[#表紙(表紙.jpg)]
三好 徹
狙撃者たちの夏 サミット・コンフィデンシャル
目 次
暗殺者の影
怒りの標的
大いなる日
あ と が き
[#改ページ]
暗殺者の影
1
カードに負け続けたあげくに、彼が部屋に戻ったのは、午後九時ごろだった。ドアをあけ、室内灯のスイッチを押したが、灯は点《とも》らなかった。どうやら切れてしまったらしい。何から何まで、ついていない、と彼は思った。
ベッドわきのスタンドをつけるために、彼はドアをあけたまま進んだ。
不意に、ギイッ、と音がして、ドアがしまった。廊下から流れこんでいた明りが遮断され、一瞬、暗黒が部屋を支配した。
はっとして、その場で足をとめた。古い建物で全体にかしいでいる感じがあり、きちんと閉めておかないと、ドア自体の重みで、自然に開いてしまうことがある。だが、閉まるということはないはずだった。
「そのまま動かずに話を聞いてくれ」
闇の中から低い声が聞こえてきた。綿でも口に含んだような声だった。
「誰だ?」
「名前は勘弁してもらおう。こっちはずっと暗がりで待っていたから、目はなれている。最初にいっておくが、手荒なことをするつもりはない。しかし、あんたが妙なそぶりをする場合は、したくないこともしなければならなくなる。わかるかね?」
「わかったよ」
「あんたに頼みたいことがある」
「変な人だな。人にものを頼むのに、こういう頼み方はおかしいんじゃないか」
「人にはそれぞれ事情がある」
「要するに、顔を見られたくないわけだね」
「そのとおり」
「で、用件は?」
「たとえばの話だが、大統領が乗るような車の防弾ガラスを貫通する狙撃用ライフルは、あるかね?」
「冗談はやめてくれ。おれは場末のクラブのしがないバーテンだ。そんなことを知っているはずがないじゃないか」
「あんたのことは、あんたの古い友だちから聞いてきたんだ」
「おれの古い友だち?」
「そうとも」
「誰のことをいっているんだ?」
「かつてターニアの仲間だった男のことさ」
バーテンは沈黙した。
ようやく闇に目がなれてきた。通りをへだてたバーの、カクテルという赤いイルミネーションが点滅している。
「ターニアの本当の名前は?」
「パトリシア」
と背後の侵入者はいった。
「わかったよ。それじゃ、さっきの質問に答えよう。防弾ガラスのことは、正直にいってくわしくは知らないんだ。もう足を洗ってから五年になるからね。しかし、五年前でも、厚さ五ミリの強化ステンレスと同じ強度をもったガラスが使われていた。これだと、かりに精密射撃距離三百メートルという高性能の八ミリ大口径ライフルでも、おそらく小石がぶつかったほどにも感じないはずだ」
「防弾ガラスの性能は、この五年間でそれほど向上していないよ」
「そうかね。いずれにしても、よほどの至近距離なら別として、そういう防弾ガラスを貫通するライフルなんて存在していないよ」
「それじゃ、あんたのベッドの上にあるものを手にとってみてくれないか。目がなれてきたから、もう見えるだろう。トランペットのケースに入れてある」
相手のいうとおりだった。バーテンの目には、ベッドの上に置かれている細長いケースが先刻から見えていた。
彼は近寄ってケースをあけ、布にくるまれていたライフルをとりあげた。
彼は銃尾を右肩にあて、左手を伸ばして構えてみた。それだけで、全長一メートル前後のアーミー・ライフルだとわかった。だが、このクラスだと、重さは四、五キロというのが標準であるのに、それよりはるかに軽く感ぜられた。
彼はそのままの姿勢で、外のイルミネーションに狙いをつけてみた。やはり、通常のアーミー・ライフルよりも軽く、そのためにかえって扱いにくいのではないかと思われた。
「引金の操作はどうなっている?」
と彼は聞いてみた。
「セミ・オートマティックにしてある」
弾はむろん入っているはずはないが、念のためにいった。
「引金をひいていいかね?」
「そういうだろうと思って、すでにセットしてあるよ」
彼は、引金にかけていた人差ゆびをはずして、薬ゆびにかけかえた。ゆびのなかで、もっとも力の弱い薬ゆびを使うことによって、引金の張力が推測できるのだ。じっさいに発射する場合には、薬ゆびを使ったのでは、銃が手の中で踊ってしまうが、いまは命中させるのが目的ではなかった。
彼は、薬ゆびをからませたまま、胸の奥で何かしら昂《たかま》ってくるものがあるのを感じていた。
(もしかすると……)
彼は呼吸をとめた。それから全身の神経を薬ゆびに集めて、静かに引いた。
弾が装填《そうてん》されていないために、反動はまったくなかった。チッと軽い音を発しただけだった。
「どうかね?」
暗闇の中に身をひそめたまま、男が問いかけた。期待をこめたような口調だった。
「軽いが、引金張力は大きいようだな。このクラスならふつうは一・五キロだが、こいつは、倍くらいはありそうだ」
「さすがだな」
相手は満足したようだった。
バーテンは、こんどは人差ゆびにかえて、続けざまに引金をひいてみた。
「どう思う?」
相手はなおもいった。
「何が?」
「そのライフルさ」
「いいライフルだよ。ドイツのスナイパーG3によく似ているが、口径はあれより大きいね」
「やっぱり大したものだ。東洋には、昔とった杵柄《きねづか》という諺《ことわざ》があるが、こういう場合のことをいうんだ。そいつは、G3の七・六二ミリを七・九二ミリに改良した新型だよ」
「そうじゃないかという気がしていたよ。公表されていないが、去年78型がひそかに開発されたという噂《うわさ》は聞いていたんだ。しかし、これでも距離が遠いと、防弾ガラスに負けるだろうな」
「何メートルなら有効だと思う?」
「そうだな。確実を期すなら、せいぜい五十メートルだろう。それに、こいつは特殊金属を使っているせいだろうが、重量が軽い。だから発射の反動で照準が狂いやすい。引金張力からいって、威力は絶大かもしれんが、命中率は落ちるはずだ。もっとも、あんたは自信があるんだろうが……」
「まァね」
「競技会に出たことはあるかね?」
「公式の試合には出たことはないが、非公式にやったことはある。大口径ライフルのフリーだが」
「何点だった?」
「千百九十八点」
相手は事もなげにいった。
口径八ミリ以下のライフルで、三百メートル先の標的に向い、伏射、ひざ射、立射で各四十発。合計百二十発を撃つのである。標的は、10点の黒丸が直径十センチ、以下9点が二十センチとなり、一メートルで1点である。
「世界記録と同じじゃないか。オリンピックに出ないのか」
「冗談はよせよ。あれはアマチュアのやることじゃないか」
「ランニング・デアをやったことがあるかね?」
ランニング・デアというのは、二十三メートルの距離を四秒で動く標的(鹿《デア》に似せて作ってある)を百メートルの距離から、単発で五十発、二連射で二十五回の五十発を撃つ競技である。心臓部が5点で、五百点満点になり、専用ライフルが使われる。
「フル・マークだったよ」
バーテンは吐息をもらした。これまで公式の大会で満点のものはいないはずだった。
「この銃でか」
相手はそれには答えず、
「そいつは、特殊被甲弾を使うのでね、発射の反動はそれほどではないんだ」
「弾が軽いのか」
「そう、九グラムだ。そのくせ弾速が驚異的で、口径が大きいから破壊力はG3の三倍はあるよ」
ふつうは、十五グラム前後だから、約三分の二ということになる。
「参考のために教えてくれ。何を使っているんだ?」
「チタニウム合金だ。銃身などにもそれを使っている」
「なるほど。だから軽いわけか。それで、おれにどうしろというんだね?」
「このライフルを分解して、組立式に作りかえてもらいたい。もし可能ならば、X線の透視にかけられても、ライフルだとわからないようにしてほしいんだ。謝礼は一万ドルだ。半分はいますぐに、残りは、でき上ったときに支払う」
一万ドルは、この種の仕事の報酬としてはとびきりの額だった。それに、なけなしの金をカードですっかり失っていた。それだけではない。彼は、月末までに競馬のノミ屋に二千ドルを払わねばならなかった。もし支払いを怠れば、どういう目にあわされるか、はっきりしていた。ノミ屋の背後には情知らずの連中がひかえているのだ。足腰の立たなくなるほどに、ブチのめされるだろう。
一万ドルあれば、そういう全《すべ》ての災厄や不安から解き放たれるのだ。
しかし、男の注文も難しいものだった。X線の透視検査をパスしたいというのは、つまり飛行機を利用して、これをどこかへ持ち出したいということであろう。男はなおもいった。
「では、ここに五千ドルを置いておく。三日たったら連絡するから、こっちの指定するところに持ってきてくれないか」
「待ってくれ」
「何だ?」
「分解して五つくらいのパーツにして、さらにそれを組立式にするのはいいが、X線の透視をパスするように細工するのは不可能だよ。銃身や銃床は何とかなるとしても、この銃筒の部分は隠しきれるものではない。それゃ、セミ・オートマティックの発射システムをバラバラにしていいなら何とかなるが、それを再び組立てるのは、しろうとには無理だ。あんたにその技術がないからこそ、頼みにきたわけだからね」
「むろん、銃筒部分は一体にしておいてもらいたい」
「だからX線の透視をパスすることは不可能だといっているんだ。見た目にはわからないように、というなら何とかやれるが……」
「………」
「あんたがこれをどこで、どういう目的で使うのか、それはこっちの知ったことじゃないが、飛行機を利用して国外へ持ち出そうというんだろう? それなら、こういうトランペットのケースに入れて機内持込みの手荷物にする必要はない。持込もうとするから、X線透視にかけられるのだ」
「空港でチェックインするときに、託送荷物としてあずけてしまえというのか」
「そうとも。それなら検査はあるが、X線透視にはかけないはずだよ。見た目にわからなければ、疑われずにパスできるじゃないか。ああいう荷物のチェックというのは、乗るさいにパスしてしまえば、あとは入国するさいの税関の検査だけだ。税関では、よほどの容疑がない限りは、X線透視にはかけないものだからね」
「それは承知している。しかし、こんどばかりは、通常のチェック・システムとは違う国へ行くんでね」
「ロシアか」
相手は答えずに、
「陸路あるいは海路を通れれば問題はないんだが、そうもいかないのだ。ともかくX線透視にパスできるようにしてくれ」
「待ってくれ。何とか努力はしてみるが、三日では不可能だ。この部屋を調べただろうからわかっていると思うが、改造の工具はもう持っていない。ネジ回し一本さえないんだ。そいつを揃えるだけでも時間がかかる。場合によっては、高価な工具も新しく買わなければいけないかもしれない。一回こっきりの仕事に、それは買えないよ」
「期日は一週間までのばそう。しかし一万ドルの謝礼は、すべての費用を含めてのものだ。おれは昔から、かけひきはしない。それでじゅうぶんなはずだ」
その語調からは冷たい鋼鉄の意志のようなものが感得できた。
「オーケイ」
「話がまとまって、おれは喜んでいる」
「連絡はどうするんだ?」
「こっちから電話する。そのときはブラッド(血)という名前を使うが、もしヤバい状況だったら、ブラッディと呼んでくれ」
「わかった。参考のために聞いておきたいんだが、もしこの話をことわったら、どうする気だった?」
「おれは何もしない。あんたがこのサンフランシスコを騒がせたシンビオニーズの一味だったことは知っているがね。しかし、ノミ屋の黒幕たちがあんたを放ってはおかないだろうからな」
男は静かな口調でいい、足音も立てずに出て行った。聞こえたのは、ドアの閉まる音だけである。
バーテンは、スタンドの明りをつけた。ずいぶんと長い時間だったように思われたが、それは重苦しい緊迫感のせいだった。じっさいには三十分しかたっていなかった。正確にいえば、アメリカ西部時間で五月三十日の午後九時半である。
この時刻は、日本時間では五月三十一日午後二時半であり、東京では、全国警察本部長会議が開かれていた。
2
この会議で、国家公安委員長は次のような訓示を出席者にあたえていた。
「ご案内のように国内外の情勢は不安定かつ流動的であり、治安の面におきましても、本年一月の大阪での猟銃を使用しての人質立てこもり事件のような特異、凶悪事件、悪質化した暴力団犯罪、戦後第三のピークにある少年非行、極左暴力集団の爆弾事件などにみられるように、その先ゆきは楽観を許さないところであります。このような情勢のもとで、いよいよ先進国首脳会議いわゆる東京サミットを迎えることになったわけであります」
委員長はここでちょっと息を入れ、出席者をぐるりと見まわしてから一段と声を張って続けた。
「東京サミットは、先進国の首脳が一堂に会し、世界経済の安定的拡大につき率直に話しあい、国際協力の方途をさぐるきわめて重要な会議であり、今回の警備は、わが警察の威信をかけたものであります。会議の安全、円滑な運営のためには、とくにこの東京サミットの粉砕を呼号する極左暴力集団、日本赤軍などの国内外におけるテロ、ゲリラ、ハイジャックなどの過激な行動を事前に制圧することが何にもまして重要であります。本日ここにご出席の各位におかれましては……」
委員長の訓示はなおも続いている。冷房装置は作動しているのだが、出席者が多いためにさほど利いていない。なにしろ公安委員会からは五人の委員、警察庁からは長官以下次長、官房長、各局長から課長の主だったものや参事官、管理官をふくめて六十人、各管区の局長七人、警視庁からは総監以下十人が出ている。それに、各道府県の本部長を加えると、百三十人にもなるのだ。出席者のうちのかなりのものは、襲ってくる眠気と懸命に戦っていた。
あらゆる事態を想定して、すでに万全の対策がとられているのである。アメリカ大統領が羽田に到着するのは六月二十四日の夕刻だが、その前日から二万六千人の警官が配置されて、警備にあたるのだ。いや、それどころか、六カ月も前から、手はうたれているのだ。
会議が終ったのは夕刻だった。
ちょうどそのころ、中央日報社会部次長の江波が、新聞社の裏手にある喫茶店コロンボに入って行くと、窓ぎわの席にいた山木が、ここです、というふうに手をあげた。
江波は山木の前の席に腰を下ろし、コーヒーを注文してから、
「元気かい?」
「おかげさまで」
と山木は頭を下げ、
「お忙しいんでしょう?」
「まァね。でも、いまのところは大したことはない。あと三週間もすると、寝る暇もなくなるかもしれんが……」
「サミットですね」
「そうなんだ。政治家が人気とりに下らんことをやるもんだから、こっちは、その煽《あお》りをくらってたまったもんじゃない」
「いつからでしたっけね?」
「会議そのものは、来月の二十八日、二十九日の二日間だが、その前にアメリカの大統領がくる。実質的には、そのときからだな」
「カーターさんはいつくるんですか」
「二十四日だよ。その翌日には、カナダの首相がきて、二十六日には、ECの委員長、二十七日には、西独、イタリアの首相、フランスの大統領、そして最後がイギリスの首相という予定だ」
「新聞にも、あまりくわしい予定がのっていないですね」
「そうなんだな」
「どうしてなんです?」
「バカげた話だが、警察との協定で各社とも詳細な日程は書かないことになっているんだよ。ま、テロを警戒しているんだろうがね」
江波は運ばれてきたコーヒーに、ミルクだけを加えてかきまぜ、口に含んだ。山木がなぜそんな話をするのか、見当がつかなかった。
山木は二時間ほど前に電話をかけてきた。相談したいことがある、というのだ。山木は前は新聞記者だったが、十五年も前に退社して別の仕事をはじめた。いまでは、それが成功して、運転手つきの外車をのりまわしているが、記者時代、山木は江波に命を助けられたといってもいいようなことがあり、それを忘れずに盆暮には必ず挨拶《あいさつ》にくるのだった。
「じつはその……」
山木は口ごもってうつむいた。
「何だい? ここじゃ、話しにくいのか」
「いや、それはいいんです。別に誰に聞かれたって構わないんですが……ただ、ちょっと迷ったものですから」
「深刻なことらしいな」
「つまりその……いま、お話のサミットと関係があるんですが」
「ふうん」
「ご存知のように、わたしのところは、ホテルやビルの清掃を請負っているのですが、この前、警察の人がやってきましてね。ある若い社員のことをいうわけです。その社員の兄弟というのが、指名手配中の過激派だということを知っているか、というんですね」
山木は決心したらしく、熱っぽい口調で喋《しやべ》った。
「そりゃ、びっくりしたろうな」
「いや、それほどではありません。というのは、じつはわたしは知っていたのです。うちの仕事は信用が第一ですから、採用するときはチェックすることにしています。強盗や窃盗の前科があるものは、やっぱり使うわけにはいきませんから。しかし、それはあくまでも本人の問題で、家族のことまではとやかくいいません。猪川君の場合も、猪川というのがその社員なんですが、調べてありまして、彼の弟がそうだということは、わかっていました」
「手配されているなかに、猪川というのがいたかな。いなかったように思うが……」
「猪川というのは、結婚してから奥さんの姓を名のっているんです。前は、里井という名前だったのです」
「へえェ、あの里井の兄弟か」
江波は思わず唸《うな》った。里井は、五年も前から警察が追いまわしているが、いまもって逮捕されていない。すでに日本にはいないのではないか、といわれていた。
「猪川君としては、それくらい気を遣っているわけです。本人も学生時代は、デモに参加して警棒でなぐられたことはあるらしいのですが、その程度のことで、活動家にはならなかったんですね。むしろ、三歳下の弟の方がなってしまったというわけです。わたしも、そういうことは承知の上で、入社させました。本人にまったく問題はないんですから。しかし、知っていたとも警察の人にはいいにくいものですから、一応、びっくりしたふりはしておきましたが……」
山木はそういうと微笑した。江波は感じたままをいった。
「あんたなら、承知の上で採用するというのは、わかるよ」
「別に大したことじゃありません。封建時代じゃあるまいし、罪、三族に及ぶというのはおかしいですから。それはそれとして、厄介なことになったのは、そのさきなんです。わたしは驚いたふりはしましたが、本人はしっかりした人物なので、そのまま放っておきました。ところが、しばらくして銀行の人から呼ばれましてね。取引を停止するかもしれない、という警告をうけたんです」
「何かあったの?」
「何もありませんよ」
「どうしてなんだい?」
「むろん、わたしもそれをたずねましたよ。経営的にはわりあいうまくいっていまして、取引を停止されるような材料は何もないんです。かりに停止されたからといって、すぐに倒産することはありません。でも、銀行から取引を停止されたことが外部にわかれば、大きなダメージをくらいます。しかし、銀行の人は、はじめのうちは、理由をいおうとはしなかった。わたしが必死の思いで頭を下げて頼みこみ、もしわが社に悪いところがあったなら、すぐに改めるからといって……」
山木の顔からはとうに微笑が消えうせ、代って、憤りがにじみ出ていた。
「それで?」
江波は、見当はついていたが、先をうながした。
「あからさまな言い方はせずに、ひじょうに持って回った言い方なんですが、要するに、社員の中に危険分子をかかえているような会社とは安心して取引できない、つまり猪川君をクビにしろということなんです」
「警察が銀行に圧力をかけて、それをいわせたんだな」
「そうだという証拠はありません」
「そこで、あんたはどうしたの?」
「猪川君には、何の落度もありません。しかし彼をかかえていたのでは、会社がどうなるかは明らかです。わたし一人なら構わないとしても、ほかの社員までが路頭に迷うことになる。キリストは、迷える一頭のために九十九頭を棄てたかもしれないが、わたしはキリストじゃありません。猪川君に頭を下げて、辞めてもらいました」
山木は自分を責めるように目を伏せ、唇をかみしめた。
「よく素直に辞めたね」
「正規の退職金のほかに、一年分の給料を払うとはいったんです。しかし、彼は事情を察していたらしく、社長がいままで自分をかばってくれたことに感謝している、といってくれました。わたしにとっては、その言葉がせめてもの慰めでしたが、猪川君は社員のあるものには、こんなふうにいっていたそうです。自分をこんな目にあわせた権力やその手先には、必ず復讐をしてやる、って」
「警察とか銀行のことをいっているわけだね?」
山木はそれには答えず、内面の悔恨と苦渋をあらわにしていった。
「いまになってみると、わたしも、ほかにやり方があったと残念に思っているんです。はじめに警察の人がきたときに、それなら猪川君をサミット期間中は、何か名目をつけて外国へ出張させるとか……それをあさはかに突っ張ったばかりに」
「でも、それはあんたの責任じゃない。くよくよすることはないよ。ただね、過剰警備に対する批判はいろいろとあるんだが、いまの話をそのまま記事にするというのは、正直にいって難しい。おれは記事にしたいと思うが、部長や局長がどういうか……」
すると山木は慌てたように、
「待って下さい。記事にしてほしいというので江波さんに相談にきたわけじゃないんです。もっと深刻なことで、どうしたらよいか、自分でも判断がつかないものですから、お知恵を拝借したいと思いましてね」
「深刻というと?」
「猪川君が復讐してやるといったことなんです」
「その青年がそういう気持になるのも、あながち不思議ではないね。彼のような状況に置かれたら、誰だって、こんちくしょう、と思うさ。でも、それは口だけだろう。復讐するといったって、じっさいには、どうすることもできまいな」
「わたしもね、そうは思ったんですよ。ところが、きのう、わたしの秘書から意外なことを聞いたんです」
「何だね?」
「猪川君がわたしのところにたずねてきた警察の人や銀行の人の名前を、秘書から聞き出していたんです」
「いつごろのこと?」
「猪川君が退社したのは、今月の十六日なんです。十六日ですと、今月分の給料は全額支給になるので、その日付にしたわけですが、その日、彼は挨拶にきましてね。そのとき、秘書の女子事務員から聞き出していたんですね」
「彼が退社した事情は、みんな、知っているのかね?」
「いいえ、そんな話はしていません。ただ、人事管理をしている総務部長の川畑というものには、説明しておきましたが、むろん、誰にもいうな、と口止めはしてあります」
「秘書の女性は?」
「さっき猪川君が社員のあるものに、復讐の気持を語ったことをお話ししましたね。その社員のあるものというのが、じつは、わたしの秘書なんです。そのことも、きのう初めて知ったような次第で」
「彼女はどうして半月間も、あんたに黙っていたんだろう?」
「どうも面目のないことで……」
山木はうつむいた。江波はいった。
「いや、面目ないというほどのことではないと思うが」
「つまりその、秘書は松枝久子というのですが、わたしといろいろありまして」
「何だ。そういうことか」
江波は苦笑した。山木はハンカチを出して顔をぬぐってから、
「猪川君が退社する前でしたが、久子とわたしとの間が、もめておりまして、会社以外ではいっしょの時間を過すことがなかったのです。それが、きのうになって、また元のようになりまして、久子と会社以外の場所で会ったのですが、そこで聞いたわけなんです。久子は、わたしと喧嘩《けんか》している間は、知らん顔をしていたんですが、仲直りしてみると、心配になってきて、話してくれたわけです」
「なるほど」
「久子の話ですと、猪川君は相当に真剣だったというんです」
「しかし、じっさいには何もできんだろう。気にしなくてもいいんじゃないのか」
「わたしとしても、そう思いたいのです。ですが、猪川君というのは、特技をもっている男でして」
「特技って?」
「ラジコンです」
「何だい、それは?」
「ラジコンというのは、お聞きになったことはありませんか。ラジオ・コントロールの略語で……」
「ああ、わかった。電波でモーターボートの模型などを動かして遊ぶやつだろう?」
「そうです」
「子供の間では、かなり流行しているらしいな」
「子供だけではありません。おとなの間にも愛好家がふえています」
「いい年したおとなのする遊びじゃないと思うがね。しかし、猪川という青年が、そういう趣味をもっているからといって、別に何ということはないじゃないか」
「そうだといいんですが、警察の人が心配していたのも、じつは、猪川君の特技に関係があったのではあるまいか、という気もするのです。つまり、ラジコンの模型飛行機に爆薬をつめて飛ばせば、狙撃するのと同じことですから」
「なるほど。そういう手はあるな。しかし、話としてはおもしろいが、実際問題として考えた場合、実現の可能性はないように思うね。爆薬を手に入れること自体、そう簡単ではないし、電波による操縦にしたって、かなり難しいんじゃないか」
「わたしも、そうは思うのですが、万一ということもありますしね。このさい、警察へ届け出た方がいいものかどうか」
「あんたのところへ、猪川のことできた警察官は、何という名前?」
「公安部の人で、土沢という警部でした」
「銀行の人は?」
「東西銀行丸の内支店の次長をしている、村垣という人です」
「いずれにしても、まだ三週間はある。ぼくがちょっと調べてみよう。届けるにしても、それからでいい」
「すみません。お手数をおかけして」
山木は肩をすくめるようにして、江波に頭を下げた。
3
江波は、社会部に戻ってくると、すぐさま警視庁の記者クラブを呼び出した。そこにはいつも七、八人の記者が詰めていて、取材を分担している。
公安担当の記者は、梶谷という、入社十年目の男である。江波は電話口に出た梶谷にいった。
「過激派の一人で、指名手配されている里井というのがいたな?」
「ええ、います」
「あれは、どうなっているんだ?」
「どうもこうもないですよ。杳《よう》として行方知れずですが、里井のことで、何かあったんですか」
と梶谷は、さすがに気になるのか、問いかえしてきた。
「いや。あったというのではないが、調べる必要があってな。里井には兄弟がいるのかね?」
「さァ……あれは、ぼくが公安担当になる前の事件なので、くわしいことは知りません。調べてみましょうか」
「ああ、やってくれ。家族構成とか、その家族がいまどうしているとか、そういったことも知りたいんだ」
「急ぎますか」
「おれたちの仕事でおそい方がいいなんていうのはないぞ。それから、公安に土沢という警部はいるかね?」
「土沢警部? ええ、いますよ。公安一課ですね」
「きみとのつきあいはどの程度だ?」
「顔を知っているという程度です。なにしろ公安の刑事は、捜査の連中とは違って、ぼくらとのつきあいを徹底的に避けていますからね。自宅へ行ったって、会ってくれないし、まったくやりにくいですよ」
と梶谷は弁解とも愚痴ともつかぬことをいった。
記者の仕事は、何か事件があったさいに、警察の発表をそのまま記事にすればいい、というものではない。いわゆる特ダネを書くためには、ふだんから刑事とのつきあいを深めておく必要があるのだ。
江波の若いころは、酒びんをブラさげて刑事の自宅を訪ね、世間|咄《ばなし》をしたものである。そうやって、刑事との間に気持を通じあい、いざというときに備えておいたものだった。刑事は、捜査の秘密を守る義務を負わされているが、それでも、うちとけてくると、そっとニュースを洩《も》らしてくれるのである。ただ、近ごろは、そういう記者は少くなっている。帰宅時間がくれば、そのまま、まっすぐに帰ってしまう。刑事の自宅へ寄って、胸襟をひらいて話合うなどという、面倒なことはしたがらないのだ。江波は、梶谷に、
「ともかく、里井関係の資料をできる限り集めてこっちへ送ってくれ」
といった。
それから彼は、編集局の片隅にある機械報道部へ行った。この部は、ラジオカー、航空機、ヘリコプター、ハンディトーキーといった機械を使う取材の担当部である。社会部や政治部は、大学の文科系を出たものばかりだが、機械報道部は、たいてい理工系の出身だった。
江波は、夜勤のデスクをしている三村の席の横に坐った。
「ちょっと教えてもらいたいんだが……」
三村は、手にしていた朝刊の早刷りをたたんだ。
「いやにあらたまって、どうしたんです?」
「きみは、ラジコンに強いかね?」
「強いかといわれると困るけれど、前にやったことがあるから、一応のことは知っているつもりですが」
「たとえば、ラジコンを使って、人を殺すことはできるかね?」
三村は額に手をやって、
「どうも奇抜な質問ですね」
「どうなんだ? できると思うか」
「そんなこと、考えたこともないんで」
「考えたことがあるかないかをたずねているんじゃない。専門家の目で見て可能性があるのかないのかを問題にしているんだ」
江波は、ぴしりと決めつけるようにいった。三村はむっとしたように、
「もう少し具体的な話じゃないと、何ともいえませんよ」
「それじゃ、こういうのはどうだ? ラジコンの模型飛行機に爆薬をつんで、特定の目標にぶつけることはできるか」
「ああ、それならできます。映画の空中戦などは、ほとんどそのやり方ですから」
「ラジコンの飛行機というのは、どれくらいの重量なんだ?」
「エンジンのパワーによりますね。ふつうは二キログラムくらいの機体が多いんですが、大きいやつは、五キロあるいは六キロというのもあります。でも、大型はコントロールが難しい。人間ひとりを吹き飛ばすだけならそんなに大きい模型を使わなくても、できるでしょうね。それに、かなりのスピードがありますから、爆薬を積まなくたって、大|怪我《けが》をさせることはできます。現に、ラジコン機を飛ばすときは、川原とか広い運動場とか、場所を制限されているんです」
「そうすると、ラジコン機を走っている車に体当りさせることもできるわけだな?」
「できます。ただし、コントロールできる距離に限界はありますよ。それと、ラジコンに使う電波は、超短波ですから、途中で妨害物があったりすると、コントロールが難しいですね」
「限界はどれくらいなんだ?」
「川原のようなところでは、半径五百メートルですね」
「どうして五百メートルなんだ?」
「法律でそういうふうに決っているんです。もっとも五百メートルというのは、一応の目安であって、それ以上になったらまったくコントロールできないというものじゃない」
三村は立ち上って、壁の書棚から本を抜きとり、ページをめくってから説明した。
日本では、ラジコンに使用される電波は、主として27メガヘルツ帯の六バンドと40メガヘルツ帯の二バンドである。ほかに13メガヘルツ帯も認められているが、この波長では、装置を効率よく作動させるためには、大きなアンテナを必要とし、また第二高調波が27メガヘルツ帯と混信をひき起こす恐れがある。そのため、市販の品は27メガヘルツ帯か40メガヘルツ帯の装置が大半である。
ラジコンの装置は、送信機、受信機とサーボでできている。これらの無線装置一式をメカあるいはプロポということもある。プロポとは、プロポーショナル(比例的な)の略語で、操縦するものの手の動きのとおりに、受信側の舵やエンジンが動く方式である。
さて、このラジコン装置に使われる電波の強さであるが、これは五百メートルの距離で二百マイクロボルト以下と決められている。従って市販の品は、すべてこの出力内に設計されており、つまり五百メートルをこえると、受信する電波が弱くなって、コントロールしにくくなる。
ただし、アンテナを大きくしたり、送信の出力を高めたりすれば、コントロールできる距離は、それだけ伸びる理窟である。また、まったく障害がない状況ならば、同じ出力であっても、八百メートルから千メートルまでは発信する電波が届く。しかし、それはよほど恵まれた場合のことで、じっさいには、確実にコントロールできる距離は二百メートルからせいぜい三百メートルまで、と考えた方がいいのである。
三村はページをとじてから、
「三百メートルというのは、いわば行動半径ですからね、飛ばす方としては、直線距離にして六百メートルはコントロールできるわけです。それだけあれば、じゅうぶんに楽しめるということなんでしょうな。つまり、モデルにもよりますが、ふつうは、ラジコン機の速度は、秒速十五メートルから二十メートルくらいのものです。直線でも三十秒は飛行させることができるわけだから、かなり高度のテクニックを使えます」
「秒速二十メートルというと、時速は……」
「七十二キロですね」
と三村はそくざに答えた。
「すると、時速百キロで走っている自動車には追いつけないことになるな」
「そういうことになりますね。でも、さっきの仮定の話になるけれど、爆薬を積んでぶつけるつもりならば、あらかじめ、車の通る道で待っていればいいわけですよ」
「それなら、東京サミットで来日する各国の大統領や首相の車にラジコン機を命中させることもできるわけだな?」
江波の声は緊張していた。
「理論的には、イエスですがね。でも、実際には、うまく行くかどうか」
「難しいというのか」
「ええ」
「どういうところが難しいんだい?」
「時速百キロというと、秒速で約三十メートルですね。この、かなりの高速で走っている目標に、秒速二十メートルのラジコン機を命中させるには、相当に熟練したものでも容易じゃない。かりに正面からぶつけるとすると、一秒間で五十メートルの割合いで接近するわけだから、まばたき一つでもタイミングが狂ったら、命中しない。それに、ラジコンはあくまでも遠隔操作だから、距離感のつかみ方が難しいんですよ。自分が飛行機に乗って操縦しているなら、目標との距離を目測でもつかめますがね、二百メートルも三百メートルも離れたところから操作するわけだから、命中の確率はきわめて低いですよ。そのほか風速の状態がどの程度かも関係してきます。ラジコン機は横風に弱いですから」
「しかし、目標に直撃しなかったとしても、その前に突込んで爆発させれば、相当の混乱が生ずることは間違いないな」
「それはそうです。それで、過激派がそれを決行するという情報があるんですか」
「まだ、はっきりはしていない。以前、無線操縦のトラックを警察へ突込ませた事件があったからね。警備当局としては、やはりそれを想定しているだろうな」
「予測しているなら、それを防ぐ手段を講ずることはできますよ」
「どうやって?」
「ラジコン機のエンジンは、かなりの音を発するんです。マフラーをつけて、音を低くするようにできますが、それでも八十ホンくらいの音を発します。ラジコン機が飛べば、音でわかります。だから見つけたら妨害電波を出せばいいんです」
「妨害電波をそんなに簡単に出せるのか」
「そりゃ、出せますよ。そんな強い電波じゃなくたっていいんだから。かりに、ぼくが警備の責任者だったら、沿道に五百メートル置きに、27メガと40メガの送信機をもった警官を配置しておきますね。そして、飛び上ったラジコン機を発見したら、妨害電波を発信させればいいんです」
「犯人の使っている電波の波長がわからんじゃないか」
「わかっていなくたって、合せて八波しかないんだから、できますよ」
「犯人が27メガとか40メガの波長を使うとは限らんじゃないか」
「でも、日本で売っているプロポは、それだけなんだから」
「改造すればいいじゃないか」
「送受信機の波長を変える改造なんて、ふつうの人には不可能ですよ。電波工学の専門家でない限りできない。パーツ一つだって、手に入れにくいですものね」
「じゃ、考えてみてくれ」
「何をです?」
「きみが過激派になったつもりで、そういう警備当局の予防措置を突破するにはどうしたらいいか、をだよ」
江波はそれだけいうと、三村の返事も聞かずに社会部の席に戻った。
警視庁の記者クラブで、梶谷は、古い記事のスクラップブックを取り出して、里井のことを調べた。
里井正志は一九五〇年五月の東京の生れだから、二十九歳になっている。父親は、中学校の教師を長くつとめた温和な人物だった。
里井が学生運動に関係するようになったのは、大学二年のときで、七〇年安保の自動延長反対デモに参加し、警察に逮捕されたときからである。デモに参加したときは、いわゆる活動家ではなく、一般学生の一人にすぎなかった。しかし、デモ制圧の警官隊と学生とが揉《も》みあったさい、私服の刑事が写真を撮影していた。その一枚に、里井がプラカードを棍棒《こんぼう》代りに振り下ろしている瞬間があったのだ。
里井自身は、警棒で頭をなぐられて負傷していた。彼は、警官の暴行を防ぐために、プラカードを振りかざしたのだと主張したが、その主張は、法廷では認められなかった。公務執行妨害及び傷害で、執行猶予はついたものの、有罪となった。
結果的には、それが彼を追いやったといえるかもしれない。里井は地下活動に入り、交番襲撃や爆弾闘争に加わった。里井は、工学部に学んでいたころ、ダム建設の現場でアルバイトをしたことがあり、そのとき、ダイナマイトの取扱いを覚えた。そういう前歴からも、警察は必死になって里井を追ったが、いまもって逮捕されていない。
梶谷は、そういう記事からメモをつくったが、どのスクラップにも、家族関係、ことに兄弟については、書かれたものはなかった。父親が教員だったことにふれたものがあっただけである。
梶谷がメモ帳をひろげて考えこんでいるとき、キャップの中垣がマージャン台から戻ってきた。
「きょうはいくらやっても駄目だ」
中垣はついていなかったのか、不機嫌な声でいい、棚からウィスキーのボトルを取り出した。
「おい。やるか」
中垣は、グラスに三分の一ほど注《つ》いでから、ボトルを梶谷に差し出した。
「まだ調べものがあるので、あとにします」
「何をやっているんだ?」
「江波さんから電話があって、爆弾事件の里井のことを調べろといわれたんです」
「里井がどうかしたのか」
「ぼくも聞いてみたんですが、くわしいことは教えてくれないんですよ」
「あのデスクには、どうも困ったもんだね」
中垣は、江波を非難するようにいった。
江波は四十七歳で、社会部の次長である。部長の速水が四十五歳だから、社内的な出世は遅れているといっていい。現に、江波と同期入社したものの大半は、部長か論説委員になっている。
そうなった原因は、江波の性格にある、と社内的には見られていた。江波は人と妥協しないたちであった。相手が上司であろうと、遠慮なく攻撃したり、議論をふっかけたりするのである。もし、それでいて同僚や後輩に思いやりがあるならば、江波は人気を博したであろう。しかし、彼は、同僚や後輩の受けもよくなかった。失敗したものに対しては、容赦ない罵倒を加えた。中垣なども、何度か、馬鹿呼ばわりされたことがあるはずだった。
にもかかわらず、江波が左遷されずに、社会部次長をしていられるのは、若いころから記者としては抜群の能力をもっていたせいであったろう。警察を担当していたころ、警察が割り出す前に犯人を見つけて会見記を書いたこともあるという。
梶谷は、江波を好きではなかったが、といって、中垣のように嫌ってはいなかった。大きな事件があると、次長が取材の前線本部へ出てきて指揮をとるが、そのとき江波の仕事ぶりを見ていて、鋭い着想に感心させられたことが何度もあったのだ。
中垣は、ウィスキーを口に含んでから、
「里井の何を調べろといってきたんだ?」
「家族関係です。でも、スクラップブックには、ほとんどのっていないんですよ。公安で聞いてきます」
梶谷はメモ帳をしまって立ち上った。
「この時間では、残っているのは当直だけだろう」
「いや、きょうは全国の本部長会議があったので、幹部連中は、昼間はいなかったんですが、夕方こっちへ戻ってきて、またこっちでも会議をやったみたいですよ。まだ公安部長が残っているから、参事官や課長もいるはずです」
梶谷は記者クラブを出ると、参事官の夏川の部屋へ行った。
江波は、はっきりしたことはいわなかったが、里井についての調査が東京サミットに関係していることは明らかだと思われた。江波は若いころから警察を担当している期間が長かった。それだけに、警察内部にも知人が多く、独自の情報網を持っている。梶谷は、古い刑事から、
「江波っていう人は、いまどうしている?」
とその消息を聞かれることがある。梶谷が、どうして江波を知っているのかをたずねると、
「おれが所轄にいたころ、当直の晩になると一杯飲みながら将棋をさしたものさ」
などと昔話をする刑事もいるのである。江波が若いころは、特ダネ記者として各社の間で恐れられたというのは、やはりそういう努力があったかららしい。梶谷が、江波に対して、中垣らと違った感情を抱いているのも、そういう実績を知っているためもあった。ただ、江波が、いわゆるサツ回りをしていた二十年前といまとは違う。情報の管理がきびしくなって、刑事から直接に取材しにくくなっているのだ。
それだけに、特ダネをスクープしにくい時代になっている。共同会見、共同取材が多いのだ。また、そういう楽な取材をよしとする記者もふえていた。
梶谷はそれがいいことだ、とは思わなかった。梶谷の父親は、数年前に病死したが、やはり新聞記者だった。
「いまの記者はだらしがない」
というのが、酔うと出てくるせりふであった。
梶谷の父親の若かりしころは、取材でも個人プレイが幅をきかしていた時代である。だが、いまはそうではない。個人プレイの余地はほとんどなくなっている。警察の機構もそれだけ複雑になっている。記者が一人で、何から何までカバーできるものではないのだ。
その一方で、梶谷は父親の郷愁もわかるような気もしていた。そして、江波の生き方に父親との共通点を見ていた。
参事官は、部長と課長との中間にあるポストである。部外との公式の折衝に時間をとられることの多い部長に代って、じっさいの指揮をとることも多い。
サミットに備えて、警視庁には、特別総合警備本部が設けられているが、その中の、公安捜査幕僚には、公安部長と刑事部長が任命されている。しかし、事実上の指揮をとっているのは、二人の部長ではなく、夏川だった。
このセクションの職務は、次の五つであった。
情報の収集および分析。犯罪の捜査ならびに犯人の検挙。証拠の収集、保全。公安捜査部隊の運用。被疑者の留置その他。
また、ハイジャック、人質占拠などの特殊事件が起きたさいは、特命幕僚部が動くことになるが、その特命のセクションは、やはり夏川が幕僚の筆頭として動くことになっているのだ。
梶谷はドアをノックしてから、夏川の部屋に入って行った。課長や参事官のなかには、新聞記者がくると、いたずらに拒否の姿勢をとるものもいるが、夏川は、さばけている方だった。暇なときには、部下にいって、コーヒーをとり寄せたりするので、記者クラブでも、夏川の評判は上々だった。
夏川は何か書類を読んでいたが、梶谷を認めると、
「やあ」
と声を出し、書類を伏せた。
「ちょっといいですか」
と梶谷は聞いてみた。時間をさいてくれるかという意味である。夏川が忙しい場合は、その仕事の邪魔をしないというのが、梶谷ら記者たちと夏川との間に決められた暗黙のルールだった。
「ちょうど一段落したところでね」
夏川は立ち上って、応接用のソファに移ってきた。すらりとした長身で、童顔のせいもあって、じっさいの年齢よりも若く見える。かつて所轄の署長をしていたころ、訪問してきた部外者が、夏川に向って、
「早く署長さんに取次いでくれ」
といったという逸話もある。
もっとも、夏川のように国立大学を出て上級職試験にパスしたものは、エリートとして昇進が早い。叩《たた》き上げの署長よりも、二十歳は若くしてなるのがふつうである。部外者が間違えたのも、無理からぬことではあったのだ。
梶谷はメモ帳を取り出しかけたが、それを思いとどまっていった。
「サミットが近づいてきて、いろいろと大変でしょう?」
「雑用が多くてね。もっとも、一番大変なのは、警備部と交通部、それに裏方の警務部でしょうがね。こっちは何もなければ、ま、お手伝いみたいなものだから」
「その、何もなければというところが曲者《くせもの》でね」
「いや、そんなことはないよ。そりゃ、何かあったら大変だから、何も起こらないように努力しているということですよ」
「でも、過激派のなかには、サミット粉砕を宣言しているものもあるじゃないですか」
「そうねえ。だから、注意はしていますよ」
「そのことに関連して、ちょっと聞きたいんだけれど、里井正志の属しているグループに何か動きがあるの?」
「里井のグループ?」
夏川はくりかえしてから、梶谷の方をのぞきこむように見た。
「本当のことをいうとね、さっき本社のデスクから、里井の家族関係まで調べて報告しろという指示があったんですよ。ぼくは、里井はもう海外に逃げてしまっていると推測しているんだけれど、そうだという証拠もないしね」
「里井については、たしかに追ってはいるけれど、消息はつかめていなくてね。中央日報の方に、何か情報が入っているんですか」
「正直にいって、ぼくの方には、何も入っていないんですよ。社会部のデスクの方からいってきただけで、それもくわしいことはいってくれないんだ。夏川さんは知らないかな、江波といって、警察関係にはとても強い人ですよ」
夏川の表情がわずかに引き緊《しま》った。
「前は、特ダネ記者として鳴らした人じゃないですか」
「知っているんですか」
「いや、お目にかかったことはないが、話には聞いています」
「へえェ、夏川さんの耳にまで江波さんのことは入っているんですか。江波デスクは、よほどマークされているのかな」
「いやいや。マークしているわけじゃなくてね、古い刑事から噂を聞いたことがあるんですよ。捜査の刑事よりも先に犯人を割り出したことがあるとか……」
「ええ。ぼくが記者になる前の、古い話らしいけれど」
「その人が里井のことを調べろ、と梶谷さんにいってきたわけ?」
「ええ。とくに、家族関係をね。里井には、兄弟がいるんですか」
「さァ、どうでしたかね」
「いるとすれば、当然マークしているんでしょう?」
