なおも小雪がちらついていて、駈け寄ってくる整備員たちの鼻だけが異様に赤くみえている。
長い通路を歩いて、出口を通り抜けると、出迎えの人の群れのなかから、
「留美さん、お帰り」
という声がして、青いキルティングの防寒服を着た若い男が、ゴム長を鳴らして駈け寄ってきた。
留美は立ち止まって、目をまるくした。
「ま、圭ちゃん。どうしたの?」
「迎えにきたさ。おやじさんからこの便で着くって聞いてたから」
「わざわざ?」
「いや、札幌まで用があったんでね、ついでにと思って。間に合って、よかった」
若い男はそういいながら、留美の手から荷物を取って自分で提げて、それからそばに立っている清里を訝《いぶか》しそうにみた。
「こちらはね、東京から御一緒した清里さん。お世話になっている雑誌の編集次長さんなの」
留美がそういって教えると、男は、はにかむように笑ってお辞儀をした。
「これは、うちで働いて貰っているいとこで、圭吉っていうんです」
留美は、清里に男をそう紹介したが、その目にはかすかに困惑の色が浮かんでいた。
機内での打ち合わせでは、空港からタクシーで札幌へ出て、ホテルに荷物を置いてから一緒に昼食を摂《と》り、留美の案内で札幌の市内を見物して、留美は夕方六時発のニセコ2号という急行で単身余市へ向う――そういうことになっていた。まさか余市から迎えがきているとは思わなかった。
空港ビルを出ると、忽《たちま》ち寒気が清里の顔に貼《は》りついた。圭吉が車を取りにいっている間、清里は、鼻毛が凍ったような気がして何度も人差指と親指で鼻を摘《つま》んでみた。
「着く時間なんか、知らせなければよかったわ」
留美が独り言のようにそういった。
「僕のことは気にしなくっていいですよ」
「でも……私も札幌で降りますわ」
「それはいけないな。せっかく迎えにきてくれたんだから、あなたはまっすぐ余市へお帰んなさい」
「じゃ、清里さんも一緒に余市へきてくださいます?」
「いや、僕はそういうわけにはいかない。ホテルで降ります」
「で、どうなさるの?」
「風呂にでも入って、昼飯を食う。あとは、昼寝をするなり、街をぶらつくなり、酒を飲むなり、気の向くままにします」
「……ごめんなさい」
「どう致しまして。僕はただ、勝手についてきただけなんですからね。あなたが僕に縛られてはいけない」
車はライトバンで、清里は約束通り札幌市内のホテルの前で降りた。留美は、夕方までに電話をするといったが、その電話は日が暮れてもこなかった。
その晩、清里は、独りですすき野の繁華街に出て酒を飲んだが、十時過ぎにホテルへ戻ると、フロント係が、
「お電話がございました」
といって、部屋の鍵《かぎ》と一緒に伝言用紙を渡してくれた。
電話は留美からで、時間は宵の口にホテルを出た直後になっている。清里は、エレベーターのなかで伝言を読んだ。
『明日、夕方までにそちらへ伺います。底が生ゴムの靴をお買いになってください』
伝言はそれだけであった。彼は何度も繰り返し読んだ。
明日の夕方まで、留美とは会えない。しかも、明日は留美の方からこのホテルへくるという。帰京は明後日の昼過ぎだから、留美を待っていたのでは余市の町を訪ねる時間がなくなってしまう。
明日、夕方までに独りで余市へいってみるほかはないな、と彼は思った。留美が乗るはずだった夕方の急行には、確かニセコ2号という名がついていた。すると、もっと早い時間にニセコ1号という急行があるはずである。それで出かけて、ざっと余市の町をみて帰ってこよう。
彼はそう思い、部屋から電話でフロントに余市行きの汽車の便を問い合わせてみた。やはり午前十時二十分発のニセコ1号という急行があった。これに乗ると、余市には十一時二十三分に着く。帰りは、二時過ぎの普通列車に乗れば四時前にはホテルに戻れる。
ところで、底が生ゴムの靴とはなんだと、彼は浴槽《よくそう》に寝そべって冷えた躯《からだ》を暖めながら思った。戦後の一時期、若者たちの間で厚いゴム底の靴が流行したことがあったが、近頃は底が生ゴムの靴のことなど、とんと聞かない。バスケットボールのシューズは底が生ゴムだが、まさかそれを買えというのではあるまい。ともかく、明日時間があったら靴屋を覗いてみようと彼は思った。
部屋は、ツインベッドで、窓から遠い方のベッドだけカバーが外されていた。予約するときはシングルの部屋を頼んだのだが、きてみると、シングルの部屋はみな塞《ふさ》がっていて、シングルの料金で結構だからとこの部屋に案内されたのである。
それは、狭苦しいシングルの部屋より広々としたツインの部屋の方が有難かったが、寝ていて、カバーに覆われたままの隣りのベッドを眺めると、なにか勿体《もつたい》ないという気がしないでもなかった。
いまごろ、留美は余市の家で、どうしているだろうか。ひさしぶりのストーブに頬を赤く火照らせながら、まわりに集まった家族に東京の話でも聞かせているだろうか。それとも、厚い掛布団の襟《えり》の蔭《かげ》からあの大きな目をきらきらさせて、締まり屋の父親からなんとか金を引き出す算段に耽《ふけ》っているだろうか――彼は、そんなことを考えながら眠りに落ちた。
翌朝、ホテルで朝食を済ませると、札幌駅から急行ニセコ1号で余市へいった。人口二万五千余りという余市の町は、汽車の窓からみると、ほとんど深い雪に埋もれているようにみえた。
これでは、帰りの汽車時間までにいくらも歩けないだろう。彼はそう思って、ちいさな駅舎を出ると、すぐタクシーに乗った。
「ちょっと変なことをいうようだけどね、ここがどんな町かを知りたいんだよ。どこでもいいから、目ぼしいところを走ってみてくれないか」
彼がそういうと、運転手はしばらくきょとんとしていたが、やがて首をかしげながら車を出した。
清里は、時々バックミラーに訝しそうな目を上げる運転手の車に小一時間も揺られて、結局、どんよりとした広い冬空と、道の両側にうず高く寄せられた雪の壁と、町裏の家々の軒端に垂れている恐ろしく太くて長いつららの列と、町の周囲にひろがっている雪に埋もれた林檎《りんご》畑と、黒々とした積丹《シヤコタン》の海と、それに、鰊《にしん》漁がさかんだったころの面影を留《とど》めている古びたヤンシュウ宿の建物とをみたにすぎなかった。
日本では指折りのウイスキー工場の前を通ったとき、運転手はせっかく見学をすすめてくれたが、すでに時間の余裕がなくなっていた。そこを素通りして、また駅前まで戻った。
「冬の余市といったら、まんず、こんなところだね。五月か六月ごろ、もう一遍いらっしゃいよ。果樹園の花という花がいちどにどっと咲いて、そりゃあ綺麗《きれい》だから」
運転手が気の毒そうにそんなことをいうので、
「そうかい。それじゃ、そのころまた出直すか」
と清里は調子を合わせて車から降りた。
彼は、駅前の食堂で軽い昼食をして、二時過ぎの汽車で余市を離れた。
札幌に戻ると、そうだ、底が生ゴムの靴を、と彼は思い出した。ゆうべのぶらぶら歩きの記憶を辿りながら、地下街へ降りて、靴屋を探し当てて尋ねてみると、店員がいとも簡単に、ゴム底の靴ばかりが並んでいる棚の前に案内してくれた。
「この靴のことだろうな。こっちの人に、ゴム底の靴を買うようにといわれたんだがね」
「じゃ、これのことでしょう。夜になると、道が凍って滑りますからね。でも、この靴でしたら大丈夫ですよ」
なるほど、と彼は思い、ちょっと登山靴に似たのを一足買った。
ホテルへ帰って、フロントで部屋の鍵を受け取っていると、うしろの方で、
「お帰んなさい」
と女の声がした。
彼は、それが自分に向けられたものだとは思わなかったが、なんとなく声がした方を振り向いてみた。すると、そこに、留美がコートを抱えて立っていた。
「ゆうべはごめんなさい。お電話するのが遅くなってしまって」
「いや、こっちも部屋の窓からすすき野の夜景を眺めていたら、じっとしていられなくなってね。ほら、買ってきましたよ」
彼は靴の包みを持ち上げてみせて、
「ちょっと待っててください、すぐ降りてくる」
エレベーターで部屋へ戻って、買ってきたばかりの靴に履き替えると、すぐまたロビーへ引き返した。
「いかがです? 履き心地は」
「悪くないね。見掛けより、ずっと軽い」
「内地の人は、よく滑って転ぶんですよ。でも、その靴なら、まず大丈夫です」
「じゃ、これで今夜は、心置きなく雪見酒が飲めるわけだ」
彼がそういうと、留美は、
「多分そんなことになるだろうと思って、その靴を買って頂いたんです」
と笑っていった。
二人は、ともかく一緒にホテルを出た。街にはもうネオンが瞬きはじめていて、水銀燈に小雪がちらついていた。
彼は、自分独りで余市の町をみてきたことを、留美には内証にしておこうと思っていたが、留美がホテルのロビーで二時間近くも自分の帰りを待っていたことを知ると、黙ってもいられなくなって、歩きながら打ち明けた。
留美は、びっくりして立ち止まりそうになった。
「そんなら、うちへ寄ってくださればよかったのに。タクシーなら、神永果樹園といえばみんな知ってるんです。私、お昼過ぎまではうちにいたんですよ」
留美は、そういってくやしがったが、彼はなにも留美の実家を訪ねたり、両親に会ったりするために北海道へきたのではない。
「僕はただ、あなたが生まれた町がみたかっただけでね。勝手にしたことだから、気にして貰っちゃ困るんだ。それに、僕はあなたの野心とやらに水をかけるようなことはしたくないからな」
「……というと、どういう意味です?」
「考えてごらんなさい。あなたがマンションの資金を引き出そうとしているところへ、突然、僕みたいな男が現われたりしたら、御両親はどう思いますかね」
留美は、黙って微笑していたが、やがて、
「誰に、なんと思われたって、平気」
ゆっくりと呟《つぶや》くようにそういった。
「あなたは平気かもしれないが、金を引き出しにくくなることは確かだな」
と彼はいって、
「ところで、どうですか、野心の方は」
と訊いてみた。
「それが、まだいい返事が貰えませんの。もう一と押しなんですけど」
「それ御覧なさい。そんなところへ僕なんかがのこのこ出かけていったら、話がおじゃんだ」
と彼は笑った。
留美は、もうすこし粘ればなんとかなりそうだから、帰りは一と足遅れることになるかもしれないといったが、それは仕方のないことであった。
「どうぞ、あなたのいいように。僕は明日、独りで帰ります」
「すみません。その代わり、今夜は、ずっと御一緒させて頂きますわ」
「余市行きの終列車の時間までね」
「いいえ、何時まででも」
と留美はいって、驚いている彼の顔へ、ちらと悪戯《いたずら》っぽい目を上げた。
「私、高校はここの女子高校を出たんです。そのとき下宿していた家と、いまでも親しくしてますから、遅くなったらそこに泊めて貰います」
「なるほど。でも、余市のお家では心配しますよ」
「いいえ、家にもそう話してきましたから。多分、今夜は長嶺《ながみね》さん……下宿はそういうんですけど、長嶺さんに泊まることになるからって。ですから、今夜は時間のことは気にしなくっていいんです」
「そいつは……」
結構だという言葉を呑み込んだきり、彼が口を噤《つぐ》んでいる間に、留美は、なぜだかみるみる燥《はしや》ぎ立ってきた。
「さあて、どこへ御案内しましょうか。私に任せてくださいます?」
「任せましょう」
「数の子の入った、ぴんと肥えた鰊を焼いたので、コップ酒、というのは、いかが?」
「結構ですな」
「それじゃ、東京にはないようなお店に御案内しましょう」
留美は、街角を折れるとき、さりげなく彼の躯を押すようにして、腕を取った。
留美が案内してくれたのは、高いアーケードの商店街から細い路地へ折れたところにある、店というよりは漁師の網小屋と呼んだ方が相応《ふさわ》しいようなちいさな居酒屋であった。入口の、がたぴしのガラス戸を開けると、六畳間ほどの店の中央に炭火が赤く熾《おこ》っている細長い鉄の陸炉《おかろ》が据えてあり、それをカウンターがコの字型に囲んでいる。低い天井は真っ黒に煤《すす》けて、まわりの壁には壁紙の代わりに、清酒の四斗|樽《だる》を包む薦《こも》が何枚も伸ばして貼り詰めてあった。
二人は、炉端の主人や若い店員の威勢のいい声に迎えられて、空いていた隅の椅子に並んで腰を下ろした。
「いろいろありますけど、鰊でよろしいかしら。それとも、毛ガニになさる?」
「いや、まず鰊を貰おう」
鰊と熱い酒を頼むと、
「えい、焼き鰊と熱燗《あつかん》二丁」
ぴんと身の肥えた鰊が二尾、金串に通されて陸炉の上にどさりと置かれた。
陸炉の上には、ほかにも鰊やイカやホッケや、帆立貝や北寄《ほつき》貝の剥《む》き身が並んで、じゅうじゅうと脂をしたたらせながら、さかんに煙を上げている。その煙は、炉の上に口を開けているブリキの煙出しに吸い込まれるが、入口のガラス戸が開くたびに外の風がどっと吹き込んできて、炉端の主人がまともに煙を浴びて噎《む》せたりする。
イカや貝類が焼き上ると、主人が炉の脇の厚い爼板《まないた》の上で手頃な大きさに切るのだが、包丁をまるで鉈《なた》のように扱うので、爼板の手前の角がV字型に深くえぐれている。
清里は、それやこれやを珍しく眺めながら、先に出てきた熱燗の酒を、留美と小ぶりなコップに注ぎ合って飲んだ。彼は、昼に余市で蕎麦《そば》を食っただけだから、熱い酒が腸《はらわた》に滲みた。
「なんだか乱暴なお店ですけど、魚は札幌でここが一番|美味《おい》しいんですって」
留美はいったが、実際、焼き上ってきた鰊は脂がたっぷり乗っていて、鰊というのはこんなに旨《うま》い魚だったのかと彼は驚いた。
「だけど、よくこんな店を知ってたね」
「兄に何度か連れてきて貰いましたから。私が高校のころ、兄も北大の農学部にいて、そのあと、ずっと研究室にいたんです。兄がなにを研究してたと思います?」
「さあ……鰊かな?」
「それが、ダニなんです」
「ほう……」
「ダニはダニでも、林檎につくダニ」
彼は、ちょっと驚いた。
「林檎にもダニがつくの?」
「つくんです。葉の裏に。ナミハダニっていうダニですけど」
鰊のつぎには、イカを焼いて貰った。イカのつぎは毛ガニを一匹貰って、留美と半分ずつ分けた。彼は、ひさしぶりで仕事を抜きで東京を離れてきたせいか、胃袋の底が抜けたのかと薄気味悪くなるほど、いくらでも食えたし、いくらでも飲めた。
「そのお兄さんは、いまでも札幌に?」
「いいえ。……山で死んだんです、三年前に」
その店を出ると、アーケードの外は、いつのまにか激しい雪になっていた。彼には生まれて初めての、雨なら土砂降りのような雪であった。
「車にしましょうか? 歩くなら、地下街をいけばホテルの近くに出られますけど」
「いや、せっかくの雪だから、この雪のなかを歩いていこうよ」
酔った勢いだったが、留美は反対しなかった。彼は、マフラーで頬かむりをし、留美はコートのフードをかむると、二人はもつれ合うようにして無人の歩道へ出ていった。
歩き出してみると、まるで白湯《さゆ》のように飲んだコップ酒で自分が思いのほか酔っていることが、清里にはわかった。それに、北海道の雪が、思っていたほど風流なものではないこともわかった。
雪が、上から下へ舞い落ちてくるものだとばかり思っていたのは、間違いであった。足元から、いきなり喉《のど》へ吹き上げてくる。あわてて顎《あご》を引いてうつむくと、横殴りに襟首へ吹きつけてくる。
まともに鼻を打たれて、思わず顔をそむけると、顎の先が、留美の濡れた額に滑った。二人は、いつのまにか、どちらからともなく腕を絡ませ合い、濡れた顔を寄せ合って歩いていた。
時々、留美の躯がぶるっと顫える。それが彼の躯にも伝わってくる。
「寒いですか」
「いいえ、ちっとも」
「でも、いま、あなたは顫えたね」
「寒くなくても顫えるの。こうして雪のなかを歩くのが嬉しくて、躯がぞくぞくするの」
彼は笑った。
「やっぱり、あなたは道産子《どさんこ》だな」
「あなたは? 寒くありません?」
「寒くはないけど、しかし凄《すご》いなあ、この雪は。こうして喋《しやべ》ってると、口のなかにまで飛び込んでくる」
「もう、話すのはよしましょう」
「そうしよう」
「私の息、酒臭いでしょう?」
「いや、ちっとも匂わない。ちっとも……」
彼は、突然、異様なものが足元を駈け抜けるのに気がついた。繭玉《まゆだま》ほどの、薄茶色の虫のようなものが、幅広く無数に連なって、歩道の雪の上を、背後から行く手の方へ恐ろしい早さで駈け抜けていくのだ。
これは、なんだ? 酒の酔いで目がどうかしているのかと思ったが、そうではなかった。しっかり目を瞠《みは》っても、はっきりとみえた。
薄茶色の虫の河である。無数の虫が、帯状になって足元をむこうへ流れている。
彼は、思わず立ち止まったが、途端にその虫の河に足元を掬《すく》われたような気がして、よろよろとうしろへ倒れかかった。あ、いけない、と彼は思い、それから一瞬なにもわからなくなった。
「……清里さん、大丈夫? しっかりして」
そういう留美の声で、彼は我に返った。彼は、雪の上に横たわっていて、留美が上から覆いかぶさるようにして彼の躯を揺さぶっていた。
「いけねえ。とうとう転んじまった」
彼は、照れ隠しに倒れたままでそういった。
「ああ、びっくりした」
と留美が身を起こして、立ち上りながらいった。
「私の腕を掴《つか》んだまま転ぶんですもの。重かったでしょう?」
「いや……どうなったのか、自分でもわからないんだ」
「私があなたに折り重なって倒れちゃったんです」
「それは悪かったな」
「私はいいんですけど……お怪我はなかったかしら」
「いや、大丈夫。これしきのことで……」
けれども、彼は自分で立ち上ることができなかった。留美の手を借りて立とうとすると、右の足首から激しい痛みが駈け上ってきた。
「ちょっと待って」
と彼は顔をしかめて、両手で右の足首を抑えた。そのまま、じっと痛みを堪えていると、すぐ手の届くところを相変らず虫の河が流れている。それが、自分の手の甲にも流れている。
ふと、頭上を仰いでみると、背の高い水銀燈に激しく雪が降りかかっていた。歩道を流れる虫の河は、その水銀燈に絶え間なく降りかかる雪の影なのであった。
「どうなさったの? 足が変?」
「足首がね。挫《くじ》いたのかもしれない」
雪の上に手を突いて、左脚だけで立とうとすると、留美がすぐ空いている腕の付け根を支えた。
「私の肩に掴まって」
彼はそうして、ようやくふらふらと立ち上った。左はなんともなかったが、右を突くと、やはり足首から激しい痛みが駈け昇ってくる。彼は思わず呻《うめ》いた。
「やっぱり痛みます?」
「突くとね、右の足首が」
「ちょっと持ち上げて、振ってごらんになって」
彼はいわれる通りにした。
「足首から下が、ぶらぶらした感じ?」
「いや、そんなことはない」
「じゃ、骨は大丈夫。よかった」
「なに、ただちょっと挫いただけだよ」
と彼はいったが、この先、とても独りでは歩けそうもなかった。
雪が容赦なく降りかかってくるので、二人はそばの建物の壁際に身を寄せた。貸して貰った留美の肩が、あまりにも華奢《きやしや》だったので、彼は腕から力を抜いて、片脚だけで壁にもたれた。
「ごめんなさい。私がのしかかるように倒れたのが、いけなかったんだわ」
「いや、あんたは僕に引きずられただけだよ。僕が転んだのがいけなかった」
彼は、目の前の歩道を走っている雪の影を指さした。
「あいつに、目が眩《くら》んでしまってね。まさか水銀燈に照らされた雪の影だとは思わなかった。絨緞《じゆうたん》のむこう端を、いきなり引っ張られたような気がしたんだ。降ってくる雪にばっかり気を取られていたら、思わぬところに伏兵がいた」
なんてこった、と彼は思った。
「せっかく、滑らない靴を履いたのにね」
「馴れない靴を履いたのが、かえっていけなかったんじゃないのかしら」
「そんなことはない。なにもかも、あいつのせいだよ」
ともかく、ホテルへ帰って手当てをしなければならない。彼は、また留美に肩を貸して貰って、痛む足を引きずるようにしながら、憎い雪の影が走る歩道をのろのろと歩きはじめた。
ようやくホテルの玄関に辿り着いたときは、二人の顔は汗と雪とでびしょ濡れになっていた。開いたままの自動ドアの前で、顔を見合わせて荒い吐息を繰り返していると、フロント係の一人が心配顔で駈け寄ってきた。
「どうなさいました」
「なに、転んでちょっと足を挫いただけだ」
「それは……医者を招《よ》びましょうか」
「いや、それほどの怪我じゃないんだ」
「じゃ、湿布薬を差し上げます」
「ともかくお部屋のキーをくださらない? 薬はあとで私が頂きにきます」
と留美がいった。
エレベーターに乗ると、留美はハンカチを取り出して、
「まるで水をかぶったみたい」
そういいながら、彼の顔を抑えるように拭いた。
「あんたもだ。ひどい雪見になったね」
「私、なんだか責任を感じるわ」
「おかげで今夜のことが忘れられなくなるよ」
部屋で、右の足首をみると、挫いたところが薄紫に腫《は》れて、かなりな熱を持っていた。
「このぐらいなら、私にも直してあげられるわ」
留美が患部を指先でそっと押してみながらいった。
「子供のころから、スキーなんかでこんなふうに捻挫《ねんざ》した人を何人もみてますから。それに、自分でも経験がありますし。いい治療法を知ってるの」
「そいつは有難いな」
「服をお脱ぎになったら? もう、どこへも出ないでしょう?」
「これじゃ、出たくても出られない」
留美は、彼がそういって脱いだツイードの上着と、黒いトックリのセーターを、衣裳《いしよう》戸棚のハンガーに掛けた。
「おズボンは? 手伝いましょうか?」
「いや、自分でする」
「でも、足が不自由でしょう?」
「大丈夫だ。自分でゆっくりするから」
彼がそういって、ちょっとあたりに目を走らせると、留美はすぐに気づいて、
「煙草? 上着のポケットかしら」
「いや、外套《がいとう》だ。すまないね」
ベッドのそばのテーブルに煙草と灰皿の用意をすると、留美は浴室へいって、タオルを冷たい水で絞ってきた。
「ちょっとお薬を貰いにいってきますから、これで冷やしておいてください。開けて頂かなくてもいいように、キーを持っていきますからね」
部屋の鍵をコートのポケットに入れると、留美は急ぎ足で出ていった。
彼は、独りになると、脈を打って痛む足首に耳を澄ますような気持で、ひっそり煙草を吸っていたが、やがて、どんな治療をしてくれるのか知らないが、そのまま眠れるようにしておいた方がいいだろうと思い、ベッドに躯を倒したり、また起こしたりしながら、身につけているものを残らず脱いで、パジャマに着替えた。それから、留美が置いていってくれた濡れタオルで痛む足首を包むと、ベッドに長々と横たわった。
家から持ってきたパジャマは、家の匂いがした。白い天井に、忘れていた高子の顔が浮かんだ。そういえば、あの歩道を流れていた雪の影は、牡丹雪《ぼたんゆき》の紬《つむぎ》の柄に似ていたな、と彼は思い出した。それで目が眩んだのではなかったろうか、あのときは。
「……罰か」
ぽつんと呟いて、彼は目をつむった。
そうしていると、暖房で暖まった躯のなかで、抑えつけられていた酒の酔いが大きく立ち上ってくるのがわかった。彼は、瞼《まぶた》が重くなり、後頭部から先に、ゆっくりと深い穴のなかへずり落ちていくような感じがした。
留美は、なかなか戻ってこなかった。薬というのは、フロントでくれるといった湿布薬のことではないのだろう。濡れたコートを着たままだったから、また雪のなかへ別な薬を買いに出かけていったのだろうか。そんなことを考えているうちに、彼は、うとうととした――。
どれほどかして、ふと目を醒《さ》ますと、留美はもう戻っていて、セーター姿で彼が隣りのベッドの上に脱ぎ捨てたものを畳んだり、ハンガーに掛けたりしていた。
「お帰り」
彼が声をかけると、肩をぴくりとさせて振り向いて、なにもいわずに笑ってみせた。化粧がすっかり落ちてしまったその顔は、かえって透き通るように、美しくみえた。
「遅かったね。どこまでいってきたの?」
「長嶺さん。前に下宿していた家までいってきたんです、タクシーで」
「厄介な怪我人ができて、遅くなるからっていいに?」
「いいえ。薬を貰いにいってきたんです」
彼は意外な気がした。
「その家は、薬屋かい」
「あら、下宿屋ですよ、普通の」
留美はくすっと笑っていった。
「だって、薬を貰ってきたっていうから」
「正確にいえば、薬を作る材料を貰ってきたんです」
「というと?」
「お酢と、小麦粉です」
彼は、きょとんとして、それから笑い出した。すると、留美も一緒に笑いながら、
「おかしいでしょう? でも、とてもよく効くんです、この薬」
「酢と小麦粉を、どうするの?」
「小麦粉をお酢で溶いて、よく煉《ね》るんです。それをネルの布《きれ》に塗って、捻挫したところに当てるの」
「……それだけ?」
「ええ。簡単でしょう? ところが、こういう都会のまんなかの、こういう立派なホテルにいると、そんな原始的な薬の材料なんか、手に入れようたってなかなか容易じゃないでしょう。だから、ひとっ走りいってきたんです」
それから留美は、
「洗面台にあったコップを一つ、借りましたよ」
といった。
「ああ、どうぞ。それで薬を煉るんだね?」
「お薬は、もうとっくに作ってあります。そろそろ、はじめましょうか」
留美はそういうと、ハンドバッグから筒状の小瓶《こびん》を取り出してきて、ちょっとごめんなさい、と彼の枕やベッドの足元に、なかの液体をほんの少量ずつ振りかけた。忽ち彼は、いい匂いに包まれた。
「お酢ですから、つんと強く匂うことがあるんです。ですから、これは臭み除《よ》けのお呪《まじな》い」
留美は、それから浴室へいって、しばらくなにか、かたことと音をさせていたが、やがて葉書ほどの大きさの白ネルに薬を厚く塗ったのを持って出てきた。
「これが、そのお薬。これを直接患部に当てるわけです。そうすると、熱をどんどん吸収して、しまいにはからからに乾くの、石膏《せつこう》みたいに。そしたら、またお薬を取り替える、というふうにして、せっせと冷やすと、捻挫なんか忽ち直っちゃいます」
その薬が、薄紫に腫れ上った足首に、ひんやりと当てられた。
「冷たいでしょう?」
「いい気持だ。ネルなんて、懐かしいな」
と彼はいった。
留美は、そのネルの上に油紙を当てて、新しい繃帯《ほうたい》を器用に巻いた。
「すまないね、こんなことまでさせて」
「いいえ、ちっとも。私、繃帯の巻き方、うまいでしょう? こんなことするの、好きなんですよ。子供のころは、看護婦さんになりたくってね」
「それが、どういうわけか、スタイリストになってしまった」
留美は笑って、首をすくめた。
「それで、どういうわけか、雪の北海道のホテルの部屋で、情けない中年男の挫いた足に、酢と小麦粉の薬を塗ってやっている……」
「さあ、これでお仕舞い」
留美は、繃帯止めを、人差指でちょんと突っついた。
「有難う。薬は、どこ?」
彼は、留美が当然、長嶺という家へ泊まりにいくと思っていたから、そう訊いた。すると、
「バスルームに置いてありますけど、どうして?」
と留美は小首をかしげた。
「だって、あんたが帰ったら、僕が独りで取り替えなきゃならない」
「どうぞ御心配なく。私がしてあげます。フロントにも事情を話してきましたから」
「でも、もう大分遅いだろう」
そういって時計をみると、十時をとっくに過ぎていた。
「私は平気。前に、そういったでしょう、今夜は何時になっても構わないって」
「あんたは平気でも、起きて待っている方は困るだろう」
「長嶺さんの家のことですか?」
「心配してるよ、きっと」
「大丈夫。さっき、もしかしたら来られないかもしれないって、そういってきましたから」
留美はそういうと、小麦粉の薬で指先が汚れている手を彼にみせて、浴室へいった。
余市の家には、長嶺に泊まることになるといい、長嶺には来られないかもしれないといって、留美は一体、今夜はどうするつもりなのか。彼は、浴室の水音を聞くともなしに聞きながら、ふたたび眠気がさしてきた重い頭で、そう思った。留美が戻ってきた。
「いろいろ心配なさらないで、もう、おやすみになったら?」
「あんたは?」
「私は、あすこにいます」
と、留美は窓際の肘掛《ひじか》け椅子を指さして、
「音を消しますから、テレビを観ていいでしょう?」
「それは構わないけど……」
「私のことなら、気になさらないで。自分で勝手にしてるんですから。帰りたくなったら、独りでそっと帰ります」
「……悪いな。薬を取り替えるぐらいなら、僕にだってできるのにね」
留美は、声を出さずに、肩で笑った。
「おできになるもんですか」
テレビの前の肘掛け椅子に腰を下ろしてから、そういった。
「朝、目が醒めてから取り替えたって、なんにもならないんです。挫いたところが熱を持っているうちは、せっせと取り替えないと。そんなことは、看護婦に任せておけばいいんですよ。どうぞ、もう、おやすみになって」
彼は、黙っていると本当に眠ってしまいそうで、
「外はまだ、雪かな?」
留美は立っていって、窓のカーテンの合わせ目から外を覗いた。
「降ってますわ、さかんに」
留美は、そのまましばらく彼に背中をみせたままでいた。彼は、目をつむった、というよりも、瞼の方が重く垂れ下がってきて、留美の背中がみえなくなった。
(眠い……仕方がないな)
彼は、自分自身に向って、そう心に呟いた。それから、彼は眠った。
――不意に、足首がひんやりとして、清里は目醒めた。すると、さっき窓辺で見失った留美の白いセーターの背中が、すぐそばにみえた。留美は、ベッドの端に浅く腰かけて、毛布の裾から出した足首に新しい薬を当てていた。
そのとき、彼は、自分がまだ酔っているのか、それとも酔いがもう醒めているのか、自分でもよくわからなかったが、とにかく頭の芯《しん》には相変らず、留美と抱き合うようにして雪のなかを歩いていたときの酩酊《めいてい》感が尾を引いていた。
留美がまだ帰らずにいる。彼はそう思った。けれども、すぐ物を言う気にはなれなかった。彼の顔から逸《そ》らしたベッドランプが、留美の背中を照らしていた。室内の余分な明りはすべて消されて、そのベッドランプだけが一つ点《とも》されている。彼は、薄目を開けて、明るんでいる留美の背中を、ぼんやりと眺めていた。
留美は、ネルの上に油紙を当てると、そのままの姿勢で、ほどいた繃帯を巻きはじめた。ベッドを揺り動かさないように、気を配っている。二度ほど、手の甲を口に当てて、背中をまるめて、こほ、とちいさな咳《せき》をした。留美はまだ、彼が目醒めていることには気がつかない。
繃帯を巻き終えると、留美は、しばらく思案するように、じっと彼の足を見下ろしていた。そこに繃帯を巻かなければならないが、足はベッドに投げ出されたままだから、ほどくときのようにはいかないのだ。
やがて、留美はそっと立ち上ると、カバーに覆われたままの隣りのベッドから枕を抜き出してきて、彼の足のそばに置いた。彼は、眠っているように目を閉じた。右足がそろそろと持ち上げられ、ふくらはぎの下に枕が差し込まれる。それからすこし、ベッドが揺れた。
彼は、また薄目を開けてみた。留美は、さっきのところに、さっきよりも深く腰を下ろして、繃帯を巻きにかかっていた。微笑が、ひとりでに彼の頬に浮かんできた。留美の揺れる背中を眺めているうちに、これまで誰にも感じたことのないいとおしさで、彼の胸は一杯になった。
「もう、何時?」
彼は、留美が繃帯を巻き終えるまで待てなくて、ちいさな声でそういった。
留美の背筋が、すっと伸びた。それから、自分の手首をみて、
「一時四十五分です」
と留美はいった。
「ごめんなさい、目を醒まさせちゃって」
「巻きにくいだろう。起きてあげようか?」
「いいえ、そのままでも……」
けれども、彼はゆっくり半身を起こした。
留美の細い首筋が、目の前にある。
「長嶺さんへいくには、もう遅すぎるだろう」
「ええ。……でも、いいの」
留美は、手を休めずにそういった。
「……どうしてこんなにしてくれる?」
留美は、ちょっとの間、黙っていたが、やがて、
「いつか、山の吊橋《つりばし》で、助けて頂いたでしょう?」
せいぜい冗談めかして、そういった。
「吊橋か……」
彼は思い出した。それから、
「じゃ、肩に掴まらせてくれないか。こわいんだ」
実際、彼はそのとき、自分自身に、怖《おそ》れのようなものを感じていた。
「どうぞ。こんな頼りない肩でよろしかったら」
と留美はいったが、珍しく声がかすれた。
右手を肩にのせると、手のひらに、かすかな肉のおののきが伝わってきた。
「吊橋で、あんたは僕にこうしたね。あのときは、凄い力だった。爪が食い込んで、僕は肩が痛かった」
彼は、べつに、それを怨みに思っていたわけではない。そんなつまらぬことは話すにも足りぬと思って、これまで黙っていたのだが、そうして留美の肩に手をのせていると、言葉がひとりでに口から滑り出た。
留美は、背筋を伸ばしたまま、うつむいていた。足首の繃帯はもう巻き終えて、あとは繃帯止めで端を止めればよかったが、彼に肩を掴まれて留美はそれができずにいる。
「あとで、肩をみて、びっくりした。爪の跡が、一つ一つ紫色のちいさな痣《あざ》になってるんだ、なにかに噛《か》まれた歯型みたいに」
留美は、急に首をねじって横顔をみせた。驚いて振り向くのかと思ったら、そうではなくて、肩にのせた彼の手の甲に、頬をこすりつけただけだった。
「……ごめんなさい」
と留美は、肩と頬とで彼の手を柔かく挟《はさ》みつけるようにしたままいった。
「私、あのときは夢中で、なんにも……」
「謝ることはないよ。僕は怒ってるんじゃない」
「今度は、あなたが私に仕返しをなさって。お好きなように……」
と留美はいった。
彼は、留美の肩に爪を立てる代わりに、手首を返して、顎を捉《とら》えた。すると、留美が頭をうしろへ反らしたので、その手がなめらかな喉《のど》の方へ滑った。
そのとき、彼は、留美を自分の方へ引き寄せたろうか。それは彼自身にもわからなかったが、留美は頭をうしろへ反らしたまま、のけぞるようにして、他愛もなく彼の太腿《ふともも》の上に倒れかかってきた。彼は、それを自分の胸のところで抱き止めた。
留美は、まるで盲《めし》いていた人が急に視力を取り戻したように、うるんだ目をきらきらさせながら、むさぼるように彼の顔を見廻した。けれども、やがて瞼がその目を隠した。弛《ゆる》んだ唇の間から、濡れた前歯が覗いて、肩越しのベッドランプを浴びて光っていたが、それは彼が自分の唇で覆い隠した。
初め、留美の口は、臆病な貝のようだった。細目を開いて、ちろちろと外を窺っていた。けれども、それとなくあたりを探りながら、辛抱強く待っているうちに、すこしずつ勇気を取り戻して、彼を迎え入れた。
留美は、熱くて、柔かかった。彼は、つい溺《おぼ》れてしまい、留美もまた容易に彼を放さなかった。長い仕返しになってしまった。
「……もう、どこへも帰れない」
彼は、留美を抱き締めたまま、巻毛に隠れている耳を唇で探し出して、そう囁《ささや》いた。
留美の今夜の宿のことばかりではない。自分もまた、留美と離れて、もうどこへも帰れなくなったという思いに、そのとき彼は捉えられていた。
「私も……もうどこへも帰りたくない」
留美の吐息が、パジャマを通して、彼の首の付け根に熱かった。
「じゃ、朝までここにいればいい」
「そうしていい? 嬉しいわ」
腕を弛めてやると、留美は自分で起き上った。彼は、ふくらはぎの下から枕を取って、自分の枕と並べて置いた。
留美は、ベッドに腰を下ろしたまま、両腕を前に交差させてセーターの裾を握ったとき、ほんのちょっと、躊躇《ためら》うそぶりをみせただけだった。そのセーターを、するりと頭から抜き去ると、あとはもう、ベッドランプを消すまでもなく、放胆といっていいほど淀《よど》みがなかった。
留美は、余計な下着はなにも身につけていなかった。首筋に、ペンダントの細い鎖だけが光った。
痩《や》せて、骨っぽいとばかり思っていた留美の躯《からだ》は、意外に、肉の窪《くぼ》みがみえるだけで、骨のありかがわからなかった。肌は、内側の火照りを映したかのように、ほんのりと赤味を帯びていて、立って胴を締めつけているものを足元へ滑り落とすと、そこにあらわになったなだらかな輪郭が、うしろの薄暗がりににじんでみえた。
「そこに、浴衣があるよ」
それまで、気押されたように見惚《みと》れていた彼は、ようやく目を逸らしてそういった。彼の嫌いな糊《のり》を利かした備え付けの浴衣が、板のように畳まれたまま隣りのベッドの裾の方に置いてあったが、留美は見向きもせずに、そのままで彼の脇へ滑り込んできた。
「……寒くないか」
そういいながら、彼は全身で暖めるように抱いてやったが、見当違いも甚《はなはだ》しかった。
外はまだ雪が降りしきっているだろうに、二人には、汗ばむような夜であった。
留美は、我を忘れているようにみえたが、彼の痛む足を庇《かば》うことは忘れなかった。彼の鼓動が激しくなると、彼の胸の上で、留美が揺れた。
いつか、衣服を通して相手の躰《からだ》がみえるという佐野弓子が、留美の躯のことを鞭《むち》のように弾力があるといっていたが、その弓子の言葉が、ただの当てずっぽうではなかったことがわかった。それから留美の躯が、実際、一本の鞭のように軽いということも。
彼は、通り過ぎていった嵐のゆくえに耳を澄ますように、自分の胸の上でひっそりと息づいている留美を、そのままにして眠ってもいいという気さえした。
「眠かったら、眠ったっていいよ」
「このままで眠ったら、どうなるかしら」
「どうにもなりゃしない」
留美は、ちょっと黙っていたが、やがて、
「どうにもなりゃしない……それでも、いいわ」
彼の肩に歯を当てたまま、独り言のようにそう呟《つぶや》くと、急に顔を上げて、
「シャワーを浴びさしてあげましょうか」
「いや、僕はいいよ」
と、彼は笑って頭を振った。
「足が濡れないように、してあげられるのに」
「いや、僕はいい。待ってるよ」
「……可哀相なお方」
留美は、彼の頬を両手で挟んで、慰めるように鼻の先を触れ合わせると、するりと彼から滑り降りて、そのまま素足で絨緞《じゆうたん》を歩いていった。
しばらくして、浴室から戻ってきた留美の躯は、どこもかしこもおなじ石鹸《せつけん》の匂いがした。それは初めからわかっていたことだが、留美には盲腸の傷跡などなかった。
――明け方、彼は石鹸の匂いを嗅《か》ぎ疲れて眠ったが、ナイトスタンドの目醒《めざ》まし時計に起こされたときは、もう留美はどこにもいなかった。彼は、痛みが大分薄らいだ足を引きずりながら、ベッドのまわりや浴室に留美の痕跡《こんせき》を探し歩いたが、なに一つみつからなかった。
カーテンを開けると、外はもう雪が止《や》んでいて、朝日が眩《まぶ》しかった。彼は、急に、ゆうべのことが、すべて信じ難い出来事だったような気がした。ゆうべ、留美が本当にこの部屋にいたのだろうか?
