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イット2
児玉ヒロキ
CONTENTS
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中原の大国ロウラディアには三人の王がいる。
一人目はクロウ=ラク=サライズ。
現在のロウラディアの王の座にある者。
二人目はサーザル=ハイファ。
ロウラディアに根ざすサース教の法王である。
三人目はクロウ=ラク=ウィバーン。
サライズの三番目の息子にして、軍事、政治をともに掌握している。
貪欲《どんよく》な野心家ではあるが、地位に恋々としたところのない不思議な男であった。
そして、ロウラディアの真の王とはウィバーンのことである。
この男の登場で、中原の地図は一変することになった。
群雄割拠していた時代は、大きくうねりながら、一人の梟雄《きょうゆう》の登場とともに変革の時を迎えようとしている。
ウィバーンは人生のうちの大半を戦場で暮らし、定期的に王都に戻った時間のすべてを政務に充てる。
プライベートの時間も一切なく、それどころか休息するときも野外テントか執務室のどちらかであり、ウィバーンの姿を彼自身の部屋で確認した者は側近も含めて皆無であった。
そういう状況は、伴侶の不在という状況を生み出し、齢四十にして後継者が存在しないという深刻な事態をロウラディアにもたらしていた。
二人の兄はウィバーンが起こした政変のさいに死亡しており、サライズはもう年をとり過ぎている。
サーザル=ハイファは野心家であり、ウィバーンの首を狙ってはいるが、自身の思うほどには能力にとぼしく到底ウィバーンの代わりが務まる器ではない。
三つの国を併合し、さらに六つの国を属国とする中原最大の軍事大国ロウラディアは、圧倒的な力を持っているかのように見えて、ウィバーンの命一つにかかっているという実に不安定な場所に立っていると言えた。
もっとも、そのことに気づく者は少なく、気づいたからと言って、すぐにどうこうできるような相手でないことも確かであったろう。
現時点でクロウ=ラク=ウィバーンは嫌になるくらい頑健そのもので、ちょっとやそっとでは死にそうもなかったし、軍務、政務ともに彼以上完璧にこなせる者も存在してはいなかった。
才能だけでも抜きんでた存在であるのに、ウィバーンより多く働く者は世界中のどこを探してもいないであろう。
余人にマネなどできないし、敵対する者にとってこれほどの脅威もまた存在してはいない。
ウィバーンが歴史の表舞台から去る日もいずれはくるであろうが、それはまだずっと先の話となりそうであった。
だが、中原にはまったく新しい風が吹きぬけようとしていた。
彼が通り過ぎた後、辺境にあった二つの国は、まったく新しい一つの国となり、大陸東端でこれまでにない新たな歴史が始まろうとしている。
それをなしたのは一人の少年で、あれから少し月日がたち、今はもう青年と呼ばれてもおかしくはない年齢になった男であった。
名を一斗《いっと》という。
かの国の公式記録にその名はないが、彼がなしたことは「イット」と言う名とともに伝説となり、人々に語り始められていた。
その人となりは、本人の性格が微塵も残らないくらいに脚色されてはいたが。
なんにしても、一斗は今、ロウラディアの領土に足を踏み入れようとしていた。
現在、文句なしに辺境一と名高い剣士イヴァンと、一斗にはどう控えめに見ても勿体《もったい》ないくらいの美女ユウリの二人とともに。
正確に数えるならば、二人と荷物が一つ……というのが適切かもしれない。
風は東より訪れた。
そしてその風は、これからロウラディアを中心として、嵐のごとく吹き荒れることになる。
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ごろごろと鳴り続けているのは、車輪の音である。
時々石を踏んで、がたんと大きな音がする。
他にはぱかぱかと蹄《ひづめ》の音。
馬の足が奏でる、規則正しいぱかぱか音である。
雨風にさらされて、変色した幌《ほろ》。
ひたすら頑丈さだけが取り柄のような馬。
それだけを見れば、十分に牧歌的な光景であり、特に目立つ要素はないと言えた。
もっともそれは、くたびれた軽装のアーマーに身を包んだ、どことなく悲哀を感じさせる戦士が御者台に座り、幌の中から時折踏み潰された蛙の悲鳴のような声が聞こえなければ、という条件がつけばである。
それでもまぁ、ここが周りを畑に囲まれた街道とかいうのならば、それほど目立つこともなかったかもしれない。
あいにくと今いるのはセキハの街の真ん中であり、さすがにロウラディア領内サンザディア自治王国の西の要と表現したくなるくらいに、人の往来が激しかった。
ゆえに、不審さいっぱいに目立つ存在となっていた。
「なぁ、まだ終わんねぇの?」
御者台の上で、背中にたくさんの悲哀を背負った戦士が、前を向いたままそう聞いた。
「待って、もうすぐ終わるから」
馬車の中から、愛らしさの中に苛立《いらだ》ちがいっぱいに詰まった声が聞こえてくる。
直後に悲鳴。
ただし必死で押し殺そうとしているために、奇妙な声になっている。
どういう具合に奇妙かというと、踏み潰された蛙のあげる断末魔の声を連想させる程度に奇妙な声であった。
「悲鳴くらい、素直にあげなさいよ!」
怒声が聞こえる。
美しくて可愛らしい声であるが、怖い。
こういうのを、ドスのきいた声と表現すべきなのかもしれない。
「な、なに言ってんのかな? オレは、悲鳴なんてあげてないよ。……ぷぎゅ!」
だいぶ弱々しい男の声が否定しようと試みている。
「だったら、最後の――ぷぎゅ――って何よ?」
綺麗な声は、さらに苛立ちを増したようだ。
「そ、そら耳じゃないか? ぷぎゅ!」
男の声は、あくまでしらばっくれようとしているみたいだが、耳の聞こえない相手にしか通用しそうもない言い逃れである。
「ふんっ。まぁ、いいわ。もう終わったから……それより」
愛らしい声が低くなる。
うなり声みたいで、とっても怖そうなのは、決して気のせいではないだろう。
「それより?」
ごくりと唾《つば》を飲み込んだ後、いかにも恐々とした男の声が聞こえる。
「二度と、妙な我慢なんてするんじゃないわよ? 今度はお尻の皮が剥《む》けただけだけど、骨折でもしてたらこんなもんじゃすまないんだからね!?」
話しているうちに、明らかにエキサイトしてきたらしく、最後の方はもう怒鳴り声に近い。
御者台の上にいる戦士の男は、集まる視線を避けるように背中を丸めて、聞こえないふりを決め込んでいるようであった。
ところが世の中というのは、そうそううまくいかないようにできている。
自分が関わり合いたくないような事柄というものは、おおむね向こうの方から寄ってくる傾向にある。
「ねぇ、イヴァン! 男っていうのは、鍛えて強くなる生き物だろ? そこんとこ、ユウリに説明してやってよ!」
戦士――イヴァンが御者台の上で、深く深く、人生の悲哀についてそれだけで延々と語れそうなくらい深くため息をついたあと、力なく手綱をゆらして答える。
「まぁそうだな……うんうん……そうだそうだ」
あからさまなまでに、内容のまったくない返答であった。
適当に、その場を乗り切ろうとしているのが、これほどまでにモロバレなのもめずらしい。
「いい加減あきらめたらどうなのよ? 鍛えたりとかするの」
そこでため息一つ。可愛らしさはともかく、イヴァンのそれに負けないくらい深いやつ。
「無駄なだけならまだしも、あんたの場合、確実に害にしかなんないんだから。あたしの細身の大剣《クレイモア》を黙って勝手に持ち出して、ふらふらになるまで振り回したあげく、すっころんでお尻で崖を滑り落ちたなんて……そのままバカの標本にしてしまいたいくらいだわ」
ぽこぽこと、のんびりとゆく馬車の旅は、馬に乗っての旅に比べて、かなり精神的な安息をもたらしたが、イットにとってはあまりうれしくない状況を生み出すことになった。
奇妙な悲鳴だけでも、十分に注目を集めていた。それに、面白そうな会話が付加された。
あちこちからの視線が、そこはかとなく増したような気がするのは、決して気のせいではないだろう。
馬車の中で見えない二人の代わりに、御者台で野ざらしになっているイヴァンが一手にそういった視線を引き受けている。
できれば、目的地に到着する前に、問題の決着をつけてほしいとイヴァンは願い続けていた。
願う以上のことをしないのは、経験則からくる自己保身ゆえである。
下手に口出しすれば、矛先が自分の方に向けられかねない。
あの二人を同時に相手にするくらいなら、百人の敵と切り結んだ方が精神的なダメージは遥かに少ない。
イヴァンは心の底から、真剣にそう思っていた。
だが、人の世の経験則からすると、願い事というのはそうそう簡単には叶わないということが普通である。
ましてや成就のために、なんら手を打たないというのであればなおさらであろう。
「こらっ! ちょっと、何やってんのよ!?」
また、愛らしい怒声がする。
「もちろん、お尻をしまってるんだよ」
なんでもないような、当然といった返答が返ってきた。
「だめよ! まだ、布を当ててないんだから!」
断固たる声が返ってきた。妥協などしそうもない。
「だってほら、ごわごわして、もこもこして気持ち悪いんだってば。それになにより、かっこ悪い!」
対する言い訳は、どう聞いても言い訳になっていない。
「だめよ。あんたの場合怪我したら、すぐに化膿するんだから。だいたいあんたのお尻なんて気にするのは、世界中であたしくらいのものだわ。だから、観念しなさい!」
その後、しばし会話が途切れた。
何度かドタンドタンと馬車の床が音を立てたが、すぐに静かになった。
どうやら終わったらしい。
御者台の上で、イヴァンは小さくため息をつく。
同時に笑顔。
今度のため息は、安堵《あんど》のため息であった。
世の中そうそう悪いことばかりが続くわけではないのである。
そう思ったら、今感じている視線もあまり気にならなくなってきた。
やはり不幸な境遇というものは、人間を強くするのかもしれない。
まぁ、不幸に馴れるというのも、疑問を感じるところではあろうが……。
少し楽しそうに御者台の上で、手綱を握っているイヴァンの隣に、荷台からごそごそと這《は》い出してきた青年が座った。
「いい天気だなぁ、イット」
あえてこれまでの話題には一言も触れることなく、その青年に話しかける。
「この時期この辺りには、めったに雨は降らないからね」
やたらと小さい上に痩せ過ぎで、少年のように見える青年……一斗は、不機嫌さを隠すことなくそう答える。
握った手綱を振って馬のお尻をぺちんと撫でながら、イヴァンはあっさりと話題を変える。
一斗と天気について論議を交わすつもりなど、微塵もない。
第一そんなことしたところで、虚しいばかりではないか。
「で、そろそろ着く頃じゃないか?」
確認するかのように、イヴァンがそう言った。
今馬車に乗って進んでいるこの道は、セキハの繁華街であり、通りの両側にはそれぞれに工夫を凝らした商家が店を構えていた。
王都や自治府があるような都市とは違い、商業の要となる交易都市らしく、店構えは雑多で格式よりも実用性が重んじられる造りになっている。
商売の実用性。
それは派手さであり、客の呼び込みであり、商品をいかに煌《きら》びやかに見せるかという工夫であった。
人の姿も様々で、やはり商人や町人の姿が多いものの、剣を下げた剣士らしき者の姿や、それなりの身分がありそうな貴族風の格好をした者の姿もある。
こういった雑多さは、さすがに交易都市というところだろう。
「うん、そうだね……」
うなずきながら、一斗は目を凝らし始める。
はっきり言って近視なので、ちょっとでも遠くを見るときには目を凝らさないとまともに見えない。
「中央付近の三階建ての白い建物って………あれじゃないかな?」
そう言って、一斗は正面左の建物を指差した。
両側にも当然のように店が建っていたが、どちらと比べても優に倍以上の大きさがある。
「おお、確かにあれみてぇだな。教えてもらったのと一緒だぜ」
イヴァンは手綱を引っぱって、馬車をそちらに誘導する。
「へぇ、あれなんだ。結構でかいわね」
そう言いながら、イヴァンと一斗の間に割り込んできたのは女性。
それも、いつどの角度からどんなふうに見ても、見間違いようのない美しい女性。
彼女とお話しするためならば、男どもは行列を作り何時間も平気で待つのではないだろうか。
ただ本人の方は、いたって自分の美貌《びぼう》に対して無頓着なところがあり、化粧っけは皆無であった。
彼女が本格的なメイクアップ技術を身につけていないのは、多くの男にとっては非常に不幸なことであり、それと同じくらい多くの女にとっては幸運なことであったろう。
もっともメイクなどしていなくても、彼女の美貌の破壊力はいろんな意味で、十分過ぎるものではあったが。
「何言ってんのかなぁ。ぼくと違って、ユウリって自分の屋敷とかもあったんでしょ? でっかいやつ」
でっかいやつと言いながら、一斗は両手を大きく広げて振り回してみせた。
もちろん、嫌味が半分くらいは入っている。
お尻の敵討ちのつもりなのだろうか。
だが、それに対する美しい女性――ユウリの反応は。
「ふっ」
鼻先で笑っただけであった。
この一瞬で、ケリはついた。
完膚なきまでに。
どのみち、もう馬車は白い大きな店の前に着いていた。
イヴァンは店の入り口の前に馬車を止める。
「フェッツ商会……間違いないわね」
立ち並ぶ他のどの店よりも、広々とした入り口。
その上には白地に豪奢な金の文字で“フェッツ商会”とレリーフされた看板が掲げられていた。
「見づらい看板だなぁ……」
その看板を見た一斗が、そう感想を漏らした。
イヴァンやユウリにとってはそうでもなかったから、愚痴もしくは八つ当たりだと取れなくもない。
どちらにしても、付き合ってやる必要はないと判断したイヴァンとユウリの二人は、さっさと馬車から降りる。
「よっとっと……」
妙な掛け声とともに、これ以上はないという蟹股《がにまた》で一斗がそれに続く。
馬車から降りたとたんであった。
店の様子がおかしいことに気づく。
それを証明するかのように、イヴァンとユウリが互いに確認するかのように目で合図を送っている。
「先、こされちゃったか……」
つぶやくようにそう言ったのは、一斗。
「あんた、また何か隠してるんでしょ?」
しっかりと聞きとがめるように、ユウリが一斗の傍に寄ってきて言った。
「まぁ、そんなことより、ユウリは僕と一緒に正面から入って……客のふりをするんだ」
一斗はきれいにすっとぼける。
状況は差し迫っているし、ユウリはこれ以上追及できない。
こういうかわし方は一斗にとってお手のもので、付き合いの長いユウリは、さっさと気持ちを切り替える。
「わかったわ。でも絶対に、あたしの前に出るんじゃないわよ?」
一斗にしっかりと釘を刺しておくことは忘れない。
「で、おりゃあ、どうすりゃいいんだ?」
イヴァンが一斗に指示を仰ぐ。
一斗が指示を出し、イヴァンとユウリの二人はそれにそって行動する。
呼吸をするように、自然にその流れができていた。
「イヴァンは裏手に回って。ぼくからの合図を待って」
イヴァンの体術は図抜けたものだ。
本人だけは認めようとはしないが、もはやそれは非常識の部類に入る。
不意打ちを喰らって、少しでも反応しうる存在は、人間以外も含めてこの世にどのくらいいることだろうか。
「わかってるとは思うけど、警吏が関与してくるような騒動にはしたくない。絶対に死人だけはださないように」
どこの都市にも警吏はいるが、基本的に自分の利益に繋がらないことには関わろうとはしない。
それが、ごく一般的な警吏というものである。
ただし、貴族にまつわる犯罪と殺しだけは別だ。
それだけは絶対に見逃したりはしない。
前者は自分の地位に関わることであったし、後者を見逃せば警吏は警吏たる資格を失う。
「ああ、わかった」
それだけ言うと、イヴァンは散歩でもするような気軽さで建物の裏手に向かって歩いていった。
「ユウリがこの地に屋敷を探している姫君で、僕はその付添人。……じゃ、行こうか」
とんでもなく簡単な打ち合わせを済ませると、一斗はさっさと歩き始めた。
ただし、どう見てもへんてこな歩き方で、特に左足を踏み出すときにカチャンカチャンと妙な音がする。
松葉杖を使う必要はなくなったけれど、それでも歩き始めたら足がおかしいのはすぐにわかってしまう。
ユウリは何も言わずにその後に続き、一斗が扉を開けてくれるのを待った。
三人で訪れるはずだったフェッツ商会とは、交易の仲介業者である。
商品そのものを扱うのではなく売り手と買い手を見つけ、その利益の何パーセントかを仲介料としてもらう。
これまでの商売の形態では、商品そのものを仕入れて、それを行商して歩いていた。
フェッツ商会の場合は、商品の現物を扱うことはない。買い手がいた場合、売り手に話を持ってゆき、そのさい代理人として値段の交渉を行い、より多くの利益が確保できるようにするのだ。
それがそのままフェッツ商会の利益にも繋がる。
扱う商品には制限がないし、在庫を管理する必要もないからすぐにでも店舗を構えることができる。
そのため、中原の各都市に姿を現して間もないが、急速に各都市に店舗を増やしつつあった。
フェッツ商会とは、そういった店舗の一つであって、この建物も最近になって建てられたものである。
つまりこの店を訪れる人間は、ただ単にここに何かしらの品物を買いにくるわけではない。
欲しいものがあるとして、それをより安く買いたい、大量に仕入れる必要がある、あるいはそれを手に入れることが困難な場合など。
つまり、大抵の場合個人を相手にする商売であるとは言いがたい。
そんな所に身支度も整えぬまま、いきなり訪れようというのだ。
ユウリは掛け値なし、とびっきりの美女ではあるが、長い旅を続ける関係上、装備は実用性重視で質のよいものとは言えない。
一斗にいたっては、存在そのものが貧乏くさかった。
客を装うと言ったが、一体どうするつもりなのか、ユウリにはよくわからない。
だが、その件に関しては一斗に丸投げするしかないだろう。
そう考えながら、ユウリは一斗に開けてもらったドアから店の中に入る。
すぐ後から一斗が続いた。
中にいたのは五人。
商人らしき者が二人と、戦士のいでたちをした者が三人である。
かなり使い込まれた感じのする、軽装のアーマーを身にまとった男が二人と女が一人。
三人とも抜刀している。得物は男が幅広の剣《ブロードソード》。女がタウンソード。
上質の商人服を着た男二人は、抜刀した男女二人にそれぞれ、剣を付きつけられている。
残りの一人の男は入り口近くに立っており、入ってくる人間を見張っていた。
そこに、ユウリと一斗が足を踏み入れる。
中にいた全員の注目を集めるが、すぐに反応したのは入り口近くに立っていた男のみである。
抜刀したブロードソードを手に下げたまま、男は二人に近づき言った。
「今は取り込み中だ。出直してこい」
剣こそつきつけることはしなかったが、殺気に満ちている。
ユウリなどは、背中に担ぐように差しているクレイモアに、思わず手が伸びそうになったくらいだ。
「一体どうなすったんです?」
ユウリの背後から、とぼけた様子で顔を覗《のぞ》かせた一斗が、そんな間の抜けた質問をする。
「今、この店は我らの貸し切りになっている」
殺気とともに、断固たる態度を崩そうとはしない。
まあ、この状況で断固たる態度以外をとるというのも、どうかとは思うが。
「えっ? そんな話聞いてませんよ? そりゃ困る、困るなぁ」
一斗はそう言って、大げさな身振りをしてみせながら、さらに中へと進む。
ユウリもそれに合わせるようにして、さらに中に進んだ。
それを見て、入り口近くに立っていた男は、小さく舌打ちをしながらその正面に立ち塞がる。
「お前の都合など関係ない。さっさと帰れ」
ただ手にしているだけであったブロードソードの切っ先を、これ見よがしに二人につきつける。
「あ、あ、あぶないなぁ。そんなことをして、ただで済むと思ってるんですかぁ?」
一斗はこれ見よがしに、大げさに騒ぐ。
いかにも無知な、一般人っぽい。
「うるさい、黙れ!」
苛立ちを隠そうともせず、ブロードソードを構えた男はそう言ったのだが。
「あんた、この方を誰か知っていて、そんなこと言ってるの?」
一斗はあたふたと怯《おび》えた様子で、こそこそとユウリの背中に隠れるようにしてそう言った。
いかにも、状況を把握できない小物が、他者の威を借りているという感じである。
「どこの何様だろうが関係はない。そんなことより、とっとと帰れ」
明らかに苛立った声で、男はそう言った。
ただ、突きつけた剣はまだ下げたままだ。
これ以上面倒なことになるのを避けようとしたのだろう。
だが、その様子を見てすかさず一斗が居丈高に言う。
「この方はなんと、お忍びで来られたセイリアン王国のお姫様だ。あんた、口の利き方には気をつけた方がいいよ? なにしろ身分が違うんだからさぁ」
そのセリフは、本当にみごとな小物っぷりであった。
虎の威を借りて、見境なく威張りちらす極め付きに嫌われるタイプの男。
「ふん、嘘ならもう少しマシな嘘をつくんだな。こんなみすぼらしいアーマーを着て、供も連れずにほっつき歩くお姫様がどこにいるってんだ?」
よっぽどムカついたのだろう、それまで帰れと繰り返していた男は、ついに一斗の話に乗ってきた。
「これだから、身分の卑しい者は困るんだよなぁ。よく見なよ、この気品に溢《あふ》れた美しさ。それにほら、この紋章。これこそセイリアン王国の姫君である証。本来ならあんたのような身分卑しい男風情が、会うことができるようなお方じゃないんだ。このまたとない幸運に感謝することだね」
さらにたたみかけるように、一斗が言う。
上から見下すように。
付け加えるのは、嘲笑のスパイス。
それも、たっぷりと嫌味の乗っているやつだ。
これでむかつかないのは、もうまっとうな人間とは言えないだろう。
そんな感じの嫌味。
それを引き立てるように、調味料が投入される。
「このような下賎《げせん》のやからに、何を言っても無駄というものですよ、イット」
誰よりも高みに立つ者がとる、とても自然な態度。
いたって普通に、相手のことを人とすら見なしていない雰囲気をかもし出している。
生まれついての貴族や王族なら、誰もが自然に身につけている立ち居振る舞いであった。
たとえどんな格好をしていようとも、その態度こそが平民とは違うと示している。
今の状況はどうあれ、元々ユウリは嘘偽りなく本物のお姫様なのだ。
一斗とは違って、生来の気品というものが備わっている。
「失礼いたしました、姫様。足下の虫を相手にするなど、わたくしめの不徳のいたすところ。どうかお許しください」
はっきりとその男のことを、蔑《さげす》みのこもった目で見た後、一斗はユウリに向かって頭を下げてみせる。
この男は、これで何かがぶちキレてしまったようである。
「き、き、きさまあっ!」
手に握った剣を鞘に収めると、いきなり一斗に殴りかかろうとした。
「うひゃあ……」
一斗は思いっきり情けない声を派手に出して、店の奥へと逃げ始める。
キレた男は一斗にそのまま掴《つか》みかかろうとするが、突然いきなり床の上にひっくり返った。
倒れた際に、入り口近くに置いてあった鉢植えをひっくり返す。
床にぶつかる金属製のアーマーと、鉢植の倒れる派手な音が店内に響き渡った。
男は床の上で一瞬何が起きたのか理解できずに、呆然としてしまう。
一斗を追いかけて、自分の横をすり抜けようとした男の足が床に下りる寸前に、ユウリが足を払ったのだ。
男には、一体何が自分の身に起こったのかまるでわからなかった。
その状況を見ていた、二人いる戦士のうちの女の方が、手にしたタウンソードを慎重に構えたまま近寄ってきた。
「見苦しい……失態だな、ザフ」
短く刈り込んだブルネットの髪。瞳の色は青。
よく見ればユウリには及ばぬとしても、一般の基準からすれば十分綺麗な顔立ちと言える。
だが、眉間《みけん》には皺《しわ》が刻まれ、苦虫を噛み潰したような表情では、お世辞にももてそうだとは言えないだろう。
「センテ……」
男はそう呟くように言いながら、ゆっくりと立ち上がる。
一斗を見る目には殺気が込められているが、一応キレるのはやめたようである。
その男の代わりに、センテと呼ばれた女が話しかけてくる。
「あなた方がどこの誰かは知らない。だが、死にたくなければ早々にここから立ち去ってもらおう」
それは、より直接的な脅しであった。
抜き身の剣を突きつけたわけではないが、いつでも手にしたタウンソードで心臓を貫く用意があると、そう思わせるだけの重みを感じさせる。
ザフと呼ばれた男より冷静であり、数段は手ごわそうな相手であった。
「いいのかなぁ? このまま外に出したら、すぐに警吏を呼ぶかもしれないよ?」
そう言ったのは、一斗だった。
それに、センテが答える。
わずかに嘲笑《ちょうしょう》のようなものを浮かべて。
「好きにすればいい。だが忠告しておく。そんなことをすれば、あなたたちが何者であれ、非常に困った立場に立たされることになるだろう」
その言葉は自信に満ちていた。
なぜそんなことになるか、という説明はないが、少し考えれば容易く想像がつくようなことである。
「なるほど、警吏に身内がいるってことなんだね。でも、さ。殺しはまずいんじゃないの?」
いくら身内がいたとしても、殺しともなれば、到底かばいきれるものではない。
「今、騒がなければそれでいい。死んでいれば、当然騒ぐこともできはすまい」
そのことを、センテは歯牙にもかけなかった。
それを聞いて、一斗は笑った。
うれしそうに。
「これでわかった。君たちは、そういう立場にいる者たちだ。それだけ聞けばもう十分。イヴァン、ユウリ。お願い!」
一斗から、それまでのおどおどしていた雰囲気が、一瞬で消え去っていた。
それまでとは、まるで別人のように堂々たる声が、店の中に響き渡った。
同時に一斗は、義足をガシャガシャ鳴らしながら後ろに下がる。
もちろん何度か転びそうになったのは、芝居などではない。
「きさまら、何者だ!?」
手にしたタウンソードを躊躇《ちゅうちょ》なく閃《ひらめ》かせながら、センテが叫ぶように誰何する。
ユウリは剣先を後ろに飛びのきながらかわす。
センテとザフの二人と一斗の間に自分の体が来る位置に、移動したのだ。
それだけではなく、背中に担いでいた己の身長ほどもあるクレイモアは、今ユウリの手の中にあった。
それを確認したセンテは遠慮なく突いてくる。
早い上に正確。アーマーの隙間《すきま》を確実に狙ってくる。
右手からは立ち上がった男がブロードソードを抜き放ち、攻撃に加わろうとしている。
一斗の戦力は、マイナス要因にしかならない。二対一。しかも敵は手だれである。
この状況で勝てる見込みはかなり少ない……。
しかし。
ユウリは動く。
その場に起こったこと。それは旋風。
竜巻のごとく、一瞬で周囲をなぎ払う暴風。
自分の体に巻き込むようにして繰り出されたクレイモアは、二人の剣をまとめて粉々に打ち砕く。
隙と呼べるほどの隙などなかったはずだ。
決して、油断していたというわけでもない。
だが、何もできずに二人の戦士は、自分の手にする得物を失った。
一体なぜ、こんなことになったのかすら、二人は理解できないであろう。
元々乱戦用の剣であり、一対多を想定して作られた剣であるが、こんな真似ができるはずなどない。
一流と呼ばれる剣士ですら、二人の剣を跳ね飛ばすならともかく、打ち砕くというのは不可能だろう。
しかし、それをいとも容易くユウリはやってみせた。
スピードとタイミング、それにクレイモアの特徴を完全に自分のものとしているゆえの技である。
長い間、三人で旅をしてきた。
その間の剣の師であり、訓練の相手となったのはイヴァンであった。
戦場で鍛え上げた戦士は確実に強くなるだろう。
だが、史上最強の相手と常に向かい合って鍛え上げた剣は、それをも軽く凌駕《りょうが》しうるのだ。
二人の剣士の前には、一振りの長大な剣があった。
一見細身の女性には不向きに見えるクレイモアが、使う者の技次第では非力さを補う有効な武器となる。
一体どうして自分たちが、一瞬で武器を打ち砕かれる羽目になったのかは理解できなくとも、目の前のクレイモアの切っ先がそのことを最も能弁に物語っていた。
センテとザフの二人では、ユウリの敵たりえない。
蛇の前に置かれた卵。
それが、一番近い表現だろう。
抵抗など無意味。
気分次第で、ただ飲み込まれるだけの存在。
「姫さんだと? こんな腕を持ってる化け物がよく言うぜ」
吐き捨てるように、ザフが言った次の瞬間。
「グケッ」
ザフの口からは、奇妙な声が吐き出されていた。
ユウリが言葉の代わりに、剣で返事を返したのだ。
平たく言えば、クレイモアの平の部分でゼフの横顔を軽く……とも言いかねる強さで小突いたのである。
「弱い者いじめは感心しねぇなぁ」
そう言いながら、どこかで拾ったらしい木の枝を右手にぶら下げたイヴァンが近づいてくる。おそらく剣の代わりなのだろう。
「あら? 単なる教育的指導ってやつよ。イヴァンと同列に扱われるのは、いささか心外だわ」
ユウリは妥協の余地もないくらい、きっぱりとそう言い切った。
「嫌な言い方だなぁ? その言い方じゃ、まるで俺こそが本物の化け物だって言ってるみたいじゃねぇかよ」
イヴァンはユウリの言葉を、しごく婉曲《えんきょく》に受け取ったみたいだ。
「一言断っておくけど、気のせいなんかじゃないわよ」
ユウリはちゃんと、補足をしておくことも忘れなかった。
なにしろイヴァンとは、長い付き合いなのだ。
「そっちは、うまくやったみたいだね」
虚しすぎる会話を打ち切ったのは、一斗である。
ユウリの動きだけではなく、イヴァンの動きもきちんと追っていた。
もっとも一斗の目には、イヴァンが裏口から普通に歩いて入ってきて、そのまま奥で抜き身の剣を持っていた男の前を横切っただけにしか映らなかったが。
ただ、イヴァンが通り過ぎた後、抜き身の剣を構えていた男は、構えたままの格好で気絶していたことは普通ではなかったが。
「もう一人いたのか……」
驚いた、というよりは寧ろ悔しそうにセンテが言った。
ただでさえ綺麗だけど苦虫を噛み潰したような表情が、さらに不機嫌そうになった。
「さて、今度は君たちが晴れて囚人になったわけだけど、どうしてほしい?」
武器を失って、今度は脅される立場になったセンテとザフの二人に向かって一斗がそう聞いた。
絶対的に優位な立場にある者の質問としては、かなり嫌らしい質問であろう。
ただし、それが本心でなければ。
「尋問した後、警吏に突き出すか、それとも殺すかするつもりだろう? そんなことを聞いてないで、好きにすればいい。ただ言っておくが、たとえ殺されたところで口は割らんぞ」
心底唾棄《だき》すべき相手を見るような視線を一斗に送りながら、センテはそう答える。
だが、それはあまりに一斗という男を甘く見すぎている。
「そんなことはしないよ。もう今更、そうする必要がないからね」
余裕というよりは、本気でどうでもいい、そんな言い方であった。
センテは目を細め、探るように一斗を見る。
「君たちはサーフェレス=ナァ=セズァンに仕えている者たちだろう? ここに来た本当の目的は、明日この都市を訪問することになっている、クロウ=ラク=ウィバーンの正確なスケジュールを調べるためだ。強引に襲ったのは、強盗に見せるかけるため。違う?」
一斗の言葉にセンテとザフの表情が凍りつく。
命を賭しても守りぬくつもりであった秘密。それをいともたやすく暴露された時、人は他にどんな表情をすればいいというのだろう?
「な、なぜ……? なぜそれをキサマが知っている……」
うめくような声だった。
痛恨の思い。
まるで、それを具現化したかのような声。
どんな思いが込められていようとも、一斗は遠慮などするような人間ではない。
その思いを知っていたとしても。
きっちりと、止めを刺す。
「さて、これで推測が推測じゃなくなったわけだ。保証してくれてありがとう」
この瞬間、センテは知った。
真に警戒すべき相手が誰であったのか、ということを。
だがそれは、いささか遅きに失した。
最早言葉も出なかった。
「相変わらずきついだすな」
そう話しかけてきたのは、店の奥から出てきた男であった。
たっぷりと膨らんだ体に、いかにも高そうで仕立てのよい商人の服が似合っている。
「また太ったみたいだね。悪銭が身についているようで何よりだよ」
片手を挙げて、気さくな感じで一斗が答えた。
「まるで、他人事のような発言だすな」
両手を広げ大げさな身振りで、その巨体を揺らしながら男は言った。
「実際、そのとおりだしねカラニフ代表」
一斗が口の端を軽く吊り上げながら、応戦するかのようにそう答える。
「儲けは、きっちり計算して折半にしてるだす。びた一文だって手をつけちゃいない。あたし一人が悪者になるのはごめんだす」
右手を一斗に向かって差し出しながら、その男はそう切り替えした。
「でも、実際に働いているのは君でしょ。誰に遠慮することなんてないでしょう?」
その手を握り返しながら、一斗がそう答える。
「今でこそ、中原のいたるところで営業活動させてもらってるが、元はと言えばすべてあんたはんの発案と計画だす。あたしゃあ、その尻馬に乗っただけに過ぎない。こう見えても分というものは、十分わきまえてるつもりだす」
互いの手を軽く握りながら、話を続ける。
「きっかけを作っただけだよ。ぼくは、ね。でも、それより例の件はうまくいきそう?」
一斗は太った男の肩を軽く叩きながら、店の奥へとさそった。
「もちろんだす。今日明日中には、証書が届くはずだす」
男はそう返事をしながら、一斗とともにこの場を立ち去る。
まったく完全に、センテとザフの二人に対して関心を失ったかのように。
そう思わせた時。
突然、店の奥から大きな声で一斗が二人に向けて言葉をかける。
「そうそう、忘れるところだった。君らはすべてウィバーンの思惑どおりに動いているよ。あんまり都合よく利用されないように、気をつけるんだね」
それが二人に話しかけた最後の言葉であった。
太った男と二人、一斗は店の奥の部屋へと姿を消した。
「ま、こんなとこだな」
一斗が消えた方を見ながら、イヴァンが言った。
口調としてはどうでもいい感じだ。
それに反応するかのように、自失状態にあったセンテが口にした言葉。
「……どうすれば……どうすればいい?」
無論、それはイヴァンに向かって言った言葉ではない。
何も考えずに、本当にどうすればいいのかわからなくなってしまった者の発する、力の抜け切った言葉である。
それだけでなく、センテの顔つきが変わっていた。
まるで憑《つ》き物が落ちたかのように、その表情が一変していたのだ。
呆《ほう》けたような顔ではあるが、眉間に皺のよった不機嫌そうな顔は、見る者を不快にさせるより、彼女が本来持っている美貌に気づかせてくれる。
もっとも、そのことを本人が望んでいるのかとなると、話は別だが。
「帰れば?」
あっさり過ぎるほどあっさりとそう言ったのは、ユウリであった。
突き放したような言い方、と言い表すのが一番適当だろう。
「えっ?」
一瞬、何を言っているのかわからない、といった感じでセンテがユウリを見返す。
それを見て、明らかに苛立った様子で、ユウリはもう一度言い直す。
「用は済んだんでしょ? だったら、とっとと自分の巣に帰りなさいよ」
その言葉に、センテは何か理解できないことを聞いたかのように、しばしユウリの際立って美しい顔を見つめる。
そして、ようやく口にした言葉は。
「すべて、知られていたなんて……。あの男に、利用されていたなんて……。セズァン様に、なんとご報告すればいいか……」
やはり、気の抜け切った呆けたものであった。
無論、そんなことにユウリは斟酌《しんしゃく》などしない。
「そのまま言えばいいじゃない。自分達は、いいようにウィバーンの掌の上で踊らされていただけですって」
きっちりと、事実を指摘しただけなのだが……。
それにしても、容赦というものがない。
「そ、そんなことはできない……。できるはずがない……。我々は……セズァン様は、これに、すべてを賭けていたのだ……」
ユウリに言われても、センテの言葉に力が戻ることはなかった。
「だからって、いつまでもここでこうしていたって、しょうがないでしょう?」
馴れた様子で、手にしていた長大なクレイモアを背中の鞘に戻しながらユウリがそう言った。
もちろん、その言葉はセンテのことを慮ってのことでないことは明らかである。
剣を仕舞ってフリーになった右手を伸ばし、指をビシッと突きつけて宣言する。
「はっきり言って、迷惑なのよ! あなたのようなタイプの女は、かならずイットのことを好きになるわ。イットのお尻の心配をするのは、世界中であたし一人だけで十分なのよ!」
それを聞いていたイヴァンは、思わず背中を向けて頭を掻《か》く。
ここで、この場面で、それを言うかなぁ……と思いながら。
無論、口に出さないだけの賢明さは持っていた。
そんなことをしたら、怒りの矛先はイヴァンに向けられることになるだろう。
しかも、センテと違ってイヴァンはどこかに逃げ出してしまうわけにはいかないのだ。
「えっ? お尻って……一体なんの話……?」
だが、センテはそういう部分に関しては、とことん鈍いらしい。
何を言われたのか、気づいてはいなかった。
だが、彼女の相棒ははっきりと呆れたような顔をしている。
「センテ……行こうぜ。確かにこうしていてもしかたない。今後どうするかは、みんなで話し合って決めるしかないだろう」
センテの横に寄って来て、ザフがそう言った。
折れた剣を、センテはきつく握り締めたままだった。
その手から、もぎ取るように剣の残骸を抜き取り、力ずくでその体を引っ張りあげる。
「カダフも連れていかなくちゃならねぇ。おまえも手伝え!」
どうにか立ち上がったセンテの肩をゆすりながら、明らかに苛立った様子でザフが言う。
すると。
「あっ? ああ、そうだな……帰らなくちゃ……」
まだふらふらとしながらも、奥の方に向かってセンテは歩き始める。
「ちっ……」
短く舌打ちをして、ザフがその後を追った。
奥まで行くと、二人がかりで気絶している男の体を抱え、ザフの背中に乗せた。
三人は、入り口の方に戻ってくる。
そして、ユウリの目の前を通り過ぎようとしたときであった。
背中にでかい荷物を担いだザフが、ユウリに話しかけてくる。
「あんたのお姫様の演技、けっこう真に迫ってたぜ。すっかり騙《だま》されちまったよ」
その言葉に、ユウリはすぐさま訂正を入れる。
「演技なんかじゃないわよ! 本物よ、ほ・ん・も・の!」
その言葉に、ザフはニッと笑いながら一言。
「そういうことにしとくさ。じゃあ、な」
それだけ言い残し、もう後を振り返ることもせずに店から出て行った。
その後ろ姿を、ユウリは不快さいっぱいに睨《にら》み付けた後、急にイヴァンの方を向いた。
ユウリの視線を正面から受けたイヴァンは、思わずのけぞってしまう。
「なによ、その反応!」
条件反射だったとは言え、今のユウリに理屈は通じそうもない。
イヴァンの野性が、そのことを本能的に察知した。
「あーーー……すまん」
とりあえず、頭を下げる。
もちろん、イヴァンにだって理屈はなかった。
危険から身を守る術は、生き物なら自然に身につけているものである。
それを見て、とりあえずユウリは腹の虫が治まってきたのだろう。
別なことを聞いてきた。
「で、イットがあの部屋から出てくるのを待つ? それとも、あたし達も行ってみる?」
すると、イヴァンは速攻で答える。
「ユウリはイットと一緒の方がいいんじゃね? おりゃあ、また何かあると困るからな。ここにいるよ」
イヴァンにしては、明確で適切な答えであった。
本心では危険な生き物を、一斗に押し付けようとしたのだ……ということは無論内緒だ。
「……そうね。そうすることにするわ」
そう言って、ユウリはあっさりとうなずいて、奥の部屋へと向かった。
その瞬間、誰にも知られないように、イヴァンが胸を撫で下ろしたことも……もちろん内緒である。
「じゃあ、出場枠はうまく確保できたわけだね」
ユウリが部屋に入ると、一斗がそう話しかける所であった。
「ええ、言われたとおり、男女それぞれの枠、一名ずつ」
でっぷりとしたお腹を揺らすように、カラニフが答える。
「今度の大会は、どのくらいの規模になりそう?」
やたらと豪勢な革張りのソファの手前に、ちょこんと腰を下ろした一斗が楽しそうにそう尋ねた。
その姿を見て、ユウリは豪華な物と一斗の組み合わせは、とことん似合わないなと内心思う。
まぁ、そこもまたユウリにとっては好きな部分ではあるのだけど。
「そうだすなぁ。うちも含めて、大分煽《あお》りましただすから。出場者は五百十名だすが、王都を訪れる人間の数は百万人規模になるかもしれんだすな」
テーブルを挟んで、一斗と向かい合った位置にある豪奢《ごうしゃ》なソファに、深々とその巨体を沈めたカラニフが答えを返す。
一斗とは対照的なまでに、豪華さが似合う男であった。
ユウリは、横から割って入るように、その会話に参加する。
「一体何の話?」
そのとき、一斗はユウリが入ってきたことにやっと気づいたらしく、顔を向けて答える。
「今度フィールザールで開かれる、武闘大会のことだよ」
その話なら、ユウリも知っている。
フィールザールとはロウラディアの王都であり、ひと月後に、中原《ちゅうげん》中から募った腕に覚えのある猛者達を集め強さを競う。
主催者はあのクロウ=ラク=ウィバーンであり、優勝者には彼の直属の部下として連隊長の地位が約束されている。
その地位は伯爵クラスの貴族に匹敵し、当然所領も拝領されることになる。
しかも、そこらのチンケな国ではなく、中原随一の強国ロウラディアでの話である。
とんでもない栄誉と財産が、同時に転がりこんでくるのだ。
その大会に出場するために、一年前から領内と属国すべてにおいて予選会が実施され、どこに行こうと――ロウラディア以外の国においてすらも――巷《ちまた》ではその話題で持ちきりであったのだ。
知らない方がどうかしている。
なお、予選会に出場した剣士は、数万人に上ると言われていて、その中から勝ち残るのは、たったの五百名のみ。
この五百名の中に入ることができた人間が、どれほどの猛者であるのかということは、推して知るべしである。
ちなみに、その中の五十名は女子枠となっており、これに優勝した者は現王クロウ=ラク=サライズの后であり、ウィバーンの義理の母となるクロウ=ラク=シセス直属の警護にあたることになる。
むろんそれは貴族待遇であり、子爵として遇されることになる。
しかし男子の部と比べれば、明らかに劣る扱いであり、大会に花を添える程度にとらえているのだと考えた方がよいだろう。
元々この大会からして、武辺の国であるロウラディアの威信を知らしめるためでもあるのだ。
この大会には、ロウラディアの名だたる剣士も出場する。
戦場において、万夫に匹敵すると呼ばれた英雄も、その名を連ねているのだ。
その中では、女子の部の扱いがいかに小さくなっても、仕方がないと言える。
ユウリからしてみれば、むしろ女子の部が開催されるということすらも、驚くべきことであった。
どう考えてみても、盛り上がる要素に欠けるし、ウィバーンの真意が見えてこない。
でも、今はそんなことより大切なことがあった。
「気のせいかしら? なんだか、出場枠がどうとか聞こえたような気がしたのだけど」
ユウリもイヴァンも、予選大会には出場していない。
本大会においては、一応シード枠は用意されている。
だがそれはロウラディアをはじめ、戦場において際立った実績をあげた武将のための枠である。
男子の場合、本大会はシード組十名と予選組四百五十名、計四百六十名で頂点を目指して闘うことになる。
女子の場合は、シード枠そのものが存在しない。
中原ではまったく無名のイヴァンやユウリが、本戦に出場できるはずがないのである。
「あはは、気のせいのはずなんかであるわけないじゃん」
ひじょーに楽しそうに、一斗が答えてくれた。
微妙にムカツク言い方なのは、このさい置いておくとして、ユウリには絶対に確認しなければならないことがあった。
「まぁ、イヴァンは本物の化け物だからいいとして。まさか、その大会に、あたしにも出場しろと?」
イヴァンが聞いていたら、苦情の一つも言いたくなるようなセリフの後、ユウリは最大の懸案事項について質問する。
「もちろん」
短く一斗が答える。
「もちろんって……。あたしの意見は無視?」
不機嫌さを全身で露わにして、ユウリがそう言った。
すると、一斗は不思議そうな表情をする。
「ええっ? ユウリがいいって言ったからじゃないか」
そう言われて、今度はユウリが不思議そうな表情になった。
まったく身に覚えがなかった。
しかも、これほど重要な質問への回答だ。
まったく記憶にないというのは、不思議な話である。
だから、当然のことながらユウリは問いただす。
「あたしが? いつ?」
「一年前」
「一年前って……予選が始まった頃ってこと?」
「そうだよ。もしかして、覚えてないのかな? きみは?」
今度は逆に責めるように、一斗がそう言った。
「ええ……ごめん。そうみたい……」
かなり腑《ふ》に落ちないユウリは、そう謝りながらも確認するかのように聞いた。
「よかったら、教えてくれない? どういう状況で、あたしが返事をしたのか」
その質問に、一斗はまるで少年の頃のような笑顔を浮かべて答える。
「ほら一年前、予選会場前の宿屋に泊まったとき。精算を済ませたぼくが聞いたじゃないか。『出る?』って」
その答えを聞いたユウリは、思わず一斗に掴みかかってそのお尻を思いきり引っぱたきたくなった。
でも、さすがに今はそんなことはしない。いくらなんでも格好悪すぎる。
「そ、そうね……確かにそんなことを言ったかもね。あまりに、日常的な会話なんで忘れてたわ」
まぁいい。
今は、それで済まそう。
ただ、これから一斗のお尻の怪我が治るまで、たっぷりと……そう今までの倍以上の時間をかけて、治療をしてあげることにしよう。
ついでに、もこもこの布切れの厚さも倍にするのだ。
そう、ユウリは決心した。
それを知ってか知らずか、一斗はいたって気楽に宣言する。
「じゃ、決まりだね。ひと月後の本戦が楽しみだなぁ」
その言葉の後、もこもこの布切れの他におむつを穿《は》かそうか、という誘惑にユウリが囚われたことを知れば、一斗とても穏やかではいられなかったであろうが。
ユウリはその計画を具体的に進める前に、一斗への報告をしておくことにする。
「連中帰ったわよ? よかったの?」
すると、それまでとは違い少し暗い表情になって一斗が答える。
「一応警告はしておいたから、全滅することは避けられるはずだ」
同じように、ユウリも沈んだ声で聞いた。
「じゃあ、計画は中止しないってこと?」
「たぶんね」
「あんなにはっきりと示したのに……」
ユウリは、いつも一斗と一緒だった。
翻弄されながらも、常に一番大切なものが何であるのか、ということから目をそらすことなく、ともに歩いてきた。
そんなユウリからしてみれば、彼らの行動を理解はできても納得はできない。
「まぁ、人間だからね。しかたないよ」
その言葉は、一体誰に向けられたものであるのか……。
この先かれらに訪れるであろう不幸を予言しながら、そして忠告もしながら、そういう納得の仕方をすることしかできなかった。
たとえ一斗であろうと、すべての人間を救えるわけではないのだ。
先が見えすぎるということは、誰より人間であろうとする者にとって、果たして幸福なことなのだろうか……。
むろん、ユウリにその答えを見いだせるはずなどなかったのだが……。
ただ、この世で一番愛する者の傷つく姿は、いかなる形であれ見たくなかった。
「まぁ、しかたないわ。どうせ大会に出場するなら、絶対優勝してみせるから」
ユウリは宣言するようにそう言った。
不快であろうが、一斗が落ち込む姿を見ているより遥かにマシだ。
それに、一斗が目指すものの先に一体何があるのか、どういう世界が待っているのか……想像するだけでも楽しいではないか。
何があろうと、ユウリは一斗を信じてついてゆく。
そのことだけは、絶対に間違いないことなのだから。
「うん。楽しみだ」
そう言って、一斗は楽しそうに笑った。
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その男を見た印象を尋ねられた者は、返答に窮することであろう。
中肉中背で太ってもおらず痩《や》せてもいない。
筋肉質でもなければ、ひ弱そうでもない。
髪の色も中原では珍しくもない亜麻色であったし、瞳の色は一番よく見かける若干くすんだ感じのグレーであった。
髪型は短く刈り込んではいるが、とても特徴的であるとは言いがたい。
服もそれなりに質のよいものであろうが、実用本位の木綿製で飾り気というものがまるでない。
見た目から判断するに、その男の特徴とは特徴のないこと……という他ないであろう。
だが、そういういたって特徴の少ない、凡夫然とした外見を持つ男に初めて会った人間は、一様に驚きの表情をする。
あまりに平凡な見かけは、彼らに強烈な違和感を感じさせることになるからだ。
中原に住む人間にとって、その男と凡庸さとは、もっとも結びつきがたいイメージであったからだ。
だがその男をよく知る者にとって、その驚きはひどく微笑ましく、かつ懐かしく感じられる感覚であった。
真に稀有な能力を持った人間とは、非凡さを凡庸の中に埋もれさせることのできうるものなのであろう。
しかもこの男は自身の能力とその限界を正確に把握しているゆえに、それを補うための努力というものを惜しもうとはしない。
為政者としては、およそ理想的であろうが、彼の臣下となった者は多大なる苦労を強いられることになる。
なにしろその仕事量は半端ではないので、当然それをサポートする者の負担も増えてゆくことになる。
休むという行為が、自分の首を絞めかねないほどに。
それに、生きてゆく上ですベてにおいて完璧な人間などいるものではない。
何かが突出すれば、それに応じて欠けるものが出てくることは、自然のことわりというものであろう。
この男の場合それは、プライべートな部分であった。
仕事にプライべートなことを持ちこむことがない、というのならば普通と言えよう。
だがこの男には、仕事に持ちこむべきプライベートな事柄が存在してはいない。それはこの男の不幸というより、この男が支えている国の不幸というべきであろう。
自分の見た目をまるで気にかけることをしないので、手近にある服なら――それが汚れた他人の物であれ――手当たり次第に着ようとするし、髪を整えるために頭から水をかぶって手でなでつけるという具合に。
食事などは、仕事の合間の時間つぶしくらいにしか考えていないらしく、まずいともうまいとも言ったことがない。
さすがに地面に落ちた物を食べるときには、じゃりじゃりという砂の感触が気になるらしく顔くらいはしかめるが、味についての批評とは言いかねるだろう。
もし腐ったものが混ざっていたとしても、気づくようなら奇跡かもしれないと思えるほどだ。
料理人としては楽かもしれないが、これほどやりがいのない相手もまたといまい。
見た目から言えば、普通に見えるというのは、この男の身なりを整えてくれている者の払う、最大限の努力があってこそのものであった。
なにしろあまり時間をかけると、その場で執務を始めかねないのだから。
事実、その男の周りには、いかなる場所であれ、常に数人の伝令がはべっており、それとは別に不定期にどこかからの伝令が、密書もしくは伝言をたずさえ訪れて、その男の指示をたずさえて帰ってゆく。
世界で起こった変化をつぶさに掌握し、できるだけ細かく対応するために、その男が作り上げたシステムであった。
一見して、かろうじて普通そうに見えるその男の名を、クロウ=ラク=ウィバーンと言った。
ロウラディアを中原最大最強の大国にまで押し上げた張本人である。
そこからいだくイメージと、ウィバーンを目の当たりにしたときのギャップは、実際に体験した者にしか理解できるものではない。
誰かが言った。
「ウィバーンは羊である。ただし肉食の羊で、狼を主食にしている、と」
この言葉ほど、一言でウィバーンを表すにふさわしい言葉はないだろう。
ウィバーンに仕える者達は、そろって狼ばかりでせいぜい自分は丸かじりにされないようにと気を付けるのだが、ほとんどの場合、本人も気づかれないうちに丸かじりにされてしまっているので、役に立つことはまずない。
そして丸かじりにされてしまったと自認している男の中に、シャハール=バッファがいた。
ロウラディアの十将軍の一人で、統合幕僚長を務める身でありながら、固有の所領を持つことを固辞し続ける、ウィバーンに負けず劣らず変わった男である。
ロウラディアの戦場の中でも、最もきわどい戦線に投入され、そのすべてで画期的な戦果をあげてきた。
輝くばかりの銀色の髪と、それに合わせて純白の服を好んで身に着けることもあり、『銀のシャハール』という呼び名の方が通りがよいかもしれない。
「フェッツ商会に押し入った連中は、どうやら失敗したようですね、陛下」
宝石のごとき長い髪をさっと後ろに振り払いながら、傷一つない美しい顔をさらしてそう言ったのはシャハール将軍である。
背も高く、美丈夫という言葉がこの男くらい以合う者もそうはいないだろう。
「らしいな」
野営用の仮設テントの中で、使い古された小さな台の上で執務を続けながら、ウィバーンが気のない返事を返した。
「ほうっておいてかまわないのですか? やつら、計画を中止しやしませんか?」
さらに疑問を投げかけるようにそう言うと、ウィバーンは初めて執務の手を止めてシャハール将軍の方へと向き直る。
「彼らは止まらんさ。目の前には待ち望んでいた餌《えさ》があって、しかも彼らは飢えている。少々の不安要素があっても、希望的観測にもとづいて行動するだろう」
それを聞いたシャハール将軍は、苦い笑みを浮かべる。
「少しは歯応えのある連中なら、いいのですがね」
この男以外が言った言葉なら、慢心とも取れる言葉であったろう。
「目前に、最高のチャンスが迫っている時に、こちらの誘いに乗ってくるような連中だ。君の期待には応えられんだろう」
事務的に、ウィバーンが言った。
「まるで他人事のようにおっしゃいますな、陛下」
無表情に、シャハール将軍がそう言うと。
「今の私の役割は、ただの餌で主役は君だ。他人事そのものだろう?」
当然のごとく、ウィバーンが切り返す。
「それと、さっきから妙な敬称をつけて私のことを呼んでいるが、なんとかならんもんかね。将軍」
さりげなく、というにははっきりと苦情を呈するようにウィバーンが付け加える。
「現実の方を調整されたらよろしいのではないですか? 陛下?」
整った顔に、今度はいたずら好きの子供のような笑みを浮かべて、シャハール将軍がシレッと言ってのける。
「君は私を反逆者にでも仕立てたいのかね?」
苦笑とともにウィバーンが言うと、シャハール将軍はおおげさな身振りで両手を広げて言う。
「なぁに、それほど大層なことは言っておりませんよ。本来のあるべき立場に立たれればよい」
半分は冗談めかしているが、その瞳は明らかに本気のそれであった。
「頼むから、そんなセリフは私の前以外では言わんでくれよ。君が言うとちとシャレにならないところがあるからな」
ウィバーンは苦笑を浮かべつつ、ゆっくりと頭を振りそう言った。
「もちろんですとも。あなた以外の人間に言ったところで、いまひとつインパクトに欠ける内容ですから、陛下」
シャハール将軍は軽く肩をすくめながらそう答えて、さらに付け加える。
「それでも、セネトのヤツは果敢にチャレンジして、盛大に座を白けさせていましたようですがね」
今度は盛大に肩をすくめながらシャハール将軍は言った。
ちなみにセネトとは、セネト=セイ=ゼルワース将軍のことである。
シャハール将軍とは旧知の間柄で、ロウラディアの猛将として知られる。
常に戦場においては先陣を切り、矢が雨のごとく降る中を愛馬ハイラードに跨り平気で駆け抜けてゆく様は、敵だけでなく味方をも驚嘆させるものである。
たった一人で万人をも敵に回せる男がいるとしたならば、この男しかいないであろう。
