シャドウテイカー3 フェイクアウト
著 三上 延
イラスト 純 珪一
失踪から4年ぶりに帰ってきた男、皇輝山《おうきざん》天明《てんめい》。肩は人の影から未来を見通すと称して、街の人々を翻弄してゆく。〈カゲヌシ〉の恐怖を説きながら……。
一方『黒の彼方』は葉《よう》を完全に取り込むため、彼女の記憶を喰らい始めた。それに気が付いた裕生《ひろお》は、『黒の彼方』に対抗するための手段を必死に探し始めるが、ただの高校生でしかない裕生には、そんなものがあるはずもない。追いつめられた裕生は、ある決意を胸に天明のもとを訪れる。
そして祭の夜、燃えさかる炎の中で戦いが始まった……。
人気のホラー・シリーズ第3弾!!
三上《みかみ》延《えん》
1971年生まれ。神奈川県出身。人生ふりかえるとロクなことをしていない気がする。小説を書くのは例外的にマトモなことで、それだけは胸を張って人に言える。他になんかないのか、と言われたら、やっぱり胸を張って「ない」と答える。開き直ってるだけ、とも言う。
イラスト:純《すみ》珪一《けいいち》
黒が愛する黒い絵師。最近引越しが決まって色々と慌ただしくなってる。こういうとき物質転送能力が役立つので、私もカゲヌシと契約しとけばよかった。
プロローグ
フェイクアウト
第一章「亡失」
第二章「帰ってきた男」
第三章「ドッグヘッド」
第四章「嘘つき」
第五章「血祭」
エピローグ
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プロローグ
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こいつはうそつきだ、と少年は心の中でつぶやいた。
しかし、その言葉を誰《だれ》にも伝えることはできない。自分の意志で唇《くちびる》や舌を動かすことはおろか、最近は目を開けていることすら難《むずか》しくなって来ていた。
膝《ひざ》や腰をできるだけ曲げないように設計された、特注の車椅子《くるまいす》に彼は乗せられている。携帯用の人工呼吸器のマスクが鼻のあたりを覆《おお》っていた。数ヶ月前から人工呼吸器の助けを借りなければ、息をすることもできない状態《じょうたい》だった。
「あなた方を心から歓迎しますよ」
と、「うそつき」は言った。車椅子の隣《となり》のソファに座っている彼の祖母《そぼ》は、その言葉にうっと声を上げてハンカチを目に押し当てた。少年は祖母に連れられて、その男の滞在するホテルの一室を訪れていた。
「世の中には真理に近い人間と、そうでない人間がいます。それがいつの時代でも人の世の本質です」
「うそつき」は細身の黒いスーツを身につけ、長髪を後ろで縛《しば》った四十代前半の男で、少年たちの向かい側にあるソファから身を乗り出すようにしていた。よく日焼けした顔には深い皺《しわ》が刻まれている。彼の傍《かたわ》らにはスーツと同じ色のマントとステッキが置いてある。見た目はまるで手品師だった。
(こいつはうそをつくのをたのしんでる)
と、少年は思う。時々、男の頬《ほお》がかすかにゆるむのが分かった。
(騙《だま》されている人を見るのがほんとに嬉《うれ》しいんだ)
「あなたはお孫《まご》さんを治療《ちりょう》するために、最善の努力を尽くされて来た。私にはそれが分かります。どんなに長く、苦しい旅路だったことか、それを本当の意味で理解できるのは私、この皇輝山《おうきざん》天明《てんめい》だけです」
芝居《しばい》がかった男の言葉に、彼の祖母はぐすっと鼻をすすり上げた。天明と名乗った男は、少年ではなく彼の祖母だけに話しかけている。
「そして、真理の導《みちび》きにより、今お二人とも私の目の前におられる。全《すべ》ての苦しみが取り除かれんことを求めて、わたしの前に来たのでしょう? さあ、お孫さんの病状について、なにもかも教えていただけますか」
彼の祖母はハンカチを口元から離《はな》した。一瞬《いっしゅん》、天明が祖母の手を目で追ったのを少年は見|逃《のが》さなかった。皺だらけの祖母の指には、大きな宝石のついた指輪《ゆびわ》がいくつも嵌《は》められている――こいつは、ずっと指輪を見てたんだ、と彼は思った。
「ここにいるのがわたしの孫です。私のたった一人の家族です。ごらんの通り、重い病気を抱えて……」
「待って下さい」
天明は祖母の話を遮《さえぎ》った。
「あなたがご自分で説明なさる必要はありません。お孫《まご》さんの『影《かげ》』から知ることができますので」
天明《てんめい》はすっとソファから離《はな》れて、カーペットの上に片膝《かたひざ》をついた。背後《はいご》の窓から射《さ》しこんでいる太陽の光が、床《ゆか》の上に濃《こ》い影を作っている。天明はまるで熱《あつ》いものに触れるように、おそるおそる少年の影に指を近づけた。
「あの……?」
不安げな声で彼の祖母《そば》が話しかけようとすると、天明は目を閉じて話し始めた。
「生まれた時はごく普通のかわいらしい子供だった。二、三|歳《さい》までは走ることも喋《しゃべ》ることもできたはずだ。しかし、成長するにつれて、体の自由が徐々に奪われて来た……最初は足が、次に腕が。やがて指一本動かすのも難《むずか》しくなり、今は呼吸をするのも機械の力を借りなければならない。病院の診断《しんだん》ではせいぜい余命は後一ヶ月、というところですか。現代|医療《いりょう》の限界を感じたあなたは、病院の制止を振り切って退院させた」
少年は下腹のあたりにひやりとしたものを感じた。周囲の人がそれに近いことを話していたので、そのことはもう知っている――たぶん、ぼくはもうすぐしぬ。
以前に比べるとそのことにあまりショックを受けなくなっていた。病状が進むにつれて死について怯《おび》えるのにも疲れて来ていたからだ。死ぬ前にしたいことや、望みも特に思いつかなかった。
ただ一つだけ、気がかりなのは祖母のことだった。
彼女は天明の言葉に息を呑《の》んでいる。
「そうです! そうです! どうしてそんなことまで分かるんですか?」
「『影』がそう語っています。そして、今となっては、あなたの顔も見分けることができない」
再び彼の祖母は顔を覆《おお》ってわっと泣《な》き崩《くず》れた。
少年の瞼《まぶた》がかすかに震《ふる》える――ちがう、ちゃんとわかるよ、みんなのはなしだってぜんぶきこえてるってば、と叫びたかったが、彼にはなにもできなかった。
「ええ、ええ、もうわたしを呼んでくれることもありません!」
取り乱した祖母の手を、天明がしっかりと握っている。横目で見ているだけで、胸のむかつく眺めだった。
(ああ、これでおばあちゃんはこいつをしんじた)
「あなたのお孫さんは非常に濃い『影』の力に冒《おか》されています」
天明は悲しげに目を伏せて言った。
「かげのちから?」
祖母は子供のように天明の言葉を繰り返した。
「人間の体は生まれながらにして、生命エネルギー、つまりプラスの波動を持っています。同時にマイナスの方へ引き戻す力も働いている。その象徴が人間の影です。わたしは人間の影に触れることで、その人間が持っている病《やまい》を知ることができる」
「はあ……」
祖母《そぼ》は首をかしげつつもうなずいた。うそだよ、と少年は内心つぶやいた。
「時折、人間の生命力を食い尽くしてしまうような悪い影《かげ》が存在します。そのような強い『影』、負の波動を『カゲヌシ』と呼んでいます。『カゲヌシ』については、ご存じのように最近世間でも噂《うわさ》にもなっていますが、しょせん世間の人々はその真の意味を知りません」
天明《てんめい》の声がかすかに緊張《きんちょう》を帯《お》びたことに少年は気づいた。嘘《うそ》なりに核心に迫った話をしているのかもしれない。
「残念ながら、この子にとりついた『カゲヌシ』の力はおそろしく強い……わたしは嘘を申しません。完全な病の根絶はおそらく難《むずか》しいでしょう。ただ、私が天から与えられた力を使って治療《ちりょう》を施《ほどこ》せば、この子の余命が二倍以上に伸びることは保証いたします。ただ、そのためには私の側にも特別な準備が必要ですし、あなたにはさまざまなサポートをお願《ねが》いしなければならないが……」
少年は目を閉じた。どうしよう、と思った時、天明の意外な言葉が聞こえた。
「とりあえず、お孫《まご》さんと私を二人切りにしていただけますか?」
「さてと」
祖母を部屋から送り出して、ドアを閉めた瞬間《しゅんかん》に天明の顔つきが変わった。底光りのする目。口元には薄笑《うすわら》いを浮かべている。
「お前は俺《おれ》の話が分かってるんだろ?」
口調《くちょう》も今までとはまるで違う――こいつのほんとのすがたなんだ、と少年は思った。
天明は後ろで手を組んで、軽やかな足取りで部屋の中を歩き始めた。それでいて、少年からは決して目を離《はな》さない。
「俺はお前が入院していた病院へ事情を聞きにいった。医者の診断では脳には問題はなかったらしい。しかし、お前のばあさんはそれを分かっちゃいない。医者の話を信じられなくなって、孫が自分の顔も分からないって思いこんでるわけだ。本物の馬鹿《ばか》だぜ。お前もそう思ってるんじゃないか?」
少年はかっとなった。確《たし》かに祖母は彼がどういう状態《じょうたい》にあるのか分かっていない。しかし、彼には祖母の気持ちが分かる。彼は祖母に残された最後の肉親であり、彼の死をなによりも恐れていて――少しだけ思いこみが強くなっている。それだけのことなのだ。どうして悪く思うことができるだろう。
「ってことで、さっきの俺の話は全部嘘だ。お前の影なんか見たってなにも分からん」
唇《くちびる》の端の皺《しわ》が深くなって、天明の顔にさらに大きな笑《え》みが浮かんだ。
「はっきり分かってることは、お前のばあさんがこれから俺にばんばんカネを吐き出すってことぐらいだな。一ヶ月後か、二ヶ月後か、お前が死ぬ頃《ころ》にはカネもたまってるだろう。俺《おれ》は故郷の町に戻る。ちょっとした目的があって、その金を使って色々準備をするつもりだ……ちなみにその目的ってのは」
こらえ切れなくなったように男はぷっと噴《ふ》き出した。そして、その笑顔《えがお》のままで言った。
「皆殺しだ」
おしえなくちゃ、と少年は思った。こいつはあたまがおかしいんだ。おばあちゃんにぜったいにおしえなくちゃいけない。
「もちろん、お前はあのばあさんにそのことを伝えられない。いや、絶対にそうしない。……その理由を今から見せてやるよ」
天明《てんめい》はちょうど少年の向かい側、さっきまで座っていたソファのそばで立ち止まる。少年の影《かげ》と天明の影が、真正面からぶつかり合うようにカーペットの上に落ちて――。
(……え?)
少年は窓を背にしている。だから影がカーペットの上にある。しかし、なぜかこの男の影は少年の反対側から伸びていた――光を背にしていないにもかかわらず。
「出て来い……『龍子主《たつこぬし》』」
天明の影がまるで息を吹きこまれた風船のようにふくらんでいく。そして、四つ足の大きな生き物へと姿を変えていった。少年は唯一《ゆいいつ》自由になる目を大きく見開いた。
うそだ、と彼は思った。こんなの、うそだ。いるわけない。こんなもの。
「いいか、もしお前がばあさんになにか言おうとしたら、こいつをけしかける。お前のばあさんは丸かじりにされる。こいつは人間を食うんだからな……こんな風に」
天明は歯をむき出して、かちかちかちかち、とカスタネットのように顎《あご》を動かした。
「それが嫌《いや》なら、黙《だま》って見てな。まあ、お前にとっちゃそう難《むずか》しいことじゃないが」
そして、背筋をそらせて哄笑《こうしょう》した。
少年の祖母《そぼ》が戻って来たのはそれからすぐ後だった。
「ああ!」
孫《まご》を一目見て彼女は叫んだ。
「この子、泣いていますわ! もう何年もこんなことはなかったのに!」
「今、わたしの生命エネルギーを少し彼に分け与えました」
天明は落ち着き払って言った。部屋の中に現れた怪物はきれいに姿を消し、男の態度《たいど》もすっかり元に戻っている。
「そのせいで、ほんのわずかな間ですが、外部を認識《にんしき》することができたようです。あなたがそばにいないことに気づいて、寂《さび》しくなったんでしょう」
少年の祖母は涙で濡《ぬ》れた彼の頬《ほお》に手を添《そ》える。彼女もまた涙を流していた。
「ああ、ごめんなさい。おばあちゃんはここにいますよ!」
ちがうんだよ、と少年は思った。こわくてくやしくてはらがたってるだけなんだ。ぼくはおばあちゃんのためになんにもできないから。
「あなたのおかげです! ありがとうございます! あなたは本当に神様のような、いいえ、神様そのものです!」
ほとんど泣き出さんばかりの祖母《そぼ》が、天明《てんめい》の手に額《ひたい》をこすりつけている。
「いいえ……私の治療《ちりょう》はこれからですよ」
天明の頬《ほお》に浮かぶ笑《え》みを見ながら、彼は心の中で祈りを捧《ささ》げた。
どうか、かみさま。
ううん、かみさまじゃなくてもいい。どうかこの「うそつき」をたおしてください。おばあちゃんがもっとウソをきかされるまえに。おばあちゃんがこいつにぜんぶおかねをとられてしまうまえに。ぼくがしんでしまうまえに。どうかどうかおねがいします。どうかどうかどうかどうかどうか……
*
二ヶ月後、夏を迎える前に少年は死んだ。
皇輝山《おうきざん》天明は、罰《ばつ》の代わりに多額の報酬を受け取った。
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フェイクアウト
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第一章 「亡失」
1
藤牧《ふじまき》裕生《ひろお》は、どうにか島まで泳ぎ着いた。
突然、水をかいていた手足に砂が触れた。ざあっと音を立てて波が引いていくと、彼は濡《ぬ》れた砂の中に四つんばいになっていた。
裕生はよろめきながら立ち上がる。水の中にいたせいか、体がひどく重かった。
(ここまで来るの、最近では珍《めずら》しいな)
聞こえるのは波の音だけだった。彼は人気《ひとけ》のない夜の海岸に一人で立っている。目をこらすと、星も月もない夜空の下に、真っ黒な陸地のシルエットがぼんやり見えた。
ここは夢の中だった。
子供の頃《ころ》から何度も繰《く》り返し見て来た夢だ。途中《とちゅう》で目が覚めてしまうこともあるが、いつも暗い波間を漂《ただよ》うところから始まり、やがてこの島へ流れ着く。
裕生はひどく傾斜した砂浜を登り始めた。数歩も歩かないうちに、彼は自分が前へ進めないことに気づいた。足を踏み出すと、そのたびにきめの細かい砂が崩《くず》れてずるりと足が滑《すべ》る。砂を蹴散《けち》らすように足の動きを早めてみたが、やはり同じことだった。
(……やっぱりここまでか)
裕生は諦《あきら》めて膝《ひざ》をついた。ここから先へはいけたためしがない。彼は目の前の急な傾斜を見上げる。砂の坂の一番上に、誰《だれ》か腰かけているのが見えた。かろうじて輪郭《りんかく》が見えるだけで、顔かたちまでは見分けることはできない。
これもいつも通りだった。砂浜で誰かを見かけるところで終わる――ただ、相手はその時々で違う気がする。髪を長く垂らした女のように見えることもあれば、背の高い男のように見えることもある。
今、彼を見下ろしているのは子供らしい。疲れ切っているのか、首をがくりと傾けている。まるで置物のようにぴくりとも動かなかった。なんとなく子供の頃の自分に似ているような気がした。長い間入院していた頃の自分。そういえば、着ているのも病院の寝間着《ねまき》のように見える。
ふと波の音に混じって、この場所に似つかわしくない耳障《みみざわ》りなアラームが聞こえ始めた。
(そろそろ目が覚める頃かな)
と、冷静に彼は思った。もう、この夢の中ではなにも起こらない。そう思いかけた時、
「……して」
「えっ?」
裕生《ひろお》は傾斜を見上げる。確《たし》かに目の前の少年が喋《しゃべ》ったような気がした。
「今、なにか言った?」
「あいつをたおして」
囁《ささや》くような小さな声だが、今度は聞き取ることができた。しかし、背後《はいご》のアラームの音は徐徐に大きくなっている。
「あいつって誰《だれ》?」
「あいつはうそをつくんだ。いまたおさないと、もうじかんがないよ」
裕生ははっと息を呑《の》んだ。これがもし彼自身の分身だとしたら、「あいつ」というのがなんなのかははっきりしている。彼の幼なじみにとりついている「もの」――決して油断《ゆだん》してはならない相手。
「人間が『あいつ』と戦うにはどうしたらいいと思う?」
一瞬《いっしゅん》の間。今やアラームの音は耳を聾《ろう》せんばかりになっていた。裕生は耳を澄《す》ませる。少年の言葉がはっきりと聞こえた。
「ちからがなければ、だましてたおすんだ」
目を開けた時には、裕生は自分の部屋のベッドの中にいた。
(……ああいうの、今まであったっけ)
夢の中とはいえ、妙な会話だったと思う。
ふと、裕生は部屋の中に他《ほか》の人間の気配《けはい》を感じた。そう言えば、目覚まし時計のアラームもいつのまにか止まっている。
机の上に置いてあったはずの時計を見ようとすると、Tシャツの上にエプロンをつけた背の低い少女が立っていた。髪は肩よりも少し長め、整った目鼻立ちと白い肌。ちょっと無表情なことをのぞけば、文句なしにかわいい女の子だった。裕生の目覚まし時計を手に持っている。
「……アラーム、鳴ってましたから」
言《い》い訳《わけ》をするように雛咲《ひなさき》葉《よう》は言った。普段《ふだん》、彼女はこの部屋に入ろうとしない。裕生がなかなか起きないので、仕方なくアラームを止めに来たと言いたいのだろう。
「あ、ごめん。昨日、目覚まし止めとくの忘れてた」
八月に入ったばかりだった。夏休みの最中に目覚ましをかける必要はないのだが、昨日はたまたま高校の登校日で早く起きる必要があった。アラームの設定を解除するつもりで、そのまま忘れてしまったのだった。
「朝ごはん、できてます」
そう言い残して葉は部屋を出ていった。ここに住み始めた時から朝食と昼食は葉が作ることになっている。いちいちエプロンをつける必要はない気もするのだが、形から入らなければならないと思っているらしい。今ひとつ似合わないのは、真剣に料理を始めてからまだ日が浅いせいかもしれない。
団地の最上階にある藤牧《ふじまき》家に葉《よう》は身を寄せている。彼女が一人で住んでいた部屋も同じ棟《むね》の一階にある。もし、彼女の身に異変が起こらなければ、きっとそのまま一人暮らしを続けただろうと裕生《ひろお》は思う。
雛咲《ひなさき》葉は「カゲヌシ」と呼ばれる怪物に取りつかれている。カゲヌシとは異世界からやって来た「生物」であり、人間に寄生しなければ存在することができない。その人間の抱えている秘めた願望《がんぼう》――「ねがい」がカゲヌシを引き寄せ、無意識《むいしき》のうちにカゲヌシに名を与えた人間は「契約者」となる。
カゲヌシは契約者が名を呼ぶことによって具現化し、彼らの秘めた「ねがい」をかなえるかわりに、人間を捕食していく。カゲヌシはやがて成長し、契約者をも完全に支配してしまう。
葉に取りついているカゲヌシの名は「黒の彼方《かなた》」――双頭《そうとう》の黒犬の姿をしている。このカゲヌシだけは人間ではなく他《ほか》の同族をエサとしている。そのため「同族食い」として敵視され、同時に恐れられる存在でもあった。
さっきの夢の内容を思い出しながら、裕生はベッドから立ち上がる。裕生は葉が「黒の彼方」に取りつかれていることを知っている数少ない人間だった。どのような形でかは分からないが、いつかは葉《よう》は自我を失うはずだった。
「黒の彼方《かなた》」から葉を解放するのが裕生《ひろお》の目的だったが、そのためにはあのカゲヌシを倒さなければならない。しかし、人間にはカゲヌシを倒すような力はない。それが裕生の悩みだった。あの夢はそれを反映しているのかもしれない。
「……騙《だま》して倒す、か」
と、裕生は口の中でつぶやいた。
2
裕生と葉はキッチンのテーブルを挟《はさ》んで向かい合っている。
「いただきます」
「いただきます」
今日の朝食はなすの味噌汁《みそしる》とほうれん草のごま和《あ》えと焼き魚と大根おろし。絵に描《か》いたような和風のメニューだった。裕生は味噌汁を一口飲む。
ふと、こちらの表情を窺《うかが》っている葉と目が合った。
「……どうですか?」
「おいしいよ」
裕生は素直に答えた。葉の料理の腕前はもともとちょっと(いや、かなり)頼りなかったが、最近はかなり上達して来ていた。手持ちのクッキングブックに載《の》っている料理を、片っ端から作ろうとしているらしい。
「兄さんは?」
焼き魚に箸《はし》をつけながら裕生は尋《たず》ねる。
「……ちょっと前に出ていきました」
「今日も? 元気だなあ」
兄の雄一《ゆういち》は都心で一人暮らしをしながら東桜《とうおう》大学《だいがく》に通っているが、今は団地に戻って来ている。毎日炎天下に飛び出していき、小中学生たちに色々と聞き回っているらしい。彼の大学での研究テーマは「カゲヌシをめぐる都市伝説」だった。むろん、雄一はカゲヌシが実際に存在する怪物だとは知らない。
ふと、裕生はキッチンの時計を見る。朝の九時を回っている。父の吾郎《ごろう》や兄の雄一のために食事を用意したのだったら、かなり早くから起きていたはずだ。
「ひょっとして、ぼくが起きるまでご飯食べるの待ってた?」
こくんと葉はうなずいた。
「食べればよかったのに」
いやいやをするように葉《よう》は首を振った。何度言っても、裕生《ひろお》が起きて来るまで彼女は待っている。最初は二人切りで食事をするのが照れくさかったが、最近はそれにも慣《な》れて来ていた。
葉は黙々《もくもく》とご飯を口に運んでいる。
このところ「発作」もなく、顔色もよくなって来ていた。カゲヌシの飢餓感《きがかん》は「契約者」の体に発作として現れるが、先月「黒の彼方《かなた》」は「アブサロム」と「ボルガ」という二匹のカゲヌシを食っていた。今のところは満足しているらしい。一時的な小康状態《しょうこうじょうたい》だと分かっているが、時々こうしていると葉がカゲヌシに取りつかれていることを忘れそうになる。
「今日はどこかにいかないの」
葉は首を横に振った。一緒《いっしょ》に住み始めて改めて気づいたのだが、彼女はあまり家から出ようとしない。裕生が出かける時は一緒についてくるものの、彼が家にいる時はじっと閉じこもっている。なんとなく裕生から離《はな》れまいとしているようにも見えた。
「お昼、なにか食べたいものありますか」
と、葉が言った。なんでもいいよ、と言いかけて裕生は口をつぐんだ。彼自身も料理を作るので、そう言われるのが一番困るのは分かっている。
「この前作ってくれた冷たいパスタ、美味《おい》しかったな。鳥肉とトマトが入ってたヤツ」
彼女は戸惑《とまど》ったように視線《しせん》を落とした。
「憶《おぼ》えてない?」
「……作りましたっけ」
彼女の情《なさ》けなさそうな声に、裕生は噴《ふ》き出しそうになった。確《たし》かに彼女は新しい料理を次々と作ってくれるのだが、なにを作ったのか時々忘れてしまうらしい。今までにも何度かこういうことがあった。
食事が終わった後、葉は流しで皿を洗い始めた。裕生はなにをするでもなく、ぼんやりとその背中を見ている。食後の平和なひとときだった。
こうして見ている分には、あんなバケモノが取りついているとはとても思えない。
「最近、あの犬はなにか言ってる?」
一瞬《いっしゅん》、彼女の動きが止まった。犬、というのは二人の間では「黒の彼方《かなた》」のことを指していた。
「……別に」
「体調《たいちょう》もなんともない?」
「……体調は大丈夫です」
「そう」
裕生はさっき夢の中で聞いた言葉を思い出した――じかんがない、というあの言葉。ただの夢のはずなのに、あの会話が妙に気にかかっていた。あの夢の中であんな会話を交《か》わしたことは今までなかった気がする。もっとも、忘れているだけなのかもしれないが。
「葉《よう》はぼくが書いたあの話、全部暗記してたよね?」
と、裕生《ひろお》は言った。彼はあの夢を見始めた頃《ころ》、それを下敷《したじ》きにして物語を作ったことがある。その物語を彼女が気に入っていたために、それが「ねがい」の象徴になってしまった――その題名が「くろのかなた」であり、ある意味では裕生があの「犬」の名づけ親だった。
「……はい」
「自分で書いて言うのもヘンだけど、全部はよく憶《おぼ》えてなくてさ。『時間がない』とかそういう会話って出て来たっけ」
葉は手を止めて考えこんでいる。長い沈黙《ちんもく》の後で、彼女はかすれた声で言った。
「なかった……と思います」
「そうだよね」
確《たし》かなかったはずだ。彼女に尋《たず》ねたのは確認だった。
「あ、そうだ。今度細かいところまでちゃんと教えてくれる? メモにして残しときたいんだ」
「……」
彼女は硬直したように動かない。なにかに耐えているような、張りつめた雰囲気が背中に漂《ただよ》っている。
「……葉?」
訝《いぶか》しんだ裕生が呼びかけた時、電話が鳴った。立ち上がった裕生は居間までいって受話器を取った。
「もしもし裕生ちゃん? あたしあたし!」
弾《はず》んだ声が回線《かいせん》の向こうから伝わって来た。名前を聞かなくともすぐに誰《だれ》なのか分かった。子供の頃はともかく、今の彼を「裕生ちゃん」と呼ぶのは一人だけだ。
「……天内《あまうち》さん?」
「だから茜《あかね》でいいってば。久しぶり!」
はあ、と裕生はため息をつく。
「今、病院?」
と、裕生は言った。先月裕生たちは、天内茜と蔵前《くらまえ》司《つかさ》という二人のカゲヌシの契約者と知り合っていた。蔵前は警察《けいきつ》に疑われることなく数十人もの人間を殺害して来た殺人鬼で、茜は蔵前に家族を殺されていた。
二人が契約していたカゲヌシ――ボルガとアブサロムは「黒の彼方《かなた》」によって倒されたが、結局蔵前は逃亡し、重傷を負った茜は病院で治療《ちりょう》を受けていた。
「うん、病院。もうすぐ退院だけどね。今、ロビーの電話からかけてるの。この前はお見舞《みま》いありがとう」
「……それは別にいいんだけど」
軽い疲れを感じながら裕生《ひろお》は言った。
「でも、ぼくが出たからいいけど、うちの苗字《みょうじ》ぐらい言ってくれないと、いたずら電話だと思われるよ」
「裕生ちゃんの苗字、忘れちゃった」
「藤牧《ふじまき》だよ。何回も言ったのになんで忘れ……」
その時、玄関のドアが開く音が聞こえた。裕生が廊下を覗《のぞ》くと、葉《よう》が出ていくところだった。声をかける間もなく、ドアが閉じた。
どこへいったんだろう、と裕生は思った。
「どうかした?」
「ううん。なんでもない……退院決まってよかったね」
「それは別にいいの。あんまり時間ないから急いで話すけど、あのね、なんか変わったことない?」
少し改まった声で彼女は言う。とたんに裕生は緊張《きんちょう》した。
「蔵前《くらまえ》のこと?」
蔵前は長らく警察《けいさつ》の目をごまかし続けて来たが、今は茜《あかね》の家族を殺害した容疑で全国に指名手配されている。他《ほか》にも何件かの殺人事件や失踪《しっそう》事件との関与が疑われているらしい。裕生たちは蔵前に対する警戒を解《と》いていない。蔵前は裕生たちに報復を誓って去っていった。おそらく、機会を見て自分たちの前に再び現れるはずだ。
「ううん。蔵前のことじゃなくて……ひょっとするともっと大変なこと」
「どういうこと?」
あの殺人鬼よりも「大変なこと」というのはよほどのことだ。
「あのね……」
茜はわずかに逡巡《しゅんじゅん》した。
「あたしたちが初めて会った時のこと、憶《おぼ》えてる?」
「え、あ、うん。憶えてるよ」
裕生は顔をしかめる。忘れようと思っても忘れられるものではない。
「どんな風だったか、ちゃんと説明できる?」
「当たり前だろ。ぼくらが東桜《とうおう》大学《だいがく》の校舎の屋上にいたら天内《あまうち》さんが来て、ぼくらをブッ殺すって叫んで……」
出会った時、茜は葉が自分の家族を殺したと勘違《かんちが》いしていた。危ういところで誤解を解くことができたが、そうでなかったら大変なことになっていたと思う。
「あたし、はっきり思い出せない」
「え?」
裕生は絶句した。
「東桜《とうおう》大学《だいがく》に入ったところとか、戦うのをやめた後は思い出せるんだけどね。裕生《ひろお》ちゃんみたいに説明できない」
「……」
茜《あかね》のボルガと「黒の彼方《かなた》」はそこで戦っている。まともに考えて忘れるはずがない。
「あたしが忘れっぽいだけなのかなって思ってたんだけど、他《ほか》にもいくつか忘れてることがあるみたい。裕生ちゃんの苗字《みょうじ》もそう」
茜は一瞬《いっしゅん》ためらってから、少しかすれた声で言った。
「ところどころ記憶《きおく》がないの。虫食いみたいに」
ぞくっと裕生の背筋に悪寒《おかん》が走った。
「……カゲヌシが原因だってこと?」
「カゲヌシは人間の頭の中にいるって裕生ちゃんが言ってたじゃない。それで、だんだん人間と一体化していくって。それってあたしとボルガが混ざり合ってたってことでしょ? だから、ボルガが死んだ時にあたしの記憶の一部が一緒《いっしょ》に持っていかれたんじゃないかって」
「……」
「まあ、正直言うとあたしも半信半疑なんだけどね。でも、葉《よう》ちゃんにも同じことが起こるかもしれないから、一応報告しとこうと思って。あ、もうお金なくなっちゃう。じゃあ、葉ちゃんにもよろし――」
電話は切れた。裕生は受話器を手にしたまま、しばらく立ちつくしていた。
ありえない話ではないと思う。カゲヌシが言うことを聞かない人間を乗っ取ろうとする時、記憶を奪うのは残酷《ざんこく》だけれど有効な方法だと思う。記憶がなくなれば、人間の人格など簡単《かんたん》に壊《こわ》れてしまうだろう。
ただ、本人も言っていたように茜はかなり忘れっぽい性格だ。単なる物忘れということもありうる気がする。同じようなことが葉に起こっているなら、話は別だけど――。
「……あ」
裕生は受話器を放り出して玄関へ走っていった。サンダルをつっかけて外へ飛び出し、ぐるぐると階段を下りていった。葉はそう遠くへはいっていないはずだ。
彼は大きな×印の描《か》かれたドアの前で足を止める。そこが以前葉の住んでいた部屋だった。半《なかば》ば確信《かくしん》を持ってドアノブを回す――鍵《かぎ》はかかっていなかった。細めに開けたドアから玄関を覗《のぞ》きこむと、葉のサンダルが投げ出してあった。
裕生は雛咲家《ひなさきけ》に上がり、まっすぐに葉の部屋へ向かう。ふすまを開けた瞬間、机の前に立った葉が黒いアタッシュケースをぱたりと閉じるのが見えた。一瞬、彼女がなにをしていたのか気になったが、すぐにそれを頭から追い出した。
「……なんですか」
葉は硬い声で言った。
「今、天内《あまうち》さんから電話があった」
「……」
彼女は黙《だま》って裕生《ひろお》の顔を見つめている。
「天内さん、憶《おぼ》えてるよね?」
「はい」
「天内さんのカゲヌシの名前は?」
彼女の視線《しせん》が一瞬《いっしゅん》だけ泳いだ。裕生がなにを確《たし》かめようとしているのか、察したようだった。
「……ボルガです」
「ボルガはどんなカゲヌシだった?」
彼女はお腹《なか》のあたりで重《かさ》ねた両手を、ぎゅっと握りしめた。
「空を飛んでて……」
それっきり彼女の言葉は立ち消えになった。
「ボルガはどんな力を持ってた?」
「…………よく、憶えてません」
かすかに声が震《ふる》えている。葉《よう》はうつむいてしまった。
時間が凍《こお》りついたような気がした。裕生の膝《ひざ》ががくがくと震え始める。
「いつから?」
それは確認だった。自分が作ったことのある料理を思い出せない。前は暗記していた物語を説明できない。どちらもそう以前ではないはずだ。もっと前だったら裕生も気づいている。
「……二週間ぐらい前から」
裕生の目の前が一瞬真《ま》っ暗《くら》になった。「いつかは」葉はカゲヌシに乗っ取られてしまう、などと思っていた自分が情《なさ》けなかった。いつか、などという生やさしいものではない。それはもうとっくに始まっているのだ。
「どうして言わなかったの」
ようやく裕生は言った。
「言うのが怖かったんです。もっと先輩《せんぱい》に迷惑《めいわく》かけるかもしれないから。今までだってわたしのことで色々……」
葉は突然、顔を覆《おお》って泣き始めた。裕生の胸がしめつけられるように痛んだ。彼は部屋の中にふらふらした足取りで入っていき、彼女のすぐそばで立ち止まる。
彼は無言で葉の細い肩にぎこちなく手を回した。彼女はぐすぐすと鼻を鳴らしながら、彼の肩におでこを預けてくる。
蝉《せみ》の鳴き声がどこかで聞こえる。
(ぼくはバカだ)
と、裕生は思った。葉が言わないのも当たり前だ。言ってくれたところで、裕生になにができるというわけではないのだから。
――今のところは。
「あの『犬』はなにか言ってるの?」
「……わたしに従うようにって。言うことを聞かなかったら、もっとたくさんのことを忘れさせることができるって」
「あいつの嘘《うそ》だよ。それができるんだったら、とっくにやってると思う」
「わたしもそう思ったけど、でも……」
葉《よう》は言いよどんだ。裕生《ひろお》にもひょっとしたらという気持ちがある。万が一「黒の彼方《かなた》」が自分の意志でより多くの記憶《きおく》を奪えるとしたら、それだけ葉が「黒の彼方」に取りこまれる日も早くなってしまうだろう。
それに「自由に記憶を奪う」ことができなくとも、もっと別の影響《えいきょう》を与える方法を持っているのかもしれない。
(間に合うと思いますか)
裕生が葉を助ける、と告《つ》げた時、「黒の彼方」はそう言っていた。あいつはこれが始まることを知っていたんだ、と彼は思った。自分はと言えば、発作が起こらなくなったことで、すっかり気を抜いていた。
(あの夢はこのことだったんだ)
と、裕生は思った。時間がない、というあの言葉は、お告げのようなものだったのかもしれない。
「……葉」
「はい」
「今度、なにかあったら必ずぼくに言って」
なにもできないのは力がないからだ。いや、力に対抗できるだけのものをなにも持っていないからだ。
だとしたら、それを手に入れるしかない。あの「犬」に知られないように。
(あいつと戦うんだ)
裕生は葉の肩に回した手に力をこめた。
3
「気にくわねーな、ったく」
加賀見《かがみ》団地の敷地内《しきちない》を歩いていた藤牧《ふじまき》雄一《ゆういち》は、浮かない表情でつぶやいた。前を歩いていた買い物帰りらしい主婦が振り向いて彼を見る――顔色を変えて近くの棟《むね》へと足早に入っていった。
(どっかにヤバいヤツでもいんのか)
思わず雄一《ゆういち》は立ち止まってあたりを見回した。団地の棟《むね》と棟の間にある道路に立っているのは彼一人だった。午後三時。一番暑い時間だった。
(……誰《だれ》もいねえじゃねえか)
不審《ふしん》人物がいるかと思ったのだが。もちろん、真っ黒に日焼けした肌にだらしなく伸びかけた金髪、目が痛くなるような極彩色《ごくさいしき》のシャツと金のネックレスとビーチサンダル、という自分自身の姿がどう見えるかはまったく考えていない。加賀見《かがみ》団地の主婦たちの間で、「最近、東南アジア帰りらしい若いヤクザがうろついている」という噂《うわさ》が流れていることも当然知らなかった。
ため息を一つついて雄一は歩き出した。もちろんヤクザではなく、れっきとした社会学専攻の大学生である。今日一日、加賀見市から隣《となり》の鶴亀町《つるきちょう》まで足を延ばして、「カゲヌシ」の都市伝説について聞き取り調査《ちょうさ》を行っていた。
「疲れてんのか、俺《おれ》」
と、彼はまたつぶやいた。どうかしているのも、疲れているのも自分のことだった。
彼は公園の脇《わき》を通り抜けて、自宅のある棟に辿《たど》り着く。階段を上がろうとした彼は、ふとなにかの薬品らしい刺激臭《しげきしゅう》に気づいた。
一階の雛咲家《ひなさきけ》のドアを見ると、スプレーの落書《らくが》きがなくなっていた。先月あたりから、このドアにスプレーで大きな×印を描《か》く者がいる。何度消してもいつのまにかまた描かれてしまうので、最近は放っておかれることが多くなっていたのだが。
(さっき消したばっかみてーだな)
ドアに鼻を近づけながら雄一は思う。多分、この異臭はスプレーを消す溶剤だろう。正直なところ、あの落書きにはなにか気にくわないところがあった。中学生の頃《ころ》、雄一もスプレーの落書きに凝《こ》っていた時期があったのだが、イタズラにしてはただの×印は素《そ》っ気《け》なさすぎる。それに何度消されても同じドアに同じ落書きを描くのは、なんとなく普通ではないような――。
雄一は階段を上がっていき、最上階の藤牧《ふじまき》家のドアを開ける。ビーチサンダルを脱ごうとして、彼は再び同じ異臭をかいだ。下駄箱《げたばこ》の上に溶剤の入ったプラスチックの容器が置いてあった。
(……裕生《ひろお》が消したのか?)
それもなんとなく妙な話だった。勝手に住民が消すと建物の塗装《とそう》を傷《いた》めるかもしれないので、落書きは団地の自治会に頼んで消してもらうことになっていたはずだ。
雄一は首をかしげながら廊下に上がる。キッチンの前を通りすぎてから、雄一は後戻りしてキッチンを覗《のぞ》きこんだ。
テーブルに顔を伏せて、葉《よう》が眠っている。それは別に不思議《ふしぎ》ではないが、彼女の頬《ほお》に涙の跡のようなものが見える。
(留守《るす》のあいだになんかあったんかな)
そう思いながら自分の部屋に入った雄一《ゆういち》は、今度こそぎょっと立ち止まった。部屋の真ん中に座りこんだ裕生《ひろお》が、熱心にレポート用紙の束に目を通している――問題は畳《たたみ》の上に雄一の持って来た書類ケースが開きっぱなしになっていることだった。雄一の持ち物を勝手に開けて中を見ている、ということになる。
「……なにやってんだお前」
そう声をかけると、裕生は文字通り飛び上がった。
「お、お帰り」
レポート用紙をケースに戻しながら裕生は言う。
「『お帰り』じゃねえだろ。なにやってんだ?」
雄一は静かな声で尋《たず》ねる。この場はガツンと叱《しか》り飛ばす方がいい気もしたが、正直なところ別に腹は立っていない。もともとレポートは他人《ひと》に読ませるために書いているのだし、それよりも裕生がこんなことをしている理由に興味《きょうみ》が湧《わ》いた。
「うん……ちょっと、その、なにが書いてあるのかなって思ったから」
しどろもどろになって裕生は答える。
「あのなァ、裕生くんよ」
雄一はどっかりとその場に腰を下ろす。顎《あご》を引き、サングラスを少しずらして相手の顔を見すえた。
「んな言《い》い訳《わけ》が俺《おれ》様に通じるワケねーだろ? 人を騙《だま》す時はもうちっとまともな嘘《うそ》つけや。なァ?」
低い声で囁《ささや》くと、裕生はびくっと体を震《ふる》わせる。別に脅《おど》すつもりはなかったが、無意識《むいしき》のうちにドスが効《き》きすぎたかもしれない。
雄一は裕生の顔から目を逸《そ》らさなかった。かつての無数のケンカの経験《けいけん》から、人間の怯《おび》えは真っ先に目に現れるという持論を彼は持っていた。怯えた人間は相手の視線《しせん》をまともに受けることができず、ほとんどは逃げを打つか、やけになって殴りかかるかのどちらかになるのだが。
(…………お?)
