目次
忍ぶ川
初夜
帰郷
團欒《だんらん》
恥の譜
幻燈《げんとう》畫集《がしゅう》
驢馬《ろば》
解説(奥野健男)
忍ぶ川
志乃《しの》をつれて、深川《ふかがわ》へいった。識《し》りあって、まだまもないころのことである。
深川は、志乃が生まれた土地である。深川に生まれ、十二のとしまでそこで育った、いわば深川っ子を深川へ、去年の春、東北の片《かた》隅《すみ》から東京へ出てきたばかりの私が、つれてゆくというのもおかしかったが、志乃は終戦の前年の夏、栃《とち》木《ぎ》へ疎《そ》開《かい》して、それきり、むかしの影もとどめぬまでに焼きはらわれたという深川の町を、いちども見ていなかったのにひきかえ、ぽっと出の私は、月に二、三度、多いときには日曜ごとに、深川をあるきまわるならわしで、私にとって深川は、毎日朝夕往復する学校までの道筋をのぞけば、東京じゅうでもっともなじみの街になっていた。
錦《きん》糸《し》堀《ぼり》から深川を経て、東京駅へかよう電車が、洲《す》崎《さき》の運河につきあたって直角に折れる曲り角、深川東陽《とうよう》公園前で電車をおりると、志乃は、あたりの空気を嗅《か》ぐように、背のびして街をながめわたした。七月の、晴れて、あつい日だった。照りつけるつよい陽《ひ》にあぶられて、バラック建てのひくい屋並をつらねた街々は、白い埃《ほこり》と陽炎《かげろう》をあげてくすぶっていた。
「あぁあ、すっかり変っちゃって。まるで、知らない町へきたみたい。おぼえているのは、あの学校だけですわ。」
志乃は、こころぼそげにそういって、通りのむこうの、焼けただれたコンクリートの肌《はだ》を陽にさらしている三階建ての建物を指さしてみせた。志乃はその学校に、五年、かよった。
「大丈夫だよ。あるいているうちに、だんだんわかるさ。あんたが生まれた土地だもの。」
私がいうと、志乃はわらって、
「そうね。いくらなんでも、道まで変っていないでしょうから。」それからまた、焼けた学校に目をもどして、「だけど、あたしね、どこもかしこも焼けたことはきいて、知ってたんですけど、あの学校が焼けたことだけは、どうしても想像できなかったの、コンクリートの建物がぼうぼう焼けるなんて、とても信じられなかったんです。それが、さっきひと目見たなり、ああ、やっぱし焼けたんだとあっけなくわかっちゃいました。あの窓のせいなんですわ。コンクリートの建物が焼けるって、窓という窓が、のこらず黒くなることなんですねえ。」
ひとつ、思いがけない発見をしたかのように、きれながの、すこし眼《め》尻《じり》のつりあがった目をしばたたきながら、輪郭が焼け崩れたまま蜂《はち》の巣のようにひしめきあっている黒い窓々をながめわたすのを見て、こんどは、私がわらっていった。
「そう、いちいちひっかかっていたら、時間がいくらあってもたりないよ。」
志乃は首をすくめた。
「それじゃ、御案内ねがいます。どっちが近いかしら。」
「ぼくは、木場《きば》。」
「あたしは、洲崎。」
洲崎はたしか、運河を越えたむこうの街で、それでは木場からあるいてみようと、私と志乃は、陽炎の踊る電車通りをよこぎって、志乃の母校の建物の裾《すそ》、道のへりに落ちている浅くほそながい翳《かげ》のなかを、木場の貯水池の方へあるいていった。
志乃は、もはや帰ってきはしない私の兄を、私が最後に見た場所へ、いってみたいというのであった。そうして、ついでに志乃が生まれて育った土地を、私に見せたいというのであった。
木場は、木と運河の町である。いついってみても風がつよく、筏《いかだ》をうかべた貯水池はたえずさざ波立っていた。風は、木の香とどぶのにおいがした。そして、その風のなかには、目に見えない木の粉がどっさりとけこんでいて、それが馴《な》れない人の目には焚《たき》火《び》の煙のようにしみるのである。涙ぐんで木場をあるいている人は、よそ者だ。
私も、兄につれられて、はじめて木場をあるいたとき、泣いて、兄にわらわれた。私は、きょうだい、肩をならべてあるけるうれしさに、胸がはちきれそうだったが、それにもかかわらず目だけが泣けてくるのは、やはり風のせいであった。去年の春、三年ぶりに上京して、さいしょに木場をあるいた日にも、そのときはすでに兄は帰らぬ人になっていたが、私の胸はある怒りに燃えていたはずなのに、しきりに目だけがくもったのは、たしかに風のせいであった。私の目は、ついに木場の風になじまない、あるいは木場のなかでも、私がきまってあるくコースにひときわ木の粉が濃いのかもしれなかったが、私はもはや、それに馴れることをあきらめていた。
しかし、その日の木場は、いつもと様子がちがっていた。街のたたずまいが、へんに私にはよそよそしかった。木の山も、貯水池も、妙にまぶしいひかりを帯びて私の視線をはねかえし、木を裂く鋸《のこぎり》のひびきもいっこうに耳になじまなかった。癖になった深川あるきで顔を見知った幾人かの人びと、煙草《たばこ》屋の婆《ばあ》さん、そば屋の出前持ち、軒をならべた製材所の門衛たち、トラックの運ちゃんたち――私が兄に会えなくなった当座、すこしでも兄の最《さい》期《ご》が知りたくて、兄が遺《のこ》した手帖《てちょう》を片手に尋ねまわる私を、みな刑事とまちがえて、あとで破顔一笑したそれらの気のいい人たちも、その日はなぜか、妙な目つきで私と志乃をじろじろながめ、かと思うと、ぷいとそっぽをむいたり、奇声をあげたりするのであった。そうして、風さえ私をよけて吹くのか、私の目は、いつまでも乾いたままなのである。
どうやら木場は、心のみちたりているときの私には無縁の街であるらしかった。
木場のはずれの、とある貯水池のふちに、私と志乃はならんで立った。風がまともから吹いてきて、水面にくだけた陽が、いちめんに、たえずちかちかとふるえていた。遠く、筏が二つ三つうかんでいて、そのむこうに芥《ごみ》の野がしらじらとひろがり、えたいの知れない機械のひびきが、虻《あぶ》の羽音のようにその方からきこえた。
「ここが、終点だ。ま、こんなところさ、木場ってとこは。なんにもありゃしない。」
私は水面に唾《つば》をしていった。
「いい風だわ。やっと深川へ帰った気持。」
志乃は、あつい日なかに、私にさえ無縁の街を右に左にひきまわされて、けれども、風に乱された髪の毛が汗の額や頬《ほお》にはりついているちいさな顔を、無邪気に風になぶらせていた。
「帰ろうか。つまらんだろう。」
私は志乃をつれてきたことを後悔しながら、そういうと、志乃は、とんでもないというふうに頭をふった。
「せっかく、きたんじゃありませんか。もすこし、いましょうよ。」
胸を抱くようにしてそこへしゃがむと、ぽつんといった。
「ここですか。」
「ああ。」と私はこたえた。
兄を最後に見た場所である。私の兄は高等工業の応用化学を出て、戦時中、海軍省の火薬研究所で魚雷をつくっていたが、戦後、どういう魂胆からか、この貯水池をもつ木材会社に入っていた。名刺をもらって、肩書を見ると、いきなり、専務というのであった。兄は、この会社に五年いた。その四年目に、私は東北の田舎の高等学校を出て上京し、兄の出資で大学へかよった。私は六人きょうだいの末っ子で、田舎の父はすでに衰えていたからである。しかし、兄には私がさして負担でもないらしかった。私は、金が必要なとき、兄の会社へもらいにいって、兄はその都度、気やすく金をわたしてくれて、柳川鍋《やながわなべ》など食べさせてくれた。一年たって、三年前の春さき、しばらく会えなかった兄をひさしぶりに訪ねると、がらんとした事務室の火《ひ》鉢《ばち》に覆《おお》いかぶさっていた老人が、専務は席をはずしているが、多分貯水池にいるだろうといった。しんとした工場をぬけて、貯水池のふちへ出てみると、春さきとはいえ、まだ冬のなごりのつめたい風が底まですきとおった水面にたえず皺《しわ》をたたんでいるというのに、兄はひとり、鳶口《とびぐち》をもって、けれどもべつだんそれを使うふうもなく、ただ筏から筏へと、せわしなくとび移っているのであった。上《うわ》衣《ぎ》をぬいだワイシャツ姿が痛いほど目にあざやかで、なにかしら、どきっとした。思わず、大声で兄の名をよぶと、兄はあぶなっかしい恰好《かっこう》で立ちどまり、それからもっとも岸に近い筏の方へ、ゆっくりと移りはじめた。私は、コンクリートの貯水池のふちを、その筏の先端とむきあう場所へ走ったけれども、私たちが水をへだててむかいあった間隔は、十数メートルもあったのである。兄は筏のへりにひょろりと立って、なんの用だと大声で問うので、私も大声で、ほかでもない、いつもの金の無心であった。兄は大きくうなずいてみせて、事務所の机の引出しに預金通帳と印鑑があるからもっていって要るだけ使えといい、きょうはべつに用があるから後日また会おうといった。私たちは、しばらくのあいだ、なんとなく沈黙して互いを見つめあっていた。兄は西日を背にうけていつもより背が一段と高く見え、その顔は落ちくぼんだ眼《がん》窩《か》が黒々とした影をつくって、どくろに似ていた。わかれに、金の礼をいうと、兄はその顔をぐしゃっと崩して、「あんまり、使うな」そして、鳶口を高くあげた。
それが、兄と私のわかれになった。
それから、三年。いまは持ち主のかわったその貯水池が、志乃と私の目の前にあった。
「お兄さんとは、それきりですか。」志乃がいった。
「それきりだ。」
「その後、お兄さんは。」
「死んだ。」
すらりと、いえた。その言葉は、子供のころから私の舌に馴れていた。姉ちゃんは? 死んだ。兄ちゃんは? 死んだ。よい言葉だと思った。死んだ。それきりである。あと、なにもいうことはない。なにもいわずにすむのである。
「さ、いこう。なに、ただの溜池《ためいけ》さ。いつまで見てたって仕様がないよ。」
志乃をうながして、あるこうとすると、志乃はしゃがんだまま、水面にちいさく合掌して、ちぢみの衿《えり》もとからのぞいている、ほそい項《うなじ》の白さが目にしみた。私の靴音《くつおと》は、板《ばん》木《ぎ》をうちならすように、水面に高く反響した。
それから、洲崎へいった。
洲崎は、深川でも、私が足をはこんだことのない、唯一《ゆいいつ》の土地であった。兄はそこへは案内してくれなかったのである。いちど、まだ兄の会社の社長一家が、焼け出されたまま志乃の母校の教室に仮《かり》住居《ずまい》していたころ、そこに寄食していた兄を訪ねて、いっしょに屋上から洲崎の街を遠望したことがある。
それは、異様な街であった。けばけばしい彩《いろど》りのちいさな家々が、せまい路地をはさんでぎっしりと軒をつらねていて、家々の屋根という屋根、窓という窓には、赤や白の布ぎれがいっせいに風になびいていた。田舎者の私の目には、好奇をそそるながめであった。
「あの街へいきたい。」と私がいうと、「ばか。」と兄は叱《しか》って、そして、ぼおっと頬を赤らめた。
洲崎は、娼婦《しょうふ》の街であった。
電車通りまで出ると、志乃に遠い記憶がよみがえった。志乃は、通りに、昔からある汁《しる》粉《こ》屋の暖《の》簾《れん》を見つけた。
「あ、わかったわ。もう、大丈夫です。」
胸の前で手をうちあわせると、私のさきに立って横町へ折れた。道はゆるい勾配《こうばい》をのぼってすぐ運河につきあたり、運河には幅ひろい石の橋がかかっていた。橋をわたれば、洲崎であった。
こちらがわの橋のたもとに、なにを売るのかわからない屋台があり、立てまわした葦《よし》簀《ず》のかげから、衿もとが大きくひらいたワンピースを着た顔色の悪い中年の女が、ぐったりと長《なが》椅子《いす》にもたれて通りに目をほそめていた。
「これが、洲崎橋。」
志乃は、焔《ほのお》になめられたあとが黒い縞《しま》になってのこっている石の欄干を、なつかしそうに手のひらでぴたぴたたたき、それから、橋のむこうの空をよぎっている高いアーチを、めずらしそうに仰いで、そこに書いてある、夜はネオンになるのだろう、豆電球にふちどられている文字を、
「洲・崎・パ・ラ・ダ・イ・ス。」とひくく読んだ。
「パラダイスなんて、あたし、なんだかいやですわ。」
志乃は、上気したように頬を赤くしてそういうと、だまってあるきだした。
志乃はすたすた橋をわたるのであった。私は、ひとりでに胸の鼓動が高まった。
私は、かつて娼婦の街をあるいたことがなかったのではない。それどころか、酒気を帯びれば友人を語らってその街へまぎれこみ、安《やす》手《で》の遊蕩《ゆうとう》気分をみたすことがしばしばであった。けれども、真っ昼間、自分の想《おも》いをかけた女と、雨降りでもあるまいのに白い日《ひ》傘《がさ》の相合傘《あいあいがさ》で、よもやその街をあるくことになろうとは、夢にも思わなかっただけである。
橋をわたって、さいしょの路地を左へ折れると、そこには、いきなり、その街があった。街は陽に萎《な》えて、病む人のように色をうしなっていた。そうして、夜の塵《ちり》に覆われたまま静まりかえっている路地に、私たちの足音だけが高かった。
いくつ目かの路地のかどで、志乃は、ふいに立ちどまった。ぎっしりと娼家がつまっている一角であった。志乃は、くるりと私へむきなおって、T字路の一方の角にあるうすよごれた一軒の娼家を指さしていった。
「ここなんですの、あたしが生まれたのは。」
澄んだ、よい声であった。顔にははじらいの色があふれていたが、その声には卑屈のひびきがみじんもなかった。
「わたしの母は、ここで射的屋をしていました。あたし、くるわの、射的屋の娘なんです。」
志乃は、私をまっすぐ見つめたまま、顔に或《あ》るちからをみなぎらせて微笑した。そのちからは、額ににじんでいた汗をみるみるうちに玉に結ばせ、じきに志乃の顔からあふれ出て、波紋のようなリズムをもって私の胸に寄せてきた。私は急《せ》きこんで、だらしなく声がうわずるのもかまわずに、いった。
「いいんだ。いいんだよ、それで。」
すると、志乃の傘がぶるぶるとふるえはじめた。臙《えん》脂《じ》の帯の上で、傘の柄《え》さきをにぎりしめている両手の指が、目にしみるほど白かった。志乃は、むしろなじるような目で、私をにらんでつよくいった。
「忘れないように、たんとごらんになって。」
私は、見た。けれども、ところどころ剥《は》げ落ちているピンクの壁、ひびわれたコンクリートの地面からぬっと突っ立っているタイルの円柱、その先端にちょこんとのっかっている間ぬけた西洋風のバルコニー、そして、路地の空に古びた蜘蛛《くも》の巣のようにもつれているネオン――闇《やみ》がくれば窓々に妖《あや》しげな色の誘《ゆう》蛾《が》燈《とう》をともし、陽の下では息をひそめてとても廃屋としか思えないふしぎな〈女の家〉の上に、志乃の生家のまぼろしを見ようとするのは無益であった。
志乃の傘の上に、雨だれのような音が落ちて、はねかえった。空を仰ぐと、四囲にひしめいている家々の二階の窓には、いつのまにか、肩と胸もとをあらわにした女の顔が鈴なりにならんでいて、彼女らは一様に窓辺に干してある蒲《ふ》団《とん》の上に頬杖《ほおづえ》をつき、はれぼったい目で、だまって私と志乃を見おろしているのであった。そうして、だれかが口のなかのガムを志乃の傘へめがけて吐き、それがうまくあたると、彼女らは鼻さきだけで、ひそひそわらいあっているのであった。
志乃は、目を伏せてだまってあるき出した。街の奥へしばらくあるくと、急にふりかえって、
「おどろいた?」
「ああ。」
「ごめんなさい。」それが自分のせいででもあるかのように、志乃はわびて、「あたし、あの人たちのことを悪くはいいたくないんですけど、むかしのお女郎さんはあんなじゃなかったわ。玄人《くろうと》っていうことにかけては、いまとはまるで段ちがい。いまの人たち、なんだか気持があそび半分みたいで、見ていてはらはらするわ。時代が変ったせいでしょうけれども、中途半《はん》端《ぱ》なお女郎さんなんて、たまらなくいやらしいものなんです。父に見せたら、きっとがっかりしますわ。」
「お父さんって、どんな人?」
「父ですか。」ちょっと首をかしげて、わらった。「父はぐうたらな人なんです。いまは病身で、ぐうたらも可哀《かわい》想《そう》になっていますけど。なんだかよくは知りませんが、若いころ、紺屋の長男のくせになまじ学問を齧《かじ》ったりして、それがもとで栃木の家を勘当されたんですって。ぐれて、学問も捨てて、俺《おれ》はだめだよう、俺はなっちゃいないようって、お酒ばかり飲んでいました。それでも、弁天さまの祭りの日には、羽二重の羽織なんか着て、くるわでは『当り矢のせんせ』ってよばれてたんです。当り矢というのは母の射的屋の名前なんですけど、落ちぶれたお女郎たちの面倒を見たり、相談相手になったりしていたようです。あたしを可愛《かわい》がってくれたお女郎さんに、利根《とね》楼《ろう》のお仲さんって人がいましてね、胸を病んで、商売にならなくなって、でも、年期がなかなか明けなくって、そいで父のところへよく相談にきたんですけど、そのうちとうとうどうにもならなくなってしまって、お不動さんの縁日の日に、ところてんのなかへ毒を入れて、食べて死んじゃったんです。ところが、利根楼の人たちはくるわ一の情《なさ》け知らずで、気味悪がって、だれもあと始末をしたがらないんです。ですから、父がなにからなにまでひきうけて、ある日の夕方、お仲さんの棺《ひつぎ》を裏口から車に積んで、父がひいて、あたしが押して仲之町《なかのちょう》をいきますと、大きな天水桶《てんすいおけ》から長柄杓《ながびしゃく》で通りに水をうっていた番頭さんたちが、ひとりずつきて車について、大門まで送ってきてくれたことをおぼえています。あたしって、ちいさいころから、そんなことばかりしてたんですよ。」
その大門が遠く見える仲之町を、大門の方へ、私と志乃はあるいていた。その道は幅ひろく、歩道もあって、ふつうの商店があかるい店をならべていた。私たちは、顔見あわせて、どちらからともなく、ふっとわらった。
「ずいぶん、あるいちゃったね。」
「ええ、でも、これであたし、胸のなかがはればれしましたわ。あたしのことは、全部あなたに見ていただきました。これで、すっかりです。いい気持。」
志乃は、顔を仰《あお》向《む》け、目をつむって二、三歩あるき、急に立ちどまって私の腕をとらえた。洲崎橋のたもとであった。
「ね、これから浅草へいきません?」
「浅草? 栃木へ帰る……。」栃木行の電車が、浅草から出ていた。
「いいえ、あそびに。洲崎を見たら、急にいきたくなったんです。父はね、浅草が好きでよく私をつれていったんですよ。映画を観《み》て、花屋敷で木馬にのって、帰りにはきっと神谷バーへ寄って、あたしには葡《ぶ》萄酒《どうしゅ》、父は電気ブランを飲んだんです。」
「でも、せっかくの休みだから、栃木へいってきた方がよくはないかな。」
栃木には、志乃の父、弟妹たちがいるのである。
「ええ。……でも、せっかくの休みだから、ふだんできないことをしたいんです。やっぱし、浅草へいきたいわ。」
私は、志乃のふだんの生活と、その日の心のはずみを想った。それでは、志乃の好きなようにしようと私はいった。
「うれしい。」
志乃は、いきなり私の腕をゆさぶり、気がついて、あわててはなした。
「だけど、神谷バーってのはいまでもあるのかな。」
「ええ、あると思いますわ。いつか栃木へ帰るとき、ちらっと見たような気がするんですの。映画観て、神谷バーへいって、あたしは葡萄酒、あなたは電気ブランで、きょうのあたしの手《て》柄《がら》のために乾杯してくださいな。」
「すると、ぼくはお父さん、あんたはぼくの娘ってわけか。」
「不束者《ふつつかもの》で、すいません。」
志乃はぺこんと頭をさげると、日傘を肩に、小走りに駈《か》けて、洲崎大門の橋をわたった。
私と志乃は、その年の春、山の手の国電の駅近くにある料亭《りょうてい》〈忍ぶ川〉で識《し》りあった。私は、忍ぶ川の近所にある学生寮から東京の西北にある私立大学に通う学生で、三月のある夜ふけ、寮の卒業生の送別会の流れにまじって、はじめて忍ぶ川へいったのである。
志乃は、忍ぶ川の女であった。
忍ぶ川は、料亭というけれども、いかめしい門構えや植込みなどあるわけでなく、直接都電の通りに面していて、階下には豚《トン》カツやお好みの一品料理で簡単に飲めるカウンターもあり、その方の店の隅《すみ》には煙草《たばこ》の売場もあるという、いわば小料理屋に毛が生えた程度の、だから自家用車でのりつける客なんかめったになく、常連というのも近くの国電の駅から本郷あたりへ通う学校の教師、会社員、それに土地の商家の楽隠居たちで、たまには魚屋や肉屋のあんちゃんが女めあてに、青い背広を着てかよってきたりする、場末のちいさな料亭なのであった。それでも、界隈《かいわい》にいちおう名の通った暖簾の手前、格式と酒の値だけは一段高く、私どもにはそうたびたび出入りできる店ではなかった。
私の住む学生寮は、忍ぶ川の横町を折れたつきあたりにあって、東北の北端の海岸町をふるさとにもつ学生たちが、二十人ほど住んでいた。漁師の子弟が多かった。
寮生たちは、そろって酒好きであった。寒さしのぎの茶碗酒《ちゃわんざけ》に馴《な》れた体質が遺伝するのか、みな生まれながらにつよいのである。よいにつけ、わるいにつけ、なにごとかあると、なによりもまず酒であった。寮で飲み、飲みたりなくて、街へ出た。街では、たいていガード下のオデン屋や、線路沿いの飲み屋で、つよい酒を飲んだ。よほど気ばって、寿司《すし》屋であった。寿司種を肴《さかな》に飲むことを「ふるまい」といって、めったにするものでない豪華な酒宴としていた。
忍ぶ川に出入りするものは、一人もいなかった。料理屋なんて性《しょう》にあわない、酒が水っぽくて飲めやしないとみなはいったが、まことはふところが寒く、そこの女がなんとなくうす気味悪かったからである。金持ちの漁師の悴《せがれ》で、腕っぷしもつよく、男前で艶福《えんぷく》家《か》の潮田という寮生が、一夜内密に忍ぶ川を志し、そっと暖簾をはじいたが、二十《はたち》だというそこの看板娘にかるくいなされ、しょんぼりひきあげてきたという噂《うわさ》が立って以来、あとの無粋の男たちは忍ぶ川の女たちに一もくも二もくもおいていた。
それが、その年の送別会の夜、大挙して忍ぶ川へくりこむことになったのは、会の席上、卒業生の飲み手の一人が寮生活を回想するスピーチをぶち、そのなかで、われわれ唯《ただ》ひとつ遺憾とするのは、付近一帯の酒を商う店という店をのこらず踏破したものの、ただ忍ぶ川一軒だけには一歩も踏みこめずに帰郷することだと述懐し、それが思わぬ反響をよんで、一同の日《ひ》頃《ごろ》の鬱憤《うっぷん》を誘発したからであった。
その夜、つわもの十人あまり、十分に下地を入れ、へんにいきり立ってぞろぞろ忍ぶ川の玄関を入った。寒い夜で、階下のカウンターには客がなく、そこへずらりと顔をならべて、「あつい酒。」と注文すると、とたんに酔いが醒《さ》めたかのようにみなはだまった。もう夜もおそく、あたりはしんとして、二階から三味《しゃみ》のつまびきがきこえた。
「おお。三味の音がきこえる。」
と卒業生の一人がすかさずいったが、若い板前が失笑した。われわれはいよいよ気まずく、出された酒を急いで飲んだ。
それでも、和服の女が二、三人きて、カウンターのむこうで酌《しゃく》をすると、あつい酒とあたりの熱気が下地の酔いをよびもどし、みなは目に見えて酔った。酔えば地声の胴《どう》間《ま》声《ごえ》で、方言も飛び出し、それが女たちをわらわせた。一人が板前と魚のことで論争し、それからみなは魚談義に熱中した。魚のことなら、話題のつきない連中である。
私は、ひどく酔っていた。私は漁師の子ではない。酒のつよさも魚の知識も、とうてい彼らの比ではなく、カウンターのはしに両肘《りょうひじ》ついて、目をとじていた。すると、となりの男が、私の脇腹《わきばら》をついて耳うちした。
「おい。見ろ。あれが潮田をやった女だ。」
そいつが顎《あご》をふる方へ、朦朧《もうろう》とした目をすえると、二階の階段を白足袋が、青っぽい和服の裾をひらめかせて静かに降りてくるのが見えた。額で暖簾を割って出てきた顔は、髪をひっつめにした、小造りの女であった。それがわれわれの方へ横ざまに会釈《えしゃく》しながら、銚子《ちょうし》をのせた盆をささげて、カウンターの脇の廊下を調理場の方へゆこうとするのを、酔った私は、「おい、ちょっと。」とよびとめた。
「うんとつめたい水を、もってきてくれないか。」
女は「はい。」といって微笑し、膝《ひざ》をちょっと折るようにしてうなずくと、すいすいと廊下の奥へ消えていった。その、「はい。」という女の返事が、なにかの音色のように私の耳のなかで余韻をひいた。
「へえ、あれが潮田をねえ。ちょいと信じられねえなあ。だけど、人は見かけによらんからなあ。わからねえ。わからねえ。」
私はカウンターに両肘を立て、その上に重たい顎をのせて、そんなひとりごとをぶつぶつくりかえしていると、思いがけなく、すぐうしろから、「おまちどおさま。」と女の声がして、ふりむくと、いつのまにどこからきたのか、さっきの女がコップをもって立っていた。私は虚をつかれて、コップの水をひと息に飲んだが、ふと、そのままコップをかえすのが惜しくなった。
「あんた、いまのひとりごとをきいたね。」
私がいうと、女はすこし受け口の、口もとをほころばせて素直にうなずき、
「人は見かけによらんからなあ、ってとこだけききました。」
「あんたのことだよ。」と私はいった。
女は無言で目をまるくした。
「潮田を袖《そで》にしたのは、あんただってね。」
「あら、袖にしたなんて。あの方がせっかちすぎただけですわ。」と女はいった。
「せっかちでなければ、袖にしないか。」
女は、くすっとわらった。
「お人によります。」
「俺は、どうだ。」
いってしまって、ふいに私は酔いが醒めるような心地がした。女はわらいながら、首をかしげた。
「さあ。今夜はじめてお目にかかったんですから、わかりませんわ。」
「そうか。それじゃ、あしたもくる。」と私は口から出任せをいった。
「どうぞ御都合よろしかったら。よんでくだされば、早速拝見にまいります。」
「なんという名だ。」
「志乃と申します。」
翌朝、目ざめると、眼底に志乃の顔があった。私は、つめたい水で洗顔しながら、昨夜の自分の酔狂を一笑に付した。しかし、灯《ひ》ともしごろになると、私は妙に心が落ち着かなくて、そわそわと寮内をめぐりあるき、そうした挙句に、〈約束だから今夜だけいこう。志乃の「はい。」という返事をいちどだけきいて帰ろう。そうして、あすからは禁足だ〉と自分にいいきかせ、そっと忍ぶ川の暖《の》簾《れん》をくぐった。カウンターの隅にすわって、女に小声で、「お酒と、志乃さん。」といった。
志乃は、すぐにやってきた。「ゆうべはどうも。」と私はいったが、ゆうべの元気はうそみたいになく、うつむき加減にだまって酒を飲むだけであった。それでも志乃は、べつだんつまらなそうでもなく、たえず微笑をたたえたまなざしで私を見守っていた。一、二度、二階からよびにきたが、志乃は、「いま、大事な用をしているのよ。なんとか、いっておいて。」と断った。それが私にはかえって辛《つら》く、いたたまれなくて、
「志乃さん。」
「はい?」
逃げるように帰ってきた。そんなことが十日つづいて、ふと気がつくと、私はおかしなことになっていた。
私は、昼、志乃を信ずることができなかった。志乃の好意も商売のうち、とうたがわないわけにはいかなかった。しかし、夜、私は志乃をうたがうことができなかった。志乃の好意をまごころと信じないわけにはいかなかった。そうして夜は、心みちたりて、昼の卑屈さをせせらわらって眠りに落ち、朝、目ざめれば心はむなしく、夜の軽薄さを恨んだのである。その二つの感慨の振幅のうちに、私はしだいに深みへはまりこんでゆくようであった。
六月の夜、私はもののはずみに、深川で兄を見失ったと志乃に語った。すると、志乃は目をかがやかして、深川は二十年前に生まれた土地だと私に告げた。志乃は、八年見ない深川を見たいといい、私は、いっしょにいってみようとさりげなく誘った。いちど、陽《ひ》の下で志乃をじっくり見たかったからである。けれども、忍ぶ川では、志乃と名ざしの客が多く、志乃はなかなか休めなかった。そうして、ひと月たって、藪《やぶ》入《い》りの日に、やっと深川行がみのったのであった。
その日は、昼、志乃を信じたさいしょになった。
深川から帰った夜、私は志乃に対して深く恥入るところがあった。昼、志乃があんなにも素直であったのに、私は相も変らず卑屈であったことを恥じたのである。私は、志乃に許しを乞《こ》うためでなく、ただ志乃と共に素直でありたいとねがって、その夜はじめて志乃へ手紙を書いた。
今日、深川でいいそびれた私のきょうだいのことを、ここにしるします。
私は、六人きょうだいの末っ子です。私が六歳のときまで、兄が二人、姉が三人おりました。六歳の春、よりによって私の誕生日に、二番目の姉が自殺しました。愛してはならぬ人を愛して、煩悶《はんもん》の末、津《つ》軽《がる》の海へ入水《じゅすい》しました。同年夏、上の姉が自殺しました。妹を殺したのは自分だとひとりぎめして、琴を枕《まくら》に服毒しました。同年秋、長男の兄が失踪《しっそう》しました。兄はひどい神経質で、妹たちの不幸におそらく耐えきれなかったのでしょう。いまだに行方がわかりませんから、死んだことは確実です。のこった兄は、よくできる、しっかりした人で、私たちはこの兄を信頼していました。私を大学へ入れてくれたのもこの兄です。深川にいたのも、この兄です。この兄が、三年前の春のおわり、自分で木材会社を設立するという名目で資金あつめに帰郷して、私の家の乏しい財産は勿論《もちろん》、方々の親戚《しんせき》からも借金して、その金をもって逐電《ちくでん》しました。理由は皆目わかりません(木場では、嘘《うそ》をいって、すみません)。
この兄の背信は、私たち一家にとって大きな打撃でありました。このショックで、父は脳溢血《のういっけつ》で倒れました。私たちはうちひしがれて、絶望して、めいめい危険な計画に耽《ふけ》った暗黒の時期もありました。今では、私がかつての兄の立場にとってかわりつつあります。そのために、一家はふたたび希望をとりもどしました。
私は、かつて私の誕生日を祝ったことがありません。その日が、なんだか私たちきょうだいの、衰運の日のような気がするからです。去年のその日、私は気が滅入《めい》って、ふと深川へいきました。深川あるきのはじまりです。それ以来、心がおとろえると、私はきまって深川をあるきました。すると私は、兄のまぼろしに反撥《はんぱつ》して、知らぬまに心がひきしまるのです。
私も、これで全部です。
私は、この手紙を、忍ぶ川の煙草売場にいるトキという気のいい女に託して、志乃へわたしてくれるようにとたのんだ。翌日、トキを通じて、志乃の返事がもどってきた。箸《はし》の袋に、たった一行、
『来年の誕生日には、私にお祝いさせてください』
私は、志乃に没頭した。
七月末、私は志乃に婚約者がいることを知らされた。
そのころ、潮田が故郷の家が大がかりな漁に失敗して破産したために、大学を中退して帰郷することになり、そのいきがけの駄《だ》賃《ちん》に、私にそっとその事実をもたらしたのである。私は一瞬、茫然《ぼうぜん》とした。
志乃に男。信じられない。潮田が落《らく》伍《ご》の腹いせに、いやがらせをいうのだと思った。けれども、潮田はある確実な筋からきいたといい、その婚約者だという男の名も知っていた。本村幸房《もとむらゆきふさ》。あまつさえ、浅草を二人があるいているのを見たといった。
私は、すこしも信じられなかったにもかかわらず、不安はひとりでに募ってうたがいの雲をひろげた。欺《あざむ》かれているのかと思った。すると、もはや一刻もじっとしておれず、たしかめに、忍ぶ川へ走った。まひるであった。かっとした陽に、暗澹《あんたん》とした目がくらみそうだった。煙草売場で、トキが居眠りしていた。起こして、志乃をよばせた。トキは私のただならぬ様子に一驚して、飛ぶように奥へ入っていった。
志乃は、紺地の浴衣《ゆかた》に伊達《だて》巻《まき》のままで、小走りに出てきた。髪をくしけずっていたらしく、ながい髪を背中の方へたらしていた、その志乃の姿に、私はこれまでに見たことのない、異質の美しさを見たと思った。その美しさは、私の疑惑とたちまち融《と》け合い、絶望的に私の心を圧倒した。私は志乃の前に突っ立ったまま、ぶるぶるとふるえた。
「どうなさったの、一体。」志乃はいぶかしげに眉《まゆ》をひそめた。
「あんた、本村という人、知ってるか? 本村幸房。」
志乃は、ふっと息をのんだ。
「だれからおききになったの?」
「だれからでもいい。その人は、その男は、あんたの婚約者だというのは、ほんとうか?」志乃はふいに目ばたきをし、うつむいた。
「いってくれ。」と私は迫った。
「いいます。全部、お話します。でも、いまは、ここでは、お話できません。今晩、七時に、陸橋の上でお待ちになって。かあさんから一時間だけ暇をもらって、かならずいきます。ですから、いまはどうぞかんにんして。」
「あんたは洲崎で、これで全部だといったね。うそだったのか。」
「いいえ。」志乃はきっと顔をあげていった。「お話しなくてすむと思ったから、口に出さなかったんです。うそなんか、志乃はうそなんか、死んでもいいやしません。」
私は、志乃の鋭い語調に気押《けお》されて、だまった。私たちは、まともから、しばらく見つめあっていた。私はしだいに息ぐるしくなった。
「七時を六時にしてくれないか。待つ時間がたまらないのだ。」私はいった。
「結構です。六時に、かならずまいります。」
くるしそうに顔をゆがめる志乃をのこして、忍ぶ川を飛び出し、街をあるいた。どんどんあるいて、私、志乃、本村、洲崎も手紙も、みんな阿《あ》呆《ほう》だと思った。通りすがりの銭湯に入って、湯を頭からざぶざぶと浴びた。そうして、とっぷりと湯舟につかっていると、ふいに頭の隅《すみ》をかすめるものがあった。私は声をあげそうになった。〈奪う〉……。
頭の血が、うそのように落ちた。なぜもっと早く、それに気がつかなかったのか。奪う。志乃を奪う。婚約者があったら、彼から志乃を奪えばいいのだ。私はひろい湯舟のなかを、湯をちらして「奪う、奪う。」と泳ぎまわった。私は、なんとしても志乃を奪いとらねばならぬと思った。
六時に、陸橋へいくと、志乃はさきに着いて待っていた。私たちは無言で肩をならべて、人通りのない屋敷町の石塀《いしべい》沿いの歩道をあるいていった。
「去年の春のことです。」志乃は前をむいたまま、小声で話しはじめた。「×自動車の販売課長さんがいらして、あたしにお嫁にいかないかっていうんです。相手は×自動車のセールスマンで、本村という人で、×自動車はうちのお顧客《とくい》さんですが、本村さんは暮の忘年会や新年宴会であたしのことを見たんだそうです。そして、どうしてもあたしがほしくなって、販売課長さんを通じてうちのかあさんに話がきました。本村さんはなんでも腕のいいセールスマンだとかで、収入も多いし、性格もりっぱな、よい人だというんです。あたしはまだ十九になったばかりで、それにこんなとこにいるものですから、結婚ってどういうものなのか、さっぱり実感がなくて、なんだか心ぼそくて、それに家への仕送りのこともありますし、いちどお断りしたんですけど、課長さんもかあさんも、良縁だからぜひぜひって、毎日のようにせめられて、そのうちに、あたしが承諾してくれたら、栃木の両親のことも、弟妹たちのことも、課長さんと本村さんの共同責任で一切面倒見るという条件が出て、あたし、それについ、ふらふらっとして、よろしくおねがいしますっていっちゃって、あたしがばかだったんです。それから本村さんがあたしの婚約者ということで、お休みの日になんか、いっしょに映画観《み》たり、お茶を飲んだりしたんですけど、あたし、ちっともうれしくないんです。本村さんをどうしても好きになれなくて、本村さんはおかしいほど式を急いで、式はどこで、新婚旅行は飛行機でどこへいってと、そんな話しかしないのです。あたし、なんだか味気なくって、結婚っていうことにあんまり期待がもてなくなって、本村さんが急げば急ぐほど、私はなにかかにか理由をつけて、式の日取りをだんだん遠くへのばしました。すると、本村さんは……。」
志乃はふいに口をつぐんで、足もとを見ながらあるいた。
「本村さんは、どうしたの?」
「あたしを、ほしがりだしたんです。」
私は、ぼおっと頬《ほお》がほてり、胸がはげしく動《どう》悸《き》をうった。
「それで? やったのか。」
「やるもんですか。」志乃はこともなげにわらった。「ですけど、あんまりしつこいので、困ってしまって、栃木の父へ相談にいったら、目から火が出るほど怒られました。父の方へは先方から直接話しにいったそうですけど、あたしの方からは気の進まない手紙ばかりなので、返事を保留していたんだそうです。父は、それはあたしのからだをよそへお嫁にゆけなくしちゃって、それから強引に話をつける、ひどいやり方だっていうんです。父は、わがまま勝手にくらしてきた人なんですけど、そんな条件づきの結婚なんかやめちまえ、目さきの条件なんかにつられて一生棒にふることはない、結婚なんて、死ぬほど惚《ほ》れた相手ができたら、さっさとするのがいちばんだっていうんです。」
私は、立ちどまった。志乃は私の前に立った。
「その人のこと、破談にしてくれ。」と私はいった。
「はい。」
「もう、なかったことにして、忘れてくれ。」
「はい。」
「そして、お父さんに、あんたの好みに合いそうな結婚の相手ができたと、いってやってくれ。」
志乃は、目を見ひらいて、私の顔をまじまじと見た。私と志乃の顔のあいだに熱気がうずまき、それがひと息ごとにめまぐるしくなって、私と志乃を互いにひきつけようとした。志乃は、そろそろと手をあげて、自分で自分の胸を抱き、私は唾《つば》を呑《の》んで辛《かろ》うじていった。
「せっかちか。」
「いいえ。」
辛うじて、志乃もわらった。
秋のおわり、志乃の父の容態が急変した。
志乃の父は、若年の頃《ころ》からの深酒がたたって、栃木へ移住してから肝臓を患《わずら》い、母の死後、病勢は進む一方で、けれども志乃の仕送りと弟の稼《かせ》ぎだけではゆっくり療養できる余裕などなく、それにもちまえの自棄も出て、荒れるにまかせているらしかった。そんな父の病状をつぶさにしるした弟のたよりがあるたびに、志乃はさすがに辛さを顔にあらわして、「なんとかしてやりたいのですけど、どうにもなりませんわ。いくら懸命になっても、焼け石に水。」といって、寂しくわらっていたが、ある朝、いきなり、チチキトクの電報であった。
私は、使いの女によび起こされて、忍ぶ川へ駈《か》けつけてみると、すでに身支度を終った志乃が、額を白くして待っていた。
「父がとうとうだめらしいんです。いってきますわ。」
志乃はわりに落ち着いた手つきで、たたんだ電報をひらいて見せた。私は、たちまち喉《のど》がからからになった。
「途中まで送っていくよ。」急《せ》きこんでいった。
「そうしてくだされば、ありがたいんですけど。」
「すぐ、いこう。」
「そのままで、いいんですか?」
私は、ふだん着の久留米《くるめ》絣《がすり》に兵児《へこ》帯《おび》をぐるぐる巻いていた。顎《あご》には、鬚《ひげ》も生えていた。
「はずかしいかね。」
「いいえ。あなたさえよければ。」
「じゃ、すぐいこう。いくらでも早い方がいいのだ。」
私たちは電車をのり継いで北千住《きたせんじゅ》までいった。志乃は、東武電車にのりかえて、そこから父が病む町まで、二時間であった。ホームで電車を待つあいだ、
「父の病気は、肝臓収縮症とかいうんですって。肝臓がだんだんちぢんで、しまいには小石みたいになる病気ですって。どうせもう、だめでしょうけど……。」
もう、あきらめたような顔で志乃がいうのに、かえって私の方が気を高ぶらせて、
「あきらめちゃ、いけないな。しっかりしなくちゃ。たとえ、どんなことになったって、とり乱しちゃいけないよ。」
そんなことをとりとめもなくいって、ひとりでりきんだ。電車が入ってくると、志乃は帯のあいだから、ちいさくたたんだ紙きれを出して、私の手ににぎらせた。
「電車が走ってからお読みになって。」
「ぼくが必要なときは、いつでも電報でよんでくれ。」
「すいません。」
そっと手をにぎりしめると、電車へ飛びのって、発《た》っていった。
電車が見えなくなってから、私は、ホームのベンチへぐったりと腰をおろして、手紙をひろげた。便箋《びんせん》にうすい鉛筆のはしり書きで、私はそれをひかりのくる方へ傾けて読んだ。
いそぎ、おねがいいたします。
ひと目、父に会っていただきたく、おねがい申しあげます。
両親ふたりともあなた様をみせずに死なせてはかわいそうで、わたくしもくやしくてなりません。
せめて父にはあなた様をみせてやりたいのです。そうして、せめて志乃のこと、安心して死んでもらいたいのです。
かってですが、あす一時の電車できてくださいまし。多美という末の妹を駅まで出させます。
それから、これだけはどうしてもいえませんでしたが、わたくしの家、お堂でございます。神社のお堂でございます。深川でやけ出されて栃木へ帰ってもすむ家がなく、お堂の縁をかりて、そのまま住みついてしまいました。あんまりびっくりなさって、いやだなどとはいわないでください。どうぞどうぞ、いらしてください。では、あす。
どうか、まにあいますように。
まにあわなかったら、死に顔だけでもみてやってくださいまし。しの。
翌日の午後一時、私は浅草から電車にのって、三時すぎ、栃木の町に着いた。
ちいさな駅舎を出ると、どこからともなく、髪をおかっぱにした女の子が近寄ってきて、私ににっとわらいかけた。鼻がこんもりと高く、眼《め》尻《じり》がつりあがり気味で、ひと目で志乃の妹と知れた。「多美ちゃんだね。」と私がいうと、女の子はこっくりうなずき、それから、教師が生徒の出欠をしらべるときの口調で、私の名を高くいった。
「お父さんは、どう?」と訊《き》くと、
「お医者さんが、もうとっくにだめだといってんのに、まだ生きてるんせ。」と、一句々々、いちいち語尾をあげる方言でいった。
「そう。それはよかった。」これで志乃の望みは達せられると私は思った。
「志乃姉ちゃんが、父ちゃん、あんたがくるまでは、なんとしても死なないんだって。」
志乃が、そんなことをいって、医者から見離された病人やきょうだいの気をひき立てているのだろうが、それにしても、私のような無力な男でも、虚《こ》空《くう》に消えようとするひとつのいのちを、たとえ幾時間でもつなぎとめる手立になりうるのかと思えば、しぜんと身がひきしまる想《おも》いがするのであった。
私と多美は線路沿いの小道をぬけ、街道筋に軒をならべている家々のうら手、すすきの群落のある野の道を急いだ。厚い雲に覆《おお》われた空には、赤とんぼがうようよと飛びちらっていた。
「これ、近道?」あるきながら私が訊くと、
「いや、遠道。」と多美はいった。
「なぜ、遠道をゆく?」
「だって、父ちゃんはあんたがくるまで死なんていうから、あんたがきたとたんに死ぬんじゃないのけえ?」
多美はまじめくさってそういったが、私が思わず足をゆるめると、駈けるようにどんどんさきを急ぐのであった。
ゆくての街道筋よりに、ちいさな杉《すぎ》の森があり、その森の空に鴉《からす》が胡麻《ごま》をまいたように群れ飛んでいた。
「まあた、きてんのお、あの鴉!」とにくにくしげに多美はさけんだ。
近づくと、森ではなかった。以前は森であったのが、奥の方からすこしずつ伐《き》り倒されて、いまは前面にうすい林があるだけであった。朽ちて、かしいだ鳥居をくぐり、林をぬけると、切株だけの森の奥に、お堂というより、古いけれどもそうちいさくもない社殿が、黄ばんだ野を背景にしらじらと建っていた。それが志乃の、家であった。
多美がその方へ駈け出すと、同時に社殿の高い縁の下から、紺絣のもんぺをはいた志乃が多美とすれちがいに駈けてきた。
「きたよ。」と私はいった。
「いらっしゃいまし。お待ちしてましたわ。」
志乃は頭を覆った手《て》拭《ぬぐ》いをとると、両手でそれをにぎりしめた。一夜のうちに目が落ちくぼみ、唇《くちびる》が白っぽく乾いていた。
「まにあったね。よかった。」
「ええ。なんとかいままで、鞭《むち》をうつようにして。」
私は、そのまま唇を噛《か》んでなんとなくためらっている志乃よりさきに、社殿へむかって大股《おおまた》にあるいた。社殿は、廃棄せられてからながい歳月を経ているらしく、神社の装飾はなにもなかった。神前の鈴をふる布ぎれが一本、色《いろ》褪《あ》せて静かにたれているだけであった。私は、むしろ気負って、志乃が出てきた高い縁の下へ入ろうとすると、志乃がうしろからよびとめた。
「あの、そっちは弟の仕事場なんです。こちらへどうぞ。」
私はうつむいて神殿の階段をのぼった。
神殿の板戸をあけると、くらい内部に裸電球がひとつ、熟《う》れ柿《がき》のようにともっていた。なかは十畳敷ほどのひろさで二つに仕切られ、奥の半分は床より一段高い壇であった。そこには神社の遺物らしい大小さまざまの木箱や額縁が雑然と積みかさねられていた。手前の半分にはささくれ立った畳が数枚敷きつめてあり、その奥の、黒ずんだ旧式の箪《たん》笥《す》の裾《すそ》に、志乃の父の死の床があった。そうして、その枕《まくら》もとには、箒《ほうき》づくりを職としている弟と、中学三年の妹、そして多美とが、きちんと膝《ひざ》をそろえていた。
「お父さん、お父さん。おいでになりましたよ、おいでになりましたよ。」
志乃は、枕もとへ駈け寄って、うすい蒲《ふ》団《とん》の上から父の胸をゆさぶった。すると、それにつれて父の顔、肉がほとんど朽ち落ちて骨がありありとうき出した、そして、これが大人の顔とは信じられないほどにちいさい、ミイラのような父の顔が、瞑目《めいもく》したままちからなく左右にゆれた。志乃はなおもゆさぶりながら、私の名をいったが、父は、ああ、ああ、と、うわずった声をあげて、けれども目をひらく気力もないようだった。
「せっかくおいでになったのに、わかんないのかなあ、父ちゃんは。ねえ……。」
志乃は泣き出しそうな顔をして、助けを求めるように弟たちをふりむくと、いきなり多美が、父の耳に口をつけてさけんだ。
「志乃姉ちゃんのお婿《むこ》さん。志乃姉ちゃんのお婿さん。」
すると、多美の声が終らぬうちに、父の目がうっすらあいた。多美がたたみこむように、「父ちゃん、志乃姉ちゃんのお婿さんだぜ。見なよ。ほら、父ちゃんのすぐよこにいるんだぜ。」というと、赤い電燈《でんとう》のひかりをあつめてかすかにふるえる父の目が、まるで目頭からとろけ落ちでもするように、ゆらゆらと私の方へうごいた。私は両手をついてその目の上にかがみこみ、
「お父さん。」といった。
「ああ、これは、志乃の父親でございます。」
すこし舌がもつれたが、その声は意外なほどしっかりしていた。父は首筋を張り、身を起そうとした。
「いけません。どうぞ、そのままにしていてください。」まるで板のような肩をおさえて、私がいうと、
「わたしがばかで、ろくに子供も育てられんで、いたらぬものですが、志乃のことはなにぶんよろしゅう、おねがい申します。」
いいきって、父はさすがにはげしく喘《あえ》いだ。
「見える? ねえ、お父さん、見える?」
志乃は、どうでも父に私を見せたいらしく、父の胸にすがるようにして懸命に訊いた。
「ああ、見えるよ。」
父は、うってかわった絶え入るような声で答えた。志乃は、こころぼそげに、身をもんだ。
「ただ、見えるって、どう見える? ねえ、どう見える? お父さん。」
父のこけた頬が、ひくひくとうごいた。
「いい男だよ。」
それきり、また瞼《まぶた》が重そうにたれさがり、あとは口だけが声もなく、なにごとかを語りつづけた。
「見えたんですって。いい男だなんて……。」
志乃は私を仰いだが、すぐうつむいて、父のとがった喉ぼとけのあたりにぽたぽたと涙を落した。
――その翌日、志乃の父は、死んだ。
父の死後、志乃らは棲《すみ》家《か》をうしなった。お堂はその筋の手にかえされ、きょうだいは離散してくらさねばならなかった。弟は箒の製造会社へ住込み職人として移り、妹たちは遠縁の家へ、そうして、志乃は私がひきとることになった。
私と志乃は、生前、志乃の父が好んだ「惚れてさっさとする結婚」を、その父の五七日《いつなのか》があければすぐに実現するのであった。
その年の大《おお》晦日《みそか》、私は志乃をつれ、夜行列車で上野を発った。
ふるさとは、さらさらとした粉雪であった。汽車をおりて、屋根のないホームをあるいてゆくと、それが油をひいてつやつやとした志乃の髪へ、銀粉のようにふりかかった。
母は、私たちを見ると、「おお、おお。」といった。皺《しわ》くちゃの顔をほころばせ、遠くから私たちを抱くように両手をひろげて、「おお、おお。」といった。志乃はわるびれず、まっすぐ母の前へいって挨拶《あいさつ》すると、母は志乃よりも深く頭をたれて、歌うような田舎言葉で挨拶をかえした。
「おお、おお、よくまあ、こんな雪深い田舎までおいでなしゃんした。」
母はいいながら、志乃のコートの肩に降った雪を手のひらで払ってやった。志乃は、頬《ほお》をそめて、素直に母のするままにまかせていた。
「こんな雪降りに、迎えにこんでもよかったのに。」
と私がいうと、母はとんでもないという顔で落ちた肩をゆすりあげ、
「なんの、なんの。息子の嫁さんがくるんずのに、迎えにこずにおられるってか。ちゃんと車もよんでおいたよ。」
車は、あたらしい雪の降り積む道を、すべりどめの鎖をぱりぱりと鳴らしながら走った。凍った川をわたり、すぐ右へ折れて川沿いの坂道へかかる。車がやっと一台通れるくらいの細道であった。
「さあ。この雪じゃ、通れやすかな。」
運転手が首をかしげると、母はのり出すようにして、
「嫁さん、のせてるんだもの、なんとかして通ってくんしゃんせ。」
「ほい。元旦《がんたん》から嫁さんのせて、おめでたいこってすな。途中でとまって、けちがつくといけまっせん。いきやんしょう、いきやんしょう。」と運転手はいった。
家の前の道ばたに、父と姉とが、一本の蛇《じゃ》の目《め》に肩を寄せて立っていた。運転手がおどけてクラクションを鳴らすと、父は手にもった雪よけの大きな木《き》篦《べら》をふるのであった。「よくきた。よくきた。」と父はいった。姉は志乃を抱きかかえるようにして傘《かさ》に入れ、玄関へ導いた。
「ゆんべから、また降りおっての、いくら雪道つけてもきりがありゃせん。」と父がいった。
「だけど、そんなことして、いいのかなあ。」
私が病身の、ふと去年より弓なりになったような父を見あげると、父はわらって、「なあに。」といった。
「いくら、やめなしゃんせいうても、ききゃせんのだえ、父さんは。」と母がいった。
その日、日の暮れが早かった。五人、茶の間の炬《こ》燵《たつ》に入って、手土産の菓子などつまんでいると、父が同じ話をなんどもくりかえさせるので、まだいくらも話さぬうちに、電燈をつけねばならなかった。
母と姉が夕食の支度に立つのといっしょに、志乃も立って、スーツケースから割烹《かっぽう》着《ぎ》を出した。母が狼狽《ろうばい》して、志乃の手をおさえた。
「なんとまあ、志乃さん、あんたお嫁さんですけに、じっとすわっていなしゃんせえ。」
「え。でも、あたしなにかお手伝いしますわ。」と志乃はいった。
「よござんす、香代《かよ》と二人でやりゃんすけに、あんたは、ま、すわっていなしゃんせ、な。」
二人、割烹着をもってもみあうのを見て、私と父はわらった。
「母さん。志乃がそういうのだから、なにかやってもらいなさいよ。」
私がいうと、母があきれ顔で、
「なあんという、婿さん。着いたばかりの嫁さんに水仕事させるのを、なんとも思っていないんじゃから。よその人が見たら、どんなん思う?」
「いいんだよ、この人は。よその嫁さんとちがうんだから。嫁がはたらいて、なぜいけないのっていう人なんだよ、この人は。よその人が見て、なんていったっていいじゃないか。世間世間っていままで苦労してきたんだから、もう志乃のことで、きっぱり縁をきらなくちゃ。まあ、いいから志乃をつれてってごらんよ。きたばかりの嫁さんといっしょに水仕事するのも、きっと悪い気持がしないでしょうから。」
「そうかのう。あんたにはかなわん。」
母はべそをかくようにわらって、いさんで割烹着を着る志乃のうしろの紐《ひも》を結んでやった。
その夜、汽車で眠れなかった志乃をさきに休ませ、親子は茶の間で、結婚式の相談であった。式は、翌晩、内輪だけでやることにした。親戚《しんせき》も遠く、この町にはそれほど親しいつきあいもなかった。私は、はじめからおおげさな式などやらぬつもりで、ただ六人の子をもちながら、六十すぎて末っ子にはじめて嫁を迎える父母の心中を想い、すべて二人のおもわくどおりにまかせていたから、もとより異存はなかった。
父と姉が寝に立って、私と母だけが茶の間にのこった。私たちは、しばらくだまって鉄《てつ》瓶《びん》のにえたぎる音をきいていた。
「こんどのことは、あんたには上出来じゃったの。」
母がいった。私はうれしく、「うん。」と素直に首肯できた。
「手紙で、およその見当はついたけど、料理屋さんにいた人というんじゃもの、見るまでは心配でせえ、まだ見ぬ人を夢にまで見たよ。だけど、苦労した人は、どこかふつうの娘さんとちがうもんじゃあ。大事にせな、いかんえ。あの人の気立てに、甘えたらいかんえ。」
私はなんどもうなずき、
「それはそうと、香代さんは、どう?」と訊いた。
「ああ。自分のことみたいによろこんでるよ。」
私は安《あん》堵《ど》した。私は、志乃との結婚について、思いわずらったのはただこの姉のことだけであった。姉は病弱で、目がわるく、いつも青いガラスの眼鏡をかけていて、今年三十五歳であった。もはやこのさき、結婚は望めぬ人なのである。六人あったきょうだいが、いまはこの人と私の二人だけであった。私には、すでにこの人を守らねばならぬ義務があった。ただでさえ、ひとりでにゆらめきがちなこの人の胸のちいさな焔《ほのお》を、断じて消してはならぬのである。しかし、私の結婚は、この人にとっては大きなショックであるかもしれなかった。私は、孤独に脆《もろ》い私たちきょうだいの血を想い、私の結婚によってとりのこされた姉が一段と深い孤独に落ちこむことを心からおそれていたのである。
その夜は、私は二階に姉といっしょに、志乃は階下に母と枕をならべて眠るのであった。
私は二階へのぼろうとして、ふと台所をのぞくと、姉が流しで、ざぶざぶと顔を洗っていた。夜、寝る前に、水で洗顔することは姉の毎夜の習慣で、私も前から知ってはいたが、そのとき、私はとっさに、姉が今まで、そこで泣いていたのではないかとうたがった。志乃がよいにつけ、わるいにつけ、敏感な姉の心は揺れているはずだった。
私は、もし自分が死んだきょうだいたちのうちのだれかだったら、このまま、そっと二階へあがっただろうと思いながら、どすどすと足音荒く流しにあるき、姉の背中へ、「おい。」といった。姉は、濡《ぬ》れた赤い顔でふりむいた。私は、その顔にふれんばかりに近寄って、わざと乱暴にいった。
「俺《おれ》の嫁さん、どうかね。」
姉は、水滴のたれこむ目をしょぼしょぼさせて、わらった。
「いい、ひと。」
「あんたの妹だぜ。うまくやっていけそうかい。」
姉は無言でわらいながら、拳《こぶし》をふりあげ、親猫《おやねこ》が子猫をぶつような、肉親だけの親しさをこめて私の胸板をどすんとぶった。
「ありがとう。」
私は、志乃との結婚が成功したと思った。
あくる日、雪はきれいにはれて、夜、十三夜の月がのぼった。
私は大島絣《おおしまがすり》の対《つい》を着て、袴《はかま》をはいた。父と母は紋つきを着た。出不精の上に病気の父は、ここ十数年袖《そで》を通したことのない紋つきを箪笥の底から自分で出して、羽織の襟《えり》の深い折れ目に急いで火熨斗《ひのし》をかけさせるのであった。志乃はふり袖をもたなかったので、たった一枚ある訪問着を着て、姉は志乃にあわせて訪問着に白地に金糸の縫いとりのある帯をしめた。そうして、ガラス戸越しに、白い雪野がみえる座敷のまんなかに私と志乃、その両脇《りょうわき》に父と母、母のとなりに姉の五人が、コの字に膳《ぜん》をならべてすわった。膳には大きな鯛《たい》の塩焼きがあった。