「そりゃ、家族あてに何か連絡してくるという可能性はありうることだから、ノウマークというわけにはいかんでしょうな。でも、ことわっておくけれど、これは一般論としていっているんですよ。里井の家族に対して、そうしているというわけじゃない」
「兄弟がいるんですかね?」
「里井関係を担当しているものが、ちょうど出張中でしてね」
「誰です? と聞いても、無駄でしょうね」
梶谷の言葉に、夏川は微笑した。そのとおりだ、と肯定していた。
「どうも参ったな」
と梶谷は頭をかいた。江波の罵声が耳の奥でこだましているような感じだった。
「参ったって、どうして?」
「弱音を吐くようだけれど、鬼デスクの顔がチラチラしてね」
「江波という人は、そんなにこわいの?」
「えらくきびしい人でしてね」
「梶谷さん、里井のグループを捜査したのは本庁だが、所轄は赤坂署だからね」
「そうか。指名手配も形の上では赤坂署から出ていたんでしたね」
梶谷の躍り上るような口調に、夏川はうなずいた。
「夏川さん、どうも」
梶谷は腰をうかした。
夏川は、梶谷が出て行くのを見ると、机に戻った。そして、しばらくの間、天井の一角を眺めていたが、卓上の電話をとりあげて、赤坂署を呼び出した。
署長は官舎で食事中と聞いて、夏川は、次長の蒲地を呼んだ。蒲地は、相手が夏川だとわかると、緊張した声で、
「何でしょうか」
「大した用件ではないが、連絡しておきたいことがあってね、あとで署長と刑事課長にも伝えておいてくれないか。もしかすると今夜、おそらくあしただろうと思うが、中央日報の梶谷という本庁詰めの記者がそっちへ行って、例の里井のことで、家族関係の取材をするはずだ」
「はあ」
「指名手配をしている被疑者のことなんだから、何から何までノウコメントというわけにはいかないが、このさい、あまり書き立てられるのも困る。そこで、多少のことは洩らすのはやむをえないが、オフレコを条件にして、さしつかえない程度に教えてやってもらいたいんだ。里井にはたしか兄弟がいて、おたくの管内の会社に勤めていたはずだが……」
「わかりました。じつはその……」
次長は口ごもっていた。
「何だね?」
「さきほど入った情報で、あすご報告しようと思っていたのですが、その里井の兄弟が勤めていたところを辞めまして、行方をくらました模様であります」
夏川は、受話器を左手にもちかえ、ボールペンを握った。
「名前は?」
「猪川達志といいます。字は、イノシシの猪に……」
次長は説明してから、
「この男は、里井とは違いまして、いままではそういった連中とは関係がないように考えられていたのですが、それまで住んでいたところを引き払いまして、どこかへ移ってしまったんです」
「会社を辞めたからじゃないのか」
「そのへんのところは、いま調べておりますが、じつは、この男はラジコンの趣味を有しておりまして、その方では、相当の腕前だそうです」
「どこから入った情報なんだ?」
「銀行です」
「会社の方には当ったのか」
「いや、まだです。何しろ、その情報自体、たったいま入ったばかりなものですから」
「わかった。では、そっちは任せるから、何かわかったら、すぐ報告してくれ」
「かしこまりました」
次長はうやうやしくいった。
4
六月一日の夜、日本時間では二日の午後になるが、ホワイトハウスのシークレット・サービス幹部と、大統領の警護に関して打合せのために滞在していた丸目警視は、東京からの電話で、寝入りばなを叩き起こされた。丸目が枕もとの時計を見ると、午後十一時だった。あすの朝早くワシントンを出発するので、十時にベッドに入ったのだ。
電話は、夏川参事官からであった。丸目は起き上って、スタンドの明りをつけた。夕刻に送ったテレックスの内容についての問合せかな、と考えていた。
「丸目君か。さっき、テレックスを受取ったよ。話はまとまったらしいな」
「はあ、どうにかまとまりましたが、ごつい連中でして参りました」
シークレット・サービスは、日本においても銃器の携帯を要求していた。日本側もそれを認める方針だったが、問題は、その銃器の中にサブマシンガンが含まれていることであった。特殊部隊用に開発されたこのMG221MPは、重さ一・八キロ、全長四十センチと軽量小型だが、弾倉部にくふうがこらしてあって、右手左手どちらでも自由に射撃できる。その上、五・五六ミリ実包を一分間六百発も発射できるのだ。
日本人とアメリカ人では、銃器についての感覚がまったく異なっている。日本人には、この種の威力をもったマシンガンは、銃器ではなくて兵器といっていい。もし万一のことがあった場合、この221MPの銃口が火をふいたら、どういうことになるであろう。当然のことながら、交渉の焦点の一つとなったのは、この銃器の使用に関してだった。
「どうもご苦労さん」
と夏川はいった。丸目は、
「テレックスでも連絡しておきましたが、あす、こっちを出発しまして、三日の夕刻には成田に到着いたします。くわしいことは、そのとき……」
「わかっている。それはいいんだが、別の件でこっちに問題が起きた。そのことで、誰か一人、サンフランシスコに寄ってもらいたいんだ」
「何があったんです?」
「指名手配してある里井の実兄で、猪川達志というのがいるんだが、この男が先月の中旬から姿をくらましている。この猪川のことについては、きみに同行している土沢警部が前に調査している。姓は違っているが、実の兄弟なんだ。里井とは違って、ごくふつうの会社員だったように見えたが、そこは兄弟のことだから、じっさいは連絡があったかもしれない」
「それは大いにありますね」
「行方をくらまさなければ何ということもないんだが、居所がわからないとなると、やはり気になる。念のために調べたところ、五月二十五日に成田からJAL002便のサンフランシスコ行に乗って日本を出たことがわかった。旅行目的は観光ということで、アメリカのビザを得ている」
「わかりました。で、本人の生年月日、パスポートナンバーなど、教えていただけますか」
「生年月日は……」
夏川の言葉を、丸目は卓上のメモ用紙に書きとった。広いアメリカ大陸のどこに消えたか、一人の日本人の所在をつきとめることは容易なことではなかった。しかし、何もしないわけにはいかないのである。夏川は、
「サンフランシスコのイミグレーションに入国の記録が残っているはずだから、アメリカ側に協力してもらって、所在をつかめたら、つかんでおきたい。何でもなければ、それにこしたことはないが、このさい念には念を入れておきたい」
「承知致しました。で、誰をサンフランシスコヘ行かせましょうか」
「人選はそっちに任せる。いずれにしても、アメリカの領土内で、われわれは捜査をすることはできないんだ。わかっているだろうが、下手に動けば、主権の侵害ということになってしまう。あくまでも、アメリカに協力を要請して、あちらの集めた情報を教えてもらうということなんだ。誰を送るか、あとで連絡してくれ」
「では、そう致します」
丸目は電話を切ってから、誰をサンフランシスコヘ送ったらいいかを思案した。
彼は四人の部下を連れて、シークレット・サービスとの協議にやってきた。四人とも、それぞれ専門分野をもっている。日本へ帰国したら、すぐさま、それぞれの分野に応じて、大統領の警護について対策を講じなければならない。
そのいずれもが重要だったが、しいていえば、沿道警備を担当する土沢警部をサンフランシスコヘ送るのが、もっとも妥当な措置のように思われた。沿道警備については、アメリカ側も原則として日本に一任したのだ。しかし、四人の部下のうち、土沢が、サンフランシスコでアメリカ側と折衝するのに、もっともふさわしいかどうかは、丸目には自信がなかった。土沢はたしかに、仕事のできる男である。捜査についても、鋭い着想とひらめきをみせる男である。それだけに自信家であり、ときとして、上司の命令を無視して、独走するようなところがあった。まして、今度の場合は、外国の領土内で単独行動をするのである。勝手な捜査活動をしたとなれば、国際問題になりかねない。
(どうするか。もう少し、ぼんやりした男の方がいいのかもしれないが……)
丸目は迷ったが、日本に待っている仕事のことを考えると、土沢をアメリカに留《とど》めるしかなかった。
丸目は決心して、土沢の部屋を呼び出し、すぐくるように、といった。
やってきた土沢に、丸目は夏川参事官の指示を伝えた。
「猪川がサンフランシスコに密航してきたんですか」
と土沢は眉《まゆ》を縦に寄せていった。
「いや、密航してきたわけじゃない。正規の手続をとってアメリカに入っているんだ」
「形式的にはそうでも、実質的には密航みたいなものです。もしかすると、弟の里井と連絡をとるためかもしれませんね」
「きみは、この男をよく知っているのかね?」
「よく知っているというほどではありませんが、沿道警備の事前チェックに関連して、調べたことはあります。遠くからですが、顔も見ていますから、わたしがこっちにきていて、よかったですよ」
と土沢はいった。
丸目は腹の中で苦笑していた。そういう自信たっぷりなところに、逆に危惧《きぐ》を感ずるのだ。
「土沢君、いうまでもないと思うが、サンフランシスコで、きみに捜査をしろ、というんじゃない。FBIと接触して、あちらの情報をもらうだけでいいのだ。猪川をどう扱うかは、アメリカ側で決めることだからね」
「わかっております」
土沢は、任せて下さいというようにうなずいた。
FBIのサンフランシスコ支局は、シティホールに隣接した連邦政府ビルにある。土沢は、巡査部長だったころに、英語の専修学校の夜間コースに通い、ある程度の会話能力を身につけていた。アメリカに出張してきた五人のうちで、いわゆるノンキャリアの警部は彼一人だったが、そういう能力が買われたということもあったろう。団長格の丸目をふくめて他の四人は、すべて上級職試験をパスしてきたエリート組だった。
土沢はサンフランシスコ空港に到着すると、ワシントンの日本大使館にコレクトコールをかけた。一等書記官の張田は、警察庁出向で、今回の出張についても、アメリカ側との連絡役を受持った。
張田は、丸目の依頼で、FBIに連絡をとってくれたのである。彼は、FBIサンフランシスコ支局の主任捜査官ジョージ・カールトン氏をたずねるように、と土沢にいった。
「では、これからその人をたずねます」
と土沢がいうと、
「宿舎は総領事館に頼んでおいた。マンクスというホテルをとってくれてある。一泊二十五ドルだから、A級のホテルではないが、ユニオン広場の近くで、バスターミナルも近いし、便利なところだそうだ」
「どうもお手数さまでした」
「何かあったら、夜でもかまわん、自宅へ電話してくれたまえ」
「わかりました」
土沢はマンクスには寄らずに、そのままタクシーを拾い、連邦政府ビルヘ行った。
受付の女子職員は、金髪の若い娘だった。
(FBIともなると、何だか違うな)
と土沢は思った。
FBIは、六階と七階の一部を使っているが、内部の印象は、高級ホテルといった感じである。
女子職員は、どこかへ電話をかけてから、
「六一七号の部屋で、カールトン主任があなたをお待ちしています」
といった。彼女が合図すると、男の警備員が土沢を六一七号室へ案内した。
広い部屋だった。机のうしろに国旗と大統領の写真が掲げられている。カールトン主任は、五十歳をはるかに超えているように思われた。むしろ、
(爺さんだな)
という感じさえしたのである。生えぎわの髪はほとんど白くなっていた。
握手して挨拶をかわすと、カールトンは椅子《いす》をすすめ、
「お茶にしますか、それともコーヒー?」
といった。愛想がよく、FBIの捜査官というよりも、初老の実業家のように見える。
「コーヒーをいただきます」
カールトンは、卓上ベルを押して秘書を呼び、コーヒーを命じてから、
「サンフランシスコには何日くらい滞在の予定ですか」
「何日くらいになるか、まだわかりません。ワシントンからわたしのことについて、どういうふうにお聞きになっていますか」
「あなたがサンフランシスコにこられた目的については、聞いております。できる限り、あなたの希望をみたしてあげるようにせよ、ともいわれております」
「それは大いに感謝します。三週間後に、大統領閣下がわが国をご家族ともども訪問されます。われわれは両国の親善および両国民の友情のためにも、この訪問と、それに続く各国首脳会談を成功させたいと考えております」
そういいながら、土沢は自分が第一級の外交官になったような気分を味わった。カールトンはうなずいた。土沢は続けた。
「そのため、われわれは、警備に万全を期しておりますが、要注意人物の一人が五月下旬に日本を出て、貴国に入国いたしました。この人物がどうしているか、われわれは重大な関心をもっております」
「わかりますとも。あなたの意見には賛成です」
「その人物は……」
土沢は手帳を出して、パスポート番号、成田の出発便名、猪川の生年月日などをカールトンに教えた。
「それでは、すぐにイミグレーション・オフィスに連絡をとって、入国カードを調べてみましょう。入国カードには、当地における宿泊先を記入することになってはいますが、観光ビザの場合は、たんにホテルとだけ書いてホテル名を記入していない例もあります。本当は、げんみつに記入しなければ、入国のサインをしない規則になっているのですが、なにしろ、お国の観光客はひじょうに数が多くて、規則をげんみつに実行していると、さばききれなくなるのです」
「ごもっともです。もし、本人の写真が必要でしたら、東京から送らせますが……」
「それは東京の大使館にこちらから連絡して、ビザ申請用紙についている写真を電送してもらいます。しかし、念のために、取寄せていただきましょうか。いますぐ連絡して下されば、あすの夕方にはこちらに着きますね?」
問いかえされて、土沢は困惑した。すぐに東京へ電話をかけても、写真は、郵便で送ってもらうことになるだろう。早くても、三日後になりそうである。だが、カールトンは、誰かがすぐに飛行機にのって、こっちへくるものと思っているのだ。
日本の機構では、そんなことは不可能だった。アメリカに出張するためには、まず書類を作り、決裁の印をもらわねばならない。その前に、誰を出張させるかで、課長や参事官が協議することになる。それに、たった一枚の写真のために、何十万円もの航空運賃をかけるとは考えられない。
その点、FBIは違うらしい。外国へ出張するのも、隣りの町へ行くように考えているらしい。土沢は、羞《はず》かしかった。FBIが羨《うらやま》しくもあり、同時に、自分たちを支配している機構に対して絶望的な気分にもなったが、それをいうわけにはいかなかった。
「できるだけ早く届くように努力します」
「オーケイ」
カールトンは、部下を呼んで、メモ用紙を渡し、指示をあたえた。それから、
「参考のためにうかがっておきたいが、この日本人は、ダッカにおけるハイジャッカーたちと何らかの関係がありますか」
「彼の三歳下の弟が、あのグループに関係があるとみなされています。ただ、われわれにとって残念なことには、あのグループの構成メンバーについて、くわしいことはわかっていません」
「しかし、かれらは機内の各所に指紋を残していたのではありませんか」
カールトンの質問は急所をついていた。土沢はどう答えるべきか、迷った。カールトンがいうように、たしかに指紋は残っていたのだ。そして、その指紋によって、名前の判明している犯人もいた。だが、それは極秘事項であった。報道陣からそのことについて、質問の出たこともある。そのときは、目下照合中であるという、あいまいで都合のいい表現によって、事実は伏せられていた。
カールトンに対しては、ごまかしの答えをするわけにはいかない、と土沢は判断した。
自分はそのことについては、よく知らない、と答えておけば、もっとも無難であった。ただ、そう答えれば、カールトンが土沢をどう思うかは推測できる。捜査の核心にいない下ッ端とみなすだろう。
そう思われることは愉快ではなかった。土沢は意を決していった。
「その指紋の中には、猪川の弟のものはありませんでした」
「あのとき、ハイジャッカーたちが日本政府に要求した身代金は六百万ドルでしたな?」
「そうです。百ドル紙幣で六万枚を、残念ながらかれらに渡さざるをえませんでした」
「そのうちの一部を、たしか、わが国から運びましたね」
土沢はうなずいた。本当は、日本でも調達できないことはなかったのだが、その紙幣のナンバーを控えておく時間が必要だった。そのため、ハイジャッカーたちには、調達できないということにして、アメリカから取寄せたのである。
カールトンは土沢をじっと見つめていった。
「このさいだから話しますが、わが国から日本へ運んだ紙幣については、われわれもナンバーを控えておいたのです。ところが、ごく最近、そのうちの何枚かがここで見つかった」
「このサンフランシスコで?」
土沢は思わず上ずった声を出した。
「そうです」
「何枚ですか」
「二十枚」
「いつのことですか」
「ごく最近です」
「どういう場所で使われたんですか」
しかし、カールトンはそれには答えず、
「いずれ、ワシントンから正式に東京へ通告するでしょうが、もし猪川という日本人がその二十枚を持込んだものだとすると、われわれの考えていることが、とんでもない見当違いということになってしまいます。そこで、あなたに、ある人物についての鑑定をしていただきたい。本来ならば、こういうことを日本政府の公務員であるあなたに依頼するなら、公式のルートを通さねばならないのだが……」
それはカールトンのいうとおりだった。しかし、そういう手続をふんでいたのでは、時間がかかってしまう。だからカールトンは、ある程度の秘密を土沢にうちあけて、土沢の自発的判断による協力を求めたに違いなかった。
「もちろん、これは、あなたにFBIとして協力してくれと要求しているわけではありません。その点は、決して間違えないでいただきたい。わたしが、紙幣についての情報を自分の一存であなたにもらしたことと同じく、あなたの判断によってお決め下さい」
カールトンは、土沢の心中を見透しているようだった。
「わかりました。わたしは、猪川についての消息がつかめるまでは、自由な時間があります。ご案内下されば、どこへでも参りましょう」
「では、今夜、あなたを夕食にご招待したい。ホテルはどこか決っていますか」
「マンクスです」
「では、六時にお迎えに行きます」
カールトンは立ち上って、手を差し出した。
土沢はマンクスに到着すると、すぐにワシントンの張田一等書記官へ電話をかけた。
「じつは、カールトン主任捜査官から得た情報なのですが、ダッカ事件の紙幣のうち、アメリカ側で調達してもらったうちの二十枚が……」
「出てきたというんだろう?」
と張田は落ち着いた声でいった。
土沢は愕然《がくぜん》とした。
「ご存知でしたか」
「さきほど通告をうけた。きのう、サンフランシスコの連邦準備銀行支店に納入された金の中にまじっていたらしい。ということは、五月三十一日に、市内のどこかの銀行に入った金ということだ。いま、FBIで、どの銀行の窓口ヘ誰が入れたのか、捜査中ということだが、日本側としてはFBIの捜査に期待するしかないな」
「猪川と関係があるんでしょうか」
「そういうことは、一切わかっていない。もし猪川が日本から持込んできて、それを市中で使ったということになれば、こいつは重大なことになる。猪川に対するそれまでの捜査に大きな穴があいていたわけだから」
張田の言葉は、土沢に対する皮肉となっていた。猪川についての捜査には、土沢も加わっていたのだ。張田がそのことを知っていた上で、あえていったのかどうかは、土沢にはわからない。ワシントン勤務の張田がそんなことを知っているはずはないのだが……。
「それで、猪川の消息はつかめたのかね?」
と張田はいった。
「さっそくイミグレーションの記録を調べてみるそうです。それから、猪川の写真を至急ほしいとのことでした」
「それはすぐに手配する。何かわかったら、すぐに連絡してくれたまえ」
「承知いたしました」
土沢は電話を切った。カールトンに協力することについては、ついに口に出せなかった。もっとも、それがのちになって問題化する恐れは、ほとんどなかった。カールトンだって、上司には報告するかもしれないが、それを日本側に通告することはしないだろう。日本の了解なしに、日本の警察官を自分たちの捜査に利用したとなれば、そしてそれが国会で野党に追及されたりしたら、騒ぎは大きくなる。FBIがそんなヘマをするはずはなかった。だから、土沢が口をつぐんでいれば、それですむことだった。
(それにしてもカールトンのやつ……)
土沢は唇をかみしめた。
カールトンは、FBIがワシントンの日本大使館に通告するのを承知の上で、一芝居うち、土沢の自発的協力をたくみにとりつけたのだ。土沢にしてみれば、してやられたという感じを抱かざるをえなかった。
土沢は、時計を見て、六時までに、まだ一時間以上もあるとわかると、ホテルを出て、日本航空の支店へ行った。ホテルから歩いて数分の距離である。
土沢は警察手帳を呈示して、支店長に面会を求めた。
支店長は名刺を出して挨拶してから、
「何かご用でも?」
「さっそくですが、ちょっと調べていただきたいんです。先月の二十五日の成田発の002便に猪川達志という乗客がいたはずですが、この人が帰りの便を予約しているかどうか、それもサンフランシスコからだけではなくて、ロサンゼルスとかニューヨークからの出発もふくめて、わかりますか」
「それはわかります」
「結果をわたしのところへ、電話で結構ですから、知らせてくれませんか」
「かしこまりました」
「それから、この客の使用した航空券の発券ナンバーなどは、おたくでわかりますね?」
「それは成田で搭乗を受付けましたさいに、切り取った券が残っておりますから、成田の方で調べればわかります」
「こちらでは、わかりませんか」
「それはちょっと……」
無理だというふうに、支店長は首を振ってみせた。
「では、この客がどこの座席だったか、記録は残っていませんか」
「ファースト・クラスですと、パーサーがメモしておきますが、エコノミーの場合は、何しろお客様の数が多いので、メモしていないと思います」
「そのときのスチュワーデスの名前はわかりますね?」
「それはわかります」
「それも、ついでに調べておいて下さい」
土沢はそう依頼して、ホテルに戻った。
猪川がアメリカから日本へいつ戻るのか。あるいは、まっすぐに日本へは向わずに、どこかの国を経由して帰るのか。それは、はっきりしない。
しかし、彼がサミット会議に対して、怨念《おんねん》を抱いていることは確実である。もし、この会議が東京で開かれなかったならば、勤め先を失うことはなかったはずである。
猪川の勤めていた山木清掃管理会社は、サミットに出席する代表団の宿舎のホテルや、沿道のビルを得意先にしている。期間中といえども、こうしたホテルやビルのゴミ処理は続けられる。その作業員に対しては、通行証が発行されることになっているが、猪川がその通行証を利用することは可能である。
もし猪川にその気があれば、作業員になって、ホテルにもぐりこめるのだ。そして、ホテルの内部に、時限爆弾をセットすることも不可能ではない。
「そんなことが起きたら大変だ。われわれの責任問題になってくる。事前に、そういうことのないように万全の措置を講じておかねばならん。といって、民間会社の社員を辞めさせるわけにもいかんが……」
と課長は土沢にいった。
土沢には、課長のいわんとすることは、わかっていた。辞めさせるわけにはいかんが、期間中は立入りできないような処置を考えろということなのだ。
猪川のようなケースは、ほかにもあった。学生時代に活動家の前歴をもったサラリーマンは、多いのである。その一人一人の勤務先に対して、きびしいチェックがなされた。なかには、ホテルそのものに勤めている者もあった。
ホテル側は、それを知ると、その者を他の都市の支店に転勤させた。だが、山木は、そういう処置をとろうとはしなかった。そこまで警察の指示はうけない、という態度をみせた。
土沢にしても、そういう気持を理解できないわけではなかった。理窟からいっても、そこまで介入するのは、行き過ぎである。しかし、課長のいうように、事件が起きてからでは遅いのだ。
土沢は山木の取引銀行を調べ、そこを通じて、山木に圧力をかけた。彼は、上司の意を体してそういう行動をとったのだが、といって上司に、そうせよ、と命令されたわけではなかった。形の上では、あくまでも彼の独断に従ったものだった。もし警察が民間会社の人事に不当な圧力を加えたことが公然化すれば、問題になる。だから課長は、決して公《おおやけ》に命令はしないのだ。エリート組の課長のキャリアに傷がついてはならないのだった。
土沢は、むろん知らぬ顔をきめこむこともできた。課長としても、
「猪川をクビにするように措置してこい」
とは、命令できない。いらいらして、土沢を気のきかないやつだ、と思うだろう。
上司にそう思われてしまえば、土沢の未来に影がさすことは目に見えている。だから彼は、独断で圧力をかけたのだ。彼ばかりではなかった。ほかの者もそうしていた。かりに問題が公然化しても、命令を下していない上司は、監督不行届きの訓告程度ですむはずである。
(くそッ)
土沢は、ホテルに戻りながら、憤りをこめて心の中で呟《つぶや》いた。
5
六時にカールトンは迎えにきた。
連れていかれたのは、ノースビーチのゲイクラブだった。そこでは、男の服装をしているウエイターは、じつは女性で、女の装いをしているウエイトレス、タバコ売りなどは、じつは男性だというのである。男の服のウエイターが女性であることは、土沢にもわかったが、ウエイトレスは、どうみても女にしか見えなかった。
「まず、バーで一杯やりましょうか」
とカールトンは、誘った。
止り木に腰を下ろし、カールトンは、女の服のバーテンに、バーボンを二杯、と注文した。
東洋人の女、のように見えるバーテンだった。カールトンが金を払い、チップをつけ加えた。
「サンキュウ・サー」
まぎれもなく男の声だった。
「口をきかなければ、女としか見えないですね」
と土沢はいった。
カールトンは、バーテンが、遠くの席の客の方へ移動したのを見てから、
「東洋人は男でも肌がきれいなので、こういう世界では人気があるんです。あの男はグエンというベトナム人です。ここでは、エミリーという名で呼ばれている。ああやって、化粧をしているのでわかりにくいかもしれないが、見覚えはありませんか」
と小声でいった。
土沢は、あらためてエミリーを見たが、心当りはなかった。
「ないですね」
「猪川にホモセックスの趣味は?」
「ないはずです」
「エミリーは、七二年にベトナムからこっちへきて、もう七年になるということがわかりました。ただ、ベトナムからアメリカにくる途中、日本に一カ月間いた。その間に、どういう行動をとったか、こっちには、わかっていない。ダッカのハイジャッカーのなかに、ホモの趣味のあるものはいませんか」
「いないはずです」
そのとき、エミリーが、二人のグラスが空になったのを見て、近寄ってきた。カールトンは代りを注文してから、
「きみはこの店を何時に終るんだ?」
「今夜は、早番ですから、九時です」
「誰かと約束があるかね?」
するとエミリーは、にやにやした。
「どうもすみません」
「いや、いいんだ。日本からきたおれの友人がきみに興味をもったものだからね」
土沢はどきっとしてうつむいた。
「それはどうも」
エミリーは微笑し、
「日本の方ですか」
「そうだ」
「日本はいい国ですね」
「行ったことはあるかね?」
「ええ、七、八年前のことですが」
「きみの生れは?」
「南ベトナムのサイゴンの郊外です。お客さんは、お仕事ですか」
「そうだ。しばらく滞在するつもりだ」
「ぜひまたきて下さい」
「そうするよ」
ほかの客がエミリーを呼んだ。カールトンはいった。
「イミグレーションの記録では、猪川の宿泊予定はヒルトン・ホテルということになっているが、ヒルトンには泊っていない。そこでいま他のホテルに手配している」
「エミリーと猪川とは、関係がありそうですか」
「わからない。しかし、エミリーは、この先の安アパートの三階に住んでいる。彼の部屋を、留守中に捜索してみたが、何も不審なものは発見できなかった。ただ、公然とは捜索できなかったので、完全とはいえない。天井裏や床板をはがして調べる余裕がなかったわけです」
聞いていた土沢は、一つの確信をもった。
「カールトン主任、二十枚の百ドル札は、彼から出たのですね?」
「まだ確実にそうだとはいえません。銀行に入れたのは、市内の競馬のノミ屋です。そこから五月三十一日に入金してきた。ノミ屋は、このあたりを支配しているルーウィンというギャングの子分の一人で、クレイグというやつです。クレイグは、三十人くらいの賭け客をもっていて、その一人がエミリーというわけです」
「クレイグを調べたんですか」
「むろんクレイグを引っぱってきて調べれば、誰が二千ドルを彼に払ったかは、すぐにわかる。しかし、FBIは、ノミ屋を非公認賭博で引っぱる権限はあたえられていないんです。また、FBIが乗り出したとわかれば、ルーウィンは、クレイグを消してしまうでしょうね。そうなっては、元も子もなくしてしまう結果になります。迂遠《うえん》な手段だが、監視するしかない」
カールトンは残念そうにいってから、
「しかし、エミリーが要注意人物の一人であることは確かです。なぜならば、彼はベトナム時代、特殊部隊にいたことがある、とわかったからです。ホモになったのもその時分で、こうやって女のかっこうをして働いているところを見る限りは、そうは思えないが、特殊部隊では、銃器の修理班にいたらしい」
「では、銃のプロということですか」
「そうです。さァ、食事をしましょうか」
とカールトンは立ち上り、テーブルのあるフロアに移った。
食事が終りかけたころ、カールトンはいった。
「あと一時間もすると、九時になります。あなたにそういう趣味はないでしょうが、エミリーをもう一度、誘ってみてくれませんか」
「わたしが?」
土沢は仰天した。
カールトンはうなずいた。
「東洋人は白人に対して、決して心を開きません。しかし、東洋人同士となると、少しは違うようです。彼の帰るところを待ちうけて、誘って下さるとありがたい」
「もしエミリーがオーケイしたら?」
「あなたのホテルに連れこんで下さい。FBIが費用をもちますが、それから先をどうするかは、あなたの自由です」
土沢はすぐには答えられなかった。
ゲイクラブにきて、そこに働いている者に見覚えがあるかないかをカールトンに証言する程度のことは、あとで問題になったとしても、弁解のできることである。食事を誘われたついでに、質問されただけのことだった、といえばすむ。しかし、FBIの費用もちで、ホモのバーテンを自分のホテルに連れこみ、相手から情報をとったとなると、弁解のできることではない。日本の警察官がFBIの手先をつとめた、という非難をかわすことができなくなる。また、土沢自身、そういうホモの趣味はなかった。
(ここは、ことわらなければいけない)
土沢は自分にそういい聞かせた。ことわれば、トラブルにまきこまれないことは、はっきりしている。
しかし、鼻さきに、絶好の獲物をぶら下げられたことも確かだった。
奪われた百ドル札を使ったらしい人間に、じかに接触できるのだ。カールトンが提供しようというそのチャンスは、公安担当の刑事にとっては、恐ろしいまでに魅力的だった。
カールトンは、そのことを百も承知で、しかけてきたのだ。獲物を前にしたら背を向けることはできない、という刑事の習性を見抜いている。
きれいごとをいっていては、情報捜査などはできるものではない。泥沼の中に落ちているダイヤモンドを拾うためには、泥の中へ手を入れなければならないのである。
「いまの話は、なかったことにしましょう」
と不意にカールトンがいった。
「いや、待って下さい」
土沢はいった。エミリーを誘ったとしても、相手がオーケイするとは限らない。むしろエミリーは、約束があるような素ぶりであった。ことわられる確率の方が高い。カールトンを強力な味方にしておくためにも、ここは引受けた方がいい。
「オーケイ。やってみましょう。ただし、条件がある」
「何です?」
「わたしは、一人の旅行者として、かわいいエミリーを誘うにすぎない。彼がゲイだとも思わない。また、そのことでどんなに金がかかっても、それはわたしが払う。わたしのサンフランシスコにおけるナイトライフのためですからね」
「ごもっともです」
カールトンは、にこやかにいった。
エミリーことグエンは、九時にゲイクラブを出た。車をとめて待っていた、いやらしい日本人の旅行者が誘ったが、彼はそれをことわり、握手をかわしただけで、ベイ・ストリートのはずれにある安アパートに戻った。
グエンの部屋は三階だった。建物は四階建てだが、エレベーターはない。
二階の踊り場で、グエンは、自分の部屋の下に住んでいる老人に声をかけられた。
「エミリー、きょう、あんたのことで、変なやつがきたぞ」
「変なやつ?」
「そうとも。犬みたいなやつだった。このあたりでうろうろしていると、ひどい目にあわしてやるぞといって、追い払ってやった」
「ありがとう。でも、大丈夫だよ。何も悪いことはしていないから」
グエンは礼をいって、三階へ上って行き、自分の部屋に入った。
明りをつけ、窓のカーテンをしめてから、丹念に調べてみた。どこにも異状はないように見えるが、油断はできない。
グエンは、ラジオをつけ音を大きくしてから、ベッドをずらした。
床板の一部がはずれるようになっている。ひそかに作った収納庫なのだ。
残りの三千ドルもそのままだった。そのほか、ベトナムを出るときに持ってきた虎の子の宝石も無事である。
彼はそれを確認してから、毛布にくるんだ工作箱をとり出した。万力、ネジ回しなどの工作道具が入っている。
トランペットの箱に入ったライフルもそのままだった。ただし、銃床の部分はきれいにはずされている。
グエンは、部屋の鍵を二重にかけ、窓のカーテンを再確認してから、作業にとりかかった。
そのとき、電話がかかってきた。グエンは作業を中止して、受話器をとりあげた。
「ブラッドだ。元気かい?」
グエンはちょっと考えてから答えた。
「やあ、ブラッディ、相変らずさ」
「そうか。それは結構だ。一度、会いたいと思っているんだが……」
「今週は忙しいんだ。雑用が多くてね。三、四日したら、また連絡してくれないか」
「オーケイ。じゃ、またな」
電話はそこで切れた。
アパートから一ブロック離れた倉庫の一室で、カールトン主任は、捜査官のミラーにいった。ミラーは、グエンがゲイクラブに出勤したあとに忍びこんで、盗聴装置をしかけてきたのだ。
「ブラッドというのは、彼の記録から見る限り、これまで出てきたことのない名前だ」
「親しそうに話していましたね」
とミラーはいった。
ブラッドのことを、グエンはブラッディと呼んでいた。ボブのことをボビイと呼ぶのと同じく、親しみをこめた言い方である。ミラーはそれをいっている。
「そうだな」
カールトンはうなずいた。しかし、気にするほどのことではないかもしれないが、何か心にひっかかるものがあった。グエンに関するFBIの記録は、かなり詳細なものである。少くとも、ベトナム時代のことや、アメリカに入国してから一年間の交遊関係は、すっかり洗われている。つまり、一九七三年五月までは、監視がつけられていたのだが、グエンの日常には何ら不審なところはなかった。ただし、その間にブラッドという男との接触はなかった。
グエンが市民権を獲得したのち、FBIは、グエンについての監視をといたが、一度だけ、グエンの名前が出たことがある。一九七四年二月から六月にかけて起きた、シンビオニーズ事件のときだ。
シンビオニーズは「共生」という生物学用語から生れている。シンキューと名のる男を首領にした集団で、シンビオニーズ解放軍と称した。シンキューというのは、十九世紀に奴隷船の船長を殺して自由をかちとった黒人の名前である。解放軍のシンボルマークは、七つの頭をもった蛇であった。シンキューの考案になるものとされているが、いかなる意味をもっているのかは、いまもってわかっていない。
シンキューらは、二月四日、サンフランシスコの対岸にあるバークレイ市の住宅街で、一組の白人男女を襲い、女性だけを誘拐《ゆうかい》した。女性の名はパトリシア。アメリカ有数の富豪の令嬢である。
FBIは全力をあげて一味を割り出し、五月十七日ロサンゼルスのコンプトン街に隠れていたシンキューことドナルド・デフリーズら六名を追いつめた。そして一時間半に及んだ銃撃戦をくりひろげて、全員を射殺した。パトリシアは、誘拐されたのちターニアと称して一味に加わり、ハイバニーズ銀行に強盗に入ったりしたが、殺された六人のなかには入っておらず、間もなく、逃亡していた他の二名といっしょに捕えられた。
事件は解決したが、FBIがグエンに注目したのは、デフリーズらの持っていたマシンガンやライフルが、検問を受けてもわからないように分解組立式に改造されていたからだった。デフリーズの一味に、ピコと称したベトナム帰還兵がいた。ピコは特殊部隊の出身だった。
誰が改造したかは、デフリーズが死亡しているためにわからなかった。グエンがやったという証拠はなかった。ピコとグエンがベトナムで知合っていた可能性はあるが、そういうつながりなら、グエン以外に数百人もいるのである。
カールトンが、グエンの電話に盗聴装置をつける決心をしたのは、ハイジャッカーの手に渡った百ドル札が出てきたからだった。
シンビオニーズ事件のさい、パトリシアの声を吹きこんだテープが地元の放送局に送られてきたことがあった。そのテープの末尾で彼女はこう喋っていた。
「きょうは二月八日、クエート軍団は人質の釈放交渉を終えて出発しました」
たしかにその日、クエートの日本大使館を占拠していたパレスチナ・ゲリラたちは、シンガポールの石油タンクを襲撃した犯人を解放させて、クエートを去ったのである。シンガポール事件、クエート事件の一味がダッカ事件に関係していることがほぼ間違いないと思われる以上、グエンに対する新たな監視はどうしても必要だったのだ。
カールトンは、ミラーにいった。
「テープを再生してみてくれ」
「はい」
ミラーは録音テープをまわした。
「このブラッドという男の喋っている英語は外国人のものだという気がしないか」
「そうですね。母音がいやに強くひびきますね」
カールトンは、土沢という日本の警部の喋る英語を思いうかべた。子音と母音、あるいは母音単独で一音節を作る言語は、日本語、スペイン語、ハンガリー語などである。
「このテープを言語分析班に回しておいてくれ」
とカールトンはいった。
6
六月七日の夕刻、グエンはクラブの近くにある食堂で食事をとった。この日は、八時からの勤務だった。
コーヒーをのんでいるときに、食堂の主人が電話をうけて彼を呼んだ。
「エミリー、電話だぜ」
グエンはカウンターの隅にある受話器をとりあげた。
「こちらブラッド」
「やあ、ブラッド。待っていたよ」
「万事うまくいったかね?」
「何とかできたよ。でも、あんたの注文は五つくらいのパーツだったが、そうもいかなかった。ことに、望遠照準器《テレスコープサイト》がふつうのものより大きめなんでね」
「どういうふうにした?」
「あれは分解するわけにはいかない。レンズの修正が面倒だからね。仕方がないから、そのままにしてある」
「それは困るな」
「方法はあるよ。フランスのブランデーのびんで、中の見えない黒っぽいやつがあるだろう? あれの底を抜いて隠しておくんだ。ただしX線検査にはパスしない」
「わかった。銃筒部はどうなっている?」
「カメラの二百五十ミリ望遠レンズの鏡胴の中に分解して組みこんである。引金の部分は、カメラ本体の中だ。それから銃身はゴルフのパターの中に組みこんだ。照星はヘッドの中だ。太目のパターになってしまったが、見た目にはわからない。ヘッドとグリップは強く引っぱれば、はずれるよ」
「銃床は?」
「細目に削ったよ。とりあえずゴルフバッグの底を厚くして、その中に隠してあるが、二重底の大型トランクならわからないはずだ。ただ、アジャスタブル・パットプレート(肩当て調整板)がついていたが、あれはどうにもならないので取除いた」
「結構だ。で、いまどこに置いてある?」
「ベッドの下に放りこんである。いつ取りにくる?」
ブラッドはそれには答えずに、
「残りの五千ドルは、その食堂のトイレットの大便用に入って受取ってくれ。水槽タンクの蓋《ふた》をはずすと、蓋の裏にテープでとめた封筒がある。その中だ」
「わかった。じゃ、幸運を祈るよ」
「サンクス」
ブラッドは乾いた声でいった。
グエンは、電話を終えると、トイレットに入った。
全ては、ブラッドのいったとおりになっていた。
部屋に鍵をかけて出てきたが、ブラッドにとっては、鍵はないも同然なのだ。勝手に持って行くつもりだろう。
その方がグエンにとっても好都合だった。顔を合わさずにすむ。
いつかの日本人は、その後も一回やってきて誘った。泊っているホテルを聞くと、二流のホテルだった。それがグエンの気に入らなかった。本当に金のある旅行者ならば、ヒルトンとかジャック・ターあたりに泊るものなのだ。何かしらあの日本人は、うさん臭い感じがする。
それに、あいつは、ホモの握手の仕方を知らなかった。ホモならば、握手したときに、小ゆびをはずして、互いに相手の掌をくすぐるものなのだ。
アメリカ人のホモは、必ずそうするし、ヨーロッパの旅行者の|好きもの《ヽヽヽヽ》もそうだ。それは万国共通のものだ、と聞いている。
カールトンは、グエンを尾行している捜査官から報告をうけて問いかえした。
「誰からかかってきた電話か、わからないのか」
「残念ながらわかりません」
「いま、どうしている?」
「電話が終ると、すぐトイレットに入りました」
カールトンは迷った。
その後の調査で、ノミ屋のクレイグに二千ドルを渡したのは、グエンに間違いないことがわかってきた。しかし、グエンを逮捕してしまえば、彼に金を渡したものは逃亡してしまうだろう。それでは、捜査をかえって困難にするだけである。グエンがその男と接触するチャンスをとらえて、一網打尽にしたいところだった。
グエンの部屋にかかってくる電話、あるいは彼がかける電話の内容では、それらしい犯人はいなかった。ただ、グエンは、何かを企てているらしく、古道具屋からゴルフの道具や中古のカメラを買ったりしていた。グエンは、たいてい二十ドル札で支払っていたが、中古のカメラを買ったときに、百ドル札を使った。その札を回収して調べてみると、手配したナンバーと一致したのだ。
グエンがいつ犯人と接触するかが、最大のポイントだった。
いま食堂にかかってきたという電話で、その連絡が行われたのではないか。
逮捕すべきか否か。
カールトンは決断した。
「よし。トイレットに踏みこめ。そこで誰かと会っているに違いない」
と彼はいった。
それからカールトンは、グエンの部屋を監視している捜査官を無線で呼び出した。
「そっちは何か変ったことはないか」
「七時ごろ、グエンが出て行きました。その前にやつをたずねてきたものもありませんが、やつが出かけてから、妙な人物がきました」
「誰だ?」
「日本の警部です」
カールトンは舌打ちした。困ったものだ、と思った。ここは日本の領内ではなくて、アメリカなのだ。獲物を前にしてじっとしていられない刑事の気持はわかるが、捜査の邪魔になるようでは迷惑するのである。カールトンは、土沢を利用しようとしたことを後悔した。
「それで?」
「ドアをノックしていましたが、いないものだから帰って行きました。グエンが出かけてすぐでした」
「よし。そのまま監視を続けていろ」
とカールトンは命令した。
連行されてきたグエンをカールトンはみずから取調べた。
グエンは、カールトンの顔を見たとき、やっぱり、といいたげな目つきになった。カールトンは、五千ドルの入った封筒を机の上に投げ出した。
「誰からもらった?」
「弁護士を呼んでくれませんか」
「これからきみの喋ることがすべて証拠になる、とはいっていない」
「じゃ、なぜぼくを逮捕したんです?」
「逮捕はしていない。FBIの捜査に協力してもらうために、きてもらったんだ。だから手錠もかけなかったはずだ。きみが協力してくれるなら、何も問題はない」
「何を協力しろというんです?」
「この金、それから一週間ほど前に、きみに百ドル札で少くとも二千ドルを渡した人物のことだ。きみはいつどこで何のためにその人物から受取ったのか、それを知りたい」
グエンは、心の中で、何かおかしいな、と感じていた。もしFBIがあの部屋を捜索していれば、改造ライフルを見つけているはずだった。外国製ライフルの密輸および不法所持で逮捕できるはずなのだ。また、クレイグに二千ドル払った残りの金も発見しているはずである。
それをいわないのは、どういうわけか。
まだ捜索していないか、捜索しても見つからなかったか、のいずれかである。
ブラッドは、いつ持ち去るともいわなかった。しかし、あの電話の直後に部屋に入って持ち去ったということもありうる。その場合は、FBIは部屋に監視をつけていなかったことになる。
しかし、連行されたときの状況から考えて、FBIは前から目をつけていたのだ。かれらがあの部屋を監視していないなんて考えられなかった。グエンはいった。
「この金に、何か問題があるんですか」
「おい。質問しているのはこっちだ」
「わかっています」
「誰が渡した?」
「これは偽札ですか」
「誰からもらった?」
グエンは、偽札ではないと、確信した。偽札ならば、捜査官はそういうはずだった。偽札であることを隠しておく必要はまったくない。
だが、何か問題があることは確かなのだ。そうでなければ、この連中がこんなにカリカリするはずがない。
グエンはいくらか余裕をとり戻した。FBIがどうしてもブラッドを捕えたいなら、免責を条件に取引する手もある。
「本当のことをいって協力すれば、免責にしてくれますか」
「取引したいのか」
「そうです」
「ちょっと待て」
カールトンはそういって調べ室を出て行った。おそらくワシントンの本部と相談するのであろう。