雪おんな――出がけに娘がいったそんな言葉が、ふと水のなかに生まれた気泡《きほう》のように、彼の頭に浮かんできた。
嘘の匂い
北海道から帰って、四、五日の間、清里には朝から不機嫌な日々がつづいた。
不機嫌になるのは、いってみれば自己嫌悪と不安のせいで、自己嫌悪の原因は自分が嘘をつきすぎるからであった。実際、彼は、家でも社でも、今度の旅行のことでは嘘ばかりついていた。
出張から、足を引きずりながら帰ってきた彼をみて、高子が驚いたのはいうまでもない。高子は、彼が家の門まで辿《たど》り着く前に、玄関のドアを勢いよく開けて飛び出してきた。ちょうど二階の子供部屋の窓を開け放って掃除をしていて、彼が路地の入口でタクシーから降りてくるのを見掛けたからだが、そんなこととは知らない彼は、高子がいきなり玄関から飛び出してくるのをみて、思わずぎくりとして立ち止まってしまった。
「足を、どうしたの? 怪我?」
「ああ。見事に滑って、転んでね」
「まあ。挫《くじ》いたの?」
「なに、ほんのすこしだ」
「肩を貸してあげましょうか?」
「いや、結構です」
ひとりでにそんな言葉が出た。
玄関で、高子が靴を脱がせてくれた。
「この靴は?」
「ああ、むこうで買ったんだ。夜は道が凍って、滑るというから。底が生ゴムでできている」
「この靴を履いてても、滑ったの?」
「そうなんだ。北海道の雪は、曲者《くせもの》だな」
「お酒、飲んでたんでしょう」
「そりゃあね。あの寒さじゃ、酒ぐらいは飲まないと」
「じゃ、桂さんに迷惑かけたんでしょう」
そうだ、桂が一緒だった、と思い出して、
「肩を貸して、ふうふういってたけどね、偶《たま》にはいいさ。こっちだって、学生時代から何度も担いで帰ってやったんだから」
そういいながら、彼はさすがに気が咎《とが》めた。
着替えをするとき、靴下を脱ぐと、留美が手当てをしてくれた足首が、高子の目の前にあらわになった。おかしなことだが、そのとき彼は、そこにはっきりと、痛みを感じた。
「あら、ちゃんと手当てしてあるのね」
「そうさ。自分でしたんだよ」
彼は、訊《き》かれもしないのに、そういった。
「なんでもできるのね、その気になれば」
高子は、家では無精者で通っている彼に、ちらと目を上げて笑った。
「だって、旅先だもの。自分でするより仕方がないだろう」
「お医者へいかなくてもよかったの?」
「もう遅い時間だったからね。それに、医者へ駈けつけるほどの怪我でもないし」
「どんなふうになってるの? 腫《は》れてる?」
彼は、患部をみせないわけにはいかなかった。繃帯《ほうたい》をほどきかけると、
「私がするわ」
「いや、いい。自分でする」
繃帯の下から、なにか思いがけないものが出てくるのではないかという不安が、彼にはあった。
高子は、自分でゆっくり繃帯をほどいている彼を、珍しそうに眺めていたが、やがて、
「これからは、この調子でなんでも自分でしてくれると、こっちは助かるんだけどな」
そういって、ちょっと首をすくめた。
繃帯の下からは、間の悪いものはなにも出てこなかった。薬は、明け方から替えていないので、石膏《せつこう》のように乾き切って、ひび割れていた。患部には薬がこびりついていて、色はよくわからなかったが、腫れはもうほとんどひいていた。
高子は、患部よりも薬の方に興味を持った。ギプスのように固まったネルを手のひらにのせて、しげしげと眺めた。
「これ、ネルじゃない?」
「ああ、ネルだよ」
「変った薬ねえ」
「熱を吸って、乾いたんだ」
「薬屋から買ったの?」
「いや、ホテルから貰った」
彼は、高子が気がつかなければ黙っているつもりだったが、
「なんだか変な匂いがするわ」
というので、仕方なく、
「それは薬の匂いだよ」
といった。
高子は、よせばいいのに鼻を寄せてみて、すぐに眉をひそめてのけぞった。
「なあに? この匂いは」
「酢の匂いだよ」
「す?」
「酢のものなんかを作る、あの酢だよ」
高子は、ちょっとの間、黙って彼の顔をみていたが、やがて、
「わかったわ。じゃ、この白いのは小麦粉でしょう」
その通りだったが、彼はひやりとした。
「……どうしてわかる?」
「酢で小麦粉を溶いたんでしょう? そういえば、子供のころに聞いたことがあるわ、打ち身や捻挫《ねんざ》によく効くって」
高子は、群馬の生まれだが、彼はなんとなく薄気味が悪くて、黙っていた。
「ホテルでこんな薬を作ってくれたの?」
「うん、ホテルの従業員がね。スキーにきた客で足首を挫くのがよくいるんだって」
「それで、捻挫をしたお客にはこの薬を作ってあげるわけ」
「そうらしいな」
高子は、おかしそうに笑い出した。
「現代一流の設備を誇るホテルでも、こと捻挫に関しては、昔ながらの民間療法にシャッポを脱いでるってわけね。面白いわ」
彼は、黙って高子の手から固くなったネルを取り返した。
「……どうするの?」
「どうもしないけど、手が臭くなるだろう」
「あなたの手だって臭くなるわ。頂戴」
「どうするんだ」
「捨ててくるわ」
「いや……」
と彼は、ほとんど無意識に首を横に振ってから、これを捨ててしまえば留美が自分に残したものはなにもなくなってしまう、と思った。
「だって、そんなものはもう要らないんでしょう?」
「いや、要るよ、洗って乾かせば、まだ使える」
「でも、小麦粉の薬はもうないんでしょう?」
「ないから、新しく作るんだよ。痛みがとれるまでは、治療をつづけなくっちゃ。酢と小麦粉を用意してくれないか」
「いいわよ。作るんだったら、私が作るわ」
高子が作ってくれた薬は、見た目は留美のと変らなかったが、匂いがすこし強かった。洗ったネルがまだ乾かないからといって、厚く畳んだガーゼにその薬を塗りつけながら、
「さっき作ってるうちに思い出したんだけどね」
と高子はいった。
「これに、卵を一つ入れるんじゃなかったかしら」
「卵を?」
「鶏の卵を。生《なま》のまま割って」
彼は笑い出した。
「まさか。嚥《の》む薬になら、生卵を入れるというのもわかるがね。湿布に入れるということはないだろう」
「そうかしら。でも、確かそう聞いたような気がするんだけど、子供のころに」
「なるほど生卵が入ると、それだけ効き目が増すような気はするけどね。しかし、なにしろ湿布だからな。湿布の薬に生卵が入ると、どんな効果があるんだ?」
「さあ……よく粘るようになるぐらいかしら」
「そうだろう。なにかの薬と混同してるんだよ」
「そうかしらねえ……」
高子は、首をかしげながら患部に薬を当てた。その薬がぬるいせいか、それとも患部に熱がなくなっているせいか、留美にそうして貰ったときのような快さはなかった。繃帯は、彼が留美の手つきを真似ながら、自分で巻いた。
「しかし、こんな薬のことを、おまえも知っているとは意外だったな。こっちは、てっきり北海道だけに伝わる療法だと思っていた」
彼がそんなことをいうと、
「でも、いま北海道に住んでる人たちの大部分は、本州から渡っていった人たちの子孫でしょう? だから、こんな民間療法も先祖の人たちと一緒に渡っていって、いまでも北海道で生きてるわけよ」
と高子はいった。
「……なるほど」
と彼は、留美のことを頭に思い浮かべて、そういえば留美の先祖が本州のどこの出身かを聞き洩らしていたなと、そんなことを考えているうちに、
「すると、群馬の出かもしれないわけか」
うっかり、そんな独り言をいった。
「誰のこと?」
「誰って……ほら、ホテルの従業員だよ、この薬を作ってくれた」
「べつに、群馬の人とは限らないんじゃない? 昔からの薬ですもの、よその地方にも広くゆき渡ってるんじゃないかしら。たとえば、関東から東北にかけてというふうに」
高子はそういってから、
「あら、桂さんは岩手でしょう。この薬のこと、知らなかった?」
「……そういえば、あいつ、べつに不思議そうな顔もしなかったな」
彼はそういうと、誰もいないところで吐息がしたくて、立ち上った。
夏子も、学校から帰ってきて彼が右足を引きずっているのをみると、目をまるくして、
「やっぱり雪おんなが出たの?」
といった。
彼は、普段のようにうまく笑えなかった。
「白いチョコレートは?」
「札幌には、なかったよ。このつぎね」
「じゃ、お土産は、なんにもないの」
「うん、今回は忙しくってね」
そういいながら、彼はさすがに、気が滅入《めい》った。
夕食のあとで、高子は、もう一つ、おかしな匂いを嗅《か》ぎつけた。旅行|鞄《かばん》から、なかのものを取り出していて、
「あら、いい匂い」
不意に高子は、そういったのだ。
彼は、茶の間の炬燵《こたつ》で夕刊を読んでいたが、振り向いてみると、高子はちょうどパジャマを取り出したところだった。彼は不安になった。自分のパジャマが、いい匂いなどするはずがないのだが……。
「これ、香水の匂いじゃないかしら」
高子がパジャマを嗅いでみながら、そういった。それで、わかった。ゆうべ、留美が捻挫の薬の臭気を消すために、ベッドの枕や足元の方に振りかけたお呪《まじな》いの匂いが、パジャマのどこかに染み込んでいたのだ。
「厭《いや》だわ」
と高子は笑って彼をみた。
「あなた、パジャマに香水なんか振ったの?」
「香水? なにをいってるんだ」
と彼はいった。
「そんなもの、僕が持ってるわけがないじゃないか」
「だって、匂うわよ。ほら」
高子はパジャマの上着を持ってきた。確かに、襟《えり》のところが匂っていた。ゆうべの匂いだ。
「……そうか、この匂いか」
彼はさりげなくそういって、パジャマを高子に返した。
「捻挫の薬、臭かったろう? だから、ホテルのボーイがベッドに撒《ま》いてくれたんだよ、この匂いを」
「へえー、粋《いき》なことをするボーイさんね」
「なんだか、おかしかったよ。酢で小麦粉を溶いた薬なんて、ちっとも粋じゃないのにさ」
彼は、すぐまた夕刊に目を戻したが、高子は改めてパジャマの襟を嗅いでみて、
「……似てるわねえ」
と呟いた。
彼は、ふと、高子はいちど留美に会っているのだと思い出して、顔を上げた。
「似てるって、なにに?」
「私が持ってる香水に」
と高子はいって、
「この匂い、ジョイにそっくりなの」
「ジョイ? なんのことだ」
「頼りない婦人雑誌の編集者。ほら、いつか、お土産に買ってきてくれたでしょう?」
そういわれて、思い出した。三年前、ファッション班のハワイ・ロケーションに同行したとき、佐野弓子にすすめられて免税店から買ってきたフランスの香水である。あれは、高価な香水であった。
「でも、私の鼻、どうかしてるのかしら……」
高子は、そういいながら立っていって、三面鏡の引出しからそのジョイの小瓶《こびん》を取り出してきた。
「ほら、大事にしてるから、まだ半分以上残ってる」
高子は、小瓶の蓋《ふた》を取って、パジャマの襟と嗅ぎ比べてみた。
「……そっくりなのよ。だけど、いくら一流ホテルでも、匂い消しにジョイなんかをふんだんに使うわけはないしねえ。ジョイとそっくりな国産品が出てるのかしら」
実際、彼にもゆうべの留美が匂ってきたが、彼はそのまま黙って夕刊に目を落としていた。
翌朝、起き出す前に、
「そうそう、女の人から電話があったわ」
と高子がいった。
寝室には、ゆうべ高子が、出したついでだからといって振りかけたフランス香水がまだ匂っていた。
「女の人から? いつ?」
「あなたが発《た》った日の午後。二時ごろだったかしら」
「……誰だろう」
清里には見当がつかなかった。
「名前を訊いたんだけど、いわないのよ。じゃ結構ですからって、切れちゃったの」
「こっちが家にいると思って、かけてきたのか?」
「そうみたいよ。だって、最初、いらっしゃいますかって訊いてたもの」
「……それで?」
「だから、きょうから出張で北海道へ出かけてますけどっていったら、ああ、そうですかって。あとは、用件を訊いても名前を訊いても答えないで、じゃ結構ですからって、切れちゃったの」
「……それだけか、話したのは」
「それだけよ。怪しいわ」
高子は、起き上がりながら彼を流し目にみたが、そう気にしているわけでもなさそうだった。
「怪しい、か。だけど、こっちを知ってる女なら、ウイークデーのそんな時間に、家にいるわけがないってことも知ってるはずだがね」
「そうよねえ。それで私も、ちょっと変だと思ったの。雑誌の読者の人かしら」
「それだったら、直接編集部へかけるだろう」
「……会社では、社員の自宅の電話番号を簡単に教える?」
「いや、そんなことはない。滅多なことでは教えてくれないはずだ」
高子は、手早く身支度をして、
「ちょっとしたミステリーね。怪しいわ」
口先だけでそういいながら、急ぎ足で台所の方へ出ていった。
もし編集部の誰かだったら、高子にはっきり名を告げるだろう。社の人間なら、誰でもそうしたはずである。けれども、家に電話をかけてきたということは、自分が三日間の休暇を取ったことを相手が知っていたからではなかろうか。社の人間ではなくて、自分の休暇のことを知っていた女といえば、誰だろう。思い当るのは留美だけだが、留美はそのころ、いとこの圭吉の車で札幌から余市へ向っていたのだ。
やはり、清里には誰だか見当がつかなかった。
出かける前に、足首の薬を取り替えて留美の繃帯を巻いていると、
「電車のなかや会社で匂わないかしら。香水でも振ってあげましょうか」
と高子がいった。
「いや、よしておこう。足元から香水が匂ってくるというのも、妙なもんだ」
と彼はいった。
「でも、そんなに繃帯を巻いた足で、よく靴が履けるわねえ」
「普通の靴なら、まず無理だな。あの登山靴みたいなやつを買っといて、よかったよ」
「編集部の人たち、みんなびっくりするわね。どうしたのって訊かれたら、どういう?」
「どういうって、正直にいうさ、滑って転んだって」
「信じてくれるかしら。仕事をさぼって、スキーをしたんじゃないか、なんていわれるわよ」
彼は、ちょっと笑っただけで、留美がそうしたように、繃帯止めをちょんと人差指で突っついた。
もしかしたら、留守中に電話をかけてきた女というのは、芹沢妙子ではなかろうか――ふと、そう思ったのは、出勤の途中、電車の窓から小綺麗《こぎれい》なマンション風の建物をみつけて、留美のことをぼんやり頭に思い浮かべていたときであった。
普通に考えれば、会社の電話交換手が社員の自宅へそんな電話をするとは思えない。外から自分に電話がかかってきても、編集部に繋《つな》げば、休暇だということが簡単にわかるのである。交換手はそれをただ相手に伝えればいい。わざわざ自宅にまで電話をして、所在を確かめるなどということをするはずがない。
けれども、もしも芹沢妙子が、自分と留美との仲を疑って目を光らしているとしたら、どうであろうか。妙子は、勿論《もちろん》、留美が北海道へ帰ったことを知っているだろう。ところが、会社へ出てみると、自分もまたおなじ日程で休暇を取っているのである。もしや、と妙子は思わないだろうか。
ためしに、自宅へ電話をかけてみる。もしも本人が出たら、ほっとして、なにもいわずに切ることにしよう。すると、留守番の妻が出て、北海道へ出張だという。やっぱり、と思う。用件も名前も告げずに電話を切る。出張だって。ぺろりと長い舌を出す。ようし、留美が帰ってきたら、とっちめてやれ。
「あァあ、情けない恰好で」
社の玄関で、うしろから追いついてきた兵藤が、肩を叩いた。
「もう、この齢になっちゃ遅いんだよ、スキーは」
編集長の桐山も、清里が歩いてくるのをみただけで、
「とうとう、やっちゃった」
と眉をひそめて笑い出した。
「思ってた通りだよ。清さんが、雪をみるだけで済むはずがないって、ゆうべもお京でみんなと話してたんだ」
出がけに高子がいった通りで、自分からまだなにもいい出さないうちから、みんなは年甲斐《としがい》もなくスキーに挑んで足首を痛めたのだときめ込んでいた。
そんなら、そういうことにしてもいい。彼は一向に構わなかった。休暇中のことだから、なにをしようがこちらの勝手で、滑って転んだというよりも、スキーに挑戦して負傷したという方が、いくらかきこえがいいかもしれない。
「まあ、馴れないことはするもんじゃないな」
彼は、社の誰彼にスキーだろうといわれるたびに、曖昧《あいまい》にそういって笑っていた。
午後になると、佐野弓子が出先から帰ってきて、
「お帰んなさい。聞いたわよ。具合はどう?」
と彼の席まで見舞いにきた。
「なんだか、えらくハッスルしたみたいね」
「ちがうよ。なにしろ、ひどい寒さでね、道がつるつるに凍ってるんだ。それで、滑って転んじまった」
彼が小声でそういうと、
「ははあ、飲んでたね?」
「うん。肴《さかな》が旨いから、ついね」
「あちらは、御無事だったでしょうね」
と弓子が目尻でみるので、
「勿論さ。一日、帰りが遅れるんだって」
弓子にだけは嘘はいうまいと彼は思っていたから、もう、それ以上のことはいえなかった。
その日の夕方、彼は編集長にうるさくいわれて、社の近くの病院へ念のために挫いた足を診て貰いにいった。その結果、やはり骨には異状がなくて、捻挫も思ったより軽いものだとわかったが、
「その薬は?」
医者が固くなりかけたネルを訝《いぶか》しそうにみていった。
「北海道でして貰った応急手当の薬でしてね」
そういって説明すると、酢で小麦粉を溶いた薬のことは医者も知っていて、苦笑した。
「昔はよく使われたようだけど、今時こんな薬をつけてる人は珍しいな。これは長く使ってると、皮膚がかぶれますよ、酢で。いまはいい湿布薬がたくさんあるんですからね」
留美のネルは、いとも簡単に捨てられた。
留美はあれから、どうしただろう。もう、こっちへ戻ってきただろうか。目的の金はうまく引き出せたろうか。彼は、そんなことを考えながら社へ戻ってきた。
「捻挫に、酒が悪いと思うか?」
六時を過ぎると、兵藤がきてそういった。
「わかってるよ。こっちの足を肴に、飲むつもりなんだ」
「ところが、医療班に訊いてみたら、べつに悪いこともないらしいな。ただ、酔っぱらうと、足をいたわらなくなるだろう。それで、直りがすこし遅くなる」
「遅くさせるつもりだろうが、そうはいかないよ」
彼はそういって、軽く机を叩いてみせた。三日休んだだけなのに、思いのほか仕事が溜《た》まっていた。
「あと、どのぐらいかかる?」
「まあ、三時間だな」
「九時なら、まだ宵の口だ。お京にいるよ」
兵藤が出ていってから、まもなく、机の上の電話が鳴った。てっきり留美だと思ったが、出てみると芹沢妙子で、
「お帰んなさい。怪我をなさったんですって?」
地獄耳だな、と彼は思った。
「お帰んなさいって、どこへ出かけたと思ってるの?」
「それは、雪のあるところでしょう? スキー場のあるところ」
「雪のあるところにも、いろいろあるがね」
「信州? それとも新潟の方かしら」
「もっと北の方だよ」
「じゃ、蔵王ですか?」
北海道といわないところが、かえって怪しく思われた。
「まあ、そんなところだ」
と彼はいって、
「そうそう、あんたに報告しなきゃと思ってたんだけど、神永さんが今度うちのファッション班のスタッフになるらしいよ」
「そうですってね。喜んでましたよ、清里さんのおかげだって」
「僕の? それは佐野さんの間違いだろう。佐野さんや編集長がすっかり気に入って、強引に口説いたんだ」
「でも、わからないもんですね。山の吊橋《つりばし》でお会いしたときは、まさかこんなふうになるとは思わなかったわ」
「……本当だな」
「私、まだ憶《おぼ》えてますよ」
「なにを?」
「男と女の仲って、吊橋を渡るのに似ている。ふと気がついたときには、もう、にっちもさっちも……そう仰言《おつしや》ったでしょう?」
妙子は、含み笑いをして、どうぞお大事に、といった。
一と足遅れて、東京へ戻ったはずの留美からは、その日も、その翌日も、連絡がなかった。清里はどうしたのかと気になった。べつに、留美が連絡すると約束したわけではなかったが、いま戻ったという知らせぐらいは、あってもよさそうなものだと彼は思っていたのだ。
彼は、月曜日に出かけて水曜日に戻ってきたから、戻ってきた日の翌々日が金曜日で、留美が資料室で翻訳の仕事をする日に当っていた。けれども、午前と午後と二度資料室を覗《のぞ》きにいったが、留美の姿はみえなくて、机の上に仕事をひろげた気配もなかった。
「きょうは現われないようだね、神永女史は」
夕方、写真部の部室で佐野弓子と一緒になったとき、彼はさりげなくそういってみた。
「そのようね。まだこっちへ帰ってないんじゃないかしら。もしかしたら金曜日は休ませて貰うかもしれないっていってたから。正月に帰らなかった分ものんびりしてるんじゃないの?」
と弓子はいった。
翌日の土曜日は、週休二日制で休みだったが、彼は普通に出勤した。仕事もあるにはあったが、もしかしたら留美からなにか連絡があるかもしれないと思ったからである。けれども、机の上の電話は、とうとういちども鳴らなかった。
待ちくたびれて、留美のアパートの部屋へ電話をしてみたが、ベルがむなしく鳴るばかりで誰も出ない。
留美はもう、どこか手の届かないところへいってしまって、二度と自分の前には現われないのではなかろうか。彼はそんな気がして、不安になった。
「……どうかしたの? ここんとこ、なんだか元気がないんじゃない?」
日曜日の午後、沈んだ気持で炬燵に寝そべっていると、そばでレース編みをしていた高子が、編み棒の先から目を離さずにそういった。彼は、口を利くのも億劫《おつくう》だったが、仕方なく、
「こんな足で、元気が出るわけがないだろう?」
「そうよねえ。貧乏|籤《くじ》、引いちゃったわね、今回は。北海道へさえいかなかったら、こんなことにはならなかったんだから」
彼は、そういう高子の横顔をちらとみたきり、黙っていた。晴れた日なのに、どこへも連れていって貰えない子供たちが、二階で音楽会のようなことをして遊んでいる。オルガンと、ソプラノ笛と、タンバリンの音がきこえる。
「でも、だんだんよくなってるんでしょう? 足は」
「うん、大分よくなった」
「病院の薬のせいかしら」
彼は、そうは思いたくなくて、さあね、といった。すると、高子が独りでくすっと笑って、
「私ね、自分でもちょっと変なんだけど、いまでも匂うことがあるのよ、ふっと」
といった。
「匂うって、なにが?」
「あの酢で小麦粉を溶いた薬が」
「……だけど、あの薬はもう何日も使ってないじゃないか」
「でしょう? だから変なのよ。あんな薬、もう家のなかのどこにもないのに、ふっと匂うことがあるの、意外なところで」
「意外なところで?」
「たとえば、夜、お布団のなかなんかで」
高子はそういって、またくすっと笑った。
その翌日の月曜日の朝、彼が出社すると、すぐに机の上の電話が鳴った。
「お早うございます」
と妙子の甲高い声で、外からの電話を取り次ぐのかと思うと、
「神永さんがアパートを出ちゃったんですけど、御存知ですか?」
「いや、知らなかった。いつ出たの?」
「きのうです。土曜日の晩に、急に出るっていい出しましてね、きのう、さっさと引っ越しちゃったんですよ。今度は豊島園の近くのマンションですって」
妙子は、訴えるようにそういった。いかにも面白くなさそうな口振りであった。留美は前々から望んでいたことを手際よく実現させただけだが、監視役のつもりでいた妙子にすれば、まるで抜き打ちのような引っ越しで、裏切られたような気がしたのだろう。
裏切られたといえば、彼自身も似たような気持だったが、
「それは、急だったねえ」
「急も急、出たいっていった翌日には、もう引っ越しですからね、びっくりしちゃいますよ。しかも、今度のマンションは、借りたんじゃなくて、買ったんですって」
それで妙子は、なおさら面白くないのだ。
「あるところには、あるんだな」
「北海道のお家にはね、あるらしいんです、あの人自身にはどれだけ貯金があったのか知りませんけど。それで、北海道へ帰って、お金を工面してきたんですよ」
「北海道からは、いつ帰ったんだろう」
「えーと、あれは、木曜日です」
すると、本当に一と足遅れただけで、留美は東京に帰っていたのだ。
妙子は、はぐらかされたようにちょっと口を噤《つぐ》んでいたが、すぐに、
「木曜日に帰ってきて、金曜日にはもう買ってたんですよ、マンションを」
と、いまいましそうにいった。
「前から狙いをつけてたんだね」
「でしょうね、知らん顔してて」
「だけど、随分思い切りがいいんだな」
「それはもう、はらはらするくらいですよ。そんな人なんです、あの人って。他人がびっくりするようなことを、なんでもなさそうにやっちゃうんですから。思い切りがいいっていうのか、なんていうのか……」
彼は、妙子が自分の仕事を忘れているのに気がついた。
「いいのかい、こんなことを話していて」
「あら、ごめんなさい、朝っぱらから。ただ、ちょっとお耳に入れておこうと思ったもんですから」
「わかったよ。有難う」
彼はそういって受話器を置いたが、留美が戻っていたことにほっとした反面、なぜ一と言知らせてくれなかったのかと、不満に思った。留美は、もう自分のことなど忘れてしまったのだろうか。留美はそんな女なのか。
翌朝、資料室を覗いてみると、髪を無造作にうしろへ束ねた留美が、女子学生のようにきちんと机に向って仕事をしていた。その横顔が、なぜだか随分懐かしいという気がして、遠くからみつめていると、留美も視線を感じたように顔を上げて、彼をみた。
「お早うございます」
留美は、なんのこだわりもない微笑を浮かべて、そういった。
「お早う」
と彼も、いつものように、ちょっと右手を上げて留美の方へ歩き出しながら、ふと、自分たちには何事もなかったのではないか、自分は長い夢をみていたのではないかと、そんな気がして、ちょっとめまいのようなものに襲われた。
すると、右の足首が脈を打って、痛みはじめて、彼は、自分がつい怪我を忘れて歩いていたことに気がついた。けれども、その足首の痛みは、いまはあの夜を自分に引き戻すための、たった一つの手掛かりである。彼は、ちょっと目をつむって、その痛みを味わった。
「まだ、そんなに痛みます?」
「時々ね。でも、もう大分いい」
「湿布は、つづけてらっしゃるんでしょう?」
「うん。でも、あのネルは医者に捨てられてしまった」
留美は、首をかしげるようにして彼を見上げていたが、その安心しきった顎《あご》と喉《のど》とが、おさな子のようにあどけなくみえた。目は相変らずきらきらしていたが、やはりこれまでとは、そこに籠《こ》もるものの濃さがちがっていた。彼は思わず吐息を洩らした。
「私、引っ越しちゃったんです」
「そうだってね。きのう、芹沢君が知らせてくれた」
「お節介な人。ぷりぷりしてたでしょう」
「やっぱり胸が穏やかじゃないらしいな」
「でも、仕方がないでしょう? こっちの都合なんだから」
そのとき、入口のドアが開いて、出版部の女性部員が二人入ってきた。その二人が、奥の方の本棚の前で、なにかひそひそと言葉を交わしはじめてから、
「豊島園の近くだって?」
彼も小声になってそういった。
「ええ、五階建ての可愛いマンション。六畳二間に、ダイニングキッチン、バスルーム、それにベランダもついてるの」
留美は、机の上にひろげたフランスのファッション雑誌を覗き込んで、それを読むように早口でそういうと、
「みにきてくださる?」
「いつ?」
「きょうは?」
「……五時半に降りてくる」
と彼はいった。それから、本棚の前の出版部員に、
「桂は席にいるかい?」
と声をかけた。
「いま来客でロビーにおります」
と一人が答えた。
そうか、と彼は頷《うなず》いて、ゆっくり資料室を出ると、べつに桂に用があるわけではなかったから、そのままエレベーターで編集室へ戻った。
一時間ほどすると、桂から電話がかかってきた。
「なにか用だったのか?」
「いや、大したことじゃない。酢で小麦粉を溶いた捻挫の薬、知ってるか?」
「知ってるよ。子供のころ、何度もお世話になった」
「やっぱり、そうか」
「そういえば、足を挫いたとか聞いたぞ」
「笑うなよ。実は滑って転んだ」
桂は、やっぱり笑い出した。
「そろそろ、そんな齢になったということか」
「北海道へいったんだ。いいか、きみも一緒だ」
桂はちょっと黙っていたが、
「なるほど」
と、また笑った。
「しかし、あの薬は効くね」
「効くけど、臭いだろう」
彼は、ふと思い出して、
「あの薬、使うのをやめても、いつまでも匂うかね」
「そんなことはないさ。使うのをやめれば匂わなくなる。匂うと思うのは気のせいだよ」
と桂はいった。
夕方、清里は、留美と一緒に社を出ると、豊島園行きの私鉄が出ている池袋までいって、留美が学生のころに常連だったというちいさなイタリア料理の店で食事をした。
「学生時代に、仲のいい友達が豊島園のそばのアパートにいましてね、時々泊めて貰ったりしたんだけど、あのあたりはまだ緑が多いし、朝なんか小鳥が鳴いたりして、とっても気持がいいんですよ。そのころから、こんなところにこぢんまりしたマンションがあったら、住んでみたいなあと思ってたの」
留美がそんなことを話すのを聞いているうちに、彼は、いつのまにか頭の片隅で、その友達というのは女だったのか、男ではなかったのか、などと、そんな幼いことを考えている自分に気づいて、驚いたりした。
「それにしても、早業だったね」
「ええ。これだと思ったら、もうじっとしていられない性分ですから。実は、北海道へ発つ前に、自分の貯金で手金を打っておいたんです」
留美はそういって、ちょっと首をすくめてみせた。
「北海道からは、木曜日に帰ったんだって?」
「ええ、あの翌日に」
「なんにも連絡がなかったから、どうしたのかと思ってたんだ」
「ごめんなさい。お電話しようかと思ったんですけど、妙子さんにそっくり聞かれてしまうような気がして……」
「だったら、お弓さんに話してくれれば、わかったのに」
「それも考えたんですけど……やっぱり、なんだかこわかったの」
「お弓さんが?」
「というよりも、佐野さんとお話しすることが」
と留美はいって、テーブルの上のキャンドルに目をしば叩いた。
「私の声、すこし変じゃありません?」
「声が? ちっとも」
「今朝は?」
「……今朝だって。ちっとも変じゃなかった」
「でも、佐野さんになら、すぐにわかっちゃいそうな気がするんです、なにか前とは感じがちがうってことが。声が匂うって、変ですけど、なにか匂いそうな気がしたの、佐野さんの鼻に」
そんなものだろうか、と留美のこわさが、なにかわかるような気がするまでには、すこし時間が必要であった。
「よくはわからないけど、まあ、いいさ。僕はただ、あんたがあの雪のなかで動きがとれなくなってるんじゃないかと、気になってね」
やがて彼はそういった。
留美のマンションは、豊島園の裏手の住宅地にあって、駅から歩いて五分もかからなかった。部屋は五階建ての四階で、おびただしい数の本が床に積み上げてあるダイニングルームを除くと、奥の寝室も手前の居間も、おととい引っ越したとは思えないほどきちんと片付いていた。
「……感心だね。誰か人を頼んだの?」
「引っ越しサービスの会社に頼んだの」
「僕にも知らせてくれれば、手を貸してあげたのに」
「その足で? こっちが肩を貸してあげたいくらい、こうして」
留美は笑ってそういうと、彼の右手を取って、するりと腋《わき》の下に頭を滑り込ませた。彼は、はじめ冗談かと思ったが、
「連れてってあげる。あなたがそうしてくださらないから」
そういわれて、自分が留美に対してなにか大切なことを怠っていたような気持にさせられた。彼は、黙って留美の首を引き寄せてやった。
「会いたかった……」
と、口を塞《ふさ》がれる前に、留美は辛うじてそれだけいったが、なるほど、その声が、さっき池袋で飲んだキャンティーそっくりに匂った。
留美のベッドは、ホテルのよりもずっと固くて、粗末だったが、それがかえって彼の気持を落ち着かせた。二人は、そこで小一時間ほど、ガスストーブの明るみだけを頼りに言葉の要らない時を過ごしたが、その小一時間のうちに、東京へ帰ってきて以来、なぜともなしに、留美とのことはあれっきりになってしまうかもしれないという気がして、むしろ思い出すのが辛かった札幌の夜が、実は、ほんの始まりにすぎなかったことが、彼にはわかった。
だから、ベッドから降りるすこし前に、
「初めてじゃなくて、ごめんなさい」
留美が、ふと、そう呟いたときも、
「わかってるよ。二度目じゃないか、今夜は」
彼は、とぼけたようにそういって笑った。
実際、留美にはどれだけの経験があるのかわからなかったが、たとえば、そのとき、びっくりしたように目を瞠《みは》り、いまにも助けを呼ぶ声を上げそうになりながら、頭を反らしていやいやをする留美を見下ろしていると、ういういしいというよりも、なにか自分が酷《むご》い仕打ちをしているようで、彼は思わず途中で躊躇《ためら》ったりした。
留美は、イタリア料理の店から土産に貰ってきた太い蝋燭《ろうそく》に火を点《とも》して、それを、明かりを消した浴室の窓際に置いた。
「前に、外国の映画で、恋人たちがお風呂のまわりに蝋燭を何十本も点して、一緒に入る場面をみたことがあるの」
窮屈な湯面から突き出ている彼の膝《ひざ》小僧に、留美は手でお湯を掬《すく》ってはこぼしながら、そんなことを話した。
「その蝋燭の火がまわりの鏡に映って、とても綺麗だったわ。ところが、その恋人たちは結局不幸なことになってしまうの。だから、私は一本だけ」
その一本の蝋燭の火が、浴室の窓で揺れているのを外から誰かが見上げたら、一体なんだと思うだろうと、彼はおかしかった。
窓を細目に開けてみると、遠くの空に、若草色に明るんだ巨大な球体がいくつか固まって、家々の屋根の上から頭を覗かせているのがみえた。
「あれは、なんだろう」
「ガスタンクですって。ちょっとSF的な眺めでしょう?」
全く、彼は、蝋燭の火で汗の玉が赤く輝いている女を目の前にみているだけで、すでに見知らぬ世界に迷い込んでしまったような気がしていた。
――その晩、遅くなってから家に帰ると、
「あ、また匂う……」
と高子がいった。
彼は、ちょっと間を置いてから、
「なにが?」
と訊いた。
「ほら、あの薬、足の」
それは多分、嘘というものの匂いだ、と彼は思った。
夜の通い路
四月になると、留美は、正式にファッション班のスタッフに加わることになって、担当の頁が与えられた。それと同時に、火曜日と金曜日に資料室で翻訳の仕事をすることもなくなって、留美の出社は不規則になった。
清里は、編集の仕事と時間の都合のつく限り、こまめに留美と会ってはスタイリストの取材をしたが、正直いって、いまは留美と会うのが仕事のためなのか、それとも留美という女に惹《ひ》かれているからなのか、自分でもよくわからなかった。
彼は、留美と会うと、別れ難くて、結局その日は留美の部屋で夜ふかしをすることになった。帰宅が十二時にも、一時にもなった。高子は、朝が早いから、十二時まで待っても帰らないときは、先に眠ることになっている。帰りが一時になったりすると、ちょうど高子の寝入りばなをコールチャイムで起こすことになる。それがわかっているのに、腰が重くて、十二時を過ぎてからマンションを出ることがたびたびであった。
高子には、仕事が忙しくなったのだということにしていた。高子は、心得ていて、彼の仕事には一切口出しをしなかったが、夜半過ぎの帰宅がつづくと、さすがに辛そうな様子をみせた。
「鍵《かぎ》を持って出た方がいいんじゃないかしら。その方が、あなたも楽でしょう?」
つい深寝をしていて、彼を手こずらせた翌朝、高子は、すまなそうにそういった。
鍵というのは、彼が毎月、最も忙しい締め切りから校了にかけての一週間だけ持って出ることにしている玄関の鍵のスペアのことだ。その鍵があれば、いちいち高子を起こすこともない。辛そうな高子の顔をみなくて済むし、留美と別れてきたばかりの顔をみせなくて済む。
「じゃ、貰っておこうか」
彼は、高子が出してくれた鍵を小銭入れに入れた。
けれども、鍵があると思うと、つい気が弛《ゆる》んで、帰りが二時にも、三時にもなった。夜が短くなってくると、そのままベッドでうとうとして、帰りのタクシーのなかでしらじら明けになることもあった。
ある朝、寝不足が溜《た》まってなかなか目が開かない彼の枕元で、
「あなた、豊島園のマンションにいる女の人って、誰?」
と高子がいった。
彼は、一遍に目が醒《さ》めた。
「豊島園のマンション?」
「そこにいる女の人。誰なの?」
彼は、ちょっとの間、黙って高子の顔をみていた。高子に、それが留美だとわかるはずがなかった。
「いきなり、なんの話だ」
彼は下手なあくびをした。
「その女が、どうかしたのか?」
「また電話をかけてきたのよ、きのう」
と高子はいった。
「……またって、前にもかけてきたのか?」
「ほら、あなたが北海道へ出張で留守のとき、女の人から変な電話があったでしょう、名前も用件もいわない電話が。あのときとおなじ声なんだけど、今度は、豊島園のマンションにいる者だっていうの。あなたにそういえば、わかるはずだって」
彼は、注意深く首をかしげながら起き上った。
「……で、用件は?」
「ところが、用件はなにもいわないのよ、この前みたいに」
と高子はいった。
「いきなり、御主人様いらっしゃいますかっていうから、あ、こないだの、とすぐわかったわ。で、うちは月曜日から金曜日まで、毎日、朝から出社してますよって、すこしきつくいってあげたの」
「そしたら?」
「ああ、そうですか、わかりましたって」
用件を訊《き》くと、いらっしゃらないなら、結構だという。名前を訊くと、それはいわずに、豊島園のマンションにいる者だが、そういえばわかるはずだといって、電話が切れた。
「心当りがないの?」
「ないね、さっぱり」
留美が、そんな悪戯《いたずら》をするはずがない。
「でも、そういえばわかるはずだっていうのよ」
「むこうがそういったって、こっちがわからないんだから、どう仕様もないじゃないか。それに、豊島園のマンションといっても、一軒だけじゃないんだからね……おそらくね。こっちは、いったことがないからわからないけど」
と彼はいって、
「どんな女なんだ? 齢はいくつぐらい?」
「そうねえ、二十五から三十、三十前後ってとこかしら」
またしても、彼の頭に妙子のことが浮かんだ。妙子なら、留美が豊島園のマンションにいることを知っているのだが、声や話し方の様子を訊いてみると、どうやら妙子でもなさそうであった。
「風邪でもひいてるみたいな鼻声で、ぼそぼそと話すの」
妙子は、甲高い声でてきぱきと話す。
「おかしな女だな。気狂《きちが》いじゃないのか?」
と彼はいったが、それにしても豊島園のマンションというのは、なんとも薄気味が悪かった。
「じゃ、豊島園の近くのマンションにいる女の人って、全然心当りがないわけね?」
「ないね、全然」
「よし、今度かかってきたら、逆にこっちからいろいろと探ってやるわ。誘導|訊問《じんもん》で、マンションの名前ぐらいは聞き出してやろ」
高子がそんなことをいうので、彼は顔をしかめて、
「よせよせ。気狂いを相手にしたって仕様がないよ。相手がその女だとわかったら、すぐ電話を切っちゃった方がいい」
といった。
「でも、そんなことをして、相手を変に刺戟《しげき》することになったら、いけないわ。変な電話が何度もかかってくるようになったりしたら、厭《いや》でしょう?」
「それは厭だね」
彼は、舌うちをして黙り込んだ。
そのおかしな電話のことを留美に話すと、留美はしばらく考えていたが、やがて、
「誰だかわからないけど、あなたと私のことをうすうす感づいている人が、奥さんに牽制《けんせい》球を投げて、あなたを釘《くぎ》づけにしようとしてるんじゃないかしら」
といった。
「というと、誰がいる?」
二人は、黙って顔を見合わせていたが、
「わからないわ。でも、誰だっていいじゃない?」
留美はそういうと、振り向いてテレビのスイッチを入れた。
五月の末の、ある月曜日の夜、清里は、桂と二人で、ある書店から豪華本の詩画集を出版した大学時代の恩師を囲むお祝いの会に出席した。会場は都心のホテルの広間で、参会者が三百人を越す盛会であった。
清里は、卒業以来いちども会ったことがなかった古い仲間の一人に、
「若いね。まだ青年じゃないか。婦人雑誌にいると、こうもちがうもんかね」
と冷やかされた。
けれども、時々顔を合わせている旧友たちのうちには、
「ちょっと痩《や》せたじゃないか」
という者がいた。
「おい、働きすぎだな。顔色が悪いぞ」
という者もいた。
会がお開きになってから、そんなかつての仲間たち五、六人と新宿へ出て、二軒ほど廻ったところで、清里は桂の肩を叩いた。
「今夜はこれで失敬する」
「もう帰るのか。まだ十時だぞ」
と桂はいったが、清里にすればもう十時であった。
「ちょっと寄るところがあるんだ」
「どこへ寄るかなんて、俺は訊かないがね、おまえは近頃、評判が悪いぞ」
桂は酔っていた。
「そうか」
と清里が笑っていると、
「ここんとこ、全く付き合いが悪い。お京も、これだぞ」
桂は、広い額の両脇に人差指を立ててみせた。
「ま、そのうち埋め合わせをするさ。よろしくいっといてくれよ」
清里は、独りで店を抜け出ると、すこし歩いてからタクシーを拾った。
「豊島園のそばまで」
車が走り出すと、彼は上着を脱ぎ、ネクタイを弛めた。それでも暑苦しいので、窓を大きく開けて風を入れた。
「暑くなりましたね」
と運転手がいった。
「今夜は特にむし暑いな」
「七月上旬の気温ですって」
「七月じゃ暑いわけだ」
そろそろ、夏か、と汗かきで、夏が苦手の彼は思った。夏がくるまでに、すこし眠っておかないと、参るな。今夜は、二時間だけで帰ることにしよう。
留美のマンションの百メートルほど手前の角で、タクシーから降りた。腕にかけた上着の内ポケットに財布を入れながら道を横切って、路地に入った。豊島園裏の住宅地には、もうほとんど人通りがなくなっていて、道の両側の塀《へい》に彼の靴音が高く響いた。
二時間だけのつもりだったが、シャワーで汗を流したり、ベランダの椅子で風に吹かれたりしているうちに、やはり一時を過ぎてしまった。
玄関で、靴を履いてから、
「……ちっともお酒の匂いがしないわ。かえって変じゃない?」
と留美が彼の肩に両手をのせたままいった。酒は、もうすっかり醒めていた。
「そんな心配、しなくていいよ。このまま寝るだけなんだから」
「忘れものはない?」
「ない……」
と、彼は上着の内ポケットを上から軽く握ってみて、おや、と思った。なんの手応えもないのだ。
彼は、上着を持ち直して、内ポケットに手を入れてみた。やはり、そこは空っぽであった。彼は思わず苦笑した。
「危いところだったな。財布を忘れた」
「お財布を? まあ」
と、留美は目を大きくして、奥の部屋へ戻りかけながら、
「どこに置いたの?」
どこに置いたんだろう、と思い出そうとしているうちに、留美が奥の部屋へ入っていって、まもなく首をかしげながら戻ってきた。
「ないわ、どこにも」
「ない?」
留美は近頃、彼を帰すまいとして、持ち物の一つをこっそり隠しておくという悪戯をすることがある。またそれかと思って、睨《にら》むようにすると、
「ちがうわ。本当にないの」
留美は真顔で、かぶりを振った。
「どこか別なところに入れてたんじゃない?」
彼は、ポケットというポケットを探ってみたが、財布はどこにも入っていなかった。
「ないの?」
「ないね」
「ここへくるときは確かにあったの?」
「勿論《もちろん》、あったよ。タクシーへ金を払ったんだから」
「……それから、お財布はどうしたの?」
「ここへ入れたよ、いつものように」
彼はそういって、空っぽの内ポケットにまた手を入れてみた。
「それで、まっすぐここへきたのね?」
「そうだよ」
彼は、階段を、ゆっくりすぎるほどゆっくり昇ってきた。
「あなたは上着を脱いで、腕にかけて持ってらっしたわ。で、私が上着をすぐにハンガーに掛けたわ。そうだったでしょう?」
「その通りだ」
「それから、財布をお出しになった?」
そういわれてみると、彼にはそんな記憶はなかった。
「出さなかったね」
「じゃ、うちに忘れたんじゃないでしょう。でも、もういちど一緒に探してみる?」
彼は、靴を脱いで、また奥の部屋へいってみた。探すといっても、六畳二間とベランダだけである。財布はやはり、みつからなかった。
彼は、留美と顔を見合わせたまま吐息をした。
「というと、どういうことになるんだ」
「落としたのよ、きっと。タクシーから降りて、うちへくるまでの間に」
彼はこれまで、財布を落としたことなどいちどもなかったのだが、いまは落としたと思うより仕方がなかった。
「とにかく、いってみましょう、タクシーから降りたところまで。この辺は遅くなると、ぱったり人通りがなくなるから、まだ間に合うかもしれないわ」
留美がそういうので、一緒にマンションを出て、さっき歩いてきた路上を懐中電燈で丹念に辿《たど》ってみたが、財布はどこにも見当らなかった。
「いくら入ってたの?」
「二万ちょっとだ」
「お金のほかには?」
「金のほかには、べつに……」
と彼はいいかけて、思わず立ち止まってしまった。
一つ、まずいものが入っていたのだ。
「……しまったな」
「どうしたの?」
「変なものが入っていた」
「変なものって?」
「クレジットカードだよ」
彼はそういって、舌うちした。
普段は、クレジットカードなど持ち歩くことはないのだが、たまたまきのうの日曜日に、夏子にそれでワンピースを買ってやって、そのままうっかり財布に入れて持っていたのだ。
これは、留美にははっきりいえないことだが、彼は、留美のところへ通うようになって以来、ときおり急に、子供たちになにかしてやりたくて堪らなくなる。実は、きのうもそんな衝動に駆られて、夏子を連れてデパートへ出かけたのだった。
「厄介なものが入ってたわ」
留美もそういって、肩を落とした。
「お金の方は諦《あきら》めるにしても、クレジットカードの方は、そうはいかないものね。拾った人がその気になれば、いくらだって悪用できるんだから」
全くその通りで、誰が使ってもそのカードで買物をした分の請求書は、すべて持ち主の彼のところへ廻ってくることになる。放っておくと、ひどいことになる。
「すぐクレジットの会社へ紛失届けを出さないとね」
「うん。朝になったら、さっそく届ける」
「なんなら、私の方から交番へ届けておきましょうか?」
と留美はいったが、もしも自分の留守に高子のところへ、豊島園の近くの交番から連絡があるということにでもなると、なおさら厄介なことになってしまう。
「いや、それもこっちでするよ」
と彼はいった。
帰りのタクシー代を借りて、独りで留美のマンションを出ると、梅雨のはしりのような雨がぽつりぽつりと落ちてきた。こんなときのために、留美は途中で捨ててもいいように安いビニール傘を用意してくれていたが、それを取りにまた四階の部屋まで昇っていくのは、もう億劫《おつくう》であった。
彼は、さっきタクシーから降りたところまでくると、枝をひろげている街路樹の下に身を寄せた。むこうの街燈の下の地面がそろそろ濡れて光りはじめていた。
財布を落としたとすれば、この道を路地の入口の方へ渡ったときだと彼は思った。タクシーが走り去った道を、彼は歩きながら財布に釣銭を入れ、その財布を、腕にかけた上着の内ポケットに仕舞いながら横切ったのだが、おそらくそのとき、内ポケットのつもりで袖のなかへ落としてしまったか、そうでなければ、まだ着馴れない夏服の裏地の滑っこさに惑わされて、そこを内ポケットだと錯覚したのにちがいなかった。
それにしても、俺が財布を落とすなんて、と彼は、そんな自分がいまだに信じられないような気持で、そう思った。自分は確かに酔ってもいたし、疲れてもいた。五月にしては異常な暑さで、頭がぼんやりもしていたろう。けれども、なによりも留美と会うことで、自分の気持がすっかりうわずっていたのだ。そんな自分が、彼には滑稽でもあり、また哀《かな》しくもあった。
雨が街路樹の葉先からしたたりはじめたが、タクシーはなかなかこなかった。
翌朝、清里は、近頃では珍しく誰にも起こされずに目を醒ましたが、そのときはすでに、眠っている間もそのことを考えつづけていたかのように、落とした財布のことが頭に浮かんでいた。
そうか、こいつに起こされたのか、と彼は思った。
落としたのが金だけだったら、高子に黙っていても構わないのだが、クレジットカードもということになると、知らぬ顔をしているわけにはいかない。早く打ち明けて、クレジットの会社へ紛失届けを出さなければならない。
起きていってみると、子供たちはもう学校や幼稚園へ出かけたあとで、高子は、子供たちが荒らしていった食卓を独りで片付けていた。
「あら、珍しいわ、自分で起きてくるなんて」
と高子がいうので、
「珍しいといえば、ゆうべの会では随分珍しい顔に会ったよ」
彼はそういって、高子も知っているかつての級友たちの様子を話して聞かせてから、
「ところが、ゆうべは、こっちも珍しいへまをしてね」
「どうしたの?」
「財布を落としたんだよ、クレジットカードが入っている財布を」
「まあ」
と高子は、流しの水道を急いで止めて、彼の方へ向き直った。
「どこで?」
「新宿で。桂やなんかと、あちこち飲み歩いているうちに。暑くて、上着を脱いで腕に掛けてたんだがね、帰りのタクシーに乗ろうと思ったら、もうないんだ」
「じゃ、困ったでしょう」
「でも、桂が一緒だったからね、タクシー代だけ借りて、やっと帰ってきたんだ」
高子は、仕方なさそうな笑いを浮かべた。
「どうしたのかしら。あなたが財布を落とすなんて、珍しいじゃない?」
「珍しいどころか、生まれて初めてだよ」
「気をつけてくださいよ、そろそろ。財布を落としたぐらいで済んでいるうちはいいけど……」
「爺さんみたいにいうなよ」
「だって、似たようなもんじゃないですか。滑って転んで足を挫《くじ》いてきたかと思うと、今度は酔って財布を落としてくる……。昔流にいえば、そろそろ厄年なんですからね。気をつけて貰わなくっちゃ」
高子は、そんなことをいってから、
「交番へは届けたの?」
「いや、まだだ。ゆうべは酔ってたからな。酔って交番なんかへいったら、碌《ろく》なことがない」
「じゃ、出がけに寄る?」
「今朝はちょっと寄れないな」
「じゃ、あとで私が届けておくわ。それから、クレジットの会社には紛失届けを出さなくっちゃ」
「そっちは、なるべく早い方がいいんだ」
「そちらさんも、夜はなるべく早くお帰りになった方が、被害がすくなくて済むんだけどな」
高子は、冗談とも本気ともつかずにそういうと、エプロンで手を拭きながら小走りに茶の間へ入っていった。けれども、クレジットの会社へ電話をしてみると、係がまだ出社していなかった。
「もうすこししたら、また電話をしてみて、なにかあったら社の方へ連絡するわ」
高子はそういったが、その連絡は、意外に早く、彼が社に出ると、すぐにきた。
「紛失届けは出したんだけど、ちょっと困ったことがあるの。届けを出しても、すぐには悪用を防げないんですって」
と高子はいった。
「それは、どういうわけだ」
「紛失届けが全国の加盟店に行き渡るまでには、一と月ぐらいはかかるらしいの」
「一と月も」
と彼は驚いた。
「そうですって。だから、それが行き渡らないうちに悪用された分は、うちで負担することになるらしいの」
「一と月せっせと使われた分を、全額こっちが負担するのか?」
「でしょうね、きっと。こんなとき、保険に入っていれば随分助かるらしいんだけど、うちは、あいにく保険には入っていなかったから」
まさか財布ごと道に落とすなどとは思わなかったから、保険には入らなかったのだ。彼は暗澹《あんたん》とした。
「でもね、会社の人の話だと、こんなカードを拾っても、なかなか使えないもんなんですって。大抵の人は現金だけ引き抜いて、カードは財布と一緒に捨てるっていうんだけど」
けれども、なかには、例外がいて、一と月の間に数百万円分も買い込むことがあるかもしれない。
「そうすると、あのカードを拾った奴が、財布と一緒にどこかのどぶへでも捨ててくれるような人間であることを祈るほかはないわけか」
「そうみたいね。こんなカード、使うときは便利なようだけど、こういうことになると、なんだか恐ろしいものにみえてくるわ」
昼すこし前に、高子からまた電話があった。
「何度も、ごめんなさい。今度は交番のことなんだけど」
高子は、困ったように笑いながらいった。
「さっき交番へ届けてきたんだけど、これが意外に厳しいのよ」
「厳しい? だけど、こっちはなにも悪いことをしたわけじゃないだろう」
「勿論《もちろん》、そうだけど、交番としては、できるだけ正確なことが知りたいらしいのよ。そういう意味で厳しいの。根掘り葉掘り訊かれて、困ってしまったわ」
「なにをそんなに訊かれたんだ」
「財布を落とした場所と時間。それを、できるだけ正確に知りたいらしいの」
彼は、思わず舌うちした。
「なにをいってるんだ。場所と時間を正確に憶《おぼ》えてたら、自分ですぐ拾っちゃうよ」
高子は笑い出した。
「でもね、とにかく交番では、正確な場所と時間が知りたいっていうのよ。昼過ぎにお電話しますから、御主人に確かめておいて貰えませんかっていうんだけど、どうすればいい?」
「やっぱり、大体のことしかわからないっていうほかないね。ついでに、どうしてそんなに正確な場所と時間が知りたいのか、訊いてみるといいな」
彼は、多少薄気味悪さをおぼえながら、電話を切った。
その晩、留美のところへは寄らずに家に帰ると、
「警察がどうして財布を落とした場所と時間を正確に知りたいか、わかったわ」
と高子はいって、買物の帰りに交番で聞いてきたというこんな話をした。
たとえば、二人連れの男が道に落ちている財布を拾って、それを自分のものにしたいと企んだとする。二人は、まず財布と中身をよく調べて、金はいくら、金のほかにはなにが入っているかを憶え込んでから、一人がそれを近くの交番へ、こんなものを拾ったといって届ける。もう一人は、その隣りの交番へこんな財布を落としたと届けて、大体の場所の見当を告げる。それで、さっそく隣りの交番に問い合わせてみると、果たしてそんな拾得物の届け出がある。外見も中身も、落とし主の届け出と寸分ちがわない。当然、財布は彼の手に渡される。二人は、まんまと他人の財布を自分のものにすることになる。
「そんなことが時々あるんですって。だから、そんな届け出があってもすぐ嘘だとわかるように、落とした場所と時間をできるだけ正確に知りたいっていうのよ」
「なるほど」
と彼はいったが、それにしても彼には本当の場所と時間を正直に届けるわけにはいかなかった。
彼は、たとえ豊島園の近くの道で拾ったという届け出があったとしても、それはおかしい、自分は新宿で落としたのだと言い張るつもりだった。
「やっぱり思い出せないの? 落とした場所と時間が」
「思い出せないね、大体の時間しか。でも、思い出せたとしても無駄だよ、きっと。あの財布はもう出てこないだろう」
「じゃ、クレジットカードはどうなるの?」
「財布と一緒に捨てられた……そう祈るほかないじゃないか」
とにかく、この一と月さえ無事に過ぎてくれれば、と彼は思った。
ところが、翌週の月曜日の昼過ぎに、また高子から社に電話があった。
「財布を拾った人が捕まったんですって。よかったわ」
高子は声を弾ませていたが、彼は胸がどきりとした。
「……捕まった、というと、警察に?」
「そうなの、浅草で」
「浅草で?」
「ええ。いまクレジットの会社から連絡があったんだけど、やっぱりカードを使ったのよ」
と高子はいった。
「……どんな奴だろう」
「くわしいことはまだわからないけど、なんでも若い男ですって。最初、靴とズボンを買ったらしいの、別々に。それがうまくいったものだから、今度はカメラを買おうとしたのね、八万円とかの。ところが、お店の方では、五万円以上のものを売るときには一応会社にカードを確認することになってるんですって。それで、忽《たちま》ち不正使用だとわかったわけ」
そのカードを使おうとした若い男は、電話中にそれと気配を察したらしく、カードを残したまま一旦店から姿を消したが、しばらくして様子を見に戻ってきたところを、店からの連絡で張り込んでいた刑事に逮捕されたそうだと、高子はいった。
「そうか。それはよかった。やれやれだな」
と彼はいったが、実際はそう喜んでいるわけではなかった。かえって、これは面倒なことになるなという気がしていた。
なにしろ、その捕まったという若い男が、財布を拾った当人なら、その財布が豊島園の近くの夜道に落ちていたことを彼は知っているのである。おそらく彼は、そのことを警察で白状するだろう。すると、新宿で落としたというこちらの届けとの食い違いは、どうなるのだろう。また、その男になにか余罪があった場合、豊島園の近くの夜道が思わぬ光を浴びることになりはしないだろうか。
「でも、買われたものがズボンと靴だけで済んで、よかったわ。私はそれが一番心配だったの」
と高子はいった。
「本当だ。不幸中の幸いだった」
「両方合わせて、二万円足らずですって。それがこっちの負担になるらしいんだけど、でも、助かったわ。もしもその男が、五万円以上の買物は危いってことを知っていて、欲を出さずに四万九千円の買物をせっせと繰り返していたらと思うと、ぞっとするわ。四万九千円の買物を一と月もつづけられたら、一体いくらになると思う?」
「……見当がつかないね」
「それこそ、無限でしょう。しかも、潮時をみてカードを誰にもわからないところに捨てるか、燃やしてしまうかすれば、結局その男は捕まらなくて、私たちにだけ、莫大な負債がのしかかってくるわけよ、まるで天から降ってきたみたいに。そんなの、とても堪らないわ」
「あやうく破産するところだったわけだ」
「そうよ……」
それから高子は、くすっと笑った。
「あなた」
「なに?」
「なんだか変よ」
「……変って、なにが?」
と、用心深く彼はいった。
「財布が出てきても、ちっとも嬉しそうじゃないから。他人事《ひとごと》みたいよ」
彼は、ちょっと口籠《くちご》もったが、
「だって、ここは会社だよ。手を叩いて喜ぶわけにはいかないじゃないか」