雄一は少し弟への見方を改めた。確《たし》かに裕生は怯えているのだが、自分を見失うほどではない。この場を切り抜けようしている者の目つきだった。
「……兄さん、『黄色《きいろ》いレインコートの男』の噂《うわさ》、調《しら》べてるんだよね?」
雄一はわずかに眉《まゆ》をひそめる。カゲヌシの噂に付随《ふずい》して、主に小学生の間で広まっている噂であり、その調査の首尾《しゅび》が雄一の不機嫌《ふきげん》の原因だった。
黄色いレインコートを着て、顔を隠《かく》した男が町をうろついている。その男は人間の影《かげ》を食う『カゲヌシ』の居場所を教えてくれるという。その男を見ることができたら、その人間はカゲヌシと会わずに済む――。
「それがどうした?」
一瞬《いっしゅん》、裕生《ひろお》は視線《しせん》を逸《そ》らせた。どう答えたものか、必死に考えているらしい。
「この前、黄色《きいろ》いレインコートを着た男を見た気がするんだ」
それまで余裕たっぷりに裕生を観察《かんきつ》していた雄一《ゆういち》は、そこで話に釣《つ》りこまれた。思わず身を乗り出す。
「どこで?」
「この団地の近くで。夏なのにそういうカッコしてたし、ひょっとしたらあれがそうなんじゃないかって。それで知りたくなったんだよ」
「俺《おれ》に直接聞きゃいいじゃねーか」
「ほら、噂《うわさ》なんか本気にしてたらおかしいみたいなこと、兄さん前に言ってたじゃない。小学生じゃないんだし、そういうの信じてるって思われるのなんか嫌《いや》だったから」
ふーむ、と雄一は首をかしげた。なんとなく釈然《しゃくぜん》としないが、裕生の説明には特に不審《ふしん》なところもないようだった。
「でも、実際のところ『レインコートの男』はいてもおかしくねえぞ」
「え?」
「いや、黄色いコートを着て歩くぐらいだったら、完全にありえねーってわけじゃねえだろ。ま、変人は変人だけどよ、『カゲヌシ』よりゃよっぽど実在の可能性あんな」
カゲヌシよりは、というあたりで、なぜか裕生は居心地《いごこち》悪そうに身じろぎした。
「でもな……実はなんっっか気にくわねーんだ」
「どういうこと?」
「いやそれがな、実はこの何日か、『コート男』の追跡|調査《ちょうさ》をやってたんだよ」
「追跡調査?」
「要するにその噂を誰《だれ》から聞いたのかを聞いて、そいつのところへいく。そいつからも誰からその噂を聞いたのかを聞いて……っていう繰《く》り返しだな。まー、伝言ゲームを逆に辿《たど》ってくワケだ。噂の伝わる速さとか、具体的にどっから来た噂なのかがおおまかに分かるんじゃねえかと思ってよ」
「大変じゃないの、それ」
「いや、調査対象は小中学生だからな。連中の行動|範囲《はんい》ってのは大人《おとな》よか狭《せめ》えから、どうにかなんじゃねえかって踏んだワケだ。で、この何日かで俺は三つの『コート男』の噂のルートを辿ってった……で、今日全部ダメになった」
「ダメって?」
「途中《とちゅう》でループしたり、分かんなくなったりすんだよ」
「なんで?」
「分かんねえ。とにかく、一定のところで追跡ができなくなる。それ自体は別におかしかねんだが、実は『コート男』の噂《うわさ》には一つだけ変なとこがあってな。『コート男を見かけても、自分が直接見たって言っちゃいけねえ』って」
「……誰《だれ》かが兄さんに嘘《うそ》ついたかもしれないってこと?」
ああ、と雄一《ゆういち》はうなずいた。
「都市伝説の類《たぐい》で、こういう条件が付くのは珍《めずら》しい。っていうか、実在するんじゃなきゃ、こんな条件はいらねえ。そうだろ? これじゃ『コート男』を噂のまんまにしとこうとしてるヤツが、どこかにいるみてーじゃ」
雄一はふと口をつぐんだ。以前に聞いたことのある「カゲヌシ」についての妙な噂を思い出していた。人間が怪物に食われるというのが本当の話で、誰かがそれを都市伝説のかたちにしてごまかそうとしている――。
(……まさかな)
この「カゲヌシ」の噂にのめりこみすぎたせいに違いない。雄一はぶるっと首を一振りして、妙な考えを払い落とした。
「まあ、別に俺《おれ》に断んなくていいから、俺のレポートは好きな時に好きなだけ見ろ。もともと隠《かく》してるわけじゃねーし、他《ほか》のヤツに見せても構わねーぞ」
雄一は立ち上がって部屋を出ていった。気持ちを落ち着けるために一服したかったのだ。
しかし、一服した後もなんとなく気分は晴れなかった。
4
深夜。窓から月の光が射《さ》しこんでいる。
葉《よう》は布団の中で起き上がると、自分の手を見下ろす。
(わたしは雛咲《ひなさき》葉)
彼女は心の中でつぶやき、天井《てんじょう》を見上げる。
(ここは加賀見《かがみ》団地の藤牧《ふじまき》さんのうち。今わたしが住んでるところ)
自分の記憶《きおく》がおかしいと思い始めてから、彼女は目覚めると自分がどういう人間であり、どういう状況にあるかを自問するくせがついていた。眠っている間に、日常生活に支障をきたすようなことを忘れているのが怖かったからだ。
(今は八月三日の夜。夏休み。わたしは加賀見高校の一年三組。昨日は登校日だった……)
今のところ、自分自身については特に忘れていることはない。彼女自身を一冊の本だとするなら、そのうちの何ページかが破りとられている程度――今のところは。
それでも、昼間よりも少し落ち着いた気持ちだった。裕生《ひろお》になにもかも話すことができたからだろう。裕生が言った通り、本当はもっと早く言うべきだったと思う。それでも、優《やさ》しい裕生がもっと自分のために悩むのは嫌《いや》だったけれど。
(わたしは二ヶ月前から「カゲヌシ」に取りつかれてる。わたしの中にいるのは……黒の彼方《かなた》)
その名前を思い浮かべた瞬間《しゅんかん》、彼女の胸がずきりと痛んだ。裕生《ひろお》が書いた「くろのかなた」の内容をはっきり思い出せなくなったのが、なによりも辛《つら》かった。
前半はともかく、後半はよく分からない。時々、彼女は自分の部屋に隠《かく》してある裕生のノートを読んでいる。それでも元のように完全に憶《おぼ》えるのは難《むずか》しい。「忘れていく」というよりは、「憶《おぼ》えにくい」状況になっているのかもしれない。今のところ失われているのは、昔のことよりも最近の記憶《きおく》が多い気がする。
ふと、かすかな物音を聞いた。
(今のは窓のひらく音)
葉《よう》は立ち上がって部屋を出た。
(今は夜。わたしが歩いているのは廊下)
そう自分に言い聞かせながら、暗い居間に入った。そこには誰《だれ》もいない。
奥の和室へ通じるふすまはぴたりと閉まっていた。
(あそこは雄一《ゆういち》さんと吾郎《ごろう》おじさんが寝てる部屋)
彼女は暗がりに目が慣《な》れるのを待って、ゆっくりと部屋の中を見回していった。
(あれはテレビ。あれはテーブル。あれは窓)
あれは――。
「……裕生ちゃん」
彼女は初めて声に出してつぶやいた。
窓の外のベランダに、パジャマ姿の裕生が立っていた。彼女は窓に近づこうとして、ぎくりと足を止めた。
裕生はベランダの柵《さく》にもたれて、彼女の方に横顔《よこがお》を向けている。今まで見たことがないような思いつめた目つきだった。ひどく怒っているようにも、今にも泣き出しそうにも見える。葉の胸のあたりがひやりと冷たくなった。
(……裕生ちゃん?)
その時、部屋を振り返った裕生が、葉の姿に気づいた。彼の顔に穏《おだ》やかな笑《え》みが広がる。彼女は安心して窓へ近づいていった。
「どうしたの?」
ベランダへ出た葉に、彼が言った。こうして間近で見るといつもの裕生だった。さっきは見間違えたのかもしれないと彼女は思う。
「ちょっと目が覚めたんです……先輩《せんぱい》はなにしてるんですか」
彼の隣《となり》に並びながら葉は尋《たず》ねた。
「……ぼくもちょっと目が覚めたから」
裕生は満月から少し欠け始めた月を見ている。もうすぐ夜が明ける時間だった。新聞配達らしいバイクの音が団地のどこかから聞こえる。
夏にしてはひんやりとした風が、二人の髪をかすかに揺《ゆ》すっていった。
こんな時間はいつまで続くんだろう、と彼女は思った。わたしはいつまでこの時のことを憶《おぼ》えていられるだろう。
わたしがわたしでいられるのは、いつまでだろう。
「葉《よう》」
裕生《ひろお》が口をひらいた。
「ぼくはただの人間だ」
葉は彼の顔を見上げる。相変わらず、彼は月を見上げていた。
「人間に力はない。でも、力がなかったら……」
彼の言葉がとぎれる。一瞬《いっしゅん》、さっきと同じ暗い影《かげ》が顔をよぎり、すぐ元の表情に戻った。なんだろう、と葉は思った。
「……ぼくは葉を助けるよ」
裕生は彼女に笑顔《えがお》を向ける。
戸惑《とまど》いながら、葉はこくりとうなずいた。
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第二章 「帰ってきた男」
1
「鶴亀《つるき》駅」という看板のかかった駅舎の前に、佐貫《さぬき》峻《たかし》は立っていた。無数の蝉《せみ》の声があたりに反響《はんきょう》している。昼下がりの一番暑い時間帯だが、外にいるのはさほど苦にならなかった。重量級の体格のわりに、彼はほとんど汗をかかない。夏は大好きな季節だった。
彼はこの鶴亀から一駅の加賀見《かがみ》にある加賀見高校に通っている。今日は夏休みの課題《かだい》を片づけるために、同じクラスの藤牧《ふじまき》裕生の家へいくことになっていた。鶴亀駅の前で、一緒《いっしょ》にいくはずのクラスメイトと待ち合わせをしているのだった。
待ち合わせの時間より少し早く着いてしまったが、かといってどこかの店へ行って時間をつぶすほどでもない。
駅前には歩いている人もまばらだ。隣《となり》の加賀見市に比べて、この鶴亀町はさびれている。鶴亀駅の商店街にはシャッターの閉まった店も多く、活気があるとは言いがたい。再開発の手始めとして建てられた駅前のビルも、ほとんど使われないまま半《なか》ば廃屋《はいおく》と化していた。
商店街のずっと先に小さな山があり、石造りの鳥居《とりい》と長い石段が小さく見える。この町の唯一《ゆいいつ》の名所がその山――鶴亀《つるき》山の頂《いただき》にある鶴亀神社だった。後数日で夏祭りも始まろうとしている。
先ほどからスピーカーで拡声された男の声が聞こえている――ふと、佐貫《さぬき》は顔を上げた。警察《けいさつ》か消防署の防災の呼びかけだろうと気に留《と》めていなかったのだが、よくよく聞くと内容が妙だった。
『……わたしも皆さんと同じようにこの鶴亀町の出身者です。鶴亀、という地名の由来について、真実を知っている者はほとんどおりません。もともとの語源はツルギ、すなわち剣《つるぎ》を指します。鶴亀山はかつて関東《かんとう》有数の鉱山であり、銅剣の材料となる銅が産出されたという記録《きろく》が残っています……』
(なんだ、この話)
佐貫は好奇心にかられてきょろきょろとあたりを見回した。声のありかは例の空き部屋ばかりのビルらしかった。ちょっと迷ってから、彼は声の聞こえる方へ歩き始めた。
『しかし、この鶴亀にはもう一つの意味があるのです。鶴亀町の隣《となり》にあるのは加賀見《かがみ》市。これは名前からもお分かりのようにミラー、すなわち鏡《かがみ》を指しております』
(……ウソくせえ)
と、佐貫は心の中でツッコミを入れた。ビルに近づいていくと、両開きのドアが開放されているのが見えた。一階は貸しホールなので、なにかのイベントが行われているのかもしれない。
『鏡と剣――ここから連想されるのは、皆さんもご存じの日本神話に登場する二種類の神器《じんぎ》、八咫鏡《やたのかがみ》と草薙剣《くさなぎのつるぎ》であります』
いきなりすげえ飛躍《ひやく》だな、と佐貫は思ったが、多少話に引きこまれてもいた。
「……ってか『三種の神器』だろ」
と、ついつぶやいていた。
『こう申し上げると、よくご存じの方はこうおっしゃるでしょう……二種類ではなく三種の神器だろう、と』
佐貫は顔をしかめる。勝ち負けで言うと、なんとなく「負け」の気がした。
『それは違います。もともと『古語拾遺《こごしゅうい》』を初めとする数々の古文献によれば、神器の数は三種類ではなく、鏡と剣の二種類であります。つまり、加賀見市と鶴亀町は対《つい》になっており、失われた古代史の鍵《かぎ》となる都市の名残《なごり》なのです』
佐貫は入り口の横に立てかけられた、大きな縦長《たてなが》の看板の前で立ち止まった。看板には等身大の人間の写真が貼《は》りつけてある。白いタキシードを着て、長い髪の毛を後ろで縛《しば》った中年男が満面《まんめん》の笑《え》みを浮かべていた。見栄《みば》えのする容姿だったが、きちんと正装を着こなしているわりには紳士らしく見えない。
看板には文字も書《か》きこまれていた。
皇輝山《おうきざん》天明《てんめい》ショー・全《すべ》て見せます! 解決します!
宇宙の力! 天地創造! あなたの人生!
(……あなたの人生?)
最後の一つだけ妙にみみっちい。
『四年前、鶴亀《つるき》神社で発見された古文書には、その歴史的事実を示す記述があります。この古文書はなにを隠《かく》そう、当時|宮司《ぐうじ》として勤《つと》めていたわたしが発見したものでして、仮に『皇輝山文書』と呼ばれております』
男の声はロビーの先にあるホールから聞こえる。建物に入りかけた佐貫《さぬき》はふと首をかしげた。神社の宮司が発見した『皇輝山文書』――まだ佐貫は小学生だったが、そういえばそんなこともあった気がする。
「ご見学ですかー?」
不意に甲高《かんだか》い女の声が耳に突き刺さった。受付のカウンターの向こうに、派手《はで》なメイクをした白い着物姿の女が座っていた。まるで似合っていないが、よく見ると巫女装束《みこしょうぞく》らしい。コスプレか、と佐貫は思う。
「これ、なんかのイベントすか?」
カウンターに近づきながら佐貫は言う。香水《こうすい》の香《かお》りが鼻にしみこむようだった。
「ええ。そうですよー」
沈黙《ちんもく》。濃《こ》いアイラインとマスカラで固められた目が彼を見上げている。素顔《すがお》を想像せずにはいられなかった。
「……いや、だからなんのイベントなんすか?」
「健康《けんこう》相談《そうだん》ですとか、後は人生相談ですとか……見学は一切無料ですので、よろしかったらどうぞ」
普通、健康相談と人生相談って別にやるだろ、と思った瞬間《しゅんかん》、半分開いたままのホールのドアから男の声が聞こえて来た。
『わたしは『皇輝山文書』に触れた瞬間、この古文書に記《しる》されている太古《たいこ》の神・龍子主《たつこぬし》の加護《かご》を受けました。人間の人生を見通し、全てを癒《いや》す力が備わったのです。その力によってこの四年で五百人もの人々の病《やまい》と戦って参りました……』
(なんだ、宗教かよ)
それもかなり怪《あや》しい種類の。とたんに好奇心が萎《な》えた。佐貫は携帯で時間を確認《かくにん》する。そろそろ、待ち合わせの相手も来る頃《ころ》だ。
『ですが、わたしたち人間には『カゲヌシ』という恐るべき敵がいます』
踵《きびす》を返しかけた佐貫《さぬき》は、ふと振りかえった。
(……カゲヌシ?)
その都市伝説には彼も関心がある。以前、加賀見《かがみ》市で藤牧《ふじまき》雄一《ゆういち》が行っていた調査《ちょうさ》を手伝ったこともあった。
『人間は生まれながらにして負のエネルギーを背負《せお》っています。その象徴こそが人間の影《かげ》であり、人間を死に至らしめるほどの強い力を持った影は、『カゲヌシ』と呼ばれています。『カゲヌシ』という単語は皆さんもご存じの通り、この地方独特のものでありまして、古代からこの地に伝わってきております。もちろん、わたしの持っている『皇輝山《おうきざん》文書』にもその記述があります』
「是非《ぜひ》、ごらんになっていってくださいー」
受付嬢《うけつけじょう》が佐貫に声をかける。佐貫はカウンターの上に名簿《めいぼ》のようなものが開いているのを見る。名前と電話番号がずらりと書かれていた。
「ここに書きこまないと中へは入れないんすか」
彼女はぱたんと名簿を閉じ、オレンジのグロスでてかてかした唇《くちびる》をにっとゆがめた。
「いいえ。これはですねー、開場前にいらしたお客様に任意でお書きいただいたものですから。そのまま入っていただいて大丈夫ですよ」
「あ、そうすか」
『この町へ戻る直前、わたしは恐るべき難病《なんびょう》を背負った少年の治療《ちりょう》を行いました。彼は一ヶ月前に天に召《め》されましたが、彼は恐るべき『カゲヌシ』に取りつかれていたのであります』
佐貫は半開きのドアへと近づいていき、ホールの中を覗《のぞ》きこむ。パイプ椅子《いす》がずらりと並べられ、奥の方に白い箱《はこ》のようなステージが見える。「客」の入りは七割程度というところだったが、それでも百人程度はいるようだった。年代にはばらつきがあるものの、客席を占めているのは大半が女性である。
壇上《だんじょう》には看板の写真と同じ男が立っていた。白いタキシードの上に同じ色のマントを羽織《はお》り、テレビ局で使われているようなインカム式のマイクをかけている。
その男が「皇輝山|天明《てんめい》」らしかった。
「……うさんくさ」
佐貫は噴《ふ》き出しそうになった。ただ、その見た目が逆に警戒心《けいかいしん》をほぐすようで、ホールの中は思ったよりも和《なご》やかな雰囲気だった。宗教団体のセミナーというよりは、デパートの屋上でやっているローカルなイベントのようだ。
「……皆さんの中にはお疑いの方もおられるかもしれない。『本当にこの男にそんな力があるのか』と……あなたはどうですか?……ああ、苦笑《にがわら》いをなさっておられる。では、今からお見せしましょう。今、笑ってらしたあなた、どうぞこちらへ」
最前列にいた女性が天明に手を引っ張られて壇上に上がる。三十過ぎのこれといって特徴のない女性だった。
(……あれ)
佐貫《さぬき》は彼女の顔に見覚えがあった。隣《となり》近所というほどではないものの、佐貫の家からそう離《はな》れていないところに住んでいる女性だった。確《たし》か自宅でピアノ教室を開いている人だと思う。しょっちゅう見かける顔だが、名前を思い出せない。佐貫が必死に記憶《きおく》を探《さぐ》っていると、
「お名前だけ伺ってよろしいですか?」
マイクを渡しながら天明《てんめい》は尋《たず》ねた。
「大久保《おおくぼ》です。大久保|尚子《なおこ》」
佐貫は大久保さん、と口の中でつぶやいた。確かにそんな苗字《みょうじ》だった。
「なるほど。では、大久保尚子さん。そこにお立ち下さい」
彼女は天明に促《うなが》されて、ステージの中央に立つ。照明が調節《ちょうせつ》されているらしく、ステージの奥の白いホリゾントに彼女の影《かげ》がくっきりと映った。
「わたしは影に触れると、その人物について色々と『見る』ことができるのです」
天明は手袋を外しながら、ホリゾントに近づいていき、大久保尚子と名乗った女性の影に自分の手を重《かさ》ねる。そして、精神を集中するように目を閉じた。
なにを言うんだろう、と息を詰めて見ていると、
「……私は花が好きでしてね」
不意に天明が言い、会場から気の抜けた笑いが洩《も》れた。
「特に黄色《きいろ》い花が好きなんですよ。今、咲いているのはマリーゴールドですね? 実に陽《ひ》当たりのいい庭だ……花壇《かだん》の近くに小さな池がありますね。そこを歩いている白い猫が見えます。あなたの飼い猫かな?」
壇上《だんじょう》に立った尚子が戸惑《とまど》ったように天明を振りかえった。なにか思い当たるところがあるらしい。
「動いてはいけません!」
目を閉じたままで天明がぴしりと叫んだ。彼女は動きを止めた。
「わたしにはあなたの住んでいる家が見えています。二階建ての……ベランダに青いシーツが干《ほ》してありますね。庭から入った部屋に仏壇《ぶつだん》が見えます。どなたかの位牌《いはい》があるようだ。これはあなたのお父上かな? 非常に近しい関係の男性で……いえ、あなたのご主人ですね。あなたとは少し年が離れていたようですが」
天明が言葉を発するたびに、彼女の表情が引きしまっていく。今や会場はしんと静まりかえっていた。
「ああ、そうです。二年、いや三年前に亡《な》くなられたようだ……事故……そうですね。トラックにはねられたようです。一瞬《いっしゅん》の出来事でした」
「……どうしてそんなことが」
震《ふる》える声で尚子《なおこ》が言った。
「影《かげ》が語っています。これが私の守護神《しゅごしん》『龍子主《たつこぬし》』がわたしに授けた力です」
(トリックだろ)
と、一番後ろの席から見ていた佐貫《さぬき》は心の中でつぶやいた。こういう「透視」のマジックは珍《めずら》しくはないし、このようなマジックは回答者がグルになっていることが多いと聞く。しかし、昔からこの町に住んでいるごく普通の女性が、こんなうさんくさい男のショーにわざわざ協力するとも思えない。どう見ても彼女は本気で驚《おどろ》いていた。
具体的にどんなトリックを使っているのか、さっぱり分からなかった。
「あなたは色々とご苦労を重《かさ》ねておられるようだ。お子さんもいらっしゃらない。お一人で暮らすのは心細いことでしょう。あなたの心痛が見えます。そこへ忍び寄る『カゲヌシ』もね」
すっと天明《てんめい》は影から離《はな》れ、背後《はいご》から尚子の肩に手を乗せる。彼女はびくっと体を震わせた。
「あなたのプライバシーを暴《あば》くのが目的ではありません。この程度にしておきましょう。もし、よろしければ後で相談《そうだん》に乗ります……私は常にあなたの味方ですよ」
彼女は無言のままうなずくと、頼りない足取りでステージから降りる階段へ向かう。強いショックを受けているようだった。
「ああ、お待ち下さい」
天明が声をかける。彼女はおそるおそる振り向いた。
「申《もう》し訳《わけ》ありませんが、あなたの影《かげ》を拝見した報酬をいただきます」
天明《てんめい》はさっと頭上に手を挙《あ》げる――突然、空中にぱっとなにかが現れて、天明の手の中へ落ちてきた。それは一輪《いちりん》の黄色《きいろ》い花だった。
「お宅の庭に咲いていたものです……一本ぐらいなら構わないでしょう? お宅に帰ったら、庭を見てごらんなさい。一本なくなっているはずですから」
尚子《なおこ》は足早にステージを降りると、元の席に戻った。たった今目の前で起こったことが信じられないというように、会場は水を打ったように静まりかえっていた――やがてどこかからか拍手が起こり、それはあっというまに会場を埋め尽くしていった。立ち上がって手を叩《たた》いている客もいる。
(……どうやって出したんだ?)
万雷《ばんらい》の拍手に耳を傾けながら、佐貫《さぬき》は考えている。本当にトリックなのか、という考えがちらりと頭をよぎった――もちろんトリックに決まってる、とすぐに思い直した。
考えこんでいた佐貫は、携帯の着メロが鳴っていることに気がつくまでしばらく時間がかかった。
(あ、いけね)
待ち合わせの相手が着いたのかもしれない。佐貫は携帯を出しながら、慌《あわ》てて外へ走っていった。
2
ロビーに戻って、電話に出ようとしたとたんに着メロは止まった。履歴を見ると「西尾《にしお》みちる」の文字がある。佐貫はそのままドアを抜けて、駅舎の方を見る。
さっきまで佐貫が立っていた場所に、ストレートの髪を長く伸ばした背の高い少女が立っていた。ちょうど電話をかけ終わったところらしく、携帯のパネルを閉じてしまおうとしている。ふと、彼女は顔を上げて佐貫の方を見る。切れ長の目とくっきりした眉《まゆ》は、美人というよりは凛々しい印象だった。
佐貫は小走りで彼女の方へ近づいていき、
「おう」
と、声をかけた。
「ああ」
西尾みちるも短く答えた。
「今、電話したんだけど」
「知ってる。待ったか?」
「全然」
「いくか」
「うん」
ひどく素《そ》っ気《け》ない会話だが、彼らにはそれが普通だった。二人は切符を買って鶴亀《つるき》駅のホームへ向かう。電車を待っている間も、無言のままベンチに座っている。周りから見ればそれほどでもないが、二人は大変に仲がいい。かといって付き合っているわけではない。あくまでも「親友」である。
次に二人が口を開いたのは、電車に乗って加賀見《かがみ》駅についてからだった。
「どうだった。神社のバイト」
思い出したように佐貫《さぬき》が言った。彼女が住んでいるのは鶴亀町ではなく加賀見市の方なのだが、ここ何日か鶴亀神社で巫女《みこ》のアルバイトをしている。
「面倒《めんどう》くさい。もうやめたい」
と、みちるは顔をしかめた。
「巫女さんの服ってすごく暑いんだよ、あれ」
「なんで神社でバイトやってんだ?」
「うちの叔母《おば》さんがあそこの神主さんと知り合いで、無理に頼まれたみたいなんだ。姉さんもいくはずだったんだけど、急に親戚《しんせき》の家にいかなきゃいけなくなって。あたし一人でいくことになっちゃったの」
「へえ」
と、佐貫は言った。そこで断らないあたりがこいつらしいと佐貫は思った。みちるは責任感の強い性格だった。
「バイトって言っても掃除とかものの整理とか、ただの雑用だけどね。ほんとはもう一人連れて来てくれって言われてて。まあ、もう無理だけど」
二人は加賀見駅を出て、団地へ向かって歩き始めた。アスファルトからもやとともに熱気《ねっき》が上がっている。
「そういえば、鶴亀の駅で待ち合わせしてる時、変なイベント見てなかった?」
と、みちるが言った。
「……皇輝山《おうきざん》天明《てんめい》?」
名前が派手《はで》なので、憶《おぼ》えてしまった。
「あの看板の人がそういう名前なんだよね?」
「知ってんのか、あのおっさん」
「昨日、あたしが働いてたら神社に来たよ。宮司《ぐうじ》さんに会いに来たみたい」
「そういえば昔、鶴亀神社の神主だったとか言ってたな」
「あれが元神主? ほんとに? なんかすごいタキシード着てたよ」
「いや、ほんとかどうか知らないけど。うさんくさいってのは俺《おれ》も賛成だな」
「夏祭りでイベントやるマジシャンかなにかじゃないの、あれ」
鶴亀《つるき》神社で行われる夏祭りは、三日後に迫っている。最大の見物が鶴亀山から見える花火大会だった。
「マジシャンっていうか、超能力者のつもりっぽいぞ」
怪《あや》しさ爆発《ばくはつ》の「天明《てんめい》ショー」について、佐貫《さぬき》は自分が見た範囲《はんい》で一通り説明した。聞き終えるとみちるは首をかしげた。
「それでかなあ。社務所《しゃむしょ》の前で宮司《ぐうじ》さんと言い合いみたいになってたよ」
「言い合い?」
思わず佐貫は聞きかえした。
「あの神社の宮司さんってすごくいい人なんだけど、顔|真《ま》っ赤《か》にして怒っててさ。『また警察《けいさつ》に調《しら》べられたいんですか』って」
みちるの話に、佐貫はあっと声を上げた。
「……そうか。そうだった」
さっき『皇輝山《おうきざん》文書』の話を聞いた時、思い出しかけたのはそのことだったのだ。四年前、鶴亀町で謎《なぞ》の古文書が発見されたというニュースがこの町を賑《にぎ》わしたことがあった。一時はマスコミも取材に来て、古代史マニアの間では結構有名になったらしい。しかし、それを「発見した」男は偽造《ぎぞう》の疑いをかけられ、警察にも取り調べを受けたという話だった。
小学生だった佐貫は詳しく知っていたわけではないが、結局その男は町から逃げ出したという顛末《てんまつ》だったと思う。
その男が、この町に帰って来た。
佐貫はさっきの「ショー」を思い出した。確《たし》かにどこからどう考えても怪しい。しかし、あの男の一挙手一投足《いっきょしゅいっとうそく》には妙な説得力がある。それがいわゆるカリスマ性から来ているのか、あるいは本当になにか能力を持っているのか、そのあたりはよく分からなかった。
(……皇輝山文書、か)
佐貫は自分をリアリストだと思っているし、オカルトにはあまり興味《きょうみ》がない。しかし、万が一謎の古文書が存在し、それがあの男に「影《かげ》」を見る力を授けたとしたら大いに「面白《おもしろ》い」ことである。それに、天明が口にしていたカゲヌシの話も大いに気になる。
「ちょっと調べてみるか」
と、佐貫はつぶやいた。
3
裕生《ひろお》は加賀見《かがみ》団地の公園のベンチに座っている。
(やっぱり来ないな)
彼はこのあたりから、自分の住んでいる棟《むね》の入り口をずっと見ている。かろうじて今いる場所は木陰《こかげ》になっているが、それでも座っているだけで汗が噴《ふ》き出してくる。あたりの景色は日射《ひざ》しで白くかすんでいるようだった。
三日前に裕生《ひろお》は雛咲家《ひなさきけ》のドアに描《えが》かれていた×印の落書《らくが》きを消した。ほとんどの人間は知らないことだったが、あの落書きには意味がある。「黒の彼方《かなた》」の肉体に刻まれた「サイン」――カゲヌシの個体を識別《しきべつ》するためのしるしと同じものだった。カゲヌシがそこにいることを示すかのように、何者かがカゲヌシの居場所を回っては、その建物に「サイン」を描いていく。
裕生は雄一《ゆういち》の調《しら》べている「黄色《きいろ》いレインコートの男」が、その落書きの犯人ではないかと疑っていた。一ヶ月前、初めて雛咲家のドアにサインを見つけた日、裕生は黄色いレインコートを着た人影《ひとかげ》が立ち去っていくのを見ている。
「カゲヌシ」の居場所を示して回るのは、人間に対する警告《けいこく》としか考えられない。兄の書きかけのレポートには、レインコートの男は「人間にカゲヌシの居場所を教えてくれる」存在と書かれている。真実が噂話《うわさばなし》の形で流れているのではないかという気がした。
「黒の彼方」を倒すには、まずこの男と会わなければならない、というのが裕生の結論であり、あの落書きを消したのもそのためだった。
あの「サイン」は何度消してもいつのまにか描《か》かれてしまう――つまり逆に言えば、レインコートの男を呼ぶには落書きを消せばいい[#「レインコートの男を呼ぶには落書きを消せばいい」に傍点]。
この三日、裕生はずっと待ち続けていた。むろん、「サイン」を知ることができる相手が、ただの人間ではありえないことは承知している。カゲヌシとの契約者か、あるいはもっと危険な存在かもしれない。しかし、葉《よう》のことを思えばなりふりかまってはいられない。覚悟を決めたつもりだったのだが。
今日に至るまで何事も起こっていない。
裕生はコンクリートの建物を見上げる。最上階のベランダに、干《ほ》した洗濯物《せんたくもの》を取りこんでいる葉の姿がある。ふと、彼女が裕生の方を見た――軽く手を振ると、怪訝《けげん》そうな顔をしながら部屋の中に戻っていった。
(……「黒の彼方」のせいかな、やっぱり)
男が現れない理由は、それ以外に考えられない。同じように「サイン」に遭遇《そうぐう》した二人のカゲヌシの契約者は、落書きを消しても「気がつくと」また元のよう描かれていると言っていた。つまり、その付近にカゲヌシがいる時は、相手は決して「サイン」を描きに来ないということだ。
裕生はこめかみのあたりに指をあてて考え始めた。ということは、「黄色いレインコートの男」と会うには、葉を遠ざけて裕生自身はここに残らなければならない。問題は葉がまったく加賀見《かがみ》団地を離《はな》れようとしないことだった。外出するような気分になれないことぐらい裕生にも察しはついているが、それでもなにか手を打たなければならない。
ふと、足音が公園のベンチに近づいてきた。顔を上げると、目の前に葉が立っていた。
「なにしてるんですか」
あの「黒の彼方《かなた》」を倒す方法を探してるんだ。もう時間がないから。
「ううん。別に。ちょっと考えごと」
「……」
裕生《ひろお》は「黒の彼方」を倒すと決めた時から、自分がなにをしようとしているのか彼女に説明するのをやめた。彼女に伝えるということは、「黒の彼方」にも伝えるのと同じだ。こちらの動きを悟られてはならない。
本気で戦うつもりであれば。
本気で彼女を救うつもりであれば。
「どこかに出かけるの」
「団地のスーパーに」
最近では彼女の唯一《ゆいいつ》の外出先だったが、その程度|離《はな》れたぐらいでは「レインコートの男」は現れないらしい。
「そう」
裕生は彼女の目を見ずにつぶやいた。
葉《よう》はなにか言いたげにその場でもじもじしていた。彼女が不審《ふしん》に思っているのは分かっている。しかし、こちらの意図を説明するわけにはいかない――なにかうまい方法があればいいのだけど。
「スーパー、いかないの」
一瞬《いっしゅん》、葉はなにかを言いかけて、結局その言葉を呑《の》みこんだらしかった。
「……いってきます」
葉は踵《きびす》を返して歩き始めた。少しうつむき加減の彼女の背中を見送りながら、裕生は唇《くちびる》を噛《か》んだ――あまり時間がない。
彼女の姿が見えなくなってから、裕生はベンチから立ち上がった。少し離れたところに、二人乗りの錆《さ》びたブランコがある。なんとなく歩いていって、誰《だれ》も乗っていない箱《はこ》を指先で押す。このブランコにも葉と裕生には思い出がある。
(まだ、あのこと憶《おぼ》えてるのかな)
金属の軋《きし》むかすかな音に耳を傾けていると、
「藤牧《ふじまき》!」
葉とは違う女の子の声が聞こえた。はっと振り向くと、公園の外にみちると佐貫《さぬき》が立っている。裕生は二人の方へ走っていった。
「二人ともどうしたの」
と、裕生は言った。佐貫もみちるも、普段《ふだん》学校へ持っていくバッグを肩に下《さ》げている。
「はあ?」
佐貫《さぬき》はあきれたように眉《まゆ》をしかめた。
「お前ボケてんのか。夏休みの課題《かだい》、みんなで協力してやるって話だったろ。うちでやろうって言ったのお前じゃないか」
そう言えば、この前の登校日にそんな約束をした気がする。この数日、それどころではなかったのですっかり忘れていた。
「……今日だっけ」
「今日だろ。上がっても大丈夫か?」
「別にそれは平気だけど……」
裕生《ひろお》は言《い》い淀《よど》む。この場所を離《はな》れるのにためらいはあるが、どうせこのまま見張っていても何も起こらないだろう。
「なんでもない。いこう」
裕生は二人と並んで歩き始めた。ふと、みちるがいたずらっぽい顔で裕生を肘《ひじ》でつつく。
「さっきブランコでなにしてたの? なんかすごく真剣な顔してたけど」
裕生はあいまいに笑って答えなかった。
4
佐貫は別として、みちるが裕生の家に上がるのは初めてだった。
藤牧家《ふじまきけ》の居間に通された彼女は、きょろきょろと室内を見回している。佐貫は彼女の隣《となり》でバッグから課題のプリントを取り出している。裕生はノートや辞書を取りに自分の部屋へいったままだ。
大きな座卓がさして広くもない部屋の中央に置かれていて、後は目を引くような家具はない。ただ、部屋の中はきちんと隅々まで片づいており、そのことにみちるは驚《おどろ》いていた。裕生の様子《ようす》では自分たちが来ると思っていなかったらしい。男しかいない家のはずなのに、普段《ふだん》からきちんと片づけているのだ。家事をやっているのは裕生だというから、まじめな裕生の性格のたまものだろう。
(昔のあたしだったらドキドキなんだろうなあ)
と、みちるはぼんやり思った。もちろん彼女の心の秘密だったが、中学一年の頃《ころ》の西尾《にしお》みちるにとって、藤牧裕生は「初恋の人」だった。今となっては「ちょっとトロいけど仲のいい友達」なのだが、時々昔の記憶《きおく》がフラッシュバックして戸惑《とまど》うことがある。
「そう言えば今日の藤牧、普段となんか違わない?」
みちるは佐貫に言った。
「そうだったか?」
自分のノートをめくりながら佐貫が言った。そう言われるとみちるも自信がない。しかし、公園のブランコのそばに立っていた裕生《ひろお》は、少し哀《かな》しげな目をしていたような気がする。
ちょうど初めて裕生に会った頃《ころ》のように。あの中学一年の春。病室に入っていくと、ベッドの中で色の白い少年がうつむいて――。
「あ、うーん……はいストップ!」
みちるは声に出して、強引に「あの日の思い出」の再生を止めた。
「どうかしたのか?」
怪訝《けげん》そうに佐貫《さぬき》がみちるを見ている。みちるはふるふると首を振った。
「なんでもない」
その時、ドアの開く音が聞こえた。こんな時間に誰《だれ》が帰ってきたんだろう、と思っていると、スーパーの買い物袋を両手にぶら提げた雛咲《ひなさき》葉《よう》が現れた。
みちるたちを見て、彼女は凍《こお》りついたように立ちすくんだ。同じようにみちるも心底驚《しんそこおどろ》いていた。買い物袋を持ち、チャイムも鳴らさず、声もかけずに家に入って来る――どう見ても葉はここに住んでいた。
「お、こんにちは。夕飯の買い物?」
唯一《ゆいいつ》、いつも通りの佐貫が声をかけた。
「はい……こんにちは」
「あ、あたしたち課題《かだい》やりに来たの。こないだの登校日にそういう約束してて」
みちるは慌《あわ》てて言った。なぜか妙に後ろめたい気持ちだった。
「……あの、ごゆっくり」
消え入りそうな声で言って、彼女はキッチンの方へ立ち去った。その途端《とたん》、みちるは佐貫の肩をぐいとつかんだ。
「ねえ、あのさ。どうなってるの?」
と、小声で佐貫に話しかける。
「なにが?」
「あの子、なんでここにいるわけ?」
ああ、と佐貫はこともなげに言った。
「ここに住んでるんだってよ。聞いてなかったのか?」
「聞いてないよ!」
夏に入る前にそういう話があったことは知っているが、その話はなくなったと思っていた。まさか本当に一緒《いっしょ》に住み始めたとは。
「あたしたちこんなところに来ていいの?」
「なんかまずいのか?」
「え、だって……」
と、言いかけてみちるは口をつぐんだ。うまく説明できない。なんとなくいたたまれない気持ちだった。
「意識《いしき》しすぎだろ。大丈夫だよ」
「……」
まあ、ここに住んでても住んでなくてもどっちでもいいんだけどさ、と、みちるは自分に言い聞かせた――あたしには関係ないし。
その時、裕生《ひろお》の部屋のふすまが開く音が聞こえた。
「あ、お帰り。早かったね」
裕生の声だった。葉《よう》に話しかけているらしい。
「言い忘れてて悪かったけど、あっちの居間で勉強するから」
「はい……あの、野菜が安かったからたくさん買っちゃったんですけど」
「別にいいよ。なに買うかは葉に任せてあるし」
ぴくっとみちるの耳が反応した。いつから名前を呼び捨てにするようになったのだろう。無意識のうちに彼女は耳を傾けていた。
一瞬《いっしゅん》の間。
「なんともない?」
と、裕生が言った。
「……昨日と変わらないと思います」
どういう意味、とみちるは思った。前にも思ったことがあるけど、ひょっとしてなにか病気にかかっているのかも――。
はっと彼女は我に返った。これではただの盗み聞きである。自分が恥《は》ずかしくなった。
(あたしには関係ないこと)
と、もう一度自分に言い聞かせた。
三人の「勉強会」は大して時間をかけずに終わった。それぞれの得意科目を参考にしつつ、課題《かだい》の分担を割り振っていって、全員が苦手《にがて》な教科だけは次に集まった時に皆でやる、ということに決まった。
座卓の上に広げられていたプリントやノートはすっかり片づけられて、今は三人とも葉の持って来てくれたアールグレイのアイスティーを飲みながらおしゃべりをしている。よくよく考えれば計画を立てただけで課題はなに一つ終わっていないのだが、なんとなく大きな山を乗り越えたような気持ちになっていた。
先ほどから佐貫《さぬき》はずっと自分が見た「皇輝山《おうきざん》天明《てんめい》ショー」の話をしている。みちると裕生はその聞き役に回っているのだが、みちるは少し裕生の様子《ようす》が気になっていた。
(やっぱり元気ない……みたい)
裕生の様子はおかしいと思う。しかし、経験上《けいけんじょう》彼女は自分の注意力にあまり自信を持っていなかった。
「そう言えば、藤牧《ふじまき》先輩《せんぱい》って今も『カゲヌシ』の噂《うわさ》、調《しら》べてんだろ」
ふと、佐貫《さぬき》が話題を変えた。彼は裕生《ひろお》の様子《ようす》に気づいていないらしい。
「どういう調査《ちょうさ》してんのか、聞いてるか?」
「あ……さあ、よく分からないけど。それがどうかしたの?」
少しためらいがちに裕生は言った。
「その『皇輝山《おうきざん》天明《てんめい》ショー』の中で、『カゲヌシ』のことをわけの分かんない説明してたんだよ。ひょっとしたら結構有名なのかと思ってさ」
へえ、と裕生は生返事をする。佐貫の説明はあまり頭に入っていないように見えた。
「兄さんの部屋に書きかけのレポートがあるから、よかったら読みなよ」
「いいのか?」
「他《ほか》の人に見せても構わないって言ってたから。持って来ようか」
立ち上がりかけた裕生を佐貫が押しとどめた。
「いいっていいって。自分で探して読むから」
佐貫はうきうきと立ち上がり、部屋から出ていった。
みちると裕生は無言でその背中を見送った。
妙な沈黙《ちんもく》が落ちて来た。この部屋に二人っ切りだと思うと、みちるはなんとなく落ち着かなかった。学校ではいくら二人でいてもなんとも思わないのだが。
うろうろと視線《しせん》をさまよわせた末、みちるは口を開いた。
「そう言えば、もうちょっとで鶴亀《つるき》神社のお祭りだよね」
去年も佐貫を含めて三人で遊びにいった。みちるは神社でバイトしているが、後数日で終わると聞いている。お祭りが始まる頃《ころ》には暇《ひま》になるはずだ。
「今年も一緒《いっしょ》にいく?」
裕生の表情がわずかにくもる。とたんにみちるは動揺《どうよう》した。
「あ、佐貫も一緒だよ」
そう付け加えてから、みちるは自分がつくづく嫌《いや》になった。佐貫が一緒なのは当たり前だ。二人っ切りでお祭りにいくはずがないのだから。
(なに言ってんだろうあたし)
沈黙。裕生は空になった自分のコップをじっと見ている。さっき公園で見た時のような、少し陰《かげ》のある表情だった。
「……藤牧?」
そう呼びかけると、裕生ははっと顔を上げた。
「あ、うん。いけたらいきたいんだけど。ここんとこちょっと忙《いそが》しくて」
「……」
公園でたたずんでいた裕生《ひろお》をみちるは思い出す――あまり忙《いそが》しそうには見えなかったが、そのことを直接|尋《たず》ねてはいけない気がした。
「藤牧《ふじまき》、最近なにやってんの」
しかし、間接的には尋ねていた。
「……家にいるよ」
だから家でなにやってんのよ、とみちるは思ったが、苛立《いらだ》つよりも裕生の様子《ようす》が気になった。今、この瞬間《しゅんかん》にもなにか別のことを考えているようだった。
「……本当は外に出てもらわないといけないんだけど」
ふと、独《ひと》り言《ごと》のように彼はつぶやいた。
「え?」
今、なんか変なことを言わなかった?