仲人《なこうど》も、雄蝶雌蝶《おちょうめちょう》も、他《ほか》に祝ってくれる人もない、ささやかすぎる式であった。世のなかに、これ以上ちいさな結婚式はないであろうが、またこれ以上、心がじかにふれあって、汗ばむほどにあたたかい式も他にないはずであった。そうして、私と志乃にとって、これ以上ふさわしい門出はなかった。ちいさく、貧しくとも、つよく、心ゆたかに生きようというのが、私たちの信条であった。
三々九度の盃《さかずき》をした。私の家には、華やかであった昔のなごりに、いまのくらしにはにつかわしくない華美な食器がたくさんあって、たいていの会にはまにあったけれども、結婚式だけはいちども経験がなく、その道具はひとつもなかった。だから、三々九度も、ふつうの盃をなんどもやりとりしておこなうのである。姉が酌《しゃく》を買って出て、みんなに注《つ》ぎまわったが、姉の目には酒の色がよく見えず、なみなみと注ぎすぎてあふれさせては、「いやあ。いやあ。」と当惑の声をあげるのであった。みんなは、終始くすくすとわらいあった。
ひと通り、儀式がすむと、盃ひとつの酒でまっかになった父が、とつぜんいった。
「高砂《たかさご》なんと、歌いやんしょうかな。」
私たちは、おどろいた。私たちは、父が歌うのを、かつてきいたことがなかったのである。私たちは冗談にして、わらって父を見やったが、父は本気らしく、端然とすわりなおして、大きくひとつ、咳《せき》ばらいした。すると、膝頭においた右手のこぶしがぶるぶるとふるえて、膳のふちをつづけざまに打った。それは父の病気の、ひとつの発作のはじまりであった。父は病気して以来、心が高ぶりすぎると、きまって不自由な方の右手のさきが、ぶるぶるとふるえたのである。
「たあかあ、さあごお、やあ……。」
父は顎《あご》をふって、歌った。歌うというより、舌がもつれ、声が喉《のど》にからまって、ひゅうひゅうという息だけが、ぬけた歯のあいだから、棒ぎれのようにもれた。
「父さん、父さん、やめにしてくんしゃんせえ。」
と母が涙ぐんで歎願《たんがん》したが、父はやめなかった。
「父さん、父さん。」
姉が両手で、ふるえる父の右腕をおさえたが、父はなおも歌おうとし、膳のふちをたたく音が高まるばかりなのであった。
私は、ちいさく争う三人を、ただだまって見ていた。うちつづく子らの背信には静かに耐え得た父母も、こんなささやかなよろこびにはかくも他愛《たわい》なくとり乱すのである。私は、そうしてもつれあう三人の、はじめて味わう愉悦を想《おも》い、ふいに声をはなって泣きたいような衝動に駆られた。志乃は、目のふちを赤くして、ただ無心にわらっていた。
――その夜、私と志乃は二階の部屋に寝るのであった。
私は、二つならべて敷いた蒲《ふ》団《とん》の一方を、枕《まくら》だけのこして手早くたたんで、
「雪国ではね、寝るとき、なんにも着ないんだよ。生まれたときのまんまで寝るんだ。その方が、寝巻なんか着るよりずっとあたたかいんだよ。」
さっさと着物と下着をぬぎすて、素裸になって蒲団へもぐった。
志乃は、ながいことかかって、着物をたたんだ。それから、電燈をぱちんと消し、私の枕もとにしゃがんでおずおずといった。
「あたしも、寝巻を着ちゃ、いけませんの?」
「ああ、いけないさ。あんたも、もう雪国の人なんだから。」
志乃はだまって、暗闇《くらやみ》のなかに衣《きぬ》ずれの音をさせた。しばらくして、「ごめんなさい。」ほの白い影がするりと私の横にすべりこんだ。
私は、はじめて、志乃を抱いた。
志乃のからだは、思ったよりも豊かであった。ふだん、和服ばかり着ていて、着やせして見えるのである。乳房は、にぎると、手のひらにあまった。肉はかたくひきしまっていたが、そのくせ、押せば、どこまでも沈んでいきそうな不安があった。皮膚はうすく、胸をあわせていると、志乃の血のたぎりが刻々とわかった。そうして、志乃のからだの襞《ひだ》という襞がうちがわから火にあぶられているようにあつく、私たちの全身はたちまちのうちに汗ばんだ。
その夜、志乃は精巧につくられた人形であった。そして、私は、初舞台をふんでわれを忘れた、未熟な人形遣いであった。
私たちは、胸を抱きあったまま、眠ることができなかった。眠れないままに私は、
「どうだ、あったかいだろう。」
「え、とっても。これからは、東京に住むことがあっても、いつもこうして寝ましょうねえ。」
と志乃が私の胸にいった。それから、式のことを順ぐりに思い出し、飾らぬ言葉で私の家族のよさをいった。
「でも、あたし、なんにもできなくて、恥ずかしいわ。これから、うんと勉強しますわねえ。いま、こうしていると、あたしが二十年間、どんなに無駄《むだ》にくらしたか、よくわかるんです。自分のことはうっちゃって、ただ、他人のために、周囲のために、したいことも、したくないことも、しのんで、しのんで……。」
「忍ぶ川の、お志乃さん。」
「いいえ、もう忍ぶ川なんか、さっぱり忘れて、あしたからはべつの志乃になって、もうこれからは、自分とあなたのことだけを考えますわ。そうして、よい生活をしましょうねえ。」
言葉がとぎれると、雪国の夜は地の底のような静けさであった。その静けさの果てから、さえた鈴の音がきこえ、それがゆっくりと高まってきた。
「なんの鈴?」志乃は訊いた。
「馬《ば》橇《そり》の鈴。」私は答えた。
「馬橇って、なに?」
「馬がひく橇のことだよ。在のお百姓が、町へ出て、焼酎《しょうちゅう》を飲みすぎて、いまごろ村へ帰るのだろう。」
「あたし、見たいわ。」と志乃がいった。
二人、裸のまま、一枚の丹前にくるまって、部屋をぬけ出た。廊下の雨戸をほそ目にあけると、刃《やいば》のようにつめたいひかりが、むごいほど白く、志乃の裸身を染めるのである。
まひるのようにあかるんだ雪の野道を、馬橇が黒い影をひきずってりんりんと通った。馬は橇の上に、毛布《ケット》にくるまって腕組みしたまま眠りこけている馭者《ぎょしゃ》をのせて、ひとりで帰路を急ぐのだろう、蹄鉄《ていてつ》が月光をうけてきらきらと躍っていた。それに見とれているうちに、志乃はちいさくふるえてきた。
「さ、もう寝よう。あした、また汽車にのるんだよ。すこし眠ろう。」
「ええ。あの鈴がきこえなくなるまでに、眠りましょうね。」
蒲団へ入ると、志乃は冷えきったからだを私の胸にもむようにし、かちかちとふるえる歯を私の肩にそっとあてた。
鈴の音は遠のいた。ふいに、きこえなくなって、耳鳴りがした。
「きこえるか?」
志乃は答えなかった。唇《くちびる》に、唇をあててみた。志乃は眠りに落ちていた。
翌朝、私たちは新婚旅行に発《た》つのであった。
私と志乃は、そんな晴れがましい旅行はせぬつもりだったが、母がぜひいってこいというのである。私たちのためばかりでなく、家の者も、これからの生活の支度をいろいろせねばならぬのだから、ひと晩だけでもいってくるべきだというのが母の主張で、私たちは仕方なく、ひと晩泊りで、町の駅から北へ二つ目の、K温泉へゆくことにした。K温泉は、私が学校をよして失意のころ、無頼の四季を送ったことのある谷間《たにあい》の村である。そんなところへ、志乃をつれてゆく気になったのは、かつて焦慮の汗を洗ったそこの白濁した温泉に、ふと、焦慮の果てにめぐり会った志乃のからだを、うかべてみたい気がしたからであった。
朝の汽車は、行商の人たちで混《こ》んでいたが、私たちは運よく、むかいあって腰かけることができた。志乃は、寝不足ではれた目をほそくして、朝日を浴びた窓外の景色をながめていた。
町の駅を出てから、まもなくであった。
あ、と志乃はさけんで、目をみはった。
「見える、見える。」
志乃はいきなり、私の膝《ひざ》を両手でつかんで、ゆさぶった。
「ごらんなさい、見えるわ、見えるわ。」
指さす窓の外には、屋根に雪の降り積んだ低い町がひろがっていた。凍った川、橋、火の見櫓《やぐら》、お寺の屋根、その背後に流れている北上山地のひくい山なみ。
「なんだ。なにが見えるんだ?」
「うち! あたしの、うち!」
見ると、凍った川の崖《がけ》ぶちに、私の家がちいさく、朝日の色に染まった白壁を雪のなかからうき出させていた。
「ああ。見える、見える。」
「ね、見えるでしょう。あたしのうちが!」
志乃は、なおも私の膝をはげしくゆさぶりつづけて、生まれて二十年、家らしい家に住んだことのない志乃の、やっと探しあてた〈自分の家〉を新婚旅行の汽車の窓から遠望し得たよろこびが、私にも決してわからぬわけではなかったけれども、ふと気がついてみると、初荷をはこぶ行商の人たち、年始まわりの着飾った人たちが、口をつぐんで、私と志乃にものめずらしそうな目を注いでいて、私は、うんうんと志乃にうなずきながら、身のまわりがやたらにまぶしく、赤面した。
初夜
一
私は、まだ学生のころ、寮の近所のちいさな料理屋にはたらいていた、志乃《しの》という二十《はたち》の女と結婚をした。知りあってから二年目の正月であった。
私は、冬の休暇を利用して、志乃を私の郷里へつれ帰り、正月二日の夜、私の家族だけでささやかな結婚の宴をした。そうして、その翌日、私たちは母のすすめで、近くの鄙《ひな》びた温泉場へ新婚旅行のまねごとの一泊旅行をこころみた。
そこは、馬一頭、やっと通れるほどの道をのこして、あとはただ茫々《ぼうぼう》と白くけむるばかりの雪野のなかの湯の宿であった。帳場に大きな囲炉裏があり、湯殿に白い、とろりとした湯が湧《わ》いているほかは、めぼしいものはなにもなかった。私は、さすがに、あまりの趣なさを志乃に恥じたが、志乃はあかるく、
「こんなにたくさんの雪をみるのは、はじめてですわ。いい記念です。」
窓ぎわに立っては、遠くでさかんに雪げむりをあげている野をながめわたしたり、床の間の鏡餅《かがみもち》の上の蜜《み》柑《かん》がひとりでころげ落ちたといっては、さもおかしそうにわらったりした。その床の間の蜜柑は、朝から、実によく落ちたのである。風もないのに、ひとりでに、こつんと落ちた。志乃が拾って、餅の上にのせて、しばらくすれば、またこつんと落ちる。きりがなかった。
「お餅も、蜜柑も、どっちもかちんかちんに凍っちゃってるんですよ。まるで、ガラスでできてるみたい。だから、すぐにすべっちゃうんだわ。どうしましょう。」
「なに、ほっとけばいいさ。」
「でも、お正月の飾りですもの、そうはいかないわ。」
志乃は、そういって、思案のあげく、凍った蜜柑を融《と》かそうとして炬《こ》燵《たつ》のなかで温めたりした。
その夜、寝る前に、私と志乃は湯にはいった。私には、寝る前に、ぜひ志乃に話しておかねばならぬことがあったが、そんなことは、新婚旅行の旅先で、新妻に語るべきことではないような気がして、日が暮れる前からいい出しかねていたのである。それは、私にとってはのっぴきならない問題であったが、あるいは志乃の晴れた心を翳《かげ》らせるかもしれないことなのであった。
木の湯舟のふちに腰かけていると、野を駈《か》ける風の音がきこえた。ときおり、湯殿の窓がさっといちめんに白くなり、いくら窓をきっちり閉めても、どこからともなく粉雪が、私のほてった背中にちりちりと降った。それは、ふと、私をわれにかえらせ、私の心をはげました。
「ゆうべね、僕《ぼく》は子供ができないように、したよ。」
私は、ふいにそういった。志乃は、それが初夜のことだと気がつくまでに、時間がかかった。
「あら。」
志乃は、まばたきしながら、うつむいた。
「あんた、子供がほしいかい?」
私は、たたみこむようにずけずけと訊《き》いた。志乃はのばした両腕を胸の前で交錯させて、いっそうつよくまばたきをした。
「そりゃ……ほしいわ。」
「何人?」
「ふたり。男がひとりに、女がひとり。……でも、いますぐでなくてもいいんです。」
「そうか。」
私は、吐息して窓の方を見ながら、また胸のうちで、やっぱり、そうか、とつぶやいた。志乃はしばらく黙っていたが、やがて物足らなかったのか、
「どうして?」といった。
「うん、僕はね……実はほしくないんだ。」
私は、思いきってそういって、志乃の顔を見た。志乃の顔には、私がおそれていた通り、やはり失望の色がありありとみえた。それでも志乃は、かすかにわらった。
「なぜですの? 子供が嫌い?」
「いや。そうじゃない。」
「そんなら、あなたがまだ、学生だから?」
そうでもなかった。私がいま現実に学生の夫である以上、もし子供がほしければ、学生の父になることをも辞さなかった。
「じゃあ……あたしがいけない、からですか?」
めずらしく、ちらと自嘲《じちょう》めいたわらいをうかべて志乃がいうのを、私は、「ばか。」と叱《しか》った。志乃は、私から望んだ妻である。その志乃をおいて、他《ほか》に子供を産ませる相手のありようがなかった。
「そんなことをいうなら、ほんとうのわけをいおうか。僕はね、自分の子供をもつのが、こわいんだよ。」
私がいうと、志乃は、それで思いあたったというふうに、うなずきながら足もとに目を落した。あるいは志乃も、私の妻になろうと決意したとき、そのことをいちどは考えてみたかもしれなかった。
「なぜ、こわいか、わかる?」
「ええ。」
私は、あのいやなことを、いまここで語らずにすむ、助かったと思った。
――私の父母は、私を末子として、六人の子をもった。その六人のきょうだいのうち、私をのぞく上の五人が尋常ではなかった。ある者は自殺者であり、ある者は失踪《しっそう》者であり、またある者は生まれつきの不具者であった。なかには、ひとりで二つの役を兼ねた者もいた。そうして、四人がすでに亡《ほろ》んで、いまは私と、すぐ上の、生まれつき目の悪い姉だけがのこっていた。
私は、ひとりのこされた末弟として、これらきょうだいたちの不幸で短かった生涯《しょうがい》について、深く苦慮せずにはいられなかった。私には、彼《かれ》等《ら》の破滅のひとつひとつが、とても偶然の事故のかさなりあいだとは思われなかった。それらはみな、なにか目にみえない絆《きずな》によって、互いに固く連結されているような気がしたのである。そうでなければ、ひとりが亡んだのをきっかけに、他の幾人もが他愛《たわい》もなく、ずるずると亡んでゆくわけがなかった。
たとえば、ここにひとつの家庭があって、そこに不具の子が生まれたとする。家族は、その偶然の不幸を悲しむだろう。けれども、つづいてまた、おなじ不具の子が生まれたとしたら、どうであろうか。家族は、ただ悲しんでばかりいられるであろうか。また、ある家から自殺者が出たとする。のこされた者たちには、悲しみよりも怒りの方がつよいかもしれない。けれども、不心得な奴《やつ》でして、などといってるうちに、またひとりが自殺したとしたら、どうであろうか。そのとき、彼等はただ単純に憤《いきどお》っていることができるであろうか。彼等のうける衝撃は、悲しみをも憤りをも超えるはずである。そうして彼等は、それら不幸なひとたちのあいだをつないでいる、なにか宿命的な因縁《いんねん》とでもいったようなものを感じないわけにはいかないだろう。
私は、血というものに思い至った。私たちきょうだいを数《じゅ》珠《ず》つなぎにしている血、そのものが、病んでいるのではないかとうたぐったのである。そうして、私が呪《のろ》わしかったのは、そのきょうだいたちの病んだ血が、私自身のからだをも流れているという、うごかしがたい現実であった。すると、私は、生涯この病んだ血の誘惑に抗《あらが》いながら生きてゆかねばならないのかと思った。俺《おれ》の人生は、俺自身の血との駆け引きかと、やけの自嘲も出るのであった。そうしてそんな、私自身いつ亡ぼされるかわからない危険な血を、子供に分けるのが無性にこわくてならなかったのである。
そんな私の事情については、以前、志乃にはなんどか語った。志乃もそれを承知の上で、私のところにきたのである。私が子供をもつのがこわいといったとき、志乃がわらわなかったのは、私のおそれが、一般の若い父たちが生まれてくる子を不安がる気持なんぞの比でないことを、察したからにちがいなかった。それにしても、夫となった私の口から、はっきり子はつくらぬと宣言された志乃の心のうちを思うと、私はさすがにやりきれない思いがした。志乃は、健康な、若いからだをもちながら、妻として、また女としての、おそらく最大の歓《よろこ》びを封じられて生きるのである。それは、志乃がすすんで選びとった不幸にしても、選ぶにまかせた私は、やはり心が痛んでならなかった。
私と志乃は、互いにいうべき言葉をなくして、しばらく黙って風の音をきいていた。私は、からだが冷えてきた。
「寒くないか? いちど温まって出ようよ。」
私は、志乃をうながして、湯舟にはいった。そして、牛乳のように白い湯のなかで志乃と指をからませあった。
「あんたの気持がわからないわけじゃないんだけど、僕はいまのところ、どうにも自信がないんだよ。自信さえできたら、いますぐにだって……。だから、あんたも、それまで子供はほしがらないって、約束してくれないか。」
志乃はうなずいて、指にちからをこめた。
「あたしのことなら、いいんですよ、心配してくださらなくても。子供は、あなたがいいっていうまで、いくらでも待ちますわ。どんなにほしがったって、できない夫婦もいるんですもの……。」
「じゃ、約束したね。」
「ええ。」
志乃は指をするりとぬくと、私からからだを遠ざけた。
二
一泊旅行から帰ってから、私は郷里の家で志乃と新婚の十日を暮らした。そして、冬の休暇があけると、私は単身、東京に帰った。
学校へ通う朝夕、志乃がはたらいていた店の前を通ると、志乃の妹分だった少女が暖《の》簾《れん》をわけて飛び出してきて、
「いかが?」
などと、ませた口をきくこともあった。
「いかが、とはなんだ。」
「志乃さん、お元気?」
「ああ、元気だよ。かすりのモンペをはいて、はたらいてるよ。」
「赤ちゃんは?」
「ばか。」
たまには、女将《おかみ》も金歯をひからせながら出てきた。
「志乃ちゃん、お姑《しゅうとめ》さんたちと一緒にいるんですって? うまくやってますかしら。」
「ええ、氷を割って水汲《く》みしたり、おふくろに裁縫習ったり、結構うまくやってるようです。」
「そうですか。そんなら安心ですけど、でも、せっかく一緒になったのに、わかれわかれで、たいへんね。」
女将はそういって、なんとなく私のからだをながめわたすのである。
私たちは、私が学校を卒業するまで、別々に暮らそうときめていた。私には、まだ学業が一年あまりのこっていたし、卒業論文という難儀な仕事もひかえていた。私は、まだ、かたわらに妻をはべらせて机にむかう気持になれなくて、それに私は脆《もろ》いから、志乃と暮らせば志乃に溺《おぼ》れて、学業をおろそかにすることをおそれたのである。志乃は志乃で、ここ数年遠ざかっていた家庭生活を私の家でおさらいしながら、私の家族に親しみたいという希望であった。
私たちは百里はなれて暮らしたけれども、そう苦痛だとは思わなかった。私たちに自分たちだけの生活というものがなかったからかもしれないが、夫婦がわかれて暮らしていて、たまに激しく会うのもわるくはなかった。私は、三日おきぐらいに、日記風の手紙を志乃に送った。志乃は、一週間にいちどぐらい、家族のようすを知らせる返事をよこした。私は、休暇ごとに矢のように帰郷した。志乃は、駅まで迎えに出た。そして、家への帰り道、帯のあいだにはさんでおいた暦を、高い橋の上から川へ捨てた。その暦というのは、志乃が自分でつくったもので、ぎっしり書きこまれた私の留守の日数を、三〇、二九、二八というふうに、一日ずつ多い数から、順に消してゆけば、私の帰郷の日まであと幾日をすごさねばならぬかが、ひと目でわかるようになっていた。そうして、一を消した翌日に、私が帰ってくるのであった。
そんなふうにして春休み、夏休みを志乃とすごして、その年の十一月のはじめであった。
ある日の夕方、私は、卒業論文を書くために寮から移り住んでいた世《せ》田《たが》谷《や》三宿《みしゅく》のアパートで、父からの速達をうけとった。父は、もともと、のどかなたちで、それに数年前、かるい脳溢血《のういっけつ》の発作で倒れて以来、些《さ》細《さい》なことにも億劫《おっくう》がって、めったなことでは速達などを出すひとではなかったのである。母が急病なのかも知れぬと思い、急いで手紙をひらいてみると、母ではなく、意外にも志乃が悪阻《つわり》だというのであった。
お前の勉強のさまたげになるかもしれぬが、とり急ぎ一言知らせておきたいことがある、と父はふるえる文字で書いていた。――志乃は半月ほど前の夕食のとき、ピーマンを食して突然嘔《おう》吐《と》におそわれた。お前もよく知っての通り、ピーマンは志乃の好物であったが、それ以来、ピーマンにかぎらず、香気高い食物はそのにおいを嗅《か》ぐのみで嘔吐を催すようになった。きけば、それ以前から、しきりに生唾《なまつば》が出ていたらしく、それをひそかに流しに吐くのをみて、母もうすうす志乃の変調を察していた由《よし》である。その後、嘔吐は日々にはげしく、近ごろでは粥《かゆ》さえうけつけない。一週間前、母は志乃を伴って病院へいったが、まず念のために内科の診察を乞《こ》うたところ、医師は志乃の変調ぶりと、先般お前が帰京した日にちを尋ねた上で、なにやら紙上に計算をほどこし、これは産婦人科の領分かも知れぬといった由。そこで、その足で産婦人科へいって診断を仰ぐと、おめでたの気配濃厚であるが、あと一週間後でなければ正確なる診断はできぬとの由。小生も六人の子の父なれば、思いあたるふしもあり、一夜、独断にて街で蜜《み》柑《かん》を購《あがな》い、だまって志乃の枕《まくら》もとにおいてみたが、一時間ほどして覗《のぞ》いてみたるに、みごと、のこらず平らげておった。今日は、医師の指定した七日目である。今日の診断の結果、志乃の懐妊はあきらかとなった。はや二ヵ月、ということである。お前も妻の懐妊ははじめての経験であり、あるいはこころ動ずるやもしれず、正月、帰《き》省《せい》の折まで内密にしておこうとも考えたが、このことはお前にとっても人生の大事、わが家にとっても未曾《みぞ》有《う》の快事、小生は一日も胸に畳んでおくことができなかった。志乃のことは、つゆ心配するなかれ。志乃はやせたが、もとより悪阻は病気にあらざれば、やがてまた、もとの豊頬《ほうきょう》をとりもどすであろう。お前、ゆめゆめ女々しい心になるなかれ――そんな文面の手紙の末尾を、父は、小生七十歳、いまにして初孫を授かったかと思えば、長生きはするべきものよと、さっきも母とわらいあったことである、という文句で結んでいた。
私は、当惑のために茫然《ぼうぜん》とした。
私は、こんなに自信と歓《よろこ》びがにじみ出ている父の手紙を読むのは、はじめてであった。これまで、私たちきょうだいの背信にうちひしがれ、生気をうしない、彼等の父であることをひそかに恥じていたはずの父が、いきなり、『小生も六人の子の父なれば』といかにも誇らしげに胸をはり、ろくに買物もできないひとが、『一夜、独断にて』街で蜜柑を買い、たかが末子の嫁が身ごもったことを『未曾有の快事』、してやったりと手を叩《たた》かんばかり、はては嫁のちいさな顔を、日《ひ》頃《ごろ》冗談のひとつもいえないひとが『豊頬』だなぞとふざけている。
私は、その手紙の一行一行から、父の思いがけない心の弾みがリズムにのって脈うっているのを感じとることができたが、そこに書かれてある事実については、すこしも納得できなかった。志乃の懐妊は、もはやうたがいないにしても、その志乃が、あれほど細心の注意を払っていたのに、なぜ身ごもったのかが私にはわからなかった。そうして、わからないままに、あるいは志乃が子供ほしさに耐えきれなくて、こっそり禁を破ったのではなかろうか、それとも、あれか、それとも、これか、しまいにはこれまで考えてみたこともない、志乃のたましいを侮辱するようなことまで頭をかすめて、私の心は千々に乱れた。
私は、ともかく、一刻も早く志乃に会わねばならぬと思った。なにはともあれ、私たちが新婚旅行の旅先でした約束が、すでに破れていることはたしかなのである。私は、けっして女々しい心でではなく、むしろ雄々しい勇気をもって、志乃のふしぎな懐妊をこの目で見届けたいと思った。このままでは、とても論文どころのさわぎではなかった。
翌日、私は急遽《きゅうきょ》、本州の北端に近い郷里の町へ出発した。
三
帰ってみると、志乃は二階にひとりで寝ていた。私は、わざと乱暴に障子をあけて、「おい、帰ったよ。」といった。
志乃は、私をみると、みるみるうちに涙ぐんだ。そして、両手を蒲《ふ》団《とん》のなかから出すと、助けを求めるように私の方へさしのべた。にぎると、志乃は意外なちからで私の腕をたぐりよせ、私の首筋に腕をまわしてすがるようにしながら、
「ごめんなさい。ごめんなさい。」
ちいさな声で、子供が泣きじゃくるようにくりかえした。
そのとき私は、なぜとはなしに、こんどのことはどのような意味においても、志乃が意識的にたくらんだ仕業ではない、志乃にはなにも責任がないのだということを直感した。そうして、同時に、志乃がこの十数日、志乃自身にさえ不可解なからだの変調におびえながら、どんなに心ぼそく、不安な毎日を送ったかがわかるような気がした。
「わかってるよ。よけいな心配をしちゃ、いけないよ。」
私はそんなことをいいながら、首筋から志乃の腕の輪をほどいて、頭をそっと枕にもどしてやった。そうして、志乃の顔をつくづくとみて、変ったなあ、と思った。
それほど変ってみえたのは、髪のせいかもしれなかった。髪は、ふたつに編んで、おさげにしていた。私は、志乃の幼な顔をみるような気がした。けれども、少女にしては肌《はだ》に色つやを欠いている。目は落ちくぼみ、頬《ほお》の肉もそげ落ちていた。志乃は、まるで、理不尽な病いに冒されて、抵抗する意志をうしなってしまった少女のようだった。
「父さんから速達もらって、おどろいちゃってね。どうしてもあんたに会いたくなって、帰ってきたんだ。父さんの手紙でだいたいのことはわかったんだけど……でも、どうしたんだろうね、あんなに気をつけていたのに。」
「ええ、あたしにもはっきりわからないんですけど……。でもね、寝ながら丁寧に思い出してみて、あ、と思ったことが、いちどだけあるの。」
「……というと?」
「夏休みが終って、あなたが東京へお帰りになる日の……。」
あ、とそのとき、私もあやうく声をあげそうになった。思い出した。八月末、上京の日の夕方である。すると私は、頬にかっと血がのぼるのを感じた。
出発の二時間ほど前であった。私は、二階の部屋で着替えをしていた。そばでは紺地の浴衣《ゆかた》を着た志乃が、しゃがんで、スーツケースに私の下着などをつめこんでいた。つめ終って、ファスナーをしめると、志乃はそのままの姿勢で肩を落した。
「ながいなあ。」と吐息まじりに志乃はいった。「九月、十月、十一月、十二月。四ヵ月。三、四、十二の百二十日。ながいわあ。こんなにながいこと、はじめてでしょ?」
「うん。だけど、僕《ぼく》にはながい方が助かるな。今年じゅうに卒論を書かなきゃならないからね。」
私は、志乃への未練を断ちきるために、そんなことをいいながら靴下《くつした》をはいていると、机の脚のそばにペン軸が一本ころがっているのが目にはいった。私はそれを拾って、
「おい、忘れもの。入れといてくれ。」
いいながらふりむくと、目の前に、しゃがんだ志乃の背面があった。私はふと、その背面の思いがけない量感に目を惹《ひ》かれた。志乃は、無言でふりかえると、肩ごしに私をみつめた。その志乃の目の色が、なぜだか私の未練を煽《あお》ったのである。私は、ふいに顔が汗ばむような気がし、おどけて、ペン軸で志乃の頬を突っついたが、それがかえって私を志乃へ駆り立てた。私は、いきなり志乃の首に腕をかけると、畳の上にひき倒した。
それは、せっかちな惜別であった。そうして、あわただしく、不充分に終った。私はその日が志乃に受胎の可能性の濃い日であることを知ってはいたが、私が不充分に終ったことは私自身には勿論《もちろん》、志乃にも明白なことだったから、べつに気にも留めていなかったのである。けれども、いまにして思えば、たとえ私たちだけが不充分を確認していても、私たちの生理は、それはそれとして勝手に機能を駆使するのかもしれないのであった。
「こわいねえ。油断も隙《すき》もありゃしない。」
私は、にがい後悔が胸をひたしてくるのをおぼえながら、そういった。
「ええ。あたしも、まさかと思ったんですけど、お医者の計算によると、どうも八月の三十日か、三十一日だというんですよ。三十日はあなたの出発の日で、あたしが、あ、と思った日とぴったりなんです。恥ずかしかったわ。」
そういうと、そのときの恥ずかしさが自然によみがえるのか、志乃の蒼白《あおじろ》い頬にほのかなあかるみがさした。しかし、私たちはいつまでも後悔や恥にこだわっているわけにはいかなかった。志乃の胎児は、いまこの瞬間にも生きていて、なおも刻々と成長しつつあるという事実が、私の心を急がせた。
「まあ、失敗は失敗として、問題はおなかの子だけど、あんたはどうする?」
「あたしですか? あたしは産むのはやめにしたいと思うんですけど。」
志乃はまっすぐに私を見ながら、おどろくほどはっきりと、そういった。私は、かえって拍子ぬけした。
「あんたがそうしたいなら、それに越したことはないけど、それにしても、ばかにあっさりしてるんだね。」
「ええ。だって、こんなからだになってから、毎日このことばかり考えていたんですもの。そりゃ、あなたとの約束のこともありますけど、あたし自身にしたって、まちがってできた子供は、なんだか産みたくないんですよ。生まれてくる子に、気の毒なような気がするの。あたし、どうせ子供を産むなら、ほしがって、ほしがって、そうして産ませてもらいたいわ。うっかり、できて、仕方がないから産もうというんでは、なんだかあたし、がまんがならないんですけど……へんかしら。」
「へんじゃないさ。それでいいんだよ。それなら、僕も賛成だ。」
「そうですか。よかった。これで、いつでも好きな時に子供が産めるからだだってことがわかったし、こんどのこと、いろいろ勉強になったわ。」
志乃は、顔に安《あん》堵《ど》の色をみなぎらせて、微笑した。
――その夜、私は父母を説き伏せ、数日後、志乃は病院で中絶の手術をうけた。
四
翌年三月、私は、どうにか学生生活に終止符をうち、いったん帰郷して、六月、志乃をともなって再上京した。そして学生時代からのアパートで、新しい生活の第一歩をふみ出した。
私たち夫婦は、結婚以来まる一年半ぶりに、やっと二人だけの生活をもつことができたのであった。けれども、その生活は最初から容易ではなかった。私に職がなかったからである。私は卒業の年、ある新聞社の入社試験をうけ、試験のはじめに克明な家庭調査を書かされて、けれども私は、私のきょうだいたちの生涯《しょうがい》について一行も正直に書くことができず、それきり試験を放棄してしまって以来、就職の意志をうしなっていた。私は、そのときほど、どこまでもつきまとってくるきょうだいたちの亡霊が、呪《のろ》わしいものに思われたことがなかった。それと同時に、とかく私自身の人格よりも、それらの亡霊の方にこだわりたがる世間というものに、そのころほど背中をむけたくなったことがなかった。そうして私は、私自身がどんな亡霊を背負う何者であれ、私が為《な》した仕事によって私を許容してくれる世界を、はじめて、本気に、志した。私は毎日私のきょうだい一人一人の生涯を書きとめる仕事にしたがいながら、志乃とともに、ひっそりと暮らした。けれども、いまの世で、こんな生活が現実として成り立つわけがなかった。私たちは、日ごとに貧窮に追いこまれていった。
一年がすぎた。
夏、私たちは貧窮の極であった。郷里から、父が危《き》篤《とく》という電報がきた。私たちは、ほとんど着のみ着のままで、帰郷した。父は、脳軟化症という病気であった。私たちは、七日のあいだ寝ずの看病をした。その看病を通して、私は父の上に、ひとりの人間が尋常に死んでゆくさまを、つぶさにみることができた。そうして、七日目の朝、父は平凡に死んでいった。
その父の死の尋常平凡さは、肉親の異常になれた私に鮮烈な印象を与えた。それは、私にとってはひとつの救いであった。私は、それまで抱いていた肉親への劣等感が、急にうすらいでゆくのを感じ、目の前がふしぎなあかるさを帯びてくるのを感じた。不謹慎なことだが、私は悲しみよりも歓びに心をくすぐられてならなかった。そして誰彼《だれかれ》に、父があたりまえの死に方をしたことを告げてあるきたい誘惑に駆られて、よわった。
死の直後、病院へいって、父のかかりつけの医師に、
「けさ、とうとう死にました。いろいろありがとうございました。」
寺へいって、住職に、
「けさ、父が病死しました。お世話になります。」
私は、自分でも気がひけるほどあかるい声で挨拶《あいさつ》した。
父の死後には、六十八歳の母と、三十八歳で独《ひと》り身《み》の姉と、志乃と、私がのこされた。
通夜《つや》のとき、母が私の真ん前にちいさくすわっていった。
「もう、あんただけが、たよりだすけに、なあし。しっかりしてくんせ。あんたがおかしなことになったら、香代《かよ》ちゃん、志乃ちゃん、わたし、どうするえ? 悶《もだ》え死にするほか、どうにもなりはしまいえ? あんただけが、たよりだすけに、なあし。どうぞどうぞ、兄さんや姉さんたちみた真似《まね》は、やめにしてくんせ。なあし、たのむわえ?」
母は、私に一礼するように、髷《まげ》を結っていたころのなごりの、脳天のまるいちいさな禿《はげ》をみせて、よろよろと酒席の方へ立っていった。
私は、のこされた者があゆむべき道に、思いをこらした。それは、もはや私ひとり、志乃と二人の道ではなかった。同行三人。そうして、私が道からそれて堕《お》ちれば、他の三人も数《じゅ》珠《ず》つなぎになって堕ちるのである。私には、もはやどのような逸脱の自由もなかった。私の兄や姉たちには、ほしいままの自由があった。彼等《かれら》は、私を尻《しり》目《め》にみて、「あいつがいる。あいつにあとをみさせてやろう。」と呟《つぶや》いて、思うさまに堕ちていった。けれども、最後にとりのこされた末弟は、うしろをふりむいても、なにもない。腰のところに、女が三人、無職貧窮の私をたのもしげに仰ぎみているだけである。
私は、いまこそ、きょうだいたちの亡霊と訣《わか》れるべきときだと思った。私は、すでに生者の側に立っている。今後、彼等ときょうだい付き合いをつづけることは、逸脱の自由もなく、あくまでも生きつづけなければならない私には、なんの意味もないことであった。考えてみれば、彼等と私とは本当のきょうだいなどといえるものではなかった。彼等が後事を託そうとして、私を尻目にみたときだけ、彼等と私とはまさしくきょうだいそのものであった。あとはただ、病んだ血の亡霊として、私につきまとっていたにすぎない。そうして、たとえ私が彼等と病んだ血を分けあっていたとしても、私がひとり、彼等と訣れて、生者の群れのなかで生きつづけるとき、私の血は、もはや生者のものとおなじく、すこやかなのではないかと思った。
すると、私はちからを感じた。それは、どこからともなく、からだのすみずみにまでみなぎりわたった。私は、そのあふれるばかりのちからを駆って、私自身にはきょうだいたちの亡霊ときっぱり訣れた記念として、肉親たちにはたのもしい道づれの証拠として、なにか有益な事を起こそうと思ったのであるが、非力な私にはなにほどのことも思いうかばなかった。
葬儀がすんだ翌日であった。私は、父の机の引出しを整理していて、男女の名を十ずつならべて書いてある一枚の便箋《びんせん》をみつけた。私はそれを母に示して、これは捨ててもいいかと訊《き》いた。母は、私を仰いで寂しくわらった。
「それはな、ほれ、あんたがまだ学生のころ、志乃ちゃんに子供ができて、父さんが手紙を書いたろ? あのとき、父さんはな、孫が生まれたら俺《おれ》が名付け親になるってせえ、考えて考えて、やっとそれだけならべたのし。でも、はや要ることもなかろ。捨ててくんせ。」
私は、なにか胸がつまったような思いで、それらの名を読むともなくみていた。すると、あのとき父がくれた手紙の文句が、とぎれとぎれによみがえった。『小生も六人の子の父なれば』『一夜、独断にて』というような文句がまずうかび、それから、『未曾有の快事』という文句が、大きく脳裏にふくれあがった。
私が、私自身の子をもとうと思い立ったのは、そのときであった。私は、病んだ血の亡霊たちと訣れた記念に、志乃のちからを借りて新しい血をつくるのである。そうして、無力貧窮の私が老さき短い母にしてやれることはといえば、そんなことぐらいしかないのであった。
私は、志乃を探して家の裏へ出てみた。志乃は井戸端で洗濯《せんたく》していた。しゃがんだ志乃の背後に立つと、私は両膝《りょうひざ》ががくがくとした。
「志乃。」
「え。」
ふりむいた顔に、
「待たせたね。」と私はいった。
「……なにを、ですか?」
「子供を産んでくれないか。」
志乃は、息をのむようにして、目をみはった。
「あとでゆっくり話すけど、急に産んでもらいたくなったんだよ。いいね。」
「ほんと?」
「あたりまえさ。こんな嘘《うそ》が、いえるか。」
私が微笑すると、志乃はふいにまた盥《たらい》にむきなおって、ざぶざぶと洗濯をはじめた。志乃の背中が波打って、石鹸水《せっけんすい》のとばしりが、流しのむこうに咲いているダリヤにまで散った。
五
私は、志乃の一と月を綿密に調べて、一夜をえらんだ。
それは、いわば、私と志乃との初夜であった。私たちが、夫婦として、はっきりと生殖の意志をもち、自然のままで迎える初めての夜である。私たちは、心を抑えて、その初夜を待った。
そして、その夜がきた。
私は、一瞬、子のために祈った。
翌日から、私たちは大事をなしおえたひとたちのように、やすらかな気持で、のびのびと暮らした。あとは、志乃に懐妊のきざしを待つばかりである。私は、志乃の受胎を信じていた。それはもう、予感ではなくて、確信であった。私は、そんな確信が、どこから湧《わ》くのか知らなかった。人間の意志の届かぬ生理の偶然を、ただいちどだけの試みで確信するというのもおかしかったが、私は、あの夜のちからの結実を、どうしてもうたがうことができなかったのである。
だから、私はあれ以来、よる、志乃のからだを遠ざけていた。あの夜の悦楽への未練が、志乃の胎内に宿ったばかりのあたらしい命の灯《ひ》を、心なく、踏み消してしまいはしないかとおそれたからであった。そうして、私は、そのあるかなしかの灯のために、私の淫蕩《いんとう》な心が志乃のからだを濡《ぬ》らすことをおそれた。
志乃は、相変らず、風をきるようにして、活溌《かっぱつ》に立ちはたらいていた。その様子には、なにをしても身が入ってならないという、心の充実がありありとみえた。そして、志乃のちいさな顔には、内からにじみ出たはつらつとした生気がみなぎっていた。そこにはもう、ときおりその表情を翳《かげ》らせていた愁《うれ》いの色はすこしもなかった。
そんな志乃をみながら、私は、やはり母性の自覚が志乃の心をはげましているのだと思った。それは、志乃もまた受胎を信じている証拠であった。けれども、志乃は受胎の当事者だけに、ときおり不安におそわれるのか、私の机のそばへきて、ひっそりとすわっていることがあった。そんなとき、志乃は考え深そうな顔つきをして、自分の胎内に耳をすましているような様子にみえた。そのたびに、
「大丈夫だよ。信じて、待つさ。」
私がいってやると、志乃は微笑して、
「ええ。だけど、あなたはいいでしょうけど、あたしは責任重大なんだから。のんきにばかりしてられないんです。」
終りを、私の方へ顎《あご》を突き出していうと、また、ぱたぱたとスリッパを鳴らして立ってゆくのであった。
十数日後、志乃に最初の変調があった。予定より、十日も早く、下りたのである。志乃は落胆の色をうかべて、それを私に告げた。志乃は、それが下りれば受胎ではないとおぼえていた。また、以前にも、ふとしたことでそんな不順もあったといった。けれども、女の生理にうとい私は、うといがためにその十日のずれを信じた。規則ただしい周期が、突然十日のずれを出した理由は、とても不順などという言葉では片付けられない気がしたのである。
それから、また十数日して、私たちは姉の琴のお弟子たちと、車にのって高原の紅葉をみにいった。帰途、志乃はガソリンのにおいを嗅《か》いで嘔《おう》吐《と》した。
そこまでくれば、もう志乃のものであった。志乃は懐妊を母に告げねばならなかったが、その前に慎重を期して、医師の確認がほしいというので、ある日、散歩を装うて同伴した。
私は、途中の、ながい橋の上で待つことにした。病院は川原に近かった。
「それじゃ、いってきます。もしまちがってても、叱《しか》らないで。」
「叱りゃしないよ。安心していってごらん。」
志乃は、うすいショールの前をあわせて、あるいていった。橋のたもとから、小道伝いに川原へ降りて、稲荷《いなり》山《やま》とよばれる神社のある山裾《やますそ》を迂《う》回《かい》する。志乃がみえなくなると、私はひっきりなしに煙草《たばこ》をふかしながら、ながい橋の端から端までを、なんども行きつ戻《もど》りつした。煙草が指をこがしそうになると、あわてて手をふって川《かわ》面《も》へ飛ばす。それをなんだか知らない虫が、ジェット機のように追いかける。そんなことを何度となくくりかえした。
大分、待った。
オーイと、空から女の声がながくきこえて、私はなんとなくあたりを見上げると、思いがけず、稲荷山の中腹の枯れた潅木《かんぼく》のなかに、志乃が立っているのであった。山のすぐむこうにある病院から近道してきたのであろうが、その近道は急勾配《きゅうこうばい》で、その上、地面にはごつごつと木の根が這《は》っているのである。ばかだなあ、と私は思った。
「オーイ。」とまた、志乃がさけんだ。
「どうだったあ。」と私もさけびかえした。
「これですう。」
志乃は、両手をあげて、ばんざいの恰好《かっこう》をした。「あたりまえさ。」と私は声に出していいながら、頬《ほお》がひとりでに綻《ほころ》ぶのをおぼえた。そして、なにか大声でさけびたい衝動に駆られて、
「男かあ。女かあ。」
志乃は、一瞬きょとんとしたが、すぐ手を口にあてて、からだを折るようにして、
「そんなこと、まだわかりませえん。」
それから志乃は、坂を駈《か》け降りはじめた。私は、おどろいて、ゆっくりこいとさけぼうとしたが、駈け降りてくる志乃の姿に思わずみとれてしまった。志乃は、首からショールをなびかせ、両袖《りょうそで》を思いきり左右にふるようにして、裾を乱して駈け降りてきた。それは、およそ和服にしたしむ女の駈け方ではなかった。
「なんて不恰好な走り方をするんだろう。ころんだら、どうするつもりだ?」
私は、橋の中央で、はらはらしながら身構えていた。
帰郷
早春のある明けがた、私は、北方行きの汽車の窓から、飛びすぎてゆく野の風景をながめていた。野は、陰鬱《いんうつ》な鉛色の空の下に黒々とひろがり、野の果てはひくくたれ下った雲に呑《の》まれていた。
ときおり、黒い野の裂け目にこびりついている残雪が、夜明けのとぼしいひかりをあつめて、ちぎれ雲のように視野をかすめ飛んでゆく。その暗い視野の片隅《かたすみ》に、私の妻のうつむいた横顔がほの白くうかび出ていた。
妻は、私の前の座席で、七ヵ月の腹を抱くようにして、垂れた頭を汽車の振動にあわせてふりながら眠っていた。ゆうべ、上野を発《た》った直後から、つらい生活から解きはなたれて張りつめていた心がゆるんだためか、妻は夜通し、眠りに眠った。汽車はいま、仙台《せんだい》平野を出はずれるあたりを走っていた。やがて野末は次第にもり上り、妻がめざめるころには、右は北上山地、左は奥《おう》羽《う》山脈の山なみとなって、野をせばめているはずであった。その山あいの、ほそながい北上盆地の北端にある私の郷里へ、私と妻とは帰ろうとしていた。
私たちが、こうしてそろって帰郷するのは、こんどが三度目のことであった。
最初はいまから三年前、まだ学生であった私が、そのころ小料理屋に勤めていた妻と結婚するために、つれて帰ったときであった。そのとき、私たちはもの珍しさと、どうすることもできない心の高ぶりのために、どちらも眠るどころの騒ぎではなかった。いまとなってはなにを語り、なにを笑ったのかは忘れたが、私たちはひと晩じゅう、なにごとかをひそひそと語りあい、ひそひそと笑いあって、果てしがなかった。
二度目は、私が学校を卒《お》えて、はじめて東京のアパートで二人だけの生活をはじめてから一年あまりたった去年の夏、父危《き》篤《とく》の知らせをうけて、ほとんど着のみ着のままであわただしく帰ったときであった。そのとき、私たちは貧窮のさなかにあって、旅費のたくわえもなく、その算段に手間どって、知らせをうけたときからまるまる二十四時間目に、やっと郷里へたどりつくことができたのであった。その一昼夜のおくれを気に病んで、帰りの車中、私たちは互いに一睡もできなかった。妻は父の存命を祈っていたが、私はもう間にあわぬと勝手にきめて、なにへともなく、しきりに腹を立てていたのである。
そうして、三度目のこのたびは、私たちはとうとう貧窮にうち負かされて、東京の生活を捨てて都落ちをしてきたのであった。身重の上に、疲れはてた妻は、ふと気になるほど昏々《こんこん》と眠りつづけていたが、私はしばしば心を襲ってくる、敗北感と、捨ててきた生活への未練のために、うとうとすることさえもできずにいるのであった。もし妻がめざめていたとしても、私たちにはなにも語りあう言葉がなく、二人してただ野の風景にみとれているほかはなかっただろう。
(この二年間の生活で、私はいったい、なにをしたというのだろう)
(実に、実に、なにもしなかった)
私は、ときおり目を閉じると、心のなかでそんな自問自答をくりかえした。そうして、そんな単調な問答に飽きるのを待って、目を閉じたまま、眠れるものなら眠ってしまおうと試みた。けれども、私の耳がレールのリズムになれてくると、そのリズムの合間を縫って、カサ、コソ、カサ、コソという、落葉が風にころげるようなかすかな音がきこえてきて、その音のために私は、どうしても眠りに入ることができないのであった。
その音というのは、スチームの上でからからに乾いている一つのアイスクリームの空箱が、汽車の振動につれてすこしずつ位置を変えながら立てる音であった。そのアイスクリームは、ゆうべ上野を発つとき、のどが渇いた妻のために、ほとんど空にちかい財《さい》布《ふ》を逆さにふって買ったものであった。妻は、またたくうちに半分を食い、すみませんといって、私によこした。私は一とすすりすすって、妻にかえした。妻はまた、すみませんといって、のこりをたいらげると、そのまるい空箱をそっとスチームの上においたのであった。
妻は、アイスクリームの空箱を、旅行者は誰《だれ》でもそうするように、無造作に座席の下へ投げ捨てることができなかったのである。けれども、それはけっして卑《いや》しい未練のためではないことは、私にはよくわかっていた。妻が未練をのこしたのは、アイスクリームの中身ではなく、空箱そのものであることを私は知っていたのである。そうして、そんなものに未練をのこす妻の心は、あわれではあったが、卑しくはなかった。だから私は、その音がいかに私の眠りをさまたげようと、無下《むげ》に捨ててしまう気にはなれなかったのである。
カサ、コソ。カサ、コソ。カサ、コソ。
その音は、私にだけわかる音波でもって、たえず私に語りかけてくる。すると、私の暗い脳裏に、そのアイスクリームの空箱がくっきりとうかび、水に浸ってひとりでにほぐれてゆくように、ゆっくりと分解しはじめる。底は円錐状《えんすいじょう》の筒からはなれ、ただの円形のボール紙になる。円錐状の筒は一ヵ所が垂直に切れて、ひらべったい梯形《ていけい》のボール紙になる。その円形のボール紙と梯形のボール紙とは、ふたつならんで、みるみる分厚く数を増す。たちまち、数百枚、数千枚の堆積《たいせき》になる。二本の高い塔になる。そうして、その塔の高さがある点まで達すると、塔はとつぜん、弓なりになり、ざあっという音を立てて崩れ落ちて私の意識いっぱいに飛び散るのであった。
妻は一瞬、棒立ちになって、飛び散ったそれらの紙のひろがりを見下ろしていた。
妻の手からは、しぼんだ風呂《ふろ》敷《しき》包みがだらりとなって垂れている。
妻は、「ただいまあ。」といって、半坪の玄関と四畳半の部屋との境の襖《ふすま》をあけ、風呂敷包みを持ったまま、敷居に片足をかけて、ふくらんだ腹のために重たくなった腰を、「よいしょ。」とかけ声かけて持ち上げたとたん、ふいに風呂敷包みの結び目がほどけたのであった。
妻は、やがて、ふっと太い溜息《ためいき》をつくと、ひとりごとのようにいった。
「あぁあ、これがみんな、ビスケットだったらなあ。」
妻は二十四で、私と結婚してから四年目であった。そんな女が、こんな子供の言種《いいぐさ》を口にするのは滑稽《こっけい》であるが、そのときの妻の言葉には笑えないような実感がこもっていた。妻はもうながいこと、菓子というものを口にしたことがないのである。けれども、さすがに自分の物欲しげな言葉にてれたらしく、妻は首をすくめて、くすんと笑うと、部屋いっぱいに散り敷いた紙片をひろいはじめた。二種類の紙をひろいわけ、底紙は底紙で、梯形の紙は梯形の紙でひとまとめにするのであるが、紙は双方何百枚となくまじりあっていて、とても妻ひとりの手には負えない作業であった。
「ねえ、すみませんけど、手があいてたら、ちょっと手伝ってくださらない?」
妻はとうとう悲鳴をあげた。
私は、どてらを着て、部屋の隅《すみ》においてある机の前にすわっていたが、
「むかし、殿様はね。」といきなりいった。「奥方のお腹《なか》が大きくなると、大広間いっぱいに豆をざあっと撒《ま》いて、それを奥方にひろわせたもんだそうだ。奥方は、立ったまま、前かがみになって、一つ一つ豆をひろう。お腹を圧迫するからいけないんじゃないかと思うと、そうじゃないんだね。かがむたびにお腹にちからを入れるから、お腹の筋肉がじょうぶになる。それに、そんな運動はお腹の子供が必要以上に育ちすぎないようにするから、産が軽くてすむわけだ。僕《ぼく》の田舎じゃ、嫁さんのお腹が大きくなると、朝晩、廊下の雑巾《ぞうきん》がけをさせるんだ。妊婦には、運動が大切。たまには、そんな運動もいいだろう。」
「すると、あなたは殿様ってわけ? へえー。どてらの殿様。」
「どてらは世を忍ぶ仮の姿さ。」
そんなことをいいながら、私はやっと立ち上る。
「お前は、まるいのをひろいなさい。僕はほそながい方をひろってやる。」
その二種類のボール紙は、アイスクリームの容器をつくる材料であった。それを妻は、三日にいちど、アパートからあるいて十分ほどのところにある、むかしながらの古びた家々がひしめきあっている一角の路地の奥から、大きな風呂敷包みにしてはこんでくるのである。そうして、窓ぎわにちいさな飯台をすえて、その上でせっせと容器を組み立てた。
それは、一年ほど前に、妻が自分からいい出してはじめた内職であった。
「あたし、働きに出ましょうか。」
一年前のある日、妻は新聞の職業欄から目を上げると、だしぬけにそんなことをいい出した。ちょうど私たちが結婚するとき持ち寄ったわずかばかりのたくわえもなくなって、貧しさが急に目にみえてきたころであった。
「働きに出るって、どんなところへいくんだ?」
「バーとか喫茶店なんかは自信ないけど、お料理屋さんならいってもいいわ。だんぜん自信があるな。」
むかしとった杵柄《きねづか》だといわんばかりに妻がいうのを、
「馬鹿《ばか》いっちゃ、いけないよ。」と私はさえぎった。「いまになってそんなことをしたら、せっかく苦労して前の店をやめた甲斐《かい》がないじゃないか。よけいなことを考えるんじゃないよ。」
「でも、あたし、こうやってじっとしているのが勿体《もったい》ないような気がして……。」
「いいんだよ、それで。へんにうごきまわられては、こっちがかなわないんだ。いざというときには、僕にだって考えがあるんだから、安心してていいんだよ。」
けれども、別段私にも、傾いた家計を一気に立てなおすほどのいい才覚があるわけではなく、そんな気休めをいっている尻《しり》から、暮らしは日々に窮迫してゆくばかりだった。
十日ほど経《た》ったころ、妻は外出から目をかがやかせて帰ってきた。
「発見!」妻は玄関をあけるといった。「家でできるいい仕事を発見したんです。マーケットの前の電柱に、貼紙《はりがみ》がしてあったの。あたしって、どうしてもっと早く気がつかなかったのかしらね。いいでしょう? やらせてくださいな。」
きくと、アイスクリームの箱づくりだという。
「よせやい。」
と私はいった。
「あら、いけない? でも、手間賃はとても割りがいいんですよ。それに家で好きなときにできるし、できたものはむこうから取りにきてくれるんですって。あなたの邪魔にならないようにしますから、やらせてくださいな。」
そして妻は、貼紙に書いてあった地図をたよりに、早速路地の奥の家を訪ねて、もう話をきめてきたのだといった。
私は、まさか妻の内職で食いつなぐことになろうとは、まったく思ってみたことがなかった。そうして、そんな仕儀になることが、いかに私の心の負い目になるかに考え及ばない妻を愚かだと思ったが、そのとき、その妻の愚かさを笑う余裕が私にはなかった。考えてみれば、おなじ貧しさのなかにいても、なにかに憑《つ》かれて、それに引きずられながら忍んでいるものよりも、なんにもせずに、じっとして貧しさを共にしているものの方が、数倍もつらく、やりきれなく、いたたまれないのかもしれなかった。
「仕方がない。それじゃ、ためしにやってごらん。ただし、急場をしのぐあいだだけだよ。」
「もちろん、そのつもり。あなたがやめろといったら、いつでもやめます。」
妻は、翌日から早速材料をもらってくると、四畳半一と間きりの部屋の外についている縁側とも廊下ともつかない板の間の窓ぎわに飯台を据《す》えて、せっせと内職をはじめたのである。
三日目になると、路地の奥の亭主《ていしゅ》だという鬚面《ひげづら》の中年男が、自転車の荷台に大きな箱をつけて、でき上った容器をとりにくる。彼は、板の間の窓ガラスを指先でこつこつと叩《たた》いて、顔に似合わぬやさしい声で名を呼ぶのが常であった。すると妻は、もし部屋と板の間との境の障子があいていれば、大急ぎで閉めて、それから窓をあけて窓の下に横づけにした自転車の箱のなかに、容器を重ねてながい筒にしたものを、一本、二本と数えながら入れるのであった。入れおわると、内職屋の亭主は、晴れた日には「いい陽気ですねえ。」といい、雨の日には「よいおしめりですねえ。」といって、自転車にのって帰ってゆく。そんなふうにして、彼は四軒も五軒もまわるらしかった。
妻が内職をはじめたのは春先であったが、夏場になると、内職屋の亭主は二日にいちどやってきたり、あるときは毎日顔を出したりした。例によって、指先で窓ガラスをこつこつと叩いて、
「こんにちは。どうですか、調子は?」
「今日はあいにく、まだなんですよ。調子は悪くないんですけど、雑用ばかりで。」
「そうですか。なにしろ、まにあわないもんで、急いでるんですよ。あと、どのくらいです?」
「さあ、七、八十枚かしら。」
「それじゃ、できてる分だけ頂いて参りましょう。」
「そうですか。じゃ、これだけ。」
「え。え。」
そんな二人の会話を障子のかげでききながら、私はふと、噂《うわさ》にきく流行作家と編集者とのやりとりを思ったりした。
「売れっ子だねえ。」
亭主が帰ってゆくと、私は、にがにがしさとからかいとを半々に、そんなことを妻にいう。すると、妻はいとも単純に、
「そうなの。指が痛くなっちゃうわ。」
また、飯台にむきなおって、せっせとつくりはじめるのである。そうして、いつのまにか、そんな妻の内職に対する報酬が、私たちの唯一《ゆいいつ》の収入になっていた。それは、多いときでも、アパートの部屋代を払ってしまえばあとにはいくらものこらぬほどの金額であったが、私たちは部屋代を溜《た》めてもらって、そのお金で辛《かろ》うじて生計を立てていた。アパートの持主は、私とおなじ東北出身の気のいい左官屋で、
「金は天下のまわりものつうてな。困るときはお互いさまよ。溜めなっせ。」
といって部屋代を溜めてくれたのである。
*