この言葉は噂に過ぎぬが、戦場でこの男を見た者はそのことを確信するはずである。
英雄の名を冠されるシャハール=バッファと、万夫不当の猛将セネト=セイ=ゼルワース。
両者ともウィバーンが見つけ出し己の幕僚に迎え入れた人材である。
これ以外にもロウラディアにおいては、世界中に名を轟《とどろ》かすような人物達がひしめいており、それらはすべてウィバーンの息がかかった者達ばかりである。
およそ自分の欲望というものに対して、まったく関心がないように見えるウィバーンであったが、こと人材に関してだけは別であった。
優秀な人材がいるとなれば、たとえそれが敵であろうが平気で自分の手の内に取り込もうとするし、相手が死ぬことでもない限り簡単には諦めようとはしない。
その人材を欲する貪欲さには、限度というものが存在していないかのようである。
何でも一人でこなしてしまえるように見えるウィバーンの、これもまた意外な一面かもしれない。
そのために、ロウラディアの中には現王直属の旧家臣とウィバーンの集めた幕僚達との間に見えない軋轢《あつれき》が生じているのだが、少なくともシャハール将軍にとっては大して気にかけるほどのものでもなかった。
もし、たった一言ウィバーンの命がありさえすれば、旧家臣の勢力など半日とかけずにロウラディアの中から一掃してしまえると見ていた。
彼らには能力も才覚も実力も存在していない。誇れるものは、自分達の先祖が優れていたというただそれだけである。
彼らの力を削ぐために、ウィバーンは彼らに華やかな毎日と資金を用意して、代わりに軍への影響力をすべて断ち切ってしまっていた。
同時に政務に関しても、貴族の影響をほぼ完璧《かんぺき》に払拭《ふっしょく》してしまっていた。
ウィバーンの手口が巧妙なものであったということもあるが、そのことを喜んで受け入れている連中はシャハール将軍からしてみれば失笑の対象でしかない。
出生ではなく、実績においてのみ貴族と同等に扱われているウィバーンの幕僚のことを腹立たしげに見ているが、遊び暮らせる優雅な毎日を約束――勝手にそう思っているだけだが――してくれたウィバーンのことは感謝しているのである。
シャハール将軍にとって、そんな連中のことなど、すでに敵と見なせるほどの存在ではなくなっている。
せいぜいウィバーンが山盛りに用意したご馳走に群がるハエである。
シャハール将軍が軽く片手を振るだけで、彼らは簡単にロウラディアから追い払われてしまうであろう。
そんな寄生虫のような連中のことなど、シャハール将軍でなくともウィバーンの幕僚に名を連ねる者ならば誰でも、それを現実に実行してすっきりとしたいと願っている。
どうでもいいような連中ではあるが、目の前をうろつかれるとやはり鬱陶《うっとう》しい存在ではあった。
「セネト将軍にも困ったものだな……」
ウィバーンは部下達の思いに気づいているのかいないのか……。
それだけ言うに留める。
シャハール将軍も、それ以上何も言うことなく軽く笑みを浮かべただけに留めた。
「で、明日の件なんですが、襲撃をやめないにしても、こちらが相手の動きを予測していると知ったら、襲撃位置を変えてきやしませんか?」
流麗な顔に掛かった長い髪を、右手で肩の後ろに追い払いながらシャハール将軍がそう言った。
それは、いたって至極当然の意見である。
すると、ウィバーンはすぐに断言するように言った。
「それはありえんな。向こうの戦力はせいぜい百そこらしかない。これは、奇襲か計略を持って当たるしかない戦力だ。ここらで計略を仕掛けることができるのは、三箇所。奇襲を仕掛けることができるのは一箇所。そして、フェッツ商会でこちらの正確な予定を入手することに失敗した彼らは、計略を仕掛けることのできる場所を絞りこめなくなった」
そこまで話したウィバーンの言葉を引き取るように、シャハール将軍が話す。
「奇襲ができる唯一の場所に、命運を託すしかない、というわけですね……。まったくの無謀……敵の部下達に同情しますよ」
シャハール将軍の言った口調は冗談めいているが、その瞳には怒りの色すら見受けられる。
内心はまったくの本心であったのだ。
指揮する者の無能ゆえに、犬死にしていく兵士達をシャハール将軍はたくさん眼前に見てきていた。
そのたびに、敵味方を問わず無能な指揮官には怒りを催す。
そんな連中に使われていた兵士達が、自分の指揮する部隊に蹂躙されてゆく様を見て感じるのは、勝利の喜びなどでないことだけは確かであった。
自分の兵士達は可愛い。で、あるからこそ己が配下の兵士達を、犬死にさせるような指揮官には怒りを感じざるをえない。
セネト将軍辺りならば、そんなものは単なる感傷だと言って笑い飛ばすであろうが……。
「これが済んだら、武闘大会だ。そこには君やセネト将軍に匹敵するような猛者が出場してくるかもしれんぞ」
ウィバーンはまるでけしかけるかのように、そう言った。
「そうして、王都には世界中から策士達が集いあう……。あなたにも、それなりの相手が現れるやもしれませんね」
流麗な相貌に、なんとも魅惑的に微笑みを浮かべてシャハール将軍がそう答えた。
そして、一歩後ろに下がり口調を改める。
「それでは、ただ今より私は、部隊を率いて作戦行動に入ります」
短くそれだけを告げると、シャハール将軍は鮮やかにその身を翻し、ウィバーンのいる仮設のテントを退出していった。
あらゆる動作が洗練され、一幅の絵のように見える男である。
その様子を少し誇らしげに眺めると、ウィバーンはすぐにまた執務を再開した。
明日のことは、ウィバーンにとってはすでに過去の出来事であるかのごとく、一切の不安を感じてはいない様子であった。
「今からかよ?」
驚いた……と言うよりは、呆れたといった感じでそう言ったのはイヴァンであった。
すでに日は沈み、すっかり世界は闇に沈んでいる。
「もちろん。特等席は早めに確保しなきゃ。それって、常識だよ」
そう答えたのは一斗である。
その言葉は、イヴァンにしてみればとても疑わしい常識に思えた。できれば、その前に非と付け加えたいくらいに。
「今夜は月も出てねぇだろ? 暗闇の中で、一体何を見るつもりなんだよ?」
イヴァンの疑問は、しごく当然の疑問と言えた。
っていうか、イヴァンでなくともかならず思いつく類の疑問である。
「うんうん。イヴァンにしては、的確な質問だわ」
その横で、いまいち褒めているのかその逆なのか判断の付きかねる言い方で、ユウリが同意してみせる。
すると、一斗はあきれたように言った。
「ほう、君たちはこんな暗闇の中で、一体何を見学するつもりなんだい?」
すると、ユウリが馬車の中に灯した蝋燭《ろうそく》が掻き消えてしまいそうな勢いで、一斗に詰め寄る。
「冗談でも言ってるつもり? それとも、もう忘れたとでも言うの? 正気を疑いそうなことを言い出したのは、この人よ。こ・の・ひ・と!」
右手の人差し指で一斗の鼻の頭をつんつんしながら、ユウリがそう言った。
よっぽどムカついたと見える。
「君こそ、ぼくの言葉をちゃんと聞いていなかっただろう? ぼくは席を確保しに行くんだって言ったんだ。今から見学しようってんじゃないよ。だいいち、ことが起きるのは明日の昼くらいだ。見学しようにも、役者がいないんじゃ話にならないじゃないか」
鼻をつんつんされたのが、よほどイヤだったようで、一斗は不満げな口調ながら素直にそう言った。
「初めからそう言えばいいのよ。あたしはあんたと、この先ずぅーーーっと一緒にいるんだから、そのたびにずぅーーーっと後悔することになるわよ」
不屈の意志を見せて、ユウリがそう言い放つ。
誰よりも美しいこの女性は、誰よりも強い意志の持ち主でもあった。
たとえ一斗が拒絶しようとも、ユウリの決意を曲げることなんてできやしない。
とは言っても、相手は一斗。
とても一筋縄でいくような相手ではないのだが。
本心と冗談。その裏に潜むものを見抜くことなど、ユウリだとてあきらめるしかない。
「イヴァン」
いきなり、改まった様子で一斗がイヴァンに向かって話しかける。
それまでの、冗談めいたところがなくなっている。
それは、一斗がめったに見せることのない表情であった。
「な、なんだよ? 急に?」
戦場においては、無敵を誇る戦士が少しばかりたじろいでいた。
「これから出かけるのは、見せておきたかったからなんだ、イヴァンに」
改まった口調のまま、真っ直ぐにイヴァンに向かって一斗が言う。
「俺に? 何を?」
一瞬だけたじろぎはしたものの、イヴァンがそう答えたときには普通の様子に戻っていた。
ただし、真剣そうな表情になって。
「明日、セズァン公の率いる部隊がニリノ街道の出口付近でクロウ=ラク=ウィバーンの視察隊を襲撃するはずだ」
一斗の言葉に、イヴァンは軽くうなずく。
どうしてそういう結論が出たのかはわからないが、一斗がそうなると言ったのだ。
ならばそのとおりになるのだ、ということをイヴァンは知っていてそれで十分であった。
そして、一斗の話はまだ続いている。
「これを迎え撃つのはロウラディアの英雄シャハール=バッファ。たぶん、戦闘の時間はそう長くないけれど、うまくいけばシャハール将軍の戦いぶりを見ることができると思う。……イヴァンにはぜひ、その戦いぶりを見ておいてほしかった」
一斗の言葉で、イヴァンは合点する。
「そいつ、つえぇのか?」
すぐに、そう質問をした。
「少なくとも、世間ではそう言われている。でも、直接自分の目で見てみる方が、よっぽど確実だろう?」
問いかけるように言ったが、イヴァンに否と答える余地がないことは確かであった。
話を聞いたイヴァンは、すっかり乗り気になっている。
なんだかんだ言っても、剣士……それも常識では推し量れぬほどの実力の持ち主なのだ。
自分のあらん限りの力を振るって闘いたい、という欲求はいつもどこかでくすぶっている。
ただ、そんな相手がそこらに転がっているはずもなく、せいぜい妄想でがまんするしかなかったのだ。
「それに、目的はもう一つある」
一斗がそう続けた。
表情は硬いまま。真剣な表情をしている。
「目的って……何よ?」
反射的にユウリがそう質問をしたが、その時にはユウリは一斗の答えを予測していた。
「それは、その時になればわかるよ」
そう一斗が答え、やっぱりとユウリが胸のうちで呟《つぶや》いた。
いつものことだ。
そういうことに関しては、何を言ったところで無駄である。
「わかったわ。じゃ、よろしくね」
あっさりとうなずくと、ユウリは意味ありげな視線をイヴァンに送る。
一斗も同様の視線を、イヴァンに送っていた。
「はいはい……そんじゃま、ぼちぼちいきますか」
狭い馬車の中で、イヴァンがその身を起こしてのそのそと御者台に向かった。
その役割はイヴァンの仕事になっているらしい。
それに、こんな闇の中を平気で馬車を進めることができる者は、イヴァンしかいないというのも確かではある。
もし仮に一斗が御者台に座ろうなどと言い出したなら……イヴァンとユウリの二人は、力ずくでもその無謀な行為を阻止することであろう。
で、がたごとがたごとと、馬車が動きだす。
規則正しいぱかぱか音も健在だ。
そこらの農家で普通に見かけることができる馬車の馬は、どこからどういう角度で見ても駄馬そのものであるが、とても無神経でなおかつ頑丈にできていた。
繊細さとは星ほどの隔たりがある。
だから、こんな暗闇の中でも、イヴァンから指示されたとおりにぱかぱかと、いたってのんびりとした蹄の音を響かせていられるのである。
揺られる、というより振動する馬車の荷台に、一斗はいきなり横になった。
小さなバッグを枕代わりにして。
「ちょっと? もう寝る気?」
呆れたように、ユウリが言った。
あるいは、信じられないものでも見るかのように。
「他に、することないしね……はい」
一斗はもぞもぞと自分の服の間から、しわしわになった紙を取り出すと寝たままそれをユウリに差し出す。
馬車の天井から吊り下げたカンテラは、あっちこちっち動きまわるので何が書かれているのかよくわからない。
「まったく、いらない時には妙な意地をはるくせに……」
そう不満を漏らしながらも、ユウリは素直にその紙を受け取った。
口では色々と不満を漏らしても、一斗がこうして自分から体を休めようとするのを、ユウリとしては内心喜んでいるのである。
ただ、すぐに別のところから不満の声があがったが。
「で、どこに向かえばいいんだ?」
それは、不満というよりは、もっともな質問と言うべきであろうが。
「ちょっと待って」
ユウリは前に向かってそう声を掛けると立ち上がり、天井からぶら下げていたカンテラを外してイヴァンの座る御者台へと向かった。
「ちょっと、横空けて」
イヴァンに向かってそう言うなり、イヴァンが動き始めるのも待たずに自分のお尻を狭い御者台にねじ込んだ。
「おいおい、無茶すんじゃねぇよ」
イヴァンが困ったように言った。
御者台は、元々二人乗りできるようには作られていない。
二人のお尻の下で、板がミシミシ云《い》っているのは、たぶん悲鳴をあげているのだろうと思われる。
「ま、気にしないで」
ユウリが軽く答えると、カンテラを右手に持ったまま左手で、くしゃくしゃになっていた紙を広げる。
そこに書かれていたのは地図であった。
ただし、単なる地図ではない。
人間が手書きした物とは明らかに異なった、精細な地図である。
町とその周辺の状況を、つぶさに見て取ることができる。
その地図の中の一箇所に、小さな赤い丸印が書かれていた。
「ここに行けってことじゃない?」
その地図を見ても、ユウリは驚くような風情も見せずにそう言った。
「他にはなんも印つけてねぇしなぁ。たぶん、そうなんだろうな」
ユウリが掲げるカンテラのわずかばかりの光の中でも、イヴァンははっきりと地図の内容を読み取っている。
実際のところ、イヴァンならばカンテラがなくても読むことができる。
そうでなくては、この闇の中を平然と馬車を進めることはできない。
カンテラが必要なのは、イヴァンではなくユウリなのである。
「イヴァンに渡したら、明かりは消しといて。目立ってしょうがないからさ」
一斗にそう言われて、ユウリはやっと気がついた。
言うと、一斗はいきなり寝てしまった。
こんな暗闇の中、明かりをつけていれば昼間より目立つ。
ましてや、闇に隠れて移動するのにおしゃべりしながらっていうのも、賢いやり方とはとても言えない。
一斗にしても、ユウリにしてもイヴァンの代わりなんてとても務まらないし……。
つまり、一斗みたいに寝とくのが一番ってことなのだ。
「じゃあ、後はよろしくね、イヴァン。おやすみなさい」
それ以上、一切迷うことなくユウリはそうイヴァンに告げると、馬車の荷台に移って一斗にぴったりと寄り添い身を横たえると、カンテラの明かりを吹き消した。
その後自分と一斗の身をくるむようにして、毛布を上からはおる。
枕は一斗と同じ物を使った。
すっかり、闇に包まれた荷台の上で、イヴァンは後ろまで聞こえないくらいに慎重に音量を調整しながらぼやく。
「最近、イットのやつが二人に増えたような気がするなぁ……たまんねぇ……」
朝の日差しが渓谷に差し込んでいた。
ニリノ街道の両側を険しい崖《がけ》に阻まれ、かろうじて馬が四頭ほど並んで通れるほどの狭い道が先へと続いている。
この渓谷を抜けたら一気に平野が広がり、その先にはセキハの街の西の入り口が見える。
王都フィールザールから続くニリノ街道の出口付近に位置するこの渓谷は、ロウラディア側から入るさいの最後の難所といえる。
もっとも商業都市として名を馳せるセキハであるから、街道自体はきちんと整備され、狭いことを除けばこれといった障害は存在しない。
今、そこにロウラディアからの視察のための部隊が差しかかろうとしていた。
視察部隊はおよそ五百騎からなる小規模の部隊である。
ロウラディアの支配圏内とはいっても、ここカリノイは属国領であり敵が襲撃してくる可能性も十分にありうる。
通常なら最低でも千の兵力は揃えておくのが常道と言えよう。
ただ、渓谷を抜ける狭い街道では、どうしても隊列は前後に長く伸びてしまい、数の上での有利さは非常に薄くなる。
それでも、そういった場所というのは極めて限られているので、兵力を少なくすることによる危険を、あえて冒すことに対する答えとはなりえない。
なぜそうしたのか、という理由はおいておくにしても、どう考えてみたところで襲撃を考える者達にとって、そのことが不利に働くことはありえない。
いたって、それがまっとうな判断というものであろう。
「見ろ、あの長く伸びきった隊列を! ロウラディアの真王などと呼ばれているようだが、それも今日限り。この地できゃつめの首級をあげ、サーフェレス=ナァ=セズァンの名の下に中原の新たな歴史が始まるのだ!」
渓谷を抜ける街道を見下ろすことのできる、小高い丘陵の上で一人の男が声高にそう呼ばわった。
白銀と金に輝く、恐らく未だ未使用の傷一つない美しい鎧を身に纏《まと》っている。
ただ、よくふくらんでいる体型には少々無理があるらしく、かなり窮屈そうだ。
それに、やたらと派手に装飾された鎧は、かなりの重量があるらしく、重さに体が馬上でぐらぐらと揺らいでいた。
そんな状況で、さらに部下達の士気を鼓舞しようと、腰に差していたこれまた新品の過度なほどに美麗な剣を抜き頭上に掲げようとする。
ただ、思ったように真っ直ぐには上がらず、ひどく傾いているうえに前後左右にふらふらと大きく揺れていた。
「我が騎士達よ、この剣の下に集い神の御名において正義をともになそうではないか!」
話だけを聞けばとても頼もしいセリフであった。
そして、その言葉の後、セズァンは剣先を地面に向ける。
「行けよ、騎士達! 敵は、目前にあり! 神の正義を!!」
ひときわ高らかに、そう呼ばわった。
ちなみに剣先が地面に向いているのは、街道をゆく隊列に向けようとしたが、あまりの重さに失敗したらしい。
今はちょこっと持ち上げることに成功して、少し先の地面を指していた。
だが、鼓舞された騎士達は、そんなことなど気にならぬように、口々に「神の正義を!」というセリフとともに、目の前の丘陵を馬に跨ったまま駆け下ってゆく。
かなりの急斜面の続く渓谷であるが、その中でこの丘陵のある場所だけはかなりゆるやかな斜面になっていた。
難しくはあるが、それなりの腕があれば決して駆け下ることの不可能な斜面とは言いがたい。
そんな斜面を次々と馬に跨がって駆け下ってゆく中で、それ以外の方法で下ってゆく騎士もいた。
それほど難しいやり方ではないが、とても危険で痛いやり方である。中には痛みを感じない者もいるかもしれないが、それは気絶しているか死んでいるかのどちらかである。
馬と一体になって、急斜面をごろごろところげ落ちる。
そういった、敵と相見える以前に自滅してしまった騎士の数は、全体の五分の一にも及んだであろうか。
あまりに多すぎて、遠目からは岩が大量に転がり落ちてくるように見えた。
事実そうなれば、立派な形はしていても、転がる岩と大差ない。
ただ、ガシャガシャとひどく煩い岩ではあるが。
それでも、残る騎士達は馬上から馬上槍《ランス》を構えて突撃に移る。
人馬の体重と速度を利用した武器は、駆け下る勢いを加えて強烈な威力を発揮する。
目の前には、長く伸びた敵の隊列。
その横っ腹に突き刺さる槍のごとく、敵の部隊の中枢を貫くはずであった。
ところが、そうなる寸前。
敵はまるでその襲撃を予測していたかのごとく、隊列が前後に分かれ一目散に敗走を始める。
結局強力無比なはずの一撃は、あっけなく空振りに終わった。
勢いよく街道に突っ込んできた騎士達の中には、仲間に衝突する者や、止まりきれずに反対側の丘陵に激突する者もいた。
それでも、一通り動ける者達が街道へと到着する。
その後は全員が、ただその辺りをうろうろとするばかりで、無為に時を過ごしている。
というのも、彼らの総大将はいま丘陵から馬の手綱に縋《すが》るようにして、ゆっくりと降りてくるところであったからだ。
馬に乗ったまま、この斜面を駆け下ってくるだけの力量はないので、馬を引っ張るようにして降りてくる他なかったからなのだが、そのさいやたらと派手過ぎる装備が足枷《あしかせ》となり、普通に降りるのに比べて倍近くの時間をかけないと降りることができなかったのである。
それでも、この状況が気になってはいるのだろう。途中で懸命に叫んでいるみたいだが、下までその声は届かない。
本来ならば、とうに指示を伝えるために、伝令が走っているところであったが、現場で指揮を執る者が不在なように、伝令も存在していないらしくその気配はない。
だから、セズァンが到着するまでの間、彼らはその場所で二手に分かれた敵の背中を見ながら、意味もなくその辺りをうろつく他なかったのである。
それで、ようやく街道まで到着したセズァンが怒鳴るように言った。
「お前ら何をやってる! すぐに後を追わないか! 一刻も早くウィバーンめを仕留めるのだ!」
その言葉に対して、すぐに質問が返ってきた。
「どちらの後を追えばよいのでしょう?」
いたって当然の質問である。というより、質問される前に出すべき指示であった。
「そんなこともわからんのか? 敵は二手に分かれた。ならば、こちらも二手に分かれて後を追えばいいではないか!」
セズァンはそう怒鳴り散らした。
「でも、こちらの戦力は敵よりだいぶ少ないのですが……。大丈夫でしょうか?」
騎士達の間から、そんな声が上がった。
それは女性の声である。
「フェッツ商会での失態の上に、この私の指揮に異議を差し挟もうとでもいうのか? 偉くなったものだな、センテ=マフ!」
顔色を変え、唾まで飛ばしながらのセズァンのセリフであった。
計画の甘さ、騎士達の練度の低さ、そもそも兵として機能できないような運用方法。
どれ一つとってみても、すべてはセズァンの責任に帰結する。
ところがセズァンは、己の失態を認めない……というより頭からそのことに関しては認識がないようなのである。
認識していれば、改めようもあるが、自分の正しさを確信しているのだから、その必要性すら認めることはない。
セズァンは自分の配下からの、意見も忠告も指摘も必要とはしていないのである。
つまり、セズァンに従う騎士達は、最後までセズァンのことを信じて突き進むか、セズァンとはっきり別な道をゆくことを選択するかのどちらかしかないということになる。
ここまでやってしまった以上、いまさらセズァンに背を向けることはできない。
だから、残る道は一つ。
前へと突き進むのみ。
セズァンはそれ以上具体的な指示は出さなかったので、騎士達はてんでに左と右とに分かれて馬を走らせ始めた。
だが、すでに敵影は彼方へと消え去り、後を追う彼らが果たして追いつけるかどうかも定かではないような状況になっていた。
そんな中で、もう彼らに勝機など残ってはいないことに、気づいていた者が果たしてどれくらいいるのだろうか?
最初の一撃がこの作戦のすべてであったはずなのだ。
それをあっさりとかわされてしまった時点で、彼ら……いや、セズァンの立てた計略は破綻《はたん》していたのである。
後に残ったのは、三人のみであった。
「セズァン様! どうか考え直してください。退却いたしましょう!」
鎧の重さと疲れのために、地面にへたり込んで動けなくなっているセズァンに向かって、センテが綺麗な顔いっぱいに不安げな表情を浮かべてそう提言する。
「まだ言うか、臆病者め! 我が作戦は完璧だ! やつさえいなければ、パウフェック公国の正式な跡取りはこの私だったはずなのだ。高貴な血が最も強く流れているこの私こそ、世界の指導者の地位に相応しい」
その言葉は、百パーセント本気であった。
世界の指導者とやらにはなりたいようだが、具体的な事柄にはまるで触れてなかった。
「でも……」
なおも言いつのろうとするセンテに対して、セズァンは言ってのける。
「これ以上言うなら、私に対する反逆とみなすぞ!? それが嫌なら、貴様もウィバーンの首級をあげるために後を追え!」
完全に、セズァンは聞く耳を持たない様子であった。
そのセズァンの指示に、センテは口を噤《つぐ》んでしまう。
進むも引くも、その先にある結果はろくなものではないように思えたからだ。
答えが見つかりそうもないように思えて、進退窮まってしまったのである。
そんなセンテの代わり答えたのが、ともに残ったもう一人の男であった。
「そんじゃ、しかたないですな。それでは、ご縁がなかったということで、あたしらは好きにさせてもらいますわ」
しごくあっさりと、なんの感慨もなくそう言ってのける。
「ば、ばかもの! そんなことをすれば、反逆罪だぞ?」
思わずうろたえるように、そう言ったのはセズァンであった。
自分で脅しをかけていながら、そんな答えを返されるなど想像もしていなかったのだろう。
「どうぞ、ご勝手にしてください。……それまで、お互いに生きていられたら、の話ですがね」
いたって真面目そうな顔つきでそう言ったが、言葉自体は最早完全に見切りをつけた者の放つそれであった。
「ザフ……きさまぁ……」
歯軋《はぎし》りしながら、まるで視線で殺しそうな勢いでセズァンはザフを睨みつける。
ザフは、それを涼しい顔で受け流すと、何かを必死で堪えているセンテに向かって言った。
「さあ、馬から下りるぜ」
そのまま自分は躊躇することなく、馬から下りてアーマーを脱ぎ始める。
それに続いて、センテも馬を下りた。
それを見ていたセズァンが、うなるように言う。
「センテ、きさまもか!?」
センテは、つらそうにしながらも短く答える。
「父の名を汚すことは心苦しい……でも、ナレ家の血を絶やすわけにはいかないのです」
それだけを言って、センテは頭を下げた。
セズァンはうなり声を上げるように、センテに向けて言い放つ。
「我がウィバーンを討ち果たし、中原の盟主となった暁には、貴様の血筋はことごとく根絶やしにしてくれようぞ!」
それに対するセンテの返答は、しごく簡単なものであった。
「どうぞ、お好きに」
それだけ言うと、自分も戦闘用のアーマーを脱ぎ捨てにかかる。
そうして、身軽になった二人は、渓谷の緩やかな斜面ではなく、急になった場所をよじ登り始めた。
後には、セズァン公が一人取り残されたが、それからいくらもたたないうちに後を追って行った騎士達が相次いで街道を駆け戻ってくるのが見えた。
それを見て、セズァン公は満面に笑みを浮かべて立ち上がる。
「見ろ! 我が騎士達が戻って来た! ウィバーンめを見事討ち取ったに違いない! これで、余が中原の支配者となったのだ!」
この時セズァンは、生まれてから最も甘美な夢に酔いしれた。
ただし、とても短い時間であったが。
セズァンの脳内と現実とのギャップがいかほどのものなのか、彼の配下の騎士達が示してみせる。
「セズァン様、罠《わな》です! 街道の出口は敵兵に包囲されています!」
まず西口に向かった騎士が、そう報告する。
「街道を出たところに、敵部隊が待ち構えています。このままでは、ウィバーンを倒すことは不可能です! どうすればよいのですか? ご指示を、セズァン様!」
東口から戻ってきた騎士もまた、同様の報告をした。
その報告の後、戻って来た騎士達の間に一気に動揺がはしり始める。
渓谷の出口を二箇所とも封鎖された。
つまり彼らは、この渓谷に閉じ込められたことになる。
最早逃げ場はないように思えた。
動揺は連鎖的に広がり、どうすればよいのかという騎士達の声があたりに満ちる。
その時であった。
「退却先ならある!」
ざわめきを吹き飛ばすような勢いで、そう言ったのはセズァンであった。
騎士達は、自分達の唯一の指導者をすがるように見ていた。
その注目の中で、セズァンはゆっくりと自分達が降りてきた丘陵を指差し、こう言った。
「あそこから降りて来たのだ。またあそこから逃げれば良いだけの話。渓谷の出口を塞いだだけで勝った気になっているウィバーンめに一泡吹かせてやるのだ、我が騎士達よ!」
大音声でそう言い立てながら、セズァンはそれまで腰に差したまま酷く重たい飾りになっていた剣を抜き、切っ先を降りてきた丘陵へと向ける。
もちろん重さに耐え切れず、すぐに切っ先は地面を向いてしまったが。
それでもそこにいたすべての騎士達は、もう一度セズァンが指し示した先に希望に満ちた視線を送り……そのまま、固まってしまう。
それは、その場所を見た騎士達すべてに共通した反応である。
ただならぬ騎士達の様子に、さすがのセズァンもおかしいと思ったのであろう。
ゆっくりと、自分の視線を丘陵の頂上付近に向ける。
そうすると、セズァンもまた配下の騎士達と同じ反応となる。
そこには、数騎の騎影が見えた。
その中でも、ひときわ目立つ一騎。
漆黒の馬に跨り、飾り気のない軽装のアーマーを纏っている。
その色は、白。
風に揺らめく銀の長い髪が、陽光を受けて輝く。
遠目にも、その騎影の優美さがはっきりと確認できた。
その騎士を目に留めた者は、言葉を失う以外になすべきことはないであろう。
誰に尋ねなくともわかる。
およそ、この大陸に生を受けた者ならば、一度はその名を耳にしたことがあるであろう。
ロウラディアの英雄『銀のシャハール』、その人の姿であった。
ただそこに立つその姿だけで、明らかに普通の人間とは違うのだ、とわからせてしまう。
恐れとか憧《あこが》れとかいうものとは異質な、真に特別な存在とはどういうものであるのか、ということをその存在自体が見せ付けているかのようであった。
英雄と呼ばれるに、これほど相応しい漢はまたといまい。
セズァンとその騎士達が、息を呑み立ちすくんでしまったのは、ただ圧倒されてしまったのである。
だが、そんな感傷を抱いていられたのはさほど長い時間ではなかった。
シャハールと彼が率いる少数の騎士達は、煌《きらめ》く奔流となり丘陵を駆け下ってきたからである。
セズァンとその騎士達はその動きを見て、あわてふためく。
細く延びた街道。そこにいる騎士達は、必然的に道沿いに伸びるように隊列を形作っていた。
そこに、シャハールが小数の部下を引き連れて駆け下ってくる。
まるで平野を行くがごとく、誰一人として隊列を乱す者はいない。
一人一人の技量もさることながら、なにより集団で戦うことの訓練がその身に染み付いている者たちの動きであった。
そのことは、彼らの誰か一人にその名と身分を聞いてみるとすぐにわかる。
所属する部隊名――この場合、シャハール直属機動連隊所属――と名乗った上で名前を明かすはずだ。
すでに、彼らの中では騎士という概念は存在していないのである。
それに対するセズァンの騎士達は、セズァンの命で動きはするが一人一人の動きはばらばらで、戦いにおいても各自が好き勝手に各自の技量を頼みに行っている。
彼らは、自分達が行うはずであった奇襲を、今まさに受けようとしている。
いつの間にか立場が、逆転してしまった。
なぜ、こんな信じられぬような状況になってしまったのか?
誰も冷静に判断できる者はいなかった。
我に返ったセズァンが「迎え撃て!」と喚いているが、その命に素直に従う者は半数にも満たない様子である。
いち早く逃げ出した者もいたが、渓谷の両側の出口には彼らを待ち受ける者がいるのだということを、彼らは失念していた。
そのことに気づいている者は、逃げ場を探して辺りをうろつくか、覚悟を決めて剣を抜いた。
逃げ出した者を除いて、それほど時間的な猶予があったわけではない。
迎え打つ覚悟を決めたとしても、あったのはせいぜい剣を抜いて構える時間くらいであろう。
隊列を整える時間はなかったし、あったとしてもこの狭い場所ではどうしようもない。
銀と白の輝きが目の前に来たことを認識した瞬間、そこは真紅の霧に包まれた。
シャハールの振るう飾り気のないブロードソードは、鎧で固めた首の隙間を停滞することなくすり抜ける。
次の獲物へと移動を始めたシャハールの背中の方で、頭を失った騎士が血煙を吹き上げながらゆっくりと馬上から転がり落ちてゆく。
接触してから一瞬で、首のない三つの死体が街道に転がっていた。
それに続いて、シャハールの部隊が突入してくる。
シャハールの技量にはとても及ばないものの、それでも何合と剣を打ち合わせることもなく、次々にセズァンの騎士たちを屠《ほふ》っていった。
それを見て取ると、シャハールは自分の剣は収めて部下に指示を出す。
「逃げようとする者は追う必要はない。それと、セズァン公は生きたまま捕らえよ」
その時にはすでに、勝負はついていた。
否。
セズァンがこの作戦を強行すると決めた時に、もう勝負はついていたのだと言えよう。
そんな状況の中、街道上からセズァンの姿が消えていた。
理由は簡単で、渓谷の急な斜面をよじ登ろうと足掻《あが》いているところであったのだ。
なんとか一人で脱出を試みたものの、重すぎる鎧を着ているために、まだ体半分ほども登れてはいない。
すぐに馬を下りたシャハールの配下二人がセズァンを崖からひっぺがすと、両脇を逃げられないようにがっちりと固めてシャハールの目の前にひきずってくる。
それを確認したシャハールは、まるで重力など感じさせぬ動きで馬上からふわりと地面に舞い降りる。
「おひさしぶりですね、セズァン公」
まるで友人に挨拶でもするかのように、シャハールがそう話しかける。
ただ、向けられた視線は厳しいものではあったが。
「馴れ馴れしく呼ぶな。下賤《げせん》の身の分際で! 本来なら、わしはパウフェック公国の王ぞ!」
恨み、憎しみ、怒り……そういった、あらゆる負の感情がないまぜになった視線を、セズァンはシャハールに送りつけてくる。
だが、シャハールはそよ風ほどにも感じていない様子であった。
「相変わらずですね、セズァン公。いつまでも夢見るお年ではないでしょうに」
心の中に染み込むような、そんな声でシャハールが言った。
感情は完璧なまでに抑えてはいるが、痛ましいものでも見るかのような、そんな雰囲気ははっきりと伝わってくる。
「誰に向かってそんな口をきいている。分をわきまえろ、げすめが!」
シャハールの言葉を蔑みととったのか、唾を辺りに撒き散らしながらセズァンが喚いた。
むろん、そんなことくらいでシャハールが動じようはずもない。
「あなたは、ご自分の置かれている立場について、そろそろ思案をめぐらした方がよろしいですよ、セズァン公」
第三者……そう、セズァン以外の者にとっては、その言葉は単なる忠告にしか聞こえなかった。
だが、セズァンはその言葉を別の意味で受け取ったようである。
「こ、こ、こ、殺すのか? わ、わ、我をこ、こ、殺すつもりだな? な、な、ならば殺せ! い、い、今すぐ殺せ!」
さらに大声でセズァンは喚き始めた。
声は明らかに震え、目は血走っている。
どう見ても覚悟したというよりは、やけになっているように見て取れる。
見苦しい……。
まともに評価するならば、それが最も適切な表現であろうか。
「それはできませんよ、セズァン公。ロウラディアには法というものがあるのですから」
セズァン公の言動に惑わされることなく、シャハールは言い聞かせるようにそう言った。
だが、セズァン公は一体何を言われているのかよく理解しかねる様子でシャハールの顔を、ただ睨んでいる。
「あなたは、ロウラディアの法を犯しました。ですから、法の下で裁かれることになります。その判決がどのようなものになるのかはわかりませんが、少なくとも私が下すべき類のものではない。私の仕事はあなたを捕らえて、ローラディアの検察局に引き渡すことです」
その言葉を聞いて、セズァン公は暗い笑みを浮かべた。
奈落に落ちた亡者が、相手を貶《おとし》めるための手がかりを見つけた、そんな表情をして。
「くっくっくっ……『銀のシャハール』ともあろう漢が、まるで法の番犬だな。英雄とか呼ばれていい気になっていても、所詮《しょせん》犬よ。貴様は、所詮その程度の男にしか過ぎんのだ。その程度で、貴族にでもなったつもりなどとは、片腹痛い」
勝ち誇ったように、セズァン公はそう言った。
だが、シャハールはゆっくりと穏やかに話す。
「制御されない力は、多くの不幸をもたらします。だから、強い力を持つ者は自分自身を律さなくてはならない。そのための責任が生じるのです。そして、それを成し得ない者の辿る末路は、あなた自身が体験されることになるでしょう」
穏やかではあったが、完全に突き放した言い方であった。
セズァン公に対して私怨《しえん》は抱いていないが、同情もしてはいない。
そういうことであった。
「ふん。元々私の力だ。それをどう使おうと、貴様にとやかく言われる筋合いはない!」
セズァン公が、せっかく掴んだと思っていたシャハールの弱点は、その手の中から、あっさりとすり抜けていった。
だがセズァン公には、その訳がどうにも理解できていないようであった。
シャハールはそれ以上、セズァン公との会話の必要性をみとめなかった。
「お連れしろ」
そう言ってシャハールはセズァン公に背を向けた。
「貴様のやっていることは、神への冒涜《ぼうとく》だ! こんなことは、許されるはずがない! 放せ! 放さんか、虫けらどもめが!」
大声で、毒を撒き散らしながらセズァンは、捕虜運搬用の馬車に向かって引きずられていった。
無論、シャハールがセズァンの言葉に興味を示すことは一切なかった。
それより他に、シャハールの気を引くものが存在していたからだ。
「鎧が脱ぎ捨ててあるな……。中身はどうした?」
敵と味方の状況を調査していた部下に向けて、シャハールはそう聞いた。
すると、部下はその場で硬直し、明らかに緊張している様子を見せながら答える。
「ハッ。申し訳ありません。特には気に留めておりませんでした! ただちに調査に移ります!」
敵味方の被害状況や、捕虜にした騎士達の確認。するべきことは多かった。
そんな状況下で、放置された鎧のことを気に掛けているのは、シャハールだけだったとしても無理はないであろう。
「そうだな。とりあえず、この崖の上に五人ほど送り込んで、後で報告によこしてくれ」
そう言い残すと、シャハールは再び馬上の人となる。
今度の戦闘の結果は、ほぼ把握できている。
シャハールの率いた部隊の犠牲者は皆無。
セズァン側の被害実態は正確には掴めてはいないものの、壊滅状態にあることは間違いない。
馬を下り、武器を捨てて投降を願い出た者を除き、五体満足でいられる者はいなかった。
シャハール部隊の突入による戦闘での犠牲者の数は、それほど多くはない。
セズァンの身柄確保までの時間が短かったこともあるが、混乱をきたした騎士に戦うだけの能力も意思も失われていたということもある。
これは、セズァンの率いる部隊が軍としてまともに機能していなかったことによる、逆説的な功であると言えるかもしれない。
セズァンの行った、この無謀な戦闘による犠牲者の数は、丘陵の斜面を駆け下り襲撃を実行したさいに、しくじって馬とともに転がり落ちた犠牲者が最も多いであろうと思われる。
後々のことを考慮すれば、この戦闘に参加した騎士達を捕虜にすることなく戦闘による犠牲者として墓穴に送り込んだ方が都合がよいのだが、あえてシャハールはそれを避けた。
そのことに関する裁量は、ウィバーンから一任されていたので、どういう判断を下そうと、それが戦闘の間に起きたことならば問題になることはない。
シャハールは捕虜にした上で、セズァンとともに裁判を受けさせる道を選んだのである。
ロウラディアの法廷がどのような判決を下すのかはわからないが、セズァンも含めて死罪になる可能性は薄いであろう。
徹底した実行主義に傾倒したロウラディアの新法は、犯罪者が犯した具体的な行為に対してのみ刑が確定される。
逆に言えばやろうとしていた、というだけで処罰されることはないし、政治的な思想の違いを罪に問うような法も存在してはいない。
だから、他の国と違って政治犯というものは存在しないのである。
反乱罪はさすがに存在してはいるが、今回の襲撃の規模、実際に受けたロウラディア側の損害が皆無であるということ。
そういうことを考慮すれば、殺人未遂の主犯と実行犯として扱われるのが適当であろう。
しょせん、セズァンが思い込んでいたほどには、たいした事件にはなりえなかったということなのである。
もっとも、そうなるようにシナリオを書いた人間は存在するのだが。
なんにしても、これでセズァンが服役を終えて出所してきたとしても、最早その影響力はなくなるだろう。
身分はともかく、サーフェレス=ナァ=セズァンという人物に対する評価は地に落ちることになるからだ。
糧を得るために働いたこともない彼らが、再び自由を取り戻したとき、この世界で生きてゆくことができるのか……。
まぁ、そこまで気にかける義理などはない。
シャハールは、それまでゆっくりと歩かせていた馬を、少し早めた。
「以上が、だいたいのところです」
シャハールがそう言った。
ちょうど、今回の戦闘における報告が終わったところである。
目の前では、ウィバーンが仮設の机に向かい、いつものように執務を続けている。
シャハールはウィバーンの幕僚に入って相当たつが、仕事をしていない姿を見た記憶がほとんどない。
「ご苦労さん」
ウィバーンがシャハールの方を向きながら、軽くねぎらいの言葉を口にする。
軽く頭を下げてその言葉を受けると、シャハールはすぐにウィバーンに質問をした。
「それで、どうするつもりです?」
何のことかは言わなかったが、ウィバーンにはそれで通じたらしい。
「渓谷の上で見学していた連中のことだな……ほうっておくさ」
あっさりと、ウィバーンはそう結論づける。
ただ、口元にはなんともいえぬ笑みが浮かんでいるのを、シャハールは見逃さなかったが。
実際のところ、ウィバーンがこういう表情をしてみせるということは、めったにないことであった。
鎧が見つかった渓谷を部下に登らせた。
その報告によって、そこには数人の足跡とともに馬車の轍《わだち》が残されていたということがわかったのである。
どの跡も新しいものであったが、渓谷の上は森になっており、視界も利かず徒歩で馬車の後を追うというのも無謀であると判断して、部下達は全員引き揚げてきた。
セズァンを罠に誘い込むさいに、渓谷の上が木々の生い茂る台地になっていることを利用して、シャハールは部隊を隠した。
部隊の数が極めて少数であり、指揮官であるセズァンが自分の計画を読まれているという可能性そのものを否定していたこともあり、シャハールの部隊を見逃してしまう。
今度はその状況を、さらに有効に利用した者がいた。
もし逃亡者を追跡しようとしたら、追跡部隊は渓谷の裏側に回り、そこへと続く道を探さなくてはならない。
不可能ではないだろうが、困難を極めることは容易く予想しえた。
ウィバーンが聞いたのは、それを行うのかということであったのである。
もっとも返答は、聞く前からわかっていたのだが……。
そこで戦闘の様子を見学していた者は、ウィバーンの張り巡らした計略をすべて把握していたはずだ。
そんな連中を、捕らえることはまず不可能だと考えていい。
ウィバーンでなくとも、敵となれば手強い相手になるであろうことは想像がつこうというものである。
「あせることはないさ。彼らの目指す場所は一つしかあるまい」
ウィバーンはそう言うと、また仮設の机に向き直り、
「今度の大会の楽しみが増えたな、将軍」
そう言葉を付け加えた。
シャハールはその背に向けて頭を下げながら、
「そうですね。後は本戦での相手に期待いたしましょう」
そう言った。
「では、私は報告書の整理がありますので、これで失礼します」
そう言い残し、シャハールは相変わらずのみごとさで退出する。
外に出た直後、待ち構えていたかのように伝令が寄ってきてシャハールに封書を手渡した。
「誰からだ?」
受け取りながらシャハールがそう言うと、伝令は緊張した面持ちでフェッツ商会からだと伝えた。
フェッツ商会は、今度のことでは、民間の商家に過ぎないとはいえ、少なからず重要な役割を果たした。
それに武闘大会の企画運営にも、フェッツ商会は大きく関わっている。
一体どういう類の内容かはわからないが、このタイミングで寄越してくるということ自体に心引かれるものがあった。
シャハールは無造作に封を破り、中に入っていたものを確認する。
それを見て、シャハールは声をあげて笑った。
「ははは。シン流の漢が来るか、俺にも楽しみができたな」
封書の中に入っていたのは、書類である。
それは、今度の武闘大会に出場する、全参加者の名簿であった。
これまで決まっていなかった、補欠枠すべてが埋まっていた。
その中に一人の漢の名前を見つけたのである。
直接面識はないが、東方のシン流という流派の名は知っている。
その流派はこの地上に誕生して以来、一度も敗れたことがないのだという。
そして、その流派は常にただ一人だけに受け継がれてきた。
その話を知る者は少ない。
だが、シャハールが修めたシエイ流のように、二千年を超える歴史を持つ流派の中で、師範以上の実力の持ち主の間では、伝説のように語り継がれてきた話である。
その伝説の流派の名を、その中に見つけたのである。
そしてシャハールは、流派の隣に付記された名前を頭に刻み込んだ。
イヴァン。
それが、シン流の伝承者の名前であった。
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「まぁ、そんなとこだろうな」
目の前の通りを、サイレンを鳴らさずパトライトを点滅させたパトカーが通り過ぎてゆくのを、ぼんやりと見ながら高田が言った。
「そんなとこって……なに?」
濃ゆいお茶を、ずずっとすすり上げながら、一斗が尋ねる。
「そりゃあ、あれだよ、あれ」
何が楽しいのか、遠ざかってゆくパトライトを目で追いかけながら、にやけた顔で高田がそう主張する。
「あれって、近日中に君の葬儀を執り行うってこと?」
お茶の入った紙コップの中を覗き込みながら、一斗はあれに適当な言葉を代入してそう聞き返す。
「ちげーよ。親友を勝手に殺すんじゃねぇって。あれっつったらあれに決まってんだろ」
パトライトが見えなくなってしまって、少し哀しげな表情になった高田は、なおもそう主張する。
「まいったな。あれが、葬儀じゃなかったら、火葬場の手配のことかな? だいぢょうぶ、僕がちゃんとやっとくから」
残り少なくなってしまったお茶を少し哀しそうに見つめながらも、いかにも頼りになりそうな感じで、一斗がそう保証した。
「おりゃあ、そんなこと言ってねぇだろ? それによう、秋月。だんだん話が生々しくなってきてねぇか?」
よほどパトライトが恋しいのか、パトカーが過ぎ去った方向をじっと見つめながら、高田は一斗に対して苦言を呈した。
それに一斗は、しごく簡単に答えた。ほんの少しだけお茶をすすりながら。
「あれなんだから、合ってるんじゃない?」
「あれはあれで、あれじゃないあれなんであって……あれ?」
高田は自分の言うあれと一斗の言うあれの違いを説明しようとして、挫折した模様であった。視線は町の景色の中を不特定にさまよっている。
何を探しているのかはともかくとして、あれとあれの違いを説明しようなんていうことは、高田でなくても不可能である。
通常ならば説明を試みる前に、そのことに気づきそうなものだが。
頭をぐりぐりと動かしながら、高田もようやくそのことに気づいたらしい。
あれへのこだわりを捨てて、別な話題を提示する。
「そんなことより、秋月。こんなことやってると、まじでヤバイぞ……自分でも、わかってんだろ?」
そう言いながら、高田は小さな紙袋を一斗に向かって差し出した。顔はなぜか上に向けている。
「ありがとさん。……まぁ、ね。でも、今はちょっとくらい無理しなきゃなんない状況でね。正直、感謝してるよ」
一斗は右手で紙コップを保持して、左手で小さな紙袋を受け取りながら礼を言った。
「それにしても、君が医者の卵になろうとはねぇ。君の悪運の強さには、本当に驚かされるよ」
公立医大への入試試験。前日のヤマ賭けに総力をあげ、見事に的中させた。
それはもう、想像もつかないような偶然であり、その合格発表の知らせを聞いて誰もが我が耳を疑った。
「いやー。我ながら、あの時は驚いたよなぁ。まさか本当に合格するなんてのは、想像もしてなかったからな。犬も歩けば棒に当たる……ってやつ?」
あちこち染みのある白衣を着た高田を、一斗は一瞬あきれたように見つめたが、すぐに思い直したように言った。
「使い方はでたらめだけど、微妙に合ってなくもないところは、たいしたもんだよ」
一斗の言葉もまた、それなりに微妙な表現であった。
「いやぁ、あらたまって褒めてもらえるっていうのは、少々照れくさいもんだなぁ」
一体何を見つけたのか、空を見つめたまま、うれしそうに自分の頭を撫で回し高田が言った。
今のを褒めてると思える感性は、ある種の才能なのかもしれない……と、最近になって一斗は思うようになっていた。
もちろん、高田本人にそのことを伝えたことはない。
言ったところで自覚症状がないのだから、理解することは不可能だろう。
「君の患者にも、君の悪運がとりついてくれることを祈るよ」
紙コップに残ったお茶を少しばかりすすった後、そう言った一斗の言葉は、微妙に投げやり気味であった。
運を天に任せるなどという行為は、あまり一斗の趣味に合う行為とは言いかねる。
だが一斗としては、今のところ他にどうしようもない、ということも確かなことであろう。
たとえその患者というのが、遠まわしに言った一斗自身のことであったとしてもだ。
「だいじょうぶ。まかせとけって!」
とくに根拠もないのに、しわしわの白衣を着た医学生は自信たっぷりにそう言った。
一斗よりもひとまわり以上も大きな体を、ふんぞり返らせているのは、果たして自信の現れかそれとも背中を仰け反らせて上空を見ているためのなか。
はっきり言って一斗にとっては、どちらでも一向にかまわないことなのだが。
「で、何回分?」
一斗は唐突に話を切り替える。これ以上この話題を継続したところで、何一つとして実りある会話につながらないことは歴然としていたからだ。
「五回分だな」
高田は限界ぎりぎりの格好で上を向いたまま、一斗の質問に素直にそう答えた。
いささか理解しがたい性格の持ち主ではあったが、良くも悪くも裏表のない人間なのである。
「少ないね」
一斗がそう不満を口にすると、高田は両手を大きく広げ空中の何かをかき回すようにぐるぐると振り回し始める。
上を見ながらそうやっている姿は、アブナイ新興宗教のお祈りのように見えなくもない。
「おいおい、秋月。こんだけ手に入れるために、俺がどんだけ苦労したと思ってんだよ!? 助教授にお前のことを話しても相手にされなくって、結局教授にまで泣きついたんだぞ……」
その時の苦労話を、高田はさんざんまくし立てる。もちろん上を見上げながらだ。一体誰に向かって話しているのかも、謎である。
一斗はそれを、真剣な表情で聞き流した。どうせ見てはいないとわかっていたとしても。
そして、高田の話が一段落ついた頃合いをみはからって声をかける。
「そりゃあ、苦労をかけたね。ありがとう」
とても汎用性に富んだセリフであった。話の中身なんて関係なくなるくらいに。
「なぁに、わかってくれたらそれでいいってことよ」
痛くなってきたのか首筋をとんとんと叩きながら、鷹揚《おうよう》に高田がそう答える。
裏表なくえらそうな感じではあるが、一斗はまるで気にしなかった。
単にえらそうなだけで、特に害はない。
「そうそう、それから相島教授によろしく言っておいてね」
エンプティに近づきつつある紙コップを再び覗き込みながら、一斗は高田にそう伝言をたのんだ。
「あれ? なんで、お前が教授の名前知ってんだ?」
めずらしいことに、一斗の言動に疑問を感じたらしく、高田は不審げにそう聞いてくる。
「この前電話で、ちょっとした頼み事をしたから、それでね……」
知っていると、一斗は言った。
「ほんと、話のわかる教授で助かったよ」
さらに、一斗はそう付け加える。
その話というのが、公にできる類のことではないことは言うまでもないだろう。
「へぇ? 知り合いだったのか? それならそうと言ってくれたらなぁ……」
もっと気楽に頼めたのによ、と口の中でぶつぶつ言った。
どうやら、一斗がした頼み事の内容までは、気が回らないようである。
少し考えたなら想像がつきそうなものだが、それを斜めの方向に外すところが高田らしいと言えた。
「まぁ、すんだことだし、いいんじゃない?」
一斗がそう言うと。
「そりゃま、そうだな。すんだことだもんな」
高田はとってもあっさりと納得する。
基本的には過ぎるくらいに、いいやつなのだ。
ただ単に、他の人間とは精神的な構造に相違が見受けられるというだけのことである。
だからこそ、中学時代から一斗と付き合い続けていることができるのだろうが。
「で、ユウリちゃんはなんで来ねぇの?」
望遠鏡でも覗き込んでいるつもりなのだろうか。
掌で作ったわっかを片目に当てて空を見ながら、いきなり高田は一斗にそう質問してくる。
「なんでって……わかってなかったの?」
あっけに取られたように、一斗が聞き返すと。
「わかってるって。ユウリちゃんに内緒だからなんだろ?」
今度は反対側の目で覗き込みながら、高田はいきなり正解を答えてくれた。
そしてまたすぐに、さっきの質問。
「でもさ、なんでユウリちゃんは来ねぇの?」
さて、ここで一つ問題になった。
高田の脳内では、どうやら今の会話は矛盾せずに繋《つな》がっているらしい。
ところが一斗にとっては、高田の言動はかなり理解しがたいものがある。
しかたがないので一斗は、適当な返答をしてやることにした。
「高田が会いたがってるって伝えとくよ」
イマイチまともな会話にはなっていないが、たぶん高田の場合これでいけるはずだ。
長い間腐れ縁を続けて来た者として、一斗には半分くらいは自信があった。
「おっ、わりぃーな、秋月。ユウリちゃん、ちょー美人だからなぁ。たまには感動ってもんを味わわねぇとなぁ。ついでに、おめぇの病状を詳しく説明しとかなきゃいけねぇしな」
高田には、内緒とか秘密という概念が理解できないのかもしれない。
生まれつきの、いわば高田病とでもいうような特殊な病気で、不治の病なのであろう。
一斗は小さくため息をつきながら、そう理解しようと決心した。
高田本人はともかくとして、そう考えた方が一斗の健康上都合がいい。
ストレスは万病の元なのである。
「一つ忠告していいかな?」
一斗の言葉に、初めて高田が反応して顔を向けようとする。
ただし動きの方は、かなりぎこちない。
油の切れたからくり人形のように、派手に音を立てて動かないのが不思議なくらいだ。
もっとも、首からの代わりに口から派手に雑音が漏れてはいたが。
「いてっ、いてててっ、いてってって……」
その雑音とともに、時間をかけて高田はなんとか一斗の方を向き直る。
微妙に顔の向きがズレているのは、最後のひとひねりするための痛みに耐えるよりは、微妙にあっちの方を向いていることを選択した結果であった。
もちろん一斗は、そんなことなどまったく気にしたりはしない。むしろ、歓迎すべきことであった。
高田の顔を正面から見たところで、いいことなどこれっぽっちもないからである。
「なんだよ? 忠告ってのは?」
どうにか痛みに耐え抜いた高田は、その影響のためか、めずらしく普通にそう質問をする。
「何を見ているのか知らないけど、ズボンのこともたまには見てあげたほうがいいと思うよ」
一斗の言葉に、しばし悩ましげな表情をした後、高田はまた首をぎしぎしと動かしながら、自分のズボンの前を見る。
「おわっ? なんじゃこりゃ?」
高田が驚いたのも無理はないだろう。
ズボンの前がぐっしょりと濡れている。ちょうど、ズボンを穿いたまま用を足したらそんな感じになるだろう。
だが、高田にはそういう趣味はないし、そもそも用を足したという記憶すらなかった。
なぜこんなことに? というのが、高田の受けた第一印象であった。
不思議そうな表情をしている高田に向かって、一斗は限りなく答えに近いヒントを出してあげる。
「君の持っていたお茶はどこにいったの?」
それを聞いた高田は、自分の両手を眺めてある物がなくなっていることに気づいた。
固まっていた首を、ぎぎぎと動かし、苦痛と戦いながら足元を見てみると、そこには一斗が握り締めているのと同じ紙コップが転がっていた。
それを確認した高田は紙コップを指差して、一斗の質問に答える。
「ほれ、こんな所にあったぜ」
それを聞いた一斗は考える。
こういうのも、親切の範疇に含めるべきなのだろうか? それとも、自作自演として処理すべきなのであろうか?