今度こそきちんと聞き出そうとした時、裕生は急にみちるに笑顔《えがお》を向けた。
「西尾《にしお》はなにしてるの? 夏の間どこかでバイトするって言ってなかったっけ」
みちるは戸惑《とまど》ったが、結局問いただすのはやめることにした。
「……神社でやってるよ。まあただの雑用だし、後何日かで終わるんだけどさ」
実は今日あたりで終わるはずだったのだが、思ったより仕事が長引いていた。
「宮司《ぐうじ》さんは後一人ぐらい手伝ってくれる子が欲しいって言ってたけどね。でも、急に何日かだけ働いてもらうのって難《むずか》しいし、バイト代もそんなに」
みちるは言葉を切った。裕生が大きく目を見開いて彼女の顔を見つめている。
「え……なに?」
「……それだ」
裕生は急にみちるの肩に手をかけて、ぐっと顔を寄せて来た。
(え、な、なに?)
唇《くちびる》が目の前に近づいてくる。いきなりのことで、みちるは完全に気が動転していた。でも、さすがにこれは張り倒さなければならないと思い直した。みちるが腕を上げかけた瞬間《しゅんかん》、裕生の口が開く。
「……それ、葉《よう》でも大丈夫かな」
ただの内緒話《ないしょばなし》らしい。ほっとみちるは息をついた。
「え?……うん。大丈夫だと思うけど」
裕生につられて、彼女も小声で答えた。
「ちょっと誘《さそ》ってみてくれない?」
「……」
どうして内緒で相談《そうだん》する必要があるのかよく分からなかったが、断る理由も思いつかない。神社が人手《ひとで》を欲しがっているのは本当だった。
「いいよ。でも……」
なんでそんなことあたしに頼むの、と質問しようとした瞬間《しゅんかん》、キッチンから足音が聞こえた。みちるは慌《あわ》てて裕生《ひろお》から体を離《はな》す。お盆を持った葉《よう》が現れた。
「コップ、片づけていいですか」
「うん。いいよ」
裕生とみちるは同時に答えた。妙な雰囲気を察したのか、彼女はちょっと不思議《ふしぎ》そうな顔をした。彼女が無言でコップをお盆に載《の》せている間、裕生はちらちらとみちるの方を見ていた。
言ってくれ、ということなのだと思う。以前にも裕生の話を聞いて、変なことを引き受けてしまったことがある。今回も気は進まないが、一度|誘《さそ》うと言ったからには誘わなければと思った――責任感が強いのは彼女の性分《しょうぶん》だった。
みちるは咳払《せきばら》いした。
「あのね、雛咲《ひなさき》さん」
少し緊張《きんちょう》しているせいか、我ながらよそゆきの声になっていた。葉は手を止めてみちるを振りかえった。
「あたし、鶴亀《つるき》神社で臨時《りんじ》のバイトしてるんだけど、人手《ひとで》が足《た》りないの」
「……」
「お祭り前の何日かでいいんだけど、手伝ってくれない?」
葉は凍《こお》りついたように動かない。重い沈黙《ちんもく》が流れ、みちるは不安にかられた――あたしなんか変なこと言ったかな。
やがて、彼女は重い口を開いた。
「……できないです」
「あ、そう」
みちるは半分ほっとしていた。これでとにかく義理は果たした。
分かった、じゃあ他《ほか》の人を捜《さが》すから、と言いかけた時、
「どうして? 別に予定があるわけじゃないだろ」
と、裕生が口を挟《はさ》んだ。
「夏休みの間、全然家から出ないじゃないか。よくないよ、そういうの」
葉は頬《ほお》を叩《たた》かれたように呆然《ぼうぜん》としていた。かわいそうなぐらい顔が青ざめている。
「……わたし、一人でいくんですか?」
やっとのことで葉がつぶやいた。いやだから、あたしもいるんですけど、とみちるが言おうとした時、葉が裕生に向かって言った。
「先輩《せんぱい》は?」
(はあ?)
みちるはその問いにぎょっとして、二人の顔を交互に見た。今の葉の発言はどう考えても、わたしと先輩《せんぱい》はいつも一緒《いっしょ》にいるのが当たり前なのに、という前提に立っている。そこから導《みちび》き出される結論は、
(この二人、付き合ってるんだ)
という以外にはありえない。みちるは力が抜ける気分だった。それならそうと早く言ってよ、と言いたくなった。
「ぼくはいかないよ。別にいくことないだろ」
少し冷めた声で裕生《ひろお》が言った。
「とにかく、少しは外に出なよ。その方がいいって」
さすがにみちるも状況が少し呑《の》みこめてきた。要するに裕生はなにかの都合《つごう》で、葉《よう》を外出させたがっているのだ。おそらくこの団地でなにかあるのだろう。例えば、葉に見られたくない相手に会うとか。
とたんにむかむかと腹が立ってきた。馬鹿《ばか》にするんじゃないわよ、とみちるは思った――ただ、「あたしを」なのか「この子を」なのか、自分でもよく分からなかった。
「藤牧《ふじまき》、ちょっといい?」
みちるは裕生の腕をつかんで立たせると、窓の方へ引きずっていった。二人でベランダへ出ると、葉を部屋に残したまま後ろ手に窓を閉めた。
「どうしたの?」
裕生はびっくりしているらしい。みちるは腰に手を当てて、じろりと裕生を見た。
「あのね、藤牧とあの子がどうなってるのか、あたしにはどうでも……」
ほんの一瞬《いっしゅん》だけみちるはためらった。
ずっと以前に味わった甘さと苦《にが》さが胸の奥でじわりと広がる――だが、すぐにそれを振り捨てた。
「どうでもいいんだけど、あたしを利用したりするのはやめてくれる? 痴話《ちわ》ゲンカはあたしの知らないとこでやって下さい」
痴話ゲンカ、というところで裕生の顔がぱっと赤くなった。
「ち、痴話ゲンカ? なに言ってるの」
「じゃあなんなの? あの子と付き合ってるんでしょ?」
「付き合ってないよ!」
声が大きくなっていることに気づいて、二人は慌《あわ》てて声を低くした。
「事情は言えないけど、葉がここにいるとまずいんだ。西尾《にしお》とか佐貫《さぬき》じゃないと、こういうこと頼めないと思って」
「なにそれ。ちょっとぐらい説明してくれないと――」
その時、かつかつと窓を叩《たた》く音が聞こえた。二人が振り向くと、ガラスの向こうに葉が立っていた。裕生は窓を開けて、
「どうしたの?」
と、声をかけた。葉《よう》は胸の前で組んだ手をもじもじと動かしていたが、やがて意を決したように顔を上げた。
「あの……」
葉が見ているのはみちるだった。
(え、あたし?)
「わたし、やります」
葉は細い声で言った。みちるははあ、とため息をつく。理由は尋《たず》ねなくても分かった。
「……ほんとにいいの?」
みちるが言うとと、葉はこくりとうなずいた。
「じゃあ、明日の朝九時に鶴亀《つるき》駅に来てくれる?」
葉はもう一度うなずいた。そして、コップの載《の》ったお盆を手に取って居間を出ていった。
「よかったね。いってくれるって」
みちるは皮肉っぽい声で言った。
「……でもどうしたんだろ、急に」
裕生《ひろお》はけげんそうな顔をしている。
「自分で考えたら」
みちるは彼を残して、部屋の中に戻った。
ほんとに藤牧《ふじまき》はどこまで鈍《にぶ》いんだろう、と彼女は思った。
あんたがいけって言ったからに決まってるじゃない。
5
ふと我に返ると、皇輝山《おうきざん》天明《てんめい》はどこかの門前に立っていた。
「どこだ、ここは」
と、天明はつぶやいていた。
鶴亀町のどこかであることは間違いないらしい。ほとんど太陽の沈みかけた西の空に、鶴亀山のシルエットがぼんやり浮かんでいる。路肩《ろかた》には彼の車が停《と》めてあった。
俺《おれ》はなにをやっているんだ、と、天明は思った。
彼はぴったりした黒のスーツを着ている。ネクタイもYシャツも黒一色で、まるで彼自身が影《かげ》のようだった。
夕方にホテルを出たのは憶《おぼ》えている。入り口で従業員がスプレーの落書きを消していた。斜《なな》めに傾いた正方形の中に黒い点――それが「サイン」であることは天明にも分かっていた。しばらくそれを眺めてから、彼は自分の車でここへ来た。
これといった特徴のない二階建ての家だった。二階のベランダにはしまい忘れた青いシーツが生ぬるい風にたなびいていた。錆《さ》びたフェンスの隙間《すきま》から、真っ白い猫がするりと敷地《しきち》の中へ入っていくところだった。フェンスの向こうには小さな庭が見える。
門柱の表札には「大久保《おおくぼ》」という苗字《みょうじ》があり、その隣《となり》には「大久保ピアノ教室」というプレートもかかっている。
「……あの女の家か」
数時間前に「影《かげ》を見通して」やったあの女。庭の一隅《いちぐう》に赤いレンガで囲われた場所があり、目に染《し》みるような鮮《あざ》やかな黄色《きいろ》の花が咲いていた。
天明《てんめい》はふらふらと門を開けて中へ入る。
(なにをしに来たんだろうな)
最近、物覚えが悪くなっている。いや、ところどころの記憶《きおく》が消えているのだ、思い出せない昔のことがいくつもある。時々、自分の頭が自分のものではないような気さえする――この数ヶ月、彼と一緒《いっしょ》にいる「あれ」のせいだということは分かっていた。
この皇輝山《おうきざん》天明の分身。龍子主《たつこぬし》。
彼はまっすぐに庭の奥へ向かった。庭に面した部屋の窓は開け放たれていて、その中は和室になっている。
例の花壇《かだん》の前で片膝《かたひざ》をついた。黄色い花弁の群れをかき分け、目を近づける――一輪《いちりん》だけ茎の半《なか》ばからもぎ取られていた。
(悪くない仕事だ)
天明は苦笑する。しかし、ここへやって来たのはその確認《かくにん》のためではないはずだ。
「……誰《だれ》?」
家の方から鋭《するど》い声が響《ひび》く。天明はふわりと立ち上がった。
「え、天明先生! どなたかと思いました」
窓のそばに大久保|尚子《なおこ》が立っていた。
「こんばんは」
と、天明が言った。尚子は頭を下げる――どうして、この人は庭にいるんだろう。
黒ずくめの服も気になった。暮れかかった庭に立っている姿は、昼間会った時とは別人のようだった。
「つかぬことをお聞きしますが、わたしはあなたに電話をしましたか?」
尚子は噴《ふ》き出しそうになった。
「いいえ。電話をしたのはわたしの方ですけど」
昼間言われた通り、彼女は天明に電話で「相談《そうだん》」を持ちかけたのだった。夫を亡《な》くし、独《ひと》り身の生活を送っていること、財産といえば持ち家があるだけで、近所の子供にピアノを教えて生計を立てていること、親戚《しんせき》や友人が再婚しろとうるさいこと――我ながら取るに足《た》らない悩みだと思いながら話したが、相手はどんなことも親身になって聞いてくれた。
「それで、わたしはあなたに呼ばれたんでしょうか?」
尚子《なおこ》は一瞬《いっしゅん》言葉を失った。
「嫌《いや》だわ。大事な話があるからすぐにいくっておっしゃったのは先生の方ですよ」
「なんの話をするか、わたしはあなたにご説明しましたか?」
少し話の内容がおかしい気もしたが、この質問もなにかのテストなのかもしれないと思い直した。昼間、この天明《てんめい》の発揮《はっき》した「影《かげ》を見る力」は彼女に畏怖《いふ》の念を植えつけていた。
「確《たし》か……『カゲヌシ』でしたかしら。そのことについて大事な話をしたい、と」
「なるほど。一人で待っているように、と言ったのかな?」
「ええ……なんでも、他人《ひと》に話すとその人に害が及ぶので、口外しないようにと」
「ああ、やっぱりそうか。それで分かりました……ハハハハハ!」
突然、背筋《はいきん》を反《そ》らして天明は哄笑《こうしょう》した。どことなく品のない笑いだったが、あまりにも楽しそうだったので、つられて彼女も笑顔《えがお》になった。
「いやあ、申《もう》し訳《わけ》ない。ようやく思い出しました。そう、確かにわたしはカゲヌシの話をしに来ました」
「とにかく、お上がりになりませんか? お話は家の中で」
「その話の後で、奥さんを殺します」
彼女の笑《え》みがこわばった。
聞き間違いに決まっているが――殺します、と確かに言った気がした。相変わらず、顔には人なつっこい笑みを浮かべている。
「…………え?」
「だから、お前を食い殺すんだよ……こんな風にな」
天明はかちかち、と歯を鳴らして見せた。笑顔はそのままで、口調《くちょう》だけががらりと変わっていた。
「俺《おれ》の言っていたことは全《すべ》て嘘《うそ》だ。カゲヌシは負の力なんかじゃない。実在する異世界の怪物の総称だ。ヤツらは人と契約を結ぶ……その人間のねがいに応じて」
尚子は口を開けたまま、その場に突っ立っていた。相手がなにを言っているのか、まったく理解できなかった。
「俺のねがいはカゲヌシを呼び、俺は契約を結んだ。俺のねがいの象徴は『皇輝山《おうきざん》文書』。昔、俺の見た悪い夢だ。俺はカゲヌシと常に共にある」
天明は一端《いったん》言葉を切り、大きく息を吸いこんだ。
「『龍子主《たつこぬし》』!」
突然、太い声で叫んだ。尚子はぴくりと体を震《ふる》わせて、アルミサッシをぎゅっと握りしめた。
「……俺《おれ》がこんな風に名を呼ぶと、カゲヌシは現れる。さて、俺の話はこんなところだ」
天明《てんめい》はじりっと窓の方へ一歩進んだ。真っ白になっていた彼女の頭に、冷たい水のように恐怖が流れこんで来た。この男は確《たし》かに「カゲヌシの話が終わったら殺す」と言っていた。
なにかの間違いだとは思う――そうは思うが、もう一歩天明がこちらへ近づいたら、窓を閉めて鍵《かぎ》をかけるつもりだった。この家ではピアノの音が洩《も》れないように、外に面した窓には分厚い二重ガラスを入れている。そう簡単《かんたん》に窓から侵入されることはないはずだ。玄関の鍵はかけてあるし、今一階で開いている窓はここだけだ。
「俺のカゲヌシはいつも飢《う》えている。お前はエサだ。それ以外になんの価値もない」
突然、天明は窓の方へ走って来た。男の伸ばした手がサッシをつかむ寸前、尚子《なおこ》は窓を閉めて錠《じょう》を下ろした。天明はにやにや笑いを顔に貼《は》りつけたままガラスに両手をついた。妙に生白《なまじろ》く大きな手のひらが、ガラスの向こう側にべったりと貼りついている。
尚子はぶるっと全身を震《ふる》わせて、畳《たたみ》の上を一歩下がる。心臓《しんぞう》が胸を突き破りそうだった。とにかく一刻も早く警察《けいさつ》を呼ばなければ――。
かり、と畳をひっかく音が背後《はいご》から聞こえた。
尚子は凍《こお》りついたように立ちすくんだ。この部屋の中に何者かがいる。もちろん天明ではない。別の誰《だれ》か。天明は一人で来たのではなかったのだ。
(俺はカゲヌシと常に共にある)
ふと、天明の言葉が尚子の頭をよぎった。一体それがなにを意味するか、もちろん尚子には分からない。しかし、天明になにかまともではない力が備わっていることは彼女にとって疑いようのない事実だった。
(こんな風に名を呼ぶと、カゲヌシは現れる)
彼女の体が再びぶるっと震えた――あの男は「龍子主《たつこぬし》」という名を口にした。
すでに名は呼ばれたことになるのではないか。
本能が背後を確かめることを拒否している。しかし、そうしなければこの部屋を出ることはできない。
彼女は勇気を振り絞って振りかえった。
「……あ」
尚子のすぐ目の前で、奇妙な生き物が首をもたげていた。胴体は牛馬を連想させるほど太い。途中《とちゅう》からくの字に折れ曲がった四本の手足は、不気味なほど人間に似た長い指で畳表《たたみおもて》をつかんでいる。そして全身を覆《おお》う黒いうろこ。胴体から境目なく伸びた長い尾は、四方の壁《かべ》に沿うように丸まっていた。
裂け目に似た口から、二股《ふたまた》になった舌が一瞬《いっしゅん》だけちろりと伸びた。鈍《にぶ》く光っている黒い二つの目が、無表情に彼女の顔を見ていた。
巨大な黒い蜥蜴《とかげ》だった。
「そいつが龍子主《たつこぬし》だ」
天明《てんめい》の声がすぐ耳元で聞こえた。彼女の隣《となり》にいつのまにか天明が立っていた。
「どうやって……」
横目で窓を確《たし》かめる――錠《じょう》は確かに下りたままだった。それなのに、天明は部屋の中にいる。
かちかちかち、とまた天明が歯を鳴らした。
それが合図のように、ゆっくりと龍子主が動き出した。天明の目にはこの蜥蜴《とかげ》の目と同じ黒い輝《かがや》きがある――彼女の本能が、命乞《いのちご》いは無駄《むだ》だと告《つ》げた。この男も人間ではないのだ。
彼女は部屋の隅へと後ずさっていった。
天明は家の外へ出た。もうすっかり太陽は沈んでいる。
彼は満足していた。後はホテルに戻って眠るだけだ。彼は口元に笑《え》みをたたえながら、停《と》めてある自分の車に近づいていった。
彼の中にいる龍子主も落ち着きを取り戻している。この底なしの食欲を持つカゲヌシにも、例の「計画」の日まで餌《えさ》を与える必要はなさそうだった。
彼は車のドアの前で立ち止まり、ポケットのキーを探る。
(なんのためにわたしの悩みを聞いたの)
死の直前の女の言葉が蘇《よみがえ》り、ふと天明は動きを止めた。笑顔《えがお》がわずかに後退し、眉根《まゆね》に皺《しわ》が寄る。
(殺すつもりなら、どうしてわたしを騙《だま》したの)
「……なんのために」
口の中で天明はつぶやく。あの女の言った通り、殺すだけならあの「ショー」を開く必要などない。龍子主には露見《ろけん》しない方法で「エサ」を得る能力も備わっている。
(俺《おれ》はこんなことをしたかったか?)
舌の奥にかすかな苦《にが》みがある。そういえば、このことは以前にも考えたような気がする。その時、さっと一陣の風が吹《ふ》いて、天明の体がゆらりとかしいだ。
車のルーフに手をついた天明は、我に返ったようにあたりを見回した。
(なにをしてるんだ、俺は)
たった今、なにか考えていたはずだ――しかし、それがなんだったのかははっきり思い出せなかった。
(まあ、いいか)
大した問題ではないだろう。天明の顔に品のない笑みが戻ってきた。
ホテルに戻るべく、天明は車に乗りこんだ。
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第三章 「ドッグヘッド」
1
加賀見《かがみ》団地から歩いて十五分ほどのところに、廃業になった病院がある。三階建てのコンクリートの建物が、今も解体されないまま残っていた。この近辺では「幽霊《ゆうれい》病院」として名高く、格好《かっこう》の肝試《きもだめ》しスポットとして「活用」されて来た。
しかし二ヶ月ほど前、若い女性が屋上で焼死する事件が起こって以来、足を踏み入れる者はすっかりいなくなっていた。「本当に幽霊が出る」という噂《うわさ》が流れていたからだ。
その一隅《いちぐう》にある薄暗《うすぐら》い一室で、床《ゆか》に倒れていた一人の男がゆっくりと体を起こした。
彼は膝《ひざ》まである厚手のレインコートを羽織《はお》っている。少し薄汚れてはいるものの、コートの色は鮮《あぎ》やかな黄色《きいろ》だった。男はレインコートのファスナーを喉元《のどもと》まで閉じると、傍《かたわ》らに落ちていた手術用のマスクと色のついた大きなゴーグルをかける。そして、その上からコートのフードをぴたりとかぶった。
男は背中を丸め、音もなく走り出した。コンクリートやガラスの破片が散乱する廊下を抜け、正面玄関から外へ飛び出す。建物の前の駐車《ちゅうしゃ》スペースを一直線《いっちょくせん》に横切ると、穴の開いた金網をそのままの速度で通り抜けた。
彼は人目につかない移動経路を熟知《じゅくち》していた。金網の先にはコンクリートで囲われた用水路がある。彼は壁面《へきめん》の梯子《はしご》を使って身軽に下まで降りると、手近な暗渠《あんきょ》の中へ潜《もぐ》りこんだ。彼は暗闇《くらやみ》の中をほとんど四つんばいになって進んでいった。やがて、暗渠を抜けて別の用水路へ出る。
灰色の四角い建物がいくつも並んでいるのが見える。そこは加賀見団地の裏手だった。彼は用水路から上がって、団地の端にある公園を通りすぎた。公園から一番近い棟《むね》が彼の目的地だった。
建物の中へ入り、「雛咲《ひなさき》」というプレートのかかった一階のドアの前に男は立った。ここに辿《たど》り着くまで誰《だれ》にも見られていない。長い距離《きょり》を走り抜けたにもかかわらず、息一つ切らしていなかった。
レインコートのファスナーつきのポケットから、彼は黒いカラースプレーを取り出す。ドアにノズルを向けた瞬間《しゅんかん》――ゆっくりとドアが開いて来た。
裕生《ひろお》の目の前に立っているのは確《たし》かに「黄色いレインコートの男」だった。身長は裕生より少し高く、がっしりした体つきをしている。顔はマスクとゴーグルで覆《おお》われ、髪の毛もフードに押しこまれており、おおまかな年齢《ねんれい》すら分からない。
「あの……あなたが『サイン』を描《えが》いてたんですよね」
裕生《ひろお》は雛咲家《ひなさきけ》の玄関から話しかけた。葉《よう》が出かけてからずっと、彼はドアの覗《のぞ》き穴から外を見張っていたのだった。
その問いに男は答えなかった。彼は思わず唾《つば》を呑《の》みこむ――万が一、襲《おそ》いかかられたら逃げ場所はない。相手の表情がまったく見えないことも不安をかき立てていた。
それでも話をしないわけにはいかなかった。他《ほか》に頼るべき相手はいないのだ。
「話があって、ここで待ってました。ぼくは……」
「ううううううううう」
男のマスクの奥から、くぐもった声が洩《も》れた。サイレンを口まねしているような気味の悪い声だった。
「うううううああああおおおおおお!」
男の声は尻《しり》上がりに太く大きくなる。そして、不意にその姿が視界から消えた。
「えっ」
一瞬《いっしゅん》、虚《きょ》を衝《つ》かれたが、すぐに男がドアの前から横っ飛びに跳《は》ねただけだと気づいた。裕生も玄関の外へ飛び出すと、レインコートの男は団地の建物の前に着地したところだった。そして、恐ろしい速さで駆《か》け出した。
「ちょっと待って!」
裕生は走りながら男の背中に向かって叫んだ。おぼろげながら彼にも分かりかけていた――この相手は自分に怯《おび》えている。人間に出会った野生の動物のように。
少し走ったところで、男はすぐに向きを変えて公園の中へ飛びこんだ。追いつくことなどできそうもない。裕生はさらに大声で叫んだ。
「カゲヌシを倒す方法を知りたいんだ!」
裕生は息を切らせながら公園の入り口に辿《たど》り着いた。レインコートの男は公園の真ん中でぴたりと動きを止めていた。彼の声に反応したらしい。
「ぼくは藤牧《ふじまき》裕生」
ゆっくりと男は振り向いた。あまり相手を刺激《しげき》しないように、裕生は数メートルほど手前で足を止めた。
「カゲヌシと契約してるの?」
裕生は子供に話しかけるようなつもりで言った。この男はなんなんだろう、と裕生は思った。今まで出会ったカゲヌシの契約者とはまったく違う。ただの人間には見えないし、かといってカゲヌシの側に立っているわけでもない。カゲヌシの「サイン」を描《か》いて回るのは、人間を捕食するカゲヌシの行動としてはまったく理屈に合わない。
「しゃどうていかー」
しゃがれた声で男は言った。ようやく言葉を口にしてくれたが、なにを言ったのか理解するまで少し時間がかかった。
「……シャドウテイカー?」
黄色《きいろ》いフードに包まれた頭がうなずいた。裕生《ひろお》は頭の中でその言葉を反芻《はんすう》する。
シャドウテイカー――今まで聞いたことのない単語だった。
「それが君の名前?」
一瞬《いっしゅん》の沈黙《ちんもく》の後、男は首を横に振った。そして、自分の胸を指さした。
「れいんめいかー」
「『レインメイカー』が名前?」
再び男はうなずいた。確《たし》か「レインメイカー」とは、雨乞《あまご》いをする祈祷師《きとうし》を意味する言葉だったと思う。
「それはカゲヌシの名前? それとも君のあだ名?」
今度はなにも答えが返って来なかった。なんとなくそれを尋《たず》ねても相手は答えないような気がした。それよりも早く本題に入った方がよさそうだった。
「ぼくの幼なじみは『同族食い』に取りつかれてる。解放する方法を知りたいんだ」
レインメイカーはその場にしゃがみこんだ。そして、乾いた土の上に指でなにかを描《か》き始めた。裕生はおそるおそる近づいていき、レインメイカーの目の前で腰をかがめた。
レインメイカーが描いたのは大きな×印だった。一瞬、裕生は首をひねったが、すぐに意味を察した――これは「サイン」だ。
「これは『黒の彼方《かなた》』の『サイン』?」
黄色いフードにくるまれた頭がこくんと前に傾いた。×印の少し離《はな》れたところに正方形を描き、その中心に小さな点を置いた。ちょうど、サイコロの一の目に似た図形だった。
「じゃあ、こっちは他《ほか》のカゲヌシの『サイン』?」
再びレインメイカーはうなずいた。それから四角の「サイン」の上にいったん手を置き、その手を×印の上へ動かす。
そして、手のひらで×印をこすって消してしまった。
さっきよりも長い時間をかけて、裕生は考えこんだ。
「ええと……こっちのカゲヌシと戦わせろ、っていうこと?」
男はうなずいた。確かにカゲヌシを倒すのに、他のカゲヌシの力を使うのは当然の発想と言えた。だとすると、どこかにこの「サイン」を持ったカゲヌシがいるということになる。そこまで考えて、
「でもそれじゃ、こっちのカゲヌシに取りつかれてる人は? 『黒の彼方』を倒すのはいいけど、こっちの人をそのままにしとくわけにいかないよ」
と、裕生は言った。もう一方のカゲヌシが相変わらず人間を殺していたらなんの意味もない。「黒の彼方《かなた》」と同時にそのカゲヌシも始末しなければならない。
本当はもっと別のことも気になっている。裕生《ひろお》の知る限り、「同族」を食うカゲヌシは「黒の彼方」だけだった。「黒の彼方」を倒すのは当然としても、その後で他《ほか》のカゲヌシを倒す方法はあるのだろうか。葉《よう》を助けた瞬間《しゅんかん》に、他のカゲヌシの契約者を解放することができなくなるのだとしたら――。
(今は葉を助けることを第一に考えよう)
裕生は自分に言い聞かせていた。このまま葉が完全に「黒の彼方」に乗っ取られてしまえば、その場合も人間はカゲヌシ同士の戦いに巻きこまれ、多くの犠牲者《ぎせいしゃ》が出るはずだった。
「……あれ?」
地面に描《えが》かれた正方形の上に、いつのまにかコルクで栓《せん》をされた細長いビンが置かれていた。薄汚《うすよご》れたガラスの奥に、真っ黒い液体がたゆたっている。
「これはなに?」
レインメイカーが持っていたものらしい。彼は今度はガラスの瓶をつかんで、瓶の底でサインを押しつぶすようにこすった。
「このビンの中身でそのカゲヌシを倒せっていうこと?」
レインメイカーはうなずいた。
(……毒薬みたいなものかな)
男は裕生《ひろお》に向かって、そのビンを差し出した。おそらく、なにかカゲヌシにとっては害になる成分が入っているのだろう。裕生はためらうことなくそれを手に取った。効果のほどは分からないが、初めて手にするカゲヌシを倒すための「武器」だった。
「これ、『黒の彼方《かなた》』には効《き》く?」
レインメイカーは首を横に振る。裕生はそれほど失望しなかった。「黒の彼方」はカゲヌシの中でも異質な存在なのは分かっている。「黒の彼方」に効かなくとも、十分使い道があるはずだ。
不意にレインメイカーは立ち上がると、裕生に背中を向けた。もう話は終わりということらしい。裕生は慌《あわ》てて言った。
「『黒の彼方』を殺す時に、気をつけなきゃいけないことは?」
レインメイカーは天を仰《あお》ぐ――長い沈黙《ちんもく》の後で彼は言った。
「……どっぐへっど」
ドッグヘッド? あの「黒の彼方」の首のことだろうか。
「どっぐへっど」
もう一度繰り返してから、レインメイカーは歩き出した。まだ聞きたいことは山ほどある。裕生はふと半分消されかけた正方形の「サイン」に目を落とした。
「この四角い『サイン』を持つカゲヌシはこの近くにいるの?」
レインメイカーは立ち止まると、西の方角を指さした。つられて裕生も同じ方角を見る。鶴亀町《つるきちょう》の方角だ、と思った瞬間《しゅんかん》、裕生は背中に冷水を浴びせられたような気がした。
「……葉《よう》」
鶴亀神社には葉がいる。もし、鶴亀町のどこかにカゲヌシの契約者がいたら、彼女を見つけてしまう可能性がある。「黒の彼方」が倒されるだけならばまだいい。葉に危険が及ぶかもしれなかった――様子《ようす》を見にいった方がいい。
「レインメイカー、できればぼくと一緒《いっしょ》に」
裕生ははっと口をつぐんだ。
もう黄色《きいろ》いレインコートの男はどこにもいなかった。公園の中に立っているのは裕生一人だった。
2
その日の「皇輝山《おうきざん》天明《てんめい》ショー」は休みだった。
「本日はお休みいたします」という張り紙が看板の上に貼《は》られ、ビルのドアは閉ざされている。
受付のカウンターの奥に座った二十四、五の女が、小さな鏡《かがみ》を覗《のぞ》きこんで唇《くちびる》を見ている。巫女装束《みこしょうぞく》姿《すがた》に濃《こ》いメイクはいかにも似合っていないが、本人はまったく気にしていない。
「八尋《やひろ》さん、どうしたらいいですか」
受付に座っていた彼女に、生気のない顔つきをした男がおずおずと声をかけて来た。八尋、というのは皇輝山《おうきざん》天明《てんめい》と同様、彼女の本名ではない。しかし、彼女自身はその名前が好きだった。
「今日は撤収《てっしゅう》して。あたし一人残して、みんなホテルに帰っていいわよ」
男の方を見もせずに彼女は言う。心の中では馬鹿《ばか》どもが、と付け加えていた――本人がいないのだから「ショー」は休みに決まっている。皇輝山天明は彼女の他《ほか》に数人のボランティアのスタッフを抱えているが、真に腹心と言えるのは彼女だけだった。彼女以外には言われたことを従順にこなす「兵隊」しかいない。
「ねえ、なんか今日はスタッフが足《た》んないけど、どっかにいってんの?」
「天明先生のお言いつけで、四、五人出かけたようです」
八尋はため息をついた。最近、彼女の知らないところで「兵隊」を動かしてなにかを準備しているようだった。
「……なにやってんだか、あのオヤジは」
と、彼女はつぶやいた。天明は午後から鶴亀《つるき》神社にいく予定になっていたが、その前に「ショー」を一つこなすことになっていた。影《かげ》による一連の「透視」術で、興味《きょうみ》を持って訪れる人はますます増えている。「ビジネス」のことを考えれば、なるべく「ショー」を継続《けいぞく》していった方がいい。それは天明にも分かっている――はずだった。
八尋は鏡《かがみ》を少し動かして、思案げな自分の目元をしげしげと見た。
天明と知り合ったのは四年前、ホステスとして田舎《いなか》のスナックで働いていた頃《ころ》だ。頭が切れる上に冷徹《れいてつ》な彼女は、単に人をもてなすだけではなく人を騙《だま》すのにも向いていた。彼女の資質を一目で見抜いたのが他ならぬ天明で、それ以来彼女は天明の「ビジネス」のマネージメントを実質的に取り仕切って来た。
「ビジネス」の内容は、要するに方々の町を回って天明が「神の力による透視」を見せることで相手を信用させ、次に「神の力によるヒーリング」で多額の治療費《ちりょうひ》を得ることだった。一通り稼《かせ》いだら、潮時《しおどき》を察知してまた別の町へ移るという繰《く》り返しで今までやって来た。
パートナーとしては最近までうまくいっていたと思う。特に三ヶ月前、難病《なんびょう》の孫《まご》と億《おく》単位の財産を同時に抱えていた老婦人に目をつけたのは八尋である。孫が息を引き取るまでに彼女が差し出した金は、天明たちが道徳にも法律にも抵触する「ビジネス」から足を洗うには十分だったのだが、彼はそうしなかった。故郷の町に凱旋《がいせん》すると言い張った。
思えば、天明の様子《ようす》がおかしくなり始めたのはその少年の治療を始めた頃だった気がする。
八尋はタバコをくわえると、白衣の袂《たもと》から小さなオイルライターを取り出した。楕円形《だえんけい》のボディに瀟洒《しょうしゃ》な浮き彫《ぼ》りがあり、彼女のお気に入りだった。苛々《いらいら》している時は、それで火を点《つ》けて一服するのが彼女の癖《くせ》だった――が。
火を点《つ》ける直前に、八尋《やひろ》はふと顔を上げた。いつのまにかドアが開いていて、高校生ぐらいの太めの男の子がロビーを覗《のぞ》きこんでいた。八尋は慌《あわ》ててタバコとライターをカウンターの下に隠した。
「どうかなさいましたかー?」
少年は建物の中へ入って来る。さりげなくメモとペンを手にしていた。見た目のわりに動作はきびきびしていて隙《すき》がない。
警察《けいさつ》とマスコミ。細心の注意を払わなければならない二つの可能性をまず彼女は除外した。年が若すぎる。まだ十七、八|歳《さい》というところだろう。ふと、彼女はこの相手に見覚えがあることに気づいた。昨日もこの会場に現れた顔だった。
「どちらさまでしょうかー?」
「サヌキタカシっていいます。どうも」
どこのサヌキよ、と思いながら、彼女はカウンターの下にあるノートパソコンのファイルを開いた。この鶴亀《つるき》近辺の資産家のデータがほぼ網羅《もうら》されている。鶴亀町の古くからの大地主の姓に「佐貫《さぬき》」があった。長男の名前は峻《たかし》。
「君、昨日も来てたでしょ? 駅のすぐ近くに住んでるの?」
突然、八尋は敬語を使うのをやめて、馴《な》れ馴《な》れしく微笑《ほほえ》みかけた。
「まあ歩いて五分ぐらいすかね。この商店街抜けたとこっすよ」
ビンゴ、と彼女は心の中でつぶやいた。今、彼女のパソコンの画面には佐貫家の場所を示す地図が出ているのだが、その説明とぴたりと一致している。
「今日はないんすか。皇輝山《おうきざん》天明《てんめい》ショー」
「ごめんね。今日は中止になってしまったの……天明先生は急用で外出中なのよ」
「ちょっとお聞きしたいことがあったんですけど」
「どうぞ。なんでも聞いてちょうだい」
今日もまた訪れたということは、なにか相談事《そうだんごと》があるのかもしれない。八尋の目にはこの少年が大金という「敵陣」への道を開く突破口に見えていた。彼の両親に顔をつなぐまでは愛想《あいそう》を振りまいた方がいいだろう。ここで家族内のゴタゴタでも打ち明けてくれればバッチリだけど、と思った瞬間《しゅんかん》、
「『皇輝山文書』ってなんすか」
と、佐貫が言った。彼女は笑顔《えがお》のままでかすかに目を細める。その質問に下手《へた》な返答は許されない。
「それはね、天明先生がこの町の鶴亀神社に勤《つと》めてらした頃《ころ》、偶然発見なさった古文書よ。この世界の真実について記《しる》されている本なの」
佐貫は彼女の言ったことをメモに書きこんでいるらしい。彼女の懸念《けねん》がさらに強くなった。一体この少年は何をしているのだろう。
「見たことありますか?」
「もちろんあるわ。でも、とても大切な宝物だから、わたしたち信者もなかなか見せていただく機会がなくて」
「発見したって騒《さわ》ぎになった時も、結局ほとんど中身を見せなかったらしいっすね」
「太陽と同じでね。素晴《すば》らしい力を持つものは、使い方によってはとても危険なのよ。先生はそう判断なさったんでしょう」
今度こそ佐貫《さぬき》が警戒《けいかい》の必要な相手だと感じた。わざわざ『皇輝山《おうきざん》文書』について下調《したしら》べまでして、こちらの話を聞きに来た――一体、なんのために。
「本当の歴史を認めたくない人たちや、それに唆《そそのか》された人たちが先生を迫害なさったけれど、先生はゆるぎない信念をお持ちだったの。本当に立派なお姿だったわ」
天明《てんめい》に出会ったのはもっと後なので、その時のことなど知りはしないのだが、八尋《やひろ》はしれっとした顔で嘘《うそ》をついた。どうせ分かりはしない。
「具体的にどういうことが書いてあるんすか」
初めて彼女は返事に詰まった。正直に言えば読んだことなどない。ぱらぱらとページをめくった程度である。天明は『皇輝山文書』について語ることを好むが、他人《ひと》には滅多《めった》に見せようとしないからだ。
「この世界の歴史と、神様の話よ。失われた古代史についての重要な資料なの」
「読みたいんすけど、どうすれば読めるんすか」
このガキ、と言いそうになるのをこらえて、笑顔《えがお》を崩《くず》さずに答えた。
「それは先生のおそばについて、何年も徳を積《つ》まなければ難《むずか》しいでしょうね」
その『皇輝山文書』の扱いをめぐっては、天明と八尋の間で意見が分かれていた。単なるデッチ上げなのは明らかなのに、天明は彼女にすらはっきり認めようとはしない。人間なにか一つは妙なこだわりを持つものだと八尋も感心していたが、『皇輝山文書』は「ビジネス」に不要なリスクをもたらすという主張を彼女は堅持《けんじ》していた。神の力を有していることを示せばよいのだから『皇輝山文書』など無理に必要ない。
天明もその考えにはひとまず納得《なっとく》し、『皇輝山文書』について言及するのを控《ひか》えて来た。それが、三ヶ月ほど前からたびたび信者の前で口にするようになっていた。物好きが見せろってツッコんで来たらどうすんのよ、とそのたびに彼女は思って来た。
ちょうどこんな風に。
「ふーん。そっすか」
佐貫はまたメモをとっている。八尋は迷っていた。なんのつもりなの、と質問したかったが、後ろ暗いところがあると取られはしないかと心配でもあった。しかし、こちらの内情を探っているのだとしたら、こんなにあからさまに尋《たず》ねには来ないはずだ。
「じゃ、あの『カゲヌシは負の力の塊《かたまり》』ってのはなんなんすか? その古文書に書いてあるってのはほんとですかね?」
彼女は今度こそ自分が渋い顔をしないように努力しなければならなかった。あれを口にするようになったのも最近の天明《てんめい》の変化の一つだ。天明にとって「カゲヌシ」がなんなのかは知らないが、おかしなことを言われるとこちらがフォローに困ってしまう。
「そうね。先生は人間の影《かげ》に潜《ひそ》む負のエネルギーと戦ってこられたわ。『皇輝山《おうきざん》文書』の中の『カゲヌシ』の書かれた部分の解読はとても難《むずか》しくて、ずいぶん迷ってらしたようだけれど、長年の研究の成果でようやくそれが人間の負のエネルギーの塊《かたまり》だとお気づきになったそうなの。とても深遠《しんえん》なお考えだから、わたしたちにもまだ完全には理解できていないのだけど」
佐貫《きぬき》はふとペンを止めて顔を上げた。
「じゃ、そのへんはお姉さんは読んでないんすね?」
危うく彼女は舌打ちをするところだった――ヘンなところで鋭《するど》いじゃないのよこのガキは。
「いいえ。文章はもちろん見たことがあるわよ。でも、意味までは分からなかったわ」
実はその記述を目にしたことがあるわけではない。しかし、教祖があると言ったものを知らないと言うわけにもいかなかった。
「なるほど……じゃ、見てないのと大して変わらないっすね」
「……」
いい加減、八尋《やひろ》は内心この少年に向かってごまかし続けるのが面倒《めんどう》になっていた。そもそも、天明が余計なことを口走った挙《あ》げ句《く》、この場にいないのが原因なのだから。
「ねえ、なんでこのことを調《しら》べてるの?」
ついに彼女は自分に禁じていた質問をした。
「えー、だってすげえ面白《おもしろ》そうじゃないすか。ものすごく偽物《にせもの》っぽい古文書とか、ほんとに書いてあるのか分からない『カゲヌシ』の話とか!」
言っていることは皮肉そのものだが、顔には満面《まんめん》の笑《え》みが浮かんでいる。
「それだけ? 他《ほか》に理由は?」
「え? 他に理由? なんで?」
佐貫はけげんそうに聞きかえしてくる。ようやく八尋にも相手の意図が分かって来た――というより、意図などないのだ。調べているのもただの好奇心からなのだろう。彼女の目の前にいるのは、他人《ひと》が興味《きょうみ》を持たないようなことを細々《こまごま》と調べるのが好きな単なる変人なのだ。
「先生に直接会って話したいんすけど、ダメっすか」
(もういいや! あのオヤジに全部任せちゃおう)
ただの変人にこれ以上付き合っていても仕方がない。
「分からないわ。でも、今日は午後から鶴亀《つるき》神社にいくとおっしゃってたけど」
「ありがとうございます。じゃ、いってみます」
佐貫はドアを開けて出ていきかけたが、ふとなにかを思い出したように振りかえった。
八尋《やひろ》の背中に緊張《きんちょう》が走る。なんだろう――と思った時、佐貫《さぬき》は嬉《うれ》しそうに言った。
「そういや、俺《おれ》の友達もあそこでバイトしてるんすよ」
「あら、そうなの」
知るかそんなこと、と彼女は心の中でつぶやいた。
3
鶴亀《つるき》神社の大鳥居《おおとりい》は鶴亀山の中腹にある。
室町《むろまち》時代まで鶴亀山は鉱山だったらしく、埋もれたままの古い坑道が未《いま》だにいくつも残っているという話だった。
鳥居をくぐると広い参道があり、左側には二階建ての社務所《しゃむしょ》と、神輿《みこし》を納めておく神輿|殿《でん》が並んでいる。右手には神社に併設している鶴亀山公園がある。参道を進むと長い石段に突き当たり、そこを上ったところに神を祀《まつ》る本殿があった。この神社が一年でにぎわうのは正月と夏祭りで、宮司《ぐうじ》はその二つの時期の前後が最も忙《いそが》しくなる。
神輿殿の入り口の前で、烏帽子《えぼし》に狩衣《かりぎぬ》を身につけた宮司が祝詞《のりと》を読み上げている。その後ろでみちると葉《よう》が神妙な顔つきで立っている。二人とも白衣と緋袴《ひばかま》といういでたちで、手にはほうきとはたきを持っていた。
今日のみちるたちの仕事は神輿殿の掃除だった。祭りの前に神輿とそれが納められている建物を清めることになっているらしく、そのための儀式《ぎしき》を行っているのだった。
みちるはちらりと隣《となり》に立っている葉を見る。首から白衣の襟《えり》にかけての線《せん》が、きりっとした色気《いろけ》を漂《ただ》よわせている。手足の白さに緋袴の鮮《あざ》やかな色が映《は》えた。
(……この子、似合ってるなあ)
みちるに比べると確《たし》かに華奢《きゃしゃ》なのだが、それでもスタイルは決して悪くない。さっき着付けを手伝った時も、思ったより女らしい体つきで驚《おどろ》いてしまった。自分の姿を見下ろすと、多少複雑《ふくざつ》な気分になる。みちるも決して似合わないというわけではないだろうが、葉ほどは似合っていない――と思う。
その時、宮司が祝詞を読み終わった。もう一度拝礼して、儀式は終了した。
「じゃあ、後はここの掃除をお願いします」
儀式に使った三宝《さんぽう》や八脚案《はっきゃくあん》を片づけながら、宮司はみちるたちに言った。宮司は来山《きやま》という三十代|半《なか》ばの線の細い男だった。温厚な人柄《ひとがら》という評判で、みちるから見てもいかにも神主《かんぬし》にふさわしく見えた。
「できれば私も手伝いたいんですけど、これから来客があるから」
と、済まなそうに来山は付け加えた。
「別にいいですよ。さっきお聞きした手順でいいんですよね」
はきはきとみちるが答える。神輿殿《みこしでん》の掃除も正確《せいかく》には儀式《ぎしき》の一部で、神職《しんしょく》にある巫女《みこ》や神主《かんぬし》が行わなければならないらしい。本来はアルバイトのみちるたちがやるべきではないが、本職の巫女が病気|療養中《りょうようちゅう》で人手《ひとで》が足《た》りないのだった。
「あなたの方も大丈夫ですか」
来山《きやま》は葉《よう》に微笑《ほほえ》みかける。
「はい……大丈夫だと思います」
硬い声で葉は答える。
「雛咲《ひなさき》さんでしたっけ。珍《めずら》しい苗字《みょうじ》ですよね」
と、来山は言った。
「ご親戚《しんせき》にこの神社にゆかりのある方が、どなたかいらっしゃいませんでしたか? どこかで聞いたお名前の気がするんですが」
「あの……父がここによく来てたらしいです。結婚式もここで挙《あ》げたみたいだから」
みちるはかすかに目を瞠《みは》る。彼女が両親について話すのを聞いたのは、これが初めてだった。失踪《しっそう》した両親のことなど、触れたくないに違いない。
「ああ、そうでしたか。じゃあ、どこかでお会いしたのかもしれないな」
葉の家庭|環境《かんきょう》についてみちるから聞いていたせいか、来山はそれ以上|尋《たず》ねなかった。そろそろ客の来る時間だからと社務所《しゃむしょ》の方へ去っていった。
来山を見送ってから、みちるは明るい声で言った。
「じゃ、さっさと終わらせようか」
葉は黙《だま》ってうなずいた。
二人が両開きの引き戸をいっぱいに開けると、がらんとした建物の中に神輿が二つ並んでいる。さらに三方の格子窓《こうしまど》も開け、換気しながらはたきをかけていった。ひやりとした湿った空気が少しずつ外へ流れていく。
それが終わると、みちるたちはほうきで土間を掃《は》き始めた。誘《さそ》った事情が事情なので心配していたが、葉は思ったよりも楽しそうに働いている。一心にほうきを動かしている姿は同性のみちるから見てもかわいらしかった。
「……どうかしましたか」
視線《しせん》を感じたのか、いつのまにか葉がみちるを見ていた。
「あ、うん……似合ってるなあ、って思って」
素直な感想を口にしてしまった。葉はびっくりしたように自分の体を見下ろした。
「ほんとですか?」
「うん。かわいいよ」
葉はにっこり笑って、くるっとその場で回ってみせた。みちるは目を瞠った。喜んでいるというより、これはもう浮かれている。
「どうしたの?」
みちるが笑いながら言うと、
「わたし、着物って着たことないから」
と、葉《よう》が答えた。はっとみちるは胸を衝《つ》かれる思いがした。みちるには母と姉がいて、二人とも着物の着付けを知っている。正月になるとみちるにも着物を着ろと薦《すす》められるのがうっとうしかったが、一人で暮らして来た葉にはそんな風に言ってくれる家族もいないのだ。
「あ、待って」
激《はげ》しく動いたせいか、葉の衿《えり》のあたりが少し乱れていた。みちるは葉の隣《となり》にしゃがみこみ、袴《はかま》の腰あきから手を入れて、白衣の衿の端をきゅっと引っ張ってやった。
下から見ると葉の顔が真《ま》っ赤《か》になっている。妹がいたらこんな感じなのかなあ、とちらっと思った。
「藤牧《ふじまき》に見せたいでしょ」
みちるはからかうように言った。そのとたん、葉のほうきがばたんと音を立てて地面に落ちた。驚《おどろ》いたみちるが顔を覗《のぞ》きこもうとすると、葉は力いっぱい首を曲げて見せまいとする。ほとんど泣きそうな表情になっていた。
「…………そんなことないです」
「あ……そ、そうなんだ」
ここまで恥《は》ずかしがられると、逆にからかう気が失《う》せた。
それにしても、葉の気持ちはここまで分かりやすいのに、よく裕生《ひろお》との間になにも起こらないものだと思う。葉が内気なせいもあるだろうが、ひょっとすると裕生には葉のことなどまったく眼中に入っていないのかも――。
(あれ?)