じじつ、カールトンは、そうしたのである。彼は本部の許可を得ると、調べ室に戻った。本部も免責には賛成した。グエンはいずれにしても最末端の小物である。場合によっては見のがして泳がせておくことも、大物にたどりつくために必要である。
「よろしい。きみの協力でこの金を渡したやつを逮捕できた場合は、この件については免責を考慮しよう」
「あの金をぼくに渡したのは、ブラッドというやつですが、会ったことはありません」
とグエンは語りはじめた。ただ、シンビオニーズの件は伏せておいた。ブラッドが自分のことを知ったのは、ベトナム時代の友人から聞いていたらしい、というふうに作りかえた。
「で、そのライフルはもう渡したのか」
「わかりません。部屋を出るときに、ベッドの下に放りこんでおきましたけれど、ぼくは今夜は八時からあしたの午前四時までの勤務です。その間に、ブラッドは取りに行くつもりなんでしょう」
「ブラッドに鍵は渡してあるのか」
「渡してありませんが、あいつは合鍵を持っているようです。もっとも、あんな部屋の鍵なんて、プロなら針金一本であけてしまいますよ」
じっさい、その通りだった。ミラー捜査官が入って調べたときも、そうやったのだ。
「そうすると、何時に受取りにくるかは、決めていないわけだな?」
「決めてありません」
カールトンは調べ室を出て、自分の机に戻り、グエンの部屋を監視している班を呼び出した。
三階のグエンの借りている部屋は、端《はし》に位置しているのだが、その斜め向いの部屋の住人が執行猶予中の窃盗《せつとう》犯だった。その男に話をつけて、ハンディトーキーを持たした二人の捜査官を派遣してあるのだ。
「グエンの部屋に入って、ゴルフバッグとか鞄《かばん》を持ち出したやつはいないか」
「おりません」
「グエンが戻るのは午前四時すぎになるだろうが、もしそれまでに、そうするやつが現われたら、絶対に逃すんじゃない」
「わかりました」
「念のために、ベイ・ストリートに2号車を配置しておく」
カールトンは指示を与えてから、グエンをいったん釈放することにした。もし、ブラッドがゲイクラブに連絡してきて、グエンがいないとなると、怪しまれるからだった。もちろん、グエンに監視がつけられていることはいうまでもなかった。
グエンは九時すぎに、ゲイクラブに出勤した。
「一時間以上も遅れたじゃないか」
マスターがいやみをいった。
「すみません。出がけに猛烈な腹痛に襲われたものですから……わたしのところに電話はなかったですか」
「なかったよ」
とマスターはいった。
グエンは午前四時までいつものように働き、それから歩いて自分の部屋に戻った。
ドアをあけて中に入り、ベッドの下をのぞきこんだ。出るときに放りこんでおいたゴルフバッグやカメラの入った鞄が消え失《う》せていた。おそらくFBIが持ち去ったのだろうと思い、そのままシャワーを浴びて眠ってしまった。
朝十時ごろ、グエンは電話で起こされた。這《は》うようにして起き上り、受話器をとりあげると、カールトンの声がとびこんできた。
「ブラッドからは、ついに連絡がなかったようだな?」
「ええ」
「もしきみがそこにいる間に取りにきたら、何もいわずに黙って彼に渡すんだ」
「渡すって、何をです?」
「改造したライフルを、だ」
「それはもう、あなたの方で持ち去っているじゃありませんか」
カールトン主任捜査官は、自分の耳を疑った。
グエンにうまうまとしてやられた、というのがカールトンの抱いた感想だった。
向いの部屋にいた捜査官がすぐにグエンの部屋を調べたが、ゴルフバッグもカメラも発見できなかった。
ただ、改造に使ったらしいネジ回しその他の工作用具は残っていた。
といって、そのことでグエンを外国製ライフルの密輸や不法所持で処罰するわけにはいかなかった。用具があったというだけで、現物がなければ、起訴することは不可能であった。
また、回収された八千ドル近い百ドル札にしても、グエンがそれを所持していたからといって、そのこと自体ではいかなる法律にも触れなかった。
ダッカ事件のさい、日本政府の要請に応じて調達した百ドル札は、アメリカ合衆国のなかで強奪されたという金ではなかった。アメリカとしては、日本政府の振出した小切手と等価の交換をしたにすぎない。その金は東京へ運ばれ、さらにダッカに運ばれて、ハイジャッカーに渡された。
日本政府は、乗客の身代金として渡したわけだから、あきらかにその金は強奪されたにひとしいが、合衆国政府が被害にあったことにはならないのだ。また、グエンがその金の一部を握っていたというだけで、彼をハイジャッカーの一味とするわけにもいかなかった。
彼がブラッドと称する男から一万ドルを受取ったことは確かだったが、その行為だけで罰することは不可能だった。グエンを罰するためには、ブラッドの存在を証明し、ブラッドとグエンのつながりを証明しなければならない。
盗聴していた電話のテープはあるが、その種のテープは法廷においては、証拠能力は認められていなかった。グエンの要求があれば、八千ドルは他の紙幣に代えて渡すしかないだろう。
また、グエンはすでにアメリカの市民権を得ており、好ましからざる外国人として追放処分にすることもできなかった。
7
カールトンから説明をうけた土沢は、相手の苦虫をかみつぶしたような表情で、その心中を察することはできたが、その一方で、FBIの捜査そのものに疑問を持たざるをえなかった。
日本の警察ならば、グエンをゲイクラブに戻さず、すぐに部屋を捜索して、ゴルフバッグの類があるかどうかを調べるだろう。もし見つかれば押収したに違いない。
しかし、銃器に対する感覚が、日本とアメリカでは、まったく違っている。それは、シークレット・サービスと打合せを行ったときにも痛切に感じさせられたことだった。アメリカ人にとっては、銃は決して凶器の類ではないのである。それが殺人に使われたときにのみ、凶器となる。肉切り包丁や登山ナイフが殺人に使われたときに初めて凶器となるように、である。
だが、それをカールトンにいったところで何も得るところはない。土沢は、
「それにしても変ですね。ブラッドというやつは、どうやってグエンの部屋からライフルを持ち出したんでしょうね?」
「わたしはね、こうなってみると、改造が行われたのかどうか、それさえも疑問のような気がしているんです」
「どうしてです?」
「グエンが何か不正なルートで、あの一万ドルを手に入れたことは確実です。しかし、彼はその不正なルートを隠匿《いんとく》するために、ありもしない改造ライフルの話を創作したのではあるまいか……」
「不正なルートといいますと、例えば、どういうことでしょうか」
「ダッカのハイジャッカーたちは、日本政府が六百万ドルを渡すまでの間、時間かせぎをして、札のナンバーを記録したことを、当然ながら予想していたと思いますよ。つまり、その六百万ドルは、そのまま銀行にあずけるわけにはいかない。また、へたに使えばアシがつく。そうなると六百万ドルを持っていたところで、使えなければ意味はない」
「それはそうです」
「そういう、いわくつきの金をね、割引いて交換する国際的組織があるんですよ。六百万ドルを三百万ドルくらいに叩いて買うわけです」
「しかし、買い叩いた方だって、使えないじゃありませんか」
「そりゃ、日本のように為替管理のきびしい国では、使えないでしょう。しかし、通貨を自由市場にしているところは、世界にいくらでもあります。ホンコン、ベイルート、スイス、ルクセンブルグ……ことに、スイスあたりの銀行では、国際刑事警察機構から手配されている人物でなければ、預金を受入れて預け主の秘密を守りますからね」
「グエンはそういう連中をかばっているというわけですか」
「そういうブラック・マーケットに米国通貨を不正に提供したり、あるいは提供を受けたりした場合は、これは連邦犯罪になる。それを回避するために、ライフル改造の謝礼という話、これでは処罰されないから、そういう作り話にした可能性はあるでしょうな」
「本当に、誰も出入りしなかったんですかね」
その言葉は、思わず土沢の口から出てしまったのだ。
カールトンはじろりと見た。部下の監視能力を軽くみられたにひとしいのである。しかし、さすがにぐっとこらえて、
「二人の捜査官が交替で、斜め向いの部屋の覗《のぞ》き穴から見張っていたのです」
「それはいつからでしたか」
「あなたがここに見えたのは、いつでしたかね?」
「六月二日の午後でした」
「そうでしたな。その日の夕方から、盗聴を開始したんだった。すると、監視をつけたのもそのころからです。そのあと、グエンは、ゴルフバッグを買ったりしたんだ。出入りしたものはあっても、持ち出したものはいませんな」
「出入りしたものというのは?」
「一階に住んでいる管理人が、四日の月曜日に部屋代の集金に行っている。あそこは週ぎめで、いつも月曜日に集めている」
「グエンは、改造はいつ完成したといっているんですか」
「きのうの夕方、出勤する少し前だった、といっている」
「それ以後、出入りしたものは?」
「管理人とグエンの部屋の下に住んでいるプエルトリコ系の爺さんですね」
「グエンがいなかったのに、ですか」
「グエンの部屋の水道のパイプがこわれて、下の部屋が洪水になったんですな。爺さんがえらい剣幕で文句をいいにきて、ドアがしまっているものだから、管理人を呼んできて、あけさせた。しかし、それだけのことで、何も持ち出してはいない」
「管理人からも事情は聴取されたわけですね?」
「これは、極秘の捜査です。わたしは、あなただからお話ししているが、サンフランシスコ市警にさえ知らせていないんです。それに、残念なことに、ああいうアパートの住人が、警察やFBIに反感を抱いているケースは、しばしばあるのです。うっかり秘密をもらすわけにはいきません」
「わかりました。それでは、各空港に、ゴルフバッグやカメラの鞄については、きびしくチェックするように、手配していただけますか」
「それは不可能だ」
カールトンはいい、さらに呟くように、
「イッツ・インポッシブル」
とくりかえした。土沢にいうというより、自分自身を納得させたいための呟きかもしれなかった。
土沢はくいさがった。
「カールトン主任、わたしは、ブラッドと称するライフルの名手の存在を信じます。彼が強力な殺傷力をもったライフルを手にして、日本へ向おうとしていることに間違いありません。ブラッドはあきらかに東京に集ってくる各国の首脳のうち、どなたかを狙っているのです」
「お待ちなさい。あんたのいわんとしていることはわかっている。しかし、わが合衆国に国際空港はいくつあると思いますか。わたしにだって、わからないくらい数が多いのです。そして、そこから、毎日何千人、いや何万人もの乗客が世界各地へ飛び立っている。それだけではない。アメリカからは、陸路でメキシコヘもカナダヘも入れる。あるいは、メキシコからさらに南へ行くことだってできるのです。わたしが、不可能だといった意味はおわかりでしょう」
土沢はうなずくしかなかった。カールトンは続けた。
「わたしは、貴国の警察の優秀な警備力を信頼しておりますよ。おそらく大統領閣下もそうでしょう」
「わかりました。では、これはせめてものお願いですが、サンフランシスコから日本へ向けて出発する乗客については、荷物の検査をきびしくしていただけませんか」
「もちろんその点については、できるだけの努力はします」
土沢は立ち上って握手した。
連邦政府ビルの前でタクシーを拾った土沢は、いったんホテルに戻りかけたが、思い直して、ベイ・ストリートに向った。
すでに、夜の九時をすぎていた。ワシントン時間では、午前零時をすぎている。張田一等書記官は、自宅で眠っているに違いなかった。
どうせ叩き起こすなら、その前に、自分自身で納得しておきたかった。余計なことはするな、と言い渡されていたが、それは、偉いさんのいうせりふなのだ。偉いさんは、余計なことに手を出さなくても、エスカレーター式に出世して行くが、おれたちはそうはいかない。
土沢は、グエンのアパートの近くで、タクシーを下りた。
グエンはたしかにライフルを改造しているのだ。自分で取調べにあたったわけではないが、土沢はそのことに確信をもっていた。
しかし、ブラッドはどうやって持ち出したのであろう。
土沢の推理に間違いがなければ、その謎《なぞ》をとく鍵は、管理人とプエルトリコ系の老人である。
土沢はアパートの周りを調べた。隣りのビルとの間にわずかな空間がある。そこへ入りこんでみたかったが、ちょうど車が駐車してあって、それを妨げる形だった。
車の中に人はいない。土沢はナンバーを見た。ネバダ・ナンバーだった。刑事としての本能的なもので、大して意味はない。
それから彼は、建物の中へ入って行った。管理人よりも、老人を先にするつもりだった。管理人を先にして、閉め出されても困るのだ。
中へ入ったとき、一階の横のドアが開き、ゴミ箱を手にした中年の男が顔を出した。ゴミ棄てに出るところだったらしい。
「あんた、誰だね?」
咎《とが》めるような口調だった。土沢は、とっさの判断で、
「管理人さんはどこですか」
「わしだが……」
「部屋を探しているんです。適当な部屋代でそれほど広くなくてもいいんですが……」
「あんたは何国人だい?」
「日本人です」
「パスポートを見せてくれ」
持っていたが、土沢のそれは公用旅券である。うっかり見せて疑われては、かえってまずい。
「ホテルに置いてきたんです」
「仕事は?」
「漁業会社の社員で、このあたりは港が近いものだから」
「あしたになったら、あく部屋はあるんだがね」
「それはラッキーだ。見せてもらえますか」
「ついてきなさい」
管理人は先に立って、二階へ上った。
土沢は、本当に自分が幸運に恵まれたことを感じた。管理人は二階の端《はし》の部屋の前に案内したのだ。そこは三階のグエンの真下にあたる部屋である。つまり、プエルトリコ系の老人のところだった。
管理人がドアをノックしていった。
「マリオ、部屋を見たいという人がきているんだ。見せてやってくれないか」
「いま客がきているんだ。十分くらいあとにしてくれよ」
「オーケイ」
管理人は、それでいいね、というように土沢を見た。
「わたしもそれで結構です」
「じゃ、わしの部屋で待ちなさい」
「廊下とか上の階などを見てみたいんですが、いいですか」
「いいとも」
管理人は一階へ戻った。
土沢は廊下の突当りを調べてみた。非常口の鍵が錆《さ》びついていて、あかなかった。かなり年数がたっていることは明らかで、水もれ騒ぎがあっても、おかしくはない。
そのとき、マリオの部屋のドアが開いて、中から三十歳くらいの男が出てきた。GパンにTシャツである。
「マリオ、じゃ、さよなら」
男はそういってドアをしめた。手に小さな包みを持っていた。
土沢は階段のわきに立っていた。男は土沢のわきをすりぬけて、下へ降りて行った。浅黒い肌で、やはりプエルトリコ系かもしれなかった。しかし、東南アジア系ともいえるし、アラブ系ともいえる。
土沢は一階へ行き、客が帰ったことを管理人にいった。管理人はビールを飲んでいた。
「マリオにはいってあるんだから、あんた一人でもいいじゃないか」
せっかく、あけたばかりのビールと別れたくないらしかった。
土沢はマリオの部屋の前に戻り、ドアをノックした。
返事はなかった。
「マリオさん」
やはり応答はない。土沢はノブを握り、一瞬迷ってから、回した。
ドアはあいた。土沢は部屋の中をのぞきこんだ。明りはついているが、誰もいなかった。浴室らしい仕切りの部屋にマリオが入っている気配もなかった。そこは灯がともっていないのである。
広い部屋ではないから、捜索するまでもない。念のために、浴室をあけてみたが、マリオの姿はなかった。
(まさか!)
土沢は愕然として、その場に立ちつくした。
それから彼は、窓をあけてみた。形だけの小さなベランダがついている。土沢は、上を見上げた。ちょうどグエンの部屋の窓の下になっているが、グエンの窓には、ベランダはついていない。
土沢はこんどは下を見た。
隣りの低いビルとの間に、空間がある。人間一人は、じゅうぶんに通れそうである。土沢は視線を滑らせた。ちょうど、駐車してあったネバダ・ナンバーが出て行くところだった。
(そうか!)
土沢は心の中で叫んでいた。全てのカラクリがとけた、と思った。
彼は再び浴室に入り、灯をつけてみた。天井の一角が、板をはがされて、剥《む》き出しになっている。前夜、水がもったという部分なのであろう。パイプが露出していて、応急処置らしいゴムテープが何重にも巻いてある。
土沢は、それをほぐしてみた。
水の垂れ方がひどくなったが、構わずにテープを除いてみた。
水を糸のように吹き出してくるパイプの穴は、何かナイフのようなもので傷をつけたらしく、新しかった。つまり、誰かが故意にパイプを傷つけて、水もれ騒ぎを起こしたのだ。
それがマリオのしわざであることに、疑う余地はなかった。
では、マリオは何のために、そんなことをしたのか。
グエンの部屋に入るためだ。それも、きびしい監視下に置かれていることを承知しており、かつ入っても怪しまれないために、水もれ騒ぎを起こしたのだ。
むろん、バッグや鞄を持ち出すことは不可能だった。にもかかわらず、マリオは、やはり持ち出していた。
どうやって持ち出したのか。
マリオは、グエンの部屋に管理人といっしょに入るときに、ロープを隠し持っていた。バッグ類のありかは、すでに食堂にいたグエンに電話で聞いている。マリオは、管理人が浴室を調べている間に、バッグ類をロープでくくり、グエンの部屋の窓から二階の自分のベランダに吊《つ》り下ろしたに違いない。ものの三十秒とはかからなかったろう。
やがて、グエンの浴室内部の故障ではないとわかってくる。そして、手ぶらで管理人といっしょに自分の部屋に戻ってきて、天井の水もれ部分を調べてみる。パイプに穴があいていたとわかって、ゴムテープで応急修理をする。ベランダのバッグは、誰の目にもふれずにすむ。
ベイ・ストリートには、FBIの捜査官が車にのって、アパートの出入口を見張っていたろうが、夜だし、荷物の吊り下ろしは、見えなかっただろう。
では、マリオはどこへ消えたのか。
土沢は、部屋の中を見まわした。
生活の痕跡《こんせき》は残っていた。汚れたシャツが壁かけにぶら下っていたし、読みかけのマンガ雑誌が放り出してあった。洗濯物も、ハンガーにかけてある。
しかし、どれもこれもガラクタだった。貧しい老人の一人暮しが感じとれる。
土沢は、備え付けの衣裳ダンスの引出しをあけてみた。その中も、似たりよったりだった。要するに、ロクなものがなかった。
かきまわしているうちに、何か手ごたえがあった。古いジャンパーの胸ポケットに入っている運転免許証だった。
マリオ・ロドリゲス。一九一五年生れ。
ほかに写真が一枚、はさんであった。マリオがライフルを肩にかついでおり、仕留《しと》めた鹿を前にして、得意げに笑っている写真だった。
土沢はそれをポケットにしまいこむと、マリオの部屋を出た。消えたマリオが暗殺者であることは、もはや間違いないことのように思われた。土沢はアパートを出ると、五十メートルほど先にある電話ボックスに入った。
サンフランシスコにきてから、日本へ帰る場合の航空便を調べたことがある。サンフランシスコ発のもっとも早い便は、ノースウエスト9便で、九時三十分発、翌日成田十六時着だった。日本航空は一日二便あって、十一時三十五分発、成田着十七時五十分の003便(ハワイ経由)と、十五時四十分発、成田着十八時二十五分の001便である。パンナムもほぼ似たようなもので、いずれも毎日飛んでいる。
ただ、このほかに中華航空(台湾)が週に二便、火曜日と金曜日にサンフランシスコ発、ハワイ経由で羽田に到着する飛行機があったのだ。たしか、二十三時五十分発で羽田着が暦の上では翌々日の七時だった。
羽田に比べて、成田は不便である。日程の都合もあるが、土沢はこの便がいいかな、と思ったことがあった。
FBIは、まだ日本向けの旅客に対する厳重な検査を行っていない。マリオがこの便に乗れば、一種の盲点となっている羽田から入国することができる。東京の国際線の発着は、すべて成田に移ってしまった、と考えている人も多いのだ。
マリオを捕えるなら、アメリカでよりも、日本で捕えたかった。FBIの手に帰したのでは、日本側は、あとで結果を教えてもらうだけになってしまう。
土沢は時計を見た。この日は六月八日、金曜日の午後十時だった。
ワシントン時間では、六月九日の午前一時である。
張田一等書記官は、妻の道代のからだから離れると、浴室へ行ってシャワーを浴びた。まだからだのどこかに、先刻までの陶酔感が残っていた。
「あなた、お電話よ」
という道代の声がとんできた。張田はシャワーをとめた。
「こんな時間に、誰からだ?」
「土沢という方よ」
張田はタオルを巻いて浴室を出た。気のきかないやつだ、と思っていた。
受話器をとりあげると、土沢の声がとびこんできた。土沢は、こんな時間にすみませんともいわずに、
「至急、東京へ手配していただきたいのですが……」
「何かあったのか」
「東京サミットで、大統領の暗殺を狙っているやつが今夜……」
何か音がして、土沢の声が途切れた。
「土沢君、どうした?」
返事はなかった。
8
中央日報社会部の江波のところへ、機械報道部の三村がやってきていった。
「江波さん、この前の宿題ですがね」
江波は給仕に買ってこさせた食堂の、まずい寿司を食べているところだった。味はまずいが、値段は一人前五百円と安い。
「ラジコン機の話か」
と彼は、寿司をのみ下して聞いた。
「そうです。犯人になったつもりで、いろいろと知恵をしぼってみましたよ」
「ない知恵をしぼって、か」
三村は苦笑して、
「その前に、ちょっと確かめておきたいんだけれど、金に糸目はつけないと考えて、いいんでしょうね?」
「警官に一億円もつかまして買収するなんていうプランは駄目だぞ。あるいは、電波の専門家を買収して、妨害されない波長のラジコン機を作るというのも駄目だ」
「むろん、そうじゃない」
「どうする?」
「専門家を買収することはできないとしても、妨害されない波長のラジコン機を使うことは絶対に必要です」
「だからさ、どうするんだ?」
「アメリカヘ行って、アメリカのラジコン機を買ってくるんです。アメリカの場合は、波長は72メガヘルツ帯の五波を使っている。かりに、警備陣がラジコン機による襲撃を予想して、妨害電波を送るために、五百メートル置きに、送信機をもった機動隊員を配置していたとしても、それは27メガと40メガの波長のものだから、役には立たない」
「うむ」
江波は唸った。三村は続けた。
「まァ、アメリカまで、ラジコン機を買いに行くとなれば、航空運賃だけでも、相当にかかるけれど、場合によっては、ハワイヘのパック旅行だっていいわけです。それなら三十万円もあればお釣りがくる。それに、ラジコン機を買って帰ったところで、こいつはピストルやライフルとは違う。税関だって、差押えるわけにもいかんでしょう」
「なるほど。アメリカ製のラジコン機を使うのか。考えたもんだな」
「どうです? いけるでしょう」
「よろしい。妨害電波の件はそれで解決するとして、羽田から宿舎まで、どこへんで狙えるか、考えてみたか」
「考えてみましたよ。この前、じっさいに高速道路で走ってみたんだから」
と三村は笑った。
「どこがいい?」
「まず羽田周辺は不可能でしょうな。海上にまでパトロール・ボートを出すという情報だから」
「海上だけなものか。高速道路の両わき、三百ないし五百メートルの範囲内にあるビルの屋上には、すべて警官を配置することになっているんだ」
「へえェ……すごいことをやるんだな」
「気違いじみているという批判もあるが、警視庁のことだから、やるだろうな。どんな些細《ささい》な芽でも、テロの可能性のある限りは、摘んでおくという考え方だ。だから、首脳を乗せた車が羽田から宿舎につくまでの間は、高速の対向車線も閉鎖してしまう」
「無茶だなァ。そんなことをしたら、一般道路は、ギチギチで身動きできなくなってしまう」
「そんなことは、知ったことじゃないのさ」
「まるで戒厳令なみじゃないですか」
「そういう批判は、あとで紙面でやる。それより、こんなきびしい状況下でも、飛ばせることができるか」
「できますとも。でも、共犯者が一人、必要です」
「どうする?」
「五百メートル以内は戒厳令なみでも、千メートル離れていれば、大丈夫なはずです。つまり、仲間が千メートル離れたところからラジコン機を飛ばし、途中で引き継げばいいんです」
「そうか」
「ラジコン機は秒速二十メートル、千メートルでも五十秒です。それに妨害電波もきかないとあれば、ぶつけることはできます」
「問題は、引き継ぎをうけたものが、どこに位置するか、だな。まわりに警官がウヨウヨしていたんでは、どうにもならん」
「わたしはね、国電浜松町の駅を考えたんです。いくら何でも、国電まではストップさせんだろうから」
「駅には、警官や私服が詰めているさ。コントロール送信機をもってうろうろしていたら、つかまってしまうぞ」
「だったら、電車に乗ればいいんですよ。時間を前もって計算しておいて、田町の方へ向う電車にのる。そして、窓をあけてラジコン機をコントロールする。うまいぐあいに、国電は高速の下を通っていますからね」
「電車の乗客に目撃されるな」
「日本人はおとなしいから、知らん顔をしていますよ。それに、ラジコン機の送信機かどうか、見たって、わからない人が多いんじゃないですか」
「よし、五十五点をやろう」
「五十五点?」
三村は不服そうだった。
「そうさ。まず、共犯者を使うことで、マイナス十点。目撃されることでやはりマイナス十点。それに、動く電車からラジコン機をコントロールするというのは、どうみてもまずいから、こいつはマイナス二十五点。計四十五点のマイナスだ」
「何点なら合格です」
「少くとも八十五点はないとな」
「じゃ、もう一度、計画をねり直してみますよ」
三村と入れかわるように、地方部デスクの戸田がやってきた。
「成田の通信部から情報が入ってきたんですがね」
江波は、寿司の最後の一つを、口に放りこんだ。戸田はいった。
「空港の税関職員にアプローチしてきたやつがいて、アメリカから到着する客の荷物を、ノウチェックでパスさせてくれたら、百万円の礼をするというやつがいたんだそうです」
「どうしてわかったんだい?」
「税関の職員が、上司にその話をして、警察に届けたわけですよ。うちの成田通信部の信原記者は、あそこは長くて、警察に喰い入っているんでね」
「いつごろの話だい?」
「届けたのは、きのうの午後。信原君はきょうの午後になって、それをつかんで、いまさっき、千葉支局を通じて、情報として送ってきたんです。記事にするなら、いつでも書けるそうですがね、どうします?」
「よし。こっちから成田に電話してみる。どうするかは、あとで相談して決めるよ」
江波は、警視庁記者クラブの梶谷を呼び出して、そういう報告が入っているかどうかを調べるようにいい、こんどは、成田通信部の信原へ電話をかけた。
信原は、戸田の話と同じことをいい、
「職員にアプローチしてきたのは、妙齢の美人だったそうです」
「妙齢というのは何歳ぐらいのことだ?」
「えッ?」
「妙齢にもいろいろあるぜ。十八、九でも妙齢だし、二十四、五でも妙齢だ。大正時代の新聞記者じゃあるまいし、妙齢の美人では、わけわからん」
「二十四、五の妙齢です」
江波の気質を知らぬ信原の、どぎまぎしている様子がうかがえた。
「女の印象はどうなんだ? たとえば、人妻ふうとか、水商売ふうとか……」
「わかりません」
「アプローチしてきた状況は?」
「おとといの夜、職員が勤務を終って、一杯やっているときに、そういう話をもちかけられたらしいんですね」
「飲み屋か、それともホステスのいるバーかね?」
「そこまではわかりません」
「アメリカからくる客といったって、漠然としすぎているな。シスコ、ロス、ハワイ、それにグアムもそうだ。場合によっては、アンカレジだって入る。ジャンボなら一機でざっと四百人。どうやって見わけるんだ?」
「それは、職員が承諾すれば、教えるんじゃないでしょうか」
「で、職員は何と返事したんだね?」
「そこへんのくわしいことは、よくわかっていないんです。届けたくらいだから、おそらくことわったんじゃないでしょうか」
「おそらくだの、たぶんだのというのでは困るな。警察は、場合によっては、職員に、オーケイさせて、何かを持込もうとするやつを捕える作戦をとるかもしれない。そうじゃないか」
「はあ」
「そのへんを、きっちり調べてくれ。記事にするかどうかは、それからの話だ。もし、サツが職員にオーケイさせて、何かを持込もうとするやつ、たとえば麻薬とか宝石とか、そいつをうまくキャッチできれば、特ダネになる可能性もある。状況によっては、カメラマンを張込ませる手だってある」
「わかりました。やってみます」
信原はいくらか元気を取戻した声でいい、電話を切った。
「妙齢の美人か」
と江波は呟いた。彼の頭には、数日前、山木といっしょに食事をとったときに聞いた話が残っていた。
姿を消した猪川の件について、江波は山木に連絡をとり、梶谷から入ってきた公安情報もつきあわせて、相談することにしたのだった。そのとき、猪川の妻はとてもきれいな女性だということを、山木はいっていたのである。
もし、税関職員に話をもちかけてきた女が猪川の妻だとすると、これは緊張すべき事態になったといってよい。猪川は、たしかに復讐のために、アメリカまで何かを調達しに行ったことになる。
もちろん、そうではなく、たんに麻薬や宝石の密輸を企てる一味の女だったかもしれない。可能性としては、その方が大きいとみるべきだろう。
にもかかわらず、江波は自分の思いつきを棄て切れなかった。彼は、山木に電話をかけて、猪川の妻の写真を持っていないかどうかを、たずねてみようと考えた。税関の職員が写真を見れば、わかるはずである。
そのとき、外信部次長の工藤がテレックスの用紙をヒラヒラさせながら近寄ってきた。
「おい、えらいこっちゃ」
それは工藤の口ぐせだった。工藤の場合は、ハイジャックが起きても、えらいこっちゃ、だったし、子供がかぜをひいて熱を出しても、そういうのである。
たった一度、もう二十年近くも前、工藤も江波も二十代だったころ、
「|どえらい《ヽヽヽヽ》こっちゃ」
といったことがある。それは、マリリン・モンローが死んだというニュースのときだった。江波は問いかえした。
「何が、えらいこっちゃ、かね?」
「日本の警官がサンフランシスコで狙撃されて、瀕死《ひんし》の重傷を負ったというニュースや」
「いつ?」
「現地時間で、八日の午後十時ごろ、いまから三時間ほど前のことやね」
江波は反射的に時計を見た。午後六時だった。
「警官の名前は?」
「AP通信の原稿だから、漢字はわからないが、ローマ字で、マコト・ツチザワとなっている」
「土沢?」
江波は、猪川が復讐を誓った相手と同じ名前だ、と思った。
「そうだ。AP電によるとやね、土沢はサンフランシスコ市のベイ・ストリートの公衆電話ボックスで電話中に、走ってきた車の中から撃たれた。ただし、そのときは、ガラスの割れる音がしただけで、銃声は聞こえなかったそうや」
「そうか。たしかに狙撃だな。犯人はサイレンサーを使ったわけだ」
「ギャング映画じみとるね」
「それで?」
「通行人が発見して警察に連絡し、市警病院に収容したが、胸部を撃たれて、意識不明。何をしにサンフランシスコにきていたかは、AP電は書いてないな」
「うちの支局はあるのか」
「シスコにはないよ。ロスに松前君がいる」
松前は、三年前まで社会部にいた記者だった。
「じゃ、松前は現地へ行ったわけだな」
「行け、といったけれど、いまロスは夜なかの午前一時や。シスコ行の便があるかどうかやね」
「行ったかどうか、すぐに確認してくれないか。もし、朝にならないと、便がないようなら、シスコの総領事館を叩き起こして、何か取材するんだ」
「えらいこっちゃ」
「土沢に関しては、こっちでやる」
朝刊最終版の|締切り《デツドライン》までは、まだ七時間近くある。江波は、警視庁クラブの直通電話をとりあげながら、身ぶるいした。
9
ブラッドは、午後十一時五十分発の中華航空001便にのった。この便は、翌日ハワイ時間午前一時五十五分にホノルル空港に到着する。
乗客の大半は、東京行か台北行である。サンフランシスコからハワイまで行くのに、こんな時間の便に乗る人は少い。昼間の飛行機がいくらでもあるのだ。
ブラッドが目ざしているのは、とりあえずシドニーだった。オーストラリアである。サンフランシスコからシドニーヘは、ノンストップの便はなかった。必ずハワイに寄って給油するのである。
できることなら、彼は午後九時発のカンタス航空4便に乗りたかった。これだと、翌日の午後六時三十五分にシドニーヘ到着する。途中、ホノルル空港で一時間ほど給油するだけである。
しかし、計画どおりに事は進まなかった。ことに、日本人の訪問は、まったく予期しないものだった。
ブラッドは、日本へ入国するまでは、血を流すようなことはしたくなかった。
暗殺者には、さまざまなタイプがある。それぞれが流儀をもっているのだ。同時にまた互いに共通したものを持っている。暗殺者であるための原則といっていい。
まず第一に要求されるのは、臆病といえるほどの細心さである。
ド・ゴールを狙ったジャッカルも、イスラエルのダヤンを狙ったフェニックスも、暗殺者としては、確かな腕をもっていた。その計画は完璧《かんぺき》なものだった。恐ろしいほどの周到さで計画をねりあげていた。だが、ジャッカルの欠点は、好色なことだった。彼は、仕事中に女に手を出し、それが因《もと》になって破滅した。
フェニックスは、女には手を出さなかった。その点、彼は利口だった。しかし、フェニックスは、自分に自信をもちすぎていた。自分の計画に酔っていた。そのために、イスラエル・チームにしてやられたのだ。それに、余計な殺人をしすぎていた。
ブラッドは、女には手を出さなかった。女ぎらいではないが、仕事にとりかかったら、女には見向きもしなかった。
余計な殺人もしたくはなかった。部屋を借りたいというあの日本人が訪ねてきたのが、不運だった。そんな名目は嘘に決っていた。日本人が住むようなアパートではないのだ。
日本人は、ブラッドの構築したカラクリを見抜いたのだ。それだけなら、ブラッドとしては、殺す必要はなかった。むしろ時間がたてば、看破されることを予期していたのだ。
殺さざるをえなかったのは、日本人が、ブラッドの素顔を見てしまったからだった。おそらくあの男は、日本の警官なのだ。FBIが見のがしているのも、そのためだろう。ブラッドが仕事をしようとする日本で、彼の素顔を知った警官がいては、危険きわまりなかった。
ブラッドは、二カ月前に、マリオ・ロドリゲスに扮装《ふんそう》して、グエンの下の部屋を借りた。
人間は、年老いてしまうと、若返ることはできない。若づくりをすればするほど、老いが目立つという皮肉なことになる。しかし、若者が扮装して年寄りに見せかけることは、決して不可能ではない。半ば白髪の義毛をつけるだけで、十歳は老けることができる。それに歯をぬいて頬の肉をたるませれば、二十歳は年上に見られるのだ。また入れ歯をはずすことによって、喋り方も老人じみた調子になる。そして、義毛をとり、入れ歯をはめれば再び元の年齢に戻れる。
ブラッドがそのヒントを得たのは、何年か前に見た映画だった。主演の大スターは、四十歳前後のはずだが、二十代から六十代までを演じた。それでアカデミー賞をもらったのだから、演技としては、決して悪くはなかったのだ。しかし、前半の二十代を演じているときは、どんなに上手にメイキャップしてあっても、二十代には見えなかった。ひねた二十代の感じだった。ところが、六十代の晩年のシーンは、完全に六十代に見えた。ちょうど歯の治療中で、抜歯したさいに、そのシーンを撮影したというゴシップが雑誌にのっていた。もっとも、アカデミー賞をもらったときは、演技のために、丈夫な歯を犠牲にしたという涙ぐましい物語になってはいたが……。
ブラッドは、マリオになるために、半白の義毛をつけ、入れ歯をはずし、老眼鏡をかけて図書館へ行った。
彼はそこで定期閲覧カードを申請した。住所は、半月の約束で入ったアパートにし、生年月日は一九一五年四月一日にしておいた。
三日後に、図書館からカードが送られてきた。こんどは、そのカードで、ラスベガスヘ行き、運転免許を取った。ネバダ州では、それでいいのである。どこかの国のように戸籍を証明する書類はいらない。
それが五年前のことだった。以来、ブラッドは、必要に応じて、マリオ・ロドリゲスになった。
グエンの下の部屋を借りたときも、彼はマリオとして住んでいた。二カ月の間、彼は、グエンの部屋の通気孔に小型マイクを置き、FMラジオを受信機として利用できる日本製の超小型盗聴器を使って、様子をさぐった。日本製のそれは、たった百ドルで買ったものだった。
グエンの生活が手にとるようにわかった。彼が競馬狂で、ノミ屋のクレイグに賭け金が払えず、電話でしばしばおどかされていることも、それでわかった。
警察の情報屋になっている気配は、まったくなかった。
こういう細心の注意を払ってから、彼はブラッドとしてグエンの前に現われたのだ。二カ月の間に、何回か声をかわしたことはあったが、それは歯をぬいたときのものであり、入れ歯を入れて、口に綿を含むと、別人のような声が出た。
グエンが仕事の合間に、銃の改造に取りかかり、着々と仕上げていく様子も、手にとるようにわかった。また、彼が何らかの理由でマークされはじめたことや、妙な男がアパートをうろついたことも、ブラッディと呼ばれたことで察知した。
ときどきブラッドは、マリオとしてアパートを出ると、映画館のトイレットに入ってブラッドに戻り、グエンを尾行してみた。グエンは気がついていなかったが、私服が尾行していた。
何が原因かは、わからなかった。ブラッドは、私服を尾行した。私服は、FBIのある連邦政府ビルに帰っていった。
グエンをマークしているのは、市警ではなく、FBIなのだ。
銃の改造や単純賭博は、FBIの捜査事項ではなかった。それを考えると、グエンがクレイグに支払った二千ドルに原因があるとしか思えなかった。
その二千ドルは、ブラッドが前金として受取った五十万ドルの現金のごく一部だった。彼は四十五万ドルを、経営者がナチスの秘密党員だったスイスの銀行にあずけておいた。その経営者が国際刑事警察機構に対して非協力的であることは、はっきりしていた。
それまでブラッドは、マリオとして過していることが多かったから、百ドル札を使うことはなかった。老いぼれ失業者のマリオが使う札は、二十ドル札が最高限度だった。
二十ドル札で別に一万ドルを用意してあったから、当座の心配はなかった。しかし、残りの三万ドルの百ドル札は危険だった。
ブラッドは惜しげもなく、それを切りきざんで燃やした。スイスの銀行に電話で問い合せることも考えたが、国際電話くらい、盗聴されやすいものはないのだ。この仕事には、思い切りのよさが必要である。三万ドルで自分の命を買ったと思えば、安いものだった。場合によっては、あとで残金を受取るとき、補償を請求してもよかった。
問題は、どうやって、FBIの監視の目をかすめて、ライフルを持ち出すか、だった。管理人が警察ぎらいであることも、はっきりしていた。グエンに対する盗聴マイクと同じものを、階下にもしかけておいたのだ。
ブラッドの推測が正しければ、グエンはかりにFBIにしぼられても、シンビオニーズとのつながりは、決して白状しないはずだった。
パトリシアは、銀行強盗とマシンガン使用で二十五年の刑をくらったが、三年の服役で知事が保釈許可のサインをした。それは、彼女がアメリカきっての財閥の愛娘《まなむすめ》だからなのだ。彼女の父親は、娘が誘拐されたとき、一味の要求に応じて二百万ドルの食糧を、慈善団体に寄付したくらいだった。そして、娘が釈放されるなら、一年以内に四百万ドルを寄付するとも誓約した。
パトリシアがたった三年で刑務所を出られたのは、この財力のおかげだった。しかし、グエンの場合は、三十年を刑務所の中で過すことになるだろう。FBIもシンビオニーズが全滅したからには、取引に応ずるはずもなかった。グエンもそれを心得ている。
もし百ドル札に問題があるなら、FBIはグエンを自白させても、改造ライフルを押収することはしないはずである。受取りにくる男を待ち伏せるに決っていた。
ブラッドの水もれの策略は、見事に成功した。
あとは、頃合いを見て、マリオ爺さんが姿を消せばいい。それもマリオが指名手配されるように、マリオの写真を残して。
ブラッドは、マリオとしてアパートを出て行き、ラスベガスからサンフランシスコに車できたときに、契約して入れておいた駐車場へ行き、それからフェリー・ビル停車場の公衆便所の中でブラッドに戻った。はじめは、二十一時発のシドニー行に乗るつもりだったが、FBIのものらしい車が、ベイ・ストリートを動かずにいるので、遅れたのだ。
ようやく安全になってから、ブラッドは、ブラッドの姿のままでアパートに戻り、車を隣りの建物との間にとめてから、ブラッドとしてマリオの部屋を訪問した。
必要なものだけを鞄に詰め、出ようとしたときに、管理人があの日本人を連れて、ドアをノックした。
ブラッドは、急いで入れ歯をはずして応答し、それから入れ歯をはめ、ドアをあけると、すでに存在していないマリオに別れの挨拶をした。
日本人は階段を上ったところで待っていた。顔を隠せば、かえって怪しまれる。
ブラッドは平然とそのわきをすりぬけ、外へ出ると、急いでマリオの部屋の窓の下へ行った。そこには、ロープの先にくくりつけて下ろしておいたゴルフバッグとカメラの鞄があるのだ。彼はすばやく車のトランクに入れ、運転席に入った。
ベイ・ストリートを三百メートル走ってから、ブラッドは車をとめ、物入れから望遠鏡を出して、アパートの出入口を観察した。
街灯の明りの中で、走り出てきた日本人の表情は昂《たかぶ》りをみせていた。彼が、マリオの正体がじつは三十代の男であることを悟ったのは、もはや明らかだった。
G3の78型の威力を試してみたい気もあったが、それは危険だった。六月下旬に想定されている|大いなる日《ビツグ・デー》≠フために、特に用意されたチタニウム銃弾を、いま使用するわけにはいかなかった。
ブラッドは、シートの下の箱から、サイレンサーつきのピストルを取り出した。そして車を走らせて、電話ボックスの中にいる日本人に二発の銃弾を浴びせて通り抜けた。
サンフランシスコからホノルルまでは、外国のエアラインでも、乗客は国内線と同じに扱われる。
ブラッドはゴルフバッグとカメラ鞄を、託送にした。それなら、X線の検査は行われない。また、彼の切符がホノルルまでのせいもあって、チェックインしたさいの検査は、いたって簡単なものであった。
ブラッドをのせたジェット機は、予定時刻より五分遅れて、ホノルル空港に到着した。東京および台北行の乗客は、ここでトランジット・ルームに入り、航空会社の特設カウンターで出国手続をうける。
ブラッドは、荷物を受取ると、タクシーを拾った。ここまでは国内線だから、税関検査も行われない。
それから彼は、空港近くのモーテルに乗りつけ、十五ドルを前払いして、ロッジにとまった。ハワイ時間で、六月九日の午前二時三十分だった。
ブラッドは、午前六時に目をさました。持参したラジオをつけて、地元放送局のニュースを聞いたが、サンフランシスコでの事件は放送されなかった。
ブラッドは、仕損じたとは思わなかった。だが、もしあの日本人が生きていると、危険度は増してくる。
走る車からの射撃なので、確実を期して頭を狙わずに胸を狙ったのだ。しかし、防弾チョッキを背広の下に着こんでいたとなると、話は別である。
それ以外は、殺せなかったとしても、重傷は負わせたはずである。当分は、病院のベッドに縛りつけられたままだろう。あと二十日間、サンフランシスコで入院していてくれればいいのだ。
(いや、そうではない)
とブラッドは思いなおした。あの男が、マリオはじつは若い男だと喋れる状態ならば、事態は楽観を許さない。
スムーズに二十一時発のシドニー行に乗れていれば、こんなことにはならなかったのに、とブラッドは思った。だが、いまさらそれをいうべきではない。
彼は、計画を変更する必要を感じた。
最初の考えでは、ホノルルを十一時四十分発のコンチネンタル航空1便に乗って、シドニーヘ向うつもりだった。シドニー着は、六月十日十九時四十五分である。
こうなると、一刻も早く、アメリカ合衆国を離れるべきだった。なにしろFBIが相手なのだ。合衆国内のいたるところに、支局がある。といって、日本から遠くなっては不都合であった。それに、成田や大阪や福岡から入るのは避けなければならなかった。
シベリアを経出し、ハバロフスクから新潟へ入る道はあるが、ロシア領内を通過するのは、気がすすまなかった。かえって危険だろう。ロシア人はゴルフの道具など、見たこともないのではないか。
ブラッドは、ホノルル空港のインフォメーション・サービスを呼び出した。
「パプア・ニューギニアのポートモレスビイに行きたいのだが、何かいい便《フライト》はないものかね?」
「ポートモレスビイですか」
「そうだ」
「ちょっとお待ち下さい」
ブラッドは、長い間、待たされたような感じだ。しかし、じっさいには、三分間くらいのものだったろう。
「お待たせしました。週に一回、当地からの|直 行 便《ノンストツプ・フライト》があります」
「本当かい?」
「ええ。PX50便。つまり、パプア・ニューギニア航空の707ジェットが、毎週土曜日の午前八時三十分に出ています。到着は、あしたの、むろんローカルタイムですけれど、十三時になります」
「きょうは土曜日だったね?」
「そうです」
「どうもありがとう」
「ユア・ウエルカム」
案内嬢は愛想よく答えた。ブラッドは、|つき《ヽヽ》がまわってきたのを感じた。サンフランシスコで調べていたときには、どの航空会社もシドニー経由しか教えてくれなかったのだ。
しかし、週一便の飛行機があったとは!