けれども私は、妻の内職が繁昌《はんじょう》すればするほど、逆に心の安定を欠くことになった。心が高ぶっているときはさほどではなかったが、弱気になるとみじめであった。妻が箱の底をつけるとき、まず底紙を型台にのせ、その上に円錐状の筒をかぶせて掌《てのひら》でぽんぽんと叩くのであるが、そのぽんぽんという音が私の胸にひしひしとひびいた。また、でき上った箱を重ねてながい筒にしたものを部屋の隅に立てかけておくと、私にはそれらが巨大な鉛筆にみえてくることがしばしばあった。そんなとき、私はその巨大な鉛筆の林に、懶《らん》惰《だ》をなじられ、無能を嘲笑《ちょうしょう》され、勤勉を強《し》いられているような妄想《もうそう》に捕われるのである。私は、「そのぽんぽんをやめろ!」と怒鳴りたい。けれども、やめれば暮らしが立たない。私は、胸をちりちりと灼《や》かれるような気がし、いたたまれなくなって外へ飛び出していった。
私たちが住んでいるアパートは、東京の山の手の場末を流れているコンクリートの掘割のほとりにあった。私は家々の裏手、掘割のふちを通って、橋をわたり、笹藪《ささやぶ》のなかのほそい坂道を辿《たど》って、むかし連隊兵舎があったという高台へ登っていった。そこへ登れば、私のアパートのある界隈《かいわい》が一望にみえ、私の部屋の窓がみえるのである。私は崖《がけ》の鼻にある桜の切株に腰を下ろして、私の部屋の窓を見下ろしながら、煙草《たばこ》を一本、ゆっくりと吸った。
私がそのアパートに住みはじめたのは、大学を出る前年の春であった。それまで学生寮にいた私は、卒業論文を書く必要から静かな部屋を探してこのあたりにきた。ついでに、近所に住んでいる友人を訪ねると、その友人は私を知り合いだという周旋屋につれていった。周旋屋は私の条件をきき、ちょうどぴったりのところがあるといって、私たちをこの掘割のほとりの左官屋の家につれてきたのであった。
そのころ、左官屋の家は、いまのような二階建てのアパートではなかった。ちいさな平屋で、家族の部屋のほかには、私に貸してもいいという四畳半の部屋があるきりであった。その部屋には、半坪の玄関がついていて、窓をあけると掘割がみえ、掘割のむこうには笹藪に覆《おお》われた高台がみえた。
私は、なによりも静かそうなのが気に入って、早速借りることにして手金をおくと、家主が名刺を一枚ほしいといった。私は貧乏学生で、名刺なんか持ってない。すると周旋屋は、これに身分を書いて名刺がわりにしろといって、手帳を一枚やぶいてくれた。そうして、私がそれに本籍地青森県と書くと、
「みちのくだね? みちのく男は人間がいいからねえ。」
と、そばから景気をつけてくれた。通学している学校を、早稲田《わせだ》大学と書くと、周旋屋は家主にむかって、「あんた、法政大学の学生でなくて、よかったですよ。法政はなにしろ法律にくわしいからねえ、契約書の裏を掻《か》こうとして始末に負えませんよ。」といった。つづけて私が、仏文《ふつぶん》科《か》と書くと、「おや、ブツブンだね。みちのくへ帰ると、住職さんか。どうりで真面目《まじめ》そうな人だと思った。」
と周旋屋はしたり顔をしていった。
そんなことで、私はその部屋に住むことになった。その年の正月、私はすでに結婚していたが、卒業論文を書くまでは別々に暮らすことにし、私は妻がつくった緑色のカーテンを窓に張って、一年、そこで一人暮らしをしたのである。そのころ、あそびにきた友人を送って、玉川電車の停留所までいった帰り、この高台を越えてくると、私の部屋のカーテンは、高台の上からでさえ、実に鮮かな色にみえたものであった。そうして、そのカーテンのごとくに、私自身もまた新鮮な感情を持ち、希望に燃えて、貧しかったけれども溌剌《はつらつ》としていたものであった。
ところが、いまはどうだろう。よく目をこらさなければ、私の窓がどこにあるのか見分けがつかない。それは、あのころより、まわりに窓が増えたせいではなかった(私が学校を出て帰郷してから、妻を伴って出なおしてくるまでの数ヵ月のうちに、左官屋の家は堂々としたモルタル塗りの二階屋になって、私の部屋がその端っこにすっぽりとはめこまれたぐあいになっていたのである)。そうではなくて、カーテン自体が色《いろ》褪《あ》せて、冴《さ》えなくなっているのであった。それは、全体に枯れそこなった草の汁《しる》のような色をしていた。その上、窓の隙《すき》間《ま》から吹きこんでくる雨風のために、あちこちにさまざまな形のしみができ、すこし荒っぽく引っ張ると、たちまち裂け目ができてしまうほどに脆《もろ》くなっていた。そうして、そのカーテンのごとくに、いまの私はくたびれていて、貧しかったのである。
私は、学校を出たものの、職がなく、毎日机にむかって書きつづけている物語も、いっこうにお金になりそうもないのであった。それでも私は、思いきって机の前をはなれて、新聞の広告などをたよりに、職を探しに出かける気にはなれなかった。ひょっとすると、いま書きかけている物語こそ、いい物かもしれないというかすかな望みが、私を机に縛りつけていたからである。それに失敗すると、無念さがまた私をつぎの物語へ駆り立てる。つぎが失敗すると、性懲《しょうこ》りもなく、またはじめる。
たとえば私は、目にみえない綱に引かれてゆく驢馬《ろば》のようであった。引かれてゆく先は屠《と》所《しょ》かもしれない。そんな予感がしないでもなかったが、それでもぽくぽくあるいてゆく。立ちどまる気も、引きかえす気もしない。いわば驢馬にも意地であった。
*
そんな貧しい私たちのところでも、栃《とち》木《ぎ》にいる妻のきょうだいたちには楽園のようであるらしく、かわるがわる訪ねてきた。妻にはすでに両親がなかったから、彼《かれ》等《ら》にとって私たちは、親がわりというべき存在であった。弟ひとり、妹二人で、彼等は私を、「義兄《にい》さん。」と呼んだ。彼等の姉の夫なのだから、私は義兄《あに》にちがいない。けれども、六人きょうだいの末弟で、しかも上の五人とは年齢がかけはなれていて、きょうだいの味というものを知らずに育った私には、義兄さんと呼ばれることがもの珍しく、彼等ときょうだい付き合いをすることに、私は新鮮なよろこびを感じていた。そうして、彼等が訪ねてくると、私たちの殺風景な部屋のなかは、健康で明朗なひかりにぱっと明るくなるような気がした。
弟の要《かなめ》は二十一歳で、箒《ほうき》をつくる職人であった。こちらがすこし歯がゆくなるほど、醇《じゅん》朴《ぼく》で、おとなしい青年であった。彼は、空色の、だぶだぶの背広などを着てやってきて、かねがね疑問に思っていた町の話題を、あたかも生徒が先生に質問するときのような真剣さで、私に問うのである。
「煙草を食べっちまうと、死ぬってのは本当け?」
「河童《かっぱ》って、本当にいるんかな?」
また、あるときは、
「俺《おれ》、こんなの貰《もら》っちゃったんせ。どうすっかな? 義兄さん。」
にやにやしながら、うす桃色の封筒を出すので、なかの手紙をひろげてみると、初恋をうたった流行歌の歌詞が、一、二、と番号を打って写してあり、最後に一行、「この歌は、私の気持とそっくりです 愛子」などと書かれてあったりした。
上の妹の小夜子《さよこ》は、三年前に中学校を出て、栃木の家では主婦のような仕事をしながら兄の箒づくりを手伝っていた。底ぬけに明るい性格で、声が大きく、話しているというよりも叫んでいるといった方が似合っていた。「あたし、一生結婚しないわ。」というのが口癖であった。しっかり者で、がっちり貯《た》めて、ゆくゆくはお汁粉屋の店を持つことを唯一の望みにしていた。
下の妹の多美は、小学校の六年生であった。はにかみ屋で、人と話すとき、掌で相手のどこかを叩いていなければ舌がもつれるという癖があった。コロッケと大福餅《だいふくもち》が好物であった。
要は大抵ひとりできたが、小夜子は多美をつれてきた。そうして、彼等は一日か二日滞在して、沈滞した部屋の空気を攪拌《かくはん》していったが、彼等が滞在中、夕食が近くなると、私はきまってこう尋ねた。
「要君(又は、小夜ちゃん、多美ちゃん)。今夜、なにがいちばん食べたい? なんでもいいからいってごらん。」
大きく出たのは、なにも彼等の前で義兄の威厳を示そうという魂胆からではなかった。年《とし》端《は》のいかない彼等をのこして私のところへきてしまった姉にかわって、せめて今夜の食《しょく》膳《ぜん》だけでも賑《にぎ》やかにしてやりたいのである。私は、彼等を前にするとき、私が彼等から姉を奪ったのだといううしろめたさを、免《まぬが》れることができなかった。そうして奪っておきながら、私は彼等になにをしてやることもできない。そのつぐないを、たった一夜の食卓の上で果たしてしまおうとするほど私は厚顔ではなかったが、おりにふれて、いまの私にできることといえば、そんなことぐらいが関の山なのであった。
私は、彼等の希望をきいて、それに要する金額を概算し、本棚《ほんだな》から数冊選びとって、
「散歩してくる。待っててね。あとでいっしょにお風呂《ふろ》へゆこう。」
妻と目顔で合図をかわして外へ出ると、急ぎ足で近くの盛り場へむかう。
その盛り場には、櫟《くぬぎ》書房という古本屋があって、私は本を処分するとき、かならずその店へゆくことにしていた。そこの主人は、額のひろい、眉《び》目《もく》秀麗な、まだ若い人であったが、彼は大抵二階にいて、店番には彼の細君らしい、三日月眉《まゆ》のほっそりした女の人がすわっていた。私が処分する本を持ってゆくと、女の人は暖《の》簾《れん》を上げて二階の方へ声をかける。すると彼は、階段をみしみしと鳴らして降りてくる。毎度のことで、私は彼の顔がまぶしかったが、彼もまた私をみると、ああというふうに目礼しながら、まぶしそうな顔をするのであった。
私は、最初にその店で本を処分したときから、彼もまた私とおなじように、目にみえない綱に引かれている驢馬ではなかろうかと、ほぼ確信に近い想像をしていた。彼が机にむかっているところをみたわけではなかったが、いわば同類の勘とでもいうべきもので、そう直感したのである。彼の二階の部屋には机があって、彼は終日、それにむかって私とおなじような物語を書いている。細君が呼ぶと、彼はペンを擱《お》いて降りてくる。そんな私の想像は、あるとき、二階から降りてきた彼の右手の指先がインキで汚れているのをみてから、急に確信に近くなった。
一方、彼の方でも、私と同種の直感と、私が持ってゆく本の種類によって、私が彼を知るよりも早く、私の正体を知ったにちがいなかった。そうして、彼が私の本を、それらがほとんど売れそうにもない、流行はずれのものばかりだったにもかかわらず、つねに非常識と思われるほどの高値で買いとってくれたのは、彼にすれば私に対する同類のよしみというものかもしれなかった。彼のつける値段は、他の店にくらべて五割方高かったのである。私は、ありがたいような、そして彼には気の毒なような気持でお金をうけとると、
「じゃあ、どうも。」
「ありがとうございました。」
互いに軽く会釈《えしゃく》をかわして、そのままわかれてくるのであった。私は、顔《かお》馴染《なじ》みなのだからたまには腰を落ちつけて、打ち明け話でもしたいような気持になることもあったが、それでは彼の勉強の邪魔になるかもしれないし、私たちのようなかたくなな驢馬は互いに名乗りあわないのが礼儀なような気もして、あっさりわかれてきたのである。
そんなふうにして、私の本棚は次第に隙間をひろげていって、二年目の夏ごろには、とうとう数冊をのこすだけになった。その数冊も、妻のひどい歯痛をとめるために、ほどなく処分しなければならなくなった。
私は、櫟書房へゆく道すがら、主人によけいな気づかいをさせないように黙って値をつけてもらってから、こういおうと思っていた。
「実は、これが最後でしてね。これまでは、どうもありがとう。おかげで助かりましたよ。この上、勝手なことをいうようですが、僕《ぼく》の本はなるべく隅《すみ》の方の棚にならべておいてくれませんか。近いうちに都合をつけて、買い戻《もど》したいと思いますから。」
そうすることが、さりげなくしてくれた彼の好意に、さりげなく酬《むく》いる唯一の方法だと私は思っていたのである。
ところが、櫟書房へいってみると、店のガラス戸も内側のカーテンも閉まっていて、本日休業の札がかかっていた。私はがっかりして、明日にでも出なおそうかと思ったが、妻の歯痛はこの二、三夜眠れぬほどにひどくなっていて、もう我慢の限度を越えている。私は、最後の本を櫟書房に引きとってもらえなかったことを残念に思いつつ、仕方なく、よその店で安く処分して帰ってきた。
私の本棚と並行して、妻の嫁入り道具の箪《たん》笥《す》のなかも、一段、二段と空になっていった。そして、本棚がまったく空になったころは、妻の箪笥もすっかり重みをなくして、あたりの畳をちょっと踏んだだけで、いっせいに引手を鳴らして大げさに揺れるようになった。
箪笥の中身を持ち出すようにそそのかしたのは私であったが、それを店に持ってゆくのは妻の仕事であった。妻は質屋の眼光をやわらげるために、すすんでその役目を引きうけたのである。妻は前の勤めの関係で、和服を多く持っていた。それを一枚一枚、風呂敷に包んで持ち出して、質屋の門の前までくると、妻はきっと立ちどまり、ちょっと風呂敷のなかの匂《にお》いを嗅《か》ぐようにして、それから頭で暖簾をわけて入っていった。
そうして、私たちが文字通り素《す》寒貧《かんぴん》になったころ、とつぜん郷里から、父危《き》篤《とく》の電報がきたのであった。私たちは、無理算段をして帰郷したが、そのときは帰ることだけで精いっぱいで、ふたたび上京するときの目算までは考えが及ばなかった。父は死んで、私たちは百日郷里に滞在した。私たちには、別段さし迫った生活があるわけでなし、父の死後にのこされた老母と姉とが、私たちに去られるのをひどくさみしがったからである。
私の妻は、この滞郷中に懐妊した。それは、妻の生理の偶然ではなく、私たち共同の意志によるものであった。こんな貧しい生活のなかで、すすんで子をつくるということは一見無謀であるかもしれないが、もともと私は、そんな一見無謀なことを敢《あ》えてしながら、人生の新生面をきりひらいてゆくことに生き甲斐《がい》を感じている男であった。学生結婚がそうであった。東京の無職貧窮の生活がそうであった。そして、いままた子供をつくろうとしている。成功するかどうかは二のつぎである。まず、それをやらねばならない。それから、道々、つぶさに人生を嘗《な》めてゆくという生き方しか、私にはできないのであった。そういう生き方をしなければ、私は自分の血統にきざしている衰運から、のがれられないと思ったからである。
私は、上京費用に父の香奠《こうでん》の半分を貰い、妻の悪阻《つわり》が終るのを待って、十一月末、ふたたび東京に出発した。
*
帰京した翌々日、私たちはひさしぶりに近くの盛り場へ出ていった。
私たちは、そろそろ貧乏性が身についてきたためか、お金を持つと、反動的に早くそれを消費してしまいたいという誘惑に駆られた。そして、たくさんある欲しいもののなかから、取り敢えずどれとどれを買うかに迷うことを楽しんだ。私たちが郷里から持ち出してきたお金の大半は、帰郷の際の無理算段の穴埋めに消費したが、まだ一部は手もとにのこされていた。
私と妻とは、そのお金で、相手にとってもっとも必要だと思われるものを買って、それを互いに贈りあうことにした。どうせ一つの財《さい》布《ふ》から出るお金なのだから、そんな、あたかも互いにポケットマネーを持っているかのような、私たちにいわせればむしろブルジョワ趣味とでもいいたいような真似《まね》をする必要がなかったかもしれないが、貧しければ貧しいなりに、自分のもっとも欲しいものを自分で一つだけ選ぶというのは、なかなか困難なことなのである。
私は、妻に毛糸の襟巻《えりまき》を贈った。もうすぐ木枯しが吹こうというのに、妻は防寒コートなしで、ひっつめにした髪の襟足が、ひどく寒そうだったからである。
妻は、私に新しい下駄《げた》を贈ってくれた。私の下駄は、もう歯のありかもわからぬほどにうすくなっていて、道で小石を踏んだりすると、ベニヤ板のように撓《しな》ったのである。
妻は、盛り場の下駄屋の店で、好きな下駄を私に選ばせた。私は、竹張りの頑丈《がんじょう》そうなやつを選んだ。妻は、金を払うと、
「すぐ、履きかえますか?」
「そうするか。なにしろ薄氷を踏んでるみたいで、腓《こむら》が張ってしようがない。」
すると、妻は私に背をむけて、新しい下駄の裏側にそっと唾《つば》を吐きかけてから、
「さあ、どうぞ。」
おかしなことをする、と私は、その新しい下駄を履いて店を出た。
「なんだい、さっきの唾は?」
「お、ま、じ、な、い。」
妻はうつむいて、くすくすと笑った。
「なんのおまじないだ?」
「う、わ、き、ふ、う、じ。」
妻は、頬《ほお》を赤くして笑いつづけた。
「女房《にょうぼう》って、あわれだなあ。」と私はにが笑いしながらいった。「亭主《ていしゅ》がこんなになっても、まだ安心できないんだなあ。こんな素寒貧に、女ができっこないじゃないか。」
「いいえ、女は、お金じゃないわ。」
そういうと、妻はすこし足を早めた。
「そうかな。」
「そんなこと、どうでもいいという女もいます。そんな人が、こわいんです。」
妻はどんどん足を早めた。
そんなことをしながら、私たちは櫟書房の前まできた。と思ったのは錯覚で、櫟書房はそこにはなかった。すると、もうすこし先だったかと、私はきょろきょろあたりをみまわしながら、その町筋を果てまでいったが、櫟書房はどこにもなかった。私たちはまたおなじ道を引きかえして、たしかに櫟書房だったと思われる店の前に立ってみた。
そこは、いつのまにか、シャルムという洋装店になっていた。
「おかしいな。たしかにここだったがな。ちょっと訊《き》いてみよう。」
私は、自分自身へともなく妻へともなく、そういうと、洋装店の真新しいドアを押してなかへ入った。
「ちょっと伺います。ここは、もと櫟書房という古本屋さんじゃなかったですか?」
すると、店の奥で、裸のマネキン人形を腕組みしてながめていた黒ずくめの女がふりむいて、
「ええ、そうだったそうですよ。」
「櫟書房は、どっかへ引っ越したんでしょうか。」
「くわしいことは知りませんけどね。」女は腕組みしたまま一匹の兎《うさぎ》のようにみえるスリッパで、床を歩幅で測るようにゆっくりとあるいてきた。「なんでもお店を畳んで郷里の方へ帰られたんだそうですよ。」
「え、郷里へですか?」
私は驚いて、思わず声を大きくした。それを女は誤解した。
「ああ、集金の方ですね? おなじような方が、これまでにもたくさんみえましたよ。なにしろ、夜逃げ同然だったそうですから。わたくし、どなたにも大家さんの方へまわってもらってるんですけど、大家さんは……。」
「いえ、もう結構です。」
私は、礼も匆々《そうそう》にして、その店を出た。
「どうしたんですって?」
妻が訊いた。
「店を畳んで、帰っちゃったんだって。」
「帰っちゃったって、どこへ?」
「どこへって、郷里へだよ。」
そういいながら、私は、胸に隙《すき》間《ま》風のようなものが、ひんやりと吹きこむのを感じた。妻は私を仰いで、一瞬目をみはるようにしたが、すぐにその目をしばたたいて視線をはずすと、
「商売がうまくいかなかったんでしょうか。」
「そうだろうねえ。僕の本を高く買いすぎて、破産したんじゃないだろうか。」
「まさか。」
私もまさかと思ったが、それでも心が痛んできた。
櫟書房は、借金をのこして、都落ちをした。――私には、それがとても他人《ひと》事《ごと》だとは思われなかった。私はあの聡明《そうめい》そうな額を持った、おそらくは私と同志の若い主人と、三日月眉の、ほっそりした細君の顔を思い出した。ああして歴とした店を持ち、夫婦ちからをあわせていても、櫟書房は都落ちせねばならなかったのである。まして私たちのように、すこしは収入の望めそうな店もなく、とぼしい妻の内職にたよりきっている生活は、この先、どんな手ひどい破《は》綻《たん》をひそめているかしれない。妻ももう出産間近で、内職も、なにしろアイスクリームの容器だから、冬場に入ってめっきり収入が減っているのである。この先、どんなことになるやらと思えば、師《し》走《わす》の町がいっそう寒々とみえてきて、私は思わずぶるっとからだをふるわせた。
櫟書房の一件は、私たちの生活に、不吉な影を投げかけたようだった。
*
暮も押しつまったある日、小夜子がひょっこり訪ねてきた。赤い半オーバーを着て、サンダルを履いて、手にはなにも持っていなかった。
「あんた、ひとり? 多美は?」
妻が尋ねると、
「あたし、ひとり。ウフフ。」
と笑った。そして、私の前に手をついて、
「お帰りなさい、義兄《にい》さん。すっかり押しつまりまして。」
十八の小夜子がそういった。私は思わず妻をみたが、妻は立ったまま、けわしい目つきで見下ろしていた。私は、小夜子の言葉を冗談にまぎらわそうとして、
「はい、ただいま。留守中はいろいろとどうも。」
「いいえ、どういたしまして。東京も金づまりでござんしてねえ。」
と、いっぱしの女らしく顔をしかめてみせたのは私のお道化《どけ》にのったからだろうが、それにしても言葉は少女の言種《いいぐさ》ではなかった。
「小夜坊。」
妻は、すでになにかを感じとっているらしく、たまりかねたようにきびしく呼んだ。
「なあに?」
「あんた、東京へ出てきてるでしょう。」
小夜子は首をすくめて、舌を出した。
「あたった。」
「どこにいるの?」
「池袋のね、アンクル・カツって店。」
「アンクル? なんなの、その店は?」
「カツっていったでしょ? トンカツ屋よ。アンクルは英語で伯父さんでしょ? だから、伯父さんカツよ。」
小夜子は、にこにこしながらそういった。妻はへなへなと畳にすわった。
「どうりで……。」
妻はそれきり絶句して、助けを求めるように私をみた。
「どうしてまた、トンカツ屋なんかに。わけを話してごらんよ。」
私もすくなからず驚いていたが、平気そうに笑いながらそう尋ねると、
「うん。」
小夜子もにっと笑って話しはじめた。
九月のある日、栃木の家の近所のおばさんがきて、中学校を出て箒《ほうき》づくりの手伝いなんかしているのは勿体《もったい》ない、東京へ出て働かないかといった。そのおばさんは悪い人ではないから、兄《あん》ちゃんと妹がいいといったら働いてもいいといって、要にきくと、好きなようにせよ、俺《おれ》もおっつけ東京に出るという。多美にきくと、うん、そのかわり、中学校の修学旅行にはいかせてくれると約束してね、という。約束した。おばさんにつれられて、東京にきた。
「だって、あたし、働きたくて働きたくて、毎日うずうずしてたんだもの。」
戦時中、拳突《けんつき》体操といって、拳《こぶし》で宙を突きまわす体操があったが、それのように小夜子は、両手を拳にしてまわりの宙を突きながらいった。
「その、アンクル・カツとかいう店、どんな店?」
私は訊いた。
「ちっちゃな店。旦《だん》那《な》さんが三十七。こんな帽子を(といって、コック帽の形を両手で頭上にこさえてみせて)横ちょにかぶってる。どうして横ちょにかぶってると思う? 義兄さん。」
私は面《めん》喰《く》らって言葉が出ない。
「耳の上にハゲがあるから。(口をおさえて笑い崩れて)おかしいったら、ないの。奥さんは三十六。ちょっと口うるさいけど、割かしいい奥さん。子供が二人。上が女の子、下が坊《ぼう》主《ず》。それだけ。」
「ふーむ。」
と私はうなった。小夜子のてきぱきとした早口に気押《けお》されたのである。
「それで、客種は? どんなお客さんがくる店?」
それまで黙ってきいていた妻が、やっと口を出した。
「そうね。」と小夜子は掌《てのひら》を出して、親指を折って、「バーテンさん。流しのギターの人。キャバレの支配人さん。毎日ちがった女の人をつれてくるのよ。学生さん。愚連隊の人。それから、何だかわからない人。」
妻は、はらはらしながらきいていたが、
「ねえ、小夜ちゃん。働くっていったって、なにもそんな店へいかなくっても……。」
「どうして?」小夜子は、しん《・・》から不思議そうに妻を見上げた。「トンカツ屋だって、おかしくないでしょ? 姉ちゃんだって、お料理屋にいたんだから。お料理屋さんとトンカツ屋さんと、そんなにちがわないと思うな、小夜坊。」
妻は、目をしばたたきながら、視線を落した。
「でもね、姉ちゃんのお店には、あんたの店にくるみたいな、こわい人たちなんかこなかったのよ。大学の先生とか、ちゃんとした商店の旦那さんとか、会社の課長さんとか……。」
「それから、学生さん、でしょ? だって、義兄さんがあのころ学生だったものね。父ちゃんが死ぬ前の日だったかに、学生服着てきたじゃない。こうして、こうして。」
と小夜子は、両膝《りょうひざ》に両拳を突っ張って、首を前にがっくり垂れてみせた。
「ふざけなさんな、小夜子。」
と妻がきつい声で叱《しか》った。すると、妻の頬がみるみる紅潮した。私は、
「まあ、いいさ。僕《ぼく》はいかにも学生だったけど、小夜ちゃんねえ、僕らはなにも大学教授がいくからその店がいい店で、流しのギター弾きがいくからその店が悪い店だといってるんじゃないんだよ。あんたがまだ若いから、おなじ働くにも環境が大切だといってるんだ。どうせ働くんだったら、暗い危険な環境よりも、明るい安全な環境の方がいいだろうじゃないか。姉ちゃんは、あんたが働くのはいいとして、環境をよく考えなさいといってるんだよ。」
真面目《まじめ》くさってそういうと、小夜子はおとなしくこっくりして、
「中学校の先生も、そういってた。」
といった。
「あんた、その店、やめなさいな。」
妻がいうと、小夜子は不服そうな顔をした。
「やめて、また栃木へ帰るの?」
「帰った方がいいと思うけど、どうしても働きたいっていうなら、姉ちゃんがもっといいとこ、探してあげる。」
「そんならいいけど、栃木へ帰んの、いやだな。」
「どうして? もうすこし、兄《あん》ちゃんの手伝いをしてればいいのに。箒をつくるんだって立派な労働よ。」
すると、小夜子は怪《け》訝《げん》そうな顔をした。
「あれ? 兄《あん》ちゃん、なにもいわなかったんけ?」
よほど意外だったのか、栃木弁が出た。
「なにを?」
「兄《あん》ちゃん、もう箒なんかやってないんせ。いま、自転車屋さんだんな。」
「まあ。」
と妻はのけぞるようにして、私と目をみかわした。
「どうして、そんな……。」
「どうしてだか、あたしはよくわかんないけど……。兄《あん》ちゃんによく訊いてみなよ。」
妻は黙って目をみはっていたが、やがてその目を閉じて、ながながと吐息した。
その夜、小夜子が私に、トンカツを上手に揚げるこつ《・・》などを講義して帰ったあと、私と妻とは、まず小夜子のことから相談したが、ともかく小夜子をアンクル・カツからつれ戻《もど》すことに意見が一致した。けれども、年末から年始にかけてはどこの店も大多忙で、無理矢理つれ戻しては角が立つだろうから、一応先方に話だけは通じておいて、正月の十日に円満に店をやめさせることにし、それまでにしかるべき職場を探してやることにした。要の転職については、本人に直接会ってききたださないことには、皆目見当がつかない。
「とにかく。」と私はいった。「今年はきょうだいそろって、この部屋で年越しすることにして、みんなを召集しようよ。その機会に、みんなで今後のことを相談すればいいわけだ。僕もみんなにちょっといっておきたいことがある。そうしよう。」
「馬鹿《ばか》なきょうだい達で、あたし、恥ずかしくって……。」と妻は目を伏せていった。「でも、五人集まると、かかりますわよ。」
「かかったっていいじゃないか。いつもの正月とちがうんだもの。きょうだいが散るか、まとまるかの境目なんだぜ。あれを、やれよ。」
「あれですか?」
妻は眉《まゆ》をひそめて、押入の方をふりむいた。あれというのは、私の物語について誰《だれ》かが話したいといってきたときに、私がよけいな恥をかかなくてもすむようにと、妻が行《こう》李《り》の奥深く仕舞っておいた私の一張羅《いっちょうら》の背広であった。それを質屋に預かってもらえば、きょうだい五人、なんとなく正月気分のする二、三日が送れるはずであった。私は、自分の仕事をすっかり諦《あきら》めてしまったわけではなかったが、ここ当分、それを必要とするような事態は起こりえないという見当ぐらいはついていた。
夜ふけて、妻は要に速達の手紙を書き、私は、おなじ電車の沿線にあるナイロン靴下《くつした》の工場に勤めている郷里の遠縁の娘に宛《あ》てて、女工の募集の有無について問いあわせる手紙を書いていると、
「メリー・クリシマシ! メリー・クリシマシ!」
掘割の方から大きく叫ぶ声がきこえた。酒に酔った家主の左官屋の声であった。
「おや、今日はクリスマスか?」
「いいえ、明日がイヴですよ。」
「ははあ。奴《やっこ》さん、酔っ払ってまちがえてるんだな。」
「あら、もう十二時をまわってるから、正確には、二十四日よ。」
そんなことを話していると、またなにか喚《わめ》く声がきこえて、耳をすますと、
「どうでえ。俺んちの勘坊はな、十二月二十五日の生まれだぞお。キリシト様と誕生日がおんなじなんだぞおい。どうでえ。メリー・クリシマシ!」
私と妻は、顔みあわせて、ぷっと笑った。
*
大《おお》晦日《みそか》の午後、要と多美が栃木から出てきた。要は、
「なんにもないから、これ持ってきたんせ。どうぞ。」
といって、新聞紙に包んだ長《なが》柄《え》の座敷箒を一本くれた。新聞紙をとりのけてみると、緑色の糸だけで念入りに編んだ品のいい箒であった。
「ありがとう。あんたの作品をみるのは、はじめてだ。きれいじゃないか。」
「ま、俺がつくったものじゃ、最高じゃないかな。」
要は誇らしげにそういった。
夕方になると、小夜子が駈《か》けつけてきて、わが家はかつてない賑《にぎ》やかさを呈しはじめた。夕食のとき、私は安い燗酒《かんざけ》を一本飲んだ。学生時代、私は斗酒も辞さない酒飲みであったが、このところ、めっきりおとろえてきて、酒一本でこころよく酩酊《めいてい》した。
「ところで、要君。」私はころあいを見計らって切り出した。「小夜ちゃんにきいたんだが、あんた、箒の仕事をよしたそうじゃないか。」
要は、間が悪そうに笑いながら、小夜子をにらんで、
「そうなんせ。」
「いまは自転車屋だって? どうして、箒をやめたんだろう。」
「箒はもう機械づくりになってしまって、手づくりは流行《はや》らなくなったんさ。もう二、三年もすれば、みんな機械づくりになっちゃうんじゃないかな。そしたら、第一、量で負けっちまう。手づくりはもう全然駄目《だめ》になっちゃうんじゃないかな。」
「そういうもんかね。」そんなら無理もないと私は思ったが、「自転車屋ってのは?」
「ああ、あれは近所の自転車屋の親《おや》爺《じ》さんが、手が空いてたらきてくれないかっていうから、通ってたんせ。いまは、ちがう。」
「すると、いまは?」
「日《ひ》立《たち》。」
「日立? 日立の工員?」
「そう。旋盤工。」
私は、その変り身の早さにあきれて、しばらく彼の顔をみつめて黙っていた。それから、意を決して、
「こんなことは、年が明ける前にいってしまった方がいいと思うからいうんだけど、僕ね、あんた達みんなに一つお願いがあるんだよ。というのは、あんた達、働きに出るのはいいけれども、出る前に僕に一と言、相談してみてくれないかな。こうしたいけど、どうだろうって。僕はこうして、あんた達の姉ちゃんといっしょにいるのだし、あんた達にはなにもしてあげられないから、せめてそんなときの相談相手になろうと思うんだよ。どうだろうね。」
正直いえば、私には彼《かれ》等《ら》の気ままな転身ぶりが羨《うらやま》しくもあったし、そんなことをいいながら、はじめて味わう兄貴ぶりというものを、ひそかに楽しみたいという気持もないではなかったのである。ところが、彼等は叱られたとでも勘ちがいしたのか、顔をうつむけてじっとしていた。私は豁達《かったつ》そうに笑って、
「おいおい、僕は怒ってるんじゃないんだよ。なにか意見があったら、いってごらん。なんでも率直に話そうよ。」
というと、要は静かに顔を上げていった。
「相談といってもさ、義兄《にい》さんに相談したって、わかってくれないからな。働かない人に相談したって、わかるはずがないからな。俺《おら》んた、おなじ働いてる人にでないと、安心して相談できないんせ。」
そういう要の顔には、さげすみの色も、反抗の気配も、あざけりの笑いもなかった。ただ目だけが、特殊な発光体を宿したように、きらきらとかがやいていた。要はただ、不断の顔と不断の声で、率直に自分の感想を述べているにすぎないのである。それにしても、彼のおだやかすぎる声は、私の胸をつよく衝《つ》いた。
「それじゃ、転々と職を変えるのは、どうなの?」
反抗的になっているのは、むしろ私の方だった。すると、要は相変らずおだやかな声で、
「義兄さんみたいに大学を出た人は、働かないでじっと家にいても暮らせるけどさ、俺《おら》んたは、毎日毎日働かないと、暮らしていけないんせ。あれやこれやと、仕事を選んでいる暇もないんだっせ。仕事の方でも、俺《おら》んたをいつまでも待っててくれやしない。俺《おら》んた、働くのが好きだ。なんでもやってみたいんせ。そうやっていて、いちばん好きなことをみつけたら、それを一生つづけたらいいんじゃないけ? それだけ。」
そういって、要はちょっと首をすくめた。
私は、なによりも彼等の心のなかで、『俺《おら》んた、働くもの』と『働かない人、義兄さん』とが、はっきりと別世界に住むものとして区別されていることに気がついて、暗澹《あんたん》とした。それほど、私の非生産的な生活は、彼等の目には奇異なものに映るのである。私は、彼等の義兄《あに》であっても、彼等の仲間ではなかったことを自認して、やりきれないようなさみしさを感じた。
「それじゃね、せめて職や住所を変えたら、一応知らせるだけは知らせてくれないか。そうでないと、誰がどこでなにをしているのか、わからなくなっちゃうから。なにかあったとき、困るからね。」
私は兄貴ぶりを楽しむどころか、たのみこむようにそういうと、手紙を書くことが苦手の彼等は、互いに顔みあわせて、首をすくめた。
――新年早々、私が手紙を送った遠縁の娘が、いい返事をもたらしてくれた。それによると、十五日の成人式を機にやめる同僚が四、五人あるから、小夜子を推薦《すいせん》できるかもしれないということであった。私は、折りかえし、是非そう願いたいとたのみこむ手紙を送って、取り敢《あ》えず約束の十日に、妻をアンクル・カツへ迎えにやった。
小夜子は、十日ほど、私たちと同居した。その間、妻につれられてナイロン会社へ面接にゆき、ほぼ採用の内諾を得てきた。
「よかったね。」
「ええ、心配かけて、すみませんでした。」
「お嫁にゆくまでいるつもりで、がんばるんだな。」
「あら、あたし、一生お嫁になんかいきません。」
そうして、ある日、小夜子は陽気な笑い声をひびかせながら、会社の寮へ移っていった。
*
私は、元日から、思いをあらたにして、新しい物語にとりかかっていた。あと半年後に迫った妻の出産は、この分ではやはり私の手には負えそうもなく、母の言葉に甘えて郷里でするほかなかったが、この新しい物語は、妻が帰郷したのち、ひとりになった私がいかに生活するべきかの一つの指針になるはずであった。そうして、すこしうますぎる期待をすれば、私はその物語によって妻の旅費と出産費とを得ることができるかもしれないのであった。
私は、日夜、机にむかってその物語に熱中した。物語は実にのろのろとだが、着実に結末へ近づいていた。二月のはじめ、私はある夜の夜ふかしに、つい炬《こ》燵《たつ》に炭をつぎ足すのを忘れて、風邪をひいた。それがもとかどうかはわからなかったが、四日ほどして、風邪がどうやら落ちたと思われたころ、私はふいに、四十度近い高熱を発した。
私は、風邪がぶりかえしたのだろうと思って、二、三日、日課を休んで床のなかにじっとしていたが、風邪の症状がまったくないにもかかわらず、熱だけが高く、それがいっこうに下らなかった。やがて、後頭部がずきずきと痛みはじめた。私は、滅多なことでは医者にかかる気になることがなかったが、そのときはなにやら心ぼそくて、近所の町医者にかかった。その医者もはじめは風邪の再発と軽く診て、注射をし、粉薬をくれたが、それを嚥《の》みつくしても熱はすこしも下らなかった。医者はもういちど、こんどは丁寧に診察したが、やはりどこも悪くないといい、この上はクロロマイセチンという薬のカプセルを服用してみるほかはないといった。
それは、私たちからすれば法外に高価な薬であった。その上、その高価な一つのカプセルを、六時間おきに一つずつ嚥まねばならぬという。私は、それまでにもいくどか急場を救ってもらった目白の友人に急を告げて、お金を借りて薬を買った。
目白の友人は、二日おきに様子をみにきた。彼から噂《うわさ》をきいた学生時代の仲間たちも、ぽつりぽつりと見舞ってくれた。彼等は、私の枕元《まくらもと》で熱の原因をさまざまに推量したが、結核だという者もあり、泉熱《いずみねつ》というやつではないかという者もあり、なかには、「コレラじゃねえのか?」とおどかしてゆく者もいた。私自身は、後頭部の痛みが去らないことから、脳の病気ではなかろうかという不安になやまされた。原因も病名もわからない熱というものは、不気味なものである。私はこのやりきれない不気味さが消えるものなら、どんな難病でも甘受する覚悟があったが、それにしても脳の病いだけは真っ平であった。
それでも、熱はカプセルを嚥みはじめて二日目ごろから、ほんのすこしずつだが、下りはじめた。それにつれて後頭部の痛みも日増しにうすらいでいって、十日も経《た》ったころには、訪ねてくる友人たちに私は、
「やっとわかったよ、病名が。学名はロシヤ語でなんとかいってね、日本語に訳せば、まあ貧乏熱、とでもいったところだ。文献によると、発生地のロシヤではドストイェフスキーがやられてるねえ。その後、ヨーロッパに蔓延《まんえん》して、シャルル・ルイ・フィリップとか……。」
などと出《で》鱈《たら》目《め》がいえるほどになっていた。
熱になやまされていたあいだ、私がもっとも待ち望んだのは日曜であった。日曜は小夜子がくる日である。病名不明の熱病のために、すっかりじめついてしまった私の心は、小夜子の健康な明るさにふれると、湯気を立てて乾きはじめるような気がした。
小夜子は、私の枕元にすわって、日常生活の報告をする。それは、この上なく無邪気な生活の讃《さん》歌《か》であった。小夜子には、朝起きて歯をみがくことすら、すでに楽しい。同僚に「お早う。」といい、お互いに指を三本出しあって、クックッと笑う。日曜まで、あと三日。土曜日の晩、小夜子はとても眠ることができない。恋人を持つ同僚たちが一心不乱にピンカールするのをながめて、いつまでもクックッと笑っている。そうして日曜日の朝は、「うれしくて。」三度もオトイレにいき、電車のなかで足ぶみし、私の部屋の玄関をいきおいよく開けて、額に氷嚢《ひょうのう》をのせて目をとろんとさせている義兄《あに》に、「こんにちは!」と叫ぶのである。私は小夜子の、話すというよりは叫ぶ声をききながら、もうとっくにどこかへ捨ててしまった、そんな生活を楽しむ心を、熱っぽい頭でぼんやりなつかしんでいた。
ある日、小夜子はいつものごとく、いい加減にしゃべりまくってから、
「はい、お見舞い。」
上り口にほそながい封筒のようなものをおいて、逃げるようにして帰っていった。妻がひろって中身をみて、「あらっ。」といった。
なかから出てきたのは、貯金通帳と、一通の手紙であった。貯金通帳には、十八の小娘がよくも溜《た》めたと驚くほどの金額が記入されていて、手紙には、
(にいさん。このお金は小夜坊がホーキやトンカツやクツシタでためたお金です。おしるこ屋をひらくもとでにしようと思ってためたのですけど、小夜坊はまだ十八ですから、いまはひつようではありません。だから、にいさんにお見まいにあげます。えんりょなく使ってください。小夜坊より)
「へっ。あいつ、味なことをしやがるなあ。」
私はわざと乱暴にそういいながら、俺《おれ》はもはやこれまでではなかろうかと心に思った。望みばかり高くして、なに一つ産み出すことのできない義兄が、十八歳の働きものの義妹《いもうと》から、貯金通帳をいただくのである。その貯金を消費してまでつづけなければならぬほどの、俺の生活かと私は思った。
つぎの日曜日、例によって、「こんにちは!」とやってきた小夜子に、私は、
「この前はどうもありがとう。だけどね、あんたの好意だけで僕《ぼく》はたくさんなんだよ。これは大事にとっときなさいね。」
貯金通帳をかえそうとすると、とつぜん、小夜子は柱に額を当てて泣きはじめた。私も妻も、黙ってそんな小夜子を見守っていると、小夜子はくるりとむきなおって、はげしくいった。
「水臭いわ! 水臭いわ! だから、義兄《にい》さんは駄目なんせ。おなじきょうだいなのに!あたし達のことばかり責めるくせして、義兄さんこそ、本当にあたし達のことをきょうだいだと思ってないじゃないけ? 馬鹿みたい。」
その言葉は、私の胸にこたえた。そうして、ふとその胸が熱くなるのをおぼえながら、私は貯金通帳を机の上にほうり上げた。
「いただくよ。もう泣くな。」
そして、空の本棚《ほんだな》の方へ寝がえりをうった。
三月のはじめになって、私はやっと床をはなれることができた。まるまる一と月、熱にさいなまれたわけであった。起きると、頭がふらふらとした。あるくと、膝《ひざ》ががくがくとした。からだ全体が、妙にたよりなくなった。熱がからだの芯《しん》を融《と》かしていったような気がした。
起きられるようになってからも、毎晩寝汗がつづいた。二度も寝巻を替える夜もあった。曇天がつづくと、着て寝る寝巻がなくなって、妻の肌《はだ》着《ぎ》を借りて着て寝た。めまいや動《どう》悸《き》がすることもあった。私は努めて机にむかってみたが、熱に見舞われる前に書いたあとを、どうしても書きつづけることができなかった。まるで、熱が私の脳細胞の組織まで変えてしまったかのようであった。夜ふけに、そんな病前病後の断層を前に、ぼんやりしていると、近所の銭湯から、三助が湯《ゆ》桶《おけ》をタイルに投げ飛ばすコーン、コーンという音がきこえてきて、私はその音にきき惚《ほ》れているうちに、机の上に突っ伏して泣き出したこともあった。
産月《うみづき》が迫った妻は、しばしば腹の鈍痛を訴えた。医者に診てもらうと、早産のおそれがあるといって、黄体ホルモンを注射してくれた。七月の出産予定が、すこし早目になるようだから、郷里へ帰るのならなるべく早い方がいいという医者の忠告であった。
四月の一日に、私は妻にあらたまっていった。
「おい。僕はやっぱり、お前といっしょに田舎へ帰るよ。こんなからだの調子では、この先、どんなことになるか、わかりゃしない。これまでの生活に耐えられたのも、僕らが健康だったからだ。櫟書房みたいに、ここは自重して一旦《いったん》田舎へ帰った方がいいと思うんだ。田舎でからだをなおしながら、僕は報酬を当てにしないものを、一つだけ、ゆっくり書いてみたい。子供が生まれたら、また出なおせばいい。そして、こんど出てくるときは、働きながら、焦《あせ》らず勉強するよ。」
「ほんとですか?」と妻は目をかがやかしていった。「まさか、エープリル・フールじゃないでしょうね。」
*
出発は、四月十日ときめた。
私たちは、小夜子の貯金を借りて、入質品を整理した。それから最後の無理算段をして、溜まった家賃を清算した。空になった箪《たん》笥《す》や本棚や食器棚は、古道具屋を呼んで売り渡した。机は脚が一本義足だったが、古道具屋は込み《・・》でいっしょに引きとっていった。あとには、ちいさな風呂《ふろ》敷《しき》包みが二つと、要がくれた箒《ほうき》がのこった。私たちは、まる二年の苦闘の末、箒を一本土産に帰るのであった。
出発の日の朝、近所の顔見知りの奥さんが訪ねてきた。私たちはほとんど近所付き合いというものをしなかったが、この奥さんとだけは、道で会ったりすると、どちらからともなくお辞儀をしあう仲であった。その奥さんは、くだくだしい挨拶《あいさつ》はぬきにして、平べったい紙包みを前において、こういった。
「これ、生まれてくる赤ちゃんに着せてあげてくださいません? 御郷里へ帰られるのにまにあわせたいと、前からとりついていたんですけど、あたしって夜は九時になるとコックリさんで。やっと、ゆうべ縫い上ったんです。粗末なものですけど。」
思いがけないことで、私はすっかり上気して、
「いや、どうも、しかし、そんなにしていただいては……それに、子供もまだ男か女かわかりませんし……。」
というと、
「いえ、産《うぶ》衣《ぎ》ですから、坊ちゃんでも嬢ちゃんでも着られます。では、くれぐれもお大事に。」
と奥さんはいって、帰っていった。
紙包みをひらいてみると、純白の産衣が二枚出てきた。
「いいお土産ができたね。」
「ええ。」
妻は目を赤くして、うなずいた。
線路のわきの防雪林に、小雪が絣《かすり》のように吹いていた。トンネルをぬけると、汽車は線路の岐《わか》れ目を渡って、揺れはじめた。
「あたしたち、はじめて帰ってきたときも雪でしたね。」
と妻がいった。
「ああ、そうだったな。またあのときの気持にかえって、やりなおすさ。」
私たちは、ちいさな風呂敷包みと箒を持って、小雪が横なぐりに吹きつけてくるデッキに出た。
團欒《だんらん》
一
その部屋は、妻がみつけたのです。みつけると、妻は早速、勤め先のわたしに電話でそれを報告してきました。
「みつかったわよ。とっても、いいとこ。できたばかりで、まだ誰《だれ》も入っていないアパートなの。四畳半と三畳に、専用のお勝手がついて、間代は五千五百円。しかも、権利金も敷金もなしよ。いかが?」
妻の声は、さも得意そうにはずんでいました。
二《ふた》間《ま》で五千五百円は悪くない。わたしは、妻が毎日、やっとあるく楽しみをおぼえはじめた子供をつれて、散歩がてらに、あちこち探しあるいていることを知っていたのですが、まさかこんな掘出しものをするとは思ってもみなかったものですから、内心いささか驚きました。
「よさそうじゃないか。早く手金を打っておくといい。」
そういうと、
「ええ。」
と妻はいって、それから急にくっくっと笑い出しました。
「なんだ。」
「実はね、手金はもう打ってきちゃったの。」
――その日は、五時に会社が退《ひ》けると、わたしは道草を食わずに、まっすぐ郊外に借りている部屋に帰りました。その部屋を、わたしたちは追い立てられていたのです。家主の婆《ばあ》さんひとりのうちはなんの事もなかったのですが、家を出ていた婆さんの末娘が年下の男をつれて帰ってきてから、急に面倒なことになりました。けれども、わたしたちにしても、その部屋はもともとわたしが今度の勤め口がきまって単身郷里から出てきた当座、ほんの間にあわせのつもりで借りた部屋で、その後、住居を変える才覚もつかないままに、妻子をそこによび寄せたのですが、子供が立ってあるくようになり、ひとりで駆けまわるようになっては、もうとても窮屈すぎて、いずれ近いうちにどこか適当な場所へ住み変えなければと思っていた矢先だったのです。それでもぐずぐずしていたものを、追い立てられて、やっと決心がつきました。
帰ってみると、妻はもう四畳半の部屋いっぱいに物をひろげて、引越しの支度にとりかかっていました。あそび場を追われた女の子は、押入れの上の段にのせられて、なにがおかしいのか独《ひと》りで笑いこけています。
「ごめんなさい。すっかり散らかしちゃってて。」
妻はそういってわたしを迎えましたが、わたしは、
「あぶない、あぶない。落ちたらどうする。」
といいながら、押入れのところへいって、女の子を抱き上げました。
わたしは、子供があるきまわるようになってから、妻の監督ぶりがどうもぞんざいなような気がしてなりません。妻は、おそらく母親の勘のようなもので、自信たっぷりに子供を扱っているようですが、それでもはたからみれば実にあぶなっかしくて、はらはらして見ておれないようなことがしばしばです。もっと気をつけてほしいと思います。どんなちいさな不注意が、子供の生涯《しょうがい》を台なしにしてしまうか、わからないのです。
「どうせ越すなら、早い方がいいと思って、いつにします?」
妻がそういうので、
「俺《おれ》はいつだっていいよ。なんなら、明日だっていい。」
とわたしはいいました。
とにかく、いちど一緒にその部屋をみようということになり、わたしたちは大急ぎで夕食にとりかかりました。
「まったく思いがけなかったわ。」
妻は、自分の口と子供の口とに忙しく箸《はし》をはこびわけながら、その部屋をみつけたときの話をしました。
妻は今日、午前中にせっせと洗濯《せんたく》をして、くたびれたので、部屋探しの散歩はやめにして、そのかわり郊外電車で三つ先の駅前マーケットへ、買物にいきました。買物をすませると、お腹《なか》がすいたので、子供になにか食べようかと話しかけると、子供は『おうろん』がいいといいます。そこで二人はマーケットのちかくの蕎麦《そば》屋に入って、キツネうどんを注文しました。
ところが、店のなかはさほど混《こ》んでいないのに、うどんはなかなかできてきません。なにをそんなに手間取っているんだろうと、妻は再三、調理場の湯気がみえる小窓の方をふりかえっているうちに、ふと、その小窓の上の方に、『新築アパート』と墨で書いた貼紙《はりがみ》がしてあるのに気がつきました。それは当然、前から妻の目に入っていたはずですが、最初から季節の蕎麦の広告かなにかだろうと思いこんで、読んでみようともしなかったのです。おや、と思って立っていってみると、
『新築アパート四畳半・三畳 台所専用 権敷なし 賃五千五百円 日当り良 子供可』
と書いてある。
妻はびっくりして、早速小窓の奥の方へ、
「ちょっと伺いますけど、ここに書いてあるアパート、周旋屋さんのでしょうか。」
と声をかけました。
すると、なかから主人らしい男の人が顔をのぞかせて、
「いや、持主の人からたのまれて、今朝貼り出したばかりなんですよ。まだ誰も尋ねてこないから、いまからいけば大丈夫ですね。」
といって、その人は丁寧に道順をおしえてくれたのだそうです。
そんな話を妻はしてから、
「おかしなものねえ。一生懸命探しているうちはちっともみつからなくて、こんな思いがけないときに、ひょっこりみつかるんだから。あたし、あとで考えてみて、変な気がした。」
といいます。
「それは運がよかったんだよ。うまくいくときは、そんなもんだ。」
と、わたしはいってやりました。
「そうね。よくよく運がよかったんだわ。あのとき、この子がもしアイスクリームっていったら、それっきりだったんですものね。」
妻はそういって、それから急に考え深そうな顔つきをして、
「運がいいのと悪いのとは、ほんのちっとのちがいなのねえ。」
といいます。
「世のなかのことは、紙一重だよ。」
わたしがそういうと、妻はそれきり黙って子供の口に箸をはこんでいましたが、よほどしてから、
「こわいみたい。」
ぽつんと、そういいました。
二
夕食をすませると、わたしたちは子供をあいだに、手をひいて、そのあたらしい部屋をみにいきました。
下り電車にのって三ツ目の駅で降り、線路をまたいで走っているひろいアスファルト道路を十分ほどあるいて、人家もまばらになるあたりに、そのアパートがありました。アパートといっても、道ばたにあるちいさなお菓子屋の棟《むね》つづきに、裏手へ四世帯分の部屋がならんでいるだけの、裏長屋のような建物です。菓子屋が家主で、妻がその店に入ってゆくと、やがて足の悪い、若い女の人と一緒に出てきました。その人が家主の細君で、
「こんばんは。どうぞ、こちらです。」
と愛想よくいって、家のわきの小道から入口のガラス戸をあけてなかに入ると、コンクリートのほそながい廊下を懐中電燈《でんとう》で照らしてみせました。片側には流し場と便所とがあり、片側にはあいだに窓をはさみながら四つの扉《とびら》がならんでいます。
「四部屋ありますけど、どの部屋もなかの間取りはおなじですから。」
細君はそういって、とっつきの部屋をみせてくれましたが、ベニヤ板の扉をあけると、半間《はんげん》四方の三和土《たたき》があり、そのむこう隣が仕切なしでやはり半間四方の台所になっていて、部屋は三畳が廊下側、四畳半は外側に面していました。押入れは四畳半の方に一間、三畳の方に半間あって、どちらも戸がベニヤ板づくりです。入口の扉は仕方ないとして、押入れの戸にはやはり襖紙《ふすまがみ》を貼らねばならないとわたしは思いました。壁は、淡い空色です。四畳半のガラス戸と雨戸をたぐると、外にちいさな濡《ぬ》れ縁《えん》がついていました。
「外は、庭なのですか?」
と尋ねると、
「いいえ、通路です。」
「通路ですか。」
と心細がると、
「裏の家へいく道ですけど、裏の家の旦《だん》那《な》さんはお巡りさんです。」
と先手を打つように細君がいいました。
わたしが部屋をみているあいだ、妻は入口の三和土に立って、背中の子供に、
「ひろいお家《うち》でしょ。ここが明日から、桃ちゃんのお家になるの。みんなで、ここへお引越ししてくるのよ。」
などとおしえていました。
廊下に出ると、
「なかなか、いいじゃないか。」
とわたしはいいました。
「そう。よかったわ。」
妻は嬉《うれ》しそうです。それでもう、きまったようなものでしたが、
「ただ台所がねえ、ちょっとせますぎやしないかな。あれじゃ、まるで電話ボックスだ。」「そうね。でも、がまんするわ。欲をいえば、きりがないもの。第一、お勝手道具もそうたくさんあるわけじゃないし、はじめて自分の台所を持つんだから、あのくらいでちょうどいいのよ。」
「そうか。そんならあとは文句なしだ。」
わたしも妻も、いちばん奥まった部屋にしたかったのですが、そこはちょうど便所の真ん前になっていたので、奥から二番目の部屋を借りることにしました。どだい、親子三人、誰にも気兼ねなく暮せるものなら、どの部屋でもおなじことなのです。
わたしたちは、早速明くる日、引越すことにして、引揚げてきました。
わかれてきしなに、わたしが、
「いまどき、権利金も敷金もなしというのは、めずらしいですよ。助かりました。」
と細君にいうと、細君は、
「なんですか、父がこの家を建ててくれたついでに、そんなこともきめてくれたんですけど、苦労人ですから欲がないんですね。」
といって笑っていました。
よい人たちなのだな、と思いながら、
「おやすみなさい。」
「おやすみなさい。」
こんどはわたしが子供を背に、街燈が間遠く点《とも》っているアスファルト道路を帰りはじめると、
「あの、ちょっと。」
細君の声によびとめられました。
「お宅へ帰られるんでしょう?」
「え、そうですが。」
細君は口に手を当てて笑いました。
「そっちへゆくと、多摩《たま》川《がわ》の方へいっちゃいますよ。駅はこっちです。」
反対の方を指さしています。
「あらいやだ。」
と妻がいいました。
「あなたったら。」
「おまえがこっちへあるくから。」
「うそよ。あたし、なんだか変だと思ったんだけど、あなたが自信ありそうにあるき出すから。」
「そうかなあ。」
細君は、笑いながら引っこんでしまいました。
あらためて駅の方へあるきはじめると、
「あぶなかったわ。」
と妻はいいました。
「あなたったら、方向オンチなんだから。どこへつれていかれるか、わかりゃしないわ。」
妻はふざけて、冗談をいったのだと思います。言葉も、そんな調子でした。けれども、ひょっとすると、日ごろ胸底に沈んでいる不安の想《おも》いを、冗談めかして、吐いてみたのかもしれません。いずれにしろ、そのとき妻の言葉が、ひやりとわたしの胸底にすべり落ちたのは事実でした。わたしは、思い当るふしがあるどころではないのです。
唐突に、
『よい生活を。』
とわたしは心に念じました。
それは、これまでにもう幾度も幾十度もくりかえしてきた願いなのですが、わたしには常にあたらしい願いなのです。
『出直して、よい生活をしなければならない。』
背中の子供をゆすり上げると、子供はいつのまにか寝入っていました。
三
翌日はあいにく雨降りでしたが、わたしたちは引越しを決行しました。