普通に考えれば、間違いなく自作自演と見なされるであろう。
ただ、高田の場合は間違いなくそのことに気づいていない。
だから、純粋に親切心から出た行動だと断言できる。
非常に際どい判断を要する、微妙な問題であった。
ただまぁ、そんなことの真理を追究したところで、一斗の心の中の虚しさは増大するだけなので、とっとと問題点を指摘してやった。
「で、中身はどこにいったんだい?」
端的でさすがに勘違いしようのない指摘に、
「そりゃあもちろん……」
そう言いかけて、高田は言葉を詰まらせた。
コップの中身の行方を思考中である。
そして、右の拳《こぶし》で左の掌をぽんと叩く。
どうやら気づいたようだ。
「そうか、いつの間にか飲み終わってたんだな。気づかなかったぜ」
ようやく腑に落ちたという、晴れやかな表情で高田が言った。
それを聞いた一斗は、あきれたような顔なんてしなかった。
高田とは長い付き合いだ。斜め四十五度方向を向いている高田の精神構造は、よく知っている。
それでもなお、一斗の想定の範囲外の反応である、ということには変わりないが。
まぁ、しょせんコップの中身が高田のお腹の中に消えようと、高田の股間に消えようと、一斗にとってはあまり違いはないので適当に答える。
「そうだね」
その一言ににじみ出ているなげやり感が、そこはかとなく苦労をしのばせた。
もちろん高田は、そういった瑣末《さまつ》な出来事にこだわるような男ではないので、気づくことはなかった。
一斗の脳内分析に基づけば、高田にとってこの世の中の出来事のうち九割は、瑣末なことに分類されるらしいのだが。
ちなみに、その分析が正解である場合の効果は、一斗がより一層虚しくなるだけのことだろう。
あまりろくなもんとは言えそうもない。
まぁ、一斗が虚しくなったところで、どうということもないであろうが。
「それとなぁ、一斗。そんなもんじゃ、そんなに長いことごまかしきれねぇぞ」
高田が言った。
いきなり、というよりは脈絡なく話を変えてきた。
これは高田の得意技である。
ただ今の状況では、そのことが都合がよかったりする。
これ以上虚しい会話を続けていくのは、いささかうんざりしていたところであった。
「大丈夫だよ。君にとばっちりがいかないようにするからさ」
一斗は高田に向かって、そう保証する。むろん、リップサービスというやつであった。
「本当だろうな、秋月? ユウリちゃんって超絶美人で、おまけに見かけ可愛いけどさ……。俺はお前より長生きする予定だからな。そこんとこ、よろしく頼むぜ」
高田は自分の未来像についてそう語った。
「もちろん。まかせてよ」
一斗はまた軽く請け負う。
リップサービスだけならば、一斗はいくらでも気前よくなれるのだ。
「俺のためにもさぁ、マジ頼むよ」
と高田がのたまわった。
さっきから、俺のためにしか話してはいないのだが、そこに突っ込んであげるほど、一斗はお人好しではない。
「うんうん、わかってるって」
そう言って、適当に聞き流しておいた。
「それじゃ、僕はそろそろいくよ」
一斗はそう言って立ち上がりながら、残っていたお茶を、ずずずっと最後まで飲み干した。
すると高田も立ち上がる。
「俺も大学に戻るわ」
そう言った高田の股間は、夜明けの幼児の布団に酷似した様相を呈していた。
「もう少ししてから帰ったら?」
一斗は少しだけ迷ったが、忠告だけはしておくことにする。
「なんで?」
やっぱりというか、案の定というか……高田の返答は、一斗の予想していたとおりのものであった。
「乾いてから……いや、ごめん。なんでもないや」
言いかけて、一斗はやめる。
「なんだよ? おめぇって、つくづくへンなやつだよな」
あきれたように、高田が言った。
一斗はそこはかとなく力の抜けた笑みを浮かべながら、
「たぶん、君から見たらすべての人間が、そう見えるんだろうね」
ため息の代わりにそう言った。
「なんで知ってるんだ?」
少し驚いたような高田のセリフを聞いても、一斗は自慢したくなったりとかは微塵もしない。
「まぁ、あれだからね……気にしなくていいよ」
高田の質問をテキトーに受け流すと、疲れたような風情のまま別れを告げる。
「じゃ」
それを最後に、一斗は手にした紙コップを近くのゴミ箱に放り込むと、高田に背を向けて歩き出した。
高田も手にしていた紙コップを、なぜか大切そうに白衣のポケットにしまうと、一斗が歩き出したのとは反対の方角に向かって歩き始める。
反対側から歩いてきた人が、驚いたように高田の股間に目を留めてから、気の毒そうな視線を高田に向ける。
高田と視線が合うと、バツが悪そうに目を伏せてそそくさと横を通り過ぎてゆく。
ただ本人だけが、まったく気にかける様子もなく歩道を闊歩《かっぽ》していった。
イヴァンは極めて慎重に歩いていた。
普通に歩いていても、足音を立てるようなことはないのだが、自分のすぐ横に危険物があるとなれば、さらに慎重にならざるをえないであろう。
ましてやここはリクラーセル通り。
天下にその名を馳せるロウラディアの王都フィールザール。その中でも最大の歓楽街がこのリクラーセル通りである。
昼間は穏やかな人の流れも、いったん陽が沈んでしまえば一転してその装いを変える。
巨大な王都のそこかしこから集まってきた、大人の男や女たちで溢れかえることになるのだ。
道幅はせいぜい六メートルほどしかない。そこに酒に酔っていい気分になった男どもや、そんな男どもの懐を少しでも軽くしようと寄ってくる女たち。それに遠くからやってきた連中が、馬で乗り付けてくるものだから、当然道はごったがえすことになる。
だがそれは日常における夜の話。
いまこのフィールザールでは、中原全体を巻き込む形で一大イベントが開催されようとしていた。
ロウラディア王国主催による、フィールザール武闘大会である。
ロウラディア国内だけでなく、中原全土から出場選手を募っている。
彼らはいずれも、各地で実施された一年に及ぶ予選大会を勝ち抜いてきた強者達である。
本大会で優勝を果たせば、ロウラディアが用意した目も眩《くら》むような褒賞と軍内部での栄達への道。
それに何より、中原最強の漢という栄誉が手に入ることになる。
その瞬間を見れば、孫子にまで話して聞かせることのできる語り草になることは間違いなかった。
そうやって遥々《はるばる》と旅をしてきた人々の他にも、地元の選手を応援するためにやってきた人々もいる。
今フィールザールの人口は、そういった人々でにわかに急増している。
それはリクラーセル通りにおいても例外ではなく、普段ならば目にすることのない子供連れの家族の姿がよく見受けられる。
また、そういった客を目当てに、酒場の店先には露天の屋台が所狭しと軒を連ねており、さかんに道行く人々を客とするべく絶え間なく声を張り上げていた。
人で溢れかえる通りには、どこかで演奏しているらしい陽気な楽器の演奏も、人々の心を浮き立たせるのに大いに貢献している。
この通りを歩いている人々の顔は、総じて晴れやかで、日常では嫌なことやつらいことがあったにしても、この時ばかりは、そういった日々のしがらみをすべて忘れて、このとんでもなく巨大な祭りを楽しんでいたのである。
また、こんな場所にやって来て、いつまでも沈み込んでいたり、何かに思い悩んでいたりすることはそれこそ不可能に近い技であろうというものだ。
イヴァンはそういう、これ以上はないというくらい陽気さに満ち溢れた環境の中で、これ以上はないというほどの危険物と一緒に歩きまわっていたのである。
……いや、それは適切な表現というべきではない。
危険物から連れまわされていた、というのが正確なところであろう。
「ちょっと、イヴァン。ほんっとにこの先で間違いないんでしょうね?」
危険物が通りの喧騒《けんそう》にも負けないくらい、鋭い声でそう聞いた。
危険物の名前はユウリ。
こんな中だというのに、ユウリの目の前の人混みは、まるで見えない何かが誘導しているかのように、自動的に分かれてゆく。
全員がユウリと目を合わさないようにしているところを見れば、見えない何かの正体はおおむね察しがつこうというものだ。
察しがつかないとしても、その前を歩いてみれば実体験できるというものである。
「ああ、たぶんな」
当たりさわりがないように心がけながら、極力短い言葉でイヴァンが答える。
すると、いきなりユウリの足が止まった。
そして、イヴァンよりもだいぶ低い位置にある美貌をいきなり向けてくる。
視線がまるで槍のようにイヴァンを貫く。
「たぶん、ですって?」
愛らしくもドスの利いた声でユウリがそう言った。
イヴァンは幾分か引き気味になりながら、あわてて訂正を入れる。
「いや、絶対《ぜってえ》だよ。絶対間違《ぜってえまちげ》ぇねぇって」
それを聞いたとたん、ユウリは興味を失ったように唐突にぷいっと前を向いた。
とりあえず危機は去ったが、イヴァンは胸をなでおろしたりはしない。
ユウリの全身を取り巻く空気は、沸騰寸前の油のような危険さを漂わせている。
まるで、己が子供とはぐれてしまった雌虎のように、全身の毛を逆立てているように見える。
誰がどう見ても、ユウリは危険物そのもので、自分の身を守るための本能が少しでもあるのならば、こんな危険物と関わり合いたいと思う人間はいないだろう。
その証拠に、道行く人だけでなく、屋台の向こう側から盛んに声を張り上げて客引きをやっている連中も、ユウリにだけは一切声をかけようとはしなかった。
そういう危険物の一番近くにくっついて、一緒に歩いていかなくてはならないイヴァンとしては、正直なところあまり喜ばしい立場にいるとは言いかねる。
ただまぁ、今度のことに関しては、たとえ不可抗力であったとしても幾分か責任を感じているので、イヴァンとしてはただじっと耐えるしかないだろうと考えていた。
まぁ、それって結局これまでの日常とあまり変わらなかったりするのだが……。
「まだ先なの?」
前を向いてズンズンと歩きながら、再びユウリが口を開く。
それに対して、イヴァンは「もうちょい先」と言いかけたのだが……。
いきなり立ち止まってしまったイヴァンに対して、ユウリがいらだった。
昼間一斗はイヴァンと一緒に外出した。昼間なら、いかがわしい店に二人でしけこむ心配もないだろうと、ユウリは好きにさせたのだ。でも、夕方過ぎに戻ってきたのはイヴァンだけであった。
これが逆に一斗だけが戻ってきたのだったならば、ユウリは微塵も心配したりはしなかったであろう。
だが、消えたのは一斗である。一斗が一人で無事にやっていくことができるなどとは、ユウリはこれっぽっちも信じることはできなかった。
当然のようにユウリは怒り狂った。
イヴァンが心の中で評したように、その時のユウリはまさしく我が子を見失った雌虎と変わりがなかったのである。
一斗の行方を突き止めるためには、どんなことでもするであろうし、本能の赴くままに行動する。
少しでも敵の匂《にお》いを嗅《か》ぎ付ければ、反射的に牙《きば》をむく。
ユウリがその背にかついでいる大剣クレイモアは、躊躇なくその相手に向けられることになる。
他のことならともかく、こと一斗の身の安全に関しては、ユウリはまったくリミッターというものを持たなかった。
いささかというか、かなり剣呑《けんのん》というか、ユウリはまるでその状況を改善する必要性を感じてはいない。
ユウリの本能がそうさせている。理屈など通用しない。
そんなユウリが、イヴァンの行動に戸惑った。
イヴァンは、もう長いことともに旅を続けてきた仲間である。またそれ以上に、ユウリの剣技を極限にまで磨き上げた師匠でもある。
天賦の才を有していたユウリは、さらになお、その天賦の才を凌駕しうるほどの修行をイヴァンの下で積んできたのである。
元々の下地はできていたのだが、その技を本当の意味で鍛え上げたのはイヴァンであった。
ゆえに、イヴァンこそがユウリの剣の師匠と言えるであろう。
師匠相手に敬意を払っている様子は、微塵も感じられないとしてもである。
それゆえに、急に立ち止まったイヴァンの行動が、危険を察知したときのそれだとすぐに気づくことはできた。
なのにユウリには、その原因となるものが理解できなかったのである。
ただそれは、ほんのわずかな時間に過ぎなかった。
イヴァンが感じ取ったものを、ユウリもまた感じ取ることができた。
ユウリは心を熱くさせたまま、頭の中は一気にクールダウンさせる。
当たり前ではあるが、戦いの中で冷静さを見失うようではまともな戦いにはなりはしない。
「いってぇ、どういうつもりなのか、そろそろ説明してくんねぇか?」
立ち止まったまま、イヴァンが言う。
それに対する返答はすぐにあった。
イヴァンのすぐ後ろで。
「さすがですね。もう少し、気づかれずに近づくことができると思ったんですが」
その言葉とともにも、声の主がその姿を露にした。
ただそれは、当然なのだが突然出現したわけではなく、そうと認識できるようになったということである。
イヴァンよりも長身で、体の線は遥かに細い。病的と言ってもいいくらいに。
ただし、その容姿は怖いくらいに整っている。それもまた、病的なほどに。
「そいつぁ無理だよ。おまえさんから、やばそうな空気がびんびん伝わってくるぜ」
イヴァンはそう言ったけれども、ユウリにはそんな感じはちっとも伝わってこない。
イヴァンにだけ感じられることかもしれないし、もしかすると単なるハッタリなのかもしれない。
「なるほど、まだまだ僕は修行不足のようですね。今度の大会で直接あたるようなことがあれば、お手柔らかにお願いしますよ」
その男は、やたらと楽しそうにそう言った。
「ったく、よく言うぜ。こっちに隙《すき》があったら、今すぐにでも仕掛けてきそうな面しやがって」
苦笑を浮かべながら言ったイヴァンのセリフ。
ユウリにはそのセリフが真実なのか、どうにも理解できない。
だがその疑問はすぐに解消される。病的な美貌を持つその男の言葉によって。
「やはり恐ろしい人だ、あなたは。大抵の人間は死ぬまで気づかないのですけどね」
イヴァンのセリフは真実であった。
そのときユウリは、今起きている状況。そして、ことの異常さに気づく。
ここは、人で溢れかえっている、リクラーセル通りの中央付近。今も数えるのも嫌になるくらいたくさんの人々が、絶え間なく行き交っている。
その話し声も、屋台の売り子の呼び声もはっきりと聞こえている。
なのに、なぜこうも普通に会話ができるのだ?
立ち止まり、まるで無人の野辺にでもいるかのように、こうして対峙《たいじ》していられるのだ?
まるで、三人が立っている場所だけが、周囲の風景から切り取られて別の場所にでもいるかのように。
ユウリの常識では理解できないような、不思議な出来事であった。
だが、ユウリにとってはそれだけのことでもあった。
不可思議なことは間違いない。目の前に立つ病んだ美貌の持ち主も、不気味な存在であることに間違いなかろう。
今のユウリにとっては、どちらも気に留めるべきことではなかったのである。
だから、言った。
恐れなど微塵もなく。ましてや、遠慮することもなく。
「用はそれだけ? ならさっさと行って。仕掛けるつもりなら、早くなさい」
まるで誘うように言いながら、ユウリは無造作にも見える様子で前に出る。
右手はすでに、背中に担いでいるクレイモアの柄を握っていた。
戦うつもり全開であり、自分の間合いにその男が入ったとたん、ユウリは技を繰り出すだろう。
疑う余地のないくらい、本気であった。
すると、病的な美貌の男はつめた間合いの分だけ後ろに下がる。
「怖い怖い。さすがに僕も、あなた方お二人を同時に相手して、生き延びることができるなんて都合のいい夢は見れない。……とりあえず今日は、ご挨拶ということで……」
ユウリが足を止めても、男はなおもそのまま下がってゆく。
「私の名は、セルゲン=ブラン。この名前、覚えておいてください! それではまた近々お会いいたしましょう!」
その言葉とともに、男……セルゲン=ブランの姿は人の流れの中に消えていった。
「なんだったんだ、ありゃ?」
苦笑を浮かべながら、イヴァンが言った。
男の姿が見えなくなった時点で、周囲の喧騒は元に戻っている。
もう普通に話したのでは、イヴァンの声はユウリには届かなくなっていた。
届いたにしても、ユウリは気にも留めなかったであろうが。
「なにやってんの、イヴァン。さっさと行くわよ」
セルゲン=ブランのことなど、早々に脳内から消去してユウリがイヴァンに呼びかける。
今の出来事などユウリにとって、余計な時間つぶしにしか過ぎなかった。
これ以上つまらぬことで、時間をとられたくはなかったのである。
「そんなに……はいはい、行きますよ」
イヴァンは余計な言葉を飲み込んで、短く返事を返すだけに留めた。
それは、懸命な判断だと言える。
ユウリの視線が、一瞬だけどイヴァンに突き刺さるように向けられたからだ。
もちろんイヴァンは気がつかないフリをして、それをやり過ごす。
そのくらいの芸当ができるくらいには、長い付き合いではあった。
それにしても、早いところ一斗を見つけないと、自分の身が持たねぇなとイヴァンは考えていた。
もっとも探したところで、一斗の都合次第だろうとは確信していたのだが。
どれほどイヴァンが図抜けた身体能力を持ち、他人の動きを予測しうることができたとしてもだ。
一斗がその気になったら、まず止めることは不可能だろう。
なにしろ、他人の心理の死角をついてくるのだ。その裏をかいたとしても、一斗はさらにその裏を読む。
今度のことにしても、人混みに紛れていなくなってしまった、というだけならばイヴァンは一斗を見失うことなどなかった。
そもそも、イヴァンのそばからいなくなることすらも不可能なはずなのだ。
それに昼間は、今よりはだいぶ人通りは少なかったし、なおさら見失うことなんてありうるはずがなかったのである。
まぁ、逆に言えばそれがイヴァンの油断を招くことになったわけであるが。
「ガボの店ね……ここの筋を入ったところでいいのね?」
ユウリが、右手の小さな間道へと移動しながらそう聞いてきた。
「ああ、そうだ。間違いない」
イヴァンはうなずく。確信をもって。
「そう。それじゃ、行くわよ」
そう言うより先に、ユウリはすでにその間道へと歩き始めていた。
イヴァンは黙ってその後に続く。
これからどうなるにしても、一応もうすぐ目的地には着くことができる。
イヴァンが少しだけ、胸をなでおろしてみようかな……なんて考えていると。
間の悪い時というものは、こんなものなのだろうかと悲嘆にくれたくなってしまう出来事が起きた。
「そこの女」
居丈高な声がした。この人混みの中で、馬に跨っている。
たっぷりと金のかかった衣装を身にまとっていることといい、他人の迷惑を一切顧みない神経といい、その明らかに他人を見下した態度といい、どこから見ても典型的な貴族の男であった。
それも一人ではなく、三人。
どいつも似たような、たんまり金の掛かっていそうな衣装を身に着けている。
“あっちゃーっ”
それは、イヴァンの心の中の声である。
口に出さなかったのは、火に油を注ぐ結果になりたくはないからだ。
たとえ火の前には、すでに火薬が山ほど置かれていたとしてもだ。
気分的には少しは楽になろうというものである。
「聞こえなかったのか? そこの女!」
世の中には、たまにこういう人間がいるのである。
虎と猫の区別が付かない、そういう人間が。
これまで猫ばかり相手にしてきていて、世の中には猫しかいないと思い込んでいる。
ユウリは呼びかけを無視して、目的場所へと向かって歩き続ける。
すると業を煮やしたのか、駒に鞭《むち》を入れて走らせユウリの前へと回り込む。
「待てと言っただろう? 何も、取って食おうというわけではない。見れば、平民にしてはよい顔をしている。よって今宵我らの相手をさせてやろうというのだ。それに、報酬ならなんなりととらせよう。めったにない栄誉だぞ、これは」
にやけた、あからさまに嫌らしい顔つきをした貴族の男がそう言った。
一体どういった栄誉なのかは、それで容易く見当がつこうというものだ。
どうやら事態は最悪の方へと向かいつつあるようであった。
このままほうっておくのはさすがにまずい、と判断したイヴァンは行動を起こすことにする。
普段ならともかく、今のユウリが手加減するかどうかははなはだ怪しい。
ましてやユウリの繰り出す攻撃を、この三人の貴族が一合なりとも受けられたとしたならば、それは奇跡と言うべきであろう。
こんな状況で、そんな奇跡を当てにするほどイヴァンとしては気楽にはなれなかった。
イヴァンは独特の足運びで、移動を開始する。
ほとんど足を持ち上げず、滑るように地面の上を動き、早くは見えないのだが、いつの間にか三人とユウリの間に割り込んでいた。
「なんだ、きさまは?」
三人の貴族にしてみれば、突然現れる形になったイヴァンを不審がるのは当然であろう。
ただユウリと一緒に歩いていたイヴァンのことを、それまでまったく気にも留めなかったのは、いささか間が抜けているとしか言えないだろうが。
「ははっ、なんでしょうかね?」
とりあえず割って入ることしか考えていなかったイヴァンは、小さく笑いながらそう答えた。
「汚い戦士風情が、我らを愚弄する気か? ことと次第によっては許さんぞ!」
イヴァンは頭を抱えたくなってしまった。
貴族というのは、だいたいこんなものだと十分承知しているし、許してもらわなくてもイヴァンにとってはあまり大した違いはない。
彼らにイヴァンを傷つけることができるだけの実力も権力もないことは、簡単に見て取れるからだ。
ただせめて、危険を察知できる程度の本能は残しておいてほしかった。
さて、なんと言ってこの場を切り抜けたものか考えあぐねていると、事態はさらに最悪の方へと向けて転がりだしていた。
イヴァンに話しかけてきたのとは別の貴族の男が、突然腰に吊っていた帯剣を引き抜いたのである。
美麗な装飾の施されたタウンソードである。
刺突用の剣《レイピア》ではなく、タウンソードであるというところが武辺の国ロウラディアを偲ばせるが、剣の扱い自体はかなり危なっかしい。
あれではそのうち自分の体を傷つけかねないな、とイヴァンが心配になるほどであった。
訓練はしているのだろうが、真剣を使っての訓練はろくにやっていそうにもない。
実戦経験はおそらく皆無だろう。あれでは、生き延びることができるはずがないからである。
その貴族の男は無謀にも、引き抜いたタウンソードをユウリに向けて真っ直ぐ伸ばすと、宣言するように言った。
「この剣の錆びになりたくなければ、我らとともに来るがよい、女」
その様子を見ていたイヴァンが願ったことは、今すぐに貴族の男が全力で逃げ出してくれということであった。
セリフだけなら、今のユウリは無視するはずだ。だが、正面に立ち塞がったことと、真剣を抜き放ったことは決して無視したりはしない。
予測ではなく、イヴァンはそう確信していた。
それにあと一歩前に進めば、ユウリの間合いに入る。いくらイヴァンの身体能力が優れていたとしても、もう間に合わない。
すっかりイヴァンがあきらめきって、貴族の男のご冥福《めいふく》を祈ろうとしていた時だった。
「おめぇら、何をやってるんだぁ!?」
まるで通りを包む喧騒を吹き払うかのような、大音量の声がする。
ただ大きいだけでなく、地響きを思わせるように体にズシンと響いてくる迫力があった。
声は間道の奥の方から聞こえて来た。ちょうどユウリが向かおうとしていたその先である。
見ると、闇の中に圧倒的な迫力を持った漢が立っている。
左手で大きな酒瓶を持ち、右手はやたらと分厚い胸の辺りをボリボリと掻いていた。
身長はイヴァンとさほど変わらないのだが、横幅と重量感は倍ほどに感じる。
その姿は、まるで筋肉でできている壁のようであった。
そこから圧倒的な存在感が、まるで強風のように叩きつけられてくる。
只者ではない、という言葉はこの漢のために存在するかのようであった。
さっき出会った男とは、まったく正反対の怖さを感じさせる漢であろう。
その漢の登場に、あからさまなまでに貴族の男達はたじろいでいた。
おそらくその漢が何者であるのか、ということを熟知しているのであろう。
「こ、これはゼルワース将軍。このような場所に、一体どのようなご用件で?」
貴族の男の一人がそう言った。
それを聞いて、すぐにイヴァンはその漢が誰であるのかを知った。
セネト=セイ=ゼルワース。シャハール=バッファとともにロウラディアの不敗伝説を支える、猛将である。
万夫不当と称されるだけあって、セネトの勇猛果敢さは中原のみならず大陸全土に鳴り響いている。
いくら貴族の男が体裁を取り繕おうが、格の違いはあまりに明らかである。
「ふんっ。あんたらにはカンケーねぇよ。それより、こんなとこで何してんだぁ?」
口元には笑みすら浮かんでいるというのに、その凄みは圧倒的であった。
ゆっくりとセネトが前に一歩踏み出すたびに、貴族の男達の顔からは血の気が引いてゆく。
たぶんほんとのところは、そのまま逃げ出したいのだろうが、あまりの迫力にうたれてまともに体が動かなくなっているのであろう。
「あ、あ、あなたには、か、か、関係のないことです。ほ、ほ、ほうっておいてく、ください」
貴族の男の声は、おもいきりどもっている上に、声は震えていた。
情けないこと極まりないが、それでも答えられただけでもたいしたものだろう。
だが、セネトにとってそんなことなど、気にかけるようなことではなかった。
「それがそうでもねぇんだよ。そんなモンに乗って、こんな場所にこられちゃ人様に迷惑がかかるってもんだぜ。躾《しつけ》のできてねぇガキは、とっと家に帰ってママンに甘えてるのが身の程ってもんさ……」
そこまで言って、セネトはいったん言葉を切る。
そして獣が牙をむき出しにするような笑みを浮かべ、次のセリフを吐き出した。
「なぁ、ぼっちゃんがたよぅ!?」
吼《ほ》えるような嘲笑である。
これでは並の人間ならば、馬鹿にされていると感じるより、竦《すく》み上がるであろう。
間近で猛獣に吠え立てられた人間は、猛獣がどんな気持ちでいるかなど斟酌したりはしない。
しかもその猛獣が冥界《めいかい》に送り込んだ人間の数は、星の数にも劣らないと言われている。
十分に尾ひれのついた喧伝《けんでん》だが、この漢を前にしてそのことを疑うことのできる者はまずいないだろう。
「あっ……わっ……。す、すぐに帰ります、……お願いします……す、すぐに……」
あやうく馬から転げ落ちそうになった三人の貴族の男達は、自分の馬の首にあわててしがみつきながら口々に意味不明な言葉で許しを請うた。
自分の自尊心を保つための捨てゼリフすら、発することができない。
恐怖心でそんな余裕がなくなっている。
「おい、あんたら。そっちじゃねぇだろ? けぇるんなら、こっちからけぇんな。そんなもんに乗ったまま、表通りを闊歩されたら人様に迷惑じゃねぇか」
慌ててセネトが立っているのと反対方向――リクラーセル通りに向かって逃げ出そうとした、貴族三人。
それを、セネトが野太い声で呼び止める。
びくんと三人の貴族の男達は身をすくませて、馬を止めた。
本来ならばこのまま一気に逃げ出したかったのだろうが、セネトの言葉に逆らってまで行動を起こせる勇気は、三人のうちの誰にもなかった。
馬上で、もうこれ以上はムリというくらい、体を小さく丸めながら、絶対にセネトと目を合わさないようにして、一人ずつこそこそとセネトの脇をすり抜けていく。
もちろん、いったんすり抜けた後は、全力で馬を走らせて闇の中へと消えていったが……。
少し遠くの方で、蛙の鳴き声のような悲鳴が聞こえてきた。
闇の中での全力疾走は、彼らにとっていささか無理があったということであろう。
もっとも、そんなことに関心を払うような人間は、この場にはいなかったが。
三人の貴族の男が去った後、この場における緊張はさらに高まっている。
セネトの正面にはユウリがいる。
ことの成り行き上黙してはいたが、いつでもそのまま戦闘へと移行できる体勢にあった。
セネトほどの漢を前にしても、いささかも怯《ひる》む様子が見られない。
その胆力は恐ろしいほどのものがあったが、このさいさすがにそれはヤバ過ぎる。
一方、セネトの方は……。
「おいおい、そんなおっかねぇ顔で睨むなよ。心臓が止まったら、この先困るじゃねえかよ」
両手を上げて、降参のポーズをとりながら、その筋肉の壁を道の脇にずらした。
「さぁ、これで通れるぜ。どこへなりと行ってくれ」
するとユウリは怖い顔をしたまま、セネトの方を向いて話しかける。
ただし体勢は、いつでも戦いに移行できる備えをとっている。
「お礼を言っておくわ。ありがとう」
いかにも迷惑そうにユウリは言った。
するとセネトは大げさに肩をすくめて答える。
「そんな必要なんざねぇさ。こんなとこにいくつも死体が転がってたんじゃ、祭りが台無しになるんでなぁ」
そう言って笑みを浮かべると、簡単にユウリの首など噛み切れそうな牙がむき出しになった。
なんとも迫力のある……あり過ぎる笑みである。
「やはり、そんなとこね。じゃあ、これでお互い用はないわね」
ユウリはそれだけ言い残すと、もうそれ以上興味を示すことなく、さっきより大股で歩き始めた。
たぶん、今の騒ぎで遅れた分を取り戻そうというのだろう。
もちろんイヴァンも、あわててそれについてゆこうと前へと踏み出す。
正直、今のユウリを一瞬でも一人にしておくのは危険すぎる。
虎を野に放つようなものだ。すでに無謀を通り越している。
早いところ一斗に戻ってきてもらわなくては、様々な危険が生じることになるだろう。
もちろん、ユウリの周囲でである。
イヴァンがセネトの脇をすり抜けようとした時であった。
あからさまに笑いを含んだ声が、いきなり横から聞こえてきた。
「猛獣の放し飼いはよくねぇぜ」
混りっ気なしの猛獣から猛獣扱いされちゃあお仕舞いだな、とイヴァンは思ったのだが……。
一応礼もしたいところであるが、今回はやめておくことにする。
どのみちセネトとは武闘大会で再会することになる。
その時相手がイヴァンのことを覚えているようなら、言葉を交わす機会もあろう。
それでイヴァンはそのまま何も言葉を返さずに通り過ぎた。
「ここで間違いない?」
ユウリがイヴァンを美しくも険悪な目つきで見つめながら、そう確認する。
「ああ、たぶん……いや、絶対まちげぇねぇ」
危ないところで言い直したイヴァンは、大きくうなずいてみせる。
いかにも誤魔化しましたよ、という見本のような誤魔化し方であった。
「……そう、ならいいわ」
ユウリはうろんそうな表情をしながらも、とりあえず受け入れる。
納得していないのは、ありありとわかるのであるが、一斗が戻ってくるまではいかんともしがたいというものである。
ただまぁ、イヴァンとしては一つ確認しておく必要があった。
といってもたいしたことではなく、今後の予定に関してである。
「で、一体どうすんだ?」
しごく単純なイヴァンの質問に対して、ユウリは簡単に答える。
ただしそれは、イヴァンにとっては想定外の答えであった。
「待つのよ」
両手を腰に当てて道の真ん中に、ユウリは仁王立ちしている。
少し遠くに置かれたかがり火に照らされた美しい顔が、ひどく恐ろしげに見えるのは、決して気のせいなどではないだろう。
「待つって、ここでか?」
せいぜい控えめにイヴァンが尋ねると、ユウリは真っ直ぐに前を向いたままイヴァンに答える。
「そうよ」
その一言だけだったが、不動の意思というものが感じられる。
イヴァンはそれを聞いて、こっそりとため息をついた。
ほんの少し前に、ヤバイ状況に陥りかけたというのに、この分ではまだまだ山場は続くかもしれない。
それに、表通りからはずれてるとはいっても、間道を一つ抜けただけの場所である。
喧騒はしっかりと届いてくるし、人通りだって皆無ではない。
トラブルが起こる要因はたんまりと存在した。
そのうえユウリは、トラブルを避けよういう気は皆無。
と、なかなかにいろんな意味で、楽しくなるような状況だったのである。
でもまぁ、考えようによってはさっきまでよりも、だいぶましな状況ではなかろうかとイヴァンは考える。
なにしろ、トラブルへと向けてまっしぐらに突き進んでいくようなことはなくなるのだから。
その考えは、ほんのりとイヴァンの心を楽にしてくれてはいた。
もっとも、それは単なる勘違いに過ぎない。
獲物を求めて出向いていくか、それとも罠を張って待ち受けるのか。
要は単純に方法論の違いに過ぎない。
「じゃあ、ゆっくりと待つことにするわ」
勘違いで、すっかり気楽になったイヴァンが、どこかの店の裏側と思われる、汚い壁に体をもたれかけて、すっかりくつろいだ様子を見せる。
そんなイヴァンを、ユウリは完全に無視して路上の真ん中で仁王立ちしている。
遠くの方でユウリの姿を見かけた何組かの家族連れが、慌てた様子でどこかに消えていったのも、いたしかたないことであろう。
ただまぁ人通りは少ないとはいえ、こうやって道を半ば強制封鎖しているのである。
なんにも網に引っかからないはずがない。
たとえイヴァンが勝手に勘違いしていたとしても、だ。
仁王立ちしているユウリに向かって、まったく恐れ気なく近づいてくる人影があった。
ユウリよりは幾分長身で、遠目からすら、女の香りを嗅ぎ取れそうなほどに妖艶なシルエット。
そして、かがり火のすぐそばを行き過ぎた時、くっきりと浮かび上がったその女の容姿は、ユウリとはベクトルは違えど、同レベルの美貌を持っていた。
女という性を具現化したならば、そういった存在になるのではないだろうか?
見る者にそう思わさずにはおけないほどの妖艶《ようえん》さ。
そして、自分の魅力を最大限に引き立てるように、服やアクセサリー、そして所作の一つ一つにいたるまで、完璧にコーディネートしている。
恐らく同性から見られてどう思われるのか、ということなどその女の思考には一切含まれていないのであろう。
だが、それだけ魔力のごとく、男どもをひきつける。
その全身が男にとっては、麻薬のような女であった。
今まで、じっと仁王立ちしていたユウリであったが、その女を見かけたとたん、その表情が硬く強張る。
もちろんイヴァンは、なーんにも考えずに、その女に見とれていた。
女はユウリのほんの二、三歩の所まで来て、そこで立ち止まる。
向かい合うとびきりの美女が二人。
かがり火の薄い闇の中とはいえど、それは見る者……特に男にとってはなんとも感動的な眺めであった。
それを先に打ち破ったのは、ユウリの方だった。
「何しに来たのよ?」
極めて険悪な感情を隠そうともせずに、妖艶な女に向かってそう言った。
「相変わらずね。そんなんじゃ、いつまでたっても男にもてないわよ」
妖艶な女は、余裕たっぷりな声でそうユウリに言った。
「母さんと違って、何人もの男にもてる必要なんてないのよ」
ユウリは妖艶な女のことを母と呼んだ。
そう、この男を魅了せずにはおかない蜜のような女こそ、ユウリの実の母。イヌイ=サユリであった。
「あらあら、情けないこと言うのね、この娘は。女は男を魅了してこそ価値があるのよ」
普通に聞けば、いささか歪んだ信念ではあったが、サユリの口からその言葉が出るといっそ凄みを感じさせる。
ユウリを別なベクトルで進化させたなら、この母になるのだろう。
実際サユリのためになら、命がけで働こうという男は枚挙にいとまはないであろう。
サユリと出会い人生を狂わされた男達は、計り知れない数にのぼるのかもしれない。
間違いなく、サユリは怖い女であった。
そして真に恐ろしいのは、その先に破滅が待ち受けているとわかっていても、男どもはサユリのために働くことに喜びさえ見いだしているということである。
実の母親とはいえ、簡単に気を許してかまわないような相手ではなかった。
「このさい価値観の違いはおいておくとして、どうして母さんがここにいるのか聞いているのよ」
ユウリは苛立たしげにしながらも、核心から逸れることなくそう言った。
「あらあら。昔はお母さま……なんて言っていたのに、ずいぶんと野趣あふれる女になっちゃったわね。母さん悲しいわ」
むしろ楽しげに、サユリが言った。
ユウリはそれに付き合うことなく、もう一度言葉を繰り返す。
今度はさらに端的に。
「なんで、ここにいるの? 母さん」
ゆっくりと、はっきりと、力強く言ったその言葉は、迫力に満ちていた。
他ならぬユウリの言葉だ、たとえサユリといえどもさすがに無視はできない。
「怖い娘ねぇ……。でも、あたしに聞かなくても、察しはついてるんじゃないの?」
韜晦《とうかい》はやめたにしても、余裕は失ってはいなかった。
というか、いかなる状況であれ相手であれ、サユリが余裕を失うことはありそうにもないのだが。
一方、ユウリの方は明らかに苛立ちを隠せない様子であった。
サユリと違い、あまり余裕は感じられない。
「それでも、母さんの口から言うべきだわ!」
そう言いながら、思わず声を荒らげてしまう。
それを見たサユリは、ふっと笑みを浮かべてこう言った。
「もう少し、精進した方がいいわね、ユウリ。このままじゃ、いつかイットくんの足を引っ張ることになるわよ」
口元には笑みを浮かべてはいるが、その目は笑っていなかった。
めずらしく、サユリは本気でそう言っている。
その言葉に、ユウリは動揺を見せた。
唇をかみ、視線を逸らす。
サユリは余裕の表情でそれを見ながら言った。
「まぁいいわ……。イットくんね、少し用事ができたの。だからこれからしばらくは、あたしがイットくんの代わりよ。……って言っても、今度の大会でのサポートをするだけなんだけどね」
そこまで言って、サユリはいったん言葉を切る。
そして、自分に見とれているイヴァンに嫣然《えんぜん》と微笑みかけて言った。
「と、いうわけでまたしばらくお願いね、イヴァンくん」
急に話を振られたイヴァンは、かくかくとうなずく。
そして、かくかくとうなずきながらふとあることに気がついた。
「えっ……俺のことを知ってるって……」
聞き返そうとして、イヴァンはいきなり気が付いた。
「あっ! あーっ! イヌイ=サユリ……さん?」
かつて、ほんの短い間だったけど、強烈な印象を残して去っていった女性の名前である。
いいように利用された、というのが本当のところであるが。
まぁ、それはともかくとして、今頃気づくというのは、イヴァンらしいと言えた。
「よかったわ。ユウリならともかく、魅力的な男性に忘れられるのは耐えられないわ」
その言葉は冗談のようにも思えるが、案外本心なのかもしれない。
根本的な価値基準が違い過ぎるので、ユウリにはいまひとつ判断しきれない。
何か感動的な再会というものをしているようであるが、ユウリにとってはどうでもいいことであった。
「そんなことより、イットは無事なの?」
結局のところ、ユウリにとってはそのことが最も気になることであった。
何を言われようが、どう思われようが、それを確認するまでは絶対にひくつもりはない。
すると、サユリは自分の娘に明らかに不快そうな視線を送り言った。
「無粋な娘ね。……まぁ、いいわ。イットくんに免じて、ね」
あからさまなまでに、上から物を言うその言い方に、ユウリはムカついたけれど何も言わずに奥歯をかんだ。
頬が引きつるユウリを見て、少し満足したのかサユリはフッと小さく笑みを浮かべ、ユウリの質問に答える。
「もちろん無事よ。……あたしと会った時までわね」
それを聞いたユウリは、反射的にサユリに詰め寄った。
掴みかかりそうな勢いで。
「ど、どういうことなのよ? 母さん! イットは、安全な場所にいるんじゃないの!?」
ユウリの言葉からは、はっきりと動揺が伝わってくる。
「どうかしら? そこまでは、あたしも知らないのよ。その気になった彼の考えを、一体誰が把握しきれると思うの?」
その答えに、ユウリはきつく唇をかむ。
悔しいが、サユリの言葉は正しい。
どんなに脆《もろ》く脆弱《ぜいじゃく》な体の持ち主とは言っても、現にユウリもイヴァンも一斗の行動を止めることはできなかった。
ユウリができることは、何もないかのように思える。
そんなユウリの様子を見て、サユリはめずらしくやさしげに語りかける。
「用件が片付けば、きっと戻ってくるわ。そのくらいは信じてあげなさい。それに、あなたたちにもすべきことがあるのでしょう?」
そんなサユリに、ユウリはきつい視線を向ける。
「イットのことなら、あたしの方が母さんより何倍も知っているわ。あたしはただ……」
ユウリはそこで続く言葉を呑み込んだ。
そして、そのまま踵《きびす》を返すといまだサユリに気を取られているイヴァンに向かって言う。
「何してるの? イヴァン。さっさと宿に戻るわよ。明日は早いんだから」
それを聞いたイヴァンは、ほっと息をつく。
とりあえず一斗も無事だとわかったことだし、ユウリもとりあえず落ち着いた様子であった。
それに、思いもかけずサユリとの再開もあった。
これで、長かった今日も無事に終わりそうであった。
しかし、ずんずんと大股で歩いてゆくユウリを見て、イヴァンは気を引き締める。
あの様子では、まだまだ揉め事が寄ってくる可能性が十分にあった。
そしてそれを剣で解決するのを、ためらったりしそうもない。
本当に宿まで帰り着いて、ユウリがベッドにもぐりこむまでは油断できそうにもなかった。
一斗がいるときは、それなりに気苦労が絶えないなぁと思っていたイヴァンであったが、一斗がいなくなってしまってからの気苦労は、それより遥《はる》かにレベルアップしていた。
イヴァンとしては、自分の心の平安のためにも一刻も早い一斗の帰還を願わずにはいられない。
なぜならば、ユウリのこの危険極まりない状態が、明日になれば改善するなどとはどうしても思えないからである。
天を仰ぎながら、イヴァンはユウリの後を追いかけた。
「ほんっと、困った娘だこと……」
妖《あや》しい微笑みとともにそう呟いて、ユウリはイヴァンの後に続いて歩き始めた。
当然のように、すれ違う男達の視線を一身に集めながら。
その中には、妻と子を連れた男も入っていて、その男の運命がその後どうなったかまでは定かではない。
まぁ、想像力のある者なら、容易に察しはつくことであるが。
この三人は、人々で溢れかえるリクラーセル通りで、いろんな意味で波乱を呼び起こしながら、宿への帰路についたのであった。
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まだ昼間だというのに、その部屋の中は薄暗さを感じさせた。
窓は開放的に開かれており、庇《ひさし》に阻まれて直接陽光が差し込むことはないにしても、明るい日差しは十分に入り込んできているというのに、その部屋の中は薄暗さを感じさせる。
気のせいだと言えばそれまでであろうが、この部屋を訪れた者は、決してそればかりではないということを体感することになるであろう。
壁の染みや、部屋の隅に溜まった埃、ときおり吹き抜けてゆく風はじっとりと湿り気を帯びて、心地よさよりも不快感を感じさせる。
まるでそれは誰も訪れることのなくなった廃墟のようであった。
実際には街なかの喧騒は確実にこの部屋の中に届いており、そのことが示すとおりにこの部屋が隔絶された場所にないことは間違いないのだけれど、ただこの部屋にはそういう現実を寄せ付けない何かが感じられる。
この部屋にとっては、住人がいないことこそが自然であり、一番相応しい光景に感じられる。
もちろんそんなことは、いたって不自然なことである。そもそもそれだと、部屋というものの存在理由が疑わしくなる。
誰かが住むために、作られたものだからだ。
実際そのことをしのばせるものは、この部屋にもあった。
一人寝用のベッドも、テーブルと二脚のイスも、壁側に置かれている箪笥《たんす》も。
いささか古びてはいるが、それでも人が暮らしてゆくために作られて、この部屋に置かれたものであることは、どう考えても間違いはないはずである。
だが、それでもなおこの部屋は、誰もいない状態こそが最も相応しいように見える。
まるで人を拒絶しているかのように。
そんな部屋を、一人の男が訪れようとしていた。
ゆったりとした感じの、平民が着る亜麻色の服を身に纏った男である。
背が高く、肉をナイフで削り取ったかのように思えるほどに細身。
だが時折袖口から覗く腕は、鋼のような力強さを感じさせる。
おそらく、人間からギリギリ限界まで余計なものをそぎ落としてゆけば、この男のような体型になるのであろう。
それだけでなく、この男の歩き方一つとってみても、隙がないというよりは、無駄な動きがない。
この男が何者であれ、只者でないことは、どんなに注意力が散漫な人間にも一目で理解できるであろう。
たとえ平民の服にその身を包んでいたにしても、この男は目立つ存在には間違いなかった。
そんな男が、その部屋を訪れた。
人間を拒絶しているかのように見えた部屋は、なんのためらいもなく不自然なくらい自然に男のことを受け入れていた。
真っ直ぐ部屋の中央まで歩いてくると、男は腕を組み無言でその場に立っている。
すると、部屋の一部がもぞりと動いた。
部屋の隅に潜む影が、そのまま人の形となり動き出す。
実際にはそこにいた人間が、そのまま動いただけに過ぎなかったのだが、気配というより人としての存在感そのものがなかったために、そう感じられたのである。
そのまま侵入してきた男の背後に、すうっと近づいていった。
そして、ある距離まで近づいたときであった。
「ま、待ってくださいよ、旦那」
あせったような声がした。
情けないように聞こえる声であるが、茶化したようにも聞こえる声である。それまで影として行動していた男が発した、悲鳴のようにも聞こえる声であった。
その鼻先には、ゆるく美しい弧を描く剣が突きつけられていた。
妖しく光を跳ね返している刀身には、見事な刃紋が浮かび上がり武器でありながら芸術品のようにも見える。
カタナと呼ばれる剣であった。
一体いつ男がカタナを抜いたものか――そもそも、今までそれをどこに持っていたものか。
いずれにしても、剣先は確実に背後から近づこうとした男の鼻先にあり、次の瞬間にはその男の首を切り落としていても不思議ではない。
普通の人間ならば、すでに死を覚悟していても不思議ではなかっただろう。
だが、剣を突きつけられた男は、口先だけで怯えながら平然とその身を刀身にさらしたまま話を続けた。
「あたしもね、まずいとは思ったんですよ。でも、あんな上玉を目の前にしちゃ、どうにもガマンできなくなってしまいましてね。いや、ホンっと申し訳ない」
その男の口調は真剣に反省してます、とでも言いたそうに聞こえる。
でも、表情その他からは少しもそれが伝わってこない。
できそこないの腹話術師の人形でも、もう少し人間味が感じられるのではないだろうか。
ただその次のセリフでは、それが少しゆらぐ。
さらに人間味から乖離《かいり》する方向へと。
「こんなにおいしそうな上玉は、旦那以外に三人目ですよ。おかげで目移りしてしょうがない……」
ようやく人間味を取り戻した男の目には、あからさまなまでの狂気が宿っていた。
手にしたカタナの切っ先をゆっくりと下げながら、刀身のごとき鋭さを持った男はぼそっと一言だけ口にする。
「人がましいマネをする……」
果たして、それが一体何を意味する言葉なのか……。
二人のやり取りを聞いていた人間がいたとしても、おそらく理解できる者はいまい。
しかし……。
「おや? 何か気に入らないとこでもありました? 旦那ぁ」
表情を除けば、まるでからかうような口調で男が言った。
「セルゲン=ブラン。その名を汚すことがあれば、この私が斬る」
まるで、自分の狂気を見せつけようとしていた男――ブランに背中を見せたまま、カタナを手にした男は短くそう言った。
「ははっ。やっぱり怖いや、旦那は。背筋がぞくぞくしてくる……たまらねぇですよ」
まるで舌なめずりでもするかのような言葉は、内容とは裏腹にまるで挑発しているかのように聞こえた。
すると、旦那と呼ばれた男はゆっくりと後ろを振り返る。
それは、まったく隙だらけの行動にしか見えない。
今、この瞬間に仕掛けたら、あっさりと倒せてしまいそうであった。
だがブランは何かに押されるように、後ろに後ずさる。
「いけねぇや、旦那。誘いとわかってても乗ってしまいそうになりましたぜ」
最低限の間合いだけを確保して、ブランはそう言った。
ブランの言う誘いというのが何であるにせよ、それに乗る気もまた捨てていないということなのだろう。
完全に向き直った男は、無言のまま手にしたカタナを軽く床に向けて振った。
するとチンッという、高い金属音が部屋の中に広がった。
よく見ると、床の上には薄い板状の金属が、二つに斬られて落ちていた。
「このカガキも舐《な》められたものだ……」
その言葉とともに、カタナは床の上から正面左右を、一瞬でなぐように動いた。
部屋の中には、金属音がさっきよりも強く響いたが、それは複数の音が同時に一瞬で鳴り響いたためである。
床の上には、いくつもの薄い金属の板が切り裂かれて落ちていた。
切っ先はまるで何事もなかったかのように、床の上すれすれの位置に戻っている。
「ありゃりゃ。あたしの仕掛けたカードが全滅ですか……迷彩をかけていたのに……なんでわかったんです?」
ブランが仕掛けたカードは、その薄さと硬度から見て、人の肉を切り裂き骨を断つことも容易なはずだ。
もし、そのまま気づかずにカガキが仕掛けていたなら、体中金属の刃に切り刻まれて血の海に沈んでいたことであろう。
カガキと同様、ブランもまた相手の攻撃を誘っていたのである。
「貴様は、ただ見えなくしただけだ。風が流れればそれに逆らい、音がすれば震えもする。わからぬ道理があろうか」
あまりにあっさりとした返答で、常識のようにも聞こえるが、どう考えても余人にマネのできることではない。
「タネ明かし……と言えるかどうかはわかりませんけどね、一応お礼は言っときますよ」
今度は本当に間合いを大きく広げながら、ブランはカガキにそう言って軽く頭を下げる。
「……己が役割を全うすることだけを考えろ」
まったくブランの言動に耳を傾けることなく、カガキはそれだけを言い残すと入り口のドアを目指して歩き始める。
そして入り口の近くで、カタナを一閃すると小さな金属音がして、床の上に二枚になった金属がストンと落ちた。
ブランの最後の仕掛けは、最も油断しているその瞬間を狙ったものであった。
ただ、カガキにはまったく通用せず、足止めの役割すら果たすことはできなかった。
そのままカガキが部屋の外に出ると、手にしていたはずのカタナは何処にも見当たらなかった。
「…………」
ほんの一瞬だけ、名残惜しそうにカガキの去った後の入り口を見ていたブランだが、すぐに部屋の隅へと移動して床の上に直接座り込む。
そこはカガキが訪れる前と同じ、人を寄せ付けぬ部屋に戻っていた。
耳が痛くなりそうなほど、その酒場は強烈な喧騒に包まれていた。
罵声や歓声が飛び交い、そこにいるだけで鼓膜が破れないか心配になりそうなほどである。
むろんそれだけではない。
店中に喧騒に相応しい熱気が渦巻いている。
片手に酒の入ったカップを握り締め、もう片方の手でコブシを振り回し叫んでいる男達。
口々に歓声をあげ、そうでないときには手にした酒をあおって、喉を湿らせる。
アルコールを燃料代わりにして、男達は再び声援をあげるのだ。
そんな男達は一つのテーブルを囲むように取り巻き、他のことには目もくれず、歓声とともに熱い視線を送っている。
そんな男達から締め出される形になってしまった酒場の女達が、遠巻きに、手持ち無沙汰にしていたが、男達の中で目をくれようというものは一人もいなかった。
そんな酒場に、一人の男が訪れた。
鎧の代わりに筋肉をその身に纏ったような男で、ただそこにいるだけで圧倒的な存在感と、肉食の獣が発するような圧倒的な強靭さを感じさせる。
一応腰にブロードソードを吊っているが、そんなものを使わなくとも、簡単に人を捻《ひね》りつぶしてしまえそうであった。
ロウラディアに住む……いや、中原に生きる人間なら誰もがその名を知っている。
セネト=セイ=ゼルワース。
この国の将軍である。
セネトは入り口から、その取り巻きの男達を見ながらカウンターへと移動する。
その途中セネトを見かけた女達が、すぐに寄ってこようとしたが、まるで子猫でも相手にするように片手でシッシと追い払う。
女達は、未練たっぷりにセネトのことを見ながら、しぶしぶと離れていった。
「よぅ、おやじ。いってぇ、この騒ぎの元はなんだい?」
セネトが近づくと、すっかり薄くなってしまった頭髪の代わりとばかりに、口ひげをいっぱいに蓄えた初老の男が答える。
「へへっ。今ね、将軍の記録に迫ってる野郎がいるんでさ」
そう言いながら、酒場のおやじは、他の男達のカップより優に一回りはでかいカップに、なみなみと注いだ酒を差し出した。
注文もしないうちに出てきた酒を、当然のように受け取りながらセネトが聞き返す。
「ほう? そいつぁ面白れぇ。今、何人目だ?」
その質問に、酒場の親父が答えようとしたまさにその時。
店の中が、よりいっそうの歓声に包まれる。
喜びの声。あるいは、悲鳴のような声。
「おっ。ちょうど、十一人目との決着が付いたようですぜ」
試合を取り巻いていた、男たちは一時的にばらけてゆき、それまで隙間なく囲まれていた酒場の中央にあるテーブルが見て取れた。
そこには、セネトとタメを張れるくらいの体格を持った男と、それなりに立派な体格はしているが、いたって普通の男が向かい合って座っていた。
普通の男は肩を落とすように力なく右腕をさすりながら、イスから立ち上がろうとするところであった。
よほどすっぱりと負けたらしく、その姿から悔しさのようなものは感じられない。
むろんセネトが注目したのは、その男のことではなく、今もテーブルについたままの男の方である。
体格はセネトとほぼ同じくらい。筋肉のつき方や、厚みも甲乙つけがたい。
だが、漂う雰囲気はセネトと比べればむしろ穏やかなくらいである。
顔つきも見た目だけで相手を畏怖させることのできるセネトに比べて、整い洗練されたものを感じさせる。
だがセネトは、そういった見た目など気にしてはいなかった。
その男の根っ子の部分は、おそらく自分と同類であろうと見て取っていた。
自分が座ったイスに、一見無造作に立てかけているように見える剣がそのことをはっきりと物語っている。
分厚く幅広の、装飾を一切排除した剣は、まさしく戦うためにのみ存在する剣である。
長く使い込まれているその剣からは、戦いの匂いが色濃く漂ってくる。
それも、そこらの兵士達が持つ戦場の匂いではない。
もっと、ぎりぎりにまで研ぎ澄まされ、輝くばかりに磨き上げられた鋼。
おそらく己の力量と同等か、それ以上の相手との戦いばかりを繰り返して来た者の持つ剣であろう。
そういった者は、華麗さでもなく、銘でもなく、最も長く付き合いともに戦い抜いた剣を最高の友とする。
己の限界を超えたところに勝利があるような戦いの中で、最も信頼できる得物はともに戦い抜いてきた剣。
どれほどの業物であろうと、昨日今日手に入れたばかりの剣に己の命を預ける気にはならない。
そしてセネトの見るところ、無造作に立てかけてあるあの剣は、その男にとってまさにそのような剣であろうと推察する。
ただ、セネトが今わかるのはそのくらいのものであった。
これから先は、セネトが自分で直接確かめるつもりであった。
いつまでも推測ばかりしていたところで、話にならない。
正面に座っていた男が退いた後、空いていた席に、取り巻いて見学をしていた男達の中から、左手に酒瓶を握った男が座った。
それほど悪くはない体格ではあったが、先ほどの男よりは明らかに体格的にはほっそりとしている。
ただ筋肉のつき方からして、少し前まで座っていた男より劣っているということはないであろう。
その男が座ったとたん、すぐに男どもはテーブルの周囲を取り巻き、その男達の間を逆さに持った帽子と、板切れに黒炭を持った男が二人してちょろちょろと動き回る。
その男の持った帽子の中に金を放り込むと、賭け金を帽子の中に放りこんだ男は勝者を予測して、それを賭け金の回収係が板切れに書き込んでゆく。
セネトは取り巻きの男達の中に交じり、見学を決め込むことにする。
勝ち続けている男は、ゆったりと座ったまま自分の両腕を無造作にテーブルの上に置いて、相手の準備がすむのを黙って見ている。
焦れた様子も、疲れた様子もまったく見当たらず、ただそこに座っているだけだ。
表情も無表情というのではないが、うれしそうにしているわけでも、相手のことを威圧しているわけでもない。
言うなれば、あくまで自然な表情。
そこらを歩いている人間が、普通に浮かべているであろう、そんな表情である。
一方、その正面に座ったばかりの男は、明らかに対照的であった。
右腕を左手でせわしく擦ったり叩いたりしながら、右手を小刻みに動かしている。
それだけではなく、掌を握ったり開いたりしながら、自分の中にある緊張感をどんどん高めていっている。
そうしながら小刻みな呼吸を繰り返し、ときおり思い切り息を吸い込んでそのすべてを吐き出すという呼吸法を繰り返している。
自分のテンションを高めつつ、程よく緊張感を抜いているのだと見てとれる。
かなり、戦いなれをしている。間違いなく、その男は強敵になるだろう。
セネトはそう判断を下した。
この勝負はアームレスリング。
一見、力だけの勝負に見えるが、その中にも技というものがある。