みちるは首をかしげた。
(あたし、今ちょっとほっとしなかった?)
もちろん考えすぎに決まっている。昔のことがあるから、すぐに妙な方に考えがいってしまう。それだけの話だった。
「ねえ、浴衣《ゆかた》も着たことないの?」
みちるは話題を変えた。
「子供の頃《ころ》に、ちょっとだけ」
「ふうん。あのさ……」
突然、みちるは背中にのしかかるような誰《だれ》かの視線《しせん》を感じた。はっと振り向くと建物の入り口に白いタキシードを着た細身の中年男が立っていた。
(皇輝山《おうきざん》……天明《てんめい》?)
以前にもこの神社で見かけた顔だった。感情のまったくこもっていない目で、代わる代わる二人を見ている。ぞくっとみちるの背筋に震《ふる》えが走る。反射的に彼女は葉《よう》を自分の背中に隠《かく》した。
「なにか御用ですか?」
かすれた声でみちるは言った。
「御用……?」
訝《いぶか》しげに男は聞きかえす。それから、突然にゅっと唇《くちびる》の端がつり上がる。一瞬《いっしゅん》、みちるにはそれが笑顔《えがお》だと分からなかった。それぐらい唐突《とうとつ》な変化だった。
「いや、こちらの宮司《ぐうじ》さんはいらっしゃいますか」
うってかわって明るい声で天明《てんめい》は言う。しかし、みちるはかえってこの男に不気味さを感じた。今の目つきは一体なんだったのだろう?
「……社務所《しゃむしょ》にいらっしゃると思いますけど」
「ああ、そうですか。これは失礼しました」
男はすっと向きを変えて、彼女たちの視界から姿を消した。
みちるはほっと息をついた。おそらく、来山《きやま》の「客」はあの天明なのだろう。だとしたら、来山が社務所にいるのは知っていたはずだ。どうしてわざわざここへ来たのだろう。まるで自分たちの様子《ようす》を見に来たようだった。
「……どうかしましたか?」
葉は不思議《ふしぎ》そうにみちるを見上げている。彼女は天明の様子には気づかなかったらしい。
「ううん。別に。続きゃっちゃおう」
と、みちるは言った。
4
「もう神輿祓《みこしばら》いか。祭りはあさってだからな」
皇輝山《おうきざん》天明は窓の外を見ながら言った。
社務所のとある和室で、来山は天明と向かい合っている。夏だというのに白いタキシード姿の天明は汗一つかいていない。来山の方は先ほどと同じく、狩衣《かりぎぬ》と袴姿《はかますがた》だった。
「お前が着てるそれ、俺《おれ》の使ってた装束《しょうぞく》か?」
「あなたの使っていたものはここには何一つ残っていませんよ」
むっとしながら来山は言った。四年前まで天明がここの宮司であり、来山はその下で働いていた。当時の天明はいささか型破りなところはあったが、実行力に富む宮司として町の人々からの信頼も厚かった。あの『皇輝山文書』の騒《さわ》ぎさえなければ、来山が宮司になる必要もなかったはずだ。
「なにをしに来たんですか」
「この前の話の続きだよ。お前に追いかえされたんでな」
「あなたの話を聞くつもりはありませんよ」
天明《てんめい》は苦笑《にがわら》いをした。
「そのわりには今日はあっさり部屋まで通したじゃねえか」
「わたしの方から聞きたいことができたんです」
来山《きやま》は座り直すと、天明の目を正面から見据《みす》えた。
「鶴亀《つるき》祭りの実行委員会にお金をばらまいている。そうですね?」
「ばらまいてる、なんて人聞きが悪い。ただの寄付だよ」
「あなたが鶴亀山公園でなにか催《もよお》しをするつもりだ、と聞きましたが」
沈黙《ちんもく》が流れた。実行委員の大半は鶴亀駅前の商店街の人々で、彼らは皆天明を知っている。天明はその一人一人に頭を下げ、ついでに少なからぬ金を握らせて、祭りの日に鶴亀山公園でイベントをさせてくれるよう頼みこんでいるという。巧みな話術と大金の威力で、実行委員たちは皆|承諾《しょうだく》しているらしい――今の鶴亀神社の宮司《ぐうじ》である来山がいいと言えば、という条件で。
「駅前で怪《あや》しい集会を開いているのも知っていますよ」
「あれはただの人生|相談《そうだん》だ。完全なボランティアだぜ。疑うなら参加した人間に聞いてみればいい。俺《おれ》はこの町の人間から一銭も金は受け取ってない」
来山は口をつぐんだ。確《たし》かに彼もそう聞いている。ただ、「この町の人間から」という微妙な言い回しには気づかなかった。
「商店街の人からも聞いたが、ここもうまくいってないそうだな」
「それは兄さんが人を騙《だま》したせいじゃないか!」
来山は四年ぶりにその呼び名を口にしていた。「皇輝山《おうきざん》」という苗字《みょうじ》は自称で、天明は来山の兄であり、代々鶴亀神社の宮司を勤《つと》めてきた来山家の長男だった。
「あの時の騒《さわ》ぎで、たくさんの氏子《うじこ》の方々がここを見放した。兄さんがあんなことをしなければ、なにもかもうまくいっていたんだ!」
自分の声の大きさに来山は我に返った。半分立ち上がりかけていたことに気づいて、再び腰を下ろした。
不意に天明の顔つきが引きしまり――そして、深々と頭を下げた。
「すまないことをしたと思っている」
静かな声で天明は言った。来山は完全に虚《きょ》を衝《つ》かれた。まさか、いきなり謝《あやま》ってくるとは思ってもみなかったのだ。
天明はポケットから一枚の紙を出すと、来山の目の前に置いた。
「受け取ってくれ。この前も本当はこれを渡すつもりで来たんだ」
「……これは」
畳《たたみ》の上に置かれているのは小切手だった。それも、驚《おどろ》くほどの金額が書きこまれている。
「この町に戻れるなんて思ってない。金で解決するとも思ってない。ただ、これは俺《おれ》の誠意の証《あかし》だ。俺は自分の贖罪《しょくざい》をしたい。まだ詳しくは言えないが、祭りの催《もよお》しもそのためのものだ」
来山《きやま》はなおもそれを手に取ろうとはしなかった――あまりにも金額が大きすぎる。
「これは神明《しんめい》に誓ってまともな金だ。人を騙《だま》したり、盗んだりした金じゃない」
弟の疑問を先回りするように、天明《てんめい》が言った。
「俺はこの四年、海外のディーラーと美術品の取り引きもしてきた。それで稼《かせ》いだ金だ」
「……」
果たしてどこまで本当なのか、疑う気持ちもないわけではなかったが、来山の中には自分の兄を信じたい気持ちがある。四年前の天明の行動に誰《だれ》よりも衝撃《しょうげき》を受けたのも来山だった。
「謝《あやま》るぐらいなら、どうしてあんなことをしたんですか」
膝《ひざ》の上で拳《こぶし》を握りしめながら、来山は声を絞り出した。ほんのかすかに天明の口元に笑《え》みが浮かんだ。理由を問うのは半《なか》ば謝罪《しゃざい》を受け入れているからなのだが、来山自身はそれに気づいていない。
「あの時、一体なにがあったんですか」
来山の知っている限りでは、この山の坑道跡を一人で調《しら》べている最中に、天明が怪我《けが》を負ったことが全《すべ》ての発端《ほったん》だった。数時間後に救出された天明の命に別状はなかった。しかし、その時から天明の言動はがらりと変わった――名前を「皇輝山《おうきざん》」と改名し、自分に神の力が宿ったと公言するようになった。あげくの果てに、坑道の奥で発見したという古文書――『皇輝山文書』を使って客寄せまで始めた。
来山は『皇輝山文書』の内容を見たことはないが、それを「発見」する前に天明の知り合いらしき男が何度か訪ねて来たのは知っている。その男の協力で天明はそれを書いたのだろうと思っていた。
「この山の坑道はまだそのまま残っているのか?」
不意に天明が尋《たず》ねて来た。
「……ええ。どうなっているのか一度きちんと調べなければなりませんが」
戸惑《とまど》いながら来山は答える。中にはかなり広い空洞もあるらしい――一体、なんのためにそんなことを尋ねるのだろう、と思っていると、
「……俺は穴の底で夢を見た」
天明は遠くを見るような目で言った。
「悪い夢だった。しかし、もうその夢を終わりにしたいんだ」
陳腐《ちんぷ》な言葉だったが、奇妙に胸を打つ切実な響《ひび》きがあった。
来山は小切手を拾い上げて、天明の方へ見せる――もう一度、兄を信じてみようと彼は思った。
「このお金をわたしが受け取ることはできませんが、お預かりしておきます。あなたがこれを必要とした時のために」
一瞬《いっしゅん》、嘲《あざけ》るような笑《え》みが天明《てんめい》の顔を覆《おお》いかけたが、来山《きやま》が見直した時にはすでに消えていた。結局、来山は小切手を受け取り、天明が祭りに参加することを黙認《もくにん》したことになる。
「そういえば、さっき神輿殿《みこしでん》にバイトの巫女《みこ》がいたようだな」
突然、くだけた口調《くちょう》で天明は言った。来山は多少の違和感を覚えたが、さして気にも留《と》めずに答えた。
「わたしが氏子《うじこ》さんを通じて臨時《りんじ》に来ていただけるようお願いしたんです。二人とも加賀見《かがみ》の子ですよ」
「……龍子主《たつこぬし》」
「え?」
「気にするなよ。なんでもないさ」
天明は満面《まんめん》の笑顔《えがお》で言った。
5
掃除を終えたみちると葉《よう》は、神輿殿の戸を閉めた。
「宮司《ぐうじ》さん、来ないね」
みちるは社務所《しゃむしょ》の方を振りかえる。さっき来た皇輝山《おうきざん》天明とまだ話を続けているのかもしれない。様子《ようす》を見にいこうか迷ったが、あの男とはあまり顔を合わせたくなかった。
「とりあえず、ほうきとか片づけようか」
葉は黙《だま》ってうなずいた。掃除の道具は本殿の裏の倉庫から持って来たものだ。二人は参道を奥へ進み、本殿へ通じる石段を上がり始めた。
葉はみちるの斜《なな》め後ろから歩いて来る。足袋《たび》と草履《ぞうり》に慣《な》れていないせいか、足取りは慎重《しんちょう》だった。
「そういえばさっき言いかけて忘れてた」
と、みちるは前を向いたまま言った。
「雛咲《ひなさき》さん、ここのお祭り来る?」
しばらく間が空いた。石段を踏む二人の草履の音だけが響《ひび》く。
「分かりません」
「藤牧《ふじまき》と一緒《いっしょ》だったら来る?」
葉の足音がやんだ。みちるが振り向くと、彼女はほうきを胸の前に抱えて俯《うつむ》いていた。
「……それなら、多分」
「じゃあさ、お祭りの日に浴衣《ゆかた》着ない?」
「……え?」
葉《よう》は驚《おどろ》いたように顔を上げる。
「うちの母親って娘に着物着せるのが好きでさ。ほとんど毎年あたしと姉さんの浴衣《ゆかた》買ってたから、結構数あるのよ。でも今年は姉さんいないし、もともとあたしは別に着るの好きじゃないのね。雛咲《ひなさき》さんが着てくれるって言ったら、多分うちの母親も大喜びすると思うんだけど。なにしろ若い女の子に着付けするの大好きだから」
みちるは慎重に言葉を選《えら》んでいた。
「…………」
無表情に近かった葉の顔に、みるみるうちに喜びの色が広がっていく。みちるの方もなんだか嬉《うれ》しくなって来た。ああ言ってよかった、と彼女は思った。
「ここのお祭りに来ないんだったら、しょうがないんだけどね。もしよかったら考えといて」
「ありがとうございます」
葉はかわいらしい笑顔《えがお》で礼を言う。一瞬《いっしゅん》、みちるはなぜか胸が締《し》めつけられるような思いがした。彼女の幸せを祈らずにはいられなかった。
「きっと藤牧《ふじまき》も喜ぶよ。うん」
みちるは背を向けてまた石段を上がっていき、一足先に上まで辿《たど》り着いた。石段を上がり切ったところには、門柱のように二匹の狛犬《こまいぬ》が置いてある。その間を通り抜けると、石畳《いしだたみ》の広い境内《けいだい》には本殿《ほんでん》と鐘楼《しょうろう》があった。参拝客は誰《だれ》もおらず、あたりは静まりかえっている。
「西尾《にしお》さん」
背中から声をかけられた。
「なに?」
「先輩《せんぱい》のこと、どう思いますか」
一瞬、みちるは口を開けたまま硬直した。
想像もしていなかった質問に完全に不意を衝《つ》かれていた。
「ふ、藤牧のこと?……ど、どうって……」
なんか言わなきゃ、と頭のどこかから声がした。葉は無言で彼女の答えを待っている。こほん、とみちるは咳払《せきばら》いした。
「あー、まあ、藤牧は友達だよ。結構長い付き合いだけど、なんか昔からぼーっとしてて、特徴ないっていうか……あ、もちろん悪い人じゃないよ? 顔とかも別に悪くないし。まあ雛咲さんの方がよく知ってるだろうけど。あたしから見てなんかってわけじゃないなあ」
我ながらなにを言っているのかよく分からない。そこへ、さらに追《お》い討《う》ちをかけられた。
「昔、好きだったでしょう」
「え…………」
今度こそ頭の中が真っ白になった。
「先輩が入院してた頃《ころ》。西尾さん、毎日お見舞《みま》いに来てた」
みちるは天を仰《あお》ぎたい気持ちになった――思いっ切りバレてるよ。まあきっと分かりやすかったよなあ。
しかし、口の方は勝手に最後の抵抗を試みていた。
「あれね。だってあたし、あの頃《ころ》クラス委員だったから。学校のプリントとか届けなくちゃいけなかったし、他《ほか》にいくっていう人もいなかったし」
葉《よう》はなにも言わずに、ただみちるを見上げている。責めている様子《ようす》はない。ただ、悲しげな目をしていた。
もうダメだ、とみちるは思った。もともと嘘《うそ》をつくのは苦手《にがて》なのだ。かっと頬《ほお》が熱《あつ》くなった。
「ああもう! 確《たし》かにそうです。そういう時期がちょっとありました! 絶対秘密だからねこれ。ほんっっっとに恥《は》ずかしいんだけど!」
ほとんどやけになってみちるは叫び、肩で大きく呼吸をする。そう言えば、このことを他人《ひと》に話したのは初めてだった。あの頃、気づいていたのも葉だけのはずだ。そう思うと、不思議《ふしぎ》と彼女への親しみが増した。
「でも、ほんとに藤牧《ふじまき》が入院してる間だけなの。退院して学校に通うようになったら、そういうのどこかへなくなって普通に仲よくなれた。最初に好きになった人って、そういうことあると思うよ。藤牧の初恋の人なんか、うちの姉さんだしね」
「えっ」
しまった。これ言っちゃいけなかったか。
「もちろん、今は姉さんのことなんとも思ってないと思うよ。そばで見ててなんとなく分かるんだ。うちの姉さん、藤牧のお兄さんと付き合ってるけど、藤牧もそのこと喜んでるし」
「……先輩《せんぱい》のどこが好きだったんですか」
うーん、とみちるは考えこんだ。そう言えばみちるは裕生《ひろお》が「不治《ふじ》の病《やまい》」だと思いこんでいた。それを自覚しているのに、明るく振《ふ》る舞《ま》っているように見えた。
「ちょっと誤解してたんだよね。初めて会った時、ベッドで寝てた藤牧がすごく悲しそうに見えたの。自分が辛《つら》いこととか、誰《だれ》にも言わないでじっと我慢《がまん》してるみたいな……」
みちるははっとした。最近の裕生もそんな風に見えることがある。あの頃はただの「誤解」だったと思う。しかし、今はどうなのだろう。
「ねえ、なんでそんなこと聞くの?」
と、みちるは言った。
「ひょっとして今もあたしが好きとか思ってた?」
「……分かりません」
みちるは首をひねった。葉の性格からいって、「先輩にちょっかいを出さないでください」などと釘《くぎ》を刺すつもりだとは思えない。
(不安なんだ、きっと)
これだけ葉《よう》の気持ちははっきりしているのに、一緒《いっしょ》に住んでいるのに裕生《ひろお》の態度《たいど》が煮え切らない。結局、裕生の気持ちが誰《だれ》に向いているのか知りたいのではないだろうか。
「雛咲《ひなきき》さんはもう一緒に住んでるんでしょ。藤牧《ふじまき》はあなたのこと大事にしてると思うけど……」
「そうじゃないんです。それはもういいんです」
葉は首を横に振った。
「わたし、いつまで先輩《せんぱい》と一緒にいられるか分からないから」
「え?」
思わずみちるは聞きかえした。
「空も、人も、風も……」
葉は低い声で歌うようにつぶやいた。
「全部消えて、わたしだけ残る」
「……どういうこと?」
ふと、みちるは以前に葉の悩みを聞き出そうとした時のことを思い出した。うやむやになってしまったが、あの時彼女の様子《ようす》がおかしかったのは、結局どうしてだったのだろう――。
「あっ」
その時、葉が声を上げた。両目をいっぱいに開いて、みちるの肩越しになにかを見ている。顔色は真《ま》っ青《さお》になっていた。
(ん?)
みちるは何気《なにげ》なく振りかえり、突然現れた「それ」を見た。あまりにも非常識《ひじょうしき》な大きさに、最初は銅像かなにかだと思った。しかし、それは確《たし》かに動いていた。首をみちるたちに向け、ゆっくりと胴体をくねらせながら四肢《しし》を動かしている。
巨大な黒い蜥蜴《とかげ》が、二人に向かって歩いて来ていた。
6
佐貫《さぬき》は鶴亀《つるき》神社の鳥居《とりい》をくぐった。さほど暑い日ではないのだが、神社の境内《けいだい》には参拝客の姿はない。彼の他《ほか》には誰もいなかった。
彼は社務所《しゃむしょ》の建物へと近づいていった。少なくとも社務所には人がいるはずだ。境内に面した大きな窓の近くで、佐貫はふと立ち止まった。窓の向こうの和室に、白いタキシード姿の天明《てんめい》と宮司《ぐうじ》が向かい合っているのが見えた。
どうやら話が弾《はず》んでいるらしく、天明はさかんに笑っている。
「お、いた」
と、佐貫はつぶやいた。例の『皇輝山《おうきざん》文書』について色々質問しに来たのだが、あの様子ではいつまで話が続くか分からない。
(西尾《にしお》に聞けば分かるかな)
とりあえず、佐貫《きぬき》はみちるたちを捜《さが》すことに決めた。昨日の彼女の話では、掃除や整理が主な仕事だということだったと思う。
(本殿《ほんでん》の方かな)
佐貫は参道をまっすぐ進んでいった。そう言えばしばらくこの神社の本殿も見ていない。もともと鉱山ということで、古くはそれにちなんだ神が祀《まつ》られていたという話だった。しかし、今の本殿に祀られているのは、雨の恵みをもたらす水神らしい。
「ん?」
本殿へと通じる石段の前まで来た時、佐貫はふと立ち止まった。頭上からかすかに女の悲鳴が聞こえたような気がした。それと同時に、上の方から竹《たけ》ぼうきが滑《すべ》り落ちて来て、石段の途中《とちゅう》で止まった。
(……なんだ、あれ)
佐貫は早足に石段を上がっていった。
みちるの悲鳴を聞きながら、葉《よう》は反射的にほうきを投げ捨てていた。どこへ飛んだか確《たし》かめる余裕はなかった。
(カゲヌシ)
みちるの腕をつかんで右手の鐘楼《しょうろう》の方へ走り出した。着慣《きな》れない着物のせいでひどく走りづらい。十メートルほど走ったところで振りかえると、蜥蜴《とかげ》のカゲヌシはようやくのそのそと方向を変えたところだった――どうやらかなり動きが鈍《にぶ》いらしい。
(……逃げられるかも)
一瞬《いっしゅん》、葉はそう考える。みちるの前で「黒の彼方《かなた》」を呼び出すわけにはいかない。それに、この場には裕生《ひろお》もいない。呼び出したら最後、彼女が意識《いしき》を取り戻せる保証はなかった。
「……あれ、なに」
みちるはカゲヌシを見ながら震《ふる》える声でつぶやいた。
「いきましょう」
と、葉はみちるを促《うなが》した。邪魔《じゃま》な草履《ぞうり》を脱ぎ捨てて走り出そうとした時、背中にぺたりと柔らかいものが触れた。葉は思わずびくっと立ちすくんだ。
次の瞬間、葉の腰にみちるの腕が回された。みちるにタックルされるような形で、葉は石畳《いしだたみ》の上に倒れこんだ。ごろごろと転がりながら自分の立っていた場所を見ると、黒い蜥蜴の顎《あご》がばくりと空を咬《か》むところだった。
(……嘘《うそ》)
あの怪物とはもっと距離《きょり》が離《はな》れていたはずだ。一瞬のうちに二人のすぐ後ろまで近づいて来ていた。動きが鈍いと思ったのは間違いだった。こちらを油断《ゆだん》させる罠《わな》に違いない。
獲物《えもの》を逃《のが》したことに気づいたらしい蜥蜴《とかげ》は、ゆっくり首の向きを変えながらちろりと舌を出した。どうやら、葉《よう》の背中に触れたのはあの舌だったようだ。みちるの助けがなければ、今頃《いまごろ》は食い殺されていただろう。
葉は慌《あわ》てて体を起こそうとしたが、緋袴《ひばかま》が足に絡《から》んでうまく立ち上がれなかった。「黒の彼方《かなた》」を呼び出すべきか、彼女はまだ迷っていた。とにかく、どうにかしてみちるにここから逃げてもらわなければと思った時、不意に人影《ひとかげ》が彼女の前に立った。
(え?)
みちるがカゲヌシと葉の間に立ちふさがっていた。どこで拾ったのか、長い木の棒を正眼《せいがん》に構えている。
「早く逃げて!」
と、みちるが声を震《ふる》わせて叫んだ。声だけではなく、全身も小刻みに震えている。
(この人、わたしを助けようとしてる)
葉は唇《くちびる》を噛《か》んだ。悔《くや》しいような情《なさ》けないような、複雑《ふくざつ》な気持ちだった。
なんの力もないみちるが身を挺《てい》して自分を逃がそうとしている――仲がいいわけでもなく、大して知りもしない相手なのに。
「なにしてんの、早く走って!」
緊張《きんちょう》のせいか、彼女は息を詰まらせていた。
(この人を助けなきゃ)
葉はよろけながら立ち上がった。「黒の彼方」は人間を殺さない契約を結んでいる。このカゲヌシを倒せなかったとしても、みちるがここから逃げる時間ぐらいは作れるはずだ。ひょっとすると自分は意識《いしき》を取り戻せないかもしれない、という思いがちらりと頭をよぎったが、もう迷いはなかった。
「『黒の彼方』が戦い始めたら、西尾《にしお》さんはここから逃げて」
「え? なに……」
みちるの言葉はもう葉の耳に入らなかった。大蜥蜴が悠然《ゆうぜん》と葉たちの方へ進んで来ている。彼女は息を大きく吸いこんだ。
「くろのかなた」
その瞬間《しゅんかん》、ぷつりと意識《いしき》が途切《とぎ》れた。
葉の足下《あしもと》の影が音もなく広がっていった。黒く染《そ》まった地面からうなり声が聞こえ、それと同時に二つの獣《けもの》の首がにゅっと姿を現した。
(犬?)
みちるが呆然《ぼうぜん》と見守る前で、その獣は完全に姿を現した――双頭《そうとう》の黒い犬だった。片側は起きているが、もう片側は眠っているように目を閉じたままである。
「もう少し離《はな》れましょう。危険ですから」
葉《よう》が低い声で言い、みちるの右の手首をつかんだ。
「いたっ」
とたんに握りしめていた木の棒が地面に落ちた。大して力をこめているようにも見えないのに、おそるべき力だった。そして、そのままみちるを引きずるように鐘楼《しょうろう》の方へ歩き出した。
「あれ、どういうこと?」
葉の顔を見たみちるはぞっとした。口元には薄《うす》笑いを浮かべているが、目にはまったく表情がない。さっき掃除の時に見た天明《てんめい》の目とよく似ていた。
「ねえ、雛咲《ひなさき》さ……」
その呼びかけは途中《とちゅう》で立ち消えになった。
「……誰《だれ》?」
雛咲さんじゃない、とみちるは思った。これは別の誰かだ。
鐘楼のそばまで来てから、葉はみちるの手を放した。強く握られたせいで、指のかたちをしたあざがくっきりと残っていた。
「この娘の周囲には鋭《するど》い人間が多いようですね。この程度の接触で察するとは」
くく、と彼女は喉《のど》を鳴らすように笑った。
「あんた、一体誰なの?」
「わたしは『黒の彼方《かなた》』。この娘《こ》の体は今、あそこにいる私の本体の支配下にあります」
彼女は双頭《そうとう》の黒い犬を指さした。
「『黒の彼方』……?」
どこかで聞いたことのある言葉の気がしたが、はっきりとは思い出せなかった。
「詳しい話は藤牧《ふじまき》裕生《ひろお》に聞きなさい」
突然、境内《けいだい》に犬の咆哮《ほうこう》が響《ひび》き渡る。あの双頭の黒い犬が石畳《いしだたみ》を蹴《け》って、巨大な蜥蜴《とかげ》に襲《おそ》いかかった――一瞬《いっしゅん》、みちるは目を閉じる。
蜥蜴の怪物とすれ違った双頭の犬は、四肢《しし》をふんばって停止した。蜥蜴の背中に裂け目のような傷口がぱっくりと開いていた。黒犬は瞬時に向きを変え、敵の尻尾《しっぽ》に牙《きば》を突き立てた。勢いに押されて蜥蜴の怪物はわずかによろける。
もう一度黒の彼方が離れた時には、蜥蜴の尾の根本が半《なか》ば食いちぎられて折れ曲がっていた。黒の彼方は接近と回避《かいひ》を繰《く》り返しながら、敵の怪物に次々と傷を負わせていった。
「……おかしい」
と、葉――「黒の彼方」がつぶやいた。
「あのカゲヌシの『サイン』はデルタを越えている。この程度の実力のはずはないが」
「え?」
みちるは聞きかえしたが、答えはかえって来なかった。その代わり、横目でみちるを見ながら、「黒の彼方《かなた》」は言った。
「逃げたらいかがですか。この娘《こ》はあなたの命を守るために、わたしを呼び出したのですよ」
みちるは首を横に振った。なにが起こっているのかは分からないが、もしそうだとしたらかえってこの場を離《はな》れるわけにはいかないと思った。こんな状態《じょうたい》の葉《よう》を放っておけない。
「……逃げるんだったら、一緒《いっしょ》に連れてく」
葉は哀《あわ》れむようにみちるを見た。
「無理だと思いますがね。まあ、勝手になさい」
怪物同士の戦いは一見「黒の彼方」の方が有利に進めているように見えた。体の大きさは蜥蜴《とかげ》の怪物の方がはるかに上だが、敏捷《びんしょう》さにおいて「黒の彼方」が圧倒的に優《すぐ》れている。しかし体が大きすぎるせいか、今までの攻撃《こうげき》では致命傷を与えるには至っていないようだった。
「仕掛けてみるか」
と、葉の口がつぶやいた。
「黒の彼方」が蜥蜴の怪物から距離《きょり》を取った。そして、助走をつけて蜥蜴に向けて一直線《いっちょくせん》に突進していった。みちるの目にも黒犬が敵の胴体を食いちぎろうとしていることが分かる。
むき出しにした獣《けもの》の牙が蜥蜴の手足をくぐりぬけ、無防備な脇腹《わきばら》に届こうとした刹那《せつな》――唐突《とうとつ》に蜥蜴の姿が消えた。
「なに?」
葉の口からかすかなあえぎが洩《も》れた。みちるが境内《けいだい》を見回すと、蜥蜴はいつのまにか十メートルほど離れた石段の近くにうずくまっていた。
「なんで……」
と、みちるは言った。いつ動いたのか、まったく気づかなかった。
「……瞬間《しゅんかん》移動とは。アブサロムどもよりは高位なわけだ」
葉はまるで自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
「では『眠り首』を使うべきだな」
その言葉が終わると同時に、「黒の彼方」は石段の方へ走り出し、蜥蜴の正面で静止する。葉が口にしている言葉の意味はよく分からないが、どうやらあの黒犬がなにかを今までとは違う攻撃をしようとしているのはみちるにも理解できた。
今まで頭《こうべ》を垂《た》れていた左の首が、ゆっくりと起き上がろうとする――なにが始まるんだろうとみちるが思ったその時、
「くっ」
葉の口から忌々《いまいま》しげな声が洩れた。彼女の目は黒い蜥蜴を通り越して、石段のそばにある狛犬《こまいぬ》を見据《みす》えている。みちるも同じ方に視線を動かした。狛犬の像の後ろに隠《かく》れて、誰《だれ》かが境内の戦いを見ていた。
しかも、みちるのよく知っている顔だった。
「えっ。佐貫《さぬき》?」
と、みちるは言った。
半《なか》ば起きていた首がまた元のようにがくりと力を失った。ぎりっと葉《よう》の歯ぎしりが聞こえた。
「……『契約』さえなければ」
次の瞬間《しゅんかん》、再び蜥蜴《とかげ》の怪物が消えた。
「えっ」
みちるは声を上げた。「黒の彼方《かなた》」も敵の姿を完全に見失ったらしい。立ち止まったままあたりを見回している。
「上だ!」
と、佐貫が指さしながら叫ぶ。まるで隕石《いんせき》のように黒い蜥蜴が降ってきた。巨大な蜥蜴に激突《げきとつ》した「黒の彼方」は跳《は》ね飛ばされて石畳《いしだたみ》の上を滑《すべ》っていった。
「うっ!」
葉の口から鋭《するど》い悲鳴が洩《も》れ、力を失ったように背後《はいご》から倒れる。みちるは慌《あわ》てて彼女の体を抱きとめた。あざになっている手首がずきりと痛み、みちるは顔をしかめながら葉を地面に横たえた。
そして、葉の呼吸を確《たし》かめ――不意にみちるは既視感《きしかん》に襲《おそ》われた。
(前にもこんなことあった)
学校の中庭の藤棚《ふじだな》。一学期、裕生《ひろお》に頼まれて葉になにがあったのか尋《たず》ねた時だ。葉は突然、頭をぶつけて気絶してしまった。
(あの時のことも、あの犬と関係あるのかも)
「西尾《にしお》、逃げろ!」
佐貫の声が聞こえた。はっと我に返ったみちるが顔を上げると、傷だらけの黒い蜥蜴がのっそりと彼女たちの方へ歩き出したところだった。顎《あご》のあたりがなにかを詰めこんだように大きくふくれている。
みちるは葉を抱き上げて走ろうとしたが、右手に力が入らなかった。
あの犬は、と思ってあたりを見回すと、本殿《ほんでん》の前で倒れたまま黒犬はぴくりとも動かなかった。
(なにがあったの)
この「葉」が悲鳴を上げて倒れたということは、きっと彼女を乗っ取っていた者――あの「黒の彼方」になにかがあったということだ。ふと、みちるは黒犬の様子《ようす》がさっきと違うことに気づいた。なにかが足《た》りないような――。
「……あ」
みちるは押し殺した悲鳴を上げる。足りないのは首だった。黒犬の片方の首が根本からきれいに切り取られていた。
彼女は徐々に近づいて来る蜥蜴《とかげ》を見た。下顎《したあご》のあたりに丸いふくらみがはっきりと残っていた。うろこに覆《おお》われた黒い表皮が、前から後ろに向かって波のように蠕動《ぜんどう》する。一瞬《いっしゅん》だけ両顎を開いた蜥蜴は、ごくりという音とともに胴体へとその塊《かたまり》を送りこんだ。
その瞬間、みちるはようやくなにが起こったのか理解した。
この蜥蜴の怪物が「黒の彼方《かなた》」の首を食いちぎったのだ。
7
石段を上がった佐貫《さぬき》は、二匹の怪物の戦いの一部始終を見ていた。一体、自分が目にしているのがなんという生き物なのかはもちろん分からなかった。ただ、蜥蜴が葉《よう》たちを襲《おそ》い、双頭《そうとう》の犬が守っているのはかろうじて理解できた。
佐貫はじりじりしていた――どうしてみちるたちは逃げずに突っ立っているのか。二人を連れて逃げ出そうと何度も思ったが、怪物が戦っているというのに、隠《かく》れる場所もない境内《けいだい》を突っ切っていくわけにもいかなかった。迷っているうちに黒犬は敗れ、傷つきながらも蜥蜴が勝ってしまった。
「西尾《にしお》、逃げろ!」
見つかるのも構わずに佐貫はみちるたちに向かって叫び、同時に狛犬《こまいぬ》の陰から飛び出していた。なぜか葉は倒れて、みちるはゆっくりと歩を進めている蜥蜴を呆然《ぼうぜん》と眺めている。
(あのバカ、なにもたもたしてんだよ)
蜥蜴の怪物を迂回《うかい》するように鐘楼《しょうろう》へ向かって走った。戦いで傷を負っているせいか、蜥蜴の動きはさっきよりもはるかに遅い。しかし、あの怪物には突然別のところに現れる能力があるらしい。もう一刻の猶予《ゆうよ》もない。
佐貫は太り気味の外見のわりに、運動神経は発達している。たちまち二人のそばへ駆《か》け寄った。
「なにやってんだ!」
佐貫が叫ぶと、みちるははっと顔を上げた。葉は完全に意識《いしき》を失っているらしい。佐貫は小柄な葉の体を肩にかつぐようにして持ち上げる。
怪物はゆっくりとではあるが、鐘楼の方へ確実《かくじつ》に近づいて来ていた。とにかく逃げるとしたら石段の方だ。佐貫はみちるが付いて来ているのを確認して、元来た方へ走り出した。
ふと、石段を上がってくる人影《ひとかげ》が見えた気がした。誰《だれ》だろう、と佐貫が目を凝《こ》らそうとした刹那《せつな》、あたりの景色がさっと白く染《そ》まり、踏みしめていた石畳《いしだたみ》の感覚が消えた。
「え?」
気がつくと、佐貫は地面に膝《ひざ》をついていた。かついだままの葉の体重が肩にぐっとのしかかる。相変わらず彼は神社の境内にいて、石畳の感覚も元に戻っている。なんだったんだ今の、と思ったその時、
「佐貫《さぬき》!」
なぜか離《はな》れた場所からみちるの声が聞こえた。
「えっ」
声の聞こえた方を見ると、十メートルほど離れた石段の近くにみちるが立っている。佐貫は混乱し始めた――いつのまに西尾《にしお》は俺《おれ》から離れたんだろう。いや、違う。さっきまで俺もあそこにいたはずだ。
ふと、佐貫は自分のすぐそばに鐘楼《しょうろう》があること気づいた。はっと振り向くと、すぐ目の前に黒い蜥蜴《とかげ》の顔がある。一瞬《いっしゅん》のうちに佐貫の全身が凍《こお》りつく。動いたのは佐貫たちの方だった。この怪物の能力は、ただ自分の体を移動させるだけのものではない――。
(獲物《えもの》を引き寄せることもできるんだ)
かぱっと蜥蜴の口が大きく開いた。今までの人生でこれほど唐突《とうとつ》に死と向かい合ったことはなかった。暗い洞《ほら》のような口の中で、二股《ふたまた》に分かれた舌が別の生き物のように蠢《うごめ》いていた。ゆっくりと蜥蜴の両顎《りょうあご》が佐貫の視界を覆《おお》い尽くしていく。彼の方も呆然《ぼうぜん》と口を開けたまま、ありえない光景をただ見守っていた。
ふと、どこかからかすかな水音が聞こえた。鼻先がぶつかるほどの距離《きょり》まで迫っていた蜥蜴の口が、急速に遠ざかっていった。誰《だれ》かが佐貫と葉《よう》をかばうように彼の前に立つ。
「……裕生《ひろお》?」
彼の友人がそこに立っていた。長い距離《きょり》を走って来たらしく、Tシャツの背中は汗に濡《ぬ》れて息をしている。なぜか彼の手には栓《せん》の開いたガラスのビンがあった。
佐貫《さぬき》たちから離《はな》れた怪物は、苦しげに身を震《ふる》わせていた。黒いうろこに覆《おお》われた背中から、しゅうしゅうと焼けただれているように煙《けむり》が上がっている。裕生は無言で怪物の方へ走っていくと、怪物に向かって瓶を大きく振った。わずかな黒い水滴が怪物の体に飛び散っただけだったが、水滴に触れたところからさらに煙が噴《ふ》き出す。
どうやら、裕生はその瓶の中身を使って佐貫たちを助けようとしているらしい。とどめとばかりに裕生が瓶を振り上げた瞬間《しゅんかん》、ますます激《はげ》しく身を震わせていた怪物がふっと姿を消した。
裕生はしばらく確《たし》かめるようにあたりを見回していたが、やがて佐貫と葉《よう》の方へ戻って来た。
「あいつ、死んだのか?」
おそるおそる佐貫は尋《たず》ねた。裕生は首を振った。
「違うと思う。『契約者』の影《かげ》に戻っただけだよ」
それから悲しげに付け加えた。
「……またいつか襲《おそ》って来る」
裕生は葉の体を佐貫から受け取り、地面に横たえた。
葉自身の命に別状はないようだった。ただ気絶しているだけらしい。
裕生は立ち上がると、本殿《ほんでん》の前に倒れている「黒の彼方《かなた》」に慎重《しんちょう》に近づいていった――首が一つない。武器を持っている「眠り首」の方だ。裕生がここへ到着した時には、すでに「黒の彼方」は倒れていたが、なにが起こったのかは想像がつく。おそらく、あの蜥蜴《とかげ》のカゲヌシと戦って敗北したのだ。
(でも、死んだわけじゃない)
以前にも「黒の彼方」は首を失っていると聞いた。司令塔であるこの最後の首がなくならない限り、活動することは可能だろう。「黒の彼方」を殺す時は、犬の首に気をつけろとレインメイカーは言っていた。それも後一つ、ということになる。しかも、もうあの振動の武器も使うことができない。
不意に「黒の彼方」の肉体が透《す》き通り、ふっと石畳《いしだたみ》の上から消えてしまった。契約者もカゲヌシも意識《いしき》を失えば、召還《しょうかん》されたカゲヌシは自動的に契約者の影に戻ってしまう。
「……藤牧《ふじまき》」
振り向くとみちるが立っていた。
「どういうことなのか教えて。詳しいことは藤牧に聞けって言われたの」
彼女はいったん言葉を切り、裕生の目をまっすぐに見た。
「……『黒の彼方』から」
あいつは名乗ったんだ、と裕生《ひろお》は思った。もうこの二人にはその場限りの説明でごまかすわけにはいかない。しかし、自分の他《ほか》にもなんの力もない人間をこの戦いに巻きこむべきなのか、裕生には判断できなかった。
「その前に、ここでなにがあったのかぼくに話して欲しいんだけど」
と、裕生は言った。
みちるたちは鐘楼《しょうろう》の陰に移動して座りこんだ。裕生は気絶したままの葉《よう》の上半身を抱きながら、みちるたちの説明に無言で耳を傾けている。みちるは「カゲヌシ」や「サイン」がなんなのか、何度か説明を求めたが、裕生は話の先を促《うなが》すだけだった。
やがて最後まで話し終えた二人は、裕生が口を開くのを待った。しかし、裕生はいつまで経ってもなにも言わなかった。
「で、お前からの説明は?」
焦《じ》れた佐貫《さぬき》が言ったが、裕生は首を横に振った。
「悪いんだけど話せない」
「なんだそりゃ」
佐貫がむっとした顔で言った。
「さんざん喋《しゃべ》らせといてそりゃねえだろ? 俺《おれ》たちだって危ない目に遭《あ》ったんだから、なにがあったのか知る権利ぐらいあるんじゃねえか?」
「聞いたらもっと危ない目に遭うかもしれない」
と、裕生は冷静に言った。
「ぼくだってあいつらのことを全部知ってるわけじゃないけど、それでも前に警告《けいこく》されてるんだ。なんの力もない人間がなにかしようとしたら危ないって。確《たし》かに二人とも大変な目に遭ったけど、全部見なかったことにすれば、多分大丈夫だと思う」
「お前なあ」
と、佐貫が言った。
「目の前で起こったこと忘れるほど、俺たちの頭は都合《つごう》よくできてねえよ。こんなこと忘れるヤツいるわけねえだろ? そんなの無理だろ?」