ブラッドは、|つき《ヽヽ》を当てにしたことはない。だが、ないよりはあった方がいいのだ。彼は予定どおり日本へ潜入できることを確信した。
[#改ページ]
怒りの標的
1
松前はロサンゼルスを午前二時二十五分発のTWA53便に乗った。週末のせいか、機内は満席に近かった。四百人乗りの大型機だったが、空席はいくらもなかった。
持込み手荷物の検査はいたって簡単だった。X線による透視チェックは行われるが、ボディ・チェックは行われなかった。日本のきびしさに比べると、いたってあっさりしたものだった。
サンフランシスコに到着したのは、予定より五分遅れて、三時三十五分であった。日本時間では、六月九日午後八時三十五分である。最終版の締切りまで、残された時間は約四時間だった。
事件の概略は、ロサンゼルス支局(といっても、松前が借りているアパートの四部屋のうちの一室だが)内のテレックスに、契約しているAP通信社から送られてきていた。金曜日の午後十時ごろ、サンフランシスコ市のベイ・ストリートの公衆電話を使用中の日本人が何者かに狙撃されて重傷を負い、市警病院に収容された。日本人は持っていたパスポートからマコト・ツチザワ、三十七歳と判明した。市警本部の調べでは、ツチザワ氏は日本の東京警視庁の職員である。事件を目撃した通行人の証言によると、狙撃犯人は車を走らせながら発砲し、ラーキン・ストリートの方向へ逃走した。サイレンサーとみえ、音は聞こえなかった。運転者は一人だった。市警本部殺人課のトーマス・テイラー警視は語った。「被害者の証言が得られるならば、事件の解決には自信をもっている。被害者は旅行者なので、最近、チャイナ・タウンで起きた東洋人同士の発砲事件と関係があるとは思わないが、誤認されたための狙撃という可能性はある」。テイラー警視のいう発砲事件というのは、三週間前、チャイナ・タウンの二つの勢力が演じた銃撃戦で、三人の死傷者を出した事件のことである──
支局内のテレックス受信機がカタカタと鳴り出したのは、午前零時半ごろだった。松前はちょうど浴室を出て、上半身裸のまま、冷やしたビールを飲んでいた。
すぐに、彼はAPのロサンゼルス支局へ電話をかけたが、夜勤の記者は、サンフランシスコ支局から送られてきたニュースなので、くわしいことはこっちではわからない、といった。松前は聞いた。
「サンフランシスコの支局長は、何という人だね?」
「ポール・コワルスキーだ。きみはこれからあっちへ行くつもりなのか」
「たぶん、そうなるだろうと思うよ」
「やれやれ、週末の夜だというのにな」
夜勤の記者は同情するようにいった。そして、その十分後に、東京本社の外信部から電話がかかってきたのだ。
松前は、そんなことを思い出しながら、サンフランシスコ空港からタクシーに乗り、黒人の運転手に、
「市警本部へ行ってくれないか」
といった。運転手はバックミラーをちらっとのぞきこんでから、すぐに車をスタートさせ、
「こんな時間に警察へ行くのかね?」
「ベイ・ストリートで狙撃事件があったんだよ。ぼくは新聞記者で、そのためにきたんだ。きみはニュースを聞かなかったか」
「撃ち合いなんて、珍しくもないからね」
「撃たれたのは、日本の警官なんだ」
「それなら、日本人も撃ちかえしたわけだな」
「日本の警官は、外国ではピストルを身につけていないよ」
「まさか!」
「本当だとも。日本の国内においても、原則として制服の警官以外はピストルを持たないのだ」
「クレージーだね。それじゃ、命がいくつあっても足りないな」
運転手はそういって口笛をふいた。
車は三十分後に、シティホールの隣りにある市警本部に着いた。
正面玄関のドアはしまっていたが、通用口があいている。松前がそこからロビイに入ると、夜間受付係の警官から呼びとめられた。
「ちょっとお待ちなさい。どこへ行くつもりです?」
「殺人課のトーマス・テイラー警視に会いたいのです。ぼくは日本の新聞記者で、ベイ・ストリートの狙撃事件の取材に、ロサンゼルスからきたんだ」
松前は名刺を出して相手に渡した。
「テイラー警視は、いまは外出中です」
「現場へ行っているんですね?」
「わかりません」
「現場はどこですか」
「ノースビーチのゲイクラブを知っていますか。その近くなんだが……」
「ベイ・ストリートと聞いたんだけれど」
「そう、ベイ・ストリートには違いないね。しかし、ノースビーチのゲイクラブからワンブロックのところですよ」
「殺人課の刑事で、誰か残っている人はいませんか」
警官は内線電話をかけたが、殺人課の部屋は応答がない様子だった。
「狙撃された日本人の容態について、何か聞いていませんか」
「聞いていませんね」
受付の警官はねむそうだった。午前四時をすぎているのだ。無愛想になるのも、当然かもしれなかった。
「電話を貸していただけますか」
警官はロビイの片隅にある電話ボックスをゆびさした。
松前はAPの支局へ電話をかけた。しかし発信音が鳴り続けるだけで、出るものはいなかった。ポール・コワルスキーは原稿を送ったあとは、帰宅したに違いない。考えてみれば、ロサンゼルスでもサンフランシスコでも、いやこの二つの都市に限らず、アメリカでは銃による殺傷事件は、さして珍しいことではなかった。日本では、交通事故による死者が一万人をこえたときに、社会面の大きな記事になったことがあるが、アメリカでは銃による死者の数が年間一万人をこえているのである。かれらにしてみれば、ありふれた事件なのであろう。
松前は市警本部を出ると、通りかかったタクシーを呼びとめ、ひとまず現場へ行ってみることにした。
「ベイ・ストリート。ノースビーチのゲイクラブの近くだが……」
「あそこはもう閉店していますぜ」
「いや、いいんだ。ゲイクラブに行くわけじゃない。発砲事件のあったところへ行ってみたいんだ」
「悪いけれど、行けないな」
「どうして?」
運転手は、返事もせずに、車を走らせてしまい、松前はとり残された。余計な説明をしたために、変なやつだと思われたに違いなかった。
松前はつぎにとめたタクシーで、現場へ行ってみた。しかし、見つけるのに手間どった。警官もパトカーも、現場にはいなかった。
ようやく「クローズド」の張り紙をした電話ボックスを見つけたときは、夜明けの光が空を染めていた。松前は、タクシーを待たせて、ボックスの中をのぞきこんでみた。
割れたガラスの破片が床に散っており、血痕が台のまわりに付着していた。
周囲に人影はなかった。キャルデリ広場ごしに海上博物館の屋根やその背後の波止場が朝もやに沈んで見える。サンフランシスコの街は、目覚める前のわずかな静寂の一刻《いつとき》を保っていた。
松前は、持参したカメラで、現場写真を撮ってからタクシーに戻り、市警病院へ行くようにいった。
松前は急患用の受付で名刺を出した。Gパンにポロシャツを着た長髪の若い男は、用件を聞くと、
「その患者はドクター・モーガンの担当ですが、許可がないと、取次ぐわけにはいきません」
「許可というのは、誰の許可ですか」
「FBIです」
「FBI?」
松前は思わず語尾を高くした。どうしてFBIが介入するのだろうか、と不審を感じた。若い男は手にしている紙コップのコーヒーを飲みほし、それを屑箱に放りこんだ。
「どうしてFBIの許可が必要なんです?」
「知りません。ぼくはそういわれているだけなんでね」
「市警本部の殺人課のテイラー警視はきていませんか」
「きているかもしれないが、ここでは、わかりません」
「FBIの許可をもらうには、どうすればいいんです?」
「FBIに聞いて下さい」
「それでは、患者がこの病院へ運ばれてきたのは、何時ごろですか」
と松前は気をとりなおして質問した。若い男はノートを調べて答えた。
「午後十時二十五分ですね」
「モーガン先生がただちに手術をしたわけですか」
「そうだと思いますよ」
「結果は?」
「知りません」
松前は絶望的な気分になった。
そのとき、エレベーターが下りてきて、一人の日本人が現われた。きちんと背広を着てネクタイをしめている。松前は、直感的にこの日本人はツチザワという警官の関係者だ、と思った。六月のサンフランシスコで、上着にネクタイ姿という服装は、ひどく改まった印象をうける。現に松前自身、半袖シャツの上にサファリ・スタイルの上着をひっかけているのだ。おそらく、警官の連れか、あるいは総領事館員だろう。松前は近寄って行き、声をかけた。
「土沢さんのご容態はいかがですか」
相手はびっくりしたように松前を見た。
「中央日報ロサンゼルス支局の松前です。どうも大変なことでしたね。いま現場を見てきたんですが、ひどいものでした。あなたも行かれましたか」
「いえ、わたしは、連絡をうけて、こっちへ参ったのですが……」
「総領事館の方ですね?」
相手はうなずいた。
「で、土沢さんの状態はどうなんです?」
「それがどうも……」
と館員は重い表情で口ごもった。
「よくないわけですか」
「ええ」
「傷はどこです?」
「胸部と腹部を撃たれたようです。医師はできる限りの処置はした、といっているんですが……」
「意識は?」
「ないようですね」
「土沢さんは、サンフランシスコヘは仕事でこられたんですか」
「ワシントンの帰りに当地へ寄られたように聞いています」
「土沢さんの階級は?」
「たしか警部だという話ですが」
「FBIがこの事件にからんでいるようですが、どうしてでしょうね?」
「さァ、それは知りません」
館員は、廊下の隅にある自動販売機でコーラを買った。のどが渇いたので、買いに下りてきたものらしかった。松前は同じようにコインを入れて、コーラを買った。館員は何となく迷惑そうだった。松前は構わずに質問した。
「殺人課のテイラー警視が事件を担当しているそうですが、彼に会いましたか」
「いろんな人に会ったので、誰が誰だか……」
「モーガンという医師はどういっているのです?」
「いまもいったように、できる限りの手当はしていただいています」
「総領事は見舞いにこられましたか」
「きょうの午前中になるでしょうね」
「あなたは総領事の指示でこられたわけですね?」
「そうです」
「土沢警部の病室に入りましたか」
「面会禁止ですから」
「日本には連絡したわけですね?」
「それは総領事の方でなさっていると思いますよ」
「土沢警部はどこに泊っているんですか」
「どこか市内のホテルだと思いますが……」
「どこです?」
「わたしは存じません」
「ワシントンからこっちへ、いつきたんですか」
「わたしどもの方には、そういうことの連絡はありませんものですから」
館員の表情はしだいにこわばりはじめていた。彼は半分しか飲んでいないコーラのびんをすて、エレベーターの前に戻った。
「病室へ行かれるんですか」
「入れないんですよ」
「病室はこの上の方ですか」
「外科の急患病棟のようですね。わたしは、外科部長の部屋で待っていてくれといわれているので、もう戻らなければいけませんから、これで……」
松前はいっしょに乗りこもうとしたが、思いなおした。外科の急患病棟を捜して、のぞいてみる方が先だと考えた。
彼は、ホールの壁にある案内ボードの図面を調べて、外科病棟へ行ってみた。しかし、入口のところで、警備員に制止され、押し問答をくりかえした。
すでに夜は明けていた。病院全体に一日のはじまりを告げるざわめきが徐々にひろがりつつあった。時計を見ると、午前六時半だった。日本時間では、午後十一時半である。東京本社では、彼の連絡を待ちかねているはずだった。
冷静に判断して、取材はきわめて不十分だった。日本でならば、社会部の記者が何人かで手分けして取材にあたる事件である。課長や刑事と知合いになっている記者であれば、取材も容易である。しかし、海外特派員の場合は、そういう贅沢《ぜいたく》は許されなかった。たえず一人というのが原則だった。もっとも、新聞社はそのために、世界的な取材網をもった大通信社と契約している。その通信社の流してくるニュースを、自社の特派員の原稿とまぜあわせて、外信部で記事を作成する例も決して少くない。
松前は外科病棟の玄関ホールにある公衆電話ボックスに入った。アメリカの公衆電話は屋内に設けられているものでも、たいていはボックス型である。
彼は二十五セント貨を入れて、交換手を呼び出した。
「日本の東京ヘコレクトコールをかけたいのだが……」
すぐに、海外通話交換手と替った。松前は外信部デスクの直通電話のナンバーと工藤の名前をいった。
三十秒たらずで、工藤の声が聞こえてきた。
「松ちゃんか。いまどこからや?」
「サンフランシスコの市警病院からです。まだ原稿にしてありませんが、集めたデータをメモとしてこれから読みますから、そっちで記事にしてくれませんか」
「えらいこっちゃな、ちょいと待てよ」
すると工藤に替って、別の声が聞こえてきた。
「松前君か。社会部の江波だ」
「どうもしばらくです」
「挨拶は抜きだ。わかっているだけでいいから送ってくれ」
「では、送ります」
松前はAP電のスケルトン(荒筋原稿)と自分のメモとをつきあわせて、頭の中で原稿をまとめながら喋った。江波は、「あ」とか「うん」とか短い相槌をはさみながらメモをとっていたが、土沢の容態のくだりになると、いきなり大きな声で、
「おい。つい五分ほど前のワシントン特電だと、土沢は午前四時に死亡したことになっているぞ。きみは、このモーガンという医師に会って話を聞いたんじゃないのか」
「会っていません」
「最善の手当をしたというのは、モーガンがいったせりふなんだろう?」
「そうです。でも、それは総領事館の職員から聞いたわけで……」
「バカ野郎! 何年きみはこの仕事をやっているんだ。どうしてモーガンに会って取材しないのかね!」
「病院側がFBIの許可をとってくれ、というものですから、あとでその手続をとるつもりですが」
「FBIの許可?」
江波の声が鋭くなった。三年前まで松前が社会部にいたころは、江波のそういう声を耳にすると、無意識のうちに首をすくめたものだった。
「そうです」
松前の声は自然に弱々しくなった。
「おかしいじゃないか。事件は殺人課が扱っているはずじゃないか」
「ええ」
「それなのに、どうしてFBIが介入してくるんだ?」
「その点はこれから調べようと思っていますが、いまこちらは早朝で、こっちへ着いたのは、夜なかの三時半だったものですから」
「弁解を聞いたって仕方がない。FBIへ許可が必要だというなら、すぐFBIの係官に会えばわかることだ」
「はあ」
「それから土沢がワシントンからそっちへ寄った用件についてだが、総領事館の方で知らないというのは、どうも納得できんな。きみは、きっとゴマかされているんだ。こっちで警視庁の公安部にあたったところでは、土沢は、サミットの警護について、シークレット・サービスとの打合せのために、丸目という警視に率いられて訪米したんだ。その丸目やほかの連中は、とうに帰国していて、土沢だけがそっちへ回っている。何のために回ったかは、公安部では明らかにしないんだが、総領事をつついてみろよ。知らないはずがないんだ」
「はあ」
「元気のない声を出すじゃないか。ヒントを一つだけやろう。里井正志という手配中の過激派がいるんだが、その実の兄貴で猪川達志という男がいる。年齢は三十二歳だ。そいつが五月中旬から行方をくらましているんだが、土沢はその一件に関係があるんだ。この兄弟がアメリカにいる可能性がある。FBIがからんでいるのも、それが原因かもしれん」
「ともかく当ってみます」
そういったときは、電話の相手は、工藤に再び替っていた。
「松ちゃん、社会部さん、えらいハッスルしとるからね、頼んまっせ」
「はあ」
松前は受話器をかけた。チャリンと音がして、はじめに入れた二十五セント貨が転がり落ちてきた。松前はその音に、日本との遠い距離を感じながら、コインをポケットに放りこんだ。
2
公安部参事官の夏川は、六月十日、十六時二十五分成田発のJAL004便で日本を発《た》った。この日は日曜日であった。この飛行機はサンフランシスコまで約九時間飛び続ける直行便だが、到着は、九時三十五分である。時差の関係で、暦の上では、時間が逆戻りするかっこうになる。
入国手続をすませ、荷物を受取って、ロビイに出たのは、十時すぎだった。ワシントン大使館の張田一等書記官が、夏川の姿を見ると、ここだというように手を挙げた。
「どうもお疲れさん」
と張田がいった。夏川と張田は、大学が同じで、上級職試験もいっしょにパスした仲だった。張田は警察庁から外務省へ出向して、ワシントン在勤は二年近くになるはずだった。
「総領事から車をまわしてもらったんだ。案内するよ」
張田はそういって先に立ち、駐車場の方へ歩き出した。夏川は肩を並べながら、
「きみの電話をもらったときは、われながら思わず耳を疑ったよ」
「それは、こっちも同じことさ。なにしろ電話で話をしている相手が撃たれたんだ。それも、はじめのうちは、撃たれたとはわからなかった。大統領の暗殺を狙っているやつが今夜……といったきりで、急にウンもスンもいわなくなったんだものね」
「わかるよ。誰かの悪いいたずらじゃないかと思ったろうね」
「そうなんだ」
運転手が二人を見て、車から下りてきてドアをあけた。
車に乗りこんでから張田が聞いた。
「どうする? FBIへこのまま行ってみるか、それとも総領事の公邸へ寄って、挨拶がてらちょっと一服してからにするか」
「きみはFBIの連中とは、もう会ったんだろうね?」
「きのうの朝の一番でワシントンを出発して、昼前にはこっちに着いた。だから、担当のカールトンという主任捜査官とは会って、一応の話は聞いている」
「土沢君の遺体は?」
「たぶん検死局から総領事館の方へ戻ってきていると思うが……」
「そっちを先にしよう。もっともFBIと約束してあれば、話は別だが……」
「きみといっしょに行くとはいってあるが、時間は決めていない」
「それなら線香をあげてからにしよう。ぼくとしては、こういうことになって後悔しているんだ」
「後悔って?」
「例のドル札の報告があったときに、土沢君をすぐに帰国させればよかったということだよ。彼の性質からいって、おそらく独断で首をつっこみ、こういう結果を招いたような気がするんだ」
「それは何ともいえないさ。きみの責任じゃない。ただ土沢君は変な男の写真を持っていた。マリオ・ロドリゲスというプエルトリコ系の老人がライフルを手にしている写真だそうだ」
「何者なのかね?」
「FBIで目下調べている」
「土沢君はベイ・ストリートで何をしていたんだね?」
「その点について、カールトン主任は言葉を濁しているが、きみの心配したように、どうも独断でドル札の出所を追っていたらしいんだ。電話で知らせたように、ドル札を使ったのはグエンというベトナム人なんだが、土沢君が撃たれたのは、そのグエンのアパートの近くだった。そして、カールトンの話では、グエンはブラッドという男から一万ドルで高性能ライフルの改造を請負い、ブラッドに渡している。ブラッドは、グエンには、大統領級の重要人物を暗殺する計画をもっているようなことを喋ったらしい」
「まさか!」
「いや、本当のことらしいよ」
「それならグエンを暗殺の共犯とか幇助《ほうじよ》で逮捕したんだね」
「ところが、そうじゃない。グエンは、ブラッドという男と、大統領のような人物が乗る車の防弾ガラスの性能について話はしたが、大統領を狙撃するための銃だとは聞いていない。そこのところが微妙なんだよ。それにブラッドという男は、アメリカではなくて、どこか国外で仕事をするような口ぶりだったそうだよ」
「ということは……」
夏川は言葉をのみこんだ。
何かしら冷たいものが全身の血管をぐるぐるかけめぐるような感じだった。
「そう、そういうことだ」
と張田が重苦しい声でいった。ブラッドという狙撃者が東京サミットに狙いを定めていることを、張田はいっており、夏川にもそれはわかったのだ。
「そうすると、ブラッドは、改造ライフルを日本に持込もうとしているんだね?」
「そうらしい」
「でも、飛行機に乗るときにチェックがあるはずだ」
「カールトンの話では、グエンの行った改造というのは、アーミー・ライフルを分解組立式に直したものだそうだ。グエンはくわしいことはまだ喋っていないが、買い集めたものから判断すると、ゴルフの道具とかカメラの中に隠せるようにしたらしい。日本へ行く乗客の荷物については、その点をきびしくチェックするように、ロスとシスコの空港には指示した、といっていた」
「ニューヨークやハワイからだって、日本への便は出るのに」
「到着する日本で、くいとめればいいじゃないか、というんだろうね。それでも、カメラとゴルフの道具については、すべてX線で検査しろといってあるそうだ。FBIとしては最善をつくしているというわけだよ。日本としても、それ以上の注文はつけられないと思うね」
「土沢君はそういうことを、きみに報告していなかったんだね?」
「聞いていれば、東京へ知らせているさ。もっとも土沢君も、カールトンから詳細に説明をうけていたのではないらしい。だから独断でグエンのアパートの近辺をうろついたらしいな。カールトンは、礼儀上あからさまにはいわなかったが、土沢君が動きまわるので困ったこともあったような口ぶりだった」
「土沢君はブラッドについて、聞いていたから調べる気になったんだろう?」
「そうかもしれない。カールトンは、グエンから百ドル札が出たことについては、はじめに説明したが、ブラッドについてはあの晩にはじめて話したそうだ。前もって聞いていれば、彼もぼくに報告しただろう」
「土沢君はどうしてマリオとかいう老人の写真を持っていたんだね?」
「マリオはグエンの下の部屋に住んでいるんだが、いまは行方をくらましている。逃亡したのだろう、とカールトンはいっているが、土沢君の殺しと関係があるのではないかという意見だ」
「写真をもっていたからか」
「それもある。そのほか、土沢君は、救急車がきたときにはまだ意識があって、一言だけ口をきいた」
「何て?」
「マリオ・イズ……といったそうだ」
マリオは……である──という意味だ。マリオは何である、と土沢はいいたかったのであろうか、と夏川は思った。
「どう思う?」
と張田が夏川の方を見ていった。
「見当がつかないな。FBIはどう見ているんだろう?」
「マリオの部屋に残っていた指紋からみて、土沢君がマリオの部屋に入ったことは確からしいんだね」
「勝手に捜査したのか」
「カールトンは、そうはっきりとはいわなかったが、それは土沢君が亡くなったからだろう」
「うむ」
夏川はうなずいた。土沢の行為は、あきらかにアメリカの司法権に対する侵害といってよかった。
「カールトンは、警察官の気持は、自分にもよくわかるといっていた。だから、いまさら正面きって問題にする気はないようだが、それはともかくとして、マリオについて土沢君が何かをつかみ、それをぼくに報告しようとしたときに殺されたのではないか、というんだ」
「きみは、ワシントンで受けた電話の内容はカールトンに話したんだろうね?」
「もちろん話したさ。そこで、この二つの事実を結びつけると、マリオが大統領を狙撃しようとしている男で、かつ土沢君を撃った犯人でもある可能性がある」
「マリオがブラッドだということか」
「カールトンは、そこまでの断定は下していない。そういう可能性がある、というだけなんだ」
「マリオというのは老人なんだろう?」
「六十四、五歳らしい」
「暗殺者としては、年をとりすぎてはいないかね?」
「じつは、グエンというやつは、ブラッドと取引したとき、暗がりで口をきいているが顔は見ていない。グエンはマリオと上下に住んでいるんだが、ふだんから、ほとんど喋ったことがない。しかし、FBIは、グエンのところにかかってきたブラッドの電話を盗聴して録音しておいたんだね。それをアパートの管理人に聞かせてみたところ、管理人は、マリオの喋り方とは違うが、声の質は似ているといったそうだ。それに言語分析してみると、母音を強く発音するので、スペイン語系の影響がある。マリオはプエルトリコ系だから合致するわけだよ」
「すると、発音的には日本語系でもあるわけだな」
「そうだ。しかし、カールトンは、マリオの割出しには、自信をもっているみたいだったよ」
「そうか。しかし……」
夏川は口ごもった。
「どうした?」
と張田が聞いた。
夏川は、マリオが暗殺者だという考え方には、何かしら納得できないものを感じているのだった。
大統領を狙撃しようとするからには、身のこなしも敏捷《びんしよう》でなければならない。それに射撃というものは、針のように鋭い神経とデリケートな感覚を必要とする。六十歳をすぎた老人に適したことではないのだ。動作もにぶくなっているだろうし、目も老眼鏡を必要とするのではないだろうか。
夏川は、土沢は何をいいたかったのだろうか、と改めて思った。もしかすると、土沢は重要なヒントをつかみ、それをいおうとしていたのではあるまいか。
夏川らを乗せた車は、ポスト通りとラグナ通りの交叉点にある文化貿易センターに三十分後に到着した。総領事館はそこにある。
何台かの車がその前に駐車していた。張田は一瞥《いちべつ》して、
「どうも新聞記者がきているみたいだな。きのうもぼくは追いまわされたんだが、とうとう逃げたんだ。きみは、そうもいかんだろうね」
「仕方がないな」
「ことに中央日報の記者がしつこいんだ。病院にかけつけてきたときに、ここの職員がいたんだが、土沢君が絶命していたのに、教えてやらなかったとかで、カリカリしているみたいだった」
「東京を出たときの朝刊でも、あそこがもっとも派手に扱っていたよ。ほかの新聞はふれていなかったが、あそこだけはFBIの捜査に関連か、なんて書いていた」
夏川はそういいながら、ふと江波という記者のことを心の片隅に意識していた。
夏川は、江波に会ったことは一度もなかった。しかし、江波については、もしかすると誰よりもよく知っているのかもしれなかったのである。
車を出て総領事館に入って行くと、はたして夏川らは数人の記者に囲まれた。夏川は、まず土沢の棺に拝礼してから、会見に応ずることにした。
棺は、応接室に安置され、簡単な祭壇が設けられてあった。夏川は香をたいてから黙祷《もくとう》した。
数分して、彼は部屋を出た。
記者たちは夏川を執務室へ連れこんで質問した。はじめは、型通りの質問だった。土沢の遺体はいつ帰国するのか、夏川はそれに同行するのか、もうしばらくサンフランシスコに留まるのか、あるいはワシントンなどへ行く予定があるのか、といったような事柄である。
ひとしきり応答が続いたのち、一人の記者が少しあらたまった調子でいった。
「ところで、土沢警部がアメリカにきたのは大統領の訪日について、シークレット・サービスと打合せするためだったと発表されていますね」
「ええ」
「ほかの人たちは六月初めに帰国したらしいけれど、土沢警部だけ、どうしてサンフランシスコにきたんです?」
東京で姿をくらました猪川については、公安部は何も発表していなかった。まして、ダッカでハイジャッカーに渡された百ドル札の一部が出てきたことについては、秘密にされており、ここしばらくは、その事実を伏せておくことに決定していた。
六百万ドルのうち、アメリカから調達した百万ドルを除いて、五百万ドル分つまり五万枚の百ドル札については、すべてナンバーがひかえてあったが、表向きは、ひかえていないことになっていた。むろんハイジャッカーたちを油断させるためであり、パリの国際刑事警察機構を通じて、犯人たちのひそんでいそうな国には通報してあった。
ただ、アメリカから運んできた分《ぶん》については、羽田に着いてすぐに積みこんだために、ナンバーをひかえておく余裕はなかった。しかし、それもFBIによって記録されていたとわかり、その一部が出たのを機会に通報をうけたのである。
それを公表することは、犯人たちを警戒させるだけであった。犯人に対して、ナンバーはメモしていないといった以上(犯人がそれを信じているとは思われなかったが)、あくまでもそのふりをするしかないのである。犯人の足跡をつかむ手がかりになりうる可能性を、みずから摘み取ってはならなかった。じじつ、ブラッドという男がそれを使い、いまや足跡を残したのである。その上、ブラッドは東京に集ってくる各国の首脳を狙おうとしているのだ。
土沢のサンフランシスコにおける行動を正直に説明することは、ブラッドに警告を発するにひとしかった。ブラッドを捕えるチャンスを潰《つぶ》すようなことは、絶対にしてはならなかった。
夏川は内心の重苦しさを押し殺して、質問に答えた。東京を発つ前に部長と打合せておいたように、曖昧《あいまい》にゴマかしておくしかなかった。
「土沢君はですね、ひじょうな勉強家でありまして、かねてから外国の過激派についても文献を集めたり研究していたんです。五年ほど前でしたか、当地でシンビオニーズ事件というのがあったのですが、せっかくアメリカにきたことだし、帰り道でもあるので、寄って資料を集めたいという申出があったわけです」
「それで許可したわけですか」
「そういうことですね」
「そりゃ、おかしいなァ」
三十歳くらいの記者が無遠慮な口のきき方をした。
夏川は相手を一瞥した。もしかすると、咎めるような目つきになったかもしれない。
「どうしてです?」
「だって、警視庁の仕組みからいって、サミットについての協議で出張した人間に対して、そういう個人的な希望をかなえてやるなんて、信じられないもの。警視庁はいつからそんなにものわかりがよくなったんだろう」
記者は夏川を挑発するようにいった。夏川はこらえた。
「個人的な希望といっても、警察全体の観点に立てば、大いにプラスになる研究ですからね。せっかくのチャンスを活用させてやりたいというのは当然ですよ」
「しかし、寄り道といったって、滞在費はかかりますね。ほかの人たちは、六月二日にワシントンを出発している。土沢警部は、二日にこっちへきて、一週間もいたわけだ。少しのんびりしすぎているんじゃないかな。サミット関係の用事が東京では山ほど待っているんだろうに、そんな古い事件の調査なんて、変じゃないですか」
「その間のくわしい事情は、わたしには、わかりません。なにしろ、つい先刻、飛行場に着いたばかりなので」
「そうすると、土沢警部は、公務中に殉職したということになりますか」
と別の記者がいった。
「その点は、状況がもう少しはっきりしないことには何ともいえません」
「夜の十時ごろに、公務ということはあるんですかね? これが日本ならば、張込みのさいちゅうだったとか、夜でも明け方でも殉職ということは考えられるが、シンビオニーズ事件はとっくに解決ずみの事件なんだ」
「ですから、状況を調べてみないと、その点は申上げられない」
夏川はいくらか切り口上になっていった。
別の記者が聞いた。
「中央日報は、FBIが事件に関係しているように書いているらしいけれど、その点はどうなんです?」
「それも調べてみないと、何ともいえませんね」
「シンビオニーズ事件はFBIが手がけたと思うけれど、そのからみですか」
「ともかく到着したばかりですので」
「FBIの捜査官に会いますか」
「これから市警本部へ伺って、事情を教えていただくことにはなっていますが……」
「土沢警部は、お骨にするのですか、それとも遺体のままですか」
話題はさしさわりのないものに戻った。夏川はほっとして、
「こっちの法規との関係もありますが、ご遺族と連絡をとって、そのご希望にそいたいと思っております」
といって、ようやく席を立った。
隣りの部屋で待っていた張田がいった。
「聞こえてくるもので、連中とのやりとりを拝聴していたんだが、さすがだね。うまくあしらうものだと感心したよ」
「いや、必ずしもそうではなかった」
「そうかな? どこかまずいところがあったかね?」
「まずいとはいえないかもしれないが、公務中かどうかを、あんなふうに追及されるとは思っていなかった。わかっていれば、あらかじめもっと考えておくのだった」
「気にするほどのことはあるまい」
「張田君、これは個人的な感傷として聞いてもらって結構なんだが、ぼくは公務中ということにしてやりたいんだよ。公務中ならば、土沢君も警視に特進できる」
そうなれば、給与の号俸も上り、死亡退職金や遺族年金も大いに違ってくるのだ。
「きみは部下思いだな」
「いや、必ずしもそうではないんだ。だから個人的感傷といっているんだが……」
「というと?」
「ぼくのおやじは叩き上げでね、警部補まで行ったんだが、ぼくが大学四年のときに死んだ」
「知っているよ。だからきみは、商社に入りたがっていたのをやめて、警察に入ったんだろう」
「おやじは、表向きは夜、自宅近くで散歩中に川に落ちて死んだことになっているが、本当はそうではなかった。所轄署の警備係長をしていてね、本当は情報集めをしていたんだ。そして、誰かに殺された疑いがあったが、いろんな事情があって、それを公《おおやけ》にできなかった。そういう点が、こんどの状況とよく似ているんだよ」
「そんなことがあったとは知らなかった」
張田が少し声を落した。
夏川は首を振った。そんなことを張田にいうべきではなかった、と気がついたのだ。
「食事でもしてから、市警本部とFBIを回ってこようか」
といった。
張田はそれ以上は何もいわなかった。二人は総領事館を出ると、張田の泊っているホテルヘ行き、夏川もそこにチェックインしてから、食事をとった。
それから市警本部へ行き、テイラー警視に会った。捜査がFBIに移管されているので、いわば挨拶だけである。ただ、テイラーも、FBIに移管されたことについては、報道陣に隠しておくことを了承した。
カールトンは、FBIの支局で二人を迎えた。
事件についての説明は、張田から聞いた内容にほとんど進展がなかった。マリオ・ロドリゲスの運転免許証を洗いに、ネバダ州に捜査官が赴いているが、めぼしい報告はまだないというのである。
夏川は、東京から持参した捜査資料を、カールトンに渡した。
一つは、猪川の写真であり、もう一つは、猪川が五月二十五日に成田を出発したさいに残した航空券の半券である。
発行日は、五月二十日、東京―サンフランシスコ往復で、番号は、
131 4242 548 800
である。往路はJAL002便を指定してあり、それが成田で、搭乗カードと引きかえに残されていたのだった。
猪川はその復路の航空券を持っているわけである。日本に帰るときも、当然それを使用するものと考えられる。
カールトンは、すぐにサンフランシスコ空港とロサンゼルス空港の各航空会社に手配する、といった。サンフランシスコ―東京間の航空券でも、料金が同じなので、ロサンゼルスから乗れる。また、日本航空の航空券ではあるが、いわゆるエンドースの手続さえすれば、他の航空会社の便を使うこともできる。従って、東京行の便《フライト》を有している全航空会社の、チェックイン・カウンターに、このナンバーを手配しておく必要がある。
カールトンは、部下を呼んで、その処置を命じた。それから彼は、
「この猪川という人物を発見したら、どうしますか。もし彼が何か凶器を持っていれば、それを名目に逮捕することはできますが、そうでない場合は、身柄を拘束できない。あるいは、日本で罪を犯しているならば、犯人引渡条約を適用することはできるが……」
「日本では何も罪を犯していません。ですから、どの飛行機に乗ったという通報をいただくだけで結構です」
と夏川は、張田の通訳でいった。彼も読むことはできるが、喋ることはできない一人であった。
「猪川がマリオないしはブラッドと当地で連絡をとる可能性はある、とお考えですか」
とカールトンがいった。
「わかりませんが、じつは、成田空港の税関職員から得た情報があります」
「何です?」
「アメリカからくる人間の荷物をパスさせてくれれば謝礼を出すという女がいたのです」
「ほう」
「ただし、その女は、その後は姿をあらわしていません。念のために、猪川の妻の写真を税関の職員にみせたのですが、結婚式の写真しか手に入らなかったものですから、はっきりした証言は得られなかったのです。ほかの日常的なスナップ写真を入手するよう指示してあるので、ほどなく、はっきりすると思います」
「猪川は単身でアメリカにきたのですか」
「そのようです」
「猪川夫人はどうしているのです?」
「五月中旬、それまでの住居を移転してから行方不明です」
聞いていたカールトンは、かすかに頬をひきつらせた。
3
月曜日の午後、梶谷は警視庁の記者クラブを出て、平河町にある山木清掃管理会社へ向った。
取材を指示してきたのは、次長の江波だった。江波の話によると、山木の会社に五月半ばまで勤めていた猪川達志という社員は、爆弾事件で指名手配されている里井正志の実兄で、サミット警備の事前チェックのために、会社をクビになったというのである。猪川はそのことで、サンフランシスコで射殺された土沢を恨んでおり、必ず復讐してやると口走っていた。
「まさかアメリカくんだりまで行って、土沢を撃ったとは思えないが、しかし、土沢は現実に殺されているんだ。気にしないわけにはいかない。それに、成田通信部から入ってきた例の情報のこともある。税関職員にアプローチしてきた女が猪川の細君だったという可能性もあるから、猪川夫婦について、調べておく必要がある。山木という社長は、じつをいうと、おれの友だちでな、きみが行くことはすでに連絡してあるから行ってくれ。ついでに猪川夫婦の写真も借りてくるんだ」
と江波はいったのだ。
梶谷は、前に江波から里井の肉親関係を調べるようにいわれた理由がようやくわかってきた。
そのときに、こういう事情を説明しておいてくれればよかったのに、と感じたが、口には出さなかった。余計なことをツベコベいうな、とどやされるのがセキの山だとわかっていた。
梶谷が平河町にある貸ビルの前で車を下りたのは午後二時すぎだった。玄関ロビイのプレートでみると、山木の会社は四階だった。
受付で名刺を出して、用件をいうと、梶谷はすぐに小ぢんまりした応接室に通された。江波のいったように、すでに連絡が届いているからであろう。梶谷は、江波がこういう会社の社長と交際があることに、小さな驚きを感じていた。
若い女子社員が紅茶を運んできた。梶谷の前にかがみこむようにしてカップを置いたとき、淡い香水の匂いが梶谷の鼻孔にしのびこんできた。
梶谷は目をあげて彼女を見た。
(鄙《ひな》にはまれな……)
と梶谷は心の中で声をあげた。平河町は東京のど真ン中であり、鄙ではないが、思いがけないところで美しい女を見つけた場合に、梶谷ら若い記者は、そういう言い方をするのだった。
代って、五十年配の男が出てきた。それが山木かと思ったら、そうではなくて、総務部長の川畑だと名のり、名刺を出した。
社長の山木は、梶谷のくることを承知していたのだが、よんどころない急用が生じて、出かけねばならなくなり、猪川の件についてはよく知っている川畑に後事をたくしたのだという。
梶谷は一時間近くかかって、猪川が退社するにいたったいきさつをメモしてから、復讐宣言を聞いたという松枝久子を呼んでもらえないか、と頼んでみた。
川畑は立ち上って、隣りの部屋との境のドアをあけ、
「松枝さん、ちょっと」
といった。
入ってきたのは、鄙にはまれな例の美女であった。梶谷はかすかに胸のときめきを感じ、そして、そういう自分を意識すると、
(ガラにもない)
と、自分を罵倒する思いで胸の中で呟いた。
川畑は久子に、それまでの事情を話して、社長も了解していることだから、説明してあげなさい、といった。
そのとき、別の社員がドアをあけ、
「部長、お電話が入っておりますが……」
といった。川畑は、ちょっと失礼とことわって出て行った。部屋のなかは、二人だけになった。
久子は椅子に浅く腰をかけ、うつむきかげんに膝の上に組んだ手を見つめている。ノースリーブのブラウスからのぞいている腕は病的な感じの白さをもっていた。
「猪川という人から、警官を殺してやるという言葉を聞いたのは、あなたですか」
久子はきっとなって顔をあげた。梶谷を見た目は、キラキラと輝いていた。
「猪川さんは、殺してやるだなんて、いっていませんわ」
梶谷は少しうろたえた。
「つまりその……」
「猪川さんのことを、どうしてもお書きになるんですか」
「どうしても書くということで取材しているわけじゃないんです。その点は誤解のないようにお願いしたいですね」
「誤解なさっているのは、失礼ですけれど、そちらさまじゃありませんか。猪川さんは、人殺しなんてできるような人ではありませんわ」
「しかし、自分をクビにした権力の手先どもに仕返しをしてやるとか復讐をしてやるとかいったわけでしょう」
「猪川さんは何も悪いことはしていないんです。それなのに、警察がやってきて、社長に圧力をかけたんです。いったい、どっちが悪いと思います? 新聞記者が正義の味方ならば、そういうことをお書きになるべきじゃありませんか」
久子の白い顔が昂りのために、かすかに紅潮していた。梶谷はそれを美しいと思いながら、
「どうも参りましたね。でも、その過剰警備については特集するはずですよ。ただ、いまは、ぼくとしてはサンフランシスコで起きた事件との関連を調べておきたいんです。猪川という人がシロなら、それをはっきりさせておきたいんですよ」
「新聞記者って、警察の人と同じようなことをおっしゃるのね」
その言葉で、梶谷はふと思いついた。
「警視庁の人がやはりきたんですか」
「ええ。猪川さんがもう日本にいないとかで、まるで犯人扱いにしているんですもの、わたし、憤慨しちゃいました」
「いつここへきたんです?」
「先週やってきて、それから、きのうの朝、社長のお宅へまたきて、写真を借りて帰ったという話です」
「日本を出たというのは、確かなんですか」
「警察にお聞きになればいいじゃありませんか」
「なるほど、これは確かだ」
梶谷は苦笑していった。その言い方がおかしかったのか、久子は口に手をあてて笑った。
「ところで、猪川さんの奥さんをご存知ですか」
「奥さんがどうかなさいましたの?」
「何かあったということではないんですが、まったく無関係というわけにはいかないんですよ。聞くところによると、きれいな人ですってね」
「ええ、とてもきれいな方ですわ」
「お会いになったことは?」
「何度かありますわ。近くなので猪川さんのお宅へ遊びに行ったことがありますから」
行方をくらます前まで、川畑のみせてくれた人事書類によると、猪川夫婦は高輪のマンションに住んでいた。従って、久子もその近くということになる。
梶谷は知っていたが、聞いてみた。
「猪川さんはどこに住んでいたんです?」
「高輪です」
「いまは、もういないわけですね?」
「会社を辞めたときに引越しなさったんですわ」
「どこへ移ったのか、お聞きになっていませんか」
「奥さんの実家の方へ移ったんじゃないかしら」
「どこです?」
「たしか名古屋の方だと聞いていますが、くわしいことは存じません」
「猪川さんご夫婦の写真をお持ちになっていませんか」
「どうなさいますの?」
その言い方で、梶谷は久子が持っていることを確信した。つくろっていうよりも、事実をあからさまにいう方がよさそうだった。久子は見かけよりも勝ち気な女のように思われた。
梶谷は税関職員に接触してきた女の一件を説明して、写真があればその職員に見てもらうつもりだといった。久子はちょっと思案してから、
「ありますけれど、いま会社にはございません」
「お宅に帰ればあるんですね?」
久子はうなずいた。
「会社が終ってからお宅へおたずねしてもいいですか」
「あら、あしたではいけませんの?」
「ぼくらの仕事はね、時として寸秒を争うことがあるんです。それに、あしたはその写真を持って朝から成田へ行きたいんです」
「でも……困ったわ」
「それじゃ、こうしましょう。お宅へ帰ってから、ここへ電話して下さい。車ですぐに参りますから、お宅の近くの路上でも、どこかご指定の場所でも構いません。そこでお借りすることにして」
梶谷は名刺を渡した。それには記者クラブの電話番号が入っている。
「わかりました」