無論、力がなくては話にならないが、力が拮抗《きっこう》すれば当然勝敗を決めるのは技の差ということになる。
相手がシロウトであった場合は、相当な力の差があったとしても、それを埋めて勝利をもぎ取ることもできる。
新たな挑戦者となった男は、セネトの目から見て明からにアームレスリングの訓練を相当積んでいるように見えた。
掛け金の回収係がセネトのところまで来たので、セネトはまずは聞いてみる。
「あの、でけぇ男は誰だい?」
セネトの質問に、銅貨がぎっしり入った帽子を手にした男が、セネトの耳元に顔を寄せて答えを返す。
「カゼルでさ、旦那」
それを聞いたセネトは、目線で先をうながす。
「さっきので十一人目、今座った男が十二人目ですぜ、旦那。これまでは圧倒的な力で勝ち進んできたんですが、さすがのカゼルも今度ばかりは分が悪いですぜ」
薄笑いを浮かべながら、回収係の男がそう言った。
セネトは肉食獣が牙をむき出すときのような、迫力のありすぎる笑みを浮かべて質問を追加する。
「賭け率は幾らだ?」
すると、回収係の男は言葉で答える代わりに、指を二本立ててそれを右にすっと動かした。
「一対十二かよ……。当然、カゼルが一なんだろ?」
牙をむき出しにした笑みを浮かべたまま、セネトがさらにそう聞くと。
「へへっ、そうなんでさ」
セネトの迫力をものともせずに、卑屈な笑みとともにその男はそう答える。
その答えは、セネトが予想していたとおりのものであった。
いろいろとセネトに情報を吹き込んだのは、あまりに賭け率が一方的になってしまい、このままでは賭け自体が成立しなくなりそうだからだろう。
無論セネトはそのことについて、一言も触れることなく、腰に下げた袋から銅貨を一枚取り出すと、男の持つ帽子の中に放りこむ。
「カゼルにだ」
セネトの言葉を聞くと、回収係の男はしぶい笑みを浮かべて答える。
「まいどどうも、旦那」
期待はあっさりと裏切られる形になった。それが表情には表れているのだが、さすがにそこまで馬鹿正直に言うはずもなく、セネトの名前と賭け金を書き留めると、そのまま次の客に向かって誘いをかける。
「えへへ、お客さんはついてる。今がチャンスですぜ……」
すぐ横で調子のいい説明を始めた男に、それ以上注意を払うことなく、セネトは再び机の上の戦いを控えた二人の男に注意を戻す。
セネトはカゼルという名の男に賭けたが、実際には試合を見ていたわけではない。
だからどちらが勝つという確信があったわけではないのだ。
ただセネトは、この試合が終わった後、自分が戦いたい方に賭けた。
自分と同等の体格を持ち、長年にわたり使い込まれた剣を持つ男と、どのような形であれ手合わせしたいと願うのは、ほとんど本能のようなものである。
それに加えてその物腰は、静謐《せいひつ》にして力強い。
セネトの知る中で近い感じの漢として、シャハール=バッファ……銀のシャハールがいるが、見てくれがあまりによすぎるので華麗さの方が際立っている。
カゼルという名の男の持つ力強さは、華麗さとは相対する位置にあるものに感じられる。
だが、それも見かけからの印象に過ぎず、実際に手合わせしないと確信は持てない。
そのためにも、直接手合わせしてみたいと、セネトは思っていた。
ただそれは、強そうな相手を見ると闘いたいと感じる、セネトの本能がそうさせているのかもしれない。
いずれにしても、それはカゼルという名の男が今度の挑戦者を退けた後の話ではあるのだが。
そうこうしているうちに、賭け金の回収が終わったらしく、帽子を持った回収係の男が賭け名簿の書かれた板を頭上で振って合図を送る。
すると、カゼルと挑戦者の男が向かい合っているテーブルの脇に、一人の男が進み出る。
レフリー役の男である。
それを見て、まずカゼルがゆっくりとテーブルの上に右手を差し出し、どっしりと肘《ひじ》をついた。
そのまま掌を広げて構えを取り、そのまま微動だにしなくなる。
挑戦者の男は、逆に慌ただしい動きを加速させながら、目の前に置かれた太い腕に素早く自分の掌を重ねた。
そして、構えを取る前に一回呼吸を沈めて、今度はゆっくりと左手でテーブルの端を捉まえて構えをとる。
これで、両者の準備は完了した。
レフリーは両者の目を片方ずつ覗きこみながら、確認をとる。
「準備はいいか?」
まずは、挑戦者の男から。
「いつでもいいぜ」
かなりテンションを上げながらも、落ち着いた様子で挑戦者の男がそう答えた。
次に、レフリーは同じ質問をカゼルにもする。
カゼルは言葉の代わりに、深くうなずいて返事とした。
机の上でがっちりと握り合わされた二人の腕の上に、レフリーを務める男の掌がゆっくりと置かれる。
それを見た取り巻きの男どもの間からは、ざわめきが消える。
「レディ……」
間が空いて、
「ファイッ!」
掛け声とともにレフリーの掌が離された。
同時に店内は、さっきとは比較にならないほどの歓声に包まれる。
己の金がかかっているのだ、冷静でいられるはずもないが、それだけではないだろう。
この勝負に対して、純粋に入れ込んでいるのだ。
店内に留まらず、通りにまで轟くような歓声の中、いきなり仕掛けたのは挑戦者の男であった。
腕を倒しにいく前に、いったん腕をずらして相手の腕を巻き込みながら、自分の方へと引き込もうとした。
手首の返しを使い、てこの軸をずらすのと同じ理屈で、相手の腕をより下の場所で受け止めようとしたのだ。
普通ならただ手首を捻りこむだけなのだが、腕全体を動かすことでより自分に近い位置に相手の腕を引き込むことができる。
相手の腕を少しでも自分の方に引き込みながら、力点を支点の方へとずらしてやるのだ。
ほんの僅かにずらすだけでも、力を限界まで振り絞るような戦いでは決定的な違いになる。
それが技というものであり、だからこそ修練というものが意味を持つ。
なにもそれは、アームレスリングに限ったことではない。剣技においても同様で、実戦において剣を振る何千倍もの回数を振り続けることで、初めて勝利をもぎ取ることが可能となる。
才能という言葉はあるが、修練に勝る才能はない。
それがセネトの持論であった。
もっとも、才能も修練も凌駕しうる強靭《きょうじん》さを持った相手ならば別であるが。
そして、カゼルという名の男は、明らかにそういう男であった。
カゼルに挑む男は、自分が持てる技を駆使して挑みかかり、そのたびに少し押し込んでゆく。
だが、決定的な勝利にまでは繋がらず、徐々に盛り返される。
それは挑戦者の男の技が未熟であるゆえではない。
カゼルの地力が挑戦者の技術をしのいでいるからである。
戦いにおいて全力で戦うことができる、ということはそれだけですごい修練を必要とする。
血が滲むほどの修練を積んでも、全力で戦うということは難しい。
全力で戦っていてなお、相手をわずかに凌ぐことのできうる力というものは、修練だけで身に付けることは困難である。
精神的に不安定な者では、安定した戦いはできず、当然余裕も生まれない。
全力でなお余裕を持ちうるというのは、その人間の精神の強さを物語っている。
そういう相手は、本当に恐ろしいのである。
勝利を確信した瞬間、自分が敗者になっている。
どれほど自分が有利に戦っていようと、そいつが堪えている間は、絶対に勝利はありえない。そう考えるべき相手であるということだ。
そして、その堪えきれるということが、すなわちそいつの地力の高さということになる。
そんな人間は、ただひたすら修練や、実戦を潜り抜けるだけでは生まれない。
自分と同じレベルの相手と、全力で戦い続けることで初めてそうなることができる。
どれほど強かろうが、一人では絶対に無理なのだ。
それはちょうど、セネトにとってのシャハールがそうであったように。
技をしのがれた挑戦者は徐々に盛り返され、元の位置にまで押し返されようとしていた。
その時だった。挑戦者が再び動く。
押し戻されながら、次の技を繰り出す準備を進めていたのだ。
自分の体勢をすこしずつ右に寄せ、押し戻されるのを利用しながら、肘をずらしてゆく。
その結果、自分の体と右手の肘の距離を変えることなく、カゼルの肘は少しずつ伸びてゆくことになった。
ほんの少しずつではあったが、それでも指三本分くらいの距離は動いていた。
そうしておいて、挑戦者は一気に自分の肘を相手の懐へと入れてゆく。
カゼルの腕はこれで、腕が前方へと伸びてしまい、代わりに挑戦者の腕は自分の懐へと引き込む形になった。
圧倒的に挑戦者にとって有利な体勢になる。
そのまま、テーブルの端を掴んだ左腕に、さらなる力がこもる。
挑戦者は自分の位置的優位を利用して、カゼルの腕を一気に押し込んだ。
挑戦者は存分に力を込めることができるが、対するカゼルは腕に思うように力を込めることはできない。
当然のように、それまで一進一退を繰り返していた腕が急激に動きを見せる。
頂点にあった二人の握りこぶしは、一辺に傾きカゼルの右手の甲はテーブルの上に叩きつけられそうになった。
誰もがこの時、カゼルの敗北を確信したことだろう。
カゼルの腕を一気に押し込んだ男もまた例外ではなかった。
それこそが、挑戦者の最初で最後、そして最大のミスとなった。
最後の止めを急ごうとするあまり、肘がわずかに浮いてしまったのだ。
それを、カゼルは見逃さない。
わずかにできた隙間に自分の肘を奥深く差し込み、自分がやられたのと同じ体勢を逆に自分が作りだした。
あと数ミリで勝負は決まっていたはずであった。
しかし、気が付けばカゼルが圧倒的に有利な体勢を作り出していた。
伸びきった挑戦者の腕を、そのまま焦ることなく確実に反対側へと向かって倒してゆき、最後の技をなんとか繰り出そうとする挑戦者を最後まで寄せつけることなく、有利な体勢を維持したまま相手の手の甲をテーブルに押し付けた。
いつしか取り巻きの男達の間に、途切れていた声が戻った。
賞賛の声が歓声となり、酒場の中を覆い尽くした。
向けられたのは、カゼルだけにではない。
惜しくも敗れた挑戦者にも、惜しみない賞賛の声が与えられた。
セネトから見ても、今の一戦は賞賛に値する戦いであった。
その証拠と言っていいのだろう。強敵となった対戦相手は、悔しがるよりむしろ全力を出し切って戦いぬいた喜びに満ちている。
カゼルの前の席を立ち去るのに、いささかも未練は感じさせない様子であった。
しごくあっさりと、取り巻きの中に消えてゆく。
取り巻いてこの戦いを見ていた男達は、立ち去る挑戦者に短い賞賛の言葉をかけた。
それが、唯一この敗者に与えられる報酬ではあったが、普通ならば決して与えられることのない報酬であった。
今のは、それほどの勝負であったということなのである。
取り巻いている男達の興味は、次は誰が挑戦者となるのか、すぐにそのことに移った。
ただ、誰が言い出すわけでもなく、店内の男達の視線は自然に一箇所に向けられる。
もちろんそれは、セネトであった。
直接言葉をかけてくる者はいないが、その視線はまるで示し合わせたかのように同様の意思を明確にセネトに投げかけてくる。
期待と言い換えてもいいのだろう。
見てみたいのだ、誰もが。
もはや賭けとかとは関係なく、純粋に勝負そのものに対する熱い期待。
セネトとカゼル、この二人が戦うところが見たい。
今の勝負に酔いしれた男達が、もしかするとそれ以上の戦いへの可能性を感じ取り、それに期待を抱いた男達は固唾《かたず》を呑んでどうなるのか見守っている。
この状況では、すでにセネト以外の挑戦者が現れたところで、納得する者はいないだろう。
セネトはそのことをはっきりと感じ取ってはいたが、今は対戦するつもりはなかった。
カゼルは戦い過ぎている。
本来ならば、戦いというものは勝てる可能性のある相手とするものであるが、生来の性分なのかセネトは勝てる可能性が低い相手ほど熱くなれるという、非常に困った性格をしていた。
だから、明らかに疲れているであろうカゼルという男とは、万全な時になんの気兼ねもなく戦ってみたかったのである。
だがそれも、カゼル本人から視線を向けられるまでのことである。
挑発というのではない。
ただ一つの意思を示している。
戦う意思。
戦場で強者から向けられるものと、まったく同じもの。
それを見て、セネトは初めて動いた。
どのような状況であれ、自分が認めたほどの男が戦う意思を示したのである。それを忌避する心を、セネトは持ち合わせてはいなかった。
セネトが前へと足を踏み出すと、自然と男達が後ろに下がり道ができる。
その道を進みながら、セネトは右の肩を大きく回したり、腕を伸ばしたり引いたりしながら、筋肉をほぐしてやる。
やるとなったなら、手加減などするつもりはない。また、手加減などできる相手でもなかった。
掛け値なし、全力でのぶつかり合いとなる。
カゼルの正面に立ち向かい合うと、はたから見ていたときの何倍もカゼルという名の男の肉体の中に秘められた、たぎるような力がひしひしと感じられた。
セネトは我ながら厄介な癖だとは常々思っているのだが、それでも自然と口元に笑みが刻まれるのを抑えることはできなかった。
うれしさもある。これほどの強敵と相見えること、そして実際に戦うことができるのだ。
セネトにとっては、無常の喜びである。
だがそんなことを表情に出す必要はない。たとえばシャハールならば、顔色一つ変えたりはしないであろう。
戦いの中で、表情豊かというものはあまり褒められたことではない。
心理を読まれて不利になることはあっても、有利になることはありえないからだ。
だが、カゼルの口元にもセネトと同じような笑みが浮いていた。
セネトはそれを見てとり、やはりこの男は自分と似ているという確信を深める。
取り巻きの男達も、一刻も早くと願っていたのだろう。
カゼルがセネトと向かい合っていくらもたたぬうちに、レフリー役の男が進み出てきた。
すでに集金は終わり、賭けは成立したのだ。
一体レートがどうなったのか、ということには少し興味もあったが今はそれよりもっと楽しめそうなことがある。
セネトが右手を出すと、まったく同じタイミングでカゼルも腕を差し出してきた。
テーブルの中央で二人の腕が自然に組み合い、二人の男の視線がぶつかりあう。
カゼルは沸騰寸前の水のように、熱いまま静まりかえっている。
セネトもまた雲に隠れた真夏の日差しのように、その力を見せてはいない。
二人の力はその体内にたわめられて、時が訪れるその瞬間を待っている。
レフリー役の男の両手が、組み合った二人の両手の上にかぶさった。
周囲の男達の間から喧騒が急速に引いてゆく。
時は今まさに、満ちようとしていた。それを、感じ取っている。
全員が固唾を呑んで見守っている中、始まりはむしろ静かであった。
レフリーの両手がすっとはずされる、ところがはずされた位置そのままに、二人の腕はまったく微動だにしない。
もちろん、二人が手抜きしているというわけなどではない。
そのことは、二人の勝負を見守っている男達が一番よく知っている。
動きのまったく見られない二人をじっと見守ったまま、しわぶき一つたてようとはしない。
極限まで緊迫した時の始まり。
二人の男の腕は、筋肉の筋一本一本すべてが彫り抜かれたように、くっきりと浮かび上がっていた。
強大な二つの力を一身に受け止めているテーブルだけが、ときおりミシッと音を立てる。
そのたびに、観客の間に緊張がはしるが、実際には二人の男の腕は最初の位置からまったく微動だにしていない。
さっきの戦いとは、まったく対照的な戦いであった。
技の応酬がさっきの戦いであったのならば、今度のそれは力と力のぶつかり合い。
拮抗した巨大な力は、とてつもなく緊迫した静かな戦いを見せていた。
これほどの純粋な力。いつまでもそれを維持できるはずなどない。
やがて、どちらか片方の力が先に尽きる時がやってくるだろう。
その瞬間、勝負は一瞬でつくことになるはずであった。
誰もがその瞬間を見逃すまいと、全神経を集中させている。
両者の力は完全に拮抗し、その額に滲む汗が白熱した両者の戦いを物語っている。
完全に体力勝負のこの状況では、すでに何度も勝負を繰り返してきたカゼルの方が圧倒的に不利なはずなのだが、まったくそれを感じさせることはない。
極限の状態で拮抗した力は、おそらく誰もが予想していなかった形の結末へと勝負を導いた。
アームレスリングをするために用意されていたテーブル。
派手な音とともに、木製のテーブルは砕け、床の上に飛び散った。
組み合ったままの右手と、砕けた木製のテーブルの端を握った左手。テーブルのなくなったその場所で、二人の男は彫像のようにその場に立っていた。
あまりにすさまじい決着にまともに声を上げる者すらいない。
我が目を疑う。
おそらくは、そういう心境なのであろう。
二人の男は、同時に左手に握っていた少し前まで、テーブルだったものを床の上に落とす。
さらに組み合っていた右手を解いた。
「つよいな、あんた」
先にそう言葉をかけたのは、カゼルの方であった。
「お前さんが疲れてなければ、どうなったかはわからないがね」
セネトはそう答える。
すると、カゼルは顔色一つ変えることなく、こう答える。
「気にする必要はない。戦いに臨めば、常にそれが俺の全力だ」
その言葉にセネトは深くうなずいた。
「そうだな。それに、敗者に言い訳は必要ではない」
そう言った言葉に、カゼルも深くうなずき返した。どんな理由があったにしても、負けたという事実は同じである。
「そういうことだ」
やはり、自分とこの男とは似ている。そう確信を深めながら、セネトはそう答えた。
そのままセネトは言葉を重ねる。
「ここでの決着は付かなかったが……出るんだろ?」
質問の形はとっていたが、それは確認と言える。確信していたからだ。
シャハールと違って、出場者名簿に目を通しているわけではないが、セネトが心底から戦ってみたいと思う相手はそうはいるものではない。
今度の戦いは全国から予選を勝ち進んできた強者ばかりだが、それでもそんな相手はそう多くはないであろう。
自惚《うぬぼ》れではなく、セネト=セイ=ゼルワースと互角に戦いうる相手というのは、そういうことであるのだ。
カゼルはセネトの言葉に当然のようにうなずくと、
「俺や貴公が途中で負けなければ、いずれ戦う機会もあるだろう」
そう答える。
「ほう? 謙虚だな、あんた」
揶揄《やゆ》するように、セネトがそう言うと。
「貴公以外に少なくとも一人は、戦って勝てるかどうかわからん相手が出場するからな」
その言葉に、セネトの口元がほころんだ。
「そりゃあ楽しみだ」
短く本音を吐露すると、セネトは再び喧騒に包まれた店の中を見渡した。
空いているカウンターの席を見つけると、そこにカゼルを誘った。
「どうだい、一杯? おごるぜ?」
セネトの誘いを、カゼルはすぐに断った。
「すまんが、連れがいるんでな。少々長居し過ぎた」
その言葉が別れの合図となる。
出口に向かうためにカゼルがセネトの脇をすり抜けていった。
「大会で会おう」
その言葉を一つ残して、カゼルはそのまま店から姿を消した。
セネトはカウンターに向かう。
せっかく酒場に来たというのに、酒の一杯も飲まずに立ち去るというのでは、あまりに虚しい行為であろう。
後に残された男達は、また新たな試合を始めようとマッチメイキングを始めているが……。
明らかに熱気が失せている。
それに、取り巻いていた男達の数も、カゼルの姿が消えたとたん、潮が引くようにさぁっといなくなっていった。
さっきの戦いを見ていた男達にとって、これから先の戦いは楽しめるものではなくなってしまっていたのだ。
残った男達は、競技ではなく賭けで持ち金を増やしたいという連中ばかりである。
カウンターに向かうと、この店で金になりそうな男を拾おうと、店の片隅でたむろしていた女がすぐに寄ってきた。
普段ならば来る者はこばまない主義であるのだが、それを片手でしっしと犬の子でも払うような仕草で追い払う。
今夜は、一人で飲みたかったのだ。
とても楽しい戦いができた。
ぞくぞくするような漢に出会えた。
さらにこの先、それほど時間を置かずに、相見えることができるかもしれない。
それも、次に戦うときには剣を取っての戦いだ。
気分が高揚している。
この気分を、誰にも邪魔されたくはなかったのである。
その夜、万夫不当と呼ばれた漢は、一人で祝杯をあげた。
闇が世界を支配していた。
月も星もない、もちろん太陽もない真の闇。
その闇を切り裂く一筋の光。
ただ世界の広さに比べ、あまりにその光は心もとない。
それでも、今この闇の世界に存在する光は他にないので、この世界を進むためにはこの光に頼る以外にない。
「本当にこの道で間違いないのかい?」
唯一の光源となるライトを手に持ち、慎重に前方を照らしながら男がそう言った。
わずかばかり漏れてくる明かりに照らされた顔は、卓越した美貌に彩られていた。
「大丈夫、まかせて」
闇の中で、地図を片手に握り締めたひどく小柄な男が、短く答える。
すると、
「そろそろ、大丈夫という言葉も聞き飽きたんだけどね、イット」
その絶世ともいうべき美貌に、苦笑を浮かべてそう答える。
「そこらは仕様ということで納得しといてよ、コウ」
絶世の美男子の正体は、レフ=コウ。小柄な男の正体は、秋月一斗《あきづきいっと》であった。
二人は今、星の明かりすらもない、完全なる闇の世界にいた。
コウの手にしているライトは、小型のアルコール燃料電池を使ったサーチライト。
集光性が極めて高く、LEDを使用したライトは少ない消費電力で明るい光を提供してくれる。
優れた技術の産物ではあるが、それでもこの世界を見渡すためにはあまりにちっぽけであった。
足元から明かりを当てていって、その先へとライトを向けると前方に薄ぼんやりと大きな建物が建っているのが見て取れた。
歩いて、せいぜい五分くらいの距離である。
ただそれだけの距離しかなくても、ライトに映し出される建物のシルエットは、薄ぼんやりでしかない。
正確に調べるためには、すぐ目の前にまで歩いて行って確かめる以外に方法はない。
そうやって二人は、目的とする建物を見つけるために、ずっと闇の中を歩き回っていたのである。
「私としては、君の仕様がどうあってもかまわないのだけど、せめて目的地には辿り着いてほしいと願っているよ」
コウの手厳しいというより、あからさまなまでに投げやりな様子に、一斗としては少々思うところがあるらしく一言言い返した。
「運がよければ辿り着くよ」
「…………」
さすがにコウも、この返事にはコメントしきれなかった。
開いた口が塞がらないという諺《ことわざ》を実践させられた。
そのまましばらくは、二人とも無言で進む。
ライトの有効範囲は極めて小さいが、それでも歩きにくいというわけではない。
二人が今歩いている道は、特殊な素材でできており、石ころどころか染み一つない、光沢さえ持った平面な道路である。
歩きにくさなど、闇の中であるということを除けばどこにもない。
ただ、どんな好条件の中だろうと例外なのが一斗である。
二人が無言で進むと、一斗の義足の立てる音が、カッチャン、カッチャンと辺りに響く。
そして、時折ガチャン!! という大きな音が聞こえてくる。
それが一斗が何かにつまずいたときの音である。
つまずくための要素がなんにもない場所でも、つまずくことができるのは一斗の昔からの特技であった。
その特技が義足というオプションを装備することで強化された。
本人にとってはともかくとして、一斗のそばにいる人間にとってはとても痛い仕様である。
この場合、コウにとってなのだが。
なぜなら、転びそうになった一斗を抱きとめるのは、コウに課せられた使命のようになっている。
倒れても、特に一斗は気にしないだろう。気にするのは、コウであるからだ。
自分の目の前で、怪我などされてはたまらない。
一斗はダチである。
性格にはいささか難はあるものの、コウにとって最高のダチであることに変わりはない。
どんな美女に言い寄られるより、こうして一斗の言動に振り回されることになっても、二人でつるんでいる方がよっぽど楽しい。
一斗といる限り、絶対に退屈することなどありえないし、それに想像もしたことのない未来を見せてくれるという確信がある。
今ではコウの身辺警護を担うチームのリーダーとして働いているグリフ伯は、一向に妻を娶《めと》るどころか特定の女性にも関心を示そうとしないコウのことを心底心配している様子であるが、今のコウにとってそのことを考えると、ひどく気が重いものでしかない。
こうやって一斗に付き合っているのも、一つにはこうしているとそのことを完全に忘れられるからだ。
たまに思い出したにしても、一斗とともにいればそのことはさほど気にならない。
トウア連邦はまだまだ基盤が脆弱で、自分や一斗なしにはまともにたちゆかない状況にあり、本来ならば執務の苛烈さは想像を絶するものがあったであろう。
だが、一斗のやっていた人材の登用と配置は絶妙で、誰か一個人に過剰な負担がかかることのないように組織を組み上げていた。
それは、トウア連邦の終身王たるレフ=コウにおいてもまた同様であった。
人は死ぬのだということを前提として組織作りをやっていて、その扱いはコウに対しても同様であった。
ゆえに、どれほど仕事に忙殺されているように見えても、定期的に休暇を取ることができ、毎日するべき仕事も、決して一人だけに集中しすぎないようになっている。それは、いざというとき他の誰かで代役が務まるか、あるいは間をつなぐことが可能であるということであった。
今こうして、一斗に付き合う時間を取ることができたのも、そういう背景があるためであった。
たとえ、いかなる場所においてもいきなりこけるというはた迷惑な仕様があったとしても、一斗とともに過ごす時間はとても楽しく、それゆえに貴重でもある。
もっとも、一斗がコウをなんの目的もなく誘うようなことはないということは嫌になるくらい承知しているので、ただ浮かれているわけにもいかないのではあるが。
そうこうしているうちに、二人はライトの射程距離内になるまで一斗の目指す建物に近づいた。
非常に短い射程距離のライトの範囲内でしか確認できないものの、その建物はコウが生まれてから見た中で、もっとも巨大な建築物のように見受けられる。
少なくとも現在のトウア連邦内には、今見ている建物より巨大な建物は存在していないはずである。
「すごい建物だね」
闇の中に完全に呑み込まれてしまっている頂上を見上げながら、コウはそう感想を漏らす。
「マントルを貫き、D層と地表とを繋ぐ超深深度エレベーター。かつては、そのまま軌道エレベーターに直結していて、宇宙にまで達していたんだ」
そう言いながら、一斗はライトを上空に向ける。
もちろん、極めて貧弱な射程距離しかないライトでは、たいして上空まで届きはしない。
「君の言っていることの意味は、少しもわからないけど。とてもすごいということは、見ただけでも十分わかるよ」
コウは一斗の説明に、そう答えた。
もちろん一斗がコウにわかると思って説明したわけではない、ということは承知していたのだが、それでもこれほど巨大な建造物を目の当たりにしたら、何か言わずにはいられなかったのだ。
「たぶんこれは、人類が生み出した建築物の中で、最高の技術を持って作られたものだろうね。こうして見ると、本当にすごいよ」
一斗にしてはめずらしく、素直に賞賛の言葉を口にした。
「そうだね」
この建物がどれほどすごいのか、恐らく半分も理解できてはいないのだろうが、それでもコウは心の底からうなずいた。
「で、これが目的の場所だったのかい?」
感慨にふけるのはひとまず置いといて、コウはそう質問をする。
どちらかといえば、こっちの方が大切なはずだ。
「アハハハ……」
質問に対して、一斗は乾いた笑い声をたてる。
さすがにコウも、その理由を尋ねたりはしなかった。
「どうやらこれも、違うようだね」
コウのこの言葉は、そのものズバリの指摘であった。
「どうやら僕は、ちょっとしたミスを犯してたみたいだよ」
なにやら一人で納得したという表情で、一斗がそう言った。
「へぇ?」
コウとしては、ぜひそのミスの内容を知っておきたかった。
「この超深深度エレベーターは、目標の反対側にあったんだ」
一人納得したかのようにうなずきながら、一斗が答える。
「もしかして、それって今来た道を引き返さなくてはいけないってことかい?」
他に考えようもないのだけれど、あえてコウはそう尋ねてみた。
答えはわかっているにしても、それなりに心の準備というやつは必要なのである。
「そのとおり。ほんとに些細《ささい》なミスだったよ」
一斗は少しは反省しているようにも見えなくもない、非常に微妙な様子でコウに答える。
それに対して、コウは少しばかりの疑問を口にした。
「これって、些細なミスなのかい?」
それは、普通の人間としての感想だろう。
いささか控えめに過ぎるようなきらいはあるが。
それを聞いて、一斗はライトを今来た方に向ける。ほんのりと先の方が明るくなった。
「最初、こっちの方に向けて一歩を踏み出すはずだったんだけどね」
その後、今度は反対側。超深深度エレベーターと言った建物へとライトを向ける。
「それがなぜか、こっちの方へと最初の一歩を踏み出した……ちょっとしたミスだよね、ほんと」
うんうんとうなずきながら、一斗は一人で納得している様子だった。
コウとしては、色々と思うところもあったけど、今さら何を言っても虚しいだけなので、適当にうなずいておいた。
「はいはい」
一斗はあからさまに、どうでもいいような返事を微塵も気にすることもなく、元気に……とは程遠い様子で、義足をカッチャンコ、カッチャンコと鳴らしながら元来た方角へ向かって歩き始めた。
コウもそのすぐ後に続く。
さっきも到底速いとはいいかねる速度だったのだけれど、今はずっと遅くなっている。
それに、こける頻度がさらに頻繁になってきた。
こけ対策のために、一斗のすぐ後ろに付けているコウであったが、それでも一向に気が抜けなくなってきた。
一斗のやった些細なミスは、コウにとっては単なる時間の浪費に過ぎないが、一斗にとってはなけなしの体力を削り取ることになってしまっていた。
一番速くて安全な対処法としては、コウが一斗を背負っていくことであろう。
一斗と一緒に来たのがコウではなくて、ユウリだったなら、有無を言わせずそれを実行したことだろう。
だが実際にこの場に一斗とともにいるのは、ユウリではなくコウであった。
コウは確実で手っ取り早い方法を知ってはいたけれど、その手段にはちょっとした問題点が存在していることを承知していたからだ。
それは、たとえばユウリ辺りならば、些細な問題だと笑い飛ばしてしまうことだろう。
けれど、コウにはあっさりと無視できない。
同じ男として、実感できるからである。
プライド。
いくら限りなく最低ランクを競うくらいに、極限の体力のなさを誇っていようとも、確かに一斗はそれを持っている。
自分の足で立って歩けるうちは、意地でもコウに担がれて運ばれることを嫌がるだろう。
聡明というよりは、隔絶した感のある一斗の頭脳で、状況判断がつかないはずはないのだが。
それでも所詮、一斗は男である。
己の肉体に対する自負は、絶対にある。
それなりに理解は示してくれているように見えても、ユウリは最後のところでわかってはいない。
結局のところ女なのだ。
一流と呼ばれる剣士でさえ敵わないほど、強靭な技と力を身に付けている。
その上、実の兄であるコウの目から見てさえ、ユウリはかなり魅力的な女性である。
だからといって、いつもいつも助けられてばかりいる一斗が、なんとも思っていないはずなどないであろう。
ユウリがどれほど一斗のことを大切に思っていようと、いやそうであればあるほど一斗の心情は忸怩《じくじ》たるものがあるはずだ。
男として、コウはそのことを共感できる。
ユウリのように頭でわかっているのではなく、どういうふうに一斗が感じているのかをわかってしまうのだ。
だからといって、コウがどうにかできることではない。
それはコウだけではない。誰にもどうしようもないことなのだ。
一斗は死ぬまで、このことを抱えて生きてゆくしかないのである。
そのことを一番よく知っているのは、誰よりも一斗のはずだ。
だからこそ、一斗はユウリにもそういったことは話したことはあるまいと、コウは確信していた。
ただ歩くという行為でさえ必死になるしかない一斗のことを、ただ黙って見ていることしかできない。
もちろん、突然こけた時のさりげないフォローについては別にしてだが。
カッチャンコ、カッチャンコと歩く一斗に向かってコウは、そういうこととは関係のない話を切り出す。
「そろそろ、話してくれないかな? ここは一体どこなんだい?」
それはとても大切なことだった。
本来ならば、ここに来た時にすぐ聞いておいてしかるべきことだったかもしれない。
ただコウは、あえて一斗から話してくれるのを待っていた。
コウは、嫌になるくらい一斗という漢を知っている。
なすべき時に、なすべきことができる漢である。
最も相応しい時に、話してくれるであろうことをコウは知っていたからだ。
それでも、あえてコウは今、この話題を持ちかけた。
後ろからでは一斗の表情まではわからなかったが、どうやら苦笑を浮かべたらしい。
小さく、息をつく音がコウの耳に届いていた。
「気をつかわせたね……」
規則正しく、カッチャンコ、カッチャンコという足音を立てながら一斗は小さい声でそう言った。
おそらく、コウが今この話題を持ち出した理由を、察したのだろう。
コウがその言葉を無視するであろうことを察して、一斗はすぐに次の言葉を続けた。
「ここは、地上からずっと深い場所に作られた避難所さ。地上の生物すべてが死に絶えても、生き延びることができるように……」
そこまで言って、一斗はいったん言葉を切る。
話しづらかったというわけではなく、ほとんど体力がきれかかっているので、息が続かなかっただけだ。
そのことはコウも承知していたので、黙って歩きながら一斗の息が整うのを待った。
「……地上の世界をそっくり真似て作られた、仮想の世界。まるで、世界に滅びなんて訪れてはいないと勘違いできるほどにね」
そう続けた一斗の言葉が辛そうに聞こえたのは、何も肉体的な問題ばかりではないだろう。
コウにはそう思えた。
「今は、誰も住んでいないようだけど?」
コウは自分の目で見て、感じたままのことを口にする。
もっとも、星の光すらない場所で、生きていける人間が存在するというのならば話は別であろうが。
「地上に再び命が満ち始めた頃、こうした仮想の世界の住人は、それぞれに別の道を歩くことにしたんだ……」
一斗は、コウの質問には答えなかった。
それは、この先話す内容が、同時にコウの質問への回答となるからに他ならないからである。
ただ、一気に話すことができないのは、一斗の体力の都合であった。
でも、コウは気長に付き合う。
特に急ぐ必要もない。
何しろ元来た道を引き返すだけでも、長い距離を歩かなくてはならなかったし、そこからさらに先へと……たぶん同じくらいの距離を歩かなくてはならない。
あせったところで、よいことはないのだから。
それに、肝心なのは一斗が少しずつ話してくれるということ。
話すことで疲れきってしまうようでは、本末転倒というものであった。
「ここに暮らしていた人々は、想像を絶するような困難が待ち受けていることを承知で、再び地上の世界で生きてゆくことを選んだ……」
この時、一斗が言葉を切ったのは、決して息がきれたからというだけではなかったろう。
何かに思いを馳せるように、一斗は上を見上げる。
無論そこには、漆黒の闇が広がるだけであるが、一斗の視線はそれを貫いたその先に向けられている。
そんなふうに、コウには見えた。
そうして、次に一斗が話した言葉は、コウにも強い衝撃を与えることになった。
「……それが、コウ。君達の祖先になったんだ」
以前、コウは一斗からこの世界の遠い過去の物語を聞かされていた。
あまりに想像を絶するような、遠い遠い昔の話なので、頭では理解していたにしても、実感としてとらえることは不可能であった。
一万年もの昔、一度世界は滅びた。
そう聞かされたところで、ただそうだったの、とうなずくこと以外に何ができよう。
だけど、この場所でその話を聞かされると、現実感がまるで違った。
見ることができるのは、ほんのわずかばかりでしかないけれど、それでもはっきりとした手触りがあるのだから。
「この場所を見せるために、私をここに連れてきたのか、イット?」
コウがいたってストレートに聞くと、一斗は意外とあっさり答えを返す。
「そうだよ、コウ。君は、ここにあるものを見て、君自身の判断で決めなくてはならないからね」
一斗は、むしろ何でもないことのないように言った。
「ここには、人形を超えるテクノロジーが存在している。それを、君は知らなくてはならない。そして、それをどうするのか、君の責任において決めるんだ」
いつもだ。
一斗は、コウに重過ぎる荷物を担がせようとする。
その中でも、これは一番重たい荷物かもしれなかった。
ただ、どんなに重たくとも、コウが逃げることはないし、そのことを一斗は確信しているから、コウに荷を渡すことをためらうことがない。
「それは、私が知る必要があるということなんだね?」
コウは確認するかのように、そう聞いた。
一斗は今度はすぐには答えなかった。
カッチャンコ、カッチャンコと足音をたてながら、そのまましばらく進み……。
突然こける。
すっかり馴れてしまった手際で、コウが一斗のことを助け起こすと、一斗はコウの腕の中でいきなり言った。
「力がここにある。それも、圧倒的な力だ。それをどう使うのかは、コウが決めなくてはいけない。ただ一つ……」
一斗はそう話しながら、コウの腕の中で真っ直ぐ射抜くように、その瞳を見つめる。
コウは、大切に一斗の弱々しい体を抱き起こしながら、その視線を受け止める。
「これと同程度の力を手にしている相手が存在する。でも、僕はまだその存在を把握しきれてはいない。あのとき、僕はミスを犯した。そのせいなのだけどね。君は、そのことも十分承知した上で、すべてのことを判断する必要がある」
その目は、常に遠くの国々の行く末を見つめ、時にはあらゆることを知り尽くしているようにすら思える一斗。
だが、しょせんは神ならぬ身。
全知全能には程遠い。
すべてのことがうまくゆくはずはないのだ。
そう見えるのは、あらかじめ様々な手を打っているだけのこと。
失敗しないように……ではなく、失敗することを前提として手を打っているのだ。
そうでなければ、トウア連邦は今のように新興国家でありながら極めて安定した国家として存在してはいなかった。
それは、コウがその代表者として確信を持って言えることだ。
ただそんな一斗にしても、完全には手に負いかねる失敗というのも存在する。
たぶん、そういうことなのであろう。
一斗がコウを、この場所に連れてきたということが、そのことを示唆している。
「君のした失敗って、ユウリが戦ったというあの敵のことかい?」
コウはあえて質問する。
その時の話はユウリからも、そして一斗自身からも聞かされていた。
だから、そのことに今の話がつながるのだということなど、たやすく理解できる。
それでも口にしなくてはならないことであった。
それだけ、これは重要なことであるのだから。
一斗もコウが質問するであろうことを予想していたのであろう。
即答する。
「そう。あの時、手がかりを得られるチャンスを逃したんだ。たとえ、唯一ではないとしても、ね」
その後、一斗は後手に回ってしまったと付け加えた。
「それでも、トウア連邦の誕生は、彼らの想定外なのだろ?」
コウがそう言うと、一斗はうなずく。
「もちろんそうさ。ただ、もうそれは過去の話さ。彼らはもう、中枢に食いつこうとしているよ」
あっさりと言った一斗の言葉は、コウを少なからず驚かせる。
「まさか、現政府に?」
信じられないという驚きを隠そうともせずに、コウは反射的にそう尋ねる。
「まぁね。ただ、その動き自体は十分に予想がついていたことだから、そう心配する必要はないよ。肝心なのは、その動きに振り回されないことさ。真っ直ぐに国を導けば、それでいい。君がしゃんと立っていれば、トウア連邦が歪むことは決してない」
一斗は自信に満ちた声で、そう断言する。
その上で、一斗は次の言葉を口にする。
「これから先、僕はトウア連邦とまったく違う形で関わることになる。だから……」
そこまでで一斗の言葉は途切れたが、その先に続く言葉はさすがに必要ではなかった。
「そうか……。私が想像していたより、早くなりそうだ」
コウはつぶやくようにそう言った。
一斗が言ったこと。
それは、一斗が完全にトウア連邦から手を引くことを意味している。
いずれ袂《たもと》を分かつ日が訪れることは、一斗という人物を知った時からわかっていたことであった。
元々二人が求めているものは、違っていたのだから当然ではある。
ただ、それはもう少し先のことだろう、とコウは思っていた。
「まぁ、どこで何をやってたってダチはダチさ。たまに会って話せれば、それ以上必要なものはないでしょ?」
気楽そうにそう言った一斗。
それを聞いて、コウは笑い声をたてる。
「ははっ、違いない」
それから二人は、ユウリやイヴァンのことを話題にした。
本人がいないことをいいことに、一斗がさんざん愚痴って、それをコウが笑いながら聞いているという構図だが、それでも二人は楽しかった。
思えば、この光のない世界にたった二人だけ存在するという状況も、ある意味で天の配慮と言えなくもないだろう。
今後こういった気軽にダチ二人だけで、一切のしがらみもなく話すことのできる機会は、もうやってこないかもしれないのだから。
「ありゃあ、僕のお尻に恨みでもあるんだよ、きっと」
ちょっとした自主訓練の失敗で、尻の皮が剥けて火傷みたいになってしまった時のことを一斗が話題にする。
いかにしてユウリが、一斗のお尻を情け容赦なく扱ったのか、ということを実の兄に訴えたのだ。
「同情はするよ、一斗。君のこととなると、見境なくなるからね」
笑いを押し殺し、とりすました顔でコウがそう言って、後にすぐ続ける。
「君のお尻の行く末に幸が訪れんことを、遠くから祈っているよ」
それを聞いた一斗がすぐにこけたのは、果たして偶然であったのかは定かではない。
馬鹿話を続けながら、たっぷりと時間はかかったけれど、それでもやがて目的の場所に辿り着く。
もし太陽があったとしたなら、もうすっかり日が暮れてしまっていたことだろう。
だがこの世界には太陽はなく、月も星も存在しない。時間の経過を知りうる方法は、存在しなかった。
だからと言って、一斗の体力が無限に続くはずもない。
どうにか辿り着いたところで、またこけてコウの腕の中に転がり込んだ。そしてそのまま、一斗は自分の足で立つことはできなくなってしまう。
コウが体を支えていても、膝からかくんと力が抜けてしまって、そのままずるずると路面に崩れ落ちてしまう。
気力だけでは、もうどうしようもなくなってしまっている。
むしろ、ここまで歩いてこれたこと自体が僥倖《ぎょうこう》というものだろう。
コウはそんな一斗に向かって、大丈夫かとは聞かなかった。
大丈夫であるはずなどないからである。
「どうする?」
代わりにコウが言った言葉は、それだった。
もう一人でどうにかできる――サポートは必要だったにしても――レベルを超えてしまっている。
これから先に進むのならば、コウの力で一斗を運ぶ以外にない。
「すまない、コウ。今まで黙って付き合ってくれて。やっぱりぼくは、こんなもんだね。意地を張っても、もうどうにもならないよ。だから……」
コウは、そのまま一斗の言葉の続きを待つ。
それは、一斗が己のプライドをねじ伏せるために必要な時間であった。
「だから頼む。僕をおぶって連れて行ってほしい」
それに対して、コウは黙って一斗の目の前で腰を落として背中を向ける。
一斗もまた、黙ってコウの背中におぶさった。
コウは背中に一斗を抱えたまま、軽々と立ち上がる。
一斗の体は、想像していた以上に軽かった。
これではユウリが心配するのも無理ないだろう、とコウは考えたがやはりそれも言葉にはしない。
世の中には、どうしようもない、ということがある。そしてこれは、そういったことの一つであった。
一斗がコウの背中で、ライトを前方の建物に向ける。
さっき見た超深深度エレベーターよりはかなり小さい建物であるようだが、それでも地上に建つどの建物よりもずいぶんと高い。
五、六段ほどの短い階段があって、その先に建物の入り口がある。
光の届く範囲が極めて狭いので、全体をいっぺんに見ることはできないが、それでも人が何人も並んで通れるくらいの広さがあることは、見て取ることができた。
「ここが、中央管理施設。この都市を再び生き返らせることができる」
一斗はそう言って、手にしていたライトを正面の広い扉とは別の入り口に向ける。
そこには、いたって普通の広さの扉があった。
「あそこから中に入れるよ」
その指示に従い、一斗を担いだコウが動く。
一斗があらかじめ用意していたカードキーを使い、ドアのセキュリティを解除する。
そうやって中に入った二人を出迎えたのは、光を放つ不思議な人影であった。
光るということ自体到底普通の人間ではありえなかったけれど、それに加えてその人影の向こう側が透けて見えていた。
それが二人に向かって話しかける。
コウにはその言葉をまったく理解できなかったが、一斗はすぐに何かを言った。
すると、すぐに現れたときと同様に、すぐその人影は消え去った。
「コウ。どうやら僕らは、本日二番目の客らしい」
その言葉に、コウは思わず首をひねって後ろを見る。
「えっ? 先に来てた人間がいるってことかい?」
その言葉に、一斗はうなずく。
コウから直接見えたわけではないものの、その気配を背中を通して感じ取ったのである。
「何者なのかわかるかい?」
コウが重ねて尋ねると、一斗はとてもあっさりと答えた。
「想像はつくけど、確証はないからね。なんとも言えない」
その後、一斗は付け加える。
「それもすぐにわかることだけどね。ま、それより今は、いったん座れる場所を探そう」
背中の上から、一斗がそう言った。
「つらいのかい?」
コウが短くそう尋ねると、一斗はすぐにそれを否定する。
「世界で最も貴重な存在に乗ってるんだからね、そんな贅沢《ぜいたく》は言わないさ。……じきに明かりが点く。動き回るのはそれからさ」
そう言われて、コウも気づいた。先客がいたのだ。
座って待っていれば、いずれ彼らが明かりをつけるということなのだろう。
「でも、つかなかったらどうするんだい?」
闇の中で動き回ることを得意とする連中ならば、むしろ明かりをつけない可能性の方が高くなる。
そう考えて、コウが尋ねると今度も一斗はすぐにそれを否定した。
「それは、まずありえない。他の場所ならともかく、この施設に侵入してるのだから」
貧弱な明かりを頼りに、かなりの広さがあるロビー内を見渡す。
隅の方に置いてあるイスとテーブルを見つけた。
早速二人はそこに移動し、まず一斗を座らせる。
一斗はイスの上に下ろされると、座る間もなくイスの上にパタンとひっくり返る。
完璧にノビていた。
ほとんどノックアウト状態だ。
本人の意地はともかく、かなりヤバイ状態だったのだろう。
「大丈夫かい?」
コウが反射的にそう聞くと、一斗は右手を上げてふらふらと振ってみせる。
どうやら、大丈夫だと言いたいのだろうが、説得力というものが欠片もなかった。
ここにユウリがいたとしたら、誰がどんな説得を試みようが、一斗を抱えて強制退去したことだろう。
だが、今ここにいるのは、コウであった。
「そう。じゃあ、僕もしばらくゆっくりするよ」
そう言って、一斗がへたりこんだイスの反対側にあるイスに腰を下ろした。
その瞬間であった。
世界に光が満ちた。
強烈な光だ。
眩《まぶ》しさのために訪れた一時的な盲目の中で、一斗が言った。
「やれやれ。どうやら、ゆっくりする暇はなさそうだね、コウ」
どことなく疲れたような。それでいて、少し楽しそうに。
「ああ、そのようだ」
コウが相槌をうつ。
一瞬だけ訪れた盲目は、その言葉とともに消え去った。
たぶんその瞬間だけが、二人の休憩。
「さて、これからが本番だ。……行こうか、コウ」
まだまだ、コウにはわからないことがたくさんあった。
たとえば、まるで昼間のように強烈なこの光が、一体どこからきているのか、ということもその中の一つ。
だが、そういう疑問は捨ておくべき時であった。
今は……。
「わかった」
コウは、それだけ言って再び一斗を背中に担いだ。
そして、すぐに一斗の指示した先へと歩きだす。
そう、今は行動すべき時であった。
たとえそれが、少なからず一斗の体に負担をかけることになるとわかっていたとしても。
それに心配事ならまだ他にも存在する。
一斗には隠していることがある。
自分にも、恐らくユウリにすら。
そのことに気づいたのは、偶然であった。
コウのもとに一斗が訪れたとき、いつものように一斗が突然こけた。
そのこと自体はなんの不思議もない、いつもの風景である。
たとえ、つまずくようなものが辺りに見当たらなかったとしても、だ。
問題はその後、ポケットからこぼれ落ちた物の中に、白い封筒があった。
以前見たことがある袋によく似ていた。
一斗が大怪我をした後、しばらくはそれと似た袋を持ち歩いていたのだ。
中には薬が入っていた。
それだけならば、特に問題はないのだが、問題なのはその袋をまるで隠すように真っ先にポケットに仕舞ったことだ。
そして、そのことに関して一切触れない。
なんでもないことのように振る舞っている。
一斗の場合、なんでもないことのように振る舞っていることこそが、重大なことなのだ。
一番の親友として、コウはそのことをよく知っている。
それが口には出せない心配事であった。
だが、今はどうすることもできない。
眩《まばゆ》く輝く光の中、これから起こるであろう戦いの予兆を感じながら、コウは前に進む。
背中に担いでいる、軽すぎる荷物の力を信じて。
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ロウラディアの王都フィールザールにおいて、その中枢をなすのは王宮でないことは間違いないことであった。
王政をとっていながら、その政治形態自体が形骸《けいがい》化している現在において、最早政治の中心となりうるだけの力はなかったからである。
それに近隣諸国を統合するとともに、強力な中央集権体制に組み込むために、より大規模でなおかつ機能的な役割を果たすことのできる政治機構が必要となったのは、必然と言えるだろう。
それゆえに、かつてはロウラディアの政治の要であった王宮が、儀礼的な華やかさのみを受け持ち、よく言えば豪奢な、より的確な表現を用いるとすれば、空虚な存在となることは自明の理といえた。
今日政治の中枢となっているのは、ロウラディアの東にあるセノマ区であり、そこにはロウラディアの政治を支える各省庁の建物がひしめいている。
それらにはすベて、クロウ=ラク=ウィバーンの意思が働いており、官僚の持つ権限は絶大なものがある。
こと国政の舞台においては、貴族はおろか王ですら決定権は与えられていない。
剥奪されたわけではなく、ウィバーンが次々と近隣諸国を統合し、新たな攻治体制を整えたさいに、王や貴族の決定権を従来の国内以外への適用を一切認めなかったからである。
すでにロウラディアが、強力な連合国家と化しているわけであるのだから、必然的に旧来の権勢と化している王族と貴族はその影響力を失ったのである。
かろうじてその権勢は王府という形で残されてはいるが、ウィバーンにより一部の権利を保障され、ありとあらゆる義務から切り離されていた。
ロウラディアにおいて王府とは、一切の役を免除された唯一の特府であり、実権を持たない唯一の特府でもあったのである。
フィールザール武闘大会における主催は王府となっていたが、当然それを現実に管理運営しているのは王府ではなく総務府であり、総務府から委託を受ける形で大会の管理運営を任された幾つかの企業、もしくは商家であった。
もちろん、それだけでは中原全体を巻き込むほど大規模なイベントを開催できるはずもないので、ロウラディアの各府が可能な限り全面的な協力を行っていることは間違いない。
一カ国の打ち出したイベントとしては、ロウラディア内ではもとより中原の長い歴史の中でも類例を見ないほど、大規模なイベントであった。
人はもちろんだが、つぎ込まれた予算も膨大なものとなっている。
フィールザール武闘大会の無事な成功は、ロウラディアの威信がかかっているということばかりではなく、経済的な意味合いからも絶対になしとげなくてはならない命題であった。
膨大な人と予算。
そして、いくつもの国家の思惑。
現在のフィールザールには人の欲望や野心をかきたてるものが、そこら中に溢れているといっても過言ではなかった。
どこの国にもかならずある影の部分、犯罪者組織も、残飯に群がるハエのようにどこからともなく群がってきている。
その分、フィールザール警邏《けいら》府も取り締まりを強化し、さらにロウラディアの中でも最強の二つの師団。シャハール師団とゼルワース師団、双璧《そうへき》と称される両師団が、大会の開催に合わせて治安維持のために交互にその任に当たっていた。
とは言ってもそれは、二人の将軍の本大会出場に伴う処置と言えるであろう。
そもそも、軍隊と警邏とはその発足時点での目的が異なっているのである。
いきなり警邏の仕事を任されたところで、簡単に代行などできようはずがない。
それに、警邏府としてはどれほど大きなイベントが開催されようと、王都の治安維持と犯罪の取り締まりを軍隊等にまかせようという気は爪の先ほどもなかった。
確かにロウラディアにおいて軍は花形であり、ましてシャハール師団とゼルワース師団といったら中原中にその名を轟かす最強の双璧である。
だからと言って、こと警邏に関してシロウトである彼らに頼ることは、世界最高の警邏機構を自負する彼らの誇りが許さなかった。
もしシャハール=バッファとセネト=セイ=ゼルワースが無理にでも治安活動に当たらせれば、師団すべてがその指示に従っていたであろう。
むろんその場合、警邏府との間での衝突が頻発することは避けることはできなかったであろう。
だが二人の将軍が実際に指示したことと言えば、武闘大会が開催されるルファイ区の要所要所の目立つ場所に、式典用の甲冑《かっちゅう》を着せて派手めな長槍を持たせて立たせていることと、後はそれぞれの持つ諜報《ちょうほう》部隊を内密に野に放つことくらいであった。
無論、警邏府から正式な治安出動の要請があれば別であるが、そうでない限りはせいぜい派手めなお飾りに徹していた。
どのような条件下でも、一糸乱れぬ統制と忠誠心を貫き通すと謳《うた》われるシャハール師団はともかくとして、将軍の性格そのままに個々の武勇を誇る武辺なゼルワース師団にとってはいささかなりとも苦痛であったろう。
ただ、それでも妙にぐずったりしないのは、曲がりなりにもシャハール師団に劣ると言われたくないというプライドゆえであった。
ただ、彼らの思惑や、たとえ彼らが王都にあっては、お飾り以外の役には立たない存在だとしても、中原最強と称される二つの師団が一堂に会するその姿は、まさに圧巻という他なく、その圧倒的な武力を前にしてそこらの犯罪者ごときが太刀打ちできるものではない、と人々に知らしめる効果は十分にあったと言えよう。
フィールザールは今最も絢爛《けんらん》として力に満ち、そして輝かしい時の真っ只中にあったのである。
それは、本大会が行われるルファイ区はもとより、それ以外の各区においても、それぞれの区独自の特性を生かし、人生のうちで何度もないような巨大なお祭りを大いに盛り上げようしている人々の力なのかもしれない。
中原各地にはまだ戦の名残火がくすぶり、様々な国や人間のきな臭い思いもまた強大な吸引力ゆえにひきつけてやまぬのだが、そんな不安な要素など軽々と吹き飛ばしてしまえるほどに、今のロウラディアという国には圧倒的な希望が存在したのである。
シャハール=バッファ、セネト=セイ=ゼルワースという二人の英雄は当然であるが、なによりクロウ=ラク=ウィバーンという漢の存在が大きいと言えよう。
本人の思惑はともかく、このときのウィバーンはロウラディアの国民にとって、政治的な指導者というより信仰の対象というのがむしろ正解に近い表現なのかもしれなかった。
そこら辺りの微妙な部分はひとまず置いておくとして、現在フィールザールが置かれている状況は多数の危険もはらんでいた。
一般の人々が巨大な祭りに浮かれてそのことを失念していようと、闇の中で謀略をめぐらすことを好むたぐいの人間にとっては、またとない絶好の機会であった。
それは犯罪者であったり、近隣諸国の策士であったり、あるいは復権を望むごくわずかばかりのロウラディア貴族であったり……。
ロウラディア貴族の巣となっている、王宮のあるパルナン区は今回のイベントから完全に取り残される形になっており、夜ごとに催されるパーティーは、その絢爛さに反比例するかのごとく言い知れぬ空虚さに包まれていた。
豪奢であっても熱気も高揚もそこにはなく、交わされる話題も先祖の偉業と残された遺産の話ばかり。当然出て然るべき話題――武闘大会の話題は、意図的に避けているとしか思えぬほど、話題にのぼることはない。
当然のごとく、参加する人間達からはなんの覇気も感じられぬ。