忘れる、という言葉を佐貫が口にすると、なぜか裕生の表情が曇《くも》った。悲しげに目を伏せて、気を失ったままの葉の額《ひたい》を静かに撫《な》でた。
はっとみちるは息を呑《の》む――初めて会った時の裕生が今の姿に重《かさ》なった。
「藤牧《ふじまき》は雛咲《ひなさき》さんを助けようとしてるんだよね?」
みちるは静かに言った。裕生はなにも答えなかった。
「そのためには、人間のままで怪物と戦わなきゃならない。だから、危険だって警告されたんでしょ?」
裕生《ひろお》はそれにも答えない。みちるはちょっとためらってから、また口を開いた。
「藤牧《ふじまき》が言いたいのは、雛咲《ひなさき》さんのために命をかける覚悟がなかったら、このことに係《かか》わる資格がないってことでしょ?」
重い沈黙《ちんもく》がみちるたちを包みこんだ。佐貫《さぬき》も無言で腕を組んでいた。
「……知りたいから教えるってわけにいかないんだよ」
裕生はようやくそれだけ言った。
「だってさ、佐貫。後はあたしたちが考えようよ」
みちるは佐貫に言った。
「……分かった」
と、佐貫も真顔でうなずいた。
8
裕生は倒れた葉《よう》を団地に連れ帰った。鶴亀《つるき》神社の宮司《ぐうじ》には、たまたまみちるに用事があって神社に来たら、急に葉の具合が悪くなったと説明した。佐貫も自分の家へ帰り、みちるはそのままバイトを続けた。彼女もショックを受けたはずなのだが、「あたしまでいなくなると困るだろうから」と言って聞かなかった。
葉は夜になっても回復しなかった。時々目を覚ますこともあったが、意識《いしき》がはっきりしないらしく、すぐにまた眠りに落ちてしまう。
雄一《ゆういち》と吾郎《ごろう》が帰って来てから、病院に連れていくかどうかでちょっとした騒《さわ》ぎになった。明日まで様子《ようす》を見ようという裕生の言葉にしぶしぶ納得《なっとく》した。
夕食を終えて裕生が後片づけをしていると、佐貫から電話がかかってきた。
「今、団地の公園まで来てるから、出て来られないか」
と、いうことだった。ちょっと待つように言って、裕生は誰《だれ》にも告《つ》げずに家を抜け出した。太陽は西の空に完全に沈み、夏にしては少し冷たい風が肌を撫《な》でた。人通りもほとんど絶えている。
裕生は公園へと入っていった。切れかかった水銀灯が錆《さ》びた遊具を照らしている。昨日の昼間、裕生が座っていたベンチに佐貫とみちるがいた。
「悪いな、出て来させて」
と、佐貫が言った。
「お兄さんたちも帰ってるだろうし、外で話した方がいいと思って呼んだの」
後を引《ひ》き継《つ》いでみちるが言った。
「別にそれはいいけど、二人の方こそわざわざどうしたの」
ちらっと佐貫とみちるが顔を見合わせる。裕生は少し緊張《きんちょう》していた。昼間のことでやって来たのは分かり切っているが、一体なにを言いに来たのか見当がつかなかったのだ。
「俺《おれ》、あれから色々考えたんだけど」
と、佐貫《さぬき》が言った。
「俺はお前の幼なじみのことはよく知らない。今のところ別に仲がいいわけじゃないし、全然話したこともない。いや、かわいいとは思うし、いい子だと思うけどな。だから、あの子のために命が張れるかって言ったら、正直言って心の底から大丈夫だとは言えない」
「……うん。分かるよ」
裕生《ひろお》は別に驚《おどろ》かなかった。係《かか》わるなと言ったのは裕生の方だし、はっきり無理だと言いに来たのは佐貫らしい誠実さだと思った。
「いやいやいや、そこで納得《なっとく》すんな。まだ続きがあるんだから」
佐貫が慌《あわ》てたようにぴっと手をかざした。
「でも、その後で思ったんだ。俺はお前のことはよく知ってる。あの子のためだって考えるとまだあれだけど、お前のためには命が張れる気がする。お前はその……俺の親友だからな……おいそこ、笑わない」
にこにこしているみちるに向かって、突然佐貫は言った。本気で怒っているわけではなく、照《て》れ隠《かく》しのようだった。
「バカにしてるわけじゃないよ。ほら、続けて」
「いや、だからそういうことだよ。お前があの子を助けようとしてるんだったら、俺はあの子を助けようとしてるお前を助ける。その……昼間のことは悪かった。だから、協力させてくれよ」
佐貫は真剣な表情で手を差し出してきた。一瞬《いっしゅん》、裕生も手を出しかけたが、慌ててそれを思いとどまった。
「……でも、本当に危ないんだよ」
「お前、ここまで言わせてそれかよ」
佐貫は苦笑《にがわら》いを浮かべた。
「まあ、別にいいけどな。お前が断ってもおんなじだし」
「え?」
「お前がうんって言わなくても、勝手に調《しら》べて勝手に協力する。心配してくれるのはありがたいけど、もう覚悟は決めてんだよ」
「佐貫……」
裕生の胸が熱《あつ》くなった。佐貫とは確《たし》かに友達だが、自分のことをここまで考えてくれるとは思っていなかった。彼はしっかりと佐貫の手を握る。
「ありがとう」
裕生が言うと、佐貫も握りかえして来た。
ふと、彼はみちるの顔を見た。彼女はどう思っているのだろう。
「あたしは最初から決めてたよ。藤牧《ふじまき》とあの子を助けるって」
みちるは静かに言った。
「正直言うとあたしもあの子はよく知らないけど、なんか放っておけないんだよね。もちろん、藤牧はあたしの」
一瞬《いっしゅん》、なぜかみちるは口ごもった。
「藤牧はあたしの友達だし。それに、人間になんの力もないんだったら、協力し合わなきゃいけないでしょ?」
みちるも裕生《ひろお》と佐貫《さぬき》の手の上に自分の手を重《かき》ねた――裕生はほっとしていた。協力者が欲しいと誰《だれ》よりも強く思っていたのは裕生自身だった。なにを決めるにしても、身の回りに相談《そうだん》できる人間は誰一人いなかったのだから。それでも、危険なことが分かっている以上、誰かを巻きこむ気にはどうしてもなれなかった。
「……じゃあ、全部話してもらおうか。最初から」
と、佐貫が言った。
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第四章 「嘘つき」
1
葉《よう》が目を覚ましたのは、朝の十時を回ってからだった。
昨晩《ゆうべ》に比べるとだいぶ具合はよくなっているし、ひとまず立ち上がることもできた。食欲は感じなかったが、なにか体に入れておかなければならない。
彼女はパジャマ姿のまま部屋を出た。家の中はしんと静まりかえっている。雄一《ゆういち》は今日も出かけたのだろうし、裕生は自分の部屋にいるのだろう。彼女は廊下の斜《なな》め前にあるキッチンへ入っていった。
「あ」
不意に頭の左側がずきりと痛んだ。彼女は頭を押さえたまま、どうにかキッチンの椅子《いす》に腰を下ろす。そして、そのまま頭痛が治まるのを待った。
蜥蜴《とかげ》のカゲヌシに遭遇《そうぐう》した時の記憶《きおく》は、「黒の彼方《かなた》」を呼び出した瞬間《しゅんかん》に途切《とぎ》れている。次に気がついた時には夜になっていて、団地の布団に寝ていた。みちるが無事かどうかがなによりも心配だったが、裕生《ひろお》の話では大丈夫だという。ただ、「黒の彼方《かなた》」の「眠り首」が敵のカゲヌシに食われてしまったらしい。「黒の彼方」は倒れ、傷ついていた蜥蜴《とかげ》の方は逃げ出したという。その後で裕生が葉《よう》を連れ帰ったと聞いた。
みちるがカゲヌシを見てしまったことを話すと、裕生はそのことは大丈夫だから心配しなくていい、と言った。みちるは詳しい事情を聞かずに、とにかく黙《だま》っていてくれると約束してくれたそうだ。
「あの……本当に大丈夫なんですか?」
「うん。大丈夫だよ」
裕生はきっぱり言い切ったが、葉は不思議《ふしぎ》に思った。見間違いだと思ってくれる状況ではなかったし、みちるなら裕生を心配して色々|尋《たず》ねるのではないだろうか。なにか葉には話していないことがある気がしてならなかった。
そう言えば、数日前から裕生の様子《ようす》がおかしい。急に神社のバイトにいけと言い出したのもそうだったし、昨日の夜も彼女が目を覚ました時はどこかへ出かけていて、何時間も戻って来なかった。
(ひょっとして、忘れてしまったのかも)
昨日のことも本当はもっと知っているはずなのかもしれない。そう思うと、とたんに知りたいと思う気持ちが萎《な》えた。記憶《きおく》が失われたかどうか確《たし》かめるのが恐ろしかった。
その時、裕生がキッチンへ入って来た。
「もう起きて大丈夫?」
「昨日よりは平気です」
「無理しちゃ駄目《だめ》だよ」
裕生は冷蔵庫《れいぞうこ》を開けて、牛乳のパックを出した。それからコップに注《そそ》ぎ、立ったまま飲み始める。一緒《いっしょ》に暮らし始めて分かったのだが、時間がない時の裕生の習慣《しゅうかん》だった。
「あ、朝ごはん」
慌《あわ》てて葉は腰を浮かしかけた。朝食は彼女が作ることになっている。
「ん? 兄さんたちにはぼくが適当に食べさせたよ」
「……すいません」
「なに謝《あやま》ってんの。具合の悪い人にそんなことさせられないよ」
裕生は笑いながら牛乳の残りを一気に飲んだ。
「あの、神社の方って結局どうなったんですか?」
バイトは一日も経《た》たずに終わってしまった。
「昨日、ぼくと西尾《にしお》で神主《かんぬし》さんに話しといたよ。すごく心配してくれて、こっちのことはどうにでもなるから、すぐに連れて帰りなさいってタクシー呼んでくれた。いい人だね、あそこの神主《かんぬし》さん」
ぼくと西尾《にしお》で、という言葉に、胸のあたりがかすかにうずいた。
「……ごめんなさい」
「別にいいよ、謝《あやま》らなくて。ぼくがバイトしなよって言わなかったら、あんなことにならなかったし」
裕生《ひろお》はコップをゆすぐと、水切りラックの上に置いた。
「じゃ、いってくるから」
「……え?」
葉《よう》は思わず聞きかえした。
「どこにいくんですか?」
「だって、鶴亀《つるき》にカゲヌシがいることが分かったんだし、調《しら》べにいかないと」
「わたしもいきます」
葉は立ち上がったが、頭に鈍《にぶ》い痛みが蘇《よみがえ》った。
「それじゃ無理だよ。まだ休んでないと」
と、裕生は言った。葉は口をつぐんだ。一緒《いっしょ》にいて、と言いたかったが、裕生が出かけるのは当たり前だということも分かっていた。
「あの神社とは離《はな》れてるから大丈夫だと思うけど、一応気をつけて。ちゃんと戸締《とじ》まりして、なにかあったら必ず携帯に電話して」
裕生は軽く葉の頭を撫《な》でてから、ふと時間を確《たし》かめるように携帯を見た。ふと、葉は裕生が誰《だれ》かと待ち合わせをしている気がした。
「あの……」
キッチンを出ていこうとする裕生に、葉は声をかけた。誰かと会うんですか、という質問が唇《くちびる》まで上りかけたが、口から出て来たのはまったく別の質問だった。
「なに?」
「昨日、どうして先輩《せんぱい》は神社にいたんですか」
カゲヌシがいなくなった後で、たままた神社にやって来た、という説明だったと思う。一瞬《いっしゅん》、なぜか裕生は返答に詰まった気がした。
「ちょっと西尾に用があったんだよ」
なんの用ですか、とまでは尋《たず》ねる勇気がなかった。
「じゃ、いってくるから」
裕生はキッチンを出ていった。彼が玄関のドアを開けて出ていくまで、葉はじっと耳を澄《す》ませていた。
一人になると部屋の中が急に広くなった気がした。
ふと、葉は昨日のみちるの話を思い出した。裕生のことは「前は好きだったけれど、今はただの友達」だと言っていた。
葉《よう》は前から西尾《にしお》みちるが気になっていた。初めて知り合った時はあまり好感は持てなかったが、中学に入ってから見方を変えた。みちるは学年や性別を問わず誰《だれ》からも好かれていたし、誰とでも仲がよかった。遠くから見ていても裕生《ひろお》とみちるの関係は自然で羨《うらや》ましかった。それでも、時々みちるが裕生から困ったように目を逸《そ》らすのを何度か見たことがある。
葉自身は裕生と付き合いたい、などと考えているわけではなかった。そもそも裕生のことが好きなのかどうか、きちんと自分に問いかけたことはない。そのことはなるべく考えないようにして来た。
しかし、葉が「黒の彼方《かなた》」に取りつかれ、それを裕生に知られた日から二人の関係は変わった。彼女の気持ちには関係なく、葉にとって裕生は唯一《ゆいいつ》の理解者であり、欠くことのできない存在になっていた。
もし、みちるが今も裕生のことを好きなのだとしたら、みちるにとって葉は目障《めざわ》りに違いない。葉が欲しかったのはみちるの許しだった――別に裕生に対してなにかを望んでいるわけではないので、一緒《いっしょ》にいることを許して欲しいということ。
それに、このままいけば近いうちに葉は葉でなくなる。
多分、それほど長い時間ではないから、と言うつもりだった。
(藤牧《ふじまき》裕生が神社にいたのは、偶然だと思いますか)
不意に「黒の彼方」の声が聞こえて、彼女は我に返る。話しかけてくるのは久しぶりだった。深い傷を負ったせいか、どことなく苦しげな声だった。
「え?」
(西尾みちるは藤牧裕生を唆《そそのか》して、私たちを陥《おとしい》れようとしています)
「うそ。そんなはずない」
と、葉はつぶやいた。カゲヌシの前に立ちはだかったみちるの姿がありありと蘇《よみがえ》った。
(そう。確《たし》かに彼女はあなたを守った。ですが、彼女があのカゲヌシの契約者だとしたら、あの行為にはなんの勇気も必要ありません)
「……そんな」
(可能性の一つですよ。ただ、あの二人は信用すべきではない。陰であなたをあざ笑っているかもしれない)
それは馬鹿《ばか》げた考えだと分かっていた。絶対にそんなはずはない――しかしそれを想像すると、涙がこぼれ落ちそうなほど悲しかった。
(彼らはなにかを企《たくら》んでいる。いつもあなたと一緒にいるのが、わたしであることをお忘れなく)
その言葉を最後に、「黒の彼方」も話すのをやめた。
今度こそ彼女は一人になった。キッチンの椅子《いす》に腰掛けたまま、彼女は沈黙《ちんもく》に耳を傾けていた。じっとしていると、この世界に自分一人だけが残ったような気がした。
(この世界がぜんぶ消えて、わたしだけが残る)
心の中で葉《よう》はつぶやいた。
(それはこの世界から、わたしが消えるのと同じ)
2
鶴亀《つるき》駅前のハンバーガーショップで、裕生《ひろお》はポテトとドリンク付きのセットを買った。トレイを持った裕生が二階に上がると、窓際《まどぎわ》のカウンター席に佐貫《さぬき》が座っていた。
「よ」
声をかける前に佐貫が振り向いて声をかけた。
「あれ、結構前から来てた?」
裕生は佐貫の隣《となり》の席に座りながら言った。佐貫の前に置かれているラージサイズのコーラはすっかり空になっている。
「まあな。時間が余ったんで、ここからあれ見てた。もう午前の回が始まってるけど、俺《おれ》が見た時より客が入ってるみたいだぞ」
窓からは例の「皇輝山《おうきざん》天明《てんめい》ショー」の会場が見える。もう始まっているということだったが、それでもちらほらと入っていく客がいる。
「西尾《にしお》は神社のバイトにいったの?」
「さっき、やっぱり抜けられないってメールが入ってたよ。まあ、今日までだからな。明日はもう祭りの日だし」
裕生は話に耳を傾けながらハンバーガーのラッピングをほどいた。これが今日初めての食事だった。裕生が半分ほど食べ終えたところで、佐貫が口を開いた。
「昨日の晩も話したけど、やっぱりこいつは怪《あや》しい。っていうか、ほとんどクロだな」
佐貫は言いながら、裕生の方へ一枚の写真を滑《すべ》らせた。白いタキシード姿の皇輝山天明が、シルクハットを手に満面《まんめん》の笑《え》みを浮かべていた。
「……どこで手に入れたの。こんな写真」
「どうでもいいんだよそんなことは」
佐貫は顔をしかめたが、裕生はこの友人の情報収集能力に素直に感心していた。昨日の晩、裕生から全《すべ》ての事情を聞いた後で、皇輝山天明が怪しいと言い出したのも佐貫だった。確《たし》かにあの時、裕生たちと宮司《ぐうじ》を除けば神社にいたのは皇輝山天明だけである。
明日の午前中までに調《しら》べておく、と宣言して佐貫は帰っていったのだった。
「あいつはこの町に戻って来てから、ほとんど毎日のようにあのショーをやってる。俺が見た日、俺《おれ》んちの近くに住んでる女の人が色々言い当てられてたって話しただろ? さっきその人の家にいってみたんだけど、あの日から姿が見えないらしい」
「……え」
裕生《ひろお》の心臓《しんぞう》がどきりと脈打った。
「まあ、まだ一昨日《おととい》の話だし、よく旅行にいく人みたいだから、まだそんなに心配する必要もないかもしれないけどな。ただ、他《ほか》にもっとこの町で消えてる人がいないか、確《たし》かめた方がいいかもしれない」
その言葉に裕生はうなずいた。天明《てんめい》がもし契約者だとしたら、人間を殺しているはずなのだ。
「後、あいつがショーの時に口にしてた、『守り神』のタツコヌシ。字で書くと龍《たつ》の子だと思うんだけど、これには蜥蜴《とかげ》って意味がある。つまり、龍子主《たつこぬし》ってのは蜥蜴の神様って意味なんだよ」
「その龍子主って昔の伝説とかに出て来るの? なんかそれっぽいけど」
「俺は知らねえな。作ったんじゃないのか? 『皇輝山《おうきざん》文書』とかいうのと一緒《いっしょ》に」
『皇輝山文書』――昨日も何度か佐貫からその言葉を聞いたが、どういう内容なのか今ひとつよく分からなかった。
「結局、なにが書いてあるんだろ」
「なんかよく分からないんだよ。本人も分かってないかもしれないけどな」
「どういうこと?」
佐貫《さぬき》はにやっと笑った。
「存在しないかもしれないってことだよ。四年前も出て来たって発表しただけで、ちゃんと読んだヤツは天明以外には誰《だれ》もいない。警察《けいさつ》が事情を聞きにいったら逃げちまった。天明の助手もろくに見たことないみたいだし。まあ、もしどこかにあっても、せいぜい入院中の妄想《もうそう》日記みたいなもんだろ」
「入院中?」
裕生は思わず聞きかえした。
「話さなかったか? なんか、大怪我《おおけが》してから性格がらっと変わったらしいぞ。『皇輝山文書』があるって言い出したのも退院してからだっていうし」
「……」
裕生は自分の書いた「くろのかなた」を思い出していた。「入院中の妄想日記」なら、彼の書いたあの話も似たようなものだ。入院していなければ、あれを書くこともなかっただろう。
「あ、そうだ。一番大事なもん見せてなかったな」
佐貫はバッグから携帯を出すと、裕生に向かって画面を見せた。カメラで撮《と》ったらしい画像が映っている。どこかのビルの入り口のようだった。
「これ……」
裕生《ひろお》は思わず息を呑《の》んだ。
「そこが天明《てんめい》の泊まってるホテルの玄関だ。さっきいって撮《と》って来た」
自動ドアの脇《わき》の壁《かべ》に、黒いスプレーで描《か》かれた大きなマークがある。正方形の中に小さな黒い丸が入っていた。
「……『サイン』だ」
レインメイカーが教えてくれた、鶴亀《つるき》にいるというカゲヌシの「サイン」だった。ほとんど間違いないと言ってもいいだろう。裕生は「天明ショー」の会場の入り口を見る。あの奥でステージに立っているのは、カゲヌシの契約者なのだ。
「それでどうするんだ、これから」
と、佐貫《さぬき》が言った。それはもう裕生の中で決まっていた。
「あの蜥蜴《とかげ》のカゲヌシをもう一度『黒の彼方《かなた》』にぶつける。あいつを利用して、『黒の彼方』を倒すんだ」
「眠り首」という武器を失った「黒の彼方」は弱っている。三つあったはずの首も最後の一つだけだ。倒すとしたら、今が絶好のチャンスだった。
「やっぱりそれ、本気でやるつもりなのか……それで、蜥蜴のカゲヌシが勝ったらどうするんだ?」
「そっちはぼくらが倒す」
佐貫が眉《まゆ》をひそめながら腕組みをした。
「難《むずか》しいな、それ」
「でも、それは絶対に譲《ゆず》れないよ。『黒の彼方』が死んでも、あの蜥蜴のカゲヌシが人間を殺してるんじゃ意味がないんだ」
「いや、反対してるわけじゃねえよ。そうしなきゃならないってのは俺《おれ》にも分かる……ただ、そうすると勝った蜥蜴の方も相当弱ってないとダメってことだよな。俺たちも戦えないだろ」
佐貫はため息をつきながら指を折った。
「まずはお互いが会うようにおびき出さなきゃならない。そいつらを戦わせなきゃならない。どっちも弱らせなきゃならない。そうなると必要なのは」
彼はちらりと裕生の顔を見て、声をひそめて言った。
「両方のカゲヌシを騙《だま》すこと、だよな?」
裕生はうなずいた――自分たちには力がない。力がなければ、騙して相手を倒すしかないのだ。
「お前、やっぱり雛咲《ひなさき》さんに事情話した方がいいんじゃないのか」
と、佐貫が言った。裕生は首を横に振る。
「そうしたいけど、葉《よう》に話すと『黒の彼方』にも全部分かっちゃうんだ。そうなったらあいつはあの蜥蜴と戦わないかもしれないし、なにかもっとまずいことをすると思う。今だってぼくがなにをしてるのか疑ってるだろうし、こっちの動きはなるべく知られないようにしないと」
「俺《おれ》が心配してんのはそこじゃないんだけどな」
「え?」
「お前、その『黒の彼方《かなた》』に嘘《うそ》つくってことは、あの子にも嘘つくってことだろ? それでお前大丈夫なのか?」
裕生《ひろお》はかすかに歯を食いしばった。葉《よう》が自分を心から信頼してくれているのは分かっている。裕生を疑うことなど考えてもいないあの目を見ていると、カゲヌシを引《ひ》き離《はな》すためとはいえ、嘘をつくのはやりきれなかった。
「……しょうがないよ」
と、裕生はやっと言った。
「今は他《ほか》にどうしようもないんだ」
佐貫《さぬき》は裕生の肩をぽんと叩《たた》いた。
「まあ、確《たし》かにしょうがねえな。全部終わったら俺のせいだって言ってやるから。悪だくみは全部俺がしたってことにすればいいだろ」
「そんなことできないよ」
裕生は苦笑しながら、家にいるはずの葉《よう》のことを思った――今頃《いまごろ》、一人でどうしているだろう。うまくいけば、もう少しで彼女を「黒の彼方」から解放できるはずだ。
これから天明《てんめい》に会って「黒の彼方」を倒す話を持ちかけなければならない。
全部は食べていなかったが、彼はトレイを持って立ち上がった。
「じゃあ、そろそろいこうよ」
「どこに?」
「どこって……あの会場だよ。途中《とちゅう》からになっちゃうかもしれないけど、天明と話す前にあのショーを見ときたいし」
裕生は窓の外の会場を見ながら言った。佐貫はちょっと困ったように眉《まゆ》をしかめた。
「いや、どうだろう。今、いかない方がいいかもしれないな」
「なんで?」
「ここで見てたら、お前もよく知ってる人があの会場に入ってくのが見えてさ。万が一、中で会ったらややこしいことになる気が」
「誰《だれ》のこと?」
「お前の兄さん」
「はあ?」
と、裕生は思わず大声を上げた。
3
「……お疑いの方もおられるかもしれません。『本当にこの男に透視する力があるのか』と……あなたはどう思われますか?」
いつも通り天明《てんめい》は言い、客の一人に手持ちのマイクを向ける。かすかにざりっと雑音が入った。
「あァ? 俺《おれ》か?」
と、その男が言った。
「そう、あなたです」
天明は頭につけたインカム式のマイクで話している。今日、選《えら》ばれたのは最前列でひときわ目立つ背の高い男だった。金色《きんいろ》に染《そ》めた髪、派手《はで》なシャツ、黄色《きいろ》いレンズのサングラスの奥から鋭《するど》い目が光っていた。
一時間近く続いた「皇輝山《おうきざん》天明ショー」はクライマックスを迎えていた。客席はほとんど満席に近い状態《じょうたい》で、そのうちのかなりの人数が以前にもこの「ショー」を見たリピーターだった。「ショー」の前半は天明が扱っているさまざまな商品の紹介で、客が期待しているのは「影《かげ》」から相手を見抜く透視術だった。
「ま、百パーセントインチキだな」
と、長身の男が言った。
戸惑《とまど》ったようなざわめきが会場の中に広がっていった。これほど正面切って否定する客も珍《めずら》しい。しかし、天明は逆に内心でほくそ笑《え》んでいた。誰《だれ》がどう見てもこのあたりをうろついている元不良というところである。この手のタイプは物事をなんでも白黒で判断する癖《くせ》があり、全部拒絶するか全部受け入れるかのどちらかの反応を取りがちだ。
要するに、天明にとっては最も扱いやすいタイプなのである。
「では、わたしの力を証明しましょう。ステージに上がっていただけますか?」
と、天明は言った。一瞬《いっしゅん》、男の目が不快そうに光った。当然、ここでは「あんで俺がんーなことしなきゃなんねんだよ」や「インチキに手ェ貸す気はねーんだよ」などの頭ごなしの拒否が予想される場面だった。
だが、天明が用意した次の言葉を畳《たた》みかけようとすると、
「いっすよ」
と、男はあっさりうなずき、自分から白い箱形《はこがた》のステージへと上がっていった。いささか肩すかしを食らったが、すぐにただの気まぐれだろうと思い直した。
いつもと同じく、天明は客をステージの中央に立たせる。背後《はいご》のホリゾントに彼の影が巨人のように浮かび上がった。それについてこの客はなにか反応するだろうと思ったが、彼は自分の立っているステージの足下《あしもと》をじっと見つめている。
「どうかなさいましたか?」
どんどん、と男はサンダルでステージを踏みしめる。
「このステージの下、なにが入ってんスか?」
一瞬《いっしゅん》、天明《てんめい》の頬《ほお》がぴくりと引きつったが、笑顔《えがお》はそれ以上崩《くず》さなかった。
「いやいや……あまり大きな声では言えませんが、ただの倉庫ですよ。別に落とし穴があるわけではありませんので、安心して下さい。あ、よろしかったら後でこっそりお見せしましょうか?」
「あ、すんません。続きどうぞ」
男はぴっと手を挙《あ》げて言った。
「とりあえず、お名前を伺ってもよろしいですか?」
「んん、さっき受付でも書いたけど」
男はぽりぽりと頭をかきながら言った。
「藤牧《ふじまき》雄一《ゆういち》。住んでんのは……」
「おっと! その先を言われるとわたしの仕事がなくなってしまいます!」
客のくすくす笑いを聞きながら、天明はホリゾントに映った雄一の影《かげ》のところまで歩いていった。そして、静かに雄一の影に触れる――会場が期待で静まりかえっているのが分かった。
「今日の朝はどなたも新聞をお読みにならなかったようですね?」
インカム式のマイクに彼は語りかけた。
「そっスね」
あまり関心がなさそうな声で彼は答えた。
「高校生の弟さんはともかく、サラリーマンのお父さんやあなたは読まれた方がいいのでは?」
「……親父《おやじ》は夜に新聞読む習慣《しゅうかん》なんで」
いささかひねくれた言い方だったが、当たったことを間接的に認めている。会場に拍手が広がった。
「あなたはどうですか? うーん。あなたは大学生……大学の名前は東桜《とうおう》ですね? 服の趣味《しゅみ》は変わっているが、なかなかのエリートだ」
「えっ? 服?」
虚《きょ》を衝《つ》かれたように雄一は自分のシャツを見下ろした。なんでそこに反応するんだ、と天明は思った。
「まあ、それはともかく。東桜大学はいささかここからは遠い。普段《ふだん》は一人暮らしで、今は夏休みで帰省している。そんなところでしょう?」
雄一はしばし沈黙《ちんもく》し、しぶしぶうなずいてみせた。さっきよりも大きな拍手が巻き起こった。
「今、実家におられるのはお父さんと弟さん。あなたを入れても三人だ。お母様は……これは触れるべきではないかもしれないが、すでにお亡《な》くなりになっておられるようだ」
一瞬《いっしゅん》、くるりと雄一《ゆういら》が天明《てんめい》を振りかえった。奇妙に感情の感じられない目だった。
「ま、確《たし》かにお袋《ふくろ》は死んだけど」
おお、と会場のどこかから感嘆の声が洩れた。続いて起こる拍手を手で制して、天明は話を続けた。
「あなたはずっと団地で育って来られた……ずいぶん古い団地ですね。あなたが住んでいるのはかなり端の方の棟《むね》のようだ。すぐ近くに公園が見える。加賀見《かがみ》団地、でいいのかな。そこがあなたのふるさとというわけだ」
「そっスね」
軽くうなずきながら雄一は言った。
「小学校から高校まで、あなたは同じ町で育って来た」
「あ、俺《おれ》の部活とか分かんねえかな?」
「どうやら、中学生あたりまであなたはかなり有名だったようですね。見たところ、かなりケンカも強そうだ」
天明は雄一の質問を無視して続けた。
「十五、六|歳《さい》でなにか大きな転機が訪れたようだ……以来、すっかり心を入れ替えたのではないですか? いかがです?」
「ま、合ってますよ」
ほとんど投げやりな口調《くちょう》で雄一は答える。観客《かんきゃく》の歓声と拍手はさらに高まったが、天明はこの男の態度《たいど》にどこか不吉《ふきつ》なものを感じ取っていた。少し早いが、そろそろ落としどころだと感じた。
「あなたはなかなか立派な青年だ。明日の日本を背負《せお》うためにも、これからは新聞を毎日お読みになることですね」
天明はホリゾントを離《はな》れて雄一へ近づき、ぱっと空中に片手をかざした。彼の頭上の空間に新聞が現れて、手の中にぽとりと落ちて来た。
「今、お渡ししたかったので、持って来てしまいました……お帰りになってから、新聞受けを確認《かくにん》なさって下さい」
天明は新聞を雄一に差し出す。ステージに上げてから初めて、彼の両目が驚《おどろ》きで大きく開いた。会場が割れんばかりの拍手で沸《わ》き、ようやく天明はほっとした。
「……チラシははさまってないんスね」
新聞を手にした雄一は、驚いた表情のままでぽつりとつぶやいた。
「後で差し上げてもよろしいですよ」
拍手に混じって会場から笑いが起こった。
「どうですか? まだ『百パーセントインチキ』だとおっしゃいますか?」
天明《てんめい》が勝ち誇ったように言うと、雄一《ゆういち》はうーん、とうなりながら首をひねった。
「いやァ、今のはスゲエ。マジで驚《おどろ》いたわ」
「いえいえ。これは人間なら本来|誰《だれ》でも持っている能力を――」
「他《ほか》のトリックは全部分かったけどよ、今の新聞出したトリックだけ後でこっそり教えてくんねーか? マジであれだけは分かんねえ」
拍手が途切《とぎ》れ、会場に不審《ふしん》げなざわめきが広がり始めた。経験《けいけん》から来る勘《かん》で、天明は危険を察知した。今すぐこの男をステージから降ろさねばならない。しかし、その時にはすでに手遅れになっていた。雄一はマイクに向かって叫んだ。
「俺《おれ》がトリックを説明する! 本物の力って自信があんなら、俺に喋《しゃべ》らせてみろ! マイクのコード抜いたり、警備員《けいびいん》呼んだりすんのはナシでよ!」
しん、と会場が静まりかえった。天明はしまったと思った。観客《かんきゃく》はこの雄一の発言を受け入れてしまった。彼の発言を妨害すれば、天明に「自信がない」ことになってしまう。とにかく話術で切り抜けるしかなかった。
雄一は軽く咳払《せきばら》いをしてから、今までとはうって変わって饒舌《じょうぜつ》に語り始めた。
「影《かげ》から人間の情報を読み取るってのは嘘《うそ》だな。あんたが俺に言ったことは、全部一時間もありゃ調《しら》べられることばっかりだぜ」
天明は余裕ありげに微笑《ほほえ》んだ。こういう場面では感情をあらわにした方が負けだ。
「なにを言ってるんですか? わたしはあなたのお名前も今聞いたばかりですよ」
「違う。俺ァこの会場の受付で、名前と電話番号を書いた。任意でいいって言ってたけどよ、そうやって記入した客の中から『影』を見る相手を選《えら》んでんだ。名前と電話番号さえ分かりゃ、住所調べて車飛ばして、聞きこみ調査《ちょうさ》すんのは簡単《かんたん》だろ。別のヤツが市役所で俺んちの住民票ぐらい取ってるかもしんねーな」
「ふざけたことを。わたしはこのステージから一歩も動いていませんよ」
「あんたのそのマイク」
雄一は天明のインカムを指さした。
「そいつにはイヤホンもついてる。それで外のスタッフから情報を受け取ってんだ」
天明が耳にはめたイヤホンの向こうから、八尋《やひろ》の舌打ちが聞こえた。続いて、落とすわよ、と彼女は言った。天明は軽くうなずいた。事態《じたい》を収拾させるためには、もはやなりふり構っていられない。
「あの受付の派手《はで》な姉ちゃんが怪《あや》しい気がすんな。あの姉ちゃんが司令塔になって、他のスタッフに調べさせた情報をまとめて、あんたに教えてんだ。あんたは耳から聞こえる話をそのまんま喋ってるだけだろ」
何者なのよこいつは、とイヤホンの向こうで八尋がうめくように言った。全部見抜いてるじゃない。
「それなら、どうやってお宅の新聞をここまで移動させることができるんですか」
「バカじゃねーか。俺《おれ》んちの新聞なんかわざわざ持って来る必要ねーんだよ。聞きこみにいったスタッフが、俺んちの新聞パクって見つからねえ場所に捨てりゃいいんだ。後はこっちの会場で同じ新聞用意すりゃトリック完成だ……第一、本当にうちの新聞受けから出したんだったら、チラシがはさまってねえのはおかしいだろ? 新聞の広告チラシってのは地域によって全然中身が違ってっから、こっちの会場じゃ用意できなかったんだ……まあ、空中に出したトリックだけは分かんねえけどな」
それから、にやりと笑って付け加えた。
「後、うちに今住んでんのは四人だ。一人家族が増えてる。そこまでは調《しら》べ切れなかったみてーだな」
天明《てんめい》は会場を見回した。相変わらず静かではあったが、雰囲気は大きく変わっていた。観客《かんきゃく》たちはひそひそと疑わしげに囁《ささや》き合っている。
「残念ながら、あなたがおっしゃっているのは全《すべ》てなんの証拠《しょうこ》もない仮説ですよ」
と、天明は静かに言った。そろそろだな、と思った。
「このような中傷をわたしは何度も経験《けいけん》して来た。あなたは勝手な思いこみを語っているにすぎない」
「じゃあ、俺んちの家の中にあるもんを取り寄せてみな。俺の部屋にある灰皿とかでいい。だったら信用して――」
その時、ふっと会場が真《ま》っ暗《くら》になった。同時にマイクの電源も落ちる。
それと同時に会場の後ろのドアが開いて、巫女装束《みこしょうぞく》姿《すがた》の八尋《やひろ》が拡声器を手に現れた。彼女は普段《ふだん》通りの甲高《かんだか》い声で叫んだ。
「誠に申《もう》し訳《わけ》ございませんが、このホールの配電盤《はいでんぱん》にトラブルが発生いたしました。火災が発生する危険性がございますので、お客様はこちらの指示通りにすみやかにご退場下さい……」
「何者だ、お前は」
と、暗がりの中で天明《てんめい》は言った。今までとはうって変わって下品な口調《くちょう》だった。
「俺《おら》ァ通りすがりの元ヤンの大学生。あんたがさっき言った通りだって」
ステージの上から見ると、会場のほとんどの客は退去を終えていた。隅の方にいくつか人影《ひとかげ》が見える程度である。
「にしても電源かよ。つまんねえごまかし方だなァ。この詐欺師《さぎし》が」
天明のスタッフがこのホールの電源を落としたのは分かっていた。「火事」云々《うんぬん》というのは単なる口実だろう。それが証拠《しょうこ》に、いつまで経《た》っても消防車は到着しない。
雄一《ゆういち》はひらりと床《ゆか》に飛び降りて、ステージの上の天明を見上げる――しかし、そこには誰《だれ》もいなかった。
「お前、どうして俺《おれ》の嘘《うそ》をバラしたんだ?」
天明の声が背後《はいご》から聞こえた。ぎょっとして雄一が振りかえると、天明は誰《だれ》もいない客席の中に立っていた。
「俺は確《たし》かに嘘をついてる。しかし、俺は今の透視術で、この町の人間から金品を受け取ってない。だから正確《せいかく》には『詐欺』とは呼べないな。警察《けいさつ》も俺の罪を問うことはないはずだ。それはお前にも分かってるだろ?」
「嘘は放っておけねえだろ。そんだけの話だ」
そう言いながら、頭の中では天明の不可解な移動のことを考えていた。雄一の頭上を通りこして、十メートル近くステージからジャンプしたことになる。しかもまったく音を立てずに。
瞬間《しゅんかん》移動でもしない限り、ありえない。
「まったく、このトリックを一目で見破るとはな。お前にも十分に人を騙《だま》す素質が備わってると思うが、嘘をつこうと思わないのか?」
「人を騙すのはあまり好きじゃねえ。んなことしなくてもやってけっからな」
「それはお前が強いからだな。嘘を必要としない珍《めずら》しい人間だからだ」
「人を持ち上げるついでにテメエを正当化すんじゃねえよ、ボケが」
「誰かを騙さなければ、手に入らない強さもある。誰でも少しずつ嘘をつく。お前がつかなくても、お前の周りの人間は少しずつ嘘《うそ》をついているはずだ。そういう人間の気持ちが分からない限り、お前の強さに頼る人間はいない」
「ワケ分かんねえ」
と、言いながら、雄一《ゆういち》は裕生《ひろお》のことを思い出していた。自分に嘘をついていた弟は、結局雄一にはなにも事情を説明しようとはしなかった。
「お前は俺《おれ》と正反対の存在だ。俺は嘘と同化している。俺自身が一つの嘘と言っていい」
「勝手にほざいてな。帰らせてもらうわ」
雄一はひらひらと手を振って、椅子《いす》と椅子の間を歩き始めた。
「……もう、俺には人間などどうでもいい」
不意に雄一の首筋の毛がぞわっと逆立《さかだ》ち、彼は反射的に飛びのいた。無意識《むいしき》のうちに両足を肩幅ほどに開いて、脇《わき》を締《し》めながら両拳《りょうこぶし》を上げる――明らかに戦うための構えだった。
(……ん?)