「そうね。じゃ、いいの。今夜は遅くなる?」
「いや、そんなでもない、いまのところはね」
「じゃ、せいぜい御馳走をこしらえておくわ。私ね、なんだか躯《からだ》がだるくなるくらい、ほっとしてるの」
「こっちだってそうだよ」
彼は、呟《つぶや》くようにそういってから、警察からはなにか連絡があったかと訊いた。
「警察からは、まだなんにも」
「もし、あったら、こっちへすぐ連絡してくれるようにいってくれないか。面倒だから、おまえはなるべく関《かか》わり合いにならない方がいい」
「そうね。じゃ、そうさせて貰うわ」
と高子はいった。
それから一時間ほどして、彼が自分の席で校閲部から戻ってきた校正刷に目を通していると、佐野弓子から電話がきた。
「いま写真部にいるんだけどね、神永さんがきてるのよ。これから、今度のロケの打ち合わせをするんだけど、傍聴しておいた方がいいんじゃない? どうせロケも取材するんでしょう?」
「できればね。ともかく、すぐそっちへいくよ」
ついでに、財布を拾った男が警察に捕まったことを留美に知らせておかなければ、と彼は思い、そそくさと校正刷を片付けて席を離れた。
一階下の五階へ階段を降りていくと、ちょうど写真部の部室を出て、廊下をむこうへ歩いていく弓子の後姿が目に入った。彼は声をかけた。
「まあ、早いこと」
弓子は眉を上げてみせた。
「ちょっとスタジオまでね。すぐ戻るわ。神永さんはキッチンよ」
それだけいうと、弓子はさっさと歩いて、廊下のはずれのスタジオへ入っていった。
彼は、ほんのすこし躊躇《ためら》ってから、やはり写真部を訪ねる前に、キッチンのドアを静かに開けてみた。すると、床に積み重ねたダンボール箱の山のむこうで、留美がこちらに背を向けて、ハンガーに並んでいる衣裳《いしよう》をいじっているのがみえた。彼は、広いその部屋に留美しかいないのを確かめると、するりと躯を滑り込ませて、足音を忍ばせながらダンボール箱の山の裾を廻っていった。
留美は、両手でゆっくりハンガーの列を分けては衣裳を眺めていて、気がつかない。彼は、財布を落とした晩以来、留美とは電話で話しただけで、いちども会っていなかった。留美の背中をみると、彼には、ブラウスを通して肩胛骨《けんこうこつ》の窪《くぼ》みがみえた。それから、脇腹のちいさなほくろも。
彼は、そのまま忍び寄っていって、なにもいわずに両手でそっと肩口を抑えた。けれども、留美は驚かなかった。むしろ待っていたように、彼の手の甲に素早く頬をこすりつけると、
「ゆうべもタン・シチューをこしらえてたのに」
ちいさな声でそういった。
タン・シチューは、彼の好物だが、留美はだんだん、彼の好きなものを自分で作って食べさせたがるようになっていた。
「なんだ、知ってたのか、びっくりさせてやろうと思ったのに」
と彼がいうと、留美は黙って、ハンガーの列のむこう側を指さしてみせた。
なんのことはない、そこには姿見が置いてあって、留美の肩越しに自分の顔が映っている。彼は、ちえっと笑って、両手で留美の肩を軽く叩いた。留美は、するりと彼の手から逃れて、
「一週間ぶりよ」
「そんなになるか」
北海道から帰って以来、こんなに長く会わずにいたことはなかった。
「心配してたの。お財布は? まだ?」
「それが、ちょっと、まずいことになった」
「どうしたの?」
「捕まったんだよ、拾った奴が」
留美は、目を大きくして振り向いた。
「警察に?」
「クレジットカードで高価なものを買おうとしてね」
「……どんな人だったの?」
「まだ、若い男だということしかわかってないんだ」
「で、その人、警察で、うちの近所の道で拾ったって話したの?」
「それも、まだわからない。もしもそのことが明るみに出れば、ちょっと困ったことになる」
留美の目がきらきらと顫《ふる》えてきたとき、ドアをノックする音がきこえた。
「どんなことになっても、私は平気よ」
留美は、低いが激しい口調でそういった。頷《うなず》いて、先に戸口の方へ歩き出すと、ドアが開いて弓子の顔が覗《のぞ》いた。
「そろそろ始めましょうか?」
「はい」
と、留美が明るい声で返事をした。
「……熱心でしょう。ちょっと張り切りすぎじゃない?」
先にキッチンを出た彼に、弓子が笑ってそう囁《ささや》いた。
「自分でロケに出るのは初めてだからな。カメラは誰?」
「桑ちゃん。どうかしら」
「いいじゃないか、フレッシュコンビで」
桑ちゃんの桑野は、これまで主に読物班の仕事をしてきた若い写真部員で、おととし、清里が初めて吊橋《つりばし》のある姫谷温泉を訪ねたとき同行したのも、桑野であった。
「彼なら、気心が知れてるから有難いな、こちらとしても」
「でしょう? そう思って大|抜擢《ばつてき》したんだから。感謝してよ」
写真部の部室でロケーションの打ち合わせに入ってまもなく、そばの電話が鳴って、桑野が出た。
「……ああ、いるよ、ここに」
桑野はそういって清里へ目配せしたが、急に、
「え、警察」
と頓狂《とんきよう》な声を上げて、受話器を耳から離した。
「浅草の警察署から、電話が入ってるっていうんですがね、清里さんに」
「しまった、ばれたか」
と清里は、とっさに笑って膝《ひざ》を叩いてみせた。すると、弓子もすぐに調子を合わせて、
「あァあ、遂に手が廻ったか」
といった。
それで留美も笑ったが、目だけは不安そうに清里の顔を見守っていた。彼は、なんでもなさそうに立っていって、桑野から受話器を受け取った。こんなところで警察と話すのは厭なことだったが、仕方がなかった。
「浅草警察署の真鍋という方から、お電話が入ってますけど」
交換手は、思った通り妙子であった。普通、交換手は本人が電話口に出るまでは先方の名をいわないものだが、桑野が頓狂な声を上げたときから、妙子だなと彼は思っていたのだ。
妙子は、留美が社に出入りし始めて以来、なにかにつけて、清里に、さりげなく底意地の悪さをちらつかせるようになっている。
「そうだってね」
とだけ、彼はいった。
妙子はちょっと黙っていたが、突然自分の迂闊《うかつ》さに気づいたように、
「どうも、すみません。びっくりしたもんで、ついうっかり……」
「繋《つな》いでよ」
彼は、無愛想にいった。すぐに、五十がらみの野太い声が出た。
「清里浩三さんですね?」
「そうです」
相手は、刑事課捜査係の真鍋と名乗り、届け出のあったクレジットカードを所持していた男を逮捕したが、そのことでくわしい話が聞きたいから、これからそちらへ伺ってもいいかといった。
「それは構いませんが……僕の方からそちらへ伺ってもいいんですがね」
「いや、結構です。実は、会社のすぐ近くまできてるんですよ」
その野太い声は、かすかな笑いを含んでいた。
清里が受話器を置くと、三人は口を噤《つぐ》んで目を上げた。
「……もはや逃れる術《すべ》なしか」
と弓子が、ボールペンの尻で鼻の頭を叩きながらいった。
「そうなんだ。じゃ、ちょっといってくる」
「浅草へですか?」
と桑野がいった。
「いや、下のロビーまで、お迎えにだよ。もうすぐそばまできてるんだ。話は進めといてよ」
彼は、じゃ、と留美に頷いてみせて写真部を出ると、そのままエレベーターで一階まで降りた。すると、もう受付の前に黒っぽい背広の男が二人立っていて、それが真鍋と、連れの川井という刑事であった。
「お仕事中、恐縮ですが、私共の捜査に御協力頂きたいと思いましてね」
「御苦労様です。どうぞ」
清里は、二人をロビーの隅の席へ案内した。
真鍋は、声から想像した通り五十がらみの、大柄でがっちりとした躯つきの男で、清里が煙草ケースの蓋《ふた》を取ってすすめると、
「いや、これはどうも」
と節くれ立った指でいちど宙を摘《つま》んでから、一本取った。
それを、両切り煙草を吸っていた時分からの癖なのだろう、フィルターも構わず親指の爪にとんとんと強く打ちつけながら、
「早速ですが、あなたのクレジットカードを拾って不正に使用した男を逮捕するに至った経過を、一応御説明しておきます」
といって話し始めたが、それは高子の報告とほとんどおなじ程度の説明であった。
要するに、財布を拾った男は、なかの現金を使ってしまうと、カードでためしにズボンと靴を買ってみてから、八万円もするカメラを買おうとして、捕まったのである。
「その男は、カメラ店の主人がカードをみながらどこかへ電話をするんで、危険を感じて一旦姿をくらましたんですがね、こういう連中に限ってそのまま逃げてしまうということはない、諦めが悪いんですな。そのうちに、惜しくなって、かならず舞い戻ってくる。案の定、店の前まできてうろうろしているところを、主人の合図で、張り込んでいたうちの刑事が捕まえたわけです」
「……どんな男でしょうか」
「名前はちょっと伏せさせて貰いますが、二十一になる住所不定のバーテンです」
と真鍋警部補はいって、短くなった煙草を灰皿に押し潰《つぶ》した。
川井の方は、清里と同年輩の色の黒い撫《な》で肩の刑事で、膝の上に書類のようなものをひろげて黙々となにか書き込んでいる。
「いまお話ししたことで、なにか疑問の点がありますか」
警部補がいった。
「疑問じゃなくて、念のために伺っておきたいことがあるんですが」
「どうぞ、御遠慮なく」
「その捕まった男が、すなわち財布を拾った男なんですか? つまり、同一人物かということなんですが……」
「どうも、そのようですね、本人の供述では。しかし、私共としては、本人の供述をそのまま鵜呑《うの》みにするわけにはいきませんのでね。嘘をついているかもしれないし、余罪を隠しているかもしれませんから。それで、こうしてくわしいお話を伺いに参っているわけです」
「ついでに、もう一つ……」
清里は、ちょっと躊躇ったが、思い切ってこう訊いた。
「その男は、財布をどこで拾ったといってます?」
真鍋警部補は、答える前に、受付が運んできた紅茶を一と口、音を立ててすすった。
「届けでは、確か新宿で落としたということでしたねえ。ところが、本人は、豊島園附近の路上で拾ったと、こういってるんですわ」
やっぱりそうか、と清里は思った。もし飽くまでも新宿で落としたと主張するとすれば、ここで、それはおかしい、そいつは嘘をついているという意味のことをいうべきだったが、それをいえば、一人のちいさな犯罪者をますます不利な立場へ追い込むことになると思うと、おいそれと口にはできなかった。財布を落とした本当の場所は、誰にも知られたくないのだが、そうかといって、それを隠すことで他人に迷惑をかけたくもない……。
ふと目を上げると、川井刑事がペンを動かすのをやめて、黙ってこっちをみつめていた。清里は、犯人がこちらの届けとはちがう供述をしたことを知らされても、べつに意外そうな顔もしなかった自分に気がついた。
「ところで、その晩は酒を飲んでおられたということですが」
と警部補がいった。
「ええ、飲んでました」
「どのくらい酔ってたんです?」
「……自分では、そんなに酔っているとも思わなかったんですがねえ。しかし、落としたことのない財布を落としたんですから、やはり酔っていたんでしょう。つまり、その程度に酔っていたわけです」
「財布は、確かに落としたんですか?」
「そうとしか思えませんね」
「間違いありませんね?」
「ええ。現に、その男が拾ってるんですからね」
「いや、拾ったとは限りません」
と警部補はいった。
「たとえば、掏《す》ったのかもしれません。近頃は、酔った人だけを狙う抱きつき掏摸《すり》という手口もあります。あるいは、酔い潰れている人のポケットから抜き取ったのかもしれない。あるいは、強奪したのかもしれません。捕まってから、拾ったなんていっても、前科《まえ》のある男ですからね、そのまま信用できないんですよ」
可哀相に、と清里は、自分の財布を拾った男のことを、そう思った。
「……で、どうですかね」
と、すこし間を置いてから警部補がいった。
「やっぱり落としたことに間違いありませんか」
「間違いなさそうですね。それに落とした場所も……」
と、そういわずにはいられなくなって、
「その男のいう通りです」
「ほう……」
と警部補は、持ち上げかけた紅茶茶碗を、皿に戻した。目が細くなった。
「新宿じゃないんですか」
「そうじゃなくて、豊島園の裏の道なんです」
「……伺いましょう」
と警部補はいった。
「あの晩、新宿へ出たことは出たんですが、そのあとで豊島園の裏手の住宅地までいったんです。そこでタクシーに料金を払いましたから、そのときまでは、財布は確かにあったわけです」
「そのときは、お独りで?」
「独りです」
「で、豊島園の裏までいかれたのは?」
清里は、額が汗ばんでいるのがわかったが、ハンカチを取り出す気にはなれなかった。
「……そこに、知り合いが住んでるもんですから」
彼はそういって、目を伏せた。
「なるほど」
と警部補は頷いた。
「すると、その知り合いのところにお寄りになった……」
「ええ。財布は、そこへ歩いていく途中で落としたんだと思うんですが」
「それは、何時ごろでした?」
「新宿を出たのが十時でしたから……十時半前後だったと思います」
「それで、知り合いのお宅には?」
「三時間ほどいました」
「すると、そこを出られたのは、午前一時半ごろということになりますな」
「そうです。そのとき財布がないことに気がついて、道を探したんですが……」
「もう、なかった」
「ええ」
警部補は、それまで黙々とペンを走らせていた川井刑事と、ちらと目を見交わした。
「わかりました。実は、あなたの財布を拾った本人もそういってるんですよ、あの晩の十二時過ぎに豊島園裏の路上で拾ったとね」
「そうですか。その男は正直に話したんですね」
「ところが、あなたの方は……」
と、あとは笑いに濁して、警部補は、やれやれというふうに椅子の背に躯をもたせかけた。清里は、羞恥《しゆうち》で顔が熱くなってきた。
「すみません。実は、あの翌朝、私に時間がなくて、交番へは家内に届けさせたんです。新宿で落としたことにしたのは、ちょっと事情があって、豊島園の近くまでいったことを家内には知られたくなかったもんですから……」
「なるほど、そういうことで」
と警部補は、思いのほか、あっさりと頷いた。
「よくあるんですよ、そういうことは。男は、時には女房に知られたくないような場所へも足を運ばなければなりませんからね。しかし、間の悪いところに落としたもんですな」
「全くです」
と清里は、膝の間に組んだ両手をちいさくこすり合わせながら、苦笑するほかはなかった。
「運が悪かったんですね。これからはどうぞ気をつけてください」
警部補も笑ってそういうと、促すように隣りの川井刑事をみた。すると、刑事が、
「いま伺ったことを、こんなふうに纏《まと》めてみたんですがね。読んでみます」
そういって、いつのまにか書き上げていた調書のようなものをすらすらと読み上げた。馴れたこととはいいながら、自分の話したことが順序よく、しかも簡潔に纏められているのに、清里は感心した。
「これで、いかがでしょうか」
「結構です」
「それじゃ、これに署名|捺印《なついん》して頂きたいんですが……」
清里は、警部補たちを送り出すと、そのまま自分も外へ出て、ゆっくりと深呼吸を繰り返しながら近くの煙草屋まで歩いていった。煙草を一つ買って、またぶらぶらと引き返しながら、ふと社屋を仰ぐと、五階の写真部室の窓が開いていて、そこから留美がこっちを見下ろしているのが目に入った。
彼は、思わず手を上げかけたが、途中でよした。なぜだか留美が、ひどく頼りなげにみえて、そんなことをすれば忽ち自分へ向って飛び降りてきそうな気がしたからである。彼は、急ぎ足で社へ戻った。
そのままエレベーターで五階まで昇ったが、写真部には誰もいなかった。さっき留美が立っていた窓は開いたままになっていて、そこから街のざわめきがきこえていた。
彼は、まさかとは思ったが、その窓のところまでいって下を覗いてみないではいられなかった。
「ああ、桑野さんたちですか?」
うしろからそういう声がして、彼は振り返った。この春入社したばかりの田崎という写真部員が、ちょうど奥の暗室から出てきたところだった。
「スライドをみるとかいって、スタジオへいきましたよ」
「神永さんも一緒に?」
田崎は、急にそう訊かれてもわからないというふうに目をしば叩いたが、すぐに気がついて、
「ああ、あの女の人ですか。一緒ですよ」
清里は、ほっとしながら窓を閉めた。田崎が留美のことをいうとき、意味もなく笑ったのが気に入らなかった。
「うちの仕事をしているスタイリストだよ。憶えておけよ」
「はい……」
「それから、ここの窓が開けっ放しだったよ。写真部に埃《ほこり》が入ったら、まずいだろう」
「はい……どうもすみません」
廊下へ出てから、俺はかなり参っているな、と清里は思った。窓から下を眺めている留美が、いまにも飛び降りそうにみえたり、新入社員につまらぬことで小言をいったり――日頃の自分らしくもない。
スタジオのドアを叩くと、なかから桑野の声がきこえた。清里は、ちょっと驚いた。ドアを開けると、いきなり正面の映写幕に見憶えのある吊橋が大きく浮かんだからである。
「お帰り」
薄暗がりのむこうから、そういう弓子の声がきた。
「済んだの?」
「ああ、済んだ」
「しょっぴかれなくて、済んだのね?」
「ああ、どうやらね」
「それは結構でした」
と弓子は笑って、
「どう? この眺め。懐かしいでしょう」
そういっている間に、スライドが吊橋から湯元館の茅葺《かやぶき》屋根に変った。おととしの春、桑野が写した姫谷温泉の風景である。
「どういう風の吹き廻しなんだ?」
「今度のロケ地よ。三人でいろいろ話してるうちに、ここがいいってことになったの。こうしてみると、なるほどいいわ」
と弓子がいった。
ところが、一番しまいに、腰にタオルを巻いただけで浴槽《よくそう》の縁に坐っている清里が不意に映って、
「あ、いけねえ。こいつは番外」
桑野があわててスイッチを切ったので、大笑いになった。
――その晩、社を出るとき、清里は、
「待ってていい?」
留美が帰りに、弓子の目を盗んで素早くそう囁いたのを思い出した。勿論、部屋で待っているという意味だが、そのときは、いや、今夜はまっすぐ家へ帰ろうと彼は思っていた。けれども、社を出て歩いているうちに、やはり、迷いながらも、豊島園の裏まできてしまった。
彼は、もはや自分の力ではどうにもならなくなっている自分に、かすかな絶望を感じながら、遠く留美のマンションの灯を眺めて吐息をした。また、あの晩のように、雨がぽつりぽつりと落ちてきた。
めまい
クレジットカードの一件は、刑事たちの来訪を最後にけりがついたが、その後、清里はふとそのことを思い出して、あれは、何者かが自分に向って与えてくれた一つの警告ではなかったかと思うことがあった。
いい加減な気持で女のところへ通ったりしていると、そのうちに取り返しのつかないことになるぞという警告である。
けれども、いまの清里には、そんな警告に耳を貸す気など、まるでなかった。むしろ、彼は、取り返しのつかないことになるなら、なってもいい、その時はその時のことだと、そう思うようになっていた。クレジットカードの一件は、結果としてはかえって彼にも留美にも一種の度胸を与えたにすぎなかった。
姫谷温泉へロケーションに出かける四、五日前に、彼は、日が暮れてから練馬の若月蘭子の自宅へ連載小説の原稿を貰いにいった。約束の時間はもう過ぎていたが、原稿はまだ出来ていなくて、彼は二階の書斎の隣りの客間で一時間ほど待たされた。
梅雨曇りのむし暑い晩で、客間には早くも冷房が入っていた。彼は、しばらくの間、マガジンラックから溢《あふ》れそうになっている新刊雑誌をかわるがわる手に取って拾い読みしていたが、そのうちに退屈して、ガラス戸のところへ立っていってレースのカーテンの隙間から外を覗《のぞ》いてみた。すると、思いがけなく、左手の闇のむこうに、若草色の球体がいくつか固まって浮かんでいるのがみえた。
おや、ガスタンクだ、と彼はすぐにそう思った。あんなガスタンクが、そんなにあちこちにあるわけがないから、留美のマンションの浴室の窓からみえるのとおなじガスタンクにちがいない。そうすると、留美のマンションはここから案外近いのかもしれない。
そんなこととはすこしも知らずに、毎月この女流作家のところへ通ってきていた彼は、そう気がついてちょっと驚いた。
やがて、若月蘭子が、書き上げた原稿を手にして書斎から出てきた。彼は、その原稿を貰って客間を出るとき、
「さっき、そこから外を覗いてみたんですが、左の方に薄緑色の大きな球がみえますねえ。あれは、ガスタンクでしょう」
と確かめてみた。
「ええ、谷原《やはら》のガスタンクよ。あなた、初めて?」
「いいえ、前にもみたことがあるんですがね、お宅からもみえるとは思いませんでした。あれは、豊島園の近くからもみえますねえ」
「みえるでしょうね、きっと。うちだって、方角からいえば豊島園の裏手なんだから」
「なるほど。そうすると、豊島園はあまり遠くないんですね?」
「そうね、十分ぐらいかしら、うちの前の川沿いに歩いて」
と女流作家はいった。
もう校了日が迫っていて、彼は原稿を持って社へ戻らなければならなかったが、こんなに近くまできているのだから、ちょっとだけ留美に会っていこうと思った。これから校了日までの数日が、月のうちで最も忙しい時期で、編集部は全員、半徹夜になる。彼はロケーションに出発する日まで、留美にはもう会えないと思っていたのだ。
彼は、下水の流れ落ちる音がしている川べりの道を、ハンカチで汗を拭きながら歩きはじめたが、しばらくすると、川のこちら岸の道は行き止まりになり、橋を渡らずに左手の道をすこしゆくと、不意に見憶《みおぼ》えのある町並みに出た。夜ふけに、帰りのタクシーを探しながら何度かぶらぶら歩いてきたことのある町並みである。留美のマンションは難なくわかった。
ところが、入口のすぐ脇に並んでいる郵便受けを、階段の方へ歩きながら何気なくみると、留美の四〇一号室の蓋の把手《とつて》に、ちいさな赤いリボンが結びつけてあった。彼は立ち止まった。
郵便受けの赤いリボンは、部屋までこないでほしいという合図になっている。
「もし、あなたが会って気まずい思いをするような人がきているときは、入口の郵便受けに赤いリボンを結んでおきますからね。そんなときは、あとで電話をくださらない?」
留美はいつか、そういっていたが、実際にリボンが結んであったのは、それが初めてであった。
せっかく寄ってみたのに、一体誰がきているのか。彼はそう思いながら、ちょっとの間その赤いリボンをみつめていたが、留美がきてくれるなというのだから、おとなしく引き返すほかはなかった。
マンションを離れながら、四階の留美の部屋を仰いでみると、居間にしている六畳間のガラス戸が大きく開いていて、そこのレースのカーテンが風を孕《はら》んでベランダの方へ翻っているのがみえていた。けれども、どこにも人影はみえなかった。
地上は全く無風のときでも、四階の窓を開けると、どこからか風が吹き込んでくる。あのカーテンが、あんなふうに翻るのは、どことどこの窓を開けているからだと、彼にはすぐわかった。彼は、そのことでわずかに自分を慰めながら社へ戻ってきた。
二時間ほどして、仕事が一段落すると、彼は、約束通り留美の部屋へ電話をした。もし留美以外の誰かが出たら、月刊女性の編集部の者だといえばいい。そう思っていたが、留美がすぐ出た。
「リボンをみたよ」
いきなりそういうと、
「ごめんなさい。名古屋の姉がきてるんです。いま、どこにいらっしゃるの?」
留美の声が途切れると、赤ん坊の泣き声がきこえた。留美の部屋で赤ん坊が泣いている。彼は妙な気持になった。
「社で仕事をしているよ。さっきは近くまで原稿を貰いにいったからね、帰りにちょっと寄ってみたんだ」
「ごめんなさい。急だったから、連絡の仕様がなかったんです。明日の晩は?」
姉は、今夜はここに泊って、明日の夕方には名古屋へ帰るという意味なのだろう。
「明日の晩ね……帰りが遅くなるよ、かなり」
「私はいいの、何時になっても」
「明け方になるかもしれないよ」
「構いません。じゃ、ともかく明日の晩」
そばに姉がいるだろうに、そんなことまで話していいのかと彼ははらはらしたが、受話器を耳から離さなければ、留美が誰と話しているか姉にはわからないわけであった。
翌日、仕事が夜中の二時までかかった。彼は、疲れていたが、約束だからタクシーで留美のマンションへいった。
「ほら、こんな男、いかが?」
留美は、彼の背中を軽く押すようにして部屋へ入ると、テレビの上からキャビネ判の写真を取って彼の目の前に突き出した。
白いテニスウェアの若い男が、片手にラケットを持ち、片手で首にかけたスポーツタオルの端をちょっと頬に当てて、白い歯をみせて笑っている。ショートパンツから筋肉の引き締まった脚が形よく伸びて、汗に濡れた短い前髪が額にぱらりと垂れているのが若々しい。
「二枚目じゃないか。誰?」
「名古屋の義兄《あに》のね、お友達の従弟《いとこ》。お医者の卵ですって」
と留美はいって、
「コーヒーになさる? それともビール? 冷えてるけど」
「ビールがいい」
留美は、いつものように口のなかで、ふんでもなければうんでもない、ごく親しみの籠《こ》もった短い返事をして部屋を出ていったが、やがて台所から、
「厭《いや》だわ、いつまでもみていちゃあ……」
というのがきこえてきた。
「……そうか、そういうことだったのか」
彼は、独り言のようにそういって、テーブルの上に写真を軽く抛《ほう》るように置いた。
「え? なんかいった?」
と留美がいったが、彼は黙って煙草に火を点《つ》けた。
なんて屈託のない顔をしてるんだ、と彼は、椅子に深く腰を下ろして、テーブルの上の写真を遠く眺めながら思った。俺にもあんな時代があっただろうか。あったとしても、それはなんと遠い昔になってしまったことか……。
留美がビールやチーズを盆にのせて戻ってきた。
「なにかぶつぶつ、仰言《おつしや》ってますね」
「ぶつぶつじゃないよ。そうか、そういうことだったのかと、そういったんだ」
留美は、ビールの栓を抜こうとして、ちょっと彼の顔をみた。
「誤解しちゃ厭よ」
「誤解? 誤解の仕様がないじゃないか」
「この写真はね、名古屋の姉が持ってきたのよ」
「わかってるよ。お姉さんは縁談を持ってきたんだろう?」
「縁談っていうほどはっきりした形じゃないけど、そろそろ結婚したらって、この写真を出してみせたのよ」
「要するに、結婚をすすめにきたわけだ、お姉さんは」
「そうなの。それはそうだけど、ただそれだけの話よ」
留美はそういいながら、彼のコップにビールを注いだ。彼はそれを自分の口へ運ぼうとして、留美が空のコップを手にしてこっちをみているのに気がついた。
「……そうか」
と彼は呟《つぶや》いてコップを置くと、留美にビールを注いでやった。
「有難う。じゃ、遅くまで、お疲れさま」
「うん」
彼はコップを合わせると、一と息に飲み干した。
「……どうしたの? 今夜は。なんだか御機嫌ななめね」
留美は、首をかしげて笑っていたが、彼はなにもいわずに唇の泡《あわ》をぬぐった。
「この写真をみせたのが、いけなかったの?」
「こんな夜ふけに、くたびれてやっと辿《たど》り着いたんだよ、こっちは。いきなり男の写真をみせられて、愉快なことはないだろう」
「……ごめんなさあい」
留美は、父親に叱られた子供のように、目を伏せて呟くようにそういった。
「じゃ、内証にして、みせない方がよかったかしら」
彼は、黙って独りでビールを注いだ。
「あなたには隠し事なんかしたくないから、真っ先にみせてあげたのに」
「おなじみせるにしても、みせ方というものがあるだろう? なにも、いきなり、しかも浮き浮きしながらみせることはない」
「あら、私、浮き浮きなんか、してなかったわ」
「してたよ。こんな男、いかが、なんて。結婚話を持ち込まれると、そんなに嬉しいものなのか」
「……ひどいわ」
留美は、膝《ひざ》の上に伸ばした両腕をねじり合わせるようにして、うつむいた。
今夜の俺はどうかしているな、と彼は、またビールを一と息に飲み干しながら思った。寝不足の上に、校了直前で気が立っているのだ。彼は、早く酔ってしまいたかった。飲み干したコップにビールを注ぐと、半分で瓶《びん》が空《から》になった。
留美は、黙って空瓶を手に取って立ち上ったが、台所の方へ二歩と歩かないうちに、不意にテーブルの蔭《かげ》にしゃがんだ。彼は、椅子から立った拍子に、なにかを落として、それを拾いにしゃがんだのだと思っていたが、留美は容易に立ち上らなかった。
彼は、ちょっと腰を浮かして、テーブル越しに覗いてみた。すると、留美は、絨鍛《じゆうたん》の上に膝を崩して、片手で目を覆っていた。
「どうしたの?」
留美はなにか呟いたが、聞き取れなかった。彼は急いで立っていった。
「どうしたんだ?」
「急に、めまいがして……」
「立てるか? さあ、僕の首に腕をかけて」
彼は、留美を抱きかかえるようにして、また椅子にかけさせた。
「ごめんなさい……」
留美は、両手を彼の首に廻して抱き寄せた。彼は、しばらくの間されるがままに、留美の髪の匂いを嗅《か》いでいた。
「そんなに怒らないで」
留美が囁《ささや》いた。
「もう、怒ってないよ」
「よかった。あなたが怒ると、悲しくなるの」
留美の腕が弛《ゆる》んだので、彼は、頬で留美の熱を計ってから離れた。
「どうしたんだろう。貧血か?」
「なんだか知らないけど、これで二度目なの」
「……お弓が感心してたけどね、あんな細い躯《からだ》でよく頑張るって。仕事熱心も結構だけど、すこし無理してんじゃないのか?」
「そうかしら。姉に寝込みを襲われたりしたら、どこか調子が狂っちゃったみたい」
「そんなときは、夜ふかしは毒だよ。ぐっすり眠らなくっちゃ」
といって時計をみると、もう三時をとっくに過ぎていた。
「これは、どうしたらいい?」
留美がさっきの写真を摘《つま》み上げていった。
「それは留美次第だ」
「じゃ、こうするわ」
留美は、いきなり写真を二つに裂き、四つに裂いて、立ち上ると、激しく彼に抱きついてきた。
「捨てないで。私には、あなただけよ。お願い。捨てないで」
勿論《もちろん》、留美を捨てる気など、彼には毛頭なかったが、捨てずにどうすればいいのかは自分にもまだわからなかった。彼は、ただ無言で、崩れ落ちそうな留美を支えるように抱き締めていた。
校了日の前夜、清里は妻の高子に、桜木はるえの自殺がきっかけになってスタイリストという新しい職業を雑誌でくわしく紹介することになり、自分がその仕事を担当することになった経緯を初めて打ち明けた。
「そんな仕事があったの。それは大変だわ。あなた、近頃、ふっとなんだか辛そうな顔をすることがあるから、どうしたのかしらと気になってたんだけど、そのせいだったのね」
と高子はいった。
彼は、すぐには言葉が継げなくて、ウイスキー紅茶を一と口、ゆっくりと飲んだ。
「それで、まあ、今年の初めごろからぼつぼつ取材をしてたんだがね、今度の出張で、一応取材はお仕舞いということにしようと思うんだ」
「また出張があるの?」
「そうなんだ。ファッション班のロケに同行するんだよ」
「今度は、どこなの?」
「それが、ほら、去年の秋、みんなでいった姫谷温泉なんだよ」
「まあ、あの吊橋《つりばし》のある?」
「そう。いまは梅雨時だから雨が心配なんだが、あそこの湯元館なら、江戸時代の建物だし、広い土間や囲炉裏があるし、裏には粗壁《あらかべ》の土蔵や竹林もあるしね。雨なら雨で、モデルが宿の番傘をさして土蔵の軒下に立っただけで絵になるからな」
「そうねえ。いいところを思いついたわ。あなたの発案?」
「いや、おととしの春、僕と一緒に初めてあそこへいった桑野がカメラ担当でね、お弓たちと話しているうちに、あそこがいいってことになったらしいんだ。今度は、お弓も一緒だよ」
「そう? お弓さんが一緒なら、安心だわ」
と高子はいった。
弓子は、まだお互いに若くて平《ひら》の編集部員だったころは、よく桂や兵藤たちと家へ遊びにきて、高子と二人で酒の肴《さかな》をこしらえたり、夏子の子守りをしてくれたりしたものであった。
「出発は校了明けの翌日だから、あした、あさって、そのつぎの日か。一泊の予定だけど、もしかしたらもう一と晩泊ることになるかもしれない」
「羨《うらや》ましいわ。仕事でいくんだから、いつかみたいにはのんびりできないでしょうけど」
「仕事といったって、こっちはただ撮影を見物するだけだからね。まあ、骨休めのつもりで、ぐっすり眠ってくるよ」
「それがいいわ、ここんとこ、ずっと仕事がきつかったでしょう。二晩泊ってもいいんだったら、なるべくそうしたら?」
(自分は、この女と別れられるだろうか)
彼は、留美との仲が深くなって以来、時々無意識のうちにそんな思いで高子を眺めていることがあったが、そのときも、頭の隅で自分にそう問いかけながら、高子の邪気のない顔に見惚《みと》れている自分に気がついた。
「……スタイリストっていえば、正月にうちへきてくれた、あの吊橋の若い人ね」
夜ふけて、寝室の明りを消してから、高子がふと思い出したようにそういった。
「うん、神永君か」
「そうそう、神永留美さん。どうしてらっしゃる?」
「……なんとか、やってるみたいだね」
「そう……よろしくいってね。いつかまた遊びにお出かけくださいって」
不意に、わけもなく涙ぐんで、彼はあわてて暗い天井に目をしば叩きながら、吐息と一緒に、
「ああ、いつかね……」
といった。
――出発の日は、運よく梅雨の中休みで、前日まで降りつづいていたしとしと雨もすっかり上り、雲間からひさしぶりの青空が覗いていた。
午前十時に、社の別館の玄関に集合ということだったので、清里は、いちど本館の編集部に顔を出して北岡に留守を頼んでから、ちょうど十時に横の通用口を出て隣りの別館の方へ廻っていった。すると、玄関前には桑野の車だけが停めてあり、そばで桑野が、大輪の花を咲かせている紫陽花《あじさい》を背にした妙子にカメラを向けていた。
ロケーションの一行は、留美と弓子と、おなじファッション班の花田嘉代、モデルの一ノ瀬マキ、それに桑野と清里で、その六人が嘉代と桑野が運転する二台の車に分乗して出かけることになっていたのだが、嘉代の車も、女性たちの姿もみえなくて、ひっそりとした中庭にカメラのシャッターの音だけが高くきこえていた。
「お早うす」
「お早うございます」
清里をみると、桑野はシャッターを切るのをやめて、妙子は紫陽花のそばを離れてきた。
「お早う。もう撮影が始まってるのか」
「ええ、ちょっとサービスでね。わざわざ見送りにきてくれたんですから」
桑野がそういうと、
「神永さんから聞きましてね。また、あの温泉にいらっしゃるんですって?」
と妙子がいった。
「どうも、そういうことになってね」
「羨ましいわ。飛び入り参加ってのは、いけません?」
勿論、冗談だろうが、
「さあ、そういうことはお弓さんに訊《き》いてみないとね」
と清里はいって、
「ファッション班の連中は?」
と桑野に訊いた。すると、
「出発しましたよ、女性たちだけで」
と桑野がいった。
「なんだ、置いてけぼりか」
「いや、花ちゃんがね、モデルさんを乗せたときは安全運転に徹するんだとかいって、一と足先に出たんですよ。どうせ途中で追いつきますよ」
桑野はそういって、
「じゃ、ぼつぼつ出かけますか。すみませんが、お席は僕の隣りですよ」
車のなかを覗いてみると、うしろの座席には桑野の撮影道具やら衣裳《いしよう》箱やらがぎっしりと積み込んであった。
「なるほど、これじゃ、助手を勤めるほかはなさそうだな」
そんなことをいいながら、車のうしろを廻っていくと、妙子も一緒についてきて、
「いってらっしゃい。お気をつけて」
といった。
「有難う。もう結構ですよ」
「いいんです、あたしは休憩時間ですから」
ドアを閉めると、そこの窓が開いていた。
「今度は足を挫《くじ》く心配はありませんね、雪がないから。でも、吊橋には気をつけて。よっぽど吊橋に縁があるんですね、清里さんは」
彼は、返事の仕様がなくて、早く出せよと促すように隣りの桑野の顔をみた。
やっと都内の混雑から抜け出して、高速道路を一時間とすこし走ってインターチェンジを降りたところで、二人は先行のファッション班に追いついた。国道沿いのドライブインの前庭に、花田嘉代のワインレッドの車が停めてあるのを、桑野がみつけて、クラクションを鳴らすと、すぐに嘉代が飛び出してきて手を振った。
「ここから先は、ちょっと心細かったから、網を張ってたのよ」
車を前庭に入れると、嘉代が桑野の窓に駈け寄ってきていった。
「みんなは?」
「なかでお茶を飲んでます」
ところが、ドライブインに入ってみると、弓子と留美はお茶のほかにスパゲッティを食べていた。
「もう昼飯か」
「こちらに、お付き合いしてるのよ」
弓子がいうと、留美が首をすくめた。
「今朝は、すっかり寝坊しましてね、これが朝御飯なんです」
留美は、言葉遣いに気をつけていた。それにしても寝坊するほどぐっすり眠れたのなら結構だ、と清里は思った。留美は、顔色も悪くなかった。彼は桑野を誘ってコーヒーを飲んだ。
弓子は、すこし残してフォークを置いたが、留美は綺麗《きれい》に平らげた。この食欲なら、まず大丈夫だなと彼は思った。あの晩以来、留美のめまいが気になっていたのだ。
そこからは、桑野の車が先導したが、安全運転の嘉代に調子を合わせたので、思いのほか時間がかかった。国道から逸《そ》れて、道が登りになるあたりから、空模様が怪しくなって、温泉場のある谷間へ下ると、霧であたりが日暮れのように翳《かげ》ってきた。
温泉場は、霧雨にけむっていた。
「あァあ、やっぱり雨か」
清里が桑野に手伝って湯元館の玄関に荷物を下ろしていると、ようやく嘉代の車が着いて、弓子が先に降りてくるなりそういった。
「仕方がないさ、季節が季節なんだから」
「吊橋って、どれよ」
「ここからはみえないよ。まあ、きょうは谷間は諦《あきら》めて、屋敷のなかで場所を探すんだな」
「そうね。神永さんを休ませてから、一緒にどこか探してみるわ」
「……神永さんが、どうかしたの?」
「ちょっとね、気分が悪くなったのよ、あれから」
ドライブインでは、あんなに元気だったのに、と彼は訝《いぶか》しくて、
「めまいでもしたの?」
「吐き気がするんだって。吐きはしなかったけど。車に酔ったんだわ、きっと」
と弓子はいった。
梅雨時だけに、客がすくないとみえて、宿では予約した三つの部屋を二階に並べて取ってくれていた。その三つの部屋の、外れの一つに、清里と桑野が入った。汗ばんだ下着を脱いで、一服していると、弓子がもう宿の浴衣《ゆかた》に着替えてやってきて、
「きょうは、もう、これだわ」
と、奴《やつこ》のように両袖を横に張ってみせた。
「撮影中止ということか」
「そう。神永さんのためにも、そうした方がいいと思うの」
弓子は、廊下の奥へ目をやりながら、声を落としてそういった。清里たちの隣りが嘉代とモデルのマキの、その隣りの一番奥が弓子と留美の部屋になっている。
「神永さん、そんなにいけないんですか」
と、革の鞄《かばん》からカメラやレンズを取り出して床の間に並べながら桑野がいった。
「大したことはないって、本人はそういってるんだけど、みていてなんだか辛そうなのよ。明日もあるし、なにも無理することはないからね」
「そう。今夜はゆっくり温泉に入って、ビールでも飲んでぐっすり眠れば、明日はきっと元気になりますよ」
「そう願いたいもんだわ」
と弓子はいって、
「ねえ、帳場に胃薬あるかしら」
と清里に訊いた。
「あるだろう。貰ってきてやろうか?」
「いいわ、私がいくから。あなたはごろごろしてないで、ちょっと神永さんを見舞ってあげたら、どう?」
「そうだな」
と彼が立ち上ると、
「駄目よ、そんな恰好じゃ。ちゃんと浴衣を着るなり、シャツを着るなりして」
「わかってるよ」
弓子は、スリッパを鳴らして階段を駈け降りていった。すると、桑野がくすくす笑い出した。
「なにがおかしい?」
と、浴衣に着替えながら清里は訊いた。
「なんだかね、清里さんと佐野さんをみてると、おかしくなってくるんですよ」
「……どうしてだろう」
「なんだか、赤の他人じゃないみたいでね」
「他人じゃない? 由々《ゆゆ》しきことを仰言るね」
「ほら、ぽんぽんいい合うけれども、本当は仲のいい夫婦っているでしょう」
「ちょっと嬶《かかあ》天下のね」
「そんな夫婦みたいにみえるんですよ」
清里も笑い出した。
「そりゃあ、仕事の上では夫婦みたいなもんだけどね、もうお互いに古いから。だけど、そんなことをお弓に聞かれたら、呶鳴《どな》られちゃうぞ」
「いや、満更でもなさそうに笑ってましたよ」
「へえ、もう聞かれたのか」
「前にいちど、そういったことがあるんですよ、佐野さんに」
「面と向って?」
「ええ。そしたら、えっへっへえと笑ってましたよ。尤《もつと》も、笑い出す前に、なんともいえない厳粛な表情をしましたがね」
それで、清里も思わず真顔になって、弓子と桑野のどちらがともなく、
「呆《あき》れた人だな」
と呟いて廊下に出た。
留美は、卓袱台《ちやぶだい》に向ってノートになにか書き込んでいた。見馴れない浴衣姿のせいか、それとも、霧雨に濡れた若葉が障子を開け放った廊下の軒端まで迫っているせいか、留美のちょっとうつむいた顔が、すこしやつれて、蒼白《あおじろ》くみえた。
「調子が悪そうだね。大丈夫?」
「ごめんなさい、迷惑をかけて。なんだか変な具合なの。心細くって……」
留美は、弱々しく笑いながら、目だけで強く縋《すが》りついてきた。
「無理をしちゃいけないよ。なんでも正直に佐野さんへ話すといい」
「そうするわ。でも、あなたが一緒だから、安心よ」
弓子が階段を昇ってきて、二人はそれきり口を噤《つぐ》んだ。
「熊の胆《い》があったから、貰ってきちゃったわ」
弓子は、部屋へ戻ってくると、そういった。
「すみません」
「でも、あなた、熊の胆なんか嚥《の》める?」
「ええ。子供のころは何度も嚥まされましたから」
「……そうか、北海道は熊の本場だったわね。おみそれしました」
と弓子は笑って、
「だけど、ほら、こんな塊よ」
握ったチリ紙を開けると、キャラメルほどの大きさの黒褐色の熊の胆が、二つ出てきた。ちょっとみると、黒砂糖の塊に似ている。
「あら、懐かしい」
と留美がいった。
「でも、オブラートもないのよ」
「なくったって、平気です」
「苦いわよ」
「苦くない熊の胆だったら、嚥みませんわ」
留美は笑って、熊の胆を一つ摘むと、それを爪でちいさく割り始めた。
「固いでしょう。爪が変にならない?」
「そんなに固くはないんですけど、弾力がありますからね、腰の強いゴムみたいに」
それで、なかなか思うように割れない。清里は手伝ってやりたかったが、弓子のみている前で、口に入れるものを自分の爪で割ってやったりするわけにはいかなかった。
みていると、もどかしくなるばかりだから、
「さあ、一と風呂浴びてくるか。まあ、お大事に」
と彼はいって、廊下へ出た。
「晩御飯は一緒に食べようよ」
と弓子がいった。
「ああ、そうしよう」
「さっきね、おかみさんが、下の炉端に用意しましょうかっていってたけど」
「結構ですな」
「山菜料理らしいわよ」
「そいつはいい。それまでに、胃の具合がよくなってるといいけどね」
そういいながら部屋のなかに目をやると、留美はちょうど湯呑みを片手に、仰向《あおむ》いて、こっちに白すぎるような喉《のど》をみせていた。
「あれ嚥んだら、もう大丈夫よ」
と弓子はいって、
「熊の胆って、熊のどこを干したものだか、知ってる?」
「胆嚢《たんのう》だろう?」
「知ってるのねえ。私はね、ついさっきまで、胃袋だとばかり思ってたの」
清里はちいさく噴き出して、そのまま部屋へ帰ってきた。
ゆっくり温泉に入ってから、みんな浴衣で階下の囲炉裏端に集って、賑《にぎ》やかに山菜料理の夕食をした。女性たちはビールを飲み、清里と桑野は二人でビールを一本だけ飲んでから、地酒にした。
留美は、熊の胆が効いたのか、さっきとは見違えるほど元気を取り戻して、みんなと一緒に飲んだり食べたりしていたが、鮎《あゆ》の塩焼きが出てくると、さりげなく席を外して、それきりなかなか戻ってこなかった。
しばらくすると、弓子も立っていったが、まもなく戻ってきて、
「神永さん、空きっ腹に飲んだから、酔ったみたい。悪いけど、お先にって。あの人、内臓までデリケートにできてるのね」
笑いながら誰にともなくそういって、自分のコップにビールを注いだ。
その晩、清里は、桑野の鼾《いびき》を聞いているうちに、寝そびれてしまった。酒は、いつもなら容易に眠れるくらいに飲んでいたのだから、寝てすぐ、明りを消して、目をつむってしまえばよかったのだが、ぐずぐずしているうちに桑野が鼾をかきはじめた。
留美のことなど、考えなければよかった。留美は気持よく眠っているかと、寝顔を思い浮かべたりしたのが、いけなかった。そういえば、おととし、この宿に泊った翌朝、桑野が眠そうな目をして、「清里さんの鼾も、相当なもんですねえ」といって笑っていたが、すると今夜は、あのときの仇《かたき》を取られたわけだ。
清里は、もういちど温泉に入ってこようかと思った。今夜の酒は、どういうものか、飲んだ割にはいい酔いが出ない。飲んだものが、残らずそこに固まってでもいるかのように、胃袋の底が重かった。温泉に入れば、それが融けて発散するかもしれない。
彼は、起きて部屋を出ると、廊下の手すりに掛けておいたタオルを取って階下へ降りた。浴場へ通じている石畳みの歩廊を、猫がゆっくりと歩いていた。中庭のむこうの離れには、初老の釣師が三人泊っていて、ついさっきまでは都々逸《どどいつ》を歌う声などきこえていたが、明日は朝が早いのか、いまはもうひっそりと寝静まっている。
まだそんなに遅い時間ではないのだが、谷間はまるで真夜中のようだった。
浴場には誰もいなくて、丸木をくり抜いた樋《とい》から湯が浴槽《よくそう》へ流れ落ちる音だけがしていた。天井のランプが砕けている湯に躯を沈めていると、隣りの女湯の方で、ガラス戸が静かに開いて閉まる気配がした。
誰かが入ってきたのか、それとも出ていったのか、それきりなんの物音もしない。留美かもしれない、と彼は思ったが、迂闊《うかつ》に声をかけるわけにはいかない。
彼は、顔に汗が流れ始めてから浴槽を出ると、流し場にあぐらをかいて、しばらく荒い息をついていた。それでも躯が火照ってかなわないので、立っていってガラス窓を開けた。すると、ひんやりとした夜気に乗って、下の谷川の音と、中庭の池で鯉の跳ねる水音がきこえてきた。
彼は、去年の秋、この宿の家族風呂で、高子と二人でおなじ水音を聞いたことを思い出した。そうだ、あれは吊橋の上で留美と初めて会った日の、夜ふけのことだ。あのとき、武志が吊橋から落ちていたらと思うと、ぞっとする、なにが起こるかわからないもんね、と高子がいって、それに自分が、
『そうだな。どんなときに、なにが起こるか……』
そんな相槌《あいづち》を打ったことを憶えている。
実際、あのときは、清里自身、まさか留美とこんなことになるとは全く思いも及ばなかった。けれども、現実に、事は起こってしまったのだ。
彼は、ちいさな嚔《くしやみ》をして窓を閉めた。すると、不意に、
「……清《きよ》さん?」
という声が、女湯との境の仕切りの上を渡ってきた。
仕切りは、胸の高さまでコンクリートの壁で、その上は木の格子に曇りガラスが嵌《は》まっている。その湯気に濡れた曇りガラスに、弓子の頭の影が映っていた。
「なんだ、いたのか」
と彼はいった。さっきは声をかけなくて、よかったと思った。
「一人なの?」
「そうだよ。そっちは?」
「こっちも一人よ」
と弓子はいって、
「どうしたのよ、嚔なんかして」
「ちょっとのぼせたからね、窓を開けて風に当ってたんだよ」
「駄目じゃない、酒を飲んで長湯をしたりしちゃ。もうそろそろ、そんな無茶はできないわよ」
また齢のことか、余計なお世話だ、と彼は思った。
「どうしたの、こんな時間に一人で。寝そびれたんでしょう」
「うん、桑野の奴に先手を打たれちゃってね」
「ははあ、鼾か」
と弓子は笑った。
「そっちは、どうしたんだい?」
「こっちも似たようなもんよ」
「だけど、あの人は鼾はかかないだろう」
「それにしても、先手を打たれたのはおなじよ。あの人、鼾とは逆に、時々ふっと寝息がきこえなくなるの」
それは、彼にも憶えがあった。もともと留美の寝息はちいさいのだが、疲れているときは、そのちいさな寝息もぱったり途絶えてしまうことがある。馴れないうちは、驚いて、揺さぶり起こしたりしたものだ。
「それで、息が詰まっちゃったのかと思って、覗き込むと、どうも、そうでもないらしいのね。しばらくすると、ふうっと大きな溜息《ためいき》をついて、それでもうなんともないらしいの」
その通りだったが、うっかりしたことはいえない。
「そんな癖なんだよ、きっと」
と彼はいった。
「そうだろうね、多分。だけど、それが癖だとわかったときは、もう寝そびれてたのよ。それで廊下に出てみたら、手すりにあなたのタオルがないからさ、ははあと思って降りてきたわけ」
それから、弓子はくすっと笑った。
「私たち、なんだか変ね、こんなところで話してるなんて」
「それは変だよ。こんなことって初めてだ」
こんな夜ふけに、中年の男と女が裸で仕切りの両側にいて、どちらも梁《はり》がむき出しの天井に向って喋《しやべ》っているのだ。
「そろそろ出ない?」
「出ようか」
「炉端でビールを御馳走してあげる」
「ビール? 宿の人はもう寝ちゃったろう」
「ところが、ちゃんと二本確保して、お勝手の水槽に冷やしてあるの」
弓子はそういうと、湯をかぶる音をさせて先に出ていった。
一と足遅れて母屋《おもや》の炉端へいってみると、もうビールの支度ができていた。二人は互いに注ぎ合って飲んだ。
「……ねえ、清さん」
と、弓子が喉をうるおしたあとの短い沈黙を破っていった。
「神永さんをみていて、なにか思い当ることない?」
「……どういう意味だろう」
「躯のことよ」
ますます意味がわからなくて、黙っていると、弓子はぽつりと、こういった。
「子供ができたのよ、あの人」
彼は、ぎくりとした。留美に子供が? そんなはずがないと思ったが、弓子に向ってそういうわけにはいかない。彼はちょっとの間、いうべき言葉を見失っていたが、やがて、
「……びっくりさせるなあ」
といって笑った。
けれども、弓子はにこりともせずに、
「私には、そうとしか思えないんだけどねえ」
と呟くようにいって、コップのビールを飲み干した。
弓子が冗談や口から出まかせをいっているとは思えなかった。彼は、急に自信がなくなってきた。そういわれれば、きょうの留美の様子には思い当るふしがないではない。
「あの人が、あんたに打ち明けたわけじゃないんだね?」
「勿論よ。そんなことは|※[#「口+愛」]気《おくび》にも出さないわ。というよりも……あの人自身、まだ気がついてないんじゃないかしら」
もし本当に留美が妊娠しているのだとしたら、弓子のいう通りだろうと彼は思った。気がついていたら、まず自分に打ち明けないはずがないのだ。
「もしかしたら、うすうす感づいているのかもしれないけどね、なんにも徴候がないわけじゃないんだから。でも、まだ自分でも半信半疑ってとこなのよ、きっと。あの人、今度が初めてなのね」
弓子はつづけてそういった。
「……つまり、彼女の吐き気が、車に酔ったんじゃなくて、悪阻《つわり》じゃないかというんだね?」
「そうなの、私の勘ではね。あなただって、思い当ることがあるでしょう?」
彼は、三人の子の父親だから、妻の悪阻を三度もみてきたことになる。
「そういわれると、そんなふうにもみえるけどねえ……」
「奥さんのときと、似てるでしょう」
確かに高子も、いちど車のガソリンの匂いで吐き気を催したことがあった。
「でも、うちの場合は、三度ともむこうが先に気がついたからね、それが自然だろうけど。こっちは打ち明けられて、なるほど悪阻とはこういうものかと思っただけなんだ。だから神永さんをみていても、正直いって悪阻だとはこれっぽっちも思わなかったんだが……」
「そこが男と女のちがいなのよ。私は二、三日前から、ひょっとしたらと思ってたわ」
弓子はそういって、留美が今度の撮影に使う衣裳や装身具を集め終った日に、一緒にお京の店へいったときのことを話した。
「瓶詰のオリーブがあったから、それをおつまみに貰ったの、あの人もオリーブは好きだっていうから。ところが、あの人、食べようとして、あわてて口を抑えるのよ。どうしたのかと思ったら、急に吐き気がしたんだって。オリーブが嫌いな人ならわかるけどさ、好きなのに、急に吐き気がするってのは、おかしいじゃない? それで、ぴんときたのよ、これはひょっとしたらって」
「それが、きょうで確信が持てたわけか」
「そうなの。さっき晩御飯のときだって、あの人、鮎の塩焼きの匂いで吐き気がしたのよ。もういちど炉端へ戻るっていってたけど、花ちゃんやマキちゃんに感づかれたら、面倒でしょう。だから、私が無理に寝かせちゃったのよ」
そうだったのかと、彼は頷《うなず》きながら、どうやら留美は本当に妊娠しているらしいと思わないわけにはいかなかった。
ここで、大とぼけにとぼけるとすれば、留美の相手は誰だろうという話になるはずであった。スタイリストとしてすくなからぬ関心を寄せていた女性が、いつのまにか妊娠していた。惚《ほ》れていたわけではないにしても、面白くないにきまっている。一体誰の仕業かと、いきり立つのが自然だろう。
けれども、彼は、さすがにそんな話を自分の方から切り出す気持にはなれなかったし、弓子も勿論、留美がまだ独身だということを知っていながら、なぜだかそのことには触れようともしなかった。
彼は、思わず溜息をついて、それから、そんな自分に、はっとした。弓子の目が、こっちをみつめて笑っていた。
「ちょっと信じられないような気持でしょう」
「うん……」
「ショックを受けた?」
「受けたね」
それは事実だったので、彼は仕方なく苦笑した。
「で、どうすればいい?」
「……どうすればって?」
「あの人に、そっと知らせてあげた方がいいかしら」
けれども、自分の妊娠を、医者でもない他人に指摘されたら、留美は複雑な衝撃を受けるだろう。しかも、ここは旅先で、留美が誰よりも頼りにしているはずの自分は、この旅ではただの仕事仲間の一人にすぎないのである。
「いや、もうすこし様子をみたらどうだろうね。彼女だってショックを受けるだろうし、そのショックで思うように仕事ができなくなったら困るだろう。せめて東京へ戻るまでは、そっとしておいた方がいいんじゃないか?」
「そうね。できれば、自分で気がつくのが一番いいんだから」
弓子はあっさりそういって、
「もう一つ、その仕事のことだけど、このままロケをつづけて貰って、いいのかしらねえ」
「……躯のことが心配なの?」
「ええ」
「つづけて貰うと、なにか危険なことがあるの?」
「たとえば流産の危険なんかは、もうすこし先のことだけど、みていると辛そうで、気の毒なのよ」
「でも、時々吐き気がするだけだろう?」
「いまのところはね」
「だったら、ただ胃が悪いってことにしておいてやったら? 宿で休んでるようにといっても、素直にいうことを聞く人じゃないだろう」
「勝気な人だからねえ。頑張り屋だし。それに、一と晩ぐっすり眠ったりすると、翌朝はもうけろりとして、普段となんの変りもなくなってしまうことがあるから。そこが悪阻の不思議なところでね」
ともかく二人は、留美には知らぬ顔をしていようと約束した。
「神永さんも、結局は女だったということね」
「……そういうことになるか」
(とうとう、この人にも嘘をつくことになってしまった……)
弓子が、一緒に帰るとおかしいからといって、先に引き揚げたあと、彼は、腕組みをして、長いこと天井の梁から垂れ下っている煤《すす》けた自在|鉤《かぎ》をみつめていた。
翌朝、清里は、郭公《かつこう》の声で目を醒《さ》ました。郭公は、すぐ上の屋根にでもいるような近さで鳴いていて、その甲高い声が谷に谺《こだま》を呼んでいた。
隣りの桑野の寝床は空っぽで、枕元の煙草に手を伸ばすと、灰皿のそばに手帳をやぶいた紙きれが置いてあった。
〈ちょっとロケハンにいってきます。ごゆっくり〉
弓子の筆蹟《ひつせき》でそう書いてある。時計をみると、もう九時を過ぎていた。
留美はどうしただろうか。彼はすぐそう思った。起きて、廊下へ出てみると、雨はもうすっかり上って、谷の向い側の斜面に陽が当っている。
隣りの部屋も、奥の部屋も、知らぬ間に綺麗に片付いていて、誰もいなかった。すると留美もみんなと一緒に出かけたのだ。ゆうべ弓子が話していたように、一と晩ぐっすり眠って、今朝はけろりとしているのかもしれない。
彼の方は、ゆうべは部屋へ帰ってからも、なかなか寝付かれなくて、とうとう一番鶏を聞いてしまった。それで頭も瞼《まぶた》も重たかったが、もうこれ以上寝ているわけにはいかない。彼は、部屋へ戻ると、ズボンとTシャツに着替えて、階下へ降りた。
洗面所で髭《ひげ》を剃《そ》っていると、顔|馴染《なじ》みの女中が通りかかって、
「お早うございます。ごゆっくりですね」
と鏡のなかへ笑いかけた。
「寝坊してたら、置いてかれちゃった」
と彼も笑って、
「みんな、どっちへいった?」
「吊橋の方へ降りてったみたいですよ」
「みんなで?」
「ええ。女のひとが四人に、カメラのひとと」
それから女中は、吊橋で思い出したのか、
「奥さんやお子さんたち、お元気ですか?」
といった。
「ああ、元気ですよ。相変らずだ」
彼はそういって、すぐ、変ったのは自分だけだ、と思った。
「また秋には是非お出かけください、みなさん、お揃《そろ》いで」
「有難う……」
「朝食は、みなさんがお戻りになってからですね?」
「みんなはまだなの?」
「ええ。牛乳だけ飲んでお出かけになったんです」
「五人とも牛乳を飲んだの?」
「ええ。ここの牛乳は美味《おい》しいですから、みなさん、ラッパ飲みしてらっしゃいましたよ」
「そうか。じゃ、僕もあとで牛乳を貰おう。食事はみんなが帰ってからで結構ですよ」