『まるで死霊のパーティーのようだ』とは、一体誰の言であったのかは定かではないが、的を射た表現であることは間違いない。
過去の栄華をついぞ忘れることができず、それを求めて夜な夜な王宮へと集まってくる、覇気の失せた貴族達。
まさに、そのとおりの状況であると言えよう。
そんな王宮に、一人の男が足を踏み入れようとしていた。
稀代の彫刻師をして、その才の限界を認めせしむるほどの美貌。
限りなき力強さと流麗さを、一切矛盾なく同居させた肉体。
滝のごとく流れ落ちる銀色の髪は、眩くつややかに輝きを放つ。
敵はその姿にただひたすら恐怖し、味方は羨望《せんぼう》と絶対の信頼を寄せる。
人々から、銀のシャハールと呼ばれる漢。
シャハール=バッファ将軍であった。
王宮に、供も連れずに愛馬セルファに跨り直接乗りつけた。
薄暗闇の中に、太陽のごとき輝きを放つ武神が舞い降りたのである、衛兵もいるにはいたが誰一人として話しかけることすらできなかった。
その時、たまたま近くにいた衛兵の一人に愛馬の手綱をあずけ、貴族の口からは決して聞くことのできない、丁寧で澄んだ声で「戻ってくるまでお願いします」と言った。
ただそれだけで、初めて会った衛兵はすっかりその気になり、直立不動でその後ろ姿を見送ることになった。
シャハールがそのまま歩を進めて王宮の中に入ろうとすると、門兵が長槍でその行く手を遮った。
「官位姓名と用件を言え」
普段ならばこんな場所で、こんな質問はしない。
もっと王宮の奥深く、王の玉座に近い辺りならばともかく、今いる場所は王宮の中でも一般貴族達のための社交場として開放されている場所なのである。
そこでこういう質問をしてくることも異常だったし、それに銀のシャハールを見間違う人間がこの国に一体どれほどいることだろう。
おそらくある人物の肝煎《きもい》りなのだろうと、シャハールは見当をつけていた。
「統合幕僚長のシャハール=バッファです。用件は話せません。速やかにこの場を通してください」
そう言って名乗りだけをあげると、シャハールは入り口通過の許可を求める。
当然のごとく長槍は動かず、門兵は用件を問いただす。
「貴公らにできる話ではないのですよ。……といっても、無駄な様子。しょせん私も武辺の男なのでね。実力で通りますよ」
その言葉とともに、二人の門兵の持っていた長槍が、ともに半ばから切断されて床に落ちていた。
一体何が起こったのか、目に留めることのできた者はこの場にはいない。
むろん、シャハール=バッファその人を除いてはだ。
二人の門兵が事態に気づく前に、シャハールはもう中へと歩を進めていた。
「待て!」
そう言って、後を追おうとした二人の門兵に向かって、シャハールは振り返らずに答える。
「それ以上熱心にやっても、死体が二つ増えるだけのことですよ」
そのとたん二人の男の足は、その場に張り付いたまま動かなくなった。
背中が凍りついたように冷たく感じられる。
腰の剣に掛けた手が、細かく震えていた。
恐怖。
それは、幽霊などの得体の知れないものへの恐怖とはまるで異なる類の恐怖。
目の前に虎がいたとしたら、同様の恐怖を感じることだろう。
それは、本能そのもの。生命そのものの危機に対する恐怖だ。
いかに見かけが美しかろうが、二人が追いかけようとした漢の正体は肉を喰らう獣なのである。
二人の門兵はギリギリのところで、そのことに気づいた。
そして、シャハールの姿が奥へと消えた時、ようやく胸を撫で下ろすことができた。
シャハールは要所要所で妨害を受けながら、王宮を奥へと進む。
途中の広間の何箇所かでパーティーや舞踏会が開かれていた。
そのたびごとに、参加者を呼び止めて同じ質問を繰り返す。
「王妃殿下は、こちらに来られていませんか?」
すると、全員が判で押したように、逃げ腰になって首を横に振った。
明らかに、関わり合いにはなりたくない、といった風情であった。
シャハールはその様子を特に関心を払うことなく、短く礼だけを口にするとまた歩き出す。
そして、玉座の間へと続く通路を通り過ぎると、それよりだいぶ細い通路をさらに奥へと進んだ。
「ここから先は王妃殿下の居室です。国王陛下以外は、何人たりともお通しすることはできません」
そう言ってシャハールの目の前に立ち塞がったのは、年の頃は十六、七くらいの可憐さをいっぱいにたたえた少女であった。
黒と藍《あい》と白。
侍女の着るエプロンドレスがとてもよく似合っていた。
顔が可愛そうなくらいに紅潮しているのは、なにも使命感ばかりではないだろう。
なんといっても年頃の少女に過ぎぬ、比肩しうるもののない美丈夫を目の前にした妙齢の女の子としては、いたって普通の反応だろう。
そんな少女を前にして、シャハールは穏やかな微笑みをその美貌に浮かべて、使命に燃える少女に話しかける。
「私はシャハール=バッファ。ロウラディア軍の幕僚長を務める者です。よろしければ、あなたのお名前を、私に教えていただけませんか?」
稀代《きだい》の英雄。
生きて伝説と化している、ロウラディアの輝ける美神。
それが、少女に話しかけていた。
しかもまるで淑女でも扱うかのごとく、接していた。
この事実だけでも、少女にとっては夢のような出来事であっただろう。
だが……。
「セラノ=ニマ……」
息を呑みながら、震える声でそう答えることが少女には精一杯であった。
それを聞いたシャハールは一つうなずくと言った。
「セラノさん……綺麗な名前ですね」
正面からあまりにはっきりと言うものだから、ニマはさらに顔を赤くしてうつむくことしかできなくなる。
「ではセラノさん。あらためてお願いがあります。王妃殿下にお取り次ぎ願いたい。シャハール=バッファが面会を希望している、と」
その言葉にニマは思わずハイと答えそうになり、あわてて両手で口を塞ぐ。
そして、改めて言い直した。
「王妃殿下は、ただいま外出なされています」
するとシャハールはすぐに質問をする。
「どこかの舞踏会かパーティーにでも参加されていらっしゃるのですか?」
もちろん、そうでないことはすでに確認済みである。
「え、ええまぁ」
頼りなさそうに、ニマがそう答えた。
「わかりました」
シャハールはそうとだけ答えて、いったんその場を引く。
もちろんあきらめたわけではない。
子供の使いではないのだ。いるとわかっている相手を目の前にして、目的も果たさず帰るはずがない。
だからといって少女を相手に、衛兵や門兵を相手にするように力ずくで押し通るというわけにもいかない。
もちろん交渉をして、説得するという方法もあるが、それだと後々少女に失点がつく可能性が高い。
シャハールにとっては一番厄介なたぐいの障害であろう。
ただし、打つ手がないというわけではない。
最初からこの手を使われていたら、さすがに今頃困っていたかもしれないが、もう目と鼻の先まで来ているのだ。交渉の場に相手を連れ出すのはさほど難しくはなかった。
息を腹の底に溜め込むように大きく吸い込むと、空気が震えるほどの大音声で言葉を発する。
「王妃殿下におかれましては、ご健勝のこととお見受け申します」
まずは、儀礼的な挨拶をしてみせる。
言葉自体に意味はないが、まずはこれで相手の注意をひきつけるのだ。
「このたびのセズァン公の獄中死の後、不審な殺人事件が続いております。万が一にも王妃殿下の身辺に何か起こることのなきよう、我が部隊より警護の者をお付けすることになりました」
まるで王宮の隅々まで、その声を行き渡らせんとするかのような大きな声。
たとえ、閉め切った部屋の中にいようとも、その声は確実に届いているはずであった。
シャハールはそのまま何も言わず、ただじっと待つ。
目の前に立つ少女は、長いスカートの裾《すそ》を両手でギュッと掴みながら、不安そうな様子でシャハールと部屋の入り口を交互に見ていた。
実際には、そんなに時間が必要だったわけではない。
王妃のいる私室のドアがかちゃりと音を立てて開いた。
中から人が出てくる気配はないが、代わりに聞き取りにくい声が届いてくる。
「はいっ。只今!」
すぐに少女は、てけてけと開けられた入り口へと向かって駆け出した。
少しの間姿を消すとすぐに出てきて、てけてけとシャハールの前まで戻ってくる。
「王妃殿下がお会いになられるそうです」
それだけ言うと、ぺこっと頭を下げた。
「ありがとう、セラノさん」
一生懸命な美少女に一言礼を言い置くと、シャハールは大股で奥へと進み、あっさりと入り口を抜けて中へと入る。
すると、中の様子にさすがのシャハールも唖然《あぜん》とする。
「一体これは、どうされたのです?」
今、シャハールが入ってきた入り口のドアをのぞけば、黒い暗幕のようなもので、窓や出口を塞ぎ光が差し込まないようにしてある。
完全とまではいかないが、それでも日中だとは思えないほどに暗かった。
「そなたには関係なきこと。つまらぬ詮索などせずともよい」
どことなく、神経に障るような高い声で高齢の貴婦人がそう言った。
貴婦人の名はクロウ=セフ=ファルファーシャ。
現王クロウ=ラク=サライズの妻であり、クロウ=ラク=ウィバーンの義理の母に当たる。
「ほう? それはそれは……」
おそらくこのありさまと、シャハールがやってきた目的の間には、なんらかの繋がりがあるはずなのである。
少し考えれば理解できるはずなのだが……。
シャハールはあえて、そのことを指摘したりはしなかった。
「それでは、改めてお尋ねいたします」
両手を指先までビシッと伸ばし、シャハールがその場に立つと、いやになるくらいその立ち姿はさまになる。
「二日前、セズァン公が留置所で奇怪な死を遂げられました。このことは、ご存じでしたか?」
シャハールの質問に、王妃は視線をさまよわせる。
何か迷いが感じられるが、シャハールは黙って答えを待った。
「し、知らぬ」
ようやく口を開いた王妃の口から出たのは、短く力のない否定の言葉であった。
「ではその後、セズァン公に手を貸していたと見られる、三人の貴族達が相次いで殺害されたという事実はどうです?」
シャハールは柔らかな縄で逃げ道を塞ぐように、ゆっくりと王妃を追い込んでいく。
「知らぬ!」
王妃は即答する。
考えたわけではなく、反射的に答えただけだろう。
「セズァン公をはじめとして彼ら全員、体のどこかを何らかの手段によって切断されて死んでいました。犯人はおろか、凶器も見つかってはいません……」
その現場の検証には、シャハールも実際に立ち会っている。
被害者がセズァン公であり、ことは大いに政治的な側面を含んでいる可能性があったからだ。
そこで見たものは、完全に密室状態にあったはずの留置場の中で、胸から上下に分離したセズァン公の姿であった。
苦しんだ様子もなく、一瞬で死が訪れたことはまず間違いなさそうである。
セズァン公以外の死体も確認している。
一人は頭部、一人は首、もう一人は体を縦にそれぞれ分断されていた。
凶器が見つからないことと、苦しんだ様子がないことも同じであった。
そしてもう一つ。
殺された部屋が、密室状態にあったということもまた同じ条件であったのだ。
そういうことに、セズァンはあえて触れずに話しを続ける。
「もしや、王妃殿下におかれましてはなんらかの心当たりがおありなのではないですか?」
その質問に、王妃は両手で耳を塞ぎながら何度も何度も同じ言葉を繰り返す。
「知らぬ! 知らぬ! 知らぬ!」
いやいやと首を振りながら、子供のように。
その様子は明らかに尋常ではなく、よく見れば体は細かく震えていて、奥歯がガチガチと小さく鳴っていた。
はた目にははっきりと、何かにおびえているのが見て取れる。
「そうですか……ではしかたありませんね。私が信頼している部下を二人、警護につかせようと考えていたのですが、残念です」
シャハールは善意によってここに来たわけではなかった。
王妃が持っているはずの情報を引き出すためにやってきたのだ。
これは、そのための交渉である。
「わらわを脅すのか?」
恨みがましい目で、王妃はシャハールを見ながらそう言った。
シャハールはその質問には応じずに、言葉を重ねる。
「ここに来るまでに、いくらか障害はあったようですが、特に問題なく来ることができました。私にとっての最大の障害は、ニマでしたが……」
そこでいったん言葉を切ったのは、明らかにわざとだ。
王妃の瞳にシャハールに対する反抗心が浮かぶのを確認したうえで、先を続ける。
「まさか、暗殺者に対しても障害になるなどとは思われないでしょう?」
それは嫌味な言い方であった。
嫌味に聞こえるように言った嫌味であるのだから当然ではある。
「そのような口、ロウラディアの王妃たるわらわに向かってするか? 下賎なる身の分際で!」
その言葉には、明らかに怒りが滲んでいた。
それを聞いてシャハールは内心ほくそえむ。
恐怖にうち震える人間は、蛇を前にした蛙のようなもの。
狩る者にとっては、これほど楽な獲物はいないだろう。
しかし、怒りは恐怖に打ち勝つことのできる強い感情だ。それがある限り、王妃に戦う力はまだあるということである。
「失礼しました。ではもう一度、あらためてお尋ねいたします」
優美な動作で頭を下げ、質問をぶつけてみる。
今度は先ほどより、より具体的な質問を。
「王妃殿下がセズァン公と何を企んでいたのかはおおむね見当はついています。だから、それ以外のことに関して教えてください。たとえば、誰かの暗殺計画とか……」
暗殺という言葉を聴いたとたんだった。
王妃はまたうつむき、視線をシャハールからそらす。
どうやら、かなり王妃に植え付けられた恐怖は根深い様子である。
しかし、そのことでシャハールは逆にある確信を得ることができた。
かつての権勢はどこにもないとはいえ、かりにもロウラディアの王妃である。それをここまで脅えさせる相手というのは、そうそういるものではない。
「ギルドがからんでいるのですね?」
ギルド。
それはロウラディアのみならず、中原全体に根ざす独占的利益複合機構の総称である。商業ギルド、傭兵ギルド、武器商人ギルド等は有名であるが、中には暗殺ギルドという物騒なものもある。
シャハールが言ったのはもちろん、暗殺ギルドのことを指している。
王妃はやはり固まったようにうつむいたまま、その場を動こうとはしない。
「なるほど……」
それを見たシャハールが一つうなずいた。
王妃のその態度そのものが、シャハールの言った言葉を裏付けているようなものである。
「誰かが、契約の不履行を行った……。そんなところですか」
依頼者と暗殺ギルドは契約を交わす。書面の契約ではない。
破ったからといって、法的な罪になることはない。当然ながら、賠償金も発生しない。
その代わり不履行者は、ギルドが抱えている暗殺の手によって命を絶たれることになる。
それも、その契約に関わっていた全員がだ。
反論も認められないし、例外も認められない。
「ま、守ってくれぬか? わらわを、守ってはくれぬか?」
今度はすがり付くようにして王妃が言った。
どうやらシャハールの想像していたとおりの展開だったらしい。
言い当てられたことで、タガが緩んだのであろう。
「ええ、そうしたいのはやまやまですが、一つ条件があります」
想像どおりだったということは、まだ何一つとして有効な情報は得られていないということであった。
実際には情報が得られようが得られまいが、護衛はかならずつける。
ただそのことを知らせないだけのこと。
「……なんじゃ? 申してみよ」
王妃は乗ってきた。
シャハールはすかさず一つの質問をする。それは、同時に条件の提示でもあった。
「名を教えてください。セズァン公を殺した……そして、あなたを殺しにくるはずの者の名を」
その質問に答えることに、王妃はためらいを見せる。
それは当然であったろう。
ここまで他人を……ましてやロウラディア王妃を恐怖で縛り付ける者である。
「口に出しづらいのならば、紙に書いてもらってもかまいませんが?」
シャハールが見せた気遣いに、王妃はようやく顔を上げ瞳を合わせる。
それからまたすぐに視線をそらし、また決心するかのように視線を重ねる。
それを二、三度繰り返してついに王妃の顔が、まともにシャハールと向き合った。
そして、一つの名を告げる。
「セルゲン=ブラン……」
その名を聞いた時であった。
今度は、急にシャハールの様子がおかしくなった。
黙りこむと、しきりに何かを考えている様子である。
そのことを不審に思ったのか、それともこれから守ってもらう身で不安を感じたのか。
「一体どうしたというのだ?」
王妃は不安げに尋ねる。
すると、シャハールは意外とあっさりとその質問に答えた。
「今度の武闘大会の出場者の名前なのですよ」
暗殺者《アサシン》が公の場所で戦う意味が理解できない。
単なる同姓同名ということもありうるだろうが、それならばわざわざ武闘大会出場者と同じ名前を使う意味がわからない。
どうせ、偽名を使っているはずなのだ。
もし本人だとしたならば、武闘大会などに出場してしまえば、それだけで一気に顔と名が知れ渡る。
それも、中原全土にだ。
剣士としてならともかく、アサシンとしてはもう使い物にならない。
それこそ廃業するしかなくなる。
顔の売れたアサシンに、殺しを依頼する者などいやしない。
依頼主も犯罪者なのだ、依頼したということがばれるだけでも、立派に検挙される。
「そ、それで……わらわの身は……安全なのであろうな?」
王妃にとっては、しょせんそれらはどうでもいいことであった。
一番の関心はそこにある。
「心配いりませんよ。部下の二人は対アサシンの経験があります。まともな戦いになったら、まず引けを取ることはありません」
安心させるように、シャハールが言った。
実際そのとおりで、アサシンというのはいかに誰にも気づかれないようにして、その命を奪うのかというのがそのスキルである。
いったんその姿を現し、戦いになれば幾多の戦場を生き抜いてきた戦士の敵ではない。
ただし、それはあくまで普通のアサシンが相手であった場合だ。
もし、そのアサシンが武闘大会の本戦に出場しうるだけの実力があるとしたなら……。
かなり厳しい状況にはなるだろう。
ただ、目的は戦って勝つことではなく、王妃の身を守ることである。
そこのところさえ忘れなければ、なんとかなるはずである。
ただし、それ以前にやらなくてはならないことがあった。
相手の使う技がどのようなものなのか、それを知ることである。
知ったからといって、確実にどうこうできるとは限らない。
ただ、知らないままでは不利になるだけだ、というのは確実である。
いずれにしても、今ここでどうにかできることではないのであるが。
「それでは、私はこれで失礼させていただきます」
想像以上の収穫を得たシャハールは、典雅な礼をしてみせると退出する旨を告げる。
すると、すぐに王妃は老いた手を、まるですがりつくようにシャハールに向けて伸ばし、震える声で言った。
「わらわはどうなるのじゃ? そなたが行ってしまったら、わらわを守る者がおらんではないか?」
その不安に、シャハールは軽く一礼しながら答える。
「私と入れ違いに、部下の者が到着いたしますので、ご心配召さぬようお願い申します」
再び頭を上げると同時に、シャハールは最後の一言を告げる。
「では」
そのまま王妃に背を向けると、シャハールは後を一切振り返ることなく部屋を退出した。
侍女のニマに目で別れの挨拶を告げ、急ぎ足で元来た場所に向けて引き返す。
考えるべきことならば、たくさんあった。
アサシンのこともそうであるが、問題なのはそのアサシンを動かしている者の正体である。
幸か不幸か暗殺者ギルドとの契約を破ってくれた者がいたために、意外な形でその動きが見えてきた。
もちろん、その動き自体が罠という可能性もあるが、少なくとも大会に出場する以上はあまり派手な仕事はできないはずである。
暗殺という行為は、事前に警戒されると成功する確率は激減する。
ましてや、逃走まで成功させるとなると格段に成功する可能性は薄い。
もし武闘大会に出場するというのであれば、そちらの方を優先するだろう。
彼らはプロなのだ。
万が一王妃を狙ったとしても、二人の部下が付いている以上無事ではすまない。
二人がかりならば、シャハールでさえ手こずるほどの使い手である。
王妃に安心しろと言ったのは、気休めなどではない。
任せておけば、成果は十分に期待できる。
「それにしても……」
宮廷から外に出る寸前、シャハールはふとつぶやいた。
血は直接繋がっていないにしても、義理の息子のことを一度も尋ねることはなかったな、と心の中で続けた。
ウィバーンのことを憎んでいるのは間違いなかろうが、それ以上に自分の身がかわいかったのだろう。
結局、今の状態を招いたのは自業自得でしかないのだが。
それとは関係なく王妃からどう思われていようと、ウィバーンは彼女の身を守るために力を尽くすことは間違いない。
それは彼女の生んだ二人の息子を死に追いやった責任ゆえなのか、身内の者に対する思いやりなのか……。
いずれにしても、それがウィバーンの持つ数少ないアキレス腱《けん》にならなければと、シャハールは懸念していた。
ただ、そのアキレス腱はシャハールやゼルワースをはじめとして、その他綺羅《きら》星のごとき人材が保護している。
弱点だと見て不用意に触れようなどという者は、それなりの覚悟を決めておいてもらう必要がある。
シャハールは庭に出ると、預けておいた愛馬セルファに跨った。
「あなたの名前は?」
馬を預かっていた衛兵に、馬上から尋ねる。
「チトキス上等兵であります、将軍!」
中原の英雄に、緊張した面持ちでそう名乗った衛兵は、かなり緊張している様子であった。
「チトキス上等兵。礼を言います」
そう言って馬上で敬礼をするシャハールに、チトキス上等兵は全身に力を込めて敬礼を返した。
そして、シャハールは馬首をめぐらし、軽く踵を当てる。
走り出すセルファが宮廷を離れる頃には、シャハールの頭からは王妃のことは消えていた。
これから先、やるべきことが山積していた。
振り返るほどの余裕は、シャハールにはなかったのである。
ザフとセンテはアシャイ区にあるフェッツ商会を訪ねようとして、ちょうど道に迷っているところであった。
フィールザールの商業区であるアシャイ区は、近年最も拡張整備に力を入れている地区であり、土地勘がある者でも、少し見ない間にすっかり変わってしまった装いに、道を見失ってしまうことがままあった。
ましてや、ザフとセンテはアシャイ区に足を踏み入れたことは、これまでなかったのだから、道に迷うことはある意味当然と言えよう。
網の目に張り巡らされた道路は、実に機能的であったのだが、似たような道路がいくつも連なる形になり、それが人の目を惑わすことになる。
区画ごとに番地が割り振られているのだが、それを示すための標識等はまだ不整備であり、完全に機能するまでにはまだしばしの時が必要であった。
それを補うように、この頃のフィールザールには駅馬車網が充実しつつあったのだが、あいにくなことに二人は馬を利用していた。
乗れば確実に目的地に到着することのできる、便利な乗り物を利用することができなかったのである。
「どうする」
そう聞いたのは、見るからに硬い感じのする美女、センテである。
「適当に聞くしかねぇだろ?」
疲れた様子を隠そうともせずに、ザフがそう答えた。
「そうだな」
センテはうなずく。
「それにしてもなぁ、なんだってこんなにだだっ広いんかねぇ」
自分がやって来た方を見て、感慨深そうな、あるいはうんざりしたような声でザフが言った。
フィールザールには十四の区があり、その中でもアシャイ区は三番目に大きな区である。そして、今もなお広がりつつあった。
「言っても、しかたない」
センテはあっさりと、センテの疑念に決着を付ける。
「ちげぇねぇ」
ザフは軽く上を見上げて言った。
そして、
「そんじゃま、実りある行動に出ますか」
そう言うと、馬を下りる。センテも無言で馬を下りた。
「すんません、ちょっといいですか?」
ザフが通りがかりの男を呼び止める。
すると相手は思いっきり胡乱《うろん》そうな視線を隠そうともせずに、ザフの方を振り返った。
身なりからは、一般の区民か商人だと見て取れる。
それに対して、ザフの方はといえば、見るからに流れ者の剣士か、たちの悪いごろつきにしか見えない。
いきなり声をかけられて、用心しない方がどうかしている。
「何か御用でも?」
明らかに及び腰になりながらも、そう聞き返してくれたのは人がよいのだろう。
そのまま何も言わずに立ち去る人間の方が多いからだ。
ザフは相手が妙な警戒を抱く前に、さっさと本題に入る。
「この辺りに、フェッツ商会という店があるのを知らねぇですか?」
微妙な言い回しでザフが尋ねると、その男は一人納得したかのように頷き答える。
「なるほど。フェッツ商会を訪ねていらっしゃったのですか。それなら、かなり道に迷われたでしょう」
男の言葉に、ザフは不思議そうに同意する。
「ああ、そうですが……。なんでそれを?」
尋ねただけで、道に迷っているとまではわからないはずだ。
男は軽く肩をすくめると、簡単に種明かしをしてくれる。
「なに。ここ二、三日よく同じような質問を受けるからですよ。そして、たいてい道に迷っていた」
聞けば単純な理由であった。
「なるほど……。で、なぜなんです?」
知りたいのは、道に迷う理由であった。
「つい六日前までは、フェッツ商会はこの建物の向こう側にあったんですよ」
そういってすぐ横の建物を指し示す。
その向こう側は、つい今しがたザフとセンテが通った場所であった。
「今はなくなってますな」
ゼフが補足するようにそう言うと、男はうなずいて後を続ける。
「そう……。今の場所が手狭になったということで、六日前に別な場所に引っ越したのですよ」
今度の種明かしもまた、言われてみれば単純だった。
「もしよろしければ、新しく引っ越した先を教えてもらえねぇですかい?」
ザフの質問に、男は気安く応じてくれた。
「ここから二番目の通りの角を右に曲がって、そのまま真っ直ぐ北へ向かえば、工事中の道路に出ます。そこを右に行けばすぐにフェッツ商会の建物が見えますよ」
聞けば、それほど難しい場所ではなさそうであった。
「こりゃあどうも、ご親切に」
ザフは頭を下げて、再び馬上の人となる。
「それじゃ、がんばって」
親切な男の人がそう応援してくれる。
その時にはなぜそんな応援が必要なのかはわからなかったけれど、それはほどなくわかった。
馬で移動しているにもかかわらず、一向に目的の場所まで辿り着かないのである。
それもそのはずで、二人がいたのはアシャイ区のほぼ南の端で、フェッツ商会があるのは北のはずれであった。
ほとんどアシャイ区を縦断する形になっている。
普通に馬を歩かせていたら、日が沈む前にフェッツ商会まで辿り着くことはできないと判断して、早駆けで向かった。
「なんとまぁ」
そんな驚きの声を上げたのはザフであった。
北の端の通りまでやってきたら、フェッツ商会は比較的簡単に見つかった。
というより探す必要もなかった。
工事現場のいたるところに、フェッツ商会の立て札がかけられていたからである。
アシャイ区の北にはノキア区があり、その境目辺りの古い建物を取り壊してフェッツ商会関連の施設に建て替えられようとしている様子であった。
確かにここまで大規模な拡張を行うとなれば、元の場所では手狭というのもうなずける。
ただ現時点ではそのほとんどが完成してはおらず、完成するとどうなるのかまではわからなかった。
まぁそれは、今の二人にとってどうでもいいことなので、現在運営されている事務所のある建物に向かう。
入り口の近くで馬を下りると、すぐに人が駆けつけてきた。
「フェッツ商会にようこそ。馬はこちらでお預かりいたします」
馬番にしては、かなりきちんとした……ありていに言って、ザフとセンテよりよほどきちんとした服装をした男であった。
「あ、ああ……よろしく」
かなりためらいながら、二人は立派な馬番に馬を預けた。
そして、数段ほどの磨き上げられた石段を上ると、驚いたことに透明な玄関があった。
以前にガラス製の食器とかなら二人も見たことはあるが、それはとても高価なものであった。
目の前の扉はその高価なガラスを、丸々一枚の板として使ってある。
ガラスで扉を作るなどというのは、たぶんどこの宮廷でもやってないはずである。
理由は簡単で、恐ろしいほどの金がかかるからである。
「こりゃあ、とんでもねぇとこに来ちまったんじゃねぇか?」
ザフが思わずそんな感想を漏らすと、センテは黙ってうなずいた。
たぶんこれは二人だけではなく、初めてここを訪れた人間なら、普通に抱く感想だろう。
ただそれでも、このまま立っていてもどうにもならないので、ザフはセンテに「行くか」と声をかけ、ガラスの扉を押し開けた。
外から丸見えになっていたが、中に入るとロビーの広さにまず驚かされる。
結構な数の人間がいるのに、あまり混んでいるようには見えない。
二人はどこに向かって歩けばいいのか、皆目見当がつかないのであちこち見ていると、一人の女性が近づいてきた。
いかにも胡散臭《うさんくさ》い格好をした二人の男女に、これもきちんとした身なりの女性が話しかけてくる。
「よろしければ、ご用件をお伺いいたしますが?」
にこやかに微笑みを浮かべている。
もちろん、その質問は願ってもないものであったので、すぐにゼフはここに来た目的を伝える。
「カラニフ代表にお会いしたいのですがね?」
そう告げると、笑顔のまま女性の態度が少し変化する。
「申し訳ありませんが。代表は現在多忙ですので、事前のお約束のない方とはお会いすることはできません」
言葉遣いも表情も変わっていないが、きっぱりと拒絶していた。
「事前に会う約束はしている」
ザフの背後から、センテが憮然《ぶぜん》とした感じで言った。
すると、二人を交互に見て、受付の女性はにこやかに言った。
「すみませんが、そのようなお話は伺っておりませんので」
丁寧に頭を下げるが、とりつくしまもない、という見本のような応対だった。
「じゃあ、直接会わせちゃくれんですかね? それで、約束してることがはっきりすんですから」
ザフがかなり調子のいい提案をぬけぬけとすると。
「それが、ダメだと申し上げております。なにとぞ、ご了承ください」
鮮やかな微笑みを、少しばかりひきつらせながら受付の女性はそう言って頭をさげた。
せっかく辿り着いた先で、二人は思わぬ難関にぶつかってしまう。
ここで無理を強いたら、あっという間に警邏を呼ばれてしまうことだろう。
それだけでなく、いかにも強そうな警備兵が何人も二人のことを注目している。
一対一なら後れはとらないだろうが、多勢に無勢。銀のシャハールあたりなら軽く切り抜けることができようが、普通の人間ならあえなく取り押さえられてお仕舞いだ。
それにそんなことをしたら、そもそもここに来た目的を果たせなくなってしまう。
どうしたものかと思案するザフの漏らした、次の一言がすべてを一転させる。
「まいったなぁ。イット殿の使いが果たせなくなっちまうぜ」
その言葉を耳に留めた女性の態度が一変する。
その表情から笑みが消え、厳しい顔つきになる。
「申し訳ございませんが、こちらの方へご一緒について来てくださいませ」
そう言って、足早に先に立って歩き出す。
一体どうなっているのかわからないザフとセンテの二人は、ただ後をついてゆくことしかできない。
建物の中を三人は黙って移動して、着いた先は三階建ての建物の中で、一番上の階にある一室だった。
入り口からして、他のものより際立って立派な造りになっている。
そのドアの前に立ち、案内してくれた女性はドアに取り付けてあるノッカーを叩く。
すぐに、中から「どうぞ」という返事が返ってきて、三人は扉を開いて中に入った。
すると中には、でっぷりと太った男がソファから立ち上がり、三人を出迎えてくれる。
「イットさまのお使者の方をご案内いたしました」
まず最初に、案内役の女性がそう言った。
それで、ようやくザフとセンテは、事情を察したのだ。
偶然であれ、一斗の名を出したのが正解だったらしい。
「ようおいでくれはりました。わてが、カラニフだす」
そう言いながら二人に向かって両手を差し出す。
「俺はザフ。こっちは……」
ザフはその右手を差し出しながら名乗り、すぐにセンテに場を譲る。
カラニフ代表は両手でザフの右手をじっくりと握った。
ザフとしては、男同士でそんなことをする趣味はないので、けっこう強引に引き離す。
「センテ」
そりゃないだろ、というくらいあっさりとセンテが名乗った。
もちろん握手には応じず、カラニフ代表の両手は空中で空しくわらわらと動いた。
「……ま、立ち話もなんだすから、こちらに」
まったく落ち込んだ様子もなく、カラニフ代表は二人の間に立つとやたらと馴れ馴れしくその肩に手を掛けて、部屋の中央付近に置いてある応接に案内する。
大理石製の豪奢なテーブルと向かい合わせに、これまた見るからに豪奢なソファが置かれている。
幅の広い方のソファに二人を案内すると、自分はその向かい側のソファに座った。
「あの時は、すれ違いになってしまいましたなぁ。まぁちょっと、挨拶できるような雰囲気じゃありまへんでしたからなぁ」
そう言って、楽しそうにカラニフ代表は豪快に笑った。
そして、すぐに真顔になり二人に尋ねる。
「で、なんであんさんらがイットはんのお使いをしなはっとるのや?」
ほんの一瞬前までとは別人のように、その視線は厳しい。
どうやら一斗の名前が出たから、ここに案内してきたが、警戒を解いているわけではなかったということなのだろう。
それだけではなく、セキハでのことをわざわざ話題にしたのは、自分は二人のことを覚えているのだぞ、という脅しとも受け取れる。
ザフは脅されるのは好きではない。まぁ、好きな人間などそうそういるものではないが……。
ただ、役者として自分より目の前のカラニフという男の方が一枚上手なのは理解できる。
そうでなければ、一斗の思惑がからんでいたにしても、裸一貫でここまでのし上がれるものではない。
どういう具合に話を切り出そうかと、ザフが思案していると。
「イット殿に助けてもらった」
先に、センテがそう答えてしまった。
「ほう?」
興味深そうに、カラニフ代表が相槌《あいづち》を打つ。
先を促している様子である。
「ウィバーン襲撃に失敗し、銀のシャハールから痛烈な逆撃をくらった。かろうじて戦場から逃げ出した我らを、助けてくれたのがイット殿だ」
非常に端的に、センテが説明する。
「なるほど、そういうことだすかいな」
あっさりとそう答えて、カラニフ代表が警戒を解いた。
おそらく、その辺りの情報はすでに得ていたのだろう。
その上で、二人の人となりを試したのだ。
下手にザフが思案しながら話せば、状況はこじれていたかもしれない。
「で、あんさんらがおこしにならはった目的はなんだす?」
カラニフ代表が単刀直入に聞いてきた。
「サーフェレス=ナァ=セズァン元公爵が留置所内で死んだことは聞いてますかい?」
ザフはまずそう切り出した。
「なんや、けったいな死に方しなはったようだすな」
うなずきながら、カラニフ代表はそう答える。
「胸の真ん中から、上下に切断されて死んでたそうですぜ。まぁ、実際に見たわけじゃねぇんですがね」
ザフが調子に乗ってそう説明する。
「なんやそうらしいですな。なんでも、留置所内には人影も凶器もなく、一体何を使って、どうやって人間を真っ二つにしたのか、皆目見当もつかんとかいう話でしたな」
カラニフ代表の方も興味深そうに、自分の知っていることを話した。
「しかも、死体は歩いていた姿そのままだったそうですぜ。セズァン公は普通に歩いていて、突然二つに切断された……本人も知らない間に」
あおるように、ザフがさらにそう説明する。
「ほほう。そこまでは知らんかっただすわ。そないな状況でしたか。そりゃあ、ますます謎が謎を呼んで、ミステリアスな展開っちゅうやつになっとるんだすな」
いかにも楽しそうに、カラニフ代表がそう言った。
「実際のところ、暗殺ギルドが動いてるって見方が……」
さらに調子に乗ってそう言おうとしたザフだったが、脇からセンテがこづいて話を中断させる。
話が思いっきり横道にそれている上に、センテにとってはあまり穏やかに聞ける話ではない。
ザフと違ってセンテにとっては、一度は忠誠を誓った相手なのだから。
「ま、そいつはひとまず置いといて……。あたしらは、イット殿に言われてたんですわ。もし、セズァン公の身に何かあったら、サフィデス大使館の動きを調べろって」
サフィデスはロウラディアと北の大国マグダレグの間に位置する小国である。
今まで、ロウラディアとマグダレグの間に直接的な大規模の戦争が始まらなかったのは、サフィデスが間に立つことで、緩衝材的な役割を果たしてきたせいだ。
そうでなければ、どちらかの領土として、とっくに併合されてしまっていたことだろう。
「サフィデスですかいな。こりゃあまた、意外な名前が出てきましたなぁ」
カラニフ代表が意外といったのも無理もなく、これまで果たした役割を考えれば、そして置かれている微妙な立場を考えたら、こういうヤバイ話に深く関わるということ自体がありそうにもなかったからだ。
もっとも、まだ関わっていると決まったわけではないのだが。
「俺らも、最初に聞いたときにはそう思ったんですけどね。言われたとおりにサフィデス大使館に張り付いていたら、面白いものを見かけたんですわ」
身を乗り出すように、ザフが言う。
「面白いものだすか?」
カラニフ代表も興味深そうに身を乗り出した。
「深夜近くなってたんで、はっきりとは見えなかったんですがね。間違いなく、ありゃ銀のシャハールですぜ」
ザフは自分で言っていながら、明らかに興奮を隠せない様子であった。
一方カラニフ代表の方はすぐにその話に飛びついたりせずに、自分の感じた疑問を口にする。
「はっきり見えなかったいうのに、ようわかりはりましたな」
すると、ザフはにっと笑って答える。
「少しの明かりでも、きらきら光るんでさ、あのながーい髪は。銀のシャハールとはよく言ったもんでさぁ。昼間よりよっぽど目立つんじゃないですかね? ありゃあ」
過ぎるくらいにわかりやすい特徴。
一目でもその姿を見たことのある者ならば、銀のシャハールを見間違うことはまずありそうもない。
さすがにカラニフ代表も、これには同意するほかなかった。
「うーむ。どうやらほんまのことかもしれまへんなぁ。……それで、他にも何かあるんだすかいな?」
カラニフ代表は自分のコメントを話す前に次の話を促した。
「後は、たいしたことじゃないんですがね。気になったことが一つ……」
たいしたことじゃないと言いながら、ザフはもったいをつけるように言葉をいったんそこで切る。
「一体なんだすねん?」
焦れたようにも聞こえる声で、カラニフ代表はそう聞いた。
「どうも、ここ最近、サフィデス大使は大使館にいないらしいですぜ」
それを聞いたカラニフ代表は驚いたようである。
「そりゃあいくら何でも、間違いじゃないだすか? 大使館に大使がいなかったら、洒落になりまへん。特に中原各国の注目が集まってる武闘大会前のこの時期に、大使の不在が公になったら信用問題だす」
カラニフ代表の言葉はまったくもって正論であった。
大使館はその国の窓口であり、交渉に関しては独自の判断ができるように全権を委ねられる。
大使とはそれだけの権限を委ねられているのだ。いざというとき不在と言って、すまされるような問題ではない。
「さすがに、直接確認したわけじゃないんですがね。大使館で働いているやつから聞き出した情報なんで、かなり信憑性は高いと思いますぜ」
それを聞いて、さすがにカラニフ代表はうなった。
それだけ重要な情報を、自分が掴んでいなかったからである。
中原での覇者たらんとする国は多い。今はロウラディアに天秤が傾いているものの、まだ振り子は揺れ続けている。
今度の武闘大会においても、野望を持つ国は積極的に自国の謀略に利用しようと働きかけているはずだった。
そんな中で起業してこの先生き残るためには、誰よりも高く触覚を掲げて、行く先を見定めなくてはならない。
それができなくては、戦乱の波間に消えてゆくことになる。
こういう重大な情報を見逃していたカラニフ代表は、内心忸怩たるものを感じていたとしても無理はないだろう。
「このことをイットはんは、まだ知らんのだすな?」
カラニフ代表は確認するように、そう尋ねる。
すると、ザフはすぐにその言葉を微妙に否定した。
「それが、そうでもなさそうなんですわ」
さすがに一体どういうことなのか、カラニフ代表も思いあぐねて聞く。
「それは、どういうことなんだす?」
それにザフは、いたって真面目な顔で答えた。
「不在の裏づけをとっておいてくれと、彼に言われましてね。そんで、探りを入れたんでさぁ」
カラニフ代表は、一つの事実にいきあたる。
「まさか。それだと、あらかじめ……」
言いよどむカラニフ代表の言葉を、ザフが補足する。
「わかっていたっていう口調でしたぜ。どうやってわかったのかは、俺にゃあワカランですがね」
カラニフ代表は少し考えて、一つの答え――といより推測を出す。
「たぶんそれは、予測だすな」
それを聞いてザフはすこし首をかしげる。
「予測ですかい?」
いまひとつピンときていないような口ぶりだった。
「そういう展開になるだろうと、イットはんは考えてたんだすな」
カラニフ代表はなにやら腑に落ちた様子で、そう言った。
一方、ザフの方は納得しがたい様子である。
「考えてわかるものなんですかねぇ?」
そんな疑問に、カラニフ代表が答える。
「言うてはなんやけど、わての情報網はロウラディアのそれにひけはとらんつもりや。なのに、ひっかかってこんかった。ということは、イットはんが事実を知っとったというより、推測したと考える方が妥当だす」
きっぱりとそうカラニフ代表は言いきった。
一瞬ゆらぎかけた自信が、また戻っている。
「そんなもんですかねぇ」
ザフの方は、曖昧《あいまい》な返事をしただけで留めた。
「そんじゃまぁ、彼にはよろしく言っておいてくださいよ。これで、義理は果たしたって、ね」
そう言いながら、ザフは席を立った。センテもまた、それに続いて席を立つ。
「もうお帰りだすか」
カラニフ代表も席を立った。
「よかったら、今後どないするか聞かせてもらえんだすか?」
ザフの手を取り握手を交わしながら、カラニフ代表がそう尋ねると。
「……とりあえず武闘大会でも見学してその後、どうするか決めることにしますわ」
ザフのその言葉を素直に信じたかどうかは定かではないが、カラニフ代表は人のよさげな――明らかにみてくれだけの――笑みを浮かべて答えを返す。
「そうだすな。わても、今度の大会に関わっとるんで、そうしてもらえるとうれしいだす。また、機会があったらお会いしまひょ」
いかにも本心から言っているように見えるだけの言葉をかけて、カラニフ代表はザフとセンテの二人を送り出した。
二人が出て行った後、俄《にわ》かに店内の様子が慌ただしくなるが、それはもう二人には関わりのないことであった。
広いロビーを抜けて外に出てみると、想像以上に時間がたっていたらしく、街は夕暮れの日差しに包まれようとしている。
二人は立派な服装をした馬番から馬を受け取り、馬上の人となる。
「ほんとに知らなかったんだな」
ザフが短く尋ねると、センテは「ああ」とうなずいた。
「で、どうするよ? やっぱり、イットに直接会って確かめるか?」
ザフのその質問にセンテはすぐには答えようとしなかった。
なにやら考えあぐねている様子であったが、そもそも二人はこの先あてもないので、ザフも答えをせかしたりはしない。
二人は並んで馬をゆっくり歩かせながら、ノキア区に入ってゆく。
ノキア区はアシャイ区と違ってまだほとんど昔ながらの街並みを残している。
商家や新興企業の建物が立ち並ぶアシャイ区と違って、ノキア区は普通の都民が暮らす住宅区となっている。
古い昔ながらの建物やアパルトメントなどが、子供の落書きのように無秩序に走る道路沿いに建てられている。
そもそも大きな通りは少なくて、その大きな通りに向かって細い道が網の目のように延びている。
その中の一つに、二人は入り込んだ。
「いや……会わない……」
センテがそう答えたのは、狭い道を歩き始めてからだった。
「そうか。ま、会ったからって。ことの真相がわかるたぁ限らねぇしな」
ザフもそれ以上気にする様子もなく、あっさりとそう答えた。
それから、二人はしばらく黙って進み、やがて別な通りに出ようとした時だった。
「囲まれたな……」
センテがポツリと漏らすように言った。
「ああ……」
ザフがそれに答える。
背後は三人、正面に三人。
道幅は狭いが、それでも十分並んで通れるくらいの広さはある。
格好は剣士や戦士のそれではなく、ノキア区で普通に歩いていてもおかしくないような一般都民の格好をしている。
抜き身のショートソードを手にしている者が四人。弩弓《クロスボウ》を手にしている者が二人いる。
ショートソードを手にした男二人を前方に配置し、弩弓を手にした男がその後ろから狙いをつけている。
明らかにフォーメーションを組んでいる。
格好はともかくとして、男たちは明らかに集団での戦闘の訓練を積んだ連中であることは容易く想像がつく。
ザフとセンテは、ともに状況をさとり同じ結論に達していた。
と、いうより一つしかない。
相手の腕がどのくらいかは知らないが、六対二ではまともに戦って勝ち目はない。
だが二人は馬に乗っていた。馬をぶつけるようにして、前方に押し進み一気にそのまま振り切るのだ。
「行くぞ!」
先にそう言ったのはセンテであった。
言ったときにはもう馬に鞭を当てていた。
「おう!」
即座にザフも応じる。
鞭も同時に当てていた。
前方には人がいる。ショートソードを握った男が二人と弩弓を構えた男が一人。
それを馬体を使って押し通ろうとしたのだ。
そして、それは成功したかに見えた。
だが、行動を起こすタイミングが早すぎたのである。
近づく間に弩弓が狙いをつけた。その時間をゆるしてしまう。
それは、後方の弩弓もまた同じであった。
狙っていたのが馬上のザフとセンテならば、まだはずす可能性があったであろう。
左手に握った小型の盾《バックラー》を使って防ぐこともできた。
ところが弩弓が狙ったのは当たりにくい馬上の人間ではなく、乗っている馬の方であった。
弓矢は簡単に馬体に突き刺さり、馬は痛みのために跳ね回る。
二人は振り落とされる前に、どうにか飛び降りる他なかった。
馬は馬体をあちこちにぶつけ、ついに前足の膝をついた。
その騒ぎを利用して、ザフとセンテは正面の男達の間を抜けようとする。
だが、その動きを予想していたらしく、男達は暴れる馬の影響を受けないところまで下がっていた。
ザフとセンテは自分の得物をそれぞれ手にしていた。もちろん抜き身である。
暴れている馬の間を二人が抜けてきたのを確認して、すぐに正面にいた二人の男が動き出す。
もちろん後ろにいた男達も、同様に動き出しているはずであるが、それを気にしているだけの余裕は今の二人にはなかった。
ザフとセンテはブロードソードを抜き放ち、なんとか突破を図ろうと正面に向かって突っ込んでゆく。
弩弓を持っていた男はすでに弩弓を捨て、ショートソードに持ち替えている。
この時点で二人対三人。すぐにそれは、二人対六人となる。
今でも不利な状況だが、少しでも時をかければ突破は不可能となる。
ザフとセンテは全力で切り込んだ。
だが三人の男達は、ザフとセンテより一枚上手であった。
全力の突進を正面から受け止めるのではなく、下がりながら防御を行う。
攻撃することを完全に捨て、ただ防御に徹することで二人の突進を完璧に受け止めた。
後方の三人がくるのを待つつもりなのである。
「あんたら何者だい?」
「……」
ザフがブロードソードを振り回しながらそう聞くが、当然ながら返事はなかった。
「まぁ、目的の方は察しがつくからいいけどな」
愚痴のような言葉とともに放った一撃は、高い金属音とともに受け止められてしまう。
センテの方も同じように、攻撃を受け止められていた。
どうやら一対一でも、剣の腕は互角。しかも集団での戦闘に長けている。
さすがにもうダメかもなと思った時であった。
声が聞こえた。
人の話し声である。
「ほんとに今度は間違いないんでしょうね?」
怒気をはらんだ、若い女性らしい声であった。
「大丈夫、間違いねぇって」
本当に自信あるんだかわからない男の声がそれに応じる。
「まったく今日は、間違いないの大安売りでもやってるのかしら。さっきからよく聞くわね」
明らかに嫌味とわかるように、若い女性がそう言った。
「そりゃあ奇遇だね。俺も……」
そこまで言いかけて、男の言葉が止まった。
路上で斬り合いをしている。その現場に出くわしたのである。
斬り合いといっても、二人の男女を六人の男が取り囲んでなぶり殺しにしようとしている状況を、そう呼んでよければの話であるが。
それを見た瞬間、若い女性は疾風となった。
それに気づいた男二人が、ショートソードで迎え撃つために動き出す。
左右に分かれ間合いを取る。両側から同時にかかるために。
打ち合わせではなく、そういう訓練を積んでいるのだ。
普通その動きを見たなら、躊躇するものだが、疾風となった若い女性はまるでためらいはない。
至高という表現すら当たり前に感じるほどの美貌。
間違いなく、彼女は美しい。
誰であれ、否定などできぬほどに。
表情を消した相貌には、やけつくような強い意思がはっきりと浮かぶ。
真剣での戦いにその身を置いた者ならば、彼女の危険さははっきりとわかるであろう。
当然二人の男も油断していたわけではなかった。
ためらうことはせず、二人で同時にしかける。そのための準備は、いきなりではあったが完璧に整っていた。
確かに油断はしていなかったであろう。
ただ、判断をあやまっただけであった。
そのことは、間を空けることなくすぐに明らかとなった。
剣の間合いに、若い女性が飛び込んでくる。
同時に疾風は颶風《ぐふう》へと変化した。
あらゆる物を巻き込み、粉々に打ち砕く風だ。
颶風の正体は、それまで若い女性が背中に担いでいた大剣クレイモア。
二人の男達の手にあったショートソードは、一瞬で粉々に粉砕された。
次の瞬間、今度は反対側から颶風が疾る。
クレイモアの剣の平。
それで二人の男は頭を殴打され、地面に叩きつけられる。
その瞬間、彼らは意識を完全に刈り取られた。
だが、それを若い女性は見届けたりはしない。
再び疾風と化している。
圧倒的であった。
残る四人の男達は、再び颶風と化した若い女性を前にして何一つできなかった。
ショートソードを破壊され、次の瞬間には意識を刈り取られて地面に叩きつけられていた。
あっけにとられていたザフとセンテの正面に立ち、若い女性が言った。
「あんたたち、こんなとこで何してんの?」
そう彼女の名前はトウマ=ユウリ。
ザフとセンテはともに一度彼女にやられている。
「イットの用事があったんでね……」
そう答えながら、ザフは心の中で感想を漏らす。
出会った時から化け物じみていたけど、本当に化け物だったんだなぁ……と。
もちろん、そんなことを言ったりはしない。
今地面に伸びている男達は六人。
ザフとしては、その七人目になりたくはなかったからだ。
「なんか、今ヘンなこと考えなかった?」
ユウリがその美しい目を細めながらそう聞いた。
「いやぁ。そんなことあるわけないじゃないですか! 命の恩人に向かって」
内心でヤバイヤバイと思いながら、そう言って全否定する。
このくらいの自己保身は、ザフでなくとも必要であろう。
ユウリと付き合う以上は。
「そう?」
思いっきり疑わしげに、ユウリがそう言った。
「感謝している」
横から真摯《しんし》な声で、センテが言った。
ザフとは違ってかなり重みがある。
「……ま、いいか」
とりあえず、ユウリは機嫌を直した。
そこに、後からゆっくりとやってきていたイヴァンが到着する。
「相変わらず、容赦しねぇのな」
周りの様子を見回して、イヴァンはそう感想を述べた。
それにすぐ、ユウリがくいつく。
「一人も、斬ってないわ」
すると、近くに倒れていた男一人を指さしてイヴァンが言う。
「耳から血が出てんぞ。目からも血が出てらぁ。ありゃあ、助からねぇなぁ、多分。他にも一人二人、ヤバイのがいるかもなぁ……」
淡々と、事実だけを告げるようにイヴァンが言った。
戦場でずっと生きてきた男の発言は、かなり説得力が違う。
「な、なによ。あたしが悪いっての?」
ユウリが少し弱気になって文句を言うと。
「いや。早いとこ、ここを離れた方がよさそうだってことさ。生きてるやつが目を覚ませばまた死人が増えそうだし、誰か通りがかったらもっとやっかいだ」
言及はしなかったが、死人を増やす役割を果たすのは、ユウリのことだろう。
それに、今見知らぬ誰かが通りがかると厄介なことになるのは間違いない。
「尋問しなくては……」
そう、横から言ったのは、センテであった。
すぐにイヴァンがそれを否定する。
「よせやい。こいつらがすぐに口を割るもんかい。それに、おりゃあ拷問なんてごめんだね。それともあんたらのどちらかがやるつもりかい? 言っとくが、ユウリにまかせたら、一秒以上生きてねぇことだけは保証するぜ」
どさくさにまぎれて、かなりひどい言われようだったりするのだが、ユウリが抗議する前にセンテが口を開く。
「わかった。残念だが、ここは引いておこう」
素直にイヴァンの提案を受け入れることにしたらしい。
「さすがに美人は、物わかりがいいねぇ。ま、このことをイットに話しておけば、後はやつがなんとかするさ」
お世辞の後に丸投げを宣言して、イヴァンはとっとと歩き始めた。
「ちょっと、待ちなさいよ」
ユウリが後に続く。
「俺らも行くか?」
ザフがそうセンテに聞くと、センテは無言でうなずいた。
地面に転がっている男達を完全に放置して、歩いてゆく四人。
「どこに向かっているのか聞いてもいいかい?」
ザフはイヴァンにそう語りかける。
心情的には、ユウリとお近づきになりたという気持ちはあった。
ただ、命あってのものだねということもある。
だから、無難な方にしたのだ。
「フェッツ商会だよ。どっかこの辺りにあると聞いたんだけどなぁ。なぜか、何度も同じとこをぐるぐる回ってるみたいでなぁ。まいってたんだよ」
それを聞いて、ザフは思った。
これは運命なのか、それとも……。
「フェッツ商会なら、俺らが案内できますぜ」
ザフがそう言うと、イヴァンは喜んだ。
「ははっ。こりゃあいいや」
そして、すぐに後ろを振り返りながら、イヴァンがユウリに言う。
「だから、言ったろう? やっぱ、この道で間違いなかったんだよ」
それはじつに他力本願な自慢であった。
ユウリはそっぽを向いた。
当然ながら、思いっきり納得していない様子である。
「なんの用件か聞いていいですかい?」
奇しくも、今日二度目となるフェッツ商会への訪問となる。
ザフとしても、気になっていた。
「あんたらに会うためさ。ちっと遅くなったけど、会えたから結果オーライということでいいんじゃねぇーかなぁ」
本当にそれでいいのかは疑問が残るが、それ以上にザフは驚いた。
「会いにって……。俺らがここに来ることがわかってたんですかい?」
イヴァンの言うことが本当ならば、必然的にそういうことになる。
「あんたらと別れてから、イットが言ったんだよ。もし、セズァン公が殺されてから三日後に会いに行けってな」
その言葉に反応したのは、ザフではなくてセンテであった。
「イット殿は知っていたのか? セズァン公が暗殺されることを?」
イヴァンは肩をすくめながら苦笑を浮かべて言った。
「俺に聞かれてもなぁ。多分とか言ってたから、あくまで推測じゃねぇのか?」
その答えに、センテは整った顔を不審げに曇らせる。
「なら、なぜわざわざ会いにやってきた?」
当然の質問であろう。
推測は推測に過ぎない。
だが、その疑問にイヴァンは軽く答える。
「ああ、そりゃあ今まであいつの推測が外れたためしがねぇからだな」
それにユウリが一言補足した。
「ほんっと、かわいげがないくらいにね」
忌々しげな口調を装ってはいるが、口元には笑みが浮かんでいる。
いかにも、自慢したくてしかたないっていう感じだった。
「セズァン公が襲われることを予測していた……」
だが、逆にセンテの表情に深い影が落ちる。
いや、闇なのかもしれない。
その様子に、ザフがいち早く気づく。
そして、近づきながら小声で言った。
「何を考えている?」
気を遣うザフすら目に入らぬ様子で、センテはぶつぶつと口の中で何やらつぶやいている。
この時、一斗は初めての誤算を起こしたのかもしれない。
ただ、今は誰も……センテの相棒であるザフにすらもそのことはまったく予見できぬことであった。
四人は、これから先の波乱を内に秘めつつ、俄かに人の出入りの慌ただしくなったフェッツ商会へと入って行った。
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妖艶という表現を具現化した女が言った。
「どう? お願いできるかしら?」
すこし鼻に抜けるような好きという言葉は、まるで蜜に浸かった蜘蛛の糸のように、甘く男の心を絡め取る。
「けどよぉ……」
見た目は悪くない大男が、抵抗の意思を示そうとするが……半ばとろけそうになっているのは見え見えである。
「いやなの?」
正面から覗き込むように甘く問いかける言葉に、果たして抵抗できる男がいるのだろうか?