引越しといっても、大した荷物があるわけではありませんから、ごくお手軽なものです。二人分の夜具、小《こ》箪《だん》笥《す》、食器戸《と》棚《だな》、小机に卓《ちゃ》袱《ぶ》台《だい》、小型の本箱と学生時代からなんとなく捨てきれずに保存しているわずかばかりの書物(わたしはもう大分前から、まったく読書の習慣をうしなっています)それに、桃枝を育てた乳母車――目ぼしい荷物といえば、ざっとそんなところです。朝、近所の運送店から幌《ほろ》つきのオート三輪をまわしてもらって、それに積んで一遍にはこびました。そして、縁側から四畳半に荷物を揚げてしまうと、あとの整理は妻にまかせて、わたしはそのまま帰り車に便乗させてもらって駅に駈《か》けつけました。わたしたち平社員は、ウィークデーの引越しで、社を休むわけにはいかないのです。
その日の夕方、あたらしい住居に帰ってみると、部屋のなかはもうきちんと整頓《せいとん》されていました。昼に、お菓子屋の主人が契約書を持ってきて、ついでに手伝っていってくれたそうでした。箪笥と食器戸棚は四畳半の壁ぎわに、本箱と小机は三畳間の窓ぎわに、卓袱台は四畳半のまんなかに、それぞれ所を得ていっぱし住居らしい趣です。
ガラス戸をしめきると、ぷんと木の香がこもります。
「あたらしい部屋って、いいな。」
わたしは両手をうしろ手に組んで、たかが合わせて七畳半の住居のなかを、のしのしあるきまわりました。
「いやだわ。家宅捜索の刑事みたいよ。レインコートぐらい、ぬいだらどう?」
そういわれて、わたしは気がついてレインコートをぬぎましたが、それを掛ける場所がわかりません。
「コート類は、どこへ掛けるんだ?」
妻に訊《き》くと、妻ははじめて意のままになる台所に入りびたりで、
「どこか、そのへんにないかしら。」
妻がつくらぬなら、あるはずがないのです。
わたしは金槌《かなづち》と釘《くぎ》をもらって、三畳の方に間にあわせのコート掛けをつくろうとしました。そして、手ごろな場所を探しているうちに、窓と入口とのあいだの壁に、すでに釘が一本打ちこまれているのを発見しました。大工がなにかの必要で打って、ぬき忘れたものでしょうが、乱暴な大工があるものだ、壁にもろ《・・》に釘を打ってる、とわたしはちょっと憤慨しました。そして、金槌についている釘ぬきで、すぐさまその釘をぬいてしまおうとしたのです。
すると、金槌が壁に触れると、壁はぽろんぽろんという音を立てました。それは、およそ壁には似つかわしくない音でした。わたしはきき咎《とが》めて、不審に思い、金槌でそっと壁を叩《たた》いてみました。ぽろんぽろん。指でノックをしてみました。ぽろんぽろん。指の腹でこすってみました。繊維のような、こまかな起伏が感ぜられます。目をちかづけて、仔《し》細《さい》にみました。それはベニヤの壁でした。
わたしは、顔がこわばるほどの驚きに搏《う》たれました。声を荒らげて、妻をよびました。けれども、わたしはその荒らげたつもりの自分の声に、早くも部屋の外の耳をはばかる配慮がこもっているのを感じないわけにはいかなかったのです。妻は、上気したような顔をして、台所から出てきました。
「おい、これをみろ。」
わたしは壁を指さしました。
「油虫?」
妻は眉《まゆ》をひそめます。
「いいから、もっとちかづいて、みてみろ。」
「変な声。」
わたしは構わず、妻の手をつかんで、掌《てのひら》を壁にすべらせ、押しつけました。妻はわたしに目をむけたまま、しばらく子供の熱加減を計っているときの顔つきをしていましたが、やがておもむろに目を壁にむけました。それから、いきなりわたしの手をはねのけて、壁に触れていた手をひっこめました。
「ベニヤ板ね。」
妻は、つよいまなざしでわたしをみて、いいました。
「その通りだ。」
そのとき、すでにわたしの胸のなかは、こんな場面に逢着《ほうちゃく》すると、ぬかりなく湧《わ》き上がってくるあの不思議な平静さにみたされていました。それは、いってみれば卑屈の余裕ともいうべきもので、これが出てくると、わたしは素直に、怒ることも悲しむことも、よろこぶことさえできなくなってしまうのです。何事でも甘受しよう、できたことはすべてよしとする、受身の度胸のようなものです。
「だまされたのね。」
妻は素直に怒っていました。
「だまされたんじゃないさ。俺《おれ》たちがうっかりしてただけだよ。」
「だって、こんなに本物の壁そっくりにつくって。」
「だけど、これだって、あの内儀《おかみ》さんの親《おや》爺《じ》さん、大奮発して、せいぜい意匠をこらしたつもりなのかもしれないんだよ。むこうは、これで十分立派にできたと思っているかもしれない。それに、なにも本物の壁だと偽ったわけじゃないのだからな。」
「悠々《ゆうゆう》としてるわ。」
妻はうらめしそうな顔をしました。
「あなた、困ったとも、口惜《くや》しいとも、思わない?」
「もう、思っちゃった。」
妻はなにか叫ぼうとしたようですが、妻の声帯にもすでにある圧迫がのしかかっていることは明らかでした。妻は黙って、あきれたようにわたしをみつめています。
ベニヤの世界が、いかに息苦しく、いかに神経を疲弊させ、いかに生活の感動を殺《そ》ぐものかを、わたしが知らぬわけはありません。けれども、ベニヤの世界に迷いこむほどの者は、もはや当分そこから出るわけにはいかないということも、同時に知っているつもりです。
「まあ、しばらく辛抱するさ。ベニヤの壁だって、動かないだけ、襖の境よりまだましだよ。」
そのとき、隣室で嚔《くしゃみ》をした者がいます。けれども、隣室に人がいるわけはないのです。そして、それが二部屋へだてた家主の部屋で、当の家主が発したものだと気がついたとき、妻は絶望的な表情をうかべて、ハタキの柄《え》で部屋中の壁という壁を叩きまわって、点検しはじめました。
ぽろんぽろん、ぽろんぽろん。
すると、それをみて、女の子が熱狂しました。そして、
「桃ちゃんも、とんとんするの。」
そういったかと思うと、手の届くかぎりの壁という壁を、両手で叩きはじめたのです。
ぽろんぽろん、ぽろんぽろん。
ぽろん、ぽろん、ぽろん、ぽろん。
こんなふうにして、わたしたちの團欒《だんらん》の生活がはじまりました。
四
四、五日すると、空いていた他の三部屋も塞《ふさ》がりました。まず入口にちかい一号室、つぎに二号室、それからわたしたちの三号室を飛び越えて奥の四号室という順で塞がりました。やはり、便所の真ん前の四号室が、いちばんあとになりました。
それらの人たちは、果してベニヤの壁を承知の上で入ってきたのか、それともなにも知らずに入ってきたのか、どちらなのかはわかりません。けれども、知らずに入ってきた人たちも、もうとっくに気がついているはずですが、それでもなんの悶着《もんちゃく》も起らなかったのは彼《かれ》等《ら》も観念したからなのでしょう。そして、彼等の生活ぶりがひどく静粛だったのは壁のむこうに与える自分の音に気を配り、壁のむこう側からにじんでくる音に気を配りながら、銘々、神経を磨《す》りへらし、感動を噛《か》み殺していたからにちがいありません。
ただし、四号室だけは、例外でした。
この四号室の住人は、女のひとり暮らしでありながら、そのあたりをはばからぬ傍若無《ぼうじゃくぶ》人《じん》な生活態度はむしろ自虐的といっていいほどでした。これは、よほどの年月、ベニヤの壁に狎《な》れ親しんできた者でないと、とてもできない芸当です。
この女は、三十ぐらいの、小《こ》柄《がら》だが肉のひきしまった体つきをした、肌《はだ》の黒びかりする女です。エミという名は、彼女が廊下の流し場でお喋《しゃべ》りするとき、自分のことを「エミねええ」と話すのをきいて知りました。エミは話好きで、よく流し場で洗濯《せんたく》している住人たちをつかまえては、嗄《しわが》れ声でまくし立てるように話しています。横浜や立川のことをよく話しますから、前に住んだことがあるのかもしれません。
このエミのところに、毎週月曜と金曜の夕方、いつもおなじ男が通ってきます。男というのは赤ら顔の、中年のアメリカ人で、彼はコバルト色の剥《は》げちょろけた車にのってやってきます。アスファルト道路から裏へぬける通路にのり入れ、四号室の縁先にとめると、「はあい、べび」とコントラバスのような声でエミをよびます。エミは出てくると、「はあい、はあい」と鼻にかかった声でいいます。それから二人は、数時間のあいだ、ラジオのジャズをつけっ放しにして、ときどき悲鳴や哄笑《こうしょう》を爆発させながら、部屋中を陽気にふざけまわります。そして、男はまた剥げちょろけた車にのって帰っていきます。
ところが、男が帰ってしまうと、エミはひとりで妙なことをするのです。寝台のすそにうずくまって、祈るのです。誰《だれ》にむかって、なにを祈るのかはわかりません。しかし、エミは男を送り出すと、忘れずにそうして祈るのです。
わたしは、はじめてその祈り声をきいたとき、エミが泣いているのだと思いました。そして、ついさっきまで、あんなに陽気にはしゃいでいたのに、なにが急にそんなに悲しくなったのだろうと、不思議に思ったものでした。ところが、何度もきいているうちに、そのすすり泣きに似た声が、いつのまにか、ふっと調子が変って静かに述懐するような声になったり、また、ふっと誰かをなじるような声に変ったりすることがわかりました。男が帰ったあと、エミの部屋にはエミのほかに誰もいるはずがありません。すると、エミは独《ひと》り言《ごと》をいっているのです。
男と散々ふざけあって、ひとりになると、泣くまねをしてみたり独り言をいってみたりするエミに、わたしは好奇心をそそられました。けれども、まさかそれを当人に尋ねるわけにはいきません。翌朝になると、エミはけろりとして、いつものように流し場でお喋りに興じています。まくし立てるように話し、けらけらと笑い、首をふりながら鼻唄《はなうた》をうたいます。とても夜ふけに、ひっそり一人芝居に耽る女にはみえないのです。
一と月ほどした、あるむしむしする晩のことです。エミの部屋から、男が帰ってからでした。
わたしは毎晩、妻が夕食後の散らかった部屋を片づけ、みんなの寝床をつくるあいだ、子供を抱いて外に出ていることにしているのですが、その晩もいつものように、アパートの入口から出て、家主の店の前のアスファルト道路を往《ゆ》きつ戻《もど》りつしてから、縁側に面した通路を通って戻ってきました。
ふとみると、四号室の雨戸が一尺ほど明いています。男がきている夜はきまって閉じられているのですが、その晩はむし暑かったせいか、それとも男が帰ったあとは、いつもそうして部屋のなかにこもった空気を換える習慣なのか、とにかく雨戸が明けられていたのです。
わたしは、なにげなくその前を通りました。そして、通りながら、みるともなく部屋のなかに目をやりました。すると、四畳半と三畳の境の敷居のところに、エミがむこうむきにうずくまって、三畳をすっかり占領しているダブルベッドに額を押しつけるようにしているのがみえました。それは、ちょっとみただけでは、寝台の下にまぎれこんだものを探しているような恰好《かっこう》でした。
わたしは通りすぎました。そして、通路の奥の巡査の家の前までいって、犬に吠《ほ》えられて引っかえしました。そして、またエミの部屋の前を通ったのですが、エミは相変らずさっきの恰好をしたままです。
おかしいな、とわたしは思いました。そして、そのまま部屋に帰ってみると、エミの例の声がきこえます。妻に、いつはじまったのかと尋ねると、わたしが外へ出たころからだということです。するとエミは、毎晩あんな恰好で、泣くように、打ちあけるように、恨むように独り言をいっているのでしょう。
ふと、あの恰好は祈る姿に似ている、とわたしは思いました。エミはああして、寝台の下にむかって祈っているのだと思いました。勿論《もちろん》、寝台の下になにがあるかは、知る由《よし》もありません。けれども、そこには男が帰っていったあとで、とても祈らずにはいられない、何かが隠してあるのではないかと、わたしは思いました。考えようによっては、男の目からも他人の目からも、最も遠いのは寝台の下だということができます。
――それ以来、エミの祈り声をきくと、わたしはなぜか、ふっとうたた寝から覚めるような気持になるのです。そして、ベニヤの壁とはかかわりなく、自分自身に黙って耳をすましていたいような気持になるのです。
なぜだかわかりません。
五
わたしは毎朝、八時ちょっと前にアパートを出て、アスファルト道路のむこうの駅から、郊外電車で都心の勤め先にかよっています。勤め先は、主にトラックの急行便を扱っているあまり大きくない運送会社で、わたしはそこで発送課の仕事をしています。そこへ勤めるようになってから、今年で三年目です。
その前は、学術書を出す出版社の業務部にいました。学校を出て、すぐそこに入ったのでしたが、そこは一年とちょっとで潰《つぶ》れてしまいました。妻と結婚したのは、この出版社にいたころです。そして社が潰れるころには、妻は子供を産む身になっていました。わたしは潰れたあとの残務整理でしばらく居のこることになりましたが、どうせ次の勤め口のあてもなく、一旦《いったん》郷里に帰って考えるつもりで、妻を先に帰し、まもなくわたしも帰りました。郷里には半年いました。その間、妻が桃枝を産みました。そして、こんどの勤め口が舞いこんできたときは、前とは逆に、わたしが先に上京し、あとから妻が子供をつれてやってきました。
いまの会社の仕事は、楽でもなければ、辛《つら》くもありません。はじめは、なれない仕事で、辛いと思ったこともありましたが、二年も経《た》つうちにはなれてしまいました。いまでは、すこしも辛いとは思わなくなっています。けれども、それかといって楽だとも思えないのは、毎日の仕事の単調さがしばしば厭《いや》気《け》をそそるからです。辛くない仕事でも、それをいやいやしているのは、楽ではありません。
帰りは五時に社を出て、アパートに着くのは六時ちょっと過ぎです。たまには上役や同僚たちと途中で一杯やることもありますが、おそくても十時にはぬけ出して、郊外電車にのることにしています。
こんなわたしを、上役や同僚たちは愛妻家だなどと冷かすのですが、ねぐらに急ぐ男が愛妻家なら世話はないと思います。わたしの降りる駅は遠いから、夜は早く電車がなくなるのです。うっかりのりおくれれば、ひどい目に遭います。
いちど、つい以前の間借りの部屋にいるつもりで、遠距離電車にのりおくれ、二つ手前の駅から暗闇《くらやみ》の線路づたいにあるいて帰ったことがあります。学生時代の友人に誘われて、盛り場を飲みあるいた晩のことです。
その友人は小池といって、学生時代は怠け者ばかりなんとなく寄り集まっていたグループで親しかった男ですが、学校を出てからは一年にいちどぐらい、田舎にひっこんでいる仲間が上京したりすると顔をあわせる程度で、親しい間柄ではありません。それがある日、社に電話をよこして、逢《あ》わせたい人がいるから今夜つきあえといいます。逢わせたい人って誰だと訊《き》きますと、相手は名前をいわずに、女だといいます。
結局わたしは、その女《・》に釣《つ》られてつきあったのですが、小池はわたしを、下町の駅の近所にある一軒の飲み屋へつれていきました。五人も入れば満員になる、ちいさな飲み屋です。客は誰もいなくて、髪をひっつめにした三十五、六のやせた女が、カウンターのなかで新聞を読んでいました。
わたしはその女をみたとき、どこかでみたような顔だと思いましたが、すぐには思い出せませんでした。ところが、女がわたしをみると、「いやあ」という懐《なつ》かしそうな声をあげて、わたしの名前を呼ぶのです。わたしが驚くと、小池はおもしろそうに笑って、どうだ、おしえてやろうかといいます。けれども、小池からきく前に、わたしは思い出すことができました。その女の、羞《はじ》らうとしきりに目をしばたたく癖と、鼻から目の下の方にかけて散っている濃い雀卵斑《そばかす》とが、わたしの記憶をよび起したのです。
その女は、学生時代、わたしたちの仲間だった樋《ひ》口《ぐち》という男が一年あまり同棲《どうせい》して、わかれた相手なのでした。卒業したのは五年前、あれは三年生のころでしたから、今からちょうど七年前のことです。そのころ、わたしは樋口と一緒に、彼女にも幾度となく会っていたはずですが、なかなか思い出せなかったのは彼女があまりにも変り果てていたからです。樋口より七つも年上だった彼女は、この七年間のうちにまるで別人のように老《ふ》けこみ、窶《やつ》れていました。そして、あのころはデパートに勤めていて、なかなかお洒落《しゃれ》だった人が、いまはこんなちいさな飲み屋の女将《おかみ》です。
わたしは、さまざまのことで驚きながら、
「ああ、あんたは。」
といいました。わたしは彼女の名前も忘れていました。
「ほんとにしばらくですね。なつかしいわ。」
彼女はそういって、はにかんだような笑顔のまま、徳利に瓶《びん》の酒を注《つ》ぎはじめましたが、そうしているうちに、ふいに彼女の目から、ぼろぼろっと、つづけざまに大きな涙がころげ落ちたのです。そして、それっきりでした。彼女は何事もなかったかのように、相変らず笑顔を崩さずに酒の支度をつづけています。目を拭《ふ》きもしません。目が濡《ぬ》れた様子もないのです。
それは、いっそ気持のよい泣きっぷりでした。ごろりと横になったかと思うと鼾《いびき》をかき、よべばすぐ目覚める人を眠り上手といいますが、そんないい方をすれば彼女は泣き上手といえるでしょう。誰にも真似《まね》られるということではありません。
『樋口に捨てられてから、よほど苦労したのだな。』
わたしはそう思いました。
わたしは居たたまれないような気持がする反面、いかにも冷かしにきたようにさっさと帰ることもできかねて、つい、ずるずるになりました。けれども彼女は、わたしたちがいるあいだ、樋口のことは遂《つい》にただの一言も口にしなかったのです。だから、わたしたちも樋口につながる話は一切ぬきで、世間話をして帰ってきました。
小池とわかれて、郊外電車にのったのは、もう大分おそくなってからです。うっかり、こないだまでとおなじつもりでいたところが、その電車はわたしの駅の二つ手前で停《とま》って、この駅止りだというのです。そして、この先へいく電車はもうないというのです。仕方なし、わたしは線路をあるいて帰ろうと思いました。線路なら野を貫いていて、最短距離ですし、道に迷う心配もありません。
月のない晩でしたが、星あかりに仄白《ほのじろ》くみえる枕木《まくらぎ》を踏みながらあるいていくうちに、ふとわたしは、さっき樋口の昔の愛人がこぼした涙のことを思い出しました。あれは大きな涙だったなと、わたしはあらためて思いました。いまこそ彼女は、あんなふうにさらっと泣いて、それきり昔のことは気《おくび》にも出さなくなっていますが、あれで以前はひどく泣いた人なのです。
樋口と彼女とは、どんなふうにして知りあい、愛情を抱きあったのかは知りません。気がついてみたら、いつのまにか二人は樋口のアパートに同棲していたのです。彼等の部屋にいってみると、樋口の方は亭主《ていしゅ》気取りで勝手気《き》儘《まま》に振舞っているのにひきかえ、彼女の方はやんちゃな弟に辟易《へきえき》している姉のように、いつも仕方なさそうな微笑をうかべていたものでした。けれども、それはそれで、はたからみれば結構円満な仲にみえたのです。
ちょうど一年ほど経ったころ、樋口は結婚記念日だといって、ある日わたしと小池とを彼等の部屋に招待しました。いってみると、彼女の方からも三人、招待客がきていました。三人のうち二人はデパートの友達、一人は彼女と同郷の幼友達で、夏期大学を聴講しにきている小学教師だということでした。この小学教師が、頬《ほお》のふっくらとした、目もとのすずしい美人だったことを覚えています。
その夜はさんざん飲み食いして、みんな雑《ざ》魚寝《こね》をすることになりました。部屋は六畳と三畳です。一応夫婦は別室にということで、部屋の主は三畳に、あとの五人は六畳に寝ました。八月のむし暑い晩でしたので、夜具蒲《ふ》団《とん》がたくさん要るわけではありません。わたしと小池は毛布を敷いてころがりました。
翌朝早く目が覚めてみると、わたしはひどい二日酔いで、みんながまだ寝ているところをひとりで台所へ水を飲みにいきました。すると、樋口も起きてきました。そして、わたしの耳に口を寄せると、こういったのです。
「できちゃった。」
わたしは、彼の顔をみつめて、「なにが」と尋ねました。
「僕、あの先生と、できちゃった。」
彼は悪戯《いたずら》っぽく笑いながら、そういうのです。いつ、できたのかと訊くと、ゆうべのうちにできたといいます。まさかと、わたしは笑いました。すると彼は、本当だと主張してやまないのです。あの雑魚寝の部屋のなかで、どうしてできたのかと尋ねると、彼はくつくつ笑って答えません。どうしてそんなことになったんだと訊くと、どうしてだかわからない、ついそんなことになってしまったと、彼はいいます。そんなことをして彼女にみつかったら、どうするつもりだというと、彼は、そのときはそのときだが、あいつは気がついたのか、つかないのか、ゆうべから洋服箪《ようふくだん》笥《す》の方ばかりむいて寝ているといいます。
わたしは唖《あ》然《ぜん》として、まじまじと彼をみつめたものでした。
樋口と彼女がわかれたのは、それから一週間ほどのちのことです。あの晩の彼と小学教師のことを、彼女が知っていたかどうかはわかりませんが、とにかく樋口が小学教師に傾きかけたことが原因です。彼が傾いたのか、彼女が傾かせたのか、それもわかりませんが、彼女はわかれる前の三日ほどは、泣かなければ物がいえないというように、なにかいうたびに泣いたそうです。
樋口は彼女とわかれたあと、小学教師とときどき会っていたようですが、それも夏のうちだけで、教師が学校のある郷里へ帰ってゆくと、それきりになってしまったようです。その後、樋口は彼の郷里で結婚して、いま最年少の市会議員になっています。
彼女の方は、その後どんな道を通ってあの下町の飲み屋に辿《たど》りついたのかは、わかりません。
もとはといえば、ほんの気まぐれの肌の触れあいです。
――もうよほどあるいてから、わたしはふと、靴《くつ》で踏んでいる枕木の音が急に変ったことに気がつきました。それまで固く、冴《さ》えていた枕木の音が、急に曇って、どこかへ反響するようです。わたしは不審に思って、足もとに目を落してみました。すると、枕木の下に、地面ではなく、星空を映している黒い水面がみえたのです。
わたしは、なにも知らずに、枕木の橋をわたっていたのです。気がつかなければ、そのままわたってしまったでしょう。けれども、わたしはとたんに足が棒のようになって、枕木の一本に立ちすくんでしまいました。
六
『おゆるしください。』
といきなり妻が書いてよこしたのは、あれはわたしが潰れた出版社の残務整理に居のこっていたときでした。妻は桃枝を産みに、わたしの郷里の家に帰っていたのです。そして、追っ附《つ》けわたしも帰ろうというのに、藪《やぶ》から棒に、
『おゆるしください。』
そんな書き出しの長い手紙を、社から帰ったばかりのわたしは、レインコートのボタンを外しただけの恰好で、部屋の電燈《でんとう》の下に立ったまま読みました。
『こんなことを貴方《あなた》にお話するべきかどうか、ずいぶん迷いましたけど、思いきってお話することにしました。これまで何もお話しなかったのは、正直いって、こわかったからでもありますけど、こんなことは貴方と私の生活には何のかかわりもないことですし、また、どんな意味ででも、かかわりがあってはならないのだと固く信じていたからなのです。でも、いま子供を産む身になって、なにかひどく心配になってきました。このまま黙って胸の奥にたたんでおけば、それが生まれてくる子供にまで感染して、成長してからイヤな思い出を持つようになるのではないかしらと、そのことがひどくひどく心配になってきたのです。貴方の子供に、こんな思い出を背負わせてはいけないと思います。早く誰《だれ》かに本当のことを話して、嘘《うそ》やイヤな思い出のないからだにならなければならないと、ここのところ、おなかの子供が動くたびに、そのことばかり考えてきました。私、なんだか、おなかの子供に催促されているような気さえします。考えるまでもなく、いまの私に、正直なことを打明けられる相手は貴方以外にはありません。やはり貴方にお話するのが本当だろうか、どうだろうかと、ずいぶん考え悩みましたが、もう我慢できなくなりましたので、こうしてお話する決心をしました。急にこんなお話をして、びっくりなさることと思いますが、どうぞお耳を貸してください。』
およそ、そんな前置きで、妻は自分の過去を語っていました。
妻は、わたしと結婚する前年の夏、ある男と陰気な肉体の関係を持ったのです。
妻は、わたしが前に勤めていた出版社のちかくにある胡桃《くるみ》屋というレストランのレジをしていました。わたしの社では、なにか会合があると胡桃《くるみ》屋の二階を会場にするのが常でしたし、わたし自身も、はじめのころは三日にいちどぐらい、安い昼飯を食べにいったり、珈琲《コーヒー》を喫《の》みにいったりして、レジをしていた妻と親しくなりました。そのころ、わたしは二十四、妻ははたちでした。
わたしは、思い詰めるようになってからは、かえって胡桃屋の店へはいかなくなり、そのかわり外で妻と会うようになりました。そして、その年の夏にわたしの方から結婚の話を持ち出し、秋には結婚式を挙げました。妻はまもなく妊娠しました。
わたしと知りあう前年の夏というと、妻が十九の年です。十九の夏、妻は胡桃屋のコックの中岡《なかおか》という男と、陰気な肉体の関係を持ったのでした。
『あれは、この私だったと思いたくありません。私と書くのが辛いのです。』
と妻は書いていました。わたしの方からいっても、そのころの妻はまだわたしの妻ではなかったのですから、以下、妻のことは房《ふさ》子《こ》と本名でよぶことにします。
房子は、胡桃屋の主人の遠縁に当り、家の都合で郷里の定時制高校を中途でやめたころ、胡桃屋に招かれてレジをまかされるようになりました。房子がきたころは、中岡はもう店に住込んでいました。調理場の男たちは四人、ウェイトレスは十人いましたが、女の子たちはみな通いで、調理場の連中は調理場の隣の部屋に住込んでいました。
中岡は三十前後の、背の高い、面長《おもなが》の、眉《まゆ》毛《げ》の太い男で、腕のいいコックだという評判でした。大変な無口屋で、無表情な人間です。調理場で若い者に物をいいつけたり、ウェイトレスの注文に「あいよ」と低く返事をするときのほかは、ほとんど物をいわないし、滅多に笑いもしません。こんな中岡を房子ははじめ、怖いような、気味悪いような、それでいて、どこか頼もしい感じのする不思議な男だと思っていましたが、中岡はそれこそ不思議なことに、房子だけにはときおり短い言葉をかけたり、案外やさしそうな目をしばたたきながら微笑してみせたりしたのです。そのうちに、房子がなんとなく中岡に惹《ひ》かれるようになっていたのは事実です。そして、翌年の十九の年になると、それは非常に漠然《ばくぜん》としたものでしたが、房子は中岡に対してなにかを待つ気持を抱くようになっていました。
ちょうど梅雨のさかりのある晩のこと、閉店後、房子は売上金と伝票を主人の部屋にはこんでから、二階へ見《み》廻《まわ》りに上がりました。店の後始末は遅番のウェイトレスたちがすることになっていましたが、ときたま手ぬかりがあるので、房子は念のために店中を一巡する仕事もひきうけていました。
二階で、窓々の鍵《かぎ》を検《しら》べあるいていると、突然、電気が消えてしまいました。誰か、スイッチを切ったのです。
「だあれ?」
房子が咎《とが》めるようにいって、ふりかえると、薄闇《うすやみ》のなかを背の高い男が足早にこっちへあるいてきます。それが中岡だとわかると、房子は怖いと思う先に、わけもなく、くるものがきたという感じがして、どきんとしました。
「なあんだ。」
房子が自分を勇気づけるつもりで、そういったときです。うしろへまわった中岡が、いきなり房子の背中を抱いたのです。房子は、まさかいきなり抱かれるとは思わなかったので、ハッと驚いて、「いや」と肩をゆさぶると、思いがけなく、まったくあっという間に、どこからどうして入ったのか中岡の手が、房子の下腹へ直《じ》かにすべりこんでしまいました。あ、と房子は思わず叫んで腹をへこませると、お尻《しり》が中岡の固い大腿《だいたい》に押しつけられました。
中岡は、執拗《しつよう》に割りこんでこようとします。房子は懸命にからだを折り、きっちりあわせた膝《ひざ》をこすりあわせるようにして、こらえます。そうして二人で身をもみあっているうちに、急に中岡のちからがゆるみました。そして、さいわい中岡は房子に届きえないままに、のろのろと脱《ぬ》け出ていったのです。
房子は解き放されましたが、すぐには歩く気になれなくて、腹をへこませ、膝をあわせて、兎跳《うさぎと》びのような恰好《かっこう》でスイッチのところまで跳んでいきました。そんなとき、顔をみられることの恥ずかしさよりも、房子はまずあたりを明るくすることを思ったのです。そして、電気をつけました。
中岡は、くるときとは打って変ったのろさで、ぶらぶらとあるいてくると、房子へ、ふっと息だけで笑いかけました。そして、
「誰かにいうなら、いっていいよ。」
というと、首をふりながら階段を降りていってしまいました。
房子の胸のなかは、情《なさ》けなさでいっぱいでした。中岡がなにを欲しがっているかが、わかったからです。そして、それは、房子が待っていたものではなかったからです。
房子はすぐ裏二階の部屋に入って、しらべてみました。ゴムがゆるんでいました。けれども、怪我《けが》はないようです。ほっとしました。
それ以来、房子は中岡を警戒しました。閉店後の見廻りのときには、隣室に夫婦で住んでいる従姉《いとこ》についてきてもらいました。しかし、中岡はそれきり、また元のむっつり屋に帰って、先夜の乱暴は忘れてしまったかのように、房子には普通に話しかけたり、笑いかけたりするようになりました。お人《ひと》好《よ》しの房子は、ふと先夜の振舞いは、ただの乱暴ではなくて、なにかのせっかちな表現だったのではないかと思ったりします。そしてすぐ、まさかと思う。もしそうなら、いくらせっかちでも、胸の方からくるはずです。背後から腰を抱かれるのは、やはり異常な感じです。
とにかく、中岡がなにかいってくれればいいのにと、房子は思いました。なにもいわずにあんなことをするから、どういうつもりなのか、理解にくるしむのです。
二ヵ月がすぎて、八月の一と月おくれの盆の日、あのいまわしい日がきました。
主人夫婦は子供をつれて近県の在へ墓参り、従兄姉《いとこ》夫婦は信州の実家に帰るというので、店は臨時休業になりました。房子とお手伝いの婆《ばあ》やが留守をします。調理場の連中は朝から盛り場へ出かけたようです。
その日の真昼のことでした。
物干場の洗濯物《せんたくもの》をとりこもうとして、房子が裏二階の廊下のはずれのくぐり戸のところまでゆくと、横合いから不意に固いもので頭をがんと打たれたのです。反射的にふりむくと、中岡がのっそり立っていました。彼をみた瞬間、房子は急に逃げようという気持が崩れて、くたくたと廊下にしゃがみこんでしまいました。頭がくらくらとし、頭の芯《しん》がしびれました。
房子は、従兄《いとこ》の部屋にひきずりこまれました。むしりとられました。中岡がからだで割って入ってきました。のしかかってきました。房子は抵抗しようにも、ちからが出ません。それでも、ふりしぼって藻掻《もが》くと、浴衣《ゆかた》の帯がゆるんで、ずり上がり、胸をきつく押し上げてきました。息が詰まりそうでした。
突然、疼痛《とうつう》が房子のなかから背中の方へ突きぬけ、房子はアッと重たい中岡を胸にのせて持ち上げました。それは、一瞬でした。次ぎの瞬間、中岡のからだはごろりと傍《かたわら》の畳の上にころがり落ちたのです。そして、這《は》うようにして部屋から逃れ出ていきました。
房子は、やっと身を起しました。舌を噛《か》みたくなるような、あられもない恰好でした。急いで掻きあわせ、両膝を抱いてしばらく顔を伏せていました。それから、気をとり直して、おそるおそる、しらべてみました。房子に、微量の出血があります。腿《もも》の内側に、遠くはなれて、白くにごったものがべっとりとついていました。そして房子は、その白濁したものがなんであるかを知らなかったにもかかわらず、それをみたとき、なぜともない安《あん》堵《ど》がどっと湧《わ》いて、閉じると、静かに身を横たえました。すると、なぜだか知らない涙がとめどもなく出ました。
『おゆるしください。信じてください。そして、忘れてください。』
と妻は最後に書いていました。
七
子供の誕生日がやってきました。
わたしと妻の誕生日はその日ふいにきますが、子供の誕生日はいかにもやってくる《・・・・・》というにふさわしく、遠くから一日一日とちかづいてきます。妻は何日も前からあれこれと心支度をしているようですが、いざとなると、なにほどのこともできません。
その日はちょうど土曜日でしたので、わたしは昼に会社を出ると、デパートに寄って、妻にたのまれていた子供の人形を買って帰りました。裸にして一緒に風呂《ふろ》に入れたり、衣《い》裳《しょう》を着せ替えたり、金髪を解いて編んだり梳《くしけず》ったりすることのできる人形です。電車のなかで、箱を持ちかえるたびに、なかの人形が泣き出しそうになるのには、よわりました。この人形は、びっくりするほど大きな声で泣くのです。
妻は、卓袱《ちゃぶ》台《だい》のまんなかに、緑色のちいさな蝋燭《ろうそく》を三本立てたバースデーケーキを飾り、そのまわりにせいぜい買い集めた子供の好物をならべて、わたしたちを席につかせました。それから、マッチで三本の蝋燭に火を点《とも》しました。
「桃ちゃんがね、この蝋燭を、プッて消すのよ。」
妻は唇《くちびる》をとがらせて、吹くまねをしてみせました。子供は、どうしたものだろうというふうに、蝋燭とわたしの顔をみくらべています。
「やってごらん。」
わたしはいってやりました。
子供は目をつむって、めくら滅法に吹きましたが、それでも一本、消えました。
「ほんとは一と息でみんな消すんだけど、桃ちゃんは、まだできないから一本ずつでいいわね。」
と妻が誰にともない言訳をいっています。
子供は一本消すことができたので、すっかり目をかがやかせていました。そして、二本目はあまりにも気負いすぎたので、吹き消す前に鼻を焼きそうになって、飛びのきました。誕生日に鼻を焼いたら笑いものです。そこで、わたしと妻とで、あとの二本を一本ずつ吹き消しました。
「はい、おめでとう。」
「おめでとう。」
子供は人形のくびれた手首をいじくりながら、てれくさそうににやにやしています。
こうして、桃枝は満三歳になりました。
わたしは子供にあやかって、ビールを二本飲みました。晩酌《ばんしゃく》の習慣がないので、忽《たちま》ち酔っぱらってしまいました。
卓袱台の上があらかた食い荒らされたころ、
「さあ、これからみんなで風呂へいこう。」
といい出したのは、わたしでした。
「いいんですか、そんなに酔ってて。」
といいながらも、風呂行きの支度をしはじめたのは妻です。
わたしは子供のころからの風呂好きですが、妻も劣らず好きなのです。そして、他人の家やベニヤの部屋にばかり住みなれているわたしたちは、銭湯への往《ゆ》き帰りがいかに手軽で、しかも貴重な團欒《だんらん》のひとときであるかを知っています。野のむこうに、ひょろりと立っている銭湯の煙突めざしてあるきはじめると、急にわたしは躯《からだ》がふわりと軽くなったような気がします。妻も表情を生き生きさせて、きいている方がおかしくなるほど饒舌《じょうぜつ》になります。子供は、やたらに走りたがります。そして、ありがたいことには、遠くからでもみえる銭湯の煙突が、いざそれにむかってあるき出してみると、だんだん野の果てにむかって遠《とお》退《の》いてゆくような気がするのです。
子供は、今日わたしが買ってやったばかりの人形を、風呂へ持っていくといい出しました。不断なら、親たちはなるべく身軽でいきたいものですから、妻が人形に留守番をたのむという芝居を子供にやってみせるところでしたが、今日は誕生日なのですから、大目にみてやることにしました。そのかわり、人形は子供が自分で持つのです。
アパートを出ると、黄昏《たそがれ》で、アスファルト道路の上に野火の煙がたゆたっていました。
しばらくいくと、家並みがとぎれて、道の両側は刈入れ前の青々とした麦畑になります。そこまでくると、子供は人形を持ってきたことをちょっと後悔したようでした。なぜなら、いつもだと、そこから畑のなかに折れる砂《じゃ》利《り》道《みち》のところまで、父親と母親に手をつないでもらって、イチニのサンで引っぱり上げてもらって、何度も空中ブランコをたのしむことができたからです。
「まま。」
子供は、早速物足らなさそうな顔をして妻を見上げました。
「イチニのサンは?」
「だって、あんた、お人形持ってるんでしょ?」
妻は、それごらんというように、わざと素っ気なくいいました。
「ひとつのお手々だけじゃ、できないでしょ?」
子供は、むっとしたような顔をして、空いている方の掌《てのひら》をみています。
そのとき、ふと、
『プロムナアドで帰りましょ。』
そんな言葉が、わたしの頭のなかにうかんできました。
それはフォークダンスのとき、リーダーが手拍子をとりながら踊り手の輪にむかっていう一連の言葉のうちの一つです。わたしは、ダンスはやりませんが、いちど、やっているのをみたことがあるのです。
こっちへ越してきたばかりのころ、ある日曜日に、どてらを着て、あたりをぶらついてみたときのことです。
アスファルト道路から小道に折れて、農家のあいだを縫っていくと、行《ゆく》手《て》の森のなかから『草競馬』の軽やかなメロディーがきこえてきました。
「なんだろう。」
耳をすましてみると、たくさんの手拍子もきこえてきます。
「フォークダンスだな。あそこに公園でもあるのだろうか。」
わたしはそう思いながら、すこし足を早めてその森へいってみました。すると、森のなかは公園ではなくて、そこには草色に塗った大きな洋館があり、その前庭のひろい芝生の上で、五十人あまりの若い男女がバンジョーのバンドにあわせてフォークダンスをしているのでした。バンドのリーダーは、バンジョーを胸にかけたまま手拍子をとって、
「ハイ、御《ご》挨拶《あいさつ》。」
「ハイ、プロームナードで帰りましょ。」
というような一連の言葉を、語尾に独得の抑揚をつけて叫んでいます。
踊り手の若者たちは、男も女も、みな色とりどりのいでたちをして、いかにも身軽そうに飛びまわっていました。どの顔も満面に笑みを湛《たた》えて、そこにはわずらわしい照れや、卑屈や、気兼ねや、逡巡《しゅんじゅん》などの翳《かげ》さえ微《み》塵《じん》もみえません。すべすべとして、ほんのり赤味のさしているそれらの顔は、素直な信頼といたわりにみちているようです。
わたしはどてらのなかで腕組みして、柵《さく》の外からそんな光景をながめながら、
「これがまさしく、團欒というやつだな。」
ふっと湧いてくる羨望《せんぼう》を抑えて、帰ってきたものでした。
『プロムナアドで帰りましょ。』
という言葉は、そのときから、わたしの頭の隅《すみ》にひっかかっていたのでしょう。そして、それがわたしたちの團欒の時に、ひとりでによみがえってきたのです。
「おい、桃枝、プロムナアドで帰りましょ、しよう。」
わたしは子供にいいました。子供は、わたしを仰いで、にっとしました。
「こっちのお手々で?」
空いている方の手をかざしています。
「そうだよ。」
「お人形は?」
「持って上げよう。」
子供は重たい荷物をわたしに預けると、きゃっきゃっと笑いながら飛び跳ねました。
「その、帰りましょってのは、どうするの?」
と妻がいいました。
「なに、手をつないで、スキップを踏むだけだ。」
「桃ちゃん、まだスキップできないわよ。」
「いいさ、恰好だけだよ。」
本当は、たしかパートナーと両手をつないで、からだを一方へ前向きにして、そしてスキップを踏むのでしたが、わたしは人形をかかえていますから、片手で、万事略式です。
「さあ、おいで。」
わたしは子供の手をとりました。
「どういうに?」
「こういうに。」
わたしがどたどたとスキップを踏んでみせると、妻は声を上げて笑いました。子供は、おもしろがってぴょんぴょん跳ねます。
「さ、いいか、はじめるよ。そら、プローム、ナードで、帰りま、しょ。」
わたしはスキップを踏んで進みましたが、子供はけらけら笑いながら走り幅跳のようにして前へ跳ぶだけです。
「プロームナードで帰りましょ。」
子供は腰がくだけそうになって、両手でわたしの手にすがりつき、そしてそのままぶら下がってしまいました。それをわたしが、「よーいしょ」と掛け声かけて、山なりに持ち上げて前へはこびます。子供の足が地面に触れると、また「よーいしょ」といって持ち上げます。なんのことはない、いつもは妻と二人でやってやる空中ブランコを、ひとりでやっているような按配《あんばい》になりました。子供はもう笑いがとまらなくなって、地面におりても起《た》ち上がろうともしません。それで、もうよすのかと思うと、
「も一つ、やって。」
「よしきた、よーいしょ。」
わたしたちは、いつのまにか手をつないだまま駆け出していました。
「あぶないわよ。」
と、そのとき背後から妻の声がきこえたような気がします。
けれども、わたしは、子供の笑い声に煽《あお》られて、地面すれすれの低空飛行をさせてやりながら、知らずしらずのうちに次第に駆ける足を早めていました。そして、気がついたときには、子供を完全に宙吊《ちゅうづ》りにしたまま、俺《おれ》はこんなに走っていいものだろうかと、ふと不安を感じるまでに速度を増していたのです。
「あぶないな。」
わたしは危険を予感して、急に足をゆるめようとしました。しかし、そのときには、危険はもうすぐそこにきていたのです。
不意に、なにかがわたしの脛《すね》に触れました。そう思った瞬間、わたしの視界は一転し、わたしは激しくアスファルトの路面に叩《たた》きつけられていました。あとで思うと、わたしが急に速度を落したために、宙を飛んでいた子供の足が惰性で前に流れ、わたしの脛にからみついたのでしたが、その瞬間、わたしは一体なにが起ったのか、まったくわからなかったのです。ただはっきりおぼえているのは、わたしの脇腹《わきばら》の下で子供のからだが実に柔軟にはずんだことと、つい目の下にある子供の目が、その瞬間、すうっと大きくみひらかれたことだけでした。
それで、わたしは、ハッとわれに帰ったのです。わたしは、ちょうど柔道の抑え込みの恰好《かっこう》をして、腋《わき》の下に子供を入れて倒れていました。そして、自分の上体は肘《ひじ》でしっかりと支えていて、これは自分でもおぼえのなかったことですが、わたしはよくもとっさにこの肘を立てたものでした。もしこの肘を立てなかったら、わたしは多分、子供の胸部に、勢いづいたわたしの全重量をあずけたことになったのです。
わたしは身を起しました。すると、そこへ妻が飛んできて、倒れている子供をさっと目にもとまらぬ早さで抱き上げました。そして、つづけざまに子供の名をよびながら激しくその尻《しり》を打ちはじめたのです。そのとき、わたしはやっと怖《おそ》るべきことに気がつきました。当然子供は泣くはずなのに、ちっとも泣かないことに気がつきました。泣くどころか、うんとも、すんともいわないのです。わたしは思わずゾッとして、妻のそばに駆け寄りました。
そのとき、妻がわたしにみせた思わぬ凝視と行動は、忘れることができません。
妻はふりむくと、まるで他人をみるような目で、わたしの顔を凝視しました。刺すようにつめたい、仮借ない目の色でした。そして妻は、急に泣くように顔をしかめて、
「いいのよ。」
叫ぶようにそういったかと思うと、あたかもわたしに子供を奪われまいとするかのように、さっと道ばたの麦畑のなかに躍りこんでいったのです。そのとき、妻の足からぬげた片方の下駄《げた》が、アスファルトの路面に飛んで高い音を立てました。
いいのよ、とは、どういう意味だろう。自分ひとりで大丈夫だという意味だろうか。それとも、いいから、もうこれ以上子供をかまってくれるなという意味だろうか。
そんなことを胸のうちに呟《つぶや》きながら、わたしはその下駄を拾い、落ちている人形を拾い、そして、麦畑のなかで、頭を垂れた麦の穂をざわめかせながら、子供の尻を叩き、ゆさぶり、踊るようにくるくるとまわっている母親を、道ばたに立って黙ってみていました。
八
子供の口から、まるで産声《うぶごえ》のような、息《いき》急《せ》き切った泣き声が上がったのは、それからまもなくでした。
「あのとき、あれっきり子供が泣き出さなかったら、どうしようかと思った。」
と、わたしはあとでそのときのことを思い出すたびに、ひやりとしたものです。
「俺は、自分がひどく大事にしている子供を、自分で潰《つぶ》しかけたのだ。しかも、子供をよろこばせようとしていてだ。」
そう思うと、わたしは自分が一歩あやまれば、どんなことを仕出かすかわからない人間のような気がして、自分で自分に慄然《りつぜん》とし、手足がすくむような気持になります。
さいわい、子供は右足首を軽く捻《ねん》挫《ざ》しただけですみました。あれからすぐ、最寄《もよ》りの医者に駆けつけて、素っ裸にして診てもらったのですが、あのとき、黒い革張りのほそながい診察台に仰《あお》向《む》けにのせられた子供の背中が、冷や汗をかいていたのか、台の革にぴったりくっついていて、手足を一本ずつ持ち上げられるたびに、パリッ、パリッと、まるで皮を剥《は》がれるような音を立てたことが忘れられません。わたしは、頭を打ったのではないかと、それがなによりの心配でしたが、そんなこともなかったようです。わたしの重みで、じわりと凹《へこ》んだ腹のあたりも、べつに異状がないようです。
結局、怪我《けが》は右足首の捻挫と、左の脇腹のすり傷だけだとわかったとき、わたしも妻も、顔に汗びっしょりかいていました。もう團欒のひとときどころではありません。風呂へもいかずに帰ってきました。
すり傷の方はじきに直りましたが、捻挫はなかなか直りません。医者がくれた湿布薬でせっせと湿布しているのですが、それが一向に効き目がないのです。わたしも中学のころ、よく足首を捻挫しましたが、酢に小麦粉をとかしこんだ汁《しる》で湿布をすると、わずか二、三日で直ったものです。それを思い出して、そんな汁を妻につくらせてやってみましたが、酢がつよすぎたせいか、子供の足の裏が真白になり、畳の目のようにこまかくふやけてしまって、この薬の方はわずか二、三日でやめてしまいました。
子供は、怪我をしたのがこれで二度目です。最初は、二歳のころ、右の肩を脱臼《だっきゅう》しました。ひとりで部屋のなかをごろごろころがってあそんでいるうちに、突然泣き出したので、医者へつれていってみると、右の肩を脱臼していました。だから、この子供は、最初は自分で自分を潰し、つぎには父親に潰されたわけです。わたしたちの知らぬところで、こっそり、自分も自分だが、父親にもうっかり気を許せないと思っているかもしれません。
妻がわたしを、他人をみるような目つきでみたのも、あのときが二度目です。
最初のときは、妻が郷里で桃枝を産んだときでした。そのころはわたしも郷里に帰っていたのですが、桃枝が生まれた夜、わたしは家にいなかったのです。どこにいたかといえば、町の酒場にいました。そこで酔っぱらって、歌をうたっていました。
明け方、家に帰ってみると、もう前夜のうちに桃枝が生まれていたのです。玄関で、まず母にののしられました。
「最初の子が生まれるという晩に、朝帰りする父親がいるってな!」
母は額に青筋をふくらませて、きわめて低い声でそう怒鳴《どな》りました。
わたしは黙って産室に入り、妻の隣に寝かされている赤ん坊の枕元《まくらもと》にあぐらをかいて坐《すわ》りました。そして、はじめての自分の子供の顔をのぞきこんで、ぎくりとしました。その子供の寝顔が、わたしの子供のころの寝顔に実にそっくりだったからです。わたしは、自分の子供のころの寝顔を知るわけがないのですが、それでも子供の寝顔をみたとき、ひと目で、ああ、俺の子供のころの寝顔とそっくりだと思ったのです。そっくりすぎて、ぎくりとしました。
ふと妻の寝顔とくらべてみようと思って、妻の方へ目をやると、さっきまで眠っているとばかり思っていた妻が、ぱっちりと目をひらいてわたしをみていました。それは、いま眠りから醒《さ》めたばかりの目ではなく、ずっと前から醒めに醒めている目でした。ああ、赤の他人をみるような目だ、と思ったのはこのときです。
「産みました。」
と妻は小声で、しかし、きっぱりとそういいました。わたしは無言で頷《うなず》くだけです。
「あなたに、一番先にみてもらいたかったわ。」
妻はそういって、不意に激しく肩をふるわせて泣きはじめました。
「それだけを楽しみに、あんな手紙を書いたのに。」
そして、
「薄情者。薄情者。薄情者。」
子供が目を覚まして泣き出しました。
あの手紙を読むと、わたしはまだのこっていた仕事を無理矢理に人に押しつけ、あわただしく、なにもかもにおさらばして、急いで妻の許《もと》へ帰ったのでした。あのときわたしは、手紙をもらってからはじめてみる妻を、他人をみるような目でみたでしょうか。すくなくとも妻をみるまでは、妻が知らぬ間にすっかりちがった女になってしまったような気がして、わたしは会うのが怖かったのです。しかし、実際に会ったとき、わたしは妻がこれまでよりも一層身近な存在になっていることに気がつきました。
わたしは妻に、おまえは犯されていないといいました。犯されたような姿勢だが、犯したのは中岡の男ではないことを納得させ、彼のような変質者の存在を知らせました。すると妻は、わたしのいったことは結婚以来ほぼ感づいていたといいます。ただ自分をそんなに苛《さいな》んだ男の存在が無念なのです。それはわたしも無念でしたが、なお無念だったのは、わたしにとって、そのとき妻がなにをどう考えたかということよりも、なにをいかに感覚したかということの方が一層切実だったことです。
わたしは、根掘り葉掘り、微細にわたって妻を問い糺《ただ》さずにはいられませんでした。そしてその都度、全身に火の棒をつめこまれるような思いを味わい、劣情の虜《とりこ》になって、
「裸になってくれ。」
妻にとって、中岡よりもわたしの方がよっぽど苛《か》酷《こく》であることを願いながら、臨月ちかい妻のからだをみつめ、そして頭をかかえて泣き出したりしました。あさましいことでした。
妻のことは、最初から許すも許さぬもありません。妻の話を信ずることだってできます。けれども、妻のことは忘れようにも忘れることができないのです。妻の悪夢は一巻のフィルムになって、わたしの頭のなかにあるのです。それは年々、廻転《かいてん》のすべりが悪くなり、映像の明確さをうしなっていくようですが、写して写らぬことはありません。そして、それはいまでも、なんかの拍子にひとりでに廻《まわ》りはじめることがあるのです。廻りはじめると、もうとめようもありません。
妻と、なにかつまらぬことでいい争っているときなどに、このフィルムが不意に廻りはじめます。すると、終りかけていた争いも、またぶすぶすと陰気くさい煙を上げはじめるのです。争いはこじれて、もうなにがなんだか、わからなくなります。
そして、わたしは突然、怒気に憑《つ》かれるのです。自分でも、なにを怒っているのか、なぜ怒り出すのかわかりません。けれども、怒らずにはいられません。寝ているときなら、いきなり蒲《ふ》団《とん》の襟《えり》をひっぺがします。食事時なら、箸《はし》を折ります。皿の上のものを投げます。
こんどのアパートに越してきてからも、わたしはいちど、皿の上のカキフライを掴《つか》んで妻の顔に投げつけました。
「なぜ、あたしを殴らないの? 殴ってください。」
妻はそのとき、そういいましたが、わたしは黙ってカキフライを投げつづけます。カキフライは、妻の額や頬《ほお》に当って、ばしっ、ばしっという音を立てます。わたしには、自分の手で妻が殴れないのです。それに、まわりはベニヤの壁なのです。
九
秋に、わたしたち一家は、上州の温泉へ二泊旅行を試みました。
子供の足が一向によくならないので、レントゲンで精密検査をしてもらったところ、骨にヒビが入っていることがわかりました。もうすこし放《ほう》っておくと、一生足をひきずるようになったといわれて、わたしは医者の前で赤面しました。子供はしばらくギブスをはめて通って、秋口にやっと全快したのです。
こんどの二泊旅行は、その全快祝いのつもりです。
わたしたちは、汽車と電車をのりついで、むこうの駅から温泉までは奮発してタクシーにのりました。
宿は客で混雑していましたが、部屋に入ると大変静かな感じです。女中が出ていくと、妻は爪先《つまさき》立《だ》っていって、壁を静かにノックしました。
「あ、本物。」
妻は首をすくめて、くすっと笑いました。
けれども、夕食前に、手洗いから帰ってくると、しょんぼりして、
「変なの。」
といいます。
「なにが。」
「はじまっちゃったのよ。まだ十日も前なのに。変なの。」
浮かぬ顔をしています。
二晩、ひっそり眠って、帰ってきました。
ところが、旅行から帰った翌々日、妻に思いがけないことが起りました。
その日の退社時間まぎわに、妻から電話だというので出てみると、
「あたし、いまK病院にいるんです。」
と、だしぬけに妻がいうのです。
K病院といえば、わたしたちが住んでいる土地一帯で最も大きな病院です。
わたしは、とっさに子供のことを思いました。子供の足が、生半可な温泉湯治で、またぶりかえしたのではないかと思ったのです。
「桃枝か?」
わたしは、おっかなびっくり尋ねました。
「いいえ。こんどは、あたしなの。」
「おまえ? どうしたんだ。」
「あたしね、さっき家でたくさん出血しちゃったの。」
「出血?」
「ほら。」
と妻はいって、それきり黙っていますので、そうか、とわたしは気がつきました。
「それで?」
「びっくりして、車よんでもらって、ここへきたの。そしたら、流産しかかってるんですって。」
「ええっ?」
とわたしは驚きました。寝耳に水です。
「だって、おまえ……。」
妊娠もしていないのに流産とは、おかしなことです。
「ええ、あたしもびっくりしたの。知らないうちに妊娠してたらしいのよ。ほら、先月、すこししかなかったって、いったでしょ? あのときはもう、そうなってたらしいの。そんなことがあるんですって。」
「だけど、温泉でも、あったじゃないか。」
「だから、それが流産の前触れだったのよ。あれにしちゃ、どうもおかしいなと思ったのよ、あたしも。」
「でも……どうしてそんなことになったんだろう。」
「先生がね、なにか過激な労働とか、それとも長時間乗り物にのったとか、しましたかっていうの。旅行のことを話したら、じゃ、それでしょうっていうの。車にゆられたのが、いけなかったんですって。」
わたしは、なにかしら、むっとしました。
「そんなこといったって、知らなかったんだもの、仕方がないじゃないか。知ってりゃ、はじめから出かけやしないよ。」
「そうなの。仕方がないのよ。」
わたしたちは、ちょっとのあいだ、おたがいに黙っていました。
女のからだのあぶなっかしさには、まったくはらはらさせられます。
「それで、これからどうするんだ。」
「へたに動けば、こんどは大出血して流産してしまうっていうの。だから、このまま落着くまで入院した方が安心だって、先生がいうんだけど。」
「じゃ、そうするといい。」
「でも、桃枝がいるのよ。」
「桃枝はなんとかするよ。」
どうするかは、これから考えてみなければなりませんが、これが桃枝との縒《よ》りをもどすいい機会になるかもしれないとわたしは思いました。
とにかく病院に寄ることにして電話を切ると、わたしはすぐに社を出て、K病院に直行しました。妻は蒼白《あおじろ》い顔をして、二人部屋の寝台の上に見慣れない夏蒲団をかけて寝ていました。
「ごめんなさい、こんなことになっちゃって。」
「いいさ。おまえだけのせいじゃないよ。」
妻は、顔をこわばらせて笑いました。隣の寝台には、中年の患者がこちらに顔をむけて、薄目をあけたまま眠っています。妻は声をひそめていいました。
「そちら、卵巣膿腫《らんそうのうしゅ》ですって。手術したそうよ。」
わたしは、医者に会いにいきました。