女中がいってしまうと、彼は、鏡のなかの自分へ問いかけるように、この先、これまでのように家族が全員で和気|藹々《あいあい》と旅行をすることなどあるだろうかと思った。みんなでこの宿にきたのが、つい半年前のことなのに、もう随分昔のことのような気がする……。
ふと、彼は剃刀《かみそり》を動かすのを止めた。鏡のなかの自分の頬に、ちいさな血の玉が浮いている。なんてへまな、と彼は他人事《ひとごと》のように、剃りそこねた自分を睨《にら》んで舌うちすると、ちょっとの間、その血の玉がだんだん大きくふくらんでくるのを、黙ってみていた。
おかしなことが起こったのは、そのときであった。鏡のなかの頬に浮かんだ血の玉が、一瞬、こまかく顫《ふる》えたかと思うと、みるみる、ぼおっとかすんできて、彼は、おやと目を瞠《みは》った。すると、今度は鏡の面が波打つようにゆらめき始めて、彼は思わず両手で洗面台の縁に掴《つか》まった。
強い地震かと思ったが、そうではなかった。足元がすこしも揺れないのに、視界だけが陽炎《かげろう》でも立ったようにゆらめいて、目の焦点が定まらない。彼は目をつむると、そろそろとそこにうずくまった。
ようやく、めまいがしたのだと気がついた。これまで、めまいなど、まるでしたことがなかったのだ。どうしたのだろう、頑健で病気知らずの自分が、貧血性の女みたいに突然めまいに襲われるなんて、と彼は思った。校了とドライブの疲れが重なった上に、ゆうべはろくに眠れなかったせいだろうか。それとも、妻の悪阻をみているうちに夫にも似たような症状が現われることがあるというが、それとおなじように留美のめまいがこちらに伝染したのだろうか。
しばらくして、そっと目を開けてみると、めまいはもう去っていた。
部屋に戻って、着たまま布団に寝ていると、誰かが階段を昇ってきた。それが一人だから、女中が牛乳を持ってきてくれたのかと思っていると、「あれっ?」と桑野の声がして、障子が開いた。
「御苦労さん。寝坊したよ」
こっちから先にそういうと、
「お早うす。鼻血ですか?」
と桑野が眉をひそめていった。
「鼻血?」
「手すりのタオルに、血がついてるもんですから」
「ああ、あの血は、これだよ」
清里は、起き上って頬を摘《つま》んでみせた。
「髭を剃ってて、ちょっと切ったんだ」
「へえ、珍しいな、いつも剃りあとが綺麗《きれい》なのに。面皰《にきび》でも引っかけたんですか」
桑野はそういって、にやにやしている。
「面皰か。そんなものができるようだといいんだがね」
と清里も仕方なく笑って、
「みんなは?」
「一緒に帰ってきて、下にいますよ。炉端に朝飯の用意がしてあるんです」
「じゃ、降りようか。吊橋《つりばし》はどうだった?」
「なかなかいいですね。佐野さんもすっかり気に入って、午前中はあすこで撮影することになったんです」
案の定、留美はもうけろりとして、いつものように目をきらきらさせながら、みんなと一緒に談笑していた。食欲も普段と変りがなかった。
そんな留美をみているうちに、清里には、ゆうべの弓子の話が疑わしいものに思われてきた。留美はただ車に酔ったのではなかったろうか。それを悪阻《つわり》だとみたのは、弓子の早とちりではなかろうか。
吊橋のたもとでの撮影は、なんの支障もなく進められた。留美は、モデルの衣裳《いしよう》の世話をしたり、弓子と相談してモデルの立つ場所やポーズをきめたり、自分でカメラを覗《のぞ》いたり、こまめに動き廻っていた。
清里は、邪魔にならないところに立って見物しながら、時々、気がついたことを手帳に書き留めたりしていたが、
「さあ、ここはこのくらいでいいか。それとも、サングラスをちょっと外してみる? ねえ、神永さん、どう?……あら、神永さんは?」
そういう弓子の声と一緒に、誰かが背中に、遠慮がちにもたれかかってくるのを感じて、振り向いた。
彼は、背後から自分の肩を掴んでいる手をみただけで、それが留美だとすぐにわかった。メモを取っていたので気がつかなかったが、留美はいつのまにか背後に廻って、両手で彼の肩に掴まり、背中に額を当てていた。
めまいだな、と彼はとっさに、そう思った。そうでなければ、みんなの面前で留美がこんなことをするはずがなかった。
弓子は、すぐに留美をみつけたが、留美が彼の背中に隠れていると思ったのかもしれない。ちょっと躊躇《ためら》うような素振りをみせてから、
「……どうしたの?」
と彼の顔をみていった。
「ちょっときてくれないか。めまいがしたらしい」
彼がそういうのと同時に、留美の両手が肩を離れて、背中を撫《な》ぜながらゆっくりと下へ滑り落ちた。弓子が小走りにやってきた。桑野の助手をしていた嘉代も、首に露出計を吊《つる》したまま駈けてきた。
留美は、彼の足元に、片腕を脛《すね》に巻きつけるようにしてうずくまっていた。弓子がすぐ両手を出したが、戸惑って、
「……どうすればいい?」
それは彼にもわからなかった。
「寝かせてあげた方がいいんじゃないかしら?」
と嘉代がいった。
「じゃ、あなた、足の方を持ってよ」
「僕が持とう」
と彼がいって、脛を抱くようにしている腕をほどこうとすると、留美は、びくっとその腕を引っ込めて顔を上げた。額が白くなっていた。
「……大丈夫? 神永さん」
と弓子がその顔を覗き込んだ。留美は、ほんのちょっとの間、きょとんとしていたが、急に瞬《まばた》きをすると、
「ごめんなさい」
といって立ち上ろうとした。
「駄目よ、急に立ち上っちゃ」
と弓子が肩を抑えて、
「しばらくここに坐って、休んでてよ。無理しちゃいけないわ」
ちょうどそこは道端の草地で、留美は素直にジーンズの膝《ひざ》を崩して坐った。
「すみません、御心配ばかりおかけして」
「そんなことは気にしないで。でも、具合が悪いときは遠慮しないでそういってよ。清さんだってびっくりするじゃない、いきなり縋《すが》りつかれたら」
弓子は、清里の顔をみずにそういって笑うと、撮影はこれで終りにしようとみんなにいった。
留美とマキは、先に嘉代の車で宿へ帰った。桑野が撮影道具を自分の車に積み込むと、
「桑ちゃん、悪いけど、先に帰っててくれる? ちょっと清さんと話があるのよ」
と弓子がいった。
桑野の車のあとから、二人は坂道を登り始めた。弓子が黙っているので、
「めまいも、するもんなの?」
と清里は訊《き》いた。
それだけで、弓子には通じた。
「さあ、誰でもするってわけじゃないと思うけどね……」
と弓子はいって、
「私に、尻《し》っぽを出せっていうの?」
ちょっと横目で睨んでみせた。それから、
「私のときは、めまいもしたわ。あの人と、そっくりだったわ」
と、前を向いたまま弓子はいった。
彼は頷《うなず》きながら、内心、わからないものだな、と思った。弓子とは、入社以来ずっとおなじ編集部にいるのだが、弓子に妊娠の経験があるなどとは冗談にも考えたことがなかったのだ。
「悪かったかな。べつに、そんなつもりで訊いたんじゃないんだけどね」
彼は、ちょっと間を置いてからそういった。
「いいのよ。こっちだって、ただ参考のために話したんだから」
と弓子は笑って、
「あら……なによ、その頬っぺたの傷は」
と話を逸《そ》らした。
「なんだ、いま気がついたのか」
「悪うござんしたね。あいにく今朝から、モデル以外の顔はろくにみてなかったもんで」
「さっき、剃刀で切ったんだよ」
「髭《ひげ》を剃《そ》ってて?」
「ちょっと手元が狂ってね」
「厭《いや》ねえ、あなたらしくもない」
「置いてけぼりを食ったから、あわててたんだ」
「それに、顔色も冴《さ》えないしさ。くたびれが溜《た》まってるんじゃないの?」
彼は、さっきのめまいを思い出した。
「そうかもしれないな」
「もう一と晩、ゆっくりしていったら?」
「みんな一緒に?」
「私たちは引き揚げるけどさ」
「そんなら僕も一緒に帰るよ。仕事にきていて、僕だけ残ってのんびりしていくわけにはいかないだろう」
「構わないわよ、仕事といってもあなたはロケを取材にきたんだから。ロケが終ったら、もうあなたは自由よ」
「……そういうことになるのか」
「そうよ。べつに急ぎの仕事があるわけじゃないんでしょう?」
「仕事もないし、編集長からも二晩貰ってきたんだけどね」
「そんなら、なにも問題ないじゃない。ここで一と晩ゆっくりして、明日は一時ごろまでに社へ戻ればいいのよ。編集会議は二時からなんだから」
けれども、留美の妊娠が事実だとすれば、自分だけこんなところでのうのうとしているわけにはいかないような気が、清里にはした。留美と行動を共にしたところで、なんの役にも立たないかもしれないが、それでも彼は、留美と一緒にいたかった。
「……やっぱり、よそう。一緒に帰るよ」
「なにも遠慮することないのよ」
「遠慮してるんじゃないけど、今回はやっぱり一緒に帰ろう。考えてみると、まだこんなところで独りで静養するような齢でもないからな」
「……そう、そんなら、どうぞ御随意に」
弓子はそういって、ちょっと口を噤《つぐ》んでいたが、やがて、
「実は、神永さんを、もう一と晩ここでゆっくりさせてあげようと思ったの。でも、独りじゃ心細いだろうし、こっちも心配だから、あなたが残ってくれるなら好都合だと思ったんだけどね」
彼は、思わず弓子の顔をみたが、すぐに笑い出した。
「冗談じゃないよ。ロケにきて、スタイリストと二人で宿に残るなんて、そんなことできるわけがないじゃないか。どうかしてるよ」
と彼はいった。
「そうかしら。だけど、神永さんは具合が悪いんだから、普通の場合とはちょっとちがうと思うんだけどな」
「具合が悪いといっても、べつに病気じゃないんだからね」
「だからこそ、かえって気を使うのよ、同性としては。ただの病気だったら、すこしぐらい具合が悪くたって、甘いことをいわずに連れて帰るわよ」
「……じゃ、あんたが一緒に泊ってやったら?」
「それができるくらいなら、最初からあなたに頼もうなんて思わないわ。私は、やっぱり今夜は泊ってるわけにはいかないのよ」
それから、二人はしばらく黙って歩いた。道端の雑木林で小鳥がうるさいほどに鳴いている。庚申塚《こうしんづか》のところまできて、
「まあ、ともかく彼女に話してみたら?」
と彼はいった。
「話して、もし今夜も泊るといったら、明日の朝、連れて帰ってくれる?」
「そのときはまた考えるけど、彼女はおそらく泊るなんていわないよ。第一、彼女には、借り集めてきた品物に責任があるだろう」
「それは私が引き受けるわ」
「だけど、本当のことをいわないで、彼女にいま休養が必要だということを、どうやって納得させるかね。あの頑張り屋が、吐き気やめまいぐらいじゃ残る気になんかならないよ、きっと」
道のむこうに、宿の茅葺《かやぶき》屋根がみえてきた。
「……じゃ、こうしてくれる?」
と弓子はいった。
「あの人と一緒に、途中から電車で帰ってくれる?」
「電車で?」
「この谷を出たところに駅があるじゃない。あそこから」
「どうして?」
「車より、電車の方が楽だし、安全なのよ、あの躯《からだ》には。衣裳やなんかは、私が責任を持って保管するわ。そのくらいなら、してくれたっていいでしょう?」
彼はふと、弓子はなんとかして自分と留美を二人きりにさせようとしているのではないかという気がした。そうだとすると、弓子は自分と留美の仲をとっくに見抜いているということになる。けれども、彼は、そのことを自分の方から確かめてみるわけにはいかなかった。
「それは構わないがね、ロケ班の班長がそうしろというのなら。でも、僕はおそらくなんの役にも立たないよ」
「それでいいのよ。ただ一緒に帰ってくれればいいの。それだけであの人は心強いし、私たちも安心だから。じゃ、お願いね」
と弓子はいった。
モデルのマキが、今夜もまた都内で撮影があるというので、昼食を済ませるとすぐ、嘉代の車に衣裳を積んで先発し、あとの四人は、温泉に入ったりしてゆっくりしてから、夕刻、桑野の車で谷間を出発した。
留美は、べつに具合が悪そうにもみえなかったが、弓子の勧めを聞き入れたらしく、電車の駅の前に車が停まると、弓子と桑野に、
「じゃ、勝手ですけど、ここで降ります」
といい、清里にも、
「すみませんけど、お願いします」
といった。
二人を降ろすと、
「じゃ、気をつけて。清さん、よろしくね」
そういう弓子の声を残して、車は夕闇のなかへ走り去った。
二人は、ちょっと顔を見合わせただけで、黙って駅舎の方へ歩き出した。留美は、このときを待ち兼ねていたように、すぐに彼の腕を取ると、その腕を抱き締めるようにしてぴったりと躯を寄せてきた。彼も、留美の腕を腋《わき》の下に強く挟《はさ》みつけてやった。
「辛かったわ……」
留美は、彼の肩口に頬を当てて、吐息をするようにそういった。
「あなたがすぐそこにいるのに、なんにも話すことができないんですもの」
「それは、こっちだっておなじだよ。それなのに、胃がおかしくなったり、めまいがしたり……気が気じゃなかった」
留美は、ちいさな声で、ごめんなさい、といった。
「で、具合はどう?」
「いまはもう、なんともないの」
「それでよくお弓さんのいうことが聞けたね」
「あなたが一緒だっていうから。そうでなければ、あのまま車で帰ったわ」
駅舎では、上りの各駅停車の改札が始まっていた。切符売場で尋ねると、三つ目の駅で上りの急行に接続するということで、二人は、取り敢《あ》えずその三つ目の駅までの切符を買ってホームに出た。雨が降ってきた。
電車は、勤め帰りの人たちや高校生たちで込み合っていた。
「私はここの方がいいわ」
留美がデッキに立ち止まっていった。
彼は、ちょっと車内に入ってみたが、空いている席はなさそうだったし、雨で窓を下ろしてしまった車内は、むし暑くて、息苦しかった。彼はまたデッキに戻った。
「ここの方がよさそうだけど、腰を下ろすものがなんにもないな」
「大丈夫よ。こうしてここに寄りかかってる方が楽」
「もう二、三十分の辛抱だね。急行のグリーン車だったら坐れるだろう」
デッキには、ほかにも何人か乗客がいたが、留美は誰にもみえないように躯の蔭《かげ》で、戸口に並んで寄りかかった彼の手を握った。
外はもうすっかり暗くなっていて、雨に濡れたドアの窓から、沿線の燈火が明滅するのがみえていた。
「旅行がしたいわ、あなたと二人だけで」
留美が小声でそういった。
「……躯具合がよくなったらね。どこへいこうか」
「フランス」
彼は笑い出した。
「フランスは、ちょっと遠すぎるな」
「でも、いきたいわ、いちどでもいいから。やっぱり、いまの仕事をしてるとね、時々パリへいかなきゃ駄目みたい」
「勉強しに?」
「ええ。それと、自分の目を肥やすために」
「勉強しにいくんだったら、僕なんか邪魔だろう」
「邪魔ってことはないけど……。あなたとも一緒にいきたいし、勉強しにもいきたいわ」
留美は、自分の躯になにが起こっているのかも知らずに夢を語っているのだ。彼はそう思って、なにかいたたまれないような気持になった。やはり、留美に躯のことを、そっと耳打ちしてやるべきではなかろうか。
三つ目の駅で電車を降りると、二人はいちど改札口を出て、東京までの乗車券とグリーン券を買った。さいわい席は二つ並んで取れた。
待合室には立ち食いの生《き》蕎麦《そば》の匂いがしていた。留美が、そこへ足を踏み入れた途端に、あ、と声を洩らしたので、また吐き気を催したのかと彼は思ったが、そうではなかった。
「お醤油の匂い……急にお腹《なか》が空いちゃった」
留美は、子供のように首をすくめてそういった。そういえば、谷間の宿で冷やし素麺《そうめん》の昼食をしてから、二人はなにも食べていなかった。
駅舎の地下には食堂があるらしかったが、待ち合わせ時間は十五分しかない。
「急行に乗れば車内販売のワゴンがくるから、弁当でも買おうよ」
彼がそういうと、留美は悪戯《いたずら》っぽい目で、生蕎麦のカウンターを指さした。
「あれ、食べたことある?」
「あるよ」
「私はまだないの。食べちゃいけない?」
「いけないってことはないけどね……。電車に乗ってから、ゆっくり食べた方がいいんじゃないか? 胃のためにも」
「その胃が要求してるのよ、猛烈に、あのお蕎麦が食べたいって」
そういいながら、留美はもう歩き出していた。仕方なく、彼も一緒にカウンターまでいって、急いで二つ注文した。
留美は、白い割烹着《かつぽうぎ》の女たちが手早く蕎麦を作るのを、唾を嚥《の》み込むようにしてみていたが、
「天ぷらか卵か、入れますか?」
と訊かれると、即座に、
「天ぷらを入れて頂戴」
といった。
蕎麦は、ぬるくて、不味《まず》かったが、留美はいそいそと食べ始め、脇目もふらずに汁まで綺麗に平らげてしまった。胃の悪い人にはとてもできない芸当だが、そんな留美の食欲はやはり彼の目には異様に映った。
「……なんともないの?」
改札口へ歩きながら、彼は指先で自分の鳩尾《みぞおち》のあたりを叩いてみせた。
「なんともないの。美味《おい》しかったわ」
「全く変な胃袋だね」
「変でしょう。ちょっとした匂いで吐き気がしたかと思うと、急に妙なものが無性に食べたくなったりするんだから。私だって面くらうわ」
「ただ面くらうだけか。どうしてそんなに調子が狂ったのか、考えてみないの?」
「べつに、考えるなんてこと、しないわ」
「どうして?」
「考えなくたって、わかるもの」
彼は、口を噤んで留美の顔をみた。留美は口元に不思議な微笑を浮かべていた。
改札口を通って、ホームへ出ると、雨はすっかり本降りになっていて、急行電車がヘッドライトでその太い雨脚を照らしながら入ってきた。
「乗り降りするとき、タラップで足を滑らせないようにって、佐野さんがそういってくれたわ」
電車に乗り込むとき、留美が笑ってそういった。
「よく気がつく方ね。吊橋のところでめまいがしてから、足元があぶなっかしくみえるんですって。でも、なんだか、くすぐったかったわ」
電車がその駅を出てから間もなく、留美はハンドバッグを持って洗面所の方へ立っていったが、しばらくして戻ってくると、
「やっぱり駄目。さっきのお蕎麦が無駄になっちゃった」
と、仕方なさそうに笑っていった。目が、泣いたあとのようにうるんでいた。
「吐いたの?」
「うん、そっくり」
「……どうすればいい?」
「もう大丈夫。吐いてしまえば、あとはなんともないの」
留美はそういったが、すぐにぐったりと座席の背にもたれて、目をつむった。瞼《まぶた》が黒ずんで、額にはうっすらと汗をかいていた。
「でも、辛そうだよ。明日にでも医者へいくといいね」
留美は、ゆっくりと彼に顔を向けて、大儀そうに目を開けた。
「そうするわ。それまで待つ?」
「……なにを?」
「病院へいってきてから話そうと思ってたんだけど……こんなところで話していいかしら」
「ああ、いいよ。どんな話?」
と彼はいったが、留美がなにを話すつもりか、彼にはもうわかっていた。
「私ね、赤ちゃんができたみたいなの」
案の定、留美はまた眠るように目をつむると、ちいさな声でそういった。彼は、夢をみているようにこまかく顫《ふる》えている留美の黒ずんだ瞼を、黙ってみていた。
「びっくりしたでしょう?」
「……やっぱりそうだったのか」
と彼はいった。
「わかってたの?」
「もしかしたら、そうじゃないかと思ってたよ」
そう、と留美は目をつむったまま微笑を浮かべた。
「やっぱり、わかる人にはわかるのね。なるべく平気そうにしてたんだけど、吐き気とめまいだけは、どうにもならなかったの。佐野さんには、出かけてくるときからわかってたみたい」
「そうらしいね。正直いうと、僕は彼女にそういわれて気がついたんだ。彼女はきみの躯のことを心配して、僕に相談してくれたんだよ」
「そう……そのとき、あなた、まさかと思ったでしょう」
「……随分気をつけてたからね、お互いに。どこで間違えたのかと思った」
「それは私にもわからないんだけど……信じてくれる? 私のおなかのなかにいるのは、あなたの赤ちゃんよ」
そのとき、つむったままの留美の目頭に、不意に光る玉が湧《わ》いて出た。
「ああ、わかってるよ」
と彼はいった。
「でも、今度だけはなにもいわないでね。お願い。私に任せて。私は生みたいけど、いまは生んじゃいけないってことぐらいは、わかってるわ。私の好きなようにさせて。あとでゆっくり相談しようなんて、いわないで」
それから、留美は、ふっと笑った。
「これで、生もうと思えばいつでもあなたの子供が生めるわ。それがわかっただけで私は満足なの。……ほっとしたら、なんだか眠くなっちゃった。このまま眠らせてくれる?」
ああ、おやすみ、と彼はいった。
「目をつむったままで、ごめんなさい。あなたのほっとした顔がみたくないの。許して」
留美は、目頭の光る玉を顫わせて、雨粒がななめに走っている窓の方へ顔を向けた。
風鈴
「ねえ、お母さん、一回だけ。お願い」
と夏子がいって、顔の前に両手を組むと、人差指を一本立てた。
すると、一也も真似をして、
「ね、ただの一回だけ」
と高子の顔の前に人差指を突き出した。
武志はきょとんとしていたが、ともかく姉たちのおねだりに景気をつけようとして、黙って足を踏み鳴らした。真新しい下駄が、夜店の立ち並んでいる石畳みの歩道に乾いた音を立てた。
「さあ、いらっしゃい」
と、襟《えり》なしの縮みのシャツを着た夜店の男が、すかさず声をかけてきた。
「風鈴のつぎは、金魚だよ、奥さん。夏は風鈴と金魚に限るね」
高子は、困ったように笑いながら清里をみた。清里は、さっき高子が買った南部鉄の風鈴を手に提げている。
五人とも、この夏初めての浴衣《ゆかた》を着て、下ろし立ての下駄を履いていた。ただ、ざっと歩いてみるだけ――そういう約束で駅前通りの納涼祭りをみにきたのだが、高子がうっかり約束を忘れて、風鈴を買ってしまったものだから、子供たちのおねだりを無視するわけにもいかなかった。
「じゃ、一人一回こっきりね」
彼がいうと、子供たちはさっそく金魚の水槽《すいそう》のそばにしゃがんだ。高子が帯の間から財布を出した。
「一回、おいくら?」
「百五十円です」
「あら、高いのね。こないだ、百円だったわよ」
「それは昼間でしょう、奥さん。昼間、神社の境内なんかじゃ百円だけど、夜は百五十円になるんですよ」
「値上りするわけ?」
「夜は大人が結構多いからね。それに電気代も要るし。なんだって夜の商売は高くつくことになってんだから。ねえ、旦那」
清里は黙って笑っていた。
「はい、三人で四百五十円」
高子も仕方なさそうに笑いながら金を払うと、
「よし、サービスだ。当社特製の、丈夫で長持ちするやつを、はい、一つずつ」
金魚屋はそんなことをいって、針金の輪に薄い紙を張ったのを一つずつ子供たちに手渡したが、まず一也が、生きのいい出目金を狙って、忽《たちま》ち紙を破いてしまった。ついで夏子も、躊躇《ためら》いすぎて失敗した。
「あァあ、つまんない。だって、元気のいいやつを掬《すく》おうとすると、すぐ紙が破けちゃうし、それかといって、元気のないやつを掬うと、すぐ死んじゃうでしょう?」
夏子が頬をふくらませてそういうと、
「そうだよなあ。世の中、うまくいかねえよなあ、お嬢ちゃん。よく憶《おぼ》えておいてよ、大人になれば思い当ることがあるから」
と、金魚屋が金歯を光らせながらいった。
武志には、高子が手を添えてやったが、これまた一匹も掬えなかった。
「こりゃあ、いけねえ、一家全滅だ」
勿論《もちろん》、冗談にはちがいなかったが、そんな金魚屋の言葉が清里の癇《かん》にさわった。
「よし、僕がやってみよう」
彼がそういって、浴衣の袖をまくり上げると、高子も子供たちもびっくりしたように彼の顔を見上げた。
「さあ、大将のお出ましだ」
金魚屋がぱちんと両手を打ち合わせた。
「……あなた、本当にやるの?」
「ああ、やるよ。金を払ってくれ」
彼は、風鈴を高子に渡すと、金魚屋から針金の輪を一つ受け取って、水槽のそばにしゃがんだ。
「お父さん、しっかり」
と夏子がいった。
「お父さん、しっかり」
と一也もいった。
彼は、まだ中学のころ、郷里の神社の祭礼の日に境内で金魚掬いを試みて、七匹つぎつぎと掬い上げて金魚屋をうんざりさせたことがある。水のなかで、薄紙を破かないように針金の輪をひらりひらりと操る要領は心得ている。
ところが、針金の輪を構えて、
「さあて、まず、どれにするか」
と水槽のなかを見廻すと、どうしたことか、目がちらちらするばかりで、一匹に焦点が定まらない。二度ばかり、目をきつくつむってみたが、おなじことであった。彼は手の甲で目をこすった。
「なんだか変だぞ。金魚がよくみえない」
そんな独り言をいって、水面に映っている裸電球に目を上げると、その電球が、急に強い風にでも煽《あお》られたようにゆらりと揺れて、彼は尻に固いものの衝撃を感じた。
「おっとっとっと……」
と金魚屋がいった。
清里は、うしろからなにかが突き当ってきたのかと思ったが、そうではなかった。
「あら、どうしたの、あなた」
と高子に腕を取られて、彼は自分が歩道に尻餅を突いているのに気がついた。
「なんだ、俺は……」
どうしたんだろうと、すぐに腰を上げたが、相変らず視界がぐらぐら揺れていて、立ち上ることができない。ふと、喉《のど》の奥に、吐き気がした。
「ちょっと待ってくれ。このまま……」
と彼は、両手で水槽の縁に掴《つか》まって、目をつむった。
「……あァあ」
と、がっかりしたように一也がいい、
「もったいないわ……」
と、夏子が溜息《ためいき》まじりにいう声が、なぜだか随分遠くきこえた。
水槽の縁に掴まった拍子に、針金の輪を水のなかへ落としてしまったのだ――彼は、なにかが渦を巻いているような頭のなかで、ちらとそう思ったが、とてもそれを拾う気にはなれなかった。
さいわい、そのままちょっとの間じっとしていると、頭のなかの渦もおさまり、吐き気も消えた。また、めまいがしたのだ、あのときとそっくりだ、と彼は、一と月ほど前の谷間の宿の朝のことを思い出した。
目を開けてみると、高子が心配そうに顔を覗き込んでいた。
「どうしたの? 大丈夫?」
「ああ、なんでもない」
彼は、ぶるっと頭を振って立ち上った。
「旦那、子供さんたちががっかりしてるよ。どう? もういっぺん挑戦したら」
と金魚屋がいった。
「いや、もう、よした」
「そうね。ま、一杯ひっかけたときは、手を出さねえ方が賢明だけどね」
金魚屋はそういって、残念賞にメダカのような金魚を四匹、ビニール袋に入れてくれた。
清里は、立ち上ったものの、すぐに歩き出すのが不安で、袂《たもと》から煙草を取り出した。マッチ棒を持つ指先が顫えていた。
夜店はまだ半分もみていなかったが、この調子では、残りをみんなと一緒に歩けそうもない。
「四人で一と廻りしておいでよ。僕はちょっと休憩だ」
彼がそういうと、
「やっぱり具合が悪いのね。顔色がよくないわ。もう帰りましょうか?」
と高子が眉をひそめていった。
「いや、せっかくみんなできたんだから、みておいで。なんだか変にくたびれただけなんだ。そこのマロンという店にいるからね。一と廻りしてきたら、みんなで寄って、冷たいものでも飲むといい」
彼は、そのマロンという顔|馴染《なじ》みのコーヒー店の前でみんなと別れると、店に入って熱いコーヒーを飲んだ。めまいがしたときの気付薬に、コーヒーのような刺戟《しげき》の強い飲みものが相応《ふさわ》しいかどうかはわからなかったが、彼はただ、頭のなかに立ち籠《こ》めている物憂い眠気のようなものを早く吹き払って、意識をはっきりさせたかったのだ。
彼は、コーヒーをすこしずつ喉へ流し込みながら、さっきの自分のことを思い出して、情けなくなった。金魚掬いをしようとして、尻餅をついて、針金の輪を水のなかへ落としてしまうなんて。とても自分のしたこととは思えなかった。
いつのまに、こんな情けない躯になってしまったのだろう。これまで、めまいとは全く無縁だったのに、この一と月の間に二度もめまいに襲われたのである。一体どうしたことか。
最初のときは、留美のめまいが移ったのではないか、などと思ったりしたものだが、これで、そうではないことがはっきりした。留美は、ロケーションから帰った翌々日に、さっさと中絶の手術を受けてきて、いまは元通りの躯になっている。もう吐き気も、めまいもしない。ところが、こちらはいまだに尻餅などついて、金魚屋に憫笑《びんしよう》されたりしている。
金魚屋は、酒に酔っていると思ったようだが、そんなことはなかった。夕食のとき、ビールを二本飲んだことは確かだが、そんな酔いなどとっくに醒《さ》めてしまっていた。
考えても、どうしてこうめまいがするのか、わからなかった。ほかには、どこにも異状がない。めまいの原因として思い当ることはなにもなかった。
「……しばらくおみえになりませんでしたね」
店の主人が、独りで退屈しているとでも思ったのか、カウンターのなかからそう話しかけてきた。
「ああ……ちょっと忙しかったもんでね」
清里は、我に返ってそう答えてから、そういえば、留美とこんな仲になってからはいちどもこの店にはこなかったなと気がついた。
この店ばかりではない、これまで馴染んできた幾つかの店にも、ふっつりと足を運ばなくなっている。躯ばかりではなく、暮らし方もすっかり変ってしまったのだ。
「すこしお痩《や》せになりましたね」
「……そうだろうか」
「それとも、浴衣を着てらっしゃるせいかな? 和服を着ると痩せてみえることがありますね。あれはどういうわけですかね」
そんなことから、店の主人とあまり気乗りのしない雑談をしていると、高子と子供たちがどやどやと店に入ってきた。
「ほら」
と一也が、さっき金魚屋がおまけにくれた透明なビニール袋を改めて目の前に下げてみせるので、どうしたのかと思うと、
「よくみて。さっきとちがうでしょう?」
と夏子がいった。
また目がちらちらするのではないかと、警戒しながら、ビニール袋を覗いてみると、なるほど四匹だったはずの金魚が五匹になっている。尻っぽに派手なひらひらのついた、すこし肥えたのが一匹増えている。
「なんだ、またやったのか」
「ちがうの。お母さんが買ったのよ」
「買った?」
「さっきの金魚屋さんから。五人家族なのに、四匹だけってのは、おかしいからって」
夏子がそういうと、
「やっぱりお父さんがいなきゃ困るからって。ほら、この太ったのがお父さん金魚だよ」
と一也がいった。すると、武志も、
「太ったのがね、父さん」
と叫ぶようにいった。
清里は、ついさっき、自分のことを痩せたといった店の主人と、顔を見合わせて苦笑した。高子は黙って笑っていたが、一番しまいに、
「高いこというから、値切ってやったの」
とだけいって、
「さあ、みんな、なににする?」
と一人々々から注文を取った。
私鉄の駅から家までは、歩いて十五分ほどの道のりだったが、帰りもやはり歩くことにした。高子が車を拾おうかといったが、彼はもうなんともなかったし、なんともないことを確かめるためにも、すこし夜風に吹かれて歩きたかった。
一家は、店を出ると、駅前通りの途中から人通りのすくない横道へ逸れて、両側の塀《へい》にそれぞれの下駄の音を響かせながら歩いていった。
「……さっきはびっくりしたわ。急に尻餅をついたりするんですもの」
子供たちからすこし遅れて、清里と肩を並べると、高子が思い出したようにそういった。
「こっちだって、びっくりしたよ」
「やっぱりビールのせいだったの?」
「いや。晩飯のときのビールが、あんなところで急に利いたりはしないさ」
「じゃ、どうしたの?」
「金魚がうようよしてるのをみたら、なんだか知らないけど頭がふらっとしてね。でも、まさか尻餅をつくとは思わなかったな。尻が、ごつっとしたから、びっくりした」
「それに、そのあと水槽に掴まって、じっとしてたでしょう。掬う道具は水槽のなかへ落としてしまうし。どうなっちゃったのかと思って、はらはらしたわ」
「尻の骨が痛かったんだよ。まさか子供たちの前で、尻を抑えて飛び上るわけにはいかないしね」
高子はくすっと笑って、しばらく口を噤んでいたが、やがて、優しい声で、ねえ、といった。
「あなた、私になにか隠してることがあるんじゃない?」
彼は、胸の奥でぎくりとしたが、さりげなく、
「隠していること?……なんの話だ」
と高子の顔をみた。
「女の人の話」
「女の……?」
「冗談よ」
と、高子は斜めに彼をちらと見上げて、
「躯のこと。どこか具合が悪いのを、心配させると思って黙ってるんじゃない?」
彼は、めまいのことを高子にはまだ話さずにいた。生まれて初めての、しかもたった一回きりのことだったし、あのときはまだ、そのめまいが留美となにか関《かか》わりがありそうな気がしていたからである。
けれども、自分のめまいが留美とはなんの関係もないものだとわかってみれば、高子にこれ以上隠しておくこともなかった。
「具合が悪いってほどじゃないんだがね。実は、ちょっとめまいがするんだよ、近頃」
と彼はいった。
「まあ、めまいが? 頻繁《ひんぱん》に?」
「いや、今夜で二度目だけどね」
「今夜って、さっき金魚掬いをしたとき?」
「うん。実をいうと、めまいがして尻餅をついたんだ」
「道理で、変だと思ったわ。おなじ尻餅をつくにしても、あ、尻餅をつくな、とわかっていて、ついたみたいじゃなかったもの。なんだか、あなたらしくもないと思ってたら……めまいだったの」
「ごく軽いやつだけどね、ちょっと目をつむっていれば直るんだから」
「でも、それだってやっぱり、めまいはめまいよ」
と高子はいって、
「二度目が今夜で、最初はいつだったの?」
「こないだ、姫谷温泉へいったときだよ。ほら、頬っぺたにちいさな傷があったろう。あのときは面皰を引っ掻《か》いたっていったけど、本当は剃刀《かみそり》で切ったんだ。朝、髭を剃ってたら、急に鏡に映った顔がぐらぐら揺れてね」
「あぶないわ。剃刀を持ってて、めまいを起こすなんて。どうしてすぐ話してくれなかったの?」
「あれっきりだと思ったからね。自分でも、すっかり忘れてたんだよ、さっき尻餅をつくまでは」
「……どうしたのかしら。これまで、めまいがしたなんてことは、なかったでしょう?」
「なかったね、いちども。自分でも、どうしたんだろうって考えてるんだけど、思い当ることがなにもないんだ」
高子は、ちょっと黙っていたが、
「でも、どんなに軽いめまいにだって、なにか原因があるはずよ。やっぱり暇をみつけて、いちどお医者へいってみたら?」
彼は、自分でもすこし不安になっていたので、そうしようと素直にいった。
家に帰ると、子供たちは五匹の金魚を、庭の隅に古い火鉢を埋めただけのちいさな池に放してやった。
風鈴は、高子が自分で、寝室の出窓の外に吊した。枕元の明りを消すと、急にその風鈴の音色が冴えてきこえた。
「いい音色でしょう」
「うん……巡礼の鈴みたいな音色だな」
そのとき、不意に、彼は留美とのことを高子に打ち明けてしまいたいという衝動に駆られた。いまなら、なにもかも素直に話せそうだという気がした。
けれども――結局、彼にはなにも話すことができなかった。
その翌々日の昼、清里は、社員食堂で医学のページを担当している大川と隣り合わせて、忘れていためまいのことを思い出した。
「そうそう、きみの班に、めまいにくわしいドクトルはいないかね」
勿論、ドクトルといっても医学班の連中のことだが、
「さあ、めまいねえ……。どうしてです?」
「ちょっと、めまいを診断して貰いたいんだよ」
「誰か、めまいがするんですか」
清里は、フォークの尻で自分の鼻を叩いてみせた。
「へえ、清里さんが?」
「内証だよ」
と、あたりに目を走らせて、
「ごく軽いやつだがね」
「どんなめまいです? めまいにも、いくつか種類があるんですがね。目の前が、すうっと暗くなりますか?」
「……いや、暗くなるってほどでもないな」
「じゃ、脳貧血じゃないですね」
「そうか、貧血じゃないのか」
「多分ね。そうすると、躯がふらふらするとか、周囲がぐるぐる廻り出すとか……」
「それそれ、そんな種類のめまいだよ」
「じゃ、本格的なめまいですな」
大川がにこりともせずにそういうので、
「おい、おどかすなよ」
と清里は自分の方から笑った。すると、
「いや、おどかすわけじゃないんですがね、めまいというものの本来の意味は、自分がぐるぐる廻る感じ、それから周囲がぐるぐる廻る感じを指すわけですから。つまり、そういうめまいが、純粋かつ本格的なわけですよ」
と、大川はフォークの先で宙に渦を描きながらいった。
清里は、余計なことを訊いたものだと、後悔するような気持になった。それで、
「なるほど。さすがは医学班のドクトルだな」
と冷やかしたきり、あとは黙ってフォークを動かしていると、
「本格的なめまいってことになると、なかなか診断がむつかしいんですよね、そういうめまいを伴う病気が数多いですから」
と、大川は調子に乗って話しつづけた。
「めまいを起こす病気としてはですねえ、まず低血圧、目の血管の障害、それに、低血糖症……」
「なんだい、それは」
「血液中の糖分が低下して起こる病気です。それに、酸素不足、てんかん……」
「てんかん?」
と、清里は目をむいて、それから笑い出した。
「わかった。もういいよ。これ以上聞くと、また、めまいがする」
「そんなに頻繁にするんですか」
「いや、この一と月に、二度しただけだよ」
「そんなら、大したことないですよ」
「だから、初めに、ごく軽いやつだといったろう」
「まあ、心配することはありませんね。血圧だって、べつに異状はないんでしょう?」
「……多分ね」
と清里はいったが、正直いうと、自分の血圧がいくつだったか、とっくに忘れてしまっていた。
「多分、というのは曖昧《あいまい》ですね」
大川は、クレゾールでも匂ってきそうな微笑を浮かべながらいった。医学班の連中は、うっかり病気のことを尋ねたりすると、すぐにその気になって質問者を患者扱いする癖がある。それで、からかい半分にドクトルなどと呼ばれるのだが、
「正確なとこ、血圧はいくつなんです?」
と訊かれても、
「さあ、いくつだったかな」
としか、清里には答えようがなかった。すると、
「こういうことで、とぼけちゃいけませんな」
と大川がいった。
「とぼけてるんじゃないよ。本当に憶えてないんだ」
「だって、ついこの間のことじゃないですか、測ったのは」
「……ついこの間?」
「四月に測ったでしょう、保健室で」
そういわれて、清里は、このところ二度ばかりつづけて社の定期検診を受けそびれていたことを思い出した。
「ところが、あの日はあいにく取材が重なってね……」
「受けなかったんですか」
「うん。一日、社にいなかったもんだから」
例の取材で、留美と一緒に都内をあちこち歩き廻っていたのだ。
「じゃ、去年の九月のときは、どうでした?」
「去年か。去年の九月は、なにがあったんだっけかな?」
「やっぱり、受けなかったんですか」
「うん。なんだったか忘れたが、急用ができてね」
「いけませんな、それは」
と、大川は眉を寄せて清里をみた。
「都合で定期検診が受けられなかった場合は、あとで出版健保指定の病院へいくか、もしくは掛かりつけの医者のところで、個人的に健康診断を受けることになってるんですがねえ」
「……まあ、そういじめるなよ」
と、清里は仕方なく笑っていった。
「いじめてるんじゃないですよ。清里さんの躯のことを思っていってるんです。四十近くなったら、そろそろ血圧ぐらいはきちんきちんと測って、よく憶えておきませんとね」
「はいはい、よくわかりました。そのうち、医者へいって測って貰いますよ」
なんなら、血圧専門の名医を紹介しようかと大川がいったが、清里は、余計なお世話だと思って、結構だと答えた。血圧を測るだけなら、誰に測って貰ってもおなじではないか。
その日も、清里は、午後から一階の資料室に籠もって、スタイリストについての原稿を纏《まと》める仕事をした。この一と月、暇をみつけてはこの資料室に籠もってせっせと書き溜めた原稿が、もう薄い本なら楽にできそうな分量になっている。
その日の仕事は、やはり昼に大川と話したことが気になって、いつものようには捗《はかど》らなかった。あの贋《にせ》ドクトルめ。彼は大川のことをそう思ったが、その贋ドクトルの言葉が自分にとって傾聴に価するものだったことは、認めないわけにはいかなかった。
いつも乗る私鉄の駅の近くに、子供たちがよく世話になっている内科のちいさな医院がある。明日の朝、出がけにあの医院へ寄ってこようか――一向に捗らない仕事に見切りをつけて、そんなことを考えながら窓辺で煙草をふかしているところへ、弓子がひょっこりやってきた。
「やってるね。それにしても、ひどい煙」
弓子は、窓をぱたぱたと開けて、
「駄目よ、時々こうして空気を入れ換えなくっちゃ。肺癌《はいがん》になるわよ」
「……肺癌になると、めまいがするかな」
彼は、思わずそんな独り言を呟《つぶや》いた。
「え?……めまいが、どうしたって?」
「いや、なんでもない。きょうは病気のことでよくおどかされるから、めまいがしそうだといったんだよ」
「誰におどかされたの?」
「医学班のドクトルにさ。さっき昼飯を食いながら話しているうちに、計らずも去年の九月から定期検診を受けてなかったことがばれちゃってね。四十近くになったら血圧ぐらいはきちんと測っておかなきゃいけません、なんて、例の調子で一席ぶたれたんだ」
すると、弓子が笑って、
「四十近くが、気に入らなかったわけね」
といった。
「それもそうだが、まるで明日にでも脳出血を起こしそうな口振りでいうんだから、食えないよ」
「脳出血ねえ。そろそろ、そんなものが頭にちらつく齢になったってわけか」
弓子が煙草に火を点《つ》けながらそんなことをいうので、
「他人事《ひとごと》みたいなことをいってるよ」
と笑ってやると、
「私は大丈夫よ、血圧が低い方だから。清さんだって、低そうにみえるけどね」
「こっちは高からず低からず、つまり正常さ」
「去年のいまごろまでは、でしょう?」
それが、なにやら曰くありげな言種《いいぐさ》にきこえて、彼は、答える前にちょっと弓子の顔をみた。
「でも、血圧って変るらしいからね。やっぱり、いちど測っておいた方が安心よ」
と弓子はいって、机の上の原稿を覗いた。
「随分進んだじゃない。書き上るのは、いつ?」
「あと四、五日というところだ」
「書き上ったら、完成祝いをしなくっちゃね、神永さんと、三人で」
彼は、黙って笑いながら窓を閉めた。部屋には、煙草の煙と入れ代わりに外の暑さが流れ込んで、汗ばむほどになっていた。
「……近頃、神永さんに会う?」
背後で、弓子がそういった。
「いや……もう随分会わないな」
それは嘘ではなくて、実際、彼はこの一週間ほど留美には会っていなかった。一週間でも、彼にすれば随分であった。
「あんたは?」
「私も会ってないけど、噂《うわさ》は聞くわ」
「どんな噂?」
「いろいろとね」
と弓子はいって、灰皿に煙草を押し潰《つぶ》しながら、
「きょう、帰りにちょっとお京さんとこに寄らない? ラストスパートの景気づけに、おごるわよ」
と彼の顔に目を上げた。
弓子にはなにか自分に話したいことがあるのだ――彼はそう直感したが、お京の店へいくのは気が進まなかった。
「あの店には、すっかり御無沙汰しちゃってね。どうも敷居が高いな」
そういって頭に手を上げると、
「そうみたいね。お京さん、気にしてたわよ。もう、どのぐらいいってない?」
「なにしろ、今年になってから、まだいっぺんもいってないんだ」
「もう半年以上になるわけね。なんかあったの? 気《き》不味《まず》いことでも」
「いや、べつに……」
ただ、それまでお京の店で潰していた時間を、留美の部屋で生かすようにしていたにすぎない。
「なんにもなかったんだけどね、なにかの拍子に、ふっと足が向かなくなっちゃったんだな」
と彼はいった。
「それにしても、半年以上ってのは長すぎるわ。そろそろ顔をみせてあげたら、どう? 店の人にすれば、常連の一人がなんの理由もなく、ふっつり顔をみせなくなるなんて、なんとも厭《いや》なものらしいわよ」
弓子にそういわれると、それ以上|後込《しりご》みするわけにもいかなかった。
「じゃ、九時まで付き合うよ」
「九時までね。時間を切るなんて、珍しいわね。でも、結構よ。九時からどこへ廻るのかなんて、訊《き》かないから」
「どこへも廻りゃしないよ。まっすぐ家へ帰るんだ。明日の朝、出がけに医者に寄るからね」
「血圧を測って貰いに?」
「ついでに、ビタミン剤でも打って貰ってくるさ。ここんとこ、ちょっとばて気味だから」
彼は、日が暮れてから弓子と一緒に社を出て、地下鉄の駅のむこうのお京の店へいった。弓子のあとから店の暖簾《のれん》をくぐるとき、彼はばつが悪くて、ちょっと顔がこわばったが、お京がなんのこだわりもない笑顔で、
「あら、お帰んなさい」
と迎えてくれたので、ほっとした。
「随分長い放浪でしたね」
「ああ、あちこちほっつき歩いてね、くたびれた」
「お疲れさま。さあさあ、わらじを脱いで、ゆっくり御酒を召し上れ」
お京は、北陸は魚津の魚屋の娘で、弓子とおない齢だが、いまだに独りで魚料理の店を切り廻している。
「いい烏賊《いか》が入ってるけど、千切りにでもしましょうか?」
「いいね」
「私もそれを頂くわ」
と弓子はいって、
「お京さん、いつかのオリーブ、まだ残ってる?」
「あ、あれは私が食べちゃったけど、新しいのがありますよ。開けましょうか?」
「三粒ばかり欲しいの」
「どうぞ。三粒といわずに、五粒でも十粒でも」
そんなことをいって、お京は瓶詰《びんづめ》の口を開けながら、
「そういえば、こないだのミス・オリーブは、どうしてらっしゃる?」
と弓子をみた。
彼には、そのミス・オリーブというのが留美のことだと、すぐわかった。勿論《もちろん》、弓子にもわからぬはずはなかったが、弓子はちょっと目をぱちくりさせてから、
「ああ、あの人のこと。元気らしいわよ、ここんとこ会ってないけど」
といった。
「そんならいいんだけど、あの晩はなんだか元気がなかったでしょう。それで、ちょっと気になってたの」
「くたびれてたのよ、あの晩は。あれからロケへもいったし、帰ってからはすっかり元気になってるわ。今度また一緒にくるから、そのオリーブ、自分で食べちゃわないで、取っといてよ」
へい、とお京は笑って、
「今度は食べてくれるかしら、オリーブ」
「多分ね」
そのとき、入口の戸が開いて、客がどやどやと入ってきた。
「あっちへ移らない?」
弓子が壁際のテーブルへ目をやった。昼に弓子は、留美の噂のことを話していたが、それを聞くことになるのなら、目の前にお京などいない方がいい、と彼は思った。
「じゃ、移ろうか」
「お京さん、移るわよ」
と弓子がいった。
「あら、四人さんだから動かなくていいのに」
「でも、ちょっと打ち合わせがあるから。運ぶものは私が運ぶわ」
「すみませんねえ」
弓子は、酒や肴《さかな》をテーブルに移してしまうと、
「ミス・オリーブだって」
小声でそういって、改めて肩をすくめてみせた。
「すぐわかったよ、話を聞いてたから」
と彼はいった。
「でも、まさかあれだとは思ってないから、大丈夫よ」
あれというのは悪阻《つわり》のことだろう。彼は、弓子の前の小鉢を覗《のぞ》いて、
「それがオリーブか」
と話を逸《そ》らした。
「あら、知らなかったの?」
「写真では何度もみたことがあるけどね、うちの雑誌のグラビヤなんかで。本物は思ったより小粒だな。青い小梅という感じだ」
「一つ、食べてみる?」
弓子が楊枝《ようじ》の先で一と粒とってくれたので、彼はそれを手のひらに受けた。すると、その手のひらの上のオリーブが、彼の頭のなかに一つの記憶をよみがえらせた。
(あのときの卵に似ているな、空色の……椋鳥《むくどり》の卵に)
と彼は思った。それから、あの空色の卵を手のひらにのせて眺めながら、その上にぼんやり留美の顔を思い浮かべていたあのころの自分に、思いがけないほどの懐かしさをおぼえた。
随分遠くへきてしまったという気がした。もう、あのころの自分には戻れないだろうな、と彼は思った。
「……どうしたの? 神永さんの二の舞?」
と弓子が笑っていった。
初めて口にするオリーブの実のピクルスは、これまでいちども味わったことのない、だから、なににも譬《たと》えようのない、不思議な味がした。旨《うま》いのか、不味いのか、正直いって彼にはわからなかった。
「……なるほど。こんなものか」
「悪くない味でしょう」
「変った味だな」
「神永さんみたいな味ね」
彼は、弓子の顔をみつめて、それから笑った。
「それは、どういう意味だ」
「初めはちょっと風変りで、取っつきにくいけど、食べているうちにだんだん好きになる味」
「オリーブって、そうなのか」
と彼はいったが、弓子は構わずに、
「いちど好きになったら、もう止《や》められない味。逃げようとしても逃げられない味」
「……危険な味だな」
「危険だからこそ惹《ひ》かれるのよ。どう? 今夜からオリーブ党にならない?」
「厭だね。いまからじゃ、もう遅いよ」
彼はそういってから、こんな気疲れのする冗談話は、もうよそうと思った。
「……ところで、神永さんのことだけど、どんな噂が耳に入ってるの?」
と、彼はちょっと間を置いてから訊いた。
「すこぶる元気だという噂」
「それだけか」
「それだけかって、これはちょっと考えさせる噂じゃない? ロケのとき、あんなに弱ってた人が、いまはすこぶる元気なの。どう思う?」
彼は、考えるふりをして黙っていた。
「女の躯《からだ》のことだから私がいうけど、あの人、悪阻がなくなったのよ。悪阻は普通、一と月ぐらいはつづくんだけど、あの人のは、あっという間になくなったわ。ロケから戻って、一週間後に会ったときは、もう、けろりとしてたからね。勿論、悪阻の期間は人によってまちまちで、ごく軽くて済む人もいるわ。全然ない人だっているんだから。でも、あの人の場合はそうじゃないと思うの。自分で悪阻をなくしたのね。つまり、中絶したわけよ」
彼は、黙って聞いているほかはなかった。
「実はね、中絶した証拠になるような噂が、もう一つあるの」
と弓子はつづけた。
「もし子供を生むんだったら、当分仕事はできないわけだけど、あの人、やる気十分なのよ。近々、うちの雑誌のほかに、二つの女性誌と仕事の契約をするらしいわ」
彼は、あやうく、そんなはずはない、といいそうになった。そんな仕事の話など、なにも聞いていなかったし、留美が自分に内証でよそと仕事の契約を結ぶとは思えなかった。
「それはおかしいよ。彼女が、あんたや僕に相談しないで、よその雑誌の仕事をするわけがないじゃないか」
「私もそう思いたいんだけど……とにかくそんな噂があるから、一応あなたに伝えておくわ」
と弓子はいった。
――彼は、約束通り九時に弓子と別れて、お京の店を出たが、やはり留美に会わずにはいられなくて、豊島園のマンションへ廻った。けれども、留美は留守らしく、四階の部屋には明りがちらともみえなくて、下から見上げていると、どこかの風鈴の音だけがきこえた。
翌朝、学校へ出かけていく子供たちの声を聞いて、清里は、きょう社へ出る前に寄っていくことにしていた駅の近くのちいさな医院のことを思い出した。子供たちが風邪をひいたり、扁桃腺《へんとうせん》を腫《は》らしたりするたびに、高子が連れて注射をして貰いにいく医院である。
「夏子が塩をかけて食っちゃうといった医者は、小野田さんっていうんだったね」
玄関から戻ってきた高子にそういうと、
「ええ、小野田先生。もう、そんなことはいわないけど」
と高子は笑った。
夏子は、幼稚園のころ注射がなによりも厭で、小野田医師に痛い目に遭わされるたびに、口を平たくして泣きながら、
「小野田先生なんか、塩をかけて食べちゃうから」
そういうので、医院では鬼の夏ちゃんと呼ばれていたらしい。頭から塩をかけて食うというのは、童話の鬼の話かなにかで憶《おぼ》えたのだろう。
「あそこは、まさか小児科専門じゃないだろうな」
「専門じゃないの。小児科と、内科と、あとはレントゲン科だったかしら。でも、どうして?」
「小児科専門のところへ、のこのこ血圧を測りにいったりしたら、笑われるからな」
と彼はいった。
「そうそう、いちどお医者に診て貰うんだったわね」
「ところが、社へ出てしまうと、なかなかそんな時間が取れないんだ。だから、出がけに寄っていこうと思うんだけど……いざとなると、億劫《おつくう》でね」
彼は、子供のころから、独りで医者へいったことなどほとんどなくて、大人になってからも、医者通いをしたことといえば、虫歯が痛んだときと、足を挫《くじ》いたときぐらいであった。
「でも、やっぱり診て貰っておいた方がいいわ、この機会に。なんでもなければ、ないで、安心でしょう」
「それはそうだけどね……」
それきり黙って食事をつづけていると、
「めまいは? あれから、またした?」
と高子がいった。
「いや。あれっきりだ」
「血圧を測って貰うって、めまいとなにか関係があるから?」
「べつに、そういうわけじゃないんだ。自分で思い当ることがなにもないから、血圧でも測ってみるかというわけさ。ここんとこ、しばらく測ってないからね」
「独りじゃ厭なら、一緒にいってあげましょうか?」
「みっともない。独りでいくよ」
「親切な、いい先生よ。夏子のことをいえば、すぐわかるわ」
高子はそういったが、その朝、小野田医院に寄ってみると、ちょっとカルテの名前を覗いただけで、
「清里さんというと、夏ちゃんのお父さんですかな?」
小野田医師の方から、そういった。
「ひところの夏ちゃんは、こわかったですよ。注射をすると、頭から塩をかけて食っちゃうっていうんですから」
医師は、そんなことをいって、笑いながら血圧を測り始めたが、やがて血圧計をみつめたまま、
「ほう……」
と驚いたような声を洩らした。
「……低すぎますか?」
異常があるなら低すぎるのだ。そうとしか思えなかったが、
「いや……もういちど測ってみましょう」
医師はそういっただけで、またゴムの玉を押しながら腕を圧迫するものに空気を送りはじめた。
二度目は、なにもいわずに耳から聴診器を外した。
「……ちょっと高いですね」
清里は意外であった。
「上が百六十五、下が百十です」
百六十五――けれども、これまで血圧などには全く関心がなかった彼には、そういわれてもすぐには高いという実感がなかった。
「いつも、こうなんですか」
「いや、ここ一年ばかり測ってないんですが……」
「一年前は、いくつでしたか」
「それが、憶えてないんです」
と、清里は仕方なく笑っていった。
「でも、憶えてないくらいですから、まず正常だったんじゃないかと思うんですけど」
「そうでしょうね。異常があれば、医者がなにかいうはずですから」
医師は、ちょっと笑ってそういうと、カルテになにか書き込んだ。そのときになって、清里は、ようやく自分の齢に九十を足した数字が血圧の正常値だという定説を思い出し、それを自分に当てはめてみて、びっくりした。
「そうすると、四十近く高いわけですか」
「まあ、そういうことになりますが、上はともかく、下が百以上あるというのは気に入りませんね」
医師はそういってから、内臓疾患の有無を尋ねた。これまでに、心臓、肝臓、腎臓《じんぞう》のような臓器を病んだことがないだろうか。
「ありませんね、いちども」
「いまはどうです。なにか自覚症状はありませんか」
「……やっぱりありませんね、なんにも。ただ躯が変にだるくて、たまに軽いめまいがするんですけど」
医師は頷《うなず》いて、
「それは、どちらも血圧が高いせいでしょうね。一応、尿検査をしてみましょうか」
そういうと、看護婦に声をかけて、ちいさな紙コップを持ってこさせた。
「これに半分ぐらいで結構です。待合室の隅のドアを開ければ、すぐですから」
尿は、そうして紙コップに取ってみると、みただけで不安になるほど赤く色づいていたが、簡単な検査の結果ではべつに異状がないということであった。
「もっとくわしく調べてみないと、はっきりしたことはいえないんですが、もしかしたら本態性の高血圧かもしれませんね。これは、原因がよくわからない高血圧症なんですが、近頃は若い人たちにも意外に多いんですよ」
医師はそういって、ともかく、しばらくの間は精神的にも肉体的にも無理は避けて、様子をみることにしたらどうかといった。
清里は、小野田医院を出ると、ゆっくり駅の方へ歩き出したが、躯が妙にふらふらして、すぐに立ち止まった。また、めまいかと思ったが、そうではない。視界がではなく、自分の躯が揺れているのだ。まだ午前なのに、強い日射しが眩《まぶ》しかった。彼はまた歩き出し、すぐまた立ち止まった。
彼には、急に躯がどうかしてしまったのだとは思えなかった。ついさっきまでは、すこしだるさは感じていたが、ともかく十五分ほどの道のりを休まずに歩いてこられたのである。医者に寄って、血圧を測って貰っただけで、躯がどうかしてしまったとは思えなかった。自分はただ、思いのほか血圧が高かったことに強い衝撃を受けただけなのだ。彼はそう思ったが、現実に躯がふらつくのは、どうすることもできなかった。
歩いているのは石畳みの歩道だが、あるところはぬかるみのように柔かく、あるところは石段のように固く感じられた。右足が道にめり込んだかと思うと、左足にはごつっと固いものを蹴《け》ったような感触があって、躓《つまず》きそうになる。
彼は、なおも二、三度、歩いたり立ち止まったりしてみて、この調子ではとても社まで辿《たど》り着けそうにもないなと思った。なぜだかわからないが、躯の平衡感覚がすっかり狂ってしまっているようだ。これでは社に出ても仕事ができない。
彼は、タクシーを拾うと、自分の家に引き返した。高子をびっくりさせることになるが、仕方がない。そう思いながら、玄関でコールチャイムのボタンを押したが、高子はなかなか出てこなかった。なにをぐずぐずしているのだ。彼は苛立《いらだ》って、自分の合鍵《あいかぎ》でドアを開けて入った。
「おい……高子。……高子」
われながら、なんとも情けない声であった。なにか不安で、大きな声が出せないのだ。
家のなかは、ひっそりとして、高子が出てこないばかりか、返事もない。留守なのか? 自分を送り出したあと、高子もすぐどこかへ出かけてしまったのか?