「いやぁ、そーゆーワケじゃねぇーんだけどよ……」
いやいない……というわけで、このしまりの悪いハンサム大男はあっさりと篭絡《ろうらく》される寸前になっている。
そこでひと押しが入る。
あるいは、とどめと表現したほうが適切かもしれない。
下からのぞきこむような視線は、相手の男の視線を捕らえて放さず、いつの間にか伸びた掌が大男の首筋にねっとりとからみついていた。
たとえどれほど怪力を持つ男であっても、これを振りほどくことは容易ではない。
というか、不可能だろう。
男ならば。
当然、大男もなす術なくされるがままになっている。
「お・ね・が・い」
甘く囁きかける声に、大男のできる返事は一つしかありえなかった。
ごくりと咽喉《のど》を鳴らした後、緊張のためかかすれた声で。
「わ、わかった……」
大男はそう答えた。
見事に篭絡された大男の名をイヴァンと言った。篭絡した匂い立つような妖艶さを持った美女の名はイヌイ=サユリ。
ちなみに今この場にいるのは、二人だけではない。
イヴァンの背後では、いかにも呆れたという表情でユウリが仁王立ちになっている。
ユウリの右手には、たっぷりと太ったカラニフ代表が、なんとも羨ましそうな表情で様子を窺《うかが》っている。
さらに部屋の隅にはザフがカラニフ代表と同じような表情で立っていたが、センテは何か思いつめたような表情でその様子を見ていた。
場所はフェッツ商会の一室。接客用の部屋ではなく、役員会議に使う一番奥まった部屋である。
妖艶な微笑みを演出しながら、イヴァンの唇に軽く指で触れてサユリが言った。
「よろしくね」
ほんのりと余韻を残して、サユリの指が離れてゆく。
女性を形容する言葉は色々あるが、魔性という言葉がこれほど似合う女もいないのではないだろうか?
男を虜にする術を、生まれた時から身に付けている。
異性にとっては最高の存在。でも、同性にとっては最悪の存在たりうる。
また、質の悪いことに、そのことを知り尽くしていて、意図的に最も効率的にその魅力を行使する。
そして、一切ためらいというものがない。
同性からどれほど嫌われようが、歯牙《しが》にもかけないからだ。
「あーっ……」
一瞬我に返ったイヴァンだったが、結局無駄な抵抗というやつだ。
軽いウインク一つで、すべての抵抗は封じられた。
あっさりとイヴァンを解放して、サユリは艶やかに微笑みながら部屋の中を見渡す。
まるで睥睨《へいげい》するかのように。
その様はまさに女王のごとくであった。
彼女こそ生まれながらにして、男達にとって支配者であるのかもしれない。
もっとも、その魔力じみた魅力はユウリにしてみれば嫌悪の対象でしかない。
ゆっくりと後ろを振り返ったイヴァンに、突き刺すようなユウリの視線が向けられる。
でもそれだけで、口に出して直接何か言うことはしない。
イヴァンとしては、それがこの上なく居心地の悪い状況を作り出していた。
特にユウリは普段考えることと言動がほぼシンクロしているので、こんなふうに口に出さずに責められたら、どうにもいたたまれない。
「じゃ行ってくるわ」
イヴァンはみんなに背を向けると、そう言ってひらひらと手を振りながら部屋から外に出た。
そのまま動きの慌ただしくなっているフェッツ商会を後にする。
外に出ると完全に日は落ちて、すっかり暗くなっていた。
とは言っても完全な闇夜ではない。
十三夜の月が輝いている。
それに街角に設置されているかがり火や、出店の明かりや民家からの明かりがあり、それなりに明るい。
もちろん、昼間に比べたら十分に暗いのだが。
通りはまだ日が落ちたばかりなので、昼間と人通りは変わりない。
主に商家や新興企業の店先が軒を連ねるこのアシャイ区では、これから急速に人通りは減ってゆくことになる。
イヴァンは教えてもらったとおり、しばらく歩いたところにある停留所から駅馬車に乗り込んだ。
旅で使った馬車はフィールザールに到着すると同時に売り払い、代金と馬はザフとセンテにくれてやった。
一斗の指示である。
フィールザール内の移動は、極力駅馬車を利用するようにと言われていた。
実際そのおかげであまり道に迷わなくてすんだのだ。
ただ、最近になって引っ越したフェッツ商会を見つけるのにはかなり苦労したが、それ以外はほぼ迷うことはなかった。
今も駅馬車を使って移動中である。
十人乗りのかなり大きな駅馬車である。通路に立っている人間も入れると、十五人の人間が駅馬車に乗り込んでいた。
各停留所で停止するたびに、人数は増えたり減ったりしたが、それほど大きな人数の変化はなかった。
とはいってもイヴァンは他の人間から見れば十分過ぎるほどに大男だったので、かなり邪魔くさいぞこいつ、といった視線を投げかけられてはいた。
だからといってイヴァンとしては、大男であることをやめるというわけにもいかないので、視線をなるだけ合わさないようにとぼけているしかなかったのだが。
でも、ぎゅうぎゅうに詰まった駅馬車の中では、どっちを向いても誰かいるので、結局のところ馬鹿みたいに天井を見上げているしかない。
その天井は限りなく顔に近く、染みとか汚れとかをじっくり観察することが可能であった。
それはあまり楽しい作業とは言えないので、イヴァンはつらつらと考えてみた。
目の前にほんのりと広がる染みを見つめながら。
なんだって自分が、こんな状況に陥ってしまったのかを。
フェッツ商会に行って、ザフとセンテに会う。
そこまではよかったのだが、雲行きが怪しくなってきたのはその後のことであった。
武闘大会出場のための出場手続きは、イヴァンとユウリの場合、大会事務局だけではできない。
予選大会を経ずに、いきなり名簿に載せるという離れ業をやったためだ。
主催窓口となるロウラディア総務省をはじめとして、あちこちをたらい回しにされたのだ。
その大部分の手続きはサユリがやってくれたのだが、中には当人による手続きが必要とされた部署もあった。
サユリの指示した場所に赴き、順次手続きを済ませていった。
最後が大会を実質的に管理運営することになる、フェッツ商会での手続きとなった。
サユリとはそのフェッツ商会で落ち合うことになっていたのだ。
ただ手続きが終わっても、“特例の条件”はきっちりと付いていた。
明日、日が落ちるのと同時に、フェマー区にあるメイン会場で大規模な開会式が催される予定になっている。
その式典でエキシビションマッチが準備されていた。
本大会とは直接関係のない試合で、勝ってもなんの得にもならないが、負けた場合は出場を辞退しなければならなくなる。
まぁイヴァン個人としては、負けたとしてもなんら問題はないのだが、一斗の都合もあるようなので一応勝つつもりではいた。
ただ試合とは別のところで、女性二人からクレームがついたのである。
見苦しいので、もっとマシな格好をしろと。
もちろん、イヴァンはまるっきり欠片も自分の格好を見苦しいとは思っていなかった。
というよりは、意識したことすらない。
根本的に自覚症状がないのであるから、マシな格好をしろと言われたところでもうひたすら途方に暮れるしかないのである。
ひと振りの剣をもって武器とし、盾とするイヴァンの技において、アーマーはたんなる服以上のものではない。
今着ている古ぼけたレザーアーマーは、元々傭兵時代に支給品としてもらったものである。
着心地もさほど悪くなく、なにより丈夫なうえに少々傷がついても普通の服のように綻《ほころ》びたりしないので、一斗とともに旅立つさいに部屋の隅にあったものを引っ張り出してきたのだ。
イヴァンのファッションセンスはその程度のものである。ほとんど致命的といえるかもしれない。
もちろんその辺りは、ユウリもサユリもよくわかっているので、イヴァンに期待はしていなかった。
ただあまりにみすぼらしい格好で、大勢の観客の見つめる戦いの舞台に立たせることは、決して認められるような事態ではなかったのである。
そこでサユリが説得に動いた。
セレン区にある宿に、知人が泊まっているので尋ねて行って助けてもらうように、ということであった。
それだけならば、それほど問題になるようなことではない。
唯一つの問題として、イヴァンの本能がそのことになにやらキナ臭いものを感じたことにある。
もちろんそれが何かはわからない。
一斗ならばたちどころに推測してみせるのかも知れないが、あいにくとイヴァンは本能に生きる男である。
理由はわからない。
ただ、なんとなくヤバイと感じただけである。
それだけのことなのだが、イヴァンは自分の本能をかなり頼りにしていた。
だからこそ、今まで生き延びてこれたのだとも言える。
あの人形の兵器との戦いのさいには、それがいかんなく発揮されることになった。
理屈はともかくとして、そういう実績はあるのだ。
ただし、他人をそれで説得するとなると、おおむねかなりの困難を伴うことになる。
今度の場合は、相手にすらされなかったわけだが。
結局のところサユリの説得に、イヴァンの本能はひとたまりもなく粉砕されてしまうことになった。
今こうして駅馬車の天井の染みを見つめているのは、ひとえにイヴァンの意志の弱さと着の身着のままを実践していたゆえであった。
自業自得。
この言葉が、今のイヴァンには最も相応しいであろう。
じっと見つめていた天井の染みに、そろそろ愛着がわき始めた頃、駅馬車は目的地に到着した。
車掌に運賃を支払って馬車を降りると、そこは人混みの真っ只中であった。
ここから先は、サユリに教えてもらった記憶を頼りに進むことになる。
出店が立ち並んではいるが、隙間なくというほどではない。
この通りは繁華街ではあるが、夜の中心部ではないからだ。
それでもこれだけ人が溢れているのは、中心部となっている通りから人が溢れ出してきているからだということは、特に考えるまでもなく簡単に予想がつくことであった。
そして運が悪いことに、イヴァンがこれから向かう先は、その中心部となっている通りにあった。
ぶつぶつと口の中でイヴァンが悪態をついたようだが、もちろん耳を貸す人間なんておらず、特になんの役にも立ったりはしない。
というわけで、イヴァンは喧騒の中でため息を一つつくと、建設的な行動に出ることにした。
人混みを掻き分けながら、とりあえず歩き出したのである。
少しばかり歩くだけでも一苦労だし、そもそも真っ直ぐに歩くこと自体、かなり無理があったのだけれど、今日は危険物が一緒じゃないということがせめてもの救いであった。
ただこの通りは、夜の繁華街ではなく元々観光者用の店が多く立ち並ぶ通りだったので、必然的に子供連れの親子が多くて、その分、気を遣う必要があった。
なにしろ気がつけば、足元に子供がよちよちと歩いていたりするのだ。
気を抜いたら、それこそマジで踏んでしまいかねない。
こんな大量の人混みの中に連れてくんじゃねぇよ、と誰かに訴えたかったけれど、そんなことをしていたら目的の宿に辿り着く前に夜が明けてしまうことはほぼ確実だったので、イヴァンは口の中でぶつぶつ言うだけに留めておいた。
それに、先に進めば進むほど人通りは多くなってきて、必然的に難易度も上がってきた。
ぶつぶつ言えるだけの余裕すらなくなってきたのである。
出店の前には、それぞれ人だかりができていて、そのそばに行ってしまうと、人の流れがなくなってしまい抜け出すのに苦労することになる。
二度ほどそうした停滞地帯に入り込んでしまい、イヴァンはかなり苦労をすることになってしまった。
そのおかげで、出店の前を回避しながら歩いてゆくという、人混みで使える高等テクニックを身に付けることができた。
まぁ、この先どのくらい使う機会があるのかは疑問ではあったが。
でも今現在そのテクニックは、十分にその威力を発揮することができた。
最高に人で溢れていた通りを完全制覇して、通りの向こう側まで歩いて抜けることができたのである。
「えっ? えええっ……?」
通りの終わるところで、イヴァンはそんな声を上げた。
目的の場所は、この通りの途中にあったのだ。
新たなる技の獲得に調子に乗ったためか、あっさりと通り過ぎてしまっていた。
間抜けと言われても、これはもうしかたない。
幸いなことに、そのことに突っ込むような相手はいなかったので、今抜けてきたばかりの人混みを少し哀しそうな目で見つめ、ちょっとばかり哀愁の漂う――ような気のするため息をつくと、イヴァンは再び歩き出そうとした。
そのときであった、イヴァンの耳に悲鳴のような声が聞こえてくる。
気のせいなどではない証拠に、それぞれにのんびりと歩いていた人たちが、いきなりその場に立ち止まり、一体どこからその声が聞こえてきたのかと、辺りをしきりに探し回っていた。
さすがにイヴァンは声の聞こえた方角を確実に捕らえていたが。
少し迷う。
人の流れの中にもう一度漕ぎ出すか、それとも声のした方に行ってみるか。
見れば、数人の男達が声のした方に向かっている。
誰かが助けを求めていたのだとしても、たぶんイヴァンの出番はなく単なる野次馬の一人になることだろう。
このまま素直に引き返すのが、大人の判断というものであろう。
で、結局イヴァンは声の聞こえた方に向かって歩き出していた。
やりたくないことを後回しにする口実ができた。
それにほいほいと乗っかったのは、イヴァンの習性のなせる業であった。
観光のメインとなる通りから、駅馬車の走っている幹線道へと続く道。
そこにも当然人が溢れていたが、悲鳴の聞こえたのは、途中にあるすぐに見逃してしまいそうになる細い道であった。
出店も近くにはなく、両隣の家は不在なのか明かりが点っていない。
観光客のためにと一定間隔で置かれている松明の明かりも、そこまでは届かない様子であった。
ただ月の光は天頂から差しこんでいるので、完全な暗闇ではない。
普段ならたぶん誰一人として、その細い道に関心を示す者などいないのだろうが、今は通りがかった人たちの注目の的になっている。
まぁ早い話が、野次馬に取り囲まれていたのだ。
案の定、イヴァンはその野次馬の中の一人となった。
「いってぇ何があったんですか?」
イヴァンはできるだけ前に行って、先に見学していた男にそう尋ねてみる。
するとその男は、ちらっとイヴァンの方を見て少しそのガタイの立派さに驚いた様子で答えた。
「なんでも、この奥にバラバラになった人間の死体があったんだとよ」
そう言った時には、もうイヴァンに興味を失ったようで、また通りを覗き込もうと身を乗り出す。
「へぇ? そりゃ大変だ」
イヴァンは感心したかのように、腕組みをしながらうなずいてみせる。
そうしている間に中からまた悲鳴のような声が聞こえてきた。
ただそれだけでなく、血の匂いもただよってくる。
背筋にちりちりとした軽い痛みのようなものを感じていた。
無意識のうちに、イヴァンの右手は剣の柄に置かれていた。
「どうも、野次馬じゃすみそうもねぇなぁ」
イヴァンの愚痴っぽい独り言を聞いた、野次馬の男が横を見るとそこにはイヴァンの姿はない。
男がもう一度正面を見ると、路地の入り口のところにイヴァンは立っていた。
右手には、抜き身のブロードソードが握られている。
助走なしで跳ね。空中で剣を抜いたのだ。
「なんてこったい……」
路地にはいくつもの死体が散乱していた。
頭や胴体、手や足。そういった人間のパーツが、まるで部品ごとに切り分けられたかのように、狭い路地の中に散乱していたのである。
そして、足元には小さな川が流れていた。
月影の下ではどす黒く見えるそれは、大量の血が集まり流れ出したものである。
おそらくさっきの悲鳴を聞いて駆けつけて来た男達も、おそらくこの中でばらばらの死体となって転がっているに違いなかった。
最初に悲鳴が上がった女の声の主も、この中でバラバラの死体になっていたとしても不思議ではないだろう。
イヴァンは路地の入り口に立ったまま、中に人の気配がないか探ってみる。
これほどの惨劇をもたらした、その犯人がどこかにいるはずである。
ところが、イヴァンが全神経をとぎすましても、人の気配は感じ取ることができなかった。
一番利口な選択は、ここからとっとと離れて、このことは記憶の中から抹消する、ということなのだが……。
「できねぇんだよなぁ……はぁ」
ため息とともに、そんな言葉をイヴァンは吐き出した。
これほど人が集まる場所で、しかも子供連れの人達が多くいるすぐ近くで、こんな惨劇をひきおこすようなイカレた野郎を野放しにできるほど、イヴァンの心臓は強くなかった。
背後に何人かの男が近づいてくるのを、イヴァンは気配で察して振り返らずにそれを制する。
「あんたら、来るんじゃねぇ」
するとすぐに、怒鳴り声が聞こえてきた。
「何を言ってる? 俺のダチがそこに入って出てこないんだ。助けを待ってるかもしれないだろう?」
男は正面に立ち塞がるイヴァンに臆することなく、そう言った。
「足元を見てみなよ」
イヴァンは努めて穏やかな声で、そう話しかける。
すると、
「な……こ、これは……」
背後からそんな、あきらかに動揺を隠し切れない声が聞こえる。
「わかんだろ? 血だよ。中には死人しかいねぇ。みんなバラバラにされちまってる。あんたらは、ここに残って誰かがこの中に入らねぇように、見張ってちゃくれねぇか?」
そう言うと、うなずきながら唾を飲みこんだ男が、わずかにかすれた声で答える。
「あ、ああ……。俺らはいいけど……あんた、まさか?」
その質問に、イヴァンは振り返らずにうなずいた。
「もし、俺以外の誰かが出てきたら、全力で逃げろ。間違っても後を追おうなんて考えるんじゃねぇ」
イヴァンの指示に、男は無言でうなずいたようだ。
口に出しては、別なことを言う。
「あ、あんたは? あんたは大丈夫なのか?」
イヴァンはあれこれ説明する代わりに、一言だけ言った。
「おりゃあ、武闘大会の出場者だ」
その後、背後の方で驚きの声が上がったが、もうそれ以上イヴァンはそのことを気にかけるのをやめた。
全身の力を抜き、楽な姿勢を作る。
呼吸を三回深くつき、一切集中することをやめた。
その状態で、無造作に見える一歩を踏み出す。
月影の青白い光の中、路地に入り込んで二、三歩進むと足元には切断された腕と胴体が転がっていた。
それを確認する間もなく、イヴァンの手にしたブロードソードが動く。
硬質の金属音が複数。
地面に何かが突き刺さる。
それがなんであるのか確認することなく、イヴァンは歩き続ける。
金属音は増え、ブロードソードはさらに激しく動いた。
「くそっ。いってぇどんだけ仕掛けてんだ?」
歩く早さは変わらないが、イヴァンがブロードソードを走らせる速さは徐々に上がっている。
それは、先に行けば行くほど仕掛けが増えていることを示している。
完全に見えているわけではないが、最初のひと振りでそれを打ち砕いたときには、そこに何があるのかわかっていた。
信じられないくらいに薄い板《トラップ》が、空中に大量に浮いている。
もちろんイヴァンには、どういった理由でそんなことができるのかなどわからないが、それでもそれが現実であった。
先にこの場所を訪れた人間は、そのことに気づかぬまま先に進み、自ら体をバラバラに切り裂いてしまったのだ。
イヴァンはその仕掛けを入り口のほうから歩いて行きながら、根こそぎ打ち砕いてゆく。
こんなものを残したところで、いいことなど一つもない。
それにこの先には、いまだに姿を消している敵がいるはずであった。
気配はまだ感じ取れないが、イヴァンの勘が激しく警鐘を鳴らしている。
間違いなく、敵はいるはずであった。
「そろそろ、姿を現せよ。なぁ」
自分の正面にあった最後の一枚のトラップを打ち砕くと同時に、イヴァンは闇の中に向かってそう声をかける。
正直ここまで完璧に姿を消している相手に、返答など期待しているわけではなかった。
ただ、なんらかのリアクションがあることを期待したのだ。
たとえば、イヴァンを殺しにくる……というような。
「あらら。あたしのカード、ぜぇんぶ壊されちゃいましたねぇ。やっぱり、あんたすごいや」
建物の間から届いてくる月光の中、一瞬ゆらめくと同時にそこには一人の男の姿があった。
まるで、元からそこに立っていたかのように。
「てめぇ……あの時のヘンなヤローか?」
少し以前、一斗がどこぞに姿をくらました日の夜。
一斗を探してユウリとともに、リクラーセル通りを歩いていたとき、この男に出会っていた。
「おやおや? あたしのこと、覚えていてくれましたかぁ。こりゃあうれしいなぁ」
まるで本気で喜んでいるみたいに、細かい笑い声をたてながらその男はそう言った。
イヴァンは心底うんざりしたように答える。
「こっちは全然うれしかねぇ。……なんで、こんなことしやがった?」
その言葉に、男は悲しげな表情になる。
「残念ですが、そいつは言えないんですよ。たいしたことじゃ、ないんですがねぇ」
今度はいかにも残念そうな表情をして、そう男は言った。
「こんだけの一般人を殺しといて、たいしたことじゃないってか……」
それを聞いたイヴァンは吐き捨てるように続ける。
「てめぇとは、金輪際話が合いそうもねぇな」
その言葉に秘められているものは、怒りというよりは決意であった。
そんなイヴァンの様子に何を感じたのか。
その男は、小さく笑い出す。
「くくく。怖い……怖いよ。こうしてあんたの前に立っているだけで、ちびりそうだ。あんた、サイコウだよ」
甲高く響くその声は、男の心をそのまま映しているかのようだ。
だがイヴァンはその声に何か違和感を感じていた。
壊れた心。歪んだ精神。
表面的に見ればそう見えるが、そのことに言い知れぬ不自然さを感じている。
だが今は、どうでもいいこと。
迷う暇も考える余裕もない。
戦いはすでに始まっている。
イヴァンの左から見えない攻撃が来る。同時にその男は左に動いていた。
前に踏み出し、イヴァンはそれをいったんかわす。
まるでその動きを読んでいたかのように、人体を切断するカードは軌道を変えてイヴァンを追ってきた。
イヴァンは体をわずかにずらしながら、自分から体をぶつけるように一気に動く。
ブロードソードが奔る。
狙うは敵の首。
その線上にイヴァンを攻撃してくるカードが存在した。
イヴァンが意図的に剣の軌道上に置いたのだ。
カードは粉砕され、そのままブロードソードはその男の首筋に叩き込まれるはずであった。
「ちっ」
舌打ちしたのはイヴァン。
ブロードソードの軌道を強引に変えて、足元をなぎ払う。
高い金属音が響き、数枚の見えないカードが地面に落ちた。
「絶対に決まると思ったのに、今のをかわしますかぁ。すげーや、あんた」
死角をついた、足元からの攻撃。
それも、先の攻撃と自分自身を囮《おとり》にしていた。
どう考えてもかわせるはずのない攻撃だったのだ。
それをあっさりとかわされた。
男はそれで驚いたのだろうか?
あるいは、驚いたことを演じたのだろうか?
もちろん、イヴァンはそんなことを斟酌したりはしない。
直後に左右同時に来た敵の攻撃を打ち砕きながら前に出る。
男は逃げるが、イヴァンの方が早い。
さらに男はたて続けにカードによる攻撃をしかけるが、イヴァンの動きを留めることはできなかった。
剣の間合い。
最早打つ手がない……と思われた瞬間。男は姿を消した。
イヴァンはかまわず前に出る。
前に出ながら、剣を振る。
かすかな手ごたえ。
何もないはずの中空に、月光を受けて赤黒い線がわずかにきらめいた。
イヴァンは頭上から落ちてくるカードを粉砕して、さらに前に出ようとするがそこには多数のカードが敷設されていた。
おそらくイヴァンと話しているときに敷設したものだろう。
男が逃げながら撒《ま》いたものならば、さすがにイヴァンは気づいたはずだ。
一体どういう手段を使ったのかはわからないけれど、さすがにイヴァンもひと振りで片付けられる量ではなかった。
時間にすれば二、三回鼓動を打つ間に過ぎなかったが。
ただこの戦いの中では、致命的な時間と言ってかまわないだろう。
イヴァンが必死で後を追うが、姿を完全に消してしまった男の気配は路地の中から消えていた。
身を隠したわけではない。
外に出てしまったのだ。
「しまった」
イヴァンは歯噛《はが》みするが、どうすることもできない。
全力で後を追うしかない。
外には多数の何も知らない、祭りを楽しんでいる人達がいる。
被害を最小限に抑えるのだ。
イヴァンは外に飛び出すと同時に、月明かりの中矢が飛んでくるのを視界の隅にとらえていた。
その矢は二つに断たれて、地に落ちる。
だが、その矢のすぐ後から矢が飛んできていた。
上下にちょうど矢一本分ずつずらして二本。
そのうちの一本は、同じように二つに分かれて地に落ちたが、もう一本は見えない何かに突き刺さった。
「うっ……」
呻き声が聞こえたのと同時に、突き刺さった矢は抜かれて地に落ちた。
「怖い人がいるものですねぇ。さすがにこれじゃあ一方的にやられるだけだ。なので、逃げさせてもらいますよ」
その声が聞こえたのと同時に、一瞬だけ光がその場を包んだ。
突然の光に、その場にいた人間は目を焼かれる。
再び夜の闇に目がなじんだとき、その男の気配は完全に消え去ってしまっていた。
一体何があったのか、まるで状況が呑み込めないでいる人達の中で、ざわめきが広がる。
「あ、あんた無事だったんだ? 一体、中で何があったんだ? 今のは一体なんだったんだ?」
そう質問を立て続けに浴びせかけてきたのは、さっきイヴァンがこの場に留めさせた男であった。
「犯人を追い詰めて、取り逃がしちまった。もう中に入っても大丈夫だ。……確か、あんたのダチがいるんだったな。早えぇとこ弔ってやってくんな」
もし、死体の区別がつくようなら……。
という言葉は口にせず、イヴァンは自分の胸のうちに留め置いた。
そのままイヴァンは歩き始める。
当初の目的地であった宿屋に向かってではなく、幹線道のある方へと。
取り巻いている野次馬の間をぬけて、身を縮めるようにして人の流れに乗る。
もう手遅れかもしれないが、もしかしたら……という淡い期待を抱きながら。
無事に幹線道に出て、そのままこそこそとイヴァンは駅馬車の停留所へと向かう。
他の人に紛れて、早く馬車よ来いと願いながら馬車を待っていると、自分がやってきた方角がいきなり騒がしくなってきた。
恐らく路地の中の惨状を、人々が目の当たりにしたのだろう。
しばらくすれば警邏の人間も駆けつけてくるだろう。
もうこれから先、イヴァンにできることはない。
後は自分の身を守ることに専念するだけである。
運がいいことに、それほど待つことなく駅馬車はやってきた。
目の前で止まった駅馬車からたくさんの人が降りて、その後待っていた人が一人ずつ乗車を始める。
そしてイヴァンの乗車の番になったときだった。
動けなかった。
コメカミに冷たいものが、つつーっと流れる。
背後に立つ者の気配によって。
「どうした。早く乗らねば、迷惑であろう?」
そう声を掛けられる。
イヴァンはぎくしゃくと体を動かしながら、駅馬車の階段を上った。
気配は離れることなく、ぴったりとイヴァンの後をついてくる。
駅馬車の中は当然のように混雑していて、気配もぴったりとイヴァンにくっついて来ていた。
「いつまで背を向けておるつもりだ? そなたの背中は嫌いではないが、さすがにさみしいぞ」
止まる寸前の独楽のように、危なっかしくイヴァンはその場でくるっと回り後ろに向きを変えた。
目の前にいたのは、ユウリともサユリともタイプは違うが、それに引けを取ることのない美女。
はっきりとした力強さを感じさせるが、同じくらいはっきりと女性を感じさせる。
剛さと柔らかさという本来なら相容れぬ要素が、その女性の中ではまったく無理なく自然に同居している。
「や、やあユンフ」
頬の辺りを微妙に引きつらせて、イヴァンが間の抜けた声をかける。
「どうやら、自分の妻の顔は忘れておらぬようだな。少し安心したぞ」
そう、その美女こそはカウノ=ユンフ。
カウノ=イヴァンの妻であった。
ユンフは密集した車内で、イヴァンの手を器用に取ると両手で自分の胸元に抱えるように持ち上げる。
「ふむ。やはりお主の手に触れると落ち着く」
そう言って、イヴァンが顔をしかめるくらい強く握り締めた。
「……今は、このくらいで勘弁しておこう。後で、つけはきっちり払ってもらう」
ユンフはいったんイヴァンの手を解放した。
「あれは、一体なんだったのだ?」
もちろんそれは、イヴァンが戦っていたあの男のことについてであった。
「カードで人を切り刻むのが好きな変態ヤローさ」
簡単にイヴァンが答える。
「で、その変態を我が背の君は取り逃がしたのだな」
揶揄するでもなく、事実を淡々と指摘する。
「……ああ、失敗しちまった。けどユンフの弓のおかげで、犠牲者を増やさねぇですんだよ」
素直にイヴァンは失敗を認めて、そう礼を述べる。
「ふむ。素直なのはよいが、口うるさい女を黙らせる手段を間違っておるぞ」
挑発するかのように、ユンフが言うと。
「ここでか?」
困ったようにイヴァンが言うと。
「一年ぶりの逢瀬《おうせ》の場を、ここに選んだのはそなたであろう? それより、この一年分の不満を聞かされたくなくば、有効な手段に訴えることだな。そろそろ私も我慢の……」
ユンフの言葉はそこで途切れた。
イヴァンが有効な手段に訴えたからである。
いつの間にか、二人の両腕は互いの腰にまわされて、その唇が深く重なっていた。
ぎゅうぎゅうづめの駅馬車の中。
目的の駅に着くまでずっと。
闇が振り払われて、かなりの時間がたっていた。
動くこと自体は、暗闇の中に比べれば一斗という荷物を考慮してもずいぶんと楽になっていた。
ただし、明かりが戻ると同時に、建物内のセキリュティシステムも生き返り、それまでにはなかった障害が発生していた。
そのほとんどは、一斗の指示に従うことで回避できるものであったが、中には一斗でもどうにもできないものも少なくなかった。
「ここのコントロールを、連中に渡したままにしちゃだめだからね。なんとか奪回する」
一斗はなんでもないことのように、コウの背中の上でそう宣言したのだ。
それからコウは一斗の指示に従って、そのまま地下に向かう。
その途中で、この建物に関する簡単なレクチャーを受けた。
主にこの建物内部に存在するセキュリティシステムに関することと、コントロールシステムの簡単な仕組みについてである。
セキュリティに関しては、本番とレクチャーがほぼ同時になったので、ある意味わかりやすくはあった。
ただ、コントロールシステムに関しては、カガクに関する基礎的な知識が絶対的に不足しているため、理解することは容易ではなかった。
要するに、コウから見ればカガクも魔法も大差はなかったのである。
その辺りのことは一斗も十分承知しているので、理論は完璧にすっとばして、動作方法の説明のみに的を絞った。
そのおかげでコウは、最下層に辿り着いたときには、ある程度の知識を身につけていたのである。
最下層にある階段の入り口の扉を開いたとき、コウはかなりの衝撃に包まれた。
そこにあったものは、巨大なドーム。
城などそのまま簡単に、すっぽりと呑み込んでしまえるであろう。
それが、地下にある。
巨大なドームをさらにすっぽりと包んでいる壁や天井が存在するのである。
その光景は、正直コウの常識を、あっさりと破壊してくれていた。
しかし一斗は、そんなコウの様子をあえて気に留めることなく、先に進もうと言った。
コウもそれに同意する。
一斗の説明では、この場所のコントロールを奪われるということは、この都市の持つ機能すべてが未知の何者かの手に渡ってしまうことになる。
それだけは、決して容認することはできない。
危険すぎるからだ。
ここの力を使えば、地上では簡単に神にも等しい力を手に入れることができる。
何者かはわからないが、わざわざこの都市を生き返らそうとしている者がいるとすれば、その力を行使することが目的であることはほぼ間違いない。
その相手の善意に期待するほど、一斗もそしてコウもお人好しではなかった。
「このドームが、この都市全体に電力を供給するための動力システムなんだ。この中心部にはマイクロブラックホールが存在していて、そこにこの都市の不要物を投げ込むことで、エネルギーに換えているんだ。縮退炉という技術だね。ここは、この都市の巨大なエネルギー源兼、ゴミ処理施設でもある」
そう一斗が説明してくれる。
もちろんその説明は、コウには半分も理解できないものであったが、このドームがかなり重要なものであることは十分に理解できた。
そしてもう一つ、この施設がきちんと動いていない限り、都市のすべての機能は停止したままであるということも理解した。
つまり一斗が真っ先にこの場所にやってくることを選択したのは、それが狙いだったということなのだ。
ドームの入り口はすぐに見つかった。
誘導する標識が、わかりやすいように配置されていたからだ。
問題なのは、その入り口が開かなかったということ。
ここに来るまでのセキュリティは一斗があらかじめ用意していた、セキュリティパス用の認証カードと携帯用の小型端末を使ってハッキングして解除してきた。
ところが同じやり方では、入り口を開くことができなかったのである。
「さすがに、ここのセキュリティは隔離されてるね。それにシステムそのものも別なものを使ってる」
入り口が開かない理由を、一斗はそう説明する。
「では、開けることは不可能?」
コウがそう尋ねると、一斗は首を振る。
「いや、隔離されているといっても、外部からのコントロールを受け付けるためのケーブルと端末があるはずなんだ。それを使ってハッキングをしかける」
その説明の大部分は、コウにとってあまり意味のあるものではなかったけれど、行動を起こすにあたって大切な部分だけはきちんと聞き分けていた。
「端末っていうのを見つければいいんだね?」
確認するようにコウが尋ねると、一斗はそれを補足するように言う。
「端末はちょうど金貨くらいの大きさをしたボタンなんだ。それを見つけるのはかなり難しいと思う。だから、先にケーブルを見つける。その先を探せば端末はあるよ」
そう説明して、一斗は手ですぐに歩き出そうとするコウを引き止める。
「待って。僕はここに置いていって」
そのセフリにコウは不思議そうに言った。
「でも、私では端末を操作できなない」
当然のことである。
これまでのセキュリティ解除方法は、一斗からレクチャーを受けていたが、端末を使うやり方というのは聞いていなかった。
それに、コウの想像でしかないが、かなりやっかいそうである。
正直、自分がそんな作業をこなせるなどとは、コウはこれっぽっちも思えなかった。
「操作の必要はないよ。端末の起動が確認できたら、すぐに戻ってきて」
一斗には何か考えがあるようなのだが、コウには想像することすらできなかったので、素直に一斗の指示に従うことにする。
「わかった……」
そう言って、背負っていた一斗を足元に下ろす。
「行ってくるよ」
そう言い残して、コウは足早に立ち去った。
後に残された一斗は、自分の体を引きずるように移動して、入り口受付用の端末の前に移動する。
そこの認証カード用の端末に、一番近い形状のカードを差し込み、接続ケーブルを小さな携帯端末に接続する。
ここで、さっきは暗証コードサーチ用のプログラムを走らせて失敗したのだ。
今はコウが、外部接続用の端末を探し出して起動するのを待つしかない。
まずその端末をハッキングして、そこから異常アクセスを大量に発生させて高負荷をかける。
アタックにより負荷のかかったセキュリティシステムが、端末を切り離す前に解除コードを携帯端末から発生させるのだ。
それほど待つことなく、コウが戻ってきた。
「……ボタンを押したら、光でできた板状のものが出てきたよ、イット。多分、起動したんじゃないかな」
よほどめいっぱい走って来たと見えて、いくらか息をきらしてコウがそう言った。
だが、その報告を一斗は待ってはいなかった。
「ありがとう。ハッキングは成功したよ。……よし、解除コード生成開始……」
そう言ったとたん、あれほどかたくなに閉ざされていた入り口は、いともあっさり開いた。
「入ろう」
その言葉にコウは無言でうなずき、一斗を再び背負った。
中の通路は意外なほど狭く、しかも単調なつくりだった。
白一色だけの通路は、いくら歩いても部屋もなく、ひたすら通路だけが続いていた。
歩いても歩いても、まったく様子の変わらない、まるで無限に続く通路が、ただひたすら延々と続いてゆくその様子に、さすがのコウもいささかうんざりしてきた時であった。
「ここだ」
いきなり、一斗がそう言った。
「なに?」
コウはまるで夢から覚めたみたいに、驚いて立ち止まる。
「ここに、奥へ続く通路があるよ」
一斗がそう言って指し示した場所は、どう見ても通路の壁であった。
「ホログラムだよ。ためしに触ってみたらすぐにわかるよ」
コウは、言われるままに右手を伸ばしてみると、右手はあるはずの壁には触れることなくそのまま向こうに突き抜けた。
こういった仕掛けは、これだけではなく、この中のいたるところに存在した。
まるで、盗掘を防ぐためにしかけられた、王墓の罠《トラップ》のように。
ただ、こちらのトラップは遥かに巧妙で、とんでもなく高度なものであった。
おそらく一斗がいなければ、まったく先に進むことはできなかったであろう。
「一つ聞いていい?」
無数の入り口の中から一つを選択するというトラップをクリアした後、コウが一斗に尋ねる。
「んっ?」
「なんで、こんなややこしいことをする必要があったんだろうね?」
コウの質問に、一斗はしごくあっさりと答える。
「これは、試験だからね」
その言葉だけでは、コウとしてはわかりようがないので質問を重ねた。
「試験? なんのために?」
一斗は答える代わり、一つ質問をする。
「コウって、子供の頃火遊びしたことがある」
その質問の趣旨がはっきりしないまま、コウは答えを返した。
「まぁ、レンおばさんの目を盗んでチャレンジしたことはあったよ。成功したことはなかったけどね」
昔のことを思い出しながら、そう答えた。
「子供でも、火は使えるでしょ? でも、子供が火を扱うことを大人は認めない……それってなんで?」
一斗はさらに、質問の内容を深めた。
「もちろん、よく知らない子供が使うのは……」
そう言いかけて、コウは気づいた。
「そういうことか。危険なんだ、何も知らない者が扱うのは」
その答えに、一斗は満足したようにうなずいた。
「そう。ここにあるものは、本当に危険な力なんだ。ただ力を使える、使いたいというだけの人間が扱うには、それは過ぎた力なんだ。だから、こうして試している。知識とともに精神的なものをね」
口に出してはそう言ったけれど、もう一つこの試験には別な側面があることを一斗は黙っていた。
この試験は、古き文明を放棄し地上で生まれた人間には、決してクリアできない類のものであるのだ、ということを。
そう。この都市を生み出した人々は、一度放棄した科学力を、再び地上に暮らす人間が手にすることをよしとしなかったのである。
一斗はあえて、そのことを口にしなかった。
彼らはここを去り、その意思にかかわらず新たな意思は生まれ、その思惑に合わせた状況が生まれている。
今を生きる一斗やコウたちは、その状況の中で生きるしかないのである。
過去の人々の願いは尊重するとしても、それにとらわれる必要などないと一斗は思っていた。
またそうでなければ、他者の思惑のままに生きてゆくしかなくなるであろう。
かつて、大陸の東の果てで、二つの国が百年もの長きにわたって、戦争を続けなくてはならなかったように。
「どうやら、ついたみたいだね」
一斗がそう言ったのは、それまでとはまったく異なった雰囲気の部屋に出たときであった。
天井はやや丸みを帯びて、中央付近が高くなっている。
円状になった部屋の周りには、一面透明なガラスがはめられていた。
「ここが?」
コウは、部屋の中をぐるりと見渡しながらそう言うと、一斗は黙ってうなずいた。
そして、口に出しては。
「さぁ、もう時間がない。僕を中央の席に連れていって」
一斗に言われるままに、コウは中央にある、他よりひときわ高くなっている席に座らせた。
すると一斗は、座ることのできるイスの中でズルッとすべり、体を起こそうとしてもうまく起き上がれない。
ずっとコウの背中にいただけなのだけど、それだけでもかなり疲労してしまっていたのだろう。
「大丈夫かい?」
コウはそう言ってきちんと座りやすい位置に直してやる。
「すまない、コウ」
さっそく一斗は、目の前にあるパネルを調べる。
「これかな」
そう言って、スイッチを入れる。
パネルから浮かび上がってきたのは、オプティカルキーボードであった。
光で構成されたキーボードは、一斗の手のすぐ下にくるように自動的に投影される。
同時に目の前にはスクリーンが展開される。
一斗の指がキーボードとスクリーン上を何度か往復すると、スクリーンにはいくつものグラフとリストが表示された。
「うーん。想像以上に進んでるなぁ」
一斗はそれを見てうなっている。
コウにはまるで状況がつかめなかったので、質問をする。
「どうなっているんだい?」
すると一斗は簡単に状況の説明をした。
「ここを起動したやつは、そのまま中央処理施設に行って、自由に都市の機能を使えるようにシステムの改変を始めているんだ。このままなら、じきにこの都市はやつの手に落ちるだろうね」
まるで他人事のように、一斗が言った。
「で、打つ手はあるのかい?」
コウはそう聞いたけれど、あせったようなところはない。
一斗に余裕が感じられるからである。
「もちろん。なにしろ僕らは、心臓部を押さえているんだからね」
そう言いつつ、一斗はキーボードを操作していた。
「これから、都市への電力供給を一部停止させる……」
そこで一斗は、いったん言葉を切る。
「そうすれば、電力の供給を再開させるために、そいつはここにくるはずだ。そのときが、決着をつけるチャンスになる」
一斗が何を言いたいのか、わざわざ聞き返す必要はなかった。
「わかった。私が迎え撃とう」
コウがそう言うと、一斗はうなずいて言った。
「この施設のセキュリティは僕が解除した。真っ直ぐ歩いていけば、外に出ることができるよ」
コウはうなずくと、外へと向かって歩き始める。
それを見た一斗は、オプティカルキーボードを操作して、都市への電力供給をすべて切断する。
これで敵はこちらに向かう。
ここからが忙しくなる。
戦いの舞台を整えなくてはならない。なんにもなしで、コウを戦いの場に放り出すわけにはいかないからだ。
この施設には、そのための設備が有り余るくらいそろっている。
おそらく敵は、遠隔攻撃できる武器を所持している。
視界を狭めて、レーダー、ソナー、赤外線等の探知装置を撹乱《ジャミング》する。
有視界での接近戦を強いるのだ。
もちろん、それだけではないが。
敵の正体を知らなくてはいけない。
新しき歴史が誕生して以来、ずっと眠っていた都市を起こしたのだ。
その目的がなんであるのか……想像はつくとしても、確証が欲しかった。
一斗は必死になって腕を動かす。
ただ持ち上げておくことすら、困難になってきている。
それだけではなく、体中が強烈な痛みを発していた。
とくに足の痛みはひどい。
さらにこのところ慢性的に続いていた悪寒と吐き気は、体力が落ちてきてさらに増してきている。
だがこれは絶対に誰にも知られてはいけない症状だった。
なぜならこれは、薬の副作用による症状であるからだ。
服用を続けている限り決して治ることはないし、そのことを知られたら当然それがなんの薬であるのかということを追及されることになる。
幸いこの薬は、悪寒や体の痛みという以外は目立った症状はない。
一斗さえ耐え抜けば、知られずにすむのである。
ただ、さすがに体力が落ちて、まともに体が動かなくなってきているこの状況では、それも難しい。
ただ椅子に座って、オプティカルキーボードを操作するだけでも、非常な困難が伴っている。
必死になっても腕が上がらない。思ったとおりに指が動かず、その結果タイプミスが多くなってきている。
それでも音声による操作に切り替えないのは、キータイピングの方が音声による操作よりも早くまた確実であるからだ。
だが、そんなことはバックアップに失敗する言い訳になどならないと、そう考えていた。
だから、必死で操作を続ける。
ただ、コウの戦いのために。
一斗と別れたコウは、あれほど苦労して入ってきた場所を、すんなりと通り抜けて出口に辿り着いた。
武器は一斗とともにやって来たときに腰に差しておいたタウンソード。
ファッション的な役割のある剣ではあるが、コウの持つそれは実戦でも十分に使えるように、幾つかの工夫がされていた。
幅を広くし、長さを幾分長めにしてある。
柄の部分も両手で扱うこともできるように、長めにしてあった。
コウの使う剣技は王室の剣技とは異なる。
王室付きの指南役からの手ほどきも受けたが、教える方も教えられる方もあまり熱心ではなかった。
よく王宮を抜け出して、町に行っていた。その時レンおばさんが紹介してくれた一人の剣士が教えてくれた剣技であった。
盾を使わずに、一振りの剣を持って攻撃と防御となす。
今にして思えば、イヴァンの使う剣技と同様の術理体系に基づく剣術であった。
それに合わせて特注したタウンソードは、コウの手に十分なじんでいる。
剣の腕自体は到底イヴァンには及ばないし、今となっては妹であるユウリの方がずいぶんと上であろう。
それでも、コウは負けるなどとは思ってはいない。
イヴァンは特別製で、ユウリはイヴァンから直接もう二年近くも指導を受けている。
元々際立った天性の素質があったユウリであるから、今ではどれほど強くなっているのか想像もつかない。
というわけで、あの二人はどちらも特別製なのだ。その二人と比較して、落ち込む必要などどこにもない。
コウはタウンソードを抜くと、扉の前に立つ。
扉は音もなく勝手に開いた。
その瞬間、コウは驚かされた。
外の光景が一変していた。
そこから階段のある入り口まで、ただ広く白い床が広がっていた。
それが、さっきやって来たときの風景だった。
今は、その光景がどこにもなくなっていた。
密林。
少し先に進めば、もうその先に何があるのかまるでわからない。
生い茂る樹木とそれに絡みつく蔦《つた》。
ただ下生えの草は、それほど長くはなく、これほどの密林にもかかわらず歩きにくいということはなさそうであった。
いつまでも同じ場所に立っていてもしかたがないので、コウは移動することにした。
とりあえず、さっき階段があったと記憶している方角に向かうことにして、一歩を踏み出す。
『そっちじゃなくて、反対側に向かって』
突然声が聞こえて、コウは驚いた。
気配は感じなかった。なのに声はすぐ近くから聞こえた。
あわてて周囲を見回してみるが、どこにも一斗の姿はない。
「イット? どこにいるんだい?」
コウがそう尋ねると、またすぐ近くから一斗の声が聞こえる。
「君の耳骨の固有振動を利用して、話しかけてるんだ。僕はさっきと同じ場所にいるし、君以外に僕の声は聞こえない」
一斗の説明で、コウは状況をおおまかにつかむ。
「まるで魔法だね……。でも、魔法使いの話は聞いたことがあるけど、この魔法はスケールが違い過ぎる」
つくづくとコウはそう言った。
一斗の知略にはいつも驚かされるが、一斗ならば誰も敵わない強力な魔法使いにもなれるだろう。
カガクとはなんなのか……。
一斗はことあるごとにあれこれ説明してくれるが、カガクと魔法の違いなど、正直なところコウにはよく理解できているわけではない。
ましてや地上の人々にとって、ここで起こっている出来事は、魔法そのもの……それも神々が起こしたもう、奇跡と同等の強力な魔法にしか思えないだろう。
手の上にある物を消したり、イスをふわふわと宙に浮かせてみたり。
人々が目にしたことのある魔法とは、そういう類のものである。
これは、そういう類のものとは根本的に違うものである、ということは理解できるかもしれないが、魔法という表現以外にそれこそ表現のしようがない。
密林の中を進んでゆくと、また一斗の声が聞こえた。
「そこで止まって。もうすぐ敵は、正面右手にある昇降機のゲートから出てくる」
一斗の言葉のままに、コウはその場で立ち止まり自分の気配を殺した。
なんらかの手段で、一斗には相手の正確な位置がわかるらしい。
こちらが正確な位置を敵に知らせなければ、かなり有利になる。
コウは頭で考えたのではなく、反射的にそう判断したのだ。
「あと三秒」