医者によると、妻の胎児は半分剥《は》がれ、半分くっついていて、いまのところ流産をくいとめる可能性は五分五分だということでした。このまま出血がとまるといいが、これ以上つづくようだと、いずれは掻《そう》爬《は》してしまわねばならない。
「しかし、私共は胎児を助けることが建前ですからね、なるべくなら掻爬はしたくないのですが。」
と医者はいいました。
わたしはまた妻のそばに帰って、医者の言い分を伝えました。
「どうする?」
「出血は、とまったみたいなの。」
「じゃ、このまま入院していて、産むようにするか。」
「そうしたいわ。」
と妻はいいました。それから、目を天井にむけて、しばらく真顔でじっとしていましたが、やがて、こういいました。
「あなた、大丈夫?」
「大丈夫さ、なんとかなるよ。」
妻は黙って天井をみつづけています。ふと、わたしは、妻があやぶんでいるのは出産費用や生活の問題ではなくて、わたし自身の心の行方だということに気がつきました。
「大丈夫だよ。」
わたしは、あらためていいました。
「そうね、大丈夫ね。」
妻は自分にいいきかせるようにそういうと、やっと和んだ目をわたしに戻《もど》しました。
わたしは、帰ることにして、妻が要るものを手帖《てちょう》に書きとめました。
「それに、できたら明日の朝、桃枝をつれてきて下さらない?」
妻は最後につけくわえました。
「ああ。つれてくるよ。」
「来年はお姉ちゃんだって、おしえてやるの。」
「俺《おれ》は今夜、桃枝と寝るんだ。」
妻は、わたしが自慢しているとでも思ったのか、くすりと笑って、
「夜中にいちど、オシッコがありますよ。」
といいました。
「オシッコぐらい、俺にだってできる。」
そういって帰ろうとすると、
「あなた。」
と妻がいいました。
「なんだ。」
「オシッコのこと話したら、思い出しちゃった。」
わたしは苦笑です。
「どうするんだ。」
「ベッドの下に便器があるの。すみませんけど。」
わたしは、琺瑯《ほうろう》引《び》きの便器をそこから出してやりました。
「すると、俺はすむまで待ってるわけか。」
「そういうわけです。すみません。」
仕方なく、寝台の下にしゃがむと、やがて蒲団にこもる妻の音がきこえました。
わたしは、ちょうどこれと似た場面が、過去にもいちどあったことを思い出しました。新婚の冬、二人で没落した妻の実家を訪れたときのことです。夜ふけに、妻がぬけ出していった寝床のなかで、わたしは障子の蔭《かげ》で便器が鳴る音をきいたことがありました。小鈴を振るような、澄んだ可《か》憐《れん》な音だったとおぼえています。
『せめて、あのころまで立ち帰ることができたら!』
わたしは、ふと何物かに祈りたいような気持になりました。
四号室のエミも、こうして寝台の下に青春の形見を置いて祈るのでしょうか。
『そして、あのころから出直すことができたら!』
けれども、それはできない相談なのです。あのころの小鈴の音も、いまでは黄色く泡《あわ》立《だ》つ音でしかなくなっています。わたしたちは、何度でも、いま、ここから、出直すほかはないのです。
わたしは、妻の音がすむまで、黙って寝台の下の暗がりをみつめていました。
恥の譜
私は、かつて肉親の死に会うたびに、ぬきがたいひとつの感情に悩まされてきた。羞恥《しゅうち》である。私には、死は一種の恥だとしか、思われなかった。私はこれまでに、二人の姉を死によって、二人の兄を生きながらにしてうしなったが、彼《かれ》等《ら》の死、および不幸は、ことごとく羞恥の種であった。
私は、十歳のころ、死ぬこととは自殺することだと思っていた。二人の姉が、手本を示した。上の姉は服毒し、つぎの姉は入水《じゅすい》した。くわしい事情は知らされなかった。私は町で、ねむり薬の弟、身投げの家の子とよばれて、ただ恥ずかしかった。同年輩の子供がこわくて、裏道ばかりを選《よ》ってあるいた。ところが、裏道ほど不敵で口さがない子が多いのである。私は町を迂《う》回《かい》して野の道をあるいた。
長兄の不始末を知ったのも、野の道を学校へむかう途中であった。学校から、父兄会の一員としての兄の消息を求められ、父が書いてくれた返事を、翌朝、野をあるきながら、開封して読んだ。失踪《しっそう》であった。死を覚悟の旅らしく、途中から貧しい愛人にあて、身につけていた高価な羽織と角帯を形見に送ってきたと、あとできいた。私は目がくらみ、野は無人であったけれども身のおきどころがないほど恥ずかしく、封筒をまるめて小川に捨てて、わざと野火の煙にむせながらあるいた。
それにしても、もし自分が死なねばならぬとしたら、恥ずかしいながらもやはり自殺のほかはあるまいと、私は思いこんでいた。自殺のほかに、死のありようを知らなかったからである。私は、ひそかに、まだ誰《だれ》も知らない自殺の方法をいくつか発見し、なんとなく頬《ほお》をほてらせながらそれらの選択に迷っていた。そのうちに、意外にも自殺が誇れるふしぎな世がきた。
戦時中は、私にとって、私たちきょうだいの汚名を雪《そそ》ぐべき好機であった。死ぬならいまだと、まじめに思った。けれども、私は十五歳、栄《は》えある自殺を志願できる年齢にはわずかに満たなかった。それならば、せめて敵の手に討たれようと思った。夏、敵は空から町を襲い、私を撃った。もし私がいつものごとく、いつもの場所にいさえしたなら望み通りに死ねただろうが、ふとした私の気まぐれが敵弾に私の影を撃たせた。そうして、ある日、好機はふいにむなしく去った。
戦後、私は若者になって、さすがにもう、死は自殺だなどとは思わなかったけれども、死にまつわる羞恥感だけは容易にぬぐい去ることができなかった。肉親の死を悲しんでいるひとをみると、ふしぎな気がした。
ひとが死ねば、悲しいか。
もしお前の父が死んだら、お前は泣くか。
そんなことを、私は自分に問うてみて、そうしてまったく自信がなかった。肉親をうしなった友人に会うと、丁寧に叩頭《こうとう》して、それきり彼の不幸には一切触れず、それを最高のいたわりだと心得ていた。
十八のとき、東京へ出て、次兄と会った。次兄は私の面倒をみてくれた。私は大学へ通わせてもらったが、一年たって、まさかと思ったその兄が家産を攫《さら》って逐電《ちくでん》した。私は、からだがふるえるほどの恥を感じた。それは私たち一家の恥であると同時に、そんな兄を、このひとばかりはと頭から信じて疑わなかった私たちの愚かさの恥でもあった。そしてまた、おなじ都に住み、頻繁《ひんぱん》に顔をあわせていながら、彼の暗い野望をすこしもみぬけず、「お兄さん。」などと甘ったれていた私の阿《あ》呆《ほ》らしさの恥でもあった。私は羞恥のかたまりになって東京を逃げ、父の実家のあるちいさな温泉村や生まれ故郷の近辺の漁師町を転々しながら、三年、かくれた。
私は、もはや私たちきょうだいの不幸を、なにかの事情によるものだとは思わなかった。どんな事情も、四人をつぎつぎに破滅へ赴《おもむ》かしめるとは考えられない。誰か、ひとりぐらいは尋常な亡《ほろ》び方をしてもらいたかったが、四人そろって異常である。
血だと思った。私たちの血は亡びの血ではなかろうか、と思った。とすれば、私の体内にもおなじ亡びの血が流れているはずである。私は、自分の血に亡ぼされるのはまっぴらであった。私は自分の血を恥じるとともに、血に抗《あらが》って生きる生き方に思いをこらした。てっとり早い方法は、血の誘惑を未然に防ぐために、兄や姉たちと反対の生き方をすることであった。できたことは、すべてよしとする生き方である。日常生活のこまかい行為においても同様であった。私は、ことごとに、彼等ならこんな場合おそらくこう考えただろうと思う逆のことを考え、こんな場合は多分こうしただろうと思われる反対の行為をした。そうして、その生き方が身についたと自覚したとき、父に出費を願って、ふたたび大学へ入りなおした。
私は、在学中、寮の近くの料理屋ではたらいている志乃《しの》という女と知りあい、郷里へつれて帰って、結婚した。私のきょうだいたちは、愛を罪だと考えたようである。しかし、私は、それを単純に歓《よろこ》びとした。家ではみんな、よろこんでくれた。誰も虚勢をはらなかったし、私自身もわるびれなかった。これでいいのだと思った。老いた両親と姉とは郷里で、私と志乃とは郷里と東京を往復しながら、貧しかったけれども尋常に、暮らした。私は、二十六歳になっていた。
七月末の、朝から糠雨《ぬかあめ》の降りやまぬ日の暮れ方であった。とつぜん、北国の郷里から、父危《き》篤《とく》の電報がきた。
そのとき、私は、東京の場末を流れる運河に面したアパートの部屋で、所在ないまま妻とたわむれていた。おもちゃのピストルで、空になった本棚《ほんだな》の上のコップにさした薔薇《ばら》の花弁を、一枚ずつ、散らせてゆくあそびである。妻の番のとき、片目でねらいをつけてから、あ、きこえる、と妻はいった。耳をすますと、遠くモーターバイクの音がかすかにきこえた。私たちは、あそびをやめて、窓辺に立った。
窓の下には道がある。道のむこうが、運河であった。その運河のむこう、ささやぶの斜面の上に団地の白い建物がひしめきあって、それ自体ひとつの大きな洋菓子のようにみえる丘の裾《すそ》を、電報配達のみどり色のモーターバイクが、こっちへ走ってくるのがみえる。妻は、螢《ほたる》でもよぶように、こっちへこい、こっちへこい、と口のなかで叫びはじめ、モーターバイクがコンクリートの橋をわたって窓の下を通る小道へ折れると、きたきた、と窓越しに電報をうけとろうとして身をのり出す。私は、妻が窓から落ちぬように、片方の手を部屋のなかへひっぱっていなければならない。すると、若い電報配達夫は、ふざけるな、というような目の色で窓にもつれる私たちをちらとみて、そのまま四、五メートルも通りすぎ、わざとよその部屋の窓にむかって、電報、電報、と大声を立て、そして私の名を呼ぶのである。……
それは、月にいちどか、二度、きまってくりかえされる光景であった。私たちは、たえず電報をまち暮らしていた。私は、学校を出て二年であったけれども、職がなく、知人に紹介してもらった放送の台本づくりで、辛《かろ》うじて日々の暮らしを立てていた。月に一、二度、「仕事あり、こい。」という、きまりきった電報でよびつけられ、もらった仕事を一夜で仕上げて、あくる日局へ届けると、夫婦二人が半月やっとしのげるくらいの報酬がもらえるのであった。その仕事が毎月きちんと二度ずつあれば、どうやらひとなみに暮らせたのであるが、そんな月はめったになく、むしろその年の春以来とだえがちになり、六月からはばったりとなくなっていた。なんどやっても身の足しにならぬ、できれば早く足を洗いたい、やくざな仕事ではあったけれども、それがまったくなくなると、たちまち私たちは暮らしに窮し、妻がもってきた衣服や家具、私の書籍をのこらず金にかえてしのごうとしたが、それらもとうに尽きてしまって、私は、友人に貸しておいたためにあやうく売却を免《まぬか》れた近松の浄瑠《じょうる》璃《り》本《ぼん》を、身につまされて読み耽《ふけ》る日々がつづいているのであった。
その日、ひさしぶりにやってきた配達夫は、しかし、いつもと様子がちがっていた。窓の私たちには目もくれず、アパートの入口から入って、おごそかに部屋の扉をノックした。
「電報です。」
妻が扉をあけると、配達夫は一礼し、雨にぬれた黒いビニール合羽をてらてらひからせながら帰っていった。妻は扉に背をもたれて電文を読み、そのままへなへなと畳にくずれた。
私は、帰ってゆく配達夫の足音がきこえなくなるまで、不安のために窓をはなれることができなかった。それから、妻の膝《ひざ》の上の電報をひろって、立ったまま読んだ。
チチキトク スグカエッテ カヨ」
さいしょ、一気に読みくだしたとき、私の目に灼《や》きついたのは、終りのカヨという二字だけであった。香代《かよ》というのは、私にひとりのこされた姉の名である。この姉は、人目をはばかる生まれつきで、これまで郵便局などに足を踏み入れたことのない人であった。それが田舎の郵便局の暗い土間に傾いている、インクのしみたぐらぐらの机の上で、局員たちの好奇な視線を浴びながら、《帰れ》とも、《帰られたし》とも書くことを知らず、むきだしの話し言葉で、《帰って》と書いているさまが、一瞬のうちにありありとみえ、私はただならぬ思いに駆られてまたさいしょから読みかえしたが、やはり肝心の冒頭の五字は目が字《じ》面《づら》をすべるばかりで、実感がなかった。
父が死に襲われている。それは、わかった。さすがに、自殺だとは思わなかった。父はすでに七十歳で、五年前、かるい脳溢血《のういっけつ》の発作で倒れ、その後すこしずつ回復してはいたものの、いつまた再発するかもわからぬからだで、かねがね冗談半分に、「おれはもう、ながいことありゃせん。アタリカエシがきたら、いっぺんにおしまいじゃあ。」といって笑っていたが、おそらくいま、そのアタリカエシがきたのであろう。
それにしても、死にかけている、とはどういうことであろうか。死とは、思いがけないときにふいにきて、死体をおいて一瞬のうちに去るものではなかったか。かつて私の身辺には、死は死体と共にきた。二人の姉が、そうであった。戦時中、空から撃たれたひとびとが、そうであった。死がきたと知ったとき、そのひとはすでに死体であった。また、ひとつの死体があって、私たちはそのひとの死を知ったのである。死と死体のあいだには、隙《すき》間《ま》がなかった。死はすみやかにきて、すみやかに去る。あとには、のこされたひとびとが死体のまわりに集まって泣く、陰気な祭があるだけであった。
私は、容易に父の瀕《ひん》死《し》を信ずることができなかった。だから、驚きも、悲しみもなかった。
「厄介《やっかい》なものが舞いこんだよ。」
私は、電報をたたみながら、夕闇《ゆうやみ》が濃くなった窓の外へむかっていった。妻がおずおずと立ってきた。
「どうしましょう。」
「どうしようもないじゃないか。帰ろう。」
私はかんたんにいったが、私の郷里は本州の北端に近く、二人そろってそこまで帰る旅費の貯《たくわ》えはもとよりなかった。その上、このたびの帰郷は着のみ着のままというわけにはいかなかった。父が死ねば、私は喪主となるのである。妻もまた、なにかと人前でふるまうことになるであろう。しかし、私たちのよそ行きの衣服は、いま一枚も手もとになく、それらをとり戻《もど》すにはまた多額の金が要るのであった。
私は、これらの用意に意外に多くの時間を費した。友人宅を三軒まわり、旅費と衣服をもち帰ったときは、すでに夜半に近かった。私たちは、翌朝の北方行急行にのることにして、その夜は夜あかしの覚悟でいると、また電報がきた。
チチワルイ イソイデ カヨ」
私は窓辺に立って、運河のにおいを嗅《か》いだ。俺《おれ》はもう、生きている父をみることがないであろう、互いの死に目に会えないことは、俺たち血をおなじくする者のさだめなのだと私は思った。
糠雨のなかに赤い色をにじませてつらなっている運河の灯《ひ》は、ちょうど田舎の花見の雪《ぼん》洞《ぼり》に似ていた。
郷里へは、翌日の夜、おそく着いた。雨が降っていた。ホームから線路の下をくぐって駅舎に通ずる洞窟《どうくつ》のような地下道を行くと、真夏とはいえ、北国の夜気はさすがにひんやりと首筋をなぜ、思わず身も心もひきしまるような思いがした。
改札口の暗い電燈《でんとう》の下に、よその町に住むクリスチャンの叔父が、蝙蝠傘《こうもりがさ》を黒い背広の胸に抱くようにして立っていた。その叔父の姿をひと目みたとき、私は、なぜともなく、ああ、やっぱり父は死んだと思った。叔父は私たちをみると、長靴《ながぐつ》をごぼごぼ鳴らしながら駈《か》けてきた。
「おそくなりました。」と私はいった。
「いや、遠くにいたんだもの、しようがなかべし。」と叔父はいった。そして、自分は今夜ぜひ家でしなければならぬ用事があるから、いま着いた汽車で帰るところだといった。私はそれを、通夜《つや》に加われない言訳ときいて、
「どうぞ。あとは私たちがしますから。」
というと、彼は急に目をしょぼしょぼさせて、
「うらまずに努めなせ。これも人の子のさだめですけにのう。なにごとも神の御心《みこころ》のままですじゃ。」
といった。そうして、汽笛が鳴ると、「じゃ。」と蝙蝠傘のにぎりをあげて、また長靴をごぼごぼと鳴らしながら、あたふたと地下道へ駈けこんでいった。
夜ふけの駅はがらんとして、おびただしい数のちいさな羽虫だけが電燈のまわりにひっそりと渦《うず》をまいていた。私たちを出迎えるひとは、他《ほか》に誰もいなかった。車中から電報を打ってあるから、到着時刻をまちがえるはずはなかった。ぐずぐずしていて、父の臨終にまにあわなかったので、みな憤慨しているのではないかと思った。妻と二人で帰るにしても、駅舎の外は泥《どろ》の海で、私は短靴、妻は和服に草履であった。思案にあまって、戸口に立往生していると、にぶい街燈に照らされて轍《わだち》が線路のようにひかっている泥の道を、こっちへよたよたと駈けてくる人影がみえた。カジ婆《ばあ》さんかもしれない。私たちはそれが近づくのを待った。
やはり、カジ婆さんであった。私の家のむかいに住む、世話好きな農家の寡婦《かふ》である。
「し《・》みません。し《・》みません。」と彼女はいった。「タクシの運転手がどこぞへ酒飲みにいったもんでなあし。今日は朝からお宅のお客さんをなんども運んだから、ひさしぶりに収《み》入《いり》も多かったべえし。大方、隣町の小料理屋へいったべせえ。」
そういうカジ婆さんの息も酒くさく、私は、彼女が首のうしろにくくりつけてきた風呂《ふろ》敷《しき》包みから長靴を出してはきかえながら、もう通夜の酒が出ている時分か、と思った。妻は、裾をからげて長靴をはくと、膝と脛《すね》とがまる出しになった。
「へんな恰好《かっこう》。」妻がいうと、
「なんの、涼しげにみえやんす。」とカジ婆さんがいった。
私たちは、表をとざした家々が立ちならぶ街道を、泥にすべりながらあるいていった。私は、父がいつ、どんなふうにして死んだかを知りたかったが、それを口に出して尋ねる気にはなれなかった。相手が、カジ婆さんだからではなかった。叔父でも私は訊《き》けなかっただろう。他人の口から、死因や死にざまがあきらかにされることを、ひどくおそれる気持が私にはあった。真相を知るおそれではなく、恥を知らされるおそれであった。
子供のころ、二人の姉がつづけざまに死んだが、私は何年ものあいだ、先に死んだ姉が入水《じゅすい》したのだとは知らずにすごした。ある日、口論で私に負かされた鍛冶屋《かじや》の子が多勢の前であきらかにした。
『汝《うぬ》家《が》の姉ちゃん、津《つ》軽《がる》の海のイルカに食われた』
自殺は恥だが、世間がそれを知っていて自分ひとりが知らずにいたことに、私はまたべつの恥を感じた。二人目の姉が死んで家のなかが騒いだとき、私はすかさず母にいった。
「姉さん、自殺?」
すると母は、いきなり私の頭を鷲掴《わしづか》みにして胸におしつけ、そうして、ひいと泣いたのである。私は、死に関して、他人からきかされることも自分から尋ねることにも、臆病《おくびょう》に育った。
妻も、さすがにあきらめたふうに、父のことは口に出さず、懐中電燈のひかりが道ばたの林《りん》檎《ご》園《えん》をなぜるたびに、雨滴を宿した林檎の実が、きら、きらとひかるのをみて、あ、あ、と声を上げながらあるいていた。林檎園がつきると、急に川音が高まり、橋へかかった。
「旦《だん》那《な》さまは、釣《つり》が好きでござったのうし。」と、カジ婆さんがいった。「もうはや、御自分では釣れもうさぬで、つい二、三日前までこの橋の上から川釣りをようみておられたっけが。……もう、めったにできましめえ。」
私は、そういう婆さんの言葉に、ふとあたたかみを感じて微笑《ほほえ》んだ。
「なに、あの世にだって川はあるさ。」
私は冗談をいったつもりであったが、婆さんは、「なんどえ?」と鋭くききかえした。
「いや、親《おや》爺《じ》の棺《ひつぎ》のなかへ、釣竿《つりざお》を入れてやろうといったんだよ。」
「じゃあ!」と途端に、婆さんは私を非難する叫び声を上げて、立ちどまった。「縁起でもねえことをこくでねえし、アイナさまは!誰《だれ》が旦那さまが死なれたといいやしたん?」
私はどきっとした。
「まあだも、まあだも。」と婆さんはりきんで、うわずった声をはり上げた。「おめえさまの帰りを待ちかねているげだな。死なれたつもりで帰るなんて、それこそ親不孝者でせえ、アイナさまは!」
「よかったわ。」と妻は叫んだ。そして、私を責めるように、固い拳《こぶし》で私の背中をどんどんとたたき、それからまた、「よかったわ。よかったわ。」とつづけざまにいった。
家では、二階にも階下にも、あかるく電燈をつけていて、窓々からあふれたひかりがサーチライトのように、降りしぶく雨脚をとらえていた。私は一瞬、立ちどまってあかるいわが家の夜景にみとれた。かつてこんなに眩《まぶ》しいわが家をみた記憶が、私にはなかったからである。
カジ婆さんの大声で、玄関に走り出てきた姉が、いきなり私の肩にとりついた。
「びっくり、したろ?」姉は小声でそういったが、その顔は微笑んでいた。私も、思いがけないあかるさにつられて、笑顔で、「ああ。」と答えた。姉は妻に顔をむけて、
「志乃さんも、きつかったろうし?」といった。
「いいえ。それよりか、こんなにおそくなりまして。」
と妻がいうと、姉は、「わかってる。わかってる。」とうなずきながら、私の背を奥の間の方へおしていった。
父は、十二畳間の箪《たん》笥《す》の前に、毛布をかけてながながと寝ていた。母は父の寝床と箪笥のあいだのせまい場所に背をまるめて、ちいさく坐《すわ》って、片手で父の右手をにぎり、片手で団扇《うちわ》をつかっていた。枕《まくら》もとには、隣県の酒屋に嫁《とつ》いでいる母の妹にあたる叔母がいた。
私は、部屋の入口に正《せい》坐《ざ》して、「たんだいま。」といった。母は顔を皺《しわ》くちゃにして、「きたかえ。」といった。叔母は父へ顔を近づけて、「兄《あに》さん。お待ちかねのひとが着きましたえ。」といった。父は顔を母の方へむけたまま、舌がもつれたような声でなにかいった。母は、「なんどえ?」と耳を父の唇《くちびる》すれすれに寄せ、「よくきた、というとる。」と私に伝えた。叔母は笑って、「母さんは通訳だよ。兄《あに》さんの言葉は母さんにしか通じないの。やっぱし夫婦って、なあし。」といった。
「父さんの顔、そっちへむかなくなってせえ、こっちへきてみてやんなせ。」
母が団扇で招くので、私は坐ったまま、父の寝床ににじり寄って顔をのぞいた。
その年の春、わかれたときにくらべればすこし痩《や》せたが、べつだんかわった顔ではなかった。目と頬《ほお》が、いくらか後頭部の方へひき吊《つ》っているようにみえたが、気のせいかもしれなかった。鼻と口とが枕に半分おしつけている頬の方へ歪《ゆが》んでいるように思われたが、これも病気のせいかどうかはわからなかった。私はふだん、父の寝顔を、こんなにまじまじとみたことがないのである。顔色も、わるくなかった。全体に上気したように赤らみ、汗ばんでいた。とりわけ、額の一部が朱筆で描《か》いたように赤く、父は気が高ぶっているなと私は思った。父はいちど倒れて以来、興奮すれば額にみみずばれのような赤みがひとりでにできた。呼吸はたしかに荒かった。口をあけて、喘《あえ》いでいた。けれども、全体にみて、これが刻々と死につつある重病人だとは、とても思えなかった。
父は、しかし、視線をかえることにも努力を要するようだった。目玉を徐々に下の方へむけ、辛うじて私の顔を一瞥《いちべつ》した。目があったとき、私は思わず「父さん。」と呼んだ。子供が読本《とくほん》を読んでるような、われながら妙にぎごちない呼び方であった。すると、父の目のまわりに、羞恥《しゅうち》の表情がひろがった。父はりきむように顎《あご》を硬《こわ》張《ば》らせ、ひらたくなった口で不規則に、激しく喘いだ。それは、父の笑いであった。
「おう、おう、たいそうなちからだこと。」
母は、両手で握った父の右手を、膝の上でゆさぶりながらそういった。みると、父の腕も、母の腕も、ちからの入った腕《うで》相《ず》撲《もう》のようにぶるぶるとふるえていて、そのとき私は、母が父の手を握っているのは伊達《だて》ではなかったとはじめて知った。父の右手は、はなせばひとりでに、勝手な動き方をするらしかった。そして時折、その腕には発作的にひどいちからがほとばしるらしく、母はそれを懸命に膝へおさえつけているのであった。
「あんまり興奮させたらいけないんじゃないの?」と叔母は誰にともなくいい、それから父にむかって、頑《がん》是《ぜ》ない子供をなだめるようにいった。「兄《あに》さん、もういいでしょうな。これで一と安心でしょうな。さ、ゆっくりお休みやんせ。」
父は、猫《ねこ》のようにごろごろと喉《のど》を鳴らした。母が父の口に耳を寄せて、「はあ、はあ。」とうなずき、私たちの方へ、
「心配するなと。おまえたちもゆっくり休めと。」
といった。
私たちは、茶の間へさがって、炉ばたで姉が淹《い》れてくれた茶を飲んだ。
「どうな? 父さんは。」と姉が私に訊いた。
「そんなにわるくなさそうなので、かえってへんな気がしたけど。」と私は答えた。
「それが、やっぱし、いけないんだって。いま、やっと落ち着いたけど、でも、油断はできないんだって。」
おとといの晩、小田さんという尺八の先生がきて、二階で姉の琴と合奏した。父はもう寝る時間だったが、茶の間の炉ばたでいつになく琴の音に耳を傾けていた。何曲目かに、「あれは、なんという曲だ。」と訊くので、母が「楫枕《かじまくら》、でしょう。」と答えると、「ながい曲だ。」と父はいって立ち上り、厠《かわや》へ入った。夜、寝しなに厠へ入るのが、父の習慣になっていた。持病の便秘症が病気になってからますますひどく、厠に入っている時間がながかった。
その夜、父は『楫枕』が終っても出てこなかった。気がついて、時計をみると、二十分がすぎていた。母はあきれて、厠の入口の戸をあけて、「父さん、もう二十分もたちますえ。」と声をかけた。すると厠のなかで、「うん、もう出る。」と父があたりまえの声で答えた。母はまた茶の間へ戻ったが、それから五分しても出てこない。ふと、ある予感に打たれて、母は小走りに厠へいった。入口の戸をあけると、なかの戸もあいていた。父のからだが、しゃがんだまま大きく左の方へ傾いているのがみえた。「父さん。」と母が叫ぶように呼ぶと、父は笑いながら、「心配するな。なあに。なあに。」と、すこし舌がもつれるような声でいったが、からだは傾いたまま、びくとも動かなかった。母は驚いて二階の小田さんを呼び、手を貸してもらって、それに姉も加わって、三人掛かりでやっと寝床まで運んだが、父のからだはまるで水を吸った丸太のように重かった――そんなことを、姉はもう幾度となく見舞客に話したらしく、いかにも話しなれたふうで、よどみなく話した。父の正確な病名は、脳軟化症というのだともいった。それから、急に声をひそめて、
「電報、おかしかったろ?」
「いや、べつに。」と私はいったが、
「だって、電報の打ち方、知らないんだものな。電報打ったの、こんどがはじめてよ。小田さんに話したら笑われちゃった。」
そういって、三十六歳、独《ひと》り身《み》の姉は、少女のように頬を染めてくすくす笑った。姉は、小田さんにはなんでもうちあけて話すらしかった。
叔母が茶の間へ入ってきた。姉に、母が呼んでると告げ、立たせて、そのあとに坐ると、「志乃さん、さぞ、きつかったろうが。」とまず妻をいたわり、それから私に、なにげない顔で、
「父さん、駄目《だめ》かもしれないよ。」
すらりといった。
「ええ。」とうなずくと、
「兄さんたちが、いたらねえ。」
私は黙っていた。
「さぞかし兄《あに》さんが会いたかろうが。文蔵《ぶんぞう》さんはともかく、卓《たく》治《じ》さんだけでも帰ってくれたらねえ。」
叔母は恨みがましくそういったが、私はすでに兄たちのことはあきらめていた。長兄文蔵が死の旅へ出てから二十年、次兄卓治が背信の旅へ出てから七年であった。その間、どちらからも音信がなく、生死不明であったけれども、たとえどこかで生きていて父の瀕《ひん》死《し》を知ったとしても、彼《かれ》等《ら》の性格から推して、いまさらおめおめと帰宅することはありえなかった。彼等は、私たちを捨てたひとである。捨てられたものには捨てられたものの生き方がある、と思って私たちは生きてきた。私たちの生活には、もはや彼等の帰参する余地がないのである。
「兄たちは、駄目です。父だって、会いたくもないでしょう。おふくろだって……。」
と私はいいかけて、ふと背後にひとの気配を感じてふりむくと、いつのまにきたのか、敷居の上に、母がちいさく立っていた。
その夜から、母と私、姉と妻の二組にわかれ、二時間交替で夜通し父の看病をした。ひとりが病床と箪笥のあいだに坐って、父の右手をにぎり、ひとりが枕頭《ちんとう》から団扇で風をおくる。
私は、父の手をにぎってみて、その手をのぞく父のからだが、すでにまったく父の意志をはなれていることを知った。左腕、そして下半身は、死物のように動かなかった。唇の動き、まばたきさえもままならなかった。ただ右の肘《ひじ》から先だけが、ひとりでに勝手な動きをしながらも、わずかに父の意志をかよわせていた。指をにぎると、意外なつよさでにぎりかえした。腕をかるくおさえて、手を父の意志にまかせると、父は看護者の胸もとを指で懸命にまさぐるのである。あるいは、自分の顎を、親指と人差指の横腹でさかんにつねろうとこころみた。
はじめ私は、そんな父の手の行状を、まったく病に冒された神経の発作のせいだとばかり思っていたが、あるとき、父の手が私のワイシャツのボタンを上から順に、苦労に苦労を重ねた末に全部を外しおえたとき、それが父にのこされた、病への最後の抵抗であり、再起への祈りであったことを深い感動と共に理解した。それ以来、私は父の手を、すすんで父の意志にまかせようとした。父が私の喉仏を掴《つか》もうとすれば、私は唾《つば》をのみこむことをあきらめてそれにまかせた。鼻を掴もうとすれば呼吸をとめて待った。
まよなかに、父とならんで仮眠していて、父を呼ぶ妻の声にふと目醒《めざ》め、みると、父の手が妻の乳首を、ワンピースの上から小突くようにゆさぶり、叩《たた》くように撫《な》ぜ、果てには指と指とのあいだで乳首を挟《はさ》もうとし、けれども妻は逃げもせず、羞《はじ》らいの微笑をうかべながら、「お父さん、お父さん。」と小声で父をたしなめていて、私はそれを、父がこれまでに私たち子等と共に演じてみせた最も親しみのこもった情景として目に収め、そのまままた眠りに落ちた、そんな夜が幾度かあった。
私たちが帰った翌日の午後、私は、往診にきた県立病院の医師に懇談を求められ、病室のつぎの間で会った。医師は、ここ一週間がやま《・・》だといい、しかし、この病気は、目にみえないが、脳の血管がつぎつぎに破れていくので、片時も油断がならないといった。いわば死の宣告であった。また、見舞いにきた父の甥《おい》、村会議員かなにかをしている男が、したり顔で、「ま、いうならば、でやんすな、叔父《おん》ちゃまは旧盆まで保《も》ちますめえ。」といった。死ぬか死なぬかは、この目でみなければわからない。私には、死の予告なんか無意味である。ただ、彼等の無神経さに腹が立った。医師は、かさ《・・》にかかって、患者の耳にも当然筒抜けの大声でおどかし、村の素封家は肺病をコレラとおなじくらいにおそれるくせに、脳溢血《のういっけつ》は「当りやがった。」と茶話にする。どちらも、父をすでに死者として扱っている点で、父を侮《ぶ》蔑《べつ》していた。私は一語も発せず、席を蹴《け》って立った。
夕方、叔母がひとまず、ひきあげることになった。父にわかれをいうと、父は私たちが帰京するものと勘違いして、動揺を示した。その場は母の説得で納まったが、その動揺は父の心のなかにながく尾をひいたようだった。父は、私の姿がみえないと、母を呼んで私の所在を問うようになった。私は終日、ことに夜は父のせまい視野のなかにいなければならなかった。父が夜を、幼児のようにこわがったからである。
ある夜ふけ、私が父の手をにぎっていると、父は目顔で私に耳を貸せといい、一語一語、注意深く唇をかたち作って話しかけてきた。父の言葉は、吹きそこねた口笛のような音にまじって、ぽつりぽつりと耳に届いた。
「イツ、帰ルカ。」とまず、父はいった。
帰らない、と私は答えた。
「仕事ガ、ダメニナラナイカ。」と父がいった。
父は、私が学生時代からつづけている、とうてい報いられる望みのない仕事を、ひとり頑迷に信じていた。もし私がその仕事に関して自嘲《じちょう》めいたことを口走ろうものなら、父は目に角を立てて私の懶《らん》惰《だ》をなじり、それからしょんぼりと肩を落した。けれども、その仕事もいまは貧しい生活の底に埋もれようとしていた。もし父が、私のスーツケースのなかに、近松の浄瑠《じょうる》璃《り》本《ぼん》がたった一冊のこされているだけだと知ったら、落胆のあまり即座に命を落すかもしれなかった。私は心に痛みを感じながら、大丈夫だ、仕事はたくさん持ち帰ったからというと、
「オレハ、ナガイゾ。」と父がいった。
そのときまでは、たしかに父は生きながらえるつもりであった。ながくてもかまわないと私がいうと、父はとろんと電燈《でんとう》のひかりを湛《たた》えた目で、じっと私の顔をみつめ、やがて、「ホントカ?」と念をおした。
私は、すこしのあいだ、父の唇から耳をはなすことができず、そのまま、肋骨《ろっこつ》のうき出した父の胸が大きく波打っているのをみていた。つくづく、父の疑い深さがあわれであった。六人の子をもち、そのうち四人に、若くしてつぎつぎと叛《そむ》かれ、そうしてこの期《ご》に及んで、なおひとりのこった私をも信じきれずにいる、父の心があわれであった。私はやりきれない思いで、黙って父の手をうちふってやった。すると、父の顔に、さっとやすらぎの色が流れた。
「オーライ。オーライ。」
父はたしかにそういったと思う。それから目を半眼にとじ、びっくりするほどの鼾《いびき》をかいて、たちまち眠りに落ちて行った。
父の容態は、やはり日ましにいけなかった。手の握力は次第によわまり、もはや私たちの胸をまさぐる気力もなくなった。舌の硬直がすすんで、それまで摂《と》っていた少量の流動食も飲めなくなり、冷たいほうじ茶だけを吸《すい》呑《の》みで飲んだが、それも三度に二度は噎《む》せてもどした。時折ぽつんと話す言葉も、母でさえ容易にききとれないほどになった。
四日目から、顔に表情がなくなった。用便の始末をするときだけ、不快そうに眉《まゆ》をひそめるだけであった。下《しも》のものをとり替えるとき、父の腹をうしろむきにまたいで両膝《りょうひざ》をもち上げるのが私の役目であったが、五尺八寸、十八貫、豊かな百姓の子で骨節がふとく、中学時代に柔道を学び、二十《はたち》で呉服物の老舗《しにせ》の長女であった母の婿《むこ》に迎えられてから、生来小才の利《き》かない身が多勢の番頭たちに揉《も》まれて右往左往し、ほどなく町の商売にいやけがさして、ある日、だしぬけに、「東京へ出て力士になりたい。」といいだして母を泣かせたという父のからだは、もはやみる影もなく、脚をにぎろうとすると蒼《くろ》ずんだ皮膚が骨の上をすべり、もち上げると、腰までふわっとうかぶのであった。
五日目から、喉がしきりにごろごろと鳴り出した。痰《たん》であった。痰は、前からすこしずつ出はじめていたが、その日から急激にふえたのである。けれども、父にはもう、それを吐き出すちからがなかった。口をのぞくと、棒状にふくれ上ってあじさい色に変色した舌が、下の歯茎に固着し、喉の奥には、おしよせた痰の群れがたまって、喉笛をふさがんばかりの乳白色の膜をはり、呼吸のたびに、ごぼ、ごぼ、と鳴っていた。
脳溢血は、痰が出たらおしまいだといわれる。往診の医師は、父の口内を一瞥して、もはや診るまでもないというふうに、眉をひそめて腕を拱《こまね》き、つれてきた少女のような看護婦をかえりみて、「痰のとり方を教えなさい。」と命じた。看護婦は割箸一膳《わりばしいちぜん》を要求し、そのうちの一本を、「これは、あのう、舌を噛《か》まない用心のためです。」といって父の口へ横にくわえさせ、もう一本の先端に脱脂綿をまきつけて、「これに、あのう、痰をまきつけてとります。」といいながら、父の口内へさし入れてくるくるまわし、抜いてみて、「あら?」と頓狂《とんきょう》な声を発した。みると、箸の先につけた脱脂綿がなくなっていて、医師は「ばか。」と彼女を叱《しか》り、みずから箸を操ってようやく、脱脂綿をひき出した。彼は、「とにかく、上手にやることです。」というようなことをいい、体裁をつくろうように強心剤を一本打って帰っていった。
けれども、私たちは、実際に看護婦から教えられた通りにやってみて、決して彼女の失策を笑うことができないことを知った。まるで触手をもつ生きもののように喉の襞《ひだ》深くへばりつき、しかも呼吸のたびにごぼごぼとゆれ動いている固い粘液質の膜を、遠くから脱脂綿にまきとって除去する作業は困難をきわめた。しかし、それをたえずつづけなければ、父の喉はたちまち痰の塊りによって閉塞《へいそく》されてしまいそうな気がした。母と姉は目が不自由だったので、私と妻とがその作業にあたった。私たちは、数《じゅ》珠《ず》つなぎにつながった一尺ほどの痰の紐《ひも》を、苦労して何本かとったが、痰はあとからあとから、とめどもなく湧《わ》いてきた。ながいあいだ、口を大きくあけつづけたために、父の目には涙があふれた。
「頑《がん》張《ば》ってくださいね。たくさんとって差し上げますからね。」
妻はそう父をはげましながら、なおも二本の痰の紐を器用にひき出して、
「ほら、お父さん、こんなにとれましたよ。」
と父にみせると、父は、まるでそのときのために大切にとっておいたかのような、信じられないほど明瞭《めいりょう》な言葉で、大きく、
「ありがと。志乃。ありがと。」といった。
そして父の目から涙が耳の方へあふれ流れた。
私は一瞬、耳を疑ったが、妻も目をみはって父をみつめた。それから、打たれたようにぴょこんと立ち、両手で顔を覆《おお》うと、う、う、う、とうめきながら病室から走り出ていった。
妻がひき出したその二本の痰は、私たちがなしえた最後のものとなった。父は口を閉じることも、唾《だ》液《えき》を飲みこむこともできず、そして激しく呼吸するために、口内の乾きが早く、痰はますます粘りをまし、舌の表面は白く乾燥しきって亀《き》裂《れつ》を生じた。そうして、その亀裂はわずかの衝撃にもすぐ出血し、父は痛がって、もうよいと手をふった。喉の奥は、まるで鍾乳洞《しょうにゅうどう》をみるようであった。私たちは、しばしば指で父の喉の奥をかきむしりたい衝動に駆られながら、痰をとるはずの箸の先にこんどは水を含ませて、旱魃《かんばつ》の田のようにひびわれている舌をたえず湿しつづけなければならなかった。
父は、目にみえて衰えていった。そうして、いまははっきり死期を感じたらしく、もうほとんど動きをうしなった父のからだから、あせりのような、煩悶《はんもん》のような、みるひとの胸をせつなくさせるような、一種の気配が感じられた。そして、頭痛を訴えた。うわごとのように、「花火が。」といったりした。脳の毛細血管が、線香花火のようにぷつぷつと破裂していくさまが、父の暗い網膜に映ってみえるのではないか、と私は思った。
夜、医者がきて、「もう、手はありません。」ときっぱりいった。それでもカンフルを打ち、酸素吸入の器械を運ばせたが、それはあたかも棋士が投げ場を作るようなものであった。けれども父は、黒いゴム管を鼻《び》腔《こう》へさしこまれるとき、それを拒もうとして最後の抵抗を示したが、たやすく看護婦の手におさえられて、セロテープのようなもので鼻梁《びりょう》と額にゴム管をはりつけられた。
その夜、ひと晩中、私たちは病床の四囲から父をみまもりつづけた。夜半から風が出て、軒の風鈴が夜通し鳴りはためいていた。
翌朝――八月四日の朝であった。
父の呼吸は間遠くなった。胸は大きく喘《あえ》いだが、呼吸は絶え入るようによわかった。瞳《ひとみ》は一方に流れたまま動かず、手足の先が冷たくなった。
母が父を二、三度高く呼んだが、父はなんの反応も示さなかった。
「もう父さん、逝《い》くんだよ。さ、みんな呼びなせ、呼びなせ。」と母がいった。
姉と妻が父のからだにすがって、「父さん。お父さん。」と呼んだ。母は父の波打つ胸を手のひらで静かにさすりながら、いいきかせるごとく、念ずるがごとく、
「父さん。安心して逝きなしゃんせえ。あとはみんなでちゃんとやっていきやんすけになあ。安心して成仏《じょうぶつ》しなしゃんせえ。」
といって、自分の手のひらの上にぽろぽろと涙を落した。私は、奇妙な感じにとらわれた。まだ息をしている父に、成仏しろといっている。私は母のせっかちが、父のために恥ずかしかった。
「母さん、おやめなさいよ。父さんはまだ……。」
私がいうと、母は鼻の先から滴々と涙をしたたらせながら、「だってな、おまえ……。」といいかけて、あ、と父の胸から手のひらをはなした。
一瞬、父は死んでいた。
女たちは、父の死体に身を伏せて、声を放って泣いた。私は箪《たん》笥《す》に背をもたれて、まったく動かなくなった父の上に目を凝らし、耳をすませた。私は、この数刻のうちに、父の上に起こるどんな微細な出来事でも、あらゆる感覚でのこらずとらえようとして身構えていた。けれども、なにごともなかった。ただ、父の口に、きらきらとひかるものが内からあふれ上ってきただけであった。痰であった。あれほど頑強にはびこって父をくるしめた痰の群れは、いま、朝のひかりにきらめくただのゆるい液体となって父のからだから退散しようとしていた。それはいかにも、たったいちどの役目を解かれて地に還《かえ》ろうとする、悪魔の手先の退陣に似ていた。
これが死というものなのだ、と私は、私の肉親にあってはじめて尋常な死を迎えたひとの、急に伸びたようにみえる顎鬚《あごひげ》の上を、縞《しま》になって流れる痰のきらきらにみとれながら思った。死を招こうと、死に招かれようと、また、いつ、どこで、いかなる理由のために死のうとも、一瞬のうちに去来する死というものは、みなおなじものではなかろうかと私は思った。どんな死も、美しくもなく、醜くもない。ある日、死はきて、死体をおいて瞬時に去る。呆然《ぼうぜん》とするほど冷たく、そして厳粛である。そこには、どんな感情もさしはさむ余地がない。悲しみさえも、すぐにはうけつけようとしないのである。とすると、私がこれまで死のたびに感じた羞恥《しゅうち》というのは、なんだったろうと私は思った。そうして、それは私の血に対する劣等感が勝手に描いた妄《もう》想《そう》のせいではなかったかと思い至った。死の前では、あらゆる妄想は墜《お》ちる。事実、例の羞恥はついにこなかった。
それにしても、父は死体となってから、逆に生き生きとした表情をとり戻《もど》したことはふしぎであった。私は、暇を盗んでは北枕《きたまくら》に寝かされた父の死体を見舞い、白布を上げて父の死顔にみとれた。そこには刻一刻、ふしぎな変化がおこなわれていた。まず、闘病の苦渋にゆがんだ表情が次第にうすれ、その下から味気なさそうな白面があらわれ、そうして最後に、その白面が色づきはじめた。
死が仕掛けて行った悪戯《いたずら》であった。しかし、そうは思いながらも、七十年にわたって父をさいなみつづけてきたさまざまな感情――恥、悲しみ、悔恨、自責、祈り、あきらめ、その他およそ安楽とは無縁の翳《かげ》がさっぱりと落ちた死顔の上に、これまでみたことのない、ふしぎなやすらぎの表情がうかび上ってくるのをみたとき、私はやはり、悔恨をまじえた一種の感動をおさえることができなかった。私は、たとえてみれば翁《おきな》の面そっくりに完成した父の死顔を眺《なが》めて、こんな豊かな表情がもし生前の父にあったのだとしたら、それを汚辱で塗りつぶしてしまったのは上の四人のきょうだいの罪であり、そうして父が生きているあいだにその汚辱を雪《そそ》ぎえなかったのは私の恥だと思った。死だけがそれをなしえたのである。そして、私の恥は永久に消えない。
私は、そのとき、父がまさに死の手に落ちたことを実感した。そして、いいようのない悲しみに打たれ、はじめて涙が滂《ぼう》沱《だ》として流れたのであった。
幻燈《げんとう》畫集《がしゅう》
八歳のお凛《りん》は、両頬《りょうほお》にえくぼを刻んで、大きく唾《つば》を呑《の》み込むと、
「あたし、バイドクよ。」
というのであった。
「そう。バイドクって、いい気持?」
六歳の私は、お凛の顔すれすれにしゃがんで尋ねる。
「いい気持なんかじゃないやが。バイドクって、毒よ。たいへんな毒なのし。それがあたしのからだに巣食っているのし。」
お凛は、目を大きく瞠《みは》ってみせる。けれども、お凛にはちっとも悲しがっているふうが見えない。それが私には不満で、お凛の白い腿《もも》をつねってやる。
「痛い。」
「そんなにひどい毒に巣食われていても、おまえ、ちっとも悲しまねすけ。」
「悲しいわ。」
とお凛は急に顔をしかめる。
「悲しかったら、泣きやんせ。」
「泣くから、つねるの、やめやんせ。」
お凛はいう。それから、下唇《したくちびる》を突き出してしくしくと泣く。私は、お凛の口に唾があふれ、味噌《みそ》っ歯《ぱ》の隙《すき》間《ま》から糸を引いてしたたるのを見て、満足する。
「もう、泣くの、やめやんせ。」
お凛は、すぐに泣きやんで、つんつるてんの着物の裾《すそ》で唇をぬぐう。すると、お凛の痩《や》せた両腿の間から、不自然にふくらんだ下腹が見える。それは地面の苔《こけ》の色を映して、蛙《かえる》の腹を見るようであった。
「おまえの、そのふくれた腹に、バイドクが巣食っているのだろうが、どっから入ってきたのかのうし。」
私は同情して尋ねる。
「どっからって、生まれつきよ。ほら、見なせ、あたしの爪《つめ》。みんな、縦に割れてるえ。これはバイドクのしるしだと。バイドクに巣食われた人はな、大きくなると鼻が流れてしまうんだと。」
お凛は、また目を大きく瞠って、むしろ誇らしげにいうのであった。私はお凛の、つんと反り返った鼻を見詰める。鼻がどうして流れるのだろう。
「嘘《うそ》いうて。誰《だれ》がいうたのし。」
「かあちゃんがいうた。前のかあちゃんがいけないのだって。」
「おまえのかあちゃん、二人いる?」
「そ。でも、前のかあちゃん、あたしをおいて、馬《ま》淵川《べちかわ》越えて岳《だけ》越えて、ずっと遠くさ、いったげな。いまは、ひとり。」
その母は継母《ままはは》で、塩辛声を出す、目のふちの黒い女であった。
「それでも、あたしを嫁にするかえ?」
お凛はいう。
「する。」
それはもう、前から何度もいってたことだ。
「鼻が流れてもかえ?」
「ん。鼻が流れても。」
「嫁になったら、なにくれる?」
「半襟《はんえり》。」
「何色の?」
「ももいろ。」
お凛は、すっと立ち上る。私がくれる半襟が桃色であることを確かめると、お凛はいつも、すっと立つ。それから、半襟のまぼろしを追うように、さよならもいわずにすたすたと帰ってゆくのであった。
私の家は、目抜き通りの、角から二軒目の呉服屋であった。私はそこの三男に生まれた。六人兄弟の、末っ子であった。兄や姉たちは、みな私とは年齢がかけ離れていた。すぐ上の姉でさえ、私より十歳も年上であった。私たち兄弟は、上の五人が一年置きぐらいに相次いで生まれ、私だけが忘れたころに、ひょっこり生まれてきたのである。
兄や姉たちは、みな家にいなかった。家には両親と私と女中一人と、店の丁稚《でっち》二人が暮らしていた。
私には、お凛しか遊び相手がいなかった。お凛は、私の家の隣にあるコンクリートの銀行の、通用門の脇《わき》に屋台店を出している鯛《たい》焼《や》き屋の娘であった。お凛はある日、私が店先の飾窓のところに立っていると、そろそろと近寄ってきて、飾窓のガラスに顔を押しつけた。
「あれ、なにせ?」
「半襟。」
それからお凛は、毎日のように半襟を見にきた。そうして、私にバイドクの話をしてきかせ、嫁にすることを誓わせて帰ってゆく。印で押したような毎日であった。私は、お凛が帰ってゆくと、それで一日が終ったような気がした。つまり、私が六歳のころ、私も、私の一家も、平穏無事に暮らしていた。
七歳の春、三月の風の吹く朝、私が店で、丁稚の五《ご》郎衆《ろしゅう》が父の吸い残しの煙草《たばこ》をうまそうに吸うのを眺めていると、巡査がぬっと入ってきた。五郎衆は、あわてて煙草を火《ひ》鉢《ばち》の灰のなかに隠して立ち上ると、
「――美那《みな》ちゅう人の宅は、ここだの?」
巡査は手帳を見ながらいった。五郎衆は、ただ無言でぺこぺこし、逃げるように奥へ入ると、入れちがいに母が出てきた。巡査は母に敬礼し、おなじ質問をくりかえした。
「はい。美那はうちの次女でやんすが。」
母が答えると、巡査はせわしくまばたきしながら、
「実はな。」
といいかけて、ふと私をにらんで口を閉ざした。私はぞっとし、店の奥へ駈《か》け込んで、そっとうしろを振り向くと、帳場の囲《かこ》い格《ごう》子《し》の隙間から、母が巡査の前にへなへなと崩れ落ちるのが見えた。
思わず立ち止まった私に、巡査ははげしく手を振って、
「おい、子供。お父《ど》さを早く呼んでけれ。」
と叫ぶようにいった。私は奥へ入ろうとすると、うずくまっていた母が、何事もなかったようにまたすっと立ち上って、
「ごくろうさんでやんした。」
と巡査にいった。けれども巡査が帰ると、母はまた膝《ひざ》を抱くようにしてうずくまった。
それから、私の家に嵐《あらし》がきた。
風が砂埃《すなぼこり》を上げて通りを吹き抜けるたびに、間口いっぱいに張り渡した黒白の幕が、はたはたとはためいては、ガラス戸にぴったりと貼《は》りついた。幕を絞ったところから、見知らぬ人びとが、沈んだ顔をして集まってきた。なかには、顔なじみの人たちも混じっていたが、いつもより私には無愛想にした。
「どうしたのし?」
と私が訊《き》いても、みなは、
「いいの、いいの。あとでな。」
といって仏間へ入った。
仏間では、香が焚《た》かれ、僧がきて読経《どきょう》した。
子守女は私に、誰かが死んだと教えてくれた。
翌々日の午後、私の家から葬列が出た。私は、子守女に手を引かれ、葬列と一緒に寺へいった。
寺には、不思議な世界がひらけていた。まぶしい光の照り返しのなかで、耳馴《な》れない音楽と僧の合唱を聞いていると、私は夢を見ているような気持になった。私は、母と一緒に仏壇の前に進み、茶色の粉を火にくべて、両手を合わせた。
祭壇の上方には、一枚の大きな写真が飾られていた。それを見て、私は思わず写真の人に笑いかけた。中の姉の美那さんであった。髪を編んで、首の両脇に長く垂らしている人である。いつもむらさき色の袴《はかま》をはいている人である。母に袖《そで》を引かれて、席へ戻《もど》ると、東京から帰ってきた次兄が、私に怒った声で、「笑うな。」といった。
式が終りそうになったころ、紋服の老人が進み出て、父とひそひそ話をした。それから、私たちに丁寧なお辞儀をして、祭壇の前に立った。
「美那さん。なぜ、死んだのですか。」
だしぬけに、老人は大声でそう叫んだ。まるで、叱《しか》りつけるような声であった。老人のからだは、前後に大きく揺れ動くように見えた。
「美那さん。なぜ、わしに一言いってくれなかったんです?」
老人は、顎《あご》をがくがくさせてそういうと、急に呟《つぶや》くような声になって、
「あんたとわしは、おなじ歌の道の仲間じゃありませんか。」
といった。それから、立ったまましばらくうなだれていた。すると、あたりに激しいすすり泣きのざわめきが起こった。
墓地は、風が吹き荒れていた。卒塔婆《そとば》はみな、わなわなと顫《ふる》えていた。新墓所へ通ずる曲りくねった石畳の細道を、鉦《かね》を抱えた小《こ》坊《ぼう》主《ず》を先頭にして行列が進んでいくと、桐《きり》の大枝が風にごおと鳴るたびに、鉦の音はぷつんとちぎれて、小坊主は音のしない鉦を叩《たた》いた。桐の梢《こずえ》のはるか上空に、赤い凧《たこ》が一つ、空に貼りついたように動かなかったのを憶《おぼ》えている。
私の家族は、美那さんの死について、私に語ることを憚《はばか》っている気配があった。私自身も、家のなかに籠《こも》っている、なにやら秘密めいた沈黙に気押《けお》されて、尋ねてみる気にもなれなかった。
父は帳場の囲い格子のなかで、黙々と算盤《そろばん》をはじいていた。時折、荒々しく喉《のど》を鳴らして、痰《たん》を吐く。たまには私を抱き上げたが、私の頬に鼻を当てて、「乳くさい。」といってすぐに降ろした。
母は目を赤くして、暇さえあれば放心していた。かと思うと、ヒステリックに私を叱った。
私の家から一町も離れていないところに、私の叔父の経営する百貨店があった。夕焼けのとき、そこの屋上の展望室の窓ガラスが、火事のようにぎらぎら燃えるのが私の家の中庭から見えた。百貨店の店舗のうしろに、叔父の家族の住居があり、私たちはそこを〈本家〉と呼んでいた。私の母の実家である。叔父は、私の母のことを〈姉さ〉と呼んでいた。
私の長兄、文《ふみ》哉《や》さんは、叔父の手助けかたがた、商略を身につけるために本家に寄食していた。
彼は、針金のように痩せて背が高く、顔が不自然なほどちいさな人であった。黒っぽい和服を着て、角帯を締めていた。時々、つづけざまに弱い咳《せき》をした。そのほか、彼について知ることはなにもない。
私ははじめ、彼が誰なのか、私のなになのかを知らなかった。本家の老いた番頭に、こっそり尋ねて、笑われた。いちばん上の兄さん、と知らされ、そうか、と思った。けれども、彼と私とは親子ほどの年齢のひらきがあった上、おなじ家に一緒に暮らした記憶が皆無で、私には彼と血を分け合っているという実感がまるでないのであった。
いちど、叔父の家の茶の間で、彼と二人きりで夕食の膳《ぜん》についたことがある。
そのとき、私たちはエビの天ぷらを食べた。私がそれを箸《はし》でつまんで、むしゃぶりつくと、長兄は、
「もっと落ちついて食べないか。」
と、いらいらしたような声でいった。私は頷《うなず》いてのろのろ噛《か》み切り、またもとの皿へ戻すと、彼はながい睫《まつ》毛《げ》の蔭《かげ》からきらと目を光らせて、
「いちど口をつけたものは、皿に戻すもんじゃないよ。」
と、こんどは声を荒げていった。私はまた頷いたが、即座に癖を直すことができない。いわれる尻《しり》から、すぐまたおなじ癖をくりかえし、はっとして彼の顔を仰ぐと、刺すようなまなざしにぶつかって、私は、自分の馬鹿《ばか》さ加減に思わずくすりと笑ってしまった。
長兄の白く禿《は》げ上った額に、くっきりと青い血管が浮かび上った。彼は、顫える手つきで朱塗りの箸箱を握ると、押し黙ったまま、私の頭を強く打った。
それきり、彼の姿は私の記憶からぷっつりと消えている。私は絵本で鶴《つる》の絵を見るたびに彼の容姿を思い出したが、すでに彼の名を思い出すことができなかった。
次兄の卓治さんは、東京にいて、年にいちど、年の暮に帰ってきた。彼は応用化学の学校を出て、いまはある研究所の技師であった。
次兄が帰郷する朝、私は子守女に付き添われて駅まで迎えにいかされた。次兄もやはり私にはなじみの薄い人であったが、私は、おぼろげながら彼の顔を憶えていた。
汽車が到着して、ホームに降り立つ人々のなかから、私は苦もなく、次兄らしい人を見つけることができた。彼は、外套《がいとう》の襟に深々と顎をうずめ、寒そうに白い息を吐きながら改札口を出てきた。けれども、彼が近づいてくると、どうしたわけか、私は急にわけのわからぬ感情が胸に迫って、彼にくるりと背を向けてしまうのである。彼の姿は、人込みのなかで見ればまぎれもなく肉親のように思われたけれども、待ち構えて近くで見ると、全く見知らぬ赤の他人のような感じに打たれるのである。
兄は、年々変貌《へんぼう》する私をいちいち憶えていてくれなかったし、私の子守女も彼にいちども面識がなく、私の曖昧《あいまい》な記憶に頼り切っていた。私は彼女に、
「来《こ》ん。」
と不機《ふき》嫌《げん》にいい捨てて、茶色のトランクの方へすこし躯《からだ》を傾けながら、うつむき加減に歩いてゆく次兄のあとを、実にしらじらしい気持で追うのであった。
家へ帰ると、母は私を次兄の膝に坐《すわ》らせて、
「やっぱり、忘れてたえ?」