雄一はすぐに構えを解《と》いた。我に返ると特になにも起こっていなかった。一瞬《いっしゅん》、この上なく明確《めいかく》な殺意をぶつけられた気がしたのだが。
天明《てんめい》は客席の間から、じっと雄一を見ていた。
「……帰らないのか?」
ちっと舌を鳴らして、雄一は歩き出した。
ふと、ここで起こったことを多分|誰《だれ》にも話さないだろうと彼は思った――自分が体験《たいけん》したものがなんなのか、うまく説明できる自信がなかった。
4
天明は雄一が出ていくのを見送ってから、会場の隅の方へ歩いていった。最後列の端の席に、二つの人影《ひとかげ》がぼんやり見えている。避難《ひなん》の誘導《ゆうどう》があるというのに、いつまで経《た》ってもその二人の客は出ていかなかった。
雄一を龍子主《たつこぬし》に食わせることを思いとどまったのも、その二人がこちらを見ていたからだ。天明のいた箱形《はこがた》のステージの下には、常に龍子主を潜《ひそ》ませている。用意させたものを取り出すのも、その能力を使ってのことだった。あの雄一はステージの下になにかあることまで気づいていた。見逃《みのが》すにはあまりにも勘《かん》がよすぎた。「本番」が明日でなければ、消していただろう。
しかし、今は目撃者《もくげきしゃ》の前で人を殺すのはまずい。人間などどうでもいいが、まだ明日に大事な用が控《ひか》えている。
「どうかなさいましたか?」
と、天明はその二人に向かって言う。ようやく二人の顔を確認できる距離《きょり》まで近づいていた。一人は小柄で、もう一人はがっちりした太め――二人とも見覚えがある。
「いや、ちょっとお話が聞きたくて残ってたんすよ」
と、太めの方が言った。
「俺《おれ》たち、皇輝山《おうきぎん》文書について色々|調《しら》べてるんですけど……」
「そんな口実は要《い》らないな。佐貫《さぬき》峻《たかし》、だったか」
天明《てんめい》がずばりと言うと、相手はぐっと詰まった。
「その隣《となり》のお前も昨日神社にいたはずだな。俺に聞きたいのはそんなことじゃないだろ?」
沈黙《ちんもく》が流れた。二人は暗がりの中で、ちらっと顔を見合わせた。
「佐貫、やっぱり嘘《うそ》が通用するような人じゃないよ。それに、ぼくたちの顔はもう知られてるし」
小柄な方が佐貫に向かって言った。確《たし》かに龍子主《たつこぬし》の五感を通じて、昨日の戦いの様子《ようす》は把握《はあく》している。あの場にいた全員の顔は分かっていた。
「ぼくは藤牧《ふじまき》裕生《ひろお》です。初めまして」
そう言いながら、小柄な方がきちんと頭を下げた。
「本当のことを話します。ぼくの幼なじみに取りついているカゲヌシを、あなたのカゲヌシの力で殺して欲しい……そう思って来たんです」
「おい、裕生」
佐貫が渋《しぶ》い顔で言ったが、裕生はそれを手で制した。
天明は二人の顔を凝視《ぎょうし》する。真実を話している可能性もあるが、それ以上に罠《わな》を仕掛けている可能性がある。最初の佐貫の嘘は、見破られることを想定している気がした。こちらが見破ったら、「さすがですね。それでは本当のことを話します」と、さらに別の嘘を口にする――騙《だま》しのテクニックの一つだった。
もしこの少年たちがそれを意識的《いしきてき》に使っているのだとしたら、相当の警戒《けいかい》が必要な相手ということになる。
「龍子主に殺して欲しいのは、あの『同族食い』か?」
裕生はうなずいた。
「ぼくはあの女の子……葉《よう》を人質《ひとじち》に取られています。今日もあいつに命令されて、表向きはあのカゲヌシの契約者であるあなたを探りに来ました。でも、あなたのカゲヌシはあいつを傷つけることができた。ぼくはあいつを倒す時が来たんじゃないかと思ってるんです」
「……」
天明は直感的に裕生の話に嘘を感じ取っていた。全《すべ》てが出任せではないが、話の一部に嘘を織《お》り交ぜている。だから多少の真実味があるのだ。問題はどの部分が嘘なのか、今は判断ができないことだった。
「俺の龍子主があいつを完全に倒せると思うのか?」
「あいつはもともと他《ほか》のカゲヌシを察知する能力が低い。だから、あなたのカゲヌシが近づいていくのも気づいてなかったでしょう? それに、首を一つ食われた今は武器を使うこともできない。あなたが都合《つごう》のいい場所を指定してくれれば、ぼくがそこへ連れていきます。不意打ちで倒せるんじゃないですか」
「なるほど」
と、天明《てんめい》は言った。龍子主《たつこぬし》から得た情報と合致している――あのカゲヌシが同族を察知する能力が低いこと、食ったあの首に武器があったらしいこと。
「それで、あのカゲヌシを倒したらお前は俺《おれ》をどうするつもりだ」
「どうもしません。ぼくはあのカゲヌシが死んで、葉《よう》が解放されればそれでいいんです。ぼくたちは普通の生活に戻りたいだけなんだ」
そういうことか、と天明は思った。あの娘《こ》はこの少年の恋人なのだ。
「俺が応じた場合のメリットはなんだ? わざわざ危険を冒《おか》してあいつを殺す意義は?」
「メリットはありません。でも、あなたはもともと『同族食い』を殺すつもりだったんでしょう? それに、もしあなたが断ったら、ぼくは『黒の彼方《かなた》』に『皇輝山《おうきざん》天明があの蜥蜴《とかげ》のカゲヌシの契約者だった』って報告します。そうなったら、今夜にでもあいつはあなたに復讐《ふくしゅう》しようとするでしょう。方法は言えませんが」
裕生《ひろお》が口にしているのは稚拙《ちせつ》な脅迫《きょうはく》だった――しかし、今夜という言葉に天明は反応した。もし本当だとすると、今夜はまずい。なにをするつもりかは分からないが、明日の「本番」を前に派手《はで》な騒《さわ》ぎに巻きこまれるわけにはいかない。そのために色々と準備をして来たのだ。
ふと、天明の頭に閃《ひらめ》くものがあった。いっそ、明日の「本番」で一緒《いっしょ》に片づけるのはどうだろう。まとめて倒してしまえばいいではないか。
「いいだろう。今夜の襲撃《しゅうげき》を止《と》めろ。そして、明日の鶴亀《つるき》神社の祭りにヤツをおびき出すんだ」
「お祭りに?」
驚《おどろ》いたように裕生が聞きかえした。
「明日、俺はイベントを開く予定になってる。お前らは高校生だろ? 恋人や友達と祭りにいっても別に不自然じゃない。その後、鶴亀山の頂上あたりに連れて来い。あそこなら人もいないだろうし、俺も土地勘があるからな」
「でも、急にできるかどうか……」
「できなければ構わない。ただ、その今夜の襲撃とやらを止めてくれたら、こちらもその礼をする準備があるってことだ。あのカゲヌシを殺してやるよ」
お前らも一緒だけどな、と天明は心の中で付け加えた。
「……やってみます」
と、裕生はうなずいた。
「ところで、あのカゲヌシと娘の名前は?」
と、天明《てんめい》は尋《たず》ねる。一瞬《いっしゅん》、裕生《ひろお》はためらってから口を開いた。
「カゲヌシの名前は『黒の彼方《かなた》』。契約者は雛咲《ひなさき》葉《よう》」
天明は大きく目を見開いた。
どうしたんだろう、と裕生は思った。
明らかに天明は驚《おどろ》いた顔をしている。「黒の彼方」を知っているはずはないので、葉の名前に反応したことになる。
「あの……葉を知ってるんですか?」
おそるおそる裕生は尋ねた。ここまでの話はそれなりにうまくいっていたと思うが、内心ではいつこちらの目的を見破られるかと思って冷や汗をかいていた。今、なにか決定的なミスを犯してしまったのかもしれない。
佐貫《さぬき》も隣《となり》で緊張《きんちょう》しているのが分かる。どういう風に話を持ちかけるか考えたのはほとんど佐貫だった。最初に嘘《うそ》をついて見破らせるのも彼のアイディアである。
「いや、そうじゃない。知り合いに雛咲という男がいたんでな。多分、そいつの娘だろう。娘が一人いるという話だった」
「葉のお父さんを知ってるんですか?」
裕生はここへ来た目的も忘れて言った。
「葉の両親は四年前にいなくなったんですけど」
と、言いかけて裕生ははっとした――四年前。天明が『皇輝山《おうきぎん》文書』を発見したのと同じ時期だった。
「それも知っている。雛咲|清史《きよし》は学生時代の俺《おれ》の同級生だ。あいつの結婚式は鶴亀《つるき》神社で挙《あ》げたんだ。もちろん、それも俺が執《と》り行った」
そういえば、そんな話を聞いた気もする。葉の父親は娘と同じように無口だった。家にいる時に近所の子供が遊びに来ても、親しく話しかけてくるような人ではなく、いつも奥の部屋で難《むずか》しそうな本を読んでいた記憶《きおく》がある。あまり裕生の印象には残っていなかった。
「あなたは二人がいなくなった理由を知ってるんですか?」
「そこまでは知らん。いなくなる前にも何度か会っているが、詳しいことは話さなかったからな」
裕生は納得《なっとく》できなかった。この男はなにかを知っている。さらに質問しようと口を開いた時、佐貫が軽く彼の足を踏んだ――話題がズレてるぞ、と言いたいらしい。裕生はようやく我に返った。
「……とにかく、『黒の彼方』をおびき出せそうだったら、俺に連絡しろ……緊急の携帯の番号だ。ここにかければ必ず繋《つな》がる」
天明は手帳に番号を書いてから、そのページを破って裕生に手渡した。
「分かりました」
天明《てんめい》は裕生《ひろお》をじっと見守っている。なんとなく落ち着かない気分になってきた。ここは早く退散した方がいいかもしれない。
「じゃあ、ぼくたちはこれで」
佐貫《さぬき》を促《うなが》して裕生は立ち上がる。二、三歩歩きかけたところで、突然天明の声が聞こえた。
「お前は俺《おれ》と手を結ぼうとしているが、昨日は俺の龍子主《たつこぬし》を殺そうとしたよな?」
裕生は飛び上がりそうになったが、どうにかそれを抑えてゆっくりと振り向いた。心臓《しんぞう》が音を立てて脈打っている。
「あの時は仕方なかったんです。あなたの龍子主が『黒の彼方《かなた》』じゃなくて葉《よう》の方を狙《ねら》ったから」
「そうか。そうだったな」
妙に親しげな口調《くちょう》に裕生は戸惑《とまど》った。顔にはかすかな笑《え》みさえ浮かんでいるように見える。一体なにを考えているのか分からない、底知れない相手だった。
「じゃあ、失礼します」
裕生たちは会場の外へと歩いていった。
5
裕生は重苦しい気分で玄関の戸を開けた。家の中は静まりかえっている。
「ただいま」
答えはなかった。葉の姿を捜《さが》したが、彼女が使っている部屋にもキッチンにもいない。居間のクーラーは点《つ》けっぱなしだった。
(どこに行ったんだろう)
裕生は居間の真ん中に立ちすくんだ。まだ体の調子《ちょうし》もよくないはずだし、そうでなくともどこかへ出かけるはずがないのだが。
何気《なにげ》なく窓の外を見る――葉がベランダに立っていた。普段《ふだん》家で着ているブラウスとジーンズに着替えている。ほっと安堵《あんど》の息を洩《も》らしながら窓を開けると、葉が振りかえった。
「ただいま」
「……お帰りなさい」
嬉《うれ》しそうに葉が微笑《ほほえ》んだ。
「具合は?」
「もう大丈夫だと思います」
裕生《ひろお》は葉《よう》の顔を覗《のぞ》きこんだ。朝に比べると、顔色はだいぶよくなっていた。
「先輩《せんぱい》はどうでした?」
「え?」
一瞬《いっしゅん》、裕生は虚《きょ》を衝《つ》かれたが、すぐに「蜥蜴《とかげ》のカゲヌシについて調《しら》べにいく」と言って団地を出たことを思い出した。
「うん……あの時間神社にいたことが分かってる人は、全員カゲヌシとは関係ないみたいだった。でも、神社は自由に人が出入りできるし、契約者がたまたまあそこに見物に来てて、葉に気が付いたんだと思う」
口が重くなるのを我慢《がまん》しながら裕生は言った。今は本当のことを教えるわけにはいかなかった。
「そうですか……」
葉はベランダの外を見た。曇《くも》り空の下に見慣《みな》れた町並みが広がっている。ずっと先の方にぽつんと緑に覆《おお》われた鶴亀山《つるきやま》が見えた。
(明日のこと言わなきゃ)
裕生は自分に言い聞かせた。彼女を明日の祭りに連れていかなければならない。しかし彼が口を開く前に、
「あの、先輩」
おずおずと葉が言った。
「わたしのこと、怒ってますか?」
「えっ?」
裕生は目を瞬《またた》いた。思いも寄らない言葉だった。
「記憶《きおく》がなくなってること、わたしがなかなか話さなかったから」
「怒ってないよ。なんでそんなこと考えるの」
正直なところ、怒りの気持ちがないわけではない――ただしその対象は葉ではなく、彼女に取りついた「黒の彼方《かなた》」であり、呑気《のんき》に構えていた自分自身だった。
「最近、先輩がわたしになにか隠《かく》してる気がして」
裕生ははっと胸を衝かれたが、表情は変えなかった。
「そんなことないよ。葉には隠し事なんかしない」
「本当ですか?」
明日までの辛抱《しんぼう》だと裕生は思った。明日、うまく「黒の彼方」を倒すことができれば、ちゃんと説明して謝《あやま》ることができる。それまでは隠さなければならない。それは自分でも納得《なっとく》したつもりだったのだが。
「……うん。本当だよ」
葉は安心したように両手を胸に当てた。
「よかった。なんだか先輩《せんぱい》が変だったから、どうしても聞きたかったの」
「……」
彼女の笑顔《えがお》を見ていると、例の話を持ちかける勇気は湧《わ》いて来なかった。
「そういえば、今朝《けさ》はごめんなさい」
と、葉《よう》が言った。
「え?」
「わたし、寝てて作らなかったから。おじさんたち、ご飯はどうしたんですか」
「ああ、ぼくが適当に作って食べさせたよ……って、それ午前中も」
言ったと思うけど、という言葉を裕生《ひろお》はぎりぎりのところで呑《の》みこんだ。胸のあたりに冷たいものを押しつけられた気分だった。
(時間がないんだ)
ためらっている暇《ひま》はない。茜《あかね》の話を聞いた限りでは、カゲヌシが消えても記憶《きおく》が戻るわけではない。裕生にできることと言えば、これ以上症状が進まないうちに「黒の彼方《かなた》」を倒すことだけだ。
裕生は覚悟を決めた。
「あのさ、葉。実は話があるんだけど――」
その日の夕方。バイトを終えたみちるは、鳥居《とりい》をくぐって神社の外へ出た。今日で仕事は終わりで、宮司《ぐうじ》の来山《きやま》からバイト代も受け取っている。彼女だけではなく、葉の分も一緒《いっしょ》に貰《もら》っていた。「一応、働いてもらったし、少しだけど彼女にも渡して下さい」と、来山に頼まれたのだった。
みちるは暗い気持ちで考える――多分、明日には葉に会うはずだ。その時に渡せばいいだろう。
神社は鶴亀山《つるきやま》の中腹にあり、鳥居の先はアスファルトのなだらかな坂道になっている。歩道を歩いていくみちるの目に、二台の大型のタンクローリーが列を作って神社に向かって上って来るのが見えた。
轟音《ごうおん》を立てながらすれ違う大型車を、みちるは首をかしげながら見送った。この道の先には鶴亀神社と鶴亀山公園しかないはずだ。どちらもあんな車に関係のある場所とは思えない。どこへ行くのか見届けようと思った時、肩から下《さ》げたバッグの中の携帯が鳴っていることに気づいた。
タンクローリーのことを忘れて、みちるは慌《あわ》てて携帯を出した――裕生の自宅からの電話だった。
「あ、藤牧《ふじまき》?」
つながってすぐに話しかけると、沈黙《らんもく》が流れた。なんだろう、と思っていると、
『……あの、雛咲《ひなさき》です』
妙にくぐもった声が聞こえた。一瞬《いっしゅん》、みちるは唇《くちびる》を噛《か》みしめた。
「ごめんごめん。藤牧《ふじまき》んちの電話番号だったから……体、大丈夫?」
『はい。もう大丈夫です……その、昨日のことは……』
みちるは思わずぎゅっと携帯を握りしめる。あの龍子主《たつこぬし》のことを言っているに違いない。
「うん……まあ、びっくりしたけど、正直あたしもびっくりしてたからよく憶《おぼ》えてないんだよね。藤牧は色々事情があるって言ってたし、あたしもああいうことに係《かか》わりたくないし。とにかく、誰《だれ》にも言わないから安心して」
『……』
その説明で葉《よう》が納得《なっとく》するかどうかは分からなかった。本来の西尾《にしお》みちるなら、目の前で起こった出来事に、こんな風に無関係を装《よそお》うことはないはずである。嘘《うそ》と分かっていても不愉快《ふゆかい》だった。
「あ、用事ってそのこと?」
あまりそれについては話したくなかったので、みちるは話題を変えた。
『いえ……あの、お祭りのことって聞いてますか?』
みちるは大きく息を吸いこんで、ふうっと吐き出した。確《たし》かにすでに聞かされていた。さっき神社を出る前に、佐貫《さぬき》と電話で話したからだ。むろん、天明《てんめい》との駆《か》け引きがどういうものだったのかも聞いている。
「うん、雛咲さんも誘《さそ》って四人でいこうかって話は聞いたけど。結局どうなったの?」
『わたしもいきます』
「あ、そうなんだ」
『それで……あの……』
さっきから葉が声を低くして喋《しゃべ》っていることに、みちるは気づいていた。多分、裕生《ひろお》に隠《かく》れて電話しているのだろう。ますます気が重くなった。
『……浴衣《ゆかた》、着たいんですけど』
恥《は》ずかしそうに葉は言う。やっぱり、とみちるは思った。ひどくやりきれない気持ちだった。彼女はただお祭りにいこうと誘われたと思って、本当に楽しみにしているのだ。
「うん。いいよ。うちの母さんも喜ぶだろうし」
『ありがとうございます。それで、あの……』
「なに?」
『浴衣のこと、藤牧|先輩《せんぱい》には内緒《ないしょ》にしてもらえますか? ……びっくりさせたいから』
一瞬《いっしゅん》、みちるはなにもかもぶちまけたくなり――どうにかその衝動《しょうどう》をぎゅっと抑えこんだ。
「……うん。分かった」
やっとのことでそれだけ言った。
6
鶴亀《つるき》駅近くのビジネスホテルの最上階には、狭《せま》いながらもスイートルームがある。
天明《てんめい》はソファにぐったりと体を沈め、窓の方をぼんやりと眺めていた。とうに日は暮れており、ガラスには外の景色ではなく部屋の中が映っている。天明のタキシードには皺《しわ》が寄り、頬《ほお》には青くひげが伸び始めている。窓の中の彼は普段《ふだん》よりも老《ふ》けて見えた。
彼の隣《となり》には龍子主《たつこぬし》が待っていた。「黒の彼方《かなた》」から受けた全身の傷は、まだ完全には癒《い》えていない。昨日の戦いに司令塔として天明も参加していれば、あのカゲヌシに苦戦することもなかったはずだ。明日は大いに働いてもらわなければならない。そのためにさっきから――。
(……ん?)
天明は首をかしげた。「さっきから」なんなのか、よく分からなかったからだ。
その時、肌身離《はな》さず持っている緊急《きんきゅう》用の携帯が鳴った。通話ボタンを押すと、
『あの、藤牧《ふじまき》です』
「ああ、どうなった?」
ざらざらした龍子主の背中を撫《な》でながら天明は言った。
『大丈夫です。誘《さそ》ったらいくって言いました。明日、ぼくが連れていきます』
なるほど、と天明はぼんやり思った。こいつもこれで死亡確定だ。
「じゃあ明日の晩、鶴亀山公園でやる俺《おれ》のショーを見に来い」
沈黙《ちんもく》が流れた。
『あの、祭りが終わった後にお会いするんじゃないんですか?』
そう言えば、そんな話だったかな。
「いや、直接会うのはもちろん祭りの後だ。あの契約者がどういう状態《じょうたい》なのか、俺の目で確認《かくにん》しておきたいんだ。別に怪《あや》しまれる気遣《きづか》いはない。こっちはステージの上からでもどこにいるかが分かる。お前は公園に自分の彼女を連れて来て、俺のショーを見ていればいい」
『分かりました』
まだまだガキだな、と天明は心の中でつぶやいた。ふと、龍子主の背中を撫でていた手が、丸いくぼみのような傷に触れた。裕生《ひろお》があの黒い液体をかけた跡だった。あの液体の傷だけは治りが遅い。
『それじゃ、また明日』
と、裕生が言った。
「あ、昨日お前が龍子主に使ったあの薬な」
『え?』
裕生が戸惑《とまど》ったように聞きかえして来た。天明はこの少年に親しみを覚えていた――たとえ、自分に嘘《うそ》をついていたとしても。
少しぐらいは役に立つ情報を与えてもいいだろう。
もちろん、明日殺すつもりだが。
「あれは『同族食い』の血だと思うぞ……俺《おれ》の勘《かん》だが」
「……」
彼はなにも言わなかった。おそらく必死に天明《てんめい》の言葉の意図を考えているのだろう。そんなものはありはしないのだが。
「話はそれだけだ。じゃあ」
と言って、天明は一方的に電話を切った。
龍子主《たつこぬし》は天明の隣《となり》でぴくりとも動かない。普段《ふだん》よりもさらに動きが鈍《にぶ》かった。あの傷を負ったせいだと思っていたが、ひょっとするとそれが理由ではないのかもしれない。そのせいで、あんなに――。
天明は眉《まゆ》の間をつまんで考えこんだ。また、思い出せない。一体なにを忘れているのだろう。
その時、ノックの音が聞こえた。龍子主を影《かげ》に戻してからドアを開けると、八尋《やひろ》が立っていた。化粧《けしょう》を完全に落とし、地味なブラウスとロングスカート姿の彼女は、ほとんど昼間とは別人だった。
「あんたにちょっと話があるんだけど」
部屋に入ってくるなり彼女は言った。どうやらかなり腹を立てているらしい。
「どうしたんだ」
後ろ手にドアを閉めながら、天明は尋《たず》ねる。
「どうしたじゃないわよ。あんた、なに考えてんの?」
彼女は天明を睨《にら》みつけた。
「今まで我慢《がまん》してたけど、もう限界。はっきり言わせてもらうわ」
「ほう」
短い答えだったが、無関心な声の調子《ちょうし》に八尋は一瞬《いっしゅん》気圧《けお》されたようだった。そう言えば、天明は彼女に対してこんな態度《たいど》を取ったことはない。「ビジネス」のパートナーとして常に敬意を払い、全幅の信頼を置いて来たからだ。
「あんた、この町でなにをしようとしてるの」
「ビジネスだよ。他《ほか》の土地でやって来たことと同じだ」
「ふざけないでよ!」
八尋はほとんどつかみかからんとする勢いで叫んだ。
「なにがビジネスよ。あんたはこの町に来て以来、今まで稼《かせ》いだ金をせっせとばらまいてるだけじゃない。あんたの個人名義の銀行口座」
八尋はスカートのポケットから通帳を引っ張り出すと、テーブルの上に叩《たた》きつけた。いつのまに、と天明《てんめい》は思った。
「ほとんど残ってないじゃない。一体なにに使ったの?」
「……さすがに仕事が早いな。いつ俺《おれ》のスーツケースから抜いたんだ」
「はぐらかさないでちゃんと答えなさいよ。家一軒買ったってお釣《つ》りが来る金額よ? あんた、前はそろそろこういうヤバい仕事も潮時《しおどき》だって言ってたじゃない。お金もたまって来たから、まともな商売するのにちょうどいい機会だって」
「……」
そんなことを言った記憶《きおく》はなかった。しかし、以前だったらそう言ったかもしれない。少し前から、自分がなにを目的に日々を過ごしてきたのか分からなくなりつつあった。おそらく、龍子主《たつこぬし》に取りつかれてからだろう。
確《たし》かなものは時々やって来る妙にくっきりとした殺意だけだった。誰《だれ》かを殺して龍子主を満足させる――一度そう思い始めると、他《ほか》のことはなにもかもどうでもよくなってしまう。
「この町に来てから、あんたは仕事に興味《きょうみ》を示さなくなった。『ショー』だって機械的に開いてるだけで全然やる気がないじゃない。カモになりそうな『客』は何人もいるのに、あんたは全然手をつけようとしない」
天明は自分の頬《ほお》がゆるむのを感じた――一人は龍子主が「手をつけ」てしまったが。
「最近は『ショー』だってすっぽかすしね。今日の午後は結局どこにいってたの?」
「今日?」
ふと、天明は眉《まゆ》をひそめた。あの藤牧《ふじまき》雄一《ゆういち》のせいで、無惨に終わった午前の『ショー』のことははっきり憶《おぼ》えている。しかし、あの後でどこかへ出かけた記憶など天明にはなかった。
ただ、午後のショーをこなした記憶もなかった。
「後、あたしの方に請求書《せいきゅうしょ》が来てたけど、タンクローリーをドライバーごとレンタルするってどういうこと? 他にもわけの分かんない買い物をたくさんしてるみたいじゃない」
「……」
タンクローリーについてははっきり憶えているが、この女にそれを言うわけにはいかなかった。不意に八尋《やひろ》はタバコをくわえて、瀟洒《しょうしゃ》なデザインのライターで火を点《つ》けた。気持ちを落ち着かせようとする時の彼女の癖《くせ》だった。
「ねえ、本当にあんたはこの町でなにをやってるの?」
再び八尋が問いかけるが、天明は答えない。無意識《むいしき》のうちに、かち、と歯を鳴らしていた。
長い沈黙《ちんもく》が続く――ふっと煙《けむり》を吐き出し、彼女は表情を和らげた。
「ここはあんたにとっての故郷だし、逃げ出すのはすごく辛《つら》かったんでしょう。だからずっと帰ってきたかったのね……それぐらいは分かるわよ」
かちかち、と天明の歯がまた鳴る。彼の思考は霧《きり》がかかったようにぼやけてきていた。
「でも、この町であんたがやってることははっきり言ってメチャクチャよ。だって」
「俺《おれ》はこの町に帰って来たかったんじゃない」
と、天明《てんめい》はうめくように言った。
「この町をメチャクチャにしたかったんだ」
かちかちかち。天明の顎《あご》がまた動いた。八尋《やひろ》の話を聞くのが苦痛でたまらなかった。いっそ、この女も殺して――。
「ねえ天明。この町を出ましょう」
穏《おだ》やかな声で八尋が言った。天明は呆然《ぼうぜん》と彼女を見返した。
「……町を出る?」
生まれて初めてその言葉を聞いたように、天明は口の中で繰り返した。
「使っちゃったお金はもうしょうがないわ。ここを出て、また二人で稼《かせ》ぎましょう。この町にいるのはあんたにとってよくないことよ。なんだか取り返しのつかないことが起こりそうな気がするの」
天明はぎゅっと目を閉じて、まとまらない思考を集中させようと試みた。彼女の勘《かん》や判断は常に間違わない。そう思ったから彼女をパートナーに選《えら》び、そして彼女の提案には常に従って来たのだ。今回もそうするべきではないのだろうか。
「……そうだな」
いつのまにか歯の震《ふる》えは止まっている。そう口に出してみると、どう考えてもそれがいいような気がした。まだやり直しもきくはずだ。人を何人か殺してしまったけれど。
「そうと決まったらすぐに撤収《てっしゅう》の準備よ」
八尋は明るい声で言い、テーブルの上の灰皿にタバコを押しつけた。そして、ベッドルームへ歩いていった。
「荷造りはあたしがしてあげるから。どうせちゃんと片づけてないんでしょう?」
天明は無言でうなずいた。もともと、人を殺したいと思ったことはない。おかしくなったのは全《すべ》て龍子主《たつこぬし》が現れてからだ。八尋を殺してしまう前でよかった、と彼は胸を撫《な》で下ろした。なにしろ、他《ほか》のスタッフは――。
「そう言えば、あたし以外のスタッフはどこにいったの」
ドアを開けかけていた八尋が、天明を振りかえった。
「え?」
それは八尋の言葉と自分の考えの、双方に対する反応だった。
「さっきまで一人ずつ面接してたでしょ。一体、なんだったの。誰《だれ》も自分の部屋へ戻ってないみたいだけど、どこかでなにかさせてるわけ?」
天明はごくりと喉《のど》を鳴らした。かすかに開いたベッドルームのドアの向こうから、濃厚《のうこう》な血の臭《にお》いが漂《ただよ》ってきていた――ようやく、自分がなにをしていたのか、天明は理解した。とうの昔に手遅れになっていたのだ。
彼が八尋《やひろ》の方へ歩き出すのとほとんど同時に、彼女はベッドルームを覗《のぞ》きこんだ。
「八尋」
かすれた声で天明《てんめい》が呼びかけると、彼女はぴくりと体を震《ふる》わせながら振りかえった。顔色は紙のように白くなっていた。
「……どういうこと?」
「龍子主《たつこぬし》の調子《ちょうし》がよくないんだ。それで、みんなを食わせた……お前以外のみんなを」
天明は首を振りながら悲しげにつぶやいた。
「それでも調子が悪い。普段《ふだん》なら丸ごと食うんだが、今日はやけに食い散らかすんだよ」
八尋はへなへなとその場に座りこんだ。天明は覆《おお》い被《かぶ》さるように彼女に自分の顔を近づけ、かちかちかちかち、と歯を鳴らした。
「……あ、あんたがやったの?」
「八尋」
自分がなにをしたいのか、これからなにをしようとしているのか、なにを口にしているのか、もはや天明にははっきり分からなかった。はっきりしているのは、奇妙にくっきりとした何者かの意志――人間を皆殺しにして食い尽くす。彼の中にいる、彼以外のものが持っている欲望だった。
「ここで見たことを、忘れられるか?」
彼女はかくかくと首を縦《たて》に振った。うなずいているようにも、震《ふる》えているようにも見えた。
「じゃあ、命だけは助ける」
八尋《やひろ》がかすかに息をついた瞬間《しゅんかん》、
「龍子主《たつこぬし》」
天明《てんめい》の背後《はいご》に巨大な蜥蜴《とかげ》が現れる。彼はすっと脇《わき》へどいた。ゆっくりと怪物が八尋に向かって前進し始めた。
「……助けて」
「助けるよ。だから、誰《だれ》にも言うなよ」
天明はうわごとのようにつぶやいた。
「お前は殺さないでおいてやるからな」
八尋はかかとで床《ゆか》を蹴《け》りながら、壁《かべ》に沿って後ずさりをした。すぐに部屋の一隅《いちぐう》に追いつめられる。彼女は丸く目を見開いて、すがるように天明を見上げた。
助けるって言ったじゃない、と言っている気がした。
「安心しろ。俺《おれ》はお前を殺さないから。殺さないから」
彼女の眼前に迫った蜥蜴の舌が、冷や汗と涙に濡《ぬ》れた八尋の頬《ほお》をちろりと舐《な》めた。
「お前を殺さない……殺さない…殺さない殺さない殺さない殺さない殺さない」
血走った目を大きく見開きながら、天明は呪文《じゅもん》のように繰《く》り返す。そして、龍子主がかぱっと顎《あご》を開いた。
「……うそつき」
それが八尋の最期の言葉だった。
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第五章 「血祭《けっさい》」
1
『あんまり気にすることねえんじゃねえか』
と、電話の向こうで佐貫《さぬき》だった。
「でも、あいつが意味もなくぼくになにか教えてくれるなんて思えないんだよ」
裕生《ひろお》はベランダの隅にうずくまって、携帯で電話している。小声で話しているのは、部屋にいるはずの葉《よう》に聞かれないためだった。
彼が話しているのは、昨日の晩|天明《てんめい》が言ったことについてだった。裕生が使ったカゲヌシの毒は、「黒の彼方《かなた》」の血から作られたかもしれない、という話だった。
『そうだとしても、俺《おれ》たちのやろうとしてることになんか影響《えいきょう》するわけじゃないだろ』
確《たし》かにその通りだった。あまり気にする必要はないのかもしれない。
『それが本当だとすると、『黒の彼方』っていうのは他《ほか》のカゲヌシとは体の造りとかも全然違うってことになるよな』
「うん。そうだね」
前にアブサロムも「黒の彼方」はカゲヌシの階位からはずれた存在だと言っていた。
『でも、『黒の彼方』の血だったら、お前が会ったっていうレインメイカーだったか? そいつはどうやって手に入れたんだろうな。それも分からないんだろ?』
「……うん」
彼の存在もよく分からない。人間なのかどうかもはっきりしないし、彼の口にした言葉もよく分からなかった。特に「ドッグヘッド」というあの言葉が、裕生には気になっていた。黒の彼方を倒すためには首を切れ、という意味に取れたが、なんとなく他の意味もあるような気がした。
『今のところ、そっちはうまくいってるんだろ?』
と、佐貫が言った。
「うん。多分、気が付かれてないと思う」
『俺の方も例のものはうまくいったから。じゃあ、後でな』
佐貫との電話が終わって、部屋に戻ると葉が立っていた。
「あれっ」
裕生《ひろお》は目を瞠《みは》った。葉《よう》はブラウスとスカートを着て、肩からトートバッグを下《さ》げている。すっかり出かける準備を終えていた。
「どうしたの?」
時計を見るとまだ二時前だった。待ち合わせは駅前に五時だから、いくらなんでも早すぎる。
「わたし、用事があるから先にいきます」
「はあ?」
裕生は思わず聞きかえした。急に出かけると言い出したのも驚《おどろ》きだが、妙に楽しそうに見えるのも気になる。
「待ち合わせの時間にはちゃんと駅にいきますから」
そう言い捨てて、彼女はすたすたと部屋を出ていった。裕生は慌《あわ》てて後を追う。
「ちょっと待って。用事ってどこにいくの?」
「秘密です」
葉は笑顔《えがお》で答えた。
「秘密じゃなくて、万が一のことがあったら……その、行き先ぐらいは言って欲しいんだけど」
葉は玄関先で立ち止まって、しばらく考えこむ様子《ようす》だったが、やがて口を開いた。
「西尾《にしお》さんのうち」
「え? 西尾?」
まったく予想もしていない返事に、裕生はますます混乱した。
「いってきます」
彼女はサンダルをはいて、外へ出ていった。
「うん。雛咲《ひなさき》さん来てるよ。昨日約束したから」
みちるはむすっとした顔で携帯に向かって言った。
『それなら昨日ぼくに教えてくれればよかったのに』
ここはみちるの家。今、葉は和室でこれから着る浴衣《ゆかた》を選《えら》んでいる。裕生から電話がかかってきたことに気づいて、みちるだけ部屋を抜け出したのだった。
「色々言えないこともあるの! しょうがないでしょ」
『え、どういうこと?』
「うるさいなあ。少しは自分で考えなよ。じゃ、あたし忙《いそが》しいから。後でね」
みちるは一方的に電話を切り、はあ、と深いため息をついた。そして、重い足取りで和室へ戻る。ふすまを開けると、母の由紀恵《ゆきえ》が葉と膝《ひざ》をつき合わせて熱心《ねっしん》に話しこんでいるところだった。みちるが戻って来たのにも気づいていない。
「若いからなんでも似合うと思うけど、おばさんのお薦《すす》めは紺地《こんじ》のこの柄《がら》。こっちはちょっと模様《もよう》が細かいから地味すぎるけど、白の花柄のこれもかわいいわね……あ、雛咲さんはどういう感じがいいのかしら? 大人《おとな》っぽくしたい? それともかわいらしくしたい?」
普段《ふだん》の由紀恵《ゆきえ》はおっとりしていて、どちらかというと口数も少ないのだが、今は別人のように目を輝《かがや》かせて喋《しゃべ》り続けている。とにかく、若い娘に着物を着せるのがなによりも好きだった。
「……大人っぽく」
葉《よう》は真顔で答えた。
「そう。じゃあ、浴衣《ゆかた》はこれにして、次は帯を……あら、みちるちゃん」
由紀恵はようやく娘の存在に気づいた。葉も顔を上げる。
「みちるちゃんはどの浴衣にするの? 早く選《えら》びなさい」
来たよ、とみちるは心の中でつぶやいた。
「だから、あたしは着ないって何回言えば分かるのよ」
「なに言ってるのかしら。お友達が着るのにあなたが着ないなんてそんなの許しません。ダメです、絶対。ねえ?」
と、葉に合意を求める。彼女は戸惑《とまど》ったようにうなずいた。
「ほら、雛咲《ひなさき》さんもそんなの一生許さないって……」
「言ってないでしょ。やめてよもう。恥《は》ずかしい」
みちるはお祭りに行く時に浴衣をあまり着たがらない。ただでさえ動きづらいのに、人混みの中を長時間歩かなければならないからだ。去年、鶴亀《つるき》神社の夏祭りにいった時も、いつも通りTシャツとジーンズで出かけ、由紀恵をがっかりさせていた。
それに、今日はただお祭りを見るのが目的ではない。どんな危険な事態《じたい》になるか分からないというのに、動きにくい格好《かっこう》は避《さ》けたかった。
「そんなに着たくないなんて、浴衣になにか恨《うら》みでもあるのかしら……」
由紀恵は浴衣の生地《きじ》を撫《な》でながら、大袈裟《おおげさ》にため息をついた。
「あるわけないでしょ。っていうかなんでそんなに熱心《ねっしん》なわけ? そっちの方がおかしいよ」
「じゃあ、なんで着たくないのかちゃんとお母さんに説明しなさい」
「だって今日は」
みちるははっと口をつぐんだ。葉が不審《ふしん》げにみちるを見上げている。あまり断り続けていると、今日なにかあると感づいてしまうかもしれない。
(ああもう。しょうがない)
「分かった。着るわ」
みちるはしぶしぶ言った。
裕生《ひろお》は待ち合わせの時間より少し早めに加賀見《かがみ》駅に着いた。駅前にはお祭りにいくために待ち合わせをしている人々でごったがえしていた。時折、女の子が華《はな》やかな浴衣姿で通りかかる。なんとなくそれを目で追っていると、
「早いな」
と、声をかけられた。スポーツバッグを肩から下《さ》げた佐貫《さぬき》が立っていた。プールに泳ぎにいった帰りという印象である。
「そっちこそ」
裕生《ひろお》が言うと、佐貫は顔を寄せてにやっと笑った。
「例のもの、できてるぞ」
そう言いながら佐貫はバッグのジッパーを開いた。一番上に二十センチほどの長さの鉄パイプのようなものが三本見える。先端にはビニールホースで作ったらしいキャップがはまっていた。
「これが俺《おれ》の作った対カゲヌシ用の『武器』だ」
と、佐貫は自慢《じまん》げに言った。
「これを使えば、例の『毒』をカゲヌシの体に直接注入できる」
「この筒《つつ》の中に例の『毒』が入ってるの?」
ああ、と佐貫はうなずいた。裕生はパイプのうちの一本を握って、軽く振ってみた。かすかに水音らしきものが聞こえる。昨日、佐貫は裕生から例のビンを受け取って、たった一晩でこれを作ったのだった。
「よくこんなの作れるね」
裕生は感心して言った。予想以上にちゃんとした「武器」のようだった。
「俺が工作部だったの忘れたのか? それに、俺んちには大抵の工具は揃《そろ》ってるからな」
「どうやって使うの?」
佐貫はパイプのキャップを外した。パイプの中に少し半径が小さな別のパイプが入っている。ほんの少し飛び出た先端《せんたん》の部分は斜《なな》めに切り取られており、なんとなく注射針を思わせた。
「この筒の中に入ってる尖《とが》ったパイプ、これが本体だ。この中に例の毒が入ってる。バネの力を使った注射器だと思ってくれればいい。使い方は簡単《かんたん》だ。キャップを外して、この尖ったところをカゲヌシの体に押しつければいい。それがスイッチになって、この本体がカゲヌシの体に突き刺さる。で、同時に本体の中の毒も敵の体に流しこまれる」
裕生はうなずいた。「黒の彼方《かなた》」が、あの龍子主《たつこぬし》に倒された後は、自分たちがこれを使って残ったカゲヌシを倒すのだ。
「全部で三本あるから、俺とお前と西尾《にしお》で一本ずつだな」
佐貫はそう言いながら、ジッパーを元通りに閉じた。
「そういえば、雛咲《ひなさき》さんは? トイレかなんかか?」
「ぼくと一緒《いっしょ》に来なかったんだよ。西尾の家にいったから、西尾と一緒に来るんじゃないかな」
「なんで西尾?」
「さあ……」
その時、浴衣姿《ゆかたすがた》の女の子の二人連れが改札口の方へ向かって来るのが見えた。浴衣を着ている女の子など別に珍《めずら》しくもない。裕生《ひろお》はさして気に留《と》めずに、葉《よう》たちの姿を捜《さが》していた。しかし、二人は改札口に入らずに、裕生たちの前で足を留めた。裕生はそれでもまったく別の方向を見ていたが、
「……藤牧《ふじまき》先輩《せんぱい》」
女の子の一人が口を開いた。
「えっ」
裕生は初めて彼女たちの顔を見た――立っていたのは浴衣を着た葉とみちるだった。
裕生と佐貫《さぬき》は完全に固まっていた。
(そりゃ、驚《おどろ》くよね……)
と、みちるは思った。葉は紺地《こんじ》に大きな花柄《はながら》の浴衣に、あざやかな黄色《きいろ》の帯を合わせている。みちるはえんじ色の浴衣を着て、長い髪の毛をアップにまとめていた。
先に硬直が解《と》けたのは佐貫の方だった。彼はみちるの腕をつかむと、他《ほか》の二人から少し距離《きょり》を置いた。そして、顔を寄せて小声で話しかけて来た。
「なにやってんだよ、お前。それで戦うつもりか?」