一斗の声。
「二、一、来た」
コウは全神経を総動員して、相手の気配をさぐる。
確かに正面右に気配を感じた。
少しその場にとどまったまま動かなかったのは、おそらくこの密林に驚かされたからなのだろう。
それも長い間ではなく、すぐに動き始めた。
真っ直ぐに歩いてきているようだ。
「正面右を直進中。敵は飛び道具を所持してる。対するときには、絶対に間合いをあけちゃいけない」
一斗のアドバイスだ。
コウは無言でそれにうなずいた。
見えているはずはないが、気分の問題だった。
それに今、この状況で声を出すのは愚か者のすることであろう。
コウはひたすら待つ。
未知の敵が、一番近くにやってくるその瞬間を。
そして、視界に入った。
そいつは、黒い服を着ていた。
体にピッタリとフィットした服の上に、たくさんのポケットが付いているジャケットを着ている。
黒いフィットした服のラインから、その人物が女性であるということがわかった。
顔は、首から伸びて顔と一体になっているスーツと同じ材質のものに包まれているのでわからない。
ただ目だけが開いて、鋭い光を放っていた。
手に持っているものは、明らかに剣とは違うものであり、それが一斗の言っていた飛び道具だろう。
コウはそれを一瞬で見てとりながら、体はもうすでに動いていた。
完全に気配を殺していたこともあり、側面から不意をつくことになった。
黒い服を着た女が、コウの存在に気づき手にした武器をコウに向けようとしたが、すでにそのときには剣の間合いに入っていた。
コウの手にしていたタウンソードが奔り、女の手の中にあった武器を打ち砕く。
すると、あっさりと手にしていた武器を放棄して、後ろに跳ねる。
それと同時に、女の右手が腰に回される。
コウはそれを追撃するが、剣の間合いには届かない。
女は地面につくと、そのままもう一度跳ねる。
今度は前方。
真っ直ぐコウに向けて突っ込んできた。
その動作はあまりに速く、しかもためらいがない。
剣の間合いに入るが、今度は近すぎる。
コウの持つ特注品のタウンソードでは有効打は放てない。
今度は、コウが下がる番であったが、その前にすでに女の間合いに入っていたのだ。
女の腰から銀光が奔る。
ティタノイド製の凶悪な光。
地上で使われている鉄くらいならば、簡単に切り裂くことができる。
もしその刃をコウがタウンソードで受ければ、間違いなく切断されたであろう。
再び間合いを取ることが不可能だと悟ったコウは、逆に前におおきく踏み出した。
右から来る女の攻撃を、腕を開いている女の懐に自分の左腕をもぐりこませることで受け止める。
速さは同等でも、体重はコウの方がある。攻撃はなんなく受け止められた。
同時に、右手でタウンソードの柄を敵の心臓の上にぶち当てる。
女が一瞬硬直する。
鼓動が物理的な衝撃で、瞬間的に停止したからだ。
もちろん、その一瞬を逃したりするようなコウではなかった。
そのままタウンソードを放し、女の首筋に右の肘を叩き込んだ。
首が折れたら女は死ぬ。だが、手加減はしていない。
油断すれば、確実に死ぬのはコウの方になるからだ。
強烈な一撃を急所に受けて、女はその場に崩れ落ちた。
「コウ。武装を解除したら、急いでその娘を僕のところに連れてきて」
決着がつくと同時に、一斗から連絡が入り、同時に密林は消失した。
言われたとおりに、女の体からコウは武器になりそうなものを見つけては、体からはずしていく。
といってもそれほどの数はなかった。
さっき手にしていて、コウが破壊したのと同じ形をした武器が一つと、コンバットナイフと同じ材質でできたスローナイフが三本だけ。
それ以外は、一斗が所持していた携帯端末によく似たものと、コウではなんに使うのかよくわからない機械。
そういったものは、ジャケットにしまわれていたので、ジャケットごとはずしてコウが別に持っていくことにする。
もし気がつくと面倒なので、コウは女の着ていたスーツの両腕の部分を、コンバットナイフで切り取り、それで両手と両足を縛る。
このくらいでどれほどの効果が期待できるのかはわからないが、少しでも動きを制限することができれば、もう一度攻撃を叩き込むことはできよう。
あと、コウは女の顔を見ておくことにする。
万が一逃がしてしまったとき、敵の顔も覚えていないような間抜けになりたくはなかったから。
でも、それが過ちだったのかもしれない。
そう、コウはその娘の顔を見てしまったのだ。
そして、衝撃を受けた。
彼女は若い女性。
若く、とても美しい。
それだけならば、コウが衝撃を受けたりするはずもなく。
似ていたのだ。あまりによく。
あの女性に。
剛さと気高さと優しさと、そして美しさのをすべて兼ね備えた女性。
コウにとっては、おそらくこの世で最も敬愛すべき女性。
レンおばさん。
秋月蓮。一斗の実母。
その女性《ひと》に。
帰ってきたコウに向かって一斗は言った。
「見ちゃったんだね」
その言葉に、コウは苦しげな声で言った。
「これは……これは、一体どういうことなんだ? イット?」
まるで、一斗ならば承知しているとでもいうかのように、コウはそう尋ねる。
「遺伝子。四つからなる塩基の組み合わせ。……長い……長い時間だけはあったんだ」
一斗はそう話し始めるが、コウにはなんのことなのかわからない。
でもコウは、黙ってその話を聞いている。
「ある閉鎖された環境は、悠久の時をかけてその組み合わせを調査するには、絶好の環境だった。遥かなる太古にプログラムされたコンピュータは、疲れることも飽きることも、諦めることもせずに、ひたすら組み合わせを試しては人の創造を行い続けていたんだ」
それを聞いて、コウは衝撃を受ける。
ある一言に。
「い、今、人の創造って……言ったかい? ……一斗?」
その言葉を自分で発しながら、コウは自分の声がかすれていることに気づいた。
「……そう。創造、創作、試験。ある目的に沿って、人の遺伝子を組み合わせて生み出す。母もなく、父もいない子供を。まるで、道具を作るように」
一斗はむしろ淡々と語った。
だからだろうか、心がしびれるような想いを味わいながらも、コウはその言葉を受け入れることができたのは。
否。
受け入れるのではなく、受け止めただけなのかもしれない。
「カガクって……。それは、もう魔法ではない。神の御業だ……。人を人の手で作りだすなんて……許されるのか……」
たとえ神を信じていない人間であろうと、その行為を考えれば立ちすくまずにいられないだろう。
だが、一斗の話はまだそれで終わりではなかった。
「優秀な組み合わせは、コンピュータの中に永遠に記録されて、いつでも同じ組み合わせで再生できる。……たとえば、その娘のように、ね」
そう言った一斗の言葉は、もう一つの真実をもコウに突きつけたことになる。
「そ、それじゃレンおばさん……君の母上は……」
最後まで言うことができなかったが、そこまでで十分であった。
「そう。コンピュータによって創造された人間だよ。長い試行錯誤を繰り返して蓄えられた、成功例の一つ……なんだろうね」
一斗はためらうことなく、そう答えた。
たぶん長いこと一人で、反芻《はんすう》していたのかもしれない。
そこまで聞いて、最後にもう一つだけ……聞いておきたいことがあった。
「……君は?」
そう、一斗自身のことである。
「僕は違う……見ればわかると思うけど、創られたにしてはお粗末でしょ? 普通に生まれた。だけど、母の遺伝子は子孫を残すには問題があり過ぎた。だから僕は、こんな出来損ないになったというわけ」
茶化すように、一斗は自分のことを出来損ないと語った。
コウは、その真実に掛けるべき言葉も見つからなかった。
その美しい顔を、悲嘆に曇らせるが。
それも長いことではなかった。
いや、そうしてはいられなかったというべきだろう。
「コウ。そんなことより、そこの机の引き出しを開けてみて」
そう、今はまだするべきことが他にある。
言われたとおりに、目の前にある机の引き出しを開けてみると、手錠が二つ入っていた。
金属でできた、幅が指四本分くらいある、分厚い手錠であった。
持つと見た目よりずっしりと重たかった。
「それを、彼女に」
一斗がそう指示を出したときには、もうコウは動いていた。
いったん意識を刈り取ったが、いつ意識を取り戻しても不思議ではない。
ここで騒がれると厄介なことになる。
自分一人ならばどうとでも戦えるが、一斗を狙われたらかなり厄介なことになる。
いくらレンおばさんに似ているといっても、中身は新しくつくられた別ものなのだ。
一斗を殺すのをためらったりはしないだろう。
この場で考えられる最悪の事態は、おそらくそれだろう。
その女に拘束具を付けることをためらったりはしなかった。
幸いなことに、その最中女が意識を取り戻すことはなく、両手と両足を重量のある拘束具で固定することができた。
とりあえず、ひと安心できる。
コウは女の顔を見ないようにその場に転がすと、一斗の方を向き直る。
椅子は相変わらず向こうを向いたままだった。
「女は拘束したよ。どうする? 尋問でもするかい?」
一斗にそう質問をすると。
「いや、僕らには無理だよ。拷問しても、多分無駄だろうし。それにもう、かなりのことがわかったから……」
そう……。
それが一斗のやり方だった。
情報を答えとして入手するのではなく、パズルを解いていくように状況を把握してゆくのだ。
「そうだね、イット。僕にも君にも拷問は無理だし、君ならもう十分に……」
これで、今度の騒動は一区切り付いたと思った。
その時、コウは完全に油断してしまっていたのだ。
完全な拘束。それと、武器に関する知識の不足。
倒れている女から、唯一取り上げなかった武器。
それは、拘束されていても使用可能な武器であった。
赤く細い光。
それが、コウのすぐ脇を奔った。
時間にすればわずかコンマ五秒のみの武器。
一回のみ使用可能な、高出力レーザー発信機内蔵リング。
ほんのわずかの時間、だがその間に薙《な》ぐように払われたレーザーは、一斗の座る椅子を完全に切断した。
コウの目の前で、二つに切断された椅子の背もたれがゆっくりと、傾き落ちようとしていた。
女は狙っていた。
このときを。
おそらく意識は、もっと前に取り戻していたのだろう。
だが、コウの命を狙うのではなく、コウに指示を出していた人物の命を奪える機会を、ずっと待っていたのだ。
そう、一斗の命をだ。
コウはそうとは知らず、拘束しただけですっかりバカみたいに安心しきっていた。
その結果がこれだった。
この時激しくコウが呪ったものは、なにより自分自身であった。
心のどこかに、レンおばさんに似ているこの娘に、惹《ひ》かれる気持ちがあったのかもしれない。
その結果……なにより大切なものを失ってしまったとしたら……。
「イット!」
無意識のうちに、叫んでいた。
足元の娘の後頭部に、蹴りを叩き込みもう一度意識を刈り取る。
加減はしたが、もしかすると死んだかもしれない。
だが、コウはそのことに以上一瞬たりともかまったりはしなかった。
椅子の背もたれが、床の上に落ちて弾んだ。
それを見ながら、コウは全力で走っていた。
すぐそこだというのに、時間がやたらと間延びして感じられる。
足にいくら力を込めても、そこに辿り着けない。
一刻も早く辿り着きたい、でも辿り着くのがいやだった。
そう、真実を知ることが恐ろしかったのだ。
でも、それでもコウは全力で走る。
一斗のもとへと。
最高のダチのもとへと。
その時間は、コウにとってはひどく長いものであったが、現実にはわずかな時に過ぎない。
段を駆け上り、椅子の背後にコウは立った。
「イット!」
そう叫びながら。
そして椅子の上を見て、コウは愕然とする。
そこには……何もなかった。
ただ、誰も座っていない椅子があるだけ。
どうなっているのか?
頭がよくまわらない。
呆然として立ち尽くすコウに、声が聞こえてくる。
二度と聞くことはできない、そう覚悟していた声だった。
「や、やぁ」
一斗の声。
でも、どこから聞こえてきたのかわからない。
あの娘と戦った時と、同じやり方で語りかけてきている。
生きていた?
椅子には座っていなかった。そう、一斗は生きていたのだ。
なのになぜだろう、コウの不安は少しも解消されない。
コウは一斗の姿を求めて、辺りを見回す。
すると、コントロールシステムのデスクの下に、まるでぼろぼろになった雑巾が投げ捨てられているように、奇妙な格好をしてうずくまっている一斗を見つけた。
「イット!」
またそう声をあげて、一斗のもとにかけよるコウ。
一斗の体をデスクの下から引きずり出し、両腕に抱えると、なぜ一斗の声が外からでなく直接耳の中に聞こえてきたのかそのわけがわかった。
「すまないねぇ」
声が聞こえる。
一斗の声だ。
だけど、一斗の唇はかすかに動くだけで、そこから声は出ていなかった。
だけど声は普通に聞こえる。
そう、耳骨を直接振動させているのだから……、それに誤魔化されていた。
一斗はこれほどに弱っていたのだ。
椅子から滑り落ちても、自分の力ではどうしようもなかったほどに。
声を出して話すこともできないほどに。
コウの腕の中の一斗は、呼吸をすることすら辛そうであった。
「イット……」
体中の血が凍りつきそうになるような感触を味わいながら、コウはそう一斗に呼びかける。
「ははっ……。ちょっと無理しすぎちゃったみたいだね。疲れたよ……、ほんとに疲れたよ……」
一斗の声は、はっきりとコウの耳には届いているけど、腕の中の一斗は明らかに呼吸が浅くなっている。
「……その娘が降りてきたエレベーターを……使って外に出ると……転送装置がある……から」
コウは一斗を抱えて、立ち上がる。
あまりに軽すぎる一斗の体。
なんて頼りないのだろう。
ユウリがなぜあそこまで、一斗のことを心配するのか、こうして自分の腕の中に抱えてみるとはっきりと実感できる。
「少し寝るね、コウ……少し……」
それ以降一斗の声が聞こえることはなかった。
コウはギリギリと奥歯をかみしめ、歩き始める。
途中、床に転がっている娘を拾ってゆく。
できればこのままほうっておきたかったというのが本心なのだが……。
とどめを刺さない限り、このままほうっておくのは危険すぎる。
一斗がこんなになってまで、守らなくてはならなかったもの。
それを無にすることはできない。
拘束した腕を、自分の肩に引っ掛けると、ずるずると引きずってゆく。
それほど重くはなかったが、一斗に比べればずいぶんと重い。
途中気づいて暴れるようなことがあれば、その場で殺して捨ててゆく。
その時は、コウはためらったりはしないだろう。
その決意があるからこその行動だった。
それに、もし一斗がこのまま……。
そうなっても、この娘の命の保証はないだろう。
だが今は、そんな心配をする時ではない。
一斗を助ける。
なんとしても、どんなことをしても。
どれほど軽くても、失うにはあまりに重い命であった。
王都フィールザールの夜が明ける。
幾多の人々の希望と思惑と期待と願いと野心と欲望と……ありとあらゆる想いを呑み込んで、ついに幕が開く。
複雑に絡み合ったタペストリーの糸が、織り成す模様はいかなる絵を歴史の中に生み出そうとしているのか。
誰にもわからない。
もし仮にその絵の描き手がいたとしたならば、完成図はわかっているのかもしれないが。
ただ、策略をめぐらす者は、誰もが自分こそがその描き手だと思っていたし、現実に紡がれる模様はそれほど単純なものではない。
中原という舞台をめぐる、重要なひとコマとなることは間違いない。
フィールザール武闘大会。
その当日の朝日が、王都《フィールザール》を眩く照らし始めていた。
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見上げれば、空は青く息づき始めていた。
燦然《さんぜん》と煌いていた星々は、東の空から次第にその姿を消してゆこうとしている。
時折吹き抜けてゆく風は、まるでフィールザールに新たな息吹を吹き込んでいるかのように感じられる。
少しまぶしげに空を見上げるユウリの美しい瞳には、朝焼けに彩られた空が映っていた。
「本気でイヴァンを篭絡しようとしてたでしょ?」
ユウリはすこしばかり不機嫌そうにそう言った。
「あら? 少しは成長してたみたいね」
楽しそうに答えたのはサユリ。視線の先にはこれから消えゆこうとしている星があった。
ユウリは今まさに朝日が昇らんとしている方角を、サユリは去りゆこうとしている夜を見つめていた。
互いの斜め後ろに立ち、母娘はそれぞれ反対の方角を見て立っている。
「ふんっ……イヴァンはユンフの夫だって知ってるのでしょう? よく、そんなマネができるわね」
鼻を鳴らし、ユウリは嫌悪感をあらわにしてそういうが。
「あらっ? いい男をくどくのって、女の甲斐性っていうものよ。それに、幼い頃にリリースしたお魚が、とっても食べ頃になって戻ってきたのよ。これを見逃すなんて、女じゃないわ」
もちろんユウリは、そんな実母の言い分を認めたりする気はさらさらなかった。
「相変わらず歪んでるわね、母さん」
憮然とした表情で、ユウリがそう言った。
すると、母は余裕たっぷりに答える。
「ふふっ。女は、そのくらいが魅力的なの。男だって、普通の男じゃつまらないでしょう?」
その言葉は、素直にうなずけないものの、なぜだかとても説得力に満ちていた。
「……まぁ、いいわ。そんなことより、あの頃イヴァンとはなんでもなかったんでしょうね?」
一斗一辺倒とはいえ、もう少女であった頃とは違う。
それなりに男女間の機微というものを、ユウリは察することができるようになっていた。
母親には遠く及ばないとしても。
「あら? その口ぶりじゃ、イヴァンからあたしのこと聞いていたのかしら?」
楽しそうに、しかもそれを隠そうともせずに、サユリがそう聞き返す。
「ええ、少々っていうか……それなりに物語の再構築が必要だったけどね」
それを聞いて、サユリは「くすっ」と声をもらす。
甘い蜜が滴るような声を。
そして、それまで見ていた去りゆく夜空をあっさり見捨てて、後ろを振り返った。
「その話。あたしにも、聞かせてくれない?」
そう言いながら、サユリは自分の娘を背中からねっとりと、両腕を首筋にからみつかせた。
「な、なにしてんのよっ!」
驚きの声を上げるユウリ。
物心ついて以来、母親から抱きしめられた記憶なんてなかった。
「そんなに驚かなくてもいいでしょ?」
サユリがユウリの耳元で囁くように言う。
「あんたが歩けるようになるまでは、よく運んであげたのよ」
楽しそうな母の言葉に、ユウリはすぐに我を取り戻す。
「そ、そんな頃のことなんて覚えてるわけないじゃない。それに、運ぶって何よ?」
まるで物みたいじゃないの。とユウリは心の中で付け加えたが。
「ろくに話せなくて、まともに歩けない女の子なんて、物と同じでしょ?」
母親はしっかりと娘の心の中を代弁してくれた。
「じゃあ、男の子だったらどうなのよ?」
だいたい答えは想像つくが、一応念のためにと思い、ユウリはそう聞いてみる。
すると。
「大切に、抱いて連れて行くに決まってるでしょ?」
その答えを聞いて、さすがにユウリは少しばかり後悔した。
聞いたことを。
わかっていたとはいえ、面と向かってそう言われると、頭を抱えたくなってしまう。
未来永劫《みらいえいごう》、これが自分の母親であるという事実は変えることができないのだから。
などとユウリが人生の悩みに直面していると、サユリが耳元で囁いた。
「そろそろ、聞かせてほしいな。ユウリちゃん」
甘く耳元で奏でるような声は、背筋に直接ぞくっと痺れにも似た冷たい衝撃をはしらせる。
もしこんなふうに囁かれたのが男ならば、ひとたまりもなく撃破されてしまったことだろう。
だが、あいにくとユウリは女だった。その上、実の娘でもある。
効果は完全に反対方向へと作用する。
軽く腰を落としながら、体をひねり気味に回し、腕を上へと跳ね上げる。
すると、まるではじかれるようにサユリの腕は振り解かれていた。
一瞬。
瞬きするほどの間の出来事であった。
「話すわよ。話すから、これ以上くっつかないで」
よほど嫌だったのだろう。
母親からかなり間合いを取り、憮然とした様子でユウリがそう言った。
「じゃあ、聞かせて」
サユリは娘の心理状況なんて、まったくこれっぽっちも斟酌することなく、楽しそうに言う。
「……まぁ、いいわ。とにかく、それ以上近づかないこと。それを条件に話すから」
油断なく身構えながら、ユウリがそう言った。
サユリは左の掌で自分の頬を押さえながら、ふうっとため息を漏らしつつ答える。
「いいわ、安心しなさい。その条件呑むから」
そう言って軽くうなずくように、話をうながした。
その様子を見て、ユウリは少し気を許したように力を少し抜いた。
そして、語り始める。
「あれはノミニアを出てから、五日目くらいだったかしら。そういえば、一番最初にネをあげたのはイヴァンだったわねぇ……」
―― イヴァンのお仕事 ――
結局のところ一番最初にネを上げたのはイヴァンだった。
ま、それはそれでいいとして、問題なのはネの上げ方だった。
原因は、きっぱりと一斗にある。
突然だった。
もうまったくいきなり、馬の上から転げ落ちたのである。
普通の街道である。
乗ってた馬だって、それはもう気持ちよさそうにポコポコ歩いてた。
そんな状況で、それはもうなんの脈絡もなく、コロンとおっこちたのである。
まぁある意味器用といえなくもないが、とても褒められたようなことではない。
普通の人間なら下手をすれば大怪我である。一斗の場合だったら、下手をしなくても大怪我だろう。
でも、なんとか今のところ無事だった。
力強い腕が伸びてきて、一斗の体が地面につく前に、その襟首をガシッと掴みあげてくれたからだ。
一斗の体は、空中でぷらぷら揺れることになる。
別にそれだけなら、イヴァンにとってどうということはなかった。一斗の貧弱な肉体は、イヴァンにとってみればいささかも負担になるようなものではなかったから。
ただ問題なのは、それが朝から何回も繰り返されてるってことにある。そしてついに、今ので二桁の大台に乗ったところだった。
たった一度の失敗が命取りになるのだから、いくらイヴァンでも神経をすり減らすことこの上ない。
で、結局イヴァンは、
「なぁ、そろそろ休憩にしようぜ、休憩」
とても疲れた声でネを上げたのであった。
「なんだ、イヴァンもう疲れたの?」
これは一斗。空中でぷらぷらしながらだ。
「おまいねぇ……」
イヴァンの声はもっと疲れたものになる。
そこに、イヴァンの味方が現れた。
「わたしも疲れたわよ。……イット、あんたいい加減あきらめたらどうなのよ?」
ユウリだった。ただし、その声には明らかに怒りが混じってる。
「大丈夫、大丈夫。ちっとも問題ないって」
一斗が軽く請け合った。
もちろん、ぷらぷらしながらだ。
説得力なんて微塵もない。決してない。きっぱりとない。
それを見たユウリ。
「あなたねぇ……」
で、結局ユウリも、
「……休みましょう。疲れたわ」
ネを上げた。
一斗、ユウリ、イヴァンの三人は今、中原の大国ロウラディアを目指し旅をしているところだった。
トウア連邦を離れ、馬でひと月以上もの間続く長旅である。
他の人間ならともかく、これって無謀かもしれない。……っていうか無謀だろう。
だいたい、一斗の貧弱な肉体は、長旅に耐えられるような仕様になっていない。
当然のことながら、それはどこかにしわ寄せがくることになる。
もちろん、そのどこかっていうのはイヴァンなのだが。
ただでさえ無謀の二文字を抱え込んでいるっていうのに、一斗はこの旅の間に、自在に馬を操れるようになる、などと言い出したのだ。
要するに一人で馬に乗って旅をしたいというのである。
これが一般人なら、なかなか感心だと褒められるかもしれない。
でも、一斗である。
ユウリは速攻で反対した、イヴァンだってそこはかとなく反対した。
そしたら、今度は一斗は自分一人で旅をするなんて言い出した。
さすがに、二人としても一斗の提案を呑まざるを得ず、当然の結果として、こうなったわけだ。
なんとも、はた迷惑きわまりないことである。
他人のことなら……それが国の行く末でも、信じられないくらいよく見通すくせに、自分のこととなるとどうしてこうも節穴になるのか……。
イヴァンにしても、ユウリにしてもなんとかしてもらいたいと願わずにはいられない。
もっとも、その願いがかなえられることがないってことは、それこそイヤになるくらいわかっていたのだけれど。
三人は、街道を少し離れたところにあった池の畔に、少し早いけれどキャンプを張ることにした。
まだ早いと一斗は主張したが、後の二人に黙殺された。
さすがに付き合いが長いだけに、一斗の扱いに慣れている。へたに議論したら、一斗に言いくるめられることになるだけだ。
「ねぇ、ひとつ聞いていい?」
ちょと早めの夕食を終えた後、ユウリが一斗に向かってそんなことを聞く。
「もちろん、何でも聞いていいよ。答えるかどうかはナゾだけど」
ユウリはコメカミの辺りを押さえて、なんでそこでナゾが出てくんのよと心の中で突っ込みながら、話を進める。
「あんた、あの趣味やめるつもりないの? はっきりいって悪趣味だわ」
それは、質問というより苦情のようなのだが……、
「趣味って? どの趣味?」
一斗にはよくわからなかった。
イヴァンのことをからかって遊んだりとか、ユウリの体のあんなとことかこんなとことか、いっぱい触りまくって、ほっぺたに愛撫――手形がつくようなヤツ――を受けたりとか、なんとなく心当たりはたくさんあったけど、ありすぎてよくわからない。
それに、ユウリはすまして答える。
「あんたが時々、馬から転げ落ちる趣味よ」
ようするに、質問ではなくって、厭味だったわけだ。
「そういえば子供の頃のイヴァンって、どんな感じだった?」
一斗は速攻で話を変えた。
苦し紛れってやつだけど、ただ一斗が嫌らしいのは、ユウリもそれが聞きたくなったっていうことだ。
まったく、いつだってこんな具合にごまかされてしまう。
まぁ、不快ではないけれど。
「オ、オレかぁ?」
いきなり話を振られたイヴァンは、驚くことになったけど。
「イヴァンってさ、昔話ってしたことないだろ? 一度さ、聞いてみたかったんだよね」
触れられたくない過去……なんて言葉は一斗には関係ない。
そんなもんがあったりなんかしたら、当人も忘れてしまっているようなことまで、それこそ微に入り細に入り丹念に調べあげられ、まる裸にされかねない。
イヴァンの場合、触れられたくない過去なんてなかったから、今まで一斗に知られずにすんだのである。
「う〜ん……。そんなこと言われたってなぁ……。オレって、いたって普通にガキしてたから、あんま面白い話はねぇぞ?」
イヴァンとしてはあんまり乗り気ではないらしい。
これって、話したくないってよりも、話すのがめんどくさいって考えるのが妥当だろう。
ただ、イヴァンにしてみれば本気でそう思っているのかもしれない。
自分が普通の子供だったんだと。
「大丈夫だよ、イヴァン。あんたの普通なら十分に楽しめるさ」
一斗は軽く請け合った。
「そうね。イヴァンの常識の尺度は、あたしたちとは違ってるもんね」
そして、ユウリもこの件に関してはなんの意義もなくうなずいた。
「おまえらねぇ……」
ユウリにまで言われて、さすがのイヴァンも火がついた。
ここまで言われては、黙っていられない。
「よぅし! そんじゃ話してやるぜ。オレのガキの頃をよ。オレがどんなに普通のガキだったか知っても、驚くんじゃねぇぞ?」
一斗もユウリも黙ってうなずいた。口元に楽しそうな微笑を浮かべながら。
ここまで強調するからには、よっぽど子供の頃の普通っぽさに自信があるらしい。
それを主張してるのがイヴァンなのだから、これはもう期待するしかないって感じだった。
そのなんだかやたらと熱のこもった視線に、イヴァンは……、
「……なんだかなぁ」
と一人ボヤいた。
それでもなんとか気をとりなおすと話を始める。
この機会に、こいつらのいらん思い込みを、打ち砕いてやるのだという決意を込めたりして。
それになにより、イヴァンには勝算があったのである。
かつて、子供の頃イヴァンは普通なんだって、そう保証してくれた女《ひと》がいたのだ。
それも、とびっきり綺麗な女《ひと》だった。
その時の話をすれば、絶対に納得させることができる。
そうイヴァンは確信していた。
果たしてこれは、どっちが思い込んでいるのか……。
その頃オレはちょうど、大陸に渡ってきたばかりだったんだ。
十六歳になったときだったな。
剣ばっか振り回してたオレにできるような仕事は、島にゃあほとんどなかったしな。
それに、退屈だったしな。大陸に渡ればなんか、仕事くらいあんだろって思ってた。
そんで、大陸に渡ってきたんだよな。
はっきり言って、途方に暮れてたなぁ……あんときは。
着いたのが、キルクだった。
でっけぇ港街だった。
ま、島暮らししかしてこなかったオレにゃあ、どんな街でもでっかく思えたんだけどよ。
しっかし何時間もぶっとおしで歩いても、家がなくならないんだからなぁ、そりゃあ驚くぜ。
えっ? そんなに歩いて何してたのかって?
そりゃおめぇ腹が減ってたからなぁ。畑を探してたのさ。なんか食えるもんが落っこちてるはずだからなぁ。
そりゃ盗んだんだって? なんだよ、そんな言い方されちゃあ、オレが泥棒してたみてぇじゃねえか。
だからそう言ってるって? そりゃケンカイノソウジってやつだよ。
んっ? 言葉を間違ってる上に、使いどころも間違ってる?
そうかぁ? 普通だろう?
……ま、いいや。とりあえず、先進めるぜ、話。
そんなんで、オレが大陸《こっち》に渡った後よ、途方にくれてたら、なんと見ず知らずの綺麗なおねぇちゃんが声をかけてきたんだ。
驚いたぜ。島じゃそんな経験はめったになかったからなぁ。
もっとも見ず知らずの女の子ってぇのが、いなかったんだけどな……。
ま、それでそのおねぇちゃんについていったら、お姉ちゃんの彼氏とかが出てきてよ、さすがに悪いって思ったんで、全財産を渡そうとしたら断られたんだ。
金持ってたのかって?
馬鹿言うんじゃねぇよ、金なんて持ってたら、畑に落ちてる野菜を拾い食いなんてこたぁしねぇさ。
じゃあ、財産ってなんなんだって?
そりゃおめぇ、拾いたての新鮮野菜に決まってんじゃねぇか。
で、結局金以外はいらないっていうから、オレとしても心苦しかったんで、その彼氏のおにぃちゃんには黙っててもらったんだよなぁ、確か。
その後よ、お姉ちゃんと話し合いをしたら、お金はいいから出て行ってって言われたんで、そこから帰ったのさ。
そりゃあ、美人局《つつもたせ》だろうって?
そうか? そういやぁ、なんとなくおかしいと思ったんだ。でも、よ。あの時のお姉ちゃん、とっても美人だったんだぜ?
美人かどうかは関係ない?
そうかなぁ? やっぱ、美人は美人だろ?
今度は理屈になってないって?
ま、これもケンカイノソウジってやつだな、きっと。
「まぁ、こんな感じでイヴァンの話は続いてくんだけどね」
そう、ユウリが言った。
脱線しまくりで、しかも脱線した先で微妙に話が迷走するものだから、やたらとわかりにくい。
「だから、ここから先は意訳になるわ。なるだけ聞いたそのままに話すつもりだけど、もう結構前の話だし、そもそもイヴァンの話自体も適当なとこがたくさんあるから、内容に保証なんて求めないでよ」
そう断りを入れて、母親がうなずくのを確認する。
そして、ユウリは話を再開する。
イヴァンが大陸に渡り、一番最初に就いた職業が用心棒の用心棒であった。
やたらと強くて、やたらと騙されやすい少年は、あっという間にカモにされてしまったということなのである。
もっとも、そのことを本人はいまだに気づいてないようではあるが。
ギーブという名の男だった。
見た目はやたらとでかく、当時少年だったイヴァンよりも明らかに一回り以上はでかかった。
見た目そのままに腕っ節が強く、自分の体と同じくらいの岩を頭の上まで持ち上げることができた。
カゼル皇子ならともかく、そんなことはイヴァンにだって無理である。
それに、素手でのケンカも強かった。
相手の攻撃が急所にでも当たらない限り、ほとんど効かない。
だから、防御を無視してどつきあいに持ち込めば、必然的に相手の方が先に降参することになる。
技もへったくれもない、かなり強引な戦闘スタイルであった。
でもそれだけに、単純に強いことは間違いない。
ケンカにおいては、ほとんど負けなしで、交易都市キルクにおいては結構知られた存在だった。
もちろん、やくざ仲間って意味だけど。
そのおかげで、ギーブを雇いたいって組織は結構あったし、それなりの収入もあった。
とはいっても問題がなくはなかった。
素手では圧倒的な強さを見せつけるギーブだったけど、武器を使った戦いはどうしようもないくらいへたくそだったのである。
ガチガチに分厚いアーマーを着て、大ぶりのハンマーをぶん回せばある程度なんとかなった。
でもあくまである程度でしかなく、少し剣をうまく使える敵がいたら、アーマーの継ぎ目を狙われてあっさりやられてしまう。
なにしろ、ほとんど避けるってことができないからどうしようもないのだ。
もちろん、そんなことは自分が一番よく知ってる。
だから、剣を使うような戦いになったら、とっとと雇い主の元から去ってしまうのである。
初めのうちはそれでよかったが、へたに名前が売れてきてしまうと、そのことが噂になり始めてしまう。
直接聞かれたら、自分の力をアピールして、そのことを否定する。
そんなことやったって、ヤバそうな戦いになるたびにいなくなるのだから、これはもうどうしようもなかった。
当然そういった噂は広がってゆき、ギーブを雇ってくれる組織はどんどん減っていった。
噂を払拭するのは簡単で、剣を振り回すような戦いでそれなりの結果を見せればいいのだけど、しかし一つしかない命をかけたくはなかった。
いい手はないか、ギーブは考える。
そして考えた手段っていうのが、相棒を見つけることだった。
とびっきり腕のたつ剣士を探して、相棒としてヤバそうな戦いになったらそいつにすべてを丸投げするのだ。
自分は、剣を必要としないような安全な戦いのときだけ、活躍すればいい。
見かけからは想像もつかないくらい、ギーブは臆病でしかも計算高い男であった。
要するに、見掛け倒しってやつである。
そんなときに、カモが現れた。
やたらと強いくせに単純。ついでに何も知らない、田舎者のガキだった。
それはもう、極上のカモで、理想そのもの。
もちろんそのカモは、イヴァンっていう名のカモである。
飢え死にしそうになってたところを、ギーブに拾われたイヴァン。
いつの間にか、ギーブはイヴァンのことを相棒って呼ぶようになっていた。
普通のケンカではギーブがその強さを見せつけ、ヤバそうな戦いになったらイヴァンが出てくる。
決着がついた頃をみはからって、再びギーブの登場。高らかに笑いながら、勝利宣言をするのだ。
二人のコンビはほとんど無敵状態で、その筋では恐れられる存在となっていた。
まぁ、イヴァンがいるのだから、当然ではあるけど。
一回の契約料も以前より遥かに上がり、回数も格段に増えた。
その上ギーブは周りの人間が想像もつかないくらい金にうるさく、ついでに倹約家だった。
食事はすべてギーブが作り、低料金の食材ばかりを使ってかなりうまい料理を作った。
ギーブのやり方は絶妙で用心棒として得られた収入はきっちり半分に分けた後、自分が作った食事はすべて店で売ってるのと同じ料金で、その中から天引きしていった。
そこらの食堂でのメニューより遥かにレパートリーは豊富で、しかもうまいものだからイヴァンとしては不満のもらしようがなかった。
どうせ同じ金額なら、うまいものの方がいいにきまっている。
もちろん、宿賃もきっちりイヴァンの取り分からさっぴいていた。
かくしてイヴァンは、不満の出る余地のない状況に囲いこまれた後、きっちりカモにされていたのである。
そんなある日。
二人はいつものように、仕事を請け負い抗争の場へと出て行った。
ちょっとした小競り合いって感じで、この分ならイヴァンの登場までは必要はないって思われた。
その時までは。
「なぁ、イヴァンよ。なんか、きな臭くねぇか?」
イヴァンのすぐ横に立ち、ギーブが小声で言った。
「ん? そうかぁ? いつもと変わんねぇだろ?」
イヴァンのとぼけた答えを、ギーブはきっぱりと無視した。
相棒の危険に対する鈍さは、十分以上に熟知していたからだ。
大抵の人間が危険だと感じるほとんどのことは、イヴァンにとっては余裕で切り抜けられる。
逆に言えばイヴァンが危険だと感じるような事態になれば、普通の人間なら死を覚悟しなきゃならないってことである。
だから今、イヴァンに確認したのだ。
つまりギーブは危険だと感じ、イヴァンにとってはいつもと変わらない、その程度の危険だということになる。
「てめぇら、さっさとここから出て行きやがれ! ここは、俺たちノマダの縄張りだ!」
相対している敵の組織、ノマダのメンバーの一人がどなっていた。
いきがってはいるけど、どう見ても三下って雰囲気である。
「てめぇらこそ、ようっく見やがれ。こっちには、デビルペアが付いてんだ。命が惜しかったらとっと手を引きやがれ! このシマは、俺たちボググが管理してやるからよ!」
こっちの組織、ボググの三下が叫び返す。
「なぁ、おっちゃん。デビルペアってなんだよ?」
なんだか、やたらと恥ずかしい呼ばれ方をしたような気がして、イヴァンが小声でギーブに聞く。
「いい加減、相棒をおっちゃん呼ばわりすんのはよせよ。ギーブって呼びやがれ、ギーブってよ」
ギーブはそうぼやいてから、イヴァンの質問に答える。
「なんか、最近そんな通り名がついちまったらしいんだな、俺たちよ。ほんと、困ったもんよ」
などと言いながら、ギーブは視線を油断なく辺りに彷徨《さまよ》わせていた。
そんなことをしてるのは、ギーブだけだ。
イヴァンはともかく、他の連中は敵も味方も気づいていないようである。
「それよっか、やっぱなんかおかしいぜ。野次馬どもがどんどん減ってきやがる。こりゃあ絶対、なんかある。逃げる用意しといたほうがいいぜ、相棒」
どう見たって、がさつで獣にしか見えないギーブだけど、こういう感覚はやたらと鋭く、しかも繊細だった。
「おう。いつでもいいぜ」
イヴァンは即答する。別に戦いが趣味ってわけでもないし、それに腹が空いていた。
早いとこ帰って、メシにしたいと思ってたところだったのだ。
どうやら、ガキの頃から緊張感ってやつが、欠如していたらしい。
もっとも、足元に危険が転がっていたら、気づかずにそのまま踏み潰していくような男なので、たんに鈍いだけなのかもしれない。
ノマダとボググの話し合いはその間にも過激さを増し、三下は引っ込んでいつの間にかリーダー同士の言い争いになっていた。
「知ってんぞ、コラァ! てめぇのカミさん、ひでぇ水虫にかかって、腹いせに風呂場めぐりしながら、水虫うつしまくってるらしいじゃねぇか!」
「なにを!? なめんじゃねぇぞ、こっちだって知ってんぞ! てめぇこないだ、てめぇんとこのカカァに家からたたき出されたそうじゃねぇか? それも、門限破ったって理由でよ! てめぇは、ガキかぁ? このヤロー!!」
双方の交渉は、いよいよもって熱を帯び、もはや話し合いではなくどつき合いへと発展しそうな勢いだった。
でも、何人かの部下は明らかに引いている。
こんな言い合いが続けば、双方まともに街の中を歩くこともできなくなることは必然だろう。
そんな争いの場から、デビルペアという恥ずかしい通り名をつけられた二人組は、密かにじりじりと後退しつつあった。
「てめぇだって、浮気してるとこ見つかったんだろ? で、あそこを三枚に下ろされそうになって、泣き入れてたそうじゃねぇか! そんで、許してもらう代わりに、テーソータイつけられたんだろうがよぅ! この間抜けやろう」
あざ笑うように、ノマダのリーダーが言った。
「て、て、てめぇ! なんで、それを知ってやがる!? こうなったら、もうてめぇは生かしちゃおけねぇ。覚悟しやがれ、このホモヤロー」
絶対に知られたくはない真実。それを暴露されたボググのリーダーはそう叫び返す。
「くそっ! てめぇこそ、なんでそんなこと知ってやがる? 家のカカァにも知られねぇように、気を使ってきたってのによ! てめぇこそ、生かしちゃおけねぇ!」
お互いに壮絶な舌戦を繰り広げた結果、ついにお互いが最後の一線を踏み出した。
「野郎ども、あいつらをギッタギタにしてやれや!」
ボググのリーダーが叫ぶ。
「連中に、日の目をおがませるんじゃねぇぞ!」
ノマダのリーダーが叫ぶ。
決戦の始まりであった。
で、決着は五、六歩でついた。
走り出してからだ。
「ここは我々キルク治安維持軍が包囲した。きさまらもう逃げられんぞ、全員檻の中にぶち込んでやる!」
突然鳴り響く声。それまで物陰に隠れていた数百人にも及ぶ兵士が、その姿を現す。
さすがに、これでは戦いの決着はつかざるをえまい。
やけくそになって、兵士たちに向かっていく連中もいたが、しょせん組織的に訓練された兵士にかなうはずなんてない。
次々に捕縛され、鎖に繋ぎとめられてゆく。
文字通り一網打尽ってやつだった。
ただし、二人だけ例外がいた。
その寸前に物陰に身を隠し、目立たないように二手に分かれた。
そのままこそこそと移動しながら、包囲網を突破する。
もちろん、イヴァンとギーブの二人である。
ただ、イヴァンの方はいささか問題があった。
治安維持軍の兵士を十人近く、引き連れて逃げていた。
もともと、イヴァンにこそこそ逃げ出すなどという繊細さなんて、期待できるはずはないのである。
イヴァンとしては隠れてるつもりでも、周りから見たら堂々と往来を闊歩してるとしか見えない。
当然、職務に忠実な兵士としては、後を追いかけようという気も起ころうってものだ。
さすがに、イヴァンとしても逃げるしかなかった。
まだ十六歳だったとはいえ、十人くらいならなんとかできる。
とはいっても、一人も殺さずにってことになれば、ちょっと無理っぽい。
だったら、逃げるしかないだろう。
もっとも、相手が剣を抜いて切りかかってきたなら、遠慮なんてするイヴァンではなかったけど。
市街地を堂々と逃げ回っているイヴァンに、逃げ切れる可能性は限りなくゼロに近いだろう。
いくら足が速くて引き離しても、これだけ堂々と逃げれば見失いようがない。
そもそも逃げているという自覚があるのかも疑わしい。
当然の結果として、イヴァンを追い回す兵士は増え続けた。
ほどなくして、イヴァンは追い詰められてしまった。
「あっちゃあ。まいったねぇ……」
いまいち緊迫感に欠けた声で、イヴァンが困っている。
というのも、両側をレンガ造りの家に阻まれ、奥にはでっかい石壁に阻まれていた。
袋小路に入りこんでしまったのである。
逃げる先を、直感だけに頼って決めていたのだ。
いずれこうなることは、むしろ必然と言えた。
大通りの方で、仲間を呼び集める兵士の声が聞こえる。
「おい、ここに逃げ込んだぞ!」
もちろん、それってイヴァンのことである。
「もうきやがった……」
しかたないんで、剣を抜こうかってイヴァンが考えていると。
「こっちよ、ぼうや」
いきなり声が聞こえた。
美しい声に誘われるように、そちらを見る。すると一人の美しい女性が窓際に立っていた。
両手で窓を大きく開け放っている。
どうやら、イヴァンのことを招き入れようとしてくれてるみたいだった。
「いいのか?」
イヴァンが尋ねると。
「そんなことはいいから、急いで!」
あせったように、その女性はイヴァンに呼びかける。
イヴァンは全身をバネのようにたわめると、一気にそこから中へと飛び込む。
入った瞬間、イヴァンはいきなり抱きしめられる。
とてもよい香りに包まれた。
「ぼうや、ここにいて動かないでね」
イヴァンの耳元で囁《ささや》くように声が聞こえる。
とても甘い声だった。
カクカクカク。
イヴァンがうなずく。
もうほとんど、全身固まりかけてた。
「うふふ。かわいいわねぇ、ぼうや」
そう言って離れていった女の人の横顔は、イヴァンの目にはとても綺麗で眩しく映った。
ぽけっとイヴァンがしていると、その女の人はイヴァンが入ってきた窓から外に顔を出す。
「ねぇ、兵隊さん。騒がしいようだけど、何かあったの?」
すると、すぐに下から声が返ってくる。
「お騒がせしてすみません! ここに犯罪者が逃げ込んだと思ったのですが、どうやら勘違いだったようであります!」
声の調子からすると、その兵士も女性を見て少し緊張してるらしい。
もちろん、いいところを見せようとしてだろう。
「あら? それは恐ろしいわ。兵隊さん、がんばってくださいね。あたしのためにも」
「はっ! まかせておいてください、今度こそは、この地区から犯罪者どもを一掃してごらんにいれます!」
「まぁ、たのもしい。期待してますわ、兵隊さん」
すると、下から気配が消え大きな声が聞こえてくる。
「どうやら、見間違いのようだ。ここにはいない、急いで他を探すぞ!」
その様子では、相当気合を込めて他を探すことであろう。
やっぱり、美人の力は絶大だなぁとイヴァンは妙な感心をしてたりした。
そこで、だ。
イヴァンの頭の中をいろんな妄想が駆けめぐったことは言うまでもない。
もちろん今の状況というものは、それなりに理解していた。ただ優先順位が、お姉ぇさんの方に傾いたというだけのことである。
イヴァンだって健全なる男の子だったりするのだ。
窓に背を向け、美人のお姉ぇさんは窓わくに腰かけた。
それを見たイヴァンはちょっとドキドキする。
長い髪をかき上げたのを見たら、もっとドキドキしたりした。
「ねぇ、ぼうや。これからどうするの?」
イヴァンは背筋にぞくぞくっと何かを感じた。
またドキドキする。今度はさっきの倍増しだ。
おまけに頭の中は、ほとんど暴走しかけていて、ちょっとばかしとちくるっているかもしれない。
な、わけでイヴァンは、
「よ、よ、よ、よろしくお願いします!」
なんてわけのわからない返事をしたりする。
「あら? なにかよろしくしてもらいたの?」
美人のお姉ぇさんは、口元になんとも言いがたい微笑みを浮かべてそういった。
「お、お、おっあうっ……」
イヴァンは思いっきり言葉に詰まった。なにしろ、よろしくお願いしたいことがそれはそれはたくさんあったからである。
「ふふふっ。テレやさんなのかしら? それともここから逃げ出したい?」
お姉ぇさんのそのセリフに、イヴァンはぶんぶんと音を立てそうな勢いで首を横に振る。
それを見たお姉ぇさん。
「よかったわ。それじゃ、しばらくここにいるのね? かわりにといってはなんだけど、お願いしたいことがあるの。いいかしら?」
イヴァンはまたぶんぶんと頭を振った。
今度は縦に。
「うれしいわ。それじゃ……」
お姉ぇさんは、窓際をはなれ腕をからめてくる。
イヴァンを立たせるためだった。
とてもよい香りがした。
たぶんイヴァンが生まれてから嗅いだ香りの中で、もっともかぐわしいものだった。
少なくともイヴァンにとってはそうだった。
「こっちよ」
お姉ぇさんは、奥の方へとイヴァンを導いてゆく。
密着した状態で、ずりずりと引きづられてゆくイヴァン。
それは、ほんとにめくるめくような時間で、妄想はあれやこれや暴走しまくっていて、頭の中は完全にトリップ状態になっている。
つーか、もうほんとにいくとこまでいってしまっていた。
とはいっても、想像だけですべてを補完しきれないところが、イヴァンのいまいち情けないところではある。
経験のないことに、いくら妄想をたくましくしたところで、想像は及ばないってことだ。
「さぁ、ここよ」
カチャと小さく音を立ててドアが開いた。
「こ、こりゃあ………」
その瞬間、イヴァンの思考のすべてが停止した。なぜならそこには、めくるめくような世界が広がっていたからだ。
その世界にはどうやら先客がいるようで、その先客はカサコソと部屋のあちこちを徘徊《はいかい》していたりする。
そもそも床の姿が微妙に見えてたりするのだけれど、正体不明の物体が大量に転がっているので、そこがどういう世界を形成しているのかは謎に包まれていた。
やっぱりこういうのを“あんだーぐらうんど”というのだろうか?
「最近ね、ちょっとものが片付かなくって困ってたのよ。よろしく、ね。ぼうや」
一体どのくらい前からの最近なのだろう?