と、彼と顔を見合わせて、笑った。次兄は、私の頭をぴしゃぴしゃ叩いて、象や熊《くま》の形をしたチョコレートの土産をくれた。
その年の四月、私は、市の小学校へ入った。校門の両脇に、プラタナスの大木がそびえる学校である。
入学前の面接のとき、教師がにこにこしながら私に尋ねた。
「兄弟は、何人ですか?」
私は、即答できなかった。付き添ってきた父が、急《せ》き込んで、「四人でやんす。」と答えた。私は入学を許可された。
私は、入学式の翌日から、母の付き添いを断わった。入学式の日にさえ、付き添いなしでやってくる子も、大勢いたのである。彼《かれ》等《ら》は、草履袋をぐるぐる回し、大声でわめきちらしながらやってくる。私は、彼等の威勢のよさに、わけのわからない畏怖《いふ》を感じた。断わっても、母が無理に校門まで送ってくると、私はやけになってプラタナスの大木の根本を蹴《け》った。私は、自分の心を励ますとき、校門のプラタナスを蹴りつける癖がついた。
私は、勉強を見て貰《もら》うという名目で、静かな屋敷町にある姉たちの家に出入りするようになった。姉たちは、鉄鋲《てつびょう》打った古めかしい門構えの広い家を借りて、門に箏曲《そうきょく》教授の看板を掲げていた。
中の姉の美那さんのほかに、まだ二人の姉があったのである。残された姉たちは、そろって不幸な生まれつきであった。二人とも、生まれながらに目が悪かった。眼球全体に灰色の膜がかかっていた。それでも、色眼鏡をかけると、人の表情など、うすぼんやりと見えるらしかった。けれども、うすぼんやりとしか見えないということは、全くの盲目よりも辛《つら》いことであるかもしれない。姉たちは、ものをよく見ようと努めるために、顔を横にこまかく振り動かす癖があった。それが、私にも悲しいしぐさに思われた。道で、むこうからやってくる姉たちを見かけると、私は胸が詰まって、立ちすくむようになった。姉たちは、そろいの色眼鏡をかけ、手をからみ合わせて、道の片隅《かたすみ》をそろそろと歩いてくるのである。
上の姉の亜矢《あや》さんは、生田流《いくたりゅう》箏曲の名取りであった。下の姉の香代《かよ》さんも、名取りではなかったけれども、亜矢さんに劣らずよく弾いた。総勢三十人ほどの女のお弟子が、毎日、入れかわり立ちかわり稽《けい》古《こ》に通ってきた。だだっぴろい家のなかには、一日じゅう琴の音が絶えなかった。琴の音が流れている限り、姉の家には不思議な華やかさがあふれていた。そこには、姉たちの不幸にまつわる暗い翳《かげ》がみじんもなかった。
姉たちは、私に勉強を強《し》いなかった。その代わり、西洋の童話や日本の昔噺《むかしばなし》を、かぞえきれないほど話してくれた。私には学校の勉強よりもその方が幾倍も楽しく、私は家へ帰ることを忘れて姉たちが稽古を終えるのを待っていた。私には、目の不自由な姉たちが、十数本の細い琴糸を一本も間違えずに弾きこなすのが不思議でならなかった。まるで神業のように思われた。私は姉たちがいない間に、こっそり琴に向って、見憶えた演奏の姿勢をまねてみたことがあったけれども、目をつむると糸のありかさえ見当がつかず、爪《つめ》がはずれて、聞き苦しい音を立てるばかりであった。
亜矢さんに、男友達が一人いた。佐々《ささ》淡水《たんすい》という名の詩人である。
佐々は、地方新聞に長い詩を投稿する男であった。さる士族の御曹《おんぞう》子《し》だが、街のカフェの女に入れ揚げて、自家への出入りを禁じられているという噂《うわさ》であった。彼はいつも長身に和服を着流しにして、頭には型のくずれた中折を目が見えなくなるほど深くかぶっていた。着物の裾《すそ》からは火箸のような脛《すね》を半分ほどもむき出しにし、足にはフェルトの草履をはいていた。彼は、亜矢さんが『令女界』という雑誌の愛読者で、投稿した文章が時々掲載されるのを知って、はじめて訪ねてきたそうである。それ以来、べつに用事がなくても、ふらりとやってくるようになった。
亜矢さんは、この唯一《ゆいいつ》の男友達を大事にしていた。けれども、香代さんやお弟子たちは、佐々淡水をサタンと呼んで、こわがっていた。佐々が門をくぐるのを見かけた一人が、
「サタンよ。」
と叫ぶと、みんな一斉に息をひそめた。
けれども、佐々は誰《だれ》も知らぬまに、ゆらりと庭先に立っていることがあった。すると、おさないお弟子たちは、きゃっと悲鳴を上げて姉たちにとりすがる。私はただ薄気味悪いだけで、べつにこわくはなかったので、縁先から動かずに亜矢さんとサタンとの奇妙な会見を眺めていた。
サタンは大抵、たそがれにきた。ひょろりとした痩《そう》躯《く》が、黄ばんだ微光のなかを、植込みをぬって漂うように近づいてくるさまは、なにか不吉な妖《よう》気《き》をあたりいちめんにまきちらしているように思われた。サタンは、玄関から案内を乞《こ》わずに、直接庭へ回って、紅色の花がぽとぽとと咲いている合歓《ねむ》の木の下にたたずんだ。そうして、自分の心を励ますように、鞭《むち》のような竹ステッキで二、三度空を切ってから、痰を吐くような咳ばらいをした。それが亜矢さんを呼び出す合図のようで、頬《ほお》をこころもち赤らめた姉が縁先へ出て腰を折ると、サタンは早足に近づいて、懐中から黒い表紙の分厚い本を取り出し、無言で姉に手渡した。姉は、本の扉《とびら》のところにはさんである手紙を抜き取り、淡い光の方へ傾けて、鼻が触れんばかりにして読み取ると、深く頷いて奥の書院へ入っていった。書院には、姉の蔵書がぎっしり詰まった本棚《ほんだな》があった。
姉が二、三冊の本を抱えて書院から出てくるまで、サタンは、うつむいたまま、ステッキの先で縁の下に並んでいる蟻《あり》地《じ》獄《ごく》をしきりに突っついていた。そして、姉から本を受け取ると、帽子をかぶったまま、押しいただくように一礼して懐中におさめた。それから、口をへの字にゆがめ、鼻の両脇《りょうわき》に深い皺《しわ》を刻んで、あとずさりするようにしてゆっくり合歓の木の根本まで歩いた。そしてそこからは、突然くるときとは打って変った急ぎ足で、飛ぶように私たちの視界から消えたのである。
姉は縁先にしゃがんだまま、よく見えない目で門の方を見やっていた。
その秋は、陰気なことが相次いで起こる季節であった。
秋の初め、亜矢さんが急に死んだ。
死ぬ三日前、亜矢さんが深い眠りに落ちたまま、呼んでも醒《さ》めないといって、家のなかが騒いだ。亜矢さんはそれから三日の間、昏《こん》々《こん》と眠りつづけて、そうして、ついに醒めなかったのである。
死んだあくる日は、朝から糠雨《ぬかあめ》の降る日であった。私の店の屋号を染め抜いた印半纏《しるしばんてん》の人夫たちが、姉の棺《ひつぎ》を肩にかついで門の外へ運び出した。門の外には霊柩車《れいきゅうしゃ》が待っていた。
するとそこへ、黒塗りの警察の車が、するすると近寄ってきて、私たちの前に停まったかと思うと、一人の巡査がサーベルを鳴らして車から降りた。
「おい、その棺桶《かんおけ》の運搬、中止。」
と彼は手を上げて叫んだ。彼のあとから、べつの巡査が二人と白衣の男が一人降りて、彼等は私の両親を取り囲んで、なにか談判をしはじめた。やがて父は、舌うちしていった。
「いや、もう済んだんですてば。これから焼き場へいくとこでやんす。」
「ともかく、積込み中止だ。戻せ。」
巡査の一人が居《い》丈高《たけだか》にいった。
亜矢さんの棺は、ふたたび人夫にかつぎ上げられ、家の座敷に戻された。出入り大工の加《か》介《すけ》が、警察の四人の目の前で、大きな釘《くぎ》抜《ぬ》きをふるって棺の蓋《ふた》をこじ開けた。ぎいぎいという音が、障子を閉め切った部屋のなかに高くひびいた。母は両手で耳を覆《おお》って、目を閉じていた。
蓋がすっかり開くと、聴診器を手にした白衣の男が、無遠慮に棺のなかへ手を入れて、死んだ亜矢さんの顔をいじりはじめた。目をいじっては、一人えらそうにしている巡査に耳うちし、唇《くちびる》をいじっては耳うちする。母は、たまりかねたように遠くからいった。
「もう、そんなにいじくり回さなくても、いいでしょうが。死んでからまで、いじめないでくんしゃんせ。」
すると、えらそうな巡査が母を振り返っていった。
「黙っててけれ。警察には警察の見方ちゅうもんがあるんだし。もすこし、調べさせてけれ。」
母は走るようにして縁側へ出ていった。私もあとを追って出て、ふと見ると、庭の合歓の木の下に、いつのまにきたのか、サタンが、罪人のように雨に打たれながらしょんぼりと肩を落してたたずんでいた。
秋のなかごろ、お凛が死んだ。
お凛は、胸のやまいで、夏ごろから姿を見せなくなっていた。そうして、鼻が流れるのを待てずに命を落したのである。お凛へくれてやるはずだった桃色の半襟《はんえり》は、それからしばらく店の飾窓に下がっていたが、ある日、頭を角刈りにした他所《よそ》者《もの》の男がきて、
「あの手《て》拭《ぬぐ》いを、軽く包んでくんねえ。」
といって買っていった。
おなじころ、仙《せん》太《た》が逃げた。
仙太は、その年の春以来、うちの店に五《ご》郎《ろ》衆《しゅう》と一緒にいる丁稚であったが、昼日なか、鼠《ねずみ》を見ただけで蒼《あお》ざめるほどの臆病者《おくびょうもの》で、それが、ある日、集金にいったまま帰ってこなかったのである。けれども、父は、仙太が悪事をはたらくような人間ではないと見て、たぶん自分の家にいるだろうから見てこいと五郎衆にいいつけた。私は、五郎衆について下町へいった。
あんのじょう、仙太は自分の長屋の裏にいた。長屋のうしろを、石垣《いしがき》の崩れかけたせまい川が流れていて、彼はその川べりの柳の木の下にしゃがんで、金網のなかの軍鶏《しゃも》を眺《なが》めていたのである。私が彼の背後から、「仙太衆。」と呼ぶと、彼は、あ、といって、川べりづたいに逃げようとした。けれども、そこに五郎衆が立っているのを見ると、彼はまた、あ、といって、いきなり川のなかへ飛び降りた。川水は仙太の膝《ひざ》までしかなかった。
「おい、おめえ、集金をちょろまかしたべせ。」
五郎衆が川岸からきめつけると、仙太は手を振って答えた。
「いんや、銭《ぜに》はとらねし。おらには誰も払ってくれねのし。」
「んだら、なして店へ戻《もど》らねて?」
「毒嚥《の》むような家は、おっかなくて、生きた空もねえものし。堪忍《かに》してけれ。」
仙太は、じゃぶじゃぶと飛沫《しぶき》を上げて、流れに溯《さかのぼ》りながらそういった。五郎衆も彼と並んで川べりを歩きながら、
「ばか。毒なんかじゃねったら。川から上れ。」
と声を励ましていい聞かせたが、仙太は、どこまでも川を溯りながら、
「おらはもう、あの家へは戻りたくね。堪忍してけれ。堪忍してけれ。」
と、泣くようにいうのであった。
私は、十一歳になるまで、銭湯の女湯に入れられた。
夕暮に、私は紺絣《こんがすり》に焦茶色の帯を締めて、母と一緒に女湯の香油くさい暖《の》簾《れん》をくぐるのである。母は私のからだを洗ってから、長い時間をかけて、自分の髪をたんねんに洗った。その間、私は湯槽《ゆぶね》のふちに腰かけて、ぼんやりあたりを見回していた。そんなとき、流し場にぺったりと尻を落して、しきりに首筋を洗っているお凛の継母をよく見かけた。
お凛の継母の腹は、休むひまもなく、ふくれたり、しぼんだりした。しぼんだ腹は皮がたるんでたれ下がり、その上に、黒い乳首からひとりでに乳がしたたり落ちる。彼女は、私を見ると、こぼれるように笑って、タオルに包んだ猿《さる》みたいな赤児を見せる。
「ほら、男の子が生まれましてん。大きゅうなったら、遊んどくれやっしゃ。」
彼女は、上方弁でそういった。上方弁を使うのは、機嫌のいい証拠であった。彼女はそのときの気分によって、さまざまな土地の言葉を使いわけるのである。それからまた、腹がふくれはじめた。ふくれ切ってしまうと、窓からさし込む夕日を受けて、セルロイドのキューピーの腹のようにてらてらと光る。腹の中央に、縦に臍《へそ》をつらぬいて走る黒い線がくっきりと浮き出る。私はそれを見ると、なぜとはなしに、死んだお凛のことを思い出した。
それにしても、お凛の継母は、腹がふくれ切ってしまうと、きまって私を憎んだのはなぜだろう。彼女は、肩で息をしながら、始終いら立っているように見え、私が湯槽のふちに腰かけていると、つめたい目でにらみながら、とがった腹の先で押すようにして、
「どきな。」
といった。
ある日、母が髪を洗っているすきに、私が独りで湯槽にからだを沈めようとすると、ふくれた腹にざぶざぶと湯をかけながら声高に女たちと話し合っていたお凛の継母が、
「ちょいと、坊や坊や、首に石鹸《せっけん》がごってりついてるじゃないかよ。すっかり洗ってから入んな。」
と、あざけるように私にいった。私は恥ずかしく、女たちに背を向けてそろそろ這《は》い上りかけると、女たちのひそひそ声が私の耳に聞こえた。
「どこの子?」
「**の子でさ。」とお凛の継母は私の家の屋号をいって、「おふくろさんは小町娘とかなんとかいわれて、なんぼ若いときはぜいたく三昧《ざんまい》に暮らしても、いまとなっちゃ、ねえ。」
私は、母の横にうずくまって首の石鹸を洗い落しながら、独り言のように、
「小町娘だと。いやらし。」
といった。けれども、母はなにも聞こえなかったように、タイルの上にきっちりそろえた膝の上に髪をたらして、ひいひいと聞こえる掛け声を洩《も》らしながらただ両手で荒っぽく揉《も》むばかりであった。
銭湯へは、六つ年上の島ともいった。
島は、私の家の女中であった。小太りで、肌《はだ》が白く、頬だけが赤い千代紙をまるく刻んで貼《は》りつけたようだった。
私は、島を好いていた。お凛が死んでから、島を嫁にしようと思っていた。私の生まれ故郷の大人たちは、子供が八重ちゃんを好きだといえば、
「おう、おう、そうな。大きくなったら、八重ちゃんを嫁に貰うべしな。」
という。私は、人を好きになることは、嫁にすることだと思っていた。
銭湯へ、島といくようになってから、私は女湯特有の匂《にお》いを感じるようになった。それは、へんに鼻の奥をくすぐる匂いで、私は島がからだを洗ってくれようとしても大人しくいうなりにはなれなくて、不必要に首を動かしたり、腕を突っぱったり、貧乏ゆすりをしたりして、島を困らせた。島はますます頬を赤らめて、せわしくまばたきしながら私をなだめにかかったが、私のふざけ方が度を越すと、きっとして、無言で私の腕をきつく握った。私は反射的に島の腿《もも》のあたりを拳《こぶし》で叩《たた》く。すべすべした島の肌は、ゴム人形のようにはちきれそうな弾力を持っていた。私は、はね返った拳の感触にとまどった。
私は、着物を着てしまうと、番台の前のくぐり戸を抜けて、男湯の炉ぶちにあぐらをかいた。そうして、塩をどっさり入れた麦湯を一と息に飲んで荒々しく銭湯を出た。
四年生に進んだとき、私は、学校から胸につける銀色のきれいな徽章《きしょう》を貰った。さくらの花の中央に、学校の頭文字を金色に浮き出させた徽章であった。それまで用いていた銅色の徽章は、島へくれてやった。はじめ、島はしりごみしたが、ポケットから桐《きり》の箱に入った銀色の徽章を出して見せると、島は驚き、とたんに私の掌《てのひら》から銅色の徽章をつまんで、自分のエプロンのポケットに落した。
銀色の徽章は、紺の冬服にはよく似合ったが、霜降りの夏服には映えなかった。けれども、衣替えの季節になると、島は心得顔に、黒い布切れでちいさな台をつくり、その上に銀章をぬいつけて、それを霜降りの服の胸に安全ピンでとめてくれた。私は大股《おおまた》で学校へ通った。
ある夏の日の、放課後の掃除のときであった。私は、あやまって、鍛冶《かじ》屋の子の新しいズック靴《ぐつ》に雑巾《ぞうきん》水のとばしりをかけた。私は詫《わ》びたが、彼は深刻に憤慨した。
「ゆうべ、夜店で買ったべえだに!」
彼はそう叫んだかと思うと、濡《ぬ》れたズックをぬいで、地面に叩きつけた。すると、ズックは意外にはずんで、汚《お》水《すい》溜《だ》めのふちにぱたんと落ち、それから不意に視野から消えてしまった。鍛冶屋の子は蒼ざめた。
私は、意外なことのなりゆきに、どぎまぎした。そして、なによりも先に彼のズックを拾い上げてやろうとして、汚水溜めを覗《のぞ》き込むと、
「やめれ。手をつけな。」
彼は、狂ったようにそう叫ぶと、あたかも拳銃《けんじゅう》で私を撃つかのように、人差指を私の胸に突きつけて、ズックとはなんの関係もないことを口走った。
「えばるな。黒い布《きれ》なんかつけくさってせ、洒《しゃ》落《れ》もんが。」
私は、虚をつかれて、どきりとした。それから、羞恥《しゅうち》のためにわれを忘れた。
「なんどえ? それよか、おまえの青たんをつぶせ。」
私はいった。彼の眉間にはいつまでも消えない青黒い瘤《こぶ》があって、青たん《・・・》は彼がどうしても馴《な》れることのできない綽名《あだな》であった。彼は、顔をくしゃくしゃにしかめて黙ったが、突然、こういった。
「なんだ、おまえの姉さは。船から海へ飛び込んで、あっぷあっぷだ。」
彼の口から、唾《つば》が私の足元まで飛んできた。彼は唾を吐きちらしながら、両手で宙をかきむしって、おぼれるもののまねをした。彼と私を取り囲んでいた仲間たちが、どっとはやし立てたので、彼は調子にのって、なおもいい募った。
「おめえの姉さ、海豚《いるか》に食われた、海豚に食われた。あっぷあっぷだ。」
彼の目は、興奮のあまり涙ぐんでいた。私は、彼の言葉の意味を即座に納得することができなかったが、彼のいっている事実は否応《いやおう》なしに私の心を圧倒した。私は不意に、ひどい恐怖に襲われて、ただ彼を黙らせようとしてつかみかかった。彼はもろく地面に倒れた。そして、海老《えび》のようにからだを折り曲げて、頭を覆いかくした腕の下から泣くようにいった。
「嘘《うそ》だと思ったら、母ちゃんに訊《き》いてみれ。知らねでいるのは、おまえばっかよ。しょしがんねん(恥ずかしくないだろうか)。」
私は、急に全身の力が抜けて、無言で彼を見下ろしていた。すると、そのとき、すこしも悲しみが湧《わ》かないのに私は泣きたいという思いに駆られた。腕で目を隠すと、涙がひとりでにだらだらと流れた。
私は家へ帰ると、竃《かまど》の前にうずくまって夕《ゆう》餉《げ》の焚《た》きつけをしている島の背後に、ぼんやりと立った。
「ああ、煙《けむ》う……。」
と島が顔をそむけながら私を振り返ったとき、私は島の耳に口を寄せて早口に尋ねた。
「死んだ美那さん、な。」
「え。」
「どこで死んだか、知ってるえ?」
「そったらこと、知りゃんせん。」
島は強くかぶりを振ると、またうつむいて竃の火を吹いた。
「海へ入って死んだんだえせ。」
「ま、なあんてことを……。」
島は叱《しか》るようにそういったが、そのきつい目が、ふと宙に立ち迷うのを見て、私は、鍛冶屋の子の暴言は真実なのだと直感した。
私は、信じたくなかった。できることなら、このまま知らずに過ごしたかったが、崩れかかった秘密を覗き見したい誘惑にもまた耐えられなかった。それから一ヵ月も経《た》ったころ、私は母の箪《たん》笥《す》の戸《と》棚《だな》から、一冊の薄い雑誌を見つけた。『花篭《はなかご》』という地方の短歌雑誌であった。母は短歌を作らない。私は美那さんの葬式のとき、紋服の老人がいった言葉を思い起こして、胸騒ぎした。そして、その雑誌を急いでまるめると、誰《だれ》もいない二階へ上ったが、第一頁《ページ》から見るのがこわいような気がして、いちばん終りの頁をめくった。すると、そこに、いきなり姉の名があった。名の横に、黒い線が引かれていて、同人として姉の自殺を悼《いた》むという記事がのっていた。中の姉の美那さんは、私が入学する一と月前に、海豚の群れる北の海峡へ連絡船から身を投げたのである。
そのとき、私はひどく恥ずかしかった。美那さんがなぜ自殺したのか、その理由が知りたいよりも、自殺という変った死に方を恥じる気持が強かった。独りでこっそり仏間に立つ。美那さんの写真を見上げる。美那さんは襟元をきっちりと合わせ、顎《あご》を二重にしてほほえんでいる。この美しい笑顔の人が、船の甲板から白く泡《あわ》立《だ》っている海へ落下してゆく。そうして、海豚の群れのなかをゆらゆらと漂う。そんな情景を思い描くと、私はわけもなく頬《ほお》がほてってくるのをおぼえた。
私が自分の容貌《ようぼう》のいやしさに気がついたのも、そのころである。
ある日、私はゆるがぬ決意を持って床屋へいった。私は、それまでつづけていたドイツ刈りをよして、すっかり丸坊《まるぼう》主《ず》にしようと思ったのである。
ドイツ刈りというのは、裾《すそ》の部分を刈り上げて、前髪だけをのばす子供の髪型で、私の生まれ故郷では、良家や金持の子弟が好んでその髪型を用いていた。そして、子供の髪型の区別には、市の大通りを通る荷馬車の馬方がもっとも敏感であった。もし、ドイツ刈りの子が彼の荷馬車の尻《しり》にぶら下がっているのを発見すると、彼は馬を停めて、こういった。
「おい、そこの子供。あぶないすけに、よせってば。」
けれども、もし丸坊主の子が彼の荷馬車にいたずらすると、彼はわざと馬を急がせて、手綱の先を投げ縄《なわ》を打つときのようにぐるぐる回しながら、えらい剣幕で怒号する。
「この餓鬼《がき》あ、けっ。馬に踏ませてやら、こっちゃ来《こ》。」
けれども、私はその餓鬼を志し、いきつけの床屋を避けて遠くの床屋へいったのである。そうして、そこのゆがんだ鏡のなかで、自分の激しい変貌ぶりを逐一見届けたのであった。
輪郭がまるく、頬がふっくらとしていたはずの私の顔は、いつのまにか頬骨高く、顎がとがって、いかにもとげとげしい感じの人相になっていた。目は赤く濁り、自分でもどきりとするような、いやな光を帯びていた。その上、むき出しになった私の頭は、意外にも後頭部がやけに長かった。ただ長いのではなく、普通の頭にお椀《わん》をかぶせたように、まるいくびれがついていた。前髪を切り落して、するすると駈《か》け登るバリカンは、そのくびれの部分で、実に大きくうねったのである。
私の勝手な行動は、私を知る人の目を驚かせ、母を悲しませた。母は、私が丸坊主になったことより、母に無断で勝手に振舞ったことを悲しんだようである。父は、けげんそうに私の頭を見詰めたが、なにもいわずに目をそらした。
私は、人の目に長い頭をさらしながら、〈子供〉をやめた安《あん》堵《ど》とともに、なにかの罰を受けているような、いいようのないせつなさをおぼえた。そして、それが自分の身におぼえのない、不当な罰のような気がして、気が滅入《めい》った。すっかりしょげかえっていると、島が見《み》咎《とが》めて訳を問うので、私は、頭が長くて恥ずかしいのだと答えた。すると、島はこともなげに笑った。
「なんの、なんの。キンボシの龍《りゅう》ちゃの方がよっぽど長い頭してますえ。安心しなせ。」
キンボシというのは、近所の横町にある、うすよごれた居酒屋であった。私は、そういう場所へ出入することを禁じられていたが、そのときは、むしろ禁じられているからこそ自分はゆくのだと思った。そうして、家々の軒下をぶらぶら歩き、不意に横町へ折れて、キンボシの縄《なわ》暖《の》簾《れん》をくぐったのである。私と龍とは、徳利がころがっているテーブルをはさんで、力なく笑い合った。
私は、キンボシに入りびたった。
私と龍とは、薄暗い店の隅《すみ》の、すすけた招き猫《ねこ》の下で、早い将棋をなんべんもくりかえし指した。店のなかには、いつも醤油《しょうゆ》と油と酒の匂いが入り混じった、濃厚な温《うん》気《き》が籠《こも》っていた。キンボシの客は、土工、馬方、虚無《こむ》僧《そう》、車夫、旅芸人、大道商人といった人たちで、それが車座になって丼《どんぶり》を叩き、調子はずれの唄《うた》を歌う光景に、私は心を奪われた。そして、こんなよごれた温気のなかに身を沈めている私を見たら、母はどんなに悲しむだろうと思い、自分がなにかうしろめたいことをしているという実感で心が不思議に和むのを感じた。
私は、キンボシの客たちが歌う微妙な節まわしの歌を、しらずしらずのうちに憶《おぼ》え込んでいた。家へ帰ると、それを島に歌って聞かせた。島は、はらはらしながらも、しまいまで聞いて、それから、
「もう、やめにしてくんしゃんせ。悪い子。おらのせいでは、ながんすえ。」
といった。私も、おいらのせいではないぞ、と心に思った。
小学校を卒業する前年の秋、私は島に捨てられた。島は、嫁入りするために、在所へ帰らねばならなかったのである。
母にそのことを告げられたとき、私は内心、おかしかった。みんな、島にだまされているのだと思った。私は、女中部屋でなにかしきりに針仕事をしている島のそばに寝ころんでいった。
「お島。みんなで、おまえが嫁にゆくって噂《うわさ》してらに。」
「あら、そうな。衣裳《いしょう》も持たねで、このまま馬にゆられていけってすか。厭《や》ーんた。」
島は私をちらと見て、くすくすと笑った。すると、私もなぜだかおかしく、畳の上をころげ回って笑いこけた。
私は、島にだまされた。
ある朝、島は縁側で金魚鉢《きんぎょばち》を覗いている私の前にぺったり坐《すわ》って、石のような表情でわかれをいった。そして、これからはもう、キンボシなどへはいってくれるなといった。私は、ぼんやり島の曇った声を聞いていたが、島が顔をそむけて立とうとしたとき、無言で島へ飛びかかって、普段よりいくらか色《いろ》褪《あ》せて見える赤い頬を、指先できつくつねった。
「いくか?」
「はい。迎えがきてますけに。おらはこれで、おいとましゃんす。」
頬が吊《つ》られているせいばかりでなく、その声には早くも別人のひびきがあった。
私は、やりきれない思いがした。なぜ親しい人たちばかりがこうして自分から離れていくのだろう。島が女中部屋へ去ったあと、私はいたたまれなくて、母《おも》屋《や》の急な屋根を駈《か》け登った。屋根のてっぺんからは、遥《はる》か遠くに黄色い野が見渡された。野のはてには、くすんだ茶色の山なみが、ゆるく流れていた。あの山のふもとまで島は帰るのである。
乗合馬車がラッパを鳴らして家の前を通りかかった。島が見知らぬ男と馬車の方へ走り寄るのが見えた。島は、紺絣《こんがすり》の着物に赤い帯を締めていた。見知らぬ男に手を引かれて馬車のなかに消えるとき、島の白いふくらはぎが、ちらとのぞいた。私は、鬼瓦《おにがわら》の上にまたがって、走り去る乗合馬車の砂埃《すなぼこり》を追いながら、しきりにあたりへ唾を吐きちらしていた。
翌年、私は、町はずれの中学校へ入学した。
四月の末のある日、私は受持の教師に呼ばれて、長兄と次兄の現住所を憶えてくるよう命ぜられた。二人とも、その中学校の校友であった。私は家へ帰って、そのことを父に告げると、父はうつむいて、そうか、といった。そのとき、ひどい困惑の色が父の顔を忽《たちま》ち覆《おお》うのを私は見たような気がする。
翌朝、父は次兄の住所とはべつに、一通の封書を私に託して、長兄のことは一切この手紙に書いてあるから、これをただ教師へ渡せばいいと、目をしばたたきながらやさしくいった。私は、手紙を上《うわ》衣《ぎ》の内ポケットに入れて家を出たが、歩いているうちに、ある疑惑のために次第に息苦しくなった。
長兄はいまどこにいるのだろうか、と私は思った。もう長いこと彼の姿を見かけない。家族が彼の噂をするのも絶えて聞かない。彼は死んだのだろうか。それにしては葬送の記憶がなかった。そういえば、家族のアルバムから、彼の写真だけきれいにはがされているのを私は知っている。なぜだろう――私には不吉な予感があった。
私は、毎朝の道順にしたがって広い野に出た。毎朝、私は街路を避けて、野道を通学するならわしであった。その朝、明るい日ざしがまぶしかった。野づらには野火の煙がうっすらと靄《もや》のように流れていた。私は、悪事をはたらく前のすさんだ歩き方で、ゆっくりと歩いた。歩きながら、手紙を取り出して封を切った。巻紙に毛筆で書かれた手紙であった。
前略 御照会の長男文哉のこと 事実ありていに申し上げれば 八年以前失踪《しっそう》せしままいまだに音信なく 目下行方不明でございます ひところ風聞にて京都に潜在中と聞き及びましたが確かならず 時《じ》節柄《せつがら》捜索も思うにまかせず……
私は、最後まで読みつづける気力がなかった。また一人、という脱落感だけがあざやかに残った。私は手紙をたたみながら、軽いめまいを感じ、小川のほとりにしゃがんで流れにまるめた封筒を捨てると、それが水面を滑ってゆくのをただぼんやりと眺《なが》めていた。
その日、学校の帰途、駅の売店から旅行地図を買った。長兄を捜そうと思ったのである。思い出のなかの彼は、ただ恐しいばかりの人であった。かつて箸箱《はしばこ》で私の頭を打った人である。けれども、いまは無性に会いたい気がした。会って、家へ連れ戻《もど》したい。そうしなければ、私たち肉親の絆《きずな》はとめどもなく、ずるずるとほぐれていきそうな不安があった。
私は、家に残っている家族の顔を、まともに見ることができなかった。たとえ長兄の失踪にはどんな事情がからんでいたにしろ、生きているかもしれない彼を放置しているわけが私にはわからなかった。わからないといえば、私の家のなかにみなぎっている異様な明るさも、私には不可解であった。姉たちの変死。兄の失踪。けれども、家族は何事もなかったかのように、明るく笑い合っている。私は、自分の家族にある不信を感じた。顔を見合わせて、ただ笑い合って生きるほかはないような、深い悲しみというものがあるとしても、そのときの私には思いも及ばぬことであった。
私は単純に決意した。旅に出よう。
夜、私は寝床に入ってから、枕元《まくらもと》に旅行地図をひろげた。日本は、意外に広い国であった。白く、細長くのびた日本全土には、無数の鉄道線が掌《てのひら》の筋のように入り乱れて走っていた。
京都。私は京都を探した。まず、京都へいこう。たとえ風聞であっても、京都以外には足跡をつかめそうな場所がなかった。京都は、郷里から三百里も離れていた。そうして、中《なか》京《ぎょう》区、伏見区、東山区。私は、知らない土地を漂泊する心細さで、しばしば地図がかすんで見えなくなった。
私には肝腎《かんじん》の旅費がなかった。もし誰《だれ》かに出費を願うとすれば父以外には考えられなかったが、父はこれまで兄や姉たちの行状を一切秘密にしていたのである。旅の目的をいつわって申し出ても、両親は中学一年の私に一人旅を許してくれはしないだろう。私は次兄に思い当った。彼はおなじ男の兄弟である。話せば相談にのってくれるかもしれない。私は、もはや次兄だけが頼りだと思った。
私は、生まれて初めて、兄弟の一人に長ったらしい手紙を書いた。それは、私がそれまでに経験した最も骨折りの多い仕事であった。折り返し、次兄から返事が届いた。
――生意気なことをいうでない。いまはおまえの出る幕ではない。おまえがもっと成長してから共に語ろう。いまはおまえの女々しい心を鍛え直すことにのみ専心すべきだ。
そんな文面の手紙とともに、重たい荷物がどさりと送られてきた。
ひらいてみると、剣道の防具一式であった。
驢馬《ろば》
私は、昭和二十年七月はじめのある晴れた日の午後、日本の北の町でとつぜん発狂した。
さいしょ、私は、うかつにも自分が発狂したことを知らずにいた。それを私におしえてくれたのは兵藤虎臣《ひょうどうとらおみ》氏である。もし彼がおしえてくれなかったら、私は生涯《しょうがい》、自分の発狂など知らずにすんだかもわからない。
私の狂態をみて、はじめ兵藤氏は激怒した。
「張《チョウ》。貴様、血迷ったな。」
と彼はさけんだ。
しばらくすると、彼は怒りから醒《さ》めてやさしくいった。
「張永春《チョウエイシュン》。気をしずめて。狂っちゃいかんよ。」
最後に、彼は無言で私に叩頭《こうとう》した。
私が自分の狂気を自覚したのはそれからである。
十日ののち、兵藤氏は私をここにつれてきた。ここは町から汽車で北へ三時間、本州の北はずれにちかい海辺の温泉町である。私は彼に片腕をしっかりとかかえられ、心にある期待とおそれを抱いて、町はずれの高台にあるこの陰気な病院の門をくぐった。そして、兵藤氏の知人だというおいぼれた医師の診断をうけたが、その結果、私の狂気はあるひとつの名前をえた。私はいま、その病名を知りたいと思うが、知るすべがない。
老医師は、兵藤氏から私の病状をくわしくたずねて、およその見当をつけ、私をはじめからみくびっていたようである。彼は兵藤氏の話のうちで、私が十九歳の満洲人《まんしゅうじん》であること、二年前に留学の目的で日本へきたが、私の愚かさのゆえにその目的がつねに見失われがちであったこと、そして私の発狂の主因は、胡弓《こきゅう》に対する異常な執心にあるらしいことなどの点に、とくに興味をしめした。
「いろいろ、わかっとるようですが、ただ、日本語を忘れてしまったのか、へんになってから一言も話さんのですよ。」
兵藤氏がつけ加えると、
「なるほど」と老医師はいった。「しかし、日本語は話さなくても、満語は話すでしょう。」
「そうですな。なにか口のなかでぶつぶついっているようですが、満語かどうか。わしのところに、もうひとり、おなじぐらいの満人がいますが、それに訊《き》いてみても、なにをいってるのか、ききとれないというとります。」
「なるほど。」
老医師は深くうなずいてみせると、私の肩に両手をおいた。
「満洲が恋しいね? 帰してあげようか。」
私が思わず目をみはったのは、彼の言葉が私の狂気ではなく、正気の核心をついたからである。そのとき、私の目は一瞬ふるさとのまぼろしをみて、ひとりでにうるんだかもしれない。彼の顔には確信にみちた微笑がありありとうかんだ。診察は、それでおしまいになった。
老医師は、立ち上って兵藤氏になにごとかを告げた。彼《かれ》等《ら》は、よかれあしかれ、物事のけじめがついたときにうかべる安《あん》堵《ど》の微笑をかわしながら、うなずきあった。私はすでに医師の誤診を感じていたが、彼等が平穏のうちに納得しあったことでいっそうその感をつよめた。
彼等は、ながいこと、私の処理について相談をした。兵藤氏は、ひそひそ声で、しきりになにごとかを懇願し、やがて医師が承諾した。
「さよですか。それほどまでにおっしゃるなら、では、そのように計らいましょう。いや、おまかせください。悪いようにはいたしません。」
私は、医師にうながされて立ち上った。彼は私の両肘《りょうひじ》のところを軽く叩《たた》きながら、へんに甘ったるい声でいった。
「さあ、満洲へ帰ろうね。君は故郷へ帰るんだよ。だから、いいかい。おとなしくするんだよ。」
そして、足早に部屋を出てゆくと、背後の廊下から彼のさけぶ声がきこえた。
「看護婦。満人の新来だ。トクの三号へ入れてくれ。」
――それ以来、私は一個の狂者として、このトクの三号とよばれる別棟《べつむね》の一室に幽閉されたままである。老医師は、毎朝、食事のあとに私の部屋を訪問し、「気分はどう? もうすこしの辛抱だよ。もうすぐ満洲へ帰れるんだからね。」と、きまり文句をくりかえすならわしであるが、いっこうに私の帰国を実現してくれそうな気配がない。私は、彼の医術と同様に、彼の言葉をも信ずるべきではないかもしれないが、彼の言葉は私の分別とはかかわりなく、たとえようもない魅力をもって私の正気をゆさぶるのである。私はとりとめもない帰国の夢をみているうちに、いつのまにやら時の観念をまったくなくして、あれからもう幾日がすぎたのかを知ることができない。この毎日の暑さでは、夏もさかりである。七月も末か、八月だろう。
私は、二年前、昭和十八年の初夏、十七歳で日本にきた。おなじ目的の仲間数十人と一団を組んで故国を発《た》ち、日本にきてから二、三人ずつの組にわかれて、各地へ四散した。関西方面へゆくものが多かったようである。われわれは北国へきた。われわれというのは、私と、戦新漢《センシンカン》の二人である。
北国ゆきの汽車にのったのは、われわれのほかにはほんの数組しかいなかった。彼等とも夜までにはつぎつぎにわかれ、私と戦だけが汽車にゆられて一夜をあかした。私と戦は心ぼそさをまぎらわすために、これからの日本の生活について勝手な希望を語りあった。
「窓の外に大きな日まわりのある家だといい。」と戦はいった。日まわりはふるさとの花である。私は、「犬のいない家なら、どんな家だってかまわない。」といった。戦はわらった。「意気地なし。」というので、私は、「犬がこわいといえば誰《だれ》でもわらうが、僕《ぼく》は子供のころ、ふるさとの祭りの日に、狂犬に追われて晴着の裾《すそ》を噛《か》みとられたことがあるのだ。夢中で土橋から川へ飛びおりたので噛まれずにすんだが、くいちぎった空色の晴着のきれをなびかせて、風のように土手を飛んでいった狂犬のおそろしさを君は知るまい。」と私はいった。われわれはひそひそと語りあい、ひそひそわらいあった。そうして、われわれが住むことになっている海岸ぞいの小都市についたのは、あくる日の午前である。北国は、ちょうど葉桜の季節であった。
葉桜というのは、われわれを駅に出迎えてくれた中学校の校長がおしえてくれたのである。われわれがその駅についたとき、ホームは日の丸の小旗であふれていた。私は大げさな歓迎ぶりに目をみはったが、旗はわれわれにではなく、われわれと入れちがいに汽車へのりこんだ白鉢巻《しろはちまき》の出征兵士にふられていた。われわれを迎えた人は、五十を越した老人ひとりであった。
その人は、ちぎれた紙の小旗がちらばっている駅前広場の中央の、涸《か》れた泉水のふちに背をそらして銅像のように立っていた。鞭《むち》のような痩身《そうしん》にカーキ色の洋服を着て、胸に白っぽくひかる勲章《くんしょう》を二つならべてつけていた。われわれが引率の人に紹介されてお辞儀をすると、「よくきた。」とその人はいって、将軍のような身ぶりで軍隊式の答礼をした。私は、その人を本物の将軍かと思ったが、彼はわれわれをひきとることになっている兵藤虎臣という中学校の校長であった。
兵藤氏は、われわれをつれて広場を出るとき、広場のわきを流れる疏《そ》水《すい》のふちの青々とした並木を指さして、こういっておしえたのである。
「ごらん。あれが葉桜だ。大和魂《やまとだましい》の見本だよ。桜はぱっと花をちらせて、ああなるのです。すがすがしい風《ふ》情《ぜい》じゃないか。花がちったあとの美しさ。死んだあとの美しさ。日本を学ぶということは、あの葉桜の美しさがわかるようになることなんです。」
――兵藤家は、城跡のある高台の裾にひろがっている古風な屋敷町の一角にあり、白壁ぬりの家の周囲に高い黒板塀《くろいたべい》をめぐらした広大な屋敷であった。白っぽく古びた道は人通りもすくなく、ときおり近所に住む軍人が白馬を駆って駈《か》けぬけるだけで、あたり一帯は赤松の並木の下で眠っているように静かであった。風が吹くと、松の梢《こずえ》と竹藪《たけやぶ》が鳴った。朝と夕暮には、城跡の杉《すぎ》の森で烏《からす》が鳴いた。われわれは中庭に面した離れを共同の居室として与えられ、そこから兵藤氏が校長をしている町はずれの中学校へかよった。
もし、五郎さえいなかったら!
五郎さえいなかったら、私はこのめぐまれた環境のなかで、留学生活を平和にすべり出せたにちがいない。そして、あるいは、狂者にならずにすんだろう。五郎がいたために、私の留学生活はさいしょから不安にみちたものとなった。
はじめて兵藤家の門をくぐった日、砂利道を玄関の方へ踏んでゆくと、玄関の式台にうずくまっていた女の人が立ち上った。そして、その足もとから、背の黒い、耳の立った巨大な犬が飛んでくるのをみたとき、私はいいようのない困惑で胸がつまった。犬は、われわれにむかって、砂利を蹴立《けた》ててはげしく吠《ほ》えた。私は戦の背中にとびついて息を殺していたが、兵藤氏は、そんなにこわがることはない、よく訓練した犬だから人は噛まないよ、君たちを歓迎しているのだ、といった。それから、犬にむかって、まるで自分の子にいうように、
「五郎。もうよし。お母さんとこへ帰りなさい。」
と、やさしくいった。すると、驚いたことに、犬はうなずくようにして、すたすたと玄関へ帰っていった。兵藤氏は満足そうな微笑をうかべてわれわれをふりかえり、
「あの犬も家族のひとりだからね。家族は、わしと、あそこにいる家内と、五郎の三人だ。」
といった。
これはあとで知ったことだが、五郎はある高貴なお方から拝領したもので、子供のない兵藤夫妻が自分たちの子のように溺愛《できあい》していた。そして、彼等は、五郎のことを〈君〉とよび、われわれを〈お前〉とよんだのである。
われわれがくるときの汽車のなかで交しあったちいさな希望は、二つともそろってくずれた。離れの窓の外には日まわりがなかった。戦はしょげた顔つきをしてみせて、これで合い子だねといったが、私は背中が汗でひんやりとして、わらう余裕さえなかったのである。
留学生活は、私にとってただとまどいの連続であった。私は、ことごとにとまどってばかりいた。五郎がそのきっかけであり、つづいて思いがけない光景がつぎつぎと私の前にひらけた。故国を発つとき、私は、日本通《つう》の戦ほどではなかったけれども、日本についてひと通りのことを知っていると思い、自信があったのである。けれども、きてみると、日本には理解にくるしむことの方が多かった。それは人について最もはなはだしく、私は周囲に、故国で私に日本語と日本の国の美しさをおしえてくれた彼等とは、まったく別人種であるかのような人びとをみた。故国で私をのせた洋車《ヤンチョ》の車夫が日本人は内弁慶《うちべんけい》だといっていたが、本当かもしれない。
兵藤氏は、われわれに、自分は生粋《きっすい》の日本人だといってきかせた。彼のいう生粋というのはどういう意味かしらないが、もしそれが本当だとすれば、私には生粋の日本人ほど難解なものはなかった。
彼は、自分が名のある武士の子孫であり、かつては高貴の人たちがまなぶ特殊な学校に奉職して、皇族に知己を持っていることを、大きな誇りにしていた。彼は心が衰えたとき、祖先の遺品を手にすれば、立ちどころにサムライの血がよみがえると、しばしばわれわれに語っていた。実際、床の間に刀、長押《なげし》に槍《やり》、机の上に刀の鍔《つば》というふうに、それらの遺品は彼を支えるかのように周囲に飾られていた。また、彼は、かつて彼がおしえた皇族たちから記念の引出物に貰《もら》った品々を、立派な桐《きり》の箱に持っていて、そのひとつひとつについて、それを賜った皇族の名とそのときの年月日とをもれなく記憶しているといった。背をのばし、瞑目《めいもく》して、彼がおしえた皇族の名を重々しい声で列挙するときの彼の顔は恍惚《こうこつ》とした。
けれども、彼の内部にはサムライの猛々《たけだけ》しさと高貴に狎《な》れた丁重さとが共存していて、怒ると思えばすぐわらい、ふいに激情的であるかと思えば、ふいにまた冷血であった。彼は怒鳴りつけるような声でしか人を褒《ほ》めなかった。激励というかたちでしか、人を褒めることができない。そして、耳がくすぐったいような慇懃《いんぎん》な言葉で、人の弱点の核心をえぐる。人の弱点を敏感に摘発する術は、彼の特技といってよかった。
彼は、われわれを迎えるにあたって、あらかじめ適切な生活様式を計画していたかどうかは、うたがわしかった。われわれの生活には、日《ひ》毎《ごと》にきびしい戒律が加えられたが、それらの戒律はすべて私の言動が起因になってつくられたからである。彼は、私を咎《とが》めることで、われわれの生活をつくった。彼はじつに入念に私の欠陥をさがしつづけ、それらをひとつの禁戒として生活のなかへ織りこんだ。けれども、彼が最も辛辣《しんらつ》に咎めたのは、私の犯した悪ではなくて、ありのままの私であった。
たとえば、はじめての夜の食事のとき、彼は、日本へきてさいしょにうけた印象はなにかと私に問うた。私はしばらく考え、日本は落日のちいさな国だと答えた。くる途中、汽車の窓からみた印象である。あの落日は、なさけないほどちいさかった。故国の落日は、大きい。落日がちいさいとなんだかさみしい、と私はいったのである。すると、彼は、白い歯を見せながら声を出さずにわらう、ふしぎなわらいかたをしきりにして、ふいにけわしい表情になった。日本は落日はちいさいかもしれないが、朝日は大きい、と彼はいった。
翌朝、われわれは暗いうちに起されて、城跡へつれてゆかれた。日本の朝日をみるためであった。そして、朝日を拝むことがそのままわれわれの日課の一つになったのであるが、彼は私が落日のちいささで日本を象徴したといってながく根に持ち、そのとき、おなじ質問に、「葉桜。」と答えた戦の印象と比較して、しばしば私をやりこめる道具につかった。
私はただ、ありのままを正直に語っただけである。彼がつねにありのままの私に苛《いら》立《だ》ち、にくんでいたのは不可解であった。私は咎められるたびに意外であり、それにとまどっているうちに、生活の自信はもとより、私自身の意志というものをまったくうしなってしまっていた。
私は兵藤氏を神のような人としてひたすらおそれた。それと同時に、戦が私を蔑《さげす》み、私からはなれてゆくことをおそれた。
戦は、私からみれば羨《うらや》ましいような男であった。頭はよく、姿はよく、動作は機敏で、なによりも日本語がひどく巧みで、学校でもたちまち多くの友人をつくり、つねに人気をあつめていた。そんな彼をみていると、私はふと、彼が同国人であることが信じられなくなり、私だけが異国にとりのこされるような不安を感じたものである。
もし兵藤氏が戦を基準にしてわれわれの生活を築いたならば、私はもっとのびのびとして、向上的になれたことはたしかである。私と戦は留学生ということでつねに一対《いっつい》であり、私の生活は戦の生活でもあった。私をしばる戒律は、同時に戦をもしばるのである。新しい戒律がふえるたびに、私は彼に対して一種のうしろめたさをおぼえざるをえなかった。はじめのうちは、彼も私の不運に同情してくれたが、日がたち、戒律がふえるにつれて、私をみる彼の目に非難の色がちらつきはじめ、それが月日を追って濃くなった。
秋、剣道の時間に、教師に日本刀とはなにかと問われ、戦は日本人の魂だと答えたが、私は日本の刀としか答えることができず、戦と私との優劣は衆目の認めるところとなった。私は、みなに〈驢馬《ろば》〉とよばれ、そのよび名は蔓延《まんえん》した。彼等は、私の無能さと無意志な態度を、日がな一日、目かくしされて臼《うす》をひく驢馬にたとえたものだろう。戦が五郎に接近しはじめたのはそのころである。
五郎は兵藤氏の溺愛のために、彼の性格をそっくり身にうけついでいるように思われた。私にはことごとに辛辣であり、私の弱点に敏感であった。この私にはとうていよりつけない相手を相手として、戦は賢明にすこしずつ私からはなれていった。五郎は、戦にはよくなついた。戦が号令一つで自由に五郎をあやつるようになるさまを、私は離れの窓からながめ暮らした。それは胸のふさがる見物であった。
秋のおわりのある日の昼休みに、私は弁当を持って、牧場のようにひろい校庭を足のむくままにあるいていった。そして、校庭と野を仕切る境の土手までいって、土手に背をもたせて弁当をひらいた。校庭の中央には、軍事教練を終えたばかりの武装した一隊が整列しているのがみえた。点呼がおわると、悶着《もんちゃく》が起こり、ひとりの生徒が列の前にひき出されて殴られた。私はそれをながめながら飯を食った。弁当にはまた梅干がはいっていて、私は指さきで掘り出して土手のむこうへ投げすてた。教官は根気よくなんども殴り、頬《ほお》の鳴る音が殴られてしばらくしてから風にのってきて土手にあたった。私は、そのかすかな音をきくためにときどき口を休ませながら、味のない飯を噛んでいた。
ふいに、頭上から声がきた。
「なんだ。張か。」
ふりむいてみると、土手の柵《さく》のあいだから、一つの顔が私をみていた。みたような顔だと思い、おなじ組のひとりだと気がついた。
「梅干投げたのは、お前だな。」と、その顔がいった。「俺《おれ》の頭にあたったぞ。」
私はあわてて立ち上って、頭を下げた。
「大きななりして、ぺこぺこするな。」その顔がわらった。「お前、ひとりか?」
私はあたりをみまわした。
「こっちへこないか?」
その言葉は、私を咎め、いじめる人が誰しもさいしょに使う言葉であったが、土手の顔はわらっている。
「こっちへこないかっていってるんだよ。こっちは風がなくて、あったかいぜ。」
柵の根から、手がのびた。よごれているが、大きな手だった。私はわれ知らず、爪先《つまさき》立《だ》ってその手をにぎった。そして、それにすがって土手にのぼった。むこう側の土手下に、四、五人の生徒が寝そべっているのがみえた。私は、胸の名札で、土手の男は飛《とび》田《た》であることを知った。飛田がいった。
「弁当を持ってやる。足もとの土を飛ばさないようにして飛び降りろ。」
私は、寝そべっている人びとの頭上を飛んだ。
ふしぎな世界が、そこにあった。私は、彼等が校則で外すことを禁じられている巻脚絆《まききゃはん》をとって、白い肌《はだ》を陽《ひ》にさらしているのをみて、そこがすべての咎めから遠い場所であることを直感した。ひとりは煙草《たばこ》をすっていた。その不法な彼等の姿態は、私の目にはただひどく新鮮なものにしかみえなかった。
飛田は、私のそばにどさりと腰を落し、弁当をくれた。
「まあ、そこらでもながめながら、ゆっくり食え。まだ時間はたっぷりある。」
私は、食べのこした飯を食おうと思ったが、箸《はし》がなかった。土手をのぼるとき、落したらしい。
「箸がないのか?」飛田は目《め》敏《ざと》くみていった。「俺のを貸してやろう。使え。」
彼はポケットから白い箸を出して、私の膝《ひざ》においた。私は黙って彼をみた。彼はみかえした。
「きたないと思ったら、手《て》拭《ぬぐ》いでふいて使え。」
「いや、そうじゃない。」
いきなり箸のさきを口に入れると、急に飛田の顔がかすんだ。私は弁当の上に顔を伏せて、急いで箸をうごかした。
「貴様、おかずは梅干だけか?」
嗄《しわが》れた声がいった。私はうつむいたまま、うなずいた。
「貴様らがいるために、校長の家にいろんな特配があるって話だが、貴様にはまわってこないのか。」
私は驚いて、その嗄れ声の方へ顔を上げた。鼻筋の通った、目のするどい顔の男であった。名札をみるまでもなく、早瀬である。早瀬は学年の首席で、さまざまな役目の長をする男だから、私は顔も名も知っていた。けれども、早瀬がなぜこんなところにいるのだろう。驚きが重なって、無言で彼をみつめていると、早瀬の口もとがゆるんで嘲《あざけ》るようなわらいがうかんだ。
「日の丸弁当かあ。」と煙草をすっている男がいった。「戦は昼食会だとかいって金持連中におかずをたかってるからいいが、お前ひとりじゃ、日の丸弁当もまずいだろう。」
私は急に胸がふくれ、のどがつまった。弁当に蓋《ふた》をし、箸を手拭いでぬぐって、「ありがとう。」と飛田にかえした。飛田は煙草を出して一本くわえ、「吸うか?」といった。私はあわてて手をひっこめた。
「念のために、一服吸わせておいた方がいいぜ。」と早瀬がいった。
「気にするな。張はスパイなんかしないよ。」と飛田がいった。
「戦ならするぞ。」と、べつのひとりがいった。「俺は前に、女学生とあるいたのをやられたことがある。満洲人は信用できんな。」
「満洲人にだって、いろいろなやつがいるさ。」と飛田がいった。
始業の鐘の音がきこえると、彼《かれ》等《ら》は立ち上ってあたりの草を踏みつけた。飛田は煙草の吸殻《すいがら》を踏みにじりながら、私をみずにいった。
「気がむいたら、またこいよな。おかずぐらいにはありつけるぜ。」
「毎日、きてもいいか?」私は訊《き》いた。
「きたかったら、こい。だが、教師に知られたら、にらまれるぞ。」
それから、みなは土手の裾《すそ》を一列になって校舎の方へ走った。
私は、あくる日もその土手裏の陽だまりにいった。三日目に、彼等は私にも巻脚絆をとれといい、私の脛《すね》の無毛をわらった。早瀬はにがにがしげに、
「貴様もとうとうここまで流れてきたか。」
といったが、それ以上はいわなかった。それから私は、毎日通った。そこは柵の外であり、生活の枠《わく》の外であった。私が終始生活の外でしか迎えられず、そこでしか積極的になれなかったのは、私の留学生活に与えられた運命だったようである。
私は、そこへあつまる常連のうち、とくに二人のひとに関心を抱いた。ひとりは飛田、ひとりは早瀬である。
飛田ほど死にたがっていた男を、私は知らない。彼は空と死に憑《つ》かれていた。彼は、自分が死ぬときの情景をありありと夢みることができるといって、それを克明に語ってきかせてくれたこともある。彼が空と死について語るとき、彼の目は酒気を帯びたようにとろんとふくれ上って、白い部分には血の筋が網の目のようにうかんだ。そうして、彼は、来年中には飛行兵を志願し、再来年中には死ぬことを、底ぬけにあかるい口調で、私と土手裏の連中に宣言していた。
早瀬は、ただひとり、死を急がない人として印象が深かった。彼は、「生きのこることだって国のためだ。」という持論のもとに、海軍の高級士官を志望していて、相手かまわず海軍式に「貴様。」「貴様ら。」とよびなしていた。彼は、校内では秀才で、注目の的でありながら、土手裏では陰鬱《いんうつ》で怠惰な生徒にすぎなかった。彼の声はしばしば全校生徒を叱《しっ》咤《た》するためにすっかり嗄れ、目はひとを刺すようにみるくせがあった。そして、私を虫けらのごとくに無視している反面、ときおり兵藤氏とはまたべつのいら立ちと憎しみをみせるのは不気味であった。
――ひと月すると、北国の早い冬がきて、雪が土手を埋めた。もし飛田の庇護《ひご》がなかったら、私はストーブにもちかよれずに凍えたかもしれない。私は、異国ではじめての年を越した。十八になった。
初夏、日本へきてから一年めぐって葉桜のころ、われわれに勤労動員の指令がくだった。行先は、町から十里北、太平洋岸にある火沼という沼辺であった。この指令は、私にとっては福音《ふくいん》であった。私は、ただ土手よりもとおい天地をめざして出発した。
九月まで、沼のほとりで暮らした。
仕事というのは、沼のふところまできている道路を、沼にそって海岸まで延長する作業であった。沼は、みずうみのようにひろく、雑木林が岸辺まで迫って、水ぎわまで熊笹《くまざさ》がはびこっていた。それをきりひらき、斜面をけずって平坦《へいたん》にならし、海岸に砲台を建設するための資材をはこぶに耐えうる道路をつくるのである。われわれは、沼辺の部落の分教場に合宿して、終日、その作業に従事した。
作業は、さいしょから困難をきわめた。私は、あだ名のごとく驢馬のように労働した。そこは私を咎めるすべてのものからとおく、ただ黙ってはたらいていさえすれば日が暮れた。私は、はたらくことに歓《よろこ》びを感じた。からだが大きいことが、思わぬところで役に立った。私は五人分のちからはあった。級友たちは例外なく労働がにが手らしく、難所につきあたると、きまって私をよびにきた。私は、誰《だれ》の難所も公平に、驢馬のようにやった。すると、逆に、私を驢馬とよぶものがなくなり、いつのまにか張という名が復活して、それがひと月もすると、張大人《タイジン》にかわった。私は、そこが日本ではないような気がした。別世界にきたような気がした。もし戦がいなかったら、私は生まれ変ったと思っただろう。
戦は、沼へきてから急にからだの故障がつづいて、作業を休む日が多かった。彼は木《こ》蔭《かげ》で、せっせと鉈《なた》など研いでいた。研ぐものがなくなると、誰彼かまわず下着を無理にひったくって洗濯《せんたく》するので、彼の名にひっかけてセンタクヤとよばれた。
つらかった梅雨があがると、北国にも暑気がおとずれてきた。そのころから、病人が続出して、作業の進度は目にみえておとろえた。そうして、ようやく暑さになれはじめたころから、食糧が徐々に欠乏しはじめた。部落は、われわれの食欲をみたすにはあまりにちいさく、貧しかったのである。三度の食事に代用食が二度になり、量も目に見えて減っていった。
八月にはいると、飛田ら飛行兵志願者たちは、一日にひとりずつ、日射病で倒れていった。彼等は、昼食運搬係も兼ねていた私に、炊事場から醤油《しょうゆ》を毎日茶碗《ちゃわん》一杯ずつ持ってこさせ、それをひと息にあおって分教場の校庭を駈《か》け足でぐるぐるまわり、そうして褐色《かっしょく》の泡《あわ》を吹いて倒れたのである。私は彼等からたのまれた通り、病人を看護室にはこび、教師へは日射病で倒れたと報告した。看護室は、たちまち陽気な死神たちで満員になった。彼等は重労働から解放され、枕《まくら》をならべて終日学習の仕上げに没頭していた。そして、ある日、頬を紅潮させて、採用試験をうけに旅立っていった。