「しょうがないでしょ。あたしだって好きで着たんじゃないわよ。着ないわけにはいかなかったの!」
佐貫《さぬき》はやれやれというように首を振り、冷たい目でみちるの全身をじろじろ見た。
「まったく……」
ふと、みちるは自分の浴衣《ゆかた》を見下ろした。無理もないことだとは分かっていたが、ほんの少し彼女は悲しくなった。佐貫に誉《ほ》められようと期待していたつもりはまったくない。それでも、我ながらこの浴衣は似合っていると思う――生ゴミの袋でも眺めるような冷たい目はせめてやめて欲しかった。
葉《よう》たちの方を振りかえると、相変わらず裕生《ひろお》は固まったままだった。あまりにも反応がないので不安になったのか、
「あの……?」
葉はおそるおそる裕生の顔を窺《うかが》った。
(藤牧《ふじまき》、誉めて。そこは誉めてあげて)
みちるはテレパシーでも送るように強く念じた。浴衣とはいえ、初めての着付けは葉にとってかなり大変だったはずだ。それでも裕生はなにも言わない。なにかフォローした方がいいかもしれないと思い始めた時、裕生が微笑《ほほえ》んだ。
「ああびっくりした。最初|誰《だれ》かと思ったよ……すごくよく似合ってるよ」
葉の顔に心の底から嬉《うれ》しそうな笑《え》みが広がった。ああよかった、とみちるはほっと息をつく。自分が誉められたように胸が温かくなった。
「どうしたの、その浴衣」
「西尾《にしお》さんに貸してもらいました」
裕生は葉に向けていたのと同じ笑顔《えがお》でみちるを見た。
「西尾が浴衣着てるとこなんか初めて見た」
と、裕生は言った。
「その浴衣似合ってるね。なんか普段《ふだん》と違う」
(あ……)
みちるはかっと頬《ほお》が熱《あつ》くなるのを感じた。嬉しい気持ちがこみ上げて来るのを留《と》められなかった。
「う、うん。ありがとう」
少し視線《しせん》を逸《そ》らしながらみちるは言った。
「……そろそろいこうぜ」
と、佐貫が言い、他《ほか》の三人もうなずいた。
2
鶴亀《つるき》駅の改札口を抜けた瞬間《しゅんかん》から、人の数が一気に増えた気がした。いつもは閑散としている駅前も、ほとんど周囲の見通しが利《き》かないほど混雑している。
商店街から鶴亀山までの道路の両側は、提灯《ちょうちん》で飾られている。露店《ろてん》の多くは神社の中にあるが、神社までの道路にもところどころに飲み物やお菓子を売る店が並んでいる。人々のほとんどは、最大のイベントである花火大会を見るために神社の方へ歩いていた。
葉《よう》たちも人の流れに沿って進んでいた。佐貫《さぬき》とみちるが並んで前を歩き、その後ろから少し離《はな》れて裕生《ひろお》と葉が歩いていた。
葉はほとんど有頂天《うちょうてん》になっていた。最後に鶴亀祭りに来たのは、彼女が小学生の頃《ころ》だった。父親と手を繋《つな》いで、ほとんど無言でこの道を歩いたのを憶《おぼ》えている。少しひんやりした骨張った手の感触が、彼女の手の中にありありと蘇《よみがえ》った。
ふと、彼女は隣《となり》を歩いている裕生の手を見た。あの時の父親の手に少し似ている気がした。
握ったら怒られるかな、と彼女は思った。
ひょっとすると笑って握りかえしてくれるかもしれない。しかし、そんな大それたことを試す勇気はなかった。
その時、裕生がいる側とは反対の肩が誰《だれ》かに触れた。はきなれない下駄《げた》のせいもあり、葉はふらっとよろめいた。次の瞬間、裕生の手が葉の手首を握っていた。
「だいぶ混雑してきたから」
裕生は真面目《まじめ》な顔で言い、そのまま葉の手首を握ったまま歩いていく。
「……いたいです」
本当は痛くはなかったが、彼女はそう言った。
「あ、ごめん」
慌《あわ》てて放した裕生の手を、彼女はしっかり握り直した。
葉たちは鶴亀神社のふもとまで来ていた。なだらかな坂の上に神社の鳥居《とりい》が見える。鶴亀神社へ通じる大きな道路はこの一本だけだった。ふと、葉は電信柱にくくりつけられている看板に目を留《と》めた。さっきから同じものを何度も見かけるのだが、「皇輝山《おうきざん》天明《てんめい》マジックショー」と大きな字で書かれている。
「……イベントがあるみたいだね」
と、裕生が言った。
「ちょっと見にいってみようか」
葉は彼の顔をまじまじと見る。薄暗《うすぐら》いせいかもしれないが、どことなく陰のある悲しげな顔に見えた。
「その後で神社の方にもいってみようよ。色々お店も出てるし。なんか欲しいものある?」
しかしそれは一瞬《いっしゅん》のことで、すぐに普段《ふだん》の裕生《ひろお》に戻っていた。
「……リンゴあめ」
葉《よう》はそう答えながら、前の方を歩いている佐貫《さぬき》とみちるを見る。二人は親しげに顔を寄せて話をしている。今は佐貫が自分のバッグを開けて、なにかみちるに説明しているようだった。
「おい、手ェ繋《つな》いでるぞ。後ろ」
例の「武器」の説明をしていた佐貫は、にやにやしながらみちるの肘《ひじ》をつついた。
「西尾《にしお》?」
呼びかけると、彼女ははっと我に返ったようだった。
「あ、ごめん。キャップを外して、押しつければいいんでしょ?」
「……」
大丈夫かよ、と思ったが、佐貫はそれ以上なにも言わなかった。
先ほどから佐貫には少し気がかりなことがあった。別に自分たちには関係のないことだと思っていたが――やはり気にかかる。
皇輝山《おうきざん》天明《てんめい》は、なんの目的でこの町に戻って来たのだろう。
「同族食い」である「黒の彼方《かなた》」を倒すためではないことははっきりしているし、誰《だれ》かから金を騙《だま》し取るためでもない。佐貫が調《しら》べた範囲《はんい》では、むしろ天明は気味が悪いほど気前よく金をばらまいていた。
どうして事前に自分のイベントを見に来るよう指定したのかも、考えてみればよく分からない。契約者のなにを確認《かくにん》するつもりなのだろう。ただ、こちらの意図が完全に読まれているとも思えなかった。いや、それどころか天明はこちらがなにを考えているか、あまり関心がないかのように見える。
そんなことなどどうでもよくなるほどの、もっと大事な目的があるかのような。
(まあ、ここまで来たらもうどうしようもないけど)
と、彼は思った。すでに始まったことなのだから。
社務所《しゃむしょ》の一室に設《もう》けられた控《ひか》え室で、皇輝山天明は目を閉じて正座していた。全身黒ずくめのスーツとマントに身を包み、髪もぴたりとなでつけている。一分の隙《すき》もないいでたちだった。
「そろそろですよ」
不意にふすまが開いて、来山《きやま》が声をかけてきた。天明はふと目を開けて、
「すまんな」
と、言いながら立ち上がる。内心、開ける時は声ぐらいかけろと思っていた。膝《ひざ》の上に置いてあった、アンテナのついた小さな機械を慌《あわ》ててマントの中に隠《かく》す。来山は気づいていないようだった。
「どういうショーになるのか、わたしたちも楽しみにしていますよ」
廊下を歩きながら来山《きやま》が言った。それはそうだろう、と天明《てんめい》はひそかにほくそ笑《え》んだ。夏祭りの実行委員会には「簡単《かんたん》なマジックショー」としか説明していなかった。連中に多めの金をばらまいたのは、詳しい説明を避《さ》けるためでもある。
「一応、打ち合わせをしたいと実行委員の方たちがいらしてますけど」
「いや、さっきも言ったが、別に必要ないだろう。音楽も特別な照明も要らない。大して時間もかからないシンプルなショーだからな」
社務所《しゃむしょ》の玄関で靴《くつ》をはくと、天明は弟を振りかえった。
「お前も見に来てくれるのか?」
「ちょっと忙《いそが》しいですが、できるだけ見るつもりです」
「そうか、それはよかった」
かちかち、と天明は笑顔《えがお》で歯を鳴らした。
鶴亀山《つるきやま》公園はもともと町の人々がスポーツを楽しむために作られた場所で、「公園」と言ってもサッカーや野球ができる大きさのグラウンドを金網のフェンスが囲んでいるだけだった。
普段《ふだん》ならバックネットの見えるあたりに、今日は大きなステージが設置されている。グラウンドは大勢の人々でごったがえしているが、「皇輝山《おうきざん》天明ショー」を見に来たわけではなく、その後から始まる花火大会を待っている人たちがほとんどだった。
「……もうちょっとステージに近い方がいいのかな」
と、裕生《ひろお》は言った。四人ははぐれないようひとかたまりになって、グラウンドに足を踏み入れていた。立ち止まっている人の群れをかき分けて前へ進もうとすると、不意に佐貫《さぬき》に肩をつかまれた。
「あのな、裕生」
佐貫は葉《よう》に聞かれないように小声で話しかける。
「あまりステージに近づかない方がいいんじゃねえか」
「どういうこと?」
裕生が尋《たず》ねると、佐貫も首をかしげる。
「俺《おれ》にも分かんねえけど、なんかちょっとこう……イヤな予感みたいなのが」
その時、グラウンドを囲んでいた水銀灯が消えて、代わりにステージを照らすライトが点《つ》いた。暗がりにパイプで組まれた即席のステージが浮かび上がる。なにが始まるのかとグラウンドにいた人々もステージの方を振りかえり始めた。
「……あっ」
不意に裕生たちの背後《はいご》にいた葉が声を上げた。
一瞬《いっしゅん》だったが、間違いなかった――確《たし》かに葉《よう》はカゲヌシの気配《けはい》を感じた。
彼女はあたりを見回した。しかし、これだけの人出でどこに契約者がいるのか、分かるはずがない。
「雛咲《ひなさき》さん?」
隣《となり》にいたみちるが怪訝《けげん》そうな顔をしている。葉は佐貫《さぬき》と話している裕生《ひろお》の腕をつかんで、強引に引《ひ》き離《はな》した。
「なに? どうしたの?」
「……カゲヌシがいます」
と、葉は囁《ささや》いた。一瞬、裕生の顔に驚《おどろ》きとは違う微妙な表情が浮かんだ。
「今すぐ捜《さが》さないと……」
想像するだけで恐ろしくなった。万が一、こんなに人間の多い場所でカゲヌシが現れたら、大勢の犠牲者《ぎせいしゃ》が出るかもしれない。
走り出そうとする葉の腕を裕生がつかんだ。
「……ちょっと待って。本当にカゲヌシだった?」
「本当です。ほんの一瞬だったけど、確かでした」
「そうだとしても、こんな大勢人がいるんじゃ捜しようがないよ」
「でも、確かにいるのに放っておけないです」
当然、うんと言ってくれると思っていた。とにかく捜そうと普段《ふだん》の裕生なら言うはずだった。しかし、それでも彼は動こうとしなかった。
葉は初めて裕生の態度《たいど》に疑問を覚えた。どうしてカゲヌシが現れたことに驚いていないのだろう。まるで現れたのが当然という様子《ようす》だった。そもそも、一昨日《おととい》カゲヌシが現れたのはこの神社である。ここが一番|警戒《けいかい》すべき場所のはずだ。
不意に心臓《しんぞう》がどくんと鳴った。
(どうしてここに連れて来たの)
お祭りにいこうと誘《さそ》われたのがあまりにも嬉《うれ》しくて、今まで頭に浮かばなかったが、考えてみればあまりにも急な話だった。
「……先輩《せんぱい》」
と、おそるおそる葉は呼びかける。胸のあたりが苦しかった。
「なに?」
契約者の行方《ゆくえ》はまったく分からないと言っていた。しかし、もし本当に分からなかったのなら、祭りにいこうなどと言うだろうか。彼女の知っている藤牧《ふじまき》裕生はそんなことを言い出したりしない。カゲヌシを捜す方を優先《ゆうせん》させるはずだ。
(……雛咲葉)
突然、頭の中から「黒の彼方《かなた》」が話しかけて来た。まるでこの瞬間《しゅんかん》を待ちかまえていたかのようだった。
(ようやく気が付きましたね。この少年はあなたを騙《だま》していました。口では嘘《うそ》をつかないと言っていたのに)
葉《よう》の口からかすかにあえぎが洩《も》れた。体ががくがくと震《ふる》え始める。
(あのカゲヌシがここにいることを予《あらかじ》め知っていたのですよ。この少年は敵のカゲヌシと手を結んでいます。一昨日《おととい》も今日も、敵のカゲヌシと手を結んでわたしたちをこの神社におびき出した。後ろにいる二人もグルです)
「……うそ」
(みんなであなたをあざ笑っていた。素直なあなたを騙して、右往左往するのを楽しんでいた)
「ちがう」
(では聞いてごらんなさい。嘘をついたのかどうか)
「どうしたの」
と、裕生《ひろお》が言った。
「……わたしにうそをついたの?」
裕生の表情が凍《こお》りついた。
一瞬だけ恥《は》じるように目を伏せ、すぐに顔を上げた。
「うん。ぼくは葉を騙してたよ」
その後の言葉は聞く勇気がなかった。葉は顔を伏せて、肩がぶつかるのもかまわずに走り去っていった。
ステージの隅に立って、天明《てんめい》はグラウンドを見下ろしている。
暗いグラウンドを満たしている無数の観客《かんきゃく》がぼんやり見えた。グラウンドの奥の方を「黒の彼方」の契約者が横切っていくのも分かった。
(こいつらもみんな死ぬのか)
妙にさっぱりした気持ちだった。公園の下の方に目をやると、鶴亀山《つるきやま》の入り口となる坂道があかあかと提灯《ちょうちん》に照らされていた。
後わずかで「ショー」の開幕だった。
多分、これが最後になるはずだ。
気がつくと葉はフェンスの近くの灌木《かんぼく》の茂《しげ》みに足を踏み入れていた。見晴らしが悪いせいか、あたりには他《ほか》の見物客の姿はない。葉はふと立ち止まった。慣《な》れない下駄《げた》で無理に走ったせいか、足の親指に怪我をしていた。
彼女はすぐそばのコンクリートの四角い標石の上に、力なく座りこむ。
(ぼくは葉《よう》を騙《だま》してた)
葉の目から一筋の涙が流れた。喜んで着飾っている自分がみじめで恥《は》ずかしかった。
「どうしてうそをついたの」
誰《だれ》にともなく彼女はつぶやいた。
(彼はあなたごとわたしを殺すつもりだった。すべてはわたしという「敵」を倒すためです)
「黒の彼方《かなた》」がそれに答えるように言った。
(あなたの記憶《きおく》が冒《おか》されていることが分かって、彼はあなたを救うことを諦《あきら》めました。突然、態度《たいど》が変わったことにあなたも気づいていたはずです)
ふと、頭の片隅に疑問が生まれた。
「でも、わたしを助けるって言ってくれた」
(そうやって彼は自分自身を欺《あざむ》いていました。あなたを手にかけるという罪悪感から逃《のが》れようとしているのです。あなたを助けようとするなら、嘘《うそ》をつく必要はないはずですよ)
彼女は固く目を閉じる。なにが本当でなにが嘘なのか、彼女には分からなかった。頭の中は真っ白だった。
(わたしはいつでもあなたと共にあります。わたしだけがあなたの味方です。もう分かったでしょう? この町を出ていく時です)
「……町を出る?」
(もう人間など信じられません。彼らは嘘をつきます。わたしだけがあなたの唯一《ゆいいつ》の――)
「誰と話してるの」
葉ははっと顔を上げる。みちるが細い枝を払いながら、近づいて来るところだった。走り回ったのか肩で息をして、せっかく結《ゆ》った髪も少しほどけていた。
「来ないで」
自分でも驚《おどろ》くほど冷たい声が出た。みちるは目を見開いて立ち止まる。「黒の彼方」の声が聞こえた。
(この女が全《すべ》ての元凶《げんきょう》です。彼女が藤牧《ふじまき》裕生《ひろお》を唆《そそのか》したのです。あなたさえいなくなれば、彼女には彼が手に入るのですから)
「あたしたち、手分けして捜《さが》してたの。今すぐ、藤牧にも来てもらうから」
みちるはそう言いながら、袂《たもと》から携帯を出した。
「話したくないです」
と、葉は言った。
「西尾《にしお》さんだってわたしに嘘ついてた」
みちるははっと口をつぐんだが、すぐにまた話し始めた。
「それは悪いことしたと思ってる。でも、どうしても言えなかったの。藤牧と話せばきっと分かると思う。ね?」
なだめるような言い方に、葉《よう》はかっとした。
「みんなでわたしのこと笑ってたんでしょう!」
すっとみちるの顔から表情が消えた。携帯を元通りにしまうと、つかつかと葉のそばまで近づいて来た。なんだろう、と思った瞬間《しゅんかん》には、音高く頬《ほお》を叩《たた》かれていた。
痛みよりも驚《おどろ》きで葉は凍《こお》りついた。
「……誰《だれ》が笑ってるの?」
みちるはかすれた低い声で言った。
「藤牧《ふじまき》があんたを笑うの? 一緒《いっしょ》に住んでて、藤牧が楽しそうにしてるところ、最近見たことある?」
葉はうろたえた。記憶《きおく》のことを話してから、裕生《ひろお》はずっと悲しそうな目をしていた――でも、それは本当に自分を助けるためだったのだろうか。
「あんたを助けるって言ったんでしょ」
まるで葉の迷いにシンクロしたように、みちるは言った。
「……でも」
「藤牧がどんな人間か、あんたが一番よく知ってるでしょ!」
こらえ切れなくなったようにみちるは叫んだ。
「あたしなら藤牧を信じるよ!」
その時、ステージの方から男の声がスピーカー越しに流れ始めた。
お集まりの皆さんこんばんは、と、男は言った。わたしが皇輝山《おうきざん》天明《てんめい》です。
「蜥蜴《とかげ》のカゲヌシの契約者はあいつよ。あのステージに立ってる男。神社で掃除をしてる時に見たでしょ」
「え……」
葉《よう》はずっと遠くのステージを見た。確《たし》かに一昨日《おととい》見かけた顔だった。
「藤牧《ふじまき》はあいつと連絡を取った。あんたに取りついている犬を倒すために、あの蜥蜴を利用しようとしてるの」
「……」
(この女の言うことを信用するつもりですか)
呆《あき》れたように「黒の彼方《かなた》」が言った。そこへ灌木《かんぼく》をかき分けながら、裕生《ひろお》がやって来るのが見えた。彼の後ろには佐貫《さぬき》もいる。
「……葉」
と、裕生が呼びかける。穏《おだ》やかで迷いのない声だった。
葉は目を逸《そ》らすことができなくなった。
「ぼくは葉を騙《だま》してた。『黒の彼方』に悟られないようにするために、他《ほか》に方法がなかった」
彼女の頭の中を、みちるの言葉が反響《はんきょう》していた――裕生がどんな人間か、葉が一番よく知っている。
「でも、葉を一人にはしない。必ず助けるって約束した。約束を守るために嘘《うそ》をつくんだ。嫌《いや》だけどそう決めた」
葉は弾《はじ》かれたように立ち上がった。「黒の彼方」が言ったようなことを裕生がするはずがない。頭の中でまだなにか声が聞こえたが、もう葉の耳には入っていなかった。裕生はゆっくりと葉に近づいてくる。裕生がしっかりと彼女の手を握った。一人にしないと誓ってくれたあの晩のように。
「わたし……」
なにか言おうとしたが、胸が詰まってなにも言えなかった。
裕生がなおも口を開こうとした時、突然山のふもとで火柱《ひばしら》が上がった。
3
最初に火の手が上がったのは、鶴亀《つるき》神社へ通じる坂道の途中《とちゅう》だった。ガソリン輸送《ゆそう》のためのタンクローリーが、なんの前触れもなく路面の数メートルほど上に現れ、ずしりと道路に落ちて来た。誰《だれ》一人として下敷《したじ》きにならなかったのは僥倖《ぎょうこう》と言う他《ほか》はない。ちょうど直前の横断歩道で、人の列が寸断されていたおかげだった。
重い地響《じひび》きに振りかえった人々が、その銀色の大きな車輌《しゃりょう》が一体どこから現れたのか首をひねり始めた瞬間《しゅんかん》――唐突《とうとつ》に合金製の屋根が吹《ふ》き飛び、巨大な火柱《ひばしら》がタンクローリーを包んだ。車の両側にいた人々は、それぞれが炎とは反対側に向かって走り出した。
無数の炎のつぶてが四方八方に飛び散っていく。その一部が鶴亀山《つるきやま》の群生した灌木《かんぼく》に燃《も》え移り、たちまち炎の範囲《はんい》は山のふもとを中心に広がっていった。
その頃《ころ》、鶴亀山の裏手にある狭《せま》い山道でも、同様に炎が上がり始めていた。こちらの方は人気《ひとけ》がまったくなかったので、しばらくの間気づく人間もいなかった。
この山から出るための道は今や完全に閉ざされていた。後は無理にでも斜面の林を通り抜けるしかなかったが、互いに細かく絡《から》み合った灌木の間を下るのは容易ではなく、しかも炎と一緒《いっしょ》に発生した煙《けむり》がふもとの林をぐるりと覆《おお》い隠《かく》しつつあった。
事実上、鶴亀山は陸の孤島と化していた。
皇輝山《おうきざん》天明《てんめい》はステージの上に仁王立《におうだ》ちになり、満足げにふもとの炎を見つめていた。あの道路の地下には広い坑道が通っており、そこに昨日のうちにタンクローリーを一台「瞬間《しゅんかん》移動」させておいた。それをたった今、地下から再び地上へ戻した。彼はマントの中で遠隔操作《そうさ》のスイッチを握りしめている。タンクローリーを道路に出現させた後で、タンクに取りつけておいた発火装置に点火したのだった。
龍子主《たつこぬし》はどんなに質量のあるものでも移動させることができる。しかも、能力の発動には回数の制限もない。きわめて役に立つ力だった。
もっとも、制約もいくつかはある。移動させられる範囲は十メートル程度であり、移動前と移動後の場所を天明の頭の中で明確《めいかく》にイメージできなければならなかった――要するに一度は「見た」場所でなければ移動させることはできない。また、能力はあくまで移動のみで、タンクのガソリンに発火させるのも天明自身が行わなければならなかった。
(さて、これからが本番か)
その時、夏祭りの実行委員の一人がステージの上の天明に近づいて来た。
「今、ふもとで火事が起こりました。申《もう》し訳《わけ》ありませんが、ショーは中止にして、今すぐ避難《ひなん》していただきたいのですが」
「避難とおっしゃいましても、あの道路は燃えているようですが」
落ち着き払って天明が言うと、初老の委員は汗を拭《ふ》きながら言った。
「鶴亀山の裏手には山道があります。そちらの方に今誘導《ゆうどう》いたしますので」
天明は笑いをこらえるのに苦労した――その山道の方も今頃《いまごろ》燃えているはずだが。
「ちょっと待って下さい。山道は狭《せま》すぎてそう多くは人が通れませんよね。わたしが逃げるとして、ここにいらっしゃる他《ほか》の方々はどうなりますか」
相手はぽかんと口を開けて天明を見ていた。まったく予想もしていなかった質問らしい。こいつはバカか、と天明《てんめい》は思った。
「ですから、わたしだけ先に逃げるつもりになれないということですよ。せっかくステージにおりますし、火事の誘導《ゆうどう》をお手伝いしましょう」
「……ああ」
ようやく天明の言葉を理解したらしく、男は感動したようだった。
「ありがとうございます。しかし、一体どこへ誘導したものか……」
天明は目の前のグラウンドに向かってさっと手をかざした。
「もちろん、この公園ですよ」
「おい、あれ燃えてるぞ!」
佐貫《きぬき》はフェンスに飛びつきながら叫んだ。裕生《ひろお》たちがそちらを見ると、道路をふさぐように停《と》まっているタンクローリーから巨大な火柱《ひばしら》が上がっていた。坂道のこちら側に残っている人々が、神社へ向かって走って来ていた。
「……ねえ、あんなところにあんな車あったっけ」
と、みちるが言った。
裕生もそれは不思議《ふしぎ》に思っていた。さっき葉《よう》と話している時にも、あの道路は視界に入っていた。あんな風にトレーラーが走ってくれば見えた気がする。それに、あの坂道は今は歩行者天国になっている。あんな風に車が進入できるはずは――。
「……瞬間《しゅんかん》移動」
と、裕生はつぶやいた。ひょっとすると、あれは龍子主《たつこぬし》が「能力」を使ってどこかから移動させたものではないのか。だとしたら、あの火事を起こしたのは天明ということになる。
『ただいま鶴亀山《つるきやま》のふもとで火災が発生しました。この場所から移動するのは大変危険ですので、消火活動が終わるまでここから絶対に動かないようお願いいたします……』
ステージの上では天明が穏《おだ》やかな声で人々に向かって話しかけている。
「……どういうことなんですか」
裕生の隣《となり》で葉がつぶやく。裕生はぎりっと歯がみした。
「あいつが火事を起こしたかもしれない」
その時、佐貫がフェンスから離《はな》れて山の頂《いただき》を見上げた。裕生もつられて見ると、山の反対側からも煙《けむり》が上がっている。
「山のあっちも燃えてるってことは、多分山道に火をつけたんだな。この山から誰《だれ》も出られないぞ」
一同は沈黙《ちんもく》した。天明が犯人だとしたら、一体なにをしようとしているのだろう。
「裕生、どうする?」
「分からない。でも、とにかくステージにいこう。ここにいてもしょうがないし、もしあいつがなにかしようとしたら止めないと」
四人はフェンスに沿って小走りに進み始めた。天明《てんめい》のいるステージは彼らのいる場所から対角線上《たいかくせんじょう》にある。グラウンドを大きく迂回《うかい》することになるが、中央の人混みを突っ切っていくよりも時間はかからないはずだった。
『皆さん、この公園が臨時《りんじ》の避難《ひなん》場所です。火が消えるまでの辛抱ですから、できるだけお子さんや女性はその場に座らせてあげて下さい』
天明はとうとうと喋《しゃべ》り続けていた。的確《てきかく》な指示のせいか、人々の間では今のところ大きな混乱は起きていない。
「……ああやって喋るのがあいつの目的ってことはないよな?」
佐貫《さぬき》の声が背後《はいご》から聞こえ、裕生《ひろお》は黙《だま》ってうなずいた。
『鶴亀山《つるきやま》公園は安全ですので、この放送が聞こえる場所にいらっしゃる方は、公園の方へ移動して下さい』
(みんなをここに集めてるんだ)
と、裕生は思った。現に公園の入り口からは続々と人が入って来ている。
「あのね、藤牧《ふじまき》」
いつのまにか、隣《となり》をみちるが走っていた。走るのに面倒《めんどう》だと思ったのか、下駄《げた》を脱いで両手に持っている。
「昨日、あたしバイトの帰りに、鳥居《とりい》のそばであの大きな車とすれ違ったんだ」
裕生は無言で先を促《うなが》した。
「あれとおんなじ車が、他《ほか》にもう一台あったと思うんだけど」
不意に裕生の中で全《すべ》てが繋《つな》がった――ふもとで起こった火事。公園に集められた人々。どこかへ消えたタンクローリー。
「……大変だ」
彼は立ち止まって振りかえる。
「葉《よう》!」
びくっと彼女は立ち止まった。
「はい」
「『黒の彼方《かなた》』を出して!」
「え、でも……」
葉はためらった。その理由は裕生にも分かる。今、この状態《じょうたい》で「黒の彼方」を出してもこちらの思惑《おもわく》通りに動いてくれるとは限らない。
「このままじゃ皆殺しにされる!」
『だいぶ、人も集まって参りましたね。皆さんは大変素直です。実に素晴《すば》らしい。退屈しのぎと言ってはなんですが、皆さんに三つばかりマジックをお見せしましょう』
天明《てんめい》は上機嫌《じょうきげん》で言う。その言葉に思わず裕生《ひろお》たちもステージを凝視《ぎょうし》した。
『まず一つめ……龍子主《たつこぬし》』
黒ずくめの服を着た天明の隣《となり》に、なんの前触れもなく大きな黒い蜥蜴《とかげ》が現れた。まるで置き物のようにぴくりとも動かない。グラウンドを戸惑《とまど》い気味の沈黙《ちんもく》が包んだ――突然現れた不気味な物体を、どう受け取ったらいいか分からないのだろう。次の瞬間《しゅんかん》、どこかから戸惑い気味の拍手が起こり、やがてさざ波のように広がっていった。
「龍子主を出した! 早く!」
葉《よう》はこくりとうなずいた。その瞬間、裕生の胸にきざしたのは彼女への感謝《かんしゃ》だった。
(ぼくを信じてくれた)
嘘《うそ》をついたというのに。ふつふつと体の奥から勇気が湧《わ》いて来た。その信頼には応《こた》えなければならない。
「……くろのかなた」
と、葉がつぶやいた。
彼女の影《かげ》の中から大きな黒い犬が現れた。裕生ははっと息を呑《の》む。双頭《そうとう》の一つを失った「黒の彼方《かなた》」は一回り縮《ちぢ》んだように弱々しく見えた。
「お前は人間を助ける契約があるんだろう。ぼくをあのステージまで連れていけ」
黒犬はじっとその場に立っていた。「黒の彼方」に支配された葉の方もなにも言わない。裕生はその背中に乗って、最後の首にしがみついた。無惨《むざん》に食いちぎられた「眠り首」の跡に肘《ひじ》が触れた。
唐突《とうとつ》に「黒の彼方」が高く吠《ほ》えた。体の奥底《おくそこ》に響《ひび》くような重い声がグラウンド中に響き渡り、人々はさっと裕生たちを振り返った。
「黒の彼方」は咆哮《ほうこう》とともに人の群れに突っこんでいった。たちまち人々は悲鳴を上げながら左右に割れた。その背後《はいご》に浴衣《ゆかた》のすそをからげた葉が続く。
「わたしはお前を許さない」
むしろ静かな声で葉は言った――「黒の彼方」の言葉だと分かっていたが、葉本人に言われた気がした。
「分かってるよ」
と、裕生は言った。
ふと、天明は異変に気づいた。人を背中に乗せた黒い犬が、見物客を左右に割るようにしてステージに向かって走って来る。それは藤牧《ふじまき》裕生と「黒の彼方」であり、その背後には雛咲《ひなさき》葉もいた。
「おっ」
天明は苦笑《にがわら》いをした。思ったよりもずっと早く、裕生たちは天明の意図を悟ったようだった。どうやら急がねばならないらしい。
「この蜥蜴《とかげ》は龍子主《たつこぬし》。わたしの守り神です。次はもっと大がかりなマジックをお見せしましょう」
天明《てんめい》は龍子主に呼びかける。昨日のうちにタンクローリーをもう一台、このグラウンドの地下の坑道に「移動」させてある。
(出せ)
突然、土まみれのタンクローリーが地面から数メートル上に現れた。ちょうど「黒の彼方《かなた》」の頭上だった。ずん、と音を立てて巨大な車体が落下する。本来なら見物客の上に落としてやるつもりだった。それならば確実《かくじつ》に何人かは死んだはずだ。
しかし、黒犬もその契約者も、タンクローリーが現れた瞬間《しゅんかん》に地面を蹴《け》って横に跳んでいた。うろたえてバランスを崩《くず》しそうになったのは犬の背中に乗った裕生《ひろお》の方だった。
「黒の彼方」はすぐに体勢を立て直してまた走り出した。
みるみるうちに「黒の彼方」がステージに迫ってきた。天明は素早《すばや》く思考を巡《めぐ》らせる――あの傷ついたカゲヌシと戦ったところで負ける気はしないが、まだ自分にはするべきことがある。
黒の彼方は地面を蹴り、ステージへ向かって跳躍《ちょうやく》した。その刹那《せつな》、天明と龍子主はステージから「瞬間移動」で姿を消した。
「あれっ」
ステージに上がった裕生は声を上げた。そこは完全に無人になっていた。見物客も驚《おどろ》いているのか、こちらを指さしながら口々になにか囁《ささや》き合っている。
「下です」
いつのまにか隣《となり》に立っていた葉《よう》――「黒の彼方」が言った。グラウンドを見ると、裕生たちと入れ替わるように、龍子主を従えた天明がにやにや笑いながら彼を見上げていた。
「いつのまに……」
裕生ははっと我に返った。天明は今までよりもタンクローリーに近い場所にいる。彼はマイクに飛びついて叫んだ。
「そこのタンクローリーも燃《も》える! みんな逃げて!」
グラウンドが水を打ったように静まりかえり――そして、名状《めいじょう》しがたい大混乱が起こった。
4
見物客は我先にと公園の出口へ向かって走り出した。あっという間に恐怖が人々を覆《おお》い尽くし、彼らは目的も行き先も持たない群れと化していた。
「神社の境内《けいだい》へ逃げて下さい!」
と、裕生《ひろお》は続けて叫んだ。ふと、携帯が鳴っていることに気づく。佐貫《さぬき》からだった。
『バカ、神社じゃ狭《せま》すぎる! 第一あっちにも人がいるだろ!』
電話の向こうから人々の悲鳴が聞こえる。
「じゃあ、どこへ……」
『鶴亀山《つるきやま》の頂上へもいくように言え!』
裕生は電話を切らずにそのままマイクに向かって叫んだ。
「境内《けいだい》に入り切れなかったら、鶴亀山へ上がって下さい!」
人々は裕生の声を背中に受けながら、一人残らず公園から出ていった。気がつくと後に残っているのは天明《てんめい》と裕生たちだけだった。
ふもとの方から消防車のサイレンが聞こえる。おそらく消火活動が行われているのだろう。今、この公園から火災を発生させるわけにはいかない。消防車は下で足止めされており、ここの火を消せる者は誰《だれ》もいないからだ。
龍子主《たつこぬし》を従えた天明がいつのまにかタンクローリーの上に立っていた。ステージの上の裕生たちに向かって、こっちへ来い、と手招きをしている。
「いかない方がいいと思いますが」
葉《よう》の口を借りた「黒の彼方《かなた》」が言う。
「いくよ。当たり前だろ」
裕生はステージから飛び降りた。地面に降りた途端《とたん》、ガソリンの臭《にお》いが漂《ただよ》って来た。
(うっ)
思わず裕生は顔をしかめた。タンクローリーに一歩近づくたびに、その臭いはさらに濃《こ》くなる。ふと、裕生は地面が完全に液体に覆《おお》われていることに気づいた。一体なにが起こっているのか確《たし》かめるまでもない。天明はタンクに穴を開けて、このグラウンド全体にガソリンをぶちまけている。
車の上にいる天明は自分の両手をマントの中に隠《かく》している。おそらく火を隠し持っているに違いない。その気になれば、天明はこの公園を裕生たちごと火の海に変えられる――。
「……あの蜥蜴《とかげ》の傷」
ふと、背後《はいご》で葉がつぶやいた。
「『黒曜《こくよう》』を使ったのはあなた方ですか」
思いがけない言葉に、裕生は肩越しに「黒の彼方」と葉を振りかえった。
「『黒曜』?」
「わたしたち『同族食い』の血から作られた毒です。あの蜥蜴の体にはそれを使われた跡がある。どこで手に入れたのですか」
裕生は黙《だま》っていた。レインメイカーと会ったことは「黒の彼方」には伏せておきたかった。
「まあいいでしょう。あなた方はわたしをあの蜥蜴に殺させて、『黒曜』であのカゲヌシを始末する、そういうつもりだったのですね」
裕生《ひろお》にはそれにも答えようがなかった。そこまで知られた以上、「黒の彼方《かなた》」を出し抜くのがさらに難《むずか》しくなったことを彼は悟った。ふと、葉《よう》が耳を寄せて、彼の耳元に囁《ささや》いた。
「わたしは『黒の彼方』。他《ほか》のカゲヌシとは違います。それをお忘れなきよう」
裕生の背筋に冷たいものが走った――それでも、彼はどうにか沈黙《ちんもく》を守った。
裕生はタンクローリーから十メートルほど離《はな》れたところで足を止めた。彼の背後《はいご》にいる黒犬と契約者もそこで立ち止まる。
やっと来たな、と天明《てんめい》は思った。
天明はタンクの屋根にしゃがみこんで、裕生に向かってにやりと笑いかけた。
「結局、どっちの味方なんだお前は。俺《おれ》たちか? それともそこの犬か?」
「ぼくは人間の味方だ。カゲヌシに味方なんかしない」
ひゅう、と天明は口笛を吹《ふ》いた。今にも噴《ふ》き出しそうなほど上機嫌《じょうきげん》だった。
「それで俺のショーを邪魔《じゃま》しやがったのか。とんだ嘘《うそ》つきだな、お前は」
「お前はなにがしたいんだよ」
と、裕生は言った。一瞬《いっしゅん》、天明の頭が空白になる。なぜか努力をして答えを捜《さが》さなければならなかった。
「……皆殺しだ」
「なんのために?」
天明《てんめい》の眉《まゆ》がかすかにゆがんだ。
「なんとなくだ」
彼はそう言いながら、マントから右手を出した。手のひらに隠れるほどの大きさしかない、楕円形《だえんけい》の小さなライターを握りしめている――八尋《やひろ》の持っていたものだった。
彼はそれに火を点《つ》けた。
「ふもとのタンクローリーと同じように、こいつにも発火装置が取りつけてある。最初は爆発《ばくはつ》させてやろうと思ったが、お前らがここにいたヤツらを逃《に》がしちまったからな。ちょっと予定変更だ。なるべく広い範囲《はんい》にガソリンをまいて、その後で火を点ける。多分、その方が早く炎も燃《も》え広がるだろう」
「火を点けたってみんな逃げた後じゃないか。お前の計画はもう失敗したんだ」
よく見ると裕生《ひろお》の体は震《ふる》えている。ハッタリだとすぐに分かった。
「また嘘《うそ》か。お前はほんとに俺《おれ》にそっくりだよ。口から出る言葉は全部嘘ばっかりだ……とりあえず俺が火を点ければお前らは死ぬ。それに、ここから出た火が神社やそこらへんの林に燃え移らないと思ってんのか? お前らが頂上に逃がした連中も、煙《けむり》にまかれて死ぬだろうよ……せいぜい、直火焼《じかびや》きか燻製《くんせい》かの違いだけだな」
直火焼きか、燻製か。なんとなく口にした冗談《じょうだん》が無性に可笑《おか》しくなり、天明は背中を震わせてげらげら笑った。
「……違う」
と、裕生が言った。
「なにがだ?」
「ぼくはお前と違う」
「違わねえよ。この嘘つき坊主《ぼうず》――」
裕生の目の怒りの強さに、天明は気圧《けお》された。ふと、彼は数ヶ月前に「治療《ちりょう》」した難病《なんびょう》の少年のことを思い出した。あの少年もこんな怒りに燃えた目で自分を見ていた。
「ぼくは自分に嘘をついてない」
天明の頬《ほお》がかすかに震えた。まるで他人事《ひとごと》のように、自分の心のどこかがうずくのを感じた。
「……なんの話だ?」
「皆殺しはお前のやりたいことなんかじゃない。お前のカゲヌシのやりたいことなんだ! お前は自分に嘘をついてるんだ!」
天明はライターを握りしめたまま凍《こお》りついた。八尋の顔がはっきりと脳裏《のうり》に蘇《よみがえ》る――嘘つき、と言って彼女は死んだ。裕生がぴんと人差し指を天明に向けた。
「今、お前は嬉《うれ》しそうな顔をしてる。ぼくをバカにしてるから笑ってるんじゃない! 心のどこかで、自分の計画を止めてくれそうだからほっとしてるんだ!」
「黙《だま》れ!」
天明《てんめい》は我を忘れて立ち上がった――これもこの小僧の嘘《うそ》だ、と頭の中で声がする。しかし、その声が自分のものなのか、自分の隣《となり》にいるカゲヌシのものなのか判然としなかった。
(俺《おれ》は自分からこいつらをここへ呼んだ)
頭の片隅で別の声が聞こえた。
(どうして、昨日のうちに始末しなかったんだ?)
天明は確《たし》かに混乱していた。ふもとの方ではさっきからずっと消防車のサイレンが聞こえている。そのせいで、グラウンドのあちこちから聞こえる水音に気が付くまで、しばらく時間がかかった。
「な……?」
我に返った天明はグラウンドを見回した。回転するノズルが地下からいくつも顔を出して、大量の水を撒《ま》いている――スプリンクラーが作動していた。
ふと、裕生《ひろお》のいる場所とは別の方向から、かすかな足音が聞こえた。はっと振りかえると、タンクローリーから一番近いノズルの後ろに佐貫《さぬき》がしゃがみこんでいた。彼はノズルの向きを調節《ちょうせつ》し、タンクの屋根にいる天明に向かって水流をぶつけて来た。
手首に重い衝撃《しょうげき》を感じ、火の消えたライターが右手から離《はな》れた。
その瞬間《しゅんかん》、二つのことが同時に起こった。「黒の彼方《かなた》」がタンクローリーの上の龍子主《たつこぬし》に向かって跳躍《ちょうやく》し、裕生が地面に落ちていくライターに向かって走り出した。
天明はすぐに自分のすべきことを悟った――一動作でライターを取り戻し、同時に「黒の彼方」の攻撃《こうげき》を避《さ》ける。
天明は龍子主の背中に手を触れる。むき出しになった「黒の彼方」の牙《きば》が迫ってくる直前、天明たちは姿を消した。
――瞬間移動。
ぴしゃりと音を立てて、天明たちはガソリンの池の中に降り立った。そこがライターの描く放物線《ほうぶつせん》の終点だった。当然、裕生はまだ到着していない。突然現れた天明たちに目を丸くしている。
自分が手を離したライターを受け取ろうと、天明は手を伸ばした。しかしその時、裕生の背後《はいご》から別の影《かげ》が現れて彼を追い抜いた。
現れたのは雛咲《ひなさき》葉《よう》だった。彼女は人間離れした脚力で跳躍し、天明に体当たりをする。彼は水面を一回転しながら滑《すべ》っていった。天明はすぐに体を起こした。次の攻撃が当然予想されたが、葉は今までと同じ場所に立っているだけだった。
(どうして手加減した?)