久子は名刺を手にとっていった。
梶谷はいったん記者クラブに戻って、江波に連絡した。江波は話を聞いてから、
「よし、わかった。で、その山木の秘書は、きれいな女か」
「何ていうのかな、病的な色気というのか、男心をそそるというのか」
「きみも、そそられた口《くち》か」
「ほかにも誰かいるんですか」
「その女は山木の女なんだ」
梶谷が問いかえそうとしたとき、電話は切られていた。
梶谷は額に吹き出ている汗を拭《ぬぐ》った。久子が自宅へ訪問されることをいやがったわけがわかったような気がした。それにしても、ひどいことをいう人だ、と思った。彼はそれまで、江波に対して、同僚やキャップの中垣とは違った感情をもっていた。中垣は、江波の言い方に毒があるのは、出世が遅れた古いタイプの記者のコンプレクスのあらわれだ、とみなしており、その見方に同調するものも多かったが、梶谷はそうは思っていなかった。たしかに江波は、人の心をぐさりと刺すような言い方をすることがある。しかし、それは、江波が持っている独特の基準にそぐわないものに対する苛立《いらだ》ちの表現だ、と梶谷は考えていたのである。
その見方は間違っており、中垣のように考えるのが正しいのであろうか。
4
その日の午後四時から、記者クラブでは広報課長による警備体制の説明が行われた。
現在の、警備部長を本部長とする総合警備本部は、カーター大統領の来日する前日の二十三日から、副総監を本部長とする特別総合警備本部へ移行し、さらに二十七日からは、総監を本部長とする最高警備本部となり、三十日まで設けられる。
動員される警官は、延べ約四十万人、一日あたり、もっとも多いときは二万六千人が動員されるが、警視庁だけでは不足するので、全国から応援を求めることになっている。その数は約千五百人で、北海道警、愛知県警、九州、中国、四国、東北の各管区機動隊から各二ないし三中隊で、二十一日までに、警備車両といっしょに上京する。
宿舎は、警察学校や自衛隊を借りて分宿するが、都内での土地カンがないので、事前に迎賓館をはじめ、首相官邸、外務省、ニューオータニ、オークラなどのホテルその他の警備対象めぐりをする。
課長がひととおりの説明を終えると、記者たちから質問が出た。
「配置についているときの食事はどうなっているの?」
「それはですね、持ち場をはなれるわけにはいきませんから、出前弁当を配ってまわることになります。そのために、総合庁舎内に配食センターを作りまして、車で配ることになります」
「弁当業者に頼んで作らせるわけね?」
「そういうことになると思います。ピークのときには、二万六千人の半分つまり一万三千食を必要としますから」
「ねえ、課長、その業者の作業場にバイ菌をばらまいておくと、一万三千人の警官が食中毒を起こして、バタバタ倒れたりするかもね」
「そういうきつい冗談は困りますよ」
「いや、冗談じゃなくてね、サミット粉砕を叫んでいる過激派がいるんだから、やりかねないんじゃないかな。爆弾なんかで一万三千人を動けなくするのは大変だけど、それなら簡単だもの」
そういわれて、課長は深刻な表情で腕を組んだ。
別の記者が質問した。
「カーター大統領が皇居のまわりで日課のジョギングをしたいといっているそうだけれども、どうするの?」
「それはご勘弁願うしかないですね」
「でも、シークレット・サービスや警視庁ご自慢のSPのメンバーがいっしょに走ればいいじゃない?」
「万全を期す意味からも、やはりそれは避けていただくことになると思いますね」
「ついでに聞くけれど、シークレット・サービスは何人くらいくる予定?」
「約百人と聞いています。先発隊はきょう着いて、あした、タウンミーティングの行われる下田を下見することになっています」
「フランスの大統領警護は?」
「アメリカほど大がかりではないみたいですね」
「人数はどれくらい?」
「まだ大使館から連絡がありません。まァ、二、三十人というところでしょうね」
「それはそうと、VIP用の一台三千万円とかいう特注車はもう到着しているんでしょうね?」
「もちろん勢揃いしています」
「車の専門誌で読んだことだけれど、至近距離から自動小銃を撃ちこまれたってヘイチャラだっていうのは、本当?」
「性能については、残念ながらお教えできません」
課長はようやくにやりと笑った。
「話は別になるが、サンフランシスコの事件でその後、何か入っていませんか」
「ご遺族が現地にいらっしゃることになりまして、今夜の成田発の便に乗るそうです」
「犯人の目星はついていないの?」
「捜査はアメリカ側がやっているわけですから」
「あれは殉職扱いになるんでしょうね?」
「それは警務の方で検討していると思いますが……」
「ということは、公務中だったということなんだね?」
課長の表情がにわかに引き緊《しま》った。すぐには答えず、質問にこめられている裏の意味をさぐろうとするかのように、質問した記者をじっと見つめ、
「この前、公安部長が申上げましたように、土沢警部はサミット警備の打合せでアメリカヘ行っていたわけでありまして……」
「それはわかっていますよ。しかし、公務で出張中であっても、たとえば夜、外へ飲みに出ていたとすると、それは公務とはいえんでしょう。ところが、仕事で人と会うためにバーに行ったとすると、酒を飲んだという行為は同じでも、中身は違ってくる」
「一般的にはそうです」
「課長、一般論をいっているんじゃなくて、土沢警部の場合はどうだったかを聞いているんです」
「それはいま夏川参事官が調べておりますから、参事官が帰国すれば判明するのではないでしょうか」
「課長も国会答弁式にぬらりくらりと応対するのがうまくなってきたね。けさの中央日報に出ていたが、重大任務でサンフランシスコヘ行っていたというのは、どうなの?」
「重大かどうかは知りませんが、勝手に動きまわるということはないはずです。もっともこれは一般論としていっているのですが……」
課長はやや苦しそうだった。
中央日報の記事というのは、梶谷が知る限りでは、警視庁クラブから提稿したものではなかった。といって、松前特派員の原稿でもなかった。デスクの江波が独自の情報網から仕入れたものを記事にしたらしく、中垣も事前に知らされていなかったとみえ、
「おれは知らねえぞ」
と憤懣《ふんまん》をもらしていたのだ。
ところが、この日の夕刊各紙は、サンフランシスコに着いた夏川の話を伝えていた。夏川は、土沢がシンビオニーズ事件の資料集めのためにサンフランシスコに寄ったもので、そのことでFBIに接触したと思われる、と語っているのだ。
結果として、中央日報朝刊の「重大な任務」というのは、否定されたかたちだった。
「それみろ。いったとおりだ」
と中垣は、夕刊の早版を見ていった。
中央日報以外は、大きく扱っていた。中央日報をからかっている感じの紙面作りになっていたが、当の中央日報は、松前の同じ趣旨の原稿を申訳程度に小さく載せていた。
江波は社会部長の速水から、他紙とのくいちがいをただされていた。部長はその前に編集局長から、
「おい、どうなっているんだ?」
といわれて、返事に困ったのである。で、速水は、
「シスコの件、どうなんだい?」
と聞いた。
「どうもこうもない。夏川は嘘をついているのさ。過激派の里井の兄貴が先月下旬にシスコヘ行ったことがわかった。土沢はそれを追っかけて行ったに違いないんだ。ただ、警視庁としては手の内を知られたくないので、あんなゴマかしをいっているとみていい。むしろ問題は、土沢がアメリカで勝手に捜査したとすると、アメリカの主権を侵害したことになるわけだから、それを日米双方がどう扱うかだね」
江波の口のきき方は、職制上は上役になる相手に対するものではなかった。まるで同僚か後輩に対して喋っているかのようであった。もっとも、江波の方が速水よりも年上であり、入社した年月も先だった。また江波は誰に対しても、さほど丁寧な口はきかない。そのために出世が遅れている、という説もあるのだ。
速水は、そのことにあまりいい感情をもっていなかった。江波に丁寧な口のきき方をしてもらいたいとは思っていなかったが、他の部員たちの前で、どっちが部長かわからないような口のきき方は、慎んでもらいたかった。しかし、正面切って注文をつけることは避けていた。江波に開き直られたらかえって厄介だったし、注文をつけたところで、きいてもらえる相手でもなかった。速水としては、機会を見て、江波をほかの部へ移すことを考えていた。
「過激派がアメリカに行ったというのは確かなのかね?」
と速水は聞いた。
「過激派の兄貴だよ」
「そいつも同じ仲間なんだろう?」
「同じ仲間ではなかったが、サミットが原因でそうなった可能性もある」
「サミットが原因というのは、どういうことなんだい?」
「それは……」
江波はちょっと考えてから、説明した。そして、
「警視庁の事前チェックはあきらかに限度を越えていると思うな。猪川の場合にしたって、人権侵害だよ。一度、そういう事例を集めて特集しようと考えているんだ」
「それもいいが、タイミングを考える必要があるね。それより、猪川がアメリカヘ行った一件は、記事にするのかね?」
「夏川という参事官の動きを見てからだな。夏川がすぐに日本に戻ってくるようなら、大したことはない。土沢を公務中の死亡にするかどうかも、すぐに決るだろう。でも、警視庁はジレンマに陥っているんだよ。夜の十時ごろ外から電話をかけていた行為が公務ということになれば、土沢は日本の司法権のないサンフランシスコで捜査つまり日本の公権力を行使していたことになる。ある意味では、そういう厄介な問題があったから、参事官がアメリカヘ飛んで行ったに違いないんだ。そうでなければ、遺体の引取りくらいの仕事なら、総領事館かワシントンの大使館に一任していいことなんだ」
「なるほど、そうかもしれん」
速水はいった。理由のない、いまいましさを感じていた。
そのとき、警視庁記者クラブとの直通電話が鳴った。
江波は取り上げた。梶谷からだった。
「いま連絡がありまして、猪川夫婦の写真を借りられることになりました。これから出かけます」
「写真が手に入ったら、あしたの朝、成田へ行ってくれ。信原という通信部の記者と協力して、税関の職員を見つけて、鑑定してもらうんだ」
「そのつもりでした」
梶谷の口調は挑戦的だった。
江波は微笑をうかべて電話を切った。
夏川と張田は、ホテルのレストランで夕食をとったのち、八時すぎに部屋に戻った。部屋は隣り合せて取ってあった。
「仕度は?」
と張田が廊下を歩きながらたずねた。
「すぐできるよ。飛行場まで、どれくらいかかる?」
「三十分もみておけばいいだろう。さっき調べたら、ワシントン行は、二十二時十分、三十分、四十五分、五十分と四便あるんだ。あっちに着くのは一番早いアメリカン航空の36便で五時五十九分、最後のTWAの14便で六時四十一分となっていた。あまり早く着いても困るから、最後の便がいいんじゃないかな」
「それはそうだね。じゃ、余裕をみて九時半にホテルを出ることにしようか」
「そうだね」
「それにしても、うるさくつきまとっていた新聞記者連中が急にいなくなって、何だかほっとしたよ。これでワシントンヘ何をしに行くのかと問いつめられると困るところだった」
と夏川はいった。
ワシントン行は、この日、月曜日の夕刻に東京とも連絡した上で決定したことであった。
FBIからの連絡をうけたシークレット・サービスは、スナイパーG3−78を持ったマリオ・ロドリゲスの失踪《しつそう》を重視し、大統領の滞日中の護衛計画を再検討することにして、日本側の出席を求めてきたのである。ワシントン大使館は本省に報告し、本省は警察庁、警視庁とも協議して、張田と夏川に出席するように訓令してきた。これには、FBIからカールトン主任捜査官も出るはずであった。
夏川としては、なぜワシントンに行くことになったかを問いつめられると、嘘をつかねばならなかった。
むろん必要があっての嘘であった。しかし嘘をつかずにすめば、それにこしたことはないのである。
張田がいった。
「さっき六時のテレビニュースで知ったんだが、ジョン・ウェインが死んだので、そのために、連中はロサンゼルスに飛んだらしい」
「ジョン・ウェインというと、西部劇のジョン・ウェインか」
「そうだ。西部の男もガンには勝てず、というわけだ。ロスのカリフォルニア大学病院できょうの夕方ついに亡くなったそうだ」
「ジョン・ウェインがねえ」
夏川は、何本か見たことのある映画を思い出した。
彼が見た映画の中で、もっとも印象に残っている場面は、「駅馬車」の一シーンだった。
あばずれの酒場の女が、食事のときに、名門夫人と差別される。リンゴー・キッドはそのことに怒り、席を蹴って立ち上りかける。するとあばずれ女が、
「やめて」
というふうにリンゴーを押しとどめる。そのとき「金髪のジェニー」のメロディが流れているのだ。
「ジョン・ウェインのおかげだよ。じゃ」
張田はそういって、自分の部屋に入って行った。
夏川は、下着類を旅行ケースに詰め、髭をそってからタバコに火をつけた。
不意にドアがノックされた。
「張田だ。ちょっとあけてくれ」
緊張した声だった。
夏川はドアをあけた。
「どうした?」
「食事している間にカールトンから連絡が入っていた。こっちから電話したところ、猪川の足どりがつかめたそうだ」
張田は手に紙片を持っていた。
「どこにいるんだ?」
「サンフランシスコからホノルルに行っていたらしい。ホノルル発十一時のパンナム1便できょう日本へ向ったことがわかったそうだ」
夏川は反射的に時計を見た。午後八時五十分だった。
時差がどうなっているか、とっさのうちにはわからなかった。張田は、
「東京へ到着するのは、あしたの十三時五十五分だそうだ」
「じゃ、間に合うね」
「いや、そうはいかない。いまここは九時少し前だが、日本時間では……午後二時前、つまりあしたの午後二時前になっているんだ」
「すぐ部長へ電話しよう。何とか間に合うかもしれない」
夏川は、張田に公安部長の卓上にある直通電話の番号を教えた。彼の英語より張田の英語の方がたしかであった。
5
梶谷は朝九時に出社して自動車課へ行き、伝票を出した。配車デスクは成田行だとわかると、ラジオ・カーを出した。運転手は社員の森山である。梶谷は車にのりこむと、
「森ちゃん、成田の通信部までどれくらいかかるだろう?」
「そうだねえ。小松川の混《こ》みぐあいがどの程度か……雨も降っていることだし、かかりそうだよ」
「じゃ、着くまで眠らしてもらうかな。ゆうべほとんど眠っていないんだ」
「マージャンかい?」
「いや、サミット関係でね」
「いいとも。着いたら起こしてあげるよ」
梶谷は目をとじた。森山にいったことは嘘だった。成田までの二時間を森山を相手に駄弁《だべ》るのがおっくうだった。それより、彼は前夜の出来事について、思いをめぐらしていたかった。まさか、あんなことになるとは夢にも思っていなかったのだ。人と人との出逢いの不思議さというふうなものを、梶谷は感じないではいられなかった。
記者クラブで久子からの電話を受けたとき、梶谷は何かしら快い戦慄《せんりつ》が全身を貫いて走るのを感じた。
久子は、アルバムを捜すのに手間どったので遅くなってすみませんでした、といった。
「いや、面倒なことをお願いして、こちらこそ申訳ないと思っているんです。どこへでも、ご指定の所に参りますから……どちらへ行けばよろしいですか」
「どこでもいいようなものですけれど……」
久子はものうげな調子で呟いてから、
「どこかホテルのラウンジとか、そんなところにしましょうか」
「結構です。どこのホテルにしましょうか」
「じゃ、ニューオータニにして下さいます? あそこの本館と新館を結ぶ回廊のわきにガーデン・ラウンジがありますわね」
「ええ、何時にします?」
「八時に」
と久子はいった。
梶谷はその時刻の五分前に行った。かなり広いのだが、席はほとんどうまっていた。
入口の横の椅子で待っていると、久子がやってきた。昼間とは違った黒っぽいデシンのドレスで、アルバムを入れた紙袋をさげていた。
「混んでますのね」
「上へ行きましょうか。もしよかったら食事でもどうです?」
どちらでも、というふうに久子はうなずいた。
二人は最上階へ上り、迎賓館に面したレストランに入った。窓ぎわの、二人用テーブルがあいていた。
ウエイターがきて、メニューとワインリストを差し出した。梶谷がワインを注文しようとすると、久子はウィスキーのダブルを水割りで下さい、といった。梶谷も同じものを注文し、それからステーキを頼んだ。久子はオードブルとスープだけでいいわ、と給仕にいい、
「あまり食欲がないんです」
と申訳なさそうに梶谷にいった。
「何か悩み事でもあるんですか」
「別に」
久子は外を向いた。眼下を高速道路が走っており、迎賓館側の車線に工事車がとまって、工事中だった。
「あんなところを工事してますのね」
「あれは、サミットのために、特別にあそこに出入口を作っているんですよ。迎賓館に入ったり、あるいはこのホテルに泊ったりする首脳の車を、外苑や霞が関ランプで下ろしていると、沿道の警備が大変なので、ちょうど一般道路と高さが同じになるあの場所に、特設するわけです」
「じゃ、うちの会社の横は通らないのかしら?」
「羽田から宿舎まで車で行く場合には、あそこは通らんはずですね。それに天気さえよければ、車を使わずにヘリコプターの予定だから」
「それなのに、どうして猪川さんのことで社長に圧力をかけたのかしら。ひどい話だわ」
梶谷には答えようがなかった。彼は、くろぐろとした夜景に沈んでいるネオバロック調のいかめしい建物を眺めた。
「猪川さんがかわいそうだわ。それにあの人もいけないのね」
あの人というのは、山木のことだろうか、と梶谷は思った。
「山木社長がもっとうまくやっていればよかったということですか」
「ええ」
久子は外を眺めたまま呟いた。何かに思いをとられているのか、|あの人《ヽヽヽ》が山木であることを肯定したことに、気づいていない様子だった。
梶谷はかすかに痛みを感じた。
江波は、久子が山木の女だ、といった。それはもはや動かしようのない現実となって、梶谷を圧《お》し潰すかのようにのしかかってきていた。梶谷は、その勢いに負けてたまるか、と自分にいい聞かせた。
山木と久子がどのような事情で結ばれたかは、わからない。しかし、二人の関係が久子にとって幸福なものだとは考えられなかった。むしろ、その結びつきが久子を苦しめ、不幸にしているに違いなかった。
「山木さんという人は、悪い人なんだ」
と梶谷はいった。
久子が、びっくりしたように彼を見た。
「そうとも。きっと悪い人なんだ」
久子は黙っていた。梶谷は目をそらして迎賓館を眺めた。なぜならきみを不幸にしているからね、といいたかったが、別のことをいった。
「猪川という人の気持が、わからないでもない。そりゃ、弟は過激派かもしれない。でも、兄弟だからといって、じっさいには無関係の暮しをしていた。それなのに、平和な生活をぶちこわされてしまったんだ。要するに何か理不尽な力によって、ねじまげられたんだ。地位とか権力とか金の力とか、そういったこの世の中の一切の理不尽な力が、人間を不幸にしているんだ」
きみが山木という社長の理不尽な力によって不幸にされているようにね、と彼は心の中でつけ加えていた。
久子がうるんだ目で梶谷を見た。もしかすると、彼の内部の声を若い女の敏感さで聞きとったのかもしれなかった。梶谷は追い立てられ、何か喋らずにはいられなかった。
「猪川という人は、ラジコンが上手なんだってね。ぼくが彼のような状態に置かれたら、その怒りをラジコン機にこめて標的にぶつけたくなるかもしれないな。自分をめちゃめちゃにした標的に……」
おれは、支離滅裂なことを口走っている、と梶谷は思った。不意にむしょうに羞かしくなり、グラスを一息にほした。
「今夜、わたしを抱いて下さる?」
と久子がいった。
梶谷は不意を打たれた。めくるめくようなものが平手打ちのように彼を見舞った。しかし、次の瞬間、彼は立ち上っていた。そして久子も立ち上ったのだ。
梶谷は目をとじたまま、久子の甘ずっぱいような肌の匂いを思いかえしていた。彼が久子の躰《からだ》に入ろうとしたときの、
「後悔なさらない?」
という囁《ささや》きが、いまなお耳底に残っているようであった。
後悔など、するものか、とあらためて自分にいったとき、梶谷は森山の声で、いっきょに現実に引き戻された。
「梶さん、そろそろ着くよ」
梶谷は目を開いた。成田の料金所だった。
「混んでいたね」
「二時間半かかったよ」
梶谷は前夜、別れぎわに久子から受取った写真をとり出した。税関職員が誰であるかをつきとめるには、通信部の信原の力を借りなければならなかった。
車は市街に入り、市役所の近くにある通信部の古ぼけた建物に横付けになった。
信原は、その職員が誰かを教えてもらうのに苦心した、といった。幸い、親しくしている刑事がいて、職員と正体不明の美人が接触した飲み屋の名前をひそかに洩らしてくれたので、その女将《おかみ》から聞くことができたし、場合によっては、彼女も客商売特有の記憶力のよさで、女の顔を覚えているかもしれないというのである。
「そりゃ、よくやりましたね。それなら飲み屋の方へも案内していただけますね」
「ええ、そっちを先にしましょう。税関の人は、きょうは午後三時からの勤務だそうですから」
信原はそういって、車に乗りこんだ。
その飲み屋は、山門通りからちょっと小路を入ったところにある「千登世」という店だった。カウンター式で、奥に小部屋がある。女将は、起きたばかりというふきげんな顔だったが、梶谷の話を聞くと、にわかに興味をもったようだった。
梶谷が久子のアルバムから借りた写真は四枚だった。一枚は猪川の妻が独りで写っているもの、二枚は猪川と並んでいるもの、四枚目が久子をまじえた三人で写っているものだった。
独りで写っている写真でじゅうぶんだと思われたが、念のために彼は、四枚目を別にして、三枚を見せた。女将はしげしげと眺め、
「きれいな人ねえ、でも、違うような気がするのよ」
「どういうふうに違います?」
「あの晩、税関の宮野さんに何か話しかけた女性は、もうちょっと、何ていうのかな、不健康な感じっていうのかしら」
「バーのホステスふう?」
「感じはそうでも、服はそうじゃないのね。この前やってきた警察の人にもいったんだけれど、Gパンにひっつめ髪で一見、女闘士ふうのかっこうなのに、それがそぐわなくてね。お化粧して、付下げでも着させて銀座に出したら、皆さん方がコロリと参っちゃう感じよ。もっとも、この女性もいいけど、こっちはヤング向きね」
「警察の人というのは、県警本部の人?」
「ここの刑事さんといっしょに、東京の警視庁の人がきたわよ」
「いつごろ?」
「先週ね」
「やっぱり警視庁もマークしたんですな」
と信原がいった。
「そっちの写真は?」
女将が四枚目を手にとってみた。ちょっと首をかしげて黙りこんだ。
「行きましょうか」
信原が声をかけて立ち上った。梶谷は写真をしまいこみ、礼をいって外へ出た。猪川夫人ではないらしいとわかったが、警視庁がマークしたことをつかんだのは、一つの収穫といえた。
二人は通信部に戻り、森山をまじえて、事務所で出前の寿司をとった。
「違うとすると、やはり密輸組織の女かもしれないですな」
と信原がいった。梶谷は、
「ここの警察では、どういっていますか」
「女はアメリカからくる乗客の荷物をパスさせてくれといったわけですね。だから中身はピストルじゃないかっていうんですよ。これが東南アジアからの便なら、宝石や覚醒剤でしょうがね。ピストルを欲しがっている暴力団の線を想定しているようです」
それはあるまい、と梶谷は思った。なぜならピストルの密輸に百万円の謝礼は高すぎるのである。何か別な物ではないのか。しかし、それが何かは見当がつかなかった。
二時すぎになってから、二人は空港へ行った。宮野という税関職員の勤務が三時からなら、その前に、控室で取材しておきたかった。
車が空港の駐車場に入ったとき、梅雨空に爆音を響かせて二機のヘリコプターが頭上をかすめるように通過し、到着ウイングの方へ下りはじめた。
「梶さん、あれは、警視庁のヘリじゃないかね」
と森山がいった。
たしかにそうであった。梶谷は前部のシートにまわりこみ、無線マイクをとりあげて、東京本社を呼び出した。だが、距離が遠すぎるのか、スピーカーは、雑音を発するばかりだった。
この時刻、つまり六月十二日火曜日の午後二時三十分ごろは、サンフランシスコの現地時間では、六月十一日月曜日の午後九時三十分である。
ワシントンの東部時間では十二日の午前零時三十分で、ホワイトハウスではカーター大統領が、十六日からウィーンではじまるソビエト共産党書記長ブレジネフとの会談に備えて、補佐官を相手に討論をしており、ロンドンでは午前五時、パリは同六時、サッチャー首相、ジスカールデスタン大統領はいずれもベッドの中であった。
そして、中央日報では社会部次長の江波が、外信部次長の工藤と、なぜ松前記者をシスコからロスヘ帰らせたのかを論争しており、久子は休みをとってマンションのベッドに横たわったまま、ぼんやりと梅雨空を眺めていた。
これより一時間三十分前の午後一時すぎ、かれらのこれからの運命に重大な影響を与える人物が、日本の土を踏んでいた。サンフランシスコのゲイクラブで、いまなおFBI捜査官の監視をうけながらシェーカーを振っているグエンに、ブラッドと名のった男である。
ブラッドは六月九日午前八時三十分に、ホノルル空港をPX50便で出発した。行先が行先だけに、乗客の数は、707ジェットの定員百四十人の半分にもみたなかった。空港での荷物の検査も、あっさりしたもので、機内持込みの手荷物については、型通りのX線透視が行われたが、航空会社のチェックイン・カウンターで受付ける託送荷物や旅行トランクについては、蓋を開けてみせるだけだった。ゴルフバッグもヘッド部分のカバーをあけて見ただけで、一本一本取り出して調べはしなかった。
チェックインのさいの荷物検査の目的は、要するに、ハイジャックの防止である。座席内に持込む荷物以外は、一括して機体下部の荷物室に運びこまれるので、とくにきびしくする必要もないわけである。
PX50便は、暦の上では、翌十日の午後一時に、南西太平洋に位置しているパプア・ニューギニア国の首都であるポートモレスビイのジャクソン空港に到着した。ずいぶんと長い時間を飛んだようだが、途中で日付変更線をこえているためで、じっさいは八時間半の空の旅である。
ブラッドは、機内でスチュワーデスから教えてもらったダバラ・ホテルに入った。エラ・ビーチに面したエア・コンつきの二階の一室に入ると、目の前にサンゴ礁をつらねた静かな湾がひろがっていた。料金は四十キナ、約五十ドルである。
ブラッドはバスを使ってから、夕方までぐっすり眠った。
それから彼はホテル内のみやげ物店へ行き、高さ六十センチほどの木彫りの民芸品をいくつか買いこんだ。原住民が作った手彫りの品はさけ、大量生産で作られたらしいトーテムポールふうの品を選んだ。
レストランで、カンガルーのスープ、酢油に漬けてやわらかくしたワニのヒレ・ステーキを注文し、ブラウニーというローカルビールを飲みながら食べた。ワニ肉のステーキは、酢が少し残っていて、あまりおいしくなかったが、食後に出たコーヒーは、|こく《ヽヽ》のあるおいしいものだった。
ブラッドはコーヒーのお代りを注文して飲み、それから部屋に戻った。
念のために鍵をかけると、彼はゴルフバッグからパターをとり出し、グリップとヘッド部分をはずした。そして照星の部分をつかんでシャフトをひっぱると、G3−78の銃身が出てきた。
グエンがFBIの手に落ちたからには、ゴルフのパターに隠して持込むことは危険だった。ゴルフ道具はマークされるに決っていた。ただ、カメラに隠した部品は、手をつけるわけにはいかなかった。日本人はカメラ狂だから、海外へ出るもので、カメラを持たない人はいない。税関でのチェックも、ゴルフのパターに重点が置かれると考えてよかった。
ブラッドは、メジャーを出して、銃身の長さを計測した。五十一センチだった。
つぎに彼は、民芸品の高さを計測した。六十三センチだった。厚さ横幅とも、銃身を包みこむだけの十分な余裕があった。
サンフランシスコで買っておいた携帯用の工作用具を使い、ブラッドは、木彫りの民芸品を中央から二つに割った。台座の方から工作ナイフを突き立て、ハンマーで叩くと、乾いた音を立てて二つに割れる。最初の二つは、木質が堅すぎたのと途中に節目があったせいで、ねじ曲って割れたが、三つ目で、期待したように、ほぼまっすぐに割れた。
ブラッドはドリルとノミを使い、銃身がおさまるようにくりぬいた。銃身をはめこみ、空間にびっしりとティッシュペイパーをつめて、音が立たないようにしてから、二つを合せてみた。
ぴったりと一致した。ブラッドは微笑した。これで完全だと思った。
翌朝、彼はハーツのレンタカーを借り、市の中央にあるエア・ニューギニア・ハウスヘ行った。十一階建ての高層ビルである。そこで、十二日のPX11便の確認をすませてから、こんどはトラベル・ロッジヘ行き、ガイドマップを貰った。
マーケットでパイナップルを買ったのち、ブラッドは、地図を頼りに、ヒューバート・モーレイ・ハイウェイを進み、ラロキ川に沿ってスタンレー山脈の麓からやや上ったところにあるロウナ・ホテルに着いた。そこでロウナ滝を眺めながら昼食をすませ、パリタラ国立公園の展望台へ車を走らせた。
海抜高度が高いために、風もあり、いくらか涼しくなった。見物客もほとんどいない。
ブラッドは、トランクからライフルを入れた楽器ケースをとり出した。靴をぬいで踵《かかと》をねじると、綿にくるんだ特殊被甲弾が三発入っていた。両足で六発である。
ブラッドは六発全部をポケットに入れた。もう一足の靴にやはり六発入っている。この六発は試射用だった。
彼はジャンパーのポケットに弾を放りこんでから、パイナップルの包みとケースを抱えて、樹木の枝がかぶさっている遊歩道を上へと進んだ。そして大きな岩山を見つけると、ヤブ蚊が舞っている樹林をぬけてその上によじ登り、二個のパイナップルを並べて小石で固定した。
遊歩道に戻ってからそのまま歩測しつつ上り、約五百六十メートルの地点に達した。彼にこの仕事を依頼した組織から渡された、東京の二千五百分の一の地図で計測したところによると、迎賓館のバルコニイまでは、射撃想定地からは五百六十メートルあったのだ。
ヤブ蚊にくわれながらブラッドは遊歩道から岩山にわけ入り、ケースから双眼鏡を出して、パイナップルを置いた岩山を見た。途中の木の枝が邪魔にならない地点を見つけ、ケースを開いてライフルを組立てた。グエンの仕事は申分なかった。一分足らずでスナイパーG3−78は、精悍《せいかん》でしなやかな姿をとりもどした。
ブラッドは六発全部を装填した。
計算上では、重さ九・七グラムの七・六二ミリ口径の標準的な大口径アーミー・ライフルの弾は秒速二メートルの微風を横からうけると、射程距離百メートルで一センチ、五百メートルでは三十四センチの弾着偏差をうけるのである。
ブラッドが手にしているG3の改良型は、口径が七・九二ミリとやや大きく、弾は九グラムと軽い。横風の影響はもっと大きいはずだが、弾速が速いので、影響もマイナスされる。ただ、弾着地点の横風は、計算よりも強いようだった。
ブラッドは望遠照準器《テレスコープサイト》をとりつけてから、標的にしたパイナップルをのぞいてみた。いつぞや、試射したときのように、じゅうぶんな射撃姿勢をとった上、風の強さまで計測するわけにはいかなかった。じっさい、この銃を次に使うときも、同じように不利な条件の下に置かれるだろう。
第一発は、無修整のままで撃った。弾は、予期したより右下へそれて、岩肌をえぐり飛ばした。
風速は体感で約四メートルだった。六十八センチの影響をうけていることになる。
東京における射撃想定地点は、地上約百二十メートルの高さからだった。たえず、三、四メートルの風が吹いているものと考えるべきである。ただ、六月下旬の東京は雨季であり、風の吹く日は少いというが、地上百二十メートルの自然風はさけることはできないはずだった。
ブラッドは、四発を使って修整し、最後の一発で、まだ命中させていないパイナップルを狙った。
息をとめ、引金をひいた。弾はどまん中に命中した。
ブラッドはホテルに戻る途中で、割れた民芸品や木屑といっしょにゴルフバッグをすてた。部屋にこもり、木彫りの民芸品の中に銃身をはめこみ、接着剤で固定した。台座の部分の塗りが少し剥げたが、コーヒーブラウンの靴墨をぬりつけると、わからなくなった。
銃筒部分は、グエンの改造したままカメラに仕込むしかなかった。それらの全てを、ホテルの売店で買い足した雑多なみやげ物といっしょに旅行トランクに詰めこみ、鍵をかけた。
その夜はワニ肉のステーキは敬遠し、ボロコ街にある中華レストランでショウを見ながら中華料理をとり、九時すぎにはホテルに戻った。
翌朝、ブラッドは六時に起き、七時三十分発のPX11便に乗った。日本の鹿児島空港に、毎週火曜日に一便だけ乗り入れているのである。七月からは木曜日になるはずだった。
鹿児島に着いたのは、定刻の午後一時を少しすぎていた。ポートモレスビイを出るときには、機内持込みの手荷物については、世界じゅうどこでも行われているように、X線透視の検査はあったが、託送荷物については、トランクをあけることさえも要求されなかった。
ブラッドは、飛行機がとまると、ゆっくりと立ち上った。
入国審査の係官は、あまり上手ではない英語で、
「イギリス人ですね? 観光ですか」
と聞いた。
じじつ、ホノルルから使っている彼の旅券はそうなっているのだ。
「そうです」
係官はスタンプを捺《お》し、入国許可のサインをした。
ブラッドは旅券を返してもらい、バッゲイジ・ルームで託送荷物の出てくるのを待った。間もなくベルトに乗ってトランクが出てきた。税関の職員は、トランクをあけさせ、中を調べたが、何もいわなかった。
ブラッドは鍵をかけ、ロビイヘ通ずる扉の方へ歩きはじめた。
「ウエイタ・モメント・プリーズ」
と係官がいった。
6
夏川と張田は、ホテルにたずねてきたカールトンと会った。カールトンも旅仕度であった。
「猪川を成田でキャッチすることができましたか」
とカールトンはいった。張田は、
「わかりません。ここから警視庁へ電話が通じたのは、日本時間で午後二時ごろでした。ちょうどパンナム1便が成田に着いたころなんです。すぐに成田の警官詰所に連絡する一方、ヘリコプターをとばして、過激派の専従捜査員を送りました。成田までは、二十分か二十五分で行くはずですが、間に合ったかどうか」
「パンナムが予定よりも早く着いたか、遅れたかが、勝負の分れ目というところですね」
「そう思います。わたしたちが、もう少し早く食事をすませて戻っていればよかったのですが……」
「それは、あなた方の責任ではありません。われわれも、彼の動きをもっと早くキャッチできていればよかったのだが、サンフランシスコ発の国際線にばかり注意を向けていたのが失敗だった」
「猪川は、いつハワイに行ったのです?」
「彼は、JALの航空券を、ホノルルまでのウエスタン航空の571便と、ホノルルからのパンナムの便にエンドースして、土曜日の朝十時にここを出発していたんですね」
「それじゃ、わからなかったとしても仕方のないことです。航空券ナンバーをお教えしたのが、日曜日なんですから」
「そういって下さるとありがたい」
カールトンは微笑した。夏川は張田の通訳で質問した。
「その後、マリオについて何かわかったことはありませんか」
「免許証の線からは、残念ながらどうも芳しくないのです。わが国は、日本とは違い、免許証を簡単に発行する州が多いのです。ネバダ州の係官も五年も前のことなので、まったく記憶していないのですが、一つだけ、手がかりがありました」
「何です?」
「金曜日の夜、つまり土沢氏が撃たれた夜です。午後十一時五十分サンフランシスコ発の中華航空、これはホノルル、ハネダ経由のタイペイ行ですが、この001便の乗客名簿にマリオ・ロドリゲスという名前があったのです」
「すると、マリオはすでに日本に……」
「いや、マリオはホノルルまでしか乗っていません。そのあと、ホノルルから日本へ向けて出発した全フライトの名簿を、いまチェックするように指示してありますが、なにしろ日本行の旅客はひじょうに数が多い。少し時間がかかるかもしれないですね」
「マリオに対して、パスポートは出ていますか」
「それはわかりません」
「しかし、マリオが日本へ向ったのは、ほぼ確実とみていいようですね。さっそく、日本へ手配しておきましょう」
張田は、その場で総領事へ電話をかけ、日本への報告を依頼した。
それから三人はホテルを出て、カールトンの部下の運転する車で空港へ行った。ワシントン行のTWA14便に乗って、到着したのは翌朝の六時四十分だった。
夏川と張田は、カールトンと別れて、タクシーで張田の家へ行き、朝食をとった。
「打合せは十時からだ。少し横になって休んだら?」
と張田がすすめた。
「いや、機内で少しうとうとしたよ。それより、いま日本は何時ごろだろう?」
「夜の十時ごろだね」
張田は時計を見て答えてから、夏川の胸中を察して、
「成田で間に合ったかどうか、問合せてみるかい?」
「部長は、帰宅したかもしれないが、誰かいるはずだ」
夏川は公安一課長の直通電話へかけた。そして、パンナム機が予定よりも三十分早く成田に到着し、警官がかけつけたときには、乗客の一部はすでに税関検査もすませて外へ出てしまっていたことがわかった。
猪川の入国記録は残っていた。
税関の職員は、これといって不審な荷物をもった日本人旅客はいなかった、と一致していった。ただし、全ての旅客の荷物に対してX線検査が行われたわけではなかった。
夏川と張田は、十時からシークレット・サービスの幹部とFBIのカールトンらをまじえて話合い、大統領警護計画について、すでに丸目警視が決めた内容を再検討することになった。
シークレット・サービスは、グエンの改造したスナイパーG3の最新型を持ったブラッドの存在を、軽視すべきではないという主張だった。
カーター大統領は、他の国の首脳と違い、滞日期間が長いのである。
また、夫人と令嬢を同伴しており、彼女たちは、別行動をとって、関西地方へ行くことも計画されている。それだけ、暗殺を狙うものにとっては接触するチャンス、大統領にとっては危険が多いわけだった。
護衛官の一人はいった。
「新幹線の窓ガラスは防弾ガラスになっていますか。なっていない、とわたしたちは聞いています。それがどんなに危険なことか、おわかりですか。G3−78は千メートル先からでも人を殺せる威力をもっているんです」
別の護衛官が、東京−京都間五百十三キロの沿線をすべてカバーするのは、日本の警官をもってしても不可能だといった。
夏川らは一言もなかった。結局、皇族用の特別車両を連結するしか、飛来する弾丸を防ぐ方法はなかった。だが、それを即答できる権限は夏川には与えられていない。東京と連絡した上で返事をすることになる。
他の問題もすべて同じだった。スナイパーG3−78のもっている高性能が、それまでの警護計画を根本からかえさせることになった。
協議は数日間にわたった。その間に、シークレット・サービスの大半は、十四日早朝ウィーンヘ出発した大統領に同行し、協議する顔ぶれが一部かわった。
ようやく再検討された計画ができたのは、十七日の昼すぎだった。
張田の話によると、大使館には、新聞各社の特派員から、夏川の所在について執拗に問合せがきているという。
「まさか、ぼくのところに泊っているとは思わなくて、主だったホテルに電話した記者もいるらしいよ」
「何だって、そんなに熱心なのかねえ」
「それをやったのは、中央日報の特派員なんだが、あそこがもっとも張切っているみたいだ」
「何か事あれかし、と願っているみたいじゃないか」
夏川はいささかうんざりしていった。
十八日の朝、夏川はワシントンを出発して日本へ向った。ニューヨークでJALにのりかえ、アンカレジ経由で、十九日の夕刻には成田に着く。
アンカレジでは、一時間ほど燃料補給の時間がある。
夏川は、ファースト・クラス用のサクラ・ラウンジに入り、ウィスキーの薄い水割りを作って飲んだ。
それから彼は、新聞を手にとった。日本の新聞を目にするのは、久しぶりだった。
新聞は各紙が十七日の朝刊まで揃えられていた。夏川は、日付順にめくっているうちに、十七日付けの社会面を見て、思わずどきっとした。
それは十六日の深夜に高速道路で起きた交通事故を伝えている記事だった。もっとも、事故としているのは、五紙のうち三紙で、二紙は、殺人事件として扱っていた。進行中の乗用車にラジコン飛行機がぶつかり、そのために運転者がハンドル操作に失敗して、センターゾーンをのりこえ、対向車線をきたトラックにぶつかったというのである。
トラックの運転手は、軽傷ですんだが、乗用車を運転していた山木治彦は即死だった。
山木は、ビルの清掃管理会社の社長をしており、ふだんは会社の車に乗っているのだが、この日は、自家用の車を運転して、ゴルフ場へ行き、その帰りだった。
ラジコン飛行機がぶつかったとわかったのは、その残骸《ざんがい》が現場に残っていたせいだった。ラジコンは日本製の市販品である。
偶然なのか故意なのかは、記事が書かれた時点では、はっきりしないらしかったが、二紙とも、計画的作為的なものであるという見方をとっていた。
二紙のうち、一紙は中央日報だった。
中央日報の記事が、もう一つの新聞と決定的に異なっているのは、T・Iというローマ字のイニシャルを使って、退職させられた社員の犯行であることを匂わしている点だった。T・Iは五月中旬に解雇されて以来、行方をくらましている。
すぐに一時間たってしまい、夏川は飛行機に戻った。
離陸すると、スチュワーデスが新聞を配って歩いた。やはり十七日付けだったが、夏川はそれをもらい、もう一度丹念に読んだ。
T・Iというのが猪川達志であることは、いうまでもなかった。
梶谷という若い記者が、猪川の弟の里井のことを夏川のところへ聞きにきたのは、五月の末だった。
梶谷はヒントをあたえられて赤坂署へ行き、それから山木の会社を辞めた猪川のことを知ったのかもしれない、と思った。記事がいうように、解雇された猪川が山木を恨むことはたしかにありうるのだった。
梶谷は久子から激しく罵倒された。猪川が山木を殺したのかもしれないという記事は、間違っているというのである。
「あんなことを書くなんて、ひどいわ。絶対に間違っているわ。どうしてあんなことを書いたの」
と久子は泣きじゃくるようにいった。
書いたのは、梶谷ではなかったが、弁解したくはなかった。
「でもね、警察がそういう見方をしているんだよ」
「そうだとすれば、原因を作ったのは、警察じゃないの」
梶谷は沈黙した。返事のしようがなかった。久子は、
「それに猪川さんは、あの人のことを少しも恨んでいなかったわ。それは猪川さんもいっていたことだし、いままでよくしてもらってありがたかったと感謝していたくらいですもの」
「そのときは、そうだったかもしれない。しかし、山木という人は、過去に、世間の人の知らない一面をもっていたんだよ」
「世間の知らない一面?」
と久子が鋭くいった。
梶谷は、口に出したことを後悔した。
「どういうこと?」
久子はなおも追及した。
「そんなことより、どうしてきみが怒るのか、ぼくにはわからないな。きみは山木という人を愛していたのか。いまでも、愛しているのか。山木なんか、死ねばいいといったのは嘘だったのか」
梶谷は激情にかり立てられていった。いうべきではなかったとしても、いわずにはいられなかった。山木は妻子がありながら、秘書の久子を自由にしてしまったのである。芸者やバーのホステスを相手に浮気するのとは、わけが違うのだ。それも、社員旅行のさいに、酔った久子を奪ったのだという。