イヴァンがまず考えたのはそんなことだった。
やたらと年季が入った最近のように、イヴァンには見えるのだけど。
「あ、あのぉ……」
とても遠慮がちにイヴァンが言った。
「なにぃ? ぼうや?」
やたらと艶っぽくお姉ぇさんが聞き返す。
「あのぉ、一体これをどうしろと……?」
なんだか呆然とした表情のイヴァンがそう聞くと。
「わかってるでしょう? ぼ・う・や」
唇が触れ合わんばかりの近さで、きれいなお姉ぇさんがささやいた。
息がイヴァンの唇に触れた。下から見上げるお姉ぇさんの胸元が眩しい。
この状況で、イヴァンの胸が思いっきり高鳴った。
過去最高レベルである。
おもわず、首をぶんぶんと振った。もちろん縦に。
ほとんど条件反射である。
とても哀しい少年の性だった。
「それじゃ、あとお願いね?」
お姉ぇさんは、まったく遠慮することなくイヴァンを部屋の中に押し込んだ。
そして、付け加える。
「あわてる必要なんてないわよ。ゆっくりとしていって、ね」
その言葉にも、イヴァンはうなずいた。
そりゃそうだろう。一体どのくらい以前から、最近が続いているのかはしらないけど、簡単にはいきそうもないことくらいは見ただけでわかる。
この得体の知れない物体が、大量に詰まった部屋。
その一つ一つが白日の下にさらされる時はやってくるのかもしれないが、白日の下にさらすのが自分の役目だというのは、できれば遠慮しておきたいとイヴァンは思うのだ。
本当にこれで、助けてもらったと言えるのだろうか?
そんな疑問が頭の中をよぎったけど、お姉ぇさんのことを考えたとたんイヴァンの表情は一瞬でとろけてしまうのだった。
結局、三日かかった。
イヴァンがその部屋から解放されるまでに要した時間である。
最初のうちは、なんだか永遠に同じことを繰り返しているような気分になったのだけど、地道な努力というものは実るもので、気が付いたらそれなりにきれいに片付いていたのである。
それなりに、っていうのにはわけがあって結局のところ床や壁にできた複雑怪奇な模様はどうやっても取れることがなかったからである。
もっとも、この部屋の持ち主は、ちっともそんなことなんて気にしていないようで、
「ありがとう。また、たくさん入れられるわね」
なんて言って、喜んでいた。
何にも言えなくって、イヴァンが力なく微笑んでいると。
「それじゃあ、後一つお願いを聞いてもらえる?」
なんてセリフとともに、お姉ぇさんは思いっきり妖しい微笑みを浮かべてイヴァンにすりよってくる。
そのときイヴァンの瞳には、それまで開けられたことのなかったドアが映っていた。
それだけじゃあない。
不思議なことに、なぜだかイヴァンの目にはそのドアの向こう側が見えてしまうのだ。
もちろんそんなのは単なるイヴァンの妄想なのだけど、この期に及んで同様の妄想をいだかないとしたら、単に頭が壊れているだけだろう。
もっとも、ちょっとは壊れてしまってもいいかなぁ、なんていう気もするのだけれど。
で、結局イヴァンがとった行動は、
「おっ!? あれは!?」
半分くらい古典的な手段だった。
窓の外を指差しながら、おもいっきりそう言ったのだ。
お姉ぇさんは、つられて外を見る。これで結構素直な性格なのかもしれない。
窓の外にはいつもの光景。当然である、イヴァンが注意をそらせるために言ったでまかせなのだから。
「なに?」
何もなかったので、お姉ぇさんがイヴァンの方を振り返ると……。
固まっていた。
指を差したその格好のままで。
イヴァンは逃げるための、一瞬の隙を作りたかった。
でも、イヴァンが指差した方向は、たまたま逃げようとしていた方向だったのだ。
当然、イヴァンは固まる他なくなった。
それで、半分だけ、古典的な手段となったのだ。
「それじゃ、いきましょうか?」
お姉ぇさんの妙なる声が、イヴァンの耳元で聞こえてきた。
もちろん、イヴァンの腕はすでにお姉ぇさんにきっちり決められている。
もはや、逃げる術はなくなっていた。
イヴァンは再び、暗黒の世界との戦いに連れ戻されたのである。
この時イヴァンは、生まれて初めて逃げる前にはちょっとは考えて行動した方がいいかもと、そう考えたのである。
もっとも、本当に考えただけなのだが……。
「なにやってんだ?」
部屋に入るなり、イヴァンがそう聞いた。
相棒が、いつもと違った装備を一生懸命手入れしているところだったからだ。
「おっ? イヴァン、ちょうどいいとこに来やがった。おめぇの分も買っといてやったぜ。さっそく着てみろよ」
十日ぶりに再会した相棒に、ギーブが言った言葉はそれだった。
「おっ、オレも?」
なんだか、やたらとびろびろの飾りがついた服。色なんて真っ赤だ。
一体何を考えてるのか知らないけど、正気の沙汰とは思えない。
「正気かぁ? おっちゃん?」
もしかしたら、自分の相棒は少し見ない間におかしくなってしまったのではないだろうか?
少し不安になるイヴァン。
「おうよ。さっさと着てみろよ。絶対似合うぜ? オレさまが保障してやらぁ」
ギーブから保証されても、いまいち困るだけなのだが……。
「なんで、オレがこんなもん着なきゃなんねぇんだよ? どっかの金持ちのボンボンが着そうな服をよ?」
イヴァンとしては、当然の言い分だった。
訳もわからず、そうほいほい言うとおりにできるわけがない。
イヴァンにだってプライドというものがあるのだ。
「仕事だよ、仕事。こいつが、でっけぇ仕事になるんだよ」
それを聞いたイヴァンは、無言のうちに恥ずかしい服に着替え始めた。
ま、イヴァンのプライドなんて、こんなものである。
「で、いってぇ、どんな仕事だよ? おっちゃん?」
着替えながら、イヴァンが質問する。
色々とイヴァンの優先順位は、普通の人とは違うらしい。
普通は逆だろう。
「なんだ? 知らないのか?」
するとギーブはふしぎそうにそう尋ね返す。
「なにを?」
もちろん、イヴァンにはわからない。
ついさっきまで、ずっと未知の世界で、開拓作業をしていたのだから当然である。
「ロウラディアの大貴族の姫君が、このキルクにいるらしいってよ。それで、見つけ出して無事に連れてきた人間には、好きなだけの褒賞を与えるんだとよ。さすが、中原の大国のお姫さまだ。太っ腹なこった」
それを聞いたイヴァンは少し考える。
「お姫さまが太っ腹なのか?」
本当に考えたのか? ズレてるぞ。
「馬鹿いうなよ、お姫さまっつったら、ナイスバディにきまってんだろ?」
返事もズレているから、相撃ちってところだろう。
なんてこと言っているうちに、イヴァンの着替えは終わった。
「ふむ……なかなか似合ってるな。貴族のお付きの執事の召使くらいには見えるかもしんねぇぞ」
実際に、イヴァンは赤が似合った。サイズ的にもピッタリだし、いまひとつしっくりこないのはギーブのせいというより、純粋にイヴァンの着こなしの問題だろう。
ボタンは一つはめ忘れてるし、襟は微妙に立ってるし、袖口にいたっては思いっきりめくり上げている。
さらにとどめとばかりに、ズボンは裏表逆に穿いていた。
「なんだよそりゃ? オレをからかってんのか?」
イヴァンが文句を言う。
「おいおい、俺は褒めてやったんだぜ?」
ギーブは巨体を器用にすくめると、真剣な表情でそう言った。
「そうかぁ? なんか、違うような気がすんだけどなぁ……」
イヴァンとしては、とくに根拠とかあったわけでないので、引き下がる以外になかったのである。
もっとも引き下がらなかったとしても、結論は同じであろう。イヴァンにファッションのセンスは皆無なのだから。
まともに服のボタンもかけられないようなヤツは、いらん口出しをするなということである。
まぁ、それはそれとして、だ。他にもイヴァンとしては疑問があった。
「なぁ、おっちゃん。そのお姫さまと、オレの格好と、いってぇなんの関係があんだ?」
どうやら、イヴァンにもまともな思考はあるらしい。一応質問としては、及第点といったところだ。
ただ、最初にこの質問をしていないというところで、激しく減点といったところか。
「おお。おめぇにしちゃぁいい質問だな!」
ギーブも驚いたように、そう言った。
「そうかぁ? ま、オレにゃあ、すぐに想像がついてたんだけどなぁ」
よせばいいものを、イヴァンは調子に乗ってそんなことを言い始めた。
「へぇ? なんだ? 言ってみな」
ギーブは口元に笑みを浮かべて、そう聞いた。
明らかに、わかりっこないってそう思っている顔だ。
「お姫さんと会ったときに、すぐに親しくなれるようにだろ?」
イヴァンが平然と言った答えを聞いて……、
「うっ……なんてこったい……」
ギーブは表情を引きつらせていた。
どうやら、ズボシだったようだ。
この二人、なかなかいい相棒《パートナー》のようだ。
性格はかなり違うけど、頭の中身はとってもよく似ていた。
「で、そのお姫さんってどこにいんだ?」
得意げになって、イヴァンがそんなことを聞く。
「これから探すんだよ」
苦々しくギーブが答える。
「こ、この格好でかぁ?」
心底嫌そうにイヴァン。
「おうよ。いつ会うかわかんねぇからな」
当然のようにギーブが答えた。
「う〜ん、しかたねえなぁ」
イヴァンはしぶってはいたけど、結局納得した。
着替えてしまったら、どうでもよくなったらしい。
「それじゃきまりだな」
ギーブが立ちあがる。
「えっ? 今からかよ?」
イヴァンは驚いた。なにしろ今から微妙に疲れてしまった精神を、ゆっくり癒そうという計画を立てていたからだ。
具体的に言えば、メシを食って寝るだけなのだが……。
「おいおい、寝ぼけたこと言ってんじゃねぇぞ? 他にもお姫さま探してる人間はわんさかいるんだ。先こされたらどうすんだ?」
そう言われると弱い。なにしろ、イヴァンに仕事のあてなんてないからだ。
「しゃあねぇな…………はぁ〜っ……」
イヴァンは思いっきりため息をついたけれど、哀しいことにあんまり癒されたりはしなかった。
ギーブも立ち上がると、自分の得物であるフレイルを手に取った。
それは棍棒に打撃用の棒をつないだ武器で、見た目はいかにも強そうだが扱いは難しい。
ほとんど新品同様のみごとさで、とてもよく手入れされていた。
おまけに、傷もほとんどなく未使用に近い。これなら、中古で売ってもかなり高く引き取ってくれそうだ。
まぁ、あんまり自慢にはなりそうもないことだが。
二人は外に出て、並んで歩く。
思いっきり得体の知れない格好をしている、やたらとでかい男の二人連れだ。目立つことこの上ない。
しかし、である。
二人を少しでも見た人間は、例外なく視線をそらした。
関わり合いたくない、とそう考えるのはまともな神経と言えるだろう。
なんとなく哀しいのは、二人の知り合いも同じ行動をとったということだろう。
「とりあえず、こいつを見とけ」
そう言ってギーブがよこしたものは、丁寧に折りたたまれた一枚の紙。
「なんだ? これ?」
イヴァンが聞くと、
「似顔絵だよ。これなしに、てめぇは何を探す気だったんだ?」
あきれたように、ギーブが言った。
「そりゃあ、難しい問題だなぁ……」
イヴァンはなぜか、真剣に悩んでいる。
「……きいてねぇぜ、別によ。それより、さっさと見ろ」
ギーブに言われて、イヴァンはようやく手にした紙を広げて見る。
「こ、こりゃあ……」
イヴァンは驚いた。
そこに書かれていたのは肖像画。墨を使って描かれた、美しく清純な少女の姿。気品というものが伝わってくる。
どこからどう見ても、まさしく高貴なお姫様そのものに見えた。
絵を見てるだけで、恋におちそうだ。
実物とこの絵との間に大きな開きがなければの話なのだけど。
「どうだい? うまく描けてるだろう?」
にやにやしながら、ギーブが言った。どうやら、自慢したいらしい。
「あっ? そういやそうだな」
なんて、イヴァンは答える。
「なんだよ? これだから、芸術のわからねぇ田舎もんはいやなんだよなぁ。実になげかわしい……」
などと言いながら、ギーブは頭をゆっくりと振った。
イヴァンの方はといえば、全然まったくそんなことなど気にしてなかった。
紙に描かれた美少女。その姿に、なんとなく見覚えがあったからだ。
「なんか、オレこの顔知ってるような気がすんだよなぁ……」
漏らすように、イヴァンがそう呟くと速攻でギーブが反応する。
「おい! いま、なんつった!?」
イヴァンに向き直り、覆いかぶさるようにして聞いてくる。
「いや、たいしたことじゃねぇ。気にすんな、おっちゃん」
イヴァンはひらひらと手を振ってそんなことを言っている。
「ちょっと待て! てめぇ、今自分が何をしようとしてんのかわかってんだろうな?」
何かを押し殺したような声で、ギーブが言った。
「オレが……? わかってる……もっちろん、わかってるって」
とても軽くイヴァンは答えてくれた。
「そうか? 一応言っとくけど、そいつは俺たちがこれから探すお姫さまだ。思い当たることがあるんだったら、きっちり言ってくれよ? たのむぜ?」
なんだかギーブは不安そうにそう言った。
「だから、気のせいだって、おっちゃん。結構似てはいるんだけどな、こりゃどう見たって十五、六くらいだろ? オレが知ってんのはよ、どう見ても二十五、六だぜ? 年が違いすぎらぁ」
笑いながらそう答えると、イヴァンはギーブにポンポンと肩を叩かれた。
そして、言われる。
「大将。そりゃ当たりだ。その似顔絵はな、今から十年前のものなんだ」
それを聞いたとたん、イヴァンは突然路上にしゃがみこんだ。
お腹の辺りを押さえて。
「す、すまねぇ、おっちゃん。急に持病の頭痛が……。悪いけど、後はたのまぁ……。うううう……」
なんて言いながら、うめいている。
「てめぇ、いつから胃袋が頭になったんだよ? 街頭芸なんかやってないで、とっとと行くぞ」
圧倒的なパワーにモノをいわせて、ギーブにひきずり起こされてしまった。
「俺たちは運がいいぜ。こんなに早く見つかるなんて、よ。夢みてぇだぜ!」
ギーブはとても喜んでいた。
「そうだなぁ……。夢であってほしいぜ、まったく……」
イヴァンはなぜか落ち込んでいた。
重たい足をひきずるようにして、イヴァンがギーブを案内してきたのは、ついさっきまで悪夢と十日間もの間戦い続けていた場所だった。
悪夢から目覚めて喜んだら、まだ悪夢の中だった。
今イヴァンが感じていたのは、ちょうどそんな心境であった。
「ここか?」
ギーブがイヴァンにそう聞いた。
二人とも物陰に身をひそめている。
というのも、目的のアパルトマンの正面と裏口の両方を、百人近い数の自治兵が押さえていたからだ。
あれでは、誰一人中には入れないだろうし、また出てゆくこともできまい。
「ああ、オレが出てくるときにゃあ、いなかったんだけどなぁ……」
いまいち緊張感に欠ける声で、イヴァンが答える。
もっともイヴァンに緊張感がないのは、いつものことだが。
「どうする? あの人数相手じゃさすがにきついぜ? おっちゃん」
正面突破は、イヴァンの最も得意とする戦法である。なんにも考えなくていいから、とっても楽なのである。
しかし、だ。
今のイヴァンにとって、一度に百人以上はちょっと厳しいものがあった。
見かけはともかく、中身はまだ少年なのだ。
もっと修行をつみ成長すれば、楽に相手できるようになるかもしれない。でも、今のイヴァンにとっては、限界ギリギリの人数である。
それでも、勝てないと言わないのはやはりイヴァンである。
年若くとも普通に非常識な男であった。
「てめぇでも正面からはやべぇか……。なら、なんか手を考えねぇとな……」
ギーブは深刻そうな顔つきで、そんなことを言っている。
「けどよ、おっちゃん。他にどんな方法があんだよ?」
そう聞いたけど、イヴァンの場合、特に正面突破にこだわっているわけではない。
考えるのがめんどうなだけだった。
「けど、正面から突っ込んでいったって、裏口から連れていかれたらどうしようもねぇじゃねぇかよ」
いくらギーブだって、そのくらいのことは思いつく。
「それなら、おっちゃんが裏口押さえりゃいいんじゃねぇか?」
当然のようにイヴァンが言うと、
「おいおい……。いつもてめぇに言ってるじゃねぇか。自分《てめぇ》の基準で他人を判断するなってよ。そんなこと、てめぇ以外の誰にできるってんだよ?」
とギーブはあきれたように言った。
そして、一言つけ加える。
「とにかく、その案は却下だ! 却下!」
あっさりと自分の名案を却下されて、イヴァンは不満そうにぶつぶつ言った。
「最高の作戦だと思うんだけどなぁ……」
そんなセリフを、ギーブはあっさりと無視する。
とはいっても、
「う〜ん、どうしたもんかなぁ……」
とくに名案があるわけではなかったのだが。
このままではいくらたっても、この二人に進展はなさそうである。
でも、事態は意外なところから進展した。
正確に言うと、ギーブの背後からだ。
「お待たせ、それじゃそろそろ行きましょうか」
とても、妖艶な声。聞いただけで、背筋がぞくっとくるそんな声だった。
「おうっ? おおお……?」
これは、ギーブ。
「ななな、なんでぇ?」
これは、イヴァン。
二人とも、それは見事なまでに驚いていた。
そこに立っていたのは、とても妖しく美しい女性。
イヴァンを悪夢の中に招き入れた美人のお姉ぇさん。
そして、二人が今自治兵の下からかっさらおうと計画……のようなものを考えていた、まさしくその本人であった。
「彼らはしばらく動かないわ。今のうちに頭を押さえてしまいましょう」
そう言って、お姉ぇさんは微笑んだ。
それを見たイヴァンは、なぜか自分が頭から丸かじりされようとしている小動物のような気がしてきた。
「これは、高貴なるお方。私めは、ギーブ=コーラッドと申します。どうか、よしなにお願い申し上げます」
ギーブは片膝をつき、その巨体からは想像のつかないくらい優雅な礼をしてみせた。
それを見たお姉ぇさんは、その美しい顔に品のある微笑みを浮かべる。すると、不思議なことにただそれだけで、とても凄烈《せいれつ》なまでの気品をその身に纏う。
「こちらこそ、よろしく。たくましき騎士殿」
美人のお姉ぇさんが、そう言いながら右手を差し出すと、ギーブはためらうことなくそれを取り、手の甲にキスをする。
それは、まるで長年勤め上げてきた騎士そのものに見えた。
まるでサガの中の一節のように、二人の姿は幻想的にすら映る。
でも、それもわずかの間だけだ。
「時間は貴重よ。急ぎましょう」
お姉ぇさんは、それだけ言うと二人に背を向けていきなり歩き出す。
「御意……」
短く返事をして、当たり前のようにギーブはその後に続いた。
「なんなんだよ?」
イヴァンは何がなんだかわからなくて、完璧に混乱していた。
でも、まぁ難問のほうから勝手に解決してくれたので、ほっとしていたのも確かなことだ。
お姉ぇさんは、近くに止めていた馬車に乗り込んだ。
その後にギーブが続く。
それに続こうとして、イヴァンはあることに気づいた。
二頭立ての馬車。
手綱を取るべき御者の姿がない。
と、いうことはだ。
「オレは外ね……」
イヴァンはそう呟いて、御者台に座った。
「お客さん。どこに向かえばいいんですかね?」
中に向かってイヴァンが叫ぶ。
「総督府までお願いね。かわいい御者さん」
すぐにお姉ぇさんから返事が返ってきた。
まだ少年を脱しきれてないとはいっても……イヴァンをかわいいなどという神経は、少し変わっているかもしれない。
ただし、イヴァンにとってこのお姉ぇさんが変わっているということは、夢に出てくるほど思い知っていたのでとくに驚いたりはしなかった。
「んじゃ、出発」
どことなく気合の入らない掛け声をかけて、馬に鞭を入れた。
「イヴァンとは、どういうお関係で?」
馬車の中で、ギーブがさっそく話し掛ける。
すると、少しだけ考えた後、お姉ぇさんが答える。
「そう、ね。荒れ果てた地に一輪だけ咲いたバラを見つけた、魔女というところかしら」
少しとは言いがたい難解な答えだった。
「バラ?」
イヴァンとバラがどうにも結びつかない。だから、ギーブはそう聞いた。
「初めは、ね。手折ろうと思ったのよ。手折って、わたしのモノにしようと思ったの」
「イヴァンを?」
「そう……でもだめだった……」
妖しげな、それでもどことなく哀しげな微笑を浮かべてお姉ぇさんは、そう言った。
「なぜなのです……?」
意外そうに、ギーブが尋ねる。
どう見ても、これほどの美女相手だったら、イチコロのような気がしたからだ。
「痛くなかったの……」
それに、お姉ぇさんは微笑みを浮かべたまま呟くように言った。
「痛くなかった……?」
「強くて大きな棘《とげ》。何者にも屈しないほど丈夫な棘。なのに痛くないの……」
その答えに、ギーブはなんと言っていいのか答えが見つからない。
「…………?」
だから、視線だけで先を求める。
「痛くないのは、しなやかだからよ。とてつもないくらいにしなやかだから、どんなに曲げても、すぐに元に戻るわ。どんなに引っ張っても、決して切れないの。そんなバラはね、切ることもできない。とても、わたしの手には負えないわ。ただ……」
「ただ……?」
ギーブは、短くそれに続く言葉を求めた。
「ただ、彼を手折ることができる者がいたとしたら、それはおそらく歴史を動かす……そんな人物よ、きっと。わたしには、そんなことはできない。だから、手折れなかったの。とても残念だけど、ね」
それを聞いたギーブは軽く頭を振った。正直今の話は、半分も理解できなかった。
それでも彼女の視線が、ギーブの見ているものより遥かに遠くの方にあることくらいは理解できる。
それとともに、このすごい美女を探しているという人物に対して疑問を持った。
行方不明のお姫さまを探している……ギーブはそういうふうに説明をうけた。
懸賞をかけた人物の代理人と名乗る男からだ。
その男に一枚の肖像画を見せられ、ロウラディアの大貴族の姫君だという説明を受けた。
ただ、それだけの説明ですぐに報酬の話になった。
理由等の説明は抜きで、いきなりだ。
その場には数人の男たちがいた。ギーブの同業者達で、誰もがそのことを気にも留めなかった。
なぜなら、彼らにとって一番興味があるのは『報酬』なのだから。
そして、その男は望みの報酬を言ってみろと言った。そのとおりの報酬を用意すると言ったのだ。
その場にいた男が、ならばと言った。
たぶん本人は冗談のつもりだったのだろう。
その男は、見つけ出した女の体重と同じ重さの金を要求したのだ。
代理人は躊躇することなくうなずいた。
とたんに、他の連中も色めき出す。欲の塊になっていた。
続いて、代理人が見せたものは一人の少女をモチーフにした絵画だった。
それを見て、さっき発言した男が呻《うめ》いていた。
絵画に描かれた少女が美しかったからではない。
繊細でやさしげなその姿は、とても重そうには見えなかったからである。
でも、救いがあった。
代理人が、この絵は十年前に描かれたものです、とそう言った。
男は明らかに、胸をなでおろしていた。そして、こう思ったはずだ。
できる限りぶくぶくと、見る影もないくらいに太っていてくれと。
あるいは、そのことを神に祈ったかもしれない。
他の連中も同じだった。
金という、抗いがたい魅力を秘めたものが目の前にぶら下がっているのだから無理もないだろう。
ただ、ギーブだけは少し違った。
というのも、ギーブが望むものがそういった連中とは違ったからだ。
その少女の絵画をギーブは模写した。
イヴァンに見せるためというのもあるけど、一つにはその絵をギーブはとても好きになったからだ。
その時には気づかなかったけど、今になって思えばその絵はとても奇妙だった。
その絵はあまりに素晴らしかった。貴族の肖像画にはつきものの、脚色というものが微塵も感じられず、代わりにその少女への思いがめいっぱい詰め込まれているように感じられた。
だからこそ、ギーブは夢中になってその絵を模写したのだ。
一体、この美しい女性は何者なのだろうか?
彼女を探し求めている連中の目的は、一体なんなのだろうか?
さっきの自治兵は、彼女が住んでいたというアパルトマンを完全に封鎖していたし……。
ただ、お姫さまを連れ戻すのが目的だとしたらあまりに物々し過ぎる。
何か、とてもヤバイことに首を突っ込んでしまったのではないだろうか?
やくざ者同士のいざこざとはわけが違う、そんな危険に……。
「大丈夫よ。もうほとんど終わっているの。わたし達の戦いは、もうすぐお仕舞いになるわ」
まるで、ギーブの心の中を見通しているかのように、美しい女性はそう言った。
「戦い……?」
「そう、駆け引きという名の戦い……」
それだけ言うと、お姉ぇさんは美しい顔に笑みを浮かべた。
とても魅力的で、とても妖艶な。
そのときだった。
御者台から声がした。
イヴァンである。
「ついたぜ! お二人さん!」
馬車は、総督府の建物から少し離れた場所に止められていた。
ちょうど物陰になる場所だ。
門の前には、二人の門兵が立っている。
その様子は普段と変わりない。ただ、いつもは閉ざされている門が、大きく開け放たれていた。
「どうすんだ?」
イヴァンが聞く。
さすがに、正面から乗り込もうとは言い出さなかった。
けど……。
「さぁ、行きましょう」
妖しい笑顔をイヴァンに向けると、お姉ぇさんは正門に向かってさっさと歩きだす。
当然のように後に続いて歩き出すギーブを見て、イヴァンは頭をかいた。
「いってぇどうなってんだよ?」
イヴァンは完璧にわけがわかっていない。
とはいえ、それはいつものことなので、
「ま、いっか……」
てことで落ち着いた。
門兵のクリアはまるで問題なかった。
高飛車に誰何してきた門兵を、ギーブがいきなり殴りつけた。
一人につき一振りずつ、都合二振りのこぶしで終了した。
三人はそのまますんなりと中庭を通り過ぎ、建物の中へと入ることができた。
常駐しているはずの、自治兵が出払っていたのだから当然である。
中ではお姉ぇちゃんが先頭に立って、歩いて行った。
さすがに何人もの人間とすれ違ったが、とくに見咎《みとが》められることはなかった。
お姉ぇさんはまるで自分の家にでもいるみたいだったし、ギーブは堂々としたものだった。それにイヴァンは、どんな場所だって緊張したりするような真剣さは持ち合わせていない。
傍目から見ただけで、堂々と建物内を闊歩しているこの三人が、不法侵入者などと思える人間はいないだろう。
「ついたわ」
この建物の中で、一番豪華そうな部屋の前でお姉ぇさんがそう言った。
「入らねぇのかよ?」
ドアの前に立ったまま、開けようとしないお姉ぇさんに、イヴァンがそう聞いた。
「一番太った男よ。それ以外は不要だから、先に片付けちゃってちょうだい」
そう言って、お姉ぇさんが微笑んだ。
それは、イヴァンが今までに見た中で、一番妖しげな微笑だった。
「な、なんだぁそりゃあ?」
イヴァンは驚いた。ただお姉ぇさんをこの場所に連れてくるだけのつもりだったのだ。
そうすれば、自然となんだかとんでもない報酬がいただけるらしいと思っていた。
いくらなんでもここでそんなことをして、報酬がもらえるとはさすがにイヴァンでも思えない。
「大丈夫よ。どうせ、連中も報酬なんて支払うつもりはないから……。あなた達は、わたしを殺して、その罪で死罪になる……そういう筋書きなの。あすこにいた連中は、わたしだけじゃなく、あなた達も捕らえることになってたのよ。ま、ありきたりな陰謀よね。陰謀って言葉の意味を、明快っていう意味で使ってるのかもしれないわね、彼らは……」
楽しそうに、たっぷりと毒を含んだ言葉でそんなふうに説明した後、
「それじゃ、ふりはらってきなさい……」
その瞬間、お姉ぇさんの雰囲気が変わった。
凜《りん》として峻烈《しゅんれつ》に。まるで、彼女にだけ鮮やかな光が当たっているかのごとく。
そして、ノブに手をかけ言った。
「火の粉を」
開いたドアをイヴァンがすり抜ける。
すぐ両側に敵がいた。
まるで、待っていたかのように。
タイミングも見事に合っている。しかも速い。
イヴァンはためらうことなく、左に動いた。
その動きは早くない。
一見して、そう見えた。
敵の剣の間合いに、きれいに入っている。
決まった。
それを見ていた誰もがそう思った。
なのに、その男の体はそのまま吹き飛んだ。
剣の柄。
イヴァンの左手に握られている。それが、男の腹に食い込み吹き飛ばしたのである。
でも、まだだ。
まだ終わりではない。
背後から迫る男はすでに間合いを詰め、剣を振り下ろそうとしていた。
しかし、その男も剣を振りかぶったまま、大きく後ろに吹き飛ぶことになった。
右手に握られているのは、剣の鞘。
たいして速い動きでもないというのに、それが男には見えなかったのである。
不意打ちをしかけたはずの二人の男が、一瞬にして倒され意識を失った。
「なんだ? 今のは?」
部屋の中にいるのは、あと二人。
一人はイヴァンの倍くらい横幅がある男。これは、正面でふんぞり返って立っている。
もう一人は、細身の刺突用の剣《エペ》を構え、イヴァンに向き合っていた。
すでに、剣は抜き身。
「きさま、一体何をした?」
驚くというより、むしろ楽しそうにその男は言った。
自治兵の制服を着ている。胸には幾つかの勲章が飾られていた。
どうやら、自治軍の将官らしいのだが、イヴァンがわかったのはそこまでである。
元々興味なんてなかったし、だいいち男のことをいちいち気にかけるような趣味はなかった。
したがって当然答えも、
「見てのとおりさ」
ぞんざいになる。
だが、その将官も負けてはいない。
「ワタシには、二人の男が自分できさまの攻撃を受けにいったように見えたぞ? まるで、魔法か何かのようにな」
平然と、そう質問をぶつけてくる。
「そう見えただけさ。コツがあんだよ」
魔法呼ばわりをされたことが気に入らなかったらしい、イヴァンは反論した。
でも、男はやはりイヴァンの話などまるで聞いていない。
「だが、そんなまやかしなど、このワタシには通用せんぞ? きさまの心臓を、この清き刃で貫き通してやる!」
そう一方的に宣言すると、胸に掲げそのまま足元に振り下ろす。
ビュッと風を切る音が部屋に響いた。
「なんだかなぁ……」
イヴァンはぼやくようにそうつぶやくと、その男に無造作に近づいてゆく。
男はエペを構え躊躇することなく突いてきた。
エペは刺突用の武器。
だからためらいはない。そして、速い。
「なに?」
エペの切っ先が、イヴァンの服を貫いた。左の肩袖のところ。
バネのように、男の突き出した剣が引かれる。
その直後、次の攻撃。その速度は、さらに上がっている。
今度こそ、心臓を貫く。おそらく男はそう思ったはずだ。
でも、今度貫いたのは、右の袖口。
それが最後だった。
次の攻撃はもうない。
男の腹には、剣の鞘が食い込んでいる。男は、それで失神していた。
やはり、他の兵たちと同じで、イヴァンの攻撃がまるで見えていなかったのだろう。
微塵も避けようとはしなかったからだ。
「片付いたぜ!」
外に向かって、イヴァンが呼びかける。
ちなみに、剣はすでに鞘にしまっている。ふざけたことに、最後の攻撃をしかけたときついでにしまっておいたのだ。
将官が気張ってやった戦いは、イヴァンにとってついででしかなかったってわけである。
こうなったらもう、同情すら感じる。
もっとも、当人はそんなことをされてもちっともうれしくないだろうが。
「これは総督閣下、ご機嫌うるわしゅう」
いつもの妖しげな微笑みを浮かべて現れたのは、高貴なる麗人。着ているものはもちろん、その姿もその表情もその身に纏う雰囲気すらも変化していない。なのに彼女から受ける印象は、まるで違うものだった。
まるで、タイトルロールの登場シーンそのものであった。
一瞬にしてその場の空気が一変する。
「……なんの用だ? きさまは、ワシの顔など見たくもないはずだぞ?」
巨体から絞り出すかのように、その男が言った。
立派な服を着て、立派なイスに座っている。
ふんぞり返っているのは、余裕があるからではなく、せめてもの見栄だろう。
暑くもないのに額には、汗が光り、いつくかの水滴となって顎《あご》の先から流れ落ちていた。
その男は、明らかに脅えていた。
イヴァンにではない。それは、イヴァンがこの部屋に侵入したときからだ。
三人の兵士と戦って―そう呼んでいいなら―いるときでさえ、イヴァンのことに一切注意をはらわなかったことからも明らかだろう。
「あら? そうでもないわよ。わたし、こう見えても意外と悪趣味なの。それに、あなたに少し言っておきたいこともあったから……」
ゆっくりと歩を進めながら、強烈な存在感を漂わす美女は思わせぶりにそう言った。
「なにを今更話すことがある? もはや、ワシの負けだ。ワシを殺せばすむことだろう」
イスのアームレストを握った手が震えている。果たしてそれは怒りのためか、それとも恐怖ゆえなのか……。
「いいように利用されたわね、あなた。あやうく、この都市をロウラディアにくれてやるところだったじゃない」
そんなセリフを、むしろ楽しそうにお姉ぇさんは言った。
「そんなことは、初めからわかっておった。だがワシは、こんなところの総督で一生を終えるような男ではない! やつらを利用して、もっと上まで駆け登ってやるつもりだった。いったいそれの何が悪い!」
目をギラつかせ、男は巨体を揺らしながらそう吼えるように言った。
「馬鹿ね。誰も悪いなんて言ってないじゃない。ただ、迷惑なのよ。この都市の住人は、今までどおり暮らしたいだけ。誰にも干渉されることなく、ね」
その言葉に、すぐさま男は反応する。
「ふん。そんなものはまやかしだ。現に、こうやってワシにも……ルクセン帝国から派遣された総督に過ぎんこのワシにも、干渉されているではないか?」
お姉ぇさんは笑った。
その男を嘲笑するかのように。
「条約という言葉を知ってる? あなたが干渉できるのは、その範囲内だけなのよ。だからこそ、あなたはこのわたしを殺さなくてはならなくなったのでしょう? でも、そんなことはどうでもいいわね。……あなた、あの絵を勝手に持ち出したでしょう? あれが、わたしにとってどういうものなのかは言うつもりはないけど――それでもアレを見たらわかりそうなものだけど――あなたにはそれなりのお礼をしてあげましょう。もちろん、ありがとうなんて言わないわよ」
その迫力は半端ではなかった、イヴァンですら息を呑んでいたほどだ。
男の体は、小さく震えている。
正面からその怒りをぶつけられたのだから、無理もないというべきかもしれない。
「ワシには軍があるぞ。今ここで殺しておかねば、かならずきさまらを狩り出してやる。絶対だ!」
震えながらも、男はそう言ってのけた。
しかし、それが男の最後の強がりとなった。
外がいきなり騒がしくなる。
大勢の足音、馬の足音。
なのに、一切声が聞こえない。馬だとていななき一つしない。
軍隊の気配……それも、大変に訓練された軍隊であろう。
「あら……思ったより早かったわね。ルクセン帝国、近衛部隊の登場よ。あなたが、自治軍を早めに送り出してくれて助かったわ。これで、犠牲を出さずにすむものね」
なにげないふうを装い、お姉ぇさんがそう言うと、
「何をしらじらしい……。自分で誘い出しておきながら……くそ、これで終わりだ……」
男はそう言って全身の力を抜き、イスの中に沈みこんだ。
「これが、わたしのお礼よ。遠慮しないで受け取ってちょうだい」
それだけ言うと、彼女は踵を返した。
その後にギーブが続き、最後にイヴァンが続く。
部屋を出る前、一度だけ後ろを振り返ると、イスの中に沈み込んだ男がうつろに天井を見上げているのが見えた。
果たしてその視線の先に、一体何を見ているのか……。
でも、そんなことはイヴァンにとってどうでもいいことである。
小さく肩をすくめただけで、イヴァンは部屋を後にした。
「で、結局なんだったんだ?」
何人もの兵士とすれ違いながら、イヴァンがそう聞いた。
三人を誰も見咎めないのは、お姉ぇさんのおかげだった。
みなが顔を知っているらしく、頭を下げるか敬礼をして通り過ぎる。
「ロウラディアの第三王子だったクロウ=ラク=ウィバーンが、強力な軍事力を背景に革命を起こしたの。その時、上の二人の王子も多くの貴族とともに粛清の対象となった……」
ゆっくりと歩きながら、お姉ぇさんがそう話を始める。
「確かひと月前に……ユーベンス寺院で起きたあの……」
そう言ったのは、ギーブ。
そのことは、イヴァンにも心当たりがあった。
酒場を訪れたロウラディアの行商人たちが、口々にそんなことを言っていた。
ユーベンス寺院で起きた事件についての血生臭いうわさ。
それは、後に血の礼拝として語り続けられることになる事件であった。
第一王子の王位継承式典の準備のために、ユーベンス寺院を訪れていた二人の王子とその派閥を結成するそれぞれの貴族達。
そこをウィバーンが掌握後ロウラディア軍が急襲した。
王は健在であるが、革命後に他の貴族達を含めてその進退がいかなるものになるのかは、様々な憶測が飛び交っていてよくわからない。
ただ、ウィバーンがロウラディアの全権を掌握したことは間違いないようだったが、王位につく様子がないことが多くの憶測を生み出す最大の要因になっていた。
今、中原全体がその動向を見定めようと躍起になっている。ロウラディアは……いや、クロウ=ラク=ウィバーンはこれから何をなそうとしているのか。
少しでも聡《さと》い者ならば、戦乱の匂いを嗅ぎつけているのだろうが。
でもイヴァンは正直どうでもいいことだと思ったので、ろくに気にも留めていなかったのだ。
「クロウ=ラク=ウィバーンは強大で非凡な野心家。ロウラディアは、中原の国々にとってとんでもない脅威になるでしょうね。そして、そのための布石の一つとして、あの男は利用されたのよ」
「布石?」
「この都市を押さえれば、中原中部に位置して有力な海軍を持たないロウラディアにとっての弱点を補うことができるわ。でもロウラディアにとって現時点の最大の急務は、他国の介入を防ぎつつ内乱を未然に抑える必要があるということ。今のロウラディアにルクセンに割ける兵力はない……。だから、どうなってもかまわないようなあの男を利用しようとしたのね。自分の足元を掘り崩しても気づかないような男を」
「よくわからないけどよ。結局あんたが、決着つけたんだろ?」
そのイヴァンの質問に、
「ウィバーンを利用したつもりでいたあの男は、この都市で派手な内乱を始めかねなかったからね。掌の上で踊らされてることに気づかないような男じゃちょっと都合が悪いから、早めに退場してもらったのよ」
こともなげに、お姉ぇさんはそう話した。
「けどよ、あんた、身を守る手段なかったんだろ? ヤバかったんじゃねぇのかよ?」
イヴァンがそう聞くと、
「あら? あなた達がいたじゃない?」
不思議そうに、お姉ぇさんがそう答える。
「あのときオレが、道に逃げこまなけりゃよ。あんたと会うことはなかっただろ? たまたまってことじゃねぇかよ」
イヴァンの言い分のほうがもっとものように聞こえる。
でも、お姉ぇさんは、
「まだ、わかってないみたいね……。そうなったら、別の場所であなたに会うことになっただけ。……でも、疲れたわよね、あの時は。あんなにでたらめに逃げ回るとは思わなかったから」
その答えを聞いたイヴァンの頭には、疑問符がいっぱい浮かんでいた。
それを見たギーブが口を開く。
「じゃあ、あのときのことは……もしかして……」
やくざ同士の争い。まるで待ち構えたように現れた治安兵。
これらのことを演出したのは、このあらゆる意味でとんでもない美女だったのだろう。
その証拠も確証すらもないけど、ギーブはそう思ったのだ。
「ごめんなさいね、ぼうや。あなたには、いっぱい働いてもらったけど、あの部屋に住んでる人間は元々いなかったのよ。もちろん、わたしの部屋でもないわ」
なんか、非道なことを言っている。
イヴァンはそのまま、どこか遠くに逃げ出したい衝動に襲われた。
ま、したりはしないが。
「……まいったね……」
すべては、このお姉ぇさんのいいように動かされたということなのだろう。
「それじゃあ、ここらでお別れしましょう」
唐突にお姉ぇさんが言った。
もちろん、イヴァンは引き止めたりはしなかった。
未練がないといったら嘘になるけど、とても自分の手に負えそうな相手ではなさそうである。
「まぁ元気でな」
頭を掻きながら、イヴァンはそれだけ言った。すこしだけ、顔を俯《うつむ》かせて。
すると、いきなりお姉ぇさんの顔が近づいてきた。
驚く暇すらなかった。
イヴァンの唇にお姉ぇさんの唇が重なった。
もちろんそれだけじゃない。イヴァンの首に、驚くくらいの強い力で、ほっそりとした美しい腕が巻きついた。
イヴァンは生まれて初めての深いキスを経験することになったのだ。
それも、生涯にわたって一、二を争うくらい情熱的な……。
「まいったわね……。手を出すつもりはなかったんだけど……。あなたが、あんな表情をするからいけないのよ。……キスのお礼に、一つ忠告しておいてあげるわ」
キスをやめても、まだ腕をからめたまま、触れ合わんばかりの場所で正面からイヴァンを見つめて、お姉ぇさんがそう言った。
「…………」
イヴァンは答えない。
正確には、答えることができないって言った方がいいだろう。
「普通でいなさい……。あなたにとっての、普通がいいわ。あなたには翼がある。いつか、風が吹く。強い風が。あなたはただ、翼を広げていればいい。自然とあなたは舞い上がる。風に乗って、どこまでも高く……。だから、あなたは普通にしていれば、それだけでいいの」
お姉ぇさんは、まるでイヴァンの瞳の奥を覗き込むようにして見つめながら、そう言った。
そして、イヴァンの首からその手を離す。
微塵も未練を残すことなく。
「じゃあ」
それだけ言うと、イヴァンに背を向けた。
「あなたへのお礼です。ここをお訪ねなさい。あなたの一番欲しいものを手に入れることができるでしょう」
そう言って、ギーブに一枚の紙を手渡した。
「ありがとうございます、高貴なるお方」
ちらっと、その紙を視線を走らせた後、ギーブは片膝をついてお礼をする。
お姉ぇさんは、軽く手を振っただけで返事とし、そのまま歩み去ろうとする。
「そういやぁ、名前聞いてなかったな。よかったら、教えちゃくれねぇか?」
立ち去るお姉ぇさんの背中に向かって、イヴァンが呼びかける。
すると、お姉ぇさんは少しだけ足を止めて、振り返ることなくこう言った。
「イヌイ=サユリ……いつかまた、会えたらいいわね」
それが最後の言葉となった。
「なぁ、いってぇ何をもらったんだ?」
もらった紙をじっと見つめたまま動かなくなってしまったギーブに、イヴァンがそう聞いた。
「手紙さ。昔俺がたすけた料亭のおやじが、店をゆずりたいと書いてきている。もう年だから、包丁を持つのがつらくなったんだとよ」
そして、まいったなぁ……とつぶやいた。
そのおやじとどういう関係なのか……一体、何があったのかは聞かなかった。
ギーブの瞳に涙がいっぱい浮かんでいる。
イヴァンにとっては、それだけで十分だったのである。
どうやら、ギーブと組んでの仕事もこれで終わりのようだ。
デビルペアは解散である。
まぁ、それに関してはちょっぴり、ほっとしているのも確かだけど……。
「さて、旅にでも出るかなぁ……」
イヴァンにとっての未来はこれからであった。
「どうしたんだ?」
話し終えたとき、イヴァンはユウリに向けてそう聞いた。
コメカミの辺りを押さえて、ぶつぶつと言っていたからだ。
「気にしないで、ちょっと身内のことで心の整理をしてるだけだから……」
それだけイヴァンに向けて答えると、ユウリはまたぶつぶつ言い始めた。
代わりに、イヴァンに一斗が聞いてくる。
「それより、イヴァン。今の話のどこが、イヴァンが普通だっていうことにつながるの?」
それは、とても素朴な質問だった。
「だからよ、言ってたじゃねぇか、サユリさんが。普通にしてろって。おりゃあ、それを今までずっと実践してたんだぜ? だから、よ。どう考えたって普通だろ?」
それを聞いた一斗は、
「なるほど。普通っていう言葉の意味を、最大限に曲解したわけだね」
そう言いながら、納得したかのようにうなずいた。
「なんだよ、そりゃ?」
いまいち理解できないけど、イヴァンは、ちょっとムッとしたらしい。
雰囲気で察したというやつだ。
意外と繊細な面もあるらしい。
でも、
「気にしなくていいよ。言葉どおりの意味だから」
なんて、一斗から言われて。
「そうかぁ? ……ま、いいけどな……」
って、あっさり引き下がる程度の繊細さなのだけど。
「そういえば、おめぇなんだってロウラディアなんかに向かってんだよ?」
イヴァンが唐突に話題を変える。
すると一斗は、
「近く大きなイベントがあるはずだからね。その見学に行こうかなーって」
その言葉に、ユウリが目を細めて言った。
「あんた、また何かたくらんでるんでしょ?」
ほとんど決め付けている。
「人聞き悪いなぁ……あんま、人を疑うのよくないよ?」
いかにも心外そうに、一斗が答える。
「じゃあ、たくらんでないの?」
まるで、動じるふうもなくユウリが聞く。
「そりゃま、考えちゃいるけどさ……」
しぶしぶ、一斗が答えた。
「それも、あんたの悪趣味の一つよね」
ユウリは一斗のことをじろじろ見ながら、そう言った。
「なんだよ? 別にぼくは隠してたわけじゃないよ? たださ……」
いきなり言い訳を始める一斗に対して、ユウリの冷ややかな言葉が突き刺さる。
「なに寝ぼけたこと言ってんの? そんなこと言ってんじゃないわ」
その言葉と同時に、ユウリはいきなり一斗を押し倒す。
「うわっ!? な、なんだよ? ユウリ! 積極的だなぁ……いよいよ、その気になったの? ぼくなら、いつでも準備オッケーだけどさ。イヴァンが見てるよ?」
驚いた声を上げた後、一斗はあらぬことを言い出した。
ふだんのユウリなら、張り手の一つも飛ばすとこなのだけど、今は違う。
そんな一斗の言葉に、一切耳を傾けることなく一斗のズボンをあっと言う間に引き剥がす。
「やっぱり!」
叫ぶように、ユウリが言った。
「ただれてるじゃない! どうして、こんなになるまで何も言わないのよ?」
ユウリが見ているのは、一斗の左足。膝から下は義足である。そして、義足を支える生身の足は義足と触れる部分が腫れ上がっていた。
ところどころ皮膚が破け、血がにじみそれも擦られ紫色に変色している部分もある。
ここではない場所。
失われたはずの都市の技術により作られた、精巧な義足。
それをもってしても、あまりに貧弱な一斗の体にとっては、多大な負担となっている。
それは、普通に生活していてもそうなのだ。
馬上とはいえ、その負担は普通の生活とはわけが違う。
「そのまま寝てなさいよ。動かないでね」
そう言うと、ユウリは手早く一斗の足から義足をはずす。
いつも身に着けている――主に一斗のために――消毒薬をとりだすと、それでただれた場所を丁寧に拭《ぬぐ》ってゆく。
血だけでなく、すでに膿《う》んでいる場所もあった。
それらを、手早く丁寧に、しかも足に負担をかけないように拭《ふ》いてゆく。
口ではなんと言おうが、余人にはマネできないくらいの細やかさで。
でもそれは、相手が一斗だからというのは間違いないだろう。
だからこそ、ユウリとしては言いたくもなるのだ。
「まったく、こんなになるまで何も言わないなんて、あんた馬鹿よ」
一斗はなすすべもなく、星空を見上げながら言い訳をする。
「だって、さ。ぼく一人で馬に乗せてもらえなくなっちゃうでしょ?」
まるで子供の意見だった。
そんな言葉に、ユウリは、
「当たり前でしょ? こんなんじゃ無理にきまってるじゃない。明日からは、あたしの馬に乗ってもらうわ」
あっさりと、そう宣言する。
「ええっ!? そ、そんなぁ……おーぼーだよ、おーぼー!」
一斗の抗議にユウリは、
「これじゃ、しばらく義足は着けられないわよ。それに、いいこと? これはもう決定事項よ? 他のことならともかく、あなたの健康管理はあたしに決定権があるの! ロープであたしの体に、グルグル巻きに縛り付けられたくなかったら素直に従いなさい!」
ユウリはそう言い切った。
それは、まさに最後通牒であった。
ユウリは本当にやるだろう。
それは、誰が見たってすぐにわかる。
それだけ、ユウリは決意を全身に漲《みなぎ》らせていた。
当然、一斗に対抗できるすべなんてなかったのである。
これが、役者の違いというやつだろう。
三人は寝床を作り、地面の上に横たわっている。
イヴァンは少し離れた場所。
一斗とユウリは寄り添うようにして。
「なぁ、イヴァン……」
星を眺めながら、一斗が言った。
「なんだ?」
短くイヴァンが答える。
「六十年だ……」
唐突過ぎるその言葉を、イヴァンは黙って聞いた。
「今、この世界の人々が生まれてから死んでゆくまで、だいたいそのくらいなんだ。だから……」
まるで、自分の思いを自分自身に言い聞かせているように、イットが話す。
「だから、ぼくは六十年の間戦争のない時代を生み出そうと思う。生まれてから死ぬまで、まったく戦争のことを知らない人々ばかりの、そんな時代をつくりたい。……だから、イヴァンの力が必要なんだ……」
その言葉の先を、イヴァンは自分の心の中で補完した。
「オレは、おめぇに付いてくぜ、おめぇがいやだっていってもずっとさ」
そう答えながら、あの時サユリが言った言葉の意味を、今ようやく理解した。
そういうことだったのか、と。
イットは風だ。
世界中に吹き渡ろうとする風だ。
あらゆる物に強烈に吹きつけ、揺り動かす風だ。
そして、自分はその風に乗る。
風の吹く限り、どこまでも高く遠くに……。
先など見えないくらい遠くに……。
自分にはすでに妻がいるが大して心配などしていない。
あの妻は、自分などより遥かに強く頼りになる。
だから、イヴァンとしては、ただ吹き付ける風に翼を広げていればいいだけである。
そのことが、ようやく理解できたのである。
「ついてくぜ、おめぇがいる限りよ……」
もう一度繰り返すように、イヴァンが言った。
「………………」
でも、返事はなかった。
「なんだ? もう寝ちまったのかよ……」
なんだか、空回りしたかのような虚しさを胸に秘め、イヴァンもまた眠りについた。
「これでお仕舞い」
ユウリが言った。
「なるほどね。それにしても、我が娘ながら情けないわねぇ」
話を聞き終えたサユリが、ため息を吐き出すみたいにしてそう言った。
「な、なによ!?」
馬鹿にされたように感じたのか、ムッとした表情でユウリが答える。
「イットくんを押し倒したのでしょう? それで、キスの一つもできないなんて……ああ、情けない」
大げさに肩を竦め、ついでにとばかりに思い切り顔をしかめながら母は娘のことを嘆いてみせた。
「あ、あんな状況で、そんなことできるわけないじゃない」
ユウリが反論するも。
サユリの母親は、そのことを完全に無視して、教え諭すように言う。
「あなたが女であることを教えてあげないと、いずれそのことを忘れてしまうわよ。イットくんも、あなたも。……そんなの、とっても虚しい関係だと思わない?」
それは、やたらと説得力に満ちた言葉だった。
「そ、そんなこと……」
反射的に何か言い返そうとするが、ユウリにはその先の言葉が出てこない。
強がってはいても、背筋が冷たくなるくらいには思い当たることがあったからだ。
そんなユウリの様子を余裕を持って見守りながら、サユリは付け加えるように言った。
「せいぜい気をつけることね。あれだけの男は、一生かかっても二度と見つからないでしょうね、きっと」
その言葉を聞いたユウリは、毅然として面をあげる。
「わかっているわ、そんなこと。イットはわたしの……」
その後に続く言葉は、その美しい唇から発せられることはなく、その胸の奥の深いところに仕舞われた。
それをサユリは聞いていたが、何も言わずに東の空を見上げる。
いつしか太陽は完全に昇りきり、少し前まであった夜の残滓《ざんし》は完全に振り払われていた。
母と同じように、ユウリもまた東の空を見上げる。
フィールザールを遥かに越えて、真っ直ぐに向けられた視線は、間違いなく一斗と同じ未来を見つめているはずだ。
未来は誰にとっても不確かなものであり、混沌としている。
ただユウリの見据えるその先には、今まさに昇ったばかりの太陽と同様に、輝ける未来が見えているのではないだろうか。
たとえ途中、雲に翳《かげ》ることがあったとしても。
今はただ、ユウリの美しき相貌を、まるで祝福するかのように朝の日差しが照らしていた。
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この本を手にとっていただけたことを感謝いたします。もし、お読みいただけたならば、本当に光栄なことであります。
とても幸いなことに、イット1を多くの方にお読みいただけたことで、メールマガジンにて掲載中のイット2をこうして書籍化していただくことができました。
イット2から、舞台は辺境から中原へと移ります。物語の密度も増し、登場人物も増えてゆきます。もちろん、懐かしいメンバーも健在ですのでできますれば愛でてやってくださいませ。
物語自体はまだ先へと続きますが、とりあえずこれで一息つきます。今後の予定はわかりませんが、さらなる機会が与えられんことを祈るばかりです。
この物語は本当に面白いと思ってもらえるのだろうか? はたして、イット1と同様に受け入れていただけるのだろうか?
不安はつきないですが、それを決めるのは僕ではありません。この本を手に取り読んでいただいた貴方です。
その結果は僕には知る術はありませんが、少しでも面白いと思っていただけることを、心より願っております。
夏の終りに 児玉ヒロキ
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