「高子……どこにいるんだ?」
彼は、何度かそう声をかけながら家のなかを探し廻ったが、高子はどこにもいなかった。彼は高く舌うちした。こんなときに、一体どこへ出かけたのだ。
それから、彼はふと、妙なことを考えた。高子が、この家を捨てて、どこかへいってしまったのではないか、そう思ったのである。彼は、すぐ押入れを開けて、預金通帳や定期預金の証書などを入れておく小箪笥《こだんす》を調べてみた。なんの異状もなかった。預金通帳も証書も無事で、なにかがそこから持ち出された様子は全くなかった。
彼は、押入れを閉めながら、思わず独りで笑ってしまった。自分はなんてことを考えたのだろう。彼は、自分の留守の間に、妻が自分や家を捨ててどこかへ姿を隠してしまうのではないかなどとは、これまでいちども考えたことがなかったのだ。
彼は、何事にもすっかり自信を失っている自分に気がついた。そんな自分が、哀れでもあり、滑稽でもあった。
「どうしたんだろうねえ、全く。ちょっと血圧が高いぐらいで、すっかり取り乱しちゃってさ……」
彼は、そんな独り言をいって自分を嗤《わら》ながら、のろのろと着ているものを脱いで、パジャマに着替えた。すると、急に骨が抜けたように躯が重たくなり、彼はそのまま崩れるように畳の上にあぐらをかいた。
これから、自分はどうなるのだ――そう思うと、胸底から大きな溜息《ためいき》が出た。窓の外で、風鈴がちいさく鳴っていた。その風鈴の音色を、聞くともなしに聞いているうちに、彼はふと、これが何カ月か、あるいは何年か後の自分の姿ではあるまいかと思った。妻に捨てられ、子供たちにも去られ、くたくたのパジャマのままぽつんと独り畳の上にあぐらをかいて、軒の風鈴を聞いている――自分はいつか(それはいつのことになるかわからないが)、いつかはそんなことになるのではなかろうか。
彼は、そう思い、そのときクーラーを切った部屋のなかがひどく暑かったにも拘《かかわ》らず、急に寒気を感じて身ぶるいした。これは、一つの予感というものだろうか。それとも、これもまた自信のなさからくる妄想《もうそう》のたぐいにすぎないのだろうか……。
外の道から、話声がきこえてきた。なんの屈託もなさそうな女の声が、囀《さえず》るように話している。やがて、玄関に物音がして、誰かがドアを開けて入ってきた。誰か、といっても、玄関の鍵を持っているのは自分と高子だけなのに、彼は実際ぼんやりと、誰かが入ってくる、と思っていた。
「あらっ……?」
という高子の声がきこえた。脱いである靴に気がついたのだ。
「あなた……戻ってきたの? どこ?」
彼は、そういう高子の声にほっとしたまま、黙っていた。襖《ふすま》が開いた。
「まあ……あなた」
高子が普段着のままで目を瞠《みは》っている。
「……戻ってきたんだ」
と彼はいった。
「どうして?……どうしたのよ、一体、パジャマなんか着て」
高子は、小走りに入ってきて、彼の前に膝《ひざ》を落とした。
「きょうは、社を休むよ」
「どこか具合が悪いの?」
「血圧がすこし高いんだよ」
「まあ……」
「まさかと思ってたんだが、測ってみたら高いんだ」
彼は、小野田医院でのことを話して聞かせた。
「齢からいえば、百三十弱が普通なんだが、それが百六十五もあるんだ。それよりも、下が百以上あるのが、よくないんだって」
「じゃ、めまいも、その血圧のせいだったのね?」
「そうらしいな。とにかくショックを受けちゃってね。なんだか自信がなくなったら、躯までふらついてきて……」
「お布団を敷くわ。ちょっと待ってて」
高子は急いで立ち上った。
「……さっきは、どこへいってたんだ?」
「幼稚園よ、武志を送って。ごめんなさいね、まさかあなたが戻ってくるとは思わなかったから」
それなのに、自分は押入れの小箪笥を覗いたりしたのだ。彼は、ゆっくり部屋を出ると、台所の流しへ水を飲みにいった。水道の蛇口をひねって、ぬるい水を出しっ放しにしていると、高子が寝室から急ぎ足で出てきて、
「お待ち遠さま。すこし横になったら?」
といった。それから、彼の背中に、柔かく吸いつくように躯を寄せると、
「元気を出して。私がついてるじゃない。なんにも心配しないで」
囁《ささや》くようにそういった。高子の顔の火照りが、パジャマを通して伝わってきた。そのとき、全くひとりでに、彼の口からこんな言葉が滑り出た。
「高子……おまえに話しておきたいことがある」
彼は驚いて、口を噤《つぐ》んだ。自分がつづけてなにをいい出すか、わからなかったからである。自分は一体、なにを打ち明けようとしたのだろう。改まって高子に打ち明けるとすれば、留美のことしかなかったが、留美のことを打ち明けるためには、心の準備がまだできていない。
それなのに、打ち明けなければという気持ばかりが先走って、言葉が口をついて出てしまった。彼には、そのときの高子のいたわりに対して、そういう言葉で報いるほかはなかったのだ。
高子も、すこしの間、黙っていたが、やがて両手で彼の肩を揺さぶりながら、
「厭だわ、そんな……いまにも死にそうな人みたいなこといっちゃあ」
といって笑った。
「なにか、いいたいことがあったら、元気になってから聞かせて貰うわ。血圧が普通になったら、いくらでも」
「……すまない」
とだけ、彼はいった。
「どういたしまして。お水を飲むの?」
水道は、まだ出しっ放しにしたままだった。
「じゃ、私が氷水を作ってあげるわ。あなたは早く涼しいところへ入って」
寝室には、クーラーが入っていた。彼は、厚手のタオルケットを掛けて横になった。高子がコップに氷のかけらの音をさせながら入ってきた。
「会社に連絡しておかないとね」
「そうだ……」
それをすっかり忘れていた。
「いいわ、私が電話してあげる。その方がいいでしょう?」
「じゃ、頼むよ。明日は出られるだろうからって」
「……大丈夫? もう一日ぐらい休んだ方がいいんじゃない?」
「いや、そうしてもいられないんだ、明日は出る」
高子は、部屋を出ていこうとして、振り返った。
「正直に話していいかしら、血圧のことを」
彼は、ちょっと考えた。高血圧で閑職へ追いやられた何代か前の編集長のことが思い出された。
「いや、やっぱり血圧のことは伏せておいた方がいいな」
「じゃ、どういいましょうか。夏風邪をひいて、熱を出したとでもいう?」
「そうだな……」
しばらくすると、高子が茶の間から戻ってきて、
「編集長はお留守だったから、北岡さんに話しておいたわ。どうぞお大事にって」
といった。
程よい涼しさのなかに、手足を投げ出すようにして寝ていると、彼は急に自分が本当の病人になったような気がした。これから先、こうして何カ月も寝ていなければならなくなったとしたら、一体どうして日を送ればいいのか――そんなことを考えているうちに、うとうととして、目を醒《さ》ましたときはもう昼近かった。
起きて茶の間を覗いてみると、高子が卓袱台《ちやぶだい》に向って、なにやら分厚い本を熱心に読んでいる。なにかと思うと、それは家庭医学の本で、
「食餌《しよくじ》療法のことを勉強してるのよ。血圧のことはね、あんまり気に病んじゃいけないんですって。大丈夫よ。私に任しておいて」
と高子はいって、ちょっと胸を叩いてみせた。
翌朝、起きてみると、躯も平衡感覚ももう元に戻っていた。庭へ出て、体操をするともなく手足を動かしてみたが、なんともなかった。むしろ一日休養したせいか、いつもの朝よりもすっきりとして、気持がよかった。
「調子がよさそうね」
茶の間で、アイロンが熱くなるのを待ちながら夫の様子をみていた高子がいった。
「うん。血圧が高いなんて、嘘みたいだな」
血圧が高かったのは、きのうだけのことではなかったのか、という気が、清里にはしていた。なにかの拍子に、たとえば疲労が積み重なって、それできのうは一時的に血圧が高くなっていたのではないのか。
「今朝も小野田さんに寄って、測って貰ってみたら?」
「そうしよう。案外……」
けれども、実際に小野田医院に寄って血圧を測って貰ってみると、最高も最低も、きのうよりほんのすこしずつ下っているにすぎなかった。彼はがっかりした。
「相変らず高いですねえ」
「そう急に下りゃしませんよ。焦っちゃいけません」
と小野田医師が笑っていった。
「きのうよりずっと調子がいいもんですからね、きのうだけ、偶然高かったんじゃないかという気がしてたんですが……」
「いや、そうだったら、むしろ危険ですよ。なにかの拍子に血圧がぴんと跳ね上るようじゃね。血圧は、高いなりに安定している方が、危険がすくないんです」
なるほど、そんなものかと、清里は、忽《たちま》ちまた全身にだるさが戻ってくるのを感じながら医院を出た。
社の玄関で、彼は、ちょうど客を送って出てくる弓子に会った。弓子は、ちょっと目を大きくして、
「ロビーで待っててくれる?」
すれちがうとき、そう囁いたので、タイムカードを押してきてから、ロビーのソファで煙草をふかしていると、まもなく弓子が急ぎ足で戻ってきた。
「あら、煙草なんか吸って、いいの?」
それがどういう意味かわからなくて、返事に迷っていると、
「血圧が高い人に、煙草はいけなかったんじゃない?」
弓子は、そういって笑いながら、面くらっている彼の隣りに腰を下ろした。
「……図星でしょう」
「誰に聞いた?」
「聞かなくったってわかるわよ、そのくらいのことは。出がけに医者に寄って、血圧を測ってくるといってた人が、そのまま欠勤するんだもんね。ははん、てなもんだわ」
「風邪で、熱を出したと届けたのに」
「わが編集部の鬼デスクが、風邪で熱を出したぐらいで社を休むと思う? 北さんは、あァあ、デスクも齢だなあ、なんていってたけどね」
清里は、編集部のある天井に目を上げて、舌うちした。
「で、いくつあったの?」
「……ここだけの話だよ」
「わかってるわよ」
「三十ばかり多かったんだ、意外なことに」
と、彼はすこし少な目にそう答えた。すると、
「三十? それっぽっち?」
と弓子がいった。
「それっぽっちって……血圧が三十しかないんじゃなくて、普通よりも三十高いんだよ」
「それはわかってるわ。それにしたって、まだ百いくつでしょう? そんなら平気よ。私はまた、二百ぐらいもあるのかと思ってたわ」
彼は、思わず笑った。
「冗談じゃないよ。二百もあったら、こうして平気で出てこれるかい」
「だから、きのうはお休みしたと思ったのよ。じゃ、ショックで熱が出ただけだったのか」
「……きのうは四十近く高かったんだ」
「平気よ、三十や四十。そのぐらい高くったって、普通に働いてる人、何人も知ってるわ。私んとこのなにだって……」
と弓子はいいかけて、あ、いけない、というふうに、ちょっと舌の先を覗かせた。
「とにかく、そうびくびくすることはないわ。血圧ってね、気にするのが一番毒なんだってよ」
「そうらしいね」
「でも、きのうはやっぱり、電話をしなくてよかったわ」
「急用でもあったのか?」
「急用ってわけでもなかったんだけど、なるべく早く耳に入れておきたい話だったの。でも、聞けば確実に血圧が上るような話だからね、やめといてよかったわ、ほんとに」
「……どんな話?」
「いいの? 話しても。血圧の方は大丈夫?」
と弓子は横目で彼をみたが、
「そうね、大丈夫よね、三十ぽっち高いだけなんだから」
彼は、ちょっと待って貰って、受付から電話で北岡に出社していることを知らせると、またソファに戻った。
弓子の話というのは、留美のことで、留美がよその雑誌と仕事の契約をするという噂《うわさ》は本当だったというのであった。
「どう? 血圧が上るような話でしょう」
それが血圧のせいかどうかはわからなかったが、彼は、耳の上の血管がぴくぴくするのがわかった。
「どうして、本当だとわかったんだ」
「本人に確かめたからよ。きのうね、神永さん、ここにきたの、打ち合わせに」
彼には信じられないようなことだったが、本人の口から聞いたというのであれば、本当だと思わないわけにはいかなかった。
「どこと契約したんだろう」
「ウーマン・ライフと、ニュウ・パッションだって」
どちらも、今年になってから創刊された月刊誌で、清里たちが絶えず意識しているライバル誌ではなかったが、おなじ女性雑誌だから競争相手にはちがいなかった。
「……驚いたな」
「私も、噂を聞いたときは、ちょっと意外な気がしたけどね……でも、考えてみれば、あの人はなにもうちの専属じゃないんだし、もう一本立ちのスタイリストなんだから、どこの仕事をしたって、私たちがとやかくいうことないわけよ。うちの雑誌の仕事で認められたんだから、まあ、スタイリストが一人、うちから巣立っていったと思えばいいんじゃない?」
それは弓子のいう通りかもしれなかったが、彼は、釈然としなかった。
「顔色が悪いわよ。気付けにアイスコーヒーでも貰おうか」
と弓子がいった。
その日、彼は、血圧のことが頭から離れなくて、一日じゅう鬱陶しかった。気にするなといわれても、いつ破裂するかしれない爆弾を身内に抱え込んでいるようで、とても気にしないではいられなかった。
そんな不安が、自分ではいつもとおなじように振舞っているつもりでも、知らず識《し》らずのうちに動作を鈍くするらしく、北岡が気にして、
「なんだか、まだ調子が悪そうですね。早く帰って休んだらどうですか」
そういってくれたりしたが、弱味をみせまいとして、かえっていつもより仕事をして、結局、社を出たときはもうすっかり夜になっていた。
彼は、夕方あたりから、後頭部から首筋にかけて鉄のヘルメットでもかぶっているような重苦しさを感じていた。それは、ただ躯がくたびれたせいなのかもしれなかったが、彼には、これもまた血圧のせいではないかと思われた。血圧がますます高くなっているのではなかろうか。
もしも自分が留美の部屋で倒れたら、一体どんなことになるだろう。彼は、豊島園の塀沿《へいぞ》いの道を歩きながら、そう思い、今夜はまっすぐ家へ帰った方がいいのだと思いながらも、やはり途中で足を止めることができなかった。
塀のむこうの園内からは、遠くバンドの演奏するサンバのようなリズムがきこえ、夜間照明で明るんだ空に、誰かが逃がした赤い風船玉が一つ、ふらふらと揺れながら漂っているのがみえていた。
彼は、喉《のど》の奥で低い唸《うな》り声を上げながら、留美のマンションの階段をゆっくり四階まで昇っていった。いつものように、ドアの脇のボタンを押すと、なかでコールチャイムの鳴るのがきこえたが、留美はすぐには出てこなかった。つづけて何度か押してみたが、おなじことであった。
どうしたのだろう。彼は、階段を昇りはじめる前に、留美の部屋の窓が明るんでいることも、入口の郵便受けに赤いリボンが結んでないことも確かめていた。留美は部屋に独りでいるはずだったが、何度コールチャイムを鳴らしても返事がない。
彼は、あたりを見廻してから、鉄のドアに耳をつけてみた。すると、なかでざあざあという水音がしていた。コックをひねるような音もきこえた。そうか、風呂場にいるのだと彼は思った。シャワーの水音でコールチャイムがきこえないのだ。
まずいところへきたな、と彼は思った。彼は、シャワーにはたっぷり時間をかける留美の癖を知っている。留美がシャワーから出るまで、ドアの外でぼんやり立っているというのも、おかしなものであった。そんなところをマンションの住人にみられて、怪しまれたりしても困る。
彼は、また二、三度ボタンを押してみてから、しばらくそのあたりをぶらぶらしてくるほかはないと思って、階段を降りた。ところが、入口を出て歩き出すと、突然、頭の上から留美の声が降ってきた。
「清里さん、待って。ここよ」
見上げると、白いワンピースの留美が、ベランダから身を乗り出すようにして手を振っている。
「ごめんなさあい。いま降りていくわ」
ワンピースの裾が宙にひるがえって、留美の顔がベランダから消えた。
入口からすこし離れたところで待っていると、やがて、カスタネットのような軽やかな足音を響かせながら、留美が階段を駈け降りてきた。
「ごめんなさい、電話がすっかり長引いちゃって……」
留美はそういいながら、彼の腕を取って身を寄せてきた。
「電話?」
「そうなの。上まで戻る? それとも、すこし散歩する?」
彼は、もう歩きたくはなかったが、それ以上に、いま降りてきたばかりの階段を昇るのが億劫であった。留美の部屋が、なぜだか急に、うとましかった。
「歩こう」
と彼はいった。
「いいわ。豊島園の商店街にね、美味《おい》しいコーヒーを飲ませる店ができたの。そこへいってみましょうか」
「部屋は? このまま出かけていいのか?」
「いいの」
と、留美は鍵を入れたポケットを叩いてみせて、
「……寂しかったわ」
歩きながら、素早く彼の耳の下に唇を触れた。留美からは、石鹸《せつけん》の匂いもオーデコロンの匂いもしなかった。髪も、乾いたままだった。
「シャワーを浴びてたんじゃなかったのか」
「そうじゃないの」
「ドアに耳をつけてみたら、水音がきこえたから、てっきりシャワーだと思ったけど」
「それは、下の階のがきこえたのよ、きっと。出てみたら、いないんだもの、びっくりしちゃった」
「……出てみたらって、出なかったじゃないか、何度チャイムを鳴らしても」
「ごめんなさい。なかなか話が切れないんだもの」
「誰と話してたんだ?」
「名古屋の姉。むこうからかかってきたの。だから……」
それにしても、チャイムがきこえていたのなら、相手にちょっと待って貰って、ドアを開けることもできたはずである。相手に、どうしたのかと訊かれたら、ちょっと隣りの奥さんが、とでも、新聞の集金、とでもいえばいい。こちらは、電話から遠いところで、終るまでおとなしく待っている。大声を出したり、変な物音を立てたりしなければ、相手に怪しまれる気遣いはない。
けれども、留美は、そうはしなかったのだ。チャイムが何度も鳴るのを聞きながら、受話器を耳に当てたままでいたのだ。
「押し売りがきたとでも思っていたのか」
「ちがうわ。最初からあなただとわかってたの。チャイムの音でわかるのよ、私」
それなら、なおさら彼は面白くなかった。自分だから、留美は放って置いて話しつづけたのだ。あの人だから、どうせ済むまで待っていてくれると、留美は高をくくっていたのだ。
彼は、胸底からむらむらとしてくるものを抑えようとして、大きく夜気を吸い込んだ。
「……怒ったの?」
留美が顔を覗き込んだが、彼は黙っていた。
「怒らないでよ。お願い。せっかくこうして会えたのに、喧嘩《けんか》するのは厭だわ」
「怒っちゃいないよ……」
ただ、情けないだけだと、彼は思った。
二人は、ついさっき彼が歩いてきたばかりの塀沿いの道を、駅前の商店街の方へ歩いていた。相変らず塀越しにサンバのようなリズムがきこえていたが、白っぽい空に漂っていた風船玉は、もうみえなかった。
留美は、彼の気を引き立てるように、きこえてくるリズムに合わせて指先を彼の腕に踊らせはじめた。
「ねえ、豊島園に入ったことある?」
「いや」
「入ってみましょうか」
「……そのうちにね」
「そのうちって、いつ? ねえ、あした? あさって?」
留美は彼の腕を揺さぶった。
彼は、留美が子供のように甘えることで自分の機嫌を直そうとしていることはわかっていたが、いつものように、さりげなくその手に乗ってみせる気にはなれなかった。彼には、そんな留美が、ただ煩わしくて、黙って腕を振りほどいた。
「……どうしたの?」
「ハンカチを出すんだ」
「私が出してあげる。上着のポッケ?」
「いいよ、自分でする」
彼は、上着を留美から遠ざけて、ポケットからハンカチを出すと、それで顔の汗を拭きながら、
「きのう、社へきたんだってね」
「そうよ。あなたに会えると思ってたのに、お休みなんだもの。つまんなかった。風邪で熱を出したんですって?」
彼は、やはり留美の前では血圧などという爺《じじ》むさい話はできなくて、
「……お弓から聞いたよ」
とだけいった。
留美は、ちょっと黙っていたが、
「……ああ、お仕事の話ね」
やっと気がついたというふうにそういって、また腕を絡ませてきた。
「あなたにも、ゆっくり相談しようと思ってたの。いま、ちょっとしたブームなのよ」
「ブーム? なんの?」
「私の。あのロケのお仕事ね、とっても評判がいいのよ。で、あっちからもこっちからも仕事の口がかかって、困ってるの、実は」
彼は、思わず留美の顔をみた。けれども、留美はべつにふざけているわけでもないらしかった。いかにも困ったように眉をひそめていたが、目は誇らしげにきらきらと輝いていた。
彼は、会わずにいたこの十日ほどの間に、留美がすっかり人が変ってしまったような気がして、目を逸らした。
「その話は、コーヒーを飲みながらゆっくりするわ。相談に乗ってね」
留美は、彼の腕を抱き締めたまま、スキップを踏むような足取りになっていた。
夕涼みの人々で賑《にぎ》わっている商店街をすこし歩いて、その旨いコーヒーを飲ませるという小綺麗《こぎれい》な喫茶店の隅のテーブルに向い合うと、留美は、自分がいま新進のスタイリストとしていかに注目を集めているかを、熱っぽく彼に話して聞かせた。彼は、頷きながら聞いているうちに、忘れていた頭の重苦しさを思い出した。それから、今夜はやはり寄るべきではなかった、留美の話を一緒に喜んでやるためには、今夜の自分は疲れすぎているのだと、そう思った。
留美は、ひとしきり、独りで話しつづけたあと、不意に口を噤むと、ちょっと首をかしげて彼をみつめた。その目は、自分で自分の言葉に酔ったようにうるんでいた。
「……どうしたんだ?」
「あなたこそ、どうしたのよ、そんな悲しそうな顔をして。よかったねっていってくれないの?」
「そりゃあ、よかったと思ってるけどね……。あんまり急ななりゆきだから、驚いてるんだよ」
留美は、彼を求めるように、テーブルの上に手を伸ばしてきた。
「……人がみてるよ」
「構わないわ」
彼は、煙草を捨てたついでに、灰皿の蔭《かげ》で留美に手を預けた。
「あなたのおかげよ」
留美は、彼の手を柔かく握った。
「それはちがうよ。僕はなんにもしてやれなかった。それをいうなら、お弓にいえよ。きみを一人前にしてくれたのは、お弓じゃないか」
「勿論、佐野さんにもお礼をいったわ、きのう」
「ただ、お礼をいうだけじゃなしに、よその仕事をするときは、せめてお弓にだけは前もって相談するのが礼儀だと思うけどね、僕は」
「それは、私だってそう思うわ。だから、きのう社へいったのよ、その相談に」
「僕のいうのは、よその社と契約する前にという意味だよ」
「だから、きのう……私はまだ、どこの社とも契約なんかしてないのよ」
「……本当か?」
「勿論、本当よ。嘘なんかいわないわ」
「しかし、今朝のお弓の話だと……」
「佐野さんには、ウーマン・ライフとニュウ・パッションから仕事の口がかかっていて、できれば両方やってみたいんだけれど、どうでしょうかって相談したのよ。できれば契約してやってみたいと話しただけで、契約したなんていわなかったわ」
「……そうか、そんならいい。僕がお弓の話を聞いて、とっくに契約したもんだと勝手に思い込んでいただけだ」
留美は、恨めしそうな目になった。
「私をそんな女だと思ってたの?……悲しいわ」
彼は、黙って留美の手を強く握ってやった。
「で、どう思う? いま話したお仕事のこと」
「僕には、なにもいうことがないよ」
「やっていいかしら、両方とも」
「きみにその気があったらね。それに、体力に自信があったら。三誌も持つと、相当にきついと思うけどね」
「大丈夫。その点は自信あるの。応援してくれる?」
ああ、と彼は、半ば仕方なく頷いた。
二人は、小一時間ほどしてそのコーヒー店を出た。歩道は相変らず人通りが多かった。留美は、すぐに彼の腕を取って、
「ねえ、マスカットのワインがあるの。ウィーンへいってきたお友達のお土産。それで乾杯しましょう、ね?」
そういったとき、彼は、不意にうしろから声をかけられた。
「あら、清里さん……じゃないかしら」
それは、確かに聞き憶《おぼ》えのある女の声だったが、彼には、それが誰だかすぐには見当がつかなかった。相手が誰にしろ、そんなところを知り合いにみつかったのは不味かったが、きこえなかったふりをして、どんどん歩いて人込みに紛れてしまおうという知恵も、その晩の彼にはあいにく浮かばなかった。
彼は、声がした方をそっと振り返った。すると、女流作家の若月蘭子が、編集者らしい若い男と一緒にすぐそばの歩道の縁に立っていた。
「あ、先生……」
と彼は、急いで留美の腕を振りほどこうとしたが、いまさらそんなことをしても見苦しいばかりだと気がついて、すぐ諦《あきら》めた。彼が立ち止まると、留美も立ち止まって、自分からそろそろと絡ませていた腕をほどいた。
「今晩は。どうも、思いがけないところで……」
彼は、笑ってそういいながら頭を下げたが、われながらぎごちない笑い方になった。
「私もびっくりしたの、そっくりな人とすれちがったから。でも、人ちがいじゃなくてよかったわ」
と、若月蘭子も笑っていった。
「この辺まで……お散歩ですか」
「やっと一と区切りついたから、気晴らしにお茶を飲みに出てきたのよ」
女流作家は、かたわらの若い男をちょっと振り返るようにしてそういうと、留美に柔かな視線を向けて、
「こちらは、奥様?」
といった。
「え……留美っていうんです」
彼は、とっさに目をしば叩きながらそういって、挨拶を促すように留美をみた。
「初めまして。留美と申します。よろしくお願い致します」
と、留美もそれらしく挨拶した。
「こちらこそ。私、仕事が遅いものですから、御主人には毎月御面倒をおかけして……」
女流作家は、留美にそんな挨拶を返してから、
「お住まいは、このあたりだったの?」
と清里に目を戻した。
「いいえ……この近くに、親戚《しんせき》がおりましてね、そこにちょっと、きてるんです」
「そう……私の方はまだ一週間ぐらい間があるんでしょう?」
「ええ。もう四、五日もしましたら、電話で御様子を伺います」
「じゃ、その折にまた……」
「ごめんください」
二人は、女流作家が連れと並んで歩き出すのを見送ってから、反対の方向へ、どちらからともなく急ぎ足で歩き始めた。
「……ひどい汗」
と、留美が笑いを含んだ声でいった。
「……驚いたな」
彼は、ハンカチで額の汗を拭きながらいった。
「作家の若月蘭子さんね?」
「いちど、ちらっと、そう思ったことがあるんだよ、あの女史のところからの帰りに。ここから割に近いから、いつかばったり会うことがあるんじゃないかって。それで気をつけてたんだが……」
そういって彼は舌うちしたが、もう会ってしまったものは仕方がなかった。
商店街を離れて、暗い道に入ると、留美はすぐまた彼の腕を取ってぴったりと躯を寄せてきた。彼は、留美の部屋へは戻らずに別れるつもりだったが、思いがけなく若月蘭子に会ったりしたことで、すっかりそれをいい出すきっかけを失っていた。
初めての細い路地なので、
「この道は?」
と訊く。
「近道なの」
とだけ留美は答えて、
「さっきはびっくりしたけど、でも、嬉しかったわ」
歌うようにそういった。
「……嬉しかった?」
「若月さんが、私のことをあなたの奥さんだと思ってくれたから」
あれは、若月女史の自分に対する一種のいたわりだったかもしれない、と彼は思ったが、黙っていると、
「それに、あなたも、すんなりと奥さんにしてくれたから」
彼は、苦笑した。
「だけど、あの場合、仕方がなかったじゃないか」
「そうかもしれないけど、私は嬉しかったわ、とっても。これで、私があなたの奥さんだと思っている人が、この世の中に、確実に二人はいるわけね。若月さんと、それからあの連れの男の人と……」
それから、留美は、頬ずりをするようにして彼の肩に頭を持たせかけてきた。
「ねえ、お願い。今夜はこのままの気持にさせておいて」
「……どういうことだ?」
「あなたの奥さんになったような気持にさせておいて」
なんて子供染みたことを、と彼は思ったが、なぜだかそんな留美を笑ってしまうことができなかった。
「どうぞお好きなように」
と彼はいった。
なるほど、その道は近道で、まもなく行く手に留美のマンションがみえてきた。四階の部屋には明りが点《つ》いていて、ベランダに、レースのカーテンが風を孕《はら》んでひるがえっているのがみえた。
「なんだ、寝室の窓も開いてるじゃないか」
と彼はいった。
西風の晩は、寝室の窓を開けると、隣室のカーテンがそんなふうにベランダの方へひるがえる。
「あら、ほんと。出てくるとき、あわてちゃったから。姉の長電話のせいだわ」
と留美はいった。
「姉さんからは、なんの話だったの?」
「例の縁談の話。こっちに結婚の意志がないってことを、なかなか納得してくれないのよ。困っちゃうわ」
留美はそういってから、
「あら、厭《いや》だ。結婚の意志がないなんて、私はあなたの奥さんなのに」
と笑った。
留美の部屋に入って、寝室の窓を閉めようとすると、その窓の軒下に、風鈴が一つ吊《つる》してあった。夏だから、留美の窓にも風鈴があったところですこしもおかしいことはなかったのだが、
(おや、ここにも風鈴がある)
彼はそう思い、高子のとはちがう音色を立てているその風鈴を、不思議なものでもみるようにみつめていた。
「……どうしたの? なにをみてるの?」
背後で、そういう留美の声がして、彼はわれに返った。
「この風鈴は?」
「ああ……こないだ駅前から買ってきたの。あなたがこない晩が寂しいから。いい音色でしょう」
留美はそういいながら、うしろから彼を柔かく抱いた、きのうの朝、高子が家でそうしたように。
「シャワーを浴びたら? それとも、すぐワインにする?」
彼は、なにもいわずに吐息をした。
「本当はシャワーを先にして貰いたいの。ワインは白だから、冷えてた方がいいでしょう?」
「じゃ、シャワーが先だ」
彼は、自分を励ますようにそういって、窓を閉めた。
浴室の、空の浴槽《よくそう》のなかでシャワーを浴びていると、外からドアを叩く音がして、
「あなた……」
という留美の声がきこえた。
「なに?……なんか用?」
彼はそう訊《き》いたが、なにか聞き取れない声がして、ドアの曇りガラスから留美の頭の影がゆっくりと離れた。けれども、またしばらくすると、
「あなた……」
彼は、シャワーから出て、ドアを開けてみた。留美はもう、何事もなかったように流しでキャベツを刻んでいた。
「……なにか用だったの?」
「なんでもないの。ただ、そう呼んでみたかっただけ」
留美は、包丁を動かしながら、はにかんだような横顔をみせてそういった。
浴室から出てみると、食卓にはもう乾杯の用意ができていた。友達のウィーン土産だという白ワインと、ワイングラスが二つ。大皿には、ウィンナー・ソーセージ、オリーブのピクルス、それにチーズとキャベツが盛り合わせてあった。
「ウィーン産のワインだから、ソーセージはウィンナーにしたの」
留美は、浮き浮きして、彼のグラスにワインを注ぐとき、すこしこぼした。
二人は、留美の新しい仕事のために乾杯した。普段、酒には強い彼も、その晩は、マスカットのかおりのする清涼飲料にも似たワインで、他愛なく酔った。
「……私、このごろちょっと変なの」
ベッドに仰向《あおむ》けになって、汗が引くのを待っていると、留美が耳元でそういった。
「これまで、私、あなたの奥さんになりたいなんて、ちっとも思わなかったの。あなたの女でさえあればいい、一生結婚なんかしないで、スタイリストとして自分の仕事をばりばりする、そのうち寂しくなったら、あなたに子供を生まして貰って、未婚の母になって子供を育てる……それで充分だと思ってたの。ところが、このごろどうかすると、無性にあなたの奥さんになりたくって……あなたを奥さんからも子供さんたちからも奪って、自分のものにしたい、仕事なんかどうなってもいい、あなたの奥さんになって、子供を育てたり、お料理を作ったり、お洗濯をしたりして、平凡に一生を送りたい、そう思うことがあるの。仕事を持って自立したいという自分と、あなたの奥さんになりたいと願う自分と……どっちの自分が本当なのか、わからなくなることがあるわ……」
彼は、黙って窓の風鈴の音を聞いていたが、正直いって、彼自身にも、高子の風鈴を聞いているときの自分と、こうして留美の風鈴を聞いている自分と、どちらが本当の自分なのかわからなかった。
花と刺《とげ》
清里は、高子と留美の間を揺れ動き、留美の方は仕事と清里の間を大揺れに揺れながら、一年が過ぎた。
その間、留美は何度かせっかちに清里を求め、結婚や同棲《どうせい》を迫っては彼の態度が煮え切らないと取り乱すことがあったりして、そのたびに二人の仲は気《き》不味《まず》いものになったが、結局、別れ話が出るまでには至らなかった。
清里は、その年の秋も、翌年の春も、わざと口実を作って社の定期検診を受けなかった。その後の精密検査の結果で本態性高血圧症という病名はわかっていたが、それを社や同僚に知られたくなかったからである。
彼は、小野田医師の指示を受けながら、家ではひそかに食餌《しよくじ》療法をつづけ、社ではこれまで通りに素知らぬ顔で仕事をこなして、相変らず週に二度は留美のマンションを訪ねていた。
彼が留美をモデルにして書き上げた文章は、翌年の新年号から三回にわたって連載されたが、読者の受けは悪くなかった。留美の方も、彼の雑誌のほかに二つの女性誌と契約を結んで忙しそうに動き廻っていたが、発表される仕事は概して好評で、数すくないスタイリストのなかでは早くも花形的な存在になりかけていた。
二人が姫谷温泉の吊橋《つりばし》の上で初めて出会ってから、ちょうど二年が過ぎようとしていた。九月生まれの清里は、四十になった。十二月生まれの留美は、もうすぐ二十七であった。
晩秋のある朝、北岡が出社してくると、一と足先に着いてお茶を飲んでいた清里に、
「ゆうべ、思いがけないところで、思いがけない人に会いましたよ」
といった。
「会話の学校で、スタイリストの神永さんにばったり会いましてねえ」
「会話の学校で?」
「外国語の会話学校ですよ」
北岡がそういったきり、にやにやしているので、
「へえ、きみは会話を習ってるのか」
「ええ。実はね、一と月ばかり前から、ぼつぼつはじめてるんですよ」
「それはまた、どういう風の吹き廻しなんだ」
「それはね……まあ、いいか。もうすこし秘密にしておこうと思ってたんだけど、どうせ白状しなきゃならないんだから……」
北岡はそういって頭を掻《か》きながら、実はアルプスを見にいく計画があるのだと打ち明けた。アルプスというのは、勿論《もちろん》ヨーロッパの西南部にそそり立っているアルプス山脈のことだ。
「僕は、これでもアルピニストのはしくれのつもりですから、本当は眺めるだけじゃなくて、自分で登りたいのは山々なんですがね。実際に登るとなると、費用からなにから、とても僕の手には負えんのです。第一、社ではそんなに休ませてはくれんでしょう。年休を溜《た》めたって、せいぜい一週間から十日じゃないですか、つづけて休みが取れるのは」
「まあ、そんなところだろうな」
「それかといって、社をやめてまで登りたいってほどでもないし、まあ、この際は麓《ふもと》から眺めるだけで我慢しようってわけなんです。眺めるだけなら、一週間か十日で充分ですからね」
「なるほど。で、いつ出かけるんだ?」
「まだ先のことですよ。まあ、来年の秋までには……。実は小生、そろそろ年貢の納め時でしてね」
北岡のにやにや笑いが濃くなった。
話を聞いてみると、北岡には悪くない結婚話があって、来年の秋ごろには家庭を持つことになるらしい。それまでに、アルプスをこの目でみるという夢だけは果たしておきたい。そう思って、一と月ほど前から、外国旅行に必要な会話を習いに夜の語学塾へ通っているのだが、ゆうべ、その塾の玄関で、偶然留美と一緒になったのだという。
「外人教師とフランス語でぺらぺら話している女性がいるんでね、へえ、と思って、よくみたら、それがあの人なんです。びっくりしましたよ」
「それは、彼女、大学は仏文科だからね」
清里がそういうと、
「耳が痛いことを仰言《おつしや》いますね。こっちだって仏文出のなれの果てですよ」
と北岡が笑っていった。
「そうか。これは失礼。でも、まあ、きみはおなじ仏文科でも、登山学を専攻したようなもんだからな」
と清里も笑って、
「で、彼女と顔を合わせたのか」
「ええ、むこうもこっちも、帰るところでしたから。おや、奇遇ですなあということで、一緒にお茶を飲みましたよ」
へえ、と清里は、思わず北岡の顔をみた。
「きみが誘ったのか」
「まあね。いいでしょう、お茶ぐらい」
「勿論、いいさ。誰も悪いなんていってやしない」
「そうかなあ。いま、デスクの目が、ちょっと咎《とが》めるように光りましたよ」
「なにをいうか。からかっちゃいけないよ」
と清里は、苦笑いして煙草をくわえた。すると、
「あの人、来年、フランスへいくんですってね」
と北岡がいった。
「ほう……」
と清里は、マッチを擦る手を止めて、また北岡の顔をみた。留美がフランスへ行きたがっていることは知っているが、来年行くという話は初耳である。
北岡が自分のライターを出して、火を点《つ》けた。有難う、と清里はその火を自分の煙草に移して、
「……フランスへ、ねえ」
「やっぱり、ああいう仕事をしている人たちは、時々パリとかニューヨークの空気を吸ってこないと、駄目らしいですね」
「ふん……駄目ってこともないだろうけどね」
「でも、本場の空気を吸っていると、目も肥えるし、なんとなく仕事に箔《はく》がつくでしょう」
「まあ、そういうことはあるだろうな。彼女、そんなことを話してたのか」
「いや、はっきりそういってたわけじゃないんですがね、そんなことを匂わせながら、フランス行きの話をしてましたよ」
「いつ行くって?」
「まだ、はっきりきまってないみたいです、来年というだけで。あなたみたいにぺらぺらだったら、なにもこんな塾へ習いに通うことはないでしょうといったら、しばらく話さなかったから会話の勘を取り戻しにきてるんだといってましたがね。それに比べたら、こっちはお恥ずかしいようなもんですよ。フランス語どころか、英会話の初級科ですからね」
と北岡は笑っていった。
清里は、その日の帰りに、途中から電話をしておいて留美のマンションに寄った。
「フランスへ行くんだって?」
玄関で靴を脱ぎながら、いきなりそういうと、留美はちょっと目を瞠《みは》って、
「……北岡さんね? もう話したの。お喋《しやべ》りな人」
と呆《あき》れたようにいったが、自分では直接いいにくいことを、いずれこちらに伝わることを見越して北岡に話した留美の魂胆は、最初から清里にはわかっていた。
「聞いて、びっくりしたよ。あんまり心臓に悪いようなことはして貰いたくないな」
本当は、血圧にさわるようなことはといいたいところを、そういうと、
「そんなに応えた? ごめんなさあい」
と、留美はいつもの調子で彼の胸を円く撫《な》でながら、
「まだ、はっきりきまったわけじゃないから、話さなかったのよ」
「だけど、会話の学校へ通ってるんだろう?」
「外国の言葉って、しょっちゅう話してないと舌がうまく廻らないのよ。だから、あの学校には、時々、暇をみつけては顔を出してるの。あそこの先生に知り合いがいるから。なにも最近になって通い出したんじゃないのよ」
「そうか。でも、来年は行くつもりなんだろう?」
「行けたら行きたいと思ってるだけ。でも、仕事があるから、どうなるかわからないわ。物を書く人なら、書き溜《だ》めをするってことがあるけど、私たちの仕事にそれができるかどうか……」
「そんなに長く行ってるのか」
「そうね、一と月か二《ふた》月はいたいわ、むこうに。そう何度も行けるわけじゃないんだから。あなたに会えないのは寂しいけど、辛抱できたらそのぐらいは……」
彼は、べつに留美がフランスへいくことには反対ではなかった。それが本当に留美の仕事のためになるのであれば、パリへでもニューヨークへでも出かけて、資力の許す限り滞在してくればいい。ただ、正直いうと、留美が外国へ出かけることで、自分たちの関係がこれまでの均衡を失うのではないかという、漠然とした不安を彼は感じていた。
「でも、あなたが不賛成なら、考え直すわ」
留美にそういわれて、彼は不機嫌に黙り込んでいる自分に気がついた。
「いや、不賛成じゃない。きみの仕事のことだものね、僕にはとやかくいう資格がないじゃないか」
「じゃ、賛成してくれるのね。よかった」
留美は、もうとっくにフランス行きを心にきめているようだった。
「……でもね、心配なことが、一つあるの」
「どんなこと?」
留美は、両手を彼の首に廻してまじまじと彼の顔をみつめた。
「あなたが、私のことを忘れてしまうんじゃないかと思って……」
彼は微笑した。
「そういう留美の方は、どうなんだ?」
留美は、なにもいわずに爪先《つまさき》立って、柔かな唇で彼の口をふさいだ。
それからしばらくして、新年号の校了を間近に控えたある日の夕方、清里が自分の席で出前のざる蕎麦《そば》を食っていると、出版部の桂がひょっこりやってきた。
「晩飯にしては早いじゃないか」
「なに飯か知らないが、とにかく腹ごしらえだよ。こっちは、これからもう一と仕事だからな」
そういいながら桂をみると、腕にコートをかけて厚い紙袋を抱えている。
「そっちはもうお帰りか」
「そうはいかないよ。いま若月さんからこいつを貰って帰ってきたところだ」
桂はそういって、厚い紙袋を叩いてみせた。
若月蘭子の連載小説は一年半で完結して、いまは桂の手で出版の準備が進められている。紙袋の中身はその本の校正刷だと、すぐにわかった。
「著者校正が済んだのか」
「とっくに済んで、これは再校だよ。ちょっと目を通して貰ってきたんだ。おかげで、こっちも近いうちに校了にできそうだよ」
桂はそういいながら、留守の北岡の椅子に腰を下ろして、
「ところで、若月さんがね、本ができたら、きみと僕を招《よ》んで、手料理で御馳走してくれるといってるんだけど」
「へえ、そいつは有難いな」
「それで、そのときは、奥さんも御同伴でどうぞっていうんだけどねえ」
「女房も?……」
と清里は、箸《はし》で持ち上げかけた蕎麦を下ろした。
「虎が二匹じゃあ、とても自分一人の手には負えないなんていってたけど、要するに自分の料理の腕を女房たちに自慢したいんだよ。前に、料理の本を書いたりして、相当な腕自慢らしいからな、あの女史は」
「……つまらん趣味だな」
と、清里は独り言のように呟《つぶや》いて、箸を置いた。
「どうする?」
「よそうよ、そんなの」
「招んでくれるというのを、辞退するのか?」
「いや、女房を連れていくってことをだよ。女房連れで酒を飲みにいくなんて、気が重いよ」
「それはそうだけどね……」
「女房たちだって、いい迷惑だろう。一面識もない女流作家の……」
清里は、途中で言葉を切って桂をみた。
「……でも、お高さんは、いちど女史に会ってるんだろう?」
と桂はいった。
やはり、若月蘭子は、あの晩のことを桂に話したのだ。清里は仕方なく頷《うなず》いて、
「ああ……あれは去年の夏だったかな。そんなことをいってたのかい、女史は」
「豊島園の前で会ったとかいってたな」
「道で、ほんのちょっと挨拶しただけなのにね。よく憶《おぼ》えてたな」
けれども、女流作家が清里の妻だと憶えているのは留美で、桂の方は、高子とは学生時分からの知り合いなのである。
「まあ、まだ先のことだけど、折角そういってくれたんだから、そのうちに一応お高さんにも話してみてくれよ」
と桂はいって引き揚げていったが、勿論、清里には、最初からそんなことを高子に伝える気はなかった。
若月蘭子の本は、年が明けてまもなく刊行の運びになり、桂が著者の署名入りの本を一冊届けてくれた。
「若月さんが、よろしくといってたよ」
「有難う。いい本になったな」
真新しい本の頁をめくっていると、そこから、毎月その原稿を貰いに練馬の若月家へ通っていたころの思い出や、そのころの留美との記憶が、断片的に頭をよぎった。
「ところで、例の、女史の手料理を御馳走になる会のことだがね、今月の二十日ごろはどうだろうっていうんだけど、きみの方の都合はどうだ?」
と桂はいった。
「二十日か。まあ、そう暇でもないが、なんとかなるだろう。いいよ、二十日で」
「お高さんはどうだった? 話してくれたろう?」
「ああ……」
と清里は曖昧《あいまい》に笑って、
「案の定、駄目なんだ。勘弁してくれって」
「そうか……お高さんは遠慮深いからな」
「いや、遠慮したんじゃないんだけどね」
「きみがまた余計なことをいったんだろう、お高さんに後込《しりご》みさせるようなことを」
「とんでもない。そんなことはないよ」
と清里はいったが、桂がなにやらがっかりしたような顔つきなので、
「きみの奥さんはどうなんだ?」
と訊いてみた。
「僕んとこはね、これが意外に乗り気なんだな」
桂は、困ったように笑っていった。
「あいつには、変に物好きなところがあるからねえ。偶《たま》には女流作家の手料理の味をみせて貰うのも悪くないなんて……。でも、お高さんが一緒じゃないなら、僕も連れていくのはよすよ」
「それは困るな」
「いや、本人もそういってるんだよ、高子さんが行けないようなら、私もよすって。ちょっとがっかりするだろうけど、仕方がないさ」
そういわれると、なにも知らない高子が桂の細君に恨まれることになりそうな気がして、清里はつい、
「……きみの奥さんには悪いんだけど、実は、ここんとこ躯《からだ》具合を悪くしてね、僕もちょっと困ってるんだ」
といった。桂は眉を曇らせた。
「それはいけないな。どこが悪いんだ」
「それがはっきりしなくてね。だから、かえって薄気味が悪いんだが……そろそろ更年期だからな、あいつも」
「更年期には、まだ早いだろう」
「なんだか知らないけど、女の躯ってわからないからな」
と苦笑してみせて、
「まあ、そんなわけだから、悪く思わんでくれよ。若月さんには本の礼状を書くとき、ついでにそのことを謝っておくからね」
と清里はいった。
それから四、五日して、夕方、家に帰ってみると、食卓の上に、見事な苺《いちご》をどっさりと盛ったガラスの鉢がのせてあって、清里は目を瞠った。
「どうしたんだ、これは」
「お見舞いの苺なの。どう? 凄《すご》いでしょう」
「……お見舞い?」
「そう。きょうね、桂さんの奥さんが、これを持ってひょっこりみえたのよ」
と高子はいった。
彼は、ちょっとの間、言葉が出なかった。まさか桂の細君が、わざわざ見舞いにくるとは思わなかった。彼は、そのことに驚くと同時に、桂の細君が高子になにを話して帰ったのかと、不安になった。
桂は、子供に恵まれなくて、夫婦二人きりの暮らしをしている。桂に話したことは、すべて細君に筒抜けだから、桂の知っていることは細君も知っていると思わなければいけない。もしかすると、桂の細君は、おととしの夏とかに夫婦で女流作家の若月女史と街でばったり会ったそうではないかと、高子に話したかもしれないのだ。
彼は、それを探ろうとして黙って高子の顔を見守っていたが、高子はいつものように透き通ったような表情をしていた。濁りや翳《かげ》りが、どこにもみえなかった。
「……立ってないで、おかけなさいな」
と高子がいった。
彼は、どさりと椅子に腰を下ろした。
「面くらうな、全く……」
頭を振りながら、辛うじてそういうと、
「私だって面くらったわ」
と高子は笑って、
「私ね、桂さんの奥さんがお見舞いだっていうから、てっきりあなたのことだと思ったの。だって、うちには病人といえばあなたしかいないんだもの。だから、あなたが桂さんに自分の血圧のことを話して、それで奥さんが見舞いにきてくだすったんだと思ったの。ところが、どうも話の様子が変なのよ。よくよく聞いてみたら、変なはずだわ、奥さんの方は私が病気だと思って私の見舞いにきてるんだから。あなたと私を取り違えてるのよ、奥さん」
「……なんてこった」
と彼はいった。
「あなた、桂さんに病気のことを話したんでしょう?」
「ああ……ざっとね。病気とはいわずに、ただ症状だけを話して愚痴っただけだけど」
「お酒を飲みながら話したの?」
「いや、社の編集部で話したんだ」
「じゃあ、桂さん、それを酔ったとき奥さんに話したのかしら。それとも、聞く方の奥さんが寝呆《ねぼ》けてたのかしら。とにかく、どちらかがあなたと私を取り違えたんだわ。それがわかって、二人で笑っちゃった」
「……じゃ、この苺はどうなるんだ」
「勿論、あなたへのお見舞いよ。その場で、急にそういうことになったの。なんだか、おかしかったわ」
「……そうすると、僕の躯のことを話したのか、桂のかみさんに」
「ええ。だって、わざわざお見舞いにきてくだすったんですもの」
「……血圧のことも?」
「ええ……」
彼は、思わず苦い顔になった。
「どうしたの? 私、いけなかったかしら」
「いや……ただ桂には、血圧のことまでは話さなかったからね」
高子は顔を曇らせたが、もう話してしまったものは仕方がなかった。元はといえば、みんな自分が蒔《ま》いた種なのだ。
「……ごめんなさい」
「まあ、いいさ、相手が桂なら」
桂なら自分を庇《かば》ってくれるだろう。彼はそう思って、苺を一つ摘《つま》んで口に入れた。
「……それから、作家の若月蘭子さんのお招きを受けてたんですって?」
と、すこし間を置いてから高子がいった。
「そうなんだ。こないだの連載小説が本になったからね、僕と桂の慰労会をしてくれるんだって」
彼はそういって、二つ目の苺を摘みながら、
「旨いね、この苺」
「そう?」
「まだ食べてないのか」
「御飯のあとで、子供たちと一緒に味見をさせて貰おうと思ってたの」
夏子たちは二階の子供部屋でカルタ遊びをしているという。
「じゃ、悪かったかな、摘み食いして」
「そんなことないわ、あなたへのお見舞いですもの。でも、そろそろ子供たちを呼んでやりましょうか?」
「……まあ、立ってないで、おかけなさいな。一つ食べてみろよ」
高子は、笑いながら向いの椅子に腰を下ろして、小振りな苺を一つ摘んだ。
「私たちも一緒にってことだったんですって? その慰労会」
「うん。でも、断わったよ」
「そうね。あなた方の仕事の慰労会に、なにも私たちまでくっついて出席することないものね。私だって御辞退申し上げるわ」
「要するに、料理の腕自慢がしたいんだよ、あの女史は」
「でしょうね、料理がお得意らしいから。でも、ああいう先生の前で自慢話を拝聴しながら手料理を頂くなんて、考えただけでも肩が凝りそう。私、厭だわ。桂さんの奥さんはちょっと未練があるみたいだったけど」
それから高子は、苺を食べて、
「ほんと、美味《おい》しい」
といった。
「ほかに、なにを話したんだ、桂のかみさんと」
「あとはね、とりとめのない女の話」
と高子は笑って、二階の子供たちを呼ぶために立ち上った。
その翌日、清里は、出社するとすぐ出版部の桂を訪ねていった。
「きのうは済まなかったな」
桂の席までいってそういうと、
「きみが水臭いから、話が複雑になるんだよ」
と桂は笑って椅子から腰を上げた。
「……水臭いか」
「そうだよ。まあ、むこうへいこう」
二人は、部屋の隅のちいさな応接間へ入った。テーブルを挟《はさ》んで向い合うと、すぐ、
「血圧が高いんだって?」
と桂はいって、親指でちょっと眼鏡を押し上げて清里をみた。
「なに、ちょっとばかりね」
「下が百十もあったら、ちょっとばかりでもないだろう」
そんなことまで高子は話したのかと、清里は心のなかで舌うちした。
「一時はね、そのくらいあったけど、近頃は大分いいんだ」
「近頃はって、いつから高かったんだ」
「高いとわかったのは、去年の夏だよ」
「去年の夏? 春の定期検診のときはなんともなかったのか」
「それが、定期検診は受けてなかったんだよ、取材やなんかで。そしたら、突然めまいがしてね、近所の医者で測って貰ったら……」
「どうして話してくれなかったんだ」
「話すほどでもなかったからね」
「自分のことは隠しておいて、あんなことをいうんだからな。女房連れで飲みにいくのは、きみの趣味じゃないってことぐらい、わかってるよ。なにもお高さんまで病気にすることはないのに」
若い女子部員が紅茶を運んできた。
「冗談はともかく……」
女子部員が出ていくと、桂はすぐにそういって、紅茶を砂糖もミルクも入れずに一と口飲んだ。
「どうしたんだろうね、その血圧は。原因はなんだ?」
「それが、わからないんだ。本態性高血圧症っていうんだけど、医学的にもまだはっきり原因が掴《つか》めてないそうだ」
「ふん……」
桂は、ちょっと口を噤《つぐ》んで彼の顔をみていたが、やがて、
「そういえば、すこし、やつれたよ」
といった。清里は苦笑した。
「厭だね、改まって」
「しょっちゅう会ってるようだけど、こうして顔をまじまじとみることなんかないからな、僕らは。本当にすこし、やつれたよ」
「仕方がないさ、食餌療法なんてやつをやってるんだから」
「食餌療法か。酒は?」
「医者に訊いたらね、いけませんといったら飲まないつもりですかっていわれたよ」
と清里は笑った。
「きみはよく飲んでたからな。酒のせいじゃないのか?」
「酒のせいなら、うちの編集部は大概高血圧になってるよ」
「じゃ、過労か。仕事のやりすぎだよ」
「さあ、どうかな」
笑っていると、頭の隅に留美の顔が浮かんだ。
「どうだ、うちへこないか?」
「……うちへ?」
「出版部へだよ。ここは仕事が楽だし、空気がいい。病気を直すには最適の部署だと思うけどね」
勿論、桂は冗談をいっているのだと清里は思った。
「そうだな。また、きみと二人で幼児の健康とか、園芸百科なんて本を編集しようか」
またというのは、学生時代に二人で同人雑誌の編集を担当したことがあるからだが、
「いや、きみがこっちへきてくれるんだったら、僕は月刊の編集部へ移るさ。だって、きみの代わりがいなきゃ困るだろう、むこうだって」
と桂はいった。
清里は、笑いを顔に貼《は》りつけたまま出版部を出た。
その晩、彼は、留美に救いを求めるような気持で豊島園のマンションを訪ねていった。遠くから四階の部屋の明りを仰ぎながら歩いていくと、途中でその明りが不意に消えた。
おや、どうしたのだろう。宵っぱりの留美がこんな時間に消燈してしまうはずがない。すると、どこかへ出かけるのだろうか――そう思いながら、足を早めてマンションの前までいくと、案の定、セーターの肩にコートを羽織った留美が入口に現われた。
よかった、あやうく行き違いになるところだったと彼は思い、そっちへ歩きながら手を振りかけたが、途中でよした。留美のあとから、背の高い男が出てきて、留美と一緒に歩き出したからである。
清里は、二人にくるりと背を向けるには、あまりにも近寄りすぎていた。留美が彼に気づいて、立ち止まりそうになったが、彼は立ち止まってしまうわけにもいかなかった。彼は、そのまま入口に向って歩いていった。
「……お帰りなさい」
留美は、とっさに微笑を浮かべると、隣人へでも挨拶するように小声でそういって、彼に軽く会釈をした。それで彼も、マンションの住人の一人のように、
「ただいま」
と微笑を返して、すれちがった。
連れの男は、みたところ留美と同年輩で、きちんとした身なりの割には、あまり冴《さ》えない顔をしていた。その男は、いちど清里に目を上げたきり、あとは目礼するように目を伏せたまますれちがった。
どうやら自分には紹介できないたぐいの男らしいな。清里はそう思いながら、そのままマンションの入口を入ると、郵便受けを横目でみて、ゆっくり階段を昇りはじめた。留美が、自分に紹介できないような男を部屋に迎えたとすれば、郵便受けに赤いリボンを結んでおきそうなものだったが、そんなものは見当らなかった。留美は、男より先に降りてきて、ほどいてしまったのだろうか。
彼は、留美の部屋の合鍵《あいかぎ》を持っている。こうして階段を昇りはじめた以上、四階まで昇って、留美の部屋へ入るほかはないと彼は思っていた。もし留美がそうして貰いたくなければ、男になにか口実を作って自分を追いかけてくるはずである。彼はそれを予想して、わざとゆっくり階段を昇っていた。
三階まで昇って、四階への階段にさしかかったとき、下の方から駈け昇ってくる軽い靴音がきこえてきた。彼は足を止めて、待った。
やはり、靴音の主は留美であった。上と下とで目が合ったとき、留美はふっと笑いかけたが、すぐまた真顔に戻った。きつい目をしていた。
「ごめんなさい……」
ちょっと身をよじるようにして、そういった。
「入って、待っててくださる?」
「……出直したっていいんだよ」
「厭。待っててほしいの」
留美は彼の手を取って、痛いほど強く握った。
「駅前の、あのコーヒー店へいくとこなの。一時間で帰ります」
「独りで帰ってくる?」
「勿論、独りで。部屋で話したくないから、外へ出るの。だから、ね、お願い。待ってて。あとでゆっくり話します」
彼は黙って頷いた。
留美は、彼の手の甲を素早く自分の頬へ押しつけると、また階段を駈け降りていった。彼は、留美の部屋へ入ると、玄関の明りを頼りに食卓の椅子に腰を下ろして、そのまましばらく暗いところにじっとしていた。もしあの男が途中で振り返って、四階の部屋に明りが点いているのをみたら、留美を怪しむにちがいないと思ったからである。
五分もしてから、彼はやっと点燈した。居間も、寝室も、ダイニングキッチンも、いつものようにきちんと片付いていた。彼は、歩き廻りながら、自分はあの男の痕跡《こんせき》を探しているのだと気がついたが、そうしないではいられなかった。彼は、灰皿のなかを覗《のぞ》いたり、ベッドをしばらく眺めたりした。
それから、また食卓の椅子に戻ってきた。腕組みをして、頭を垂れた。
(それにしても、あの男は一体、誰だ?)