それは、よくあることなのかもしれなかった。だが、よくあることだからといって、許さるべき行為ではなかった。その上、彼は、久子との関係をその後も保っていた。それは、みずからを恥じていないことでもあるのだ。
「わたしがあの人をどう思っていたか、あなたに関係のないことだわ」
と久子が肩をふるわしていった。
「関係があるなしの問題じゃない。第一、ぼくは、きみの過去をあれこれいっているんじゃない。ぼくは、ぼくが出逢ったときのきみに心を惹《ひ》かれ、きみを愛したんだ」
「聞きたくないわ」
久子は叫ぶようにいい、それでいながら梶谷の膝に躰を投げ出して嗚咽《おえつ》をもらした。
夏川は、公安部の丸目警視の出迎えをうけた。
「どうもお疲れさまでした。部長も本庁で待っておられるはずです」
「こんなに長くなるとは思わなかったよ。あっちに行っている間に、いろいろあったようだな」
「車の中でお話しします」
と丸目はいった。
車が走り出すと、夏川は、
「機内の新聞で見たんだが、山木という人の件はどうなった?」
「管轄が神奈川県警ですから、一応はそっちでやっていますが、きょうの連絡会議で、合同捜査ということに決りました。サミット関係の特殊事件ということで、特命幕僚で扱うようにいわれています」
特命幕僚は、公安部長または刑事部長が幕僚長となり、公安部参事官以下第一課長、理事官、警備部第二課長、刑事部捜査一課長らによって構成される。動員される刑事は、公安部が主になるはずである。いいかえれば、じっさいに指揮をとるのは、夏川になるわけだった。
「ということは、サミット粉砕を叫んでいる連中が、予行演習でやった、という見方が多いわけだね」
「そうです」
「そう断定するのは、早いんじゃないかな」
と夏川は感じたままをいった。機内で考え続けたのだが、猪川が犯人である可能性は、さほど多いようには思わなかったのである。
「じつは、新聞社に電話がありまして、自分たちがやったのだ、というわけです。反東京サミット人民戦線と名のっていますが……」
「新しいグループだね」
「そうです。これまでの情報にはなかった名称です」
「で、猪川というのは、どうなった? 見つかったかね?」
「まだです。せっかく連絡していただいたのに、間一髪というところで、もぐりこまれてしまいました。あの数日間は、上空が安定していて、偏西風の力が弱く、みんな予定よりも早く到着していたようです」
「猪川がそのグループに入っている形跡はあるのか」
「わかりません。しかし、まったく姿を現わしていないですから」
「奥さんがいたね?」
「夫婦ともどもです。それから、あとでわかったのですが、二人は、山木の会社を退職したあと、いったん奥さんの実家に行ったようです」
「ラジコンのマニアを調べてみたかね?」
「それがですね、ラジコンのマニアというのは、思いのほか多いのです。全国で百万人、東京はその一割とみても、十万人はいるだろうというんですよ」
「ふうん、十万人か」
夏川は唸った。とうてい少い捜査員でマークできるものではなかった。
「それから、連絡のありましたマリオ・ロドリゲスですが、成田、羽田、大阪、福岡の各空港、あと念のために沖縄へも手配しておきました。十三日以降は、ゴルフバッグを持って入国するものに対しては、外国人であると日本人であるとを問わず、X線透視によって税関のところできびしくチェックしています」
「マリオは入っていないわけだな」
「そうです」
「札幌や名古屋はいいのか」
「あそこには、外国からの飛行機は着陸しませんから……ただ、名古屋などは、東南アジア旅行のチャーター便が、たまに到着するようです」
「ほかになかったかね?」
夏川の言葉に、丸目は急に不安になったようだった。夏川はふと思いついて、
「たしか新潟にはシベリアのハバロフスクからきているんじゃなかったかな」
しまったというように、丸目は唇をかみしめた。
「長崎と上海の間もあったんじゃないか。かりにあったとしても、まさか上海経由では入ってこないだろうが……」
「どうも、うっかりしていました」
「日本のローカル空港も、だんだん国際的になってきているからね。便利になったことは確かだが、こういうときには、かえって厄介だな。そのほか、カメラのチェックは?」
「これはどうも数が多すぎまして、ゴルフバッグのように、全旅客というわけには参りません。どうみても関係がないようなお年寄りとか、父兄同伴の中学生などは、除いています」
「仕方あるまいね」
「いずれにしても、まだ、それらしいものは発見されておりません。まだ、サミットの開幕までには、一週間以上もあるので、これからかもしれませんが……」
「それはそうだ」
夏川は相槌をうったが、もし暗殺者が万全を期すつもりならば、少くとも十日前には東京入りしているのではないかと思った。かりに自分なら、そうするだろう、と彼は考えたのである。
ブラッドを呼びとめた税関の職員は、彼がポートモレスビイの免税店で買った洋酒とタバコの入った袋をゆびさして、これを忘れている、といった。
ブラッドは、つい、うっかりしたのだった。彼はそんなものを買わなくてもよかったのだが、すべての乗客が買っているので、持っていないと、かえって目立つ感じだったのである。
「サンキュウ」
ブラッドは礼をいって、袋をとりあげ、ロビイヘ出た。汗がどっと吹き出していたが、むし暑い気候なので、不自然ではなかった。
彼はタクシーで西鹿児島駅へ行き、次の特急で博多へ出た。その夜は、博多のホテル泊りである。
翌朝、彼は新幹線で上京し、午後四時すぎに、ニューオータニにチェックインした。
新館三十八階にある一泊四万五千円のスイート・ルームである。部屋番号は五八二〇号であった。この部屋は、彼にこの仕事を依頼した組織の、日本国内に潜伏している一味によって予約されてあった。また、この一味の一人が、警察の注意を成田空港に惹きつける陽動作戦も行ったはずである。すべてが手配どおりに進行していた。しかし念には念を入れる必要がある。FBIの通報で、日本の警察は単身の外国人旅行者に注意を向けるかもしれない。そこで彼はフロント係に、あとから従者がくるから隣室をとってくれ、といった。
ボーイに案内されてドアを入ると、小さなホールがあり、その奥が窓に面した居室であった。ソファセットと食卓セットが置かれ、その右手が寝室になっている。
ベッドは、ダブルだった。そして、付属してバスルームがある。
居室には、カードテーブルもあった。この部屋に泊る首脳のうちの誰かは、カードをする男だろうか、とブラッドはふと思った。
ブラッドは窓ぎわに立って、眼下にひろがる迎賓館の全景を眺めた。ちょうど側面から見ていることになる。
直線距離は、地図で計測した五百六十メートルよりも、いくらか短いように思われた。目の錯覚かもしれないが、正確に計測しておく必要がありそうだった。
むろん、このホテルは、サミットのはじまる前から、一般客は完全に締め出してしまうのである。そして、会議中は、常時三千人の警官によって昼夜をとわず守られているのだ。
それより、問題は、どうやって脱出するかであった。ブラッドとしては、その方を考えておかねばならない。仕事に成功しても、逮捕されてしまっては、何にもならなかった。
ブラッドは、しばらくの間、その風景を眺めた。夕陽が空を染めていた。
彼はカーテンをしめ、浴室に入ってシャワーを使った。
それから彼は仕度をととのえて部屋を出ると、銀座のデパートヘ行って、旅行トランクその他を買い、トイレットに入ってマリオ・ロドリゲスの顔に戻った。
デパートの前からタクシーを拾い、再びニューオータニを訪れて、チェックインした。この部屋はふつうのツイン部屋である。マリオは、先にチェックインしたベネゼラの石油成金の鞄もちで、主人に命ぜられた用を足していたために、遅れて到着したというわけであった。むろん、ブラッドもその従者も別名になっている。
[#改ページ]
大いなる日
1
中央日報編集局の会議室は、クーラーが不調でいやにむし暑かった。梅雨の中休みといった感じの日で、午前十一時には、三十度をこえる、いわゆる真夏日の気温になっていた。
会議室に集っているのは、サミット会議に関係のある各部の担当次長たちである。政治、経済、社会、外信、地方、写真、機械報道、編集庶務の各部から、一名ないし三名の次長たちが出ていた。
江波は、開会時刻の午後一時よりも少し遅れて会議室に入った。この日、というのは六月二十日だが、警視庁がしく特別総合警備体制に挑戦するかのように、羽田と千葉県君津市で警察の施設に対して放火事件が起きていた。夕刊最終版用に送られてきた原稿をさしかえるために、江波はぎりぎりまで社会部のデスクにしばりつけられていたのだ。
しかし、会議を司会する編集局次長の根岸もまだ姿を現わしていなかった。江波は各部の顔見知りの次長たちにうなずいてから、社会部用の三脚の椅子の一つに腰を下ろした。社会部からは、江波のほかに、遊軍デスクの牟田と警視庁キャップの中垣が出ることになっているが、中垣は、羽田の放火事件の取材でやはり遅くなることになっていた。
テーブルの上には、ガリ版ずりの「主要国首脳会議取材要領」と題したパンフレットがあった。外務省を中心として構成された開催準備事務局が発行したものだった。
江波は読んだ。
表書きにまずこう書いてある。
[#ここから1字下げ]
〔注意〕この取材要領は、関係各位の取材計画作成の便宜のため、オフ・レコ・ベースで配布するものです。これに基づき事前に記事を作成することは一切できません。
[#ここで字下げ終わり]
そして次のページには、
〔注意事項〕
とあり、さらに、
〔一般注意事項〕
として各項目が並んでいる。
[#ここから1字下げ]
(一)東京サミットの取材の際およびホテル・ニューオータニ内では、東京サミット取材記者証を着用するとともに、各社発行の身分証明書を携行して下さい。また代表取材箇所においては、東京サミット取材記者証のほか、代表取材証《プールカード》を必ず着用して下さい。東京サミット取材記者証および身分証明書(代表取材箇所においては更にプールカード)がない場合には入場できません。(国会記者証、記者クラブのバッジでは東京サミットの取材はできません)運転手、メッセンジャーの方は外務省発行の通行証を着用すると共に、各社発行の身分証明書、またはそれらの方のじっさいに所属される会社の身分証明書を携行して下さい。
(二)取材は指定された取材箇所において行って下さい。
(三)取材に当っては、原則として指定箇所に各行事開催の四十五分前までに集合して下さい。この集合時間に遅れた場合は取材箇所に入れません。なお取材箇所の入口などで、荷物開披、カメラのシャッターを切っていただくなどのチェックをさせていただきますので、ご協力下さい。
[#ここで字下げ終わり]
江波はそこまで読み終えると、パンフレットをテーブルの上に投げ出した。バカバカしくて、その先を読む気にはなれなかった。これでは、取材要領ではなくて、取材禁止要領だと感じたのだ。
江波の右隣りの席に、機械報道部の三村が坐っている。三村はすでに読んだらしく、
「えらく厳重なチェックをやるものですね。何をしてはいけない、何なにはできない、どこそこに集れとか、そんなことばかり書いてある」
「およそバカげているな。言論の自由もヘチマもあったものじゃない。お役所のいうとおりにしなければ、取材させないというわけだから情ない話さ」
「警備のためには、やむをえないということなんだろうけれど……」
「いいかえれば、警備を名目にすれば、何でもできるということじゃないか。それより例の宿題はできたかね?」
「ラジコン機による暗殺計画ですか。おもしろいテーマなんで、いろいろ考えているんだけどね。どうも、羽田到着から宿舎までの間には、チャンスはなさそうですよ。なにしろ沿道五百メートル以内のすべての建物についてきびしくチェックしているそうだし、当日はこの範囲内のすべてのビルの屋上に、警官が配置されるというんだから、そういう建物にもぐりこむことはできないことになる。ただね、カーター大統領のくる二十四日には、大井の競馬がありましてね」
「あそこの競馬場は、高速道路のわきにあるな」
「道路からメインスタンドまで三百メートルくらいのものでね。ラジコン機を飛ばすのには、ちょうどいい。でも、競馬は午後四時には終るんですよ。大統領の到着予定は夕方六時ごろらしいから、その間に、居残っているやつがいないかどうか、おそらく場内を隅から隅まで調べるだろうと思うんです」
「もちろん、そうするだろうな」
「スタンドのどこかに、夕方まで隠れる場所があるかどうか……」
「ほかには?」
「あとは、大平との大磯会談を狙うか、下田のタウンミーティングを狙うか」
「それだって、条件は大して変りないさ。ことに大磯の場合は、旧吉田邸の中に入ってしまったら、手は出せない」
「下田の状況がどうなっているか、知っていますか」
「いや、知らん」
「五月の連休のときにね、女房子供を連れて行ったんですよ。そのとき、ハリスが総領事館に使っていた玉泉寺、こんどカーターが行く予定になっているらしいけれど、あのお寺にも行ったことがある。そのときの記憶でいうと、あそこなら、チャンスがあるかもしれんですね」
「というと?」
「玉泉寺のうしろは、ちょっとした岡になっていてね。それから、さらに直線距離で一キロくらいのところに、高さ三、四百メートルの山がお寺を囲むように位置していてね。そこからならば、玉泉寺の庭は遠望できるはずですよ。なにしろ、庭から山が見えるんだから、山からも見えるはずです」
「そうとは限らんだろう。うちの社の屋上から、晴れた日には富士山が見えるが、富士山からうちの社が見えるとは考えられないものな」
「この場合は、ラジコン機に爆薬をセットしてあれば、正確に命中しなくてもいいわけですよ。玉泉寺の位置さえ、山の上からつかめればいい。富士山までは百キロあるが、一キロの距離なら、じゅうぶんに寺は見える。つまり見えさえすればいいんです。それに、前にもいったように、アメリカ製のラジコン機を使えば、かりに日本側でコントロール装置を持っていても、周波数の違いで役には立たない」
「うむ」
「この前、高速道路でラジコン機を使って事故を起こさせた事件がありましたね。あれが大統領を狙うための予行演習だったと考えると、なかなかうまいやり方だと思うんです」
「どうして?」
「あれに使われているのは、日本製だったそうですね?」
「4サーボつきの、機体だけで五万円くらいのものだったそうだ。デパートあたりで買えるらしいな」
「だから、警察としては、アメリカ製を使うなんて夢にも考えていないと思うんですよ。下田や大磯で警戒しているとしても、日本製のプロポしか用意していないでしょうからね。そうなると、ラジコン機が飛来してくるのを見て、いくらプロポをオペしても、進路を狂わせることはできない」
「シークレット・サービスはピストルを持っている。大統領が危いとみれば、ラジコン機を撃ってしまうんじゃないかな」
「それはそれで、サミット粉砕という目的は果たせるんじゃないですか」
そのとき、汗をふきふき根岸が入ってきて会議がはじまった。
中垣がさらに十五分ほどおくれて入ってきた。彼は江波の左隣りに腰を下ろした。
「ちょっとした情報が入りましてね、それで遅くなっちまって」
と弁解するようにいった。
「何だ?」
と根岸が聞いた。
「ラジコン殺人の一件ですよ」
「犯人がつかまったのか」
「いや、そこまではまだ……山木という被害者は事件の前にモーテルにいて、女と会っていたらしいんです」
と中垣は得意げにいった。
一座がちょっとざわついたが、根岸はすぐに本題に戻った。
「ええと、どこまで話したかな、そうだ、つまり、ニューオータニには、きわめて限られた記者と車しか出入りできないことになる」
江波は中垣の耳もとで囁いた。
「女というのは、身元がわかったのか」
「わかってはいないみたいですね。でも、美人だったとモーテルの従業員は証言しているそうですよ」
「誰が取材しているんだ?」
「梶谷君にやらせています」
「猪川の足どりは?」
「まだ見つかっていませんね。なにしろ、彼は、目下のところ、いかなる罪も犯していない。少くとも、犯したという証拠はない。だから警視庁としては、指名手配もできないから、民間の協力も期待できない。写真を出して公開捜査ができれば、民間からの届出もあるでしょうがね」
「土沢警部の処遇をどうするか、まだ結論は出ないのか」
「夏川のところでやっているけれど、まだのようです。デカの間でも夏川の評判は悪いですよ」
「なぜだい?」
「要するに、大学出のエリートには、ノンキャリアの刑事の気持がわからんという不満でしょうな。サンフランシスコまで遊びに行ったわけじゃあるまいし、何のかのいったところで、結局は仕事で行って殺されたんだから殉職扱いにすべきなのに、何をモタモタしているのかという憤りですよ」
「だから、問題は仕事の中身だ。夏川がいったように、個人的な研究というのが本当ならば、殉職扱いにできるものじゃない。それくらいのことは刑事連中にだってわかっているはずだ。にもかかわらず、刑事の間にそういう不満がふき出しているということは、やはり土沢は個人的な研究ではなくて、何か別の重要な……」
「おい、私語は慎んでくれ」
説明を続けている根岸がいった。
会議は午後四時ごろに終った。
警視庁のクラブに帰ろうとした中垣を、江波が呼びとめた。
「さっきの話の続きだが、おれの見るところでは、警視庁は土沢のサンフランシスコの件で、何か隠していると思うんだ。外電が伝えているような、誤認されたための狙撃なんて、おれには信じられない。そんな事件にFBIがからんでくることはありえない」
「記者会見でも、そういう質問はしてみたんですがね、きっぱりと否定されましたよ」
「そんな返事を信ずるバカがあるかよ。警察のいっていることを、そのまま額面どおりに聞いていたんじゃ、新聞記者はつとまらん」
「そりゃそうだけれど」
「夏川は、ワシントンにかなり長く滞在していたが、それについては、どう説明しているんだ?」
「はっきりしたことはいわなくてね」
「つまり明らかにできない用件だった、ということさ。外信部に頼んで、ワシントンの所在を確かめようとしたんだが、どこのホテルに泊っていたかも、ついにわからなかったそうだ。そういう隠密行動をとったこと自体、ひじょうに重要な用件だったことを裏書きしているがね」
「重要な用件ねェ……何だろうな?」
「さっきの取材要領の説明を聞いているうちに、ふと思ったんだが……」
「というと?」
「集ってくる各国の元首や首相に対するテロを警戒して、きびしいチェックをするのは、まァ、当然といっていい。しかし、そのチェックが度をこえてきびしすぎるな。いままでだって、フォード大統領がきたりエリザベス女王がきたりしている。あのころだって、日本の国内にもあるいは国外にも、過激派は存在していた。むしろいまよりも活発だったくらいだ。しかし、警察のチェックは、こんどほどではなかった。つまり、この異常なまでのチェックのやり方からすると、警察はテロがあるかもしれないなどという単純な予測をこえて、はっきりと、必ずテロがあるという情報をつかんでいるんじゃないか」
「そうでなければ、こんな限度をこえたチェックをするはずがない、というわけか」
「そういうことだ。そしてそういう情報をつかんでいても、公表するわけにはいかない。というよりも、どんなことがあっても絶対に公《おおやけ》にはできない。それに、夏川が一週間もワシントンでうろうろしていたのも、尋常ではないな」
「そうすると、山木の一件を神奈川県警と警視庁で合同捜査するというのも、それと関連があるのかな?」
「あるいは、そうかもしれない」
「とにかく、少し突ついてみますか」
と中垣はいった。
2
夏川は、丸目警視から、ラジコン殺人事件についての、くわしい説明をうけた。
事件が起きたのは、六月十六日の午後十一時ごろだった。東名高速道路の横浜インターチェンジから東京へ向う上り車線を進行中の山木の乗用車に、ラジコン機が激突したのである。ラジコン機をさけようとしたのか、あるいは、そのときのはずみのせいか、山木の車はセンターゾーンヘ突っこみ、下り車線を走ってきたトラックにぶつかった。山木は即死だった。
現場は、インターチェンジに入ってから、五百メートルほどのところだった。ちょうど高速道路の上にかかっている陸橋を通りすぎた地点で、この陸橋からなら、下を通る車を狙いやすい。
この日は土曜日で、山木は、午前九時すぎに自宅を出て、相模原市にあるゴルフ場へ行った。会社は休みであった。
ゴルフ場に到着したのは、午前十時半ごろで、十一時ごろから、彼は一ラウンドした。ゴルフが終ったのは、午後四時半ごろで、入浴したのち、彼は五時すぎに、ゴルフ場を出発した。
山木の妻の話によると、朝、出がけに、
「きょうは、大きな契約のことでゴルフのあと、横浜の中華街で人をもてなすことになっているから、帰宅は夜になるだろう」
といっていたという。
横浜の中華街へ行くためには、相模原からは国道十六号線を南下すればいいはずであった。そして、横浜から東京へ帰るには、第三京浜か横羽線の高速を使うのがふつうである。再び十六号線を北上し、東名高速にのるのは、ひどく遠まわりになる。
山木の妻は、大きな契約の相手が誰かは、聞いていなかった。仕事のことは、山木も家では、ほとんど話したことはなかった。
山木の車は、トラックにひっかけられたせいもあって、前面は、元の形をとどめないほどにつぶれていたが、原因となったラジコン機は、衝突のショックで燃料が火をふき、黒こげになっていた。ただし、胴体の部分と、両翼とは、ぶつかったさいにもげてしまい、離ればなれで道路上に落ちていた。
ラジコン機は、全長一・三メートル、全幅一・六メートル、重量三・五キロの、かなり大型のモデルで、メーカーは名古屋のRC社である。これは同社のベストセラーの一つで半完成品が四万五千円の小売価格で、デパートや専門店で売られている。ただし、この型はエンジンも大きいので、爆音はマフラーをつけても八十ホン程度にはなる。またエンジン容積は九・九五cc、重さ四二〇グラムのグロー・タイプで、燃料は市販の基本型である局方メタノールである。
メーカーの説明では、このラジコン機は一年前から売られており、東日本だけでも、一千台以上が売られていた。いいかえれば、この線から所有者をつきとめることは、不可能に近いことであった。フリーの客に売られた場合は、つきとめようがないわけである。
捜査の基本として、まず、山木の足どりが調べられた。
中華街のレストランに、山木らしい客が現われたかどうかは、はっきりしなかった。
いずれにしても、山木は午後五時にゴルフ場を出ているのである。十一時まで、どこかで時間を過していることは確かであった。
手がかりの一つは、山木の車内に残っていた横浜インターチェンジ発行の料金カードにスタンプされた時刻だった。午後十時五分に山木はゲイトを通過して、高速にのったことになる。
事件は午後十一時すぎに起きている。山木の車の時計は、十一時七分でとまっていた。
この事実は、捜査陣に大きな謎を残した。
山木がゲイトを通過した時点では、上り車線に入ったか、下り車線に入ったかは、ゲイトの係員にもわからない。
しかし、事件の現場は、そこから五百メートル離れた上り車線だった。
それを考えると、この一時間のズレが説明できなかった。同じ高速道路でも、中央高速の場合は、センターラインが書かれているだけで、上り下りの車線は、区別されていない。危険を承知で、車の通行の少いときに、方向転換をすることも、絶対に不可能ではなかった。
しかし、東名の場合は、それはほとんど不可能だった。上り下りの両車線は、センターゾーンによって仕切られている。
もっとも、このセンターゾーンも、ところどころに仕切りが設けられ、たんに置きネットで区切っている箇所がある。それは事故処理用に設けられたもので、この置きネットを移動すれば、上り車線から下り車線へ、あるいはその逆に、方向転換をすることが可能である。
事故処理のために、高速道路にのってきたパトカーや処理車、あるいは作業車が、次のゲイトまで行かなければ方向転換ができないというのでは、不便だからである。
山木が、横浜から高速道路の下りにのり、厚木とか大井松田あたりまで走る間に、この置きネットの設けられている箇所で、置きネットを勝手に動かして上り車線に移ることは、絶対に不可能とはいえなかった。
だが、この日は週末で、行楽の車の多い日であった。箱根方面へ出かけた人は多いのである。夕方には、瀬田では、四キロの渋滞が生じたくらいだった。
夜になっても、車の通行量はかなりのものだった。
山木が下りにのり、どこかで上りに移ることは、午後十時と十一時の間では、かなり危険であった。むろん、このような行為は、道交法の違反でもある。
ただ、違反であり、かつ、きわめて危険であっても、山木にそうする理由、ないしは、そうしなければならぬ事情があったならば、話は別である。
丸目は、このように説明してから、
「目下のところ、そうしなければならなかった理由があったかどうかは、残念ながらわかっておりません」
といった。
次の問題は、ゴルフ場を出てから、午後十時五分に横浜インターを通過するまでの足どりだった。
はじめのうちは、皆目不明だったのだが、十九日になって、ようやく有力な聞込みがあった。
国道十六号線の横浜インター近くのモーテルの一つに、山木らしい男が、午後六時ごろにチェックインしていた。この時間は、ゴルフ場からの走行時間に相当した。道路がすいていれば、二十分もあればいいのだが、この日のその時間は混雑していた。
山木は一人でのりつけた。彼は、
「待合せなんだが、いい部屋を頼む」
といって、このモーテルの客室のなかでは、もっとも料金の高い部屋に入った。
「あとからいらっしゃる方は、ご商談でしょうか、それともお一人でしょうか」
受付の女性は問いかえした。モーテルは、看板には「ご商談に、お待合せに」と書いてある。じじつ、料理部門は充実していて、必ずしも、男女の密会に使われているとは限らなかった。宴会の客も、ふだんの日は、一割くらいはあるのである。
週末には、そういう客は、ほとんどなかった。それに、宴会や商談の場合は、予約が入るのがふつうだった。しかし、念のために聞いたのだ。
すると、山木らしい客は、いかにも照れくさそうに、
「一人でくるはずだよ」
といった。
「申訳ございませんが、お名前を頂きませんと……」
「名前か。名前は、イカワだ」
「イカワ様でございますね?」
客はうなずいた。
若い女が車でのりつけてきたのは、六時半ごろだった。サングラスをかけていたので、人相はわからなかった。
受付は、経験で、この客がイカワの待っている女であることは、すぐにわかった。
「イカワ様とお待合せでございますね」
と、彼女が何もいわないうちにいった。客を羞かしがらせないのも、こういう商売のコツだった。
相手は黙ってうなずいた。そして、部屋番号を教えられると、一人でエレベーターにのりこんだ。
すぐに、イカワから電話で食事の注文があった。和定食の特上を二人前である。飲みものは、各室の冷蔵庫に入っており、出るときに精算することになっている。
午後九時半ごろ、女性客が一人で帰って行った。
その直後に、イカワあてに、外から男の声で電話がかかってきた。
「イカワさんがいるはずだが、つないでくれませんか」
「どちらさまですか」
「ぼくもイカワです」
と相手はいった。
このモーテルは、受付のわきに交換台があり、常時二人つめている受付係のうち、手のあいている方が、外線をうけることになっていた。
外線のイカワと部屋に残っていたイカワとは、三十分近く通話していた。
そして、午後九時五十五分に、イカワは料金を払って、出て行った。食事とビール二本を含めて、二万円近い金額だった。
高速道路の事件は、受付係の女性も新聞で知っていたが、名前が違うので、山木とは考えなかった。十九日の午後になって、刑事が山木の写真をもって聞込みにきたので、
「イカワとおっしゃったお客に似ています」
と証言したのだ。
丸目はいった。
「ここまでのネタは、神奈川県警が集めたものでして、うちの方は、山木の身辺捜査に重点を置いていたわけです。なにしろ、現場はあちらなものですから」
「モーテルで待合せた女は?」
「それがまだはっきりしないんです」
「山木の奥さんは、どういっているんだ? 亭主の浮気にまったく気がついていなかったのか」
「奥さんは病気がちの人でしてね、そういう女はいたかもしれないが、気にしないようにしてきたというんです。性格的にもおとなしい人で、自分のからだが弱いので、なかば諦めていたようです」
「いままでに、土曜日に、客を接待して遅くなることがあったのかね?」
「あることはあったらしいですよ」
「ふだんは?」
「ふだんの帰宅は、一定していなかったそうです」
「会社の連中は、何といっている?」
「総務部長の川畑というのが、もっとも信頼されている男なのですが、なかなか口の堅いやつでして……山木の女性関係については、知らないというんです。社員の話では、知らないはずはない、それどころか、何から何まで知っているはずなんですが」
「社員はどういっているんだ?」
「秘書の松枝久子が山木の女じゃないか、と噂しています。ただ、この女性は、先週のはじめから会社を休んでいまして、うちの捜査員が高輪の家へ行っても、留守で会えないんです」
「モーテルにきた女という可能性はあるわけだな?」
「あることはあるんですが、モーテルの方では、女がサングラスをかけていたので、人相を確認できないそうです。それに女の車のナンバーもひかえていないとかで、どうも詰めにくいようです。ただ、ちょっと妙なことがありまして」
「何だ?」
「神奈川県警の話ですと、モーテルの部屋係の証言では、山木と女とは食事をとったが、ベッドの使われた形跡がなかったというのです」
「ふうん」
「客が帰ると、すぐに行って、シーツをとりかえるわけですが、まったく取りかえる必要がなかったそうです。つまり、食事をいっしょにしたものの、セックスの関係はなかったということになります」
「山木がイカワと称したのは、どうしてだろう?」
「わかりません。ただ、こういうことは考えられます。モーテルの受付は、イカワというのは、先に着いた男の客、つまり山木の名前だと思いこんでいるわけですが、山木の方は、あとからくる女の名前がイカワだといったのかもしれません」
「もしそうだとすると、女は、猪川達志の奥さんだった可能性もあるわけだね?」
「そういうことになります」
「猪川夫婦の行方は?」
「いぜんとして、つかめておりません」
丸目は、申訳ないというように、頭を下げた。
「女が先に出たあとの男の電話についてはどうなんだ?」
「猪川がかけてきたという可能性はありますね」
「その場合は、女房がモーテルにいると知っているわけだな」
「そうですね」
「じつは、そのことで、疑問があるんだ。中央日報は、十七日の朝刊で、はやくもT・Iの犯行であることを匂わしているが、どうもその点にひっかかるんだよ。十六日の夜の時点で、うちにしろ神奈川県警にしろ、猪川の線を出していないはずだろう?」
「もちろんです。ただ、これは、あそこのキャップの中垣記者に聞いたのですが、公安担当の梶谷記者が、すでに猪川のことを山木の会社へ行って調べてあったそうです」
「ぼくが出張する前に、ぼくのところにもきていたよ。もっとも、里井の家族関係について知りたいという形だったが……」
「そうでしたか。それで中央日報は、猪川が山木の会社を退職していた事情を知っていたんですね」
「丸目君、きみは、中央日報の社会部のデスクをしている江波という記者を知っているかね?」
「名前は聞いています。その記者が何か……」
「梶谷がぼくのところにきたのは、その江波にいわれてのことなんだ。デスクが出先の記者に、何かを調べるように指示すること自体は、なんら不思議はないとしても……」
夏川は口ごもった。自分の胸の中にあることを、いっていいものかどうか、やはり迷わずにはいられなかった。
彼は、江波という人物について、このとき思いをめぐらしていた。人にはいったことがなかったが、十五年前から、江波の存在は夏川の胸の片隅に、長い間ある種のわだかまりとなって存在してきたのだった。しかし、それを丸目にいう気にはなれなかった。夏川は、口を開いた。
「新聞社に、反東京サミット人民戦線と名のるグループから、自分たちの犯行だという電話があったとかいっていたが、その新聞社は各社なのか」
「毎朝新聞だけです」
「いつのことかね?」
「十八日の正午ごろだったようです。交換手に、そういって、切ってしまったそうです。無責任なイタズラということもありうるのですが、なにしろ時期が時期だけに、特命幕僚で扱った方がいいという結論になったわけでして」
「きみはどう思う?」
「聞いたことのないグループですが、可能性はあると思います」
「あるかねェ……」
夏川は口ごもった。
猪用達志が、サミットのために、山木の会社を退職する結果になったことについては、夏川も不本意だったと思っている。本来の目的や意図はどうあれ、過激派に関わりあった人物の再点検が、いわゆる|あぶり出し《ヽヽヽヽヽ》になった事実は否定のできぬことであった。
それは、夏川などではどうすることもできない巨大な権力の意思のようなものなのである。夏川がその中に身を置いている以上は、批判することは許されなかった。
すでに、過激派とは関係を絶っているにもかかわらず、過去のそういう経歴が経営者に知られて、配置転換をさせられた例も、あることはあった。ことに保守的な企業では、そういうケースが多かった。
その反面、過去は問わないとする企業も少くなかった。
昔はどうであろうと、いまは立派に仕事をこなしている。そういうことを問題にする方がおかしい、という経営者もいた。その多くは、おのれの実力で会社を大きくした人であった。
猪川の場合も、それにあてはまるはずだった。
にもかかわらず、土沢は限度をこえて行動した。山木の取引銀行へ行き、猪川のことを喋ってしまったのだ。山木に圧力をかけろと口に出してはいわなかったとしても、結果としては同じことになる。土沢にもそれはわかっているはずだった。
土沢がなぜそのようなことをしたのか、夏川には理解できなかった。そこまでしろ、とは指示していないのである。夏川は、いずれサミットが終ったならば、土沢に問いただしてみるつもりであった。
ただ、五月中旬の時点では、土沢にそれを問いただすことはできなかった。夏川の立場から、土沢を叱《しか》ることは、担当官全員の士気をそこなうことになりかねなかった。
もし猪川が山木の殺人に関係しているとすると、土沢の行為が、猪川をかり立てたといっていい。
猪川は、山木には、こころよく身を退《ひ》いたように振舞っていたらしいが、それがカモフラージュだったという考えも成立する。猪川の立場からすれば、山木は、権力の圧力に屈した権力の走狗なのだ。復讐の対象とするのに、じゅうぶんな理由がある。現に、猪川の動きは、そういうように解釈するしかないものである。弟の里井とひそかに連絡をとり、新しい過激派グループの結成に加わったとしても、不思議ではなかった。
しかも、猪川には、ラジコンという趣味がある。高速道路の事件と結びつけてもおかしくはない。
その場合、解釈に苦しむのは、山木が待合せた女である。
モーテルの受付と山木との間にかわされた会話には、二通りの判断が可能だが、いずれにしても、あとから現われた女が猪川の妻だったとみなすのは、かなりの飛躍である。猪川は何のために、そのような場所へ妻を送ったのだろうか。
自分の退職について、代理人として妻を送って山木と話合うことにした、という考えはどうであろう。自分がうったえるよりも、女の立場からめんめんとうったえる方が、同情をかいやすいということはいえる。
(それはないな)
と夏川は自答した。
そういう話合いに、何もモーテルを使うことはないのである。まさか色じかけで、山木の同情を得ようとはしないだろう。ほかに、いくらでも適当な場所はあるのだ。もし山木がその気になれば、猪川の妻は暴力的に犯されてしまう恐れだって、決してないわけではない。猪川がそのような場所へ、妻を送りこむはずはなかった。
もっとも、可能性としては、猪川の妻が、夫にはうちあけずに、山木とモーテルで会った、と考えられないではない。しかし、猪川は、それに感づいていて、モーテルを見張り、妻が帰ったのを見とどけてから、残っている山木に電話をかけ、呼び出しておいてラジコン機をぶつけた……。
(いや、それもない)
と夏川は自分にいい聞かせた。
二人は別々の車できて、別々にモーテルを出た。結果としてはそうなったが、いっしょにチェックアウトするか、山木が先に出ることだってありえたのだ。
事件の経過からみて、猪川の妻が夫に内緒でそのような行動をとったと考えるのは、どうみても不自然だった。
「参事官」
丸目に呼びかけられて、夏川は現実に引き戻された。
「これはすまん。考えをまとめようとしていたものだから……」
「今夜、神奈川県警との合同捜査会議がありますが、どうされますか」
「もちろん出席するよ。それで、あちちさんには、猪川についての情報を渡してあるのかね?」
公安情報のファイルは、各都道府県警が独自のものを持っており、むやみにそれを交換することはしていない。情報の管理者の数がふえることは、それだけ外部にもれる危険が増大するからであるが、同時にそれは一種の縄張り根性でもあった。
手に入れるためには、それぞれが労力と金を費しているのである。
よくいわれるように、公安捜査はふだんからの情報蒐集が基本であり命でもある。その点は強盗や殺人などの犯罪が起きてから犯人を追う刑事捜査とは、根本的に違っている。労力と金を費して苦労して集めたものを、そう簡単には、他府県へ教えてやるわけにはいかないのだ。
「ある程度は、渡してあります」
と丸目がいった。
「そうか。で、ブラッドの一件は?」
「それは伏せてあります。ブラッドは、この事件とは関係ない、と思われますから」
「うちの捜査員にも、ブラッドのことは話してないんだろう?」
「部長のご指示がありまして、ブラッドのことを知っているのは、課長以上と、理事官クラスではわたしといっしょにアメリカヘ行ったものだけに限られております」
「わかった。それは当然の措置だな。万一、ブラッドのことが外にもれたら、えらい騒ぎになる」
「そうです」
「それから、きのういったことだが、ローカル空港のチェックはどうした?」
「念のため、全部のローカル空港に、ことに国際線のある新潟、鹿児島、沖縄の各県本部には、ゴルフバッグをきびしく検査するようにと……」
「鹿児島? あそこに国際線が入っているのか」
と夏川は聞きとがめて声を強くした。
「それが入っているんです。まったく、うっかりしていましたが……」
「どことの空路だ?」
「日航がホンコンとの間に週六便を持っているんです。福岡発鹿児島経由で三便、成田発鹿児島経由で三便です。ほかに……」
「ほかにもあるのか」
「あります。中部太平洋のナウルから、グアム島、鹿児島経由の沖縄行のエア・ナウルが週に一便、毎週土曜日。ニューギニアのポートモレスビイからエア・ニューギニアが週に一便、これは火曜日ですが、入っているのです。エア・ナウルはボーイング727、エア・ニューギニアは707を飛ばしていますね」
「グアム島から鹿児島へ入っているのか」
夏川は緊張していった。
ブラッドはサンフランシスコから姿をくらましているのである。グアム島は、アメリカの一部なのだ。ブラッドは、さしたるチェックを受けることなく行けるだろう。
ふつうグアム島から日本へ入国するには、成田、大阪を考える。たしかに沖縄もあるが、沖縄からは本土へくるのに、もう一度、飛行機にのらねばならない。つまり、それだけチェックされる機会が多くなるわけで、沖縄は軽くみていたのだ。
だからチェックの重点を成田と大阪に置き、きびしく旅客の荷物を検査しているはずだった。しかし、沖縄へ着く前に鹿児島で下りることができるとなると、盲点をつかれた感じである。
丸目がいった。
「ですが、グアム島では、エア・ナウルは給油をするだけでして、旅客はのせないそうです」
「そうか。しかし、ブラッドは、サンフランシスコから、ホンコンまで飛ぶか、あるいはポートモレスビイまで行くかして、こちらの警備の盲点をついて入ってくることはできたわけだな」
「そうです。じつに、うかつでした。国際線が入るのは、大きいところばかりだ、と思いこんでいたものですから」
「それは、きみの責任じゃないさ。こっちも同じことだ」
夏川は少し気落ちしていった。そして壁のカレンダーを見上げ、
「きょうは二十日か。もう、やつは入っているかもしれんな」
と呟いた。
「一応は、鹿児島の入管に問合せておきました。マリオ・ロドリゲスという名前の外国人は、今月に入ってからの、入国記録には残っておりません。むろん、ブラッドという名前の入国者もいません」
「やつがそういう名前を使って入るとは考えられんものな。ダッカ事件の百ドル札のことを考えると、やつの背後には、かなり大がかりな組織があるとみていい。おそらくパスポートの偽造くらいは、かるくこなせるとみた方がいいだろう」
「では、サンフランシスコで事件のあった六月九日以降に、鹿児島で入国した全外国人の記録を調べて、こちらに取寄せましょうか」
「そうしてもらおうか」
夏川はうなずいた。
サミットのはじまるまでには、一週間しか残っていなかった。
鹿児島から入国した外国人の数が多ければ、その一週間で行方をつきとめることは、不可能といっていいであろう。
そのなかに、スナイパーG3の最新型をもったブラッドが入っているとは限らないのである。もしかすると、夏川らは、まったく見当違いの捜査をやっているのかもしれないのだ。
しかし、夏川には、一種の確信のようなものが生れていた。
ブラッドは、銃がなければ、日本では何もできない男である。日本はアメリカとは違って、銃器の入手はきわめて困難である。
暴力団が東南アジアから密輸してくることはある。警察の取締りも決して完全とはいえない。
(だが、ブラッドのような男が、暴力団の使うような精度の低い銃を使うだろうか。そんなことはありえない)
と夏川は思うのである。
ブラッドは、グエンに依頼して組立式に改造した高性能のスナイパーを使うに決っている。ブラッドは、どうしても、それを日本に持込む必要があるのだ。
成田や大阪での荷物の検査がきびしいのは、ブラッドだってじゅうぶんに予測しているだろう。ブラッドのようなプロフェッショナルが、そのような愚かな危険をおかすはずがない。
その点、鹿児島は、はるかにゆるやかである。ポートモレスビイやナウルから銃器を持込むものがいるとは、考えていないだろう。
これに対し、警視庁は、この日から特別総合警備体制をとって、末端の巡査までピリピリしている。警視庁の百年以上の長い歴史のなかでも、これは空前の出来事なのだ。
一方、鹿児島県警にとっては、サミット警備は、ある意味では外国の出来事と同じである。
まして、ブラッドの存在は、知らされていない。通常の対ハイジャック体制をとっているにすぎない。ゴルフバッグに注意せよ、という指示さえ受けていないのだ。
日本に潜入すると決めたときから、ブラッドは、日本の事情をくわしく調べているはずだった。
(やつはすでに入っている。そして、この東京のどこかに、いま存在している)
夏川は、名状しがたい戦《おのの》きとともに、確信した。
3
梶谷は、ダイヤルをまわした。先刻から久子の部屋へかけているのだが、久子は部屋にいないようだった。
コール音が耳もとで断続的に鳴っている。十回、二十回……
梶谷はうつろな感じにとらえられながら、あきらめた。
(いったい、どこへ行ったのだろう?)