飛田らが出発してからまもなく、食糧の底が見えはじめた。作業は暴風雨で道の一部が流されたために、まだ一週間分のこっていた。急遽《きゅうきょ》、その分の食糧を山むこうの村々から買いあつめることになり、早瀬を隊長とする運搬隊が編成された。私もその隊員のひとりに選ばれたが、私はこのような難儀なちから仕事から、いちどだって免《まぬか》れえたためしがなかったのである。
その日は、朝から灼《や》けつくように暑かった。われわれは、部落の農家から借りあつめた荷車をつらねて山を越え、散在する小部落を転々としながら、少量ずつの食糧を買いあつめた。米はごくすくなく、豆が最も多かった。隊長の早瀬は、私と他の五人に大豆の運搬を命じたが、登り坂にさしかかるたびに、他の車から、「張さん、張大人。」という声が上り、私は結局、一台ごとに梶棒《かじぼう》をひいて坂をのぼらなければならなかった。午後、暑さはいよいよ加わった。私は、空腹と疲労とで意識が朦朧《もうろう》とした。われわれは昼食として茹《ゆ》でた馬《ば》鈴薯《れいしょ》をひとりあて三個ずつ、あるきながら食ったが、それがかえって空腹感をつよめた。私は梶棒にもたれかかって、ただからだを前に泳がせながら、ようやく火沼に帰ってきた。
隊長の早瀬は、さすがに私の労をねぎらって、あとの作業――車の荷を食糧庫にはこびこむ作業を免除してくれた。そして、私の全身が汗と埃《ほこり》でどぶ鼠《ねずみ》のようだといい、沼で水浴びしてこいとなかば命令的に私にすすめた。それは、私にとってはまったく思いがけない恩典であった。私は、早瀬に礼をいってすぐさま沼へくだり、水辺の柳の木かげに衣服をぬぎすてて水へはいった。水は岸辺では湯のようにぬるく、岸からとおのくにつれて次第につめたかった。私は沼の中心にむかってゆっくり泳ぎ、水面に寝そべって陽に灼かれた脳天を水にひたした。
しばらくすると、私をよぶ声が水の上をすべってきた。岸辺をみると、柳の木かげから私を手招くものがある。顔の白さから、それが戦だとすぐにわかった。戦は作業をやすんで木かげにばかりいたので、顔は誰のよりも白かった。私は岸へひきかえした。
水からあがると、戦は、親切に彼の手拭いを私にわたしながら、早口でいった。
「早瀬がよんでる。早瀬は食糧庫の前でまってる。大至急だ。」
私はざっとからだを拭《ふ》き、あわただしく衣服をまとって走った。分教場へ登る坂道で、他の隊員たちがぞろぞろ降りてくるのに出会った。彼等は酩酊《めいてい》者《しゃ》のようにひょろつく足どりで、たれた頭をくらくらとうごかしながら、無言で沼の方へくだっていった。
食糧庫は、分教場の広場をはさんで、校舎とむかいあっていた。戸口にちかく、すでに私と共に大豆の車をひいてきた他の五人が整列していて、早瀬は彼等の正面に腕組みをして立っていた。私が列の端につくと、早瀬はいった。
「きょうは、ごくろうであった。これで解散にするが、その前に貴様らの衣服をしらべる。俺は貴様らをうたぐっているのではないが、なにしろこういう食糧事情だし、先生の命令だからやむをえない。他の係のものはさきにすませた。貴様らが最後だ。では、はじめる。」
彼はつかつかと列にちかづき、私と反対側の端からひとりずつ点検してきて、最後に私のズボンの両ポケットを上から同時におさえた。私はそのとき、右腿《みぎもも》に、なにか固いものの圧迫を感じた。早瀬は、するどい目つきで私をみた。
「右の物入れにはいっているものは、なにか、出してみろ。」
私は、右のポケットに手をいれた。指さきにまるい粒々がふれ、それを手のひらいっぱいににぎったとき、大豆だ、と思った。拳《こぶし》を出して、ひらくと、指のあいだから大豆がこぼれた。私は呆然《ぼうぜん》として、手のひらの上のふしぎな黄色の粒々にみとれた。
「ばかもの。」
早瀬は、だしぬけにさけびざま、手刀で私の手首をしたたかに打った。豆は宙に飛び上り、戸口の前の地面にはずみながらちらばった。早瀬は、目をほそめて私をにらんだ。
「貴様、満洲人《まんしゅうじん》のくせして、俺たちの食糧をちょろまかす気か。」
「ちがいます。この豆のこと、僕《ぼく》は知らない。」
私は驚いていった。
「わめくな。」早瀬は私の裸足《はだし》の爪先を蹴《け》り、声を殺してつづけた。「しかし、貴様の物入れには大豆がはいっている。これは、どういうわけか。」
そのわけは、私にもわからなかった。彼の疑問は、そのまま私の疑問でもある。われわれはおなじ問答を三たびくりかえした。
「そうか。」早瀬は口もとにうすらわらいをうかべてうなずき、それから他の五人の方をむいて、おだやかにいった。「いま、きいたとおりだ。俺《おれ》はこれ以上、張を追及しない。ただ、これだけいっておく。張はきょう、朝から大豆のそばにいた。そして、張の物入れには大豆がたっぷりはいっていた。われわれはいま、誰でも空腹だ。――あとの判断は貴様らにまかせる。ただ、このことはみだりに他人に口外しないでほしい。この作業もあと一週間だ。おたがいに、完成まで無事でとおしたい。以上。」
夕やみが足もとまで迫っていた。早瀬はひとりに命じて監督教師をよびに走らせ、私には、ポケットにのこっている豆をのこらず食糧庫のなかに抛《ほう》りこめといった。私は、いわれるままにした。壁にあたってはねかえった豆は、早瀬が靴《くつ》の先で注意深く戸口によせた。
教師がくると、早瀬はわれわれに号令をかけ、「作業完了、点検異状ありません。」と報告した。教師は、「ごくろうであった。」といい、戸口に立ってなかの闇《やみ》をみまわしてから、みずから重い扉《とびら》をごろごろとひいて、家《や》鳴《なり》がするほどつよく閉めた。……
それから夕食時まで、私はほとんど呆然としてすごした。私が盗んだという大豆については、すこしもおぼえがなかったにもかかわらず、犯罪の意識がしだいにつのってくるのはふしぎであった。もし飛田がいたら、飛田がこの謎《なぞ》を解いてくれただろう。けれども、夕食のとき、飛田がすわるべき席、私のとなりの席に、早瀬がすわった。夕食は、豆粥《まめがゆ》であった。豆は満洲にいるときからの好物であるが、その夜はどうしても豆を食う気になれず、粥だけすすって、丼《どんぶり》の底にのこった豆を箸の先でつぶしていると、早瀬が顔をよせてきた。
「貴様、さっぱり豆を食わんな。まさか、俺に気兼ねしてるんじゃないだろうな。遠慮なんかせんでいいぜ。」
私は、うつむいたまま、「僕はやはり盗まないのだ。」と、もういちどいった。早瀬は、鼻でわらった。
「貴様は、自分のしたことを忘れてるんだ。過労か栄養失調で貴様の頭はどうかしてるんだよ。とくに、きょうみたいに暑い日に、なにも食わずに労働すれば、誰だって頭がへんになる。ついうっかりやらかして、あとでけろりと忘れてしまう。俺だって、きょう、どこで小便したのか、いまになるとまるきり思い出せないんだ。貴様は、どうだ? きょう貴様がしたことを、なにからなにまで俺にいえる自信があるか?」
そういわれると、私の記憶のなかにもところどころ欠け落ちているところがあるような気がした。はっきりおぼえているのは、目には百里もあるような気がした木の根が這《は》っている山道と、腹には車の梶棒の圧迫感だけである。私が黙って首を横にふると、早瀬は肩をゆすりながら声を出さずにわらった。
週番の生徒が、からになった丼に薬《や》罐《かん》の湯を注《つ》ぎまわった。豆を捨てにゆこうと早瀬がいうので、彼の丼をみると、そこには粥がほとんど箸を触れなかったように、たっぷりとのこっていた。早瀬は、私がいぶかる目をむけると、唇《くちびる》をゆがめてわらった。
「貴様の大好物だからな。足りなかったら、やろうと思ってたんだ。いまさら食う気もしねえ。」
われわれは、丼を小《こ》脇《わき》にかくして、うすくらがりの外へ出た。校舎の背面のひくい崖《がけ》の下をせまい川が流れていて、そこがゴミ捨て場になっていた。われわれは、崖のふちから丼の中身を捨てた。ひきかえそうとすると、早瀬は、「待て。」といい、「そこへ、しゃがめ。」といった。それから、川を見下ろしたまま、ゆっくりといった。
「きょうの貴様のおこないを、兵藤校長が知ったらどんなことになるか、考えたか?」
私は、ぎくりとして彼の顔を仰いだ。沼へきてからすっかり忘れていた兵藤氏の辛辣《しんらつ》な表情が、彼の顔に重なった。
「きょうのことだけじゃない。」と彼はつづけた。「貴様は前にも、飛田と芋畑から芋を盗んだ。俺は知っている。沼の岸で木の根を焼くとき、灰のなかへいれて焼いて食った。人参《にんじん》も盗んで食った。貴様らは人一倍はたらいた。腹もへったろう。だが、盗んだことは盗んだのだ。校長が盗みの弁解など、きくひとかどうか、それは貴様の方がよく知っている。」
「あなたは先生に知らせるつもりか?」
狼狽《ろうばい》して、私は訊いた。
「いうもいわぬも、貴様次第だ。留学生の名に泥《どろ》を塗るか、工事の殊勲者として町へ帰るか――俺はどっちだっていいんだぜ。」
私は、ふるえてくる膝《ひざ》を抱いて、「いわないでください。」といった。
早瀬は、「そうか。」といい、足もとの小石を拾って、むこう岸の河原に抛《ほう》った。
「いま、石が落ちたあたりから、川下の方をゆっくりみろ。白くひかるものが五つ六つみえる。貴様はあれがなんだと思う?」
私は夕闇をすかしてみた。彼のいう通り、むこう岸の杙《くい》の列のあたりに、白っぽくひかるものが点々とみえた。よくはわからないが、ブリキみたいだ、と私はいった。
「そうだ。あれは罐詰《かんづめ》の空罐だ。」と早瀬はいった。「俺たちはここへきてから、罐詰なんていちども食ったことがない。そんなら、あれは誰が食ったんだ?」
そのとき、私には、そんなことを考える頭がなかった。
「教師だよ。」彼は吐き出すようにいった。「教師たちが、こっそり食ってるんだ。俺たちがカボチャや豆粥を食って、馬車ウマのようにはたらいているとき、なにもしない教師たちは、毎日罐詰を食っては夜中に空罐をむこう岸へ捨てるんだ。」
背後から人のくる気配がした。炊事係がバケツのゴミを捨てにくるのである。早瀬は、背のびして空を仰ぐと、「一番星。」と声高くいい、急に声を殺して早口でいった。
「今夜、寝ないで待っていろ。ランプが消えたら誰かが迎えにゆくから、こい。きたら、校長には話さない。」
くるりとむこうをむくと、暗い校舎の方へすたすたと早瀬はあるいていった。
その夜、みなは泥のように眠った。宿直室のランプが消えてしばらくすると、誰だかわからない男がよびにきた。私は、他人の寝息をきくまいとして、窓から身をのり出して拳で眉《み》間《けん》を叩《たた》いていたが、その男は窓の下まで這ってきて、タンタンと舌を鳴らしたのである。私は窓から飛び降りた。
男は私の足もとへ藁草《わらぞう》履《り》を投げ、黙って校門の方へあるいた。食糧庫の前にさしかかると、闇のなかから、「きたな。」と早瀬の嗄《しわが》れた声がした。早瀬のほかに、二、三人の影法師が、闇よりも黒く私の前に立ちふさがっていた。
「よくきた。」と早瀬の声が私の耳もとでささやいた。「貴様、食糧庫の戸をあけろ。」
「戸を?」私は驚いて訊《き》きかえした。
「そうだ。なかに用があるんだ。黙ってあけろ。」
「鍵《かぎ》をくれ。」と私はいった。
「とぼけるな。」
早瀬がいきなり脇腹をついたので、私はよろけていって、戸につきあたった。
「秘密の任務だから、鍵はない。ただ、ひけばいいんだ。早くしろ。」
私は無駄《むだ》なことだと知りながら、夕方、教師がわれわれの目の前で音高く閉めたはずの戸をなでて、引手をさがした。その重い戸は、閉めると同時に、内鍵の桟《さん》が閾《しきい》の穴に落ちる仕掛けになっていた。あけるには、鉄棒を数字の7の字に折りまげた鍵を、戸の下方にあいている縦にほそながい鍵穴からさしいれて、内鍵の桟をもち上げねばならない。鍵がなければ、いちど、閉めた戸があくわけはなかった。
「静かにひくんだ。早くしろ。」
早瀬が執拗《しつよう》にいうので、しかたなしに私はひいた。当然鍵がかかっているものとして、思わずつよくひいたのである。とつぜん、手もとがゆらりとゆれ、私のからだはのけぞった。瞬間、私は私のちからで倉庫全体が傾き、私の上に崩れかかってくる錯覚に襲われて、飛びのいた。そして、早瀬の胸につきあたり、彼に抱かれたまま空俵《あきだわら》の堆積《たいせき》の上に倒れた。ひとりが私の前を風のようにかすめて、ごろごろとひとりですべっている戸をおさえた。それきり、彼《かれ》等《ら》はながいこと息を殺して身じろぎもしなかった。
しばらくすると、背中の早瀬は私をはねのけようとして私の脇腹を乱打した。立ち上ると、他のひとりが私の胸ぐらをとった。
「阿呆《あほう》。なんてことをするんだ。」
「よせ。」と早瀬はその男にいった。「大事なお客だぜ。殴るのはよせ。」
彼は、私に戸口で見張っていろと命じ、他のものといっしょに庫《くら》のなかへはいっていった。いつのまにかポケットにはいっていた豆。鍵なしであいた庫の戸。私は彼等を呑《の》んで不気味に静まりかえっている戸口の闇をみつめながら、悪い夢を見ているような気がした。
まもなく、庫の床がきしむ音がし、林《りん》檎《ご》箱《ばこ》の大きさの箱がほの白くうかび出て、早瀬の声が私をよんだ。庫のなかにはいると、「この箱をかつげ。」と彼はいい、「さっさとしろ。」といって箱を叩いた。箱はかなり重たく、かつぐと、ずっしりと肩にこたえた。ひとりが戸口にうずくまって、閾をなでるような仕《し》種《ぐさ》をしていたので、私は箱をかついだまま、彼の仕事がすむのを待った。彼はやがて立ち上り、手ばたきをした。
「いいか?」早瀬がいうと、
「よし。」とその男はひくく答えた。
われわれは庫の外へ出た。戸がきしみながらのろのろとすべり、ずしんと柱にあたって止まった。「いいか?」とまた早瀬がいい、すこし間をおいて、「よし。」と男は答えた。早瀬は私の肘《ひじ》を押して、あるけ、といった。
われわれは、食糧庫のわきの畑道をたどって、山の方へのぼった。みな唖《おし》のように無言であるいた。箱の角がシャツの上から肉にくいこみ、私は肩の骨が折れそうだった。立ち止まって、荷をかつぎなおすたびに、私のうしろ、列のしんがりになった早瀬が、青竹で私の尻《しり》をせっかちに打った。
途中から道をそれて林にはいり、熊笹《くまざさ》をふんでしばらくあるいて、林がきれるところで止まった。頭上に、帯のような星空が傾いていた。われわれは林と林の境をめぐる、ほそながい草地にいるらしかった。
「ここまできたら、いいだろう。箱をおろせ。」
早瀬がいった。箱をおろすと、ひとりがほそながい鉄棒で蓋《ふた》をこじあけ、箱の横腹を蹴った。箱が倒れると、中身がにぶい金属的な音を立てて草原に躍り出た。とぼしい星のひかりが、それらの上に落ちた。
彼等は、そのまわりを車座に囲んだ。
「そのまま、きけ。」早瀬がいった。「きょうは、ごくろうであった。今夜は、とくに罐詰を支給して慰労会とする。ひとりあて、五個ずつである。五個そろってから、いっしょに食うことにする。唇を切らぬように気をつけて食え。」
「は。わかったであります。」と、ひとりがおどけた声でいった。
早瀬は罐切りでつぎつぎと蓋をあけ、みんなの前にくばった。たちまち、つよい香気が鼻を打ち、口のなかにじくじくと唾《つば》が湧《わ》いた。早瀬は一座をみまわして、「驢馬《ろば》。」とよんだが、私は口のなかにたまった唾のために、すぐ返事をすることができなかった。彼は私をふりむいて、「阿呆。」といった。
「いつまで立ってるんだ。すわれ。」そして、私の前にも罐詰をならべた。「これを食えば、貴様の役目はおしまいだ。俺は約束を守る男だぜ。校長には黙っている。安心して食え。」
「ちょっと、待ってくれ。」と私は唾をのみこんでいった。
「なんだ。」
「僕の分の五個のうち、二個だけ、蓋をあけないままでくれないか?」
「……どうするんだ。」
「戦に、もってってやる。」
彼等の話し声が急にやんで、とおくの梢《こずえ》をわたる風の音がきこえた。しばらくして、早瀬がいやに真剣な声でいった。
「貴様、なぜ戦のことなんかもち出すんだ?」
「戦も、おなかがすいている。」
「馬鹿《ばか》たれ。」とたんに早瀬は闇を裂くような声で怒鳴った。「人のことなんか、どうだっていいじゃないか。黙って自分のを食えやいいんだ。よし、みんなも食え。食ってよろし。」
すさまじい会食がはじまった。彼等は指で中身をつかみ出し、手のひらにのせて音を立てて食った。私も、彼等の流儀にならって食った。私の心はなぜともなく怯《おび》えていたが、喉《のど》を灼《や》くような食欲には打ち勝つことができなかった。舌がしびれたようで味はわからなかったが、肉もあったようである。魚もあったようである。餅《もち》のようなものもあったようである。そうして、五個の罐詰はたちまち空《から》になった。
「足らんな。」早瀬が舌を鳴らしながらいった。「どうだ、まだ、たくさんのこってるか。」
「全部土産にするには、もったいないくらいのこってるぜ。」箱をゆさぶってひとりがいうと、
「それじゃ、五個のこして、あとはみんな食っちめえ。のこったからって、いまさら教師へかえすわけにもいかんからな。」
私は、思わず背筋をのばした。やっぱり、これは教師の罐詰なのだ。私は、箱の中身が罐詰だと知ったとき、ふと夕方ゴミ捨て場で早瀬がいった言葉を思い出したが、まさか私がこの肩にかついできたものがそれだとは、到底思いもおよばなかった。教師の罐詰を、なぜわれわれは食うのだろう。教師がくれたのだろうか。そんなら、なぜ真夜中に、こんな山のなかまできて食うのだろう。そうして、私は急いで立ち上った。
「どうしたんだ?」早瀬が私を仰いでいった。「急にうごくと、胃がへんになるぜ。」
「この罐詰は盗んだものなのか?」
私は訊かずにはいられなかった。
「それがどうした。盗み食いは貴様の得意じゃないか。――そんなことにいまごろ気がつくなんて、さすがは驢馬だよ。」
早瀬はわらったが、私はからだががくがくとふるえた。
「先生は、かならず気がつく。調べる。僕《ぼく》たちはどうなる?」
「どうなる? どうにもなりゃしないよ。たかが教師の秘密の食糧を失敬したまでじゃないか。それを貴様らみたいに飢えてるやつらにめぐんでやるんだ。こんなのはな、日本では義賊といって、たいした罪にはならねえ。」
「でも、あなたたちは庫を破った。やっぱり、大きな罪だ。」
「あなたたち? 貴様だって仲間だぜ。」
私は目をみはった。
「わからんやつだな、貴様は。庫は破られてなんかいないよ。」早瀬は意外なことをいった。「いますぐにでもいってみろ。ちゃんと鍵がかかっていて、戸はびくともしない。罐詰だけは消えてるが、庫は破られなかったんだ。」
「でも、さっき庫の戸はあいた。」
「他人《ひと》事《ごと》みたいにいうな。貴様があけたんじゃないか。」
「僕はただ……。」
「戸をひいただけだというのか? 嘘《うそ》を吐《つ》け。ひく前に、豆をまいたじゃないか。」
「だけど、あの豆は……。」
「貴様が盗んだ豆だ。」
彼の言葉は、私の頭を混乱させた。
「厄介《やっかい》な驢馬だよ、貴様は。」早瀬はつづけた。「あのとき、貴様のまいた豆が、いくつか戸の溝《みぞ》にころげこんだんだよ。貴様も満洲人のはしくれなら、豆がどんなものかぐらいは知ってるだろう? 豆にはつよい弾力があるから、戸の圧力ぐらいではつぶれないんだ。教師はなんにも知らんから、いつもの通りに戸を閉めた。戸は豆の弾力でほんのすこしはねかえったが、教師は気がつかない。戸がすこしでもずれれば、内鍵の桟はうまく穴に落ちないのだ。庫はそのときからあいたままだったんだ。」
私は、なにか魔術師の話でもきくような気持で、ぼんやり早瀬の言葉をきいていた。
「明日、教師が庫へはいってみると、罐詰がない。庫が破られた形跡がないのに、罐詰がない。だが、自分たちだけの秘密だから、大っぴらに調査するわけにはいかんのだ。それとも、ものがものだけに、外部に洩《も》れては困るから、かえって躍起になってさがすかもしれない。どっちだって、おいでなさいっていうんだ。万一、俺たちがつかまったとする。そのなかに、驢馬、貴様がはいっていたら、どうだ? 自分たちの隠匿《いんとく》物資をあばいたやつらのなかに、校長の世話になっている同胞国の留学生がはいっていたら、どうだ? しかも、貴様は主犯だぜ。教師らはあわてて調査をうち切る。俺たちのことは結局ばれない。貴様は、今夜は大事なお客だ。だから、こうしてもてなしているんじゃないか。貴様ら満洲人は、せいぜい利用されるのが身上なんだ。おとなしく利用されてた方が身のためだぜ。俺たちは、わるいようにはしない。貴様はいままでのことが校長に知られずにすむし、俺たちのことはばれない。その上、罐詰はたらふく食える。みんな、うまくゆくのだ。」
私は、吐気を感じて早瀬にいった。
「僕、帰る。胸がおかしい。」
林の方へ五、六歩あるくと、背後から白くひかるものが頭上をかすめて、行く手の木の幹にはねかえった。かわいた音が、深い林のなかに反響した。
「ひとりで帰れるなら、帰ってみろ。」早瀬が腹の底から嘲《あざけ》るような声でいった。「朝の点呼までに帰れなかったら、脱走だぜ。かっぱらい。庫破り。脱走か。満洲帝国留学生バンザイだ。」
私は、頭を抱いて熊笹の上にしゃがんだ。
その夜、私はまんじりともせずにすごした。朝、井戸端で顔を洗っていると、うしろから私をよぶものがあった。ぎくっとしてふりかえると、戦があかるくわらっていた。
「おはよう。これ、君のだろう?」戦はシャツのポケットから緑色のちいさなボタンをとり出して、私の方へつき出した。「緑色のボタンをつけてるのは、君と僕しかいないからね。」
私は、自分のシャツを調べてみた。いちばん上のボタンがいつのまにかなくなっていた。
「ありがとう。どこでなくしたんだろう。」
「食糧庫の前に落ちてたよ。」
戦はいった。私たちは、たがいに顔をみつめあった。彼は微笑した。
「ぬげよ。昼休みまでにつけといてあげるから。」
私はぬいだ。彼は手をのばして、私の裸の肩をなでた。
「黒くなったなあ。なんど皮がむけたの?」
「三度。」と私は小声でいった。
「三度か。でも、いいな。僕はいちどもむけないんだから、先生にはずかしいよ。先生、どうしておられるのかねえ。五郎のやつ、まさか僕を忘れていやしないだろうな。あと、一週間の辛抱か。」
戦は、たのしげにそういうと、私のシャツを持っていってしまった。
その翌日、飛田らが帰ってきた。飛田は、試験が上首尾だったといい、彼の顔はみちがえるような生気にかがやいていた。それは、私の罪を打ちあけるにはあまりにもはればれとして、まぶしすぎる顔であった。私は、飛田にも秘密を抱いた。
早瀬らは、なにごともなかったかのように、毎日口笛を鳴らして暮らしていた。教師たちもまた、なにごとも気がつかぬげに、のびた顎鬚《あごひげ》を生徒らに自慢し、巻尺がわりの荒縄《あらなわ》をひきずりながら、作業の進度を測ることにのみ汲々《きゅうきゅう》としていた。まったく、なにごともなかったのである。
一週間して、われわれの作業は完了した。
私は、思わぬ汚点を心に印《しる》して、四ヵ月ぶりに兵藤家へ帰った。われわれの生活はそっくりもと通りに再開されたが、もし以前とすこしでも変ったものがあったとすれば、それは五郎と私であった。そしてまた、五郎と私のあいだにひそかに生まれた新しい関係である。
沼辺の記憶は、日に日に、とおのいていった。まったく兵藤家の生活からみれば、沼辺の日々は夢のなかの出来事のようだった。私は、あの夜の事件も、やがては悪夢として忘れることができたかもしれなかったが、それを執拗にさまたげたのは五郎であった。
私が沼から帰ってから、五郎の態度はたしかにかわった。五郎は以前のように、私にむかってただやたらに吠《ほ》えるようなことはせず、さぐるような目つきで私の周囲を嗅《か》ぎまわり、立ち止まっては小首をかしげ、私がすこしでも敵意をみせると、ひくくうなりながらたれ下った唇《くちびる》を持ち上げて大きな牙《きば》をみせるのである。そして、鼻さきを天にむけて、ながながと吠えた。それはなにかを天に訴えているようであり、私の心をなじっているようでもあり、また、屋敷内に警告を触れているようにも思われた。五郎のながく尾をひく吠え声をきくたびに、私は、心の汚点をよみがえらせては不吉の予感に怯えたのである。
五郎は、いまは私と無縁だとは思われなかった。五郎は、たしかに私から秘密のにおいを嗅ぎとっており、私の胸を噛《か》み破ってそれを陽《ひ》の下にひき出そうとねらっているように思われた。私は、五郎をみると、緊張感が身内に走るのをおぼえたが、五郎の知能の限界を考えることで、辛《かろ》うじてなぐさめられた。どんなに鼻のするどい犬でも、嗅いだにおいについて人に語ることができないのである。
十月中旬、飛田らに採用の通知がきた。
出発の日が四、五日後に迫った日の放課後、飛田は私に、もうすぐおわかれだが、その前にちょっとお前にいっておきたいことがある、俺《おれ》はきょう限り学校へ出ないから、これから俺がゆくところへついてこないか、といった。私は承知した。
われわれは、街から港までゆくバスにのり、半時間ほどして、港町へはいる手前の橋のたもとでバスから降りた。バスが走り去ると、海のにおいがした。川ぞいの小道を流れにさかのぼってしばらくゆくと、飛田は立ち止まって、
「帽子をまるめて、ポケットへいれろ。」
といった。
すこしあるくと、とつぜん道幅のひろい通りに出た。通りの両側に二階建ての古めかしい家が十数軒、軒をならべて建っていた。ひろい道のまんなかを堀割りが流れ、両岸の柳並木が水の上に枝をたらしていた。道は午後の陽ざしを浴びて異様なまでにあかるかったが、人《ひと》気《け》のない家々は夜ふけのようにひっそりと静まりかえっていた。
飛田は、小《こう》路《じ》の出口にあるちいさな店にはいって、しばらくすると、紙の袋を二つ抱えて出てきた。われわれは家々の軒下をあるいていった。
むこうはずれにちかい一軒の前の川ばたに、白い腕章をつけた兵隊が自転車にもたれて立っていた。その足もとに、モンペの女がしゃがんで流れに顔を落していた。飛田は、ふと足を止め、「おや、憲兵か?……いや、公用だ。」と自問自答して、またあるき出した。われわれがちかづくと、兵隊は女に敬礼して、ペダルを踏んで堀割りの土橋をゆらゆらとわたった。女は柳の枝を片手ににぎって、兵隊が走り去るのを黙ってみていた。
飛田は、背後からその女に、おい、と声をかけた。女はふりかえって、あら、といった。飛田は、てれくさそうにわらいながら、
「いまのは、上等兵だね。」
というと、女はすこしもわらわずに、
「その上等兵がね、ちかぢかどこかへ出動だってさ。どうせそのうち、天皇陛下ばんざいでしょ。」
といって、柳の葉をぷつんとちぎると、肩をゆすって玄関のなかへ駈《か》けこんでいった。
「兵隊は、死ぬのはあたりまえだよ。」
飛田はひとりごとのようにそういうと、私をうながして、女のあとから玄関にはいった。そして、むっつりして靴《くつ》をぬぎ、スリッパでちょっと廊下をすべるようにしたが、奥から赤い和服の女が出てくると、くすんとわらいかけて子供のように肩をすくめた。女は飛田の背中を軽く叩《たた》いて、まぶしそうに彼を見上げた。女とならぶと、飛田はいっそう子供らしくみえた。彼は女の手に紙袋の一つを押しつけるようにしてわたすと、顔をそむけて、息をはずませながら窓越しに中庭の池の方をみていた。
私は、飛田について二階へ上った。がらんとした座敷へはいると、飛田は出窓の穴だらけの障子をあけ、「ああ、川がみえる。」といって、そのまま窓の外をながめた。私は彼の肩越しにのぞいてみたが、川はむかいの家々の隙《すき》間《ま》からほんのすこししかみえなかった。腰がまがりかけた老《ろう》婆《ば》が、座布《ざぶ》団《とん》をはこんできた。私がそれにすわってお辞儀しようとすると、飛田は小声で、「よせ。」といった。老婆が去ると、飛田は座布団にすわってにがわらいした。
「ここではな、あまり行儀よくしなくていいんだ。」
「ここは、誰《だれ》の家?」
「ここか。ここは誰の家でもない。死ぬやつがいちどはくるところさ。だが、俺は三度目だ。」
飛田はそういって舌を出し、紙袋を裂いてわれわれのあいだにおいた。
「水飴《みずあめ》をはさんだ食パンだ。食え。」
食パンは、妊産婦にしか支給されなかったので、私はもうながいことみたことがなかった。めずらしくてながめていると、
「盗んだものじゃないから、安心して食え。」飛田はいって、ちらと私をみた。「お前、沼にいたころ、俺がいないあいだに、早瀬たちと罐詰をやったそうだな。」
私は、彼に誘われたときから、すでにその言葉をきく予感があった。彼は、あの夜の事件については早瀬からきいて知っているはずなのに、なぜか私には知らぬ素振りをつづけていた。そんな態度は、日《ひ》頃《ごろ》の彼に似合わないことであり、それにはなにか訳がありそうであった。私は、そのとき、むしろ彼の言葉に救われたのを感じて、顔を上げていった。「そうだ。僕は豆をまいた。庫《くら》の戸をあけた。箱をかついだ。罐詰を食べた。叱《しか》ってくれ。」
飛田は、私の目をのぞきこむようにみた。
「そうか。やっぱり、なんにもわかっちゃいないんだな。あきれたお人《ひと》好《よ》しだよ、お前は。だから、いつでもダシにされちゃうんだ。いったいお前は、あの庫破りをさいしょに計画したのは誰だと思ってるんだ?」
「早瀬か?」
「戦だ。」
……私は耳をうたぐった。
「いいか。俺のいうことをよくきけ。」
飛田は声をひくくして、驚くべきことを話し出した。
あのとき、私のポケットにはいっていた豆は、私が水浴びしている隙に戦が入れたのだ、と飛田はいった。沼へゆく前、戦はひとりで人気をあつめていたが、沼へいってから私と立場が逆になった。私が張さんとよばれるようになったのを、戦はねたんだ。ちょうど飛田が看護室に寝ていたころ、週番だった戦が庫へ食糧ののこりを調べにいって、空の味噌《みそ》樽《だる》のなかに教師の罐詰がかくしてあるのをみつけた。戦は、豆の魔術を早瀬におしえて庫破りをそそのかし、万一発覚したときは私に罪を負わせようとして、私を豆盗人《まめぬすっと》に仕立てた。……
「みんな、戦の仕業なんだ。戦はお前のよわみを知っているから、兵藤校長を持ち出してお前を釣《つ》った。戦はあれから、お前らがのこした罐詰を、便所でたらふく食ったそうだぜ。」
飛田は、唾《つば》をとばしながら熱心に語ったが、私にはとうてい戦の悪知恵を信じることができなかった。私のズボンのポケットに、豆を入れている戦を想像しただけで、頭の芯《しん》がとろけてめまいがしそうであった。
「やめてくれないか。」と私は、あのあくる朝、戦が私にみせたすずしい笑顔を思い出しながら、飛田にたのんだ。「あの晩のことは、もうどうでもいいのだよ。だから、戦のこと、ひどくいうのはやめてくれ。僕たち、おなじ満洲人なのだ。そして、二人きりでこの町にいるのだよ。」
飛田は、不《ふ》機《き》嫌《げん》な顔をして、しばらく私をみつめていたが、やがて顔を左右にふりながら吐息した。
「かなわねえな。だが、お前が信じようと信じまいと、とにかく俺は、お前にいっておこうと思ったことをいったまでだ。こんなことを洩らしては仲間を裏切ることになるが、俺はもうすぐ死ぬんだし、お前があんまりみんなに寄ってたかってしゃぶられるのを、とても、みちゃおれなかったからな。ま、俺の遺言みたいなもんだ。きいといてくれ。」
そういったきり、飛田は口をつぐんで、両手に持ったパンをむしゃむしゃと食った。そんな彼をみつめていると、この人がまもなく死ぬのだという実感がすこしもなかったにもかかわらず、私は悲しみが胸にこみ上げてくるのをおぼえた。
「もっと、なにかあったらいってくれないか。僕はこれからも生きて、日本にいるのだ。」
私はいった。飛田は目をとじてパンをのみこんだ。
「それじゃ、ついでにいっとくが、お前はもうすこしなんとかしないと、いまの日本じゃとてもやってゆけないぜ。みな命がけで戦争してるときに、お前みたいなやつにのそのそされると、誰だってへんにいらいらするんだ。戦みたいになれとはいわんが、お前もすこしは要領よくやることをおぼえたらどうだ? お前はよく校長の犬のことをこぼすけど、犬にだってたまには口笛の一つぐらい、吹いてやりゃいいんだ。校長にも、肩の一つぐらい揉《も》んでやりゃいいんだ。大した手間がかかることではないじゃないか。犬や年寄りなんて、そんなことだけで随分ちがうもんだぜ。こわいものには、ただこわがっていないで、目をつぶってこっちからそいつに、ぐいぐいからだを押しつけてゆくのがいちばんさ。……お前、死ぬことがこわいか?」
私は、すこし考えてから答えた。
「満洲にいるころはね、死ぬことがひどくこわかった。けれども、日本へきてから、正直いって、死ぬということがどんなことなのか、わからなくなったんだ。見当もつかなくなったんだ。」
「それはお前が、戦争している日本にいるからだよ。」と飛田はいった。「死ぬってことはな、こっちからちかよればちかよるほど、こわくなくなるもんなんだ。これからは銃後もどうなるか、わからんからな。もし機会があったら、目をつぶってちかよってみろ。死ぬことが本当にこわくなくなったら、世のなかにはこわいものなんか、一つだってありゃしないぜ。」
部屋はうす暗くなりかけていた。障子の穴から、黄色くにごった空がみえた。私は、もう帰らねばならないと思い、正《せい》坐《ざ》していった。
「いろいろ、ありがとう。出発の日には見送りにゆくよ。」
飛田は、俺はひと足おくれるといい、パンののこりを袋に入れて私の手に持たせようとした。私は彼の手をおさえて、家に食べものをもちこむことは禁じられているのだと辞退したが、飛田は、お前はちっとも食べないから、これは土産だ、俺の最後のおごりだぜ、といった。そして、ズボンのポケットに押しこんでくれながらいった。
「俺ばかり勝手なことをいったけど、お前にもいいたいことがあったら、いってくれ。」
われわれは、触れあわんばかりのちかさで、まじまじとみつめあった。
「あんたは、僕《ぼく》をいちども驢馬《ろば》とよばなかった。」
私はいい捨てて、急ぎ足で廊下へ出ると、階段の手すりのところに、さっきの赤い着物の女が、白い顔をうつむけて立っていた。
兵藤家の門をくぐると、私は母《おも》屋《や》のわきの栗《くり》並《なみ》木《き》の下を井戸の方へいった。
井戸端の柿《かき》の木の下に、五郎が寝そべっていた。私をみると、むっくりと起き上って、身構えた。私は習慣的に緊張したが、ふと飛田の言葉を思い出して、口笛を吹いた。口笛は思ったより高く鳴った。五郎ははじめてきく私の口笛に、一瞬耳をふるわせて首をかしげた。そして、もの問いたげな目で、尾をふろうかふるまいかと迷っていたが、その迷いのうちに、五郎は天にむかって吠えることを忘れてしまったようだった。井戸へちかづくと、五郎は鼻さきを地面にたれ、目をしょぼつかせながら巨体をゆすってのろくさと私のために道をあけた。そのいかにも精悍《せいかん》さを欠いた様子に、私は安《あん》堵《ど》して心を許した。
私は釣《つる》瓶《べ》を上げて口をすすぎ、水を手水鉢《ちょうずばち》に移して手と顔を洗った。そして、濡《ぬ》れた指さきをズボンのポケットに入れ、手《て》拭《ぬぐ》いをひっぱり出そうとした。すると、手拭いといっしょに、ちいさな紙包みが飛び出して地面に落ちた。忘れていたが、それは帰りしなに飛田が入れてくれた食パンののこりであった。私は、おや、と思い、すぐそれと気づいて拾おうとしたとき、背後に五郎のうなり声をきいた。みると、五郎は鼻を地面に摺《す》るようにして、一直線にするすると私にむかって駈けてきた。私は息をのみ、思わず手をひっこめてのけぞると、私の足もとをかすめて前の流し場をかるがると跳び越えてゆく五郎の黒い背中がみえた。
五郎は流し場のむこうへ降りると、ふりむいた。私は、あ、とさけんで、五郎の口に目をこらした。五郎は袋を地面に吐いて、私の方を上目でみながら、丹念ににおいを嗅いだ。私はあわてて流し場のふちをまわりながら、五郎にいった。
「五郎。かえせ。それはただのパンだよ。」
すると、五郎はまた袋をくわえて、私の方へ気を配りながらのろのろとあるきはじめた。そして、私が立ち止まると、五郎も立ち止まって袋を地面に吐き出した。
「五郎。食べるなら早く食べてしまえ。」
私はじりじりしながらいったが、五郎は大きなアクビをした。それからまた、やんわりと袋をくわえると、典型的な駈け足の姿勢で、ゆっくり中庭の方へ走り、木戸のかげにみえなくなった。私はすこしのあいだ、ぼんやりとそこに立っていた。
中庭の方から、謡《うたい》をうたう声がきこえた。戦が離れでやっているのだ。戦は、沼から帰って以来、兵藤氏について謡を習いはじめていた。私は耳をすませ、中庭からきこえてくる謡の声が戦ひとりのものであることをたしかめて、ほっとした。兵藤氏は留守かもしれない。私は帰りがおくれたことを、咎《とが》められずにすむかもしれない。
私は、それでもなんとなく足音をしのばせて木戸へあるいた。木戸をくぐろうとして、すぐ内側にある万年青《おもと》のかげに、パンの袋が落ちているのをみつけた。私は、なにか思いがけないものをみるような気がした。五郎は、なぜ、それを食わずに捨てたのだろう。私はふしぎに思ったが、ともかく急いでそれを拾った。すると、縁側の方で五郎が吠えた。みると、五郎は縁先の沓脱石《くつぬぎいし》の上から、私にむかって吠えていた。そして、五郎のうしろに、かくれるように、兵藤氏がしゃがんでこっちをみていた。私は袋をかくすいとまがなかった。
兵藤氏は、立ち上ると、私を手招きした。縁先へゆくと、彼は無言で私の前に手のひらを出した。私は観念して、その上に五郎の唾《だ》液《えき》で濡れた袋をのせると、彼は中身をのぞいてかすかにわらい、パンをのこらず地面にこぼした。それから、ふと袋に目を留めて、そこに印刷された文字を小声で読んだ。
「港町新地柳堀蛇《やなぎぼりじゃ》の目《め》屋。港町新地……。」
彼は途中で読むのを止《や》め、額を白くして私をにらんだ。そして、私の鼻さきへ袋をひらひらさせながらいった。
「お前はここへいったんだな。飛田と港ゆきのバスにのったのをみたものがいるんだ。」
彼の声はふるえていた。戦がみたのだと私は思い、嘘《うそ》をいうのは無駄《むだ》だと思った。
「たわけ。」
彼は、声とともに枯れた手のひらで私の頬《ほお》をつよく打った。それから、ふるえる指さきで袋をひき裂きながら、前よりも、いっそうふるえる声で、
「みられなかったろうな。誰にも、みられなかったろうな。」
と、くりかえしいった。そして、私の返事を待たずに、また、
「この、たわけ。」
といって、ちぎった袋を私の顔に投げつけると、足音あらく奥の方へはいっていった。
五郎は、地面にころがっているパンのそばに腰を落していた。それは、まるで私がそれを拾いはしまいかと、みはっているようにみえた。私は、五郎の底知れない悪知恵を思って、ぞっとした。同時に、自分はいつかこの犬に滅ぼされるのではなかろうかという不安が、私の心を暗くした。私が五郎に、はっきりと殺意を抱いたのはそのときであった。
《五郎を生活からとりのぞかねばならない》と私は思った。《自分が滅ぼされぬ前に、五郎を殺そう》
飛田は征《い》った。けれども、私は彼の最後の姿をみることができなかった。私は、またしても知らぬまに犯していた罪のために、土蔵に監禁されていたからである。
私は、あの柳並木の静かな街が、じつは遊《ゆう》廓《かく》という場所であることを、兵藤の叱責《しっせき》ではじめて知った。遊廓がなにを商う街であるかは、私もうすうす知ってはいるが、故国のそことは随分様子がちがうのである。そうして、飛田がまさかそこの客になろうとは思わなかった。兵藤氏は、私があの街へ足を踏み入れたこと自体が重大な罪だといい、それによって私は留学生の名をけがし、兵藤氏の志を裏切ったといって、いっさいの弁解をさせなかった。
飛田をのせた汽車の汽笛が、金網をはった窓からきこえた。私は、その窓に背をむけたまま、小声で、「飛田ばんざい。」といった。
それから、雪が降りはじめた。
今年、昭和二十年。私は十九歳である。
正月早々、われわれはそれまでとぎれがちにつづけていた学業をまったく放棄した。敵が町の海岸に上陸してくる可能性が濃くなり、町はあげてそれを迎え撃つ訓練をせねばならなかった。われわれは、終日、殺人の稽《けい》古《こ》にふけった。毎朝、兵藤氏は木刀をもっていかにして敵を撲殺《ぼくさつ》するかを熱心におしえた。登校すれば、校庭には多数の藁人形《わらにんぎょう》が立ちならんで、竹槍《たけやり》の突進を待っていた。けれども、そのころの殺伐《さつばつ》とした明け暮れは、私にとってはむしろ暮らしやすかったといってよかった。なによりも、誰もが目前の敵に心を奪われて、私を咎めることを忘れているらしい様子が、私の心を休ませたからである。
三月、東京が大空襲されて以来、この町にも警戒警報のサイレンが頻繁《ひんぱん》に流れるようになり、われわれのあいだに地域ごとの防火班が組織されて、もよりの主要建築物に配置された。私は、早瀬や戦といっしょに、町の中央広場の一角にある警察署に配置され、サイレンが鳴り響くたびに、木刀をすてて駈《か》けつけた。
警察署には、軍からの指令と海岸監視哨《しょう》からの情報を交換する電話連絡所があり、関さんという若い女の交換手が甲高い声で電話をとりついでいた。ほかに、年老いた警官が数えるほどしかいなかった。それも、警報が発令されると、町の要所へ散ってゆき、あとには署長がひとりのこった。敵はなかなかこなかった。署長は手持ちぶさたに、彼が以前手がけた事件を、おもしろおかしく語ってきかせた。サイレンは、しばらくのあいだ、娯楽の合図にひとしかった。
五月のなかば、市は多数の艦載機によって不意打ちにおそわれた。それはその日の夜あけから二日にわたっていくたびとなく波状的におそってきたが、そのあわただしい来襲のたびに、われわれはすべての防備を放棄して地下の壕《ごう》に逃げ、そこでいくつもの地響きをきいた。それは、私がはじめてきく戦争の物音であった。さいしょの日、敵機は工場地帯と港をおそい、市街は無傷のままでのこされた。そうして、あくる日――あの日がきた。
あの日も、空はあおく晴れていた。あさ、駅と橋とがやられた。壕のなかできく地響きはいちだんと大きく、地面を支えている骨組みの丸太が気味わるくきしんだ。敵機がひとまず去ったとき、署長はわれわれを壕の前に整列させて、訓辞した。
――もし今後も敵がくるならば、そのときは街の番だろう。われわれは戦いたいが、武器がないのが無念である。街はやられるものと覚悟しよう。ただ、この際、気掛かりなのは電話連絡所のことである。連絡手は空襲中でも、よほどの危険が迫らぬかぎり持場を放棄するわけにはいかない。けれども、きょうは相当危険な事態が起こりうるものとして、万一の場合のために連絡手の脱出をたすける護衛者を二名、このなかから選びたい。とおくの戦場に出かけることだけが忠義ではない。すでにこの市が戦場なのだ。――そういうことを署長はいい、
「だれか、志願するものはいないか。」
といった。
そのとき、私は、なにものかに背を押されたような気がして、一歩前へ出た。そして、反射的に、「四年、張永春。」とさけんだ。その私の行動は、まったく私の意志によるものではなかった。私は、私の声がコの字型に広場を囲んでいる建物の壁にこだまするのをきいたとき、はじめて私のとった行動の意味を悟ったのである。それから、胸が鳴りはじめた。
署長は、私の顔を凝視した。彼はなにかいいたそうに唇《くちびる》をふるわせたが、なにもいわずに目をしばたたいた。そのとき、もう一つの靴音《くつおと》が私の横の地面を音高く踏み、ききなれた嗄《しわが》れ声が早瀬の名をさけんだ。
署長は、私と早瀬に訓辞の要点をもういちどくりかえした。
「連絡手は現在、関君ひとりだけだ。貴重な存在だ。よろしくたのむ。」
と彼はいい、私の胸の名札をのぞきこむようにして、また目をしばたたいた。
「張君か。きみは兵藤校長のところにいる満洲人だね。よく志願してくれた。先生にあとでお伝えしよう。しっかりやれ。」
挙手の敬礼をすると、早瀬の肘《ひじ》が私の肩をつよく突き、私はすこしよろけた。それから二人で署の玄関へ走った。
建物のなかは、足もとがみえぬほど暗かった。電話連絡所は玄関ホールの真上にあり、階段は玄関のすぐ左手からはじまっていた。その階段をのぼりかけると、早瀬は、「待て。」といって、うしろから私の二の腕をつかんだ。
「貴様、帰れ。」
私は無言で彼を見下ろした。どきりとするほど険悪な目が、日かげになれない私の目を射た。
「帰れといってるんだ。」彼は私の腕をはげしくゆすった。「帰って署長に、ひどいめまいがするというんだ。それで、ほかのだれかと替わってもらえ。」
私は、ただ無言のまま目をみはった。
「出しゃばったまねは、よせ。きょうは貴様なんかの出る幕じゃない。人気とりの役目とはわけがちがうんだ。まだ間にあう。早くしろ。」
私はかぶりをふっていった。
「僕は、志願した。僕は、だれよりも早かった。」
「貴様」早瀬は歯をくいしばってうめくようにいった。「貴様がへんなことをするから、みな驚いたんだ。出しぬいたと思ったら、大まちがいだぞ。」
広場の方で号令のかけ声があがり、つづいて隊が動くらしい靴音が起こった。早瀬は舌うちした。靴音は、乱れながらとおのいていった。早瀬は、ふりとばすようにして私の腕を自由にすると、吐きすてるようにいった。
「勝手にしろ。貴様が死んだって、俺は知らんからな。」
われわれは、黙りこくって、みしみしと鳴る暗い階段をのぼった。
部屋の入口で、早瀬がわれわれ二人の名と来意を告げると、耳からレシーバーをはずした関さんが、肩をすくめてくすりとわらった。
「署長さんのいいつけでしょ?」彼女ははじけるようなあかるい声でいった。「あたし、お断わりしたんだけどな。あたしはひとりで大丈夫なの。きのうだって……。」
「きょうはちがうんです。」と早瀬は、りきんだ声でさえぎった。「署長がそういわれました。われわれは志願してきたんです。」
関さんは、目をまるくして、また肩をすくめた。
「そう。あたしには、きのうもきょうも、おんなしなんだけどな。でも、せっかくだから、きょうはいてもらうわ。ただ、いてもらっても仕事はないのよ。」
われわれは、壁ぎわの長《なが》椅《い》子《す》に腰をおろした。部屋のなかは、まるで温室のようにあかるく、むし暑かった。部屋の三方は壁でかこまれていたが、広場にむいた一面は高い欄間から露台へひらく扉《とびら》までほとんどガラス張りで、そのガラス越しに昼ちかい陽光がふんだんに部屋のなかへ流れこんでいた。
関さんは、絣模様《かすりもよう》の衣服を着て、ガラス張りを背に、部屋の中央によせあつめたテーブルの上にならべられた通信器械にむかっていた。器械のわきには、あやめの花を活《い》けた花《か》瓶《びん》があった。関さんは、ときおり器械をいじっては、送話器に、「もし、もーし。」とよびかけ、みじかい会話を早口で交わし終わると、きまってそのあやめの花びらを、指さきでゆりうごかしては目をほそめてながめていた。
情報はなにもないらしかった。われわれは黙って待った。
しばらくたったとき、ふと私は、からだがかすかにゆれてくるのを感じた。両手で膝頭《ひざがしら》をおさえ、それが私自身のふるえでないことをたしかめた。早瀬の貧乏ゆすりが、椅子を伝ってくるのであった。すると、私の尻《しり》をこそばゆい感じが走り、私はふいに尿意をおぼえた。私は脚をかたく組んで、中風病みのようにふるえている早瀬の膝を横目でみていた。彼の片方の靴紐《くつひも》がほどけて、床に垂れているのが目にはいった。それを彼におしえると、彼は舌うちして乱暴にむすびなおした。それから、拳《こぶし》で私の膝を叩《たた》いて、ひくく叱《しか》った。
「なんだ、その恰好《かっこう》は。脚を組むな。」
「小便、したいのだ。」と私はいった。彼は、にやりとわらった。
「いまに死ぬやつが。がまんしろ。」
小便がつまったまま死ぬのは、いやだな、と胸のなかで呟《つぶや》きながら、私は気をまぎらそうとして立ち上った。ガラス越しに白い広場の果てがみえ、葉桜の並木の下を黄色い筵《むしろ》で偽装された消防車がのろのろとうごいているのがみえた。つぶつぶの人影が車のまわりにむらがって、押していた。蟻《あり》の群れが芋虫をひいてゆく光景に似ていた。
あの群れのなかには、戦もまじっているだろう。私は、戦にひと目会いたいような気がした。会ってひと言、なにか託しておきたいような思いに駆られた。けれどもいま、われわれはたがいにうすいガラスをへだてた別世界にいる。戦とはもう生きてふたたび会えないかもしれないと私は思った。ふしぎに、死の不安も、恐怖もなかった。これからなにが起こるのかさえ、想像がつかなかった。なにはともあれ、と私は青く澄みきった空へ目をそらしながら、もういちど胸のなかで呟いた。小便がつまったまま死ぬのは、いやだな……。
さいしょの情報がきた。東方洋上に敵機動部隊らしき船団がみえるという、海上監視船からの報告であった。「情報、情報。」と送話器に連呼する関さんの声が、部屋のなかに反響した。早瀬はふいに立ち上り、つかつかとテーブルへあるいて、飲料水のバケツから湯呑《ゆの》みで三杯、たてつづけにのんだ。それをみているうちに、私の尿意は急にあふれんばかりに高まった。いまのうちだと思って扉の方へあるきかけると、早瀬は走ってきて私の肩をとらえた。
「貴様、逃げる気か。」
「小便だ。」
「俺もいく。」
彼はいって、私より先に部屋を出た。われわれは廊下を駈け、階下の便所へ飛びこんだが、どちらも小便は出なかった。ただ、わけのわからないふるえが、足もとから一気に駈け上ってきただけであった。早瀬は窓の外へ空唾《からつば》を吐いた。
「あの女交換手、あの調子じゃよほど頑《がん》張《ば》りそうだが、脱出の指揮は俺がとるからな。俺の命令にしたがって行動しろ。あいつがぐずぐずいったら、貴様、かつぎ出せ。」
うなずくと、彼は片頬だけで無理にわらった。
「こうなったら、しょうがねえや。おい、驢《ろ》馬《ば》。手伝ってやるぜ。沼では貴様に手伝ってもらったからな。」
そのとき、とおく落雷のようなとどろきがきこえた。われわれは顔をみあわせた。窓の外にひろがっている雲一つない空の果てから、また一つ、そして、つづけざまにその音がとどろいてきて、よごれた窓ガラスをふるわせた。
「きた。」と私はいった。
「きた。」と早瀬もさけびざま、身をひるがえして駈け出した。
さいしょの爆音は、おくれたサイレンが鳴り終わらぬうちに、われわれの頭の真上を、建物の屋根すれすれにかすめていった。そして、そのとき、すでに街の上空は、耳鳴りのような爆音と無数の黒い機影にみちていた。
テーブルの裾《すそ》にうずくまってガラス越しに空をみあげていた早瀬の口から、呪文《じゅもん》がもれた。それはごくちいさな声であったが、「気づくな。気づくな。」といっているように私にはきこえた。その呪文は、虫の音のようにしばらくつづき、ひときわ大きな機体が右手の空にあらわれたとき、ふいにやんだ。機体はななめに広場の上空を飛び去ったが、その直後、前方に目もくらむような閃光《せんこう》が立ち、爆発音が耳をつんざいた。広場に面したガラス張りがいっせいに崩れ落ち、ガラスの破片が突風とともにわれわれの上に吹きつけた。早瀬は、いつのまにか両手で私の腕をにぎっていた。
「望楼がない。望楼がない。」
彼は広場の方へ目をみはって、私の腕をゆさぶった。みると、さっきまで前方の屋並の上にぬきんでていた巨大な鉄骨の望楼がぬぐわれたように消えていて、その根本のあたりから円《まる》味《み》を帯びた黒煙がもくもくと立ちのぼっていた。そのまま、またいくつかの地響きをきいた。それから私は、むこうの屋並の上をすべってくる三つの黒い機影を認めた。それらはみるみるうちにふくれ上り、黒煙のいただきをかすめて、まっすぐにこちらへ殺到してきた。
「敵機。」とさけんだのは、私であった。早瀬は無言で私を押し倒し、私の腿《もも》の上にからだを伏せた。とつぜん、あたりはさまざまな物音にみち、殺気が私の顔の上をほのめき流れた。
音が去ると、天井からおびただしい埃《ほこり》が降ってきた。それは陽《ひ》にてらされて、濃い霧が流れるようにみえた。天井の白壁は、数ヵ所まるくはげ落ちていて、埃はそこから際限もなく降ってきた。白いシャンデリヤがゆれていた。吊《つ》り鎖の何本かが切れ、それは一方に傾いたままゆれていた。廊下側の壁も、あちこち斑《まだら》模様に崩れ落ちていた。
器械が鳴って、関さんの声がきこえた。
「被弾しましたが、異状ありません。このまま任務を続行します。」
すると、その声で目醒《めざ》めたかのように、早瀬が私の腹の上で顔を上げた。
「ねらわれてるな。」彼は呟いた。それから顔だけ関さんの方へもたげていった。「俺《おれ》たちはねらわれています。敵はこの情報室を知ってるな。」
関さんは、ひどくひかる目で、ちらと早瀬を見下ろした。
「そんなこと……敵機はめぼしい建物を片っ端しから撃ってるんだわ。」
「いや、たしかに俺たちはねらわれている。」
「ねらわれたって、いいじゃないの。そんなこと覚悟の上だわ。」
関さんは甲走った声でいった。早瀬はふたたび私の腹に顔を伏せたが、上目で私をにらみながら、自分にいいきかせるようにひくくいった。
「よくはない。無駄《むだ》だ、こんなところでむざむざ死ぬなんて……。」
情報がきた。また新しく百機がくる。私は立ち上ろうとしたが、早瀬の顎《あご》が私の腹をつよくおさえた。
「立つな。耳を澄ましてみろ。どこかちかくが焼けてやしないか。」
爆音と地響きのほかはなにもきこえなかったが、早瀬は唇をふるわせながらまたいった。
「焼けてる。俺にはきこえる。パリパリ、パリパリ……。」
どちらかの耳が狂っていた。ようやく早瀬は、よろめきながら立ち上った。そして、怒鳴った。
「脱出だ。」
ふいに、ひどい地響きがして建物がはげしくゆれた。瞬間、シャンデリヤが天井をはなれ、しゃがんだ早瀬の頭上に落下するのを私はみた。シャンデリヤは彼の頭にあたって砕けた。そのとき彼は、なにが起こったかをとっさに知ることができなかったのだろう。彼は、四つん這《ば》いになって独楽《こま》のようにめまぐるしく床の上を這いずりまわり、壁の羽目板につきあたって、それにもたれた。口をあけ、目をむいて、きょろきょろあたりをみまわす彼の額と鼻筋に、ほそい血の筋がうかんだ。
「早瀬。顔に血が……。」
私がいうと、彼はとっさに両手で顔を覆《おお》った。けれども、すでに彼の手のひらは、床を這いずったとき、無数にちり敷いているガラスの破片に裂かれて血を吹いていた。彼は、その手のひらを顔の前にひろげたとき、「ひえ。」という叫びをもらした。彼の顔も、鼻《び》梁《りょう》をのこしていちめんに血塗られていた。
「脱出だ。脱出だぞ。」
彼はさけびながら、壁沿いにふらふらと扉の方へのめっていった。そして、扉をあけてからふりむいた。
「もう、駄目です。連絡手に命令。だっしゅうつ。」
関さんは答えなかった。早瀬もまた、彼女の答えを待たなかった。彼は私には目もくれずに扉のかげに消え、それから階段をころげ落ちてゆく音がきこえた。
「あなたもいきなさい。」
関さんの叱りつけるような声に、私はわれにかえって立ち上った。もし彼女がそのあとをいい足さなかったら、私はそのまま早瀬のあとを追っただろう。関さんは、首筋に垂れた髪を手でいきおいよくうしろへはねのけていった。
「いって、署長さんに伝えて。関はここで死にますって。」
私は、その言葉で、辛《かろ》うじて自分の任務を思い出した。そして、さけんだ。
「あなたも、いっしょにきてください。」
「いいえ。あたしには任務があるわ。」
「僕《ぼく》も、任務です。」
関さんは苛《いら》立《だ》ち、拳でテーブルをつよく叩いた。
「あの人が帰ったじゃないの。あんたの任務も終わったんだわ。邪魔だから帰って頂戴《ちょうだい》。」