勤め人風の男だったが、留美の仕事の関係の人間だとは思えなかった。仕事の人間が、スタイリストの自宅まで訪ねてきたりするだろうか。おそらく私的な関係の人間だろうが、いずれにしても、自分のほかにも留美が自宅を教えている男がいたということが、彼にはひどく意外であった。
部屋のなかには、どこにも男の痕跡がなかった。男の痕跡を留美が急いで消した様子もみえなかった。どうやら男は、部屋のなかへは入らなかったらしい。部屋で話したくないから外へ出るのだという、さっきの留美の言葉は、信じてもよさそうだと彼は思った。
けれども、だからといって、もともと玄関で用が済むような浅い関係の相手だとも思えなかった。それは、さっきの留美の切羽詰まったような表情で、容易に想像がついた。とにかく自分を待たせてでも、一時間は話し込む必要のある相手である。なにか、これまで自分には打ち明けかねていた事情のある相手だと思わなくてはいけない。
彼は、ほとぼりの冷めてきた部屋をストーブで暖め、自分でウイスキーの水割りを作って飲んだ。留美がどんなことを打ち明けてくれるかわからなかったが、素面《しらふ》でそれを聞くのは辛いのではないかという気がしたからである。
留美が戻ってきたのは、彼が水割りの三杯目を作ろうとしていたときであった。小刻みに駈け昇ってくる靴音で、彼にはすぐに留美だとわかったが、内鍵をかけてなかったので、そのままでいると、留美はドアを開けて入ってくるなり、
「よかった……」
と呟いて、そこに崩れるように蹲《うずくま》ってしまった。彼は椅子から立っていった。
「どうしたんだ」
「もしかしたら、あなたがあのまま帰ってしまったんじゃないかと思って、気が気じゃなかったの。あなたの靴をみた途端に、膝《ひざ》から力が抜けちゃって……」
留美は、ずっと道を駈けてきたらしく、激しく喘《あえ》ぎながらそういって、彼の方へ両手を伸ばした。彼は、その手の冷たさにちょっとびっくりした。
「なんて冷たい手を……」
「一時間以内に帰ってきたでしょう?」
「時計なんかみてなかったよ。そんなに急いで帰ることなかったのに」
「でも……」
留美は、立ち上って靴を脱ぐと、そのまま彼に躯を持たせかけてきた。
「抱いて……しっかりと抱いて」
その手には乗らない、騙《だま》されまいぞ。彼は、頭の隅でそう思いながら、留美の躯に廻した腕の輪を引き締めた。すると、ストーブで火照った頬に、留美の、手とおなじくらいに冷え切った額が触れた。
彼は、ちょうど二年前の、札幌の夜のことを思い出した。
「まるで雪のなかを歩いてきたみたいじゃないか。さあ、早くストーブにあたって」
「ちょっと待って。……もうすこし、このままでいさせて」
それから、留美はしばらくじっと彼の胸に顔を埋めていたが、やがて不意に、こういった。
「ごめんなさい。私、あなたに一つ、隠していたことがあったの」
その言葉は、留美の留守の間に予想していたものの一つだったので、彼にはさほどの驚きはなかった。
「そうか。そんなことだろうと思っていたよ」
と彼はいった。
「初めから隠すつもりじゃなかったの。何度も打ち明けようとしたんだけど、できなかったのよ。辛かったわ……」
留美の躯が顫《ふる》えてきた。
彼は、ちょっと間を置いてから、
「さっき一緒だった男のことだね?」
と訊いた。
留美は頷いたが、やがて小刻みにかぶりを振りながら、
「……わからないわ、なにから話していいか。ここへ戻ってくるまでに、そのことを考えようと思ってたんだけど、独りになった途端に、早く戻ることばかり気をとられて……なにも考えられなかったわ」
といって吐息をした。
「ともかく、むこうへいこう。こんなところじゃ、話なんかできない」
食卓の上に、作ったばかりの水割りがあった。
「ちょっと飲むか?」
「あとで。いまは、酒の力は借りたくないの」
二人は、居間のソファに、どちらからともなくちょっと隙間を作って腰を下ろした。留美は、まだ話の糸口をみつけかねていた。
「……じゃ、僕から訊いてあげようか?」
と彼はいった。
「悪いけど、そうして。話せるところまできたら、あとは私が話すわ」
「きみの答えは、そのまま信じていいんだね?」
「勿論よ。どんなことでも、正直に答えるわ」
「あの男は、きみの何だ?」
と彼は、まず訊いた。
「……いまは、何でもないわ」
「前は?」
「……結婚の約束をしたことがあるわ」
と留美は、組んだ膝の上に両手を重ねて、そこに目を落としたままいった。
「そうか、あの男だったのか」
「知ってたの?」
「学生時代からの相手だろう?」
「……わかった。妙子さんが話したのね?」
「きみはいちど、彼のために死のうとした」
「ちがうわ」
と留美が顔を上げて、ちいさく叫ぶようにいった。
「あの人のために死のうとしたんじゃないわ。自分があんまり惨《みじ》めだったからよ。自分が惨めで、生きていることに耐えられなかったからよ。あの人にはなんの関係もないことだわ」
「そうでもないだろう。きみをそんなに惨めにしたのは、その男なんだから」
「私たち、お互いに相手を惨めにしたのよ」
「……心中をはかったのか?」
留美は、大きな吐息をしてから首を振った。
「いいえ……」
「彼は?」
「独りで山へ登ったけど、降りてきたわ」
「……それから?」
「結婚したわ、私が知らない人と」
彼は、ちょっとの間、黙って留美の横顔をみていた。
「……でも、別れたんですって、去年の夏」
やがて、留美がそういった。
「それはともかく、彼が結婚してからも、時々こうして会ってたのか、きみは」
「そんなことないわ。別れてからもう足掛け四年になるけど、ずっと、会ったことは勿論、電話で話したことも、手紙を貰ったりしたこともなかったわ」
「いつから、また会うようになったんだ」
「去年の……十一月の初めだったかしら。私は、会いたくなかったんだけど、むこうから訪ねてくるから……」
「ここへ?」
「そうなの」
「会いたくないんだったら、どうして住んでいるところを知らせたりしたんだ」
「ちがうの。私が知らせたんじゃないわ。むこうが聞いて、突然訪ねてきたのよ」
「……聞いてって、誰から?」
「妙子さんから」
彼は、自分たちにはもう関《かか》わりのない者として忘れていた芹沢妙子のことを、ひさしぶりに思い出した。
「そうか。そういえば、彼女はここのことを知ってたな」
「鷺宮の前のアパートを訪ねていって、私がもう引っ越してたもんだから、隣りの妙子さんに尋ねたらしいの、引っ越し先を」
「それで、彼女は簡単に教えたわけか、例の調子で」
「ところが、そう簡単でもなかったみたい。どうせ妙子さんのことだからと思って、くわしくは訊かなかったけど、なんでも部屋でビールを御馳走してくれて、さんざん勿体《もつたい》ぶってから、帰りにやっと教えてくれたとかいってたわ」
彼は、初めてあのアパートを訪ねた晩の、妙子の樟脳《しようのう》臭い和服姿と、玄関で肩に置かれた両手の、押すでもなく引き寄せるでもない不思議な重みを思い出して、つい苦笑を洩らした。
「困った人だな。きみたちの事情を知らないわけでもあるまいし、引っ越し先を訊かれても、まず、きみに連絡をとって、教えていいかどうかを訊いてくれたってよさそうなものなのに」
「私もあとでそう思ったんだけど……でも、そういう人なのよ、妙子さんって。涼しい顔して、びっくりするような底意地の悪いことをするんだから」
「……それで、いきなり彼がここへ現われたわけか」
「最初のときは、私が留守だったの。ドアの隙間に、手帳を破いた紙に走り書きした手紙が挟んであったわ」
「会いたいという手紙か」
「ええ。でも、それには妙子さんのことはなにも書いてなかったから、一体このマンションのことを誰から訊いたんだろうと思って、気味が悪かったわ」
「二度目は?」
「その翌日の夕方だったわ」
「……僕がきてないときで、ほっとしたろう」
留美は、強い目で彼をちらとみた。
「その通りよ、正直いうと。だけど、まだいちどもこの部屋には入れてないわ。今夜で四度目だけど、いつも外へ出て話してるの、一時間だけ」
彼は、そういう留美の鼻先から、不意に光る水玉が転げ落ちるのをみた。
「……もういいだろう。あとは自分で話せよ。話したくないことは話さなくてもいい」
彼は留美の横顔から目を逸《そ》らしていった。
「じゃ、話すわ。途中でわからないところがあったら、訊いてね」
留美はそういって、人差指で鼻の脇を拭った。
「彼……名前はまだいってなかったわね。名前なんか、どうでもいいか。でも、一応いっておくわ。塩見和彦。北陸の魚津の人なの。私とおない年で、大学も学部はちがうけど一緒だったわ。いまは商社マンで、ずっと九州の支社へいってたけど、去年の春から東京の本社に戻ってるんですって。そのころはもう、奥さんとの仲が不味くなっていて、八月に正式に離婚したらしいの」
それきり口を噤んでいるので、
「それで、きみのことを思い出したわけか」
と彼はぶっきら棒にいって、すっかり氷が融けてしまった水割りのグラスへ手を伸ばした。
「そうかもしれないわ。……かもしれないじゃなくて、そうなのね、きっと。本人は、私のことはずっと忘れていなかった、別れた人と気不味くなったのもそのせいだなんていってるけど……。本当は、その人と別れたから私のことなんか思い出したんだわ」
留美の頬に、自分を嘲《あざけ》るような笑いが浮かんだ。
「わかったよ。よりを戻そうっていうんだろう」
「……そうね、できることならもういちど一緒にやり直したいなんていってるけど、要するに、よりを戻したいんだわ」
「それで口説きに通ってくるわけか」
留美は、急に目をきつくつむって、うつむいた。
「……お願い。そんなひどい言い方はしないで」
彼は、自分がすこし酔っていることに気がついた。
「腹が立つんだよ。随分勝手な男じゃないか」
留美は、ちいさく頷《うなず》きながら目を開けた。
「そう思うでしょう。本当に勝手な人なの。でも、男の人って、みんな勝手よ」
彼は、留美の優しい目に見返されると、自分が哀れまれているような気がして、黙って水割りのグラスに目を落とした。
「……で、きみはどうなんだ?」
しばらくしてから彼は訊《き》いた。
「私? そんな話に乗るわけがないでしょう?」
「はっきりそういったのか、あの男に」
「いったわ、何度も」
「何度も? 何度もいうことないじゃないか。こういうことは、いちどはっきりいえば済むことだ」
留美はうつむいて、黙っていた。
「彼がここを訪ねてくることだって、そうだ。本当にきて貰いたくなかったら、はっきりと、もうこないでくれといえばいい。訪ねてきても、ドアを固く閉めて会わなければいい。どうしてそうしないんだ。できないのか?」
留美は、両腕で胸を抱くようにしてうつむいたまま、黙っている。肩先がこまかく顫《ふる》えていた。
「……そうか、わかった」
と彼は、不意に胸底から頭をもたげてきたわけのわからない憎しみに揺すり上げられながらいった。
「あの男は、きみの初めての男だからな」
留美は、ゆっくり顔を上げると、悲しげな目つきで彼をみた。
「……ちがうわ、といってみたところで、あなたは信じてくれないわよね。私を女にしてくれたのは、あなただわ。だから、私には、あなたが最初で最後の男なのよ。自分ではそう思ってるけど、でも、いまそんなことをいっても仕方がないのね。私が彼を、きっぱり拒否できないでいるのは事実なんだから……」
留美はそういうと、ほとんど仰向《あおむ》いて、髪に両手の指を差し込んだ。
「わからないのよ、自分でも……どうして彼に対して、あなたがいまいったようなきっぱりした態度がとれないのか……。できれば納得して私の前から消えて貰いたい、そう思って、彼が訪ねてくると、ついドアを開けてしまうの」
「外へ出て、一時間もなにを話してるんだ?」
と彼も仰向いて、胸のなかの憎しみを吐き出すように天井へ長い吐息をしてから訊いた。
「お互いに相手を説得しようとして、いろいろ話すわ」
「相手は納得してくれないのか」
「そうなの。こっちはいつもおなじことを繰り返すだけ。もう、くたびれたわ」
彼は、その塩見という男の未練がましさにじりじりして、舌うちが出そうになった。
「……しぶとい男だな」
「そういう人なのよ。あなたのことが話せたらって、何度もそう思ったわ。勿論《もちろん》、あなたの迷惑にならないように、あなたという存在だけを……。でも、そういう人だから、結局あなたのことを突き止めるだろうし、かえって面倒なことになりそうな気がして、やっぱり話せないの」
「でも、そんなことをいつまでも繰り返していても、仕方がないじゃないか。どうするつもり?」
留美は、しばらく黙っていたが、やがて、
「……私、やっぱりフランスへいくわ」
といって、まっすぐ彼に目を上げた。
「ちょうどいい機会だわ。逃げるわけじゃないけど、これでやっと決心がつくわ。なんにもいわずに、いかせて。お願い」
彼は、こんなところで急にフランス行きの話が出るとは思わなかったので、面くらったが、反対する理由はなにもなかった。
「きみがそれでいいなら、僕はなんにもいわないよ、お望み通り」
と彼はいった。
留美は、初めて手を伸ばしてきて、彼の手を柔かく握った。
「有難う、あなた。……今夜のことは忘れないわ」
彼は、黙って留美の手を握り返した。
「来月一杯には仕事の整理がつくから、三月の初めに出発しようと思うの」
「そうか。帰りは?」
「むこうには二カ月いってくるつもりだから、五月の初旬には帰ってくるわ」
留美はもう、すっかり旅の段取りをつけているようだった。彼は黙って頷くほかはなかった。
その晩、彼はネクタイもほどかずに留美の部屋を出た。街燈がぽつりぽつりと点《とも》っている人通りの絶えた道が、すでに見知らぬ道のような気がして、彼は何度も立ち止まりそうになった。
結局、自分はこうしてまた独りになるのだ――そういう思いが、すこしずつ胸の空洞をひたしはじめていた。彼は、コートの襟《えり》に顎《あご》を埋めて、自分の足音に耳を澄ましながら歩いていた。
飛ぶ女
留美は、フランス行きの計画を着々と進めて、三月三日、雛《ひな》祭りの日の夜に羽田を発《た》つことになった。
留美が学生時代に寮で一緒だった森|瑛子《えいこ》という女性が、いまはある商社のパリ駐在員と結婚してモンマルトルに住んでいるという。留美は、すでにその森瑛子と連絡をとっていて、パリでは万事その友人と相談しながら暮らすつもりだといっていた。
「餞別《せんべつ》は、なにがいい?」
清里がそういって訊くと、
「あなたがいいわ。ポケットに入るぐらいに、ちいさくなってくれない?」
と留美は笑って、
「あなただけが欲しいの。あなた以外のものは、なんにも要らないわ」
出発の夜、彼は佐野弓子と二人で羽田空港へ見送りにいった。留美は、ゆうべ彼が選んでやったクリーム色のパンタロンスーツを着て、寝不足の目を隠すように薄く色のついたトンボ眼鏡をかけていた。
彼と弓子のほかにも、仕事で付き合いのある女性雑誌の編集者やスタイリスト仲間たちが十人ほど見送りにきていて、仲間の一人が留美に桃の花束を贈った。
「嬉しいわ。今夜は白ワインを貰って、空の上でお節句をしようっと」
留美はそんなことをいって、はしゃいでいたが、弓子が彼のそばを離れて他誌の顔見知りの方へ歩きはじめた途端に、すっとそばへ寄ってきて、
「じゃ、いってきますね」
と小声でいった。
「うん、気をつけてね」
二人は、ただの仕事仲間の微笑を浮かべて、ちょっとの間、目だけで激しく愛撫《あいぶ》し合った。留美の顔に、ゆうべの野性に満ちた顔が重なった。
「……彼に、手紙を出しておいたわ。当分帰らないつもりだって書いたの。まさかとは思うけど、もし妙子さんを通じて編集部に問い合わせてきたときは、よろしくお願いしますね」
「わかった。なんにも心配しなくていいよ」
「じゃあ……むこうに着いたら手紙を書きます」
留美は、ちょっと腰を屈《かが》めると、何事もなかったように桃の花の匂いを嗅《か》ぎながら仲間たちの方へ戻っていった。
やがて、別れの時がきて、留美はみんなに手を振りながら柵《さく》のむこうの待合室へ消えていった。清里は、見送っているうちに、なにか大事なことをいい忘れたような気がしたが、それがどんなことなのか自分にもわからなかった。
「どう? どっかで、ちょっとだけやらない?」
空港ビルを出るとき、弓子がいった。
「あの人の旅の無事を祈ってさ」
「そうだな」
二人は、銀座のちいさな酒場に寄った。
「羨《うらや》ましいわ、いまの若い人って。自分で好きな仕事をして、ばりばり稼《かせ》いでお金を溜《た》めて、桃の花なんか抱いてすうっとフランスまで飛んでいっちゃうんだからねえ、たった一人でさ」
珍しく弓子が他愛なく酔って、溜息《ためいき》まじりにそんなことをいうので、
「おまえさんだって、その気になれば、できないことはないだろう」
「駄目よ、私は。せいぜい桃の花でも飾って、なにと白酒をちびちびやるぐらいが関の山よ」
ちょっとだけのつもりが、つい長引いて、その晩も遅く家に帰ると、彼は、誰もいない茶の間の雛壇の前に、長いこと、ぼんやりとあぐらをかいていた。
その翌日から、十日ほどの間、彼はどういうものか朝からひどい眠気に悩まされて、困った。朝起きて、洗面すると、もう眠気で瞼《まぶた》が重くなる。電車の吊輪《つりわ》に掴《つか》まっていると、不意に膝《ひざ》がかくっと折れそうになって、びっくりする。社の席にいても、手空《てす》きになって、うっかり机に頬杖《ほおづえ》でも突こうものなら、忽《たちま》ち居眠りが出て、兵藤なんぞに、齢ですなあ、と冷やかされたりする。
夕方、まっすぐ家に帰って、風呂あがりにビールの小瓶《こびん》を一本飲むと、もう目を開いていられなくなる。一応、本を持って寝室に入るが、一頁も読まないうちに眠りに落ちて、朝までいちども目が醒《さ》めない。そのくせ、朝、起きて洗面を済ませると、途端にまた眠気がさしてくるのだ。
まるで眠り病にでも罹《かか》ったみたいだと、彼は兵藤に笑われるたびにそう思った。実際、これまでは社の机で居眠りをしたことなど、いちどもなかったのだ。
「近頃のあなたのよく眠ること、まるで赤ん坊みたいよ」
高子も不思議がって、
「どうしたのかしら。これも病気のせいかしら」
「そんなことはないだろうが、そうだとしても眠れなくなるよりはましだよ。この病気には、熟睡することがなによりの薬だからな」
「じゃ、これまで働きすぎた分の疲れが出てきたのね、きっと」
「そうかもしれない。近頃は若い連中がよくやってくれるからね、こっちは、これでいいのかと思うほど楽なんだ」
「楽になった途端に、気が弛《ゆる》んだのね。でも、いいのよ、そろそろ楽になったって。これまでが、ひどすぎたんですもの。こんなときは、眠りたいだけ眠るといいわ」
と高子はいった。
留美が出かけてから、ちょうど五日目の午後、弓子がどこからか編集室へ戻ってくると、まっすぐ彼の席へきて、
「やっぱりきたわよ」
そういって塩見和彦の名刺をみせた。塩見から問い合わせがあったときはよろしくという留美の頼みは、あの晩、羽田からの帰りに寄った銀座の酒場で、弓子にも塩見の正体を伏せたまま伝えておいたのである。
「本人がきたのか」
「いまロビーで話してきたとこ」
「……で、どうだった?」
「仰せのごとく話しておいたわ。パリの住所を知りたがっていたけど、そんなことはこっちにもわかってないしね。最初は、パリまでも追っかけて行きかねない様子だったけど、話しているうちに諦《あきら》めたみたいだったわ」
それから弓子は、
「女は、変な男に食いつかれて、一生を棒に振ることがあるからねえ。もしかしたら、神永さん、あの男から逃げてパリへいったのかもよ」
そういって、ちょっと目尻で笑ってみせた。
ひどい眠気がようやく薄れてきたころ、彼は、社で留美からの航空便を受け取った。午前中、弓子が絵葉書を貰ったといっていたから、そのうち自分にも絵葉書が届くのかと思っていたら、午後に配達されたのは赤と青の斜線で縁取りされた封筒であった。
彼は、それをポケットに入れてさりげなく編集室を出ると、一階の資料室に独りになって、封を切った。
『パリに安着しました。御休心ください。
友人が探してくれた下宿の都合で、三、四日ホテル暮らしをすることになり、セーヌ河畔のホテルの二十九階の部屋におります。
眼下にセーヌ河が、隣りのビルの上からはエッフェル塔の尖端《せんたん》が、そのビルともう一つのビルの隙間からは、遠くモンマルトルの丘とその丘の上の白いサクレ・クール寺院が、うっすらと靄《もや》にかすんでみえます。
いま、こちらは朝の六時をすこし廻ったところです。早起きでしょう? ところが、わけを話すと、四時にぱっちり目が醒めてしまって、それきり眠れなくなっただけなのです。
あの晩、遅く羽田を発って、十六、七時間も機上で過ごして、こちらに着いてみると、まだ翌日の朝だというのですから、時差というのはおかしなものですね。小刻みに眠ったり起きたりしているうちに、一日のペースがすっかり狂ってしまいました。
仕方がないので、さっきからシャワーを浴びたり、替えたばかりのフランス紙幣やコインを見入ったり、窓からパリの夜明けを眺めたりしています。
こちらは夜明けが遅いらしく、地上はまだ暗くて、セーヌ河畔の街燈が川面に長く伸びて揺れています。
ごめんなさい、あなたから離れてこんなに遠いところまできてしまって。でも、あなたと離れて暮らすのは辛かったけど、私はやはり当分の間は日本にいない方がいいと思ったのです。
いつか、あなたに、あの人から逃げるわけではないと言いましたけど、いまになってみると、私はやはり逃げてきたのだということがわかります。
正直に言います。私は、こわかったのです。あの人がではありません。自分自身がこわかったのです。あの人に執拗《しつよう》に誘われているうちに、だんだん根負けして、引き寄せられていきそうな自分が、こわくてならなかったのです。
あなた、どうか怒らないで聴いてください。私には、未練があるのです。勿論、あの人にではありません。結婚というものに未練があるのです。この未練は、どうしても捨て切れません。普段は捨てたつもりになって暮らしているのですが、ふと気がつくと、まだ胸の底の方に、それこそ未練がましくべっとりとへばりついているのです。悲しいことですが、自分でもそれをどうすることもできません。
その未練が私にはこわかったのです。
あなた、こんな私をどうぞ許して。こちらにいるうちに、なんとか自分の気持を建て直して帰りますから。それにしても、あなたと結婚できさえしたら!
もう、空がすっかり明るくなりました。さっき、途中で書きあぐんで、ぼんやり窓から地上を眺めていたら、突然、パリの街が、さっと蒼《あお》ざめてしまったのです。一瞬、なにが起こったのかわかりませんでしたが、セーヌ河の水の上に何本も並んで伸びていた光の棒が消えているのに気づいて、やっとパリ市内の街燈という街燈が一斉に消燈されたのだとわかりました。七時十五分でした。
もう、こんなふうにしてパリの夜明けを眺めることもないでしょう。しかも、あなたのことで胸をいっぱいにしながら――。まだパリにきたばかりだというのに、私はもうすでにホームシックに罹っています。
朝靄のパリから、あなたの頬に接吻を』
一と月が過ぎた。
留美からは、週に一通ずつ、パリでの暮らしぶりを報告する絵葉書が届いた。おなじ日に、きまって弓子にも別に絵葉書が届いて、それには主にファッションについての見聞や情報が書き込んであった。
そのころのある日、清里は、昼休みに外へ出て偶然芹沢妙子と顔を合わせた。近くの店で食事をして、社の方へ戻ってくると、途中のとんかつ屋から妙子がひょっこり出てきたのである。妙子は、なれなれしく肩を並べると、パリの留美から絵葉書を貰ったといった。
「ブローニュの森のベンチで、なあんて書いてあるの。優雅にやってるみたいですね」
留美がパリへ逃げたのは、もとはといえば妙子が塩見和彦に留美の居所を知らせたからだが、いまさら、それをいってみたところで仕方がない。彼はただ、そうらしいね、とだけいった。
「清里さんにも、便りがあるんでしょう?」
「僕も絵葉書を貰った」
「むこうの住所が書いてありました?」
「いや、パリにて、とだけ書いてあった」
それは事実で、弓子宛の絵葉書にも、毎度ただパリにてとだけ書いてあった。
「パリでは、どんなところに住んでるんでしょうね」
「友達に探して貰った安いホテルにいるらしいよ」
「そのホテルの所番地、わかります?」
「さあ、そこまではわからない」
「誰に訊いたらわかるかしら。佐野さんですか?」
「佐野さんも知らないよ、多分」
彼はそういいながら妙子の顔に目をやった。どうしてそんなに留美の滞在先の所番地が知りたいのか。塩見に頼まれたのではないかという気がしたのだ。
「いいえね、返事を出してあげたら喜んで貰えるかと思って」
妙子は自分からそういった。
「返事をねえ」
「無理ですね、所番地がわからないんじゃ」
「ただ貰っておけばいいんじゃないかな、旅の便りは。所番地を探しているうちに、むこうが先に帰ってくるさ」
彼は、思い出したようにポケットの小銭入れをさぐって、ちょっと失敬、と道端の販売機から煙草を買った。先に帰ってくれればいいと思ったが、妙子はそばで待っていた。
「……実はね」
歩き出すとすぐ、妙子がいった。
「あたしもパリへいってみようかなと思ってるんです」
「ほう、それはいいね。いつ?」
「まだはっきりきめてませんけど、まあ、近い将来ってとこですね。いずれにしても、会社をやめてからです」
「やめるの?」
「ええ、そろそろ……。だって、ぐずぐずしているとお婆ちゃんになっちゃいますもの」
妙子は、ちらと彼を流し目にみた。耳が赤くなっていた。
「そうか、結婚するんだね?」
「そりゃあ、これでも女ですもの」
「それで、新婚旅行でパリへいくわけだ。豪勢なもんだな」
妙子は、なにもいわずに笑って首をすくめてみせると、やっと小走りになって、先に社の玄関の石段を駈け昇っていった。
四月に入って、一週間ほどしたころ、彼は総務部から電話で呼び出しを受けた。手空きのとき、ちょっと課長のところまできて貰いたいという。なんの用事か見当がつかなかったが、ともかく昼食を済ませた足で総務部に寄ってみると、春日《かすが》という課長がわざとらしくのろのろと書類の綴じ込みをめくりながら、
「あんた、ここんとこ、ずっと定期検診を受けとらんね。どうしたんだい?」
といった。
そうか、それがあったかと、清里は初めて気がついた。
「どうも、取材やなんかと、かち合いましてねえ」
「その日に受けられなかったら、後日、出版健保指定の病院で検診を受けることになっとるんだが、そっちの方の診断書も提出されてないみたいですなあ」
課長は、いつか食堂で医療班の大川がいったのとおなじことをいって、眼鏡越しに清里をみた。
「どうもすみません。うっかりしました」
彼は、頭に手を上げて謝るほかはなかった。
「困りますな、あんたのような中堅社員に二度も三度もうっかりされちゃあ」
「はあ、今後は気をつけます」
「今度の検診は、万障繰り合わせて受けて貰わんとね」
「今度は何日です?」
「十一日。来週の月曜日だよ。忘れんようにね」
「わかりました」
彼は、不味《まず》いことになったなと思いながら、総務部を出た。
彼の血圧は、依然として高かった。小野田医師が、本態性の高血圧なら血圧だけを無理に下げようとするのはかえってよくないというので、薬は一切使わずに食餌《しよくじ》療法だけをつづけていたが、高い血圧に馴れるにつれてその食餌療法もだんだんおろそかになって、血圧は最初のころに比べて、ほんのすこしずつ下ったにすぎなかった。
下ったといっても、正常な人より高いことは高い。検診の医師も、これは高いと思うだろう。けれども、総務部に釘《くぎ》を刺されては逃げるわけにもいかなかった。
それにしても、総務部がいまごろになって、どうして急に自分がこの数回検診を受けていないということに気がついたのか。彼にはそれが不思議に思えて、
「おい、密告したな」
編集部に戻ると、大川のうしろを通りながら肩を叩いて冗談半分にそういってみた。
「密告? なんのことです?」
「総務部に呼びつけられてさ、お目玉をくらってきたよ、検診のことで」
「ははあ……あれからも、ずっとさぼってたんですか?」
と大川は呆《あき》れ顔で、
「密告だなんて、とんでもない濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》だなあ。清里さんのことを密告したって、こっちにはなんの得もありませんよ。ほら、あれでしょう……なんとかいうじゃないですか、天網恢々《てんもうかいかい》……」
「疎《そ》にして漏《も》らさず、か」
清里は、仕方なく笑って席へ戻ったが、やはり大川がとぼけているのだとしか思えなかった。まさか弓子が密告するはずがない。また、桂の差し金だとも思いたくなかった。
翌週の月曜日、彼はひさしぶりで社の定期検診を受けたが、やはり血圧で係の医師を驚かせることになった。上が百五十三、下がちょうど百であった。それでも下った方だったが、そんなことはうっかり口にはできない。
医師は、彼が自分の高血圧を知っても驚かないので、怪訝《けげん》そうな顔をした。
「……知ってたんですか」
「ええ。本態性高血圧症ってやつなんですよ。すこし前に、精密検査をして貰ったんです」
彼はそういって、べつに内臓の疾患からきた高血圧ではないこと、血圧は高いなりに安定していることなどを医師に伝えた。
それから二、三日して、編集室に人がまばらになったとき、編集長の桐山が、
「清さん、ちょっと」
とパイプの吸口で招くので、立っていってみると、
「血圧が高いんだって?」
桐山は、秘密っぽい口調でそういった。
「もう伝わったんですか。早いですね」
仕方なく笑ってそういうと、
「ちょっとね、そんなことを耳にしたもんだから……。で、具合はどうなの?」
「なに、大したことはないんですよ」
と彼はいって、本態性高血圧症のことを説明した。
「だけど、原因がわからないんじゃ、かえって薄気味が悪いよね」
「まあ、すっきりしないことはしないんですが、ほかに、どこといって悪いところがないんですからね。それに、僕の血圧はほとんど変動がないから、そう心配は要らないんです。なにかの拍子に、急に高くなるなんてことはないですから」
「そうか。そうすると、いまのところは、べつに仕事が重荷になるという……」
「勿論、ありませんよ、そんなことは」
と、彼は途中で桐山を遮《さえぎ》っていった。
「そんならいいんだがね。ともかく、無理をするなよ」
「無理なんか、ちっともしてませんよ」
「これから先もだよ。仕事が辛かったら、いつでも隠さずにそういってくれよ」
「厭《いや》ですねえ、そんなに病人みたいにいわれたんじゃ」
と彼は苦笑してみせて、
「上の方にもそんなふうに思われたんじゃ、堪らないな。訊かれたら、本人はぴんぴんしてるって、そういってくださいよ」
「わかってるよ。その代わり、こっちの方はもう誘わないから、悪く思うなよ」
桐山は、左手で目にみえない杯を口の前に滑らせてみせながらそういった。
その月の下旬になって、清里は留美から、すこし暇ができたので明日からお隣りのスイスへ一人旅を試みるところだという手紙を受け取った。
『編集部の北岡さんより一と足お先にアルプスを見ることになりますが、どうぞ悪しからずとお伝えください』
などと書いてあった。
それを早速、北岡に伝えると、
「かなわねえなあ、わが国の独身貴族には。よし、それではこっちも、十月を目標にしてそろそろピッチを上げなくっちゃあ」
北岡はそういって指を鳴らしたが、それから小一時間ほどして、二人の机の境に置いてある電話が鳴った。北岡が先に手を伸ばして受話器を取った。
「はい、編集部」
けれども、彼はすぐに、
「え?」
と眉をひそめて、清里をみた。それから、
「誰からだって?」
と訊き返すと、首をかしげながら受話器を耳から離して、それを清里の方へ傾けた。
「……変ですねえ」
「なにが?」
「神永さんからだっていうんですよ」
清里は無言で目をむいた。それから、受話器を奪い取るようにして耳に当てた。
「繋《つな》いで」
すぐに、もしもしという女の声がきこえてきた。それは、確かに留美の声にちがいなかった。
「ああ、僕だ」
彼はつい、そういってから、
「僕、清里です」
といい直した。
「ああ、あなた。私よ。留美。わかる?」
そういう留美の声には、なにか縋《すが》りついてくるような響きがあった。
「わかりますよ。驚いたなあ。いま、どこ?」
「ジュネーブにいるの」
それははっきりきこえたが、彼は思わず、
「え?」
と訊き返した。
「スイスのジュネーブ。わかります?」
「わかります。わかるけど……」
どうしてそんなに遠いところから、突然電話なんかをかけてきたのか。
「ジュネーブの、レマン湖の湖畔のホテルにいるの」
なにか急《せ》き込《こ》んでいるような気配があった。
「だけど、どうしたんですか、急に……」
「会いたいの。あなたに会いたいの。こっちへこれない? きて。お願い……」
彼は、受話器を強く耳に押し当てて、北岡をみた。北岡は、さっき受話器を渡したときから、ずっと彼の顔から目を離さずにいる。
「なにをいってますか。暢気《のんき》なもんですなあ」
と彼は無理に笑っていった。
「暢気じゃないの。真剣よ。会いたいの、無性に。きて。飛んできて……」
留美は、甘えているのでも、冗談をいっているのでもなさそうであった。彼は、真顔になった。
「すこし、変ですねえ。一体どうしたの?」
「会いたいのよ。ただ、あなたに会いたいの。私のそばにいて貰いたいの。ね、お願い。助けて」
「そんな……無理だよ」
と彼は、なぜだか取り乱している留美の背中をどやしてやるつもりで、叱るようにそういった。
留美は黙った。
「……もしもし」
「やっぱり駄目? お休みを取って、今夜の飛行機に乗れない?」
彼は舌うちした。
「そんなこと、できるわけないじゃないですか。わかってるでしょう、あんただって」
「……そうね、無理よね、急にこんなことをいい出したって」
短い沈黙のあとで、留美はすっかり気落ちした声でそういった。
「わかったわ。諦めるわ。ごめんなさいね……」
留美の声は、低くかすれて、きこえなくなった。彼はあわてて呼んだが、電話はもう切れていた。
彼は、狐にでもつままれたような気持で、受話器を置いた。
「どうかしたんですか、神永さんが」
と北岡が訝《いぶか》しそうにいった。
「うん、ちょっと仕事のことでね、無茶なことをいってるんだ」
「パリからですか?」
「いや、ジュネーブだって。レマン湖のほとりにいるらしい」
北岡は、羨ましそうに頭を振り、拳《こぶし》で机をとんと叩いた。
「レマン湖か……。あそこなら、アルプスが湖面に映ってみえるでしょうね」
「さあね。こっちはアルプスどころじゃないんだよ」
と清里は首を伸ばして、むこうのファッション班の席をみた。さいわい弓子の姿は見当らない。彼は、あたりを見廻しながら立ち上った。
「お弓さんは、どこかな?」
「さあ、キッチンじゃないですか? 探してきましょうか?」
「いや、いいんだ。僕がいってみる」
彼は、そのまま編集室を出たが、勿論、弓子に用などあるわけではない。彼は、廊下を歩きながら、そうだ、屋上へいこうと思った。屋上なら、独りになれる。
一階上の七階から、細くて暗い階段を昇って屋上に出ると、彼はぼうぼうと吹き寄せてくる生暖かい風のなかを隅の方まで歩いていって、そこの鉄柵《てつさく》に両腕をのせた。ひとりでに、深い溜息が出た。
――一体、留美は、どうしたっていうんだ? スイスのジュネーブくんだりから、いきなり電話をかけてくるなんて。彼は改めてそう思い、さっきの留美の電話を最初からゆっくり思い出してみた。
(会いたいの。あなたに会いたいの。こっちへこれない? きて。お願い……)
(暢気じゃないの。真剣よ。会いたいの、無性に。きて、飛んできて……)
(会いたいのよ。ただ、あなたに会いたいの。私のそばにいて貰いたいの。ね、お願い。助けて)
(やっぱり駄目? お休みを取って、今夜の飛行機に乗れない?)