梶谷は腹立たしかった。久子にとりつかれている自分が情なかった。久子は山木の女だったのだ。ひょんなことから、自分と肉体関係をもったにすぎない。考えてみれば、山木という男がありながら、あの女は自分と寝たのである。
一言でいうなら、尻の軽い女なのだ。そういう女のことで思いわずらうなんて、どうかしている。いまごろは、別な男を見つけて、どこかへ旅をしているかもしれない。くよくよするなんて、およそバカげている。
あの女とは、ふとすれ違っただけなのだ。それだけのことだ。すっぱりと忘れるのが一番いい。梶谷は何度も、自分にそういい聞かせていた。自分を納得させようとしていた。
だが、それは成功しなかった。
本社での打合せに出向いていた中垣から、電話がかかってきた。
「その後、何かあったか」
「何もないですね。キャップがそっちへ行ってから、毎朝の宮地君が、荘家《おや》で十三面待ちの国士無双と大三元を連続して上りました。事件はそれくらいのものです」
「宮地のやつ、バカつきしていやがるな」
「打合せは終ったんですか」
「終ったが、まだ用が残っている。羽田の放火では、何か入っていないか」
「発火装置にIC回路を使っていたことが、その後の調べでわかった、というくらいのものです。それはもう朝刊用に送ってありますが……」
「きみは、今夜は夜勤か」
「いや、本当は明け番ですから、もう帰っていい時間なんですよ」
「公安担当は、サミットが終るまでは、明け番も代休もないぜ」
「ええ、わかっていますよ」
梶谷は、だからこうして残っているじゃないですか、といいかけて、やめた。
帰宅しないでいるのは、むろん、そのためだが、決してそれだけではないことを、彼自身、意識していた。
もしかすると、久子から電話がかかってくるかもしれない……と思うのである。
「神奈川県警との合同捜査会議があるな?」
「ええ。九時ごろ、横浜の県警本部で会見があるそうです。各社とも、横浜支局に任せるみたいですね。あちらさんの顔を立てて、こっちからは、夏川と丸目が会見にちょっと顔を出すだけだそうですから」
「それなら、きみにやってもらいたい仕事がある」
「この電話をうけたときから、そういわれるんじゃないかと予感していましたよ」
「ふざけるんじゃないよ。こいつは、大事な仕事なんだ」
中垣の口調は、いやに改まったものになっていた。
「何です?」
「夏川を徹底的にマークしてもらいたい。さっきこっちで部長やデスクをまじえて、いろいろ検討したんだが、警視庁はサンフランシスコの事件にからんで何か重大な情報をつかんでいるふしがある」
「重大な情報?」
問いかえしながら、梶谷は思わず声をひそめた。他社の机との間には、一応の仕切りはあるのだが、大きな声を出せば、聞こえてしまうのである。
「うむ。いろいろ意見は出たのだが、江波デスクは、各国首脳、なかんずくカーター大統領を狙っているやつが潜入してきている、警視庁はそれを知っているんじゃないか、というんだ」
「本当ですか」
「本当かどうかは、わからんよ」
「毎朝へ電話してきた反サミット・グループの一員ですかね?」
「いや、それもわからんよ。ただ、異常なまでの警備の強化から考えて、そうじゃないかというんだ」
「わかりました。じゃ、車を一台、まわしておいて下さい。ラジオ・カーがいいですね」
「よし。手配しておく」
中垣はそういって、電話を切った。
公安の幹部のなかで、報道関係に多少とも理解をもっているのは、夏川だけだった。中垣のいうように、夏川に喰い付くのが、こういうときは最善である。
しかし、中垣のいうような情報だとすると、いかに夏川でも、それをもらしてくれるとは思えなかった。
といって、何もせずに放っておけないのである。結果は別として、するだけのことはしなければならなかった。
梶谷にやらせろ、といったのは、おそらく江波だろう、と彼は思った。中垣や同僚の多くは、江波に対して批判的だった。江波の、何事につけても遠慮会釈のないやり方に反感をもつものは少くないようだったが、梶谷はさほどには感じていなかった。もしかすると、それは、たとえば乱暴に肩を叩くのと同じような、一種の愛情の表現ではないか、と思うこともあったのだ。
そうではなかった、と梶谷が考え直したのは、久子のことで、江波からいわれたときだった。江波の言い方には、まるで優しさというものがなかった。色気を武器にして男をひっかける女、というふうに江波は決めつけたのだ。江波には、妻子のある男と関係をもたされてしまった若い女の悲しみや立場が、まったくわかっていないようだった。それを理解しようとする気持さえもとうとしないのだ。
梶谷は、江波の私生活については、部内に流布されている噂程度にしか知らなかった。
江波は法律的には独身だった。しかし、いっしょに暮した女は何人もいるらしい。小料理屋をやっている女とか、前に胃カイヨウで入院した病院の看護婦とか、会社の近くの喫茶店のウエイトレスとか、十指にあまるだろうというのである。
長くても一年、短いときは一カ月で、女たちは別れて行ったという噂だった。
形の上では、江波はつぎつぎに女をとりかえるプレイボーイのように見える。そのくせ江波には、そのような華やかな面影はなかった。江波の場合は、女から去って行くのではなく、女に去られるのだ、としたり顔でいうものもいた。
若い社会部員たちが集って酒をのんだとき、江波の話が出た。
「おそらくあの人は、若いころ女のことで心に傷を負ったんじゃないかな」
というものがいた。
梶谷はそうかもしれないと思ったが、その見方は、好意的にすぎるという意見が圧倒的だった。
「いっしょに暮していた女性のなかには、あの人の子供を生んだものもいるんだよ。それなのに、勝手に生んでおいて、おれの知ったことか、とどなったそうだ」
という記者もいた。
それが事実かどうかは、わからない。梶谷は、無責任な噂の一つだろう、とこれまでは思っていたが、ことによると、本当にそういうこともあったかもしれない、という気がしはじめている。
合同捜査会議が九時ごろに終るなら、その前に横浜へ行ってみようと、梶谷は考えていた。
記者会見そのものは、横浜支局の記者に任せておけばいい。神奈川県下の事件である以上、県警が前面に立つのが当然であり、報道陣もそれをうける形になる。ただ、梶谷としては、会議に出る夏川をぴったりマークしなければならない。
夏川が会議のあと、まっすぐに帰宅するか、それとも別の行動をとるか。
九時の会見なら、八時ごろに警視庁を出れば、じゅうぶん間に合うだろう。
腹ごしらえをしておくために、彼が中華ソバの出前を注文した直後に、卓上の電話が鳴った。
遠慮がちに呼びかけてくる声は、久子のものだった。
梶谷は全身が熱くなるのを感じた。
「ぼくだよ。いま、どこにいるの? さっきから何度も電話をかけていたんだ」
と声をひそめていった。
「わたし、いま……」
久子は口ごもった。
「会いたいんだ。どこから電話をかけているの?」
「遠くからよ」
「遠くって、どこ?」
「海の見えるところで、海を眺めているの。でも、暗い夜の海を見ているうちに、寂しくなってしまって……」
久子はなぜか嗚咽《おえつ》をもらした。
「そこはどこなんだい?」
「とても遠くよ」
「遠いといったって、まさか北海道とか九州じゃないだろう」
「そんなに遠くはないわ。犬吠埼よ。きて下さる?」
と久子はいった。
梶谷はどきんとした。犬吠埼まで、この時間ならば、まだ電車はあるだろう。しかし、彼は夏川をマークするために、ラジオ・カーを呼んだのだ。
本来ならば、明け番で、何も仕事をすることはないのである。しかし彼は引受けてしまった。久子に会いに行くためには、仕事を放棄するしかなかった。これが都内ならば、何とかなるが、犬吠埼では、二者択一であった。
「犬吠埼、か」
梶谷の口調には、絶望的な響きがこもっていた。
「無理なことをいって、ご免なさい。それじゃ、またいつか……」
「待ってくれ。すぐにでも飛んで行きたい気持なんだ。本当にそうなんだ。しかし、午後九時に記者会見がある。それを取材しなければいけない。それをすましてからでなければ、きみのところに行けない。それがぼくの記者としての……」
「わかっているわ。わたしも、あなたに、いいかげんな仕事をしてほしくないの。それをすませたら、きて下さる?」
「行くとも。必ず行く」
梶谷は、にわかに勢いづいた声で叫ぶようにいい、泊っているホテルの名前を聞いて電話を切った。
それから彼は、居残ってマージャンをしている同僚の光田を呼んだ。
「ちょっと頼みがある」
「何だ?」
「三万円ほど貸してくれないか。月給日に返す」
「三万円なんてあるものか。あのマージャンだって|つけ《ヽヽ》でやっているんだ」
「どうしても金の要ることがあるんだよ。キャップはいないし……その金がないと、男の顔がつぶれるんだ」
「どうせ大した顔じゃないが、そういわれては聞き流すわけにもいかんな。いま、おれの持っている金は一万円だが……」
「ないよりましだ。頼むよ」
光田は苦笑して、ポケットから一万円札を出した。
梶谷も一万円近くの金を持っていた。これだけあれば、何とかなりそうだった。
次に、時刻表を調べてみた。銚子行は、千葉発二十二時十三分が最終であった。梶谷はうちのめされてしまった。千葉までは、一時間近くかかるものと思わなければならない。横浜での会見を終え、夏川をつかまえて取材するとなると、三十分や一時間は、すぐに経過してしまう。絶対に、銚子行の終電には間に合わないのだ。
仕事を放棄するか、銚子行を諦めるか、である。
彼は汚れた天井を睨《にら》んだ。それから記者クラブを出て行き、内庭で待っていた森山運転手のラジオ・カーのところへ行き、
「横浜へ行ってよ」
といった。
横浜支局の警察担当記者は宮井といった。
梶谷は、記者会見は宮井に一任することにして、捜査会議を終って出てきた夏川と丸目に近寄って行った。二人は、梶谷の姿を認めると、おやっというふうに顔を見合せた。梶谷はいった。
「そんなにびっくりすることもないでしょうに」
「記者会見は、こちらの本部にお任せしてあるんですよ。わたしらは、あくまでもお手伝いですから」
と丸目が機先を制するようにいった。
「会見は、ぼくも横浜支局の人に一任しているんですよ。じつは、ほかのことでね」
「何です?」
と夏川がいった。
「お二人とも、これからまっすぐ自宅へ帰りますか」
「ぼくは家が鶴見だから、ここから電車ですぐだ」
と丸目がいった。
「参事官は?」
「わたしも帰りますよ」
「お宅は世田谷でしたっけね。ぼくは車できているから送りましょうか」
「いや、ご心配なく。わたしも車できているんだ」
「では、その車にのせてくれませんか。うかがいたいことがあるんです」
「きみ……」
丸目がいいかけるのを、夏川は制して、
「断っても、どうせあとを追ってきて、話を聞くまでは帰らないでしょうから、いいですよ。おのりなさい」
といった。
梶谷は森山に、夏川の車を追うようにいって、いっしょに乗りこんだ。
車が動き出すと、梶谷はいった。
「どうもすみません」
「いや、いいんですよ。しかし、立場上お話しできないことが多いからね」
「ぼくはね、高速道路の事件のことを聞くつもりはないんです」
「ほう」
「そりゃ、あの事件は、いろいろとおかしい点がありますよ。たとえば、被害者は横浜インターを通ってから一時間もどこで何をしていたのか。また、うちの社のラジコンにくわしい人から聞いてみると、夜中に、あんなに上手にぶつけることができるのかどうか。あるいは、できるとしても、どうやって山木の車であることを、離れたところから識別できたのか。不可解なことだらけですものね」
「そうねえ」
「そのほか、あのモーテルに電話してきたイカワというのは何者なのか。姿をくらましている猪川と同一人なのか。女は何者か。二人はどういう関係なのか」
「それがわかれば、事件はほぼ解決でしょうな」
「ねえ、参事官。そんなことより、もっと気にかかることがあるんじゃないですか」
「そりゃね、ここだけの話だが、もしこの事件がサミット粉砕を呼号する一派の犯行だとすると、われわれとしては、大いに気をひきしめなければならない。厳重に警戒する必要がある、ということだね」
「それだけ?」
「ほかに何かあるみたいだね」
「ある、んでしょう?」
「ありませんよ。あるはずがない」
「そうかな? じつは、来日する首脳を狙うテロリストが、日本に潜入してきているんじゃないですか」
「テロリストが? 日本に潜入?」
と夏川は落ち着いた声で問いかえした。
「ええ」
梶谷は夏川の横顔を見た。
「まさか!」
夏川はきっぱりといった。そして、
「どうも、どえらいことを考えるもんだね。いったい何を根拠にそんなことを考えついたのかねえ」
「そういう情報が、じつは入っているんじゃないですか」
「入っていませんよ。入っていたら、わたしは、こんなのんきにしてはいない。本庁にこもりきりで、対策に没頭するだろうし、総監だって部長だって、泊りこみでやるでしょうな。むろん、カーター大統領の来日される二十四日からは、総監も八階の指揮所にこもるでしょうが、それまでは、そういうこともないですからね」
「そうかなァ。それにしては、チェックがきびしすぎるもの」
「きびしいのは、この場合、やむをえない。かりに投石する不心得者がいたって、大問題になるから、未然に防がねばならない。ま、みなさんには迷惑をかけるが、そこは理解していただかんと、困りますな」
梶谷はもどかしかった。しかし、根拠があって、質問をぶつけているのではなかった。理詰めに否定されると、つけ入る隙《すき》はなかった。
車はいつしか第三京浜の料金ゲイトを通過していた。環八線の出口まで残りわずかである。夏川はタバコに火をつけ、
「あまり考えすぎない方がいいね。それ、あんたの考えなの?」
といった。
「いや、ぼくが思いついたというわけじゃなくて、デスクがね」
「江波という人?」
「江波情報かどうかは知らないんですよ。キャップにいわれてね」
「新聞記者も大変ですな」
と夏川は慰めるようにいった。
夏川は自宅の前で車を下りた。
「それじゃ」
彼は短く梶谷にいって玄関に入り、早い帰宅に驚いている妻の多恵子を尻目に書斎に入ると、すぐさま副総監の官舎へ電話をかけた。そこがこの日から対ブラッドの作戦指揮本部になっているのだった。総監の官舎には、報道陣が来襲することが多いが、副総監はさほどマークされないのである。夏川は、連絡が終ると、多恵子にいった。
「ちょっと外を見てきてくれ。まだ、中央日報の車がいるかどうか」
様子を見に表へ出た多恵子がすぐに戻ってきた。
「もう帰ったようですわ」
「では、出かけてくる」
と夏川はいった。梶谷には嘘をついたのだが、それは致し方のないことだった。どんなことがあっても、ブラッドの一件は秘密にしておかねばならなかった。
4
梶谷は、森山のラジオ・カーに乗りかえた。時刻は九時四十分になっていた。
「こんどはどこだい?」
と森山が聞いた。
「どんなにブッ飛ばしても、千葉まで三十分じゃ行かないだろうね」
「千葉まで三十分で? そいつは無理だ。しかし、この時間ならここから一時間とはかからないがね」
「いや、いいんだ。それじゃ、上野まで行ってもらおうかな。あそこからなら、まだ京成電車の成田行があるだろうからね」
「成田へ行くのか。それなら何も電車を使うことはないだろう。この車を使えばいいじゃないか」
「そりゃそうだけどね」
「この車じゃ、いやだというふうに聞こえるぜ」
「違うよ。じつは、仕事はこれで終りなんだ。あとはプライベートなことなんだ」
「こんな時間に何をしに成田くんだりまで行くんだい?」
「野暮な用件でね。それも成田までじゃなくて、銚子まで行くんだ。お金がたっぷりあれば、社の近くからでもタクシーを拾って行くんだが、あいにく金欠病ときている」
「野暮用か」
森山は車をスタートさせた。
「ともかく上野まで送ってよ」
と梶谷はいった。
森山はうなずき、目黒通りへ出てから高速道路にのった。
「なァ、梶さん」
と森山がスピードをあげながらいった。
「何だい?」
「どんな野暮用か知らねえが、ひとつ頼まれようじゃないか。成田には、この前もいっしょに行った。あんたには、今夜はとことんまでつきあえっていわれて社を出てきたんだ。構うことはないから、聞込みで行ったことにすればいい。おれも家は千葉の方だから、あんたを送って、そのまま社に戻らずに車をもって家に帰るよ。あっちへ行ってから、社には連絡すればいい」
「それは……」
「いいってことよ。金欠病のときには、お互いさまさ」
と森山は愉快そうにいった。
梶谷は迷った。森山は走行キロ数と共に、運転報告を書くのである。自動車課が疑問を抱いて、社会部へ問合せてくれば、バレる恐れもある。
(そのときはそのときだ)
と梶谷は決心した。まさか馘《くび》にはなるまい。
「森ちゃん、すまないな」
「任せておけよ」
と森山はいった。
梶谷は午前零時ちょっと前に、犬吠埼の灯台の近くに位置しているホテルに着いた。
観光客相手のホテルで、正面はしまっていたが、通用口はあいている。梶谷が入って行き、すでに暗くしてあるフロントで声を出すと、係員が出てきた。
彼は久子の部屋番号を聞いてから、階段をかけ上った。
ドアは鍵がかかっていなかった。
久子は窓ぎわのソファに腰を下ろして、海を眺めていた。部屋は和室で、二組のふとんが敷かれている。
久子は振り向いた。
「きてくれたのね」
とかすれた声でいった。
「きたよ」
「正直にいうけれど、こられないと思っていたわ」
「ぼくもね、こられるとは考えていなかったんだ。ことわっておくが、そのこられないという意味は、きみのいう、こられないとは違うかもしれない。ぼくには、いかなることがあろうとも、ここへくるという意思はあったが、物理的な条件が不可能に近かったのだ。でも、くることができた。そして、こうしてきみを抱くことができる」
梶谷は久子のそばへまわりこみ、唇を吸った。
「わたし、無理なことをいって、どうかしていたんだわ。お仕事の邪魔をしてはいけないのに」
「仕事はすませてきたよ」
「でも、記者会見があったんでしょう?」
「あった。高速道路の一件でね」
そういって、梶谷は久子を見た。久子は黙っていた。目をそらせて、再び窓の外を眺めた。
窓ごしに、波の音が聞こえてくる。遠い太鼓のような響きだった。梶谷はしばらくの間その音に聞き入った。これは、さけて通ることのできない問題なのだ、と自分にいい聞かせた。
テーブルの上に、飲みかけのビールがあった。梶谷はそれを飲んでからいった。
「警察は、もっと前につかんでいたらしいが、ぼくらには、きょうになって、やっとわかったことがある。山木は、あの日の夕方に横浜インターの近くのモーテルで女性と会っていた。山木は六時ごろきて、女性はあとからきた。そして、先に帰って行った」
「そう」
久子はそっけなくいった。梶谷は、自分の胸の激しい鼓動を意識しながら、
「どうして、きみは、あんなところで山木と会ったんだ? どうしてなんだ?」
久子の答えはなかった。梶谷は何かに駆り立てられながらいった。
「誰が山木を殺したかは知らない。しかし、もしぼくにその機会があったならば、ぼくがやっただろうな」
「あなたは誤解しているのよ」
「誤解なんか、していない」
「しているわ。わたしはね、山木とあのモーテルで会って食事はしたけれど、そして話はしたけれど、それだけよ」
こんどは梶谷が沈黙する番だった。
「信ずる信じないは、あなたの勝手だけれど、わたしは会社を辞めて、あの人から自由になろうと決心していたんだわ。あの人も、それはわかってくれた。ああいう場所を選んだのはね、彼もわたしも、それぞれ自分というものを験《ため》してみるべきだと思ったからよ。会うことにしたときはね、あの人は中華街で食事でもとわたしにいったわ。わたしがモーテルにしましょうといったら、ふざけている、と怒ったの。でも、その理由を聞いて、納得してくれたわ。むろん、わたしは負けるつもりはなかった。同時に、あの人にも負けてほしくなかったのね。あなたにはわからないかもしれないけれど……」
「じゃ、ぼくは、誤解していたわけか」
「そうよ」
「ぼくは……」
梶谷は口ごもった。
「わたしね、あそこを出てからそのまま車で東京を走りぬけて北へ行ったの。あの日は、水戸まで行ったわ。だから、あんな事件のあったことを知らなかった。十八日になって、テレビを見て知ったのね」
「ぼくは、何度か電話したよ。とくに、きょうは、十回も二十回もかけた」
「いったんは東京へ戻ろうとしたのよ。いいえ、戻ることは戻ったの。アカの他人になってからの出来事であるにしても、それまではそうではなかったんですもの……」
梶谷はその言葉をつらい思いで聞いた。しかし、それは動かすことのできぬ事実であった。
「わかるさ。人間だものな」
「わたしが、事件に関係があるんじゃないかと警察に疑われるのは、ちっともかまわないの。やがては無関係だということは、わかることですものね。ただね、いやなのは、あの人との間にあったことを書き立てられることが、たまらなかったの。しかも、そのなかに、あなたが……」
「バカをいっちゃいけない。デスクが命令したって、ぼくは書くものか」
「鬼みたいにこわい方がいるんですってね」
「江波デスクのことだね。彼のことを知っているのか」
「あの人から聞いたことがあるわ。あの人も若いころは記者をしていたことがあって、そのときからのつきあいらしいのね」
「きみに頼みがある」
「なァに?」
「その……あの人という代りに、彼とか社長とか、いってくれないか。そういうことに、こだわるのはおかしいかもしれないが」
「それじゃ、あの男、にしようかしら」
久子はちょっとすねたようにいってから、
「社長はね、若いころ、もう少しで殺人犯の汚名を着せられるところだったらしいのね」
「殺人犯だって? まさか!」
「それが本当らしいの。しかも、警官を殺したんじゃないかって、疑われたらしいのね。そのとき江波さんという人が、サツ回りというのかしら、社長と同じ仕事をしていて、社長の無実を証明してくれたんですって」
「ふうん。そいつは知らなかったな。いつごろのことだろう?」
「十五年くらい前のことらしいわ」
「社長はどこの新聞社にいたんだい?」
「毎朝新聞ですって。社長はそんなことがあったので、記者の仕事がいやになってしまって、辞めたらしいのね。そのあと、二つか三つ職業を変って、いまの仕事をはじめたそうよ」
「ちょうどビル建設のブームで、うまく当ったわけだな。しかし、江波デスクとそんな関係だったとは知らなかった。それで、結局、その事件の真犯人はつかまったのかね?」
「そのへんのことは知らないわ」
「それにしても、きみとぼくが、どうしてこんな話をしなけりゃならないんだ? バカバカしいとは思わないか」
「バカバカしい話をして、時間が通り過ぎるのを待つのも、一つの意味があるわ」
それはそうかもしれない、と梶谷は感じた。
仕事を中途で切りあげて、銚子までくるのも、冷静な第三者の目からすれば、およそバカバカしいことであろう。しかし、梶谷にとっては、それなりの意味があることなのだ。
翌朝、梶谷は久子を残して、東京へ戻った。記者クラブに着いたのは、十一時ごろになっていた。
中垣がいった。
「どうしたんだ、ゆうべは?」
「横浜へ行きましてね」
「それはわかっている。そのあとのことをいっているんだ」
「千葉まで足をのばしたんです」
「何かいいネタが入ったのか」
「結局は、空振りに終ったんですがね」
「テロリストが潜入したんじゃないかという件はどうだった?」
「夏川はきっぱりと否定しましたよ。もしそうなら、総監以下、もっと緊張しているはずだというんです。嘘をついている気配はないみたいでしたね」
「そいつはどうかな。連中は、きみと違って、平然と嘘をつくからな。きみは、その点はからきし駄目だ。銚子くんだりまで、何の情報を求めに行ったんだ?」
「キャップも人が悪いな」
「何をいうか。おれは気にしてはいない。江波デスクがカリカリしているんだ。何かうまい弁解を考えておけよ。さっきも、電話がかかってきた。また、かかってくる時間だな」
まるで、はかっていたかのように、社会部との直通電話が鳴った。
はたして、江波からだった。梶谷は観念して電話に出た。森山が、やはりかばいきれなくなって事実を喋ってしまったらしい。江波はいきなりいった。
「銚子まで何をしに行ったんだ?」
「私用です」
と梶谷は小声でいった。
中垣は余計なことに関わり合いたくないのか、すいと席をはずした。梶谷もその方が気分的に楽だった。
「私用で会社の車を使ったのか」
「そういうことになります」
「バカ! そんなことを認めたら、処分されてしまうぞ。誰に会いに行ったんだ? ちっとは取材に関係はないのか」
「女性です」
「成田に現われた、税関職員に荷物の見のがしを頼んだ女か」
「それなら大威張りですがね。じつは、山木の秘書だった女性です」
すると江波は、押し黙った。
何かしら肩を抑えつけられているような重苦しさだった。江波がどうして何もいわないのか、梶谷にはわからなかった。
「江波さん、どうもすみませんでした。もし私用に会社の車を使ったということで処分されるなら、ぼくは甘んじて受けます」
「おい。いいかっこをしたがるなよ。夕刊が終ったら、こっちへこい。それより、夏川から何かつかめたか」
梶谷は説明した。いくらか気が軽くなっていた。
夏川は、副総監の官舎で夜をあかした。丸目もいっしょだった。
夏川はそれでも仮眠していたが、丸目は徹夜していた。FBIのカールトンからきたその後のレポートの翻訳に、一晩かかってしまったのだ。この極秘の文章の訳を、他のものに任せるわけにはいかなかった。
「どうもご苦労さん。カールトンは何といってきている?」
「免許証からの捜査は、どうもハカバカしくないみたいですね。グエンもあいかわらず口が堅いようです。ただ、声紋から手がかりをつかんだそうです。ブラッドがグエンにかけてきた電話の声紋を、FBIの声紋記録と照合したところ、シンビオニーズ事件のさいに採取されたものと、きわめて特徴がよく似ていると書いてあります」
「シンビオニーズは、ロサンゼルスで派手な銃撃戦をやって、全員が死亡したんじゃなかったのか」
「FBIも、当時は、そうみなしていたようです。あとでつかまったパトリシアたちは、シンビオニーズ・グループにあとから脅迫的に加入させられたもので、基本のメンバーは、シンキューというリーダーをふくめて、射殺された六人だったとFBIはみなしていたわけです。ところが、どうもそうではなかったようですね」
夏川は、丸目が手にしている訳文を受取った。
カールトンはこう書いている。
──シンビオニーズの基本メンバーを六人と認定したのは、パトリシアら、あとから加わったものの証言によってであった。
かれらは、パトリシアを誘拐したさいに新聞社などへ声明テープを送りつけたり、彼女の両親あてに身代金の要求電話をかけたりした。
これらのテープはすべて保存されたが、分析の結果、シンキューのほかに、男二名の声が採取されている。ブラッドの声紋は、そのうちの一名とよく似た特徴を示している。そうなると、この人物は、FBIに抵抗して死亡した六名のなかには、含まれていなかったといわざるをえない。
ここで想起されるのは、シンビオニーズのシンボルマークである。
このマークは、七つの頭を有する蛇の図柄であった。
日本には、八つの頭を有する大蛇の伝説があるように聞いているが、このような奇怪な動物は世界のいたるところに悪の象徴として伝わっているのであり、さして深い意味はないものとみなしていた。
しかし、このような事態に立ち至ってみると、七つの頭には、それなりの意味があったとみなすことも可能である。シンビオニーズは、生物学用語の「共生」に由来する言葉であるが、主犯のシンキューが、この七つの頭の蛇を「共生」のシンボルとした理由は、グループのメンバーが七つの頭つまり七人だったためとも考えられる。七人の「共生」とすれば、死亡した六人のほかに、一人だけ生き残っていたことになる。
FBIは、こうした考えに基づいて、シンビオニーズについて、あらためて捜査しなおした。
その結果、年齢三十歳前後(一九七四年当時)、混血(スペイン系と東洋系)、身長一・七メートル前後、男、目の色は黒。
以上の人物が七人目のメンバーとして、うかび上ってきた。この人物を五年前に見のがしていたことは、反省すべきことであるが、それには理由があった。この人物は当時シンキューの命令で、中東地区へ派遣されていた。
彼が中東地区でどのようなグループと接触したかは、明らかではない。しかし、ダッカ事件のハイジャッカーらと接触した可能性は大いにある。また、彼がいつ合衆国へ戻ってきたかは、不明である。
運転免許証のマリオ・ロドリゲスについては、捜査がさしたる進展はみせていないことは、まことに残念である。
同人の外見的年齢からして、ブラッドと称した人物と同一人物であるとは考えられないが、同一人物である可能性も消えてはいない。いずれにしても、マリオに関しては、決定的な証拠は入手していない。
ブラッドが七人目のシンビオニーズのメンバーだったことについては、われわれの間では、ほとんど意見の一致をみている。
声紋について、もし貴国の捜査機関が必要とされるなら、司法互助協定によって、われわれは提供することができる。分析を行った専門家の意見では、この声の持主の年齢は、六十歳をこえていることはありえず、壮年期のものだ、という。
新しい事実が判明したならば、ただちにお知らせする。
[#地付き]ジョージ・カールトン
夏川は読み終って思わず呟いた。
「スペイン系と東洋系の混血か。特徴があるようでいて、じっさいは、きわめてつかみづらいな。もしかすると、日本人のように見えるということじゃないか」
「そういうことですね。もし日本語がペラペラだったりしたら、見分けがつきませんね」
「それでも、カールトンは、これだけの材料を提供してくれたのだ。すぐに声紋を送ってもらうように、手続しなければならない」
「ブラッドというやつ、日本にもぐりこんでいるんでしょうかね」
「ぼくがやつの立場なら、そうしているだろうな。各空港における荷物のチェックシステムは、百パーセント完全ではないんだ。分解されたライフルを持ちこむことは不可能だ、と断言する自信はないものね」
「それはそうです」
と丸目はいかにも残念そうにいった。
「もしかすると、いまごろは下見しているかもしれないな」
そういって、夏川はかすかに身ぶるいした。
5
ブラッドは、双眼鏡を持って、下田へ出かけた。
カーター大統領と市民との対話集会が予定されている下田中学校体育館は、おそらく日本の警官とシークレット・サービスで埋めつくされるはずである。
スナイパーG3を持って、そこに近寄るチャンスは百パーセントないだろう。むしろ、ピストルのような小型の銃器の方が接近しやすい。
しかし、彼はピストルは持ってこなかった。土沢を射殺したサイレンサーつきのピストルは、サンフランシスコで棄ててきた。ピストルは、アメリカにおいては、いつでも入手できる。
スナイパーが偉力を発揮するのは、一定の距離から狙えるからである。平面的な中学校の体育館では、三百メートルも離れてしまうと、かえって狙いにくい。
ブラッドは、アメリカの最初の総領事館が置かれた玉泉寺へ行ってみた。
寺の前の道は幅四メートルくらいのものだった。大統領の専用車は、おそらく方向転換もできないだろう。
山門は道路より高いところにある。
ブラッドは階段を上った。目の前に本堂があった。右手の道が、資料館に通じている。カーターはそこへ行くはずである。
ブラッドはその道をたどってみた。崖の中腹にあって、周囲は民家である。この民家にも、警官が配置されるだろう。かりに、かれらを倒して、狙撃するチャンスをつかめたとしても、こんどは逃げるチャンスがまったくない。
ブラッドは本堂の前に戻った。
左手に墓地があった。本堂の屋根くらいの高さの岡になっている。そこへ立ってみると、ペルリといっしょにきた水兵五人の墓があった。
カーターはおそらくここへ詣《もう》でるに違いなかった。日本人にもアメリカの選挙民にも、大いにうけるはずである。
そこに立って周囲を見渡すと、本堂の背後が山になっていた。頂きから墓までの直線距離は、約二百メートルだった。
さらに、左手の下田の市街をへだてて、標高三百メートルくらいの山がある。墓地からの直線距離は、およそ千メートルだった。
千メートルなら、有効射程距離である。当日の風速にもよるが、命中させられない距離ではない。そこからサイレンサーを使って射撃すれば、弾丸がどこから飛来したか、とまどうはずである。そして大混乱が起これば、弾丸の飛来方向をそくざに判定することは、不可能に近い。
いや、ゴリラという仇名をもっているシークレット・サービスのやつらなら、それくらいは判定するかもしれない。しかし、連中のもっているMG221MPでは、こっちに当る心配はない。
下田集会は六月二十七日の予定だった。
この日は、ブラッドにとって必ずしも都合のいい日ではなかった。なぜなら、予定では西独のシュミット首相、イタリアのアンドレオッチ首相、フランスのジスカールデスタン大統領、イギリスのサッチャー首相らが羽田に到着することになっているのだ。
ただし、これはあくまでも予定であった。まぎわになって変更されるかもしれないのである。
ブラッドにとって、かれら、あるいはかれらのなかの誰かを狙うチャンスは、一回きりであった。その場合、標的の数が多いほど、狙撃するがわに有利である。
下田においては、標的は一人しかいない。夫人のロザリンや娘のエミーは標的とはなりえない。
ブラッドは、用意された六発の特殊被甲弾を六人の首脳に一発ずつ進呈したかった。それができれば、彼のプロフェッショナルとしての誇りは、じゅうぶんに充足される。
順位をつけるなら、カーター、ジスカールデスタン、シュミット、アンドレオッチ、クラーク(カナダ首相)、そしてオーヒラの順だった。女性のサッチャーは、彼としては、標的から除外していた。あえてきざな言い方をするなら、暗殺の美学ということになる。
FBIに虫ケラのように殺された六人のことを考えると、ブラッドは、カーターだけはどうしても仕とめたかった。かれらを殺したときの大統領はカーターではなくて、ニクソンだったが、殺されたがわにすれば、同じことなのだ。要するに、かれらは権力機構の具現者なのである。ブラッドにとっては、それでじゅうぶんであった。
下田においてカーターを狙うことは、他の五人に五発の弾を送るチャンスをつぶすことになる。
それを考えると、当初の計画どおり、迎賓館に集ってくるかれらをまとめて狙うべきだった。予定狙撃地点から標的までの距離も、その方がはるかに近いのである。
ブラッドは、墓地を下りる前に、念のために双眼鏡を山の尾根へ向けてみた。
「おや」
思わず呟きがもれた。一人の若い日本人がやはり双眼鏡で玉泉寺の方を観察しているのが、林の間から見えたのだ。
ブラッドは、この日、東京へ戻ると、デパートで次の品物を買った。
折りたたみ式のスチール梯子。上下つなぎの木綿作業衣。キャラバンシューズ。水筒。殺虫用エアゾル。ポケット型懐中電灯。登山用寝袋。濃いグレイ色の吹きつけペンキ。そして、ゴム製品。
それから彼は、京橋の木工店へ行き、ベニヤ板を買って、その場で、計測してあった寸法通りに切断してもらい、ついでに接着剤も買った。
スチールの梯子とベニヤ板は、重くはないが、かなりかさばるものだった。彼は、後でとりにくることにして、いったんホテルの五八二〇号室に戻った。
ルームサービスのコーヒーをのみながら、リビングのゆったりしたソファに坐って窓の外を眺めると、迎賓館の全景がひろがっている。そこから見ると、迎賓館はEの字型である。
ホテルに面している一階の部屋は「花鳥の間」と呼ばれている。ここでは、サミット第一日目に昼食会が行われるはずだった。
だが、建物の全てには、強度の高い防弾ガラスがはりめぐらされている。五十メートル以内の至近距離ならば、G3の改造型特殊被甲弾で楽に貫通できるが、五百メートル以上も離れているのでは、防弾ガラスに負けるだろう。かれらが、この建物の中に入っている間は、ブラッドは手を出すことはできないのだ。
ブラッドは、ホテルにチェックインしてから、あらゆる角度から迎賓館を観察してみた。その結果、五八二〇号がやはりもっとも条件がよいという結論に達した。
一階上の五九二〇号室も、迎賓館をのぞき見る点においては、五八二〇号室よりもまさっているのだが、この階は、廊下に、監視用テレビのカメラが据えられていた。つまり、五九二〇号室に近寄ったり、あるいは出てきたりするものは、すべてカメラの視界に入ってしまうのである。
カーターら各国首脳は、防弾ガラスの車で正面に到着する。しかし、ホテルのどの部屋からも、正面を見ることはできなかった。両翼に張り出した東館西館が、車寄せを覆いかくすかっこうになる。唯一のチャンスがあるとすれば、本館一五〇二号室から狙うことだが、その場合は、誰か一人を狙うことになる。六人に一発ずつというわけにはいかなかった。
いずれにせよ、かれらは建物の中に入っている間は絶対に安全である。
(しかし、会議のために、いったん入ったら終るまでは外へ出ないだろうか)
とブラッドは自問してみた。
(必ず出てくる)
とブラッドは確信するのだ。
あの連中は、すべて政治家なのである。政治家は、芸能人よりも、ナルシズムが強い。かれらほど自分の姿がテレビや写真に出ることを好む種族はいない。
それらが集った場合に、テレビや写真を拒否するだろうか。そんなことは、ありえないのである。自分が世界の指導者の一員であることを自国民に宣伝するこのチャンスを、むざむざと見送るはずはなかった。
まず、会議に先立って、テレビカメラや新聞写真班による撮影が許されるはずである。しかし、この図柄の一枚だけで、マスコミは満足するだろうか。かりにマスコミが満足したとしても、かれらの方が満足しないだろう。
両サイドの要求が合致して、別の図柄の写真撮影が行われるに違いない。一枚目が屋内ならば、もう一枚は屋外でなければならない。そして、迎賓館は、南がわにメイン・ガーデンをもっている。もっとも、これは建物の常識として当りまえである。北がわにメイン・ガーデンをもつわけにはいかない。
そのメイン・ガーデンに、かれらが勢揃いして、写真撮影に応ずるのは疑問の余地がないように思われる。
日本の警察官やシークレット・サービスの連中は、きっと渋い顔をするだろう。このときこそ、首脳たちはまったく無防備の状態に置かれるのだ。
しかし、警備するものたちの要請も、政治家のナルシズムには勝てないはずである。かれらは揃って、ブラッドのスナイパーの銃口の前に姿をさらすことになる。五八二〇号室からは、バルコニイに続くメイン・ガーデンが、何の障害物もなく丸見えであった。
ブラッドの口もとに満足の笑みがひろがった。
そのとき、電話が鳴った。ブラッドは少し緊張して、受話器をとりあげた。
「こちらフロントでございますが……」
「何だね?」
「ご承知かと存じますが、当ホテルは、首脳会議の代表宿舎になっておりまして、申訳ございませんが、二十四日の正午までで、お客さまにチェックアウトしていただくことになっております」
「わかっている。二十四日からは、別のホテルを契約してあるから、その日にそっちへ移るよ」
「まことにご不便をおかけして申訳ございません。来月一日からは、平常どおりになりますので、よろしくお願い致します」
「オーケイ」
そういってブラッドは電話を切った。
六月二十二日、ブラッドは念のためにホテル・オークラを実地に調べてみた。本館と新館とあり、アメリカ大使館・同公邸に隣接している。新館の方は、アメリカ代表団の一行がそっくり借りあげ、国務長官らが宿泊することになっている。
本館は地形の関係で、最上階の部屋から見ても、大使館内をのぞき見ることはできなかった。
新館の方は、狙うものにとっては、有利だった。ことに、一一〇二号室は、公邸の南面と庭が丸見えだった。
南欧ふうの二階建てのどこかに、大統領は泊るはずだった。そして彼は、この庭をジョギングするのではないか。たぶん、三周、四周とするはずである。その間、ゆっくり狙うことができる。
ブラッドは、この新しい発見に魅力を感じた。カーター一人を、ここからならば確実に倒すことができる。
ブラッドは、館内の公衆電話を使って、フロントを呼び出した。
「前にきみのホテルに泊ったことのある旅行者だが……」
と彼は英語でいった。
「ありがとう存じます」
「新館の一一〇二号室だったと記憶しているが、とてもいい部屋だった」
「スイート・ルームでございますね」
「また利用したいんだが……」
「ご予定はいつでしょうか」
「今夜から二泊だが、もしできるなら、従者用に隣りの部屋も……」
「申訳ございません。じつは、あしたの正午限りで、新館は借り切りの形になっておりまして、本館でしたら、同じ規模のお部屋があいております」
「借り切り? どうしてだい?」
ブラッドはトボけて聞いてみた。
「はい。首脳会議が東京で開かれることになっておりまして」
「わかった。それでは、次の機会にしよう」
ブラッドは電話を切った。もしかすると、唯一のエラーをしたのかもしれない、という気がした。
6
梶谷が、社会部へ行くと、原稿に朱筆を入れていた江波が、待っていろというふうに顎で合図した。部長の速水はいなかった。いれば、何かいやみの一言もいわれるに違いなかった。
江波は朱筆を入れ終ると、梶谷を新聞社の裏手にある喫茶店に連れ出した。江波はコーヒーを注文してから、
「こんなことはいいたくないが、車の使い方には気をつけてくれ。速水は仏頂面をしていたぞ」
「どうもすみませんでした」
梶谷は頭を下げた。すると江波がいきなり斬りつけるようにいった。
「きみは山木の女といつできたんだ?」
梶谷は顔を上げた。全身の血管がいっきょにふくれ上るような衝撃をうけていた。
(そんないい方はない!)