「僕、ひとりでは帰れません。僕、早瀬とはちがうんです。」
私はただ、自分が早瀬の部下であることをいったのであるが、関さんの目がつり上った。
「そうだわ。満洲人のあんたにはわかりっこないんだわ。女でもね、日本の女は死ぬことなんかこわがりゃしないわ。」
私は、関さんが興奮していると思った。そして、ともかく彼女をかつぎ出さねばならぬと思った。私は彼女のそばへ走って彼女のからだに触れようとしたが、彼女はなにかわめいて、私の鼻さきへ腕を鞭《むち》のようにふった。
とつぜん、広場の空で、爆音が高まった。関さんは背中を打たれたようにその方をふりむき、いきなり、思いがけないちからで私の肩をつきとばした。私は思わず尻《しり》もちをついて、床に倒れた。そして、倒れながら厚いマットを乱打するような音をきき、一瞬翳《かげ》った視界のはしで、机の上のあやめの花が宙に飛散するのをみた。その空にひらいた花火のようなまぼろしは、しばらく私の眼底にのこっていた。
……目の前に、水滴が落ちた。それはつづけざまにしたたってきて、目の前の黒いしみはみるみる水銀の玉のようにふくれ上った。それから、私のこめかみにも落ちた。私は床の上に腹這いになり、頬《ほお》を床につけていた。水がしたたってくる方を仰ぐと、手の届きそうなちかさに黒い天井があり、私はいつのまにかテーブルの下にいることを知った。水滴は、よせあつめたテーブルの継ぎ目から落ちていた。
あたりをみまわすと、すぐ左手に、椅子にかけた関さんの下半身がみえた。きっちりそろえた彼女のズックの爪先《つまさき》に、白い櫛《くし》がころがっていた。関さんのだ、と思いながら、私はぼんやりそれをみていた。それから、テーブルの下から出なければならぬと思い、からだをずらせながらふとなにげなく、ひらいた膝のあいだから関さんの顔を仰ぎみた。そしていきなり彼女の視線に出会った。
彼女は、椅子に背をもたれ、首をうなだれて、大きくみひらいた目でまっすぐ私をにらんでいた。そのきついまなざしから、私は習慣的に咎《とが》められていることを感じ、急いで這い出ようとして、からだのむきを変えると、彼女の椅子の脚のあいだにたれ下っているレシーバーが目にはいった。それは左右にゆれながら、くるりくるりと自転していた。私は奇異を感じて、また関さんの顔を仰いだ。そして、私の位置がずれているのにもかかわらず、関さんの視線が依然としておなじところに落ちているのをみたとき、私は変事を直感して、「関さん。」と大声でよんだ。けれども、彼女はうごかなかった。
私は、急いでテーブルの下から這い出した。関さんをゆさぶり起こそうとして、ふと彼女のからだに手を触れることをためらった。いきなり、彼女の腕が鼻さきへ鞭のように飛んできそうであった。関さんの髪は、ガラスの粉を浴びてちかちかとかがやいていた。けれども、ほそいうなじを覆いかくしている裾の方は、ぐっしょりとなにかに濡《ぬ》れて、べつのひかりをたたえていた。濡れた髪は背にはりついて、絣の衣服をまで濡らしていた。すでに襟首《えりくび》から肩へかけての一帯が、濡れてどす黒く染まっていた。そして、そのどす黒い部分が、生きもののように、なおも絣の白い点々を消しながら、背中いっぱいにひろがってゆくのをみたとき、それがなにものかがわからぬままに、私はふいに水を浴びたような恐怖に打たれて飛びのいた。
すると、ふいに器械の赤いランプがついた。ランプがつくとき、いつもブザーが鳴るのだが、そのときブザーは鳴らなかった。赤いランプは音もなく明滅して、しきりに合図を送ってきたが、関さんはただその白い額にランプの色を映すばかりで、そのむなしい交換をみているうちに、関さんの死はしだいに実感の重みを増して私の胸底を圧迫した。私は、壁づたいにすこしずつ扉の方へ移動しながら、関さんの魂にむかって無言でいった。
「だから、僕はいったのです。いっしょに脱出だと。僕のせいじゃない。僕のせいではないのです。」
私は部屋を飛び出し、暗い階段をすべり落ちて、玄関から外へ走り出た。
玄関前の石段の上に、人がうつぶせに倒れていた。私は、いきおいあまってその上を跳び越えたが、跳びながらその男のどす黒い横顔をちらとみて、早瀬だと思った。
彼は石段の上に、頭を玄関の方へむけて倒れていた。どす黒かったのは彼の顔ばかりでなく、首も上《うわ》衣《ぎ》の背中もズボンの片腿《かたもも》も、どす黒くよごれていた。片方の巻脚絆《まききゃはん》が足首までほどけ、それが広場の中心にむかってまっすぐにのびていた。その先端からさらにむこうへ、幾筋かの黒い線がコンクリートの地面にうねうねと走っていた。そして、早瀬は、なおも玄関の方へ進もうとして、石段に爪《つめ》を立ててからだをふるわせていた。
私は、それらのことを一目でみてとり、とっさに両手で早瀬の胴をもち上げ、手のひらのぬるぬるとした感触に手こずりながら、玄関の廂《ひさし》の下へひきずっていった。そして、コンクリートの柱にもたれて早瀬の上体を膝に抱いた。彼は急に目を大きくみひらいたが、首をもたげるちからがなく、手で頭を支えてやると、ゆらめく視線でやっと私の顔をとらえた。
「僕だ。張だよ。」
早瀬は大きな目をさらにみはって私を認め、唇《くちびる》をふるわせた。私は戦闘帽をぬいで、彼の唇をふさいでいる褐色《かっしょく》の泡《あわ》をふきとってやると、彼は非常にひくい声でいった。
「傷が、どこか、みてくれ。」
私は、彼の胸にはりついている黒いしみだらけの上衣をめくってみたが、そこに目もくらむほどのおびただしい血をみただけであった。血は彼の胴いちめんにぶつぶつと泡立っていて、下着と肌《はだ》の区別もつかなかった。下腹のくびれにたまった多量の血は、ずり落ちたズボンのベルトをつたって地面にこぼれ落ちていた。
「傷はみえない。」
やっとの思いでそういうと、彼はかみつくようなまなざしで私をみながら、また非常にひくくだが、はっきりといった。
「貴様の血止めを、みんなよこせ。」
われわれは、木の実からとった血止めと称する綿のようなものを、ひとつかみずつ支給されて救急袋のなかにもっていた。
「ああ、いいよ。血止めでも血でも、ほしいだけあげるよ。」
私がいうと、早瀬は頬をひきつらせた。
「貴様の血なんか、いらねえ。」
それから、ふいに目をひからせ、手で私の上衣をまさぐって襟に指をかけると、思いがけないちからですがりついてきた。
「貴様の傷は。俺がみてやる。傷をみせろ。」
「傷?」私は一瞬めんくらったが、彼を安心させるために背中を叩《たた》いてやりながらいった。
「大丈夫だ。僕は無事だよ。」
「無事だと?」彼は血がこびりついている歯をむいて、あえぎながらいった。「無事だと? ばかいえ。俺がやられたのに、貴様が。こんなことって、あるか。くそ。」
私の襟のボタンが一つ飛び、彼の手はずるずると上衣のへりをすべって自分の腹の血溜《ちだ》まりに落ちた。私は、彼の意識がしだいに錯乱してくるのを悟り、急にちからをうしなった彼のからだをゆすり上げていった。
「壕《ごう》へいこう。みんなから血止めをあつめて腹に塗ろう。もうすこし、がまんだ。」
頭上には、まだ爆音が高くひくくわだかまっていた。私は一気に広場をかけぬけねばならぬと思い、途中で彼のからだをとり落すことをおそれて、彼のほどけた巻脚絆でたがいの胸と胸を結びつけた。腹には私がもっている血止めの綿をありたけ当てたが、それは焚《たき》火《び》に投げこんだ雪玉のように、すぐに融《と》けて消えてしまった。それから、彼を両手に抱いて立ち上り、廂越しに空を見上げた。空は黒煙のためにうすくにごりはじめていたが、日光はすこしも衰えず、広場は驟雨《しゅうう》を浴びているように白いひかりで泡立っていた。
「僕は走るよ。途中でころんだら、あきらめてくれ。」
私は彼の耳に口をつけていった。それから日かげをはなれ、ひかりのしぶきを蹴《け》って一散に駈《か》けた。
……壕にたどりついたとき、私は疲労と安《あん》堵《ど》のために膝《ひざ》ががくがくとした。辛うじて入口の段々をおりると、扉《とびら》を蹴ってさけんだ。
「あけてください。張永春です。あけてください。」
けれども、扉はびくともうごかなかった。私はまた蹴った。
「あけてください。誰《だれ》もいないのですか。早瀬がやられた。」
すると、すぐさま、扉がいきおいよくあけられた。身をかわすいとまもなく、重い扉が早瀬の頭をしたたかに打った。思わずふらふらとすると、「ぐずぐずするな。早くはいれ。」と扉のかげで声がした。
壕のなかは、私の目にはまったくの暗闇《くらやみ》であった。天井の裸電燈《でんとう》がぽつんと一つ、熟れた柿《かき》のようにみえ、私はその下にむかって大勢の人びとのなかをよろめいていった。
誰かが電燈の下に長《なが》椅《い》子《す》を一つはこんできたので、その上に早瀬をおろすと、ぐったりと落ちている早瀬の肩を、署長がむこう側から抱きとった。
「おい、君。しっかりしろ。傷は浅い。」署長がいうと、あたりからも「傷は浅い。」と、ちからない声が起こった。彼《かれ》等《ら》は、早瀬の傷をみもせずに、それを口々にくりかえした。
たまりかねていった。
「みんな、早く血止めを出してください。たくさん――たくさん要るのです。」
彼等は私に注目したが、誰もうごくものがいなかった。
「みんなの血止めを、どうするんだ。」
怒ったように署長がいった。
「早瀬の腹に当てるのです。」
私がいうと、署長ははじめて早瀬の胸をはだけて、や、といい、腹をみて、や、や、といった。そして、閉じかけた早瀬の瞼《まぶた》を指先で乱暴にこじあけると、その顔をゆさぶりながらさけんだ。
「しっかりしろ。ヤマトダマシイを忘れたか。わしの目をみるんだ。」
けれども、そのとき、早瀬は限りなく上をみようとした。それから、頭をゆっくりうしろへそらせた。そして、それきり、うごかなくなった。早瀬は死んだ。
早瀬が死ぬと、とつぜん、人びとは異様に活気づいた。彼等は非常に興奮した。それまで長椅子を遠巻きにしていた彼等は、私を押しのけ、屍《し》体《たい》にむらがって彼の名を連呼した。
「よくやった。」という声がきこえた。
「いいやつだったのに。」
「ちくしょう。」
「いまにみていろ。」
彼等はいきり立ち、肩を叩きあいながら報復をかたく誓いあった。興奮がひとまず去ると、彼等のひとりがひとつかみの血止めの綿を早瀬の屍体にふりかけた。戦であった。私は電燈の真下に彼の沈痛な顔を認めた。
人びとは戦にならって、つぎつぎに各自の血止めを屍体の上にむなしく降らせ、屍体はみるみる雪人形のように姿を変えた。こんどはどこからともなく鼻をすすり上げる音がひろがり、彼等はうなだれてひとしきり泣いた。
署長が、ふいに私の名をよんだ。
「関君は? 関君はどうした?」
私は、ふと、答えることをためらった。
「どうした。関君はどうしたんだ?」
「関さんは、情報室です。」私はいった。
「情報室に? ひとりでか? なぜ、いっしょに脱出しなかったんだ?」
「関さんは、死にました。」
彼等は、いっせいに泣くことをやめた。「死んだ。」と署長はひとりごとのようにくりかえし、せわしくまばたきしながら、「前へ出てこい。」といった。人びとをわけて前に出ると、彼は私のからだを頭から足まで、舐《な》めまわすようにみてからいった。
「君は、関君が死んだのをみたのか?」
「はい。みました。」
「どこを撃たれたんだ、関君は?」
私は傷口をみる余裕がなかったので、その質問に答えることができなかった。署長は、へんにはっきりとした口調で、おなじ質問をくりかえした。
「わかりません。でも、僕がみたとき、関さんは椅子に腰かけたまま死んでいました。」
「死んでいた?……すると、君は、関君が死んだあとでみたんだな?」
「はい。」
「それまで、君はどこにいたんだ?」
私は、とっさに彼の質問の意を理解することができず、当惑を感じて黙っていた。
「早瀬君は戦死。関君も戦死。君だけは無傷らしいが、まさか君は……。」
と署長はいって、私の顔をまじまじとみた。ふしぎな沈黙があたりにみちた。やがて、人びとのなかから、「貴様。」というひくい声がもれた。その方をみると、またべつの方から、おなじような声がきた。私は、赤く黒く重なりあって私の周囲をとり囲んでいる彼等をみまわして、ひどい驚きに胸を衝《つ》かれた。私は無視されたり、目《め》尻《じり》でみられたりすることにはなれていたが、まっこうから燃えるような多数の目にみつめられるのははじめてであり、それだけでも驚くべきことであったのに、そのとき、奇怪なことだが、私は彼等の目の一つ一つに、五郎の目をみたのである。私はうたがわれていることを直感したが、驚きのあまり声が喉《のど》から出てこなかった。
サイレンの音が平素よりもほそぼそときこえてきた。壕内はそれを合図に呪《のろ》いを解かれたようにざわめいた。署長は私に、くわしい報告をきくからあとで署長室へこいといった。そして、私はふたたび押しのけられ、早瀬の屍体は彼等の手によって担架にうつされた。彼等は、私に対してはなはだしく不《ふ》機《き》嫌《げん》であり、私には担架に手を添えることさえ許してくれなかった。早瀬の屍体は数十人の級友たちに守られて、ゆれながら白いひかりのなかへ出ていった。
私の報告は、ほとんど署長の訊問《じんもん》で終始した。彼の訊問は、まるで殺人者を取り調べるかのように厳密であった。殊に、私が情報室のテーブルの下でわれにかえった前後の事情は、十数回にわたってくりかえし訊《き》かれた。
「わかった。」訊問が全部おわったとき、署長は椅子の背にそりかえっていった。「要するに、君は運がよかったんだな。じつはね、みんなは君が途中で逃げたんじゃないかとうたぐっているんだ。逃げて、どこかにかくれていて、われわれの同胞を二人とも見殺しにしたのじゃないかと、うたぐっているんだよ。わしは満洲同胞の名誉のために君の行動を信じるが、君は今後、よほど慎重に行動せにゃいかんな。あまり出すぎたことは、せん方がいい。」
私は黙って頭を下げた。
署長は、集会所に人びとをあつめて、私の行動を説明した。《われわれはいま戦っている。われわれはこの戦を信ずると同時に、戦った人の言葉をも信じなければならない》というのが、署長が最後にいった言葉であった。彼等は納得したかにみえた。けれども、彼等の目からは依然として五郎のひかりが消えなかった。そして、彼等は私にほとんど口を利《き》かなくなってしまった。私は、私の献身が生んだ失敗以上の悪結果に、ひとりで途方に暮れるほかはなかった。
私には、彼等の目から五郎のひかりを消す方法は、ただ一つしかないと思われた。ふたたび志願して、死ぬことであった。けれども、私はたとえふたたび志願の機会にめぐまれたとしても、おそらくそれを避けただろう。私は、おなじ愚をくりかえすことをおそれたのではなく、死ぬこと、それ自体をおそれたからである。
私は空襲下の情景を反覆して回想し、われわれ三人の立場をさまざまにおきかえて想像しているうちに、死を包んでいた霧が急速にはれていくのを感じた。もし私が、あのとき早瀬と共に脱出したのだったとしたら。また、もし関さんがあのとき私をつきのけなかったら――私は、その一瞬のおそろしさに、慄然《りつぜん》とした。おそろしいのは一瞬であった。関さんは、目を閉じる暇さえなかったではないか。私はその目もくらむような一瞬のうちに、死がまったく本然の姿に立ちかえったのをみた。そうして、私はその裸の死の上に、とうてい葉桜をみることができなかったのである。
私は、死のおそろしさと五郎の目にかこまれて生きた心地もなく日を送っているうちに、ひそかに日本からの逃走を夢みるようになった。すでに学問を放棄して戦いの日々に明け暮れているいま、死ぬことをおそれ、葉桜を理解できない私の留学生活は、もはや無意味に思われた。私は帰国を夢み、ふるさとを想《おも》った。そのとき、ふるさとはのこされたただ一つの楽園として、私の帰心をかき立てた。私は日々、望郷の念でいっぱいであった。道ばたに咲いている日まわりの花をみかけただけで、幼時よくその種を噛《か》みながら遊んだことを思い出し、こみ上げてくる望郷の念をおさえることができなかった。兵藤氏は、私と戦に、ただ女々しいという理由でふるさとに想いを馳《は》せることを禁じていたが、いま私が女々しいならば女々しさこそ私にとっては唯《ゆい》一《いつ》の生《いき》甲《が》斐《い》であった。
六月末、梅雨期が去るころ、私は思いがけなくふるさとの馴染《なじ》みにばったり出会った。街で、胡弓《こきゅう》をみたのである。通りをあるいていて雨に遭い、商店の軒下に雨宿りしながらなにげなくガラスのうちがわをのぞくと、二、三本のハーモニカと楽譜台とがおいてあるきりのがらんとしたショウウインドウの片隅《かたすみ》に、それは厚く埃《ほこり》をかむってころがっていた。私の胸は高鳴った。そして、ついふらふらと店にはいって、主人にそれを指さしてみせた。彼は、その胡弓を、疎《そ》開《かい》の荷物からもれたものだから捨てたような品物だといい、無銭にちかい値段をつけた。私はほとんど夢心地でそれを買った。そして、ひどく興奮して雨のなかに飛び出した。
私が厄介《やっかい》なものを買いこんだことに気がついたのは、兵藤家の黒板塀《くろいたべい》に沿ってあるいていたときである。私は立ち止まった。胡弓は、ふるさとを想うことすら禁じられている兵藤家には、とてももちこめない品物であった。うまく離れにもちこめたとしても、戦にみられるおそれがあった。私は楽器屋の方へもどりかけたが、また立ち止まった。胡弓は、私にはもはや手ばなしえないものになっていた。私は二、三度おなじことをくりかえした末に、それを邸内のしげみのなかにかくしておくことを思いついた。隙《すき》をみてはもちだして、高台にある城跡の石垣《いしがき》のかげで弾こうと思った。
私は胡弓を背中にかくして門をくぐり、母《おも》屋《や》の裏がわの栗《くり》並《なみ》木《き》のいちばん奥の一本までたどりついた。そして、五郎を警戒して、さいわい楽器屋の主人が油紙に包んでくれた胡弓を太枝のわかれ目にはさむと、急いでそこをはなれた。……
翌朝、空は一片の雲ものこさずに晴れわたった。朝食後、われわれがひさしぶりに庭へ下りて日課の武道を稽《けい》古《こ》していたとき、遠雷のようなとどろきとともに、ちかちかときらめく一点がひと筋の白い尾をひきながら空をわたってきて、われわれの頭上に銀粉のようなビラを撒《ま》いた。ビラは朝風に煽《あお》られて街の上空にひろがった。兵藤氏は飛び去ってゆく敵機に木刀の切先をつきつけて威《い》嚇《かく》した。
「馬《ば》鹿《か》者《もの》めが。無駄だぞ。いくらビラを撒いたって、わしらはびくともせんぞ。」それから、われわれにむかってさけんだ。「あのビラを追え。戦は門から南を見張れ。張は井戸から外庭だ。屋敷内に落ちたものは一枚のこさずここへあつめるんだ。火《ひ》焙《あぶ》りにしてやる。火葬だ。」彼は大声で夫人をよんだ。「大急ぎで焚火の用意だ。」
ビラは降ってきた。われわれは走った。五郎は戦といっしょに走った。
外庭で、私は三枚拾った。とおくで五郎が吠《ほ》えていた。最後の一枚が楓《かえで》の梢《こずえ》にひっかかって、私はそれをとるのにてまどった。私はなんべんか木刀を投げ、そして、なんべん目かを投げようとすると、ビラはひとりでに梢をはなれて落ちてきた。それを宙で捕えて、急いで中庭へ駈けもどってみると、すでに戦と五郎はもどっていた。焚火は中庭の中央に燃えていたが、彼等は縁ちかくに佇《たたず》んでいた。私は兵藤氏にあつめたビラを渡そうとした。
「なん枚だ?」彼は手をうしろ手に組んだままいった。
「四枚です。」
「自分で火葬しろ。」
私は焚火の方へあるきかけた。
「まて。ついでに、これもだ。」
私はふりかえった。そして、彼の手に裸の胡弓をみた。
「いま、五郎と戦がみつけてきたんだ。妙なもんじゃないか? こんなものは、まえからうちにあるはずがないし、かくしておくような悪者もうちにはいるはずがないからな。これもさっきのB二九が落としていったものにちがいあるまい?」彼はうす笑いをした。「ビラと同類だ。さ、もっていけ。ビラといっしょに火焙りだ。」
私は全身から血の気がひくのを感じて、ふるえながらうつむいた。兵藤氏は胡弓で私の胸をぐいと押した。
「どうしたんだ。早くしないと焚火が消えるぞ。」
「許してください。」私はいった。
「許せ? こんなことができないというのか?」
「許してください。」と、もういちど私はいった。
兵藤氏はふいに怒った。
「よし。それじゃ、わしがやる。お前はみていろ。」
彼はいきなり弓を折った。つづいて、膝で胡弓を二つにしようとしたが、柄《え》は折れなかった。彼は荒い息をして戦をよんだ。
「お前、やれ。二つに折って、火葬にしろ。」
戦は、冷然とした表情で折れた弓と胡弓をうけとり、胡弓を沓脱石《くつぬぎいし》にもたせかけた。私は思わず「戦。」と叫んだが、彼はためらわず、柄のつけ根を無造作に蹴った。ポキリと折れる音をきいたとき、私は自分の肋骨《ろっこつ》を折られたような痛みを胸におぼえた。
戦は、くの字に折れ曲った胡弓を拾うと、一直線に焚《たき》火《び》へ走った。
「待ってくれ。」私はわれ知らず故国の言葉で戦にさけんだ。戦のあとを追おうとすると、兵藤氏が、「動くな。」といって私の肩をおさえた。焚火から火の粉が上り、胡弓が火にはぜる音がきこえた。
すると、ふるさとの祭の爆竹の音が、私の耳のなかでもパチパチと鳴りはじめた。「曖《アイ》呀《ヤー》。」というさけびが、ふいに私の口をついてでた。その声とともに、私は組みついてくる兵藤氏のからだを横に払った。彼はもろく地面に倒れた。そして、足で空を蹴りながら、「五郎。」とさけんだ。
私はそのまま焚火へ走った。戦が両手を上げて飛びのくのをみた。私はほのおのなかの胡弓を蹴った。それと同時に、煙の裾から黒いものが私の目のまえに躍り上り、宙にういている私の脚になだれかかった。私はひどい衝撃にぐらつきながら、一本脚を軸にして半転した。そして、足が地面に落ちたとき、とつぜん灼《や》けつくような激痛が脛《すね》から駈け上ってきて脳天をつらぬいた。私はとっさにその足を縮めようとしたが、足はうごかず、再度の痛みがまたおなじところからつき上げてきた。私は呻《うめ》きながら足もとの信じられないちかさに五郎をみた。しかも、五郎は私の脛に密着していた。私は、ひどい恐怖に衝かれてのけぞった。
そのとき、耳のなかの爆竹の音がふいに消えた。そして、耳の鼓膜が破れてしまったかのように、すべての物音が爆竹の音といつしょにきこえなくなった。
――私はふしぎな静けさのなかにいた。痛みはすこしも感じなかった。私は五郎を見下ろした。恐怖もなかった。五郎は首をねじって私の脛を噛み、腰を地面に落していた。そのとがった耳のあいだから、私の足の甲がみえ、そこに幾本かの血の筋がみえた。すると、ふいに、かねてから五郎に抱いていた殺意が、私の胸にまざまざとよみがえってきた。私は、いまこそ五郎を殺さねばならぬと思った。それは、私が日本にきてからはじめて抱いたつよい意志であった。私は、このはじめての意志にたえうるちからが身うちにみなぎってくるのを待った。それから、手にした木刀をにぎりしめた。
私は木刀を高くふり上げ、ちからをこめて五郎を撃った。はじめに脇腹《わきばら》を、つぎに背骨を、そして、尾のつけねを。兵藤氏から、毎朝人を撲殺《ぼくさつ》する方法をおしえられていたことが、そのとき私にさいわいした。私の打撃は、みな正確に急所へ落ちた。
五郎は、私の脛を噛んだまま、ひと声の悲鳴も発しなかったが、私をにらみ上げた目のひかりは、ひと撃ちごとに衰えをみせた。そうして、何度目かに尾のつけねを撃ったとき、はげしい痙攣《けいれん》が毛を逆立てて五郎の背を駈《か》けのぼり、顎《あご》は急にちからをなくした。牙《きば》は私の肉をはなれた。私はなおも、くらくらする五郎の脳天を二度撃った。二度目を撃ったとき、木刀は私の手からすっぽぬけて、焼けのこった胡弓にあたった。
さいしょにあたりの静けさを破ったのは、その音であった。つづいて、兵藤夫人の悲鳴がきこえた。顔を上げると、兵藤氏の声が飛んできた。
「張、そこをうごくな。」
彼は、身をひるがえすと、とても老体とは思えぬほどの敏捷《びんしょう》さで、ひと飛びに縁に上った。そして、土足のままで座敷へ駈けこみ、長押《なげし》にかけてあった埃まみれの槍《やり》を小脇にかかえて、ふたたび縁に飛び出してきた。
彼は、無言で槍をしごき、とおくから私の胸にねらいをつけた。穂先には、鞘《さや》がついたままだったが、彼はそれに気がつかないらしかった。そして、さけんだ。
「こい、野蛮人。よくも貴様、五郎をやったな。貴様はわしがやってやる。こい。」
私はうごこうとしたが、左の足がうごかなかった。五郎の執念は、まだ噛みついた姿勢のままズボンの穴に牙をからませ、そのやけに重たいからだで私の左足を圧していた。私は、親指の腹でつめたい五郎の鼻を押し上げ、牙をズボンの穴からぬいた。私が、じかに五郎に触れたのは、このときがはじめてであり、最後である。五郎の顎は、にぶい音を立てて地面を打った。
それから私は、兵藤氏の方へあるいた。左足がすこしだるく、びっこをひくような気がしたが、それは藁《わら》草《ぞう》履《り》が血を吸って足の裏にねばつくせいかもしれなかった。兵藤氏は、「こい。」と私をよんでおきながら、私が前進するのをみると、なおさら怒った。
「くるか、貴様。きたな。よし、こい。くるならこい。」
彼は、縁の床板を踏みならしながらさけんだ。そして、とつぜん、よろめいた。腰がゆれ、足がもつれてうしろへよろけた。槍の穂先は私の目の前から跳ね上り、槍の尻が二枚の障子をつらぬいて、柄はほそながい桟《さん》のあいだにはさまった。彼は、櫓《ろ》を漕《こ》ぐような姿勢で柄にすがり、なおも踏みこたえようとしたが、閾《しきい》に踵《かかと》をとられて座敷のなかへあおのけざまに倒れていった。槍は彼の手をはなれた反動で半円を描き、その尖端《せんたん》が私の胸もとをかすめて縁先に落ちた。そのとたんに、鞘がぬけ、むき出しになった刃に白いひかりがすべった。
私は、ほんのすこしのあいだ、そのツララのような刃にみとれた。それから、座敷の兵藤氏に目をもどした。彼は尻もちをついたまま、あえぎながら私をにらんでいたが、私と視線が合ったとき、急にあえぐのをやめて目をみはった。
そのとき、彼が私の目のなかになにをみたのか、私は知らない。私はただ、彼の上にかつてみたことのないある暗澹《あんたん》とした表情が、その顔をすばやく覆《おお》うのをみただけである。
彼は、どういうわけか片手で畳を猫《ねこ》のように掻《か》いた。そして、もう一方の手を私の方へ突き出してうちふった。その手は私を招いているかのようであり、また、彼の目が槍と私とのあいだをいそがしく往復していたことから、私を介して槍を手にすることを望んでいるようにも思われた。だから私は、槍の首をにぎって柄を障子の桟からぬきとり、それを両手にもって沓脱石に上った。そのとき、兵藤氏の目は眼《がん》窩《か》から飛び出したかにみえた。同時に、ほとんど彼のものとは思えぬ声が、彼の口からほとばしり出た。
「わしをやる気か。狂ったな、貴様。おーい、タマエ。張が狂ったぞ。早くおさえろ。おさえろというに。」
ふいに、私は横あいから肩を抱かれた。はじめは、遮《しゃ》二《に》無《む》二《に》きつく、それから徐々にちからがゆるんで、しまいにはマントのようにやんわりと。私は思うさまに抱かれながら、耳もとで兵藤夫人のふるえ声をきいた。
「張さん。どうぞ、かんにんね。かんにんしてね。お願いだから、槍を捨てて。」
それは、お安い御用であった。私は槍を捨てるために、静かに彼女を押しのけた。夫人の顔はむくんだようにひどく大きくみえ、いまにも泣き出さんばかりにゆがんでいた。槍を横にして縁におくと、彼女は声も涙も出さずに泣き出して、私にちいさく合掌した。
私は、庭の中央へひきかえした。焚火のあとはまだくすぶっていて、そのそばに、五郎の屍《し》体《たい》が木刀を抱くような姿勢でながながとよこたわっていた。胡弓は、切れのこった一本の絃《げん》のために、折れた部分が飛びはなれずにすんでいた。私は絃に指をかけて拾い上げた。弓がなかった。私は立ち上ってあたりをみまわし、弓のかわりに戦をみつけた。
戦は、庭の隅の楓の幹に背をへばりつけて、棒のように立っていたが、私がそっちをみると、いきなり一直線に縁に駈け、沓脱石に飛びのった。そうして、縁先に立っている兵藤夫人の胸のなかに、まるで彼女の息子ででもあるかのように身を投げかけ、夫人もまた、まるで彼の母親ででもあるかのように彼の首を抱擁《ほうよう》するのを私はみた。私は、その光景にふと軽いめまいを感じた。
私は胡弓をさげて木戸の方へあるいた。木戸をくぐって井戸の方へ、のろのろとあるいた。傷の痛みがもどってきたのは、そのときであった。私は、さいしょの痛みが去ってから、傷のことは忘れてしまっていたといってよかった。それよりは足の裏にべとついている血の不快感がはるかにつよく、まず井戸へゆく気になったのはそのためであった。井戸へ辿《たど》りついたとき、私は痛みになれるまで、しばらく釣《つる》瓶《べ》の綱にすがっていた。
傷は、血から予想したほどひどくはなかった。傷口は四つが深く、他のいくつかが浅かった。私は脛に水をざぶざぶと注いでは、痛みに耐えながら傷口を洗った。深い四つの傷口からは間断なく新しい血が湧《わ》くので、その上を鉢巻《はちまき》の手《て》拭《ぬぐ》いでかたくしばった。そして身を起こそうとすると、また軽いめまいがした。
私は、柱にもたれて目をつむった。からだじゅうが、いいようもなくだるかった。つめたい汗が頬《ほお》を流れ、寒《さむ》気《け》を感じて手のひらで顔を覆うと、顔は水を浴びたように濡《ぬ》れていた。気がついてみると、シャツもパンツも、汗を吸ってからだにつめたくはりついていた。やはり、離れへゆこうと思った。離れへいって着替えをし、傷の手当をしようと思った。
井戸端からは、勝手口が最もちかかった。男は勝手口から出入するべきでないというのが兵藤家の庭訓《ていきん》であったけれども、そんなことはいまはどうでもいいような気がした。片脚跳びで勝手口へゆくと、ほの暗いそこの戸口に、兵藤夫人が立っていた。夫人は、そこからずっと私の挙動をみていたのだろう。彼女は私に道をあけながら、ごくちいさな声で、
「足を洗ってきたの。えらいわね。」
といった。つまらぬことだが、私が夫人に褒《ほ》められたのはそれがさいしょではないかと思う。傷は動《どう》悸《き》とおなじ調子で痛むので、私は上《あが》り框《かまち》から腰を上げることができなかった。するとまた、
「どう、傷痛むの?」黙っていると、「がまんしてね。あとでお医者へいってよく治療してもらいましょうね。」
夫人はいった。それから、五郎に裂かれ、汗にまみれた私の衣服について、思いやり深い言葉をかけてくれた。私はいたわられている自分を感じ、その意外さに反射的に心をかたくして立ち上ると、折れた胡弓が脚にあたってからからと鳴った。夫人は驚いたような顔をして胡弓をみたが、また泣き出しそうな笑顔になって、とおくから私の方へ両手をのばした。
「張さん。その胡弓をわたしに頂戴《ちょうだい》な。」彼女は、子供をあやすように、小首をかしげてそういった。「こわれちゃって、もう鳴らないのよ。捨てましょうね。」
けれども、胡弓は折れても胡弓であった。私は奪われまいとして胸に抱き、縁側へ通じる板戸をあけた。
「どこへいくの、あんた。いけません。そっちへいっちゃ。」
夫人の打ってかわった頓狂《とんきょう》な声で、庭にいた兵藤氏と戦は、五郎の屍体のそばから跳ねるようにして立ち上った。
私は、鍵《かぎ》なりに庭を囲んでいる長い縁側をあるいていった。兵藤氏の前を通りすぎると、彼は私の名をよんだ。私が思わず足を止めたのは、その声のかつてないやさしさのせいだった。彼はじつにやさしい声で、けれども、なにかせきこむような口調でいった。
「張君。気をしずめて。狂っちゃいかんよ。」
そのとき、その言葉は、屈辱的な余韻をのこして私の脳裏をかすめていった。私は、いまこそ自分が正気そのものであることを彼にわからせたい衝動に駆られたが、口をひらけばなにか見当ちがいなことをさけびそうで、黙っていた。すると、兵藤氏が戦にささやく声がきこえた。
「戦。早く張になにか言葉をかけてやりなさい。満洲語でもいいから、なにか正気にもどすような言葉をかけてやりなさい。」
私はただ、戦のためを思って待ったが、戦はなにもいわなかった。私は縁側の突き当りの離れの襖《ふすま》をあけると、急に全身からちからがぬけて、壁をなでながらそろそろと畳に倒れた。
すでに私は、周囲に変化のきざしをみていた。それらは、あの兵藤氏の彼らしくもないさけび声をしおに、つぎつぎにあらわれはじめた。
思いがけない夫人の抱擁。そして、合掌。日《ひ》頃《ごろ》の冷静を欠いた戦の行動。私をよぶ兵藤氏の声の尋常でないやさしさ――けれども私は、はじめそれらの意外なながめを、私のだしぬけの意志に対する彼《かれ》等《ら》の一時的なとまどいとしか、うけとることができなかった。彼等のただならないやさしさが、とても信じられなかったからである。
ところが、しばらくして、兵藤氏が離れに私をよびにきたとき、私は彼等のとまどいが思いのほか深いものであることを知った。彼は、相も変らぬやさしさのあふれる物腰で、私を離れからつれ出して、門の内に待たせておいた人力車にのせた。夏の真昼をゆくというのに、人力車は前の幌《ほろ》をおろして、日照りのなかをのろのろと走った。
私は、われわれの学校の校医が経営している病院につれてゆかれた。荒療治で名高い軍医あがりの校医は、兵藤氏とのながい密談ののち、私を外科室の寝台に案内してたえず私の表情に気を配りながら、脛の傷にばか丁寧な治療をほどこした。私が周囲の変化のふしぎさに気がついたのは、それからである。
兵藤家に帰ると、夫人が出迎えて私の背中をやさしくなぜた。離れにゆくと、部屋はきれいに整頓され、床の間によせて私の布《ふ》団《とん》がのべられていた。夫人は、ながい旅から帰ったばかりのひとをいたわる口調で、私にゆっくり休むことをすすめて、そっと部屋から出ていった。
私は、布団に身を横たえて、しばらくのあいだ深い疲労感にひたっていた。庭にむかってあけはなった窓から、彼等がひそひそと五郎の屍体をはこぶらしい物音がきこえた。彼等は、さいしょのとまどいから醒《さ》めるどころか、ますますそれを深めているようにみえた。私の周囲は、そのとまどいの姿のままで変化しつつあるらしかった。この理解を越えた不自然ななりゆきは、私の心を不安にし、このあとにくる新しい境遇に対する漠然《ばくぜん》とした警戒心をよび起こした。私は、たとえなにが起ころうとも、唖《おし》のように沈黙していようと決心した。私は日本にきてから、最善の保身術は沈黙だと思うようになっている。
ながい時間がすぎてから、兵藤氏がどういうつもりか、よそゆきの国民服に着替えて、離れにきた。私が不審のあまり頭をもたげると、彼は、手のひらで遠くからおさえつけるようにしながら、「そのまま。そのままね。」といって、私から二メートルほどはなれたところへ正《せい》坐《ざ》した。
「張君。ようく気をしずめて、わしのいうことをききなさい。いいね?」じつにやさしい声であった。「わしのたのみを、きいてもらいたいのです。わしはな、君たち同胞国の留学生を預かっていることを、大きな名誉にしているのです。わしは君たちを、かしこくも……。」彼は背をのばした。「天皇陛下からお預かりしているのです。たいへんな名誉です。わしは、しんから誇りに思っているのです。わしは選ばれた日本人として世間に対して肩身がひろい。勤皇の先祖様にも、これで十分顔が立つんです。それを、君が……いいね? よくききわけてくれよ。いま君が、困ったことになれば、わしは立場がなくなるのです。お上に対して申訳が立たなくなるのです。わしの名誉も誇りも、まるつぶれなんです。尋常な病気なら、まだいい。乱心。これは困るのです。この家から乱心者を出すことは、最も不名誉なことだ。それが、お上から預かっている君だと、なおさらなんです。いいかね? よくききわけてね。胡弓《こきゅう》は、新しく買ってあげます。嘘《うそ》はいわない。わしは、名誉や誇りをうしなうことが、死ぬよりつらい。たのむ。正気をとり戻《もど》してくれ。ね、たのむ。」
私は、彼が両手を畳について、私に深々と叩頭《こうとう》するのをみた。
さいしょに私に訪れたのは、ありうべからざることをまざまざとみた、つよい驚きであった。私は呆然《ぼうぜん》として彼の眉《み》間《けん》の皺《しわ》をみていた。夢ではないか? けれども、彼の肩は呼吸のたびに大きくゆれ、私の傷は脈打っている。夢ではない。
私は、かわりはてた兵藤氏を、しげしげとみた。これがつい先刻まで、神のように私を支配していたひとであろうか。私をことごとに咎《とが》めた彼。大陸のうすのろと罵《ののし》った彼。たわけとさけんで頬を打った彼。槍で私を刺そうとした彼――その彼が、いま目にあわれっぽいひかりをたたえて、寝そべっている私に深く頭をたれている。
私は、怪しくにごった感動が心をひたしてくるのをおぼえた。そして、その感動の高まりのうちに、彼の言葉のみならず、彼等の変化の意味をもまったく理解することができた。
彼等は、正気そのものの私を、狂者と誤解しているのである。私の感動というのは、兵藤氏、完全無欠な神のごとき存在であった彼のなかに、弱点をみたよろこびであった。そして、それは彼を跪《ひざまず》かせるほど重大なものであり、しかも、それがいま私の掌中にあることに思い至ったとき、実際私は、ほんとうに狂いそうなよろこびをもてあました。すると、私のからだはふるえ出し、両手がひとりでに頭を抱いた。
兵藤氏はのけぞった。うろたえた目をして、腰をうかし、まるで蝋燭《ろうそく》の火でも消すように、とおくから手のひらで私の顔を叩《たた》くようにした。けれども、その彼のしぐさは、かえって私の頬のほてりを煽《あお》った。彼は、世にもなさけない顔をして、ひょろひょろと立ち上った。そして、ふとい吐息とともにつぶやいた。
「やっぱり……やっぱり狂ってしまった。」
そして、ちからない足どりで部屋を出ていった。
そのとき、私は、周囲の変化がこれで不動のものになることを感じた。もし私がすすんで彼等の誤解をとかない以上、私の変身もまた確実であった。私は狂って、狂者になる。それは私の破滅にもひとしかったが、この思いもかけなかった変身は、たえがたい魅力をもって私の心を誘惑した。
なによりも、もし私がこのまま狂者になれば、兵藤氏の最大の弱点を、自分の手ににぎりつづけることになるという暗いよろこびが、私にすべてを忘れさせた。そうすれば、兵藤氏ばかりでなく、夫人も戦も、私に対してながくやさしさと、いたわりをうしなわず、私のいかなる行為をも微笑をもって許し、私はかつての五郎のように限りない自由を得るはずであった。私は、この解放の誘惑にもまた、抗《あらが》うすべを知らなかったのである。
あくる日から、新しい日々がはじまった。私は狂者のありようを知らない。ただ沈黙し、周囲を無視して気のおもむくままに行動したのであるが、それだけで十分であった。
彼等には、私が行動に意志をもち、些《さ》細《さい》なことを拒絶しただけで、すでに異常なのである。それにしても、最も自然にふるまう私を狂者とする彼等こそは何者だろう。
十日あまりして、私の傷は治癒《ちゆ》した。そうして、兵藤氏は私をここへつれてきた。私はここが精神病院であることを知ったとき、狂気が否定されるのではないかというおそれを抱いたが、そのおそれはむなしく終った。そのかわり、思いもしなかった束縛が私を待っていた。私は、もうこのトク三号室で幾十夜かをすごした。私はもはやここから容易に出ることができないことを知っている。なけなしの自由をすっかり奪われてしまったことも知っている。けれども、私は私の変身をべつに後悔していない。ここにいる限り、私は帝王のごとくであり、掌中には兵藤氏の命のまぼろしがある。壁には、ここへくる前十日間の生活をつぶさに刺した豪華な刺繍《ししゅう》のまぼろしがある。窓の外には、帰国の夢を織りこんだ果てしない絵巻のまぼろしがある。それらは、みな、私が青春を賭《か》けてつかみとった宝物ばかりだ。これだけあれば、たくさんである。これだけはどんなことをしてでも、墓場まで持ってゆくつもりである。
私は、終日、床に固定された椅子《いす》に腰かけ、暇さえあれば、窓の外にむかって帰国の夢をみつづけている。
《もし故国へ帰れたら、父母の前に跪いて、彼等から享《う》けた魂を狂気でけがしたことをわびよう。それから、ふるさとの土に、もう決してそこをはなれないことを誓おう。そして、いつの日か、そのふるさとの土の上に、新しいわれわれの国をつくろう。どの国にも利用されない、われわれだけの新しい国!》
私は、すでにそのまぼろしの国を愛している。ふしぎなことだが、私がかつて故国にさえ抱いたことのないほどの激しい愛国心が、いま私の五体に横溢《おういつ》している。
心が激してくると、つめたい壁に頭をもたれて、胡弓を弾く。もたれる壁の、ちょうど頭があたるあたりに、この部屋の先住者がのこしたと思われるまるい汚れがあって、ある日、ふとそこへ頭をあててみて、私はふしぎなやすらぎを得た。こうして、とりとめのない日々がすみやかに飛びすぎてゆく。
もはや私は、他の狂者たちとくらべて、どこかちがったところがあるであろうか。
解説
奥《おく》野《の》健《たけ》男《お》
『忍ぶ川』は、昭和の名作のひとつとして、人びとにながく愛され、いつまでも繰り返えし読みつがれて行く作品であろう。たとえこの作者が、華々しい人気作家、大文豪などにならずマイナー・ポエットとして、つつましく生涯《しょうがい》を送ったとしても、忍ぶ川一作と共に、作者は後の世の、かなしく、弱く、美しい人びとの心の中に生き続けるに違いない。樋《ひ》口《ぐち》一葉《いちよう》の『たけくらべ』、鈴木三重吉の『千鳥』、中勘助《なかかんすけ》の『銀の匙』、中村星《なかむらせい》湖《こ》の『少年行』、中河与一の『天の夕顔』、梶《かじ》井《い》基《もと》次《じ》郎《ろう》の『檸檬《レモン》』、中島敦《なかじまあつし》の『李陵《りりょう》』、田《た》中英光《なかひでみつ》の『オリンポスの果実』、小山清《こやまきよし》の『聖アンデルセン』、原民《はらたみ》喜《き》の『夏の花』、加藤道夫の『なよたけ』などのように。
いや、むしろこういうべきであろう。作者が将来、どのような大文学をたくましく書き続けたとしても、あるいはどのように変貌《へんぼう》したとしても『忍ぶ川』は、島崎藤村《しまざきとうそん》の『若菜集』、武者小《むしゃのこう》路《じ》実篤《さねあつ》の『友情』、志賀《しが》直《なお》哉《や》の『小僧の神様』、室《むろ》生《う》犀星《さいせい》の『性に眼覚める頃《ころ》』、川端康成《かわばたやすなり》の『伊豆《いず》の踊り子』、堀辰《ほりたつ》雄《お》の『幼年時代』、太宰治《だざいおさむ》の『思い出』、檀一《だんかず》雄《お》の『花筐《はながたみ》』などと同じように、青春文学のひとつとして作者とは独立した一篇《いっぺん》の文学作品として、読まれ愛され続けるに違いない。
どんな時代にもこういう作品はあってよいのだ。いやこういう作品はなければならないのだ。だがこういう作品は、めったに産まれるものではない。もしまねして書けば、鼻もちならないセンチメンタルな通俗作品になってしまうだけだ。こういう作品を書けそうに思えた時、作者はちゅうちょせずに、おのれの魂の流露に素直に身を任かさねばならぬ。作者三《み》浦哲《うらてつ》郎《お》は、その生涯における一度か二度しかない稀《まれ》な機会を見事にとらえ、そこにすべてをかけた。
『忍ぶ川』はいわゆる現代的な小説ではない。文芸批評家としてのぼくが、懸命に考え、追求し、待望している、かくあるべき現代文学の姿とも異なっている。ぼくが論理として持っている文学理念や現代文学の可能性とは遠く距《へだ》たっているのだ。
『忍ぶ川』が芥川賞《あくたがわしょう》に選ばれた昭和三十五年下期の候補作は十篇に及びまことに多彩であった。その中で批評家としてのぼくが関心を抱いた作品は、成功、不成功は別としてたとえば倉橋由美子『夏の終り』、柴田翔《しばたしょう》『ロクタル管の話』、泉大八《いずみだいはち》『レーメン分会』、小《こ》林勝《ばやしまさる》『架橋』、木《き》野工《のたくみ》『紙の裏』などであった。これらの作品は現代のメカニズムをどのように文学化しようか、奇怪な自己の観念をどのように表現しようか、方法的にも発想的にも、さまざまな意匠が工夫が実験が試みられている。このような作品はいわばぼくの文学論の嚢中《のうちゅう》にあり、その試みの可否について縦横に論評することができるのだ。
ところがその期の芥川賞は、意外にもぼくの盲点にあった『忍ぶ川』に決まった。ぼくは『忍ぶ川』を読んでいなかったから、それが私小説的な作品であるという新聞の紹介を読んでその銓衡《せんこう》に不満と失望を感じたことをおぼえている。その前年あたりから、安岡章《やすおかしょう》太郎《たろう》の『海辺《かいへん》の光景』が野間《のま》文芸賞に、庄野《しょうの》潤三《じゅんぞう》の『静物』が新潮社文学賞に、外村繁《とのむらしげる》の『澪標《みおつくし》』が読売文学賞にというように、私小説再評価、復活の風潮がさかんになって来たので、新人発掘の芥川賞までも、無難な私小説を選ぶ時代になったのか、そんな風にも考えたりした。どっちかと言えば、私小説否定に反対で、私小説に愛着をおぼえ、進んで擁護して来たぼくでさえ、芥川賞まで私小説とはと、その退嬰《たいえい》的風潮に不満をおぼえたのだ。
けれど「文藝春秋」に発表された忍ぶ川を読んで、選者たちがこれを芥川賞に選んだのは、当然であり、もっとものことだと肯《う》べなうことができた。もしぼくが選者であったとしても、一篇だけ選べということになれば『忍ぶ川』を選んだであろう。
『忍ぶ川』はそういう作品なのである。自分の文学主張なり、理論なりを忘れて、というよりそれを超えて、愛着し捨てがたくなる作品なのだ。ぼくはこの作品を読みながら幾度か、目頭があつくなった。そして本を閉じて、いいな、気持いいなとひとりつぶやき、その余韻をたのしんだ。だいいち、忍ぶ川の志乃《しの》という名前がいい。その名前を聞いただけで銘仙《めいせん》のよく似合う、すらりとして、りりしく清潔なそしてけなげで可愛《かわい》らしい女性のイメージが浮んでくる。いや名前のためではない。作者の志乃に対する簡潔で的確な描写、会話や動作のすみずみから漂ってくるものが、たちまちぼくを志乃のとりこにしてしまう。冒頭の深川の木場《きば》や洲《す》崎《さき》を訪れる場面、料亭《りょうてい》ではじめて会った時の言葉少なのきりっとした魅力、二階のなじみの客の招きを断わる強さ、すきを見せない中にふっとみせるはじらいと愛らしさ、父の病気の時の体当りの一《いち》途《ず》さ、不幸な過去をためらいながら打ち明けずにはいられぬ誠実さ、しゅうとやしゅうとめにつかえる従順さ、きりきりっと働く姿の甲斐々々《かいがい》しさ、そして雪国の初夜の素裸に燃える肌《はだ》……こう述べて行くと、ぼくは主人公に嫉《しっ》妬《と》をおぼえるほど志乃に引かれて行く。これこそ、日本の男が心の底に伝統的に求めてやまぬ理想の女性、――妻のイメージにほかならぬ。
ぼくはこの気持のよい爽《さや》やかな恋物語に、けなげな志乃の姿にホロリとし思わず目頭があつくなったと書いた。しかしそれはホロリとさせられてから、あわててあたりを見廻《みま》わし、誰《だれ》かに見つからなかったかと狼狽《ろうばい》するような羞《はず》かしい気持もまじっているのだ。それは自分の中に古風な純情さを見《み》出《いだ》した狼狽でもあるだろう。それと共に、これはなにかつくりものだ、きれいごとだ、新派的お涙だという不信感がどうしてもつきまとうのだ。選者の川端康成氏は選評に「『忍ぶ川』は私小説だそうである。自分の結婚を素直に書いて受賞した、三浦氏は幸いだと思える」と述べているが、これは果して昔から言われている意味の私小説であろうか。自分の体験(結婚)を素直にありのまま書いた作品であろうか。ぼくは必ずしもそうとは考えない。おそらくここに書かれている事実、ディテールは、そのまま体験した事実であろう。だがこの小説全体から受ける雰《ふん》囲気《いき》は、リアリズムと言うより、フィクションであり、作者の美意識によってつくられた架空の作品という気がする。現実とは違った次元に昇華され、美化されたお伽話《とぎばなし》のように思える。事実をそのまま使いながら、作者は夢見たメルヘンを書いたのではなかろうか。
この二人の現実はこんな美しく素直なものではなかったはずだ。生きて行くために必ず付随してくる現実の汚れが、底知れぬ懐疑や嫉妬や苦しさ、醜さがあったに違いない。それを作者はたんねんに削り落し、意識的に捨象し、美しさと素《そ》朴《ぼく》さだけの物語の世界を築いて行く。つまり私小説のかたちを借りた、かくありたい理想のメルヘンなのだ。ここにはかつての私小説に見られたような、これからどうなって行くかわからぬ体当りの泥《どろ》まみれの苦闘はない。過程のくるしみは描かれていない。すでに完了した静止の美の世界なのだ。作者の苦しみ、ためらい、悩みはすべて美的世界構築の外に除かれ、底に埋められ、作品の中には入って来ない。とすれば、これはまぎれもない現代小説である。古風めかした現代文学の試みである。その意識的な操作、方法が、ぼくをして美しさに涙ぐませながら、そこに浸りきらせず周囲を見まわし、はずかしさを感じさせる原因なのだ。つくりものであり、人生的、求道的感動が得られない。だがそれはそれでいいのだ。ぼくは現代の状況の中でよくもここまで、人間の美しさ素朴さだけをえらびとり、文学として成立させた作者の才能と根気と、その祈りに似た心境に敬意を抱き、共感する。この作者は底なしのニヒリズムの泥沼を体験しているからこそ、現代と自己のすべてに絶望しているからこそ、このような美しい夢を見、表現することができたのかも知れぬ。それにしても志乃の父親との臨終での出会い、北国の雪の中の主人公の家族だけに囲まれた結婚式などの場面は感傷を超えて美しい。簡潔な文体や発想に同じ青森県出身の先輩作家、太宰治の影響が色濃くあらわれている。苦悩を表に出さぬ中期の太宰の作品を思い出さずにはいられぬが、この作者は本質的に楽天家なのか太宰の作品にある隠せぬ苦渋の色がない。それが救いであり、かつもの足りなさでもあるのだ。『忍ぶ川』は昭和三十五年「新潮」十月号に発表され、第四十四回芥川賞受賞作となった。作者二十九歳の時の作品である。
『初夜』は昭和三十六年「新潮」十月号に発表された。忍ぶ川の続篇と言える作品である。ここで忍ぶ川では、背景としてぼかされていたあいついで自殺失踪《しっそう》を遂げた兄姉の思い出にからむ、血の恐怖が語られている。『忍ぶ川』で余りにも幸福そのものだった志乃の不幸が、隠されたコンプレックスもあらわれて来て痛々しいが、父の自然の病死を逆のきっかけとして、今まで禁じていた子供をつくろうというハッピーエンドになっているので救われる。だがこの作品には主人公のひとりがってのストイシズムが目立ち、作品の感動をいささか弱めている。
『帰郷』は昭和三十七年「新潮」二月号に発表された。大学を卒業し、父を喪《うしな》った主人公は、妻を東京に呼び寄せ夫婦水入らずの生活をするのだが、小説は売れず生活は困窮し、身《み》重《おも》の妻のアイスクリーム容器づくりの内職でようやく飢えをしのいでいる。その家に出入りする無邪気で生活に根の生えた妻の弟妹たちとの対比が鮮やかである。ついに都落ちする汽車の中で買ったアイスクリーム容器のカサコソという音が印象的だ。
『忍ぶ川』でのなれそめから、『初夜』『帰郷』と読んでくると、その先の生活、芥川賞を受賞し、やっと苦労が酬われるところまで読みたくなるのが読者の人情であるが、『團欒』(昭和三十八年「新潮」四月号)は、この夫婦のその後の生活をモデルにしているらしいが著しくデホルメされ、調子も暗く変ってくる。サラリーマンの夫婦が郊外にやっとアパートを見つけるが壁はベニヤ板のため周囲を気がねして窮屈に暮している。妻は結婚前勤めていたレストランでいやらしいコックの男に二度も犯されかかったことを、最初の子供を産む前に手紙で告白せざるを得ない。夫は妻の出産の日、飲み屋にいて、妻に他人のような冷い目で見つめられる。子供の誕生日に夫は銭湯へ行く途中、ふざけ過ぎて危うく子供を不具にしそうになる。妻が二度目の子を流産しそうになり入院する。『團欒』という題とうらはらな夫婦の間に暗い底流のある、なにか喰《く》い違ってしまった生活が描かれている。再びかつての美しい日をとり返せぬものかという結末の夫の願いもかなしい。ぼくはこの『團欒』の転調に注目せざるを得ない。これは『忍ぶ川』などの余りの美しさのむくいであろうか。ここにかつて捨象し、心の底に埋めてしまった現実に復讐《ふくしゅう》される作者を見出すのだが、それは当り前の世の常である。作者はこのかなしさを超えて、つくりものでない真実の魂の美しさを見出すため、辛《つら》い日常を旅しなければならないのだ。
『恥の譜』は芥川賞受賞と同時に昭和三十六年「新潮」三月号に、発表された。『幻燈畫《げんとうが》集《しゅう》』(昭和三十六年「新潮」六月号)と共に、作者の魂の蔭《かげ》の部分を描こうとした作品である。六歳の誕生日、美しい次姉が津軽の海で自殺し、ついで長兄が失踪し、長姉が琴を枕《まくら》に服毒自殺し、ついには次兄までが失踪してしまう。六人の兄姉のうち四人までが自殺、失踪し、残されたのは目が不自由で家に引きこもっている姉と、すべての責任を負わされた末弟の自分だけである。主人公はその宿命とも言うべき血に打ちひしがれる。『恥の譜』は父キトクの電報で志乃と共に故郷へ帰り、脳軟化症で死んで行く父を看護する作品であり、父の死を冷静な作家の目で見つめ、そこに死の本質を、人間とは何かを見出そうとしている。これは初夜の題材を深めたもので、父の事故死でない自然死に救われると同時に、父が死に奪われて行くかなしみを抑制した筆で描いている。だがぼくは『恥の譜』という題名がいささか大げさで相応《ふさ》わしくないように思われる。むしろ「怖《おそ》れの譜」「宿命の譜」という面から、潜在意識に照明をあてるべきではなかったか。
『幻燈畫集』は幼児期の思い出や姉の死や兄の失踪、使用人の女性に対する幼児期の愛や幻滅が、子供の目を通して鮮やかに描かれている好感の持てる作品である。冒頭の八歳のお凛《りん》がいきなり「あたし、バイドクよ」という台詞に、地方の都市にあるかなしいたいは《・・・》い《・》がショッキングに、そしてかなしく表現されている。嫁に行く召し使いに対する怒りにみちたかなしみの場面は圧巻である。家族に対する不信に次第にめざめて行くところも納得できる。血のおそれ、これがどのくらい作者の青春に暗い蔭を宿したか。同じように血の宿命におののいた同郷の作家太宰治を共感をもって耽読《たんどく》した影響が、文章や発想のはしばしにまぎれもなく見出される。ぼくの不満はこの血のおそれを『恥の譜』などのように流さず、自己の内部の暗さを、もっとおそれずに徹底的に追求して欲しいという点にある。今までの作者はそれを横目に見ながら肝心なところで抒情《じょじょう》に逃げているようだ。ここを掘り下げた時三浦哲郎の文学は、深淵《しんえん》を抱いた魂を揺がす文学になるであろう。
『驢馬』は昭和三十二年二十六歳の時書かれ、三十六年「文学界」八月号に発表された。戦時下東北に滞在した満洲留学生の内面を描いた異色作である。これは複雑な発想と構成からなり、俄《にわか》に作者の真意を見出しがたいが、満人を借りることにより、戦争下の日本の歪《ゆが》み、中学生の生活がおもしろい角度からとらえられている。だがぼくはストレートに書いた『十五歳の周囲』(新潮同人雑誌賞)の方により感動させられる。作者が渾身《こんしん》の力をこめたらしい不思議な作品と言う以外さしあたってぼくの感想は見当らない。
ぼくは現代の忙しいマスコミにとらわれずに、つねに自分のペースで進んで行くこの作者が、内面に目を向ける時どのような深化をとげるかを、強く期待している。
(昭和四十年五月、文芸評論家)