国際電話で、いきなりこんなことをいってくるとは、普段の留美からは想像もできないことであった。とても正気の沙汰とは思えなかった。留美はどうかしているのだ。
一体、留美になにが起こったのか。それを考えてみたが、電話の様子からだけではなにもわからなかった。ただ会いたい会いたいの一点張りだったから、重いホームシックにでも罹っているのだろうか、と彼は思った。ただもう子供のように日本が恋しくて、それで発作的にあんな電話をかけてきたのだ、きっと――。
それ見ろ、と彼は、空のむこうの留美にいってやりたかった。最初から、二カ月は長すぎやしないかと思っていたのだ。それに、なんだっていつまでもスイスなんかにぐずぐずしているのだろう。明日からスイスへ一人旅をするという葉書を受け取ったのは、ついさっきだが、留美がそれを書いたのは十日も前のことなのだ。もうアルプスは存分に眺めたろうから、さっさと友達のいるパリへ引き揚げればいいのに。
けれども、その二カ月も、そろそろ残りすくなくなっている。いずれにしても、あの電話の様子では、すぐにでも留美の方から飛んで帰ってきそうだな、と彼は思った。
ところが、彼の予想は当らなかった。それから何日経っても、留美は帰ってこなかった。そればかりではない、あのレマン湖のほとりからの電話を最後に、留美からの連絡はふっつりと途絶えてしまった。
五月初旬の飛び石連休が過ぎても、留美は帰ってこなかった。予定の二カ月はもうとっくに過ぎていたが、帰国が遅れることになったという知らせもなかった。
五月も、半ばを過ぎて、下旬になった。
「パリの君は、遅いのねえ」
ある朝、弓子がぶらりと彼の席にきて、そういった。
「ほんとに遅いな。なにしてるんだろう」
「今月になってから、なにか連絡があった?」
「いや、なんにも」
「私んとこにも、なんにもよ。パリのお友達のところへ手紙で問い合わせようかと思ったんだけど、行き違いになりそうな気がして、一日延ばしにしているうちに、もうそろそろ六月じゃない」
彼の方も、おなじようにして問い合わせの手紙を出しそびれていたのだ。
「仕事の方はどうなってる?」
「今月分は、まあ、なんとかね。こんなこともあろうかと思って、ピンチヒッターを用意してたの。でも、このままずるずると連絡がないんじゃ、こちらとしても考えないとね。そう毎月ピンチヒッターでっていうわけにもいかないもの」
彼は、留美の安否が気になってきた。ホームシックは、もう直ったのか。直っているのなら、なぜ連絡してくれないのか。それとも、留美はホームシックなどではなかったのだろうか。そうだとすれば、あのレマン湖のほとりからの電話は、どう解釈すればいいのだろうか――。
その翌日、彼は午後から執筆者の自宅を三軒廻って、社には戻らずに帰宅したが、翌朝、出社すると、北岡がいきなり、
「きのうの夕方、神永さんから電話がありましたよ」
といった。清里は思わず頬が弛んだ。
「そうか。パリから?」
「ところがですね、あの人、もうこっちへ帰ってきてるんですよ」
「ほう……」
拍子抜けして、そのまま北岡の顔をみていると、
「これから北海道の余市へ帰るところだっていうんです。お目にかかる時間がないんで、手紙を書きましたから、よろしくっていう電話でした」
「……それだけ?」
「ええ、用事はね。あと、僕がついでにアルプスのことをちょっと訊いたりしましたけど」
清里の頭に、いくつかの疑問がいちどに湧《わ》いてきた。留美は、いつ帰ったのか。どうして、帰ってすぐ連絡してくれなかったのか。手紙を書く時間はあったのに、なぜ会う時間がなかったのか。会わずに郷里の余市へ帰る? なにをそんなに急いでいるのか。父親が重病にでもなったのか。
「……元気だった? 彼女は」
と、彼はのろのろと自分の椅子に腰を下ろしながら訊いた。
「そうですねえ……電話の声は、ちょっとくたびれてるようでしたねえ、さすがに。それに……」
「それに、どうしたんだ」
「いや、話し方がね、むこうでフランス語ばかり話してきたせいなのか、出かける前とはちょっと調子がちがうんですよ。それで、最初は別な人かと思いまして……」
と北岡は笑っていった。
清里は、正直いって面白くなかった。どんな事情があったにしても、なんの連絡もなしにこっそり帰国した上に、自分に会わずに北海道へ発ってしまうなんて、留美らしくもない。それに、電話で留美の声を聞いたとき、初めは別人だと思ったという北岡の話が、清里には気に入らなかった。留美が、たった二カ月ほどの外国生活で人が変ってしまったとは思えなかったが、彼はそれを聞いたとき、なにか厭な予感のようなものが素早く胸をよぎるのを感じた。
ともあれ、留美の手紙を待つほかはない。
「その電話のこと、お弓さんに話した?」
北岡にそう訊いてみると、
「いや、誰にも話してませんよ」
という返事であった。
弓子はまだ出てきていなかったが、留美のことを知ったら、彼女だってきっと憤慨する、と清里は思った。
彼は、煙草を一本ふかしてから席を立って、そのまま編集室を出ると、エレベーターで一階まで降りた。受付へいって、郵便物は何時ごろ届くかと訊くと、午前は十時ごろ、午後は三時半ごろだという。
「じゃ、僕宛の手紙があったら、すぐ電話してくれない? 取りにくるから。急いでるんだ」
そう頼んで、引き返そうとすると、
「お早う」
と弓子の声がして、うしろから肩を叩かれた。振り向いて、
「あ、お早う……」
と目を大きくしたきり、留美のことを話そうか話すまいかと迷っているうちに、
「神永さん、帰ってるわよ」
弓子のほうからそういわれて、彼は面くらった。
「……誰から聞いた?」
「聞いたんじゃないの。本人がここに現われたのよ、突然」
「いつ?」
「きのうの、三時ごろだったかしら。これから北海道へ帰るんだって、スーツケースを持って」
彼は、きのうは一時半にはもう社を出ていたのだ。
「……それで?」
「ちょっと待ってよ」
弓子は小走りになって、タイムカードを押してくると、
「上で話す?」
「いや、ここの方がいい」
二人は廊下の窓際に寄った。
「いつ帰ったんだろう、パリからは」
「一週間ばかり前に帰ったんだって」
「一週間も前に?」
「そうなのよ。それで、突然現われて、いきなりキャンセルだっていうんだから、面くらうわよ、私だって」
「キャンセル、というと?」
「うちの仕事をよ」
彼は驚いた。
「尤《もつと》も、うちだけじゃなくて、よその仕事も全部整理したらしいけどね」
「どうして、また……」
「すぐまたパリへ戻って、ずっとむこうで暮らすんだって」
彼は目を瞠《みは》ったまま、
「……なんだって?」
と口のなかで呟《つぶや》いた。
「なんだか知らないけど、そんなコネができたらしいのよ。今度むこうへいったら、当分戻ってこないようなことをいってたわ」
と弓子はいった。
彼は、しばらく言葉が出なかった。二人は黙って顔を見合わせていたが、やがて弓子が困ったように首をかしげて、くすっと笑った。
「そんなに睨《にら》まないでよ、私のせいじゃないんだから」
彼は急いで目をしば叩いて、
「だけど……一体どういうことなんだ」
「わからないわ、私にも。いちど訊いたんだけど、いまはちょっと話せないから、むこうから手紙に書くっていうのよ。なにか事情がありそうだったから、それ以上は訊かなかったんだけど……」
その事情とやらは、おそらく、やがて届くはずの手紙に書いてあるのだろう。もどかしかったが、その手紙が配達されるまで待たねばならない。
「あなたの方には? なにも連絡がなかったの?」
「きのうの夕方、電話があったそうだ」
「じゃ、ここを出てからね。羽田からかけたのよ、きっと」
弓子はそういってから、あら、と目を瞠るようにした。
「……どうして電話なんかしたのかしら、生憎《あいにく》あなたが留守だって話したのに」
「もし帰っていたらと思ったんだろう」
「でも、きょうはもう社へは戻らないっていったのよ、私」
すると、留美は自分の留守を承知で、北岡へ電話をかけてきたことになる――彼は、もう留美のことはなにもかもわからなくなって、頭をふらふらさせながら苦笑した。
「もう、いいよ。なにがなんだか、さっぱりわからん」
「まあ、そう、じりじりしなさんな。そのうちに、なにもかも一遍にわかる時がくるわよ」
弓子は、慰めるように笑ってそういうと、彼を促してエレベーターの方へ歩き出した。
弓子の話では、留美が急に契約の破棄を申し出た仕事の方は、ゆうべのうちに代役の手配を済ませたから支障がないということだったが、彼はさすがに、今度の留美のわがままには腹が立った。
「どうせキャンセルするつもりなら、どうしてもっと早く連絡しなかったんだろう。一週間も、なにしてたんだ」
「なにをしてたか知らないけど、当分日本へ帰ってこないつもりなら、いろいろと始末をつけておかなきゃならないことがあるんじゃない? 住んでいたマンションだって、なんとかしなきゃならないだろうし、それに……足手まといになるような人間もね」
弓子は、彼から目を逸《そ》らしたまま、そういって笑った。
彼は、昼近くまで自分の席にいたが、仕事が手につかなくて、いらいらと煙草をふかしてばかりいた。自分が留美にとって足手まといになるような人間かどうかは別として、今度の留美の言動はどれも納得いかないものばかりである。さいわい読物班の部員が出払っていたので、彼は受付に二度も電話で速達が届いていないかどうかを訊いたりした。それから、留美が留守なのはわかっているのに、とてもそうしてみないではいられなくなって、豊島園のマンションに電話をかけた。
すると、思いがけないことに、ベルが三度鳴っただけで受話器が外れた。なにか躊躇《ためら》うような間を置いてから、はい、と低く相手は答えたが、それが男の声だったので彼はぎくりとした。
「……神永さんのお宅でしょうか」
もしかしたら番号を間違えたかもしれない、そう思ったのだが、
「神永さんなら、もうここにはいませんよ」
と相手はいった。
いないことは最初から承知の上だったが、清里としては、そのまま受話器を置いてしまうわけにはいかなかった。
「はあ……。というと? 私は雑誌社の者ですが、何時ごろお戻りでしょうかね、神永さんは」
とっさにとぼけて、そういうと、
「もう、ここへは戻ってきませんよ。ここを売って、引っ越したんです」
「それはまた急な……。驚いたな」
実際、清里は暗い驚きに打たれていた。まさか一と言の相談もなしに、あの部屋を売り払ってしまうとは思わなかった。
「もしもし」
「はい」
「そうすると、失礼ですが、あなたは誰方《どなた》でしょうか」
「僕は……塩見というんですが、引っ越しの手伝いにきてるんですよ、新しい持主の。新しい持主は、芹沢っていうんです」
清里は、目を大きくしたまま黙っていた。相手が塩見なら、芹沢というのは妙子にちがいないだろう。妙子が留美からマンションを譲り受けて、そこに塩見が手伝いにきているのだ。
「じゃあ、これで。これからは間違えないように願いますよ」
清里があわてて声をかけたが、電話はむこうから切れてしまった。
彼は、いちど受話器を置いてから、すぐまた取って、交換室を呼んだ。妙子とはちがう交換手が出た。
「芹沢さんは?」
「お休みなんです、引っ越しで。お急ぎですか?」
「いや、いいんだ」
やっぱりそうかと、彼は椅子の背にもたれて部屋の天井へ目を上げた。すると妙子の結婚相手というのは、塩見のことだったのだろうか。留美のことで、何度も訪ねたり訪ねられたりしているうちに、二人はいつのまにかそんな仲になってしまったのだろうか。
けれども、そんな二人のことなど、いまの清里にはどうでもよかった。問題なのは、留美が自分の知らぬまにマンションを処分してしまったことだ。あとは、おそらく足手まといになる人間の処分が残っているだけだ。
留美からの手紙は、ようやく午後の便で届いた。彼は、受付から連絡を貰うと、北岡に、しばらく席を外すからといい残して、編集室を出た。受付で、二通分の切手を貼《は》った分厚い手紙を受け取ると、そのまま社を出て、はやる気持を抑えながら近くのちいさな公園まで歩いていった。
公園には誰もいなくて、彼の足元から鳩が五、六羽飛び立った。彼は、眩《まぶ》しいほどの若葉をひろげている銀杏《いちよう》の下のベンチに腰を下ろすと、のろのろと封を切って手紙をひらいたが、読みはじめて、思わずすぐに目を逸らしてしまった。
留美の手紙は、いきなり、
『お別れします』
そういう文句で始まっていたからである。
彼は、なんとなくあたりを見廻しながら、胸に深く息を吸い込んだ。それから、ほとんど無意識に、ポケットから煙草の箱を取り出したが、それをただ、手のひらの上で二、三度軽く弾ませただけで、またポケットに戻した。
『お別れします』
今度は目を逸らさずに読めた。
『まさかこんな書き出しで、あなたにお手紙を書くことになるとは思いませんでした。羽田でお別れしてから、まだ三月《みつき》にもなりませんのに、こんなお手紙を書くことになるなんて――いったい、この三月足らずの間に、私になにが起こったというのでしょうか。
いま、こうしてあなたとの思い出が濃く染み込んでいる部屋にいて、この三月足らずの間の出来事を思い出していると、すべてがまるで夢のような気がします。正直いって、夢であってくれればいいという気が、かすかにしないでもありません。でも――やっぱりこれは夢ではないのです。
お別れします。別れさせて頂きたいのです。
いきなり、一方的にこんなことを言い出して、さぞかし驚かれたことと思います。もしかしたら、お躯《からだ》に障るのではないかと思い、随分考えたのですが、結局なにから書いていいのかわからなくて、結論から先に書くことになってしまいました。おゆるしください。
私は、いまでもあなたを愛しています。あなたが信じてくださろうと、くださるまいと、私のあなたへの気持はすこしも変っていないのです。それなら、なぜあなたとお別れするのか――それを打ち明ける前に、私はいまもなお胸の底に残っているちいさな叫びに、念のため耳を傾けてみます。
(……あなたと結婚できさえしたら!)
清里さん。
私、結婚しようと思います。
結婚の相手は、フランス人です』
彼の目が、そこでまた手紙の文字から離れた。
彼は、仰向いて、空気の匂いでも嗅《か》ぐように、鼻から小刻みに息を吸い込んだ。それから、またポケットから煙草を取り出して、今度は一本抜いて口にくわえたが、それに火を点《つ》ける前に、目の方が先に手紙に吸い寄せられた。
『私は、いまここでその人のことをくわしくお話するのは、差し控えようと思います。勿体《もつたい》ぶるわけではありません、それをお話しても、ただいたずらにあなたのお心を乱すだけだと思うからです。
その人は、フランスの大学生で(ですから私より年下です)、背の高い人です。これだけで、彼のことはかんにんしてください。
私は、彼とはパリで知り合ったのではありません。パリでの生活は、これまで手紙や絵葉書で御報告した通りで、それにはなんの偽りもありません。パリの暮らしは順調で、平穏でした。もし、あのままパリに居続けていたら――私は多分あなたにこんなお手紙を書かずに済んだでしょう。でも、私は独りでスイスへ出かけました、話の種に、ほんのちょっとだけアルプスを眺めてくるつもりで。
出かける前に、あなたへお手紙を書きました。まさか、それがあなたへの最後の航空便になるとは夢にも思わずに、胸を弾ませながら書きました。
彼とは、スイスのジュネーブで知り合ったのです。彼は、アルバイトで私が泊ったホテルのボーイをしていました……』
そこまで読んで、彼は、留美が先日レマン湖のほとりから突然かけてよこした異様な電話の意味が、初めてわかったような気がした。あれはおそらく、そのフランス青年が目の前に現われたことである危機を感じた留美の、自分に助けを求める叫び声だったのだ。
案の定、留美はつづけてこう書いていた。
『彼は、一人旅の私に対して、非常に丁重で親切でした。彼は、私を、まるでどこかの国の貴族の令嬢のように扱いました。仕事の時間をやりくりし、すてきなスポーツカーを用意して、名所は勿論、葡萄酒や料理の美味《おい》しい店にまで私を案内してくれました。
彼は、最初、私のフランス語を褒めてくれました。それから、私を美しいといってくれました。私は一日延ばしに滞在を延ばして、結局スイスには十日間いたのですが、その間、彼がほとんど休む暇もなく私に寄せてくれたそんなたぐいの言葉の数々は、とても自分の口ではお伝えできないものばかりです。私は、初めのうちはくすぐったくて、よく笑ったものでしたが、そのうちに馴れてしまいました。
レマン湖の湖畔のホテルに、なんとか手を廻して部屋を取ってくれたのも彼です。私はそこに三日滞在しましたが、三日目の晩、彼に求婚されました。
私は、正直いって自分がわからなくなりました。それで、あなたにお電話したのですが、あのときあなたさえそばにいてくださったらと、ただそれだけを頼みの綱のように思っていたのは、彼に傾いていく気持を自分の力ではもうどうすることもできなくなっていた証拠かもしれません。
やっぱり、あなたはきてくださらなかった。でも、それは当然で、私の方が無茶だったのです。ですから、あなたを恨む気持など、これっぽっちもありません。
私は、返事を保留して、ひとまずパリへ引き揚げました。まもなく、彼もアルバイトを中止してパリに戻ってきました。勿論、私のためにです。私は悩みました』
彼は、息苦しくなって、火の点いていない煙草を唇の端に貼りつけたまま、長い吐息をした。頭に重い充血感があり、動悸《どうき》が高くなっていた。水を、と彼は思ったが、花壇のむこうの水呑み場まで立っていく気にはなれなかった。彼は、唾を呑み込んだだけで、また手紙に目を戻した。
『私は、彼を振り切って日本へ帰ろうと、何度そう思ったかしれません。でも、結局そうはできませんでした。前の手紙にも書いたように、私は日本からも逃げてきたのです。逃げてきた日本へ帰ったところで、どうなるものでもありません。また元のように結婚の未練が捨て切れなくて、あなたと塩見の間を揺れ動く自分が目にみえているのです。しかも、こうしてパリまで捨てにきたその未練が、彼のおかげで前とは比べものにもならないほど大きく脹《ふく》らんでしまったのです。
彼は、結婚したらパリに住んで、私には好きなことを勉強させてくれるといっています。私は、結婚と、本場での勉強と、両方同時に手にすることができるのです。
それでも、いちど、私は本気でパリ脱出を企てました。彼には内証で飛行機を予約し、荷物をまとめ、下宿を引き払って、空港へタクシーを走らせました。でも、やはり駄目でした。行く手に空港の灯がみえてきたとき、不意に私の口から、「停めて!」という言葉が飛び出したのです。それから、彼のアパートの所番地が、ひとりでに、すらすらと私の口から滑り出ました。私は、ただ茫然として、きた道を引き返す車の窓から空港の灯が遠退《とおの》いていくのを見送ったのです。
清里さん。
私の最後のわがままを、どうかお聞き届けください。あなたとお別れしたいのです。私に、自分の手で人生を選ぶ自由を与えて頂きたいのです。
これまで私は、周囲になんといわれようとも、自分の手で、自分の信じる人生を切り開いてきました。いいなずけを捨てて東京へ飛び出してきたのも(いつか北海道へ御一緒したとき、空港まで車で迎えにきてくれた圭吉といういとこのことを、憶《おぼ》えていらっしゃるでしょうか。あの圭吉が、私の子供のころからのいいなずけだったのです)、大学でフランス文学を学んだのも、塩見と結婚しようとしたのも、自殺をはかったのも、スタイリストの道を選んだのも、優しい奥様やお子様のいらっしゃるあなたを深く愛したのも、すべて自分の意志と力でしたことなのです。
何度か失敗はしましたが、後悔はしませんでした。もともと人生とはそんなふうにして自分で自分の道を切り開きながら生きるものであり、自分は女として新しい生き方をしているのだと固く信じていたからです。女だからといって、先の先まで見通しの利く人生なんて、つまりません。
いま、また私に決断の時が訪れています。私は、これまでのように自分の意志と力で、自分の道を選び取ろうと思います。
清里さん。
どうか私の身に自由をお与えください。そうして、あなたは、私の行方など気になさらずに、どうぞ奥様やお子様の許《もと》へお戻りください。いまからなら、まだ間に合います。
あなたがいたずらに躊躇《ちゆうちよ》なさらぬように、こう申し上げておきましょうか。私はいま、正直いって、心の底からほっとしているのです。あなたの御家庭を滅茶滅茶にしなくて済んだことに。それから、あなたのお躯をそれ以上痛めずに済んだことに。
あなたの御病気のこと、私、知らぬふりをしてきましたが、実は知っていました。いつだったか、佐野さんが、なにかの拍子にうっかり口を滑らせたのです。本態性高血圧症。そうでしたわね。きっと私のことで無理をなさったからでしょう。それを思うと、なんとお詫《わ》びしていいのかわかりませんが、いまはあなたの御病気をそれ以上悪化させずにすむということで、おゆるしを願うほかはありません。
でも、どうぞ誤解をなさいませんように。私が、御病気を知ってあなたに見切りをつけたなどとはお思いになりませんように。つい先日までの私は、もしもあなたがお倒れになったら、自分も生きてはいないつもりでいたのです。
清里さん。
さあ、御自分の巣へお戻りになって。私は、見知らぬ空を、もう一と飛びしてきますから……』
留美の手紙は、そこで終っていた。
彼は、手紙を畳んで封筒に収めると、それを上着の内ポケットに入れて、ちょっとの間、いとおしむようにそれを上から胸に押しつけていた。
いつのまにか、躯が水を吸った丸太のように重たくなっていて、彼はベンチの背に手をかけてようやく立ち上った。頭上の空を、鳩の群れが飛んでいた。留美が飛んでいってしまう――そう思うと、急に、留美に会いたいという気持が彼の胸に募ってきた。
飛び立つ前に、いちどだけ会いたい、ただ会うだけでいい。彼は切実にそう思った。
清里は、社に戻ると、ロビーの電話で翌日の午後の札幌行きの航空券を予約し、留美と一緒のとき泊った札幌のホテルに部屋を取った。それから、印刷所と交渉して、翌日の午後から社にいなくても済むように仕事の段取りをつけた。
翌朝は、高子に一泊の出張旅行に出かけるといって、家を出た。そのまま出社して、編集長に躯の不調を訴えて午後から休みを貰った。できることなら病気を口実にはしたくなかったが、生憎《あいにく》それしか方法がなかった。
「そういえば、顔色がすぐれないな。なんなら、明日も休んだっていいんだよ」
桐山はそういってくれたが、
「いや、大丈夫です。明日は午後から出るようにします」
と彼はいって、昼休み前にそっと社を抜け出すと、タクシーを拾って羽田へ向った。
東京は朝から高曇りの、むし暑い日だったが、北海道に降りてみると、澄んだ青空がひろがって、乾いた爽やかな風が流れていた。彼は、タクシーを飛ばして札幌まで出て、ホテルに鞄《かばん》を預けてから駅へいったが、接続が悪くて、快速列車を小樽で各駅停車に乗り換えて余市に着いたときは、もう四時半を廻っていた。
駅前からタクシーに乗って、神永果樹園というと、すぐにわかった。留美はもう日本を離れてしまうのだから、いきなり家を訪ねていっても、そう迷惑をかけることにはならないだろう。彼はそう思っていたが、いざ車が留美の家をめざして走り出すと、さすがに緊張で胸苦《むなぐる》しくなってきた。
「……いろんな花が咲いてるね」
彼は、気持をほぐそうと窓の外へ目を投げて、運転手に話しかけた。前にきたときは、白一色の雪に深々と埋もれていた余市の町は、いまは新緑と花々に彩られて初夏の西日を浴びていた。
「ここは、いまごろになると花がつぎからつぎへと咲くからね。桜は十日ばかり前に散って、いまは八重桜が満開ですよ。果樹園は、梨がさかりを過ぎて、林檎《りんご》がそろそろ五分咲きかな」
と運転手がいった。
清里は、前にきたとき町を案内してくれたタクシーの運転手の言葉を、まだ憶えていた。
『冬の余市といったら、まんず、こんなところだね。五月か六月ごろ、もう一遍いらっしゃいよ。果樹園の花という花がいちどに咲いて、そりゃあ綺麗《きれい》だから』
あのときは、もうこの町へは二度とくることもあるまいと思っていたのだが、いま、ちょうどあの運転手が自慢していた花時に、自分はこうしてふたたびこの町にきている。
彼は、バックミラーで運転手の顔を覗《のぞ》いてみたが、全く見憶えのない若い顔であった。
町を出外れると、白く煙るようにみえていた林檎畑が道の左右に迫ってきた。初めてみる林檎の花は、白くて、思いのほか小粒で可憐《かれん》な花であった。それが五分咲きだという林檎畑の下の地面には、これはまた目も醒《さ》めるような真っ黄色の小花が、まるで敷き詰めたように咲きそろっていて美しかった。
「あの黄色い花は?」
「タンポポですよ。内地のタンポポよりすこし背が高くて……西洋タンポポとかいってるけどね」
背の高いフランス人――ふと、そう思いかけて、清里は急いで頭をぶるぶると振った。
やがて、運転手が車のスピードを落とした。
「この左手が神永さんの果樹園ですよ」
「お家は?」
「ほら、あの青い屋根です」
林檎畑の奥に、本州なら山小屋か別荘などによくある急|勾配《こうばい》の青い屋根がみえている。柵《さく》のない林檎畑の、道寄りの木の一本で、中年の女の人が脚立《きやたつ》に乗ってなにかしていた。
「人工授粉をしてるんですよ」
「神永さんの家族の方?」
「さあ……手伝いの人じゃないかねえ」
「ちょっと停めてくれないか」
なるべくなら、留美の家族とは顔を合わせずに済ませたかった。彼は、車から降りていって、道端から脚立の上の人に声をかけた。
「ちょっと伺いますが、留美さんはお宅の方にいらっしゃるでしょうか」
「留美さんなら、ちょっと前に出かけましたけんどねえ……」
女の人は脚立から降りると、かぶり物を取りながら道端へ出てきた。留美さんと呼ぶところをみると、家族ではなさそうだったが、彼は改めて会釈をした。
「どちらへ……? ちょっとお会いしたいんですが」
「墓参りに出かけたんですけんどねえ」
「お寺は……なんという寺でしょう」
「寺じゃなくて、墓地の方ですけんど……」
女の人は、自分からタクシーへ寄っていくと、窓から首を入れるようにして運転手と早口で言葉を交わした。
「わかりますよ、お客さん」
と車のなかで運転手がいった。
清里は、礼をいって車に戻った。
「道にジープが停めてあるから、すぐわかるよ」
女の人が窓からそういうと、
「あいよ、ありがとね」
と運転手が頷《うなず》いて車を出した。
「……墓地って、寺の墓地じゃないの?」
「寺は寺で、別にあるんだよね。ここの墓地は、なんつうのかな、共同墓地っつうのかねえ……」
その墓地は、町裏の小高い丘の斜面にひろがっていた。道はその墓地を左手にみながら登り坂になり、そのまま山道になるらしかった。その坂道を登り詰めたあたりに、なるほど幌《ほろ》のついたジープが一台停めてあるのがみえた。
「あのジープのところまでいってみるかね」
運転手がいった。
「そうだな。……お墓が随分沢山あるね」
思いのほか広い共同墓地であった。なにやら葉の大きな植物がおびただしい数の墓石の隙間を埋めていて、斜面の裾から吹き上げる強い風に葉裏を返して揺れ騒いでいる。清里は、坂道を登る車の窓からみているうちに、ずっと上の墓石の蔭《かげ》からこちらを向いている人の顔をみつけた。
「あ、あそこだ」
と彼は思わずいって指さした。
「上の方?」
「上の方だ、ずっと」
「じゃ、あのジープのところで停めるよね。あすこから横に道があるから」
運転手は、ジープのすぐうしろに車を停めた。
「どうします? すぐ用が済むなら待ってるけど」
「そうだな……。じゃ、待ってて貰おうか」
彼はそういって車を降りたが、誰も乗っていないと思ったジープの運転席に、作業服の若い男が一人、足を車の外へ投げ出すようにして乗っていて、彼の足音に振り返ると、あ、とちいさな声を洩らした。
「あの、東京の、雑誌社の……」
口のまわりに髭《ひげ》など生やしているので、一と目ではわからなかったが、よくみると、それは留美のいとこの圭吉であった。
「ああ、圭吉さん……清里です。いつぞやは、どうも」
「しばらくでした。いつ、こちらへ?」
「午後から出かけてきましてね。いま、お宅の方へ伺ったら、お墓参りだということで、運ちゃんに連れてきて貰ったんです」
「それはどうも……。もう間もなく戻るでしょう。これに乗って、お掛けになりませんか」
そういわれると、こちらから墓地の留美のところまで会いにいくわけにもいかなくて、
「いや、結構です。こうしている方が気持がいい。北海道はいまいい季節ですね」
両手を腰に当てて、強い風に髪を吹き乱されながら、道の反対側にひろがっている花ざかりの林檎畑を眺めていると、
「……清里さん」
いつのまにか圭吉がジープから降りて、互いに肩が触れ合いそうなところまで近寄ってきていた。
「東京から、留美さんに会いにいらっしゃったんですか、わざわざ」
清里は、ちらと振り返ったが、圭吉の顔には、からかいや皮肉の色は全くみえなかった。
「ええ。もう、会えないかもしれませんからね」
彼は、また林檎畑に目を戻していった。圭吉の太い吐息が、彼の耳にはっきりきこえた。
「そうすると、あの人がフランスへいっちまうというのは、本当なんですか」
圭吉は、沈んだ声でそういった。
「……本当でしょうね」
「どうしてもフランスまでいって暮らさなきゃならないんですか」
「多分ね、あの人がそういってるなら」
「なんとかして止める方法はないんでしょうか」
清里は、圭吉を振り向くように首を傾けた。
「どうしてです?」
「家では、みんな反対なんです。殊に、おやじさんなんか、どうしてもフランスへいくなら親子の縁を切るなんて……。どうして、そんなにまでしてフランスへいきたいのか、俺にはわけがわからんのですよ」
圭吉がじれったそうにそういうのを聞いて、清里は、この男は留美がフランス青年と結婚することをまだ知らされていないのだと気がついたが、それを自分の口から教えていいものかどうかわからなかった。
「……遅いな。いってみましょうか」
彼は、墓地の方を振り返ってそういった。歩き出すと、圭吉も黙ってついてきた。墓地への道端には、西洋タンポポが咲き乱れ、墓石の間を埋め尽くしている葉の大きな植物が、相変らず風に煽《あお》られて揺れ騒いでいた。
「あの背の高い植物は、なんですか」
「イタドリです。それに、フキと……ああ、やっと下りてきましたよ」
圭吉が指差す方を見上げると、その揺れ騒ぐイタドリのなかに、留美が立ち竦《すく》むようにしてこっちを見下ろしているのが目に入った。
「ほら、東京から清里さんがみえてるんだよ。早く下りてきてよ」
圭吉が両手で口を囲ってそう叫んだが、留美の方は、とうに清里に気づいていた。その証拠に、留美は途中で立ち止まったまま動こうともしない。
「……なにしてるんだろう」
「いいんですよ。僕の方からいってみましょう」
清里はそういって、そのまま墓地の中腹の留美を仰いでいると、
「じゃ、私は……むこうで待ってます」
と、二人から目を逸《そ》らして圭吉がいった。
「そうですか。僕もすぐに戻りますから」
彼は、揺れるイタドリを掻《か》き分けながら墓石の間を登りはじめた。すこし登ると、もう息切れがして、立ち止まってしまった。彼は、留美を仰いで、苦笑した。どこかで郭公《かつこう》が鳴いていた。
「そこにいてくださあい」
不意に、声が落ちてきた。
「いま下りていきまあす」
いつもの声だ、と彼は思った。留美は両手でイタドリのなかを泳ぐようにしながら、墓石を縫って下りてくる――一瞬、彼はすべてを忘れて、胸に飛び込んでくる留美を抱き止めようと身構えている自分に気がついた。けれども、留美は、途中から足を弛《ゆる》めて、静かにそばの墓石の蔭を廻ってくると、手を伸ばしても到底届きそうにもない間隔を置いて立ち止まった。
「やっぱり……」
留美は、ちょっとの間、確かめるようにまじまじと彼をみつめてから、独り言のようにそう呟《つぶや》いて目を伏せた。やっぱり、とは、どういう意味なのかわからなかったが、彼は頷いて、
「やっぱり、きちゃったよ」
といった。それから、思わず留美の方へ歩きかけたが、すぐ立ち止まった。
「あの手紙を読んだら、急に会いたくなってね。会ったところで、どうなるものでもないことはわかっていたけど、とてもじっとしていられなかったんだよ、年甲斐《としがい》もなく……。あんたには酷《むご》いことをしたかもしれないが、勘弁してくれ」
留美は、頷くともなく、うつむいた。水で洗ったばかりのような素顔で、珍しく髪を無造作にうしろに纏《まと》めていた。さっきまで墓前にひざまずいていたのだろうか、洗いざらしのジーンズの片膝《かたひざ》に、円く土の汚れがついていた。
「あの手紙に書いてあることは、わかったよ。僕にはなにもいう資格がない。あんたが、僕には会わずに、あの手紙を書いた気持もわかる」
「……ごめんなさい。私、卑怯《ひきよう》でした」
留美は、ちいさな声でそういって、目をつむった。
「いや、いいんだよ。おかげで、あんたの気持はよくわかった。ところで……いや、それだけでいい」
彼は自分に頷いた。微笑がひとりでに浮かんできた。
「あんたに会ったら、念を押しておきたいことが沢山あるような気がしていたけど、顔をみたら、なにもかもわかってしまった。これでいいんだ」
留美は、無言でうるんだ目を上げた。
「じゃ、これで……さよなら」
「……あの、清里さん」
と、留美は斜面を下りかけた彼を呼び止めた。
「もしお急ぎじゃなかったら、御一緒したいところがあるんですけど……」
「僕は、べつに急がない。今夜は札幌に泊って、明日の朝の便で帰るんだけど……どこへいくの?」
「神威岬《カムイみさき》です」
と留美はいった。
「神威岬、というと?」
「この積丹《シヤコタン》半島の突端にある岬です。車で一時間ばかりかかりますけど……」
「一緒にいくのは構わないけど、そこへいってどうするの?」
「夕映えがみたいんです」
「夕映え……」
「陽が海に沈みますから、夕映えがとても綺麗なんです。私、この町で暮らしていたころから、あの岬の夕映えがとても好きでした。ですから、日本を離れる前に、いちどあの夕映えの見納めをしておきたいんです、いつまでも忘れないように」
「……僕が一緒でも、構わないの?」
留美は、目をきらりとさせて彼をみた。
「前から、いちどあなたと一緒にみたいと思ってたんです、あの夕映えを……」
留美は、ちいさく叫ぶようにそういってから、また目を伏せた。
「もし……もしも日本を離れる前に、あなたがここにきてくださったら、御一緒して見納めしようと思っていました。でも、多分きてくださらないから、そのときは、ここを発《た》つ前の日に独りでみにいくつもりで……」
「僕を、心待ちにしていてくれたんだね?」
留美は、目を伏せたままちいさく頷いた。
「わかった。じゃ、案内して貰うよ」
彼がそういうと、留美の目が初めてかすかに笑った。
「車といっても、うちのジープですけど、構いません? それとも、あのタクシーの方がいいかしら」
「いや、ジープの方がいい。いちど、ジープってやつに乗ってみたいと思ってたんだ」
彼は、先に下の道に下りて、車が停まっている坂道まで戻ると、タクシーに訳を話して、料金を払った。
「これから神威岬までいくんじゃあ、帰りは八時過ぎになっちゃうね」
と運転手がいった。
清里は、帰りは汽車に乗るのが億劫《おつくう》になるかもしれないと思い、
「そのころ駅の前で待っててくれたら、札幌まで乗るよ」
といった。
「そいつは有難いね。じゃ、待ってますよ」
タクシーが走り去ると、
「さあ、どうぞ。タクシーより乗り心地は悪いんですが、道がいいですから。まあ、我慢してください」
と圭吉が笑っていった。
助手席には、留美が先に乗っていた。清里はうしろの座席に乗った。ジープは、圭吉の運転で坂道を下って街道に出ると、さっきタクシーできた道を引き返して、留美の家の青い屋根がみえるあたりで停まった。
「じゃ、大急ぎでいってくる」
圭吉は、そういい残して飛び降りると、道端から林檎畑へ駈け込んでいった。遠出を家へ知らせにいったのだと思っていると、
「懐中電燈を取りにいったんです」
と留美がいった。
「岬の近くに、手掘りのトンネルがありましてね、明りがないとそこが通れないんです」
まもなく、圭吉が戻ってきた。
「はい、これ。気をつけてね」
そういって留美に懐中電燈を渡すと、
「圭ちゃん、あなた運転してよ、お願い」
と留美がいった。
「俺が? 神威岬まで?」
「なんか、ほかに用事ある?」
「ないこともないけどさ……。道はわかってるだろう?」
「でも、駄目なのよ、運転は」
「駄目って、いつもはがんがん飛ばしてるじゃないの」
「だけど、きょうは駄目なの。きょうは、なんだかこわいのよ」
「仕様がねえなあ」
圭吉は、困ったように笑って清里をみた。
「いいですかね、俺が運転させて貰って」
「どうぞ。僕は一向に……」
正直いって、いまの清里には、留美と二人きりで往復二時間のドライブをするのは息苦しい気がした。もしかしたら、留美の方でもそう思って圭吉に運転を頼んだのかもしれなかった。圭吉が一緒なら、お互いに余計な言葉を交わさずに済むのである。
「んじゃ、ひとっ走り、いってくっか。途中にちょっと危険なところがあるから、こわいって人に任せるわけにもいかねえしな」
圭吉は、誰に聞かせるともなくそんなことをいいながら、車の前を廻って、運転席に乗った。
ジープは、余市の町を出ると、海の上に傾いている西日を浴びながら、小一時間走りつづけた。圭吉は、清里も留美も押し黙ったままなのが気になるのか、時々、小声で、どうでもいいようなことを留美に話しかけたり、この半島が初めての清里のためにガイドのような役をしてくれたりした。
積丹《シヤコタン》という地名は、アイヌ語のシャック・コタンが訛《なま》ったもので、夏の集落という意味だとか、このあたりは、昭和の初めごろまでは鰊《にしん》の漁場で、海の色が変るほどの大群が押し寄せてきたそうだとか、ソーラン節というのは鰊漁場の作業歌で、このあたりがその発祥地だとか、神威岬には義経伝説があって、舟で北進する義経を慕って岬まで追ってきたアイヌの長《おさ》の娘が、悲しみのあまり海に身を投げて化石になったのが神威岩で、その岩はいまでもメノコ岩と呼ばれているとか、そんなことを圭吉は時々思い出したように話して聞かせた。
その神威岬の付け根のところに、一軒ちいさな土産物屋を兼ねた食堂があって、ジープはそこの駐車場に乗り入れて停まった。
「ここから先は、道がないんですよ。崖下《がけした》の岩浜を歩くことになりますが、大丈夫ですかね」
と圭吉がいった。どんな岩浜かわからなかったが、それしか途《みち》がないなら歩くほかはない。
「多分、大丈夫です。いってみましょう」
と清里はいった。
三人は、ジープから降りると、圭吉、留美、清里の順に岩鼻をめぐる小道を歩いていった。海からの風が強くて、道端に伸び放題のイタドリが薙《な》ぎ倒されそうになびいている。そのイタドリの大きな葉が、何度も清里の肩や腕を打った。
岩鼻を廻ると、そこで道がなくなり、右手は海、左手は断崖《だんがい》絶壁で、その断崖絶壁の裾に、ごつごつとした岩浜が遥《はる》か遠くまでつづいていた。清里は、岩角に足を滑らせないように気をつけながら二人のあとについていった。
歩くというより、ほとんど一と足ごとに岩から岩へと飛び移りながらの歩行だから、時々立ち止まっては一と息入れなければならない。前をゆく留美は、しょっちゅう気遣うように振り返っては、足の踏み場に迷うようにしながら待ってくれたが、それでも彼は大分遅れてしまった。
陽は、次第に赤味を増しながら海の方へ傾いていたが、水平線に落ちるまでには、まだすこし間がありそうだった。一体どこまで歩くのだろう。あの陽が沈み切らないうちにジープのところまで戻れるといいが――そう思いながら歩いていると、
「すみませんねえ、こんなひどいところを歩かせちゃって」
圭吉が、とある岩蔭に腰を下ろして、笑っていた。清里も立ち止まって、汗を拭いた。
「随分遠いですね」
「もう、すぐですよ。ほら、あの人がしゃがんでる、あそこが念仏トンネルで、あれを抜けると、岬の鼻とメノコ岩が目の前にみえます」
圭吉がそういって指さす方をみると、百メートルほどむこうの入江の縁に留美がこちらを向いてしゃがんでいて、その背後の断崖にトンネルが黒い口を開けているのがみえていた。
「いま、念仏トンネルといわれましたね」
「はい。念仏っていうのは、ちょっと謂《いわ》れがありましてね。大正の初めごろ、そのころはまだあのトンネルはなかったんですが、灯台守の奥さんたちが余市の町へ買物に出かけようとして、あのあたりで波に攫《さら》われて死ぬという事故があったんです。それで、あのトンネルが四年掛かりで掘られたわけですが、むこう側とこちら側から掘りはじめたのが、途中で食いちがってしまいましてね。でも、また改めて掘り直すのも大変だからというので、今度は、途中から横に、両方で相手の方へと掘り進んだわけです。そのとき、死んだ人たちの供養も兼ねて、方向を定めるためにみんなで念仏を唱えたり鉦《かね》を鳴らしたりしたもんだから、念仏トンネルっていう名がついたんですね。だから、せいぜい六十メートルのトンネルですけど、むこうの出口がみえないんですよ。なかは暗くて、殊に横に進むところは真っ暗でなにもみえません。懐中電燈か蝋燭《ろうそく》でもなければ、とても通り抜けられないんです」
留美が立ち上って、ゆっくりトンネルの入口の方へ岩の段々を昇るのがみえた。
「どうぞ」
と圭吉が、その方へ手のひらを滑らせていった。
「俺、正月に、スキーで足首をちょっと捻《ひね》っちまいましてね、長く歩いてると疼《うず》いてくるんですよ。すみませんが、ここで待たして貰います」
清里は、圭吉をそこに残して、留美が佇《たたず》んでいるトンネルの入口まで、また岩から岩へと伝っていった。
「ごめんなさい。お疲れになったでしょう?」
留美は、すまなそうな顔でそういったが、彼はそんな留美の他人行儀が淋しくて、黙って首を横に振った。
「もう、このトンネルを抜けるだけです。どうぞ……」
留美は、懐中電燈をうしろ手に持つと、円い光を濡れた地面に引きずりながら、先にトンネルのなかへ入っていった。
荒削りで、天井が低く、トンネルというよりは洞窟《どうくつ》にでも入っていくような気が、彼にはした。留美が引いてゆく光の輪を踏み締めるようにして歩きながら、天井に突出しているかもしれない岩角に怯《おび》えて、彼は何度となく首をすくめた。
やがてトンネルが鉤《かぎ》の手に折れると、入口から射し込んでいた明りも消えて、あたりは全くの暗闇になった。いま留美が懐中電燈を消したら、立ち往生だな、と彼は思い、ふと、そのときの自分にかすかな不安をおぼえた。
「気をつけてください、ひどいでこぼこ道ですから……」
そういう留美の声と一緒に、手がきて、彼の片腕を抱えた。彼は、思わずその腕を引っ込めようとしたが、留美は、構わずに強く抱えた。すると、そのとき、不意に彼の目に留美の裸身が浮かんでみえた。それから、突然、思ってもみなかった激しい殺意がむらむらと胸に込み上げてきて、彼は、その殺意に息詰まりそうになって立ち止まってしまった。
「……どうかなさったの?」
と留美がいった。
「いや……なんでもない」
彼は首を振り、胸に深く息を吸い込んでから、また歩き出した。一刻も早くこの暗闇から抜け出したくて、彼は何度もでこぼこ道に躓《つまず》いた。
トンネルを抜けると、目の前が茜《あかね》色の陽が砕けている入海で、そのむこうに、左手から弓なりに海へ突き出ている神威岬と、その前方の岩礁地帯に石地蔵のように立っているメノコ岩とが、黒々とみえていた。夕陽は、ちょうどそのメノコ岩の真上に落ちかかっていて、遥かむこうの水平線には、いつのまに湧《わ》いたのか茜色の雲が低く横たわっていた。
すぐ右手の岩礁には、巨大な鉄屑《てつくず》のようなぎざぎざの奇岩が、天から降ってきてそこに突き刺さったかのように聳《そび》えている。
「ここでいいんです。ここからみる夕映えが一番好き」
留美がそういって足を止めた。
彼は、留美を独りにするために、すこし離れた岩に腰を下ろして、夕映えを眺めた。静かだった。風の唸《うな》りと、入海の小波《さざなみ》が岩浜の縁を洗う音のほかは、なにもきこえなかった。
しばらくすると、留美がゆっくり背後に歩み寄ってきた。
「もう、結構です。参りましょうか」
「日没をみなくていいの?」
「ええ。これだけで充分です」
立ち上ると、
「わがままばかりいって……かんにんしてください」
留美はそういって頭を下げた。
「いや、わがままだったのは僕の方だよ。むこうへいったら、躯に気をつけて……」
と彼はいった。
「札幌のホテルは……?」
「いつかの、あのホテルだ」
「私、御一緒します」
留美は顔を上げてそういった。その目が、夕陽をまともに浴びて燃え立つように光っていた。
「……いや、僕独りで帰る」
「いいえ。私もいきます」
「なにをいってるんだ。きちゃいけないよ。きても、ドアを開けないからね。……さあ、いこう」
そういって、留美の手から懐中電燈をもぎ取ると、留美は不意に両手で顔を覆って、怺《こら》えかねたように肩を顫《ふる》わせはじめた。
彼は、そのまましばらくの間、無言で留美のそばに立っていた。それから、脹らんだ血管が青くみえている首筋を見納めにして、
「トンネルの入口で待ってるよ」
と小声でいうと、疲れた足を引きずるようにして留美から離れた。
落日
六月初旬のある雨の朝、清里は佐野弓子から、留美がふたたびパリへ発っていったことを知らされた。
「ゆうべ、残って仕事してたら、空港から電話があったのよ。あなたによろしくっていってたわ」
と弓子はいった。それから、声を落として、
「知ってる? 彼女がパリへいっちゃった訳を」
自分はもう知っているという口振りだったので、
「ああ。結婚するんだろう? むこうで。そんな手紙を貰ったよ」
と、なんのこともなさそうに彼はいった。
弓子は、頷きながら、探るような目で彼をみていたが、
「しかも、相手はフランス人ですって?」
「そうらしいな」
「随分思い切ったことをするわ。大丈夫かしら」
「まあね。自分でいいと思ってきめたことなんだから。十九や二十の娘じゃないんだからね」
と彼はいった。
「それはそうだけどさ。なんだか、はらはらするわ、他人事《ひとごと》ながら」
弓子は、ちょっと首をすくめてみせて自分の席へ戻っていった。
それから十日ほどして、パリの留美から落ち着き先を知らせる簡単な文面の絵葉書が届いた。落ち着き先はパリなのに、絵葉書の写真はアルプスのユングフラウで、隅の方に、
『これはスイスで買ったものの使い残しです。北岡さんにみせてあげてください』
と書き添えてあった。
彼は、黙ってその絵葉書を北岡の机へ滑らせてやった。北岡は、へっと目をまるくして、しばらく眺めてから、裏を返した。
「あれっ、神永さんだ。あの人、またスイスへいってるんですか?」
「スイスじゃなくて、パリへいっちゃったんだよ。読んでごらん」
北岡は読んで、頷いた。
「なるほど。今度はすっかり腰を据えちゃったみたいですね」
「そりゃあ、腰を据えないとね。結婚したんだから」
「へえ、パリでですか?」
「そうだ。それはともかく……」
と清里は、留美の話はそれだけにして、
「きみのアルプス行きの方は、どうなってるんだ」
「アルプス行きったって、こっちはただ下から眺めてくるだけですよ」
「どっちにしたって、ヨーロッパまで出かけることになるだろう。休暇の相談は、なるべく早くしてくれないと、こっちが困るよ」
「ええ、それはわかってるんですがねえ……」
「秋ごろまでには、とか、いってたじゃないか。秋には結婚するんだろう?」
「それがですねえ、先方の都合で来年の春まで延びそうなんです」
「じゃ、アルプスも延期か」
「いや、秋を逃がすと、冬になっちゃいますからねえ。こっちも新年号で忙しくなるし……」
「いっそ新婚旅行をアルプスにするか」
「とんでもない。やっぱり今年の秋にしますよ。急いでスケジュールを作って御相談します」
何日かすると、北岡は十月の初旬から中旬にかけての十日間の旅行スケジュールを作って、相談にきた。清里は、それを編集長に取り次いでやったが、そういう休暇の取り方はこれまで前例がなく、やはり新年号の前は無理だということで、編集局長の許可が下りなかった。
結局、北岡のヨーロッパ行きが実現したのは、その年の暮れになってからであった。
翌年の元旦が、ちょうど日曜日で、六日の金曜日に仕事始めをすると、すぐまた週末の休みがつづく。だから、仕事じまいの二十八日の夜に出発して、六日の出勤日を一日だけ休めば、なんとか十日間の旅行ができる。勿論《もちろん》、その場合は、六日の欠勤は大目にみて貰える。
「少々寒いかもしれませんが、まあ、一生にいちどぐらいは外国で正月をしてみるのも悪くないでしょう。しかも、アルプスを眺めながらの正月ですからねえ、かえっていい思い出になりますよ」
北岡は、そんなことをいいながら暮れの二十八日に出発する準備を進めていたが、彼のスケジュールによれば、スイスへの行き帰りに、パリにも都合四泊することになっていた。
清里は、それをみて、すぐに留美のことを思い出した。留美は元気に暮らしているだろうか。パリからは、ユングフラウの絵葉書と夏にいちど暑中見舞いのような簡単な便りが届いただけで、秋口からはぱったりと音沙汰がなくなっていた。
「パリでは、なにか予定があるのかい?」
そう訊《き》いてみると、
「いや、べつに……。いまのところは印象派の美術館をね、ちょっと覗いてこようと思ってるだけなんですが」
「四日もいて、印象派の美術館だけというのは、勿体《もつたい》ないな。神永さんにでも連絡して、どこか案内して貰ったらいいじゃないか」
「そうだ、あの人、パリにいるんでしたっけね」
北岡は、膝《ひざ》を叩いてそういった。
「でも、むこうで結婚してるんでしょう?」
「構わないさ、案内して貰うぐらい。きみだって、アルプスをみにいってあの人に会わずに帰ってくる手はないだろう」
「そうですね。じゃ、パリに着いたらすぐ葉書でも出しておいて、スイスから帰るころにホテルへ連絡して貰うことにしますよ」
「それがいい。連絡先はここだ」
清里は、夏に貰った手紙をみせたが、留美の姓が、相変らず神永のままになっているのが、ふと気になった。その手紙を貰ったときには、べつになんとも思わなかったが、こちらから連絡するとなると、神永留美で通じるかどうかという不安があった。
「もし、うまく連絡がつかなかったら、航空会社の人にでも案内を頼んで、彼女の新居を訪ねてみたらどうだろう」
「そうします。メグレ警部が出入りするような河岸の居酒屋に案内して貰って、ボジョレーの赤でもやりながら、たっぷりアルプスの話をしてきますよ」
シムノンの推理小説が好きな北岡は、そういって笑った。
明日出発という日に、清里は、デパートの食品売場から北海道産のイクラとシシャモの干物をすこし買ってきた。
「これをトランクの隅に入れていって、彼女に渡してくれないか、好物だから」
「お安い御用です。なにか言付けがあったら、お伝えしますよ」
「べつに……まあ、気の抜けたビールみたいになってるけど、なんとかやってる、そう伝えて貰おうか」
彼は、冗談めかしてそういった。
その正月、清里は、初めて恒例の凧《たこ》作りを怠った。材料は暮れのうちに買いそろえたのだが、どうにもその気になれなくて、一日延ばしにしているうちに、短い休暇が明けてしまった。
来年、また作ることにしよう。凧なんか、作りたいときに作ればいい。なにも子供のころの習慣を生涯つづけることはないわけだ――凧の材料をそのまま物置の棚にのせるとき、彼は弁解するようにそう思ったりしたが、やはり留美と別れて以来、自分が何事にも前のような意欲を持てなくなっていることを、自分でも認めないわけにはいかなかった。
彼は、もう随分前から、なにをするにもまず億劫な気持が先に立って、めっきり根気がなくなっている自分に気がついていた。
年が明けて、最初の日曜日の昼ごろ、彼が二階の窓から、前の空地で近所の子供たちがビニール凧を揚げているのをぼんやり眺めていると、高子が階段を小走りに昇ってきて、
「あなた、北岡さんからお電話」
といった。
「北岡?……そうか、帰ったんだな」
彼は、留美の消息を聞きたくもあり、聞きたくもないような気持で、高子のあとから茶の間へ降りた。
「ああ、デスクですか。きのうの夕方、無事に帰ってきました。有難うございました」
北岡の張りのある声が耳に飛び込んできた。
「お帰り。どうだった、アルプスは」
「そりゃあ、もう、素晴らしかったですよ。そのことはあとでゆっくり御報告します」
北岡はそういってから、急に声を落して、
「きょうは、午後からなにか御予定がありますか?」
「いや。べつにないけど」
「じゃ、ちょっとお邪魔して構いませんか?」
「うちへ? それは構わないが、どうしたんだい、急に」