と梶谷は心の中で叫んだ。
「それともきみは、山木の殺された事件や猪川のことも取材するために、あの女と寝たのか」
「違いますよ」
梶谷は憤然としていった。
「本気で好きになってしまったのか」
「江波さん、そのことで、ぼくはとやかくいいたくありません。また他人からもあれこれといわれたくもないんです。ぼくを処分するなら、好きに処分してくれませんか」
「バカ。おれは、車のことについて、ミミッチイことをいう気はない。そういうのは速水に任せておけばいい。極端ないい方をするなら、社用も私用もあるものか、と思っているんだ。ただ、きみにおれの真意がわかるかどうかは別として、このさい、いっておきたいことがあったんだ」
江波は額の汗を素手でぬぐってから、運ばれてきたコーヒーを飲んだ。そして、
「おれは若いころ、ある女を好きになったことがある。いまから思えば、どうということのない女だった。しかし、そのときは、その女以外の女は、女とは思われなかった。まったく、こっけいな話だが、そうだったのだ」
「いまのぼくが、そうだというんですね」
「最後まで聞けよ。おれは、その女の前で、いいところをみせたかった。いっしょに食事をするときは、生意気に一流のレストランなどに行ったりしたものさ。そんな金もないくせにね。だから、借金だらけになったものだよ」
「その点は気をつけますよ」
梶谷はいくらか心を和ませて応じた。
「気をつけても、女の魅力にはかなわない。人間というのは、どんな人間でも、おそろしく愚かな一面があってな、追いこまれると、善悪の判断がつかなくなる。そのときのおれがそうだった。ある事件がきっかけで、何とか立ち直ることができたが……」
「江波さんに、そんな時期があったとは、夢にも考えませんでしたよ。彼女から聞いた話では、山木のぬれぎぬをはらしてやったり、若いころから颯爽としていたんじゃないですか」
「そんなことを、きみに喋ったのか」
「ええ。江波さんの若いころの彼女がどういう人だったかは知りませんが、ぼくらは互いにありのままの姿をさらけ出すことにしたんです。ゆうべも、彼女とは明け方近くまで、海を眺めながら話合いましたよ。モーテルで山木と会っていたのは、彼女なんです」
江波は無言でタバコに火をつけ、梶谷をじっと見つめた。梶谷は続けた。
「山木が彼女とどこかで待合せるときは、前から猪川の名前を使っていたそうです。本名では何となくいやだったみたいですね。猪川さんには悪かったけれど、どうせ誰にもわからないのだから、と彼女はいっていましたよ」
「それで?」
「彼女は山木とは前から別れる決心をしていたんです。山木はあの日、ゴルフに行くことになっていました。土曜日はよく行っていたんですね。ゴルフのあと、彼は中華街あたりで食事をしながら、きちんと話をつけようといったのを、彼女の方からモーテルにしようといったんですね」
「変な話だな」
「変じゃないですよ。そうやって彼女は自分を験《ため》そうとしたんですから」
「エキセントリックな女だな。まァ、いいだろう。きみの気持はわかったよ。そこまでのめりこんでいる男に、アカの他人のおれがこれ以上は何もいうことはない」
「でも、一つだけ、相談にのってくれませんか」
「何だ?」
「合同捜査本部は、モーテルに現われた女を追っているんです。しかし、ぼくは彼女を連中の前に差し出すことはできない。どんなことがあっても、それはできない!」
「しかし、いつかはわかるぞ」
「だからこそ悩んでいるんです」
梶谷は身をよじるようにしていった。
「悩んだところでどうにもならん。警視庁を担当しているくせに、警察というところがどういうところか、きみにはわかっていないのか」
「どういう意味です?」
「そうだなァ」
江波はちょっと考えてから、
「捜査にあたる連中というのは、いってみれば兜首《かぶとくび》を狙っている雑兵と似ている。首を取るためには、汚いといわれようが、やりすぎといわれようが、それこそ何でもするものさ。それに捲きこまれたら、どうにもならない。しかし、雑兵ばかりが警察じゃない。相手の兜首よりも、自陣の大将の安全を第一に考える旗本や軍師もいる。この矛盾した両者が一体となっているところが、警察というところなんだ」
といい、話は終りだというように腰を上げた。
梶谷は記者クラブに戻った。江波の言葉がよく理解できなかった。
旗本や軍師、つまり丸目や夏川は、来日する首脳の安全がまず第一であり、山木の事件の解決なぞは、二の次三の次にしているということだろうか。
サミットが終れば、雑兵たちは、山木の事件に戻ってくる。しかし、三十日までは、そんな余裕はない。合同捜査といっても、実質的には、神奈川県警にゆだねることになる。だから雑兵たちが戻る前に、丸目や夏川に久子のことを伝え、その件に関しては決着をつけてしまえというのだろうか。
久子は事件には無関係だといった。それは梶谷も確信している。久子は警察の調べをうけることは、いやがってはいない。週刊誌などに山木とのことで、あることないことを書き立てられることをいやがっているのだ。
丸目や夏川に、久子の取調べを伏せてくれるように頼むことは、必ずしも不可能ではなかった。ことに、夏川あたりならば、わかってくれそうに思われる。
しかし、下手をすれば、俗にいう藪ヘビということもある。また、その前に、久子が承知するかどうかである。
いかなる形にせよ、久子のことを活字にしたくないのだ。その気持がわかってもらえるかどうか。この話を切り出しただけで、久子は怒り出すのではあるまいか。
それにしても、刑事は兜首を狙う雑兵みたいなもので、汚いといわれようが、やりすぎといわれようが、何でもするものだという江波の言葉を、当の雑兵たちが聞いたら、どういう反応を示すだろうか。髪の毛を逆立てて怒るに違いない。
梶谷には、江波がそういう考えをもっていたとは、意外であった。江波が古い刑事たちの間にいまもって奇妙な人気をもっているのは、そういう下級刑事の功名心を見抜いていて、何くわぬ顔でかれらを子供でもあやすようにあやしていたからだろうか。
もしこの推測が当っているとすると、江波のことをなつかしがっている古手の刑事たちは、江波の心の底にあるものに気づいていないことになる。
夏川の部屋に丸目が入ってきた。手に紙を持っている。
「鹿児島空港から入国した外国人のリストが送られてきましたよ。サンフランシスコの事件以降ですと、六月十二日と十九日の二回で合計三十五名です。このうち、女性と子供を除くと、二十二名になりますね」
「入っているとすれば、十二日だろう。その日は何人だね?」
「十名です」
丸目はリストを机上に置いた。
イギリス人一、アメリカ人一、パプア・ニューギニア人三、オーストラリア人五、である。
十九日の十二名を調べると、オーストラリア人が五で、あとはアメリカ人、フィリピン人が各二、韓国人三であった。
「そのリストの韓国人三名は、鹿児島から福岡へのりついで、その日のうちにソウルヘ向っています」
と丸目がいった。
「オーストラリア人が多いね。二回とも五人だ」
「同じ苗字《みようじ》の人が女性にもいましてね、どうやら観光ツアーの夫婦らしいですよ。年齢的にも、五十代以上です」
「このパプア・ニューギニア国籍の人は除外していいだろう。ああいう遠くの国の旅券を改造するとは考えられない」
「そうしますと、イギリス人一、アメリカ人三、フィリピン人二の六名でいいことになりますね」
「都内のホテルに、この名前の客が泊っているかどうか、調べさせてくれ」
と夏川はいった。
独りになってから、彼は、もう一度、リストを眺めた。この六人のなかに、ブラッドが入っているかどうか、わからない。年齢的には六人とも、二十八歳から四十五歳までとなっている。カールトンの資料では、ブラッドは三十歳前後となっているが、外国人の年齢は判じにくいのだ。
ドアがノックされ、梶谷が顔を出した。
「ちょっと、いいですか」
夏川はごく自然にリストを伏せた。
「困ったな。そろそろ臨戦態勢で忙しいんだが……」
「山木の事件でね、参事官に相談したいことがある」
「あの件は、正直にいって、神奈川県警さんを頼りにしているんでね。まァ、サミットが終ってから、こっちも本腰は入れますがね」
「仮定の話としてね、もし、モーテルの女をうちの社で見つけたとしたら、どうします?」
「そりゃ、捜査に協力してもらいますよ」
「その場合、秘密にしてくれますか」
「そうねえ……話の様子では、どうもおたくの社でその女をキープしているみたいだね」
「いや、キープはしていない」
「要するに、取引したいわけね」
「考えてくれますか」
「変に条件をつけずに、協力してくれるのがもっともいいんですがね」
「そうすると、話の余地はないわけ?」
「夕方まで待ってくれる?」
「待ちますよ」
梶谷は唇をかみしめて出て行った。そんな話を持ち出したことを後悔したのかもしれなかった。
それを待っていたかのように、入れ違いに丸目がせかせかと入ってきた。
「いま静岡県警から緊急報告が入ってきました。下田市のはずれの山の中で、事前チェックにあたっていた機動隊員が、アメリカ製のラジコン機をもった男を見つけたそうです」
「いつだ?」
「つい一時間ほど前のことです」
「名は?」
「名のっていません。年齢三十歳くらいだそうです。下田署に同行を求めて、調べているそうですが、どうもラジコン機をもっていたというだけでは、被疑者扱いにはできないわけで」
「それはそうだ。しかし、その男が猪川達志だとは考えられないのか」
「じつはそうではないか、という気がしているのです。ただ猪川には前科もありませんから指紋もありません。誰か知った人に確認してもらわなければ、どうにもならんのです。一つの方法としては、山木殺しの重要参考人ということで、身柄をもらってくることが考えられますが……」
重要参考人というのは、人を拘束して調べる場合に、警察にはきわめて都合のよい口実となる。しかし、それだけでは、本人を拘留することはできないのが建前だった。
その建前どおりに法を運用すれば、猪川らしき男を放つしかないのだ。
「アメリカ製のラジコン機か。かりに、大統領が下田を訪問するときに飛ばすつもりで、その男がテストしていたのだとしても、本人がそう自白しない限りは、どうにもならないな。とりあえず下田署に留めておいて、こっちから誰か行かせてくれ。猪川の写真があったはずだから、その写真をもたせるんだ」
「もし猪川だったら、どうします?」
「身柄をもらってくるんだ」
と夏川はいった。
好ましいやり方ではないことは、百も承知であった。憲法学者ならば、警察力をそこまで行使するのは行き過ぎだ、と批判するだろう。
それは夏川にも、よくわかっていることであった。そして、わかっていながら、とめられないのである。公安の最終的な責任は、総監や部長が負うにしても、実戦部隊の指揮は夏川に任されている。各国首脳の安全を守ることによって、サミットを無事に終了させるためには、多少の勇み足もやむをえない。何かが起きてからでは遅いのだ、と夏川は、自分にいい聞かせた。
この瞬間、ふと彼は、十五年前に死んだ父親のことを思い出した。
夏川はしばらくの間、化石のように動かなかった。
それから彼は電話をとりあげ、中央日報の社会部の江波へかけた。
「江波ですが、どなた?」
ぶっきらぼうな声が聞こえてきた。
「警視庁公安部の夏川といいますが……」
「お名前は聞いていますよ」
「じつは、さきほどおたくの梶谷さんがわたしのところへお見えになって、横浜の事件のことでご相談があったのです。お聞きになっているかとも思いますが……」
江波は、聞いているともいないとも、返事をせずに、
「それで?」
とうながした。
「そのことで、今夜にでも、お目にかかりたいのです」
「いいでしょう。場所と時間は?」
「ニューオータニ本館の最上階に回転レストランがありますが、そこで午後七時」
「わかりました。じゃ、梶谷を連れていった方がいいんでしょうな?」
「恐縮ですが、江波さんお一人できていただけますか。わたしも一人で参ります」
と夏川はいった。
江波は承諾した。どういう感情で江波がいまの申出をうけとめたか、夏川には想像できなかった。
夏川は、丸目に行先を告げて、六時四十五分に警視庁を出た。丸目には、
「私用に近いんだが、一時間ほど出てくる。もし何かあったら、電話をかけるなり、あそこの警備本部の誰かを寄こしてくれ」
といっておいた。ホテルには、すでに警備本部が置かれて、多くの刑事が詰めていた。
夏川は、七時少し前に、レストランに入った。このレストランは、一時間に一回転するように作られている。神宮球場のナイターの照明が、迎賓館のかなたの夜空を明るくしていた。
江波は、七時きっかりにやってきた。二人は初対面だったが、夏川が入口のレジの係員に伝言しておいたのである。江波は上着を手にかかえていた。シャツの胸ポケットから名刺を出して、
「江波です」
といった。夏川も名刺を出して挨拶した。
「お忙しいところをお呼び立てして……」
「公安の参事官に話があるといわれたのではね、忙しいも何もあったものじゃない」
「どうも恐縮です」
夏川はボーイに食事を注文したが、江波はとりあえずビールだけでいい、といった。
「だいたい夏は弱いたちでしてね、しかるに、ことしは六月だというのに真夏日がもう十日以上も続いている。異常な夏だという気もするが、いずれにしても、こう暑くては食欲もわきませんよ。しかし、夏川さんは、名前からしても夏は強そうですな」
「それほどでもありません。ただ、いまは仕事が立てこんでいるものですから、栄養は補給しておきませんとね」
「そりゃそうだ。もうすぐ本番ですな」
初対面同士の、何ということもない会話のようでもあったし、胸に一物をひめての探りあいともいえた。
「ええ、何事もなく終ってほしいですよ」
「ちょうどいい機会だからおたずねしておきますが、サンフランシスコで土沢警部を殺した犯人については、その後、何か入っておらんのですか」
「残念ながら、あれっきりです。早くつかまってほしいと思っているんですが……」
「そうかな。たとえば、大統領たちを狙っているやつが日本に潜入したという情報が入っていても、新聞記者に、それをいうわけにはいかんしね」
江波は皮肉な口調でそういい、運ばれてきたビールをのんだ。ようやく江波らしいペースを取戻したようだった。
夏川は意を決した。
「江波さん、こうやってお目にかかるのは今夜が初めてですが、個人的なことをいいますと、初対面という気がしないのです」
「ほう。いろいろと噂を、それもあまり芳しくない噂を聞いているわけですな」
「あなたがサツ回りをしていたころのことを知っている古手の刑事は、かなりおります。連中はあなたのことを、なつかしがっていますね」
「まさかね」
「いや、本当です。しかし、わたしはあなたのことを別の機会で知りました」
江波が、おや、というふうに夏川に視線をそそいだ。夏川は、
「わたしは、あなたの名前をおやじのつけていた日記から知ったのです」
「おやじさんの日記?」
「そうです。十五年ほど前に、所轄の警備係長をしていた、夏川仙吉という警部補をご記憶ですか」
「夏川警部補の……あんたは子供?」
「そうです」
江波は沈黙した。あきらかに動揺していた。夏川はいった。
「おやじが死んだのは、東京オリンピックのあった年の夏でした。わたしは、すでに商事会社に採用が内定していたんです。大学の四年でしたから。しかし、おやじが死んでから上級職試験に間に合ったので、商社をやめて受けたのです」
「知らなかったな。あのとき葬儀には行ったが……」
「よく覚えていますが、暑い日でした。ですから厳密にいうと、初対面ではないわけですね。もっとも、こうしてお話しするのは、きょうが初めてですが」
「そうか、そうだったのか」
と江波が遠い過去をまさぐるような口調で呟いた。
「おやじの日記を読みますとね、おやじは、管内の大学の学生たちの情報をとるために、知合いの新聞記者に謝礼を払って、情報を集めていたそうです。警察官が入ったことがわかるとトラブルになるが、記者ならば自由に大学の構内に入れますからね。もっとも、そうまでして情報集めをする必要があるかどうかという問題はあります。でも、おやじはよくいっていましたよ。警察という機構の中では、旧制の中学しか出ていない自分たちは、足軽雑兵みたいなものだ。兜首を討ち取らない限りは、先が知れている、とね」
「なるほど」
「おやじは、その記者をいわば手先にしていたわけですが、記者はしだいにそのことがいやになってきたんですね。そのへんの事情は日記からは、判然としません。ところが、おやじは、手を切りたいという記者をおどかしたようです。協力しないなら、全部バラしてしまうぞってね。自分のおやじですが、ほめたやり方ではありません」
「それが事実なら、汚いやり方といっていいね」
「そうです。でも、これが公表されると、警察の方だって、困ったはずなんですがね」
「そんなことはないさ。なぜなら、記者会見してこういう事実がありました、と発表するわけではない。それとなく噂をひろめて行く、というやり方をするだろう。そして問題化したところで、警察は、そんな事実はなかった、と署長あたりがもっともらしい顔でいう。それですんでしまうんだ。しかし、記者の方はそうはいかん」
「そういうものですかね」
「新聞社の中で、いったん警察のスパイをした男だという烙印《らくいん》を押されてしまえば、記者としては致命傷だ。警察はシラを切って一件落着にできるが、新聞社はそうではない」
「つまり、おやじは、ほとんど傷を負わずにすむが、記者の方は二度と起き上れない、というわけですか」
「そのとおり」
江波はきっぱりといい、
「それで、日記には、その記者の名前が書いてあったんですか」
「その人のことは、略号で書かれていましたよ。Sの字を丸で囲んであるだけでした」
「スパイということだね」
「そうですね。じつは、おやじは、死んだ夜はいったん帰宅して、食事もとったのです。そこへ電話があって、おやじは浴衣のまま出かけました。そして、その晩は帰宅せず、朝になって、近くの川に落ちて死んでいるところを発見されました」
「そうだったな」
「前後の状況からして、おやじに電話してきたのは丸Sで、おやじは会いに出かけたんでしょう。しかし、会っているときに、川に突き落されたのではないか、その人との間に争いがあって、もののはずみかもしれないが、そうなったのではないか……」
「あのとき、一人の記者が、じつは疑われたんだ。まだ記者になりたてで、学生時代には自治会の役員をしていて、記者になってからも、大学にはよく出入りしていた。そして、そいつには、はじめのうちは、アリバイがなかった。本人は、アパートで寝ていたといっていたが、裏付けはなかった。あとで事件のあった時間にアパートヘ電話をして彼と話をした、と証言する人が出てきたがね」
「その若い記者というのが、この前、ラジコンで殺された山木氏ですね」
「日記に、そういう名前で書いてあったのかね?」
「日記は丸Sだけです。でも、結局は、その山木氏も疑いがはれて、おやじは、酔って足をふみはずしたのだろう、ということになりました。公務中ではない、ということで、特進もせずでした。子供のわたしは怒りましたがね、結局はどうにもなりません」
「過失にしろ事故死にしろ、記者をスパイに使っていたことを明らかにしない限りは、殉職扱いにはできないからだ」
「ええ、あとで非公式に上司だった方がいいましたよ。そういうことを認めて殉職にすれば、警察は全新聞社から袋叩きになるってね。それでも、若かったわたしは納得しませんでした。わたしが商社をやめて、嫌っていたこの道に入ったのも、いつかは真相をつきとめよう、少くとも、自分だけは知っておきたい、と思ったからなんですね」
「ひじょうに興味深い話だったな」
「ついでということもあるから、あえていいますが、山木氏の殺害は、十五年前の事件が原因になっていると思うのです。毎朝新聞に電話をかけてきた反東京サミット人民戦線なんていうのは、犯人が目くらましのためにデッチ上げたものではないかという気がしているのです」
「ほう?」
「山木氏は、十五年たって、何かのことで、たとえばシスコで死んだ警官が殉職にならないのはなぜか、というようなことが誰かとの間に話題になって、自分が疑われた事件の真犯人の見当がついたのではないか。当時はわからなかった真相が見えてきたのではないか。あるいは、その前にすでに気がついていても黙っていたことを、ふと洩らしてしまったのではないか。そして真犯人の方も山木氏に気づかれたことを悟り、誘い出して、その口を封じてしまったのではないか……」
「いろいろ想像するのは自由だがね。しかし、山木の身辺の人間で、ラジコンにたくみなのは、猪川だけだ」
「公表はしていませんが、猪川は、きょうの午後、下田で不審尋問にひっかかりました。アメリカ製のラジコン機を使って、カーター大統領を狙う計画だったようです」
と夏川はいった。
江波は唇をぎゅッとかみしめた。激情が彼の内部で荒れ狂っているかのようだった。夏川は続けた。
「猪川はその件については黙秘権を使っていますが、サミットの事前チェックが原因で、会社を辞めさせられたことで、サミットそのものを恨んでいることは確かです」
「ちょうどいい機会だ。遠慮なくいわしてもらうが、警察の警備は行きすぎだよ。そのために、別の犯罪をつくり出しているんだ」
「それは、ご意見として承っておきます」
「あんたは、立派な警察官僚だな」
「必ずしもそうとは思いません。現に十五年前のことについて、自分の知っていることを捜査の連中にも話していないのですから」
「それはね、サミットを第一に考えているからだ。山木の一件は、サミットが終ってからでもいい。サミットの前に、昔の警察の古傷をほじくり出して、マスコミの協力を失ってしまうと、厄介なことになる」
「それは考えすぎです」
「そうかな? それに、あんたが犯人と考えている人物も、ラジコンができない。それでまだ伏せているんだ」
「ラジコンが使えなくても、あの事故は起こせます」
「どうやって?」
「ラジコンなどは使っていないんですよ。陸橋の上から山木の車に、ラジコン機の胴体だけを落下させればいいんです。そして、あとから両翼も落しておけばいい。じっさいに捜査の連中が思い違いをしているように、ぶつかったはずみで両翼がふっ飛んだように見えるんです」
江波は黙っていた。夏川は、
「ただ、どうやって山木の車だと識別できたのか、ちょうど満月に近い月で、明るかったにしても、その点だけは、わたしには考えつきません」
「あんたのことだ。やがては考えつくだろうな」
江波はそういって立ち上った。夏川は、最後の一撃を加えた。
「いい忘れましたが、おやじの日記に出てくる丸Sは、よく読むとわかるのですけれど、一人の記者ではなくて二人の記者なのです」
江波は振り向いて、
「あんたのおやじさんは、やっぱり、やりすぎだったんだよ」
といい、足早に去って行った。
夏川はそれを見送ってから、太い吐息をもらした。全身、汗びっしょりになっていた。
翌朝の中央日報に、下田で不審尋問にひっかかった猪川のことは、一行も報道されていなかった。
7
カーター大統領の一行は、六月二十四日、羽田に到着した。一行は無人の高速道路を走って赤坂のアメリカ大使公邸とホテル・オークラに入った。沿道のビルというビルの屋上には、警官が配置された。
二十五日、カナダのクラーク首相が到着した。クラーク首相らは、ヘリコプターで宿舎のホテル・ニューオータニに入った。
二十六日、西独のシュミット首相が、予定を一日はやめて到着し、やはりヘリコプターでニューオータニに入った。この日、カーター大統領は、大磯の旧吉田部で日本の首相と会談した。配置された警官は約七千人、沖合には、海上保安庁の巡視艇が五隻も出動した。そして大統領に花束を贈ろうとした女高生は警官にさえぎられ、徹底的に身体検査をうけた。花束はむろん大統領の手には、渡らなかった。
二十七日、アンドレオッチ首相、ジスカールデスタン大統領、サッチャー首相が到着した。そして、カーター大統領夫妻と愛嬢エミーちゃんは下田を訪問した。
この日、三十一人の文化人が、目にあまる過剰警備は人権侵害であるとして、当局に抗議した。また、外国人記者の中には、戒厳令下と同じであるという記事を本国へ送るものも多かった。
二十八日午前九時十五分、クラーク首相を皮切りに、首脳たちは迎賓館に続々と姿をあらわした。
午後一時ちょっと前、メイン・ガーデンに面した扉がひらかれ、日本の首相を先頭に、かれらはいっせいに姿をあらわし、階段を下りて、庭を散策しはじめた。噴水が涼しげに高々とふき上った。かれらは、日本の首相を中心に、ポーズをとった。許された少数のカメラマンが五分間だけ、撮影を許された。カメラマンたちは、何回も検査をうけた上、二時間も前から撮影場所に集められ、汗まみれになりながら待機させられていたのだ。
「くそォ、頭にくるなァ」
カメラマンの一人が、撮影を終えて引揚げるときに、思わず呟いた。
やがて首脳たちは、短い散策を終え、迎賓館の中へ戻って行った。
ブラッドは、この瞬間を待っていたはずだった。
二十三日、ブラッドは外へ出て、食料品を買った。丸型チーズ、サラミソーセージ、ビスケット、干しブドウを一週間分である。
それから彼は、ベニヤ板にグレイのペンキを吹きつけた。
夜になってから、ブラッドは、浴室入口の天井に設けられている配線点検用の四角いボードをはずした。
梯子をかけて、彼は天井裏をのぞいた。チェックインした日に、すぐに調べておいたので、その様子はわかっていた。各種のコードが縦横に天井裏を這っている。空間の高さは約九十センチで、腰をかがめれば、じゅうぶんに這えるのだ。
ごく最近に点検したせいか、塵はそれほどではなかった。
ブラッドは、用心のためにコードの上に足をかけるようにして、寝袋、食料品、水筒など、準備した品を天井裏へ上げた。そして、もっとも奥の部分に運びこみ、それを覆い隠すようにベニヤ板を立てた。
寸法通り、ぴったり切ってあった。横幅は全体で八メートルはあるが、太いコンクリートの柱があるので、それを除くと、五メートルでよかった。
出入口として残しておく一メートルのベニヤ板を別にして、ブラッドは、天井裏のボードとコンクリートの裏天井に、彩色したベニヤ板を立てて接着した。それから彼は、スナイパーG3−78の銃身をおさめた木彫りや望遠照準器を入れたカメラをとり出し、ライフルを組立てた。
念のために、四角いボードから懐中電灯で天井裏を観察してみたが、彼が身をひそめる囲いのベニヤ板は、コンクリートの色とマッチしていて、少しも不自然ではなかった。
翌朝、ブラッドは、ベネゼラの石油成金の従者の姿になって、ホテルをチェックアウトした。
五八二〇号室の鍵は、専門店に頼んで、合鍵を作ってあった。
ホテルを出た彼は、荷物を車につんで、予約しておいた新宿のホテルに移った。
そして十時ごろには、ニューオータニに戻り、五八二〇号室の前に立った。彼は、ドアのノブにかかっている「起こさないで下さい」の札をはずし、合鍵で中に入った。新宿のホテルまで往復した三十分が、いわば、唯一の危険な賭けだった。
彼は、衣裳ダンスに入れておいた折りたたみ式の梯子を見つけて、ほっとした。掃除のメイドは、まだ入ってこなかったのだ。
彼は作業衣になって、天井裏に上った。梯子を引き上げ、ボードをぴったりと置いた。そしてコードを踏んでベニヤの囲いの中に入り、梯子も手もとに置いた。
あとは、ベニヤ板でふさぐだけである。
全ての作業を完了してから、彼は、寝袋に横たわった。下の室内はクーラーがきいているが、天井裏は暑かった。
暗黒であった。
しかし、二十八日までは、ここで頑張るしかないのである。確実に目的を達成するためには、これくらいの孤独に耐えねばならなかった。
二十八日は、ブラッドや殺された六人にとっては、ビッグ・デーになるはずだった。そして、スナイパーの六発の弾丸に倒れる六人にとっても、大いなる災厄の日となるはずだった。
その時がきても、この五八二〇号室から発射されたとは、わからないだろう。何しろ銃声が聞こえないのだから。このホテルだけでも、三千人の警官が配置されるというが、ここはおそらく、首脳の一人が泊るのだ。まさか、ここに狙撃者がひそんでいたとは思うまい。
窓ガラスには、直径八ミリの小さな穴があくだけである。弾丸の初速が異常に速いのでヒビが入ることはない。
狙う箇所は、カーテンの陰にするのだ。そして、射撃し終ったら、透明なビニールテープを貼りつけてしまうのである。
また、部屋の前のドアには、立ち番の護衛官がいるはずである。むろん、その男は、迎賓館の騒ぎに、すぐには気がつかない。護るべき首脳もいないし、油断しているに違いない。
その男を室内に引きこみ、一瞬のうちに始末するのだ。そして、男の胸につけているはずの通行証と身分証明をつけ、背広に着かえて出て行くのだ。
入ってくる外来者には厳重なチェックをしても、逆に出ていくものについては、おろそかになる。まして、胸に通行証をつけているのだ。
天井裏に残っているのは、やはり危険であった。おそらく、丸二日間は、封鎖されるだろう。その間に、窓ガラスの穴が発見されたら一巻の終りである。
ブラッドは、暗やみの中で、すべての手順をくりかえし考えた。どこにも手落ちはなかった。
その日の午後六時ごろ、部屋に何人かが入ってきた。日本の警官と英語を喋る男であった。
「念のために、ベッドの下まで調べてくれませんか。もちろん天井裏もね」
「オーケイ」
ブラッドは身を固くした。自然に息を殺していた。
ボードのはずれる音がした。接着したはずのわずかな隙間から光が動いた。
「異状なしです」
「ご苦労さん」
浴室などのチェックも終り、三十分後に再び静かになった。
検査は二十六日のタ方にもあった。同じように天井裏からベッドの下まで調べた。
その夜、彼はボードをはずして、部屋に下り立った。水筒の水がなくなっていたし、排尿をためたゴム製品も棄てたかった。
明りをつけずに、便所で用をすませ、水筒に水をみたして天井に上った。
なぜか、からだがだるかった。
二十七日の午後になって、全身が火のように熱くなり、高熱を発した。
(どうしてだろう?)
ブラッドは、遠くなりかける意識のなかで自問した。そして、たった一つの過ちを犯したことに気がついた。
ポートモレスビイの山中で試射をしたときに、彼は蚊にさされた。その蚊がマラリヤをもっていたのだ。ポートモレスビイに着いたら、すぐにキニーネを服用しておくべきだった。それをしなかったために、十五日の潜伏期間ぴったりで発病したのだ。
(何という……)
ブラッドは気を失った。
意識をとり戻したとき、部屋の中は静かだった。日付入りの時計を見ると、二十九日の午前二時だった。
だるいことはだるいが、熱は少し下っていた。
こうなれば、この部屋に泊っている首脳の一人を仕とめることで満足するしかない。そうすれば、ともかく残りの五十万ドルは、スイスの銀行に振込まれるのだ。
ブラッドはスナイパーをやめてナイフを持ち、天井から下りて、次の間の寝室に入った。
寝室には、小さなランプがついていた。ブラッドは、ベッドのわきに立った。寝ていた人が寝返りをうった。ブラッドは、はっとした。寝ていた人は、輝くような金髪の女性だった。
女性は何か気配を感じたのか、居心地悪げにからだを動かしてから、うっすらと目をあけた。
その一瞬前──
ブラッドの目からは殺意が消えていた。彼は身をひるがえして寝室を出ると、すばやい身のこなしで天井に上り、ボードで蓋をした。女性とは一瞬、目があったような気もするが、あとはただ運を天にまかせるしかなかった。
その日の夕方、ホテル・ニューオータニで各国首脳の共同記者会見が行われた。質問に立った日本人の記者が、
「サッチャー首相におうかがいします。わたしたちは、あなたがイギリス最初の女性首相ということで、たいへん関心が……」
サッチャーは最後までいわせずに、
「わたしはイギリスの首相」
「しかし……」
「ザッツ・オール《それですべてよ》」
彼女はきびしい表情でいい、天井を見上げた。
夏川は、それを警備本部のテレビで見ていた。
「アイアン・レディといわれているそうですが、たしかにそんな感じですね」
と丸目がいった。
なるほど、そういう気がしないでもない。だが、それだけだろうか。
翌朝、夏川は五八二〇号室へ行ってみた。賓客たちはすべて前夜のうちに去り、係員たちが後始末に大わらわだった。
夏川は、空港担当の同僚から、サッチャー首相が外務省の接待員に、
「天井のネズミがうるさかったわ」
といったということを聞いて、不審に思ったのだ。それは、きびしい調子で記者の質問をはねつけたときのしぐさと何か関係があるのではないだろうか。
夏川は、五八二〇号室に入り、椅子を利用して、点検ボードを押しあげてみた。
くろぐろと鈍く光るものがあった。夏川は手をのばして引き寄せた。ライフルだった。そして悪寒めいた戦慄が彼の全身をかけぬけた。
それを手にして床に降りたとき、誰かが入ってきた。
「やっぱりねえ」
と江波がいった。夏川は振り向いた。
「あんたか。どうしてここへ……」
「テレビを見ていて、気になったんだよ。愛想のよかった彼女がどうして、あの質問にだけ、きっとなったのか。そして、空港へ取材に行った連中から、彼女の離日の感想を聞いて、どうもおかしいと思ったんだ。やっぱり、暗殺者がもぐりこんでいたんだな」
夏川は返事ができなかった。
「それで、そいつは逃げたのか」
「たぶん……」
「どうしてそのライフルを使わなかったんだろう?」
「………」
「いずれにしても、当局は大失態をやらかしたわけだね。どうやら天井裏にひそんでいたらしいが、それを見のがしていた上に、まんまと逃げられてしまったとは」
しかし、痛快がっている口調ではなかった。むしろ長い旅路の果てに約束の地を見失ったような、重い疲労を滲《にじ》ませた声だった。
「あんたは、それを書くんだろうな」
「まだ、決めていない。あんたの出方によるな」
「というと?」
「おれはね、自分のやったことについては、自分で始末をつける。見のがしてもらおうとは思っていない。ただ、そのときがきても、過去に起きたことは、コンフィデンシャルにしてもらいたい」
「秘密にということだね」
「そうだ。そのライフルをもった狙撃者の件を警察がコンフィデンシャルにするように、だ」
「わかった。あんたの望むとおりにしよう。だが、一つだけ聞きたい」
「何だ?」
「どうして識別できた?」
「山木の車をか。山木からは、女と会うことを聞いていた。待合せにはイカワという名前を使うことまでもね。以前、彼はおれを信用していたから何でも喋っていたんだ。おれは山木のところへ電話をかけ、女とうちの若い記者のことで話があるから、料金ゲイトを通過して高速に出たら待っていてくれ、といった」
「それを陸橋から双眼鏡で見ていたんだね」
「おれは電話をかけたとき、会社の車で行くが一時間たっても行かなかったら、あしたにしようといっておいた。山木は一時間たって動き出したわけだ。だから識別できたんだ。あとは、誰かさんの考えたとおりだよ」
「そういうことだったか」
江波はじっと夏川を見据えたのち、目をそらして迎賓館を見た。そして、
「あんたにとっては、きょうは、いい日だろうな」
「さァ、どうだろう」
「いい日だとも。サミットは何事もなく終ったし、十五年間のわだかまりもこれで消えたわけだからな」
「じゃ、あんたは?」
「あまり、いい日とはいえないな。しかし、正直にいって、それはきょうに限ったことではない。十五年前のあの夏の日から、そんなものはなかったような気がするよ。そして山木が若い社員のことで相談にきたとき……いや、もうやめておこう。せめてもの慰めは、新聞記者の誰もがつかめなかったこのサミット・コンフィデンシャル(秘密情報)をこの手でつかんだことかな」
江波は口をつぐんだ。その目は、夏川が手にしているライフルに注がれていた。
もしこの男がこの銃を奪いとろうとするなら、そしてみずからに裁きを下そうというなら、それは成行に任せよう、と夏川は考えていた。
[#改ページ]
あ と が き
一九七九年六月下旬のある日、わたしは、ある新聞社に頼まれた記事を書くために、赤坂近辺を歩いていた。そのときの体験が、この作品のヒントになっている。それからわたしは、注意深く新聞を読んだり、テレビ中継を見たりしていた。
一部の虚構を除いて、この物語では、すべてそのとき以来調査蒐集したデータが使われている。各エア・ラインのタイム・テーブルやライフル銃その他は現実にこの当時のものを用いている。さらに、シンビオニーズ解放軍については、事件直後にサンフランシスコヘある雑誌から依頼されて取材に行き、そのさいFBIサンフランシスコ支局特別捜査官ベイツ氏、ロサンゼルス郡検死局長T・ノグチ氏から教えられた話を基に書いている。ノグチ氏は、マリリン・モンローの自殺を検死した人として知られている。
また一九八〇年六月のベネチアにおけるサミットでは、開会一カ月も前からイタリアの過激派グループ「赤い旅団」が猛威をふるったが、かれらの中に、ブラッドらしい男がまじっていたとしても、それはこの物語とは何の関係もないことである。作品の主題は、お読み下さった方には、わかっていただけると思う。
なお、本編は「オール讀物」一九八〇年四月〜六月号に分載された。そのときは各章の標題のほかに、「サミット・コンフィデンシャル」という通しタイトルが使われた。「狙撃者たちの夏」は単行本にさいして新しく付けられたものである。
一九八〇年五月
[#地付き]三 好 徹
単行本 昭和五十五年六月文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 昭和五十九年十月二十五日刊