あれほどの動きが可能なら、致命傷を与えることもできたはずだ。天明は起き上がりながら、濡《ぬ》れて重くなったマントを脱いだ。
八尋《やひろ》のライターが落ちたあたりを見ると、派手《はで》に転んでいる裕生《ひろお》の姿が見えた。少しガソリンが口の中に入ってしまったらしく、膝《ひざ》を突いたまま激《はげ》しく咳《せ》きこんでいる。しかし、手の中にはライターがある。少しでもガソリンから遠ざけるためか、握りしめた手を高く掲げていた。
天明《てんめい》は傍《かたわ》らに移動して来た龍子主《たつこぬし》に触れる。正確《せいかく》な場所さえ分かっていれば、手の中にあるライターを取り戻すのはたやすい。
突然、裕生は天明を振りかえり、険《けわ》しい表情を浮かべた。こちらの意図を察したはずがないと天明は思った――しかし、次の瞬間《しゅんかん》裕生はライターを口の中に入れていた。そして、顎《あご》を上に向けて無理矢理《むりやり》にごくりと喉《のど》を動かした。
「あのガキ……」
さすがの天明も唖然《あぜん》とした。呑《の》みこまれては正確な位置が分からない。しかし、小型のライターとはいえ呑みこむのは死にものぐるいだったようで、裕生は両手で胸を押さえていっそう激しく咳きこんでいる。
このガソリンに火を点《つ》けるのは難《むずか》しくなった――最初の計画通り、タンクローリーの発火装置を作動させれば天明も焼け死んでしまう。どうすべきか頭をめぐらせていると、「黒の彼方《かなた》」が宙を飛んで龍子主に迫って来た。
(あいつを始末するのが先決だな)
天明は「黒の彼方」に向き直った。
裕生は腹筋を震《ふる》わせながら咳を続けている。ガソリンを少し飲みこんでしまったらしく、胃の中のものを全部戻してしまいそうだった。
ふと気が付くと隣《となり》に葉《よう》が立ち、「黒の彼方」の本体と龍子主の戦いをじっと見つめていた。
戦いに参加しないのか、と裕生は言おうとしたが、内緒話《ないしょばなし》のようなかすれた声しか出なかった。どうやら喉を痛めてしまったらしい。
「契約者が近づけばさらに不利です。他《ほか》に方法がない以上、あの状態《じょうたい》で戦うしかありません」
彼女は裕生の言いたいことを察したかのように言った。
裕生もカゲヌシ同士の戦いをなすすべもなく見守るだけだった。
司令塔である天明が参加した今、「黒の彼方」は前回以上に苦戦していた。「眠り首」が失われている以上、接近戦を挑《いど》む他はない。しかし、天明と龍子主は相手の攻撃《こうげき》を細かい瞬間移動によって回避《かいひ》し、「黒の彼方」の死角に移動して攻撃する戦法を取っているようだった。
しかも、龍子主の前に天明が出て来ることがある。そのたびに「黒の彼方」は止まらざるを得なかった。
(自分を盾《たて》に使ってるんだ)
と、裕生は思った――「黒の彼方」が人間を襲《おそ》わないと気づいているのだ。
突然、空中に現れた龍子主《たつこぬし》が落下しながら黒犬の首を狙《ねら》う――かろうじて避《よ》けたものの、背中の部分を蜥蜴《とかげ》の顎《あご》がえぐった。
「……うっ」
葉《よう》の口からうめき声が洩《も》れた。体の向きを変えて黒犬が噛《か》みつこうとした瞬間《しゅんかん》、再び龍子主は消える。
「藤牧《ふじまき》裕生《ひろお》」
いつのまにか葉の顔がすぐそばにあった。「黒の彼方《かなた》」は耳に噛みつかれ、無理矢理《むりやり》に振りほどこうとしているところだった。
「わたしを恨《うら》んでいますか」
耳元から声が聞こえる。裕生は答えなかった。
「わたしは生き残ろうと必死でした。あらゆる他《ほか》の生物と同じように。あなた方と同じように」
苦しげに葉が言った。「黒の彼方」の動きは目に見えて鈍《にぶ》くなっていた。相手から距離《きょり》を置いたところを瞬間移動で引き寄せられ、ぎりぎりのところで相手の歯をかわした。
「なにが言いたいんだよ」
声を絞り出すように裕生はすぐそばの相手に囁《ささや》いた。
「わたしを助けてもらえませんか?」
そう言って、葉はふらりとよろめいた。もう「黒の彼方」に跳躍《ちょうやく》する力も反撃《はんげき》する力も残っていないようだった。かろうじて相手に致命傷を与えられるのを避《よ》けているだけだった。
不意に天明《てんめい》がにやにや笑いながら裕生を見た。これが終わったら次はお前らだ、と言いたげな目つきだった。
「お願《ねが》いです」
裕生は歯を食いしばって目を閉じた。確《たし》かにカゲヌシが人間に取りつくのは、カゲヌシ自身のせいではない。この生物なりに生き残ろうとしているだけだった。
彼は深いため息をついて――それから、首を横に振った。
「駄目《だめ》だよ」
彼はかすれた声でつぶやいた。それだけで喉《のど》がひりひりと痛んだ。
「悪いけど、やっぱり駄目だ」
不意に「黒の彼方」の本体と葉の体が同時にがくりと崩《くず》れ落ちた。裕生は慌《あわ》てて彼女の体を支えるためにしゃがみこむ。
「……裕生」
背後《はいご》から佐貫《さぬき》とみちるが近づいてきた。
「そろそろだな」
と、佐貫が裕生の耳元に囁く。彼は肩から下《さ》げたスポーツバッグのジッパーに手をかけていた。裕生は無言でうなずきながら、「黒の彼方」を凝視《ぎょうし》していた。這《は》いずって逃げようとしている黒犬を、蜥蜴《とかげ》が上から押さえこもうとしているところだった。
裕生《ひろお》が立ち上がりかけた刹那《せつな》、
「……やはりあなたが持っていましたか」
と、葉《よう》の声が聞こえた。今までの苦しげな様子《ようす》が嘘《うそ》のように、彼女の体が跳《は》ね上がった。そして佐貫《さぬき》のバッグから、素早《すばや》く「黒曜《こくよう》」の詰まった例の武器を一本引き抜いた。
「えっ」
三人はなんの反応もできなかった。葉――「黒の彼方《かなた》」は一歩飛びのくと、底冷えのする目で裕生を睨《ね》めつけた。
「あなたが断ったことを決して忘れない。契約が不要になった時、あなたを真っ先に殺す」
裕生の全身が総毛立《そうけだ》った。
そして、葉は「本体」に向かって走り出した。
5
龍子主《たつこぬし》は「黒の彼方」を横倒しにして覆《おお》い被《かぶ》さっていた。
「殺せ」
と、笑顔《えがお》で天明《てんめい》は命じた――そこへ、誰《だれ》かが水音を立てながら一直線《いっちょくせん》に近づいて来た。振り向くと契約者である葉が走って来るところだった。
(イチかバチか「本体」の加勢に来たのか)
虫の息の「黒の彼方」をその場に残して、天明は葉に向き直った――彼女を食えばいずれにせよ戦いは終わる。彼は龍子主をその場に残して走り出した。むろん、相手が自分を攻撃《こうげき》できないことは分かっていた。
走って近づくと見せかけて、天明は瞬間《しゅんかん》移動で一気に距離《きょり》を縮《ちぢ》めた。思った通り、彼女は速度を緩《ゆる》めて天明の体を柔らかく突き飛ばす。しかし、減速した彼女の真上にはすでに龍子主が移動していた。
顎《あご》をいっぱいに開いて落ちてきたカゲヌシを、彼女は体をねじるように回転させてかわそうとする。しかし、わずかに引っかかった下顎の牙《きば》が浴衣《ゆかた》の肩口を引っかけてびりっと裂いた。露《あら》わになった二の腕に鮮血《せんけつ》が流れる。
彼女は帯の背中に差しこんであった、鉄パイプのようなものを引き抜いて逆手《さかて》に握りしめる。回転の勢いをそのまま利用しつつ、龍子主の脇腹《わきばら》にその武器の尖《とが》った先端《せんたん》をずぶりと食いこませた。
びしゃりと音を立てて水面に落下した龍子主は、今まで天明が一度も耳にしたことのない甲高《かんだか》い鳴き声を上げた。それが悲鳴であることを悟った彼は、すぐさま自分のもとへ龍子主を呼び戻す――目の前に現れたカゲヌシの脇腹からそのパイプを引き抜くと、先端が注射器の針のように斜《なな》めに切られているのが見えた。穴の部分からはわずかに黒い液体がしたたっていた。
「やってくれたな」
天明《てんめい》は顔をゆがめた。これの中身は先日|裕生《ひろお》が使った「毒」に違いない。あの連中の誰《だれ》かが、それを仕込んだ武器を作り上げたのだ。
彼は意識《いしき》を集中し、龍子主《たつこぬし》との同調《どうちょう》を高める。彼のカゲヌシは激《はげ》しい苦痛を感じてはいるが、体躯《たいく》の大きさが幸いして、致命傷には至っていなかった。
葉《よう》は距離《きょり》を置いたまま天明たちの様子《ようす》をじっと窺《うかが》っている。彼はその背後《はいご》に瞬時《しゅんじ》に移動する。
「これで終わりか?」
相手が振り向く前に、その小柄な体をがっちりと押さえこんだ。裕生たちがこちらの方へ走って来る。彼らが到着する寸前、天明は葉の体ごと龍子主のそばへ戻った。
「動くな!」
と、天明は叫んだ。少女の白い喉元《のどもと》に、さっき龍子主に刺さっていた武器を突きつけた。裕生たちはしぶしぶ立ち止まった。天明は佐貫《さぬき》が肩から下《さ》げているバッグに目を留《と》めた。他《ほか》の二人はこのような武器が入りそうなものを持っていない。
「いいバッグだな、おい」
次の瞬間、佐貫のバッグは天明の足下《あしもと》に移動していた。裕生がなにか叫ぼうとして、咳《せ》きこんで背中を丸める。その代わりに彼の背中をさすりながら、みちるが叫んだ。
「その子を放しなさいよ!」
天明は彼らの顔に浮かんでいる焦燥《しょうそう》と絶望の色を見て取った。おそらく、もう自分に抵抗する武器も策もないのだろう。
「『同族食い』、この契約者の娘、お前らの武器、全部|俺《おれ》が握っている」
そう言いながら、天明は一抹《いちまつ》の寂《さび》しさのようなものを感じた。心のどこかに、本当にもう終わりなのか、とため息混じりにつぶやく自分がいた。
「そして、お前らの命も俺が握っている。この山にいる人間の命もだ」
天明は三人の顔を順番に見て言った。
「どれから殺して欲しい? 「黒の彼方《かなた》」か、この娘か、お前らか、他の人間どもか……相談《そうだん》して決めてもいいぞ」
しん、と彼らを静寂《せいじゃく》が包みこんだ。消防車のサイレンはいつのまにかやんでいる。ずっと続いていたスプリンクラーの散水がようやく終わり、混ざり合ったガソリンと水が、グラウンドに巨大な池を作っていた。
「相談しないのか?」
天明はかちかち、と歯を鳴らしながら笑った。
「それなら最初は――」
ふと、彼は口をつぐんだ。どこかから自分以外の笑い声が聞こえた気がした。天明は裕生たちの顔を見たが、誰《だれ》も笑っていなかった。ふと、自分の腕の中に抱えた少女が、肩を震《ふる》わせていることに気づく。
顔を覗《のぞ》きこもうとすると、突然彼女は顎《あご》を上げた。唇《くちびる》の端が裂けるほどの笑顔《えがお》に天明《てんめい》は慄然《りつぜん》とした。彼女は目と口を大きく開けて、グラウンド全体に響《ひび》き渡るほどの大きな甲高《かんだか》い声で笑い始めた。
(……葉《よう》?)
裕生《ひろお》はみちるに背中を支えられながら、呆然《ぼうぜん》と彼女を見つめていた。彼女の体を操《あやつ》っているのが「黒の彼方《かなた》」である以上、笑っているのはあの瀕死《ひんし》のカゲヌシということになる。
「黙《だま》れ!」
天明が葉の体を突き飛ばした。彼女はガソリンの混じった水たまりに膝《ひざ》を突いたが、それでも同じ調子《ちょうし》で笑い続けている。
「龍子主《たつこぬし》、『同族食い』から殺《や》れ!」
と、笑い声をかき消すように叫んだ。しかし、蜥蜴《とかげ》のカゲヌシは動かなかった。
「……龍子主?」
「騙《だま》し合いはわたしの勝ちです」
笑い声に混じって、葉の口から言葉が洩《も》れた。
「わたしは他《ほか》のカゲヌシとは違う。知りませんでしたか? だから決して取りこまれない。こちらから取りこむことはあっても。ハハハハ!」
彼女はゆっくりと膝を伸ばして立ち上がり、裕生の方を向いた。
「『黒曜《こくよう》』を持って来てくれて助かりました。しかもわざわざ、それを体内に打ちこむ武器まで作ってくれた!」
龍子主の体がぶるぶると小刻みに震《ふる》えている。その震えは徐々に大きくなり、体の中でなにかが跳《は》ねているかのように見えた。
「わたしの『眠り首』は、体内からの刺激《しげき》に反応して目を覚まします。例えばわたしの血のようなものに! 『黒曜』のようなものに! もうひとつのわたしよ、目を覚ますがいい! もうひとつのわたしの首!」
裕生は大きく目を見開いた。
(ドッグヘッド)
龍子主の震えが限界を突破する。うろこに覆《おお》われた腹が爆発《ばくはつ》するように破れ、四方に飛び散った。黒い肉片とともに、中から丸いものがごろごろと転がり出てきた。
その場にいた全員が息を呑《の》む。それは黒い血にまみれた犬の首だった。龍子主に食われたはずの「眠り首」に間違いない。その目はらんらんと輝《かがや》き、口からはせわしなく白い息が洩れている――生きていた。
(ドッグヘッドに気をつけろ)
裕生《ひろお》はぼんやりと思いかえした。
(このこと、だったんだ)
腹のあたりを押さえながら、天明《てんめい》がゆっくりと仰向《あおむ》けに倒れていった。まるで入れ替わるように、「黒の彼方《かなた》」がよろけながら立ち上がる。その首が天を仰ぎ、勝利の雄叫《おたけ》びを上げた。
6
「黒の彼方」はほんのわずかな時間で龍子主《たつこぬし》の体を食い尽くしてしまった。天明はそのそばに倒れたままだった。「眠り首」は何事もなかったかのように、元の場所に戻っている。
やがて「黒の彼方」が向きを変え、裕生の方へ歩いて来た。錯覚《さっかく》ではないと気づいた時、下腹のあたりに冷たい恐怖を感じた――体の大きさが変わっている。龍子主ほどではないものの、今までと比べて二回りは大きくなっていた。
さっきとはうって変わって、「黒の彼方」の全身には精気が漲《みなぎ》っている。今まで食ったどのカゲヌシよりも、龍子主は多くの力をこの獣《けもの》に与えたようだった。
「あなたに礼を言います、藤牧《ふじまき》裕生!」
さっきと同じ場所に立ったままの葉《よう》が、彼に向かって叫んだ。
「あなたの小賢《こざか》しさが、最後にはわたしの失われた首と、昔のような体を取り戻してくれました」
裕生は葉の方へ一歩足を踏み出した。すると、彼女は一歩背後《はいご》へ飛びのいた。
「そして、三つ目の首もやがて揃《そろ》います」
ぎょっとして「黒の彼方」の肩を見る。「眠り首」の隣《となり》に「司令塔」があり、その横に奇妙な黒い突起が生《は》えていた。太さは人の手首ほどで、先端《せんたん》が丸くふくらんでいる。土中から顔を出したばかりの植物の芽《め》を思わせた。
「それ」は生きていることを主張するかのようにぴくぴくと痙攣《けいれん》していた。
「もう一つ、わたしはあなたに言わなければならないことがあります」
(しまった)
ふと、裕生は自分から離《はな》れている葉を凝視《ぎょうし》した。どうして今まで気がつかなかったのだろう。
(ここにはもう「助ける」人間はいない。それに)
「名を呼ばなければ、この娘《こ》は目を覚まさない。しかし、あなたは喉《のど》を痛めているようですね。それで声が出せるのですか?」
裕生は反射的に葉の名を叫んだ――いや、叫んだつもりだったが、口から洩れたのはかすれたささやき声だけだった。
「……さようなら、藤牧裕生」
馬鹿《ばか》にしきった態度《たいど》で、葉《よう》は裕生《ひろお》にお辞儀《じぎ》をした。
彼は水たまりを蹴り上げながら走り出した。彼女を捕まえなければならない。捕まえて名を呼ばなければならない。
葉の体と「黒の彼方《かなた》」も踵《きびす》を返して走り出した。一人と一匹の背中はグラウンドをまっすぐに横切っていく。やがて水たまりを抜け、乾いた土の上へ出て、グラウンドの外の芝生《しばふ》に足を踏み入れた。その先の金網のフェンスが裕生の目にもぼんやりと見えて来た。
(くそっ)
フェンスは三メートルほどの高さがあり、近くには出入り口もない。普段《ふだん》の葉だったらそこで追いつけるはずだった――「黒の彼方」に操《あやつ》られていなければ。
葉は速度を緩《ゆる》めることなくフェンスに迫っていく。そして、ぐっと膝《ひざ》をかがめて地面を蹴った。彼女の体が金網に沿うように跳《は》ね上がり、上辺の縁《ふち》に片手をついて軽々とフェンスを越えていった。「黒の彼方」もそれに続いた。
(あ……)
裕生の両足がずしりと重くなり、やがて完全に止まった。普通の人間に飛び越せる高さではない。葉と「黒の彼方」は金網の向こう側にすとんと着地した。そして、裕生の方を振りかえった。彼女の顔には勝ち誇ったような笑《え》みが浮かんでいる。
「追いかけっこは終わりですか?」
葉の口から「黒の彼方」の言葉が聞こえた。裕生は肩で息をしながら、相手の顔を見る。これ以上フェンスに近づいても意味がない。闇雲《やみくも》に追うだけでは絶対に捕まらない相手だった。
その時、みちると佐貫《さぬき》が裕生たちに追いついた。
「どこへいくつもりなの?」
みちるも息を切らせつつ、フェンスの向こうの葉に叫んだ。
「あなたには関係のないことです」
「関係あるよ。雛咲《ひなさき》さんを返して!」
葉の口元にくっきりと嘲笑《ちょうしょう》が浮かんだ。
「この娘《こ》がいなくなった方が、あなたにとっては都合《つごう》がいいのではないですか?」
「な、なんの話よ」
みちるはうろたえた声を上げた。彼女の頬《ほお》はかすかに赤くなっている。
「あなたはそこにいる……」
「うるさい!」
尋《たず》ねたのは彼女自身だったが、なぜかみちるは相手の言葉を突然|遮《さえぎ》って、取り乱したように叫んだ。
「そんなことない! それにもし都合がよくても、あたしはそんなこと望まない!」
もう裕生にその会話はほとんど耳に入っていなかった――こちらから葉たちを追うことはできない。だとしたら、
(戻って来させればいい)
裕生《ひろお》はポケットから楕円形《だえんけい》のライターを出した。その場にいた全員が裕生を見る。さっきまで天明《てんめい》の持っていたライターだった――呑《の》みこむふりをしてポケットにしまったものである。いくら小ぶりとはいえ喉《のど》の奥まで流しこむ自信はなく、仕方なく手の中に隠《かく》して天明を「騙《だま》した」のだった。
(絶対使わないと思ったんだけど)
彼は心の中でつぶやいた。
(……ここで使うことになるなんて)
それから、自分のジーンズの裾《すそ》に火を点《つ》ける。芝生《しばふ》が燃《も》えないように注意を払わなければならなかった。ガソリンはこのあたりまで流れては来ていないが、それでも火事の範囲《はんい》をこれ以上広げたくなかった。
ふくらはぎまで炎に包まれるのを確認《かくにん》して、裕生はライターを芝生に放った。
「ちょっと、なにやってんのよ藤牧《ふじまき》!」
慌《あわ》てふためいたように走り寄るみちるを、裕生は無言で押し返した。彼はフェンスの向こう側だけを凝視《ぎょうし》している。ガソリンの混じった水で濡《ぬ》れているせいか、炎の舌はたちまち彼の膝《ひざ》あたりまではい上がった。服が燃えているというのに、体は恐怖で冷たく固まっている。
裕生の額《ひたい》から脂汗が流れ始めた。無理か、と思った時、葉《よう》の顔が怒りと焦燥《しょうそう》でゆがんだ。そして、「黒の彼方《かなた》」がフェンスの向こうから戻ってきた。
「……契約を悪用して欲しくありませんね」
と、葉が言った。
「わたしは確《たし》かに人の命を救わなければならない。しかし、カゲヌシとの戦いに無縁《むえん》な人間まで救わせるつもりですか」
しかし、「黒の彼方」はこちらへ戻って来ている――これもまた契約に含まれているに違いない。目の前の人間が死の危険に晒《さら》された場合、葉と「黒の彼方」との契約は自動的に発動するのだろう。
しかし、葉は相変わらずそこに立っているままだった。彼女はさらに言葉を続けた。
「もっとも、あなた一人を助ける程度なら、この体まで戻る必要はありませんが」
裕生の頭が真っ白になった。足首のあたりがじりじりと熱《ねつ》で焦《こ》げているのが分かる。彼の下半身はすでに炎に包まれている。裕生は歯を食いしばって耐えた。
(……くそ)
結局、なにもかも無駄《むだ》だった。そう思いかけた時、
「じゃ、二人ならいいんだ」
と、みちるが言った。裕生は驚《おどろ》いて彼女の顔を見る。彼女はいつのまにかライターを拾い上げて、浴衣《ゆかた》の片袖《かたそで》にあてがっている。
(え……?)
裕生《ひろお》が反応する前に、彼女は自分の片袖に火を点《つ》けた――浴衣はたちまち燃《も》え始めた。みちるは炎に包まれている右腕をちらりと無関心に見やって、それから葉《よう》の方を向いた。
「これで分かるでしょ?」
彼女は静かな声で呼びかけた。まるで「黒の彼方《かなた》」ではなく、葉本人に向かって話しているかのようだった。
「あたしはそんなこと望まない……あたしはそんな人間じゃないから」
葉の顔が一際《ひときわ》けわしく歪《ゆが》んだ。
しかし次の瞬間《しゅんかん》、彼女の体もフェンスのこちら側へと飛び越えていた。そして「黒の彼方」と肩を並べて、裕生たちの方へ近づいてきた。
7
佐貫《さぬき》は慎重《しんちょう》な足取りでタンクローリーへ近づいていく。裕生とみちるは公園の隅にある水道栓《すいどうせん》のそばで気を失っている。今頃《いまごろ》、意識《いしき》を取り戻した葉が二人を介抱しているはずだ。結局、大した火傷《やけど》を負わずに済んだが、それにしても自分の体に火を点けるというのはムチャクチャだと佐貫《さぬき》は思った。
自分はそこまでできないと思う――いや、それしかないと判断すればやるかもしれないが、なんの迷いもなくあんな風にはとてもやれない。それができる二人に佐貫は素直に感心していた。
(まあでも、あの二人が暴走したら止めないとな。うん)
彼は自分自身にうなずきながら、ふと立ち止まった。すぐ目の前の水面に、皇輝山《おうきざん》天明《てんめい》が仰向《あおむ》けに倒れていた。
彼は目を開けて、ぼんやりと夜空を眺めていた。
「……なにしに来た?」
弱々しくかすれた声で言った。
「いや、警察《けいさつ》がもうすぐ来るみたいなんで。さっき道路も開通したみたいだし」
佐貫はふもとの方をすっと指さしながら言った。消防車のものとは違うサイレンが聞こえる。
「そんなもの放っといても来るだろう。それを言いにわざわざこんな危ないところに戻って来たのか?」
「いや、なんていうか……」
佐貫は一瞬《いっしゅん》目を逸《そ》らして、ガソリンでばりばりになった頭をかいた。
「結局、『皇輝山文書』ってなんだったのかなって」
ぽかんと口を開けて天明は佐貫を見上げる――それから、低い笑い声を上げ始めた。
「まったく、お前らはどいつもこいつも……そんなことが聞きたくて、わざわざ俺《おれ》みたいな悪党のところに戻って来たってのか?」
彼は無言でうなずいた。この事件はともかくも終わった。そうすると、先日から抱えていた好奇心がむくむくと頭をもたげて来た。天明が警察に捕まれば、もう直接話を聞くことはできないだろう。機会は今しかないと思ったのだ。
「……お前はどう思ってた? 『皇輝山文書』のことは」
「存在しないかもしれないって思ってた。あんたが適当にでっち上げたのかもって」
「半分当たりで、半分外れだ」
と、天明はつぶやいた。
「『皇輝山文書』は確《たし》かに存在するし、俺が持ってる。ただ、俺が喋《しゃべ》ってた内容のほとんどはでっち上げだ。はっきり言うと、俺にも読めないんだ」
佐貫は目を瞬《またた》いた。
「……ワケ分かんねえんだけど」
と、彼は素直に言った。
「俺が書いたんじゃないんだよ。俺は四年前に怪我《けが》をして以来、何度も妙な夢を見るようになった。暗い海の中を漂《ただよ》っていて、気が付くとどこかの島へ流れ着くんだ。そして、海岸で身の毛もよだつようなバケモノに出会う。毎晩毎晩、繰り返し同じ内容だった」
ふと、佐貫《さぬき》は既視感《きしかん》を覚えた。つい最近、同じような夢の話をどこかで聞いた――そうだ、と佐貫は思った。裕生《ひろお》が「黒の彼方《かなた》」というカゲヌシの名前の由来を話していた時、似たような夢の話をしていた気がする。
「それを昔からの知り合いに話したら、そいつは一冊の本をくれた。俺《おれ》にはその本を持つ資格があるとか言ってな。中を開いたら、見たこともない文字で書かれてた。まあ、確《たし》かにただのデタラメだったのかもしれないな。俺はそれに『皇輝山《おうきざん》文書』という名前をつけて、ずっと嘘《うそ》をつき続けていた」
天明《てんめい》はスーツのポケットを探ると、佐貫に一本の鍵《かぎ》を差し出した。
「そいつは鶴亀《つるき》駅のコインロッカーの鍵だ。ロッカーの中に『皇輝山文書』が入ってる……お前にやるよ」
「……いいのか?」
「俺は夢から覚めた。もう嘘をつく必要はなくなったんだ」
ふと、天明は目を閉じた。そして、口の中でつぶやいた。
「……八尋《やひろ》」
なにを言っているのか佐貫にはよく分からなかったが、彼はうなずいて鍵を受け取った。裕生たちの様子《ようす》が一段落したら、取りにいこうと思った。
佐貫はポケットに鍵をしまって、天明から離《はな》れようとした――が、足を止めて振りかえった。
「その『皇輝山文書』、あんたが書いたんじゃなかったら、誰《だれ》が書いたんだ?」
沈黙《ちんもく》が流れた。どこかからパトカーのサイレンが、公園の方へ近づいて来ていた。
「お前にも多少はゆかりのある人間だよ」
天明は目を閉じたままで言った。
「雛咲《ひなさき》清史《きよし》……あの雛咲|葉《よう》の父親だ」
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エピローグ
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黒い海がありました。
海のむこうにちいさな島があります。その島には、女の子がすんでいました。
気がついたときから、女の子はずっと一人だったので、名前がありませんでした。
だから、コトバも――
葉《よう》はふと目を開けた。
確認《かくにん》しなくともはっきりと思い出せる文章は、以前に比べるとまた少なくなっている――確実に症状は進んでいた。
団地の以前住んでいた部屋で、彼女は小さなノートを手にしている。藤牧《ふじまき》裕生《ひろお》、と書かれた文字に軽く触れた。
(いつまで一緒《いっしょ》にいられるか、分からない)
彼女は心の中でつぶやいた。
*
「結局、なんにもならなかった……」
隣《となり》のベッドから、裕生の弱々しい声が聞こえた。右腕の包帯を上にして寝転がっていたみちるは、ふと彼の方を振りかえった。
ベッドに起き上がった裕生が、シーツに重《かさ》ねられた自分の両手を見ていた。うつむいた顔の角度といい、憂《うれ》いを帯《お》びた表情といい、まさに初めて出会った時の裕生そっくりで、みちるはつい目を逸《そ》らした――心臓《しんぞう》がどきどきし始めている。
鶴亀山《つるきやま》の事件から一夜明けていた。
火傷《やけど》を負った二人はそのまま入院し、あろうことか大きな病室の隣り合わせのベッドが割り当てられてしまった。病院には鶴亀山での混乱で怪我《けが》を負った人たちが大勢収容されており、病室を男女別にする余裕はなかったのだ。皇輝山《おうきざん》天明《てんめい》は逮捕《たいほ》された。事件の被害がどのようなものなのか、今のところははっきりしていないらしいが、鶴亀山での死者はゼロということだった。
「ぼくがもう少しうまくやっていれば、よかったのかもしれない」
悲しげに裕生が言った。みちるの胸がきゅっと締《し》めつけられる。絶対に早く退院しよう、とみちるは心の底から思った。このポジションで一緒に居続けたら、本気で恋に落ちてしまうかもしれない。
「でも、藤牧がいなかったら、たくさんの人が死んでたよ」
彼は答えなかった。みちるは裕生の顔を窺《うかが》った。あたし少しでも藤牧くんの力になりたい、という中一の頃《ころ》の自分の気持ちが亡霊《ぼうれい》のように蘇《よみがえ》る。今の気持ちと区別ができなくなりそうだった。
「それになんにもならなかったって、あたしたちが仲間になったじゃない……そんなに役に立たないかもしれないけど。あはは」
裕生《ひろお》はみちるの顔を見ながら微笑《ほほえ》んだ。
「そんなことないよ……西尾《にしお》たちにはほんとに感謝《かんしゃ》してる。協力してくれてどうもありがとう」
ごめんそれやめて、とみちるは心の中で悲鳴を上げた。似たような言葉を昔も聞いた記憶《きおく》がある。みちるの頬《ほお》はすっかり熱《あつ》くなっていた。
あの時の裕生は「見かけだけ悲しそうなただのトロい男の子」だった。でも、今は違う気がする。みちるの目にはあの天明《てんめい》と渡り合った時や、自分の体に火を点《つ》けた時の強い裕生の姿が焼きついている。
ひょっとすると、今度もまた彼の態度《たいど》に騙《だま》されているだけなのかもしれない。
(うん、きっとそうだ。今のあたしが藤牧《ふじまき》のこと、本気で好きになるわけないんだし)
どこをどう騙されているのか全然分からないのだが、みちるは強引に自分にそう言い聞かせ、ベッドの上で体を起こした。
「どうしたの?」
「あ、あたし先生に呼ばれてたから。もういくね」
包帯を巻かれた右腕をかばいながらベッドから降りると、彼女はよろけながら病室から出ていった。
*
「……」
裕生は黙《だま》ってみちるの背中を見送った。彼女が医師と会う時間はもっと先だった気もするが、勘違《かんちが》いだったかもしれない。彼はベッドに体を横たえて目を閉じた。ひどく体が重苦しい。両足に負った火傷《やけど》のせいだけではなく、ここ数日で色々なことが起こりすぎた。
彼はみちると佐貫《さぬき》に心から感謝していた。「黒の彼方《かなた》」を殺すことはできなかったが、あの二人がいなかったら天明と戦うこともできなかっただろう。
(それに、レインメイカーにも……)
ふと、裕生はためらった。レインメイカーに本当に感謝すべきなのか、よく分からなかった。確《たし》かに『黒曜《こくよう》』を渡してくれたが、あの男にはあまりにも分からないことが多すぎる。
(どうして『黒曜』を持ってたんだろう)
「黒の彼方」は裕生がどこから『黒曜』を手に入れたのか知りたがっていた。今まで出会った他《ほか》のカゲヌシと同じように、「黒の彼方」もレインメイカーの存在を知らないのだろう。カゲヌシにとっても謎《なぞ》の存在が、本当に人間にとって「味方」なのか――。
「寝てんのか?」
はっと裕生《ひろお》が目を開けると、ベッドのそばに雄一《ゆういち》が立っていた。
「あれ、兄さん。どうしたの」
「どうしたのって見舞《みま》いぐらい来てもおかしくねえだろ。弟が入院してんだからよ」
「そうだけど、忙《いそが》しいんじゃないの」
「んな心配すんな、怪我人《けがにん》はおとなしく寝てろ……って起こしたの俺《おれ》か」
ふう、と雄一は深く息をついた。いつもと比べると声に精彩《せいさい》がない。どことなく疲れているように見えた。
「座ったら?」
裕生はベッドの脇《わき》の椅子《いす》を指さした。しかし、雄一は腕組みしたまま動こうとしない。なにか言いたげに裕生を見下ろしていた。この兄がこんな風にためらうのは珍《めずら》しいことだった。
「……」
裕生は不安になってきた。鶴亀山《つるきやま》公園で天明《てんめい》の起こそうとした火事を止めようとしたことは警察《けいさつ》にも知られているし、父と兄にもそう説明した。もちろんカゲヌシのことは伏せたままだが、そろそろ雄一はなにか感づいているのではないか。
「……お前に聞きたいことがあんだけどよ」
突然、雄一が言った。心臓《しんぞう》の鼓動がとたんに速くなり始めた。
「な、なに?」
「俺、お前に嘘《うそ》をついたことってあったか?」
「は?」
「だから嘘だよ嘘。俺がお前を騙《だま》したことあるかって聞いてんだ」
裕生はしばし考えこんだ。質問にどう答えたらいいかではなく、どうして急にそんな質問をするのかがよく分からない。そもそも、嘘をついているかどうかは本人が一番よく知っているはずだ。
「……自分で言ったこと忘れて、全然違うこと言ったりするけど。わざわざ嘘つこうとしてついたことはないと思う……よ?」
と、裕生は答えた。雄一は顔をしかめた。明らかに不満そうに見えたので、裕生は慌《あわ》てて付け加えた。
「そう。だから、兄さんは嘘つくような人じゃないよ。嘘なんかつかなくても大丈夫な人だし」
ぼくと違って、と裕生は心の中で付け加えた――もしこの兄のようだったら、嘘などつかずに、誰《だれ》も傷つけずに戦えたかもしれない。
「……ちっ」
ふと、雄一が舌打ちをした。ますます苦《にが》い顔になっている。
「……だから相談《そうだん》されねえのか……」
「え?」
思わず裕生《ひろお》は聞きかえしたが、雄一《ゆういち》はひらひらと手を振った。
「いや。それは仕方ねえ。俺《おれ》には俺の道があるしな。だから、お前もお前の道をいけ。そういうこった」
「はあ……」
首をかしげながら裕生が言うと、雄一は深くうなずいて見せた。そして、大股にドアへ向かって歩き出す。
「え、もう帰るの?」
「ん、用事は済んだからな。また来るわ。じゃあな」
雄一は振り向かずにそのまま病室を出ていってしまった。
(なんだったんだろ、今の)
裕生は再び目を閉じて考える。今の短い会話のなにが「用事」だったのだろう。いくら考えても答えは出なかった――いつのまにか、裕生はゆっくりと眠りに落ちていった。
*
トートバッグを提《さ》げて、葉《よう》は病室に足を踏み入れた。
奥から数えて二番目が裕生のベッドで、今は毛布をきちんとかけて眠っている。彼女は足音を忍ばせて近づいていった。隣《となり》はみちるのベッドなのだが、今は外出しているのか姿が見えなかった。
葉は裕生の顔をじっと見おろした。すやすやと寝息を立ててよく眠っていた。目を覚ましてしまうかもしれないが、ちょっと頬《ほお》に触ってみたくなる。
自分が指を伸ばすところを、なんとなく葉は想像した。
指では起きてしまうかもしれない。
それなら、唇《くちびる》――。
葉ははっと口元を押さえてうつむいた。自分が想像しかけたことを、今すぐ誰《だれ》かに謝《あやま》りたい気持ちになる。そんなことを考えるのは、彼女にとって「とてもよくないこと」だった。すぐに心の奥底《おくそこ》に沈めてしまった。
葉はそばにあった椅子《いす》に座り、静かに目を閉じた。裕生が入院して以来、あまり眠ることができない。「黒の彼方《かなた》」を引《ひ》き離《はな》すことに失敗したこと、あのカゲヌシがより強くなってしまったことはすでに聞かされている。そのことを思うと不安が募《つの》った。
今、ベッドのそばでこうして座っていると、懐《なつ》かしく落ち着いた気持ちになった。裕生が入院し始め、彼女の両親が家にいた頃《ころ》――なんの不安も持たなかったあの頃のことを思い出すことができた。
ふと気が付くと、葉《よう》はベッドに顔を伏せていた。
慌《あわ》てて体を起こす――いつのまにか裕生《ひろお》がベッドに半身を起こしていて、彼女を見つめていた。
「おはよう」
と、裕生は微笑《ほほえ》んだ。
「あの、ごめんなさい……寝てました」
「いいよ、そんなの。ぼくだって寝てたんだし。別にもっと寝ててもいいよ」
葉は慌てて首を振った。自分がどんな顔で眠っていたのかと思うと、今すぐここから逃げ出したい気持ちになった。
「……葉」
不意に裕生は真剣な顔で言った。
「ごめん……嘘《うそ》をついて、それでもうまくいかなかった」
再び彼女は首を振った。全部彼女のためにしたことなのだ。裕生が謝《あやま》ることではないことぐらい分かっている。ただ――。
「いつかまた、わたしにうそをつく?」
一瞬《いっしゅん》、裕生の顔がゆがんだ。
「……つくかもしれない。そうするしかなかったら」
答えは聞く前から分かっていた。「黒の彼方《かなた》」を出し抜くには、同時に彼女に嘘をつくしかないのだ。
「……ついて」
と、葉はつぶやいた。
「え?」
「うそ、ついていいです。わたし、大丈夫だから」
裕生は黙《だま》ってうなずく。彼にとってもつらい選択《せんたく》だと、葉にも分かっていた。
「……でも、一つお願いしてもいいですか」
彼は何度かまばたきをした。
「いいよ。なに?」
葉は傍《かたわ》らに置いていたバッグから、小さなノートを出した――「くろのかなた」が書かれたあのノートだった。
「これ……」
裕生は目を瞠《みは》った。
「ごめんなさい。わたしがずっと持ってました」
「ううん。そんなの別にいいよ……そうだったんだ」
裕生《ひろお》はなにも尋《たず》ねなかった。彼が物語を書いた時に比べて、ひどくノートが傷《いた》んでいることにも触れなかった。ただそれを手に取って、懐《なつ》かしそうにページをめくっている。
独《ひと》りぼっちの女の子に出会った男の子は、彼女に言葉を教え、最後に名前を与える。そして二人で舟に乗って旅に出る――そこで物語は途切《とぎ》れていた。
「つづき、書いて下さい」
と、葉《よう》は言った。彼は顔を上げる。
「わたし、そのつづきが読みたい」
それがわたしのねがい。
ずっとその言葉を口にする勇気がなかった。でも、今なら言うことができる。一緒《いっしょ》にいられる時間は、もう残り少ないかもしれないから。
ふと、裕生が手を伸ばして葉の髪に触れた。彼女の淡い色の髪の上を、彼の指先がゆっくりと動いた。
「……分かった。必ず書くよ」
裕生は優《やさ》しい笑顔《えがお》で言った。
[#地付き]〈了〉
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あとがき
長編《ちょうへん》を脱稿《だっこう》するとすぐにベッドに入ります。
毎回、ラストスパートをかけないと間に合わない、いや今度こそかけてもヤバいかもという状態《じょうたい》で書いているので、人間の睡眠《すいみん》サイクルをかなりすっ飛ばしています。体が睡眠を求めているのがはっきり分かるぐらい寝ていません。
書き上げて原稿を送れば仕事は一段落なので(もちろん、リテイクがなければの話)、その睡眠はおそらく神にも許されているはずなんですが、なぜかいつもなかなか眠れません。少し眠っても二、三時間で目が覚《さ》めてしまいます。
絶対に眠ってはいけない締《し》め切《き》り前にはやたらと睡魔《すいま》が襲《おそ》ってくるのに、まったく不思議《ふしぎ》です。まあ、きっと気が昂《たか》ぶっているせいなんでしょう。
で、仕方がないので近所の公園にいってぼんやりと鳩《はと》を見たりしていますが、そこはそこでベビーカーを押しているお母さんたちや飼《か》い犬《いぬ》の散歩をしているお年寄りでいっぱいです。
「どんな角度から眺めてもサラリーマンに見えない、憔悴《しょうすい》しきっているわりに目だけ血走《ちばし》ってる男」というのは平日の昼間の公園にはあまりいないわけで、「この人たちに一体どう映ってるんだろうオレ」とか考え始めると落ち着きません。
……後から考えると別にどうも映ってないと思うんですが。ただの考えすぎです多分。
二〇〇二年の六月にデビューして、気がつくともう十冊目です。
本当にあっという間でした。
どこまでいけるのかは分かりませんが、いけるところまでいきます。
最後になりましたが、謝辞《しゃじ》を。
子育ての合間に、素人《しろうと》まるだしの僕《ぼく》の質問に丁寧《ていねい》に答えてくださった元巫女《みこ》のTさん、ありがとうございました。お世話になりっぱなしの担当の鳥居《とりい》さん、お忙しい中いつも素晴《すば》らしいイラストを書いてくださっている純《すみ》さん、本当にありがとうございます。
そしてこの本を手に取ってくださっている読者の皆さんに心から感謝します。皆さんのおかげでここまで来ました。よろしければ次巻も是非《ぜひ》。
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底本:「シャドウテイカー3 フェイクアウト」メディアワークス 電撃文庫
2005(平成17)年1月25日初版発行
入力:iW
校正:iW
2007年7月22日作成