「実は、神永さんのことなんですがね、電話じゃ長くなりますから……」
「じゃ、僕の方から出かけるよ」
と清里は即座にいった。
「どこか途中で落ち合おうよ。きのうヨーロッパから帰ったばかりの人に、こんなところまできて貰うのは恐縮だ」
「僕の方は一向に構わないんですがね」
「まあ、無理をするな。僕が出かける」
「そうですか。なんだか悪いですね、呼び出したみたいで」
「そんなことはないよ」
「どうせ明日から社へ出ますからね、そのときでもいいかと思ったんですが、ちょっとしたお土産も買ってきたもんですから……」
「それはどうも。そんなら、なおさら、きょうの方がいい」
彼は、落ち合う場所と時間をきめて、電話を切ると、
「おい、ちょっと新宿まで出かけてくるよ」
と高子にいった。
「あら……北岡さんとお会いになるの?」
「そうなんだ。フランス土産を届けてくれるっていうんだけど、悪いからね。こっちから貰いにいってくるよ」
彼は、急いで身支度をして家を出た。
留美のことで長い話というと、どんなことだろう。北岡の声の様子では、あまりいいことではなさそうだったが――彼は道々そう思ったが、パリ帰りの北岡からどんな話を聞くことになるものやら、まるで見当がつかなかった。
新宿の駅の近くの喫茶店には、北岡が先にきて待っていた。新年の挨拶が済むと、北岡はさっそく紙袋から土産に買ってきたという赤葡萄酒を一本と、
「これでも本場のフォアグラですよ」
といって、ちいさな罐詰《かんづめ》を一つ取り出した。それから、また紙袋のなかへ手を入れるので、
「もう沢山だよ」
と清里が笑っていうと、
「いや、これがあるんですよ」
と北岡はいって、見憶えのある包装紙に包まれたものを、ちょっと袋の口から覗かせてみせた。
清里は、思わず真顔になって、無言で北岡の顔へ目を上げた。その包みが、留美へ渡してくれるようにと北岡に託したイクラとシシャモだったからである。
「……会えなかったんですよ、神永さんに」
北岡は、包みを袋の底へ戻しながらそういった。
「そうか……。それは、残念だったな」
と、清里は相手の顔から目を離さずにいった。北岡は煙草に火を点《つ》けて、
「予定通り、パリに着いてすぐ手紙を出したんですがね、あの住所宛に。ちょっとスイスへいってくるけど、パリではこのホテルにいるから連絡して欲しいと書いて、戻る日にちと、ホテルの所番地や電話番号まで書いて出したんですが、とうとうなんの連絡もなかったんです」
「……どうしたんだろう。旅行中だったんじゃないのか?」
「僕もそう思いましてね、あの人に案内して貰うことは諦《あきら》めたんですが、お預かりしてきたお土産だけはなんとか渡して帰ろうと思って、むこうを発つ前の日に、旅行社の人についてきて貰って、アパートを訪ねていったんです、管理人にでも預かって貰おうと思って……」
北岡はそこで言葉を切って、灰皿に煙草の灰を落とした。
「結局、アパートをみつけかねたわけか」
「いや、アパートはみつかったんです。タクシーの運転手に住所を告げたら、簡単に連れてってくれましたよ。ところが、神永さんがいなかったんですよ、そのアパートに」
清里は、ちょっとの間、黙って北岡の顔をみつめていた。
「……つまり、旅行中だったんだろう?」
「いや、つまり、そのアパートには住んでいなかったんですよ、神永さんは」
清里は驚いたが、すぐに笑い出した。
「そんなはずがないよ。彼女がはっきりと、ここに住んでいるといって知らせてきたんだからね、わざわざ」
「でも、管理人がそういうんですよ、そんな日本人の女性はうちには一人もいないって」
「……言葉が通じたのか?」
「勿論です。一緒にきてくれた旅行社の人が、フランス語が話せる人でしたから」
「……それじゃ、きみは別のアパートを訪ねたんだろう」
「別の、といいますと?」
「アパートの所番地を写し間違えてさ」
北岡は苦笑した。
「実は僕も、帰りの飛行機のなかで、いろいろ思い返しているうちに、そのことに気がついたんですよ。そそっかしいところがありますからね、もしかしたら写し間違えたのかもしれません」
彼はそういってから、いま手帳をお持ちですかと清里に訊いた。
「ああ、持ってるよ」
「それに、パリの住所、控えてあります?」
「ああ、控えてある」
清里は、ポケットから手帳を出した。北岡も自分の手帳を出して、二人はそれぞれ自分で控えた留美の住所を突き合わせてみた。
二人の控えは、そっくりおなじであった。ということは、北岡が写し間違えたわけではなかったのだ。
「……タクシーの運ちゃんには、その手帳をみせたのか?」
「いや、旅行社の人がこれをみながら、運ちゃんにいちいち指示してくれたんです」
「まさか、その旅行社の人が読みちがえたんじゃ……」
と清里はいいかけたが、すぐに自分で、
「そんなことがあるわけがないしな」
と打ち消した。
「そんなふうに疑ったら、きりがありませんよ」
と北岡もいった。
「そうだね。最後は、あの人が間違った住所を教えてくれたんじゃないかということになる」
「だけど、そんなことが考えられますかね」
「それは考えられないな。僕は絵葉書と手紙を貰ったけど、どちらにもおなじ住所が書いてあった。おなじ間違いを二度も繰り返すとは思えないからね」
「じゃ、やっぱり僕らは、間違いなくこのアパートを訪ねたんですよ」
ところが、そこには留美が住んではいなかったのだ。
「ちょっと待ってくれよ」
と清里はいった。
「さっき、きみは、パリに着いてすぐ、あの人へ手紙を出したといったな」
「ええ」
「その手紙は、どうなったんだ。彼女の手に渡ったのか、それとも……」
「あの人の手には渡らなかったんですよ。なにしろ、このアパートには住んでないんですから」
「でも、配達されたのか?」
「ええ。管理人が保管してましたよ。ついでに貰ってきましたけど、なんなら明日おみせしますよ」
「いや、配達されたことがわかれば、それでいいんだ」
それから二人は、ちょっとの間、なにもいわずに顔を見合わせていた。
「そうすると……」
と、先に清里の方がいった。
「どういうことなんだ、これは。彼女がパリへいって結婚した。新居の所番地を知らせてきた。ところが、その所番地を頼りにそこを訪ねていってみると、そんな人はいないという。……どういうことなんだ、これは」
「……まず考えられるのは、最近どこかへ引っ越したんじゃないかということでしょうね」
と、すこし間を置いてから北岡がいった。
「そうだろうな。僕もいまそのことを考えていた」
「最近、なにかの都合で急によそへ引っ越した。引っ越し先の所番地は、まだ知らせていない。そういうケースですね。僕も最初、それを考えたんですが、ちがうんですよ」
「ちがう、というと?」
「アパートの管理人に訊いてみたら、うちにはもともと日本女性の住人は一人もいないんだって、そういうんですよ」
清里は、ひさしぶりに留美の顔をはっきりと頭に思い浮かべた。
「……ひょっとしたら、その管理人は、彼女のことを日本人だとは思わなかったのかもしれないな」
彼は、やがて呟《つぶや》くようにそういって、北岡をみた。
「色は白いし、目は大きいし、ちょっと日本人離れのした顔をしていたろう、彼女」
「そういえば、日本人にしてはバタ臭い顔でしたね」
「それにフランス語は流暢《りゆうちよう》ときている。自分から日本人だといわなければ、わからないんじゃないかな。あるいは、彼女の方から日本ではないどこかの国の人間になりすまして、管理人にもそう思い込ませていたのかもしれないしね」
「なるほど……」
と北岡が、指を鳴らすように右手を振った。
「そこまでは考えなかったなあ」
「いや、それは仕方のないことだよ。こんなことは、こうしてゆっくり考えているから出てくるんでね。僕だって、その場ではとても考えつかなかったろう」
「それにしても、日本女性の住人はいないといわれて、簡単に引き下ったのは失敗でしたなあ」
と、北岡は手のひらで首筋を叩きながらいった。
「日本人ということにはこだわらずに、せいぜい東洋風なといって、あの人の容姿をくわしく説明するべきでしたね」
「まあね。でも、そうしたからって、管理人がわかってくれるかどうかは疑問だからな」
「……やっぱり、あの人の写真を借りていくんだったな」
と北岡はいって、
「アパートを訪ねた帰りに、そう思ったんですよ。念のために、写真を一枚、ファッション班にでも捜して貰って持ってくるんだったって」
「写真をねえ。しかし、誰だってそこまでは気が廻らないよ」
「パリへいけば簡単に連絡がつくと思ってましたからねえ」
「こっちだってそうだよ。まさかきみに、こんな面倒をかけるとは思わなかった。かえって悪いことをしたな」
「いや、そんなことはありませんよ。おかげで、シムノンのメグレものに出てくるようなパリの裏街を、ちょっと覗《のぞ》かせて貰ったわけですからね」
と北岡は笑った。
清里は、北岡の土産を遠慮なく貰い、留美へ届けそこなった土産は適当に処分してくれと頼んで、北岡と別れた。
よく晴れた、穏やかな日曜日の昼下りで、街にも駅にも、初春の華やかさと長閑《のど》けさが漂っていた。彼は、駅の建物へ入る前に、まだ高い陽を仰いで、こんなときは躊躇《ためら》いもなく留美のマンションへ足を向けた去年までの自分のことを、ちらと頭に思い浮かべた。
けれども、留美はもう、どこにもいなくて、自分には、自分の家しか帰る場所がないのだ。
実際――と彼は、郊外の家に帰る電車の座席に腰を下ろしてから思った。自分にとって、留美はもうどこにもいなくなったわけだ、パリにさえも。
彼は、北岡から聞いた話をゆっくり思い出してみた。留美のアパートを訪ねてみたら、そこには留美はいなかったという。全くおかしな話であった。北岡とは、留美は引っ越したのにちがいない、アパートの管理人は留美を日本人だとは思っていなかったのだと、それを一応の結論にしたのだが、彼は、心の底からそう信じているわけではなかった。北岡の手前、無理に楽観的な推測をしてみたまでで、むしろ自分はそれさえ否定したい気持が強かった。
おそらく、留美はそのアパートから引っ越したのではない、最初からそこには住んでいなかったのだ、と彼は思った。そんなら、留美は自分にでたらめな住所を教えてよこしたのだろうか。いや、そうとは断定できない。なぜなら、北岡がその住所を頼りに訪ねていったら、そこに確かにアパートがあったからだ。つまり、街の名も所番地も、全くのでたらめではなかったのだ。ということは、留美とそのアパートとの間には、なにか繋《つな》がりがあると考えていいのではなかろうか。
たとえば――と彼は考えた。留美の結婚の相手が、そのアパートに住んでいる。留美も、結婚後は当然そこで一緒に暮らすことになっていた。それで、自分にもそこの住所を知らせてよこしたのだ。ところが、その後なにか不都合なことができて(それがどんなことかはわからなかったが)、いまだにそこへは移れずにいる――そうは考えられないだろうか。つまり、留美は、いまのところはまだ別な場所に住んでいるのだ。
彼は、後悔した。やはり留美の結婚相手の名前ぐらいは訊いておくべきであった。それから、留美の学生時代からの知り合いだという旧姓森瑛子という女性のことを、もっとくわしく訊いておくべきであった。パリでの留美のことは、その森瑛子がなにもかも知っているだろうから。
彼は、電車の天井を仰いで嘆息した。そのまま、雑誌の中吊《なかづ》り広告をみるともなしに眺めているうちに、ふと、その広告のなかに、小説家の風戸龍之の名があることに彼は気づいた。そうだ、今年は風戸さんのところへ御年始にいかなかったな、と彼は思った。それから、そういえば、あの人の知人が何人かパリにいると聞いたことがあるな、と思い出した。だから、パリにいる日本人のことならなんでもわかるのだと、いつかそういって自慢していた。
あの人に、留美の消息を調べて貰えないかと頼んでみようか。留美のことは、ただ仕事の上の尋ね人だといえばいい――そう思ったとき、電車が降りる駅に近づいて揺れはじめた。
彼は、改札口を出るとすぐ、駅舎の隅の売店へいって、そこの赤電話のダイヤルを廻した。さいわい風戸龍之は在宅していて、夫人に代わってすぐ電話口に出た。
「正月早々、つかぬことを伺いますがね」
彼は、挨拶を済ませると、そういって、パリにいる親しい知人たちはいまでも健在だろうかと尋ねてみた。
「ああ、健在だよ。カメラマンの小池君、建築家の園部君、画家の水谷さん……みんな元気にやってるらしいけど、どうして?」
「いつか、パリにいる日本人のことなら、なんでもわかると仰言《おつしや》ってましたね」
「うん。連中に頼めば、大抵のことはわかるけどね」
「一つ、頼んで頂きたいことがあるんですよ」
「ほう。どんなことを?」
「ある女性の消息が知りたいんです。去年の春まで、こっちでファッション関係の仕事をしていた女性ですがね、それが結婚するといってパリへ渡ったまま、消息がわからなくなったんですよ。その女性がいまでも本当にパリにいるのかどうか、いるなら、どんなところで、どんな暮らしをしているのか、それが知りたいんですけどね」
と清里は一気に話した。
「なるほど。で、その女性が結婚するといっていた相手は、日本人かね。それとも……」
「フランス人です。でも、その相手のことは、ほとんどなにもわかってないんですよ、ただ相当なのっぽらしいということのほかは」
「のっぽ、ねえ。ちびより質《たち》が悪いや」
と風戸は笑って、
「その女性のことは、もっとくわしくわかるかい?」
「わかります。それは、電話じゃなんですから、明日手紙に書いてお送りしようと思うんですが」
「じゃ、そうしてよ。ともかく頼んでみるけど、急ぐ?」
「いや……でも、早ければ早いに越したことはないんですが、相変らずお忙しいんでしょう?」
「ところが、暮れには意外に早く仕事が片づいてね、目下悠々と寝正月だよ。飲みにおいでよ」
「ええ、そのうちに……」
といって、電話を切ろうとすると、
「清さん、念のために訊いておくけどね」
と風戸がいった。
「その女性は、あんたとはどういう関係の人?」
清里は、ちょっと返事に詰まったが、やはり風戸には白々しいことはいえなかった。
「いずれそのうちに、折をみてくわしくお話しますよ」
そういうと、
「わかった。もう、なんにも聞かなくていいんだ」
と笑いを含んだ声で風戸はいった。
清里は、電話を切って外へ出たとき、不意に額がひんやりして、いつのまにか汗をかいているのに気がついた。
翌日の午後、彼は一階の資料室に降りて、風戸に留美のことを知らせる手紙を書いた。留美を捜す手掛かりになりそうなことを、残らず書き並べて、読み返していると、そこへ桂が入ってきた。
よお、と清里は笑顔になって、読み返していた手紙をさりげなく四つに畳んだ。
「やっぱり、ここだ」
と桂は、ほかに誰もいないのを確かめるようにあたりを見廻しながら近づいてきて、
「席にいないと、大概ここだな。まるで資料室の主じゃないか」
「近頃、どうも編集部にいると落ち着かなくてね。手紙を書くときなんかは、ここへ降りてくるんだ」
清里はそういいながら、畳んだ手紙を封筒に入れて、風戸龍之様と書いた表を出して机の上に置いた。桂は、それをちらとみただけで、
「編集部のデスクが、編集室を居心地が悪いというのは、困るな。血圧のせいじゃないのか? いらいらするのは」
清里は厭《いや》な気がしたが、苦笑して、
「べつにいらいらするわけじゃない。血圧のことなんか、もう気にしてないよ」
といった。すると、桂が、
「いやいや、大いに気にした方がいいぞ。知ってるか?」
といって、腕組みをした。
「……なにを?」
「ここの室長の中尾さんが、肺癌《はいがん》だってさ」
それは初耳で、清里は驚いた。この資料室の中尾室長がすこし前から社を休んでいることは知っていたが、まさか癌だとは思わなかった。
「風邪だと聞いていたけどね」
「本人はそう思ってたらしいが、検査したら肺癌だとわかって、すぐ入院したそうだ」
「……で、悪いのか」
「悪くなければ即日入院なんかしないだろう。そう悪くないにしても、長引くだろうな」
ぼんやり頷《うなず》いていると、
「どうだい、編集部を出てここへ移ってきたら。資料室長代理ということで」
「冗談じゃないよ」
と清里は目を大きくして桂をみた。
桂は、細い躯《からだ》を弓なりに反らせて笑うと、
「ところで、ヨーロッパへいってみる気はないか?」
といった。
「ヨーロッパ?」
と、清里は思わず警戒する目つきになった。桂が留美のことを知るわけがなかったが、急にそんなことをいい出した彼の真意がわからなかったからである。
「ひとくちにヨーロッパといっても、広うござんしてね」
と、注意深く彼はいった。
「ベネルックス三国って、わかるか?」
「わかるかは、ひどいよ。オランダ、ベルギー、ルクセンブルクの三国だろう」
「その通り。その三国の観光局から、日本のジャーナリストの視察団を招待するという通知がきたらしいんだ。人員は全部で二十名、うちの社の割り当ては二名だって。どうせ帰ってから見聞記を書くことになるだろうから、編集者と、それにカメラマンがついていくってことになるだろうな。そこで、うちの社で筆の立つ編集者はということになると、誰がみても〈スタイリスト誕生〉の筆者だからね」
「よしてくれよ」
と清里は苦笑していった。
「こっちはオランダなんかには興味がないんだ」
「興味がなくったって、上から命令がきたら仕方がないだろう。そのうちに白羽の矢が立つかもしれないよ」
と、桂は意味ありげに笑っていった。
風戸龍之へ留美のことを書き送ってから半月ほど経ったある日、清里は、沖田という人事担当重役に呼ばれて、思いがけなく春の人事異動の内示を受けた。
異動先は、奇《く》しくも先日、桂が冗談にいった資料室の室長であった。
「中尾君がちょっと厄介な病気になってね、当分出社できそうもないんだよ。勿論《もちろん》、きみには一応拒否権があるわけなんだが、われわれとしては病気のことを含めて、きみの将来を充分考慮したつもりなんだがね」
全く予想もしなかったことで、清里は、自分のことながら半ば呆気《あつけ》にとられて沖田の顔をみつめていた。
「なにしろ、きみは……」
と沖田はつづけた。
「わが社の編集畑には、なくてはならない人材だからね。いまのところは病気による支障はなくてもだ、このまま月刊の劇務をつづけていて、もし倒れられることにでもなったら、それこそ社としては大きな損失だからね。しばらく第一線から退いて、充分英気を養って貰って、また折をみて今度は責任者として復帰して貰おうというのが、われわれの願いなんだよ。まあ、そこのところをよく考えてだな……」
けれども、どんな理由であれ、編集者がいちど第一線を追われて閑職に退いたが最後、もはや容易なことでは復帰できないものだということぐらい、入社して二十年近くにもなる清里には、よくわかっていた。それから、拒否しても結局は無駄骨で、かえって立場を悪くするだけだということも。
「仰言ることはわかりましたが、突然のことですから……。すこし考えさせて貰えませんか」
彼にできる抵抗は、せいぜいそのぐらいのものであった。
「ああ、いいとも。ゆっくり考えてくれたまえ」
沖田は、愛想よくそういった。
「ただ……一つだけ伺っていいでしょうか」
「ああ、いいよ」
「私の後任は誰になりますか」
「それがねえ……」
と、沖田は眼鏡を外して、ハンカチでゆっくりと玉を拭きながらいった。
「なにしろ、きみの後継ぎだからね、それだけの人材はなかなか見当らなくて、実は困っているところなんだ。まあ、いずれ……」
「桂は、どうでしょうか」
清里がそういうと、沖田は眼鏡の玉を拭く手を止めて、訝《いぶか》しそうに彼をみた。
「桂?……出版部のかね」
「そうです。私と同期の桂です」
「……それは、きみの希望かね」
「いいえ。ただ、そんな腹案がおありじゃないかと思って、伺っただけなんですが……」
「それは、ないよ。桂君だって、出版部の重要なポストにいるんだからね。桂の線は、まず十中八、九はないな。尤《もつと》も、きみが是非にと希望するなら、別だがね」
清里は、黙っていた。
「ところで、きみには、もう一つ話があるんだよ」
と、沖田が眼鏡をかけ直していった。
「もう耳に入っているかもしれないが、ベネルックス三国からの招待旅行の件だがね、社では、きみにいって貰おうと思ってるんだよ。まあ、むこう持ちの観光旅行だから、のんびり見物してくればいい。現地解散だから、そのあと一週間ぐらい、好きなところを廻ってきてもいいしね。そのことも一緒に考えてみてくれないか」
清里は、浮かぬ気持で、編集室に戻ってきた。留美と別れた直後、急にあたりが色褪《いろあ》せてみえたように、編集室の空気がどことなくよそよそしく感じられた。留守の間に編集長が席を外していて、居合わせた部員たちもわざと自分とは目を合わせないようにしているような気が、彼にはした。
オランダ旅行だって?――と彼は、机に両|肘《ひじ》を突き、洗面でもするように両手で何度も顔を撫《な》で下ろしながら思った。資料室へ飛ばしておいて、そんなことで御機嫌を取ろうとしている。その手には乗るものか。
右手を固く握って、左の手のひらをぴしゃりと叩くと、まわりの者が二、三人、びっくりして顔を上げて、彼をみた。
彼は、家に帰っても、高子には異動の内示のこともヨーロッパ旅行のことも黙っていた。病気を理由に編集部を追われるのなら、こちらも筋を通して、旅行の方も病気を理由に断わろうと彼は思っていた。
ところが、その翌々日の朝、佐野弓子が廊下で顔を合わせると、いきなり、
「ねえ、パリへ寄ってきてよ」
といった。
「パリへ? なんの話だ」
「聞いたわよ、局長から。オランダまでいってくるそうじゃない」
「その話なら、まだはっきり返事をしたわけじゃないんだ」
「なにをぐずぐずしてんのよ。考えることなんか、なんにもないじゃない。折角のチャンスなんだから、いっておいでよ。それで、帰りにパリへ廻って、ついでに私の用も足してきてよ」
「……用って、どんな?」
「神永さんにね、ちょっと会ってきてほしいの」
彼は、黙って弓子をみつめていた。
「どうしたの? ほら、あの神永さんよ」
「……わかってるよ」
と彼は力なくいった。
「あの人、パリのファッション界の情報を集めてくれてるらしいから、ちょっと会ってきて貰いたいのよ。思いがけない収穫があるかもしれないからさ」
「……彼女から便りでもあったのか?」
「うん。きのう葉書を貰った」
「きのう?」
「みせてあげようか。いま、ちょっとキッチンへいってくるから、あとで席へ持っていくわ」
その、きのう届いたという弓子宛の絵葉書には、確かに留美の筆蹟《ひつせき》で、こう書いてあった。
『すっかり御無沙汰しておりますが、お変りございませんか。私の方はおかげさまでパリ暮らしにもすっかり馴れて、元気にしておりますので、他事ながら御休心ください。そろそろ主人の協力を得て好きな仕事を始めております。いつかお役に立てるように、こちらでの見聞をくわしくノートしたりしています。主人がわがままを聞いてくれますので、べつにこれといった不自由もなく、まずは優雅な生活です。清里様にも、どうぞよろしく』
その絵葉書の所番地は、彼が手帳に控えたものと一字もちがっていなかった。すると、留美はいまこそ、北岡が訪ねてむなしく帰ったあのアパートに住んでいるのだろうか。それとも、依然としてそれらしく装っているだけなのだろうか。彼は、その絵葉書を仔細《しさい》に点検したが、留美の謎《なぞ》を解く手掛かりはなにもみつからなかった。
その日の午後、彼は、風戸龍之から待ちかねていた電話を貰った。
「あんたの尋ね人の消息が、やっとわかったよ。きょう、パリにいる小池っていうカメラマンから報告が届いたんだけど……どうするかね」
「伺いますよ、この電話でよろしかったら」
と彼はいったが、風戸のなにやら話しにくそうな気配で、彼にはすでに悪い予感がしていた。案の定、
「それがねえ、あんたにはあまりいい知らせじゃないんだよ、おそらく」
と風戸はいった。
「構いません、どうぞ」
「どうもね、気の毒なことになってるらしいんだよ、この神永留美って人は」
「というと、結婚がうまくいかなかったんですか」
「そう……まあ、うまくいかなかったんだねえ」
「じゃ、離婚でもしたんですか」
「いや、そうじゃないんだ。まだ結婚もしてなかったんだよ。してなかったというよりは、できなかったんだな」
「どうしてでしょう」
「相手の男に、婚約者がいたからだよ」
「えっ、婚約者が……?」
清里は、あやうく大きな声を出すところだった。
「そいつはフランス女だそうだがね。どうやら神永って人は、相手にそんな女がいるってことを知らなかったらしいな」
清里は、すぐには言葉が出なかった。
「知らずに、結婚するつもりでパリへいった。当然、悶着《もんちやく》が起こるよね。だけど、むこうはおなじフランス人だし、れっきとした婚約者だからな、どうしてもこちらは不利な立場に立たされることになる……」
清里は、不意にむらむらと腹が立ってきた。
「結局、彼女は騙《だま》されたわけですか」
「結果的には、そういうことになるね。相手の男が最初から騙すつもりだったのかどうか、もしかしたら婚約者と別れてこの人と結婚するつもりだったのかもしれないが、結局それはうまくいかなかった。結果的には、騙した、騙されたということになるだろうな」
なんということだ、と清里は、心のうちで舌うちした。黙って唇を噛《か》んでいると、受話器を持つ手が顫《ふる》えてきた。
「まあ、この人の場合は別かもしれないが、これと似たようなことはよくあるらしいよ」
と風戸はつづけた。
「独身の若い女性が金を貯めて、ヨーロッパへ一人旅をする。みた目にはなかなか優雅だが、これがとんだ結末になることが珍しくないそうだ。むこうには、そんな旅行者を食いものにする悪い男が、わんさと目を光らしているんだからね。むこうの男ときたら、口はうまいし、これぞと思う女には徹底的にサービスするからな。そんなことには馴れていない日本の女は、ついふらふらとしてしまう。なかには相手のお上手を真に受けて……」
「しかしですね」
と清里は、堪らなくなって風戸の言葉を遮《さえぎ》った。
「しかし、彼女からは、パリで仕合わせな結婚生活を送っているという意味の便りがきてるんですよ」
「ほう。それは、いつの話?」
「つい、きのうです。ですから、仰言ることがどうも信じられなくて……」
風戸龍之は、ちょっとの間、黙っていたが、やがて、
「しかしねえ、清さん、あんたが信じたくない気持はわからないこともないけど、これは事実なんだからね。時間をかけて調べた結果の報告なんだから、これが事実だと思わないわけにはいかないじゃないか」
といった。
全く、調査を依頼しておきながら、その調査結果が信じられないなどとは、とてもいえた義理ではなかったのだが、清里は、あまりにも意外な報告に我を忘れかけていた。
「……それじゃ、きのう届いた便りのことは、どう解釈すればいいんでしょうか」
と彼はいった。すると、風戸はすこし間を置いてから、静かな口調で、
「それを僕にいわせるのかね、清さん」
といった。
清里は、ふと胸を突かれたような気持で口を噤《つぐ》んだ。
「まあ、あとでゆっくり考えてごらんよ。異国で、心ならずもみじめなところに落ち込んだ人間が、故国の誰彼にそんな夢みたいな便りを書く……。その女性の気持が、僕にはわかるような気がするけどねえ」
風戸は、声を落としてそういってから、
「とにかく、僕は小池君からの報告をあんたに取り次ぐだけだ。小池君によれば、あんたがこの人の住所として知らせてくれた所番地には、相手の男と婚約者が一緒に住んでいるだけで、この人自身が住んだ形跡は全くないということだよ」
「じゃ、彼女は、いま、どこで、どんな暮らしをしてるんでしょうか」
「それがねえ、そのことについては、くわしいことはなにも書いてないんだよ。ただ、いうも気の毒なことになっていると書いてあるだけだ。でも、これは小池君の怠慢じゃなくて、この人のためを思ってわざと書かなかったんだと思うけどね、僕は」
「書かなかったけど、知っているわけですね、小池さんは」
「それは勿論、知ってるだろう。もし、それがどうしても知りたいのなら、もういちど問い合わせてあげてもいいよ」
「いや……たとえば、パリへいって小池さんに会えれば、彼女がいるところへ連れてって貰えるわけですね?」
「……誰がいくの?」
「僕ですよ」
ほう、と風戸が驚いたような声を洩らした。
「ちょっと当てがあるんですよ、べつに、そのことのためにわざわざ出かけるわけじゃないんですが。そのことはあとでくわしくお話しますが、ともかくパリへ寄ることになったら、小池さんに会えるようにして頂けますね?」
「それはお安い御用だよ。勿論、あんたがどうしてもその人に会いたいっていうのなら、案内してくれるさ、きっと」
「わかりました。そのときはまた御相談します。どうもお手数をかけました」
清里は、電話を切るとすぐ、編集室を出て、重役室に沖田常務を訪ねていった。
「実は、ベネルックス三国の視察旅行の件ですが、私でよろしかったら、お引き受けしたいと思います」
そういうと、沖田は、
「そうか。それはよかった。正式に決定しよう」
と頷いて、
「ということは、異動の方も、異存がないということだね?」
それは覚悟の上だから、清里は無言で頭を下げた。
「結構。元気でいってきたまえ」
と常務はにこやかにいった。
清里が、写真部の桑野と一緒にジャーナリストの視察団に加わってベネルックス三国へ出発したのは、三月下旬のことであった。
一行は、アムステルダムに到着したのち、十日間にわたって、オランダ、ルクセンブルク、ベルギーの各地を視察して廻り、ベルギーの首都ブリュッセルを最後に日程を終えて、解散した。清里は、予定通り、またアムステルダムまで戻って日本へ帰る桑野とそこで別れて、やはりついでに取材の仕事を持ってきていた他社のカメラマンたち数人と一緒に、空路パリへ向った。
パリの空港には、風戸からの連絡でカメラマンの小池が出迎えてくれていた。清里は、小池とは初対面だったが、一緒のカメラマンの一人が顔を知っていて、あの顎鬚《あごひげ》を生やしてジーンズの上下を無造作に着ている人が小池さんだと教えてくれたのである。
遠くから会釈をしながら近づいていくと、その人は腕組みをほどいて、鬚のなかから白い歯をみせた。
「いらっしゃい。お待ちしてました」
「清里です。お世話になります」
ひとまずホテルに落ち着くことにして、タクシーに乗った。ちょうど黄昏《たそがれ》時で、街には黄ばんだ光がみなぎっていた。小池のことは、出かけてくる前に風戸からくわしく聞いていたから、改めてなにも訊《き》くことはなかった。齢は三十六と聞いたが、鬚のせいか、もっと老けてみえた。
「こちらは、もう五年になるんですってね」
「ええ、いつのまにか……」
「風戸さんに、パリではなんでも小池さんに任せておけば間違いがないからって、そういわれてきたんです」
すると、小池は苦笑して、
「まあ、大抵のお役には立てると思うんですが、正直いって今度の役は、少々気が重いんですよ」
といった。
清里は忽《たちま》ち心が翳《かげ》った。ただ会わせるだけで気が重くなるほど、留美はみじめなことになっているのか。そう思うと、すぐにそのことを尋ねる気にはなれなくて、
「すみません、変なことをお願いして。実は彼女の友達が一人、このパリにいるはずなんですがね、生憎《あいにく》……」
そういいかけると、
「諸橋《もろはし》っていう人でしょう。諸橋瑛子。旧姓は確か、森っていいましたね」
と小池がすらすらといった。
「そうです、その森瑛子です」
清里はそういうと、言葉が喉《のど》に詰まって、黙ってしまった。
「五代商事のパリ駐在員の奥さんですね。ところが、残念ながら、いまはここにはいないんですよ。去年の九月に、御主人がスペインのバルセロナへ転勤になったもんですから」
清里は、口を噤んだまま頷いた。そこまで調べが行き届いているのなら、やはり小池の報告は確かなものだったと思わなくてはいけない。彼は、これで、どうか人ちがいであってくれたらという一縷《いちる》の望みも絶たれたと思った。躯からいちどに力が抜けて、彼はシートにぐったりと沈み込んだ。
「やはり、お会いになりますか」
と、小池が前を向いたままいった。
「会います、勿論。そのためにきたんですから」
清里は喘《あえ》ぐようにいった。小池は腕時計をみた。
「いずれにしても、明日になりますね。今夜はホテルでゆっくりお休みください」
清里は、パリに着けばすぐにでも留美に会えるものだと、簡単に考えていた。だから、その日も、今夜のうちには会えると思っていて、小池がなぜ、いずれにしても明日になるというのか、わからなかった。それで、
「明日、というのは、どうしてです? 今夜は御都合が悪いんですか?」
と訊いてみた。すると、
「いや、僕の方は構わないんですがね。ただ、あの人がいないでしょうから、部屋に」
と小池はいった。
「部屋に、というと、アパートですか」
「ええ、下町の。あまりお上品じゃない街のアパートですがね」
「どうして今夜はそこにいないんですか」
「外へ働きに出てるんですよ」
「働きに?」
「ええ。ですから、今夜だけじゃなしに、夜は大概留守なんです」
清里は、ちょっとの間、黙っていた。それから、
「夜、外へ働きに……。どうしてそんな……」
と呟くようにいった。
「まあ、働かなきゃ暮らしてゆけないってことでしょうねえ」
「しかし、彼女には貯えが……独りでも当分暮らしてゆけるくらいの貯えがあったはずなんですけどね」
「そうですか。そこまでは僕にはわかりませんがね。でも、いまのあの人に、そんな貯えがあるとは思えませんねえ。男に、食われちゃったんじゃないですか?」
「まさか」
と清里は、吐き出すようにいった。
「ところが、案外そんなケースが多いんですよ。小金を貯めてパリへきて、男にすっかり捲き上げられて捨てられて、仕方なく働いている日本の女が、大勢いますよ。しかし、働くといっても、そんな連中にまともな働き口があるわけがありませんからねえ……」
清里は、留美のことはもうなにも訊くまいと思ったが、誰にともなく無性に腹が立ってきて、
「どうして日本へ帰らないんですか、そんな連中は。こんなところにうろうろしてないで、さっさと日本へ帰ったらいいじゃないですか」
と怒ったようにいった。
「そうですね。僕も同感です。でも、あの連中にしてみれば、意地もあるでしょうし、見栄《みえ》もあるでしょうしね。帰るに帰れなくて、このパリという街にしがみついているわけですよ」
そういってから、小池はしばらく黙っていたが、やがて、
「清里さん、どうもあなたのお気持に水をさすようですが……僕はそんな女たちを何人も知っているからいうんですけどね、いまのあの人にすれば、正直いって日本での知り合いに会うのはかなり辛いことだと思いますよ」
といった。
けれども、留美を案じて、はるばるパリまで出かけてきた清里には、そんなことは余計なお世話だとしか思えなかった。
「だから、会うなといわれるんですか」
「いや、会うなとはいいません。ただ、会わない方がいいような気がするんです、お互いに」
「お互いに? しかし、それは二人の間柄にもよるでしょう。僕はやっぱり会います。会って日本へ連れて帰ります。あの子を……留美を救うのは、いまは僕しかいないんですよ」
彼は、気が高ぶってきて、不覚にも涙ぐんだ。ようやく輝きを増してきた街の灯が、まわりに無数の針を散らしてみえた。
翌朝、彼は八時過ぎに目を醒《さ》まして、シャワーを浴びたりしてから、ホテルの食堂で遅い朝食を済ませてくると、窓際に椅子を寄せて、ただ目の下にひろがるパリの街を眺めて過ごした。よく晴れてはいたが、生暖かい風がぼうぼうと吹く日で、遠くの街は埃《ほこり》っぽい色に烟《けむ》っていた。
この街のどこかに、留美がいるのだ――その留美と再会する瞬間のことを思うと、とてもじっとしていられなくなって、不意に立ち上り、ひとしきり部屋のなかを歩き廻ってから、また窓際の椅子に戻ってくる。そんなことを彼は何度も繰り返した。
午後一時に、約束通り小池が迎えにきてくれた。
「昼食はもうお済みですか」
「いや……朝が遅かったもんですからね。あなたは?」
「僕も、こっちへきてからずっと朝昼兼用でしてね」
「なんでしたら、あとでこれを一緒にやりましょうよ」
清里がそういって、紙袋に入れて持ってきたものを軽く叩いてみせると、小池は訝《いぶか》しそうな顔をした。
「米と、イクラですよ、北海道産の。神永って人は、炊き立ての飯にイクラをのせて食うのが大好きでしてね」
小池は、清里の顔をちらりとみたきり、なにもいわずにタクシーへ手を上げた。
タクシーは、街なかを長いこと走ってから、薄汚れた場末の通りで停まった。
「降りましょう。この路地の奥です」
煙草の袋や吸殻や、果物の皮や犬の糞《ふん》で汚れた石畳みの歩道が、陽に晒《さら》されていた。路地へ折れると、そこを吹き抜けてくる生暖かい風が、奥の方から饐《す》えたような匂いを運んできた。路地の両側には、窓の多い五、六階ほどの古びた建物が並んでいたが、真昼なのに人影もなく、あたりはひっそりとして二人の靴音だけが高く響いた。
「いやに静かなところですね」
「このあたりに住んでいるのは、大概夜が遅い連中ですからね。いまごろ、やっと夜が明けるんですよ」
小池はそういうと、とある建物の入口を指さし、そこの石段を駈け昇っていって、ドアを開けた。すると、牧場《まきば》の羊が首でも振ったようなのどかな鈴の音がして、すぐ右手のドアから、目の落ち窪《くぼ》んだ老婆の顔が覗いた。
「お早う、マダム」
小池はその方へ歩いていくと、小声でなにか言葉を交わして、ズボンのポケットから出した物を老婆の手に握らせた。老婆は、すぐ懐中電燈を持って出てきて、清里をじろりと一瞥《いちべつ》した。
「五階です。足元に気をつけてください」
小池がいった。二人は、老婆のあとから、馴れない目を瞠《みは》るようにしながら暗い階段を昇っていった。
「もし、ドアが開かなかったら」
そばで、小池の声だけがした。
「そのときは、諦《あきら》めて、素直に引き揚げることにしませんか」
「……留守なら、出直しますよ」
「いや、留守ではなくてです」
留美がいるのに、ドアを開けないということがあるだろうか。
「そのときは僕が声をかけます」
「ですから……それでも開かないときはということですよ」
そんなことって、あるはずがない。清里はそう思ったが、それを口にする気がしなかった。彼は、黙って昇りつづけた。手すりを掴《つか》む手のひらが、汗のせいか手垢《てあか》のせいか、油に濡れたようにじっとりしてきた。
ようやく五階まできた。踊り場の脇の小窓から差し込むわずかばかりの光が、突き当りに二つ並んでいるドアをぼんやりと照らしていた。老婆は、その右側のドアを指さして、小池になにかいった。
「ここが神永さんの部屋です」
清里が無言で進み出ると、小池がうしろから腕を抑えた。
「いや、このマダムに呼んで貰いましょう。その方がいい」
小池に促されて、老婆がドアをノックした。すこしして、ごとりと部屋のなかで物音がしたが、それきりなんの返事もなかった。老婆はまたノックした。
すると、ドアのすぐ内側で、女の短い声がした。老婆は二人を振り返って、人差指を一本立てた。老婆の鴉《からす》のような嗄《しわが》れ声が、踊り場に響いた。
ドアの内側で、掛け金を外す音がした。それから、ノッブが音を立てて廻って、ドアが開いた。清里は、もう堪らずに二人を押し退《の》けるようにして前へ進み出たが、老婆の懐中電燈に照らし出された女の顔を一と目みて、思わず怯《ひる》んだ。女は、髪がブロンドで、顔には眉がなかったからである。
もしも留美が先に目を瞠ってくれなかったら、彼は人ちがいだと思っただろう。彼は、女の目がみるみる一杯に見開かれるのをみて、それが留美だと辛うじてわかった。あの姫谷温泉の吊橋《つりばし》の上で初めて出会ったときの、傷ついた野獣のように光る目。それから、あの札幌の夜以来、彼を躯に迎え入れるときは、いつまでも馴れずに、きまってみせた驚きに満ちた大きな目が、そこにあった。
「留美だ……留美だよ」
と彼は口のなかで呟いた。
けれども、なんという変りようだろう。髪をブロンドに染め、眉毛を剃《そ》り落としているばかりではなく、目のまわりは黒ずみ、頬骨は高く尖《とが》って、灰色に削《そ》げた頬はすっかり艶《つや》を失っていた。彼はこんなにやつれ果てた留美の顔は想像したこともなかった。
「留美……しばらく。僕だよ。清里だよ」
彼は、そういいながら留美の方へ手を差しのべた。すると、留美が目を瞠ったまま、うしろへよろめくようにドアを離れた。長い薄物のネグリジェの、裾でも踏んだのかと思ったが、そうではなかった。留美は、よろめくように後退《あとしざ》りしていた。
「……どうしたの? もう大丈夫だよ。僕がきたんだから、もうなんにも心配することはないんだ」
けれども、そのとき、留美の顔が一瞬ゆがんだ。
「許して……」
留美は、かすかな声でそう呟くと、身をひるがえして部屋の奥へ駈け込んでいった。そのまま、黄ばんだレースのカーテンが垂れているガラスのドアに、躯ごと激しく突き当ったかと思うと、そのドアが勢いよく外側に開いた。どっと吹き込んでくる風に、カーテンが天井の方まで舞い上り、留美はたじろいだかにみえたが、それもただ一瞬のことにすぎなかった。留美は、バルコニーの手すりをひらりと飛び越えて、それきり視野から消えてしまった。
清里は、老婆の悲鳴に背中を突き飛ばされて、駈け出した。バルコニーの手すりから身を乗り出すと、宙を泳ぐ留美の手と、大きくひろがったネグリジェの裾のはためきとがみえた。
小池がなにか叫んで、うしろから抱きついてきた。それを振りほどくようにして、もういちど下を見下ろしたときは、留美はすでに襤褸《ぼろ》きれのように陽の翳《かげ》った石畳みの道に横たわっていた。そのそばに、彼の紙袋から飛び出した米の包みがあとを追うように落ちていって、飛び散ると、忽ち、どこからともなく舞い降りてきた鳩の群れが、争いながらそれを啄《ついば》みはじめるのがみえた。
清里は、手すりにつかまったまま、足元から沈み込むようにバルコニーに崩れた。
――それから、どれほどの間、彼は魂が抜けた人のように茫然とバルコニーの手すりにもたれたまま、レースのカーテンが風にむなしくひるがえるのを眺めていただろうか。
彼は、うつろな頭に、豊島園の裏手の留美のマンションを、ぼんやり思い浮かべていた。きょうは南風だな。こんなにカーテンが部屋のなかへめくれるのは、浴室の窓もドアも開けっ放しにしてあるからだ……。警察の車なのか、救急車なのか、下の方からのどかなサイレンの音がきこえたが、彼は、相変らず風がぼうぼうと吹き寄せるバルコニーにいて、遥《はる》かに遠くなってしまった留美との思い出を追っていた。
小池が警官を案内してきて、彼はようやく我に返った。もし、この部屋を訪ねたのが彼独りだったら、彼は留美をバルコニーから突き落としたのではないかと疑われたかもしれない。けれども、案内の老婆と小池とが、留美が自分で飛び降りたことを証言してくれた。警官たちは、二人の説明を聞きながら、部屋のなかとバルコニーとをざっと点検しただけで、納得した。
小池に腕を抱えられて下へ降りたときは、もう検屍《けんし》が済んで、留美の遺体は救急車に乗せられていた。
「これから、一応|身許《みもと》不明者を収容する病院へ運ばれるそうです。こうなると、もうとても僕の手には負えませんからね、大使館の領事部の人にその病院の方へきて貰うことにしてあるんです。一緒に参りましょう」
と小池がいった。
その病院で、留美の死が確認され、領事部の人の立ち会いで死亡証明書が交付された。
「この証明書を持って火葬場へいくことになりますが、こちらにはあいにく骨壺というものがありませんでね、ほとんどが土葬ですから」
と領事部の人がいった。
「それで、なにか代わりになるような入れ物を用意しなきゃならないんですが……。故人が日頃愛用していたもので、適当な容器があるといいんですがね」
清里は、また火葬場で落ち合うことにして、それを捜しに小池と一緒に留美のアパートへ戻った。がらんとした殺風景な部屋は、捜すのに手間は掛からなかった。ベッドの枕元の戸棚を開けると、そこにぽつんと、パイナップルほどの大きさの陶製の壺があった。蓋を取ってみると、底に小銭と布袋入りのお守りと、それに見憶《みおぼ》えのある銀のロケットが入っていた。
小池がそのロケットを開けてみて、ちらと清里へ目をやってから、静かに閉じた。
「これがいいでしょう。ジャムが入っていた壺ですがね、宝石箱みたいに使っていたようですから。小銭だけ取って、あとは一緒に埋めてあげたらどうですか」
と小池はいった。
留美は、ジャムの空壺に入って日本へ帰るのである。その壺を小脇に抱えて暗い階段を降りながら、清里はさすがに涙が流れた。
火葬場では、火葬証明書というのをくれたが、領事部の人が、税関を通るときはこれをみせるといいと教えてくれた。
「北海道の実家の方へは、こちらから外務省を通じて連絡することになります」
「それでは、ついでに、お骨は知人の清里という者がお届けするからと連絡して頂けませんか」
と彼は頼んだ。
その晩、小池は、ホテルの部屋で一緒に通夜をしてくれた。彼は、清里が新しい涙を流すたびに、首をゆっくり横に振りながらいった。
「あなたのせいじゃありません。あなたがきてくれたおかげで、あの人は安心して死ねたんです。あの人はむしろ仕合わせだったんですよ……」
清里は、予定を繰り上げて、翌日の日航機で帰国の途についた。
彼は、羽田に着くまで、留美の骨壺を膝《ひざ》の上にのせ、両手でそれを暖めるようにしたまま、まんじりともせずに過ごした。骨壺は、アパートの部屋の椅子の背に無造作に掛けてあった白地のスカーフで包んであったが、それには、まだ留美の髪の匂いが残っていた。
羽田には、その翌日の夕刻に着いたが、誰にも知らせなかったので、出迎えはなかった。彼は、税関を通ると、すぐタクシーに乗って、運転手に自分の家のある郊外の町の名を告げた。
彼は、明日は社に出て、明後日の朝には留美のお骨を届けに北海道へ発《た》つつもりだった。だから、これから社に寄って、明後日の朝まで骨壺をロッカーに隠しておくこともできたのだが、彼はそうはしなかった。骨壺は、相変らず彼の膝の上にあった。
家では、妻の高子も子供たちも、不意の帰国に驚いていた。
「急に用事ができたもんでね。はい、これにお土産が入ってるよ」
あちこちの国々からすこしずつ買い集めてきた土産が入っている旅行|鞄《かばん》を、夏子と一也に渡すと、下の武志が、
「それは? 僕?」
と骨壺の方へ両手を伸ばした。
「これか。これはね、大事な預かり物」
彼はそういって、ごめんよ、と骨壺を茶箪笥《ちやだんす》の上に置いた。
その晩、子供たちが寝てしまってから、彼はいつまでも台所で水音をさせている高子に、
「もう、いい加減にして、こっちへきたらどうだ?」
と茶の間から声をかけた。
「ええ、もうすぐ……」
と高子はいったが、水音や食器の触れ合う音がなかなか止《や》まなかった。
彼は、待ち切れなくなって、先に茶箪笥の上から骨壺を下ろしてくると、それを自分の前の畳の上に置いた。そうでもしないと、せっかく帰りの機上で固めてきた気持が挫《くじ》けてしまいそうだった。
「おい……きてくれよ」
「はい、もうお仕舞い」
やがて、高子がエプロンで手を拭きながら入ってきた。
「……笑わないでね」
そういいながら、高子は自分で笑っていた。
「なんだか変な気持なの。これまで二週間も離れて暮らしたことって、なかったでしょう。なんだか、くすぐったいような……」
それから高子は、彼の前のスカーフの包みに目を留めて、訝しそうに口を噤んだ。
「……おまえ、気持が悪いだろうが、かんべんしてくれ」
と、彼は高子に目を上げていった。
「これは、ある女の、骨壺だよ」
高子は、無言で骨壺に目を瞠ったまま、そろそろとエプロンを外しながらそこに膝を落とした。
「フランス人と結婚するつもりでパリへいって、結局その結婚に失敗した女だ。それが、僕の目の前で自殺をした。僕は、こうしてお骨にして連れてきたが、これを自分で郷里へ届けて、共同墓地に埋めてやりたい。……要するに、そういう女だったんだよ、僕にとっては」
彼は、高子にまっすぐ目を向けたまま、一気にいった。二人は、ちょっとの間、互いに息を詰めるようにしてみつめ合っていたが、やがて、高子の方が先に骨壺へ目を戻すと、肩を落として吐息しながら、呟くようにこういった。
「神永さんね。お気の毒に……」
今度は、彼が目を瞠る番だった。
「どうして……」
と彼はいいかけたが、あとは言葉にはならなかった。
「どうして神永さんだとわかるのか……そういいたいんでしょう? でも、正直いって、私にもわからないの、どうしてだか」
と、高子は骨壺に目を向けたまま静かにいった。
「やっぱり、勘みたいなものかしら。いつかお正月に、神永さん、わざわざ挨拶にみえたことがあったでしょう、あなたは留守だったけど。あのとき、なにかしら、はっと感じたわ。あなたのお仕事のことで、わざわざ家まで挨拶にみえたのは、神永さんが初めてだったし、あなたが好きになりそうなタイプの人だったから。それに、なによりも、あの人があなたに特別な好意を抱いていることが、すぐわかったから。女同士って、おなじ人が好きになると、すぐわかるもんなのよ、お互いに」
「それで……ずうっと、知ってたのか」
「うすうすだけどね。……知らなきゃ、女房が勤まらないでしょう?」
高子の顔を、ちらと笑いが駈け抜けるのをみて、彼は思わず頭を垂れた。
「……わかったよ。ともかく、これを届けてくるまで待ってくれないか。それまでに、自分の気持をきめておいてくれ。僕はどんな罰でも受けるつもりだから」
「罰なら、もう受けてるわ、あなたは」
高子はそういうと、両手を伸ばして、骨壺をそっと膝の上に抱き取った。それから、
「もう済んだのね、やっと……」
留美にともなく、彼にともなく、念を押すようにそういうと、そのまま立って茶の間を出ていこうとした。
「おい、高子……」
思わず彼が腰を浮かすと、高子は背中で、
「大丈夫。外へ放り出したりなんかするもんですか。でも……やっぱり私の茶の間には置いといてあげられないの。それだけは、かんにんして。神永さんには悪いんだけど、あなたの書斎の机の上にでも置かして貰うわ」
といって、うしろ手に襖《ふすま》を閉めて出ていった。
彼は、消えてしまった妻の背中を、そのまましばらく、ぼんやりと見続けていた。家のなかがひどく静かで、ごうごうと耳鳴りのような音がきこえた。いや、これは耳鳴りではない、自分の血が逆様《さかさま》に流れる音だと彼は思った。すると、何年か前の秋、姫谷温泉の宿で聴いた高子の太腿《ふともも》の音が、ふと思い出された。
耳垢《みみあか》を取って貰いながら聴いた、あの太腿のなかをごうごうと流れる川の音。あの音を、自分はこの先、ふたたび聴くことができるだろうか。
高子は、なかなか戻ってこなかった。彼は、いつのまにか首を折るようにして深くうなだれている自分に気がついた。
翌日、午後から社へ出ると、留守中に異動はあらかた済んでいて、編集部では彼の席だけがそのままになっていた。彼は、編集長から、自分の後任が桂だと聞かされて、意外な気がすると同時に、やっぱりそうかという気もした。
「あいにく桂君は、きのうから京都へ出張してるんだよ。仕事の引き継ぎは彼が帰ってからということにして、取り敢《あ》えず席だけあけておいてくれないか」
編集長がパイプを磨きながらそういったが、清里には、桂とすぐに顔を合わせずに済むのがむしろ幸いであった。
彼は、沖田常務や編集局長に帰国の挨拶を済ませてくると、さっそく席を桂へ明け渡すための支度に取り掛かった。佐野弓子が、腕組みをしてやってきた。いつものような、こだわりのない笑顔で、
「お帰り。使える物があったら、引き取ってあげるわよ」
そういうので、彼も笑って頷いてから、
「残念ながら、パリの用は足せなかったよ。彼女のノートじゃなくて、別な物を持ってきた。あとでゆっくり話すからね」
といった。
屑籠《くずかご》を脇へ引き寄せて、引出しのなかを整理しているうちに、彼は、そこに入れたまますっかり忘れていた懐かしい物をみつけた。留美と知り合ったばかりのころに貰った、椋鳥《むくどり》の卵をみつけた。
貰ったばかりのころは目も醒めるような空色だったその卵は、もうすっかり灰色に色褪《いろあ》せて、手のひらにのせてみると、まるで空気のように軽くなっていた。
彼は、その卵の捨て場を捜しあぐねて、席の整理を済ませてから独りで屋上に昇った。ちょうど西のビルの谷間に陽が落ちかかっていた。留美が見納めにした神威岬の落日が思い出された。
椋鳥の卵は、実に軽々と風に乗って、斜めに流れた。みていると、不意にバルコニーから落ちてゆく留美の姿が目に浮かんで、彼は思わず、大声で留美の名を呼びながら屋上の縁を乗り越えそうになった。
卵は、途中でいちどオレンジ色に輝いただけで、やがて歩道の街路樹の蔭《かげ》に吸い込まれるようにみえなくなった。
この作品は昭和五十四年四月新潮社より刊行され、昭和五十七年二月新潮文庫版が刊行された。